絶対零度女学園 (ミカ塚原)
しおりを挟む

氷巌城突入篇
プロローグ


 私は、熱を失った。

 

 古びた体育館に響く、シューズの擦れる音。弾むボールの音。ぶつかる肩、足と汗の匂い。パスを求める南先輩の声。南先輩の揺れるショートヘア。南先輩の頬を伝って落ちる汗。

 

 全てがもう、遠い日の幻に思えた。

 

 幻なら、その方がいい。現実だというなら、私のこれまでやってきた事は何だったというのか。私はこれから、どうなるのか。

 

 それとも、私にはまだ、熱が残されているのだろうか。

 

 

絶対零度女学園

-プロローグ-

 

 

 それが起きたのは、梅雨が明けて期末考査が終わり、少女たちが起こりもしない夏休みのロマンスを思い描いている頃の事だった。

 

 先に断っておくと、その事件の被害に遭った三人には大変申し訳ない事ながら、私はその時自分の心を宥めることに全精力を注ぎ込んでおり、他の生徒と同様に同情を寄せていた、と言い切れる自信はない。ごめん。

 

 

 私の通う女子高は、私立ガドリエル女学園という。市街地から微妙に外れた山の間にあり、駅まで遠いとも近いとも言えない、バスで通うにも同様の、もう少しだけマシな場所に建てられなかったのか、という立地である。

 にもかかわらず、制服が古風なワンピースで可愛いとか、それなりに進学率、就職率が安定しているとかの理由で、一定の人気はあった。

 

 私が入学した理由?あとで話す(今は話したくない)。

 

 ともかく、それはある日の放課後に起きた。それが知れ渡った切っ掛けは、どの字を持ってくれば表記できるのか悩むような、生徒の絶叫であった。

 

「◆◆◆◆◆――――!!!!!」

 

 おそらく全国の中学・高校でおなじみの、放課後のブラバンの演奏をシャットアウトするかのように、金切り声が響き渡る。

 ブラバンや軽音楽部など一部例外を除いて、あらかたの部活動や委員会の生徒、教師、用務員たちが、その絶叫の中心地と思われる聖堂に集まってきた。一番最初に来なければならない警備員が、一番遅れて到着したのは言わないでおく。

 

  

 聖堂の前に集まったほぼ全員が、絶句していた。

 聖堂の前庭には、ささやかながらちょっとしたバラ園がある。そのバラの植え込みの通路に、園芸鋏を持った生徒が三人、倒れていた。

 すぐさま駆け寄って安否を確認すべきだと誰もが思ったものの、それを阻む光景が目の前にはあった。

 

 凍結している。

 

 芝生が、バラが、そして倒れた生徒が。傍目に見てもそうだとわかる。その異常な光景に、誰もが行動に移るのをためらった。

 しかし、さすがに絶句ばかりしてもいられない。数名の保健委員が倒れている生徒に駆け寄って、肩を揺すった。

「ちょっと、大丈夫!?」

 そうして、肩や腰に手を当てた生徒が声を出してその手を引っ込めた。

「ひっ!」

 その生徒の反応に、見守っていた全員がつられて仰け反った。

 そこで、警備員が生徒を押しのけて倒れている生徒の容態を確認した。遅れて到着しても、そこはさすがにプロである。

 警備員は即座に無線を取り出して、救急車の手配をした。そして振り向くと、

「お湯とタオルを早く!大量に!」

 と、生徒や教師に向かって叫び、自身は上着を脱いで、生徒の上半身に抱き着いた。そこだけ見れば警察を呼ぶべき光景だが、生徒の冷えた身体を温めるための行動だという事はその場の誰もが理解した。

 

 かくして突然フル稼働を強いられたガス給湯器から、保温ポットやバケツにお湯が溜められ、救急車の到着まで、凍結して倒れていた生徒三名の看護が行われた。

 

 仔細を解説しても仕方ないのでかいつまんで言うと、化学の先生いわく、倒れていた生徒たちは「突然局所的に起こった原因不明の氷結現象によって、極度の低体温にさせられた」のだそうだ。

 運ばれた病院からの連絡では、一命は取り留めたものの、あと一歩で命を落とす非常に危険な状態だったという。

 

 

 以上のあらましを私が聞いたのは、翌日登校してからだった。その様子を見ていたというクラスメイトは、興奮して私に説明した。倒れていたのは環境整備委員との事で、植え込みのバラはその「寒波」で全滅したという。

 化学の先生いわく、そんな現象がせいぜい数メートルの範囲で起こるなどあり得ないらしかった。しかも今は、もうじき夏が本番という時期である。

 

 以上の出来事を聞いて、私もそれなりには驚いた。しかし、それ以上の感情は特になかった、というのが正直な所である。

 

「反応薄くない?」

 ひとしきり説明を終えた、クラスメイトの吉沢さんは眼鏡の奥から私を見た。

「ごめんなさい。驚いて言葉が出ないの」

「そっか。そうだよね」

 咄嗟に取り繕ったが、吉沢さんは納得してくれたようである。

「でも、百合香だっていたんでしょ、体育館に―――あっ」

 そこまで言って、吉沢さんは口をつぐむ。

「ご、ごめんなさい」

 本当に申し訳なさそうに頭を下げる吉沢さんに、私は笑って答えた。

「気にしないで」

「ごめんなさい」

「大丈夫だから。気にしないで」

 私は、本当にそう思っただけの言葉を繰り返して伝えた。

 

 昼休み、自販機にコーヒーを買いに渡り廊下を歩いていると、向こうから三年生の二人組が歩いてきた。一人は、ゆるい天然のウェーブがかった髪が特徴的で、何度も会っているけれど名前を知らない先輩。そしてもう一人は。

「百合香」

 そう私を呼ぶ、ショートカットで切れ長の涼し気な目をした相変わらずの美人は、榴ヶ岡南先輩だった。

「今日は大丈夫なの」

 そう言って私の前に立ち止まると、南先輩はクラスメイトらしき人に「先に行ってて」と伝えた。その人が立ち去るのを待って私は答える。

「はい。ふつうに生活する分には、特に不自由はありませんから」

「…お医者様は何て言ってるの」

 言葉を詰まらせながらも、先輩はストレートに訊いてくる。私は答える。

「肺が良くならないうちは、激しい運動は厳禁だそうです」

「…そう」

 何とも言えない落胆の表情を、先輩は私に向けた。それは有り難くもあり、辛くもあった。

「治る見込みがないわけではないそうです。でも」

 そこまで言って、私は言葉を詰まらせながら、頑張って続ける。

「…何にしても時間はかかる、と」

 それを聞く先輩も辛いのはわかった。先輩と同じ時間を僅かでも共有できる事が私には嬉しい事でもあり、今はまた辛い事でもある。

「わかった」

 それだけ言うと、先輩は私の肩をポンと叩いた。

「百合香。無茶苦茶言うな、って怒鳴ってもいいから、これだけ言わせて」

 先輩が、グレーがかった透き通った目を私に真っ直ぐ向ける。

「たとえこの夏の大会が絶望的だとしても、私はあなたにバスケットをやめて欲しくない。必ず治して、コートに戻ってきて」

 それだけを言うと、南先輩はコンクリート打ちの床を鳴らして、足早にその場を通り過ぎて行った。

 取り残された私は、まだ先輩の手の熱さが残る肩を触って、ひとり呟いた。

「…無茶苦茶言うんだから」

 苦い笑みを浮かべて、私は再びコーヒーを買いに自販機へと向かった。

 

 その時、渡り廊下の西側の窓に、ひとつの人影が映ったように思った。私と同じくらい、髪の長い人だ。服装はよくわからない。

 振り向くと、そこには誰もいなかった。

「気のせいか」

 あるいは、自分が映ったのを他の誰かだと勘違いしたのだろう。

 

 誰もいなくなった渡り廊下に、私の足音だけが静かに響いた。

 

 私は―――江藤百合香は、再び歩き出す。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

極光

 謎の凍結事件が起きた学園の聖堂前の現場にはその後、警察や消防などの人達が呼ばれて、何日かは物々しい雰囲気だった。白衣を着た、研究員みたいな人達の姿も見えた。

 

 しかし人間というのは、どんな大事件も日常生活の中では、忘れないまでも関心は維持できないものである。

「百合香、デザインの課題終わった?」

 登校した朝、教室に入って来るなり吉沢さんは百合香の所へやって来た。

「うん。もう提出した」

 百合香は答える。

「うげー、さすが才媛だわ」

「その呼び方やめてくれる」

 眉間にシワを寄せて百合香は言った。自分より学業の成績がいい生徒は何人もいる。どうにか優秀グループに属してはいるらしいが、べつにトップではない。

 

 百合香がガドリエル女学園の普通科、キャリア・アスリートコースを選んだのは、小学校から続けてきたバスケットボールのためだった。ガドリエルは強豪の一角であり、かつてはオリンピック出場を果たした選手も輩出している。

 中学ではチーム全体がやや弱かったせいで実力に見合う結果を出せなかったが、江藤百合香という少女の実力は教育の体育系界隈ではそこそこ知られていた。

 

 入学して、予定調和のようにバスケットボール部の入部届にサインをすると、百合香はさっそくその実力を発揮した。ここ数年、地区大会で他校に遅れを取っていたガドリエルに「ガソリン」が注入された、とも評された。昨年は、1年生ながら上級生とともに県予選、ブロック大会に出場し、シューティングガード、そしてセンターを務め勝利し、相手校のコーチを驚かせた。

 

 百合香は、決して驕る人間ではないが、私はこのままバスケットボールの道を駆け上がって行くのだ、という自信と目標を確固たるものにした。

 

 今年、2年の春までは。

 

「特殊なウイルス性肺炎の後遺症によるものです」

 ある日、病院の先生は、診察室で付き添いの母親と百合香にそう言った。

 百合香は2年になってすぐの大会が終わったあと、感染症による肺炎に罹ったのだ。走ると呼吸が乱れ、すぐに息を切らして胸に激痛が走る。当然、部活には出ていない。

「普通に生活している分には、そこまで深刻な事はないでしょうが…」

 先生は、そこで気まずそうに一旦言葉を切る。

「回復するまで、激しい運動は厳禁です」

 その言葉は、百合香を奈落の底に突き落とすに十分すぎた。即座に先生に訊ねる。

「6月の大会は」

「駄目です。絶対に。そして、あなたには受け容れ難いとは思いますが、この肺炎の後遺症は、何年も続く例もあります」

 

 私は、診察室に崩れ落ちた。つまり、もう高校でのバスケットボールは事実上、終わったも同然ということだ。脈を診る看護師の声が遠く聞こえた。

 

 一生分と思える涙をその夜流し、そして朝を迎えると、それまで辿ってきた道の先が、突然崩落している事を改めて実感した。

 

 これから、何をすればいいのだろう。

 

 憧れていた南先輩が自分にかけてくれていた期待も、裏切る事になる。

 

 存在する意味とは何だろう。

 

 突然に襲ってきた虚無感に、百合香は戦慄した。

 何とかという有名なタイトルの、そこらのスーパーで大根を選んでいそうなオバサンが表紙で微笑む、スピリチュアルの本を読んでみた。あなたはありのままで幸せなのです、とある。肺炎の後遺症を抱えている自分は幸せであるらしい。

 自分に起きる出来事は全て自分自身が創造している、自分自身の責任だという人もいた。私はうっかり肺炎を創造したらしい。

 

 

 ともかく、百合香には今の所、何もなくなった。だから、吉沢さんのように楽しそうに近寄ってくる人が不思議に思えた。成績がトップなわけでもないし、バスケットという活躍の場を失った自分に、何の用があるのだろう、と百合香は本気で思っていた。

 その点、南先輩は容赦がないほど明快だ。治るかどうかわからない病気を治して、さっさとコートに戻れ、という。百合香は、南先輩の日本刀のような鋭さが好きだった。

 

「ねえ百合香さん、頼みがあるんだけど」

人が物思いにふけっている所に、吉沢さんもまた彼女なりに容赦なく踏み込んでくる。

「何かしら」

「あのね、文芸部で今度、ミステリの短編をまとめた本を作るの。それでその前に、百合香さんに全員の作品を読んで欲しいのよね」

 一見するとフワフワした印象の吉沢さんは、実のところ押しが強い。真綿を笑顔で押し付けてくるような怖さがある。

「…何作品あるの」

 一応、そう訊ねる。吉沢さんは笑顔で答えた。

「えーとね、8作品ある」

 そこそこ多い。

「トータル60万字くらいかな」

「多い!」

 つい百合香もツッコミを入れざるを得ない。周りの生徒たちが何事かと二人を見る。

「…なんで私が」

「百合香さん、読書家でしょ?いつも難しそうな本、読んでるじゃない」

 確かに、百合香は何かの合間に文庫本を開く事が多い。傍から見れば読書家なのかも知れないが、ミステリは実のところ、それほど読まないのだった。

「他にもっと適当な人がいるんじゃなくて」

 それとなく断ってみるものの、吉沢さんは譲らない。

「百合香さんは何考えてるかわからないミステリアスな所がある。ミステリの感想を求めるにはピッタリでしょ」

 その評価が正しいのかどうか、百合香にはわからない。ため息をついて、百合香は小さく笑った。

「わかったわ。原稿のデータがあるなら、私のスマホに送っておいて」

「やった!」

 ウサギのように吉沢さんは小躍りして喜んだ。その時百合香は、人はそれぞれ情熱を燃やしている事があるのだな、と改めて実感したのだった。

 どのみち、今はやる事がない。それなら、誰かの役に立つのも悪くはない、と百合香は思った。

 

 

 その日は空気が乾いて、まるで秋のような日だった。ともすれば肌寒いほどで、蒸し暑い梅雨のあいだ稼働していた校内のエアコンも、久々の休息を許された。寒がりで有名な高齢の英語教師は、ベストを着込んで授業をしていた。

 

 やがて放課後になると、百合香の机の周りにまたもクラスメイト達が、数名集まってきた。何やら、意を決したような表情である。

「江藤さん、失礼だけれど放課後、お暇?」

 進み出たミディアムヘアの生徒の手には何か、小さなチケットが握られている。百合香は申し訳なさそうに答えた。

「えっと…ごめんなさい、今日は病院に行かなければならない日なの」

 全員の顔を見渡して、百合香は答える。

「そっかー。残念」

「百合香さん、ライブハウスとか興味ないわよね」

 そう訊かれて、百合香は訊き返す。

「ライブハウス?」

「女子高の軽音部が対バンするライブがあるの。その…百合香さん、意外にも海外のロックが好きって聞いたから」

 百合香はぎくりと背筋を伸ばした。どこから洩れたのだ。特に理由はないが、吉沢さんとか、南先輩とか、ごく一部の親しい人にしか趣味の事は話していない。そういえばこの面子は、軽音楽部の人間たちだ。

「…誰に聞いたの」

「やっぱり、ホントなんだ!ねえ、何を聴くの?」

「秘密よ」

 なんで秘密にしなくてはならないのか自分でもわからないが、百合香はスマホに入っている「Rock」というflacファイルのフォルダを開いてみせた。ちなみに、256GBのメモリーカードの半分以上がメタル、プログレで埋まっている。「渋すぎる」「やべえ」「ガチの玄人だ」と、軽音楽部の面子は口々に唸った。

 

 部活を離れて、こうした予想外の方向からのコミュニケーションが起きることに百合香は軽く驚き、そして何となく居心地の良さも覚えていた。

 そして、その居心地の良さにいつか慣れきってしまい、それまでの夢が薄れてしまうのではないか、とも。

 

 そんな事を考えた時、百合香は不意に胸に痛みを覚えた。

「ごほん」

 百合香が小さく咳き込むと、面々が焦ったようにどよめいた。

「江藤さん!」

「大丈夫」

 背中を支え、擦ってくれる。しかし、この程度の事は時々あるのだ。

「ごめんなさい、ありがとう。どのみち今日は病院の日だから、そろそろ失礼するわね」

 心配をかけないように、凛とした所作で立ち上がると、百合香は鞄を取って挨拶をした。

「それでは、ごきげんよう。また来週お会いしましょう」

 才媛、で通っているらしい百合香は、その二つ名を裏切らないよう精一杯努めた。

 

 だが、一礼して顔を上げたとき、百合香は一瞬硬直した。

 

 教室の窓ガラスに、人影が映っている。自分とよく似たシルエットの少女だった。

 それはすぐに動いて消えてしまったが、渡り廊下で感じた時と同じ人影だった。細かい顔立ちまではわからないが、まるで自分を見ているような不気味さがあった。

 

 咄嗟に、その人影が見えた位置を振り返る。しかし、そこには誰もいなかった。

「どうしたの?」

 軽音楽部の一人が怪訝そうに訊ねる。百合香はその場を取り繕うために、なんとか平静を保ってみせた。

「な…何でもないわ、気のせいだったみたい、ごきげんよう」

 若干顔を引きつらせながら、百合香は教室を足早に立ち去った。

 

 再びの出来事を気にしつつ昇降口を出ると、白衣を着た大学の研究チームといった風情の一団とすれ違った。よくわからない機材を抱えている人もいた。おそらく、例の凍結事件の現場を調査していたのだろう。

『マイクロバーストの一種でしょうか』

『いくら何でも局地的すぎる』

『詳しい解析はまだですが、地中深くに正体不明の低温反応が…』

『下水管か何かじゃないのか』

 何やら専門的で、女子高生にはわからない会話が聞こえた。

 そういえば、あの凍結していた生徒たちはどうなったのだろう。ひとまず命に別状はない、という話だった。ひょっとしたら、百合香が通う病院に入院しているかも知れない。

 

 すると、白衣の人達が歩き去ったあとから、教師たちが数名歩いてきた。ボリュームがある天然パーマの男性数学教師が、腕組みしてしぶい顔をしている。

「何なんですか、あの人達。生徒が倒れたっていうのに」

「興味本位って感じですよね」

 30代前半、前髪を2つにわけたミディアムショートの女性教師が同意する。顔は知っているが、接点が無いので名前を知らない。彼女の口ぶりからするとどうもあの調査チームは、調査の過程であまり感心できない態度だった、という事らしい。

 女性教師は、ため息をついて何気なくあたりを見回した。百合香と一瞬目が合うと、何か意外そうな顔をする。

 何だろう、と思っていると、すぐ顔をそむけて、何やら今後の対応を他の教師たちと話しながら歩いて行った。小さく「彼女ですよね、バスケ部の…」と聞こえる。百合香の事は、やはり教師陣の間でも話題になるらしかった。あまりいい気分ではない。

 

 百合香は校門を出ると、バス停に向かって歩き出した。ブラバンの演奏が聴こえる。体育館の方を見ないように、ゆるい坂を下った。

 その時、百合香はまたも硬直して立ち止まった。

 

 誰かの声が聞こえたのだ。

 

 気のせいではない。百合香は再び周囲を見回したが、今度はガラス等は見当たらない。

 

 すると。

 

『急いで』

 

 百合香の脳裏に、女性の声が聞こえた。少し大人のような声色だ。

 

 誰だろう、と周囲を見渡す。しかし、どこにも誰もいない。

 そのとき、百合香はおかしな事に気が付いた。

 

 いくら都市部から少し離れているとはいえ、あまりにも人や車の気配がなさすぎる。いちおうは政令指定都市である。

 その時、またしても声が聞こえた。

 

『立ち止まっては駄目』

 

 同じ女性の声だ。さすがに、これは「普通の声」ではない、と百合香も感じ始めた。だが、心霊現象は生まれてこの方体験した事がない。病気をきっかけにそういう能力に目覚める事もある、という話を雑誌で読んだ事はあるが。

 言われなくても怖いので、百合香はバス停に人がいる事を信じて、その場を早足で立ち去った。

 

 

 第二体育館では、8月の2回の大会に向けて、ガドリエル学園バスケットボール部が練習に励んでいた。

「ドリブル遅い!!」

 榴ヶ岡南の甲高い声が、体育館の鉄骨に響く。

「西崎!パス迷いすぎ!」

 次の大会で三年生は引退となる事もあり、南もつい指導に熱が入ってしまう。だが、理由がそれだけでない事は部員の誰もがわかっていた。

 

 江藤百合香がいない。

 

 病気で休養していなければ、すでに南の後を継いで、満場一致で百合香が部長に任命されている筈だった。

 

 南が、百合香に並々ならない気持ちを寄せていた事は、誰の目にも明らかだった。その百合香と共に引退試合に臨めない南の心境は、誰にも推し量る事ができない。

 そして現実的な事を言うと、百合香の戦力を欠いたチームが、大会でどこまで行けるか、という不安もあった。

 

「百合香」

 つい、その名を口にする自分を叱るように、南は頭を振った。

 一人の戦力に頼らなくては勝てないようなチームでは、もし万が一にも百合香が復帰できた時に申し訳が立たない。百合香なしで、勝てる所まで勝つ。それが彼女への礼儀だと、南は思った。

 

 それはそれとして、なんて寒い日だと南は思った。梅雨が去って湿気が後退したのはわかるが、この時期にこれほど気温は下がるものだろうか。

「集合―――」

 南がコートに声をかける。汗を垂らした面々が、疲労した腕や脚を引きずって集まった。

「今日はこれで終わる。この低い気温で汗かいたら、体調を崩しかねないからね。明日明後日、大会前に最後の休養をしっかり取ること」

「は――い」

「帰る前に汗ちゃんと拭いてね。全員、万全の状態で大会に臨むこと。悔いなく――百合香のぶんまで、あたし達が戦うんだ。いいね。解散!」

 ありがとうございました、と甲高い輪唱が響いて、面々は用具の片付けを始めた。

「百合香、百合香って」

 呆れたように、黒いジャージを着た顧問の笹丘先生が南に歩み寄った。

「まあ、気持ちはわかるけど。みんな、あの子を主力だと思ってたからね」

「あたしも反省してます。一人に頼るようなチームじゃいけない」

 ボールを拾いながら言う南に、笹丘先生は諭すように言った。

「気合い入れるのはいいけど、エンジンはオーバーヒートすれば止まるんだよ。タイヤに負荷をかければパンクする」

「車は詳しくありません」

「あっそ」

 言っても無駄ね、と笹丘先生は笑ってその場を立ち去った。

「どうせ次で引退なんだ」

 最後に全力を出して何が悪い。南は、睨むように窓の外を見た。

 

 その時、南は空に異様なものを見た。

 

「!?」

 それは、テレビや写真でしか見たことのない光景だった。虹色の光が、カーテンのように空を覆っていた。科学、物理は苦手な南でも、それが何なのかは知っている。

 

「オーロラだ…」

 

 それが日本の本州で、しかも夏に現れる事はあるのだろうか。百合香は妙な雑学を知っているから、訊けばわかるだろうか。

 自分の名前と同じ、南の空に浮かぶオーロラを驚愕の目で南は見た。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

氷の城

 その異変に、百合香も気付いていた。トタン張りの待合室があるバス停に辿り着き、南の空を見ると、生まれて初めて肉眼で目にする、オーロラがあった。

 

 何かがおかしい。

 

 百合香は思った。バスケから離れて以来ずっと気落ちしていて、周りの事などどうでも良かった自分だが、さすがにこれだけ異常な現象が続くと、否が応でも関心を持たざるを得なくなる。

 

 うろ覚えだが日本でも歴史上、オーロラが観測された事例はあったらしい。それも、真冬などではない。スマホでサーチすれば今すぐわかるだろうが、さらに驚く事が起きた。

 

「…うそでしょ」

 

 白いフワフワしたものが空から無数に舞い降りて、アスファルトや百合香の髪を覆い始めた。雪だった。

 日本で夏に雪が降る事例は、北海道とか富士山の何合目以上とか特別な条件下の話であって、降雪地帯ではあっても豪雪はほとんどないこの地方で、いま雪が降る筈がない。

 

 百合香はスマホを取り出して、SNSのタイムラインを覗いてみた。この異常気象の話題が流れているはずだ。

 そう思ったが、アプリには「情報を更新できません」とあり、何分か前の状態からタイムラインは固まったままである。さっき見た、頭がおかしいレベルのキャラ弁の投稿がトップに居座ったままだった。

 

 電波が来ていない。

 

 スマホがなくなったら人間は生きて行けるのだろうか。スマホがない時代の人間はどうやって生きていたのだろう。

 いや、落ち着け。たまたま異常気象で、通信障害が起こる事くらい、レアケースではあっても有り得る話だ。待っていればバスは来る。たぶん。

 

 

 百合香が後にした校舎内では、ちょっとしたパニックが起きていた。

「繋がってないね」

 パソコン部の顧問が、部員とディスプレイを睨んでいた。インターネットの通信が全校で切れているのだ。

 

 そして、もっと根本的な問題が起きた。停電である。

「ひゃあ!」

 文芸部の部室でミステリ短編「きなこもち殺人事件」の推敲をしていた吉沢菫は、突然真っ黒になったディスプレイを前に驚き、そして修正後の保存をかけていたかどうか不安になって叫んだ。

「みんな生きてる!?」

「落ち着いてください、部長」

 後輩が、冷静に壁のスイッチをオン・オフして、停電らしい事を確認していた。

「どうやらこの館は孤立してしまったようですね」

「お前が落ち着け」

 もう一人の1年生が、背後から冷静にツッコミを入れる。

「これはアリバイ工作でしょう。ブレーカーを落としたのは犯人です」

「みんな落ち着いて!」

 菫がバンと机を叩く。冷静な人間が一人もいない文芸部は、もう今日はこれで営業終了かなと思い始めた。

 そして、小説執筆に集中していた面々は、窓の外で起きている事にやっと気付いたようだった。

「…なにこれ」

「アリバイ工作にしては大掛かりですね」

 窓の外は、真っ白な雪景色になっていた。

「さむっ」

「夏の雪。これは小説のネタにできますよ、部長」

 天変地異も文芸部員にとっては、小説の題材でしかないようだ。もう少し驚くとか何とかないのか。物書きってどこかおかしいよな、と自分を棚に上げつつ、菫はようやく落ち着いて、持ち物の整理を始めた。

「今日はこれでおしまい。各自原稿を推敲して、終わったら私の自宅パソコンにメールしてちょうだい。今日来てない面子にもLINEしとこう」

 そこでスマホを開いて、文芸部も電波が切れている事に気付いたのだった。

「やばいんじゃないの、これ。停電に通信障害とか。早いうちに帰ろう」

 パソコンからUSBメモリを抜くなど、各自後片付けをしながら、この現象について雑談を始めた。

「この雪というか寒冷化の前に、謎の凍結事件が起きたのは偶然なんでしょうか」

 ポニーテールに眼鏡の1年生がぽつりと言った。

「確かに。ちょっと偶然にしてはおかしいわね」

 菫は、先日の事件を思い起こしていた。生徒が倒れただけでなく、聖堂前のバラの植え込みが、冷気で全滅してしまったのだ。

「何か、動かしてはいけない石とかを動かしたせいで呪いが発動したのでは」

「いつの時代の伝奇もの?」

 菫は、そういえばこいつ80年代の伝奇小説とかアニメとか好きだったな、と思い起こしていた。自宅の本棚には菊地秀行コーナーがあったはずだ。

「そういえば、この学園じたい、そこそこミステリアスなんですよね」

 もう一人の、ロングストレートに眼鏡の1年生が言う。今の所、部室内は眼鏡着用率100パーセントである。

「ミステリアスって?」

「校名のガドリエルって、堕天使の名前ですよ。有名でないわりに、いちおうリーダー格です」

「そうなの?」

 そういえばこいつ、宗教色の濃いハードコアなファンタジーが好きだったなと菫は思い起こしていた。自宅の本棚にはラヴクラフトコーナーがあったはずだ。

「そうです。たしか、イヴをそそのかした蛇のとばっちりで、責任取らされた堕天使です」

「損な性分の中間管理職だな」

「その堕天使の名前がついた学校で、凍結とか雪とかの事件が起きるって、どういう事でしょう」

 その場にいる三人は、うーんと唸った。三人とも小説家志望であり、脳内でこれを題材に物語が作れやしないか、と考え始めた時だった。

 ドタバタと、廊下を走る音がする。

『残っている生徒はすぐに退校しなさい!急いで!!』

 皮下脂肪多めの中年体育教師の声だ。停電で校内放送が使えないため、教員が手分けして走り回っているのだろう。

「やばそうね」

「帰りましょう」

「そうしましょう」

 眼鏡の文芸部員たちは、頷き合ってクラブハウスを出ることにした。

 

 扉に手をかけた、その瞬間だった。視界の全てが、青紫がかった光に覆われた。

 

 

 

 雪が降り止まない。すでに2センチほど積もっているが、だいぶ軽めの雪のようだ。百合香は、あまり入りたくなかった古いトタン張りの待合室に、雪を避けられるぶんだけ身体を入れる事にした。

 相変わらずスマホのアンテナは立っていない。そして困ったことに、バスが来ない。

「参ったな」

 雪のせいだろうか。ちょっと歩く事になるが、仕方ないので駅まで行って電車で帰る事にした。バスも夏場に雪用タイヤは履いていないのかも知れない。

 そうして、待合室を出た瞬間だった。

 

 ブワッと、何か光の波のようなものが空間全体を走った。青紫っぽい光だ。

「?」

 百合香の背筋に悪寒のようなものが走る。それと同時に、大きな地鳴りが起こった。

「うわっ!」

 慌てて百合香は、頼りない細い角材の柱に掴まった。トタンに貼られた、大昔のレトルトカレー広告のおばちゃんと目が合った。

 地鳴りは、体感では3分くらい続いたように感じられた。だいぶ長く、待合室にひとり佇む女子高生には怖い時間である。百合香は無意識に、南先輩が握った肩に手を触れた。

 地鳴りが収まると、百合香はほっとして周囲を見た。

 

 さっきまで降り続いていた雪が、ぱたりと止んでいる。

「…終わったのかな」

 雪が止んだので、視界も元に戻った。降りてきた坂道が見渡せる。

 そうして坂道の上を見た時、百合香は絶句した。

 

 絶句、という言葉の意味を、百合香は身を持って体験する事になった。

 

 ちょうど、学校があるあたりだ。坂を下ると、斜面や木々に遮られて学校は見えなくなる。

 はずなのだが、今はそこに巨大な影が見える。

 

 

「なにあれ」

 

 

 ようやく出てきた一言ののち、百合香は全力で冷静さを保ち、それが何なのかを理解しようとした。

 

 城だった。

 

 それも、西洋ふうの城だ。

 

 学校の敷地があるあたりに、巨大な西洋ふうの城が鎮座している。

 いや、形は確かにそうなのだが、問題は大きさである。距離感がわからないが、どう見てもガドリエル学園の敷地より大きい。

 むろん、高さも半端ではない。隣にないので比較できないが、少なくとも東京タワーよりは高いのではないか。

 

 あまりにも思考の許容量をオーバーした現実に、百合香はこれが現実かどうか判断する方法はないかと考えた。

 しかし、次に思い至った不安が、他の全ての疑問を吹き飛ばした。

 

 あれが校舎の上にあるというなら、校舎はどうなったのか。

 さっき起こった地鳴りは、あの巨大な城と無関係なはずがない。ということは。

 

 最悪の事態を想像して、百合香は戦慄し、下ってきた道を再び校舎に向かって駆け出した。

 しかし、少し走ったところで肺が悲鳴を上げ、百合香はその場にひどく咳き込んで膝をついてしまった。

「げほっ、げほん!」

 情けない。ほんの何ヶ月か前には、私はバスケットボールを突いて、誰よりも速くコートを駆けていたのだ。胸の痛みとともに、枯れたと思っていた涙が流れてきた。

 

 校舎はどうなったのだ。南先輩は。吉沢さんは。クラスメイトのみんなは。そして、なぜ自分はその時、校舎から離れていたのか。

 

 その時、百合香は自分を急き立てた、あの謎の声を思い出した。

 確かにあの声は、私を校舎から早く遠ざかるように促していた。まるで、この事態を予測していたかのように。

 

 様々な思考が百合香の頭に渦巻いた、次の瞬間だった。それは視界の中を、こちらに向かって歩いてきた。

 百合香は、いよいよ自分の頭がおかしくなったのではないか、と思い始めた。

 

 それは、たぶんゲームか何かでしか見たことがないような存在だった。

 人の姿をしている。正確に言うと、頭と四肢、手指がある点で、人の姿をしている。しかし、どう見ても人では―――否、生物ではない。

 

 動く人間大の、透明な石の人形であった。

 

「ひっ」

 百合香は、声を失ってその場を動けずにいた。その人形は、西洋ふうの甲冑に見えなくもないが、もう少しシャープであちこちが尖ったデザインをしていた。頭は鳥のクチバシのように前方に突き出している。指は人間と同じ五本だが、大昔の映画のジョニー・デップのように爪が突き出している。刺されたらたぶん死ぬだろう。

 

 それが、百合香に向かってゆっくりと歩いてくる。どう見ても、助けにきてくれた人には見えない。恐怖で足が竦んでいるうえ、肺に無理をしたせいで呼吸がまともにできない。

 しかし、逃げないわけには行かない。百合香は、バス停から坂下に向かって、できる限りの歩速で逃げる事にした。登って逃げるのは、体力的にリスクが大きすぎる。

 

 人形の歩速は、百合香よりも少し遅かった。

「はっ、はっ」

 誰か来てくれ、砂利を満載したトラックが通りかかってこの化け物を跳ね飛ばしてくれ、と百合香は心から願った。しかし、どれほど歩いても、軽トラックの一台も走ってくる気配はない。

 人形は執拗に百合香を追ってくる。タイム差をつけられても、トップを走るマシンにトラブルが起きる事を期待して走る2番手のF1ドライバーのように。

 

「うっ」

 弱々しい声と共に、百合香はついに胸に限界がきて、コンクリートの法面に手をついて倒れ込んだ。

 人形は、確実に近付いてくる。コツリ、コツリという足音が大きくなる。これは、もうたぶん助からないだろうな、と百合香は、自分の状況を冷静に分析できる自分にむしろ驚いていた。死ぬ寸前、人間はこうも冷静になれるものらしい。

 

 その人形はゆっくりと百合香に近付くと、透明な青紫色に輝く右腕の爪を高く掲げた。

 

 それが、百合香に向かって振り降ろされようとした、その時だった。

 

 

『心の炎を絶やしては駄目、百合香』

 

 

 あの、女の人の声だった。

 

 次の瞬間、百合香はその日の何度目かの驚愕を体験していた。

 

 

『キィエエェェ!!!』

 

 鳥とも何ともつかない高い叫びを、人形は上げて仰け反った。

 その爪が、床に落としたガラスのマドラーのように、砕け散っている。断面は炎にさらされたかのように溶け始めていた。

 

 百合香は、自分の胸の前で燃え盛るそれを、まじまじと凝視していた。

 

 大きさはバスケットボールくらいある。その表面は、炎が波を打つように吹き荒れていた。まるで、太陽のようだった。

 そしてそれは確かに、百合香の胸の奥から現れたのだ。

 

「何なの…何なの、一体!?」

 その太陽を挟んで、百合香は謎の人形と対峙していた。人形は先程と様子が異なり、百合香に近寄るべきか、逃げるべきか迷い、怯えているように見えた。

 

『恐れないで、百合香。自分の、心の炎を』

 

 再び、女の人の声がした。

 

「誰!?誰なの!?」

 百合香は叫ぶ。

 

『百合香、それを手に取るのです。それは、全てを切り拓く希望』

 

 女性の声は、百合香の疑問を無視して語りかけてきた。

 

 わけがわからない。

 

 しかし、その炎を見ているうちに、百合香は自分の中に、驚くべき何かが眠っていた事を悟った。

 

 それは「勇気」だった。

 

 その炎は、自分の中にある勇気の象徴なのだ。百合香は、そう確信した。

 子供の頃、初めてバスケットボールに手を触れた、その瞬間に燃え上がった心の炎を、百合香は思い出していた。

 

『アギャアア!!!』

 

 不快な叫びを上げて、人形は破れかぶれに百合香に向かって、左腕を突き出して突進してきた。

 

 百合香は迷うことなく、目の前にある炎の塊を両手でがっしりと掴む。全身が燃え上がるように感じられた。バスケットのコートに立つ、あの感覚だ。

 

 地面を蹴ると、百合香は高く跳ね上がり、右手でその塊を、思い切り振り降ろした。

 

「でや―――っ!!!」

 

 振り降ろされた炎のボールは、人形の爪をへし折り、人形の左腕全体を、肩の根本から粉砕した。

 その衝撃で人形は弾き飛ばされ、コンクリートの壁面に身体を打ち付けてフラフラとよろめき始めた。

 

 炎のボールは、地面にめり込んだままグルグルと回転している。

 

「はあ、はあ…」

 

 一体、これは何なのか。あまりにも衝撃的な事が唐突に連続して、百合香はすっかり混乱すると同時に、得体の知れない興奮が沸き起こるのを感じていた。

 

『百合香、忘れないで。人の心にはいつでも炎が燃え盛っている事を』

 

 また、あの声だ。いい加減、百合香は冷静になり始めてもいた。

「誰なの、あなたは!?どこから話してるの!?」

『今は、声を届ける事しかできない。いずれ、私のもとへ辿り 着くでし ょ う 』

 何やら、通信が不安定な動画のように声が途切れ始めた。

『剣を手 に 取るの で s』

 そこまで言って、電源の切れたラジオのように、女性の声は聞こえなくなった。

「剣…?」

 百合香は訝しんだ。剣など、どこにあるというのか。あるのは、足元でアスファルトを溶かしてグルグル回り続ける炎のボールだ。

 

 そこへ、再びさきほどの人形がヨロヨロと歩いてきた。感情があるのかないのか、わからない。だが、何かに操られるようなその姿が、百合香にはひどく哀れに思えた。

 その時だった。

 

 炎のボールが突然、竜巻のように立ち上がった。百合香の身長くらいある。

「!?」

 百合香も、そして人形も、驚いて仰け反った。

「…まさか」

 百合香は、さきほどの声を思い出していた。剣を手に取れ、と『彼女』は言っていた。

 

 百合香は、ゆっくりとその炎の中に右手を入れる。恐れはなかった。百合香の腕は、焼けもしなければ熱くもならない。

 何かが、手のひらに触れた。百合香は、親指を下にして、それをしっかりと握ると、ゆっくりと引き抜いた。

 

 炎の柱がバーンと弾け、百合香の全身をエネルギーとなって覆い尽くす。そしてその右手には、オレンジ色の柄と、黄金の刃を備えた、ギラギラと輝く剣が握られていた。

 

「これは…」

 百合香は、目の前で起きた事に困惑と驚愕を同時に覚えていた。剣など、生まれてこの方握った事はない。こんなものを持たされて、どうすればいいのか。

 そんな事を考える暇も与えず、透き通った謎の人形が百合香に突進してきた。

「!」

 

 一瞬だった。百合香は、自分でも信じられないほど華麗な動きで、黄金の剣の切っ先を人形の心臓部に、真っ直ぐに突き入れた。

 

 剣身から、言葉にできないほど鮮烈で美しい黄金色の光が炸裂し、人形の全身をバラバラに切断した。やがて、崩れ落ちた人形の欠片は、砂粒のような輝きとなって、風に舞い消え去ってしまった。

 

「はあ、はあ、はあ…」

 百合香は、ようやく異形の怪物がいなくなった事に安堵し、その場に片足をついて座りこんだ。

 改めて、炎の中から現れた剣を見る。美しい。こんな美しい物体を見るのは初めてだった。純金のようにも見えるけれど、透明感もある。金属なのか、宝石なのかわからない。

 

 一体、この剣がなぜ現れたのか。そして、いま倒した怪物は何なのか。そこまで考えて、百合香は重要な事を思い出し、校舎の方を振り返った。

 依然として、突如出現した巨大な城は存在している。百合香は、この怪物があの城と無関係なはずがない、と考えた。

 

 そして、奇妙な事だが、町でこれほどの事が起きているというのに、パトカーの一台さえ走ってこない。一体どういう事なのか。校舎の方からも、誰も逃げてくる気配がない。

 

 百合香は、どうするべきか考えた。

 

 いま、自分は謎の怪物を倒す事ができた。保証はないが、もし次に何か現れても、何とかなるかも知れない。

 学園に何が起きたのか、自分が調べなくては。百合香は決心し、黄金の剣を強く握った。

「南先輩…吉沢さん」

 二人は無事だろうか。他のみんなは。もし、自分に助ける力があるのなら、やらなくては。そんな使命感が湧き上がり、百合香はその足を校舎に向け、ゆっくりと歩き出した。

 

 動き回っても肺が何ともない事に、その時の百合香は気付いていないのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

そこに誰かがいた

 その城は巨大すぎて、近付くほどに視界を占領していき、やがて巨大さが実感できなくなるほどだった。

 校舎はまだ残っていた。ただし、校舎の上にその巨大な城が覆いかぶさっている。校舎どころか、城は学園の敷地を大きくはみ出して、地面から立ち上がった巨大な木の幹のような氷の柱に支えられて、あたかも浮かんでいるようにさえ見えた。

 というより、ひょっとして本当に浮かんでいるのではないだろうか。

 

 空には相変わらずオーロラが浮かんでいる。この地域全体が、オーロラで囲まれているように見えた。町はどうなっているのだろう。

 

 校門は、まだ残っている。しかし、門柱は地面から湧き出したように見える氷に覆われて、学校の名前がきちんと読めない。

 城が覆いかぶさっているため、その下はとても暗かった。百合香は、周囲に警戒しながら、そこかしこに立ち上がっている氷の柱に隠れつつ、校舎に近付いてみた。手には、黄金の剣がしっかりと握られている。

 

 当然、恐怖はあった。恐怖、混乱、困惑、焦燥、およそ不安の全てがある。

 しかし、それを打ち消すかのように、百合香の心の奥底からは、静かな勇気が湧き上がっていた。

「校舎は…」

 近寄りながら、小さくつぶやく。

 昇降口は、さきほどの門柱のように地面から盛り上がった氷に覆われていて、とても入れそうには見えない。

 百合香は試みに、比較的氷が薄く見える場所に、黄金の剣を突き立ててみた。しかし、まるで手応えがない。

「剣道もフェンシングもやった事ないしな」

 そういうレベルの問題でない事は百合香もわかっているが、今の状況で冗談のひとつも言わないと、精神が参ってしまいそうだった。

 

 ふと駐車場に目をやると、例の大学だかの調査チームのものらしいバンが、後部ハッチドアを開けたまま氷漬けになっている。中には、たぶん高価であろう意味不明の機材が、冷凍保存されていた。何百万円するのかわからないが、ああなっても使えるのだろうか。

 運転席や座席は、氷が厚すぎて見えない。人がいたとしたら、おそらく生きてはいまい。百合香はぞっとして蒼白になった。校舎も同じ事になっていたら、中にいる生徒や教師たちは、どうなってしまったのか。確かめなくてはならない。

 

 そう思った時、またしても百合香は、氷の壁面にあの人影を見た。自分とよく似たシルエットの人影。

「!」

 まただ。さすがに何度もチラチラと現れると、恐怖や困惑と同時に、微かな苛立ちが湧いてくる。振り返っても、例によってどこにもいない。

「誰なの!?」

 百合香は、あの声の主が彼女なのではないか、と考えた。

「さっき私に声を送っていたのは、あなた!?」

 そこまで声を張り上げて、百合香は自分の肺が何ともない事に気が付いた。

「あ…」

 何ともない。大きな声を上げたり、少し走っただけで悲鳴をあげる肺が、あの氷の怪物と戦った時以来、胸に何の苦しさも感じない。それは、肺炎にかかる前の、健康体と同じだった。

 

 否、それどころか、健康体以上の何かを百合香は感じていた。

 

 さっき、自分はあの怪物に剣を突き入れた。今は昇降口を埋め尽くす厚い氷に、1ミリも切っ先が食い込んだかどうか、という所だが、それならあの怪物の硬そうな胴体を貫く事も、出来たとは思えない。

 

 間違いなく自分に、異様な力が沸き起こったのだ。今は鳴りを潜めているが、それはまだ胸のうちに在る、と百合香は感じていた。

 わけがわからない。あまりにも、出来事の情報量が多すぎる。何が起きているのか誰か教えてくれ、と言いたかった。

 

 だが、百合香は再び、さきほど聞いた無気味な足音で我に返った。

 振り返ると、そこには再び、先程の氷の怪物がいた。

「あっ!」

 どこから現れたのか、百合香は戦慄した。さっき、あの人影に大声で呼びかけたせいで、気付かれたのかも知れない。恐怖と同時に、あの少女への苛立ちがまた湧いてきた。

 

 同じ怪物かと思ったが、少し違う。もっと無骨な、ゴツゴツしたデザインだ。甲冑というよりも、彫刻の途中で歩き出した像、といった所だ。頭も手足も、岩の塊のようだった。指は太く、短い。

 怪物は、百合香の姿を確認すると、太い声を上げて突進してきた。

「ひっ!」

 驚いて百合香は、その場を横に飛んで避けた。怪物は氷の壁面に激突し、厚い氷にヒビが入る。あの体当たりを受けたら、だいぶ悲惨な状態で死を迎える事になりそうだ。

 背中を向ける怪物から、百合香は剣を構えて後退した。竹刀さえ握った事がないので、情けないほど素人の構えになってしまう。クラスメイトの剣道部の彼女に代わって欲しい、そう思った。

 

 バスケットボールで培ったフットワークで、素人剣技をカバーする以外にない。百合香は素人なりになんとか構えの形をつけ、動きが鈍い怪物に斬りかかった。

「えやーっ!」

 剣を振り降ろしながら、素人だなと自分でも思う。それでも黄金の剣の刃は、怪物の肩を直撃した。

 しかし、今度はさきほどの細い人形のようにはいかず、剣は大きく弾かれてしまった。

「うあっ!」

 剣に引っ張られて、百合香は思わず体勢を崩してしまう。映画の剣闘士のようにはいかない。

 そこへ、怪物は体当たりを食らわせてきた。すんでの所で回避したつもりだったが、怪物の腕が背中を掠め、肩甲骨に衝撃が走った。

「あぐっ!」

 これはまずいのではないか、と妙な冷静さをもって百合香は体勢を立て直す。

 しかし自分でも驚いたが、百合香の肩や背中には何のダメージもなかった。

 

 その時気付いた事だが、百合香の身体や制服の表面には、微かな炎のようなエネルギーが波打っているように見えた。どうやら、これがあの怪物の攻撃でも、制服さえダメージを受けていない理由らしい。

 それは少しだけ百合香に希望と安堵感を与えたが、同時に相手もまた、全くダメージを負っていないのがひと目でわかる。

 

 どう考えても殺意をもって向かってきている以上、逃げるか、さっきみたいに倒すかしなくてはならない。

 

 逃げる?一体どこへ?

 

 百合香は考えた。そもそも、自分はどこへ行けばいいのか。何をすればいいのか。というより、何ができるのか。

 相手は、考える暇も逃げる隙も与えてはくれなかった。運悪く、百合香が退避した場所は氷の柱に囲まれた場所だったのだ。

 

 倒すしかない。百合香はそう決意し、勇気を振り絞って剣を構えた。

 だが、自分の未熟な剣技で、どうすればいいのか。いや、そもそも剣道の達人だって、こんな氷の塊と戦う事はないだろう。

 

 その時百合香に、小さな閃きが起きた。

 

 剣道は知らないが、バスケットボールなら熟達している。今すぐオリンピックに出ても、活躍できる自信がある。

 

 剣を、バスケットボールの要領で振るう事はできないか。

 

 そんな無茶苦茶な理屈が、百合香に根拠も保証もない自信を与えた。

 

 それ以上考える間もなく、怪物は腕を上げて再び突進してきた。

 百合香は、これがバスケットボールの試合の相手選手なら、と本能的に考える。ボールはこっちが持っている。ならば。

「はっ!」

 百合香は、相手がわずかに開けた氷柱との間のスペースを、ドリブルで突破する要領で走り抜けた。やった、と心の中で小さなガッツポーズをする。

 

 しかし目の前に、別な氷柱が現れた。このままではボールを奪われる。

 その時、右手方向から声が聞こえる気がした。南先輩の、少しだけハスキーな張りのある声だ。

『百合香!』

 パスを求める先輩の声がする。百合香は振り向いた。怪物が、背中を向けている。首がガラ空きなっていた。

 先輩を信じてパスを送るいつもの瞬間のように、百合香はしっかりと黄金の剣の柄を両手で握り、脚に力をこめ、両腕を一気に突き出した。

「えや――――っ!!」

 

 一瞬の沈黙があった。

 

 百合香が突き出した剣は、怪物の首の付け根に深々と突き立てられていた。その剣身には、太陽の輝きのようなエネルギーが満ちていた。

 百合香の口をついて、言葉が紡がれる。

 

『シャイニング・ニードル!!!』

 

 百合香の全身から立ち昇ったエネルギーが、柄から剣身を伝って、一直線に突き抜けた。

 それは怪物の首を切断して跳ね飛ばし、昇降口のガラス扉を氷ごと貫通した。

 

 ゴトリ、と重く硬い音を立てて、怪物の首が床に落ちる。怪物の首から下は、糸が切れたようにその場に崩れ落ち、ぴくりともしなくなった。

 百合香は距離を取って後ずさり、怪物が本当に動かなくなったのかどうか、恐る恐る確認した。剣先でチョンチョンと身体をつつき、押してみる。しかし、さっきまで満ちていたエネルギーのようなものが、まるっきり消え去っていた。

 

 ほっと息を吐いて、百合香はその場に膝をついた。どうやら、今度も倒せたらしい。これを一体倒すだけでこれほど苦労するようでは、もっと大量に出てきたらどうすればいいのか。考えただけでゾッとしたので、百合香はまずどこかに身を隠さなくては、と考えた。

 

 その時だった。昇降口から、ビキビキと鈍い音がした。

 

 さきほどの、最後の攻撃の余波が、昇降口を貫いた跡からの音だった。最初は全く歯が立たなかった氷塊を、ガラスごと見事に貫通して、幅10cm程度の穴が開いている。

 その穴を中心に、少しずつ亀裂が拡がって行った。

「あっ!」

 百合香が驚く間もなく、亀裂の入った部分がガラス扉ごと崩落して、なんとか女子が一人通れるくらいの穴ができたのだった。

 

 百合香は周囲を警戒しながら、身体をねじるようにして校舎に入ってみた。比較的身長はある方なのと、バストが若干つかえて苦労した。

 そこには静寂だけがあった。校内にはそれほど大量の氷は侵入していないが、やはりほとんど凍結している。昇降口にある自販機も凍結し、電源が切れていた。

 照明もついていない。停電しているのか、それとも凍結したせいでこうなったのか。

 

 とりあえず、職員室と階段がある方に歩いてみる。

 掲示板を通り過ぎて、職員室や生徒指導室などがある廊下に出たとき、百合香は息をのんだ。

「!!」

 生徒がいた。鞄を持っている。ニコニコして、帰ろうとしているようだった。

 しかし、その姿は異様だった。翻ったスカートのプリーツが、固まったまま静止している。長い髪も同様だった。

 恐る恐る近付いて良く見ると、遠目にはわからないが、全身が薄い青紫の氷の膜に覆われて、凍結していたのだった。

「ひっ」

 百合香は思わず後ずさった。生きているのだろうか。不思議と、死んだようには見えない。しかし、生きているようにもまた見えない。

 よく見ると、彼女の身体から床を伝って、何かキラキラした光が、間断なく流れ出ている。その光は壁や柱を伝って、上に上っているように見えた。

 大丈夫か、と声をかけるのはあまりにも愚かに思えた。大丈夫なわけがない。

 

 今さらだが、異常事態だと百合香は思った。こんな現象、聞いた事がない。

 精一杯冷静さを保って、職員室の開いた扉を見る。話し声ひとつしない。またしても恐る恐る、百合香は近付いて、ゆっくりと室内を覗いた。

 

 なんとか、悲鳴を上げないと心に決めた課題は乗り越えた。しかし、驚きのあまり百合香は硬直して、しばらく動く事ができなかった。

 予想していた事ではあるが、職員室の中の人間もまた廊下の生徒と同様に、普段どおりの動作そのままの状態で凍結していたのだ。提出された課題を、渋い表情で睨んでいる顎ひげの先生。カップに給湯器からお湯を注いでいる、頭頂部が寂しい先生。給湯器から流れ出ているお湯が、動画プレイヤーを一時停止したように固まっている。

 そして応接スペースでは、例の大学の調査チームとその後から歩いてきた数名の教職員が、話し込んでいるそのままの状態で凍結していた。

 

「どういうことなの…」

 かすれるような小さな声で、百合香は呟いた。どうやら、校内の人間はみな、一瞬で凍結してしまったらしい。

 だが、先ほどの生徒と同じように、やはり凍結した教職員らの表情も、まだ生気が感じられるのが逆に不気味だった。

 

 生きている。

 

 直感でそう思った。生きてはいるが、動いていない。

 百合香はその時吉沢さんから、文芸部のミステリ小説の書評を頼まれていた事を思い出した。推理小説の名探偵たちなら、この状況をどう分析するだろう。

 かろうじて読んでいるシャーロック・ホームズは、「どれほど奇妙に思えようと、あり得ない要素を排除して最後に残ったのが真実だ」と言っている。では、あり得ない事、奇妙な事だらけのこの状況は、どう理解すればいいというのか。私がホームズなら、諦めてポワロさんに仕事を丸投げするところだ。

 

 だがその時、名探偵百合香はひとつ気付いた事があった。

 

 応接スペースのソファーが一箇所、凹んでいる。

 

 つまり、そこに誰かが座っていたという事だ。

 もし、ここにいる人達と一緒に座っていたのなら、一緒に凍結していても良さそうなものだ。ソファーもまた凍結してカチコチに固まっているため、この凹みは凍結する瞬間、誰かが座っていたために出来た凹みのはずである。

 

 つまりこの状況は、謎の凍結現象のあとで、この応接間を立ち去った人間がいる事を示している。

 そして、座っている位置からして、これは学校の人間だ。さらに、凹みの大きさは小さく丸い。比較的身体が細い人間のものだ。

 

 この異常な状況下で、無事でいられる人間がいたらしい。おそらく先生の一人だ。その先生は、どこに行ったのか。昇降口も、その隣の来客・教職員玄関も、凍結していて出ることはできなかったはずだ。つまり、校内のどこかに現在もいると考えるべきだろう。この異常を、単身で調べに出た事も考えられる。

 

 百合香は、その「生き残り」を探すため校舎を捜索する事にした。ひょっとして、他にも同じように助かった生徒がいるかも知れない。

 まず、南先輩の無事を確かめる事もあり、百合香は体育館に向かった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

託された者

 この、学園全体や、おそらく町そのものが凍結している異常現象のなかで、校内になぜか一人だけ動いている何者かがいる。それは一体何者なのか。

 

 そこまで考えて百合香は、間違いがあることに気付いた。動けるのはその何者か、だけではない。

 

 

 私もなぜか動けている。

 

 

 もっとも、まだ校舎や町全体を捜索したわけではないので、同じように動ける人がいるのかも知れない。

 そんなことを考えながら、ふと百合香は廊下の壁にかけてある、年代物の温度計に目が行った。

 

 目盛が振り切れている。

 マイナス方向に。

 

 その温度計の下限はマイナス30℃である。それが振り切れているということは、少なくともマイナス30℃以下の気温だということだ。小学校の頃、ちょっとした商店をやっている友達の家の冷凍庫にみんなで忍び込んで怒られた、あの時の温度が確かマイナス24℃くらいだった。それを遥かに超えている。

 

 たしか、日本の最低気温の記録がマイナス40℃強だったはずだ。どこだか知らないが、たぶん北海道だろう。その気温でも人間は生きてはいたという事だ。

 しかし、いまこの学園の中は、どうやらそれを超える恐ろしいまでの極低温にさらされているらしい。

 

 人間や物体が凍結して動かなくなる温度というのは、一体何℃以下なのか。それを説明できそうな科学の先生が、さっき凍結していた気がする。

 親戚のおじさんの家で読んだバトル系の漫画に、ピカピカの鎧を着て絶対零度がどうの、と解説するキャラがいたのをふと思い出したが、なぜ彼は戦闘中に物理の講義を始めたのだろう。そんなことは今どうでもいい。

 

「なんで私、動けるんだろう」

 

 改めて百合香は呟く。それも、ただ動けるだけではない。いま百合香は、半袖のシャツの上に袖なしの薄手のワンピース制服、という服装である。どんな服装も関係なさそうな極低温ではあるが、その状態で寒くも何ともないというのは、どういう事なのか。

 何かの動画で、マイナス10℃の湖でシジミを採って絶叫している熱苦しいおじさんを思い出したが、それを遥かに超えている。

 

「…まさか」

 そう思って百合香は、何気なく胸に手を当てた。

 すると、胸の奥からオレンジ色に輝く光がにじみ出し始めた。

「うわっ!」

 百合香は慌てて、胸を強く押さえる。なんだ、この光は。そう思った時、驚くべき事が起きた。

 右手に握っている黄金の剣が、眩い光に包まれたかと思うと、百合香の胸に吸い込まれて消えてしまったのだ。

「なに、なに!?」

 百合香は、全身を手でまさぐった。しかし、あの剣は胸から現れた光とともに、消え去ってしまったのだ。

 あの剣がなければ、また怪物が現れた時にどうすればいいのか。困る。いや、困るとかのレベルの話ではない。空手部や柔道部でも、あれと徒手空拳で戦うのは考えものだろう。

 

 その時だった。なんとなく予感がして、いつもならグラウンドが見えるはずのガラス窓に目をやる。

 そこで百合香は、心臓が止まるかと思うほどのショックを受けた。

 

 ガラスに映る自分の隣に、もう一人の自分がいる。

 

 いや、顔立ちはまるで同じで、髪も同じロングストレートだが、よく見ると髪の色が黒い。百合香は生まれつきブラウン寄りである。そして、前髪は百合香のように軽くカールしておらず、おかっぱ調に切り揃えてある。

 間違いない。さっきまで何度も現れては消えた、あの少女だ。少女は、ニコニコ笑って百合香を見ている。

 

 もう、異常な現象にいい加減耐性がついてきた百合香は、驚きよりも行動力の方が勝り始めていた。

「逃さないわよ、今度は!あなた、いったい誰なの!?ここに来なさい!姿を現して!」

 今までは振り向いた途端に姿を消されたので、今度は映っているガラスに向かって凄んでみせた。

 明らかに自分の顔なのだが、不覚にもちょっと美少女だな、と思ってしまった。

 

 バン、とガラスに手を突いて、相手の目を見る。不気味なまでに自分の顔だ。ただ、髪が違うので全体の印象は少し違う。なんというか、魔女のイメージだ。

 謎の少女は、ガラスに映る百合香自身と重なって見える。

 そのとき、少女の唇が小さく動いた。何か言っているらしい。同じ言葉を、ゆっくりと繰り返しているように見える。

 

『ゆ り か』

 

 唇の形から、そう呼びかけられているように見える。百合香は、ぞっとして後ずさった。

 すると、少女はまたしても、少し寂しそうな顔をしてすっと消えてしまったのだった。

 

 その時なんとなく、百合香は悪いことをしたような気がして、あの少女に謝りたい、という奇妙な感覚を覚えた。

 それと同時に何かの心霊漫画で、物心がつく前に死に別れた双子が現れる、という話を読んだ事も思い出した。そんな子がいる話、母からは聞いていないが。

 

 ありもしない話を脳内で展開しても仕方ないので、百合香は気持ちを落ち着けて、校内の孤独な探索に戻る事にした。

 

 

 試みにスマホを取り出してみるが、やはり先刻と同じように、電波は届いていない。無線LANを拾っている様子もない。もっとも停電しているようなので、おそらくLANルーターも何もかも稼働していないのだろう。バッテリーは少しずつ減っている。充電用予備バッテリーはカバンの中に―――

 

 そこで百合香は大変な事に気付いた。バス停の外で例の怪物と戦った際、カバンをどこかに投げ出してきてしまったらしい。今この状況で、盗難に遭う心配はないかも知れないが、紛失するのはまずい。

 バス停まで、そこまでの距離はない。取りに行くべきか。道中、またあの怪物と遭遇したらどうするか。思考が百合香の中で渦巻く。しかし、まず南先輩が心配だ。先に、彼女の安否を確かめるために、体育館へと急いだ。

 

 

 百合香が凍結した校門に辿り着く少し前、学園校舎の屋上に向かう階段のドアの、鍵を回す手があった。ドアには『許可なく生徒の立ち入りを禁ずる』と貼り紙がある。

 その人物はドアを開けると、周囲を氷に閉ざされた屋上に出た。コツリ、コツリと硬い足音が響く。

 屋上には、天に向かって延びる氷の階段があった。足をかければ即座に滑って踏み外しそうだが、その人物は恐れる事なく、何事もないかのようにその階段を上って行く。その先には巨大な氷柱が不気味に垂れ下がって連なり、階段は暗闇の入り口に向かって続いていた。

 

 

 第ニ体育館に着いた百合香を待っていたのは、予想していた事ではあるが、戦慄の光景だった。

 バスケットボール部の面々が、先刻の職員室にいた人間たちと同じように、恐怖も苦しみも見せず、後片付けをする姿勢のまま凍結していた。手に持ったバスケットボールは、そのまま一緒に凍結している。

 

 そして、不安を増大させる間もなく、百合香の視界には榴ヶ岡南の姿が入ってきた。

「先輩!!!」

 百合香は駆け寄り、南の腕や肩に手をかける。やはり、彼女もまた水晶のように凍結していた。手には準備室の鍵が握られているが、その鍵も揺れた状態で斜めになって固まっていた。

「先輩…」

 恐る恐る、その整った顔に手を当てる。まるで陶器の人形のように硬い。百合香は、恐れのあまりその場に尻をついて崩れ落ちた。

「なんてこと…なんてこと」

 どうすればいいのだろう。彼女は生きているのか。そうは思えないが、仮に生きているとして、この状態から助かる術はあるのか。

 そして、百合香は文芸部の部室にいるであろう、吉沢さんの事も思い出した。しかし、ここまで来ると行っても同じ事なのではないか、という気持ちになってきた。

 

 それまで百合香の心を支えていた根拠のない勇気が、ここにきて突然揺らぎ始めた。しょせん、16歳の少女である事を百合香は悟った。

 いや、たとえどんな頑強だったり聡明な人間であっても、この状況では何もできる事などないのではないか。

 

 しかし、百合香には恐怖している暇さえなさそうだった。床に倒れ込んで視点が低くなった事もあり、窓の外に目が行った。

 

 何かが浮いている。

 

 それは、距離感がはっきりしないものの、巨大な球体だった。大きさは乗用車くらいありそうだ。それが、ドローンのようにフワフワと、体育館のずっと向こうの校庭を動いている。

 

 直感的に百合香は危険を覚えて、それが目に入らない壁の裏に身を伏せた。

 少しだけ顔を出し、それが何なのか確かめてみる。

 

 その物体がくるりと横方向に回転したとき、百合香は気が付いた。

 

 目だ。

 

 巨大な、眼球のオブジェのようなものが浮かんでいる。まるで、周囲を警戒しているようだ。

 

 その不気味さは、言葉に喩えようのないものだった。

 唐突に、百合香の心臓が鳴る。見付かったらどうなるのか。襲いかかって来るのではないか。今は、さっきまで身を守ってくれた剣もなくなってしまった。

 

 あれは、ひょっとして侵入者を発見するための何かではないのか。もし見付かったら、さっきの怪物たちが大挙するのではないか。そうなったら、私はどうなるのか。

 

 先輩の方を見る。コートの上では誰よりも頼もしい南先輩が、今その全身を凍結させられて動かないままでいる。

 

 こんな状況で、なぜ自分だけが動いているのだろう。こんな恐怖と不安を体験するくらいなら、みんなと同じように氷の像になっている方が、良かったのではないのか。

 

 

 そんな事を考えた時、ふと百合香は、バスケットボール部に入部してさほど経っていない初夏の、ある試合を思い出していた。

 百合香たち1年生は、まだ重要な試合には出場していなかった。その試合も、県大会などには繋がらないものの、そこそこ重みのあるものだった。

 

 その試合の終わりが見えてきた段階で、ガドリエルは1点差をずっと覆せないままでいた。

「3番が限界」

 ベンチでふと、百合香はついそう口に出してしまった。慌てて口を押さえる。縦社会の運動部で、先輩にケチをつけるのはご法度だ。

 周りの1年生がぎくりとして百合香を見るが、聞かなかったフリをしてくれた。

 

 しかし3番、スモールフォワードを務める2年の先輩が、ここという場面でなかなか活路を見い出せないのが見てわかる。相手は強豪であり、むしろ1点差で抑え続けているだけでも凄い事である。相手は、リードを拡げられない事に苛立っているようにも見えた。

 

 その後、コーチと榴ヶ岡先輩が、少し真剣な顔で話し込んだあと、スモールフォワードの先輩がベンチに下がった。

 まだ上級生に控えはいる。体力がある選手と後退すれば何とかなる、とベンチの1年生達は期待を込めた。

 しかし、その1年生がいるベンチに、コーチが歩いてくる。

「江藤、出なさい。3番」

 

 その瞬間、頭の中が真っ白になった。ちょっと何言ってるかわからない、と脳内でお笑いコンビの片方がボケているのが聞こえた。

「聞こえた?江藤百合香さん、出て」

 強めの口調でコーチが言うと、百合香の背筋に緊張が走る。どうやら、冗談抜きでスモールフォワードを任されるらしい。負ける直前の1点差の試合で、まだ高校での大会には出ていない1年生に。

 何を考えているのだ。そう思いながら、百合香は周りのみんなの顔色を見ながら、恐る恐る立ち上がった。

「い…行って来ます」

 何て締まりのない、と自分でも思ったが、とにかく百合香はスモールフォワードを交代してコートに出た。榴ヶ岡先輩が駆け寄ってくる。

「いい、江藤さん」

 憧れていた先輩の顔が近付いてきて、百合香の緊張は倍化された。

 

 その後、何を話して、試合でどう戦ったのか、覚えていない。気が付いた時には3点差でこちらが勝利しており、相手校のコーチや上級生たちが、あいつは何者だ、という目で百合香を見ていた。

 榴ヶ岡先輩は、よくやった、偉い、と言って汗まみれの身体を押し付けてきて、背中を叩かれた。先輩の汗と私の汗が混じる。

 

 

 あの時、なぜ私は唐突に任されたのだろう。いや、そこはもっと単純に考えるべきなのはわかっている。しかし、それを引き受けるのは、けっこうな度胸が要る。

 

 では、今この状況で、なぜ私だけが、まるで何かを任されたように、一人だけ校内の探索をしているのか。誰かが、何かを私に託したというのか。

 

 そうであるなら、何をすればいいか、誰か教えてくれてもいいのではないか。

 

 そこまで考えて、百合香はあの謎の『声』の事を思い出した。

 考えてみれば、あの声に急かされて百合香は、学校を出る形になったのだ。やはり、学校がこういう事態になる事を、あの声の主は知っていたとしか考えられない。

 もし、百合香がまだ校舎に残っていたら、先輩たちと同じように、氷の像になっていたのかも知れないのだ。

 

 コーチと先輩は、試合に勝つために私をコートに配置した。では、あの『声』の主は、何を私に求めているのか。

 あの剣が現れたのも、声に導かれての事だった。剣は戦うための道具、武器だ。つまり、何かと戦うためにあの剣は現れた。何かに勝つ、何かを打ち倒すために。

 

 今まで起きている事を総合すれば、小学生でもわかる事かも知れない。私は学校の上空に現れた、巨大な城を何とかするように言われているのではないか。

 

 冗談もたいがいにして欲しい。百合香は心の底から思った。何とかしろって、どうすればいいのだ。解体業者が途方に暮れそうな、あの巨大な城を。

 あの城が、全ての元凶であるらしい事はなんとなくわかってきた。正体不明の怪物たちも、おそらくはあの城から出てきたのだろう。

 

 今さらだが、学校の上空に唐突に現れた、あの城は何なのだ。

 

 再び、百合香に恐怖を上回る怒りが沸き起こってきた。あれが元凶だというのなら、バラバラに解体してやらなくてはならない。

 百合香は、拳を握って立ち上がると、窓の外で不気味に浮遊する、巨大な眼球を睨んだ。

 

 その時だった。百合香の胸が再び、眩く輝き始めた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

氷の階段

 百合香の胸元から、制服をすり抜けるようにして、さっきバス停付近で怪物と対峙した際に現れた、あの炎のボールが再び現れた。咄嗟に、体育館の外から見えない場所に隠れるように移動する。

 

 なんとなく、この太陽のような球体が現れるパターンがわかってきた。これはあの黄金の剣の「収納箱」みたいなものなのだ。

 そして、おそらくだが、それは百合香が身の危険を感じたり、闘争心が昂ったときに現れている。

 

 だが、現れたり現れなかったりするのは非常に不安である。これは、コントロールできるのだろうか。

 

 そう思った時、球体はゆっくりと胸元に吸い込まれるように消えて行った。

 

「これは…私の気持ちに反応しているの?」

 

 状況を整理するため、百合香は言葉にしてみる。どうやらこの「太陽」は、百合香の意思によって操作できるらしい。

 ふと、立って凍結している南先輩と目が合った。

 

「…先輩」

 

 百合香は、静寂と闇が支配する体育館で、決意したように足に力を入れる。ゆっくりと、コートの真ん中に立つと、すうっと息を吸い込んだ。

 先輩たちは生きている。学校の、凍結しているように見える人達も、全員生きている。

 

 そう、断定することにした。

 

 もし、今まで一緒にいた人達、好きな人も嫌いな人たちも、全員が一度に死んでしまったというなら、それはあまりに衝撃的な事だ。耐えられそうにない。

 だから百合香は、まだ彼女たちは生きていて、救えるのだと考える事にした。

 

 根拠は何もない。しかし、あの試合で百合香をスモールフォワードに抜擢したコーチや先輩だって、百合香が中学でエースだったというそれだけの根拠しかなかったはずだ。

 ならば、私にこの状況を覆せないという根拠も、どこにもない。

 

 静かに、胸元に心を集中させる。すると、その呼びかけに応えるように、炎の塊が、今度は迷いのない動きで眼前に現れた。

 百合香はその表面にそっと手を当てる。炎の塊、太陽は、一瞬ピンポン球のように収束し、光が弾けるように再び黄金の剣の姿になった。

 

 いや、よく見ると先程と色味やデザインが違う。先程の、見ようによっては品がないと言えなくもなかった黄金の両刃の剣身が、もっと落ち着きのある金色に変化したのだ。それはあたかも純度の低い金から、24金に精錬されたような印象だった。

 柄のデザインも、先ほどの刺々しさが見られる角ばったものから、まるで品位の高い指輪のような形状に洗練された。

 

『純度が低ければ金のアクセサリーでもいつか濁る。でも、限りなく純度が高くなれば、卑金属と勝手に私達が呼んでいる、鉄だってほとんど錆びなくなるのよ』

 

 子供の頃、母親が説明してくれた事を思い出す。

 私は純金か、それとも鉄か。どっちでもいい。目的を果たせるのなら、金でも鉄にでもなろう。百合香は、金色の剣をその手に静かに握ると、南先輩の前で胸元に掲げた。

「一人の試合は不安だけど、行ってくるね、先輩」

 

 

 

 行ってくるとは言ったものの、どこに行けばいいのか、勇んで体育館を出た百合香は早々に頭を抱えた。そもそも結局のところ、まだ事態の全容は全くわかっていないのだ。

 

 勉強の要点をルーズリーフにまとめるように、百合香は現在の状況を整理することにした。

 

・冷凍庫より寒い。

・たぶん町全体が凍結している。

・人も凍結しているが、生死不明。

・超巨大な城が現れた。

・氷か水晶みたいな怪物が現れた。

・大人の女の人の声が指示してきて助かった。

・自分の身体から太陽が出てきた。

・太陽が剣になった。

・ガラスに自分そっくりの美少女が現れる。

・どうやら職員室の、たぶん先生に無事な人がいる。

 

 他にも細かい事は色々あるが、大まかにはそんな所だろう、と百合香は頭の中で考えた。

 そこで最大の疑問は、そもそもあの城は「誰が」造ったのか、という事だ。

 

 校舎は教育のため、あるいは私立なら経営の意味もあって建てられる。病院は医療のために。本屋は本を売るために。全ての建造物は、目的があって建てられる。

 では、城は何のために建てられるものか。

 

「…支配するため」

 

 百合香は、古今東西の城に共通する、その目的を呟いた。城は、その場所を支配、統治するための拠点として造られる。

 では、何者かがこの土地を支配するために、あの城を造り上げたというのか。政令指定都市とはいえ、中心からだいぶ外れた山間の土地を支配してどうするのか。しかも、人間をカチコチに凍結させてしまっては、税の取り立ても出来なくなりはしないか。

 

 冗談はともかく、ひとつだけわかっている事がある。これは、獣の群れが力と本能に任せてナワバリを作ったのではない。明らかに、高度な知性を持った何者か、それも超常的な力を持った何者かによって、おそらく計画的に引き起こされた事態である、ということだ。

 自分の胸から炎の塊が飛び出したり、声がしたり幽霊か何かがガラスに映ったり、全てが通常の理解を超えている事はわかりきっている。もはや問題は何が起きているかというより、何者が引き起こしたか、という点についてだ、と百合香は考え始めていた。

 

 答えが見付からず、特にあてもなくもう一度職員室に戻ると、百合香は教員のデスクの電話から受話器を持ち上げてみた。有線ならひょっとして、外に通じるかも知れないという期待を持ったのだ。

 しかし、それは無駄だった。受話器は本体に凍結して張り付いている。そもそも停電していて、本体が動いていないのだ。

 

 だいいち、こんな異常事態に警察や消防、あるいは自衛隊だって、動かないわけがない。理由はわからないが、どうもこの学園あるいは一帯が、外界と隔絶しているらしかった。

 

 再び、百合香は先ほど見た、誰かが座っていたらしい応接スペースのソファーの凹みを見る。

 スリムで形のいいヒップだ。そして注意深く見ると、女性用のショーツの型が見える、ように思える。

 

 といっても、女子校なので女性教員は何人もいる。しかもヒップの形なんて、よほど太ってもいない限り、特定しようがない。ソファーの跡で女性を特定できるのは、どちらかと言うと変態ストーカーおじさんの部類だろう。

 

 しかしそこまで考えて、百合香は改めて気が付いた。さっき体育館まで移動する最中、足音も立てたし、あのガラスの少女に向かって声を張り上げもした。

 にもかかわらず、誰も百合香の存在に気付いている様子がない。これだけ静かなら、隣の棟にいたって気が付くだろう。

 

「…この人はすでに校舎にはいない」

百合香は、そう結論付けた。それ以外に説明がつかない。おそらく校舎はさっき見てきたように、周囲を氷に閉ざされて出ることはできなかった。百合香が穴を開けて侵入する前にこの女性がここを移動したと言うのなら、どこに移動したのか。

 昇降口や窓から外に出られないというのなら、校内に出られる場所はもう特定されたように思えた。

「…上か」

 それしかない。そして、教員なら屋上への鍵の場所も知っている。推測だが、その教員は屋上からの脱出を考えたのではないか。

 

 百合香は、まず今いるA棟の屋上に至る階段を上ってみた。すると床に、ドアを開けて凍結した床面を引いた跡がある。驚きながらも、その痕跡を観察した。

 しかし、百合香は奇妙なことに気付いた。今まで見てきたドアや窓は、極低温で張り付いて、動かせなくなっているものがほとんどだった。なぜ、このドアは開けられたのだろう。

 そう思ってドアノブに手をかけると、百合香はまたも驚いた。やはりドア全体が凍っているのだ。ドアノブは軸自体、凍結して回せなくなっている。鍵を差し込めたとも思えない。どうやって、「彼女」はここを通過したのだろう。

 

 そこまで考えて、百合香は背筋が凍り付くのを感じた。

「…このドアの鍵はどうやって取り出したんだろう」

 百合香は、いつも先生が準備室などの鍵を取り出す、職員室の壁掛けスチールケースを思い出していた。あの中に、屋上への鍵もあったはずである。

 しかし、あのスチールケースだっておそらく、他の物体と同様に凍結していたはずだ。南先輩の手にあった鍵は、斜めに振れた状態で硬直していたのだ。まるで時間が止まったかのように。

 

 どうやって凍結したケースを開け、鍵を取り出し、鍵を開け、ドアノブを回して外に出たのか。

 

 

 それはつまり、凍結状態をコントロールする方法を知っている、という事に他ならないだろうか。

 

 

 百合香はひとつの、空恐ろしい推理に到達した。

 

 この、異常現象を事前に知っていた人物が、学園内にいたのではないか。

 

 こういう事態になる事を知っていて、自分は何らかの知識によって、その影響から逃れ、屋上からどこかに消えた人物だ。

 

 でなければ、ここまで冷静な行動は取れない。恐怖に我を失って脱出を考える人間が、こんなふうにドアをきちんと締めて脱出するなんて事、あるわけがない。ドアを開け放したまま大声を上げて外に飛び出し、助けを求めるのが普通だろう。

 

 しかし、あの応接スペースのソファーに座っていた人物は、凍結現象に学園が見舞われた事を確認すると、慌てる事なく屋上へのドアの鍵を準備し、おそらく百合香が最初の怪物と戦っていた時間に、悠然と屋上に出たのだ。

 

 そして、外にいた百合香は校舎から誰も出てこなかった事を知っている。この状況から導かれる結論は、たった一つしかない。

 

 

 その何者かは、屋上からあの城に上ったのだ。

 

 

 つまり、ソファーに座っていた何者かは、あの「城」側の人間、ということだ。

 

「…裏切った、という事なの」

 そう呟く百合香の声は、かすかに怒りで震えていた。

 

 あの城は何の目的か知らないが、突如現れてこの学園の平穏を奪った。それを知っていながら、それを当然のこととして看過し、自分は ―おそらく安全な― あの城に移動したのだ。

 

 一体、あの城には誰がいるのか。何があるのか。

 

「――――許せない」

 

 百合香の剣を握る手に力が入る。それに呼応するかのように、剣は白金色の輝きを放ち始めた。

 

 何の目的があるのか知らないが、学園をこんな目に遭わせる者に、正義なんかある筈がない。たとえ神様がそう言ったとしても、私は認めない。

 

 百合香は、居合抜きのような姿勢で剣を構え、ドアノブめがけて一閃した。

 ドアはノブごと水平に切断され、その断面を中心にドア全体がバラバラに崩れ落ちた。屋上への出口が開いたその先には、青紫色に鈍く光る氷でできた、天に向かって延びる階段が見えていた。

 

 もはや、選択肢はない。私はこの剣を携えて、あの城に乗り込むのだ。百合香は、そう心に決めた。あの城の正体を解き明かし、可能なのかはわからないが、みんなを助ける。

 百合香は、不気味に浮かぶ城の底部に延びる階段を睨んだ。ここを上れば、あの城に入れるかも知れない。

 

 だが、どう考えても安全な場所には思えない。そもそも中には何がいるのか。さっき現れたような怪物が、何体も蠢いているのではないか。

 そして城であるなら、「長」がいるはずだ。それは一体、何者なのか。さらに、この学園の人間でありながら城に逃げ込んだ「X」の正体は。

 

 そして、入ったら生きて出られるのか。

 

 いざ階段を前にして、16歳の少女の足がすくんだ。一人の女子高生に何ができるのか。アテになりそうなのは、右手に握った金色の剣だけだ。

 こんなに緊張するのは、いつ以来だろう。百合香の脳裏に浮かんだのは、南先輩とLINE交換してから、初めてメッセージを送った時だった。どんな文面なら気を悪くされないか、二言三言のためにさんざん時間をかけて考えた挙げ句、送信ボタンを押す決断にさらに時間を要した。正直、県大会に出た時の百倍緊張した。

 

「…あの時に比べたら」

 百合香は剣を構え、かすかに震える足を踏み出す。

 

 行くぞ。

 

 そう、心で呟くと、ゆっくりと階段に近寄って、一段目に足をかけた。氷でできてはいるが、不思議と滑る様子はない。

 城の底部には入り口のようなものが見えるが、暗闇で下からは見えない。上っても入れるかどうかはわからない。

 しかし、閉じているならまたこの剣で切り開いてやる、と百合香は思い、その自分自身の勇気に驚いていた。

 

 一段、一段と上るごとに、城は近付いてきた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

剣闘士

 オーロラが不気味に輝く鈍色の空が、水晶のように澄んだ氷の窓から見える。

 豪奢な青い絨毯が真っ直ぐに引かれた大広間の最奥に、黒曜石のように滑らかに輝く素材で造られた座があり、そこに暗灰色の鎧を纏った何者かが足を組んで座っていた。顔は鎧と同じ色の仮面で覆われている。座は、その体格よりも幾分大きく見えた。

 

 その何者かは、座を立つと窓の前に行き、不気味に美しく広がる空を睨んだ。

 

 

 

 江藤百合香は、氷の階段を恐る恐る上り切ると、巨大な城の底部に開いている入り口に到達した。

 入り口の奥はやや長い通路になっている。100mより少し短いくらいか。学校の廊下より少し狭い。壁も床もゴツゴツしていて、とりあえず歩くためだけ造られた、という印象だ。

 

 学校指定の紐なしローファーは、こんな床面を歩くためには出来ていない。ファンタジーやバトル系の漫画やアニメで、紐なしローファーを履いた学生が悪役相手に飛んだり跳ねたりして戦っているが、あれはウソだろう。生きて帰ったのち本棚の漫画を読んだら、だいぶイメージが変わりそうだと百合香は思った。

「体育館でバスケのシューズ拝借してくれば良かった」

 そうつぶやいて、カチコチに凍ったシューズを拝借しても履きようがない事に気付く。

 

 そんな事を考えながら通路を進むと、通路は右に折れていた。

 壁じたいが微妙に透明感のある素材で出来ており、完全な暗闇ではないので、かろうじて視認はできる。注意しながら百合香は、通路を右に曲がった。

 すると、すぐに短い階段が現れた。奥は通路よりは明るく見える。

 百合香は、剣が手にあることを確認して、階段を上った先に何があるのかを確かめるため、身を屈めてゆっくりと移動した。

 

 物音を立てず、静かに階段から顔を半分だけ出す。すると、そこは通路だった。やはり切り出しただけの雑な通路だったが、だいぶ広い。ソフトボール部員がフルスイングで素振りをしてもお釣りがくる。

 等間隔で青白く光る、石のようなものが天井に埋め込まれていた。まさか電力など入っていない事は百合香もわかっている。たぶん、魔法のような超常的な原理の照明なのだろう。ここまで来ると、もう何でも頭に受け容れてやろうという気になっていた。

 前後どっちに進めばいいのかわからず、とりあえず階段から出てきた方向に向かって歩くと、通路は左に折れていた。

 

 その時の自分が迂闊だったと言われれば、そのとおりですと認めざるを得ない。百合香は何の警戒もせず、昼休みに図書室へ本を返しにでも行くかのように、その角を曲がった。

 

 本当に心臓が止まるかと百合香は思った。そこには、またもあの、青紫色の氷でできた、人形がいたのだ。しかも、ご丁寧に今回は槍まで持っている。

「!!!」

 本当に驚くと、悲鳴さえ出ないのだと百合香は知った。喉が引きつり、肩甲骨が持ち上がる。

 槍の人形は、百合香を認識すると当然のように攻撃してきた。百合香は焦ったが、戦闘も3度目である。突き出された槍を、ドリブルで相手をパスするようにかわすと、だいぶ細身の人形の右横に出た。相手は腕を突き出しており、胴がガラ空きになっている。

「えやっ!」

 百合香は、金色の剣で相手の手首を斜め上に斬り上げた。パーンと小気味よい音がして、砕けた人形の手首もろとも、長柄の槍が宙を舞い、床に落ちる。やればできるじゃないの、と百合香は心の中で自分に喝采を送った。

「ギィエエエ!!」

 鳥か獣かわからない不快な声を上げて、人形は残った左腕を落ちた槍に伸ばした。そうはさせまいと、百合香は間髪入れず剣を両手で振り下ろす。

「めーん!!」

 明らかに狙った先は面でなく小手なのだが、剣道部でもないので問題はない。ともかく、振り下ろされた剣は人形の左手首を切断し、槍を拾いそこねた人形はバランスを崩して、壁に激突した。

 チャンスだ、と百合香は剣を大上段に振り上げる。シュートできる一瞬のタイミングを突くように、人形めがけて全力で振り下ろした。

 

『ディヴァイン・プロミネンス!!!』

 

 再び、口をついて言葉が紡がれ、剣身が真っ赤な炎に包まれた。

 振り下ろされた剣は、炎とともに人形の頭から胴体を一刀両断し、割れたその身体は蒸発するように、光となって燃え尽きて行った。

 

「ふう」

 先ほどまでと異なり、百合香の呼吸は落ち着いていた。これは、戦いに慣れてきた証だと百合香は思った。スポーツも、慣れてくると疲労のしかたが変わってくる。たった3度の戦闘だが、スピードと一瞬の判断力が要のバスケットボールで培われた、百合香の経験値のなせる業だった。

 いける、化け物相手でも私は戦える、百合香はそう確信して、少しだけ自信を持つ事ができた。

 

 しかし、その自信もさっそく揺らぐ事になった。今の戦闘に他の怪物たちが音で気付いたらしく、同じ槍を持った人形が、今度は2体もガチャガチャと走ってきたのだ。

「わあ!」

 冗談ではない。百合香は咄嗟に足元に転がる槍を奪うと、歩いて来た反対方向に取って返した。

 しかし、百合香が握った槍は、百合香の手から拡がったエネルギーによって、だんだんと溶け出してしまった。

「何よ、これ!」

 役立たず、と百合香は通路に放り投げ、改めて自分の剣を構えて振り返る。

 再び剣に力を込めると、今度は大上段ではなく、横薙ぎに炎のエネルギーを撃ち放った。

「でえやーっ!」

 炎は、手前にいた人形の胴体を真っ二つにし、後方にいた人形の槍を打ち砕く。それに怯んだ人形は、一瞬その場に立ち止まった。

「せい!!」

 チーターのように一瞬で間合を詰め、切っ先を真っ直ぐに突き入れる。

「オゴエエエ!!」

 またも不気味な声を響かせて、人形はその場に崩れ落ちると、2体とも蒸発するように消え去ってしまった。

 さすがに2体も強引に倒すと、エネルギーの消耗がある。百合香は、他に追っ手がいない事を確認すると、身を潜める場所を探すためにその場を立ち去った。

 

 とても身を隠せているとは思えないが、通路の脇に少し凹んだスペースがあったので、百合香はそこに引っ込んで呼吸を整えることにした。

 予想できた事ではあるが、やはり城内には敵がいた。そして、どうやら敵にも色々な種類がいるらしい。最初に遭った2体は武器を持っていなかったが、さっき倒したのは槍で武装していた。

 ということは、他にも様々な種類の敵がいる、と見るのが自然だろう。

 

 それは、けっこう厄介な問題なのではないか。百合香は考える。槍があるなら、百合香と同じく剣を持った敵もいるかも知れないし、全く予想外のものを携えた敵だっているだろう。あるいは、文字通りの怪物もいないと断言はできない。

 

 再び、百合香を不安が襲う。私はとんでもない場所に、一人で乗り込んでしまったのではないか。

 今ならまだ、学校に引き返せる場所にいる。あの階段を降りるのはそこそこ恐怖を伴うかも知れないが。

 

 しかし、と百合香は思った。

 

「…何を、今さら」

 戻ったところで、無事でいられる保証はない。先に進めば、何かがわかるかも知れない。恐れてもいいが、立ち止まってはいけない、と百合香は剣を握りしめた。

 この剣があれば、何とかなる。それに、まだとてつもない何かをこの剣は秘めている、という確信が百合香にはあった。

 

 そういえばこれも今さらだが、この剣は一体何なのか。これがなければ、ほぼ間違いなく百合香は今頃、死んでいただろう。自分の中から現れて、氷の怪物を打ち倒してくれる、この剣はどこから現れたのか。やはり、自分の中にあったのか。持っている感覚では、2kgくらいあるように思う。これが外にある時と中にある時とで、体重は違うのだろうか。身体検査の時に、取り出してロッカーにしまっておけば、体重をサバ読みできないか。

 この状況でよくこんなバカな事を考えられるな、と百合香は自分にツッコミを入れる。案外と豪胆なのか、恐怖でおかしくなっているのか。

 

 兎にも角にも、百合香がこの剣を扱えるのは確かである。正体不明の怪物たちへの対抗手段がある、という事実は何よりも頼もしかった。

「よし」

 呼吸を整えて、百合香は立ち上がった。

まず、この城の正体を知ることが先決だ。どこまで情報を探る事が出来るのかわからないが、知らなくてはどうしようもない。

 

 そこで思うのは、あの怪物たちの知能程度だった。遭遇した個体は全て、動物並みの知能にしか思えない。

 氷の人形である時点で、人為的に生み出されたものである事はわかる。つまり、彼らを造り上げた何者かがいるという事だ。それは、高度な知性を持っている者に違いない。

 

 ―――知性。それは、ある意味では野生の本能よりも恐ろしい、と百合香は思う。本能で向かってくる野生動物は恐いが、知能をもって悪を行う人間も恐い。

 この城を奥に進めば ―進めたとすればの話だが― 、その何者かと対峙する事になるかも知れない。その何者かは、百合香に対してどう出るだろう。話が通じるか、それとも問答無用で襲いかかってくるだろうか。

「話なんて通じるとは思えない」

 百合香は歩きながら呟いた。これだけの事をしでかす存在が、説得に応えてくれるわけがない。

 

 そんなことを考えながらさらに通路を進むと、何やら奥から金属の打音みたいなものが聞こえてきた。一定ではなく、不規則なリズムだ。

 そして、聞き覚えのある濁った声も聞こえる。間違いない、あの氷の怪物の声だ。それも、大量に聞こえる。

 

 ――まずい。

 

 百合香は思った。どうやらこの先に、あの怪物たちが大勢いて、何かしているらしい。百合香を見付けたとたん、一斉に襲いかかってくるだろう。どう考えても、切り抜けられる気がしない。

 

 命の危機を覚えた百合香は、引き返そうと振り向いた。しかし、またしても百合香の心臓は止まりかけた。

「わああ!!」

 今度は声が出た。

 振り向いた百合香の前にいたのは、百合香より頭ひとつ以上背丈がありそうな、巨大な氷の鎧の闘士だった。

 百合香は、硬直して動けなかった。しかし氷の闘士は、なぜか攻撃してくる気配がない。

「……?」

 恐怖と混乱に陥っている百合香に、氷の闘士は全くもって意外すぎる行動に出た。百合香の両肩をがっしりと掴むと、振り向かせて背中をドンと押したのである。

「いたっ!」

 何なんだと闘士を見ると、今度は通路の奥を指差して、またしても背中を押してきた。痛い。

 行け、ということか。どうやら、怪物たちの声がする方に進ませようとしているらしい。それ以外に選択肢がなさそうなので、百合香は仕方なく前に進んだ。

 

 巨体の氷の闘士と共に歩くと、開けた円形のスペースに出た。その周囲がすり鉢状になっていて、座席のような段があり、多数の氷の怪物が座っている。

 

 見ると、氷の怪物どうしがスペースの真ん中で、剣を持って闘っている。その周りで他の怪物たちが声援、あるいは罵声を挙げていた。

 

 一目瞭然である。これは、闘技場だ。

 

 百合香を急かした巨体の闘士は、どこからか長柄の戦斧を持ち出してきた。

 闘技場を見ると、片方が相手の剣でバラバラに粉砕されている。勝った方はガッツポーズを取り、どこからか現れた係員ふうの氷の人形が、負けたほうの「死体」を片付けてしまった。

 いったい、彼らは何をしているのだろう。味方どうし戦っている。それも、どう見ても相手を殺すまでだ。あの氷の人形たちに「生」や「死」があるのかどうかは知らないが。

 百合香は、とにかく剣を握って、引き続き繰り返される闘技場の闘いを見守るしかなかった。ざっと見渡しただけで、闘う控えの剣闘士が20体はいる。上の観客席らしき場所にはその3倍はいそうだ。彼らに百合香が敵だと認識されたら、そこでもうお終いである。

 

 そこまで考えて、百合香はひとつ気付いた事があった。百合香が立たされているのは、控えの剣闘士たちと同じ場所である。

 つまり、信じられない事だが、彼らは百合香も自分達と同じ剣闘士だと認識している、ということではないのか。

 

 彼らに知性はない、という百合香の推測は正しかったらしい。同じような背丈で頭と四肢があり、剣を握っているということは、自分達と同じ剣闘士だと、そう認識されているのだ。だから、闘技場を後にしようとした百合香を、あの巨体の闘士は「おい、闘技場はあっちだぞ」と「親切心」で教えてくれたのだ。今まで生きて来た中で、いちばん余計なお世話である。

 

 何とか、隙を見て抜け出そう。どうせ知能は低い連中だ、一人抜けても気付くまい。そう思っていた百合香の希望は、秒速で打ち砕かれた。

 どういう順番になっているのか知らないが、百合香が闘技場の真ん中に出されたのである。

 

「ちょっ、ちょっと!!」

 完全に同類だと思われている。冗談ではないと思ったが、すでに対戦相手も剣を手にして百合香の前に進み出て来た。もう、闘う以外にない。

 相手は、最初にバス停近くで遭った個体と大差ない体格である。この程度、あの炎の技を繰り出すまでもなく勝てるだろう、という希望的観測のもと、百合香は剣を構えた。額には脂汗が浮いている。若干、破れかぶれの感は否めない。

 

 レフェリーのような人形が、サッと腕を降ろすと歓声が湧いた。どうやら、あれが決闘開始の合図らしい。対戦相手の剣闘士が、猛然と百合香に剣を振り上げて突進してきた。

「!」

 速い。ちょっと予想外だったので百合香は一瞬怯んだが、すぐに態勢を整えて、前と同じように相手の横に俊足で飛び込んだ。そして、がら空きになった側面から、剣を持った腕をはらい上げる。

 しかし、今度は簡単には行かなかった。相手は見た目より頑丈らしく、剣を叩き落とす事もできなかった。相手はすかさず振り向いて、剣を突き出してくる。

「くっ!」

「ギァアアア!」

 百合香は必死で相手の剣を躱す。今さらだが、自分の剣技は素人である事を思い出した。ふつうに考えれば、剣技をマスターしている相手には勝てない。

 

 どうするか。

 

 その時、百合香はどうしようもなく当たり前の事に気付いた。

 

 これはバスケットボールの試合ではない。

 

 要するに相手を倒せばいいのだ。チャージングも、ブロッキングもプッシングも、やり放題である。ホイッスルを鳴らしてファウルを数える審判もいない。

 そういう事なら、話は別だと百合香は考えた。

「アギャアア!」

 相変わらず奇声を上げて突進してくる剣闘士の剣を、百合香は何とか全力ではね返した。相手の腕が浮き上がる。その隙をついて、百合香は相手の胴体にチャージングを思い切り入れた。バスケットの試合なら、即退場レベルである。

 ドカッ、と鈍い音がして、相手は態勢を大きく崩す。間髪入れず、そのフラついた脚を思い切り引っ掛けると、相手は盾を取り落して転んでしまった。

 そこで、左足で相手の右腕を押さえ、今度こそがら空きになった喉元に、一気に剣を突き立てた。

 

 ボキッ、と嫌な音がして、相手の剣闘士の首が根本からゴロリと床に落ちる。闘技場は一瞬シーンと静まり、その直後に歓声が湧き起こった。百合香をわざわざここに連れて来たお節介闘士も、拳を突き上げて喜んでいる。百合香はどう反応するべきか迷った。こっちは、ここにいる全員を一気に葬れるなら即実行したいのだが。

 

 百合香は、まさか連戦なのかと身構えていたが、どうやらトーナメント制であったらしく、先ほどと違う控えの場所に立つように指示された。背後には巨大な闘士の彫像が立っている。知性がなさそうに見えるが、儀式的な概念も理解しているという事だろうか。

 ちゃっかり、対戦相手が落とした盾を頂いた百合香だったが、またしても盾が溶け始めてしまった。どうも、彼らの武器や防具は自分には装備できないらしい。

 

 完全に氷の怪物たちの同類扱いされてしまい、どうするべきか困惑する百合香の眼前で、次々と試合が続いて行った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

戦斧の闘士

 コーン、コーンという剣の打ち合いの音が、巨大な闘士の彫像に見守られた氷のコロシアムに響く。

 本物の剣闘など観た事はないが、剣の打ち合いの音にしては、響きが妙だと百合香は思った。金属どうしの音ではない。

 

 そういえば、さっき拾い上げた相手の盾は、氷のように融け始めたせいで使えなかった。

 

 ―――氷だ。この城は、城そのものも、兵士も、武器までも、全てが氷でできているのだ。

 

 百合香は、目の前で続けられる氷の人形どうしの剣闘を見ながら、そう結論づけた。

 極低温の世界。そこでは、人間も動物も植物も生存できないだろう。1万年以上前に世界を襲った猛烈な寒波は、生物を一瞬で凍りつかせた。いま発見されるマンモスの遺骸からは、当時食べたキンポウゲ等がそのまま出てくる。その肉も、食べようと思えば食べられるほどだ。

 

 この城が出現したことで、百合香たちの学園は一瞬で「氷河期」に襲われたのだ。

 

 一体、この城は何なのか。何者がこの城を支配しているのか。百合香は今現在の生命の危機そっちのけで、その疑問について考えていた。

 しかし、その思考を遮るかのように、闘技場を歓声が包んだ。闘技場の真ん中には、百合香をここに導いた体躯のいい闘士がガッツポーズを取っており、その足元には戦斧で粉微塵にされた哀れな「遺体」が散乱していた。

 

 百合香はぞっとした。もし彼と闘う事になったら、勝てるのか。今すぐ逃げ出したい所だが、逃げたらここにいる全員が襲いかかって来るだろう。そうなると無事でいられる可能性はない。

 

 不気味なのは、この人形たちのメンタリティである。敵対し合っているのか、団結しているのかわからない。共に歓声を上げていた者が目の前でスクラップにされると、やはり歓声が湧き起こるのだ。

 何かこう、「在り方」のみに本能的に従っているような印象がある。

 

 そんな事を考えていると、突然百合香の前の視界が開けた。百合香のために、全員が道を開いたのだ。その先は言わずと知れた、闘技場の中央である。

「え?」

 あたりを見回すと、またしても控えの闘士たちが、百合香にジェスチャーで「行け」と促している。

「私の出番ってこと!?」

 百合香の言葉がわかっているのかいないのか、またも騒々しい歓声が起きた。いったい、どういう対戦表になっているのだ。そんなもの、どこにも掲示されていない。

 

 百合香の恐怖と緊張は一気に跳ね上がったが、仕方なく剣を握って中央に出た。まだ対戦相手は登場していない。

 ほどなくして、百合香の前に現れたのはだいぶ長身の闘士だった。その握られた剣も、百合香の身長より長く、幅もある大剣である。人間なら片手で扱えるとは思えないが、彼は平然と右腕だけで振り回していた。盾は持っていない。

「そんなのありか」

 百合香が抗議する間もなく、レフェリーが腕を降ろして闘技がスタートした。

 

 相手はあまり考えていないらしく、特に構えもなく剣を振り上げて向かってきた。ありがたいのかどうか分からないが、予想していたより動きは鈍重で、スピード戦略で勝ちに行ける、と百合香は踏んだ。

 まず、相手の左サイドを百合香は取る。盾を持っていないなら、こちらがガラ空きの時が攻撃のチャンスだ。

「えやっ!!」

 百合香は、ジャブで様子見するボクサーのように、まず相手との間合いを剣で測る事にした。

 横薙ぎに払った切っ先が、相手の二の腕を掠める。手足は太く、胴体を狙うのに厄介だなと百合香は思った。相手はすぐに上半身をひねって、大剣を斜め上から振り下ろしてきた。

 さすがに肝が冷えた百合香は、即座に後退して大きく距離を取った。砂のような、細かい氷の粒子がギッチリと固められた床面に、相手の大剣が激しく打ち付けられる。

 態勢としては、相手が首をさらしている今はチャンスだが、剣を回避するために大きく後退したのがアダになった。百合香が距離を詰めようと踏み込んだものの、相手が態勢を立て直す時間も与える事になってしまった。バスケの試合で、ブロックを恐れてパスを回している間に、相手に壁を築かれるのに似ている。

 

 そこで再び百合香に閃きがあった。バスケットボールにも当然、ロングレンジの攻撃はある。動画サイトで取り上げられるような、土壇場の「奇跡のシュート」は極端な例として、下手にゴール下へ潜り込むよりは、ロングレンジでシュートを狙う方がいい場面もある。

 問題は、そんなロングレンジの攻撃方法が思い付かない事だった。

 

 百合香は、どうにか相手より俊敏である事が幸いして、相手の剣撃をかわす事はできた。しかし、このままでは足が疲れてしまう。

「ゴエエエ!!」

 いい加減痺れを切らしたらしい氷の剣闘士が、破れかぶれで剣を振り回して突進してきた。百合香はそれに一瞬気圧されて、足がもたついてしまう。相手は、一気に百合香との距離を詰めてきた。―――まずい。

 

 百合香が生命の危険を感じた、その時だった。

 

 手に握った金色の剣が、眩く輝き始めた。エネルギーが脈動しているのがわかる。百合香は、床を蹴って後方に飛び退りながら、剣を大きく上方に払った。

 

『スターダスト・ストライク!!』

 

 百合香が叫ぶと、剣から放たれたエネルギーが無数の火球となり、天井方向から相手の剣闘士の全身を打ち付けた。一つ一つのダメージはそれほどでもなさそうだが、5発、10発と繰り返し打たれると、バランスを崩して剣を取り落とし、膝をついてしまう。

 今だ!と、百合香はドリブルで相手ゴールに接近するように間合いを詰める。

「でええーーいっ!!!」

 両手で剣を握り、全身の力を込めて相手の首に剣を突き入れる。まだ剣身にはエネルギーが残っており、それが炸裂した。

 

 パーン、と澄んだ音とともに、黄金色のエネルギーが剣身から弾ける。剣闘士の頭と首周りが粉々に破壊され、その余波が後方の壁際に立っている、巨大な剣闘士の彫像の胴体を直撃した。

「はあ、はあ、はあ」

 これまでにないタフな戦闘を終えて、百合香は剣を立てて片足をついた。

 よもや頭を破壊されて立ち上がっては来ないだろう、とは思ったが、そういう常識が通用しない事もあり得る。ビクビクしながら、剣を構えて相手がまだ動いてこないかと、百合香は警戒した。

 

 しかし、倒された剣闘士の首から下は、文字通り人形のように、ぴくりとも動く様子がない。心から安堵のため息をつき、百合香は胸を撫で下ろした。

 

 呼吸が整ってくると、百合香は何か様子がおかしい事に気付いた。今までは戦闘が終わると、騒々しい歓声が上がっていたのに、今回はなぜか静まりかえっている。

「?」

 周囲を見ると、全ての剣闘士たちの視線が、一点に集中していた。それは、さっき百合香が放ったエネルギーの流れ弾が当たった、剣闘士の彫像であった。

 氷の人形である彼らの表情などはわからないが、どうもあの巨大な彫像に対して、突然恐れを抱いて狼狽しているように見える。一体、ただの彫像の何を恐れているのか。

 

 だがその時、百合香は一瞬で事態を悟った。

 

 よくよく考えてみれば、ここにいる百合香以外の剣闘士は全員、動く氷の彫像である。そして、細身の者もいれば、ゴリラ以上の体躯の者もいる。

 ゴリラがいるなら、象やクジラ並みの個体がいてもおかしくない。

 

 百合香に戦慄が走る間もなく、その彫像は雄叫びを上げて動き出した。

「グオオオオ!!!」

 低い声が闘技場に響く。その音波だけで吹き飛びそうだった。実際、細身の剣闘士は吹き飛んでいる。

 ワゴン車ほどもある大剣を振り回して、その巨体が闘技場を揺らす。あれは飾ってあるだけの彫像ではなく、れっきとした剣闘士の一体だったのだ。

 

 巨大な剣は、足元にいた人間サイズの剣闘士たちを、スクラップ処理される空き缶のようにまとめて砕き、押し潰した。こんな一撃を喰らったら、バスケットの練習を数ヶ月休んでいる16歳女子高校生の身体は、どういう事になるのだろう。百合香はあまり考えない事にした。

 

 どうやら、百合香のエネルギーの流れ弾が直撃したために、あの巨大剣闘士は自分への攻撃だと受け取り、怒りのスイッチが入ってしまったらしい。足元の剣闘士たちはそのとばっちりを受けて、バーのマスターが砕いた氷よろしく床に散乱する事になったのだ。

 私は悪くない。いや、そういう問題ではないが、とにかく考えようによっては、これで逃げ出すチャンスが出来たとも言える。あの巨体が暴れ回っているうちに、自分はこの場を抜け出そう、と百合香は考えて、脱出口を探し出した。出口は2つある。自分が入ってきた通路と、その反対側の―――

「何よ、これ!!」

 思わず百合香は悪態をついた。さっきまとめてスクラップにされた剣闘士たちの「残骸」が、通路を塞ぐように折り重なっていたのだ。こんな、ご丁寧な偶然があってたまるか。

 

 となれば、入ってきた通路から逃げるより他にない。百合香は踵を返し、砕かれる剣闘士たちには目もくれず駆け出した。

 しかし、床面を巨大剣闘士の足が揺らし、先程の戦闘で脚の疲労が残っている百合香は、不意にバランスを崩して倒れてしまった。

「うあっ!」

 左肘を床面に打ち、微細な氷の粒が顔面に撥ねる。まずい、と思った時にはすでに百合香に、巨大剣闘士の影が覆い被さっていた。

 剣闘士は百合香に狙いを定め、その大剣を振り下ろす。動きはそこまで俊敏ではない。転がって回避できるかと思った時、左腕に激痛が走った。

「あぐっ!」

 どうやら、戦闘か今の転倒で痛めたらしい。今度こそまずい。というより、もう駄目だと観念しかけたその瞬間だった。

 

 巨大な剣闘士と百合香の間に、大きな影が割って入ると、激しい打音とともに大剣の動きが止まった。

 そこにいたのは、百合香を闘技場に導いた、あのお節介な戦斧の剣闘士だった。驚くべきことに、自分の3倍は身長がある巨大剣闘士の大剣を、その戦斧で受け止めてみせていた。

「!?」

 百合香は呆気にとられた。これはどういう行動なのか。結果的には百合香は「助けられた」形になるが、彼らにそういう感情があるのだろうか。

 ただ、何の根拠もないが、百合香は不思議とここにいる闘士たちに「悪意」を感じなかった。究極的なまでに純粋というか、「一対一の闘い」だけのために存在している、そんなふうに見えた。城の周りや通路を護っていた、あの闘士たちと姿形は同じなのに、なぜなのか。

 

 戦斧の闘士は、チラリと百合香の方を見ると、再び巨大剣闘士に向き直って戦斧を構えた。

 百合香は、ここでこの場から脱出する機会が訪れた事を知った。あの戦斧の闘士がどれだけ持ちこたえるかわからないが、百合香が逃げ出すだけの時間はあるだろう。

 すでに、戦斧の闘士以外の剣闘士たちは全滅している。もう、今以外に逃げるチャンスはなさそうだった。

 

 痛む左腕をかばいながら立ち上がると、百合香は戦闘を繰り広げる二体を背に歩き始めた。

 しかし、3歩ばかり歩いたところで、百合香の足が止まってしまった。

 

 疲労ではない。ただ、なぜか足が歩こうとしない。それどころか、自分でも信じられないことに、百合香の足は再び、闘技場の中央を向いたのだ。

 

 ―――私は何をしているんだ。

 

 百合香は自問した。こんな氷の化け物たちが殺し合いをしたところで、自分には関係ない。むしろ、学園をあんな目に遭わせた連中の仲間だ。せいぜい殺し合っていなくなってくれれば、こちらとしては満足なくらいである。

 

 しかし、理由はわからないが、この戦斧の闘士は百合香を「助けて」くれた。意図は知らないが、結果的にはそうとしか言えない。

 どう考えても、百合香たちにとって「敵」であり「害悪」のはずの存在が、である。

 

 百合香は、痛みと疲労で考える余裕を失っていた。ただ、身体が自動的に動いていた。相手からボールを奪った直後の、あの感覚だ。

「うああああ―――っ!!!」

 まだ動く右腕で金色の剣を振り上げると、百合香は巨大な剣闘士の剣に向かって思い切り打ち付けた。

 それまで押されていた戦斧の闘士は驚いた様子を見せながら、百合香の加勢で一気に大剣を押し返すことに成功した。

「はあ、はあ」

 さすがに片腕の力には限界がある。しかし、左腕は役に立たない。この、ちょっとした車庫ぐらいある巨体の相手には、女子高生が振り回す剣など爪楊枝みたいなものである。

 だが、この戦斧の闘士との共闘であれば、闘えない事はないらしい。

 

 戦斧の闘士は百合香の意を汲み取ったのかどうか、百合香ではなく巨大な剣闘士の方を向いて戦斧を構えた。どうやら、百合香を邪魔だとは捉えていないようだ。

 しかし、二人がかりといっても相手は巨大である。どう考えても勝てる気はしない。しかも、水晶みたいに硬いのだ。

 

 戦斧の闘士は、思案する百合香を無視して一人で巨大剣闘士への間合いを詰めた。

「あっ、バカ!」

 つい悪態をつく百合香だったが、慌てて自分も加勢する。パワーではどう考えても勝てない以上、やはりこちらはスピードで勝負だ。左腕は使えないが、足はまだ動く。

 

 百合香は右側面に回ると、腰めがけて剣を突き立てた。しかし、いくらなんでもサイズ差がありすぎる。コンクリートブロックをシャベルで砕こうとするようなものだ。

 やっぱり無謀だったのではないか、と今さら考えつつ、百合香は距離を取る。しかし、戦斧の闘士は相変わらず果敢に打ち合いを続けていた。

 

 やはり、先ほどと同じように、戦斧の闘士と力を合わせる以外にない、と百合香は考える。しかし、戦斧の闘士は相手の攻撃を防ぐので精一杯のようだった。だが、明らかに百合香よりも基礎的なパワーでは大幅に上回る。

 そこで百合香に閃きが起きた。

 

「―――アンクルブレイクだ!」

 百合香は、バスケットボールで相手の足を崩すテクニック、アンクルブレイクを仕掛けられないかと考えた。そこでまず、戦斧の闘士と同時に、巨大剣闘士の剣を押し返した。

「でええーいっ!!」

 ガキン、と小気味よい音がして、ほんの少しだけ相手の大剣を打ち返す。その隙を逃さず、百合香は巨大剣闘士の左腕を剣で繰り返し打ち付けた。

「オゴオオオ!!!」

 百合香の攻撃に苛立った巨大剣闘士は、百合香を狙って剣を振り下ろそうとした。しかし百合香はそれを待っていたかのように、大きく相手の左後ろに回り込む。剣で狙うには死角となるため、相手は左足を下げて向きを変えようと試みた。

「今だ!」

 百合香は、その足首に向けて剣を打ち付けた。だが、その巨体には何の効果もなかった。それでも百合香はやめない。

 またも、苛立ったらしい巨大剣闘士は、今度は右足を出して向きを変えようと試みた。右足の首が、戦斧の剣闘士の真横に来る。

「今だよ!」

 百合香は、戦斧の闘士に向かって叫んだ。日本語が通じるかどうかはわからない。今度は、足首を指差してみせる。

 百合香のジェスチャーが通じたのかどうか、戦斧の闘士は「わかった」という風に頷いて、巨大剣闘士の足首に思い切り戦斧を打ち付けた。

 

 相手の大きさからいって、いかに戦斧の一撃といえど、ダメージらしいダメージは期待できない。だが、今は違う。

「ゴエッ!?」

 困惑するような叫びが響いたかと思うと、巨大剣闘士はその体のバランスを大きく崩して、闘技場の真ん中に倒れ込もうとしていた。

「やった!アンクル・ブレイク成功!!」

 アンクルブレイクは、ドリブルに対するディフェンスを動きで翻弄し、文字通り足首の態勢を崩して転倒させるテクニックである。百合香は、そのスピードを活かして巨大な相手を翻弄し、脚のバランスが崩れたところに、戦斧の闘士の一撃を喰らわせて転倒させる作戦に出たのだ。

 

 そこまでは良かった。だが、この巨体が倒れ込んだら、どれほどの衝撃が起きるのか。瞬間的に百合香は、その場を大きく飛び退くべきだと判断し、後方に床を蹴った。

 

 百合香が大きく飛び退いた次の瞬間、その巨体が闘技場のど真ん中に倒れ、今まで体験したどんな地震よりも強烈な振動が闘技場と百合香を襲ったのだった。

「うわわわわっ!!!」

 振動する時間はほんの数秒だったが、百合香の軽い身体ではバランスを維持できなかった。だが、ゴリラ以上の体躯を誇る戦斧の闘士は違い、揺れる中を猛然と巨大剣闘士の胴体に上り、首めがけて戦斧を振り下ろそうとした。

 

 だが、次の瞬間。

 

 巨大剣闘士の左手が戦斧の闘士を頭から握り、鈍い音が闘技場に響いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

覚醒

 巨大な氷の剣闘士の左手に掴まれた戦斧の闘士は、その手が開かれると上半身がバラバラになり、闘技場の床面に呆気なく打ち捨てられた。

 

 その光景を見て、百合香の胸にはこれまで体感したことのない感情が押し寄せてきた。

 戦斧の闘士は、時間にすれば遭遇してほんの30分も経ったかどうか、という所である。彼が百合香を闘技場に連れて来なければ、こんな事態にはなっていなかった。

 

 だが、経緯はどうあれ、彼は百合香の命をこの巨大な剣闘士から、一度だけだが「護って」くれた。そこにどんな意思、意図、または感情があったのかはわからない。

 

 その彼が、ただ左手で握られただけで、動く事のない残骸に成り果てた。

 

 

 いま、百合香の選択肢は二つある。ひとつは、巨大な剣闘士が倒れている今のうちに、あの剣闘士のサイズでは入って来られそうにない通路に引き返す。

 

 そして、もう一つの選択肢は。

 

「…何よ」

 百合香は、金色の剣を握る手がブルブルと震えているのがわかった。恐怖で震えているのか。そうではなかった。

 

 百合香のまだ動く右腕は、自分でも驚くべき事だが、「怒り」に震えているらしかった。

 一体、自分の感情はどうなっているのか?自分自身でも理解できないが、あの呆気なく握り潰された戦斧の剣闘士に、百合香は学園の生徒達に対するのと変わらない感情を有しているらしかった。

 

 私は、氷の化け物に友情を感じているのか。

 

 百合香の胸に理解不能な感情が押し寄せた時、「それ」は爆発した。

 

「うああああ――――!!!」

 百合香の絶叫に応えるように、胸から再び太陽のようなエネルギー球が現れた。その炎に煽られて、身に纏っていた学園の制服や身に付けている全てが燃えるように消え去り、替わって黄金の「何か」が全身を覆っていった。

 

 それは、鎧だった。胴体、腕、両足を、剣と同じ金色に輝く鎧が、百合香の全身を覆っていった。腰には、見たこともないような美しい素材でできた、真っ白なスカートが巻かれている。

 

 ―――天衣無縫。

 

 その言葉が百合香の心に浮かんだ。

 

 何の意図も飾りもない、心の底からの純粋な感情の爆発。それが百合香に起こった。

 それまで、極めて不安定に発現していたエネルギーの全てを、百合香は理解できると感じていた。左腕の痛みもすでに消え去り、指先はおろか、髪の一本に至るまで、エネルギーが満ちているのがわかった。

 

 目の前で、巨大な剣闘士がゆっくりと立ち上がる。その足元に、百合香をこの闘技場に導いた闘士の、戦斧が転がっていた。

 

「ウウウウ…」

 巨大な剣闘士は、百合香の全身に満ちるエネルギーに、明らかに動揺しているらしかった。その証拠かどうか、ほんの数センチだけその足が後ろに下がった。

 金色の鎧を新たに纏った百合香は、戦陣の先頭に立つ勇敢な女王のごとく、一切怯むことなく、剣を手に一歩ずつ剣闘士に迫った。

「アゴオオオ―――!!!」

 巨大剣闘士は、恐れを振り払うかのように、百合香めがけてその大剣を振り下ろす。その刃は寸分の狂いも無く、百合香の頭頂を狙っていた。

 

 一瞬だった。カキン、と甲高い音がして、剣闘士の大剣の動きが停止した。

 大剣は、百合香の金色の剣によって、百合香の眼前で受け止められていた。

「でえいっ!!」

 百合香は全身に力を込め、剣を払う。剣闘士の大剣は、上方に大きく弾かれた。

「うりゃあ――っ!!」

 間髪入れず百合香は、金色の剣を一閃する。巨大剣闘士の手首は、木の人形が折れるかのごとく、いとも容易く砕け折れてしまった。

 支えを失った大剣が宙を舞い、百合香に向かって落ちてくる。百合香が無言で剣を払うと、大剣は一瞬で粉々に打ち砕かれ、蒸発して消えて行った。

 

 巨大な剣闘士は、それまでの百合香と全く違う力に、今度こそ恐怖の色を見せ始めた。一歩、また一歩と後ずさる。

 百合香は尚も相手を追い詰めるように迫りながら、落ちていた戦斧を拾い上げた。

 戦斧は金色の光の粒子になって空中に滞留し、そのエネルギーが百合香の左腕に吸い込まれるようにして消えて行った。

 

 百合香は、たじろぐ巨大剣闘士に向かって、その左腕で宙を払った。

 すると、左腕からまるで戦斧のような形状のエネルギーが放たれ、回転し、剣闘士の肩の関節を直撃した。

「ウルオオオオ!!」

 放たれたエネルギーは剣闘士の左肩に深々と突き刺さり、その腕は力を失って垂れ下がった。剣闘士は苦悶の叫びを上げる。

 百合香は、試みにもう一度、その戦斧を放てないか試してみた。しかし、それはたった一度きりの能力らしく、2発目を放つ事はできないようだった。

「なるほど」

 百合香は、冷静に自分の能力を理解すると、金色の剣を両手でしっかりと構えた。

「仇討ちってわけじゃないけど、見てて」

 足元に散乱する、戦斧の闘士の遺骸に向かって百合香はそう呟く。握られた剣には、エネルギーが満ちていった。

「このエネルギーが何なのかはわからないけど、使い方の基本はわかった」

 百合香は、柄から切っ先までエネルギーをコントロールできる事を実感していた。今までの、剣に任せて力を放り出していた感覚とは全く違う。

 それは、光と炎のエネルギーだった。この、凍結した闇の城と対極の存在だ。

 

 巨大な氷の剣闘士は、怒りに任せて突進してきた。力任せに百合香を叩き潰してしまうつもりらしい。

 だが、今の百合香は逃げる事など考えなかった。何者が向かってこようと、負ける気など微塵もない。床を揺らして向かってくる氷の巨人に、百合香は剣を構えて真正面から対峙した。

 

 金色の刃に、今までにない鮮烈な煌めきが満ちる。それは、熱を帯びた波動となって闘技場全体を揺るがした。その強烈なエネルギーに気圧され、氷の巨人は慄いて立ち止まった。

 

 百合香は剣を大上段に構えて、床を蹴った。その跳躍は、巨人の頭にまで到達する。

 ためらう事なく、百合香はその輝く金色の剣を、全身全霊の力を込めて、真正面から氷の巨人に叩きつけた。

 

『スーパーノヴァ・エクスターミネーション!!!!』

 

 白金に輝く剣身から放たれた巨大なエネルギーの刃が、氷の巨人の頭頂部から胴体を一刀両断し、切断面から放射状に眩いエネルギーが走る。

 着地した百合香は、その輝きを直視できず顔を覆った。稲妻のごとき重く鋭い破裂音とともに、巨人の身体は光とともに爆発四散し、壁や天井にまでとてつもない衝撃が走った。

 

 衝撃が収まると、百合香は顔を上げた。相手の巨体はすでになく、光の粒子となって空間を漂っている。

 攻撃の余波は、散乱していた他の剣闘士たちの亡骸もまとめて一掃したらしく、戦斧の闘士も共に光となって消え去ったようだった。

 

 床や壁面、天井にはあちこちに深い亀裂が入っており、自ら放ったエネルギーの威力に百合香は戦慄するとともに、この力があれば、この奇怪な城を奥へと進む事も可能かも知れない、と思い始めていた。

「……」

 結果的に、あの戦斧の闘士が百合香に何らかの覚醒を促した事になる。百合香は複雑な思いだった。

 彼は本来は「敵」のはずだ。それなのに、悪意らしきものを感じる事はなかった。なぜなのか。この先も、時々あの戦斧の闘士の事を思い出しそうな気がした。

 

 その時、百合香に聞き覚えのある声が聞こえた。

『百合香。見事でした』

 その声は、何度か聞こえたあとで途切れてしまった、あの女性の声だった。

「誰!?」

『声を届ける事しかできず、ごめんなさい。ようやくあなたの姿を捉える事ができました』

「何度も私に声を届けていたのは、あなたね!?」

 百合香は、今度こそ声の主を逃すまいと叫んだ。

『落ち着いて、百合香。まず、私の言う通りにして、その場から身を隠しなさい』

 言われた事の意味が、百合香にはわからなかった。

「身を隠す?」

『そうです。さあ、聖剣アグニシオンを掲げなさい』

「アグニシオン?」

 百合香は、握っている金色の剣を見た。この剣には名前があったらしい。

「アグニって、インド神話の火の神様の名前よね」

 何か関係があるのだろうかと思いながら、百合香は騎士が王に礼を示すかのような所作で、目の前に聖剣アグニシオンを掲げた。

『唱えなさい。"汝、我に女神の間へ至る扉を開くべし"』

「長いな」

 とりあえず日本語である事に感謝しつつ、暗記が得意な百合香は復唱した。

 

「"汝、我に女神の間へ至る扉を開くべし"」

 

 百合香が唱え終わると、何秒かの間を置いて、剣身が真っ白な淡い光を帯び始めた。

『百合香、闘技場の中の、エネルギー粒子密度が最も薄い部分を見なさい』

「え!?」

 いきなりそんな事を言われても、何の事かわからない。エネルギー粒子って何のことだ。

 そう思いながら周囲を見渡すと、さっき倒した巨人の弾けたエネルギーが、まだ滞留している事に気付いた。そして、その中で一箇所だけ、粒子の密度が薄い部分を百合香は見つける事ができた。

「あそこ?」

『そのとおりです。よく見付けましたね』

 ふつうに教えてくれればいいんじゃないのか、と百合香は思いながら、何となく何をすればいいのかわかった気がした。

「あそこに、剣のエネルギーを向ければいいのね」

『そのとおりです。急ぎなさい』

「急かさないでよ」

 言いながら、百合香は剣を水平に構えた。切っ先を粒子が薄い空間に向け、エネルギーを放つ。

 細い光が渦巻くように回転しながら、空間に吸い込まれるように消えて行った。その直後、空間に扉のようなものが出現した。

「何、あれ!?」

『急いで中に入りなさい。話は後です』

「中に化け物とかいないわね!?」

 一番確認したい事を百合香は訊ねた。怪物はそろそろ食傷気味である。しかし、声の主の返答はない。

 一瞬だけ躊躇ったあと、百合香はそのドアを開け、その奥に続く光の空間に飛び込んだ。

 

 

 

「今の波動は…」

 冷たく暗い広間の奥、黒い玉座に腰掛けた、暗灰色の鎧を纏う人物が低い声で呟いた。

「確かに、この城のどこかで、強大な熱のエネルギーが発生した」

 鎧の人物は、立ち上がると窓の前に立った。眼下には、巨大な城の全容が見渡される。青紫に輝く壁面に、オーロラの光が不気味に煌めいている。

「予想外の出来事ではあるが…予想外の出来事に対処するために、この城はある」

 そう言うと、その人物は漆黒の艶やかに光るマントをなびかせて、どこへ向かうつもりなのか、足音を響かせながら広間を退出した。

 

 

 

 空間に現れたドアをくぐって、眩い光に細めた目を開いた百合香は、壮麗な広い、石造りの空間にいる事に気付いた。それまで彷徨ってきた、氷の城ではない。

 その部屋は面積にすれば、50から70畳くらいはありそうだ。六角形をしており、天井には光る石がはめ込まれ、煌々と室内を照らしていた。中央にはやはり六角形の、人口の泉がある。水は、澄んでいてキラキラと輝いていた。

「きれい…」

 それまでの重苦しい空間から、正体は不明だが美しく落ち着いた空間に移ったせいで、百合香の緊張はだいぶ和らいだ。ここに居るだけで、体の疲れが癒されるような気がする。

「一体、ここは…」

『百合香、よくここまで辿り着きました』

 突然、部屋全体に声が響いたため、百合香はまたしても心臓が止まりそうになった。

『もう、そのように驚かないでください』

「そ、そんな事言われても…」

 声の主はやはりあの女性の声である。百合香は、ようやくこの声の主と会えるのかと思っていたが、姿を見せる気配はない。

「あなたは誰なの?ここまで、本当に命懸けだったわ。何度、死ぬかと思ったかわからない」

『ごめんなさい。あなただけに辛い思いをさせて』

「…訊きたい事が多すぎて、整理がつかないけれど」

 百合香は、中央の泉の縁に腰掛けると、ようやく一息つける事に心から安堵しつつ、質問した。

「まず、あなたが誰なのかを教えて」

 百合香の問い掛けに、ほんの少しだけ間を置いて、声の主は答えた。

『私に名はありません。ですがそれでは不便ですので、あなたの学び舎から拝借して、『ガドリエル』とでも呼んでください』

「ガドリエル?名前がない?」

 百合香は面食らった。明確な知性と意思を持ちながら、名前がないとはどういう事なのか。

『以前呼ばれていた名前はありますが、それも借りた名前です。カグツチなどと呼ばれておりました』

「カグツチ…日本神話の、火の神ね」

『名前を借りただけです。本来そう呼ばれている大元の存在とは、何の関係もありません』

「あなたは神?それとも、天使かしら」

『あなた方人間の感覚で、どう区分けしていただいても構いません。女神、守護霊、天使、あるいは物の怪でも悪魔でも、ご自由に』

 悪魔とはまた穏やかではない。名前どころか、存在そのものが曖昧なようだ。ただ、人間を超越した、霊的な存在であるらしい事はさすがにわかる。

「わかったわ、ガドリエルね。それでいいわ」

『ありがとう、百合香』

「姿は見せてくれないの?」

『お察しかも知れませんが、私には姿もないのです。もちろん肉体もありません。ですが』

 ガドリエルがそう言うと、泉の中央が渦巻くように波立って、その上に浮遊する、立体映像のような人の姿が現れた。それは、燃えるような真紅のラインが走った、黒い豪奢なドレスをまとう長髪の女性だった。髪もまた炎のような橙色に金色のメッシュが入り、頭には黄金のティアラが輝いていた。顔立ちは、なぜかバスケ部のコーチに少し似ている。

『あなたの中にあるイメージをお借りして、便宜的に姿を創造してみました。これでいかがでしょう』

「日本のヴィジュアル系バンドの衣装みたい」

 小さく笑って、百合香はうなずいた。

「いいわ。色々注文をつけてしまったようね、ガドリエル」

『どういたしまして』

「ガドリエル、それじゃ私が一番聞きたい事を教えてちょうだい。学園のみんなは、生きているの?」

 百合香の問いに、また少し間を置いてガドリエルは答えた。

『生きています』

 何とも素っ気ない返答である。しかし、その一言で百合香はだいぶ救われた思いだった。心から安堵し、深く息を吐く。

「良かった」

『ですが百合香、安心してよいわけではありません。私の力が完全であれば、彼女たちを守る事はできたのですが、力を封じられているため、あなた一人を救うのが限界だったのです』

 唐突にそう説明されて、百合香の思考は混乱した。

「…どういうこと」

『順を追って説明しなければなりません。あなたが何度も問い掛けた疑問です。この城は一体何なのか、という』

 そうだ。それは現時点で最大の疑問である。ガドリエルは、どうやら知っているらしかった。

「…この城は、一体何なの」

『この城は、あなたの言語で言うなら…氷巌城、とでも表現しましょうか』

「ひがんじょう?」

『そう。氷魔と呼ばれる、極低温の精霊たちによって生み出された、全てが氷でできた魔城です』

 やはりそうなのか、と百合香は思った。何もかも、全てという全てが氷で出来ているという、百合香の実感は正しかったのだ。しかし、氷魔とは何なのか。百合香が問うより先に、ガドリエルは答えた。

『今、全てを説明しても、疲れたあなたには理解が追い付かないでしょう。いずれ順を追って説明します』

「ちょっと待って」

 百合香は、ガドリエルを遮るように言った。

「まるで、この先しばらくあなたと付き合う事になるような言い方ね」

『ええ、もちろんです』

「答えて、ガドリエル。学園や街を救う方法はあるの?」

『あります。そのために、私はあなたを導いたのです』

 またしても、あっさりとガドリエルは答えた。やはり最初から、ガドリエルには目論みがあったのだ。現在、どこまで目論み、期待どおりに運んでいるのかはわからないが。

「どうすれば?どうすればみんなを助けられるの!?」

『細かく話すとだいぶ長くなりますが』

「…かいつまんで話してくれると助かるわ」

『いいでしょう。あなたの、この城における役割は』

 やや長めの間があった。部活のコーチに似たガドリエルの唇が動く。

 

『氷巌城の城の主を封印し、城と魔物を全て消滅させる事です』



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

癒しの間

 ガドリエル学園がある仙蒼区という地域では、唐突に発生した未曾有の豪雨で大混乱を来たしていた。ついこの間に梅雨明け宣言が出された後である。

 

『避難指示が発令されました 以下の地区にお住まいの方は指定の避難所に すみやかに…』

 放送で避難指示がなされ、サイレンを鳴らした消防車が走り回る。側溝は溢れ返り、運悪く河川敷に停めてしまったらしい自動車が水没していた。

 ガドリエル学園と市街地を繋ぐ、標高が下がった道路も水没しており、パトカーが陣取って迂闊な自動車が進入しないよう塞いでいた。

 また学園のある町と市街地を結ぶ線路の橋が、流木によって変形してしまうという事態も発生し、ガドリエル学園付近の一帯は完全に孤立してしまっていた。

 

 市内ではパニックが起きており、食料品の買い溜めに走る人間などが現れて、暴力沙汰にまで発展する例もあった。またある病院では、入院していた女性患者が病室から、洪水を恐れたのか連絡もなく逃げ出すといった事件まで起きている。

 

「連絡はつかないのか!?」

「駄目です!一切の通信が通じません。電話回線も、無線も、ネットもです」

 自衛隊の通信機器を備えた車両内で、上官と隊員が声を張り上げていた。ガドリエル学園のある高台の地域が、厚い雲のような現象に覆われて、自衛隊も接近できずにいるのだ。

「水陸両用車はまだか!」

「それが、とっくに出動命令は下ったのですが、応答がありません」

「なんだと!?」

 上官らしい人物は、通信車両の外に出て、雨に打たれながら不気味な空を睨んだ。

「何が起きていやがる」

 

 

 

 

 自分で、その場の勢いで何かを考えるのと、人から言われるのとでは、同じ言葉や目的でも印象が変わる、というのは誰でも経験していると思う。

 百合香は、「女神」ガドリエルから言われた事を、頭の中で繰り返した。

 

 この巨大な城の主を封印して、城と魔物を全て消滅させる。

 

 文章にすればとても簡単だ。携帯電話のSMSでも送れるレベルである。しかし、言うは易く行うは何とやら、ではないのか。

「とても簡潔だわ」

 百合香はそう返すのが精一杯だった。

「それで、この城にはああいう化け物がどれくらいいるのかしら。うちの学園は、少子化の影響でついに生徒数が500人を切ったけど」

 軽いパニックに陥ると逃避のためか、突然どうでもいい情報が飛び出る、江藤百合香とはそういう人物である。ガドリエルはそれには何の反応も見せず答えた。

『魔物の数は不明です。というのも、この城は常に「依代」となる建造物や都市、あるいは自然など、異なる条件や時代背景を、模倣して出現するためです』

「ちょっと待って」

 今度は何だ。また知らない情報が出てきた。

「依代となる建造物って、どういうこと」

『この城は、あなたの学園を依代として具現化した、ということです。本来、彼らには特定の姿がありません。そこで、この世界に干渉する際には、常に依代となるものを模倣して、自らの姿をその都度創らなくてはならないのです』

 百合香は、ガドリエルの言葉を試験勉強並みの集中力でどうにか理解しようと努めた。

「…まるで、過去にも同じ事があったような言い方ね」

『そのとおりです。最も最近のものは、あなた達の時間の区切りで言えば、飛鳥時代と呼ばれた頃に、この日本と呼ばれる国で起きました』

「はい?」

 もう、百合香は自分の理解力に自信が持てなくなってきた。飛鳥時代って、聖徳太子とか中大兄皇子とか、蘇我ブラザーズとかがスマッシュ大乱闘していた、あの飛鳥時代か。

「…飛鳥時代の、どこで」

『この地です。その時代、同じように氷巌城が現れて、時の剣士や術師たちによって封印されたのです。それ以来、代々の術師たちが常に封印を監視してきました』

「そんなの、日本史で習った覚えはないけど」

『当然です。この城は現れる時、天変地異によってその姿が隠されるからです。完成するまで』

「完成するまで?」

 また、不穏なキーワードが登場した。

「…この状態で、まだ未完成だというの」

『空を見ればわかります』

「!」

 その指摘で百合香は、町や学園の周囲を閉ざすように現れた、あのオーロラを思い出した。

「あのオーロラは何なの」

『あれ自体は副産物に過ぎません。問題は、あなたの学び舎を含む一帯が、あなた方の言う"異常気象"によって、外界から隔絶されている事にあります』

 百合香はハッとして頷いた。終業時刻のあのバス停前で、バスはおろか軽自動車の一台さえ通らなかったのは、何らかの原因で、外界からの行き来が出来なくなっていたためなのだ。

「外の世界はどうなっているの」

『私にもこの場所から、全てを見通す事は出来ません。なぜなら、あなたの知識で言うところの”結界”によって、空間が隔絶されているからです。ですが、少しだけ状況を覗いて見た時、とてつもない大雨で混乱している様子が見えました。川も氾濫していたようです』

 こちらとはだいぶ状況が違うようだが、異常事態が起きているのは同じらしい。そして、百合香たちの学園がある高台の周囲は、過去に何度か豪雨で増水し、孤立した事がある。おそらく、水で道路が遮断されているのだろう。いや、その前に結界なんてものが張られているなら、そもそも増水に関係なく、誰も入って来られないのかも知れない。

「…それも、この城の影響?」

『間違いありません』

 百合香はぞっとした。学園やその周辺のみならず、もっと広い範囲にまでその影響は及んでいる、というのだ。

「さっき、城の"完成"って言ったわよね。どういう意味?」

『文字通りの意味です。城が、目的達成のために稼働できる状態になる、ということです』

「目的?」

 

『そうです。この城は、城を拠点として世界を凍結させるために造られるのです』

 

 ガドリエルの説明は淡々としているが、けっこう洒落にならない話なんじゃないのか、と百合香は思った。

「…要するに、世界中が学園みたいに凍結するってこと」

『そのとおりです』

「何のために?」

『彼らが住み良い世界を創るためです』

 百合香は、思わず吹き出した。何の冗談なのだろう。

「その…さっき言った、氷魔とかいう連中にとって、ということね」

『そうです。彼らは極低温のエネルギー体で、熱を嫌うのです。そのため、何度も世界を凍結させようと、時の始めから試みてきたのです。実際、それが成功した時代もありました』

「成功した?」

『気候の研究者に訊いてごらんなさい。原因不明、説明がつかない氷河期が過去に地球で起きている事を、彼らは知っているでしょう。そのいくつかは、自然のサイクルによる氷河期ではなく、氷魔によって引き起こされたものなのです』

 そんな事を言われても、検証のしようがない。百合香は、腰掛けたままガドリエルを振り向いて訊ねた。

「そんな情報、知ったところで何の意味もないわ。それより、この城の魔物を一掃しろって言ったわよね」

『はい』

「私にそんなこと、できると思うの?」

『現状でそれが可能なのは、あなただけです』

 百合香は、鼻白んで問いかけた。

「なぜ、私なの!?この剣や、鎧は何!?私は、病気でリタイアした元バスケット部員よ。理由がわからない」

 一気に百合香は捲し立てる。ある意味では、それが最大の疑問だった。

『理由を言葉で説明しても、あなた自身に納得する準備が整っていなければ、混乱するだけでしょう。だから百合香、今はこれだけを覚えておきなさい。まず、その剣はあなた自身の心から生み出されたものであること。そして、もう一つ』

 ガドリエルはひと呼吸置いて言った。

『私は、あなたの味方です。今は全ての力を使う事ができませんが、可能な限り、あなたに力を与える事を約束します』

 百合香はそう言われると、暫しの間沈黙したのち、ぽつりと言った。

「…わかったわ」

 金色の剣を持ち上げ、眺める。あれだけの戦いを繰り返してきたのに、小さな刃こぼれ一つ見えない。

「あなたが導いてくれてなければ、今頃命がなかったのは確かだもの。信用してないわけじゃない」

『ありがとう、百合香』

「ところで、ひとつだけお願いできるかしら」

 百合香は立ち上がると、身なりがよく見えるよう両腕を拡げ、ガドリエルを向いて訊ねた。

「この鎧のデザイン、恥ずかしいんだけど」

 

 

 

 

 

 城の基底部よりさらに下層、つい先刻百合香が氷の剣闘士たちと激戦を繰り広げた闘技場に、深い青の外套を纏った何者かが立っていた。床や壁の亀裂を、注意深く観察しているらしい。細い体のラインは女性を思わせるが、顔はフードで隠れていた。

「……」

 右手に持った小さな指揮棒のような杖で、壁面の亀裂を細かく確認する。亀裂の断面の角が、明らかに熱で融けて丸くなっているのを、フードの何者かは見逃さない。

 亀裂を調べ終えたのち、その何者かは闘技場全体を見渡したあと、その場を歩き去った。

 

 

 

 鎧のデザインが、肌の露出が多いという百合香の訴えに、ガドリエルは素っ気なく答えた。

『申し上げにくい事ですが、その鎧をデザインしたのは百合香、あなた自身の意志です。私の力では、あなたの意志まで曲げる事はできません』

「じゃあ、私自身の意志でデザインし直すわ!どうやればいいの!?」

 百合香は下着まがいの鎧のデザインを手でなぞった。

「そもそも、こんな肌がむき出しで、防具としての役割を果たせるわけ?」

『百合香、ひとつ覚えておいてください。何度も言いますが、その鎧はあなたの意志が具現化させたものです。つまり、あなたの意志の力が大きく、強くなれば、身にまとう物もより強靭なものに成長させられます。その剣が成長したのを、あなたは目の当たりにしたはずです』

 そう言われて、百合香はハッとした。

「そ…そういえば」

 今さらだが、百合香は剣のデザインがまたしても変化している事に、今になって気付いた。何か、細かい装飾が追加されている。

『聖剣アグニシオンは、持ち主の成長に合わせてその姿を変えます。そして、その成長にふさわしい鎧もまた創造されるのです』

「じゃあ、この露出が多い鎧は…」

『まだ成長が足りないという事です』

 ずいぶんハッキリ言う女神様だな、と百合香は思った。

『ですが、心配は要らないでしょう。すでにあなたは、大きく成長する可能性を示しました』

「成長って、どういうこと?同じようにあの化け物たちを倒していけばいいって事?」

『破壊によって得られる成長はありません。成長すれば、破壊することの意味を常に考えるようになります』

 なんだか、前に読み散らかして捨てたスピリチュアル本みたいな事を言われても、納得がいかない。

『百合香、いま城はあなたの行動によって緊張状態にあります。もし今出て行けば、とたんに敵は大挙してくるでしょう。今は、この場所で心身を休めてください』

「そういえば、この空間は何なの」

 鎧の事は諦めた百合香は、天井を見渡して訊ねた。

『私が、あなたのために創った空間です。あの城からは完全に隔絶されており、少なくともここにいる限りは絶対に安全です』

 それは百合香にとっては、非常にありがたい話だった。ここに来るまで、心が休まる瞬間はなかったのだ。正直、こうして話し相手がいる事だけでも安心感がある。

「この空間にはどうやって来られるの?というか、どう行き来すればいいの」

『話せば長くなるので細かい説明は控えますが、私と繋がる事ができる”時空の裂け目”とでも言うべき場所が、この世界にはいくつか存在します。この城の中でそれがどこにあるかは、私にもわかりません。ですが、それを見付けたら、先ほどと同じように扉を開けてください。そこは、あなただけが出入りできる秘密の扉です』

「そんなの、どうやって見付けたらいいの?」

『さきほど、あの巨大な剣闘士を倒した時を思い出してください。私の持つエネルギーは、彼らのエネルギーと反発します。彼らのエネルギーが空間に散乱した時、私と繋がる”ゲート”のエネルギーがわずかに反発し、先ほどのように場所がわかるはずです』

 なんとも確実性の薄い話だな、と百合香は思った。つまり、その場所を見つけるためには敵を倒さなくてはならない、ということだ。それでも、身体を休める場所がある、という期待は百合香に大きな安心をもたらした。

「ガドリエル、私はここから、どうすればいいの」

『城の全容がわからない以上、うかつに動くのは考えものでしょう。良きにつけ悪しきにつけ、城の内外の状況はしばらくの間、変わる事はありません』

 そう言うと、ガドリエルは部屋の奥を示した。そこには、天蓋のついた寝台が据え付けてある。

『眠りなさい。私も、しばし眠りにつきます』

「あなたも?」

『実は、こうしてあなたとコンタクトを取るだけで、今の私には精一杯なのです。いずれ、もう少し自由に接する事ができるようになるでしょう』

 よくわからないが、ガドリエルも何らかの制限を受けているらしい。ということは、何気なく会話しているようでいて、けっこうエネルギーを消耗しているのか。

『この部屋にいるだけで、よほど大きく傷つかない限り、あなたの体は癒されるでしょう。食事を摂る必要もありません』

「…あっ、ちょっと」

『くれぐれも、無理はしないでくださいね』

 そう言ったきり、ガドリエルはすうっと消え去ってしまった。

「ちょっと、ガドリエル!」

 もう一度呼んでみるものの、返事はない。もう眠ってしまったようだ。

 

 百合香は困り果てた。大問題に気付いたのだ。

 

「ここ、トイレあるの!?」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

少女の孤独

 どれくらい眠っていたのだろう。目覚めると百合香は、真っ白な天蓋に覆われた寝台にいる事に気付いた。

 

 疲れていたのですぐ眠りについたが、目覚めてみるとどうも落ち着かないデザインだ。ガドリエルに、リフォームを頼めるだろうか。そういえばリフォームって和製英語というか用法が間違っているらしいよな、というどうでもいい考えが浮かんだところで、百合香は眠る前になかった物が、部屋に据え付けてある事に気付いた。

 椅子の形をしているが、背もたれがない。そしておなじみのフタがついていて、脇には何やら紙を巻いた器具が設置してある。

「…トイレだ」

 見たままを百合香は口に出した。近寄ってフタを開けると、水がキラキラと光っている。何か、光るタッチパネルのような物もあり、触ると水が流れた。水洗だけでなくどうやら、ウォシュレット機能もあるらしい。至れり尽くせり、である。

 

 設置場所以外は。

 

「落ち着かないな」

 ガドリエルが用意してくれたのだろうか。確かに眠る前、「トイレが欲しい」と考えていた。

 

 トイレそのものは完璧で、文句のつけようがない。しかし、少なくとも普通の家庭では、リビングのど真ん中に便器は据え付けない。

 

 とりあえず、誰も見ている心配はないはずなので、百合香は用を足した。設置場所は後でガドリエルにお願いしよう。

 トイレを流し、泉で手を洗っている時に、百合香は寝る前と、服装に違和感がある事に気付いた。

「ん?」

 そういえば、何気なくいつものように用を足したが、あの鎧をつけた状態でどうやったのだろう、と自分の姿を確認すると、なんと服装が学園の制服、それも着ていた夏服ではなく、冬用のワンピース制服になっていたのだ。そして、下着も真新しくなっている。

「そういえば私、鎧のままでベッドに入ったんだっけ」

 ということは、寝ている間になぜか服装が変わったということだ。

 

 そこで百合香はまたも問題に気付いた。

 

 剣が見当たらない。

 

「!」

 

 人間は物を探すとき、胸や尻をまさぐるのが習性であるらしい。そんなポケットに剣があるはずはないのだが、全身をまさぐったあと、寝台の周りを調べたが、どこにも剣はない。

 冷や汗がにじむ。鎧と一緒に消えてしまったらしい。あれがなければこの城において、百合香は多少成績がいいだけの、単なる女子高生である。現代国語で100点を取っても、氷の怪物は道を開けてはくれない。

 

 だが、泉に映る自分の姿を見て、百合香は「落ち着け」と自分に言い聞かせた。その時思い出したのは、あの戦斧の闘士である。彼はその体躯のとおり、落ち着いているように見えた。実際どうだったのかは知らないが。

 

 ゆっくりと胸に手を当てて、精神を集中させる。すると、胸からピンポン玉ほどの真っ白な光が現れて、一瞬で剣の形をなした。ガドリエルいわく、その名も聖剣アグニシオンだ。女子高生がサッと取り出せる、もはやスマホと同等の聖剣である。

「…なんだ」

 これでいいのか、と百合香はため息をついた。鎧を纏う方法も、同じ事だろう。すでに、自分で理解している事に百合香は自分自身ようやく気付いた。

 

 すると、泉の中央から声がした。

『目覚めたようですね、百合香』

 水が波立ち、ガドリエルの姿が泉の中央に浮かぶ。

『聖剣アグニシオンの扱いは理解できましたか』

「理解できてる事に気付いてなかったわ」

 百合香は苦笑いしてみせた。

「服装が変わったのは、なぜ?」

『おそらく、あなたの無意識がそれを望んだのでしょう』

 百合香は、わかったようなわからないような顔で、とりあえず頷いた。ただ、なんとなく「着替えたいな」と思っていたのは事実である。それが反映された、ということか。どうやら、トイレも同じ事らしい。

 

『百合香、ひとつ忠告しておきます。あの鎧を常に身につけた状態で、城内を移動するのは危険です』

 ガドリエルが唐突に言うので、それはどういう事だろうと百合香は思った。身を守るためにある筈の鎧を、纏うなとは矛盾していないか。ガドリエルは答えた。

『本当の事を言えば、剣もそうなのですが…あなたの武具は、この城の理と相反するものです。すなわち、その発せられる波動が、彼らにとっては、あなた方の言葉で言う"発信機"となる可能性があるのです』

 なるほど、つまり敵に居場所を察知される危険がある、ということだ。

「つまり、戦闘に入る段階まで、極力この姿で居ろ、ということね」

『そうです。あなたの力が高まれば、波動をコントロールして気取られる事なく移動する事もできるようになる筈ですが、今のあなたにそれは難しいでしょう』

 そう言われて、百合香はほんの少しカンに触った。昔から負けん気が強いので、無理だと言われると意地でも達成してやる、と思ってしまう。レーダーに察知されないステルス女子高生になれというなら、なってやろうと心に決めた。

「わかった。それで」

 百合香は、聖剣アグニシオンを見つめながら訊ねる。

「とりあえず体力は元に戻ったけど、ここからどう動くべきだと思う?」

 遠慮なく百合香は意見を仰いだ。あの氷の魔城に関して、知らないのはガドリエルも同じである。

『まだ全容はわかりませんが、この城は大まかに、4つの層に分かれているようです。今いるのはその最下層部でしょう』

 なんだか曖昧な情報だ。ようです、とかでしょう、とか言われると不安になる。

「ハッキリとはわからないのね」

『はい。ですが、わかる事もあります。彼らの放つ負のエネルギーは、上の層に行くほど強く、色濃くなっているようです』

「どういうこと?」

『大まかに言うと、上に行くほど敵はより強大なものになる、という事でしょう』

 相変わらずガドリエルは、こちらが不安になる事を淡々と語る。それと対峙するのは百合香である。

『まずは、下層部から慎重に進んで行く事です。どうやら、今のところ下層部の気配は落ち着いています』

「今が出ていくチャンスってこと?」

『そうです』

 

 百合香は、剣を構えて扉を向いた。唐突に不安が押し寄せる。また、あの暗く冷たい空間に戻るのだ。そして、間違いなく敵と戦うことになる。

 バスケットの試合が始まる直前を思い出す。違うのは相手がわからない事と、自分一人で戦わなくてはならない事だ。

「そうだ、ガドリエル。出ていく前に、ひとつ質問していいかしら」

 扉の前に立つ百合香が、ふいに振り向いて訊ねた。

「私に顔立ちがよく似た、黒い髪の女の子が、ときどき鏡や硝子に映るの。私に話しかけようとしてる様子もある。何かわかる?」

『私にはわかりません。ただし』

 間を置いて、ガドリエルは言った。

『それが氷巌城の出現と前後して現れたのであれば、氷魔という事も考えられます。仮にそうだとしても、あなたに語りかけようとする事の意味まではわかりません』

「もし氷魔だとすれば、倒さなければならない敵、ということね」

『現時点では、これ以上私にわかる事はありません』

 ガドリエルは素っ気無い。

「なるほど、わかった」

 やはり、自分で確かめる以外なさそうだ。あるいは、城と関係ない心霊現象という事もあり得る。ガドリエル学園にも、それなりに怪談は伝わっている。何にせよ、正体がわからない物について、いま考えても仕方がない。

 

 百合香は改めて呼吸を整えると、心の中でバスケット部員たちと円陣を組むイメージを浮かべる。

『ガドリエル―――ファイト!!』

 よし、と百合香は頷き、振り返る事なく扉を開け、剣を携えて再び冷たい暗闇の城へと向かった。

 

 

 

 降り立った闘技場は、誰の姿もなく静寂が支配していた。百合香が残した巨大な破壊の痕が、そのまま残っている。

 ガドリエルに言われたとおり、百合香は鎧を発現させずに、剣を構えてゆっくりと移動した。剣にもエネルギーは込めない。まず、闘技場の外側に続く通路に足を踏み入れる。

 

 通路はやはり、岩盤を掘っただけのような雑然としたものだった。足元は相変わらずの凹凸である。

 そういえば、と百合香は思った。この通路の高さは4mあるかどうか、というところだ。最後に倒した、あの巨大な剣闘士が通れるとは思えない。

「あの大きいの、どうやって闘技場に来たんだろう」

 そこまで呟いて、百合香は別の可能性を考えた。

 

 あの巨大な剣闘士はひょっとして、最初からあの闘技場にいたのではないか?

 

 ガドリエルは、この城が「創造された」と言っていた。つまり、魔物の配置も最初から決まっていた、という事もあり得る。あたかも、要衝を守る番人のようにも百合香には思えた。

 ということは、この先にもあの氷の巨人と同じような、「番人」がいる事も考えられる。城に主がいるのであれば、雑兵との間を管理する、幹部クラスの存在がいてもおかしくない。さっき倒したあの巨人は、そういう存在だったのではないか。

 

 そんな事を考えつつ、静まりかえった通路を進んで行くと、何かザッ、ザッという地面を擦るような音が聞こえた。とたんに身構える百合香だったが、こちらに近付いてくる気配はない。

 すると今度は、何か布が風にはためくような音も聞こえた。風が強い日の、庭に干したシーツのような。

 そして次の音で、百合香はその音源の正体が何となくわかった。

 

「コェェェ――ッ!!」

 

 暗く、鈍い青紫に光る通路に、不快な金切り声が響く。

 

 これは、鳥の声だ。それも、相当大きな。以前に図鑑で見た、比較的近代に絶滅した何とかという巨大な怪鳥を百合香は連想した。

 

 百合香は立ち止まる。たぶん戦闘になるのだろう。それはもう覚悟の上である。

 問題は、ここまで戦ってきた相手は、大小はあっても同じような人形だった事だ。しかし、この城が「何でもあり」なのであれば、鳥や動物がいたって不思議はない。

 

 どうするか。声は、通路の奥から聞こえてくる。一本道であり、他に迂回できるルートはない。

 

 戦わざるを得ない。

 

 百合香は覚悟を決め、剣をしっかりと握って通路を奥に進んだ。

 

 

 

 先刻戦った闘技場とさほど変わらない広さの空間に、百合香は出た。氷を切り出しただけの空間であり、装飾などは一切ない。

 しかし、さっき羽音や声がしたわりには、何もいないことを百合香は訝しんだ。この広間ではないということか。

 だが足元に落ちているものを見て、百合香は間違いに気付いた。

 

 鳥の羽根が落ちている。キラキラと光っていて、見たこともないほど美しい。これもまさか、氷でできているのか。

 

 とっさに、百合香は上を警戒した。床にいないということは―――

 

「コェェェ―――――!!!」

 

「!」

 百合香は、瞬間的にその場を飛び退いて、迷わず鎧を纏った。胸から吹き出した紅蓮の炎が百合香の全身を包み、黒いアンダーガードや、胴体や関節を保護するパーツを形成していく。前回なかったアンダーガードのおかげで、肌の露出は多少抑えられたらしい。

 

 空間の上方から、巨大な影がホールの真ん中にドスンと降り立った。

 百合香が想像したとおり、それは巨大な鳥だった。キジがトレーニングジムで半年鍛えたような姿をしている。問題は、その大きさだった。

 

「―――サギだ」

 

 サギ、とは鳥の名前を言ったのではなく、もはやインチキレベルの相手の大きさに対する、女子高生の不平の訴えである。

 百合香の眼前にいるのは、さっき戦ったあの巨大な剣闘士よりも大きな巨鳥だった。鳥というか、翼竜の親戚といった方が早い。

 

「こんなのと戦えっていうの」

 いや、待て。まだ敵と決まったわけではない。案外、すんなり通してくれるのではないか。そんな無謀な期待を込めて、百合香は壁伝いに移動を試みた。

 しかし、百合香の期待はせいぜい3秒で打ち砕かれた。ジムで鍛えた巨大キジは、その嘴を百合香めがけて打ち下ろしてきたのだ。

「わあ!!!」

 すんでの所で、百合香は後方に回避できた。もし鎧を纏って身体能力が上がっていなければ、今頃鳥のエサになっていただろう。

 仕方ない、と百合香は着地して、改めて剣を構える。しかし、相手が翼を広げるとさらに巨大に見えた。

 

 これまでの相手は人間の形をしていたので、動きがそれなりに予測できる。しかし、相手は鳥である。動物の動きは予測ができない。初めて対戦する学校との試合の緊張感に似ている。

 対策を考える余裕もなく、巨鳥は再び百合香を嘴で狙ってきた。スピードが違うし、首のリーチも長い。百合香は全力で回避した。

「はっ!」

 避ける百合香に、相手は何度も嘴を向けてくる。あまり考えはなさそうだ。しかし、逆にそれが怖い。

 

 巨鳥は、今度は翼をはためかせて飛び上がった。いま気付いたが、この空間は上に向かって伸びているようだ。暗闇のせいで、どこまで高いのかわからない。

 巨鳥の羽ばたきは、ホール内に暴風を巻き起こした。

「きゃああ!!!」

 衝撃波のような暴風で、床面に散乱していた氷の破片が百合香に襲いかかる。鎧の持つ不思議なエネルギー膜のおかげで直接のダメージはないが、膜を通して伝わる衝撃で、百合香は弾き飛ばされた。

「あうっ!」

 後頭部や背中をしたたかに壁面に打ち付け、百合香の身体は床に投げ出された。普通ならすでに骨折しているだろう。

「うっ…」

 痛む身体をなんとか持ち上げると、暴風に耐えながら百合香は剣を拾い上げた。

 強い。そして知能レベルとは関係なく、何をするかわからない相手に百合香は恐怖を覚えていた。

 百合香にダメージが及んだのを見て取った巨鳥は、羽を下ろして床面に降りた。首をひねるようにして、百合香に迫ってくる。素早さが今までの相手と段違いなので、迂闊に懐に飛び込む事ができない。かといって飛び上がれば、空中戦で鳥にかなうわけがない。

 

 このままでは、攻撃するスキがない。そこで百合香は、戦法を変えることにした。

「こっちよ!来なさい!」

 相手を誘うように動いて、百合香は後退した。氷の巨鳥は突っ込んでくる。脚の移動速度も速いのは、若干想定外だった。

 それでも百合香は構わず全力で後退する。なおも巨鳥は追ってくる。

 

 しかし、次の瞬間、唐突に巨鳥の動きは止まった。

「やった!」

 巨鳥の前半身は、百合香が誘い込んだ通路にガッチリとはまってしまったのだ。知能がなさそうなのを利用して成功した作戦に、百合香はガッツポーズを取った。

「江藤百合香、やればできる子!」

 意味不明のワードを叫ぶと、百合香は聖剣アグニシオンを、後ろに矢を引くように水平に構える。

「グァ―――!!!」

 巨鳥は、はまった身体を引き抜こうともがいた。通路に、咆哮の衝撃波が走る。しかし、百合香は踏ん張ってそのスキを逃さない。聖剣アグニシオンに、真紅のエネルギーが凝縮されていった。

 

『メテオライト・ペネトレーション!!!』

 

 剣身に満ちた炎のエネルギーを、百合香は剣をまっすぐに突き出し、対空ミサイルのごとく巨鳥の首めがけて打ち出した。

 隕石なのに下から打ち上げるのはネーミングとしてどうなのか、と自問する間もなく、巨鳥の首は剣のエネルギーに貫かれ、凝固したシャーベットのように根本からその場に砕け落ちた。

 

 例によって、敵がまだ動かないか不安な百合香は、聖剣の先でチョンチョンと倒れた身体を突っついた。ダンジョン攻略ゲームの主人公の大男がやったら絵的に締まらないが、こっちはただの女子高生である。

 

「ふうー」

 相手が全く動かない事を確認すると、百合香はその場にへたり込んで、安堵のため息をついた。

 背中を打ち付けたダメージが若干残っているものの、そこまで深刻なものではなさそうだ。鎧の防御力に感謝しつつ、再び百合香はその装備を解除し、もとの制服姿に戻った。

 通路をふさいだ鳥の脇をどうにかくぐり抜けると、百合香はホールの天井を仰ぐ。高い。ひょっとして、城の上層まで突き抜けているのではないか。だとしても、今の百合香にこんな高さを登る手段はない。

 

 見ると、やはり入ってきた通路の反対側には、また通路が見えた。だいぶ移動してきたので、いいかげん城の端まで来たのではと思っていたが、予想よりもさらに巨大な城らしい。

 

 突然百合香は、たった独りで戦う事の頼りなさを感じて、その場に立ち尽くした。

 今までは、バスケットのチームで戦ってきた。自分が優れていようとも、結局はチームがまとまっていたからこそ、それなりに勝利を収める事ができた。

 

 チームプレイに慣れていた少女が、とつぜん独りで巨大な城に立ち向かう事を強いられているのだ。仲間とは、本当にありがたいものなのだと百合香は実感していた。

 

 たった一人だけでもいい、仲間がいてくれたらどんなに心強いだろう、百合香はそう思った。眼の前には、冷たい闇の通路が無言で続いていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ルミノサス

 百合香は聖剣アグニシオンを輝かせて、広い円形ホールの、いま倒した氷の巨鳥が降りてきた天井を照らしてみた。

「…高い」

 百合香は呟く。剣の輝きは大型のLEDライトより強いくらいだが、それでも空間の天辺には届かないらしい。吹き抜けにも似ているが、これだけ派手に戦っても、上からは物音ひとつ聞こえない。

「上はどこかに繋がってるわけじゃないのかな」

 調べてもそれ以上の事はわからない。螺旋階段でもついていれば上層に上がれそうだが、何もない。百合香は仕方ないので、さらに奥へ続く通路を進む事にした。

 

 

 相変わらず乱雑に切り出した通路を進む。壁面の鈍い青紫の光による視界は厳しいが、逆に敵からもこちらが見えにくいのは好都合だった。検査で毎回2.0を誇る視力に、百合香は感謝した。

 しかし、そこで百合香は妙な事に気付いた。何気なく髪を整えた時、やけに自分の髪が明るい色に見えたのだ。

「ん?」

 百合香は自分の長い髪を持ち上げて、首の手前に持ってくる。

「……なんで」

 錯覚ではない。地毛そのものが明るいブラウン気味のせいで、今まで地毛証明だとかを学校に提出したり、面倒な思いをしてきたのだが、もはやブラウン気味だとかのレベルではなく、完璧なブロンドになってしまっているのだ。

「……!」

 どういう事なのか。もともと、顔立ちが少しだけ西洋人ぽいせいで、意地の悪い人達には気持ち悪いとか陰口を言われてきたが、ついに髪まで西洋人になってしまった。

 この暗黒の氷巌城で生活指導の教師に出くわす心配もないだろうが、もし全部解決して日常生活が戻った時に、このままだったらどうなるのか。

「…まずい」

 自他の生死がかかっている魔物の城攻略の最中に、髪がブロンドになった事を心配する自分の余裕も凄い、とは百合香自身も思う。

 

 百合香は、慌てて周囲を見回した。そして、比較的平らな鏡面になっている壁面を見付けると、近付いて剣を発光させる。

「……」

 水晶のような光沢の壁面に、自分の姿が映る。深い青紫の鏡でも、見事なブロンドである事がハッキリとわかる。

 しかし百合香は、なぜかその姿が、今までよりも自然に思えた。もともとブロンドだったのではないかと思えるくらい、違和感がない。

「…あまり変な事が連続してるせいで、髪の毛までショックで変わっちゃったのかな」

 不意に百合香は笑ってしまう。

 

 その時だった。

 

 暗い鏡面に映る自分の背後に、またしても、それは姿を現した。ここまで激闘の連続で、移動中はうっかり忘れかけていた。

 

 自分によく似た、黒髪の美少女。

 校舎にいた時から、姿は見えても実体がない、幽霊のような少女。

 

「あなた…」

 百合香はその時、心臓が止まりそうな驚きと同時に、なぜか安心感のようなものを覚えていた。

 

 少女は、百合香のブロンドの髪に、指を滑らせる。まるで人形を愛おしむように。

 

『ユリカ、やっと会えた』

 

 声が聞こえた。自分によく似た声だ。同じなのかも知れない。

 驚いた百合香だったが、今度こそ、繰り返し現れる謎の少女の正体を突き止めてやろう、と考えた。

 

「あなたは、誰」

 百合香は訊ねる。もはや、様々な事が連続しており、鏡の中の人間と会話をする程度で動じる百合香ではなくなっていた。

 少女は首をかしげた。

「あなたの名前は?」

 百合香は再び訊ねる。すると、少女の口が動いた。

『名前がないの、私には』

「どういうこと」

 

『私達には姿も、声も、名前も、何もない。だから私は、あなたの姿を真似た。美しい、あなたの姿を』

 

 少女は、とつとつと語った。まるで、子供と話しているようだと百合香は思った。

「姿がない…まるで氷魔のようね」

『氷魔。私達をそう呼んでいるのね』

「あなたは氷魔なの!?この城の奴らの仲間なの!?」

 つい、百合香は激昂した。少女はびくりとして顔を背ける。

『怖い、怖い。怒らないで』

 それが本物の怯えに思えたため、百合香はとたんに妙な罪悪感を覚えた。

「…ごめんなさい」

『百合香。あなたは、友達を助けたいのね』

 突然、意外な事を少女が言ったので、百合香は目を丸くした。

「何を言っているの?」

『あなたの大切な人達。髪の短い人、眼鏡をかけた人。あの人達を、助けたいのね』

 まるで、百合香の心の内を読んだかのように少女は言う。どう答えればいいのか、百合香は迷った。

「…助けたいわ、もちろんよ。でも、あなたには関係ない」

『そんな事言わないで』

 少女は、百合香の首に両腕を回す。鏡に映る姿しか見えないが、その感触が確かにあった。

『百合香。わたしは、あなたが氷魔と呼ぶ存在。だけど、ひとつだけ違いがある』

 少女は、今までより強い調子で語り始めた。

 

『私は、人間になりたいの』

 

「え!?」

 百合香は思わず声を出した。

「いま何て言ったの?」

『私は、人間になりたい。この、形のない曖昧な存在から、形のある存在に移行したい。あなたのような美しい人達と一緒に、”人生”というものを送ってみたい』

 百合香はまたも面食らった。

「…唐突にそんな事言われても、私にはどうすればいいのか、わからないわ。何をしてあげられるのか」

 そう答えたが、少女は微笑を浮かべたままだ。百合香の次の言葉を待っている。

「怒っているわけではないけれど。あなたが、私の敵ではないと、どうやって証明するの?」

『証明。そう、人間の世界ではそういうものが必要なのね。不便だわ』

「あなた、人間になりたいんじゃないの!?」

 またしても百合香は大声を上げてしまった。

「矛盾してるわ。それとも、あなたの世界に『証明』は必要ないとでもいうのかしら」

『じゃあ聞くけれど、証明って何をすれば証明になるの?』

 いきなりそんな方向に話を持って行かれて、百合香は頭がくらくらし始めた。

「哲学の問答をしてる時間はないわ」

『哲学!知ってるわ。あなたが時々読んでる本』

「…え?」

 百合香は、ぎくりとした。

『あなたが読んでた、デカルトという哲学者の本にあったわね。”方法的懐疑”という理論。真実に到達するためには懐疑的になる必要がある、という解釈でいいのかしら。では、私が信用できる事を証明するには…』

「ちょっと待って!どうして、私が読んだ本を知っているの」

『私、あなたと学校でいつも一緒にいたのよ。最近やっと気付いてくれたみたいだけど』

「な…」

『あなたが学校で読んでた本、みんな覚えてるわ。詩、というのも好きなのよね。サッフォーの”アフロディーテ讃歌”を繰り返し読んでるけど、あそこが特に好きなのかしら。そういえば、小説っていうのを書いてた事もあるわよね。主人公は、魔女のルミ…』

 

「スト―――ップ!!!」

 

 顔を真っ赤にして百合香は、鏡の中の少女を遮った。

「プライバシーの侵害だわ!一体どこまで…」

『プライバシー!それも人間の概念ね!』

「いちいちキーワードに反応しないで!!」

 なんなんだ、この幽霊少女は、と百合香は思った。話していると気が狂いそうになる。

「学校でいつも一緒にいるって、どこからどこまで…」

『映るものがある場所なら、どこでも。トイレ、と呼ばれる場所では中まで覗けないけれど、あそこは何をする場所なの?』

「ちょっと黙って」

 百合香は、壁にもたれて座ると深呼吸をした。

「あなた、だんだん性格が変わって来てるわ」

『当然よ。こうして、あなたと会話するのは初めてだもの。私は、あなたの姿を模倣して今のイメージを創り上げたの。性格も、だんだんあなたに似てきているという事よ』

「私はあなたみたいに失礼な人間じゃないわ」

『そうかしら。それとも人間は、自分の事が自分でわかる存在なの?』

 なんて嫌な絡み方だ。自分は間違ってもこんな理屈っぽい少女ではない、と百合香は心の中で必死で否定したが、そういえば南先輩に「話がクドい」と言われてショックを受けた事はある。

「氷の化け物と戦ってる方が百倍ラクだわ」

 百合香はつい、そう悪態をついた。

「いい。わかった」

『何が?』

「あなたが、少なくとも他の氷の化け物とは違う、という事よ」

『当然だわ。彼らは根本的な矛盾を抱えた存在だもの』

 その言葉に、百合香は何か引っかかるものを感じた。

「どういう意味?根本的な矛盾、って」

『この城を奥まで進めば、嫌でも知る事になるわ。進めれば、の話だけど』

 その少女の言葉に、百合香は沈黙した。

『あなたの、目覚めたその強大な力は、確かにこの城にとって脅威だわ。けれど、上に行くごとに相手は強くなる。少なくとも今の程度の強さでは、途中で死ぬでしょうね。せめて氷の彫像になれればいいでしょうけど、二目と見られない姿で死ぬ事だってある』

 だいぶ恐怖を煽ってきているが、確かに今までそんな不安がよぎる場面は何度もあった。百合香は、自分の最期というものを想像して身震いした。

「…じゃあ、あなたは何かできるっていうの。あなたは要するに、人間になって、私たちの世界に来たい、そういう事よね」

『うん』

「それなら、私が氷漬けになってあの世に行った時点で、あなたの目論見は崩れ去るわけよね」

 

『全くその通り。だから私は、あなたに力を貸そうって言ってるの』

 

 あっけらかんと少女は言った。百合香は訊ねる。

「力を貸す?」

『そう』

「何ができるというの」

『あなたに出来ない事が私にはできる。と思う』

 最後の一言が余計なのではないか、と百合香は思った。

「なんで曖昧なのよ」

『だって、私には姿がないのだもの。実際に”現れて”みないと、何ができるかはわからない』

「現れるって…肉体がないのに、どうやって現れるつもりなの」

『その方法を考えてるんだよね。今のままじゃ、私は単なる精神体』

 もう、わけがわからない。実体がないのに、どう協力するというのか。百合香は、これ以上話しても埒が明かないと思って立ち上がった。

「とりあえず、あなたの事は心に留めておく。でも、今は私は先に進まないといけない」

『ふうん。仕方ないわね』

「…ひょっとして、この城に入ってからも、私の事見てたの?」

 一番気になっていた事を百合香は訊ねた。少女は答える。

『もちろん。私は今、まだこの城の住人だもの。けれど、今はあなたという外界との接点ができた』

「あなたとコンタクトを取るには、鏡を見ればいいのね」

『え?いやだなあ、もうそんな必要ないわよ』

 その少女の返答に、どういう意味だろうと百合香は思った。

 

『もうすでに、私の魂はあなたとリンクしている。ずっと一緒よ』

 

 百合香に悪寒が走る。

「それってどういう意味?」

『もう、あなたの心の中に私がいるって事。離れられないわよ』

「そんな契約した覚えはないわ!どんな魔法か知らないけど、出ていって!鏡でお話すれば、それでいいじゃない!」

 百合香は叫ぶ。自分と常に他の誰かが精神を共有するなんて事、あってたまるか。トイレで用を足す時でさえ、一緒だという事だ。

『魔法!すてきな言葉だわ。うん、私、人間になったら魔女になりたい』

「残念だけど魔女の仕事はないわね。私の国では」

 気を紛らすために軽口を叩く百合香だったが、その時何か、妙な音に気がついた。

 

 ズルリ、ズルリ、という何かを引きずるような音が、通路の奥から聞こえてくる。百合香は身構えて、胸に意識を集中した。炎が噴き出し、鎧となって百合香の全身を包む。

「何か来たみたい」

『大声出すから』

「誰のせいよ」

 言いながら、剣を構えて音がする方を睨む。それは、確実にこちらに近寄ってきた。

 

 10メートル。5メートル。だんだん近づいてくる。そして、やがて影が見えた。

 床面から鎌首をもたげるように立ち上がったそれは、人間型ではない。といって、鳥や動物でもない。すると、何かシュルリという音がして、百合香はものすごく嫌な予感がした。

 

 それは、百合香に気付くと、一瞬で襲いかかってきた。

 

「あっ!」

 とてつもないスピードだった。その長い影は、全長6メートル以上はある。それが、うねるように百合香に飛び掛かってきた。すんでの所でかわした百合香は、至近距離でようやく相手の正体を理解した。

 

 それは、蛇だった。やはり氷でできているらしい。氷が繊維状になっているのか、無数の鱗になっているのか、それはわからないが、とにかく氷の巨大な蛇だ。

「シャアッ!!」

 休む間もなく、蛇は百合香に飛び掛かってくる。速い。

「あぐっ!」

 強烈な体当たりを喰らって、百合香は激しく壁面に叩きつけられた。さすがに今度ばかりは、少なからず全身に衝撃が走る。剣を取り落し、百合香は床面にドサリと投げ出された。

『百合香!』

 少女の声が響く。

「これぐらい…」

 百合香は、必死で立ち上がる。だいぶ休んではいたが、だてにバスケットで鍛えてはいない。剣を拾うと、即座に斬りかかった。

「せいやーっ!」

 大蛇の首めがけて炎の剣を斬りつける。しかし、相手は蛇である。動きの予測ができない。百合香の剣は、すぐにかわされた。逆に、蛇はその全身をくねらせて百合香の全身に巻き付いてきた。

「うああっ!」

 腰と首を同時に締め付けられ、百合香はその圧力に耐えきれず叫んだ。

『百合香!しっかりして!』

 少女の声が聞こえる。しかし、百合香は動けなかった。どうにかして、この状況を打破しなくては。

 

 その時、百合香に浮かんだのは、バスケットボールのスティールだった。相手のボールを奪い取る。今の場合、自分自身がボールである。相手の手からボールを奪うには、どうすればいいのか。

「こ…の」

 百合香は、遠のきそうな意識の中で、全力で剣に力を込めた。剣は激しく発光し、剣身から炎の塊が飛び出す。炎の塊は、弧を描くように飛びあがると、ブーメランのように百合香の身体ごと大蛇を打ち付けた。

「シャアッ!!」

「あうっ!」

 蛇の出す音と百合香の悲鳴が重なり、そのまま両者は弾き飛ばされて壁面に当たった。

「いたた…バスケの試合なら、もろにファウルだわね」

『とんでもない無茶するわね』

「この程度で参ってちゃ、試合には勝てないわ」

 体育会系の美少女、百合香は心の中にいる「もう一人の自分」に不敵に笑ってみせた。

「うっ」

 相手もダメージを受けているが、さすがにこちらにもダメージがあり、背中に痛みを覚えて百合香はバランスを崩した。

「…今度こそ、仕留める」

 その時だった。

『百合香、私に代わって』

「え?」

『私に、あなたの身体を貸して。私の力なら、きっとそいつを倒せる』

 百合香は、ふらつきながら少女の言葉を聞いていた。

『あなたがそいつにダメージを与えた、いまが交代のチャンスよ!』

「どうすればいいの」

『私の名前を呼んで!』

「名前なんてないんでしょ」

『あるわ。いま決めた』

 少女は断言した。

 

『私の名は、瑠魅香』

 

 ルミカ。少女はそう名乗った。その名前は、百合香がよく知っている名前だった。

「その名前は…」

『早く!私を呼んで!』

 少女は急かす。ダメージを負った大蛇が、再び百合香に狙いを定めて動き始めた。

 

 百合香は、少女を信じてその名を―――百合香だけが知っていたはずの名前を呼んだ。

 

「きて、瑠魅香!」

 

 百合香の叫びが、暗闇の通路にこだまする。次の瞬間、百合香の全身は赤紫の炎に包まれた。

 

 その激しい炎が収束した時、中から現れたのは黒髪の少女だった。その全身は深い紫のドレスに包まれ、黒い髪の上には、広いツバの三角帽子が乗っている。その手には、銀色に光る巨大な杖が握られていた。

 

 それは、かつて百合香が頭の中で思い描いた、魔女の姿だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。