幸せという名の自殺未遂 (ROCKSTAR)
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終わりへの始まり

 

 年数万人に上る自殺者。自殺者は自分の命がこの世から消え失せるまで、何を考えていたのだろうか。この世に対する恨み節? それとも、来世への期待だろうか? まあ、想像したところでそんなことは本人に聞かないと分からないだろう。しかし、それはどうあがいても無理な話だが。『死人に口なし』とはよく言ったものだ。

 

 ただひとつ言えるのは、俺はこの世の恨み節も、来世への期待も考えはしないということだ。俺が自殺を実行する時は、くたばる直前まで歓喜の言葉を連呼し続ける。薬物で頭がいかれた人間のように。

 『死』こそが、最低最悪の人生を過ごしてきた俺にとって、唯一の楽しみなのだから。

 

 

 

                                                              

 

 

 

 キーンコーンカーンコーンと鳴り響くチャイムの音を皮切りに、教室内は喧騒に包まれる。本日4月上旬、新年度の始まり。高校生活の折り返し地点、2年生へと進級した。

 今日は始業式なので午前中で終わる。そのため喧騒の内容は午後からどこへ行くか、何をするかの話が大半を占めている。俺はそれに混じることなく、机に乗っていた筆記用具などを鞄に放り込み、教室を出る。食堂にある自販機で炭酸飲料を購入し、飲みながら図書室へと向かった。

 

 入学してから今に至るまで、放課後は図書室で本を最終下校時刻になるまで読むのが俺の日課となっていた。ただ、図書室にある本はほぼ全て読みつくしてしまっていたので、今後は放課後に何をすればいいか悩む。それでも、新学期ということで新しい本が入っている可能性はあるので、とりあえず行くだけ行くことにした。

 

 

                     

 

 

 

 図書室には司書の人だけではなく、図書委員の姿も見受けられた。今日は午前中で終わりだというのに委員会の仕事があるとは、ご苦労なことだ。その中には見知った顔がふたり――女子生徒と男子生徒がひとりずつ――いた。

 

「あっ、二階堂(にかいどう)君……」

 

 女子生徒の名前は、村上文緒(むらかみふみお)。おとなしくて目立たないが、容姿は良く、性格も優しく礼儀正しいので男子生徒からの人気は高い……らしい。1年生の頃に同じクラスの男子生徒が噂していたのを耳にしただけなので、本当のところは分からない。まあ、悪い噂は聞いたことがないので、多分本当なのだろう。

 俺が彼女について知っているのは、成績が良いということと、1年生の頃から顔なじみであるということだけだ。前者に関しては、試験の成績優秀者が校内の掲示板に載るのだが、それに彼女の名前が載っていたことで知った。また彼女は、1年生から図書委員をしているので、入学してから図書室を利用している俺とは必然的に顔なじみになった。これが、後者の理由だ。クラスも2年になってから同じになったので、顔を合わせる機会も増えるだろう。

 しかし顔なじみとは言っても、俺は彼女とはほとんど話をしたことがない。精々貸出しの手続きをする際に二言三言交わす程度だ。彼女の性格がどのようなものかはっきり分からないのも、そういった理由からだった。

 

「どうも……」

 

 俺に気付いて声を上げた村上さんだったが、俺は適当に返事をして鞄を机に乗せる。その直後、もうひとりの知った顔である男子生徒が近づいてきた。

 

「ちょうどよかった。今日、二階堂くんが探していた本が入ったよ」

 

 その男子生徒の名前は、黒川将平(くろかわしょうへい)。あまり口数は多くないが交友関係は広く、性格も真面目で『お人好し』と形容してもいいほど他人に優しい。村上さんと同じように、表立って目立つことはないが、クラスメイトからの評価は高い。いわば縁の下の力持ち的な存在と言える。

 

「……よく入ったね。あの時は完全に駄目もとで聞いたんだけど」

 

「終業式のちょっと前に、4月から新しく入れる本について会議があったんだけど、俺がその本を候補に挙げたら今日運よく通ってくれててね。高い本だからちょっと厳しいかなとも思ったけど、よかったよ。もし読むなら持ってこようか?」

 

「あ、ああ……悪いね」

 

 彼とは1年、2年と連続して同じクラスで、特に俺にはおせっかいと言っても過言ではないほど積極的に構っている。それも入学して間もないころからだ。行事の時にはいつも班を組まないかと持ちかけてくるし、昼には俺の机に椅子を持ってきて飯を食べる。

 他人と関わりを出来る限り持ちたくない俺にとって、それはうっとうしい行為なのだが、今のように俺にとって有益な事物をもたらしてくれることがあるので、口出しするのも憚られた。

 

「ほい。それにしても、かなりでかい本だよね。余計なお世話だけど、貸し出し期限までに読み終わるかな? まあ、延長すればいい話だけど」

 

「……ここまででかい本を読むのは初めてだけど、多分大丈夫。5日もあれば読み終わると思う」

 

「マジか……俺じゃ1か月でも読み終わらないだろうな……」

 

 黒川くんの嘆きを聞き流しつつ、俺は渡された本を早速開く。

 自慢ではないが、俺は本を読む速度がかなり速いと思う。今までにかなりの冊数を読んだことによる賜物かもしれない。

 

「……」

 

 ――とりあえず、続きは家で読むか。

 ある程度はここで読んでもよかったのかもしれないが、図書委員が忙しなく動いている様を見て、俺の存在は邪魔になると判断し、すぐに読む手を止めて借りるための手続きを取ることにした。

 

「これ以上ここにいても邪魔になりそうだから、そろそろ行くことにするよ。とりあえずこの本借りたいんだけど、いいかな?」

 

「りょ~かい。今二階堂くんのカード取ってくるから、ちょっと待ってて」

 

 貸出カードのあるカウンターへ黒川くんが向かって行く。俺も椅子を戻して鞄を持ち、彼の後を追った。

 

 

 

                                                   

 

 本を借り終えた俺は、そのまますぐに帰宅した。着替えを済ますと、すぐに借りた本を読む。今日は今までで一番本を読むのが捗り、夕飯を食べるために一度席を立ったことを考えても、かなりの速度で読み進めることができた。結局、寝る前には3分の1まで読んでしまった。黒川くんには5日もあれば大丈夫、などと言ったが、これなら3日で読み終わるだろう。

 

 

 

 

 いつか来る自分の『死』がどういうものになるか、期待と想像を膨らませながら、俺こと二階堂正美(にかいどうまさみ)の今日が終わりを迎えた。

 ――明日も今日のように何事もなく終わりますように。あいつらの目の前で自分の腹をかっさばける日が来る、その時まで。

 

 

 

 




しばらくはオリキャラ同士のやり取りが多くなってしまうかもしれませんが、ご勘弁ください。


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ろくでなし

 

 

 

 

 『親の意見と茄子の花は千に一つも無駄はない』という言葉ほど反吐の出る言葉はない。当てはまる人もいるのかもしれないが、少なくとも俺の親には絶対に当てはまらない。誰が何と言おうと。

 

 物心ついたころから俺は、完璧主義な親の『英才教育』とやらで、遊ぶ暇もなく徹底的に勉強させられた。

 小学生の頃までは、それが至極当たり前のことに感じていたので、何の疑問も感じることはなかった。今思い返すと、俺は親――もとい『奴ら』に洗脳され、奴らの言うことを盲信していたのだろう。感覚が麻痺していた当時は、『奴ら』にさせられた『英才教育』とやらが、ただの『拷問』であることを疑いもしていなかったのだから。

 

 違和感を覚え始めたのは、中学に進学してからだった。クラスメイトは、ほとんどが昨日見たドラマやアニメ、好きなゲームの話題に花を咲かせていた。小学生の時ならともかく、中学生になってもそういった話題をしていることが当時の俺は全く理解できず、強い疑問を感じたものだった。

 そんなある日、クラスメイトの男子のひとりが友人と思われる他の男子を連れて、家で遊ばないか、と言ってきた。

 小学校時代、俺は誰かの家に行ったことは一度もなかった。『奴ら』から、『他人の家には絶対行くな、お前が汚れる』などと言い聞かされていたためだ。当然その言いつけも俺は盲信していたので、普段なら断っていたかもしれないが、その時の俺は連日の勉強の疲れから家で復習する気が起きなかったのと、誰かの家に行くことに興味を持っていたこともあり、承諾してしまった。

 

 初めて訪れたクラスメイトの家。

 そこはまるで天国だった。今まで食べたこともなかったスナック菓子の美味さ、当時は引っ込み思案な性格だった俺ですら、興奮して大きな声を上げてしまうテレビゲームの面白さ、そして何より、俺のことを『友達』と呼んでくれたクラスメイト達の温かさ――俺は号泣した。今まで感じたことすらない、強い胸の高鳴りに。

 

 しかし、俺はそこから引きずり出された。間隔を開けずに連続して鳴り響くインターフォン。怒鳴り散らす中年の男女。有無を言わさず上がり込むそいつら。うろたえるクラスメイトの母親。自分の子を見つけるや否や、喚き、殴り、罵倒し、連れ帰った。警察まで呼んで探すとは、なんて子想いの親御さんでしょう。

 家に帰っても罵倒し続ける『奴ら』に、俺は土下座して謝ることしかできなかった。そんな俺の姿に満足したのか、『二度と他人の家に行くな』という条件を俺に課し、『許した』のだった。

 

 

 

 

 その時俺は誓った。誰もが称賛するような、最高の栄誉を手に入れようと。そしてその栄誉を祝福する、親のような何かの目の前で、自分の腹をかっさばこうと。その様に驚愕する『奴ら』に、『ざまあみやがれ』と叫んで狂喜してやろうと。自分の手を汚すことなく絶望を与えられる、最高の復讐だ。

 

 『奴ら』に罵倒された翌日から、誓った目標のため、俺は狂ったように勉強を始めた。今まで『奴ら』が課していた倍近い量を自主的に取り組んだ。

 勉強だけではなく運動にも手を出し、家から離れた場所にあるキックボクシングジムに通い始めた。格闘技をすることに『奴ら』は難色を示したが、『格闘技もできる強い人間の方がより完璧だ』という俺の詭弁をあっさりと信じ、通うことを承諾した。

 

 結局中学時代は、すべての教科でトップの成績となり、教師たちからは絶賛された。狂ったように勉強していたと言っても、睡眠時間や栄養状態に影響は出ない規則正しい生活を送っており、遅刻も欠席もなかったことも関係していたのだろう。ガチガチに固い模範生を、中学時代は演じ切ったのだった。

 『奴ら』も大いに喜んだ。それは初めて見る笑顔だった。この笑顔をいかにしてぶち壊してやろうか考えると、俺も思わず笑みがこぼれた。俺の笑顔の意味など、『奴ら』に分かりはしなかっただろう。

 

 高校受験を控えた俺は、一人暮らしがしたいことを『奴ら』に伝えた。『奴ら』から離れたい、というのも理由のひとつではあったが、それ以上に、『高校生でありながら親元を離れ、頑張っている息子』を演じることで、『奴ら』の俺に対する株も上がると思い至ったからだ。反対は覚悟の上だったが、『奴ら』を言いくるめる詭弁など、いくらでも考えつく。しかし俺の予想に反して、『奴ら』はあっさり了承した。

『一人暮らしに慣れることも、完璧な人間になるために必要だ』とのことだった。

 一瞬俺は呆気にとられるも、すぐに『奴ら』が好むだろう言葉を放った。

 『もちろん誰かの家に行くことはないから、安心して』と――『奴ら』の表情は、まるで天にも昇るようなものだった。こうして俺は親元――『親』なんて呼びたくはないが――を離れ、受験した高校、聖櫻学園へ入学した。『奴ら』に絶望を与えるための一歩を踏み出すために。

 

 

 

 

 俺は死ぬために生きている。死ぬことが俺の人生における最終目標。不幸は幸福、苦痛は快楽、流れる血の味、蜜の味。

 

 

 

                        

 

 

 進級から3週間が経過し、クラスメイトの面々も新しい教室の環境に慣れ始めているようだった。1年生の時は顔見知りですらなかったのに、今では昼休みに机をくっつけて昼食を食べるほどの仲になったという人もちらほらいるようである。進級直後の醍醐味ともいえる光景だが、俺はその例からは漏れている。

 俺とともに昼食を食べるのは、以前と変わらず黒川くんのままであった。

 

「前から思ってたけど、二階堂くんの弁当って全部自分で作ってるの?」

 

「まあ、一応はね。一人暮らしだし」

 

 『奴ら』の影響でインスタント食品やコンビニ弁当などとは無縁の生活を送っていたため、というのもあるが、最終目標達成のために健康状態を維持することは重要だと考えた俺は、高校入学から今日にいたるまですべて食事は自分で作っている。

 また、料理の分野で何かしらの表彰をされることも、最終目標達成に必要な『栄誉』と言えるので、それを目指してみるのもありかもしれないと思っている。料理屋で働いているわけではないので、厳しいどころの話ではないかもしれないが、一応頭の片隅に考えとして残してはおいた。

 

「凄いよね、一人暮らしで弁当まで自分で作ってるなんて。俺には一人暮らしなんて想像もできないし、想像した所でミイラになる姿しか思い浮かばないな……」

 

 そう言って苦笑する黒川くんだったが、憧れを抱かれる謂れなど微塵もない。

 

「黒川くんの弁当は、この時期だと親父さんが作ってるのか」

 

「そうだね。母ちゃんが単身赴任から戻ってくるのは、夏休みが終わる直前だったかな、確か」

 

 黒川くんの家は、一定の期間ごとに父親と母親が単身赴任で入れ替わるという形態のようで、家族が3人揃うということは滅多にないらしい。

 弁当を作るのはその時家にいる方の親御さんのようだが、親父さんとお袋さんとで見た目に差があるということはなく、どちらの作った弁当も非常に美味そうだった。実際のところ、頼んでもいないのに黒川くんがおかずをくれたことが今までに何度かあったが、どちらが作ったおかずも極めて美味かったのを覚えている。俺の料理など及びもつかない。俺が料理の分野で栄誉を得ることをあくまでも『考え』としかしていないのも、それが理由と言えた。

 

 黒川くんは一人暮らしに憧れを抱いているようだが、俺はむしろ、まともな『親』と呼べる人間と一緒に暮らしている黒川くん――彼に限った話ではなく、彼のような生活をしている人間が大多数だろうが――の生活の方が、憧れの対象となってしかるべきだと思う。『普通』よりも素晴らしいものはない。

 俺もまともな人間の子供だったら、こんなことを人生の最終目標にしなくて済んだのではないか、と考えない日は1日だってない。黒川くんへの憧れと同時に俺は、彼に嫉妬すらしていた。

 

「今日も仲がいいね、お二人さん」

 

 そんな中で顔をにやつかせながら俺たちのいる机へとやってきたのは、同じクラスの女子生徒、小野寺千鶴(おのでらちづる)だった。彼女とは1年の時も同じクラスで、幾度か話を交わしている。

 彼女は漫画研究部に所属しており、やはりというべきか画力は高い。同人誌を描いて即売会で販売することもあるようだ。同じように漫画が好きな黒川くんとは仲が良く、休み時間に漫画の話題で盛り上がっていることが多かった。

 そんな黒川くんといつも一緒にいるということで、俺にも頻繁に話しかけてくるが、俺はさほど漫画に詳しくはなく、そもそも他人とあまり関わり合いになりたくないので、適当に返事をすることがほとんどである。

 

「もしかして、二人は幸せなキスをする関係とか? あはは」

 

「……はぁ」

 

 あまりの意味不明さに色々と突っ込みを入れたかったが、突っ込むことが多すぎてする気が失せ、代わりに大きなため息ひとつ。俺の心中を察したのか、黒川くんが小野寺さんに突っ込みを入れた。

 

「あのさあ……小野寺さんは俺たちに何を期待しているのよ? 屋上で身体焼いたり、睡眠薬の入ったアイスティーを飲ませたりする展開か何か?」

 

「……?」

 

 そんな黒川くんの突っ込みも、俺には理解不能だった。

 

「えっ、もしかして二階堂くんと黒川くんって、そういう関係だったの?」

 

 俺たちのやり取りを部分的に聞いていたのか、もうひとり女子生徒がやってくる。

 有栖川小枝子(ありすがわさえこ)。彼女は小野寺さんとは逆に1年の頃は違うクラスで、2年になってから同じクラスになった。

 彼女とは2年になってから初めて会話をしたが、1年の頃から俺は彼女のことを知っていた。他人とかかわろうとしない俺にですら噂が耳に入るほど、彼女は有名人だからだ。

 

 彼女はとにかく他人の恋愛事情に首を突っ込みたがる性分のようで、誰が好きなのかということをしきりに聞いてきたり、恋愛相談のアドバイスをしたり、告白現場をのぞき見したりすることもあるようだ。

 アドバイスのおかげで恋愛が成就したという話もある一方で、『しきりに話を聞いてくるのでうっとうしい』、『有難迷惑だ』という意見も聞く。

 

 1年の初めの頃から、教室で彼女の話をするクラスメイトの声が何度も耳に入ってきたし、実際に廊下で彼女が好きな人についてしきりに聞いていたのを目にしたことがあるので、嫌でも俺は彼女を知ることになったのだ。

 そんな俺も、彼女と同じクラスになってから2度ほど誰が好きなのか聞かれた。どちらの時も『ノーコメント』の一言で通したが、まだ諦めていないようなので正直勘弁してほしかった。

 

「恋愛の形は人それぞれだし、私は別に変だと思わないわよ! 世間の風当たりは厳しいかもしれないけど、応援してるからね! 頑張って、ふたりとも!」

 

 当の本人は勘違いしたまま、勝手に応援を始める始末である。大きな彼女の声はクラス全体に響き渡り、クラスの連中は俺たちを奇異の目で見つめる。

 俺はまだしも、黒川くんまでクラスから白い目で見られるというのは御免だった。

 

「有栖川さん、勝手に話を進めないでおくれ。俺も二階堂くんも別に、『ンアッー!』なんて言い合う関係じゃないし、そういう気もないよ」

 

「…………?」

 

 相変わらず、黒川くんの突っ込みは謎のままだった。

 

「あれ、そうなの? でも、ふたりともすごく仲がいいわよね。恋愛関係じゃなかったのは残念だけど、交友関係が良好っていうのも、すごくいいことだと思うな」

 

「いや、残念がるところじゃないでしょ……」

 

 ――本当に、仲がいいように見えるのだろうか。

 やっと黒川くんがまともな突っ込みをしたことに対する喜びよりも、俺は有栖川さんの発した『交友関係が良好』という言葉に疑問を感じずにはいられなかった。

 

 俺は今までの人生で、能動的な人付き合いをしたことが数えるほどしかない。ほとんどすべて、受動的な付き合いだった。分かりやすく言えば、他人に話しかけることよりも、話しかけられて会話を始めるということが圧倒的に多かった。

 それは黒川くんとの付き合いでも例外ではなく、俺から彼に話を振った割合は彼との会話において1割にも満たない。先ほどの弁当に関する話題を加えたとしても。

 こんな付き合いを『良好な交友関係』と呼ぶなど、甚だ疑問だ。

 それどころか俺は、今までの彼との会話において生返事や、適当に相槌を打つことも少なくなかった。そんな俺の態度を見たら、付き合いきれないと思って距離を置こうとするのが普通であろう。なのに――――

 

 

 

 

「だから、クソゲーだけど笑えるクソゲーなんだよね。もしやりたかったら貸すよ」

 

 ――――なのに、何で黒川くんは俺に構い続けるのだろうか。

 学校からの帰り道。笑いながら俺に話をする黒川くんだったが、俺は正直戸惑っていた。2年に進級してから、彼が俺に構う頻度は減るどころか、むしろ増加していた。俺には、彼の意図が全く分からない。こんな『構って欲しくない』オーラを全開にしている奴なんかに、どうして。

 

 俺が誰とも親交を深めようと考えていないのは、俺が死ぬことで悲しむ人間が出ないようにするためだ。俺の死に絶望するのは、『奴ら』だけで十分だ。関係ない人まで巻き込みたくはない。こんな俺でも距離を置かずに話をすることができる彼は、間違いなく俺以外の人間も気遣い、思いやることができるはずだ。他人を思いやれる人間は、俺のような奴と親交を深めてはいけないのだ、絶対に。

 それに、いくら有益な事物をもたらしてくれるからと言っても、このような関係は、俺がただ黒川くんを便利な道具のように扱っているだけになる。

 こんなのは、俺が望んだことじゃない。

 

「……黒川くん」

 

「ん?」

 

「もう、俺なんかに構うのはやめた方がいい」

 

「えっ? どうしたの、急に?」

 

「俺と一緒にいても、ロクなことにならないよ」

 

「……それはどうして? もし良ければ、理由を教えてくれるかな?」

 

 いつもの笑顔から真剣な表情になった彼に、俺は告げる。彼を突き放すために。

 

「…………だって俺、死ぬことしか考えてないから」

 

 

 

 俺はどうしようもなく最低な人間だ。

 この、ろくでなし。

 

 

 

 



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汚い涙

 

 

 

 

「…………だって俺、死ぬことしか考えてないから」

 

「……へっ?」

 

 黒川くんは目を点にし、素っ頓狂な声を上げる。

 そりゃあそうだ。いきなり『死ぬことしか考えてない』なんて言われたら、誰であっても彼と同じ反応を示しただろう。

 

「……冗談……を言ってる訳じゃなさそうだね。もしかして、学校で嫌なことがあった? 俺で良ければ相談に乗るよ?」

 

 それでも俺の言葉に笑うことなく、それどころか先ほどよりも真面目な表情になる彼を俺は直視できなかった。

 

「違う……別に、嫌なことがあった訳じゃないんだ……」

 

 不快なことしかなかった実家とは対照的に、俺が学校で不快に感じた出来事は極めて少なく、高校に入学してからは全くと言っていいほどなかった。仮に不快なことが起こったとしても、気にも留めなかっただろう。そんなもの、俺の最終目標を妨害するには束になっても敵わない。

 

「話しにくいことなら、無理に話せとは言わないよ。だけど、少しだけ踏みとどまってみない? 二階堂くんは文武両道なんだし、それをおじゃんにするのはすごく惜しいことだと俺は思うよ」

 

「……っ」

 

 ――なんでだよ。なんで、君はそんなに優しいんだ。

 

 『死ぬのは良くない』、『生きてりゃそのうちいいことある』といった、ありきたりな言葉ではなく、自分自身の言葉で俺を説得する彼の姿が俺にはまぶしすぎた。

 『太陽のような人間』という言葉が、以前読んだ本に書かれていたことを思い出す。黒川将平という人間は、まさにその言葉通りの人間だった。普通の人間なら、彼の人間性を褒めちぎるだろう。称えるだろう。

 

 だが俺は普通の人間なんかじゃない。どうしようもないろくでなしなのだ。ろくでなしは嫌悪されてしかるべきだ。罵倒され、憎まれてしかるべきだ。

 だから(ろくでなし)は、彼に嫌悪され、罵倒され、憎悪されるための言葉を汚らしく吐き出す。どんな汚物も尻尾を巻いて逃げ出す、例えようのない汚さで。

 

「てめえに、何が分かるっていうんだ……」

 

「……えっ?」

 

「てめえみたいな無菌培養された様な奴に、俺の何が分かるっていうんだ!!」

 

「……!」

 

「どうせてめえは、不幸なんて何も感じることなく、幸福ってもんだけを享受して生きてきたんだろう!? 『死にたい』なんて思ったことなんか、今の今まで一度としてないんだろう!? 違うか!?」

 

「……」

 

「そんな奴に限って、偉そうに世迷言をほざくんだ!! ふざけるな……ふざけるな!! そんなもん、戯言だ! 偽善だ! 自己満足だ! ……反吐が出るんだよ!!」

 

 ――ああ、これじゃあ俺も『奴ら』と変わらねえじゃねえか。一番憎んでいた奴と同レベルの真似をして、どうするんだよ。この、ろくでなし未満のゴミ屑が。

 

 でもいい。これで黒川くんが俺を憎悪すれば、心おきなく俺は『死』への道を全速力で駆け抜けることができる。

 さあ、今度は黒川くんの番だ。徹底的に俺を罵倒してくれ。殴り倒してくれ。何なら半殺しにしてもいい。これから君がやることは、どんな行為であっても糾弾される謂れはない。このゴミ屑に、正義の鉄槌を落としてやれ。

 

 

 

 

「……分かるよ!!」

 

 だが、彼は俺を罵倒することも殴り倒すこともなく、俺が全く予想していなかった言葉を浴びせた。

 

「……確かに俺は、何で二階堂くんが死にたいと思っているのか分からないし、二階堂くんから見たら無菌培養されてる人間なのかもしれない。だけど……だけど、『死にたい』っていう気持ちはものすごく分かるよ!!」

 

「……ど、どういうことだよ、それ?」

 

「俺も、『死にたい』って思ったことがあるから」

 

「……は?」

 

 わけが分からない。全くもって、わけが分からない。彼のような人間が『死にたい』と思ったって? 笑わせてくれる。どうせ、冗談なんだろう? ふざけるのもほどほどにしてくれ。

 

「……冗談きついよ。それに、それが本当だとしても俺に言う必要性は全くないんじゃないの? こんなに黒川くんを罵倒した俺なんかに」

 

「どんなに罵倒されても、俺は二階堂くんのことを友達だと思ってる。友達が困ってるなら、何があっても俺は助けるよ」

 

「……!!」

 

 友達――俺のことをそう呼んだ人間を見たのは、あの時以来だった。俺が死を決意するきっかけとなった、忌々しいあの時から。

 

 

 

 

『……また、来てもいいかな?』

 

『当たり前だろ。だって俺たち、友達じゃねえか』

 

『今度は外で野球しようぜ。100回ウラまでやるからな~』

 

『多すぎなんだよ、バカ!』

 

『はははっ』

 

『…………っ』

 

『お、おい。何で泣くんだよ』

 

 

 

 

「やめてくれ……」

 

 俺には友達なんかいないし、いらない。昔も今も、そしてこれからも。あんな忌々しい出来事は二度と起こってはならない。起こしてはならない。

 だが俺の拒絶の声は、先ほどの怒鳴り散らしが嘘に思えるほど弱々しく、消え入りそうだった。

 

「それに……みんな二階堂くんのことを待ってるよ。高桑くんも、鴨田くんも、芹澤くんもね」

 

「……な、何で……」

 

 彼の言葉に俺は驚くばかりだったが、特にその言葉は驚くどころではなかった。晴天(せいてん)霹靂(へきれき)とでも言うべきものであった。

 

「……何でそいつらのことを黒川くんが知ってるんだよ……何でなんだよ……」

 

「みんな俺の友達なんだよ。みんな、二階堂くんに謝りたいって言ってた。どうしてなのか俺は知らないし、聞かなかったけどね」

 

「……」

 

 頭がおかしくなりそうだ。真っ直ぐ進んでいた道を少しでも逸れたら、ゴミみたいに罵倒される。それならと道を糞真面目にひたすら真っ直ぐ進んでも、『止まれ』と言われて邪魔される。どいつもこいつも、俺のやっていることを否定する。

 ちくしょう、何だってんだ、くそったれ。

 

「……悪い……少しだけでいいから、考える時間をくれ……今は、何がなんだか、俺には分からない……」

 

「……分かった。みんな、待ってるからね。 ……それと……」

 

「……」

 

「二階堂くんが死んじゃったら、悲しむ人間はいるんだよ。現に俺は、すごく悲しいからね。だから、踏みとどまって。俺も力になるから。全力を尽くすから」

 

「……っ!」

 

 俺は駆けた、一目散に。彼の言葉には何も答えず、全速力で駆けて行った。彼の力強い眼差しと言葉から、俺は逃げ出した。

 臆病者のろくでなしには実にふさわしい、無様で馬鹿げた絵面だった。

 

 

 

 

 適当に走ったはずなのに、気がつけばそこは俺の家のすぐ近くだった。家に着くなり俺は、靴を脱ぎ捨て、鞄を廊下に放り投げると、そのまま2階へ上がり、自室のベッドへと倒れ込んだ。風呂には入らなかった。飯も食わなかった。病気でもないのに、そんなことをしたのはこれが初めてだった。そもそも、風邪をひいたのも片手で数えるほどしか経験のない俺にとっては、かなり久方ぶりの行為だった。

 

 

                                  

 

 

 

 高桑源五郎(たかくわげんごろう)鴨田克之(かもたかつゆき)芹澤一二三(せりざわひふみ)

 

 中学時代、俺を『友達』と呼んでくれた人間だ。そして、『奴ら』のクズっぷりを俺以外に間近で見た人間でもある。実は3人とも、俺と同じ聖櫻学園へと入学していたのであった。

 入学式に彼らの姿を見た時、表情には出さなかったが、内心ではパニックに近い状態になり、帰宅後トイレで何回も嘔吐した。あの時の地獄の光景と、彼らに見せてしまった醜態の自責の念から。

 そんな彼らが『俺に謝りたい』と言っていたという黒川くんの言葉は全くもって理解不能だった。

 

 悪いのは、全部あのクソ共なのに。

 いや、それを分かっていながら彼らと遊んでしまったこの俺が、全ての原因だというのに――――。

 

 

 

 

 

 

 ふらつく体に鞭を打って、教室へと入る。

 丸2日以上食事も睡眠もろくにとっていないせいで、身体は自分のものとは思えないほどに動かず、普段は30分前なのが、今日到着したのはホームルームが始まる3分前だった。あの日が金曜日だったせいもあり、翌日、翌々日ともに食事もろくに取らずに家にこもり切っていたため、体調が最悪になるのには十分だった。普通の人間なら間違いなく休んでいる状態だと思う。しかし、今まで異常なほどの糞真面目な生活習慣が癖になってしまったのか、気付いたら俺は登校する準備をして、途中で倒れることなく無事に学校へと到着してしまったのだった。

 

「……はぁ」

 

 だが席に着いたところでそれも限界となる。机に突っ伏して大きなため息をつく。そんな俺の姿が目に付いたのか、村上さんが心配そうに声をかけてくる。

 

「に、二階堂君、大丈夫ですか……?」

 

「大丈夫大丈夫……」

 

 顔は机に突っ伏したまま、投げやりに答える。もちろん、大丈夫でも何でもない。180度逆の状態だ。

 

「で、でもすごい隈でしたよ……? 保健室に行った方が……」

 

「大丈夫大丈夫……」

 

 壊れた機械のように、先ほどと同じ言葉を繰り返す。

 そういえば教室に入った際、教室がざわついていたような気がする。なるほど、俺の無様な顔を見たからか。それならざわつくのも無理はない。自分でこんなことを言うのもなんだが、クラスの中で俺は『真面目で規則正しい生活を送っている模範生』と思われているからだ。

 

「だけど、誰が見ても大丈夫じゃないわよ? 村上さんの言う通り、保健室に行った方がいいんじゃないかしら?」

 

 俺と村上さんのやりとりを見かねたのか、同じクラスの女子生徒、笹原野々花(ささはらののか)が割り込んできた。彼女の加勢に、いらだちが増す――――気力も湧かなかった。代わりに、絞りかすほどもないような気力を使って彼女たちの方へ顔を向けて言う。

 

「俺は大丈夫だから、放っておいてくれ……本当にやばくなったら、その時は保健室にちゃんと行くから……」

 

「それなら私は何も言わないけど……でも、無理はしちゃだめよ?」

 

「……」

 

 俺の全く説得力のない言葉に困ったような顔をして、笹原さんは自分の席へと戻っていく。村上さんもちらちらと俺に視線をやりながら席へと戻った。

 ふたりが戻ったのを見計らい、視線だけを黒川くんの席へと移す。クラスの人間の大半が俺に視線を向けている中、彼は俺には視線をよこさず、読書に集中しているようだった。

 

 まあ、当然だろう。罵倒されても必死になって説得したのに、その場から逃げだすなんてふざけた行為をとったのだ。彼にとって俺は、心底どうでもいい存在になったに違いない。でも、それでいい。

 

 ごめん、そしてありがとう、黒川くん。こんなろくでなしの馬鹿を『友達』と呼んでくれて。君の未来に、幸多からんことを――――。

 

 

                                 

 

 

 

 6時限目終了のチャイムが鳴り響き、俺は大きく息を吐く。

 なんとか今日の全ての授業を終えることができた。今日の授業に体育がなかったのは幸運と言えるだろう。キックボクシングのおかげか、それなりに体力はある方だと自慢できるが、それでも今の状態は疲労困憊というレベルではないほどの消耗ぶりだった。

 ここまで消耗していれば大した回復は出来ずとも、睡眠は嫌でも取ることができそうだと思いながら、鞄を手にとって教室を出ようとすると、背後から声をかけられた。

 

「二階堂くん、ちょっといいかな? 来て欲しいところがあるんだけど」

 

 振り向くと、その声の主は黒川くんだった。俺は一瞬驚くも、本当に一瞬だけだった。

 

 ――なるほど。そういうことか。

 彼にとって俺は心底どうでもいい存在になったんじゃない。引導を渡してやるつもりだったのだ。

 察するに、どこかに連れ込んで滅多打ちにする算段だろう。疲労困憊の状態になったところに狙いを定めるとは、さすがだと感心せずにはいられなかった。皮肉ではなく、心からの称賛だ。

 

「……分かった。付いて行くよ」

 

 もとより、あの時に俺はぶちのめされるはずだったのだ。少し期間がずれたと考えればいい。さあ、今度こそ正義の鉄槌を落とすんだ。

 

 

 

                                 

 

 

 黒川くんの後を付いてやってきたのは、他クラスの教室だった。校庭の外れの草むらなどの方がよほど目につきにくいのではないかと思ったが、別にどうでもいいことだ。近場でさっさと済ませて、この件に手早く終止符を打つつもりだろう。チャイムが鳴ってからさほど時間は経っていなかったが、周囲に人影は見られず、実に好都合な環境にもなっていた。

 

「別に――――」

 

 ――――別に黒川くんが俺を半殺しにしても、君にやられたなんて言わないから。

 扉の前に立つ黒川くんに、そう言おうとしたのだが、彼の声にそれは阻まれた。

 

「恨むのは俺だけにしてね。こんなやり方はずるいのかもしれないけど、どうしても二階堂くんには会って欲しかったんだ」

 

 そう言い終わるや否や、扉を全開にする。その先には――――。

 

「すまん!!」

 

「本当に、悪かった!!」

 

「許してくれなんて都合のいいことを言うつもりはない。けど、謝罪はさせてくれ」

 

「な、んで、お前らが……」

 

 ――――俺が裏切ってしまった、『友達』の姿があった。

 

 

 

 

 

 

「……俺は、お前らを裏切っちまったんだ。なのに、何でお前らが謝るんだよ……?」

 

 今すぐこの場から逃げ出したかった。しかしドアの前にはすでに黒川くんが立っており、逃げ出せるような雰囲気ではなかった。もう一方のドアから逃げることも考えたが、仮にそうしても追いかけられるのがオチだった。

 代わりに俺はその場に座り込み、項垂れて力なく言葉を絞り出した。

 

「このバカ2人は語彙力がないし、わけ分からんことのたまいそうだから俺が言う。――俺たちは、お前に裏切られたなんて思っちゃいない」

 

「おい! 『バカ』は余計だ!」

「ある意味一番バカなのはお前だろ、一二三!」

 

 『バカ』と呼ばれ、抗議の声を上げる2人、高桑源五郎と鴨田克之を尻目に、芹澤一二三――――そういえば謝る時も一番落ち着いた言葉遣いだった――――は言った。

 

「むしろ、謝らなきゃならないのは俺たちの方だ。あの日俺たちはお前のことを『友達』って言ったくせに、苦しんでいるお前から目を背けた。ぶん殴られたって、文句は言えねえよ」

 

「でも、あの時はどうにかできるような年齢じゃなかっただろうが……迂闊な真似したら、お前らまでやばいことになってたかもしれないんだぞ……?」

 

「だからと言って、それが免罪符になるか。ガキならガキなりにできたことはいくらでもあったはずなんだ。だけど俺たちは何もしなかった。俺たちは見捨てちまったんだよ、お前のことを」

 

 何となしに顔を上げた先に映っていたのは、淡々とした口調ながら深刻な表情で語る芹澤と、視線を下にやりながらも、気まずそうな表情で佇む高桑と鴨田の姿だった。そして黒川くんも目を閉じ、芹澤の言葉に耳を傾けているようであった。

 つまり、ここには誰ひとりとして、俺を糾弾したり、罵倒したりする者はいなかった。俺が望んでいることを、誰もしてはくれなかった。

 

「……もういい。もう、やめてくれ……頭がおかしくなっちまう……」

 

 頭をかきむしりながら突っ伏す。

 ――――頼むから、俺を許さないでくれ。そんなことはあってはならないんだ。そうなってしまえば、俺は――――。

 

「もう、いいじゃない。ひとりで抱え込まなくても。そのために俺たちがいるんだから。踏みとどまって、一緒に考えてみようよ」

 

「……ちくしょう、やっぱ将ちゃんの言葉はあったかいねえ。俺じゃあ冷たい言葉にしかならねえな。話下手だな、俺」

 

「バーカバーカ、ヘタクソー」

「アホンダラー、冷血人間―」

 

「……お前らにだけは言われたくねえよ、断じて」

 

「…………」

 

 しかし彼らは俺の様子など意に介さず、波状攻撃を続けた。多分、泣こうが喚こうがそれは収まらないだろう。いやむしろ、余計に大声でまくし立てるかもしれない。

 だが、収まる方法はある。たった、ひとつだけ。もしかすると俺は、そう言ってくれる人間をずっと待ちわびていたのかもしれない。黒川くんと、この3馬鹿が多分そうなんだ。

 

 それなら、もう少し生きる気力をつけてみようか。

 『奴ら』のことは、とりあえず後回しにして――――。

 

「…………ふふっ。そんなら、もう、いいか…………俺の負けだ。……死ぬのは、やめだ。やめやめ……くだらねえ……」

 

 仰向けに寝転がり、右腕で目を覆いながら、俺は彼らへの降伏を宣言した。

 

「この……アホンダラ共が……俺なんかほっとけば、もっと充実した生活送れたってのによ……」

 

 目と鼻から汚い液体をダラダラと流しながら、効き目なんてまるでない悪態をつく。

 

「うおっしゃー!」

「バンザーイ!」

「……よしっ」

「……うん!」

 

 4人は、それぞれ満足げな言葉を発した。

 終始テンションの高い高桑と鴨田は大声を、冷静な性格の芹澤と黒川くんはやや小さめな声を。

 

「……ひっひっひ……ひっひっひ……」

 

 そして気持ちの悪い笑い声を上げながら、憶病者は無様に泣いた。汚い涙と鼻水を、さっきよりも多く垂れ流して。

 

 

 

 

 結局、俺の人生における目標は消えてなくなってしまった。さあ、これからどうしようか? まあ、後で適当に考えよう。

 今はとりあえず気色悪く無様に、汚い涙を流して笑っていよう。それが一番、手のひら返しをした馬鹿な憶病者にはふさわしいのだから。

 

 

 

 



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あるべき日常

 

 

 

 

「うい~っす、おはようさ~ん!」

 

 教室のドアを開けて挨拶の声をあげると、教室内は一斉にざわめきだした。ほぼ全ての人間が、俺に対して奇異の眼差しを向けている。

 

「……?」

 

 そんな光景に、訳が分からず目をぱちくりさせていると、一人の男子生徒が俺のもとへと近づく。

 

「君ってさ……ほ、本当に、二階堂君……?」

 

「……はぁ?」

 

 視線をちらちらさせ、訝しげな表情で尋ねる彼の言葉が俺はしばらく理解できなかったが、少し考えてみればすぐに分かることだった。

 

 ――そりゃあそうか。昨日までの俺を見てたら、誰だってそう思うだろう。

 常に暗い表情で、ましてや挨拶とは無縁だった奴が、こんな変わりっぷりを見せたら十中八九同じリアクションをとり、何があったのか疑うだろう。

 変なものでも食べたのか? 頭でも打ったのか? 亡霊に取り憑かれたのか? そういったことを。だけど残念ながら、どれも不正解だ。

 

 俺は『普通』に生まれ変わった……いや、まだ生まれ変わってはいない。その一歩を踏み出した、と言うべきだろう。あるべき日常を歩むために。自殺願望を捨て去り、血の味を蜜から『普通』の鉄の味に変えるために。『普通』の感覚を、手にするために。

 

 ――新生二階堂正美、今ここに、爆誕。

 

 

 

 

「んも~っ、嫌ね~。どこからどう見たってアタシ以外の何者でもないじゃない。まったく、薄情なんだから~っ」

 

「「「「――――――――」」」」

 

 ここはひとつ冗談でも言ってみようと、身体をくねらせながらそんなことを口にした途端、一瞬の静寂の後に教室のざわつきは混乱へと姿を変えた。

 

「うわ~っ! あ、あの二階堂くんがオネエになっちまった~!」

「やべえよやべえよ……絶対何かに取り憑かれてるよ……」

「も、もしかしたら大雪が降ったりして……」

「いや、隕石が落ちるかも……」

「やだぁぁっ! まだ死にたくねえよぉぉっ!」

「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……」

 

「…………」

 

 口々にふざけたことをのたまい出す。

 

 ――確かに、やったことが明らかに空回りしているのは認める。でも、何でさも恐怖の大王が舞い降りてきたかのような混乱ぶりなんだよ。というか、念仏唱えんな。

 

「な、何よ! みんなよってたかってアタシのこと馬鹿にして! あんまりだわぁぁぁ!」

 

 両手で顔を覆って泣き真似をするも、混乱の収拾には効果がなく、むしろ火に油を注ぐだけの結果となった。

 

「ひぃぃっ! 怖えよぉぉ!」

「崇りじゃぁ! 亡霊の崇りじゃぁぁぁ!」

「彼氏作ってから、死にたかったな……」

「アーメンアーメン……ソーメンヒヤムギ……」

 

 ――やっぱり、昨日までの俺に戻ろうかな。

 一瞬だけではあるが、そんな考えに至りそうなほどに教室は混乱の極みへ達してしまった。それと、神に祈るか仏に祈るかはっきりしろ。そもそも、何で途中から食い物に変わってるんだよ。

 

「あぁぁぁぁぁもうやだぁぁぁぁぁ! みんなアタシの繊細な心を踏みにじってぇぇぇぇ!」

 

 顔は手で覆ったまま、廊下へ駆けだす。しかし、覆われたその顔はにやついていた。

 最高に清々しい気分だった。これが、『普通』というものなら、それはなんと素晴らしいことだろう。さっきはあんなことを思ったが、実際にはもう戻るつもりなんかない。絶対、この日常を送り続けてやる。

 

 

 

 

 ――こんなところで死んでたまるか、こんちくしょう。

 

 

 

 

 

 

 廊下へ駆けだしたはいいが、行くあてがあるわけでもないので、1分もしないうちに教室へ俺は何食わぬ顔で戻った。

 授業の際は静かになっていたが、休み時間になると途端に教室はざわつきを再開した。しかしそれも、昼になる頃には大分落ち着きつつあった。

 ほとぼりが冷めるのが早すぎるだろうと、半分呆れと半分感謝の気持ちに浸りながら、鞄から弁当を取り出し、机に置いたところで、小野寺さんが怪訝な表情でやってきた。

 

「に、二階堂ちゃん、どうしちゃったのさ? 何か変なものでも食べた?」

 

 朝といい、どいつもこいつも品のないことばかり尋ねてくる。失礼しちゃうわね。

 

「んなわけないでしょうが……」

 

「それにしたって、印象変わり過ぎじゃない? 昨日まではもっとこう、クールというか、キリっとした感じだったのに、今日は教室に入ったらやたらいい声で挨拶するし、終いにはオネエになるしで、驚かない人の方が珍しいと思うけどねえ」

 

「生まれ変わることにしたんだよ、俺は」

 

「……生まれ変わり方を完全に間違えてる気がするのは、私の気のせいなのかな?」

 

 渋い顔をしながら首を傾げる彼女の仕草に、俺の繊細な心は悲鳴を上げていた。

 

「いちいちうるさいわね~。少なくとも愛想は良くなったんだから、もう少し好意的に捉えなさいよ!」

 

「はいはい、分かったよ……話を戻すけど、何があったのさ?」

 

「それは――」

「恋ね! 間違いないわ!」

 

 渋い表情を解除し、興味ありげな表情に変わった小野寺さんの質問に答えようとしたところで、有栖川さんがやたらとうっとりした表情かつ大きな声を上げて横やりを入れてきた。

 

「二階堂くん、彼女できたでしょ? 誰? 誰? 教えて?」

 

 目を輝かせながら顔を至近距離までずいっと近づけてくる彼女に、思わず俺は気圧される。そんなに他人の色恋沙汰が好きなのか、あんたは。

 

「そんなもん、できてないっての……そう言う有栖川さんは、どうなのよ?」

 

「えっ、私? ……う~ん?」

 

 俺の質問に有栖川さんはきょとんとした表情を浮かべる。『何を言っているの?』とでも言わんばかりだった。

 小野寺さんは苦笑いを浮かべて俺に耳打ちする。

 

「有栖川ちゃんってさ……人の恋愛事情にはやたら首突っ込むけど、自分のことには全く関心がないんだよね……。というか、むしろ気付いてないって言った方がいいかな? 結構狙ってる男子はいるんだけど、あまりにニブチンなせいで自分のことだっていうのが分かってないみたいだから」

 

「どういうこっちゃ、それ……」

 

 あれだけの執拗さを見せるのだから、自分の恋愛話もさぞ豊富なのだろうと漠然ながら思っていたが、俺の予想とは正反対だった。

 小説で恋に鈍感な男の話は多々読んできたが、まさか女で、しかもフィクションではなく現実の存在として目の前にいるとは。世の中って不思議。

 

「ふたりとも、何の話をしてるの?」

 

「……いや、世の中って不思議なもんだなってね」

「……うんうん」

 

「?」

 

 嘘は言っていない。それに俺の勘だが、有栖川さんにこのことを話したとしても恐らく理解しないだろう。余計な口出しは無用だった。

 

「また話がそれたから戻すけど、別に彼女ができたわけじゃないよ。黒川くんがね……」

 

「……や、やっぱり二人は幸せなキスをして終了な展開だった……?」

 

「……ま、前にも言ったけど、応援してるからね、私!」

 

「…………おい」

 

 何でそういうネタに持ってきたがるんだ、小野寺女史よ。

 そしてそこ! 勝手に応援しなくてよろしい!

 

「もうアタシ疲れた……」

 

 ため息をついて机に突っ伏すと、前から件の人物がやってきた。今までと同じように、俺の前の席の持ち主がいないことを確認して、椅子に座る。

 

「よかった。もうみんな、二階堂くんの今の姿に慣れてきたみたいだね。早速女子二人とも仲良くなってるし、やるね」

 

 冗談なのか素なのか分からないが、どちらにしても彼のその言葉は俺の疲労の進行を加速させた。相変わらずのまぶしい笑顔で効果も倍以上だ、このやろう。

 

「これのどこが仲良くなってるように見えるのよ……」

 

「ははは。でも誤解は解いておかないとね。小野寺さんに、有栖川さん。前にも言ったけど、俺たちはそんな関係じゃないよ」

 

「うん、知ってるから大丈夫」

「あら、そうなの?」

 

 ――もう嫌だ、この方々。

 悪い笑みと、素で驚く彼女たちの、それぞれの表情に俺はノックアウトされた。

 もういいわよ。こうなりゃ、いじけまくってやるわよ。

 

「それでそれで、何があったのさ~?」

 

「聞こえなーい……」

 

 机に突っ伏した体勢のまま、耳を塞いで現実逃避の構えに入る。誰かさんが何か言っているような気がするが、知らん知らん。

 そんな体勢をずっと続けていたおかげで弁当に手をつけるのを忘れ、気付いた時には終了一分前。ほとんど噛まずに弁当をかきこむ羽目になった。

 小野寺さんと有栖川さんには授業が終わるまで呪詛の言葉を心の中で唱えたのは言うまでもない。あと、少しだが黒川くんにも。

 

 

 

 

 

 

 生まれ変わったと周囲に触れ回っているとは言っても、俺の生活習慣はほとんど変わっていない。むしろ、より規則正しい生活を心がけるようになったと言ってもいいだろう。

 早寝早起きはもちろん、日々作る料理の栄養バランスにも今まで以上に気を使っているし、自習の時間はわずかだが増え、キックボクシングのジムに通う頻度も、今までは週2日だったのが週3日から4日になった。

 

 当然ながら、図書室へも放課後には必ず通い続けていた。家で過ごす時間やキックボクシングなどとの兼ね合いもあり、最終下校時刻までいるということはほぼなくなったが。

 今日は長居せずに、2刷海外の文学作品を借りてすぐ帰ることにした。いずれの本も1年の時、黒川くんに『読んでみたい』と何気なく呟いた作品で、図書委員会での新しい本を入れる会議で彼が候補に上げ、導入されたものだった。

 カウンターにいる村上さんに本を渡して、借りるための手続きを行う。

 

「……二階堂君、随分印象変わりましたよね。この前はすごかったです」

 

 生まれ変わった宣言をしてから1週間が経過し、俺の変化に慣れてきたクラスメイトは増えつつあるが、まだ驚きや違和感を覚える人は多い。村上さんも、そんな俺の変化に違和感があるうちのひとりのようだった。

 ちなみに俺の噂は他クラスにも飛び火し、そいつらに至っては、初日における俺のクラスのように念仏を唱える輩もいるらしい。……ふざけんな。

 

「生まれ変わったからね」

 

「何かあったんですか?」

 

「まあ、村上さんには話しても大丈夫かな……」

 

 どこかのOさんやAさんと違って、村上さんならややこしいことにはならないだろうと判断し、ことのいきさつを――図書室の中であるし、勝手に誤解する人間が出てまた面倒事になるのは嫌なので、もちろん小声で――話した。

 一応、『奴ら』のことや自殺願望を持っていたことに関しては伏せた。それでも当事者ではない人間にいきさつを話すのは、これが初めてだった。

 

 

 

 

「そんなことがあったんですね……」

 

「うん。だから、黒川くんには感謝してもしきれないんだよ。もう無理だと思ってたのに、和解することができたし、突き放すなんて馬鹿な真似して、何度拒絶しても逃げずに正面から向き合ってくれたから。何よりも、俺のことを『友達』って言ってくれたからね」

 

「……」

 

 俺の言葉に、村上さんは何かを考えているようだった。

 急かすわけにもいかないので、いったん話の手を止め、彼女が考え終わるのを待った。

 

「…………あっ、ごめんなさい。ずっと考え事してました」

 

「気にしないでいいよ。別に急かすつもりはないから。そういえば今日は黒川くん、委員の仕事ないの?」

 

 辺りに彼の姿は見受けられなかったのでつい話してしまったが、もし死角にいたらやばいな、と今更ながら思う。

 

「奥の書庫で本の整理してますけど……良かったら呼んできましょうか?」

 

 しかしながら、それは杞憂に終わった。仮に見えていたとしても、カウンターから奥の書庫までは結構な距離があるので、何を話しているかまでは分からないだろう。おまけに小声ならなおのこと心配ないはずだ。

 

「いや、大丈夫。けど、村上さんにはひとつ頼みたいことがあるんだ。お願いしてもいいかな?」

 

「何ですか?」

 

「もし嫌じゃなければ、黒川くんに俺がお礼を言っていたって、伝えておいてくれないかな?」

 

 弊害、と言うにはおかしいのかもしれないが、生まれ変わることにした俺は少々困ったものも手に入れてしまっていた。いわゆる、『こっ恥ずかしさ』というものだ。

 かつての俺なら、平然と本人に伝えることができていただろうが、今の俺にはそれをする度胸が消えてなくなっていた。

 

 感謝の言葉なら、なおのこと本人に直接伝えるべきだというのは百も承知だ。しかし、そう簡単に割り切ることができないのが人間という生き物だ。実に面倒な習性だと思う。

 

「……は、はい。大丈夫ですけど……でも、何で私に?」

 

「同じ図書委員ってのもあるし、その中でも一番黒川くんと仲いいのが村上さんだと思うからね」

 

 図書室におけるふたりの様子を見ると、お互いに仲がいいと俺は思う。教室内ではさほど会話をしてはいないが、委員の作業中は親しげにしていたのを、幾度か図書室に来る度に目にしていた。

 そういう理由から、彼女は頼む相手にうってつけと言えた。それに他の図書委員より、同じクラスである彼女の方が頼みやすいとも感じたからである。

 

「……えっ!? 仲、良さそうに見えますか……?」

 

「うおっ」

 

 顔を赤くし、大げさなくらいに身体をびくっと跳ねた村上さんに、思わず俺も似たようなリアクションを返した。しかし、俺は村上さんのその動作よりも、普段からは考えられないような大きさの声を上げたことに驚いた。ぼそぼそ、とまではいかないが、村上さんはそこまで大きな声で話さない人だ。こんな姿を目の当たりにしたら、きっと俺でなくても驚く。

 

 そんなことより、ここは図書室だ。図書委員がそんな大きな声出したらいかんでしょうに。案の定、利用者の迷惑そうな視線が降り注いだ。

 ……おい、何で俺にまで向けるんだ。言っとくが俺は当事者じゃないぞ。

 

「……す、すいません……失礼しました……」

 

 当事者の方は、先ほどよりも顔を赤くして、視線の送り主たちに頭を何度も下げていた。そんな光景に軽く吹き出しそうになる。そんな矢先、背後でカシャッ、と音が鳴った。

 

「あ~っ、やっぱり文緒ちゃんはかわいいわね~。今のはすごくいいのが撮れたわ~♪」

 

 振り向くと、そこには恍惚とした表情をしながらカメラを持つ女子生徒の姿だった。音の発生源はそのカメラであることは確かめるまでもない。こんな場所で写真を撮る人間は、彼女しかあり得ないからだ。

 

 望月(もちづき)エレナ。写真部に所属している彼女は、常日頃からカメラを携帯している。撮影の技術は高いようで、コンテストでの入賞経験もあると聞く。

 ただ、彼女が主に撮る写真の被写体は、かなり特殊なものだ。『彼女しかあり得ない』という言葉も、それが理由だ。

 

 一体何を撮るのかって? 校内の風景? 違う。

 動植物の撮影? ある意味『動物』ではあるが違う。

 人の写真しか撮らない? 半分正解だが、半分不正解だ。

 じゃあ正解を教えよう。彼女が主に撮影するのは、女子生徒なのだ。

 

 ん? 良く聞こえなかった? それじゃあもう一回。彼女が主に撮影するのは、女 子 生 徒、なのだ。

 

 

 ……………………。

 

 

 『何言ってんだ、こいつ』と思うだろう。俺自身も、『何言ってるんだろう、俺』と思っているから安心してくれ。だが、嘘は言っていない。本当のことだ。言うなれば、彼女は『変態』なのだ。それもかなりやばいレベルで。

 

 とにもかくにも、女子生徒の撮影に心血を注ぎ、三度の飯より女子生徒が好きという有様である。挙句の果てには、到底女がするものではない表情になって撮影をすることもあり、噂ではあるがよだれを垂らしていたという話もある。きたない。

 当然のことながら彼女は学園内でもトップクラスの有名人だ。ただし有栖川さんのような、良い意味でも悪い意味でも有名というタイプではなく、ほぼ100%悪い意味での有名人だった。

 

 そんな今も、彼女は『文緒ちゃんの困り顔も最高~』などとのたまいながら、シャッターを切りまくっていた。

 

「も、望月さん……図書室では静かにしてください……あと、撮影もほどほどにしてください……」

 

「あ、ごめんね。前にも言われたのにこれじゃあだめよね……でも、写真は撮るけどね~、ぐふふ~っ♪」

 

「に、二階堂君……望月さんを止めてください……」

 

「そんなこと言うけど、あんまり村上さん、嫌がってないよね?」

 

 実際のところ、止めて欲しいという言葉とは裏腹に、村上さんの表情はまんざらでもないように見えた。村上さんがおとなしく、自分の意見をあまり表に出せない性格だからというわけでは決してないように感じる。

 

「そりゃあそうよ、私と文緒ちゃん、友達だもの~」

 

 ようやく望月さんは撮影の手を止めて、俺の方へ身体を向けた。その表情は先ほどまでの恍惚としたものから、純粋な喜びのものに見えた。恋愛沙汰など無縁の人生を送ってきた俺だが、そんな俺でも彼女の表情は魅力的に見えた。

 

 そんなことより、性格が真反対なふたりが友人同士であることに驚く。珍しい例ではないと思うが、望月さんの性格が性格だけに、一方的なものではないのかと勘ぐってしまう。

 念のため、村上さんに確認をとっておく。

 

「……こんなこと言ってるけど、本当?」

 

「は、はい……私はそうだと思ってますけど……」

 

「んも~っ、そこははっきり『いえ、むしろ親友です』って言ってくれないと~」

 

 まあ、さっきの村上さんの表情から察するに、俺の予想は外れだろう。実際のところ望月さんの悪い噂は、変態であることに集約されており、性格面での悪い噂は聞いたことがない。むしろ、いい人と言う話すら聞くので、なおのこと間違いないと言える……と、思いたいが。

 

「それじゃあ村上さん、黒川くんにさっきのこと伝えといてね」

 

「あ、はい。分かりました」

 

 ついつい話し込んでしまったが、今日のところはさっさと退散しよう。長居して時間を無駄にするわけにもいかないし、何より二人の邪魔をしては駄目だろう。村上さんに黒川くんへの伝言のお願いを再確認して、俺は図書室をあとにすることにした。

 

「そんじゃ、お幸せに~」

 

「……えっ?」

 

「きゃ~っ、お幸せにだって♪ 文緒ちゃんひとり占めできるわ~♪」

 

「も、望月さんっ……だ、誰か助けてください……」

 

 背後から喜びの声と困惑の声が聞こえたが、聞こえないふりをしてそのまま帰路についた。

 

 

 

 

 さあ、死ぬための人生ではなく、生きるための人生を走りだそう。全力疾走だ。邪魔をする障害は、みんな跳ねのけてやれ。

 

 

 

 



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女王が恐れるもの

 

 

 

 

 生まれ変わった宣言をしてからの俺は、自分のクラスはもとより、他クラスの人間とも交流することがかなり多くなった。高桑、鴨田、芹澤の3人が他クラスなのでそれに伴って、というのもあるが、そいつらの知名度が高いから、と言う方が合っているかもしれない。

 以前俺は3人のことを『3バカ』などと言ったが、校内では実際にそう呼ばれていることに驚いた。3人とも学校行事の際には盛大な馬鹿をやらかしてばかりいて、教師や風紀委員から目を付けられているようだ。例えば爆竹を鳴らしたり、節分大会の時、鬼をやっていた人に大豆ではなく落花生を投げつけたりしたりなど、小さなことから結構危ないことまで、色々やっているようだ。

 

 学校の備品を壊したり、人を怪我させたりといったことはないようで、少し安心した(落花生も、大柄な男子生徒にのみ的を絞り、尻にばかりぶつけていたらしい。それはそれでまずい気がするが)。

 

 主に目立っているのは高桑と鴨田のふたりのようだが、実は一番暴走するのは芹澤で、高桑と鴨田も、思わず引くほどの馬鹿な行為を時折見せるらしい。節分大会で落花生を使おうと提案したのも、尻にぶつけようと提案したのも、全部奴のようだ。

 そのくせに芹澤は、学年10位以内に入るほど成績が良い。村上さんの成績が良いことを知った時と同様、試験の成績優秀者の名前が貼り出された際、奴の名前が載っていたことを思い出す。

 おまけに1年の時に球技大会のテニスで優勝したこともあり、体育の授業における球技の試合では自分のチームに入らせるために取り合いになることもあるようで、運動神経も抜群だった。

 どう考えても他人にちやほやされる要素しか持ち合わせていないのに、そんな暴走ぶりから、芹澤の良い評判は聞いたことがなかった。

 

 そんな連中と、黒川くんは1年の頃からつるんでいるようだが、彼は連中の毒牙にはかかっていないことに安心した。そんな世界に引きずり込むような真似したら、浣腸食らわせてやる。

 

 

 

 

「……んで、俺に何の用事だよ?」

 

「決まっているでしょう。あんなに暗かったあなたが、突然異常に明るくなった経緯を聞くためよ。学年トップの成績の二階堂くんの話題なら、新聞の記事のネタとしては最高だわ」

 

「面倒くさいわね……」

 

 以前図書室で借りた、まだ読み終えていない本を今日は読み終えようと思い、さっさと帰宅しようとした矢先、俺は新聞部の部室へと連行され、隣のクラスに在籍している新聞部員、神楽坂砂夜(かぐらざかさや)から半ば尋問に近い取材を受けていた。

 他の新聞部員も全員が視線を俺に向けており、極めて居心地の悪い空間だった。

 

「連れて来た時も思ったけど、身長高いな~。何cmあるんだろう?」

 

 眼鏡をかけた女子の新聞部員――青いネクタイをしているので、恐らく1年生――がそう呟いたのを俺は聞き逃さなかった。俺は動物園の象じゃないっての。

 ちなみに俺を連行したのはこの部員だ。連行するように言ったのは神楽坂さんらしいが、この部員からも俺に関して興味ありげな雰囲気が漂っていた。

 

「……190あるわよ」

 

「うわっ、聞こえてた!」

 

 自慢じゃない――というか、自慢したくない――が、俺は身長が学園内でかなり高い。身長が高い人間の巣窟である男子バレー部や、男子バスケ部の人間に比べると、若干劣りはするが、それでも190cmという、相当なものを持ってしまっていた。

 そのせいでバレー部に限らず、今でも多くの運動部から入部しないかと勧誘されているが、興味はないので断り続けている。そもそも今やっているキックボクシングですら、そこまで興味があって始めたものではない。今住んでいる家から近い格闘技のジムだったからという、至極単純な理由であった。

 

 何より俺はこの高すぎる身長を疎ましいものだと思っている。最高でも170cm後半あれば十分だというのに、ここまで伸びてしまったことを嘆かずにはいられなかった。自慢したくないと思っているのも、そういう理由からであった。

 

 ……誰か身長いりませんかー? 今なら特価で売るよー?

 

「クミコ、横槍を入れないで頂戴。彼に質問しているのは私なんだから」

 

「す、すいません……」

 

 そんな彼女を、神楽坂さんは威圧感たっぷりの言葉で黙らせる。その姿は、まさに『女王様』そのものだった。事実、彼女はサディストの気が結構強い性格であり、他人をいじって楽しむことを好む人間だった。それでも、限度を超えた真似はしないというのが救いと言うべきなのだろうか。

 

「さあ、そろそろ教えてくれないかしら? 大きく特集を組もうと考えているのだから、すぐにでも記事を書く作業に移りたいのよ」

 

 何で一個人の人間関係を新聞記事、しかも大きな特集にせにゃならんのだ。俺のプライバシーはどこへ行っちまったんだ。

 わずかながら苛立ちを覚えたが、あまり気にしてもしょうがない。これもより良い学園生活の一部と考え、さっさと話して解放してもらうことにしよう。

 

「……はぁ、分かったよ。神楽坂さんのクラスに、『3バカ』って呼ばれてる男子3人がいるのは知ってるだろ?」

 

「ええ。有名人だからね、悪い意味で」

 

「そいつらとは中学時代友達だったんだけど、色々あって疎遠になっちまってさ。3人ともここに入学したってことは1年の頃から知っていたけど、結局よりを戻せなくてね」

 

「ふ~ん……その『色々』って?」

 

「そのことに関しては、いくら神楽坂さんでもノーコメントだ。こればっかりは話せない」

 

 生まれ変わった宣言をして以降、『奴ら』から何度か電話で連絡が来たが、悟られないように演技を続けていた。そのため、『奴ら』は俺の現状に気付いていない。しかし迂闊な真似をして『奴ら』の耳に俺の現状が入ってしまえば、俺はもちろんのこと、他の人間まで迷惑がかかることになりかねない。

 いずれは徹底抗戦するつもりだが、現段階でばれるのは出来るだけ避けたかった。

 

「……しょうがないわね。無理矢理聞こうとしても口を割ってはくれなさそうだし。まあいいわ、そのことはいいから話の続きをして頂戴」

 

「悪いね……それじゃあ話の続きに戻るけど、そんな俺たちをまたつなぎ合わせてくれた人がいたんだ。俺のクラスにいる、黒川くんって知ってる? その黒川くんが全く俺たちとは関係ないのに尽力してくれちゃってさ。おかげでよりを戻すことが出来たんだよ。いやぁ、黒川くんには感謝してもしきれないね」

 

「……ちょっと待って。まさかその黒川くんって人、黒川将平くんのことかしら?」

 

「そうだけど? ……どうしたん、随分険しい顔して?」

 

 俺が黒川くんの名を口にした途端、神楽坂さんの表情が先ほどまでの薄ら笑いを浮かべたものから一変し、何かを恐れるような険しいものに変わった。額にはわずかに汗も滲んでいる。それは体温の上昇から来るものではなく、焦りなどから来る冷や汗のように見えた。

 神楽坂さんはそんな表情とは無縁だと思っていた俺は、一瞬呆気に取られた。

 

「……ごめんなさい、二階堂くん。この話、なかったことにしてもらえるかしら?」

 

「えっ、ええっ? 一体何がどうしたっていうのよ?」

 

 彼女の口から出た言葉に、今度は呆気に取られるどころか混乱した。当然それは俺だけではなく、部室内にいる部員全員が同じ状態になっていた。あちこちざわつき出す。

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ先輩。さっきまで『一番歴史的な記事にしてみせるわ』って意気込んでいたじゃないですか」

 

 そんな部員全員の意見を代弁するかのように、先ほど神楽坂さんに『クミコ』と呼ばれていた、俺を連行してきた1年生が困惑しながら彼女に尋ねる。

 

「……クミコ、貴女は彼のことを知らなさすぎるのよ。彼のことを記事になんかしたら、この新聞部が、物理的に潰されるわ」

 

「えっ? それってどういう――」

「神楽坂さん、どういうことだ、それ?」

 

 1年生の言葉を遮るように、俺は神楽坂さんへと、半ば詰問に近い形で尋ねた。

 彼女の表情から、とても冗談を言っている様子には見えなかったものの、あまりにも言っていることの意味が分からなかったからだ。

 

「さっきの二階堂くんの言葉を真似することになっちゃうけれど、ノーコメントよ。これ以上は話すことができないわ。……記事は別の話題にします。お騒がせして、すみません」

 

「…………」

 

 俺から視線を逸らし、他の新聞部員たちに詫びを入れる神楽坂さんからは、相変わらず冷や汗が見受けられた。そんな状況に俺は、何も言葉が思いつかなかった。

 

 

 

 

 

 

 翌日の昼休み。俺は教室で3バカとともに昼食をとっていた。黒川くんは、今日は珍しく弁当を持ってこなかったようで、購買へと向かっているところだ。『先に食べてていいよ』という彼の言葉に従って、一足先に食事にありついている。

 

「そういやお前、昨日神楽坂に拉致されたんだってな。何聞かれたんだ?」

 

 そんな中、ペットボトルのお茶をあおりながら芹澤が昨日の出来事について尋ねてくる。昨日話したように、芹澤を含む3人は神楽坂さんと同じクラスなので、彼女の話題は頻繁に耳にすることなのだろう。神楽坂さんの人間性を考えれば、たとえ他クラスでもすぐに彼女の話題は入ってくるのかもしれないが。

 

「ああ。何で俺がこんなに明るくなったのか、その理由を聞いてきたよ。記事にするつもりだったみたいでね。でも、妙なことが起こってさ」

 

「妙なこと?」

 

「ん。黒川くんが俺たちのよりを戻すのに尽力してくれた、って言ったら急に険しい顔になってさ。それどころか『この話はなかったことにして』なんて言われたよ。何か、やたら黒川くんのことをおっかながっている感じだったな」

 

「マジか。何でだろ?」

「意外だな。神楽坂さんって、記事のことに関しては妥協を許さない人なのに」

「……へぇ~っ。そりゃあいいことを聞いたな」

 

 俺の回答に対して、高桑と鴨田は俺の予想通りのリアクションを見せたが、芹澤だけは口の端を吊り上げていた。

 

「いいことって、何がだよ? まさか、ろくでもないこと考えてないよな?」

 

「むしろ逆だ。神楽坂の奴、1年の頃から将ちゃんのことを、いじり倒す目的で狙ってたんだ。将ちゃん、いくら交友関係が広いっつっても性格は比較的おとなしめだから、あいつにとって絶好のカモといっても過言じゃなかったんだ。だから今まで俺はあいつが将ちゃんに近づかないように注意を払ってたんだが、どうやら心配は無用みたいだな。あいつの弱点が分かっていい気分だ」

 

「でも、神楽坂さんって、一線を越えるような真似はしないって聞いたけどな」

 

 そういうことが関係しているのか、俺は神楽坂さんを嫌う声をほとんど聞いたことはない。黒川くんにしても、変にいじられるようなことはないのではと思う。しかし、俺の言葉に芹澤は吐き捨てるような仕草をした。

 

「そりゃあ、その光景を見た人間の主観的な感想だろう? 実際、あいつを嫌ってる人間ごまんといるからな。1年の頃はあいつとは違うクラスだったけど、あいつのことで俺に相談してきた奴たくさんいたしな」

 

「おいおい、ちょっと待て。何でお前カウンセラーみたいなことやってんだ?」

 

 神楽坂さんの、周りの評価云々よりもそっちの方が俺は気になった。

 

「行事の時は一番バカなことするし、不快に思ってる人も多いけど、こいつ実際は人付き合いかなりいいし、ボキャブラリーも豊富だから相談に来る人多いんだよ。的確なアドバイスがもらえて、親身になって相談に乗ってくれるってことで人気だったしなー」

 

「……それは腹立つな。一番バカのくせに」

「だね。本当にむかつくよ」

「あーっ、言ってて俺も腹立ってきた……」

 

「……お前らうるせえよ」

 

 俺たちの総攻撃に、芹澤は心底腹が立っているような表情を見せたが、俺は内心では奴のことを評価していた。人の相談に乗るなんて大層なことは、そう簡単にできるものではない。俺はそんなものを持ち合わせていないので、尚更だった。いずれは俺もそういう人間になれるだろうか。

 

「だけど、『物理的に潰される』って、余程のことがなけりゃ言わないと思うんだがな」

 

「えっ、そんなこと言ってたの、神楽坂さん?」

 

「ああ。『黒川くんのことを記事にしたら、新聞部が物理的に潰される』って」

 

「……ますます面白いな」

 

 俺の言葉に、先ほどよりも嫌な笑みを芹澤は浮かべる。この表情だけ切り出したら、どう見ても悪人にしか見えない。

 

「でも何があったんだろ、将ちゃんと神楽坂さんの間に?」

 

「大体予想はつくけどな。大方、神楽坂の奴が将ちゃんを切れさせるような真似したんだろ。そうでなきゃ、そこまでビビらないだろ」

 

「おいおい、黒川くんが切れるって、本気で言ってるのか?」

 

 優しさの塊とでも表現していいような黒川くんが怒るということなど、俺には到底想像がつかない。そりゃあ、不満を見せるようなことはあるかもしれないが(と言っても、そんな姿も見たことがない)、芹澤が言うような『切れる』状態には絶対にならないと思う。1年、2年と彼の姿を間近で見てきたからこそ、そう考えるのは当然のことだった。

 

「俺は見たわけじゃないけど、1年の球技大会の時、実は将ちゃん当時の3年にブチ切れて絞め落としたことがあるんだ。というか、俺たちが将ちゃんと関わりだしたのって、それがきっかけだしな」

 

「マ、マジかよ……一体何があったんだ、その時に?」

 

 ぶん殴ったり、蹴っ飛ばしたりしたのではなく、『絞め落とした』というのにわずかながら戦慄を覚える。それでも気にはなってしまったので、俺は芹澤に詳細を尋ねた。

 

「そもそも、お前将ちゃんと1年の時も同じクラスだったのに、知らなかったのかよ?」

 

「ああ、全く知らんかった」

 

「まあ、教師連中が大事にしないように取り計らったんだろうけどな……じゃあ、話を戻すけど、当時の3年にすげえ威張りくさってた奴がいたんだ」

 

「なるほど」

 

「そいつ、典型的なクソ野郎でさ。自分より体格が小さかったり、おとなしそうだったりする人間ばかりに、訳が分からん因縁つけてたんだよ。事あるごとに、意味もなく『死ね』とか『殺すぞ』ってな」

 

「……ああ、クズだな」

 

 自分の力を誇示して、弱者をいたぶるような奴は例外なく最低最悪な人間だと俺は思う。その例を、俺は至近距離で毎日のように見てきたのだ。だからこそ、断言できる。

 

「球技大会の時にそいつと将ちゃんが試合することになったんだが、始まる前から将ちゃんのことを罵倒しまくっててな。さっきも言ったみたいに、将ちゃん性格は比較的おとなしいし、体格も小柄だからな。だけど将ちゃんは完全無視してたらしいんだ」

 

「そういや、種目は何だったんだ?」

 

「テニス。勝った方が俺と対戦することになってた」

 

(そういやこいつ、優勝したんだったな。黒川くんも同じ種目だったのか)

 

「結局試合は将ちゃんが僅差で勝ったんだ。将ちゃんはテニス初めてだったらしいけど、相手がそれ以上に下手糞だったらしいから何とか勝てたみたいだな」

 

「まあ、大方想像はつくけど、そいつ負けたからってギャーギャー言ってきたんだろ?」

 

「大正解」

 

 こういう奴らの行動パターンは、誰であってもまるで金太郎飴のように同じだ。絶対自分の非を認めないし、反論されればすぐに威圧する、実にたちの悪い連中なのだ。

 無視しようにも追尾ミサイルのような正確さで迫ってくるので、なおのことだ。

 

「さすがに将ちゃんも言い返したら、そいつ逆切れして、将ちゃんにタックル仕掛けて、倒して、殴りかかりやがった。しかも顔面狙って」

 

「おいおい……黒川くんは大丈夫だったのか……ん? ちょっと待て、そういやその頃の黒川くんの顔、傷も痣もなかったな」

 

 黒川くんの顔にそういったものが見受けられたのなら、俺がこの事件の詳細を知らないということはまずあり得ない。いくら他人に関心のなかった当時の俺でも、何か尋ねたに違いない。

 

「実際、1回も殴られなかったからな。殴りかかった腕を取ったかと思ったら、すかさず首に足巻きつけて、三角極めたんだと」

 

「三角って、もしかして三角絞めのことか?」

 

「そうだな。柔道なんかで使われるあれだ」

 

「マジかよ…………」

 

 黒川くんが切れること以上に、その様子の想像が俺にはできなかった。腕で首を絞める、いわゆるチョークスリーパーとは違い、三角絞めは技の構造を知っていないと仕掛けられるものではない。

 

 俺はキックボクシング、つまり立ち技しか経験がないので、寝技である三角絞めのちゃんとした技の構造は理解していなかった。

 そんな技を即座に極め、加えて絞め落としたなど、経験者でもなければできないことだろう。黒川くんは柔道でもやっていたのだろうか。

 

「審判やってた荒井先生なんかが止めに入ったんだが、そんなもの全く意に介さずに、落ちるまで絞め上げたらしい。その後はラケットを先生に返して、帰っちまったんだと」

 

「じゃあ、試合放棄したってことか」

 

「ああ。だから本当ならその3年が繰り上がりで俺とやるはずだったんだが、意識が戻ったあとパニック起こして試合なんかできる状態じゃなかったみたいだな。だから俺は2回戦が不戦勝になった。初めはラッキーだと思ったけど、事情を知ってすぐ撤回した」

 

 去年の球技大会のテニスには、芹澤の優勝以上の大事が発生していたというわけか。当時の状況を鑑みるに、芹澤の言った『教師が大事にしないように取り計らった』というのは本当のようだ。そのことに俺は安堵する。

 

 それと同時に俺は、その絞め落とされた3年に『ざまあみやがれ』と心の中で嘲笑った。そんなふざけた奴のせいで黒川くんが変な目で見られたらかなわない。自業自得だ、マヌケが。

 

「でもそれって、ブチ切れたっていうより、身を守っただけじゃないか? 絞め落としたことに関したって、そうでもしなきゃ反撃されてた可能性もあったかもしれないしな」

 

 しかしながら、黒川くんの行動は別に隠す必要もないのではないかと思う。大っぴらにしたところで、彼を心配こそすれ糾弾するような人間は、そいつの取り巻きでもない限りは現れないだろう。

 そもそも『切れる』という表現自体、おかしなものだと思うのだが。

 

「いや、俺が『切れた』って言ったのは絞め落としたからだけじゃない。将ちゃんその後、失神してるその3年の顔面に、唾吐きかけたらしいんだ。加えて暴言も吐いたって聞いた。何て言ってたのかは知らないし、知るつもりもない。それにこのことで将ちゃんの評価を変えるつもりは毛頭ない」

 

「……冗談、じゃないのか? 尾ひれが付いてるだけなんじゃないのか?」

 

「このことを俺に話してきた奴は、話に尾ひれ付けるような性格の人間じゃない。俺も信じがたいけど、恐らく本当とみて間違いないだろ」

 

「…………」

 

 しばらくの間、俺は言葉を失った。

 彼が他者に唾を吐きかけたり、暴言を吐いたりするなど、ますます想像ができなかったからだ。もちろん、俺も黒川くんに対する評価を変えるつもりはないが、内心動揺はかなりしていた。

 

「……とりあえず、そういうことがあったってのは理解できたが、何でお前らと黒川くんがつるむって話になるんだ?」

 

 その動揺をごまかすように、俺は話を別の方向へと逸らす。

 1年の時も違うクラスで、何の接点もなかったこいつらと黒川くんがなぜ繋がりを持ったのか、このことの何がどうきっかけなのか、芹澤の話からは見えてこなかった。

 

「そりゃあ気になるだろうが。クソ野郎に正義の鉄槌を落としてやったのが、どんな人間なのかってことくらいは。将ちゃんがぶっ飛ばしてなかったら、いずれ俺がやってやろうと思ってたくらいだからな。それに、もともと俺と対戦する予定だったのに、顔合わせしてないっていうのも気まずかったし」

 

「変なところで律儀だな、お前……」

 

「だけど一二三、お前やたら慣れ慣れしく将ちゃんに近づいてたから、将ちゃんかなり警戒してたんだからな? ゴミでも見るような目だったぞ、ありゃ? 俺たちがお前を落ち着かせてなかったら、どうなっていたことか……」

 

「いちいちうるせえよ……まあ、警戒されたってのは認めるし、反省してるけどな……」

 

 一番暴走するという芹澤の性格は、こんなところにも表れていた。よく黒川くんにぶっ飛ばされなかったものだ。

 ただ、その行動がなければ再びこいつらと一緒になるということはなかったに違いない。ことの始まりは芹澤の性格があったからこそとも言えるだろう。なので、内心俺は感謝した。もちろん、高桑と鴨田のふたりにも。このふたりが芹澤のストッパーとなってくれたことによって、黒川くんが警戒しすぎないようにしてくれたことも一因だ。

 

「それで、今に至るってわけだ。いやあ、将ちゃんのおかげで1年の時は楽しいことばかりだったな。ゲームとか漫画に詳しいし、色々面白いのを貸してくれたからな」

 

「おまけに、勉強も得意だから、テストも赤点取ることなくパスできたしね。一二三は勉強教えるのすげえ下手糞だけど、将ちゃんはうまいから大助かりだよ」

 

「本当だよな。こんな下手糞なのに、何で成績はいいのか理解に苦しむな~。不条理だよな、世の中って」

 

「ちくしょう、いちいち痛いとこ突いてくんなよ……まあでも、そんな将ちゃんでも怒ることはあるってことだ。言うだろ、『優しい人間ほど怒ると怖い』ってな。それにここだけの話、球技大会の時以外にも将ちゃんはブチ切れ……」

 

「ごめんごめん。思ったより人が多くて時間かかっちゃったよ」

 

「「「どわっ!」」」

 

 芹澤が気になることを言おうとした矢先、件の本人がパンを手に持って戻ってきた。不意を突かれた形となり、俺を除く3人が一斉に飛び上がる。まるで示し合わせていたかのようだ。

 

「……ど、どうしたの?」

 

「い、いや、ちょっとな……昨日こいつが神楽坂に拉致されて、根掘り葉掘り聞かれたらしいから、慰めてたんだ」

 

 途中からはほとんど黒川くんの話になってしまったが、元々は俺が神楽坂さんに連行された話に端を発しているのだ。額に冷や汗を浮かべながら発せられた芹澤の言葉は言い訳じみてはいるが、間違ったことを言っているわけでもない。

 特別彼に罪悪感を抱くことは……ない、と思いたい。

 

「そうなんだ。……神楽坂さんか……俺はあの人、苦手かな……」

 

 神楽坂さんの名前が出ると、黒川くんは困ったような表情をしながら軽く息を吐く。その反応から察したのか、過剰なまでに心配そうに芹澤は尋ねる。

 

「将ちゃん、まさかあいつに何かされたのか!?」

 

「い、いや……神楽坂さんとはほとんど話したことはないけど、色々噂を聞くから標的にされないかなって、ちょっとびくついてるから。俺の自意識過剰なだけだとは思うんだけどね」

 

「将ちゃん、もし何かあったら俺に言えよ? 遠慮することなんてないからな?」

 

 苦笑交じりに答えた彼の言葉に、芹澤はすかさず立ち上がり、半ば詰め寄るような形で近づき、両肩に手を置いて言った。傍から見ると、脅しているようにしか見えない。

 

「う、うん……ありがとう……何かあったら泣きつかせてもらうよ。でも、最近はそんな気配もしないから、気にする必要もないんじゃないかなって思うけどね」

 

 芹澤のうざったい行動に半ば気圧されながらも、変に取り繕うことはしなかった。それは言うべきことをしっかり言う黒川くんの性格だけに限った話ではなく、3バカ全員を信頼しているからこそ出た言葉だろう。こいつらとは先に会った俺よりもはるかに、彼と3バカとの間の信頼関係は強固なものに見えた。

 

 きっと彼には悩みなどないのだろう。よしんばあったとしても、すぐに吹き飛ばしてしまえるだけの強さを持っているに違いない。

 

 そんな姿に、またしても俺は嫉妬――――いや、それでは駄目だ。そんなことをしたって、何の意味もない。

 だから、俺は彼のようになりたいと、強い人間になりたいと、くだらない『嫉妬』を『目標』へと変えた。

 

 ――だが、分からない。それにさっき芹澤が言いかけた言葉からして、球技大会の時以外にも切れたことがあるようだった。

 だからこそ、俺はそんな彼が切れるという姿を、話を聞いた今でも腑に落ちないままでいた。勝手な決め付けで人を判断するのは良くないことだと分かってはいるのだが、それでもなお、納得は出来なかった。

 

 

 

 



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押しつけろ!

 

 

 

 

 ずっと断り続けてきたことで、部活に入る意思がないことを感じ取ったのか、最近は運動部への勧誘はほとんどなくなっていた。1年の頃からずっとやってきたことが、ようやく実を結んだ形になったと言える。

 

 しかし、それでもなお俺を勧誘してくる奴がひとりだけいた。登校時に校門まで着くと、待っていたかのようにそいつが声をかけてくる。

 

「先輩、おはようございます!」

 

「はいはい、おはようさん……今日は朝練休みなのか?」

 

「はい、そうですよ。そんなことより、入部は考えてくれましたか?」

 

「あのさあ……最初から言ってるじゃねえか。俺は、陸上部はもちろん他の運動部にも入るつもりはないって……」

 

 春宮(はるみや)つぐみ。今年入学した1年生で、陸上部に所属している。

 1年生の彼女が2年生の俺を勧誘するというのもおかしな話だが、これは陸上部所属の2年及び3年の作戦らしく、『可愛い後輩の誘惑で二階堂を陥落させろ』という内容だと、春宮の口から聞いた。春宮本人も、体育の時間の俺を見て感激したらしく、ぜひとも陸上部に入ってほしいと思っているらしい。

 客観的に見ても春宮は『可愛い』と形容できると思うが、短い髪型だからなのか雰囲気はボーイッシュで、とても誘惑をできるようなタイプには見えなかった。当の本人もどうやったらいいのか分からなかったようで、最初は身体をくねらせたり、変に甘ったるい声を出したりしていたが、すぐに普通の勧誘の仕方に改めた。

 

 …………だが、突っ込みたいのは春宮がそういう行為をしたことじゃない。

 

 失礼ながら、陸上部にはバカしかいないのだろうか。色仕掛けを使って入部させようとするなど、全世界探してもここしかないだろう。そんなことをしている暇があるのなら練習するべきだ。それに後輩を使ってそんな真似をすること自体、喜ばしいこととは言えない。

 

「でも、先輩が入ってくれたら大会でもきっといい結果が残せると思いますよ? もしかしたら、全国優勝なんてことも……」

 

「いくらなんでも夢見すぎだろ、それは……。そもそも、陸上なんて体育の授業でしかやったことのない俺が入るより、専門にやってる部員の方がずっといい成績残せるだろうし、仮に俺がそんな資質あったとしても入るつもりはないっての。いい加減諦めろよ……」

 

「う~ん、手ごわいなぁ。でも、私は諦めませんからね! 先輩の方から入りたくなったら、いつでも来てください! 部の先輩たちも待ってますから!」

 

 そう言い残し、1年生の教室がある棟へと駆けていった。

 

「……まったく、どうしたもんかな……」

 

 誰になんと言われようが、俺は陸上部に入るつもりはない。だからと言って、邪険にするのもためらわれる。何とかして対象を俺から逸らす方法はないだろうか。

 今日は一日中対処法を考えていたが、結局良い案は思い浮かばなかった。

 

 

 

 

 

 

 翌日の昼休み。

 弁当も食い終わり、本を読んで残りの時間を俺は過ごしていた。

 ふと廊下側に目をやると、春宮が黒川くんと話をしているようだった。しばらくその光景に目をやっていると、黒川くんが俺を指差しながら視線もこちらに向け、春宮もそれを追う。

 俺に気付いた春宮は黒川くんに頭を下げると、ためらうことなく教室へと入り、俺の方へと向かってきた。

 

「先輩、そろそろ決めてくれって部の先輩たちから言われてるんですが……」

 

「だーかーらー、決めるも何もアタシは入らないって言ってるでしょ? なんなら、直接陸上部に行って断ってくるけど?」

 

 この状態がいつまでも続くようでは、俺はもちろん、陸上部、中でも春宮は一番骨折り損になってしまう。面倒なのでこの手段は取っていなかったが、こうでもしないと埒が明かない。

 

「そ、そうですか……そこまで言うなら、もう諦めたほうがいいかもしれないですね……」

 

「陸上部の部長は、そこまで分からず屋じゃないんだろう?」

 

「は、はい……恐らくは、分かってくれると思うんですけど」

 

「それならいいや。お前が責任負うようなことにはならないように取り計らってやるから、そこは安心しな」

 

 部長が立案者なのかどうかは知らないが、春宮を使った色仕掛けの作戦を通してしまっていることを考えると、色々残念な人間であることは間違いなさそうだ。これで話も分からない人間ならどうしたものかと焦りがあったが、何とか大丈夫だろう。

 

「というか、お前も俺の勧誘してる暇があるんだったら、彼氏でも作ったらどうなんだ?」

 

「うぇっ!? か、彼氏ですか!?」

 

 半ば冗談で言ったのだが、俺の言葉に春宮は過剰なまでに跳び上がる。顔もみるみるうちに、茹でたタコのように赤くなっていった。

 

「わ、私にはそんなの無理ですよ! まだ入学して1か月ちょっとしか経ってないし、それに私、男っぽいし……」

 

「俺は別にそうは思わないけどな。そもそもそう思ってるのなんて、案外お前だけかもしれないぞ?」

 

「…………」

 

 随分としおらしくなっちゃって、まあ。

 こういうリアクションを取れるなら、男っぽいとは到底言えない。むしろ『乙女チック』とでも言えよう。

 有栖川さんにこの光景を見せたらやたら喜びそうだと思ったが、当の本人は学食にでも行っているのか、姿が見えなかった。

 

「……とりあえず、彼氏云々は置いておくにしても、趣味の合う友達でも作ったらいいんじゃないか? そして部活にもしっかり取り組む。俺なんかに構って時間を無駄にするより、ずっと有意義だと思うんだが」

 

 今はしおれた花のようになってしまっているが、本来春宮は明るい性格だ。おまけに変に押しつけがましい訳でもないので、友達は容易に作れるはずだ。

 

「い、一応友達はいますけど……」

 

「なら話は早いな。そういう人との時間を大事にした方がいい。……そうでないと、俺みたいになっちまうから」

 

 俺の場合は家庭の環境が環境だったという、いわば運が悪かったとでも言えるので、俺と同じ境遇に春宮がなるとは考えにくい。しかし、だからこそ俺は他人に口うるさく、人間関係を大切にするように言い続けなければならない。

 

 余計なおせっかいであることは百も承知だが、俺のような目に会う人間は今後誰ひとりとして現れてはならない。

 

「……えっ? 今、何て?」

 

「いや、何でも~? そういえば教室に入る前、黒川くんと話してたけど、何を話してたんだ?」

 

 あまり聞こえなかったようだが、それならそれでいい。過干渉せずとも、彼女ならきっと大丈夫だ。

 話題を逸らすために、先ほどの光景の話題を俺は振った。

 

「いえ、特に何か話してたわけじゃなくて、先輩の教室に着いた時にたまたま教室から出てきたから、先輩がいるかどうか聞いただけです。 ……あれ? ということは黒川さんのお兄さんってことかな?」

 

「ん? どういうこっちゃ、それ?」

 

「ああ、ごめんなさい。同じ1年の女子に黒川さんって人がいて、兄妹揃って同じ学校なのかなって思って。顔も似てましたから」

 

「あれ? 黒川くんに妹っていたのか?」

 

 今までの黒川くんの話を聞く限り、彼の家族構成は彼を除くと両親だけだった気がする。妹に限らず、兄弟がいるという話は全く聞いたことがなかったので、春宮の情報には驚いた。

 

「多分そうだと思いますよ。名字が同じだけってことなら兄妹じゃない可能性もありますけど、結構顔似てましたし」

 

「ということは、仲悪いってことなのか……」

 

 黒川くんが妹のことを話題に出さなかった理由として、俺はふたつの可能性を思い浮かべた。

 

 ひとつ目が、そもそも兄妹でも何でもなく、彼がその『黒川さん』なる人物を知らないこと。しかし、春宮が言うには彼女と黒川くんは顔が似ているらしく、それなら兄妹である可能性に説得力が生まれる。そうなるともうひとつの可能性が現実味を帯びる。

 そのもうひとつ目が、仲が悪く、話に出すことすら憚られるほどの対立ぶりなのではないかということだ。いわゆる、『犬猿の仲』というやつである。その場合だと彼が一切話題に出さなかったことにも説明がつく。

 

「そうだとしたら、ちょっと悲しいですね……」

 

「……そうだな」

 

 以前俺は、『黒川くんは悩みがなく、よしんばあったとしてもすぐ解決できるだろう』と思ったが、さすがに軽率な考えであったと反省した。悩みのない人間なんて、やはりこの世にはいやしないのだ。それに、そう簡単に解決できるわけでもない。

 だが俺は、彼の悩みがいつか解決してほしいと、妹との関係が良好なものになってほしいと強く願う。

 

「だからあんなに目つき悪かったのかな……?」

 

 そんな考えを巡らせていたら、春宮が意味深なことを呟いた。

 

「はぁ? 黒川くんが目つき悪いって、お前本気で言ってるのか?」

 

 先日芹澤たちが話していた『黒川くんのブチ切れ事件』に関して、俺はまだ半信半疑だというのに、今度は『目つきが悪い』などと言い出されては、まるで彼が馬鹿にされているような気がして、若干の憤りを覚える。

 

「ほ、本当なんですって。すぐに普通の顔になったんですけど、私が話しかけた直後はすごく怖い顔してて、思わずヤンキーかと思いましたよ」

 

「ぶっ……」

 

 『ヤンキー』というあまりに馬鹿馬鹿しい言葉に、思わず俺は噴き出してしまった。それによって、先ほどまでの憤りはあっさり消えてなくなった。だが、春宮の誤解が変に広まってしまうのは嫌なので、それを解くことにする。

 

「あのなあ、言っとくが黒川くんはヤンキーなんかとは全く逆だぞ? むしろ仏みたいな人間なんだからな?」

 

「ほ、仏ですか……」

 

「お前と会ったばかりの俺、もっと暗い奴だっただろ? そんな俺をここまでペラペラ喋って、人付き合いもできる人間にしてくれたのが、黒川くんなんだ。一生かかっても返せるか分からないくらい大きな借りも作っちまったからな」

 

「まあ、人は見かけによらないって言いますからね」

 

「見かけも何も、黒川くんは普段から目つきが悪いわけじゃねえっての。それどころか、いつも笑顔を絶やさないんだ。裏があるような感じもまったくしないし、性格も本当にいい。真面目だけど馬鹿な冗談も通じるから言うことなしだ。……言っとくが、お世辞じゃなければ、盲信してるわけでもないからな? 本心で言ってるんだからな?」

 

「ふふっ、仲いいんですね。私も、そういう人になれたらいいんですけどね」

 

 そう言って笑みを浮かべる春宮からは、わずかながら黒川くんと似たような雰囲気を感じた。俺が以前彼に対して抱いた(もっとも、今でも抱いているのだが)『太陽のような明るさ』とでも言うべきか。

 それと同時に、俺はひとつの案を思いつく。

 

「そんじゃあ春宮、お前黒川くんと話してみたらどうだ? 俺なんかよりずっと面白いと思うぞ?」

 

「えっ? どうしてそういう流れになるんですか?」

 

「だってお前、『そういう人になれたらいい』って今言ったじゃないの。そんなら、当の本人と話をするのが一番手っ取り早いだろうが」

 

 いくら陸上部の部長が物分かりがいいと言っても、俺は部長と話したことがないので本当のことはまだ分からない。往生際の悪い真似をしてくる可能性もある。大丈夫と思っても、過信は禁物だ。そのため半分は、勧誘の意識を俺から逸らし有耶無耶にするために、春宮を黒川くんに押し付ける目的もある。

 だが、春宮本人にとってもずっと有意義な時間が過ごせると考え、黒川くんとの交流を提案したのだ。

 

「先輩がそこまで言うなら断る理由はないですけど、大丈夫かな……?」

 

「何が心配なのよ?」

 

「いや、話が合うかなって……」

 

「ちなみにお前、趣味は?」

 

 俺と黒川くんには、共通の趣味はない。

 彼の趣味のひとつに漫画やアニメがあるが、俺は趣味と言えるほどの知識はないので、それに関して彼と話をしたことはほとんどなかった。漫画は最近になってから読む量はそれなりに増えたが、それでも小野寺さんなどと話している時の彼の話題は、まだ理解できていなかった。

 

 そんな状況にあっても交友関係を築くことは出来るので、絶対なければならないというわけでもないのだが、あって損するわけでもないし、むしろ話のネタを広げることにもつながるので、とりあえず春宮の趣味を俺は尋ねた。

 これで黒川くんと同じなら、万々歳なのだが。

 

「……少女漫画を、少しばかり……」

 

「少女漫画か……」

 

 そうなると、共通と言えるかどうかは微妙なところだ。

 聞いたわけではないので完全に勘でしかないが、黒川くんは多分少女漫画の類は読まない気がする。ただ、それでも『漫画』という共通点があるにはあるので、十分だろう。

 

「……まあいいや。黒川くんも漫画好きだから、もしかすると日が暮れるまで話し込んじまうかもな」

 

「あっ、本当ですか?」

 

「少女漫画はそこまで詳しくないかもしれないけど、一応お前、少女漫画以外にも読むんだろ?」

 

「まあ、それなりには」

 

「よし、それなら文句なしだ……っと、もうこんな時間か」

 

 チャイムの音にふと時計を見ると、あと5分で授業が始まる時間だった。

 チャイムが鳴らなかったら気付いていなかったかもしれない。俺はともかく、ここは2年の教室なので、1年の教室はここから離れている。春宮は間に合うだろうか。

 

「それじゃあ、明日の昼休みにでも時間を作っといてくれ。黒川くんの方は放課後に話を付けておく。あと、陸上部の勧誘のお断りもな」

 

「分かりました。じゃあ、これで失礼しますね」

 

「授業には間に合うか?」

 

「多分大丈夫です。全力疾走すればなんとか」

 

 そう言って春宮は廊下に飛び出し、あっという間に駆け去っていった。さすがは陸上部と言うべきか。

 

「教師に怒られても知らねえからな……」

 

 そんな俺の呟きは、当然春宮に聞こえることはなかった。

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

「…………」

 

「さっ、自己紹介」

 

 翌日の昼休み。

 学食へ黒川くんと春宮を連れ込んだ俺は、ふたりが向かい合うように席に座らせた。

 しかし、いつまでもふたりは話そうとしないので、急かす目的で自己紹介を促した。

 

「く、黒川将平です。どうも……」

 

「は、春宮つぐみっていいます。よろしくお願いします……」

 

(よし、自己紹介ができれば俺がもうしゃしゃり出る必要はないな。退散退散)

 

「ちょ、ちょっと待ってよ二階堂くん! 俺、どうすればいいの?」

「ま、待ってくださいよ先輩! どこ行こうとしてるんですか?」

 

 これから先はふたりに任せようと考え、踵を返そうとした俺を、見事にシンクロしたふたつの声が呼びとめる。

 

「いや、俺がいたって邪魔なだけでしょうに。何でもいいから、何か話せばいいじゃない」

 

「いやいや、むしろいなきゃ駄目だって! 何か話せって言ったって、二階堂くんがいないと何も話せないよ!」

 

「そうですよ! 先輩がいてくれないと、何話したらいいか分かりませんよ!」

 

「そんだけシンクロしてれば問題ないでしょ。んじゃ、さいなら~」

 

 困惑するふたりの抗議を尻目に、手をひらひらと振りながら俺は逃げるようにその場から走り去った。正直その速度は、昨日の春宮の全力疾走より速い自信があった。

 

「だ~っ! 待ってくれ~っ!」

「待って下さいよ~っ!」

 

 わずかながらふたりの嘆きが聞こえたような気がするが、俺は完全無視して駆け抜けていった。

 

 よし、押しつけ作戦は成功だ。これで俺はもちろん、黒川くんと春宮にとっても最高の結果となるだろう。多分。

 

 

 

 



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Fear of the Princess

 

 

 

 

 ここ聖櫻学園には、何気に凄い特技を持つ生徒が数多く在籍している。写真のコンテストで入賞経験のある望月さんはそのひとりだ。

 

 しかしながら、『特技』と呼んでしまっては、些かスケールが小さく感じてしまうような生徒もいる。俺と同じクラスに在籍している、時谷小瑠璃(ときたにこるり)はまさにその代表格と言って差し支えのない例だった。

 

 彼女は俺と同じ高校生の身でありながら、ファッションデザイナーとしての顔も持ち、ただデザインするだけでなく、自分の手で服飾の制作に当たることもあるようだ。当然ながら所属は手芸部で、その手腕を遺憾なく発揮している。部の上級生も彼女の技術の高さには敵わないと聞く。

 

 ところで、聖櫻学園は他校では見られないイベントを多く開催することで有名で、そのイベントを楽しむために入学する生徒も少なくない。入学の動機としてそれはどうなのかと言いたいが。

 話が逸れたが、そのイベントに必要となる衣装はほぼ全て手芸部が作成したものであり、完成度も高いと評価されている。その評価には手芸部自体のレベルの高さもあるが、時谷さんの入学以降は彼女のデザイナーとしての資質が大きく影響しており、『彼女なくして聖櫻のイベントは語れない』とまではいかないが、極めて重要な存在であることに疑いの余地はないだろう。

 

 これだけでも有名人としての要素は十分すぎるくらいにあるのだが、彼女を有名たらしめるもうひとつの理由がある。それは、彼女の性格だ。

 彼女は非常に強引な性格で、自分の都合を相手に押し付けるきらいがある。自分のデザインした服が合いそうな人を見つけた場合、有無を言わさず手芸部室に連行する。俺は何度かその現場を目にしたことがあり、去年は3年生すらその対象にしていたことがあった。

 さらに彼女は、古風……とでも言うのだろうか、とにかく話し方が今時の女子学生のそれとはかなり異なっており、そのためなのか風格のようなものを漂わせている。誰かが『まるで姫だ』と噂していた気がするが、その例えは言い得て妙だ。

 そんな風格に加えて、イベントの衣装も数多く提供しているという理由から、彼女の校内における発言力はかなり強く、彼女の頼み――性格上、命令に近いのだが――を断れるような人間は上級生を含めても皆無であった。

 

 だが、唯一彼女の頼みを断った――否、『逆らった』人間がいたことを、俺はこの時まだ知らなかった。

 

 

 

 

 

 

 放課後。

 いつものように俺は、図書室で読書にふけっていた。初めに手に取った1冊目を読み終えたので、次の本を探すために席を立ち、本棚へ移動する。

 その時、ふと時谷さんのことを思い浮かべた俺は、手芸関係の本がある棚に向かい、面白そうなものはないか物色を始めた。

 

 多少は手芸の知識及び技術は持ち合わせているが、手芸部の面々に比べれば天と地の差がある。時谷さんに至ってはそんな比較ではむしろ失礼なレベルだ。だが、それはまだ俺の知らないことやできないことがたくさんあるという証明だ。だからこそ、俺は貪欲になれるのだ。知識を、技術を得ることに。

 別に彼女のようになろうとは考えていないが、そうでなくとも知識や技術を得ることは俺のこれからの人生をより良いものとするためには実に良い手段だ。

 

 ありとあらゆるものを楽しめる人間に俺はなってみせる。自殺願望しかなかったこれまでの人生を、塗りつぶすがごとく。

 

「おっ、これは……」

 

 そんな中、俺は一冊の手芸の教本を手に取った。表紙の写真などから古い本であることは容易に想像できたが、発行された年を確認してみると、何と40年も前だった。

 だが、こういった本は面白いものがかなり多いと、個人的な感想ではあるが思う。今時の本にはない、『味』とでも形容できるものがあるのだ。本好きの人間なら、俺の感想にも理解を示してくれるのではないだろうか。

 

「あっ……」

 

 そんなことを考えながらぱらぱらとその本のページをめくっていると、後ろから声が聞こえた。振り向くと、そこには当の本人、時谷小瑠璃の姿があった。

 名残惜しそうな表情をした彼女の視線を辿ると、それは俺が今手に取っている本に向けられているようだった。

 

「もしかして、この本借りたい? それならいいよ。別に今すぐ読みたいってわけじゃないし、時谷さんが返してからでも問題ないから」

 

 俺は本を閉じ、時谷さんに差し出す。

 

「あ、ああ……ありがとう、二階堂……」

 

 本が自分の手に渡れば、表情も明るくなるのだと思ったが、俺から本を受け取った時谷さんの表情は、相変わらず気まずそうな――いや、と言うよりも、若干怯えのようなものが見受けられた。

 

 ――ちくしょう、やっぱりこの身長はほとんど損しかねえ。

 時谷さんは、他の女子生徒と比較しても特に小柄な体格で、失礼は承知の上だが、見た感じ150cmもないような気がする。そんな彼女からすると、190cmの俺は特に大きく見えるに違いない。『ガリバー旅行記』とまで言うのはさすがにオーバーな表現だろうが、それでも威圧されているような感じにはなると思う。いくら彼女は発言力が強く、物怖じしない性格と言っても、俺との身長差をおっかないと思うのは当然と言えた。

 

 ……特価とは言わん。ただでやるから、俺の身長10cmばかりもらってくれっ! もういやっ! こんな高い身長!

 

「それじゃあできたらでいいから、返す時になったら俺に教えてくれない? 時谷さんほどではないにしても、俺もその本を読みたいと思ってるから。他に読みたい人がいればその人優先でもいいけど、そうじゃなければそうしてくれると助かるかな」

 

 高すぎる身長のコンプレックスはとりあえず隅に置き、俺は彼女に本のキープを頼んだ。こうしておけば、時谷さんが返した際に他の人が借りてしまい、いつまでも読めなくなるという事態を防ぐことができるだろうと考えたからであった。

 

「わ、分かった。明日には読み終えておくよ」

 

「い、いや、別に返却期限いっぱいまででもいいんだけど……急かしてるわけじゃないんだから、ゆっくり読めばいいじゃない」

 

 優先順位は限りなく下で構わないと言っているにもかかわらず、妙に慌てた様子で時谷さんはそんなことを言う。その慌て様は、俺と彼女の身長差だけが原因とは思えなかった。

 

「いや、いいんだ。ここ最近はいろいろ忙しくて、多分今日しか読む暇がないんだ。それじゃあ」

 

 そう言って、彼女は逃げるように貸出しカウンターへと向かってしまった。彼女らしからぬ行動の連続に俺は呆気にとられていたが、間髪入れずにより腑に落ちない光景を目撃することになった。

 

「貸出しでお願いします……」

 

「……はい」

 

 ――ど、どうなってんだ。

 普段貸出しや返却を受け付ける時の黒川くんは、日常会話の時以上に明るい態度で応対するのだが、今時谷さんに応対している彼の態度はかなり冷淡で、表情も厳しいものとなっていた。

 時谷さんの方も、さっき俺に見せた態度が霞んで見えるほどで、『怯える』という表現より、『怖がっている』と言った方がしっくりきた。話し方もいつもの古風な雰囲気漂うものではなく、普通の話し方となっており、かなり余所余所しい態度だった。

 

「……6月3日までに返却をお願いします。どうぞ……」

 

「はい……ありがとうございます……」

 

 そんな今まで見たことのないふたりの姿に、俺はあんぐりと口を開けた間抜け面で突っ立って、呆然と眺めることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

「はぁ……」

 

 本を借り終えた時谷さんは、脱兎のように駆けて図書室を去っていった。直後大きなため息を、心底疲れたような表情をしながら黒川くんはつく。

 

「黒川くんさ、時谷さんと何かあった? もちろん、話したくないなら無理には聞かないけど」

 

 時谷さんもそうだが、それ以上に黒川くんの見たことがない表情の変化に戸惑いを隠せなかった。お互いのプライバシーに関わることなので詳細を尋ねることは決して好ましいとは言えないのだが、1年以上の学園生活を最も近い距離で共にしてきた彼のあんな表情を見てしまえば、そういうわけにもいかなかった。

 

 俺の自殺願望を消し去ってくれた彼への恩返し――と言うには程遠いかもしれないが、少しでもお節介は焼きたかった。出来るのであれば、彼の力に俺はなりたかったのだ。

 

「ああ、うん……1年の頃にちょっと色々あってね……詳しいことは、俺の口からはあまり話したくないから、勘弁してもらえるとありがたいかな……」

 

「いやいや、全然問題ないから」

 

 自分のことを他人に何でもかんでもペラペラ喋ることが信頼の証だとは、俺は絶対に思わない。

 誰にだって言いたくないことはあるものだ。俺自身、黒川くんには過去のことを話していない(もっとも、聞かれたら俺の場合は答えてしまいそうな気がするが)。

 むしろ、他人のことを隅々まで知ってしまったら、逆に窮屈になり、信頼関係の形成を妨げてしまうのではないだろうか。

 

「でも、二階堂くんが他の人から詳しいこと聞いても、俺は何も言わないよ。多分俺と時谷さんの間に何があったか知ってる人多いと思うし、その中に二階堂くんが加わったって、そんな変わらないだろうから」

 

「黒川くんは嫌なんじゃないの? 見た感じ良い話題とは到底思えないし、そんなら他の誰かに聞くのもやめておくよ、俺は」

 

「いや、大丈夫だから。俺の口から話したくないってだけだし、それに二階堂くんなら、知っても問題ないと俺は思ってるよ」

 

「…………」

 

 それは、ほぼ間違いなく俺を信頼してくれているからこそ出た言葉だろう。

 だが俺は、素直に喜ぶことは出来なかった。

 

「そう言ってくれるのはありがたいけど、あまり抱え込みすぎないようにね? 芹澤の言葉の真似になるけど、何かあったら遠慮しないで言っていいからさ」

 

「……うん。ありがとうね」

 

 わずかだが、黒川くんの表情が柔らかくなったような気がし、俺は内心安堵した。

 

「じゃあ、俺はこの辺で失礼するわ。そんじゃね」

 

「うん。また明日」

 

 結局本は借りず、帰宅を俺は選択した。

 明日には時谷さんが借りていった本を読むことになると思うので、無理に他の本を借りることもないだろう。

 

「はぁ……何であんなことしちゃったんだろ……」

 

 彼の意味深な呟きを背後で聞きながら、俺は図書室をあとにした。

 

 

 

 

 

 

 翌日の放課後。

 俺は昨日の時谷さんの言葉に従い、図書室で彼女が本を返却しに来るのを待っていた。『少し遅くなるかもしれない』とは聞いていたので予想はしていたが、彼女が姿を現したのは俺が図書室に着いてから30分が経ってからだった。

 

「返却で頼む」

 

「はい、ありがとうございました」

 

 着いて早々、時谷さんはカウンターの村上さんへ本を渡す。

 今日、黒川くんは委員の仕事は休みだ。そのせいなのか分からないが、村上さんに本を渡した時谷さんからは、昨日のような怯えらしきものは見受けられなかった。

 

「あっ、すまない村上。ちょっと頼みたいことがあるんだ」

 

「はい、何でしょうか?」

 

「その本、二階堂が借りたいって言っていたから、まだ本棚にはしまわないでくれないか? 多分、もう来てるはずなんだが……」

 

「それなら、あちらの方に」

 

「えっ? ……あっ」

 

 村上さんが指し示した方向――つまり、俺のいるところに視線を向けた時谷さんは、俺と目が合った瞬間、妙なくらいに驚いた顔をした。

 

「ちょ、ちょうどよかった。それじゃあ村上、頼んだぞ」

 

 そう言って時谷さんはすぐに俺から視線を逸らし、昨日と同じような慌てた仕草で逃げるように図書室から去っていってしまった。

 

「二階堂君、時谷さんと何かあったんですか?」

 

「こっちが聞きたいよ。何でなのか俺にはさっぱり分からん。昨日も妙なくらいに怯えた顔してたし」

 

「そうなんですか?」

 

「うん。というか昨日の時谷さん、俺よりも黒川くんの方を怖がってた感じだったよ」

 

「えっ、黒川君にですか?」

 

 俺の言葉に村上さんは心底驚いた表情を見せる。

 1年生の初めから今日に至るまで同じ委員会で活動してきたのだから、彼女も黒川くんの性格を良く知っているはずだ。そんな彼に、怯えた反応を示した人物がいるとなれば驚くのも無理はない。俺が村上さんなら同じ反応をしただろう。

 

 ……まあ、黒川くんのことは俺の方がよく知っていますがね、はい。

 

「そういえば時谷さん、黒川君だけは『くん』付けで呼ぶみたいですね。もしかして、そのことと関係があるんでしょうか?」

 

 わけの分からない対抗意識を燃やしていた俺に、村上さんはそんなことを言った。

 

「あれ、そうなの?」

 

 時谷さんは基本的に同級生や後輩は全て呼び捨てにすると聞く。現に今、俺も村上さんも呼び捨てにしていた。なのに黒川くんだけは『くん』付けで呼ぶとは、まず間違いなく理由があると見ていいだろう。昨日のふたりのやりとりも加えて考えると、余程の大事が起きたのだろうか。

 

「クラスの人から聞いた話なので、本当のことはちょっと分からないんですけどね」

 

「そうか……何があったんだろうな……?」

 

「はい……何があったんでしょうね……?」

 

 ふたりして頭をひねり、『う~ん』と唸っていると、背後で『カシャッ』と音がした。

 

 ……この展開、以前もあったような。

 

「考える人もとい、考える文緒ちゃんね。う~んっ、可愛いわ~っ♪」

 

 ……予想通り、その音は望月さんのカメラから発せられたシャッター音だった。

 

「も、望月さんっ。写真を撮るのはほどほどにしてくださいって言ったじゃないですか」

 

「大丈夫よ~。この1枚で終わりにするから~」

 

「もう……」

 

「…………」

 

 以前と変わらぬふたりのやり取りに俺は置いてけぼりを食う。

 ……仲の良さを見せ付けちゃってくれるわね。アタシもう帰ろうかしら。

 

「そういえば、文緒ちゃんと二階堂くん、ふたり揃って唸ってたみたいだけど、何かあったの?」

 

「ああいや、時谷さんが何で黒川くんや俺に余所余所しい態度取るのかって話してたんだけど……ってやべえ……」

 

 他人のプライバシーを何で俺はペラペラ喋ってるんだ。

 慌てて俺は口を閉じたが、ほとんど全ての内容を言ってしまったので今さらだった。

 

「ああ、なるほどね……」

 

 しかしながら、望月さんはさほど驚いたような仕草は見せなかった。むしろ、以前からこの話を知っていたような素振りですらあった。

 

「望月さん、何か知ってるんですか?」

 

「う~ん、でも話しちゃっていいのかしら……絶対誰にも言わないって約束なら、大丈夫なんだけど、ここだと他の人に聞かれちゃうと思うわ」

 

「今、ここには俺たち3人だけだから、聞かれる心配もないと思うよ。他の図書委員、今は奥の書庫で作業してるんでしょ、村上さん?」

 

「あ、はい。さっきみんな行ったばかりですし、すぐには戻ってこないと思います」

 

「……二階堂くんはともかく、文緒ちゃんまで聞きたがるなんて、ちょっと意外ね~。まあ、いっか」

 

 望月さんの言葉には俺も同感だった。てっきり村上さんは『聞くべきではない』とでも言うのではないかと思ったからだ。

 恐らく彼女は、黒川くんと仲が良いというのもあるのだろう。もしかすると彼女もまた、黒川くんの力になりたいと思っているのかもしれない。単純な野次馬根性で言ったわけでは決してないはずだ。

 

「二階堂くんはどうしてなのか分からないけど、黒川くんのことなら分かるわ。実は黒川くん、小瑠璃ちゃんに怒ったことがあるのよ。確か、去年の9月だったかしら?」

 

「……なあ望月さん、それって本当の話なのか? どうも俺には尾ひれがついてるようにしか思えないんだよ」

 

 芹澤たちが話していた『ブチ切れ事件』、春宮が見たという『ヤンキーのような目つき』。

 近頃、黒川くんの良くない話題ばかり聞き、俺はやるせない気持ちになった。もちろん黒川くんに対してではない。

 そのやり場のない怒りをぶつけるように、俺は望月さんに若干いらだちを込めた言葉を投げた。筋違いだということは分かっているのだが、それでも言わずにはいられなかった。

 

「黒川くんと仲のいい二階堂くんがそう思うのも無理はないと思うわ。だけど、本当の話よ。私、その場にいたから」

 

「……そうなんだ」

 

 実際のところ、芹澤たちの話にしても春宮の話にしても信憑性は高かった。彼らは面白半分でそんなことを話すような人間ではないからだ。春宮に至っては本人がその目で見たと言っていたので、尚更であった。

 望月さんも今までに見たことのない真剣な表情で話しており、尾ひれの付いた話ではないことを実感させられた。

 

「小瑠璃ちゃんって自分のお眼鏡にかなった人を、有無を言わさず連れて行こうとするでしょ? その日は黒川くんがその対象だったみたいなんだけど、黒川くん、それを断ったのよ」

 

「黒川君って、自分の意見をしっかり言いますからね。私と違って……」

 

 村上さんの言葉には、俺も同意見だった。

 『何でもズバズバ言う』というわけではないが、口数が少ない性格とは裏腹に黒川くんは自分の言葉で意見を、嫌なものは嫌だとはっきり言える人間だと思う。意外に行動力もあり、俺はそんな彼の性格に救われたと言っても過言ではなかった。

 

「だけど小瑠璃ちゃんって、ただ断っただけじゃ簡単には引き下がらないから、無理矢理連行しようとしたのよ。それに黒川くんは怒って、壁を思い切り蹴ったの」

 

「……マジかよ。嘘じゃないってことは分かってはいるんだけど、それでも信じがたいな……。でも時谷さんって、そのくらいで諦めるような性格とは思えないんだけどね」

 

「うん。普通に蹴ったくらいじゃどこ吹く風って感じだったとは思うけど、その蹴った衝撃がすごくて、廊下全体に響いたくらいだったの。地震と勘違いしてた人もいたからね。それだけじゃなくて黒川くん、小瑠璃ちゃんを睨みつけたの。正直、別人かと思うくらいに怖い雰囲気だったわ。その場で小瑠璃ちゃんを殴り倒すんじゃないかって、ちょっと焦ったけど、結局何もしないで帰っちゃったわ。それ以降小瑠璃ちゃん、黒川くんには完全に頭が上がらなくなっちゃったのよ」

 

「…………」

「…………」

 

 俺も村上さんも、望月さんの話には何も返答することができなかった。

 それは、今まで聞いた話が可愛く思えるほどの強烈なインパクトを持っていた。

 

「でもふたりとも、黒川くんのことを変な目で見ないであげてほしいわ。私は、このことで黒川くんを責めることは出来ないと思うのよ」

 

 そんな俺たちに望月さんは意外なことを言った。四六時中『女の子、女の子』と連発している彼女が、まさか男子生徒である黒川くんの肩を持つとは意外だった。

 

「確かに、壁を蹴ったり、睨みつけたりしたのは褒められたことじゃないと思うけど、その時の黒川くん、何回も小瑠璃ちゃんに『帰らせてくれ』ってお願いしてたのよ。それに凄く疲れたような、悲しそうな顔してたから、早く家に帰って休みたかったんじゃないかしら? 小瑠璃ちゃんはもう少し黒川くんの気持ちを酌んであげるべきだったと思うのよ。それなのに無理矢理部室に連れて行こうとしたから、黒川くんも我慢の限界になっちゃったんだと思うわ」

 

「……意外だね。望月さんのことだから、全面的に時谷さんの味方をするもんだと思ったけど」

 

「そうですね……私も少し驚きました……」

 

「もう、失礼ね~っ。私だって物事を客観的に見ることは出来るわよ~っ。文緒ちゃんまでひどいじゃない~」

 

「でも、ずっとこのままふたりの関係が悪いのは、ちょっと悲しいですね……」

 

「そうね……それにその事件が起きるまで、小瑠璃ちゃんと黒川くんは仲が結構良かったから」

 

 そうなると、余計に関係の修復は厳しいだろう。初めて会った時から仲が悪いことより、『初めは仲が良かったが後に対立した』というパターンの方は、信頼していた相手に対する失望が加わることで、前者よりも強い対立になる場合が多いと言えるからだ。

 

 もっとも、黒川くんと時谷さんは昨日のやり取りから考えると、対立しているというよりも気まずい関係と言った方が近いような感じもする。時谷さんの方は怖がっている雰囲気ではあったが、黒川くんの方は別に彼女を威圧しているようには見えなかった。それならまだ、何とかなるのではないだろうか。

 

「ちょっと考え付いたことがある。村上さん、さっき時谷さんが返した本、借りたいんだけどいいかな?」

 

 

 

 

 

 

 数日後。

 5月も終わりにさしかかろうとしている今日、俺は部の見学をするために、手芸部の部室へと向かっていた。

 

 俺の予想通り、あの手芸の本は極めて興味深い内容だった。基礎から応用まで、ありとあらゆるものが網羅されており、初心者から上級者までお勧めできる一冊であった。発行が40年前というのもあって、載っていた作品例はデザインが前時代的な物だったが、そういう『昔ながらのデザイン』というものは、俺は嫌いではない。昔の作品を知ることも知識や技術の向上に役立つはずだ。『古臭い』と一笑に付してしまうのは、もったいないのではないだろうか。

 

 そんなことから俺は手芸にある程度興味を持ったので、入部するつもりはとりあえずないが、手芸部の見学をすることにしたのであった。アポイントは取っていないが、あくまで見学なので大丈夫だろう。

 

 ――そして何より、何で俺のことまで怖がるのか分からない。誤解は解いておかなければ。

 黒川くんと時谷さんの関係は望月さんの話で分かったが、俺にまでなぜ怯えていたのかは彼女にも分からないようだった。俺にしても、このままの状態でいるのは嫌だ――と言うより、何か気持ち悪いので、その理由を時谷さんに聞き、誤解を解くという目的もあった。むしろ、こっちの方が手芸部へ行く意味合いが強い。

 

 それにここで誤解を解いておけば、時谷さんと話す機会も多くなるだろうし、黒川くんと彼女を和解させる場を作ることができるかもしれない。余計なお節介であるということは重々承知しているし、場を作れるという確信も全くない。しかし、やってみる価値はある。

 

「……おっ、ここだな」

 

 色々考えているうちに、俺は手芸部の部室前に到着していた。

 扉をノックし、反応を待つ。

 

「はい、何でしょうか?」

 

「すいません、見学したいんですが」

 

 扉が開き、恐らく部員と思われる3年の女子生徒が現れた。緑のリボンを着けているので間違いないだろう。

 早速、半ば口実となっている用件を俺は伝える。

 

「あっ、本当? でも何でこんな時期に? それにあなた、2年よね?」

 

 彼女が疑問に思うのも無理はない。とっくに新入部員の勧誘期間は終わっているし、おまけに見学の希望者が2年生というのは、誰でも頭に疑問符を浮かべるだろう。

 

「最近手芸の教本を読んだんですが、面白くて手芸に興味持ったんです。ここの手芸部はかなりレベルが高いって話なので、活動の様子なんかを見てみたくて」

 

「本当に!? めっちゃ嬉しいわ! 是非見てって!」

 

「本当はもっと早い時期に、1年生に言われた方が良かったのかもしれないですけど」

 

「ううん、そんなの全然関係ないわよ! 今からでも遅くなんてないわ! こんな所で立ち話もなんだから、入って入って! みんな~、入部希望者よ!」

 

「いや、まだ入部希望って決めたわけじゃ……」

「しかも男子よ! 最近手芸に興味持ったんだって!」

 

 そんな俺の声はその3年の声にかき消されてしまった。

 過剰なまでに目を輝かせ、やたらと嬉しそうなリアクションを取る彼女に俺は罪悪感を抱く。さっさとことを済ませるつもりだったのに、これで『入るつもりはない』と言ったら、かなりがっかりされることは想像に難くない。そもそも『見学したい』としか言っていないのだが、この流れではそう言ったとしてもがっかりしないという状況にはなり得ないだろう。

 

「すいません! ちょっといいですか?」

 

 とは言え、このまま流されて本来の目的が有耶無耶になってしまっては元も子もない。なので、俺はかき消えないように声を張り上げて流れを切った。

 

「どうしたの?」

 

「時谷さんって、今いますか?」

 

「時谷さんって……時谷小瑠璃さんのことかしら?」

 

「はい、そうです。ここに来たのは見学もあるんですけど、時谷さんに話があるから、というのもあるので」

 

「そうなの。それじゃあ、ちょっと待っててもらえるかしら? 彼女、まだ来てないのよ。休むとは言ってなかったから、もう少ししたら来ると思うわ」

 

「分かりました」

 

「じゃあ、この椅子にでも座っててね」

 

 言われた通り、すすめられた椅子に俺は座る。

 部室内に入った直後は気付かなかったが、椅子に座ってから辺りを見回すと、様々な服や、イベントの様子を撮影した写真が壁に飾られていることに気付く。見たところ、ミスコンと思わしきイベントの写真が多いようだ。

 

 ――確かに、これはレベルが高いというのも頷ける。

 服の現物を見ても写真を見ても思ったことだが、どれもこれもレベルが高い代物で、俺はまるでファッションショーでも見ているような気分になった。

 また、部員は全員がかなり充実した表情で活動に励んでいた。比率は圧倒的に女子生徒が多いが、男子生徒の姿もそれなりにはあった。

 わずかではあるが、入部してもいいのではないかと思えるほどに活き活きとした部活であるという印象を俺は持つ。

 

「すいません、遅くなりました」

 

 壁をあらかた見回し終えたちょうど良いタイミングで、俺が本来ここに来た目的の人物――時谷小瑠璃が部室に姿を見せた。

 

「あっ、時谷さん。今入部希望者がいるんだけど、その人あなたに話があるみたいよ」

 

「えっ、誰ですか?」

 

「ほら、あそこにいる背の高い彼よ」

 

 俺を出迎えた3年生が俺の目の前にいたため、部室に入った時谷さんには俺の姿が見えなかったようだ。椅子に座っていたので、背の高い俺でも彼女の身体で隠れていたらしい。

 その3年生が俺を指し示すために横にずれたことで、視界に俺の姿を入れた彼女はかなり驚いた表情になった。予想はしていたが。

 

「に、二階堂!? 何できみがここに!?」

 

「見学ついでに、時谷さんに話しておきたいことがあってさ」

 

「…………何だい?」

 

「単刀直入に聞くけど、何で俺を見ると怯えたような顔になるのよ?」

 

「……っ!」

 

「もし俺が時谷さんに対して嫌なことをしていたなら、全面的に謝罪したい。だけど、俺は時谷さんに何をしちゃったのかが分からないんだ。思い出したくもないことなのかもしれないけど、できれば教えてくれるとありがたいかな」

 

「…………」

 

 俺の質問に、時谷さんは俯いて沈黙した。

 相当に言いにくいことなのだろうか。だが俺は、何としてでも今日中に確かめておきたかった。だからと言って急かすことはできない。その代わりに俺は息を殺して、彼女の返答を待ち続けた。

 時谷さんが俺を視界に入れるまでは喧騒に包まれていた部室にも、いつの間にか沈黙が伝播しており、部員の声は全く聞こえなかった。

 

 手芸部にはとても似つかわしくない不気味な静寂が、そこにはあった。

 

「きみは……」

 

「?」

 

「きみは、黒川くんと仲がいいのだろう……?」

 

 しばしの静寂が過ぎた時、ようやく口を開いた時谷さんからもたらされた言葉は、俺が全く予想していなかった、黒川くんの名前だった。

 さらに村上さんの言っていた、黒川くんだけは『くん』付けで呼ぶという話は本当だったらしい。

 

「……あ、ああ、うん。むしろ、俺ばっかり良くしてもらってる感じかな? 以前の俺って、もっと暗くて卑屈な奴だったけど、黒川くんのおかげでそれを脱却できたからさ。黒川くんのおかげで、色々なことも楽しいって思えるようになったしね」

 

「……だからだよ!!」

 

「……!?」

 

 黒川くんをやたら褒めちぎっていた俺のもとに飛んできたのは、先ほどの黒川くんの名前以上に予想していなかった、時谷さんの叫び声だった。

 それに俺は身体がびくりと跳ねる。見えはしなかったが、周囲の手芸部員も同じ反応を示したのではないだろうか。

 

「今の話を聞く限りじゃ、きみと黒川くんはとても信頼し合っているのだろう? そんなきみとちょっとでも関わりを持ったら、また黒川くんの怒りを買うことになる!」

 

「な、何でだよ?」

 

「きみも知っているだろう? 私は、黒川くんに最低最悪の、どうしようもない馬鹿な真似をしてしまったんだ! きっと今も、私を深く恨んでいるだろう!」

 

「だ、だからって、俺にまで怯える理由にはならないだろうに……」

 

「なるんだよ。きみと話していると、怒りに満ちた黒川くんの、まるで蛇のような眼光が映るんだよ! 『俺の友達を盗りやがったら、ぶっ殺すぞ』って言っているようにも見えるんだ! きみに限った話じゃなくて、黒川くんと特に仲のいい人の背後からは、みんなそれが見えるんだよ!」

 

「だけど黒川くんは、そんなことで怒るような真似はしないだろ……」

 

 時谷さんの言葉に、呆れに近い感情を俺は抱く。

 黒川くんの性格をろくに理解していないから、そんなことが言えるのではないだろうか。あまりに短絡的な決め付けに、半ば憤りを覚える。

 

「きみは何を言っているんだ? 自分の逆鱗に触れた人間が自分の友達に接触して、自分との時間を奪っているって思ったら、腹が立つだろう? 私の場合なら、黒川くんに半殺しにされたっておかしくはない。そもそもあの時に黒川くんに半殺しにされていたって、私は文句を言う権利なんてないんだ!」

 

「は、半殺しって……いくら何でも……」

 

「そのくせ私は、黒川くんに謝罪するどころか、頭すら下げてない! あの時の光景にみっともなく怯えて、びくびくして、謝る素振りすら見せようとしていないんだよ!」

 

「…………」

 

「これで分かっただろう? 私はきみ自体に怯えているわけじゃない。黒川くんに怯えてるんだ! 黒川くんの怒りと憎悪のこもった眼光に!」

 

「…………」

 

「だから、もう私に関わるのはやめてくれ! きみまで黒川くんの怒りを買いたくはないだろう!?  あの時みたいな馬鹿な真似は、もう二度としたくないんだ!」

 

「……分かったよ」

 

 『いくら何でも、黒川くんはそんなことしねえよ』と言おうとしたのだが、時谷さんの激しい剣幕に、俺は言うタイミングを逃してしまった。

 この調子では、何を言ったとしても彼女の理解は得られないだろう。もはや、俺が彼女にできることなど、何ひとつとしてなかった。

 

「お騒がせして、本当にすいません。失礼します」

 

 椅子から立ち上がり、四方に頭を下げて俺はドアへと歩を進めた。

 だが、このまま何もしないで帰るわけにはいかない。ノブを握ったところで振り返る。

 

「みなさん、どうか時谷さんのことを責めないで下さい。責任は全部自分にあります。自分の勝手な憶測で時谷さんに変な話をしてしまった、俺だけを責めてください」

 

 今のやり取りは手芸部員にも余さず伝わっていたのだ。そこから良からぬ想像をされて、部員にまで責められるようなことがあれば、彼女は何もかも失くしてしまうことになるだろう。それだけは絶対にあってはならない。

 俺は強く念を押すように部員全員にそう言い残して、部室を去った。

 

 

 

 

 生まれ変わった宣言をしてから俺は、様々な経験をしてきた。

 だがそれは、いいこと尽くめの日々を送り続けることができるわけでは決してないと思い知らされることになったのだった。

 

 

 

 



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 学校の図書室にある本を読むという、金のかからない行為が俺の今までの趣味であったが、生まれ変わった宣言をして以降、新たな趣味のため金を使いに町へと繰り出すことが非常に多くなった。

 主な目当ては漫画だ。学内における交流が増えたと言っても、彼ら彼女らとの共通の趣味が俺にはまるでない。それは黒川くんや3バカなどの友人間にも言える。それでは彼らにとって俺の最終的な印象は、『何も知らない、つまらない奴』になってしまうような気がする。それを防ぐために俺は、漫画を始めとした嗜好品の類に手を付けて知識を得、交流を維持できるようにしようと画策したのであった(もっとも、図書室にある本も嗜好品と言えるのかもしれないが)。

 

 

 

 

 

 

「そういや、昼飯まだ食ってなかったな……」

 

 今年の6月最初の日曜日。

 今日も今日とて俺は町を歩き回っていた。両手に大量の漫画が入った袋をぶら下げながら。

 この光景を『奴ら』が見たら激怒するか、発狂するか、はたまた失神するだろうか。そんなことを考えていたら、腹の虫が鳴り、空腹感が浮上する。漫画の物色に夢中になりすぎて、食事をとることをすっかり忘れていた。

 腕時計に目をやると、時刻は2時半。昼食には中途半端な時間だ。かと言って何も食べないのも良いとは言い難いので、俺は軽食のできる店を探すことにした。

 

「おっ、ちょうどいいところに」

 

 10分ほど歩き回っていると、個人経営と思わしき小洒落た喫茶店を発見した。チェーン店はあまり利用したくないと思っていた俺に、そこはうってつけの場所だった。

 一も二もなく俺は扉を押し、店へ入った。

 

「いらっしゃいませ~……って、二階堂くん?」

 

「……な、何で笹原さんがここに?」

 

 そんな俺を出迎えた店員は、同じクラスに在籍している、笹原(ささはら)野々花(ののか)であった。

 

 

 

 

 

 

 色々と聞きたいことがあったが、何よりもまず腹を満たしたかったので、サンドイッチとコーヒーを注文した。

 

「はい、どうぞ」

 

「ああ、ありがとう……」

 

 それを持ってきた笹原さんに礼を言い、どちらも一口だけ口にする。

 ……どちらも、申し分ない味だ。気に入った。

 

「もしかしてこれ、笹原さんが作ったの?」

 

「コーヒーは私が淹れたけど、サンドイッチはおじいちゃん」

 

「えっ? もしかしてここって、笹原さんのおじいさんの店なの?」

 

「うん。私はお手伝いをしてるの」

 

 世間というものは、意外にも狭いものだとしみじみ思う。俺と同じような経験をした人はこの世にごまんといるのかもしれないが、学外における人との交流が皆無であった俺にとってみれば、この出来事はかなり新鮮味があった。

 

「二階堂くんは何をしてたの? お買いものかしら?」

 

「そうだね。最近漫画に結構はまりだしたから、滅茶苦茶買っちまったよ。おかげで昼飯が遅くなっちゃってさ」

 

 そう言いながら、俺はテーブルの下に置いておいた大量の漫画が入った袋を掲げる。

 一瞬、笹原さんと話し込んでも大丈夫だろうかと思ったが、辺りを見ると中途半端な時間ということもあり、俺以外に客はわずかしかおらず、そのわずかな客も注文を済ませ、携帯電話の画面を見つめたり、読書にふけったりしていた。

 

「わっ、すごいわね。でも、お金は大丈夫なの? 二階堂くん、ひとり暮らしなんでしょ?」

 

「そうだね。確かに、何かバイトでもしようかなとは思ってるね。仕送りの金、使いたくないし」

 

 ――そうだ。こんな汚い金、正直使いたくもなんともない。

 『仕送り』と呼ぶには、もはや桁違いの額の金を『奴ら』は未だに送り続けている。

 本来ならば1銭として使うべきではないというのに、この世で最も憎むべき者から渡された汚い金を俺はわずかながら使ってしまっていた。この漫画にしたってそうだ。

 

 そんな矛盾した行動に、俺は激しく自己嫌悪する。『生活費はしょうがないだろう』と、内心で免罪符を掲げて言い訳をほざいていることにも、嫌悪感を増加させる原因となった。

 一刻も早くこの状況を脱却しなければならない。この汚い金はたっぷり利息を付けて叩き返さなければならないのだ。

 

 ほとんど勉強のみに明け暮れていた、あのクソみたいな人生からはおさらばすることを俺はあの時宣言したのだ。そのためにも、自分の手で金を稼ぐ手段を見つけなければならない。

 笹原さんの『お金は大丈夫なの?』という言葉に、俺はそれを強く意識させられることになった。

 

「そうだわ。良かったら二階堂くん、うちで仕事してみない?」

 

「……えっ?」

 

 初めは呆気にとられて理解するのが遅れたが、後になって思い返してみるとその言葉は慈悲深き女神の発した言葉だったのかもしれないと、俺は思う。

 

「ここのところお店が忙しくて、私とおじいちゃんだけじゃなかなか大変なの。体力がすごくある二階堂くんがここで働いてくれたら、すごく助かるな~」

 

「……俺としては願ってもないことだけど、笹原さんは俺なんかでいいの? いくらあの時生まれ変わった宣言したからといっても、変に信用しない方が……。逆に、不審に思わなかった……?」

 

「う~ん、私はそう思わないけどな~。むしろあの時から、二階堂くんに対する印象がいい方向に変わったと思うのよ。私だけじゃなくて、他のみんなにもね」

 

「……そうなのかな?」

 

「ええ。それに私は今の二階堂くんが、本当の二階堂くんだなって思うの」

 

「…………」

 

 本当の俺、か。

 

 どうやら俺は情けないことに、まだ他人を信用しきれていなかったのかもしれない。笹原さんの言葉は、その考えをぶん投げるためのきっかけとなってくれた。

 ――さあ、今度こそスタートしよう。まともな人生を。『普通』の人生を。

 

「それじゃあ、是非とも頼みたい……って言いたいところだけど、おじいさんの方は大丈夫? 経営者はおじいさんの方だし、承諾はもらわないと」

 

「そうね。でも、確認するまでもないと思うけどね」

 

 

 

 

 

 

 笹原さんの言う通り、彼女のおじいさんはあっさりと許可をくれた。それどころかとても嬉しそうな顔をしながら、俺を歓迎してくれた。

 少しばかり眼が潤みそうになった一方で、あまりに都合よく事が運ぶので、何か不吉なことが起こる前触れなのではないかとわずかながら怯えた。いらぬ心配であることは分かっているつもりなのだが。

 

「じゃあ、改めてこれからよろしくね、二階堂くん」

 

「ああ、うん。俺の方こそよろしく。申し訳ないね、色々世話になっちゃって」

 

「そんなことないわよ。むしろ私の方こそ、いきなり『働いてくれ』なんて言っちゃったんだし。でも、すごく助かったわ。本当にありがとう、二階堂くん」

 

「だけど、俺が笹原さんと仕事することを男子連中が知ったら、俺、袋叩きにされるかもな……」

 

 心の底から嬉しそうに微笑み、感謝の言葉を俺に述べる笹原さんを見ながら、俺はそうぼそりと呟いた。

 

 村上さんの時と同じように、クラスの男子生徒が話していたのを聞いただけだが、彼女はとても優しくおっとりした性格で、男子生徒からの評価は非常に高いとのことだった。実際、こうして笹原さん本人とコミュニケーションを取ったことにより、その話は間違いではないことを確信した。

 

 また、スタイルがいいことも人気の一端を担っているらしい。確かに彼女は『モデル体型』とまではいかないが、身長は比較的高めな上に、下卑た話だがバストも結構あるような気がする。3バカたちも、やたら彼女のスタイルを褒めちぎっていたことを思い出す。

 

 そんな彼女と一緒に仕事をするということが校内に知れ渡れば、男子連中に石でも投げつけられそうな気がするが……まあ、あまり考えないことにしよう。

 

 もちろん、女子生徒との交友関係も広く、多くの女子生徒と親しそうに会話をしていた現場を、俺は何度も目撃していた。

 

 

 

 

 

『野々花ちゃ~ん、今日も可愛いわね~っ♪ 100枚くらい撮らせて~っ♪』

 

 

 

 

 ……………………。

 

 

 

 

 一瞬、よくない人物が俺の脳裏をよぎったような気がするが、気のせいだろう。ああ、間違いなく気のせいだ。

 

「えっ、どういうこと?」

 

 そんな俺の呟きの意味を笹原さんは理解できなかったらしく、きょとんとした表情で俺に尋ねてきた。

 ……どうやら彼女も有栖川さんほどではないかもしれないが、自身の評価には鈍感なところがあるようだった。

 

「いや、分からなければいいんだ。そんなことよりも俺、笹原さんに言っておかないといけないことがあったんだ」

 

 悪い噂は皆無と言っても、他の生徒からの評価を変に話すのは好ましいとは言えないだろう。藪蛇になりかねない可能性もある。

 俺は話題を別のものにすり替え、笹原さんの疑問を無理矢理打ち消すことにした。

 

「……? 何かしら?」

 

「あの時心配してくれたのに、そっけない態度取っちゃって、本当にごめん」

 

 椅子に座っていた俺は立ち上がると、彼女に向かって深く頭を下げた。

 生まれ変わる宣言をする前、疲労困憊で死にそうな俺を村上さんと一緒に気遣ってくれたのが彼女だった。しかし俺は見栄を張り、少しもその気遣いを受け取ろうとはしなかった。『生まれ変わる宣言をする前だから』とか、『疲れていたから』などといったふざけた言い訳はしない。絶対にしてはならない。

 

「えっ? ……い、いいのよ。気にしてないから。それに私だって余計なお節介を焼いちゃったと思うし」

 

「いや、誰がどう見たってあれはお節介焼きでも何でもなかったよ。笹原さんがどう思うにしても、これくらいはさせてほしい」

 

「……うん、分かったわ。でも、もう十分二階堂くんの気持ちは伝わったから、頭を上げて、ね?」

 

「……そう言ってくれるなら、そうするよ」

 

 彼女の言葉に、俺は素直に従う。

 

「それに、私なんかより村上さんにフォローを入れてあげてね。最初に二階堂くんのことを心配してくれたのは村上さんだし、私はどちらかと言えば便乗したようなものだから」

 

「そうだね。忘れないようにするよ」

 

「ええ、お願いね。……あっ、そうだわ。二階堂くんにひとつお願いしたいことがあるんだけど、いいかしら?」

 

「ああ、うん。俺に出来ることなら」

 

「ありがとう。それで、実は私もお店でお料理が出せるようになりたくて練習しているんだけど、良かったら感想を聞かせてくれない?」

 

「もちろんいいけど、そんなことでいいの? というか笹原さん、料理得意そうだけどね」

 

 見た目で判断するのは好ましいとは言えないのだが、笹原さんは料理が得意そうな雰囲気だと思う。そのため、彼女がキッチンに立つのはコーヒーを淹れる時だけで、料理は作っていないことが不思議だった。

 

「う~ん、料理は好きなんだけどなかなかうまく行かなくてね。おじいちゃんからも『コーヒーだけ淹れてくれれば十分だから』って言われちゃって」

 

「そうなんだ。意外だね」

 

「二階堂くんって、お弁当全部ひとりで作ってるんでしょ? それにすごくおいしそうだってクラスの子から聞いたの。だから二階堂くんなら、お料理について色々教えてもらえるかなって思って」

 

 俺が自分で弁当を作っていることは、黒川くんと3バカにしか話した覚えはないのだが。大方、その中の誰かが他の人間に話して、広まったのだろうか。

 黒川くんと芹澤はそういったことをするとは考えにくいので、高桑か鴨田のどちらかだろう。

 

「ん~、さっきは『もちろんいい』なんて言ったけど、俺、誰かに何かを教えるなんてしたことないから、上手く教えられないかもしれないけど、それでも大丈夫?」

 

「ええ、もちろん大丈夫よ。それに私、二階堂くんが上手く教えられないとは思わないわよ?」

 

 その根拠のない自信はいったいどこから来るのやら。一月ほどしか経っていないというのに、俺のことを信用しすぎではないだろうか。

 

「……どうだかね……まあいいや。それじゃあまず笹原さん、まずは何か作ってみてくれない?」

 

「えっ? いきなり作るの?」

 

「そう。料理を一度も作ったことがないのならともかく、今までに結構作ってるみたいだから、最初は笹原さんひとりだけで作ったものを食べて、そこからどこがどういいか、どう悪いかを判断したいんだ。もしかしたら、口出しする必要まったくないかもしれないしね」

 

「う、うん、分かったわ。頑張るわね」

 

 両手の拳をぐっと握りしめる彼女に、少しだけ噴き出してしまう。

 

「まあ、気楽にやってくれればいいよ」

 

「え、ええ。それじゃあ、何を作ればいいかな? 二階堂くんが食べたいものを作ろうと思うけど」

 

「サンドイッチ食ってからそこまで時間経ってないけど……じゃあ、ホットケーキをふたり分で」

 

「えっ、どうしてふたり分? お腹空いてるの?」

 

「笹原さんの分。ひとりで食ってもつまらん」

 

 例え試食であっても、ひとりよりふたりで食べる方がいいと思うし、それ以外にもその料理の味を共有できるので、指摘を理解しやすいという利点もある。とはいえ、俺は後者の言葉は口には出さなかった。

 

「あっ……うん。じゃあ、ちょっと待っててね」

 

 嬉しそうに微笑みながら、笹原さんはキッチンへと駆けていく。この光景を男子連中に見られたら、投石どころか機銃掃射されるかもしれないと、ぼんやり考えた。

 だが俺は、そんなことよりもはるかに恐ろしい事態に直面することに、この時はまだ気付いていなかった。

 

 

 

 

 

 

「お待たせ~」

 

 10分ほどして、笹原さんがキッチンから戻ってきた。

 しかし、不思議なことに菓子の焼ける匂いはせず、不快な臭いが漂っていた。例えるなら、化学薬品のような刺激臭に近かった。

 ゴトリという妙に重々しい音を立てて、それが乗った皿がテーブルに置かれる。それを見た俺は、自分の目を疑った。

 

「…………(あね)さん」

 

「……えっ? もしかして、私のこと?」

 

「……これは一体、何でしょうか?」

 

「……? ホットケーキだけど、どこかおかしいかしら?」

 

 化学薬品のような刺激臭、禍々しさすらうかがえるピンク色、地獄の底の瘴気のようなどす黒いオーラ。

 彼女が『ホットケーキ』と呼んだ物体は、この世に存在してはいけない、異形の物質としか思えなかった。

 

 

 

 

 ――どこが、ホットケーキなんだよぉぉぉぉぉ!

 

 

 

 

 おかしいだろ! 何でこんな臭いがするんだよ!

 おかしいだろ! 何を使ったらこんなピンク色になるんだよ! 食紅使ったってこうはならねえよ!

 おかしいだろ! このどす黒いオーラは何なんだよ! 悪魔の卵かよ!

 

「…………」

 

 テーブル上のホットケーキのような……いや、『ような』ですらない『何か』を、俺は大量の脂汗をダラダラと流し、無言で――内心では、突っ込みを入れまくっていたが――眺めていた。

 

「に、二階堂くん、どうしたの? すごい汗よ? お腹でも痛くなった?」

 

 そんな俺の姿に、笹原さんはかなり心配した様子で尋ねてくる。

 

 ――俺の心配なんかしなくていい! テーブルにある『それ』を疑うのが先だろうがぁぁぁぁぁ!

 

 笹原さんは、この『何か』を微塵も変なものだと思っていないのだろうか。

 いや、それとも俺がおかしいのか?

 

 ――そんなわけ、あってたまるかぁぁぁぁぁっ!

 

「……大丈夫? 食べられそうにないなら、無理しなくてもいいのよ?」

 

 いかん、このままでは埒が明かない。笹原さんの悲しそうな表情も加わり、この状況を脱却する義務が俺には課せられていた。

 グビリと唾を飲み込み、相変わらず禍々しいオーラを出している『何か』を俺は見つめる。俺に課せられた義務というのは、つまりこれを食べることであった。

 『おら、食ってみろよ』という声が、それから聞こえたような気がした。

 本当は即刻ここから走って逃げたかったが、笹原さんにああ言った手前、そんなことをするわけにはいかなかった。

 

『どうか、死にませんように』と、生涯初めて俺は神に祈りを捧げ、覚悟を決めた。だが、俺だけがこれを食うわけにはいかない。

 

「……笹原さん、良かったら同時に食わない?」

 

「えっ、どうして?」

 

「いや、そっちの方が雰囲気的にもいいからさぁ……はっはっは……」

 

 引きつった笑みを浮かべながら、まるで理由になっていない言葉をのたまう。

 だが俺は、死なばもろともというつもりで笹原さんに『同時に食おう』と言ったわけではない。恐らくこれは、うまいということは断じてあり得ないだろう。食ったら確実にやばいことになるのは目に見えている。

 だからこそこれは俺だけが食うわけにはいかない。彼女にも食べてもらい、どこがどう悪いかをよく理解してもらう必要があるのだ。しかしながら、これで彼女が『おいしい』と言ってしまえばもうおしまいだ。俺に出来ることなど何ひとつない。だが、そうなることはないと思う……というか、そうであってくれ!

 

「え、ええ。分かったわ」

 

 俺の言葉に笹原さんは、首を傾げながらも同意して、テーブルに置いてあるかごからフォークとナイフを取り出した。俺もそれにならってフォークとナイフを取る。

 

「…………」

 

 そして俺は、無言で『何か』を一口大に切り、フォークで刺す。笹原さんもフォークに刺したことを確認する。

 

「よし、笹原さん。3、2、1で食おう。いい?」

 

 確認したところで俺は念を押すように笹原さんに告げる。俺が先でも、彼女が先でもない。絶対に同時に食わなければならない。

 

「う、うん」

 

 頷き、『何か』が刺さったフォークを口元へ運んだのを見た俺は、一度深く深呼吸をする。

 さあ行こう、未知の領域へ。

 

「じゃあ行くよ……3、2、1」

 

 その合図と同時に、俺と笹原さんは『何か』を口内へと放り込み、すかさず咀嚼する。

 

 ――よし、笹原さんも噛んでるな。これなら大丈…………

 

「……うぐっ!?」

 

 下を向いていた視線を正面にずらし、彼女が『何か』を咀嚼している姿を目に入れた瞬間、猛烈な吐き気が俺を襲った。

 すかさず俺は立ち上がり、断りを入れる間もなく店内のトイレに駆け込む。蓋と便座を上げ、便器と対面した俺は――――。

 

 

 

 

「ヴォエェェェェェェェェェェェェ!!!!」

 

 口内と、若干食道にあった『何か』を、全て便器にぶちまけたのだった。

 

 

 

 

 

 

 身体がふらつくのを気力でこらえながら、俺はトイレをあとにし、席へと戻った。

 壁の時計に目をやると、トイレに駆け込んでから出るまでに経過した時間は10分程度だったが、そんな短時間にも関わらず、トイレには数時間いたような気分だった。満身創痍の状態で戻ると、笹原さんがぐったりとテーブルに突っ伏していた。

 

 良かった。笹原さんにとっても、あれはやばいものだったみたいだ。

 彼女には大変失礼ながら、その状態を見た俺は安堵してしまった。

 

「笹原さん……大丈夫……?」

 

 声をかけると、彼女は極めてゆっくりした動作で頭を上げ、俺の方を向く。

 

「う、うん……何とか……二階堂くんは……?」

 

「大丈夫って言いたいところだけど、さっきの音、聞いたでしょ?」

 

「え、ええ……」

 

 ちなみに吐き戻したのは『何か』だけで、その前に食べたサンドイッチとコーヒーは、気力で胃の中に押し戻した。彼らに罪はない。それどころか、それらまで吐き戻すような真似をすれば、『よくもあんなものと一緒に吐き出しやがったな』と、呪われるかもしれない。

 

「感想の前にひとつ聞きたいんだけど、笹原さんって、自分の作った物を自分で食べたことってある?」

 

「う~ん、そういえば、なかったような気がするわ……」

 

「なるほどね……」

 

 味見という作業は、人に料理を作る際には欠かせないものだ。まあ、この『何か』の味は、それどころの話ではないのだが。もっとも、彼女が一度でも味見をしたことがあるのなら、このような事態は避けられたかもしれない。

 

「追い打ちかけることになっちゃうかもしれないけど、率直な感想を言わせてもらうわ……」

 

「……」

 

「はっきり言って、美味いとか不味いとか以前の問題だよ。かなりやばい。このままの状態で店に出したら、それ以上の問題になっちゃうと思う」

 

「ううっ……」

 

 涙目になる笹原さんを見て、計り知れない罪悪感が湧く。

 もちろん、このままこき下ろして終わり、ということにはしない。駄目出しには、余程のことがない限りは何らかのフォローが大切だ。

 

「だから、アタシが笹原さんに料理教えちゃるわ。基礎から応用まで、徹底的にね」

 

「……えっ?」

 

 下手なら、上手くなるようにすればいいだけだ。笹原さんに頼まれた時は、正直なところあまりやる気はなかったのだが、前言撤回だ。

 

「でも、上手くできるようになるかしら……? このホットケーキ、すごく不味かったんでしょ……?」

 

「大丈夫よ。アタシは料理のプロなのよ? アタシにかかれば笹原さんも同じくらい――いや、それ以上に上手くなるわ。任しときなさい」

 

 俺は今まで、このような調子に乗った発言をすることはなかった。だが、やたらと上昇したモチベーションから、そう言わずにはいられなかったのだった。

 

「で、でも、スパルタなのはちょっと……。できれば、優しく教えてほしいかな」

 

「その点は心配ご無用。というかスパルタとか大嫌いだしね。でも、しっかり作れるようになるまでずっと教えるわよ。どんなに時間かけてもね」

 

「……うんっ、分かった。それじゃあ、よろしくお願いします、先生!」

 

 彼女は椅子から立ち上がって、俺に向かって深くお辞儀をした。表情もさっきとは打って変わって活き活きとしたものになっている。

 その気概があれば、絶対に誰もが『美味い』と言える料理を作れるようになるだろう。俺も教えがいがあるというものだ。

 

 

 

 

 かくして俺は、笹原さんの店で働くことになり、加えて彼女への料理の指導を行うことになった。これじゃあ、ばれた時に機銃掃射どころか消し炭にされそうだ。

 

 

 

 



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The Chasers

 

 

 

 

 笹原さんとの一件以降、俺は些細なことでもやたらと楽しく感じるようになっていた。意味もなくにやつき、周囲からドン引きされることもあったが、そんなこともまったくと言っていいほど気にならず、むしろそんな反応を楽しんですらいた(有栖川さんだけは相変わらず、彼女が出来たのだろうと問い詰めてきたが)。

 

 あまりにも都合よくことが運ぶので、何か良からぬことが起きる前兆ではないかと内心怯えていたことは、完全に頭の中から消え失せていた。

 

 

 

 

 

 

「黒川くん、飯食わない?」

 

「……ごめん、今日もひとりで食おうと思ってるんだ」

 

「……そうなんだ。分かった、じゃあまた」

 

「……うん」

 

 一体何があったのだろう。

 そんな俺とは対照的に、あんなに笑顔を絶やすことのなかった黒川くんは、ここ数日かなり暗い表情が続いていた。さらに、昼の時間になるといつもひとりでどこかへ行ってしまい、そのため半ば習慣と化していた、彼と共に昼食をとるということが全くなくなってしまった。今日は初めて俺の方から彼を誘ったのだが、あえなく断られてしまった。

 

 

 

 

 

 

「どうせお前の接し方が過剰なせいで、周りからホモ扱いされると思ったんじゃねえの?」

 

「うるせえよ……。そもそも、一緒に飯食ったり会話が多かったりするくらいで、何でホモ扱いされなきゃならんのだ……。接し方が過剰だったのは認めるが……」

 

 半ば蔑むような目をして言う芹澤の言葉に、俺は大きなため息をつく。

 昼休み。俺は代わりに3バカと昼食を取っていた。

 

「冗談だ。すまん」

 

「ったくよ……」

 

 小野寺さんや有栖川さんにも言ったことだが、俺も黒川くんも同性愛の気はまったくない。彼女らや芹澤の言葉はふざけて言っただけの冗談だろうし、そんな噂はまるで聞いたこともないが、周囲からそんな扱いをされるのははっきり言って憤り、いやむしろ、怒りを覚える。

 

 極端な話だが、抱き合っているとか、口づけをしていたというのならともかく、俺と彼の交流にはそんな要素など客観的に見ても微塵もありはしない。こんな普通の交流でホモ扱いされるのなら、全人類が同性愛者ということになってしまう。そんなものは思考が停止した者の馬鹿馬鹿しい考えでしかない。

 

「まあまあ、どうせそんな話をしてる奴なんて誰もいないんだからさ、もうやめとこうぜ」

 

 そんな暗いムードを払拭する言葉を、高桑が口にした。

 確かにこいつの言う通り、そんな話はまるで聞いたこともないのだ。実体のない憶測で感傷的になってどうするんだと、俺は自分の浅はかさを恥じた。

 

「それじゃあ、せっかくだから次の土日辺りに俺たちでどっか出掛けないか? もちろん、将ちゃんも誘ってさ」

 

「それ乗った。それに俺たち、何だかんだで正美と出かけたことなんてなかったからな……」

 

「そういえば、そうだったな……」

 

「…………」

 

 高桑の提案に同意しながらも、苦笑いを浮かべて俯く鴨田と、軽く息を吐きながらそう呟いた芹澤に、俺は何も言うことが出来なかった。

 

「それに将ちゃんが何で暗い顔してるのかは分からないけど、どっか出掛ければ気分転換には申し分ないだろうしね。何か美味いものでも食いに行こうよ」

 

「そうだな。よし、じゃあ放課後にでも誘ってみるとするか。正美だけじゃあ『俺はホモじゃない!』って言われるかもしれないから、俺たちが誘う。まあ、近くにいるくらいなら大丈夫だろうけどな」

 

「お前……またその話持ってくんじゃねえよ……」

 

 にやにやと嫌な笑みを浮かべる芹澤に憤慨しながらも、実のところ俺は大きな期待を抱いていた。彼らと遊ぶために、学外へと繰り出すことに。

 

 3バカとはもちろんだが、俺は黒川くんとも学外で遊んだことがない。今までに何度か一緒に帰ったことはあったが、道も途中で違うので彼の家を見たこともない。生まれ変わった宣言をして以降も、彼から遊びの誘いが来ることはなかったので、図書委員の仕事などで忙しいのだろうと思い、俺から誘うということもなかった。

 

 当たり前の話だが、土日なら委員の仕事もないだろうし、彼がバイトをしているという話も聞いたことがないので、まず間違いなく断られることはないだろうと、俺だけでなく3バカ全員も考えていたのだった。

 

 

 

 

 

 

「ごめん、土日はどっちも用事があって行けないんだ」

 

 しかしながら、黒川くんの口から発せられた言葉はそんな俺たちの予想をあっさりひっくり返してしまうものだった。

 加えて『一緒に出かけよう』と誘った高桑の言葉に、彼の表情は緩むどころか嫌悪感を覚えるような雰囲気のものに変わった気がした。

 

「将ちゃん、それなら何の用事か教えてくれたって――」

「分かった。用事があるならしょうがない。残念だけど、また次の機会にな」

 

 そんな黒川くんの態度に詰問するように高桑は詰め寄ろうとしたが、すぐに芹澤が制止し、引き下がる意思を伝えた。

 

「……本当にごめん。それじゃあ」

 

 黒川くんはそう言うとすぐに俺たちから視線を逸らし、教室を去っていった。

 

「……実は俺たち、将ちゃんとも一度も学外で遊んだことないんだよ」

 

「……えっ? そりゃ本当かよ?」

 

 しばしの間沈黙を保っていた俺たちだったが、その空気をゆっくりと破るように重々しく発せられた高桑の言葉に、俺は呆気にとられた。

 

「ん。今まで何度か誘ったんだけど、いつもさっきみたいに『用事がある』って言われてさ。残念なことにね」

 

「だけどお前ら、黒川くんからゲームとか漫画貸してもらったこと、よくあっただろ? 黒川くんも学校まで徒歩で来てるみたいだし、家に行ったこととかないのか?」

 

 黒川くんは、同級生に物を貸すことが非常に多い。3バカ以外にもそれは当てはまり、例えば同じ図書委員である村上さんには様々な本を、漫画研究部の小野寺さんには漫画を、合唱部に所属し、音楽鑑賞を趣味としている有栖川さんにはCDを貸しているところを見たことがあった。

 徒歩で通学していることから学校までの距離はさほど長くないと思い、3バカたちなら返す際に立ち寄っているだろうと考えたが、その予想は次の鴨田の言葉によってかき消された。

 

「いや、貸してくれる時も返す時もいつも学校の中だった。それに一緒に帰ったこともないな。校門出てすぐ道が違っちゃうし、付いて行こうとしたらその時も『用事がある』ってね」

 

「……何でだろうな?」

 

「分からんね。何の用事なのかも教えてくれないし。もうちょっと付き合ってくれてもいいと思うんだけどねぇ。ノリ悪いんだよな、ちょっと」

 

「……おい、いくらなんでもその言い方はないだろうが。もしかしたら、俺たちにも言えない事情があるのかもしれないだろ。それを考えもしないで、憶測で『ノリ悪い』なんて、将ちゃんが可哀想だって思わないのか?」

 

 軽い苦言のつもりだったのだろうが、高桑の言葉に芹澤は強い口調で反論した。目つきもいつになく険しく、その言葉が向けられた高桑はもとより、俺と鴨田の方まで思わず萎縮しそうになるほどであった。

 

「わ、悪かったよ……そんなにムキになるなって、一二三」

 

「……分かればいいんだ。ただ、確かに源五郎の言う通り、俺たちは将ちゃんと学外で遊んだことは一度もないんだ。お前は何か知ってるか? 正直、将ちゃんとはお前の方がつるんでる頻度が高いからな」

 

「いや、分からないな……それに一緒に帰ったことは何度かあるけど、そこまで遠くない距離で道が違っちまうから、家を見たこともないしな……」

 

 芹澤にそう問われたことで俺は自覚した。俺は、黒川くんのことを全然知っていない――いや、知ろうとすらしていないのではなかったのだろうか、と。

 

「そうか……だけど、これは変に詮索すべきじゃないな。将ちゃんのプライバシーに関わる問題だし、これで終わりにしとこう」

 

「まあ、そうだな……」

 

「いつか、将ちゃんとも遊べたらいいんだけどなー」

「同感」

 

「ああ……」

 

 3バカの言葉に俺は返事をしたが、それは力なく弱々しい、空返事となっていた。

 

 

 

 

 俺は、黒川くんの何を知っているのだろうか。ひょっとして俺は、固定観念で彼の人物像を決め付けていたのではないか。『太陽のような人間』、『優しさの塊』といった固定観念を。

 

 その日は、床についてからもその考えが頭の中を駆け巡っていた。

 いつか春宮に言った『盲信ではない』という言葉の説得力に、亀裂が入り始めたような気がした。

 

 

 

 

 

 

 土曜日。俺は3バカを含む4人で町へと繰り出していた。本来の目的は黒川くんの気分転換を兼ねたものであったが、当の本人は用事のため来られなかった。ただ、俺が3バカと学外で遊ぶという、ついでの目的もあったので、彼抜きで繰り出したということだ。

 若干の罪悪感は湧いたが、あまり気にしても仕方がない。今はこの状況を目いっぱい楽しむこととしよう。

 

「あ~っ、食った食った」

 

 漫画を買いあさったり、一方的にやられながらもゲームセンターで格闘ゲームをプレイしたりと、以前のつまらない人生を全て洗い流すかのように遊びふけった。

 今は何年ぶりに食ったか分からないラーメンを食い終え、店から出たところだった。わざとらしく腹を叩き、柄にもない言葉を俺は口にする。

 

「それじゃあ次はどこ行くよ? またゲーセンでも行くか?」

 

「買い忘れた漫画あったから、もっかい本屋行っていいか?」

 

「それが終わってからでいいから、CD見に行きたいんだがいいか? 前に将ちゃんが好きって言ってた歌手の新作が最近出たらしいんだ」

 

「……ん?」

 

 3バカのやり取りを適当に聞き流していると、視線にある人物の姿が入った。

 

「なあ、あそこにいるのって、もしかして黒川くんじゃないか?」

 

「「「えっ? どこだ?」」」

 

 まだ話をしている3バカたちに割り込むように声をかけて、彼らの視線を黒川くんと思わしき人物の方へ向けさせる。

 初めは他人の空似ではないかと思ったが、体格などから考えても間違いなく彼だった。

 

「おっ、本当じゃん。もう用事終わったのかな? それじゃ、せっかくだから呼ぼうぜ。しょう……むごっ!?」

 

 彼を呼ぶために声をかけようとした高桑の口を、芹澤がとっさに塞いだ。

 

「おい待て。ここにいるからってまだ用事が終わったとは限らないだろうが。勝手なことすんな」

 

「もごもご……」

 

「いや、何かゲーセン入っていくみたいだぞ一二三」

 

 鴨田が指を差した方向を見ると、黒川くんは先ほど俺たちが利用したゲームセンターの中へと入っていくようだった。

 

「……本当だ。じゃあちょっと追跡してみるか」

 

「……ぶはっ! いつまで口塞いでんだよ! というか、今『勝手なことすんな』とか言ったお前が勝手なことしてどうすんだよ!」

 

「さすがに過ぎた真似はしねえよ。もしかしたらここでバイトしてるのかもしれねえからな。まあ、どっちにしても声かけるのはやめとこう」

 

「何か警察の捜査員にでもなった気分だな、俺たち」

 

「……ったく、何やってるんだか……」

 

「あれ~? 二階堂ちゃんじゃん。何してんのさ、こんなところで?」

 

 勝手に盛り上がり、後を追っていく3バカに呆れながらも付いて行こうとしたところで、背後から声をかけられた。

 

「ん? ああ、小野寺さんか。ちょいと3バカと遊んでてね」

 

「あれ? でも3人ともいないみたいだけど?」

 

「ちっ、もう行っちまったのかよ……実は――」

 

 彼女らに経緯をかいつまんで話す。

 『彼女ら』としたのは、小野寺さんに連れがいたからであった。ひとりは髪を後ろに結わいた女の子で、七海四季(ななみしき)と名乗った。彼女は小野寺さんと同じ漫画研究部に所属している1年生で、つまり同じ学校の後輩ということだった。

 

「よ、よろしくお願いします……」

 

 自己紹介をする前から、彼女は終始おどおどした様子だった。それは俺の身長も影響しているのかもしれないが、もうひとりの連れにはそういった様子は見られなかったので、恐らく人付き合いが苦手な性格なのかもしれない。

 

「も、もしかして4人がかりでどこかに連れ込んで、あんなことやこんなことを……」

 

 そのもうひとりの連れというのが、これまた同じ聖櫻の1年、掛井園美(かけいそのみ)だった。彼女は漫研に所属しているわけではないが、小野寺さんらと同じように漫画などが趣味らしい。

 

「こらこら、変な想像しないの」

 

 そんな俺たちの経緯を聞いていた掛井さんは、突然目を輝かせ、にやつきながら訳の分からないことを言い始めた。そんな様子に小野寺さんは呆れた表情をしながら彼女の頭を軽く叩いた。七海さんの方も、苦笑いを浮かべていた。

 よく分からなかったが、よろしくない想像をしていたのは間違いないだろう。

 

 今日彼女たちが町へ来た目的は、漫画の新作を手に入れるためとのことだった。

 だが、ここで彼女らと話にふけってしまうと、3バカが何かしでかす危険性があると思った俺は、話を適当なところで切り上げてゲームセンターへと行こうとした。

 しかし、小野寺さんが『面白そうだから、私たちも付いて行っていい?』と言い出し、結局7人という大所帯で黒川くんの追跡をすることになってしまった。

 なぜか掛井さんはやたらとテンションが高くなり、七海さんはあまり乗り気ではなかったが、ひとりで取り残されるのも嫌だということから、仕方なく付いて行くことになった。

 

「大丈夫だって。私たちは他のところで見てるから。分散すれば怪しまれないでしょ?」

 

「…………」

 

 そういう問題じゃないと思うのだが。

 

 

 

 

 

 

 ゲームセンターの中へ入った俺たちは、まず初めに3バカを探した。黒川くんと鉢合わせしたらまずいと内心焦っていたが、運よくそうなる前に見つけることができた。

 

「ったく、こんなことしてるのが黒川くんにばれたらどうすんだよ……」

 

「しっ。静かにしろ。大声出したら気付かれるだろうが」

 

「はぁ……」

 

 すっかり乗り気になった連中に呆れのため息をつきながらも、俺は奴らの視線の方向へ目を向けた。その視線の先には筐体の椅子に座ってゲームをしている人の姿があった。

 見たところ、やはり間違いなく黒川くんのようだ。だが、いつも学校で会う時の彼とは、雰囲気がかなり違っていた。非常に険しい目つきをしており、それも怒っているというよりは、半ば達観しているかのような、物悲しさを感じさせるものだった。

 

「将ちゃんのやってるのって、クイズゲームか。あれ滅茶苦茶難しいんだよな~。大分前にやったことあるけど、2、3問しか答えられなかったわ」

 

「だな。俺もお手上げだったよ」

 

「学問系とかスポーツ系はともかく、アニメとか芸能の問題は俺も全然駄目だな。まるで答えられねえ」

 

「ゲームセンターって、そんなのもあったんだな……」

 

 自分の世間知らずっぷりを、こんなところでも実感することとなった。

 『奴ら』の手によって、俺は時代の変遷に取り残されていたわけだ。つくづく馬鹿な生き方をしてしまっていたと思う。

 

「最近はオンラインが発達してきたから、アップデートもすぐできるし、カードに自分のデータを保存できるようにもなってきたからね~」

 

「って、まだいたのかよ……別の場所で見るんじゃなかったの?」

 

 背後で、最近のゲームセンターの事情を説明する小野寺さんの声に、俺は焦った。よく見ると七海さんや掛井さんの姿もある。どうやら彼女たちはそこまで離れた場所にいなかったらしい。

 一応俺たちの姿はゲームの筐体によって隠されてはいたものの、この大人数ではちょっとした拍子で気付かれかねない。

 

 これなら、俺が離れるのが一番いいかもしれない。

 体格は圧倒的に俺が最も大きく、何より小野寺さんたちは黒川くんの観察に夢中になっているようで、別の場所に移る素振りを見せなかったので(何で黒川くんと話したこともないはずの七海さんと掛井さんまで夢中になっているんだ)、俺は仕方なく別の筐体のそばへ移動することとした。

 

 

 

 

「何か、やたら楽しそうだな……」

 

 移動して気付いたが、黒川くんの表情は相変わらず険しいままではあったものの、先ほどの物悲しい雰囲気はなりを潜め、ゲームを純粋に楽しんでいるように見えた。

 事実、問題に正解した時には両手の親指と小指だけを立て、ガッツポーズらしき行為をしており、口端もつり上がっていた(反対に、不正解の時は顔を突っ伏して項垂れているようだったが)。

 

 

 

 

 

 

 黒川くんがゲームを終え、ゲームセンターをあとにしたところを見計らい、俺たちは再び彼の追跡を開始した。

 彼はその後、カードショップ(カードゲームの専門店なるものが存在していたのか)、スーパーマーケットの食品売り場(果物や魚、缶詰を主に見ていた)へと行き、最終的に駅の改札を抜けて、ホームへの階段を下りていった。恐らく帰宅するのであろう。

 

 追跡の対象が帰ったことにより、俺たちのストーカーまがいの行動も必然的に終わりを迎えた。

 感じなくてもいいはずだった疲れがどっと押し寄せてくる。俺は休憩を提案すると、6人全員は賛成の意を示した。

 

「いい喫茶店知ってるから、そこに行こう」

 

 もちろん、『いい喫茶店』がどこであるかは決まっている。

 

 

 

 

 

 

「思ったんだけどさ……」

 

 笹原さんの喫茶店で、俺たちは休息を取っていた。各自が好みの飲み物を注文し、雑談に耽っている。ただ、俺は雑談の話題が分からないのでその輪には入っていない。

 また、俺たち以外にも客の姿はそれなりにおり、笹原さん――俺たちが店に入った時、大所帯のためか驚いていた――は接客のためにその輪には加われなかった。

 そんな中、珍しく雑談をせず、考えるような表情で沈黙を保っていた鴨田が口を開いた。

 

「どうしたのさ?」

 

「……今日の将ちゃん見る限りじゃ、何か用事があるようには見えなかったんだよな」

 

「用事が終わって、余った時間を過ごしてたんじゃないの?」

 

「それは否定できないけど、何かそんな感じじゃなかったんだよな、何となくだけど。初めから遊んだり、買い物したりする目的であそこにいた感じがするんだよ。少なくとも、重要な用事があるようには見えなかったな」

 

 確かにゲームセンターやカードショップに行ったことは、完全に私用、それも俺たちの誘いを断るための用事とするにしては、いささか疑問が残る。もちろん、高桑の言うように用事が済み、余った時間を過ごすためであった可能性もあるので、変に疑うのは利口ではないのだが。

 

「……確かに、カツの言うことも分からなくはないな……それに、あんな険しい顔した将ちゃん、今まで見たことがない」

 

 だがそれ以上に、黒川くんの険しい顔つきの方が俺は気になった。俺ももちろん、あんな表情の彼を見たことは一度としてない。ゲームセンターでは比較的落ち着いていたものの、それ以降に立ち寄っていたカードショップとスーパーマーケットでは、また険しい顔に戻っていた。

 

「もしかして俺たち、将ちゃんに友達って思われてないとか……?」

 

 心底不安そうな表情を高桑は浮かべて呟く。

 

「…………」

 

 ――マジかよ。

 その言葉に俺は平静を装っていたものの、内心かなり焦っていた。

 

「……お前ら馬鹿二人なら間違いなくあり得るな。いつも意味不明で下品なことばっか抜かしてるし、将ちゃんから愛想尽かされても何ら不思議じゃない。もしかしたら、お前らにむかついてたから、誘いを断ったんじゃないか? それで、その憂さ晴らしのためにひとりで出掛けていたっていうのなら説明がつくからな」

 

 そんな俺たちの焦りをよそに、芹澤はにやけながら高桑と鴨田――俺が入っていないのは、黒川くんとの交流が多いためであろうか――に毒づく。

 俺たちが不安がることをこんな風に茶化してしまえるのは、才能じみたものがある。

 案の定、ふたりとも拳を震えさせながら怒りをあらわにしていた。

 

「こ、この野郎……お前が言えたことじゃねえだろ……」

「おい正美、こいつぶちのめしてもいいか……って、どうした? さっきから黙りこくって」

 

 だが、そんなふたりのリアクションにはほとんど目もくれず、俺は俺なりの考えを口にする。

 

「……そんなことは、ねえよ。絶対に。断じてない」

 

 そうだ。彼が俺たちを友達と思っていないということなど、ありえないのだ。

 そもそも、あそこまで必死になって俺を説得し、『友達』と呼んでくれた彼がそんなことを思うわけがない。3バカにしても、『何かあったら泣きつかせてもらう』と言っていたことを思い出す。信頼していなければ、あんな言葉は出ないだろう。

 

「黒川くんを、信じよう。勝手な憶測はしちゃ駄目だ」

 

 だから、心配は無用だ。

 あの表情には、間違いなく何かの事情がある。

 

「……だな」

 

 にやついた顔を真面目なものに戻し、軽く息を吐きながら芹澤も呟く。

 こいつもこいつなりに、高桑の言葉には不安を抱いていたのかもしれない。

 

「変に詮索はしない。だけど、黒川くんが事情を話したいって言ってきたら、しっかり聞いて力になってやるつもりだ。俺はまだ、黒川くんに恩返しが何ひとつできてないからな。この恩は倍返しにしてやらないと」

 

 高校に入学してから現在に至るまで、俺は彼に助けられてばかりだが、その逆は全くと言っていいほどない。このままでは、俺はただの薄情者だ。

 悩みがあるのなら、力になろう。以前彼が、俺にしてくれた時のように。

 

「……いっちょまえに格好いいこと抜かしやがって。まあ、俺も同意見だけどな」

 

「お、俺だって!」

「俺も俺も!」

 

「……ふふふ、男子の友情は素晴らしいですねえ。ここからあんなことやこんなことにハッテンして……」

 

「……まったく、変な妄想しないの」

 

「はっ! いやいや、これは失礼……」

 

 俺たちのやり取りに、掛井さんはまたしても至福の表情を浮かべ出し、訳の分からないことを言い始めたが、すぐに小野寺さんがやめさせた。

 その言葉に俺、鴨田、高桑の3人は頭上に『?』を浮かべていたが、なぜか芹澤だけは『お前のことが好きだったんだよ』と呟いていた。どういう意味だろうか。

 

「まったく……。でも、私も二階堂ちゃん達と同意見だよ」

 

「……えっ?」

 

「私も、黒川ちゃんからはお世話になりっぱなしでさ。いつも漫画とかアニメのDVD貸してもらってたし、買い逃しちゃった漫画の限定版を譲ってくれたこともあったからね。……もちろん、お金は払ったよ?」

 

 そういえば、小野寺さんとも仲がいいことをすっかり忘れていた。共通の趣味があるなら無理もない。

 

「だから私も、できることは少ないと思うけど力になりたいね。今度、何か読みたい物がないか訊いてみようかな?」

 

 俺よりもむしろ、共通の趣味があるということから、こういった役割は彼女の方が適任といえるかもしれない。

 ……ちくしょう。アタシも早く知識を蓄えないといけないわね。

 

「で、でも、本当に大丈夫なんですか? 何だか、すごく怖い雰囲気だったんですけど……」

 

 そんな中、七海さんだけは不安そうな表情を浮かべて、俺たちの意見に同意しかねているようだった。

 彼女も黒川くんの観察に夢中になっていたような気がするが、まあ、初めて見たのがあの表情だと、おっかない印象を抱いてしまうのは無理もないだろう。彼女の性格も考慮すると尚更と言えた。

 

「大丈夫だって。あんな顔してたのは二階堂ちゃん達の言うように何か事情があったんだよ。黒川ちゃん、この4人よりずっといい人だよ? 多分、すぐ話が合うと思うけどね」

 

 『この4人』は余計だ、と思ったがあながち間違いでもない。俺たちに比べれば、漫画やアニメに一番詳しい黒川くんは、むしろ七海さんとは最も相性がいい人物と言える。

 完全にぬぐい切れてはいないようだったが、同じ部の先輩である小野寺さんの言葉を信じたのか、不安げな表情はなりを潜めたようだった。

 

 その後俺たちは、黒川くんの話に限らず、各々の趣味の話や学内で起きた他愛もない話で盛り上がり、気が付けば日が沈み、夜の8時まで喫茶店に居座ってしまっていた。笹原さんや彼女のおじいさんには申し訳ないことをしてしまったが、本当に、本当に素晴らしい1日を過ごせたと思う。今日はよく眠れそうだ。

 これで黒川くんもこの輪に加わってくれたなら言うことなしなのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、何も分かろうとしなかった。

 他人の苦しみを、悲しみを、怒りを、憎悪を。

 無菌培養されていたのは、俺の方だったのだ。

 俺は極めてちんけで下らない自殺願望を抱き、被害者面をして喚き散らしていたに過ぎなかった。

 

 

 

 

 毒蛇は怒り狂う。

 俺とは比べ物にならない苦しみを、悲しみを、怒りを、憎悪をありったけぶちまける。

 ありったけ、ぶちまけるのだ。

 

 

 

 

 

 

「俺に楯突きやがったあのクソ野郎どもは、どこだぁぁぁっ!」

 

 

 

 

 



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レイジング・スネーク

 

 

 

 

 3バカ達と町へ繰り出してから1週間。俺はますます充実した日々を送ることができていた。

 まだアニメはともかく、漫画の話題に関しては小野寺さんとそれなりに話ができるようになり、それに伴って話をする人の数はさらに増えた。

 笹原さんの喫茶店での仕事も、若干戸惑いながらも順調にこなすことができた。顔見知りの客の人もでき、学外での人のつながりも形成された。

 

 

 

 

 学内、学外双方の生活が実にうまくいっており、まさに順風満帆であった。

 

 

 

 

 

 

 今日は教室で読書でもしようと思い、朝練のある運動部ほどではないが、早めの時間に登校した。

 教室に着くと、案の定生徒は少なく、大量の資料――恐らく、行事で用いる衣装の作成工程などが書かれているのだろう――に目を通している時谷さんや、俺と同じことを考えたのであろうか、本を机の上に置いた村上さん、クラスが違うはずなのに村上さんと会話をしている望月さん――望月さんが一方的に話をしている感じではあったが――の姿くらいであった。

 

 そんな光景に、『平和って素晴らしい』などと柄にもないことを考えながら、鞄から本を取り出そうとすると、教室の扉が勢いよく開かれた。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 扉を開けた者の正体は、春宮であった。息を切らせながら教室へと入ってくる。陸上部のこいつが息を切らせるなど、珍しいこともある。

 さらに陸上部のユニフォーム姿のままであることから、まだ朝練が終わったわけではないらしい。ふと視線を向けた時計の時間も、朝練が終わるにはまだ早い。加えて1年のこいつが2年の教室に入ってきたということから、余程緊急の用事がここにあるということだろうか。

 

「すいません! 二階堂先輩は……って、いた! ……よかった、いてくれて……」

 

 開口一番、妙なまでに深刻そうな表情で教室を見渡しながら俺の名を呼ぶ春宮だったが、俺の存在に気が付いたと同時に、心底安心したような表情を見せる。

 何か嫌な予感がした俺は、彼女に呼ばれる前にすぐ椅子から立ち上がって傍まで近づいた。時谷さん、村上さん、望月さんも移動こそしなかったが、訝しそうな表情で春宮に視線を送っていた。

 

「何があった?」

 

「く、黒川先輩が、1年の教室がある棟で怒鳴っているんです!」

 

「……何だって? どういうことだ、それは?」

 

 春宮の言葉のあまりの頓珍漢ぶりに、どういう反応をすればいいのか困った。かと言って、春宮の状態を考えると冗談にはとても思えない。

 

「と、とにかく付いて来てください! ここで事情を話してたら、大変なことになっちゃいそうなんです!」

 

「……分かった」

 

 なぜ黒川くんが怒鳴り散らしているのか、そもそもなぜこんな早い時間に1年の教室のある棟へ行っているのか、疑問は尽きなかった。だが、慌てた様子の春宮から、そんなことを考えている場合ではないことを悟り、すぐさま走り出した。春宮も俺に続く。さすがは陸上部なだけあって、正直俺よりも速い。

 

「春宮、念のためお前が先導してくれ! 1年の棟に行くのは久しぶりだから、迷う可能性がある!」

 

「わ、分かりました!」

 

 俺の言葉に春宮はわずかばかりペースを上げ、廊下を駆けてゆく。俺は彼女の背中を見失わないよう、ぴったりとくっつくようにして疾走した。

 

 

 

 

「ふ、文緒ちゃん!? どこ行くの!?」

 

 

 

 

 

 

 1年生の教室周辺は、なぜかかなりの喧騒に包まれていた。廊下に出て何やらひそひそと話をしている者も数多く見受けられる。まさか、その対象は――――。

 

「はぁ……はぁ……あっ、あそこです!」

 

 息を切らせた春宮が指差した方向――およそ40メートル先――に、確かに黒川くんはいた。だが、そこにいたのは――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「俺に楯突きやがったあのクソ野郎どもは、どこだぁぁぁっ! ぶっ殺してやる! 腹かっさばいて、晒し首にしてやる! とっとと出てきやがれぇぇぇっ!」

 

 

 

 

 

 

 そこにいたのは、真面目ながらも、馬鹿な冗談も通じ、常に笑顔を絶やさない、いつも俺が目にしていた彼の姿ではなかった。

 顔は痣と傷だらけで、目はギラギラと血走り、額には血管がビキビキと浮き出、ガパッと大きく口を開けながら舌を限界まで伸ばし、どうやったらそこまで出せるのだと疑いたくなるほどの巨大な怒鳴り声で、周囲に唾液が跳ぶのを気にも留めずに暴言を吐きまくって廊下を闊歩するその姿は、さながら鱗を剥がされ、肉を削がれたことにより、我を忘れて毒液を吐きながら暴れ回る蛇のようだった。

 

 

 

 

 まさに今の彼は、怒り狂う毒蛇であった。

 

 

 

 

「隠れてんじゃねえぞ、カスが! 俺にあんだけ楯突きやがったんなら、当然やり返されるのが筋ってもんだろうが! ぶっ殺してやるから、早く出てきやがれぇぇぇっ!」

 

(まずい、早く止めないと!)

 

 春宮の言う通り、このまま彼を放置しておくわけにはいかない。黒川くんの身に何があったのかは分からないが、このままでは無関係な人間にまで被害が及ぶ可能性もある。とにもかくにも、彼を落ち着かせなければならない。

 だが面と向かって何か言ったところで、今の黒川くんには一切通じないと判断した俺は、近くの教室に入って身を隠し、彼が通り過ぎるのを見計らって背後から羽交い絞めにした。

 

「黒川くん、落ち着け!」

 

「何しやがんだ! 離しやがれ! てめえも俺にぶっ殺されてえのか!」

 

 ――なんという力だ。

 俺は彼に暴言を吐かれたことよりも、羽交い絞めを解こうと抵抗する彼の異常なまでの力の強さに驚きを隠せなかった。

 

 黒川くんはあまり運動が得意ではないと、俺個人としては思う。体育の授業においても他の同級生に比べて動きは速くなく、球技でボールを投げた時の速度や飛距離などから見て、力もそこまでではなかったように感じる。

 

 おまけに彼は、男子生徒の中でも小柄な体格――身長は160cm台に見える――のため、なおのことその力の強さに度肝を抜かれた。全力で羽交い絞めにしないと、突き放されるどころか吹っ飛ばされてもおかしくなかった。

 恐らくは、身体のリミッターが外れた状態――いわゆる、『火事場の馬鹿力』というやつだ――になっているのだろう。このままその状態を維持していると彼の身体が壊れる危険性もあったので、俺は何としてでも彼を止めなければならなかった。

 

「俺だ! 俺だ! 二階堂だ! 落ち着け、俺だ!」

 

「!」

 

 俺であることを伝えた途端、黒川くんの力が緩む。俺は羽交い絞めを解くと、すかさず彼の前に回り込み、肩に手を置いて、しつこいくらいに俺であることを連呼した。

 

「俺を見ろ! 落ち着け、俺だ!」

 

「に、にかい、どう、くん……?」

 

「そうだ、俺だ! 俺を見ろ、大丈夫だ!」

 

「…………」

 

 血走った目は相変わらずだったが、額に浮き出た血管や限界近くまで伸びた舌、巨大な声の暴言の嵐などは収まった。同時に、崩れるように彼はその場に座り込む。

 

「……おい、お前ら! 見世物じゃねえんだ! とっとと散れ!」

 

 野次馬として集まっていた多くの1年生を、一喝して散らせる。

 その中にはかなり心配そうな表情をした――恐らくは、黒川くんと親しい1年なのだろう――者もいたが、配慮をしている暇はなかった。

 

「悪いが春宮も、教室に行っててくれないか? そもそもお前、着替えないとまずいだろ」

 

 授業が始まるまでに、まだそれなりの時間はある。だが春宮は部活のユニフォーム姿のままなのだ。ここで油を売ってしまっていては、着替える時間がなくなり、授業にも間に合わなくなってしまう。

 

「で、でも……」

 

 しかしながら、春宮はかなり悲痛な表情で、俺の指示へのためらいを見せた。その表情や、ここ最近は春宮とほとんど話をしたことがなかったことを考えると、ひとつの答えが導かれる。

 恐らく春宮と黒川くんは、良好な関係を築いていたのだろう。あの時の押しつけ作戦は、俺が予想していた以上の結果を産んでいたのかもしれない。そうでなければ、春宮が俺の教室に息を切らせながら来るなどということはあり得ないし、ほぼ間違いなく野次馬のひとりにしかなっていなかったはずだ。

 

「お前の気持ちは痛いほど分かる。だけど変に騒ぎが大きくなって、変な噂がお前にまで及んじまったらまずいんだ。すまんが、ここは退いてくれ」

 

「……分かりました」

 

 最後まで俺の言葉に納得できない様子ではあったが、春宮はそう言って階段を下りて行った。多分着替えるために更衣室へと向かったのだろう。

 

「……ちっ」

 

 春宮が去ったのとほぼ同時に、何人かの教師が俺と黒川くんのもとに駆けつけてきた。誰かが呼んだのだろうか。

 

「な、何があったの!?」

 

 1年生の担任を務めている橘先生を始めとして、教師たちはかなり戸惑った様子で俺たちに質問を投げかける。

 だが俺はそれには一切答えず、黒川くんに無理矢理肩を貸して立ち上がらせた。

 

「すみませんが、俺に任せてくれませんか? それと、このことはできるだけ他の生徒に広めないようにしてほしいんです」

 

 事情を教師に話すことよりも、まずは黒川くんを保健室まで連れていく必要がある。それくらいに彼の顔の傷や痣はひどいものだった。顔だけではなく、腕にもそれは見受けられ、俺は彼の傷が全身にあるのではないかと予想した。

 それに実際のところ、なぜ彼がここで激昂していたのかという詳しい事情は俺にも分からないのだ。

 

 そして何よりも、このことが変に尾ひれの付いた噂となり、黒川くんにとってよくないことになってしまうのは絶対にごめんだ。春宮を帰したのも、彼女が巻き添えを食わないようにするためだった。

 教師陣に釘を刺したところでほぼ無意味なことは分かり切っていたが、それでも何も言わないよりはましだろう。いざとなれば、どんな手を使ってでも噂を止めさせる。

 

「どいてくれ……ひとりで歩ける……」

 

 教師陣の返答を待たずに、俺は黒川くんと共に歩きだす。すると黒川くんはそう言いながら、俺の肩を解こうとした。

 

「お、おいおい。いくらなんでも無茶だって」

 

 見た感じでは骨折などの重傷はなかったが、それでも彼の怪我は、なぜ学校に来られたのか疑いたくなるレベルだった。

 こんなところで見栄を張っている場合ではないだろうと思いながら、脇を締めて解かせないようにしたが――――。

 

「……邪魔だ!」

 

 先ほどよりは劣るものの、再び強い力を出され、無理矢理解かれてしまった。先ほどのように全力で脇を締めていたわけではないので、あえなく俺は解かれ、おまけに吹っ飛ばされそうになった。

 

「…………」

 

 呆然と立ち尽くすわけにもいかず、俺は彼の少し後ろを歩くことにした。これなら、ふらつきながら歩く彼が倒れるなどした際に、即座に対応できる。さらに今の彼の様子を見る限りでは、隣を歩くのは彼をいらつかせることになるだろう。そういう理由から、これが最も望ましい対応だと判断した。

 

「…………あっ」

 

 階段を下りていく際、村上さんの姿が目に入った。彼女も黒川くんとは仲がいい。心配で走ってきたのだろうか。

 俺たちの姿を目にした彼女は、春宮以上に悲痛な面持ちをしていた。

 そんな村上さんの表情などまるで気に留めず、黒川くんは彼女の横を通り過ぎていった。まるで村上さんの姿など、そこに存在していないかのように。

 

「悪いけど、村上さんは教室に戻っていてくれないかな?」

 

「で、でも……」

 

「今の黒川くん、自分の邪魔する人間は見境なくぶっ飛ばすと思う。俺はまだいいけど、村上さんをそんな目に合わせるわけにはいかないしね」

 

「…………」

 

 俺の言葉に村上さんは沈黙する。

 黒川くんを見失わないようにするため、俺は村上さんの返事を待たずにその場をあとにした。

 

 

 

 

 

 

 結局黒川くんは保健室には行こうとせず、教室に入って自分の席に着いてしまった。背負いっぱなしのリュックを下ろし、机の横のフックに引っかける。それからはピクリとも動かず、じっと正面を見据えていた。

 それに遅れて、村上さんもとぼとぼとした足取りで戻ってきた。

 

「おいおい、どうしたんだよ……何であんなに傷だらけなんだ?」

「えっ、もしかしてあれ、黒川君なの?」

「何があったんだ?」

 

 黒川くんの着席と前後して、予鈴のチャイムが鳴り響く。そのため、先ほどと違って教室の席には、ほぼ全員その主が座っていた(まだ本鈴ではないため、席を立って雑談している者も何人かいたが)。

 こんな状況を目にしては当たり前の話だが、黒川くんの姿を目にしたクラスの連中は、ひとりの例外もなく呆気にとられたような表情をして、近くの人間と小声で話し始めていた。

 

「…………」

 

 そのまま自分の席に着くのも気が引け、俺は黒川くんの真横に行く。

 彼の表情を見据えた時、その目つきに俺はぎょっとなった。『何だよこの目つきは』と、内心で呟かずにはいられなかった。

 

 彼の目つきは『険しい』という表現では生易しいと感じるものとなっていった。先ほどの怒りをあらわにしたようなものではなく、どす黒い憎悪の感情で埋め尽くされた、暗いものだった。

 まるで今から誰かを殺しにかかるような、殺気立ったものが溢れたそれに、俺は冷や汗が流れ落ちた。

 

 そんな彼の姿に野次馬根性が触発されたのかは分からないが、クラス連中の小声の会話は次第に大きくなり、ざわつきと呼べるものにまでなっていた。会話の内容も、『やばい奴と喧嘩でもしたんじゃねえの?』とか、『黒川君、真面目な人だと思ってたのに、ちょっと幻滅したな』といった、あまりにも理不尽かつ身勝手な憶測だらけのものばかりであった。

 そんなクラスの反応に、小野寺さん、有栖川さん、村上さんといった面々は、憤りの表情を浮かべていた。彼女たち以外にも、憤りの表情をしている人間はおり、それに俺はわずかながら安堵した。

 ……そして時谷さんは、無言で俯いていた。彼女の表情は他と違って悲しそうなもので、今の時谷さんと黒川くんとの関係を考えると、その表情になるのは無理もないような気がした。

 

 ――とりあえず、やめさせなければ。

 先ほどの不安が違う形で的中することになってしまった。実際に耳にして強く実感したが、尾ひれの付いた噂話というものは、こうもおっかなく、腹が立つものだというのか。

 『訳分からんこと言うな』と、このざわつきを収める言葉を口にしようとしたところで――――。

 

 

 

 

「……黙れ! てめえら全員ぶっ殺すぞ!」

 

 

 

 

 黒川くんの怒りの咆哮が、教室内に轟いた。

 同時に、ざわめきは消失する。まるで、一瞬で潮が引いたかのように。

 教室内の全ての人間は、黒川くんを除いて心臓が飛び跳ねる。俺の視界に入った者の中では、時谷さんが最も大きな反応に見えた。

 

「な、何があったんだ……?」

 

 数瞬遅れて入ってきた担任は、冷や汗を垂らしながら困惑した表情をしていた。

 

 

 

 

 

 

 黒川くんは結局、全ての授業を受けていた。真面目な性格の彼だからこそなせることなのだろうが、怪我の状態を見るに、失礼ながら正気の沙汰とは思えなかった。

 当然授業の度に彼の怪我に驚いた、担任を含む教師から何があったのかと尋ねられていたが、彼は一切口を開こうとしなかった。

 

「…………」

 

 ホームルームの終了と同時に、無言で席を立ち、リュックを背負って黒川くんは教室を去っていく。彼の背中に、そこにいた全ての人間が視線を送っていた。

 

「待ってくれ!」

 

 俺は廊下へ飛び出し、黒川くんを呼びとめる。

 無視されるだろうかと思ったが、予想に反して彼は歩みを止め、顔をこちらに向けた。

 

「…………」

 

「少しだけでもいい。何があったのか教えてくれ」

 

 本当は聞きたいことが山ほどあった。だが、そんな贅沢は言っていられない。僅かばかりでも事情が分かれば、俺は彼の力になれる。

 あの時3バカたちに言った『力になる』という言葉を、嘘にはしたくない。

 

「……ここの1年に、昨日襲撃された……」

 

「……へっ?」

 

「……10人近い人数で、袋にされたんだよ。俺が言えるのは、それだけだ……」

 

「そ、それはどういう……」

 

 俺の質問に黒川くんは答えず、代わりに意味深なことを口にする。

 

「結局俺は、どこに行ってもおもちゃにされるだけだったってことか……まあ、ふざけた真似をしたツケが回ってきたんだろうね……」

 

「……?」

 

 言葉の意味が分からず、何と返答すればいいのか決めあぐねていると、黒川くんは顔だけではなく身体も俺の方へと向けた。その表情は怒りや憎悪というよりも、あの時町で見かけた、半ば達観したような物悲しいものへと変わっていた。

 

「二階堂くんは、俺なんかがいなくても大丈夫だよ……。高桑くんたちともよりを戻せたし、それ以外にもたくさん話が合う人ができたんだ。俺ひとりがいなくなったって、大して変わらないよ……。もう、俺のことは無視してくれ……そこらへんの石ころみたいにね……」

 

「…………」

 

「ばいばい、二階堂くん……」

 

「…………」

 

 踵を返し、彼は去って行く。

 その姿に俺は、一言も声をかけることができなかった。

 

 

 

 

 

 

 俺を『友達』と呼んでくれた彼は、遠い遠い、遥か彼方へと行ってしまった。

 後には、呆然と立ち尽くすだけの薄情者の姿しか残っていなかった。

 

 

 

 

 




今後の予定を活動報告に載せたので、ご覧になっていただければ幸いです。





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ハクジョウモノ

 

 

 

 

「おい、将ちゃんに何があったんだ!」

 

 黒川くんが去ったあとも、俺はずっと立ち尽くしたままだった。その最中、後ろから聞こえた芹澤の声で我に返る。

 視線を後ろにやると、険しい表情の芹澤と、困惑した表情の高桑と鴨田が走ってきた。

 何で今頃になって来たのかという疑問が湧いたが、恐らく変に黒川くんを刺激するのはまずいと判断したのだろう。

 

「朝怒鳴ってたのって、将ちゃんだろ!? 一体何があったんだ!?」

 

「分からねえよ……1年の教室の棟で、傷だらけで怒鳴り散らしてて、理由を聞こうにも何のことだかさっぱり分からなかった……」

 

「ということは、何か言ってたんだな!? 教えろ、今すぐ!」

 

 俺の返答に芹澤は物凄い剣幕だった。鬼のような形相で俺に掴みかかり、問い詰める。

 

「ここの1年に、袋叩きにされたって……。『もう、俺のことは忘れてくれ』って……」

 

「なるほど……」

 

 俺を掴んでいた手を離した芹澤は、少し何かを考えるような仕草をしたあと、踵を返してどこかへ行こうとする。

 

「お、おい! どこ行くんだよ!?」

 

「決まってんだろ。将ちゃんを助けるんだよ」

 

 呼び止める高桑の声に、芹澤は極めて真剣な表情で言い切った。

 俺はそのあまりにも無謀な試みに、変な笑いが出てしまった。俺の黒川くんに対する気持ちは、もはや諦観しかなかったからだ。数分前まで抱いていた考えを、俺はあっさり翻していた。

 

「もう、無理だろ……お前なんかが何かしたところで、黒川くんは口なんて聞いちゃくれねえよ……」

 

 そうだ。迂闊な真似をして、黒川くんの傷を抉るようなことをしてはいけない。俺たちにできることなんて、何も――――。

 

 

 

 

「…………ふざけんなよ」

 

 だが俺の思考は、鬼――いや、修羅(しゅら)とでも言うべき形相になった芹澤の、物々しい雰囲気で発せられた言葉によって遮られた。それから間を空けずに、俺は芹澤に胸倉を掴まれた。

 

「てめえにとって将ちゃんってのは、その程度の存在だったのかよ!」

 

「…………」

 

「てめえがこうやって俺たちと話せてるのも、馬鹿なこと言えてるのも、全部将ちゃんのおかげだろうが!」

 

「…………っ」

 

「将ちゃんに馬鹿でかい借りを作っといて、いざ将ちゃんが困っていたら『無理』とかほざいてポイか!? てめえはそんな薄情者だったのかよ!? あの時言ってたのは、全部嘘だったってのかよ!?」

 

「…………」

 

 その通りだ。俺は薄情者だ。自分の考えをあっさり翻し、恩を仇で返す薄情者だ。

 

「どうしたらいいか、分からないんだよ……」

 

「……はっ?」

 

「俺だって、何とかしてやりたいって思ってる! だけど俺は、お前らほど人付き合いが長くないせいで、人の気持ちってのをそこまで理解できてないんだよ!」

 

 そのくせに、俺は自己弁護に走る。

 何とかしてやりたい。でも分からないから、仕方ない。そんな説得力のない擁護の言葉を、躊躇いもなく発していた。

 

「おい、ふたりとも落ち着けっての。こんなところで言い合いしてる場合じゃないだろ」

 

 俺たちのやり取りに慌てた様子で鴨田が止めに入るが、俺はともかく、芹澤にとっては逆効果でしかなかった。

 

「お前らもお前らだ! 何でさっきから平気そうでいられるんだよ!」

 

「そんなわけないだろ。俺たちだって……」

 

「……もういい。俺はひとりでも動く。ずっとそこで『もう無理』って言い続けてろ!」

 

 鴨田が言い終わる前に、芹澤は捨て台詞を吐いて去ってしまった。

 

 

 

 

「なあ、やっぱり一二三ってさ、村田(むらた)君のこと……」

 

「……? 誰だそれ?」

 

「やめろ源五郎。一二三がいないからって、その話はするなっての」

 

 聞いたこともない名前に、俺は質問を投げかける。しかし、鴨田はそう言って遮った。

 

「別にいいだろ。やばい話ってわけでもないんだし、正美は知る権利があると思うんだけど?」

 

「ふぅ……まあいいか……。俺も一二三があんなにムキになったのは、多分村田君のことをまだ引きずってるからだって思ったからな……」

 

 高桑の説得に、大きく息を吐く鴨田だった。そして、あまり気乗りしないようではあったが、芹澤が何であそこまで躍起になったのかを話してくれた。

 

 

 

 

 

 

 中学1年の終わりごろ――つまりは、俺が3バカと疎遠になってしばらくして――芹澤には、高桑や鴨田以上に仲のいい友達がいたらしい。それが、先ほどふたりが口にした『村田くん』ということだった。

 村田くんはかなりおとなしい性格で、どうして芹澤とそこまで仲が良かったのか疑問に思う人間も多かったようだ。しかしながら、別に芹澤は村田くんをこき使っていたとか、そういったことは一切せず、本当に強い信頼関係を築いていたようだった。

 

 だが、事件は起きる。芹澤が気付かないところで、村田くんは凄惨(せいさん)ないじめに遭っていた。暴力はそこまで多くはなかったようだが、恐喝まがいのことや、そいつらの起こした悪行の濡れ衣を何度も着せられていたらしい。

 村田くんは必死になって弁解したものの、教員はまるで聞き入れてくれなかったとのことだ。

 当時の俺は勉強に必死でさほど気にしてはいなかったが、思い返してみれば中学の教員は、ろくでもない人間が多かった気がする。

 

 そして、2年次の半ば。芹澤に相談できないまま、彼は自殺を図る。幸い一命は取り留めたものの、その後中学に顔を出すことはなく、他県へと引っ越してしまったらしい。

 このことは秘匿(ひとく)されていたらしいが、疑問に思った芹澤はすぐにいじめが原因であると突き止めた。激昂した芹澤は、半ば強引なやり方でいじめを行っていた人間を特定し、全員――十数人――をたったひとりで半殺しにし、一週間の停学処分を受けた。

 これも秘匿されていたことと、前述したように勉強のみに目を向けていたせいで、俺はそのことに全く気が付かなかった。

 

 ただ、それだけではあそこまで芹澤が必死になる理由にはならない。村田くんには、もうひとつ大きな特徴があった。

 

 黒川くんは村田くんと、かなり顔が似ていたらしい。初め芹澤たちが黒川くんを見たときは、村田くんが名前を変えて聖櫻に入学したのだと、本気で思いかけたそうだ。

 だが村田くんと黒川くんの声は全然違うものであり、体格も村田くんと違って小柄だったためにすぐ別人だと判断したようだが。

 

「多分一二三の奴は、村田君を守れなかったことの清算をしようとしてるのかもな……」

 

(あがな)い、ってやつか……」

 

「何だかんだで、一二三はすごい奴だよ。人とのつながりを、すごく大切にする奴だからさ……」

 

「…………」

 

 神楽坂さんの話題の時、過剰に心配していたのはそういう理由もあったというわけか。だが、それなら――――。

 

「なあ、黒川くんのこと、あいつに任せてみないか?」

 

 それなら俺たちができることは、ただひとつ。芹澤に全てを任せるのだ。

 

「他力本願なのは重々承知してる。だけど、俺たちが変にしゃしゃり出ても、何の意味もない。悔しいが、ここはあいつを信じてみよう」

 

「……だな」

「しょうがない、楽観視するつもりはないけど、一二三に任せてみるかー」

 

 ――頼む、芹澤。黒川くんを、助けてやってくれ!

 

 

 

 

 

 

「ふぅ……」

 

 翌日の土曜日。笹原さんの喫茶店で仕事をする日だが、俺はなかなか作業に身が入らなかった。休日ということもあって客の数は多いというのに、注文を間違えたり、別の客に注文されたのものを持って行ってしまったりなど、普段はやらかさないミスを連発してしまった。

 客の人がみんないい人で、フォローを入れてくれたことに感謝せずにはいられない。今はピークの時間も過ぎ、テーブルを拭いているところだった。

 

「二階堂くん、大丈夫?」

 

 そんな俺の様子を見て、笹原さんが心配そうに声をかけてくる。

 

「まあ、なんとかね……色々迷惑かけちゃって、ごめん……」

 

「黒川くんのこと、心配?」

 

「……えっ? ……まあね。芹澤の奴が何とかするって言ってるけど……」

 

 笹原さんにしても、黒川くんの怒りの咆哮を間近で耳にしている。彼女と黒川くんの関係性は俺はよく知らないが、人脈の広い黒川くんのことだ、きっと彼女ともよく会話をしていたのだろう。

 

「笹原さんは、あのときの黒川くんを見て、どう思った?」

 

「うーん、そのことなんだけど……」

 

 だがその予想は、意外にも覆されることになる。

 

「実は私、黒川くんと話したこと、ほとんどないのよ」

 

「えっ? それは本当に?」

 

「ええ。黒川くんは私をどう思っているか分からないけど、私は黒川くんのこと、ちょっと怖い人だな、って思っちゃってるから……」

 

「……」

 

「時谷さんとトラブルがあったことは知ってる?」

 

「ああ、うん。黒川くんは、どうしてあんなことしちゃったんだろうって思っているみたいだけど」

 

「あっ、そうなの? それなら、ちょっと安心したけど……」

 

 俺の返答に笹原さんは、わずかばかり安堵したような表情になった。

 あの事件は正直なところ、どちらか一方だけが悪いと言える問題ではない。だがそれでも、どちらかに肩入れしてしまいたくなる人はいるのだろう。もちろん俺はそれを糾弾するつもりはない。落ち度はどちらにもあると言えるのだから、気持ちは分かる。

 

「あとは、神楽坂さんのことも嫌っているみたいだから」

 

「……」

 

 あの時黒川くんは、神楽坂さんのことを『苦手』と言っていたが、実際には嫌っていたとしてもさほど驚きはない。そうでなければ、彼女があそこまで焦った表情になった説明が付かない。

 また芹澤の言う通り、神楽坂さんを嫌う声はそれなりにあった。あの話を聞いて以降、何度か陰口じみたことを話している同級生を目にしたからだ。

 

「私、神楽坂さんとはよく話すから、どうしても黒川くんのことは怖い人って思っちゃうのよ。だからあの時も、すごく怖かったわ」

 

「そうなんだ……」

 

 誰からも好かれるなんてことは、夢物語だということは分かる。だが俺は、笹原さんの黒川くんに対する評価に、やるせない気持ちにならざるを得なかった。

 

「……でも私は、黒川くんのことは嫌いじゃないわ」

 

「……えっ?」

 

 俯き、下に向いていた視線は笹原さんのその言葉で引き戻された。

 

「私はああ言ったけど、黒川くんを慕ってる人はたくさんいるからね。小野寺さんとか有栖川さんは黒川くんとよく話してるところ見るし、図書室に行った時は村上さんとも仲よさそうだったからね」

 

「……そっか」

 

「それに1年生にも、もう仲のいい人がいるからね。この前のお昼休み、ジャグリングやってた子に何かおごってあげてたみたいだし、新体操部の椎名(しいな)さんも、彼のことが気になってるみたいだから」

 

 あとは、春宮も。彼は新学期が始まってわずか2か月ほどで、数多くの後輩と交流していたのだ。

 ――俺なんかより、ずっとすごいじゃないか。

 

「他の1年生から聞いた話だけど、妹さんもいるみたいね。会ったことはないけど、黒川くんのことすごく慕ってるって聞いたから、仲がいいのね。羨ましいわ」

 

「そっか、仲はよかったんだね……」

 

 春宮の言う通り、黒川くんには妹がいたようだ。彼は兄妹がいるということを話さなかったが、それは妹を嫌っているからではないということに安心する。

 妹は、今の黒川くんをどう思っているだろうか。力になってやってほしいと、心の底から俺は思った。

 

「それに望月さんからもいい人って聞いたから。こんなこと言っちゃうのはよくないかもしれないけど、普段女の子のことばかり考えてる望月さんがそう言うなら、黒川くんは本当はいい人なんだって思うわ」

 

「……」

 

「そうは言っても、まだ怖いって印象は拭いきれてないけどね」

 

「いや、十分だよ。笹原さんのおかげで、大分気持ちが和らいだ」

 

 あの時の咆哮を機に、黒川くんは冷ややかな目で見られてしまうのではないかという不安が少なからずあったが、その心配は杞憂だった。ここまで信頼している人間が多いなら、彼は必ず今までと変わりない日々を過ごせるはずだ。

 

「……そうかしら? それならよかったけど。……だから二階堂くん、黒川くんの力になってあげてね?」

 

「……えっ?」

 

「芹澤くんが何とかしてくれるって言っていたけど、二階堂くんにしかできないこともきっとあるはずよ?」

 

「……そうだね」

 

 そうだ。俺には俺にしかできないことがきっとある。それは何なのかまだわからない。だからこそ考えるのだ。俺だけができる、黒川くんの力になれる方法を。

 

 

 

 

 ――このまま薄情者でいて、たまるかってんだ。

 

 

 

 



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