Pokemon -翡翠外伝- (いぬぬわん)
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ミツルが紡ぐ物語 前編
外伝作品は改めてこの話からスタートさせていただきます!
ツシマさん主役のお話は、また必ず投稿しますので、しばしお待ちを……!
トウカジム。第一修練場——。
艶やかに磨き上げられた木製コートがあるこの場所で、僕——ミツルは、多くの時間を過ごした。
過ごした時間の中で、大切なものををいくつも教えてくださったのは、敬愛するジムリーダー——センリ。
彼の教えは、僕にとって究極の道標となり、絶対的な真理のように輝いていた。
その教えを受けて……僕は今日、旅に出る。
「ミツルくん。今日までご苦労だったね」
コートの中ほどで僕は目の前に立つ師から労いの言葉を受ける。その顔は本当に優しさに満ちていて……僕は自然と笑みが溢れた。
「いいえ。僕の道はこれからです。今日までのことを無駄にしない為に……行ってきます」
僕は——今までその選択だけはできなかった。『旅に出る』などと大きな決断を、今まで保留にして生きてきた。
自分が強くなれるようにずっとこの場所で囲ってくれた師匠には感謝している。でも、僕はどこかでそれに依存して、トレーナーの本分を全うするために出かけていくことをずっと恐れていた。
その事について自覚した。その折に、僕は出会ったから——。
我が師の実子にして、僕の友人となってくれた……ユウキさんに。
「——旅の間、どんな時間も大切に生きるんだ。キミの前途に幸福を」
師匠は多くを言わない。でも、それでよかった。
僕らはもう、充分すぎるほど言葉を交わしてきた。この先は自立する旅でもある。師匠もそれがわかっているのか、もう多くの言葉で励まそうとしたりはしないようだ。
やや込み上げる寂しさと、それを上回る信頼されている喜びとが混ざると、やっぱり僕は少し泣いてしまう。
目尻に溜めた涙を、溢さないように耐えながら、改めて僕はセンリ師匠に言うのだ。
——行ってきますと。
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ムロでのジム戦を終え、その後色々ありながらも、ユウキさんのジム戦を見届けた後……すぐにカナズミへと赴いていた。
理由はもちろんカナズミジムにある。そこにはユウキさんを破ったジムリーダー、ツツジさんがいるからだ。
——そして、その決着はついた。
相棒の
熱いバトル——その熱気が、バトルの終わり際から徐々に低下していくのを感じていた。
「——おめでとうございます。ミツルさん、よく出来ました♪」
直前まで冷静に、それでも鬼気迫る勢いで戦っていたツツジさんは、いつの間にかどこかのご令嬢のような表情に戻っていた。
僕はその称賛を受けて、ようやく自分がジム挑戦を乗り越えたことに気が付いた。
「〜〜〜っぷはぁ‼︎ つ、強かったぁ〜〜〜ッ‼︎」
どうやら集中のし過ぎで、僕は呼吸も忘れていたらしく、ツツジさんの声を皮切りにその堰を切った。
「お見事でしたわ。やはりトウカジム生は手応えがありますの。取り分け“
「や、やめてください!その二つ名、本当誰が考えたんですかぁ⁉︎」
ジム生として色んなオープントーナメントやジム対抗戦をしていく内に勝手につけられたそのむず痒さを発生させる二つ名に、僕は反射的にツツジさんに食ってかかる。
それを面白そうに見ているのか、彼女はクスクスと笑うのだった。
「プロになる前から二つ名で呼ばれるトレーナーなどそうは居ませんわ。せっかく頂いた名ですし、大切にしてあげませんと」
「うぅ〜。もうちょっと大人しめの名前が良かったんですが……」
それでも確かに……その名は僕の戦いを“外から見守ってきた人達”が付けてくれた、謂わば贈り物だ。
その様に心打たれた——というのは言い過ぎかもしれないけど、事実、
歴代に名を残してきた尊敬すべきトレーナーたちの多くがこの俗称で呼ばれる内に、いつしか通例ともなったファンの楽しみを、僕が気に入らないという理由だけで否定するのは間違っている——ということだろう。まぁそれはそれとして、“
「……名前にご不満があるから、スポンサー契約も断ってるんですの?」
そこで不意に、ツツジさんは僕をどきりとさせる質問をしてきた。
確かに彼女が言うように、僕は時折、バトル興行に尽力する企業からのお誘いが来ることがある。当然それはアマチュア時代、僕が出した『結果』に基づいての事だとわかってはいるのだが……。
「あはは。なんか苦手でして……」
「苦手——そんな理由であしらえる程、その恩恵は軽くはありませんわよ?一体どれほどのプロトレーナーが、その“特権”に預かりたくて必死に汗水垂らしているのか……知らないあなたではないでしょう?」
知らない筈はない——僕のいたトウカジムでも、プロになった後もまだ所属し続けるトレーナーもいる——というより大半がそうだ。
わざわざ旅に出なくても、慣れ親しんだ場所でも研鑽は積める。遠方のトーナメント参加は億劫になるかもしれないが、それさえ目を瞑れば、ジム所属のままプロ活動に勤しむ事も悪くない。
だから、その先輩たちの話はよく聞かされる。みんな企業からのスカウトの目に留まれるようになりたい旨を話し合っていた。それを僕は——
「事情なら……大体察しはついてますわ」
「え……?」
「何を驚いてますの。理由なんて、明白ではありませんか」
事もなげにそう言うツツジさんだが、僕には信じられない。だって僕とこの人は、ムロで少し話したくらいで、あとはジムの所用の時に見かける程度。そんな関係性の僕のことを推察するには、あまりにも情報が少ないはずなのに。
「ジムを出て、旅に慣れるまであちこちに行くわけでもなく、即座にムロジムの戸を叩き、好条件の企業スカウトも断る……まるでどこかの誰かさんと同じ道筋ではありませんか……」
「あ……」
そこまで言われたら、流石に僕でもわかる。そうだった。この人はユウキさんに教えを説いたこともある人だった。当然その生い立ちやこれまでの経緯にも思い当たることがあるのだろう。いやはや恐れ入ります。
「彼をライバル視……もしくは親近感でもあるのでしょう?彼が頑張るなら自分も——素敵な友情ですわ」
僕は……確かにそういう気負いもある。
僕よりも後に出発し、僕よりも先に旅立ったユウキさん。彼の足跡は、僕の進路を決定づける上で大きな影響を与えている。
彼は信じられない速度で強くなる——僕が築いてきた5年間というアドバンテージは、ムロジム戦を見る限り、消し飛んだと見ていい。それは友達として嬉しくもあるけど、同時に置いていかれる危機感も生まれた。
それほど鮮烈なデビュー戦だった。そしてそんな風に強くなれたのは、彼が自分で選んだ道を歩んだから……有体に言えば、自分を敢えて追い込むように過酷な環境にいるからだとも思った。
だから僕も——そう思っていたこともあったっけ。
「……確かにそんな風に考えていた時期もありました。あの人の後ろ姿を見ていると、自分もそんな甘い話に乗っかっていいのか——って」
僕はその旨を正直に話す。ツツジさんは「それでしたら……」と僕に物申す為に口を開くが、それを僕は遮るように続ける。
「でも、この旅に出る時に言われたんです……師匠——センリさんに」
——どんな時間も大切に……
「——確かにスポンサー契約は僕にたくさんのメリットをもたらすかもしれない。僕の成長の助けにもきっとなる。でも、デメリットだってあるんですよ」
「デメリット……?」
僕は思う。魅力的な提案ではある契約も、一定のものと引き換えになっているだろう事を。向こうも慈善事業でやってる訳じゃない。ビジネスとして、僕が有益だと感じたから——そう持ちかけているのだ。
「……きっと契約後は忙しくなる。スポンサーたちの意向にも沿った進路選びもしなきゃいけなくなる。そうなると、もう自由に旅を——って訳にもいかなくなるんじゃないかって」
憶測ではあるけど、僕にはそうなる未来が想像できてしまった。そして、その中で僕は、日々を大切に過ごせるかという自問に至る。
——忙しさに奔走するあまり、余裕がなくなる姿が目に浮かんだ。
「勿論、いつかどこかで支援が必要になるかもしれないし、その時になってもまだ契約してくれる企業があるのかはわからない。保証なんてないかもしれないけど……」
僕はここしばらく考えていたことを口にしながら、やはり……あの人が戦う姿を捉えていた。
保証はない——されど、歩みがいよある道を行く、僕の友達を……。
「——僕は色んな景色を見ながらの旅の方が必要だと、結論付けました。だからもうしばらくはこの足で……」
「……そうでしたか」
まだまだヒヨッコの僕なんかの言葉を、黙って、穏やかに受け止めてくれたツツジさんは、満足したように頷いてくれた。
「それでしたら、どうぞ胸を張ってくださいまし。やましいことがないなら、例え一般的に受け入れ難い主張だとしても、自信をお持ちください……今のあなたを見て思いますもの——」
結果は後からついてくる——そう、ツツジさんは言って、背中を押してくれた。僕の願いは、決してユウキさんの模倣ではないと認めてくれたみたいで、嬉しかった。
「ありがとうございます……いやぁ。ホントにジムリーダーはすごいや。なんでもお見通しなんですね」
僕がそう言うと、ツツジさんは視線を逸らしていた。あれ?なんでそんな惚けたみたいな顔をするんです——と、僕が疑問に感じていたら、ツツジさんは急にこんなことを聞いてきた。
「——時にあなた。『シダケ』の生まれですの?」
「へ……?」
そんなことを聞かれるとは——僕は間抜けな返事をしてしまう。な、なんですか急に?
「あぁごめんなさい——ネタバラシをしますと、少し前の道路管理委員会でセンリさんとあなたの話になったんですの。その折に、あなたがシダケに縁があるとおっしゃっていたものですから」
少し困ったように笑うツツジさんが言った。でもそれを聞いて合点がいく——つまり、僕の事情を知っていたのは、意外なことに師匠伝いで聞いていたからなのだ。
師匠が裏でそんなに僕のことを——そう考えて顔が紅潮してしまう。恥ずかしい……。
「それで、どうですの?今もあそこにご親戚はいらっしゃいますか?」
「え、あ、はい……でも生まれってわけじゃないんです。父の生家がそこにあって、今は叔父の一家が暮らしてます」
ざっくりと省いて説明したが、ジムにお世話になる直前で、僕は危うくその親戚の家に預けられそうになった事もあった。
父も母も、仕事の都合でトウカに住んでいたが、心臓が悪い僕にとって都会の喧騒は更なる悪影響を及ぼしていると両親は考えていた。だから。しばらく田舎のシダケに預ける話が持ち上がっていた。
センリ師匠に直談判して、ジム生としてやっていけないか——と日夜頼み込んでいた僕にとっては凶報だった。
その事で父とは少し言い合いになったこともあって、少しギクシャクすることになってしまったが、今は少しでもジムに通わせてくれた恩返しをしたいとも思っている。もちろんいつも僕らの為に世話を焼いてくれた叔父一家にもだ。
「でも、それが何か?」
「いえ……シダケは田舎ですから、プロになったあなたが理由もなく行くこともないと思っていたので……では、近々行かれる用事ありませんか?」
「え……そ、そうですね……」
そんな風に聞かれて、僕はどうだったかと考えながら、ツツジさんの意図が気になった。どうしてそんな事を聞くのだろう?
「——行きますよ。丁度プロ入りしたことを叔父たちにも直にあって報告したかったですし、その先のキンセツにもジムがありますから……でもそれが一体——」
質問に素直に答えると、ツツジさんは「そうですか……」とまた意味深な表情をする。なんだろう?何かまずいのだろうか?
思いつくことがあるとしたら、カナズミとシダケを繋ぐトンネル——『カナシダトンネル』が少し前まで通行不能だった事だ。でも崩落箇所の修復はもう終わったと聞いているし、運行バスも今は復旧しているはず……。
「いえ、少し頼み——あなたに“依頼”をしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「“依頼”——⁉︎」
『依頼』——HLC所属のプロトレーナーに、直に仕事を頼む場合に発生する契約の呼び名……とでも言うのか。とにかく、今目の前のジムリーダーから、直々に僕を指名しての仕事の依頼が舞い込んできたというわけだ。一体何故——⁉︎
「これはジムリーダーとしてではなく、一個人、ツツジとしての頼み事です。相応の報酬は約束致しますが、あなたの道のりの邪魔になるというのなら、断ってくださって結構です」
「え、えーっと……?」
流石に天下のジムリーダーに頭を下げられても、いくら個人的にとはいえ断りづらいものがある。何より友達を助けてくれた人だし、今も交友のあるお隣のジム同士の関係だったり……あー!なんでまたそんな大事そうな話を僕に持ちかけてくるんですか⁉︎
「すみません。お話だけでも伺う訳にはいきませんか……?」
とにかく話を聞いてみない事には、引き受けられるかどうかもわからない。ある程度僕の力量を見た上での依頼だとは思うけど、それはあくまで客観的な評価だ。話次第では、期待はずれになる可能性もある。
ツツジさんは良い人だし、できれば協力してあげたい。でもだからこそ、誠意を見せる為には安請け合いをすべきじゃないと思う僕だ。
「ありがとうミツルさん。依頼の内容は何も難しいことではありませんわ。ただ——」
少し歯切れの悪い感じで、ツツジさんはその先を言うのを少し躊躇っているように見えた。
そして、意を決したように続けた。
「——ある少年の様子を見てきて欲しいのです」
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
シダケタウン——。
えんとつ山に続く岩肌の山岳地帯と豊かな森の中間に位置する穏やかな集落が集まってできた田舎町だ。
山から吹き下ろす強風は、手前の山々が受け止めて穏やかな風となって吹き抜けるこの町は、長年ホウエンにいる人間が終の住処として選ぶこともあるんだとか。
父や叔父のお父さん——僕で言うおじいちゃんはそういう理由でシダケに骨を埋め、その生涯を僕が生まれる前に終えたらしい。
そして、今はその長男である叔父の持ち家になっている。
「——ミッちゃ〜ん!プロ入りおめでとぉ〜‼︎」
「わっ!ミチル姉さん‼︎——急に飛び込んできたら危ないよ⁉︎」
僕の久々の来訪に、叔父の一人娘である『ミチル姉さん』が熱い抱擁を交わしてきた。僕が来ることは事前に伝えていたとはいえ、叔父邸の扉に手をかけた次の瞬間には飛び出していた事を考えると……とんでもない嗅覚だ。
「ん〜!ミっちゃんが悪いんだよ⁉︎ジムトレーナーになるって言ったっきり、シダケに全然来てくれなくなったんだもん。はぁー、昔はこーんなに小さかったのに、大きくなったらお姉ちゃんのことなんか忘れちゃうんだ〜」
「あはは、ごめんよ姉さん。でもこうして報告に来たんだから許してよ。みんなのお陰で僕、とっても強く慣れたから♪」
従姉妹であるミチル姉さんは、僕の物心ついた時から可愛がってくれた。体の弱さを考えてくれて、遊びたい盛りでも僕に合わせておとなしい遊びをたくさん教えてくれたのをよく覚えている。
そんな姉同然の彼女には、他にも言わなきゃいけないことがあった。
「あ——聞いたよ!近々結婚するって!おめでとー♪」
それは母伝いに聞いた朗報。ミチル姉さんはしばらく交際関係にあった男性と結ばれることが決まったらしい。
相手はカナシダトンネルの復旧作業に来ていた工場員で、作業の合間に差し入れを姉さんがしていた時に知り合い、関係を深めていったそうだ。
「やーんありがとぉ〜♡ 丁度、その彼が来てるのよ。今お父さんと話してるから——ほらほら、ミっちゃんも早く上がって上がって♪」
そうやって半ば強引に腕を引かれながら、僕は姉さんに連れられて叔父宅の敷居を跨ぐ。こんな感じで、いつも迎えられていたのを思い出しつつ、変わってない雰囲気にホッとする僕だった……。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
「——そうかぁ。ミツルくんももう15歳かぁ」
幼い頃に見ていたあのままの茶の間に通された僕は、叔父さんと叔母さん、ミチル姉さんとその婚約者のお兄さんと共に歓談を楽しんでいた。
一通り話し終えたその節目に、叔父さんはそう言って僕の方を見る。
「はい……なんとか適齢のうちに旅に出られてよかったです」
「ハハハ。5年くらい前は、まさか君がここまで期待されるトレーナーになるだなんて思いもしなかったよ——“
その名前が出て、僕は頂いていたお菓子を喉に詰まらせる。
「ゲホゴホッ!ちょ、なんで叔父さんまで知ってるんですか⁉︎」
「何を言ってるんだ。可愛い甥の活躍を見逃すはずがないだろ?」
「嘘ばっかり〜。お父さん、こないだたまたまネットニュースで見かけてひっくり返ってたじゃない。あ、ちなみに私はちゃんとカナズミのオープンリーグに応援行ったから知ってたもんねー」
「そ、そうだったかぁ〜?あ、アハハ!」
「うぅ〜……お願いだからその名前で呼ばないでよー」
叔父さんがミチル姉さんに突っ込まれているのを他所に、僕は紅潮する顔と感情の処理に手一杯になる。でもツツジさんに言われた手前、早くこの呼び名にも慣れないとなぁ。
そんな事を考えていると、台所で昼に食べたであろう食器の片付けを終えた叔母さんから話を振られた。
「——にしても今日はいきなりだったわね。そんなに急ぐ用事でもあったの?」
「あ、うん。ちょっと今回は仕事の用事がありまして。一度顔出しをしとこうと思って立ち寄らせてもらいました」
「えー?じゃあミっちゃん、すぐ行っちゃうの〜?」
僕の話から不満を漏らすミチル姉さん。うーん、確かにそんなに長居するつもりはないけれど……。
「……実はちょっとそれ関係で聞きたいことがありまして」
「聞きたいこと?」
それは、ツツジさんから頼まれた——少年についてだった。
彼——『シュウ』という名前の10歳の男の子は、ここシダケに片親の母と住んでいるらしい。だけど、その先の情報はあまり教えてもらえなくて、ツツジさんもどこかこの話をするのを渋っているようにも感じた。
その理由はわからないけど、その彼が今どうしているのか——向こうのお母さんには話が通っているというのだが……。
「——という具合で、ツツジさんからは周囲の人の反応も見てきて欲しいって言われてるんです。ご存知ありませんか?」
事の顛末をかいつまんで話すと、皆一同に口を重く閉ざしてしまった。やはり、その男の子には何かあるのだろうか……?
「シュウくん……か。まさかツツジさんとも面識があったとは」
「意外でもないんじゃない?ほら、あの子って……」
「あーそっか。少しのカナズミにいたんだっけ?あの病気にかかってシダケに療養にきたんでしょ?」
叔父さんと叔母さん、ミチル姉さんがそれぞれ話し合っている。そして『病気』という単語が出てきた事で、僕も気が気でなくなってきた。
「あの。その子、どこか悪いんですか?」
「悪いっていうか……うーん」
その質問には歯切れの悪い返答でしか帰ってこなかった。その不自然なほど言い淀むみんなを見ていると、ずっと落ち着いて聞いていたお兄さんが口を開いた。
「ミツルくん。多分そのジムリーダーも、あんまり前情報を言わなかったから俺らに聞いてるんだろ?だったら、やっぱり直接会って話してみた方がいいと思う」
「お兄さん……?」
その瞳は真剣そのものだった。
直に見ればわかる——そんな風にも捉えられる言い草だった。
「大丈夫。そんなに心配しなくても、シュウくんはとても良い子だよ。会って話す分には問題ない。
「……?わ、わかりました」
僕の疑問に答える代わりに、優しく励ましてくれているようで、助けにはなってくれている。でも、やはりどこか含みのある物言いに、引っかかってしまう僕だった。
「——とりあえず!ミツルもお茶したらその子のところに行ったらいいよ!今ならその子は
重苦しい空気を晴らすように、ミチル姉さんが両手を叩いて薦めてくれた。
そこにいる——居場所がわかるってことかな?
「あの、その子って今どこに……?」
その質問には、すぐに返答が返ってきた。
今日がそこが解放される日でもあるからだと、みんなは言う。
「『ポケモンコンテスト』だよ。あの子はコンテストが大好きだからねー♪」
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
ホウエン地方はポケモンコンテスト発祥の地として知られている。その歴史は古く、今もなおこの地方ではバトルに匹敵する人気を誇る興行だ。
シダケはそんなコンテストを行うための会場があり、定期的に行われるポケモンコーディネイターたちの熱い演目が披露されている。
それを見ようと、件のシュウくんはそこに齧り付いているらしい。
「——わぁ!見てよお母さん!あのながぁーいポケモン!すっごく綺麗♪」
「はいはい。あれはミロカロスって言ってね——あっ」
そのイベントが始まる直前、今日のイベントで立ち回るポケモンたちの紹介を興奮気味に見ている少年が、僕の目に映った。そしてその視線が、傍にいたお母さんらしき人と重なった。
「ど、どうも!ジムリーダーツツジさんに依頼されて、この度はお、お世話になるミツルです‼︎」
僕は思いの外早くに出会ってしまった依頼対象のご家族に向かって、緊張気味に挨拶をする。もう少し探すもんだと思っていたので、心の準備ができていなかった。
「どうも……母の『ミユキ』です。こっちが『シュウ』——ほら、ご挨拶なさい」
「お母さんお母さん!今度はおっきくて黒い羽のポケモンが出てきたよ‼︎」
「こらシュウ!ちゃんと挨拶を——」
どうやら僕が来たことなんてどうでもいい——というか眼中にすら入っていないだろうシュウくんは、お母さんの手を引っ張っている。
それは、とても病気の子には見えなかった。
「——あれはオオスバメってポケモンだよ」
「……?お兄ちゃん、誰?」
僕がそっと近付いて、シュウくんに今舞台でその身を見せつけている誇り高いポケモンの名前を教える。すると、シュウくんはやっと僕の存在に気付いてくれた。
「僕はミツル——あ。オオスバメが飛ぶよ」
その黒鳥が羽ばたくと、屋内の会場が湧いた。そして力強く羽ばたいたことで発生した風が、僕とシュウくんのいるところまで届く。
「わぁー!すごいすごぉーい‼︎」
「アハハ!流石オオスバメ。でもこんなもんじゃないんだよー?」
「えぇ……?」
僕が追加して話す内容に、シュウくんは興味津々だった。その輝かせた目に、僕はなるべくわかりやすい言葉を選んで綴る。
「——オオスバメは、どんなに飛んでもなかなか疲れない。真っ直ぐに飛べば、音よりも速く飛べるし、何より目もいいから、きっとあそこからでもシュウくんを見つけられると思うよ」
「えぇー!オオスバメってそんなにすごいのぉー⁉︎」
「うん!あ、また次のポケモンが出てきたよ!」
「わぁー!お兄ちゃん!あれは?あれは⁉︎」
そうして、ロクな説明やら何やらがないまま、僕はそのままシュウくんに出てきたポケモンを解説する。その間、お母さんも何も言わず、ただただ僕らを後ろから見守ってくれていたようだ。
そして……その日はコンテストの一部始終を見る事になった——
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
この日のコンテストも大盛況だった——らしい。
最も僕は今回が初めてのコンテストだったし、都会のもっと上級コンテストともなればもっと凄いのかもしれないけれど……シダケにもこんな熱い場所があったなんて知らなかった。
そして、やはりその熱に当てられた少年が、今もその話で大盛り上がりしている。
「——あの時のミロカロスがねぇ!こうビーーーー!ってビーム出したら、お花みたいな氷が咲いてねー!」
「こらシュウ!いい加減落ち着きなさい!」
コンテストイベントも終わり、僕たちは会場の外、ポケモンたちを遊ばせられるくらいの広場に出ていた。
今し方見てきた事を、1から10まで全部そのまま話すシュウくんを諌めるお母さん。それに不服そうに膨れる頬を見せるシュウくんは、それでも静かになった。
「すみません。この子ったらコンテストになると本当に落ち着きがなくて」
「僕はいいですよ。ポケモンのこと、大好きなんだねー♪」
「うん‼︎」
返事するシュウくんは、本当に元気そうだった。いずれはポケモンコンテストを主軸に活躍する“コーディネイター”でも目指しそうな少年を見て、僕は少し安堵する。
病気だという言葉に、少しだけ過敏になり過ぎていたのかもしれない。当時は酷かったのかもしれないが、今はこのシダケでの生活を経て、少しずつ改善に向かっている途中なのかも。ツツジさんが彼とどういう関係なのかはまだわからないが、あの面倒見のいい人の事だ。きっとその経過を、これまで何度も見にきていたのだろう。
今回僕が来る事になったのは、やはりたまたまという事だ。
「にしても、月に一度の様子見を……なぜ今回はあなたを寄越したんでしょう?」
お母さんはおずおずと僕の方を見て問う。その辺りの説明はされていないようなので、代わりに僕の方から伝える事になった。
「あ。すみません……今回はかなりツツジさんのお仕事関係が多忙を極めているらしく、今月は出向けそうにないとの事で僕が——僕もこのシダケには親戚が居ましたので、久々の里帰りついでに引き受けさせていただきました」
「そうでしたか……ありがとうございます」
お母さんはその説明で納得してくれたのか、静かにその感謝の意を述べる。こう言ってはなんだけど、息子さんと比べるとホントに静かな人だな。
「ねぇねぇ!お兄ちゃんはポケモントレーナーなの⁉︎」
「え!うん。そうだよ♪」
落ち着けと言われたばかりのシュウくんは、もう我慢できなかったのか、今度は興味を僕に向けて話す。それに応じて、僕は手持ちからひとつのボールを取り出して見せた。
「よかったら……見るかい?」
「え!いいのー⁉︎」
またも宝物を見つけたような瞳で見つめてくる彼に応じ、僕はボールから
——ルル〜♪
「わぁ〜!こ、この緑色の子は、なんてお名前なの⁉︎」
「キルリアっていうんだよ。ニックネームはアグロ。よろしくね♪」
アグロに対して興味津々のシュウくんに、今度は触ってみるかと聞くと、既にうずうずしていた彼が、弾けたように頷いた。
そして、恐る恐る……アグロに向かって手を伸ばすと——
——ルルゥ♪
アグロも小さくて細い手を伸ばして、少年の指先に触れた。その瞬間、満開の桜とような笑顔を見せるシュウくん。
「わぁー‼︎本物だぁ‼︎本物のポケモン!!!」
「アハハ。触るのは初めてだったんだね♪ 他にも見るかい?」
「え、他にもいるの⁉︎」
うん——僕は頷いて他のポケモンも見せる。そして、一気に残り3匹のポケモンを出してみせた。
——ロゼッ!——ピュィ〜♪——ニャーン♫
「わ、わぁー!わぁーーー‼︎」
「シュウ、あんまりはしゃぎ過ぎないで——」
「ね、ねぇ!このポケモンは——」
お母さんが少し不安そうにシュウくんに声をかけるが、初めて近くで見るような反応を見せるシュウくんは既にそのうちの1匹であるオペラに近付いていた。
そして——
「ダメ——!!!」
お母さんの、悲痛な叫びがこだました。
それにより、シュウくんは一瞬ビクッとなって、伸ばした腕を引っ込めた。当然僕もポケモンたちも同じように驚いて、お母さんを見る。
お母さんは……どこかしまったという風にハッとして、狼狽えていた。
「……ご、ごめんなさい。いきなり大声を出して」
「い、いえ……もしかして、ポケモンは苦手ですか?」
真っ先に思い浮かんだことを聞いてみる。お母さんは冷静になろうとしているのか、少し間を置いて話してくれた。
「そういう訳じゃないの……ただ、そのロゼリアの——毒が気になって」
「毒……?」
それを聞いて、遅れて僕も気付いた。
確かにロゼリアには毒がある。バトルの上では大活躍する“毒のトゲ”という特性が、我が子に危害を加えないかと危惧したようだ。
これは僕の気配りの足りなさが招いたことだ。せっかくシュウくんのために来たのに、その親御さんにいらない心配をさせてしまった。
「すみません。この子は確かに毒持ちですが、触れ合ったくらいで相手を傷つけないように躾けてあります。でも、怖い……ですよね?本当、申し訳ありませんでした!」
「あぁ……そんな、謝らないで……私も少し、過敏に反応して、ごめんなさい」
僕が深く頭を下げると、お母さんも謝って……なんだか変な空気になってしまった。
いや、それよりも気にしなきゃいけないことがある。
「おかぁ……さん……?」
「あ……」
さっきので驚いてしまったシュウくんが、今にも泣きそうで、消え入りそうな声で母に問いかける。
僕も幼い頃、自分のした事の成否がわからないままに怒られて、涙が込み上げてきたのを覚えている。あれは……悲しいんだよな。
「おかぁ……さん……ごめんなさい……ごめんなさい……!」
「ち、ちがうの!シュウは悪くないの!シュウは……悪く……ッ!」
そう言っているお母さんの方が、今にも泣きそうだった。その様子は少し——いやかなり異常に思えた。
僕は、こんなにも自信がない母親を見たことがなかった。だからか、動揺して……声が出なかった。
シュウくんは大声こそあげなかったが、啜り泣きながらお母さんの胸の中で泣く。その様子を見る限り、本当にお母さんのことが大好きなんだということはわかる。本当に……——
——ル〜ロルラァ〜♪
その歌声は、知らないうちにシュウくんに近付き、彼の頭を撫でているアグロから発せられていた。
あの歌は——彼が僕によく聞かせてくれるものだった。
「……あぐ……ろ……?」
シュウくんはそれに最初は驚いたが、すぐにその音色に耳を傾けていた。優しく……穏やかなその歌は、ストレスで眠れなかったかつての僕を救ってくれた素敵な曲だ。
今回もまた、一人の少年を落ち着けるために一役買っていた。それを僕らは、アグロが歌い終えるまで聞き耳を立てる。それが終わる頃、もうシュウくんもお母さんも……落ち着きを取り戻していた。
「——ありがとうアグロ。今日も素敵だったよ」
——パチパチパチパチ……。
それは、アグロの歌を聴いていたシュウくんとお母さんの、賞賛の拍手だった。
「アグロお歌上手〜♪ねぇ!他にはどんなお歌歌えるの〜?」
——ルルゥ?
「アハハ。アグロ、アンコールだってさ♪」
それきり、もうシュウくんは泣いていたことをまるで忘れたかのようにアグロに歌をせがんでいた。それに僕もお母さんもホッとしたのか、変なため息を同時にする。
「ごめんなさい。本当に……」
「いえいえ!僕の方こそ……いつもポケモンには助けられます」
「そう……ですか……そうですよね」
お母さんはそれでも何か気になる事があるのか、僕にもどこか遠慮しているようだった。でも、その先を聞くことは、今日のところは叶わないらしい。
「——今日はありがとうミツルさん。お陰で息子も楽しめたみたい」
「え、あ、いや……お役に立てたならよかったです♪」
「ええ。今日はもう夕飯ですので……これで」
その言葉で、もうだいぶ暮れてきていることに気付いた僕。そうか、もうそんなに経っていたのか……。
「そうですか……一応、明日も様子を見てくるように言われているので、またこの会場に来ますか?」
「ええ。明日はまたコンテストに観にくると思います。よろしくお願いします」
ツツジさんに言われていたのは、今日と明日の2日間。とりあえず帰ったら今日会ったことを連絡しなければ——そう思っていると、シュウくんはお母さんに腕を引かれていた。
「えー!アグロともっとお話したいよー!」
「ごめんねシュウ。でも、もう時間だから——」
「うー……」
「安心してシュウくん。明日また会えるから」
——ルルゥ♪
そう言って、僕は名残惜しそうにするシュウくんの頭を撫でる。アグロも同じように、彼の背中をさすってくれた。
「……うん。わかった——絶対、明日も遊ぼーね!」
「うん。約束するよ」
——ルルゥ〜♪
こうして、その日の依頼は終わった。
僕にしてみれば、ポケモンが大好きな可愛らしい子供との触れ合いで楽しかったから、これでお金を貰うのはどこか気が引けるんだけど……まぁいいか。
「さて。帰るまではランニングにしようか。みんな行ける?」
その声に、手持ちの4匹共が気合の入った返事で応えてくれた。
今日はロクにトレーニングもできなかったので、叔父の家まで流す事にしたのだった。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
翌日——。
昨晩はツツジさんに今日のことを連絡しようと思ったが、電話に出られなかったようなので、報告書のような文面を送信しておいた。忙しいというのは、やはり本当のようだ。
「できたら、あの子の具体的な病状とかも教えてもらいたかったんだけどなぁ」
それはきっと叔父さんたちに聞けば、何か話してはくれるんだろう。でも、結局昨日はその事を聞けなかった。
あの子の話題となると、どこか沈んでしまうようで、僕としても楽しい団欒を乱すような話はし辛い。
とはいえ、病気など感じさせないほどの明るさを持つ彼が、どうしてこうも腫れ物扱いにされているのかもわからなかった。その矛盾に違和感を覚えたのは、昨日床に着く前のことだった。
「……やっぱりちゃんと聞いとけばよかったかな。とりあえず、今日も頼まれたようにシュウくんの様子を見ないとな」
——ルルゥ〜♪
そのため息とは対象的に、アグロは楽しそうにしていた。どうやらシュウくんの事がよほどお気に召したらしい。
「歌を褒められたのがそんなに嬉しかったのかい?じゃあ今日も聴いてもらわないとな——あっ!」
そんなやりとりをしながら、コンテスト会場まで足を運ぶ途中で、早くも昨日の少年を僕は見つけた。
お母さんに連れられながら、今日も楽しそうに足を運んでいる。
「おーいシュウくーん!」
僕は少し遠くから呼びかけ、彼の方に駆け足で寄る。
呼ばれたシュウくんが振り返り、こちらを見つめていた。そして、アグロを見つけてパァとまた、あの花咲く笑顔を見せてくれた。
「——わぁー!ポケモンだぁ‼︎」
今思えば……どうして今日も昨日と同じだと思ったのだろう。
どうして今日は何もないと信じたのだろうか。
違和感はそこかしこにあったのに……僕は、彼の言葉を聞いて、その思考を凍てつかせる。
「——お兄ちゃん、誰?」
まるで——初めて会う人のように、少年は僕に語りかけてきた。
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『シュウメイギク』……花言葉は“薄れゆく愛”——。
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ミツルが紡ぐ物語 中編
今回で終わらせようと思ったら全然終わらんかったですね。
次回で終わる——はず!
思えばその違和感は、僕も無意識のうちに気付いていたのだろう——。
ポケモンコンテストが開かれている会場で、既に何度も足を運んでいるはずのシュウくんが、どのポケモンを見ても新鮮なリアクションを見せていたこと。ポケモンが好きだという彼の口からは、一度だって「知っているポケモン」について語られたことがなかった点。
アグロたちに触れ合う時、彼は初めて触れ合うような素振りを見せていたけど、あれだって考えみればおかしい話だ。
ツツジさんと面識のある彼は、お母さんの反応を見ても親戚だとは考えづらい。そうなると、彼はジム生としてか
ミチル姉さんが言っていたけど、ここにくる前はカナズミに実際住んでいたことも信憑性を深める情報になってる——となると、そんな彼が
僕はその事を……きっと昨日のところどころで違和感として感じていた。
周りの彼に対する反応。お母さんの過敏な反応。シュウくんのポケモンへの反応——。
どうして……そんな彼が無事だと僕は思ったんだ?——そんな自虐にも似た感情が、胸の中で渦巻いていた。
「——あの子はある事故がきっかけで、記憶を1日しか保てない体になってしまったんです」
コンテスト会場で、昨日と同じようにはしゃぐシュウくんには
「2年前まで
でも、悲劇は誰も予想していない時にこそ起こるものだ。お母さんは、その時の事を思い出して震え……それでも言葉を紡いだ。
「——潮の流れが速かったのか、あの子が自分で沖までいったのかはわからない。とにかく私たち親がほんの少し目を離した隙に……あの子はメノクラゲの群れの中にいたんです」
野生のメノクラゲは群生。基本は臆病な彼らだけど、その臆病さがその時は凶器となって彼を襲ったというのだ。
触手についた毒針に刺されたシュウくんは、体の痺れと恐怖で身をこわばらせ、パニックになりながら溺れたという。
(——だからあの時、叫んだんだ)
そんな事があったから、飼育されているとはいえ、毒を持つポケモンにミユキさんが声を上げたんだと納得した。本当に申し訳ない。
とにかくそんな状態で……どうにかシュウくんを引き上げた時は——呼吸をしていなかったそうだ。
「それでも、なんとか救命処置をして、あの子は息を吹き返してくれた……今、あそこにいなかったかもしれないと思うと……それだけで救われた気持ちになります。でも——」
現実はどこまで残酷なんだろう。
一命を取り留めた彼は、その日の記憶を失っていた。そして、今も尚
「健忘症……だとお医者さんは言ったんですが、いまだに原因が明確にはわかっていません……でも、あの子はあれ以来、一度眠るとそれより前日まで遡って……それらの記憶が綺麗さっぱり消えるようになってしまった」
メノクラゲの毒が悪さをしているのか、一度心停止したことで脳に影響を与えてしまったのか、死にかけるほどの恐怖から逃れるための生理反応なのか——とにかくその事故以来、彼は原因のはっきりしない記憶障害に罹ってしまったらしい。
悲痛にこのことを語る彼女の横顔を見て、ハッとする。この人の目の下のクマが、未だにあの日から解放されていないことを物語っていることに……。
「ツツジ先生は……学校であの子の面倒を見てくれていたんです。事故の時、たまたま通りかかったあの人が的確な指示を下してくれなければ……あの子は死んでいた」
「それで……」
ツツジさんがこの一件にそうやって関わっていたのかと合点がいく。そしてあの面倒見のいい性格だ。きっとカナズミから越してシダケに来ても……この2年間、定期的に様子を見に来ていたのだ。
「……ごめんなさい」
ミユキさんは改めて僕に向き直り、その頭を深々と下げた。それに僕は驚いて、反射的にミユキさんの肩を持ってやめさせようとする。
「な、なんで謝るんです⁉︎ 僕、別に迷惑なんかじゃ——」
「あの子の病状を……周りの人に黙っていてもらうように頼んでいるのは……私なんです」
その告白は、どうして今まで誰も彼のことを教えてくれなかったのかの答えだった。
口止め——でもなぜそんな事を?
「——まだ、怖いんです。あの子の病状はいつか良くなる……そう信じてきましたけど、この2年であの子が良くなる事はなかった……いや、それどころか……ッ!」
そこまで言って、ミユキさんはまた言葉を止めた。その先を口走ることをやめて、彼女は続ける。何を言いかけたのかを説明しないまま……。
「——とにかく、私はもうあの子が何かの病気だということを忘れたかった。私の子はああいう人間で、人とは違う。でもその日その日を確かに生きていて、毎日を新鮮に生きられる子なんだって……バカですよね。ただの現実逃避だなんてわかってるのに……」
「そんなこと……ッ!」
ミユキさんの気持ちはわかる——なんてことはないんだろう。自分の子供がもう前のように戻らない。それを受け止めて前を向かなきゃいけない。その為に自分を騙してでも進んでいく人の気持ち……その内訳を、僕は想像すらできない。
だから——『そんなことない』なんて、軽々しく言えなかった。
「……夫は耐えられませんでした。どちらも目を離したのは事実でしたけど、あの人はそれを全て私のせいだと言って離婚届を置いて行きました」
「そんな……酷い!」
目を離してしまったことは誰にも責められることじゃない。それは一緒にいた父親が一番わかってあげられるはずなのに——そんな僕の憤りを、ミユキさんは首を振って制した。
「あの人を……責めないであげて。私たちの周りには、慰めてくれる人はツツジさんくらいだったの。他はみんな、親なんだからしっかりしろとしか言ってくれなかった。そんな場所から逃げ出したいって気持ちは——」
そこまで言って、彼女は口を噤む。
逃げ出したシュウくんの父親を庇っているのに、どこか他人事のように語るお母さんの目は、暗く沈んでいるように見えた。
そこに、背筋の凍る何かが見えた気がして……怖かった。
「……シュウくんは、自分のことをわかってるんですか?」
話の舵を少し切り、僕は気になっていた事を聞く。記憶障害に遭った人が、今自分のことをどう思っているのか——僕には想像もできない。でも、あんな風にまだ笑えているってことは——
「あの子は何も知りません。この2年間、起きたらまだ自分が8歳で、
「……そう、ですか」
つまり、彼の時間は事故が起きる前から止まっている——ということだ。
そんな事はまやかし……対処療法という名の逃げ——自分のした事を呪うように自虐を挟むミユキさんは、酷く消耗していた。
そんな事……そんな事ないはずなのに……——!
「——誰が……なんて言ってきたのかは……知りません」
僕は言葉を詰まらせながらも、勝手な言い分をこの2人にぶつけた人たちに少し腹を立てながら——それでも、励ましたくて口を開く。
「僕には……正直想像を超えることばかりで、こんな理不尽に日常が無くなってしまうことが腹立たしい。そして、悲しい……」
思いつくままに漏れる感情が、ミユキさんにも伝わる。辛いのはこの人だ。だから、その人よりわかった風な事を言わないようにおさえながら……続ける。
「僕は……そんなお二人が、まだ希望を持って生きている——あの子が笑って今を生きていることが嬉しいって……そう思う」
「ミツルさん……」
たった1日——。
シュウくんが見せたあの時の笑顔は、間違いなく本物だった。それを未だ守り続けているのは、他でもないミユキさんだ。
親だから——そんな役職めいた責任じゃない。もっと根本的に抱いている……純粋な気持ちで——
「……ッ!僕は……!そんな2人が……今が間違ってるなんて思えない……!だから——大変だと思います。でも、胸を張ってください……!あなたは、立派にお母さんだから……!」
言葉と共に込み上げる気持ちは、自分で制しているつもりだったのに留まることができなかった。涙が滲んで、それを溢れさせる前に拭いながら、僕は波打つ感情の中で……気付けばそう言っていた。
「……ツツジ先生が……あなたを寄越した理由が……今わかった気がします」
「……え………?」
僕が言い過ぎたかもと後悔しかけていたら、ミユキさんから不意の一言が出る。どういうことかと尋ねると、少しだけ笑って……こう言うのだ。
「——あなたが今言ってくれたみたいに……ツツジ先生も、そう励ましてくれましたから」
自分たちを理解してくれる人を寄越した——適当に手近な人間に来させたわけじゃない事を知ったと、ミユキさんは言う。
「最初は少しだけ不安だったんです……現実を受け入れられない私を、あの人も見限ったんじゃないかって……でも、私たちの為に泣いてくれるような——そんな人が、あの子の友達になってくれてよかった」
そう語るミユキさんの目には、悲しさこそ残っていたけど……少しだけ浮かばれたというような色が見てとれた。
僕は……少しでも、安心を与えられたのだろうか?
「……ごめんなさい。辛いのはお二人なのに、僕が取り乱してしまって」
「だから嬉しいんです。私はもう涙すら出ない——こんな状況に、慣れてしまったんだと……思います。その代わりに泣いてくれたみたいで……感謝してます」
2年——その間、どれほどの事がのしかかっていたのかと思うと、僕の胸は張り裂けそうだった。叶うなら、今すぐに走り出して、大声で喚きたいほどのストレスだ。
僕はその為に、耐えきれなかっただけなのに……感謝されることはないのに。
「ミツルさん。これからも時々でいいです……あの子の遊び相手になってあげてください」
ミユキさんは、僕にそう頼む。
今回は依頼で来た僕に、改めてそう言われるが……そんなの、答えは決まっている。
この人の願いを……聞き入れない道理なんかないんだ。
「——はい!僕でよければ!」
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
「——入ってくる時は、今後はノックをする事をおすすめしますわ」
その日、シュウくんとミユキさんに勧められて、夕飯までご馳走になった僕は、その後夜分遅くにも関わらずカナズミ行きの夜行バスに乗っていた。
目的は、今のところ連絡がつかないツツジさんにもう少しだけ詳しい事を聞き出すため。
ジムの戸を叩き、受付でツツジさんが執務室に今はいると聞いた僕は、周りの制止を振り切って彼女がいるという扉を開け放った。
——そこには、ほぼ寝巻き姿で床で寝そべりながら、何かを読み漁る謎の女性がいた。
それが髪をおろしたツツジさんだとわかった時、彼女の怒気を孕んだ眼光と共にボールから飛び出した“ダイノーズ”によって電撃を見舞われていた。
大変申し訳ありませんでした‼︎
「すみません……まさか、ぎっくり腰になってただなんて……」
どうも昨晩、資料室の整理をしていた時に、バランスを崩した管理品の束がツツジさんに倒れ込んだそうだ。そうした事故を防ぐべく片付け始めた矢先のことらしい。
物そのものの重さはそれほどなく、固い物でもなかった為に外傷は少なかったのだが、驚いた拍子に、生まれて初めて味わう腰への激痛に悶えていたそうだ。
「全く——来るなら来るで連絡していただければよかったのに」
「ごめんなさい……電話もメールも繋がらなくて……どうしてもあなたに会いたくて、いてもたっても」
「ミツルさん。あなた、言葉は選んだ方がいいですわよ?」
僕の文言が気に食わなかったのか、瞳の鋭さを増すツツジさんに対して僕はさらに土下座を決め込む。
「ほんっっっとうにすみませんでしたぁ‼︎お電話が繋がらないならそれ相応の理由があって然るべきですよねぇ⁉︎」
「そういう事を言ってるんじゃ——あーもういいですわ!ツッ〜ッ!」
僕の受け取り方にまだ物申そうとしているツツジさんだったが、声を張ったせいで痛めた腰が悲鳴を上げた。
「だ、大丈夫ですか⁉︎ というか、なんでこんなところで寝てるんです?」
「——し、仕事はまだ山積みですし、書類整理くらいなら寝ていても出来ますわ。本当は今日も面会謝絶ですのにあなたときたら……」
ツツジさんはそう言いながらも、辛そうだった。確かに忙しい時期だと言っていたし、自分が穴を開けるわけにはいかないという気持ちもわかるけど……——
「こんな時くらい休んだ方がいいですよ!ジムの皆さんもそう言ったんじゃないですか⁉︎」
この人を慕う人は多い。きっと多忙を極めていることをかねてより心配している従業員もいるはずだ。その人たちが、この状況を許しているとは思えない。
「いけません……この秋は
「だ、だからって……こんな這いつくばりながら仕事するだなんて……」
「大丈夫ですわ……それより、何かわたくしに尋ねたいことが……あるのでしょう?」
僕の言葉にそれほど効力はなく、休むようにとかけた言葉を無視して、彼女は僕に話を逸らした。急に押しかけた用事——ツツジさんにも察しがついていることだろう。
でも、僕は——
「——手伝います」
「え……?」
「せめて手伝わせてください。こんなの、見てられないですから!」
「い、いえ……ジム関係者でもないあなたの手を煩わせるわけには——」
戸惑った様子で僕を制しようとしたツツジさんに、僕は強めに返す。
「そんなの関係ないです!あなたが意地でも仕事をこなすと言うなら、僕だって意地でも手伝うんですから!——話はそれが終わってからですッ‼︎」
そう言って、僕はツツジさんの前に乱雑に束ねられた書類の山のひとつを手に取って、彼女の枕元に整頓し始めた。
僕にできる事は少ないかもしれない……でもツツジさんの補佐くらいなら、トウカジムで5年世話になった分の経験で役に立てるかもしれない。
「しかし……」
「観念して僕に仕事をください!こうなったら、こっちも引っ込みがつかないんです!余計なお世話——なんて言われたら、泣いちゃいますからね!」
やや興奮していたせいで、また変な事を口走ってしまった。それを聞いたツツジさんは目を丸くして、少し経って吹き出した。
「クククッ——あなた、噂に違わない強引さですのね……お師匠様の言ってた通り」
「うっ……!ぼ、僕だって、邪魔しちゃってるとは思ってるんですよー⁉︎」
流石に軽率に、しかもジムリーダー相手に偉そうなことを言ったことを後悔し始めた僕だったが、それでも受け入れてくれたようで、ツツジさんは僕の目を見て話してくれた。
「——では、せっかくの申し出。ありがたくお受け致しますわ」
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
作業は朝まで続き、気付けば僕らは片付けた書類の中で眠っていたようだ。
手続き関連の書類の全てを片付けたところまでは覚えているが、その後の記憶が曖昧だった。体は何かが被せられていて、それがブランケットだと気付くと、寝落ちした僕に誰かがそれをかけてくれたのだとわかった。
ブランケットは不思議と良い匂いがしており、ここがかのカナズミジムの執務室だということすら忘れて、二度寝に入りたくなる。
まだ思考がはっきりしない僕は、何か忘れているような気がして——
——スー……スー……。
その女性が、同じブランケットの中にいるのを見て固まる。
意識が超特急で帰ってきた——。
「のわァアぁぉあぁアアア!?!?」
覚醒した僕はブランケットから飛び出す。その瞬発力たるや、かのマッスグマの加速に匹敵するものを発揮したことだろう。そのまま執務室のデスクに後頭部を打ち付けて急制動。その痛みすら、今はどうでも良くなるほどの衝撃が走った。
「——ん……なんですの……騒がしいですわね」
「ななななななんでつつつつつツツジさんが……?」
同じ布の中で一夜——もとい朝の時間を過ごしたという事実に、脳みその言語中枢に著しいダメージを受けていた僕は、目を覚ましたツツジさんが上半身を起こして大きく伸びをしているのを見る。
パジャマ姿の——しかも美人と言って差し支えないお方ががぎごががぎご……。
「ふわぁ〜……なんですの……先ほどまでここで作業をしていたのですから、わたくしがいてもおかしくは——」
「そ、そそそそれと同じ毛布にくくくく包まるのは関係ないですよね⁉︎」
いや、淑女然としているツツジさん相手に変な気を起こすなんて僕には考えられないけども!まさかその相手の方からこの様な暴挙に出るなんて思わないよ!
「この部屋に毛布はひとつしかありませんでしたし……わたくしは昨日の時点でまだ動けませんでしたので……手伝ってもらったあなたに風邪を引かれては、わたくしの沽券に関わりますわ」
「う、うぅ……そういう話ではないんですが……」
あまりにも動じないツツジさんを前に、寧ろ慌てふためている自分の態度が恥ずかしいもののように感じてきた。
でもそりゃそうか……ツツジさんはなんだかんだ歳上だし、ジムリーダーをやってたり、プロとして活動した期間の間に、精神的にはかなり成熟しているのは確かだ。そんな人が、子供と同じ毛布に入っていただけで顔を赤くしたりするはずがないのだ。僕はそれを変に意識したに過ぎない。
「す、すみません……なんか大袈裟にしちゃって」
「何を慌てていたのかわかりませんが……構いませんよ。悪い夢でも見たのでしょう」
ある意味心臓に“悪い”夢は絶賛継続中なんですが——などと、もうこの件をほじくり返す事はするまい。言えば言うほど、なんか変にこじれそうだし——って、あれ?そういえば……。
「ツツジさん。なんか腰治ってません?」
大きく伸びをしている姿を思い出して、彼女の容体が良くなっているように思えた。昨晩は体を動かすだけで顔を顰めていたのに。
「ああ……ご覧の通り、完治致しましたわ」
「ええッ⁉︎ 嘘だぁ‼︎」
そんなバカな——だってあの痛め方は、昨日一昨日でどうにかなるようなものではなかった。トウカでは整体術なども学んだので、その見立てに間違いはないと思う。いや、素人目に見たってあり得ないだろう。
「本当ですわ。プロでランカーをやってますと、このくらい朝飯前です」
「それ……なにか関係あるんです……?」
年相応のドヤ顔を見せるツツジさんを見て、疑わしいことこの上ない僕だが、実際ツツジさんの挙動は強がっているとかそんなふうに見えない。本当に治ったんだろうか……。
「まぁまだ無茶はできないでしょうが……ひとまず書類整理もあらかた終わりましたし、帰って暇になってしまいましたわね。ありがとう、ミツルさん」
「い、いえ……僕なんか何も……」
「謙遜も過ぎれば自虐ですわ。あなたのおかげで、わたくしはすごく助かったんですの。胸を張ってくださいまし」
優しく微笑むツツジさんは、僕に有無をいわせない。助力になれたことを喜んでいいと、暖かく諭してくれた。
「……そう、ですね。ど、どういましまし……て?」
「それでいいのです。今日はジムの宿舎に泊まって行ってください。昨晩で生活リズムが崩れたままより、ここで整えて旅立った方がいい」
「あ、ありがとうございます……」
そこまでお世話になるわけにも——と、喉元まで出そうになった言葉は、直前のやり取りのために飲み込み、申し出を受け入れることにした。ご厚意に甘えるのも、きっと感謝を受け入れるひとつの方法なんだとわかる。学ばされるなぁ。
「さて——見たところもうすっかり目が覚めてしまっているようですね」
「あ、あはは。そ、そうですねー」
「それで、お聞きしたいこととは?」
「へ……?」
ツツジさんの問いが何を指しているのか、すぐにはわからなかった僕だが、それを機に思い出す。
僕が何のためにここに来たのか——シダケにいるあの親子のことを……。
「……いいんですか?僕、また余計なことを聞き出そうとしてませんか?」
僕は……昨日の親子を見て、今更ながら怖くなってきた。彼らの抱える闇は、途轍もなく大きくて、僕なんか聞いただけで心が押し潰されるんじゃないかって……。
その不安を察してくれたのか、ツツジさんは優しく微笑んでくれた。
「大丈夫だと思いますわ。辛く苦しいお話ではあったでしょう。でも、あなたがそれを聞こうとする動機くらいはわかります。それはとても素敵な感情ですわ」
あの人たちの力になりたい——そう思ったんじゃないかと、ツツジさんは聞いてくる。
それを受けて、僕もハッとした。でも、まだ少しの不安もあるのも事実だ。
「僕なんかが……首を突っ込んでもいいんでしょうか?」
その問いは、自虐ではない。
僕はできるだけ自分を客観的に見て、それでもあの悲惨な運命にある人たちの話を聞いて、それで何かできるのか——そんな自問だ。
それをツツジさんに聞くのは、僕ではいくら考えてもわからなかったから。わからなくて、苦しくて……気付いたらここに駆け込んでいたのだ。
後先考えず、ただ赴くままに——そんな僕を、この人はどう思うんだろう。
「——わかりません。でもきっと無駄なんてことはありませんわ。だから、その為にお話しできる事を……」
そう言うツツジさんの目は、優しさと……真剣さを帯びた輝きを放っていた。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
「——単刀直入に聞きます」
僕とツツジさんは、ジムの中庭に備え付けられたカフェテラスで軽い昼食がてらのお茶を敢行。その後、僕はこんな切り出しで話を始めたのだ。
その次を聞くのは、少し恐ろしくて……僕は大きく唾を飲み込んでから続けた。
「彼は……シュウくんの病状って、もしかして悪化していってますか?」
それはお母さんであるミユキさんの話を聞きながら抱いた疑問から導き出された仮説。何故そう思うのか——ツツジさんは目でそう訴えてきたので、続きを話す。
「……あの子が
コンテストに出ていたポケモンの全てを知らないのは変な話じゃない。ポケモンの種類は多く、名前や姿を完全に覚えているわけじゃない。でも彼の場合、比較的珍しくもないオオスバメなどポピュラーなポケモンのこともまるでわかっていない様子だった。
「——もしかしてそれも……知らないんじゃなくて、忘れていってるんですか……?」
願わくば否定して欲しい。それは僕の考えすぎだって笑ってくれたらどれほどよかっただろう——非情にも、その予測をツツジさんは肯定した。
「……あの子の記憶障害は、“あの事件”がきっかけということしかわかっておらず、また記憶にどう作用してあんな事になっているのか——医学にも精通している
ツツジさんは目を伏せ、小さく握り拳を作っている。きっとこの件に関して、彼女も調べ尽くしたのだ。それでもわからない……その悔しさは、ジムリーダーとて例外なく味わっていた。
「——彼の記憶消去は前日丸一日。しかしこの半年程では、より以前の一部の記憶も欠落しているようです。ポケモンの姿や名前を忘れているのは、その最たる例ですわ」
「そんな……じゃあ、あの子はどんなに望んでも——」
8歳以降2年間、その記憶は無くなりどこかへ消えてしまう……それだけでも大きな損失なのに、今度は残った記憶まで蝕まれていた。それはまるで貪ることをやめない病魔が、僅かな幸福すら食い尽くそうとしているように見える。
僕は……それがたまらなく怖かった。
「でもわたくし達が心配しているのは、さらにその先です」
「その……先……?」
何を言っているのか——と、半ば思考停止していた僕はただ聞くことしかできなかった。ツツジさんは口にすることすら躊躇いながらも続きを話す。
「いずれはそれよりも前の記憶……知人、友人、家族——進行次第では命にすら関わる」
「そんな……ッ!い、いやでも命って——」
「今話した、経験や学習で蓄えられる記憶のことを『陳述的記憶』と言うそうです。通常この記憶を例え全て忘れることになったとしても、歩いたり食べたりする事までは忘れないとされています。ですが生活する上で必要になる体の動かし方などの体で覚える記憶——『手続き的記憶』が蝕まれると——」
通常誰も考えなくてもできること——それすら失われることにでもなれば、いよいよもって彼は廃人……いや、本当に生きられなくなる事も考えられた。
考えられてしまったら、僕は……ッ‼︎
——ダンッ!!!
気付けば僕はテーブルを殴りつけていた。
昼のテラスにいた他の人たちは僕の発した音で振り返る。でもそれを気にする程、今の僕は……僕は………。
叩きつけた拳が震える。花の咲いたようなシュウくんの笑顔に亀裂が走るイメージが消えない。これまで懸命にか細くも繋いできていたミユキさんが絶望する姿が想像できてしまう……そんなの……あんまりだ……。
そんな胸中を察したのか、ツツジさんは震える僕の手に自分の手を添えていた。
「——あなたがたった2日見てきた存在に、それほどの思いを持って下さったことに感謝しますわ。その理不尽に対する怒り……とても純粋な原石です」
「理不尽に……対する……?」
僕はただ感情に任せて振るったこれが、何の原石だと言うのだろう。ツツジさんは僕が疑問に感じていることをこう述べて返した。
「その怒りはきっと人生の中でたくさん感じるものです。その数が多過ぎるほど……だから、いつしか皆が順応してしまう——忘れていってしまう感情なんです」
この拭いきれない感情をいつか……今の僕には信じられない事だ。でもそれは確かにあるのだと、歴戦のトレーナーが言う。
「ですから、どうかその怒りに焼かれないでください。大きく火傷した場所は無感覚になる。あまりに大き過ぎる痛みはいずれそんな火傷跡のようにあなたの心を無感覚にしてしまうから……」
「でも……そんなこと言ったって……僕は……!」
シュウくんの事を考えるだけで、胸に鉛を落とされたような苦しみが襲うこの状態で、僕はどうしたらいいのかわからなかった。
怒りに任せるのも違う。泣いたって当人達は喜ばない。目の前の現実だけが冷酷に立ち塞がって——前を見る事すら叶わないというのに……。
「僕は……何もしてあげられない……!徐々に悪くなるばかりのあの子を治してあげる事も、それに苦しむお母さんを慰める事も……!大丈夫だよって言ってあげられない‼︎僕は——僕は言ってもらえたのに!!!」
センリ師匠は、僕にそう言ってくれた。
ポケモントレーナーどころか、普通の生活すら危ういとまで言われた僕に、生きる希望と勇気をくれたんだ。
なのに……僕は彼に何もしてあげられない……。
怒りの果てには悲しみ……そして無力感だけが残って、僕は涙を溢しながら、先ほどまで座ってた椅子に再び腰を落とす。それをただ聞いていてくれたジムリーダーは、優しい声色を変えないまま語りかけてくれる。
「あなたにとって……彼は昔の自分なのですね。あなたの生い立ちを知って、何か感じる事があればと今回の依頼はお願いしたのですが……わたくしの想像以上にあなたはお優しいのですね」
僕にシュウくんを任せた理由と、その目算が誤りではなかったと言ってくれるツツジさんの表情は優しい……でも、どこか悲痛さも感じさせた。
そうだ……僕はまた一人で突っ走っている。目の前のこの人がこの2年、ずっと見守ってきていたんじゃないか。その人こそ、今の僕のように泣きたいほど傷付いたに決まってる。僕は……わかっていたのに……耐えられなかった。
「……ぅぐ……ごめん……なさい………ぼ、僕は……」
「何を謝ることがあるんです。あなたのその気持ち、あの子への優しさ、現実を変えたいという願い……どれも嬉しい。わたくしにとっても、あの親子にとっても……」
僕の暴走をそんな風に受け止めてくれるツツジさん。それにより、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻しつつある僕だった。
「それに何もできないなんてことはないのではなくて?だってあなたは“ポケモントレーナー”なのですから」
「……ポケモン……トレーナー……?」
それは僕にとっては慣れ過ぎて、当たり前にある人種。僕自身がそうであり、できるなら一緒ポケモンたちとこの道を歩きたいとさえ思う——でもそれがなんだと言うんだ?
「ポケモントレーナーは、ポケモンと人を繋げる絆を存分に披露できる立場にあります。そして、シュウくんもまたそれが好きなのでしょう。それはコンテストでもバトルでも……きっとどちらでもいい」
「——!」
僕らトレーナーとポケモン絆の強さ——それが起こす感動は僕も知っている。それは現実さえも跳ね返すほどの力がある様な気がする。
ユウキさんがずっと見せてくれたように——。
「あなたのその思い。できればそんな舞台で解放してください。幸い、その舞台もここですでに用意されつつありますから……」
それはシュウくんに——『自分のバトルを見せろ』という旨だった。その戦いぶりを、いつまでも忘れないものにするほど、強烈なものとして彼に刻む為に。
でも、そんな望み薄な事で——
「心配ですか?何も起こらなかった場合、また傷つくことが」
その言葉は文句なく僕の心の弱さを言い当てていた。それにドキリとさせられる僕は、次の言葉が出てこなかった。その間に彼女は言う。
「どうせダメで元々——でも、わたくしは何故かそうは思わない。これはわたくしの……勘ですが」
「……何もしないより、ずっと……いい?」
尋ねる様に見上げると、そこにはずっとそうしていたであろう……ツツジさんの笑顔があった。
顔を背けることをやめた時、その顔は僕に安心と勇気をくれた気がしたのだ。
「あなたにとっても悪い話じゃない。錦秋の“グレート3”まであとひと月足らずですが……きっと素敵な試合になりますわね」
だから前に——あの子の為に何かしたいと思っているなら、立ち止まる理由なんかない。
ダメならその時に落ち込めばいいんだ。やらないうちから諦めて、何が『何もできない』だ——!
「やります……僕、錦秋トーナメントに出て、それで……——」
それがシュウくんの病状にどれほど影響与えるかなんてわからない。確証なんてないけれど……それでも、今ある僕の全てで見せたいものがある。
だから——
「——優勝してみせます!その試合を、シュウくんの記憶に刻む為に‼︎」
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現実は非情……それでも望みがあると信じて——!
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ミツルが紡ぐ物語 後編
本当に最後詰め込みすぎて長くなりました!
最後までお付き合いくだされば、幸いです!
シダケタウン、ミユキとシュウの家——。
「えー?今日のコンテスト行っちゃダメなの〜?」
朝食のシリアルを頬張っていたシュウの手が母親の一言でピタリと止まる。不満そうにそう漏らす息子に対して、母のミユキは答えた。
「そうよ。だって今日はカナズミでポケモンバトルの大会があるんだから」
さも当然とばかりに、シュウと共にその試合を観戦に行くことを告げるミユキ。だが、それで納得するシュウではなかった。
「なんでバトルなの?」
「バトルも好きでしょシュウは」
「やだやだ!今日は
初めて——その一言でミユキの胸が痛む。
彼にとってはこれが初めて……例えその初めてを何度繰り返していたとしても、それが変わることはない。2年前に交わした『コンテストを見にシダケへ旅行にいく』という旨を忘れそうになっている彼女からすれば、この感覚のズレが日増しに母親の心を蝕んでいった。
「そう……だったかしらね。で、でも、コンテストも何度もやってるし……」
「バトルも大会もそうじゃん!僕、初めてのコンテストが見たい!キラキラしたポケモンをたくさん見るんだ!」
「え、えっとねシュウ。この大会には、シュウに見にきて欲しいっていうママのお友達からのご招待なの……シュウが観にくるのすごく楽しみにしてて——」
戸惑いながら、傷つきながら……それでも懸命に彼の説得を試みるミユキ。
この誘いは、数日前にミツルからもたらされたもの。シュウの記憶に強く刻み込める印象深い試合を観てもらおうという試みだった。
ミユキもそれは望み薄だとは感じている。でも、それでも赤の他人がここまで息子のことを思って何かしたいと行動してくれている——その思いを
「知らない!僕コンテストが見たい!」
「……ッ!ダメ。ミツルさんはシュウのためを思って必死に——」
「ミツルって誰⁉︎ そんな人僕知らないもん!」
「シュウ……」
自分の息子の口から、嫌な言葉ばかりが出てくる……。
あれほど良くしてもらった少年のことを。僅かな時間で多くのことを語らった友達のことを『知らない』と吐き捨てる姿に、言いようのない不快感が込み上げてくる。
わかっている……この2年、何度もこういうことはあった。今日だけが特別じゃない。シュウは……息子は変わっていない。悪気もなにもあるはずがない。
ただその積み重ねが、母親としての自分をゆっくり腐らせていっているだけなのだ。このぐずりに苛立ちを感じるのも、ストレスから声を荒げてしまいたくなる気持ちも……全てはこの2年、嘘をつき続けた結果。
——変わったのは自分の方だと、ミユキは朧げながらに気付いている。
「お母さんの嘘つき!絶対コンテストに行くんだもん‼︎ ねぇお父さんは⁉︎ お父さんならわかってくれる——」
「いい加減にしてッ!!!」
シュウに悪気などない。あるはずがない。
彼にとっては2年前から、何も変わってなどいないのだ。それはもう壊れてしまった家族構成だってそうなのだ。
それすら嘘で塗り固めたのはミユキ自身。でも、誰もそれを責めることなどできない。
それでも現実は容赦なくその責苦を味合わせるように、自分の息子から思い出したくもない父親を呼び起こす。
もう……それに耐えられるだけの精神状態ではなかった。
「お、おかぁ……さん……?」
突然の母の叫びに、戸惑いと怯えを感じたシュウ。子供なりに母親の異常に気付く彼は、問いかけるように母を見る。
その様子をミユキは確認できない。気持ちが先走り、追いつかない体が糸の切れた人形のように……その場でへたり込ませる。
「どうして……あんな人があなたのお父さんなの……何もしなかったくせに……いつまで私を苦しめるの………消えてなくなったのに……なんで……いつまで経っても私たちに幸せは訪れないの……⁉︎」
込み上げた感情を止めること叶わない。
それほどまでに追い詰められたミユキは、何も理解できない少年——最大の被害者である我が子にその激情を向けてしまった。
母としての責任。守れなかった自責。重積を押し付け自分だけ難を逃れた卑怯者に対する怒り、悲しみ……。
最後にはいつまでも続く現状に絶望してしまう。出口の見えないトンネルの中で、膝を折ってしまう。
「こんなはずじゃなかった……誰にもわからなかったじゃない……それでも生きてるってだけで……幸せになれるって思ったのに……こんなことなら………いっそ——」
ミユキは、そこでハッと口を押さえた。
いっそ——その先を言いかけた自分が信じられなかった。
その方がマシだったなんて……思ってしまった自分が——
「ぁ……ぁぁ……」
わなわなと震え、自己嫌悪が増長していく。我が子に対して思うことがそれなのかと愕然とする。何の為に守ってきたと、自分の動機を疑った。
そして……それが本心だったのではないかと思考が伸びて……——
「——ごめんください」
その時、まるでその思考を制するように……その凜とした訪問者の声が響いた。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
「——勝者ミツルッ‼︎」
カナズミシティの名物である四季トーナメント——
グレート3の予選に出ていた、プロとしては先人であるトレーナーを押し退け、遂に僕は決勝トーナメントへ勝ち進めることができたのだ。
「ミっちゃーん!最ッ高だったよ〜‼︎ このまま優勝しちゃって〜‼︎」
多くの歓声の中から、一際大きく聞こえる従姉妹の熱い声援に、気恥ずかしさで苦笑いをしてしまう。それを見ていた相棒の
「あはは。応援してくれた分は……そうだね」
僕はプロとして、初めてのトーナメントで結構緊張していた。それを解してくれたのはきっと、ミチル姉さん達の声援があったからだろう。今日のことを伝えたら、叔父一家総出で駆けつけてくれるとは思ってなかったから驚いたけど、本当に嬉しかった。
あの人たちに、病弱だった僕がこんなに強くなったんだってところを見せられたのはよかった……でも——
「……やっぱり、シュウくんはいないよな」
シダケにいる記憶障害を抱えた男の子——。
彼のお母さんには、今日のトーナメントの観戦に誘う旨の連絡はした。シュウくんに刺激的な試合を観てもらって、少しでも何か思い出したり、忘れていく病状の進行を止める手立てになる事を願ってだとも伝えてはいる。
でも、シュウくんをシダケから連れ出すのは困難だとも……わかってる。
——ルルゥ……。
僕が少し心を重くしたのを感じた相棒が、この手に触れて心配を示す。きっとアグロも……同じ気持ちなんだろう。
「……大丈夫さ。こういう時の為に、僕らは明日も戦えるよう予選を乗り越えたんだ。明日にはきっと……——」
明日の決勝トーナメントにはきっと来てくれる——そうでも言わなければ、この不安に押しつぶされてしまいそうだった。
いや、あるいは現実逃避——僕のやっていることは空回りで、本当に何もできない事を認めたくないだけなのかもしれない……そんな後ろ向きな思考を振り払うためのものだったのかもしれない。
でも……それでも……——
「あの人が……ツツジさんが、無駄じゃないって言ってくれた……だから、今はそれを信じるよ」
僕は決意を改める。それにはアグロも同じ気持ちで応えてくれたようで、心配そうな顔から一転。力強い目つきで僕を見ていた。
そうだ。明日の試合にそんな迷いを持ったまま臨むんじゃ意味がない。
人の心に火をつけるような——そんな熱い試合をしたいなら……僕自身が燃え上がらなきゃね。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
「——わぁ〜!ねぇ!あの、おっきな黒いポケモンはなに⁉︎」
「あれはオオスバメ……空をどんな風にも飛べる素敵なポケモンですわ」
シダケのコンテスト会場で、誇り高い鳥ポケモンについて、ツツジはシュウに語っていた。彼女にとってはこれが何度目であっても、目の前の男の子は初めて見るもの——それを受け止めている彼女にとっては、もう慣れたものだった。
「ツツジ先生……その、いいんでしょうか……?」
その様子を見ていたミユキが、おずおずとツツジに尋ねる。彼女が気にしている事はわかっていると、ツツジは笑う。
「ミツルさんの件……ですわね。大丈夫ですわ。今日はまだほんの予選。彼の実力と今回の思いの入れ込みを考えれば、問題なく明日の決勝トーナメントまで勝ち進んでいることでしょう。今日はシュウくんの要望通り、コンテストを見させてあげてください」
「そ、そうですか……でも……」
「どの道今から行っても間に合わないでしょう。ここは彼を信じていただけませんか?」
ミユキの問いに優しく返すツツジ。
ミツルの試合観戦を差し置いて、コンテストへ足を運ぼうと言われた時は何を考えているのかわからなかったミユキは、その物腰の柔らかさに少しだけ安心した。
この人が信じるミツルというトレーナーは、本当に信頼してもいいのかもしれない——そう思わせてくれる。
「——と。早くも結果が出たみたいですわ」
ミユキの抱いた残りわずかな疑念も、その一報で拭われることになる。ミツルが決勝トーナメントまで勝ち残った旨の連絡が、ツツジの端末に送られてきていた。
「す、すごい……本当にあの人は……」
「ええ。シュウくん……そしてあなたの事を何とかしたいと思っています」
凜とはっきりとしたその言葉に、ミユキはハッとする。それを聞いて脳裏によぎったのは、自分たちのために心から泣いてくれた少年の姿だった。
「——彼がことの次第を知って、私のところまで尋ねてきた時……多くの感情を抱えていました。あなた達親子の境遇に同情を示し、なんとかしてあげたいと……わたくしが思う以上に、彼は人を思いやれる人間なのだと驚かされました」
「それは……でも、なんでミツルさんは……?」
ミツルが優しい人間だというのは、肌で感じていたミユキだが、それでも過ごした時間はわずかだ。そんな相手にここまで感情移入できてしまうものなのか……彼女は疑問だった。
「……ミツルさんも、身体に重い疾患があった方なんです」
「えっ……⁉︎」
それは今プロのトレーナーとして戦い、そしてトーナメント戦を勝ち抜くだけの強さを持つ彼とは重ならない生い立ちだった。
「あるジムリーダーの助力もあったようですが、それはそれは長い時間をかけて病気に立ち向かったそうです」
「あの子にも……そんな時期が……」
「当時の医学的検知からでは、対処療法しかない病だったらしいです。でも、彼らは自らの生き様でその病気の新しい治療法を証明してみせました」
これはミツル自身にはあまり自覚がなかったが、その病気に罹っている人間の多くはその後、同じような治療法が採用されるケースが増えたと言う。
「わたくしたち人間は、時にどうしようもなく感じることもある。時間がかかると本当にこれが正しいことだったのかと疑い始めるものです……そんな疑いは気力を奪い、そしていつしか本当に歩けなくなってしまう事も……でも、ミツルさんはそれでも歩いた。その歩みは孤独なものでもなかったようです」
「孤独じゃ……ない?」
自分が感じていたそれは、ミツルにはなかったと言うツツジ。
「ミツルさんには、それを支えてくれるお師匠がいた。そしてポケモンという支えも。友人も……」
彼自身、望んで勝ち取ったものではない。でも知らないうちに取り囲まれていたその環境で、ミツルは深く周りに感謝していた。
ひとりぼっちなんかじゃない——ミツルはそう考える時、おそらく立ち向かうべき現実への恐怖を忘れられたのだろうと、ツツジは考える。
「——だから、今のお二人の事が酷く辛く見えたんだと思います。そして、自分がそんな支えになれたらと……本気で思っています」
「……!」
ミツルの気持ちを代弁するツツジは、真剣な眼差しでミユキを見つめた。そのことを、どのように受け止めたらいいのか……母親は迷っている。
「……わたし……さっきツツジ先生が来る直前に酷いことを……シュウに言いかけたんです」
あの海辺で、あの子があの事故でいなくなっていたら——その方が楽だったかもなどと、一瞬でも思った自分をツツジに晒す。
それを聞いたツツジは、一瞬その顔を悲しいものにさせて——それでも彼女の話に耳を傾ける。
「私は違うと思ってた。あの子が幸せであればそれでいい。見捨てることなんて絶対にないって——それが如何に綺麗事だったか思い知りました。私はあの子に、生きる以上を求めているんです。またあの頃のように、ポケモンや友達とニコニコ笑って欲しいんです……でもそれが変わらないんだって諦めた時、我慢していた色々なものが私を変えていくんです……ッ!」
母親として、それでもいつまでもシュウの親として見守ろうと決めたのに——自分の決意の軽さに吐き気を催しているミユキ。片親は耐えられなかったけれど、自分は違うと強引に思い込んでいたと。
我が子のためなら、耐えることなんていくらでもできると思っていた、自分の見通しの甘さを呪った。
「もう……次にあの子に何を言ってしまうのか……何をしてしまうのかが……怖いんです……!私はもう……あの子の母親でいられないんでしょうか……」
「お母様……」
ミユキの悲鳴にも似た訴えを聞き、ツツジの顔はこれまでにないほど悲痛なものとなる。
自分が——たかだが十数年しか生きてこなかった自分が、母親として悩む彼女に何を言ってあげられるだろうという躊躇いで、唇を噛む。
それでも……今彼女に言ってあげられるのは、間違いなく自分だけだともわかっていた。
そしてその影響は……あの可愛らしい男の子の未来にまで及ぶのだと——コンテストに目を輝かせるシュウを見て思うのだ。
「……お母様。わたくしがあの日、シュウくんを水から引き上げた時の事を覚えていらっしゃいますか?」
「あの……事故の……?」
それはツツジにとっては、ただの気まぐれだった。ほんの少し空いた時間をたまには散歩に費やそうと思い、郊外までその足を伸ばした時の事。
穏やかな波と潮風を楽しみにしていた彼女の耳に飛び込んできたのは——喧騒と悲鳴。
誰かが溺れている——それを聞き、沖の方でメノクラゲの大群の中に誰かがいるとわかった彼女は、気付いた時には海に飛び込んでいた。
手持ちのポケモンたちと共に、なんとかメノクラゲを払い退け、海に沈んでいく幼い体を無我夢中で引き上げた。
そうして砂浜にまで連れていた彼は——死んでいた。
「——あの時、どうしていいか……正直わからなかったんですの。わたくしは持てる力全てを注いで人命救助をするよりも、初めて遭遇する『死』というものに圧倒されたのです。怖くて……頭の芯が凍えましたわ」
自虐気味にその有り様を話すツツジを、心配そうな目で見るミユキは、心の中でそんな事ないと唱えていた。
何せあの時、その後の救命措置を施したのもツツジで、それがなければ本当に息子は助からなかったとわかっているからだ。
「どうしてあの時。それでも動けたのか——お母様は覚えておいでに?」
「わ、わたし……ですか……?」
ミユキには心辺りがなかった。そもそもそれはツツジの話で、自分はただ泣き喚いていたにすぎないのだ。親の自分たちが一番しっかりしなければいけない時に、旦那共々、ツツジに懇願することしかできなかった。
「覚えてません!だってあの時私たちは、ただあなたに助けを求める事しか——」
「そう——わたくしはその『助けて』によって突き動かされた。我が子を思うお二人の気持ちが、木偶人形になったわたくしに、もう一度動く力を与えてくれたのですよ」
パニックで思考停止状態になったツツジは、その声にハッとさせられたのだと言う。その為なら何だってしようと思えたのだと。そして、心肺蘇生と人工呼吸を的確に行い、周囲に医療機関への連絡と必要な処置の仕方を仰ぐようにと周囲にも協力を求められた。
ツツジは今でも忘れない。暗く沈んでいく命が、息を吹き返すあの瞬間を——。
「2年の忍耐は……人を少しおかしくしてしまうのかもしれません。でも、心の奥底にあるものをどうか見間違わないで。お母様が本当に願っているのは——シュウくんの未来です」
「……ッ!……ツツジ……せんせぇ……ッ!わたし……わたし……ッ‼︎」
それだけはどうにか言い切る事ができた。
ミユキの辛さをわかってやれるなどと、思い上がりはしない。それでもあの時の叫びが嘘だったなんて、微塵も思わないのがツツジなのだ。
そして、もしあの時の自分を信じてあげられなくなっているのなら……信じられる手助けくらいはできると、彼女は前に一歩踏み出した。
今まで重くのしかかっていた重圧に震えながら耐えていたミユキにとって、それは束の間でも——本当に救われる言葉だった。
「ぁぁ……うぅ……あぁ……‼︎」
今まで自分が抱えていたものを、他にも持ってくれる人がいるんだと気付いた。ずっとひとりだと思っていた彼女は、枯らしてしまっていたはずの涙をこぼれさせていた。
そこへ……愛する我が子が近寄っていた。
「お母さん……なんで泣いてるの?」
不安そうな瞳。それを向けられたミユキは咄嗟に涙を拭う。昂った感情はまだ乱れ、声もそれによって不安定になるが、どうにか無事だと明るいトーンで話す。
「だ……大丈夫よ!ほら、まだコンテスト終わってないじゃないの」
「僕が……コンテストに行きたいって、わがまま言ったから……?」
その問いにドキリとさせられたミユキ。シュウは今朝のことを気にしていたのだ。コンテストの煌びやかさに忘れたものだとばかり思っていたのだが……。
「僕……いっぱいお母さんのこと悲しませた?つらかった?僕……いい子じゃなかった…よね?……だからお母さん……泣いちゃった?」
息子の精一杯の謝罪だった。とても弱々しく、それでも母を想っての「ごめんなさい」を口にする。
それを聞いたミユキは……少し躊躇いながらも、堪らなくなって……——
息子を抱きしめる——。
「ごめん……ごめんねシュウ……!こんなダメなお母さんだけど……シュウのこと、大好きだよ……‼︎」
シュウはただ困惑するばかりだが、それでも確かに自分が愛されているのだと、母の腕の中で感じて……シュウも涙を流すのだった。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
カナズミシティ、
錦秋トーナメントの準決勝が終わり、僕は決勝の舞台へと駒を進めている。先ほどの対戦で負ったポケモンたちの傷を癒やし、今は端末と睨めっこしている。
「シュウくん……」
結局シュウくんは準決勝の客席にも姿を見せなかった。試合後、アグロのテレパシーで探させたがやはりいない。心配になってツツジさんに連絡してみるが——。
「『今はあなたの戦いにどうか集中してくださいませ』——ですか」
そう綴られた返信を見て、僕は目をぎゅっと瞑る。
やはり彼をここまで連れてくるのには、ツツジさんですらあぐねているということだろう。きっとそれまでには何とかするつもりだとは思うが、無理強いはできない。
(最悪観にこれなくても……録画はミチル姉さんたちに任せてある——できれば直に伝えたかったけど……)
僕は、それ以上は望まない。だってそれはもう僕の願望だったから。
例え思い通りにならなくても、今できることは全力を尽くすこと。でなければ出した答えに納得なんてきっとできないから。
「——僕は……やれるかな?」
誰に向けたものでもない呟きは主語を濁してしまう。
それはこのトーナメントを制することについてか、それともシュウくんに何か残せるかという不安についてか……いずれにしても、今の僕はこれまでになく緊張している。
「大丈夫……だって僕は見てきたじゃないか……あの人の背中を——不可能を可能にしてきたあの人の姿を……!」
心に抱くのは、“彼”が教えてくれた勇気——。
怖い時こそ、立ち向かうだけの価値がそこにはあるって、その身を以て教えてくれたあの人の姿が瞼に焼きついている。
いつも苦しそうなのに、どこか楽しそうなあの人に——追いつけるかどうか。
今僕はきっと……試されている。
「——その勇気を……ほんの少しだけ、僕にください!」
僕は立ち上がる。
定刻になったことで、決勝のコートに立つ事を許されたのだ。
僕は歩き出す。
もうあとは振り絞るだけだから。
自前のなけなしのそれと、友達の示したそれを持って……この戦いに臨む。
「《——本日のメインイベント‼︎錦秋トーナメント決勝戦を開催致します‼︎》」
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
時に人は——自分の思う以上の力を見せる。
願いを叶えんと走り出した者が信じられない速度で駆け抜け、誰かの為にと考えだされたアイデアが本当に救いとなる。
だから……人は可能性という言葉を信じる。
ミツルもその一人だった。
「——アグロ!“サイコショック”‼︎」
ミツルが最も信頼する相棒——キルリアのアグロがその声に応じてサイコパワーを全開にする。捻出したエネルギーを空気中で固め、物理的な作用を働かせる
しかし、それは当たることなくその体をすり抜けるばかりだった。
「随分単調だねぇ〜。“
「くっ……!」
決勝まできたトレーナーというだけあって、相手も一癖あるポケモンを使用してくる。その中でも特段変わったポケモンであるヌケニンの攻略に、ミツルたちは手こずっていた。
「とにかく攻撃するしかない!——“マジカルシャイン”‼︎」
今度は白桃色の光線をヌケニンに見舞う。しかしその攻撃も当たることはなく、まるでホログラムの映像に向かって攻撃しているような手応えを残しているだけだった。
「おいおい……何度言ってもわからないのか?このヌケニンにそんな攻撃は通じないよ」
「くそッ!なんでこんな……!」
ミツルが苦しめられているもの。それはヌケニンが持つ唯一性——特性“不思議な護り”だった。
「何をしたって無駄さ!ヌケニンの“不思議な護り”は、効果抜群以外の全ての攻撃技をすり抜ける!有効打がないポケモンでは、傷ひとつつけられないのさ‼︎」
相手のトレーナーの言う通り。たとえそれがどれほどの威力を有していたとしても、タイプ相性の弱点以外の攻撃は全て無力化してしまえるのが“不思議な護り”。
そしてその進化方法の特異性と先に語られた唯一無二の特性でその地位を確立しているヌケニンのことは、ミツルとて知らないわけではない。むしろ選出時間であのヌケニンを見た時から、最警戒している1匹でもあったのだ。
だが、事態はミツルの思う以上に厄介なことになっていた。
(こちらで有効打をつけるポケモンはチルットのハミィだけだったのに——それを狙い撃ちされて、僕は……‼︎)
飛行タイプの攻撃手段がある
そしてそれも運が悪く、錯乱したチルットは自らを傷つけ、さらにヌケニンによる追撃によりダウン。ミツルは残る2匹でこのヌケニンに対応しなければならないのだが——
「——“シャドーボール”‼︎」
エスパータイプであるアグロに対し、向こうは容赦なく弱点のゴースト技のたっぷり注ぎ込まれた球体を撃ち出して攻撃してくる。
相手の攻撃意識を種族特性“読心術”で読めるアグロにとっては、ひらりと軽いフットワークで回避できるものだ——しかしこちらもやはり攻撃する術がない。
虫とゴーストタイプを持つヌケニンを突破するには、炎、岩、飛行、悪、ゴーストのいずれかの攻撃手段を必要とする。
だが、そのどの技もミツルの手持ちは有していなかった。
「そらそらそらそらぁ‼︎」
「アグロ——‼︎」
向こうはもう完全にミツルの攻撃を怖がっていない。ただ一方的に優位な位置からアグロに向かって“シャドーボール”を連打する。
その手数に、アグロは次第に躱しきれなくなってくる。
——ルキャッ‼︎
そのうちのひとつがアグロの小さな体を捉える。威力は申し分なく、耐久性能はお世辞にも高いとは言えない彼を遠くまで吹き飛ばした。
「アグロッ!大丈夫か⁉︎」
アグロは吹き飛ばされた先で地に伏せる。それを見て戦闘不能か——と審判も旗を上げかける。
しかしそれを否定するように、アグロは体に鞭を打って立ちあがろうとするのだ。
「健気だなぁ!だけど立ち上がったところで無駄さ——‼︎」
再び“シャドーボール”連打による範囲攻撃が行われる。ダメージを負ったアグロでは避けられない攻撃だ。
「こうなったら——」
ミツルはその攻撃よりも先に手を打とうと腰に手を回す。ミツルの意図に気付いたアグロも、とにかく今はこの攻撃から逃れる為に、足を打ち叩いて動かす。
「悪あがきを——‼︎」
「アグロ——戻れ‼︎」
自身の“読心術”でも読みきれても、体のついてこないアグロ。それをボールのリターンレーザー機能を使って強引に戦場から救い出したミツルだった。
「戻したか——だが次に出すポケモンに向かって、同じことをすればいいだけのこと!」
「くそ……!」
戦闘不能による試合の一時中断でもない限り、ポケモンの交代際への攻撃は認められている。出てきた瞬間やられるリスクがある為、こうした交代方法はミツルとしてもやりたくなかった。
そして、次のポケモンを出すのに迷うことは許されない。ハミィを倒された今、たった1匹しか残っていない故に、躊躇いからくる長考は意図的な遅延行為と取られるからだ。
「——頼む!」
意を決して、ミツルは最後のポケモンを投げ入れる。それに合わせて向こうのトレーナーは嬉々としてヌケニンに“シャドーボール”を撃たせた。
——ズドォォォオオオン!!!
ミツルが放り投げたボールの落下地点に、しっかりと溜めた巨大な霊球が着弾し、爆ぜた。それによってコートは砂塵に包まれる。
「ミっちゃん——‼︎」
客席で観ていたミチルは、その光景に悲鳴をあげる。それでもこの試合の撮影をやめなかったのは、ミツルの思いを聞いたからだ。
たったひとりの男の子のために……そう願う従兄弟の気持ちを思うと、この現実はあんまりと言わざるを得なかった。
「こりゃいかん……ミツルくん、もうダメなんじゃないのか?」
「お父さん‼︎ バカなこと言ってると晩飯抜くわよ‼︎」
「す、すまん!で、でもなぁミチル……」
弱気な発言をする父に対して激怒するミチル。しかし素人目に観ても、ミツルの旗色は悪そうだった。それは他の観客の目にも明らかだった。
「ミッちゃんは……絶対になんとかする……なんとかするんだもん……!」
「ミチルさん……」
そう言うミチルも涙ぐんでいる。その隣で見ている婚約者も、ミチルの手を握ってその不安に寄り添っていた。
そしてそうこうしていると、爆煙は晴れていって……。
「——ありがとう
その煙の中で、ケホケホとむせながらもダメージらしいものは感じない桃色の猫のようなポケモン、
「——
ミツルは着弾地点にゴースト技が無効となるノーマルタイプのドルチェを投げ込んでいた。他の技を使われる可能性はあったが、賭けに勝ったと胸を撫で下ろす。
「ミッちゃんやるぅ〜!よぉーしここから反撃だぁ〜‼︎」
「ミチルさん、多分そう簡単なものでもないと思うけど……」
「なに?」
「イイエナンデモ」
最愛の男性から落ち着けと言われ、それを逆にひと睨みで跳ね返すミチル。だが現実問題、ミツルは九死に一生を得ただけだった。
(ドルチェのおかげで何とかなったけど、相変わらずヌケニンの突破手段がない……弱点が突けないなら、状態変化や天候変化、地形に設置する変化技でのスリップダメージでもいいのに——まだ僕らはそれらを覚えられてない!)
ヌケニンの“不思議な護り”は攻撃技にのみ反応する為、ミツルが考えている変化技から発生する間接的なダメージが有効なのは事実だ。
しかしミツルはそのどれもが習得には至っていない。単純に相手の攻撃を躱し、強力なタイプ一致技を当てるという王道スタイルを突き進んできたミツルにとって、それら搦手を習得する優先順位は低かった。
(全ては僕の準備不足!でも……負けるわけにはいかないんだ……‼︎)
今は自分を責めても仕方がない。ミツルは気持ちを入れ直して、ドルチェに指示を送る。しかしそれより先にヌケニン側が動いた。
——“怪しい光”!
それはハミィを仕留めるに至った変化技。七色に怪しく輝く光体がユラユラとドルチェに近づき、その不規則な運動を網膜に叩き込む。これをされたポケモンは一時的に視野に異常をきたし、パニックからくる混乱状態にさせられてしまう。
「まさかもう忘れたわけじゃないだろうな?頼みのチルットを堕としたこの技を——!」
「ドルチェ!目をつぶれ‼︎」
ミツルも忘れているわけではない。得意のゴースト技を封じられれば、当然同じようにそうしてくる事は目に見えていた。
“怪しい光”は、心構えさえあれば見ない事でその影響から逃れられる。だからドルチェも指示の通りにする。
「——戦闘中に目を閉じていいのか?」
だが、この技を熟知しているのも使い手として当然と言えた。視界を遮断するということが、この戦闘中にどれほどのデメリットとなるかをよく知っている。
——蟲のさざめき‼︎
今度はヌケニンの攻撃技がドルチェを襲った。甲高い音に虫タイプのエネルギーを乗せた音波攻撃によって、小さな猫は成す術なく飛ばされる。
「ドルチェ——!」
「視界を塞げば技の予備動作も見えまい!反応が遅れれば、音速の攻撃をかわすことは不可能!」
「だったら僕がドルチェの目に——」
「それはどうかな?」
ミツルは目が見えないドルチェに指示を送る事で、足りない情報を補完するつもりでいた。ここで異変に気付く。
呼びかけているのに、ドルチェは自分の声に反応できていない。
「ドルチェ!どうしたんだ⁉︎」
「悪いが君のポケモンの耳は
『
通常の“蟲のさざめき”よりも高い周波数で対象の鼓膜を振動させる派生技。虫タイプの乗った音波は技の後、執拗に標的の聴覚に残り続け、極端な難聴にさせる。
本来の攻撃技より威力が落ちるが、“怪しい光”で視覚を奪った今では恐ろしい効果を発揮していた。
「目の次は耳……その次は何を奪おうか?」
「ぐっ……!」
いやらしく笑う相手に、悔しさの込められた眼差しで見るミツル。
向こうも当然勝ちに来ている。容赦のない作戦で手堅く立ち回っている姿は、以前のミツルならその周到さすら褒め称えただろう。
しかし、大事なものがかかったこの一戦。最も欲しい勝ち星の前に立ちはだかる障害に対して、何も思わないはずがなかった。
「交代するしか……でも……」
恐らく一度交代すれば、ボールのリフレッシュ機能で聴覚妨害を解く事はできる。しかし交代後、同じポケモンを出す事は禁止されているため、必然的にその後投入されるのはアグロ。
それは相手もわかっている。そんな隙を見せれば、今度こそ着地点に“シャドーボール”を叩き込まれてアグロを失う。
向こうはまだ他にポケモンを残しているため、それらを倒すことを考えれば……ここでアグロを失うわけにはいかないのだ。
「さあどうする⁉︎ 迷っている間にも君のポケモンは傷ついていくぞ‼︎」
こうして逡巡する間に、ドルチェには“蟲のさざめき”が浴びせられていた。なんとかその場で耳を塞ぎ防御姿勢をとっているドルチェだが、そう長くは保たない。
しかし新しいことをしようと思っても指示が通らない。交代すればアグロを失う。ミツルは八方塞がりとなった。
そんな彼を見て、対戦相手からはさらに問い詰められる。
「——“
ミツルに対して言い放つそれは、とても相手をリスペクトしているようには思えない。私怨なのか呆れなのか……彼の見通しの甘さを指摘するトレーナーの目には、明らかな敵意があった。
「プロになって5年!ここまで来るのにな‼︎ 君のような未来ある子供にはわかるまい——この場に容易く立てる君には‼︎」
ミツルはそれを聞いて……どこか納得していた。あの男が言うような意味ではないが、確かに自分は驕っていたのだと気付いた。
どうして自分は優勝できる気でいたんだろう。トレーナーとして確かな手応えがあったわけでも、充分な準備ができていたわけでもない。ただ、誰かのためにならそうできると——錯覚していた。
(僕は……どうしてあの人のようになれると思ったんだろう……?困難を前に屈せず、突破口を探し続け、辿り着ける側だなんて——そんな大それたことを、今の僕がどうしてできるなんて……)
人に影響され続けてきた人生だった。
その中で、今最も自分を熱くさせてくれる親友——ライバルのようになりたいと願うばかりだった。
でも自分と彼は違う。違う存在。
だったらどうして同じようにできると考えていた?想いが強ければ、成せないことなんてないと……どうして?
——どうせダメで元々——でも、わたくしは何故かそうは思わない。これはわたくしの……勘ですが
(ごめんなさいツツジさん……僕、あなたの期待には応えられそうもない……)
全てはシュウくんの為に——。
しかし彼に響くような試合は出来そうにないと、膝を折るミツル。彼の視界は徐々に色褪せ、暗いものへと変えていった……。
(ごめんミチル姉さん、旦那さん……ごめんおじさんおばさん……ごめんなさい……ミユキさん……シュウくん……)
「——お兄ちゃん!!!」
全てを諦めかけた時だった。
コート中に響くその声で、ミツルは意識を持ち直す。
……その方向には、いないと思っていた少年の姿があった。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
数時間前、シダケタウン——。
「……僕、カナズミにいく!」
シュウの決意めいた意思表示に、母であるミユキもツツジも目を丸くしていた。
まだ何も言っていないにも関わらずそんな事を言うのは……もしやと思い、彼の記憶に何か影響が出たのかと期待した2人だったが——
「ほらこれ!きんしゅー?トーナメント!僕これが見たい!」
「し、シュウ!あなたそれ、いつの間に——⁉︎」
我が子が見せてきたのは、ミユキがツツジからもらった錦秋トーナメントのチラシだった。そこには今日の日付が書かれており、シュウはこれを見て行きたがったのだとわかる。
しかし、あれほどコンテストに執着していた彼がなぜ……と、ミユキは困惑していた。
「その……コンテストはいいの?今日のこと、楽しみにしてたじゃない」
正確には2年前に約束した『今日』——彼の中では止まった時計。その時に抱いていた感情が劣化する様子なんて、この2年では見られなかったのだ。
だが、シュウにはそんなこと知る由もない。
「コンテストも見たいよ……でも、なんでかこれに行きたいって……行かなきゃって思ったんだ」
シュウの放った一言は、2人に衝撃を与える。それが何を意味するのかはわからない。でも、まるで昨日のことが彼の中に残っているような物言いが、ミユキとツツジに喜びを与えた。
だから、ツツジはここだとばかりにシュウに語りかける。
「シュウくん。そこに出ている人の中にはね。ずぅーと昔にあなたにあったことがある人がいるの……その人は今でも、君に見て欲しくて戦ってるの」
「ぼくの……ために……?」
シュウにミツルの記憶はない。それは遠い昔に風化した記憶として、ツツジは伝えた。
彼がシュウに何を残したがっているのか、それだけは知っておいて欲しくてツツジは踏み込む。
それを受けたシュウは——
「すぐ!すぐにいこ‼︎——僕、その人のこと、応援するよ!!!」
彼にとっては名前も知らない人間だ。
何故自分を気にかけるのかすらわからない。顔も話した内容も覚えていない。
それでも、シュウはその人に会いたくなった。
自分の為に——ただそれだけで嬉しくなった。
ツツジやミユキはその姿を見て思う。
理屈や経験……そんなものを抜きにして純粋に行動できる子供が羨ましい——と。
その輝きは、もう自分たちには出せない宝石のそれだ。
理由なんてなくても、人は動ける。
幼い子供が見せた笑顔は、本当に花が咲いたみたいで……——
「お兄ちゃーーーん!!!負けちゃやだよぉーーー!!!」
僕の中に立ち込めた暗雲は、その一言だけで晴れた。
声のする方——目に映ったのは、在らん限りの声を乗せて応援するシュウくんの姿。
来てくれた事への嬉しさ。記憶はないはずなのにどうしてという動揺……。
「シュウ……くん……?」
僕は彼と……かたわらにいるお母さんのミユキさん、ツツジを見て——
「頑張れミっちゃーーーん‼︎」
「ミツルくん!最後まで諦めるな‼︎」
客席から、熱い家族からの声援が飛んでくるのを聞いて……僕は呆けていた。
なんでだろう……こんなにもこの場所が綺麗に見えるのは。さっきまで鈍く暗く見えていた景色が、シュウくんの声ひとつでガラリと変わった。
そしてポツリと——芽生えたのは、ひとつの願い。
「——ドルチェ戻れ」
反射的にドルチェをボールに戻していた僕は何も考えていなかった。
いや、考えてはいた——。
「負けちゃやだ」——そんな一言に、ただ応えたくて。
「馬鹿め——“シャドーボール”!!!」
その動きは読んでいたとばかりにヌケニンから“シャドーボール”が射出される。
当たれば終わる——そんな絶対的な現実が迫るような攻撃に、現れたアグロは——
——“サイコショック【
“サイコショック”の乱奔流を最大まで圧縮して作った念力の玉を“シャドーボール”にぶつけ——爆発。着地を狩りにきた攻撃を相殺しようとしたのだ。
「着弾の一瞬の時間差で相殺とは恐れ入る——だが自爆だったな!」
「いや……終わってない!」
そうだ。まだあそこにアグロの意識がある。テレパシーではない何かが、僕の中に流れ込んできた。
それは……アグロの勝ちたいって気持ちだ。
——ルァァァアアア!!!
煙の中から飛び出してきたのは、いつも凛々しい姿からは想像もできないほど感情を剥き出しているアグロだった。
何度も浴びた攻撃によって余力はないことは明らか——
「む、無駄だ——“不思議な護り”を破る攻撃など持ってないんだろう‼︎」
「それでも……!」
打ち破れない壁があっても。
「それでも……それでも……‼︎」
現実がどれほど残酷でも。
「——それでも!!!」
それでも——僕はやり遂げたい。
あの人がそうしたからじゃない。
僕自身がやりたい事を、やり遂げたい!
「——アグロぉぉぉおおお!!!」
——ルァァァアアア!!!
「もう沈めぇぇぇえええ!!!」
——“シャドーボール”ッ!!!
ここ一番で巨大な球体をヌケニンは作り出した。そしてそれを、さらにここ一番の速度で打ち出す。
躱さなくては——そう思った時、同時に僕はある事を思いつく。
普段ならそんなことやろうなんて思わなかっただろう。やったこともないことを、試合で試そうだなんて——。
でも——今ならなんだって出来そうな気がした。
「——“身代わり”‼︎」
自身の生命エネルギーを分け与えて作る自分に似せた人形を作り出す技——“身代わり”をなけなしの体力で作り出させる。
アグロは捻り出すように、自分の前にそれを出現させた。それが“シャドーボール”を受け止めて、身代わりは爆ぜる。
「最後まで隠していたか——だがそれがどうした‼︎」
「勝つんだ——僕らは今日、勝って笑いたい!!!」
僕はそう叫んで、右腕を空高くに掲げる。それに合わせて、何かで繋がれたようにアグロも右腕を掲げる。
そこにあるのは秋晴れの青空。
夏とは違う優しいお日様の光。
そして——ひとつの黒球。
「——掴め」
——“サイコキネシス【
アグロの発した“サイコキネシス”が、巨大な手を模ったエネルギー体となって出現する。その手が、空を漂う“シャドーボール”を掴んだ。
「何故あんなところに“シャドーボール”が——まさか⁉︎」
遅れて相手のトレーナーが気付いたようだ。
そう……あの“身代わり”は攻撃を防ぐためのものじゃない。その体勢をさながらバレーボールの“レシーブ”のような姿で受け止めさせ、それと同時に上へと弾いた。
とても思いのこもった“シャドーボール”だった……だがら、それが何か成果を上げずに消えることはないと、僕らは信じた。
そして、それすら利用して、僕らは進む!
「“シャドーボール”はゴーストタイプ。ゴーストタイプ同士では、互いに効果抜群の関係!」
「しまっ——」
“シャドーボール”を掴んだまま、アグロは腕をヌケニンに向かって伸ばす。その動きにピタリと合わせて【
互いの思い全てが乗った一撃が今——
「行けぇぇぇえええ!!!」
——ズドォォォオオオン!!!
ヌケニンはその全てを一身に受け吹き飛んだ。それは文句無しの一撃。
絶対に勝てない——そう思わされていた僕らが、心から欲しかったものが……
そこにはあった——。
「——ヌケニン!戦闘不能‼︎ キルリアの勝ちッ!!!」
その瞬間、自然と僕とアグロは雄叫びを上げた。
我ながら、らしくないと思う。荒々しく拳を握り、腹の底から空に向けて喜びを放つ自分が、それでも意外だけど……これが僕だってわかった。
そうだ……僕らはこの瞬間の為に、前へ踏み出したんだ。
「……“
相手トレーナーはヌケニンを戻し、次のボールに手をかけていた。
全く……あんなに苦労してやっと1匹倒したと思ったら、そういえばそうだったと間抜けな思考が僕を通りすぎる。
「そうでしたね……行くよ。アグロ」
やはりあの人のようにはいかないな——でも、もう僕はそれに固執しない。
僕にだって、僕にだけの願いがあったから。
さあ……決勝戦は、これからだ——!
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
「ぅぅ……うっぐ……ふぐぅ……‼︎」
「もう……いつまで泣いてますの?」
日も暮れ始めたカナズミの公園で、備え付けのベンチにてミツルは悔しさのあまり涙を流していた。彼が恥も外聞もなく咽び泣いているのを、ツツジは隣で座って背中をさすっている。
錦秋トーナメントの表彰式も終わったというのに、ミツルは先の戦いで負った精神的ダメージから立ち直ってはいなかった。
「——善戦はしましたが、結局序盤に主導権を持っていかれたのが最後まで響いた形となりましたね。むしろ最後1匹まで辿り着いたのですから、そう落ち込まないでください」
「うぅ……でもぉ〜……!」
ツツジは今日の決勝を映した録画データを見て、適切な総評を下していた。
結局ヌケニンから受けたパーティ全体のダメージが祟り、勢いにこそ乗れたものの、最後まで保たせる体力はなかった。
「ツツジさんもこう言ってるんだし、いつまでもメソメソしない!ミッちゃんかっこよかったよー!」
「そうだぞ!おじさん本当に驚いたんだから……まさかあのミツルくんがなぁ」
今は叔父一家もミツルを慰める為に色々と声をかけている。この2日間、ずっと応援してくれている人たちがこう言うのだから、確かに立ち直るべきだろうこと……ミツルにもそれはわかっている。
彼も好きで落ち込んでいるわけじゃない。負けるのも別に初めてではなく、錦秋トーナメントで準優勝は、プロに成り立てにしては上出来と言ってよかった。
でも……彼には勝つところを見て欲しかったと、落ち込まずにはいられなかった……。
「——お兄ちゃん!」
そこにやってきたのはシュウだった。その奥には彼を追いかけてきた母親もいる。それを見てミツルはバツが悪そうに目を伏せてしまった。
「お兄ちゃん!残念だったね‼︎」
「うっ……ごめんシュウくん……」
ストレートに敗北を見た事を言われ、予期せぬ追撃をくらうミツル。出てくるのは謝罪や後悔のことばかりだった。
「僕がもっとしっかりしてたら……結果も違ったのかもしれないのに……ポケモンたちもあんなにボロボロになったりしなかったのに……」
意気込んで挑んだ割に、ミツルからすると反省点の多い戦いだった。そんな不完全なものを見せてしまったこと……そして、記憶に残るとは思えない内容であることを彼は悔やんでいた。
その自己評価に物申そうかとツツジが口を開きかけた時——
「すっっっごくかっこよかったよ!!!」
シュウの邪念ひとつない感想が、ミツルの胸を打った。
「とってもとってもとっても!あの緑色の子がウワァーッて走った時がすごかった!超能力でドカァーンってやった時なんかすごすぎたもん‼︎——ありがとう!お兄ちゃん‼︎」
それが全て、ミツルとそのポケモンたちに注がれていた。それだけでミツルの後悔は薄れていった。
喜んでもらえた——例えプロとしては課題の残る試合だったとしても、目の前の男の子にとっては関係のない話だったのだ。
それを知れてミツルは俯くべきじゃないと、今度はしっかりシュウの方を見た。
「シュウくん——」
シュウに手を伸ばす。
今日のことを忘れてしまう彼に、少しでも何かが残せただろうか……そんな問いを心の中でしながら、彼の頭を撫でてあげたくて——
「——忘れたく……ないな」
それはシュウの呟き。
その場で聞いていた全ての人間が、その動きを止めた。
その言葉の意味がわからなかった。わかろうとして、まさか——そんな驚きの空気だけが流れる。
「シュウくん……きみは……」
2年間、一度も記憶障害のことを気にする素振りは見せなかった。そう聞いていたミツルにとって、その言葉は信じられない事実だった。
1日しか保てないはずの記憶——それは『忘れる』ということすら忘れてしまっていたはず。本来ならその事を悲しむことすら不可能だ。
それを覚えているということは……。
「……わかんない。僕は……こないだまで
「あっ……」
今まで家でも自宅でも……日付がわかるものはなるべく彼の目に届かないように避けてきた。現実と体感の時間が大幅に狂うと、精神的に不安定になることを危惧していた彼女だったが……。
「僕……少しだけど覚えてるよ……お兄ちゃんが、僕とお話してくれたんだよね?」
「シュウくん……ほ、本当に……?」
「ぜんぶ……ユメだと思ってた……今日までずっと僕の思い出だったなんて……知らなかった……でも……ちゃんとは覚えてない」
シュウは自分のズボンをギュッと握りしめて、今の自分の状態を懸命に説明する。
まるで悪いことをしたと告白する子供のように……。
「覚えてないから……みんながなんで悲しい顔してるのか……いつもわかんなかったんだ……お母さんはどうして旅行だなんてウソつくのかもわかんなくて……でもコンテストには連れていってくれて……でも朝にはそんなことも忘れてて……たまに思い出すと、すごく辛いんだ……」
その言葉に最初に得心がいったのはツツジだった。
思えば『コンテストに行くという約束』そのもののことを覚えているということに、違和感を覚えるべきだった。
それは彼の病状が深刻であり、都会の喧騒から遠ざける為に持ちかけたもの。本当に綺麗さっぱり忘れていたのなら、あれほどコンテストに執着することはなかったはず。
しかし……そうなると——
「お母様……この事をあなたは……」
知っていた——この違和感を、ずっと暮らしていた彼女が気付かないはずがない。
その問いに……ミユキはゆっくり口を開く。
「……信じてあげられませんでした。私はこの子が朧げながらにも記憶を保っていることを知って……でもいつかそれすらも失う気がして……ぬか喜びしたくなかった」
希望を抱いても、次の瞬間には奪っていく——なら最初から何にも期待せずに、ただ現状で満足しようと……ミユキは諦めていた。
そこでミツルも気付く。シュウの記憶障害を本人に気付かせない為にしていたミユキの本当の気持ちに。
「前に進もうとしたら、今持ってるものすら……無くしてしまう怖さ……」
ポツリと呟くミツル。
それはミツル本人ではなく、友の歩みから得た人の心の推移——夢に向かう為の代償を知った、彼に近いものをミユキから感じた。
その恐怖にひとりで打ち勝てるはずなどない。
皮肉なことに、誰よりも彼の記憶を取り戻したいと思っていた彼女が、その兆しを信じてあげられなかったのだ。
「……ごめんねシュウ……ずっと嘘ついてて……やっぱりお母さんは……ダメなお母さんだ……」
自分は息子に残された僅かな希望を信じてあげられなかった。それを信じられるほど強くなかった。
また前のように——シュウが産まれてきた時にあった幸福を取り戻せるかもと……信じて裏切られるのが怖かった。
現実はいつだって、望む者を容赦なく追い返すのだから——
「——ちがう。お母さんは……ダメなんかじゃない……‼︎」
シュウは目に涙を浮かべ、溢れさせる。
この少年もまた、自分を責めていた。
「ぼくが……ふつうじゃないのがいけないんだ……!ぼくがこんな体じゃなかったら……お母さんは泣かずに済んだのに……!」
「そんな……シュウは悪くない……悪いのは私——」
「だって——だって僕……お母さんにひどい事言った!!!」
シュウにあったのは昨日の記憶——コンテストに行きたいと駄々をこね、母を泣かせてしまった断片的なそれが……記憶の破片が、シュウの心を引き裂いていた。
「僕、ほんとは知ってた!お父さんのこと、きらいになったんでしょ⁉︎ 僕はそれなのにお父さんのこと呼んで……今日だってほんとはお父さんと来たくて……お母さんがお父さんのこともう好きじゃなくなったのに——ぼくはまだお父さんのこと大好きだから!!!」
愛される資格のない父親だと思っていたミユキ。それは息子にもなんとなく伝わっていた。
シュウは粉々になっていく記憶の中から、それら家族の記憶を大切にしていた。でもそれは母を傷付けるだけだと思っていた。
シュウが自分から本当の事を言えなかったのは……そうしたジレンマに悩んでいたからなのかもしれない。
「違うのシュウ!シュウがお父さんのことを好きなのは悪いことじゃない!悪いのは私の——」
「——誰も……悪くないじゃないか……!」
それらを聞いていたミツルが耐えきれなくなって、そう漏らす。
わなわなと震えているのは、苛立ちでも怒りでも……ましてや悲しみでもない。
胸に込み上げてくるそれを……なんと呼ぶのか——ミツルにはまだ、上手く伝えられないが……。
「出過ぎた事だってわかってます……僕なんかが口を挟むべきじゃないって……でも、性分なんでしょうね。僕は、思った事を口にせずには……いられない」
それでも前に——例え事を荒立てる可能性があるとしても、ミツルはもう止まれなかった。
「シュウくんは……その記憶を大切にしてる。ずっと前から無くさないように……それでも無くしてしまうのに……必死で……」
シュウの記憶障害が思っているのと違うものだったとしても、それは不安定なものだということがわかっただけ。明日には全てを忘れていてもおかしくない——その恐怖だけが消えず、シュウは抱えて生きていた事をミツルは知った。
それは10歳の子供が抱えるには、あまりにも重いものだ。それでも笑顔で日々いようとしたのは——母の為。
「お母さんだって必死だった……信じたいって気持ちすら引き裂かれて……それでもシダケで穏やかに暮らせるように……少ない助けの中で……今日もおかげでシュウくんは外に出られてる!」
そして——2人は2年の歳月。
一度もそれをやめたりはしなかった。
「——2人のやり方が間違ってたとしても……それがなんだって言うんだ‼︎ 成否は問題じゃない!大事なのは、2人がそれでもお互いを想い合ってたってことでしょう!!!」
それが現状維持のため、嘘で塗り固められた2年だったとしても——
この“愛”は——嘘じゃない。
ミツルの慟哭は、寂しく公園の中を通り過ぎる。それに答える者はいなかった。
それでも、意を決して声を発したのは——ツツジだった。
「……そうですわ。ミツルさんの言うとおりですわね……お二人は慰められることはあっても、責められるべきじゃない。例えそれが自分自身だとしても」
ミユキもシュウも、自分を責めるべきじゃない——それは息苦しく、辛い行為の割に、実りは少ないからだ。
とりわけできる事をできる限りしてきた2人はそうすべきではなかった。辛い現実に真っ向から向き合えなかったとしても、2人で共に2年間を生きた事実は、そのまま努力してきた過程の証だ。
その道のりを否定してしまう行為を、ミツルもツツジも容認できなかった。
「自虐はダメなんです。自分を虐げる行為は勇気を潰してしまう。歩いていく為の足を止めてしまう。あとほんの少し歩いたら……変わる景色もあるかもしれない——」
希望的観測——無責任と思われるかもしれないと、ツツジはそう思いつつも一歩踏み出す。ミツルが今そうしているように。
「それに、もう変わったではありませんか。シュウくんの記憶は不可逆のものではない。お母様のことを忘れるなんてあり得ませんわ……これほど想われているのですから」
ミユキはそれを受けて……少し呆けているようだった。その様子を見て、口を挟むことを控えていたミチルたちも動く。
「シュウくんのお母さん!まだ、よくわかんないこともあるんですけど……私、そんな中でも、町で会ったら優しく挨拶してくれるお母さんが素敵だなって思いました!毎日シュウくんをコンテスト会場に連れていってたこと、尊敬します!」
「そうですな……我々も子供を持った身としてあなたを尊敬します。同じ立場だったらそう生きれたかどうか……」
「そうよミユキさん。この先生きるのが不安なら、迷惑じゃなかったら……ウチも協力するわ!シュウくんと遊びに来て。ウチも大きな娘が出ていって寂しかったんですもの」
これほどまでに自分を肯定してくれる人がいること。息子のことを気にかけてくれる人がいること。この事を知って尚、優しく接してくれる存在に、気持ちが追いつかない。
こんなに優しいことがあるのかと……ミユキは——
「——シュウ!ミユキ!」
突然、この場の誰のでもない声が響く。
その声がした方を皆が見ると、そこには2人の男性が立っていた。
1人は白衣姿だが、容姿が幼く医者には見えない。当然誰も彼のことは知らないようだ。
しかしその隣にいる中年男性は、ミユキとシュウがよく知る人物。肩で息をして、焦燥した面持ちでこちらを見ている。
「……おとう……さん?」
その一言で、彼が誰なのかすぐわかった。
シュウの事故を機に離婚したその人だと。
「あなた……どうして……?」
「やっぱり……まさかここで会えるなんて……」
父親はこちらに近づきつつ、本当に2人が自分の家族だということに驚いている様子だった。
「シダケに住んでるはずのお前たちが、まさかカナズミまで出張ってくるなんて思ってなくてな……危うくすれ違いになるところだった」
すれ違い——ということはこの人物が2人を探していた事を示していた。
自分たちを探していた……その事をどう受け止めたらいいのか、ミユキにはわからなかった。シュウも今すぐ駆けていきたい気持ちと、母の手前そうできない気持ちとの間で揺れている。
ミツルもツツジも叔父の一家も、何を口にすればいいのかわからなかった。
だから、彼が動いていたことに気付くのが遅れたのだ。
「ぐぁっ⁉︎」
ミチルの婚約者——リュウジが、シュウの父親の胸ぐらをつかんでいた。
「リュウジさん⁉︎」
「な、なんだきみは——」
ミチルが駆け寄り、彼の突飛な行動を制しようとする。しかし土木業で培われた肉体はびくともしない。
気の優しそうな彼が、こんな事をすること自体信じられなかった。
「……すべてを……聞いたわけでは、ありませんが」
絞り出すように、使う言葉からまだ穏やかさを保つようにしている事だけはわかる。
その場の誰もが障害事件となる可能性に震えたが……きっと彼の気持ちに、見当がついていたのだと思う。
「——自分とて
それでも同じ家庭の大黒柱。それが不在だったこと、とうの昔に離婚していたことだけは知っていたリュウジ。
その先人が、こんなにも傷ついた家族を見捨てて逃げたこと……本当に逃げ出したことが、リュウジにはどうしても許せなかった。
「——それでも愛していたんでしょう⁉︎ なんで逃げたんだ!よくそれで2人の前に現れられたな‼︎ 今やっと2人が、前に進めそうだという時に……よりにもよってあなたは、こんな時に……!」
その邪魔をしてほしくなかった。
そして、当たり前のように父親として2人に接しようとしているように見えた事が我慢ならなかった。
その責務を果たさずに……気安く2人に呼びかけることが——
「そうか……2人とも……皆さんが……」
シュウの父親は、力なくそう呟く。
胸ぐらを掴むこの男が誰なのかは知らない。それでもその熱意が、自分が置き去りにした家族の為に燃やされている事を知って……。
その様子から、リュウジも何かを感じたのか手を離す。締め上げから解放された彼は咳き込んだあと、言葉を綴った。
「皆さん、いきなり現れて申し訳ない……知っての通り私は最低の人間です……たった2人の家族を守る事をせず、責任を果たさず……許してもらおうなんてことすらおこがましい」
その独白は事実であり、この場の誰も彼の言う事に異論はなかった。
ではなぜ現れたのか……問題はそこにあった。
「それでも……どうかこれだけは……彼を紹介させてはもらえませんでしょうか?」
そう言って、先ほどからずっと後ろで立っている少年を指して言う。その少年も、やっと出番かと前に一歩踏み出して言った。
「あはは。なーんか大変なことになっちゃってるみたいで……とりあえず自己紹介からですかねー」
少年は一番近くにいたリュウジにその名刺を渡す。それにその場にいたみんなが群がり、書いてある肩書を読み上げる。
「——トクサネメンタルクリエイティブの所長……ソウタさん?」
それは聞いたことのない機関だった。
トクサネといえば、ホウエン地方の東北に位置する、島全体が街となっている特異な場所だ。その場所が、宇宙開拓を始めとした様々な技術開発に勤しむ街だと言うことくらいはみな覚えがある。
「いやぁ所長と言ってもこの間任命されたばかりで……全く、まだ17の自分には荷が重いって言ったんですけどねー」
「17歳で管理職ってことですか……⁉︎」
「まぁ別に変なことでもないだろ?そちらのジムリーダーさんもお若いんですし」
ツツジを指してソウタは自分の立場を少し補則する。確かに実力さえあればそうした業務に就くこともあるだろうが、それにしたって彼が同い年だということに、ミツルは驚いている。
「まあ出来たばかりの医療機関なんで、不安もあるとは思いますが、一応HLCからもお墨付きはもらってます。俺が来たのはそっちの子みたいに、何らかの精神疾患がある人たちへのサポートの為ですよ——まあそこのおじさんに土下座されたってのもあるんですけどね」
それを聞いて、彼はシュウの治療を買って出てくれていることがわかった。しかもトクサネといえば技術発展のメッカとされる場所。そんな場所での治療なら——
そこまで考えて、彼の父親がなぜ今頃になって姿を現したのかに気付く一同。
「あなた……まさか、シュウの治療のために……?」
「……そんな格好のいいものではないんだ。お前たちを捨てたことは……本当なんだ」
ミユキは夫が逃げたことの真意を読み取ろうとするが、それは本人の口から否定されることになる。
この人物を探す為に、離婚届を置いていったわけではないと。
「——お前たちの前から逃げて……全部をミユキに押し付けて……私はひとりで生きた。でも何をしていても、あの日お前の見せた顔とシュウのことが忘れられなかった。逃げきれなかったんだ。お前たち2人が今何をして、何を思って……私を呪いながら生きているんだろうと……2年の間ずっと」
それに苛まれていた。
彼の父親としてわずかに残っていた良心が、ずっと自分を責めていた。耐えられないほどに。
「この苦しみから抜け出す為には、もう一度お前たちと向き合わなければいけないんだと、やっと悟った。でも今更何を、どの面下げてお前たちのところに帰ればいいのか……わからなかった」
それでひたすら探したのだと言う。
息子を救えるかもしれない者を探して……。
「彼の元いたジョウト地方では評判の先生だ。革新的な治療法と、患者を大切に思う心を持っている」
「大袈裟ですよー。それにこっちにだって彼を救うメリットはある。実にレアケースな症例だけど、今も記憶は失い続けているんですか?」
医者の問いに、ツツジが今わかったことを含めて説明する。
それを一通り聞いて、彼は得心がいったかのように手をポンとたたく。
「なるほどねぇ〜。いやぁやはり君は面白いなシュウくん!本来なら失われ続けるところを自らの意思で修復しているわけだ!こりゃ研究のしがいがありそうだなぁ」
「あの……息子は……治るんでしょうか?」
ひとりで勝手に盛り上がるソウタにミユキは問う。
不安そうな彼女の目を見て、ソウタは少し考えてから返事する。
「何のために研究してると思ってるんです?治すために決まってるでしょう。今すぐってわけにはいかないでしょうが、ウチのスタッフもみーんなそれが楽しくてやってます。治さないまま諦めるなんて、そんなつまんない奴うちにはいませんよ」
あっけらかんと、医者はそう言い放つ。
その言葉がどれほどミユキに安心を与えたことか……彼女は泣きそうな顔で、今度は夫の顔を見る。
「……わたし……それでも……あなたを許せない」
「ミユキ……」
それでもいい——夫がそう言おうとするが、ミユキは続ける。
「なんで……あなたはあの子に愛されていたのに……なんで逃げたの?なんでそばに居てくれなかったの?」
「すまん……」
「どうして……そんな風にしてるの?逃げきれなかったからここに来たの?私たちの気持ちは……?ねぇ……今どんな気持ちでここにいるのよ……⁉︎」
「すまない……すまないミユキ……」
「もうやめてよ!!!」
とめどなく溢れる想い……言いたいことをこの際全部言ってやるといわんばかりにその胸の内を曝け出すミユキ。
だが……本当に言いたかったのはそんなことではない。
ミユキは——
「なんで謝るの!許さなくていいって言ったくせに!許してもらおうなんておこがましいって……何でそんなこと言うの⁉︎」
「み、ミユキ……?」
「なんで許してって言わないの⁉︎ でないと——許してあげられないじゃない」
ずっと……しまっていた。
心の奥底に、絶望という重りに括り付けて沈めたこの気持ちを——
「まだ愛してるって……なんで言ってくれないの……帰りたいって言ってくれないの……!シュウもわたしも……ずっと待ってたのに……‼︎」
「おまえ……まだ……」
置いて行かれても、諦めきれなかった。
どれほど理不尽なことを言われても、捨てられなかった。
だから書けなかった。
ミユキは、まだその届にサインできていなかった。
「書いてないの……離婚届に……あれを書いてしまったら、本当に何もかもが終わってしまう気がした……」
「………!」
その場の誰もが絶句する。
あんな状態で、これほどのものをまだ抱えていた事実に涙を流す者までいた。
それは……どうしようもなく。
ただ溢れた。
「お父さん!!!」
シュウは父親にしがみつく。
もう我慢なんかできなかった。
泣きじゃくりながら、ずっと会いたかった父親に縋る。
「ぼく……もう忘れたくないよ!お父さんのことも忘れたくない……今日のバトルだって……この先もずっと……ずっと……だから……置いて行かないでぇ!!!」
「シュ……ウ……ッ!」
抱きしめる資格などない。
それがわかっていても、そうせざるを得なかった。
そして、その2人なら覆い被さるように、ミユキも抱擁する。
「許さない……許さないんだからぁ……!」
「お父さん……お父さん……‼︎」
「あぁ……すまん……ごめんなぁ……ふたりとも……」
その3人の姿を眺めながら、一同は心の底から安堵する。
その中でミツルは泣きながらも、今日この場に立ち会えた事を嬉しく思った。
自分のバトルにさして意味はなかったかもしれないけれど、それでも……今日を精一杯頑張った今だから……——
そう思えたのだと——。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
「——うん。それで今は家族揃ってトクサネに引っ越したらしいよ叔父さんたちは少し寂しがってたけどね」
僕は、この数日あったことを父さんに電話で話していた。
とても刺激的でこれほど感情を揺さぶられてしまったことを……なぜか父さんたちに言いたくなった。
きっとシュウくんのお父さんたちを見て、僕も連絡したくなったのかもしれない。
ちょっと緊張したけど、話は思いの外弾んだ。
「うん……うん……それじゃまた連絡するよ」
僕はそろそろ通話を切ろうとした時、向こうから「待て」と声がした。
なんだろうと耳をすませるが、言い淀んでいるのか……中々言葉を発しようとはしない。
——頑張れよ。
やっと聞けたそれは、僕にとって最高の贈り物だった。自分の歩みを認めてくれた言葉。だから僕も——
「うん。体に気をつけてね」
通話を切った後、僕はアグロと共にあぜ道を歩く。青空がどこまでも伸びて、その向こうの山々に落ちていく。
その合間を抜けて僕らのところまで抜けてくる風が心地よかった。
「でも……結局あれはどういうことだったんだろうね」
シュウくんはその後、あの日のことを綺麗さっぱり忘れたようだ。
それがまた彼の演技だったのかはわからないが、僕のバトルのことも、父親がいなかったことも忘れてしまったらしい。
でも、それを機に急速に記憶障害が改善していっているとの事だ。
1日しか保たなかった記憶が、2日3日と伸びていると、ミユキさんから伝わった。
まるで——あの日の記憶を代償にしたかのように。
——ルルゥ?
「心配しないでよ。落ち込んでなんかない。確かにちょっと寂しいけど」
僕のことも忘れて、今彼は新しい未来にいる。でもきっとそれでいいんだ。
僕らはまた出会えば、友達になれるから。
「——大丈夫。忘れたって消えてなくなったりはしない」
その絆は光となって、いつまでも僕の道を……想い出を照らすから。
それを僕が覚えていたら、それでいい。
——〜♪
アグロがふと、鼻歌を歌う。
シュウくんに聞かせたあの歌を。
この現実で生まれた——確かな絆の歌を。
to be continued… ▶︎
その光はいつまでも……——。
ED 『ray/BUMP OF CHICKEN』
というわけで『ミツルが紡ぐ物語』は以上となります。ここまで読んでくださりありがとうございました。いやぁ短編サイズにするつもりが、なんだかんだそこそこの文章量になってしまいましたね。
今回は本編でいうところの『キンセツシティ編』らへんの時間帯のミツルくんという感じでして。フエンで再登場した折の大人びた雰囲気の所以を書かせてもらった次第です。全くもってけしからん重さでした。ごめんなさい。
皆さんもお気づきになられたかもしれませんが、この小説のキーパーソンとなっている『シュウ』はアニメポケットモンスター、『アドバンスジェネレーション』に登場するポケモンコーディネーターの『シュウ』を参考にさせてもらってます。原作とはあまりにもキャラが違いますが、大人になったらシュウくんはああなっちゃうんでしょうかね?それも面白そうですが……とにかく彼がコンテストに興味を示す設定はそんなところから思いついたって感じです。なのでアニポケとこの子は別人と思っていただければ。
この3話の間にも色んな葛藤がありましたねぇ……寿命が伸びる伸びる(ゲス)。こんな奴が語る“愛”は如何程のものなのか甚だ疑問ですが、皆さんも好きだったものへの愛着が薄れていくのにそうがっかりしないでくださいね。人間薄情なことにそういう造りなんでしょう。でもきっとそんな儚いものを大切にできる我々は思っている以上に素敵な存在なのかもしれません。そんなメッセージ性があるのかないのかはさておき——こんな長ったらしい文章すら読んでくれる心優しい皆さんに応えるべく、これからも誠心誠意頑張らせていただきます。
よければお気に入り登録、感想、評価などしていただければ幸いです。Twitterなどもやっておりますのでそちらのフォローも。ファンアート描いてくださる方いらっしゃいましたら嬉しさでその辺転がり回りますので……(怖っ)
https://mobile.twitter.com/edyIe79v6mpwgW5
改めてここまでご高覧いただきありがとうございます。それではまた次のお話でお会いしましょう。それでは!
いぬぬわん。
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クロイが帰る。
あなたは覚えていますか?
クロイというトレーナーを……。
「——あぁ。負けたよ」
私——クロイは公式戦を終えた後、決まって妻に電話をかける。いつもそういう約束ごとにしているわけではないが、どんな結果でもそうする習慣がいつの間にかついていた。
今日は敗北の連絡——電話の向こうの彼女からの返事は、ひどく淡白なものだった。
——そう。
それだけ。これもいつものことである。
勝っても負けても、彼女がその声色を変えることはない。そういうことがあったのか程度にしか受け止めていないようだ。元よりポケモントレーナーでもない彼女に何か反応を求めているわけでもないので、私もいつも通りに話す。
だが……今日だけはそのいつも通りが、少しだけ違った。
——次は……どうするの?
彼女からそんな振りが来たのは意外だった。電話での報告が済めばそれきり——私たちはそんなやりとりしかここ数年してこなかったのに。
そして、それは一番嫌なタイミングでされた質問だった。
私に——『次』はない。
「……一度帰る。明日にはカナズミに着くよ」
私はそう言って電話を切った。まるで隠し事をする子供の様だと、自分の滑稽さに呆れるのだった。
——限界なんじゃないか?
私は数刻前に言われた言葉を思い出しながら、重い腰を上げて、帰路に着くのだった。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
「それで……次はどうなさるんです?」
カナズミのマンション。その一室に夕方帰宅した私は、妻のチナツが作った料理を頬張る。そんな折、彼女が最初に聞いてきたのがそれだった。冷たい空気が食卓に流れ、私は次の言葉を探す。
そもそもなぜ彼女はそんなに“次”を気にするのか——?
私がプロトレーナーになったのは5年前。彼女とはその1年後に親の決めた見合い相手として出会い、しばらくして結婚した。そんな彼女は、妻としての仕事をこなす完璧主義者。常に家庭の手入れを怠らず、私には必要最低限の接触しかしてこなかった。初めは不気味にすら感じたが、今はその距離感が心地よいとさえ思える。
その彼女が、いつもより深く踏み入る質問をすること自体、異常事態だった。
「まだお決めになってませんか……?」
「あ、あぁ……そうだな……次……か」
彼女は私の心を見透かしているようだった。私はそれに歯切れが悪くなる。彼女の言う“次”——つまり、プロとしての仕事はどういう予定なのかを聞いているのだろう。
今までそんな事を聞かれたことはなかった。私がいつどこで何をしに行くのかを言うまで、彼女から質問されたことは皆無だったのだから。
しかしそれを今聞くということは……やはり、彼女自身も薄々勘付いているというのとなのだろうか……。
私の——限界を。
「——もう、プロは辞めようと思う」
私は意を決してそれを口走った。プロトレーナーを引退する——夫である私が転職をしようとしていることに、彼女は黙っていた。
あまりにもそれが冷淡に感じたので、私はたまらず続きを話してしまう。
「プロとして私は大成できそうにない……それはここしばらくの結果が証明している。この歳になり、勢いも衰えた。それなのに未だグレート3レベルでの大会で優勝経験ひとつない……すぐに他の仕事を、探そうと思う……」
私にしては饒舌だったと思う。それもそのはず——今言ったことは、全てここに来るまでにギルドの契約コーチから打診された内容そのままだった。
私についていたスポンサーは年々少なくなり、ついこの間のカイナトーナメントですっかり消え失せたようだ。
ギルドも商品価値のないトレーナーに興味などない。その割には随分と優しく言ってもらえた方だろう。
だが——はっきりと戦力外通告を受けたのは確かだ。ここまで言えば彼女でもわかるだろう。だが、妻は未だ口を閉ざしている。
「……昨日負けた相手は、プロになって1日目の少年だったよ。ちょうど私がプロになったのと同じくらいの歳だった。やはりトレーナーは水物だな……たった5年だというのにもう世代交代ときている」
それは醜い言い訳だった。才能がなく、努力も身を結ばない男の戯言だ。ただ彼に負けたことを実力のせいにしたくなかっただけ。それを認めてしまうと、積み重ねた時間と労苦が無駄だったことになりそうで……。
なけなしのプライドが、私に言いたくもない言い訳をさせる。それを聞いている彼女は……ようやく口を開いた。
「そうですか……」
そう言って彼女は食器を片付け始める。まだそれほど食べていないように見えたが……どうやら気分を害してしまったようだ。
「お風呂は沸かしてあります。あとはお好きに——」
彼女はそう言って、もうそれ以上質問してこなかった。料理の後片付けをする姿は「話しかけるな」と言わんばかりのオーラがまとわりついている。
虎の尾を踏んだ代償は大きいようだ。
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「——いらっしゃいませ」
手始めに私が始めたのはフレンドリーショップの店員。カナズミの
「あの“
仕事の合間、来客がまばらになった頃には決まって嫌みたらしくそんな言葉をかけてくる店長。どうも彼は私がプロトレーナーであったことを知っているようだった。
「すまないねぇ。君の様なプロにこんな雑用を押し付けるのは気が引けるんだが……これも仕事なんでね」
「…………」
そう言って、彼はモップを私に押し付ける。それで床でも磨いていろという事らしいが、普通に渡せないものだろうか。
だがそんな扱いをするのもわかる。彼はどうも家庭がうまくいっていないらしい。とりわけトレーナーとして
虫の居所が悪いだけで、傷口に塩を塗られるのはたまったものではないが、私としては彼に少しだけ同情できてしまう。私が急いでここに勤めると決めたのも、家庭がうまくいっていないからだ。
「せめて生活レベルを落とさぬ範囲で収入は得ておかなければな……」
この間の態度を見ても、妻の機嫌が悪いのは明らかだ。あれからも普段と変わらず多くを聞かず、妻としての仕事をきっちりこなす彼女だが、時折それは態度に現れていた。
このまま穀潰しにでもなろうものなら、彼女には今以上に愛想をつかされてしまうだろう。それは……避けたかった。
ならばこんな待遇も受け入れようとも思う。
(こんなことをしている私は、さぞ滑稽だろうな……本当に落ちぶれたものだ)
私は過去の栄光を思い出す。
私はいつまで愚かなんだろう……。
今日もこうして不満と晴れない気分の中、誰にでもできる仕事を黙々と続けるのだった。
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フレンドリーショップの店員だけでは、もちろん家計を支えることはできない。私はプロ資格を利用し、短時間でもできる仕事をHLCの窓口から受注していた。そのほとんどはカナズミの企業のもので、私は空いた時間をひたすらそれらで埋めていった。
拘束時間は長いが、それでもトレーニングと試合に明け暮れていたあの頃に比べれば随分とのんびりしている方だ。あの頃は時間以上に情熱を注いで働いていたのだから。そんな日々に、少し恋しくなっている自分がいる。
(それでも……意外ときついものだな。職種を手広くやったせいで、新しく覚えることが多過ぎる。次からは少し業種を減らして、仕事一つあたりの時間を伸ばそうか)
そんな後悔の中、私ははっきりしない現実を彷徨う様だった。
それで思う。そうか。私は……——
私からバトルを取り上げたら、何も残らないのだということ。
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「今日はどちらに——?」
家に毎日帰る日々が続いて早1ヶ月。久々に妻から質問されたのが、今日の朝食をいただく時だった。唐突なそれに驚きつつも、回答を探すために自分の端末から予定帳を引っ張り出す。
「今日か……今日は『カナズミラジオ局のスタッフ』だな。午後の収録の人員がちょうど不足していたらしい……どうした?」
「いえ……最近お忙しそうだったので……」
「……?」
彼女がそんなことを気にしていたとは知らなかった。しかしなんだろう、私の身を案じているようなセリフは、聞こえが良すぎるのか?無論彼女が人を労えない人間だというつもりはないが……。
「それで、今日一日のお仕事はそれだけですか?」
「おいおいなんだ?今まで予定なんか聞いてこなかったくせに」
「……すみません。出過ぎたことを」
今日は……もしかしたら、結婚して一番会話している日かもしれない。これほど会話のラリーが続くことなど滅多になかった。
その内容が不可解なのは少し残念だが……しかし出過ぎたこととは、良い響きじゃないな。
「過ぎる……なんてことはない。君が聞きたいことがあるなら何でも聞けばいい。むしろ私のつまらない話を聞かせてしまって申し訳ないと思うほどだ」
「…………」
彼女はそれを聞いて黙ってしまう。途中までよかったと思ったが、今の返しはどこか不味かったか?妻は押し黙り、また冷たい空気を帯び始める。やはり、女性という生き物はわからんな。
思えば妻のことを、私は何も知らない。見合いの時にホウエンに住み続けていること、ミナモシティから
そういえば、はっきり求められたのはそれくらいだったかもしれない。喧嘩らしい喧嘩もしたことはなく、私が家を空けることが多くても文句ひとつ言わなかった。トレーナーとしての私を陰ながら支えてくれたことは今も感謝している。
そんな風に思っていたはずなのに……私は彼女を知らないまま、5年目の夫婦生活を送っている。
「……お気をつけて」
彼女は食べ終わった皿を片付ける。淡々といつも通りに全て所作を無駄なく行う。まるで機械みたいだ。
その奥に秘められた思いなど……これまで気にもかけなかった私に知る術はない。
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「《それではお昼最初のナンバーです。ミラクル☆クラウドで『アピール☆ラブ』——!》」
番組の合間に流す曲をかけている間に、次のコーナーの準備を行う。私の仕事は、その繋ぎで使う原稿の受け渡しだ。言われた通りの順番で渡すのだが、これが中々に緊張する。自分が話すわけでもないのに。
「ふぅ……」
「いやぁ助かったよクロイさん。今日の昼はもう欠員覚悟でやるつもりだったからさ」
「いえ、私は何も……」
私が役目を終え、次の仕事までオンエアしているラジオパーソナリティーを外から眺めていると、私の雇い主でこのラジオ局の局長が話しかけてきた。こんな日雇いの人間に何のようだろう。
「やはりぶっきらぼうな物言いは相変わらずだな。“黒鉄”のクロイどの♪」
「……知っててもそこは黙っていて欲しかった」
局長もまた、私の正体を知っている様だ。それをわざわざ言いにくるとは、余程の暇人と見える。先ほどの感謝も怪しいものだと、私は少し不機嫌になる。
「申し訳ない。君がこんなとこにいるのが意外でね。アマチュアの頃の威勢を見るに、こんな仕事は死んでもやらないと思っていたが……」
「……滑稽だろう。プロになると実力は通用せず、かつて見下していた仕事をしなければ生活もままならない。いい気味だ」
「ハハハ。あのクロイが随分と弱気になったもんだ……サインを求めるファンの色紙を跳ね除けたあの君がなぁ!」
「……!」
そう言う局長の言葉に、私は心当たりがなかった。初めは誰かと間違えているのかとも思ったが、名指ししておいてそんなはずはない。ということは、私が単に忘れているのだ。
そんな酷いことをしたのか。私は……。
「すまない……もしかしてあなたがその……?」
「おいおい謝らないでくれよ。確かに理不尽に感じたが、それをきっかけに人の愚痴やら悩み事を聞くラジオ局に勤めている。それがこうして会えて、俺は運命を感じたよ」
「いや……それでも……すまない」
彼がここに勤めているのにはそんな背景があったとは……本人は気にするどころか感謝している始末だが、自分の素行の悪さには参る。
あの頃の私は尖っていないと周囲に侮られると本気で思っていた。殺気立つことで人を遠ざけ、馴れ合いを拒んだ。自分を慕うファンにすら冷たくしたと聞いても、何も意外なことはない。
結局それら行いが回り回って自分に返ってくるのなら……私はそれでもいいと思う。だが、目の前の男は私を非難する素振りは見せなかった。
「別にここにいることも悪いことじゃないと思う。要は転職。今は自分の居場所を改めて探している途中って感じかい?」
「どうして……そんなこと……」
「わかるさ。日雇いの仕事にも飛び込む様な人間は、金に逼迫しているかやりたいことを探しているかのどちらかだ。君はつい最近までプロの試合に出てたんだろ?カイナでの試合は結果しか見ていないが……残念だったな」
まさかそんな最近の試合まで見られていたとは。だが言われたことにピンとこない私は、少しだけ迷って口を開く。
「……わからない。私は今、自分の価値を見失っている」
ふと呟いた自分自身の言葉に、私は驚いた。それは今まで漠然とした不安と不満の中で曖昧に過ごしてきた私の本心。
そうだったんだ。私は……自分の価値にがっかりしていたんだ。
「私は特別になりたかった。誰にもできないことを成したかった。十人十色様々なトレーナーたちの中でその輝きを放ちたかった。黒く鈍く光り、誰にも認められる男になりたかった……だが私は、どうやらそんなものにはなれなかったらしい」
絡まった糸が解ける様に、私はするすると本音を話していた。ファンと言ってくれたこの男には関係のない話を……彼は耳を傾けてくれていた。
「こうなってしまった私はまるで空っぽの箱だ。箱は中身があって初めて意味を成す。なのに私には何もない……ポケモンバトルで認められなければ……私には何もない」
それを認めているつもりでいた。あの時ギルドから通告を受けた時、せめて聞き分けよくしようと思った。それがせめてもの強がり……私にできる精一杯の背伸びだった。
だがそれも期限切れだ。いつまでも自分を誤魔化すことはできない。自分の無力さに……本当は喚きたいほど悔やんでいたというのに。
「これでは尽くしてくれた妻にも申し訳が立たない。彼女にとってはせめて誇れる夫でいたかったが……今や落ちぶれて恥を晒すだけの存在だ。食いぶちを稼ぐために節操なく働く私は……さぞ見るに耐えないのだろうな」
それはここしばらくの彼女の態度が示している。時折私の動向を伺うようなことを聞いてきたが、あれは私への警告だったのだろう。要するに「愛想を尽かされたくなかったら、自分の値打ちを行動で示しなさい」——ということだ。
——次はどうするの?
「妻には“次”を聞かれた。私に次などない。あとは何者にもなれず、代わりのきく仕事だけをして漫然と生きていくだけだ。つまらない人生だ……これまで支えてくれた妻には釣り合わない……」
「つまらない……人生か」
気付けば思いつく限りのことを吐露していた。そうこうしていると、番組は次のコーナーへと切り替わる時間になっている。私はハッとして渡されていた原稿を、指示通りにできるか頭で反芻し、職務を全うするように勤めた。
ただでさえ役立たず……せめてできることはミスなく行いたい。すると——
「……『リスナーからのお便り』?」
私が手にしていた原稿は、次のコーナーで読み上げられることになっているものだった。そこに書かれてあったのはこのラジオを楽しみにしている者たちから送られてきた言葉——その内容が少し気になった。
私はその原稿に目を少しだけ通してしまった。その内容を詳しくは理解できなかったが……若い男性からの悩み相談のようだ。
「おいおい。すぐ読まれるものなんだ。急がなくても待ってれば聞けるぞ?」
「す、すまない……でもこれは?」
「なんだ、ラジオのお便りコーナーなんて珍しくもなんともないだろ……とにかく、それはパーソナリティーに渡してやってくれ」
そう言われて、私はその原稿を届けにいく。流行りの音楽が流れる間にスタジオのスタッフは次のコーナーのためのセッティングを手早く済ませる。私は原稿を届けつつ、パーソナリティーのために用意された飲料水を交換したり、テーブルを軽く掃除したりしてすぐに戻ってきた。
その後……まだそこにいた局長が私に話しかけてきた。
「——さっきの話の続きなんだけどね」
私の独白を聞いた局長は、その感想のために口を開く。
「私は“つまらない”って言葉を、人生中に何度も口にした。君もそうだとは思うが、多くの人間はその言葉を呟く。この仕事をしていると尚更それがよくわかる——どうしてそんなに“つまらない”を口にすると思う?」
「……現状に不満があるから、だろう?」
その質問の答えは……思ったより簡単だと思った。不満を抱いていないうちは誰もそんなことを言わない。その時はやりたいことに没頭し、1日の時間を1秒だって惜しむ。その間を“つまらない”と言う人間はいない。
「そう……現状に不満があるから。でも私はその不満を満足にできる秘訣があるのではないかと考えている」
「不満を……満足に……?」
それは魔法の様な言葉だった。そして同時にあり得ないと私は心の中で呟く。不満を解消するためには途方もない努力がいる。そして、今の私には叶わないものだ。
だが、どうやら私の考えているようなことではないらしい。
「望み通りにならないから不満を感じる。いくらそれを変えようと足掻いても、大抵の場合は無理して余計に悪くなるだろう。ならどうするか——『望み』を変えてしまえばいい」
「どういうことだ……?」
「目指していたものが無理だったなら、満足できるだけの目標を別に見つけろってこと。それが見つかれば、人は自然と頑張れる」
最初それは気休めだと思った。自分騙すための嘘だと——でも、彼の次の一言は俺に考える余地を与えた。
「パッと思いつくものでいい。簡単なものでも構わない。意外とそれが、クロイさんが今一番欲しいものだったりするんじゃないか?」
「パッと思いつく……」
その時、私の脳裏に浮かんだのは……妻の顔だった。私が望むものは……妻にあるというのか?
「——おっと。そろそろ番組が再開するみたいだな」
私がそれに答えを出す前に、ラジオは次のコーナーを始める。そこで読まれたのは——私が先ほど気にしていた原稿だった。
「———。」
そこで聞いたことを、私はきっと忘れないだろう。
その仕事の後、私は無性に妻に会いたくなった。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
「ハァ、ハァ!——すまない!ま、待たせたッ‼︎」
私が走って駆けつけたのはカナズミの北側にある街道だった。ここは海が近くにあり、夏場は海水浴で賑わう。秋口でも穏やかな波の音と海風は心地よく、散歩コースにはぴったりだった。
「ど、どうなさったんですか……?そんなに急ぐ必要はなかったと思いますが……」
走り込んできて息を荒げる私に対し、流石の鉄仮面も動揺したようで、私の奇行について質問する。それもそうだ。仕事終わりにいきなり呼び出したと思ったら、今度は汗ダグになっている男が目の前にいる。この反応もやむなしと言えるだろう。
それに——私は軽いはずみで答えてしまう。
「き、君に……会いたくて……ハァ……ハァ……」
「…………」
しまった——と思ったが後の祭りだった。いや、その事を伝えようとは思っていたのだがもう少し順序立てて話したかった。散歩に誘ったのもそのため……日頃の感謝を伝えたくて、今日は2人で時間を過ごしたかった。
そんな予定を控えておきながら、今後の空気を占うファーストコンタクトで青臭いセリフを吐いてしまった。我ながら言語中枢を疑う。試合の一撃目を盛大に外した時以上に汗が噴き出る。
「…………チナツ?」
ダラダラと不安と焦りの汗を流しながら、私は妻の顔をおずおずと見る。しかし見えたのは彼女の背中——外行きのカーディガンだった。
「………散歩。でしたか」
「は、はい……?」
チナツは振り返る事なく、私の誘いを繰り返す。電話越しでは少し慌てて誘ってしまったが、どうやら趣旨は伝わっていたようだ。
「その……私はこういうのに慣れていないもので……」
「散歩がか……?いや、普通に歩けばいいんだが——」
そう言った私は、自分の愚かさを露呈するだけだった。
彼女の言う「こういうの」とは——散歩という行為ではなく、そのシチュエーションについてだと理解した時——
——……ギュッ。
彼女はそっと私の手を握っていた。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
カナズミの浜辺は隣接している115番道路まで伸びている。その区間は砂浜とアスファルトで舗装された道があり、今はそこを歩いている。
妻と手を繋ぎながら——。
「…………」
「…………」
互いに何か言う事もない。それどころか顔を見合わせることもなかった。
今顔を見たら、もしそこで目が合ったりなどすれば……次に自分がどういう行動に出てしまうのか予想がつかない。妻がどうしてこんな行動に出たのかはわからないが、とにかくこの状況を理解するよりも緊張が勝ってしまっていた。
今、私は史上最も追い詰められている。
「……クロイさん」
「はい!!!」
思った以上にハッキリと返事をしてしまった。ダメだ。声帯の調節もままならないらしい。軍隊かというほど美しい敬礼をかましてしまった。
「変……ですか……やはり……」
「へ、変……?」
彼女はいつもの滑らかな口調を忘れてしまったかの様に、たどたどしく話すチナツ。あの無機質な対応がこうも変わるとは……デートというのは恐ろしいな。
しかし変とは何のことだ?
「私の私服です……外行きの格好はなにぶん久しぶりなもので」
「あ、ああ……私はファッションには疎いから参考になるかはわからんが……似合っていると思う……ぞ?」
私の方もこの状況と専門外の質問に思考が鈍って、最後は疑問系になってしまった。もっとはっきり似合っていると言い切れないものか……口惜しい。
「そうですか……」
だが、そんな言葉でもどうやらよかったらしい。返事をするチナツを見ると、少しだけ笑った様に見えた。
待て……笑った顔なんて何年振りに見た?
「チナツ……お前、今笑ったか?」
「いいえ。笑ってなどいません。見間違いでしょう」
即答。それが返って怪しい。
「今ほんの少しだが頬を釣り上げただろ?自覚ないのか?」
「見間違いだと言っています。いいでしょう。些細なことです」
「なら笑ったと認めてもいいだろう?こっちはもう長いこと君の笑顔を見ていないんだ」
「先ほどから思ってましたが、よくもまぁそんなことを次々おっしゃられますね……」
何故だ……会話を進めるほど彼女の機嫌を損なっている気がする。やはりあれなのか?私は人を不快にさせてしまうのか?これなら喋らない方がよかったか……。
「…………」
「あの……そんな険しい顔で並ばれると……せめて何か言っていただけますか?」
「いや……私の文言など聞かせてしまって申し訳ないなと……」
「誘っておきながらそこまで卑屈になれるものですか?」
妻が呆れるのも無理はないが、このデリケートな心境を少しは感じて欲しいものだ。今の私は感情で突き動かされ、行なってしまった数々の無礼を悔やみ続ける全自動後悔マシンと化している。それだけ悔やんでおきながら、結局彼女の気持ちひとつ理解できない。
この自分の不器用さに、少しばかりセンチになることぐらいは許してもらいたい。
「……そういう君も今日はよく話してくれるな。少し……いやかなり意外だったぞ?」
「そう……ですね。私もこんなにお話させてもらえるとは思ってませんでしたから」
彼女がそう言うのを聞いて違和感を覚える。まるで彼女は話したかったが我慢していたような口ぶりだ。誓って言うが、私は彼女の言葉を遮ったことはない。偶然そうなったことはあっても、意図的に言論統制を強いたことは一度たりともない。
では、なぜ彼女は話すことを控えていたのだろう……考えを泳がせていると、ふと私はラジオ局での会話を思い出した。
——ぶっきらぼうな物言いは相変わらずだな。
「………やはり私のせいか?」
私は過去の自分の行いを振り返り、冷や汗を溢れさせた。
思えば結婚当時の私は酷くささくれていた。何かと誰かと衝突することが多く、それはギルドにも注意され、相対的に口数が減っていったのだ。それをずっと間近で見ていた彼女が萎縮していたのだとしたら……完全にこちらの落ち度じゃないか。
「わ、私と話せる空気ではなかったよな……すまない……チナツ……」
「何をお考えになっていたのか知りませんが、勝手に落ち込んで謝るのはやめてください!」
チナツは少し強めにそう言って私の謝罪を拒む。しかしそれではこちらの気が済まない……そう考えていると、彼女は俯いて呟いた。
「……せっかくのお散歩が台無しじゃないですか」
冷徹さが板についていた彼女には、あまりにも似つかわしくない言葉だった。俯いた彼女がどんな顔をしているのかはわからない。でも、きっと今の私の態度に不満があったのだ。それをはっきりと伝えてきた彼女は……どこか可愛らしく見えた。
それで……私はもうそれ以上何かを言うのをやめた。堅苦しい沈黙ではなく、この時間を穏やかに過ごすように努めて……。
「——ありがとう。今まで」
しばらく海を見ながら歩いていると、自然とその一言は私の口から溢れた。それを聞いた彼女は、その目を大きく開いた。
「プロトレーナーなど、大成しなければその辺りのサラリーマン以下。そんな男のためにこれまで文句ひとつ言わず、家のことを全て管理してくれていたこと。夫として、ただ金を稼ぐだけのつまらない私に敬意を示してくれて……今日はそれが言いたかったんだ」
ラジオ局の仕事の折、私のファンだった彼との話が、つまらない私を揺すり、そこで聞いたパーソナリティの言葉が突き動かした。
彼女に会って話がしたい——と。
「……いきなりなんです?そんなこと、わざわざ言わなくても」
「いきなり……というわけでもないさ。こうして帰ってきてひと月、君と過ごした日々はその感謝の気持ちに気付かせてくれるものだった。私が仕事だけに集中できるよう、君はいつも部屋を清潔に保って、食事も三食用意してくれた」
「それは……あなたの稼ぎですし」
「稼ぐことは難しいことじゃない。働くのは大変だが、君が整えてくれたから」
「…………ズルい」
私が思いの丈を伝えると、彼女は一言……これまでに無いほど感情を込めてそう言った。
今度は——彼女の番のようだ。
「私だって……あなたに感謝してました。一度その旨を伝えようとして、あなたに怒られたので胸の内にしまってましたが……」
「す、すまない……」
昔の私は何をしているんだ。今すぐここに座らせて土下座させたい。
そんな彼女は衣服を握って、何かを堪えるように言葉を続ける。
「所詮は親同士が決めた結婚。世間体を気にしただけの身固めにも文句はなかった。でもあなたはそうじゃなかった。普通の枠に囚われず、自分のしたいことを見つけて走れる人だった……私は生きるだけの人形だったけど、そんなあなたを支えるのがいつしか生き甲斐になってました……」
そんな事を考えていたなんて……今日何度目かの驚きに、色々問いたい気持ちをぐっと堪える。彼女はまだ話していたから。
「だから……帰ってきたあなたがボロボロになっていたことが許せなかった。どうしてこんなになるまで気付かなかったのか。人がずっと強くいられるわけないなんてこと、知らないわけじゃなかったのに……あなたは強くて、真っ直ぐ夢を追いかけられる人だって信じてしまって……少し落ち込むことがあっても、励ませたら大丈夫になると……思ってしまった」
それが……あの“次”を急かしていた意味……だったのだろうか……?
「なのに私……あなたが帰ってきてくれて嬉しかったんです……目の届くところにいて、作ったご飯を食べてくれて、お洗濯ができて、少しだらしない寝顔が見られて……あぁ……私、知らないうちにあなたを恋しく思ってしまっていたんだと……だから——」
だから……彼女は大粒の涙を流して、こう言った。
「——愛しています。ずっと……そう言いたかった」
私はその言葉を聞いた途端、思考と体が切り離されたのを感じた。伝えたい言葉がたくさんあった。ごめん、すまない、知らなかった、気付いてあげられれば、ありがとう——頭の中でそれらが反響しているのに、そのどれもが口に上ることはなかった。
代わりに精一杯。それでも大切に彼女の体を抱きしめていた。
「クロイ……さん……!」
彼女はその後、優しく私の背中をさすってくれた。私は何も言えず、ただ彼女を抱きしめる。言葉にできなかったのは、私も泣いていたから……。
本当は色々言いたかったけれど、どうも今は口がうまく動かないらしい。
「……私……別にあなたに特別になっていて欲しいわけじゃないんです。だってもう、あなたは私の特別だから」
「ああ……」
「だから……もし疲れてしまったなら、休んでください。それでもいつかまた、やりたい事を見つけて、旅立って欲しい。あなたは私の生き甲斐ですから……」
「ああ……ああ……ッ!」
私はただそれに応えることしかできない。彼女が私の欲しかった言葉を送り続けるものだから、それ以外に何も言えなかった。
彼女に縋るように泣く私を……チナツはずっと優しく受け止めてくれたのだ……。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
「えっと……ペンネーム“ペリッパーの嘴で住みたい”さんから……『わたしは今年で15になります。ずっと
「なーるーほーどーねー。これから社会に出るわけかぁ。まぁ怖いよねそれは……ウコンさんはなんか怖かった思い出とかある?」
「えー?それで言ったらサコンさん。あんたにこの仕事誘われた時が一番怖かったですわ」
「ちげーねーわ!」
「アハハハハハ」
「……まぁでもあれじゃない。『自分にしかできない仕事』って……何って話でしょ?」
「あー。確かになんだろね?こういうラジオのパーソナリティとか?」
「それだいぶ俺らのハードル上げてない⁉︎ できるでしょこんな仕事こそさー」
「その言い方もどーなんよ」
「でも実際できるんじゃない?ある程度教養があって、人生経験積んだら、みんな何かしら自分の持ち味出でくるもんよ」
「まぁそれはあるかなぁ。結局俺らよりもすごいラジオのパーソナリティなんてゴロゴロいるしねー」
「それそれ。それとおんなじでさ、自分の上位互換みたいなの?その仕事に就いたら絶対会うよね!」
「そうだよなぁ。あれはいつもキツいんだよ。自分のできてないとこ突きつけられる感覚がさぁ……」
「全国の働くお兄さんお姉さんはみーんなおんなじこと経験あるんじゃない?狭い世界でも『これは自分じゃないとできない!』——って仕事は中々ないよきっと」
「そだよねー。俺らも若い頃は何本も冠番組持って天下取ってやるー!って息巻いてたから人のこと言えんけど」
「この歳になってわかるけど、まぁあの頃思ってたみたいなことにはなってないね。それでも今は幸せだけど……」
「俺も幸せかなぁ……まぁ不幸では絶対ない」
「言えてるね。この番組とか、他のお仕事してたりとか……普通に相方や仕事仲間と飯食ったり、嫁さんに怒られたり、子供にじゃれつかれるのとかしてるのはもう……ね?」
「後半愚痴になってますやん」
「やめてやめて!俺は家族と仲良いんだから‼︎」
「信ぴょう性ないわー」
「とにかく!楽しくやってんの‼︎——でもそれって別に仕事に左右されてないからだと思うんだよね」
「そうだなぁ。何回か仕事で手一杯になることあったけど、その時は逆に辛かったもんな」
「そん時って『俺が抜けたら困る!みんな俺を必要としてる!』——みたいなモチベでやってたけど、あれも結局自己満足で、体壊して余計に迷惑かけたこともあったんだよな」
「あんときは本当に死んだかと思ったよ!楽屋で倒れてるの見たときはさ!」
「マジでゴメン!でもあの時よね。仕事の量とか見直したの……」
「そうだなぁ。俺も結局それきっかけだったか……決まってた仕事とか、今まで頼まれてた仕事を断るのって本当勇気いったよ」
「あと怖かったのもある。これきっかけで仕事とかファンとか離れていかないかって……生きた心地しなかったわ」
「でも意外とそうでもなかったくない?」
「まぁ確実に全盛期の見入りからしたら減ったけどね!それでも仕事を楽しむ余裕はできたし……この番組も始められたのはデカいね!」
「ずっとやりたがってたもんなーラジオ番組」
「おかげさまで今日も幸せですよ僕らは」
「んでーなんだっけ?社会に出るの不安だーってことらしいけど……」
「うーん。こればっかりは体験してみないとわかんないことだからねー。大丈夫〜とか無責任に言っちゃっていいのかなー?」
「まぁ大概は大丈夫だけどね。合わないとこなら辞めちゃってもいいだろうし……でもあれかなー。仕事に依存しない方がいいね」
「そだねー。これは依存してた俺らだから言えるけど……マジで『仕事の成果=自分の価値』じゃないってことはお伝えしたい!」
「そうそう。仕事は確かに目に見えて褒められる機会も多いけど、実際ダメ出し食らうことの方が多いし。特に仕事始めた最初は」
「仕事に依存すると、そこで怒られたりすると自分の存在も否定されたように感じるんだよ。でも仕事以外の時間はまた違う自分がいるじゃん?そっちに割と魅力って詰まってるくない?」
「そういう人もいるーくらいにしとこうぜ」
「いやこれは絶対そうだと思う!言い切るね‼︎」
「仕事嫌いが出てるぞー」
「アハハハハハ。まぁ何が言いたいかって言うと、プライベートで会える人とか、自分を認めてくれる存在みたいなの?大事にした方がいいよ。友達でも家族でもさ」
「急にお母ちゃんに電話したくなる話だ」
「いやマジで。さっき仕事の成果が自分の価値にはならないって言ったけど、多分こっちにかかってんじゃないかって思うわけよ」
「お母ちゃんに?」
「母ちゃんはもうええわ!——えっと、あれよ。自分の価値は自分で決められない的な……売り物の値段だって勝手に自分で好き勝手決めていいもんじゃないじゃん?ある程度相場とか見るし、何よりその値段で買ってもいいって相手が思わないと売れないしさ」
「なんかいい感じの例えしてる」
「茶化すなもう……それって逆に言ったら、相手が値段決めてるのと変わらんくない?」
「そう……なんかなー?」
「ちょっと例え悪かったかもだけど。大体その人の価値って、自分で決めてみて、後で他の人もそこに値段書き込むことがあるわけよ。自分で高くしてみたら厳し目に値下げされたり……でも逆に落ち込んでめっちゃ値段下げたら、意外と高く評価してくれたりすることもある」
「落ち込んでる時にそうしてくれる人がいるのは助かるよな」
「本当にな。だから近場にいる人は大事にした方がいいと思う。仕事も大事だけど、それ以上に自信持って仕事するための下地を、残りの大学生活でできるだけ築いて行った方がいいかな。友達と遊んだり話したり、相談乗ったり、愚痴こぼしたり……そういう人と、いつか値札の書き合いをするようになるんじゃないかな?」
「なーんかいい話……風になってるな?」
「え、感動しなかった?」
「値札の書き合いってところがなんか商売臭くてヤダ」
「じゃあお前だったらなんて言うんだよッ‼︎」
「そうだなー……まぁ一言言うとしたら——」
——頑張れ。あと楽しめ。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
私は結局、その後もカナズミで色んな仕事をした。
ラジオ局でのバイトとフレンドリーショップの店員を定期的にしながら、少し余裕がある時に日雇いのバイトを……たまには時間を作ってチナツと過ごしたりした。
でも前のように目的がないわけじゃない。私は……“次”を目指していた。
「——はい。それでは我がギルドへの登録、これで完了になります」
私はあるギルドへの加入手続きを済ませていた。そこは前にいたギルドよりも規模は小さいが、受付や所属トレーナーたちの気風を見て、かなり過ごしやすそうな場所だと感じた組織だった。
すんなりと私の入団が認められたのは、ラジオ局の局長が話を通してくれていたから……もちろん査定はしっかりされたが。
そんな入団許可に胸を撫で下ろし、私が帰ろうと席を立つと、受付の男性が話しかけてきた。
「あの……ウチはプロトレーナーに入ってもらってすごく助かるんですが……」
歯切れ悪く、彼は私に何か言いたげだった。余程言いにくいことなのか、話しかけた事を後悔するように目を背けてしまう。
それだけで、何が言いたいのかおおよそ見当はついた。
「このギルドを選んだ理由……かな?」
「うちは正直……あなたを支える財源があるような組織ではないです。専属コーチもいない、機材面でも大してサポートできない……それはご承知の上でしょうか?」
おずおずと私にその旨を伝えるのは、彼なりの誠意なのだろう。プロトレーナー加入はギルドにとっても活気付く一因にはなり得ても、その見返りがないならすぐに離れてしまう。そんな手間を取らせたくないという、優しさがその言葉から感じた。
だから……今はこの場所がいい。
「……私も知らなかったんだが」
そう切り出して、私はここへきた目的を話す。
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プロトレーナーとしての再起。それを決めたのは、ある朗報がきっかけだった。
「妊娠……していたのか……⁉︎」
チナツから告げられた、まさかの事態。
いつかは来るとわかっていたのだが、やはり実際に報告されると現実味がない。受け止めきれない私は、オロオロと情けなく彼女に心配事を口にした。
「どどどどーする……わ、私はしがないフリーター……そんなので養っていけるだろうか……」
「心配ありません。お金なら最初からキチンと貯めてあります。何かあった時用にと考えていましたが、理想的な使い道です」
「あ、あんな少額の賃金でよくできたな……無理はしてないか?」
「あなたがギルドで寝食を堪能してくれたおかげで、こちらの光熱費は安いものでした」
「そ、それはすまない……」
「もう謝らないでください……嬉しくないんですか、お父さん?」
その一言が、私の胸を打った。
私は一児の父になる。それが思ったより嬉しかったみたいだ。それで私は彼女に聞き返してしまう。
「……君は、どうだ?」
その答えは……正直聞くまでもなかった
「——私にも、喜ばせたい家族がいる。だから、いつまでも燻っていたくはなかった。だからこちらで、プロとしてというより、ポケモントレーナーとして出来る限りの仕事をしようと思ったんだ。試合にも出る。それで観客を喜ばせられるような試合を……真剣に目指してね」
それは再起の誓い。
プロのトレーナーを目指し、プロで頂を目指したあの頃とはまた違った決意。
彼女が言った“次”に相当する世界へ……私は踏み出した。
「だから私は帰るよ。またあのバトルコートに……!」
to be continued…▶︎
“次”はきっと、輝けるように——。
脳内主題歌
『サントラ/Creepy Nuts×菅田将暉』
というわけで。ここまでご読了いただきありがとうございました!ちょっと思いつきというか、走り書きしちゃったのでいつも以上に荒削りな感じになっちゃったかもですが……楽しんでいただけました?
今回はユウキくんとカイナトーナメントで戦ったシード選手“クロイ”さんを主役にしてみました。多分誰も覚えてないでしょうw 特に思い入れがあったとかそういうわけじゃないんですが、『あ、なんか既婚者の話書きたいなー』と思い筆を取った次第です。奥さん可愛かったw
初めて1話完結の話を書いてみた感想なんですが、やはりサッパリと書ききれなかったなーと。短編ってどうしたらもっとあっさりするんでしょう?これでも薄味にしたつもりなんですが……また読むのが大変な文量になってしまったんじゃなかろうか?
ソンナコトナイヨーって方はお気に入りと高評価、感想などぶちこんでくれると嬉しいです。早く評価ポイント100を超えて、読み上げ機能解放したいとかそんなこと思ってないんだから!!!(全部言うとる)——冗談ですよ?
内容については個人的に落としたいところに落としたという満足感があります。最後のラジオのパーソナリティが話していた内容のどこにクロイさんが動かされてたのか……彼の心境を想像しながら執筆するのは楽しかったです。
またこんな感じで、ぽっと出の人間にフォーカスがあたる外伝も書くと思いますが、お付き合いくだされば幸いです。また次回お会いしましょう。それでは。
いぬぬわん。
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