完全な贈り物 (鴗 滝)
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完全な贈り物

 東京が滅んでから、人間の時間で十八年が経つ。ここは悪魔ばかりがうごめく魔界と化した。あの日東京にいた人間は死に、たとえ新たに人類が訪れたとしても、もうこの都市で長くは生きられない。

 東京崩壊後に残ったもののうち、生命を感じさせるものは、吹きつける砂でざらつく街路樹と、いくらかの植物ぐらいのものだった。そんななか、妖精の集落にだけは蝶の群れが羽ばたいていた。

 妖精の集落はいつもどおり穏やかで、妖精王オベロン、女王ティターニアは高く舞い上がったピクシーたちを見守っていた。地上の審判から見えない高さまで一番先に飛んだピクシーが勝つ。そう決めて遊び始めたところだった。審判を務めるジャックフロストは、額に片手を当てたまま、めいっぱい背伸びをして、いまにも斜面を転げ落ちそうになっている。半ば欠けた月が小さな妖精の翅を透かして光を落とし、雪でできた妖精は知らずきらきらとする。王は目を細めた。

「ジャックフロスト、あなたの右足は坂をひとりで下りていくつもりのようですよ」

 おだやかな風が皆の体をすり抜けていく。まことにこの丘は妖精が棲みつくにはうってつけの場所だった。

 丘から遠く離れた岩山の上にもこの風は吹いている。そこには王に命じられて警護についているセタンタがいた。切り揃えた前髪を風にさらわれながら、月で時間を計っている。いつもなら彼は細い山道のつきあたりに立っている。いまはさらに高くからの景色を求め、尖った岩のほんの先端で、こともなげにバランスを保っていた。眼下を流れる川が大滝をくだる音ばかりがごうごうと響いている。

 彼は年若い人間の姿をしていた。槍の扱いに熟達していて、この魔界に姿を現してからいままで修練を怠ったことはない。空色の布地に格子模様が入ったマフラーが顔を半分覆い、彼の感情を読み取ることを難しくしている。戦士の鋭い目が揺れもせず先を見つめている。視界の端で、大きな悪魔に近づきすぎた不定形の悪魔、ブラックウーズが、逃走に失敗し命を散らした。彼が待つ合図はまだない。

 そのころ、彼が見つめる方角で、既に魔獣ケットシーは薄暗がりに大きな赤い影を見ていた。里の入り口に、まだここが人間が暮らす東京だったころの大きなビルの柱が残っている。頑丈な柱が上層を支えたままの場所では、その下がまるで洞のようになっていた。奥には丘のやわらかな光も届かない。それでもケットシーが持つ猫の眼が見誤りはしなかった。

 オニがいる。

 妖精の眷族よりもはるかに大きな体、力をみなぎらせた丸太のような腕。盛り上がった筋肉が衣の下で隆々として、首は短く、なで肩に見えた。耳まで裂けんばかりの口にならんだ牙はケットシーの大きな目を皿のように見開かせた。

 むかし、妖精王と女王が集落に現れるまで、オニはこの丘を荒らし、妖精を食べて遊んだと聞く。

 逆立った体毛が風にゆれるマントに擦れて集中を乱すことすら恐ろしかった。飛び出した爪が握りしめた剣の柄に当たっている。

(なんたること。なんたること! 私が気付いたと悟られては一巻の終わり!)

 左右を見回すオニは、自身が十分闇に紛れていると思っているようだ。ケットシーは警戒しながらほんの一瞬視線を外し、丘にいるオベロンを見る。異変に気付かないのか。焦りながら、大声を出そうか迷って決めきれなかった。あのオニの手が握っているものがよく見えないのだ。ケットシーはオベロンたちよりあとで里に来た。直接オニを見たことがなく、武器や戦い方を知らない。オニの攻撃がケットシーに届くのと、妖精王が駆けつけるのとではどちらが速いだろう。判断とは十分な情報を必要とするものだ。

 オニは妖精王たちの立つ大岩のほうをしばらく窺ってから丘の匂いをたっぷりと嗅ぎ、ようやく引き返していった。

 ケットシーが見張りの役目を果たすなら、小さな声で誰かほかの者を呼んで伝令にやるか、自分と交代するように言うべきだったかもしれない。そんな冷静さはとっくに逃げ出してしまった。気高い悪魔らしい振る舞いをこころがけることも忘れ、肝をつぶした魔獣は黒い砲弾のように駆けていく。

 妖精王は駆けてくるケットシーではなく、里の入り口をながめてから、 誉れを求め見張りを買ってでていた臆病な妖精をむかえ、ねぎらった。泣き言のような進言があり、次いで自身の功績が申告された。

 オベロンは彼に、見張りに立った場所で踏んでいた石の一つを拾うよう言った。その石はどこに動かしてもよく、石の上はケットシーの領地とされた。猫の額より狭い領地でも、妖精の里に王が現れてから初めての拝領となればこの上ない栄誉だった。勇敢にも少しだけ前に石は動かされ、領主もまた前に出た。これは王の予想を超えるできごとだった。あまり前に出ると危ないと言えば腹を立てるに決まっていたので、これよりのち、ケットシーがうたた寝をすれば、王の命を受けたハイピクシーが石をそっと後ろにずらすようになった。

 

 オニはケットシーの前から姿を消したあともずっと、里の入り口にほど近い暗がりに潜んでいた。偶然たどり着いたのではない。この丘の妖精を見に来たのだ。かつて丘の妖精を食い荒らしたまさにそのオニが、ふたたび姿を現した。

 魔界に若い人間がたくさん連れてこられたと聞いたとき、悪魔たちは興奮した。オニも例外ではない。仲間たちは脚の一本、指の一本でも食いたいものだと言い合った。死んでしまえばマガツヒになって消えてしまう。マガツヒに還らない、ぎりぎりのところを見極めて、生かしながらなるべく多く食う。最後に丸飲みにする。話題は嗜虐性を増していき、人間との関わりが絶えて薄れつつあった彼らの本能を呼びおこした。彼も仲間に話を合わせたが、熱心にはなれなかった。

(俺様にはもっと別の食いたいもんができてたなあ)

 人間の噂は口中を寂しくさせるほどには彼を刺激した。興奮する仲間のもとを何も告げずに離れると、オニはかつて偶然迷い込んだ洞窟の先を目指した。

(小さくて食べた気がしねえんだが)

 洞窟を抜けた先が高い崖だ。当時は何度も通った道だ。この景色を覚えている。眼下に広がる若葉の海を見るだけで、手のなかから響いたかんだかい叫び声を思い出す。

(ひとこえ咆えりゃあ怯えて)

 慎重に細い足場を抜けると道幅は広がり、オニは当時の光景を頭のなかに詳しく描く余裕ができた。

(そのくせ逃げもせずに俺様を追い払おうなんて考えるから、隊列を組んで飛んでくるときた)

 めくれた唇から突き出した牙から唾液がにじんで落ちる。

(たまんねえ!)

 オニは過去に刺激され、ケットシーが暗がりを見通しているとは知らず、いつかの快楽のなごりを求めて里を覗きこんだ。強力な魔物の気配がする。小川の上流には動きのない巨大な悪魔が一体。昔からいる。妖精がねじり潰されても助けるどころかぴくりともしなかった。問題はやつらだ。大岩の上に翅を広げる悪魔が二体いる。妖精王オベロンと女王ティターニア、あいつらさえ来なければ、この丘は良い狩り場のままだった。

 二人がオニに気付く様子はない。

 もう少し大胆に身を乗り出したとき、風に乗って柔らかな匂いが運ばれてきた。

(この匂い)

 強い悪魔の気配に気を取られていた。あるはずがないものの姿はときとして認識をすり抜ける。

(人間か……!)

 丘のあちこちに肉のついた若い人間がいる。けがをして弱った人間もいるように見える。両の手では足りない数だ。女もいる。女。

 オニは里から後退し、岩壁に背を預けた。自分をなだめるのに苦労した。仲間のオニたちの身ぶりをまじえた談笑が思い出される。地獄の釜のように、血がぐらぐらと沸いていくのを感じた。人間も妖精もどちらも思いきりいたぶりたくなった。たっぷり怯えさせてから、時間をかけて、生きたまま、一匹ずつ味わってやろう。

 人間ほど捕まえやすい獲物はない。逃がす心配はしていなかった。ここにいる人間たちは、火も焚かず、武器も持たず、砦も築いていない。身を守る努力もせずにへたりこんでいるだけの弱い群れだ。

(でかい岩でもちょっと割りゃ、小便垂らしてカチコチに固まるだろうよ。少しはしっこいやつが必死に隠れようとするのも悪かねえ。一度や二度、目の前を通りすぎてやって、希望を持たせてやって、それからすぐ近くに食いかけの仲間を落として見せたらどうなる?)

 たちまちに欲望を膨れあがらせたオニだったが、人間の柔らかな肉に牙を立てる前に考えなければならないことがあった。

(人間たちはいい。どこにも逃げられねえ。丘を離れればほかの悪魔の縄張りだ。それより翅の生えた妖精のほうだ。空を飛ぶあいつらを逃がすのは惜しいじゃねえか。どうやって昔のように立ち向かう気にさせたもんか)

 最も決めかねたのは仲間のオニを呼んでくるかどうかだった。

(どいつもこいつも好きにおっぱじめやがるだろうからよ)

 妖精王たちはどのくらい強いのか。いくら強くても仲間を大勢連れてくればオニの蛮行を防ぎきれるはずがない。しかしもし仲間を呼ばなくて済むのならそうしたかった。無謀には思えたが、妖精の里は大勢のオニで踏み荒らす場所としてはあまりに小さい。魔界のどこかに人間が現れたと聞いただけで既に血を沸かせて盛り上がっているというのに、彼らを里に導くのは収穫前の畑に暴れ牛を放つようなものだった。

 頭上から時折落ちてくる水滴がオニのつるりとした額に当たる。それに手をやって上を見たとき、折悪しくはたた、と水が滴ってオニの眼を打った。

「くそ」

 少し頭を冷やそうと乾いた柱にもたれかかった。

(特にあれだな。女をどうするかで揉める。へたすりゃ内輪揉めでてめえらの死体のひとつやふたつ出すんじゃねえか。巻きこまれちゃ大損だな)

 どうにも決めかねて里の入り口を見やったとき、思わずオニの腕が跳ねた。月の光のなかに四人の小さな妖精がいる。透きとおった翅、体に吸いつく青い衣。ピクシーだ。オニは物音を立てずに、より深く柱の陰に身を隠した。妖精たちは岩の上に集まっている。くつろいだ様子で腹と肘をつけて、両手で頬杖をついている。随分と小声で話すのでオニのところまでは話し声が届かない。ひとりが話し終えた途端に周囲が手で口を覆うようすや、時折岩を飛び立ってくるりと宙返りをしてみせる姿を見るに、ほかの妖精から隠れて四人だけの話で盛り上がっているらしかった。すっかり話に夢中になっている。

 オニは確信した。うまくいく。

 手にしていた大鉈を静かに地面に置く。

 目で距離を測った。新たに話し始めたピクシーに、ほかの三人が耳を寄せたとき、オニは柱のかげを飛び出して一息に距離をつめた。ピクシーの驚きが顔に広がりきる前に、全員が硬い手の中に捕らえられていた。

「よお、妖精」

 指に胴を挟まれただけのピクシーもいたが、万力のようにびくともせず、顔を歪めただけだった。

「ひひ」

 そのピクシーを空いていた左手で引き出すと、なんの前触れもなく、背中で震える四枚の翅を噛み切った。発作のように背を反らせる妖精の耳元で翅を噛み砕く。

「お前らの翅は喉に張りつくぞ。今度は水気の多いもんが食いてえ気分だ」

 翅を失ったピクシーの足をつまんで、高く持ち上げる。大きく開いた口の奥から、翅の欠片がまとわりついたままの舌が伸びて、見せつけるように小さな頬に迫る。誰も何も言わない。オニの太い指があっさりと開かれて、ピクシーは呑まれてしまった。

 三人とも声を失っている。

 オニはもっとそれを見ていたかったが、時間がなかった。

 こんな小さな妖精でも、妖精王が力ある悪魔なら気配の消失を感知するかもしれない。怯えた顔に満足することにして、オニは残りの三人を急いでたいらげた。

 久しぶりに妖精を食べた。

 今後の作戦を練るためにも、行方不明の妖精が出たあとの里の動きが知りたかった。ここに留まらず、どこかに隠れなくてはいけない。立ち去ろうと踵を返したオニの頭上から重々しい声がした。

「ひとりか」

 上空を塞ぐ、崩れかかったビルの天井からだ。

 黒い蝶の翅が陰に紛れるように広がっている。翅がゆっくりと閉じ、また開いた。翅は天井を離れ、天地を逆さにしてかがみこんでいた妖精王オベロンが、ピクシーたちが談笑したあの岩の上に体を漂わせた。

 オニが地面に置いたままの大鉈に飛びつく時間は十分にあった。彼の頭を脈打たせるのは妖精王を前にする緊張だけではない。ほんのわずかに間に合わないところでピクシーたちを食べてやったという愉悦が混じっていた。

 緊張を悟らせてはならない。

「……間に合わなかったなあ。もう四匹とも俺様のマガツヒよ。かわいがってたか? え?」

「長いあいだそばに置いていたとも」

 少年の声で老人が話しているような奇妙な抑揚だった。ジャックフロストたちには王子の姿にふさわしい柔和な口調で話すオベロンが、本来の齢と威厳をもって言葉を紡いでいる。外から来た者と相対するとき、王はこうして振る舞った。

「いいねえ。どうだ、死んだやつらは王様が助けに来るのを待ってたと思うか?」

「……いいや」

「無理すんなよ、王様。そんなに剣を握りしめてよ。アイツら、怯えてたぜ。しっかり見といてやらねえと駄目だったなあ、そうだよなあ。自分の翅が喰われる音をじっくり聞かされる気分はどんなだろうなあ。俺様にはわからねえが、どんな音がしたか教えてやろうか。ん?」

「どんな音だったのだ」

 妖精王の整った楕円形の爪が剣の柄を掻く。大風がどうと吹いて、遥か遠くの梢が震えあがった。

 オニはなるべく大きな屈辱を与えようとして、ふと、ピクシーたちを恐怖に陥れることに夢中になっていて、それを記憶していないと気がついた。

 それほどに甘美な時間だったのだから仕方がない。

 ああ、いや、しかし思い出した。昔何度も丘を襲ったあの頃を。

「どうした?」王が見下ろしている。

「ぱりぱり、ぱりぱり砕かれるのを聞いたのよ」

 王はオニの牙と喉、腹を目でたどった。オニは大鉈を強く握る。

(妖精王といってもそう身構えることはねえ。縄張りで仲間を四匹喰われて動揺しやがった。人間の群れにもいたなあ。女子どもまで全員俺様たちから守れると勘違いしてる用心棒、力自慢、知恵者、そんなもんはごろごろいた。気にくわねえから目の前で群れのやつらみーんな喰ってやった。そうだな。コイツらもそうしてやろう。翅と手足をへし折る。あとは引きずっていきゃあ高慢そうな女王も指に土つけてコイツの命乞いをするさ……)

 腰を落とす。いま打ちかかろうとしたとき、オベロンがオニの目を見据えた。

「見栄を張る奴だ。もうよい。そろそろ返すがよい」

 オニは自分の喉の奥になにかがある感触に、反射的にむせこんだ。オベロンから目を離すまいとして不格好に屈みこんだ姿勢で、異物を押し出そうと呼吸を乱し、ようやくの思いで吐き出したのは、一揃いの仕立ての良い手袋だった。うるさく跳ねまわっていた耳飾りが、上下する肩に触れてまた小さく音をたてた。

(手袋……なんでこんなもんを吐く……)

 手袋はオニの唾液と胃液が浸みて、重たげに瓦礫に張りついていた。胃液の臭いが鼻をつく。よく見ると左の手袋は赤い履き口がちぎれている。

「それは私が岩の上に出しておいた手袋だ。お前はピクシーと間違えて飲んでしまった。お前は私の目を一度も盗めなかった。お前に食べられたピクシーなど、初めからどこにもいない」

 そんなはずはなかった。王はあんなに離れた天井にいた。幻惑は届かない。あのとき確かに両の手がピクシーを掴んでいた。今でものけぞったピクシーの背がまざまざと思い出せる。

「心当たりがない、か?」

 王の後悔に握りしめられているように見えた左手から、何かがオニの足元に放り捨てられ、湿った音を立てて落ちた。潰れた花のかたまりだった。

 オベロンが手に残った水滴を払う。いつもの彼ならば清潔な布でぬぐったことだろう。

「オニはおそろしい姿を人間に恐れられたのか、オニなる存在を人間が恐れたからおそろしい姿なのか、考えたことはあるか」

「くだらねえ。羽虫が……なんの話をしてやがる」

 オニは息が整ったが、うかつに動けなかった。からくりがわからない。ひょっとすると手袋を吐いたという認識がまやかしで、ここにへばりついているのはマガツヒに戻りかけたピクシーの塊かもしれない。

(……まやかし)

 なにかに気付いた様子のオニにオベロンがもう一度同じ言葉で問いかける。

「どんな音だったのだ」

 オニは弾けるように大鉈を構えた。その先をオベロンに定めながらも、構えた本人はせわしなく周囲を警戒している。じりじりと柱を背負う位置に移動した。

「俺様はなんの音も聞いてねえ! 目だな、オマエ、俺様の目に、なにをやりやがった!」

 いつの間にか岩に寄り集まっていたピクシーたち、悲鳴を上げない怯えた顔。

 オベロンは両腕を広げた。

「幻を司る妖精の王。この国のオニにはあまり馴染みがないようだ。いや、仮に花の搾り汁のまじないを知っていたとしても、あの程度の警戒心では避けられない。お前は過去に殺めた妖精の亡霊を、己の手で鼻先に吊るしたのだ」

 

 オニが丘の人間を見つけて目を奪われていたころのこと、オベロンは玉座である大岩を離れ、ビルの上を回ってオニの頭上に身を潜ませた。そして、一度目の滴をオニの頭に落として注意を引き、二度目の滴を目に落とした。

 遠い昔、恋人たちの恋慕の情が注がれる先をばらばらにかき乱したように、女王ティターニアにロバの頭を愛させたように、オベロンはオニにまじないをかけた。彼は花に頼らずとも幻くらい見せられる。だがこう思った。油断を後悔させるには、兆しを見逃した決定的な瞬間を用意してやらなくてはならない。

 手袋がオニからどのように見えるのか、オベロンは大変興味を抱いた。相手の幻を覗く術がないことをつくづく残念に思った。それでもオニを観察すれば、妖精との再会を待ち望んでいたことは明らかだった。手袋、いや、彼が最も求める幻に向かって飛びかかる獰猛な姿には目が釘付けになった。飢えている。腹ではなく、あの悪魔に備わった暴虐が飢えている。

 妖精の幻をこのオニを誘う餌に、奇行に走るオニを仲間を炙り出す餌にする。

 そう考えていたが、どうやら仲間は出てこない。オニの手真似とひとりごとは滑稽ながらも陰惨に、かつて丘の妖精がどのような扱いを受けたかを語りつづけた。

 

 オベロンは剣先を定める。

「丘には妖精も人間も集っている。私に勝てないばかりに、あの柔らかな者たちを裂くことも、砕くこともねぶることも叶わぬとは、無念なことだな」

「オココロを痛めなくてもいいぜ。その苛つく喉を一番に裂いてやるからよ」

 妖精王の剣は細い。オニの力ならば折ってしまうこともたやすいだろう。そうなれば追い込める。オニは剣の破壊を目論んだ。

(待て、あの姿まで幻だとしたら……)

「ためらうか?」

 オベロンが手袋を思い出させるように、素肌を晒す左手の甲を掲げた。これを好機とオニが間合いに飛び込む。

 大鉈は届かなかった。

 代わりにオニの腿にひとつの穴が穿たれた。

(速え……!)

「一羽の蝶が閃光を見た。蝶はひとつ数えるその五十分の一の時間さえ経たぬうちに飛び立った」

 少年の体に押しこめられた老王は、もう一度剣を構えた。体格差は歴然だった。加えてこのオニは過去に何度も妖精の集落を襲撃し、彼らのマガツヒを口から直接体内に取り込んでいる。

 攻撃は通るが大して効いていなかった。

 やがてオニの体にはいくつもの穴が開いた。大鉈が鈍る。だが、その鉄塊は徐々にオベロンに迫りつつあった。

 辺りの草をオニが踏み潰し、大鉈で圧し潰し、青い香りがのぼってくる。

 どっ、と地面に振り下ろされた大鉈がガラスの破片と砂を巻きあげた。オニはついに攻撃が届いた手応えを得た。右の後翅を破られたオベロンが、白い刃先をまっすぐオニに向ける。

(右奥、胸の高さに跳んだな。どんぴしゃだ。さあ、ぶっ潰してやるよ)

 オニはオベロンの戦闘の癖を探ってきた。払った犠牲は大きい。右の肩口と脇は深く貫かれ、大鉈はもう振れない。膂力にまかせて左腕で振るっている。オベロンの一撃にもっと力があったなら、とうに 斃れていた。

「当たっちまったなあ。お召し物も砂まみれだ。随分みすぼらしくなったぜ、オマエ」

「うむ、読まれたか。これだけ戦い慣れていて、なぜ来なかった。オニが暴れまわると聞いて待っておったが、舞えど歌えど姿を見せなかった。臆病な悪魔の相手は暇がかかるものだな」

「へっへ。オマエ、相当プライドが高いみてえだな。見苦しいぜ。俺様を挑発して、色々考えてんだろうが無駄だ。身に染みついた戦いぶりを急に変えようとしたってなあ、動きがバラバラになるだけよ」

「昔話か」

「いいや、予言よ」

 オニは裂けた耳の奥がどくどくと脈打った。勝機だった。対策を取られる前に倒す。妖精王を屈服させ、その身柄をもって丘を蹂躙する。立ち向かおうとする妖精を跪かせ、逃げようとする妖精に武器を取らせて並ばせる。

(殺しちゃいけねえからな。俺様にしてくれたようにまずは利き腕を使いものにならなくしてやる)

 集中が高まり、妖精王の翅がほんの少し閉じ、再び開く動きの細部まで鮮明にわかる。王の唇が動いた。

「外したぞ」

 時間を稼ごうとして、また意味ありげなことを言うのだ。オニはもう気にかけない。攻撃を仕掛けようと腕を引き、短く雷鳴のように吼えた。

 その胸を後ろから槍が刺し貫いた。

「ガアアアッ!」

 胸元に伸ばそうとした右手は上がらない。ここにいるのは長きにわたり多くの妖精を喰らって育った強く頑丈なオニだ。しかし、すでに妖精王の剣はその体力を削っていた。オニを貫いた槍は、穂先を止めるはずのウイングまでが衣の前を突き破っている。

 ごうんと音を立てて大鉈が落ちた。左手が震えながら穂先を握ろうとして空を掴む。

「予言だ。お前は予言を外したと言ったのだ」

 ヒュッ、ヒュッ、と空気だけを漏らして、ものを言うことも、槍の使い手を知ることもなく、オニは仁王立ちで絶命した。肉体はオニの肌よりなお赤い、マガツヒの光となって散った。消えゆくマガツヒの光を透かして、セタンタがオベロンを見ている。

 妖精王は相好を崩した。

「よく待てましたね、セタンタ」

 いかめしい老王の気配はかき消え、柔らかな口調でセタンタを褒める。

 

 合図の大風が梢を渡るのを見たセタンタは岩山をくだり、崖を越え、オニの背後に潜んだ。

 到着したときにはオニはまだ右腕で大鉈を握っていた。その先に見え隠れする白い刃。王が剣を抜くのは宴や儀式に顔を出せば見られる。しかし剣術として目にするのは初めてだった。

 セタンタが初めから持っている記憶、神と人間のあいだに生まれた身としての記憶のなかでは剣は身近なものだった。ところが魔界に顕現してみれば、丘にも山にも剣を持つ悪魔はいない。騎兵であるベリスとエリゴールには頻繁に戦いを挑んだが、いずれも手にしているのは槍だった。里にフィン・マックールが大剣を携えて現れたとき、セタンタが内心どれほど喜んだかを知る者はない。

 両手剣とはまるで違う刺突の動きを、強さを求める妖精は食い入るように見つめた。人間には手に入れられない反応速度と空間の活用は彼の記憶のなかの人間たちを霞ませた。

 ただ、攻撃の軽さだけがセタンタを不安にさせた。

 ついにオベロンの翅が破られたとき、セタンタは咄嗟にオニに躍りかかろうとした。それを、合図を出せる状態の王にそのそぶりがないと気がついて、どうにか思いとどまったのだった。

「命を受けて戦うものは、合図を待てなければなりません。功を急ぐ者、相手をあなどる者、ときにはあなたのように忠義ある者が敗北を招くのです」

 目を伏せたセタンタを見て、オベロンは言い添えた。

「責めてはいませんよ、セタンタ。あなたの性分を知っていて、証人ほしさにあのような場面を見せた私も意地の悪いことをしました」

「証人……ですか?」

「ええ。あれは丘の妖精を食べて力を増したオニです。私は初めて丘に来たときに、生き残りの妖精たちからオニの行いについて聞きました。皆の望みはもう怖い思いをしないで済むことでした。私自身には特にオニへの恨みはなく、追う理由もありません。妖精好みのこの丘で、皆で宴を楽しんできました」オベロンは林の先に霞む崖を見た。「それを捨て置かれたともわからずに、戻ってくるのではいけません。私も宴の合間で時間がありましたから、丘で死んだ妖精たちと同じ思いをしてもらうことを思いつきました」

 昔の丘を知らないセタンタには理解が難しくなってきた。王はセタンタに岩に座るよう勧めたが、彼は宴と儀式の場以外では王の前でそのように座らなかった。

「希望、です。丘を襲うとき、あのオニは逃げのびたと思わせた妖精を特にいたぶって食べたそうです」

 セタンタの目元に嫌悪感がにじむ。

「ですから思い出していただきました。もう何度も里の近くまで来ている気配はありましたから、丘で歓声をあげれば、見に来ないはずがありません。いつでも丘を好きにできた、過去の幸福な日々が思い出されたことでしょう。丘を手に入れたくてたまらなくなる夢も見せました。現れた妖精王は思ったほど強くない。彼にとって丘は目前でした。そこへ劇的な死が訪れる。ただ命を落とすよりももっと、死んでしまうことを嫌がったのであれば良いのですが」

「私に合図をするとお話があったとき、梢を見ているようお命じになった時間が短く決められていた理由がわかりました。……殺された妖精たちも安らぎを得ることでしょう。そろそろどうか翅の手当てを」

 王は微笑んだ。

「彼らのために私は何もできませんよ、セタンタ。もう死んでしまいました。ここはオニの夢の果てにすぎません」表情をこわばらせたセタンタに王は優しく続ける。「やはりあなたは人間の気持ちに近づくことができる稀有な妖精です。あの警護はほかの者に任せて里へ下りては来ませんか」

(人間……)

 生まれながらにして妖精だった者と、セタンタは少し違っていた。丘では時折妖精らしくないことを言って笑われた。笑われるのが嫌だったわけではない。楽しそうに笑っている皆と同じようにものを見たくて、宴のために里に戻れば耳をそばだてて正しい価値観を集めてまわった。

 努力はなかなか実らなかった。

「丘にいるのは悪魔にさらわれてきた、明け方の蝶よりも逃げかたを知らない子どもたちです」

 里へ下りるかどうかを迷っているものと思って話しているオベロンの声に集中できない。

(王は妖精だと言ってくださるが……)

「里のことは……考えさせてください」

 もう一つ伝えたいことがあった。こんなことを自分から言い出すなどどうかしているとわかっている。舌が顎から離れなくなったように言葉に詰まる。

 王を待たせている。翅が傷ついた王を待たせているのだぞ。

「私の槍は、その、どうでしたか」

 本人は至って真面目なようだが、こういうときのほうがかえって謎解きらしい趣があると面白く思いながら、オベロンはからかわなかった。何を言わんとしているのか、本人が話すより先に当てるつもりだった。

 勇士として振る舞えるはずのセタンタが、このようにしどろもどろに話す様子は記憶にない。

「腕を上げましたね。技術があると信頼したからこそこうしてあなたに依頼しました。私が望んだ以上の一撃でした」

「では私がいつかもっと腕を上げたら……いえ」

「言ってごらんなさい」

「……騎士の位を得られればと、望んでいます」

 声はなんとかはっきりと続いた。もしもセタンタが自分のことをもう少し人間寄りの悪魔だと認識していたなら、きっと耳を赤く染めただろう。目は伏せられて、どうしても王を見ることができない。顔を逸らしたくてたまらなかった。

「妖精が望みを飲みこみなどしては、喉に詰めて死んでしまいますよ。なるほど、肩打ち儀礼ですか」

 セタンタはようやくまぶたを上げる。

 オベロンは収めていた剣を抜くと、刃を手前に向けて捧げ持ち、自身の肩に軽く置いた。

「人間の儀式でも、つまらないものはまるで見ませんが、騎士叙任式はなかなか面白い。簡素なものから仰々しいものまでありました。きっと執り行うことはできるでしょう。問題とするべきはあなたの望みの本質です。一度丘に戻ります。遅くなると女王に心配をかけますから」

 剣を収めて丘に向かい始める王に、セタンタはまだ落ち着かない様子で付き従う。なにか関係ないことを話していたかった。

「翅はそのままで良いのですか」

「私はティターニアだけはいくらでもおどかして良いと決めているのです」

 上着の砂を払いながらはたはたと翅を振ってみせた。

「手袋はどうなさったのです」

「ああ、それならそこに。処分しておいてください」

 セタンタはどうすればこのように駄目にしてしまえるのかよくわからないまま、黙って槍でひと突きにした。

 

 妖精たちはへとへとだったが、だれがずるをした、光の加減だと言って、ずっと遊んでいた。見上げすぎて首が痛くなったジャックフロストは仰向けに寝そべって空を指差している。代わってやろうと言いながら小枝でつついてくるザントマンに審判を譲るつもりはないようだ。飛べる妖精も飛べない妖精も楽しげだ。

 人間たちのなかにもおそるおそる妖精の近くへ寄る者がいた。盛り上がっている妖精に近づきすぎるといたずらに巻きこまれるが、そうしたことも彼らは知らない。

 オベロンは魔法を使わなかったことを叱られながら治療を受けている。早速ティターニアをおどろかそうと、オニは尋常ならざる強さだったと誇張したのが間違いだった。盗み聞きをするつもりはないセタンタの耳にも、話のなかのオニが段々と弱くなっていく妖精王の堂々とした言い訳が届いていて、気が緩みそうになった。あまりに弱く話しなおしたものだから、今度はどうして翅を破られたりしたのかと問いつめられている。

 ようやく女王にセタンタが待っていると伝えることができたオベロンが、決まりの悪い様子で笑いかけてきた。それでいて次の瞬間には、しんと澄ました顔をする。改まった話だと理解していると示していることがセタンタにも伝わった。

 妖精たちは騒がしく、変に遊び場を変えさせるよりもこのまま話すほうが関心を集めない。初めに王から問いかけた。

 女王もこちらに体を向けて聴いている。

「まさか馬に乗りたいわけではないでしょう。鎧も拍車も、あなたがほしがるとは思えません。一体どんな騎士になりたいのですか」

「どんな騎士に、ですか」

「大義を掲げるならそれは何か、あるいは戦闘に明け暮れる傭兵騎士だというのならそれはそれで構いません。ただ、そうなると、なぜ騎士でないといけないのかを私は知っておかねばなりません。私があなたを騎士にふさわしいと認める儀式ですから」

 セタンタは黙りこんでしまった。

「騎士になりたいという思いを打ち消そうとは思っていませんよ」

 岩の上の二人はいつまでも待った。

 話しこんでいる三人を見たイシスが気を利かせて鳥の姿に変じてみせると、妖精も人間も夢中になった。長く切れこんだ尾をぴんと伸ばしたツバメが、地に腹を擦るほど低く飛ぶ。彼女の旋回を真似できるピクシーも、ハイピクシーもいなかった。

 草原に尻餅をついたピクシーがいた。

 歓声を背に、重い口が開かれる。

「……私に十分な強さがあり、繋ぎ止めたいと欲していただけたら。その証が……騎士の位だとそう叫ぶなにかが私のなかに居座って、戦闘の高揚から先ほどついに口をついて出ました」ためらいがちに付け加えられたひとことは、王と女王の顔をほんの一瞬翳らせた。「私が生粋の妖精ではないからかもしれません」

 セタンタの眼は強い光を失っていた。

 オニがマガツヒとなって消えていくとき、光の向こうに見えた爛々とした眼がオベロンは好きだった。これまでに見た星々と並べても、一等好きだった。

「あなたほどの騎士を召し抱えるとなれば、近衛にしなくては、きっと誰もが無能な王だと言うでしょう」

 槍を掴んでいないほうの指が小さく動いた。

「人間と神のあいだの子であった頃の記憶が、あなたに口出しをするなにかであるのか、詳しく知るつもりはありません。方法もないのです。では統べる者として現れた妖精は、従う者として現れた妖精に、なにを言ってやれるでしょう。セタンタ、あなたは騎士の位を求めていますが、騎士になったあなたが何者となるかを思い定めてはいないようです。人の世を忘れかけたこの地で、それを見出だしておいでなさい」

 セタンタが担っていた警護の仕事は複数のハイピクシーに割り振られ、彼は王に呼ばれるまで丘で過ごすことになった。

 これから彼はいくつかの王の問いに答えを出さなければならない。

 

 ひとつの宴を挟んで、王はセタンタに声をかけた。ほかの妖精はまだ宴のあとの眠りについていて、丘の上は静かだった。

「これからシルキーを手伝いなさい」

 脇に控えていたシルキーがおじぎをして、衣ずれの音とともにセタンタに近づく。足音はしない。

「よろしくお願いしますね」

 囁くような声だった。

 長い緑の髪が白い清潔な布でまとめられて流れるさまは、霧にみどりを滴らせる樹木を思わせた。荒事を得意とするセタンタとはあまり交流がない。

 気配は薄く、いつも気がつけば王や女王の身の回りのことに気を配っている。初めは側仕えの身かと思ったが、単に性分らしい。知っているのはそのくらいだった。

 セタンタは黙礼を返した。

 王もいつもより小さな声で二人に声をかけた。

「よいですか。シルキー、マンドレイクの根を八つ、集めてきてください」

(ああこれはまじないだ)セタンタは気がついた。

「はい」

 シルキーがはっきりと返事をする。

「セタンタ、あなたはシルキーの作業をよく見ながら護衛をしなさい」

 小川を越え、先日オニが出た暗がりに差し掛かる。シルキーが説明する。乱暴な悪魔がうろついて危ないので、ここしばらくは通らないよう教わっていたそうだ。

 彼女が抱える大きな籠は、木の皮を組み合わせて作られている。白布が掛かっていて、ごろごろと音がする。底のほうに何か入っているらしい。

「これからも同じことが起こるかもしれないから、マンドレイクの根はもっと備蓄を増やしたらどうかしらと思ったの。物騒ね」

「持とう。貸せ」

「これはいいの。それより、ね。シルキーは命令が嫌いよ。ご存知ないのね」

「すまない」

「……あなた、ずいぶん気に掛けられているみたい。いつもはザントマンと来るのよ」

「……? どういう」

 シルキーが籠を抱えなおす。

「着いたわ」

 林の梢がさやさやと鳴っていた。

 樹々は丘よりもさらに若々しい。地面はところどころ水気を含んで、土と水の香りをたちのぼらせる。瓦礫にはツタが這っていた。丘とはまた異なる豊かさが湛えられている。

 草を踏む音は一人分だけだった。シルキーは衣ずれの音だけを残して滑るように先へ進んでいく。ある岩陰でぴたりと止まると、手ぶりでセタンタにも止まるよう指示をした。それから彼女はおもむろに籠の中身を掴み出し、向こう側へ飛び出していった。

 慌てて後を追ったセタンタは、岩を踏みこえようとした途端、急激な眠気に襲われた。槍で体を支えようとして間に合わず、そのまま崩れる。岩のかどで額を切った感触もなかった。

(そうか)

 籠の中身は睡眠の秘石だったのかと思ったのを最後に意識が途切れた。

「後回しにしてごめんなさいね」

 セタンタはシルキーのメパトラによって睡眠を解除された。屈んだシルキーが真上から覗き込んでいる。額にぬるりとしたものを感じて手をやろうとするより先に回復魔法がかけられて、もうなんともなくなった。

「説明するより見てもらおうと思ったの。でもいつもザントマンと一緒でしょう? 勝手が違ったものだから、あなたまで眠ってしまうかもしれないって考えてなかったわ」

 ザントマンはいつも子どもを眠らせる砂を担いでいて、悪魔でさえも眠らせることができる。だからザントマンとシルキーの二人なら秘石はいらなかった。

 ザントマンがいないからと持ち込んだ睡眠の秘石は、行使した者こそ影響を受けないものの、効果は周囲一帯に及んでしまう。ザントマンならマンドレイクだけを狙って眠らせるのだから、こんな悩みはなかった。

 セタンタは槍が手のなかにある感触を確かめた。睡眠状態でも手放していなかったことに安堵する。

「いい。マンドレイクの根は?」

「ちゃんと採れたわ。あと六つよ。さあ、次へ行きましょう」

 立ち上がった彼女の衣を細いナイフが滑り落ちた。イズンの林檎の皮を剥いているところをセタンタは見掛けたことがある。

「あ」

 シルキーが小さく声をこぼす。

 セタンタはナイフを拾い上げて細かな葉のくずや砂を手早く取り除いた。

(家庭用のナイフだ。こんな華奢なナイフで身を護ってきたのか)

「ほら」

「……ありがとう」

 二人は打ち合わせをして、捜索を再開する。やがてシルキーが動きを止めてじっと前方を見つめた。

「あそこの草むら、いるわ」

 風だと言われればそう納得するほどの微かな揺れをシルキーは見極めた。慣れがそうさせるのか、彼女にとってはこれも家事の範疇なのか。あらゆる家事を極めて正確に素早くこなすことができるのが、シルキーという妖精の性質だった。

 秘石の効果範囲の外からでは助けに入るまでに時間がかかる。同じ林に棲む別の悪魔、ナルキッソスがいないか周囲をよく見回してから、シルキーが音を立てずに近寄っていく。

 睡眠の秘石が光るのが見えた。

 駆け寄ったセタンタの前でマンドレイクが寝息を立てている。自分もこのような無防備な姿を晒していたのかと思うと恥ずかしくなり、シルキーを盗み見た。

 シルキーは別のマンドレイクを抱いている。片腕で下から支えられ、胸のあたりで眠るマンドレイクは赤子のようだった。

 乳母とは確かこのようなことをする人間のことだった。乳を与え、子守唄であやしていた。

 シルキーはマンドレイクの花を咲かせた頭頂部をためらいなく十字に刺した。

 あの細いナイフだった。「根」は目を見開いて全身を痙攣させ、すぐに動かなくなる。次のマンドレイクを刺したとき、湿地の水が溜まっていたのか、飛び散った液体がシルキーの顔を濡らした。彼女は意にも介さない。

 セタンタは立ち尽くしていた。

(こういうことを……していいのか?)

 根は籠に投げ込まれ、布が掛けられた。あの下には既に二つの根が驚いたような顔で虚空を見つめていたのだ。

 あのときナイフから払った細かな葉のくずは、地面に落ちていたものではなかったのかもしれない。

「これで半分」

 シルキーの声で我に返った。

「さあ、次へ行きましょう」

 次に見かけた二本のマンドレイクには睡眠の秘石が効かなかった。効果は絶対ではないから仕方がない。

 セタンタは追った。

 シルキーの声が聞こえる。

「深追いはしなくてい……っ、噛みつくわ! 首根っこを押さえて!」

 セタンタがいまにも追いつきそうになっているのを見て指示が変わった。言われたとおりに両方を押さえつける。

 シルキーが追いついて花びらを押し広げるようにして頭を固定すると、地面に顔を押しつけられたマンドレイクは、四方に伸びる手足、いや、手足に似た根で泥をかき、かん高い声をあげた。

「ヤメテ!」

 もう片方のマンドレイクは泥が入った口から震えた声を出す。

「いやあ……」

 静かになった根をシルキーが水たまりで洗う。

 頬に似た部分から泥が落ちると、赤みが差しているのが見えた。セタンタはマンドレイクを押さえこんだとき、あの頬に触れた。柔らかくはなかった。植物の根のそれだった。

(蝶の翅と同じだ。生き残るために、幼い人間の頬を模している)

 ジャックフロストの頬についた枯れ葉を取ってやったときの、遊びに夢中で冷却がおろそかになった、ざらりとした頬を、いま思い出したくはなかった。あの頬、柔らかくはなかったあの頬。枯れ葉が取れるとお礼を言って駆けていく後ろ姿。

 籠はまた重たくなった。

「あれは?」

「地面から抜くのは駄目。林じゅうに私たちが来ていることを知らせてしまうわ」

 林のなかを大きく円を描くように進んでいく。シルキーの足取りに迷いはない。マンドレイクが好む環境を知っているからだと微笑む彼女は、これまでどれほど根を集めてきたのだろうか。

 丘に暮らす妖精の数は多く、回復薬を集めてこられる強さを持つものは少ない。一方で妖精は誰でも羽目を外すのが大好きで、よく怪我もするものだから、皆一度や二度は宴の途中でシルキーの薬の世話になったことがある。オベロン王ですら、宴を盛り上げようとどんどん炎を大きくするよう命じて火傷をしたときに、彼女の薬を使ったのではなかったか。

 次に見つけたマンドレイクは浅く広い水たまりの中にいた。遠い。しかしシルキーだけなら水音を立てずに近づくことができる。

 セタンタは小さな石を拾うと、マンドレイクの視界に入らないほど高く投げた。梢のずっと上を通って、水たまりの向こうのふちに落ちた石は、マンドレイクたちの気を引いた。その隙にシルキーが背後から近づいて、睡眠の秘石を使う。二体とも仰向けに倒れて浮かんだのを見て、セタンタは水たまりのなかに踏みこんだ。

 歩きながら、セタンタは自分が投げた小石が思わぬ事態を引き起こしたことに気がついた。

 物陰で静かに水に映る自身の姿を眺めていたナルキッソスが、水面が乱されたことで姿を現したのだ。ほぼ植物であるマンドレイクやナルキッソスが林のなかで沈黙すれば、気配を掴むことは慣れた者でも難しい。

 シルキーは衣の裾が濡れないように片手でまとめ、マンドレイクを拾い上げようと屈みこんでいる。

「ナルキッソスだ!」

 槍を握りなおし、駆け出す。驚いたシルキーの手から衣が離れ、柔らかく水を打った。立ち上がったシルキーの前に立ったセタンタが槍を構えたが、彼女はセタンタの行動を認めなかった。

「待って。ナルキッソスは駄目よ」

「なぜ!」

 ナルキッソスはもうすぐ間合いに入る。

「いまは従って」

 シルキーはナルキッソスのほうを向いた。

「あなたの水辺を荒らしてしまったことをお詫びします。私たちはすぐにここを去ります」

 ナルキッソスはセタンタたちから離れた場所に浮いていたマンドレイクをそっと抱き上げた。水気を布で丁寧に拭き取ると、波紋が静まるまで水面を凝視していた。隙だらけだ。

 彼はマンドレイクを抱き上げた自分の姿を水面に映して確認したいようだった。

 護衛としてこの場にいるはずのセタンタは落ち着かない。どうして攻撃してはいけないかもわからない。せめて水面を揺らさずに動けるシルキーだけでも逃がそうと決めた。そっと声をかけようとしたとき、ナルキッソスが水面を見つめたままうっとりとした様子で言った。

「奪い、奪われる花の蜜を口にするのは、恋に身を捧げた者だけ……ああ、美しい……」

 彼は水面の自分に話しかけた。自身の献身の美を腕のなかの無力な花が引き立てている。いつもとは違う美しさに満足して立ち去ろうとしたナルキッソスは、ふと、近くに立つ二人に目をとめた。彼はその感性で彼らのことを生真面目な従者の少年と、淑やかな使用人だと見て取った。

「すばらしい」

 ナルキッソスは突然二人にテンタラフーをかけた。ひとけのない林のなかで息を潜めて立つふたりが、美しい結末に転がり落ちるよう、どちらも混乱させてしまいたかったが、使用人のほうにしかかからなかったようだった。

 それならば自分をよく見るほうが大切だったので、ナルキッソスは静かな場所を探して去っていった。彼は最も美しく彼を引き立てる分の花しか必要としない。シルキーの近くのマンドレイクは見向きもされずに残された。

 ナルキッソスが立ち去るのを確認し、構えを解こうとしたセタンタは、背後のシルキーの様子がおかしいことに気がついた。

「あ、あなななななた、あなたあああたのいえ」

 顔は苦痛に歪み、手にはあのナイフが握りしめられている。

(混乱している……!)

「シルキー!」

「あなたの家じゃないわ! 返して!」

 振り上げられたナイフを払うのは簡単だった。しかし、彼女が林檎を剥いた、そのほっそりとしたナイフを損なうことをおそれてできなかった。

 振り下ろされたナイフを避けて手首を掴み、槍を手放して反対の手首も捕らえた。ひとつにまとめあげたものの、振り払おうとして暴れるので、関節を痛めはしないかと心配になる。

 セタンタはいつまでも槍を体から離しているのは嫌だった。

(仕方ない)

 彼はしゃがみこむと、槍を背に隠すように体を倒していった。腰を落として槍を拾うこともできたが、両手が使いたかった。引っ張られたシルキーが馬乗りになっている。掴んだままの彼女の両手を持ち上げてやると、握りしめたナイフを突き刺そうと繰り返し押してくる。この向きならそうそう腕を痛めることもないだろう。

「シルキー」

 空いた手で彼女の背中を軽く叩く。

「返して!」

 もう一度繰り返す。

「シルキー」

「ひどいわ! 返して!」

 振り乱されて濡れた髪がセタンタの頬にかかる。

「シルキー」

 暴れるシルキーが立てる水音を聞きながら、セタンタは周囲の気配を探っていた。近くに浮いていたマンドレイクはさっき目を覚まして逃げていった。

 別の敵が襲ってくるまでは、シルキーに手荒な真似はしたくなかった。睡眠状態から覚めた自分を見下ろしていた彼女を思い出しながら声をかけ続ける。

 

「こんなときに限ってうまくいかないものね」

 シルキーの混乱が解けたあと、ずぶぬれになった二人は籠のそばに引き返して休んでいた。

「すまない。不用意に石を投げた」

「私だって、ああこれで簡単だわ、そう思ったの。ナルキッソスも変よ、いつもはああしてマンドレイクを持っていってしまうだけなのに」

 彼女はこれまでもずっと、ナルキッソスから混乱や魅了を付与される可能性があった。この林のマンドレイクが「恋に身を捧げる」特殊な存在であり、ナルキッソスにとってシルキーより魅力的なものだったから無事で済んでいた。ザントマンが敗れ、彼女の籠にもナルキッソスの手にもマンドレイクがなかったなら、シルキーはかしずくべき王を忘れ、林の奥で水仙の花に口づけていたかもしれない。

 今回、同行者がセタンタとなったことで、ナルキッソスはより大きな脅威となった。二人はそれを知るよしもない。

「こんな姿を見たらオベロン様はお笑いになるでしょうけど、早く済ませて帰りましょう」

「……なぜナルキッソスを攻撃してはいけないんだ」

「え? どうしてなのかしら。オベロン様が里のためだと仰ったの。初めて根を集めに林に入るときのことよ」

(あの程度の悪魔をどうしてそこまで……)

 先制できないとなると、ナルキッソスのテンタラフーは脅威だった。運良くセタンタが混乱を免れたが、もし二人とも混乱していたなら、セタンタはシルキーを乱暴に殺してしまっただろう。

 籠をちらりと見る。必要な根はあとふたつ。

「私に秘石を預けてくれ」

「でも私が集めないと」

「早く帰るんだろう。さっき押さえつけて捕まえても問題なかった。だからそのあとを頼む」

 本来ならば死んだ悪魔はマガツヒの光となって消滅する。マンドレイクも例外ではない。死体を集めたいなら協力者を探して契約を結び、請け負った者に悪魔の全体または一部を集めさせる手順を踏む。悪魔による契約には古来の力があり、魔界の理さえ小さくひずませる。妖精王のまじないの正体だ。

 マンドレイクはシルキーが殺さなくてはいけない。

 そしてシルキーは眠らない。妖精の多くは月を愛し、鶏の声を嫌うが、その中でも彼女は特に真夜中に集中して活動する妖精だった。彼女を残してセタンタが睡眠の秘石の使用者になることは理にかなっている。彼女が一時的に護衛を失うことを除いては。

「いいか、後方に気を配れ。ナルキッソスが来たら攻撃範囲に入らないように急いでこっちに来るんだ。籠は置いたままでいい。マンドレイクも逃げてしまっていい」

「……ええ、いいわ」

「もし私が混乱したら落ち着いてメパトラで解除してほしい。脚は鍛えている。きっと私のほうが速いし、この槍は投げ槍ではないが、この身が投げようと思うなら、ある程度の距離を飛んでしまうだろう」

「じゃあ、もし二人とも……ふふ、ほんのお使いなのにおかしいことね」

(この林で行われていることこそおかしい)セタンタは秘石を手にした。

 次に見つけたマンドレイクたちは二本の木のあいだを八の字に走り回って遊んでいた。

 セタンタがマンドレイクを押さえつけたとき、眠りに落ちたほうのマンドレイクはすでにシルキーがナイフで貫いていた。

 ナルキッソスの姿はない。

 彼らは安堵したが、その理由をすぐに理解することになる。

 ナルキッソスたちは林の入り口に群れて二人を待っていた。複数集まれば、互いの顔が同じであるために水面を必要としない。滑稽だったが、その場を動かないつもりなのは明らかだった。何体かのナルキッソスの白いすねにはマリンカリンによって魅了をかけられたマンドレイクがしなだれかかって根を絡めている。底に水を張った空き缶を捧げ持ち、彫刻のように動かないマンドレイクもいた。

 遮るもののない林の境界では、ナルキッソスたちの金の髪と赤い布はよく目立った。

 遠くからそれを認めたセタンタたちは、まだ彼らに気付かれてはいない。ナルキッソスが少数だけを別の場所で待ち伏せさせるような戦略を取る悪魔だとは思えなかったが、周囲への警戒は怠らないまま、セタンタが口を開く。

「二手にわかれる。一番の脅威は混乱した場合の私だ。離れた方がいい」

「でも、こんなにいたら抜けられないわ」

「私が注意を引き、隙を作ろう」

「セタンタはどうするの」

「林の奥に向かう」

「え?」

「私だけなら、混乱したとしても槍を振り回す侵入者にしかならない。ナルキッソスが近づけなくなるだけのこと。それに私は崖を越えてここに来た。振り切れる。そのほうがナルキッソスたちも林の奥に帰る」

「本当ね? 本当に林の奥に行ってもあなたは逃げられるのね?」

「ああ」

「魅了のことは考えた? あのマンドレイクたちを見て? もしかかったら、あなたもああなるのよ」

「私は口惜しくも混乱しやすいが、魅了に対してはそうではない。仮に魅了されたとしても、丘の者を傷つけはしないだろう」

「あなたが傷つくのよ」

「……そうは思わない。押し問答をするつもりもない」

 籠をなるべく目立たないよう草陰に押しこんで、セタンタは残っていた秘石をひとつ取った。

「ナルキッソスたちに効くとは思えないわ」

「ないよりましだ」

 セタンタが躍り出た。風が渦巻く。全体攻撃マハザンマが地面の小石を巻き込んでナルキッソスたちに襲いかかる。

「右から抜けろ!」

 ナルキッソスたちに風の属性攻撃は効かない。まったくの目眩ましにしかならないのに、シルキーは混乱をかけられたときの記憶に足がすくんで、飛び出すのが遅れた。

 ナルキッソスたちの隙間を抜けようとしたシルキーに彼らの手が届く。はべらせていたマンドレイクを消し飛ばされたナルキッソスは、特に活動的だった。

 衣を破らないように、髪を引き抜かないように、次々に覆い被さるナルキッソスが丁寧に彼女の抵抗を奪っていく。

 セタンタの側にもナルキッソスは押し寄せる。秘石は駄目だ。テンタラフーとマリンカリンの効果範囲から外れ続けなくてはならないセタンタからは、抵抗する彼女の衣の裾が見えていたが、それもやがて埋もれて見えなくなった。

「離しなさい!」

 彼女は魔力を温存してきた。傷と状態異常の回復に使いたかった。しかしこのままではセタンタが危険をおかして助けにきてしまう。彼女は攻撃魔法は単体魔法しか知らなかった。それでも自力で逃れなくてはならない、そう思った彼女の口が、不意に色白の手で覆われる。

 冷たい花の香りがする。

「ぐうっ!」

 そのまま強く顎を掴まれ、真上を向かされた彼女に、それを見下ろしていたすべてのナルキッソスが、一斉にテンタラフーをかけた。

 ナルキッソスに助け起こされるシルキーの手にはナイフが握られていた。ナルキッソスたちに送り出されて、シルキーはまっすぐにセタンタのほうへ走ってくる。

 セタンタは槍を確かめる。

(混乱させられたか。シルキー、そのままこっちへ来い。私と死のう)

 彼には魅了がかかっていた。

 セタンタの意思の強さ、若々しい生真面目さがこうも頑なでなかったら、魅了の熱にへたりこんで、戸惑いを好きにされるだけで済んだ。哀れにも彼の体は動く。与えられた指示とかれの倫理が相反し、背筋を撫であげる。

 ナルキッソスは奉仕ではなく献身を、仲間が見そこねた、従者と使用人の心中劇、その情景をこの場で見せるよう要求した。

 互いの恋に身を捧げる関係のなかでも至上のもの。当人たちは決して目にすることのない、血の気を失って折り重なる体の美しさ。ナルキッソスたちはすぐに消滅するであろう二人の肢体を見るために押し合いへし合いした。なんと甘美な娯楽があったものだろう。

 シルキーは先ほどと同じ混乱のなかにいる。誰かの家を返してほしいと叫びながらナイフを振るう。

 ナルキッソスは二人を円く取り囲んだ。二人を挟んで別のナルキッソスがいるために、二人を見る美しい自分を擬似的に眺めることができた。

 円は徐々に小さくなり、水仙の香りが水のように重くセタンタを沈める。

(彼女が返してほしい家は、どこにあるのだろう)

 セタンタはぼんやりと思った。

 胸当てに当たったナイフは先が傷んでしまった。

(しまった。しかし君はもうこれを悲しむことはない。さあ、ご覧にいれなくては。そう望まれている。君が死にたくなくても、私は灼かれる胸を御しようもなく、身勝手に君を死なせる。彼の悦びがどれほどか、私は知りたくて堪らない。どうして抗えるだろう。せめて長くは苦しませない)

 セタンタはナルキッソスたちの望みを早く叶えたくて仕方がなかった。望まれたとおりに自分たちの死体を林に晒し、それが美しいと評価されるなら何より喜ばしいことだった。彼を魅了したナルキッソスから期待され、見つめられていると思うだけで狂おしさに臓腑がかき回される。

 セタンタは腕と肘でシルキーの腰を固定すると、穂先側から掴んだ槍を力まかせに突き刺した。

 シルキーの悲鳴に満足げな様子のナルキッソスたちが見える。セタンタは戦場で敵を討ったような高揚を覚えた。その眼は輝いている。オベロンが好ましく思っているあの眼で、彼はシルキーを刺した。

 腕のなかでシルキーの力が抜けていく。

(気絶してしまったか)

 あとは自分の背まで貫くだけだった。死にゆく自分を、ナルキッソスはどんな目で見てくれるだろう。その目を見た瞬間に得られるであろう恍惚への期待に手が滑る。あのオニにしたようにウイングごと貫くのだ。槍のなかほどを握るとシルキーが呻いた。この姿勢からでもセタンタなら問題ない。

(私の生はいまこのときのためだった)

 心中するよう言われたことを思い出し、シルキーの髪を一度だけ優しく撫でた。どうして彼女の髪が濡れているのか、セタンタはわからなかった。

 シルキーのナイフがセタンタの胸当てに浅く長い傷をつけて重力のままに滑っていく。

 両手で槍を強く握りなおした彼が力を込め、穂先がセタンタの腹を破る。そのなかで、ナイフがセタンタの肘の内側に軽く刺さった。

 セタンタの陶酔に、雪解け水のように冷たく、ナイフを握る彼女の手の記憶が流れこんだ。林檎を剥く手、手渡されたナイフを受け取る手、マンドレイクを刺す手。

 槍は動きを止めた。

「あ……シルキー?」

「ええ」

 彼女の声は衣ずれよりも小さく弱々しい。

 セタンタは手が震えた。槍は自分の腹にも半ば刺さっていたが、肘の内側のナイフばかりが意識にのぼる。

 槍を引き抜くセタンタの手は凍えたようだった。

 シルキーの混乱は早くに解けた。大勢のナルキッソスから同時にテンタラフーをかけられて抵抗できなかったものの、かかりかたは浅かった。

 目覚めると、様子のおかしなセタンタが目の前にいた。周囲のナルキッソスたちに悟られないように早くメパトラをかけなくてはならないと思ったが、すんでのところで間に合わず、セタンタによって槍を深々と刺されてしまった。

 朦朧としたシルキーがメパトラを使用して、ようやくセタンタの魅了が解除されたのが、ナイフが刺さったときのことだ。

 シルキーの傷は深い。セタンタは思うように動かない手で彼女の体を支え、ゆっくりと座らせた。気づけばナルキッソスたちは林の奥に向けて移動を始めていた。

 まだ遠くから二人を見ていたナルキッソスたちも、ついに元いた水辺のほうへ足を向ける。

 彼らは思い描いていた「美しい光景を見て感動する美しい自分」を手に入れられなかった。二人には半端な傷がついて、もう美しくない。即興の美しさも失われた。その点、ナルキッソスはいつも、ずっと美しい。彼らは水面を求めて帰っていく。

 その背が遠ざかるのを待てず、セタンタはシルキーに囁きかける。

「おい、回復はかけられるか」

 ナルキッソスたちから目を離さずに、腕から落ちそうになったナイフを抜く。

 彼女はディアラマでセタンタの腕と腹の傷を癒した。

「私ではない!」

 消えていったオニの姿が重なる。背から腹まで、穴が開いている。

(消滅してしまう)

シルキーは少しぼうっとしたあと、そっと肩を揺すられて、ようやく自分にもディアラマをかけた。

「籠を取ってきてくださる?」

 彼女は気丈にもそう言った。

 

「よく戻りました。……シルキー、あなたは魔力と回復が十分ではないようです。此度の尽力に対し私とティターニアから宝玉を贈りましょう。魔力についてはピクシーにあとでなにか持たせますから、休んでおいでなさい。ティターニア、これからしばらくは彼女がいつもどおり私たちの世話をして回らないよう、よく言っておいてください」

 最後の言葉に物言いたげな様子を見せながら籠を抱えたシルキーが下がると、オベロンはセタンタに向き直った。

「危ういことがあったようですね。しかし、騎士になりたいのならまずはこの問いに答えてご覧なさい。私たち妖精は、真に中立ですか?」

「いいえ」

 シルキーに返せていないままの、歪んだナイフが手のなかにある。

「なぜ?」

「私たちは日々の薬のために罪のないマンドレイクを殺めています。薬は宴で怪我をした妖精にも使われています。楽しみのなかに消費される薬の材料のひとつは、林を駆けていたマンドレイクです。私たちはあのオニと同じです」

「あなたは捕まえたマンドレイクの処置に一番衝撃を受けるだろうと思っていました。ですが、もう少し先ほどの私の問いについて考えてみてください。なにか困ったことがあったのではありませんか」

「……私たちはマンドレイクを殺めながら、ナルキッソスには手を出してはいけませんでした。彼らは隙だらけで、十分倒せる相手でした」

「無益な殺生では?」

「いいえ、こちらが危険な場面でも彼女はナルキッソスに手出しをしてはならないと禁じました。理由は知らないと話していましたが、本当は取り決めがあるのではないですか」

「よいでしょう。完全な答えではありませんが、騎士を志している最中の者の答えとしては十分です」

 オベロンは林のほうを振り返った。

「ナルキッソスにはギリシャ勢力との繋がりがあります」

 ここから林は見えない。王はその奥を見通すかのようにしたあと、言葉を続けた。

「彼らの仲間は酒の神ディオニュソスの庇護を受けています。その父はギリシャの主神ゼウス。父子の仲は良くありませんが、仮にディオニュソスだけがこちらに目を向けたとしても、それは十分な脅威です。狂乱を与える杖テュルソスも、生の葡萄酒の皮袋も、妖精とは相性がよくありません。私はギリシャで人間たちにいたずらをしていたころ、人々がディオニュソスの仮面を飾って演劇に興じていたあの時代から、テュルソスの先でちくりと刺されたいものだと思っていました。彼が司るものたちは、あっという間に私たちを魅了してしまうでしょう」

 魅了という言葉を使うとセタンタがびくりと身を震わせたのをオベロンは見逃さなかったが、何かを尋ねはしなかった。

「話が逸れましたね。マンドレイクのことは誰も気に留めていないのです。いくら殺めても私たちの中立の立場は揺らぎません。いつかマンドレイクが強力な長を担ぐまで、この構造は続きます。あなたが中立ではないと考えたのは、マンドレイクを対等に扱ったからです。さあ、ここからです。よくお聞きなさい、セタンタ。騎士は同胞や貴人に対し礼節を尽くします。しかし、自分より下にいる者に対してはその意識はありません。略奪は肯定されます。村々で乱暴を働いていながら、高潔な騎士と讃えられた者がどれだけいたことでしょう。あなたの前に立つ王は林のマンドレイクから同胞を奪っています。捕らえ、殺め、薬にしています。私に叙勲を求めるあなたは、主君による他種族の蹂躙を肯定し、私に命じられれば率先して搾取に赴きますか」

 セタンタはうろたえた。

「あなた自身が略奪を行うかどうかは自分で決められます。いまは誰かに仕えることについて考えなさい。フィン・マックールはあなたに何も話しませんか?」

「仕えるべき……王」

 妖精王は満足げに頷いた。

「彼は騎士団に所属した英雄。主従について考えるところもあるでしょう。よく思い出しておきなさい」

 王は浮かび上がると両手で月の光を捧げ持つようにした。

「私は答えを待ちましょう、セタンタ。しかし月は待ってはくれない。あなたはまた赴かなくてはなりません。二つめの宴の最後の炎が消えたとき、丘を発ちなさい」

 セタンタが立ち去ったあと、大岩の上でティターニアは呟く。

「困ったわ。あの子は居もしない完全な騎士の影をどこまでも追っていってしまうのかしら。妖精らしさをほしがっていたように思ったけれど、フィンのせい? いまは人間に興味があるようね。どちらにしてもあの子は自分に苦しい思いをさせてばかり」

「真面目な妖精です。彼は妖精らしさを獲得できなかったと思いこんでしまいました。そんなものはどこにもないというのに。強さを覗きこんで安らぎを見つけるのは難しい。それでも望むのなら、どこかにたどり着いてほしいと願っています」

「ええ、本当にそう……それにしても」女王は一度言葉を切った。隣に立つ王を見て、気分を変えるように笑ってみせる。女王はとても悲しくなったのでそうした。「堅苦しくお話しするのが本当にお上手。私はきっとこう尋ねてしまうわ、妖精だもの。食べるってなにかしら、って」

「いまの彼にはもう少し頑丈な杖を与えてやらなくてはなりません」王は苦笑した。

「ふふ、騎士道だなんてよくお話しになれたこと。私も聴いていてよかったわ」

「懐かしいでしょう」

「忘れてしまいそうよ。もうずっと、人間がいないのですもの」

 女王は王の前に蝶の群れを整列させてみせた。

 

 シルキーがいつもの岩場を離れて草のやわらかな木陰で腰をおろしていると、セタンタが歩いてきた。

 ナイフが差し出される。

「これは人間のものか」

「そうよ」彼女は先端がゆがんでしまったナイフの腹をそっとなでる。「持っていてくれたのね。気に入っているの。あとで探しに行こうと思っていたわ」

 シルキーの一部であったなら、魔石や回復魔法で修復できた。セタンタの槍や胸当てがそうだ。人間のものとなるとそうはいかない。

「林にはもう行くな」

「お忘れ? 命令は嫌いよ。どちらかと言えばあなたが、もう林に行かないでいるべきね」

「王の命令は特別か」

「オベロン様もティターニア様も、林にすらそう簡単には行けないわ。丘を守らないといけないもの。だからしたいと思うことがあるなら私が叶えてあげたいの。さあ、もう私を休ませて」

 セタンタにとっても、王と女王の望みは絶対で、叶えたいものだったはずだ。

「邪魔をした。……すまなかった」

 宴まではまだ時間がある。シルキーがいる丘でどう過ごしていいかわからず、抜け出して岩山で休むことにした。小川にそって歩けば、妖精ではない多くの悪魔が暮らしている。

 彼はその営みをかき乱さないよう静かに歩いて見て回った。

 主神級の後ろ楯など、そうそうあるものではない。

 見知ったチロンヌプが川岸で跳ねていたので、気配を消して後ろから抱き上げる。狐に似た頭をした小さな悪魔だ。気にする素振りもなくセタンタを振り返る。

「驚いたぜ、なんだい兄ちゃん」

 言葉を探していると、チロンヌプは身をよじって体をほぐしている。抜け出そうとしないのかとおかしくなった。

「君には困ったら助けてくれる誰かがいるのか? つまりその、いや、元はどこの悪魔だ?」

「ん? まあまあ近くだぜ。ホッカイドウ」

 セタンタはどこかほっとした。

「この国か? いざとなったらこの国の神がいるんだな? どこに行けば会えるかわかっているのか?」

「助けてくれるほど付き合いないぜー。コロポックルのじいちゃんがいるから頼るならそっちだな!」

「強いか」

 チロンヌプはけらけら笑って両手でセタンタの指を打った。

「兄ちゃんのほうが強いから安心しな!」

 突然背後からチロンヌプの大群が現れた。セタンタの股の間を抜け、靴を踏み、槍をつついて駆けていく。セタンタの手から飛び出したチロンヌプとチロンヌプの群れは一斉にくるりと振り向いて、遠くの一体を残して消えた。

(逃げないはずだ)

 弱い月明かりの奥へ跳ねていく姿を追いはせず、セタンタは近くにあった張り出した岩に手を掛けると、崖を登っていった。

 セタンタの前の岩棚に、大きな悪魔が立っている。彼に意識はない。間合いに悪魔が入ったときだけ無差別に攻撃を繰り出して、いなくなればまた同じ場所で立っている。セタンタも近づいて攻撃を受けてみたところ、元は優れた武人の動きと見た。意識が戻ってから戦いを挑むことに決め、それからは遠くから様子を見るだけにした。いつ目覚めるだろうと思いながら己を鍛えてきた。

 この悪魔こそ、セタンタが警護を任されていたゾウチョウテンだった。土地に豊穣をもたらす力を持っている。

 丘を訪れた王と女王にとって、この地の不自然に豊かな緑がどのようにもたらされたのかを知ることは丘を守るために必要だった。

 この地の異様な悪魔は二体。初めは小川の上流から下流になんらかの力が流れているのではないかと考え、アラハバキが疑われた。

 あの言葉の乏しいアラハバキからひとこと聞き出すだけでも、妖精にとっては身震いをするほどの忍耐力が必要だった。挙げ句、妖精王たちにも理解できないことを言って沈黙することもしばしばあった。

 月はいたずらに満ち欠けを繰り返し、ついにアラハバキの口から語られたのがゾウチョウテンの力だった。二体に繋がりがあるとは考えられておらず、うかつに近づけば暴れだすゾウチョウテンの調査が中断されたことに、多くのハイピクシーが胸をなでおろした。

 オベロンとティターニアは、高所でゾウチョウテンが歩みを止めているこの土地に穏やかな風がめぐることで豊穣が維持されていると結論づけ、それからずっとゾウチョウテンを見守らせてきた。

 セタンタの代わりに配置されていたハイピクシーの一人が飛んできた。

「よかった、交代?」

「いや、そういう気分じゃない」

「なにそれ、私たちだってそういう気分じゃないの!」

 返事をしないセタンタに呆れて、ハイピクシーは仲間のもとに戻ると顔をしかめてみせた。

 ハイピクシーたちは地面から遠く離れて飛んでいる。周囲の悪魔が強いからだ。警護とは名ばかりで、異常があったときの伝令が主な目的だった。オニを見たケットシーとそう変わらない。

 セタンタはゾウチョウテンが見える平たい岩の上で腰を下ろした。

(こんな警護はまるで見当違いかもしれない。それでも王と女王は手を尽くして丘を守ろうとしている。……丘だけを。いや、私はお二人にどうしてほしいのだ。すべてを守ってほしいのか、何も恐れずにいてほしいのか。妖精にもっと力があったら、あるいはゼウスに匹敵する力を持つ者の庇護があればよかったのか?)

 強大な者に見向きもされないからこそ生き残っている丘が、どこかの勢力に庇護を求めたとき、見返りに何を要求されるのだろう。強者に所有されることで別の強者の悪意に晒されても意味がない。

 少なくとも、丘の皆が愛している自由はそこにはない。

 王と女王は最善を尽くしている。丘の妖精たちの笑い声が証明している。二人は妖精を統べる者の才だけを手に丘を訪れた。それからずっと、複数の文化圏から主神級の存在が現れている今でも、へたに動かず自分たちを勢力とも資源とも見せていない。

 セタンタは二人は世界のすべてについて正しく判断する存在だと思ってきた。初めて覚えた反発と折り合いがつけられない。やがて林と丘で押し寄せたできごとが、珍しく眠りのなかに彼を休ませた。槍はいつまでも手のなかにあり、近づけば彼は目を開くに違いない。

 目が覚めたセタンタが岩の上に立つと、近くにエリゴールとベリスの隊がいるのが見えた。いつも通り戦いを挑み、最後の馬が倒れたあと、ほぐれた体で引き返そうとして足を止めた。

(マンドレイクの根は妖精の痛みを消し、魔石では回復できない人間たちも癒した。このエリゴールたちの死は何になる? 私が丘を守るとき、一人多く助けられるかもしれない。それで見合うと思うなら、マンドレイクの死も認めなければならない。無力な者を殺めることを非難し、力あるものを殺めることを称賛するのか? 私は守るために強くなろうとした覚えもない。ただ武勲を求めてのことだ)

 別の隊がセタンタを敵と見て突撃を始めている。彼は退くことを選ばない。答えが出ないまま、突撃してきた馬の勢いを利用して首に傷をつける。首は一文字に切り裂かれ、いななく馬の背からエリゴールが落ちた。セタンタは駆けよって鎧の隙間に槍を突き立てた。これまでと同じように。

 王に指定された時間まで丘には戻りたくなかったが、なにか事前に話があるのなら姿を見せないのも礼を失すると思い、セタンタは月が糸巻きのように太るなか、ぼんやりと考えごとをしながら丘に戻っていった。

 

 セタンタは赤い街を歩いていた。

(……いた)

 周囲の悪魔は妖精の集落とセタンタの岩山のあいだに暮らしていた悪魔たちとそう変わらない。それなのに、照らす光が違えば、リリムの褐色の肌もどこかよそよそしい色をしているような気がした。

 ビルの奥、街のリリムたちと二度の満月を仰げば丘に戻って良いと言われている。条件は誇らかなものを見つけてくることだ。

 なぜ街のリリムでないといけないのかと不思議に思う。里から岩山に向かうときに崖の上を見上げれば大抵は彼女たちの皮張りの翼が見えていたし、岩山のそばでも何人か見かけたことがある。

 疑問を抱きながらセタンタは空き地の手前の大きなビルを見上げた。左のビルはきれいな形で残っているが、右のビルは窓が割れ、柱が崩れ、どうにか崩れずに立っていた。かなりの層になっている。岩山と違い、なかにいくらでも悪魔が潜む空間があるのは厄介だった。

(なにかいるな)

 割れ窓の向こうから物音がする。

 窓から様子を伺っていると、上階の窓から襲われるかもしれない。下層階の天井は少なくともしっかりしていそうだと判断したセタンタは、周囲の悪魔たちの死角から窓をくぐった。

 窓は多くとも月明かりは弱く、窓際までしか届かない。物音を頼りに進むと、出どころは空き地側の窓際に近い二ヶ所からだった。一方の音が聞き取れる位置に移動する。

「上手、上手。もうマリンカリンもいらないね」

 リリムが誰かに話しかけている。

「いい顔するじゃん」

「……必要ない」

 セタンタは驚いた。

(私の声!)

 にじりよると、わずかな月明かりの中に見えるのは確かに自分と同じ姿をした妖精だった。

 セタンタはこれまで別のセタンタに会ったことがなかった。

 自他の境界がゆがんで当惑する。

(動揺するな。当たり前のことだ。見ろ、リリムもこんなにたくさんいる。里のみんなだってそうだ。あれは妖精セタンタではあるが私ではない!)

 もう一人いたリリムが話しかけている相手が自分であり、返事は自分の喉から勝手に出ているような錯覚にとらわれる。

「ねえ、あたしには?」

「いちいち答えさせたいのか」

「そうだけど?」

 二人目のリリムが指を絡めてセタンタを引き寄せた。

 吸魔が行われ、セタンタの魔力の一部がリリムに奪われる。絡められた指が離れると、セタンタは短く息を吐いた。

「よくできました。上手にできたご褒美に、マリンカリンかけてあげる。でもあたしたちは用事があるからもう行くね」

「あ……」

「お返事できなくなっちゃった?」

 マリンカリンがかかる。

 リリムたちは笑いながら窓の外へ飛び去っていった。

 街のセタンタが座りこみ、槍を床に落としたのを見てセタンタは走り寄った。本当にいままでマリンカリンはかかっていなかったのか。

「おい。槍を手離すもんじゃない。聞こえるならちゃんと持ってろ」

 まともに話ができないことは身に染みてわかっていた。視線はリリムを探してさまよっているようだ。リリムたちは彼の欲を満たしてやったことがあるのだろうか。彼を残して立ち去ると、後ろで槍が転がる音がした。

 次の場所も似たような場であることがわかった。一体のセタンタを四体のリリムが取り巻いている。似たような場ではあるが、より気分が悪い光景だった。

 欲の底を取り払われたセタンタが、どろりとした目をして、リリムたちに好きに遊ばれている。槍はリリムの手のなかにあり、舌が這わされた。自分から何度も魔力を吸ってほしいと懇願している。

 リリムたちがからかう。

「また弱くなりたいんだって!」

「きゃは。もう魔力ほとんど残ってないってわかってる?」

 かぶりを振りながら街のセタンタが叫ぶ。

 不快だった。だが、助けに入ろうとすればあのセタンタはこちらに槍を向けてくるに違いなかった。彼は目をそむけ、上階への開口部を探しに行った。

 内部には特に強力な悪魔の姿はなかった。小さな土人形のような悪魔がいたので捕まえてみると、子どもの口汚さでセタンタを罵りながら、小石ほどの瓦礫のかけらを次々に空中に持ち上げてはぶつけてきた。

「このビルには遊びに来るな。ほかのやつらにも言っておけ」

(こんな場所に誇らかなものなどあるだろうか)

 何もいない上層階にいても仕方がない。

 セタンタは堂々と空き地に出ていった。

 

(狭すぎるな)

 新しいセタンタが来た、と囁き交わすリリムたちの前を横切って、セタンタは中央に陣取った。退路を断たれてマリンカリンをかけられてはたまらない。

 早速二人のリリムたちが近づいてきた。

 セタンタは槍を向ける。

「止まれ。私の魔力がほしいだろうが、私は君たちにそれを許すつもりはない」

「いかにも堅物セタンタって感じがして悪くないけど……あたしたち夢魔のねぐらにナニしに来たの?」

「アレ、聞こえちゃったよね。恥ずかしいくらい大声で喚くんだもん。ここまでちょっと聞こえてる。同じセタンタとして怒っちゃった?」

「そんなにおしゃべりがしたいか。聞くまでもないが、魔力をすべて失ったセタンタをどうしているのか答えてみろ」

「うーん……」

 襲いかかった二人はセタンタに雷もマリンカリンも浴びせることができなかった。右のリリムの軽い体は、槍に貫かれたままもう一人を巻き込んで地面に叩きつけられた。袈裟懸けに断ち割られた死体が消えると、やけに嬉しそうな声が響く。

「ふふ、つよーい。あたしもっと口軽いよ。ねえ、そばに置いて?」

 翼をたたみ、わざと一歩ずつ近寄ってくる。

「そこで話せ」

「ううん。もうちょっとだけ」

 爪先を地面から離すと、薄い翼は一瞬でセタンタとの距離を詰める。

(速い……!)

 初めの二体の動きから見積もったリリムの能力とは段違いだった。槍を振りきれない。

 リリムは槍で裂けた腿を見もせずに、セタンタの頬のそばで手をすべらせる。

「あたしは何もしなかった。もうひとつ、証明するよ」

 するりと飛んで、あの崩れかけたビルに近づく。割れたガラスの奥が光り、衝撃が地面を伝わってきた。ジオンガの雷だ。響きが重い。高い窓からガラスが一枚外れて落ちた。リリムはその場からセタンタに聞こえるように言った。

「セタンタはあたしが殺してるよ。この魔界ができてから、ずっと。これってどれくらい? どう? あたしは口が軽いって信じてくれる?」

(このリリム……!)

 オベロンいわく、魔界ができてからもう人間の時計で二十年近くが経過している。セタンタは記憶のなかに人間の時計を持っていた。赤子が立派な青年になり、場合によってはいくつもの戦場で活躍するほどの長い時間だ。

(どのくらいのペースで、どれだけ殺した?)

「あはっ、顔色が変わった。色々経験済みなんだ!」

 あのオニの比ではない。

 戻ってきたリリムが小さな口からやわらかな舌をのぞかせる。

「あんたすごくイイ。ちゃんとマテができるなら、あたしが教えてあげる」

 魔界に顕現してしまったリリムたちは、人間界へ行く方法を求める者たちと、魔界での生と割り切る者たちにわかれた。

 後者に属するこの群れが目を付けたのが、人間の男としての記憶を持ち、その形を留めるセタンタだった。ちょうど吸魔を覚え始めたリリムたちと、武勲を求めて手当たり次第に悪魔に挑んでいたセタンタたち。初めは殺し合いになった。数が多いリリムが徐々に圧倒し、やがて養殖が始まった。魔力を吸い尽くしたセタンタを殺す。やがて月がめぐり、新しいセタンタが生を受ける。新しいセタンタは、すでに過去のセタンタを殺して力を得ているリリムに正面から挑んで敗れ、あるいはまだ弱いリリムたちに群がられて敗れ、いずれにせよ、彼女たちの魅了によって管理された。

 用済みのセタンタを殺すのは戦闘で成果を出せなかったリリムの役目だった。群れ全体を強くしようとしたリリムたちは、魔力を吸ったあとは早く遊びに行きたくて、もちろん帳面をつけるわけでもなかった。役目を負ったリリムの姿が消えても、セタンタを殺したあと、遊びに行った先で死んだのだろうと考えられた。また新しいセタンタが現れるのだから、セタンタがリリムを殺して逃げおおせたわけではないことは明らかだった。そして何度も見逃され、戦闘に向いていないと評価されていた一人のリリムだけが、こっそりと、突出して強くなった。

 あるときそのリリムはほかのリリムを全員殺した。そして次に生まれ出たリリムたちといまも暮らしている。

 セタンタは一本の樹の下で、彼女の話を聞き終えた。

「どうしてそこまでした」

「あたしだけが強くなりたかったから、かな」

 リリムはセタンタに裂かれた腿を撫でる。回復を済ませ、もう傷口はない。

「群れのみんなが少しずつ強くなったって、ここは魔界じゃん。トロいことして、強い悪魔が一匹来たら仲良く全滅。そんなのイヤだし」

「いまの群れが強くなったら殺すのか」

「逆にもう少し強くなってほしいかな。ブラックウーズ相手に経験積んで、吸魔を覚えたところで満足するコもいるから困ってる。あたしにとっては弱い悪魔でも、あたしが行かないと負けるのは面倒」

(勝手な奴だ。自分が短期間で成長したかっただけ。群れのなかで戦闘に向いていないと評価されたのも、そう間違いではなかっただろう)

「なに考えてるの」

「いや。どうでもいいことだ」

「ふーん。ねえ、どうでもいいことなんて考えちゃダメ。そんなことしてたら」リリムが樹の上を指差した。「満月が来ちゃったよ、セタンタ」

 罠だ。

 梢に隠された月がまさに満ちるところだった。

(……やられた! これは満月までの時間稼ぎ……あそこに……あ……満月が……)

「満月が……私を……操る……ッ!」

 満月の影響を受けるのはリリムも同じだった。

「とりあえずー? あんたの脳天、ハジけてみるー?」

 仲間の死と強いリリムの有無を言わさぬ行動に委縮していた周囲のリリムも騒がしくなる。何人かはまだ生きているセタンタのところへ舌なめずりをして飛んで行った。満月のせいでまともに会話もできないセタンタを見下ろして、リリムは苦しくなるほど笑う。なぜこれほど笑えるのかわからなかった。自分も会話ができていないとは気付けない。

 隠し持っていた一つの石を掲げる。

「ねえ! 知ってた? あたし夢魔なんだよー? あんたは気に入ったから、夢魔のやりかたをぜーんぶ教えてあげる! あとで魅了もかけてあげる!」

 セタンタは秘石を使われたとも理解できない。立ったまま眠りに落ちていった。リリムは傍らに寄り添うと、彼の夢に侵入した。

 

 セタンタの前に知らない光景が広がった。細かな赤土が荒れ野を染めている。リリムが空を見上げていた。声を掛けようとしてやめる。あのリリムではない。見知らぬリリムだ。彼女は自身の熱っぽい視線を隠すように、白い手袋をはめた両手を上げた。わずかに開いた指の隙間から、見逃してはならないというように二つの眼が覗いている。

 体がくの字に曲がっていく。おかしくてたまらないと、口が狂気をはらんで歪んでいく。やがてはち切れるように、整った唇が大きく開かれる。ひとことずつ体の全てを絞り出すような声が大気を震わせた。

「ああ、そうよ。いいわ! ママ!」

 見間違いでなければ、最後に一度なにかを睨みつけたようだった。そのまま彼女は一筋の強い光となって消えた。

 セタンタが息を飲む。身じろぎした拍子に動いた足から、赤土を押しやる重みが伝わる。ほかにいまの光景を見た者はいないかと周囲を見渡そうとしたとき、風景の隅が暗くなり、気づくとトウキョウにいた。体は背後にあった樹にもたれかかり、足元を見ると見慣れた砂に足を踏みしめた跡が残っている。赤土の感触だと思ったものはこれだったのだろう。

 かつてセタンタは人間だった。眠るという感覚には生まれついての悪魔より詳しい。それでも夢を夢だと気づけなかった。ひどく生々しい夢だった。

(睡眠を掛けられていたのか。それからどのくらい経っている?)

 幹に後ろ手をついて体を起こした。すぐ隣でリリムがうつむいている。慌てて距離を取ると槍も手のなかに強く握りこまれたままだ。攻撃や略奪の痕跡はない。

「器用だね」

 ぽつりと声がした。顔を上げたリリムの頬は紅潮していた。恥ずかしげに引き結ばれた唇も、これまでの余裕をにじませた笑みとは様子が違う。

「なに? 夢に介入しようとして逆に入られた。あれはあたしの夢なんだから! 勝手に入ってこないでよ!」

 最悪、最悪、と繰り返す。セタンタは片手を腰に当ててリリムを眺めた。

(こちらの台詞だな。妖精の夢に入ろうとするほうが悪い)

 夢魔ほど特化してはいないとは言え、夢は妖精の領分でもある。互いに干渉してもおかしくはないだろう。彼女は夢のなかにいなかった。セタンタを見ただろうか。荒れ野に立つあのリリムとセタンタの二人を。

「ママって言ってたな。なんだあれは。母親なんて」

「……あたしたちにはいるわ」

「へえ」

 セタンタは興味をそそられた。軽く構えていた槍を下ろす。

「聞かせてくれ」

 リリムは迷っているようだった。セタンタにその場所を動かないように言い置くと仲間たちのところへ向かった。手袋越しに爪を噛んでいる。リリムたちは少しするとしんとして、やがてすべての目がセタンタに向けられた。いつまでも逸らされない視線が嫌になって、もう一度後ろの幹に背中を預ける。

(深刻な話になるなら別にどうしても聞きたいってほどじゃなかったんだが)

 随分と待った。すっかり興味が薄れたころになってリリムたちが連れだってやってきた。先頭に立ったのはセタンタに夢を見せた彼女だ。

「おい、別に私は」

 オベロンに言い渡された二度目の満月まではまだ長い時間があった。この空気が続いてはとてもいられない。案外あの挑発的な言葉をあしらっている時間のほうが好ましかった。リリムは自分の口元に人差し指を立ててセタンタを黙らせた。

「教えてあげる。ママのこと。ママ、始まりの女リリス。ムカつく神サマに逆らったあたしたちの最高のママ」

 周囲のリリムたちが引き継いだ。

「ママは神サマに逆らった。だからあたしたちリリムは毎日百人が神サマに殺された」

「ママがどこにいるのかわからない。だけど毎日仲間が死ぬから、その度に喝采をあげた。今日もママは神サマに楯突いてる。最高だった」

「だけどあいつが消滅したから」

「ママのこと、なんにもわからないじゃない。ママもあたしたちもなんともなかったわ。百人殺されるからなに?」

 初めのリリムが言った。

「あんたが見たのは神サマがあたしたちを殺すとこ。正確にはあたしたちが初めて、あたしたちが殺されるのを見たところ。その記憶。あたし、初めてあの夢を見たあとずっと笑ってた。神サマってばかみたい。ママが毎日毎日もっと魅力的な女になるばっか。おっかしい!」

 

 丘の誰にも言えないことだと思いながら、セタンタは幽閉されたセタンタがどのように死を迎えるのか見たくてしかたなくなった。

 あの満月のできごとからはよそよそしい態度だった傍のリリムにも、ついに打ち明けてしまった。

 彼女はゆっくりと両腕で自身の体を抱きしめると、小さく唇を舐める。

「ヤバいくらい倒錯してる。あたしがそうさせた? イイよ、もっとして。あたしのこと気持ちよくして。もうすぐ生まれる新しいセタンタを倒してあのビルに連れ込んでくれたら見せてあげる」

 セタンタはこれを了承して、彼女をますます悦ばせた。

「あは。魅了していたぶるよりずっとイイ」

 リリムは喘ぐような声を漏らし、曲げた指を噛む。目の前で自分を見つめているセタンタを誘惑したい気持ちを、どうにか押しこめなくてはならなかった。セタンタ同士が正気のまま戦うのだ。

 冷たく光る月は夢魔と妖精の取り引きなど知らない。

 赤い街にセタンタが顕現した。

 彼は周囲を見回して、リリムたちのあいだをまっすぐに歩いてくる一人のセタンタを不思議に思った。

「構えろ」

「なんだ君は」

「構えろ。死ぬぞ」

「君は……魅了されているのか」

「いいや」

 戦いを挑んだセタンタはマハザンマをわざと外す。相手から戸惑いが消え、ようやくしっかりと槍を構えた。鏡に映したような、まったく同じ構えだった。

「リリムの味方をするつもりか」

「それも違うな」

 緊張に堪えかねて生まれたてのセタンタが仕掛けた。同じ構えであっても、速さも力もまるで及んでいない。槍は叩き落とされ、そのまま柄に横から胴を打たれ、槍から離れた場所に這いつくばる。彼はまだマハザンマを習得していない。槍でしか戦えない。槍を取ろうと体を起こしたところで、首元に冷たい穂先を突きつけられた。

「君は槍を手離した。もう勝てない」

 何もわからないセタンタは槍を突きつけられたまま壊れたビルに入る。こもった空気が重い。先へ進むと、薄暗がりで六人のリリムがくすくすと笑っていた。背中を手のひらで突き飛ばされ、リリムたちに抱き止められる。

「寄るな!」

 手を振り払われたリリムたちは少し離れてまたくすくすと笑う。セタンタは信じられないものを見るような目で、逆光に浮かぶ輪郭に問いかけた。

「まさか君は、私をリリムに売ったのか」

「まあそうだ。槍はここに置いておく」

 セタンタは後ろに付き添っていたリリムから槍を受け取ると、部屋の隅に立てかけた。

「そんな、そんなことが、君は勇士の志を失ったのか! 師範様が君を見たらどう思う! 目を覚ませ!」

「もー。うるさいんですけど。じゃあ勇士の志ってやつ、捨てちゃダメだから。はいがんばってー」

「よせ、来るな!」

 あ、と小さな声がして、セタンタは魅了にかけられたようだった。

 もう一人のセタンタのもとに向かう途中、あのリリムが背後から手を伸ばしてセタンタのことを抱きよせてきた。彼女にはいま魅了をかける理由がないとわかっていて好きにさせる。セタンタはどうしたのかと尋ねた。

「今のセタンタ、師範サマって言ってた」

「ああ」

「あたし、たくさんセタンタの相手したから、知ってることも多いよ? あんたよりセタンタって妖精に詳しいかも。ねえ、本当はほめてもらうのが好きなのも、認めてもらえると嬉しくなっちゃうのも、全部わかってるよ。調子に乗っちゃって、師範サマに怒られるんでしょ。そういうの全部感じさせてあげるから、ずっとここにいなよ。あたしだけがあんたの魔力を吸って、でも絶対殺さない。回復させてあげる」

「……セタンタを見せてくれ」

「見たら、あんた行っちゃうの?」

「次の満月まではここだ」

「そうなんだ。あんた誰かに命令されてるんだ。前の満月であたしに好きにされたのに。ふふ、そっか」

 なめらかな腕がするりと離れていく。機嫌を良くしたリリムはセタンタを追い抜いて先導した。見覚えのある場所まで来たが、物音はしない。壁の先を覗きこんだリリムが振り返って手招きをする。

 セタンタがなんとか上体を起こしている。

 あのとき取り落とした槍に手が伸びていて、わずかに指先がかかっていた。持ち上げる力はもうない。

「聞こえてるかな。いま気分がいいから教えてあげる。あんた従順だったけど、もう魔力がなくなったの。次のセタンタがほしいから殺すね」

「君は、槍を……私は……抗えなかった」

「え? なにー?」

 雷光が走り、辺りがあまりに急に明るくなったので、セタンタの目は少しのあいだうまく見えなくなった。激しい音に混じって若い声がなにか言った。途切れてわからなくなる。

「……ぞくぞくする。あんた本当に見殺しにしちゃった」

 床にはもう何も残っていない。

(懺悔……)

 彼が最後に残した言葉を確認したセタンタは、リリムとともにビルを出た。あのセタンタに初めて出会ったとき、もう一人の自分だと思った。閃光のなかでも、その感覚はほとんど変わっていなかった。

 また満月が来る。

 セタンタのことはもうすっかり強いリリムが独占していて、ほかのリリムは彼を遠巻きにしていた。

「今度こそ、あんたはあたしの好きにされるの。まだちょっとだけ時間があるよ。殺せるかやってみる? 逃げてみる?」

 セタンタは前の満月と同じ樹の下で黙っていた。

「あんたに命令したヤツに、そんなに認めてもらいたい?」

 後ろ手にこぶしを握った彼女の手袋が鳴る。歯を噛みしめる姿すら愛らしく見える少女の姿の内側に、彼女の気性が荒い息を隠している。

 ぎりぎりまで待ってから、セタンタは持ちかけた。

「私と賭けをしないか」

「どんな?」

「今度は君がこの幹を背に立つといい。私はあちらから、満月にちょうどマリンカリン一回分だけ間に合わないように、槍を構えて走ってこよう。君も私も満月とともに正体を失う。月が欠けたとき、君に魅了された私がいるなら君の勝ち、樹に縫いとめられた君がいるなら私の勝ちだ。私は前回敗れていて、勝ち目が薄いからこう言うのだ。だから君が応じてくれるように考えていた。私が負けたときは終生の服従を誓おう」

「どういうこと?」

「君が私に魅了をかけてもかけなくても、私は生涯君の言いなりになる」

「へえ……そんなの本当に誓える?」

「ああ、この槍に。どうだ?」

「……いいよ、やろ」

 セタンタは歩きながら空を見た。

(ここだな)

 この空き地でまた槍を構える。

 ほかのリリムたちがなにごとかとさざめき、セタンタが月が満ちる速さに合わせて走り出した。リリムは約束を守って樹の前にいる。

「二人とも死んじゃえばいいのに」

 どこかのリリムがそう言ったのを聞いた。

 月がいま満ちた。

 リリムを高揚感が包む。負けるわけがない。相手は高揚どころか満月の光に当てられて、満足に喋ることもできないのだから。

 彼女が高らかに笑いながらマリンカリンをかけようとしたとき、セタンタの脚が急に速くなった。

(なに? コイツ……加減してたんだ!)

 前後不覚になれば、走れたとしても本来の速さでしか走れない。リリムが初めにほかのリリムの速さでセタンタをあざむいたのを見て、彼もそれを盗んだ。それでも槍に誓いを立てるにはルールに嘘はつけなかった。この速さで丁度マリンカリン一回分だ。

「操る……満月……来るッなッ」

 誰を相手に話しているのか判然としない。体に染みついた動きだけが彼の命運を繋いでいる。

 鋭く迫る穂先がリリムを迷わせた。必ず攻撃できるジオンガと、かかる保証がないマリンカリン。そして、マリンカリンによる勝利を条件とした終生の服従という言葉。

 二人がぶつかる。

 彼女のマリンカリンは間に合わなかった。

 セタンタの槍も、急所を貫くことはできなかった。

(痛い、痛い痛い痛い! ずるい! こんな条件!)

 セタンタが走れるのか、マリンカリンは成立するのか、ジオンガに切り替えた場合セタンタの足を止められるのか。持ちかけられた話は二つに一つで勝つ類のものではなかった。そこに服従を吊るされ、月にせかされ、急いで了承してしまった。

 だがまだ月は満ちている。

 彼女は怒りにまかせてジオンガを放った。雷に巻きこまれた枝が弾ける。セタンタは飛び退くことも、防御することもできず、膝が沈んだ。

(ほらよけられない。そう、いまから魅了すればいいんだ。勝ち負けなんて、魅了したら自分から負けましたって言うんだから! 魅了なしで従うなんて言って、いくらでも嘘つけるじゃん)

 マリンカリンをかける。魅了された様子はない。もう一度試みようとする彼女に冷ややかな声が浴びせられる。

「見苦しいんだけどー」

「あたしルール聞いてた。あんた間違ってるよ? おぼえられなかった?」

 ほかのリリムたちだった。満月で高揚している彼女たちはこのリリムが恐ろしくなくなっていた。だって磔にされている。

「うるさい」

 広範囲への雷撃、マハジオンガが空き地の向こうのガラス窓を揺らす。

「はーヤバ。キレてるじゃん。そっちがうるさいんだけど」

 リリムたちが扱う技は雷撃と魅了。そしてそのどちらも、彼女たち自身に効果はない。それでも、マハジオンガが意味をなさなくても、彼女は周りの雑音が耳障りだった。

 別のリリムが樹の後ろから彼女の尾をわざとらしく撫でて、手が届かない場所へ飛び退く。

「あんたのこと、強いからリーダーでも仕方ないかって思ってた。でもこのセタンタが来たとき、あたしたちのこと囮にしたよね。あれからずっと考えてた。もうここにあんたはいらない」

 月が欠けていく。リリムたちの興奮は月の力に依るものではなくなっていた。

 セタンタの意識が正常に戻ると、槍はリリムに届いていた。右半身が痛む。焼けている。リリムが少なくとも一度ジオンガを使った証拠だった。気取られないように魔石を使って回復する。空き地のあちこちに雷が落ち、槍の先の彼女は空に向かって怒り狂っている。状況を理解するのには少しかかった。

 樹上には鳥の群れのようにリリムが集まっていた。磔になったリリムの魔力を吸い上げては、ジオンガにして捨てている。強力なリリムといえど、ここまでの消耗に加え、この数から襲われては追いつかない。ついに彼女の魔力は一度の吸魔すら使えないほど吸い尽くされた。

 セタンタが槍を引き抜くと、彼女はふらふらと前に出た。地上に下りてきたリリムが彼女の手を引く。

「痛い……!」

「痛そうだね? でもこっちだから」

 彼女たちはビルのほうへ向かっていく。別のリリムが遠くからセタンタに声をかける。

「あたしたち、あんたたち二人ともが怖かった。お願いだからもうどっかに行って。満月はもう欠けた。あんたの強さにはどうやったって敵わない。あんたは次の満月、ううん、新月が来るよりずっと早く、今すぐにだってあたしたちを皆殺しにできる。でもまた新しいリリムは生まれるんだから。あそこのセタンタを連れていくならそれでもいい。ほかの悪魔を探す。ラクシャーサだって、なんだって。だから」

「それならもう行こう」

 セタンタはあのリリムをすぐに追い越した。深手を負ってうまく進めないのだ。空き地の端までくると、向こう側からビルのなかにブラックウーズたちが入っていくのが見えた。率いているリリムたちが魅了をかけたようだ。

(毒液と吸血。恨まれたものだな)

 数えきれないセタンタを殺した場所で彼女は最期を迎えるのだろう。

(私は運が良かっただけだ)

 今ごろあの場所には自分がいたかもしれない。槍で縫いとめるまでは賭けの範囲だった。だが月が欠けるまでのしばらくの間はリリムが圧倒的に有利だ。この先はもっとずっと運を天にまかせた話で、あのリリムが仲間の反感を買っているのは明らかだったために、槍で動きを止めたならほかのリリムたちが何か行動を起こすのではないかと時間稼ぎのあてにした。

(それにしても)

 彼はビルを過ぎてから、遠くの瓦礫の奥でうずくまる一体のブラックウーズを見て思う。

(彼女たちはあのブラックウーズを管理し続けるのだろうか)

 二十年間セタンタの命を取り込んできたリリムだ。それを絶命させたブラックウーズは、大きな力を得るだろう。

 

 オベロンは金の林檎を眺めていた。イズンの金の林檎には違いなかったが、皮は真鍮のように曇り、受け取ったばかりのころは手に乗せると温かかった。

 林檎をもらって帰ってきたジャックランタンが焼いてしまったというのでもてあましている。もう一度ジャックランタンを使いに出したが、悪魔の炎で焼いたあとの林檎がどうなるかはわからないという返事だった。

(さて、どうなるのやら。私が食べてみましょうか)

 妖精の好奇心ときたらどうしようもない。ティターニアの目を盗もうとしていたオベロンは、里の入り口まで戻ってきたセタンタが足を止めてしまったことを気にかけた。

 こちらへ来るのをためらっているようだ。マフラーの房飾りが風に招かれるのにも応えずに、小川を見下ろしている。

 オベロンは林檎を高い岩の上に置いてくるようにジャックランタンに言いつけた。

「セタンタ」

 呼びかけは届いた。心はどこか別のところにあるようで、彼の靴は流れに踏みこんで川底を鳴らす。水を滴らせて草を踏みながら、彼は表情らしい表情を作ろうとして、うまくできなかった。妖精王の視線に街での自分を見透かされるのはどうしてもいやだった。それなのに、どんな風に振る舞っても隠すことができないような気がした。

「誇らかなものはありましたか」

「……古いものがひとつありました」

「話してごらんなさい」

「……リリムの夢に入りました。そこは遠い昔の、あるリリムの記憶のなかでした」

 彼は言葉を探しながら話した。リリムはリリスと共にあり、その背は迷いなく知恵の神に向けられていた。彼女たちはリリスに従ったのではない。死を前に膝を折ったのではない。見たものなら話すことはできても、自分が感じたことはなんでも濁っているような気がして、なかなか言葉にならなかった。

「誰かの意思に命を捧げた者が、いよいよ死が目の前に現れても確かに恐れず、誇らかに去っていった、と?」

 セタンタは口のなかで王の言葉を繰り返してみた。ゆっくりと、二回、三回と繰り返してみた。

「そのようです」

「よいでしょう。私はあなたが持ち帰ったものを知りました。あなたはリリムだけでなく、抗い得ぬ力を見たことを忘れてはなりません。相手が違えばこの夢は、あなたのもとに長くとどまらなかったでしょう」

 耳元を飛ぶ蝶の羽音がする。大切なはずの話を、深くて暗い水の底で聞いている。王の黒い翅がゆらりと動いて水面のようだ。

「このことについて私から話すべきことは少ないのです。ですから別の話をしましょう。いまのあなたはまるで亡霊です。丘の風も石に吹きつけるようにむなしく流れていきました。何か話したいことがあれば、そうですね、ひとつ聞きましょう」

 セタンタはさっきから自分がまっすぐに立っているのかよくわからなくなっていた。街であったことを話したくなかったが、記憶はどんどん重さを増して、長くは抱えていられないともわかっていた。

「私は……」

(私は私を殺しました)

 こちらを覗いているジャックフロストが目に入る。セタンタが叱られていると思って、オベロンをとめろとティターニアに合図を送ろうとしている。ティターニアは知らぬ顔だ。

 よく笑う、いたずら好きの、好奇心ばかりの妖精たち。セタンタは悲痛な声をあげた。

「恐れながら、ここでは、ここではどうしてもお話しできません!」

 思わずティターニアがセタンタに飛び寄りそうになる。オベロンはそっと彼女の腰に手を当ててそれを制した。

「皆がいるからですか」

「そうです」

「困りましたね。ではこうしましょう。もうすぐ宴が始まります。私が取り仕切っているあいだに、ティターニアがあなたの話を聞きます。ティターニア、任せてもよいですか」

「ええ」

 セタンタは慌てた。

「待ってください! 女王のお耳に入れるようなことでは……!」

「私に話そうとしたとおりに話しなさい」

 もう決まってしまっていた。王はジャックフロストからセタンタを長いあいだ叱ったと責められとぼけている。宴に浮き足だった妖精たちが去り、二人だけが残された。

 女王はセタンタに微笑みかけ、自分の隣に座るように命じた。いつも王が立っている場所に。

「まさか。そこは玉座ではありませんか」

「私が許します。誰も見ていないし、主が使っていないのだからいいでしょう? お話しをするのにちょうどいい場所ですもの。あなたはたくさん考えるわね。それなのにいつもよりもっとたくさん考えて、それでは倒れてしまうわ。だから命じます。特別に疲れているあなたは何も考えず命令に従うだけ」

 逆らえない。槍を玉座に上げるわけにはいかないので、すぐ手が伸ばせるよう地面に置いて、おそるおそる腰掛ける。岩のおもてがごつごつとしている。女王が嬉しそうにする。目や手に集中しようとしたが、何も考えないでなどいられない。

「女王を立たせて私が座るなど、こんなことはありません」

「あら。お客様が見えてはいけないから私はこのままでいいわ」

 きっと外敵のことだと思った。彼女は豊かな金髪を長い耳にかけ、少しだけ屈みこむ。ドレスの裾が足輪に触れた。

「それよりも聞かせて。私は、と言いかけたでしょう。あの続きはなんだったのかしら」

 体を起こした彼女は宴に出ているオベロンの背を見た。いつもより時間をかけて進めているに違いなかった。

 立っていると、セタンタがマフラーの下で何度か口を開こうとして苦労しているのを盗み見ることができた。

「私は、私を殺しました」

「ここにいるのは誰かしら」

「私だと思ったから殺してしまったのです。自分以外のセタンタを見たのは初めてでした。理屈では別の存在だとわかっていても、どうしてもあれは私でした。初めは救おうとしました。しかし救えませんでした。私は屈服したまま生きながらえていました。私は群れかたも知らず、自分の力以上の強さは持たない。せめて、一騎打ちをするような私は、死を前にすれば群れる悪魔より誇り高くあってほしい、それを確かめたくなりました。私は幾人かの私を見てきて、もうこのときには死ぬ私を眺める何者かになった心持ちがしていました。あれは私だから、私が死ぬところを見てもいいと思いました。見殺しにしたと言われて、ようやく私は私を重ねていただけの、一人のセタンタを殺したことに気がつきました。私の心は半ば地に伏して、死んでも生きても、誰かのものになっても、どれでも構わないような心地になりました。その心地のまま戦って、結局生き長らえて戻ってきました。まだ生きているセタンタもいたのに、私ではない私のことを見ないようにして立ち去りました。運で生き残っただけです。そもそもこの地に生まれたことが幸運だったのに、それでもようやくのことでした。別の私が繋がれて、この私が自由の身である、それだけの境遇は私にはふさわしくないと思いました。私こそ繋がれるべきだと申し出れば、私もあの場所に繋がれたでしょう。しかしそれもできませんでした。私は私と出会ったあの場所を、少しでも早く去りたかったのです。あの私はもう死んでしまったかもしれません。でもまた、何も知らない新しいセタンタが現れるのです。私が率いてあの場所の形勢を逆転させても、形を変えて同じことが起こるだけです。私にはわかるのです。私が鍛練の相手にしていた悪魔と、あの場所の私は同じ立場にありました」

 全部話してしまった。

 ひとこと話し始めるとすべてを話さずに誤解されるほうが恐ろしく、どれもこれも話さなくてはならないような気になった。

 ティターニアは彼が泣いているのではないかと疑った。妖精の眼から涙は流れていなかったが、それだけの違いのように思えた。

「まだたくさんのセタンタがあなたとしてあなたのなかにいるのね。そう、妖精としてのセタンタは世に一人ではないわ。人間だった記憶を持つあなたが戸惑うのは自然なこと。だけどここではその機会を与えてあげられなかった。ねえ、オベロンはあなたに満月を二回見てきなさいと言ったでしょう。あれはどうしてかしら」

「満月の強い光は私に正体を失わせます。それを知られても対処できるようにとお考えになったのだと思っていました」

「そう。それから、街のセタンタがどのような状況だったとしても、あなたが会えるように」

「どのような! そんな……!」

 街での光景を思い出して腿に乗せた両手が握りしめられる。

「人間を匿ったのは本当に特別。とても危ないことよ……オベロンはあなたが誇らかなものを別のセタンタと出会って見出だすと思っていたようね。でも結果としてあなたは同じことをしたんだわ。妖精としての自分についてよく考えて帰ってきたんだもの。ねえセタンタ、騎士は妖精にとって憧れるほど価値があるものかしら。以前にあなたが言った、認めてほしいって理由なら騎士になんかならなくていいの。すべての月の下で何度でも、あなたがどれだけ素敵で大事な私たちの妖精か教えてあげましょう」

 セタンタはティターニアのくすぐるような声を聞いて、それでもいいような気がした。彼女の流れる髪に飾られた百合の花が清らかに花弁を開いている。手のなかにない槍を見て、彼はじっと考えた。

 ティターニアは両の手を体の前で重ねて待っていた。その手にはいつもより力が入っていた。セタンタが見上げる。里に戻ってきてから初めて、しっかりと誰かの顔を見た。

「私はまだ王のすべての問いに答えていません」

 女王は残念そうにした。

「オベロンは本気であなたの素質を試しているわ。死んでしまうかもしれないと、これまでも思ったのではなくて?」

「それでも決めました」

 セタンタらしい揺らぎのない声だった。

「おや、転んでしまったのですか」

 困ったように見つめあっていた二人は、背の高い岩の陰から現れた王に声を掛けられはっとした。

 いつの間にか丘の篝火が消えている。妖精たちが三々五々、お気に入りの場所へと帰っていくのが見えた。

「ええそう、かわいそうなことをしたわ。もっと近くに立ちなさいと言ったものですから」女王は平然と答えた。

「まだ痛むなら座っていなさい」

「いいえ!」

 大岩から勢いよく立ち上がったセタンタは、忘れずに槍を拾い上げて王にその場所を空けた。王と女王がおかしそうに笑っても、ちっとも嫌な気持ちはしなかった。真面目な顔でまっすぐに立ちながら、二人のことが好きだと思った。

 間違いを犯した自分を赦せなくても、指先は温まっていくようだった。

 大岩に二人が並ぶ。

「それでは私はここに翅を広げて客人を迎えましょう」

 気づいていなかったのはセタンタだけらしい。英雄フィン・マックールが軽い足取りで小川を越えてきた。セタンタよりずっと背が高く、長い両手剣を軽々と扱う。強い騎士だ。編まれた金の髪が赤いマントに流れている。王と女王に礼儀正しく挨拶をしてから、セタンタにはもっと気安く振る舞った。

「なんだ。王座に興味が出たんじゃないか」

「違う」

 そっけなく答えると、フィンは思わぬことを言う。

「そうかい。で、竜退治だって? 俺も暇じゃないが、王に頼まれてはな」

 オベロンはがっかりした。

「フィン、私はいまから彼に話すところでした」

「おっと。まさかそうとは思いませんでした」

 丁寧に謝罪の言葉を述べ始めそうだったフィンを遮って、オベロンはセタンタに告げた。

「そう。竜退治です、セタンタ。英雄として名を残す者には、竜を退ける者も多かった。優れた勇士である証となるでしょう。フィンがこの魔界に息づく竜を教えてくれます。あなたはそのなかで自分の力に見合うと思う竜を倒し、生きたまま首に縄をかけて連れてきなさい。これが最後の問いです。戻ったら小川は越えず、ほかの妖精が近づかないようにしておきなさい」

(自分の力に見合う……)

 

 意地を張り、休みもせずに丘を発った。フィンと遠くへ行くのは初めてだった。街へ出たのもこの前が初めてだったのだから当然だ。

 彼は時々稽古をつけてくれ、セタンタの槍が上達したと褒めた。厚く積もった砂に足を取られて体が砂まみれになることすら愉快だった。そしてそんなことがあるたびに、セタンタたちを見殺しにしたあの街を思ったが、フィンには何も話さなかったし、フィンのほうでも何も訊かなかった。

「結局アンタはバジリスクを選ぶかもしれんがね」

 岩山にも丘の近くにもいた鶏のような悪魔だ。妖精は朝を告げる鶏を好ましく思っていなかったから、セタンタも良い印象はなく、まさか邪龍だとは思わなかった。セタンタはもうずっと竜退治をしてきたことになる。

 草木は減り、砂が増え、フィンが向かう先は崖になって落ちていた。黒い海の向こうに崩れた巨大な橋が見える。上空を旋回する黒い影がはっきりと確認できた。大きな翼と長い尾があった。目の前に降り立ったなら小山ほどの大きさだろう。

「いかにもドラゴンだろ。アンタに初めに見せたかった。セト。あれは強い。過去のどんな英雄も一人では敵わんね。それにイシスの讐敵だ。手を出すもんじゃない」

「イシスの?」

「愛する者を殺されたんだ」

 セタンタにはその気持ちははっきりとはわからなかった。丘の端にたたずむイシスの上に、竜の黒い影が落ちるところを思い浮かべた。影は丘を滑り、見上げるジャックフロストから月の光を奪って、大岩に向かっていく。誰もそれを止められない。

「なあ」

 フィンの声に空想から呼び戻される。

「実はここなら東の竜も見せてやれると思ったんだが……もう倒されてしまって、いまはいない」

「強い竜だったのか?」

「竜退治で力量を測ろうとするのは妖精王だけじゃない。まあいいさ。先を急ごう。東の竜も見てくれよ、翼がないからたてがみのあるトカゲのような格好でね。爪が多いほど位が高いってんで、大国が五本爪の竜を掲げれば、小国はもっと爪の多い竜を掲げた。ほら、これで二頭の東の竜と出くわしたらどっちに平伏すればいいかわかるだろ」

「あなたが竜に平伏することがあるのか」

「東の竜を舐めてかかって引き裂かれても知らんよ、俺は」

 広いばかりの砂地を横切って、東の竜を見に行った。山道にいるのは小さな火竜ばかりのはずなのに、強い気配に肌が痺れる。ひらけたところに出て、セタンタは前に出られなくなった。

 前方にオニがいる。気配はその先だ。

 あんな場所に立ったらいつ死んでもおかしくない。

 フィンがセタンタの肩を叩いた。

「アンタは俺と稽古をしてる。だからこの気配がどれくらい危ないかわかるんだ。まああんなところでぼーっとしていても死んでないだろ? もっと近くまで寄ればいい」

(これが……コウリュウ……)

 金の体をうねらせて、巨大な竜が天にとどまっている。

 敵わない。歯牙にもかけられていないから生きていられるだけだ。セトが目の前に現れたらどんな心持ちがするのかわかった気がした。

 爪を数えると五本あった。

 フィンは倒された竜をセタンタに見せられないことを残念がって、生きている竜はなんでも間近で見せようと、魔王城のなかまで入っていった。

 セタンタは周りの悪魔が強くなるにつれて、緊張で疲れを感じるようになってきた。そのことをフィンに打ち明けようとは思わず、脚に力を入れてついていく。

 彼らが休むのは満月が輝くあいだだけだった。その時間もセタンタは月の光に翻弄されて休息が取れない。竜退治に興奮しているだけだから休んだほうがいい、長く戦うなら必要なことだ、そう言われても従わず、フィンが歩幅を狭くするのも歩調を緩めるのも、めざとく見つけて文句を言った。

 これが最後の問いだと告げられていたセタンタは気が急いた。

 早く答えを出したかった。

 竜というのは一体どれほどいるのだろう。

 フィンも慎重さを見せるようになった街で、セタンタは悪魔の痕跡を見つけて屈みこんだ。

 人間が車を並べるのに使ったらしい線は魔界中に伸びている。丁寧に同じ幅で描かれていて、砂から元の地表が露出している地域では簡単に見つけることができる。線は擦りきれて消えかかっているものも多い。人間たちの生活によって消えたものばかりではなく、同じ種の悪魔がまとまって暮らしている地域では、彼らが何度も白線の上を通るうちに爪や尾が特徴的な跡を残すことがあった。

 巨体の重みで割れた舗装路、小さな炎を持つ悪魔が座ったために円形に炙られた車。砂は風とともに形を変え、悪魔は小競り合いでもあればしばらく姿を消してしまうが、瓦礫の上の痕跡はいつまでも残る。

(これが竜の尾か腹の跡だとすれば、持ち主はセトと同じくらいある)

 周囲を見回しても姿はない。

 フィンが前方にある見上げるほどに大きな光る箱を指差した。

「アンタみたいに慎重だとかえって騙される。見な、ヤマタノオロチが来る。あれも竜だ」

 箱の裏から姿を現したのは奇妙な竜だった。ひこばえを伸ばす切り株のように、八つの首が輪になって太い胴をなし、首一つぶんの尾がひょろりと伸びている。

 白線に跡を残したのはあの腹だ。フィンが空を見る。

「で、こうしてると上がおろそかになる」

 セタンタが同じほうを見上げると、鎧を着込んだような銀色の竜が飛んでいる。割れた声が喉から漏れる。一頭が二人の姿を認めて迫っていた。

「戦う気はないんだがね。おい、こっちだ。ファフニールはなかなか速いぜ」

 どこをどう走ったのか、疲れた脚でフィンを追ううちに、ファフニールが縄張りとする空よりも高い土地まで来ていた。

 黒い岩に囲まれた小さな突き当たりだ。異様に重い気配が満ちている。龍穴に似た赤い光の柱からだ。このような気配が世界に存在していいのか。

「ヴァスキも留守と。中に入ったのかね」

「……その中……なにがいるんだ」

「竜じゃない。忠告しておこうか? 俺なら絶対入らない。ヴァスキ、まあコイツは竜なんだが、ヴァスキが留守ならちょうどいい。ここでさっきの竜の話でもしておこう。なあに、こんなおっかないところに誰も来やしないさ」

 満月に騙されて柱に向かって走っていく姿を想像する。セタンタは光の柱からなかなか目が離せなかった。中にいる存在が出てくるなら、見逃そうが見逃すまいが死ぬに決まっている。それでも本能が理性に追いついてこなかった。ようやくのことでフィンの隣に腰をおろした。

「奴らは言ってみれば英雄に倒された竜たちだ。首が多かったほう、ヤマタノオロチはこの国の竜で、スサノオってやつに倒された。硬そうな竜はファフニールで、ジークフリートって王家の出に倒された。スサノオは完全に神の身だ。この旅で会ったなかじゃ、ファフニールが人間に倒されたうちで最も強い竜ってことになるのかね。さて、もう見るもんは見ちまった。どうする? 俺は手伝わん決まりだ。お望みの竜の棲み家まで送っていく。そこで別れよう。見届けたいが、俺も命を受けて協力している身でね。帰らなきゃならん。内容がアンタとの竜退治と聞いて驚いたが、悪くない旅路だった。良かったよ。アンタ生き生きしてたぜ。遍歴の身が性に合っているんじゃないか……と、これは余計なことだった」

 フィンはもう、この魔界で仕えるべき者を探し出して行動を共にしている。セタンタも見たことがある。青い髪の悪魔だ。痩せていて、燐光でできた片手剣を扱っていた。

 彼の王らしい振る舞いは目にしなかった。仕えたい相手だとも思わなかったが、王たる行いがなせる悪魔だとフィンが言うのだから、ひとかどの悪魔なのだろう。

「案内してくれて助かった。そうだな、ユルングに挑むことにしよう」

「そうかい。じゃあ行こう」

 嘘だった。フィンと別れたあと、セタンタは引き返した。早く王と女王の前に立ちたい気持ちに変わりはない。あの大きさの竜を連れ帰ることができるかを考えないほど、冷静さを欠いていたわけでもない。あとで別の竜を連れ帰れるつもりで、ただ、人間の身で倒した者がいると聞いたから戻るのだった。フィンの言葉はあまりに強い衝撃となって彼を呼び続けた。

 王と女王の騎士になれば、もう自由に出歩けはしないだろう。フィンがあの悪魔の元へ帰るように。誇らしい不自由だ。

 だからいま行かなくてはならない。

 道は覚えていた。地形で方向を見定めながら迂回する。フィンの強さを思い知った。セタンタだけでは逃げ回ってばかりだ。何度か危ない目にあい、槍に体を預けてようやく歩いたこともあった。

 満月が近づいたときも一人で対処しなくてはならず、堅牢な建物を探し、窓のない場所で扉を塞いでじっとしていた。大声を出していたのか、我に返ると扉を外側から何かが押し破ろうとした跡が残っていた。

(強くありたい。月の光ひとつに惑い、小さな獣のように身を隠す。私は生涯こうして生きるのか。きっと長くは生きないだろう。それを何者として生きるのか、王は私に尋ねたのだ)

 勝算があって挑むのではないが、ファフニールは人間の身であるジークフリートが倒した竜だ。人間の強さの限界は、少なくともファフニールの力より先にある。その強さを肌身で感じれば、神と人間のあいだの子としての記憶に縛られ続ける自分の可能性を、生き証人が指し示す。

(命を粗末にするつもりはない)

 また薄暗いビルのなかのセタンタたちが甦ってくる。

 無人の砦からファフニールを見下ろしながら、オベロンが喜べば案外それで十分だったのかもしれないと思った。

 眼下で群れが泳いでいる。

 かの英雄は一頭を相手に戦ったはずだ。おびきださなくてはならない。

 様子を見ていると、どうやら一頭のヤマタノオロチが彼らの縄張りを侵した。それを見つけたファフニールは吼えながら侵入者に向かっていった。仲間は加勢せず、それぞれが縄張りの中にいるヤマタノオロチを目の当たりにしてから腹を立てた。

 セタンタは辛抱強くファフニールを観察し、ようやく群れの動きを把握したと自信が持てた。

 入り組んだ砦に身を隠し、地上近くまで戻る。様子を見てうまく一頭だけを誘い出すことに成功した。背の低い楼門まで走り、予定どおりの場所で振り返ると、セタンタの姿はほかのファフニールから見えなくなった。

 鎧いし竜が来る。

 頭から尾までの長さは背後の通りを塞ぐほどあり、セタンタは今までこんなに大きな相手と戦ったことはなかった。思い浮かべたのは岩山のふもとにいたベリスとエリゴールだった。落馬させれば、板金鎧の隙間はがら空きだった。

(継ぎ目だ)

 発達した鱗だとしても、鎧だとしても、継ぎ目の下は上より柔らかいはずだ。

 ファフニールが動いた。

 竜は後脚を支点に強く尾を振った。当たれば体を潰されるが、速くても軌道は単純だ。尾の長さも上から見ていた。避けられる。脚を開いて体を落とせば、尾はうなりをあげてセタンタの頭上を通過した。

 セタンタは体勢を整え、ファフニールがこちらに向き直る前に飛び掛かると、腰の継ぎ目に槍を突き立てた。穂先は確かに肉に触れた。しかしファフニールに痛痒を与えられたとは思えなかった。

(これほどまでか!)

 滑る腰を蹴って槍を抜き、飛び退く。

 ジークフリートとはいかなる傑物なのか。彼が軍神として、フィンが仕える悪魔のもとに顕現したことをセタンタは知らない。

 横目で楼門の奥へ伸びる退路を確認し、じり、と足を動かしたとき、向き直ったファフニールが首を低く落とし、地が揺れるほど大きく吼えた。楼門の瓦が次々に落ちる。

 これ以上戦わなくても結果は見えていた。

 撤退しようとしたセタンタの視界が揺れる。

 毒竜だった。腹中の毒が咆哮とともに四方に吐き出され、セタンタの体にも深く入り込む。

(いまのは咆哮ではなかった。毒ガスブレス……毒、毒には違いないが、なんだこの毒は……)

 経験したことがない強い毒だった。

 毒には慣れているつもりだった。岩山のブラックウーズの体液には毒があった。槍以外が触れなければ問題ない。槍を刺した場所からの跳ね返りを浴びるような失敗も、いつかを最後にもうずっとなかった。毒の液だけではない。毒ガスブレスを受けたこともある。同じ岩山にいたバジリスク、あの悪魔もまた、毒の息を吐いた。毒液よりもわかりにくく、何度か痛い目にあってからはバジリスクの風下は避けるようになった。ピクシーにあの岩山で過ごすならと持たされたアムリタソーダをまだ持ってはいなかったか。手がそれを探る余裕はなかった。

 苦しい。体の内側を喰われているようだ。咳き込むと一層苦しかった。

 バジリスクの毒でさえ、人間ならすぐに死んでしまう強さだ。このファフニールの毒はもっと強い。縄張りを侵した悪魔を殺すうち、毒が強くなった。なにかを殺せば殺すほど、毒が強くなる竜だった。

 逃走に失敗したセタンタにファフニールが鋼の針を撃つ。槍で払おうとしたが、一本の鋼が足首を貫いた。動けない。急所を撃ち抜かれながらもまだ立っているセタンタを見て竜は苛立たしくなり、もう一度尾を横薙ぎに払った。当たらなかったが、下に避けたセタンタはもう立てなかった。

 まだ後ろに下がろうとにじるセタンタをファフニールが踏みつけた。

「あーあ」

 セタンタの後ろで誰かがからかう。

 見物に出てきたインドの悪魔だ。毒で霞んだ彼の目には、あのセタンタたちが映っていた。

 胸当てがひしゃげ、体を圧迫する。

 足を退けたファフニールが、毒の漏れる口を近づけてセタンタを嗅いだ。小さな体に毒がよく回っている。愉悦から喉は反らされ、尾は地面を打った。見物の悪魔たちが盛り上がる。鋼鉄針で串刺しにするか、もっと単純な方法で引き裂くか。まだ動こうとする姿を見て、先に片脚をもいでおこうと前肢が伸びる。

 突如、固唾を飲む悪魔たちの前方が眩く光った。轟音が響きわたり、雷を苦手とするファフニールは敵を探して素早く空に舞い上がった。

 光の粒が舞って、セタンタの傷が癒える。

 見覚えのある足輪が見えた。

「私、とっても困るわ。あなたが死んでしまったら」

 妖精女王ティターニアの髪が、激しい稲光のなかで高温の炎のようだった。

 何度も、何度も、雷が落ちた。

 女王の雷が邪竜を追いつめていく。反撃の鋭い針が仕立ての良いドレスごと肌を裂いても、薄翅に穴を開けても、声ひとつあげずに雷を呼び続けた。

 ついにファフニールがたじろぎ逃げようとすると、彼女は遅れず後を追った。

「これでどう?」

 もうすぐ別のファフニールの動線に飛び出すというところで、最後の一撃が放たれて、竜はついに絶命した。セタンタが手も足も出なかった強い竜が、一人の妖精の手にかかって死んだ。セタンタの体に広がっていたファフニールの毒も、竜の骸とともに消えていく。

 インドの悪魔たちは悪態をついて帰っていった。

 ティターニアが降り立つ。

「こんなところに来てはいけないわ」

「女王……どうしてここがおわかりになったのです」

「あら? あなたは私のことを誰かほかのティターニアだと思っているんだわ。ふふ。もっと安全なところでお話をしましょう、セタンタ。どこに行こうかしら。あなたにとってはどこも安全ではないの」

 二人は長い橋を歩いて、車の上で腰をおろした。セタンタは丘の女王からもフィンからも薬の類を無理矢理持たされていたので、ファフニールの棲み家に来るまでに使った分を引いても、まだたくさん持っていた。

「助かるわ。私、あまり遠くまで行ってはいけなくて、こんな良いものはなかなか見つけられないの。さっきはどうしてもあのファフニールを倒さなくてはいけなかったから飛び出したけれど、魔力が減っていくのが恐ろしかったくらいよ」

「あなたは命を救ってくださった。感謝のしるしに何か私にできることがあればいいのですが。遠くへいけないというのは、ここにも妖精の集落があるのですか」

 セタンタは平静を装いながら、王と女王がたった一人ずつの存在でないことを理解して動揺していた。二人はそれを知っていてなんともなかったのか。妖精とはそういうものだと割り切れたのか。セタンタと彼らは同じだったのだ。あのとき、セタンタが語る街のセタンタたちの話を聴きながら、丘の女王は何を思っていたのだろうか。

 こちらの女王は嬉しそうに手を胸の前で組み合わせた。

「まあ、集落を作っている女王がいるの? 素敵ね。残念だけれど私は違うわ、まじないがかかっているの。あなた、妖精王オベロンはご存知? 私の夫なのだけれど、少し悪いところがあるわ。人間のいない魔界が退屈すぎて、古いまじないを私にかけたの。ラバ頭の誰かを見たら、私どうしたって愛してしまうのよ」

 王ならやりそうなことだった。セタンタが呆れていると、女王はセタンタの顔を見て笑った。

「そう、オベロンを知っているのね。あのひともあなたみたいに無茶をしてここまで来たの。妖精なんてみんな好奇心より大切なものがないんだから困ってしまうわ。私だって妖精の気配を感じてあなたを見に行ったんですもの。でもよかった。あのファフニールはもうすぐ私の雷を消してしまえるくらい強くなりそうだったから。私、見逃していたんだわ……ああ、そうではなくて、オベロンの話の続きをしましょう。ラバ頭の悪魔がいるとどこかで聞いてきて、わざとそんなことをしたのよ。それなのに、ある日、好奇心のせいでうっかり死んでしまったわ」

 セタンタは驚くと同時に、王を丘から出したらそういうことになるかもしれないと思って、どこか納得した。

「痛ましい話です。しかし王がお隠れになったなら、もうまじないは解けているのではありませんか?」

「絶対?」

「いえ、それは……」

「私たちの魔力とも切り離された、遠い遠いまじないですもの。わからないわ。そのラバ頭の悪魔を愛してしまっても、もう誰もまじないを解いてくれないんだわ」

 女王は拗ねたように素足を揺らした。車の窓に踵がぶつかって、ばんと鳴った。聞き逃しそうな小さな声がする。

「いやなものよ……」

 こんなに曇った女王の声は聞いたことがない。なんと声をかければいいかわからなかった。しばらくは橋を抜ける風の音ばかりがした。

 セタンタの考えは、まとまったり崩れたりした。

 丘の草の匂いと、ビルで踏んだガラスの感触、受け止めた長剣の重み、そうした記憶が彼の舌をためらわせる。これまでいくつ選択を間違ったのかという思いに、自信が奪われる。

 風が女王の髪をさらっていた。風が弱まるほんの短いあいだ、遠くを見る横顔があらわになった。懐かしい顔。しかしそれは、出会ったばかりの命の恩人の顔。まじないにとらわれた女王の顔。

 女王は隣のセタンタが難しい顔をしていることに気がついた。

(あらあら、いけないわ)

「それにしてもセタンタがどうやって無事にこんなところまで来ることができたのかしら。それに、ファフニールと戦うなんて! ただの迷子ならとっくに死んでいるもの。あなたのお話が聞きたいわ」

 女王は髪を耳にかけて、セタンタの顔を覗きこんだ。セタンタが彼女を見たとき、彼の眼にははっきりと意思の光が宿っていた。

「……それはとても長い話になるのです。きっとお話しいたします。先に時間を頂けませんか。必ず戻ってまいります」

 

 丘のオベロン王は、セタンタが走ってくるのを見た。手のなかには形ばかりの縄がある。どこかのビルで手に入れたに違いない。人間が日除けの板を連ねるのに使う細い紐だった。肝心の竜の姿はどこにもない。

(さてこれはどうしたことでしょう)

「何かありましたか、セタンタ」

「王よ。私に見合う竜はいませんでした」

「……それが答えですか」

「生きてここに連れてこられた竜は人間を見ます。人間がいると知った竜を、街へ戻すことはできません。力で押さえつけて連れてきた竜です。はっきりと申し上げて、その竜は死ななければなりません。王は私の力に見合う竜を連れてくるよう仰いました。竜の血で買い上げるとき、その体からマガツヒが抜けていくのと同時に、私の力に与えられた意味も失われていきます」

 オベロンはセタンタの握りしめた手に乱雑に食いこんでいる細い紐を抜き取った。束にしてからもう一度握らせる。

「あなたは竜を連れて帰ると思っていました」

 セタンタが槍を強く握った。不安なのだ。王はそれを見て続けた。

「私はその竜をいまここで殺してみなさいというつもりでした。殺したなら、あなたはもう一度略奪と搾取について私に尋ねられ、殺さなかったなら忠誠と大義について尋ねられるはずでした。よいでしょう。その答えは悪くありません。儀式の調整をします」

 セタンタはぱっと顔を上げた。喜びがにじむ少年の顔だ。ところが、彼はまた槍を強く握りしめてしまう。彼の望んできたことを考えれば、おかしなことだった。

「王、そのことなのですが」

「はい」

「……いまこのときまでの私の武勲と引き換えに、王に教えていただきたいことができたのです」

「あなたが私たちに望んだ姿、騎士であるあなたを欲する王と女王は、武勲を差し出してしまっては手に入りません。何度も危うい目に遭ってようやくたどり着いたというのに、そこまでして何を知りたいのです」

「あるかたのまじないを解きたいのです」

「まじない。セタンタ、話してご覧なさい」

 セタンタは口ごもってティターニアを見た。

「そのまじないは遠い地で別のオベロンが使ったものなのです。つまり、私が話すことで、その」

「心配してくれるのね、セタンタ。ここにいるのも妖精王オベロン、私も同じ目に遭うかもしれないわ。でも構わなくてよ。誰かの真似をしたいたずらなんて、きっとつまらないもの」

 古いまじないは、丘の二人にも心当たりがあるようだった。

「まあ。思い出したら腹が立ってきたわ。いまでも効くなんて」

 同じ時代のまじないを集落の目と鼻の先で使ったばかりの妖精王は、過去の負い目もあって気まずかった。

 女王に気づかれないようセタンタの顔を見る。

「王の死でまじないが解けるのかわからない以上、解いておいたほうがよいでしょう。解く方法はありますが、妖精王の力が必要です。かといって私はここを離れられませんし、そのティターニアにこの場所を明かしてほしくもありません。……こうしましょう、セタンタ。私は彼女の問題を解決できない。武勲を半分返します。半分で、独りで暮らしている妖精王の居場所を教えます。私が丘に来る前に出会った者の居場所ですが、何も統べずともそれなりに満足してやっていましたから、きっといまも同じ場所にいるでしょう。さあ、あなたはまだ武勲を半分手にしています。それを使ってラバ頭の悪魔の隠れ家を私に尋ねても構いません。フィンとの世間話で聞いたのですからなかなか新しい情報です。違っていることはまずないでしょう」

 満月が過ぎるのを待って、セタンタが去っていく。今度はもう帰ってこないかもしれない。小川までにしなさいと言われて、大きな妖精も小さな妖精も、揃って見送った。

 シルキーの一件からあと、ザントマンが里の妖精全員に封魔の鈴を持っていないか聞いて回っていた。セタンタはいくつかの鈴を埋めた小さな砂袋を受け取り、ザントマンと握手をした。その感触は長く彼の指に残った。

 王と女王も、大岩の上から彼の姿が遠ざかるのを眺めていた。

「武勲をまるでマッカみたいにして。セタンタも武勲のことをちゃんとわかってあなたと取り引きしたのかしら」

「いいじゃありませんか。双方納得しています。それより聞きましたか。やはりセタンタは人間の記憶を持った特別な妖精です。私は彼のことが気に入っていたのに、取られてしまいました」

 セタンタは「死んだ妖精王がつまらないだろうから聞かないでおきます」と言ったのだった。

 

 はなむけにもらった封魔の鈴はありがたかった。街の悪魔に妨げられることがなくなって、いままでで一番速く進むことができた。

(もうほとんどまじないは解けたようなものだ、早く伝えたい。早く)

 ひとりきりのティターニアは、きっともう死んでしまっただろうセタンタのことが悲しくて、橋の上から動かずに歌を歌っていた。楽しい歌と子守唄しか知らず、子守唄を繰り返し歌った。それで、足音を聞き逃した。

「きれいな歌です」

 セタンタは車の屋根にのぼらず、女王の前に立って彼女を見上げた。

 ティターニアはぴたりと歌を止める。

「やめておしまいになるなら、もう少し声をかけずにいればよかった」

「あら、だってあなたが死んでしまったと思って歌ったのだもの」

「私とまじないを解きに行きませんか」

 差し出された手に戸惑って、彼女は質問をした。

「あなた、どこへ行っていたの?」

「ひとりの妖精王の居場所を尋ねてきました。まじないを解きたいなら、あなたは彼に会わなくてはなりません」

 手は下ろされることなく差し出されている。不意にこのまじないが形見のように思えて惜しくなった。

(……でも、もしラバ頭の悪魔を愛してしまったら? 終わりのないいたずらは、もういたずらとは呼べないわ)

 そっと手を取る。

「少し遠いのです」

「構わないわ。あなたには長い冒険譚があるのだもの。始まりはこうね。妖精は思いました。自分は強くなったと。それならば、誰かに確かめてもらわなくてはなりませんでした」

 セタンタは苦い顔をして笑う。

「どうしておわかりになるのですか」

 得意気にドレスの裾が翻る。

「私は妖精を統べる女王、ティターニア。こんなところまで来てしまうセタンタが何を考えるのかくらい、想像がつきます」

「それは困ります」

「安心して。これから先はきっと私、わからなくなるわ」

 言葉の意味を掴みかねて、次の言葉を待つ彼を見ると、いたずらをしたいような、くすぐったい気持ちになる。

「あなた、そんなに背が高かったかしら」

 人間だった頃ならともかく、妖精の身に対して不思議なことを言う。少年の姿であれこれ言うことをからかっているのだろうか。怪訝な顔をすると、女王が前に出て、後ろ向きに飛びながら言った。

「あなた、マフラーをどうしたの?」

 首元に手をやるとマフラーがない。落としたのだろうか。思い返すと、さっきまであったような気がした。風に飛ばされてしまったのかと思って風下を見ても何もない。

 彼女は品良く両手を体の前で重ねた。丘の女王と瓜二つの仕草だった。

「あなた、立派な槍を使うのね」

 使い込まれた槍だ。装飾らしい装飾もない。あまり槍を見る機会がないのだろうか、そう思って手を見ると、握られていたのは曲線で装飾された美しい槍だった。槍からはずっと手を離していないのに、こんなことがあるはずはなかった。

 女王が微笑む。

「さあ、もうきっとわかるわ。自分の姿をよく見て。あなたはだあれ?」

 白い鎧に身を包んだ黒髪の青年が立っていた。幻魔クー・フーリンと呼ばれる者の姿だった。

 彼は戸惑った。

「まるで騎士の姿です。私は騎士になりたいと願い出ていて、ここに戻る前、いよいよというときになってそれをやめました」

「叙勲かしら。周囲があなたをどう見るかは変わるでしょうけど、強い者をただ鎧で覆っても、騎士の見た目になるだけよ。でもあなたの場合は本当にもうあとほんの少しだったのね。あなたはいま、あなたにふさわしい姿をしているわ。でも、あなたに最後まで備わらなかった素質が私、わかってしまってよかったのかしら。ふふ。誰がどうして教えなかったのか、大体想像はつくけれど」

「なにが足りなかったのでしょう」

「既婚の貴婦人へ捧げる心、敬う心、秘めた思い。抑制された愛がないと騎士の精神として不完全だなんて不思議だけれど、なんて人間らしいんでしょう」

 クー・フーリンは何か言わなくてはならなかった。

(王、あなたはそのような目が女王に万に一つも向けられてはならないと思ったのでしょう!)

「あなたに命を救われたのです。その恩を思いこそすれ、決してそのような!」

「そうでしょうね。私もそんな気がするわ」

 彼女は笑って、彼に先へ進むよう促した。彼はまだ物言いたげだった。女王はそれを遮って、指先でくるりと小さな円を描いた。

 いつもならここまで子どもじみた仕草はしない。いまは普段と同じではいられなかった。彼を見守っていた二人が隠し通したことに感心する。きっと宴が隠れ蓑だったのだろう。

「まだ気持ちが落ち着かないのなら、もっとずっと素敵なことを教えてあげましょう。見て。さっきからずっと、きれいな満月なのよ」

 慌てた彼は満月を直視することになった。天は煌々と輝いている。咄嗟に周囲に自分を閉じ込められる場所がないか見回した。やがて意識になんの異変も起こらないことに呆然として、月の下に立ち尽くす。

(月から、解放されたのか……?)

 このせいで死ぬのだと何度も思った。

 セタンタとは致命的な弱点がある弱い妖精だと思ってきた。長期間の待ち伏せはできず、満月の時期に奇襲をかけられたらまともな戦力にはならない。

 里では奇行を見られたくないと悔しさを打ち明けて、王と女王が気を配ってくれた。

 月に魅入られて死ぬまでをどう生きるべきかと思っていたのに。

 欠けていく月の下で、ティターニアが声をかけた。

「これからあなたはどんな勇士として歩むのかしら」

 セタンタだったクー・フーリンは、このときもまた槍を握りしめた。女王の前に片膝を付く。

「暇はいただいてまいりました。あなたは私の命を救い、満月の光から解き放ちました。妖精の身ではなくなりましたが、叶うなら終生、妖精女王のためにこの槍を振るいたく思います」

「まあ、私があなたを救った英雄なのね」彼女は冗談めかしてから真剣な顔をした。「私はあなたがどう生きるのかを尋ねたつもりです。それはまだ私の問いに対する答えではありません」

 オベロン王の気配がその場に満ちるようだった。

 統べる者がまとう気配だった。丘でも、王ではなく女王がものごとを取り仕切ったなら、同じ気配を感じただろう。

 クー・フーリンは言葉を探した。

 思えば随分と己を嫌ってきた。今もそうだ。姿かたちは変わっても、ビルのセタンタたちがずっと彼を見ている。

 どうすれば彼は彼であれたのか。

 暗い瞼の裏で一人の王と二人の女王が彼を見つめた。

(命に従うだけの槍ではいけない。私は教えを受けたのだから)

 喉から出る声は、まだ自分の声として馴染んでいなかった。青年の声が言う。これが確かに自分の声なのだ。

「生を求めず、死を追わず、あなたの誇りに私を捧げます」



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