やはり俺の行きつけがリコリコなのはまちがっている。 (百合の間に八幡挟む)
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錦木千束は優しい女の子である。

タイトル通り百合の間に八幡挟みます。


 

「『──ということは、逆説的に青春を謳歌していない者のほうが正しく真の正義である』」

 

 喫茶リコリコと言えば、錦糸町北口から先に広がる静かな下町の、ほんの少しだけ入り組んだ先にある喫茶店である。

 知る人ぞ知るというほどではないが、いわゆる隠れ家チックであるリコリコは木造建築で、下町に馴染んでいるとはお世辞にも言えないが、しかし良い意味で浮いているとも言える、少々小洒落た喫茶店だ。

 落ち着いた──ともすれば、少しだけ大人向けのデザインでありながらも雰囲気は良く、手入れは行き届いており、妙な魅力のあるそこは行き交う人の足を止めてしまうことだろう。

 客層は幅広く、それでいて治安が良い。

 いつもであれば数人ほどの客がいるのだが、この日に限っては珍しく一人だけだった。

 その中でアルバイトであろう、金に近い白髪の少女が俺の作文を読み上げている。

 

「『結論を言おう。リア充爆発しろ。』……だって! あっははははは! ヒッキー馬鹿じゃん! そりゃ怒られるに決まってるよ!」

「うるせぇな……」

 

 俺の小言を意にも介さず、隣でケラケラと笑う少女の名前は錦木千束(にしきぎちさと)

 この『喫茶リコリコ』の店員であり、どこの学校に通ってるのかも分からん謎の女子高生である。

 字面に起こすとヤバいやつ感が凄いな。

 この通りテンションがやたらと高く、如何にも陽キャと言った女子だ。

 

「つーかヒッキー言うな。まるで俺が引きこもりみたいじゃねぇか」

「えー? 良いじゃん、可愛くない? ヒッキー♡」

「うわっ……」

「何鳥肌立ててんだよっ!」

 

 ぅおーいっ! と元気良く俺を叩いてくる錦木。端的に言ってかなりうざかった。

 なに? 今どきのジョシコウセイってやつは全員こんなもんなの?

 クラスメイトの女子は全員俺を視界に入れもしないんだけどな……。まあ、それは男子もなんですけどね。それって全員じゃねぇか。

 

「しっかし、くひひっ、これって課題なんだったんだっけ?」

「……『高校生活を振り返って』だ」

「ふっ、ふふっ……あはははは! それで犯行声明を書き上げるとか、やっぱヒッキー変!」

 

 余程つぼにハマったのか、再びカラカラと錦木は声を上げて笑い出す。

 ここまで来るといっそ鼓膜破壊兵器にも思えてくるほどで、軽く眉を顰めた。

 いつもであれば「こら、千束」なんて言ってブレーキをかけてくれる店長も、今は少し席を外している。

 こいつと二人になるくらいであれば、そもそもここに寄りすらしなかったのだが……。

 己の不運を嘆いていると、軽く頭をはたかれた。

 

「こーらっ、私といるのに目をドロドロ腐らせないの!」

「理不尽過ぎない? そもそも腐ってないから。良く見ろ、超活き活きとしてるだろ」

「んー、どっちかって言うまでもなく、腐った魚の目かな」

「……DHA豊富そうで良いな。賢そうだ」

 

 ぷはっ、と錦木は笑みを深める。何でもかんでも笑い過ぎだろ。箸を転がしても笑う年頃ってのは怖いな。

 

「私、ヒッキーのそういう捻くれてるところ、結構好きだよ」

「そうか、奇遇だな。俺も俺のこういうところを気に入ってるんだ」

「つまり……私たちって相思相愛!?」

「どういう思考してたらそうなるんだよ」

 

 相思してないし相愛もしてなかった。思ってるのも愛しているのも俺だけなんだよな。

 以前までは錦木のこういう発言にドギマギさせられたものだが、もう一年近い付き合いになる。

 流石にいい加減慣れた。

 こいつは軽々しくそういうことを言うやつなのだ。

 中学時代の俺が出会っていたら思わず告白してフラれていただろう。いやフラれちゃうのかよ。

 

「それで? なーんでこんな作文書いちゃったの?」

「お前は先生かよ、ちゃんと振り返った結果だっつーの。近頃の高校生なんてこんなもんだろ」

「穿った見方ばっかりするぅ……こういうのって普通、自分の生活を振り返るものなんじゃないの?」

「それも先生に言われたっての。ったく、そうならそうと前置きしろよな」

「出た! ヒッキー特有の屁理屈!」

「俺特有ってなんだよ……屁理屈だって、立派な理屈だろ」

 

 言えば、じっとりとした目付きを向けてくる錦木だった。何か言いたげな顔である。

 感情が忙しいやつだな。

 

「大体、ダメだったから書き直してるんだろうが。文句があるなら邪魔すんな」

「えー? だってヒッキーレアだし。私は暇だし、これはもう構うしかなくない?」

「何が”なくない?”なんだよ。何も理由になってねぇよ」

「なってますぅー! ほらほら、もっと私に構ってくれても良いんだよ!?」

「分かったからあっち行ってろ」

 

 何も分かってない~! とぶーたれながらも押し黙った錦木が、隣に座ったまま見つめてくる。

 カウンターに肘をつき、非常に不満げな顔で、だ。

 無言による圧力である。

 出たよ……と思わずため息を吐いた。

 面倒くせぇパターンだよ。こうなるとテコでも動かねぇんだよな。

 他にお客さんがいないので離れる理由もないし(錦木的には、という意味合いになるが)、このままでは集中できるものもできない。

 

「……レアってほどでもないだろ。結構頻繁に顔出してる方だと思うけどな」

「っ! いやいやいやいや、ヒッキーとまともに会ったのもう二カ月ぶりくらいなんですけど?」

「そりゃ錦木がいないってだけだ。週一くらいで来てるっての」

「それはヒッキーが私を避けてるからでしょ~。もうっ、外から様子窺って私を見つけたら大体入ってこないじゃん」

 

 私が来たら来たでそそくさ帰っちゃうし! と、非難強めの声で錦木が言う。全くその通りなので特に何も言い返せなかった。

 いやだってこいつ……見ての通り喧しすぎるんだよな。

 読んだ本に影響されて散策を始め、見つけた喫茶店である上に、家からもそう遠くはないリコリコである。

 他を探すのも面倒だし、雰囲気は悪くない。

 勉強するにしても、読書をするにしてもちょうど良く、妹である小町も気に入ってる店であるので贔屓にしていたのだが、錦木がいるとどうにもペースを狂わされるのだった。

 何なら今日はギリギリ大人しいくらいで、下手をすればあちこち連れ回されることもある。

 疲れちゃうだろうが、こちとら休憩兼リラックスしに来てんだよ。

 

「でもさぁ、ヒッキーって体力ないし。これは……そう! 私なりの気遣いというやつなのだよ、分かるかね?」

「そういうのを世間一般では有難迷惑って言うんだけどな」

「あぁんもう辛辣ぅ~」

「急に艶めかしい声を出すな……」

「あはっ、ドキドキしちゃった?」

「いや、ゾワゾワした」

 

 見ろこれ、と鳥肌が立ってる腕を見せれば無言で蹴りを入れられる。そうやってすぐ暴力に頼るの、八幡良くないと思うな……。

 絶妙に痛いと痛くないの境界線にあるようなダメージを与えてくるあたり文句が言いづらかった。

 お前は暴力を振るうプロかよ。

 

「っつーか、お前らが体力ありすぎなんだよ。何? 喫茶店のバイトってそんなに体力つくもんなの?」

「そりゃそーよ。満席の時なんてあっち行ったりこっち行ったりで忙しいんだから。あっ、ヒッキーもやる? バイト! お手伝いってことで!」

「やらん」

「即答!? どぉしてぇ~?」

 

 お給与も出すからさ~良いじゃん~と駄々をこね始める錦木にハァ、とため息を吐く。

 やれやれ分かってないな。

 全く進まない筆を置き、俺は真剣な眼差しで錦木を見た。

 なっ、なに……? と錦木が少したじろぐ。

 

「良いか、錦木。お前に良い言葉を教えてやろう」

「お、おう」

「──働いたら負け、だ」

「全然良い言葉じゃない!? かつてないくらい真剣な顔で言うことがそれで良いの!?」

「大切なことだからな、もう一回言おうか?」

「いらんわっ! どうしよう、このままじゃヒッキー、ダメ人間まっしぐらだよ……」

 

 中々失礼なことを、これ以上なく真面目な顔で言う錦木だった。

 やはり完璧な結論と言うのは万人に理解されるものではないということなのだろうか。

 

「え? それじゃあヒッキーって将来、何になるつもりなの……?」

「専業主夫だ」

「なんて?」

「だから、専業主夫」

「……どういうこと?」

「ん? ああ、専業主夫と言うのはだな、『稼得労働に従事せず、専ら家事や子育てなどを行う既婚男性』を指す言葉だ。ごめんな、難しい言葉使って」

「そういうんじゃないっ! 意味が分からなかったのはヒッキーの方で、言葉の方じゃないから!」

 

 今日一鋭い蹴りが叩き込まれる。やばいな、超痛い。そしてすげぇ睨まれてる。

 やっべー、超怖いわ。

 

「えっ? ていうか、え? ヒッキーって彼女いるの……?」

「……今はいないな」

 

 別に嘘ではない。過去にもいなかったというだけで、それが現在進行形なだけである。

 未来の俺が頑張ってくれることにも期待して「今」という部分を強調しておいた。

 

「だ、だよね!? ヒッキーに彼女とかできるわけないもんね!? やー、ビックリしたあ。そんなこと、天地がひっくり返ってもありえないよねぇ」

「ちょっと? 錦木さん? 流石に俺に失礼過ぎるでしょう?」

 

 言い過ぎだろ、一体お前は俺を何だと思ってるんだよ。

 幾ら俺でも泣いちゃうからね?

 

「でもさぁ、それなら専業主夫とか無理じゃない? どういう将来設計になってんの?」

「まあ、まずはそれなりの大学に進学するよな」

「ほうほう、真っ当だ」

「そして美人で優秀な女子を見繕い付き合い、結婚。最終的には養ってもらう」

「それは主夫というよりヒモだ!?」

「ばっかお前任せとけ、俺はヒモを超えたヒモになる気概だけはあるっ!」

「ヒッキーは本当、やる気を出す方向まで捻くれてるなぁ……」

 

 全身捻くれ人間じゃん……と呟く錦木だった。どこぞのゴム人間みたいな言い方するんじゃねぇよ。

 大体、俺が捻くれているのではない。世界の方が歪んでいるのでそう見えるだけである。

 俺に優しくない世界とか超歪んでるからな。

 

「ヒッキーに一番優しくないのはヒッキー自身じゃん……」

「何言ってんだお前、俺に優しいのは俺くらいだっつーの」

 

 飼い猫であるカマクラにすら距離を取られている説すらある俺である。

 餌あげる時くらいだからね、すり寄ってくるの。小町にはべったりなくせに……。

 全く誰に似たんだか、とコーヒーを一口飲んだ。

 

「……それ、コーヒーだったんだ?」

「逆にそれ以外の何に見えるんだよ……」

「いやだって……色! コーヒーの純黒が甘々な色に染まっちゃってるじゃん!?」

「ミルクと砂糖入れまくったからな」

「どーしてそういうことするぅー!?」

 

 先生のコーヒーはそのままが一番なのにぃ~! と叫びながら肩をゆすられる。とはいえ、俺とて反骨精神的なものを以ってそうした訳ではない。

 先生──この喫茶リコリコの店長の淹れてくれるコーヒーは美味しい。それは重々承知ではあるが、俺は千葉生まれ千葉育ちなのである。

 生粋の千葉っ子はMAXコーヒーと共に育つからな、そもそもコーヒーってのは甘いものって認識なんだよ。

 何なら練乳も入れたかったところをグッと我慢した俺を褒めて欲しいくらいだった。

 それに、ほら。

 

「人生は苦いから、コーヒーくらいは甘くていい……」

「んもぅ、しっかたないなぁ~! それじゃあこの千束様がぁ~特別にヒッキーを甘やかしてあげるよぉ」

「ねっとりとした言い方するのやめろ」

 

 ついでに怖いから手をワキワキしながら詰め寄って来ないで欲しかった。碌なことにならない未来しか見えない。

 常に暴走機関車みたいな女であることが有名な錦木である。

 好きなようにされてしまっては若干以上に困る。

 

「ほらほら、こっちおいで~? ヒッキー」

「行動がはえーよ……てか、何やってんだ」

 

 いつの間にやら座敷の方に移動していた錦木は正座してポンポンと自分の膝を叩いていた。行くわけねーだろ。

 

「あっちゃー、ヒッキーは童貞で照れ屋さんだからなあ。ちょっと難しかったかぁ」

「人を煽るついでに傷つけるのやめようね?」

 

 俺のメンタルは繊細なのでもっと丁寧に扱って欲しかった。

 錦木は俺を雑に扱って良いと思っている節があるのでなおさらである。

 

「大体、他に客が来たらお前どうするんだ」

「そうなったらヒッキー隅にやって接客するよぅ」

「俺は家具か何かかよ」

 

 それが出来るなら今からもう放っておいて欲しかった。筆が一文字も進んでないんだよな。

 作文の書き直しは急務という訳ではないが、出来ればさっさと済ませたいところだったんだが……。

 まあ、今日はもう諦めた方が良いのかもしれない。

 そもそも錦木に絡まれた時点で、静かにひっそり一人でゆったり進められる訳が無かったのだから。

 

「お? おぉ? ヒッキーが珍しく折れてくれる感じぃ?」

「寝言は寝て言え、コーヒー飲んだら帰ることにしただけだ」

「ちょーいちょいちょいちょい! 何でそうなんの!?」

「いる意味が無くなったからだろ……」

 

 言って、グイッと飲み干せば襟を掴まれた。ぐぇっと声が出れば

 

「あはっ、カエルみたいな声出たねぇ」

 

 なんて笑いながら引きずられる。何笑ってんだよ……!

 抵抗しようにも錦木の膂力はそれなり以上なもので、座敷までズルズルと引きずられてしまった。

 何でこいつ、こんなに筋力あんの? 走るのもクソ早いし、運動神経に恵まれすぎだろ。

 

「……随分と強引だな」

「ヒッキーにはこれくらいがちょうど良いでしょ? それにさぁ、ヒッキーは壁作り過ぎだし、いい加減もうちょーっとだけでも仲良くなりたいなーって思う訳ですよ、千束さんは」

 

 やたらと柔らかく、優しい声で錦木が言う。いつになく真面目モードだ。

 寝転がった俺の隣に座った錦木が、微笑みを見せてくる。

 

「だからさぁ、そろそろ名前で呼んでみない? ほらほらぁ、千束ってさ。リピートアフターミー、ち・さ・と♡」

「錦木」

「ち・さ・と!」

「錦木」

「ちー! さー!! とー!!!」

「声がデケェな」

 

 特段こだわっているつもりはなかったが、こうも強調されると何となく抵抗したくなる俺だった。

 それに、あまり距離を縮められると勘違いしちゃうかもしれないからな。

 二度同じ轍は踏まない。それが比企谷八幡と言う男である。

 がるるるるーっと互いに睨み合っていれば、不意にカランカランというベルが鳴った。

 

「ほら、お客様だぞ」

「くぅっ……! 明日! また明日絶対来るんだよ!? ヒッキー!」

 

 ビッと指を指し、それから「いらっしゃぁーい!」と接客しに行った錦木を視界に収め、小さく息を吐く。

 高鳴っていた心臓を抑えるように胸を抑えた。

 

 ──優しい女の子は嫌いだ。

 

 一言交わせば気になるし、メッセージが重なればどうしても浮足立つ。

 こうして直接会った時、身体接触も込みで絡まれてしまえば否が応でも考えてしまう。

 けれどもそれは、優しさ故なのだ。

 特に錦木はコミュ力が高くて、誰にでも平等に優しい女の子だから。

 故にこそ、勘違いはしない。

 そのパターンは一度味わった。俺は訓練されたぼっちだからな、過ちはもう犯さない。

 いつだって期待して、勘違いして、希望を持ってきた。そしてその都度、それは間違いだと思い知らされてきた。

 だから、だから──優しい女の子は、嫌いだ。

 入ってきたのが客ではなく、店長であることを確認して戻ってきた錦木を見ながら、そんなことを考えた。

 

 

 

 

 

 

 



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しかしながら井ノ上たきなは堅物である。

もしかしたら挟めないかもしれません。


 

「比企谷さん。お願いがあるのですが、聞いていただけませんか?」

「は?」

 

 休日、数週間ぶりにやってきた『喫茶リコリコ』。まだ開店したばかりであり、俺以外の客もまだ見受けられない時間帯。

 読書ついでに宿題もやってしまうかと足を運んだ俺に、コーヒーを運んできてくれた店員──井ノ上はそう言った。

 あまりにも突然のことで疑問符を浮かべれば、井ノ上はもう一度俺を見据える。

 

「ですから、比企谷さんにお願いしたいことがあるんです。聞いていただけませんか?」

「まあ、一先ず聞くだけなら」

 

 思わず俺が素直にそう言ってしまったのは、やはり相手が井ノ上だからと言うのが大きいだろう。

 井ノ上──本名、井ノ上たきな。『喫茶リコリコ』期待の新人であり、看板娘の片翼を担う黒髪の少女である。

 もう片翼を担う錦木千束とは全くタイプが違う美少女であり、良く言えば真面目、悪く言えば堅物と言うべきだろう。

 

 基本的に冷静沈着であり、職務に忠実。合理的過ぎる行動が目には着くものの言及するほどではない。

 とは言ってもコミュニケーション能力が低いということはなく、また不愛想と言う訳ではない。

 錦木のフリーダムさにやや隠れ気味ではあるが(というか錦木がおかしいだけではあるのだが)、彼女もまた充分以上な対人スキルは獲得しているようで、瞬く間に喫茶リコリコに馴染み切った。

 今では常連さんも交えたボードゲーム大会には全然参加するほどで、日が経つにつれ柔軟性を獲得していく様は、最初から見ていた者の親心のようなものさえくすぐるだろう。

 

 とはいえ俺は常連と言うには頻繁に足を運んでないし、通い始めたのも一年ほど前からだ。

 なので俺からすれば、いつの間にか増えていて、いつの間にか馴染んでおり、いつの間にか活躍してる店員さん、というイメージしかなかった。

 言葉も数回交わしたくらいで、とてもではないが親し気に世間話をするような仲ではない。

 そんな彼女が「お願い」しに来たのである。

 多少なりとも気にならないと言えば嘘になった。それに錦木と違って、無茶振りするやつでもないのは知っている。

 

「実は……料理を教えていただきたくて」

「なんて?」

「ですから! その、料理をですね、教えて欲しいのです……」

「何で俺?」

 

 人選ミスとかいうレベルではない。料理を学びたいのならばそれこそ、喫茶店なのだから店長や他の店員に頼めば良いことだろう。

 ねぇ? 店長さん? とカウンターの方へ目を向ければ、店長はパチリとウィンクを返してきた。それはどういう意味なんだよ。

 全然伝わってないよ? ただ煽られただけなんじゃねぇのこれ、という感想だけが残った。

 

「千束から、比企谷さんは料理が上手だと聞きましたので」

「いや、そうじゃなくてだな……」

「それに、奉仕部という学生の悩みを解決する部活に入っているとも」

「何で知ってんだよ……」

 

 思わず絞り出したような声を出してしまう俺だった。奉仕部とは俺が通う、千葉市立総武高校に存在する小さな部活のことである。

 とはいえ字面から想像できるような、ボランティアに身を扮する部活ではなく、またアダルティな方面の部活でもない。

 何と言うか……ざっくりと言ってしまえば、お悩み解決部みたいなものだ。詳細はまた違うが、一言で纏めるならこうなるだろう。

 そして俺はその部活の部員であった。ご存知の通りアホな作文を書いた俺は、先生の手によって強制入部させられた次第であった。

 そう言えば以前、錦木に絡まれて少しだけ話してしまっていたか。

 

「リコリコでは、毎日交代でお昼ご飯のまかないを作るんです」

「ああ、あるな。たまにご馳走になってる」

「そこでは当然、私にも担当が回ってくるのですが、その、ですね……」

 

 上手く作れないんです、と井ノ上は言う。

 かと言って、由比ヶ浜(奉仕部部員の一人であるアホ。特技はクッキーの材料で木炭を練成することだ)とは違い、井ノ上は料理下手という訳ではない。

 というか、そうでもなければホールと調理どちらもこなすなど不可能だろう。

 手間と豊富な材料と時間。それさえかければ井ノ上は基本的に上等なものを作れる人間だ。

 ただ、それらのコストを削るとどうにも上手くいかないらしかった。

 

 実際、先週はおにぎりと卵焼き、それからウィンナーを焼いたらしいがウィンナー以外はかなり不格好であったらしい。

 おにぎりはピラミッド型となり、卵焼きはスクランブルエッグと化したとのことだ。

 何だかんだとそれは好評であったらしいが、それでも次は完璧に仕上げたい……というのが井ノ上の要望である。

 ネットを見ながら何度かチャレンジはしたものの、思うように上達せず、藁にも縋りたい気持ちだったとか何とか。

 

 とはいえ、そういう事情なら確かに錦木辺りには頼みづらいよな……。

 懇切丁寧に教えてはくれそうだが、普通にうざいだろうし。

 加えて錦木と井ノ上は仲がいい、驚かせたいという気持ちもあるのだろう。

 そういう訳で、消去法で俺になったという予想が容易にできた。

 まあ、あるいは店長の入れ知恵かもしれないのだが……何せ今でさえ、微笑ましく生暖かい目を向けてきているのである。

 ハッキリ言ってクソ面倒だし断りたいが、奉仕部として頼まれたのであればかなり断りづらい。

 しかし今日は休日だ、部活動もクソもない──んだけど。

 瞳を揺らす井ノ上にため息を一つ。ま、後で小町に知られでもしたら、それこそ面倒だからな。

 

「わかったよ……今からってことで良いのか?」

 

 渋々ながら了承すれば、井ノ上は元気良く頭を下げる。

 

「っ! はい、ありがとうございます! よろしくお願いします!」

 

 

 

 

 当然ながら、料理を教えるにはキッチンが必要だ。しかし、だからと言ってまさか、井ノ上の家にお邪魔する訳にもいかないし、俺の家も同様だ。

 なので喫茶リコリコの調理場を借りることとなった。

 おい、部外者の俺入れちゃって良いのかよ、と思ったが店長は快諾してくれた。客はまだ他に来ていないし、来ても店長の方で相手できるとも。

 そこまでして俺に面倒見させたいのかよ……とは思わないでもないが、まああちらも考えがあるのだろう。

 一先ずエプロン──は無かったので制服を借りた。赤青緑黄と様々なカラーが用意されていたが、手近なものを取ったら黒だった。

 因みに井ノ上は青色で、店長は紫色である。

 

「っつっても基礎から教える必要はなさそうだし、取り敢えず作ってみてくれないか?」

 

 バタバタガチャガチャと器具と材料、調味料を用意した上で言う。

 作るのは先ほど聞いたものと同じ、おにぎりと卵焼きだ。ウィンナーは焼くだけだしいらないと判断した結果である。

 何度もやることは大切だが、今は出来ないことを出来るようにする、一回目をこなす時間だからな。

 何かしらミスりそうな雰囲気があったら、ちょっとアドバイスするくらいのスタンスが井ノ上にはちょうど良いだろう。

 

「はい、わかりました」

 

 井ノ上は慣れた手付きで塩とダシ、それから少量の水を混ぜ、そこに卵を投入。カチャカチャと丁寧にかき混ぜていく。

 関西風の卵焼きが作りたいらしい。

 京都出身である為、という実に可愛らしい理由だったか。

 

「あー、それな。あんまり溶かさなくて良いぞ。ちょっと白身が残っているくらいで良い」

「なるほど……」

 

 手を止め、手早くメモする井ノ上だった。律儀だな。

 こういう小まめさは井ノ上らしい、とでも言うべきところなんだろう。

 

「それから、焼く時は弱火で良い」

「しかし、レシピには中火と……」

「確かに中火の方が早いんだが、慣れてないと焦がしたりするからな。最初は弱火で落ち着いてやった方が失敗しない」

「た、確かにそうですね。ありがとうございます」

 

 卵焼き用のフライパンにさっと油を引き、少しの時間熱する。

 それから卵液の三分の一をほどを流し込み、ぐーるぐーるぐるぐるぐるとかき回し始めた。

 なるほど、スクランブルエッグになる訳だ。

 

「かき回し過ぎだ、ある程度固まってきたらそのままで良い……それにだな、混ぜる時は空気が混ざるようにした方が良いぞ」

「あ、そうなんですね。ほどほどで良い、と……」

「ま、一回目なんて多少失敗しても全然カバーできるんだがな」

「……以前やった時は、まとめられませんでした。巨大なスクランブルエッグが出来ただけです」

「お、おぉ、何かすまん。まあそうならない為の俺だから」

 

 ズゥン、と見るからに士気が下がった井ノ上を励ましてからフライパンを見る。頃合いだ。

 井ノ上も同じことを思ったようで、そのまま箸を伸ばした。のでその手を止める。

 

「最初の内はヘラ使った方が良いだろうな。箸でやるのも、慣れて来てからで良い」

「言われてみればそうですね。ヘラ、ヘラ……」

「いやあるから、さっき出してただろ? 何で見失うんだ、ほれ」

「あっ、ありがとう、ございます」

 

 恥ずかしさからか、頬を朱色に染める井ノ上。段々と分かってきたのだが、井ノ上は一度イレギュラーが起こるとつい気持ちを優先してしまい、視野が狭くなりやすいタイプらしい。

 前回失敗したというのも、小さな失敗が重なり焦った結果なのだろう。

 落ち着いてやれば上手く行く。その証拠に、一度深呼吸してから挑んだ卵焼きの一枚目はクルクルと回った。

 

「で、出来ました! 比企谷さん、巻けましたよ!」

「良し、そうしたらもう一度油を引いて、同じくらいの量を投入だ」

「はいっ」

 

 パァァと表情を明るくした井ノ上が、先程と同じ行程を辿る。

 今度は何も言わずとも一人だけでこなして見せ、そのままクルクルと卵焼きを完成させてしまった。

 一口大になるよう包丁を入れて完成だ。

 目立って焦げた箇所も無いし、味も申し分ない。完璧だな。

 

「次は……おにぎりだっけか。むしろこれ、どうやって失敗すんだよって感じなんだが……うわっ、睨むな睨むな。怖いから」

 

 軽く人でも殺せそうな目をする井ノ上だった。やっべー、マジで怖いんだけど。

 確実に人を殺したことがある人間の目だった。俺、もしかしてここで死ぬのか?

 気を逸らす為に、炊かれたばかりと思われる米と塩で軽くおにぎりを作った。

 うむ、我ながら文句の付け所が無い出来だ。

 おにぎり如きで何をと言う話ではあるのだが、当の井ノ上は驚愕を露にする。

 

「……何故三角形になるのですか?」

「え? いや、そうなるよう握ったからとしか言えないんだけど」

「有り得ません! 良いですか? 見ててくださいっ」

 

 意気揚々と米を手に取り握る井ノ上。それはそれは見事な力のこもりっぷりだった。

 押し固めて整形する! という強い意志を感じる圧縮具合だ。

 そんなにカチカチにしたら誰だって好きな形に出来ちゃうだろ、と思ったが何故か出来上がったのはピラミッド型だった。

 何でなのん?

 

「ほら、こうなるんですよ」

「ドヤ顔で言うことじゃねぇだろ……そうだな、井ノ上。おにぎりってのはな、握るものじゃないんだよ」

「はい?」

 

 井ノ上が「何言ってんだこいつ馬鹿なんじゃねぇの?」みたいな顔をする。

 それを鼻で笑った俺は、まず片手で直角を作った。

 

「まず手をこうしてみろ」

「? はい、こうですか」

「そうそう、この直角部分で米に角度をつけるんだ。後はもう片方の手に乗せたお米を、優しく直角部分に押してやるんだよ」

 

 あとはポンポンポン、とリズム良く形を整えるだけで良い。それだけで、あっという間に綺麗なおにぎりの完成である。

 おぉ……と井ノ上が嘆息した。

 

「とにかく井ノ上は力を込めすぎないように気を付ければ良い。ちょうど良い力加減で、ってやつだな」

「ちょうど良く、ですか……」

「……まあ、自分が思ってるより更に力を抜いたくらいで良いと思うぞ」

 

 ちょうど良いってなんだよ……というシリアスな顔をされたので言葉をつけ足しておく。

 井ノ上は暫く訝し気に俺と米を交互に見ていたが、やがて意を決したように握り出した。

 そうして出来上がったのは少々歪ながらも、ちゃんとした三角形のおにぎりである。

 

「ほらな? 簡単だろ?」

「凄い……こんなあっさりできるだなんて」

「そんな感動することでもないんだけどな」

 

 何なら低学年でも作れる程度のものだ。とはいえ、何だって出来た瞬間が嬉しいのはそうだからな。

 取り憑かれたようにポンポンとおにぎりを作っていく井ノ上。

 一つ作る度にレベルアップでもしてるのか出来映えが良くなっていた。

 まあ、料理なんてコツを掴めば急に楽勝になるもんだからな。

 最後まで握り終えた井ノ上が皿にラップをかけて冷蔵庫に仕舞う。今日のまかないとなるのだろう。

 ペコリと井ノ上は頭を下げた。

 

「ありがとうございます、比企谷さん。お陰でちゃんと出来ました!」

「ん、まあ依頼だったからな。解決できたなら何よりだ」

「本当にお料理が上手だったんですね」

「いや、上手ってほどじゃないんだけどな……」

 

 精々俺の料理力なんて小学六年生レベルである。

 それも家に親がいないことが多かったから、否が応でも身に着いたというだけで、今では家のご飯担当は妹の小町だ。

 とはいえ俺も専業主夫を目指す身である。今日からはまた料理を始めても良いかもしれないな、と思った。

 

「ふふっ、でしたらリコリコの調理場担当とかどうですか?」

「お断りだ。俺の信条は──」

「──働いたら負け、ですもんね」

 

 くすくすと井ノ上が面白そうに笑う。分かってるなら誘うなよな。

 何だか少しだけ恥ずかしさを感じてしまい、視線を逸らした。

 

「それに、リコリコは飽くまで俺の憩いの場だからな。錦木がいなかったら毎日入り浸ってるレベル」

「それ、千束が聞いたらまたうるさいですよ」

「だから今言ってんだろうが。てか、今日はあいつどうしたんだ?」

「千束は今日は遅刻です」

「じゃあ、そろそろ来る頃合いか」

 

 時計を見てから、小さくため息を吐く。さっさと着替えて席に戻らないと、喧しさが五割は増すことだろう。

 あっはははは! ヒッキー制服似合ってなーい! なんて笑われるのが目に見えている。

 それだけは勘弁願いたい。何せまだまともに読書が出来ていないどころか、宿題だって手を付けれてないのである。

 そんなウザさ極まった絡み方をされたらげんなりすること間違いなしだ。

 

「そうでしょうか? 千束は結構、正直に感想を告げてくれますよ」

「正直だから俺が傷つくんだろ……」

「いえ、そうではなくですね」

 

 パシャリ、と井ノ上がスマホをこちらに向けてシャッターを切った。

 悪戯っぽい笑みを浮かべられる。

 

「似合ってますよ、比企谷さん」

「……さいですか。お前、後で絶対にそれ消せよ」

「んー、えへへ、どうしましょう?」

「ちょっ、おま」

 

 皆さんにも見てもらいましょうか、なんて言い出した井ノ上を追いかけようとすれば、カランカランと鳴り響くベル。

 あー、終わった……。

 俺の平穏な一日が崩れ去ったことを理解した瞬間、元気のいい声が響き渡った。

 

「千束が来ましたァ────!! ってうぇぇぇえ!? ヒッキー何やってんの!?」

「あー、ほら、どうすんだあれ」

「ふふ、大丈夫です。秘密にしておきますから」

「いや秘密ってお前な……」

「なになになに!? 秘密って何だよぅ~! それからヒッキーは何してんの~!?」

「……ま、色々とあったんだよ」

 

 色々って何さー! と元気いっぱいに言う千束に、井ノ上と揃って背を向けた。

 さて、今日はもう帰った方が良いかもしれないな、なんてことを思いながら。

 

 

 

 

 

 



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どう見てもクルミは謎めいた幼女である。

 

 クルミと呼ばれる少女は、この『喫茶リコリコ』の従業員の中でもトップクラスにミステリアスな幼女である。

 店長も錦木も井ノ上も、どいつこいつも微妙な不審さを兼ね備えてはいるのだが、こいつに限っては段違いの不審さだ。

 まず上記の通り、幼女である。

 店長が知り合いから預かっているとのことであったから、店の手伝いをしていること自体は特に問題視するようなことではないのだが、彼女は学校に通っている様子すら見受けられない。

 とはいえ頭が悪いという訳ではなく、むしろ賢いと言った方が適切だろう。それも、異様なまでに。

 基本的にPCをカタカタと触り倒しているし、雑学や知識も豊富で良く小難しい話を客としている。

 少し前に奉仕部の活動の一環として千葉村に行き、小学生と多少なりとも戯れた俺である。

 今までは「最近の小学生ってすげー」なんて思っていたが、単純にクルミが天才幼女であるだけということを突き付けられたのだった。

 

 しかし、ちょっと待って欲しい。

 いくら天才幼女と言えども、日本語と英語を流暢に喋り、持ち歩いているPCでは何かしらのプログラミング等を高速で行い、当然のように経済やら論文について語るのは少しばかり変ではないだろうか?

 何なら名字も年齢も不詳だ。

 ラノベだったら盛り過ぎだと叩かれてもおかしくないレベル。

 その上、真っ白な肌に金髪を長く伸ばしている彼女は控えめに言って美少女……いや、美幼女なのである。

 フィクションから飛び出てきましたと言われた方がまだ納得できるだろう。

 

 まあ、だからと言ってなんだという話ではあるのだが。

 家族でもなければ友人でもない。もちろんバイト仲間という訳でも無いし、知り合いとすらギリギリ呼べないだろう。

 俺からすれば良く行く喫茶店にいる謎の幼女で、クルミからすれば店に良く来る高校生。

 そこから何かしらの関係に発展することはない。

 現実は創作のように上手くはいかないもんだからな──いや、上手くとか言うと如何にも俺がそういったことを望んでいるようで語弊があるな。

 全然そんなことは望んでない。関わりたいと思ったことすらないレベル。

 小町とは良く話している姿を見かけるので、精々仲良くしてやって欲しいと思うくらいだ。

 

「おいおい、冷たいこと言うなよ八幡。そうやってボクを追い出そうとしても無駄だぞ?」

「別にそういうつもりはねぇよ……」

 

 テコでもボクは動かないぞ~? とだらけきった顔を引き締めて言うのは、そのクルミであった。

 いつも通りの喫茶リコリコ。いつも通りの端の席。

 今日は席がすべて埋まっているくらいには繁盛している日なようで、先程から錦木たちも忙しなく行ったり来たりしている。

 お陰で絡まれることがなくて快適だった。

 放課後にこうしてゆったりできるのはいつ振りだろうか、なんてことを思っていたのだが。

 目の前のクルミは「肉体労働は専門外なんだ、匿ってくれぇ」と俺に告げた後に、有無を言わさず対面へと座ったのだった。

 

「ま、邪魔しないなら俺からは文句ねぇよ」

「それは助かる。で? 今何やってたんだ?」

「邪魔しないんじゃなかったのかよ……」

「分かってないな、これは邪魔じゃなくてコミュニケーションだ。そんなことも分からないのか?」

「生憎、まともにコミュニケーションを取れた試しが無いからな」

 

 言いながらプリントを見せる。作文の書き直しと言う訳ではない、これは今日出された宿題だ。

 

「ほう、数学か。実に高校生らしいな、苦戦してるのか?」

「お前はどっから目線なんだよ……別に苦戦はしてない。こんなもん、答え引き写せば終わりだからな」

「なんだ、八幡は数学苦手なのか」

「うっせ、いいんだよ。俺は私立文系だから、数学はいらないんだ」

 

 その代わり国語は超頑張ってるからな。実力テスト文系コースも学年で三位である。

 身近に雪ノ下(我が奉仕部の部長。全教科においてトップに君臨する才女である。特技は人をこき下ろすことだ)がいるので霞んでしまうが、それなり以上の成績は俺は保持しているのである。

 代償的に数学のテストは常に赤点だが、必要な犠牲というやつだった。

 

「それって大丈夫なのか? 確か……総武高校だったか。結構な進学校だろ、あそこ」

「何でお前が俺の学校知ってんだよ……」

「それは、そのぉ……あれだ、そう! 小町から聞いたんだ」

「あいつは俺の個人情報を何だと思ってんだ」

 

 気付けば俺の連絡先等を教えたりしているし、本格的に心配になってきた。

 もうね、その内自分の連絡先とかもホイホイ渡すようになりそうでお兄ちゃん心配です。

 ただでさえ脳内お花畑気味なのだ、我が妹は。

 

「シスコンめ」

「ばっか、知らないのか? 千葉の兄妹はこれが普通なんだよ」

「当たり前のような顔をして嘘を吹き込もうとするな」

 

 調べずとも分かるぞそのくらい、と呆れた目をするクルミだった。

 やれやれ、小学生(多分)には難しい話だったな。

 

「それより、さっさとプリント返せ」

「まあ待て待て、特別だ。このボクが教えてやっても良いぞ?」

「はぁ? 何言ってんだお前」

「匿ってもらってるお礼ってやつだよ。それにほら、ボクは数字が好きだからな」

 

 なあなあ、良いだろう? とクルミが目を輝かせて言う。面倒くせぇな……。

 これもう井ノ上あたりを呼んで引き取ってもらった方が良いんじゃないの?

 

「良いじゃないかよー、暇なんだ、相手しろよー」

「暇ならサボるなよ……。ほれ、働かざる者食うべからずとも言うだろ?」

「はっ、バイトを三日でバックレたやつの台詞とは思えないな」

「ちょっと? それどこ知ったの? 極秘情報なんだけど?」

 

 思っていたより俺の個人情報が筒抜けだった。何でそんなことまで知ってるんだよ。

 まさかこの俺にそんな話をするような他人は一人たりともいないし、何なら家族にだって告げてはいない。

 小町には若干怪しまれはしたが、あれはもう俺の黒歴史である。

 なに? 何なの? 超怖いんだけど……。

 

「ふっふっふっ、ボクの情報収集能力を甘く見たな。『私は君のことなどすっかりお見通しだぞ。』という訳だ」

「ジェイムズ・ジョイスの恩寵かよ。マニアックすぎんだろ」

 

 中二病時代に履修して無かったら分からなかったからね? 今の。

 

「意外と博識だよなー、八幡は」

「意外とは余計だ……」

「だが残念、それもボクを止めることは出来ない。集めることが出来るんだから当然、ばら撒くことも出来るからな」

「おいガキ……嘗めるなよ。俺が本気を出せば土下座して靴舐めなんて余裕なんだぞ」

「どういう角度の脅しだそれは……」

 

 はぁ、と小さくクルミがため息を吐き、「本当に変なやつだな」と笑った。

 それから何を思ったのか、プリントを持って対面から隣へとやってきた。

 俺の使っていたシャーペンをカチカチと数回鳴らして芯を出す。

 

「土下座も靴舐めもしなくて良い。ただボクに教えられろ、八幡」

「なに? 教師か何か目指してんの?」

「そんな訳ないだろ、単純にボクの自尊心を満たしたいだけだ」

「さいですか……」

 

 シレッと俺の学力等はどうでも良いといったようなことを言うクルミだった。有難くもなければ迷惑でしかない。

 しかしここで拒絶し、錦木なんて呼ばれようものなら、それこそ一巻の終わりである。

 まあ、その場合はクルミも強制連行になるだろうが……。

 こいつの自爆になんざ付き合ってられん。

 それに、答えを写すだけの作業がちょっと手間になるだけだ。こういう日があっても良いだろう、と割り切ることにした。

 

「仕方ねぇな……ま、何だ。よろしく頼む」

「承った! さてと、じゃあまず一問目からなんだがな、解けるか?」

「ふっ、解ける訳ねぇだろ。文系なめんな」

「流石だな、数学9点」

「だから何で知ってるんだよ……やだ、なに? ストーカー?」

「誰の真似か知らないが、かなり気持ち悪いからやめた方が良いぞ」

 

 白けた面でバシッと直截的なことを言うクルミ。おかしいな、意外と由比ヶ浜には好評だったのだが。

 しかし、ストーカーというのもあながち言いたかったことと外れている訳ではない。

 ここまで俺の個人情報を詳らかにされているとなれば、クルミが超天才ハッカーであり、俺の個人情報を一から十まで調べ上げてる可能性があった。あるか? ある訳ないですね。

 ただでさえ情報過多みたいな幼女なのだ。これに加えて天才ハッカーなんて厨二チックな属性が付加されてしまっては、それこそフィクションである。

 

 残念ながら現実みがない。

 小町から聞いたか、あるいは錦木か井ノ上あたりと雑談した際にぽろっと零してしまったのだろう。

 まあ、仮にそうであるのなら、何故俺の情報をリコリコ内で共有してるんだという話ではあるのだが……。

 有り得ないと断言するほどの話でもないし、特に掘り下げたい話でもなかった。

 

「というか、何だ? もしかして本当に全問分からないのか?」

「当たり前だろ、ったく。言わせんな、照れるだろ」

「恥ずべきはそこじゃなくて、数学の出来なさ加減だろ」

 

 嘘だろー、なんて言いながらもクルミは教え始めてくれた。

 そしてこれまた意外なことに、解説等が分かりやすい。数学なんてとうに捨てた俺が思わず「なるほど!」と頷いちゃうレベル。

 お陰で幼女に勉強教わる男子高校生という、かなり俺の尊厳が失われかねない構図が生まれてしまったのだが、それを差し引いてもギリギリマイナスになることだろう。いやマイナスになっちゃうのかよ。

 

「それでだな、こことここの数字をかけて……」

「最後にここと引き算する訳か」

「そう! そうだ、やればできるじゃないか、八幡」

「ま、これでも進学校の生徒だからな」

 

 今となっては文系に振り切ることで数学をドブに捨て、数学の授業=睡眠時間と思うようになった俺も、かつては頑張っていた時代があった。

 受験の時なんかそりゃもう死ぬ気だったくらいだ。中学のやつらがいる高校には絶対に入りたくなかったので、それはそれは本気で勉強したものである。

 入学後も事故に遭い、入院したことを取り戻さんとばかりに勉学に励んだことすらあった。

 つまり、得意ではないがそれなり以上の成績は取れていた時はあった。基本高スペックだからな、俺は。

 まあ、ある日「あ、これ私立文系入れば楽じゃん」と気付いたので一切手を付けなくなったのだが。

 

「今からそう割り切らなくたっていいんじゃないか? 突然、数学者になりたくなるかもしれないぞ?」

「ふっ、愚問だな。今では理系の授業で先生が何言ってるかも分からない俺だぞ? そんなことは有り得ない」

「捻くれた自信だな……っと、良し。出来たぞ八幡、もう一回だ」

「は?」

 

 もう一回? 何が? と思えば手元にやってくるプリント。それは間違いなく先程まで、教えられながら全問答えを導き出した数学の宿題である。

 ただ一つだけ差異があるとするのならば、書き込んだ計算式や答えが丸っとなくなっていることだろうか。

 おい、何だこれは……? とクルミを見れば、片手には消しゴム。机には広がる大量の消しカス。

 そしてニヤリと笑ったクルミ。

 

「クルミ、お前な……」

「何事も教えてもらった後の方が大切なんだ。ふふ、ちゃんと学べたかの確認という訳だな」

「お前は教師かよ」

「ふっ、クルミ先生と呼んでくれたって良いんだぞ?」

 

 ふふーんとドヤ顔したクルミを横目にプリントへと取り掛かる。そうすれば「おいっ、何か言えよー」とちょっかいをかけてくるのだから、俺に宿題をやらせたいのかやらせたくないのか分からない幼女である。

 いつもであれば「なるほど、分からん」とコンマ0.2秒で判断して答えを写すものの、教えてもらったばかりの俺の脳は「分かるぞ、私にも分かる……!」とどこぞの赤い彗星のようにはしゃいでいた。

 お陰でいつもの三倍速で解答できる……ような気がした。

 

「お~い、八幡。ところでなんだが、ちょっと質問しても良いか?」

「質問? まあ、答えられることなら」

「彼女とか出来たりしたか?」

「…………」

「うわっ、急に目をドロドロとさせるな!」

 

 中々理不尽なことを言いながらクルミが俺から少し距離を取る。あの、ちょっとクルミさん? 俺に失礼過ぎるでしょう?

 突然脈絡のないことを聞いてきといてこれである。

 俺には何をしても良いとか思ってない? 俺、一応お客様だからね?

 

「まあ、何て言うかだな。見たって言うんだよ、千束が」

「何をだよ、幽霊とか? 何? あいつ霊感とかあるの?」

「だとしたら夢があって良かったんだけどな。そうじゃなくて、八幡が女子といるところを見たんだと」

「はぁ?」

 

 おいおい、あいつマジで霊感あんじゃねーの? ちょっと怖いし、幽霊に取り憑かれでもしたら困るから近寄らないで欲しかった。

 いや、でもそうなると既に俺が取り憑かれていることになっちゃうな……。

 美少女の幽霊とかだったら良いな。ラブコメの波動を感じる。

 

「何だ、本当に身に覚えが無いのか?」

「いや、同じ部活のやつだろうな。この前途中まで一緒に帰ったから、その時のことだろ」

「へぇ、青春って感じだな。で? それが彼女って訳か?」

「なわけねーだろ……」

 

 何でもかんでも恋愛に繋げるんじゃありません、と頭にチョップを落とす。

 大体、雪ノ下然り、由比ヶ浜然り、付き合うだなんて有り得ないんだよ。

 特に雪ノ下とかヤバいよ? そんな勘違いされた日には巻き添えで俺まで殺されかねないレベル。

 

「なーんだ、それじゃ千束の勘違いってことか」

「ま、そうなるな。まず何で勘違いするんだって話だが」

「その方が面白いからじゃないか? 何せ、あの八幡に彼女だぞ? 千束なんて混乱して暫く使い物にならなかったくらいだ」

「俺に恋人が出来るのはそんなに意外なことなのかよ……」

 

 まあ、俺からしても意外過ぎるくらい意外なことであるのだから、反論しづらいところではあるのだが。

 残念ながら今のところそういう気配なかったし、これから先もなさそうだった。

 良いんだよ、俺は大学に入ってからが強い。そのはずだ。

 

「大体、色恋でキャイキャイしたいなら、それこそ錦木だったり井ノ上だったりを見てた方が楽しいだろ。中身はともかく、見た目は良いんだからな。その手の話は幾らでもあったろ?」

「そこでミズキを出さない辺り、八幡らしいな」

「あの人は色恋っつー歳じゃねぇだろ……」

 

 恋愛とかすっ飛ばして結婚したい! という欲を丸出しな人である、中原さんは。どうにも我が奉仕部顧問である、平塚先生とダブっちゃうんだよな。

 両方とも早く誰か貰ってあげて欲しい。そうじゃないとうっかり俺が貰ってしまいかねない。

 

「八幡は年上好き、と……」

「何アホくせぇことメモしてんだ」

「なんだ、それなら年下好きなのか? はっ、さてはボクをそういう目で……!? 悪いな、無理だ。八幡のことは嫌いじゃないがそういう目で見たことはない」

「何でそうなるんだよ……」

 

 告白しても無いのにフラれていた。負けることにかけては最強の俺ではあるが、戦ってもいないのに負けたのは初めてである。こんな初体験いらなかったなぁ。

 にやけた面を見せてくるクルミを見ながら、解き終わったプリントをしまう。答え合わせは帰ってからで良いだろう。

 そういう訳で、チリーンと卓上のベルを鳴らした。

 

「なっ、あっ、何をしてるんだ八幡っ」

「何って、帰るには会計しなきゃいけないだろーが」

「そうじゃなくて、このままでサボってるのがバレ──」

 

 クルミが言い切る前に、彼女の肩に手が乗せられる。中原さん──中原ミズキ。この喫茶リコリコの従業員の一人だ。

 青筋を立てた中原さんに、クルミは顔を青くした。

 

「じゃあな、精々仕事頑張れよ」

「こっ、この裏切者~!?」

 

 悲壮に染まった声を背に受けながら会計へと向かう。

 まあ、何だ。メスガキってのは懲らしめられないといけないって古事記にも書いてあるからな。

 諦めろと手を振り、合掌をした。

 

 

 

 

 



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意外にも中原ミズキはお節介を焼くことがある。

 

 今日も今日とて錦糸町へと足を運ぶ。とはいえ本日の目的地は『喫茶リコリコ』では無かった。

 時刻は十二時少し前、お昼時だ。

 つまり俺は、昼食を摂る為にここまでやってきたのであった──無論、昼食なんて幅の広い言葉を使ってしまえば、それこそ喫茶店でも良いじゃんと思われるかもしれないので、それではダメなのだと先んじで言っておこう。

 喫茶リコリコは「まかない」という形で客にまでお昼ご飯を提供してくれる稀有なお店ではあるが、そうだとしてもダメなのだと。

 俺は今日、最強の食べ物を食べに来たのだから。

 では、最強の食べ物とは何か?

 焼肉、しゃぶしゃぶ、寿司、天麩羅、ピザ、カレー、うどん、お蕎麦。……全て違う。

 正解は……そう! ラーメンだね。

 いつだって男子高校生の傍に寄り添ってくれる、完全無欠の最強食。それがラーメンである。

 放課後、帰り道にフラッと寄るも良し。

 適当に街中を散策して開拓するのも良し。

 雑にお腹を満たす為にお湯を沸かすも良し。

 ラーメンとはそういう、無限の可能性に満たされた食でありながら、何よりもぼっち推奨の食であることが八幡的にポイント高い。

 そう、ラーメンとは一人で入り、一人で味わい、一人で満足する為のものである。

 ダラダラと会話なんかしてみろ、麺は伸びるしスープは冷める。ついでに回転率も悪くなって後ろの客に睨まれるし、悪いことづくめだ。良いことなんて一つもありゃしない。

 孤高の頂に立つ者にそっと寄り添い癒してくれる、最高の一杯。

 それこそが、この比企谷八幡に相応しい食。つまりラーメンなのであった。

 

 

 

 夏休みにおける寝すぎは最早学生の特権だ。それは俺も例外ではなく、当然のように昼近い時刻に目が覚めた。

 なのでもちろん、寝起きからお腹が減っていた。ぼんやりとした頭で、では何を食べよう? と考える。

 ラーメンだな。ラーメンが食べたい。

 一度そう思えば口はもうラーメンしか受け付けない。

 思い立ったら即行動だ。これが集団ならノロノロうだうだと話し合いが始まるところだが、俺はぼっちだからそんなこととは無縁である。

 自分の意思に従い、スピーディに行動できる。やはり全人類はぼっちであるべきだ、効率的だからな。

 

 顔を洗い、歯を磨いて適当に着替える。

 専業主夫を目指しているのならそれこそ、自分で作った方が良いのではと言う意見もあるかもしれないが、専業主夫、あるいは専業主婦なんてのは、働きに出る人にはお昼用にワンコイン渡し、自分は悠々と外食するものだ。多分。

 俺が目指すところはそこなのでなんら問題はない。

 そういう訳で早速家を出て電車へと乗る。今日は新しい店でも開拓しようかなと一人ウキウキしていたのだが、途中で腹の虫に耐え兼ね錦糸町で降りてしまった。

 贔屓にしてる店が最近こっちでもオープンしたんだよな。

 実際、知っている店とは言えども支店ごとに雰囲気等が違ったりするので、これはこれで楽しみだ。

 ここを教えてくれた平塚先生(我が奉仕部顧問。俺を奉仕部に叩き込んだ張本人であり、得意技は超長文メール・ラインを連続で送ってくることだ。だから結婚出来ないんだよ、この人)には感謝と同時に畏怖の念を覚えながら道を行く。

 

 じめじめと熱された空気と夏の直射日光。うんざりするような暑さにもまけずテクテクと進んでいけば怨霊がいた。

 いやマジで、道の端っこにこの世のものとは思えないほど陰鬱なオーラを纏った”何か”がいるんだけど。

 やっべー、超こえーよ。近寄ったら呪われちゃうんじゃない?

 耳をすませば「男どもは見る目が無い」だの「結婚したい」だの「ふざけんじゃないわよ」だのと如何にもな恨み言が聞こえてくる。

 

 うん、そうだね、知っている人だね。

 俺の知る限りこんな風になる人間は二人しか知らない。いや二人もいるのかよ。

 まあ、何だ。平塚先生と中原さん──喫茶リコリコ従業員、中原ミズキ──くらいである。

 そして今回は後者であった。未だに格ゲーで連敗しまくったゲーマーの如く打ち震えているそれには流石に関わりたくない。

 目が合う前に退散しようと踵を返せば、

 

「なぁに逃げようとしてんのよぉ、比企谷ぁ~」

 

 ガッ! と気持ち強めに掴まれた。いや気持ちどころじゃないわ、俺のキュートな肩がギチギチ鳴っちゃってるんだけど?

 俺が高校生球児だったら危うく選手人生を終わらせられそうな握力だった。

 あまりにもビビってしまい、震えながら怨霊の方へと振り返る。

 ……こうして間近で見ると怨霊感が多少は薄れるな。制服でも無ければドレス姿でもないが、如何にも大人のお姉さんといった格好の彼女は、確かに美女言って差し支えないだろう。

 道端で偶然美人なお姉さんと出会って絡まれる。

 字面だけならラノベチックなラブコメでも始まりそうなものである。しかし悲しきかな、相手は行き遅れのアラサーだった。

 

「そりゃ道端であんだけ負のオーラまき散らしてたら避けたくなりますよ。何やってんですか、中原さん」

「アタシだって今頃こんなことしてる予定じゃなかったっつーの……!」

 

 キィーッ! と怒りをあらわにする中原さん。このままでは野生に帰った挙句、登った木をゆさゆさと揺らして周囲を威嚇し始めかねない。

 ハッキリ言って面倒な上にお腹が空いたので無視したいのだが、そうもいかないので話を聞くと、どうやら婚活パーティーの帰りだったらしい。

 そういうのって夜とかにやるものじゃないんだと思ったが、

 

「今は色々あんのよ。今日はカジュアルなティーパーティだったの」

 

 とのことであった。そういうのもあるのかと納得する。いやあ、大人は知識が豊富だなあ。

 

「喧しいわ、アタシだって別にこんなこと詳しくなりたくなかったわよ! ただねぇ、人ってのは社会に出たら自然と出会いがなくなんのよ。そしたら、ほら、こういう場に出なきゃいけないじゃない?」

「それで成果はあったんですか?」

「あったら今頃こんなところでアンタと喋ってないわよ!」

 

 見て分かれや! と叫ばれる。正しく見ての通り、凄惨な敗北をかましてきたらしい。

 平塚先生と言い、中原さんと言い、黙ってればこんなにも美人なのにな……。

 口を開けば残念なのが共通項だった。

 いつかそんな貴女たちを受け容れてくれる男性が現れますよ、とはちょっと言えなかったので曖昧な表情で濁すことにした。

 中原さんがはぁぁ~、という長々としたため息を吐く。

 

「それで、アンタはこんなところで何してんのよ。店、こっちじゃなくない?」

「いえ、今日はそっちじゃなくて、ラーメン食べに行こうとしてたんすよ」

「へぇ、ラーメン……良いわね」

 

 中原さんがキラッと赤縁の眼鏡を光らせる。怨霊にすら見えたオーラは既に消えつつあり、かなり人間らしさを取り戻していた。

 

「その口振りならもう店は決めてんでしょ? 良いじゃない、アタシも連れて行きなさいよ」

「まあ、俺は別に良いですけど。その、ティパーティー? とやらで食べたんじゃないんですか。太りますよ」

「じゃかあしいわ! 大体ねぇ、あんな茶と茶菓子だけで腹膨れるわけねーっつの!」

「さいですか……んじゃ、まあ行きますか」

 

 俺が先導する形で車道側を歩き、その隣を中原さんが歩く。

 

「アンタって散々ぼっちだなんだって言ってるくせに、そういう気遣いは出来るのね……」

「まあ、妹が優秀なんで。しっかり躾けられてんですよ」

「あー、小町ね。はいはい、納得だわ。アンタ、兄の威厳とかないもんね」

「残念ながら、比企谷家内カースト最上位は小町で、最下位は俺ですからね」

 

 因みに学校内カーストでも最下位は俺だ。言うまでもない? うん、そうだね……。

 しかし、小町は学校内でも最上位カーストに位置しているので、兄妹で上手くバランスが取れていると言っても過言ではないのではなかろうか。

 

「ま、確かにあの子は良い子よね。アンタと兄妹とは思えないくらい可愛いし」

「でしょう? 俺もつくづく思いますよ。自慢の妹です」

「そしてアンタは相変わらずのシスコンね……」

「千葉の兄妹ですからね」

 

 アンタは千葉を何だと思ってんのよ……と軽く引いた目を向けてくる中原さんだった。全く、これだから東京育ちは。

 分かっちゃないな、と肩を竦めるにとどめておいた。店に着いちゃったからな。

 とはいえすぐ入れる訳でも無く、少しばかり並びそうだった。俺はぼっち故に時間を潰すのは得意中の得意ではあるが、中原さんがどうか分からない。

 かと言って振れるような話題も無かったので、少々考えた後に「まあ良いか」と切り捨て益体のないことを考え始めた。

 

「こういう時に女性を退屈させないのが良い男ってもんよ?」

「流石、良い男を逃してばかりの人が言うことは違いますね」

 

 きぇーっ! と野生に帰る中原さんだった。俺の頭にチョップを落とし、「次はないわよ」みたいな顔をする。

 次も何も既に一撃落とされてんですけど……。何? 次は殺されちゃったりするのん?

 中原さんならやりかねないな、と身構えてしまった。

 

「馬鹿ね、素人がアタシに勝てるわけないじゃない」

「プロなんですか……!? 人殺しの!?」

「そうよ? これでどんな男もイチコロだったんだから」

 

 パキューンと手で作った銃で撃つ振りをする中原さん。ちょっと年齢を考えて欲しかった。

 露骨にそんな顔をすれば鋭く足を蹴られる。錦木の暴力癖ってもしかしてこの人から伝染したんじゃねぇの? ってくらい痛かった。

 

「でも、意外ね。比企谷ってあんまり外食とかしないんだと思ってたわ」

「何言ってるんですか、リコリコにだって結構行ってるでしょ」

「うちはまた別じゃない? そもそも初めて来た時がちょっとイレギュラー気味だったわけだし。そう考えると、外食ってより外に出てるのが珍しいって感じかしら」

「俺は引きこもりかなんかかよ……」

「実際、似たようなものでしょ? ヒッキー♡」

「うぜぇ……」

 

 特に錦木の声真似がちょっと上手かった辺りかなりイラついた。確実に練習してただろ、アレ。

 俺も雪ノ下の真似をしていただけに同族嫌悪を発生させてしまった。仕方ないね、ぼっちは基本的に馴れ合わない生命体だからね。

 というか別に、俺は外出が嫌いではない。何なら喫茶リコリコを見つけたように町の散策自体は好きな方だ。

 知らない店とかも開拓できるしな。ぼっちは単独行動が基本なので怪しげな店も冒険できるのでオススメだ。

 

「たまには千束とかも連れて来てやったらいいじゃない、喜ぶわよ~?」

「いやあいつ基本的に仕事でしょ……仕事中に何故か外出が許されてるのがおかしいんですよ」

「言われてみればそうね……」

 

 慣れっこだからもう誰も言わなくなっちゃったのよねぇ、とか他人事のような口振りで語る中原さんであるが、この人も仕事中に酒を飲んでいたりするので他人事では全く無かった。

 どうなってんだよあの喫茶店。ちょっと自由すぎんだろ。

 

「でも許されてるんだし? 役得よ、役得。千束もアンタのことは気に入ってるみたいだし」

「……ま、機会あれば考えるよう、前向きに努力するよう善処しますよ」

「欠片もやる気を感じられないわね……アンタらしいと言やアンタらしいけど」

 

 ちょっとは千束のことも考えてやりなさいよねーとか言い出す中原さんであった。何を考えろってんだよ……。

 錦木の場合、ちょっと距離感がバグっているだけで、基本的に俺達は客と店員だ。良くも悪くもそこを逸脱することはない。あってはならない。

 思い違えてはいけないし、ましてや勘違いなんてしたら最悪だ。

 適切な関係は適切な距離と適切な感情があってこそ保たれる。

 どちらかが傾きすぎてはいけない。もしそうなったとしたら、結局痛い目を見るのは自分自身なのだから。

 

「自己保身にかけては最硬よね、アンタ」

「誰も俺を守ってはくれませんからね、俺だけが俺を守ってあげられる……!」

「何なのよその使命感は……」

 

 少々引いたような目線を受けながら列を進み、ようやく店内へと入る。 

 サクッと互いに食券を購入してカウンターへ。

 

「ハリガネで」

「はり……えっ? 何? 呪文?」

「こっちの人は普通でお願いします」

 

 あいよ! という店主の声を聞きながら、訝し気な目を中原さんが向けてくる。

 中原さんはあまりラーメン屋には来たことがないようだった。居酒屋には死ぬほど出没してそうなのにな。

 

「麵の硬さですよ、色々指定できるんです」

「へぇ、来慣れてんのね」

 

 言葉を交わしたのはそれっきりで、丼が来てからは一心不乱に麺を啜り、スープを味わい、各種トッピングを楽しむ時間へと突入した。

 うーん、美味しい。やっぱりとんこつ味噌だよな。

 こってりとした油と極太の麺、それにがつんと濃いスープが絡んだ最高の一杯である。

 さくっとお腹を満たし、揃って店を出る。んーっと背を伸ばした中原さんに話しかけられた。

 

「さっきの話だけど」

「さっき?」

「千束と遊ぶとか遊ばないとか言う話よ」

「ああ……」

 

 いや別に遊ぶ遊ばないの話ではなかったような気はするが……。

 まあ良いだろう、と寛大な心で流す。

 

「つまり、仕事中じゃなきゃ良いのよね?」

「え? あー、まあ、そうなりますね。プライベートで会うことはなさそうですけど」

 

 俺が錦糸町に来る理由なんて、それこそリコリコにでも行くかと思った時くらいである。

 プライベートでの行動範囲が特段被ってないんだよな、多分。

 そりゃ都市部に行くことはあるが、あそこは人が多すぎるので偶然会うなんてことは滅多に無いし。

 予定を一緒に立てれば問題ないだろうが、そもそも俺は錦木の連絡先とか知らないからな。何なら知らないままで良いまである。

 飽くまで俺達は客と店員だ。それ以上でも無ければ、それ以下でもない。

 

「まどろっこしいわねぇ、良いじゃない。どうせアンタら子供なんだし、休みの日に遊ぶのも思い出になるもんよ~?」

「はぁ……そうですか」

「思ってたよりドライな反応するわね……」

「生憎、誰かと出かけるってことを鮮明にイメージできないんですよね」

 

 昔から単独行動が多かった俺である。集団で動く時は影を消し、存在感を消し、最後方を歩いたものである。なので誰かと出かけること自体、拒絶感があった。

 二人で行動するってなったら、大体の場合小町だしな。

 

「そういう偏屈な物の見方も多少は改善されるでしょうし、オススメよ。つーか学生の内に相手は見つけておくべきだわ、絶対に……」

「うわっ、情感込めすぎでしょ」

 

 かなりおどろおどろしい気持ちの込められた一言だった。重すぎるだろ。

 経験が反映され過ぎてて軽く受け取れない呪いの言葉になっちゃってるよ。その内、呪言使いとかになっちゃうんじゃねぇの?

 

「大体、休みも何もリコリコほとんど休みないでしょ」

「そこは、その、なに? シフト調整したりするわよ。多分」

「何で働いてる人が分かってねぇんだ……」

 

 大丈夫? あの店本当に大丈夫? 実は超ブラックなんじゃないの?

 休みと言えば、年齢的に錦木も井ノ上も夏休みだろうし、そんな様子が欠片も見受けられないし……。

 喫茶リコリコの謎は深まっていくばかりだった。

 

「まあ、何て言うの? 人の好意は素直に受け取っても良いんじゃないのって話よ。アンタら、子供なんだから。子供らしくおままごとしてアタシを楽しませてちょうだい」

「最終的には自己中的な理由が来るのが行き遅れる理由なんじゃないですか?」

「余計なお世話よ! ったく、何でアタシがこんなこと言ってんだか……」

 

 ガラじゃないのよ、なんて良く分からんことを言いながら頭をかき、それから「はぁ」と息を吐く。

 

「まあ良いわ。とにかく、今日は悪かったわね、ありがと。美味しかったわよ」

 

 んじゃね~、なんて軽い言葉と共に中原さんが背を向ける。

 カツカツと歩いて去って行く背を見ながら、一つ思った。

 

「昼済ませたら行くつもりだったんだけどな……」

 

 この流れで後を追うのもアレだ。

 今日は家でゆっくりしろと神様が言っているんだなと思い、駅へと足を向けた。

 

 

 



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どう考えても錦木千束と出かけるのは間違っている。(前編)

 

 ヴィーッ、ヴィーッというスマホから鳴る音で目を覚ます。

 夏休みという、学生にだけ与えられた超特権の長期休暇に馴染み切ってしまった我が肉体は更なる惰眠を求めていたが、俺のスマホが鳴ることなんてそれ自体がもう珍しい。

 とはいえアマゾンの発送メールだろうが……これで小町か親からの連絡だったら無視するわけにもいかないからな。

 パッと画面を見れば、『ち・さ・と♡』という名前の謎の人間から大量のメッセージが届きまくっていた。電源ボタンを押して、そっとスマホをスリープ状態へと戻す。

 ふぅ、これで良し。全然知らない人からのメッセージは無視するに限るからな。

 いやあ、LINEってやつもメールと同じで迷惑メッセージとか飛んでくるんだな。

 恐ろしい時代である、俺のアカウントのIDだったりなんだりってのもネットに放流されているのだろうか……。

 怖くて夜しか眠れないぜ、と布団にもぐり直せば再びスマホが鳴った。例の『ち・さ・と♡』とかいう人間からである。スタンプが連打されており、否が応でもスマホは鳴りまくっている。ので、そっと枕の下へと押し込んだ

 今時の迷惑メッセージを送ってくるやつってのは随分とアグレッシブなんだな。

 くわばらくわばら。十字とか切りながら二度寝の態勢へと入る。

 

 再びスマホが鳴った。何なんだよ、いい加減諦めろよと思えば電話に切り替えたらしい。

 見なくても分かる。先程と同じ、『ち・さ・と♡』とやらからだろう。

 でもなー、全然知らん人だからなー、連絡先とか交換した覚えないからなー。

 ……いや、マジで何であいつ俺の連絡先知ってんの? 怖いよ、かつてないほどに怖いよ!

 何なら軽いトラウマになりそうな怖さだった。あいつは俺の何なの?

 俺の個人情報を他人に提供することに定評のある我が妹、小町も今年は受験生だ。家での勉強に励んでおり、この夏は一度もリコリコに足を運んではいない。

 要するに、俺の連絡先が割れる訳が無いのだが……。

 

 まあ、あの喫茶店だしな。

 普通の喫茶店に見えて、そのくせ何だかファンタジーとかが混ざってそうなあの喫茶店である。そういうこともあるだろう。

 仕方ないので電話のコールが切れた頃合いでスマホを取り出し、メッセージを確認する。

 顔文字絵文字スタンプの連打で「何これ新手の暗号? あるいは新言語?」と思ったものの、解読できる部分のみ流し読みすれば、どうにも「一緒に出掛けよう」といった内容だった。しかも今日。

 なるほどなあ、と独り言ちながらシームレスに電源を落とす。冷静に考えたら親からの連絡とか無視しても小町の方に行くだろうし、その小町も絶賛お家で勉強中だ。

 そしてそれ以外から連絡が来る可能性のない俺にデメリットは無かった。あー! ぼっちで良かったー!

 綺麗さっぱり悩み事も解決したところで、気分も晴れやかになったので起床することにした。

 トントンと一階へと降りればリビングには小町の姿が。勉強していたようだが、格好自体は寝間着のままらしく、俺のおさがりのダボダボTシャツを下着の上に着ただけだ。

 これが親父か母ちゃんであれば小言の一つや二つ言ったかもしれないが、俺としては別にどうでも良い。見慣れているし、今更だ。

 そこに何か特別な感情を持つこともないし、何なら下着がその辺に落ちてても「布だなあ」しか思わないほどである。現実の妹なんてこんなもんだ。

 

「あ、お兄ちゃんおはよう」

「おう、そっちは勉強中か?」

「ん~、今は休憩中~」

「そうか、それなら何か飲むか? 生憎今はMAXコーヒーしかなかったと思うが……」

「お兄ちゃん、アレ箱買いしすぎだよ……。牛乳あったと思うから、それお願い」

 

 げんなりとした様子で見てくる小町だった。やれやれ、MAXコーヒーの良さが分からないなんて、小町もまだまだだな。

 いつかしっかりと布教しなければならないだろう……。そんなことを考えながら冷蔵庫を開き、MAXコーヒーを一本、牛乳を一本取り出しコップに注ぐ。

 

「ほい」

「ほいさ」

 

 コップを渡し、二人並んでゴクゴクと飲み干す。ぷはーっ! やっぱり寝起きのMAXコーヒーは最高だな!

 身体の隅々まで糖分が行き渡り、全身が活性化されている様な感覚すら覚える。

 今日はこれから二度寝してゲーム三昧しても良さそうな具合の良さだ。

 

「そこが出かけるとかじゃない辺り、お兄ちゃんだよね……」

「まあな、星座占いもしし座が最下位だったし、今日は出ない方が良いんだよ」

「お兄ちゃんってしし座だったんだっけ?」

「ちょっと? 小町ちゃん? お兄ちゃんの誕生日も忘れちゃったの?」

 

 まあ、クラスメイトにはそもそも忘れられるどころか、認知すらされなかった俺である。

 この手のダメージには慣れ過ぎて最早ノーダメージと言って良い。因みに俺の誕生日は8月8日だ。

 こうやって偶に再確認しないと、自分でも忘れちゃいかねないんだよな。

 

「んー、でもねお兄ちゃん。小町はお兄ちゃんにお願いがあるのです」

「何だ? 残念だが俺は理数系は死んでるから教えられないぞ」

「いや、うん、お兄ちゃんにそこは期待してないから……。そうじゃなくってね、問題集を買ってきて欲しくって」

「ほう……」

 

 率直に言えば珍しい。だが、勉強にここまで精力的なのは疑う以前に褒めるべきことだろう。

 何せ小町は基本的に馬鹿だ、それだというのに問題集が欲しいだなんて言い出すのは相当本気である証左である。

 ここは兄としても協力せざるを得ないだろう。

 

「仕方ねぇな、何が欲しいとか決まってんのか?」

「そこをお兄ちゃんに選んでもらおうかと思いまして!」

「おい……」

 

 大丈夫? 本当にその辺俺に任せて平気なの? ねぇ……不安になってきちゃったんだけど……。

 

「英語系の買ってきてくれたら文句はないよ」

「ん、そうか」

 

 それなら俺でも役に立てるだろう。

 短いやり取りをしてから、あれこれと手早く身支度を済ませ、ついでに欲しかった本なんかも脳内にリストアップする。

 玄関で靴を履きながら、見送りの小町へと声をかけた

 

「じゃあ、行ってくるわ」

「はーい、行ってらっしゃーい! あ、帰りは遅くても大丈夫だよ! 何なら朝帰りでもオッケー!」

「はいはい……」

 

 この子は本当に兄を何だと思ってるんですかね……。

 大体、幾ら暇を潰すのが得意中の得意な俺とは言え、朝まで耐えるというのは……いや、出来なくもなさそうではあるが。

 見ようによってはこれ、体の良い文句で追い出されただけなんじゃないだろうか……。ち、違うよね? ねっ? 小町ちゃん?

 益体もなくそんなことを考えながら家を出る。

 瞬間、

 

「ヒッキー、おっそ~い」

 

 という間延びした、実に俺を非難するような声が飛び掛かってきた。真正面から。

 見慣れない私服に身を包んだ、やたらと見覚えのある少女によって。

 はぁ?

 

「……錦木、お前何でここにいるんだよ」

「え? だってほら、言ったでしょ? デートしようぜ☆って」

「見覚えがねぇな」

「平然と嘘を吐く!? 既読めっちゃついてんぞぉ~!?」

「うぜぇ……」

 

 おいおいおい~っと小突いてくる錦木だった。何でこいつがここにいて、しかも俺を待ち構えているんだよ……。

 意味が分からねぇ、と言うほどではなかった。俺も馬鹿ではない、ここまでくれば小町の根回しであろうことは最早明白である。

 くっ、卑怯だぞ……! 小町に頼まれたら不承不承でも出かけてしまう妹への愛情を利用しやがって……!

 連係プレーまでされたら打つ手なしに決まってんだろ。

 

「初めに言っとくが、俺に集ろうとしても無駄だぞ。小町の問題集を買ったら残るのは500円程度だ」

「集ることすらできないじゃん!? でもね、ふっふっふ、安心したまえよ八幡くん。この千束様を何だと思っているのかね?」

「変なストーカー?」

「だぁれがストーカーだ! まったく……来る日も来る日もリコリコの看板娘として活躍している千束様は今や軽い富豪なのだよ、この意味が分かるかね?」

「へえ、そいつは良かったな。じゃ、またな」

「あぁん、もうヒッキーってばドライすぎぃ~。良いじゃんかよー、今日は私と遊ぼうよぉ~」

 

 駅へと向かい始めた俺の周りをウロチョロとする錦木に、小さくため息を吐く。

 このまま放置しても良いが、人通りの多いところに出たらやたらめったらと目立ってしまうだろう。

 それはあまりよろしくない。ただでさえ、こいつの見た目は相応以上だし、言動の喧しさも相応以上だ。

 

「分かった、分かったから派手に動くな、目にうるさい。今日はお前に付き合えば良いんだろ」

「さっすがヒッキー! 話が早い!」

「つっても、小町の問題集の他にも、俺も欲しい本があるしな……海浜幕張駅とかで良いか?」

「良いよ良いよ~。ていうか私、そっちは行ったことないから楽しみかも」

「へぇ、何か意外だな」

 

 錦木は見ての通りの陽キャである。騒がしいところ、派手なところは飽きるほど足を運んでいるんだと思っていたのだが、そうでもないらしい。

 まあ、それならそれで都合が良い。下手をすれば今から目的地を決めて、プランを練ったりなんかしなくちゃいけなくなるところだったからな。

 ぼっちを極めている俺には難しい。だが海浜幕張駅は行き慣れている俺でも時間を大いに潰せる場所だ──ショッピングモールはあるし映画もある。海も近いし夏はマリンスポーツが盛んで、近くでは花火も上がる。

 初見であるのなら、半日なんて一瞬で過ぎ去ること間違いなしだ。

 何なら二手に分かれて自由行動しても良いレベル。むしろ推奨したいまであるね。

 

「ま、ヒッキーが連れて行ってくれるならどこでも良いんだけどね~。あっ、今の千束的にポイント高いんじゃない?」

「なに? そのポイント制度流行ってんの?」

 

 小町の影響力の高さに震えることしかできない俺だった。流石は小町、俺の妹とは思えないな。

 俺にもそのくらいのコミュ力が備わっていたら良かったのだろうが……なんてことを考えながらも、他愛のない会話をしていれば駅前に到着。そこから並んでバスに揺られて十分程度。

 海浜幕張駅に到着すると同時にスルスルと、ぼっち特有の回避スキルを全開に発動させて人混みを躱していれば、がっ! と手首を掴まれた。

 

「ちょ~っ、ちょちょちょい! ヒッキー、完全に私のこと忘れてない!?」

「おっと、悪いな。これまでの人生であまり誰かと出かけるってことをしてこなかったからよ」

「何て悲しい理由……今日は私がずっと傍にいてあげるからね?」

「変な優しさやめろよ……」

 

 泣いちゃうだろうが。俺にあんまり優しくするんじゃない、と手を振りほどこうとしたができなかった。

 え? 何こいつ、握力ヤバすぎない?

 ちょっと数秒努力してみたが全然ほどけなかった。

 スルリと手が伸びて来て、そのまま手を握り合う形になる。

 

「ちょっ、おまっ」

「こうでもしないとヒッキー、どっかにふわふわ行っちゃいそうじゃん?」

「人を風船みたいに言うんじゃねぇよ」

「実際、風船みたいなものでしょ?」

「どういうことなのそれは……」

 

 俺の抗議は露知らず、ニヤリとした笑みを向けてくる錦木に抵抗を諦める。

 こうなってしまったらもう何をしても無駄だ。同年代の女子に力で負けるのは、些かながら悲しくはあるが仕方ないだろう。

 こいつ、超スポーツマンだからな。

 運動と言えば体育くらいしかしていない俺である、負けるのも道理と言えば道理だった。

 

「……人混みに呑まれてる間だけだからな」

「分かってる分かってる♪」

 

 随分とご機嫌な様子の錦木を連れて、アウトレットモールの方。お買い物特化なエリアの方へと進んでいく。

 前述の通り、人を避けるのが得意な俺ではあるが、意外なことに錦木も、俺と同じかそれ以上くらいには人を躱すのが上手だった。

 流石は人の多いところを良く好む習性のある人種である。

 陰キャを極めた俺と、陽キャを極めた錦木。もしかしたら行きつく先は同じなのかもしれない……。

 これが陰陽道、か。

 死ぬほど下らないことを考えながらモール内へと入る。

 

「おっ? ヒッキー。あれヒッキーに手を振ってるんじゃない? 知り合い?」

「は?」

 

 何言ってんだお前、と目を向ければロングコートに身を包み、黒ぶちの四角い眼鏡をつけた、少々ぽっちゃり気味の男性がいた。

 キラキラと俺達の方を見ている……ように見える。なるほど。

 

「知らない人だな。うん、知らない。真夏にコートを着てるやつなんて俺の知り合いにはいない」

「それ絶対知ってる人の口振りじゃん!? わっ、凄い形相になってるって、ほら、ヒッキー」

「ばっかお前、あんまり見るな。呪われるぞ」

「怨霊の類なんだ!?」

 

 まあ、ヒッキーもゾンビ並みに目が腐ってるもんねぇ、と囁く錦木だった。喧しすぎるだろ。あと近いし、耳に口元近づけるな。

 そもそもあの真夏コート……材木座(学校ではよく体育でペアを組んでいる程度の知人。一応物書きを目指しているらしい。特徴は中二病であるということだ)の形相が変わったのだって、錦木がいるせいなのは間違いない。

 今頃「この半端イケメンが!」「わ、我を裏切ったのか!?」等と内心叫んでいることだろう。マジでめんどくさいんだけど?

 とはいえ、あいつの目的地はゲーセンだろうし、この先出会うこともないと考えられる。

 無視してオーケー。一つも問題は無い。

 

「つーかお前、そろそろ手離せ」

「えー? 良くない?」

「ダメだ。そもそも歩きづらいだろうが……」

 

 言えば、「えー、良いじゃんかよー」なんて言いながら手を離される。ふー、やれやれ。

 少しだけ手に残った温もりを振り払うようにして、本屋へと突入した。

 コミックだったり、ラノベだったりの場所は分かるんだけどな……。

 問題集の類がある棚が何処か分からず、少しだけ呆然としていればクイクイッと手を引かれる。

 

「折角だし、一通り周らない? ついでに私、ヒッキーのオススメの本とか知りたいな~?」

「お前、普段本とか読むタイプかよ……」

「おぉっと~? もしかしてだけどヒッキー、私を馬鹿だと思ってない!? 全然読むから! 何なら映画とかめっちゃ好きだし!?」

「映画は関係ねぇだろ……」

 

 それはただのお前の趣味だ、なんて言いながらも提案には頷いて、二人で本屋を回る。

 本は好きだし、本屋も好きだ。居心地が良い。

 それに、物語に触れるというのは存外心地が良く、視野を広げてくれるものだ。

 そういえば、以前はここで雪ノ下に会ったっけか。完全に無視どころか、目が合って数秒経ったにも関わらず無言で去られたが。

 流石の俺も一言くらいあって良かったんじゃないの? とか思うレベルだった。

 

「んっ、ヒッキー。私といる時に他の女の子のこと考えるのはマナー違反だぞ~?」

「何で分かるんだよ、なに? エスパーなの?」

「女の子は皆エスパーなんだ……ぜっ☆」

「そうかよ……」

 

 言いながら本を一冊抜き取る。題名は『こころ』。言わずと知れた夏目漱石の書いた小説である。

 

「ほれ、俺からのオススメだ」

「ほほぅ、因みにどの辺がオススメなの?」

「そうだな……絶対的なぼっち小説って辺りがオススメポイントだな」

「絶対嘘だ!? しかもそれ、絶対にオススメポイントじゃないよ!?」

 

 キャンキャンと喚く錦木であったが、文句は読んだ後にでも言ってもらおうかと押し付ければ、不思議にも嬉しそうに表情を崩した。

 良い心がけである、これを読んで少しでもぼっちの気持ちを分かって欲しいところだな。

 くひひっ、と笑った錦木が俺を見た。

 

「ヒッキーからのプレゼントとか初めてじゃない? 嬉しい、嬉しい」

「なにナチュラルに集ろうとしてんだよ……」

 

 さっき自分で懐は暖かいとか言ってたのは嘘だったのかよ……。仕方ないのでひょいっと『こころ』を取り上げてから、既に捕獲していた欲しかった小説の上に重ねる。

 まあ、ああは言ったが俺も余裕はある方だからな。一冊くらいであれば、どうってことはない。

 

「いやいやいやっ、悪いって。ヒッキー!」

「あん? 別に良いって、こんくらい。ただ……そうだな。負い目があるなら今度サービスしてくれや、小町に」

「それは小町ちゃんなんだ!?」

「当たり前だ、千葉の兄妹をなめるなよ」

「千葉って言っとけば何でも通ると思ってない!? ……でも、ありがと」

「……おう」

 

 ほんのりと頬を赤らめた錦木に、何でかこちらまで照れてしまう。

 何なら再び握られた手を振り払えなかったレベル。これは物理的な意味合いなんですけどね?

 

「へへっ、ダメ?」

「ダメっつーか、邪魔だ」

 

 言えば露骨にしょんぼりと肩を落とす錦木。

 それを眺めて数秒、今日何度目かのため息を吐いた。

 

「まあ、何だ。会計済ませたあととかなら、良いんじゃねぇの。今日は休日だし、人も多いしな」

「っ! う、うん! さっすがヒッキー、わかってるぅ!」

「いきなり喧しいなお前は……」

 

 ようやっと見つけた問題集を、検索しながらも二人で吟味し一冊選び抜く。

 手早く会計を済ませて、店を出れば錦木が満面の笑みを向けながら手を差し伸べてきた。

 

「夜はこれからだよ、ヒッキー。今日は寝かさないぜ~?」

「まだ真昼間だろうが……」

 

 お前の夜判定はどこからなんだよ、とツッコミを入れる前に手を取られる。

 どうにも遊ぶ気自体は満々らしいが、当然ながら朝帰りするつもりもない。

 なるべく早めに解散したいなあ、という思いは届くはずもなく、奔放に歩き始めた錦木に連れられるように歩き始めた。

 

 

 

 

 

 

 



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どう考えても錦木千束と出かけるのは間違っている。(後編)

 

 小町の問題集を買い、お求めの小説も買い、ついでに錦木に一冊買ってやったことで本日のミッションは終了し、サブミッションである”ぶらり駅前探索ミッションWith錦木”が始まった訳であるのだが、当然ながら目的地は設定されていない。

 強いて言うのであれば、ここら一帯が既に目的地であり、あてどなく彷徨い暇を潰すのが主題であった。

 直帰したいのは山々であるのだが、そうは問屋が卸さない。つーか錦木が許さない。もうね、俺の手ガッチリ握ってあっち行きたい! こっち行きたい! あそこもあそこも! てな具合でずんずか進むんだよ、こいつ。

 ぼっちは基本的に単独行動だからな、スタミナ計算等々も含めて常に最適な行動をするのだが、これが同伴者がいると何の役にも立たん。

 お陰で錦木の自由奔放な足取りに翻弄されてしまい、昼を少し過ぎたところで早々に音を上げてしまった。

 フードコートの端にある、少し大きめのテーブルに陣取って一息つく。

 

「はーい、おまちどおさまですっ!」

「お前はどこでも店員気分かよ……さんきゅ」

「いえいえ~」

 

 疲労困憊な俺とは真逆に、元気溌剌な錦木がトレーをテーブルに置きながら対面へと座る。

 トレーの上にあるのはハンバーガーとポテト、それからナゲットにジュース。それらが二つずつである。

 まあ、どこにでもあるような普通のファストフードだ。

 育ち盛りの男子高校生としては若干物足りないような気もするが、十分と言えば十分な量である。

 

「ヒッキーにはプレゼントもされちゃったし、このくらいはお安い御用だぜっ」

「そうかよ……そこ気にするくらいなら、もうちょっと俺に配慮して動いて欲しいもんだけどな」

「だぁって広いし色々あるんだよ!? 全部見ないともったいないじゃん」

「別に、今日中に見なきゃなんねぇってもんでもねぇだろ……」

 

 ぷくーっと頬を膨らませて抗議の視線を送ってくる錦木だった。それを華麗にスルーして、両手を合わせてからいただきますをする。

 そうしてモサモサと食べ始めたが、いつまで経っても錦木は、「むぅ~」という面をぶつけてきていた。

 めんどくせぇな……。

 

「来たけりゃいつでも来れる距離ではあるだろ」

「そうじゃなくってさぁ~、その、えぇっと、んぅ~」

 

 不満げな表情から一転、頬を染めたり目を逸らしたり、おもむろにポテトをつまみ出したりと忙しない。

 こいつにしては歯切れが悪い。

 珍しかったので特に言及せず、取り敢えず待ってやれば改めて身体を向けられた。

 

「ヒッキーと二人で遊ぶっていうのがさー、大切なんじゃーん……」

「そっ、そ、うか」

「うん……」

 

 何だか気まずい雰囲気になってしまい、互いに無言でトレーの上を片付ける時間が出来上がってしまった。

 やっべー、何これ超気まずいんですけど? 隣の女子に話しかけられたと思って返答したら、実はその更に隣の女子に話しかけていた時のことを思い出す。

 いや本当、その場から消え去りたくなるんだよな、あれ……。

 勝手に過去を思い出し、勝手に傷つきながらズゾゾゾッとジュースを飲みほした。

 

「……お前もそうだろうが、俺も夏休みだ。で、俺はお前と違って夏休み中、夏期講習以外じゃ特に予定は埋まってない」

「?」

「だから、まあ、何だ。買い物くらいなら付き合えるんじゃねぇの」

「!! ヒッキー! 良いの!?」

「寝てなければだけどな、あとめんどくさくなかったら」

「それは大体ダメなやつじゃん~~……でも、うへへへっ、ありがとっ」

 

 毎日メッセージ送るから! と途端に元気を露にする錦木。それだけは絶対にやめろと真顔で言うことになった。

 そんな頻繁に送られたらブロックして削除する自信しかない。

 音ゲーしてる時に通知とか来たらマジ絶許だからね? 絶対に許さないリストに名を刻むことになるだろう。

 

「ほれ、気が済んだならさっさと食べちまえ。全然残ってんだろ」

「おっ? 欲しいならあげるよ? ほらほら、あーんって」

「する訳ねぇだろ、食いもんで遊ぶな」

「そう照れずにさぁ~、良いじゃん良いじゃん」

「うぜぇ……」

 

 グイグイと押し付けられるハンバーガーを、しかし押し返すことが出来ない。単純に触れる訳にもいかないし、そもそもこいつと俺で力比べするかの如く挟んだらハンバーガーはぺっちゃんこだ。

 かなり全力で抗議の目線を送ってみせたが錦木は意にも介さず、むしろ楽し気に「美味しいですよ~? 一口どうぞ~?」なんて言って笑顔を振りまいている。

 ダメだな、こりゃ説得不可能だ。

 それに、いつまでもこんなバカップルですみたいなことをしていれば、やたらめったらと目立ってしまう。

 それは困る、ぼっちは注目されることに慣れてないんだよ。

 そういう訳でパクリと、未だに口の付けられてないところを一口いただくことにした。

 

「どうどう? 美味しいでしょ」

「何でお前が自慢げなんだよ……」

 

 その顔して良いのは店員さんだけだ……。

 高校生の身でありながら働きすぎて、いつでもどこでも店員の気持ちになれるとか言う異能を持っているのだろうか。超いらねぇな。

 つーか、そう。そうなんだよ。

 こいつ、夏休みに入ってからいつ行ってもリコリコにいるんだよな……。

 ただでさえ本当に学生やってんのか怪しいくらいだってのに。

 最早住み込みかってレベル。

 

「いやいや、流石に住み込んじゃいないよ。確かにリコリコは一泊二泊くらい、余裕で出来る場所だけど、ちゃ~んとお家がありますぅ」

「ほーん、一人暮らしか?」

「おっ、鋭いねぇ。やっぱり私の出来る女オーラを感じ取っちゃった?」

「いや、そうでもねぇとお前の自由さは許されねぇだろ……」

 

 バイトやら何やらの話だけではない。

 以前、深夜にフラッと散歩をした際、錦木と井ノ上を見かけたことがあるのだ。

 やたらと急いだ様子だった上、とんでもない速度で走っていくので声をかけることはなかったが(というか多分、そうでなくとも声はかけなかったろうが)、確かにアレは二人だった。

 まあ、そんな時間に出歩いていた俺が言えたことではないが、女子が二人で遊ぶには危ない時間じゃないだろうか、と思ったので強く記憶に残っている。

 その日は何かしらの事件に巻き込まれたりでもしてたんじゃないだろうかと不安になったものであるが、翌日リコリコに行けばケロッとした面で二人とも働いているので、杞憂だと安心したものだ。

 

「うっそ、見たの? ヒッキー……」

「や、見かけたのも一瞬だったけどな。お前ら、直ぐに曲がり角に入って行ったし。追いかけられる気しなかったしな」

「そ、そっかー、へぇ、ふぅぅ~ん?」

「おい、急に挙動不審になるのやめろよ。ちょっと怖くなってきちゃっただろ」

 

 本当に事件とかに巻き込まれてんじゃないの? あるいは伝奇小説の如く妖怪と戦っていたりとか……!?

 俺の封印した中二病が再発症してしまいかねないので、本当にやめてほしい。

 

「まー、その、なに? ちょっと知り合いの家にお泊りしててさー、その時にちょっと遊んでたってだけよ」

「ふぅん、そうか」

 

 嘘であることは顔を見ればすぐに分かったが、特段追及する気も無かったので頷いておいた。

 錦木は嘘を吐くのが下手だ。それは錦木自身が開けっ広げな性格であり、嘘とは無縁の性格だからだろう。

 そんな錦木が、それでも嘘を吐いたということは、これ以上踏み込まれたくないという証左である。

 俺も錦木も人間だ。知られたくないことの一つや二つあることだろう。

 それに、必ずしも知ることが良いことではない。人間関係は脆いものだ。たった一つ、何かを知ることで容易く崩れてしまうくらいには。

 ほとんど人間関係を築かず、外から見続けてきた俺だ。距離を取られているのを把握するのは得意だし、距離を取るのも得意である。

 踏み込むことが必要な人間関係は築かず、他人には踏み込まず、他人には踏み込ませない。これ、非陽キャ三原則な。

 道徳の授業とかで教えてあげてほしいもんだな。

 人は触れ合うことで傷も与えてしまうものなのだから。

 

「あー、難しい顔は禁止だぞ~?」

「してねぇよ、ちょっと考え事してただけだ」

「ふぅ~ん? それっ」

 

 掛け声と共にポテトが飛び込んでくる。モソモソと食えば次々と発射されるそれは、まるでポテトミサイルだ。

 自分の分くらい、自分で食えよ……と小言を零そうとすれば、不意に

 

「あれ、ヒッキー?」

 

 という声が耳朶を打った。もちろん、目の前の錦木ではない。かといって、俺をこんな独特なあだ名で呼ぶのは、俺が知る限り錦木以外では一人しかいなかった。

 視線を横へとずらす。いつもの制服ではなく、季節に合わせた女の子女の子とした服装の彼女は、由比ヶ浜結衣。

 俺が所属している奉仕部の部員。その一人であった。

 教室で良くつるんでいる連中と来たのだろう、「先行っててー」なんて告げてから、改めてこちらを見る。

 

「おう、久し振り」

「あっ、うん、ひさしぶりー……えと、そ、その子は?」

「あん?」

 

 どの子だよ、と由比ヶ浜の視線を追えば首を傾げた錦木と目が合った。

 ああ、そっか、そうだよな。

 名誉ぼっちの俺が誰かと一緒にいるだなんて、それ自体がもう異常事態だ。

 そりゃ相手が誰か気になるというものだろう。

 しかし、ここでひとつ疑問があった。

 俺と錦木の関係性とは何なのだろうか?

 客と店員──という言い方は、この場では少々不適切か。

 であれば、そうだな……。

 

「知り合い……的な何かだな、多分」

「超曖昧だ!?」

「そこは友達で良いじゃんかよ~~っ」

「ちょっ、痛い痛い! 蹴るな馬鹿!」

 

 器用に弁慶の泣き所ばっかり蹴るんじゃねぇよ。良いのか? この場で蹲って号泣するぞ?

 

「脅し方が斜め下だ!?」

「まあな、俺は常に期待を下回ることに定評がある男だからな」

「もう一発蹴ったろか~?」

 

 フォンフォォン! と足を空振る錦木だった。これ以上蹴るのはやめてね、本当に痛いから。

 コホン、と一息入れる。

 

「まあ何だ、良く行く喫茶店の店員なんだよ、こいつ。で、こっちが俺と同じ部活のやつだ」

「錦木千束でっす、よろしく~!」

「あっ、由比ヶ浜結衣です。よろしくね……?」

 

 キュッと手を握り合う美少女二人。どちらも中身が残念ではあるが、黙って見ている分には目の保養になるなと思った。

 

「そんで、今日は俺がこいつの買い物等に付き合ってるんだよ」

「ノンノン、買い物じゃなくてデート、でしょ? ヒッキー♡」

「!!?」

「うわっ、急に甘い声出すな。鳥肌が立つだろうが」

 

 ぞわわわっと悪寒が駆け抜けるのを感じて身を震わせた。ついでに錦木の足が一閃して震えが二倍速になってしまった。

 ぷるぷる、俺は悪いぼっちじゃないよぅ……。

 何なら誰かに迷惑かけるどころか視界にすら入らない為、余計な心労を背負わせないという意味では善業を成し遂げているまである。

 生きてるだけで善業を積み重ねられるぼっちは素晴らしいな。

 

「また下らないこと考えてる顔してる……」

「顔から色々読み取りすぎだろ」

 

 その内心の中まで読み取られそうで怖いんだけど。そんなことを考えながら錦木の方へと視線を移す、トレーの上はすっかり片付いていた。

 それからぐるっと頭を動かして遙か後方を見る。

 そうすれば由比ヶ浜の連れ……三浦だったり、葉山だったりが談笑しながらもこちらを見ていた。

 頃合いだろう。

 あんまり引き留めてもアレだしな。

 そう思えば不意に錦木が静かに立ち上がり、俺の手を引いた。

 

「由比ヶ浜さんの友達も待ってるみたいだし、私達も行こっか、ヒッキー」

「あ? ああ、そうだな。じゃ、またな、由比ヶ浜」

「へっ、あ、うん。またね、ヒッキー。連絡とかするから、ちゃんと返してよ!」

「おー、気が向いたらなっておい、何だ錦木……」

「んー? 意地でもデートだって認めさせてやろうかと思って」

「何だそりゃ……」

 

 暑苦しいんだけど……と腕に抱き着いてきた錦木を見る。

 ほら見ろ、由比ヶ浜とかビックリしてんじゃん。このままだと俺、通報とかされかねないよ?

 良い子だから離そうね? と説得すれば、

 

「今の千束ちゃんは悪い子なんでーす」

 

 なんて返されて終わりだった。

 カツカツテクテクとフードコートを抜けて、再びお買い物エリアへと突入する。

 どうやら駅前探索、午後の部がスタートするらしい。

 ようやく俺の腕を解放してくれた錦木が、くるりと振り返った。

 若干というか、結構しっかりしょぼくれている。

 

「ねぇ、ヒッキー。私、今日ちょっと性格悪いかも……」

「は? お前そんなもん、今に始まったことじゃねぇだろ」

 

 日常的にポコスカ叩いてくる上に、小町と結託して俺を外に誘い出してる時点で気付いて欲しかった。

 今日じゃなくて常々悪い方だっつの。

 

「まあ、何で自己嫌悪してんのか知らないけどよ、別に俺は気分悪くしてないし、由比ヶ浜だって同じだろうよ」

「そ、そう? 本当に?」

「ああ、それよりほれ、次はどこ行くんだ?」

 

 言いながらマップを見る。午前中、散々振り回されたので回っていないところはそう多くない。

 つっても、こういうところは行ったり来たりするのが楽しみ方の一つでもあるからな。

 特に女子となれば、あっちの服屋の方が良かった……いや、やっぱりあっちかも! なんてことが多いので滅茶苦茶往復する。ソースは小町。

 いや本当、何なんだろうな。

 もう少しすっぱり決めてもらえると、荷物持ちとしては有難いのだが……。

 

「んー、それじゃゲーセン! ゲーセン行こっ。クレーンゲーム、これでも結構得意なんだぁ」

「ほーん、それじゃあお手並み拝見だな」

 

 ポンポンと適当に会話しながら、エスカレーターをウィンウィンと駆使してゲーセンへと辿り着く。

 軽く見て回っていたら錦木が

 

「おぉっ! いっぬ~!」

 

 と叫んでクレーンゲーム機へと張り付いた。

 後ろから見れば大の字になってダラリとなった、何とも言えない顔をしたデカい犬のぬいぐるみが鎮座している。

 今回の標的はこいつらしい。

 不敵な笑みを浮かべた錦木が百円を投入すれば、『ドキドキするねぇ~!』とかいう腹立つ音声を吐き出しながらクレーンが稼働した。

 慣れた手付きでアームが動かされ、犬をキャッチ! すると同時にゴトンと落ちた。

 

「くぅ、強敵だぞ~」

 

 頑張れ千束アーム……! と名を与えられたアームが、再び投入された百円を元に『上手にできるかなぁ!?』なんて叫びながら動き出す。

 音声にバリエーションあるのかよ、腹立つなこの台……。

 

「ほっ、よっ……あぁ!」

 

 犬がちょっとだけズレてやはり落下する。

 負けじと百円を叩きこむ錦木だった。

 大丈夫かなぁ~!? という音声が流れる。

 

「むぅぅぅう!」

 

 慎重に、慎重に~!

 

「うぅ~~」

 

 良く狙ってぇ~!?

 

「あー、もー! 取れないじゃん! あとすっごいこれ腹立つ!」

「堪え性がなさすぎるだろ……」

 

 得意って言ってたのは何だったんだ。全然それっぽさがないじゃねぇか。

 こういうのは少しずつ動かすもんだろ。

 

「つーかお前、普通に下手だし……」

「何だとぉ~? それじゃあヒッキー、やってみなよ!」

「はぁ? まあ良いけどよ」

 

 キョロキョロ辺りを見回し、店員が見当たらないことを確認する。ちっ、店員代行ゲットシステムは使えないか……。

 となれば俺の百円を犠牲に捧げ、錦木を諦めさせるしかないだろう。何か放っておくと、取れるまで無限に金使いそうだし……。

 そういう訳でチャリンと投入。

 腹の立つ音声を聞き流しながら犬をキャッチすれば、それはそのまま出口まで連れてきてくれた。えっ、マジで?

 パンパカパーンッ! とゲットの音声が流れる。

 

「うおぉぉ~!? ヒッキーすっごーーい!」

「いや偶然だんぉ!? おい、錦木、抱き着くな……」

「へ!? あっ、ごめんごめん。興奮しすぎちゃった」

 

 へへへっ、と笑う錦木。悪げなくこういうことする辺り、本当に錦木って感じだよな。

 小さくため息を吐きながら犬のぬいぐるみを取り出す。

 

「ほれ、やるよ」

「えっ、良いの!?」

「お前の代わりにやっただけだしな。それに俺、いらないし」

「うぇっへっへ、そっかそっか。やったぁ~! ありがとっ、ヒッキー!」

「どーいたしまして」

 

 まあ、ここまで喜ばれたら取った側としても嬉しいというものだ。

 こういう時、感情を素直に発露できるのは得だなと思う。

 

「あー、でもこれじゃあ、私が貰ってばっかりだ」

「別に良いんじゃねぇの、見返りを求めてる訳じゃないからな」

「いやいや、こういうのは気持ちの問題なのだよ……そうだ! これとかどう?」

 

 言いながら、手渡してきたのは明らかに手作りです! みたいな数枚の紙ぺらだった。

 良く見れば『千束Special無料券!』と書いてある。無駄に達筆なのが腹立つな、これ……。

 因みに千束Specialってのはリコリコで出されているメニューの一つだ。やたらとカロリーが高いことに定評がある。

 

「いや、俺これ頼みたくなったことすらないんだけど……」

「うっそ、マジで!? あー、でも偏屈なヒッキーには王道すぎるメニューだったかあ」

「サラッと俺を罵倒するのはやめない?」

 

 何で俺が悪いみたいになってんの? 違うでしょう?

 

「それじゃあ今からヒッキーのプレゼント探ししよう!」

「別にいらないんだが……」

「じゃあ欲しくなりそうなのを、私が探してさしあげましょう!」

 

 片手に犬、片手に俺の手を握って錦木が元気良く歩き始める。

 もうこうなったら錦木は止まらない。

 経験則からそう答えを弾き出した俺は、晩までに帰れますようにと、いるかもしれない神様に願いながら後を追った。

 

 

 

 



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どこか井ノ上たきなは方向性がズレている。

 

 一説によれば、人間が一度の集中を継続できるのは時間にして約50分程度にすぎないらしい。

 更に言えば、この50分でさえも15分という深い集中を1分ごとの休憩を挟みながらやっているとのことである。

 つまり一時間も二時間もダラダラと続ける会議だったりというのは酷く非効率的であり、逆に中学高校の一授業50分で10分休憩という仕組みは実に理にかなったシステムなのだろう。

 大学ともなれば一つの講義につき90分にもなるので、現代の人間社会というのは大人になるにつれて加速度的に非効率的なものへと変わっていくものだということが良く分かる。

 毎日毎日際限なく残業し、身を削るように何時間も仕事に身を費やすのは、あらゆる方面から見ても好ましくないことであるのは自明の理だ。

 

 つまり何が言いたいのかって言うと働いたら負けってことである。

 ビバ・専業主夫。目指せ専業主夫。

 社会の歯車になんかなってたまるものか、と心の内で雄叫びを上げながら、英語の講義を乗り切った。

 無論、補習と言う訳ではないし、勝手に大学に侵入した訳でも無い。

 予備校というやつだ。

 高校二年生に向けての夏期講習が開催されていたので、基本的に真面目で優秀な俺も参加していたという訳だった。

 教室自体は閑散としていると言うほどでもないが、盛況というほどでもない。

 これが高校三年生向けであれば全体的にヒリついており、参加者も多かっただろうが……。

 まあ、二年生なんてこんなもんだ。

 まだ幾らか以上に余裕のある空気が漂っている。

 合計十日間用意されていた講義も本日で折り返し、今日からは英・国を中心とした講義へと移り変わる。

 

 俺の場合、私立文系コースだからな。

 理系コースであれば数学だったり科学だったりの講義を受けているのだろう、知らんけど。

 今日分の講義は終わったことだし、一番前に座っていた俺もいそいそと帰宅の準備をし始めた。

 いそいそっつーかもう、ウッキウキって感じではあるが。ぼっちは帰宅時が一番元気良いからな。

 帰宅という行為がもう素晴らしいと思うし、寄り道なんかしている時は文字通り自由を噛みしめている気分になる。

 偶然同じ講義を受けていた、同じクラスの川……川、川村? 川なんとかさん(川崎沙希(多分)。小町に這い寄る毒虫の姉。特徴はブラコンであることだ)と目が合ったので軽く会釈してから外へと出る。

 むわっと夏特有の、心地の悪い熱気が迎えてくれた。

 やっべー、ゲーセンとか寄ろうと思ってたのに帰りたい気持ちでいっぱいいっぱいになってきちゃったよ。

 俺の欲望を纏めてさらうとか、流石夏の陽気だな。

 よぅし、お兄ちゃん今日はさっさと帰っちゃうぞ! と意気揚々歩いていれば、

 

「おや、比企谷さん?」

 

 という声が背後から飛んできた。

 しかしここで動じてはいけない。

 俺は百戦錬磨のぼっち、この程度の罠に引っかかるほど愚かではない。

 俺の他に比企谷という名字のやつがいるのだろう。大体、俺のことを呼ぶやつなんて早々いないしな。

 加えて、小町と間違われることだってまずありえない。

 ここで振り返ったが最後「は? お前誰だよ」みたいな顔をされること間違いなしである。声まで出そうものなら羞恥心で自殺したくなるレベル。

 故にここでの正解はスルー。これ一択だ。

 

「ちょっと、比企谷さん?」

 

 ほら、呼ばれてるぞ、比企谷さん。

 早く返事してあげて! じゃないとあっちの子も恥ずかしくなって来ちゃうから!

 

「ひーきーがーやーさんっ!」

「っおわぁ!?」

 

 背後から両肩にドン! と勢い良く衝撃を与えられ、驚きの声を上げてしまう。

 なに? なに? 何なの!?

 何かの事件に巻き込まれちゃったりする感じ? と振り返れば見覚えのある女子がそこにいた。

 

「ッくりしたー……何だ、井ノ上かよ。驚かせんな」

「何度も呼んでいるのに無視する比企谷さんが悪いんです」

「…………」

 

 ふむ……。一理あるどころか百理しかない。反射的に理論武装を試みたが、これは劣勢だと判断して黙することにした。 

 沈黙は会話におけるリーサルウェポンだからな。因みに土下座は最終兵器である。いや最後には謝るしかなくなってんのかよ。

 

「まあ、悪かった。ティッシュ配りの人以外に外で声かけられたことないからよ」

「何というか、とても比企谷さんらしい理由ですね……」

「だろ? 何ならそれすら珍しいまであるけどな」

 

 いや本当、目の前通ってるのにあからさまに俺には渡さないのは何? 手を出したのにスルーされちゃうのかなり恥ずかしいんだけど。

 ステルスヒッキーの優秀さにも困ったもんだ。意図せず街中に溶け込んじゃうんだもんな。

 世が世なら暗殺者とかになれたこと間違いなしである。

 多分めっちゃ殺せるぞ、特に陽キャとか超血祭りにあげれると思う。見つからないから名前すら知られてない猛者枠になれるはずだ。

 生まれてくる時代を間違えた、か……。

 

「っつーか、井ノ上はこんなところで何してんだ。今日は休みか?」

「いえ、仕事です」

「? 買い出しとかってことか? こんなところまで?」

「あっ、えーと、その、アレです。そう! 依頼があったので、コーヒー豆等を配達した帰りなんです」

「へぇ、結構広範囲に対応してるんだな」

 

 ここは津田沼だ、電車だと錦糸町から大体30分くらいである。

 俺のように気が向いた際に通う程度であれば気にする程でもない時間であるが、彼女のようなバイトが仕事として担当するにはちょっと大変じゃないだろうか。

 車は乗れないし、自転車も置いてる様子もないからな、リコリコ。

 ああ、でも別に毎日って訳でも無いだろうし、良い息抜きにはなるのか?

 内勤だけだと息が詰まるとか聞いたことあるしな。

 労働者は大変だ。

 俺は改めて働かないぞ、という意志を固め直した。

 

「比企谷さんはどうしてこちらへ?」

「俺は夏期講習だよ。ほれ、あそこで講義受けてたんだ」

「佐々木ゼミナール……なるほど、そういうのもあるんですね」

「そういうのもって……」

 

 まあ、井ノ上は一つ年下だと聞いたことがある。それはつまり、彼女は高校一年生であるということだ。

 大学受験とはまだ無縁だろう。俺も一年前なんかは「受験終わったばっかりだっつーのに、今からまた受験とか考えてられるかよ」なんて思ってスルーしていたものだ。

 知らなくても無理はないし、興味がないのも仕方がないことだろう。

 

「ま、井ノ上も来年には視野に入れといた方が良いかもな」

「どうでしょうか、恐らく通うことはありませんね、私は」

「おぉ……強気だな」

 

 さぞ優秀な成績を誇っているのだろう。何というか、見ての通りといった感じではあった。

 

「というか私、大学には行きませんからね」

「ん、そうなのか」

「ええ、リコリコが私の居場所ですから」

「あ、え? なに? あそこに正社員? として内定してんのか?」

「……ぷはっ、あはははっ。正社員ですか、ふふっ」

「えぇ……」

 

 ツボったのか、声を上げて笑い続ける井ノ上だった。俺、何か変なこと言ったか?

 特段おかしなことを言ったつもりは無いんだけどな……。

 もしかしてこの子、これから先もバイトとして生きていくつもりなのかしらん……。

 

「いえ、ふふっ、ごめんなさい。その理解であってます。あそこに内定をいただいてるんです、千束もそうですよ」

「ほーん、すげぇな」

「凄い、ですか?」

「ああ、今から自分のその、何? 生き方を決めてるってのはすげぇだろ」

 

 俺も専業主夫として生きていく心持ちではあるが、流石に井ノ上とは比べ物にならない。 

 特に、どこかしらに勤めることを決めるだなんて、学生の身では少々以上の勇気が必要な決断となったことだろう。

 肝が据わっている少女であるとは思っていたが、まさかこれほどとは……と驚いてしまう。

 思わず井ノ上さんって呼んじゃいかねないレベルだった。

 っべーわ、井ノ上さん超リスペクト!

 

「そこはかとなく馬鹿にされている気がしますね……」

「きっ、きのしぇいじゃないか? そんなことするわけにゃいだろ」

 

 噛み噛みだった。訝し気な目をガンガンに井ノ上がぶつけてくる。悪かったって、俺が悪かったよ。

 コホンと井ノ上が一息入れた。

 

「まあ、良いですけれど……講習が終わったということは、比企谷さんは今暇なんですよね?」

「うん? まあ、そうだな。適当に寄り道しても良いかとは思っていたが、後は帰るだけだ」

「本日はリコリコには?」

「あー、そうだな……」

 

 全然考えてはいなかったが、その提案は結構有りだ。

 リコリコは休むには最適だし、鞄には読み止しの小説が入りっぱなしである。

 今日の内に読み切っても良いし、講習の内容を復習しても良い。

 それに、最近は錦木からの催促も鬱陶しくなってきた。

 そろそろ顔を出しても良い頃合いだろう。

 

「じゃあ、寄らせてもらうとするか」

「そうですか、それは良かったです。それでは行きましょうか」

 

 井ノ上と並んで駅へと入り、ホームで待つこと数分。

 やってきた電車に並んで揺られ、錦糸町に降り立った。

 そうしてそのままスーパーへ。井ノ上に連れられるようにして買い物を済ませた。

 いや、何で?

 

「本日は買い出しも頼まれていましたので。少量ですので、ついでで請け負ったんです」

「それならそうと先に言えよな……何か当たり前みたいに付き合っちゃったじゃねぇか」

「私は何も言わないんだなあ、と思っていましたけどね」

「じゃあ言えよ……! ったく、ほれ」

「あっ」

 

 井ノ上の持つ買い物袋を受け取れば、妙な表情を向けられた。

 驚いたような、意外だったような、そう言った方向性の顔。

 

「何だよ、今の流れは荷物持ちとして働いてくださいね、ってアピールじゃなかったのか?」

「いっ、いえ、別にそういった意図は無かったのですが……」

「あ、そうなの? じゃあ、まあ、そういう風に使ってくれ」

 

 ここで「じゃあいいや」と返すのもアレだし、どうせ向かうところは同じである。

 散々小町に荷物持ちとして扱われ、すっかりその手のプロとして精通している俺からしてみれば負担と言うほどでもない。

 とはいえ長々と持っていたくないのも事実であり、さっさと歩き始めれば、井ノ上は変わらず不思議そうな表情を浮かべていた。

 

「比企谷さんって、働きたくないと言う割には働き者ですよね。将来は立派な社会人になってるように思えます」

「おい、不穏なこと言うなよ……俺の夢は専業主夫だって言ってんだろ」

「ふふっ、似合いませんよ。比企谷さんに専業主夫は」

「急に残酷なこと言うなよな……」

 

 大体、俺だって別に好きで動いている訳じゃない。しかし悲しいかな、家族内カースト最下位である俺は、下っ端としてアレコレ勝手に動くよう、身体が躾けられているのだった。

 俺の勤労意欲はいつだってマイナスをぶち抜いているというのに……。

 

「でも比企谷さんのそういうところ、私は好ましいですよ」

「だろうな、何てったって俺の持つ数少ない、他人の役に立てるスキルだからな」

「またそういう言い方を……でも比企谷さんはそういう人ですもんね」

「あんまり含みある言い方するなよ、怯えちゃうだろ」

 

 因みに他に持っているスキルと言えば、他人に迷惑をかけないスキル等々といったものが揃っている。

 俺ってば超無害だし超有益。だから誰か早く専業主夫として雇ってくれないかな。

 あっ、平塚先生はNGで……。

 

「だから、ありがとうございます。お店についたらサービスしますよ」

「そいつは助かるな、MAXコーヒーを一つ頼む」

「うちのメニュー内でお願いします……」

「じゃあ普通のブレンドに砂糖と練乳付けてくれ」

「甘いものであれば他にもあると思うんですけど!?」

 

 MAXコーヒーに執着しすぎじゃないですか!? と叫ぶ井ノ上だった。

 とはいえ、MAXコーヒーは千葉県民のソウルドリンクだからな……気を抜いたらつい求めちゃうものなんだよ。

 

「……そんなに美味しいんですか? それ」

「何だよ、飲んだことなかったのか? やれやれ、仕方ねぇな。ほらよ」

「!!? それ常に携帯しているんですか!?」

 

 おもむろに鞄から取り出せば井ノ上がそう叫ぶ。そんな訳ねぇだろ。

 そりゃ俺だって箱買いしているくらいには愛飲しているが、肌身離さず携帯しているほど中毒になっている訳でも無い。

 先程、スーパーに寄った際につい買ってしまったのである。これからリコリコに行くって分かっていたのだが、衝動的に買っちゃったんだよな。

 千葉県民として生まれた以上これは仕方のないことである……と自分を納得させた次第だ。

 

「良いんですか……?」

「おう」

「い、いただきます」

 

 黄色と黒色で構成された缶を井ノ上が傾ける。コクリと喉を鳴らし、それから井ノ上は凄まじく苦々しい顔で俺を見た。

 おや? おかしいな。

 

「あっ、甘すぎませんか!? これではコーヒーを甘くしたというより、練乳にコーヒーが入っているようなものです!」

「良く分かってるじゃねぇか、その通りだよ」

 

 だからこそ良いんだよなあ。この甘みが疲れ切った心を癒してくれる、最高の一杯だ。

 

「つっても、好き嫌いってのはあるもんだからな。苦手なら寄越せ」

「ですが……」

「? あっ、悪い。配慮が足りてなかったな、気にするようなら捨ててくれ」

 

 あっぶねー、つい小町と話してる感覚で言っちまった。小町という妹が生まれてからこの方ずっと兄な俺である。

 年下と接する時はついついお兄ちゃんモードが出てきちゃう時があるんだよな。

 気を付けないと通報されてもおかしくなさそうである。

 

「いえ、そうではなく、一度いただいたものを返すというのは……」

「は? それこそ別に、気にすることないだろ。俺が気にしてないんだしな」

 

 それに何より、自分の好きを他人に押し付けるということが、俺はあまり好きではない。

 ていうかハッキリ言って嫌いだ。食わず嫌いという言葉があるように、一度経験すること自体は良いと思うが、それ以降ダメだと本人が判断したならそのようにさせろよと強く思う。

 トマトは無理だっつってんのに給食時に意地でも食わせようとした担任、今でも許してないからね?

 栄養があるだとか、私は美味しいと思うとか知らねーよ。

 思わずガン泣きして放課後まで残らされた記憶がフラッシュバックしてしまい、軽く眩暈がした。

 だが、だからこそ断言できる。

 

「自分にとっては苦手でも、誰かにとっては好きだったり得意だったりするもんだ。世の中は役割分担されて作られてるからな、そういうのがあったら積極的に押しつけていくべきなんだよ」

 

 なので俺は働かない。八幡、働きたい人が働けば良いと思うな。

 

「ふふっ、良いことを言っているのかどうなのか分からないですね、相変わらず。でも、そうですね。これはお返しします」

「良いのか? 別に捨てても構わんぞ」

「いえ、それは流石にもったいないですし、比企谷さんは気にしないでしょう?」

「まあな」

 

 中学時代の俺であれば三日は囚われるくらい気にしただろうが、今の俺は完全無欠、最強のぼっちである。この程度で心が揺れることはない。心を揺らすことはない。

 

「でも、決めました」

「? 何をだ」

「絶対に、そんなのよりうちのコーヒーが美味しいと言わせられるようなコーヒーを淹れてみせます……!」

 

 メラメラと立ち上がる炎を幻視させるようなやる気を見せる井ノ上。何でそうなったのかしらん……。

 方向性が迷子すぎる上に、そもそもコーヒーを淹れているのは店長なのでは……と言うのは流石に野暮か。

 今から将来的にも喫茶店に勤めることを決め打ちしているほどの人間である。

 むしろそういう気質があって当然と言っても良いのかもしれなかった。

 

「そうと決まれば早速行きましょう、比企谷さん! 今日のサービスは私からのコーヒーです!」

「えぇ……」

 

 それ本当に大丈夫? 不安だなあ……と伝える前に井ノ上は走り出す。ぽつんとそれを見送る形になった俺に、振り返った井ノ上が「早くしてくださーい!」と両手をメガホンのようにして言った。

 ……ま、こういうのも悪くないか。

 MAXコーヒーをその場で飲み干して、それから後を追う──ん? ちょっと待て。

 もしかしなくてもあいつ、MAXコーヒーをそんなの呼ばわりしなかったか?

 これは栄えある千葉県民としても、長々と語ってやらねばなるまいな……と地を蹴った。

 

 

 



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何だかんだとクルミは抜け目がない。

 

 誕生日と言えば、まあ一般的には祝われるものと言っても良いだろう。一年に一度、生まれてきてくれてありがとう、といった意を込めて祝われる行事。

 生誕したことを無条件に、周りから喜ばれる特別な日だ。

 そう考えると誕生日って最高だよな。

 無事生まれてこれたのは半分くらい母ちゃんの頑張りだってのにそれを独り占め出来る訳だし、その後は取り敢えず生きておけば必ず祝われるんだもんな。

 ひと月に一度は実施して欲しいくらい有難いイベントである──とはいえ、それをウキウキと楽しみに出来るのは幼少期の頃だけだろうが。

 あるいは陽キャの連中だけである。

 

 もうね、俺くらいのぼっちともなれば、誕生日とか新たなトラウマを刻み付けられるイベントと言っても過言ではないから。

 8月真っ只中に生まれたので、十七年間の人生で一度も家族以外に祝われたこと無いし。

 誕生日会自体、呼ばれたことも呼べたこともないし。

 クラスの連中がバースデーソング歌ってくれたと思ったら、俺と同じ誕生日だったやつ向けだったし。

 何なら親にすらバースデーケーキに書かれた名前を間違われたほどである。

 そういう訳で、今年の誕生日もまったりと家の中で過ごした。

 

 つっても、この歳にもなると親からもろくすっぽに祝われないからな、精々小町からラインが来たくらいだ。

 0時になると同時に送ってくるのだから可愛いものである。いやもう本当、俺の妹可愛すぎない?

 軽く人間国宝として登録しても良いレベルの可愛さである。とてもではないが俺の妹とは思えない。

 そりゃ両親も小町を溺愛するというものである。

 来年の小町の誕生日はそれはそれは派手に祝ってやらなくてはな……なんてことを考えながら、コーヒーを一口。

 

 珍しいことにMAXコーヒーではないし、砂糖やら練乳やらをぶち込んだコーヒーでもない。

 喫茶リコリコ看板娘が一人、井ノ上が淹れたコーヒーだった。

 あの日以来、コーヒー一杯問答無用で出されるようになったんだよな……。

 練習ということだから料金を払わなくて良いのは助かるのだが、それはそれとして砂糖とか入れようとすると睨むのはやめてください……。

 流石の俺もブルっちゃってそのまま飲んでいた。

 大してコーヒーには詳しくないので、ぶっちゃけたところ美味しいのかそうでないのか良く分からないのだが、まあその辺は店長が判断するのだろう。

 それに、詳しくないとは言えども比べることは出来る。

 店長の出すコーヒーとは確かに比べ物にならない出来ではあった。かといって、不味いのかと言われればそういうことでもないのだが。

 

 まあ、俺を練習台にして喫茶店店員としてのレベルが上がるのならそれで良い。俺に特にデメリットも無いしな。

 そんな訳で、座敷席で白熱する錦木主催のボードゲーム大会を横目に小説を閉じた。

 時刻はまだお昼過ぎ。少々喧しいものの、落ち着いた時間が流れている。

 こういう時間は嫌いじゃない。平和という言葉がぴったりあてはまって、実に落ち着く。

 まさか自分の居場所だと言えるはずもないが、それでも心地よくはあった。

 

「おー、相変わらず目を腐らせてるな、八幡」

「出し抜けに失礼なこと言うねお前……」

 

 ぴょこんっと対面の席に現れたのは金髪の幼女、クルミであった。

 先程までボードゲーム大会で大暴れしていたはずだが……。

 

「ちょっと勝ちすぎたからな、一回休みという訳だ」

「そーかよ、それで? 生憎宿題はもう無いぞ」

「何だ、八幡は夏休み初日で宿題全部終わらせるタイプか?」

「まあ、そうだな」

 

 初日でとは言わないが、早めに終わらせる方ではあるだろう。どっちにしろ、家にいるとやることないからな。

 ついでに言えば外に出てもやることが買い物か講習か、あるいは此処に来るくらいである。

 そして此処に来るのであれば、必然的に読書か宿題となるのだから、早めに終わるのも当然というものだろう。

 

「それじゃー暇だろ? 混ざらないのか? 八幡は」

「俺は良い……っつーかあれだ、誰かと一緒にやる系は向いてねぇんだよ。何せほとんどやったこと無いし、一度やったことあるが勝ちすぎてハブられた」

「そ、そうか。すまんな、失言だった」

 

 素直に謝られてしまい、こちらこそ申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。それもこれも、あの時俺を露骨にハブった道仲と須和同のせいである。

 途中から滅茶苦茶睨んでくるもんだから普通泣きそうだったし、次の日から会話すら拒絶するのは小学生の俺にはそこそこ堪えたぜ……。

 お陰で一人でやるゲームばっかり上手くなっちまったよ。一人野球とか、一人サッカーとかな。

 もうソロプレイなら全体的にプロ級と言っても過言ではない。

 

「まあそれはそれで構わない。ボクの暇潰し相手をしてくれるなら、文句はないさ」

「何でナチュラルに俺が子守役になってんだよ」

「子守だと!? ボクを何だと思ってるんだ!?」

「どう見ても幼女だろ……」

「は~? そうやって見た目で何でも判断するのは良くないぞー? はーちまーんっ」

 

 がるるるーっ、と威嚇をしてくるクルミだった。すげぇ、全然怖くない。むしろ小動物的な可愛さまで感じられるほどであった。

 思わず俺のお兄ちゃんスイッチが入っちゃいかねないレベル。

 

「ま、ちょうど本も読み切ったところだし別に良いけどよ。あっちの観戦してた方が楽しいんじゃねぇの」

「いやいや、八幡が最適なんだ。何なら八幡以外ではダメと言っても過言ではないな」

「もう不穏さしか感じねぇんだけど……」

 

 俺じゃないとダメって何だよ、ちょっと怖いだろ。

 新たなトラウマが生まれる予感すらしてちょっと身震いした。

 

「なぁに、ちょっと試させて欲しいだけだ……よっと。ほら、これ。付けてみろ」

「あん? 何だこれ……眼鏡?」

 

 渡されたケースを開ければ、縁の細い眼鏡が姿を現した。

 

「や、別に俺、目悪くないんだが。何なら視力はどっちも2.0なまである」

「安心しろ、伊達眼鏡だ」

「それ何の意味があるんだよ……」

「何って……お洒落、とか? まあ良いから、ほら、かけてみろ!」

 

 好奇心で目をキラキラさせながらクルミが押し付けてくる。

 何だってんだよ……。

 問い詰めようかとは思ったが、今何を聞いたところで「良いから、ほら、早く」としか返されない気がしたので、素直にかける。

 う~ん、うん。

 特に何か変わった感じはしないな。どこぞの小学生探偵のように、何かしらの機能がある感じでもない。

 本当にただの伊達眼鏡だ。

 これで満足なのか? と言う目で見れば、

 

「おぉ……」

 

 と感嘆の息を漏らすクルミがそこにいた。何が何をもってそのような反応を引き出しているのかさっぱり分からず、首を傾げる。

 

「何だよ、そんなに似合ってないか?」

「逆だ、逆。八幡、そこそこ似合うじゃないか。腐った目とか、結構まともに見えるぞ!」

「マジで?」

 

 眼鏡すげーな、人の目を浄化する能力とかついてんのかよ。

 ちょっと鏡とか欲しいなと思えば、パシャパシャとクルミに写真を撮られる。

 そういうことするなら先に言おうね? 今めっちゃ間抜けな顔しちゃってたから。

 

「うんうん、似合う似合う。ボクの見立て通りだな」

「そーかよ……で、満足か?」

「ああ!」

「じゃ、返すわ」

 

 言いながら眼鏡を外す。けれどもそれより先に、クルミにその手を止められた。

 クルミが俺を見て、ニヤリと笑う。

 

「いいや、いらない。それはボクからのプレゼントだ、八幡」

「はぁ? プレゼント?」

「誕生日、八月だろ? 結構過ぎたが、まあ今月内だしセーフだろ」

「……お前って、そういう風に人を気遣えるやつだったんだな」

「八幡はボクを何だと思ってるんだ!?」

 

 これでも立派な大人だーっ! と実に子供らしく訴えてくるクルミだった。

 懐かしいなあ、小町も小学生の時似たようなことで駄々をこねていたもんだ。

 俺は駄々をこねるタイミングを逃したが、小学生というのは誰でもこういう道を辿るものなのかもしれないな。

 

「まあ、何だ。ありがとな」

「最初からそう言えば良いんだ。そんなんだから、捻デレとか言われるんだぞ?」

「おい、それどこで聞いたんだよ……」

「ふっふっふっ」

 

 怪しげな笑みを浮かべるクルミ。普通にちょっと怖かった。

 これがフィクションだったら盗聴器とか仕掛けられてるんじゃないかと不安になるレベル。

 ……だ、大丈夫だよね? そんな法に触れるようなことはしてないよね? ねっ?

 

「ボクの前じゃどんな隠し事も出来ないってことだ」

「いやこえーな……将来探偵とか向いてんじゃねぇの」

「探偵かぁ、それも良いな。もしそうなることがあったら、助手として雇ってやろうか?」

「はっ、何があろうと俺に働く気はねぇよ」

 

 初志貫徹と言うように、働きたくないをモットーに生きていくのが俺の初志である。

 生涯大切に貫いてやるからな、俺の初志……。

 しかし、誕生日プレゼントか。

 まさかこの歳になって貰うことがあるとはな。

 純粋に嬉しい──と、思って良いだろう。多分。

 裏がありそうな幼女ではあるが、これに裏があるとも思えないし。

 

「ん、まあ、大切にするわ」

「そうしてやってくれ」

「お前も誕生日が近くなったら教えろよ、俺に出来る範囲でならなんか奢ってやる」

「ほんとかっ!? 実はボクも今日誕生日なんだよ、いやぁ、助かったな~!」

「絶対嘘だろお前……」

 

 何早速集ろうとしてんだ。早くも有難い気持ちが抜け落ちてきちゃったんだけど?

 もうちょっとくらいは噛みしめさせろよ……。

 これはやはり、一度俺の手でわからせてやらねばなるまいか……と思案していた、その時である。

 

「比企谷さ……ん? です、よね……? あれ? やっぱり違う?」

「えっ、何? 突然俺の顔の記憶だけ記憶喪失しちゃった感じ?」

「その声……! やはり比企谷さんですか。いえ、目が腐ってなかったので」

「お前、俺のこと目で判別してたのかよ……」

 

 至極ストレートに失礼な井ノ上だった。

 誰にでも言われるので流石の俺も、特徴の一つであるという自負はしていたのだが……。

 眼鏡かけてるだけでこんな言われるとは思わないだろ。

 最早迷彩服並みの効果発揮してんぞ、この眼鏡。

 

「目、悪かったのですか?」

「んにゃ、貰ったんだよ。クルミに」

「そう、ボクがくれてやったんだ」

「クルミが、ですか?」

「すげぇ訝し気な目するなお前……。誕生日プレゼントなんだとよ、ついでにこれは伊達眼鏡だ」

「誕生日? 誰のですか?」

「そりゃ俺だろ」

「っ!?」

 

 露骨にびっくりした様子の井ノ上が、数秒思案した後にピューンッと走り去った。

 

「……えっ、何? 俺の誕生日って人避けみたいな効果があったりするのか?」

「まさか、逆だろ。良く見てみろ~?」

 

 ニヤニヤ笑うクルミに誘導されるように視線をズラせば、見慣れた金髪頭が物凄い勢いでやってきた。

 

「ヒッキー誕生日な──うぇぇえええぇぇ!? 何その眼鏡!?」

「うるせぇな……」

 

 超大音量の一声に耳がキーン……と虚しい悲鳴を上げる。

 店中の客がざわざわっとこちらを見るので、何だかむずがゆかった。もう帰らせてくんねぇかな……。

 

「ふむ……」

「急に静かになるなよ、何? 音量調整下手くそなの? 壊れたスピーカーか何かなの?」

「良いねぇ、似合うじゃん! ヒッキー、かっこいいぞー?」

「……喧しい」

「あははっ、照れてる照れてる~」

 

 ほれほれ~、もっと良く見せてみ~? と頬を突いてくる錦木だった。

 こ、この野郎……。

 思わず眼鏡を外せば、「えー」とクルミからブーイングが上がる。知るか、これ以上揶揄われてたまるか。

 丁寧にケースに戻せば、またもや錦木がニヨニヨとした笑みを向けてきた。

 

「うん、うん。いつものヒッキーもやっぱり、結構イケてるよ」

「まあな、俺は基本的に高スペックな男だからな」

「そういうところが無ければもっと高得点なんだけどなぁ。あと目が腐ってなきゃ」

「うるせ、腐ってんのは俺のせいじゃねぇよ」

 

 ついでに言えば捻くれてもいない。周りが歪んでるからそう見えるだけである。

 そんな中で一人孤独に自分を真っ直ぐ貫く俺とか超カッコイイ。代償として目が腐るのは超かっこ悪い……。

 

「でも、誕生日かあ。そういうことは先に言っておくのがマナーじゃないかね? ヒッキーくん」

「一々言うほどのことでもないだろ」

「そんなことありませんーっ。むしろ自らアピールしても良いくらいだよ、ねっ、たーきな?」

「……まあ、そうですね。8月というのなら、夏休みは始まってますし、言ってくださればサービスしましたのに」

「サービスならもうしてもらってるだろ、ほれ」

 

 空になったカップを見せれば、「それはまた別です」とピシャリと言い返される俺だった。

 いや、でもなあ。

 これ以上サービスされても、遠慮が先立ってしまうというものだった。

 そもそも、そういうのを求めて来てる訳じゃないからな。

 

「それにあれだ、祝われたら祝い返さなきゃならないだろ。俺、お前らの誕生日とか知らないし」

「そんなの言ってくれれば幾らでも教えるよぉ~」

「ついでに言えば、そういう仲でもないだろ」

 

 客と店員。ちょっと色々あったが、やはりこの関係性が一番だ。

 踏み込みすぎず、踏み込ませ過ぎず。適度な距離感は維持されて然るべきだ。

 あまりにも近寄り過ぎると、期待してしまうし、期待させてしまうから。

 失望はしたくないし、されたくもない。

 

「まーたそういうこと言って、ヒッキーは面倒臭いなあ」

 

 そう言って、少しだけ微笑んだ錦木に両頬を挟まれた。

 

あにふんだよ(なにすんだよ)……」

「私はもう、ヒッキーとは友達のつもりだよ。それはきっと、たきなもクルミもそうなんじゃない?」

 

 ね? と振り返れば、たきなが「ふむ」と頷いた。

 

「そうですね。ただの知り合いというよりは、もう少しだけ親しくしてくださっている気はします。それは言葉にするのなら、やはり友人となるのではないでしょうか?」

「ボクはどっちでも良いけどなー。でも、プレゼントまで用意してやったんだ、ただの知り合いって言うには、ちょっと足りないんじゃないか?」

「だってさ、ヒッキー。どう?」

 

 慈愛に満ちた緋色の瞳が、鋭く俺を捉える。

 心臓は嫌に激しく打っていた、背中には冷や汗が流れている。

 友達……友達って何なんだろうな。

 放課後良く話す人間をそう呼ぶのだろうか、あるいは良く遊ぶ相手? 毎日連絡を取り合っていれば、それは友人と言えるのだろうか。

 互いの合意を以てなるものなのだろうか、それとも、他方の思い込みだけでそうなるものなのだろうか。

 分からない。これまで友人の一人なんて出来たこともない俺に、そんな問いは難解過ぎた。

 

「……なんてね、ヒッキーが素直に答えられないのは知っている千束ちゃんなのでした!」

「お、お前な」

「でもね、ヒッキー。いつかは答えて欲しいかな」

「……悪いな」

「いーんだよ、それがヒッキーだし! あー、でもでもぉ、代わりに誕生日は祝わせてもらっちゃおっかな~!」

 

 誕生日パーティーやろうぜ~! と宣言してからキッチンの方へと走っていく錦木だった。

 ぼんやりと眺めていれば、不意に目が合った井ノ上が小さく笑い、それから彼女も錦木の後を追った。

 

「甘えたな、千束の優しさに」

「まあな、俺は甘えるのだけは得意なんだ。何なら社会にだって甘える姿勢を貫くレベル」

「次は、そういう馬鹿な言葉で躱すなよ」

「……分かってるよ」

 

 ぶっきらぼうに言えば、どこか大人らしく笑うクルミだった。

 ──そうだ、考えなければならない。

 人と人との関係は、紡ぐのがやたらと難しいくせに、ほんのちょっとしたことですぐに罅が入る。

 ほんの少しの行き違いで、ちょっとだけ歪んでしまっただけで、大いに影響が出てしまうほどには繊細だ。

 だから、慎重になった。慎重になり過ぎたのかもしれない。でも、それくらいがちょうど良い。

 それはきっと、彼女ら以外についても言えるのだろう。

 けれども軽々にラベリング出来るほど俺は器用じゃないから……器用には、なりたくないから。

 待たせ過ぎることにはなってしまうかもしれないが、ゆっくりと、時間をかけて。

 いつか答えを出そうと、そう思った。

 

 

 

 

 

 

 キッチンへと飛び込んできた千束が、壁に背を預けて片手で顔を隠している。

 何をやっているんだ、と喫茶リコリコの店長であるミカは声をかけようとしたが、それより先に千束が口を開いた。

 

「あー、もう、本当にヒッキーは面倒臭いなあ。卑屈だし、捻くれてるし、頑固だし、自己卑下が多いし、すーぐ自己完結するし、面倒臭い!」

「面倒臭いが二個出てないか」

「だぁって本当に面倒臭いんだよ? ……でも、そういうところが、全部気になるんだ。ね、先生。これってどういうことだと思う?」

「……さてな。千束が自分で見つけて、自分で名前を付けてやれば良い。それがきっと、正解だ」

「難しいこと言うなあ」

 

 千束は思う。

 ようやっと一歩踏み出せた。今までも頑なに距離を保とうとし続けた彼に、やっと一歩踏み込めたのだと。

 それが何よりも嬉しくて、同時に何よりも怖い。

 機械の心臓は鼓動を打たないのに、もうずっと心臓は高鳴っているようだった。

 誰かと関わり始めてこんな気持ちになるのは初めてだった。

 だから、千束には分からない。

 自分は彼と友人になりたいのか、あるいはそうではないのかが。

 きっと、昔は友人になりたかったはずなのに。

 それでは足りないような気がするのは、何故なのだろう。

 答えは出ない。誰も教えてはくれない。

 けれどもきっと、いつか彼が答えを出す時には。

 自分も答えを出そうと、そう思った。

 

 

 

 

 




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やはり彼と彼女は移ろう季節の中にいる。

 

 8月が終わりを告げて、9月がやってくる。あれほど傍にいて、俺を優しく包んでくれていた夏休みという名の長期休暇は過ぎ去ってしまい、いつも通りの学生らしい日々が戻ってきた。

 少しだけ肌寒くなった外を歩くと、あれほど鬱陶しかった蒸し暑さにも少しだけ懐かしく、感慨深さを感じるというものである。

 終わったんだなあ、夏……。

 そして儚く短い秋とご対面という訳だ。いやね、四季とか言うくせに秋だけいつも短すぎじゃない?

 温暖化の煽りを受けているのか急に夏に戻ったりするし、かといって油断していたらいつの間にか冬になっている。

 秋とはそういう、移ろう季節だ。

 他の季節と比べて肩が狭いことだろう。

 とはいえそんな秋も、人間様にとっては愛されやすい季節である。羽虫は減るし、過ごしやすい季節になるからな。

 読書の秋だったり、食欲の秋だったりと色々と都合のいい女ばりに使われる季節とも言える。

 しかし悲しいかな、俺は総武高校の学生であり、総武高校の秋と言えば即ち、『文化祭の秋』であるのだった。

 

「それで、ヒッキーはめでたく実行委員に選ばれちゃった訳だ!」

「全然めでたくねぇ……むしろいたわしいんだよ」

 

 何なら惨たらしい仕打ちを受けていると言っても良いレベル。信じられますか? 俺がちょっと保健室で休んでる間に勝手に決められてたんですよ?

 確かにテキトーな役職で良いとは言ったが、それはこう……もうちょっとどうでも良いような役職であるべきで、文化祭実行委員なんて大役はもっと出来るやつがやるべきだろう。

 よりにもよって何故俺なのか……。決めたのが平塚先生だからですね、はい。分かります。

 

 まあ文化祭ってのは基本的にクラスで準備をしていた方が楽しいと感じる連中の方が多い。時間ギリギリまで決まらず、仕方なく俺をぶち込んだという事情であった。

 席を外して任せていた以上、文句を言える訳も無い。

 とはいえ愚痴くらいは言いたくなるというもので。

 これからは暫く来れないであろうことも加味して寄った喫茶リコリコで、これまたいつものように絡んできた錦木とダラダラ会話しているのであった。

 いや仕事しろよ──などという小言はもう今更である。今は俺以外の客といえば、熱心にキーボードを叩いてる人と、熱心に漫画を描いている大人の二人くらいだしな。

 

「ていうか、それならヒッキー忙しいんじゃないの? 大丈夫? もしかして……サボり!? だとしたら許さないぞぉ~?」

「何でお前が許さねぇんだよ……俺の役職は記録雑務だからな、現段階じゃあんまりやることがねぇんだよ」

 

 今のところ判明している作業と言えば、文化祭当日に各出し物の様子だったりを写真に撮るくらいなもので、それ以外の作業が無い。

 お陰で役割分担の時とか積極性の墓場みたいになっており、自己紹介時ですら沈黙が大半を占めていたレベル。

 まあ、それも副委員長に就任することとなった雪ノ下により、多大な作業が振られることが予想されるのだが……。

 どうして俺ってばこう、意図せず社畜の道を進んじゃうのかしら……。

 

「ただまあ、そういう訳だから、今月は此処に来るのはこれが最後だろうな」

「うっそ、そんなに忙しいものなの?」

「ま、良くも悪くも一大イベントだからな──っつーか、お前のところもそうだったんじゃねぇの」

「えっ? うーん、確かにそうだった……かも?」

「何で疑問形なんだよ……」

 

 それともあれか? 楽しいって気持ちが先行しすぎて忙しいとか感じたことがないタイプなのか?

 確かに錦木は絵に描いたような陽キャであるので、そうだと言われても納得ものではあるのだが……。

 ま、この辺は学校にも寄るか。

 盛大にやるところと、大人しめにやるところがあるものだ。

 大体の場合において、生徒数に左右されがちなところがある気はするが。

 

 その点で見れば、まあ総武高校の文化祭というのはそれなりに派手なものであるのだろう。

 学内だけでなく、有志なんかも募集して地域を丸ごと巻き込んでる訳だしな。

 生憎どれほどの盛り上がりになるのかは、俺は良く知らないのだが……去年の文化祭とか教室の隅っこにいただけだからな、俺。

 退屈だなーとか思ってた記憶しか残ってない。

 

「……その有志ってさ、私たちみたいな部外者でも出られるものなの?」

「は? ああ、まあ……出られなくはない、のか? つっても、完全な部外者ってのは無理だな。PTAだとか、OBOGだったりだとか、そういう繋がり限定だ」

「そっかぁ~、そうだよねぇ……」

「何ガッカリしてんだよ、ちゃっかりうちの文化祭に参加する画策してんじゃねぇ」

「えぇ~、だぁってさぁ、文化祭だよ!?」

「理由になってないんですけど……」

 

 自分の学校ではっちゃけろよ、何で人の文化祭を隅から隅まで楽しみつくそうとしてんだ。

 楽しめそうなところを発見したら一目散に駆け付けるような女であることはもう理解しているが、流石に節操がなさすぎるだろ……。

 そのパッションをもうちょっと自校に向けてやったら良いんじゃないのかな、と思った。

 井ノ上もそうなんだが、どうにもこいつら自分の学校があんまり好きじゃない……というか、興味がないっぽいんだよな。

 俺みたいなぼっちでもあるまいし、もっと楽しんでも良さそうなものである。

 

「ま、そんなに来たいなら一般客で来い。二日目から一般公開だ」

「本当!? 良いの!?」

「良いっつーか、好きにしろって話だ。うちは招待チケットとかいらないから、自由に出入りできるんだよ」

「ぃやったー! ね、ね、ヒッキーのクラスは何やるの?」

「『ミュージカル 星の王子さま』だ」

「なんて?」

 

 聞き間違えたかもしれない、みたいな顔をする錦木だった。残念ながら聞き間違いではないんだよなあ。

 因みに脚本自体も原作をかなり曲解したものとなっており、大分こう……腐女子寄りのものとなっていた。そうだね、概要を作ったのが海老名さん(葉山グループの一人であり、由比ヶ浜の友人。特徴は腐女子であり、頻繁に俺と葉山を脳内カップリングしている変人なことである)だからだね。

 

「星の王子さまを題材としたミュージカル……ってよりは演劇をやるんだよ」

「へぇ、ヒッキーは誰の役やるの?」

「いや、俺は出ない。言ったろ、実行委員だって」

「あぁ~、ざんねぇん。ヒッキーが舞台に立つところ見たかったのになあ」

「俺が出たところで盛り上がるもんでもねぇからな、良いんだよ」

 

 むしろこれについては、実行委員で良かったと思ったほどである。その代わりに戸塚(クラスメイトの一人。本名は戸塚彩加であり、何度見ても同じ男性かと疑ってしまうほど可愛らしい次期テニス部部長である。多分別の世界線じゃ大天使トツカエルとか呼ばれているくらいには可愛いと俺の中で評判だ)が、『王子様役』となってしまったのだが……。

 『ぼく役』が葉山であるので、そこはかとない寝取られ感を感じる俺であった。

 

「寝取られって……ヒッキーって本当、その戸塚って人のこと好きだよね」

「ば、ばばばばばばっかお前、戸塚なんてじぇんっじぇ、全然好きじゃないが!? ちょっと見かけたら声かけたくなったり、遊びに誘われたウキウキで夜寝れなくなっちゃうくらいなんだが!?」

「それもうガチ恋なやつじゃん!?」

 

 おっしゃる通りだった。何なら夏休み中、遊びに誘われた時とか楽しみすぎて三時間くらい早く待ち合わせ場所に着いちゃったからね。

 今年の夏、一番楽しかった日と言えば間違いなくあの日になることだろう。

 まあ、途中から材……財津くん? に乱入されてしまったのだが。

 それも込みで悪くない思い出だ。

 

「ちょいちょい、私との思い出は~?」

「あ? あー、まあ、それも悪くなかったんじゃねぇの。ぶっちゃけ、歩き疲れた記憶しか残ってないけど」

「ヒッキーが体力なさすぎなんだよぉ~……あっ、これからちょっと散歩とかしない? 良いでしょ!?」

「嫌に決まってんだろ」

 

 良い要素が欠片たりとも存在していなかった。だから俺はここに休みに来てるんだって言ってんだろ。

 何で再び出かけなきゃならねぇんだ。

 

「えぇ~、良いじゃんかよ~。ケチぃ」

「あのだな、大体お前仕事中だろ……」

「それは良いのー、今はお客さんもこの通りだし、暫く暇だし。それにヒッキーは暫く来れないんでしょ?」

「まあ、そりゃそうだが……」

 

 良いんですか? と目配せすれば、ニコリと笑う店長だった。

 この人本当、錦木の自由さを全部許容してんな……。

 親馬鹿ならず、店長馬鹿とでも言うべきなのだろか。

 他にも井ノ上やクルミやら、中原さんの方にも視線をやるが、特段こちらを気にすらしていなかった。嘘、中原さんだけ

 

『店でイチャついてんじゃねーよ!』

 

 とでも言いたげに恐ろしい睨みを利かしてきていた。

 こ、こえー……。

 思わず「ごごごごごめんなさい!」と俺が謝りそうになっちゃったんだけど。

 別にイチャついてないし、俺が困らされてるだけなんだけどな。

 これ以上ここでウダウダと言い合っていたら、それこそ物理的に襲われそうなものである。

 ま、何事も諦めが肝心だな。まだ少しだけ余っていたコーヒーをグイッと煽り、それから話しかけられる前まで読んでいた小説を鞄に仕舞う。

 

「じゃ、会計頼むわ」

「えっ、帰るの?」

「は? そうじゃなくて、付き合うっつってんだ。会計もせずに出る訳にはいかねーだろ」

「! さっすがヒッキー! ここは私の奢りで良い……ぜっ」

「結構だ、俺は養われる気はあっても施しを受けるつもりはねーからな」

 

 それに、そもそも今日頼んだのはコーヒー二杯だけである。その内一杯がいつも通りのサービスなので、実質一杯分だ。

 奢られるほどの金額でもない。

 ちゃっちゃと会計を済ませて店外へと出れば、素早く着替えてきた錦木が姿を現した。

 

「へへっ、お待たせ」

「特に待ってない。で、どこに行くとか決まってんのか?」

「んーん、ノープラン! でも歩いてるだけで楽しいし、放課後にぶらつきながら買い食いなんて、学生の特権だと思わない?」

「それもそうか」

 

 言って、のんびりと二人並んで歩き始める。

 夏と比べて日の沈みは随分と早くなっていて、既に空は紅く染まっていた。

 秋の色だ、と思う。

 夏と冬に挟まれ、いつの間にか来ており、いつの間にか去ってしまう秋が、俺は嫌いじゃない。

 だからこの、秋の訪れを感じさせる静かな肌寒さも割と気に入っていた。 

 

「すっかり秋だねぇ」

「だな、これからもっと寒くなるのかと思えば憂鬱だ」

「そーやってすぐネガティブな思考の仕方するぅ~、もっと前向きに考えてみないっ?」

「前向きつったってなあ」

 

 今のところ、直近であるイベントと言えば文化祭とか言う退屈な祭であり、その先にあるのは修学旅行だ。

 参ったな、あまりワクワクしてこない。

 

「ヒッキーって旅行嫌いなんだっけ?」

「いや、そういう訳じゃねぇよ。むしろ知らん場所に行くのは好きなまである。ただな、集団行動ってのが嫌なんだ」

「あー……ヒッキーの場合、グループじゃなくてグループ+1みたいになるもんねぇ」

「そういうこった」

 

 修学旅行の班というのは、大体が仲良しこよしな連中で組むものだ。しかしどこだってピッタリ班として成り立つ数でグループを組んでいる訳ではない。

 必然、俺のような異物が押し込まれる班が出来上がる訳であり、そこで微妙な気遣いだったりが発生するのである。

 で、それすらも無くなると今度は俺の存在がないかのように計画等が立てられ、そのまま出発……といった風になる。

 別にそれ自体に不満はない。だが、それが楽しいかと言われればそりゃ答えはノーだ。

 出来るのならば単独行動……いやいっそ一人旅にさせて欲しいまであった。

 

「それじゃあ今度、私と旅行に行っちゃう!?」

「何でそうなんだよ、話聞いてた? 一人旅が良いっつってんだけど……」

「だってさぁ、それってちょっと寂しくない? というか、私が寂しいよ」

「お前今無茶苦茶な主張してるんだけど自覚ある? ねぇ……」

 

 呆れた声を出す俺に、「分かってませんなあ」とでも言いたげに肩をすくめる錦木だった。何だこいつ腹立つな……。

 

「だぁって、ヒッキーに旅行行ってきたぜーって事後報告なんてされたら、私だって行きたくなるに決まってるでしょ!?」

「事後報告しなきゃ済みそうだな」

「それはダメっ。だからそう、私が一緒に行くことで解決な訳だよ。どう? 天才的だろ」

「天才的っつーか、ただの自己中だそりゃ……」

 

 ただ、まあ。下手にうるさい高校生と一緒に行くよりかはマシではあるかなと思った。

 錦木はやたらと明るく喧しいやつではあるが、空気は読めるし上手いこと人に気を遣える人間だ。

 一人で浸ってる時に邪魔をされることもないだろう。

 

「ま、錦木と行くくらいなら小町と行くけどな」

「出たよブラコン……そんなんだから、ごみいちゃんとか言われちゃうんだぞー?」

「ぐっ、痛いところ突きやがって……!」

 

 良いんだよ、あれは愛情の裏返しだから……だ、だよね? 小町ちゃん、そうですよね?

 

「何ちょっと不安になってんの……」

「うるせ、千葉の兄妹に死角はないんだよ。ついでに旅行はリコリコのメンバーで行け」

「おっ、名案だ! ヒッキーも一緒に来てくれれば完璧っ!」

「いやだから……」

 

 俺は一人で行きたいんだっつの、という言葉を呑み込んでしまったのは、きっと隣に並ぶ彼女が実に楽しそうだったからなのだろう。

 何の変哲もない、どこにでもあるような道だ。

 すれ違う人もいれば、同じ方向に歩む人だっている。

 特別なことは何一つない。そう見える予兆も前触れもなかった。

 だというのに、その瞬間俺の目には、錦木千束という少女が特別に見えてしまった。

 夕陽に照らし出された、普通の街中で。

 俺の隣で今笑う少女はきっと、最期までそう笑っているのだろうと、何となくそう思ってしまうほどには。

 ピタリと、身体も精神も止まってしまった──こういうのを、見惚れてしまったと言うのだろうか。

 

「おーい、ヒッキーどした? 生きてる? あっ、それとも何? この千束様に見惚れちゃったか~?」

「……ま、そうだな」

「へぇっ!?」

 

 素っ頓狂な声を上げた錦木を置いていくように、歩を少し早めた。

 はー、やれやれ。秋だってのに暑いな。

 緩やかに吹く秋風が、ちょうど良く色々と冷やしてくれる。

 やっぱり秋って最高だわ。

 クールダウンをしていれば、少しだけ走ったらしい錦木が隣に戻ってきた。

 少しだけ頬を染めた錦木は、少しだけ俺を睨んだのちに、「ふぅ」と笑うように息を吐く。

 

「私、秋って結構好きかも。だって、理由が作れるから」

「理由?」

「うん──ね、ヒッキー。私、手が冷えちゃったなー」

 

 こちらを見ずに、片手だけ差し出す錦木。それを数秒眺めてから、ふいと視線を逸らした。

 同時に、その手を取る。

 

「……寒くなってきたからな。次からは手袋なりしろよ」

「えへへ……うんっ」

 

 喜色に満ちた返事をした錦木が、強く握り返してくる。

 ……前言撤回。

 寒くなるってのも、悪くないもんだな。

 

 

 

 



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このようにして彼と彼女らはフェスティバる。

 

 やってもやってもなくならないものってなーんだ。

 仕事。

 あれから喫茶リコリコに顔を出すことがなくなった俺は、それはそれは社畜のモデルとして雑誌に乗れるんじゃねぇかってくらい模範的に文化祭準備を粛々と進めていた。

 まあ、色々とイレギュラーであったり、ごたごたがあったりしたのだが……。

 具体的には実行委員が途中からほぼ全員不参加になったり。

 実質委員長と化していた副委員長の雪ノ下が風邪でダウンしたり。

 どこぞの誰かさんが文化祭のスローガンで素晴らしい提案をして全員のやる気に点火しちゃったりな。

 まあ、点火しちゃったのは俺への嫌悪だけであり、それが勢い余って仕事にも注がれるようになったと言った方が正解であるのだが……。

 

 やれやれ、人気者ってのも大変だな。

 この調子でドンドン俺から仕事を奪って行って欲しいのだが、残念ながら俺の元には未だに大量のタスクが残されているのであった。

 お陰であれれー、おかしいよー? と俺の脳内に住んでる少年探偵も首を傾げちゃってるんだけど……。

 かと言って、与えられた仕事を放棄する訳にもいかない。

 ふふっ、社畜って逆らわないから社畜って言うんですよ。

 そんなことをつらつらと考えながら議事録等を作成していく、これも元は三年の作業だったはずなんだけどなぁ。

 いつの間にか俺の仕事になっていたので「ほげぇぇぇ!? 俺の仕事増えちゃってますよ! 何ですかこれは!?」と内心で絶叫したものである。

 

「雑務、目を加速度的に腐らせる暇があるのなら作業に集中しなさい」

「いや、してるしてる。超手ぇ動いてんだろ。良く見ろ」

「手は動いていても集中できてないでしょう……ほら、誤字ばっかり。それとも人里に降りてきたばかりで文字が分からなかったかしら?」

「ちょっと? 俺を村に降りてきた山中の妖怪みたいな風に言うのやめようね?」

「誰もそこまで言っていないでしょう、引き窓覗きが谷」

「言ってる言ってる、超妖怪扱いしてんじゃねぇか」

 

 引き窓覗き、屋根上から窓に手をかけて覗いてくるだけの妖怪。一応な。

 雪ノ下、ちょっと妖怪に詳しすぎんだろ。妖怪ウォッチでも見てたのか? その内ようかい体操とか踊り出しそうで怖いんだけど。

 よーでるよーでるつってな。

 何でも妖怪のせいに出来るってのはセールスポイントだと今でも思っている。

 

 そう! 俺が中学時代フラれたのも、俺がぼっちなのも、全ては妖怪のせいなのです! なんつってな。

 何でもかんでも妖怪のせいにされちゃ、妖怪もたまったものではないだろう……ハッ! つい妖怪側で物事考えちゃったじゃねぇか。

 許すまじ雪ノ下。

 がるるるーっと威嚇すれば、雪ノ下から帰ってきたのは絶対零度の目線だけだった。俺のビーストソウルもこれには冷え冷えである。

 

「それで、今は何をしているところだったのかしら」

「議事録の作成だ……スローガン変更の通達メールはこの後送る」

「そう……ではついでに、企画申請書類もサーバーにアップしておいて。PDFでお願いするわね」

「何でシレッと仕事増やしてんだよ……。しかも全然ついでじゃないし、せめて関連してる作業にしろよ……」

「あら? 比企谷君、貴方の役職名は何だったかしら?」

「あ? 記録雑務だろ」

「そう、雑務よ。雑務とは『こまごました種々の事務』であるのだから、事務関係は全て貴方の仕事とも言えると思うのだけれども?」

 

 おい、こいつ滅茶苦茶こと言い出したぞ。雑務の二文字にあらゆる意味が収束され過ぎてるだろ。

 これじゃあ何でも出来る万能スーパーマンになっちまうぞ。いや、事実それが、以前までの雪ノ下の状態と言えばそれはそうであるのだが……。

 それとこれとでは話が別だ。

 

 これもう俺にとにかく仕事を任せたいだけなんじゃないの? ねぇ……。

 明らかに別の席でダラダラPCの相手をしている先輩方を使った方が良いと思いました、まる。

 ま、俺の方から仕事振れば良いだろ。今の記録雑務とりまとめ、実質俺みたいになってるからな……。

 

「もちろん、今日中にお願いね」

「ハードル高すぎんだろ……」

 

 これが社会に出たら度々遭遇するという鬼上司とかいうやつなのだろうか。

 こんなのがあちこちにいるとなったらもう、本気で社会には出たくなくなってきた。

 やはり専業主夫こそが望ましい。

 しかし、それもダメとなったら……そうだな。

 俺もリコリコに雇ってもらうか。厨房担当で──なんて、本気で思ってもいない妄想を広げながら画面と向き合い直す。

 

 文化祭が始まるまで、もうそう日が遠くない。

 祭囃子ならそろそろ聞こえてくる頃合いだ。

 特段俺は、文化祭自体に入れ込んでいる訳ではない。実行委員会なんて、自業自得とは言え針の筵みたいなものだ。

 けれども、それだけではない。

 だからまあ、成功するように最後まで最善を尽くすのが俺の仕事なのだろう。

 ……それに、知り合いも来るらしいからな。

 半端な出来の文化祭を見せるのも、心苦しいというものだ。

 

 

 

 

 

 そんな訳で迎えた文化祭。その二日目。

 一日目は一般公開していなかったので、どことなくリハーサル感があったというか、内輪ノリのような雰囲気であったのだが、二日目ともなれば学生教師どちらとも気合の入り方が違う。

 かく言う俺も、一日目はほとんど──どころか全く手伝えてなかったクラスの出し物の受け付けとして、のんべんだらりと時間を潰していたほどであるが、今日ばかりは文化祭実行委員の腕章をつけ、カメラ片手に校内を練り歩いていた。

 うん、そうだね。仕事だね。

 本来であれば唯一と言って良いはずだった記録雑務の仕事、つまりは写真撮影である。

 パシャパシャと各クラスの出し物であったり、騒ぎ騒いで盛り上がっている様子だったりを記録に残す業務。

 

 皆々が祭に浮かれる中、一人業務を遂行する様は立派な社畜である。やだなー。

 しかもこれ、腕章を強調しておかないとカメラを向けた瞬間「あの、ちょと撮影は……」とか言われるので、明らかに俺に向いていない業務だった。

 シンプルに傷ついちゃうんだけど……。

 そこはかとない哀愁を漂わせながらノロノロと校舎内を練り歩いていれば、

 

「待っていましたよ、比企谷さん」

 

 待たれていた。

 実に見覚えがあるというか、流石に見慣れたというか、何というか。

 喫茶リコリコの看板娘が一人、井ノ上たきなである。

 どっちかって言うと俺の方が待っていた側だと思うんだけどな。

 まあ、どっちでも良いか。

 

「おう、来てたのか」

「ええ、比企谷さんに招待されましたので」

「別に招待した覚えはないんだが……」

 

 どうやら錦木の下で事実が不当に歪められていたらしかった。

 しかし、ふむ……。

 妙な違和感があるなと思ったが、そうか、こいつ今日私服なのか。

 初めて見たな、と思う。

 店の制服か、学校の制服のどちらかしか見たことがなかったらな。

 

「あの、比企谷さん。そうマジマジと見られると……千束に選んでもらったのですが、どこか変でしょうか?」

「ん、ああ、悪い。つい珍しくてな……ま、何だ。似合ってんじゃねぇの」

「! ふふっ、そうですか。良かったです」

 

 キュッと小さくガッツポーズを取る井ノ上だった。こういうところは普通の女子高生と変わんないんだけどな。

 たまーに暗殺者か何かなんじゃねぇのって目する時あるからな、こいつ……。

 

「今日は一人で来たのか?」

「いえ、千束とクルミも一緒に来てますよ。誰が最初に比企谷さんを見つけられるか、勝負をしていたんです。人の多いところで比企谷さんを見つけるのは大変ですからね」

「それは俺の存在感のなさを揶揄しているのか」

「まさか、そんなつもりはありませんよ。ところでさっきからどこにいるんでしょうか? 声は聞こえるのですか……」

「めっちゃ揶揄してんじゃねぇか、目の前目の前。見えてなかったらお前、何を待ってたんだって話だろ」

 

 くすくすと楽し気に笑う井ノ上に、軽いため息を吐く。

 小学生の時幽霊扱いされたこと思い出しちゃったじゃねぇか。

 何で幽霊なのに比企谷菌とか存在するんだろうな。

 

「それで、比企谷さんはこんなところで何をしていたんですか? 一人なのはいつも通りだとは思いますが」

「……仕事だ」

「……???」

 

 俺の返答に、可愛らしく疑問符を撒き散らかす井ノ上だった。何でだよ。

 パチパチと瞬きを繰り返し、次いで頭のてっぺんから足先まで視線を動かした。

 

「それで、何をしているんですか?」

「そこまで念入りに観察しておいて分かんなかったのかよ、仕事だって言ってんだろ」

「そんな……! 働いたら負けと、アレほど真顔で仰られていた比企谷さんが、仕事だなんて……!」

「人ってのはな、どうしても抗えないものってのがあるんだよ」

 

 上司の命令とかな。

 文化祭の準備が始まってから、すっかり身も心も社畜に染まっている俺だった。嫌すぎる……。

 

「俺は文化祭の実行委員だからな。こうして文化祭の様子を撮って回ってる訳だ」

「なるほど、その為のカメラでしたか」

「そういうこった。ま、楽しんでってくれや」

 

 言って、ナチュラルに別れようとしたらグッと襟を掴まれた。

 ぐぇっと情けない声が口端から零れ落ちる。何でお前らは人を止める時襟をつかむんだよ……。

 肩とかで良かったろ。

 

「どこ行くんですか、比企谷さん」

「どこも何も、仕事中だって言ってんだろ……」

「それなら別に、単独行動じゃなくても良いじゃないですか。ほら、そろそろ来ますよ」

「えー……」

 

 何が? と聞く必要はなかった。もうね、井ノ上が片手でスマホぽちぽちしてるだけでわかるもんな。

 会話している間もやり取りしていたのだろう。加えて、あのウルトラスポーツウーマンなあいつであれば、駆け付けるのは容易だろう。

 

「逃げちゃダメか?」

「もう手遅れだと思いますよ」

「だよなー……」

 

 めんどくさー、と包み隠さず表情に出したのと。

 喧しい足音が聞こえてきたのは同時だった。

 

「いたぁー! ヒッキー! 千束が来ましたよ──!」

 

 周りの注目をガンガン集めることもお構いなしに錦木は現れた。

 シレッと遊び倒していたのか、袋にはタコ焼きだったり焼きそばだったりが入っているのが見える。

 エンジョイしてんな……。

 

「ついでにボクもな。やっ、ちゃんと仕事はしていたか? 八幡」

「見りゃ分かんだろ」

「だから聞いてるんだろー?」

 

 分からないらしかった。まあ、今は特に仕事してねぇからな……。

 カメラ片手に他校の女子と雑談していた図にしかなっていなかった。

 でもこれで俺が井ノ上にカメラを構えていたら、それはそれで問題があるような気がしないでも無い。

 やだ、俺ってばこの仕事向いて無さすぎ……!? この仕事どころか、仕事全般に対して適性が無いの間違いだな。

 

「ヒッキーってば本当にぼっちなんだねぇ」

「出し抜けに何だ、喧嘩売ってんのか?」

「いやさぁ、ヒッキーどこにいるかなって聞き込みしてたんだけど、みーんな『比企谷? 誰?』しか言わなくてさ。もうビックリしちゃった」

「ふっ、俺は孤高の男だからな……」

「クラスの方にも顔出したのにいないしさぁ~」

「……彷徨える孤高の魂は拠り所を必要としねぇからな」

「何それ、ちょっとかっこいいじゃん。腹立つぅ」

 

 大分理不尽なことを言いながらベシベシと俺の足を蹴る錦木だった。

 テンションたけぇな……。

 

「千束は久し振りに八幡に会えて嬉しいんだろ、察してやれ」

「なぁっ!? クルミ、何言ってんの!?」

「おや、違うんですか? 千束」

「ちっ、ちちち違いますぅ~~!」

「何でも良いが、お前らちょっと騒ぎ過ぎだ……」

 

 女三人寄れば姦しいと言うように、明らかに注目を集めていた。

 まあ、ただでさえこいつら見た目は良いからな……。

 お陰で突き刺さってくる視線がちょいちょい痛い。チラホラ見覚えはあるクラスメイトなんかは、有り得ないものを見たような目をしていた。

 それに流石に錦木たちも気付いたのか、へへっと笑って声のボリュームを落とす。

 

「流石のステルスヒッキーでも私たちまで隠し通すのは無理だったようだねぇ」

「何でその呼称お前が知ってるんだよ……しかも透明マントみたいな役割じゃねぇし」

 

 ただ俺の存在感が薄いと言うだけのことである。ちょっとこうやって自分で解説させられるの恥ずかしいからやめてくれませんかね。

 最早一種の刑罰なんだよな。

 それより、と錦木の持つ食べ物を指さす。

 

「それ、さっさと食った方が良いんじゃねぇの。冷めてもアレだろ」

「おっと、そうだったそうだった。ね、ヒッキー。この辺に座れるところとかある?」

「ああ、休憩スペースだけどな」

 

 例えば奉仕部で使っている様な空き教室が、総武高校には幾つか存在する。

 それらをまとめて休憩スペースとしたり、あるいは空き教室を展示場所にし、本来使われている教室を休憩スペースとしていたりもする。

 まあ、これでもかなり大きめの学校だからな。

 それに見合っただけの休憩場所も用意されていた。

 そういう訳で、長机と椅子が雑に用意されただけのは部屋へと辿り着く。

 

「じゃ、あんまりはしゃぎすぎんなよ」

「ちょーいちょいちょいちょい! 何去ろうとしてるの!」

「あのな、俺は今仕事中だって言ってんだろ……」

「良いじゃないか、小休憩だって大切だぞ? それにお昼時なんだ、八幡も食べてけば良い」

 

 特に損はないだろー? といつも通り、間延びした声でクルミが言う。その隣では井ノ上がもう、四人分の席を用意していた。

 少し逡巡の後に、「むむぅ~っ」と睨んでくる錦木にこちらが折れる。

 

「わーったよ、でも足りるのか?」

「もっちろん! そこは想定済みですぜ、旦那」

「お前は何処の誰なんだよ……」

 

 ルンルン気分で錦木が買い回ったのであろうものを取り出していく。

 こいつめっちゃ買ってんな……と思いながら財布を取り出した。

 

「悪いな、幾らだった?」

「いやいや、いらないよ──って言って引き下がるヒッキーじゃないからなあ……そうだ! 今日は一日、私たちに学校を案内してよっ」

「は?」

「確かに、校舎内を見て回れるのは貴重ですからね。賛成です」

「受験生みたいなこと言ってんぞ、お前……」

 

 去年受験を終わらせたばかりだろうに、微妙に意識が高い井ノ上だった。

 でも、まあ、そうだな。

 他校の校舎なんてそうそう入れるものでもない。

 そう考えれば確かに、貴重ではあるのかもしれなかった。

 

「それに、私達がいたら警戒もされづらいでしょうし、仕事もしやすくなると思いますよ?」

「ふむ、一理あるな……でもアレだ、俺途中からずっと体育館にいないとだからな」

「有志の発表ってやつか?」

「ああ、これでも記録・雑務なんでな。そっちも残しとかなきゃいけないんだよ」

「ふふーんっ、それなら問題ないよ。私達もそれ見に行くつもりだったし!」

 

 むしろ都合があってラッキーラッキー、と言う錦木。まあ、こいつの場合、元より有志に出れないかって打診してきたくらいだからな。

 そう考えるのも当然と言えば当然だった。

 

「それよりはいっ、あーん」

「するかよ……」

「……」

「……」

「……」

「……おい、無言の抵抗やめろ。怖くなってきちゃっただろうが」

 

 それでもなおジッと見つめてくる錦木であった。ヤダこの子、何か今日圧が強くない……?

 井ノ上とクルミに助けを求めようとしたが、二人は二人できゃいきゃいと後ろではしゃぎ始めており、こちらに見向きすらしない。

 そうして視線を戻せば、やはりタコ焼きを差し出したままの錦木である。

 はぁ、とため息を吐いた。

 ま、今日はお祭りだからな。気が緩んでも仕方ないだろう。

 そんな言い訳を並べながら、パクリと一口いただいた。

 

「へへっ、どう? どう?」

「……ま、美味しいよ」

「はい美味しー! 全く、ヒッキーったらこんなの初めてじゃないのに、いっつも照れるんだからあ」

「うるせぇな」

「でも、そういう照れ屋なヒッキー。私好きだよ」

「そうかよ……」

 

 ニヤニヤとしたままの錦木から、ふいと目を逸らす。

 参ったな。

 何だか最近は、錦木といるだけでどうにも心が浮ついている。

 良くないことだ、と思った。

 錦木千束は優しい女の子だ。誰にでも、どこまでも優しい少女──けれども、本当にそれだけなのだろうか?

 人との距離感を間違えてはならない、抱かれている感情を勘違いしてはいけない。

 もう一年もの付き合いになるのに──いいや、まだたったの一年の付き合いだからこそ、錦木の優しさの由来なんて分かりはしない。

 だけど、そうだとするのならば。

 俺は、それを知らなければならないのではないだろうか。

 至って理性的に、何事も適切に処理し、距離感は適当に保つ──だから。

 だから、もう少しくらいは、俺から歩み寄ることを、許されるんじゃないだろうか。

 そんなことを考える自分に一抹の驚きを覚えながら、言い訳を用意した。

 今日は祭りだ。祭とは非日常だ。

 ほんの一時の、瞬きような時間にのみ許される時間。

 そんな中にいるのだから、まあ、流石の俺もちょっとくらい、いつも通りの判断を下せないのかもしれないな、と。

 

 

 

 



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やはり彼と彼女は傷つかない世界の外側にいる。

今までもそうでしたが、今話は輪にかけてガイル知らない人には凄い分かりづらい構成になっちゃいました。ごめんね。


 

 始まりがあれば終わりがある。

 一波乱どころか二波乱、三波乱とあった文化祭準備を乗り越え、ようやく訪れた文化祭二日目にも、刻一刻と終わりの時間が差し迫ってきていた。

 最近はもう、すっかり落ちるのが早くなった日が傾いて行き、校舎内からは徐々に喧騒が消えていく。

 チラホラと残った生徒や外部の客たちも、一様にある方向へと足を向けていた。

 出口──という訳ではない。終わりが近いとはいえ、文化祭はまだ最後の灯を燃やしている。

 地域を巻き込んだ文化祭である以上、ある意味最も注目されていると言って良い有志団体のステージ──バンドだったり、ダンスだったり──が、体育館で行われていた。

 残った人間のほとんど全員が、そこを目的地としていることだろう。

 当然それは俺も──俺達も、例外ではない。

 

「いやぁ、すっかり祭の後って感じだねぇ」

「まだ終わっちゃいないけどな」

「それは分かってるけどさぁ、雰囲気雰囲気! 何だかちょっと寂しい空気って言うか?」

 

 分かるでしょー? と言う錦木の言葉に、小さく頷き返す。

 言いたいことは分からないでもない。

 楽しかった後の残骸というのは、それ自体が哀愁に近いものを感じさせるものだ。

 廊下や教室に散見されるそれらに、俺が直接携わることは無かったが、それでも感じ入るものはある。

 

「あとはもう、体育館での有志発表だけなんでしたっけ?」

「まあ、そうだな。その後にエンディングセレモニーがあって、それで終了だ」

 

 例年、有志団体の発表は最も集客が見込めるグループが大トリとなっており、それが終わり次第シームレスにエンディングセレモニーへと移行する。

 それが最も生徒やら人やらを集めるのに効率が良いから、という理由からそうなっているらしい。

 そのため、総武高校のプログラムはやや変則的であった。

 

「エンディングセレモニーって何やるんだ? 花火とかか!?」

「や、流石にそんな派手なもんじゃねぇよ。文化祭実行委員の委員長が、総評だったり、有志の賞の発表だったりをした後に、挨拶して終了だ」

「なーんだ、つまらんな」

「そんなもんだ、しょせん学生の出すもんだしな」

 

 見るからに興味を失った様子のクルミに、小さく笑う。

 まあ、やろうと思えば花火やら何やらだって出来ただろうが、今回は色々と切迫してたしなあ。

 当初は案に出ていたような気もするが、必要な根回しも多く、却下されていた記憶がある。

 

「でも、良いね。楽しみだ。大トリの演奏、盛り上がるんでしょ?」

「例年通りいけばな……まあ、俺は去年のは知らないんだが」

「知らないんですか!?」

「ふっ、俺は孤高を愛する男だからな」

 

 去年は普通に一人で過ごした記憶がある。というか、今回だって実行委員でも無ければ体育館になんざ向かっていない。

 しかし、まあ、今年の大トリは葉山(葉山隼人。我がクラスのトップカーストであり、人気者。みんな仲良くがモットーみたいな陽キャである)率いる、葉山軍団だからな。

 そこまで心配することはないだろう。

 何でもそつなく熟してしまうような奴である。ケッ、これだからリア充ってのは。

 

「いや、それはリア充関係ないと思うぞ……」

「うっせ、細かいことは良いんだよ」

 

 クルミの小言を切って捨てながら、体育館の扉をくぐる。

 まだまだ終わりまでは時間があるだろうに、既に用意されたパイプ椅子は満席となっており、立ち見の客も多かった。

 確かに事前に告知もしていたが、ここまでとは思っていなかったな……と少しだけ呆気に取られていれば、

 

「あら、遅かったわね。比企谷くん、サボりは満喫できたかしら?」

「や、別にサボってねぇから。仕事はしてたから……一応」

「不安になってる時点で、白状しているも同然だと思うのだけれども……」

 

 微妙な顔で頭を軽く抑える雪ノ下だった。いやね、仕事はしていたんですよ、本当に。

 ただちょーっとだけ邪魔されることが多かったというか何というかね……。

 おい、お前らのせいだぞ……と錦木を見れば、可愛く作られたてへぺろ☆が返ってきた。

 ハッ倒したろか。

 

「そちらの方々は?」

「ん、あー、まあ、知り合いだ」

「へぇ、誰の?」

「いや俺の俺の。逆に俺の知り合いじゃなかったら、誰の知り合いなんだよ……」

「あらごめんなさい、あなたに知り合いがいるとは思ってなくて」

「至極真っ当な感想なだけに何も言えねぇ……」

 

 俺だって雪ノ下が、今の俺のように知り合いと評する人間を三人も連れていたら腰を抜かすほどビビることだろう。

 つまりはそういうことだ。

 俺と雪ノ下は境遇は違えど、ぼっちであるという一点に限れば酷く近似している。

 

「ちょっ、ちょいちょい、ヒッキー。友達?」

「や、同じ部活の部長だ。ついでに実行委員の副委員長。つまり俺の上司だな」

「……なるほど」

「何だよ今の妙な間は……ま、後は好きに楽しめ。俺は仕事があるし、もう少ししたらエンディングセレモニーの準備にも入るから」

「ふむ……ね、ヒッキー。今日、一緒に帰れたりする?」

「はぁ? まあ、無理じゃねぇだろうが、俺結構遅くなるぞ」

「だいじょーぶっ、待ってるから! そんじゃね!」

 

 じゃあ行こっか、たきな、クルミ! と元気良く二人を連れて錦木が消えていく。

 おいマジかよ、めんどくせーな。

 遠回しに断ったつもりだったのに、普通に受諾されちゃったんだけど?

 はぁ~……と長々とため息を吐けば、雪ノ下が妙なものを見る目で俺を見ていた。

 

「何だよ、その変質者を見るような目はやめろ」

「い、いえ、ごめんなさい。その、結構仲が良さそうに見えたから、意外と思って」

「好きに振り回されてるだけだ、仲が良いってほどでも──」

 

 ない、とは言い切れずに言葉を半端に区切ってしまう。

 上手く適切な言葉を見つけられずに、濁したような言葉を繋ぐ。

 

「小町の友達ではあるからな、嫌い合う訳にもいかんだろ」

「なるほど、小町さん繋がりなのね」

「そうとも言う」

 

 どちらかと言えば、俺が先に知り合ったようなものであるのだが、先に仲良くなったのは小町であるので間違いという訳では無かった。

 どうにも居心地の悪い空気となってしまい、振り切るようにシャッターを切った。

 ステージ上では見覚えのない生徒たちが曲を演奏している。

 

「……そろそろ準備に入りましょうか」

「まだ早くないか?」

「早くて損することは無いわ。それに、エンディングセレモニーは打ち合せをしたいし、段取りは順調かも確認したいもの」

「副委員長様は仕事が多いな」

「あら、欲しいなら言ってくれれば、幾らでもあげられるけれど?」

「言ってない言ってない」

 

 むしろこれ以上働いたら、働きすぎてくたばっちゃうレベル。

 そんなやり取りをしながら舞台の裏へと向かう。

 その途中で目が合った錦木が、満面の笑みを向けてきたのが何となく印象に残った。

 

 

 

 

 

 序盤の準備から問題続きであった文化祭であるのだが、ここに来てまた問題が起こった。

 ここまで来るともう、この文化祭呪われてんじゃねぇの? と疑ってしまいかねないほどの立て続け具合である。

 とはいえ機材が壊れただとか、怪我人が出ただとか、そういう話ではない。

 では何が起こったのかと言われれば、今回の文化祭実行委員会の委員長、相模南の姿が全く見当たらないということであった。

 エンディングセレモニーにおける挨拶だったり、総評だったりは全て相模の仕事であり、各賞の集計だって彼女しか持っていない。

 だというのに、大トリである葉山たちの番が目前だというのに、彼女はこの場にいなかった。

 電話しても応答なし、放送をかけても来る様子はない、軽く聞き込みをしてもどこに行ったのかが不明。

 明らかに意図して逃げ隠れしている。

 完全な雲隠れであった。

 今から闇雲に探しても見つけられないだろうし、それより先に有志の発表が終わり、エンディングセレモニーの時間が来てしまうだろう。

 

「……時間を、稼げないことはないわ。葉山くん達を含めても、ニ十分程度だとは思うけれど。比企谷くん、それだけあれば見つけられる?」

「どうだろうな……」

 

 全てを合わせて稼げる時間がニ十分程度。

 仮に見つけたとして、ここまで連れて帰ってくるのにも時間がかかることから、見つけることにだけにかけられる時間は十分から十五分程度と言っても良いだろう。

 となれば、俺の足で行ける場所は精々一か所。しかも探せるのは校内に限る。

 あたりを付けてワンチャンスを狙うしかない以上、断言はできない。

 

「……わからん、としか言えないな」

「そう、不可能とは言わないのね。それで充分だわ」

 

 明瞭にそう言った雪ノ下は、すぐさま動き出した。

 雪ノ下さん(雪ノ下の姉、雪ノ下陽乃。総武高校OGであり、とんでもなく恐ろしい万能お姉さんである)と生徒会長、平塚先生に由比ヶ浜を集め、即興バンドを結成。

 これで、時間稼ぎをするのだと言う。

 少々強引ではあるが、その面子であるのならば一定以上のクオリティは発揮されるのは間違いない。

 であるのならば、俺も相応の働きはしなければいけないだろう。

 舞台への準備を始めた彼女らに背を向ければ、

 

「比企谷くん、よろしくね」

「ヒッキー、頑張って!」

 

 という、言葉がかけられた。それに言葉は返さず、片手を上げるだけで応じる。

 少しだけ早足になって体育館を出て、思考を回転させ始めた──相模南は、端的に言ってしまえば今回の文化祭の波乱、その総ての元凶と言っても差し支えは無い。

 もちろん、彼女一人だけが何もかも悪いという訳ではないが、危うく実行委員が崩壊しかけ、一時ではあるが文化祭そのものが成功するかどうかも分からないところまで、追いやられたのは彼女の浅薄な判断によるものである。

 

 雪ノ下雪乃という、常人のそれを遥かに超えたスペックを持つ少女を部下とし、ある意味この学校の伝説的存在である雪乃陽乃にだって褒められた。

 有頂天だっただろう、その後に色々と崩壊しなければ。

 いつからか、相模南という少女がいなくとも全く何ら問題が無く、雪ノ下雪乃という少女を誰もが頼り、求めるような環境とならなければ。

 傷つき、地に落ちただろう。彼女のプライドや自尊心、自意識というのは。

 

 だから分かる──相模は必ず、誰かに見つけられるような場所にいる。

 鍵のかかっているところにはいないが、一人になれるような場所にいる。確実に。

 何せ俺がかつて通ってきた道だ、分からない訳がない。

 であれば、どこだ? まだ絞り切れない。校舎は広すぎるし、推理するにはまだ材料が足りない──

 

「お? 何だ八幡、必死の形相で。腹でも壊したか?」

「……クルミ、お前何やってんだ、こんなところで」

「人の多いところは苦手でなー、抜け出してきたんだ。そっちはどうしたんだ?」

「俺は人探しだ……あー、見なかったか? 茶髪の、ショートカットの女子だ」

「ああ、見たぞ」

「だよな、それじゃ俺行くか……なに!?」

 

 え? 見たの? マジで?

 目だけでそう訴えれば、カタカタパソコンを叩いていたクルミがニヤリと笑う。

 

「実行委員長の腕章つけてた女子生徒だろ? そこの階段をトボトボ上がって行ったぞ、ちょっと前……二十分とか、そのくらい前か? だけどな」

「っ、サンキュークルミ! 愛してるぜ!」

「おう、謝礼はうちのケーキで良いぞー」

 

 クルミの気の抜けた声を聞き流しながら、つったかたーと階段を駆け上がる。

 ここは特別棟だ。大体の教室は部活やらなにやらの展示等で使われている──けれども、屋上であれば。

 以前に川崎が、中央階段からの入り口なら入れると。女子の間では噂であるのだと。そう言っていた記憶を思い出す。

 それならば、相模が知っていてもおかしくはないだろう。

 どのみち他を探している様な時間はない。ここに賭けるしかないだろう。

 みっともなく息を切らしながら、文化祭の荷物をよけながら扉へと辿り着く。聞いていた通り、鍵は壊れているようだった。

 いや、それどころか扉が軽く開いてすらいる。

 もう、間違いはないだろう。少しだけ息を整えて扉を押し開けば、果たしてそこに、一人の女子生徒が佇んでいた──。

 

 

 

 

 

「……どうして、そんなやり方しか出来ないんだ」

 

 独り言のように、苦々しい言葉を残し、葉山と相模、それから相模の友人×2は屋上から去って行く。

 それを見送るようにして、ズルズルとその場に座り込んだ。

 まあ、何だ。

 最も時間的に効率が良く、また強制ではなく、相模自身の意思と足で戻ってもらうために、俺にやれることをやった結果がこれである。

 寄り掛かるかのように、葉山に──葉山隼人という男の善性に頼った形にはなるが。

 見つけたのが俺だけじゃなくて良かった。俺一人では、ここまでスムーズに物事を運べなかったかもしれないから。

 

「ほら、簡単だろ──誰も傷つかない世界の完成だ」

「ん、お疲れ様。ヒッキー」

 

 不意に暖かい声が降ってきた。

 それからポンと頭に手を乗せられる。

 何でこんなところにいるんだよ、とは聞かなかった。錦木はこういう、不思議なやつだ。

 

「一部始終、聞いちゃった」

「聞いてたのかよ……なら、分かるだろ。俺はこういうやつなんだよ」

「ほーんと、ヒッキーは捻くれ者で、卑屈で、最低なやり方ばっかり──でも、とっても優しいね」

 

 同時、ふわりと抱きすくめられた。

 それでも声が出せなかったのは、そのまま言葉を続けられたからだろう。

 

「ヒッキーのことだから、悪意でやったんじゃないって分かるよ。ヒッキーは優しいから……そして、こういう時に限っていっつも、自分自身に一番優しくない。

 ヒッキーの言う誰も傷つかない世界は、いつもヒッキー自身が入ってないね」

「……別にこのくらい、傷つくってほどのことでもない」

「んーん、傷ついてるよ。だってヒッキーが傷つくと、私も辛いんだもん。胸がじくじくして、やりきれない気持ちになる。でも、それを止める資格は私にはないから」

 

 だから、慰めてあげることしかできない。と、錦木は言って腕に力を込めた。

 暖かくて、少しだけ安心する。けれども鼓動がしていなかった。

 

「へへっ、驚いた? 私の心臓、人工なんだ。凄いだろ」

「ああ、今日一ビックリした」

「心臓がバクバクしちゃうくらい?」

「……ああ、そのくらい」

 

 錦木の鼓動の代わりに、俺の心臓が脈を打っているんじゃないかと思うくらい、激しく鼓動は高鳴っていた。

 全身から抜け落ちていた力が、少しずつ戻ってきているように感じる。

 ポンポンと背中を叩けば、錦木は薄く微笑んだ。

 

「もう大丈夫なの?」

「ああ、もう平気だ。悪いな」

 

 錦木が離れてから、ゆっくりと立ち上がる。

 まだステージはやっているだろうか。いいや、やっていないにしろ、俺も向かわなければならないだろう。

 そう思って体育館に向かおうとする。

 けれどもその手は、自然と錦木の手に握られていた。

 

 ──人というのは、必ず変わってしまうものだ。

 俺自身がどうあれ、周りがどうあれ、必ず誰かの視線によって、認識によって、向けられる感情によって。

 極論を言えば、誰かしらと関わることで、少なからず歪んでしまうものだ。

 であるのならば、俺が誰かを変えてしまうこともあるのだろうか。

 あるいは、一定の誰かの手によって変えられてしまうこともあるのだろうか。

 変え合って、歪め合ってしまうことはあるのだろうか。

 もし、もしもあるのだとしたら。

 俺にとってのそれは、その人は、きっと────。

 

 

 

 



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