としょキャン□ (ドラ麦茶)
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最後の一葉

 その年の十二月、リンは隣町の病院でアルバイトをしていた。

 

 

 

 といっても、医療関連のバイトではない。

 リンはキャンプの資金を貯めるためによくバイトをするが、概ね本に関係した仕事を選ぶようにしている。

 その病院は国立大学の医学部に付属する大きな病院で、医療施設だけでなく、コンビニやレストランなど、来院者や入院患者向けの施設が充実しているのだ。

 

 そのひとつとして図書館があり、そこが短期のアルバイトを募集していたのである。

 

 大学病院の図書館は、リンがよく働いている最寄り駅近くの本屋と比べ、通勤に時間がかかるのが難点だ。

 しかし、交通費は出るし、時給もすごく良い。

 期間は二十三日から二十九日までの一週間で、給料は最終日に支払われる。

 年越しキャンプを計画しているリンにとって、実に好条件のバイトだった。

 

 ただし、仕事はいつもの本屋とは比べ物にならないほど忙しかった。

 

 リンに与えられた仕事は、貸出・返却の手続きをし、返却された本を本棚に戻し、本を探している人がいたら案内すること。

 やることは高校の図書委員とさほど変わらないが、大病院だけあってとにかく利用者が多いのだ。

 まあ、忙しくなければわざわざ臨時のバイトを雇うこともないのだが、普段の本屋や図書委員と同じようにカウンターでのんびり本を読みながら……などと考えていたリンは、自分の甘さを思い知ることとなった。

 

 

 

 

 

 

 ――よし、これで終わりっと。

 

 返却の本をすべて返し終えたリンは、本棚にきれいに並んだ本を見て満足げに頷いた。

 閉館まであと十五分。リンは、思わずニンマリと笑みを浮かべてしまう。

 今日はバイト最終日で、仕事が終わればお給料をもらえるのだ。

 それを資金に、明日は年越しキャンプに向けての買い出しだ。

 この一週間は本当に忙しかったが、その分お給料に反映されているだろう。

 

 ちょうど欲しいキャンプグッズがあるから買ってしまおう、キャンプ飯もいつもより豪勢にしよう――リンは明後日からのキャンプに心を躍らせながら、閉館の準備をし始めた。

 

 カウンターに戻り、備品を片づけたりゴミをまとめたりする。

 一〇分前になったら館内の利用者にも声をかけなければならない。

 

 といっても、大晦日も近い二十九日の閉館間際にもなると、さすがに利用者はほとんどいない。

 窓際の席で、ニット帽をかぶった女の子が一人、本を読んでいるだけだった。

 十歳になるかならないかというくらいの少女だ。

 

 リンがバイトをしたこの一週間、毎日お昼過ぎにやってきて、閉館まで本を読んでいた。

 いつも部屋着を着ているから入院患者だろう。

 

 ――あの子、お正月も病院にいるのかな。

 ふと、そんなことを思う。

 

 多くの入院患者が年末年始を自宅で過ごすことを望むため、この時期は外泊希望をする人が多い、と、看護士さんが話していた。

 よほどのことがない限り許可をするとも言っていたし、今日になって仕事が落ち着いたのはそれが原因だろう。

 少女は毎日来館していたくらいだから重篤な状態ではないように思えるが、外泊の許可が下りないのなら、実は重い病気なのだろうか。

 

 少女は机の上に広げた児童書をじっと読んでいる。

 その顔には、幼い子どもには似つかわしくない、微妙な(うれ)いが浮かんでいるように思えた。

 リンが小学生の頃はワクワクしながら本を読み進めたものだが、少女はページをめくるたびに表情に(かげ)りが増していくように見える。

 

 まるで本に魂を吸い取られているかのようだ。

 なんの本を読んでいるのだろう、リンが気にしていると、少女は不意に顔を上げ、窓の外を見た。

 

 この図書館は二階にあり、窓からは病院の中庭が見渡せる。

 大病院だけあってかなり広く、運動場や芝生やベンチなどが整備され、ちょっとした公園のような雰囲気だ。

 もっとも、年末の夕方、寒風吹きすさぶ中庭に人の姿は無い。

 窓のすぐそばに、ほとんど葉を散らした木が一本、寒々しい姿で立っているだけだ。

 少女はその木をしばらく見つめた後、本当に魂が抜けるかと思うほどの深いため息をついた。

 

 さすがに心配になってきたリン。

 ちょうど閉館を告げるために声をかけなければいけない時間だ。

 リンは受付カウンターを出ると、少女に「こんにちは」と声をかけた。

「何を読んでるの?」

 

 リンが訊くと、少女は少し戸惑ったような仕草で本の表紙を見せた。

 それは、オー・ヘンリーという作家の『最後の一葉』だった。

 いや病人がそんな本読むな、と、リンは思わず心の中でツッコミを入れる。

 これがなでしこや千明たちが相手だったら、間違いなく声に出してツッコんでいただろう。

 

『最後の一葉』は、小学校や中学校の教科書に載ることもある短編小説だ。

 重い病気に(かか)った主人公が、窓の外の蔦を見て「あの葉が全て散る頃に、私は死ぬ」とつぶやくシーンが有名だろう。

 児童書や絵本でも多く出版され、マンガやテレビのコントなどでパロディにされることも多い、世界的に有名な作品だ。

 

 ちなみに原作で主人公が見るのは家の外壁を這う蔦の葉だが、児童書や絵本では一本の木に置き換えられることが多い。

 少女が読んでいる本の表紙にも、ベッドに上半身を起こした主人公が窓の外の木を見ている絵が描かれていた。

 

「それ、あたしも読んだことあるよ」

 リンはそう言った後、続ける言葉に迷う。

 普段ならば「いい話だよね」と言うだろうが、今の状況ではそれが正しいのかが判らない。

 

 リンが言葉に詰まっていると、少女はまた窓の外に視線を移した。

 

 そして。

 

「あたしも、あの木の葉っぱがぜんぶ散ったら、死んじゃうのかな……」

 表情よりもさらに(かげ)りを帯びた声で、つぶやいた。

 

 やっぱりそうなるか、と、リンは心の中でため息をつく。

 感受性の強い子どもが入院中に最後の一葉なんて読んだら、そう思ってしまうのも仕方がない。

 そんな本を病院の図書館に置いた担当者にクレームを入れたい気分だ。 

 

「……入院して長いの?」

 

 リンが訊くと、少女は小さく頷いた。

 小学校に入る前から、ずっとこの病院にいると言う。

 病名までは教えてくれなかった――というよりは、少女も知らないのかもしれない。

 しかし、室内でもニット帽をかぶったその姿から、なんとなく想像はできた。

 

「――お正月が終わったら、大きな手術を受けるの」

と、少女は続けた。

 両親や先生や看護師さんたちは、その手術が成功したら病気は良くなる、と言っているそうだ。

 

 しかし、失敗したらどうなるのかは、少女が訊いても教えてくれない。

 どこか困ったような笑顔で、「大丈夫、きっと成功するから」と言うだけだ。

 きっと成功する――「絶対に成功する」とも言ってくれない。

 そんな様子から、子供心にも難しい手術だと悟っているのかもしれない。

 

 少女は「だからね」と言って、木を見つめる。

「あたしも本と同じように、あの木の葉っぱがぜんぶ散ったら、死んじゃうかもしれないの」

 

 リンも窓の外を見る。

 なんの木かは判らないが、寒さも厳しくなったこの時期、残っている葉は片手で数えられるほどだ。

 よほど根性のある葉であっても、そう長くはもたないだろう。

 

 リンは少女に視線を戻した。

 葉が全て散ったら死ぬ……少女がどこまで本気で信じているのかは判らない。

 ただ、「そんなの、ただのお話だよ」と言っても、大した励ましにはならないだろう。

 それに、作品自体を否定してしまうのも違う気がする。

『最後の一葉』は、決してバッドエンドではないのだから。

 

『最後の一葉』では、病に侵された主人公と同じアパートに住む老画家が、蔦が生えた壁に極めて精巧な葉の絵を描くのだ。

 本物と見まごうその絵は、どんなに強い風雨にさらされてもけっして散ることはなく、それを見た主人公は生きる気力を取り戻し、やがて全快を果たすのだ。

 

 恐らく、少女は本を最後まで読んでいないのだろう。

 結末を教えてあげれば、少しは元気になるかもしれない。

 しかし、本好きのリンとしては、少女がまだ読んでいない本のネタバレするのは気が引けた。

 一瞬、本のように絵を描いてみるか、とも思ったが、リンに本物そっくりの葉の絵を描く技術は無いし、そもそも木のそばには絵を描くための壁が無い。

 

 だから。

 

「――冬になると木の葉が落ちる理由、知ってる?」

 

 その理由を、教えてあげることにした。

 

 突然の話に、少女はきょとんとした顔になったが、やがて小さく首を振った。

 

 リンは続けた。

「人間がご飯を食べて栄養を摂るのと同じように、木とか花とかの植物は、葉っぱから太陽の光を吸収して栄養にしているの。

 でも、たくさん葉っぱを付ければいいってわけじゃなくて、たくさん葉っぱが生えたらそれだけ栄養もたくさん必要になるから、バランスが難しいんだよね。

 特に、冬になると昼間の時間は短くなるし、太陽の光も弱くなるから、充分な栄養を得られなくなっちゃう。

 太陽の光を吸収して得られる栄養よりも、葉っぱを広げるために使う栄養の方が多くなっちゃうわけ。

 それじゃあムダだから、冬になる前に、木は思いきって葉っぱを全部落しちゃうの」

 

 少女にはまだ難しい話かもしれない。

 説明も上手にできていないかもしれない。

 それでも、少女は真剣な表情で、リンの話を聞いてくれている。

 

 リンはさらに続ける。

「今は、あんなふうに葉っぱがほとんど落ちちゃって、寂しい姿に見えるかもしれないけど、決して、死んでいるわけじゃないの。

 春になって太陽の光が強くなれば、また葉っぱを付けて、元気な姿を取り戻すわ」

 

 リンは「だからね」と言って、少女の目線にしゃがむ。

 

 そして。

 

「あなたも、春になる頃には、きっと元気になってるわ」

 

 しっかりとその目を見て、最後の()()を、伝えた。

 

 中庭に風が吹いた。残りわずかだった葉が、また一枚散る。

 

 でも、リンはそれを悲しいとは思わない。少女の顔にも、さっきまでの憂いは、もう無い。

 

 館内に閉館を告げる音楽が流れる。

 少女は病室に戻らなければいけない。

 リンのバイトも、これで終わりだ。

 

「――ありがとう、お姉さん」

 

 少女は笑顔で言った。ようやく、子どもらしい無邪気な表情が浮かんだ。

 

 

 

 

 

 

 そして、少女は病室へ戻って行った。

 

 

 

 

 

 

 お給料を受け取り、帰り支度をしたリンは、中庭に出てみた。

 相変わらずひと気は無く、暗くなってさらに寂しさを増したように見える。

 

 リンは木を見上げた。

 枝越しに入院病棟が見える。大病院だから部屋数は多いが、外泊患者が多いからだろうか、明かりが点いている部屋はまばらだ。

 その明るい窓のひとつに、あの少女はいるのだろうか。

 

「――がんばれよぅ」

 

 リンの声は、白い息と共に中庭の夜空に舞い上がった。

 

 冷たい風が吹きつけた。

 リンは「うう、寒」と身を震わせると、ダウンジャケットのポケットに手を入れ、マフラーに顔をうずめるようにして、中庭を後にした。

 

 

 

 

 

 

 年が明け、春。

 

 

 

 リンは、縁があってまた同じ図書館でバイトをすることになった。

 

 貸出・返却の手続きをし、返却された本を本棚に戻し、本を探している人がいたら案内する。

 年末と同じ仕事を、同じようにやる。

 年末と同じく利用者が多く、同じように忙しい。

 

 ただ、ひとつだけ違うのは――窓辺の席に、あの少女の姿が無いことだった。

 

 冬には毎日姿を見せていた少女は、アルバイト二日目も、三日目も、最終日になっても、結局姿を見せることはなかった。

 

 手術は成功したのだろうか? 少女はどうなったのだろうか?

 リンが知ることはできない。

 リンは少女の名前も、病名も知らない。

 本の貸し出し履歴を見れば名前くらいは判るかもしれない。

 だが、大きな病院だ。

 看護士さんに訊いても名前だけでは判らないかもしれないし、判っても個人情報管理には厳しいだろうから教えてくれないかもしれない。

 今のリンに、少女がどうなったのかを知る術は無い。

 

 あの日少女が読んでいた『最後の一葉』は、児童書の本棚にひっそりと並んでいた。

 少女が本を最後まで読んだのかどうか――それすらも、判らない。

 

 それでも、リンは窓の外を見つめ、笑みを浮かべた。

 

 あの冬、枯葉数枚を残すだけだった木は、春を迎え、薄桃色の花を満開に咲かせていた。

 冬には気が付かなかったが、あの木は桜だったのだ。

 

 そして。

 

 冬にはひと気が無かった中庭は、多くの人でにぎわっている。

 

 シートを広げお弁当を食べる家族、ベンチに座って本を読む女の人、芝生でお昼寝をしている男の人、追いかけっこをする子供――みんな、笑顔で春を謳歌している。

 

 きっとあの少女も、どこかで同じように笑っているだろう――そう信じることにした。

 

 強い風が吹き渡った。

 枝が大きく揺れ、桜吹雪が舞う。

 

 その一枚が、開けっ放しになっていた窓から、室内に入って来た。

 

 リンが手を出すと、誘われるように、手のひらに舞い降りた。

 春の日差しをふんだんに浴びた桜の花びらは、ほんのりと温かい。

 

 リンは花びらをやさしく握り、目を閉じた。

 浮かび上がった少女の顔には、桜よりも美しい笑顔が花開いていた。

 

 来年も、再来年も、その先も、ずっと――。

 

 桜は、満開の花を咲かせるだろう。

 

 

 

 

 

 



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至高の読書

 店先のマガジンラックを片づけていたら、懐かしいお客さんが通りかかった。

 

 

 

 リンがよくバイトさせてもらっている、最寄り駅からほど近い小さな本屋でのことだ。

 閉店時間となり、片づけをしていたら、前の道を通りかかったのだ。

 リンよりもひとまわり年上の女の人で、少し前までは、定期的にこの店を利用していた。

 

 しかし、女性は店内に入ることはなく、リンと目を合わせることもなく、そのまま足早で歩いて行った。

 

 少しさみしい気もしたが、特に親しい間柄という訳でもなく、向こうはリンのことなんて覚えていないかもしれない。

 まあそんなものだろう、と思い、あまり気にすることなく作業を続ける。 マガジンラックを片付け終えたら、今日のお仕事は終わりだ。

 

 ――そう言えば、()()マンガ、今日新刊の発売日じゃなかったっけ?

 

 片付けを終え、店内のマンガ売り場を見る。

 

 最も目立つ()()()のコーナーに、そのマンガが平積みされてあった。

 深夜ドラマ化されたのをきっかけに、現在じわじわと人気が出ているグルメ漫画だ。

 店長手書きのポップも添えられているから、この店でも販売に力を入れているようだ。

 

 それは、いま店の前を通り過ぎた女性客がよく買っていたマンガだった。

 ドラマ化されるずっと前の話で、いまほどの人気はなかったにも関わらず、新刊は毎回予約をし、必ず発売日に買っていた。

 

 それが、今日は素通り――というより、もう一年以上も来店していない。

 

 もう読まなくなったのか、別のお店で買うようになったのか、電子書籍に切り替えたのか……。

 なんにしても、やはりちょっとさみしい。

 

 リンが初めてその女性を接客したのは、店でバイトを始めて間もない頃だった。

 最初はそのグルメ漫画をよく買っていたが、半年くらいして、調理師や管理栄養士など、食の資格に関する本を買うようになったのを覚えている。

 

 料理人になるのかな、と思った。

 

 代わりにマンガは買わなくなり、それから半年後くらいには、来店することもなくなった。

 

「――志摩(しま)さん? 片付けが終わったら、今日はもうあがっていいよ」

 

 奥で売り上げの計算をしている店長の声に「はーい」と返事をする。

 リンは仕事を終えると、その日はそのまま帰宅した。

 

 

 

 

 

 

 その後も、その女性客がお店に来ることはなかった。

 

 もちろん、リンも毎日このお店にいるわけではない。

 むしろバイトをしていないことの方が多いので、リンが働いていない時間に来ている可能性もある。

 そう思い、何気なく店長に訊いてみた。店長もその女性客のことは覚えていたが、やはり来ていないらしい。

 

 ただ、閉店時間ごろになると、店の前を通るのを、何度か見かけることはあった。

 あの日と同じように素通りするだけであったが。

 

 

 

 

 

 

 さらに一年が過ぎ。

 

 

 

 閉店時間が近づき、そろそろ店頭のラックを片づけようかな、と思っていると、カランカラン、と、入口のドアベルが鳴った。

 

 入って来たのは、あの女性客だった。

 

 ちょっとびっくりしたリンは、「いらっしゃいませー」の声が上擦ってしまう。幸い、女性客は特に気にした様子はない。

 

 女性客はまっすぐにマンガのコーナーへ向かう。

 

 エンドの平台で足を止め、しばらく何かを探すように見つめた後、一般棚の方へ回った。

 例のグルメ漫画を探しているのだろうか。

 

 一年前は人気だったあのグルメ漫画は、ドラマの終了と同時に一気にブームが去っていった。

 マンガの連載自体はまだ続いており、少し前に最新巻の十二巻が発売されたはずだが、かつてのエンドの平積みから一転、今は一般棚に背表紙を向けて並べる『棚差し』という陳列方法に変わっている。

 マンガ家にしてみれば手のひらを返されたようなものだが、悲しいかな、世の中そんなものである。

 

 しばらくして、女性客は例のグルメ漫画を持ってカウンターに来た。

 七巻から十二巻まで――ちょうど、女性客が買わなくなった以降に発売されたものである。

 

 本を受け取ったリンは

「おひさしぶりですね」

と、声をかけた。

 

 女性客は少し驚いた顔になった。

「あたしのこと、覚えてくれてたんですか?」

 

「はい。最近来られないな、と思ってたんです。

 このマンガも、少し前にドラマ化されて、ちょっとしたブームになったのに、もう読むのやめちゃったのかと思いました。

 お仕事、お忙しかったんですか?」

 

「そうね……少し前までは、本当に忙しかった」

 そう言って、女性は遠くを見るような目になった。

 

 女性はいま、隣町の繁華街にある小さなレストランで働いているという。

 リンが思っていた通り、やはり料理人になっていたのだ。

 

「マンガの影響で目指してみようと思ったんだけど、思っていたよりずっと厳しい世界でね。

 とてもじゃないけど、マンガを読んでる暇なんてなかった。

 お店が終わっても、残って次の日の下ごしらえとかをしないといけないし、帰っても勉強することが多いから、寝る暇もなかったくらい。

 でも、ここ一年くらいは、早く帰れるようになったの」

 

 それは、ちょうどリンが店先で帰宅する女性を見かけるようになった頃だ。

 

「それでね」

と言って、女性は続ける。

「今日、このお店の前を通ったとき、そう言えばあのマンガ、しばらく読んでないな、って、不意に思ったの。

 ちょうど明日お休みだし、久しぶりに読んでみたくなっちゃって」

 

 仕事に慣れて、時間にも心にも余裕ができた、ということだろうか。

 

 どんな本でも、読むには時間が必要だし、心に余裕が無いと、読んでいても楽しくない。

 リンはいつでもどこでも本を読むタイプだが、最高に楽しいのは、なんといってもキャンプ先でひとりのんびりと読むときだ。

 この女性の明日がそんな日になってくれると、リンもちょっとだけ嬉しい。

 

「ありがとうございました」

 

 女性は本の清算を済ませると、

「また来ます」

と、笑顔で帰っていった。

 

「――志摩さん? そろそろ閉店の作業、はじめて」

 

 奥からの店長の声に、リンは、「はーい」と返事をする。

 

 ――次のキャンプ、なんの本を読もうかな。

 

 リンは候補を考えながら、店頭のラックを片づけ始めた。

 

 

 

 

 

 



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とおり雨

 奥の倉庫で作業をしていると、突然、天井の電気が瞬いた。

 

 

 

 駅近くにあるいつもの本屋での、夏休みを利用してのバイト中だった。

 リンは天井を見上げる。古いタイプの蛍光灯で、切れかかっているのかと思ったが、見た感じでは取り替えたばかりのようだ。

 

 ――出たな妖怪電灯瞬き。

 

 などと我ながら訳の判らないことを思っていたら、店の外のさらに遠くから、ごごーん、と、お腹の底に響くような重い音が聞こえてきた。

雷が鳴ったようだ。だとしたら、雨が降るのかもしれない。

 

 リンは作業の手を止めて倉庫から出ると、出入口のドア越しに空を見た。

 少し前までは薄曇りだった空は、どこから集まって来たのかと思うほど一面濃い黒雲に覆われている。

 これはすぐにひと雨来るだろう。

 

 店先には週刊誌を陳列したラックが置いてある。

 雨や日差しを避けるためのオーニングテントはついているがそれだけでは不充分なので、透明のビニールをかけなければならない。

 

 リンは倉庫へ戻り、ビニールを持って外に出た。

 雲はさっきよりもさらに濃くなっており、ぽつぽつと雨粒も落ち始めている。

 リンがラックにビニールをかけ終えるころには、本格的に降りはじめた。

 

 なんとかギリギリ本を濡らさずにすみ、リンはホッとする。

 本にとって水は天敵だ。

 今の時期、こういった突然の雨には充分に警戒しなければならない。

 特に、近年は雨の降り方がかなり不規則だ。

 突然外が暗くなってきたかと思うとビニールを準備するヒマも無く降りはじめ、かと思うと、ビニールをかけ終えるころにはもうやんでいる、なんてこともある。

 今も、すぐ頭上の空は雲に覆われているが、少し離れた場所――リンの自宅がある辺りには青空が広がっており、雲なんてほとんど無い状態だ。

 

 ががーん、と、さっきよりも大きく、より近い場所で雷が鳴った。

 リンは

「うおっ」

っと思わず声を上げて身を縮める。

 

 雨脚がさらに強まる。空の様子を見る限りかなり局地的な雨ですぐにやむように思うが、その分、この地区に凝縮されたどしゃ降りになるかもしれない。

 あまり強くなるようならラックは店内に収めた方が良いが、どうしようか。

 リンが空の様子を見ながら考えていると、駅の方から女の子がひとり、駆けてきた。

 小学校の高学年くらいの子で、傘を持っていない。

 

 女の子は店の前で足を止めると、少し迷ったような様子でリンの顔を見ていたが、やがてリンの方へ走って来た。

 

「すみません、あまやどりしても、いいですか?」

 

 少女は申し訳なさそうな声で言う。

 この近くに雨宿りできそうな場所は他にない。

 リンは

「もちろん、いいよ」

と笑顔で答えた。

 

 ほっとした顔でオーニングテントの下に入る女の子に、リンはハンカチを取り出して貸してあげた。

 ありがとうございます、と女の子が受け取ったとき、また雷が鳴った。

 雨はさらに強くなり、風も吹いてきた。テントの下にいてもそれなりに雨が吹き込んでくる。

 長くいるとびしょ濡れになってしまうかもしれない。

 

「ここじゃ濡れちゃうから、中に入る?」

 返してもらったハンカチをポケットにしまいながら、リンは訊く。

 

 女の子は少し迷ったような顔をして、やがて首を振った。

「いえ、大丈夫です」

 

「遠慮しなくてもいいのに」

 

「ここで大丈夫です。お金、もってないので」

 

 と、女の子は断る。

 本を買わされると思っているのだろうか?

 どしゃ降りのなか傘が無くて困っている女の子を店内に誘いこんでムリヤリ本を買わせる――そんなあくどい商売をするような店員に見えているのかあたしは、と、リンが軽くショックを受けていると、駅の方から傘をさした男の子が歩いてきた。

 女の子と同い年くらいだ。

 女の子もその男の子に気づき、ふたりの目が合う。

 

「――あ」

 

 ふたりは、同時に声を上げた。

 

「知ってる子?」

 

 リンが訊くと、女の子はためらいがちに頷いた。

「向かいのおうちの子、です。クラスも同じ」

 

 微妙に恥ずかしさを含んだような言い方だった。

 男の子を見ると、こちらも微妙に恥ずかしそうな顔で、立ち止まったまま女の子を見ている。

 

 リンがしばらくふたりの顔を交互に見ていると、男の子は女の子のところに走って来た。

 

 そして、

「……ん」

と、舌足らずにもほどがある言葉と無愛想な顔で、持っている傘を女の子に差し出した。

 カンタか、と、リンは思わずツッコミそうになった。

 

「……え?」

 

 女の子は戸惑った顔をした後、

「いらないよ、別に」

と断る。

 

 あらら、とリンが男の子を気の毒に思っていたら、男の子は負けじと、さらに傘を差し出した。

 

「いらないってば。どうせすぐにやむし」

 女の子は頑なな様子でさらに断る。

 

「でも、今日は早く帰らないといけないんだろ? 妹の面倒を見ないといけないから」

 

「あんたが濡れちゃうじゃん。服、汚して帰ったら、またおばさんに怒られるよ?」

 

「オレはいいの。早く帰れよ」

 

「いいってば」

 

 女の子も男の子も、それぞれの家庭の事情に詳しいようだ。

 ただの幼馴染よりも、もうちょっと親しい関係、なのかもしれない。

 なんとも微笑ましい光景に、リンはおもわずニヤニヤしてしまう。

 

 その後も貸すいらないの押し問答を繰り返すふたりに、リンは、少しイジワルな口調で

「相合い傘すれば?」

と言ってみた。

 

「ぜったい、イヤ!!」

 

 ふたり同時にそう言って、リンを睨みつけた。

 

「……スミマセン」

 

 思わず身を縮めて謝りながらも、ホントに仲が良いな、と、リンはさらにニヤけてしまう。

 

 なんて、可愛らしいやりとりに癒されている場合ではない。

 傘を差し出している男の子はどんどん濡れてしまっている。

 

「あ、そうだ」

 

 リンは、ぱん、と手を叩くと、店内に戻り、倉庫からビニール傘を一本持ってきて、女の子に差し出した。

「これ、お姉さんの傘、貸してあげる」

 

 女の子はますます困惑顔になって、

「いえ、大丈夫です」

と首を振った。

「ホントに、お金が無いので」

 

 いやお金なんて取らんわ、と言いかけて、すんでのところで飲み込む。

 なでしこや千明ら野クルのメンバーと付き合うようになってから、ツッコミ癖がついてしまったのが今のリンの悩みだ。

 もっとも、斉藤に言わせると昔からだそうだが。

 

 リンは、

「お金なんていらないよ」

とやさしく言いかえた。

「今度また、返しに来てくれたらいいから」

 

「でも、傘が無いと、お姉さんが」

 

「平気平気。お姉さんが帰る頃には、もうやんでると思うから。早く帰らないといけないんでしょ?」

 

 女の子はまだ警戒しているような様子だったが、恐る恐る傘を受け取ると、

「ありがとうございます」

とぺこりと頭を下げて、まるで爆発するのを警戒しているかのようにおっかなびっくりという様子でゆっくりと広げた。

 

 そんなにあたしは怪しげなお姉さんだろうか、と、リンはまた落ち込みそうになったが、ふたり揃って帰っていく後ろ姿を見て、そんな気持ちもすぐに晴れやかになった。

 

 ――おっと、傘立ても出さなくちゃ。

 

 リンはまた倉庫に戻り、傘立てを持って来る。

 雷はいつの間にか鳴らなくなっており、雨脚もかなり弱まっていた。もうすぐやむだろう。

 

 ふたりが歩いて行った方を見ると、道の先に並んで歩く姿が小さく見えた。

 これで虹でも出てたら、シチュエーションとしては完璧なのにな、と思って空をぐるっと見回してみたが、残念ながらどこにも出ていなかった。

 

 ただ、ところどころ薄くなった雲の隙間から射し込む陽の光は、キラキラと輝いて町に降り注いでいた。

 

 

 

 

 

 



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最後の読書に選ぶ本

 その老人は、お店に入って来ると、棚の並べ替えをしていたリンの方へまっすぐやってきて、「探している本があるのですが」と言った。

 

 

 

 リンは作業の手を止め、「どんな本ですか?」と、目を輝かせて訊いた。

 お客さんが探している本を見つけるのは、本の知識量が問われる難しい仕事だ。

 特に、タイトルがうろ覚えだと柔軟な発想力も必要になってくる。

 時には『一〇〇万回()()()猫』や『一()()リットルの涙』など、ネットでバズって書籍化に至るような言い間違いに出会えることもある(リンはまだそこまで神がかったものに遭遇したことは無いが)。

 お客さんが探している本を見つけるのは書店員にとって腕の見せ所であり、そして、目的の本を探り当てたときはとても感謝される、非常にやりがいがある仕事なのだ。

 

 老人は

「古い本なんですが」

と前置きをすると、メモを取り出し

「ディートリントという作家の『セシリア・フィッシェル夫人』という本です」

と言った。

 

『セシリア・フィッシェル夫人』……どこかで聞いた覚えのあるタイトルだがいまいち思い出せない。

 老人も古い本と言っていたし、最近発売されたものではないだろう。

 まあ、作家名とタイトルが判っているなら、探すのは難しくない。

 

 リンは

「少々お待ちください」

と応え、まず海外作家の文庫本が並ぶコーナーを見てみた。

 しかし、『セシリア・フィッシェル夫人』という本も、ディートリントという作家の本も無かった。

 念のため新刊のコーナーも見てみるが、こちらにも無い。

 

 リンは一度老人の元へ戻ると、

「調べてみますので、こちらでお待ちください」

 と、カウンターの前に案内し、スツールを出して勧めた。

 

 そして、カウンター内に入り、パソコンで在庫を検索してみる。

 本自体は老人の言う通りの作家名とタイトルですぐに見つかったが、一九五二年に発売された本で、残念ながらすでに絶版になっていた。

 当然、このお店に在庫は無い。

 

「申し訳ありません、この本は、もう販売が終了しているみたいですね」

 

 そう伝えると、老人は

「やはりそうでしたか」

と肩を落とした。

「もう、五十年以上前の本だと、妻が申しておりましたからね」

 

「奥さんが好きだった本なんですか?」

 

 リンが訊くと、老人は穏やかな笑みを浮かべて、

「そうです」

と頷いた。

 

 丘の上にある介護施設に、現在二人で入居しているという。

 

「妻には趣味と言えるほどのものもないのですが、唯一、本を読むのが好きな人なんです」

と、老人は遠くを見つめるような目で……いや、遠い昔に思いをはせるような目で言った。

 

 老人の奥さんは、もうすぐ九十を迎えるという。

 これまで大きな病気に罹ることもなく健やかに暮らしてきたが、最近は体調を崩しがちで、寝込むことも多くなってきたそうだ。

『セシリア・フィッシェル夫人』は、その奥さんが昔読んで好きだった本で、病床に伏すようになってから、やたらと読みたがっているのだという。

 

 老人は

「もう目も悪いから、本なんて読めやしないと思うんですがね」

と言って肩を揺らした後、

「人間、死ぬ時が近づくと、昔好きだったことをやりたがるものなんでしょうか」

と、どこか寂しさをにじませた声で付け加えた。

 

 リンがなんと言っていいか迷っていると、老人は

「いや、失礼」

と言って、席を立った。

「妻には、その本はもう売っていないと伝えます。わざわざ調べていただき、ありがとうございました」

 

 寂しさを深めた笑顔で言うと、老人は頭を下げた。

 大したことはしていないので、なんだか申し訳ない気持ちになる。

 

 それに。

 

 人間、死ぬ時が近づくと、昔好きだったことをやりたがるものなんでしょうか――老人の言葉が胸に刺さった。

 それは『死ぬ前に何を食べたいか』という話題に似ていると思った。

 こういった話は、リンも友達とすることがある。

 

 もちろん、未成年であるリンたちは、死ぬ時のことなどまだリアルに想像することはできない。

 

 それでも、とてもおいしいものを食べると、

「これ、死ぬ前に絶対もう一度食べたい!」

と、思ったりするものだ。

 

 しかし、とても面白い本に出会えた時、

「この本、死ぬ前にもう一度読みたい!」

というのは、読書好きのリンでもこれまで考えたことはなかった。

 ないが、きっとこの先、リンもそういうことを考える日が来るだろう。

 

 その時、読みたい本が見つからない、なんてことになれば、その悲しみは計り知れない。

 老人の奥さんの願いを、どうにかかなえてあげたい――リンは、強く思った。

 

「……すみません。もうちょっと待ってください」

 

 帰ろうとする老人を引きとめて、リンはもう一度パソコンのキーボードを叩く。

 今度はインターネットを使って調べてみた。

 

 まず、隣町にある大きなリサイクルショップのホームページにアクセスしてみる。

 ここは、サイトから店内の在庫を検索することができるのだ。

 絶版になった本でも、古本としては販売しているかもしれない。

 リンは検索してみたが、残念ながらここにも在庫は無かった。

 

 続いてリンは、大手のネットショップやフリマサイトを検索してみた。

 いくつか見つかったが、どれも値段は一万円前後と、ちょっとオススメしづらい値段だった。

 

 それに、せっかくこのお店に来てくれたのに、古本屋やネットでどうぞ、と言うのもどうなのか、という気がする。

 奥さんが人生の最後に読みたい本。

 それを探すのに、老人は、街の大きな本屋でも、大手ネットショップでもなく、リンが働くこの小さな本屋を選んでくれたのだから。

 

 リンは少し考えた後、言った。

「二・三日、待っていただけますか?」

 

「手に入りそうなんですか?」

 

「必ずというお約束はできないんですけど、心当たりを当たってみます」

 

 リンは老人の名前と連絡先を訊くと、判り次第ご連絡しますと伝えた。

 老人は

「お願いします、お願いします」

と、何度も頭を下げ、帰って行った。

 

 安請け合いをしてしまった……そんな気もする。

 約束はできないと断りを入れたものの、老人は期待して待つだろう。

 もちろん、奥さんの期待はそれ以上だ。

「ダメでした」ということになれば、期待させたぶん、かえって落胆させてしまうことになる。

 

 とにかく、心当たりを探してみるしかない。

 

 

 

 翌日。

 

 リンは学校の図書室で、『セシリア・フィッシェル夫人』を探していた。

 七十年近く前の本にもかかわらず聞き覚えのあるタイトルだと思ったのは、学校の図書室にあったからではないか――そう思ったのだ。

 

「――志摩さん? あったよ。コレじゃない?」

 

 手分けして別の棚を探してくれていた同じ図書委員の()が、向こう側の本棚から言った。

 リンは走ってそちら側へ回り込む。

 

「なんだかすごく古い本だね」

 

 図書委員の娘は呆れ半分感心半分の顔で笑い、本を差し出した。

 

 その娘の言う通り、古本屋の十円コーナーで見かける本よりもふた回りほど年季が入ったような本だった。

 カバーは無く、元々は薄茶色だったと思われる表紙は日焼けと手垢にまみれてかなり黒ずんでいる。

 上部は火でも点けられたかと思うほど焼け焦げたような色になっているが、開いてみると、中のページはやたらとつるつるしていた。

 最近の本に使われている紙の質感とは、明らかに違う。

 

「どんな話なの?」

 

 図書委員の娘の質問に、リンは

「ちょっと、人から聞いて、気になってね」

と、曖昧に笑ってごまかした。

 バイト先のお客さんに貸す、とは言えない。

 もちろん違反だが、まあ、バレることはないだろう。

 

 次のバイトの日、リンが連絡を入れると、老人はすぐに来店してくれた。

 

 事情を説明して貸すと、老人は

「わざわざありがとうございます、ありがとうございます」

と、何度もお礼を言い、本当に嬉しそうに帰って行った。

 図書委員としてはもちろん、お店の利益にもならないから書店員としても正しい行為とは言えないかもしれない。

 それでも、帰って行くときの老人の笑顔に、これで良かったと思えた。

 

 

 

 

 

 

 老人はその後、二度と来店することはなく、本も戻って来なかった。

 

 

 

 

 

 

 リンは、図書室担当の先生に事情を話して謝り、フリマサイトで同じ本を買って返すことにした。

 先生にはそこまでする必要は無いと言われたが、それではリン自身が納得できなかったのだ。

 その月のバイト代を半分近く使うことになったが、仕方がない。

 

 あれ以降、老人には連絡をしていない。

 連絡をすると、なんだかとても悲しいことを知ってしまうような気がしたから。

 

 サイトで買った本が届いたとき、せっかくだから、と、リンは本を読んでみた。

 

 デンマークの貴族に生まれた一人の女性の数奇な人生を描いた物語だった。

 高貴な身分でありながら不倫に溺れ、しだいに没落していく、というような内容で、トルストイの『アンナ・カレーニナ』に似ている印象だった。

 

 ただ、現在も重版され、何度も映画化・舞台化されている()()名作と比べると、あらゆる面で劣ると言わざるを得ない。

 登場人物の設定が曖昧でぼやけているような印象で、ストーリ展開も少々ご都合主義なところが目立つ。

 少なくともリン自身は、これを人生の最後に読む本には選ばないだろう――そんな内容だった。

 

 ただ、読み終えた後、リンはなんだか無性に泣きたい気持ちになった。

 

 その翌日、リンは図書室の本棚に、『セシリア・フィッシェル夫人』を()()()

 リンがもう一度この本を読むことは、おそらく無いだろう。

 

 それでも。

 

 リンにとって、それは生涯忘れることのない本になったのである。

 

 

 

 

 



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紡がれる物語

 その小説は、『神の手が(つむ)ぐ物語』と呼ばれていた。

 

 

 

 読者に美しい情景を思い描かせる優美な文体と、切なさとあたたかさの狭間を漂うストーリーがウリの恋愛小説だ。

 

 発売されたのは十年以上前で、当初はあまり話題にならなかったものの、SNSなどでじわじわと話題になり、読書好きで知られる人気芸能人がテレビで紹介したことで一躍注目を浴びるようになった。

 その際、紹介した芸能人が「この本の内容を一言でいうと『神の手が紡ぐ物語』です」と表現し、それがそのままキャッチコピーとなったのである。

 

 このキャッチコピーには、作家の執筆スタイルが強く影響している。

 

 作者は八十歳を超える年齢の老作家で、パソコンでの執筆が主流となった現在でも手書きで執筆しているというのだ。

 原稿用紙に万年筆といういまどきの若者にはあまり馴染みが無いスタイルが、『神の手が紡ぐ物語』というイメージにピタリとハマったのだ。

 

 話題となったのをきっかけに、リンもこの小説を読んでみたのだが、すぐにドハマりしてしまった。

 その作家が書いた小説はすぐに買い揃えて読破したし、バイト先の本屋でも、目立つところに陳列したり手書きのポップをつくったりして積極的にアピールしている。

 今ではすっかりひいきにする作家の一人となっていた。

 

 リンがその作家をひいきにする理由がもうひとつある。

 その作家の孫娘に当たる少女が、なんと、リンと同じ高校の同級生で同じ図書委員をしているのである。

『第三の神の手』と、リンは密かに名づけている。

 

 その少女自身は読書好きではあるが小説を書いているような話は聞かないし、作文で賞を取ったというような話も無い。

 文才があるかどうかは不明だが、それでもリンが少女に『第三の神の手』なる呼び名を与えたのには理由がある。

 

 リンは、その少女の手が好きだった。

 

 例えば、本の貸し出し作業の際、本を渡すときの手に、リンは思わず見とれてしまう。

 

 返却された本を棚に戻すときの手の動きを、リンは思わず目で追ってしまう。

 

 パソコンで本を検索するときの指の動きを、リンは目に焼き付けようとしてしまう。

 

 そして、同じ本を取ろうとしたときや、狭い場所ですれ違うときなどに、不意に手が触れたりすると、まるで恋人と初めて手を繋いだかのようなときめきがある。

 

 ……もっとも、そのたびに、いやそんな経験ないだろ、と、自分でツッコミを入れるのだが。

 

 ともかく、リンはその少女の手が好きだったのだ。

 これは、『神の手が紡ぐ物語』が話題になるよりも前、少女と図書委員を務め始めた頃からだった。

 

 

 

 

 

 

 その日も、リンは少女が返却の作業をする手に見とれていた。

 

 カートから本を取り、棚に戻す。別の棚へ移動し、また本を取り、棚に戻す。

 ただそれを繰り返しているだけなのに、思わず感嘆のため息を漏らしそうになる。

 

 少女の手は、色白でシミひとつ無いし、指の一本一本の長さと太さのバランスも良い。

 その見た目が単純に綺麗というのはもちろんだが、その動き方に、なんともいえない艶やかさがあるのだ。

 まるで、一流の音楽家がオーケストラを指揮するような美しさ、あるいは、山の奥深くをたゆたう清流のような美しさ、それでいて、満天の星空を横切る一筋の流れ星のような美しさ――いろいろ矛盾しているな、と、リン自身も思う。

 

 正直、どういう風に綺麗なのか、うまく説明することはできない。

 他の人が見たら普通の手に見えるような気もする。

 それでもリンは、その少女の手を、本を棚へ戻すときの仕草を、美しいと思うのだ。

 

 リンがじっと見とれていると、その視線に、少女が気付いた。

 

「なに? 志摩さん」少女はわずかに首を傾けてほほ笑んだ。

 

「あ、ええっと――」

 

 リンは慌てて視線を外した。

 なんとなく見とれていた、なんて言うと、変に思われるかもしれない。

 なんとかごまかせないか、と、自分の受け持ち分のカートを見ると、ちょうど、『神の手が紡ぐ物語』の本があった。それを取って、少女に見せる。

 

「これ、この前また読み返してみたけど、やっぱりすごく良いよね」

 

 少女は驚いたように目を丸くした後、

「また読んでくれたんだ。ありがとう」

と、嬉しさと照れくささが混じったような笑みを浮かべた。

「おじいちゃん、きっと喜ぶと思う」

 

 リンも笑顔を返しながら、内心ほっとする。

 どうやら変に思われずにすんだようだ。

 

「すごいよね。身内に作家さんがいるなんて」

 

 リンが本を棚に戻しながら言うと、少女は

「そんなことないよ。すごいのはおじいちゃんで、あたしは別に」

と、言葉では否定しながらも、顔はまんざらでもない様子だ。

 

「おじいさんの本、もっと読みたいな。ねえ、新作の予定とか、ないの?」

 

 リンが身を乗り出して訊くと、少女は

「あ、えーっと……」

と言葉を詰まらせ、少し困ったような顔になった。

 

「あ、ゴメンゴメン。そんなこと、わかんないよね」

 

 リンはすぐに謝る。

 発売前の作品の情報など、もし知っていても話せるわけがないし、そもそも作家自身が話したりもしないだろう。

 

 SNS等が普及した現代、出版業界に限らず情報管理は厳重になっている。

 リンも本屋でバイトしている立場上、ときどき解禁前の新作の情報を知ることがあるが、そんなときは店長から

「絶対に情報を漏らしちゃダメだよ」

と強くクギを刺され、

「もしうちから流出なんてことになったら、こんな小さなお店、すぐに干されちゃうから」

と、冗談とも本当とも知れないことを言われるくらいだ。

 

「あ、ううん、そうじゃないの」

 少女は手のひらを振った。

「まあ、そういう話をおじいちゃんがしてくれないのは確かだけど……おじいちゃんね、もう長く病院に入院してて、ずっと、小説は書いてないんだ」

 

「え!?」

 図書室であることも忘れて思わず大きな声を上げてしまったリンは、慌てて口を押えた。

「……知らなかった。ゴメン、なんか、不謹慎なこと言っちゃって」

 

「いいの。あたしも、言ってなかったし。

 それに、入院って言っても、重篤な状態じゃないの。

 お見舞いに行ったら普通にお話しするし、病院の中だけだけど散歩もするし、ごはんもよく食べるそうだから」

 

「そうなんだ。早く良くなるといいね」

 

「うん。

 でも、新作を書くことは、もう無いと思う。

 手書きで小説書くのはかなり体力を消耗するって、おじいちゃん言ってたし。

 まあ、普通の会社員だったらとっくに定年退職してる歳だし、仕方ないと思う」

 

「そっか……」

 

 貸出カウンターから、「すみませーん」と、生徒が呼ぶ声がした。

 少女は

「あ、あたしが行くよ」

と言って、カウンターへ戻った。

 

 生徒が持ってきた本を受け取り、貸し出しの作業をする少女。その手の動きに、リンはまた思わず見とれてしまう。

 いかんいかん、このままでは恋に落ちてしまう、と首を振って邪心を振り払う。

 少女の祖父の新作がもう読めないかもしれないのは残念だが、少女が言った通り、こればっかりは仕方のないことだ。

 家族のためにも、少しでも長生きしてほしいな――そんなことを考えつつ、リンは本を返す作業に戻った。

 

 

 

 

 

 

 このとき、少女が祖父の入院の話をしたのは、彼女なりに予感があったのかもしれない――と、あとになって、リンは思う。

 

 身内に不幸があり、少女がしばらく学校を休むことになったのは、それからわずか一週間後のことだった。

 

 少女の忌引を伝えたのは図書室担当の先生だった。

 身内とは誰か、具体的には言わなかったし、もしかしたら先生自身も聞かされていないのかもしれない。

 彼女の祖父とは限らないが、どうしてもそうじゃないかと思ってしまう。

 気になるが、リンの方から連絡をしてそれを確認するのはためらわれた。

 どうしようか迷っていると、少女の方から連絡があった。

 リンが心配した通り、亡くなったのはやはり作家のおじいさんだった。

 詳しい話を聞きたいという気持ちもあるが、その日はお悔やみを伝えるだけに留めた。

 

 

 

 

 

 

 それから、一週間が経った。

 

『神の手』と称された老作家の訃報はテレビや新聞・週刊誌などでも大きく報じられ、リンがバイトをする駅近くの小さな本屋でも、急遽追悼のコーナーが設けられた。

 

 少女はずっと学校を休んでいる。そろそろ連絡してみようか、いやまだ早いかな、と、迷いながら追悼コーナーに本の補充をしていると、カランカラン、と、ドアベルが鳴った。

 

 振り返り、いらっしゃいませ、という前に、その顔を見て思わず

「あ」

と声を上げてしまった。来店したのは、図書委員の少女だった。

 

 少女も

「あれ?」

と、驚いた顔になる。

「そうか。志摩さん、このお店でバイトしてたんだったね」

 

「うん、ときどきだけどね」

 そう言った後、リンは声のトーンを落として続ける。

「おじいさん、残念だったね」

 

「うん。でも、歳も歳だし、長生きした方だよ」

 

 意外とさばさばした様子で、少女は答えた。

 あまり落ち込んでいないようで良かった……と言っていいのかはリンにも判らなかったが、まあ、落ち込んでいても、死んだおじいさんも喜ばないだろうから、いいのかもしれない。

 

 追悼コーナーの前で少しおじいさんのことを話した後、リンは

「それで、何か本買うの?」

と訊いた。

「探してる本があるなら、手伝うよ?」

 

 少女は首を振った。

「今日は本じゃないの。原稿用紙って、ある?」

 

「原稿用紙? あるけど」

 

 この本屋では文房具も取り扱っている。リンは売り場へ案内すると、一種類だけ置いてある原稿用紙をひとつ取った。

 

「これでいい?」

 

「うん、ありがとう」

 

 リンはカウンターへ向かいながら。

「作文の宿題とか、あったっけ?」

と訊いてみた。

 

 少女はまた首を振ると、

「うーん」

と少し困ったような顔になった。

 何か事情がありそうだ。

 

「まあ、志摩さんなら、いいか」

少女は一度頷いた後、続けた。

「ちょっと、小説、書いてみようと思って」

 

「ええっ! すごいじゃん!」

 

「そんなことないって、まだ書きはじめてもいないんだから」

 少女は照れたように言うと、人差し指を立てて口の前に当てた。

「恥ずかしいから、みんなにはナイショにしててね」

 

「ええ? 別に恥ずかしがることないのに」

 

 笑いながら言い、リンはレジのバーコードリーダーで原稿用紙のバーコードを読んだ後、首を傾けた。

「でも、いまどき原稿用紙で書くの?」

 

 いまの時代、小説を書くのならパソコンを使うのが普通だろう。

 あるいは、ネットの小説投稿サイトを利用している人にはスマホやタブレットを使う人もいる。

 どちらも修正する場合に手書きよりもはるかに便利だ。

 わざわざ原稿用紙で書くメリットは、ちょっとリンには思いつかない。

 

「うん、そうなんだけど――」

 少女は一度頷くと、自分の手のひらを見つめた。

「手がね、おじいちゃんに似てたの」

 

 それは、リンではなく、まるで自分の手のひらに話しかけるかのような仕草だった。

 

 ドキッとした。

 リンが少女の手が好きだということは気付かれていないと思うが、それを見透かされたような気持ちだった。

 

 リンが戸惑ったのを、少女はどう解釈したのか、

「ごめん、変に思うでしょ?」

と言って、さらに続けた。

「似てる、って言っても、見た目とかじゃないんだよね。

 おじいちゃんの手はしわくちゃで、ペンだこもあって、全然似てないんだけど……でも……うまく言えないんだけど、棺の中で手を組んでるおじいちゃんを見ていたら、なんでか、そう思ったの」

 

 判るような気がした。

 もちろん、リンは少女の祖父に会ったことはない。

 年齢を考えると、少女の言う通り見た目は全く違うだろう。

 ただ、少女の手には、見た目の美しさとは違う、なんとも言えない艶やかさがある。

 恐らく、祖父の手にも、そういうものがあったのだ。

 

「だから、あたしも書いてみるの」

 少女は手のひらを握った。

「そのために、おじいちゃんが使っていた万年筆も、形見分けで貰ったの」

 

「――うん」

 

 リンは原稿用紙の清算を済ませると、少女に渡した。

「完成したら読ませてね」

 

「最後まで書けるか、わかんないけどね」

 

 おどけたように笑った少女は、原稿用紙を受け取り、帰って行った。

 リンは店先に出て見送る。

『第三の神の手』は、どんな物語を紡ぐのだろう。

 

 少女を見送り、店内に戻ったリンは、追悼コーナーを見た。

 

 ――いつかあの()が書いた本が、賞を取れば。

 

 リンは思う。

 

 その本は、この本屋や学校の図書室、街の本屋や図書館、大学病院の図書室の本棚にも並ぶだろう。

 

 でも、その頃、あたしは図書委員も本屋でのバイトもしていないかもしれないし、そもそもこの街に住んでいないかもしれない。

 

 五年後、十年後、二十年後、あたしはなにをしているだろう?

 

 それを考えると、楽しみなような気が重くなるような複雑な気分だけど。

 

「――あたしも、がんばらなくちゃ」

 

 リンは両手の拳を握って胸の前で振った。

 

 カランカラン、と、ドアベルが鳴る。

 

「いらっしゃいませー」

 

 リンは、とびっきりの笑顔で新たな客を迎え入れた。

 

 

 

 

 



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休憩

 リンの一番の趣味は言うまでもなくキャンプだ。

 バイトをして資金を貯め、冬になると各地のキャンプ場へ出かけていく。

 そして、シーズンオフで人の少ないキャンプ場で、本を読んだり、景色を眺めたり、あるいはなにもせずただボーっとして過ごしたりするのを、何よりの楽しみにしていた。

 

 ただし、キャンプ場で過ごすことだけが楽しみではない。

 せっかく遠出するのだから、目的地周辺やその道中にある観光スポットに立ち寄ったり、ご当地グルメを食べ歩いたりするのも楽しみのひとつだった。

 リンは、キャンプ前はネットなどで道中や周辺の情報をチェックし、気になるスポットやグルメがあれば、多少遠回りでも立ち寄るようにしていた。

 

 今回、年越しキャンプの計画を立てていたリンが興味を持ったのは、海沿いの国道そばにある休憩所だった。

 道の駅――と呼べるようなものではない。そこは、駐車場の奥にプレハブ小屋があり、中に十台ほどの自動販売機が設置された小さな休憩所だ。

 ご当地グルメを提供する食堂も無ければお土産品を扱う売店も無い地味なところに興味を持ったには理由がある。

 この休憩所には、今となっては珍しい調理済みの温かいうどん・そばを提供する自動販売機が設置されているのだ。

 昭和レトロ感漂うその自販機はマニアの間では根強い人気があり、近年テレビやSNSで取り上げられたことで、ちょっとしたブームにもなっている。

 リンが興味を持ったのもそれらの影響だった。

 今回、キャンプ場へ向かう途中の国道沿いにその自販機が設置されている場所があったので、立ち寄ることにしたのである。

 

 時折強い海風が吹き付ける国道を、愛用の原付スクーターで走ること数時間。目的の休憩所に到着したリンは、駐車場へ入った。

 今日は大晦日なので国道は比較的()いていたが、駐車場は半分ほどうまっている。

 ほとんどは普通車だが、バイクも数台あり、大型のトラックも一台()められていた。

 そのうち半分は帰省途中と思われる他県ナンバーで、残り半分は地元ナンバーだ。

 県境に近い場所の休憩所だが、長距離移動のドライバーさんだけでなく地元の人もよく利用するらしい。

 

 リンは()いているスペースに原付を駐め、プレハブ小屋へ入った。

 暖房の効いた小屋内は、長時間海風にさらされて冷え切ったリンの体を温めてくれる。

 ふう、と大きく息をつき、リンは小屋内を見回した。

 四人がけのテーブル席が並ぶ食事スペースは、家族連れ、カップル、一人客などで、半分ほどが埋まっていた。

 目的の自販機はその奥にあった。

 一般的な自販機よりも一・五倍ほど横長で、正面には大きく『うどん・そば』のパネルがはめ込まれている。

 さらに、その隣には同型の自販機がもう一台あるが、そこには『ラーメン』のパネルがはめ込まれていた。

 飲み物やアイスやパンなどよく見かけるタイプの自動販売機が十台ほど並ぶ中でも、その二台だけは圧倒的な存在感を放っていた。

 

 はやる気持ちを抑え、リンはゆっくりと自販機の前まで移動する。

 近くで見ると、「年季が入った」としか言いようのないほど古い外観だった。

 こまめに清掃してあるようだがその分全体的に色あせており、ところどころ表面に錆が浮き出ている。

『投入口』『返却』『取り出し口』などの文字はかすれてほとんど読めない。

 買い間違いが無いようにか、メニューボタンの文字だけはクッキリと書かれているが、黒マジックの手書きだ。

 何の情報も無く通りすがりにこれを見つけたとしたら、故障寸前の古ぼけた自販機だ、としか思わないであろう。

 しかし、この自販機は、激動の昭和と平成の時代を生き抜き、令和となった現在もなお、訪れる人に温かい麺類を提供し続けているのだ。

 そう思うと、その古い外観にも不思議と風格が漂ってくる。

 

 うどん・そばの自販機のメニューは天ぷらうどんと肉そばで、ともに三百五十円と、格安と言っていい値段だ。

 隣のラーメンの自販機は、同じく三百五十円のしょうゆラーメンと四百円のチャーシューメン。そちらもそそられるが、すでに口はうどんかそばになっている。

 天ぷらうどんか肉そば……恐らく、これは今年最後の重要な選択となるだろう。

 どちらかひとつを選ぶことは極めて難しい問題である。

 ボタンをふたつ同時に押して出てきた方を食べるという方法もあるが、人目があるため、さすがに子供じみていて恥ずかしい。自分で決断するしかない。

 散々迷った挙句、リンは天ぷらうどんを食べることにした。

 ごめんなさい、肉そばさん。でも、あなたのことを見捨てるわけじゃないの。天ぷらうどんを食べてあたしのお腹にまだ余裕があれば、今度はあなたの番よ――リンは心の中で肉そばに詫び、お金を投入して天ぷらうどんのボタンを押した。

 調理中のランプが点灯する。これで、三十秒ほど待てば温かい天ぷらうどんが出てくる……はずだったが。

 

 三十秒たっても、一分たっても、二分たっても、愛しの天ぷらうどんは出てこなかった。

 

 調理中のランプは点灯したままだ。お金が足りなかったわけではないだろう。

 しかし、再度ボタンを押しても、返却レバーを捻ってみても、なんの反応も無い。

 なんだ? あたしに食べさせる天ぷらうどんは無い、とでも言うのか? 舐められたものだ。

 それならこちらにも考えがある。

 バーナーであぶるかテント用の()()を打ち込むか、リンが検討していると。

 

「――出てこないの?」

と、近くのテーブル席で一人そばを食べていた年配の男性客から声を掛けられた。

 

 リンが

「そうなんです」

と応えると、男性客は笑って、

「古い機械だからね、よくあるんだ。叩いたりしちゃダメだよ? 貴重な機械なんだから」

と言った。

 

 リンは、

「そんなことしませんよ」

と、苦笑いで答える。

 

 男性客は、小屋の隅にある『スタッフルーム』のプレートが貼られたドアを指さした。

「あそこにオーナーさんがいるから、聞いてみるといい」

 

 リンは男性客にお礼を言うと、ドアをノックした。

 出てきた愛想の良い中年の男性オーナーさんに事情を説明する。

 

「ああ、申し訳ありません」

 

 オーナーさんは鍵を取り出し、自販機を開けた。

 中にはらせん状のレールがあり、そこに()()が注がれる前のうどんとそばの容器がいくつも設置されていた。

 パチンコ玉がジェットコースターのように転がるおもちゃの上昇部分に似ているな、と、自分でも「判りにくいわ」とツッコみたくなるようなことを思った。

 

 オーナーさんが機械を調べているのを、リンはそばで見ている。

 すると、テーブル席でうどんを食べていた若いカップル客の女性がスマホ片手にやってきて、オーナーさんに声をかけた。

 

「すみません、中の写真、撮っていいですか?」

 

 オーナーさんが快く承諾すると、女性客はスマホで何枚か写真を撮り、満足げな顔で席に戻った。

 

「珍しい機械だからね。写真を撮って行く人も多いよ」

と、さっきの年配の男性客が言った。

 もしかしたら常連さんなのかもしれない。

 

 男性客は、

「特に、中を見られるのは貴重だよ」

と続けた。

「商品を補充するときか、こうやって修理するときくらいしか見られないからね」

 

 そう言われると、なんだか歴史的瞬間に立ち会っているような気がしてきた。

 せっかくだからと、リンもオーナーさんに許可を取り、中の様子をスマホで撮影しておいた。

 

「すみません、直るとは思いますが、一〇分くらいはかかりそうですね」

 しばらく自販機の様子を見ていたオーナーさんは、申し訳なさそうにそう言った。

「お急ぎでしたら返金させていただきますが、どうしますか?」

 

 返金してもらってラーメンを食べるというテもあるが、さんざん悩んで天ぷらうどんと決めたので、やっぱり食べたい気持ちが(まさ)っている。

 特に急いでいるわけでもないので、リンは待つことにした。

 

「ここの天ぷらうどんはうまいよ」

 修理を待つリンに、さっきの男性客がまた話しかけてきた。どうやらかなりの話し好きらしい。

「ここらじゃ珍しい福岡系のうどんでね、コシがなくて柔らかいのが特徴なんだ。

 天ぷらも大きなエビ天が一匹入ってて、三百五十円だからね」

 

 男性客の話によると、自販機で提供されるうどんやそばやラーメンは、オーナーさん自身が調理して用意しているそうだ。

 だから、オーナーさんのこだわりがメニューに現れる。

 この休憩所のメニューは天ぷらうどんと肉そばとしょうゆラーメンだが、別の場所に設置された自販機では、きつねうどんやかきあげそば、しおラーメンやみそラーメンなど、全く別のメニューを提供していたりする。

 中には、具だくさんのスタミナうどんやにしんそば、ちゃんぽん麺など、かなりこだわったメニューを提供している所もあるらしい。

 同じ型の自販機でも、場所によってメニューや味が全く異なるのが、麺類自販機の最大の魅力だという。

 

「ここのオーナーさんは、昔は自販機のメーカーに勤めていたそうだからね。すぐに直してくれるよ」

 

 話はうどんからオーナーさんの話になる。

 オーナーさんは自販機の会社でメンテナンスに携わっていたが、訳あって退職し、地元に帰ってきてこの休憩所の営業を始めたそうだ。

 自販機の修理はお手のものだが、それでも、状況は厳しいという。

 

 うどん・そば・ラーメンなどの麺類の自販機は、昭和後期に数千台が製造され、全国各所で稼働していた。

 しかし、すでに製造は終了し、その数は減少の一途をたどっている。

 当然、故障などのサポート期間も終了しているので、何かあってもオーナーさんがなんとかするしかない。

 内部の清掃や油をさす程度のメンテナンスで直る場合もあるが、部品を交換しなければならない場合は大変だ。

 当然ながらメーカーからの部品供給も無いので、これも自分でなんとかするしかない。

 ネジの交換程度ならホームセンターで調達できるが、専用の部品だと、代用品を見つけるのはかなり難しい。

 破棄予定の同型自販機を保管しておき、部品を流用するという手段がとられているものの、当然、それにも限界がある。

 

「――昔は、こういった国道沿いの休憩所は、全国にたくさんあったけどね」

と、男性客は少ししんみりとした声になって続ける。

「今は高速道路が整備されたから、利用する人が少なくなって、どんどん無くなっていったんだ。

 ほら、最近の高速道路のサービスエリアは、食堂や売店だけじゃなく、公園や温泉や博物館なんかもあったりするじゃない?

 みんな、そっちの方へ行きたがるんだよね。

 ああいうところもいいけど、ここみたいな、昔ながらの小さな休憩所にも、良いところがあると思うんだよ。

 無くなったりすると、さみしいね」

 

 話を聞きながら、リンは、なんとなく、本屋を取り巻く状況と似ているな、と思った。

 

 リンがよくバイトをするのは、近所にある個人経営の小さな本屋だ。

 昔はそういった小さな本屋は多かったが、大型のチェーン店に追われ、どんどん姿を消していった、と、店長はよくぼやいている。

 最近では、電子書籍が普及したことで紙の本自体がどんどん減っており、小さな本屋どころか全国チェーンの大型書店でさえ閉店が相次いでいるほど厳しい状況なのだ。

 確かに、電子書籍にはメリットは多い。

 置き場所に困らないし、タブレットやスマホひとつで何十何百冊も持ち歩けるし、店に行かなくてもすぐ買える。

 しかし、紙の本にも良いところはある。

 充電切れを気にする必要が無いし、サービスが終了して本が読めなくなるリスクも無い。

 袋とじや仕掛け本・付録など、紙媒体でしかできない本もたくさんある。

 なにより、お店で直接店員とお客さんが接して購入するという点に魅力がある、と、リンは考えている。

 

「――お待たせしました」

 自販機の扉を閉め、オーナーさんが言った。修理が終わったようだ。

 

 返金してもらった三百五十円を改めて投入し、天ぷらうどんのボタンを押す。

 三十秒経たず、今度はちゃんと出てきた。

 長く待ち続けた愛しの天ぷらうどんとの対面に、リンは思わず頬ずりしたくなる。

 熱いからやらないが。

 

 オーナーさんにお礼を言い、席に着いてあつあつの天ぷらうどんを食べた。

 煮干しと昆布の香りが効いたおつゆに、コシの無いやわらかいうどん、そして、どっぷりとつかっておつゆを吸いまくったひたひたのエビ天の組み合わせが、たまらなく美味しい。

 

 うどんをすすりながら、リンは小屋の中を改めて見回した。

 さっきの年配の男性客は、大型トラックの運転手と思われる若い男性客に「年末なのに大変じゃのう」と話しかけていた。

 自販機の中を撮影していた若い女性客は、新たに入って来た別の女性客と目が合い、「あ、ひさしぶり!」と声をかけた。おそらく、帰省中の地元の知り合いに会ったのだろう。

 地元のお客さんも、帰省中のお客さんも、通りすがりのお客さんも、皆、笑顔で麺をすする。

 自動販売機は、人と接することなく商品を買うことができるものだ。

 しかし、この場所には、人と人とが接する温かさが溢れている。

 リンが働く本屋も、こういう場所でありたい。

 

 うどんを食べ終え、おつゆの最後の一滴まで飲み干したリンは、容器と割り箸をゴミ箱へ捨てた。

 そのとき、たまたまスタッフルームからオーナーさんが出てきたので、

「ごちそうさまでした、美味しかったです」

と伝えた。

 

「ありがとうございます」

 オーナーさんは笑顔で答えた。

 

 お互いがんばりましょうね――これは、心の中だけでつぶやいた。

 

 小屋の外に出る。

 潮の香りを含んだ強い風が吹き付けるが、休憩所で温まったリンは、それほど寒さを感じなかった。

 帰りは別ルートにするつもりだったけど、せっかくだから、またここで食べて帰ろうかな、そう思う。

 

 リンは原付にまたがると、エンジンをかけてアクセルを捻り、目的地のキャンプ場を目指してスクーターを走らせた。

 

 

 

 

 



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怖い絵本

 リンが通う高校の図書室では、年に一度、蔵書の整理を行っている。

 毎年一学期の中間テスト後に行われるこの作業を、リンは密かな楽しみにしていた。

 

 この作業のメインイベントは、なんと言っても、新たに購入された本をお迎えする(と、リンは呼んでいる)ことである。

 年々削減されてゆく図書予算の中から購入された本は、志願倍率の高い難関校の受験を突破したようなものである。

 彼らを蔵書に加えることは、将来有望なエリートを迎え入れるのと同じだ。

 反面、残念ながら古くて傷みの激しいものなどお別れとなる本もあるので、ちょっとさみしい気持ちもある。

 ただ、それらの本も、決して破棄されるわけではない。

 校内の希望者に譲ったり、よその施設に寄贈したり、町内のフリーマーケットに出品したりして、新たな所有者に渡るのだ。

 よほど傷みのひどいものでも、古紙として回収され、リサイクルされて新たな紙に生まれ変わる。

 つまり、別れではなく旅立ちだ。

 蔵書の整理は、図書室にとっての入学式と卒業式を同時に行う、重要な節目の日なのである。

 

 この日、リンたち図書委員は放課後遅くまで残って作業をしていた。

 リンに割り振られた作業は新しい本の登録だ。

 この高校の図書室にはパソコンでの管理システムが導入されている。

 バーコードを読んで本を登録すると管理用のラベルが印刷されるので、それを背表紙の下側に張り付けていくのだ。

 図書室への()()()を最初に迎える重要な役割である。

 段ボールの中から一冊取り、パソコンに読み込ませ、プリンタから出てきたラベルを貼る。

 これらの本の選書をしたのは図書担当の先生だ。

 県が指定した本や読書感想文のコンクールで課題となっている本が主だが、他にも、最近のベストセラーの小説や人文書に実用書、ライトノベル、児童書、絵本など、さまざまなジャンルの本がある。

 中にはリンたち生徒が前々からリクエストしていた本もあり、そういうのをお迎えするときは特にうれしい。

 リンは一冊一冊心の中で本のタイトルを読み上げ、入学おめでとう、と祝福の言葉をかけながら、実に晴れやかな気持ちでラベルを張り付けていった。

 

 が、最後の一冊を取ろうとしたところで。

 

 ――げっ!

 

 心の中で悲鳴に近い声を上げ、思わず手が止まる。

 それまでの楽しい気分が、その本を見た瞬間一気に吹き飛んでしまった。

 

 それは『飯降山(いぶりやま)』というタイトルの絵本だった。

 民話を元にした絵本で、表紙には、三つのおにぎりと三人の女性僧侶――尼さんの絵が描かれている。

 全体的に暗いタッチで描かれ、三人の尼さんのうち両サイドの二人が苦しそうな顔をしているのに対し、真ん中の一人だけがにんまりと笑いながらこちらを見つめる姿が、どこか狂気を感じさせる表紙だ。

 

 その本を見た瞬間、リンの胸の奥底から忘れていた感情がよみがえった。

 リンは、この本にイヤな思い出があるのだ。

 

 ――お前、まさかあたしを追いかけてここまで来たのか。

 

 執念深い妖怪テケテケに遭遇したかのように、リンは恐れおののく。

 

 リンとこの本との出会いは十年ほど前、小学校低学年のときだ。

 きっかけは、お正月に遊びに来た親戚の子だった。

 その子はお化けとか妖怪とかの怖い話が大好きで、リンの家に来るときは毎回怖い本を持って来ていたのだ。

 いまでこそホラー系の本も普通に読むリンだが、子供の頃は怖い話のたぐいが大の苦手だった(普段クールぶってはいるが、実のところ今でもちょっと怖がりな面はある)。

 そんなリンにとって迷惑この上ない子だったが、その子が持ってきた本の中に、この『飯降山』があったのだ。

 話の内容は今となっては覚えていないが、表紙のその絵がとにかく怖かったのだけは覚えている。

 

 そして、あろうことかその子、この本をリンの家に忘れて帰ってしまったのである。

 

 いま思えば親に言って宅配で送ればいいのだが、そのときのリンにはそこまで考えが回らず、次その子が来たときに返すしかないと思っていた。

 なので、それまではリンが持っておくしかない。

 目につくところにあると怖いので、部屋の押し入れの奥に隠したのだが、今度はその押し入れが怖くなった。

 何か、押し入れの中に怨霊を閉じ込めたような気分で落ち着かない。

 ちょっとでも押し入れの戸が開いていようものなら、その隙間から何者かがこちらを覗き見しているような気さえした。

 

 結局その子が次に遊びに来たのは一年後のお正月だった。

 本はそれまでずっと押し入れの中にあり、リンは自分の部屋なのになんだか落ち着かない気分で一年を過ごしたのだ。

 この出来事がトラウマとなり、リンはいまでも押し入れがちょっと怖い。

 それでも本のことはすっかり忘れていたのに、まさかこの歳になって、リンの安らぎの場である高校の図書室で再会しようとは。

 

 リンは恐る恐る絵本を手に取ってパソコンに登録し、プリントされたラベルを張り付けると、伏せた状態で横に置いた。

 ふう、と大きく息を吐く。

 新入生の中に地元で有名な不良がまぎれ込んでいたような気分だ。

 誰だよ、こんな本を蔵書に選んだのは。いや先生だけど。

 

 ひとまず割り振られた作業を終え、リンは図書カウンター内から室内を見回した。

 いつの間にか誰もおらず、リン一人になっている。

 すでに下校時間を過ぎているため、バスや電車の時間がある子は先に帰ってしまった。

 残っているのはリンを含めた数人だけで、今日だけは特別に作業が終わるまで残っていいことになっている。

 倉庫の整理もすると言っていたから、そっちに行ったのだろう。

 

 リンは窓の方を見た。

 いつもは千明たち野クルのメンバーが騒がしくしている校庭にも、当然もう誰もいない。

 校庭全体を照らす照明も落とされているためほとんど真っ暗で、遠くに校門を照らす心細い明かりが見えるだけだ。

 闇の中に校門だけがぼんやりと浮かび上がる光景は地獄へ誘われているようで、かえって不気味だ。

 校内にはまだ図書委員の子以外にも先生や守衛さんも残っているはずだが、なんだか自分一人だけが取り残されたような気分になる。

 

 ぶんぶんと首を振り、リンは考えを振り払った。

 いかんいかん。トラウマ本との思わぬ再会にネガティブモードに入ってしまった。

 怖いときに怖いことを考えてしまうのは怖がりの悪いクセだ。

 こういうときこそ、楽しいことを考えなければ。

 

 登録を終えた本を見る。

 さっき裏返した絵本の裏表紙は、不気味なおもて表紙と違い、おにぎりが一個書かれているだけだ。

 そう言えばお腹すいたなぁ、今日は遅くなるのは判ってたんだから、お菓子でも買っておくべきだった、なでしこがギョーザ鍋でも差し入れしてくれないだろうか、さすがにそれはないか――そんなことを考え、笑みがこぼれる。

 本一冊に怯えているのもバカバカしく思えてきた。

 

 リンは伏せている本を表向きにしてみた。

 子どものころは怖くて仕方なかったその表紙だが、今こうして改めて見ると、そこまで怖いとも思わない。

 むしろ、丸っこくディフォルメされた尼さんには、どこかゆるキャラのような愛嬌もある。

『飯降山』というタイトルも、ご飯が降ってくる山、と解釈すれば、なんだか楽しい話のような気もする。

 

 ひょっとしたら、あたしは必要以上に怖がり過ぎているのかもしれない――そう思った。

 怖かったのは純粋無垢な子供時代だったからかもしれない。

 いま読んでみると、案外子供だましの内容なのかもしれない。

 ひょっとしたら、これは神様があたしにトラウマを克服するチャンスを与えてくれているのかもしれない。

 

 よし、と、リンは小さく気合を入れる。

 ちょうど作業もひと段落したところだ。

 絵本だからさくっと読めるだろうし、ここで十数年ぶりにトラウマを克服しよう。

 リンは、絵本を開いた。

 

 

 

 

 

 

『飯降山』

 

 

 

 むかしむかし、福井県のある山のふもとで、木こりをしている男がいました。

 

 ある日、木こりの元に、三人の尼さんが訪れました。

 尼さんは、これから山に入り、修行を行うと言います。

 

 山には小屋も無ければ満足な食べ物もありません。

 木こりは、「やめた方が良いのでは?」と言いましたが、尼さんたちは、「つらいからこそ修行をする意味があるのです」と言って、木こりの言うことを聞かず、山へ入っていきました。

 

 それから三ヶ月ほど経ちました。

 尼さんたちがどうなったのか、木こりが心配をしていると、山に入った三人の尼さんのうち、一番年上の尼さんだけが、一人で山を下りてきました。

 他の二人はどうしたのか、と木こりが訊ねると、尼さんはこんな話を始めました。

 

 

 

 

 

 

「私たち三人は山に入って修行を始めたものの、やはり満足な食べ物がありませんから、すぐにお腹が空いてきました。

 尼は殺生が禁じられておりますので、動物を殺して食べることはできません。

 食べるものといえば、木の実や草の葉などしかないのです。

 当然満腹になることはありませんが、それでも、三人で励まし合って修行を続けていたのでございます。

 

 そんなある日のお昼のことでした。

 空腹に苦しむ私たちの前に、空からおにぎりが三つ降りてきたのでございます。

 これは天の神様からのお恵みだ、と、私たちは喜んでそのおにぎりを食べました。

 

 それからも、毎日お昼になると空からおにぎりが降ってまいりました。

 私たちは三人で一個ずつ分け合って食べていましたが、やがて一個では満足できなくなり、もっと食べたいと思うようになりました。

 

 そこで、私はもう一人の者と相談し、一番若い尼を殺すことにしたのでございます。

 一人減れば、その分食べられるおにぎりが増えると考えたのです。

 

 私たちは年下の尼を呼び出すと、棒や石で殴りつけて殺しました。

 

 私たち二人はおにぎりを楽しみに待ちましたが、その日、降ってきたおにぎりは、なぜかふたつだけだったのでございます。

 次の日も、またその次の日も、おにぎりはふたつだけしか降ってきませんでした。

 せっかく覚悟を決めて一人殺したのに、これでは食べる量は前と変わりません。

 

 私は、もうひとりの尼さんも殺せば、おにぎりを独り占めできると考えました。

 そして、彼女が夜眠っている所を、首を絞めて殺したのでございます。

 

 しかし、その日以降、空からおにぎりが降ってくることは二度とありませんでした。

 

 食べるものが無くなった私は、仕方なく山を下りることにしたのでございます」

 

 

 

 

 

 

 こんなことがあり、以来この山は、飯が降る山ということで、『飯降山』と呼ばれるようになったのです。

 

 

 

 

 

 

「……いや怖いわ!」

 

 リンは思わず声を出してツッコミを入れ、叩きつけるほどの勢いで本を閉じた。

 予想通り絵はそれほど怖くはなかったものの、今度は子供の頃はよく理解していなかった話自体が怖い。

 仏門に入った尼さんがおにぎりを巡って殺し合いをするというだけで充分怖いが、この話は木こりが尼さんの話を聞くという形で書かれているのがなお怖い。

 山の中で起こった出来事は、全て尼さんが証言しているだけのことであり、本当に起こったことかどうかは判らないのだ。

 空からおにぎりが降ってくるなど、普通はあり得ないだろう。

 もし、尼さんがウソをついているとしたら、この尼さんは、三ヶ月もの間、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そして、尼さんの話が終わったところで、突然この話自体も終わっている。

 ()()()()()()()()()()()()()

 

「…………」

 

 ガラガラ! と勢いよくドアが開いて、リンはびくっと大きく身体を震わせた。

 

「志摩さんお疲れ。これ、先生から差し入れだよ」

 

 倉庫で作業していた別の図書委員の子だった。

 手にはコンビニの袋を提げている。

 リンは、ほっと胸をなでおろした。

 

「ちょっと休憩して、食べよ?」

 

 他の子も図書室に戻ってきて、テーブルに集まった。

 リンもお腹がペコペコなのでちょうど良かった。

 リンはラベルを貼りつけた本を整理し、最後に飯降山の本を裏向きにして置くと、カウンターから出てみんなが集まっている席に着いた。

 

 一人の子がレジ袋から中のものを取り出している。お茶、お水、菓子パン、サンドイッチ、そして――おにぎり。

 

「…………」

 

 リンは、そっとお茶とサンドイッチを取った。

 

 

 

 

 

 




参考:福井の民話『飯降山の三人の尼』


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老歯科医の贈り物

 店内に、新たな客が入って来た。

 

 

 

 入口付近で作業をしていたスタッフが、

「いらっしゃいませ、こんにちは!」

とあいさつをした。

 すると、それに続くように、レジにいるスタッフも

「いらっしゃいませ、こんにちは!」

とあいさつをし、さらにお店の奥にいるスタッフも、同じく

「いらっしゃいませ、こんにちは!」

とあいさつをする。

 

 それはまるで、山間部にやまびこが響き渡るかのようである。

 

 カウンター内で作業をしていたリンも、同じように

「いらっしゃいませ、こんにちは」

と、少し恥ずかしげに言った。

 

 リンはいま、全国的にチェーン展開する大手リユースショップでアルバイトをしている。

 リンが住む街の郊外に新しくオープンしたお店で、広い土地を利用した地域最大級の売り場が魅力の大型店舗だ。

 その、短期のオープニングスタッフである。

 

 このリユースショップは、古着や家電、CDDVDゲームにおもちゃ、家具や雑貨からブランド品貴金属まで幅広く取り扱うが、リンがいま働いているのは、このお店のメインである古本のコーナーである。

 普段バイトをしている個人経営の本屋とは比べ物にならないほどの広いフロアに、所狭しと本が並んでいる。

 地域最大級と謳うだけあって、これまでリンが経験したどのバイト先よりも広く、品数も多い店舗だ。

 

 もちろん、お客さんも多い。

 特に、この週末は本全品二〇パーセントオフのオープニングセールを行っているため、リンもビックリするほどの人出だ。

 比較的田舎のこの町のどこにこんなに人がいたんだと思うほど、広いフロアが人、人、人、でごった返している。

 

 うちのお店にもこれだけのお客さんが来てくれれば助かるのに、と、一瞬思った後、いやあの狭い店にこんなに人が入ったらパンクして大惨事だわ、と、瞬時に自分で自分にツッコミを入れつつ、リンはあわただしく働いていた。

 

 お昼のピークタイムが過ぎると、夕方にまたピークを迎えるまでは比較的お客さんの少ないアイドルタイムとなる。

 この時間を利用し、スタッフは交代で休憩に入ったり、品出しや売り場の整理など接客以外の仕事を行う。

 リンはカウンターで商品に値札を貼る作業をしていた。

 

 値札の貼り付けにはラベラーという専用の道具を使う。

 白紙のラベルシールをセットし、ダイヤルを回して値段を設定して準備完了。

 グリップを握るとパチンと音がしてシールに値段がスタンプされ、グリップを緩めるとラベラーの先からシールがニョキッと顔を出すので、それで商品を撫でるとシールが貼りつく、という寸法だ。

 

 リンはカウンターに並んだ本を鋭い目で一瞥すると、

「次に値札を付けられたいヤツ、前に出ろ……」

とクールにキメ(?)、一冊一冊手に取ってラベルを貼りつけては横に重ねていった。

 

「いらっしゃいませ、こんにちは!」

 

 入口付近で声がし、リンもそれに続いてあいさつをする。

 年配の男性が段ボールを抱えて古本コーナーの方へやってきた。

 買い取り希望のお客さんだ。

 リンは作業の手を止めてカウンターを出ると、お客さんのところへ行き、

「お預かりします」

と、段ボールを受け取った。

 ずしりと重く、かなりの量の持ち込みだ。

 リンはよろよろしながらもなんとか買い取りのカウンターまで運んだ。

 いろんな書籍関連の施設で働いてつくづく思う。本屋の仕事は肉体労働だ、と。

 

 リンは段ボールを開け、中のものを取り出して確認する。

 絵本や児童書・マンガなどが数十冊入っていた。

 比較的新しいものもあれば、かなり古いものもある。

 さらには、赤ちゃん向けのものや小中学生向けのもの、男の子向けのものもあれば女の子向けのものまで、対象年齢やジャンルなど、かなりバラバラだった。

 

「買い取ってくれるお店が近くにできて助かりました」

 男性は腰をトントンと叩きながら言った。近所に住んでいるのかもしれない。

 

「お孫さんのものですか?」

 本を取り出しながら、リンは訊いてみた。

 

「いえいえ」

と、男性は顔の前で手のひらを振った。

「私は、この近くで歯科医をしていましてね。そこの待合室に置いていたものです」

 

「歯医者さんですか? それにしては、すごい数ですね」

 驚いて目を丸くするリン。

 病院の待合室に本が置いてあることはよくあるが、それにしては量が多いように思う。

 

 男性は笑いながら言う。

「歯科医は、どうしても子供たちから嫌われてしまいますからね。でも、虫歯になったら治療はしないといけない。なので、本を読んで子供たちの気が(まぎ)れればと思い、いろいろと集めているうちに、こんな量になってしまったんですよ」

 

 なるほど。それで、いろんなジャンルや年齢層の本があるのか、と、リンは納得した。

 

「四十年ほど続けたのですが、歳が歳なので昨年廃業しまして、捨てるのも忍びないと思ってたので、持って来たんです」

と、男性は続けた。

 

 リンは本を取り出しながら、一冊一冊、本の状態を簡単に確認していく。

 状態は、決して良いとは言えない。

 開き癖がついたものから汚れてシミになっているもの、破れているものまである。

 査定はレギュラーのスタッフさんが行うので、リンに買い取り金額のことはよく判らないが、恐らくあまりいい値段はつかないだろう。

 

 しかし、それらの本の痛みは、歯の治療前の子供たちによるものだと考えると、なんだか勲章のようにも見えてくる。

 本の傷み具合を見ていると、待合室でワクワクしながら本を読む子供たちの姿が目に浮かぶようだ。

 これらの本は、虫歯の治療という子供たちにとっての未知の不安を取り除き、安らぎへ変えてきたのだ。

 それは、歯医者さんから治療前の子供たちへのささやかな贈り物だったのかもしれない。

 

 リンは全ての本を取り出した後、

「では、査定が終わりましたらこちらの番号でお呼びしますので、少しお待ちください」

と言って、番号札を渡した。

 

「よろしくお願いします」

 男性は番号札を受け取り、売り場の方へ歩いて行った。

 

 リンは預かった本を査定のスタッフに渡した。

 少しでもいい値段がつくと良いな、と思いながら元の作業に戻る。

 やがて査定が終わったので、店内放送で男性を呼び出し、査定額を伝える。

 その額は、スタッフのリンでも、もうちょっとどうにかなりませんか、と訴えたくなるレベルだったが、男性は快く承諾してくれた。

 書類の記入や証明書の確認などの手続きを行い、リンは査定額の現金を渡した。

 

「いい人が買ってくれると良いですね」

 

 リンが伝えると、男性は「ええ」と笑い、

「ではよろしくお願いします」

と、頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

 

 リンも笑顔で言い、男性を見送った。

 

 買い取ったばかりの本にさっそく値札を貼り、売り場に並べる。

 残念ながら、このお店では最低価格である百円のコーナーだ。

 

 すると、すぐに男の子がやってきて、並べたばかりの本を手に取った。

 リンも子供の頃読んだことがある、世界的に有名な童話集だ。 

 

「あ、これ、歯医者さんで読んだことがある!」

 男の子は目を輝かせて言う。

 男性の病院に通っていたのだろうか。

 

 なんだかちょっとうれしくなったリンは、

「歯医者さん、行ったことがあるの?」

と、声をかけた。

 

「うん!」

と元気良く頷いた男の子は、

「学校のみんなは歯医者さんが怖いって言うけど、僕は全然怖くなかったよ!」

と言って、真っ白な歯を覗かせて笑った。

 

「そう。偉いね」

 リンも、笑顔を返す。

 年老いた歯科医の贈り物は、確実に子供たちの心に届いている。

 

 母親らしき女性がやってきて、

「買う本、決まったの?」

と、男の子に訊いた。

 

 男の子は「コレ!」と言って、童話集を見せた。

 

 お世辞にも奇麗とは言えない古びた本に、母親はちょっと顔をしかめた後、

「それでいいの? あっちに、もっと奇麗なのがあるんじゃない?」

と、二百円三百円のコーナーを指さした。

 

しかし男の子は

「これがイイの! これ買って!」

と譲らない。

 

 母親は、

「せっかくのセールなんだからもっと良いのを選んでいいのに……」

と言いながら、渋々という顔で本を受け取った。

 

 そして、手を繋いで販売レジへと向かい、精算を済ませる。

 

「ありがとうございましたー」

 

 お店を出る男の子と母親の背中に向かって言うと、リンの声に反応して他のスタッフも言い、そして、店中に響いた。

 

 

 

 

 



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思い出がいつも笑顔であるために

 春休み、縁があってまた大学病院の図書館で短期バイトをすることになったリンは、年末と同じく忙しい日々を送っていた。

 貸出・返却の手続きをし、返却された本を本棚に戻し、本を探している人がいたら案内する。

 忙しさは相変わらずだが、ここでのバイトも二回目なので、それなりに慣れてもきた。

 前回はレギュラーのスタッフさんに何度も助けてもらったが、今回はほとんどリン一人でこなせている。

 あたしも成長したものだ、と、リンはしみじみと思った。

 と言っても、まだ前回と合わせても十日ほどしか働いていないのだが。

 

 午後になると少し利用者が減るので、リンは返却された本を本棚に戻す作業をすることにした。

 返却本の棚には、病院のお昼休みの時間帯に返却された本が大量に積まれてある。

 以前はその順番のまま一冊一冊各コーナーへ持って行っていたが、以前より大幅に戦闘力がアップしたリンは、まずコーナー別に本を並び替え、それから順にコーナーを巡って本を返すという技を取得していた。

 リンは返却棚に並んだ本に見下すような目を向けると、

「私の戦闘力は53万です。もちろん、フルパワーであなた方と戦う気はありません」

と上品な口調で言って、返却しやすいように本を並び替え、近くのコーナーから順に返却しはじめた。

 

 まず医学書のコーナーから返却し、文芸書、文庫本、と回り、手際よく返却して行く。

 最後に児童書や絵本のコーナーへ行くと、窓際の席に男の子がひとり座っているのが見えた。

 年末にも毎日女の子が座っていた席である。

 あのときの女の子と同じ十歳くらいだろう。

 なんだか暗い顔をしており、うつむいて本を読む姿が、あのときの女の子と重なった。

 

 その子の服はパジャマや部屋着ではなくお出かけ用の服だった。

 小児病棟の入院患者ではなさそうだ。

 お見舞いだろうか。

 親に連れられてお見舞いに来て、大人同士でお話している間、子供がここで時間をつぶす、というのは、よくあることだった。

 

 ただ、その子はどこか心ここにあらずといった様子だ。

 目は本を読んでいるが、心は本を読んでいない――とでも言うべきだろうか。

 何か大きな心配事があるのではないか、そんな風に思う。

 

 少年のことが気になったリンは、返却の仕事をしながらチラチラ様子を伺う。

 従業員用のエプロンをつけていなかったら完全に不審者だな、と思いつつ見ていると、入口から女性が入ってきて、少年の方へ歩いてきた。

 少年はそれに気づいて女性の方に目を向けたが、すぐにまた本に目を戻した。

 

「なにしてるの。お爺ちゃんにごあいさつしないと駄目でしょ」

 

 女性は少年のそばに立つと、腰に手を当て、怒ったような口調で言った。

 どうやら少年の母親のようだ。

 

 少年は本を見ながら、

「これ読んでから」

と、ふて腐れたような声で答える。

 

「本なんて後で読めばいいでしょ。早く来なさい」

 

 母親が少年の腕を取ったが、少年はその手を振り払った。

「やだ! 会いたくない!」

と、大きな声をあげる。

 

「この子は!」

 

 少年につられて思わず声をあげそうになった母親だが、ここが病院で、しかも図書館であることを思い出したのだろう、口元を抑え、周囲を見回してから恐縮するように身を縮めると、声を潜めて

「いいから、早く来なさい」

と言った。

 

 しかし、少年の方はお構いなしに

「やだ! 絶対行かない!」

と大声を出す。

 

 母親は、それ以上話しても周囲に迷惑になると判断したのか、少年を怖い目で見て、

「帰ったらお父さんに叱ってもらうからね」

と言って、図書館から出て行った。

 

 残った少年は、出て行った母親に向かってあっかんべーと舌を出すと、また本に目を戻した。

 しかし、その姿は、やはりどこか上の空、という感じだ。

 

 心配になったリンは、声をかけてみることにした。

 

「こんにちは。なに読んでるの?」

 

 リンが笑顔で聞くと、少年は少し戸惑ったような顔をした後、無言で本の表紙を見せた。

『三ツ星心霊スポット』という、以前リンも読んだことがある世界各地の心霊スポットを紹介するホラー系の本だった。

 いや病院でそんな本読むな! って言うかそもそも病院にこんな本置くな! と、少年と図書館の選書担当者へダブルでツッコミたくなるのをなんとかガマンし、

「どう? 面白い?」

と訊いてみた。

 

 少年は本に視線を落とした後、首を振って「あんまり」と言った。

 その本はどちらかというと大人向けであり、小学生には少し難しい、というのもあるだろうが、やはり、読書に集中できていないのではないか、と思う。

 

 リンは「そうなんだ」と言って小さく笑った後、

「ねえ、あなたのお爺ちゃん、この病院に入院してるの?」

と、続けて訊いた。

 

 少年は再びリンを見て、戸惑ったような表情になる。

 

「ゴメンね、さっき、お母さんとお話ししてるのが聞こえちゃって」

 

 リンが謝ると、少年は無言で頷いた。

 

「会いに行かないの?」

 リンはさらに訊く。

 

 少年はしばらく無言だったが、やがて「行かない」と言って、またまたふて腐れたような顔で本に目を落とした。

 ただ、そのとき少年がほんの一瞬だけ困ったような顔をしたのを、リンは見逃さなかった。

 本当に会いたくないというわけではないように思える。

 何か理由があるのなら聞いてあげたいが、ストレートに「なんで会いに行かないの?」と尋ねても、少年は正直に答えてくれないような気がした。

 

 そこでリンは、少し考えた後、

「お爺ちゃん、どんな病気なの?」

と訊いてみた。

 

 少年は首を振って「判らない」と答えた。

 まあ、小学校の低学年なら祖父の病名など聞かされていなくても不思議ではないし、聞いても判らないのが当然だろう。

 

 それでも少年は、

「お爺ちゃん、すごく痩せちゃったの」

と、悲しげな声で続けた。

 

 元気だった頃は、ふっくらした体つきで、優しい笑顔のお爺ちゃんだったという。

 

 お爺ちゃんの家は、少年が住んでいる街から少し離れた田舎にあるそうだ。

 車なら一時間ほどで通える距離なので、両親の車に乗り、月に一・二回の頻度で訪ねていたそうだ。

 そのたびに、一緒にゲームをしたり、本を読んでもらったり、公園で遊んだり、ショッピングモールで買い物やお食事をしたりした。

 一度、夏休みを利用して、一人でバスに乗ってお爺ちゃんの家まで行ったこともあるという。

 その時のお爺ちゃんは、本当に嬉しそうだった。

 ――そう話す少年も、さっきとは違って表情が明るくなり、何度も笑顔を浮かべている。

 リンが思った通り、やはり少年はお爺ちゃんのことが好きなのだ。

 

 しかし、一年ほど前、お爺ちゃんは病気になり、この病院に入院した。

 

 はじめのうちは、それまでと変わらず月に一・二度お見舞いに来ていたが、病状が進行しているのだろうか、お爺ちゃんはみるみる痩せていき、やがて、腕や鼻やのどにチューブを繋ぐようにもなった。

 会いに来ても治療中で話せないことが多いし、話ができる日でも、元気が無くなったせいで以前のように長い時間は話せない。

 加えて、お爺ちゃんの声は掠れて、よく聞き取れないという。

 

「だから、会いたくないの」

 

 少年は、胸の内の不安な気持ちを吐き出すように、そう話してくれた。

 

 話を聞いて、リンは気が付いた。

 

 おそらく、少年は『死』と向き合うのを怖がっている。

 

 少年の年齢では、まだ『死』というものを理解するのは難しいかもしれない。

 だが、幼い子供でも、幽霊やお化けの話を聞いて怖がることはある。

 どんなに幼くても、人は本能的に『死』を恐れるものなのだ。

 少年は日々憔悴していくお爺ちゃんを見て――恐らく生まれて初めて――『死』というものを感じ取ったのだろう。

 

 だから、会いたくないのだ。

 

 大好きなお爺ちゃんが『死』へと向かっているその姿を見たくない。

 その気持ちは、リンにも痛いほど判る。

 

 でも、判るからこそ――どんなに怖くても、そこから逃げてはいけないんじゃないか、とも思った。

 

「でも、お爺ちゃんに会えないと、寂しいでしょ?」

 

 リンが言うと、少年はまた無言で視線を落としたが、やがて、小さく頷いた。

 

「きっと、お爺ちゃんも、あなたに会えなくて寂しがってると思うな」

 

 少年は無言のまま、じっとうつむいている。

 

 遠くの病棟から医療スタッフを呼ぶ館内放送が聞こえてきた。

 窓の外の中庭からは、子供たちが元気に走り回る声が聞こえる。

 図書館内からは、時おり本のページをめくる音と、誰かが移動するときの足音や衣擦れの音がする。

 図書館内には、静かな時間が流れている。

 

 少年の目が、ふと、出入口の方に向いた。

 

 リンもそちらを見る。

 先ほどの母親と、母親が押す車イスに座る年配の男性――少年のお爺ちゃんだろう。

 落ち窪んだ眼下と頬、骨が浮き出た両手、そして、鼻やのどに繋がれたたチューブが、辛い闘病生活を如実に物語っているようだった。

 

 それでも。

 

 お爺ちゃんは少年の顔を見ると、元気だった頃と同じ笑みを浮かべた。

 もちろん、入院する前のお爺ちゃんの姿を、リンは知らない。

 それでも、その笑顔を見たリンは、そうだと確信したのだ。

 

 そして、戸惑う少年の顔にも――ほんのわずかだったが――笑顔が浮かぶ。

 

「――ほら」

 リンは、そっと少年の背中を押した。

 

 少年はリンに向かって頷くと、椅子から立ち上がり、お爺ちゃんの元へ駆けて行った。

 

「お爺ちゃん、久しぶり!」

 大声で言う。

 

 母親は

「こら、静かにしなさい」

と言って、周囲に頭を下げたが、少年をとがめる人はいない。

 利用者も、図書館のスタッフも、みんな微笑ましく見守っている。

 

「中庭に行ってみましょうか? 桜が奇麗よ?」

 

 母親が言い、少年はお爺ちゃんと一緒に図書館を出て行った。

 リンは少年を見送った後、彼が読んでいた本を本棚に片付けた。

 

 しばらくすると、少年とお爺ちゃんが中庭に現れた。

 少年が桜の木の下を駆けまわり、お爺ちゃんはそれを見つめる。

 リンは窓越しにその姿を見ながら、さわやかな気持ちで仕事を続けた。

 

 

 

 

 

 

 それから数日が経ち、リンのバイトの最終日になって、あの少年がまた図書館にやってきた。

 

 暗い顔をしていた。肩を落としていた。頬には、涙を流した跡もある。

 

 リンが、どうしたの? と訊くと、少年は、少し前にお爺ちゃんが亡くなったことを告げた。

 

 今朝早くに病院から連絡があり、少年の家族や親せきが集まって、お爺ちゃんにお別れを言ったそうだ。

 両親はお医者さんと話したりいろんなところに電話するのに忙しく、しばらく図書館に行ってなさい、と言われたらしい。

 

「そうなんだ……悲しいね」

 

 リンが言うと、少年は無言で頷いた。

 

 しかし、その後「でもね――」と言って、顔を上げる。

 

「すごく悲しかったけど、さいご、お爺ちゃんが笑ってくれたの。だから、僕も笑って、さようならって言ったの」

 

 少年は涙をにじませた目で、悲しみをこらえた声で、そう言った。

 

「……偉いね」

 

 リンは少年の悲しみに寄り添うように、頭を撫でた。

 

 そして、言った。

 

「きっと、天国のお爺ちゃんはあなたの笑顔をずっと覚えている。だから、あなたもお爺ちゃんの笑顔を、ずっと覚えていてね」

 

「うん――」

 

 少年は、さいごにお爺ちゃんに見せたものと同じ笑顔を浮かべ、強く頷いた。

 

 

 

 

 

 

 アルバイトが終わった帰り際、リンは、愛知に住んでいるお爺ちゃんに電話をかけた。

 

「今度、どこかツーリングに連れて行ってよ」

とおねだりすると、前からリンと一緒に行きたかった場所があるんだ、と、嬉しそうな声で言ってくれた。

 

「じゃあ、次の連休に連れて行ってね? 絶対だよ?」

 

 そう約束し、電話を切った。

 ちょうどお給料が入り、懐は春を過ぎて初夏のように温かい。

 お爺ちゃんが大好きな鰻だって、特上でご馳走することができるだろう。

 きっと、お爺ちゃんはすごく喜んでくれるはずだ。

 

 リンはヘルメットをかぶってスクーターにまたがると、駐輪場を後にし、暗くなりかけた家路を急いだ。

 

 

 

 

 



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思い通りにいかない物語

 本来ならば静かにしなければいけないはずの図書室で、その男の子は、

「なんでそうなるの!」

と、大声を上げた。

 

 同時に、がたん! とイスが倒れる音がする。

 さらには、だん、だん、と、床を踏み鳴らす音も。

 子供たちがケンカを始めたのかと思ったが、そうではなかった。

 その男の子は、図書室の隅の席で、一人、マンガ本を読んでいたはずだ。

 いまも近くに他の子供はいない。男の子は、机の上にマンガ本を広げたまま、一人で地団太を踏んでいる。

 図書室には他にも数人の利用者とスタッフがいるが、そんな男の子を気にした様子は無く、そのまま本を読んだり、あるいは作業を続けている。

 驚いたのは、今日からここの()()()()を始めたリンだけだった。

 

 リンは慌てて男の子の元に駆け寄り、

「ど……どうしたの、きみ……?」

と、恐る恐る声をかけた。

 しかし、男の子はリンに返事はせず、むしろ声をかけられたことが不愉快であったかのように、地団太を踏みつつリンから離れていく。

 

 リンは机の上に開きっぱなしになっていたマンガを見た。

 いま大人気の少年マンガで、次々と現れる強敵を、主人公と仲間たちが協力して倒すバトルマンガだ。

 アニメ化され、映画も大ヒットし、子供だけでなく大人も夢中になっている話題作である。

 リンがバイトをしている本屋でも、新刊が出るたびに入口入ってすぐの平台に山積みされる。

 当然リンもチェックしていた。

 開かれているページでは、主人公がライバルキャラに負けた姿が描かれている。

 もしかして、それが気に入らなかったのだろうか?

 

「主人公が負けたのが、イヤだったの?」

 リンは逃げる男の子を追いかけるようにそばによって、さらに訊いてみた。

 だが、やはり男の子は答えず、ぷりぷりと怒っている。

 

「大丈夫だよ。このあと修行して、また戦って、今度は勝つよ、きっと」

 リンはさらに続けた。

 

 男の子が読んでいるのはまだ物語の序盤だ。

 このマンガはすでに何冊も続刊しており、リンはその先の展開を知っている。

 当然だが主人公が負けっぱなしのワケはなく、このあと修行してリベンジマッチを行い、次は勝利するのだ。

 ネタバレするのもどうかとは思ったが、とにかく男の子を静かにさせなければ周りに迷惑になってしまう――そう思ったのだ。

 

「負けちゃダメなの! 勝たなきゃダメなの!」

 

 とりあえずリンの言うことに反応してくれたが、男の子は腕をぶんぶんと振り回し、さらに強く地団太を踏む。

 リンが思った通り、やはり主人公が負けたのが気に入らなかったようだ。

 

「わかった。わかったから。とりあえず、静かにしようか? みんなの迷惑になるから、ね?」

 

 諭すように言うが、男の子はいうことをきかない。

 リンがどうしたらいいか困っていると。

 

「――志摩さん?」

 

 受付カウンターから、図書室担当の女性スタッフが手招きをして呼んだ。

 

 男の子はまだ怒っている。

 リンはどうしようかと思ったが、とにかく呼ばれたので、カウンターへ戻る。

 

「すみません、静かにしてもらおうと思ったんですが……」

 リンは、恐縮して女性スタッフに言う。

 

 女性スタッフは首を振り、

「いいのよ、そんなことしなくても」

と言って笑った。

「ここでは、『図書室では静かにしなければいけない』なんてルールはないんだから」

 

「あ――」

と、リンは口元に手を当てた。

「そうでしたね」

 

「もちろん、必要なら話を聞いてあげることは大事だし、周りの迷惑になるようなら注意はしないといけないけど、基本的に、子供たちの自由にしてもらっていいの。他の子たちは気にしてないし、あの子としてはただ独り言をいってるだけだから、むしろ話しかけられる方が困惑すると思う。いまはまだそっとしておいて大丈夫よ」

 

「――はい」

 

 言われた通り、リンはそれ以上男の子を止めようとはせず、カウンターから見守った。

 男の子はまだしばらく騒がしくしていたが、やがて落ち着きを取り戻したのか、また席に着き、マンガを読み始めた。

 リンは、ホッと胸をなでおろした。

 

 

 

 

 

 

 ここには、様々な事情を抱え、行き場を失った子供たちが集まっています――初めてこの施設を訪れたとき、リンの母親と同じ年代であろう若い施設長は、最初にそう説明してくれた。

『ひまわりの子』と名付けられたこの施設は、何らかの事情で学校に通えない子供達へ学びの場を提供するフリースクールだ。

 

 施設内には、図書室の他にも、音楽室や工作室、調理室や屋外・屋内の運動場などの設備があるが、どの設備も、学校のような厳格な規律は無い。

 子どもたちがやりたいことは、基本的になんでもやらせてくれる。

 音楽室や工作室はいつでも誰でも利用できるし、調理室もいつでも料理をしてご飯やおやつを食べることができる。

 屋外運動場ではボール遊びも木登りも自由だ。

 たき火をしたいといえば点火棒さえ貸すという。

 大人は、危険が無いように最低限の指導をして見守るだけである。

 

 リンがこの施設を訪れたのは、高校の授業の一環である。

 リンが通う高校には『奉仕活動』という授業があり、年に数回、学校外の様々な施設でボランティア活動を行うのだ。

 リンの他にも数人がこの施設でボランティアをしており、なでしこは調理室で、千明は運動場で、それぞれ職員さんのお手伝いをしていた。

 

 子供たちが学校に通えない理由は様々だ。

 いじめ、障害、学力、家庭環境――あの男の子の場合は、静かにしたりじっとしていることが苦手なのだという。

 

「通っていた小学校の授業中でも、あんな風に大声を上げたり、席を立って教室を歩き回ったりするの」

 女性職員は、リンに言った。

「先生から、静かにしろ、じっとしていろ、と叱られても、それができないのよ。クラスメイトからもよく注意されて、嫌がられて……それで、学校に居づらくなったのね」

 

 授業の妨げになる――そう判断した男の子の母親が、このフリースクールに通わせることを選んだのだという。

 ここなら、騒いだり席を立ったりしても授業の妨げにはならないし、同じような境遇の子供が多いから理解もある。

 最近はフリースクール自体が社会的に認められるようになってきたので、ここへ通うことで、本来の学校での出席扱いともなるそうだ。

 

「ただ、本人は、普通に学校に通いたがっているみたいなんだけどね」

 女性職員は肩をすくめてそう言った。

 

 リンは男の子を見た。

 落ち着きを取り戻した男の子は、今は席に着いて静かにマンガを読んでいる。

 その姿がどこか寂しそうに見えるのは、リンの気のせいではないかもしれない。

 出席扱いになるとは言え、このフリースクールと元の学校とでは、どうしても違うところはあるだろう。

 クラスメイトの人数は少ないから友達は限られてしまうし、予算の関係上、遠足や運動会などのイベントも限られる。

 元の学校でないと学べないことは、たくさんあるように思う。

 どうすれば、男の子の思い通りに行くのか――難しい問題だ。今のリンには判らない。

 

 その後も、男の子は何度か大声を上げ、席を立ってしまうが、周りの理解もあり特に問題は起こらなかった。

 

 お昼前になり、男の子と同じ年ごろの女の子が図書室にやってきて、男の子の反対側の席に座って児童書を読み始めた。

 

 そこで、ちょっとした問題が起こった。

 

「違うでしょ! なんでそうなるの!!」

 

 男の子がまた声を上げ、席を立った。

 ばたん、とイスが倒れ、男の子が地団太を踏む。

 男の子がいま読んでいるのは、さっきより二巻分ほど進んだ物語の中盤だ。

 また主人公が新たな敵に負けるころなので、その展開が気に入らなかったのかもしれない。

 

 もっとも、それだけならさっきまでと同じなので、温かく見守るだけだ。

 だが今度は違った。男の子の前に座った女の子が、両耳を押さえてぐるぐると顔を振りたくると、

「うるさいうるさいうるさい!!」

と、男の子にも負けない大声で叫んだのだ。

 

 女の子が図書室に入ってきたとき、職員さんが教えてくれた。

 女の子は、男の子とは逆――静かに集中して本を読むことを好み、それを邪魔されることを極端に嫌うそうだ。

 

 うるさいと言われた男の子は、それが不本意だったのだろう。

「なにぃ!!」

と、さらに大きな声を上げ、両手で机をばん! と叩いた。

 明らかにケンカになりそうな雰囲気だった。

 この場合はどうすればいいのだろう。

 今まで通り見守った方がいいのだろうか。

 あるいは、さすがに仲裁した方がいいのだろうか。

 助けを求めるように周囲を見たが、職員さんは少し前に別の職員さんに呼び出されて席を外している。

 

「本が読めない! 静かにして!」

女の子が叫ぶと、男の子も

「うるさいのはそっちだろ!」

と言い返す。

 男の子はさらには

「もういい! もう本読むのやめる!!」

とまで言い、マンガ本を床に叩きつけた。

 さすがに放っておけないような雰囲気になってきたので、リンはカウンターを出て声をかけようとしたら。

 

「どうしたー? なに大きな声出してるんだー?」

 

 二人よりも少し年上の少年が図書室にやってきて、リンよりも先に声をかけた。

 

「この子がうるさいから本が読めないの!!」

と、女の子が言う。

 

「僕は静かにしてる! うるさいのはそっちだ!」

と、男の子も言う。

 

「いや、どっちもうるさいぞー」

 年上の少年は二人のケンカに動じた様子もなく、おかしそうな口調で言った。

 そして、年下の男の子の方を見て、

「あ、そのマンガ読んでたのか?」

と、床に叩きつけられたマンガを拾った。

「また主人公が負けて、悔しかったんだろ?」

 

 年上の少年は、年下の男の子の考えを見透かしたように言った。

 

 年下の男の子は恥ずかしそうにうつむくと、小さく頷いた。

 

 年上の少年は笑いながら続ける。

「でもな、その後、主人公はすっげぇ修行して、新しい技を覚えて、めちゃくちゃ面白くなるんだぜ? ハッキリ言って、このマンガはここからが本番。これマジ」

 

「ホント?」

 年下の男の子は目を輝かせる。

 

「ホントさ。だから、ここで読むのやめたら、絶対後悔するぞ?」

 

 そして、本に付いた埃を払う。

「それに、このマンガはみんなで読むんだから、乱暴にしちゃダメだ。読めなくなったら、他の子がかわいそうだろ?」

 

 少年が男の子に本を渡すと、男の子は

「うん」

と、素直に頷いた。

 

 少年は男の子の反応に満足したようににっこりと笑うと、今度は女の子の方を見た。

「コイツ、たまにうるさくするけど、ちょっとしたらおとなしくなるし、ホントは悪いと思ってるから、許してあげてよ」

 

 女の子はプイッと横を向き、

「別に……あたし怒ってないし」

と言って席に着き、児童書の続きを読み始めた。

 

 男の子も席に着き、またマンガの続きを読み始める。

 

 年上の少年は、やれやれと肩をすくめると、自分も本棚から小説を取り、二人を見守るように近くの席に着いて、本を読み始めた。

 

 スゴイな、と、リンは感心する。

 どうしようかとリンが迷っているうちに、リンよりもずっと年下の少年が仲裁し、あっという間に場を収めてしまった。

 リンが口を挟む余地も無かった。

 

 席を外していた職員さんが戻ってきた。

「どう? 志摩さん。何かあった?」

と、リンに訊く。

 

 いま起こったことを報告すべきだろうか、と思ったが、やめておくことにした。

 報告するべきなのかもしれないが、恐らくこの施設では、今のようなことは当たり前の日常なのだろう。

 

「いいえ、なにもありません」

 リンは笑って応えた。

 

 三人は同じ机で本を読む。年下の男の子は、相変わらずときどき声を上げ、女の子は煩わしそうに耳を塞ぐが、年上の少年がうまく二人をなだめ、ケンカになることはない。

 子供たちだけで、問題を解決している。

 リンは、ただ見守っているだけで良かった。

 

 お昼休みになった。調理室担当の職員さんがやってきて、

「今日のお昼ご飯は、お外で食べるそうよ?」

と告げた。

「みんなでたき火をして、カレーを作ったそうなの」

 

「やった! 早く行こうぜ!」

 

 年上の少年が席を立ち、年下の男の子を誘う。

 

 男の子は

「うん!」

と言って立ち上がり、そして、

「君も行こうよ」

と、女の子を誘った。

 

「……これが読み終わったらね」

 少女は本を見たまま、小さな声で言った。

 

 少年たちは無理強いをすることなく、

「じゃあ、先に行ってるから」

と言って、二人で図書室を出て行った。

 

 しばらくすると、女の子も本を閉じ、外へ向かう。

 

 リンはカウンターを出ると、男の子が出しっぱなしにしていったマンガを手に取った。

 さっき年上の少年が言った通り、物語は中盤で、ここからさらに面白くなってくる。

 ただ、さらなる強敵が現れるから、またまた主人公は負けるのだけれども。

 そのとき、少年はどのような反応をするのだろうか。

 やはり、その展開が気に入らず、騒ぎ始めるかもしれない。

 

 どんなに好きな物語でも、思うような展開にならないこともある。

 それは、人生と同じかもしれない。

 

 それでも。

 

 リンは窓の外を見た。屋外運動場でたき火がされており、そのそばで、少年と男の子がカレーを食べていた。

 そこに女の子が合流し、一緒に食べ始める。

 

 リンはマンガを本棚に戻した。

 

 きっと、少年は――少年たちは、本を閉じることなく、これからもページをめくり続けるだろう。

 

「志摩さんも、お昼食べてきていいわよ? なんか、カレーの他にギョーザ鍋もあるって。今日は、なんだかキャンプをしてるみたいだわ」

 女性職員さんがおかしそうに笑った。

 

 千明となでしこだな……リンは苦笑いをすると、

「はい、じゃあ、行ってきます」

と答え、みんなが集まっている運動場へ向かった。

 

 

 

 

 



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寄り道

 キャンプ場への行き帰りには、もうひとつ、リンが楽しみにしていることがある。

 途中でたまたま見かけた本屋へ立ち寄ることだ。

 

 本屋とひと口に言っても、その種類は様々だ。

 大きな本屋もあれば小さな本屋もあり、新品のみを扱うお店の他に古本屋もある。

 本以外にもDVD・CD・ゲームなども取り扱う複合店もあれば、絵本や参考書など特定の種類の本を専門に取り扱う本屋もある。

 最近では、カフェやバーなどの飲食店が併設された本屋も増えてきた。

 リンが住んでいる町は比較的田舎なので、そういった大きな本屋や新しいタイプの本屋は珍しい。

 それらを訪れるのももちろん楽しみだが、それ以上にワクワクするのが、個人経営の小さな本屋を訪れることだった。

 

 年越しキャンプを行うべく、海沿いの国道を愛用の原付スクーターで移動していたリンは、小さな商店街の前を通りかかり、スクーターを停めた。

 近くには小さな港があり、そこに併設されるようにつくられた昔ながらのアーケード商店街だ。

 入口に掲げられた看板にある『港前銀座』という名前が、いかにも昭和レトロな雰囲気を漂わせている。

 こういう場所には何かあるということを、リンは経験的に知っていた。

 ちょうど入口の近くに駐輪場があったので、リンはそこにスクーターを駐めると、アーケード街を歩いてみることにした。

 

 年末だからか元々そうなのかは判らないが、お昼過ぎだというのに半分以上のお店はシャッターが下りていた。

 それでも、八百屋さんやお肉屋さんや雑貨屋さんなど、定番のお店は開いており、新年を迎えるための最後の買い物をするお客さんでなかなかの賑わいだ。

 もっとも、もしかしたら個人経営の本屋さんは大みそかの今日まで営業していないかもしれない。

 そうだったら、惣菜屋さんでハムカツでも買って食べよう。

 そんなことを考えながら歩いていると、商店街の反対側の出入口近くで、探し求めていた本屋を見つけた。

 入口の横幅がそのまま店舗の横幅という狭さで、中央に両面タイプの本棚が置かれ、両サイドの壁には狭幅タイプの本棚が並んでいる。

 左右ふたつの通路は人がすれ違うのがやっとという幅しかない。

 リンがよくバイトさせてもらっている本屋の半分の広さもないだろう。

 これはレアなお店に出会えたような気がする。

 リンは神社の鳥居をくぐるかのごとくお店の前で一礼すると、店内に入った。

 

 入ってすぐの場所にある本棚の平台は、小説や実用書、雑誌の最新刊やベストセラーなど話題の本が並んでいる。

 この辺りは、商売上どこのお店も同じような感じだろう。

 リンが楽しみにしているのはお店の中央あたりからだ。この辺から、そのお店のこだわりが表れ始める。

 他のお店ではあまり見かけないようなマニアックな本がたくさん平積みされていたり、その町に関連する本、例えば観光地や歴史を紹介した本や、その町出身の作家さんの本などもある。

 本屋でバイトをし、高校では図書委員も務めるリンでさえ初めて見る本にたくさん出会えるのだ。

 そして、店員さんオリジナルのポップもたくさん添えられており、それを見るのも楽しみだ。

 

 こういった独自の陳列は、大型のチェーン店ではあまり見ることができない。本社からの指示が大きく影響する大型の本屋に比べ、個人経営の本屋はまさに店主の思うがままだ。

 このお店も、通常と比べて海洋生物や船の図鑑、あるいはそれらを題材にした小説などが多い。これらは、海が近い地域だからだろう。

 また、他に目に留まるのが、UFOやUMA、超古代文明や世界中の奇妙な事件などを取り扱った、いわゆる都市伝説系の本である。これらは、恐らく店主さんの趣味だろう。

 リンは、それらの本やオリジナルのポップを眺めながら、この陳列にはどういう意図があるのか、自分だったらどういう陳列にするか、ポップからどういう内容の本なのか、などを想像して楽しむ。

 それは、美術館を巡るのに似ていると思う。絵や彫刻品などを眺め、作者が何を表現したかったのか、あるいはこれを見て自分は何を思うのか――リンが本屋を巡るのは、そういう体験をするためである。

 リンにとって、本屋は美術館でもある。

 

 普通に歩けば三十秒もかからない狭い店内を、じっくりたっぷり時間をかけて見て回るリン。

 最後にカウンターのそばを通ったとき、レジの横に面陳された一冊の本が目に留まった。

『秘密結社のつくり方』

 もう、タイトルからしてそそられるモノがあるが、吹き出し型の手書き用ポップが三つも添えられてあり、それぞれにおすすめポイントが細かく書き込まれている。店内にあるどの手書きポップよりも力の入りようだ。

 どうやら、この本がこのお店のイチオシのようである。

 リンは元々都市伝説や怖い話の本は大好きだ。これを素通りすることはできない。

 リンがその本を手に取ると。

 

「――その本、興味ありますか?」

 

 と、かなり前のめりでカウンターの店員さんが声をかけてきた。

 四十代くらいの男性店員で、恐らく店主さんだろう。

 

 リンが、「ええ」と答えると、店主さんはわざわざカウンターから出てきて、ものすごい勢いでその本の説明をし始めた。

 本の大まかな概要に始まり、執筆者のことや、そもそも秘密結社とは何か、フリーメイソンやテンプル騎士団などリンでもその名を知っている秘密結社の解説、などなど、たっぷりと話して聞かせてくれる。

 ただし、それは本を買わせようという商売根性ではなく、純粋にその本の面白さを伝えたいという気持ちに溢れていた。

 

「じゃあ、これください」

 

 一通りの話を聞き終えたリンは、その本を買うことにした。

 

「ありがとうございます!」

 

 話している最中もずっと笑顔だった店主さんは、さらに笑みを深めると、カウンターに戻って本のバーコードをレジに読み込ませた。

 

 清算を済ませたリンは、店主さんにお礼を言い、本を小脇に抱えて店を出た。

 今回のキャンプ中はこの本を読むことにしよう――もっとも、店主さんの熱弁で、内容はほとんど判ってしまったのだが。

 面白かったら、バイト先の店長や学校の図書室担当の先生にも勧めてみよう。

 そして、もしかしたらあたし自身が秘密結社をつくるときが来るかもしれない。

 

 陽はかなり傾き、冬の弱々しい日差しがアーケード街の中を照らしていた。思った以上に時間が経ってしまった。

 行き当たりばったりののんびりゆっくりがリンのキャンプ旅のモットーだが、さすがに暗くなる前にはキャンプ場に着いてテントを張っておきたい。

 それでもこれだけは、と、リンは惣菜屋さんでハムカツを買う。

 ちょうど揚げたてだったハムカツをかじると、衣のさくっとした食感と同時に柔らかいハムから滲み出す肉汁が口いっぱいに広がった。

 リンは片手でハムカツを持ってはふはふとかじり、片脇には本を抱え、人が減りはじめた年末夕方前の商店街を戻った。

 

 

 

 

 



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