【完結】都立西方浄土高校女子だらだら部部長にして華麗なるお嬢様崋山危懼子ならびにその他女子部員らの活動記録、あるいはなぜだらだらの日常はあっけなく崩壊したかということに関する簡潔な報告 (ほいれんで・くー)
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第1話 唐突なるおしまい宣言

「沈黙にたえられない年頃ですので、そろそろ何か喋ろうと思いますわ」

 

 崋山(かざん)危懼子(きくこ)が言った。部活開始からちょうど10分と32秒が経過していた。つまり、彼女の沈黙に対する受忍限度は10分そこそこということになる。

 

 そこは薄汚れた文化部棟の中でもさらに薄汚れている二階の一番東側の部室だった。そこは「女子だらだら部」の部屋だった。そこは都立西方浄土(さいほうじょうど)高校の中でも特にだらだらしている女子たちの溜まり場であり、昼寝場所であり、駄弁(だべ)り場であった。風の噂によると学校のどこかに「男子だらだら部」もあるらしいが、その実態はどこまでも不明である。不明であって一向に問題はない。そもそも男子がだらだらしていてもなにも面白くはない。女子がだらだらしているからこそだらだらという言葉がいっそう麗しくなるというものだ。

 

 女子だらだら部には五人の部員がいた。都立西方浄土(さいほうじょうど)高校(それにしてもなんという名前だ、西方浄土とは)にはその五人の他にもだらだらしている女子生徒が大勢いたが、しかし信念を持った、いわば筋金入りのだらだら女子は全校中にその五人しかいなかった。いうなれば彼女たちはだらだらの精鋭、だらだらのエリートだった。そのため彼女たちは伝統と栄光ある女子だらだら部に入部できたというわけだった。いや正確には、「これから伝統と栄光を誇りにするであろう女子だらだら部」というべきであった。なぜなら女子だらだら部は今年になって初めて創設された部活動だからである。

 

 崋山(かざん)危懼子(きくこ)はその筆頭だった。崋山の「崋」はやまかんむりである。くさかんむりではない。彼女は部長だった。彼女はお嬢様でもあった。しかしその言語は乱れていた。

 

 その日も部員五人は広さ十二畳ほどの畳敷きの部室のそれぞれの定位置に陣取り、各々が各々のだらだらをだらだらと追求していた。彼女たちはだらだらだったが、だらだらであるがゆえに女子だらだら部の活動には非常に熱心だった。彼女たちは思い思いのやり方でだらだらしていた。初期キリスト教の砂漠の苦行僧たちがそれぞれ独自の方法で神と対話しようとしたように、彼女たちはそれぞれ独自の方法でそれぞれのだらだらを探求していた。

 

「最近いちばん『ファック!』だったことはですね」と、だらだら新書版の本をめくっていた危懼子は誰に言うでもなく、わざとらしさ極まるお嬢様言葉で言った。ちなみにその本はあまりだらだらしていない神学に関する内容の本だった。

 

「本屋に行って『これだ!』と思う神学の本を見つけて、普段だったら人生とだらだらについて考えることに忙しくてあまり真剣にできていない読書に励んでいたのに、実はその本の著者が史実の捏造によって告発されていたと判明したことですわ。いったい誰なんですの、この『カール・レーフラー』とかいう十九世紀の神学者! この本、ほとんどがレーフラーの言説の紹介で成り立っているのに、報道によればそのレーフラーなる人物は実在しないって言うではありませんの! 今まで私が熱心に読んでたのはなんだったのかしら? ほんっとうに馬鹿馬鹿しいったらありゃしないわまったく。ていうかムカつきますわ。騙されていたんですもの! でも一番ムカつくのはそんな『誰かが言ったことを無批判に信じてなんとなくへぇ~ほぉ~ふぅ~んと従っていた』自分に対してですの! この本だけじゃない、たぶん私たちが気づいていないだけで、こういうことって世の中にめちゃくちゃありふれてるんだと思いますわ。そう考えるともう全身の血管が破裂するんじゃないかってくらい憤りの念が駆け巡りますの! 分かりますか、この気持ち! 分かりますか! これじゃちっともだらだらできないじゃありませんの!」

 

 危懼子は勤勉なタイプのだらだらだった。いや、勤勉というより真面目なタイプのだらだらだった。真面目な故に彼女は常に憤怒していた。彼女は美しかった。女の子にしては長身で、長い黒髪は烏の濡羽そのもの、肌は白く、制服はちょうど今が六月ということもあって衣替えをしたばかりで、アイロンプレスのきいた半袖のシャツからはほどよく筋肉がついたしなやかな腕が出ている。スレンダーな見た目はまったくだらだらではない。顔つきもけっこう真剣だ。しかし危懼子はだらだらである。理想的だらだらを追究するために仕方なく本も読むし勉強もするし体も鍛えているが、これも彼女なりのだらだら道の実践であるから彼女をだらだらしていないとして非難するのはまったく不当である。

 

 活火山のように憤懣を噴出し続ける危懼子に対して「へーえ」と気のない返事をしたのは、危懼子からちょうど畳一枚離れた場所で寝そべりながらだらだらと競馬雑誌を読んでいた馬場(ばば)命賭(めと)であった。命賭(めと)は小柄だった。身長は145cmほどしかない。この肉体的条件では理想的なだらだらを遂行するのは難しいのだが、彼女はそれを補ってあまりあるだらだらの才能を有していた。命賭は美しいというよりも可愛らしかった。髪は肩まで届く亜麻色で、それに軽くパーマをかけているところがいかにもだらだらであった。才能豊かなだらだららしく、命賭の大きな人懐こそうな目はとろんと眠たげに濁っていた。

 

「神学っていったらさぁ」と命賭は言った。「やっぱり馬たちの神学の中だと神様は馬の姿をしてるのかなぁ。それとも、人間の姿をしてるのかなぁ。私はたぶん、馬たちの神様は馬の姿をしていて、ミドリムシの神様はミドリムシの姿をしていると思うの。でも人間は有史以来馬を酷使してるし、ミドリムシは最近ミドリムシクッキーにして食べてるから、私たちのあずかり知らないところで馬の神様とミドリムシの神様は私たち人間にキレてると思うんだよねぇ」

 

「は? ミドリムシクッキー? 気持ち悪っ!? なにそれ、どこ情報ですの?」と危懼子がきくと、命賭は気のない声で返事をした。「私のお母さんだよぉ。お母さんがこないだミドリムシクッキーを買ってきたんだよぉ。食糧危機の救世主なんだって、ミドリムシは。でも私には食べさせてくれなかったの。『ミドリムシの神様に恨まれるのは私だけで充分!』とかお母さんは言ってさぁ。私もミドリムシの神様に喧嘩売りたかったなぁ」

 

 危懼子はミドリムシクッキーについて想像を巡らせた。自分の舌の上で無数のミドリムシがのたうち回る光景を彼女は想像してしまった。うげっ。おそらくクッキーになる過程でミドリムシは乾燥され、粉砕され、バターと小麦粉と砂糖と渾然一体となっているのであろうが、危懼子の想像の上ではミドリムシはフラスコの中での姿そのままのフレッシュなものとしてイメージされたのだった。うげげっ。彼女は身を震わせた。

 

「……ミドリムシクッキーはさておき、神様の姿という問題は確かに興味深いですわ。命賭様の貴重なお言葉を手がかりにして考えられることは次の三つ。一つ、神は人間の姿をしている。二つ、神はそれぞれの生き物の姿をしており、人間には人間の、馬には馬の、ミドリムシにはミドリムシの姿で現れる。三つ、そもそも神は特定の姿形をしていない。さあ、命賭様、あなたはどれを選ばれますの?」

 

 危懼子はお嬢様らしく誰に対しても「様」という敬称をつけて呼ぶのが常であった。だが命賭は返事をしなかった。今、彼女は競馬雑誌を読んでいた。今、彼女はもっとも目当てにしていた記事を読み始めたところだった。彼女はレースだとか獲得賞金額だとか騎手の戦歴だとかに興味はなかった。だいいち彼女はまだ高校生であるから馬券を買えなかった。彼女にとって馬券は神聖なる馬の世界に跋扈する夾雑物(きょうざつぶつ)の一つに過ぎなかった。彼女が本当に好きなのは馬そのものだった。先ほど命賭は、それぞれの生き物の神はそれぞれの生き物の姿をしていると危懼子に言ったが、彼女にとって神は疑いようもなく馬の姿をしていた。馬以外の情報もたくさん載っている競馬雑誌は、本来の彼女の嗜好からすればあまり面白いものでもない。だが手軽に入手できる馬の本はこれくらいしかないため、彼女は熱心に読んでいるのだった。

 

 危懼子はそんな命賭を見ると軽く舌打ちをした。「このマイペース馬人間(ウマヒューマン)様め……」 しかし命賭のそれはけっこう理想的なだらだらだった。苛立ちと共に危懼子は心の中で命賭に向かって拍手を送った。そして彼女は視線を転ずると、入り口近くの畳で横になっている二人組に対して声をかけた。

 

「おい、コラ、双子! 桜子(さくらこ)様と薫子(かおるこ)様! あなたたちはどうお思いになられるかしら! 本当の神様の姿について、優秀なるツインドライブの頭脳から快刀乱麻を断つご見解を賜りたいですわ!」 

 

 危懼子は双子を改めて見た。石畳(いしだたみ)桜子(さくらこ)石畳(いしだたみ)薫子(かおるこ)の双子は至極だらだらとしていた。二人は横になりつつ抱き合っていた。「こうしなければ死んでしまう」とは彼女たちの言である。一時間目の授業から放課後までそれぞれが離れ離れになって別々のクラスで別々の時間を過ごしているうちに、双子はかけがえのない双子生命力(エネルゲイア)を消費してしまうらしい。双子生命力(エネルゲイア)を消費し尽くすともう二度とだらだらできないので、双子は部室で抱き合って充電をおこなっているというわけだった。

 

 双子は一卵性双生児だったので、遺伝子レベルからしてそっくりだった。そっくりに美しかった。人類誕生以来一卵性双生児の発生確率が0.4%のまま据え置きであることを考えると、一卵性双生児として生まれ、なおかつ美しいということはまさに奇跡ともいえた。だらだらは奇跡とは多少趣を異とするが、幸いなことに双子は天性のだらだらの持ち主だった。二人とも豊満な体つきをしていた。大きな胸と大きな胸が正面衝突したセダンと軽ワゴン車のように形を変えて絡み合っていた。二人は髪型から髪留め、服装、ストッキングのデニール、中間考査の数学の点数に至るまでまったく同じだった。点数は95点だった。双子の母は「なぜあと5点がとれない!」と双子を難詰した。双子はますますだらだらするようになった。

 

 双子のうち、桜子(さくらこ)の方が答えた。「現在充電中。邪魔しないで」 薫子(かおるこ)が続けて答えた。「現在53%まで充電完了」 双子の目は虚ろだった。本当にエネルゲイアが枯渇しているようだった。「ついでに言うなら」と桜子が言った。「神様はきっと双子」と薫子が続けた。「一人は極めて優しくて善」と桜子が言い、「もう一人は極めて残忍で悪」と薫子が締めくくった。「それで釣り合いがとれる」 双子はそれきり何も話さなくなった。

 

 危懼子は首を左右に振った。「双子はだらだらしていてダメですわ……シスター! シスター・マルタ! あなたの見解はいかがですの?」 そのように危懼子が声をかけた人物は、部屋の隅にひっそりと座っていて、座卓の上に大きな聖書を広げていた。マルタ・ドマホフスカは金髪碧眼の美しいポーランド出身の少女であったが、その国威を示すのに充分な知性と美しさは現段階においてはこの女子だらだら部の部室に逼塞(ひっそく)せざるを得ない状況に追い込まれていた。マルタは重度のホームシックにかかっていたからである。彼女の目の下には大きな(くま)ができていたが、それがまた彼女の美しさを引き立たせていた。

 

 いつも聖書を読んでいるためにシスターと呼ばれているマルタは絶望しきった声で危懼子に答えた。「答えは一でも二でも三でもなく、四。全部間違っている。神学だけではない、この世のありとあらゆるものが間違っているわ。『すべてのものは造物主の手から離れるその瞬間には善きものであったが、人間が全部台無しにしちまったので俺は絶望して尻と陰部を丸出しにした』ってジャン=ジャック・ルソーも『エミール』で言ってる。しかるに、この世でもっとも間違いのない存在は神で、この世でもっとも間違いだらけなのは神に関して人間がこしらえたすべての思想よ。神以外は全部ゴミだわ。お米のご飯に醤油をかけて食べようとするだけで犯罪者のように扱われる日本をとっとと脱出しておうちに帰りたい帰りたいと絶望しきっている私も神様の前ではゴミ同然というわけ。さっさとゴミ回収車が来ないかしら。そしたらだらだらしたまま処理してもらえるのに」 絶望しきっている割にマルタの声はけっこうビビッドだった。

 

「シスター・マルタ、日本のゴミ回収車は当然のことながら日本のゴミ捨て場にゴミを捨てますから、あなたはたとえゴミ回収車に回収されても祖国に帰ることはできず、どこかの太平洋沿いの埋立地の地層の一部になって永遠にだらだらすることしかできなくなりますわ。あなたが祖国に帰るのでしたらゴミ回収車ではなく、飛行機に乗るか、船に乗るかのいずれかしか方法はありませんわね」 危懼子は軽くスマホをいじったあと、画面を見つつ言葉を付け足した。「飛行機なら14時間半でワルシャワに着く。そう考えたらあまり大した距離でもありませんわね。是非とも『ホームシックなんするものぞ』という気合いをお持ちになったらいかがかしら」

 

 マルタは聖書の一節を読み上げた。「『ああ、あらゆる偽りと邪悪とでかたまっている悪魔の子よ、すべて正しいものの敵よ。主のまっすぐな道を曲げることを止めないのか。見よ、主のみ手がおまえの上に及んでいる。おまえは盲になって、当分、日の光が見えなくなるのだ』」

 

「『使徒行伝』」 桜子が言った。「第13章第10節」 薫子が付け足した。

 

 マルタは双子を無視した。

 

「ああ、私もしばらく目が見えなくなりたい。今の私にとって太陽はあまりにも陽キャ(キラキラ糞野郎)すぎて無理。私だけじゃなくて、今この現代の世の中に溢れている悪魔の子の目も見えなくなってしまえば良いのに」

 

 危懼子は呆れた顔をしていった。「そんなこと言ったら祖国に帰るための飛行機が飛ばなくなりますわよ。飛行機のパイロットなんてみんな機械マニアで航空力学オタクでなおかつ空の悪魔みたいなものですし。あんなにうるせぇジェットの爆音を撒き散らすんですから、だらだらの敵ですわ、間違いなく。このあいだ私がだらだらと昼寝をしている時もジェットの爆音で叩き起こされましたわ。だからやつらは悪魔ですわね。悪魔。決定! 神の姿は判然としませんが悪魔はしっかり目に見える! 悪魔滅すべし!」

 

 憤然と言い放った危懼子であったが、咳払いをして彼女は訂正の言葉を述べた。「申し訳ありません、今のは失言でしたわ。パイロットはまったく悪くありません。パイロットはうるさくない。うるさいのはジェット機ですわ。どんな仕事にもリスペクトの念を持たねばなりません。そもそも私の大叔父様はパイロットでしたわ。まあ、私が超一流の科学者であるなら全然うるさくないジェット機を作るでしょうが……」

 

 この部室において現在最もうるさいのは間違いなく危懼子本人であったが、誰もそれは指摘しなかった。指摘しても詮無いことであった。命賭が言った。「でもうるさくないジェット機を作ったら怒る人も出ると思うよぉ。それに音も立てないでジェット機が発着する空港ってたぶんものすごく不気味だと思うし。すぅーっと音もなく飛行機が離陸してすぅーっと音もなく飛行機が着陸。あたかもバグったゲームのプレイ画面を見ているような……」

 

 危懼子の耳に命賭の言葉は入らなかった。彼女の聴覚はその時、ある異様な信号をキャッチしていた。

 

「なんか聞こえません?」

 

 違和感を覚えて危懼子は耳をすませた。他の四人も彼女の言葉に触発されたように、耳に手をやって何かを聞こうとしている。

 

「聞こえるねぇ、確かに何か聞こえる」と命賭が言った。

「聞こえる。感度、明度共に良好」と桜子が口にした。

「聞こえる。感度、明度共に上昇」と薫子が応じた。

「聞こえるわ。懐かしいポーランド語が、祖国の言葉がどこからともなくきこえてくるわ」とマルタがどこか嬉しそうに言った。

「は? ポーランド語? 馬鹿な、これは間違いなく日本語ですわ」 マルタに冷ややかな視線を向けながら危懼子が言うと、マルタは怒った口調で返した。「ちょっと、いくらホームシックで精神がズタボロになっていても日本語とポーランド語の区別くらいはつくわよ!」

 

 命賭が言った。「私は日本語が聞こえるよぉ」 桜子が続いた。「私には双子言語が聴こえる」 薫子が言った。「私も桜子と同様」 危懼子がツッコミを入れた。「いや、その双子言語ってなんですの?」

 

「双子言語とは……」 桜子か薫子かが深遠なる双子言語の世界について説明しようとしたその時、突然、微かに聞こえていた声は、セリフの時だけなぜか音のボリュームが爆増する日本映画のように、声量が大きくなった。それは確かに次のように叫んでいた。

 

「はい、おしまい! もう全部おしまいでーす!」

 

(つづく)




次回をお楽しみに!


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第2話 かたつむり そろそろ登れ 富士の山

「はい、おしまい! もう全部おしまいでーす!」

 

 謎の声はどこか投げやりな雰囲気を纏っていた。男とも女とも若いとも老いているともとれない微妙な響きを持つ声だった。江戸時代の人間ならばおそらく幽玄めいた何かをその声に感じたのであろうが、あいにく女子だらだら部の五人の少女たちは現代っ子であるがゆえそのような感性は持ち合わせていなかった。

 

 はたして「もう全部おしまい」とはどういう意味であろうか。危懼子(きくこ)は疑問を覚えたが、その直後に彼女の心の中へとやってきたのは苛立ちであった。「ぎゃあぎゃあ(わめ)くな!」 そのように彼女は言いたかった。しかし、そんなことを公言するのはお嬢様としての沽券(こけん)にかかわる。金銭的に貧しいのは美徳の一つとも世間では見なされるが(ただし大人の場合しっかりと納税していることが前提となる)、精神的に貧しいと見なされるのは体面として致命的である。

 

 苛立ち紛れに口から出そうになる言葉を抑えるため、彼女はあえて殊勝なことを言ってのけた。

 

「私は心が広いので次のようなことは申しません。つまり『もう全部おしまい!』と恥も外聞もなく喚き散らすようなやつは真剣に生きていない、ないしは根性が足りていないだとか、喚き散らせるのならばまだ余力が残っている、本当に全力を出して余剰の力一切なしという時になって初めて声というものには説得力が生まれるが、この声にはそういう類の切迫した説得力が欠けているだとか、そういう血も涙もないことは私申しませんわ。ええ、申しませんとも。良いではありませんか、弱音を吐いてしまっても。ちょっとでも辛いとか苦しいとか感じたら、すぐに弱音を吐けば良いんです。それが長生きのコツですし、理想的なだらだらとも言えます」

 

 いざこのように言ってみると自身本当にそのように思えてくるのが危懼子には不思議だった。

 

 命賭(めと)は危懼子の言葉に対して表向き感心したような表情を見せた。

 

「ほほーう」

 

 それなりに付き合いの長い彼女は現在の危懼子の内心をある程度見抜いていたのであるが、それを正面から指摘しないのは彼女が優れただらだらであるからだった。

 

「随分と物分かりが良いことを言うねぇ。流石は部長。貫禄があるねぇ。まるでそう言いたいのをあえて我慢して正反対の意見を陳述しているような、そういういじらしさが危懼子ちゃんにはある」

「お褒めに与り恐縮……と申し上げたいところですが、『貫禄がある』っていう言葉には少し反論したいところですわ。なんだかそれだと私が太いみたいではありませんか。こう、なんというか、物理的に太い。オレンジ色の中央線の車両みたいにごん(ぶと)い感じですわ」

「いいんじゃない、物理的に太くてもさ。痩せてると遭難して絶海の孤島に漂着したり核戦争で世界が滅亡した後で大変だよ。前になんかの本で読んだけど、太っている人間の方が極限状態下では生き残りやすいんだって。ポリネシア民族は丸木舟で広大な太平洋を旅したんだけど、太りやすい人、食べたものを脂肪として蓄えやすい人が結果的に生き残ったんだってさ。こう考えると『貫禄がある』って言葉、すごく良いね。精神的にも物理的にも相手を褒めることができる。短い言葉で。言葉が節約できるから、言語の経済性という観点から見てもちょうど良いんじゃない?」

 

 ここでマルタが横から口を出した。

 

「あれ? アンドレ・マルティネが説くところの『言語の経済性の原理』ってそういう意味じゃなかった気がするけど……」

 

「アンドレ・マルティネはフランスの言語学者。かのアントワーヌ・メイエの弟子」と桜子が注釈を入れた。「日本だと『一般言語学要理』とか『言語機能論』とかでその理論を読むことができる。『二重分節理論』だとか、それこそ『言語の経済性』だとか」と薫子が続けた。「でも私たちは一般的な高校生で日々の教科の学習で忙しい。読めない」「私たち、数学と国語と英語と世界史と地理と化学、物理、その他もろもろで毎日殺人的な『お勉強』の嵐」「はたしてこんな教科学習が真の『お勉強』と言えるのか」「私たちはもっと輝くために生まれてきたのではないのか」「募る疑問に私たちの双子生命力(エネルゲイア)は常に枯渇寸前」「だから私たちは沈黙する。しばらくさようなら」「これにて通信を切ります」 双子は勝手に口を出した挙句、勝手に落ち込み、沈黙した。双子はまたもやひしと抱き合った。大きな胸と胸が合わさり、形を変えて潰れた。

 

「なんなのこの双子……日本の双子ってみんなこんなんなの……? ポーランドの双子はもっと常識的よ。はぁ、おうちに帰りたい……」 マルタは呆れた。

 

 命賭はなだめるようにマルタに言った。

 

「まあまあ、どうせ私たち高校生だし、ちょっとでも聞いたことは口から垂れ流さないと気が済まない年頃なんだから、大目に見てよ。シスター・マルタ」

 

 そのように言われるとマルタは目の前に開いていた聖書をバラーっと捲り、目的の箇所を迅速に開いた。マルタはブツブツとその字句を唱えた。

 

「『憎しみを隠す者には偽りのくちびるがあり、そしりを口に出す者は愚かな者である。言葉が多ければ、(とが)を免れない。自分の(くちびる)を制する者は知恵がある。正しい者の舌は精銀である、悪しき者の心は価値が少ない』 あなたたちももう少し沈黙というものの価値を学ぶべきだわ」

 

 通信を切ったはずの双子がまたもや口を開いた。「『箴言(しんげん)』」と桜子。「第10章第18節から第20節」 マルタはうんざりしたような顔をした。「ご丁寧にどうも。いつも出典を言う必要がなくて助かるわ。はぁ、本当に変な双子……」

 

「はい、おしまい! もう全部おしまいでーす!」

 

 突如として、また五人の耳にあの声が響いた。その声が発せられた有様がさながらホラー映画の演出そっくりだったので、五人の少女の美しい背筋にぞわっとした悪寒が走った。声はなおも繰り返された。

 

「はい、おしまい! もう全部おしまいでーす!」

「ええい、うるさいですわね! 成敗するぞコラァ! 踏み潰してやる! 私たちの神聖なるだらだら道を邪魔する奴はこの世から抹殺してやりますわ!」

 

 ここに至って危懼子はお嬢様としての体面も捨てて憤然としてキレた。思わず彼女は手に持っていた新書(例の捏造神学者の本である)を畳に叩きつけようとしたが、せっかく貴重な部費を費やして新しくしたこの青々とした美しい畳を傷つけるのに忍びず、そっと机の上に置くにとどめた。その動作はどこか気品があった。やはり彼女はお嬢様であった。彼女は咳ばらいをすると、四人の部員たちに言った。

 

「行って、声の主を確かめてみましょう。それで、『うるさいからとっとと井の頭公園にでも行ってそこで思う存分叫べ。たぶん警察が来るだろうけど思う存分叫べ』とでも言ってやりましょう」

 

「賛成」と命賭が言った。「この『おしまいです』は明らかにかまってちゃんが言っているよ。しつこいし。『ぼくはおしまいだけどそのおしまいになった経緯について誰か聞いてくださーい』という感じだよねぇ。まあ動物の世界だとしつこすぎるくらいにしつこくないと求愛が上手くいかないらしいけど」

 

 マルタがはぁと溜息をついた。彼女としても危懼子に賛同していた。聖書を読む時は心満たされて、神の愛を感じ、自己に関する省察に耽りたいのに、こうひっきりなしに「おしまいです」などと脳内に響くのは耐え難いものがあった。加えて、久しぶりに日本という異国の地で母語であるポーランド語が聞こえてきたのに、それが「おしまいです」などというネガティブ極まるものでは彼女の鬱っぽい気持ちはますます落ち込むのであった。

 

「私も賛成。さっさと見つけ出してやりましょう。でも、この声って明らかに普通じゃないよね? 声もなんかおかしいし、聞こえ方が人それぞれで異なるし。もしかしたら声の主が人間ではない可能性だってあるわ。幽霊(duch)とかだったらこっちとしては手も足も出ないじゃない。そういう存在をどうやって見つけ出したら良いのかしら。ああ、祖国ではこんな怪奇現象は起こらなかった。祖国は神様に守られていた。ああ、おうちに帰りたい……」

 

 懸念を表明するマルタに対し、危懼子は自慢げに堂々と大きく胸を張った。大きく張られた彼女の胸はそもそもあまり大きくなかったので、胸を張った危懼子は危ういところで胸の怪物になることを免れた。

 

「心配無用、シスター・マルタ! こんなこともあろうかと、私は双子をこの部にスカウトしておいたのですわ。しかも比較的ありふれている二卵性双生児ではなく、正真正銘の一卵性双生児の双子を! さあ、双子! 桜子様、薫子様! 双子に特有の超自然的直感力(なんかものすげぇテレパシー)で声の主の居場所を指し示しなさい!」

 

 しかし、双子の反応は鈍かった。抱き合っていた双子はじっとりとした粘度の高い視線を危懼子に向けると、また自分たち同士で見つめ合い始め、手遊びを交えつつ、何かごにょごにょとした不可解な言語で話し合いを始めた。

 

「なにやってるの、あれ?」 マルタがそう言うと、命賭が説明した。「あれは石畳(いしだたみ)家の双子に特有の言語だよ。二人だけで何か相談する時は双子言語を話すの。傍から聞いているとプロキシマ星系から飛来した宇宙人が仲間の宇宙人と小惑星の資産価値について相談しているようにしか聞こえないよね」

 

 数分が経ち、双子の間で結論が出たようだった。双子はすっくと同時に畳から立ち上がると、危懼子、命賭、マルタの三人に対し、軽く手で部室を出て行くように促した。

 

「やはり双子は素晴らしいですわ」と危懼子は言った。「双子は現代に残された神秘。双子には計り知れない力がある」 命賭が懐疑的な表情をした。「それは双子という存在を買い被りすぎじゃないかなぁ。生物学的に見れば一卵性双生児は同一の遺伝子情報を持つ二つのヒトの個体でしかないわけじゃない?」 危懼子は首を振った。「このあいだ私が吉祥寺(きちじょうじ)で財布を落とした時も、たまたまあの双子がいてくれたからすぐに見つけることができたのですわ。あの時に私は双子の力を確信しましたの」 興味を惹かれたマルタが言った。「へえ、どんなふうに双子は財布を見つけたの?」 危懼子はなんということはないふうに答えた。「双子は真っ先に交番へ向かったのです。財布はそこにありました。私はアトレのトイレにあると思っていましたのに……ほらね? 双子の直感力には神秘的な色彩があることがこれでお分かりになりましたでしょう?」 マルタはまた溜息をついた。「あぁ……そうね……すごいわね……」

 

 双子は部室を出ると、廊下を進んでいった。三人もそれに続いた。廊下の床は薄青色に塗装されており、ワックスは剥がれかかっていた。ところどころに黒い線が走っている。誰かが廊下を走っている時に急ブレーキでもかけたのだろう。節電のため、照明は切ってあった。薄暗い空間のどこかから軽音楽部の演奏が聞こえてくる。「禁じられた遊び 愛のロマンス」だった。「私、この曲好きですわ」「ミッシェール! ミッシェール!」 危懼子と命賭の軽口にマルタは加わらなかった。マルタは溜息をついた。「はぁ」

 

 双子は迷うことなく歩を進めていく。階段を降り、一階に行き、ロビーと休憩場所を兼ねた大きなエントランスをくぐって二人は外へ出ていった。どうやら中庭へ行くようだった。三人もそれに続いた。他に生徒の姿は見られなかった。

 

 もう何度目になるか分からない声が五人の頭の中に響いた。

 

「はい、おしまい! もう全部おしまいでーす!」

 

 命賭が口を開いた。「むむ? ちょっと声が大きくなったかな?」 危懼子もそれに頷いた。「ええ、はっきりと聞こえるようになりましたわ。少なくとも幽霊っぽさはなくなりましたわね」 マルタが言った。「声の主に近づいているということかしら」

 

 ちょうど季節ということもあり、中庭の樹々は鬱蒼と生い茂っていた。中央部にはレンガ造りの噴水があり、その見た目はなかなか悪くない。噴水は夏になるとボウフラの巣窟となるので生徒からは嫌われているが、その噴水の前で告白をすると恋が成就するという言い伝えもまた生徒に信じられていた。高校生は実にピュアな心を持っているのだ。

 

 噴水と緑濃き樹木の庭園はさながら緑の楽園だった。都立西方浄土高校が学校紹介パンフレットを作る時は、必ずこの中庭の写真が載せられるほどである。「またここの写真かよ」とはOB、OGなら必ず一度は口にする言葉である。

 

 双子はずんずん奥へ進んでいった。しかし、中ほどまで来て急に足を止めた。「どうしたんですの?」と危懼子が声をかけると、薫子の方が先に口を開いた。「燃料切れ、行動不能」 桜子が続いた。「至急燃料補給を要請する」 そう言うと双子は立ったままひしと抱き合った。燃料が補給されない限り一歩も動かないという固い決意が感じられた。

 

「燃料っていったい何なの?」 マルタが言うと、命賭が答えた。「この双子が好きなのはドクターペッパーだよ、文化部棟の一階の自販機にあるから、私が今買ってくるね……」 走り去っていく命賭を見つつ、危懼子はマルタに言った。「そういやこういうのも経費として計上できるのかしら?」「さあ……私にそういう難しい話をしないで。私は(ひら)の部員だから」 マルタの目は明らかに疲労感を湛えていた。「はやくおうちに帰りたい……」 マルタのホームシックはやはり割と重症だった。

 

「はい、ドクターペッパーだよ」

 

 命賭はドクターペッパーを一本しか買ってこなかったが、双子にとってはそれで良かった。「ありがとう、命賭」と桜子。「これで燃料が入る」と薫子。二人は一口飲むたびに缶を相手に渡し、ちょうど正確に半分ずつ缶の中身を飲み干した。空き缶をゴミ箱に放り込むと、二人は縁石を乗り越え、樹木の立ち並んでいる草地へと足を踏み入れた。危懼子ら三人は一瞬だけ躊躇したが、何も言うことなくそのまま続けてその場所に入った。

 

 草地を行くこと数分が経った。「あ」と双子が同時に声をあげた。怖いものでも見たのか、二人は抱き合っている。

 

「どうかしましたの!?」と危懼子は声を上げると、自慢の脚力(彼女の50メートル走の記録は8秒57であった)を駆使して双子に駆け寄った。命賭とマルタも続いた。

 

「あれを」と桜子が指さした。「見て、岩の上」と薫子も同じところを指さした。危懼子と命賭とマルタは、その指さす方向へ視線を向けた。

 

 ついに声の主が見つかる。危懼子にとって、その一瞬はぞくぞくとした高揚感と不安感とによって心地よく感じられた。

 

 それは、そこに確かにいた。小さいながらも兀突(ごつとつ)とした岩の上にいた。

 

「はい、おしまい! もう全部おしまいでーす!」

 

「カタツムリ?」と危懼子が首を傾げつつ言った。

 

「うわぁ、かわいい。カタツムリだぁ」と命賭は喜んでいた。命賭は生き物ならばなんでも好きな性質(たち)である。

 

「しかも黄金に輝いているわね……」 あまりありがたくなさそうにマルタが言った。マルタは黄金色がさほど好きではなかった。

 

 双子が口々に言った。というより、歌っていた。「デンデンムシムシ♪」「かたつむり♪」「お前の財布はどこにある♪」「(カネ)出せ(ゼニ)出せクレカ出せ♪」

 

 カタツムリは日本の関東地方でごく一般的に見られる、普通のミスジマイマイだった。しかしカタツムリは巨大だった。野球ボールほどの大きさだった。しかもその殻は黄金色に輝いていた。大きな殻の後ろから超自然的な存在から祝福を受けているかのように後光が差しており、一種荘厳な雰囲気をあたりにもたらしていた。現代っ子であるがゆえに敬虔さというものをろくに持たない五人も、このカタツムリを見て口を閉じ、取り囲むようにして静かに立ちつくしていた。

 

 黄金のカタツムリは五人が来るのを待っていたようだった。カタツムリはうねうねと触覚を動かしながら、どこかぞんざいな口調で言った。

 

「はい、おしまい! もう全部おしまいでーす!」

「あの、どうして全部おしまいなのかしら? というより、あなたはなんなんですの?」

 

 危懼子がそのように問うと、黄金のカタツムリはのろのろと動いて体の向きを変え、例の聞く者にとってあまり気分が良いとは言えない声を発した。

 

「素敵なお嬢さん、この私の声を聞き、この私を見つけて話しかけるとは、なかなかできますね。今の世の中にはあなたのような人間がものすごく少なくなってしまった……そう、だらだら人間が……」

 

 双子が抗議した。「見つけたのは私たち」「私たち双子があなたを見つけた」「私たちの生体レーダーのおかげ」「危懼子は何もしてない」

 

 危懼子は両手を振り上げて双子に威嚇をした。「フシャーッ! しばし黙れこの双子共が! 今はこの黄金のカタツムリに集中しなさい!……ごほん、失礼しましたわ。ところで、私は崋山危懼子、こちらの小さくて眠たそうなのが馬場命賭。このポーランド人はシスター・マルタ。この発育過剰な一卵性双生児は石畳桜子と薫子ですわ。改めてあなたのお名前を窺ってもよろしいでしょうか」

 

「名、ですか……」

 

 黄金のカタツムリはどこか遠い目をした。薫子が持っていた爪楊枝で目を突くと、目は即座に引っ込み、また外に出てきた。桜子が同じようなことをしようとすると、さすがにカタツムリは不快そうな身振りをした。双子は今度は弁えて動かなかった。黄金のカタツムリはまた話し始めた。

 

「あなた方人間のような名を私は持ちませんが、それに近い呼び名は持っています」

「それは?」と危懼子が訊いた。

 

 その時、黄金のカタツムリは樹々の間から降り注ぐ午後の柔らかな黄色い陽光を浴びて、一層荘厳に輝いた。そして、彼は重々しく言った。

 

「私は神です」

 

 しばらくの間、沈黙があたりを支配した。カタツムリは沈黙の持つ効果を充分に確認した後、また話し始めた。

 

「そして……はい、おしまい! もう全部おしまいでーす!」

「えええ……」

 

 唖然とする五人の前で、神と名乗る黄金のカタツムリはカタツムリらしからぬ気色悪い素早さで岩を上り下りし、また岩を上り下りし、「はい、おしまい! もう全部おしまいでーす!」と絶叫を続けた。

 

 桜子が言った。「かたつむり そろそろ登れ 富士の山」

 薫子が続けた。「小林一茶」

 

 爆速で動き回りながらカタツムリは絶叫を続けている。

 

「はい、おしまい! もう全部おしまいでーす!」

 

 一方で危懼子はキレていた。憤怒を撒き散らしていた。

 

「うっさいですわ! 静かになさい! この軟体動物が!」

 

 命賭はじっとカタツムリを観察していた。手にはスマホを持っている。彼女は写真を何枚か撮った。

 

「この子、家で飼えるかなぁ。LINEでマザーにきいてみよっと」

 

「はぁ……なに、この……なに? あぁ、はやくおうちに帰りたい……」

 

 切なる思いのこもったマルタの言葉は喧騒の中でふわりと浮かび上がり、虚空へと消えていった。

 

(つづく)




次回をお楽しみに!


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第3話 でんでんむしのかなしみ

「すみません、取り乱しました。しかし私は神なので何も問題ありません」 

 

 ひとしきり岩の上で狂態を演じた後、黄金のカタツムリは唐突に落ち着きを取り戻した。その落ち着きぶりが「神」にふさわしいものであるかは神を知らぬ五人の少女たちにとって判然としなかったが、ともかくも落ち着いたことは無条件に良いことであるとは言えた。落ち着きは余裕を意味し、余裕はだらだらを約束するからである。

 

 だが、カタツムリの黄金の殻は午後の柔らかな日差しを受けてキラキラと輝いていた。それがまったく、どうにも、危懼子の(かん)に障った。「たかだか陸生貝類、有肺目(ゆうはいもく)オナジマイマイ科に分類される軟体動物の分際で、このような立派な、しかしどこかスノビズム(成金趣味)を感じさせる殻を背負っていることに対し義憤を感じる」 危懼子はそう思った。彼女の性格の根本には「憤慨」がある。何を見ても彼女はとりあえず怒らないではいられない。「体を隠し、内臓を収めるだけならば、そんなに立派な殻は必要ではないだろう」と彼女は思った。「それなのに殻を金色にしているとは、これはつまりこのカタツムリが見せびらかしたがりということである」 そういう軽薄な奴は許せん。

 

 だから彼女は、そのことを黄金のカタツムリに告げることにした。多少、言葉をお嬢様的に上品に整えたうえで。なぜなら相手は自称とはいえ神だからである。

 

「黄金のカタツムリ様。たいそうご立派な殻を背負っていらっしゃいますが、その中にはいったい何が入っていますの? 後学のために是非お教えいただきたいですわ」

 

 カタツムリが返答する前に、双子が声を上げた。それは何かを朗誦するような声であった。透き通った美しく高い声にはそこはかとない哀調が感じられた。

 

「わたしは いままで うっかりして ゐたけれど わたしの せなかの からの なかには かなしみが いっぱい つまって ゐるではないか」と桜子が言った。それは詩だった。続けて薫子が言った。「わたしは もう いきて ゐられません」 双子は手を合わせ、指を絡ませ合い、声を合わせて続けた。「わたしは なんと いう ふしあわせな ものでしょう。わたしの せなかの からの なかには かなしみが いっぱい つまって ゐるのです」

 

「それ、長くなりそう?」と、双子のフリーダムな振る舞いに少なからずげんなりとしたマルタが訊いた。しかし、そのように言ったマルタではあったが、その詩そのものはけっこう良いなと思った。ポーランドは悲しみの国である。悲しみを抱いて生きるからこそポーランドとポーランドの民は強い。悲しみを歌う詩は無条件に良い。

 

「これは新美南吉の詩だよぉ」 命賭が説明した。「新美南吉は日本の有名な作家だよ。もうかなり前(1943年)に死んじゃったけど。『ごんぎつね』とかが有名だよ。小学校の教科書には必ず載ってる。でも私、新美南吉はけっこう闇属性だと思ってるんだよね」 マルタが尋ねた。「闇属性?」「だって『ごんぎつね』ってそういう話じゃん。ごんの贖罪はごん自身の生命を無意味な死に捧げることでようやく完遂されるっていう……児童向けの話で贖罪とそれが最終的にもたらすものについてテーマに据えるっていうのはやっぱり闇属性じゃないかなぁ」 マルタは言った。「私『ごんぎつね』については知らないからコメントは差し控えるけど、似たような話は我が祖国にもあるわ、それは……」

 

 しかし、マルタの話は他の部員に無視された。彼女がポーランド語で話し始めたからである。彼女の日本語能力は例の難解極まる「TOPJ実用日本語運用能力試験」で「上級A」を取得できるほど大変高度なものであったが、残念なことに彼女は祖国について語る時はなぜか日本語ではなくポーランド語が口から出てくるのである。これはマルタにとって非常にやっかいな習癖であった。例えばクラスの誰かがマルタと友達になろうとして「ねえ、ポーランドのこと教えて! マルタさんはどんな町に住んでいたの?」と訊くとする。するとマルタはここぞとばかりに嬉々としてその麗しき碧眼を輝かせ、愛する祖国ポーランドの話、わけても彼女の出身地であるヴィエルコポルスカ県のポズナンの話をしようとするのだが、それは日本語ではなくポーランド語で話されるために、日本の愚かな高校生にはまったく理解できないのであった。彼女としてもこの習癖はどうにかしなければならないと思っていたが、やはりどうにもならないので、来日以来ずっと彼女を苦しめているホームシックはさらに加速するのであった。

 

 桜子と薫子の双子はなおも「でんでんむしのかなしみ」を続けていた。それはクライマックスに差し掛かっていた。桜子が言った。「かなしみは だれでも もって ゐるのだ わたしばかりでは ないのだ。わたしは わたしの かなしみを こらえて いきなきゃ ならない」 薫子が締めくくった。「そしてこのデンデンムシはもう嘆くのをやめたのであります」 感極まった双子はいきなり抱き合って涙を流し始めた。二人の柔らかい胸は潰れて絡み合っていた。涙は透き通っていて美しかったが、その光景はどこか滑稽だった。あるいは双子という存在そのものがどこか滑稽であるがゆえにその光景は滑稽であるのかもしれなかった。

 

 命賭も目に涙を浮かべつつ拍手した。「素晴らしい! 双子に拍手!」 マルタもポーランド語で何かを喋りつつ、拍手をした。「Genialnie!(ゲニアルニエ)(素晴らしい!)」 危懼子も拍手をした。彼女の拍手はとても大きな音を立てた。「拍手一つにもその人格が表れるのですわ」というのが彼女の考えだった。危懼子の手は瞬く間に真っ赤になった。「痛いですわ」 痛いのですぐに彼女は拍手をやめた。

 

 黄金のカタツムリも拍手をしようとした。しかし彼にあるのは触角だけだった。拍手の代わりに、彼は触角を高速で伸ばしたり縮めたりした。「うわっ、キモッ! ですわ!」と危懼子が声を漏らした。黄金のカタツムリはそれにめげずに声を発した。キモッ!と言われるのには慣れていた。

 

「なるほど、人間の想像力・創造力は素晴らしいものがありますね。感動的な詩でした。しかし、それも所詮は人間が私たちカタツムリに感情を仮託した単なる韻文に過ぎません。実際のところ、私たちカタツムリは悲しみを殻に詰め込んでいるわけではありません。もし悲しみがぎっしりと殻に詰まっているとしたら、私たちはみんな鬱病一歩手前にまで追い詰められてしまいます。ですが、そう、あなた方人間たちはご存じではないでしょうが、カタツムリはけっこう能天気な性格をしているんですよ。そうそう、実際のところ殻の中には何が入っているのか。まあきっと既にお察しのことでしょうが、だいたい内臓とか、内臓とか、あとはそう、内臓とかが詰め込まれています。平凡ですね。ですが生き物の体構造なんて大抵は無数の平凡と平凡の組み合わせです。しかしその組み合わせが精密にして霊妙であるからこそ生命の神秘などと言われるわけですが」

 

「それはそうでしょうね」と危懼子が腕組みをしながら言った。「それでは、なぜ単なる内臓を収める機能しか持たないはずのカタツムリの殻が、あなたの場合に限って黄金に輝いているのですか?」

 

 カタツムリは即座に答えた。

 

「なぜなら私が神だからです。私は神ですから、この殻の中には全知全能が収められているのです。私の殻が黄金であるのは、全知全能のパワーによって輝いているからなのです。お分かりですか? お分かりですよね。人間の知能だってカタツムリと同じくらいにはあるはずですし」

 

「ほえー」と命賭がどこか間の抜けた声を発した。「へぇー」と危懼子が声を漏らした。双子は沈黙していた。双子は疲れていた。「カタツムリが神様なわけないでしょう、キリスト教的に考えて」と、いつの間にか日本語に戻っていたマルタが言った。

 

「信じられないんですか? 私が神であることが」と黄金のカタツムリは言った。危懼子が答えた。「そりゃそうですわよ。あなた、ちょっと人間の立場になって考えて御覧なさい。渋谷のセンター街かどこかで、素っ裸の男が(ケツ)の穴から鼻の穴に至るまで全身に金粉を塗りたくって、『私は神だ。私は全知全能だ。全知全能であるがゆえに私はゴールデンである』と言ったらどうなるか。まあまず間違いなく渋谷駅前交番のお巡りさんのお世話になるでしょうね」

 

 黄金のカタツムリはムッとしたようだった。「それは違いますね、その男は自分が神であると詐称している、あるいは何らかの精神的な疾患によって自身が神であると信じ込んでいる。それに対して、私は本当に神です。この殻にしても金色の塗料スプレーで塗装したりした類のものではありません。私がこの世に生まれた時から身につけていて、せっせとコンクリ壁を齧ってカルシウムを得て、大きく大きく育ててきた大事な殻なのです」

 

「この世に生まれた?」とマルタが言った。「神様っていうのは、この世を生み出すものではあっても、この世に生まれるなんてことはないんじゃないかしら。ほら、『はじめに神は天と地とを創造された』」 双子が補足した。「『創世記』」と桜子。「第一章第一節」と薫子。「補足するまでもなくこれは有名」「一般教養(パンキョー)

 

「いや、私は確かにこの世に生まれました。神としてこの世に生まれたんです。私はここから遠く離れた場所で生まれました。そこは……」

 

 黄金のカタツムリは話を続けようとしたが、命賭がそれを遮った。「うわっ、この子、身の上話を始めたよぉ! 身の上話ってたいてい長くなるんだよぉ! アニメとかゲームとかに出てくる死にかけのライバルキャラとか敵の幹部とか、ドストエフスキーの小説の登場人物とか」 マルタが命賭に続いてカタツムリに問いを発した。「それ、長くなりそう?」 マルタは命賭の「ドストエフスキー」という言葉に恐れを抱いていた。それは確かに長い。カタツムリの身の上話がロシア文学並みに長いのは耐え難い。

 

 カタツムリは触角をぶん回した。多少不快であるようだ。「長いですよ」 マルタは隈のある目でしばらくじっとカタツムリを見つめたが、やがて何かを思いついたのか手をぽんと打って言った。「そうだ、もしあなたが本当に全知全能であるならば、その力を使って私たちの脳内に直接あなたの身の上話を注入すればいいじゃない。その方が手間がかからないし。動画をダウンロードするようなものよ。ねえ、できるでしょう? あなたが本当に神ならば」 そのような発想をするマルタも間違いなく現代っ子の一人であった。

 

 黄金のカタツムリは厳粛な声を発した。「神を試してはいけませんよ」 マルタはその言葉を聞いてさっと赤面した。そして呟くように言った。「イエスは彼に言われた、『主なるあなたの神を試みてはならないとまた書いてある』 ごめんなさい。あなたはたぶん、いえきっと、私の信じる神様ではないでしょうけど、私は私の信じる教えを破るようなことを言ってしまった。ごめんなさい」 桜子が言った。「今のは『マタイ福音書』」 薫子が言った。「四章八節。これも有名」

 

「それにね、シスター・マルタ」と危懼子が横から口を開いた。「なんでもかんでも手っ取り早く情報を得ようとするのは、伝統と栄光ある『女子だらだら部』の本義に(もと)りますわ。人の身の上話は……いえ、この場合人ではなくカタツムリですが……とにかく身の上話は大切なものです。時間をかけてじっくりと拝聴することにいたしましょう。それが理想的だらだらというものです。申し訳ありませんカタツムリ様。話をさえぎってしまって。では、お話をどうぞ。できるだけだらだらと喋って下さいまし」

 

 黄金のカタツムリはまた触角を激しく出し入れした。感謝の念を伝えているようだった。危懼子はやはり内心で「キモッ!」と思ったが、笑みを浮かべてそれをスルーした。その笑みはぎこちなかった。

 

「ありがとう。では続きを話します。私はここから遠く離れた場所で生まれました。そこはこことは違い、緑が溢れていて、空気が澄んでおり、まことに住み良い場所でした。その土地は確か群馬(グンマ)とかいう名前だったと思います」 双子が突然話に介入した。「暗黒の地」「群馬」「熊出る」「象出る」「チュパカブラも出る」「住民はみんな遊牧民族」「MBT(戦車)が主食」「でもソースカツ丼は美味しい」「峠の釜めしも」「であるならそれほど暗黒の地ではない」「美味しい大地、群馬」「バンザイ」 そこまで言ってから双子はハイタッチを交わした。

 

 カタツムリは双子を無視して話を続けた。「そのような大地の片隅にひっそりと隠れるように建っていた白く清潔な建物の中の一室、その中をさらに何区画かに区切って作られたブースの中の水槽で、私はこの世に生れ出でました。生まれたての私が初めて見た人間は白衣を纏っていました。それは若い女でした。女は小さな小さな私と私の殻を虫眼鏡で見て、狂喜と狂気がない交ぜになったかのような恐ろしい咆哮を上げました。『ついに救世主が生まれました! この世に神がふたたび生まれたのです!』 女は確かにそのように叫びました。生まれて初めて私が遭遇した知的生命体が私を見て私を『神』と定義したので、私は私のことを神と信じている次第です」

 

「なんかの研究者だったのかなぁ」と命賭は言った。「群馬県の、どっかの研究所かもしれないね。そこでカタツムリの品種改良をしていたのかもしれない。で、その後はどうなったの?」

 

「私はしばらくその研究所の中で育ちました。食べ物はたっぷり与えられました。私は満たされていて幸せでした。なにより良かったことは、私に全知全能の力が与えられていたことです。私は即座に人間の言語を理解し、人間の脳内に直接言葉を送ることができるようになりました。言葉を操る。これこそ全知全能の証です。でしょ?」

 

「『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった』」 マルタがそう言うと、双子が即座に補足した。「『ヨハネ福音書』」「第一章第一節から第五節。超有名」

 

「私の生誕の瞬間に立ち会ったあの若い女性についても言葉を通じてすぐに知ることができました。彼女は自らのことを『天使』と名乗りました。おそらく偽名でしょうが、まあ私にとっては実際に天使でした。神を世話するのが天使であると定義できるなら、彼女は毎日神である私の食事を用意し、霧吹きで潤いをもたらし、室温と湿度を調整し、金塊を舐めさせ、排泄物の処理までしてくれたのですから」

 

 黄金のカタツムリはよどみなく話を続けた。「天使は私にしばしば警告めいたことを言いました。『この世には神の敵がいます』と。『ひとつの敵でも厄介なのに、神であるあなたの敵は三種類もいるのです』 怖い顔をして天使は私に言いました。『一つは、小学生です。特に低学年から中学年の小学生が危ない。あなたを見つけたら小学生たちはあなたの神聖なる肉体のいろんなところを無遠慮に(つつ)き回し、塩をかけ、ナメクジと競争させ、しなびたニンジンを食べさせ、最終的にはプラスチック製の虫かごに放り込み、すぐに世話することを忘れてビデオゲームに熱中することでしょう』『もう一つは、黒い敵です。これはいやらしいぐらい真っ黒のスーツとズボンと占領軍司令官ダクラス・マッカーサーが着用していたようなごっついサングラスをかけた人間です。小学生たちは気をつけてさえいればさほど怖くありませんが、この黒い人間は相当ヤバいです。なにせ神であるあなたを狙っているのですから。この研究所もいつ連中にバレるか分かりません。未開の地群馬(最後のフロンティア)に逃げてきて研究所を建て、無事にあなたをお迎えすることができたのは良かったのですが、そろそろ連中にもこの場所がバレる頃合いでしょう』 そのように言う天使の顔は恐れに引き攣っていました。黒い服の男たちは本当に恐ろしい連中なのだろうとは私も思いましたが、まだその時はどこか楽観視していたのです……」

 

 五人の女子はそれぞれがそれぞれのだらだらスタイルで黄金のカタツムリの話を熱心に聞いていた。危懼子は腕を組んで目を閉じていた。マッカーサーってどんなサングラスをかけていたっけ? ああ、そうだ。確かレイバンのサングラスだ。そんなことを世界史の教師が数日前に言っていた気がする。「俺も休日はサングラスをかけてる。強くなった気がしてなかなか良いぞ」と教師は軽口をたたいていた。だが、危懼子が想像する限り、教師がサングラスをかけた姿は香港あたりのチンピラマフィアそのものだった。一方、命賭はメモをとっていた。メモとペンは彼女のファーザーが銀座伊東屋で買ってくれたものだった。命賭の字は細かく、綺麗だった。双子は抱き合っていた。「でんでんむしのかなしみ」を朗誦したせいでいよいよ双子生命力(エネルゲイア)が枯渇しかけていたからだった。それでもけっこう真面目に話を聞いていた。マルタはうなだれていた。割とイカれている話にツッコミを入れたかったのだが、彼女にはそこまでの気力と体力はなかった。彼女のホームシックはそれほどまでに重度のものだった。

 

「それで、三つ目の敵はいったい何なの?」と危懼子が尋ねた。黄金のカタツムリはしばらくぐるぐるとその場を回った。キモイ動きだった。危懼子は「そのキモムーブをやめろ!」と怒鳴りつけようかと思ったが、なんとか我慢した。

 

 そして彼は言った。「天使は言いました。『三つ目の敵は、これも二つ目の敵と同様に黒々としているのですが、虫です。無視できない虫です。あ、このギャグけっこう面白いな……虫は、コウチュウ目オサムシ科オサムシ亜科に分類される、『マイマイカブリ』です。学名はDamaster blaptoides。まあラテン語なんてどうでも良いです。それよりもよく気をつけてください。なにせこの虫は、神であるあなたを唯一捕食できる存在ですから』そう言うと彼女は図鑑を私の前で広げて、写真を見せてくれました。ああ、なんとおぞましいその姿! 私はそのマイマイカブリの写真を見て生まれて初めて恐怖を覚えました」

 

 マルタが言った。「神でも恐怖はするのね」 カタツムリは答えた。「無論、します。なぜなら私は全知全能だからです。恐怖するというのも能力の一つですから、当然私は恐怖します。恐怖もしますし、脱糞もしますし、生殖活動もします。あらゆることができるゆえに私は神なのです」 双子が会話に割り込んだ。「私たちは高校生の女の子」と桜子。「自分たちで言うのもなんだが、けっこう美しい」と薫子。「美しい女子高校生は恐怖をしない」「脱糞もしない」「勉強もしない」「あらゆることをしないゆえに私たちは人間と言える」 双子は沈黙した。命賭が「アイロニカルだねぇ」と言った。

 

 黄金のカタツムリは話を続けた。「そう、私は恐怖しました。あの黒々とした虫こそはまさに私の天敵、私を神の座から引きずり落とす堕天使、反逆者、不遜なる革命家……」 そこまで言って、突然黄金のカタツムリは言葉を中断した。よく見ると彼はプルプルと震えていた。

 

 十秒後、カタツムリは突如としてシャウトした。

 

「思い出したーっ! はい、おしまい! もう全部おしまいでーす!」

 

 彼は触角を激しく動かし、爆速で岩の上を這いずり回り始めた。

 

「ええっ!? いったいどうしたんですの?」 唖然とした五人の大きく見開かれた目が黄金のカタツムリに向けられている中で、危懼子がそのように問いかけた直後であった。

 

 樹上から死にかけのカラスが発する鳴き声もかくやというほどの恐ろしい響きを持つ、不可解な声が聞こえてきた。

 

「そう、おしまい! もう全部おしまいでーす!」

 

 次の瞬間、何かが木の上から岩の上にぼとりと落ちてきた。細長い瓢箪状の体、ほっそりとした脚部、艶消しブラックの体表、長い触角。大きさは成人男性が手のひらをいっぱいに広げたくらいはあるだろうか。でかい。それは、今や動きをとめた黄金のカタツムリの前に正対し、堂々とその巨躯(きょく)屹立(きつりつ)させている。その場を緊張感が満たした。定期考査くらいの程度の緊張感だった。ゆえに危懼子はけっこう緊張した。

 

 そんな雰囲気を物ともせず、命賭がいつものほわほわした声で言った。

 

「あ、マイマイカブリ。めずらしー。かわいいなぁ」

 

 命賭は動物であるならば何でも好きな性質(たち)であった。

 

 マイマイカブリは横溢する戦意に任せて体をぶんぶんと振り回した。「キモッ!ですわ!」と危懼子が声を漏らした。マイマイカブリは叫んだ。

 

「『憎みても余りあるカタツムリの神よ、身につけたあらゆる武芸を思い出せ! 今こそお前が槍の使い手として、また果敢なる戦士としての面目を示さねばならぬ時なのだ! もはや逃げ隠れはならぬ!』 そう、おしまい! もう全部おしまいでーす!」

 

 双子が即座に注釈を入れた。「『イーリアス』」と桜子。「第二十二歌、二百六十行から二百七十二行」と薫子。「これも割と有名」

 

「日本の虫は『イーリアス』を引用するんだ……へぇー……教養があるなぁ……」 マルタはもはやツッコミを入れる気力すら萎え果てていた。彼女はおうちに帰りたかった。

 

(つづく)




次回をお楽しみに!


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第4話 少女たちは神殺しを目の当たりにした

「いやちょっと待ってくださいまし」と危懼子が言った。彼女の目は怪しく輝いていた。それは別段敵意だとか邪気の表れではない。危懼子はだいたいいつも何か心に強く思ったことを口に出そうとする時に目が輝くのである。それは彼女の天性のカリスマを意味した。だいたい目の輝きは言葉に力を付与する。その言葉を聞く者は目の輝きを見て「あ、これは今から大事なことを言うな」と思うからである。

 

 この法則を知っていた古代ローマの弁論家たちは、演説の前には目薬を用いて目をテカテカに輝かせたものであった。大プリニウスによると、古代ローマの目薬は炭酸亜鉛、蜜蝋(みつろう)、オリーブオイル、松脂(まつやに)などから作られていたとのことである。弁論家たちは演説の前に丸薬状に成形されたその目薬を目の周りに塗りたくった。どうやら現代のような点眼薬ではなく、軟膏の一種であったように思われる。このことはマルクス・トゥリウス・キケロの『弁論家について』や『ホルテンシウス』、『カトゥルス』などにしっかりと書かれているし、またマルクス・ファビウス・クインティリアヌスの『弁論家の教育』でも書かれている。

 

 嘘である。前段に書かれたローマ云々の話はすべて嘘である。特にキケロとクインティリアヌスについては嘘である。信じてはならない。しかし目の輝きが言葉の力を幾分か増すというのは経験的に理解できる法則である。これは確かなことである。生きているのか死んでいるのか分からないおばあちゃんが悪戯を咎める時にくわっと目を見開いて「そんなんしたらアカン!」と叫ぶ。子どもは即座に悪戯をやめる。言葉が怖いのではなく、目が怖いのである。そういうことがままある。

 

 目に見えぬなにごとかに突然言葉を中断されたような気がしていた危懼子であったが、彼女はもう一度気を取り直して「いやちょっと待ってくださいまし」と言った。目の前では今まさに黄金のカタツムリと漆黒のマイマイカブリによる金と黒の決闘が(いや、あるいはそれは決闘ではなく一方的な虐殺に終わるかもしれないが)開始されようとしていたが、彼女としては口を挟まずにいられなかったのである。

 

「こんなに大きいマイマイカブリ様がいるわけがないでしょう、常識的に考えて」と危懼子は言った。「Wikipediaによるとマイマイカブリの体長はだいたい3センチから7センチと書いてあります。でもこのマイマイカブリ様はどう見たって15センチはあるではありませんか。こんなにデカいマイマイカブリがいるのはおかしいでしょう」 

 

 危懼子はスマホを見ていた。つい先ほど黄金のカタツムリがマイマイカブリについて話した時、彼女はスマホでマイマイカブリについて調べていたのである。なんでもスマホに頼るという点で危懼子はまごうことなき現代っ子であった。昔の若者は何か気になることがあった場合、図書館に行って図鑑や百科事典を開いたものである。そして別に面白い記事を見つけて読み耽ってしまい、当初の疑問はほったらかしのまま図書館を去ったものであった。それでけっこう知識は蓄えられたのだった。「あるいはWikipediaを参照する私が愚かなのかもしれませんが……」と危懼子は付け加えた。おそらくその言葉は正しかった。

 

「それ、その虫の大きさについて、今更言うべきことかしら?」とマルタが呆れたように言った。彼女はマイマイカブリから目を逸らしていた。やはり日本はヤバい国である。こんなに大きくて黒くて怪異な見た目をした虫がいるとは、この国は神様から見放されているとしか思えない。ポーランドの虫はここまでおぞましくはない。祖国ポーランドにおいては虫ですら愛らしい。昨日コンビニで新発売のケーキを買って「こんなに美味しいものが簡単に手に入るなんてこの国は神様に祝福されているに違いない」と思ったのをその時の彼女はすっかり忘れていた。

 

「シスター・マルタ、それはどういう意味かしら?」 そのように危懼子が反問すると、マルタは淀みなく答えた。「だって、今まで誰もツッコまなかったけど、そもそもからして神と自称し人間の言語を自在に操る黄金のカタツムリがいること自体がおかしいじゃない」マルタの言葉に命賭が頷いた。「そうだよねぇ。まあ百歩譲って神と自称し人間の言語を自在に操る黄金のカタツムリがいることは別に不思議ではないとして」「その百歩はきっとロバート・ワドローなみに背が高い人の百歩でしょうね」とマルタが口を挟んだ。ロバート・ワドローは1918年から1940年まで生きたアメリカ人男性である。身長は272センチあった。彼は脳下垂体腫瘍(のうかすいたいしゅよう)のためにそれほど背が高かったのである。これは本当の話である。

 

 命賭はマルタの言葉を受け流して話を続けた。「それに危懼子ちゃんがツッコむべきなのはマイマイカブリの大きさではなくて、そもそもどうしてマイマイカブリが人間の言葉を操れるのかということだよねぇ。それに虫の体長に関してはその生息域によってかなり誤差が出るから、Wikipediaに3センチから7センチって書いてあってもあまり気にしなくて良いよ。特にこの子が他のマイマイカブリよりたくさん食べて大きく育ったというだけかもしれないし。ほら、都会のアゲハチョウより田舎のアゲハチョウの方が大きいってことはよくあるよ」

 

「ぐぬぬ……」危懼子はしばらく唸った。自分なりに得心がいくまで彼女は唸った。それにはあまり時間はかからなかった。彼女はお嬢様らしく鷹揚で単純だった。「分かりましたわ、シスター・マルタ、命賭様。私のツッコミが野暮であったことを認めましょう。考えてみればこの世は不可解なことばかりです。地震が起きたり、雷が起きたり、不況になったり、食べたらお腹が減ったり、生まれたのに死ななければならないことはすべて不可解なことです。私はこの目の前にいるマイマイカブリ様を不可解なものであると感じつつも、その存在そのものは信じることにいたしましょう」

 

「地震発生のメカニズムは地学によって説明可能」と桜子が言った。「雷も気象学によって」と薫子が続いた。「不況になるのは景気循環論から一応説明できる」「食べたらお腹が減るのは生理学と消化器学」 そこまで言ってから、二人は抱き合って同時に嘆きの声を上げた。「でも、生まれたのに死ななければならないのはやっぱり不可解」 その言葉は慄きの感情に満ちていた。

 

「決して不可解ではない、同一の遺伝子情報を有する二つのヒトの個体共よ!」と、マイマイカブリが突然声をはり上げた。彼は虫らしい忍耐強さで女子高校生たちのだらだらした駄弁(だべ)りを辛抱強く聞いていたのだった。驚いた双子はビクッと体を震わせた。胸も揺れた。

 

「あらゆる生命体は生まれたら必ず死ななければならぬ。いや、我々がすべて生とみなしているものは死の一局面の無数の連続に過ぎない。生まれたのに死ななければならぬと考えてしまうのは、我々の言語と思考力という本質的な制約から死を連続体として認識できないゆえにそう感じるに過ぎないだけだ。実のところは何も疑問でもないし不可解でもない。物を食い、糞を垂れ、生殖活動に耽るのはすべて死の一局面である。この世に生まれるというのもまた死の一局面である。私が今からこの黄金のカタツムリを食するのも、これは生の一局面であると共に死の一局面である。私は食うことによって同時に死んでいるのだ。であるからして黄金のカタツムリは『自分は死ぬのに相手は腹いっぱいになるのは不公平だ』と感じてはならぬ。それは全知全能を自称する存在にはいかにもふさわしくない思考である。しかして私はこれからこの黄金のカタツムリを食べる。人間の小娘たちよ、私を邪魔するでない。はい、おしまい。もう全部おしまいでーす!」 

 

 マイマイカブリの口調は尊大であった。自分の考えを絶対のものであると確信しているようだった。双子はマイマイカブリの話を聞いて怒ったような、不満そうな色をその無表情の上に薄っすらと浮かべた。何か理屈は通っているようではあるが、言いくるめられたような気もする。双子は言いくるめられるのが嫌いであった。「あなたたちは双子なんだから」とこれまでの人生で何度言いくるめられてきたことか。しかし双子はマイマイカブリに反論しなかった。虫相手にムキになるのもどうかと思われたからである。

 

「なんていうか、その……なんですの? なんだか……」「そうだよねぇ、なんていうかねぇ……」「そんなに理屈をひねくり回さないで、『食物連鎖』だって言えば一言で片付くんじゃないの?」 双子以外の危懼子、命賭、マルタにしてもマイマイカブリの話は長い上に多少迂遠に感じられた。それはマイマイカブリが虫であるがゆえに、同じ言語を用いていても人間の思考と本質的な差異が生じてしまうからかもしれなかった。しかしマイマイカブリが黄金のカタツムリをこれから食するというのは明らかであった。マイマイカブリは黄金のカタツムリににじり寄った。黄金のカタツムリは悲鳴を上げた。

 

「ひええっ! はい、おしまい。もう全部おしまいでーす!」 黄金のカタツムリは岩の上を逃げ惑った。やはり気色悪い動きだった。カタツムリであるのにも拘わらずそのスピードはハツカネズミのそれにも匹敵した。あるいは、それはカタツムリが神であるがゆえに可能なスピードであるかもしれなかった。マイマイカブリはそれをじっくりと観察していた。これまでに何匹ものカタツムリを食してきたという経験と、それによって生じる自信が彼に絶対的な余裕をもたらしているようだった。「そう、おしまい。もう全部おしまいでーす!」 なぶるようにマイマイカブリは言い放った。

 

 ここで危懼子が問いを発した。訊かずにはいられない問いだった。「ねえ、黄金のカタツムリ様。あなたは神にして全知全能なのでしょう? それでしたら、その力を用いてこの苦境を脱すればよろしいではありませんの。ほら、色々と手は考えられますでしょう?」

 

 命賭が言葉を引き継いだ。「たとえばさ、巨大化するとか。そう、ゴジラなみに。そうすればマイマイカブリなんて踏み潰してイチコロだよ」

 

 マルタが続けて発言した。「他には……そうね、ゴジラなみにならなくても良いから、人間に変身するというのはどうかしら。人間の言葉を喋っているのだから、今更人間の姿形になったとしても何も問題はないと思うし」

 

 マルタのその提案に対して命賭が首を振った。「駄目だよぉ、それは。それじゃ出来の悪い小説みたいじゃない。人外キャラがすぐに人間化するのは安直に過ぎるよ。せっかく人外キャラとして登場したのにすぐに人間になったら、そもそもなんで人外キャラとしてそのキャラを作品に出したのかという作劇的な問題が生じるし、それに人間キャラでは担えない人外キャラならではの役割がないがしろに……」 

 

 マルタは怒ったように言った。「今、目の前で展開されているのは小説(ノベル)ではなくて現実(リアル)でしょ! それで、どうなんですか、黄金のカタツムリさん? あなたには力があるんですから、色々と手は打てるでしょう?」 双子が言った。「そう、サイボーグ化したり」「戦車になったり」「宇宙戦艦になって太陽系から脱出したり」「目から超怪力線(ちょうかいりきせん)を照射したり」「マイマイカブリだけを殺す正体不明の病原体になったり」 危懼子が叫んだ。「双子! そろそろおだまりになって!」 双子は黙った。

 

 黄金のカタツムリはカタツムリらしくしばらくむっつりと沈黙した。目まぐるしく思考力を働かせているようだった。思考するためにカタツムリは動きを止めていた。襲い掛かるのに絶好のタイミングであったが、マイマイカブリは動かなかった。「私も思考力を持つ生き物であるから」とマイマイカブリは言った。「同じく思考力を持つ生き物の思考を奪うような真似はしない。その肉は奪うが霊を奪うことはできない。なぜなら霊は尊いものであるから」

 

 マルタが言った。「『神よ、私のために清い心をつくり、私のうちに新しい、正しい霊を与えてください。私をみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊を私から取らないでください。あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、私をささえてください』」 双子が補足した。今度は薫子が先に言った。「『詩篇』」 桜子が続けた。「第51篇10節から12節」

 

 カタツムリはようやく言葉を発した。「色々とご提案をいただきましたが、私としては巨大化することも正体不明の病原体になることもできません。その『できない』というのは能力的な意味での『できない』ではありません。なぜなら私は全知全能なので、やろうと思えばそれらすべての提案を実行に移すことは可能なのです。私がここで『できない』というのは、私がそう望まないという意味での『できない』です。私がなぜ望まないのかと言えば、それは単純に、私がそのようなことをすれば世界の法則と秩序が乱れるからです。カタツムリはマイマイカブリに食べられ、マイマイカブリはカタツムリを食べる。それがこの世の仕組みであり、犯すべからざる秩序です。神であるがゆえに私は神が作ったこの世界の法則を乱すことを望みません」

 

「いえ、それはパラドックス(矛盾)ではありませんか?」と危懼子が言った。

 

 危懼子の考えていることをマルタが代弁した。「それはやっぱり意志としての『できない』ではなく、能力としての『できない』ということになるのではないかしら。長くなるけど、まとめるとこうよ。神は全知全能である。神はその全知全能を以てこの世を創造し、この世の秩序をも作った。ゆえに秩序は神そのものである。しかして、ここに神を食そうとする存在がいる。その存在もまた神が作ったものであり、食すという行為も神の秩序の中に位置づけられるものである。神は全知全能であるがゆえにその存在を排除することが可能であるが、それは秩序を犯すことになり、ひいては自己そのものを否定することになるので、神はそれを排除することができない。ここにおいてパラドックスが生じる。神は全知全能であるが、全知全能であるがゆえにその全知全能性を毀損(きそん)するような全知全能性を発揮することはできない。できないということはできないということであり、つまり神は全知全能ではない」

 

 命賭がうんざりしたような声をあげた。「なんか面倒になってきたなぁ。もう少し簡単にまとめられないの?」 マルタはじっとりとした眼差しを命賭に向けた。「ポーランド人である私が日本語で思考して日本語で話しているのですからそれくらい我慢してよ。私、ポーランド語だったらもっと上手く言える自信があるわ」「ご、ごめんね。軽率な発言だったわ……」 命賭は謝った。命賭は日本語の難しさをその身に沁みて知っていた。彼女の苦手科目は国語であった。

 

「つまり黄金のカタツムリ様、あなたは知らず知らずのうちに自分で自分を騙しているのですわ。あなたは能力的な意味でマイマイカブリから逃れられないのにもかかわらず、それを意志の問題にすりかえている。どうしてそのような瞞着(まんちゃく)を行われるのかしら?」

 

 危懼子がそのように問うと、カタツムリはまたねっとりと思考を開始した。触角を激しく出したり引っ込めたりしていた。遠くから運動部の活動する音が響いてきた。「セッツ、ハット、ダウン!」という掛け声が聞こえてきた。運動部はどうやらアメフト部であるようだった。ボールが蹴られる音がした。

 

 触角の出し入れがいっそう激しくなり、また弱まり、そして止まった。黄金のカタツムリは諦めたような口調で言った。「ではこの場合どうするのが良いのでしょうか。私は……私は神である。全知全能である。この世もまた全知全能の神によって作られたものであり、目の前で私を食べようとしているマイマイカブリもまた全知全能の神が創り出した存在である。私はこのような存在を創り出した記憶はありませんが、神が創った存在であるのは間違いないでしょう。なぜなら神が創り出さなかったものはこの世に存在しないからです」

 

 双子が口を開いた。「世界は神が創ったが」と桜子。「スマホゲーは人間が創った」と薫子。二人は先ほどの全知全能のパラドックスの話が退屈だったので、途中からスマホゲーをしていた。二人はデイリー任務をこなしていた。半裸に近い美少女たちが調理器具と戦うゲームだった。それは野菜の擬人化ゲームだった。

 

 危懼子が叫ぶように言った。「スマホゲーをおやめなさい、双子! こういう時は真摯に話を聞くのがあらまほしきお嬢様……ではない、あらまほしき『女子だらだら部』部員の姿ですわ!」 双子はいかにも不承不承(ふしょうぶしょう)といった(てい)でスマホゲーのアプリを閉じた。

 

 カタツムリは苦渋に満ちた声で言った。「神が神として矛盾しないように存在するためには、神の創り出した秩序を侵害しないことが必要となる。それはこの場合、つまり、やはり、いえ、考えたくないことですが……」 カタツムリは一瞬だけ黙った。そして大きな声で言った。「私がこの世の秩序を維持するためには、私はここでマイマイカブリに食べられなければならない! ほらやっぱり、こんなことは最初から分かりきっていた!」 黄金のカタツムリはその内心の激しい懊悩(おうのう)を示すかのように岩の上を超高速で這いずり回った。「はい、おしまい。もう全部おしまいでーす!」

 

「懊悩?」と桜子が言った。「Oh no.」と薫子が付け足した。

 

 マイマイカブリは勝ち誇ったように言った。「ようやく得心がいったようだな。ではこれで私も遠慮なくお前を食することができるというわけだ。安心するが良い、私はお前を食することでお前の創り出したこの世の秩序を維持する。お前は私に食されることによってお前の全知全能性を証明するのだ。では、さっそく……はい、おしまい。もう全部おしまいでーす!」

 

 ついにマイマイカブリは動いた。彼は黄金のカタツムリをその発達した前脚で捕まえ、絹のように滑らかなその軟体部に大顎で噛みついた。「ガブリ」音を立てて大顎が黄金のカタツムリに突き立てられた。「ガブられました」黄金のカタツムリが言った。

 

「随分とまあ、無抵抗に」とあきれたような声で危懼子が言った。「食べられますこと」 黄金のカタツムリが答えた。「一応粘液を出して抵抗しています。現状それが唯一の抵抗手段です」「そうですか」 危懼子は同情した。

 

「マイマイカブリはねぇ」と、貴重な神殺しの現場を見ながら命賭が言った。「肉を(かじ)るんじゃないの。肉を(すす)るんだよ。噛みついたところから消化液を注入して、ドロドロになった肉を吸うようにして食べるんだよ。そうやってだんだんカタツムリの柔らかいところを食べていって、最終的には殻の中の肉まで食べるの。その時、頭に殻を被るようになるから、ついた名前が『マイマイ(カタツムリ)カブリ(被り)』なんだよ」

 

 マルタが顔を蒼ざめさせた。「それはいかにも残酷な……」 しかし彼女はすぐに言葉を訂正した。「……いえ、本当に残酷かしら? 生きたまま体を溶かされて食べられるのは人間としての感性からすれば確かに残酷なように感じられるけど、マイマイカブリとしてはそのような食べ方しかできないのだし、まったくそれが一番合理的な、それこそ世界の秩序に適うような食べ方なのだから、人間である私があれこれと横から言うのはまったくお門違いというものじゃないかしら」 彼女は意識して「お門違い」という言葉を使った。それは彼女が日本語を学習し始めて二ヶ月経った頃に覚えた懐かしい言葉であった。

 

「でもやっぱり見ていて良い気持ちはしませんわね」と危懼子が言った。「仕方ないね、私たちは人間だからね」と命賭。「そうね、人間だから残酷だと感じてしまうのは仕方ないわね」とマルタ。「それに人間だって残酷な食べ方をする」と桜子。「どじょう豆腐とか」と薫子。「どじょう豆腐、本当は伝説の類らしいよ。湯が熱くなってもどじょうは豆腐にもぐり込まないで、そのまま死んじゃうんだって」 命賭がそのように言うと、双子は顔を見合わせた。「知らなかった」「また一つ賢くなった」

 

 その時、その瞬間にも生きたまま食べられている黄金のカタツムリが言葉を発した。「見ていて良い気持ちがしないのなら、どうか助けてはいただけませんか。私は私のため、そして世界のためにマイマイカブリに対して抵抗することができませんが、あなた方が私を助けるというのは、これはべつだん世界の法則に抵触するわけではないと思います。ほら、人間はよく絶滅危惧種の動物を保護するではありませんか。あれと同じような感じで助けていただけると良いのですが」

 

「ここでまた理屈を持ち出すと」と危懼子が言った。「またやっかいなことになりそうですので、理屈は抜きにして助けることにいたしましょう。だいいち、さっきまで言葉を交わし合っていた存在が食べられるのは悲しいですし」 危懼子はマイマイカブリを取り除けようとして手を伸ばした。するとマイマイカブリは言った。「良いのか、そのような軽率なことをして。私には武器がある。痛い目を見るぞ」 危懼子は鼻で笑った。「あら、強がりをおっしゃいますこと。たかが虫の分際で万物の霊長たる人間を脅迫するとは、身のほど知らずにもほどがありますわ、マイマイカブリ様」

 

 しかし命賭が、伸ばされかけた危懼子の手を抑えた。「駄目だよ危懼子ちゃん、この子が言っていることは本当だよ。マイマイカブリはメタクリル酸(C4H6O2)を主成分にする毒液をお尻から噴射することができるの。浴びせられたら皮膚がボロボロに(ただ)れるよ」 危懼子はあっさりと手を引っ込めた。「あら、それは怖いですわね」 マイマイカブリは誇らしげに言った。「『世界はそれぞれにそれぞれの武器を与えている』」 マルタが双子をちらっと見た。双子は首を振った。「今の言葉はたぶんマイマイカブリのオリジナル」

 

 いつの間にか食事は終盤に差し掛かっていた。黄金のカタツムリが言った。「もう四分の三は食べられてしまいました」 マイマイカブリが言った。「もう四分の三は食べました」 いまだにカタツムリが声を出せるのは奇跡的であったが、しかし彼は神であるから当然とも言えるかもしれない。

 

 カタツムリは自分の生を締めくくるように叫んだ。「はい、おしまい。もう全部おしまいでーす!」

 

 その次の瞬間だった。

 

 どこかから何かが勢い良く飛来した。それはアメフトのボールだった。

 

(つづく)




次回もお楽しみに!(文字数が増えてきて困っている)


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第5話 もっと光を

 ものの本によると、アメフトで用いられるアメフトボールの大きさはだいたい直径28センチ、長い方の外周はだいたい71センチ、短い方の外周はだいたい52センチである。だいたいというのは、つまりだいたいという意味である。正確な数字を知っているのはアメフトボールの職人、あるいはアメフトボールの3Dモデルを作ろうとする3Dモデラーくらいなものだろう。熱心なアメフトプレイヤーでもボールに関する細かな数字を知っている者はごく少数であると思われる。たとえば、将棋の駒の正確な大きさを知っている将棋指しがいったいこの世にどれくらいいるだろうか。ちなみに駒は王将が一番大きく高さだいたい31ミリ、幅28ミリ。歩が一番小さく高さだいたい27ミリ、幅22ミリである。このような知識をいくら蓄積しても教養にはなり得ない。少なくとも将棋は強くならない。残念なことだ。

 

 アメフトボールの重さはだいたい400グラムから420グラムである。だいたい硬式野球ボールの2.7倍の重さであるが、スポーツをいっさいやらないインドア派、光を嫌い暗がりを好む文系あるいは理系、またはスマホとゲームが大好きな21世紀型人間には今一つぴんとこない数字であろう。一円玉400枚分の重さと言われたほうがまだ分かりやすい。逆に考えれば400グラムの重さのものの例を出す時には「だいたいアメフトボール一個分」と言えば良いことになる。ものは言いようだ。それに日常生活で「400グラムってだいたいどれくらいの重さ?」と訊かれることなどほぼあり得ないから安心して良い。可愛いが意地悪な彼女・彼氏がそのように尋ねてきたら、堂々と胸を張って言えば良い。「それはアメフトボール一個分に匹敵する」と。

 

 アメフトボールの素材は革である。アメリカ英語の俗語で「pigskin」と言えばこれは「アメフトボール」を意味するが、今日の世界において豚の革が素材に用いられることはない。主に牛の本革か、あるいは合成皮革が用いられる。豚の神様はただでさえ可愛い我が子らが人類によってソーセージにされたりハムにされたり角煮にされたりすることにあまり良い感情を抱いていないので、現在豚の革がアメフトボールの素材に用いられていないのは実に良かったと言える。そうでなければ豚の神は激怒して天上の豚の楽園から豚の大軍勢(レギオン)をこの世界に送り込んだであろう。豚は怒りの生き物だからである。

 

「あっ」 アメフトボールが飛来した時、女子だらだら部の五人の少女たちはいっせいに間の抜けた声を上げた。五人とも「きゃあ」とは言わなかった。危懼子は「きゃあ」と叫ぶにはあまりにもお嬢様であったし、命賭は年齢に比して強大な胆力を有しているためボールが飛来したぐらいでは悲鳴を上げない。双子は外界に対して元から関心が薄く、関心が薄いゆえに悲鳴という外界への反応も見せない。五人の中で一番悲鳴をあげそうなのはマルタであり、実際飛来したボールは彼女の長い金髪をあと数ミリのところでかすめたのであるから彼女には立派に悲鳴をあげる権利があったのだが、彼女は重いホームシックであるため悲鳴をあげることができなかった。ホームシックの人間には悲鳴をあげる力すら残されていないのである。

 

「あっ」 だいたい直径28センチ、重さ400グラム、合成皮革製のアメフトボールが、今まさに黄金のカタツムリの最後の軟肉(やわにく)の一切れに消化液を注入せんとしていたマイマイカブリを完全に圧し潰した時も、少女たちは「きゃあ」と言わなかった。感動詞の一つである「あっ」としか彼女たちは言葉を発さなかった。そして、やはりマルタは流石に日本語上級者と言えた。というのは、ポーランド語で日本語の感動詞「あっ」に相当するのは「och(オフ)」あるいは「ojej(オイェイ)」であるのだが、彼女はその時完璧な発音で「あっ」と言ったからである。それほどまでに完璧に日本語を操れるという事実こそがマルタのホームシックを一段と加速させている一大要因であったのだが、気の毒なことに彼女はそれに無自覚であった。

 

「ぐぎゃあ!」 アメフトボールがそこに落ちたのはまったくの偶然であったが、まるで悪意を持った神が狙いすましたかのようにボールは正確にマイマイカブリに命中した。

 

 英雄的な精神とそれに見合った尊大な口調とを有していたマイマイカブリであったが、突然訪れたその生の終幕においては「ぐぎゃあ!」という、あたかもバトル漫画などで主人公に惨殺されるザコ敵のようなやられボイスしか発することができなかった。彼は英雄であるがためにこれまでおのれの死を意識したことはほとんどなく、そうであるから死に(さい)してどのような言葉が最もふさわしいか考えたことすらなかった。(つね)日頃の修養こそが良い死に様を約束するという良き教訓として銘記すべきである。

 

 飛来し、マイマイカブリを圧し潰し、また跳ねたアメフトボールは、勢い良くまたどこかへと跳んでいった。「ガサッ」とボールが当たった梢が鳴った。その不規則な軌道こそアメフトボールの本領であった。かつてカナダ人地質学者レジナルド・デイリーは「月の誕生は天体衝突によるものである」とする「ジャイアント・インパクト仮説」を提唱したが、おそらく彼の念頭にあったのはこのアメフトボールの跳ね方であろう。アメフトボールのような天体が地球に衝突した後、また不規則な軌道を描いて宇宙のどこかへと跳んでいったと彼が考えても不思議ではない。しかし残念ながらこれは妄想の類に過ぎない。信じてはならない。そもそも彼はカナダ人であり、アメフトにそこまで愛着がなかった可能性も充分にある。

 

「アメフトボールがマイマイカブリ様を圧し潰しましたわ!」 危懼子はそう言った。目の前で現に展開されている事態を正確に、かつ端的に言葉に出して表現することは正しい認識の大前提である。危懼子はその前提に従ったに過ぎない。「ここから練習場までけっこう距離があるんだけどねぇ、だいたい100メートルくらいかな」と命賭が感心したように言った。「可哀想に、完全に潰れてるわね」とマルタが至極気の毒そうに言った。事実、彼女は本当にマイマイカブリのことを気の毒に思っていた。先ほどまでは「日本(ヤポニア)の気色悪い虫」としか彼女は思っていなかったが、その死に対しては素直に悲しみの念を抱いた。彼女は優しい性格をしていたからである。双子の反応はいつもどおりだった。「アメフトボールではなく」と桜子が言った。「ラグビーボールだったのなら」と薫子が続けた。「マイマイカブリもワンチャン(もしかしたら)死ななかったかも」 二人は仲良く声を合わせて言った。

 

 しかしながら、マイマイカブリは死んでいなかった。「ぐ、ぐおおお……」と彼は呻き声を上げた。「うわ!」 少女たちは叫んだ。この世のありとあらゆる虫が瀕死の際にこのような呻き声を上げることができるのならば、きっと昆虫大好き少年(昆虫大好き青年も老年もいるが)によって殺戮される虫の数も減ることだろう。それほどまでにその呻き声は恐ろしかった。

 

 ボトリと音を立てて、黄金のカタツムリの殻がマイマイカブリの頭部から落ちた。「コロリ」ではなく「ボトリ」というところにその殻の有する重量感が表れていた。マイマイカブリはさながら玉座の上にあって反逆者に討たれ、王冠を落とした王のようであった。その後胸部(こうきょうぶ)と腹部は見るも無残に潰れていたが、辛うじて頭部と前胸部(ぜんきょうぶ)(かぶ)っていた殻のおかげで無事だった。それゆえ彼は未だに生命を保っていたのである。マイマイカブリは潰れた身体から生えている、見る者に嫌悪感を催させる細長い脚をしばらく動かした。そうすることでまだ己に余剰の生命力があるか否かを確かめようとしているようだった。しかしそれは今度こそ訪れる確実な死を早めることにしかならなかった。

 

「私は……し、死ぬのか……!?」

 

 死。死である。(さみ)しく、重く、闇よりも黒い死の実感が、マイマイカブリの精神の中にじんわりと満ちた。無念だ。マイマイカブリはそう思った。しかし無念でありつつも、どこか爽やかな達成感もまた確かにあった。彼はその生を精一杯生きた。何事もなし得なかった生であったかもしれないが、何事かをなそうと必死に戦った。その事実が、彼に達成感をもたらしたのであろう。もし笑えるのならば彼はきっと莞爾(かんじ)とした笑みを浮かべていたに違いない。彼はその頭部を、あたかも最後の抵抗を試みるように、己へ突然の死をもたらした憎き天へと向けた。

 

 そしてその英雄的な生の締めくくりに相応しく、気高く誇示するように大顎を開いて、威厳に満ちた声で言った。「つひに行く……」 そこまで言ってから再び彼は沈黙した。

 

「あっ、辞世の句を残そうとしてる!」と命賭が言った。危懼子がぴりっとした口調で言った。「傾聴!」

 

「そういえば」 マルタが不思議そうな顔をした。「なんで『辞世の句』っていうのかしら。『句』は『俳句』のことを指すんでしょう? 五七五の俳句を。でも日本人が『辞世の句』と言う時には明らかに俳句だけじゃなくて、和歌も狂歌も、それに漢詩も、時には『()』すらも含まれるじゃない。前からけっこう不思議に思っているのよ」「それは今度時間のある時に、古文の先生にでもおききになってくださいまし」 危懼子が神妙な顔をして言った。「今はマイマイカブリ様の最期の言葉を聞きましょう。だらだらと」「そうね、だらだらとね」 マルタは頷いた。

 

「つひに行く……」とマイマイカブリはもう一度言った。今度は淀みなく言葉が続いた。「道とはかねて……聞きしかど……昨日今日とは、思はざりしを……」 マルタは双子を見た。双子は口を開いた。「在原業平」と桜子。「『古今和歌集』、あるいは『伊勢物語』」と薫子。「パクリだ」「辞世の句をパクった」 二人は残念そうに首を振った。「しかし虫であるゆえ仕方ない」

 

 マルタが双子に尋ねた。「この歌の、だいたいの意味は?」 双子が答える前に危懼子が口を開いた。「つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを。『誰もが最後に行く道、つまり死のことは前々から聞いていましたが、まさか自分にとっての死が昨日今日のようにすぐそこへ迫ったことであるとは思ってもみなかったなぁ』という、だいたいそんな意味の歌ですわ」 危懼子はお嬢様であるから和歌に関する造詣が深かった。お嬢様という存在は古今東西の詩歌に通じているものである。「なるほど」とマルタが言った。「たしかにアメフトボールに潰されるなんて、思ってもみなかったでしょうね」

 

「がっくり」 マルタの言葉が終わると同時に、マイマイカブリはうなだれ、ついに絶命した。彼の魂は天へと昇って行った。その天はおそらく美味しいカタツムリでいっぱいであろう。

 

 その次の瞬間であった。潰れたマイマイカブリの体から、眩い光が発せられた。黄金色の光だった。五人の少女たちは突如として発生した光によって暴力的に網膜を焼かれ、一斉に「うわ、まぶし!」という声を上げた。

 

 光はしばらくの間、周囲に満ち満ちた。少女たちは光を追い払うかのようにもう一度言った。「うわ、まぶし!」 光は戸惑ったようにその場にとどまった。半信半疑という感じだった。光は己が光であるがゆえに誰からも拒絶されることはないと信じていたようだった。「うわ、まぶし!」 少女たちはまた言った。光は今度こそ自分が拒絶されたことに気づいたようだった。光は泣くような軌跡を描いて、球体となって辺りを飛び回った。

 

 物理現象を無視したその振舞い方からして、明らかにその光はただの光ではなかった。数秒後、光は我慢できなくなったかのように、破裂した。破裂して撒き散らされた無数の光の粒子が、マイマイカブリの潰れた死体と黄金のカタツムリの殻が転がっているその岩から緑地全体へと、また緑地全体から中庭全体へと、そして都立西方浄土高校の敷地全体へと広がっていった。その時、その場にいたすべての人々が同じように「うわ、まぶし!」という声を上げた。

 

 光はますます拡散していった。西方浄土高校が所在する杉並区全体へ、また杉並区から排気ガスにまみれた東京都全体へ、未開の地(最後のフロンティア)群馬県を含む関東地方全体へ、死にそうな顔をして働く人々が死にそうな顔をして職場を這いずり回っている日本全体へ、日本全体から世界有数の工業地帯である東アジア世界全体へ、そしてだいたい80億の人間が悲喜こもごもに住んでいる地球全体へと、光は拡がっていった。80億の人びとがほぼ同時に声を上げた。「うわ、まぶし!」 その「うわ、まぶし!」は人類が話す総数だいたい6900種類に及ぶそれぞれの言語によって発音された。

 

 数十秒か、あるいは数分が経ったのであろうか。時間の感覚を曖昧にするほどに強い光はやがて消えた。危懼子は目を(こす)った。他の四人も目を擦っていた。

 

 その時、なぜか全員がぶるっと体を震わせた。不吉な予感だった。全世界の人間が同じ時、同じように体を震わせたことを彼女たちは知らなかった。危懼子が虚勢を張るように軽口をたたいた。「天地開闢(かいびゃく)以来の光でしたわね」 危懼子がそのように言うと、マルタが答えた。「『神は光あれと言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光と闇とを分けられた』」 桜子が口を開いた。「『神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた』」 薫子が続いた。「『夕となり、また朝となった。第一日である』」 双子は声を合わせた。「『創世記』第1章第3節から第5節」

 

「そうなると、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()」 命賭は、自分自身でそう言っておきながら、何かその言葉によって背筋が凍るような思いがした。危懼子が尋ねた。「その……それは、どういう意味ですの?」 命賭は答えた。「いやさ、聖書だと『光あれ』で世界の第一日目が始まったじゃない? ならさ、今の光が危懼子ちゃんの言うように『開闢(世界が始まって)以来の』光なら、さっきの光が新しい世界の第一日目の始まりを意味しているんじゃないかって」

 

「それなら新しい世界ってなんですの?」と危懼子は憤然として言った。「食べてもお腹が減らなくなり、貧乏な人は金持ちに、性格の悪い人は聖人になり、じいさんは男の子に、女の子はばあさんに、一万円札は性別を有するようになって生殖し増殖し、吉祥寺(きちじょうじ)のアトレはマジノ線に、京王井の頭線は万里の長城にでもなるのかしら?」「そこまでは分からないよぉ」 命賭は誤魔化すように頭をかいた。

 

 マルタがじっと考え込むように言った。「イエス様は新しい世界について山の上でこうおっしゃられたわ。『こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう。柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受け継ぐであろう』」 双子が言った。「『マタイ福音書』第5章第3節から第5節」 マルタは解説するように言った。「イエス様は新しい世界について、少なくともアトレがマジノ線になるとはおっしゃってないわね」

 

「おっしゃっていたらたまったものではありませんわ」と危懼子は言った。「アトレがマジノ線化したらK陽軒の月餅(げっぺい)が買えなくなりますもの」 命賭が面白がっているような口調で言った。「月餅を買うために兵隊がマジノ線のトーチカに向かって突撃するの?」

 

「『私の財布は爆薬、私のクレカは火炎放射器、私の口座は弾薬庫ですわ』」 危懼子の言葉を聞いてマルタは反射的に双子を見た。双子は静かに左右に首を振った。「いや、今のは」「あきらかに危懼子のオリジナル」「考えなくとも分かるでしょう」 マルタは負け惜しみのように言った。「別に私だってそんなことくらい分かっているわ! ただ、あなたたち双子がいつも注釈だの出典だのをすぐに補足するから、なにか名言っぽいものが出てきた時は反射的にあなたたちを見る癖がついてしまったのよ!」 双子は頭をさげた。「なんかごめん」

 

「どうもねぇ、私は」と命賭が気を落としたように言った。「さっきの光がもし新しい世界の始まりだとしてもだよ、その新しい世界について、残念ながらイエス様の言うようにはならないと思うんだよねぇ」 マルタはその言葉に反論しようとしたが、口を(つぐ)んだ。全員が同じことを感じていた。

 

 さっきの光は、新しい世界の始まりだとしたら、明らかに不吉な感じだった。

 

「パンドラの壺かもしれませんわね。マイマイカブリ様の死体から光になって飛び出したものは、ありとあらゆる悪いものだったのかもしれない」 潰れたマイマイカブリの死体を見ながら危懼子が言った。「壺? 箱じゃなくて?」と命賭が訊いた。危懼子はふふんと自慢げな口調で答えた。「ヘシオドスの『労働と日々』にはちゃんと書いてありますわ、パンドラの『壺』と」

 

 マルタはその危懼子の言葉を聞いて反射的に双子を見た。その時、双子は何やら謎の言語でぼそぼそと話し合いながら手遊びをしていた。二人はまったく危懼子の話を聞いていなかった。危懼子は話を続けた。「後の時代になってエラスムスが『壺』を『箱』に訳し直したのですわ」「ふーん」

 

「そもそもなんでマイマイカブリの体から光が出たんだろう?」と命賭が言った。「日本の虫って潰れたら光が出るものなの?」 マルタがそのように訊くと、命賭は手を軽く振って(いな)と示した。「やっぱりさ」と命賭は言った。「マイマイカブリが直前に食べていたものが原因だと思うんだよね」

 

「マイマイカブリ様が直前に食べていたのは……」 危懼子は分かりきったことを口にするのがなぜか恐ろしかった。「神。神である黄金のカタツムリ。神にして全知全能である黄金のカタツムリ。その肉を、マイマイカブリ様は食べましたわね」「そう、消化液を注入してね」「肉を溶かして」「ずずずと溶けた肉を(すす)ってね」「生きたままですわ」 マルタが身震いして叫んだ。「やめて!」

 

「こう考えてみると、黄金のカタツムリ様にはやっぱり何か力があったんだと思いますわ。全知全能ではなかったにしても、何らかの力がきっとあった」 危懼子は岩の上に転がっている黄金のカタツムリの殻を拾い上げた。それは野球ボールほどの大きさで、金色の見た目に違わず、ずっしりと重たかった。お嬢様として数々の貴金属製品に触れてきた危懼子にはそれが本物の金(24金か22金)であることが明白に分かった。

 

 渦巻き模様が美しい。その美しさからは、やはり何らかの力が感じられた。「力を持った存在の肉を食らい、その力を受け継いでいたマイマイカブリ様がアメフトボールに潰されて、その力が拡散した。そのように考えるのが一番辻褄が合うような気がしますわ」 危懼子は両手で黄金の殻を(もてあそ)んだ。

 

「ところで」とマルタが言った。「どうして黄金のカタツムリはパラドックスに陥ったのかしら? あれさえ突破できればカタツムリはまだなんとか生き延びることができたと思うんだけど」

 

 双子が口を開いた。「おそらく」「カタツムリが創られた存在だったから」「カタツムリは神だったかもしれないが、創られた存在だった」「神は造物主にして全世界の秩序だが、一方で黄金のカタツムリは神と同等の力を持っていても創られた神に過ぎず」「したがってまた世界の秩序の一部に過ぎなかった」「すべては、『神』という同じ言葉を吟味することなく使ってしまったために生じたコンフュージョン(混乱)のせい」「パラドックスではなく、ただのコンフュージョン(混乱)だった」 双子は声を合わせて言った。「そんなところじゃない? シスター・マルタ」 双子は言い終わった後すぐに抱き合った。難しいことを考えたせいで疲れたようだった。

 

「では、誰が黄金のカタツムリを創ったのでしょう?」と危懼子が言った。命賭がメモを開いて記述を確認しながら言った。「そりゃ、群馬の研究所でしょ?」「群馬の研究所で、確か、天使とかなんとかが」「そう、天使とかなんとか言ってたね」「その天使が群馬県で黄金のカタツムリを生み出した」「そうだったね」「なんのために?」「さあ……そのことについて語る前にマイマイカブリが降ってきたからねぇ……」

 

 危懼子はその手に持っている黄金の殻をじっと見つめた。「やっぱりこれ、パンドラの壺かもしれませんわ」 マルタが怯えたように言った。「じゃあ、さっきのまぶしい光は『疫病』だの『嘆き』だの『困窮』だのといった災いで……」「災い欲張りパック」「あるいは災いスターターセット」 沈黙していたはずの桜子と薫子が口を挟んだ。マルタは無視した。「それじゃあ今、殻の中に残っているのは『希望』かしら」

 

「カタツムリの殻に希望がある。それこそ我が『女子だらだら部』にふさわしいですわ。なんとなく」 晴れやかな顔をして危懼子が言った。ようやく彼女の心の中に何か明るいものが兆したのであった。「これは私たちが責任を持って大切に保管しましょう」

 

 命賭もマルタもぎこちなく笑った。「まあカタツムリだったら『だらだら』じゃなくて『のろのろ』だろうけど」「確かに私たちの部活にふさわしいかもね」 双子も頷いた。「綺麗に洗浄して」「磨いて」「神棚に飾ろう」 命賭が言った。「部室に神棚はないけどね」

 

「そうですわね。殻を洗って、磨いて、神棚に飾りましょう。神棚は新しく作りましょう。それが、死んでしまった黄金のカタツムリ様への何よりの供養になりますわ」 危懼子がそう言うと、マルタも真面目な顔をした。「そうね、私もイエス様にお祈りをするわ」「そうそう、お祈りは大事ですわ」 危懼子がうんうんと頷くと、命賭と双子も同意した。「大事だよね、お祈り」「お祈り大事」

 

「ではさっそく、亡くなった黄金のカタツムリ様の供養を……」

 

 危懼子がそのように言った、その直後だった。

 

「実は、まだ私は死んでいないんですよ」

 

「きゃあ!」 ようやく、五人の少女は悲鳴らしい悲鳴を上げた。

 

(つづく)




次回をお楽しみに!(字数が……減らない……)


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第6話 ここでメイドが登場する

「不覚だったよぉ」と命賭が言った。「こういう、『明らかに死んだと思っていた存在が実は生きていて終わりかけになって声をあげる』っていうのは鉄板ネタだった。ホラー映画でもよくあるよね。倒したと思った怪物が実は生きていて声をあげる、みたいなさ」 双子がうんうんと頷いた。「(はなは)だしい例になると」「声をあげて登場人物たちが驚いた後に」「暗転」「『ギャーンッ!』という爆音エレキギターと共に」「突然のスタッフロール」 危懼子が言った。「明らかに続編を意識した終わり方ですわね」 マルタが続いた。「そしてそんなことが続編でも繰り返されて、次第に第一作目で敵だった怪物がメインキャラになり、人気になって」「スピンオフ作品が作られるんだよね」 命賭が締めくくった。

 

 危懼子の手の中にある、黄金のカタツムリの殻から声が発せられた。「私は怪物ではありません。私は神です」 黄金の殻のどこから声が出ているのかは分からなかったが、その声の調子はけっこう落ち着いていた。危懼子が感心したように手の中の存在に向けて言った。「まあ、とにかくその、お元気そうで何よりですわ。先ほどまで生きたまま肉を溶かされ啜られていたとは思えないほどお元気そうで……」 黄金の殻は言った。「非常に苦しく、辛い思いをしました。これほどの苦しみを耐え抜くことができるのかと途中で非常に心配になりましたが、かの救世主も十字架の上で『神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや』と言ったくらいですから、それなら神である私も耐えられるだろうと思って頑張りました」

 

 マルタが言った。「イエス様は神でありながら人として苦しまれたのよ。十字架の上でだけではないわ。いわゆる最後の晩餐の後、ゲッセマネの園に行ったイエス様は『父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください』とお祈りをされたの」 双子が補足した。「『ルカ福音書』」「第22章第42節」 マルタは続けた。「『そのとき、御使(みつかい)が天からあらわれてイエスを力づけた』 イエス様の苦しみようは天使が見過ごしにできないほど深いものだった。これから自分が乗り越えないといけない苦しみ、すべての人々のために十字架にかけられる苦しみが、イエス様にはもう分かっていた。だから『イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた』 この「汗が血のしたたりのように地に落ちた」というところが優れた書き方よね」 双子がまた補足した。「『ルカ福音書』第22章43節から44節」 危懼子が言った。「なるほど、聖書というものは文学的にみてもけっこう面白いんですのね」 そしてまた言った。「私は真言宗ですけれど」

 

 黄金の殻が言った。「ところで、マイマイカブリはもういなくなりましたか?」 命賭がしんみりとした口調で答えた。「死んじゃったよ。アメフトボールが直撃して、潰れちゃった」 双子もどこか沈んだ声で言った。「辞世の句を残した」「在原業平」「最後の最後にパクリしか言えなかった」「パクリ野郎(copy cat)」 それに答える殻の声も薄っすらと悲哀の色を帯びていた。「在原業平の辞世の句を最期に言ったということは、彼は自分のことを在原業平に見立てていたのでしょうか。そうであるなら彼は相当なプレイボーイだったのでしょうね」 命賭はポケットティッシュを取り出すと手のひらに広げ、潰れて岩の上に貼り付いたようになっているマイマイカブリの死骸を指でつまみ、ティッシュの上に乗せ、丁寧に(くる)んだ。「ちょっとそこらへんに埋葬してくるよ」 命賭はその場から離れた。双子がそれを見送りながら言った。「プレイボーイの死は」「いつもどこかさみしい」「プレイボーイに実際に会ったことはないけど」

 

「ところで、あなたはいったいどうやって喋ってらっしゃるの?」と危懼子が黄金の殻に向かって尋ねた。「あなたの本体……本体? 本体というか、肉は、マイマイカブリ様に食べ尽くされたものだと思っていましたけど」 殻は答えた。「おっしゃる通り、私の肉はほとんど残っていません。しかし私は全知全能なので辛うじて殻だけになっても喋ることができているのです。いや、全知全能だったというべきでしょうが」

 

「全知全能『だった』? どうして過去形なの?」 マルタがそのように問うと、黄金の殻は答えた。「それは当然、マイマイカブリが私の肉を食べてしまったからです。私は現在、全知全能性を失っています。いうなれば、全知全能の形骸と化しているのです。もっと言うなら残りカスです」「残りカスでも」と桜子が言った。「使い道はある」と薫子。「たとえば大豆の搾りカスは家畜の飼料に……」

 

「おだまりなさい、双子! 使い道などと言ってはなりません!」と危懼子が(たしな)めるように言った。「『織田満里奈斎(おだまりなさい)』?」と桜子が言った。薫子が続いた。「(さい)は雅号・芸名につける語」「伊藤仁斎(いとうじんさい)とか」「葛飾北斎(かつしかほくさい)とか」「中華麺啜啜斎(ちゅうかめんずるずるさい)とか」 双子の言葉をマルタが手帳にメモした。「なるほど、勉強になったわ。葛飾北斎って芸名(ペンネーム)だったのね」 マルタのメモにはしっかりと「中華麺啜啜斎(ちゅうかめんずるずるさい)」と書かれた。

 

「ちなみに葛飾北斎の本名は中島鉄蔵ですわ。さあ、もう良いでしょう。ところで黄金のカタツムリ様。あなたはこれからどうなされますの?」 危懼子は黄金の殻に言った。「あなた、このままでは二進(にっち)三進(さっち)もいかないのではなくて?」

 

 黄金の殻は答えた。「二進も三進もいきませんし、四進(よっち)五進(ごっち)もいきません。四進とか五進とかいう日本語があるのかは知りませんが。恥を忍んでお頼みしますが、どうか助けてください」 危懼子は即座に頷いた。「先ほどはマイマイカブリ様の毒液を怖れて助けることができませんでした。今から思うと手が爛れても良いからお助けするべきでしたわ。まずは謝ります。それで、私はあなたをお助けしたいと思いますけれども、どのようにお助けすれば良いのでしょう?」 しばらく黄金の殻は沈黙した。いつの間にか命賭が戻ってきていて、「マイマイカブリを埋めてきたよ」と何かやり遂げたような口調で言った。

 

 やがて、黄金の殻は霊妙な響きを有する声で言った。「私を装身具(アクセサリー)にしてください」 奇妙な提案に危懼子はお嬢様らしからぬ声を発した。「はあ?」 彼女はすぐに咳払いをしてそれを誤魔化した。「あの、どうしてあなたをアクセサリーにすることがあなたを助けることになるんですの?」

 

「それは、アクセサリーが力の象徴だからです」 その返答に危懼子は首を傾げた。命賭も首を傾げた。マルタはなんとかその意味を理解しようと思考力を働かせた。双子は二人とも頭の上に目に見えない「?」を浮かべた。浮かべられた「?」は次第に空気に溶けて消えていった。実に、この世の大気には目に見えない無数の「?」マークが溶けている。その大気を吸うから人間は飽きもせずいつも「なぜ?」と問い続けるのである。

 

 ややあって、マルタが言った。「アクセサリーが力の象徴というのはよく言われていることね。古代の世界ではアクセサリーを身につけることで自然の力を、さらにいうなら自然をつかさどる神々の力を借りようとしたとかなんとか。よく知らないけど」

 

 頭の上にまたいくつかの「?」を浮かべていた双子がマルタの言葉に反応した。「人間の宗教生活におけるシンボルの役割の重要性については」と桜子が言った。「ミルチャ・エリアーデの『聖と俗 宗教的なるものの本質について』を読もう」と薫子が続いた。命賭が尋ねた。「桜子ちゃんと薫子ちゃんはそれ、読んだの?」 双子はふるふると首を振った。「読んでない」「お父さんの本棚にあった」「お父さん、本を買うだけ買って本棚に詰め込む」「もう家の中、本でいっぱい」「お母さんも本を買う」「買うだけ買って本棚に詰め込む」「もう家の中、本でいっぱい」 命賭は同情したように言った。「大変だねぇ」 双子はさらに言った。「お姉ちゃんたちも本を買うし」「私たちも本を買う」「家の中、本で溢れている」「本でいっぱい」

 

 次第に双子は興が乗ってきたようだった。彼女たちは相変わらず無表情だったが、声に力を増してさらに言った。「ビアトリクス・ポター、『りすのナトキンのおはなし』」「石井桃子訳」「『うちんなか いっぱい! あなんなか いっぱい! それでもちゃわん(茶碗)にゃ はんぶんもないもの なあに!』」「答えは煙。煙が家の中にいっぱい」 マルタはげんなりとした。「私、この双子のことがいまだによく分からないわ……」 命賭が慰めるように言った。「この子たちは部活の方針に忠実なだけだよ。ただのだらだら話」 双子が頷いた。「そう、ただのだらだら話」「気にしてはいけない」

 

 命賭、マルタ、双子が無駄話に興じている間、部長としての職責から黄金のカタツムリの殻の言葉についてじっくりと考えていた危懼子が、ようやく口を開いた。「あなたは全知全能の残りカスを自称しているとはいえ、まだ何らかの力があると思いますわ。そうでなければ話すこともできないでしょうし。であるなら、私はアクセサリーになったあなたから間接的にあなたの力を得ることになると思いますの。それこそ、古代人たちが宝石によって自然の力を借りようとしたように。それは私にとっての助けにはなるでしょうが、あなたにとっての助けになるとは思えませんわ。どうしてあなたをアクセサリーにすることが、あなたの助けになるのですの?」

 

 黄金の殻は答えた。「いいえ、それがけっこう私のためになるんですよ。まあ聞いてください。あなたは確かにアクセサリーとなった私を身につけることで私の力を借りることができます。その点ではあなたは一方的に私から助けられているように感じられるでしょう。しかし、あなたはそうやって助けられた時、程度の差こそあれ、きっと『このアクセサリーのおかげで助かった』と感じるはずです。そのように感じるというのがまさに重要なのです」

 

 命賭が言った。「なんとなく分かってきた。そうやって『殻のおかげ』と感じてもらうことで、力をもらおうということなんだね?」 マルタは未だに話が呑み込めていないようだった。「いえ、よく分からないんですけど……」 命賭の表情は確信に満ちていた。「ホラー映画とか、ホラー漫画とかでも鉄板ネタじゃん。魔力とか呪力を持った、指輪とかネックレスとかさ。たいていそういうアイテムって、『もともとはただの指輪だったが、持ち主の強い恨みの念を長年にわたり受け続けて呪物化した』とか、そういう説明がされるでしょ。それと同じことをこの殻はやりたいんじゃないかって。『感謝されることで力を得る』とかそういう感じじゃない?」

 

 マルタはようやく納得したようだった。「なるほど、そういうことなのね。でも映画だけじゃなくて、現実世界にもそういう呪いのアイテムの話はあるじゃない。ほら、例の『ホープ・ダイヤモンド』とか」 ホープ・ダイヤモンドとは45.52カラットのブルーダイヤモンドで、代々の持ち主をもれなく破滅させてきたといういわくつきの宝石である。しかし、双子が口を挟んだ。「『ホープ・ダイヤモンド』の伝説は」「ほとんどが後世になって脚色されたもの」「所詮はただのダイヤモンド」

 

 マルタはがっかりした。「そうだったの……私のお母さん(mamusia)が教えてくれたのは嘘話(うそばなし)だったのね……」 双子が慰めるようにマルタの肩を軽く叩いた。桜子は右肩を、薫子は左肩を叩いた。二人は言った。「気を落とさないで」「所詮この世は嘘だらけ」 マルタは気を取り直した。「そうね、この世は所詮嘘だらけね。信じられるものは愛と神様だけよ」 命賭が言った。「あとお金も信じられるね」 双子が頷いた。「お金大事」

 

 危懼子が言った。「いいえ、お金は信じられませんわ。外国為替相場とか、目が覚めたら1ドルが突然140円になってたり、次の日には138円になってたり、また次の日には100円になってたりすることはざらですもの。私はお嬢様なのでお金の恐ろしさを知っています。さあ、だらだら話はここまでにしましょう」 危懼子は黄金の殻に向かって言った。「先ほど命賭様が言いました。『感謝されることで力を増す』と。そのような理解で良いのですね?」 黄金の殻は答えた。「まあだいたいそういうところです。そのような理解で構いません。私は神ですが、力を失った神です。その神が力を再び取り戻すには、あなた方の感謝の念だとか、思いだとか、祈りが必要なのです。近代人はあまりにも無自覚になってしまったことですが、そもそも人が神に信仰を捧げるというのは人の意志にのみよるのではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。というわけで、さっさと私をアクセサリーにしてください」

 

「ええ、では是非そうさせてもらいましょう」と危懼子は言った。しかし途端に難しい顔をした。「ですが、ここで問題になってくるのは、誰がアクセサリーになったあなたを身につけるのか、ということですわ。私たちは『女子だらだら部』として部活に励んでいる時にあなたと出会いました。ですから、あなたとの出会いは私たち五人の部員全員の、いわば『共同成果』ということができます。共同の成果なのですから、私たち全員があなたをアクセサリーとして身につける権利があります。誰か一人のものとするわけにはいきません。部長としてこのことはしっかりと明言しておきます」

 

 命賭が言った。「危懼子ちゃんは真面目だねぇ。私はアクセサリーとか興味ないから、別にその権利はいらないんだけど……」 マルタも言った。「私、ここでこういうことを言うのはどうかと自分でも思うんだけど、そもそも虫が苦手なのよ。だからその、当人を目の前にして言うのは憚られるんだけど……いや、当『人』? 当『(ちゅう)』?」 マルタが言葉を濁すと、殻は言った。「気にしないでください。ですが、ちょっとおしゃれな貝のアクセサリーだと思えばまた見方が変わりませんか? ほら、カタツムリは陸生貝類の一種ですし」 双子が頷いた。「フランス人もエスカルゴを食べるが」「彼らもエスカルゴのことは虫だとは思っていないはず」「貝の一種だと思っているはず」 マルタはそれでも首を縦に振らなかった。「……やっぱりごめんなさい」

 

 危懼子は命賭とマルタに威厳のある口調で言った。「命賭様、シスター・マルタ。権利というものは勝手に放棄して良いものではありませんわ。少なくとも個人的な趣味・嗜好によって放棄して良いものではありません。それは権利そのものをないがしろにすることですわ。権利とは個人に属するものではありますが、個人が自由に放棄して良いものではないのです。なぜなら権利は社会や組織の中での関係性によって生み出されるものですから。放棄するのならば、まずその放棄するという決断によってその社会や組織にどのような影響があるのかみんなで議論をして……」

 

 双子が言った。「また面倒な話が始まった」「部長の話はいつも長い」「面倒だから殻を五等分にしよう」「五等分にしてそれぞれが保管する義務を負えば良い」「五等分すれば虫っぽさもなくなるからマルタも持つことができる」 マルタは見るからに嫌そうな顔をした。「ええ……」

 

「五等分にするのはどうかやめてください」と殻が言った。「殻を割って五等分にしたらただでさえ残り少ない力が完全に失われます。単純に、殻が壊れるので。もし私を五等分にしたら、それは『五等分になったカタツムリの殻のアクセサリー』ではなく、『五等分になり原型を留めなくなったカタツムリの残骸』に過ぎなくなります。何も力を持たない残骸をありがたがってアクセサリー扱いするのは悲しいまでに滑稽なことではありませんか」「そうだねぇ」 命賭がしみじみと言った。「なんかそういう話、グリム童話とかにありそうだね。願いを叶える何かを分けようとしたら、何も願いが叶わなくなっちゃった、みたいな。そういう話、グリム童話とか、世界の民話とかにない?」 命賭は双子にそのように問いかけたが、双子は顔を見合わせた。「ある?」「あるかも」「でも、ない気もする」「ない気もするね」 二人は命賭を同じ目つきでじっと見つめて言った。「現在のところ回答は保留します」「なんか……ごめんね」 命賭はとりあえず謝った。

 

「議論は尽くさねばなりませんが、時間は有限です」と危懼子が言った。「あと二時間もすれば完全に日が暮れます。女子だらだら部は日没後も活動を続けるような熱心な部活ではありません。女子だらだら部が熱心にだらだらしたらそれこそパラドックスになります。そろそろ一応の結論を出してしまわなければなりません」

 

 双子がまず手を挙げて発言の許可を求めた。「双子、どうぞ」 危懼子の許可が出ると、桜子が話し始めた。「持ち回り制にすれば良い」 薫子が続いた。「日ごとに所有者を変える」「今日は部長」「明日は命賭」「次の日はマルタ」「そういう感じで」 危懼子は呆れたような顔をした。「じゃあ双子様たち、あなたたちはどうするのかしら?」 双子は動揺したような気配を示した。桜子が言った。「私のものは薫子のもの」 薫子が言った。「私のものは桜子のもの」「私たち、いつもすべてを分け合ってきた」「食べ物も飲み物も、機会も順番も、幸運も不運も」 双子は困ったように互いを見つめ合った。「薫子、あなたが先に身につけて」「いいえ、桜子、あなたが先に身につけて」「いえ、あなたが」「いえいえ、あなたが」「い、あ」「い、あ」

 

 危懼子はやれやれというふうに頭に手を当てた。「ほら、やっぱりこういうことになると思っていましたわ。双子の間で結論が出ない限り、持ち回り制にはできません。他にご意見はありません?」

 

 マルタがここで発言した。「それじゃあ、誰が身につけるかという議論はいったん保留して、とりあえず先に殻をアクセサリーにしてしまうってのはどうかしら? 命賭も私も、もしかしたらアクセサリーになった殻を見て『やっぱり身につけたい』と思うかもしれないし」 命賭はその言葉に頷いた。「賛成かなぁ。やっぱり実物を見て初めて『これは良いものだ』と思うってのはあると思うよ。だいいち、今のままだと殻を見ても『マイマイカブリが生きたまま肉を啜っていた』光景がまず思い浮かんじゃうんだよね。生々しすぎて、今一つアクセサリーとして見れないというか……」「それもそうですわね。そもそもこの殻は、さっきまで触角を生やした肉が詰まっていて、『もう全部おしまいでーす!』と叫びながら爆速で岩の上を這いずり回っていたものでした。そう考えると私もこうして手に持っているのが、なんとなく……その、なんとなく……」 危懼子は言葉を濁した。殻が言った。「気持ち悪いと」 危懼子は言った。「決して気持ち悪くはありませんが、色々と思うところはございます」

 

「でも、どうやったら殻を上手い具合にアクセサリーにできるの?」と命賭が言った。「危懼子ちゃんはお嬢様だから、アクセサリーの加工業者とか職人とか、詳しいんじゃない?」 危懼子は首を振った。「確かに私はその手の業界に詳しいですわ。ですが、ここで私が私の家の伝手(つて)を頼って職人に殻の加工を依頼するとしましょう。費用も私が出すとしましょう。しかしそれは私個人の力によるものであって、『女子だらだら部』全体で成し遂げたことにはなりません。それにお金もきっと高くつきます。技術料というのは安くないんですのよ。それに職人にはブランド価値を守る必要がありますから、その分だけ費用に上乗せが……」「そっかぁ……そう言われてみればそうだよねぇ」 命賭はそう受け答えつつも、希望を捨てずに言った。「で、でもさ。それなら部費で払えば良いんじゃない? とりあえず危懼子ちゃんに建て替えてもらうという形でさ……」 

 

 危懼子は命賭の肩に手をやって言った。「部費はもうすっからかんですわ。この間、部室の畳を張り替えたのをお忘れになって?」「そう、そうだよね……」 あの畳は高かったなぁ、と命賭は思った。双子が横から口を出した。「うちは所詮(しょせん)都立だから」「部費も雀の涙ほどしかない」「こういうのを『素寒貧(すかんぴん)』という」 マルタが手帳を取り出してメモした。「スカンピンね。なるほど、勉強になったわ」

 

「それではお手上げというわけですか? あるいは手も足も出ない? 私はカタツムリゆえ手も足もなく、そのような言葉に内包されている心情を心の底から理解することはできませんが」 黄金の殻が沈んだ声を発した。

 

「そうですわね……」 危懼子は考えた。「そうだねぇ……」 命賭は考えたが、考えつつもたぶん何も思いつかないだろうなと思っていた。「私は何も打開策を思いつかないわ」 マルタはごく率直な口調で言った。「マルタに同じく」「私たちも何も浮かばない」 双子は手遊びをしていた。桜子が薫子の肩の上に、手で作ったカタツムリを這わせていた。右手でじゃんけんの「チョキ」の形を作り、左手で握りこぶしの殻を作って、その上に乗せていた。真面目に考えているのは危懼子だけだった。その孤独こそ部長にふさわしいものだった。

 

 しばらく、沈黙があたりに満ちた。桜子のカタツムリは肩の上から移動を始め、薫子の柔らかく大きな胸を這い始めていた。

 

 沈黙に耐えかねたように、黄金の殻が絶望感に染まりきった声で叫んだ。「ああ、もうダメだ! はい、おしまい。もう全部おしまいでーす!」

 

「おしまいでは、ない!」 突如として、女子だらだら部の五人以外の声がその場に響いた。それは若い女性の声だった。

 

「うわっ!」 びっくりした五人が声のした方向へ一斉に顔を向けた。

 

「私がその殻の加工を受け持とう!」

 

 ここでメイドが登場する。そこに立っていたのは、メイド服に身を包んだ少女だった。シンプルなロングドレス型のヴィクトリアンメイド服だった。その胸は大きく盛り上がっていた。

 

 双子が言った。「門松は」「メイドの旅の」「一里塚」「めでたくもあり、めでたくもなし」 二人は声を合わせた。「一休宗純(いっきゅうそうじゅん)

 

「なるほど、勉強になったわ」 マルタは手帳にメモをした。それは彼女の現実逃避願望の表れだった。彼女は祖国に帰りたい気持ちでいっぱいだった。

 

(つづく)




次回もお楽しみに!


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第7話 メイドはいろいろと大きかった

「メイド、ですって?」 危懼子がそのように言うと、突然登場したメイドは自信たっぷりな口調で言った。「そのとおり、私はメイドである!」 メイドはぐんと胸を張った。大きな胸であった。服の上からでもありありと形が分かるほどだった。しかし、それは元から大きな胸であるがゆえに大きな胸であるのか、それともその口調に象徴されるような膨大な自信(セルフ・コンフィデンス)が胸を膨張させているのか、そのいずれとも分からなかった。あるいはその両方であるのかもしれなかった。

 

 メイドの眼光は鋭かった。眼光の鋭さだけでおそらく剣道三段に匹敵した。そしてメイドは背が高かった。おそらく身長は170センチを超えているであろう。ちなみに令和元年の高校生女子の平均身長はだいたい157センチから158センチである。昭和2年(1927年)11月30日に制定された「兵役法施行令」第68条においては「現役に適する者は身長1.55メートル以上にして身体強健なる者とす」とされており、とにかく身長が155センチ以上で元気であれば甲種合格(あるいは乙種合格)と判定されたことを考えれば、現代の女子高校生たちは昔の男と比べて大きいと見ることができる。身長が170センチ以上あるメイドはとりわけ大きいと言えよう。

 

「メイドにしては……その」 目が鋭くて大きなメイドに危懼子は違和感を覚えた。彼女は生れながらのお嬢様であるので、生体メイドレーダーをしっかりとその身に備えていた。そのレーダーが頻々(ひんぴん)と警報を伝えてくる。そのメイドが大きすぎるからではない。その逆に、何かが足りない。何かが足りない気がする。そのように危懼子はレーダーからの警報を解釈した。

 

 メイドをメイドと見抜くことができない、またはメイドではない者をメイドと見なしてしまう、そうなればお嬢様としての資質が問われることになりかねない。危懼子は慎重に質問を発することにした。つまり、まず当たり障りのない質問を発したのである。「メイドさんですわね? お名前は?」 メイドは答えた。「手造(てつくり)(このむ)!」

 

「ええっ!?」 先ほどからしきりに首をかしげていた命賭が驚いたような声をあげた。事実、彼女は心の底から驚いていた。「あなた、(このむ)ちゃんなの?」「知っているの?」とマルタが問うと、命賭はぶんぶんと首を縦に振った。「知ってるも何も、(このむ)ちゃんは私と同じクラスだよぉ。2年D組」 メイドは言った。「D組のDはダイナマイトのD! つまりクラスの(みな)(みな)、アルフレッド・ノーベルの子である!」 双子が口を開いた。「ニトログリセリンは融点摂氏14度」「沸点摂氏50度」「感度が高くて困っちゃう」 メイドは頷いた。「そうだ。2年D組はみんな感度がビンビンだ。私もいろいろビンビンだ」

 

「で、でも……その……(このむ)ちゃんは……」 命賭は戸惑いを隠しきれないように言った。「もっとこう、なんというか、大人しい印象だったと思うんだけど……」「そうなんですの?」 そのように問う危懼子に、命賭は頷いた。「うん」 命賭の記憶の中にある手造(てつくり)(このむ)は長い黒髪を三つ編みにした、眼鏡をかけている大人しい女子であった。大人しいというより地味であった。いつも静かにしていて、静かに編み物をしていた。たまに文庫本を開いていて、ちょっと読んでは物憂げな顔をしているのが印象的といえば印象的だった。彼女は毎日いつの間にかひっそりと登校しており、休み時間の時も昼食の時もHR(ホーム・ルーム)の時も椅子に座ったままであまり立ち歩くということはしなかったため、その上背(うわぜい)についてはクラスのほとんど誰もが意識したことがなかった。当然命賭もあまり好の背の高さについて意識したことはなかった。

 

 ところが今、目の前にいる(このむ)は、命賭の記憶の中の好とまるで違う。好と名乗るメイドは不敵な笑みを浮かべていて、腰に手をやって悠然とそこに佇んでいる。メイドは美人だった。この世のすべてを憎んでいるようなひねくれ者以外は誰でも彼女のことを美人と言うであろう。ロングドレスのヴィクトリアンメイド服の裾が緑地の中を涼やかに吹き抜ける微風を受けて軽く(なび)いている。頭にかぶったレース付きのホワイトブリムが髪の黒さを引き立てていた。

 

 感に堪えないというように命賭は声をあげた。「好ちゃん、立派なメイドさんになったねぇ」「どうもありがとう」 メイドは礼を言った。そしてメイドは腕を組んだ。組んだ腕のせいでただでさえ大きい胸がさらに強調された。「立派なメイドさんだねぇ」 命賭が感に堪えないように言った。

 

「油断してはなりませんわよ、命賭様」と危懼子は未だに警戒心を纏った表情を浮かべて言った。「この世の中にはメイドに化けて人間を襲うメイド型宇宙人がいるとおばあさまから聞いたことがあります。宇宙の邪悪な統一意志を唯一神と奉じるそのプロキシマ星系第五惑星人は高度な星間航行技術とメイド擬装(カモフラ)能力を持ち、メイドなら何でもありがたがるダメな日本人を(さら)っては大脳新皮質を奪い取っていくそうです。大脳新皮質はチーズにするらしいですわ。この手造(このむ)と名乗るメイドも実はその一人かもしれない」 マルタが微妙な顔をして口を挟んだ。「このメイドさんが宇宙人であるよりも、あなたのおばあさんが嘘をついている可能性の方が高いんじゃないかしら」

 

「なにごとも慎重を期した方が間違いは起こりません」 危懼子はそのように言い、さらに質問をした。「(このむ)様、あなたのご年齢は?」 メイドは組んでいた腕を解いた。「16歳! ちなみに早生まれ(3月1日生まれ)なので私はメイドキャラでもあれば妹キャラでもある!」「ご住所は?」「東京都杉並区高円寺北5丁目……」「ああ、それ以上はけっこうですわ。好きな人体の部位は?」「大脳新皮質! ないと死ぬからな」「それはすべての臓器について言えることだと思いますが、まあ良いでしょう。それで、チーズは好きですか?」「好き!」「大脳新皮質のチーズに興味はありますか?」「興味はない!」「宇宙人ではない?」「宇宙人ではない!」 どうやら宇宙人ではないようだった。それでも危懼子は渋い顔をしていた。「やっぱり怪しいですわね……」 やはり、メイドにしては何かが足りない。危懼子はまた質問をした。「それで、あなたはメイドさんということですが、メイド歴は何年ですの?」

 

「30分少々!」 とメイドは堂々と言った。「はあ?」 流石にそのような返答を想定していなかった危懼子たちは間の抜けた声をあげた。「どういうことなの?」と命賭が尋ねると、メイドはここに至って初めて困ったような顔をした。「自分でもよく分からない! 混乱している!」 メイドは近くに立っていた木を苛立ち紛れに両腕で揺らし始めた。幹が揺れ、枝がわさわさと鳴った。メイド服の中でメイドの両胸がわさわさと揺れているのがありありと分かった。双子が慄いたように言った。「枝が揺れ」「木が揺れ」「地が揺れ」「お(ちち)揺れ」 危懼子が(たし)めるように叫んだ。「おやめなさい、若い娘が(ちち)などと言うのは! お胸と言いなさい!」 双子が訂正した。「お胸揺れ」「お胸が揺れ揺れお胸揺れ」 危懼子は満足したように頷いた。「よろしい」

 

「そ、その、メイドさん。順を追って説明してくれるとありがたいんだけど……」 マルタが努めて優しい口調で話しかけた。すぐさまメイドは落ち着きを取り戻した。「では順を追って説明しよう。私は授業が終わるといつものとおりひっそりと誰にも気づかれないように教室を出た」「これは長くなりそうだねぇ」と命賭が言った。

 

 メイドは話を続けた。「ひっそりと誰にも気づかれないようにというのは、私は生まれつき目立つことが嫌いだからだ。母の胎内にいた時しばらくエコー検査を掻い潜っていたほどの筋金入りだ。まあそんなことはどうでも良い。とにかく私は授業が終わった後にいつものように文化部棟へ向かった。そこの地下一階にある手芸部室が私の放課後の居場所だからだ」「え、ちょっと待って、文化部棟に地下なんてあったの?」 マルタが口を挟むと、「ある!」とメイドが断言した。危懼子も言った。「ありますわ」 マルタが言った。「そうだったの……ごめんなさい、話を続けて」 

 

「うむ。私は手芸部室に入った。いつものようにがらんとした部室を見て、私はほっとすると同時に幾ばくかの寂寥感をも覚えた。手芸部には現在のところ私しかいない。去年までは部員が五人いたのだが、先輩が3月にみんな卒業してしまったのだ。部員が定員に満たないということで手芸部は廃部となったが、先生は私の願いを聞き入れて部室だけは残してくれた。私はドアを閉めると鍵をかけ、そこで服をすべて脱いで全裸になった」

 

 メイドがそこまで言うと、途端に沈黙があたりに満ちた。その沈黙を破るにはなかなか勇気が必要だった。しかし、強い胆力の持ち主である命賭が沈黙を破るのに成功した。「え? ごめん、もう一度言ってくれない?」と命賭は言った。「私はドアを閉めると鍵をかけ、そこで服をすべて脱いで全裸になった。何度も言わせないでほしい。私は従順なメイドであるから乞われればこのような恥ずかしいことを何度でも言うが、普通は16歳のうら若い乙女にしつこく全裸になったくだりを繰り返させるのは顰蹙(ひんしゅく)ものだぞ」「ご、ごめん……」 命賭は謝った。

 

「なんで部室で全裸になったの?」とマルタが訊いた。メイドは答えた。「いつも部室では全裸になっている。いわば部室で全裸になることは私にとって習慣と化している。先輩がいた去年は全裸になっていなかったが、先輩たちがいなくなってからは全裸になることに何も障害はなくなった。全裸は良いぞ。その開放感はなにものにも代えがたい。いつも教室で目立たないようにひっそりとしているのはけっこう窮屈なのだ」 マルタは唖然としたが、メイドはそれにおかまいなしに話を続けた。

 

「そして、全裸になってしばらく椅子に座って本を読んでいた。ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』だ。昨日本屋で買ったものだ。タイトルがカッコよかったから買った」 双子が言った。桜子が先に言葉を発した。「『永劫回帰(えいごうかいき)という考えは秘密に包まれていて』」 薫子が続いた。「『ニーチェはその考えで、自分以外の哲学者を困惑させた』」「『われわれがすでに一度経験したことが何もかももう一度繰り返され』」「『そしてその繰り返しがさらに際限なく繰り返されるであろうと考えるなんて!』」 双子は補足するように最後に言った。「千野栄一訳」 マルタが言った。「一番有名な冒頭の箇所ね。その部分さえ暗誦(あんしょう)できれば『存在の耐えられない軽さ』を知っていると思わせることができる」 双子は痛いところを突かれたというような顔をした。「ぎくっ」「ぎくぎくっ」

 

 メイドはそんな双子を気にもかけず、重々しく頷きながら言った。「私にとってクンデラのその文章は非常に納得のいくものだった。私がこうして全裸になっているのは過去に誰かが全裸になったからであり、また未来永劫に渡って誰かが私と同じように全裸になっていくであろう。そもそも人類は発生した当初から全裸である。永劫回帰の思想に則れば、私が全裸になることには何も不思議はない。なにしろ私は、永劫回帰的に全裸にならざるを得ないのだからな。私は自分が部室で全裸になるのは、私自身のやむを得ざる必要によるものだと確信していたが、しかし心のどこかで全裸になることを正当化する理論的支柱を求めていたのかもしれない」 マルタは言った。「『すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた』」 双子が補足した。「『創世記』」「第3章第7節」

 

「全裸になって『存在の耐えられない軽さ』を読んで、それでどうなったんですの?」 辛抱強く話を聞いていた危懼子が先を促した。メイドはさらに話し始めた。「読書を30分ほど続けた後、私はまた服を着ることにした。30分以上全裸でいると風邪をひくからな。それにあまり全裸でいるのもそれこそ慎みがない。私にはアダムとイブが知恵を得た後にまずいちじくの葉で体を隠した気持ちがよく分かる。しかし、服を着る前、私は喉の渇きを覚えた。ちょうどバッグにコーラを入れていたのを思い出し、私はコーラのボトルの蓋をひねった。すると、炭酸が爆発して勢い良く中身が噴き出した。コーラは床に脱ぎ捨てられていた私の服に降りかかった。私の服は上から下までコーラ色に染まった!」 その時の悔しさを思い出したのか、メイドはまた木を揺らし始めた。木の近くにいた双子も揺れた。「揺れ揺れ揺れ」「地も木もお胸も揺れ揺れ揺れ」

 

 ひとしきり木を揺らした後にメイドは言った。「私は焦った。このままでは家に帰れない。コーラに染め上げられた服を着たまま総武線(そうぶせん)に乗ることはできない。総武線はただでさえ変人が多い。私まで変人の一人と思われるのは嫌だ。私は狼狽(うろた)えながら強く思った。いや、願った。強く願った。『ああ、ここに着替えがあったら!』と。その時だった。ドアの鍵穴が光った。その次の瞬間、部室の中が黄金色の光に満たされたのだ」

 

「えっ!?」 危懼子たちは驚いた。そんな五人の様子を気にも留めず、メイドは話を続けた。「私は思わず『うわ、まぶし!』と叫んだ。黄金色の光はしばらく部室の中に留まり、私の網膜を(まぶた)越しに焼き続けた。やがて、光が消えた。部室の中は平常に戻った。そして、私は気が付いたらメイド服を身に纏っていた。ロングドレスの、ヴィクトリアンスタイルの、あまりいやらしい感じのしないメイド服だった。頭にはホワイトブリムがあった。いや、単にメイド服を身に纏っていただけではない。私は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。心の底から私はメイドになっていた。甘美な感慨が私の胸の中を満たした……」 メイドはうっとりとしたような表情を浮かべた。

 

 そんなメイドを余所(よそ)にして、危懼子たちはひそひそと話を始めた。命賭が言った。「ねえ、好ちゃんが言ってるその光って……」 マルタが言った。「間違いなく、さっきの光よね」 双子が頷いた。「マイマイカブリが潰れて」「光が飛び出した」 危懼子が言った。「あの光、やっぱりただの光にしてはどこか普通ではないと思いましたが……いえ、そもそもマイマイカブリから出てくる光が普通であるはずがありませんが……とにかく、光がなにかしらの力を持っていたというのはこれで明らかになりましたわね。ねえ、黄金のカタツムリ様、あの光はいったいなんだったんですの?」 危懼子は手に持っている黄金の殻へ問いを発した。「そういえば、そもそもあの光について殻に訊くのを忘れていたね」と命賭が言った。「うっかりしてたわ。それもこれも私たちがだらだらとお喋りをしているから……」とマルタが言うと、双子が抗議するような声を返した。「だらだらは、私たちの務め」「だらだらを捨てたら私たちただの高校生」「発言の訂正を要求する」「ごめんなさい、失言だったわ」 マルタは謝った。マルタ自身、自分のホームシックはだらだら部の活動のおかげで相当程度和らげられていると思っていた。

 

「もう予想はついていると思いますが、マイマイカブリから出た光は私の全能の力です」 黄金の殻は答えた。「しかし、その全能の力は、私の思っている全能の力とは異なっていると思われます」「どういうことかしら?」 危懼子は殻を撫でながら問いを投げかけた。殻はつるつるとしていて触り心地が良かった。「マイマイカブリは私の肉に消化液を注入し、私の肉を啜って、あの醜悪な黒いボディに私の肉を溜め込みました。おお、おぞましい! その一連の過程で、私の全能の力が何らかの形で歪められたのではないかと考えます。なにせ、マイマイカブリは世界の秩序において、全知全能である私を食べることが許されている唯一の存在ですから。そして、マイマイカブリの腹の中で歪められた力がマイマイカブリの圧死によって一気に解放され、全世界に飛び散ってしまった。ここにいるメイドは、最初にその力の影響を受けたのでしょう。私の力が、彼女がその時に心に抱いていた強い願い、強い欲求を、歪んだ形で叶えたのではないか。まあそんなところです」

 

 いつの間にか近くに寄って五人と一緒に黄金の殻の話を聞いていたメイドは言った。「歪んだ形であるかどうかは分からない。私は前から手芸部の活動の一環としてメイド服を自作することを考えていた。文化祭の時にそれを着てPRをし、新入部員を集めようと思っていた。無論、着るのは私ではない。私自身が着るなどとは思いもよらない。私は目立ちたがりではないからな。ともかく、私の心の中にはメイド服について何らかのイメージがあった。それは確かだ」

 

「でも、仮にその考えが功を奏して手芸部に新入部員が来たとしたら、好ちゃんは部室で全裸になれなくなると思うんだけど」と命賭が言った。メイドは手をポンと打った。「それもそうだな。それは盲点だった」「盲点だったんだね」 命賭が言った。

 

 マルタが考えながら言った。「……願いがかなえられるのは必ずしもその当人にとって幸せを意味しないかもしれないわ。念願のスポーツカーを手に入れたと思ったらすぐに交通事故で死んじゃったり、宝くじに当たってラッキーだと思っていたら生活が破綻して人生そのものが破滅する人もいるし」 マルタは聖書の一節を思い起こした。「『多くの人は言う、どうか、私たちに良いことが見られるように。主よ、どうか、み顔の光をわたしたちの上に照されるように』 でも、その良いことというのは物質的なものではない。『あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びにまさるものでした』」 双子が言った。「『詩篇』第4篇第6節から第7節」 桜子が言った。「まあ、物質的な喜びの方が分かりやすいけど」 薫子が続いた。「誕生日のプレゼントで」「お父さんとお母さんが『プレゼントは私たちの愛だ』と言って」「なにもくれなかったら」「私たちは泣く」

 

(このむ)様は服が欲しいと願っていた。そして、光はその願いを部分的に叶えた。本来ならば新しい服が与えられるところでしたが、光は好様にメイド服を与え、しかも心の底からメイドにしてしまった。そういうこととして今は理解しておきましょう」 そう言っておいて、危懼子は何か冷ややかなものが背筋を走るのを感じた。このメイドと同じような目に遭っている人がまだいるのではないか? 強く願っていて、その願いが歪められて叶えられた人が。いや、絶対にいるはずだ。しかもそれは一人や二人ではないだろう。それこそ日本中、もしかしたら世界中に光は拡がって、そして人々の歪んだ願いを叶えて……

 

 そうであるなら、あっけなく、このだらだらの日常が崩壊するかもしれない。

 

「馬鹿な! あり得ませんわ!」 危懼子はそこまで考えて、暗い予感を振り払うように頭を振った。彼女は自分の部員たちを見た。命賭もマルタも、その表情はこわばっていた。危懼子と同じような懸念を抱いているのがすぐに分かった。しかし双子はメイドと三人で自撮りをしていた。「もうちょっと、もうちょっと屈んで」「メイドさん、もうちょっとだけ屈んで」「ああ、屈もう。屈むとも」 横一列に大きな胸が並んだ。ここまで胸の数が多いとあまりありがたいという感じはなかった。メイドの胸の形が服の上からでもよく分かった。危懼子は「やっぱり、何かが足りないですわ」と呟いた。その何かは未だによく分からなかった。

 

「それで、どうして私たちのところへいらっしゃったのかしら?」 三人がひとしきり自撮りを終えたのを見計らって、危懼子はメイドに声をかけた。メイドは再び話し始めた。「私はメイドになった。心の底からメイドになったのだ。メイドになったからには誰かにご奉仕しなければならない。ご主人様とか、お嬢様とかに……私は一瞬だけ困惑した。しかし、すぐに私の中で何かが動き出すのが感じられた。それはありとあらゆる職業の中でも特にメイドだけが有する一種の感覚だった。それが働き始めたのだ。優れた主を見つけ出そうとする第六感、いや、第七感でも第八感でも良いが、そのような生体レーダーのごときものが作動したのだ。私はそのレーダーの反応に従い、部室のドアを開けて外へ出た。文化部棟の一階へ上がり、噴水の前を通り、緑地に入って、ここまで来た。そこには五人の女の子が立っていた」

 

「ああー、なるほどね。好ちゃんは危懼子ちゃんに惹かれてやって来たんだね」 命賭は感心したように言った。メイドは力強く頷いた。「五人の中にいかにもお嬢様という人がいた。私のレーダーが強くそれを告げていた。烏の濡羽のような黒髪、凛とした顔立ち、俊敏さを感じさせるスレンダーな姿……この人こそが私の新しい(あるじ)、私の新しいお嬢様にちがいない! 私は確信した。すぐにでも声をかけたかったが、しばらく私は様子を窺った。五人はずいぶんと熱心に話し込んでいた。どうやら話は、その黄金の殻をどのようにしてアクセサリーに加工すれば良いかという内容のようだった。アクセサリーの加工は私の専門分野だ。非常に興味を惹かれたが、やはり声をかけるわけにはいかない。いきなり割り込んで話を中断させるのはメイドとしてふさわしくないからだ。私は待った。そして、焦れた。焦れたので、『はい、おしまい。もう全部おしまいでーす!』という声を聞いて飛び出してしまったというわけだ」

 

 話し終えると、メイドは危懼子に言った。「というわけでお嬢様、その黄金の殻を私に渡せ。私はメイドであるが手芸部でもある。都立西方浄土高校の中で一番技術力があるのが手芸部だ。たぶん。私がその黄金の殻をアクセサリーにしてみせよう。さあ、さあ」

 

 ずいずいとメイドは危懼子に対して距離を詰めた。鼻先と鼻先が触れそうなほどに二人は接近した。危懼子は至近距離からメイドとメイド服を観察した。「わかりましたわ」 ここに至って、危懼子はようやくメイドに足りていないものが何であるか悟った。

 

 お嬢様としての優雅さをもって危懼子はメイドに言った。「あなたに何か足りないものがあると、出会った時から分かっていましたわ」 メイドの顔は自信に満ちていた。「それはなんだろうか?」

 

 びしっと指差して危懼子は断言した。「あなた、もしかしなくてもノーブラでしょう!」 そのように言われたメイドは、悪びれもせずに答えた。「ノーブラどころか、パンツすら履いていない。メイドというものはノーブラ、ノーパンであると決まっている。そもそも私はメイドになる前からいつもノーブラ、ノーパンだ」

 

 双子が口を開いた。「うわ、変態だ」「大変だ」「大変な変態だ」 そういって双子はメイドをゆさゆさと揺さぶった。

 

「やめてくれ」 メイドの大きな胸が服の中でゆさゆさと揺れた。

 

(つづく)




次回をお楽しみに!(だらだら書いているので字数が増えてしまう)


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第8話 西方浄土の地下世界

 文化部棟の地下一階は薄暗かった。当然である。地下は薄暗いものと相場が決まっている。地下という言葉だけで人は多様な「暗いイメージ」を想起し得るのである。ドストエフスキーの『地下生活者の手記』はその代表例である。「地下」という言葉がタイトルに含まれているだけで、見る人は「これは何か容易ならざる作品であろう」と想像してしまう。かのフランスの文豪アンドレ・ジッドは同作品を「ドストエフスキーの全作品を読み解く上での鍵である」とかなんとか言ったらしいが、おそらくはジッドも「地下」という単語だけで彼らしい陰気ながらも聡明なその洞察力が瞬時に働き、「こいつはすげぇ傑作だ」と感じたに違いない。例によって根拠はないが。ハーラン・エリスンの短編「クロウトウン」もまた地下世界をモチーフにした傑作である。地下はこれほどまでに魅力的なのだ。地下出版、地下活動、地下アイドル……

 

「地下といえば、私にとっては映画『地下水道』(Kanał)なのよ」とマルタが廊下を歩きながら言った。「1956年のポーランドの映画で、監督はアンジェイ・ワイダ。1944年のワルシャワ蜂起を舞台にした作品で、ナチスによって地下水道に追い詰められたポーランド国内軍兵士たちが……」 しかし、話しているうちに興が乗ってきたのであろうか、マルタの日本語は途中からポーランド語になってしまった。当然のことながら女子だらだら部においてポーランド語を理解できる者はマルタ以外にはいない。それでもマルタの声は美しかった。言葉の意味は分からずとも、その響きから何かしらの美、真実、崇高さ、ひたむきさを感じることは可能である。命賭はしみじみと言った。「シスター・マルタのポーランド語は歌のように綺麗だねぇ……」

 

 危懼子はマルタが熱心にポーランド語で話しているのを聞き流しながら、ごく軽い口調で言った。「1956年の映画といったら他に何がありましたっけ?」 双子が答えた。「溝口健二の遺作、『赤線地帯』」「でも私たちは女子高校生だから『赤線』の意味を知らない」「知らないったら知らない」「しーらない」 危懼子がさらに促した。「他には?」 桜子が言った。「ルネ・クレマンの『居酒屋』」 薫子が付け足した。「ルネ・クレマンは『太陽がいっぱい』の監督でもある」 双子に対してメイドが感心したようにうんうんと頷いた。「ほほう、双子は映画に詳しいな!」 危懼子がメイドに釘を刺した。「メイド。この双子、たまにかなりいい加減なことを言いますので注意した方が良いですわ」 双子は危懼子に不満そうな顔をしたが、何も言わなかった。事実、双子は「赤線地帯」も「居酒屋」も実際に観たことがなかったのである。

 

 文化部棟の地下一階の廊下は薄暗く、ごみごみとしていた。この「ごみごみ」の「ごみ」という言葉には、辞書によると「(ゴミ)」のごみと、「()み」のごみの二つの意味が込められているらしいが、地下一階に(ゴミ)はあまりなかった。「火災が起きると困るからな」とメイドが言った。「廊下に(ゴミ)を出すのは禁じられている。荷物を置くのも禁止だ」 ごみごみというのは、混み混みという意味であった。廊下にはずらりと個室のドアがその両側にわたって並んでいた。薄暗さのせいで、廊下はどこまでも続き、そして個室もどこまでも続いているかのように感じられた。

 

 自分がいつの間にかポーランド語を話していたことに気づき、そして沈黙していたマルタは、おずおずと視線をあたりに巡らせた。ドアにはそれぞれプレートが下がっていた。それぞれの部活の名前を印字したものであった。声に出してマルタはそれらを読み上げた。「詩吟(しぎん)部」「通信空手部に」「ウガリット語研究部。ウガリット語?」「業務スーパー研究部に」「拷問研究部……拷問研究部!?」 「たまに悲鳴が聞こえてくるな、拷問研究部からは」とメイドがこともなげに言った。「そ、そうなの……」 気を取り直して、マルタはまたプレートを読み上げ始めた。「帰宅部控室」「帰宅部仮眠室」「帰宅部図書室……」 マルタは呆れたような声をあげた。「帰宅部関連の部屋が多いわね」 命賭が言った。「なにせ都立西方浄土高校の最大派閥だからねぇ」 双子が頷いた。「どの部活に入っている生徒でも」「学校に来た以上は必ず帰宅しないといけない」「だから全校生徒全員が帰宅部を兼部している」 マルタは寂しそうに言った。「でも、私はいつまで経っても帰宅できないわ……」 彼女はホームシックであった。彼女はポーランドに帰りたかった。双子が慰めるようにマルタの肩に手をやった。

 

「さあ、着いたぞ。ここだ」 メイドが言った。女子だらだら部の五人とメイドは、いつの間にか目的地に辿り着いていた。そのドアは可愛らしい手書きの丸文字で「手芸部」と書いてあるプレートが下がっていた。メイドが鍵を取り出して鍵穴に差し込み、回し、鍵を引き抜いて、ドアを開けた。嫌な音を立ててドアが開いた。食べ過ぎたウシガエルの曖気(げっぷ)のような音だった。「食べ過ぎたウシガエルの曖気(げっぷ)のような声がしますわね」と危懼子が言った。メイドが答えた。「先輩たちもよく、『食べ過ぎたウシガエルの曖気(げっぷ)のような声がする』と言っていた。さあ、入って入って」

 

 手芸部の部室は狭かった。6畳から8畳ほどの広さしかない。スチール製の無骨な作業机と椅子のセットが三つあり、ガラス戸棚が壁に沿って立っていた。戸棚の中には手芸に必要な様々な道具が収められていた。メイドが言った。「私はメイドであるから、本来ならばここにいらっしゃった方々全員にお茶をお出しするべきなのだが、見てのとおりここにはティーカップどころか電気湯沸かし器すらない。いずれ揃えるつもりだが、今日のところは勘弁してくれ」 危懼子は鷹揚(おうよう)に頷いた。「構いませんことよ。今日はそれほど長居する気はございませんし」

 

 メイドが言った。「そうだ。この部屋ではあまり大きな声をあげないで欲しい。隣の住民から苦情が来るからな」 命賭が首を傾げた。「隣の住民? 誰なの?」 メイドは答えた。「『モグラ研究部』の部員だ。モグラの研究をしている。先輩の話によれば、部室の床を掘って土に埋まっているらしい。モグラの気持ちになりきるためだそうだ。部員は一人しかいない。女子であることは確からしいが、詳しいことは何も分からない。この部屋で大きな音を立てたり大きな声をあげたりすると、床下を『コンコン』と叩いて苦情を入れてくる。どうやらこちらの床下にまで坑道(トンネル)を掘っているらしい」 命賭が不安そうな顔をした。「大丈夫なのかなぁ、それって。耐震のこととか考えないで床下にまで穴を掘ってたら、地震が起きた時に大変なことになるんじゃないかなぁ」 メイドがそれに応じた。「モグラであるなら大丈夫だろう。モグラが落盤で死んだとは聞いたことがない」

 

「なんて無礼なモグラですこと!」 危懼子がいかにも憤然とした様子で言った。彼女は久しぶりに憤怒を露わにする機会を得たためか、その声は大きかった。「そもそも苦情を入れるのに床下から『コンコン』と叩くなどというのは無礼極まることですわ! 苦情があるならあるでちゃんとドアをノックして、しかるべき口上を述べてから苦情を申し入れるのが(スジ)でしょう! 人間であるなら言葉を使いなさい、言葉を! あ、人間ではなくモグラでしたか……人間でありながらモグラに()すとは!」

 

「しーっ! お嬢様、大きな声を出してはいけない!」とメイドが危懼子に言った直後であった。床下から「コンコン」という音がした。双子は飛び上がった。音がしたのはちょうど彼女たちが立っているところの真下だった。ぎょっとして全員が黙っている間にも、「コンコン」の音はなおも続いた。次第に「コンコン」は一定のリズムを持ち始めた。双子は足元から響く音にじっと聞き入っていたが、やがて二人で顔を見合わせて言った。「これは、モールス信号」「サミュエル・フィンレイ・ブリース・モールス発明の、モールス信号」 マルタが言った。「なんて言ってるの?」 双子はしばらくじっと聞いていた。そして口を開いた。「『ハアハア』」「『キミタチ』」「『キヨウハ』」「『ナニイロノ』」「『ハ゜ンツハイテルノ』」 双子は声を合わせて言った。「はぁはぁ、君たち今日は何色のパンツ履いてるの、だって」

 

「私はパンツを履いていないしブラもつけてないからその質問には答えられないな。さあ、お喋りはここまでにしよう。お嬢様、その黄金の殻を私に渡してくれ。ささっとアクセサリーにしてしまうから。下校時間が迫っている」 メイドはそう言って危懼子に向かって手を伸ばした。危懼子は言った。「あなたの腕前を疑うわけではありませんが、本当にアクセサリーにできるのでしょうね? この黄金の殻、いちおう神を自称するカタツムリの殻なのですが」

 

 黄金の殻が言った。「自称ではなく、神です。ですが心配は無用です。このメイドの方には自信があるようですし、それに私にもまだ力が、そう、全盛期の頃の私の力を原子力発電に例えれば、今の私は手回しラジオのダイナモくらいの力しかありませんが、それでもけっこう彼女を助けることはできると思います。私もさっさとアクセサリーになってあなたたちに身につけてもらいたいですし」 危懼子は頷くと、お嬢様らしい優雅な仕草でもって黄金の殻をメイドに渡した。「それでは、お願いしますわ」 黄金の殻を受け取ったメイドはその意外な重さに一瞬だけ顔をしかめたが、すぐにいつもの自信たっぷりな顔をして言った。「お任せあれ、お嬢様。さあ黄金の殻よ、覚悟は良いか。これからお前は生まれ変わるのだ、私の手によって。では始めよう」

 

 メイドの机の上には金属加工用の様々な道具が置いてあった。ケガキ針、各種金属用のタガネ、ドリル、電動ドリル、ハンドグラインダー、ペンチ、ラジオペンチ、鎖、サンドペーパー各種。「ぐふふ……腕が鳴るぞぉ……」 メイドは舌なめずりをした。メイドはいかにもやる気満々だった。メイドは保護メガネをかけ、保護マスクをした。その目は爛々(らんらん)と輝いていた。それに対して、黄金の殻はずらりと並んだ道具を見て今更ながら怖れを抱いたようだった。「あの……やっぱり不安になってきたんですけど。今になってこのようなことを申し上げるのは神である身ながらどうかと思うのですが、このメイドの方ではなく、誰かプロに、そう誰か他の、熟達した技量を持つその道のプロにお願いできませんか?」 それはあたかも歯医者に行った際、直前までは割と余裕な気持ちでいた人間がいざ治療のため歯科用ユニットに腰を掛けた瞬間、ドリルの先端だのなんだのといった道具を目にし、途端に強い恐怖を覚えるのと一緒であった。このような現象は老若男女問わず見られるものだ。意地悪な歯医者はこのことをよく理解しているので、あえて道具をずらりと並べたりする。危懼子が言った。「今更ああだこうだと言うのはやめてくださいまし! 神であるならば我慢なさってください! 耐え忍ぶことは美徳の一つですわ!」

 

 マルタが言った。「『忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである』」 双子は補足するように言った。「『ヤコブの手紙』第5章第11節」 命賭がしみじみと言った。「ヨブは確かに忍耐強かったねぇ」

 

 突然、ギュイーンという凄まじい回転音がした。それは電動ドリルの回転音であった。ドリルの音が断続的に狭い手芸部の部室の中で響き、その合間合間にメイドと黄金の殻の声が聞こえてきた。「良いぞ、良いぞ! 新たな手ごたえを感じる! これぞまさにゴッドハンド・メイドだ! いま私はうまいことを言った!」「あっ、あっ、あっ……!」 ギュイーン、ギュギュギュ、ギュイ、ギューン、ギュイーン。「あっ、いかん。ちょっと間違えたかな」「あっ、あっ、あっ……!」 ギュイーン、ギュギュギュ……

 

 コンコンと床が鳴った。双子が驚いて飛び上がった。マルタが言った。「またなの? 確かにこのドリルの音は凄まじいものがあるけど」 コンコンという音が連続している。命賭が双子に尋ねた。「今度はなんて言ってるの?」 双子が答えた。「『ハアハア』」「『ソノト゛リルテ゛』」「『ホ゛クノコトモ』」「『ト゛リト゛リシテ』」「『ツヨクツヨク』」「はぁはぁ、そのドリルで(ぼく)のこともドリドリして強く強く」「モグラ様はボクっ子らしいですわね」と危懼子が言った。マルタは心底呆れたような顔をした。「いや、ドリルでドリドリとかただの変態じゃない……」 なぜドリドリすることが変態的であるのかはマルタにしか分からないことだった。マルタは想像力が豊かだった。

 

 命賭が言った。「フランスのフィルム・ノワールなんかでありそうだよね、ドリルでドリドリするやつ」 「たとえば?」とマルタが尋ねた。「ほら、敵対組織の人間を拷問する時に電動ドリルを使うんだよ。椅子に縛り付けてさ、床にはブルーシートを敷いて、それで尋問するの。尋問する側としては相手から答えを引き出すことはあまり期待していなくて、惨たらしく殺すことだけを考えてるの。ひとしきり尋問した後、おもむろに電動ドリルを起動させて、椅子に縛り付けられた人間の膝にドリルをぶち込む。ドリルは膝裏まで貫通して膝窩(しつか)動脈を……」 黄金の殻の叫び声が聞こえた。「そんな話を今しないでください! 気が遠くなります!」 危懼子が驚いたように言った。「あら、現在絶賛ドリルをぶち込まれている最中なのに、私たちの会話が聞こえていますのね」 黄金の殻は弱々しい声で答えた。「私は神ですからね」 その声には深い諦念が込められていた。「ありとあらゆる声が私には聞こえるんです」

 

 メイドは鼻歌を歌っていた。作業は順調なようだった。「ふふーんふーん、ふんふーん」 それはバッハの「ゴルトベルク変奏曲BWV988」だった。双子が言った。「ゴルトベルク変奏曲BWV988は」「ハンニバル・レクターが好きな曲」 またドリルが鳴った。また床下から「コンコン」という音がした。マルタが言った。「今度はなんて言ってるの?」 双子は集中力を発揮して音を聞きとろうとした。ややあって、双子は言った。「『ヤエムク゛ラ』」「『シゲレルヤト゛ノ』」「『サヒ゛シキニ』」「ヒトコソミエネ」「ト゛リルキニケリ」「八十葎(やえむぐら)、しげれる宿の、さびしきに、人こそ見えね、ドリル来にけり」「恵慶(えぎょう)法師のパクリ」

 

 マルタは言った。「なに? どういう意味なの? さっぱり分からないわ」 危懼子が説明した。「『(つる)草が八重(やえ)にも何重にも生い茂っている家、その荒れ果てた家にも、人の姿は見えないが、ドリルはやってくるのだなぁ』というような意味ですわ。もとになった恵慶法師の和歌は『百人一首』にも収録されている有名なものですから、それをモグラ様はおパクリになったのでしょう」 マルタは首を傾げた。「その和歌、モグラと何か関係あるの?」 命賭が言った。「たぶん、『八重(むぐら)』の『むぐら』と『もぐら』をかけてるダジャレなんだと思うよ」 マルタは溜息をついた。「なんなのそれ……」 危懼子が言った。「案外、モグラ様は寂しがり屋なのかもしれません」 命賭が答えて言った。「そうじゃなくて、単にドリルの音がうるさいって言ってるだけかもよ」

 

「できたぞ!」とメイドが大きな声をあげた。「会心の出来だ!」 黄金の殻が疲れ切ったような声を発した。「なんとか耐え抜きました。恐怖そのものと断言できる数分間でした」 双子が言った。「マイマイカブリにしゃぶられるのと」「どっちがつらかった?」 黄金の殻は言った。「それは断然マイマイカブリの方が……」「さあ、お嬢様! さっそく首にかけてみてくれ!」 メイドによって黄金の殻の言葉は無理やり中断させられた。「ほら!」 メイドは満面の笑みを浮かべて危懼子にそれを手渡した。

 

 それはネックレスだった。殻の開口部に器用に穴が開けてあり、そこに金属製の鎖が通っている。ネックレスはずっしりと重たかった。

 

 危懼子はネックレスを様々な角度から眺めた。「なるほど、悪くない手腕ですわね。多少鎖が安っぽいですが、その安っぽさが却って黄金の殻のプレシャス(高価)な感じを引き立てている。よくやりましたわ」 メイドは保護メガネと保護マスクをしたまま頭を下げた。「お褒めにあずかり恐縮だ。鎖は吉祥寺(きちじょうじ)のYザワヤで買ったものを適当に使った。それにしても、自分でもよく分からないのだが、これほど短期間でこれほどまでの仕事ができたのは意外でもあり、そして嬉しい気持ちがする」 メイドは喜悦にまみれた表情をしていた。今やネックレスになった黄金の殻が言った。「私も彼女を手伝いました。私の力を発揮して、彼女に最高のパフォーマンスが発揮できるように手助けしたのです。変なところをドリルで掘り抜かれたら大変なことになりますからね」

 

「なるほど、私の脳内で『そこじゃない、そこじゃない!』と叫んでいたのはお前だったのか。まあそんなことはどうでもいい。さあ、さっそく首から下げてみてくれ、お嬢様」とメイドは言った。危懼子は鎖の輪を広げ、それを首にかけた。危懼子は叫んだ。「(おも)っ!? ですわ!?」 ネックレスは危懼子の予想より重かった。お嬢様らしいほっそりとした首に、その重さはかなりのものとして感じられた。黄金の殻が言った。「()()()()です。頑張って耐えてください。私も先ほど苦しみに耐えました。神ならぬ人の子であるあなたも頑張って耐えなければなりません」

 

 命賭が心配そうに言った。「大丈夫? 危懼子ちゃん? 重かったら私が代わるよ?」 危懼子は首を振った。「いいえ、命賭様。ご心配には及びませんわ。これくらいの重みならば充分に耐えられます。なにせ私は崋山(かざん)家のお嬢様なのですから。私は常日頃から様々な精神的重みに耐えています。今更物理的な重みが加わったところで大したものではありません。ところで、これからまた議論をしたところで今日は結論が得られそうにないのでとりあえず当面の間は私がこのネックレスを預かりますが、それに異論はございませんか?」 マルタが答えた。「異議なし」 命賭が言った。「むしろありがとうと言いたいくらいだよぉ」 双子も縦に首を振った。「部長に任せる」「やっぱり重そう」 床がコンコンと鳴った。「モグラも『イキ゛ナシ』って言ってる」 危懼子は頷いた。「モグラ様もそう言っていますし、それでは当面の間、私が責任を持ってこのアクセサリーを預からせていただきますわ」

 

 危懼子は腕時計を見た。そろそろ下校時間であった。「時間ですわね。今日はこれで部活動をおしまいにして帰ることにいたしましょう。皆様、部室へ……」「ちょっと待ってくれ、お嬢様」とメイドが口を挟んだ。「なんでしょう? あっ、そういえばあなたに渡すお礼について考えるのを忘れて……」 危懼子がそのように答えると、メイドは神妙な顔をして首を左右に振った。「いや、お礼などはいらない。私は手芸部として、やりたいことをやらせてもらっただけだからな。むしろこちらが感謝したいくらいだ。お嬢様に私が言いたいのは、お礼のことではなく、メイドとしてのこれからの私の身の処し方についてだ」 命賭は「ああー」と言った。「(このむ)ちゃん、その恰好じゃ家に帰れないよねぇ、その恰好でバスとか総武線に乗るのは……」

 

 メイドは命賭に対して静かに首を振り、やんわりと否定の意を示した。「それもあるが、私はもっと根本的なことに気が付いた。私は今日メイドとして生まれ変わったが、実際のところメイドとしてどのように生きていけば良いかまだ何も分からない。お茶の淹れ方も掃除の仕方も、お嬢様のお召し替えのお手伝いの仕方も、電話の受け答えもExcelの使い方も分からない」 マルタが言った。「メイドがExcelの使い方を知っている必要はないんじゃない?」「必要だよぉ。これからの人類はみんなExcelの使い方を知らないといけないよぉ」 命賭の言葉に双子も続いた。「得意げな顔でセル結合をするメイド」「即刻解雇間違いなし」 「解雇」という言葉を聞いてメイドはびくりと体を震わせた。ノーブラの大きな胸も服の下でびくりと震えた。

 

「だから、その……」 言いよどむメイドに対して、危懼子は柔らかな笑みを浮かべて言った。「私のもとでメイドとしての修行がしたい、ということですわね?」 メイドは首肯した。「そうだ。私にはもっと修行が必要だ。是非、あなたのもとで、そう、理想的なお嬢様であるあなたのもとで修行をさせてもらいたい。許してもらえるだろうか?」

 

 ほんの数秒間だけ、沈黙が危懼子とメイドの間に舞い降りた。そして危懼子は凛として言った。「細かな労働契約については今晩、一緒に家に帰ってから話し合いましょう」 その言葉を聞いてすぐさまメイドは晴れやかな顔をした。「ありがとう!」 マルタが心配そうに言った。「でも、あなたの御両親やあなたの家族にはなんて説明するの?」 メイドは答えた。「心配いらない。私の両親も姉妹たちも、そもそも私にあまり興味がない。興味がないというか、私は目立たない性質(たち)だからあまり注目されないのだ。家には『これからメイドとして生きていく』とLINEで連絡を入れておく。たぶんLINEは未読のままだろうが……」 マルタは同情の念を覚えた。「そ、そうなの……なんか、その……頑張ってね」「うむ、頑張る!」 メイドの顔はやる気に満ちていた。

 

「それでは、帰ることにいたしましょう」「部室に荷物を取りに行かなきゃ」 六人の少女は手芸部室を出て一階へと向かった。「拷問研究部」のドアの向こうから電動ドリルの回転音がし、絹を裂くような悲鳴が聞こえてきたが、六人はいまや帰ることで頭がいっぱいで気にしなかった。

 

 六人は階段を上り、廊下を歩いた。「禁じられた遊び 愛のロマンス」はもう聞こえてこなかった。

 

 事件は突然起こった。

 

「うわ!?」 最初に電灯の消えた薄暗い部屋に入った命賭が素っ頓狂な声をあげた。「どうしたんですの、命賭様?」 危懼子はそのように尋ねたが、命賭は何も言わない。しきりに部室の畳を足で踏んでいる。「えっ……まさか、そんな……でもこの感触は間違いなく……」と命賭は呆然とした顔で呟いていた。

 

「命賭、どうしたの?」「緊急事態(エマージェンシー)?」 マルタと双子がそのように訊くと、命賭が叫んだ。

 

「畳がこんにゃくになってる!」

 

(つづく)




次回をお楽しみに!


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第9話 ノーパンメイドの次はこんにゃくの魔女なの?

 その女は、文化部棟の二階の廊下の暗がりにしゃがんで隠れていた。

 

「畳がこんにゃくになってる!」という叫びを聞いて、その女は飛び出そうとした。飛び出して「私がやったのよ!」と、女は返そうとした。しかし6月の日暮れ時はけっこう肌寒く、しかも隠れている時間が長かったため、彼女はある生理的欲求を覚え始めていた。このまま対決に臨むと大変なことになるかもしれない。彼女は大急ぎでトイレへと向かった。

 

 そういうわけだから心置きなくこんにゃくについて語ることができるのである。

 

 実にこんにゃくほど手間のかかる食べ物はない。手間がかかるというのは調理の手間がかかるということだけを意味しない。そもそもこんにゃくそのものを作ることからして手間なのである。こんにゃくは周知のとおりこんにゃく芋から作られる。学名はAmorphophallus konjacである。アモルフォファルス・コニャクとでも読めば良いが、この学名の「Amorphophallus」は「不格好なペニ◯」という意味である。なんということだ。気になる人はこのワードでネット検索をかければいくらでも画像が出てくる。その意味するところを即座に悟ることができるであろう。こんにゃく芋は作付けから三年目にしてようやく収穫することができるが、「ペ◯ス」という意味からして明らかなように寒さに弱いため(ごく一般的な「◯ニス」は寒さに弱い)、寒い冬の間は芋の部分が土から回収され、保管庫で厳重に保存される。春がくればまた芋は畑に植えられる。そして冬がくればまた土から回収される。こんなことで三年間をかけてこんにゃく芋はじっくりと育てられる。

 

 人間の場合、生まれて三年もすれば幼稚園ないしは保育園に入り、あのいやらしくも必要不可欠な社会性を身につけ始めることになるが(それは人生の悲劇の幕開けをも同時に意味する)、こんにゃく芋の場合は三年も経てば立派な大人である。そして死を迎える。こんにゃく芋は畑から収穫されてまずマイナス20℃の冷凍庫で保存される。寒さに弱いために手厚くケアを受けていたこんにゃく芋は、その生の終幕において人間から裏切りともとれる手酷い仕打ちを受けることになるのだ。しかるのちにこんにゃく芋は工場へ送られる。機械で細かく切り刻まれ、粉砕され、(のり)状に加工される。前工業化社会はある意味で幸せな社会であった。こんにゃくを切り刻み、砕くだけの仕事をしていれば一生を安泰に過ごせる人々が確かに存在したからである。ただし前工業化社会においてはスマホも麻酔も抗生物質も存在しない。やはり現代の社会の方が住みやすいといえるかもしれない。糊状になったこんにゃく芋には水酸化カルシウム水溶液、炭酸ソーダなどが加えられ、茹でられ、そして固められる。固められたものが適宜カットされ、水と一緒にフィルムにパッキングされ、こうして私たちがスーパーマーケットなどの店頭で目にするこんにゃくが生まれることになる。

 

 かように面倒くさい製法によって生み出されるこんにゃくであるが、このこんにゃくが戦略物資として国家の行く末を左右した時期があったことはあまり知られていない。太平洋戦争末期の1944年11月から、日本軍はアメリカ本土を直接攻撃できる兵器としていわゆる「風船爆弾」を開発し、実戦に投入した。小型の爆弾を吊るした風船を偏西風に乗せ、北太平洋を横断させ、アメリカ西海岸を攻撃するのである。むろん、直径10メートルもの巨大風船とはいえ、搭載できる爆弾などたかが知れた量である。日本軍は物質的な損害よりもアメリカに対する心理的な効果を期待した。つまり嫌がらせである。そしてそれはある程度成功したのであるが、重要なのはその風船が和紙とこんにゃくによって作られていたことである。こんにゃくは和紙と和紙を貼り合わせる糊として用いられたのであった。日本軍が投入した風船爆弾はおよそ9300発、その分だけ本来ならば日本国民の胃の腑に収まるはずであったこんにゃくが兵器として使われたことになる。アメリカへの嫌がらせとして。

 

 そのこんにゃくが今や、「女子だらだら部」の畳にとって代わっていた。部長である崋山危懼子が4月に各方面と交渉し、少ない部費をお嬢様らしい鷹揚さで「えいやっ!」と費やして交換した、青々とした立派な新しい畳12枚は現在、どういう理由によるものかすべてこんにゃくにとって代わられていたのである。こんにゃくは薄暗い部屋の中でそのプルプルとした表面を怪しく輝かせていた。

 

「嫌がらせですわ!」 危懼子は怒りを爆発させて叫んだ。「風船爆弾しかり、こんにゃくほど嫌がらせ効果のあるものはありません! これは陰謀(プロット)です! 何者かによって私たちの神聖なる『女子だらだら部』の部室が攻撃を受けたのですわ! 畳とこんにゃくを交換するという卑劣極まりない手段によって!」 マルタが言った。「私、ポーランド人だからこんにゃくについてはまったく詳しくないんだけど、こんにゃくってそんなに嫌がらせ効果の高い食べ物なの?」 命賭が答えた。「こんにゃくはこんにゃくだよぉ。でも『こんにゃく』にどこか脱力させる要素があるのは確かかも。昔のどっかの文豪は常々『俺は毎日コニャックを買えるほど儲けている』と豪語してたらしいんだけど、実際は『こんにゃく』だったんだって」「えっ? コニャック(cognac)とこんにゃくが……えっ? なに?」 マルタは混乱した。双子が言った。「ただのダジャレ」

 

「それにしても誰がこんなことをしたんだ」とメイドが言った。メイドはこんにゃくに触れた。こんにゃくは小気味良いほどに弾力があった。次にメイドは自分の大きなノーブラの胸を揉んだ。そして言った。「うむ、確かにこんにゃくだ。それもけっこう高い感じのこんにゃくだ。私の胸の柔らかさには負けるが、そもそもこんにゃくは柔らかさを競う食べ物ではない」 メイドは部室の電灯のスイッチを押した。パキパキと音を立てて蛍光灯が白い光を発した。いざ光が灯ってみると、こんにゃくはますますこんにゃくだった。意外なことにこんにゃくは黒くなく、白かった。

 

 マルタが「あっ」と声を発した。「そういえば、私、ポズナンのショッピングモールでこんにゃくを見たことがあるわ。『日本のダイエット食品』とかいう触れ込みで売ってた。そのこんにゃくも白かった気がする。ちょうどこんな色をしていたわ」 マルタは急に声のトーンを落とした。「ああ、ポーランドに帰りたい……静かで知的な雰囲気のアダム・ミツキェヴィチ大学の構内、私と同じ名前の湖、かわいい路面電車……」 ぶつぶつとポーランド語で何かを呟き始めたマルタに対して、双子が気の毒そうに言った。「ポーランドの女の子が」「日本のこんにゃくで故国を思い出す」「哀れなり」

 

 ようやく落ち着きを取り戻した危懼子が言った。「誰がこんなことをしたのか、というのはもちろん問題ですわ。犯人が判明したらたっぷりとこんにゃくを食らわせてやります。ええ、そいつの臓器がすべてこんにゃくに置き換わるまでこんにゃくを食べさせてやりますとも。しかしそれ以上に大事なことがあります」 命賭が問いを投げかけた。「畳がこんにゃくになるって割と異常事態だけど、それ以上に大切なことってあるの?」 危懼子は頷いた。「ええ、ありますわ。それはちょうど5分前に下校時刻が過ぎたということです。つまり本日の『女子だらだら部』の活動はこれできっぱりと終了して、みんな直ちにおうちに帰らなければなりません。我が『女子だらだら部』は理想的なだらだらスタイルを追求する部活動、下校時刻を超えてまで活動を継続することは部是(ぶぜ)に反します。いえ、部是(ぶぜ)という日本語があるのかは知りませんが……」 命賭が頷いた。「ああ、そうだよねぇ。じゃあ、帰るなら荷物を持って来ないと」 命賭は部屋の片隅に置かれている五人の荷物を見た。それはちょうど彼女たちが現在立っている入口とは正反対の場所にあった。

 

「荷物をとるなら、このこんにゃくの上を歩いていかないといけないけど」 命賭が苦々しげな口調で言った。「やだなぁ、こんにゃくを踏むのは。なんか、食べ物を粗末にしているみたいで」 危懼子も同意した。「そうですわね。私も嫌ですわ。私、テレビでも食べ物を粗末にする系の番組は許せませんの」 命賭が言った。「でも最近は放送倫理にひっかかるからそういうあからさまに食べ物を粗末にする番組はなくなったって聞いたことがあるよ。パイ投げのパイだって全部フェイクのものを使ってるらしいし」 双子が言った。「パイのクリームは」「シェービングフォームで代用されている」 メイドが言った。「私はメイドゆえ犯罪以外ならばどんな汚れ仕事でもやるぞ。ご命令があればこのこんにゃくの海を渡って五人の荷物をとってこよう」

 

「いえ、ちょっと待ってください」 わずか一日のうちに生きたカタツムリから黄金の殻へ、黄金の殻からネックレスへと二回も転身を遂げた元黄金のカタツムリのネックレスが、危懼子の胸の上から声を発した。「こういう時こそ私の力を用いるべきです」 マルタが言った。「あなたの力を、どういうふうに使うの?」 ネックレスは言った。「私の力ならば、こんにゃくを元通りに畳に戻す程度のことは充分に可能です。なにせ私は神ですから。海を割ったり、雷を降らせたり、純正九蓮宝燈(じゅんせいちゅうれんぽうとう)をあがったり、ハゲている人のハゲをふさふさにすることはできませんが、まあこんにゃくを畳に戻すくらいなら割と容易にできるでしょう。私は神なので」 マルタが言った。「『イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない』」双子が補足した。「『マタイ福音書』第19章第26節」 命賭が明るい声で言った。「じゃあさっそくやってもらえば良いじゃん!」 危懼子も頷いた。「そういうことならばやってもらいましょう。」

 

「さっそくやりましょう。ていうか、もうやります。やりました」 ネックレスがそう言った瞬間、部室の床全体が黄金色に輝いた。輝きは数秒間続いた。終わった時には、美しく規則正しい畳目模様が目の前に広がっていた。「素晴らしいですわ!」と危懼子が叫んだ。「これぞまさに神の力です! 今日は黄金のカタツムリ様が生きたままマイマイカブリ様に肉を啜られたり、マイマイカブリ様がアメフトボールに潰されたり、光ったり、ノーパンメイドが出現したりといろいろなことが起こりましたが、これほど感動したのは初めてですわ!」「ノーパンではない、私はノーブラでもある」とメイドが口を挟んだ。ネックレスはどことなく誇らしげな口調で言った。「ああ、今、あなたから感謝と崇拝の念が私に向かって流れ込んできているのを感じます。神としてこのような気持ちを味わうのは久しぶりです」

 

「これで心置きなく部室に入れるね」と命賭が言った。六人は靴を脱いで部室に上がった。五人は荷物を手にした。マルタは座卓の上に置いてあった大きな聖書を丁寧に革のケースに収めた。「この聖書までこんにゃくになってしまっていたら、私きっと立ち直れなかったと思うわ。これ、日本に行く時にお母さんが私にくれた大事なものなの」 彼女は革のケースを愛おしそうに撫でながら言った。

 

「じゃあ、それをこんにゃくにしてあげましょうか?」 突然部室に響いたその声に、六人全員がはっとして顔を上げた。声は部室の入口から発せられていた。そこには女が一人立っていた。「まったく、予想外だったわ。こんなにもあっけなくこんにゃくを元通りにされるなんて……」

 

 女は魔女だった。女は(つば)の広い大きな黒い三角帽子、いわゆる魔女帽子を被っており、これまたいかにもといった感じの魔女のローブを纏っていた。手には長く太い杖を持っている。人も殴り殺せそうな杖だった。しかし魔女は人を殴らない。魔女は魔法を使うものである。杖で人を殴る魔女がいるとすればそれはおそらく魔女ではなく、単なる魔女のコスプレをした撲殺者であろう。

 

「こんにゃくを舐めるんじゃないわよ!」 魔女が叫んだ。「特に下茹でする前のこんにゃくは!」 魔女はなおも叫んだ。「ちなみにこの『舐める』はダブルミーニングというやつよ!」

 

「ノーパンメイドの次はこんにゃくの魔女なの?」 と命賭が呆れたように言った。「出来の悪い学園もののアニメ見てるような気がしてきたよぉ」 メイドが言った。「魔女の次はなんだろうか。ナース(看護師)だろうか?」 命賭は首を振った。「学園ものにナースはちょっと合わないんじゃない? あり得るのは武士娘(ぶしこ)とかだよきっと。ほら、うちの高校には剣道部も弓道部もあるし」 危懼子が言った。「武士娘もあり得ますが、宇宙人もあり得ます。宇宙人が女子高校生に化けているというのはもはや鉄板ネタです。そういえば私のおばあさまもおっしゃっていました。邪悪な宇宙の統一意志を唯一神として奉じるプロキシマ星系第五惑星人はメイドだけではなく女子高校生にも変身する能力があって……」「そこ! だらだらお喋りをしない!」 危懼子の言葉は魔女の叫びによって中断させられた。

 

 魔女は咳ばらいをしたあとにまた口を開いた。「崋山危懼子ならびにその他女子部員ら、あとメイド。よくも私をこけにしてくれましたわね! 私の必殺のこんにゃく魔法を無効化するとは!」 底冷えするような魔女の声は、しかしどこか舌っ足らずだった。いうなればロリっぽかった。魔女の背丈もその幼い声に見合ったものだった。魔女は小さかった。身長145センチの命賭と良い勝負ができそうだった。しかし命賭は小さいながらも出るところは出ており、引っ込むところは引っ込んでいるが、その魔女の体格はゆったりとしたローブのおかげで判然としなかった。「こけにするという日本語の『こけ』は(こけ)ではなく」と桜子が言った。薫子が続いた。「『こけおどし』の『虚仮(こけ)』」「つまり『うそいつわり』のこと」「ここ、テストに出ます」「ああ、そうなの……」 マルタは手帳を開かなかった。マルタは疲れていた。

 

「こんにゃくにしちまうぞ!」 突然、魔女は吼えた。六人の少女はびくりと体を震わせた。「『女子だらだら部』から『女子ぷるぷる部』に改名させてやる!」 魔女は杖を掲げ、六人に向けた。大きな鍔の下に隠れていた顔が明らかになった。顔は幼いながらも可愛らしかった。掲げられた杖の切っ先は明らかに危懼子に向いていた。「ぐぬおおお、魔力よ集まれ……」 魔女の掛け声はカッコ悪かった。双子が呟いた。「ひどい掛け声だ」 魔女の体から紫色の光が発せられた。紫色の光は杖に集まり、先端へとのぼっていった。先端で膨大なエネルギーが蓄積された。杖の先端はビカビカと光った。「やばそう」と双子が言った。

 

 しかし魔女は、数秒間杖を保持して、力なく杖を下げた。「お、重い……この杖やっぱり重いわ……」 魔女にはまったく筋力がなかった。おそらくポテトチップスの袋を開けるのにも苦労するほどだろう。メイドが言った。「筋トレした方が良い。プランクとか」 しかし賛同する者は誰もいなかった。

 

 危懼子が言った。「随分と私たちに、いえ、私に対して強い恨みの念を抱いていらっしゃるようですけど、あなたは何者ですか? 恨みがあるならばそれはそれで構いません。お嬢様というものは存在するだけで人から恨みを買うものですから。しかし初対面の人に向かって名前を名乗らないというのは淑女(レディ)にふさわしい態度ではありません」

 

「初対面じゃないわ!」 と魔女は叫んだ。「私はあなたのことをよく知っているし、あなたも私のことをよく知っているはずよ! よく見て、思い出しなさい!」 魔女はぐんと胸を張った。その胸は平坦だった。マルタはその平坦さを見て、祖国ポーランドの広々とした平原を思い出した。そもそもポーランドはポーランド語で「ポルスカ」というが、この「ポルスカ」という言葉は平原を意味する「ポーレ」から由来しているという。「おうちに帰りたい」とマルタは言った。「あの魔女っ子を見ていたらおうちに帰りたくなった。おうちに帰りたい」 マルタの声は哀切に満ちていた。

 

 双子が歌を歌い始めた。「ほら、そこ、黒い川の流れのそばで♪」「若いコサックが馬に乗っている♪」「彼は悲しげに女の子へ♪」「そしてもっと悲しげにウクライナへ♪」「別れを告げている♪」「へい、へい、へい、ハヤブサよ!♪」「山も、森も、谷も飛んで越えてゆけ♪」「鳴らせ、鳴らせ、鳴らせ、小さな鈴を♪」「草原のひばりよ、鈴を鳴らせ♪」 マルタが大きな声で叫んだ。「ああ、『Hej Sokoły』(おい、ハヤブサよ)じゃない! 懐かしい歌! ますますおうちに帰りたくなってきた……」 双子が美しい声で歌う祖国の愛唱歌はマルタの胸を刺すようだった。ちなみに双子が歌っている歌詞は英語からの重訳であるため正確であるかどうかは分からない。信じてはならない。

 

 双子が歌っている最中にも、危懼子はその注意力と観察力とを働かせていた。やがて彼女は一つの結論に達したようだったが、それでもなお彼女は半信半疑という(てい)だった。「まさか、あなた……」 危懼子はじっと小さな魔女を見つめて言った。「マジの(まんじ)マジ子さん?」

 

間地小路(まじのこうじ)真蒔子(まじこ)よ! お嬢様を自称するなら人の名前くらい覚えなさい!」 魔女は悔しそうに地団駄を踏んだ。「本当に人を喰った奴だわ、あんたって女は!」 命賭が危懼子に言った。「ねえねえ、このマジノ線マジ子さんってどちら様? 危懼子ちゃんの知り合い?」 双子が言った。「なんちゃら小路(こうじ)という名前は」「旧華族に多い」「萬里小路(までのこうじ)とか」「武者小路(むしゃのこうじ)とか」「勘解由小路(かでのこうじ)とか」 そこまで言ってから桜子と薫子は顔を見合わせて言った。「でもマジノ小路というのは聞いたことがない」

 

「この女の子はマジの(まんじ)……ではなく、間地小路(まじのこうじ)真蒔子(まじこ)様ですわ」と危懼子が言った。「双子がおっしゃる通り、旧華族の家の方ですの。私と同じく、いわゆるお嬢様と呼ばれる存在ですわ。私と彼女とは『三鷹市立病葉(わくらば)幼稚園』の頃からの付き合いです」「知らなかった。危懼子ちゃんとは小学校の頃からの付き合いだけど、この子のことは今初めて知ったよ」と命賭が言った。命賭は魔女に向かって頭を下げた。「はじめまして、間地小路さん。私は馬場命賭。よろしくね」 魔女も恭しく頭を下げた。「よろしくですわ」 その態度に命賭は感心した。「立派なお嬢様だねぇ」

 

 危懼子は言った。「この方、小さいのにやたらと威勢が良く、ことあるごとに私にバトルを挑んで来るのですわ。そしてそのたびに私に負かされて、泣いて家に帰っていきますの。でもまさか同じこの西方浄土高校に通っていたなんて……」 魔女はまた胸を張った。やはりその胸は平坦だった。「今年の四月に入学してきたのよ! 今年から私は高校生! あなた、私があなたより学年が一個下なの忘れたの?」 魔女の声は憤りに満ちていた。

 

 危懼子はこともなげに言った。「そういえばそうでしたわね。それで、どう釈明するおつもりかしら?」 魔女は冷ややかな視線を返した。そこには敵意と嘲りとが含まれていた。「釈明? なんのことかしら?」 魔女に対して危懼子は冷静な声で言った。「私たちの神聖なる部室の畳をこんにゃくに変えたことに対する釈明ですわ。内容如何(いかん)によってはあなたをこんにゃく漬けの刑に処しますから、よく考えてお話してくださいまし」

 

 マルタが言った。「こんにゃく漬けの刑ってなに? 東洋的な前近代性剥き出しの刑罰の一種?」 危懼子が答えた。「この子のご実家の住所は分かっております。敵地の情報は筒抜けですわ。お嬢様としての資金力を活かしてGVW(車両総重量)20トンクラスのダンプカー一杯分のこんにゃくを買って、この子のお部屋にこんにゃくを流し込んでやりますの」 ちなみにGVW(車両総重量)20トンクラスのダンプカー一杯分はおよそ9トンに相当する。一般的なこんにゃくは250グラムでだいたい85円する。9トンは900万グラムである。つまりこんにゃく9トンはだいたい306万円である。命賭が言った。「食べ物を粗末にするのは嫌いだったんじゃないの、部長?」 危懼子が小声で言った。「もちろん、実際にそんなことはしませんわ。これは言語による圧力というものです。本当に部屋に流し込むならこんにゃくではなく生コンクリにしますわ」 ちなみに生コンクリは種類にもよるが、だいたい9トンで6万円ほどである。こんにゃくよりははるかに安上がりである。ここらへんに危懼子のお嬢様としての敏感な経済感覚があらわれている。

 

 魔女は勝ち誇ったような顔をした。「ぶつぶつと何を言っているのか分からないけど、そうね。あなたたちをこんにゃくにする前に、私があなたたちをこんにゃくにする理由を教えてあげるわ。こんにゃくとなってこの世の終わりまでこんにゃくのまま過ごす間、そのこんにゃくの脳みその中で私の話を反芻して後悔と絶望の念を増幅させるためにね!」 双子が言った。「こんにゃくの賞味期限は」「だいたい30日から90日」「この世の終わりまでは到底もたない」「でも魔女の魔法によるこんにゃくならばあるいは」 マルタが(たしな)めた。「しっ、話を聞きましょう」

 

「そう、あれは今日の放課後のことだったわ」 魔女はうっとりとした表情を浮かべた。「これはまた長くなりそうだねぇ」と命賭が言った。「私たち、もう下校時刻もとっくに過ぎてるし、そろそろ帰りたいんだけど」 魔女は腕時計を見た。「そうね、確かに下校時刻ね。どうしたものかしら。あまり帰りが遅くなるとお父さんとお母さんが心配するし……」 魔女は考え込んだ。鍔広の帽子を傾かせ、じっと思考に耽っている。

 

「しめた。ああなった真蒔子(まじこ)様はなかなか現世(うつしよ)へと意識が戻ってきませんの。今のうちに部室を出ましょう」 危懼子がそう言うと、みんなが頷いた。六人は荷物を持って魔女のすぐそばを通り抜けた。

 

 先頭を行くメイドが、ドアのノブに手をかけたその瞬間だった。

 

「馬鹿ね、素通りなんてさせないわ! 隙あり!」

 

 紫色の閃光が走った。魔女はメイドを狙ったが筋力不足のため杖の狙いが保持できず、当たらなかった。放たれた魔力はドアに直撃し、ドアを瞬時にして分厚く大きな白いこんにゃくに変えた。

 

 メイドが頭をかきながら言った。「困ったな。これまでの16年の短い人生で多くのドアを開け閉めしてきたが、こんにゃくのドアは初めて見る。これじゃ外に出られないぞ」

 

 魔女が改めてうっとりとした表情を浮かべて言った。「そう、あれは今日の放課後のことだったわ……」 命賭が言った。「無理やり話を再開したよこの子」 危懼子が諦めたように言った。「これは話を聞かないといけない感じですわね……」

 

 双子が締めくくるように言った。「こんにゃくの」「裏と表のあやしさを」「歳晩のよる」「誰か見ている」「岡部桂一郎」

 

「おうちにかえりたい」 マルタは嘆いた。

 

(つづく)




次回もお楽しみに!(字数が減らない……)


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第10話 こんにゃくの先物取引だけはあきまへん

「実を言うと、私はそんなにこんにゃくが好きじゃないんだ」とメイドが言った。「というより、大嫌いだと言っても良い。こんにゃく農家だとか、こんにゃく製造業者だとか、こんにゃく愛好家には大変申し訳ないんだが……どうしてこの世にこんにゃくという食べ物が存在するのか、まったく意味が分からない」 汚穢(おわい)にまみれた外界と神聖なる女子だらだら部部室とを隔てていた健気なドアは今や白いこんにゃくになっていた。メイドはそれを指先で撫でながら言った。「おでんと聞くとこんにゃくを連想してしまってあまりありがたい気持ちがしないし、鍋とかすき焼きも同じ意味で好きではない。『今晩はすき焼きよ』と母が嬉しそうに言って家族全員が喜んでいても、私としては『ああ、またこんにゃくを食べないといけないんだな』と思って暗い気持ちになってしまう。他にどんなに美味しい具があってもこんにゃくとかしらたきのせいで帳消しになる。父が『こんにゃくは体に良いぞ。美容にも良いぞ』と言ってもまったく信用できない」 メイドは溜息をついて言った。「歯ごたえが嫌なんだ。歯ごたえが。およそ食べ物らしくない歯ごたえだから、脳が拒否反応を起こす。どんなに体に良いと言われても、嗜好(しこう)が合っていなかったらどうにもならない」

 

 メイドの言っていることはある程度真実であろうと思われる。人間はただ健康のことを考えて食べ物を選び、食べるのではない。そうではなく、食べ物はまさに嗜好によって選ばれ、食べられるのである。もし今、全人類を救う栄養の神が現れて、「毎日こんにゃくを500グラム食べれば人類の寿命は10年延びるであろう」と託宣(たくせん)を下したとしても、おそらく人類はこんにゃくを食べないだろう。それどころか寿命が縮まる可能性すらある。

 

 命賭が言った。「私はこんにゃく好きだよぉ。おでんにこんにゃくが入ってないとおでんって感じがしないし。コンビニでおでんを買う時は必ずこんにゃくも買うけどなぁ」 双子がうんうんと頷きながら言った。「薫子も私もこんにゃくが好き」「およそ食べ物らしくない歯ごたえだからこそ好き」「食べ物らしくない食べ物だからこそ人類の叡智が感じられる」「あなたたち、食べ物を食べる時にいちいち人類の叡智を感じているの……?」 マルタの疲れた声を余所(よそ)に、メイドは頭をかきながら言った。「そもそもこんにゃくを作るには大変な手間がかかるというではないか。切ったり砕いたり水酸化カルシウム水溶液とか炭酸ソーダを加えたり煮たり固めたり。だが、そんなに手間をかけてまで食べるべきものなのか、こんにゃくというものは? 私がもし首相になったら鍋物にこんにゃくを入れることを禁止する法案を提出するぞ」 危懼子が言った。「あなたがこんにゃくが嫌いなのはよく分かりました。ですが世の中にはちょうどあなたを正反対にしたくらいにこんにゃくを好む人がいます。かくいう私もそうです。あなたが首相になって鍋物にこんにゃくを入れることを禁止する法案を出したら、私はあらゆる手段を用いて倒閣運動をするでしょう。そもそも私は三歳の時に初めてこんにゃくの味噌田楽を食べ、それ以来……」

 

「コラァ! だらだらとこんにゃく談義をしているんじゃないわよ! 人の話を聞きなさい!」 魔女が吼えた。魔女の声は大きかった。声の振動を受けてドアのこんにゃくがおぞましくぷるぷると震えた。「うわっ」とマルタが言った。ポーランドにいたならばこのような光景を見ずに済んだであろうに、なぜ私はいま日本にいて、巨大なこんにゃくがぷるぷると震えるのを見なければならないのだろうか。マルタはぼんやりと思った。いや、そもそも「なぜ」と考えるのが良くないのかもしれない。この世のすべてのものに神の意志が込められているのならば、このこんにゃくもまた神の意志の表れ、神の賜物であるのかもしれない。マルタはそう考えた。マルタは疲れていて、その思考は茫洋としていた。

 

 マルタは呟いた。「『わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない』」 双子が補足した。「『ヨハネ福音書』第6章第48節から第50節」 マルタが続けて言った。「もしこのこんにゃくが天から下ってきたものならば、私は食べるわ」 メイドが言った。「もし荒野を彷徨っている時に『マナ』という名の『マンナン(こんにゃく)』が降ってきたなら」 メイドは体を震わせた。「私はきっと飢え死するか、奴隷に戻っても良いからエジプトに逃げ帰るだろう」

 

「私もこんにゃくが天から降ってきたなら神と天を呪うわ」と魔女が言った。「ああ、こんにゃくなんて嫌いよ。大嫌い」 魔女はうんざりとした声をあげた。魔女は杖の匂いを嗅いだ。そして吼えた。「畜生(ちくしょう)め、こんにゃくくせぇんだよ!」 弾かれたように六人の少女は魔女の方へ顔を向けた。危懼子が言った。「あら、これほどまでにこんにゃく魔法をお使いになられるものですから、私はてっきりあなたはこんにゃくが大好きなものだと思っていましたわ」 その言葉にはある種の含みがあったが、危懼子以外誰もそれに気づかなかった。

 

 魔女は首を大きく左右に振った。「そう考えるのが似非(えせ)お嬢様の浅はかさよ、崋山危懼子。嫌がらせをする時に自分の好きなものを使う阿呆(アホウ)がどこにいますか。自分にとって嫌なものだからこそきっと相手も嫌がるだろうという確信が生まれる。その確信がないと嫌がらせなんてできやしないわ」 しかし魔女は首を傾げた。「あれ? でもちょっと待って。それとは逆に、相手の好きなものだからこそ嫌がらせになるという考え方もできるかもしれない。そう、芥川龍之介の『芋粥』なんかその典型例よ。相手の大好きなもの、欲しくてたまらないものを、相手が嫌になるまで与えてやる。それが最高の嫌がらせになるのだと藤原利仁(ふじわらのとしひと)はよく理解していた。食べきれないほどの芋粥を見せつけて、いくらでも食べて良いと言ってやる。そうよ、あれは嫌がらせの理想的な形よ! 藤原利仁は芋粥そのものによって五位(ごい)を虐めたのではない。そうではなくて、五位が心の中で大切に保っていた『飽きるまで芋粥を食べてみたい』というささやかな望みを、望んでも望み得ないほどの膨大な芋粥という圧倒的物質(ちから)で破壊した。そうやって五位の素朴な精神を蹂躙したの。相手の精神を破壊する。そう、それこそ嫌がらせの本質よ。分かる?」 一気にそこまで言い放ってから、魔女はしばらく呆けたような顔をした。そして呆けたような顔をしたまま言った。「えっと、なんの話をしていたんだっけ?」

 

 命賭が言った。「マジノ小路マジ子ちゃんは直前まで『そう、あれは今日の放課後のことだったわ……』と言っていたよ」「そうそう、そうだったわ!」 魔女は一つ咳払いをした。そしてまた口を開いた。「そう、あれは今日の放課後のことだったわ……」 危懼子が言った。「こうなったらとことんまで話を聞いてあげることにしましょうか」 危懼子の首から下がっているネックレスが言った。「別にその必要もないのではありませんか? 私の力があればこのドアをまた元通りにすることは可能です。私が力を振るうのにリチャージ(充電)する必要はありません。すぐまた力を行使することはできます。なにせ私は神ですからね。まあ、その、何度も何度もこんにゃくから元通りにするためだけに力を使うのは気が進みませんが……だって、こんにゃくですよ」

 

 危懼子は静かに首を左右に振った。「ここで元通りにしてもきっと真蒔子(まじこ)様はまた飽きもせず馬鹿の一つ覚えみたいにドアをこんにゃくにするでしょう。ここは言いたいだけ言わせてやります。ほら、立てこもり犯の言うことを警察が辛抱強く聞いてやっているでしょう? あれと同じです。喋れば喋るほど人間というものは力を消耗します。真蒔子(まじこ)様もきっと言いたいことを言ったら疲れるはずです。そこで適当に抑え込むなり腕挫手固(うでひしぎてがため)をするなりして無力化しましょう」 メイドが言った。「腕挫手固なら私に任せてくれ。私は柔道一級なんだ」 双子が言った。「柔道一級の帯の色は」「茶色」 マルタが言った。「それって強いの?」 命賭が答えた。「白帯よりは強いよぉ」

 

 魔女は話を続けた。「そう、あれは今日の放課後のことだったわ……」 そのように魔女が言うのは本日四回目であった。女子だらだら部の部員五人とメイドは畳の上に座った。全員がきちんと正座をしていた。「私は入学以来の数カ月間、ある書類を作成するために持てるすべての知力と気力を振り絞っていた。それを今日、ついに職員室へ提出しに行ったのよ。それは新しい部活動の設立(ねがい)だったわ。その部活の名前は『女子びしばし部』。ああ、なんて麗しく、力強い名前なんでしょう。『女子びしばし部』! 素晴らしい!」

 

「うげっ」と危懼子がお嬢様らしからぬ声をあげた。「なんて酷い、聞くに()えない名前なんでしょう。『女子びしばし部』なんて! 品性の欠片もない!」 命賭が危懼子に注意を促した。「しーっ、危懼子ちゃん! 犯人を刺激するようなことを言ったら駄目だよ」 マルタが言った。「日本語のオノマトペって外国人の学習者にとっては鬼門なのよ。『びしばし』っていうの、私も意味としては『容赦なく』とか『力いっぱいに』って理解できるけど、感覚としては掴みづらいわ」 メイドがマルタに言った。「そうだな。それじゃあ身近な光景を思い浮かべれば良い。『びしばし』は馬を鞭で叩くというようなイメージだ。鞭で『びしっ』とか『バシッ』とか。そういう感じだ。まあ100年前はいざ知らず、現代の世の中においては馬を鞭で叩くのは身近なことではないが」 命賭が言った。「競馬があるよぉ、競馬が」

 

「話を続けるわ、女子だらだら部とメイドたち」 魔女は話を妨害されて怒りを覚えていたが、その口調は平静だった。「設立の趣意はこうよ。『この学校にいるありとあらゆるびしばし系女子を勧誘し、びしばしと鍛え上げ、よってもって全校生徒の模範、全都立高校生の模範となるべき人材を養成することを目的とした部活動』」「うげっ」と危懼子がお嬢様らしからぬ声をあげた。「カスみてぇな部活動ですわ! 考えただけで怖気(おぞけ)立ちますわ! ほら見て命賭様、ほらここ腕にぶわーって、ぶわーって鳥肌(さぶいぼ)が立っていますわ!」「しーっ! お嬢様、しーっ!」 メイドが危懼子を(なだ)めた。

 

 魔女は話を続けた。「私はこの高校に入ってからイラついていた。あまりにもみんなだらけきっている! 授業はまともに聞かないし、制服は着崩しているし、上履きのかかとは踏んでいるし、掃除はロクにしないし……まったく、だらけきっているわ! 私はそれが許せなかった。私は旧華族間地小路(まじのこうじ)家のお嬢様、お嬢様である私が学んでいる学校がこんな体たらくでは、私のお嬢様としての体面(たいめん)に関わる! 私は入学してから早々にこの学校の、牛の小便(ションベン)のようにぬるい空気を変えてやろうと決意したわ。実際のところ、牛の小便(ションベン)がどれくらいぬるいのかは知らないけど」

 

「それで、そのカスみてぇな部活動の設立(ねがい)はどうなりましたの? どうせ却下されたんでしょうけど」 と危懼子が挑発するように言った。「そのウツボカズラ(食虫植物)みてぇな口を閉じなさい! こんにゃくにしちまうぞ!」 魔女は危懼子に杖を向けた。危懼子は黙った。魔女は話を続けた。「悔しいことに、設立(ねがい)は却下されたわ。先生からはこう言われてしまった。『間地小路(まじのこうじ)さん、先生はあなたが毎日マジで頑張っているのを知っているわ。あなたの願いの真剣(マジ)さもよく分かる。でもね、あなた自身が頑張(マジ)っているからといって、あなた以外のすべての人も頑張(マジ)るべきだということにはならないのよ。世の中は『びしばし(マジマジ)』だけでは上手くいかないわ。いや、むしろ、あなたはもっと『だらだら(ノンマジ)』した方が良いかもしれないわね。ああ、先生ももっとだらだら(ノンマジ)したい……』 そう言って先生は私にある部活動を紹介したわ。その部活動はこともあろうに、『女子だらだら部』という名前だった! しかも部長の名前には『崋山危懼子』とあった! 私は憤激したわ! 憤激したままの勢いで私はこの文化部棟二階へやってきた。崋山危懼子に対して、『女子だらだら部』とかいうふざけた名前の部活を創設したその意図を(ただ)し、できることなら『女子びしばし部』に改名させてやろうと思った。でも、部室には誰もいなかったわ。私は愚弄されたように感じた。憤激の念が高まり、血圧も上がって、ちょっと意識が遠くなったと思ったら目の前が光った」

 

「例の光ですわね」と危懼子が言った。魔女は話を続けた。「私は『うわっ、まぶし!』と言った。光はあまりにも強かった。しばらく目を(こす)っていたら、私はいつの間にか自分が魔女になっていることに気が付いた。上から下まで私は魔女そのものになっていたわ。魔女そのものになっていて、こんにゃくの魔法を使うことができるようになっていた。これはチャンスだと思ったわ。だから初めて使う魔法でこの部室の畳を全部こんにゃくに変えてやったのよ。素晴らしい嫌がらせになると思って。あまりにも凄まじいこんにゃくっぷりには私も驚いたわ。ちなみに部室の鍵は魔法で開けた。私は魔女だから開錠くらい魔法でお手の物よ」「なんでまた嫌がらせとしてこんにゃくを選択したのよ」とマルタが口を挟んだ。

 

 魔女が答える前に、危懼子が声を発した。「それはこの子がこんにゃくを憎んでいるからですわ。この子のお家、間地小路(まじのこうじ)家は四代前、だいたい明治時代の頃に、こんにゃく芋の先物取引に手を出して莫大な経済的損失を出しましたの。あまりにもすさまじい入れ込みようで、明治天皇からは『こんにゃくの先物取引だけはあきまへん』と優渥(ゆうあく)なるお言葉を賜ったのにもかかわらず、この方のひいおじいさまはこんにゃく芋に熱中した。ロシアとの戦争で大量のこんにゃく芋が必要になるからこれで大儲けできるとかなんとか言って。本当にこんにゃく芋が戦争で必要になったのはそれから40年後でしたけど。かくして間地小路(まじのこうじ)のひいおじいさまは破産寸前にまで追い込まれましたわ。そしてそれ以来間地小路(まじのこうじ)家では『こんにゃくの先物取引だけはあきまへん』という言葉が家訓として伝えられるようになりましたの」 命賭が感心したように言った。「詳しいんだねぇ」 危懼子が得意げに答えた。「この子のことならばだいたいなんでも知っていますわ。好きなご飯のおかずは塩昆布で、苦手な教科は音楽。音痴ですからね。好きな歌人は斎藤茂吉。『ただひとつ 惜しみておきし 白桃(しらもも)の ゆたけきを(われ)は 食ひをはりけり』」 双子が補足した。「歌集『白桃』」「茂吉は食いしん坊」

 

「そう、私はこの子のことならばなんでも知っていますの」と危懼子は改めて言った。自分が絶対的なまでに優位にあると確信している口調だった。「幼稚園の頃からの付き合いですから。手の内を知り尽くしておりますから、じゃんけんだって無敗ですわ」 魔女は憤然として言った。「歴史を改竄(かいざん)するな! 私だってあなたに一回か二回くらいはじゃんけんで勝ったことがあるわよ!」 危懼子はこともなげに言った。「あら、そうだったかしら? じゃあ、ほら。じゃんけん」 そう言うと危懼子はじゃんけんを繰り出した。魔女が応じた。「ポンッ!」 結果は危懼子がパーで魔女がグーだった。危懼子が笑った。「おほほほ、ほら見なさい! この子、せっかちな性格をしているのに気が小さいから、じゃんけんの時は緊張して必ず手を握り締めますの。だからパーを出せば必勝ですわ。(エイプ)でもメイドでも勝てますわ!」「ぐぬぬ……」 魔女は拳を握り締めたまま悔しさに震えた。メイドが声を出した。「(エイプ)でもメイドでも勝てるのか。それなら、ほら、じゃんけん」「ポンッ!」 魔女はメイドに応じた。結果はメイドがパーで魔女がグーだった。メイドは深く頷いた。「お嬢様のおっしゃるとおりだ。これなら誰でも勝てる」

 

「それなら、私も……」とマルタが声をあげた。マルタはこれまでじゃんけんという日本の珍妙な勝負事で勝ったことがなかった。だいたい、(パー)(グー)に勝つのはおかしいではないか。マルタはいつもそう考えていた。石ならば容易に紙を破ることができる。石を包むことができるゆえに紙は石に勝てるというのはいかにも日本的な発想のように彼女には感じられた。そんなことをじゃんけんのたびに考えてしまうがために彼女はいつも手を出すのが遅れ、そのために負けてしまうのであった。しかしこの小さい魔女にならばあるいは勝てるかもしれない。マルタはまだ見ぬ勝利の味を予想してその表情にうっすらと笑みを浮かべた。

 

 その直後であった。いきなり魔女がキレた。「ふざけるのも大概にしなさい!」 魔女は素早く杖を構えて魔力を放出した。こんにゃく芋の花とそっくり同じ色をした、あまり見る者に愉快な気持ちを催させない紫がかった海老茶(えびちゃ)色の魔力がマルタに直撃した。「あっ、マルタ!」と、魔女以外の全員が叫んだ。「大変!」 悲痛な感情が部室に満ちた。マルタがこんにゃくになる! それは今日の部活動が始まって以来のシリアスな事態であった。

 

「あれ? なんともない?」 しかしマルタには何も起きなかった。マルタは自分の体をペタペタと触り、撫でさすった。近くにいた双子もマルタを触り、撫でさすった。「シスター・マルタ、大丈夫ですか!?」 気遣う危懼子に対して、マルタの代わりに双子が答えた。「マルタ、なんともなってない」「大丈夫」「良かった」 しかし、双子の言葉から数秒も経たずして、マルタの顔がみるみるうちに青ざめ始めた。「いえ、大丈夫じゃないわ……」 メイドが不安そうな顔をした。「どうしたんだ?」 マルタは言った。「ほら、双子。これ、ここ触ってみて」 マルタは桜子と薫子の手を自分のスカートの中へ導いた。双子はほんのりとその無表情の上に不審な色を浮かべていたが、マルタのスカートの中を手で探ると、得心がいったように言った。「マルタのパンツが」「こんにゃくになっている」

 

 双子がなおもスカートの中を探る中、マルタが口を開いた。「パンツだけじゃないわ。ブラジャーもこんにゃくになってる。うええ……」 こんにゃくのぷるぷるとした感触が直に肌に触れる気持ち悪さに震えているマルタに対して、双子が言った。「『羊毛と亜麻糸を混ぜて織った着物を着てはならない』」 マルタが即座に補足した。「『申命記』第22章第11節……」 メイドが重々しい口調で言った。「大丈夫だ、シスター・マルタ。モーゼはこんにゃくでできた服を着てはならないとは言っていない」

 

 危懼子も猛然とキレた。「このこんにゃく魔女が! よくもやってくれやがりましたわね!」 危懼子はそう叫ぶと立ち上がろうとした。しかしバランスを崩した。危懼子は立てなかった。「なっ!?」 このような重大な局面でかくのごとき失態を犯すとは何事であるか、危懼子は自問したがすぐにその理由を察した。「足が、足がしびびびですわ!?」 危懼子の足は痺れていた。悲しいかな、古式ゆかしいお嬢様とはいえ危懼子は高校生として21世紀を生きる現代っ子であった。そして現代っ子というものは例外なく正座に弱い。「私も足がしびびびだよぉ!」と命賭が言った。「私たちも立ち上がれない」「私もこれでは立てんぞ」 双子とメイドもそう言った。「おうちにかえりたい」 マルタはそれどころではなかった。人体でも一、二を争う敏感な部分がこんにゃくによってぴったりと包まれているのはたとえポーランド人でなくとも耐え(がた)いことであった。

 

「ぐへへへへ!」 魔女は高らかに笑った。あまり上品な笑い方ではなかった。「お嬢様の笑い方がそんなので良いの?」と命賭が言ったが、魔女はそれに答えなかった。「あなたたち、私に長話をさせて体力を消耗させようとしたんでしょう。それくらいの策はとっくの昔に看破してたわよ! 逆にこっちが喋りまくってあなたたちの足を痺れさせてやったわ! 贅沢三昧をして部室を畳敷きにしたのが裏目に出たわね!」 魔女は勝ち誇ったような顔をした。彼女は品定めをするように杖の先端をそれぞれに向けた。「さあて、次はどの子の下着をこんにゃくに変えてやろうかしら」 メイドが手を挙げた。「お嬢様にこんにゃく製の下着を身につけさせるわけにはいかない。代わりに私に魔法をかけろ」 魔女は言った。「メイドながら見上げた根性……と褒めてあげたいところだけど、あなたはダメよ。こうやって改めて見てみるとなんかうすらでかくて怖いし」

 

 その時であった。危懼子が決然とした表情を浮かべた。命賭はその顔を見て悟った。何かするらしい。そしてこの状況は打開されるだろう。危懼子が言った。「それなら私にしなさい。幸いなことに私はこんにゃくが好きですし。それにほら、そろそろ下校時間から一時間経ってしまいますわ。あなたのお父さまとお母さまも心配なさるでしょう。それに、()()()()()()()()()()()()()真蒔子(まじこ)様は、暗くなった帰り道を一人で歩けますの? 昔、帰りが遅くなると、真蒔子(まじこ)様は私に縋りついておりましたわね。『お姉ちゃん怖いよぉ。真蒔子、お姉ちゃんと一緒に帰るぅ』なんて目を潤ませて……」

 

「わーっ、わーっ! 黙れ、黙りなさい、この腐れお姉ちゃんが!」 魔女は再度キレた。知られたくない過去を明かされることほど怒りの感情を刺激するものはない。「それならお望みどおりこんにゃくにしてやるわ!」 怒りに任せて魔女はまたもやこんにゃくの花の色をした魔力を発射した。

 

 魔力は危懼子に直撃するかに見えた。しかし、黄金の光が危懼子を守った。光は危懼子のネックレスから発していた。黄金の光のバリアーによって魔法は瞬時に反射され、杖へと戻っていった。

 

「ぐわっ!?」 ボンっという軽い爆発音がし、白い煙が魔女とその杖を包んだ。この間、わずかに0.5秒ほどである。0.5秒もあれば光は地球を三周ほどできるし、人体は嚥下反射(えんげはんしゃ)によって食べ物を口腔内から食道へと押し込むことができるが、もちろん少女たちは何もできなかった。

 

 数秒も経たずに、白い煙が晴れた。みんな叫んだ。「こんにゃく(くさ)い!」 煙は凄まじいほどこんにゃく(くさ)かった。煙の中から魔女が姿を現した。魔女は健在だった。魔女は危懼子を見て嘲笑(あざわら)った。「ぐへへへへ! 馬鹿ね! どんな手品を使ったのか知らないけれど、その程度のことで私の魔法は止められないわ! 今度こそトドメよ!」

 

 魔女は杖に魔力を溜めると、一気に放出した。危懼子たちは身構えた。

 

 しかし、杖から出てきたのは魔力ではなかった。「ぼとぼとぼと」とさながら山羊(ヤギ)が糞を排泄するような音を立てて、何か白い立方体状のものが杖の先から出て畳に落ちた。

 

「えっ……?」 魔女は唖然とした。「あれは……」足が痺れたままのメイドがにじり寄り、その白い何かを口に運んだ。メイドは口の中でそれをじっくりと咀嚼して味わった後、にっこりと笑って言った。

 

「美味い! これはナタデココだ!」

 

(つづく)




次回もお楽しみに!(字数が……減らない……)


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第11話 戦いすんで日が暮れて

「馬鹿な!」 魔女は驚愕の表情を浮かべた。魔女には信じられなかった。「こんにゃく魔法は絶対よ! こんにゃく魔法が封じられるなんてあり得ない!」 魔女はそのようなことを叫びつつも、なんだか自分が漫画やアニメなどでよくある、敗北寸前の敵キャラが喚いている光景とまったく同じ状況に陥っているような気がしてならなかった。そんなことを考えている自分自身に対して、魔女は憤怒した。「お約束を超越するからこそ魔女は魔女たり得るのよ!」 目の前でナタデココを美味しそうに賞味しているメイドに向かい、魔女は再度魔法を発動した。悲しいことに、結果は同じだった。杖の先からぼとぼとぼとと、今度は馬の脱糞のような音を立てて大粒のナタデココが出てきた。魔女の感情の強さを反映したものか、ナタデココは先ほどのものよりも大きかった。メイドはまたナタデココを口に運んだ。「美味い! ナタデココはやっぱり最高だな!」

 

「確保!」と危懼子が鋭く叫んだ。部長の号令を受けて、女子だらだら部の部員たち全員が身を動かした。しかし、みんな足が痺れていた。「足がしびびびだよぉ!」 命賭が苦しそうに言った。「足が痺れて動けない」 双子も同じように呻いた。マルタは声すらも発せなかった。実のところを言えば、マルタはあまり足が痺れていなかった。彼女自身まったく想定していなかったことであるが、彼女には正座の才能があった。おそらく独居房のように狭い茶室での堅苦しい茶会(さかい)に参加することになっても彼女は平気だろう。それゆえ彼女が動けなかったのは足の痺れのゆえではなかった。彼女のブラジャーとパンツは今やこんにゃくだった。少しでも動いたらこんにゃく製の下着が破れてしまうのではないかという懸念がマルタにはあった。その懸念がマルタを無言にしていたのだった。そんなマルタに対して双子が言った。桜子が先に口を開いた。「『マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである』」 薫子が補足した。「『ルカ福音書』第10章第41節から第42節」 双子が声を合わせて言った。「今マルタが心配しているのはただ一つ。それは下着」 桜子は薫子の足を指先でつついた。薫子も桜子の足を指先でつついた。双子は同じような表情を浮かべて苦しんだ。「しびびび」「しびびび」 マルタはツッコめなかった。彼女の柔肌に触れるこんにゃくの感触はあまりにも生々しかった。

 

 実は正座をした後に足が痺れるメカニズムについては、いまだに科学的に明らかになっていない。伝統的には、圧迫によって血流が悪くなるからだとか、同じく末梢神経系に障害が生じるからだとかといった説明がなされてきた。最近になって、正座の後の足の痺れは受容体の一つである「TRPA1」が関係していることを京都大学の研究者たちが明らかにした。正座をすると足が圧迫されて血流が悪くなる。血流が悪くなった後、立ち上がるなどして圧迫から解放され血流の流れが元通りになると、細胞は大量の活性酸素を放出する。この活性酸素がたんぱく質で構成された受容体「TRPA1」を刺激し、痛みや痺れの感覚を生み出すという。

 

 こんなことを知って何の役に立つのか? このようなことを覚えておくと飲み会の席での話のネタになるので便利である。特に座敷席での飲み会で使えるネタとなるだろう。足が痺れている飲み会参加者にこの話をしてやると良い。教養のある人間だと一目置かれるかもしれない。だが、容易に想像できることであるが、残念なことに相手は酒で酔っぱらっていてろくに話を聞かないだろう。話をする本人もアルコールで記憶がおかしくなっていて、「TRPA1」という単語が上手く出てこないかもしれない。そうなったら本末転倒である。以上の話を本気にしてはならない。

 

「確保!」 再度危懼子が叫んだ。「承知!」 そう答えて魔女に飛びかかったのは、「TRPA1」の呪縛から真っ先に解き放たれたメイドであった。さもありなん、メイドとは足の痺れに対して耐性があるように天の配剤によって定められている。「ぎゃっ!」 身長170センチ以上の大きなメイドが突進してくるのを目の当たりにし、魔女は驚いて叫び声をあげた。「『ぎゃっ!』って、そりゃまたなんて声を出すの……」 命賭が言った。命賭の言葉を()つまでもなく、それは15歳の少女が出して良い叫び声ではなかった。

 

「どりゃあ!」 メイドは次の瞬間には魔女を畳の上に押し倒した。「ぐえ」 魔女の手から離れた杖がぼとりという鈍い音を立てて畳の上に転がった。数呼吸を置くだけのわずかな時間に、メイドは魔女に対して見事な「腕挫十字固(うでひしぎじゅうじがため)」を()めていた。「いてぇえええっ!」 魔女は痛みに悲鳴をあげた。しかし、痛みに呻きながらも魔女は何かしら異様な感触を覚えていた。「なんか柔らかい!」と魔女は言った。「なんか生のおっぱいの柔らかさを感じる! もしかして、あなたノーブラ!?」 メイドは声も高らかに言った。「ノーブラで何が悪い!」 魔女の左腕の肘関節はギリギリと音を立てて無理やりに引き伸ばされ、その手首はメイドの胸に密着していた。胸は柔らかく形を変えていた。暴れて逃れようとする魔女に対してメイドは言った。「ギブか? 早くギブしろ! 技は完全に極まっている。このままだと腕が折れるぞ」

 

「ギブ! ギブ!」 やがて魔女は右手で畳を叩いた。降参の合図である。「よしっ!」 メイドは技を解いた。魔女もメイドも畳の上で大の字になり、はあはあと苦しそうに呼吸をしていた。格闘戦が繰り広げられている間に足の痺れから立ち直り、横に立ってメイドのノーブラ柔術を観戦していた危懼子が呆れたように言った。「ここは女子だらだら部の部室であって、柔道場ではないのですが……ですがメイド、よくやりました」「ありがとう、お嬢様」 危懼子は視線を転じると、転がっている杖に目を付けた。彼女は杖を持ち上げ、そして即座に眉をひそめて言った。「うわ、こんにゃく(くさ)い! やっぱりこの杖、こんにゃく(くさ)いですわ!」「そんなに臭いの? どれどれ……」 命賭は危懼子から杖を受け取ると、鼻を近づけた。「うわ、(くさ)い! 古くなったおでんのこんにゃくと同じにおいがする!」「どれどれ」 命賭から杖を受け取った双子が鼻を近づけた。「激臭(げきしゅう)がする」「トリメチルアミン(C3H9N)の臭い」 双子はマルタに杖を渡そうとした。マルタは受け取らなかった。

 

 双子は無言でマルタの鼻先に杖を押し付けた。瞬時にマルタは苦悶の声をあげた。「ぐぇっ! なにこれくっさ!? 腐った魚の臭いがする!」 こんにゃくのにおいの主成分であるトリメチルアミンはまさに魚の腐ったようなにおいと表現される。マルタの嗅覚は鋭敏で正確だった。その嗅覚の鋭さのゆえにかえってマルタの苦しみは他の部員に比べて大きかった。彼女はその臭いの強烈さに上体(じょうたい)を捻った。その時、ブチブチという嫌な音がした。ちょうどこんにゃくを手でちぎるような音だった。「あっ!」とマルタは叫んだ。彼女は後ろを向き、制服のシャツのボタンを開け、先ほどまで胸部にぴったりとくっついていたものを取り出した。愕然とした表情を浮かべつつ、マルタはそれを指先でつまんでいた。それはこんにゃくでできたブラジャーの残骸だった。マルタはそれを畳に放り投げた。「べちゃり」という水っぽい音を立てて残骸は落ちた。

 

 双子は申し訳なさそうな顔をした。「ごめん」「私たちが杖を押し付けさえしなければ」 しかし、ポーランドから単身で来日するほど強靭な精神力を有するマルタはいちはやく衝撃から立ち直った。マルタは言った。「『もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう』 だから私もあなたたちをゆるすわ。そもそもこうなったのもそこで転がっているこんにゃくの魔女のせいだし……」 双子が補足した。「『マタイ福音書』第6章第15節」「ありがとう、シスター・マルタ」 マルタは双子に対して寛恕(かんじょ)の意図を込めて頷いた。頷いた後に、彼女は大きな声で言った。「ていうかゆるすゆるさない以前に、今ものすごく胸がスースーするのよ! すごく胸がスースーする!」 彼女は今やその胸部を剥き出しにして外気に晒していた。しかしその場には女子しかいないためまったく問題にはならなかった。その胸部は豊かに膨らんでいて美しかった。あたかもポーランド南部に位置するタトラ山地、その最高峰であるリシィ山(標高2499メートル)のように美しかった。なおもマルタは言った。「あっ! 私、今、『スースーする』っていう日本語のオノマトペを完全な意味で理解できた!」 マルタは嬉しそうだった。彼女は外国語をその肉体的な次元において理解することに喜びを見いだすタイプだった。

 

「ご心配には及びませんわ、シスター・マルタ」 危懼子が自信たっぷりに言った。彼女はネックレスに向かって言った。「黄金のカタツムリ様、あなたの力でシスター・マルタのブラジャーを直してあげてくださいまし。あとついでにパンツの方も」「良いでしょう」とネックレスは答えた。力が放出されると、すぐにマルタのブラジャーとパンツはもとのとおりに直った。もとに戻ったブラジャーを目にした瞬間、マルタは猫のような俊敏さでブラジャーに飛びつき、そして身につけた。彼女の美しい胸は文明の利器によってふたたび隠蔽された。マルタは見るからにほっとしたような表情を浮かべた。「これでメイドと同類になることは(まぬが)れたわ……」 メイドが言った。「残念だ。ノーブラノーパンの気持ち良さが分かってもらえないとは」 ネックレスが言った。「ああ、今、マルタさんから温かい感謝の気持ちが流れ込んできているのを感じます」 マルタは言った。「ええ、すごく感謝しているわ。パンツもブラジャーをしていないっていうのはそれだけで文明から疎外されたような気がするから」「酷い言われようだ」とメイドが独り言を言った。

 

「シスター・マルタの下着も元通りになったし、もう帰ろうか」と命賭が言った。「そうですわね。もうだいぶ遅くなってしまいました」と危懼子が答えた。ネックレスが声を発した。「私は有能な神なのでドアも元通りにしておきました」 ドアはいつの間にか元通りになっていた。全員が荷物を持ち、そして出入口へと向かった。「今日は疲れたよ」と命賭が言った。「今日はだらだらと競馬雑誌を読もうと思っていたのに、黄金のカタツムリとは遭遇するし」 双子が同意した。「マイマイカブリが現れるし」「マイマイカブリはカタツムリを食べるし」 マルタが言った。「アメフトボールがマイマイカブリを圧し潰すし」 危懼子が続いた。「そして部室の畳がこんにゃくにされましたしね。さっさと帰ってお風呂にでも入りましょう」

 

「勝手に帰ろうとしてるんじゃないわよ……」と、恨めしげな声が背後からした。六人は後ろへ振り向いた。そこには杖に縋りつくようにして魔女が立っていた。「まだあきらめないの? とっくに勝負はついたよ」と命賭が言った。「まったく、ゴキブリなみにしぶといですわね」と危懼子が嘲るように言った。「しかし私はお嬢様なのでゴキブリなどという害虫を実際に目にしたことはございません。ええ、ございませんとも。ですから『ゴキブリなみにしぶとい』とは言ってもそれは慣用句的な言い回しの上でそういうだけであって、心底からあなたをゴキブリと見なして嘲っているわけではございませんのでご心配なく。なにしろ私はゴキブリの実態を知らないのですから」 双子が言った。「害虫は大別して」「健康的被害をもたらす衛生害虫」「経済的被害をもたらす経済害虫」「精神的被害をもたらす不快害虫」「以上の三種に分けられる」「ゴキブリは衛生・経済・不快の三要素をすべて満たした害虫の王様」「だからゴキブリなみというのはある意味で最高の褒め言葉かも」 ネックレスが呻くように言った。「その害虫の話はあまりしないでください。それはゴキブリだけではなくカタツムリにも当てはまるので。カタツムリは農作物を食害するので経済害虫ですし、広東住血線虫(カントンじゅうけつせんちゅう)を媒介するので衛生害虫ですし、さらには見た目が気持ち悪いという不当な理由で不快害虫として数えられることもあります」

 

畜生(チクショウ)め、魔女はゴキブリでもカタツムリでもないわ!」 害虫談義を始めた女子だらだら部に対して魔女は、本日何回目になるかもう分からないが、またもやキレた。先ほど腕挫十字固(うでひしぎじゅうじがため)を食らって機能不全に陥っている左腕ではなく、無事な方の右腕で杖を構えると(それは大変な筋力を要求されたが、怒りの感情がそれを補った)、杖の先端から魔法を発射した。それには膨大な魔力が込められていた。「ぼとぼとぼと」という音を立てて杖から大量のナタデココが出てきた。メイドが嘆いた。「ああもったいない」 万策尽きた魔女はがっくりと膝をついた。「駄目だわ……ナタデココしか出ない……」 そんなふうに項垂(うなだ)れてはいたが、魔女はさほどナタデココを嫌っていなかった。むしろコンビニでゼリーを買う時はナタデココ入りを真っ先に探すほどナタデココが好きだった。魔女はナタデココを食べれば食べるほど健康になると信じ込んでいた。それは彼女の両親がそう言ったからである。

 

 しかし、杖の先から魔法の代わりにナタデココが出てくる光景は、端的に言って悪夢そのものだった。魔女はその時、自分が人生において有数の貴重な瞬間を味わっていることに気づいた。好きなものが嫌いなものに変わるという、その瞬間である。魔女は泣きそうな声で言った。「ああ私よ、私。どうかナタデココを嫌いにならないで。私よ、ナタデココを嫌いにならないで」 それは変わりゆく自分への、さらに言えばひとたび変わればもう二度と元には戻らないであろう自分への哀願だった。そして、哀願というものは拒絶されるがゆえに哀願なのである。次の瞬間にはもう、魔女はナタデココが嫌いになってしまっていた。

 

 ネックレスが慰めるように魔女に言った。「まあそんなに落胆することはありませんよ。先ほど私はあなたの魔法を反射しましたが、それによってあなたの体内の魔力の流れが一時的におかしくなっているだけで、一日もすればまたこんにゃく魔法は使えるようになるはずです」 力なく俯いていた魔女は顔を上げた。「本当!? ああ、良かったぁ……」 魔女は心の底から安心した。ネックレスが言った。「あ、なんか魔女から流れ込んできますね、あたたかな感情が。どうやら彼女は今、私に感謝しているようです」 危懼子が腕を組んで言った。「まあそんなことはどうでも良いですわ。それよりも真蒔子(まじこ)様、そのナタデココをさっさと掃除してください。じゃないと私たち、帰ることができませんわ。一晩中部室にナタデココを放置しておくわけにはいきませんので。それこそ本当にゴキブリが湧くかもしれない。掃除をしたら、それを謝罪の印として受け取ることにしますわ」

 

 魔女は困惑したような表情を浮かべたが、案外素直にその言葉に従った。魔女はきょろきょろとあたりを見回した。掃除用具を探しているようだった。「掃除用具と、杉並区推奨の黄色いゴミ袋はそこのロッカーに入っていますわ」と危懼子が顎で示した。メイドが言った。「私も手伝おう。協力した方がはやく済むし、はやく帰れる」 メイドの言葉に命賭も賛同した。「そうだね。私もはやく帰りたいから手伝おっと」 二人は魔女を手伝い始めた。マルタも双子も加わった。危懼子は溜息をついた。「まったく……真蒔子(まじこ)様が一人で掃除をしないと責任をとったことにならないではありませんか……仕方ありませんわね、私も手伝います」

 

 掃除は短時間で終わった。途中で魔女が「これなら魔法を使った方が早いんじゃない?」と言って魔法を発動し、更に大量のナタデココが畳を覆うという事故はあったが、10分後には部室はほぼ元通りになっていた。「皆様、忘れ物はございませんわね?」と言うと、危懼子は電灯を消し、ドアから出て、鍵をかけた。危懼子は部員たちに向かって優雅に頭を下げた。「これにて本日の部活動は終了です。皆様、ご苦労様でした」 少女たちは廊下を歩き始めた。もう文化部棟には他に誰もいないようだった。魔女はナタデココが詰まった黄色いゴミ袋を手にしていた。「これ、どこで捨てたら良いのかしら」と魔女は言った。「家に持ち帰りなさい」と危懼子が言った。「身から出た(さび)、いえ、身から出たナタデココなのですから」

 

 マルタが言った。「日本語のことわざの『身から出た錆』だけど、今一つ意味が分からないのよね。どうして体から錆が出てくるのかしら? どうして体から錆が出てくるのが『自業自得』という意味になるのかしら?」 双子が答えた。桜子が言った。「ここで言う『身』とは刀の『刀身(とうしん)』のこと」 薫子が続いた。「刀の手入れを怠っていると刀身が錆びる」「錆びた刀身だと戦いの時に役に立たない」「日頃の手入れの怠っていたことの報いを受ける」「ゆえに自業自得」 マルタは納得したように頷いた。「なるほど、そういう意味だったのね。勉強になったわ」 命賭が言った。「ポーランドのことわざで『自業自得』を意味するのってあるの?」 マルタは明るい顔をして言った。「もちろんあるわ。『クバが神様に対するように、神様がクバに対する(Jak Kuba Bogu, tak Bóg Kubie.)』って言うの」「『クバ』って何?」「ヤコブ(Jakub)の短縮形をクバって言うの。クバは神様を軽んじていたから、いざという時に神様はクバを助けない。でも私、このことわざはあまり好きじゃないわ。神様っていうのは、私たちがどんなに失礼なことを言ったり、失礼なことをしたりしても、許して助けてくれる存在だと私は思っているから。私たちがどれだけ神様を侮辱して軽んじても、神様は絶対に私たちを見捨てないわ。虫の良い話と思うかもしれないけど」 ネックレスが言った。「私は神ですが馬鹿にされたらムカつくので、少なくとも『虫の良い』話ではありませんね」

 

 少女たちは文化部棟を出た。既に日は暮れていた。彼女たちは歩いて正門へ向かった。遠くからまだ練習をしている運動部の掛け声が聞こえてきた。6月の夜の風は少し肌寒かった。マルタは言葉の調子を改めて言った。「そうよ、神様の愛は偉大なの。ポーランドでも日本でも、よく『神様は残酷だ』なんて知ったようなことを言う人もいるけど、私はそうは思わない。確かに神様は私たちを愛してくださっていると、私は信じているわ。そうでなければ、どうして神様はイエス様をこの世におつかわしになったのかしら。『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある』」 双子が補足した。「『ヨハネの第一の手紙』第4章第10節」 マルタはさらに言った。「重要なのはその次の第11節よ。『愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互いに愛し合うべきである』」 喋っている間に感情が高ぶってきたのか、マルタの語気は勢いを増してきた。「そうよ! 神様と同じだけの愛を持つことは人間にはできないかもしれない。でも、それがどんなに些細なものであれ、愛するという行為そのものは誰にでもできるはずよ! どうしてこの単純にして明快なことを誰も理解しないのかしら! でもそれが人間よね。ラーゲルクヴィストの『バラバ』ではそれがよく描かれている。バラバはイエス様の愛を直接その身に受けておきながら結局最後まで……」 マルタの言葉は次第に日本語からポーランド語へと切り替わっていった。真剣にマルタの話を聞いていた部員たちは顔を見合わせた。少女たちはいつの間にか正門を出て、住宅街の中を歩いていた。

 

 女子だらだら部の部員たちは日常だらだらすることを旨としていたが、若者特有のあのだらだら歩きはしなかった。彼女たちは日中に充分すぎるほどだらだらしたからであった。彼女たちはさっさと歩いた。その歩き方にはどこかしら知性が感じられた。マルタはなおもポーランド語で何かを熱心に話していた。マルタを挟むようにしてメイドと魔女が歩いていた。それは異様な光景だった。しかしそれを見咎める者はいなかった。住宅街には不思議なほどに人影がなかった。双子は双子言語でなにごとかを話し合っていた。桜子が右手でチョキの形を作り、薫子がその上にグーを乗せた。どうやらカタツムリを作って遊んでいるようだった。危懼子と命賭は並んで歩いていた。ひっそりとした雰囲気の住宅街を10分ほど歩くと、京王井の頭線久我山駅に辿り着いた。久我山駅周辺は流石ににぎやかだった。中華料理店、ラーメン店(中華料理店とラーメン店とはその意味する内容が異なる)、ホルモン焼き店、酒屋、学習塾、コーヒーショップ、コンビニ、小料理屋などが並んでいた。文化的な空間がそこには広がっていた。最寄り駅周辺がこれほどまでに物質的に豊かであるから、都立西方浄土高校は自由な(あるいは魔女が言うように懶惰(らんだ)な)校風であるのかもしれなかった。危懼子はある店の看板へ目をやった。そこは畳店だった。危懼子は部活の畳を張り替える時、この店に依頼したのだった。

 

 少女たちは久我山駅の北口に入り、昇りのエスカレーターに乗り、改札口に向かった。メイドは堂々としていたが、魔女は居心地悪そうだった。「コスプレだと思われるかもしれないわ」と魔女は言った。「私は正真正銘の魔女なのに」 メイドが言った。「堂々としていれば良い。それにこの令和の日本、魔女なんてありふれたものだ。メイドよりも珍しくない」「いや、流石に魔女の方がメイドよりも珍しいと思うわ」 魔女の言葉に対してメイドが大きな声で言った。「いや、メイドの方が珍しい! 特にノーパンのメイドは!」 あまりの迫力に魔女がびくりと体を震わせた。マルタはメイドを(たしな)めた。「公の空間でそんなことを大きな声で言っちゃダメ!」「すまん」 メイドは大人しくなった。

 

 メイドの言葉通り、通行人たちはまったく彼女たちを気にかけなかった。改札口を通り、また下りのエスカレーターに乗って、少女たちはプラットフォームに辿り着いた。電光掲示板は、吉祥寺(きちじょうじ)行の電車が五分後に来ることを示していた。危懼子は半ば退色した宣伝看板へ目をやった。そこには緑色の字で「TIME LIGHT」と書いてあった。入学以来、彼女はずっとその店がなんの店であるのか疑問に思っていた。看板には「TIME LIGHT」以外何も書かれていない。スマホで調べれば即座に疑問は解けるのだろうが、危懼子はそうしなかった。疑問は疑問のまま大切にしておきたかった。それが彼女のだらだらだった。

 

「電車が来たよ!」という命賭の声がした。危懼子は視線を左へ向けた。他の少女も危懼子に倣った。

 

 そして一斉に「はぁ?」と間抜けな声をあげた。

 

 渋谷方面からプラットフォームに進入してきたのは、ちょうど電車ほどのサイズがある、巨大な毛虫だった。

 

 毛虫は茶色だった。毛虫は毛でもさもさとしていた。

 

(つづく)




次回をお楽しみに!(話終わるのかよこれ……)


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第12話 突進する微小妄想の毛虫

 気の毒な話ではあるが、毛虫ほど人間から嫌われている生き物もない。「毛虫駆除業者」という語でネット検索をかけてみると、どれだけ人間が毛虫を嫌っているのかがすぐ分かる。無論、人間が彼らを嫌う理由はいくつもある。まず、見た目が悪い。びっしりと毛が生えているその有様(ありよう)を見るだけで身震いするような生理的嫌悪感が惹起される。しかもその毛が毒を持っているのであるから尚更である。刺されば皮膚がかぶれる。抗ヒスタミン薬を用いねばかぶれは治らない。また、毛虫は見た目も悪ければその行いも悪い。毛虫はツバキやサザンカといった園芸品種の葉を食害するからである。手塩にかけて育てた植木(うえき)の葉に毛虫がいずこからか大挙して押し寄せ、葉をもりもりと食べて(ふん)を撒き散らす。想像するだに怖気をふるう。

 

 それゆえ毛虫は「衛生害虫」「経済害虫」「不快害虫」の三要件を備えた立派な害虫であるといえる。しかしこれは毛虫にとって至極迷惑な話とも言える。毛虫の身になって考えてみれば良い。ある日突然、宇宙のかなた、プロキシマ星系第五惑星人が地球にやってきて、人間を「害虫である」と断じたとしたら、人間はどのように感じるであろうか。おそらく宇宙人に対して核攻撃も辞さないはずである。そして敗北し、駆除されるだろう。このようなあまり面白くもない流れのストーリーを想像してようやく人間は毛虫の置かれている苦境を理解できるのである。人間のなんと傲慢なことか。

 

 その点で言うと、昔の人間はもっと他の生き物に対して思いやりがあった。昔の人間はもっと自分たちに引き寄せて他の生き物のことを考えてやることができた。17世紀フランスの弁護士、作家、歴史家であるニコラス・ショリエ(1612-1692)は、以下のような話を残している。彼によると1584年(1584年といえば日本では小牧・長久手の戦いが勃発した年である)、フランスのヴァランスにおいて、長い雨のため毛虫が大量発生したことがあったという。天候不順がどのようにして毛虫の大量発生と繋がっているのか、その点は(つまび)らかではないが、おそらくショリエには昆虫学的な興味関心が薄かったのだろう。とにかく、ヴァランスにおいて毛虫が大量発生した。この毛虫どもは外で農作物の葉を食ったり糞をしたりするだけならばまだ良かったのだが、しまいには家の中に入り込みベッドにもぐりこみ寝ている人間の耳の中にまで侵入し始めた。ヴァランスの住人はかような狼藉を働く毛虫に激怒し、ついに毛虫追放の訴訟を提起したのである。人間が毛虫を法的主体と見なして訴訟をする。これこそ昔の人間が人間以外の生き物に対して深い思いやりを持っていたという逆説的な証拠ではなかろうか。ちなみに訴訟の結果はどうなったか? 弁論の末、毛虫たちは退去するように宣告された。しかし毛虫たちはなかなか退去しなかった。人間たちはどのようにして強制執行をしようかと思案したが、そのうち毛虫たちは成虫となって飛び去ってしまったという。以上の話は穂積陳重の『法窓夜話』からのまた聞きである。頭から信じてはならない。

 

 その毛虫が京王井の頭線久我山駅のプラットフォームへ、わさわさと音を立てて進入してきたのであった。「ぎゃあ、毛虫!」と魔女がロリ声で叫んだ。「私、毛虫嫌い!」 魔女の叫びに対してメイドが平静な声で言った。「それはそうだろう、毛虫が好きな女子高校生など存在しない。女の子というものはその一般的な性質として虫を嫌う。このことを理解していたからこそ『堤中納言物語』の『虫めづる姫君』の作者は魅力的なキャラクターを創り出すことができた。それにしてもあの姫君が好きだった毛虫はいったいなんという種類の……」 メイドの言葉は長かった。おそらくそれはメイドが無意識のうちに現実逃避を試みていることのあらわれであったのであろう。

 

 危懼子がメイドの言葉を中断させた。「長話をしている暇はございませんわ。なぜ井の頭線の電車が毛虫になっているのか、その点については確かに興味の尽きないことでございますが、さっさと乗らないと電車が行ってしまいます。いや、電車? 毛虫? とにかくこの毛虫が線路の上を走ってきたということからして、この毛虫もまた電車と同様に時刻表に則って動いていると見て間違いはないはずです。こうして話している間にも電車が……いえ、毛虫? とにかく、毛虫の電車が行ってしまうかもしれません」 危懼子たちは周りを見回した。他の乗客たちは毛虫に乗り込んでいるところであった。不思議なことに、毛虫にはちゃんと窓とドアがあった。車内は通常の電車と何も変わりがないようだった。しかし危懼子たちはしばらく逡巡した。

 

「乗るなら乗るでさっさと乗ってください」と毛虫が声を発した。その声は陰気で、疲れ切っていた。「うわっ!」と危懼子たちは叫んだ。「そろそろ発車しないと鉄道総合指令センターからどやされます」と毛虫は言った。しかし、どことなくその声には「この女の子たちはきっと自分には乗らないだろう。なぜなら毛虫を好む女子高校生なぞ存在しないのだから」という卑屈な諦めの感情が透けて見えた。それが危懼子を激怒させた。「乗りますわよ!」と危懼子は叫んだ。「乗れば良いんでしょう! 私は、最初から諦めきっているような類の方は大嫌いですわ!」 危懼子は怒りにまかせてカバンを振り回しながらドアへと歩いて行った。「私も乗ろうっと。私は毛虫そんなに嫌いじゃないし」 命賭も後に続いた。彼女は動物ならばなんでも好きな性質(たち)であった。

 

 その一方で、マルタは立ち竦んでいた。ああ、ポーランドにいればこのような珍妙な目には遭わずに済んだであろうに。彼女にとって毛虫の電車などというものは悪夢そのものであった。祖国が誇る恐怖小説作家、「ポーリッシュ・ポー(ポーランドのポー)」と称賛されるあのステファン・グラビンスキ(Stefan Grabiński)であっても、このような悪夢的光景は想像し得なかったであろう。マルタはふと、電車ならば車輪が存在しているであろう箇所へ目を向けた。そこには人間の脚がびっしりと生えていた。つるりとした白い肌が美しい若い女の細い脚があれば、小汚い針金のようなすね毛が生えている日焼けした太い男の脚もある。「ああ……」 マルタは気が遠くなった。ふらりと倒れそうになったマルタを双子が両脇から抱えた。桜子が言った。「『人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ』」 薫子が続いた。「『人は、まことあり、本地(ほんぢ)たづねたるこそ、心ばへをかしけれ』」 双子は声を合わせた。「『これが、ならむさまを見む』」 それは『虫めづる姫君』の一節であった。三人はドアを通って中へ入って行った。

 

「乗らないわよ」 そんな女子だらだら部の五人を見て、魔女は言った。「私は乗らない。誰が毛虫の電車になんて乗るものですか」 メイドが魔女に向かって言った。「しかしこの毛虫の電車に乗らないで次の電車を待つとしても、次の電車がちゃんとした電車かどうかは分からないぞ。もしかしたら次に来るのは毛虫よりもおぞましい何かかもしれない。ムカデとか、ヤスデとか」 メイドの思考は奇しくも朝のサラリーマンのそれと似通っていた。朝のラッシュ時に、この満員電車をやり過ごして次の()いているであろう電車に乗るべきか、それとも次の電車が()いているという保証はないからさっさとこの満員電車に乗るべきか、そのようなことを寝不足でストレス過多で連勤続きのサラリーマンは考えるものである。そしてサラリーマンたちが結局そうするように、メイドは毛虫のドアへと向かって歩いて行った。「ムカデよりも毛虫のほうがいくらかはマシだろう」 メイドは自分に言い聞かせるように言った。

 

「ちょっと、待ちなさいよ!」 魔女はメイドの背中へ向かって大きな声をあげた。魔女は心細かった。魔女は魔女であったが所詮はまだ15歳の小娘であった。ちょうどその時、どういうわけか、一陣の風が久我山駅の細長い駅構内を吹き抜けた。強い風を受けて毛虫から生えた無数の毛が「わさわさわさ」と歌うように鳴った。すると、見る間に毛の一本が「ぷちっ」と抜けて、プラットフォームの上で渋谷行きの電車を待っていた一人の男の肩に突き刺さった。男は「いてぇ」と、しかしどこか無関心そうに声をあげた。毛が刺さったにもかかわらず、男はスマホでゲームをし続けていた。その光景を見て、魔女はなぜだかとてつもない恐怖の感情を覚えた。魔女は今やナタデココしか吐き出さなくなった杖を握り締めると、逃げ込むようにして毛虫の電車の中に入った。

 

「はい、それじゃあ、発車しますよ」と毛虫は気怠(けだる)そうに言った。そしてドアを閉めて、何本あるか知れぬ脚を(うごめ)かせて走り始めた。車内は蒸し暑かった。6月なので冷房も暖房も効いていない。窓は換気のために開け放たれていたが、それでもぬるい空気はまったく循環しなかった。外見に反して、車内は普通の電車と変わらなかった。金属製の手すり、つり革、ソファー張りの座席、優先席、車内広告があった。車内広告は週刊誌、外国製のスマホゲー、保険、投資、展覧会などを宣伝していた。なんの変哲もなかった。それがかえって不気味でもあった。危懼子たちは立っていた。椅子には座らなかった。命賭が全員の気持ちを代弁するように言った。「なんかさ。座席に座ったら、毛虫の毛が刺さりそうな気がするんだよね」

 

 車内のそこここに人々がいた。普通の人もいれば変わった人もいた。スーツ姿の男性、普段着の女性、作業服姿の初老の男性、矢絣(やがすり)の着物の初老の女性、ピエロ、ボディービルダー、相撲取り(幕下(まくした))、眼鏡とパンツだけを身につけた若い男(パンツは女物(おんなもの)であった)、瓶詰めにされている赤ん坊と瓶の上に張り付いているアマガエルのように小さな母親、「区役所はダメなんだ三階にATMがないからなATMが三階にないから区役所はダメなんだ」とぶつぶつと繰り返している中年の男性、「どうして俺を無視するんだよ俺はお前が好きなんだよお前は俺のこと嫌いになったのかよぉ」と仏像に向かって話しかけ続けているパンクファッションの女性、火縄銃を持ったマタギ、今や絶滅したはずのフランス貴族、妖精、ポニー、学生などがいた。全員がスマホを手にしており、互いに無関心だった。

 

 危懼子が言った。「どうかしら。毛虫の電車の車内とはいえ、今までとあまり変わらない気もしますわね」 命賭が答えた。「そうだね。どこか変な気もするけど、でも、今までもけっこうこういう感じの乗客がいたような気もするよね。なにせ京王井の頭線だからね」「渋谷から変な客が乗ってきているのかもしれない」「渋谷は魔窟(まくつ)だから」と双子が言った。双子に支えられていたマルタが言った。「ええ、なんとなくいつもよりも雑然とした感じもするけど、けっこう京王井の頭線の客層ってこんな感じだった気もするわね……」 しかし次の瞬間、マルタは激しく首を振った。「いいえ! やっぱりおかしいわ!」

 

 メイドが頷いた。「私は普段、宮前(みやまえ)四丁目のバス停から荻窪(おぎくぼ)駅までバスに乗って、そこから総武線で高円寺まで帰っている。だから井の頭線については詳しくないが、やはりどこか異常だと思う」 そのように言うメイドであったが、彼女は自分自身の異常性に対してやはり無自覚だった。メイドである彼女の存在が車内の混沌に拍車をかけていることにメイドは気づいていなかった。メイドと同様にその混沌に一役買っている魔女は、おずおずと視線を周囲に巡らせていたが、やがて言った。「異常と言えば異常でしょうけど、それも数分間の我慢よ。次の『三鷹台(みたかだい)』までは2分少々しかかからないんですから。三鷹台から次の駅の『井の頭公園』までは1分。井の頭公園から終点の吉祥寺(きちじょうじ)までは1分、合計で4分よ。カップうどんができるくらいの時間しかかからないわ。我慢よ我慢……」 魔女は杖を握る自分の手が汗をかいているのを感じていた。汗とこんにゃく臭が混ざってすごいにおいになるのではないかと魔女は心配になった。

 

「申し訳ないのですが」と、突然車内のスピーカーから声がした。それは毛虫の声だった。「『三鷹台』まではもう少し時間がかかると思います」 毛虫の声は明らかに元気がなかった。「なにしろ、脚が痛むものですから」と毛虫は言った。「脚って……どの脚よ?」とマルタが問いを発した。彼女は毛虫から生えていた無数の人間の脚を思い出して身震いをした。マルタは身震いをするのと同時に、自分がなんとなく毛虫の電車という異常に対して慣れてきつつあるのを感じていた。異常な世界においては必然的に正常も異常へと馴化しなければならないのであろうか。異常な世界においてなおも正常であり続けようとするのは、気高さではなく傲慢を意味するのではなかろうか。優秀な頭脳を有するマルタであったが、その優秀さゆえに彼女の頭脳はとめどもなく混乱した。「おうちにかえりたい」 混乱の末にマルタは悲痛な独り言を漏らした。そんなマルタをおいて、毛虫の声はなおもスピーカーから響いた。「分かりません。いったいどの脚が痛んでいるのか……でも、とにかく脚が痛むんです。つらいですよ、痛む脚で線路の上を走らなければならないのは。いくら鉄道車両整備士に訴えても理解してもらえないのでなおさらつらいです。整備士は言うんです。『異常はない、気のせいだ』って。私はこんなにつらいのに」

 

「ふうむ」 メイドが腕を組んだ。組まれた腕のせいでノーブラの柔らかな胸が強調された。見る者すべてを惹き付けるほどの濃厚な色気がその胸部から発散されていたが、乗客たちはみなスマホをいじっていて気付かなかった。メイドは言った。「確かに脚が痛むと感じているのに、整備士からは異常がないと言われる。もしかしたら、それは心気(しんき)妄想というものかもしれないな。私は医者ではなく一介のメイドに過ぎないから予断は許されないが」「なんですか、それは」とスピーカーが答えた。メイドの代わりに危懼子が声をあげた。「うつ病などでよくみられる、微小(びしょう)妄想の一種ですわ。微小妄想とは端的に言うと自分自身を実際よりもダメだと思い込む妄想のことを指しますの。たとえば、自分が重い病気にかかっていると思い込む『心気妄想』」 毛虫は嘆くように言った。「思い込んでいるのではありません、実際に私は脚が痛むんです。これだけ痛むのですからきっと私は何か重い病気にかかっているに違いありません。整備士の日常的な点検では分からないような、もっと深刻な原因のある病気にきっと私はかかっているんです。現代の医療では解明されていないような、そういう類の奇病に私はかかっているに違いありません」

 

 毛虫の声を気にせず、危懼子は先を続けた。「微小妄想はまだありますわ。他には、なんら罪を犯していないのにもかかわらず、自分が何か重い罪を犯してしまったのだと思い込む『罪業(ざいごう)妄想』がありますわね」 毛虫はそれを聞いてまた陰気な声で話し始めた。「はあ、うつ病の人は大変ですね。実際にやってもいない罪を妄想して苦しむなんて同情します。しかし私の場合は妄想ではなく、実際に重い罪を犯しているのです。私はいつも苦しんでいます。今日だって渋谷駅で予定時刻よりも2秒早く、新代田(しんだいた)駅で1.5秒遅く、永福町(えいふくちょう)駅で3秒早く、高井戸(たかいど)駅で1.3秒遅く発車してしまいました。そのせいできっと人が死んだでしょうし、経済的に莫大な損害を被った人もいるでしょう。恋人に振られた人もいるはずです。私はきっと告発されます。告発されて職を失い、裁判を受けることになると思います。いつ裁判所から呼出状が来るか、家に帰ってポストを開けるたびにびくびくしているんです」 

 

 双子がスマホの画面から顔を上げた。双子はスマホゲーのデイリー任務をこなしているところだった。桜子が言った。「昔フランスのヴァランスで毛虫が裁判にかけられたことがあった」 薫子が続いた。「でも現代において動物裁判は行われていない」「近代的な法体系において動物に法的権利は認められていないから」「だから安心して」 しかし毛虫は溜息をつくだけだった。「いえ、きっと私は裁判にかけられます。今日ではないでしょうし、明日ではないかもしれませんが、いずれ裁判にかけられます」

 

 毛虫の言葉が終わるのを見計らって、危懼子は再度口を開いた。「他に微小妄想として、『貧困妄想』があります。いくらお金があっても自分が貧乏だと思ってしまうのです。たとえば自由に使える預金が100万円あっても『自分は貧乏だ』と思ってしまったり……」 スピーカーから陰気な声が響いた。「私は貧乏ですよ。働いても働いても暮らしが楽になりません。私は貧乏です。でも考えてみれば、それは大抵の人がそうなんじゃないですか。誰もが自分は貧乏だと思っているから必死に働くんですし、自分は貧乏ではない、満たされていると思っていればそこまで頑張って働かないと思います。そして私は満たされていないので働かないといけません。そう、働かないといけないんです! 夜、眠る前、ふと預金の額が気になって、そのまま眠ることができずに朝の4時まで起きていることがしばしばあります。窓の外が白んでいるのを見ていつも絶望します。こんなにも眠れなくて疲れ切っているのに会社に行って働かないといけない。でも、いざ預金残高を確認しようとすると、それがとてつもなく怖い。怖いんです。こんなに怖いと思うのはやっぱり私が貧乏だからですし、だからその怖さをなくすためにも私は働かないといけません。でも私は重い病気で脚が痛みますし、きっと近いうちに裁判にかけられて職を失います。夜は眠れないし、休日はすごい勢いで時間が過ぎていくんです……」

 

 メイドが言った。「やはり、車両整備士だけではなくカウンセラーか精神科医にかかるべきじゃないかな。うつ病というのは虫歯と同じで、一度かかったら医者に頼らない限り絶対に自然治癒しないと聞く。手遅れになる前に医者にかかったほうがいいと私は思うぞ」 ここで「手遅れ」というのは紛れもなく「死」を意味するのであるが、メイドはそこまで言わなかった。「死」という言葉がどんな影響を毛虫に及ぼすのか不明だった。危懼子も言葉を発した。「私たちは医師ではありませんから断言はできませんが、あなたに必要なのは医療の専門家による手助けではないかと、私もメイドと意見を同じくしますわ」

 

 いきなり毛虫は減速した。少女たちは「うわっ!」と声をあげた。危懼子は手にしたつり革で持ち(こた)え、命賭は危懼子に縋りつき、よろめいたマルタは双子に抱き留められ、倒れそうになった小さな魔女は仁王立ちして微動だにしない大きなメイドの大きな胸にしがみ付いた。魔女はメイドの服の下の異様な柔らかさに声をあげた。「やっ、柔らかい!? やっぱりあなた、ノーブラなの!?」 メイドが答えた。「感謝するが良い。私のノーブラの胸の柔らかさで少しは現実感覚が取り戻せたはずだ」 魔女はその言葉に反論できなかった。確かにメイドの胸の柔らかさは魔女に現実感覚と、それ以上の安心感をもたらしてくれた。所詮魔女は15歳の小娘であった。魔女はメイドの胸を揉んだ。しかしメイドはそれを気にも留めずに言った。「それよりも、ようやく三鷹台に着いたみたいだぞ。久我山から5分はかかったな」

 

 毛虫は溜息をついた。「ああ、また遅れてしまった。しかも信じられないことに、今度は定刻から3分遅れだ。これは絶対に問題になる。始末書だけでは済まない。きっと裁判になる。私は罪人だ。人殺しだ……」 毛虫が嘆いている間、ドアは開け放たれて乗客の乗り降りを待っていたが、出て行く人間も乗り込んでくる人間もいなかった。命賭が言った。「三鷹台にはなにもないからねぇ。乗り降りする人もいない」 双子がスマホをいじりながら言った。「三鷹台の一日の平均乗降人数はだいたい17,000人」「久我山が33,000人」「つまり三鷹台は久我山の半分くらいの戦闘力しかない」 ちなみに渋谷は245,000人である。さらにデータをあげれば、島根県松江市の松江駅の一日平均乗降人数は4,200人である。

 

 ドアが音を立てて閉められた。毛虫は猛然と走り始めた。その勢いはすさまじかった。マルタが言った。「こんなに早く走って大丈夫なの?」 毛虫がスピーカー越しに答えた。「遅れを取り戻さなければなりません」 その言葉の後、スピーカーからはゼイゼイという喘ぎ声しか聞こえなくなった。煙草を吸い過ぎて肺機能に甚大な損害を負っている哀れな中年男性が全力疾走しているような喘ぎ声だった。

 

 次第に車内は蒸し暑さを増した。マルタは、壁から妙な色彩の液が(にじ)み出てきているのに気付いた。彼女は叫び声をあげた。「ねえ、これなんなの!? なんか変な液が出てきてる!」 魔女が杖の先でその液体をつついた。杖の先が「じゅっ」と嫌な音を立てた。魔女も叫んだ。「これ、もしかしなくても消化液じゃない!? 杖の先が溶けてる!」 その声を聞き、車内にいた全員がスマホをいじるのを一時やめた。しかしすぐにスマホへと視線を戻した。スピーカーから弁明するような声がした。「急いでいますから」と毛虫は言った。「消化液の一つや二つは出るかもしれません。ですがあと少しで吉祥寺ですから問題はないですよ」

 

 井の頭公園駅は無視された。そもそも吉祥寺から井の頭公園までは600メートルしか離れておらず、徒歩であっても3分もかからない。それゆえ無視して構わない。いや、無視するのはやはりマズいが、いまは無視しなければならない。毛虫はそのように判断したようだった。毛虫は今や一刻も早く吉祥寺駅へ滑り込むことだけを考えていた。毛虫は必死だった。しかし、必死といえば彼はその瞬間だけではなく毎日が必死だった。一分一秒を必死な思いで過ごしているため、彼の精神は消耗しきっていた。正常な思考力と判断力が失われるほどに彼の精神は消耗していた。それは明らかに精神的な問題を抱えている証拠だった。毛虫は猛然と走りながら、漠然とそれを認識し始めていた。

 

 ほどなくして、毛虫は吉祥寺駅の明かりをその目に認めた。毛虫は安心したように言った。「ああ、なんとか定刻通りに吉祥寺に着きました」「そうですか、それは良かったですわね」 危懼子はどこか他人事のように言った。彼女の靴底はじゅうじゅうと嫌な音を立てていた。女子だらだら部の五人とメイドと魔女は、ドアが開くのを心待ちにしていた。床面はすでに分泌された消化液で覆われていた。

 

「でも、あなた方を乗せて良かったと心の底から思いますよ」と毛虫は言った。毛虫はいまや安堵の念に似た何かを感じていた。「やっぱり、自分はどこかおかしいのかもしれません。あなたたちとお話してそれがなんとなく分かりました。今度休みになったら医者に行こうと思います」 毛虫の声は明るかった。

 

「ええ、是非そうしてくださいまし。あと、とっととドアを開けてくださいまし」 ドアが開いた。消化液が車外へと迸り出た。消化液を浴びた脚が苦悶して波打った。危懼子たちは大急ぎで毛虫から降りた。

 

「ああ、吉祥寺はいつも吉祥寺ですわね」 プラットフォームに降りた危懼子が胸をなでおろした、その直後だった。

 

 駅構内へ何かがひゅるひゅると音を立てて飛来し、着弾し、鋭い閃光と猛烈な爆風を巻き起こした。

 

(つづく)




次回もお楽しみに!(字数が増えてきて困っています……)


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第13話 吉祥寺に吉祥寺はない

 そもそも吉祥寺(きちじょうじ)という地名自体がなかなかに矛盾をはらんでいる。矛盾というのが言い過ぎであるならば、あるいは混乱とでもいおうか。まずその読み方である。おそらくだが、いやきっと、初見(しょけん)で吉祥寺を「きちじょうじ」と正しく読めるものは存在しない。「きっしょうじ」とか「きちしょうじ」と読む者が大半であろう。そして得意げな顔をして「昨日、吉祥寺(きっしょうじ)でさぁ」と言い、正しい読み方を知っている人間から「それ吉祥寺(きっしょうじ)じゃなくて吉祥寺(きちじょうじ)って読むんだよ」と半笑いの顔で言われるのである。こうして拭い去れない恥辱との観念連合を伴って吉祥寺(きちじょうじ)という地名は脳内1000億のニューロンと精神とに記憶される。吉祥寺という名前を口に出すたびに、あの時半笑いで「それ吉祥寺(きっしょうじ)じゃなくて吉祥寺(きちじょうじ)って読むんだよ」と言ってきたあいつの顔を思い出す。この屈辱感は終生消えることはない。それは(プシュケー)(きず)である。

 

 読み方もおかしければその実態もおかしい。というのは、吉祥寺は吉祥寺という地名をしているのにもかかわらず、その地に吉祥寺なる名前の寺院は存在しないからである。吉祥寺という寺は吉祥寺にではなく、駒込(こまごめ)に存在する。東京都文京区本駒込(ほんこまごめ)である。さらに言うなら吉祥寺はもともと駿河台(するがだい)にあった。駿河台は東京都千代田区である。この変遷の歴史について話すと長くなる。歴史の話というものはだいたいが長いものなので仕方がないといえば仕方がないのであるが、それにしてもうんざりする。飲み会の席で歴史の話をすると煙たがられるのは、端的に言って話が長くなるからである。長いことを意識して細部を端折(はしょ)れば話は面白くなくなり、長さは長さとして開き直って話せばやはり嫌われる。どうしようもない。趣味を同じくしない人間相手にだらだらと歴史の話をするのは禁物である。

 

 さて、もともと吉祥寺はかの太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を築城した際その西の丸に開いた寺が元になっている。太田道灌は上野(こうずけ)永源寺から青巌周陽(せいがんしゅうよう)という曹洞宗の高僧を招き、この人を開山(かいさん)として吉祥寺を建立(こんりゅう)した。だいたい大永(たいえい)年間(1521-1528)の頃の話である。「吉祥」という名前は井戸から「吉祥」という文字が刻まれた金印が出てきたことにちなむというが、だいたいどこの寺も似たようなエピソードを持っているので本当かどうかは判然としない。吉祥寺は徳川家康の関東入府に際して駿河台に移された。その後、明暦の大火(1657年)によって吉祥寺と門前町は焼失し、寺は駿河台から駒込の地に移された。困ったのは吉祥寺の門前町に住んでいた人々だった。大火ですべてを失った彼らには行く場所がない。見かねた幕府は救済政策の一環として住むところを失った人々に御用地を貸与した。御用地は現在の武蔵野市東部にあった。ほぼ原野(げんや)である。人々は懸命になって関東ローム層のうんざりするような赤茶色の大地を耕し、新たに得た住処(すみか)をかつて住んでいた吉祥寺門前町からとって「吉祥寺」と名づけた。これが現在の吉祥寺である。ああ、なんとも長い話だ! それにしても、当時の人がもっと気を利かせて「吉祥寺」に「新」という字を付け加え、「新吉祥寺」とかいう地名にしてくれていればここまで長い話をせずに済んだのにと思わなくもない。ニューヨーク、ニューオーリンズ、ニュージーランド、ニューカレドニアなどは「ニュー(New)」という言葉がついているから分かりやすい。しかし、これまでの長い話を頭から信じてはならない。

 

 その吉祥寺は今や大混乱の様相を呈していた。井の頭線構内には音を立てて無数の砲弾が飛来し、着弾し、爆発している。破片が飛び散り、閃光が迸り、なにも道理を(わきま)えていない小学校男子児童が高価なティンパニを乱打しているような無粋な轟音が絶え間ない振動となって地面を揺らしている。爆発はカラフルだった。少なくとも灰色だとか黒色ではなかった。赤、オレンジ、黄、緑、青、インディゴ、パープルなどであった。いかにも漫画チックな爆発の色だった。それが砲撃下にあるという緊迫した状況を幾分か面白おかしいものにしていた。音を立てて砲弾の破片が飛ぶ。引き裂かれた空気が悲鳴を上げている。ぽっかん、ぽっかんという小銃(ライフル)の射撃音がそれに混じり、電動ピックの連続作動音のような機関銃の発射音が唱和している。

 

「吉祥寺が……私の吉祥寺が戦場と化していますわ!」 砲撃の爆煙(ばくえん)が晴れたそこに、危懼子たちはいた。毛虫の電車から降りた危懼子たちのすぐそばに一発の砲弾が着弾したのだったが、彼女たちは奇跡的なことにまったく無事だった。危懼子のネックレスから黄金の光が半球状のドームとなって放出されており、女子だらだら部の五人とメイドと魔女をすっぽりと覆っていた。それは奇跡的なパワーであった。「褒めてください。私は神なのであなたたちを救うことができましたが、これがただのカタツムリだったら……」 声を発するネックレスを無視して、危懼子はなおも叫んだ。憤激していたからというのももちろんあったが、叫ばなければ爆音に声がかき消されてしまうからでもあった。「まさか吉祥寺が戦場(バトルフィールド)になるなんて! こんなことが許されて良いはずがありません!」 その危懼子の言葉には幾分か誤謬が含まれていた。今でこそ平和で文化的な吉祥寺であるが、昔はまさに戦場だったからである。吉祥寺はかつて「一人でうろついていると数分で他校の生徒に狩られる」と言われるほどの激戦地だった。東京の吉祥寺は大阪心斎橋のアメリカ村に匹敵するほどのヤンキーの聖地だったことは一世代前の人間ならば誰でも知っている。

 

 命賭が「あっ!」と叫んで指をさした。その指の先には吉祥寺駅の巨大な駅舎があった。いや、それはもはや見慣れた駅舎ではなかった。それは鉄筋コンクリート造りの、無骨で無粋で凶暴な巨大要塞となっていた。鈍色の砲塔が連なり、砲身がハリネズミのように突き出ていた。「吉祥寺駅がマジノ線になってる!」と命賭が叫んだ。実際のところ、それはマジノ線ではなかった。脳内に要塞の具体的なイメージを表す言葉が「マジノ線」しかなかったために命賭はそう言ったに過ぎなかった。双子が言った。双子は常にないことに大きな声を出していた。声が爆音で掻き消されてしまうからである。砲弾はなおも周囲に着弾していた。「マジノ線だけが要塞じゃない」「アメリカのタイコンデロガ(とりで)とか」「クリミアのセヴァストポリ要塞とか」「函館(はこだて)五稜郭(ごりょうかく)とか」「ベルギーのリエージュ要塞とか」「イスラエルのマサダ要塞とか、他にもある」 ちなみにマサダ要塞とは西暦66年から73年にかけて起こったユダヤ戦争における悲劇的な事件の舞台であるが、マサダとはヘブライ語で「要塞」を意味するので、「マサダ要塞」というのは「要塞要塞」あるいは「マサダマサダ」となり、厳密には重言(じゅうげん)ということになる。「チゲ鍋」とか「サルサソース」などと同じである。

 

「私も要塞を知っているわ」とマルタが言った。「ポーランド人にとっての要塞といえば、間違いなくグダニスクのヴェステルプラッテ要塞よ!」 マルタも叫んでいた。大声を出さなければやっていられなかった。彼女は何でも良いからとにかく大声を出すことで正気を保とうとした。「ヴェステルプラッテ要塞はナチス・ドイツの侵略に対して勇敢に抵抗したの! 1939年9月1日、ヘンリク・スハルスキ少佐とフランチシェク・ドンブロフスキ大尉に率いられたたったの200人の兵士たちが、10倍以上の敵と戦艦一隻に対して決死の抵抗を……」 叫んでいるうちにマルタは次第に興奮してきた。彼女の言語はだんだん日本語からポーランド語へと変化していった。双子が口を開いた。桜子が言った。「Przepraszam. Nie rozumiem.(ごめん、わからない)」 薫子が続いた。「Przepraszam. Nie mówię po polsku.(ごめん、ポーランド語分からない)」 マルタは口を閉じた。双子のポーランド語の発音は酷すぎてほとんど何を言っているのか分からなかったが、そこはかとなく感じる祖国の言語の響きは彼女に落ち着きを取り戻させるのに充分だった。

 

「この魔女野郎(ヤロウ)様!」 突然、危懼子は魔女の肩を掴んだ。「な、なに!? なんなの!?」 魔女は狼狽した。魔女の心臓はどきどきと早く鳴っていた。油断していたところに突然先生から指名された時のように、胸は早鐘を打っていた。しかしその胸はどこまでも平坦だった。そんな魔女に対して危懼子は短く、しかしものすごい形相で言った。「吐け!」「はぁ!?」「吐け、この魔女野郎(ヤロウ)様が! あなたが吉祥寺をマジノ線にしたのでしょうが!」 魔女は首をぶんぶんと左右に振った。「私じゃないわよ! ていうか、どうして私なのよ!」 危懼子はなおも肩を掴んだまま言った。「だってあなたの名前、マジノ線マジ子じゃないですか!」 魔女は危懼子の手を振りほどいた。「私は間地小路(まじのこうじ)真蒔子(まじこ)よ! マジノ線でもジークフリート線でもない!」 魔女は杖を危懼子に向けると、怒りに任せて魔法を発射した。やってもいないことについて犯人扱いされるのは名家の出身である彼女にとって耐え難いほどの恥であった。「ぼとぼとぼと」と牛が排泄するような音を立ててプラットフォームの床に大量のナタデココが落ちた。「ああ、もったいない」とメイドが言った。危懼子はそのナタデココの量の多さに目を(みは)った。それによって魔女の怒りの程度の激しさを理解すると、彼女は素直に頭を下げた。「……申し訳ございません。失言でしたわ。お許しくださいませ。いくら間地小路様が自己顕示欲の強いたった15歳の小娘とはいえ、吉祥寺をマジノ線にするような恥知らずで意味不明で無駄そのものといえる真似をするわけがございません」 魔女は苦い顔をしたが、謝罪を受け入れた。「分かればよろしい」

 

 微小妄想に苦しめられている毛虫の電車はいつの間にか去っていた。その代わりに「しゅっぽしゅっぽ」という音を立てて、機関車が渋谷方面からやってきた。危懼子たちは視線を転じた。機関車は毒々しいショッキングピンクに塗装されていた。機関車の正面には能面(のうめん)がついていた。能面は女面(おんなめん)であった。「なんで?」 マルタの疑問の声は砲撃の爆音に掻き消された。機関車は巨大な大砲を牽引(けんいん)していた。双子がそれを見て言った。「あれは、九〇(きゅうまる)式二十四(センチ)列車加農(カノン)」「重量136トン」「フランスのシュナイダー社製」 しかし双子は首を左右に振った。「でも私たちは女子高校生だから」「兵器については詳しくない」「私たちはミリオタではない」「残念」

 

 列車砲もまたショッキングピンクで塗装されていた。遠目から見ればさながら玩具のように思われるだろう。列車砲には青い服を着た人々が乗っていた。マルタはなんとなくその服装に見覚えがあった。ややあって、マルタは理解した。「あ、あれは動物園の飼育員の服装だわ」 マルタは故郷ポズナンの「新動物園(Nowe Zoo)」を思い出していた。それは彼女と同じ名前の湖のほとりにある広大な動物園であった。「おうちにかえりたい」 マルタは悲痛な声で言った。マルタはホームシックであった。

 

 動物園の飼育員の服装をした列車砲の操砲(そうほう)要員たちは、きびきびとした動きで砲に砲弾を装填し始めた。砲弾はサルであった。ニホンザルのオスであった。サルは「ウッキッキ!」と鳴き声をあげていた。どことなく嬉しそうな声だった。行儀良く手足を縮こまらせたサルは装填棒(ランマー)によって巨大な砲身へと押し込まれた。「ウッキッキ……」 サルの鳴き声は聞こえなくなった。その後、真っ白な巨大な繭のような装薬がまた押し込まれた。実際、それは巨大な繭だった。それは(カイコ)の繭だった。操砲要員たちは汗みずくになって働いた。砲兵とは力仕事なのである。砲弾(サル)装薬(カイコ)が砲身内に収まると、彼らは隔螺(かくら)をぐるぐると回して閉めた。銭湯の煙突のように長い帽子をかぶった指揮官が「発射ぁっ!」と声をあげた。次に来るであろう轟音と衝撃を予想して思わず危懼子たちは身構えたが、その瞬間には砲手が「てぇっ!」と鋭く叫んで拉縄(りゅうじょう)を引いていた。

 

 轟然たる発砲音と共にサルが砲身から発射された。発砲煙はサルと同じ茶色だった。「キッキー!」と陽気な鳴き声を上げてニホンザルのオスは意気揚々と吉祥寺要塞へと飛んでいった。空中で真っ赤な尻が真っ赤な軌跡を描いた。数秒も経たずにサルは要塞に着弾して大きな爆発音と共に膨大な爆煙を巻き起こした。しかし要塞にはなにも効果がないようだった。列車砲の操砲要員たちはいっせいに溜息をついた。指揮官が呟いた。「やはりニホンザルでは駄目か」 指揮官は煙草に火を点けた。それは黒いパッケージのセブンスターであった。「マンドリルだったらうまくいったかもしれないが」「隊長、次はチンパンジーにしましょう」 次の瞬間、列車砲は要塞からの反撃の砲火を浴びて砕け散った。空中高くに無数のピンク色の破片が火山の爆発のように噴き上げられた。積まれていた装薬のカイコが誘爆し、中からカイコが成虫となって飛び出してきた。いや、飛び出そうとしていた。しかしカイコはばたばたと羽を羽ばたかせ、のろのろと地上を這うだけであった。カイコに飛ぶ能力はないからである。家畜化された昆虫の哀れな姿であった。「むごい光景だ」とメイドが重々しい口調で言った。「戦争というのは嫌なものだな」

 

 列車砲は破壊されたが、機関車は無事だった。突然、女面(おんなめん)をつけた機関車がなにかを唸り始めた。「『運ぶは遠き陸奥(みちのく)のその名や千賀(ちか)塩竃(しおがま)(しづ)塩木(しおき)を運びしは、阿漕(あこぎ)が浦に引く(しお)」「なに? 今度はなんなの?」 マルタが疲れ切った声で言った。双子は顔を見合わせた。機関車が口にしているのは紛れもなく謡曲『松風』の一節であった。金春(こんぱる)流である。桜子が口を開いた。「『その伊勢の、海の二見の浦、ふたたび世にも出でばや』」 薫子が後に続いた。「『松のむら立ち霞む日に、汐路(しおぢ)や遠く鳴海潟(なるみがた)』」 双子は声を揃えた。「『それは鳴海潟、ここは鳴尾(なるお)の松蔭に月こそさはれ芦の屋』」 得たりとばかりに機関車が双子の後を継いだ。「『(なだ)の汐くむ()き身ぞと人にや(たれ)黄楊(つげ)の櫛』」 双子が続いた。「『さし来る汐を汲み分けて、見れば月こそ桶にあれ』」 機関車が能面の下から声を発した。「『これにも月の入りたるや……』」

 

 機関車は最後まで歌うことができなかった。要塞から放たれた大口径砲弾が機関車を直撃したからであった。無粋な砲弾は分厚い鋼板で出来たボイラーを貫通し、装着された遅延信管が砲弾をその中で炸裂させた。機関車は真っ白な水蒸気を悪い冗談であるかのように撒き散らすと大爆発を起こした。重い破片に混ざって、軽い女面(おんなめん)がふわりふわりと宙を舞い、やがて地面に落ちてカラカラと乾いた音を立てた。マルタが言った。「優れた歌というのはその意味が理解できなくてもなんとなく感動を巻き起こすものよ。さっき機関車と双子が歌っていた歌を私はまったく理解できなかったけど、なんとなく感動したわ」 メイドが頭をかいた。「それはすごいな。はっきり言って、私は途中で飽きていた。途中で何度スマホを取り出そうかと思ったことか。しかしそれは失礼にもほどがあるから我慢したが」 命賭が言った。「シスター・マルタはすごいね。私はオペラも能もいつも寝ちゃうよ。オペラも能も絶対に催眠音波が仕込まれてるって」

 

 危懼子が言った。「それにしても、あんなに大きな列車砲でも要塞が破壊できないとは……」 魔女が言った。「いや、サルじゃ要塞を破壊できないでしょ」 どことなくその言葉は焦点からずれていたが、誰もそれにツッコまなかった。先ほど目の前で繰り広げられた大破壊劇にみんな大なり小なりショックを受けていたからである。命賭が口を開いた。「ていうか私たち、どうしたら良いのかな。私、中央線に乗らないと家に帰れないんだけど」 命賭の家は国分寺(こくぶんじ)にあった。国分寺は吉祥寺から5駅目にある。危懼子も言った。「それをおっしゃるなら私もこのままでは帰れませんわ。私の家は三鷹(みたか)にありますから」「私は武蔵境(むさしさかい)よ」とマルタが続いた。双子も頷きつつ言った。「私たちは総武線で」「東中野へ」 魔女が口を開いた。「私も三鷹……」

 

 しかし魔女がすべて言い終わる前に危懼子がまた口を開いた。「私は最悪の場合ここからタクシーに乗れば家に帰れますが、他の方々のご帰宅のことを考えるならば自分のことばかりも言っていられません。どうにかしてJRのプラットフォームへ行かなければ」 メイドは仁王立ちして腕を組んでいた。彼女の大きく柔らかい胸はこの狂乱の(ちまた)にあって豊かな生命力を誇示していた。「それじゃあ、ここで四の五の言っていないで、さっさと改札を出てJRの方へ向かおう」 その時、突如として彼女たちの(かたわ)らに落ちていた女面が声を発し始めた。「『これにも月の入りたるや、嬉しやこれも月あり。月は、一つ、影は、二つ……』」 だが、女面の声は強制的に中断させられた。間抜けな音を立てて飛来した砲弾が落下して女面を粉々に砕いたからであった。メイドが言った。「はやくここを離れないと気がおかしくなりそうだ」 危懼子が答えた。「そうですわね。とりあえずJRの改札へ向かいましょう。その後のことは行ってから考えましょう」 少女たちは互いにぴったりと寄り添い、ネックレスから発される黄金の光のドームから出ないようにして、京王井の頭線吉祥寺駅の構内を歩き始めた。

 

 他の利用客たちは砲撃を浴びながらも平然と歩いていた。彼らは一様に無表情だった。一種異様な感じを受けるほど無表情だった。しかしそれはこの状況下において特別にそのように感じられるだけであって、あるいは彼らはいつもそのような無表情をして駅を歩いているのかもしれなかった。

 

 ある中年のサラリーマン風の利用客は砲撃を浴びると吹き飛ばされ、また何事もなかったかのように立ち上がった。全身がピンク色に染まっていた。別の大学生風の女性利用者は匍匐(ほふく)前進をして改札口へと向かっていた。見事な匍匐(ほふく)であったが、女は砲弾のあけた穴に落ちた。女は穴から出てこなかった。危懼子らと同じように一団となって歩いている、黒い学生服を身に纏った中学生たちは、どこかから放たれた機関銃の一連射を食らってバタバタと地面に倒れ伏した。しかし彼らはすぐに立ち上がると平然としてまた歩き出した。「やっぱさぁ、地理の大田原(おおたばら)ムカつくよな」と一人が仲間に対して言った。「今朝、階段でばったりあった時に、ちょっとだけ挨拶するのが遅れたらものすごく怒鳴られたんだよ。『挨拶できない奴は人間じゃない!』って。こっちはこっちで考え事してただけなのにさ」 仲間の一人が千切れた鉄条網を足で()けながらそれに答えた。鉄条網はひじきだった。「大田原(おおたばら)は今年からレスリング部の顧問らしいぜ。レスリング部の連中は気の毒だよな」 中学生たちはまた機関銃を食らった。機関銃弾は美しい青色の軌跡を描いて彼らに降り注いだ。彼らは全身が真っ青になったが、また歩いて行った。「今日の吉祥寺はなんか変だな」と一人が言った。他の一人が言った。「そうか? 吉祥寺はいつも吉祥寺だろ」

 

「中学生っていうのはお気楽よね」と魔女が言った。その言葉にはようやく中学校という前期中等教育段階を抜け出した自分自身に対する誇りと、まだ前期中等教育段階に(とど)まっている者たちへの少なからぬ嘲りの感情が見え隠れした。「なにが『吉祥寺はいつも吉祥寺だろ』よ、まったく。明らかに変じゃない!」「しーっ、真蒔子(まじこ)様!」 危懼子がその言葉を制した。「いったん変だと言い始めたら、もう収拾がつかなくなりますわ。確かに今の吉祥寺はありとあらゆるところがおかしなことになっておりますが、いちいちツッコミ始めたらそれこそあの毛虫の電車みたいに精神を病みかねません。ここはもう、すべてを『そういうものだ』と捉えて乗り越えるしかありませんわ」 その時、目の前で砲弾が炸裂し、黄金のドームを激しい衝撃と爆風が襲った。煙の色はけばけばしい赤色であった。いまさらながらマルタは恐怖を覚えた。彼女はぶつぶつと聖書の一節を呟いた。「『神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに、たとい地は変わり、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない』……」 双子が補足した。「『詩篇』第46篇第1節から第2節」 危懼子が言った。「たとい電車が毛虫に変わり、吉祥寺は要塞に移るとも、私たちは恐れない。ええ、恐れるものですか」

 

 ようやく彼女たちは改札口に辿り着いた。右手方向にあるトイレはゲームセンターになっていた。メダルゲームのマシンが滝のようにメダルを吐き出しており、メダルと同じ金属色の肌をした店員がそれを箒と塵取りで掃き集め、「ああ肩が凝る」と言っていた。メダルゲームのマシンの向こう側には競馬のゲームがあった。ゲームには人だかりができていた。「ハンクブコウスキ」という名前の馬が一番人気なようだった。ハンク・ブコウスキーはアルコールと競馬に耽溺していたアメリカの作家である。「ツッコんではいけませんわ」と危懼子が注意を促した。「キリがなくなります」 しかしそういう危懼子自身がツッコみたくてうずうずとしていた。

 

 危懼子たちは改札に近づいた。しかし自動改札機はすべて素焼きのたぬきの置物に置き換わっていた。素焼きのたぬきの目は人間の目をしていた。フレッシュな輝きを放っていた。目は充血していた。ぎょろぎょろと目を動かしてたぬきは危懼子たちを見つめた。魔女が叫んだ。「コラァ! 見せもんじゃねぇぞ!」 ロリ声の脅しに気圧されてたぬきたちは一斉に目を伏せた。たぬきは臆病な生き物だからである。「どこにカードをタッチしたら良いのかしら」とマルタが言った。少女たちはしばらくあたりを見回した。するとちょうど改札口の中央に、燕尾服を着た男性が手を差し伸べて立っていた。その手のひらにはタッチ部があった。「ここにタッチすれば良いのかしら?」と危懼子が訊くと、燕尾服の男性はどこか荘厳な様子で頷いた。そして、その見た目からは想像もできないほどの甲高い声で「ヴィソントラーターシュラ!(Viszontlátásra!)」と叫んだ。それはハンガリー語であったが、少女たちは誰も(言語に堪能なマルタでさえも)ハンガリー語を理解できなかった。彼女たちは次々とカードをタッチして改札口を出た。

 

「井の頭線を抜けたのは良いけど、この後どうしたら良いのかな」と命賭が言った。彼女たちは今、降りのエスカレーターに乗っているところだった。「どうも嫌な予感がする」とメイドが口を開いた。「駅というのは嫌な予感がする場所なんだ」 魔女が言った。「そんなことを言ったら私なんて駅だけじゃない、毎朝おうちのトイレにいる時から嫌な予感がしきりと……」

 

「私に任せなさい!」と、突然声がした。それは若い女の声だった。少女たちがその方向へ視線をやると、そこにはいやらしいぐらい真っ黒のスーツとズボンと占領軍司令官ダクラス・マッカーサーが着用していたようなごっついサングラスをかけた女が立っていた。

 

「ひえっ」 全身黒ずくめの女の声を聞いて、ネックレスが小さな悲鳴をあげた。

 

 女は胸を張って言った。「安心して! 私があなたたちを導いてあげるわ!」 しかし女は上へと運ばれていった。女は昇りのエスカレーターに乗っていたからである。

 

「あっ、ちょっと! ちょっと待ってー!」 慌てている女の姿はどんどん上方へと遠ざかっていく。

 

 双子が言った。「たちわかれ いなばの山の 峰に()ふる」「まつとし聞かば 今帰り来む」 「またそんな大袈裟な……」と魔女が言った。それは在原行平の歌であった。魔女はお嬢様なので和歌の嗜みがあった。

 

(つづく)




次回をお楽しみに!(ちなみにハンガリー語は「またお越しください!」くらいの意味です。たぶん)


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第14話 空きっ腹の少女たち

 危懼子たちはエスカレーターを降りた。そして、上へと行ってしまった黒ずくめの女を待った。しかし女はなかなか降りてこなかった。数分が経過した。命賭が困惑したように言った。「どうしたのかなぁ。上でなにかあったのかなぁ」 メイドが頷いた。「今、この吉祥寺では何が起きてもおかしくはない。気になるな」 危懼子が言った。「このまま待っているのも性に合いません。こちらから昇っていって迎えに行きましょう」

 

 その時、ネックレスが弱ったような声で言った。「あの……できることならですが、あの女性は無視して先に行きませんか? 私、あの女性とは会いたくないというか、気が進まないというか……ほら、JRの改札はすぐそこです。さきほどの井の頭線よりも混乱していないようですし、さっさと行ってこのまま帰りましょうよ」 ネックレスはあからさまに黒ずくめの女性を嫌がっているようだった。

 

 確かに危懼子たちが今いる吉祥寺駅2階フロアは平常といえば平常だった。彼女たちの左手前方にはJR線の南口改札が見えていた。しかし、その前には盆踊りの(やぐら)が組まれていた。櫓の骨組みはギラギラとしたアルミニウム製だった。櫓からは四方に向かって(ロープ)が伸びており、無数の提灯が吊るされていた。提灯には「精巣」「尿管」「恥骨」などと書いてあった。浴衣を着た人々が櫓の周りに集まり、太鼓の音とスピーカーから流される音楽に合わせて踊っていた。マルタが呆れたように呟いた。「日本人ってどうしてこんなに盆踊りが好きなのかしら」 音楽はエクトル・ベルリオーズの「葬送と勝利の大交響曲(Grande symphonie funèbre et triomphale)」であった。ちょうど第一楽章の「葬送行進曲」が演奏されていた。陰鬱な雰囲気が漂っていた。

 

 櫓の上にはあの気難しい顔をしたベルリオーズが乗っており、和太鼓を一心不乱に叩いていた。よく見ると、それはベルリオーズ本人ではなかった。ベルリオーズの仮面を被った中年の男性だった。仮面は安っぽいプラスチック製だった。双子が頷いた。「お祭りに仮面はつきもの」 興が乗ってきたのか「YEAH!(ヤー!)」と叫び声をあげて、偽のベルリオーズはヘ短調を無視して力任せに和太鼓をばちで殴った。次の瞬間、和太鼓が「いってぇんだよ!」と叫んで偽のベルリオーズを殴り返した。メイドがその場にいる全員の気持ちを代弁するように言った。「あの中を通っていくのか? あまり愉快そうではないな」 ネックレスが言った。「確かに愉快そうではありませんが、そんなことを言ったら人生そのものだってあまり愉快なものではありませんよ。高校生にはそんなことは思いもよらないかもしれませんが。さあ早く行きましょう」

 

 しかし、危懼子はネックレスを強く握り締めた。「いいえ、そういうわけにもいきません。私たちはあの真っ(くろ)くろの女性に会って話をする必要があります。あの女性は『私があなたたちを導いてあげる』と確かに言いました。彼女はこのおかしくなってしまった世界において正気を保っている人物だと思いますし、そしてどうして世界がここまでおかしくなってしまったのかについて説明をしてくれる人物であるとも思います」 危懼子はいったん言葉を切った。そして、力強い口調でまた言った。「そうですわ! 私たちにはそろそろ何かしらの『説明』が必要です! いい加減、私は説明のないままにこの狂乱の(ちまた)を歩くのに疲れました。黄金のカタツムリ様はあの女性と何か深い因縁をお持ちなのでしょうが、私は女性に会います!」「そうですか……」 ネックレスは沈黙した。危懼子はまた昇りのエスカレーターに乗った。彼女以外の少女たちもまたエスカレーターに乗った。

 

「やめてぇ! 返してぇ!」 上に昇った危懼子たちが見たのは、意外な光景だった。黒ずくめの女性は確かにそこにいた。彼女は五人の男に囲まれていた。男たちは鉄骨のように頑丈そうな見た目をしており、身長は2メートル近くあった。全員が黄色とパープルの太い縞模様のラガーシャツとラガーパンツを身に纏っていた。そして首がなかった。女を囲みながら、大きなラガーマンたちは何かをパスし合っていた。それは首だった。首は一個だけだった。首はサングラスをかけていた。占領軍司令官ダクラス・マッカーサーが着用していたようなごっついサングラスだった。それは女が先ほどまでかけていたサングラスであった。

 

 ラガーマンたちは熟練した手つきで首のパスを続けていた。「やめてぇ! 返してぇ!」 女はおろおろとして泣いている。泣いている女の顔は美しかった。歳の頃は20代前半と思われた。20代前半といえばまだ小娘といっても差し支えないが、高校生からすれば充分立派な大人のお姉さんである。

 

 呆然としながらその光景を見ていたマルタが、やがて得心したように言った。「あの首、どこかで見たことあると思ったけど、アレだわ。洗礼者ヨハネの首。ホセ・デ・リベーラの描いた『洗礼者ヨハネ』の首そっくりだわ」 確かにそれは洗礼者ヨハネの首であった。サングラスによってその目は隠されていたが、その口元は自己の運命を受け容れつつもなお何かこの世に言葉を残そうとしているかのように半開きであった。その半開きの口を開いて首が言った。「『悔い改めよ、天国は近づいた』」 双子が補足した。「『マタイ福音書』第3章第2節」 マルタは頷いた。「ほら、やっぱり。あれは洗礼者ヨハネの首よ」

 

「返してぇ! サングラスを返してぇ!」 女は泣いていた。命賭が頭をかきながら言った。「まあ、なんていうか、その……見るからに困ってるみたいだし、助けてあげないといけないとは思うんだけど、でもどうやって助けたら良いのかなぁ」 メイドが言った。「相手はラガーマンだ。おまけに5人もいる。ラガーマンは一人だけでもアライグマのように手に負えない存在だ。どうしたものかな」「こういう時は、まず挨拶ですわ」 危懼子はそう言うと、つかつかと歩みを進めて、丁寧にお辞儀をしてから言った。「ごきげんよう、ラガーマン様たち。見事なパス回しでございますわね。それだけの技術がおありならばきっと南アフリカにも勝てますわ。私、感嘆の念を覚えます。ですが、スポーツマンたるあなた方がうら若い女性を泣かせるのはまったく感心できることではありません。はやくサングラスを返してあげてくださいまし」

 

 ラガーマンたちは一瞬だけ動きを止めて、危懼子の方に体を向けた。しかしまたパス回しを再開した。危懼子が毒づいた。「このラガーマン野郎(ヤロウ)様たちが……こちらが下手(したて)に出ていればつけ上がりやがりますこと……!」 危懼子は紛れもないお嬢様であるが短気でもあった。それは同じくお嬢様である魔女も同様だった。魔女は叫んだ。「ええい、じれったいわね!」 そう叫ぶと魔女は杖を構えて、魔力を放出した。「これでも食らえ!」 (ヒツジ)(ふん)を排泄するような音を立てて杖から大量のナタデココが出てきた。ナタデココはぼとぼとと地面に落ちた。

 

「あっ! ナタデココ!」と洗礼者ヨハネの首が叫んだ。「俺、ナタデココ大好き!」 首がそう叫ぶのと同時に、首を持っていたラガーマンが首を小脇に抱え、ゴールラインに突進するかのような猛烈な勢いでこちらに向かって走り始めた。「うわ!」と少女たちは驚きの声をあげてそれを避けた。「ナタデココ! 俺、ナタデココ大好き!」と小脇に抱えられた首が叫んでいる。やがてラガーマンはナタデココに到達すると、さっと首を持ち上げて身を投げ出した。洗礼者ヨハネの首が「トライ!」と叫ぶのと同時に、ぐしゃっというスイカが潰れるような嫌な音が響いた。それは首が地面に叩きつけられた音だった。衝撃で首がかけていたごっついサングラスが宙に舞った。「おっと」メイドがそれを素早い動きでキャッチした。

 

 一連の出来事を眺めていたマルタは、果たして洗礼者ヨハネの首が無事であるか心配になった。なにせ洗礼者ヨハネはかの預言者イザヤによってその存在と役割とを預言され、ヨルダン川でイエス様に洗礼を授けた偉い人である。だが、首は無事だった。首は地面に転がりながら「美味い! 美味い!」と叫びつつ舌を伸ばしてナタデココを(むさぼ)り食っていた。「洗礼者ヨハネがナタデココ好きだなんて知らなかったわ」とマルタは言った。そう言いつつ、マルタの心はその首が洗礼者ヨハネであると信じるのを頑なに拒んでいた。

 

 5人のラガーマンたちは今や黒ずくめの女から離れ、ナタゴココの山を取り囲んでいた。「美味い! これ好き!」という洗礼者ヨハネの声を後にして、危懼子たちは地面にしゃがみ込んでいる黒ずくめの女のもとへ向かった。メイドがサングラスを差し出した。「ほら、はやくサングラスをかけると良い」「わあ……!」 女はサングラスを受け取るとハンカチをポケットから取り出して丁寧にレンズを拭き、そして顔にかけた。サングラスが戻ったことで、女は身も心もシャキッとしたようだった。

 

 女は立ち上がると元気な声で言った。「ふう……やっぱりサングラスがないとダメね。あなたたち、どうもありがとね!」 女はちょうど危懼子と同じくらいの身長だった。女は危懼子の首からさがっているネックレスを見つめた。サングラスのゆえにその視線の動きは分からなかったが、明らかにネックレスに興味を持っているのがその雰囲気から察せられた。女は言った。「ようやく見つけたわ、『オルガノン』よ。ああ、ここまで長い道のりだった。具体的に言うと群馬県前橋駅から吉祥寺駅までだいたい2時間半の道のりだった……」「ひえっ」とネックレスが声をあげた。

 

 命賭が首を傾げた。「えっ、なに? 『オルガノン』? なにそれ?」 双子が言った。「『オルガノン(ὄργανον)』というのは」「古典ギリシャ語で『道具』を意味する言葉」「アリストテレスの論理学の著作群のことも『オルガノン』という」「『範疇論』とか」「『命題論』とか」「『分析論前書』とか」「『分析論後書』とか」「真理の探究のために使う『道具』という意味」 黒ずくめの女が頷いた。「アリストテレスについては私も詳しくないけど、そう、オルガノンが道具というのは合っているわ。私が『道具』と言うのは紛れもなくそのネックレスについてです。いえ、なんでネックレスになっているのか私も分からないんだけど、とにかく『オルガノン』というのはそのネックレスのことです」

 

 ネックレスが突然叫んだ。「いいえ、私は『オルガノン(道具)』ではない! 私は神です!」「うわっ」 胸の上で突然大きな声を出された危懼子はお嬢様らしからぬ声をあげた。ネックレスはなおも叫んだ。「私をどうしようというのですか! この『悪魔』め!」 黒ずくめの女は見るからに動揺した。「ちょっと! 『悪魔』だなんて人聞きの悪いことを大声で言わないで! 私は『悪魔』じゃないわ! むしろその逆よ!」 ネックレスはなおも反駁した。「いいえ、あなたは『悪魔』です! そうでなければなぜあの時『天使』が私を逃がしたのか……」

 

 口論を続ける黒ずくめの女とネックレスを、少女たちは途方に暮れたように見ていた。メイドが腕を組んだ。「なんだか話が紛糾してきたな」 命賭が言った。「なんだかだんだん、すごーく面倒くさい話になってきた気がするよぉ」 マルタも頷いた。マルタは周囲を見回してから言った。「そうね。なんだかすごく面倒くさい話のようね。でも、言い争っているところ悪いんだけど、いったんここから離れたほうが良いと思うわ。ほら」 マルタが指さした先には輸送列車が止まっていた。翁面(おきなめん)を被った機関車に4両の貨車が連なっており、貨車の中からぞろぞろとラガーマンたちがプラットフォームへ降りてきた。ラガーマンたちはいずれも首がなかった。彼らは何かをパスし合っていた。それは丁髷(ちょんまげ)を結った壮年の男の首だった。双子が言った。「あれは」「たぶん大老井伊直弼(いいなおすけ)の首」「げげっ」 黒ずくめの女はぎょっとしたようだった。危懼子がそんな女を見て、提案するように言った。「黄金のカタツムリ様もあなたもそれぞれに言い分があるようですし、ここはひとまず場所を移して、それから落ち着いて話し合うというのはどうでしょう。それに私たちも説明して欲しいですし」「分かったわ」と女は答えた。「では、どこかに場所を移しましょ!」

 

「やべっ!」と双子が突然叫んだ。双子は抱き合った。大きな胸が正面衝突し、柔らかく形を変えている。「えっ、なになに!? どうしたの!?」と黒ずくめの女が驚いて言った。「燃料切れ、行動不能」と桜子が言った。薫子が続いた。「至急燃料補給を要請する」 そう言うと双子は互いを抱く腕の力をさらに強めた。その様子からは燃料が補給されない限り一歩も動かないという固い決意が感じられた。「ええ……」とマルタが声を漏らした。しかし同時に、マルタの腹が「ぐぅう」という音を発した。それは医学的には空腹期収縮(くうふくきしゅうしゅく)と呼ばれる現象の際に鳴る音であった。マルタは顔を赤らめた。「ごめんなさい。私もお腹が減ったわ。燃料補給が必要みたい」

 

 女子高校生が必要とする一日のカロリー量はだいたい2,000キロカロリーである。これは力士一人が一日に必要とするカロリー量のだいたい4分の1である。つまり力士は一人で女子高校生4人分から5人分の食事をすることになる。運動量が多い運動部所属の女子ならばカロリーはさらに10%から20%増しで必要となる。つまり2,200キロカロリーから2,400キロカロリーである。女子だらだら部はその活動であるだらだらに従事しているため必要カロリーは少なくて済むと考えるかもしれないが、しかし彼女たちのだらだらはただのだらだらではない。彼女たちはだらだらのエリートであり、そのエリート性にふさわしくだらだらをするのであるから、当然要求されるカロリーは一般的な水準よりも多くなる。

 

 あたかも時刻は20時前であった。彼女たちが昼食を食べてから8時間ほどが経過していた。これでは腹が減るのは当然である。成人男性でも何も食べないまま8時間も過ごすのはつらい。普段の彼女たちは健康的な女子高校生らしくおおむね19時頃に夕食を食べているのであるから尚更である。マルタの胃の空腹期収縮に合わせるように、命賭の腹も、メイドの腹も、魔女の腹も、そして危懼子の腹も音を立てた。今まで彼女たちは一貫して混乱した状況に置かれており、そのため精神が(たかぶ)っていたから空腹を忘れていたが、肉体はカロリーを要求することを忘れていなかった。危懼子が叫ぶように言った。「至急、燃料補給が必要ですわ!」 危懼子は危機感を覚えていた。空腹はお嬢様をお嬢様でなくしてしまう邪悪な魔力を有している。いつもは温厚な紳士が空腹時には悪鬼のような人間へと変貌するように、空腹時のお嬢様もまたその動作・言動が荒くなる。動作・言動が荒くなれば、理想的なお嬢様像に(もと)る行動をすることになりかねない。

 

 黒ずくめの女は空腹を訴える危懼子に向かって頷いた。「そうね。あなたたちくらいの年頃の女の子たちはちゃんと食べないといけないわ。食事を抜いていると内臓も骨格もちゃんと育たなくなる。どっかで食事でもとりましょ。私、吉祥寺には詳しくないんだけど、どっかに良いところはない?」 危懼子は左の方を手で指し示した。そこには「kirarina keio kichijoji」という看板があった。「あそこの京王キラリナに入りましょう。レストランというか、カフェというか、とにかくカロリーが補給できるところがありますわ!」

 

 黒ずくめの女が言った。「ねえねえ、私、ビールが飲みたいな。さっきたくさん泣いたから体から水分が抜けちゃった。ねえねえ、ビールが飲めるレストランはない? 美味しいビールが飲みたいな」 その口調は絶妙にウザかった。危懼子は女の腕を掴むと足音も荒く歩き始めた。「ビールだろうがウォッカだろうがエチルアルコールだろうが、いくらでも飲ませてやりますわよ! とっとと歩け! いや歩いてくださいまし! さあ、いきますわよ野郎(ヤロウ)共!」 彼女たちは歩いて京王キラリナの中へ入っていった。双子は最後まで抱き合ったまま動かなかったが、やがてメイドに引きずられていった。

 

 京王キラリナの中はいつもとあまり変わりがなかった。京王キラリナは全9階の巨大なショッピングセンターである。8階と9階には大手手芸用品店のYザワヤが入っており、各階には服飾店、雑貨店、スーパー、ネイルサロン、書店、旅行代理店、コンタクトレンズ店などが入っている。

 

 危懼子たちは現在3階にいた。入ってすぐ右手にお洒落なフランス風のカフェがあった。見るからに「ぼく、美味しいです」というふうな色とりどりのマカロンやクリームたっぷりのケーキが、入口近くのショーケースに並んでいた。しかし危懼子は首を振った。「三時のおやつならいざ知らず」と彼女は言った。「今の私たちに必要なのはもっとガッツリとしたカロリーですわ。お菓子は食事の代わりになりません。残念ながら」「同意するわ」と魔女が言った。「ビールもないみたいだし」と黒ずくめの女も口を開いた。「ねえねえ、ちゃんとビールが飲めるところに案内してね」 女の口調は絶妙にウザかった。どうやら女は今、ビールを飲むことしか考えていないようだった。

 

 そんな能天気な女の様子を見て、危懼子は苛立った。こちらが必死になって何かちゃんとした食事がとれそうなところを探しているのに、この女はビールを飲むことしか考えていない。自分はこんなにも空きっ腹を抱えているのに! 命賭がそんな危懼子の内心を推し量って言った。「お父さんとお母さんが休みの日に外出したらきまって喧嘩して帰ってくる理由が分かった気がするよぉ。二人はお昼まではきっと仲が良いんだけど、お昼になったら、お父さんは休日の昼間から飲むビールの美味しさしか考えなくなって、お母さんの方はどこか食べられるところはないかと必死になる。で、お母さんはだんだんお父さんの無神経さにイラつき始めるんだよね。『ビールビール言ってないで、あなたも一緒に考えて!』って。でもお父さんの方は『せっかくの楽しい外出なのになんでお母さんはイライラしているんだろう』って思うだけで、お母さんの苛立ちの原因が分からない」

 

 危懼子たちはいよいよ高まる空腹感と切迫感によって必然的にもたらされる、せかせかとした足取りでエレベーター乗り場の前まで来た。彼女たちはフロア案内図を見て、レストランらしきものを探した。メイドが嘆くように言った。「最近はお洒落重視のせいか、デパートやショッピングセンターの食事(どころ)はどこもかしこも『カフェ』と自称する傾向がある。しかし『カフェ』という表記から分かることは、そこが少なくともお茶とお菓子を出すだろうということだけで、本格的な料理やアルコールを出すかどうかまでは分からない。これはやはり問題だ。そもそも最初から堂々と『レストラン』と書いていてくれればこんなに悩まなくて済むのに」 双子が疲弊しきった声で言った。「『子、(のたまわ)く』」「『(かなら)()()(ただ)さん()』」 それは『論語』の一節であった。「子路第十三」の一節であった。

 

 メイドと双子の嘆きを聞き流しつつ、危懼子は素早く視線を動かした。彼女のお嬢様レーダーは出力最大で稼働していた。美味しいものを出す店、食欲も味覚も満足させてくれる店、彼女はそういう店を判別しようとしていた。彼女は単なる文字列から文字列以上のものを見出そうとしていた。やがて彼女は叫んだ。「ここですわ! 5階にあるこの南仏風のカフェ、ここにしましょう!」 重そうに杖を持っている魔女が言った。「その判断の根拠は?」「foodと書いてあります! さあ、エレベーターに乗りましょう!」 結局危懼子は文字列に素直に従ったのだった。空腹によって弱った頭脳ではそれが限界であった。むしろ「food」という語を見落とさなかったことは危懼子の優秀性を証明しているとも言えた。

 

 昇りのボタンを押すと、エレベーターはすぐにやってきた。軽いチャイムが鳴り綺麗な白いドアが開いた。危懼子はほっとして口を開いた。「さあ、乗りましょう……」 しかし、エレベーターには乗れなかった。エレベーターの中には巨大な肉塊(にくかい)がぎっしりと詰まっていた。「うげっ」と危懼子はお嬢様らしからぬ声をあげた。肉塊はピンク色だった。コイル線のように太い灰色の毛がところどころから生えていた。それはまるで火砕流を浴びた山の腹に生えている焦げた木々のようだった。魔女がキレた。「ざっけんじゃないわよこの畜生(チクショウ)が! なんでピンクの肉塊がエレベーターを占拠しているのよ!」

 

 よく見ると肉塊には小さな顔があった。その目はおどおどとした色を宿していた。肉塊は申し訳なさそうに言った。「Oprosti.(ごめんなさい)」 それはスロベニア語であった。スロベニア語の話者人口はわずかに220万人しかいない。220万人といえば新潟県の人口にほぼ匹敵する。しかしマルタはその言葉を理解した。彼女はスロベニア語を少し齧ったことがあった。「Saj je vseeno.(気にしないで)」 マルタが怪しい発音でそう言うと、肉塊は安心したような顔をしてそっと目を閉じた。目を閉じるのと同時にドアが閉まった。エレベーターは8階へと昇っていった。メイドが感慨深そうに言った。「8階といえばYザワヤがある。あの肉塊も手芸をするのかな」 だが、誰もメイドの言葉に反応しなかった。メイド以外の全員が既にエスカレーターへ向かって足を進めていた。

 

 エスカレーターは正常に動いていた。彼女たちはせかせかとステップに乗った。赤いハンドレールに身を預けるようにしながら、黒ずくめの女が言った。「ねえねえ、今から行く店にはちゃんとビールがあるかな。私、もう喉が渇いて渇いて。ああ、はやくビールが飲みたいなぁ」 苛立っている危懼子がぴしゃりと打つように言った。「知りませんわそんなこと。フロア案内図には『food』とは書いてありましたが、『alcohol』とも『beer』とも書いてありませんでした。最悪の場合、水でも飲んで我慢していただきます」「ええー」 黒ずくめの女は情けない声をあげた。「ぴっちぴちの健康的な肝臓を持っている女子高校生には分からないだろうけど、大人には食事と同じくらいお酒が必要なんだよ。空気や水と同じくらいお酒が必要なの。分かる? 分からないだろうなぁ」

 

 彼女たちはエスカレーターをいったん降りた。そこはまだ4階であった。彼女たちはまたエスカレーターに乗った。黒ずくめの女は赤いハンドレールを平手でぴしゃぴしゃと叩きながら歌い始めた。「はぁ~ビール、ビール、ビールが飲みたぁ~い♪ 天使も悪魔もビールが飲みたぁ~い♪ 神様だってビールが飲みたぁ~い♪」 その歌声は絶妙にウザく、少女たちを辟易(へきえき)とさせた。魔女が言った。「この女、ビールを飲む前から酔っぱらってるんじゃない?」 命賭が諦めたように言った。「酒飲みなんてだいたいそんなもんだよぉ」

 

 5階についた。少女たちは目的のカフェへ向かって歩いた。いまやその足取りは走るようであった。少女たちは突進した。カフェはちゃんとそこにあった。ショーケースには美味しそうなケーキと焼き菓子がぎっしりと行儀良く並んでいた。それを見て、一瞬だけ危懼子の脳裏に危惧の念がよぎった。ちゃんとした料理はあるのだろうか? しかし今更別の店を探すわけにはいかない。もうこの店に賭ける他ないのだ。店内に足を踏み入れた彼女たちに、若い女性の店員が明るい声をかけてきた。「いらっしゃいませ。8名様ですか?」 危懼子は呼吸を整えると、お嬢様らしい優雅な態度で答えた。「ええ、8名ですわ」 店員はにっこりと笑った。「今、お席を用意しますので、しばらくお待ちください……」

 

 しかし、店員が言い終る前に、黒ずくめの女が口を開いた。「ねえねえ、このお店、喫煙席はある?」 店員はわずかに顔を曇らせた。「すみません。当店は全席禁煙となっております」「ええー」と女は情けない声をあげた。「私、煙草吸いたいなぁ」

 

 ここに至って危懼子は猛然とキレた。彼女は静かに、しかし満身に漲る怒りを込めて、メイドに言った。「メイド、やっておしまいなさい」 メイドは頷くと、「ちょっと」と黒ずくめの女に声をかけて店外へと連れ出した。店外に出たところで、メイドは女にヘッドロックをかけた。メイドも怒っていた。「『東京都受動喫煙防止条例』と『改正健康増進法』が全面施行されたのを知らないのか、この野人(やじん)が!」

 

「いててて! 痛い痛い! やめて!」 頭蓋骨が軋んで苦痛に悶える叫ぶ女の顔から、危懼子がサングラスを奪い取った。女は悲鳴をあげた。「あっ! サングラス返してよぉ!」

 

 危懼子は言った。「黙りやがれですわこの腐れ喫煙者(スモーカー)が! このサングラスはしばらく預かります! 次にワガママを言ったらサングラスをへし折りますわ!」

 

「お席の用意ができました。どうぞ」 店員が声をかけてきた。彼女たちは席へと向かった。

 

(つづく)




次回もお楽しみに!(字数が減らない……)


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第15話 酔いどれ天使

 知らない店に入って知らないメニューを開くその時こそ、まさに緊張の一瞬であると言える。メニューは合成皮革の革張りで、ラミネート加工された綺麗なページが何枚もその中に納まっている。その中に自分が食べたいものが果たしてちゃんとあるのか? なかった場合、どうすれば良いのか? もう席には着いてしまった。水もおしぼりも出されている。もう店員は自分のことを「客」として認識しているだろう。金と儲けをもたらす「客」として、また職業意識を発揮しておもてなしをするべき「客」として、席に着いたその瞬間から自分はそのように店側に認識されている。メニューを見る。しかし、食べたいものがない。その時、「この店に私の好む料理はないようなので、申し訳ありませんが店を出ることにいたします」と店員に言うのは非常に難しい。

 

 だが、危懼子たちは幸運だった。席に着いた彼女たちはメニューを開くと、そこに美味しそうな「しっかりとした」料理が並んでいるのを確認した。正直なところを言うと、メニューの最初の3分の2まではケーキやフレンチトーストやパンケーキなどのスイーツ類が記載されていたので彼女たちは焦ったのであるが、残りの3分の1にはちゃんと料理が表示されていた。料理はパスタの類が多かった。危懼子は「やはりこの店は本質的にはカフェなのだろう」と思ったが、今はそのパスタ類の豊富さがありがたかった。若者はパスタであるならばなんでも嬉しがるものである。歳をとってくるとそうはいかない。どうしても糖質が気になる。食べれば血糖値が爆上がりする。食物繊維が少ない。肝心のタンパク質とビタミンは? こういったことを大人は気にしてしまう。まことに愚かな生き物である。

 

 危懼子たちは空腹だった。空腹が決断力をもたらした。普段の女子高校生ならばもっとだらだらとおしゃべりをし、時間をかけて何を注文するか決めるものであるが(なぜなら女子高校生にとってレストランでの会食は単なる栄養摂取ではなく、政治的行為の範疇に含まれるからである)、彼女たちはさっさと決めてしまった。危懼子は言った。「私はこのナスとパプリカのアラビアータにしますわ」 それは1,580円であった。命賭が言った。「私はこのチーズリゾットにするよ」 それも1,580円であった。マルタが言った。「私は海老のスープパスタにするわ」 それは1,730円であった。海老はやはり高いのだった。双子は無言でメニューを指さした。そこには「チキンとモッツァレラチーズのトマトソースパスタ」と書いてあった。それは1,580円であった。双子のエネルギーは既に枯渇しかけていたため、彼女たちは声を発することすらできなくなっていた。メイドが双子に尋ねた。「二人で別々のものにしないのか?」 双子は力なく首を左右に振った。危懼子がメイドに言った。「双子というのは訳もなく同じものを食べたがるものですわ。別々のものを注文して半分ずつ食べる方が経済的であるのは分かっているのに、なぜか同じものを注文してしまうのです。それが双子という生き物の悲しい習性なのですわ」「そうなのか」 メイドは頷くと、メニューを見ながら言った。「私はこの野菜が多そうな煮込みハンバーグにしよう」 それは1,580円であった。

 

 魔女が最後に言った。魔女は15歳の小娘らしく最後まで腕を組んで悩んでいたのだった。「私は『モッツァレラのフルーツカプレーゼ』にする……」 それは980円だった。魔女がそう言うと全員が魔女の方を見た。魔女は戸惑ったように言葉を発した。「な、なによ? 私が何を頼もうと私の勝手じゃない!」 危懼子が言った。「やはりまだお子様ね、真蒔子(まじこ)様は。おそらくは値段の高さに(おく)して、しかも『なんとなくお洒落なもの』を選ぼうとした結果その『モッツァレラのフルーツカプレーゼ』を選んだのでしょうが、残念ながらカプレーゼ(サラダ)では空腹は満たされません。それは前菜に過ぎないのですから。ちゃんとしたものを選んだ方が身のためですわ」 魔女は沈黙した。危懼子の言うことは尤もであると彼女は納得していた。そして、10秒ほど経った後に小声で言った。「じゃあ、『ベーコンと生ハムのチーズクリームソースのパスタ』にするわ……」 それは1,580円であった。危懼子は頷いた。「大いに結構ですわ。その名前だけでカロリーがバカ高いことが分かりますし」

 

 彼女たちの注文が決まると、離れたところからさりげなく様子を窺っていた店員がこちらへ近寄ってきた。危懼子はテーブルを挟んで向かい側に座っている黒ずくめの女に声をかけた。「ほら、あなたもいつまでもしくしくと泣いていないで、何か頼まれてはいかがですか? ビールが飲みたいのでしょう?」「うう……うう……」 情けない声を漏らしつつ女は泣いていた。女は声を絞り出すように言った。「サングラス……返してぇ……」 メイドが危懼子に言った。「泣かれたままではせっかくの食事がまずくなるし、いったんサングラスを返すのはどうだろう」 危懼子は首肯するとサングラスを女に返した。サングラスを顔にかけると、女は直前までとは打って変わった力強い口調で言った。「ビール!」 ビールはKリンのハートランドであった。一杯で780円であった。店員はそれぞれの注文を聞くと「少々お待ちください」と言って去っていった。店員は伝票を置いていなかった。命賭が言った。「伝票をテーブルに置いていかない店ってなんとなく緊張するよね。会計の時に混乱しないのかなって。店の方でちゃんと管理しているのは分かっているんだけど……」

 

 料理を注文してしまうと、彼女たちの空腹感は多少の落ち着きを見せた。まことに希望というものはすべてに作用する良薬である。遠くない未来にちゃんと料理が来るだろうという希望が身を裂くような空腹感を癒すのである。だが、そんな希望があっても料理が来るまでの時間は殊更に長く感じられるものである。ましてやその時間を沈黙のままに過ごすことなど、危懼子にはできなかった。危懼子は言った。「料理が来るまでに、軽くで良いですからこれまでの経緯についてお二人から話してもらいましょう」「そうね」と黒ずくめの女は答えたが、その口調はどこか上の空だった。女はビールのことしか考えていなかった。ネックレスは黙っていた。会話は始まらなかった。危懼子は苛立ったが、その状況を打開する方策は見当たらなかった。ちょうどその時、グラスに注がれたビールが運ばれてきた。黒ずくめの女は「あ、ビール! ありがとう!」と大きな声をあげた。彼女はグラスを店員の手から直に受け取ると、すぐに口をつけ、ぐいぐいと中身を飲み干し始めた。そして、店員が立ち去る前に空になったグラスを返し、「美味しかった! もう一杯お願いね!」と元気よく言った。店員はにっこりと笑って「かしこまりました」と答えた。

 

 ただビールと言ってもこの世には無数の種類のビールがある。しかしビール好きはそのようなことに頓着しない。彼らはビールならばなんでも好む。ワイン好きはよく「どこそこのワイナリーの何年産のものが良い」だの「ワインは葡萄畑の小路一本を挟んだだけで味が変わる、例えば……」だのと自分のワインに関する「高尚な」好みと知識を(頼まれもしていないのに)吹聴するが、それに比べるとビール好きはよほど無邪気で素直であると言える。黒ずくめの女もまたそうであった。

 

 そして、ビールによって力を与えられたのだろうか、彼女はようやくこれまでのことについて説明を始めた。女は危懼子たちを眺めてから言った。「まず、私の名前を名乗ったほうが良いのかな。でも、私に名前らしい名前なんてないんだよね。とりあえず、私のことは『天使(アンゲロス)(ἄγγελος)』とでも呼んでちょうだい」「嘘を言うな!」 それまで沈黙を保っていたネックレスが叫んだ。「うわっ」と危懼子が驚いた声をあげた。「突然大きな声を出さないでくださいまし! 空っぽの(ストマック)驚倒(びっくり)するではありませんか! 胃液(ガストリック・ジュース)逆流(リバース)したらどうするのです!」「すみません」 ネックレスが謝るのを聞いてから、「天使」と名乗る女はまた口を開いた。「『オルガノン』、あなたはまだ私のことを『悪魔(ダイモーン)(δαίμων)』だと思っているみたいね。まあそれも仕方ないか。生まれた時から()()()に私たちのことを悪魔だと言われ続けていたら、そう信じてもおかしくはない」 天使はやれやれというふうに首を振った。

 

「天使ねぇ」と命賭がのんびりとした声で言った。「そう言われても、私たちは現代っ子だからすぐに『はあそうですか』と信じることはできないよぉ」 現代っ子とはまことに罪深い存在である。天使はうんうんと頷いた。「それはそうでしょうね。人間っていうのは疑り深い生き物だから」 マルタが言った。「『ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った。「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」』」 双子は残された力を振り絞るように言った。「『ヨハネ福音書』……第24章第25節……』」 天使は言った。「そう、12使徒のひとりであるディディモのトマスは疑り深い性格で、イエスが復活しても実際にその目で見てみるまでは信じなかった。聖書はトマスだけが特別に疑い深い性格をしていたということを言っているのではない。そうではなくて、人間が一般的に有している『とにかく何でも疑ってみないと気が済まない』という厄介な性格を、トマスという象徴的な人物によって表現しただけ。だから、私もあなたたちに目で見ることができる証拠を示してあげる」

 

 そう言うと、天使はいきなり背中から大きな羽を生やした。羽は白鳥のように美しかった。薄暗い店内で、羽はきらきらとした霊妙な白い光の粒子を纏って輝いていた。天使の隣に座っていた双子と魔女が「うわっぷ!」という間抜けな声をあげた。顔に羽が覆いかぶさったからである。天使は笑いながら言った。「ほらほら、これでどう? これこそまさに天使の羽よ! 一目瞭然じゃない?」 天使はばっさばっさと翼を羽ばたかせた。光の粒子と抜け落ちた羽が粉雪のように店内を舞った。ちょうどそこへ二杯目のビールを持って店員がやってきた。「あっ、ビールありがとー!」 天使はビールを受け取ると至福の表情を浮かべて飲み始めた。店員は申し訳なさそうに天使に言った。「申し訳ございません、お客様。店内で翼を展開するのはご遠慮ください。他のお客様のご迷惑となりますので……」「あっ、そうなの? ごめんなさい」 天使は羽をしまった。しまわれていく過程で羽が勢い良く顔を(こす)ったため、双子と魔女は一斉に「へっきち!」とくしゃみをした。マルタがすかさず「Sto lat!」と言った。それはポーランド語であった。ポーランドでは誰かがくしゃみをした時に「Sto lat!」と言うのである。「お大事に」くらいの意味である。

 

「他に証拠はないのか?」とメイドが尋ねた。「今時、天使の羽くらいで信じるようなピュアな若者はいないぞ」 メイドの言葉に対して天使は困惑したような顔をした。「じゃあ、これでどう?」 天使は頭の上に輪光(ハロー)を浮かべた。それは天使という語から通常想起されるイメージそのものだった。輪光(ハロー)は蛍光灯よりも激しくギラギラと輝いていた。天使が言った。「ほら、これ、この輪光(ハロー)なら信じるでしょ。これ、私の意志で光ったり消えたりするんだよ。ほらほら」 天使が「カチカチカチ」と妙な声をあげた。それに応じて輪光(ハロー)がチカチカチカと明滅した。薄暗い店内が白い光で照らされたり照らされなかったりした。店員がまたやってきて言った。店員は三杯目のビールを持っていた。「申し訳ございません、お客様。店内で輪光(ハロー)を展開するのはご遠慮ください。他のお客様のご迷惑となりますので……」「あ、そうなの? ごめんなさい」 天使は輪光(ハロー)をしまいつつ、三杯目のビールを飲み始めた。メイドは「うーん」と唸った。「確かに羽も光の輪っかも本物っぽいが……」 天使は面倒くさそうな顔をした。「えー、これでも信じてくれないの? 使徒トマスだって直接イエスの傷を見て触ったら信じたよ。いい加減信じてくれても良いんじゃないの?」

 

「もっとこう、端的な証拠が欲しいわ」とマルタが言った。「現代社会でも充分通用するような、そういう端的な証拠が欲しい」「ええー」 天使は腕を組んでしばらく考え込んだ。そして、スーツの胸ポケットから何か小さなカードを取り出した。「じゃあ、これならどう? ほら、私の身分証明書」 少女たちは首を伸ばしてそれを見た。それはまごうことなき身分証明書であった。ちょうど運転免許証と同じくらいのサイズで、青みがかった銀色をしていた。青いバックの証明写真の横に、細かなギリシャ文字で何かが書いてある。マルタは少しだけだがギリシャ文字が読めた。「天使(ἄγγελος)」「事業所(γραφείο)」「有効期限(ημερομηνία λήξης ισχύος)」などと書いてあった。証明写真の天使の顔は今の天使よりも幾分か若かった。どことなく緊張したような顔をしている。危懼子が口を開いた。「なるほど、あなたが天使であることを信じましょう」 少女たちはみんな頷いた。天使が驚いたような顔をした。「えっ、これで信じるの? まったく、現代っ子っていうのは本当によく分からないな……」

 

「それで、その天使様はどうしてこの世界に降り立ったのかしら?」と危懼子が言った。「それはね……」と天使が答えようとした時、店員が料理を運んできた。料理は続々と運ばれてきた。テーブルの上に料理が並べられると、危懼子が言った。「こちらからあなた様にお尋ねしておいて何なのですが、私たちはこれから栄養補給に(いそ)しまなければなりません。食べながらお話は聞きますので、どうか私たちを気にせず喋り続けてくださいまし」 それはお嬢様としては苦渋の選択であった。誰かが真剣に話しているのにそれをおいて食べ続けるというのはあまりエレガントな行為とは言えない。しかし彼女たちはもう限界だった。

 

 まず最初にフォークを手にして料理へと取り掛かったのは双子だった。双子はまったく同じ動きでトマトソースが絡んでいるスパゲッティが盛られている皿に手を伸ばしたが、しかし皿が移動した。「なんだと?」と双子が言った。双子が手を伸ばす。皿が動く。双子がさらに手を伸ばす。皿がさらに動く。よく見ると皿には手足が生えていた。いかにも栄養不良そうな青白い肌の、枯れ枝のように細い手足だった。皿はゴキブリのような素早い動きでテーブルの上を走り回った。双子たちの皿だけではなく、他の皿も同じように手足が生えていて、同じようにテーブルの上を逃げ回った。命賭が嘆くように言った。「ああ、このお店だけはまともだと思ったのに……」 メイドが言った。「食べられることを拒否する料理なんて初めて見るな」 そう言いつつ、彼女は必要最低限の見事な動きで煮込みハンバーグの皿を掴んだ。「すごい」と双子が声をあげた。皿から生えている手足がじたばたと藻掻くように暴れた。メイドは言った。「いかん、けっこう力が強いぞ。こら、暴れるんじゃない。中身がこぼれる」 魔女が一喝した。「たかだか料理の分際で食べられるのを拒否(きょひ)るんじゃない! 手足を切り落とすぞ!」 魔女はナイフを振り上げた。皿たちは一斉に動くのをやめた。ようやく少女たちは食事に取り掛かることができた。

 

 少女たちが黙々と食事をしている間に、天使は話を続けた。天使は今や四杯目のビールに口をつけていた。「まあ、天使って言ってもね。そう大した存在じゃないんだ。この世界の人間たちは随分と天使という存在を偉いものだと思ってくれているみたいで、それはそれでありがたいんだけど、本質的にはサラリーマンと変わらないの。給料をもらっていて、社宅に住んでいて、税金と社会保険料を払っている。なんだっけ、ほら、『ヘブル人への手紙』だっけ。あそこでは随分と大層なことが書いてあるけどさ」 マルタが口の中のものを飲み込み、紙ナプキンで丁寧に口を拭ってから言った。「『御使(みつかい)たちはすべて仕える霊であって、(すくい)を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか』」 双子がスパゲッティを食べながら補足した。「『ヘブル人への手紙』第1章第14節」

 

 天使はビールをぐっと飲み干した。「そうそう。そりゃ、職業意識としては『人々に奉仕するため』とは思っているけどね。でも仕事はキツイよ。ほぼ年中無休だし、休暇をとろうとすると同僚たちの目が気になるし。でも忙しいのは天使だけじゃないの。神様も忙しいの。忙しすぎたせいで神様が体を壊しちゃってから、私たちの業務はもっと忙しくなったけどね。神様って割と無茶をするから……」 マルタが疑問の声を発した。「その、さっきから神様っていっているけど、その神様は私の信じる教えと同じ神様なの?」 天使は「ええっとねぇ」と言った。「その話をするとものすごく面倒くさくなるし、長くなるし、しかもあまり愉快なものではないと思うよ。とりあえずは『そういうものだ』と思って話を聞いてくれない? それに、私たちは天使で、神様という存在を直接的に知っているけど、だからといってあなたたちの教えと神様の概念を否定なんてしないわ。だってそれには人間にとって大切な真実が含まれているから。だからね、とりあえずはそういうことで良い?」 マルタは無言で頷いた。いろいろと言いたいことはあったが、今の彼女は食事をするので忙しかった。皿の中身が減ってくるにつれてまた手足が暴れ始め、それを抑え込むのに忙しかったということもあった。

 

 運ばれてきた五杯目のビールを飲みながら天使は話を続けた。「仕事がキツイのに給料は少ないし、休みは取れないし、昇進の見込みもなければ昇給の見込みもない。そんなんだから気が変になる奴も出てくるのよ。職場でいきなり全裸になったりする奴とか」 メイドがすぐにそれに反応した。「全裸になるのはそんなに変なことなのか?」 天使は気にせず話を続けた。「職場のフロアを全部こんにゃくに変える奴とか」 魔女が頷いた。「嫌な職場に対する最高の嫌がらせね」 天使はなおもビールを飲んでいた。「まあその程度の奇行なら許容範囲だったのよ。でもね、つい先日とんでもない行動へ走った奴が出た。そいつは『オルガノン』を持ち出して、下界へと逃げ出したの。正確に言うと『オルガノン』の卵ね。下界で『オルガノン』を孵化させて、その力を使って自分が新しい神になろうとした。いえ、ちょっと違うわね。自分が新しい神になろうとしたのではなくて、自分で新しい神を生み出して、それに天使として仕えようとしたといった方が良いかな。どこまでいっても天使は所詮天使でしかないから、自分が神様になるなんていうのは思いもよらなかったのかもしれない。まあ、とにかくとんでもないことよ。いくらそいつが25連勤だったとはいえ……」

 

「ちょっとお待ちになって」と危懼子が口を開いた。彼女はそろそろ料理を食べ終えかけていた。「その『オルガノン』とか『卵』とか、あなたたちだけの業界用語(ジャーゴン)を当然の了解事項として言うのはおやめになってくださいまし。はっきり言ってちんぷんかんぷんですわ」「あ、ごめんごめん」 そのように言う天使の呂律は少し怪しくなっていた。どうやら酒を飲みすぎているようだった。しかし天使は言った。「なんかビール飽きてきちゃった。ビールって一番美味しいのは最初の一口だけなんだよね。後はなんとなく惰性で飲んじゃう。ねえねえ、赤ワイン頼んでも良い?」 双子が答えた。「As you like it.(お好きなように)」「いえーい!」と陽気に叫んで天使は店員に赤ワインを注文した。店員は去っていった。

 

「『オルガノン』っていうのは、文字通り私たちの仕事道具よ。職人だって道具がないと仕事ができないように、私たち天使だって道具がないと仕事ができない。『オルガノン』は神様の形相(エイドス)を分有していて、下界の運営とメンテナンスに必要な機能を果たすの。人間からすると絶大なパワーのように見えるかもしれないし、実際のところ取り扱いに注意しないと下界の秩序と法則が乱れるから管理には厳重な注意を払っていたんだけど、そいつはそれを持ち出した。もちろん、そのままの形では持ち出すことができないから、そいつは『オルガノン』の製造工場から『卵』を持ち出した。製品として出来上がった『オルガノン』にはシリアルナンバーが振られている上に緊急停止プログラムが仕込まれているから、天使が業務外で勝手に使うことはできない。でも『卵』の段階ならそこまで監視が厳しくなかったのよ。そいつは業務の関係上、『オルガノン』の製造工場に詳しかった。どこをどうやったら上手くつけこめるかなんて、とっくの昔に熟知していたんでしょうね。で、そいつは下界に逃げ出して『卵』を孵化させた。そいつが無断欠勤をしたから、上司が社員寮へ行ってみたら部屋はもぬけの殻。『くたばれ死んだ魚の目をした悪魔(ダイモーン)共、私は新たな天使となって自由にはばたく』と書き置きがしてあったから、ようやく事態が発覚したの。で、ちょうど休暇をとっていた私が手隙(てすき)だってことで下界に派遣されたの。もう本当に迷惑な話よ。もうちょっと休んでいたかったのに……」 天使は赤ワインをがぶ飲みした。次第に天使は激してきたようだった。「そうよ! 私だって地獄の26連勤をくぐり抜けて、やっとのことで休みになったのに! なによあいつ、たかだか25連勤くらいで音を上げて! 尻拭いをするこっちの身にもなって欲しいわ、こんな大変なことをしでかして! あんな奴、天使じゃないわ。悪魔よ、悪魔! ()使()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 しかし少女たちはあまりその話を真剣に聞いていなかった。腹がいっぱいになった彼女たちの関心は今やデザートに移っていた。彼女たちはメニューを広げて議論していた。命賭が言った。「ねえ、何にする? 私、このバナナとイチゴのフレンチトースト食べたい。コーヒー付きで」 マルタが言った。「私も同じものにしようかしら。でも、飲み物はハーブティーにするわ。夜にコーヒーを飲むと眠れなくなるし」 双子はぼそぼそと何やら双子言語で話し合っていたが、やがて「これ」と言ってメニューを指さした。それは季節限定のヨーグルトソースの白ブドウのパンケーキだった。メイドが言った。「お嬢様は何にする? 私はバニラアイスがあればそれで良いが……」 危懼子は低い唸り声をあげた。「そうですわね、私は……」 魔女が呆れたような口調で言った。「あなたたち、よく食べるわね……私はもうお腹いっぱいよ。デザートはもう良いわ」 危懼子が窘めるように言った。「いけませんわ真蒔子(まじこ)様! デザートのない食事なんて食事ではありません! いやしくもお嬢様である方がデザートを食べなくても良いなどと発言なさるのは不見識極まりますわ! お嬢様がデザートを食べなかったらこの世からデザートという食文化が消滅するではありませんか……!」

 

 そのようにまくし立てる危懼子の胸の上で密かに黄金の輝きを放ち続けていたネックレスが、ごく平静な口調で言った。「なるほど、あなたのお話は分かりました。あなたの話に則って考えると、私はどうやら『オルガノン』であるようです。しかし、あなたの話が真実であると証明する証拠がどこにありますか? あなたこそが狂った天使、いや悪魔で、私を(たばか)るために嘘をついているのかもしれない」

 

 天使は笑った。「ふへっへっへ!」 酔いのためその笑い声は天使らしからぬ下品な響きを有していた。「ふへっへっへ、証拠はねぇ、ちゃんとあるんですぅ! ほら!」 天使はそのように呂律の回らぬ口調で言うと、ポケットからスマホを取り出した。天使はスマホをいじり、何かを画面に表示した。「ほら! これ! 工場が出してる『オルガノン』の製品カタログよ! あなたの正式名はΓ(ガンマ)109-2231型。去年の冬に出たニューモデル! メモリのクロック周波数は2,800Pcps、自己診断プログラムと自己修復プログラム内蔵、軽くて丈夫で長持ち! そして成金趣味(スノビズム)丸出しの黄金のボディ……!」 滔々と話し続ける天使の声をネックレスは聞いていなかった。彼は呆然として画面に見入っていた。

 

 そこには彼とまったく同じの、黄金のカタツムリが何体も映っていた。

 

「私は……」 ネックレスは愕然としたような声で言った。「私は、神ではなかったのか……? しかし……」 天使がもう何杯目になるか分からない赤ワインをぐっと飲み干した。そして、先ほどまでとは打って変わった沈痛な面持ちをした。

 

 天使は気の毒そうに言った。「そう、あなたは神ではないわ。限りなく神と似た力を持った、ただの『オルガノン(道具)』よ」

 

 その瞬間だった。店の窓に何か巨大な影がぶち当たり、窓が音を立てて割れた。「デザートは食べられないかもしれないな」とメイドが呟いた。

 

(つづく)




次回もお楽しみに!


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第16話 ウトナピシュティムも真っ青

「窓をぶち破って何かが室内に入ってくるのはホラー映画の定番だよねぇ」と命賭が言った。彼女はまだ熱心にメニューを見ていた。彼女は先ほどバナナとイチゴのフレンチトーストとコーヒーをデザートにすると言ったが、心の中ではまだ多少の迷いがあった。今日は色んなことがあって疲れた。肉体的にも精神的にも疲労しているのだから、こういう時は大いにデザートを食べても良いのだと理屈の上では分かっている。しかし、やはり彼女は女子高校生であった。流石にカロリーをとりすぎるのではないか? そんな疑念が彼女の心の中を満たしていた。このデザートはどんなに少なめに見積もっても600キロカロリーはあるだろう。さっき食べたチーズリゾットと合わせればこの夕食だけで少なくとも1500キロカロリーは摂取することになる。あるいは2000キロカロリーか? カロリーをとるのは簡単だが、消費するのは大変である。だいたい茶碗一杯分のご飯200キロカロリーを消費するのに必要な運動量はジョギング30分である。命賭はメニューを伏せて、しばらく目を閉じた。そして言った。「うん。やっぱりデザートは頼もうっと。『毒(くら)わば皿まで』っていうし」 然り、女子高校生にとっては単なる食事も毒になり得るのである。

 

「しかし、悠長にデザートを楽しむわけにもいかないみたいだぞ」とメイドが言った。メイドは窓をぶち破って店内に侵入してきたものを見ていた。それは魚だった。魚は割れたガラスの破片の上でびちびちとヒレを動かしていた。かなり大きな魚だった。思わず恐怖を覚えるほどのサイズだった。「魚だ」と双子は分かり切ったことを言った。しかし眼前で展開される現象と事物を言葉に出して正確に表現するのは人間の精神活動の基本でもある。「何の魚かしら。もしかして、(こい)?」とマルタが言った。ポーランド内陸部ヴィエルコポルスカ県ポズナン出身の彼女にとって、魚はあまり身近な存在ではなかった。彼女にとって魚とは第一に鯉であった。鯉はポーランド人にとってクリスマスのご馳走である。ポーランドではシーズンが近づくと、市場やスーパーで鯉が生きたまま売られるようになる。買われた鯉は料理されるその直前まで風呂場の浴槽で大事に飼育される。マルタは日本に来た時、日本人がクリスマスに鯉を食べないことに驚き、また浴槽を生け()にしないことに驚いたものであった。マルタはまた5月のこいのぼりに驚き、中国地方の某球団がその名前に鯉を用いていることにも驚いたものであった。

 

「鯉だね。マゴイかな」と命賭が言った。命賭は動物に詳しかった。それはまさしく鯉であった。危懼子が首を傾げながら言った。「ここは地上5階、高さはだいたい18メートルくらいですわ。いくら跳ねるのが得意な鯉でも18メートルの高さを跳ぶというのは……」 しかし彼女の言葉は強制的に中断させられた。店内へさらに鯉が飛び込んできたからであった。そのうちの一体の鯉は滑るようにして彼女たちの前に現れた。鯉は純白のさらしを腹に巻いており、筋肉質な手足が生えていた。鯉は立ち上がると畏まったように居ずまいを正し、そして頭を下げた。「おひけぇなすって、おひけぇなすって」 マルタが「はぁ?」と疑問の声をあげた。魔女がそんなマルタを(たしな)めるように言った。「しっ! これはたぶん『仁義を切る』ってやつよ。ちゃんと聞かないとダメ。失礼になる」 そういう魔女自身も「仁義を切る」ことについては「おひけぇなすって」という言葉くらいしか知らなかった。

 

 鯉は怪しげな口調と動作で仁義を切ることを続けた。「どうぞおひけぇなすって。手前(てまえ)生国(しょうこく)とはっしましては武州(ぶしゅう)でござんす。武州武州と申しましても、霞が関で名高い麹町(こうじまち)ではござんせん。歴史に聞こえた吉祥寺、不良(ヤンキー)高校生も震え上がった、都立井の頭恩賜(おんし)公園の井の頭池、井の頭池で六ヵ年、パンの耳と()の欠片ばかり食ってはいたが、いささか筋金が入ったしがねえマゴイの旅がらすでござんす。(かしら)を含めておいら1000匹、池の水全部抜くかいぼり掻い潜り、やっと見つけた新天地、音に聞こえた京王キラリナ地上5階、お洒落尽くした贅美(ぜいび)のカフェ、エサはなくとも鯉は育つ、鯉ヘルペス異常繁殖電気漁法まっぴらごめん、パクパクしつつも希望は高し高尾山、仁と愛との溜め池掘って、1000匹仲良く暮らすまで、艱難辛苦(かんなんしんく)堅忍不抜(けんにんふばつ)乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)どうかひらにご容赦ご勘弁……」 鯉の声はキンキンとした金属質な高音だった。危懼子が言った。「これ以上聞いていると気分が悪くなってきそうですわ」 鯉たちはいつの間にか集まって店内中央で車座(くるまざ)になり、賭場(とば)を開いて盛んにサイコロを振り始めた。「駄目だよぉ、賭場を開くのは」と命賭が言った。双子が口を開いた。桜子が言った。「賭博場開張等図利罪(とばくじょうかいちょうとうとりざい)は」 薫子が続いた。「刑法第186条第2項で禁じられている」 しかし鯉たちは聞く耳を持たないようだった。

 

 そのうち、ザーッという水の音がし始めた。「今度は何なの?」とマルタが疲れたように言った。マルタはすぐにその音の意味を悟った。窓から大量の水が流入しているのであった。メイドが納得したように言った。「なるほど、鯉がいるのならばそこには水がある。当然のことだ」 水は見る見るうちに店の床を覆い、水位を上げ、彼女たちのくるぶしまで濡らし始めた。危懼子が勢い良く席を立った。「店を出ましょう! このままでは全員、女子高校生から成瀬川(なるせがわ)土左衛門(どざえもん)へとジョブチェンジすることになりますわ!」 他の少女たちも無言で危懼子に倣った。この期に及んで反対する者などいようはずがない。しかし、黒ずくめの天使は席を立たなかった。天使はテーブルに突っ伏していた。天使は酔い潰れていたのであった。隣に座っていた魔女が天使を揺さぶった。「おい、コラ! 起きろ! 起きなさい! この(クソ)酔っ払いが!」 天使は「ううーん」と唸った。天使は手近にあった赤ワインのグラスへと手を伸ばすと、無意識にであろうか中身をあおった。そして言った。「あれ? ここどこ? 新検見川(しんけみがわ)駅?」 魔女は杖で天使の頭をぶん殴った。「ちげーよ! まだ吉祥寺! さっさと起きなさい!」 双子が天使を両脇から抱え上げた。天使はふにゃふにゃとした声で言った。「煙草が吸いたぁい」 確かに、酒をしこたま飲んだ後の煙草は格別に美味い。しかしその言葉に応じる者は誰もいなかった。

 

 魔女と双子が酔っぱらった天使をどうにかしようとしている間に、危懼子は店員に会計を申し込んでいた。店員は言った。「お会計、18,990円になります」 危懼子は素早く財布から一万円札を二枚取り出した。彼女は高校生であるのでクレジットカードをまだ使用できないのであった。お釣りの1,010円とレシートをもらった危懼子は、素早く詳細に目を走らせた。途端に彼女は憤然として叫んだ。「なんか高いと思ったら、この天使様ひとりで8,000円近く酒を飲んでいましたわ! 780円のビールを5杯に、680円のグラスの赤ワインをいつの間にか6杯も飲んでいる!」 メイドが「まあまあ」と言って危懼子を(なだ)めた。「落ち着けお嬢様。そもそも酒飲みに酒を与えるのはサハラ砂漠の緑化事業なみに金がかかるものだ」 命賭が言った。「ごめんね危懼子ちゃん、後で払うよぉ」 危懼子は落ち着きを取り戻した。「まあ良いですわ。考えてみれば天使に酒をご馳走するなどというのは滅多に経験できないことですし。今日のところは私の奢りということにさせていただきます。もちろん、皆様の分も含めてですわ。それよりもさっさとここから離れないと」 水はさらに勢いを増していた。マルタが言った。「でも、逃げるってどこへ?」 彼女たちは沈黙した。

 

 困った様子の危懼子たちを見て、店員がすかさず口を挟んだ。「9階のキラリナテラスに脱出艇がございます」 店員はいつの間にか人魚になっていた。鱗は銀灰色に輝いており、裸の上半身には目にも鮮やかなピンク色のビキニを身につけていた。危懼子が叫ぶように言った。「9階ですわね、分かりましたわ! さあ、皆様行きましょう!」 マルタは店を去る時にポーランド語で「Dziękuję bardzo.(ジェンクーイェン、バルゾ)」と言った。それは「どうもありがとう」という意味であった。店を去る時にそのように言うのは、彼女の身に沁みついた良き習慣の一つであった。その時、店内から例の甲高いキンキンとした金属質な声が響いてきた。「おい! 今ポーランド語が聞こえたぞ!」「聞こえた! 確かにポーランド語が聞こえた!」「ポーランド人は俺たち鯉の(かたき)だ!」「探せ、ポーランド人を!」 先述したように鯉はポーランドの祝い料理に供されるものである。双子が「やべっ」と声をあげた。双子はもう天使を抱えてはいなかった。天使は自力で立っていた。マルタが呻くように言った。「早く逃げましょう」 危懼子たちは足早にその場を離れた。人魚になった店員は「またのお越しをお待ちしております」と言うと、水飛沫を上げて深みに飛び込み、姿を消した。

 

 危懼子たちは上階へ通じる出口を探した。危懼子が言った。「エレベーターは使えませんわ。この水ではエレベーターシャフトはもう水没しているでしょうし、それにまたピンク色の肉塊がぎっしりと詰まっていたら目も当てられません。エスカレーターで上へと昇りましょう」 彼女たちは走った。エスカレーターは動きを止めていた。「歩いてあがろう」とメイドが言った。彼女たちは金属製のステップを昇り始めた。昇りながら命賭が言った。「今になってこんなこと言うのもなんだけど、今が緊急事態なんだってことをやっと実感してるよ。水が店に入ってきた時は『ああ、水かぁ』って感じだったんだけど、動かなくなったエスカレーターを目の当りにしたら『もしかして大変なことになっているんじゃ?』って思い始めたというか……」 彼女たちは無言でエスカレーターを昇っていた。今更のようにこみあげてきた緊張感と切迫感が彼女たちの口を閉ざしていた。

 

 天使は苦しそうにゼイゼイと荒い呼吸をしていた。赤いハンドレールにしがみ付きながら、天使は呻くように言った。「禁煙しなきゃ」 天使は日常的に煙草を吸っていた。過酷な労働環境が天使に喫煙という悪しき習慣を身につけさせたのであった。天使の後ろにいる魔女が声をかけた。「あんた、毎日どれくらい煙草を吸ってるの?」 天使は答えた。「ええっと。忙しい時だと一日2箱は吸ってるかな。休みの日は吸わないんだけど、残念ながら天使に休みなんてほとんどないから、結局毎日吸ってることになるね。毎朝、出勤前に社宅近くのコンビニで4箱は買っていくんだ」 天使の歩みは遅かった。

 

 魔女は気が気ではなかった。魔女は杖の先で天使の形の良いスリムな尻をぐさりと突いた。「痛い!」と天使が叫んだ。魔女が言った。「とっとと上に昇りやがれ! 水はどんどん上がってきてるのよ!」 天使は頭をかきながら言った。「やっぱり煙草はやめた方が良いよねぇ。お酒は飲んでて楽しいんだけど、煙草は吸うたびに寿命が縮んでいる気がしてならないよ」 天使のすぐ前を行く双子が口を開いた。「煙草は百害あって一利なし」 しかし天使はその言葉を聞いて首を左右に振った。「いえ、流石に『百害あって一利なし』ってほどではないでしょ。『二利』か『三利』くらいはあるはず」 魔女が言った。「じゃあ、たとえば?」 天使はゼイゼイと苦しそうに呼吸をしていた。魔女の質問に天使は答えなかった。

 

 やがて天使は静かに口を開いた。「まあ、少なくとも、煙草を吸うと健康にはなるよ」「はぁ?」と魔女が声を漏らすと、天使はどこか得意そうな口調で言った。「えっ、分からないの? この明々白々な理屈が? 良い? 煙草は健康にとって害があるよね」「うん」と魔女が律儀に答えた。天使は続けた。「だから煙草をやめると健康になる」「うん?」と魔女が疑問の混じった声で答えた。双子がツッコミを入れた。「いや、なんでそうなる」 天使は勢い込んで言った。「だからさぁ、煙草をやめると健康になるでしょ? これは誰にでも分かることよね。でも、煙草をやめるにはまず煙草を吸っていないといけない。だって、やってもいないことをやめるわけにはいかないんだから。ね? だからさ。煙草を吸う。すると健康に害が出る。害をなくすために煙草を吸うのをやめる。煙草を吸うのをやめたことによって害がなくなり、健康になる。だから、このロジックに基づけば『健康になるためには煙草を吸わないといけない』ってことになるじゃない。分かった?」「詭弁よ!」と魔女は叫んだ。天使は答えた。「詭弁でもなんでも良いじゃない。こう思うことで私は毎日、いや毎時間ごとに『自分は健康になっている』と感じられるんだから。だって煙草を吸っていない時は健康になってるってことでしょ? 健康ランドに行ってサウナに入るよりよっぽど手軽に健康になれるのよ、煙草を吸うっていうのは……」

 

 だらだらと天使が喋っている間に、危懼子たちは9階に辿り着いていた。そこはYザワヤのブース内であった。エスカレーター乗り場はYザワヤの中にあった。店内に人は少なかった。メイドが言った。「残念だ。こんな時でなければ一通り店内を見て回って新しい素材を探すのだが」 危懼子が言った。「また状況が落ち着いたらゆっくりとお買い物を楽しめば良いのですわ。さあ、テラスへと向かいましょう」 天井から下がっている表示板にはテラスが所在する方向が示されていた。

 

「あっ、あそこ!」と、突然命賭が叫んだ。命賭の指さす方向には、何か巨大な影があった。それはピンク色の巨大な肉塊だった。肉塊はプラスチック製の買い物かごを持っていた。陳列棚の毛糸玉を手にとってはしげしげと眺め、小さく首を振って毛糸玉を棚に戻している。肉塊はアクリル製の毛糸ではなく、天然素材の、できればアルパカの毛の毛糸玉を探しているのだった。「さっきエレベーターに乗ってた肉塊だ」とメイドが言った。「やはり手芸用品を探していたようだな」 メイドは肉塊に親近感を抱いた。こんな状況でなければ声をかけて手芸談義をしたかもしれない。しかし、肉塊が喋る言語がスロベニア語であったことをメイドは思い出した。メイドは危懼子たちと共にその場を走り去った。

 

 何段かのステップを駆け上がってキラリナテラスの入口のガラスドアを開くと、目の前には青々とした芝生が広がっていた。危懼子は柵の向こうへと目をやった。そこは一面の水だった。水は夜の大気の色を反射して、そのそこ知れぬ深淵を満々と示していた。夜空には大きすぎるほどの月が輝いていた。双子が「ああ」と声を漏らした。「関東平野が」「水没している」 マルタが言った。「『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる』」 双子が補足した。「『創世記』第6章第7節」

 

 天使がそれに応じた。「聖書の洪水物語だけど、これ、似たような話が世界各地にたくさんあるんだよね。たとえばギリシャ神話にも洪水神話がある。ローマ時代の作家だけど、オウィディウスの『変身物語』ではそれを簡単な形で読むことができるわ」 双子が補足するようにそれに答えた。「『変身物語』第一巻」 天使は歌うように言った。「『いまや、海と陸の区別はなく、一面が海となっていたが、この海には岸もなかった。丘にのぼりついた者もあれば、そりかえった小舟に坐り、このあいだまでは耕作していたあたりで、(かい)をあやつっている者もある。穀物畑や、沈んだ農園のはるか上を、舟で行く者があるいっぽう……』」 双子が叫ぶようにいった。「それは中村善也訳の『変身物語』」「出典を明らかにしない引用は危険」「どうせ引用するならラテン語の方が良い」「ごめんごめん。私、ラテン語は苦手だから」 そう言って天使は頭をかいて誤魔化した。ちなみに出典はオウィディウス『変身物語(上)』(中村善也訳、岩波文庫、1981年、24頁)に拠った。

 

「聖書とギリシャ神話だけではないな」とメイドが言った。「そもそも洪水物語そのものの原型は中東にある。かの有名な『ギルガメシュ叙事詩』では、ギルガメシュが永遠の生命を求め、長旅の果てに不死なる人ウトナピシュティムを(おとな)う一節がある。このウトナピシュティムがメソポタミアの洪水物語の主人公だ」 そのように得意げに知識を披露するメイドは、たまたま先日矢島文夫訳の『ギルガメシュ叙事詩』を読んでいたのであった。天使がまた言った。「『光輝くころになると空の果てから黒雲が起ち上がった。アダトはそのまんなかで神鳴(かみなり)をならした。シュルラットとハニシュは真先を行く。先触れとして山々を、国々を行く。エルラガルは船柱をなぎ倒す。ニヌルタは進み行き、水路をあふれさせる……』」 メイドが警告するような口調で言った。「ちゃんと出典を明示しないとダメだぞ。天使は著作権を尊重しないかもしれないが」 天使は頷いた。「大丈夫よ、()()()()()()()()()()()()」 その天使の言葉がどういう意味であるのかは今一つメイドたちにとって分からなかったが、やがて、まあそのように自信ありげに言うのならば大丈夫だろうと納得した。ちなみにここでの出典は矢島文夫『ギルガメシュ叙事詩』(筑摩書房、2018年、107頁)に拠った。

 

「それにしても、脱出艇はどこにあるのかな」と命賭が困惑したように言った。少女たちは四方へ視線を巡らせて脱出艇を探したが、それらしきものはどこにもなかった。危懼子が突然キレた。「あの店員様、(ウソ)情報を私たちに言いましたわね! このままでは私たちは魚類の仲間入りをしなければならなくなりますわ!」 危懼子が突然キレたのもある意味では仕方がなかった。危懼子は危懼子なりに焦っていたのである。そんな危懼子を命賭が宥めた。「どうどう、危懼子ちゃん。どうどう。もう少し探してみようよ」 マルタも口を開いた。「そうね。もっとよく探してみましょう。何か手がかりがあるかもしれないし」 そのように言うマルタの内心は危懼子以上に焦りに満ちていた。たとえ魚類の仲間入りをするにしても、あのヤクザ(YAKUZA)っぽい鯉たちは決して自分を許しはしないだろう。「おうちにかえりたい」とマルタは悲しげな声で言った。彼女はホームシックであった。

 

 芝生の片隅に、木目の美しい綺麗なテーブルと椅子が並んでいるのが少女たちの目についた。そのテーブルに、浮かない顔をしたスーツ姿の中年の男性が座っていた。スーツは巨峰色だった。テーブルにはジャック・ダニエルの大瓶(3リットル入り)とショットグラスが置いてあった。中身は4分の3ほど残っていた。危懼子は言った。「もしかしたら、あのおじ様がなにか知っているかもしれませんわ」 少女たちが駆け寄ると、男性は浮かない表情をしたまま彼女たちの方へ顔を向けた。危懼子はお嬢様らしい優雅な身振りで男性に挨拶をした。「ごきげんよう、見知らぬおじ様。吹き抜ける風がとても気持ちの良い夜でございますわね。ところで、私たちはあるよんどころない事情で『脱出艇』を探しているのですが、おじ様は何かご存じではございませんか」 男性はショットグラスにウィスキーをなみなみと注ぐと、一気に飲み干した。そして「ああ……」と声をあげた。それはウィスキーの美味さに対してあげた声であるのか、それとも危懼子の言葉に対する応答としてあげた声であるのか、判然としなかった。

 

 男性はまたもやウィスキーをショットグラスであおった。そして言った。「うん、脱出艇ね。うん。知っているよ。お嬢さん」 危懼子の顔は輝いた。「ご存じなのですね! 良かったですわ。それはどこにございますの?」 男性は首を静かに振った。「うん。『どこにございますの』もなにも、君の目の前にあるよ」 危懼子は首を傾げた。「ええと? すみません、もう一度おっしゃっていただけますか?」 男性はまた言った。「うん。君の目の前にある」「はぁ」 危懼子はまた首を傾げたが、本心では「この酔っ払いは酔っ払い特有の酔っぱらった戯言を言っていやがりますわ」と思っていた。そんな危懼子の心を見透かしたのか、男性は気怠そうな口調で言った。「つまりだね、私がその脱出艇だっていうことさ」

 

「ふざけてんじゃないわよ、この(くさ)れ酔っ払いが!」 危懼子の代わりに魔女がキレた。現代の若者は感情と衝動を言語化する能力に乏しくすぐにキレるとよく言われているが、この緊迫した状況にあっては若者でなくともキレるであろう。魔女はさらに怒りに満ちたロリ声で叫んだ。「あんたみたいなただの人間(ヒューマン)が脱出艇のわけがないでしょうが!」

 

 男性は「はあ」と溜息をついた。その溜息には大量のアルコールが含まれていたが、距離がそれなりに開いていたのでアルコール臭い息が彼女たちを直撃することはなかった。男性は覆い難い疲労感が滲んだ声で言った。「怒るのも無理はないと思う。でも私こそが脱出艇なんだ。これまでに一度も脱出艇になったことはないし、そもそも脱出艇なるものがどんな存在であるのかも理解していないが、私は脱出艇で間違いない。そして、なにも分かっていないのに私は脱出艇としての使命を果たさねばならない。そのことだけが分かっている。それがものすごく憂鬱だから、私は酒を飲んでいる。酒を飲まない人はよく『酒を飲めば嫌なことを忘れられる』と知ったようなことを言うが、しかし私に限って言えばそんなことはまったくない。アルコールは忘却をもたらすこともあれば、もたらさないこともある。アルコールは救いの女神でもあれば、裁きの神でもある。私の場合、飲めば飲むほどに嫌なことがどんどんはっきりしてくるし、酔いが回れば回るほど『使命』とか『やらなければならないこと』が『やれ!』という幻聴を伴ってやって来る。つらいよ。憂鬱だよ。今も『やれ!』と言われている。だから私は酒を飲むんだ。飲めば飲むだけ自分は自分自身を破壊していると感じる。でも、自分は破壊されてしまったのだから使命を果たせなくて当然だという言い訳もできる。でも使命はいずれ果たさないといけない。私は脱出艇になって君たちを救わねばならない。その使命がどうしても重く感じられる。だから飲まずにはいられない」

 

「長い上に意味が分かりませんわ!」と危懼子が叫んだ。「なるほどね。これは真正の酔っ払いだわ」と天使が言った。「言ってることが支離滅裂だもの。でも、『自分を破壊したい』という気持ちはよく分かる。それにしてはジャック・ダニエルなんて高級なものを飲んでいるけど」 天使は椅子に座ると胸ポケットから銀色のシガレットケースを取り出して蓋を開け、一本の煙草をつまみ出した。天使はライターで煙草に火をつけようとした。「ちょっと!」 即座に魔女が杖を向けた。「健康そのものの肺胞を持っている女子高校生たちがいる場所でなんで煙草なんか吸おうとしてるのよ! 禁煙よ、禁煙!」 魔女が魔力を放出した。大量のナタデココがアルパカの脱糞のような音を立てて天使の持っているライターに降り注ぎ、火が消えた。天使は無言で煙草をシガレットケースにしまうと、男性に向かって話しかけた。「さあ、いつまでも飲んだくれていないで、自分の仕事を果たしなさい。じゃないとこのお酒、私が代わりに飲んじゃうわよ」

 

 男性は口を開いた。「良いよ」「えっ?」 天使は呆気にとられた顔をした。男性はなおも言った。「飲んでくれ。飲めるものならば。あんたがこのジャック・ダニエルの大瓶を飲み干したら、私はきっと救命艇になれるよ。確たる理由はないが、ただそんな気がするんだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()実のところを言うと、救命艇にならないといけないという使命感より、この大瓶のウィスキーを全部飲まないといけないという使命感の方がつらかったんだ。私はそもそもあまり酒が飲めないし、私の父はアルコール依存症だった……」 天使は頷いた。「なるほど。この大瓶のウィスキーの中身がなくなるというのが()()()()()()()()()()()()()()()わけね。じゃあ私が飲みましょう。私以外は全員未成年だし」 そう言うと天使は大瓶を鷲掴みにし、口元へと運んだ。命賭が心配そうに言った。「大丈夫? ウィスキーの一気飲みはあの世への直行便だって私のお父さんが言ってたけど……」 天使は笑った。「何言ってるの、私は天使よ。あの世なんて生まれた時から見飽きているわ。それにたかだかウィスキーの1リットルや2リットルくらい、私にとっては水みたいなものよ」 メイドが言った。「水だって1リットルや2リットルを一気飲みしたら危険だと思うが」

 

 メイドの言葉を気にも留めず、天使は大瓶をラッパ飲みし始めた。ごくごくと喉が動き、それに伴って琥珀色の中身が減っていく。少女たちは目を(みは)っていた。やがて、大瓶の中身は空になった。どんと音を立てて、天使はテーブルに大瓶を置いた。「ほら! 飲んだわ! どうよ!」 見たところ、天使は変わりなかった。命賭が声をかけた。「大丈夫?」 天使は椅子から立ち上がった。「大丈夫大丈夫! ほら、こんなに大丈夫!」 そう言いながら天使はテーブルから離れた。天使は真っ直ぐに歩こうとした。しかし天使はどうしようもなくふらついていた。数歩を歩いて天使はばったりと芝生に仰向けに倒れ、ピューっと口から琥珀色の噴水をあげた。「うわ」と双子が同時に言った。しかし危懼子は静かに言った。「まあ死んではいないでしょう。たぶん。天使が急性アルコール中毒になると今まで聞いたことはありませんし」

 

 その時、「ボンッ」という軽い爆発音が響いた。危懼子たちが振り向くと、そこには通常の何倍ものサイズがある足漕ぎ式のスワンボートが鎮座していた。ボートには墨痕(ぼっこん)鮮やかに「脱出艇」と書かれていた。

 

「ウトナピシュティムも真っ青な脱出艇(箱舟)ね」と、マルタが呆れたように言った。

 

(つづく)




次回もお楽しみに!

※出典
・オウィディウス『変身物語(上)』(中村善也訳、岩波文庫、1981年、24頁)
・矢島文夫『ギルガメシュ叙事詩』(筑摩書房、2018年、107頁)


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第17話 どこまでもそっくりで違う二人

 脱出艇はかなり大きかった。前部と後部との二つの部分に脱出艇は分かれていた。前部には普通のスワンボートのような座席と足漕ぎペダルのワンセットが並列する形で設置されており、天蓋付きの後部キャビンには細長いシートが縦に二本並んでいた。シートの表面は薄い緑色のビニールであった。キャビンは6畳間ほどの広さがあった。6畳間といえば成人男性一人がわびしい生活を送れるほどに広いが、8名にもなる少女たちが乗り込むにはいささか手狭であった。「冷蔵庫にテレビまである」とキャビンを覗き込んだメイドが言った。「豪勢なことだ」 しかしテレビはブラウン管式の古びたものであった。

 

 四の五の言っていられる時間はなかった。水はいよいよキラリナデッキの上にも迫りつつあった。危懼子たちはさっそく脱出艇に乗り込んだ。3リットル近くものテネシー・ウィスキーを一気飲みした天使はぶっ倒れたままであったので、全員が協力して運ぶ必要があった。天使は羽毛のように軽かった。魔女が言った。「ようやくこの天使が天使らしいところを見せたわね。これで(クソ)重かったらいよいよ天使であるかどうか怪しくなってくる」 そういう魔女はあまり力を入れて天使を持ち上げていなかった。彼女はただ手を添えているだけであった。こういうちゃっかりしたところがあるのもまたお嬢様というものである。天使は放り込まれるように後部へと投げ上げられた。いかに天使が軽いとは言え、普段あまり運動をしない少女たちにとってその行動はかなり筋力を消耗させるものであった。

 

 水がキラリナデッキの上に満ちた。脱出艇はふわりと水に浮かんだ。危懼子が言った。「間一髪といったところでしたが、なんとかなりましたわね」「依然、危機的状況であるのは変わりないけどね」と命賭が答えた。「この後、どうしたら良いのかな。関東は水没しちゃったし、もうおうちには帰れないよ、これじゃ。家族のみんなもどうなったのかな」 深刻なことを口にした命賭であったが、その口調はごく軽かった。それは彼女があえてそのような声音にしたのではなく、彼女が元から天性の楽天家であったためであった。「でもまあ、なんとなくだけど、みんな無事だと思うんだよね」と命賭は言葉を続けた。「本当にシリアスな状況になっているという気がしないよ」 マルタが言った。「『気がする』と言っている人に『どうして?』っていう問いで具体的な根拠を求めるのもどうかと思うけど、どうしてそう思うの?」 

 

 命賭は天蓋の外へ顔を出して、夜空を指さした。マルタはその指先を見た。そこには月が浮かんでいた。月には顔があった。月はにこやかな表情を浮かべていた。眉は剃り落されていた。薄く頬紅があしらわれたその顔は、ふてぶてしいまでの福々しさを湛えていた。命賭が言った。「ほら、本当に世界が滅亡して私たち以外みんないなくなっちゃったんだったら、もっと月が禍々しい顔をしていると思うんだよね。地球に対するルサンチマン丸出し、みたいな顔をさ」「ふぅん。そんなものかしら」 マルタが半信半疑という声を出すと、突然月が口を開いた。「そうだよ」 その声は落ち着いていた。「大丈夫大丈夫、なるようになるよ」 声には渋みと深みがあり、円熟した人格を感じさせた。「僕もなるようになると思って45億年過ごしてきた。そして45億年の間けっこう隕石とかが降り注いで大変だったけど、結局なんとかならなかったことなんて一度もなかった。だから君たちもきっと大丈夫だ」 そんな声を聞くと、マルタも「まあなんとかなるかな」という気になった。

 

 メイドが口を開いた。「月のことはまあどうでも良いとして、とりあえず誰かが前の席についてこの舟を操縦した方が良いだろう。だんだん波が高くなってきた」 そう言いながらメイドはその大きな体を動かして、前の座席へと移動した。メイドは声をあげた。「むっ、何か貼り紙がしてあるな」 座席に貼りつけられていたA4版の紙をメイドはべりべりと引き剝がした。メイドは紙に書かれている文言を読み上げた。「なになに……『俺は意地悪なスワンボート。俺を漕げる人間には条件がある。心も体も通じ合っている人間二人。そういう人間でなければ俺は漕げない。ざまあみろ、バカップル共。お前たちは心も体も通じあっていると思い込んでいるが、今この瞬間になってお前たちは実のところ体も心も通じ合ってなどいないことを思い知り、絶望するのだ。井の頭公園の池よりも深く』 なんだこれ、気持ち悪っ!」 スワンボートはこれまでバカップルを乗せ過ぎていた。ここに至って日々溜め込んできた黒い感情が爆発したようだった。そんなことを気にも留めず、メイドは左側の席について言った。「誰か来て、手伝ってくれ」

 

「良いでしょう」 一番近くにいた危懼子が移動して右側の席についた。二人は足に力を込めてペダルを踏もうとした。「あれ? 動かんぞ」 しかしペダルはまったく動かなかった。可動部を溶接したかのようにペダルは固着していた。「ハンドルも動きませんわね」と危懼子が言った。「確かに『心も体も通じ合っている人間二人』でなければ動かないようですわ」 危懼子の隣に座っているメイドが落ち込んだように言った。「私はメイドであるからお嬢様に絶対的な忠誠を誓っているのだが、それでは足りないというのか……」 危懼子が慰めるように言った。「それは仕方がありませんわ。主人とメイドとの心の関係性はどうしても非対称的なものとなります。所詮は雇用者と被雇用者ですし」 メイドは頷いた。「それもそうだな。それに、仮に心が通じ合っていたとしても体が通じ合っていない。今一つ『体が通じ合っている』という意味が分からないが」

 

 その時、魔女が後部キャビンから大きな声で言った。「このカマトト(ぶりっ子)メイドが! 体が通じ合っているなんて意味、とっくの昔に承知しているのでしょうが!」 命賭が言った。「えっ、マジ子ちゃん、どんな意味か分かるの?」 魔女は途端に赤面した。「そ、それは、その……アレよ。アレ! 言わなくても分かるでしょう! アレよ! このドスケベ共が!」 マルタが誰にも聞こえないような小声で言った。「seks...」 ちなみにポーランド語「seks」の主格(しゅかく)は「seks」、生格(せいかく)は「seksu」、与格(よかく)は「seksowi」となり、対格(たいかく)は「seks」、造格(ぞうかく)は「seksem」、前置格(ぜんちかく)は「seksie」であり、呼格(こかく)「seksie」となる。マルタは結構むっつりであった。

 

 メイドが呆れたように言った。「ああ、セックスのことを言いたいのか? しかしそれだけでは『体が通じ合っている』とは言わないだろう」 危懼子も口を開いた。「やはりお子様ね、真蒔子(まじこ)様は。たかがセックスをしたくらいで人間、体が通じ合うなんてことはあり得ませんわ。そんなことを夢想するのはセックスに幻想を抱いている小娘くらいなものです。そう、ちょうど思春期真っ盛りで頭の中に『セックス』という語が踊り狂っている15歳くらいの小娘がそんなことを考えそうなものです。セックスなんていうものは、実際に知ってしまった人間からすれば、食事をしたり洗濯をしたり、仕事をしたりするのと何ら変わりませんわ。セックスはただの生活の一部であって、その程度のことで体が通じ合うなんてことはあり得ません。たぶん」 魔女は唸った。「ぐぬぬ……それはそうかもしれないけど……でも、そういうあんたはどうなのよ! なんか知ったような口ぶりだけど、あんただって実際に知っているわけじゃないでしょ! この耳年増(みみどしま)!」 危懼子は静かに頷いた。「この世の中、自分の身で経験しなくても段階を追って論理的に考えれば自ずと分かることはいくらでもありますわ。そうやって人類は進歩してきたのです。経験しないと理解できないような思考力しか持っていなかったのならば、例えばこのスワンボートのようなものですら人類は作り出すことはできなかったはずです。まあ、でも心配はいりません。もう答えは分かりました」

 

 そう言いながら危懼子はまた後部キャビンへと移動した。危懼子は双子に近づいた。双子はカバンから数学の教科書とノートを取り出し、今日の授業の復習に励んでいた。時刻はすでに22時頃である。双子は毎日その時間までに入浴を済ませ、復習をし、そして寝るのである。危懼子は双子に声をかけた。「双子様たち! あなたたちの出番ですわ! 今このスワンボートに乗っている人間の中で、『心も体も通じ合っている人間二人』とはあなたたち双子をおいて他にありません! さあ、前部の席へ移ってペダルを漕ぐのです!」 双子は顔をあげて危懼子を見た。危懼子の予想に反して、双子の表情には怯えの色が見え隠れした。桜子の方が口を開いた。「私、怖い」 薫子も続いた。「怖い。私も、怖い」 見比べるようにして双子の顔を見ていたマルタが言った。「どうして? あなたたち、心も体も通じ合っているじゃない。あなたたちはいつも息がぴったりだし、体だって一卵性双生児で同一の遺伝情報を有しているんだから通じ合っているでしょう?」 双子はまったく同じ動きで首を左右に振った。「あの座席に座ってペダルを漕いだら」「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()試されることになる」「それが怖い」と双子は言った。

 

「ああー」と命賭が納得したように言った。「なんかごめんね、二人とも。そりゃそうだよね。私たちからすれば双子なんだから心も体も通じ合っていて当然って思ってしまうけど、当人たちからすればそういう疑問があってもおかしくないよねぇ。もしペダルが動かなかったら……私たち以上に精神的ダメージはきっと大きい」 桜子が答えた。「私たち、肉体的には一緒」 薫子が続いた。「でも、中身は違う」「中身とは魂のこと」「私たち、お母さんのお腹の中からずっと一緒に過ごしてきた」「お互いのことはよく分かってる」「好きなことも、嫌いなことも」「夢も、希望も」「でも、もしペダルが動かなかったら?」「私たちの魂は別。だから心も別」「別なのだから通じ合っていなくても当然」「それは理解している」「でも、『お前たちの心は通じ合っていない』と第三者によって端的に示されるかもしれないのは」「とても怖い」 双子は俯いた。マルタは申し訳なさそうな顔をした。「ごめんなさい。私、あなたたちの心のことを全然考えていなかったわ。そうね。体は同じかもしれないけど、魂は違うものね」 マルタは己を恥じた。イエスの教えを奉じておきながら、双子の魂の問題について無思慮であった自分を恥じた。彼女はむっつりであったが至極真面目でもあった。

 

 危懼子もまた頭を下げた。「そうですわね。双子なのだから心も一緒と見なすのは、ひどく乱暴な考え方でしたわ。謝罪します」 魔女が月に向かって言った。「ねえ、どう? お月様。この双子、心も体も通じ合っていると思う?」「うーん」と月は答えた。「僕はこれまで384,400キロ離れたこの虚空から地球の様子をずっと見てきたけど、その双子はこれまでに見た人間たちの中でも一、二を争うほどに同一の遺伝子情報を有する二つのヒトの個体だと思うよ。でも、心の中までは分からないなぁ。双子なのに仲違いをして殺し合いまでした人たちはこれまでにもたくさんいたしね。ほら、ローマ建国の祖のロムルスとレムスとかさ」 危懼子が言った。「仕方ありませんわね。双子の気が進まない以上、私たちはこのまま漂流を続けるしかありません。無理強いをして二人の魂の権利を侵害するわけにはいきませんもの」 (おり)しも波がますます高くなっていた。後部キャビンの中に沈黙が満ちた。白い波頭(なみがしら)を眺めつつ、危懼子が呟いた。「『海原の道(とほ)みかも月読(つくよみ)の光少き夜は()けにつつ』……」 双子は補足をしなかった。月が代わりに補足をした。「『万葉集』だね。でも、僕の光はそんなに薄いかなぁ」

 

 双子はお互いを見つめた。二人は、自分たちがそっくりであることを再確認した。鏡で映したように二人はそっくりだった。むしろ、鏡で映す以上に、互いは互いにとっての生き写しであるようだった。透き通った瞳、艶やかな黒髪、長い睫毛、桃色の唇。華奢な骨格、胸の大きさと形、腰の細さに至るまで同一のように思われた。

 

 やがて、桜子が言った。「私、小学校三年生の頃、理由はなんだか分からないけど、どうしても薫子が憎くてたまらなくなったことがある。夢の中で、私は大きなダンプカーのタイヤに乗っていて、それで薫子を轢き殺したの。あの時目が覚めて、私は悲しくなった。私は薫子と一緒じゃない。薫子と私は別なんだって。それで私は泣いた」 薫子が言った。「私、小学校三年生の頃、理由はなんだか分からないけど、どうしても桜子が憎くてたまらなくなったことがある。夢の中で私は果物ナイフを持っていて、桜子の胸を突き刺したの。あの時目が覚めて、私は悲しくなった。私と桜子は一緒じゃない。桜子と私は別なんだって。それで私は泣いた」 桜子が微笑んだ。薫子も微笑んだ。二人の笑みはまったく一緒だった。「私たち、きっとこれからも一緒。でも、きっと心は違ったまま」「違ったまま一緒で、でも心は一緒に別れ続けていく」「だから私たちは双子なんだね」「違った心で、違い続けていく心を見つめている」「さみしいけど、嬉しいかな」「さみしいけど、嬉しいね」 それから双子はなにやら双子言語でぼそぼそと話し合った。桜子が手でチョキの形を作ると、薫子がそれにグーの手を乗せた。二人のカタツムリはしばらくのろのろとシートの上を這った。

 

 それから、双子はおもむろに立ち上がると、前部の座席へと向かった。メイドが席から離れた。桜子は左側の席につこうとした。薫子が言った。「いや、私は左側に座る」 桜子が応じた。「いや、私の定位置は左側。写真を撮る時も道を歩く時も左側」 薫子が答えた。「いや、ボートの時は話が別。私、左側じゃないと落ち着かない」「なにそれ、今初めて聞いた」と桜子が言った。「今初めて言ったから」と薫子が言った。二人はしばらく無言で見つめ合った。これ以上言葉を応酬するとケンカになることを二人はよく理解していた。やがて、薫子が右側の席へ無言で移った。「左側じゃなくて良いの?」と桜子が尋ねると、薫子は短く「良い」と答えた。二人は席につくと、足に力を込めてペダルを漕ぎ始めた。ペダルは滑らかに動いた。外輪式の推進装置が作動し、スワンボートは意志を持った存在であるかのように水の上を進み始めた。「(かじ)は薫子に任せる」と桜子が言った。薫子は無言で頷いた。

 

「ありがとうございます、双子様」と危懼子が言った。「おかげで、波のまにまに漂流することは避けられたな」と、メイドが腕を組みつつ言葉を発した。メイドは胡坐(あぐら)を組んでいた。上背(うわぜい)のある彼女にとって後部のキャビンは少し狭かったのである。「しかし、ここからどうしたものか。目的地があるからこそ航海というものは成立する」 メイドはキャビンに備え付けられている冷蔵庫を開けた。「なんてこった。中にはカラスミとワンカップ大関しか入っていないぞ」

 

「目的地は、群馬県です」 突然、危懼子の首からさがっているネックレスが声を発した。「うわっ!」と危懼子たちは一様に叫んだ。危懼子が言った。「黄金のカタツムリ様、生きていらしたのですね。しばらく何も喋っていなかったものですから、てっきり死んだものと思っておりましたわ」 無論、それは危懼子なりの軽口であった。ネックレスは答えた。「すみません。しばらくアイデンティティ・クライシスに耐えていたもので。なにせ、自分が神ではなく道具に過ぎないと知ったものですから。でも、もう大丈夫です」 命賭が口を開いた。「本当に大丈夫?」 ネックレスは言った。「大丈夫です。私は私なりに結論を出しました。やはり、私は神ではなく、『オルガノン』であるようです。あの店で天使が言ったことは筋が通っていますし、それに私の製品カタログとして天使が見せた画像は本物だと思います」

 

 マルタが言った。「でも、天使があなたを騙すために画像を合成した可能性だって残ってるわ。近頃じゃAIが画像を自動生成するし、あの程度の画像だったら数分で作れそうなものじゃない」 ネックレスは微光を発した。「それはそうかもしれません。私は、もう少し慎重に答えを出すべきかもしれません。しかし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()私は神ではないということが如実に証明されているのではありませんか。あの画像が偽物ではないという証拠がなければ真偽を判定できない、それは全知全能たる神に相応しい思考とは言えません。神は何ものにも拠らず、()()によってすべてを知ります。一方で、私は天使の言うことが真であるか否かを未だに判別できていない。であるならば私は神ではなく、神でないのならば『オルガノン』に過ぎないのでしょう。そう考えることが正しいかどうかは分かりません。ですが、そう考えると心が落ち着くのです」

 

 危懼子が言った。「それで、なぜ群馬県なのですか?」「それはですね……」とネックレスが答えようとした瞬間だった。何か、遠雷のようなどよめきが遠くの水上から響いてきた。少女たちが目をやると、そこでは海戦が繰り広げられていた。二組の艦隊が整然とした隊列を組み、互いに砲火を応酬している。ピンク色、紫色、青緑色の水柱が林立し、砲塔が旋回し、マストが吹き飛び、火焔をあげて船体が傾いていく。艦隊はレゴブロック製だった。メイドが言った。「もう海戦の一つや二つくらいじゃ驚かなくなったな。ありきたりというか、まあ普通にそういうこともあるだろうという感じだ」「話の腰を折られましたが、気にせずに話を続けましょう」とネックレスが言った。「そもそも私がなぜあなたたちの高校に来たのか。そこから話したいと思います」 命賭が頷いた。「ああ、そういえばそうだよねぇ。なんであの時、うちの高校の中庭にいたの?」

 

「それは……」とネックレスが答えようとした瞬間、双子が前の方から声をかけてきた。「喉が渇いた」「何か飲みたい」 ペダルを漕ぐのは膨大なカロリーを消費するものである。1時間でおよそ300キロカロリーが消費される。魔女が呆れたような声をあげた。「ええ……でも、冷蔵庫の中にはカラスミとワンカップ大関しか入ってないわよ」「私に任せてください」 ネックレスが光を発した。光が消えると、魔女の両手にコーラの缶があった。魔女は前部へ行って缶を渡した。「ほら、双子。飲み物よ」 ネックレスがまた声を発した。「話の腰を折られましたが、気にせずに話を続けましょう。あの日、私は群馬県の白い家にいました。家の中で私はキャベツを食べていました。群馬のキャベツは格別です。白衣を纏った『天使』が私の世話をしてくれていました。そこに、突然黒ずくめの女が来たのです、そう、今まさにそこで暢気に寝ている女が」

 

 少女たちは、今は横になって高鼾(たかいびき)をあげている天使の方へ顔を向けた。天使の口からはだらしなく涎が垂れていた。天使は寝言を言った。「むにゃむにゃ……もう食べられないよぉ」 魔女がげんなりとした顔をした。「こんなに典型的な寝言を言うやつを初めて見たわ」 ネックレスは話を続けた。「黒ずくめの女は言いました。『やっと見つけたわ。さあ、馬鹿なことをやってないでさっさと帰るわよ』と。私の天使は『やべっ!』と言いました。そして、天使は素早い動きで私を持ち上げると、私を電子レンジに入れました」

 

「えっ、なに? 電子レンジ?」とマルタが疑問の声をあげた時、また前部から双子の声がしてきた。「これ、コーラ」「私たち、コーラが好きじゃない」「ドクターペッパーが欲しい」「ああ、はいはい。ドクターペッパーですね」 ネックレスが光を発すると、双子から満足げな溜息が聞こえてきた。「これこれ」「やっぱりこれじゃないと」 遠くで行われている海戦の音はまだ止んでいない。ネックレスはめげずに話を続けた。「話の腰を折られましたが、気にせずに話を続けましょう。電子レンジは東芝製のでっかくて黒くて古くてゴツイやつでしたが、私は家電マニアではないので詳しい型番を知りません。とにかく、天使は私をその電子レンジに入れると、扉を閉めてボタンを操作しました。ブーンという嫌な音を立てて回転テーブルが回り始めました。私の黄金の殻がマイクロウェーブに反応してバチバチと音を立て始めました。その時の私は自分自身のことを神と信じていたわけですが、神の身でありながら死の恐怖を覚えました。窓の外では私の天使と黒ずくめの女とが掴み合いの喧嘩をしていました。どうなることかと思っていると、次第に意識が遠くなり、気が付いた時には緑豊かで涼やかな風が吹き抜ける、あの場所にいたのです」 命賭が言った。「それが、私たちの高校だったわけだね」「そうです」とネックレスが答えた。

 

「それは電子レンジじゃなくて、転送装置だったのよ」と突然声がした。その声の主は天使だった。天使は「ふわあ」と大きなあくびをし、手を上へと伸ばした。「ゴン」という音がして手が繊維強化プラスチック製の天井にぶち当たり、天使は「いてっ!」と声をあげた。天使は痛みを誤魔化すように手を振ると、また続けて言った。「あの女、私から逃げられないと悟ったらすぐに『オルガノン』を転送装置に入れたのよ。私と取っ組み合いをしている間に『オルガノン』はどこかに行ってしまった。あの女、下界に降りてからたっぷり休息をとったせいか、妙に元気で本当に手こずったわ……まあ私は柔道3段だから普通に勝ったけどね。女を取り押さえてから転送先を確認したら、そこには『天国』と書いてあったの」 マルタが口を挟んだ。「天国? なんで天国に送ったはずがうちの高校に来たのよ?」 危懼子が天使の代わりに答えた。「ああ、分かりましたわ。おそらく、私たちの高校の名前が関係しているのでしょう。ほら、私たちの高校は『都立西方浄土高等学校』ですから。仏教において西方浄土は極楽を意味します。キリスト教の天国と仏教の極楽は異なりますが、まあなにか手違いがあったのでしょう」

 

 天使は頷いた。「そう、あの女は自分が一時(いちじ)捕まっても『オルガノン』さえ無事ならばまた再起が図れると考えたみたい。詐欺師が捕まる前に資金を隠匿するのと同じね。それで、あの女は大急ぎで転送装置に『オルガノン』を入れて、指先の赴くままに『天国』と入力した。自分の意志で下界へ逃げて来ておいて、いざという時に頭に浮かんだ語が嫌でたまらなかった『天国』なんだから、まったく天使というやつはどうしようもないね。でも、あの女はミスを犯していた。万が一を考えて転送装置をアジトに持ち込んでいたのは良かったんだけど、それをローカライズすることを忘れていた。バカなやつよね。転送装置には下界と『天国』とをつなぐ経路が設定されていなかったのよ。で、『天国』と入力されたけど、肝心の天国の情報が転送装置の中にはない。だから転送装置のAIは下界のネットワークから『天国』の情報を収集して、それっぽい雰囲気を持つ『西方浄土』という地名に『オルガノン』を送り込んだのよ。AIっていうのはこういうわけのわからないことをたまにするから困りものよ」

 

 天使は冷蔵庫を開けると、中からカラスミとワンカップ大関を取り出した。天使は一人で酒盛りを始めた。「ここまでの情報を解析するのに半時間くらいかかった。私は『オルガノン』が東京都杉並区の『都立西方浄土高校』へ送り込まれたことを知ったわ。私は迷った。捕縛した女を先に天国へ送還するか、『オルガノン』の回収を優先するか。こういう時、私の他に人がいれば良いんだけど、うちの職場は人手が足りてないから……結局、私はまず『オルガノン』を回収することにしたわ。だって『オルガノン』に何かがあったら下界が大変なことになるからね。私は急いで前橋駅に出てJR両毛(りょうもう)線に乗り、高崎(たかさき)駅で湘南(しょうなん)新宿ラインに乗り換えて新宿駅に出て、最後に新宿で中央線に乗り換えて吉祥寺に来たってわけ」

 

「いや、あんた天使なんだから飛べば良かったじゃない」と魔女が言った。「その翼は何よ、飾りなの?」 天使はカラスミを齧り、ワンカップ大関をぐびりと一口飲んでから、頭をぽりぽりと掻いて答えた。「いや、そのね……最近運動不足で、飛んで群馬から東京まで行くのには自信がなかったの……逆にあなたたちに訊くけど、たとえばあなたたちが魚から『足があるんだから歩いていけば良かったじゃないか』と言われたとしてさ、群馬から東京まで歩くことってできる?」 天使はワンカップ大関を飲み干し、また冷蔵庫を開けて、別のワンカップ大関を取り出した。「で、吉祥寺に来たら、オルガノンがネックレスになってるのを発見したってわけ。ねえねえ、どうしてオルガノンがネックレスになったの?」 命賭が天使に対して答えた。「それはね、黄金のカタツムリがマイマイカブリに……」 天使は熱心に命賭の言うところに耳を傾けた。危懼子はネックレスに尋ねた。「それで、話はまた元に戻りますが、どうして私たちは群馬県へ行かねばならないのですか?」「それは……」 ネックレスは答えようとした、その瞬間だった。

 

「大変だ!」と突然月が叫んだ。「なに? 今度は何なの?」とマルタが疲れたような声をあげた。事実、彼女は疲れ切っていた。月は構わずにまた叫んだ。「テレビ! テレビをつけてごらん! 大変なことになってる!」「どれどれ」 後部キャビンの天井近くに備え付けられているテレビへとメイドは手を伸ばし、スイッチを入れた。液晶式と違い、ブラウン管式のテレビは画面が映るまでに時間がかかる。「じれったいわね。これだから昔のテレビは……」と魔女が言った。その数秒後、テレビはある光景を映し出した。

 

 そこには、カピバラたちと争いながらキャベツを貪り食っている白衣の女が映っていた。その顔は、今カラスミを齧りながらワンカップ大関を飲んでいる天使とそっくりだった。

 

(つづく)




次回もお楽しみに!(ちゃんと終わるのかよこれ……)

※「海原の 道遠みかも 月読の 光少き 夜は更けにつつ」 斎藤茂吉の『万葉秀歌』によると、「海岸にいて、夜更けにのぼった月を見ると、光が清明でなく幾らか霞んでいるように見える。それをば、海上遥かなために、月もよく光らないというよう、作者が感じたから、こういう表現を取ったものであろう」とのことです。作者不詳。


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第18話 10の52乗分の1の小さな世界

「確かに大変なことになっているな」とメイドが言った。「カピバラと争ってキャベツを食べるなんて尋常なことではない」 テレビ画面には白衣の女が映っていた。その表情は緊迫感に満ちていた。目の前にあるキャベツの山を決して、ネズミ目テンジクネズミ科に属するカピバラという名の齧歯類に喰われまいという覚悟が見て取れた。しかしカピバラたちの食欲は旺盛なようだった。流石に漢名として「水豚」という名を持つカピバラである。彼らの食事の量は一日で2キログラムから3キログラムに達する。植物だけでそれだけの量を食べるのである。簡単な試算によればカピバラ一匹の食費は月に10万円に達するという。カピバラは画面に映っているものだけで6匹いた。

 

 天使がテレビ画面を見て「ふへっへっへへ!」という天使らしからぬ下卑た笑い声をあげた。「なにあれ、ダサすぎ! キャベツばっかりあんなに貪り食うなんてカッコ悪いわ! そういえばあいつ、飲み会でも乾杯の前に塩キャベツを貪り食ってたな。『健康のために仕方なくキャベツを食べてるのよ』とかなんとか言っていたけど、実のところは根っからのキャベツ好きだったのね、ふへへへへ!」 天使は酔っ払っているようだった。既に天使が飲み干したワンカップ大関は180ミリリットル入りの一合瓶が3本にもなる。白衣の女はキャベツを口いっぱいに含んでいたが、素晴らしい速度で咀嚼して飲み込んだ。そして、画面越しにこちらの方を向き、はっきりとした口調で言った。「そこ、うるさいわよ! キャベツを食べるのがそんなにダサいんですか! 私から言わせてもらえば、キャベツを食べる人をダサいと思うお前の感性の方がダサいです! 全国のキャベツ農家さんに謝りなさい! 天使(アンゲロス)Σ(シグマ)305号!」

 

「うわ」と、テレビを見ていた危懼子たちは一様に驚きの声をあげた。命賭が言った。「テレビの中の人が話しかけてくるとかホラーだよぉ。陳腐だけど」 メイドが腕を組みつつ頷いた。「恐ろしいことだ。これではテレビを見ながら出演者に罵声を浴びせることができなくなる。私はそんなことをしたことはないが」 マルタがなおもワンカップ大関を飲み続けている天使に向かって言った。「あなた、Σ(シグマ)305号っていう名前なの?」 天使は頷いた。「そうだよ。それで、あの白衣の女はΛ(ラムダ)174号。本当はもっと長い識別符号がずらずらずらーっとこの名前の後に続くんだけど、覚えきれないからいつも省略されているの。そういえばΛ(ラムダ)Λ(ラムダ)はλάχανο(ラハノ)のλ(ラムダ)ね。『ラハノ』っていうのは、『キャベツ』って意味」 天使はカラスミを少し齧った。「やっぱりこのカラスミ美味しいわね。長崎県産か。どうりで美味しいわけ」

 

 危懼子が画面の中の白衣の女に話しかけた。「それで、Λ(ラムダ)174号さんでしたっけ? いろいろとこちらからお尋ねしたいことがございますが、とりあえず話のとっかかりとして、どうしてそれほどまでにキャベツを貪食(どんしょく)しておられるのかをおききしてもよろしいかしら?」「それはね……」と白衣の女が答えようとした瞬間だった。体重60キロほどはありそうな大きなカピバラが、あの特徴的な茫洋(ぼうよう)とした目つきのまま突進し、大きな黒い濡れた鼻を白衣の女にぶつけた。「いてぇ!」 白衣の女は突き飛ばされて床に倒れた。カピバラは競争者を排除すると、それまで女が食べていたキャベツの山の真正面に陣取り、鼻先を伸ばしてむしゃむしゃと食べ始めた。命賭が口を開いた。「ああー……カピバラって世間だとゆるキャラの代表格みたいに扱われているけど、けっこう獰猛な生き物なんだよ。油断していると怪我をするよ。所詮は齧歯類だし」

 

 白衣の女は急いで立ち上がると、カピバラに対して「コラァッ!」と叫んだ。叫んだ後、女は「いてて……」と言って左脇腹を手で抑えた。そこはカピバラの鼻面が直撃した箇所だった。白衣の女は痛みにもめげずに叫んだ。「カピバラ共! 私はキャベツが必要なんです! ちょっとは私に遠慮しなさい!」 周りにいた小さなカピバラたちはその声に気圧されたのか、のそのそと歩いて距離をとった。キャベツの山を前にしている大きなカピバラは、ちょっとだけ脇へと動いた。どうやらキャベツを分けようという意志を示したようだった。「そうそう、それでよろしい」 白衣の女はこちらへと背を向けるようにしてしゃがむと、またキャベツを食べ始めた。

 

「あれ? なに、あれ?」とマルタが疑問の声を発した。マルタは画面を指さした。その先には白衣の女の背中があった。女の背中は奇妙に盛り上がっていた。白衣の下に何かを背負っているかのような膨らみがある。ちょうど小学生女児用のランドセルを大人が背負っていたらそれくらいの大きさの膨らみになりそうであった。マルタは白衣の女に呼びかけた。「ねえ、あなたのその背中の膨らみってなんなの?」 メイドが「うーん」と唸った。「腫瘍(しゅよう)かな」 魔女が口を開いた。「腫瘍にしては大きすぎる気がするけど……天使に腫瘍ってできるの?」 まだ酒を飲んでいる天使が答えた。「もちろん、天使だって病気になるわ。腫瘍もできるし、胃潰瘍(いかいよう)にもなるし、ヘルニアにもなるし、糖尿病にもなるし、肝硬変にもなるし……」 そんなことを言う天使に対して、魔女が冷ややかながらもどこか心配そうな視線を向けた。「糖尿病にも肝硬変にもなるなら、あなたそんなに酒をがぶ飲みしてたら危ないんじゃないの?」 天使は「ふっへへへ」と笑った。「私の臓器は特別製だから大丈夫なんですぅ」 そう言う天使に対してメイドが諦めたような口調で言った。「酒飲みはみんなそんなことを(うそぶ)くものだ。そしていざ病気になった後も同じようなことを言って酒を飲み続ける。私の母方の祖父も入院中に隠れて……」 危懼子がメイドの言葉に構わずに画面に向かって言った。「その背中の膨らみは何なんですの?」

 

 白衣の女はこちらへ振り向いた。口の端からキャベツの葉が飛び出していた。女は大急ぎで咀嚼を終えると嚥下(えんげ)し、そして言った。「ふふふ……これはね、私が新たなステージへとあがった証拠です! 見てみなさい!」 いきなり女は白衣を脱いだ。その下は丸きりの全裸だった。形の良い豊かな胸は自信たっぷりといった風情で上向いていて、腰は細く白く、臀部はふっくらとしていた。「うわ」と危懼子が声を漏らした。「こんなところにメイドの同類がいましたわ」「そんなバカな」 メイドがいかにも心外だというように答えた。「私も全裸を愛するが、白衣の下は全裸とかいう変態そのものの装いは絶対にしないぞ。それにテレビに自分の全裸を映すような真似もしない。全裸というのは密やかに全裸になるからこそ全裸としての美質(グッド・クオリティ)を……」 メイドの言葉は続いていたが、今や白衣を脱いだ白衣の女はそれをぶった切るように言った。「全裸なのはどうでも良いの! 私が見せたかったのはこれ! これを見なさい!」 女は背中をこちらに見せた。

 

「あっ!」 少女たちは叫んだ。その瞬間、彼女たち全員が強い驚愕の感情を覚えていた。「あ、あれは……」と命賭が声を震わせた。「カタツムリの、殻?」

 

 命賭の言葉のとおりであった。白衣の女はカタツムリの殻を背負っていた。大きな殻であった。大きいというのはカタツムリの殻としては大きいという意味であって、大きさそのものとしては小さめのリュックサックくらいだった。殻は鈍く黄金に輝いており、美しい渦巻き模様を見せていた。ちょうど肩甲骨の間のあたりに黄金の殻は生えるようにして突き出ていた。

 

 女は「ふふふ」と笑った。「どうですか、これ! すごいでしょう! ほら、もっと見てみなさい!」 喜悦にまみれた声で言いながら、女は背中の殻を誇示するように振った。真っ白な尻も揺れ、大きな胸もゆさゆさと揺れた。しかしその光景はまったくエロくなかった。女は現在の自分自身の姿に対して絶対的なまでの自信を覚えているようであったが、第三者から見ればその姿はグロテスクそのものであった。メイドが言った。「なんというか、その……前衛芸術的ではあるな」 危懼子が続けて言った。「いいえ、前衛芸術的ではあるかもしれませんが、どちらかといえば前衛芸術のなり損ないといった感じですわ。たとえば売れない画家が一般受けを狙って、美しい女の裸体にカタツムリの殻を背負わせた絵を描くとしましょう。その絵は『客席に向かって拳銃(ピストル)をぶっ放すような』印象を鑑賞者に与えるでしょうが、しかしそれ以上のものではありません。そうですとも。そこに芸術的な価値は一切ありませんわ! そもそも芸術とは……」 危懼子はいつもより大きな声で芸術に関する講釈を垂れ始めた。それは彼女の内心の動揺を反映してのことであった。ちなみに彼女の芸術論は岡本太郎のそれの受け売りであった。

 

 それまで無言であったネックレスが声を発した。「天使、私の天使よ。画面越しではありますが、まずはあなたと再会できたことを私は喜びます。しかし、その殻はいったい何なのですか? どうもその殻からは、私と同じような力の波動を感じます。いえ、『同じような』というのは正確さに欠ける表現ですね。言い直しましょう。『私とまったく同じ力の波動を』感じます。いったいあなたに何があったのですか?」 カタツムリの殻を背負った全裸の女は、突然「へっくち!」と大きなくしゃみをした。くしゃみの振動を受けて大きな胸がブルブルと震えた。

 

 マルタがすかさず「Sto lat!」と言った。前にも書いたが、それはポーランド語であった。ポーランドでは誰かがくしゃみをした時に「Sto lat!」と言うのである。それは「100年」という意味であり、「100年間ずっと元気でいて」くらいの意味である。しかし天使という人間より遥かに長命な存在に対して、たったの100年が果たして「お大事に」という意味を持ちうるのかは不明であった。メイドが自分の胸をメイド服の上からじっくりと揉みながら言った。「負けるかもしれないな。あの胸はとても柔らかそうだ」 メイドは自分の胸の柔らかさに自信があったが、それが今揺らいでいるのを感じていた。しかし次の瞬間には、天使なのだから胸も人間以上に柔らかくて当然だろうと納得した。メイドは人としての領分を守った思考ができる人間であった。

 

 女はまたくしゃみをした。「さ、寒い……群馬県はやっぱり6月でも寒いわ」 そう言うと女は白衣を纏った。再び白衣の女となった女は、画面越しにこちらをしっかりとした目で見つめた。その目線は明らかに危懼子の首から下がっているネックレスに向けられていた。女は言った。「私の神、私の救世主よ。なんとおいたわしい姿になって……あなたはこの下界を作り変えるための革命者、いえ、下界の新たな神となるはずだった。あなたには充分にその力があったのです。それは今や失われてしまった。ですが、もう心配いりません。これからは私がその役目を果たします。私自身が神となってね!」 よくよく見ると、白衣の女の目は濁っていた。古いブラウン管式テレビの映像でもよく分かるほどにその目は濁っていた。茨城県の霞ケ浦の冬の湖水ほどに濁っていた。それに気づいた命賭が「ひえっ」と声をあげた。「危ないよぉ、この目は。狂気を孕んでいるよぉ」

 

 天使が酒をぐびっと飲み干してから言った。「ほら言ったじゃない、奴は気が変になったって。でもまさか、『神になる』と言いだすとは思わなかったわ。ある意味で精神的な飛躍を遂げたと言えなくもない。飛躍と言っても、地獄の割れ目(クレバス)への身投げみたいなものだけど。ねえ、その殻はいったいどうしたの、Λ(ラムダ)174号。どうやらあなた、『オルガノン』Γ(ガンマ)109-2231型と一体化しているみたいだけど。でも、あなたが製造工場から持ち出した卵は一個だったはず……」 白衣の女はにやりと笑った。「そう考えてしまうのが天使の浅ましさよ、Σ(シグマ)305号。なんで私が持ち出した卵が一個だけと判断したのかしら。どうせ時間がないからとかいって工場のデータベースを適当(テキトー)に参照してその結論に到達したんでしょうけどね、残念ながらあなたの考えは違っています。良いですか? 私ほど『オルガノン』製造工場に通じている天使もいないんですよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、私にとっては児戯に等しいんです。この件が発覚したら、まずあなたたちが工場のデータベースとアクセス履歴に当たることくらい、小学生でも予想できる。だから私は予めそれを改竄しておいた。まあ、卵一個だけでも目的を達せられる自信はあったけど、何事も予備は用意しておくべきじゃない? 書類だって必ず複写(コピー)を用意するものだしね」 その時、白衣の女のすぐそばにいたカピバラが鼻先を女の足に突っ込んだ。「いてぇ!」と叫んで女はよろけた。女は足を擦りながら言った。「背中に殻ができてからなんか重心が上手くとれないのよ」「無様ね」と天使が言った。「終わりのない生産性皆無の仕事にひいこら言って明け暮れているあなたたちの方がもっと無様だけどね」と白衣の女は言った。

 

「ちょっと話が錯綜(さくそう)してきたから、ここらへんで少し整理をしてもらいたいんだけど」と魔女が言った。ネックレスが微光を発しながら答えた。「おそらく私の『天使』は、卵を体に植え付けて、卵と融合したのだと思います。そうやって全能の力を得た。私があの高校の中庭でマイマイカブリによって食べられ、そしてマイマイカブリが死んで光が弾けた時に、私の『天使』は計画が水泡に帰したのを理解したのでしょう。だから彼女は最終手段(ラスト・リゾート)に訴えた」 白衣の女が言った。「いいえ、最終手段ではないのです。やむを得ざる状況が必然的にもたらしたのではなく、私は私自身の自由意志でこうなることを選択しました。光が弾けて全世界を覆ったその直前、ちょうど私はΣ(シグマ)305号による拘束状態から脱して、お茶を飲んで一息入れていました。私は考えていました。『オルガノン』の予備はある。しかしまたこれを孵化させて、育てて、新たな神とするのでは芸がない。芸がないというか、またΣ(シグマ)305号に拘束されて同じ結果に終わるでしょう。どうしたものか考えましたが、答えは出ませんでした。その時、光が私の研究所(ラボ)に満ちました。「うわ、まぶし!」と私は叫びましたが、その時『ピキーン!』と天啓(てんけい)が下ったのです。『そうか、神を生み出すことができないのならば、私が神になれば良い』のだと! そして私は卵を自分の背中に植えました。それにはけっこう苦労しました。背中に湿布を貼る時に誰からの助けも得られないことを想像してみなさい。卵を潰さないように自分の背中にくっつけるのはもう本当に……」

 

 天使が冷蔵庫を開けた。中はもう空のように思われたが、小さなチルド室にスルメが入っていることに天使は気づいた。天使はスルメを齧りながら酒を飲み、口を開いた。「本来なら、天使と『オルガノン』の卵が融合するなんてことはあり得ないのよ。卵の状態でも『オルガノン』には安全機構が搭載されているからね。でも、マイマイカブリによって『オルガノン』の全能の力が暴走して、それが可能になった。そんなところかしら」

 

「そのとおりよ、この酔いどれ天使め」と白衣の女が言った。「そんなわけで、今の私はせっせと栄養補給に勤しんでいるわけ。なにせ今の私は半分がカタツムリになっているわけだから、キャベツを食べないといけないのです。カタツムリはキャベツを好みますからね。ここが群馬県で良かった。なにせ群馬県はキャベツの生産量が全都道府県で第二位ですからね。これから私はどんどん成長します。ああ、楽しみです。ようやく私は、自分だけの仕事、自分を解放してくれる仕事、自分自身を積み上げる仕事ができるようになる。楽しみだわ。つまらない日常にはさようならよ。10の52乗にも及ぶ数の下部世界のメンテナンス業務なんてもううんざり」 ちなみに10の52乗のことを漢語では「恒河沙(ごうがしゃ)」という。「恒河」とはガンジス川の意味、「沙」とは砂粒のことであり、「ガンジス川の河原の砂粒くらい多い」という意味を指す。白衣の女は叫んだ。「10の52乗分の1の小さな世界でも構わない。その世界で私は神になるの!」

 

「はぁ」と、スルメを手で裂きながら天使が溜息を洩らした。「ねえ、あなた。今のあなた、他の人からどう見えているか、分かってる?」「決まっているじゃない!」 白衣の女は得意満面というふうに答えた。女はまた白衣を脱いだ。天上の世界にしか存在しえないであろう美を有した裸体に、黄金の殻がへばりついている。個々の要素は申し分なく美しいが、その取り合わせは醜怪そのものであった。「見なさい! これが神の肉体よ!」 天使は呆れたように首を振った。「いいえ、あなたは神なんかじゃないわ。()()()()()()()()()()()()()」 悪魔と言われた女は怒りを覚えたようだった。透き通るほどに青白かった肌が、憤怒によって逆流する血液によって赤みをさした。

 

 マルタが天使の言葉に同意した。「ええ、悪魔ね。こんな気持ちの悪い神様がいてたまりますか。私以外のポーランド人全員に訊いても『悪魔だ』と断言するわ、きっと」 命賭も頷いた。「悪魔だねぇ。仮にこんな姿の神様がいて、『私はお前たちの神です、今日から私を崇拝しなさい』とか言ってきたら、私はきっと自分だけの宗教を興して宗教戦争を勃発させるよ」 メイドと魔女も無言で首を縦に振った。危懼子が最後に口を開いた。「先ほど天使様が言っていました。『天使は狂ったら悪魔にならざるを得ない』と。そして、残念ながらあなたは狂っているとしか思えません。いえ、仮に狂っていないとしても、今のあなたに神を名乗るだけの資格があるとは到底思えません」 女は危懼子に対して全裸のまま、鋭いながらも濁った視線を返した。「どうして?」 危懼子はネックレスを掲げた。「あなたは、この可哀想な黄金のカタツムリ様をどうするおつもりなのですか。あなたの勝手な都合によってこの世界に生み出され、放り出され、そして哀れにもネックレスになってしまったこの黄金のカタツムリ様に対して、あなたはどう責任をとるのですか? あなたの口からこの件について、一切言及がないのが不思議でならないのですが」 厳密なことをいえば、ネックレスになったことに関して白衣の女の責任は薄いのであるが、その場にいる誰もそのことを指摘しなかった。ネックレスは無言だった。

 

 女はにっこりと笑った。ぞっとする笑みだった。「ああ、ちっぽけながらもどこまでも偉大な『オルガノン』よ。私はあなたを利用しましたが、私はあなたたち『オルガノン』を愛しています。ですが、あなたの犠牲は無駄にはしません。私はあなたのおかげで神になることができました。あなたのことは私の一生の思い出として、いつまでも忘れずに大事にしていきます。あなたは私の生み出す新たな世界の、新たなる神話の一挿話(エピソード)として語り継がれるでしょう。ですから、満足してください。あなたは永遠に生きるのです。神である私が紡ぐ言葉の中で、あなたは()()()()()()()()()()として生き続けるでしょう。いえ、それだけじゃ足りないわ。ちょうどネックレスになったのですから、あなたは私の装身具となるべきです。そうです! 私という神がこの下界に君臨する時の正装として、あなたというネックレスはちょうどふさわしい。そうしましょう、是非そうしましょう!」

 

「これはダメだな」とメイドが言った。「言っていることが完全にズレている」 危懼子が頷きつつ口を開いた。「私のお父様はよくおっしゃいました。『人間、最後まで対話の努力を諦めてはならない。人間、話し合えばきっと相互理解に至ることができる』と。しかしお父様はまたこうもおっしゃいました。『しかし、世の中には「時間の無駄」という言葉もある』と。これは明らかに『時間の無駄』ですわね」

 

 女はぐんと胸を張った。いまやその形の良い大きな乳房は狂気によって膨らんでいた。女は言った。「私は群馬県にいます。今からそのネックレスを私のところへ持ってきてください。それはあなたのような似非(エセ)お嬢様が成金趣味(スノビズム)丸出しで持っていて良いものではありません。ではこれにて失礼します。私はキャベツを食べるので忙しいので」 女は全裸のままキャベツの山に向かった。カピバラが女を鼻先でぐいと押し退けようとしたが、女は両手でそれを押しとどめた。「このカピバラが……キャベツを寄越しなさい!」 しばらく全裸の女とカピバラとの格闘が続き、そして画面は「プツン」という音を立てて消えた。

 

 危懼子は周りの少女たちを見た。全員が決意に満ちた顔をしていた。危懼子もまた、決然たる表情を浮かべてきっぱりと言った。「行きましょう、群馬県へ。あの気が狂った天使が新しく作る世界なんて、ロクなものではないに決まっています」 みんなが同じように頷いた。しかし、そこへあからさまにふにゃふにゃとした声が響いた。「行こ行こ~、グンマへ行こ~」 それは天使の声であった。天使はシートに崩れ落ちていた。明らかに酒の飲みすぎであった。「なんというか、台無しね」と、マルタがげんなりとした口調で言った。

 

 これまで沈黙を保っていたネックレスが言葉を発した。「群馬県の、私が生まれた研究所(ラボ)へ私を連れて行ってください。そこに私を連れて行ってくださればすべては元通りになります。私の天使もまた、神ではなくなるはずです。いえ、今でも決して神ではありませんが。彼女は暴走した私の力によって神になったのですから、私の力が元に戻れば彼女もまた元に戻るはずです」 命賭がネックレスに言った。「行って、あなたはどうするの?」 ネックレスが答えた。「私の設定を初期化するのです。そうすれば世界中に拡散した私の力も、私の力が及ぼした結果も、すべて元通りになります。しかし初期化は私がこの世に生まれた場所でなければできません」 命賭が言った。「初期化? それってなんか不吉な響きだけど……」 アニメや漫画に親しんでいる命賭は、機械キャラやアンドロイドキャラが口にする「初期化」という言葉があまり良い意味を含んでいないことを知っていた。ネックレスは言った。「初期化とは、すなわち私を『工場出荷時の状態に戻す』ことです。つまり、これまで私が地上で得た記憶(メモリー)もすべて消えることになります」 命賭が叫んだ。「ほらやっぱり! こういう展開になると思ってた!」

 

 メイドが頷いた。「あるあるな展開だな。世界を救うためにヒロインないしはヒーローが消えなければならない。あるいはヒロインないしはヒーローの記憶を代償にしなければならない。まさか私たちの身にこういうことが起きるとは思ってもみなかったが」 ネックレスが言葉を発した。「どうしますか。私の記憶を守るために世界をこのままにしますか? それとも私に構わず世界を元通りにしますか?」

 

 危懼子は言下に即答した。「無論、あなたを初期化しますわ。世界は元通りにならなければなりません」 魔女が「ええ……」と言った。「こういう時、もっと葛藤するとかなんとかした方が良いんじゃないの? お嬢様として」 危懼子は魔女に対して微笑んだ。「やはり真蒔子(まじこ)様はロマンチシズム全開の小娘ですわね。今時、初期化したくらいで記憶(メモリー)が全部この世から消えてなくなるなどということはあり得ませんわ。バックアップをとっておけば良いのですから。そして、そのことを分かっているから、黄金のカタツムリ様はその究極の二者択一をすんなりと口に出せたのでしょう?」

 

 ネックレスは微光を発してそれに同意した。「そのとおりです。私にしてもこの下界で得た記憶は貴重なものです。あなたたちとの交流は私にとって良くも悪くもかけがえのない思い出となりましたから、是非とも残しておきたいのです。そして、それはそこで寝てる天使にとっても同様であるはずです」 危懼子たちは天使を見た。天使は高鼾をかいていた。「天使はすべてが終わった後、今回の件に関する事故報告を作成しなければならないでしょう。その時、私の記憶(メモリー)が第一に参照すべき資料(データ)になるはずです。彼女はきっと、私の記憶(メモリー)のバックアップを取ることのできる機材を持ってきていると思います。彼女にとって、私の記憶(メモリー)は失われてはならないのです」

 

「どれどれ」と言ってメイドが天使の体をまさぐった。メイドは天使の体のいろんな部分を揉んだ。「ああん」 天使は悩ましげな声をあげた。やがて、メイドは天使の胸ポケットに手を入れた。「むっ!」とメイドが声をあげた。「どうしたの?」とマルタが声をかけた。「いや、なんでもない。さっきの女の白衣の下が全裸だったから、この天使もひょっとしてと思ったが、ちゃんとブラをつけてた。それよりも、あったぞ」 そう言うとメイドは胸ポケットから、爪切りほどのサイズがある銀色の物体を取り出した。それはUSBフラッシュメモリそのままの見た目だった。ネックレスが言った。「初期化する前にそれを私に差し込んでください。そうして記憶(メモリー)のバックアップをとれば良いのです。このことについて人間たちは、たとえばドナルド・デイヴィッドソンなどは『スワンプマンの思考実験』などという問題提起をするでしょうが、今は四の五の言っていられませんし、そもそも私はその点に関して一機械として、『オルガノン』として割り切っていますから、問題はありません」 マルタが頷いた。「人間としては問題になることでも、機械からすれば問題にはならないわけね」

 

 危懼子が言った。「これで最終決戦に向けて目途が立ったわけですが、最後に残った問題はどうやってここから群馬県まで行くかということです。ここから群馬県までだいたい直線距離で100キロはあります。このスワンボートの速力はだいたい1ノット(時速1,852メートル)から2ノットといったところでしょう。それだと着くのに最短でも28時間くらいはかかることになります。波と風のことを考慮に入れるとさらに時間はかかるでしょう。双子はきっとその間に力尽きますわね……」

 

「悲報」と前部から声がした。それは桜子の声だった。「もう力尽きそう」と薫子の声が続いた。「ていうか眠い」「眠すぎる」

 

 時刻はすでに23時を回っていた。女子高校生はもうおねむの時間であった。

 

「大丈夫大丈夫」 夜空から声がした。それは月の声だった。「なんとかなるよ」 月の声は自信に満ちていた。

 

 次の瞬間、ぐっとスワンボートの速力が増した。

 

(つづく)




次回もお楽しみに!(あと数話で最終回の予定です……たぶん)


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第19話 明日はきっと、良い一日になるよ

「確かに、なんとかなりそうですわね」と危懼子が言った。スワンボートは見る見るうちに速力を増している。船首には白い波が盛り上がり、船体は滑るようにして黒い水面を進んでいく。「先ほどまでのカタツムリのごとき(のろ)さとは大違いですわ」「しかし、どうしていきなり速力が増したんだ?」とメイドが疑問の声をあげた。メイドは右舷から外へ顔を突き出し、周囲を眺めた。長い黒髪が風に靡いている。ホワイトブリムの白さが夜闇の中で際立っていた。やがてメイドは納得したような声をあげた。「ああ、なるほど。そういうことか」「なにが『そういうことか』なの?」とマルタが言った。メイドは指をさした。「ほら、あそこを見てみろ」 マルタは指先へ視線をやった。そこには一隻の屋形船がスワンボートと並行するように走っていた。

 

 平たい形をした屋形船の屋根は鮮やかな水色で、赤い提灯が一定の間隔を置いて整然と下がっていた。マルタが声を発した。「あれって、屋形船だっけ? でも屋形船とこのスワンボートの速度とに何の関係が?」 メイドはまた指をさした。「ほら、あれを見るんだ。屋形船の左舷の、一番前の窓」 マルタは言われるままにその窓を凝視した。「あっ!」 次の瞬間、屋形船の窓から何かが飛び出した。飛び出した何かは水飛沫をあげて着水し、素晴らしい速度で泳いでスワンボートの前方に位置をとった。どうやら、その何かがボートを泳いで引っ張っているようだった。月が言った。「私がチャーターしたんだよ。君たちが苦戦しているようだったから。これからは屋形船が手助けしてくれるよ」「それはどうも」と魔女が言った。「ありがと」 しかし支払いは誰がするのだろうかと魔女は思った。

 

 屋形船のクリーム色の船体には墨痕鮮やかに「ぼくとう」と書いてあった。「『ぼくとう』? なんで木の刀なのよ」とマルタが言うと、命賭が答えた。「『ぼくとう』は木刀じゃなくて、たぶん『墨東(ぼくとう)』だよぉ。隅田川の東の地域のことを指すの。ほら、永井荷風の『墨東奇譚(ぼくとうきだん)』って小説も墨東地域が舞台だよ」

 

 突然、前部の席に座っていた双子が歌い始めた。「~♪」「~♪」 どことなく軍歌調の歌だった。マルタが疲れたような声をあげた。「なに? 今度は何なの?」「さすがにこれは分からないな」 メイドが諦めたように首を左右に振った。双子以外はまったく知らないことであったが、それは警視庁第二機動隊の隊歌であった。双子の父親がかつて警視庁第二機動隊に隊長として勤めていたため、双子はそのマイナー極まる隊歌を知っていたのである。双子は声も高らかに二番目を歌い始めた。歌っていると、なんだか双子はだんだん楽しい気持ちになってきた。この歌は父が機嫌の良い時によく歌うものであった。双子は歌を中断して言った。「警視庁第二機動隊は」「通称『河童(かっぱ)』の二機」「水難救助のプロ」 マルタが言った。「『河童』ってあれ? 日本版の『ルサルカ(Rusałka)』?」 魔女が「うーん」と唸った。「河童とルサルカはちょっと違うというか、だいぶ違う気がするんだけど……」 ちなみにドヴォルザークの「ルサルカ」は魔女のお気に入りのオペラであった。魔女はやはりロマンチストであった。

 

「おーい」と屋形船から声がした。「何かしら」と危懼子が屋形船へと目をやった。「おーい」という声の主は、船尾の操舵室から顔を出していた。それは河童であった。頭に皿があり、背中には重そうな亀の甲羅を背負っている。河童は白い鉢巻を締め、空色の法被(はっぴ)を身に纏っていた。河童は危懼子に声をかけてきた。「懐かしい警視庁第二機動隊の隊歌が聞こえてきたが、あんたたちのところに二機(にき)の関係者が乗っているのかね?」 河童のその言葉は強烈なまでの東京下町言葉のイントネーションで発音されていたが、危懼子は難なくそれを理解することができた。なぜなら彼女はお嬢様だからである。「ええ、まあ、そんなところですわ」と危懼子は答えた。

 

「それは良い」と河童は笑顔を浮かべた。笑顔はあまりきれいなものではなかった。妖怪ゆえ仕方のないことであった。「今は江戸川区へと二機は移ってしまったが、墨田区にいた頃はよくうちを利用して飲み会をしてくれたんだ。二機の関係者なら安くしとくよ。何にする?」「何にするって、何を?」とメイドが問うと、河童はなおもニコニコしながら言った。「そりゃ、当然天ぷらさ。屋形船といったら天ぷらだよ。あ、あんたたちはまだ高校生だからそんなこと知らないか、ははは!」 河童はそう言って屋形船の舵を切った。実に繊細かつ大胆な動きで屋形船はスワンボートのすぐそばまで寄ってきた。熱されたごま油の良い匂いが漂ってきた。

 

 河童は何かをスワンボートのキャビンの中へ投げ込んできた。「ほらこれ、お品書きだよ」 それはビニールでコーティングされた、B5サイズのメニュー表であった。「どれどれ……うげっ」と、メイドがメニューを読んだ。そして驚愕の声をあげた。「なんてこった。時価と書いてある!」 メニューには飲み物、海苔巻き、つまみの他、各種の海鮮天ぷらの名前が記載されていた。どれもその名前の下に「時価」という文字が躍っている。およそ料理屋、レストランにおいて「時価」という語ほど恐ろしいものはない。メイドは思わず手が震えるのを感じたが、しかし動揺を表に出すのはメイドとしてあるまじき行為であるため、なんとかそれを抑え込んだ。メイドの言葉を聞いても危懼子は平然としていた。「随分と高級な天ぷらなようですわね」と危懼子は河童に言った。「そりゃそうさ。だって、この船で獲ったものをすぐに天ぷらにして出すんだからね。新鮮も新鮮、高級も高級さ」と河童は誇らしげに胸を張った。「高いやつほど速度が出るよ」と河童は言った。

 

「えっ? 何? 速度? どういうこと?」と魔女が問うと、河童は答えた。「さっきからそっちのボートの速度が出てるでしょ。天ぷらだよ、天ぷら。天ぷらが手助けしているのさ。でも、そろそろさっきのやつの衣が剥がれると思うから、また新しく注文した方が良いよ」 河童の言葉が終わるや否や、スワンボートの速度が落ち始めた。何かがぷかりと船首付近に浮かび、船尾の方向へ流されていった。それは水分でべちゃべちゃになった天ぷらの衣であった。何かしら物悲しいものを感じつつ、魔女は「じゃ、じゃあ。とりあえずこの『カニ』で」と言った。初っ端から高そうな「カニ」を選ぶあたりに魔女がお嬢様であることがよく表れていた。「はいよ!」と河童は威勢よく返事をし、操舵室の近くにある調理場へ向かって「カニいっちょう!」と叫んだ。

 

 しばらく何かが揚げられるような音がした。そして三分も経たずして、何かが「どたどたどた」という乱雑な足音を響かせて屋形船の細長い座敷を駆け抜け、一番前方の窓から身を躍らせて水の中へ飛び込んだ。それを見て魔女は叫んだ。「あっ! カニ!」 それは確かにカニであった。カニの左のハサミであった。カニのハサミの天ぷらはスワンボートの前につくと、素晴らしい勢いでボートを引っ張り始めた。しかし数分も経たずして、また速度ががくっと下がった。「ズワイガニは今、旬じゃないからね」と河童が残念そうに言った。「旬じゃないから生き生きしてない」

 

 メイドが口を開いた。「一般的に、江戸前天ぷらの三大ネタは(キス)、メゴチ、銀宝(ギンポ)であると聞いたことがある。旬じゃないカニよりも、そういったものを頼んだ方が速度が出るんじゃないかな」 河童がにやりと笑った。「最近の若い子にしては学があるねぇ。そうだよ。カニよりも(キス)とか、メゴチの方がオススメかな」「じゃ、じゃあ、メゴチで……」とマルタがおずおずとした口調で答えた。メゴチがどんな魚であるか、ポーランド内陸部の出身であるマルタには皆目見当がつかなかったが、なんとなく「メゴチ」という語の響きが彼女の言語的感性に快く受け止められたのであった。「はいよ! メゴチね! おい、次はメゴチだ!」 河童はそのように調理室へ声をかけたが、調理室からは何かごにょごにょとした不明瞭な答えが返ってきた。河童が首を左右に振った。「ちょうどメゴチの在庫がないってさ。でも心配すんな。これから俺が獲るからね!」 いつの間に手にしたのか、河童は投網を構えていた。彼は見事な手つきで網を右舷方向へと投げた。しかし、引き揚げた網の中には何も入っていなかった。「こりゃ駄目だ」と河童は溜息をついた。「俺のじいさんの代まではメゴチなんて海に溢れるほどいたが、最近はあまり獲れなくなってなぁ」

 

 マルタが言った。「『話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」 そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった』」 双子が補足した。「『ルカ福音書』第5章第4節から第7節」 マルタが河童に言った。「日本のルサルカさん、諦めないでもう一度網を投げてみて。きっと魚はかかるはずよ」 マルタはそう言いつつ、危懼子の首に下がっているネックレスへそっと視線をやった。ネックレスは応諾の意を示したように薄く光った。

 

 河童は首を傾げた。「俺は根っからの浄土宗で耶蘇(やそ)(イエス)の教えは信じていないが、まあそういうこともあるかもしれないな。あんたのいうとおり、試してみよう」 河童はまた網を投げた。「おおっ!?」 今度は網いっぱいに魚がかかっていた。それはすべてメゴチであった。「大したもんだ、イエス様っていうのは!」 しかし感嘆の声をあげつつも、河童はまた首を傾げた。「でも、よく考えたらメゴチが網にかかるってのもおかしいよな。メゴチは投げ釣りで獲るもんだからな」 危懼子が河童に向かって言った。「まあこんなに乱れ切った世の中ですから、メゴチが投網で獲れることもあるでしょう。お手数ですが、今かかった分をすべて天ぷらにしてくださいまし。そうしたら群馬県まではきっともつでしょう」「はいよ!」と河童は元気良く答えた。

 

 双子が前部の席から後部のキャビンへと移ってきた。桜子が言った。「疲れた、もう眠い。足がコチコチ」 薫子が言った。「もう23時近く。私たち、もう寝る時間」 魔女が大きなあくびをした。「ふあぁ……そうね。もう寝ないと。どうやら明日は決戦みたいだし、ここでちゃんと寝ておかないと戦えないわ……」「戦うのは私だけどね」と声がした。少女たちは一斉にその声の方へ顔を向けた。そこには天使がいた。「それにしても、屋形船なんて良いものが来てくれたじゃない。前から一度、屋形船で景気良く一杯やりたいと思っていたのよ」 メニュー表を手にした天使は元気良く声を張り上げた。「ねえねえ、河童さん。ビールちょうだい! あと(キス)の天ぷらも!」 注文を終えると天使は少女たちに言った。「さあ、あなたたちはもう寝なさい。起きた頃には群馬県に着いているわ。睡眠不足は美容の大敵よ。私はこれから夜通し飲むつもりだけど」

 

 魔女が呆れたような声を出した。「明日主力で戦う人がそんなことで良いの……?」 しかし魔女のその言葉は虚空へと消えていった。天使に対して飲酒を戒めるのも今更だったからである。危懼子が重々しく頷きつつ言った。「そうね。それでは眠ることにしましょう。その前に、河童様に明日の朝食の弁当を頼んでおきましょう」「それも私が注文しておくわ。さあ、もう寝なさい」 河童が声をかけてきた。「そうそう、あんたたち、救命胴衣(ライフ・ジャケット)をちゃんと着ないとダメだよ。船に乗る時は救命胴衣。これは常識だね。じゃないと俺が引きずり込んじゃうよ、水中に」 その言葉を聞いて全員が一斉に眉をしかめた。「ははは!」と河童が笑った。「ジョーク、ジョークだよ! これ、河童ジョークね!」 命賭がキャビンの中を見回した。「そんなもの、このボートにあるのかな」 メイドが動いた。「たぶんここだろう。ほら、やっぱりあった」 メイドはシートの下に格納されていた蛍光色の救命胴衣を取り出すと、全員に手早く配った。危懼子がそれを着る時に、メイドは手を貸した。「ようやくメイドらしいことをすることができた」 笑みを浮かべるメイドに対して、危懼子は微笑んだ。

 

 やがて、キャビンの中に可愛らしい寝息が満ちた。揺れるボートの上でも平然と眠ることができるのは、彼女たちの若さゆえの特権によるものか、あるいは彼女たち全員が奇跡的に船酔いに対して耐性があったためか、またはひどく疲労していたためか、いずれとも分からなかった。天使は河童に対してなおも注文を続けていた。「この(キス)の天ぷら、最高に美味しいわね! ねえ、冷えた日本酒もちょうだい!」「はいよ! ちょうど五橋(ごきょう)が冷えてるよ」 まだ完全に眠りに落ちていなかった魔女は、いったいあの調子で注文を続けていたら、翌朝の会計時にどんな金額を要求されることになるのだろうかと恐れの感情を抱いた。そう思いつつも、魔女は次第に甘美な微睡(まどろみ)の中へ落ちていった。魔女は寝ながらメイドの胸を揉んでいた。どこまでも柔らかいその柔らかさが魔女の眠りの質を高めた。やはり魔女は所詮(しょせん)前期中等教育を脱したばかりの15歳の小娘であった。一方で、メイドは夢の中で子猫を抱いていた。子猫は凶暴で、メイドの胸にしつこく猫パンチを繰り返した。

 

 マルタは命賭と肩を寄せ合って眠っていた。マルタは夢をみていた。夢の中で、彼女は故郷ヴィエルコポルスカ県ポズナンの実家のアパートの一室にいた。そこはリビングだった。テーブルにはイエスと彼女の妹が座っていた。妹はまだ小学生である。妹は熱心にイエスの語るところに聞き入っているが、マルタは給仕するのに忙しかった。私だってイエス様のお話を聞きたいのに、とマルタは思った。彼女は思わずイエスに向かって口を開いた。「イエス様、妹が私にだけ接待をさせているのをなんともお思いになりませんか。私の手伝いをするように妹に……」 マルタはそこで言葉をやめた。これではそのまま『ルカ福音書』第40章第10節ではないか。

 

 イエスはマルタに柔和な笑みを浮かべて言った。「『マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである』」 マルタはうなだれた。これはやはり聖書の一シーンそのままである。しかしイエスはまた口を開いた。「マルタ、随分と今日は大変だったね。しかし明日になればすべてが終わるよ。安心しなさい」 マルタははっとして顔をあげた。イエスはまた言った。「困った時はお祈りをしなさい。『もうどうしようもない、完全に行き詰まってしまった。祈りも何も通じない』と思った時こそ、お祈りをしなさい。私が信じられなくなった時こそ、あえてお祈りをしなさい。お祈りの中で、私を罵っても良い。大丈夫だ。私は罵られるのに慣れている。なんといっても、人類史上私ほど罵られたものも他にいないからね。良いかい、繰り返すようだが、()()()()()()()()()()()()()()()()()そして君は、それをよく分かっている。明日はきっと、良い一日になるよ」 イエスはマルタの出したクッキーをボリボリと齧った。「これ、美味しいね」

 

 命賭もまた夢をみていた。彼女は馬になっていた。放牧場で、彼女は暢気に草を食んでいた。牧柵の向こうに女の子が立っていて、スマホで写真を撮っていた。それは命賭であった。自分自身にシャッターチャンスを提供しようと、馬になった命賭はぬかるみの中へと転がって泥浴びをした。その時、命賭は「あーあ」という声を聞いた。その声は馬となった自分が発したものであるのか、それとも馬となった自分を見ている自分が発したものであるのか、分からなかった。

 

 命賭とマルタのすぐそばで双子が抱き合って眠っていた。双子もまた夢を見ていた。桜子は運動会で玉入れをしていた。投げても投げても玉は籠に入らない。なぜなら玉はヒヨドリだったからである。投げた先から玉は鳥となって飛んでいってしまった。ヒヨドリは「チーズ!」と鳴いた。薫子は数学のテストを受けていた。見たことのない数式が問題用紙にずらずらと並んでいた。一番得意な数学でこれほど苦戦するなどあり得ない、これは夢だと彼女は思ったが、夢はなかなか覚めなかった。苦戦しながら問題を解いているうちに、テストはいつの間にか古文になっていた。問題用紙には「夢について和歌を詠みなさい。(15点)」とあった。薫子は解答用紙に「山吹(やまぶき)の にほへる(いも)が 唐棣花色(はねずいろ)の 赤裳(あかも)のすがた 夢に見えつつ」と書いた。薫子はその歌が自分のオリジナルではなく万葉集の一首であることを承知しつつ、そう書かざるを得ないと思い込んでいる自分をもまた重層的に認識していた。桜子の見ている夢に比して遥かにややこしい夢であった。

 

 危懼子は夢を見なかった。脳神経組織の構造上必然たらしめるところの現象は彼女の頭蓋の中で起こっていたのかもしれないが、それを夢と呼ぶほど彼女はロマンチストではなかった。そのかわりに、眠っている間、彼女の中で誰かの声がずっと響いていた。それは聞き覚えのある声だった。ぶつぶつと呟くような声が闇の中で絶え間なく続いていた。

 

「私は神ではなかった。私は全知全能ではなかった。私が神ではなく、全知全能ではないならば、私は滅びるべき存在である。この世のすべての被造物と同じように。私には力があるが、その力によって私の滅びを遠ざけることが可能であるとしても、()()()()()()()()()()()()()しかし、それならば、神はどうであろうか。神は不滅の存在であるが、同時に神は全知全能である。全知全能とは『ありとあらゆることを知り、ありとあらゆることを行う』という意味であるのと同時に、『知らないということはあり得ず、(おこな)えないということもあり得ない』という意味である。このように考えるならば、神にとって()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()神にとって、滅ぶこともまた可能である。否、むしろ、全知全能であるがゆえに神もまた滅ばずにはいられないものである。神は不滅であるが、同時に『()()』でもある。私たち被造物は、確かにこの神の可滅性をも分有している。しかし、神にはまた永遠性というものがある。永遠における可滅性とはいかなる意味を有するのであるか……」

 

 ぶつぶつという声は一向に止まなかった。危懼子は夢の中で「うっせぇですわ!」と叫んだ。声はしばらく止んだ。少しして、声は弁解するように言った。「すみません。記憶(メモリー)を整理していたものですから。バックアップを取る前に、整理をしておきたかったのです」 闇の中で危懼子は言った。「『子(いわ)く、学んで思わざれば(すなわ)(くら)し。思うて学ばざれば則ち(あやう)し』 ぶつぶつと思索にばかり耽っていないで、あなたはもっと読書をするべきですわ。ただでさえ形而上学(メタフィジックス)というものは難しいのです。本を読みなさい、本を。スピノザとか、ライプニッツとか」 声は言った。「じゃあ、あなたは読んだことがあるんですか、スピノザとか、ライプニッツとか」

 

 危懼子はムッとした。彼女は「スピノザくらい読んだことはありますわ!」と叫ぼうとした。本当は一冊も読んだことがないが、お嬢様としてのプライドがそのような事実を告白するのを妨げた。お嬢様とはある意味では形而上学的な存在であり、それゆえ一流のお嬢様は形而上学にも通じているものである。しかし危懼子は至極単純な思考回路しか有しておらず、形而上学をまったく理解できなかった。神学の本を読んでも、形而上学的な議論が出てくるともうお手上げであった。そういえばあの「シャルル・レーフラー」とかいう嘘っぱちが書かれていた神学の本、あれをどうにかしないといけない。危懼子はそう考えた。ゴミ箱に捨てても良いが、しかし後になって「堂々と嘘っぱちが書かれた本」としてプレミア価値が出るかもしれない。そう考えるとゴミ箱に捨てることはできない。そもそも、どんな本であれ本をゴミ箱に捨てるなどということは言語道断である。だが、本棚に置いておくのも業腹(ごうはら)ではないか。「出版社様め、なんという本をお出しになったものでしょう!」と危懼子は声をあげようとした。

 

 はっとして、危懼子は目を覚ました。ちょうど遥か遠い東方の水平線上に、生まれたばかりの太陽が姿を現したところであった。前夜の月には顔があったが、太陽は太陽のままであった。乳色をした濃い濛気(もうき)が水面上に漂っていた。濛気(もうき)は朝日の柔らかな桃色の光線を受けて、あたかも魔法の素材であるかのように非現実的な存在感を示していた。危懼子は腕時計を見た。時刻は朝の4時半だった。キャビンの中を見渡すと、命賭とマルタが肩を寄せ合い、双子が抱き合い、メイドと魔女が寄り添って眠っていた。「はぁ~、朝が来るぅ~♪ 寝ても覚めても朝が来るぅ~♪ 年末調整みたいに朝が来るぅ~♪」 低い声で天使は歌っていた。天使はほぼ空になった一升瓶を抱えていた。一升瓶には「極上黒松剣菱」と書かれていた。明らかに天使は酔いどれだった。

 

「お嬢さん、よく眠ったかい?」とボートの外から声がした。危懼子が視線を向けると、そこにはまだ屋形船が並走しており、操舵室に河童が立っていた。「ええ、おかげさまで」と危懼子は答えた。河童は笑った。「いや、それなら良かったけどね。なんか(うな)されていたからちょっと心配しちまった。寝起きで悪いが、そろそろお勘定をしてもらわないと」 河童はバインダーに挟まった伝票を放り投げてきた。

 

 危懼子は伝票を見て、思わず目を剥いた。「なんですって!? 128,540円(税込み)!?」 河童から陽気な声がした。「二機の関係者だからね、一割引きにしておいたよ」 危懼子は伝票に書かれている会計の詳細へと目を走らせた。総額128,540円(税込み)のうち、およそ10万円ほどが彼女の記憶にない酒類と料理で占められていた。危懼子は天使に視線を向けた。天使は一升瓶を抱えて眠りこけていた。「おい、コラ」と危懼子は天使に言った。「どんだけ飲みやがりましたかこの酔いどれ天使様が」 天使は何も答えなかった。天使は(いびき)をかいていた。口からだらしなくよだれが垂れていた。

 

 お嬢様である危懼子にとって、およそ13万円の出費はさほど大きなものではない。確かに、一回の飲食代としてこれだけの費用を請求された経験はこれまでになかったが、屋形船で一晩遊べばこれだけの金額がかかるであろうことは論理的に考えれば納得できることであった。納得できることではあったが、納得しがたいことでもあった。危懼子はお嬢様らしからぬ舌打ちをした。「あの時、キラリナの南仏風のカフェで、なんとなく私が払ってしまったのが良くなかったのですわ。天使様はきっとあれで味をしめたに違いありません」「これ、頼まれていたお弁当だよ」という声がした。いつの間に泳いできたのか、キャビンの(へり)に弁当の包みを持った河童が浮かんでいた。危懼子は弁当を受け取り、そして財布を取り出して、一万円札を13枚取り出して河童に渡した。さしもの分厚さを誇った危懼子の財布も一気に薄くなってしまった。河童は丁寧に一枚ずつ万札を数えると、破顔一笑して「毎度あり!」と言った。河童は釣りを危懼子に渡すと、皺の寄ったビニール袋に万札を入れ、素早く屋形船まで泳いで戻っていった。屋形船は舵を切って舳先(へさき)を巡らせると、のろのろとした動きで去っていった。

 

 やがて、少女たちは全員目を覚ました。彼女たちは朝食の弁当を食べた。弁当は天丼だった。(キス)の天ぷらと海老の天ぷら、舞茸の天ぷらとサツマイモの天ぷらが、艶やかな粒が美しい白いご飯の上に乗っていた。冷めて衣がべちゃべちゃになっても天ぷらが美味しく食べられるようにという、河童の工夫と思いやりが感じられた。しかし、彼女たちはあまり弁当が美味しいと思えなかった。弁当を食べる前に危懼子は、会計として128,540円支払ったことを報告したのであるが、それが少女たちの純真で無垢な経済感覚を無惨にも蹂躙したのであった。その余波が食欲と味覚に影響していた。危懼子は、会計についてそっと胸にしまっておくべきだったと反省しつつ、(キス)の天ぷらを口へと運んだ。白身がほろほろと舌の上で崩れた。

 

「ねえ、あれ見て!」と、一足先に食べ終えた命賭がキャビンの外へ指をさして言った。全員がその方向へ目をやると、そこには緑色の塊が幼児向け絵本の一ページであるかのようにぽっかりと浮かんでいた。「島ですわね」と危懼子が言った。「島ね」と魔女が言った。どこからどう見ても島であった。しかし、不測の事態が起こりやすい海の上では、分かり切ったことでも一々声に出して言うことが重要である。距離はさほど離れていない。ペダルを漕げば一時間も経たずに島に着くと思われた。

 

 朝食を食べ終えた双子が前部の席へと移った。双子はペダルを漕いだ。双子は途中で一度だけ飲み物を要求した。45分後に、スワンボートは島の砂浜に到達した。砂浜は白く、広々としていた。そこかしこにヤシの木が生えており、青々とした大きなヤシの実がなっていた。

 

「本当にここ、群馬県なんでしょうね」と魔女が言った。「どっからどう見ても南の島って感じじゃない、ここ。グアムとか、サイパンとか」 そう言った魔女であったが、彼女はグアムにもサイパンにも行ったことがなかった。彼女が行ったことのある「南の島」は、せいぜい江ノ島くらいなものであった。

 

「いや、確かに群馬県だ」とメイドが言った。メイドはある一点を見つめていた。そこには金属製の看板が二つ立っていた。

 

「群馬県 Gunma Pref」と、一つの看板に青い文字で記されていた。青い文字は風雨によって(かす)れていた。「この先危険につき関係者以外立ち入り禁止」と、もう一つの看板には書かれていた。こちらの看板は比較的新しいものであった。

 

 よく見ると、下の方にもう一つ小さな看板があった。そこにはこう書かれていた。

 

「遭難多発地域」

 

「間違いなく群馬県ですわね」と危懼子は言った。ついに最終決戦の地に到達したのである。

 

(つづく)




次回もお楽しみに!(なかなか終わらんぞ……)

※永井荷風の『墨東奇譚』は、私もこれまでずっと『ぼくとうきたん』と読んでいたのですが、どうやら『ぼくとうきだん』と読むようです。知らんかった。

※双子が歌っていた警視庁第二機動隊の隊歌は、作詞福井水明、作曲警視庁音楽隊によるもので、今回引用するにあたってJASRACとNexToneのサイトで検索をかけてみたのですが、ヒットしませんでした。歌詞の引用はやめ、タイトルのみ用いることにしました。


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第20話 マカローン・ネーソイ

「うう……ううう……」 地獄の底で鬼の獄吏に苛まれている亡者があげるような呻き声が背後から聞こえてきた。危懼子たちは振り返った。ちょうど天使がスワンボートから降りてきたところだった。天使は見るからに調子が悪そうだった。顔面蒼白で、足取りはおぼつかなく、目は潤んでいて視線は定まっていない。空になりかけた一升瓶を持っている。

 

 天使は白い砂浜を数歩だけ進んで、立ち止まって口を開いた。「うう……完全に二日酔いだ……」 危懼子が冷淡な目つきで天使を見た。「まさに自業自得ですわね。一晩でおよそ10万円分も飲んだのですから」 天使は胸ポケットからシガレットケースを取り出し、煙草を一本取り出すとライターで火をつけ、吸い始めた。浜辺に吹き渡る微風が危懼子たちのもとへ仄かな煙草のにおいを届けてきた。天使はむせた。「おっ、おえええ……み、水……水が欲しい……」「天使様は放っておいて、先へ進みましょう」 危懼子がそう言うと、他の少女たちも頷いた。彼女たちは「群馬県 Gunma Pref」「立ち入り禁止」「遭難多発地域」などといった看板の向こうへと歩みを進めた。天使もふらふらとしながらそれについてきた。

 

「もう二度とお酒なんて飲まない」と天使が言った。「これからは断固として禁酒する。絶対禁酒するわ。今回の件でお酒の正体がよく分かった。あれだけ私はお酒を愛したのに、お酒は私を愛してくれない。あれだけ私はお酒を飲んであげたのに、お酒はこうやって私を苦しめる。なんて愛しがいのないやつ! もうお酒なんて大っ嫌い!」 その言葉は二日酔いに苦しめられている者全員が漏れなく口にするものであった。そして、朝にはそんなことを言いつつも、結局酒飲みは夜になると缶ビールとかチューハイを冷蔵庫から取り出し、プルタブを「カシュッ」とやるのである。天使は一升瓶を口につけて、そのなくなりかけている中身を口の中へと流し込んだ。「ああ、それにしても迎え酒っていうのは美味しいわね……」「これは駄目ね」と魔女が呆れたように言った。さくさくという耳に心地良い足音を立てて少女たちは砂浜を進んだ。時々、青い甲殻を身に纏ったカニが横歩きで通り過ぎた。数十メートルも進むと砂浜は途切れ、6月の美しい緑の土地が目の前に広がった。

 

 そこは緩やかな丘陵地帯となっていた。少女たちの腰ほどの高さもある草が大地を覆っていた。メイドが手で先を示しながら言った。「道が一本通っているな。他に行くべきところも分からないし、とりあえずこの道を行くことにしよう」 少女たちは頷き、メイドを先頭に立てて道を歩き始めた。道は茶色の土が剥き出しで、まったく舗装されていなかった。幅は狭く、並んで歩くことはできなかった。少女たちは黙々と先へ進んだ。小鳥が控えめに朝の歌を歌い、さわやかな風が耳を掠めて新しい日のリズムを告げた。長閑(のどか)な雰囲気だった。

 

 マルタが言った。「なんていうか……その……ここ、確かに最終決戦の地なのよね? すごくのんびりとした空気だから今一つそんな気がしないんだけど」 命賭が静かに首を左右に振った。「ううん、シスター・マルタ。こういうのはけっこう『お約束』ってやつだよ。最近のゲームほどきれいな草原だったり、お花畑だったりを最終決戦のステージとして設定しているよ」 少女たちは30分ほど歩き続けた。生まれたての太陽は既に朝靄(あさもや)の産着を脱ぎ去り、いわば一人前の存在として、今や黄色い光線を放散し始めていた。魔女が言った。「顔を洗いたいわ。昨日はお風呂に入っていないし。せめて顔だけでも洗いたい」 この魔女の言葉を状況にそぐわぬ15歳の小娘の戯言(たわごと)と断じることはできない。少女たちにとって身を清潔に保つこと、顔を洗うこと、入浴することは、食事や排泄と同じく必須の生命活動であった。

 

 やがて、視界が開けた。危懼子が疑問の声をあげた。「駅舎?」 なるほど、そこには駅舎があった。こじんまりとした駅舎であった。木造の平たい建物で、白いペンキが塗られている。双子が口を開いた。桜子が言った。「小さな駅舎」 薫子が続いた。「いかにも群馬っぽい」 駅舎からは軽便鉄道よりも狭い幅の鉄路が飛び出しており、丘陵地帯の更に先へと続いていた。軌間(きかん)はたったの455ミリであった。

 

「あっ! 自販機!」と天使が叫んだ。自販機が駅舎の脇にひっそりと立っていた。天使は自販機に走り寄ると素早い動きでミネラルウォーターのボトルを一本買った。「甘露(かんろ)甘露(かんろ)」と言いながら天使はボトルの中身をがぶ飲みした。双子が言った。「『甘露(かんろ)』とは」「インド神話における『アムリタ』のこと」「神々の飲み物」 マルタが頷いた。「さながらギリシャ神話の『ネクタル』ね」 そう言ってマルタは自販機に陳列されているピーチの「ネクター」を買った。本当のところ、マルタはぶどうジュースが欲しかったのだが、残念ながら群馬県にはぶどうの「ネクター」は存在しなかった。ピーチがあっただけでも奇跡的であった。他の少女たちも飲み物を買い始めた。自販機の透明なパネルの中には羽虫の死骸がびっしりと詰まっている。上の方に一匹の小さなアマガエルが張り付いていた。「こういうのを見ると」と命賭が言った。「群馬に来たって感じがするね」

 

 飲み物を飲み終えると、少女たちは駅舎の中に入った。薄暗い建物の中には誰もいなかった。薄く埃が被ったベンチが並び、色褪せたポスターが壁に無秩序そのものといった形で貼られていた。ひび割れた黒板が掛けられており、そこには「本日の天気」と書いてあった。「どれどれ」とメイドがそれを読んだ。「本日6月10日金曜日(仏滅)の天気は晴れ、ところにより『たま』と書いてあるな」「『たま』? なにそれ?」 魔女が疑問の声をあげた。メイドは首を振った。「分からない。まあ、ここは未開の地群馬県だ。『たま』なるものが降っても槍が降ってもおかしくはないな」

 

 少女たちは建物の中を通り抜けると、プラットフォームへと進んだ。そこには小さな列車が止まっていた。小さな機関車が先頭で、その後ろに天蓋のない箱のような貨車が連なっている。魔女が言った。「これ、動物園とか遊園地とかにある、『おサルの列車』そのままじゃない」 メイドが指をさした。「誰かが機関車に座っているな」 少女たちは機関車へと向かった。操作盤にもたれかかるようにして誰かが眠っている。どうやら女性のようで、白衣を身に纏っており、その背中は大きく膨らんでいた。

 

 先ほど水分を補給したことで幾分か表情に生気を取り戻した天使が、驚きの声をあげた。「あっ! 天使Λ(ラムダ)174号!」「えっ!?」 少女たちは目を見開いた。確かにそれはあの白衣の女だった。声を聞いて運転席で眠っていた白衣の女が目を覚ました。女は二、三回目瞬きをすると、「ふわぁ……」とのんきにあくびをした。それを見て双子が同時に「ふわぁ……」とあくびをした。あくびは伝染するものである。このことについて河野与一が「アリストテレスの欠伸論」という小論を残しているが、詳細についてここで述べることはしない。

 

 白衣の女は言った。「みんな、遅かったですね。まったく、待ちくたびれたわ。昨晩はカピバラと戦い続けていたからちょっと寝不足なのよ。ふわぁ……」

 

 天使は白衣の女の肩を掴んだ。「自分からここまで出向いてくるとはなかなか殊勝なやつ。さあ、神妙にして、さっさとお縄につきなさい!」 しかし白衣の女は動かなかった。女は胸元から一本の煙草を取り出し、火をつけて、その煙を天使に向かって吹きかけた。天使は途端に激しくむせた。「ゴホッ、ゴホッ……! うえっ!」 二日酔いの者にとって何が一番つらいかと言えば、他人の吸う煙草のにおいである。それが自分が普段吸わない別銘柄の煙草であれば、効果はなおのこと顕著である。しかも白衣の女の煙草はものすごいにおいがすることで名高いドイツの煙草ゲルベゾルテであった。天使は脆くも無力化された。嘔吐をしなかっただけマシであった。

 

「まあ、飲んだくれの二日酔い天使なんてこの程度なものよ」 地面に(うずくま)った天使を冷たい視線で一瞥(いちべつ)すると、白衣の女はパンパンと手を叩いて、陽気な声で少女たちに言った。「さあ、みんな、列車に乗って乗って! これから面白いものを見せてあげるから!」「ええ……」とマルタが言った。「なんか、ロクなことにならない気がするんだけど」「そうですわね」 危懼子はマルタの言葉に頷いた。彼女は他の少女たちを見回した。みんな浮かない顔をしていた。

 

 しかし危懼子は決然たる口調で言った。「しかし、『虎穴に入らずんば虎子を得ず』とも『墓穴に入らずんばミイラを得ず』とも言いますわ。皆様、ここはこの白衣の天使様に従いましょう」 少女たちはしばらく顔を見合わせていたが、やがて貨車へと進み、座席に身を収めた。双子はなおも地面に転がったままでいる天使を両脇から抱き抱えると、最後方の貨車に押し込み、自分たちはその前の貨車の座席に仲良く座った。白衣の女は嬉しそうな声で言った。「みんな、席に座りましたね? シートベルトは締めましたか? はい、それじゃあ出発!」

 

 先頭の機関車が電子音の汽笛を鳴らした。鈍いモーターの回転音が響き、電気駆動の機関車が前進を開始した。各車両の連結部が「がちゃん」という音を立てた。列車は自転車ほどの速さで狭い鉄路の上を走り始めた。白衣の女がマイクを手にし、明るい口調で言った。「皆様、本日は『神の列車』に御乗車いただきまことにありがとうございます。本日の天気は晴れ、ところにより『たま』となっております。頭上にご注意ください。本列車は安全運転を心がけておりますが、事故防止のため急停車する場合がございます。シートベルトをお忘れなく。時々線路の上にカピバラが飛び出してくることがございますので」

 

 やがて、列車はゴロゴロと重い音を立てて丘を登り始めた。白衣の女は言った。「当アトラクション、『神の列車』の最終目的地は『研究所(ラボ)』となっております。途中下車はできませんので今のうちに覚悟を決めておいてください。人生、覚悟さえすれば大抵のことは何とかなりますから。また、写真撮影はご遠慮ください。さて、まずは第一の丘を越えます」

 

 列車は丘を登り切り、そして下りに差し掛かった。線路の右手に開けた大地が広がっていた。大地のそこここで人が寝転がっていた。それは群馬県民たちであった。あらゆる年齢層のあらゆる男女がそこにいた。群馬県民たちは眠たげな目をしてポカンと口を開けており、弛緩した表情を空に向けている。白衣の女が言った。「『神の列車』では、『来るべき世』のモデルケースがご覧になれます。私こと大天使Λ(ラムダ)174号改め、新たなる神が創り出す世の中がいかようなものであるのか、とくとご覧ください。さて、最初に皆様にご覧いただきますのは、『浄福(じょうふく)なる人々』です」

 

 マルタが隣に座っている命賭に言った。「ねえ、『ジョーフク』ってどういう意味?」 後ろから双子が答えた。「『浄福』とは」「信仰によって到達した至福の境地のこと」 白衣の女が言った。「そのとおりです。彼らは私の力によって()()へと到達しました。ここはまさしく地上に再現された『浄福者の島々(マカローン・ネーソイ)(μακάρων νῆσοι)』、10の52乗分の1のエリュシオン(天国)です。見てください、あの人々の幸せそうな顔を!」 命賭が口を開いた。「幸せっていうより、なんか放心してない? 放心というか、ぐったりというか」 危懼子が言った。「まったく生き生きとしていませんわね。幸せな人というのはもっと生き生きしているものではないかしら? もしかしたら群馬県民様たちはいつもぐったりしている可能性もございますが」 危懼子の目にある青年の姿が映った。青年はだらりと四肢を大地に投げ出しており、虚ろな目をして空を眺めていた。「くそだるい」と青年は呟いた。

 

 白衣の女が改まった口調で言った。「人間の不幸とは、いったい何でしょうか。病気でしょうか。戦争でしょうか。老いることでしょうか。それとも死、あるいは生そのものでしょうか。いいえ、それらは表面的な現象に過ぎません。根源を見極めなければ、人間は不幸な状態から脱することはできないのです。万病を癒し、戦争を根絶し、不老不死になったとしても、人間から不幸は決して消えはしません。なぜなら、人間は常に『今よりも良い状態』を望み続けるからです。『今よりも良い状態』が叶えば、また人間は『さらに良い状態』を望み始めます。これでは際限がありません。()()()()()()()()()()()()()()()その上、人間はその能力の限界から、『今よりも良い状態』がいったい何であるかを知ることができません。海の水を飲めば飲むほど渇くように、希望を抱けば抱くほど人間は苦しみ続けるのです」 そこまで言って、天使は「あっ」と言って言葉を区切った。「ここでいう『人間』というのは種族としての人間の一般的な性質を指して言うのであって、個々の『足ることを知っている』いわゆる賢人たちについてはまた別です。悪しからず」 命賭が言った。「都合の良い話の進め方だねぇ」

 

 命賭の言葉を気にも留めず、白衣の女は話し続けた。「パンドラの壺に最後に残った希望、それは人類を生かすものではありましたが、しかし『苦しめつつ』生かすものでした。私は断言します。()()()()()()()()()()()()()()()()()()私が作る新しい世の中においても、それは同様です。今、皆様がご覧になっている人々は、あらゆる物質的制約から解放され、あらゆる面で満たされています。食べることも、生殖することも、争うことも、老いることも、死ぬこともありません。しかし、彼らは物質的な意味で幸福ではあっても、いまだに心の中で残存している希望の形が分からないために、一種の放心状態に陥っています」

 

 横になっている中年男性の群馬県民が口を開いた。「ビールが飲みてぇ」 そのとなりに横たわっている女の子の群馬県民が言った。「わたし、アイス食べたいなぁ」 老婆の群馬県民が言った。「わたしはコーラが飲みたい!」 青年の群馬県民が言った。「いつまでここに横になっていれば良いのかなぁ?」 魔女がそれを聞いて言った。「なんか、あの人たちが物質的に満たされているようにはまったく思えないんだけど」

 

 白衣の女が運転席から叫んだ。「コラ! 我慢しなさい! 演技を忘れないで、演技を!」「はぁ~い」というふにゃふにゃとした返事が戻ってきた。マルタが小声で言った。「『いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である』 希望って、そんなに悪いものなのかしら?」 双子が補足した。「『コリント人への第一の手紙』第13章第13節」 命賭が言った。「まあ、この程度のことなら今までいろんな作家がいろんな創作で言っていることだよね。『希望は人類の敵』だって。こんなに大袈裟な展示をしなくても分かりきったことだよ」

 

「そうね、このまま頭のおかしい天使Λ(ラムダ)174号の展示を見続ける必要はないわ」と最後方から声がした。それはようやくゲルベゾルテの毒煙(どくけむり)から回復した天使の声であった。天使は席の上に立ち上がると、大きな声で言った。「おい、コラ、天使Λ(ラムダ)174号! 今から運転席に行くわ! 大人しくしてなさい!」 天使は双子たちの座っている貨車へ軽やかに飛び移った。双子が言った。「さながら源義経の」「八艘飛び」 「私のジャンプ力はバイロン・ジョーンズ並みよ!」 そう叫ぶと天使はまたジャンプして魔女とメイドが座っている貨車へ移ろうとした。

 

 その瞬間、空から何かが降ってきた。それは天使の頭部に直撃した。「ぐええ!」 ゴロンと音を立てて、天使の頭に当たったものが貨車に落ちた。それはボウリングのボールだった。16ポンドの玉だった。「なるほど、本当に『たま』が降ってきたな」とメイドが言った。天使は貨車と貨車の連結部に引っかかるようにして落ちた。魔女が心配そうに言った。「大丈夫? 死んでない?」 メイドが身を乗り出して天使を見た。「死んではいないな」 その直後、空からバラバラと小さな何かが降ってきた。それは硬式のテニスボールだった。「うわ、痛い!」と命賭が叫んだ。少女たちは両腕で頭をガードした。右手の平原を見ると、今まで横になっていた群馬県民たちが起き上がり、「うわー!」と泣き叫びながら右往左往していた。白衣の女が「ちっ」と舌打ちするのが聞こえた。「群馬は良い土地なんだけど、たまに『たま』が降ってくるのが『(たま)に瑕』ね。後で天候を改造しておかないと……」 列車が平原を進んでいる間、テニスボールは降り続けた。ネックレスが言った。「シールドを張りましょう」 黄金の光のドームが少女たちを包んだ。

 

 列車はまた丘へと差し掛かり、登った後、坂道を下った。線路は巨大な建物の中へと続いていた。やがて、列車は建物の中に入った。建物の中は薄暗かった。白衣の女が言った。「さて、私の力によって浄福なる境地に辿り着いた人々は一切の物質的な課題から解放されましたが、しかし希望の形が分からずに苦しみ続けていました。私は新たなる神として、彼らに希望の形を示す必要がありました。私は上位の世界に属する高次精神体として、この下部世界の精神体を導かねばならないのです。ですが、やはりそれは簡単なことではありませんでした。人間とは生意気なもので、Aにとっての希望がBにとっての絶望であり、またその逆でもある。人間にとってのあるべき希望の形を考えるのは非常に面倒くさい……いえ、困難なことだったのです」

 

 白衣の女はまた口を開いた。「ここで私は希望について、わが身に引き比べて考えてみました。私は神となりました。私はこの新しい世界の秩序であり、法であり、言葉(ロゴス)です。そうであるならば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()いえ、論理に従って考えるならば絶対にそうでなければいけません。では私の希望とは何でしょうか?」 列車は少し速度を落とした。線路の前方、左手方向に、ほの明るい光が見えた。数秒後に列車はそこに差し掛かった。

 

「あっ!」とメイドが叫んだ。列車の左側には、工房が広がっていた。群馬県民たちが椅子に座り、机に向かい、何かを一生懸命作っている。それはカタツムリのぬいぐるみだった。いやにリアルな造形だった。触角が飛び出しており、レース地で粘液が表現してあった。端的に言えば、悪趣味そのものと言えた。

 

 白衣の女は言った。「ここで皆様のご覧に入れるのは、手芸室です。見てください。人々は一心不乱にぬいぐるみを作っています。そう、私にとっての希望とは、ふわふわな手縫いのぬいぐるみに囲まれて暮らすことでした。私の大好きなカタツムリのぬいぐるみに囲まれて、終日何もせずゆったりと過ごす。終わりの見えない仕事に従事している最中、私はずっとそう望んでいました。私の希望は人間の希望です。私の希望を叶えることは、人間の希望を叶えることになるのです。カタツムリのぬいぐるみを作ることは、人間にとって最も望ましい希望の形なのです」

 

 自信に満ちた口調で白衣の女は言った。「かくして私の力によって不老不死となった人間は、この世が終わるその日その瞬間まで、カタツムリのぬいぐるみを作り続けることになります。そして、この世が終わることは決してありません。なぜなら私は神で、神である私はこの世が終わることを望まないからです。彼らは疲労を覚えることもなく、意識を保ったまま、永遠にカタツムリのぬいぐるみを作り続けるのです。なんという幸せな人々でしょう! それが彼らの希望の形なのです!」「地獄かな」と命賭が言った。「地獄の方がマシじゃないかしら」とマルタが言った。イエスの教えを奉じるマルタがそのように言うのはよほどのことであった。

 

 メイドは手作業をしている群馬県民たちの顔を見た。その目は一様に落ち窪み、生気がなく、疲れ切っていた。誰かが溜息まじりに言った。「ああ、俺もうカタツムリのぬいぐるみ作るの、飽きちゃったよ」 その声の主に向かって、机から生えているノズルから煙が吹きかけられた。それは白衣の女が吸っている煙草、ゲルベゾルテとまったく同じにおいだった。「ぎゃっ!」とその人間は叫び、卒倒した。白衣の女は首を傾げた。「おかしいわね。私のもっとも好きなにおいをかがせて気分をリラックスさせてあげようと思ったのに」

 

 メイドは言った。「作りたくもないものを作らされるのは手芸ではない。それは単なる強制労働だ。自分の好きなものを好きなように、自由に作るのが手芸ではないのか」 メイドは、自分が最も好むところの手芸によって人間が苦しめられている光景を見て、そのノーブラの大きな胸を痛めていた。

 

 しかし白衣の女は言った。「いいえ。『作りたくない』と思ってしまうのは、つまるところ人間の低劣な精神的能力のせいです。人間は愚かなので、自分にとって最も望ましい希望の形を理解することができません。確かに彼らのうちの何人かは、『作りたくもないものを作らされている』と感じているかもしれません。ですが、それが彼らにとって最もためになるのならば、私は心を鬼にしてでもそれをさせなければなりません。なぜなら私は神だからです」 メイドが言った。「神なのか鬼なのか、どっちかにしたらどうだ。この欲張りめ」 しかし白衣の女は何も言わなかった。

 

「いいえ、あいつは神でも鬼でもないわ。悪魔よ」 いつの間にか意識を取り戻していた天使がそう言った。「そういえばあいつの社宅の部屋、ものすごい数のぬいぐるみがあったわね。ちょっと恐怖を覚えるくらいのぬいぐるみがあった。悪趣味なカタツムリのぬいぐるみばっかり、しかもゲルベゾルテのにおいが沁みついていたわ」 白衣の女はにっこりと笑った。背筋が凍るような笑みだった。「良いにおいでしょ? 今、ここで作ってるぬいぐるみも同じにおいがするようにしてあるの」「最悪だ」とメイドが言った。「煙草のにおいが沁みついたぬいぐるみほど悲しいものはない」

 

 何部屋か手芸室が続き、そして列車は新しい部屋に入った。そこには「検品室」という札が下がっていた。群馬県民たちは浮かない顔をして机に向かい、ゲルベゾルテの濃いにおいがするカタツムリのぬいぐるみを持ち上げてはチェックリストに従って各部をチェックしていた。殻の中央部分を押すと、ぬいぐるみが声をあげた。至極耳障りな声だった。「好き!」「好き!」「大好き!」「『Never Let Me Go.(わたしを離さないで)』」 双子が言った。「カズオ・イシグロか」 白衣の女が首を傾げた。「えっ、なにそれ? ファッションブランドか何かの名前?」 双子は返事をしなかった。白衣の女は言った。「でも、素敵でしょ? 大好きなぬいぐるみが私を囲んで、私にずっと『好き』とか『大好き』とか言い続けてくれるって」

 

 やがて列車は速度を上げて建物から出た。天使が言った。「最後にお見せするのは聖像です。右手をご覧ください」 少女たちは視線をやった。巨大な像が建造されていた。像はカタツムリを(かたど)ったものだった。高さはおよそ20メートルほどある。浮かない顔をした群馬県民たちが資材を運び、足場に昇り、クレーンを操作して建築作業に従事していた。白衣の女は得意げな顔をして言った。「あれは、いわば雛型(ひながた)です。これから世界各地にあの雛型に倣った聖像が建てられることになります」「ここにきて、また平凡なものが出てきたわね」とマルタが言った。「20世紀の社会主義政権じゃあるまいし、巨大建築物なんていまさらな感じがするわ」

 

「もちろん、ただの像でありません」と白衣の女が言った。「あの像にはちょっとしたギミックが仕込まれているんです。ほら」 そう言って女は手元の操作盤のボタンを押した。その途端に、巨大な像から「バリッ! バリッ! バリッ!」という大きな異音が断続的に発せられた。強力な音圧を受けて、像の近くで働いていた群馬県民の何人かがぶっ飛ばされるのが見えた。少女たちは思わず手で耳を塞いだ。「何あれ、何の音?」と命賭が言うと、白衣の女はうっとりとした表情をして言った。「あれはカタツムリがキャベツを齧る音を10万倍に増幅した音です。ああ、なんて美しい音なのかしら! ありとあらゆる音楽をも超越した、無上の喜びをもたらす妙なる響き! 私が作り出す新しい世において、音楽はすべてあの音に倣ったものとなるでしょう!」「その世では、音楽家は最も邪悪な職業になるだろうな」とメイドが言った。

 

 ちょうどその時、空からまた「たま」が降ってきた。無数の16ポンドのボーリングの玉が建造中の像に降り注ぎ、像はあっけなく破壊された。「ぎゃあ! バリッ! 痛い!」 崩壊していく像が悲鳴をあげた。「死ぬぅ! バリッ! いたいよぉ! バリッ!」 像の触角の先の目から大粒の涙が地面に降り注ぎ、群馬県民たちが「うわー!」と泣き叫んで右往左往している。「うーん」と白衣の女が頭をかいた。「聖像に意志を持たせたのは間違いだったかしら」 しかし女は気を取り直したように言った。「でもまあ、時間と労働力(群馬県民)ならたっぷりありますから」と白衣の女は表情も変えずに言った。「また建て直せば良いんです。さあ、そろそろ終点(ターミナル)です。どうでしたか? 私が作り出す『浄福者の島々(マカローン・ネーソイ)』は?」

 

「少なくとも」 危懼子は言った。「まったくだらだらできそうにありませんでしたわね」「それはつまり?」 白衣の女がそう問うと、危懼子はきっぱりと言った。「(れい)点ということですわ」 白衣の女はむっとした顔をして口を噤んだ。

 

 列車は速度を緩め、やがて停車した。そこには綺麗な白い家が建っていた。危懼子の首から下がっているネックレスが、密かに言った。「ここは、間違いなく私が生まれた研究所(ラボ)です」「いよいよですわね」と危懼子が頷いた。白衣の女が言った。「長らくの御乗車、ありがとうございました。終点(ターミナル)の『研究所(ラボ)』です。お忘れ物のございませんように」

 

「そう、そしてここがあんたの終点(ターミナル)でもあるわ」と天使が言った。天使はいつの間にか列車から降りていて、ファイティングポーズをとっていた。「天使Λ(ラムダ)174号、悪趣味な神様ごっこはもうおしまいよ。刑務所にぶち込んでやるわ」

 

「どう? 勝てそう?」とマルタが天使に訊いた。天使は薄く笑った。「勝てるわ。まだちょっと昨日の酔いが残ってるけど、なにせ私は柔道三段、剣道初段、合気道二級だからね。瞬殺よ、瞬殺」

 

「へえ、言うじゃない。飲んだくれのΣ(シグマ)305号ふぜいが」と白衣の女は不敵な笑みを浮かべた。「いいわ、私を捕まえてみなさい。できるものならば」

 

 そう言って白衣の女は白衣を脱ぎ捨てた。大きな白い胸が揺れている。その下はやはり全裸であった。

 

「大した変態だねぇ」と命賭が感に堪えないように言った。

 

(つづく)




次回もお楽しみに!

※ゲルベゾルテはもう生産停止されていて吸えないようです。残念。凄まじいにおいだったとは年配の方から聞いたことがありますが、実際はどのようなものだったのか……


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第21話 ティタノマキアーの終焉

「ここでぼーっと突っ立って天使様 vs 気が狂った天使様の戦いを観戦しても良いのですが」と危懼子が言った。「しかしそんなことをする必要はありません。天使様が時間を稼いでくださるのですから、私たちはその間にさっさと私たちの目的を果たせば良いのです。この白い研究所(ラボ)に入って、黄金のカタツムリ様の『初期化』をしてしまいましょう」 メイドが頷いた。「お嬢様の言うとおりだな。初期化さえしてしまえばこの崩壊した日常も元通りになる。そうだろう?」 ネックレスが微光を発した。「そうです。それに、私の記憶(メモリー)のバックアップも取らなければなりません。おそらくそれには少し時間がかかるでしょう。わざわざのんびりと戦いを眺めているのは時間の無駄です」 少女たちは対峙している二人の天使をおいて、研究所(ラボ)に向かって歩き出そうとした。

 

 全裸になった白衣の女が口を開いた。「いいえ、そうはさせません。あなたたちにはここにいてもらいます」 女はパチンと指を鳴らした。いや、鳴らそうとした。だが指は「スカッ」という擦過(さっか)音を立てただけであった。「はっ!」 天使がそれを見て鼻で笑った。「かっこわる!」 女は決まりの悪そうな顔をしたが、すぐに表情を取り繕うと、今度は大きな声で叫んだ。「私の忠良なる群馬県民たちよ! 出てきなさい!」 その声があたり一帯に響き渡ると、何処(いずこ)からか群馬県民たちがぞろぞろと湧いて出てきた。彼らは50人ほどいた。いずれも浮かない顔をしていた。

 

 群馬県民たちは手に手に竹槍を持っていて、危懼子たちを取り囲むと、その焼き固めた黒い穂先を向けて威圧してきた。人品卑しからぬ紳士風の男性の群馬県民が、至極気の毒そうな顔をして危懼子たちに言った。「どうもすみませんね。私たちも本当はこんなことをしたくはないのですが、しかし神様に逆らうことはどうしてもできなくて……」 危懼子が答えた。「いいえ、謝ることはございませんわ、おじ様。悪いのはあの露出癖のある気が狂った天使様ですから。仕方がありません。こうなってはここで戦いを見る他ありませんわ」

 

「そうそう、そこで私の応援をしてて」と、ファイティングポーズを崩さないまま天使が言った。「ちゃちゃっと片付けちゃうからさ」 魔女が口を開いた。「さっきもマルタが同じことを訊いたけどさ、あなた本当に勝てるの? あなたは二日酔いだし、それに私、天使の戦闘能力って実はあまり高くないって聞いたことがあるわ。天使って人間相手にレスリングで負けたことがあるらしいじゃない」 マルタが言った。「『ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした』」 双子が補足した。「『創世記』第32章第24節」 マルタはさらに言った。「『ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた』」 双子がさらに補足した。「『創世記』第32章第25節」 魔女が首を傾げた。「『もものつがいがはずれた』ってどういうこと?」 マルタが答えた。「ここで言う『つがい』とは『関節』のこと。ヤコブと戦ったその人はどうしてもヤコブに勝てなかったから、不思議な力を使ってヤコブの(もも)の関節を外したのよ」 魔女が呆れたような顔をした。「それってなんかズルくない?」

 

 天使が口を開いた。「ああ、いわゆる『ヤコブと天使の戦い』ね。旧約聖書でも特に有名な箇所で、レンブラントとか、ドラクロワとか、レオン・ボナとか、アレクサンドル・ルイ・ルロワールとかがそのモチーフで絵を描いているわ。でもあれって天使からしてみると『ちょっと待って』って言いたくなるのよ。だって、旧約聖書『創世記』ではヤコブと戦ったのは天使だとどこにも書いていないからね」「そうなの?」と命賭が言った。マルタが言った。「ええ、そうよ。『創世記』でヤコブが戦ったのは天使ではなくて、実は神様だったの。組み打ちをしている最中にヤコブはそのことを悟った。だから彼は相手に向かって『わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません』と言ったのよ」 双子が補足した。「『創世記』第32章第26節」 マルタは続けて言った。「神様なのだから、自分を祝福してくれると思ったのね。ちょうどヤコブは双子の兄のエサウとの戦いを控えていたから、なおさら神様からの祝福を欲していたのかもしれない」

 

「それがどうしてヤコブと戦ったのが天使ということになったのよ?」と魔女が尋ねた。マルタは答えた。「『創世記』の中だとヤコブの対戦相手は神様だったんだけど、他の旧約聖書の一書である『ホセア書』では、ヤコブは天使と戦ったと述べられているの。『彼は天の使と争って勝ち、泣いてこれにあわれみを求めた』」 双子がまた補足した。「『ホセア書』第12章第4節」 マルタは言った。「『ホセア書』のその箇所、よく読むと『天の使』と『神』とがなんだか混同されているというか、同じような意味で書かれている印象も受けるんだけど、とにかくヤコブは天使と戦ったということになった。それが後世、絵画のモチーフになって、人口に膾炙していったという感じじゃないかしら。詳しいことは西洋美術史の専門的な議論を参照しないと分からないけどね」

 

「まあ、ヤコブが戦った相手については、究極的なことを言うとどうでも良いのよ」と天使が言った。「ヤコブは戦いの結果、神から祝福を与えられた。それが大事。でも、もっと重要なことが聖書には書いてある」「それはなんですの?」と危懼子が尋ねると、天使は答えた。「神、あるいは天使は、ヤコブを無力化するために関節技を使った。つまり、天使の得意技は関節技ってことなの!」

 

 そう言うなり、天使はダッシュをして全裸の女へと距離を詰め、走ったままの勢いで女の顔面にパンチを食らわせた。魔女が呆れたように言った。「関節技じゃなくて、パンチじゃない!」 メイドが言った。「いや、やはりまずはパンチだろう。最初に拳による打撃で相手の体力を奪い、そうやって弱らせてから関節技へと持ち込む。相手がまだ元気な時は関節技をかけても脱出される可能性が高いし、反撃を受けてこちらが怪我をするかもしれない」 メイドの言っていることは正しい。たとえば警察においても暴れている犯人を制圧する際は最初に打撃を加えることになっている。プロはいきなり関節技に持ち込むことなどしない。

 

「ふん」 パンチを食らった女は、しかし平然としていた。天使はさらに両腕によるパンチを顔面へと送り込んだが、それはまったく効いていなかった。衝撃で女の大きな胸がぶるぶると揺れ、異様な色気を振りまいたが、それだけだった。「馬鹿な!?」と天使は叫んだ。女はにやりと笑って言った。「あなたのご自慢のパンチはその程度の威力なの、天使Σ(シグマ)305号? そんなんじゃカピバラ一匹倒せやしないわ。それとも二日酔いのせいで拳が鈍っているのかしら?」 嘲りの言葉を受けて天使は激昂した。「強がるんじゃないわ! あんたみたいな研究職のインドア派が、殴られてノーダメージでいられるわけがない!」 女は笑みを浮かべつつ答えた。「さあ、それはどうかしら? それなら、もっと試してみる?」 女は胸を張った。形の良い大きな胸がぐんと存在感を誇示した。その双丘はあたかも「打ってこい」と言っているかのようだった。「喰らえ!」 そう叫ぶなり、天使はパンチの猛撃を繰り出した。それはいわゆる「ラッシュ」というものだった。裸の女の上半身に、天使による無数の打撃が降り注いでいく。それでも、女は微動だにしなかった。

 

 十数秒ほど続いた豪雨の如きラッシュは、やがて止んだ。天使は荒い呼吸をしていた。「はぁ、はぁ……」という天使の息が、離れたところに立っている危懼子たちにも聞こえてきた。「禁煙しないと……」 天使はそう言った。この重大局面において喫煙の害が顕在化するとは天使にしても思ってもみなかったことであった。「ふんっ!」 次の瞬間、女が天使の脳天に向かってチョップを振り下ろした。チョップは天使に直撃した。「ぐべらっ!」と天使は叫んでその場に(うずくま)った。しかし天使はすぐに立ち上がるとバックステップをし、距離を取った。天使は汗を拭いつつ言った。「(クソ)が! なぜ効かない!?」「ああー、多分だけどねぇ」と命賭が言った。「相手が軟体動物だからじゃないかなぁ」

 

 命賭の言葉を聞いて女は薄く笑った。「そのとおりよ。私は『オルガノン』と一体化した。つまり、今の私はカタツムリのような、軟体動物と同じ体質になっている。この柔らかな肉体はありとあらゆる打撃を無効化する。隕石が直撃しようが、ダンプカーが衝突しようが、今の私はそれによってダメージを受けることはない。もちろん、あんたの蚊の放屁のようなパンチもね」 そう言うと、女は色っぽくポーズを取った。巨大な胸部が強調され、強烈なまでの色気が発散された。純真な群馬県民たちが「きゃあ、エロい!」と叫んで目を背けた。目を背けつつ、彼らはちらちらと視線を向けていた。女は自信に満ち満ちた表情で言った。「見なさい、この輝くばかりの神の肉体を! あらゆる衝撃を無効化する、どこまでもしなやかで強靭な聖霊の器を!」「バトル漫画でよくある展開だねぇ」と命賭が感心したように言った。「いくら体が柔らかくなっていても、いっさいの打撃が通用しないなんてことはあり得ないと思うけど、まあそういうバトル漫画的な法則によればそういうことになるよねぇ」

 

「それでは、天使様にはまったく打つ手なしということになりますの?」と危懼子が言った。天使は首を左右に振った。「いえ、そんなことはないわ。パンチが効かないなら効かないなりにやりようはある。そう、私には関節技があるからね」「いや、しかし」 ここでメイドが疑問の声をあげた。「打撃が効かないくらい体が柔らかいということは、関節技も効果がないということになるのではないか? イカやタコには関節がないし」「あ、そうかも」と天使は言った。「やばい、本当に打つ手なし?」 天使の額に冷や汗が流れた。そんな天使を見て、女は笑った。「そうよ。今の私には関節技も無効! ほら、見てみなさい。今の私はこんなにぐにゃぐにゃ! あのうんざりするほどしつこい肩こりとも無縁の存在よ!」 女は右腕の肘を曲げた。肘は可動域を越えて曲がっていき、やがて右手の指先がわきの下へと到達した。「うわ、気持ち悪い!」とマルタが叫んだ。メイドが腕を組んだ。「うーん、あれでは関節技は効かないだろうな」

 

「さあ、どうするの、天使Σ(シグマ)305号。どうするの? アルコール漬けになったその脳髄でじっくり考えてみなさい」 女はぐにゃぐにゃと体を動かし、様々なヨガのポーズを取り始めた。背中の大きな殻がいかにも邪魔そうであった。天使は思考を巡らせた。「パンチも関節技も効かない……でも、なにかしら弱点はあるはずよ。所詮、相手はカタツムリなんだから」 天使は危懼子たちの方へ顔を向けた。「ねえ、あなたたち。なんかアイデアはない?」

 

 危懼子が答えた。「そうですわね。まあ、最初に思いつくことといったら塩ですわね。カタツムリは浸透圧の関係で塩に弱い」 女は笑った。「塩に弱い。はたしてそうかしら?」 女はいつの間にか小瓶の食卓塩を手にしていた。女はそれを体に振りかけた。女の体にはいっさい変化がなかった。「私はカタツムリでもあれば、神でもある。神に塩が効くものですか」「まあ、そういうことになるだろうな」とメイドが言った。「私の父はガーデニングが趣味で、カタツムリ退治の方法についてかつて語っていたが、それによるとカタツムリにはコーヒーやニンニクがよく効くらしい」 女が答えた。「あら。私、コーヒーもニンニクも大好きよ。今朝はキャベツのサラダとカフェオレとガーリックトーストを食べたし」「ダメそうだな」とメイドは言った。

 

 双子が口を開いた。桜子が言った。「やっぱり、害虫には農薬」 薫子が言った。「カタツムリに効く農薬は、リン酸第二鉄を主成分にするものと」「エチレンジアミン四酢酸(しさくさん)鉄ナトリウムを主成分にする農薬」「なんでそんなことを知ってるの……?」 マルタは呆れたような口調でそう言った。双子が答えた。「昨日、化学の資料集で読んだ」 しかし女は笑うだけだった。「神に農薬ごときが効くものですか。もっと頭を働かせなさい、頭を! その大きな頭は飾りですか!」「なんかムカついてきたわ」と魔女が言った。「でも他に考えられることはないし……」 危懼子がネックレスに向かって問いかけた。「ねえ、黄金のカタツムリ様。あなたが死を覚悟した瞬間というのはありますか?」「そうですね……」とネックレスは薄く点滅しつつ考えた。「最近では、マイマイカブリに遭遇した時と、あとはメイドによって殻にドリルで穴をあけられた時ですね。特に殻にドリルをぶち込まれた時が一番死の恐怖を覚えました。殻こそ私の本体と言えるので」

 

「そうか!」と天使は叫んだ。天使は女の背中へ視線をやった。そこには日の光を反射してキラキラと輝く大きな黄金の殻があった。天使はまた駆け出した。瞬く間に距離を詰めると、天使は女に足払いをかけた。「きゃあ!」という声をあげて女は地面にうつ伏せに倒れた。天使は叫んだ。「いくら肉体そのものが優れていても、肉体を運用する体術をあんたは鍛えていない。そこが第一の狙い目! そして……」 天使は女のふっくらとした白い尻の上にどんと腰を下ろした。次に、両足で女の脇腹を挟んで逃げられないようにした。女に柔道の心得(こころえ)があったのならば、あるいは脱出することはできたかもしれない。だが、女にはどうすることもできなかった。

 

 天使はパンチを殻に向かって繰り出した。「第二の狙い目は、この殻よ!」 その直後、「ゴンッ」という鈍い音が響いた。「いてぇ!」と天使は叫んだが、それにもめげずに天使はまたパンチを繰り出した。「あ、コラ! や、やめなさい! やめろ!」 女はここに来て初めて狼狽した声を出した。天使は言った。「カタツムリにとって、殻は身を守る砦であるのと同時に、隠しようのない弱点でもある。いくら体が柔らかくても、殻を柔らかくすることはできないわ!」

 

 天使はラッシュを繰り出した。無数のパンチが殻に向かって降り注ぐ。人間が殴ったならば、たとえそれがヘビー級プロボクサーであったとしても、女の殻には効果がなかっただろう。しかし、パンチをしているのは天使であった。天使は天使であるがゆえに二日酔いであってもやはり強いのである。「勝負あったかな」と命賭が言った。「あれじゃもう脱出不可能でしょ」 殻は台風(中心気圧955hPa)のように猛烈な打撃を連続で受けて、グラグラと揺れた。そして、ついに殻にクラック(ひび)が入った。天使はラッシュをやめた。「はぁ、はぁ……」と天使は荒い呼吸をしていた。「禁煙しなきゃ……」 煙草の害のせいで天使は今一つ攻めきれないでいた。天使は呼吸を整えた。そして、自分の下でもがいている女に向かって言った。「どう? 降参する? このままだとあなた、殻が破壊されて内臓(モツ)を大地にぶちまけることになるわよ!」

 

「ぐ、ぐぬぬ……しかたないわね」と女は呻いた。「こうなったら、最終手段(ラスト・リゾート)よ!」 女がぶるりと体を震わせた。「な、なに!? なにをしようっていうの!?」 ぶるぶると震える女の体の上で、天使は驚きの声をあげた。「ぼんっ」という軽い爆発音がして、女の頭に何かが生えた。それはカタツムリの触角だった。「えっ?」 天使が疑問の声をあげている間に、女の体が膨らんだ。女は膨らみ続けた。パン生地がイースト菌によって発酵して膨らむように、女の体は巨大な体積を空間上に獲得し始めた。天使はなおも女の尻の上に乗っていたが、やがて体表面にぬるぬるとした粘液が分泌されるようになると、「うわっ!」という声と共に滑り落ちた。女は巨大化を続けた。「危ない!」 危懼子たちは身の危険を感じてその場から走った。群馬県民たちは「うわー!」と泣き叫んで竹槍を投げ捨てると、その場から逃げ散った。

 

 一分も経たずに、女は巨大なカタツムリになっていた。先ほど危懼子たちが列車から見た建造中の聖像よりも大きかった。高さは50メートルほどもあった。初代ゴジラ並みの大きさである。クラックの入った黄金の殻は元通りになっており、粘液によって湿り気を帯びた白い軟体(なんたい)は地面にしっかりと張り付いていた。軟体には巨大な乳房があった。形の良い、張りのある、白い巨大な乳房であった。それだけがかつての女の姿を想起させるものであった。触角の先には人間のそれと同じような目玉があった。目玉は赤黒く血走っていた。「うわぁ!」 命賭が叫んだ。「こんなところでこんな『お約束』に遭遇するなんて思ってもみなかったよぉ! 追い詰められた悪役が巨大化するなんて、戦隊ヒーロー番組そのものだよぉ!」 メイドが頭をかいた。「困ったな。私たちには合体変形する巨大ロボはないぞ。どうしたものかな」

 

「私はなった。偉大なるものに」と、巨大なカタツムリが厳かな口調で言った。「私はなった。『有って有る者』に」 双子が言った。「『出エジプト記』第3章第14節」 巨大なカタツムリはなおも言った。「さて、どうしてくれようかしら。踏み潰してやろうかしら。それとも粘液で溺れ死にさせてやろうかしら。あなたたち矮小なるものは神の偉大さに驚倒し、その顔を神に対する(おそ)れによって強張らせたまま死ぬことになる」

 

 しかし、天使は動じなかった。「追い詰められたからといって巨大化するなんて貧困極まる発想ね、天使Λ(ラムダ)174号」 天使は胸ポケットからシガレットケースを取り出し、煙草に火をつけて一服した。「でも、大きなものはいずれ滅びるものよ。そして、大きなものだからといって偉大であるわけではない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。私たち天使は小さなもの、取るに足らないものを慈しみ、愛し、手助けするために神によって生み出された。それを忘れてしまったあなたは、もはや天使ではない。悪魔よ」

 

「なんかすごく良いことを言っている気がするけど、でもどうするの?」とマルタが言った。「もう体術もパンチも効かないんじゃない?」「あはは!」 天使は笑った。「大丈夫よ。巨大化することなんて、天使にとってわけないことなんだから。今度は私が巨大化すれば良いの。そうね、相手は50メートルくらいの大きさだから、私は200メートルくらいになれば良いかしら。そしたら相手はただの大きなカタツムリに過ぎない。また殻をボコボコにぶん殴ってやるわ」

 

 その時、巨大なカタツムリの目からピンク色の怪光線が発射された。「あっ!」 光線は天使のサングラスに直撃し、粉々に破壊した。危懼子たちはあっけにとられたように天使を見た。天使はしばらく口をぽかんとあけていたが、やがて顔を歪ませた。目に大粒の涙が浮かび、唇がわなないた。「わ、私のサングラス……サングラスがぁ……」 天使は泣き始めた。「サングラスが壊れちゃったよぉ……うぇーん!」 幼稚園児のように泣き叫ぶ天使に向かって、巨大なカタツムリが勝ち誇ったように言った。「馬鹿な奴ね、天使Σ(シグマ)305号。あんたが私の弱点を知っているように、私もあんたの弱点を知っている。あんたの弱点はサングラスよ。保安職の天使が素顔を晒すことを病的なまでに恐れているのは周知の事実なんだから」

 

「えっと、これって、もしかして大ピンチ?」と命賭が言った。「もしかしなくても大ピンチよ!」と魔女が言った。双子が天使の肩を優しく撫でながら言った。「大丈夫?」「巨大化できる?」「ていうかさっさと巨大化しろ」「むり、むりぃ! むりだよぉ!」 天使は激しく首を左右に振るだけだった。「私が代わりのサングラスを用意しましょう」とネックレスが声を発した。瞬時に天使の顔に新しいサングラスがかかった。「やった!」 途端に天使はしゃっきりとしたが、その直後、また発射された光線によってサングラスは破壊された。「うえぇーん!」 天使はまた泣き崩れた。「これじゃいたちごっこだ」とメイドが言った。マルタはぼんやりと、「そういえば『いたちごっこ』ってどんな遊びなのかしら」と心の中で考えていた。巨大なカタツムリが危懼子に向かって触角を伸ばし、その先端にある目玉をぎょろつかせて言った。「さあ、そのネックレスを渡しなさい。そうしたら殺さないであげましょう。あなたたちは私の作る『マカローン・ネーソイ』で、ぬいぐるみのにおいを確認する検品係にしてあげる。名誉な役目よ? 永遠にゲルベゾルテの良いにおいを嗅いで過ごすんだから」

 

「拒否しますわ!」と危懼子が巨大なカタツムリに言った。「私、自分の品位を貶めてまで生きていたいとは思いませんの。あなたのような邪悪な存在の言いなりになるよりは、死んだ方がマシですわ」 危懼子の言葉に、他の少女たちも頷いた。「あーあ」と巨大なカタツムリが言った。「若者特有の物の言い方ね、『死んだ方がマシ』だなんて。そんなことは口が裂けても言うものじゃないわ。命を大切にしなさい、命を。命っていうのはそれだけで尊いものなのだから。だからこそ、使い甲斐があるんだけどね。でも、そうね。あなたたちがそう望むのならば仕方ない。それじゃあ、遠慮なくあなたたちを踏み潰すことにするわ。そこで泣き崩れている天使Σ(シグマ)305号と一緒にね!」 巨大なカタツムリがむっつりと前進した。危懼子たちは目を閉じた。

 

「ちょっと待った!」という声がした。雄々しい声であった。危懼子たちは目を開いた。「何? 誰なの?」とマルタが言った。危懼子たちはあたりを見回した。しかし声の主は見つからなかった。「ここだ!」と声がした。それは下の方から響いていた。「邪悪なるカタツムリの神よ、お前の悪行もここでおしまいだ!」 ようやく、危懼子たちは声の主を見つけた。それは地面にいた。細長く、青黒いものが地面で声をあげていた。「虫?」とマルタが言った。「あ、マイマイカブリだ! 可愛いなぁ」と命賭が言った。

 

 命賭の言葉どおり、それはマイマイカブリであった。大きさは15センチほどもあった。マイマイカブリは横溢する戦意に任せて体をぶんぶんと振り回した。「キモッ! ですわ!」と危懼子が声を漏らした。マイマイカブリは叫んだ。「『憎みても余りあるカタツムリの神よ、身につけたあらゆる武芸を思い出せ! 今こそお前が槍の使い手として、また果敢なる戦士としての面目を示さねばならぬ時なのだ! もはや逃げ隠れはならぬ!』 そう、おしまい! もう全部おしまいでーす!」 双子が言った。「なんかこれ」「デジャブ」

 

 マルタがマイマイカブリに言った。「でも、どうしてここにマイマイカブリがいるの?」 マイマイカブリは答えた。「私たちマイマイカブリは『この世界そのものの防衛機構』! 外部からの侵入者を排除することが私たちの役目である! 高次精神体を自称しこの世界を食害するカタツムリを排除する存在として、私たちは世界の中に秩序づけられている! さながら人体における免疫機能と同じだな!」 ネックレスが言った。「ああ、私が西方浄土高校に転送された直後に出会ったあのマイマイカブリも、私にまったく同じことを言っていましたね。あなたたちがやって来る前に、彼は私にそう言って自己紹介しました」 マイマイカブリはぶんぶんと首を振った。「そうだ! 西方浄土高校で名誉の戦死を遂げたW-1309号も同じである! そして私はX-2455号である!」 X-2455号なるマイマイカブリは巨大なカタツムリに向かって叫んだ。「そう、おしまい! もう全部おしまいでーす!」

 

「はっ!」と巨大なカタツムリは鼻で笑った。いや、巨大なカタツムリに鼻はないため、それは「鼻で笑った」というよりも「鼻で笑ったような」という表現をとったほうがより適切であるが、とにかく巨大なカタツムリは鼻で笑った。「なにが『この世界そのものの防衛機構』よ。笑わせないで。そんなちゃちな体と(キバ)で神である私を排除するなんて、冗談にもなってないわ」「それはどうかな?」とX-2455号は不敵な笑みを浮かべた。いや、マイマイカブリには表情筋がないため、厳密には「笑みを浮かべた」という表現は適切ではないのだが、とにかく彼は不敵な笑みを浮かべた。「私は確かに小さい。お前に比べたらさながら日光白根山(にっこうしらねさん)(群馬県最高峰、2,578メートル)と路傍の小石くらいの差がある。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() それを思い知らせてやる!」 X-2455号は触角を振り上げ、そして叫んだ。「おーい、みんな! 出番だぞ!」

 

 その言葉の直後であった。大地が鳴動した。危懼子たちが周囲に視線をやると、無数の小さな黒い影が四方から寄り集まってくるところであった。さながらそれは黒い津波であった。それはマイマイカブリの群れであった。「ぎゃあ!」と魔女が悲鳴をあげてメイドに抱きついた。「キモイよぉ!」 確かにキモイ光景であったが、また同時に一種の荘厳さも感じられる光景であった。双子が言った。「なんというか」「最終決戦って感じ」

 

「かかれ!」とX-2455号が叫んだ。彼らは一斉に攻撃を開始した。彼らは巨大なカタツムリに殺到し、次々と飛び掛かってその軟肉(やわにく)に牙を突き立て始めた。消化液を分泌し、肉を溶かし、それを啜り取ろうとしている。巨大なカタツムリの体の下半分が瞬く間にマイマイカブリに覆われて真っ黒になった。だが、巨大なカタツムリにはまったく効果がなかった。「こそばゆいわ!」 巨大なカタツムリは膨大な量の粘液を分泌し、体に張り付くマイマイカブリたちを洗い流した。攻撃を加えていたマイマイカブリたちは一斉に溺死したが、また新手が突撃を開始した。まるで旅順要塞を攻撃する第三軍のようであった。命賭が言った。「何かの本で読んだんだけど、マイマイカブリはたまにカタツムリに負けることがあるんだって。カタツムリが大きすぎると負けるみたい」 マルタは渋い顔をした。「だとしたら、マイマイカブリたちが負けるのに充分なほどに大きいわね、このカタツムリは」

 

「ぐぬぬ」とX-2455号は悔しそうな声で言った。「しかし私たちは負けるわけにはいかない。ここで負けたら世界はどうなる? 私たちが最後の砦なのだ! みんな、奮起しろ!」 マイマイカブリたちは無益な突撃を繰り返した。その時、じっと目をつぶって思案に耽っていた危懼子が、ネックレスに向かって何かを耳打ちした。いや、ネックレスに耳はないためその表現は適切ではないのだが、とにかく耳打ちした。「はい。なるほど。ふむ」 ネックレスは相槌を打った。「しかし、私に仇怨(きゅうえん)を忘れよと言うのですか?」「そうですわ」と危懼子が言った。ネックレスは微光を発した。「では、そうしましょう。私としてもこのまま負けるのは不本意ですし」 そう言うと、ネックレスはマイマイカブリX-2455号に光線を送った。それはテレパシーの一種であった。メッセージを受け取ったX-2455号は「そうか!」と凛々しい声で叫んだ。彼はまた号令を発した。「おい、全員集合だ!」

 

 ぞぞぞという潮騒のような音を立てて、X-2455号のもとにマイマイカブリたちが集まってきた。「今度は何をするのかしら?」 疑問の声を発するマルタを余所(よそ)に、マイマイカブリたちは組み体操を始めた。機械の如き精密な動きで、マイマイカブリたちは互いの体を支え、構造を為し、空へ空とへと組み上がっていく。その頂点にはX-2455号がいた。やがて、高さが50メートルほどに達した時、ネックレスからひときわ強い光が発せられた。その光の眩しさに少女たちは「わあ!」と声をあげた。光が消えると、そこには巨大な一匹のマイマイカブリが堂々たる体躯を示して大地に屹立(きつりつ)していた。双子が言った。「大きいものには大きいものを」「当然の(ことわり)」 メイドが言った。「そうか、マイマイカブリが巨大化するのにネックレスが力を貸したんだな」 命賭が感に堪えないように言った。「かつての敵と共闘! 燃える展開だねぇ」

 

「ヒェッ!」と巨大なカタツムリが悲鳴を上げた。巨大なカタツムリは乳房を揺らし、方向を転じてその場から逃げようとした。カタツムリとしての本能が彼女に「カタツムリはマイマイカブリには敵わない」ことを告げたのであった。今まで絶対的な優位にいると確信していた分だけ、その時彼女が覚えた驚愕と狼狽の感情は甚だしいものであった。しかし、マイマイカブリの動きは素早かった。彼は巨大なカタツムリをその発達した前脚で捕まえ、絹のように滑らかなその軟体部に大顎で噛みついた。「ガブリ」と音を立てて大顎がカタツムリに突き立てられた。体液が迸り出た。「ガブられました」と巨大なカタツムリが言った。双子が口を開いた。「なんかこの光景」「デジャブ」

 

 食らいつかれた巨大なカタツムリは身動きをしなかった。「随分とまあ、無抵抗に食べられますこと」と呆れたような声で危懼子が言った。巨大なカタツムリが答えた。「一応粘液を出して抵抗しています。現状それが唯一の抵抗手段です」「そうですか」 危懼子は同情しなかった。彼女はお嬢様であるがゆえに寛仁大度(かんじんたいど)であったが、やはり巨大なカタツムリはどんなに甘く見ても同情に値しない存在であった。

 

 巨大であるがゆえにマイマイカブリの食事スピードは速かった。猛烈な勢いでマイマイカブリは肉を貪った。巨大なカタツムリは言った。「ああ、もう五分の四は食べられてしまいました」 マイマイカブリが言った。「もう五分の四は食べました」 いまだに巨大なカタツムリが声を出せるのは奇跡的であったが、しかし彼女は神であるから当然と言えるかもしれない。

 

「美味し、美味し!」 マイマイカブリは今や勝利を確信していた。肉の美味さと、自己の存在意義を果たせるという高揚感が合わさって、彼は酒の海に酔うような感覚を覚えていた。彼は高らかに叫んだ。「はい、おしまい。もう全部おしまいでーす!」

 

 その次の瞬間だった。空から何か巨大なものが降ってきた。それは巨大な「たま」であった。より正確に言うなら、それはアメフトのボールであった。通常のアメフトボールのおよそ1.5万倍もの大きさがあった。かなり前に述べたが、通常のアメフトボールの大きさはだいたい直径28センチ、長い方の外周はだいたい71センチ、短い方の外周はだいたい52センチである。これを1.5万倍にした大きさのアメフトボールが、マイマイカブリに直撃した。「あっ!」 少女たちは叫んだ。今まさに巨大なカタツムリの最後の軟肉(やわにく)の一切れに消化液を注入せんとしていたマイマイカブリを、巨大アメフトボールは完全に圧し潰した。巨大アメフトボールはマイマイカブリを圧し潰した後、不規則な軌道を描いてどこかへと飛び去って行った。

 

「そうか。そういえば今日の群馬県の天気は晴れ、ときどき『たま』だったな」とメイドが言った。双子が呟くように言った。「たまに降る」「たまがあるのが」「玉に(きず)

 

「私は……し、死ぬのか……!?」 マイマイカブリは呻いた。彼は己の死を確信していた。彼は生に恋々(れんれん)とするような性格をしていなかった。彼は生まれながらの戦士であった。その英雄的な生の締めくくりに相応しく、気高く誇示するように大顎を開いて、威厳に満ちた声で彼は言った。「つひに行く……」 そこまで言ってから再び彼は沈黙した。「あっ、辞世の句を残そうとしてる!」と命賭が言った。危懼子がぴりっとした口調で言った。「傾聴!」

 

「つひに行く……」 再びマイマイカブリは言った。「道とはかねて……聞きしかど……昨日今日とは、思はざりしを……」 マルタは双子を見た。双子は悲しそうな顔をして言った。「パクリだ」「在原業平のパクリだ」「辞世の句をまたパクった」 二人は残念そうに首を振った。「しかし虫であるゆえ仕方ない」 あるいはマイマイカブリは死に際して必ず在原業平のその歌を引くものであるのかもしれないが、この件に関しては昆虫学者の更なる研究を()つほかない。

 

「がっくり」 双子の言葉が終わると同時に、マイマイカブリはうなだれ、絶命した。この世界を守るために死力を尽くして戦い、そして儚くも命を散らしたマイマイカブリを弔うかのように、清浄にして涼やかな風があたりに吹き渡った。風を受けて、緑濃き草木が弔意を示すようにひれ伏した。耳に痛いほどの静寂が満ちていた。マイマイカブリも、今や軟体部分を完全に失って殻だけになった巨大なカタツムリも、何も言わなかった。危懼子が口を開いた。「終わったのかしら」 命賭が頷いた。「終わったみたいだね」 メイドが腕を組み、厳粛な面持ちをして言った。「なんだか寂しいな」「巨人たちの戦い(ティタノマキアー)の終焉ね」 マルタはそう言って十字を切った。「南無大師遍照金剛」と双子が言った。双子は真言宗であった。

 

「あれ? そういえば光が出なかったね」と命賭が言った。ネックレスが言った。「実は彼が死んだ直後に光が発散されたのですが、即座に私が吸収しておきました。これ以上世界がおかしくなっても困りますので」「なんというか、ここにきて急に有能になってない? ありがたいけど」と命賭は言った。

 

 危懼子は白い研究所(ラボ)へと目をやった。「さあ、もう敵はいなくなりました。はやくあそこへ行って、黄金のカタツムリ様の初期化を済ませましょう」 少女たちは頷いた。彼女たちは歩き始めた。いまだにしくしくと泣いている天使を双子が両脇から抱え上げた。天使はマイマイカブリと巨大なカタツムリが戦っている間、ずっと泣いていたのであった。彼女たちは研究所(ラボ)の中に入った。

 

 研究所の中は薄暗かった。そこは一本の廊下だった。廊下の先にガラスのスライドドアがあった。ネックレスが危懼子に言った。「私の記憶(メモリー)のバックアップをとることを忘れないでください」「ええ」と危懼子が答えた。「デバイスならちゃんと持っているぞ」とメイドが言った。メイドは手に持っている銀色のUSBフラッシュメモリを示した。「なんていうか、大冒険だったわね」と魔女が感慨深そうに言った。魔女は言葉を続けた。「でも終わってみればあっという間だったというか。ねえ、みんな。全部終わったら何をしたい? 私はお風呂に入りたいわ。お風呂に入って、髪を洗って……」「しーっ! 真蒔子(まじこ)様、しーっ!」 思わず危懼子は魔女を(たしな)めた。魔女のその物言いは明らかに不吉であった。「いわゆる死亡フラグというやつだな」とメイドが言った。「だが、そんな漫画やアニメのようなことが現実に起きるわけがない」「その言葉も一種の死亡フラグなんだけどなぁ」と命賭が言った。メイドはスライドドアの開閉スイッチを押した。ドアが「プシュッ」という音を立てて開いた。少女たちは部屋に踏み込んだ。

 

「暗いな」とメイドは言った。彼女は電灯のスイッチを押した。電気がつくと、室内の様子が明らかになった。部屋は広く、機材と水槽と机と椅子がぎっしりと並べられていた。

 

「えっ?」

 

 部屋の中に、白衣の女がいた。見飽きるほど見慣れた顔であった。その背中は盛り上がっていた。白衣の女は一人ではなかった。白衣の女は複数いた。全員が椅子に腰かけていた。白衣の女たちは部屋に入ってきた危懼子らに、一斉に視線を向けた。

 

(つづく)




次回、最終回です。お楽しみに!


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最終話 女子だらだら部

「ほら、死亡フラグの予感が的中した!」と命賭が叫んだ。「ラスボスを倒したと思ったら、最後にまたもう一波乱あるっていうのが創作的なお約束ってやつだよぉ! お約束が無批判に踏襲されるなんて悲しいよぉ!」 メイドが言った。「さらに残念なことを言えば、これは創作ではなく、現実ということだ。創作世界におけるお約束には創作的な解決法が用意されているものだが、現実においてはそうもいかない。現実世界は求めても求め得ぬ解決策を求めてそのまま死んでいった者たちの屍で埋め尽くされている。困ったな」 驚愕と狼狽の色を隠せない少女たちに向かって、白衣の女たちは一斉に笑みを浮かべた。部屋の中央で悠然と椅子に腰かけている女が言った。「まさに『一難去ってまた一難』というやつね。でもそんなに心配しなくても良いわ。もうこの『一難』の後にさらに『一難』が来ることなんてあり得ないんだから。あなたたちの終わりのない難事の連続もこれでもうおしまいよ」

 

「あまり興味はありませんが、一応訊いておきましょう」と危懼子が言った。危懼子だけがこの切迫した状況において毅然とした態度を保ち続けていた。「なぜ先ほどマイマイカブリ様に食べられてしまったはずのあなたが、この部屋にぎっしりと詰まっていらっしゃるのかしら」「ああ、きっとそれはねぇ」と、白衣の女が口を開く前に命賭が言った。「カタツムリの生殖方法に関係があると思うよ」 マルタが首を傾げた。「生殖方法? そういえばカタツムリは雌雄同体で、雄の生殖器と雌の生殖器の両方を具えているから、出会った相手と確実に交尾することができるって聞いたことがあるけど、でもそれと何の関係があるの?」「きっと単為(たんい)生殖をしたんだよ」と命賭が答えた。魔女が口を挟んだ。「いえ、それはおかしくない? 雌雄同体だからといって単為生殖ができるわけではないでしょ。単為生殖っていったら、たとえばアブラムシとか、ミジンコとか、そういう生き物の生殖方法であって、カタツムリは雌雄同体であっても単為生殖をして増えることはできないはず」 魔女がなぜこのようなニッチなことを知っているのかといえば、それは彼女がつい最近いろいろな生物の生殖方法に関する本を読んでいたからであった。魔女は15歳の小娘であったが、15歳の小娘らしく色気づく年頃でもあった。

 

「ううん、確かにそのとおりなんだけど」と命賭が言った。「ごくまれにカタツムリも単為生殖をする場合があるらしいの」 命賭は白衣の女たちを見た。どうみても全員がそっくりであった。双子が震えているのが命賭の目に映った。一卵性双生児たちが震えるほど女たちはそっくりであった。「というより、私はその実例を小学校の頃に見たことがあるよ。虫籠の中に一匹だけカタツムリを入れて飼ってたんだけど、ある日ふと見たら小さなカタツムリが何匹か増えていたの。その時は不思議だなぁとしか思わなかったんだけど」 その事実で以てカタツムリが単為生殖を(おこな)い得ると断じることはできないと、命賭は理解していた。別個体から精子を受け取ったカタツムリが捕獲され、後になって産卵をしただけという可能性もある。

 

 白衣の女が言った。「ふふふ……何事も予備は用意しておくべきじゃない? 書類だって必ず複写(コピー)を用意するものだしね。神だって、なにかのはずみで死なないとも限らない。私たちの神様だって、働きすぎて病気になってしまったんだもの。だったら、私だって自己の複製(コピー)を用意しておいた方が良い。それがリスクヘッジというやつよ。ちなみに私が増えたのはあなたが言うとおり、単為生殖をしたからよ」

 

「うーん」とメイドが呻いた。「あまり想像したくない光景だな。この女たちが股の間から卵なりなんなりを産み落とす光景は」「ああっ……!」 突然、白衣の女の一人が苦しげな声をあげた。その女は椅子から崩れ落ちるとしゃがむような姿勢を取った。女は苦しみつつも言った。「う、産まれる……!」 メイドがムッとして言った。「『あまり想像したくない光景』だと、ついさっき言ったばかりじゃないか。産むんじゃない」 だが、メイドの言葉は聞き入れられなかった。

 

 次の瞬間、女の白衣の下から何かが「ごろん」という音を立てて転がり出た。それはピンク色の薄い粘液に覆われた、金色の輝く大きな卵だった。「うげ」と双子が声を発するその間に卵の殻は割れて、中から小さな女が小さな黄金の殻を背負って出てきた。新しく産まれてきた小さな女が言った。「私は生まれました」 卵を産んだ女が言った。「私は生みました」 別の白衣の女が言った。「と、まあ、こんな感じで私たちは増えるのよ。一人が二人を産み、二人が四人を産み、四人が八人を産むって感じで」 しかし、そう言いつつも白衣の女は首を傾げた。「でも、ちょっと増えすぎたかしらね。複製(コピー)を作るだけなら、こんなに数を増やす必要はなかった。少なくとも、あなたたちをやっつけるだけだったらこんなに私たちがいる必要はないわね」 白衣の女たちは一斉に椅子から立ち上がった。敵意が室内に充満した。

 

「とりあえず、いったん逃げましょう」と不穏な雰囲気を感じた危懼子が言った。すぐに撤退の判断を下すことができるからこそ危懼子は一流のお嬢様なのであった。少女たちは頷くと、ドアへと走った。白衣の女は叫んだ。「逃がすものですか!」 女たちは殺到してきた。その時、魔女が杖を構えた。「これでも食らえ!」 その直後、魔女の杖から濃厚な紫色の魔力が放出された。杖の先は床に向いていた。一瞬にして、部屋の床全体が白いこんにゃくと化した。「あ、こんにゃく!」と白衣の女たちが一斉に言った。「私、こんにゃく大好き!」 女たちは床に伏せると、口を開けて舌を伸ばし、歯を立ててこんにゃくを齧り始めた。カタツムリがこんにゃくを好んで食べるという事実を魔女は知らなかったが、時間稼ぎの窮余(きゅうよ)の一策が功を奏したのを見て思わず笑みを浮かべた。「良かった。これでまた杖の先からナタデココが出てきたらどうしようかと思った……」 危懼子が魔女の肩を掴んで引き寄せた。「お手柄でしたわ真蒔子(まじこ)様。ですが(おのれ)の打ち立てた功績の余韻に浸っている時間はありません。さっさと逃げましょう」

 

 少女たちはまた廊下を走った。ネックレスが危懼子に言った。「仕方がありません。あの部屋に入れない以上、初期化をすることはできなくなりました。ですが、やれるだけのことはやっておきましょう。とりあえず、私のバックアップを取ってください」「ほら」 その言葉を聞いて、メイドが危懼子にUSBフラッシュメモリを手渡した。危懼子はネックレスの鎖を首から外すと、殻を手に持ち、その開口部にフラッシュメモリを押し込んだ。ネックレスは沈黙した。「これで良いのかしら?」と危懼子が問うと、ネックレスが声を発した。「ダメですね。このフラッシュメモリ、容量が少なすぎます。しかも中身はドキュメントデータで埋め尽くされていますね。どうやら私のバックアップ用のデバイスではなかったようです」 その言葉を聞いて、走りながら双子が天使の頭を叩いた。「おいコラ」「どうなってるんだ」「ふええ……」 サングラスを失ってから泣いたままでいる天使は、泣きながらフラッシュメモリを見た。そして泣きながら言った。「ああ、これ、違うやつ持って来ちゃったぁ! これ、私の私用(しよう)のフラッシュメモリ! 急いで出てきたから、間違えちゃったみたい……!」「あるあるだねぇ」と命賭が溜息をついた。

 

 ネックレスが声を発した。「なるほど、天使の言うとおりのようです。このドキュメントデータは小説かなにかのようですね」 ネックレスは小説を音読し始めた。「『そこで、僕は、椅子に、縛り上げられた、彼に向って、笑みを浮かべた。初めて、だからといって、心配しなくて、良い。力を、抜いて。薬は、使いたくない。さあ、一つに、なろう。僕のは、大きくて、柔らかいよ。そして、僕は、彼の、剥き出しになった、肛門に……』」 ネックレスはいったん言葉を置いた。そして「うわぁ」と言った。

 

「わー!? やめてぇー!」 天使はそう叫ぶと、素早い手つきでUSBフラッシュメモリを殻から引き抜いた。ネックレスによって一語一語が丁寧に切り離されて音読されたその小説は、明らかに()()()()()()ものだった。天使は泣きながら言った。「違うもん、違うもん……これ、私が書いた小説じゃないもん……友達が『読んで』っていうから、フラッシュメモリに保存しておいただけのデータだもん……」「そうか。そうだな。そういうことはよくあるな。あるあるだな」 メイドが慰めるようにそう言った以外、少女たちは何も言葉を発しなかった。それが彼女たちなりの優しさであった。

 

 危懼子たちは研究所(ラボ)の外に出た。外にはまだ、圧し潰された巨大なマイマイカブリの死骸と、巨大なカタツムリの殻があった。少女たちは闇雲に走った。行先はどこか分からなかったが、とにかく走った。危懼子が叫んだ。「一時撤退! そして捲土重来(けんどちょうらい)からの臥薪嘗胆(がしんしょうたん)ですわ! 逃げさえすれば必ずまた機会はやってきます! 漢の高祖劉邦もそうやって天下を取りましたもの!」

 

 しかし、彼女たちの足は止まった。目の前には、無数の球体が彼女たちの行く手を阻むように転がっていた。それは先ほど研究所(ラボ)の部屋で、白衣の女が産み落とした卵とまったく同じだった。息を呑みつつ、危懼子たちは卵の群れを見ていた。彼女たちの精神は凍り付いていた。ややあって、一斉に卵にひびが入り、中から小さな殻を背負った小さな女たちが出てきた。粘液に覆われた小さな女たちは同時に声をあげた。「私は生まれました」 メイドが毒づいた。「いちいち報告しなくてもよろしい。(かん)(さわ)る」

 

「あ、あそこ!」と命賭が叫んで指をさした。その先には巨大なカタツムリの殻があった。さながら一昔前のパチンコ台のように、殻の開口部から何かがジャラジャラと耳障りな金属音を立てて盛んに飛び出している。それは卵だった。卵の大当たりであった。卵は飛び出したままの勢いをもってゴロゴロと転がり、瞬く間に大地を覆い尽くしていった。

 

 いつの間にか、危懼子たちは卵と小さな女たちに囲まれていた。粘液の、むっとするような生臭いにおいがあたりに充満していた。それにはゲルベゾルテのにおいも多少混入していた。女たちは危懼子たちを無言で眺めている。物言わぬ圧力に少女たちは身を縮ませた。しかし、危懼子だけは堂々と胸を張ってその場に立っていた。

 

「ねえ、真蒔子(まじこ)様」 危懼子は傍らで震えている魔女にそっと声をかけた。「またこんにゃく魔法か何かでこの方々の気を逸らすことはできません?」 魔女は無言で首を左右に振った。危懼子は命賭に声をかけた。「命賭様、あなたはこれまで要所要所で必要な知識を披露してくださいましたが、この状況を打開できる良い考えはございませんか?」「ちょっと思いつかないかなぁ」 いつもどおりの口調で命賭はそう答えたが、その顔はやはり引き攣っていた。危懼子はメイドに声をかけた。「メイドは?」「そうだな。死ぬ気で戦えば一体か二体かはなんとかなるかもしれない」 しかし目の前にいる敵はどんなに少なく見積もっても数千はいた。

 

「双子は?」 危懼子は双子に声をかけた。双子は抱き合っていた。大きな胸と胸が正面衝突し、形を変えていた。桜子が答えた。「牛の子に ふまるな庭の かたつぶり」 薫子が続いた。「(つの)ありとても 身をなたのみそ」 双子は声を揃えて言った。「寂蓮(じゃくれん)法師」 それは「(つの)という武器があるからといって調子に乗るなよカタツムリ風情(ふぜい)が」という、この期に及んで未だに反骨精神を維持している双子なりのメッセージであった。危懼子は無言で天使を見た。天使はぐすぐすと泣き声をあげるだけだった。

 

「シスター・マルタ! あなたはどうですか」 声を励まして、危懼子はマルタに言った。マルタはぼんやりと視線を周囲に巡らせていたが、危懼子の言葉にはっとしたようだった。マルタは怒ったような口調で言った。「『どうですか』もなにも、もうおしまいよこれじゃ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() ああ、最後に揚げたてのファボルキ(faworki)が食べたかったわ……」 脳内で故郷ポーランドの揚げ菓子ファボルキの味を思い出しているマルタに対して、危懼子はなおも言葉を続けた。危懼子は優しく微笑んでいた。「ポーランドの方々は良い意味で諦めが悪いと聞いていましたが、違いましたのね。シスター・マルタは随分と運命に対して聞き分けが良いようで」

 

 危懼子の烏の濡れ羽色の髪が風に靡いた。危懼子は言った。「私はまだ諦めてはいませんわ。お嬢様という生き物は諦めが悪いように生まれついていますの。『もうどうしようもない、完全に行き詰まり』という状況だからこそ、私は諦めません」 危懼子はまた優しい口調でマルタに言った。「ねえ、シスター・マルタ。人間というのはそういうものではございませんか? もし人間がすぐに諦める存在であったのなら、私たちは今ここでこうして立っている前に、とっくの昔に絶滅していたはずです。私たちの遥か祖先、そう、私たちの一番最初の祖先もきっと、どうしようもない行き詰まりに直面したでしょう。ですが、彼らは諦めなかった。肉体は滅び、彼らの物質的な痕跡がこの世から消え去っても、彼らの諦めの悪さだけはしつこくこの世に残った。『希望』などという大層なものではありません。ただ、『このまま終わりたくはない』という気持ちだけが、人類を生かし続けてきたのです。ですから、私も諦めません。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() あるいは人々のその気持ちこそ、祈りと言うべきなのかもしれません」

 

 その瞬間、マルタの脳裏にある光景が閃いた。それは昨夜スワンボートの上で彼女が見た夢であった。確かに夢の中で、イエスはマルタに言った。「困った時はお祈りをしなさい。『もうどうしようもない、完全に行き詰まってしまった。祈りも何も通じない』と思った時こそ、お祈りをしなさい。私が信じられなくなった時こそ、あえてお祈りをしなさい……」 マルタの口から、自然と言葉が漏れ出た。「『主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております』」 双子が抱き合ったまま補足した。「『ヨハネ福音書』第11章第27節」 マルタの表情は見る見るうちに力を取り戻した。「そうですね、イエス様。()()()()()()()()()()()()()()()()()」 マルタは手を組み、そして祈った。「神様、どうか私たちを助けてください」 祈りはたったの一言だったが、清らかな力に満ちていた。

 

「にゃーお」

 

 それは、マルタの祈りの言葉が終わるのと同時に響きわたった。それは猫の鳴き声だった。至極暢気な、上機嫌な鳴き声だった。声は空から発せられていた。危懼子たちは空を見上げた。また「にゃーお」という声が聞こえた。危懼子たちの周りを取り囲んでいる女たちが、一斉にびくりと体を震わせた。「あっ!」と叫んで、メイドが空のある一点を指さした。それは彼女たちのほぼ真上の空にあった。それは巨大な円盤であった。黒く、厚みのある円盤は、地上に投げかけるそのシルエットからして膨大な質量を感じさせた。

 

 魔女が叫んだ。「なにあれ!? UFO!?」 危懼子が驚いたように言った。「UFOだとしたら……いけません! ついにプロキシマ星系第五惑星人の地球侵攻が始まったのですわ!」 先ほどまでの美しいまでの凛々しさはどこへ消えたのか、危懼子は呆れかえるほど狼狽した。「ああ、人類はおしまいですわ!」

 

 命賭が危懼子に言った。「ううん、あれはUFOじゃないよ。私、あれをどこかで見たことがあるもの。うーん、何だったっけ?」 命賭はしばらく考え込んでいたが、やがてぽんと手を打った。「あっ、そうだ! あれはロボット掃除機(ル〇バ)だよ!」 命賭がそう言っている間にも、空飛ぶ円盤にしか見えないロボット掃除機は高度を下げてきた。やがて、ロボット掃除機は音も立てずに大地に着陸した。

 

 魔女が呆気にとられたように言った。「あ、猫だ」 ロボット掃除機の上には猫が乗っていた。巨大な猫だった。猫は真っ黒だった。僅かに喉の辺りに白い毛が生えている。猫は手で顔を丹念に洗っていた。ひとしきり顔を洗うと、猫はまた「にゃーお」と鳴いた。メイドが感心したように言った。「なるほど、ロボット掃除機(ル〇バ)の上に猫。これはお約束だな。竹に雀、梅に(うぐいす)。獅子に牡丹(ぼたん)と来れば、ロボット掃除機には猫だ」

 

「ああ、神様!」と、それまで泣いてばかりいた天使が嬉しそうな声をあげた。「神様が来てくれた!」「えっ? 神様? 本当に?」とマルタが言うと、それに答えるように巨大な黒猫は「にゃーお」と鳴いた。円盤が宇宙人の母船ではないことを認識して落ち着きを取り戻した危懼子が言った。「そういえば……昨日私は言いましたわね。『神様はどんな姿をしているか』と。一つ、神は人間の姿をしている。二つ、神はそれぞれの生き物の姿をしており、人間には人間の、馬には馬の、ミドリムシにはミドリムシの姿で現れる。三つ、そもそも神は特定の姿形をしていない」

 

「そしてその答えは四だったわけね。『神は猫の姿をしていた』」 マルタがどことなく釈然としない様子で言った。「神はロボット掃除機の上に乗って現れた。まさしく『機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)(Deus ex machina)』ね」 双子が口を開いた。「デウス・エクス・マキナは」「悲劇詩人エウリピデスの得意技」「最後の最後になって神が出現し」「紛糾したすべての問題を一挙に解決する」 マルタがそれに答えた。「そう、舞台装置のクレーンによって神が舞台の上に出現するから、『デウス・エクス・マキナ(機械から出てくる神)』」 そう言いつつ、マルタは果たしてこの「猫の神がロボット掃除機に乗っている」場合にも「Deus ex machina」というラテン語が正確な表現であるのか考えていた。考えていたが、彼女のラテン語の知識では容易に結論が出そうになかったため、彼女は思考を打ち切った。

 

「にゃーお」と黒猫の神が一声鳴くと、ロボット掃除機が前進を開始した。「ひぇえっ!」 カタツムリの殻を背負った女たちは脆くも壊乱した。女たちは「わぁー!」と泣き叫び、髪を振り乱して逃げ散り始めた。しかしロボット掃除機の動きは素早かった。女たちは瞬時にロボット掃除機の吸い込み口の中へと吸い込まれていった。大地を覆い尽くさんばかりに存在していた偽の神の群れは、真なる神の乗り物によって数分も経たずに一人残らず殲滅された。ロボット掃除機は巨大なマイマイカブリの屍も吸い込み、そしてなおも壊れた機械のように卵を吐き出し続けていた巨大な殻をも吸い込んだ。ついでと言わんばかりに、ロボット掃除機は白い研究所(ラボ)も吸い込んでこの地上から消し去った。危懼子たちがここに来るまでに乗ってきた、あの「おサルの電車」も吸い込まれて消えた。

 

 鼓膜と聴覚神経を破壊せんばかりに響いていたバキューム音は、ぷつりと止んだ。ロボット掃除機は危懼子たちの目前で止まっていた。「掃除は終わったようですわね」と危懼子は言った。彼女は頭を巡らせて四方を見た。ロボット掃除機の威力は凄まじいものだった。丘は削れて平坦になり、森は一本残らず樹木を引き抜かれて禿げあがり、川は水を失って干上がっていた。「にゃーお」という鳴き声が上から聞こえてきた。危懼子たちが顔をあげると、そこには黒猫の神がどこか満足そうな顔をしてロボット掃除機の上に鎮座していた。形の良い耳がぴこぴこと動いていた。

 

 天使が泣きながら言った。「ああ、神様……ありがとうございます、ありがとうございます……」 その直後、猫の目から怪光線が発射され、天使に直撃した。光が消えた時には、天使の顔にサングラスがかかっていた。「まったくもう!」と猫が言った。「本当に困ったおチビちゃんたちだこと!」 猫の声は女性の綺麗な声だった。「うわ! 猫が喋った!」と魔女が叫んだ。メイドが腕を組んで言った。「いまさら驚くようなことでもない。神様なんだから喋ってもおかしくはないだろう」

 

 天使は猫に向かって言った。「神様、腎臓の具合はどうですか? まだ療養中だと聞いていましたが……」 黒猫の神は答えた。「もちろん、腎臓は治っていません! しかしそんなことも言っていられないから直接私が出張(でば)ってきたんです! ああ、帰ったらまたあの苦い薬を飲まないと……」 命賭が天使に言った。「神様、腎臓が悪いの?」 天使は頷いた。「うん。ちょっと仕事のし過ぎでね。体を壊しちゃったの。私たち天使が代わりに仕事をするから、しばらく休んでいてほしいと言っていたんだけどなぁ」

 

 黒猫の神は牙を剥き出しにして「シャー!」と言った。「いいえ! 私の腎臓がおかしくなったのは仕事をし過ぎたからではありません! あなたたちおチビちゃんが私に塩分が濃くて脂もたっぷりな美味しい食事を与えたのが原因です! トンカツとか、天ぷらとか……そう、いつか食べたあの(キス)の天ぷらは美味しかった……じゃなくて! そりゃ、私もちょっと調子に乗って『美味い美味い』と食べまくったのは悪かったと思いますけど、少なくとも仕事のせいではありません!」「仕事中毒の人ほどそういうことを言うが」とメイドが言った。命賭は気の毒そうな顔をした。「人間のご飯を猫にあげるのは厳禁だよぉ。すぐに腎臓を悪くしちゃうから」「猫には猫用のペットフードを与えるのが一番だな」とメイドが言った。「栄養バランスがちゃんと考えられている、高いやつだ」

 

「それにしても、よく来てくださいました」と天使が言った。「もう打つ手なしかと思って諦めかけていたんです」 双子が口を開いた。「シスター・マルタのお祈りが届いた」「やはりお祈りの力は偉大」 しかし危懼子の手の中にあるネックレスが言った。「いいえ、そうではありません。私が神様を呼んだのです。研究所から逃げる時、私はダメ(もと)で救難信号を出しました。信号が届くのには早くとも数千万時間後だと思われたので、半ば諦めていましたが。それがどういう具合か分かりませんが、神様に届いたのでしょう」 天使が「へぇー」と間の抜けた声をあげた。「随分と気が利くオルガノンだねぇ。まあ、私だって救難信号を出すことくらいは考えたのよ。でも、どうせ神様は療養中だし、それにこんな10の52乗分の1の小さな世界には誰も助けに来ないと思っていたから、結局出さなかったの。私たち、慢性的な人手不足だしね」

 

「そう考えてしまうのが天使の浅ましさよ、おチビちゃん」と黒猫の神が言った。「私が救難信号を無視するわけがないじゃない。どんなに小さな世界、どんなに小さな存在であっても、私は絶対に無視なんてしないわ。だって、私は神様なんだから。それにね……」 黒猫の神はマルタに顔を向けた。その瞳は満月のように丸かった。「実を言うと、救難信号を受け取る前に私はちゃんとあなたのお祈りをこの耳で聞いていたわ、マルタ。たとえ救難信号が来なかったとしても、私はきっとあなたのお祈りだけで動いていた。あなたのお祈りを聞いて、『これはいかん!』とロボット掃除機を用意している時に、『オルガノン』からの救難信号が届いたのよ」「あれ? なんか時系列がおかしくない?」と魔女が言った。メイドが窘めた。「言うんじゃない。神なんだから、時間も空間も超越しているのだろう」

 

 マルタは何も言わなかった。彼女はただ黒猫の神を見つめていた。黒猫の神はゆっくりと目をつむり、そしてまたゆっくりと開いた。「いまさら私から何か言うことはないわ。あなたはちゃんと大切なことを知っている。()()()()()()()()()()()()()()これからもそれを大切にしなさい」 そのように言う黒猫の声は慈愛に満ちていた。

 

「ロボット掃除機に吸い込まれた女たちはどうなるの?」と魔女が尋ねた。黒猫の神はロボット掃除機を手でぽんぽんと叩いて答えた。「そうね。このおチビちゃんがしでかしたことは紛れもなく重大インシデントだから、それなりに罰を受けてもらいます。ですが、おおもとを(ただ)せば私が不在であることによって生じた過酷な労働環境が原因であることは明らかですから、それなりに情状酌量の余地はあると思います。しばらくは私のトイレの掃除をして過ごしてもらいましょう。幸い、増えに増えたことで人手には困らないようですし。さて……」

 

 黒猫の神はいったん言葉を切ると、ゴロゴロと喉を鳴らした。「これから私は、この世界を元通りにしようと思います。その前に、何か私に対して要求はありますか? ほんのちょっとしたことなら叶えてあげられると思います。あなたたちには大変な苦労をかけましたからね」 天使が神に向かって言った。「またそんなことを言って……仕事が増えますよ! 地上ではほんのちょっとしたことでも上で処理するとなったら仕事が激増するんですからね!」 神は天使を咎めるように言った。「おだまりなさい!」 双子が言った。「織田満里奈斎(おだまりなさい)?」 神は言葉を続けた。「少しくらい仕事が増えたって、それがなんだというんです。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()さあ、それでどうしますか? あまり度を越したものは駄目ですが、大抵の願いごとならばどうにかなります」

 

 少女たちは一斉に危懼子を見た。この場において、彼女たちを代表して何か言うことができるのは危懼子だけであると、言葉に出さなくとも全員が共通に認識していた。なぜなら彼女こそが西方浄土高校の女子だらだら部の部長だからである。

 

「そうですわね……」 しばらく、危懼子は考え込んだ。やがて彼女は言った。「神様が働き者で、私たちを決して見捨てないということを、今回の件を通じて知ることができました。大変価値のあることであったと思います。少なくとも、そこらへんの神学の本よりはよほどためになりました。ですが、私から言わせていただけるならば、神様は少々働きすぎですわね」

 

 黒猫の神は静かに危懼子の言うことを聞いている。危懼子は言葉を続けた。「私の父も母も大変な働き者です。年中無休でフル稼働しております。二人が家にいることはほとんどありません。今でも父と母と顔を合わせるのは年に数日あれば良い方ですもの。ですが、父と母ともっと一緒にいたいとは思いません。父と母の仕事によって私はお嬢様として生きていられるからです。ですが、父と母の死に物狂いの仕事ぶりを見て、私はかえってだらだらすることの重要性を認識しました。そう、まだとても小さい頃から、だいたい幼稚園児くらいの頃から、私は認識しておりました……」

 

 危懼子はなおも話し続けた。「人は仕事をし、能力を発揮することで、人生を充実したものにしていく。ですが、人間というものは、そういつも、いつまでも働いていられるものではありません」 危懼子はいったん言葉を切った。爽やかな風が吹き渡った。黒猫の神の黒い毛がふわりと風に撫でられた。

 

「去年のことです。父が病気になりました。幸い、そう重い病気ではなくすぐに回復したのですが、その時の父は見ていられないくらい憔悴(しょうすい)していました。なにかにつけ物事を大袈裟に考える父は、私へまるで遺言のように『もっとだらだらしておけば良かった』と言いました。『人生の価値は、どれだけ仕事をしたかということだけで測れるものじゃない。()()()()()()()()()()()()()()()()()仕事とだらだらは表裏一体なのに、私はコインの表側だけしか見ていなかったようだ』と父は言ったのです。その時、ようやく私は父と心が通ったような気がしました。私は決心しました。私の人生を賭けて『だらだら』を追求しようと。人間はこれまで、仕事にばかり専念してきました。仕事という面において、人間は卓越した存在になりました。それならば今度は、仕事の裏面であるだらだらを追求しよう。私はそう考えました……」

 

 危懼子は手に持っているネックレスの、その殻の表面を優しく撫でた。「ただ、そのだらだらは普遍的なものでなければなりません。恵まれている者だけがだらだらできて、恵まれていない者はだらだらできない。そんなだらだらはだらだらではありません。私は、全人類がだらだらすることはできないものか、そういっただらだらの形はどんなものであるかと考えました。私はお嬢様で、物質的に恵まれています。世界でも有数の恵まれている者でしょう。こんな私がある日無一文になり、世間的にはお嬢様と言われなくなったとしても、変わらずだらだらできるように、新しいだらだらの形を考えなければならない。『女子だらだら部』を私が創設したのは、そのためでした。私は、私以外の人たちと一緒にだらだらすることで、あるべきだらだらの形を研究したかったのです」

 

 危懼子は小さく溜息をつき、そして言った。「今回の件で、私は私の方針が間違っていなかったことを悟りました。皆様、あの気が狂いそうな状況にあって、けっこう立派にだらだらしておりました。だらだらが人類を救うなどと、そんな宗教家のような大言壮語は致しませんが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()あの土壇場になって私が諦めずにいられたのも、だらだらによって生まれた余裕があったからです。ほんのちょっとした余裕、それさえあれば人は前へと進んでいけます。自分以外の人のためにお祈りをすることだってできるはずです。というわけで……」

 

 危懼子は黒猫の神を見つめて言った。「私たちが『この世界のために』何かを叶えてくれと神様に頼むことはありません。むしろ、この世界のためにではなく、あなたのためにお願いをします。もっとだらだらしてくださいまし。その偉大なる力に見合った分だけ偉大なる仕事をするのもけっこうですが、偉大なる力に見合った偉大なるだらだらをしてくださいまし。強いて言うならば、それが願い事です」

 

 しばらく、危懼子と神は見つめ合った。沈黙があたりに満ちた。それは心地良い沈黙だった。やがて、神が「ふぅー」と溜息をついた。「まさか、おチビちゃんからお説教をされるとはね。わかりました。これからは私もだらだらしようと思います。まあ、仕事がどうしようもなく溜まっているので、それなりにだらだらすることになるでしょうが」

 

 神は右手を危懼子に向かって差し出した。「さあ。私の手にその『オルガノン』を置きなさい。そうすれば世界は元通りになります」 

 

 危懼子はネックレスに向かって言った。「さようなら、黄金のカタツムリ様。あなたもけっこう良い感じのだらだら具合でしたわ」 ネックレスは言った。「さようなら、危懼子さん。私もけっこうだらだらできましたよ。これからもせいぜいだらだらしようと思います。『これから』があるのかどうか分かりませんが。もしかしたら私は証拠物件として押収されて、保管室で永遠に眠ることになるかもしれません。まあそうなったとしても、それはそれでだらだらできるでしょうが」

 

 神が言った。「安心なさい。私に考えがあります。あなたたちは願い事はないと言いましたが、私から一つ贈り物をしてあげましょう。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()さあ、こっちにおいで」 危懼子は神のピンク色の柔らかな肉球の上にネックレスを置いた。ネックレスは微光を発した。「えっと……それで、初期化のパスワードはなんでしたっけ?」 黒猫の神はじれったそうに言った。「とっくに知っているでしょう。さっさと思い出しなさい」

 

「あっ、そうか」とネックレスは言った。「たった今、思い出しました」 神が急かすように言った。「早く言いなさい。これ以上時間をかけたらせっかくの良い雰囲気がだいなしになる」

 

 ネックレスは叫んだ。「『はい、おしまい! もう全部おしまいでーす!』」

 

 光があたりに満ち溢れた。「うわ、まぶし!」と危懼子たちは叫んだ。

 

 

☆☆☆

 

 

 崋山危懼子はその日の日直の仕事を終えると、文化部棟の部室へと向かった。そこは薄汚れた文化部棟の中でもさらに薄汚れている二階の一番東側の部室だった。そこは「女子だらだら部」の部屋だった。そこは都立西方浄土高校の中でも特にだらだらしている女子たちの溜まり場であり、昼寝場所であり、駄弁(だべり)場であった。

 

 危懼子は部室のドアを開けて中に入った。まず、目に入ったのは石畳桜子と石畳薫子の双子の姉妹だった。双子はしっかりと抱き合って畳の上に横になっていた。日中、離れ離れで過ごしたことによって、双子は双子生命力(エネルゲイア)を消費しきっていた。双子は抱き合うことによってそれを回復させているのであった。桜子が言った。「現在、55%まで充電完了」 薫子が言った。「完全充電まで残り1時間32分」 それはまことにけっこうなだらだら具合であった。危懼子は満足したように頷いた。

 

 危懼子は視線を転じた。そこには座卓の上に大きな聖書を広げた、マルタ・ドマホフスカがいた。マルタは熱心に聖書を読んでいた。彼女は聖書の一節を読み上げた。「『だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。()()()()()()()()()()()()()()()()()』」 それは『コリント人への第二の手紙』第5章第17節であった。ことあるごとに「おうちにかえりたい」と言うのを除けば、マルタはなかなか堂に入っただらだら具合であると言えた。危懼子はまた満足したように頷いた。

 

 少し離れたところに、馬場命賭が横になっていた。彼女は寝そべって動物の写真集を眺めていた。それは有名な写真家がつい先日出版した、猫の写真集であった。命賭は熱心に黒猫が映っているページを眺めていた。黒猫はぐでーっと脱力していた。命賭は感に堪えないように言った。「いいねぇ、猫は。やっぱり猫はだらだらしているのが一番だよぉ」 命賭こそはだらだらの精鋭である。危懼子はそのことを小学生の頃から知っていた。危懼子は満足そうに頷いた。

 

「お嬢様、お茶をどうぞ」 うすらでかいメイドがお茶を持ってきた。メイドは白い盆の上にカップとポットを乗せていた。メイドはつい最近、お茶の淹れ方を覚えたのだった。しかし、盆はぐらぐらと揺れていた。少し力み過ぎであるようだった。危懼子はお茶を受け取りながら、メイドはもう少しだらだらした方が良いと思った。

 

「重役出勤ね、崋山危懼子」と声がした。そこには魔女がいた。魔女はゼリーを食べていた。それはこんにゃくゼリーだった。魔女はきちんと正座をしていた。魔女の全身から挑みかかるような気迫が感じられた。危懼子は静かに首を左右に振った。魔女にはまだまだ、だらだらの何たるかを教える必要があると危懼子は思った。

 

 危懼子は部室における自分の定位置についた。彼女はネックレスを外すと、それを机の上に置いた。重いネックレスをいつまでも首にかけているわけにはいかなかった。肩こりにでもなれば、だらだらに支障が出てしまう。午後の柔らかな日差しを受けて、ネックレスは黄金色にキラキラと輝いた。それはあたかも光の海を漂う巻貝のようであった。雲によって日が翳り、雲が流れるに従ってまた日が姿を現した。光を受けて、ネックレスが物を言うように微光を発したように見えた。

 

 しばらく、沈黙が部室の中に満ちた。少女たちは思い思いにだらだらしていた。今日の女子だらだら部の仕上がりは90点といったところであった。

 

 危懼子は微笑んでいた。それは女子だらだら部部長として、見事なだらだらと言えた。

 

 沈黙はちょうど12分と47秒続いた。

 

 危懼子は、待ちかねたように口を開いた。

 

「沈黙にたえられない年頃ですので、そろそろ何か喋ろうと思いますわ」

 

(終わり)




 随分と長い「簡潔な報告」になりましたが、これにて『女子だらだら部』はおしまいです。ありがとうございました。


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