秋の向こうへ、その向こうへ。 (たいたい35)
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ジュニア級編
ここがトレセン学園!


一部、原作のウマ娘の舞台には無い設定や、想像で書き出している設定があります。ご了承ください。

11月8日追記
誤字、脱字のチェックや改行を行いました。



ついにここを過ぎました。このそびえ立つ大きな校門を。「トレセン学園」。正式名称、日本トレーニングセンター学園。各地域からウマ娘たちがそれぞれの夢を抱えて入籍する場所。ここから生まれた数々のスターウマ娘に憧れて、夢を掴むために。私は今その門を通り過ぎました。先輩方が周りで校舎内の地図を配っています。そして、辺り一面に咲き誇るソメイヨシノを中心とした桜の数々。新たな環境で、様々な不安と希望に胸を膨らませる私たちの背中を、そっと押してくれているようです。新しい友達はできるのでしょうか、どんな施設があるのでしょうか、トレーニングメニューはどんな感じなのでしょうか。さらに、レースに勝てるのでしょうか。トクントクンと高鳴る心臓に流されるままに、校舎の中へと私は入って行くのでした。私たちを迎え入れるその校舎は、当たり前ですが、校門よりはるかに高くそびえていました。

 

まず私たちは先生に連れられて、この学園に関しての説明を受けます。ここはどんな場所なのか、日々の授業について、加えてトレーニングのための施設についての話もありました。私は色々とメモを取っていました。一番の目玉は当然、「トゥインクル・シリーズ」について。トゥインクルシリーズは、国民的スポーツエンターテインメントで、人間離れした走力を持つウマ娘たちが、それぞれの目標を掲げてレースに出走するというものです。トレセン学園は、一般の学校と同程度の座学授業と共に、このトゥインクルシリーズへ参加するためのウマ娘を育成します。そして、トゥインクルシリーズのレースで上位の成績を修めると、「ウイニングライブ」で感謝の気持ちを応援してくれる皆さんに伝えます。そのような話をされていました。そしてその話をされていたのが、「シンボリルドルフ」生徒会長です。前人未到の無敗でのクラシック三冠、さらにG1レースを七勝した、「皇帝」の異名を持つ最強ウマ娘です。会長に惹かれてトレセン学園への入学を決めたウマ娘もいるとかいないとか。私は、三冠は三冠でも、ウマ娘史上初、トリプルティアラを達成した、名門メジロ家の魔性の天才、「メジロラモーヌ」先輩に憧れています。メジロ家らしく、優雅に美しく、全てを魅了して止まないあの走りに熱い尊敬の念を抱いています。それはそうと、オリエンテーションが終わると、自由時間が少しあったので、少しだけ学園内を見て回りました。紹介動画やパンフレットで想像していたよりもずっと広く大きく、一つ一つの施設が新品のように綺麗で手入れされていました。ウマ娘のパフォーマンス発揮のために、全力でサポートする体制が見てとれました。散歩から戻ると、クラス分けがありました。今日私と一緒に入学してきたということは、オリエンテーションで見た何百人のウマ娘たちは全員が私のライバルになるということです。この中で、どんな子たちと切磋琢磨していくのでしょうか。やっぱりクラス分けはいつでも緊張します。教室前に張り出されている表を見てみると、どうやら私はB組のようです。さっそく教室に一歩踏み出しました。

 

「えっと、私の席は」

 

自分の名前と照らし合わせながら、一番後ろの席に名前を見つけて、腰かけました。バッグを机の脇にかけようとすると、隣の子が話しかけてきました。

 

「結構でかいね、ここ」

「え、そうだね。その、私はアリアンス。よろしくね」

「しまった、挨拶がまだだったね、あたしはショートウールっていうの。よろしくねー」

 

急なコンタクトに少しとまどってしまいました。バラの耳飾りを身につけた、太陽に光らせる青髪が、新緑のように輝くショートウールちゃんでした。

 

「なんか気に入ったとこあった?やっぱり購買かな?にんじんロールパン人気らしいよ」

「そうなんだ。私どっちかっていうとご飯派だから、でもパンも好きだよ。購買はまだ見てなかったから、次の放課行ってみようかな」

「いいねいいね、このウールちゃんが案内してあげよう!まああたしもまだ、子羊も子羊なんだけど」

「うふふっ、ウールちゃん、面白いね。それじゃ、お願いしちゃおうかな」

 

その健気な姿に思わず笑みがこぼれました。ウールちゃんとなら良い友達になれそうな気がする、確証はないけれど、なんだかそう強く思いました。

 

「あ、そうだ。アリアンスちゃん、なんて呼んだらいい?うーん、アリーちゃん、アンナちゃん、そうだ、アーちゃんでいこう!どうかな」

 

えっへんと、テストで満点を取った子どものような瞳でウールちゃんが見つめています。私自身、あだ名をつけてもらったことがなかったので、少し恥ずかしかったですが、嬉しかったです。

 

「もちろん大丈夫だよ、嬉しいな。ありがとう、ウールちゃん」

「ああ、うん。そんなに喜ばれると照れちゃうじゃん。なんだかパンが食べたくなってきたねー、さあ早く行こう行こう!」

 

少しうろたえたようで、それを隠すようにさっさと前を歩いていきました。




不定期更新です。拙い文章ですが、見てくださった方々、ありがとうございました。


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二人の夢

ウールちゃんと購買へ向かう途中、色々な話をしました。

 

「ウールちゃんは何か目標とかあるの?」

「そりゃあもちろん、重賞制覇だよね。あたしの名を世の中に知らしめてやるんだ。まあ小さいことからコツコツとね。重賞勝って、もしG1なんか制覇した日には、あたしは人気者だよね。そういうアーちゃんは、何か夢、あるの?」

 

遠い未来の夢を語るウールちゃんの瞳はガラスよりも輝いていました。一人一人のウマ娘が持つ夢の輝きは、今と未来を繋ぐために瞳の奥で静かに燃えて、乱反射しています。それは何よりも美しいなと改めて思いました。遠い未来なんかじゃない、今すぐにでも勝ち取ってやるんだ、そんな力強さがウールちゃんに垣間見えました。もちろん、私の夢は。

 

「トリプルティアラを勝つことだよ。私は、桜花賞も、オークスも、秋華賞も、全部勝って、史上二人目のトリプルティアラウマ娘になりたい。そして、私を証明したいの。私たちの強さを証明したいんだ。えへへ、熱くなっちゃった」

「すごい、すごいよアーちゃん!アーちゃんならできるよ!本気でそう思った!あたしにもその夢、応援させてね!」

 

私みたいなのがトリプルティアラなんて、そんなのは高望みだって言われるような気がしました。言われないにしても、どこか侮蔑のような眼差しを向けられると思いました。本当の選ばれた天才しかなれないから、挑戦するだけ無駄だよって、そう言われると思っていました。でも、ウールちゃんは、一切笑わずに聴いてくれて、さらに、応援してくれました。応援なんかじゃありません。君ならできるよって、アリアンスちゃんならなれるよって言ってくれました。心の底から言ってくれていることを疑うのは、ウールちゃんのガラスの瞳に失礼でした。そのウールちゃんに、なんだか少し目頭が熱くなりました。

 

「あたし、周りに自慢しちゃおうかな。これがあたしの友達のG1ウマ娘のアーちゃんですって。トレーニング、機会があったら一緒に頑張っちゃおうね!」

「うん、もちろん!」

 

私は精一杯の笑顔をウールちゃんに向けました。ウールちゃんはまたもや狼狽して、そっぽを向きながら恥ずかしそうにしています。私はこれから、途方もなく厳しく果てしない道のりを辿っていくのだと思います。ただ、今日のこの出会いは、この道のりを何倍も何倍も楽にする魔法なんだと思いました。そして、絶対に夢を掴み取ってみせるねと、密かにウールちゃんと心の中で約束しました。後に、ウールちゃんに聞いてみると、この子なら取れるって思わせる気迫と澄んだ瞳があったのだそうです。そう言ってもらえるのは嬉しいのですが、私にそういうのはあるのでしょうか。

 

 

 

「いやー、早めに来たかいがあったね。にんじんロール、にんじんロールはどこだー、あ、あったあった。おばさん、にんじんロールパン二つ」

 

大将のようなおばさんの声が廊下に響きました。購買はなかなかに豊富なラインナップで、キーンと冷えたラムネやにんじんジュース、ティラミスやにんじんケーキなんかのデザートもありました。ちなみに私は、にんじんは大好物というわけではないです。もちろん好きではあるんですけれど。

 

「はい、おひとつどーぞ。ウールちゃんオススメ、にんじんロールパンです。購買っていっても舐めちゃいけないよ、ここでしか食べれない味だからね。格別です」

「わあ、いいの?ありがとうウールちゃん。お言葉に甘えて、いただきます」

 

口の中で噛んだ瞬間、にんじんの甘い風味と、ふわふわの、温かいパンの食感とほのかなバターの香りのハーモニーが私を襲いました。これは、なかなかいけます。できたてはやっぱりおいしいです。一個120円とは思えないほど香ばしかったです。隣のウールちゃんも、これこれと言わんばかりに平らげてしまいました。

 

「いやー、これこれ、やっぱりおいしいね。アーちゃんどう?いけるでしょ、これ」

「うん、とってもおいしいな。病みつきになっちゃうかも」

「アーちゃんほどの美人さんにここまで言わせるだなんて、あたし嫉妬しちゃうな、このこの!」

 

なぜかやけ食いしてしまうウールちゃんでした。その後は、他愛もない世間話をしながら、ひとときの幸せな放課を過ごしました。



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フルアダイヤーと二冠ウマ娘

教室に戻ると、私の席に誰かが座っていました。声をかけようか少しとまどっていると、ウールちゃんが助け舟を出しました。

 

「ちょっとこの席、空けてくれないかな?ごめんねー」

「ごめん。すぐにどく」

「ごめんね、あ、そうだ、お名前はなんていうの?」

「私はフルアダイヤー。これからよろしく」

「よ、よろしくね。」

 

私の席に座っていたのはフルアダイヤーちゃんでした。漆黒の髪をなびかせて、足早に自分の席へともどっていってしまいました。もう少しお話ができたらと思いましたが、ダメでした。

 

「なかなかクールな子だね、確かに少し怖いかもー」

「えへへ、フルアダイヤーちゃん。お友達になれるといいな」

「そうだねそうだね、これから少しずつだね」

「うん!」

 

そのような感じで、私のトレセン学園での初日は終わりました。トレセン学園で過ごすほとんどのウマ娘たちは、寮で暮らします。なので放課後は、それぞれトレーニングをして、定められた時間までには寮に戻り身体を休めます。先輩たちは、落ちゆく夕陽のもとで、自分を追い込み、成長の糧としていました。英雄みたいでかっこよかったです。私たち新入生はまだトレーニングはしません。今日は部屋のチェックや物の整理などを行います。さっそく部屋を見にいってみることにしました。

 

「私の部屋は、よし、ここだよね。お邪魔します」

 

まるで他人の部屋に上がる時のように、行儀良く戸を開きました。すると一人、小柄なウマ娘が中にいました。その子は、機嫌良く鼻歌を歌って、カバンの中身を整理しています。ただ私は、そのウマ娘のことを知っていました。

 

「いらっしゃい、新入生の子だよね。場所空けておいたから、自由に使っちゃっていいよ。色々慣れないこともあるだろうけど、何かあったら頼ってね。どうもよろしく」

「よ、よろしくお願いします」

 

間違いありません。そのウマ娘は、数年前、桜花賞とオークスを制した二冠ウマ娘、デュエットナタリー先輩でした。

 

「もしかして、デュエットナタリー先輩ですか」

「あたいも有名人だね。そんなかしこまらなくていいから、さ、気抜いて、お茶でも入れようか」

 

これが貫禄というのでしょうか。デュエットナタリー先輩の周りには、静電気のような、帯電した空気がヒリヒリと流れ、その気取らない振る舞いにも、どこか近寄りがたい雰囲気さえあるような気がしました。これが二冠ウマ娘、格の違いを強く思い知らされました。

 

「はいどうぞ、特製ルドルフコーヒー。マルゼンスキーが流行らせようとしてて、余りもらったからぜひあったかい間に飲んでみて。ほらほら、そんな上司みたいに接さなくていいよ、せっかく何かの縁で同部屋になったんだし、友達みたいにいこう」

 

デュエットナタリー先輩にここまで気を使わせてしまっている私は、どれだけ罪なウマ娘なんでしょうか。目の前の故知らぬ覇気に、ただ足を竦ませるばかりでした。先輩は全く困ってしまったのか、一息ため息をついて、私に駆け寄りポンと背中を叩きました。

 

「ほーら、コーヒー冷めちゃうよ。あたいのことはナタリーでいいから」

「ご、ごめんなさい、その、ナタリーさん。それでは、いただきます」

「やっとちゃんと話してくれたね。そうそう、ナタリーでいいからね。改めてこれからよろしく。アリアンスちゃんだよね。せっかくだからあだ名を決めちゃおう。こう呼んでほしいとか、ある?」

「あの、じゃあ、アーちゃんでお願いします」

「オッケー、アーちゃんよろしく。なんでも聞いてね。どう、コーヒー」

 

なんとか少しずつ会話ができるようになってきました。喉にコーヒーをくぐらせて。そうすると、さっきまでの蒸し苦しい梅雨の季節のような部屋の空気は、少し弱まりました。緊張している後輩への対応も素敵で、畏敬の念をさらに強く感じました。

 

「とってもおいしいです。マルゼンスキーさんが作ったんですか」

「いや、あいつは配ってただけなんだけどね、誰が作ったんだか、会長の名前はあってもルドルフは渋い顔してたよ」

 

ナタリーさんは、マルゼンスキー先輩とも、シンボリルドルフ会長とも親しい間柄のようでした。その後は、ナタリーさんに手伝ってもらいながら、荷物の整理をしたり、食堂を見にいったりしました。

 

「じゃあ最後に、入学祝いにせっかくだから受け取ってよ。これ」

「え、いいんですか。ありがとうございます。とっても綺麗で、かわいいリボンですね」

「めちゃくちゃ高い物ではないけど、よかったら使ってみて」

「はい、ありがとうございます!」

 

紅葉を思い浮かべるような鮮やかな赭色のリボンでした。先輩から頂いた大切なリボン。長い髪をまとめることにしました。鏡を見ながらピョンピョンと浮かれて。夕食までしばらく時間があるので、先輩方の練習を見にいくことにしました。



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デュエットナタリー

「おーい、アーちゃん。あたし今から練習見にいくの。どう、一緒に行かない?」

「もちろん。ねえねえウールちゃん。私、ナタリーさんと同室だったんだ。緊張しちゃって、でもほら、リボンももらったの」

 

耳を動かせてアピールすると、ウールちゃんはかっこいいじゃんと手をパチパチさせていました。

 

「それなら、デュエットナタリー先輩に色々レースについて聞けるね。よかったよかった。さあ、先輩方の圧巻の走りを見てやるとしますか」

「もう、ウールちゃんたら」

 

ターフへと向かうと、私たちと同じトレーニング風景を見にきたウマ娘たちがたくさんいました。そして、その視線が集まる先には、筋トレをしたり、フォームの確認をしたり、実際に走っていたりと、各々のすべき事を着々とこなす、テレビでしか見ることができなかった憧れの先輩方がいました。私の目はそれはもう羨望の眼差しでした。この全てを吸収したい。私も早くあそこで走りたい、強くなりたい。その気持ちが動悸をはやらせます。

 

「お、アーちゃん、来たね。今からトレーニング始めるから、せっかくなら見てってよ」

 

後ろを振り返ると、ナタリーさんがいました。周囲の視線がナタリーさんに釘付けになりました。私に向けられているわけでもないのに、目に虫が入った時のような、少し嫌な気持ちがしました。ナタリーさんは、軽く準備運動をしてから、ターフへ向かって、トレーナーの方と色々とメニューについて相談しているようでした。数分後、コースに立つと、私の方を見て、軽く手を振ってから、深い深呼吸をしました。次の瞬間、ターフの芝が勢いよく振動しました。一歩一歩確実に、ここからでも分かるほどに力強く踏みつけて、車を追い越すほどの加速力と速度で、二冠ウマ娘はターフを飛んでいました。二分後、ナタリーさんはコースから戻ってきました。

 

「あれが二冠ウマ娘、すごいね、アーちゃん」

 

正直、絶句しました。テレビで何度も見ました。最強の走りをたくさん見ました。ただ、迫力が違ったのです。これが他を寄せつけない圧倒的な加速力と速度。気づいた時にはもうすでに三ハロン棒へと到達し、さらにもっともっとスピードを上げて、しかも一瞬にして。コースを一周していました。これにはウールちゃんも、当然周りのウマ娘も、言葉を失っていました。周囲には、さっき部屋で感じた空気が、さらに勢力を増して、静電気が電撃となって漂っていました。その空気に痺れることが嫌だったのか、単に感動して向かっただけなのか、気づけば私は、ナタリーさんの元へ駆け寄っていました。

 

「ナタリーさん!本当にすごかったです!」

「ありがと。まあこんなもんだよ。やっぱりアーちゃんもウマ娘だね。スピードに憧れるその目。イイね」

「私、頑張って強くなります。なので、その時はよろしくお願いします!」

 

私はいつになく昂っていました。二冠ウマ娘を前にこんな大見得を切るのは恐ろしく馬鹿馬鹿しいことなのですが、私はいてもたってもいられませんでした。一刻も早くその高みまで到達してみせます。そして、あなたを倒してみせます。そんな哀れな発言をしていると、とられてもおかしくはありません。それを叶えるのは、何よりも難しいと分かっていました。そんな果たし状のようなことを言うつもりは到底ありませんでした。もちろんそんな気持ちもありませんでした。でも、身体が言うことを聞かなかったのです。

 

「もちろん、いつでも待ってるよ」

 

 

夜の帳が落ち始めるころ、私はウールちゃんと少し雑談をしていました。

 

「にしてもアーちゃん、情熱的だったね。あたしの前だとこんなに華奢でおしとやかなのに。嫉妬しちゃうぞあたし。もー」

「もう、そんなに言わないで、ウールちゃん。私も恥ずかしいの」

「でも、これで周りの新入生の子には目つけられたね。まあアーちゃんなら大丈夫だろうけど。じゃああたしはこれで。また明日」

 

バイバイと一瞥して、私も部屋に向かいました。

少し眠気を受けながら、ドアを開くと、ナタリーさんが日記をつけていました。

 

「おかえり、アーちゃん。今日はかっこよかったよー。これから頑張ってね。もしくは一緒に頑張ろうね」

「は、はい。頑張ります」

 

今更ながら自分がしたことの重大さに気づいてしまって、なかなか言葉が出てきません。ですが、速くなりたい、なってみせるという気持ちだけは本物です。夕方のウールちゃんからの言葉を思い出して、練習についてアドバイスを聞いてみることにしました。もちろん、ナタリーさんに近づいてやるんだという強い意志は持っていました。

 

「あの、ナタリーさん。色々聞きたいことがあるんです」

「全然いいよ、でもそういえばさ、アーちゃんって、トレセン学園での目標とか、夢ってあるの?」

「はい。トリプルティアラです。私はトリプルティアラウマ娘になって、自分を証明したいです」

 

刹那、ナタリーさんの目つきが変わりました。この顔はどう見ても、二冠を制したウマ娘からの、そして、トリプルティアラの夢を目の前で砕かれてしまったウマ娘の目でした。私は全てを知っている。そう私に訴えかけていました。

 

「本当に言ってるの?いるんだよね、結構簡単にそうやって言う人。夢の価値をわかっていない人が。どれだけの難易度を目指しているのか、分かってる?」

「分かりません」

 

ナタリーさんの目つきがさらに鋭くなりました。こいつは三冠を舐めているのか、こいつは自分を侮辱しているのか、その程度の覚悟で取れるわけがない。正直私は、今すぐにでも逃げ出したい気持ちでした。でも、今の私は何を言われても絶対に逃げないだろうという勇気も、自信もありました。

 

「分からないです。ナタリーさんほどは分からないです。もちろん私も痛いくらい知っています。トリプルティアラがどんなに難しいことなのか。だけど、一番夢に近づいたナタリーさんには敵いません。だから、私がその夢を引き継ぎます。ナタリーさんが掴むことのできなかった最後の栄冠は、私が絶対に掴みます。なので、私にナタリーさんの全てを預けてください!」

 

部屋を押しつぶしていた呪いのような空気が、どっと軽くなりました。ナタリーさんは、涙を流していました。溢れて溢れて、その涙は、先ほどまでのナタリーさんを連れて、どこかへと行ってしまいました。

 

「驚いたなぁ……こんなに強い、こんなに覚悟を持った新入生がいたなんてルドルフからは聞いてないよ。初見じゃ、あんなに華奢でかわいいアーちゃんは、実はとっくにこっちのレベルまで到達してたなんて。いいよ、あたいの知ってる全部を預けるよ。むしろ教えさせてほしい。さっきは意地悪言ってごめんね。もうこんなことしない」

 

ナタリーさんはハンカチを取り出して涙を拭いていました。嬉し涙か、悲し涙か、それはナタリーさん本人にしか分かりません。

 

「実はさ、さっきあげたあのリボン、あたいが三冠かかった秋華賞の時に、友達からもらったものなんだよね。絶対勝ってねって。それからずっと大事にしまっててさ。あたいは諦め切れてなかったんだと思う。だから、心のどこかで待ってたんだと思うな。アーちゃんみたいな子が現れるの。今日たまたま見つけて、アーちゃんにあげちゃったんだけど、まさかこの話をすることになるとは思わなかったなあ」

「えへへ、ありがとうございます。ナタリーさんのこのリボン、大切に使いますね」

「ほんと、頼んだよ。明日から余裕があったらあたいのチームに来てよ、どんな予定もすっ飛ばしていつでも付き合うからさ。ただ、今日は今の一瞬で疲れちゃったからもう寝ようかな。らしくない姿も見せちゃったし」

「本当にありがとうございます。明日から、頑張りますね」

 

ナタリーさんが何か呟きましたが、内容は教えてくれませんでした。ですが、ナタリーさんの後ろ姿は小柄な体型ながら、私の何倍も大きく見えました。

 

「こっちのセリフだよ、ありがとうは」



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私の長所は......

次の日、トレセンでは本格的に座学の授業も始まりました。ウールちゃんはもう一時限目から意識が危なかったです。私は、勉強はそこまで苦手ではないですが、ノートを取るのが少し苦手です。要点をまとめるのによく苦心します。ですが、最初なのでなんとか授業に追いついています。

 

「春シニア三冠のうち、一つ分かるやつ。じゃあフルアダイヤー。答えて」

「宝塚記念です」

「よく予習しているな、偉いぞ」

 

フルアダイヤーちゃんの方を見ると、フリフリと尻尾が揺れていました。ただなびいているわけではなさそうです。ここからではよく見えないですが、少し顔が赤い気がしました。その次の、またその次でも、彼女は先生に指名されても素早く問題に答えていました。もしかして、勉強が得意なのかも。

 

「ねえねえ、フルアダイヤーちゃん。さっきはすごかったね。私なかなかノートを取るのが遅くて、授業についていくので精一杯なんだ。何か勉強のコツとかあったら、教えてほしいな」

 

彼女は相変わらず窓の方を見ていました。ようやくこっちに気づいたようです。

 

「え、私。その、ありがと。コツとかは、特に無い。頑張るしか」

「そ、そうだよね、ごめんね。授業の時のフルアダイヤーちゃん。すっごくかっこよかったから。そうだ、せっかくだから、あだ名とか考えちゃってもいいかな」

 

フルアダイヤーちゃんは落ち着かない様子でした。なんだかペットの犬が「待て」をされている時のようです。ウールちゃんが言っていました。お近づきになるにはまずあだ名から。私たちもあだ名で結ばれているのです。それが言霊なのですって言っていました。最後は少し分からないですけれど。

 

「別に、いいけど」

「ほんとに?じゃあ、フルアダイヤーちゃんだから、アイちゃんで。どうかな?私のことは、ウールちゃんみたいに、アーちゃんって呼んでほしいな」

「分かった」

「また勉強のこと聞かせてほしいな。アイちゃん、ありがとう」

「うん」

 

少しそっけない態度でしたが、また一歩友達に近づくことができたと思います。私が席に戻ると、ジュースを買いに行っていたウールちゃんも戻ってきました。

 

「ねえねえウールちゃん、フルアダイヤーちゃんがね、アイちゃんって呼んでいいって言ってくれたの」

「ほら、言った通りでしょ。ここからもっと距離を縮めていこう。言霊でね」

「えへへ、そうだね」

 

授業を終えて、今日もまた、ターフへと向かいます。そこには、ナタリーさんの姿もありました。あれはナタリーさんの所属しているチームでしょうか。そうそう、学園のウマ娘は、それぞれ「トレーナー」の人と共に何人かのチームを組んだり、一対一でタッグを組んだりして、練習に臨みます。ナタリーさんのトレーナーの方は優秀で、学園内でも噂になっていました。当然そのトレーナーさんが率いるチームの先輩方は全員優秀です。重賞を何勝もしていたり、G1を制した先輩もいるみたいです。私に気づいたナタリーさんが、こちらに駆け寄ってきました。

 

「お、来てくれたね、さっそくだけど、もう練習始めちゃおっか。さあさあ着替えて着替えて」

「え、ちょっと待ってください。私その、まだ模擬レースも終わっていないですし、ナタリーさんも、練習がありますよね」

 

来週開催される新入生同士での模擬レース。その結果を見て、トレーナーの人たちは光る原石を発見して、チームにスカウトします。なので、その模擬レースが終わってから、トレーナーさんの指示のもとで、本格的に練習を始めるのが一般的です。

 

「あたいのことはいいから、さっそくマイルコース走ってみよう。時間は無いからね、もう今のうちから力をつけてかないと。あたいが見てるからって緊張しなくていいからね、楽に走ってくれていいよ」

 

本当に大丈夫なのでしょうか。私は促されるまま、ジャージへと着替えたのでした。

 

「じゃあいくよー、よーい」

 

笛の音が高らかに響きました。程良い緊張の中、精一杯芝を蹴り上げて、走り出します。周りを気にせず、ただ一ミリでも遠くに足を伸ばして、ただ一秒でも早くゴールへ。その一心で走り続けました。他のことを考える余裕はありませんでした。

 

「どうでしたか、ナタリーさん。多分そこまで早くないと思います。ガッカリされましたよね。あんなに意気込んでたのに、こんな記録だなんて」

 

記録を聞くのは恐ろしかったです。ナタリーさんの顔を見るのはもっと怖かったです。大嫌いなお化けなんかよりずっと怖かったです。分かっていても、否定されるのは嫌でした。結局、記録が全てなのですから。

 

「何考えて走ってた?」

「えっ」

 

思わず声が出てしまいました。真っ先に記録を言われて、ちょっとこれでは厳しいね、そう苦笑いされて、練習を終えるつもりでいました。

 

「その、情けないですけど、何も考えられなかったです」

「オッケー。なのにあそこまで。これはかなりの長所だね」

「えっ」

 

またびっくりして、金切り声のような高い声をあげてしまいました。私に長所が無いことは私が一番よく知っているはずなのに、二冠ウマ娘のナタリーさんに褒められるところがあるなんて思っても見ませんでした。私は瞳を潤んで、視界を濁しながら、ナタリーさんに向かいました。

 

「何か、良いところがありましたか」

「もちろん。無意識にできることじゃない。アーちゃんの武器は間違いなく、あの恐ろしいほどの体幹、バランス感覚だね。全く揺れず崩されない姿勢。体幹はもちろん鍛えればいい話だけど、あそこまでとなると話が別だよね。正直、びっくり。あれ、どうして泣いてるの?」

「そ、その。違うんです。遅いって言われるのが怖くて。私にそんな強みがあったんですか?」

 

この胸の高鳴りはなんなのでしょうか。自分でもできるかもしれない、自分に、期待してみてもよいのかもしれないという思いでした。遠い憧れは、憧れではなくなるのかもしれないという思いでした。

 

「あはは、ほんとかわいいね、アーちゃんは。もっと自分に自信を持って。なかなかいないよ、あそこまで言えるのに、自信はこんなにも無い子。大丈夫、アーちゃんは強くなるよ。それにはっきり言って今の段階のスピードなんて、タイムなんてどうでもいい。あたいは、アーちゃんの強みを知りたかった。すると思わぬ要素が見つかったから。まったく、走ってみるものだよね。あ、タイム自体も悪くなかったよ」

 

目の前がパッと明るくなりました。それは、カーテンを開けて一気に差し込む朝日のようでした。何かを達成したわけでもないのに、肩もすっきり軽くなりました。それからは、ナタリーさんにさっきのレースについて色々アドバイスをもらって、軽いトレーニングをしました。嬉しさのあまりスキップをしながら寮へ向かう私の頭に、一枚の桜の花びらが落ちました。私は、それに優しく息を吹きかけて、また帰路につきました。



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運命の模擬レース

初めてトレセン学園のターフで走って、初めてタイムを計った日から、私はナタリーさんに支えてもらい、基本的なトレーニングを行いました。模擬レースの日は何も考えず精一杯走り切ればいいから、それまでは基礎トレをしようとのことです。私はオーバーワークにならないように、でも気は抜かずにできることを少しずつこなしていきました。そして、ついに模擬レース本番を迎えました。

 

「どう、ルドルフ、良さそうな子いそう?」

「そういうナタリーは、見つけられたのか」

「もちろん。とっておきをね。あたいの夢を全て託したよ」

「ほう、私も見つかるといいな、そんな子が。無論、全員に期待を寄せてはいるよ」

 

 

会場は大盛り上がりでした。これからを担う新芽たちの品定めの日です。先輩方やトレーナーさんで溢れています。さらには、シンボリルドルフ会長や、ナタリーさんもいます。もちろん、アイちゃんや、ウールちゃんも今日、出走します。私と同じレースではないのですが。

 

「これなら勝てる」

 

先に走っていたアイちゃんが抜け出しました。周りが抜け出すタイミングを読み切って、一足先に足を早め、綺麗な差し切りでゴールイン。アイちゃんはもうレースの展開を考えて走れていました。長髪を震わせながら走るアイちゃんは、憧れてしまいます。その後も、何レースも行われて、会場の熱も高まり、喧騒が目立っていきました。スカウトは全日程終了後に行われます。次は、ウールちゃんの番です。

 

「やばい、このままだと足りない。差される!けどまだ負けない!」

 

写真判定になるほどの大接戦。結果はウールちゃんがハナ差の二着でした。しばらく落ち込んでいましたが、数分後、私のもとへやってきました。

 

「負けちゃったねー。悔しいけど、しょうがない。次絶対に勝てばいいってだけだからね。そろそろアーちゃんの番かな。最近先輩方と仲良くしてて寂しかったし、その分良いレースしてくれないとあたしすねちゃうからね。なーんて、頑張って!」

「もちろん、ウールちゃんのためにも、頑張るね」

 

ウールちゃんは、グッと親指を立てて着替えにいってしまいました。もうすぐ、私の番です。私と一緒に走る子で、一番期待されているのは、名門出身、コープコートちゃんです。私の場合、2000mを走る模擬レースにおいて、きっとコープコートちゃんの方が適性は上だと思います。しかし、絶対に負けられません。

 

「第12R、入場してください」

 

いよいよ、出番がやってきました。今日までに培った全てをぶつけて、みんなに良いところを見せつけてやります。 

 

「よーい」

 

パンッ。私は力一杯駆け出しました。周りなんて気にせずに、後方待機策にでます。後ろから2、3番手、このペースなら2000mの標準タイム通りに進むはず。緊張はしますが、息は持ちます。落ち着いていけば大丈夫なはず。

 

「そろそろ1000m、至って普通のペースだね、がんばれ、アーちゃん。落ち着いて、全力で走ればいい」

 

残り半分、レースはそろそろ動きを迎えます。全体的に皆速くなり、中団に控えていた子が動き出します。ただ、思ったよりもその数が多いのです。皆焦りからか、このタイミングで全力疾走を始めます。私はそれに慌ててついていきました。第四カーブを迎え、レースは終盤。残り二ハロン。私は思いっきり芝を蹴り上げました。

 

「いけるっ!」

 

風に乗って、順位をどんどん上げていきます。一人、二人、三人。ついに先頭の景色を掴みました。いける、あと少し、残り200m。しかし私は、さらに後ろをまったく読めていませんでした。私が先頭に立った瞬間、横から栗毛が襲ってきたのです。

 

「速い、これじゃ差し返せない!絶対勝たなきゃいけないのに!」

 

走っても走っても、限界を超えかけているのに、願いは届かず、どんどん引き離されていきます。そして、そのままコープコートちゃんはゴールイン。彼女は私をマークしていたわけではありません。全てをなで切ってゴールする。私もその一人だったのです。さらにもう一人に抜かされて、私は三着となってしまいました。芝の上に崩れ落ちて、何分も放心していました。いきなりの挫折、何もかもやめたくなるような気持ちでした。模擬レースとはいえ、私は負けたのです。一番最初のレースで負けました。それなのに、トリプルティアラを取ってみせると調子の良いことをつらつら述べていたのです。昨日まであんなに心地よかった春の風が、私を冷たく吹きさらしました。

 

「アーちゃん、お疲れ様。これは思ったより落ち込んでるね。おーい、声、聞こえてる?」

「ナタリーさん、ごめんなさい。私、負けちゃいました。本当にごめんなさい」

「何勘違いしてるか知らないけど、あたいは褒めにきたんだよ。完璧なレースだった。正直、あたいの思った以上だった。アーちゃんはそんなこと全然思ってないだろうけどね。最初の差なんていつでも覆せるよ。もちろん、落ち込むことも大事だけどね。ほーら、そんな顔しないで、かわいい顔が台無しだよ。これで涙拭いて、ウールちゃんだっけ、来てるよ。じゃあ、アーちゃんのこと、あとはお願い」

 

ナタリーさんにも気を使わせてしまいました。とても悔しいです。自分の弱さが情けないです。でも、こんな顔はウールちゃんには見せられません。ナタリーさんからもらったハンカチで涙を拭って、笑顔をつくってみせました。

 

「負けちゃったのは残念だけど、これからいつでも挽回のチャンスはあるから、あたしはこんな小さな負けなんて気にしてないよ。だから、アーちゃんも落ち込まないで。あたしは、元気なアーちゃんが好きだから。ここでできた最初の友達に、そんな顔をしてほしくないな」

 

二人の言う通りです。こんなとこでくじけていてはいけません。この悔しさをバネにして、もっともっともっともっと成長して、いつかコープコートちゃんにリベンジしてみせます。

 

「心配かけちゃってごめんね、ウールちゃん。悔しい時ほど、笑わないとだよね」

「そうそう、その通り。アーちゃんは良い子だ。ご褒美にあたしがケーキを奢ってあげよう」

 

初めての敗北は大嫌いなゴーヤより苦い味でしたが、二人のおかげで前を向くことができました。気を取り直して、ウールちゃんと食堂に向かいました。この後からはいよいよ、レースを見ていたトレーナーさんたちの、チームへの勧誘が許可されます。それを思うと、いささかの憂慮は感じるのでした。



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トレーナーとの出会い

「おい、あの第1R勝った子。よくなかったか?俺絶対スカウトしてみせるぜ」

「待った、俺も狙ってたんだけど。お前には渡さない、絶対に」

「すいません。第4R二着の子だよね。私のチームに入らないかしら。きっとあなたのためになると思うの」

 

食堂から出ると、もうすでにスカウトが始まっていました。夕焼けが一面に渡って、その中で、トレーナーさんたちの声が響き渡っています。まず一番に引き抜かれるのは、一着を取ったウマ娘。疑いようもなく強いのですから、当然です。続いて二着を取ったウマ娘たち。さらにセンスを認められたウマ娘たち。

 

「結構賑わってるねー。お、あの子人気だね。いったい何人集まってるんだろう、あれ」

 

「コープコートさん、僕のところに入りませんか。あの綺麗な差し切り。僕のところでならもっともっと磨けますよ」

「私のチームは強制しないことをモットーにやっています。伸び伸びと自由に、ラフな感じでトレーニングできますよ」

「どうかうちに来てください!新たな可能性をたくさん示してみせますよ!」

 

私に勝ったコープコートちゃんの人気はすごかったです。当の本人は、ほとんどを軽くあしらっているみたいですけれど。どんなチームが好みなんでしょうか。少し気になります。

 

「フルアダイヤーさん、ダートで勝ちたいとお聞きしました。私のチームに入って、一緒に勝ち上がりましょう。戦術も効率的な練習もたくさんお教えします!」

「分かりました。これからよろしくお願いします」

 

フルアダイヤーちゃんは案外あっさりと決めていました。そこまでのこだわりはないのかもしれません。

 

「みんなすごいね。あたしにはいつ声がかかることやら」

「あの、すいません。ショートウールさんですよね。あなたの、迷わず逃げる精神力と最終直線の粘りに感動しました!ぜひ私と一緒に、クラシック路線で走りませんか?」

「あ、あたしですか。そんなに言われたらしょうがないですねえ。いいでしょう、共に皐月の舞台を目指そうじゃありませんか!」

 

ついにウールちゃんにもスカウトのトレーナーがやってきました。どうやらこれから色々と決めないといけないことがあるみたいで、トレーナーさんに連れられてどこかへ行ってしまいました。私はその背中をただ見つめることしかできませんでした。行き場をなくした私は、光の当たらないソメイヨシノの下で、散った桜を眺めていました。

 

「やっぱり、私だけ残っちゃったな」

 

恐れていた気持ちが、胸いっぱいに膨らんで、ここぞとばかりに心臓を締めつけます。この現実から、どうして目を背けられるでしょうか。途方もない孤独感が後から襲ってきました。何もすることが無くなってしまったので、皆がいないターフの反対方向へ、寮の方へ、何も考えないようにして、歩き始めました。

 

「突然ごめんなさい、アリアンスさんで合っていますか」

 

私を引き止めたのは、どうやらトレーナーさんのようでした。背が高く、キッチリとしたスーツを着こなすエリートサラリーマンのような方でした。

 

「はい、そうですけど。どうかしましたか」

「私はトレーナーのユウといいます。アリアンスさん、あなたは間違いなく新入生で一番強いウマ娘になります。先ほどのレースを見て確信しました。ぜひ、そのお手伝いを私にさせていただけないでしょうか」

 

このトレーナーさんは何を言っているのだろうと思いました。ただ、今はそんなことより、自分を勧誘してくれる人がいるだけで嬉しくて、長考なんてとても難しかったです。

 

「はい。ぜひお願いします。ユウさん」

 

私の返事を聞いたユウさんは安堵と歓喜を隠しきれない様子で、慌ただしく荷物を漁り始めました。きっとこれからユウさんのチームで、色々と手続きをするのです。

 

「アリアンスさん、これからよろしくお願いします。もっとフランクに話してもらっても大丈夫です。僕もそうしますから」

 

年上の方に砕けた言葉遣いで話すなんて、とても今の私には難しかったです。これも、信頼のためなので、少しずつ頑張っていこうと思います。そして当然気になることは、私を選んでくれた理由でした。

 

「あの、私のどんなところを良いと思ったんですか?」

「もちろん、あの体幹の強さです。軸が全くぶれることがないので、無駄な体力消費が全くありませんでした。ここまで完璧だとウマ娘のレベルでは大きな差になります。鍛え上げることでできあがる体幹の強さには、限界がありますから」

 

その時、ナタリーさんの言葉を思い浮かべました。ユウさんは、ナタリーさんと同じことを言っています。彼は、あらゆるウマ娘を見ながら、私のこの唯一の武器にも気がついていたのです。その事実だけで、十分に信頼できます。彼についていけば間違いない、そう思いました。

 

「あとは、こっちも同じくらいすごい凄いことなんですが、タイムの把握能力が頭一つ抜きん出ていました。数秒単位で正確にレースのペースを掴んでいました。そうでなければ、あんなベストタイミングでラストスパートをかけられるはずがありません。正直、アリアンスさんしかいないとはっきりと思いました」

 

ナタリーさんでも気づかなかった、私自身でさえも意識したことがなかった私の得意技。やっぱり、トレーナーの方たちはすごいです。ユウさんと一緒にトリプルティアラを目指そう、そう強く改めて思いました。

 

「ところで、ユウさんのチームには他にはどんな子がいるのですか」

「それが、僕は事情があってあまり他のトレーナーの人たちと仲が良くなくて、だからアリアンスさん以外にはチームの子はいません。今のところ欲しいとも思わないです。やっぱり嫌ですか?」

「いえ、そんなことないです。変なことを聞いてしまってごめんなさい」

 

少し面食らってしまいましたが、一対一で教えてもらえるならその方が改善点を見てもらえるとも思いました。ですが、なぜ嫌われているのでしょうか、それが少し気になりました。ユウさんがとても優秀なトレーナーだということは、さっきの態度から私でも分かります。

 

「全然大丈夫です。それでは、明日からよろしくお願いします」

 

去っていってしまいました。私も夜風に肌寒さを感じたので、寮に戻りました。その日は、バニラのような淡い色の満月が、大きくほほえんでいました。

 

 

校長室のような格式ばった蘇芳色の戸。力を込めるとそれは鈍い音を立てて。少々冷えた空気が肌に刺さった。

 

「ここのスカウトに参加するなら、事前に申請書の提出をお願いしたはずですが」

「申し訳ございませんでした、ルドルフ生徒会長。周りから強い疎外を受けておりまして。なかなか難しかった次第です」

 

ルドルフの隣にいたエアグルーヴが鋭い睨みを効かせていた。その気迫からは女帝の強い慢侮を見て取ることができた。

 

「たわけが、あの天才の子がそれでは、先が思いやられるな」

「あれを天才と呼ぶあなた達も、私には随分滑稽に思えますが」

 

目を見開かせて、もう一度言ってみろ、次は無い。そう言っているように思えた。エアグルーヴが一歩前へ進んだ時、ルドルフが口を開いた。

 

「やめてくれ、エアグルーヴ。ユウトレーナー、あなたの処罰は追って決定します。今日伝えたいことは以上です。ところで、規定違反まで犯したあなたの目に光ったウマ娘は、見つかっただろうか」

「もちろんです。あの子は、絶対にG1を取ります」

 

それは楽しみだ。嘲るような口調でエアグルーヴが放った。僕は絶対に成功してみせる。親父とは違うやり方で、ウマ娘たちを導いてみせる。僕は蘇芳色の戸を乱暴に開いた。



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(番外編)一話 天才の子

僕の父は天才と呼ばれていた。ウマ娘に関するあらゆる知識、コースに関するあらゆる知識、レースに関するあらゆる知識を極限までに詰めた、辞書のような人だった。それがトレーナーとしての才を否応なく育んだのだ。自身に収納されているあらゆる知識から、ウマ娘を型にはめて、データから適切な手段を選択し、与える。ある種、一つの機械のような人だったのかもしれない。歩くフローチャートと呼んでもいいかもしれない。型にはまったウマ娘は成功した。レールを敷かれて、その上を一歩一歩踏みつけるように歩いていくことで、ある程度安定した成功が得られたのだ。だから天才と呼ばれた。どんなに見込みがないウマ娘でも、彼の手にかかれば、圧倒的なデータ量によって、強引にレールの上を歩くような存在へと変えられてしまう。そして成功する。周りは当然、結果だけを見て、狂気の歓声をあげるのだ。ただ、そんなものは果たして成功と言えるのだろうか。確かに安定して強いウマ娘を育てられることは、称賛されるべきで、天才なのかもしれない。しかし、それは同時にウマ娘たちの、名誉以外の全てを奪っているではないか。「型」にはまればどんなウマ娘でも等しくなるのだ。それでは、ウマ娘たちの意見はどうなる。夢はどうなる。データという理由だけで、彼女たちは出たいレースにも満足に出られないのだ。彼女たちが出たいと思ったレースは、父のデータに合わないから選択肢から消される。それはあんまりではないのか。当時まだ幼かった私にはそんなことは理解できず、父を心の底から尊敬していた。数年後、彼の権威を落としかねない出来事があった。あるウマ娘をチームに引き入れた際、そのウマ娘はどのデータにも当てはまることはなく、何年経っても全く成果を残すことができなかった。彼の全てが通用しなかったのだ。彼はそのウマ娘を引き入れるまでは、G1制覇の申し子として、確固たる地位を確立していた。彼が引き受けたウマ娘で、G1タイトルを取ることができずに引退したウマ娘は一人たりともいなかった。ゆえに、今回の事件は彼の周りにも、彼自身にも強く響いた。自分の過ちが世間に露呈することを恐れた父は、そのウマ娘をチームから捨てるように追放し、別の零細チームへと送り込んだ。父は界隈でも影響力が当然強く、父を非難するものはいなかった。僕はこれを聞いて、胸が裂けるような思いがし、父を激しく軽蔑した。僕が憧れていた人は、自身を頼みにして敷いたレールの上を無理やりに走らせるだけではなく、自分のためなら平気でウマ娘を捨てるような悪魔だった。二重の方法でもって、ウマ娘の個性と未来を潰した人間だったのだ。それを知った日から僕は、父の教えを全て無視し、時には反抗するようになった。さらに、父の目を盗んでトレセン学園に、本当のウマ娘たちの生き様をこの目に焼きつけた。それを繰り返すたびに、僕が守るのは自分ではなく、ウマ娘なんだと強く意識するようになった。それは当たり前のことだが、僕はウマ娘の未来も夢も、そして過去も、全てを守り笑顔で引退させたいのだ。そのために、父から学んだ事は基本的な事項のみを記憶し、その他には、医療関係など、あらゆる知識を頭に叩き込んだ。いつしか父は僕に対しての愛情は冷め切り、お前じゃオープンすら勝たせられないと蔑むようになった。父の手回しで、レースの情報やウマ娘の情報が入ってくることは少なくなったが、二十歳になり、なんとかトレセン学園のトレーナーとして働くことができるようにはなった。一応、天才の息子として、トレーナー試験の成績も優秀だったために父以外は期待の眼差しを向けていた。そんなある日のことだった。

 

「今日は模擬レースだな。今年はどんなエリートが発掘されるんだろうな」

「やっぱりメジロ家は外せないよな。最強のステイヤーの卵がまた生まれるかもな」

 

周りのトレーナーが騒いでいる。今日は模擬レース当日だった。父の影響から僕はトレセン学園内でもいささか肩身の狭い思いをしているので、安易に校内を出歩くことはできないが、模擬レースを見て、勧誘くらいなら当然できる。申請書もなんとか提出し終えて、正直浮かれていた。僕が初めてのパートナーはどんな子なんだろう。絶対に幸せな学園生活を送らせてみせると、そう意気込んでいた。

 

「おい、あいつが天才の息子らしいぜ。試験満点だったってよ」

「嘘、意外とイケメンじゃん。わたしあの人のトレーナーになりたいわ」

「何言ってんだよお前。でもいいよな、天才の息子ってだけで、どんな強いウマ娘もチームに入れられるんだろうな」

 

思わず歯を食いしばった。やはり自分は、周りからはあの父と同じに見えるらしい。煮えたぎる気持ちを押さえつけて、深呼吸した。こんなのにかまっていてはいけない。せっかくの気持ちが乱れてしまった。もう気にしないようにしよう、そう決めた。



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(番外編)二話 瞳に映るダイヤの原石

午後一時、模擬レースの第1Rが始まった。さすがの一番人気の走りは他とは一味違っていて、会場を席巻した。時間は流れ、次々とウマ娘が自分の持つ全てを使ってレースに臨み、実力を見せつけていった。その姿に、周りのトレーナーは、まだ全ての日程が終了していないにも関わらず、あの子をスカウトするだの、あの子は絶対に引き入れるだのと騒いでいた。僕は、周りの声を一層遮断して、ウマ娘のレースだけを分析するのに注力した。迎えた第12Rに、その子はいた。

 

「その分良いレースしてくれないとあたしすねちゃうからね。なーんて、頑張って!」

「もちろん、ウールちゃんのためにも、頑張るね」

 

そこには、卯の花色の艶やかな長髪を腰まで届かせたウマ娘がいた。友人からの応援を受けて、今、ゲートに立った。そして、

 

「よーい」

 

パンッ。始まった。序盤は熾烈な位置取り争いはなく、それぞれが牽制し合っているような展開になった。ただ一頭、明らかに目を見張るウマ娘がいた。さっきの天使のようなウマ娘。その子が僕をこの上なく惹きつけたのだ。重心が全くぶれることなく、疲労を最小限に抑えて走っている。このレースの一秒一秒を見逃さないわけにはいかなかった。

レースは後半を迎えて第四コーナー。勝ちを急ぐあまり無闇に速度を早めるウマ娘が目立つ中、良いタイミングで抜け出してきたウマ娘がいた。コープコートだ。しかし、それに劣らず完璧なタイミングでスパートをかけたウマ娘がいた。圧倒的な平衡感覚を持つアリアンスだった。その後はこの二人の激しいつばぜり合いだったが、アリアンスが失速。結果はコープコートの完全勝利に見えた。しかし、僕の目にはアリアンスしか映っていなかった。あの体幹と、完璧なラストスパートを裏づける体内時計。この正確さが本物なら、鍛えることができれば、タイムからどれだけ周りが疲弊しているかを正確に導き、かなり有利に立てる。この子は絶対に強くなる。僕と共に歩んでいってほしい。この子を全力でスカウトすることに決めた。しかし、彼女は芝の上で崩れ落ちていた。彼女は三着だったが、結果だけを見ても、決して悪くはないレースだった。普通のウマ娘ならむしろ喜ぶ子もいるくらいだろう。きっとあのレベルになると目標も高く持っているのだろう。そう思った。けれど、この敗北が堪えたならば、アリアンスはもっと強くなる。だから今はそっとしておいた方が良いだろう。僕はかなり遅めの昼食を食べるために、校外へ向かった。

 

辺りは月が顔を出し、暗がりが姿を見せ始めた。生徒会と揉めてしまい、すっかり遅くなってしまった。まだアリアンスはいるだろうか。ターフにはいなかった。仕方がないので寮付近を探していると、桜の木の下で、俯いているアリアンスがいる。他のトレーナーからスカウトを受けて、引き受けていないだろうか、それだけが心配だった。彼女はおもむろに立ち上がり、寮へ歩き始めたので、急いで引き止めた。

 

「突然ごめんなさい、アリアンスさんで合っていますか」

「はい、そうですけど。どうかしましたか」

「私はトレーナーのユウと言います。アリアンスさん、あなたは間違いなく新入生で一番強いウマ娘になります。先ほどのレースを見て確信しました。ぜひ、そのお手伝いを私にさせていただけないでしょうか」

 

率直な思いを彼女に打ち明けた。あの走りはダイヤの原石に違いない。僕には光り輝く鉱石に見えてしまった。エメラルドでもいい、アメジストでもいい、どんな色にも光り輝く原石に。彼女はしばらく驚いた顔を見せていたが、しばらくして言葉を紡いだ。

 

「はい。ぜひお願いします。ユウさん」

 

本当によかった。その思いだけで頭がいっぱいになった。そうと決まれば、色々と段取りをつけなければいけない。初めての仕事だ、アリアンスのためにも、絶対に失敗してはならない。

 

「あの、私のどんなところを良いと思ったんですか?」

「もちろん、あの体幹の強さです。軸が全くぶれることがないので、無駄な体力消費が全くありませんでした。ここまで完璧だとウマ娘のレベルだと大きな差になります。鍛え上げることでできあがる体幹の強さには、限界があります」

 

彼女は自分自身で気がついていないようだった。周りから勧誘を受けていない様子だったので、周りも気がついていなかったのか。彼女は少し笑みを漏らしながら、明らかに喜びを隠し切れていなかった。これからの自信に繋がっていってくれれば幸いだと思った。その後、彼女にチームメンバーについて聞かれた。僕はそういうのをつくる気は全く無かったのだが、アリアンスが望むなら希望の子を何人かスカウトさせていただこうとは考えた。できればの話だけれど。そして、アリアンスは寮へと戻っていった。僕は、肩に張りつく鬱陶しい問題を片づけるために、生徒会長室へと歩を進めた。

 

 

 

「ここのスカウトに参加するなら、事前に申請書の提出をお願いしたはずですが」

「申し訳ございませんでした。ルドルフ生徒会長。周りから強い疎外を受けておりまして。なかなか難しかった次第です」

 

僕は確かに提出した。誰かが裏で工作したに違いない。全く呆れた、そんなことしかできないなんて。面倒だったので、適当なことを言ってお茶を濁した。ルドルフの隣にいたエアグルーヴが、鋭い睨みを効かせている。その気迫からは、女帝の強い慢侮を見て取ることができた。

 

「たわけが、あの天才の子がそれでは、先が思いやられるな」

「あれを天才と呼ぶあなた達も、私には随分滑稽に思えますが」

 

天才、天才、天才。父を称える言葉はそれだけだった。頂に立った者たちでさえ、もしくはだからこそ、父を称賛し、経歴のみを見てしまうのか。経過などどうでもいいのか。これにも呆れて言葉が出なかった。エアグルーヴが目を見開かせて、もう一度言ってみろ、次は無い。そう言っているように思えた。彼女が一歩前へ進んだ時、ルドルフが口を開いた。

 

「やめてくれ、エアグルーヴ。ユウトレーナー、あなたの処罰は追って決定します。今日伝えたいことは以上です。ところで、規定違反まで犯したあなたの目に光ったウマ娘は、見つかっただろうか」

「もちろんです。あの子は、絶対にG1を取ります」

 

それは楽しみだ。嘲るような口調でエアグルーヴが放った。僕は絶対に成功してみせる。親父とは違うやり方で、ウマ娘たちを導いてみせる。蘇芳色の戸を乱暴に開いた。



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初戦に向けて

「やっと終わった。アーちゃん食堂行こー」

「うん。今日はオムライスにしようかな」

 

昼休憩に入りました。小腹が空いたら購買でもいいんですけれど、基本は私とウールちゃんで食堂で食べます。ウマ娘は基本的に普通の人よりもたくさん食べるので、尋常じゃないくらいのジャーがセットされていたりします。

 

「私、最近ちょっと食べ過ぎかも。これじゃ太っちゃう」

「まあまあ、育ち盛りだしいいじゃんいいじゃん。おかわりならあたしがいつでもとってきたげるから。たくさん食べて、午後はたくさん寝よう!」

「授業はちゃんと起きないとね。ウールちゃん」

「冗談だってば、そんな怖い顔しないでよー。せっかくの可憐なアーちゃんが台無しだぞっ」

「もうその手には乗らないんだから。全くもう、ウールちゃんたら」

 

ウールちゃんと一緒にいると本当に楽しくて、この前も、落ち込んでいた私を慰めてくれて、クラスでもムードメーカーのような存在です。いつか一緒にトレーニングしたり、レースに出走したいなとずっと思っています。昨日、ユウさんは私を見つけてくれて、そのおかげで、今日から本格的にメイクデビューへ向けてトレーニングが始まります。そのためにも、やっぱりご飯はいっぱい食べた方がいいと思うのですが、どうしても体重が気になってしまいます。

 

「そろそろデビューに向けての練習も始まるもんね。どう、アーちゃんとこのトレーナーさん。ビビッときた?」

「ビビッときたかは分からないけど、私をすごく褒めてくれて、自信がついたの。せっかく私を選んでくれたんだから、期待に応えられるように頑張らないと」

「アーちゃんにここまで言わせるなんて。紳士なんだか、罪深いんだか、こっちもボチボチかな。何事も基礎がなってなきゃ始まらないからね、筋トレだよ、筋トレ」

 

ウールちゃんとトレーナーさんとの関係も良好そうです。今朝、ユウさんとお話しする機会があったのですが、とりあえず今は、レースに関する方針について一緒に決めていきたいそうなので、考えておいてほしいそうです。自分なりにノートにまとめておきました。

 

「そういえばさ、アーちゃんとこのトレーナーさん。ユウさんだっけ。あの人のお父さん、天才って呼ばれるくらいトレーナーとしての実力が高かったらしいよ。だから、もしかしたらユウさんもすごい人なのかもね。そんな人にスカウトされるだなんて、。やっぱりアーちゃんもレースの才能あったんだよ!あたしの見立てに間違いはなかったのさ」

 

全く知りませんでした。ユウさんはそんな話を一切しなかったので。より一層期待が高まってしまいます。私はそんなすごい人にスカウトを受けてしまったのです。もぐもぐ、お箸を運ぶ手が止まりません。このままだと、結局食べたいだけ食べてしまうことになりそうです。これもユウさんと話をしなければいけません。人生で体験したことのない食事制限への雀の涙ほどの不安を持ちながら、昼休憩は終わりを迎えました。

 

 

「何かアイスとかいる?せっかくだから買ってくるよ」

「いえ、全然気にしないでください」

「そうか、それなら。コホン、じゃあさっそく今後のことを少し話すと、当分はメイクデビューのために、基礎的なトレーニング、例えば外周を走ったりとか、体力づくりが中心になると思う。あとは、近くなってきたら、今戦術について考えてることが一つあるから、それの特訓もしていこう。それで、そのメイクデビューの後の出走レースについてなんだけど」

 

ユウさんは淡々と話してはいますが、やっぱりすごいです。私一人では考えられそうにありません。それは置いておいて、メイクデビューの後はもちろん、トリプルティアラ。私の中にはそのフレーズがしっかりと浮かんでいました。

 

「その、ユウさん。私、トリプルティアラを目指したいです。夢なんです。美しく咲く女王の舞台。そこの頂を見てみたいです。だから、そのためにレースのプラン組めたらと思います」

 

ユウさんは今までで一番真剣な眼差しで私の意見を聞き、メモを取っていました。否定することもなく、うなずき、相槌を打ちながら万年筆をサラサラと動かしていました。

 

「トリプルティアラの夢。本当に美しい夢だよね。僕は、それが暗く過酷な道だとは思わない。手の届くところに絶対にあるよ。それを僕が、絶対に取らせてみせる。一緒に頑張ろうね」

 

真面目な顔をしていたユウさんが、張り詰めた顔の糸をひゅっと緩めて、私に安堵をくれる笑顔を見せました。トリプルティアラを難しくないと言ったのはユウさんが初めてでした。私を不安にさせないためについた嘘とは到底思われなくて、君ならできる、そう後押ししているように聞こえました。

 

「アリアンスの適正コースとか、戦略については少しずつ色々分析していこう。色々今後のことをまとめてから向かうから、先にコースに行っておいてほしい」

 

私は頭を少し下げてお礼をして、トレーナー室を後にしました。初めて訪問しましたが、部屋に飾ってあった桃色のリードディフューザーが鼻腔をくすぐって、清涼感のある部屋でした。



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トレーニングを終えて

ターフで準備運動の後、軽くランニングしていると、ユウさんがやってきました。

 

「ごめんね、結構遅れてしまった。もう結構走ってたんだね。そういうことなら今日はちょっとメニュー変えようか」

 

周りのウマ娘たちも辛いトレーニングメニューの中で、その目に期待と希望を宿して一生懸命でした。ユウさんは恐らく練習メニューが書かれたバインダーを見ながら、何か考え事をしているようでした。

 

「今日からしばらくは、足の柔軟性、主に足首の柔軟性を鍛えていこうと思う。アリアンスの武器であるブレない体幹を最大限に活かすために必須になる。足首を柔らかくしても、バネの力で弾みをつけて前へ前へと進むのは、なかなか難しいんだ。でもアリアンスの平衡感覚があれば、スムーズに足首の力を前へ伝えられる。そうすればさらに大きな差になっていく。スピードを上げるためにたくさん走ったりすることは大切だけど、まずはここからやっていこう」

「分かりました。何をすればいいですか」

「ありきたりかもしれないけど、まずは柔軟から、準備運動とかしてるだろうし、もうやったかもしれないけど、結構多めにやってもらう。その後で少しずつ身体を走らせていこう」

 

トレーナーの方たちはやっぱりすごいです。ウマ娘一人一人を正確に分析して、的確なアドバイスを与えてくれます。その想いに応えられるよう、私も頑張らないと。気合を入れるように、足首を十分に回して、色々なストレッチを始めました。

 

時刻は午後六時、ターフをなかなかのスピード駆け抜けて、それでユウさんから練習終了のお呼び出しがかかりました。

 

「今日はお疲れ様。絶対にトレーニングの後はストレッチをするように。全速力で走ってもいいけど、あくまでもしばらくは柔軟優先でお願いします。まずストレッチ、その後に走行練習、最後にストレッチ。怪我防止にもつながるから、忘れないように。ほんと、初日だけどよくやってくれた」

「明日からもがんばりますね。お疲れ様でした」 

 

スポーツドリンクを奢ってもらいました。言われた通りにストレッチをして、汗を拭きながら寮へと向かいました。肌着を抜ける夜風が涼しかったです。

 

「アーちゃん、お疲れ様。どうだった、あのトレーナーは」

「とても熱心に指導してくれました。もっと頑張らないとですよね」

「変なやつだったらぶっ飛ばしてたけど、あの調子なら大丈夫そうだね、アーちゃんに目をつけるセンスもバッチリみたいだし」

 

ナタリーさんが、くくっと八重歯を見せて笑っています。ユウさんはナタリーさんのお墨付きをいただきました。ベッドに力なく横たわる私を見て、気を利かせてお茶を入れてくれました。温かい緑茶は、喉を通る瞬間まで存在を感じられて、疲労困憊の身体には染みました。

 

「風呂入っといでよ。今日はもう疲れてるでしょ」

「はい、そうします」

「一緒に入る?」

「だ、大丈夫ですから。からかわないでください」

 

思わず顔を紅潮させる私にナタリーさんはまた八重歯を見せてくくっと笑いました。そんなふうにからかわれるのはあんまり慣れていません。高まる含羞の思いにさっさと部屋を出て、小走りで浴場へと向かいました。浴場のドアを開けると一瞬にして温かい湯気に包まれて、それは一日取り組んだ本気の練習の疲れを包み込むようでした。今日のお風呂はいつもと全く違って、疲れが湯船にすっと吸い込まれていくような、お風呂と一体化して溶けていってしまうような気持ちでした。こんな感覚は初めてです。あまりにも心地良いので、一時間近く入ってしまって、のぼせながら、半分意識のないまま部屋へ戻りました。

 

「まあまあ長く入ってたね。これまたお疲れ様。そんな顔真っ赤にして、湯気出てるよー。ほんと、真っ白で綺麗な肌だねー」

 

私の頬をツンツン突いてきます。正直、もう動けません。ナタリーさんの指を払う気力も湧きません。晩ご飯も食べないでここまでやってきたので、お腹もペコペコです。

 

「お邪魔しまーす。アーちゃんいますか?あ、先輩、どうもです。そのお姫様がアーちゃんですか?リボン解くと印象変わるね、ほんと美人さんだなー」

「持ってくかい。この子まだご飯食べてないから、ぜひ連れてってあげてくれると助かるなー」

「それならちょうどよかったです。アーちゃん、食堂へレッツゴー」

 

お風呂上がりで少し艶かしくなったウールちゃんが部屋を訪ねてきました。髪からフルーツの良い匂いがしました。そのまま話の流れで、疲れ切って足が棒のようになってしまった私を引っ張っていくのでした。

 

 

「七時かー。結構遅くなっちゃったね。アーちゃん眠そうだし、激辛カレーでもいっとく?」

「もう、ウールちゃん。私が辛いのダメなの知ってるくせに」

 

他の子たちはもう夕食を食べ終わったのでしょうか。全く他のウマ娘がいないというわけではないのですが、時間の割には閑散としていました。食堂の大きな窓からは白月が顔を覗かせていて、いっそう静寂が意識されました。

 

「じゃああたしはにんじんハンバーグひとつ。アーちゃんは甘口ねー」

 

辛いのは苦手ですが、中辛くらいなら食べられるのに。ウールちゃんは私をお子様だと思っています。二人揃えて手を合わせ、いただきます。カレーの刺激に、さっきまではすぐそこまで迫ってきていた眠気は、どこかへ飛んでいってしまいました。スプーンの音が広い食堂に反響しています。

 

「このカレー、あんまり甘くないよ」

「お、その調子じゃ中辛もいけないかな?」

「そういう意味で言ったんじゃないです!」

 

ニヤリと狡猾な笑みをウールちゃんが見せました。さっきのナタリーさんと少しだけ似ていました。ウールちゃんは早々に食べ終わっておかわりしていました。大食いです。さすがウマ娘。私もそうなのですが。食は細い方だと自分でも思います。

 

「ごちそうさまでした」

 

二人の声が響き合います。コップの水を飲み干して、食堂を出ました。明日の授業や用意のことを確認して、お互いの部屋へ戻っていきました。部屋へ戻ってきた途端鋭い眠気が襲ってきたので、なんとかそれに抗いながら歯を磨きました。

 

「じゃ、電気消すね」

 

その日は、夜の出来事が全部夢に思えてしまうほどよく眠れました。



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トレセン学園中間テスト!

パサッ。ナタリーさんが思いっきりカーテンを開いて、朝の元気いっぱいな日差しが突き刺さりました。キジバトやスズメのさえずりの中で、私は目を覚ましました。もう少しだけ目を瞑っていたかったですが、重いまぶたをなんとか開かせて、ベッドから這い出ました。

 

「おはよ。よく眠れたみたいだね。よかったよかった。あたいはもう行くから、遅刻しないようにね」

 

耳をピクピク震わせてナタリーさんは出ていきました。私も眠気もそこそこに、髪を整えて、支度をして、朝食を食べに食堂へ向かいました。

 

 

「アーちゃんおはよ」

 

教室に入ると、半分目を閉じているウールちゃんがいました。事情を聞いてみると、これからの練習のことを考えていて、あまり眠れなかったそうです。それになんだか物欲しそうな目で私のことを見ています。これは、ノートを見せてほしい時の目です。

 

「早起きしてやろうと思ったんだけど、てへ。ということで、見せて、お願い!」

「もう、今回だけだよ。次はないんだから」

「助かったー。アーちゃん大好き」

 

ウールちゃんは調子がいいです。この調子だと、次は数日後になりそうです。貸してしまう私も悪いのですが、どうしても断れません。レースのことを考えていたのなら、ちょっとだけご愛嬌です。私も鬼じゃありません。

 

「そういえば、私たちのメイクデビューはいつになるんだろうね」

 

忙しなく手を動かす傍ら、ウールちゃんがこぼしました。まだトレーナーさんからは特に聞いてはいませんが、早くて七月くらいになるだろうとのことです。いつになるかは分かりませんが、少しずつ強くなれるようにトレーニングしないといけません。

 

「こんなことやってる暇は無いというのに、全くひどい先生たちだよね」

「勉強も頑張らないとダメだよ。私、文武両道なウールちゃんが好きだな」

「なっ。その言い方はずるいんじゃない?分かりましたよ、やりますよー」

 

さっきはレースのことを漏らしていましたが、今度は愚痴をこぼしながら私の課題を写していました。なんとか一限までには終わったそうです。始業のチャイムが鳴りました。

 

 

今日も一日の授業が終わりました。いよいよこれからトレーニングです。はやる気持ちを抑え切れず、ユウさんのもとに向かいました。

 

「ちょうどいいところに。メイクデビューのことなんだけど、順当に七月ごろになりそうだよ。結構期間がありそうに見えるかもしれないけど、意外と早く過ぎてくから、コツコツ努力を積み重ねていこう」

 

元気よく返事をして、今日もトレーニングが始まりました。炎のような残映が見守る中、私を含めた多くのウマ娘が、自分を追い込み、努力の汗をにじませていました。ウールちゃんやアイちゃん。それに、憧れのナタリー先輩やユウトレーナー。トレセン学園に入学する前は、色々な不安も抱えていましたが、私の四月は、最高の出会いで始まりました。これから、たくさん辛いこともあると思います。でも、それでも、みんなと一緒に乗り越えていこう、そう考えられる仲間と出会えたと感じます。練習が終わって部屋に戻って、そんな思いがふと頭をよぎりました。考えれば考えるほどこれからへの期待で胸がいっぱいになってしまって、いてもたってもいられません。なので、この思いを手紙でお母さんに届けることにします。

 

「拝啓、お母さん。私は、最高の仲間と出会うことができました。これからもっと練習して、お母さんに成長した姿をレースで見せられるように頑張ります」

 

他にも、もうすぐ中間テストがあること、国語が意外と難しくて、勉強が捗らなかったこと。学園の様子や行事について、先輩方のことなど、様々なことを認めました。最後にウールちゃんと撮った写真を同封して、完成です。お母さんを安心させてあげられるような手紙になっているでしょうか。自分の机に置いてある家族写真を見ていると、自然と笑みがこぼれました。お母さん、あなたが夢見た舞台へ、私は立ってみせるから。そう改めて誓いました。そろそろ寝ようと思っても、まだまだ浮き足立ってしまって、その日は目を閉じてもなかなか眠れなかったです。



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ウールちゃんとお勉強

一話分抜けていました。誠に申し訳ございません。


「やばいよやばいよ、テスト近いけど何にもやれてないよー」

 

入学してから数ヶ月。相変わらず今日もウールちゃんが焦っていました。アイちゃんには無視されたそうです。トレセン学園では来週からテストが始まります。ウールちゃんは、いかにも勉強していますよというような雰囲気を出していましたが、やっぱり嘘でした。さすがにまずいと思ったのか、助けを求めてきました。私は人並みには勉強していると思うので、悲惨な結果にはならないと思いますが、社会が少し苦手です。

 

「ねえねえアーちゃん、今日ちょっとそっちの部屋行っていい?勉強教えてよ。お願い!」

「そう言われる気もしたから、準備しておいたよ。今日、待ってるね」

 

心がゆるんだのか、小さくガッツポーズをするウールちゃん。大変なのはここからなのに。テストの一週間前からは、トレーニングより勉学優先となります。勉強を完璧に仕上げて、テスト対策もバッチリなのか、ターフで走っている子もいます。例えば、アイちゃんとか。アイちゃんはご存知の通り、模擬レースでも華麗な差し切りで一着、早くもメイクデビューでの勝ちが期待されています。さらに勉強も完璧にこなしていて、私の憧れです。交流も兼ねて、分からないところを質問する機会を伺っているのですが、基本一人で過ごしていて、なかなか近寄りがたい雰囲気を出しています。いつか一緒にお出かけできたらいいなと思っています。

 

放課後、ウールちゃんと一緒に寮へ向かっていると、ユウさんに会いました。

 

「あ、ユウさん。こんにちは」

「お疲れ様。勉強の調子はどう?」

「今からウールちゃんと一緒に勉強するんです。ユウさんもどうですか」

「トレーナーは寮へは入れないから遠慮しておくよ。二人とも頑張ってね」

「おー、これがアーちゃんのトレーナーさんですか。ふむふむ、どうも、いつもうちの子がお世話になっております」

「こちらこそ。アリアンスは驚異的なペースで成長しているから、きっとメイクデビューでは良いレースを見せれると思うよ」

 

なぜかウールちゃんの子どもになっています。ユウさんも笑顔で当たり前のように流さないでください。

 

「だってアーちゃん!あたし期待しちゃうなー。じゃ、トレーナーさん、また機会があったらご指導よろしくです」

「ユウさんも頑張ってくださいね」

 

ユウさんは軽く微笑んでトレーナー室へと帰っていきました。それを見届けて、私たちも寮へ歩き出しました。

 

 

「ところでアーちゃん。さっきは大胆だったね。ウールちゃんは二人があそこまでの仲になってるだなんて思わなかったなー」

 

部屋で机などを準備していると、唐突にウールちゃんが口を開きました。何の話をしているのか、全く見当がつきませんでした。

 

「いやん、はぐらかしても無駄だよ、アーちゃん。トレーナーさんをお部屋に招待しちゃうなんて、ほんと大胆だよね。あの大人しいアーちゃんが、そんな勇気のいることをするだなんて……だいたい、それを断るトレーナーさんもトレーナーさんだよね、全く。こんな可憐でお人形さんみたいな美少女ウマ娘がお部屋に招待してるのに」

「な、何を言ってるのウールちゃん!そんなんじゃないから!」

「お、照れてる照れてる。ほんとかわいいなー」

 

トレーナーさんをそんな目で見るなんて言語道断です。でも、そういう発言だと捉えられたかもしれないと思うと、顔から火が出るような思いがして、とにかく取り乱しました。思わず机に置いてあったマグカップを手に取り、お茶を飲み干しました。

 

「そういうこと言うなら、もう勉強教えてあげないんだから。ウールちゃんなんて嫌いだもん」

 

仕返しのようにわざとらしくそっぽを向く私。ウールちゃんは、ごめんごめんとやる気のない謝罪を述べながら頭を下げていました。

 

「許してよー。今度アイス奢ったげるから」

「もう、今回だけだよ。次変なこと言ったらもうノートも見せてあげない」

「それは困る。許してくださいませ、アリアンス様」

 

さっきまでの態度とは打って変わって、今度は土下座までしてきました。こんなことまでされて許さないわけにもいきません。ですが、ここまで気持ちのこもっていない土下座もないと思います。アイスは奢ってもらいますけど。

 

「よし、それじゃさっそく。ここ分からないんだけどさ、教えて!何でここがこんなふうに変形できるのかさっぱりで」

「ここはまず、右辺を平方完成してね」

 

それから、私たちの勉強会は何時間と続きました。お互いに課題を終わらせて、私は苦手な社会を中心に、ウールちゃんは苦手な数学を中心に、私に質問しながら懸命に問題と向き合っていました。ウールちゃんはなんだかんだ言って、嫌いなことでも苦手なことでも本気で取り組めるから尊敬します。冗談も言いますが、決めるときはしっかり決めてくれる、私の学園一の友達です。キリをつけて、夕食を食べようという話になり、部屋を出ようとしたら、ちょうどナタリーさんが帰ってきました。

 

「今日は二人なんだ、勉強熱心で偉いね。分からないことがあったらあたいを頼ってもらって全然いいよ。二人ならいつでも大歓迎」

「まじですか、やった。先輩がいるなら敵無しですよ!」

 

ウールちゃんが目を輝かせてナタリーさんに向かっています。

 

「頼れる先輩がいて助かったね、ウールちゃん」

「これで今日のご飯が三倍おいしくなる!」

 

口笛を吹きながら、あからさまな上機嫌で食堂へと向かうウールちゃんなのでした。



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コープコート

私たちがいつも使っている席に、思ってもみなかった先客がいました。

 

「あれ、コープコートじゃん。珍しいね、食堂にいるの」

 

コープコートちゃんがいました。いつもは食堂ではなく購買で軽めのパンなどを買っているみたいなのですが、今日はここでにんじんハンバーグを食べていました。

 

「なによ、いちゃ悪い?私だってハンバーグくらい食べたくなるわ」

 

獲物を睨みつけるような目でウールちゃんを見ています。コープコートちゃんは名門出身のお嬢様ということもあって、食事にもかなり気を使っているのです。その証拠に、せっかくのにんじんハンバーグなのに、一番小さいサイズです。サラダは超大盛りなのに。

 

「ここ、使うの?邪魔して悪かったわね。すぐ移動するわ」

「待って、コープコートちゃん。せっかくだから一緒に食べたいな。私、コープコートちゃんに聞きたいことたくさんあるの」

「そ、そう?そういうことなら、ご一緒させてもらうわ」

 

気恥ずかしそうにトレーを机に戻すコープコートちゃん。さっきよりも少し食べるペースを早めていました。まるで小動物のようです。もしかして、少しだけ期待していたのでしょうか。ストレスの溜まる食生活なだけに、誰かと会話できれば少しは軽減されるはずです。

 

「どうして今日はここにいるの?」

「トレーナーに言われたのよ、今日は好きなもの食べていいって。いつも我慢してるのよ、パンとかばっか食べてるの、見たことあるでしょ」

「厳しいもんね、コープコートちゃんのトレーナーさん」

「コートでいいわ。まあ勝つためだからしょうがないわね、たまにはこうしておいしいハンバーグも食べれるわけだし」

「そう、だよね。勝つためならそのくらいするよね」

 

さすがの覚悟だと思いました。これが名門の勝利へのこだわり。これくらいは当たり前。そう言いたげな雰囲気が、私から穏やかを消し去りました。これなら、私が模擬レースで負けたのも当然の摂理です。話によると、トレーナーさんが日々の食事のカロリーなどを計算して、食事の献立も、お付きの人に考えてもらっているそうです。強い子たちはここまでしているんだという思いが膨らんでいきます。今の私は大丈夫なのだろうか、こうしている間にも周りとの差が広がっていないだろうか、そんな思いが身体中を駆け巡っていました。三人で楽しい食事をしているはずなのに、胸の奥が刺されたように痛くて、その痛みが思いのほか苦しくて、泣いてしまいそうになりました。ついには、あんなに楽しみにしていたオムライスに、大量の涙を落としてしまいました。

 

「アーちゃん大丈夫?顔青いよ。保健室行く?」

「私が連れて行くわ、アリアンスさんの食器を片付けておいてくれる?アリアンスさん、立てるかしら」

 

胸の奥の痛みはついには心臓を貫きそうになって、動く気力が湧きません。コートちゃんにもたれかかるようにして、震える足をなんとか動かして、引きずられるように保健室へと運ばれました。

 

 

「失礼します。アリアンス、大丈夫か」

 

乱れた髪と荒い息遣いでユウさんがやってきました。こんなにも心配して飛んできてくれたのに、私を気づかって、至って冷静に振るまっていました。

 

「ごめんなさい。トレーナーさん。少し、辛いことがあって」

「そうか。すいません、少し二人にしていただけますか」

 

保健室の先生が笑顔で頷いて、出ていかれました。私は溢れ出る涙と思いを必死に押さえつけながら、深呼吸を何回も繰り返しました。

 

「私、このままでいいんでしょうか。もっともっとできることがあるんじゃないかって、そう思うんです」

「それは、自分は周りに比べて努力していないから、それがどんどん差が広がっていくんじゃないか。そう感じて、それで不安になってしまったってことかな」

「はい。さっき、コープコートちゃんとお話ししていました。それで、コープコートちゃんは、食事制限をしていて、さらに私の何倍も努力しています。なのに私は、私は……」

 

目頭を真っ赤にして、もう涙を抑える術も持っていなくて、ただ溢れ出していくだけでした。そんなみっともない私を、ユウさんは叱るでも慰めるでもなく、ただ慈愛に満ちた目で見守っていました。何十分か経って、私が少し落ち着きを取り戻すと、ユウさんが口を開きました。

 

「そこまで追い込ませちゃってごめん。辛い思いをさせちゃってごめん。僕はアリアンスの気持ちも考えないで、何も言わずにひたすらトレーニングの指示だけをしてしまっていた。本当にごめん。アリアンスが望むなら、僕はアリアンスのトレーナーを辞めてもいいと思っている。でも、これだけは言わせてほしい。僕は、アリアンスが他の子と比べて差になるようなメニューを考えたことはないよ。最善最短で追い抜く、そんなメニューを考えてきた。それだけは信頼してもらってもいい。食事制限なんか、する必要がある時点でマイナスだ。もちろんダメとは思わないよ。ただ僕はそんなことしなくてもいいようにメニューを考えている。そこにだけは誇りを持ってるんだ」

 

さっきようやく止まったはずの涙が、さらに止めどなく流れてきました。しばらくは自分がなぜ泣いているのか、ユウさんの言葉は、自分の心をどのように動かしたのか、色々なことが分からないまま泣いていました。静寂を保っていた保健室は、私のすすり泣く声と、嗚咽だけでした。またしばらくして、ようやく整理がつきました。ハンカチで目を擦って。考えてみれば、私はユウさんを信じていなかったのです。ユウさんはいつだって本気で、最適を私に与えてくれていたはずなのに、それを裏切るような最低な勘違いをしてしまいました。そして何より、私はこのままでいいんだという安心感に包まれて、なんとか涙を抑えることができました。ユウさんに謝らないと。私は、再び訪れた静寂を切り裂くように口を開きました。

 

「私の気持ちは、ユウさんと一緒です。私はユウさんがいいです。なのに、ユ裏切るようなことを言ってしまいました。本当にごめんなさい」

「そんな、謝らないで。僕の方こそ悪かったから。しかし、それだけ思い悩めることは、アリアンスのレースにかける想いの強さだよ。大丈夫、アリアンスは絶対に強くなれる、僕が保証するよ。でも、これからも何か不満があればどんどん言ってくれて構わない。練習メニューだって、アリアンスと一緒につくっていきたい。さあ、もうしばらく休んだら、授業に戻ろうか」

 

鏡を見てみると、目を真っ赤に腫らせて、普段よりもずっとひどい顔をしていたのに、それでも、その奥に光が宿っている気がしました。私なら大丈夫、そう何度も心の奥で自分を鼓舞しました。テストも近いだろうし、今は勉強だよ。その言葉に後押しされて、私は保健室の戸を開きました。

 

「アーちゃん!大丈夫?さすがのあたしもいてもたってもいられなくて、抜け出してきちゃった」

「ウールちゃん。もう大丈夫だよ。心配かけちゃってごめんね」

 

ウールちゃんが初めて目を潤ませながら、私を覗き込むように見つめてきました。私の言葉を聞いて、本当によかったと耳をピクピクさせていました。ウールちゃんは私をこんなに心配してくれて、こんなに優しい友達を持つことができて、私は本当に幸せ者です。ユウさんは、後は任せましたと会釈して、去っていきました。

 

「さ、アーちゃん、行こ?歩ける?あたしサポートするよ」

 

今度はウールちゃんにもたれかかるようにして、二人三脚で、教室まで歩いていきました。



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テストを乗り越えて

教室では、コートちゃんが心配そうに駆け寄ってきました。

 

「アリアンスさん、大丈夫だった?もしかして私が気に触ることを言ってしまったのかしら。ほんと、ごめんなさい」

「全然いいの、コートちゃん。私、元気だから」

 

深く頭を下げるコートちゃんに、いいよいいよと首を激しく振る私。それを見ていたウールちゃんがコートちゃんをからかっていました。

 

「あたしもトレー運び頑張ったんだけどなー。下げる頭が足りないよー?」

「そうだったかしら?覚えていないわ、ごめんなさい」

「なんかあたしには冷たくない?ウールちゃん泣いちゃうよー。待って、痛い痛い。止めて、冗談だから」

 

コートちゃんが頭を下げる代わりにウールちゃんの頭を思いっきり手で押さえつけていました。これではウールちゃんがコートちゃんに謝っているようです。その光景に思わず吹き出してしまいました。

 

「ま、アリアンスさんが笑っていますし、許してあげましょうか」

「二人とも、ありがとう!」

 

なぜだか少し恥ずかしくて、それでも私の精一杯の笑顔でした。

 

「わ、私は感謝されるようなことは何一つしてないわ」

「おやおや、コープコートもアーちゃんの激かわスマイルにやられちゃったかな。この屈託のない天使のほほえみ。骨抜きになっちゃってもしかたないよ」

「なっ。ほんと、そういうところがムカつくんだって分からないかしら。まあ、間違いではない、かもしれない」

「なんか言った?」

 

何でもない、と一蹴。私も、コートちゃんが何を言ったのか聞き取れませんでした。ただ、ちょうど夕方で、コートちゃんの頬は赤く火照っていました。

 

「そ、そうだ。今度からは私もお昼、ご一緒してもいいかしら?」

 

私とウールちゃんは口を揃えて言いました。

 

「もちろん!」

 

私の心は大いに澄んでいました。心に突如湧いた腫れ物を、トレーナーさんが、ウールちゃんが取り去ってくれました。コートちゃんとも仲良くなれて、その後のテスト勉強はいっそう捗りました。苦手な科目ともめげずに頑張って向き合ってみせました。

 

 

 

「数学やばかったよー。あんなの時間足りないって。抗議だ抗議。私は認めない」

「あなたが勉強していないだけでしょ。すぐ人のせいにするんだから。アリアンスさんはこんな風になっちゃダメよ」

 

無事にテストが終わって、食堂でお昼ご飯です。コートちゃんとウールちゃんはいつも通りです。心配していた数学は、やっぱりダメだったみたいです。

 

「二人はトレセン学園に入学する前から、知り合いだったんだよね」

「まあね。あたしがよく面倒見てあげたものだよ。こいつったらすぐわんわん泣くから、あやしまくってたかなー」

「変なことを吹き込むのはやめなさい。だいたい、そこまで仲良くなるほどの知り合いではなかったわ。今はこうして話しているけど」

「今はそういう仲です」

 

またコートちゃんからお叱りを受けています。相変わらず調子のいいウールちゃん。コートちゃんは、最近はあまり食事制限をしていないみたいです。トレーナーさんから、ストレスの検査値が少し減ったみたいだから、体重が安定してきたとのことです。それで、多少重いものを食べても体重の変化が少なくなったとか。こうして二人のやりとりを見ていると、それも納得だなと感じます。憎まれ口を叩きながらも、本当は仲良しな二人です。そういう私も、今までよりも少しだけ多く白米を口へ運ぶのでした。

 

「アーちゃんはテストできた?いいや、どうせ完璧なんだ。二人ともあたしを裏切るんだ。ひどいひどい。抗議だ抗議」

「何に抗議するのよ。アリアンスさんはあなたと違って計画的なお方なの。一緒にされたらたまったものじゃないわよ」

 

ね?とコートちゃんが目配せをしてきました。ウールちゃんの視線も同時に届いて、痛かったです。そんな目をされても、私はウールちゃんに何をしてあげられるのでしょうか。

 

「またそうやってアーちゃんを持ち上げる。どんだけ好きなの。あんたは知らないだろうけど、アーちゃんだって実は社会が苦手なんだぞー」

「尊敬しているだけよ。あんたにはそんな部分一つもないけど」

「私もコートちゃんすごいって思うな。あんなに速くて勉強もできて、ほんと、尊敬しちゃう」

 

コートちゃんが呆気にとられたように焦りを前面に見せて、慌てていました。それを隠すようにウールちゃんに当たっています。何すんの!ってウールちゃんも噛みついていました。さすがにちょっとウールちゃんが不憫な気もしますが、二人の喧嘩は終わらないまま昼休憩は終わりのチャイムを迎えました。午後の授業で全てのテストが返却され、ウールちゃんは嘆いて、私も少し冷や汗をかきながら、色々あったトレセン学園での初めてのテストは幕を閉じました。寮に帰ったら社会の復習をしないと。少し後悔が残る結果となりました。



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デビューを捉えて

テストが終わって七月に入りました。トゥインクルシリーズの初めての一戦となる、メイクデビューの日がいよいよ近づいてきました。梅雨が明けてまだ湿った空気が残る中、夏の熱気も容赦無く私たちに襲いかかります。それに呼応するように、ユウさんの指導にも熱が入ります。いつも通り柔軟から始めて、レース中にかからないように、周りのペースに惑わされないために、自分のペースをつくり、把握するためにターフを何度も走っています。

 

「うん、完璧だ。タイムも大きくぶれていない。足の柔軟さも比べ物にならないほど成長している。さすがアリアンスだ。僕も鼻が高いよ。それで、これからなんだけど、今までの練習に加えて、一つ試してみてほしいことがあるんだ。正直、メイクデビューの日はこれだけを気にして走ってくれればいいくらいだ」

 

ゴクリ。息を整えながら、ユウさんを見つめました。ユウさんも深呼吸をして、続けました。

 

「ずばり、ラストスパート。当たり前じゃんって思ったかもしれないけど、やっぱりこれが一番大切だ。模擬レースの時は完璧だった。かけるタイミングを見極めるコツは、アリアンスの身体が勝手に示してくれるとは思う。けど、万が一のためにスロー、ミドル、ハイペースそれぞれのラストスパート練習をしておきたい」

 

模擬レースの時を思い出します。身体が勝手に動いて、ただ勝ちたいという一心だけでした。けれど、状況に応じて自分で判断できるということは、当たり前ながら大切なことです。少しずつ実力も上がってきた今だからこそ、分かることがあると思います。練習にあたって、他のクラスのウマ娘と併走することになりました。ユウさんに言われた通りに、前の子がつくるペースを頭の中で考えながら、色々なペースに慣れていけるように、ラストスパートの踏み出しタイミングを調整していく。そんな練習を、何日間か重ねていきました。

 

 

 

「よし、今日の練習はここまでにしよう。週明けはいよいよメイクデビューだけど、あまり緊張しすぎないように、休日はリラックスして過ごそう」

「はい。私、絶対に勝ってみせます」

「その意気だ。今日はお疲れ様」

 

お疲れ様でした。深くお辞儀をして、私は夜ご飯を食べるために食堂へと向かいました。食堂では、先に練習を終えていた二人が待っていました。

 

「アーちゃん、いよいよ明々後日だね。メイクデビュー。あたしもう落ち着いていられなくて。アーちゃんのレース、早く見たくて見たくて」

「珍しく同意見だわ。ほんと、待ちきれない、アリアンスさんの初陣。あの模擬レースで私が一番警戒していたのは、実はあなただったのよ。そんなアリアンスさんが負けるわけない、そう思ってるわ」

 

二人からも激励の言葉をもらいました。二人よりも一足先にデビュー戦なので、今年のB組は強いんだって会場の人たちに見せつけてやろうと誓いました。今日はいつもよりも多めのライスと、ありきたりのカツカレーです。にんじんも多くトッピングしてもらって、気合い十分。負けるわけにはいきません。みんなの前で、センターで堂々とウイニングライブを踊ってみせます。実はダンスはあまり得意ではないのですが。みんなに見られないようにこっそり練習していたので、多分大丈夫だと思います。

 

「あたしも結構速くなってきた感じはするんだけどな。トレーナーはなかなか認めてくれないけどね。もう今から自分のデビュー戦が楽しみだよー。二人とも、あっと言わせてみせるからね」

「休憩中にあなたの練習が目に映ることがあるけど、あれならまだ私の方が速いわね。もっともっと努力すべきだわ」

「私からしたら、二人ともすごいなと思うな。あんなに頑張ってるんだもん」

 

二人のやがて来るメイクデビューに思いを馳せながら、時間は過ぎていきました。食堂の窓には、いつか見た白月が佇んでいます。そろそろいこっか、ウールちゃんの声で、食堂を後にしました。二人に手を振って、私は自分の部屋へと戻りました。

 

「おかえりー。来週、気負わず頑張ってね。もちろん勝ってほしいけど。負けたら負けたで、得るものはその分大きい。メイクデビューだけが全てじゃないよ。分かってるとは思うけどね」

 

学園に入ってきたばかりの頃、ナタリーさんが一度だけ見せた本気の顔、本気の目。今日はあの時ほど怖い口調ではなかったですが、何か強い気持ちを押さえつけて話しているように見えました。負けてもいい、口ではそう言うものの、やっぱり絶対に勝ってほしいのだと思います。私がいる手前、無理やり繕っているような気がしてなりませんでした。

 

「無理しなくて大丈夫です。ナタリーさんの気持ち。私が全部受け止めます。私は、絶対に勝ってみせますから。見ててくださいね」

「やっぱりアーちゃんはすごいね。見透かされちゃうかあ。正直、絶対にここは勝ってほしい。あたいはアーちゃんに、何回夢を見たか分からない。走るたびに飛躍的に実力を伸ばすものだから、この子ならやってくれる。その思いがずっとずっと強くなっていくんだ。だけど、今回負けてもいいって言うのも嘘じゃない。夢はこれでは終わらないから。だから、アーちゃんが思う最高のレースをしてほしい。それで今は十分だよ」

 

涙を落とそうとするナタリーさんの瞳を、私はそっとハンカチで拭って、返事の代わりに心からの笑顔を向けました。ナタリーさんは、くくっと八重歯を見せて笑いました。安心した。そう一言だけ呟いて、ベッドに潜ってしまいました。それを見届けた私は、床に就きました。いよいよ、メイクデビューです。



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灼熱のメイクデビュー

「第6R、ウマ娘が入場します」

 

七月、絶好の良バ場。帽子や日傘なしでは耐えられないほどの日光と、雲一つない晴天のもとで、気温は30度を超える真夏日となりました。私は、早くから準備運動をして、その瞬間に備えていました。事前情報では、八人立ての、私は三番人気。一番人気は、模擬レース第4R一着、ビジョンスターちゃん。抜きん出た末脚で勝利をもぎ取りました。あえて、ナタリーさんにもウールちゃんにも、コープコートちゃんにも会うことなく会場へとやってきました。

 

「緊張してるかもしれない。大丈夫。今まで積み重ねてきた全てをぶつけよう。相手は確かに強い、ただ、全く勝てない相手じゃない」

「じゃあ、行ってきますね。ユウさん」

 

まるで鏡のように全てを映してしまうのかと思ってしまうほどの美しく長い白髪に、紫がかったぬばたまの瞳を輝かせて、そのウマ娘は、アナウンスと共にターフに立った。

 

「六番、アリアンス」

 

 

「さあ、いよいよスタートです。今年度初めてのメイクデビュー。いったいどんな展開が待っているのか。一番人気ビジョンスター。ゲートに収まりました」

 

実況の女性の声が会場いっぱいに響きます。会場のテンションもどんどん上がっていきました。けれど、そのどんな音より、心臓の鼓動の方がよっぽど煩わしく感じました。深く息を吐いて、私はゲートに入ります。

 

「最後は六番、アリアンスもゲートに収まりました。第六レース、今スタートです」

 

会場が一瞬の静寂に包まれます。バンッ。ゲートが勢いよく開きました。私を含めた全員が、一斉にゲートを飛び出します。まずは三番が一気に先頭へ出て、それを見るような形で私は前から三番目につきました。ユウさんは、本来真っ先に考えるはずの脚質適性に一切触れていませんでした。そんなことはまだ考えなくていい。そう言いたかったのだと思います。距離は2000m、この感じだと平均的なペースになると、身体が告げています。

 

「全員軽快なスタートを決めました。前へ出るのは三番。早まっていた全体のペースを少し落として、やや縦長の展開になりました」

 

周りが焦りで早く走ろうとしているところを、三番が集団のペースを少し落として一息つかせます。この隙に少しだけ前との距離を詰めました。私は体力は重点的に鍛えてはいませんが、足首だけは別です。力を抜いて、弾みをつけて走れているおかげで、体力の消費が少ないのだと思います。その調子で、残り半分くらいまで、目立ったことはなく流れていきました。

 

「いいね、アーちゃん。おかしいくらいに完璧だ。周りは早くもかかっている。これなら勝てるよ」

 

残り四分の一、第四コーナーに差し掛かろうとした時、一気に全体のペースが早くなります。模擬レースの時と同じです。でも、私は自分のペースで走ります。前みたいに惑わされません。抜かれても気にしない。身体がスパートを告げるその時まで、必死に堪えます。

 

「さあレースは終盤、早くも後方が差を詰めてきた!まだアリアンスは動かない。最後方ビジョンスターも上がってくる!コーナーを曲がって最後の直線、まだ逃げる、三番堪えられるか!」

 

脳にピリッと電流が走った気がしました。今しかない、今やるんだ。身体が勝手に動いて。最後の直線に入った直後、全速力のラストスパートをかけました。一人、二人、三人。中盤に追い抜かされた子たちを追い越して、一気に前へ迫ります。

 

「速い、速いぞアリアンス!なんという軽快な走りだ、どんどん前との差を詰めている!三番を交わし先頭に立った!しかし後ろからビジョンスターが突っ込んでくる!」

 

絶対に負けない。練習の何倍も足が使えている気がします。足首がゴムになったみたいで、最高速で足を前へ前へと押し進めます。

 

「ビジョンスター伸びない!アリアンスがさらに差を広げていく、そして、今ゴールイン!勝ったのは六番、アリアンスだ!天才若駒トレーナーと共にまず一勝を掴みました!」

 

実況の興奮が伝わってきます。会場の皆の視線が、一着の私に向いています。これが、先頭の景色、これが一着の景色。

 

「こんなに広かったんだ」

 

身体が疲弊し切っていることなんてすっかり忘れて、私は眼前の景色に見惚れていました。私は、メイクデビューを勝ったんだ。その実感が沸々と湧いてきます。灼熱のもとで、初めてターフに立つにはなかなか厳しい環境の中、私はやり遂げました。観客の方たちのコールが耳に染みるのです。先輩たちは、この景色を求めて、この夢を求めて走り続けていたんだ。それは何よりも尊くて、難しくて、儚い、「夢」としか言えないものでした。どんどんと周囲の歓声がおたけびのように大きくなって、私への賛歌となっていく。これが、「勝つ」ということだったんだ。私はまた一つ、先へ進んだのです。

 

「おめでとうアリアンス!ずっと見てた。本当に強いレースだった。これは、あの厳しいトレーニングをまっすぐひたむきに続けてきたアリアンスだけの力だよ。アリアンスのレースは、思いは、ここにいるみんなに確かに届いていた。もちろん、お友達にも」

 

ウールちゃんとコートちゃんが立っていました。私が二人の方を見ると、ウールちゃんが待っていたかのように抱きついてきました。

 

「やった、やったねアーちゃん!本当にカッコよかった!あたし、ずっと目が離せなくて。あれはもう空を飛んでいたよ!」

 

それはいつものウールちゃんではなくて、心の底から嬉しそうに、まるで自分のことかのように喜んでくれました。ウールちゃんの瞳は、かつて見たことが無いほど潤んでいました。その姿に、私も思わず涙してしまいました。

 

「本当におめでとう。アリアンスさん。やっぱりあなたは強いわ。私もアリアンスさんに恥じないレースをしないといけないわね」

 

頷きながら、認めるように拍手をするコートちゃん。私も少しはコートちゃんに追いつけたのでしょうか。ユウさんが、今日はみんなでおいしいものを食べようと提案してくれました。私は興奮覚めやらぬまま、ウイニングライブの控え室へ向かいました。

 

「どう、ルドルフ、強いでしょ。アーちゃん」

「ああ。全くだ。ナタリーが肩入れするのも頷ける。あの子なら上がってくるかもしれないな」

 

 

 

「踊ってるアーちゃん、かわいかったねー。ちょっとあどけなさがあって、キュンキュンしちゃうね」

「もう、そんなにからかわないでよウールちゃん。私、結構練習したんだから」

「私は良いと思ったわよ。アリアンスさんらしくて。どうせあなたは存在すら忘れていたでしょう」

「まあねー。やっぱりレースだよ、レース」

 

ウイニングライブの後、三人でご飯を食べにきました。鮮やかなお寿司がたくさんあります。ユウさんがいくらでも食べてもいいと言うので、遠慮なく頼み始めるウールちゃんと、むしろ奢らせてほしいと頼む、さすが名家のコートちゃん。その日は、寮への帰宅時間ギリギリまで、今日のことと、これからを語り明かしました。



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(番外編)三話 天才へ

「緊張してるかもしれない。大丈夫。今まで積み重ねてきた全てをぶつけよう。相手は確かに強い、ただ、全く勝てない相手じゃない」

「じゃあ、行ってきますね。ユウさん」

 

アリアンスを送り出してから、僕は場所を移動した。アリアンスのことが一番よく見える場所へ。すると、周りに気づかれないように深い帽子なんか被ってはいるが、よく知っている猫背の男が怠そうに立っていた。

 

「なんだ親父、来てたの」

「ああ、バカが育てたのを見てやろうと思ってな」

「老人はその汚い口、閉じた方がいいよ」

 

アリアンスのメイクデビュー当日。真夏の暑さが照りつける快晴のもと、新たな門出を迎えるウマ娘たちがゲートに集まる。アリアンスの登場を告げるアナウンスの後、ファンファーレが演奏された。一抹の静けさが通って、今レースがスタートした。

 

「全員軽快なスタートを決めました。前へ出るのは三番。早まっていた全体のペースを少し落として、やや縦長の展開になりました」

 

アリアンスは先行策に出た。何も教えていなかったが、良い位置につけている。練習の甲斐もあって、足も良く使えていた。フォームも乱れていないし、序盤は上々だ。

 

「いいでしょ、アリアンス。もう僕は勝ちを確信してるよ」

「何を教えてきたんだ、お前。あれじゃせいぜいオープンが限界だな。もう見る必要はないな」

 

父からの煽りに、喉から出かけている言葉を抑えて、睨みつけた。ここは絶対後ろにつけるべきだった。お前は何も分かっていない。父は執拗に愚痴をのたまっていた。

 

「さあレースは終盤、早くも後方が差を詰めてきた!まだアリアンスは動かない。最後方ビジョンスターも上がってくる!コーナーを曲がって最後の直線、まだ逃げる、三番堪えられるか!」

 

第四コーナーに入り、勝ちを急ぐウマ娘がラストスパートをかけるが、おそらく持たない。あれだけかかっていたのに無理をしたら、500mの直線では失速してしまうだろう。アリアンスは、必死で耐えていた。どれだけ抜かされても、自分のペースを崩さなかった。そして直線に入った。これ以上は、前が塞がれてしまうという一瞬に、彼女は抜け出した。まるで白鳥が飛んでいるように。

 

「速い、速いぞアリアンス!なんという軽快な走りだ、どんどん前との差を詰めている!三番を交わし先頭に立った!しかし後ろからビジョンスターが突っ込んでくる!」

 

圧倒的な足の回転力と、足の柔軟さによる伸びの強さを見せつけて、圧勝した。アリアンスは勝利の喜びに震えていた。完璧なレースだった。僕の想像以上にアリアンスは成長していて、彼女ならトリプルティアラだって難しくない、そう強く思った。

 

「おめでとうアリアンス!ずっと見てた。本当に強いレースだった。これは、あの厳しいトレーニングをまっすぐひたむきに続けてきたアリアンスだけの力だよ。アリアンスのレースは、思いは、ここにいるみんなに確かに届いていた。もちろん、お友達にも」

 

アリアンスが立ち尽くしているターフに向かった。そこには彼女の友達も勝利を祝いにやってきていた。頑張ったのは彼女自身で、僕は何もしていない。そして、彼女の努力を間近で見てきた二人の親友との時間を邪魔してはしちゃいけない。

 

「あのラストスパート。あんたの空っぽのデータにはなかったでしょ。お前の教えに従うなら、勝っていたのはビジョンスターだった。これが天才の子が見つけた答えだよ」

「あいつもメイクデビューは勝ったよ」

 

帽子を深く被り直して、去っていった。相当悔しかったのだろう。正直、ニヤつきが止まらなかった。今回の勝利は、僕にとっても大きな価値があった。天才の教えを打ち砕いたレースとなったのだ。その後、ウイニングライブを見届けて、回らないお寿司を四人で食した。一人、何万円分も食べる奴がいたので、財布の中身は空っぽになってしまった。明日からはもうしばらくまともな食事は食べれないだろう。けれど、僕は極上の満足感で満たされていた。



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ウールちゃんとお出かけ

「メイクデビュー、本当にお疲れ様。まだ足に疲れは残っているだろうから、しばらくはトレーニングをお休みして、休息に努めてほしい。八月の初め頃から練習を再開しよう。それまでにはショートウールちゃんのメイクデビューもあるしね」

 

メイクデビューで勝利を飾った次の日、トレーナー室に向かうと、ユウさんから夏休みをいただきました。私的には、全然身体は大丈夫だと思うのですが、そういうわけにもいかないみたいです。夏休みに入って、今は授業も無いので、寮で何をしようかと考えていると、ウールちゃんがやってきました。

 

「いやー、あたしも来週にはデビューしちゃうんだねえ。それは置いといて、聞いたよアーちゃん、夏休みもらったんだって。あたし今シューズ迷ってるんだよねえ。誰かシューズ選び手伝ってくれないかなあ。夏休みで誰か時間を持て余しているウマ娘はいないかなあ。ということで、付き合って!」

 

快く了承すると、私の腕を引っ張っていってしまいました。私まだ制服なのに。

 

 

近所にあるウマ娘のためのスポーツ用品店にやってきました。私はお母さんに負担をかけたくなくて、ずっとお母さんのお下がりのシューズを使っていたのですが、当然ボロボロなので、これを機会にシューズを新調しようと思います。ユウさんは何も言っていなかったのですが、どんな種類の物が良いのでしょうか。電話で聞いてみることにしました。

 

「ウールちゃん。ちょっと待っててね」

 

電話が繋がりました。電話の向こう側で忙しそうにパソコンを触っているであろう音が聞こえてきます。忙しいところに電話をかけてしまって申し訳なかったです。

 

「そういうことか。アリアンスの好きなやつにしたらいいと言いたいけど、さすがにこればっかりは機能性を重視してもらいたい。怪我の防止にもつながるしね。アリアンスは芝を大きく踏み込まない走りだから、靴底はそこまで高くなくてもいいと思う。あとは当たり前だけど、なるべく軽く、適性の幅を狭くしたくはないから、色々な距離に対応できるシューズにしてほしいという気持ちがあるかな。けど、やっぱり最後はアリアンスが一番だと思ったやつにしてほしい」

 

お金は出すから遠慮なく買っておいでと告げられて、電話は終わりました。ユウさんのアドバイスも参考に、自分に合ったシューズを選んでみることにしました。

 

「ウールちゃん、これなんかいいんじゃないかな。私の中のウールちゃんにぴったり。ダートも走れるみたいだよ」

 

手に取ったのは、左右で色の違う、桃色と緋色のスニーカー。ソールはそこまで高くはなくて、走りやすそうです。

 

「お、いいじゃん。実は私も目つけてたんだよね。これで決心がついた。ちょうどいいサイズあるかなー」

 

ウールちゃんのは決定です。次は自分の分を探さないと。そうだ、何か自分で気に入ったものをピックアップしてウールちゃんに決めてもらうことにします。在庫の点検をするように探し回って、いくつか候補を絞ることにしました。

 

「これいいな。でも、あっちのもかわいいな。あれとか、探してる条件にぴったりかも」

「アーちゃん迷ってるねー。大丈夫。こういうのは何を選んでもだいたいうまくいくものさ。でも、この三足が気になってるんだ」

「うん。どれもかわいくて、捨てがたいな」

「そうだなー。じゃあこれ、アーちゃん、ドレスとか似合いそうだし、それと合わせて着てみたらかわいいかなってことで。ヒールは少し高いけど上品さが際立ってアリじゃない?」

「そ、そうかな。派手過ぎじゃないかな。でもちょっとかわいいかも」

 

白黒二色の雅やかで典麗なブーツでした。似合うのなら、これがいいです。うっとりしてしまうほど、強く惹きつけられました。

 

「ほらほら、買っちゃいなよ。絶対似合うって。店員さん、これ、この子に合ったサイズを探してほしいんですけど」

 

ウールちゃんが店員さんを呼んで、後には引けなくなってしまいました。でも、ウールちゃんが決めたならきっと大丈夫なのかなと思います。心配とは裏腹に、充実感に満たされて、大事そうに商品を抱えている私がいるのでした。

 

トレセンへ帰って、さっそくユウさんに見てもらうことにしました。

 

「なるほど。バッチリだと思う。性能面でも十分だし、アリアンスならかわいく使いこなせる」

「あ、ありがとうございます」

 

照れてしまって、視線を下に向けながらも、とても嬉しく思いました。ユウさんが言うのですから、完璧な買い物だったと思います。さすがウールちゃん。

 

「せっかくだしちょっと履いてみる?」

「分かりました。こうでいいのかな。結構いい感じかも。履いてみました。どうでしょうか」

「うん、めっちゃいいね。いずれ届くであろう勝負服にも合わせやすそうなデザインで、グッドだよ」

 

あんまりじろじろ見られると少し恥ずかしいです。新しい靴は次のレースから使っていこうと思います。せっかく二人で選んだ大切な品なので、部屋できちんと保管するようにします。初めて他のウマ娘の子と二人でお出かけしましたが、とっても楽しかったです。さらに、来週はウールちゃんのデビュー戦があります。最近また一段とレベルを上げているので、きっと勝ってくれると信じています。レースに思いを向けていると、また、先頭のあの景色が思い出されるのでした。早く練習がしたいです。



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ウールの誓い

今日は、ウールちゃんのメイクデビュー当日。コートちゃんと一緒に中山までやってきました。

 

「いよいよだね、ウールちゃん。頑張って!」

「二人が見てる前でかっこ悪い姿は見せられないからね。ほら、アーちゃんが選んでくれた靴も履いてきたよ。かっこかわいいでしょ?」

「あら、結構いいじゃない。さすがアリアンスさん。センスバッチリだわ」

 

感心するコートちゃんの隣で、つま先をトントンと弾ませてアピールしています。ウールちゃんは今日までの練習で目まぐるしく成長していました。それはクラスの皆の知るところです。前日の雨で稍重のターフとなってしまいましたが、ウールちゃんなら難なくこなしてくれると信じています。

 

「第5R、ウマ娘が入場します」

 

軽い足取りでゲートへと向かいます。私たちに気づいて、手を振っていました。初めてのレースでも緊張は感じていないように見えました。私の場合はとにかく落ち着きが無くて、緊張して全く何も考えられなかったくらいでしたが、この様子を見ると、練習通り、軽快に決めてくれるのではと思ってしまいます。ウールちゃんは四番。私の大好きなお友達の最初の晴れ舞台、一番人気に支持されて、ファンファーレが高らかに鳴り響きました。

 

「世代を担うウマ娘は現れるのか、中山第5R、今スタートしました」

 

 

結果から言うと、ウールちゃんの圧勝でした。ウールちゃんは、三番の子の逃げを待っていたかのようにスムーズに番手につくと、とにかく落ち着いたレース運びで、かかることもなければ、コーナーで鈍くなることもない、安定した走りでした。そんな状態で最終コーナーを迎えてしまえば、あとはもうウールちゃんが抜け出すだけでした。完璧なレース運びをしたウールちゃんは、残っている体力もスピードも加速力も全てが抜けていて、五バ身差ほどの圧勝で、1800を走り切りました。あまりの強さに震えるような思いをしていた私に、ウールちゃんは笑顔でピースしていました。どう、かっこよかったでしょ、そう言っているような気がしました。

 

「嘘をついてしまったわ。あれなら、私の方が上だなんて、そんなことないのかもしれない。今のあの子なら、私でも苦しいかもしれないわね」

 

好敵手が現れたのを感じて、ニヤリとほほえむコートちゃん。ウールちゃんが焼きつくほどに見せつけた、ウマ娘としての威厳でした。

 

「あの子、強いじゃん。クラシックでもやっていけそうだね」

 

ナタリーさんがいつのまにか隣にいました。ナタリーさんが言うには、メイクデビューでここまで周りを見て冷静に動けるウマ娘も少ないそうです。私から見ても、とにかく気負わず、「楽」に走っているような感じでした。緊張だとか、周囲の雰囲気に惑わされない。それが、ウールちゃんの武器なのだと思います。

 

「ウールちゃんはやっぱりすごいです」

 

ずっと練習は見ていましたが、ここまで完璧なレースをいざ見せつけられてしまうと、少しだけ気後れしてしまう私もいます。今の自分に足りないものをはっきり見せつけられた気がしました。ただそれは、落ち込むようなことではなくて、今の時点でそれを身につけているウールちゃんを讃えることなのだと思います。

 

「またまた、褒めてる場合じゃないよ。それに、あれだったらあたいはアーちゃんが劣ってるとは全然思わないけど。むしろアーちゃんなら全然勝てるよ」

「そう、思いますか」

 

私が不安そうにナタリーさんを見つめると、くくっと笑いました。

 

「もちろん。アーちゃんが何を思ってるか分からないけど、その気持ちは損だね。二人は強さのベクトルが全く違う。アーちゃんはまだあの子の強みを身につけようともしていないだけ。トレーナーだって分かってると思うよ。それに、あの子に無いものを持ってる。ベクトルが違うというのは、そういうこと。そしてそれは、今の時点でとっくに完成されていて、少し失礼な言い方だけど、あの子にはどれだけ努力しても手に入れられないもの。あたいとルドルフの違いみたいなものだよ」

 

ナタリーさんの、全てを見通したかのような達観した瞳に、私は何度も二冠の威厳を感じて、同時に救われてきました。ナタリーさんにそう言ってもらえることが、どれだけ自信につながってきたか、分かりません。だから、ここまで期待されているのに、悩んでも仕方がないです。もっともっと頑張るしかないのです。

 

「だめだよ、そんな顔しちゃ。せっかくの大切な友人の晴れ舞台なんだから、行っておいでって、言わなくてももうこっち来そうな雰囲気してるし。アーちゃんはすぐ深刻に考えちゃう癖があるからね、もっと気楽にいかないと。じゃ、あたいは帰るね。色々話したいこともあるだろうし、バイバイ」

 

冗談交じりに、ピシッと敬礼をして帰っていきました。その代わりに、ウールちゃんがやってきました。

 

「ふう。結構気持ちいいもんだね、勝つっていうのは」

「お疲れ様、ウールちゃん」

「あたしにしてはなかなかグッドなレースしてたんじゃない?そこのお姉さんも、ちょっとは見直してくれたみたいだし」

「なかなかね。思ってたより、ほんの少しだけ強かった、それだけよ」

「コートちゃん、ほんとに嬉しそうにしてたんだよ、ライバルが現れたって」

「ちょっと、アリアンスさん!それは違うのよ、ただ、言葉を間違えただけで」

 

視線を逸らすコートちゃんを、すかさずウールちゃんが覗き込みます。恥ずかしそうに指遊びをして、これはいつも強気なコートちゃんにしてみればなかなか新鮮な光景です。きっとウールちゃんの仕返しなのかもしれません。でも、おそらくですけれど、コートちゃんのさっきの言葉は本心で、二人で高め合っていきたいと心から思っている気がします。そうでなければここまで顔を真っ赤にしないはずです。

 

「私も続かないと。二人とも、見てて。圧倒的な力の差を見せつけてやるわ」

 

少し間隔は空きますが、コートちゃんのメイクデビューも近づいています。私を含めた皆がコートちゃんの勝利を確信していて、疑いようの無い一番人気になると思います。今日のレースを見て、また一段とギアをいれたみたいで、少し昂りを残したままコートちゃんは帰っていきました。

 

「あたしね、分かっちゃった」

 

コートちゃんが帰って、少しの間続いた沈黙を破ったのはウールちゃんの一言でした。

 

「あたし、正直自信なかったんだ。口では色々言ってたけど、心の奥では、どうせ勝てないだろうって気持ちも強かった。だから、真面目に練習はしてきたつもりだけど、勝てたらいいなくらいの気持ちでいた。自分にそこまでの才能が無いのは分かってたからね。でもそれは全然しょうがないことなんだよ、もちろん恨んじゃいない。ただ、今日知っちゃったんだ。勝つことの意味を、先頭の景色を、みんなの期待を背負うことの凄さを。分かっちゃったんだ。ほんとはあたし、勝ちたいんだって。心の底の底、あたしも分からない場所では、できるって信じてたんだ」

 

ウールちゃんが今までにないほど澄んだ瞳をしていました。何と言えばいいのでしょうか。橙に広がる残映よりも澄んでいるのに、どこか瞳の奥は遠くのものを見つめているような気がするのです。

 

「口では濁してたけど、心では勝ちたくて勝ちたくてしょうがなかったんだなって。それが分かったから、もう重賞制覇が目標だなんて言わない。絶対に勝ってみせるよ、G1。前に誰もいないまま、ゴール板を通過して、アーちゃんたちの歓声をめいいっぱい浴びて、勝ってみせるよ。いつか、アーちゃんとも勝負してみたい。だから、見ててね、アーちゃん」

 

夕日に溶け込むウールちゃんの笑顔は、何よりも真っ直ぐです。ウールちゃんは、周りの子には目標を大きく言うけど、それを否定する自分がいて、さらに強い自分を肯定する自分がいるのです。私は、否定するウールちゃんには全く気づけませんでした。しかしそれは、ウールちゃんの負けないと言う気持ちが練習から存分に伝わってきたからです。妥協を許さないウールちゃんのどこに弱気が存在しているのでしょうか。元々そんな弱気は無かったと思います。芝にわずかに残る砂を、そよ風がさらっていきました。ウールちゃんの、肩を少し超える天色の髪が揺れました。

 

「もちろんだよ、ウールちゃん。でも、私はウールちゃんのG1制覇が高望みだと思ったことはなかったよ。だって、あんなに練習頑張ってるんだもん。それに」

 

少し照れくさくて、なので深呼吸をしてから、私はウールちゃんを瞳に捉えて、口を開きました。

 

「ウールちゃんが、トリプルティアラを取れるって言ってくれたこと。すごく嬉しかった。今でも覚えてるの。だから私も、言うね。ウールちゃんなら絶対勝てるよ。私、周りに自慢しちゃおうかな。これが私の友達のG1ウマ娘のウールちゃんですって」

 

初めて会った時のことを思い出したのか、ウールちゃんもクスッと笑っていました。二人の間を流れていた重苦しい空気は鳴りを潜めて、少しの間笑い合いました。

 

「らしくないこと言っちゃったね。さ、忘れて忘れて。ウールちゃん、これから練習頑張っちゃうからねー。とりあえずウイニングライブ頑張らないとね。あんまりダンス好きじゃないんだけどなー」

 

そこには、夢を預け合った二人のウマ娘の健気な姿がありました。



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お母さんへ

「先日のショートウールのレースはすごかった。アリアンスにも良い刺激になったと思う。これからのレースの予定はまだ決まってないけど、夏を超えてからになるかな。練習のことなんだけど、まあ柔軟はまだまだしてもらうとして、そろそろ適性的な話もしていこうと思う」

 

ユウさんのデスクはいつも綺麗で、ウマ娘に関する本や、レースに関する本は一つもデスクにありません。それどころか、部屋にも一つもありません。少しのぞいたことがあるのですが、本棚には旅行関係の雑誌や人間関係についての本が収納されていた気がします。デスクはコーヒーとパソコンと書類が少し積まれている程度。コートちゃんも驚いていました。うちの人とは大違いだって。トレーナーと部屋はもっと育成論とかで溢れているものみたいです。

 

「はい、お茶。お菓子は好きなだけ食べていいよ。置いとくね」

「ありがとうございます」

「実際に走ったのは模擬レースとメイクデビューだけだけど、練習でも結構やってるから一応適性の目星はついてるんだ。アリアンスは中距離が得意で、次点でマイル。短距離もいけると思う。ただ長距離はキツいかな。どうだろう、自分で走ってみて、思うところがあれば教えてほしい」

 

ユウさんに言われて、ストンと腑に落ちました。あまり自分からそんな話をしていないのに、さすがです。

 

「次は脚質についてなんだけど、これはアリアンスの場合は特に型にはめなくていいと思う。確かにめちゃくちゃなことを言ってるように聞こえるかもしれないけど、僕を信じてほしい。アリアンスの時間感覚をもってすれば、タイムを考えながら周りの状況を見て自由にスタイルを変えられるのは強みになるはず。一つを極めるのも悪くはないけど、それだと崩された時に取り返しがつかない。トリプルティアラを取れるのは、安定した強さを持つウマ娘だ」

 

チョコを頬張りながら、ユウさんの話をうんうんと聞いていました。それなら、私に求められるのは対応力です。何があっても焦らない、タイムを把握して、崩れたバランスから活路を見出す練習をしなければなりません。そうと決まれば、早くレースがしたくてしたくてどうしようもなかったです。

 

「これからは色んな子に併走してもらえるようにお願いしておくよ。今日話したいことはだいたい話し終えたから、練習するならもちろん付き合うし、ここでゆっくり休憩するのもありだと思う」

「もちろん、いっぱい走っちゃいます」

「もっとお菓子用意しといたほうがよかったね」

 

ついつい食べ過ぎてしまいました。いくらユウさんが許してくれているとは言っても、やってしまいました。おいしくて、つい。顔から火が出る思いでした。

 

 

 

その日の夜、私はお母さんと電話をする機会がありました。ここに来てから、お母さんと話をするのは初めてなので、なんだか少し緊張します。手紙は送ったことがあるんですけど、その時はおいしい果物が届きました。

 

「もしもし、お母さん。私だよ」

 

色々話したいことがあるはずなのに、それらが渋滞してしまって、なかなか言葉が出ませんでした。

 

「元気に暮らしているのね、本当によかった。電話越しでももう伝わってくるわ、あなたの幸せそうな様子が。たくさんのお友達に囲まれて、過ごしているのね」

 

お母さんには、私が今どれほど充実した日々を過ごしているのか、私がわざわざ話さなくても伝わっているみたいでした。ただ、みんなと過ごした日々を伝えたくて、お母さんを安心させたくて、さっきはあんなに言葉に詰まっていたのに、今度は考える必要なく溢れてきました。

 

「お母さん聞いて聞いて、この前、ウールちゃんのメイクデビューがあったんだ。この前送った手紙の写真の子だよ。かわいいでしょ。でもレースではほんとにかっこよくてね、私感動しちゃったの」

 

次から次へと話題が出てきて、珍しく饒舌になる私に、お母さんは優しい声で相槌を打っていました。少し時間も遅くなって、周囲では私の声が目立ち始めました。それでも、久しぶりにお母さんとお話しできたことが嬉しくて、私はもう少しも止まりませんでした。

 

「それでね、ユウトレーナーもすごいんだよ。私のためにトレーニングメニューを夜通しで考えてくれたり、私の体調を第一に考えてくれるの。メイクデビューだって、ユウさんのおかげで勝てたの。お母さん、見てくれた?」

「もちろん。泣いちゃったわ。我が子が先頭を走るって、こんなに清々しい気持ちなんだなって、お母さん知らなかった。それに、あなたはトレーナーの方を本当に信頼しているのね。実はこの前、そのユウトレーナーとお会いしたのよ。まるで結婚の挨拶みたいに丁寧で、トレーナーとして、アリアンスさんの命を僕に預けていただけませんかって。あなたが信頼しているのだから、私は全然問題ないのに。でも、それだけの思いでやってくれる人がトレーナーで私は安心したわ。もう夜遅くなっちゃったから、夜更かししちゃダメよ。それじゃあ、おやすみなさい」

「おやすみなさい、お母さん」

 

なんだか胸がそわそわして、落ち着かない気分でした。これはきっと、お母さんと連絡を取れた喜びだけじゃありません。ユウさんが私のことを本気で考えてくれていることが、嬉しいのだと思います。ユウさんから見れば私はただの一人のウマ娘なのに、全力で私をサポートしていることを改めて知れて嬉しかったのです。もっと私も頑張らないと、お母さんの期待に、ユウさんの期待に応えるために。気持ち新たに、寝ているナタリーさんを起こさないように、こっそり部屋のドアを開けました。



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期待と皇帝

「どう、これが私よ。完璧。それ以上の言葉が見当たらない。けど、今日くらいはおいしいケーキを食べてやるわ。ね、トレーナー」

 

一番人気として、圧巻の走りを観衆に見せつけたコートちゃんのメイクデビュー。それは、私たちの世代を担うウマ娘の誕生でした。観客の中には、世代最強はこの子しかいないと豪語している人もいました。それだけ、全員を惹きつけるレースでした。私とウールちゃんがターフに駆けつけると、喜びと努力の汗が、コートちゃんの髪で輝いていました。

 

「参っちゃうよね、あんなに強いと。せっかくあたしも追いつこうと頑張ってたのに、また遠くなった気がしてるよ。ね、アーちゃん」

「コートちゃん、ほんとにかっこよかった。凛々しくて、足取りも軽くて、私じゃとても真似できない」

「アリアンスさんはほんとに褒めるのが上手ね。けれどそんな眼差しで見つめられても何も出ないわ。それに、当然ね。私はここで負けてられない」

 

最後まで足を溜めたコートちゃんの抜群の切れ味がまだ記憶に残っています。あっという間にごぼう抜き。模擬レースの時のような高速の追い込みが、今回も余すことなく発揮されました。

 

「あれが名門の子か。なかなか骨がありそうだ。君が目をかけている子は、あのコープコートに勝てそうか」

「もちろん、全くモーマンタイ。確かに今はきついかもしれないけどね。いずれは勝つよ。ルドルフ、あんたにだってね。あたいだって厳しいと感じるくらい強くなるよ。アーちゃんはいくらでも強くなる」

「やっぱりたいした自信だな、君は。トゥインクルシリーズを盛り上げ、夢を見させる程に観客を熱狂させる、そんなウマ娘が現れるといいな」

 

ルドルフ会長も気にかけていたのでしょうか。普段はあまりオープンレースには顔を出さないのですが、今日はナタリーさんと一緒にコートちゃんのメイクデビューを見ていました。コートちゃんはそれだけ先輩方からも期待されているのです。

 

「いつか、三人でレースに出られる日が来るといいね、それがG1だったらなおさら」

 

ウールちゃんが不意に漏らした言葉でした。この三人が人気を寡占して、お互い一歩も譲らないデッドヒート。何気ない一言でしたが、お互いがお互いをライバルとして意識するのには十分でした。そして、ウールちゃんのレースへの思いと覚悟の強さを改めて私に認識させました。

 

「あら、絶対に負けないわ。あなたにも、もちろんアリアンスさんにもね」

 

コートちゃんの妖艶な赤眼が私を捉えました。それが余裕なのか、挑発なのかは分かりませんでした。けれど、私に期待をしてくれている目だということは分かりました。

 

「私も負けないよ。次はコートちゃんに勝てるように頑張るね」

「ふふっ、嫌らしい顔をしたつもりなのに、本当にアリアンスさんは健気で、純粋だわ。あなたも見習ったらどう?」

「やっぱりあたしに厳しいよね。それともアーちゃんに甘いのか。お嬢様なのに全然らしくない。そっちこそ言葉遣い気をつけたら?」

「二人とも、喧嘩はダメだよ。コートちゃんだって、せっかく良いレースしたばかりなのに」

「あら、ごめんなさい。ほんとにこの子がうるさくて」

 

ウールちゃんが頬を膨らませて、鋭くコートちゃんを睨んでいます。ウイニングライブのために、コートちゃんは控え室に向かっていきました。それを見ていたナタリーさんが私に手を振っていました。

 

「こっちこっち」

「アーちゃん人気者だね。って、ルドルフ会長いるじゃん。ちょっとあたしは苦手だから、先行ってるね」

「こんにちは、ナタリーさん。ルドルフ生徒会長も、はじめまして。アリアンスといいます」

「はじめまして。存じ上げているだろうが、会長のシンボリルドルフだ。噂はかねがね聞いているよ」

 

間近で見る最強ウマ娘の威厳は、ほんの小さな所作にも現れていました。少し歩くだけでも周りが痺れてしまって、一度走ればそれに誰もが酔いしれる。これが、誰もが恐れる「皇帝」シンボリルドルフだ。そんなオーラを身体中に纏っていました。

 

「ほんとあんたは堅苦しいなー。だから後輩ちゃんも逃げてくんだよ。ねえねえアーちゃん。あの子のレース、どう思った?」

「コートちゃんは、本当に強くて、かっこよくて、やっぱり私にあれだけのレースができるのかと言われると、正直不安な気持ちもあります。でも、悩んでも仕方ないので、また頑張ろうって思いました」

「ルドルフ、かわいくて最高でしょ、この子。あんた相手でもビビらない度胸もあるよ」

「なるほどな。これは期待できるかもしれない。ところで、君はレースに対して、どんな感情を持っているだろうか。なかなか難しい質問だとは思うが、メイクデビューに勝利した時の気持ちを素直に伝えてほしい」

 

ルドルフ会長が、タカのように鋭い目つきで私を見つめています。ナタリーさんが持ちあげる、アリアンスというウマ娘を試しているようでした。私がレースで感じたもの、それは。

 

「身体中に達成感がありました。私は勝ったんだって。とにかく清々しい気持ちでいっぱいでした。でも、それと同じくらいの感謝がありました。私をここまで送り出してくれたお母さんとトレーナー。応援してくれたウールちゃんやコートちゃん、そして観客の皆さん。私があんなに心地良かったのは、ただレースで勝てたからという理由だけではないのだと思います。みんなの期待があったから、私は勝てて、これからも強くなれる。だから私は、皆と私をつなげてくれるレースが大好きです」

 

ルドルフ会長が驚いたように私を見ていました。それを横目に、ナタリーさんはまた、くくっと笑っています。そして、ぽんぽんと私の頭を撫でていました。

 

「私は今、夢を見ていた。私が生徒会長をしているのは、トゥインクルシリーズを通して、全てのウマ娘が幸せになれる世界をつくるためだ。しかしそのためには、皆から愛され、夢を乗せて走るウマ娘が必要。私は今君に、その世界を見た。勝手な願いなのだが、私の願いも、私の夢も、託させてほしい」

「アーちゃんは強いよ、あんたの願い一つでへばるような子じゃない」

 

ルドルフ会長のさっきまでの鋭い目つきが、尊敬を含んだ笑みに変わりました。私は、最強のウマ娘の夢さえ乗せて走ろうとしています。足が少しだけ震えています。武者震いなんかじゃなくて、もちろん不安でいっぱいです。ただ、断る気はほんの少しもありませんでした。

 

「もちろんです。ルドルフ会長の期待にも応えられるように頑張ります」

「良かった。君のその瞳を見た瞬間、心から安心したよ。ありがとう、アリアンス」

 

そう言い残してルドルフ会長とナタリーさんは去っていきました。大きなターフの下で、私は頭の中を整理するように深呼吸をしてから、コートちゃんのウイニングライブの会場に向かいました。

 

「Eclipse first, the rest nowhere。彼女はその意味を、考える必要無く身体に刻んでいるのかもしれないな」

「そりゃもちろんだよ。アーちゃんだもん」



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一勝クラスへ

九月に入って、新学期の始まりと共に夏の暑さが消え始めた頃、トレーナー室では、ユウさんからの吉報がありました。

 

「連絡が遅れちゃってごめん。次のレースが決まった。来週、一勝クラスに出走しよう」

 

ついに私の次走の情報が入ってきました。東京で行われる、1800mの戦い。この前より多めに用意されたチョコレートを、緊張をほぐすようにつまみました。

 

「正直、アリアンスなら問題なく勝てるだろう。だからここは、この前とは違ったことを意識して走ってみてほしい。具体的には、差し切りでいこう」

 

壁掛け時計の秒針が響く部屋で、ユウさんがコースの見取り図や出走予定ウマ娘のデータが載ったプリントを机に広げました。

 

「この前、脚質は気にしなくていいって言ったと思うけど、それはどんな展開にも対応できる経験があってのことだから、余裕を持って勝てそうな今回は、あえて差しのみに絞っていこう。それである程度のレースができたら、他の戦略も練習していこう」

「分かりました」

「夏を超えてアリアンスはまた大きく成長した。だからこの前よりスピードもスタミナも余裕を持って勝てるはずだ。初めての一番人気になると思うけど、あまり気負わずに本番は頑張ってほしい」

 

メイクデビューから数ヶ月。またまた初めてだらけの一勝クラスです。けれど、私は負けるわけにはいきません。ウールちゃんやコートちゃんが見せてくれたようなレースを私もしてみせる。そんな思いを胸に、トレーニングに向かいました。また今日もお菓子を食べ切ってしまいました。

 

 

今日も賑わう食堂で、私たちは机を囲んでいました。周りの雰囲気も心なしか鋭くなったような気がして、皆心も身体も成長したように見えました。

 

「あたし、トレーナーが張り切っちゃって。次は十月のサウジアラビアロイヤルカップに出るんだよね。まったく、困っちゃうよね、いきなり重賞なんて」

 

ウールちゃんからの突然の告白でした。私はむせそうになりましたが、なんとか堪えました。

 

「お、アーちゃんいい反応するね。相手は結構強いみたいだけど、ウールちゃん頑張っちゃうから、二人も予定が合ったら見にきてよ」

「びっくりしちゃって。ウールちゃん、もう重賞なんだ。すごいな、私も来週には一勝クラスがあるから、頑張らないと」

「勝てなきゃ意味ないわ。まあ見にいってあげるけど、最下位なんか取らないように」

「そうは言うけど、あんたも今月末には一勝クラスあるんじゃなかった?いくらお嬢様でも、勝てなきゃ意味ないよー」

 

挑発するようにウールちゃんがニヤついています。

 

「私は負けないわ。目をくらますような末脚を見せつけてあげる。それはそうと、アリアンスさんも頑張ってね」

「それなんだけど、これ、ユウさんからもらったの。二人にも見てほしいな」

 

次走の情報が載ったプリントを二人にも見せました。ウールちゃんは果物を口いっぱい頬張りながら眺めていました。

 

「へー。これならもらったも同然だね。アーちゃん頑張れー」

「適当なこと言わない。確かにアリアンスさんなら苦にならないようなメンツな気はするけど、本番に万が一があるかは分からないわ。けど適度な緊張感を持っていればきっと大丈夫」

「コートちゃんにそう言ってもらえて嬉しい。ありがとう」

「なんだよー、二人でいい雰囲気になっちゃって。あたしが一番アーちゃんと長くいるもんね。初日からいい感じだったもんね」

 

果物は飲み込んでいたはずなのに、ウールちゃんは頬を膨らませていました。三人の今後について話し合っていると、予鈴が食堂に響き渡りました。食器を片付けて、授業の不満を語り合いながら三人は教室に向かいました。

 

 

その日の夕方、すやすやと席で眠っているアイちゃんが目に入りました。少し前にアイちゃんのメイクデビューがあって、私はそれを見にいきました。その日は少し調子が悪そうに見えましたが、そんな不安を一蹴。さすがの実力で、ダートの土を豪快に蹴り上げて見事一着でした。

 

「急に話しかけちゃってごめんね、アイちゃん。この前のメイクデビュー、凄かったな。私、痺れちゃった」

「ありがと。別にわざわざ来なくてもよかったのに」

「アイちゃんのことが気になっちゃって。ダートが得意なんだね。憧れちゃうな」

「ダートなんて芝に比べて見向きもされない。つまらないよ」

「そんなことないよ。初めてのレースなのにあんなに余裕そうに勝っちゃうなんてかっこいい。次のレースが決まったら教えてほしいな。私、絶対見にいくね」

「好きにすれば。面白くなくてもいいなら」

 

アイちゃんの言葉は少し素っ気なくて、心に刺さりました。アイちゃんのレースで私が感じた興奮が少しでも伝わればいいなと思ったのですが。初めてお話しした時と比べてどこか不満げでした。冷たい気ごちなさを感じながら、私は自分の席に戻るのでした。

 

「それで、アイちゃんと話したんだけどね。何か嫌なことでもあったのかな。力になってあげたいの」

「そこまで気に病むことでもないんじゃない?クールな子なんだよ、きっと」

「それならいいんだけど……」

「まあまあ、帰りアイス買ったげるから、機嫌なおしてよ、アーちゃん。ほんとに良い子だなーアーちゃんは」

 

せっかく同じクラスになれたのに、壁つくったままなのは本当にぎこちないです。心にさっきの言葉の雨が突き刺さります。レースが面白くないなんて、そんなことは絶対ありません。それがいつかアイちゃんに伝わる日が来ればいいなと心から思います。アイスはバニラにしました。




主要キャラクターのプロフィール

・アリアンス
脚質適性:?
次走:一勝クラス(九月中旬)

・ショートウール
脚質適性:先行
次走:サウジアラビアロイヤルカップ(十月上旬)

・コープコート
脚質適性:追込
次走:一勝クラス(九月下旬)

・フルアダイヤー(ダート中心)
脚質適性:?
次走:一勝クラス

・デュエットナタリー
脚質適性:?
次走:?

出番が多い人物の情報を書き出してみました。「?」はまだ語られていない情報です。ショートウールの重賞初挑戦に期待が高まります。


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(番外編)四話 つまらない

トレーニングは楽しくなかった。お前は強いから、勝つ喜びを知ればトレーニングは苦じゃなくなる。本気で走ればきっと楽しいですよ。そう言われてきた。模擬レースでは圧勝したけれど、楽しくはなかった。何というか、なぜ走ってるんだろうっていう気持ちが常に身体中を駆け巡っていて、心がいつまでも乗っていかなかった。

 

「次はいよいよメイクデビューです。大丈夫です、フルアダイヤーさんなら余裕ですよ。楽な手応えで、きっと気持ちよくゴール版を通過できます」

 

そう言われた。模擬レースと本番では違うのかもしれない。そう諭されたから、本気で走ってみることにした。

 

「さあ、ダート新時代の扉が開かれようとしています。一番人気フルアダイヤー。注目の初戦です」

 

周りのウマ娘を見る余裕があった。ここで負けるわけにはいかない、絶対に譲れないんだ。皆そんな瞳をしていた。ここで負けてしまったら自分のトゥインクルシリーズの夢が壊れてしまうのではないか。だから勝たなきゃいけない。絶対に負けられない。皆そんなオーラをぶつけ合っていた。

 

「フルアダイヤー止まらない!これはもう止められない!これが新たな歴史の幕開けです!フルアダイヤー!」

 

けれど私は圧勝した。正直負けてもよかったとさえ思っていた私が圧勝したのだ。こんな惰性でしか走れないなら、この子たちに勝利を譲った方が良かったのかもしれない。この子たちはこんなにも勝ちたくて勝ちたくてしょうがないのだから。一着ではないこの子たちは、観客から見向きもされないのだろう。それに、全力で走ったけれど、結局模擬レースと何も変わらなかった。強いて言えば、観客の歓声が付いた程度だった。最終的に残った気持ちは、走る理由の欠如だった。

 

「フルアダイヤー、完勝です!圧倒的な実力差で他のウマ娘を全く寄せ付けませんでした!次走が今から楽しみです!」

 

実況も興奮している。トレーナーにも言われた。最高のレースだった。実際のレースは違っただろう。周りを見てみて、みんながあなたを見るんだ、それは何よりも心地良いことだと。そのためにウマ娘は皆走るんだ。名誉のために走るんだと言われた。そう言われて、私は考えた。勝ちを重ねれば、勲章が増えて、観客も沸いて、讃える声も大きくなるから、そうすれば走る意味になるのではないか。つまり、観客のために走ればいいのかと。そう自分に言い聞かせて、私は控え室に向かった。

 

 

ある日、同級生のアリアンスが私に話しかけてきた。かなり疲れていたけれど、せっかくわざわざ話しかけてきてくれたのを、無視することもできなかった。

 

「アイちゃん、この前のメイクデビュー、凄かったね。私、痺れちゃった」

「ありがと。別にわざわざ来なくてもよかったのに」

「アイちゃんのことが気になっちゃって。ダートが得意なんだね。憧れちゃうな」

「ダートなんて芝に比べて見向きもされない。つまらないよ」

「そんなことないよ。初めてのレースなのにあんなに余裕そうに勝っちゃうなんてかっこいい。次のレースが決まったら教えてほしいな。私、絶対見にいくね」

「好きにすれば。面白くなくてもいいなら」

 

この子は私のメイクデビューを見ていたらしい。わざわざ殊勝なことだと思う。この子が言うには、私のレースは感動したらしい。その感動は、私が一着だったから感じたものなのだろう。やっぱり、勝つしかないのか。そう思うとなんだか憂鬱に思えてきた。途端につまらなく思えてきて、私はまた机に突っ伏した。

 

 

「次の、一勝クラスは来月になります。きっと相手にならないと思いますが、体調だけ気をつけてトレーニングをしていきましょう」

「はい」

 

実力は募っていくけれど、不満もそれに比例して募っていくのだった。



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一番人気と一勝クラス

ついにこの日がやってきました。デビューから二戦目、一勝クラスです。ユウさんからの事前情報によると、私は一番人気を背負います。一勝クラスといっても、一番人気のプレッシャーはやっぱり重たいです。ですが、今日のために作戦を考えてきました。

 

「ずっと練習してきたから大丈夫だろうけど、差しでいこう。最後まで足を溜めて、中団から一気にまくる。イメージはしてきたと思うから、アリアンスならきっと問題なく走り切れると思う。もし差しが厳しい展開になったとしても、今回だけは差しで頑張ってほしい。自分勝手で本当に申し訳ないけど、そうなったとしても十分勝ち切れるメンバーだ」

 

ユウさんが深々と頭を下げました。全く不快な気持ちはなくて、ユウさんがここまでお願いするのには、それなりの理由があるはずです。私はそれを信じて走り切るだけです。観客席にはウールちゃんもコートちゃんもいます。コートちゃんの言葉を借りるなら、観客全員に、私の差し切りを見せつけてやります。

 

「思い出すね、メイクデビュー。アーちゃんは強かった」

「全くね。周りのみんなには申し訳ないけど、アリアンスさんが負ける気がしないわ」

 

「第6R、ウマ娘が入場します」

 

私は再びターフに立ちました。今日は私が一番人気です。私は観客の皆さんの期待をめいいっぱい背負って、走ります。そして、ナタリーさんやルドルフ会長からも託された夢のため、お母さんの夢のため。その一歩を刻みます。続々とゲートインが完了していきます。

 

「五番、一番人気のアリアンス、今ゲートに収まりました。今日はどんなレースが見られるのでしょうか」

「デビュー戦は圧巻の一言でした。今日も先行策で、前にプレッシャーをかけていくことが予想されます」

 

バンッ。一斉のスタートダッシュです。練習の通りに、ほんの少しだけ速度を落として中団、内側についていきます。

 

「先頭はやはり七番、しかしアリアンスはいない!今日は後方からのまくりに出ました。他は概ね予想通りといったところでしょうか」

 

歓声にどよめきが混じります。けれど大丈夫です。今のところ、ペースも、位置も、全部全部予想通りです。

 

「あれ、今日は前じゃないんだ。あのトレーナー何か吹き込んだな。どっちの方がアーちゃんに合っているのか、あたいが見極めてやろう」

 

半分を過ぎて、最終コーナー。ペースはやや早めです。体力は全然持ちます。なら早めに出るしかないです。これならマークされても抜けられます。

 

「いけるっ」

「アリアンスが上がってきた!やはりアリアンスだ、あっという間に抜き去っていく!七番耐えられるか、粘れるか、あと300!四番も迫ってきている!」

 

まだまだこんなものじゃないです。もっともっともっと前に、心が思うよりずっと前へ。歓声が何倍も何倍も大きくなります。私は、「夢」を背負うウマ娘です。先頭の景色が今見えました。視界いっぱいに広がる勝ちへの思い。心臓が高鳴ります。負けたくない。ここで抜かれるわけにはいきません。その思いが、私の足を前へ向かわせます。

 

「アリアンス完全に抜け出した!なんて速さだ、グングン引き離す!四番とは五バ身の差、今ゴールイン!!」

 

呼吸が乱れています。けれど、まだ余裕があります。これだけ走っても、まだいけると心が言っています。周りのコールが身体中に染み渡って、自分が強くなっているという実感が、沸々と煮えたぎっていました。ユウさん、ナタリーさん、コートちゃん、ウールちゃん。そしてお母さん。私、勝ちました。観客席のコートちゃんとウールちゃんに向けて、笑顔で大きなVサインを向けました。コートちゃんはうなずいていて、ウールちゃんは、ここからだとよく見えないのですが、やっぱり潤んでいたと思います。

 

「お疲れ、アーちゃん。どう、手応えは。やっぱりいいよね、先頭は。とっても優雅に、可憐に。まるで雪が舞っているみたいだったよ」

「そんな、言い過ぎですよ」

「いーや、かわいかったよ。髪サラサラだし」

 

私の顔は真っ赤でした。そんなに美しく走った覚えはありません。必死に、勝ちに食らいつくような、そんなレースだったと自分では思います。ナタリーさんが頭をぽんぽんと叩いて、髪を触っていました。

 

「ゆっくり休んでね、それじゃ」

「はい、ありがとうございました」

 

まだ心臓が暴れています。何回も深呼吸を繰り返して、私は汗をタオルで拭き取りました。よし、小さくガッツポーズをして、ウイニングライブの控え室へ向かいました。



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世代最強の追込

私に続いて、今週はコートちゃんの一勝クラスです。十人に聞けば九人がコートちゃんが一着だと言います。それほどコートちゃんの実力は凄まじいものがありました。秋風が本格的に吹き始めた府中で、コートちゃんが走ります。

 

「一番人気は名門のお嬢様、外枠八番、コープコートです。トレセン学園、模擬レースの時から異彩を放っていた新星が、今日はどのように私たちを魅せるのか、期待が高まります」

 

「私は負けない。負けないことは前提に、お嬢様らしく優雅なレースを見せてやるわ」

「泥臭くやってる方があんたにはお似合いだと私は思うけどね」

「自己紹介をしているのかしら。あんたも私のレースに魅了されないようにね」

「コートちゃん、頑張って。私、応援してるから」

 

優雅に踵を返して、ターフへと向かっていきました。その姿は自信に満ち溢れていて、力強く、世代最強を謳われるのも納得の、堂々とした歩みでした。観客席で私たちはレースが始まる瞬間を待ちます。ファンファーレが響き渡って、ゲートインが始まりました。三番、五番、二番。コートちゃんも順調に枠入り完了。息が苦しくなるほどの緊張の一瞬。今、レースがスタートしました。

 

「さあ始まりました。まずは二番と三番がハナ争い。大本命コープコートはやはり最後方。たんたんとした展開となりました」

 

コートちゃんはやっぱり最後方からのスタートです。長い栗毛をなびかせながら、馬なりです。若干マークされていて、前に出れないような気もしますが、ここからが腕の見せ所です。

 

「さあ三ハロンを過ぎました。やはり若干のスローペース。少しずつレースは終盤を迎えます。しかしまだ動かないコープコート。ここから抜け出せるのでしょうか」

 

最終コーナーに差し掛かります。けれどまだまだコートちゃんは動きません。これは、前を塞がれています。しかし外へ出ている暇も体力も無いはずです。ざわめきが大きくなります。ウールちゃんも、ただ黙ってコートちゃんを目で追っています。

 

「これは抜け出せないぞコープコート!あと400m!このままでは間に合わない!」

「舐めないでほしいわ。そんなのでブロックしたと思わないことね」

 

府中を抜けた大きな風と共に、コートちゃんがやってきました。

 

「しかしコープコートがやってきた!一瞬の隙をついて抜け出した!内をスルスルと通って一気に三番手!違う、抜け出した!二番手、一番手!一気に躍り出た!速い、速過ぎる!これが世代最強だ!今ゴールイン!」

 

周りのウマ娘が歩いて見える程の末脚でした。ややスローペースにも関わらずこの瞬発力とスピード、そして前を防がれても焦らない勝負強さ。これが、コープコートちゃんです。大歓声が一斉に上がります。オープンとは思えないほどの盛り上がりでした。私もウールちゃんも思わずハイタッチしてしまいました。

 

「全く、勝てるって言ったのに。当然だな、そんな目で見てほしいものだわ」

「いやいや、あれは焦るよ誰でも。ほんとよくやるよねー。エンターテイナーだ」

「ウールちゃんってば、ずっと不安そうな顔で見てたの。コートちゃんが負けるのは何よりも嫌みたいなの。ね、ウールちゃん。」

「アーちゃん違うから!こんなの負けても全然平気だし、なんならあたしがぶっ倒すから!」

「あら、寂しいの?良かったわね、あんたの目標は今無傷でここにいるわ」

 

ウールちゃんが珍しく顔を真っ赤に染めて、紅葉のようでした。大切な親友が負けてしまうのは、誰だって見たくないです。

 

「これで、私とアリアンスさんは二勝。さ、次はあんたの番よ、ショートウールさん。重賞だなんて言い訳にしない、最高のパフォーマンスを期待してるわ」

 

手をひらひらと振って去っていきました。その言葉を聞いて少しシリアスな顔をしているウールちゃんでしたが、プレッシャーだとか、不安は感じていないようでした。

 

「あたしは、不思議と不安じゃないんだ。デビュー二戦目で、重賞初挑戦。こんなに重圧なことはないのに、それでも二人がいてくれたらやれるって思っちゃう。今の、あいつには内緒ね。アイス買ったげるから」

「ふふっ、ウールちゃん。頑張ってね」

 

その言葉を聞いて、ウールちゃんの勝ちを確信しました。私が思っている何倍もウールちゃんは強いのです。肉体的にも、精神的にも。コートちゃんのウイニングライブを見届けて、二人は帰路につきました。

 

「あたし勝つから。見ててね、アーちゃん」

 

私にだけ聞こえる声で、ウールちゃんがつぶやきました。私は笑顔でうなずきます。チョコアイスとバニラアイスを持った二人のウマ娘は、燃える夕焼けの下を仲良く歩いていました。



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三人でお出かけ!

「ウールちゃん、おはよう」

「ああ、アーちゃんか。おはよ」

 

席につくと、少し憂鬱そうなウールちゃんがいました。いつもの元気が無いのはあからさまで、何度もため息をついて、曇天を見つめていました。

 

「どうしたの、ウールちゃん」

「いや、あのさ。いざ本番が近づいてくると、気分が重たくて。前は不安じゃないとか言ってたけど、人は変わるものだね、情けないなあ、うう」

 

バタッ。机に突っ伏してしまいました。落ち込んでいるわけではないみたいなのですが、重賞という大きなレースが近づいてくる中で、極度のプレッシャーを感じているみたいです。いくらウールちゃんでも、やっぱり初めての重賞は緊張しますし、まして、辛酸を舐める思いになる可能性も十分にありえます。なので、そこで緊張したり、不安になるのは当たり前です。虚勢で前を向くことがウールちゃんらしいだなんて自分で感じているのなら、それは違うと思います。

 

「初めてなんだから、ウールちゃんだって緊張くらいするよね。私は試合前で落ち着いているウールちゃんも、今みたいに不安でいっぱいのウールちゃんも、全部ウールちゃんらしさだと思うな。私は、それも含めて、ウールちゃんらしいレースが見れればそれでいいの。けど、私の期待がウールちゃんにとって重りになっているなら、そんなことは気にせずに走ってほしいな」

「アーちゃん、優しいね」

 

うつむいたまま動かないウールちゃんを見かねて、コートちゃんが声をかけました。

 

「これは結構やられてるわね。あら、アリアンスさん。それは何?」

 

私はカバンからリボンを一つ取り出しました。ウールちゃんへの勝利の願掛けとして、用意したものです。けれど、今のウールちゃんにこれを渡すと、余計に重圧を感じてしまうのではないかと思うと、渡せなかったのです。私がどうしようかと戸惑っていると、コートちゃんが口を開きました。

 

「明日、少し遠くまでお出かけにいかない?せっかくだから、あんたにリフレッシュしてもらって、本番を迎えられたらと思うの。強制参加ね。大丈夫、明日練習しないだけで負けるようなら、この先どこかでつまづくわ」

「えー。じゃあアーちゃんが行くなら行く」

「もちろん。楽しそう。私は行きたいな」

「決まり。私のとっておきに連れてってあげるわ」

 

明日が今から楽しみになってきました。けれど、このリボンはいつ渡せばいいのでしょうか。リボンをカバンにしまおうとすると、ウールちゃんにバレないように、コートちゃんが手招きしていました。

 

「それ、見れば分かるわ。そんなに綺麗なリボン。あの子のためでしょ。ほんと、アリアンスさんは器用ね。憧れちゃう。けど、こんなに気持ちのこもったプレゼントを作ってくれたというのに、渡すのをためらうくらい落ち込むなんて、失礼過ぎるわ。だから、絶対に笑顔で受け取らせないとね。レース前で緊張するのは分かるけど、それは大切な人からのプレゼントを拒む理由にはならない」

 

コートちゃんは全て分かっていて、お出かけのお誘いをしたのでした。私も、せっかくだからウールちゃんに身につけてほしいです。私の胸に一筋の光が差しました。色々言いましたが、せっかくなら、コートちゃんにも少しでも軽い気持ちでレースに出てもらいたいです。できるならそれが一番だと思います。少し鬱陶しい秋の曇りの蒸し暑さが、軽減した気がしました。

 

 

金曜日、授業は半日なので、午後三人で駅前に集まりことになりました。秋晴れが快い天気で、絶好のお出かけ日和でした。もうワクワクが止まりません。お洋服もナタリーさんと一緒に選びました。もちろんウールちゃんにプレゼントするためのリボンも綺麗にしまっておきます。デートに行くような気分で、早足で集合場所に向かいました。ウールちゃんは少し遅れるみたいなので、二人で少し待っています。

 

「初めて三人で遠出するっていうのに、時間くらい合わせてほしいものだわ。アリアンスさんはこんなに早くから待っていてくれてるというのに」

「私はこうして二人とお出かけできるだけで嬉しいな。コートちゃんにも、作ってきたんだ」

 

少し時代遅れかもしれないですが、これなら絶対コートちゃんに似合うと思ったのがありました。

 

「シュシュ、作ったの。やっぱり遅れてるから、コートちゃんは嫌かな。似合うと思って作ったんだけど……」

 

コートちゃんは、感心したように見つめていて、それからすぐに美しい笑顔になりました。銀色のシュシュを優しく受け取って、右耳に付けてくれました。

 

「贈り物に遅れてるなんてことは絶対ないわ。とっても嬉しい。ありがとう、アリアンスさん。大切にするわ。ほんとに綺麗、吸い込まれそう。私のイメージにぴったりな配色と飾りで、気に入っちゃった」

 

いらないと言われたらどうしようかと思いましたが、笑顔でつけてくれました。出来栄えも褒めてもらって、作ったかいがありました。コートちゃんも微笑みながら耳をピクピクさせていました。

 

「ごめんごめん、遅れちゃった。いや、ギリセーフかな。お、二人ともかわいいじゃん。アーちゃんなんて、ほんと天使みたいだよね。かわいすぎる」

「アリアンスさんをいじめるのはやめなさいよね。それに遅れてるんだから、もっと反省の色を見せるべきだわ、まったく」

「うふふっ、じゃあ、行こっか」

 

三人で集まったこの瞬間から楽しくて、思い出に残る一日になる予感が既にありました。いっぱい写真を撮って、お母さんに送りたいです。コートちゃんの案内で、今日はショッピングモールを色々巡ります。

 

「アリアンスさんは、どっちの匂いが好みかしら。ボトルはこっちの方がかわいいけど、うーん」

「私はそっちかな、クセのない匂いで、私好み」

「つまりこれを買えばアーちゃんにもっと好きになってもらえるってことだよね。よし、買いだ」

「何変なこと言ってるの。アリアンスさんは香水の匂いだけで人を判断したりしないわ」

「でも、ウールちゃんがこの匂いを纏っていたら、私が男性だったら放っておかないかも」

「なっ、アリアンスさんまで乗らなくていいから!」

「うふふっ、意地悪言っちゃってごめんね、コートちゃん」

「小悪魔アーちゃんだ」

 

コートちゃんの香水を探しにきました。もちろん匂いで決めるのが一番ですが、インテリアとしても十分綺麗なので、そういう観点からも色々悩みがいがあります。結局、三人の多数決で決めることになって、コートちゃんが少し気にかけていた赤い香水になりました。コートちゃんの瞳と同じ色です。

 

「私も買っちゃおうかな。どれもかわいくて素敵。この青いの、綺麗だな」

「気に入ったのがあれば、私からのお返しということで、代金は払うわ。遠慮なく悩んでね」

 

さすがお嬢様です。私のシュシュとはとても釣り合わないような値段の物もあるのですが、それでも全然構わないそうです。

 

「手作りの価値はお金では代えられないもの。いくらでも出すわ」

「それなら、やっぱりこれにしようかな。青色が綺麗で、良い匂い」

「じゃああたしはこれで」

「自分で出しなさい。と言いたいところだけど、今日くらいは任せてもらっていいわ。呼んだの私だし」

「え、ほんと?言ってみるもんだね、ラッキー」

 

コートちゃんの粋な計らいで、私たちはそれぞれ違った香水を手に入れて、店を後にしました。

 

「やっぱりプリでしょ。二人とも、笑顔の練習しとくように」

 

今度はゲームセンターにやってきました。ウールちゃんが慣れた手つきでプリクラの諸作業をしています。盛り方とか、色々設定できるみたいですが、私には難しいです。

 

「はいはい、二人とも画面の指示に従ってね」

 

三人で何枚も写真を撮りました。まずは笑顔で。その次は怒った顔で。悲しそうな顔で。たくさんの表情で撮りました。中には少し恥ずかしいものもありました。

 

「二人とも固いねー。アーちゃんは初々しくてかわいいけど、お嬢様はもっと頑張って。どれが一番かわいいかなー」

 

ウールちゃんがたくさん撮った写真を選別しています。なかなか自分の写真を選ぶというのは恥ずかしいです。どれも表情が固くて、とてもウールちゃんには敵いませんでした。とにかく恥ずかしかったです。

 

「よしよし、これにしよう。アーちゃんのかわいいキス顔。初々しいね、こんなの悩殺待ったなしだよね。お嬢様もいい感じだし。二人とも携帯とかに貼るように。せっかくの思い出だからね」

「こ、これ恥ずかしすぎるよ、ウールちゃん。コートちゃん、ウールちゃんが暴走してるの。何か言ってあげてほしいな」

 

ウールちゃんの煽りにも静かだと思ったら、顔を真っ赤にしてそのまま蒸発しているコートちゃんが隣にいました。コートちゃんも慣れていなかったみたいです。さっきまではあんなにかっこよかったのに、今は見る影もありません。

 

「さ、次はどこ行こっか。あれ、二人ともどうしたの」

 

しばらくウールちゃんの顔を見ることができませんでした。屋内で涼しいはずなのに、なんだか暑くてたまりませんでした。ウールちゃんからもらったプリクラの自分を見る度に、顔の火照りが倍増します。こんなに恥ずかしいものを、どこに貼ればいいんでしょうか。



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夕日のもとで

プリクラを経て数十分。ようやく落ち着きを取り戻した私とコートちゃん。ウールちゃんが鼻歌を歌いながら先頭を歩いています。その横で時計を確認するコートちゃん。少し思案しているような表情でしたが、口を開きました。

 

「今日のメインイベント。もうすぐだわ。予約はしてあるから、そろそろ向かいましょう」

「メインイベント?何それ」

「それは行ってみてのお楽しみ」

 

コートちゃんが指を立てました。事前には何も知らされていなかったので、私とウールちゃんは不思議そうな顔を二人して浮かべていましたが、しばらくついていくと、明らかになりました。店内に入って、コートちゃんが何やらチケットを店員さんに渡しています。

 

「もちろん、スイーツバイキングに決まってるわ!」

「こ、これは」

 

辺り一面に広がるデザートの山。チョコフォンデュ。チョコバナナ。ケーキ。杏仁豆腐。何百もの種類のスイーツが並んでいました。全く呆気にとられてしまって、開いた口が塞がりません。

 

「サプライズは成功みたいね。特にアリアンスさんは、大の甘党だとお聞きしました。トレーナー室のお菓子を全部平らげることも日常茶飯事だとか。今日は好きなだけ食べていってね。もちろんトレーナーさんの許可は頂いています」

「ほんとだ、アーちゃん今までにないくらい目光ってる。けどこれは確かにテンション上がる!」

 

私には宝の山に見えました。甘いものが大好きな私には我慢はもう難しかったです。トレーいっぱいにスイーツを乗せて、子どもみたいに食べ始めました。和菓子も、洋菓子も、もう止まりません。

 

「コートちゃん。これ、とってもおいしい」

「アーちゃん、子犬みたいでめっちゃかわいい。しかもすごい量。あたしもなんか食べよ。あ、このいちごケーキおいしそう」

「ここを選んで正解だったわ。ほら、あんたも食べて食べて、ちゃんとあんたのトレーナーにも言ってあるから大丈夫よ」

「え、そうなの。じゃあ遠慮なく。あたしも結構食べるからね、せっかくだから勝負だ勝負」

 

夕日が顔を見せ始める頃まで、時間いっぱいスイーツを堪能しました。ウールちゃんの二倍近く食べてしまいました。少食の私がここまで食べたことにコートちゃんもウールちゃんもびっくりしていました。私たちはすっかり満足して、店を出ました。分かってはいましたが、一日はこんなにも過ぎるのが早いです。できることなら、あの夕焼けを青色の絵具で真っ青にしたいです。そこに雲を書き足せば、またお昼になります。けどそれは叶いません。本当に楽しくて、幸せな一日だっただけに、終わりが近づくにつれて私の口数は減っていきました。

 

「そろそろ、お開きかしら」

「そうだね。二人とも、今日は楽しかった。また来ようね。明日はあたし、レースだから、ぜひ見にきてね」

「何か物足りないわ。ね、アリアンスさんもそう思わない?」

 

幸せな一日の終わりを惜しんでいる私を見て、またいつか来れるわ、今は、悲しむより大切なことがあるはずよ。コートちゃんが耳元でそうささやきました。

 

「何か物足りないわ。ね、ね、アリアンスさんもそう思わない?」

 

二回目のコートちゃんの助け舟でした。私は、ウールちゃんにリボンを渡すことが、一番の目的です。別れを惜しむのは、いつでもできるはずです。

 

「あの、ウールちゃん。これ、リボンなんだけど、レース頑張ってほしくて、作ったんだ」

「全く。あんたがクヨクヨしてるせいで、アリアンスさんが渡すタイミングを見失ってたのよ。もちろん、こんな気持ちのこもったプレゼントをもらうんだから、言うことあるわよね」

 

ウールちゃんはしばらくうろたえていました。ただ、今日はいつものウールちゃんには戻らなくて、慈愛に満ちた聖母様のような優しい瞳をしていました。夕焼けが、ウールちゃんの背後で燃えています。

 

「心配かけさせちゃってほんとにごめんね、アーちゃん。リボン、ありがと。絶対、ずっと大切にするから。コートもありがと、本当に気がきくね。今日二人といる間は、明日のこと忘れられてた。でも、ついさっき、今日が終わるんだと思うと、不安が強烈に押し寄せてきて、少しだけ怖かった。けど、アーちゃんのおかげで、コートのおかげで、目を逸らしていた私を克服して、立ち向かえるようになった。今はもう、負ける気がしない。だって、こんなに優しい二人が、ついてくれてるから。だから、ありがと!」

 

あどけないいつものウールちゃんの笑顔が、そこにはありました。それを見た私とコートちゃんは顔を見合わせて笑いました。それからは、さっきまでの空気の重さが嘘のように、三人の会話が響きました。空一面に広がる橙の海が、伸びる三つの影を作りだしていました。



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大逃げへ届け、その末脚

サウジアラビアロイヤルカップ当日。絶好の良馬場で、東京の芝も生き生きとしている気がします。日差しは強いですが、温度は秋標準といった感じで、ウマ娘たちには走りやすい気候となりました。一番人気は、大手チームのピッドからの刺客、ミールラプソディちゃんです。大柄な体格と、体力を活かした逃げのウマ娘です。我らがウールちゃんは二番人気。もちろん引けはとりません。レースではミールラプソディちゃんにプレッシャーを与える為に番手につくことが予想されます。

 

「いやーいい天気だね。二人とも、おはよう」

「もう夕方よ。寝ぼけてると勝てるものも勝てないわよ。相手は強いわ」

「勝負にならない可能性すらあるかもね。実際ここに来るまでに何度か嫌なこと聞いたし。まあ直線のスピードならあっちが上だろうね」

「ウールちゃんなら絶対勝てるもん。私、応援してるからね」

「正直、負ける気がしない。二人のおかげで、気持ちが晴れてるんだ。いわゆる絶好調ってやつ。見てて、これがクラシックを取るウマ娘の走りだよ」

 

言葉遣いはいつも通りでしたが、新緑の瞳は静かに燃えていました。スニーカーのステップの音が屋内に響き渡ります。

 

「ただ勝つだけじゃない。圧勝。あたしのクラシック伝説はここから始まる。なんてね。じゃ、行ってくる」

「木曜とは大違いだわ。あの余裕の目、もしかしたらとんでもないことが起こるかもしれない」

 

「五番、ショートウール」

 

静かに入場してきました。いつものパッション溢れるウールちゃんはそこにはいなくて、何倍もクールな佇まいで、他のウマ娘の入場を待っていました。そんな中でも、私が手を振ると、笑顔で返してくれました。

 

「四番、ミールラプソディ」

 

会場が一段と盛り上がりました。真打登場です。改めて見ても、ウールちゃんよりも一回り大きく、苦戦を強いられるかもしれません。堂々とターフを足跡を刻みつけています。今日の主役は私だぞ。周りに見せつけているのでしょうか。

 

「邪魔。お前、二番人気なんだって。これで二番人気なんだから、圧勝だな」

「あんた、嫌な顔してるね。少しはアーちゃんを見習ったら?あと、今からあたしに負けるんだから、押しのけるより道譲ったほうがいいと思うよ」

 

二人の間に何かがあって、険悪な雰囲気なのはこの距離でも見てとれました。これが重賞なのでしょうか。一瞬も気の抜けない、張り詰めた空気が至るところに跋扈しています。

 

「ウールちゃん、喧嘩してるのかな。怖い顔してる」

「挑発されたようね。ムキにならないといいけど」

 

ファンファーレが響き渡り、一人ずつゲートに収まります。全員が収って、今、サウジアラビアロイヤルカップがスタートしました。

 

「まずは宣言通り四番ミールラプソディが先頭について逃げ始めます。続いて五番ショートウールと二番が番手争いだ。ここはショートウールが取り切りました」

 

会場に不穏な空気が流れ始めます。ミールラプソディちゃんは、その有り余るスタミナで、全速力で逃げ始めました。

 

「おっと序盤から逃げる逃げるミールラプソディ!後続をどんどん突き放す!五バ身、六バ身、果たして息は持つのか!体力勝負、波乱の幕開けです!三ハロンは衝撃のタイムだ!」

 

ウールちゃんも必死に追いますがどんどん突き放されていきます。これでは間違いなくウールちゃんの息が持ちません。それに、予想以上の大逃げに非常に焦っているようで、かかり気味です。これが重賞の壁、その危なげな姿から目を離すことができませんでした。

 

「最後のコーナーを曲がって、未だ差は開いている!ここから捉えるウマ娘はいるのか!けれど少しずつミールラプソディはバテてきている!持つのか、果たして持つのか!あと400m!」

 

最後の直線、ウールちゃんは必死で追っていましたが、一気に減速し始めました。一人、二人、後ろのウマ娘がウールちゃんを追い抜いていきます。

 

「八番上がってきた、ショートウールはバテている、これは掲示板も厳しいぞ!」

 

実況を含めた観客の誰もがウールちゃんから目を離し、先頭に視線を寄せた時でした。

 

「危なかった、これなら勝てるね」

 

次の瞬間、減速し続けていたウールちゃんが、一気に加速し始めました。三百メートル、稲妻のように速度を上げていきます。残り百メートル、最高速に一瞬で達して、八番を差し返し、ミールラプソディちゃんとの差を一瞬で縮めます。

 

「これはどういうことだ、ショートウールが伸びてきた!まだ負けていない、まだ負けていない!これは届くのか、ショートウールの思いがミールラプソディに迫ってくる!」

「クソッ!チビが、調子乗んなよ!」

「一瞬油断したね、作戦通り」

 

残り十メートル。ウールちゃんの雷級の末脚が、大逃げウマ娘を確かに捉えました。ウールちゃんは、重賞初挑戦にして、その栄冠を掴み取りました。

 

「ショートウール差し切った!なんと、誰もが諦めた瞬間、ショートウールがやりました!見事サウジアラビアロイヤルカップを制しました!」

「ふう、危なかった。無理はするものじゃないね。せっかくアーちゃんから貰ったリボン、解けかけてるじゃん。これをこーして、よし」

 

観客に手を振っているウールちゃん。重賞を先頭で駆け抜けたその笑顔は太陽より眩しくて、何よりも輝いていました。

 

「どう、舐めてたやつに差される気分は」

「一回勝ったくらいでキモいんだよ」

 

ミールラプソディちゃんが明らかに不機嫌そうに帰っていきました。今日の主役は、間違いなくウールちゃんです。この会場の人間全員が、ウールちゃんを讃えています。

 

「ウールちゃん、とってもかっこよかった!私、途中で負けちゃうんじゃないかって、ドキドキしちゃった」

「危なかったけどね、死んだフリすれば絶対油断するだろうなって思ったけど。正解だったね」

 

イエイとピースを見せつけるウールちゃん。コートちゃんも今日のレースに感銘を受けて、観客席で、褒め続けていました。

 

「あんなことまでできるだなんて。これには脱帽だわ。さながら、トリックスターね」

「まあね、それがあたしだから。それに、アーちゃんのリボンのおかげだよ」

 

耳をピクピクさせて、どう、かわいい?とアピールしています。自分で言うのも良くないのですが、すごく似合っていて、作ったかいがあります。

 

「二人の気持ちが、あたしに勇気と力をくれたんだ、本当にありがとう」

 

照れくさそうに目線をそらすウールちゃんに、私とコートちゃんは口をそろえて笑顔で言いました。

 

「もちろん!」

 

ウイニングライブをミールラプソディちゃんは辞退、センターで輝くのは、もちろんウールちゃんでした。元々ダンスはとっても上手なのですが、今日のウールちゃんは何倍も輝いていて、星のようでした。これが、皆が夢見る、重賞を勝ち取ったウマ娘の姿です。ついにウールちゃんは、その一人となったのです。涙なしでは見られませんでした。本当に、本当に良かったです。その日は、寮に帰ってからもレースの映像を何度も見返していました。



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勧誘

「僕も見たけど、あれはすごかった。初の重賞であんな博打が打てるのは、天才の領域だ。さすがだったね」

 

週明けになって、まだまだ興奮が冷めることはなかったです。ユウさんもレース映像は見たそうで、単純な実力勝負だけでなく、果敢な心理戦を仕掛けたウールちゃんを絶賛していました。

 

「データに縛られて走っているような子には、こういうレースは難しい。正直、フリーだったらこっちに移籍してほしいくらいだよ。アリアンスにとっても良い練習相手になる」

「やっぱり、厳しいですよね」

 

できることなら私もウールちゃんと一緒に練習したいです。今の私に無いものをウールちゃんは持っています。けれど、重賞含めて二連勝中のウマ娘を、ウールちゃんのトレーナーさんが簡単に手放すはずがありません。

 

「模擬レースなら引き受けてくれるだろうけどね。それで、次のレースのことなんだけど、ついにアリアンスも、重賞に出よう」

「えっ」

 

開いた口が塞がりませんでした。先週、ウールちゃんにあんなパフォーマンスを見せられてはっきりしました。とても今の私では太刀打ちできる世界じゃありません。

 

「勝てないレースは組まない。大丈夫、絶対に勝てるよ。それで、十月最終週、つまり再来週だね。アルテミスステークスに出走しよう」

「私で、勝てるでしょうか」

「勝てるよ。万が一負けても、得られるものを考えれば、出走するべきだ。それに、本番はここじゃない。もちろん、アリアンスの気持ちが最優先だ。自分自身が厳しいと感じるようなら、出走しないのもそれは全然構わない。自信がつくまで練習するのも有りだと思う。まだ時間はあるから、ゆっくり決めてほしい」

 

確かに今の私では勝てないと思います。けれど、ここでレースに出なかったら、私はいつまでも本番に強くなれません。どれだけボロボロになっても、何バ身差で大敗しても、経験のためにも出たい。ユウさんの話を聞いてそう思いました。

 

「出させてください。私、全力で戦ってみます」

「よし、そうと決まったら僕もメニューを考えないとね。大丈夫、アリアンスなら勝てるよ」

 

その日は、アルテミスステークスに向けて、ユウさんから様々な情報をもらいました。それぞれのウマ娘の情報が少ないので、思いもしないウマ娘が抜け出す可能性があること、先行策にでるウマ娘が多いこと。そして、おそらく私が一番人気になること。様々な思案を巡らせながら、私は寮に戻りました。

 

 

 

「え、次走アルテミスステークスなんだ。いいじゃん。アルテミスだなんて、アーちゃんにぴったり。初めての重賞だね、気楽にいこう、気楽に。勝つのは難しいけど、案外勝てる子は勝てるからね」

 

ナタリーさんが言うと説得力が違います。重賞を何回も制覇してきたナタリーさんに、せっかくなので色々聞いてみることにしました。

 

「その情報なら、練習のために逃げてもいいかもね。もはやトレーニングって言ってもいいよ、あたいは本番以外はそのくらい軽い気持ちで走ってる。だって、本番はまだまだ先だしね。適度な緊張感は必要だけど。アーちゃんはレースの展開に左右されない強みを持ってほしいから、自分に合う脚質を見出しながら、それが十分に相手に刺さらなくても実力が発揮できるといいよね」

「分かりました。ユウさんと相談してみます」

 

私が先頭に立って逃げ続ける。後ろからのプレッシャーに耐えられるのでしょうか、体力は持つのでしょうか。ですが、逃げはレースのペースをつくることができます。私の得意と合わせれば、確かに走りやすそうです。

 

「こんなこと言ったらおせっかいかもしれないけど、多分あの人は気づいてるだろうしね。アーちゃんの適性とか、諸々全部。この前話したけど、やっぱり天才の子だけあるよ、知識だけじゃなくて、観察眼が鋭すぎる。まあそれは置いといて、あの人はアーちゃんに安定した強さを身につけてほしいんだと思うよ」

 

ナタリーさんに褒められる程の実力を持つユウさんとパートナーになることができて、本当に良かったと思います。日々寝る間も惜しんで私のために作業をしていることは、私でも分かります。だからこそ、ナタリーさんは練習のレベルだと言いますが、負けるわけにはいきません。ウールちゃんのように、圧勝してやるくらいの気持ちで臨みたいです。

 

「ナタリーさん。私、勝ちます。だから見ててくださいね」

「目つき変わったね。良かった良かった。嫌だって言われても観戦は行くよ。大好きなアーちゃんのレースだもん」

 

ナタリーさんに温かいお茶を入れてもらって、少し休憩してから、夜ご飯を食べに食堂に向かいました。席を探していたら、ちょうどウールちゃんがいて、一緒に食べることになりました。

 

「私、再来週のアルテミスステークスに出るんだ。ウールちゃんに続いて、勝てるように頑張るね」

「え、すごいじゃん!めっちゃ応援してるから、頑張ってね!あたしも二人にエールいっぱいもらったからね、その分だけお返しできるようたくさん応援するから、任せて任せて!」

 

目を輝かせて私を見ていました。その後はナタリーさんやユウさんに聞いたことをウールちゃんにもお話ししました。ウールちゃんはやっぱり優しくて、何回も何回もアーちゃんならできると励ましてくれました。応援に熱が入り過ぎて前のめりになったので、ウールちゃんの顔が近くなってしまって、恥ずかしかったです。顔を赤らめながらも、少し話題に出ていたチームの話について、相談してみることにしました。

 

「あのね、ウールちゃん。ウールちゃんが良ければ、ユウさんのところに移籍して、一緒に練習したいなって思うの。ちょっとでも無理そうだったら断ってくれていいからね。今のトレーナーさんが素敵な人なのは知ってるから」

 

ウールちゃんは驚いていましたが、顔を渋らせながらしばらく考えていました。けれど、思ったよりも早く、思ってもいない返事が返ってきました。

 

「アーちゃんから言われるなんて。あたしも同じこと思ってたんだ。いやー実はさ、あたしがこの前死んだフリしたのも、アーちゃんとこのトレーナーさんがぽろっと言ってたからなんだよね。相手は、勝ったと思わせれば絶対に油断するから、一瞬だけ速度を落としてみるのも有りだって。そしたら勝っちゃって。やっぱりすごいよね、そのユウさん。もっと色々教えてもらいたいから移籍しようかなって思ってたところに、アーちゃんから熱烈なアピールを受けたからびっくりしちゃって。まさかあんなに私が欲しかったなんて」

 

恥ずかしそうに顔を隠しています。少しだけ変な勘違いをされている気がしますが、本当にウールちゃんと一緒のチームになれるとは思っていなかったので、驚きと喜びが渦巻いていました。きっとウールちゃんとならもっと私は強くなれる。二人で切磋琢磨し、成長した二人を想像せずにはいられませんでした。

 

「もう明日にでもそっち行っちゃおうかな。今のところそっちはアーちゃんだけみたいだし、独り占めできちゃうね。トレーナーにも触らせないから、覚悟しといてねー」

「目が怖いよ、ウールちゃん。私、乱暴は嫌だな」

「うっ、そんな上目遣いで見られたら。最近アーちゃんが賢くなったせいで、効かない」

 

もう惑わされません。これからの二人の未来の話に花を咲かせながら、一日が終わりました。秋真っ只中だと思っていた窓の外は、スズムシの掠れた声に照らされて、思ったよりも早く漆黒に包まれていました。



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レースの深みへ

「まさかほんとにこっちに来てくれるなんて。まだ実感が湧かないけど、よろしくお願いします、新人トレーナーのユウです」

「そんな畏まらなくていいですよー。気楽にいきましょ?どうも、アーちゃんの親友のショートウールです。アーちゃんのことなら何でも聞いてね。例えば、最近スイーツばっかり食べてたから体重微増だったりします」

「い、言わなくていいから。恥ずかしいよ」

 

まだ誰にも言っていなかったのに。ユウさんは苦笑いしていました。まだお話ししていなかったので、気まずいです。もう目の前のお菓子に手をつけることができなくなりました。

 

「きれいな部屋ですね。トレーナーの部屋って、もっと書類とか雑誌で埋まっているものだと思ってました。あ、チェスあるんだ、今度対戦します?あたし結構自信ありますよ」

 

盤上のルークを指で弾いていました。確かに私も、もう少し慌ただしいお部屋を想像していましたが、まるで社長室みたいで、居心地は良いのですが、少し緊張してしまうこともあります。

 

「担当ウマ娘を汚い部屋に入れるわけにはいかないからね。それはそうと、アリアンスから聞いてるとは思うけど、再来週、アルテミスステークスに出走する。それで練習のために併走をお願いしたかったんだけど、適任の子がチームに来てくれたから、本当によかった。今日からは、言ってみれば実戦練習をしていこう。もう二人ともレースでの駆け引きを覚えられる程に強いから、色々教えていくよ」

「なるほど、それなら任せてください。アーちゃんのために一肌脱ぎますよ。頑張ろうね、アーちゃん」

 

お手柔らかにお願いしたいです。ウールちゃんはノリノリでしたが、今の私でどのくらい相手になるのでしょうか。もちろん不安が半分以上でしたが、ウールちゃんと走れるという期待もありました。重賞を制覇したウマ娘と併走だなんて。ユウさんから練習メニューを聞いて、さっそくターフに向かいました。

 

 

「次のレースで、逃げを試してみたいです」

 

先日、ナタリーさんから逃げの提案をいただいて、ユウさんに相談してみました。探偵のように指を顎に当てながら、しばらく考えています。答えは、準備運動が終わると返ってきました。

 

「めっちゃ良いアイデアだ。アリアンスがいいと言うなら、ぜひそれでいこう。今回のメンバーなら、序盤邪魔されることなく先頭に出れると思う。そして、先頭のプレッシャーとか、ペースをつくるとはどういうことなのか、それを身体で感じてほしい」

 

ユウさんからの許可が出ました。ウールちゃんは脚質、先行のウマ娘なので、それを考えても良い練習になるだろうとのことです。私は自分では感じていませんが、得意な脚質はあるのでしょうか。今度機会があったら聞いてみることにします。自分で理解できるならそれに越したことはないのですが。今のところはこれが走りやすいというような実感はありませんでした。

 

「じゃあさっそく走ってみよう。まずはアップで2000を軽く。小休憩を挟んだらもう一周。今度は好きなようにやってみて。もちろん本気でいいよ。アリアンスも、重賞レベルを肌で感じてほしい」

 

アップで走っているだけなのに、ウールちゃんの瞳は燃えていて、私に火花を散らしているようでした。今までの練習とは違って、既にプレッシャーが鋭くのしかかってきました。本番のレースに似ています。もちろんこれは練習ですが、勝てるとまではいかないまでも、負けるつもりは到底ありません。勝ち負けで悔しいと言える、それほどピリピリとした空気感でした。

 

「さ、どうぞ。アーちゃんが走り始めた瞬間からついてくよ」

 

私は走り出しました。ペースを考えて走ろう、そう思った時、蛇に睨まれたカエルのように急に足が重くなりました。いや、それは違います。比喩なんかではなくて、ヘビどころか、ライオンに睨まれているのです。もっとペースを落ち着かせろ、はたまた、もっとペースを上げろ。色々な声が聞こえてきました。後ろにはウールちゃんただ一人しかいないはずなのに。

 

「はあ、はあ」

 

肺が締められて、息が苦しいです。全然、まだ行けるのに、体力的には余裕のはずなのに。

 

「もっと自分に自信を持って、流されちゃったら負けちゃうよ」

 

途端にウールちゃんが私を抜き去って、それを必死で追いかけているはずなのに、足の反応が全く追いつかず、どんどん離されていきました。走り切っても、鼓動が止むことはありませんでした。息が乱れています。けれどこれは、限界まで走ったことが理由で体力が底を尽きたのではなくて、ウールちゃんが放つプレッシャーによって、体力も精神も疲弊し切ってしまったのです。ウールちゃんが駆け寄ってきました。

 

「どうだった?その調子を見ると、だいぶ無理してたかな?まあ逃げは初めてだろうし、かなり難しい作戦だもんね」

 

ウールの言葉にも返事ができず、呼吸を整えていました。私の醜態の一部始終を、ユウさんはじっと見つめていました。逃げがここまで難しいこととは思ってもいませんでした。そして、ウールちゃんとの実力差もここまでとは思いませんでした。

 

「ごめんね、ウールちゃん。全然相手にならなかったよね。でも次は負けないから、もう一回相手してほしいな。ユウさん、もう一回いいですか」

 

ユウさんは深く頷きました。何か深い考えがありそうで、難しい表情をしています。さっきはウールちゃんからのプレッシャーに完全に萎縮してしまって、冷静さを欠いてしまいました。今度は落ち着いて、自分のペースを崩さないように。それだけを意識して走ります。

 

その後も、何回かウールちゃんと併走しましたが、最初以上のパフォーマンスは発揮することができませんでした。ウールちゃんがお手洗いに行っている間、落ち込んでいる私にユウさんが声をかけてきました。

 

「逃げはなかなか難しかったかな。脚質適性はそれぞれのウマ娘のレースへの価値観によって大きく変わってくるから、こればっかりは落ち込む必要なんて全然ないよ。例えば、圧倒的な勝利を求めていたり、プレッシャーでむしろ活気づくなら脚質は逃げになるだろうし、アリアンスのように、堅実に慎重にいきたいなら脚質は差しになるだろう。つまり、アリアンスの適性は差しになる」

「幅広く対応できるのを強みにしたかったんです。なのに、ここまで逃げに適性がないと、少しショックです」

「僕が変なことを言ったからだ。本当にごめん。そもそもアリアンスの実力なら、どれだけ差しに不利な状況でも抜け出していけるのに。それを信じないで、無理させてしまった。どうか不甲斐ない僕を許してほしい」

 

深々と頭を下げていました。期待に応えられなかったのは私なのに、ユウさんは叱るでもなく、呆れるでもなく、謝っていました。

 

「そ、そんな。謝らないでください。できない私が悪いんです」

「克服する必要のない苦手の矯正を強要したのは僕だ。トレーナーならもっと他に担当ウマ娘の実力を上げる方法なんていくらでもあった。だから、アリアンスは全く悪くない。本当にごめん」

「私は全然気にしてないですから。頭を上げてください。ウールちゃんにからかわれちゃいますよ。それに、私はユウさんに感謝しています。少し指示を間違えたくらいなんともないです」

 

ユウさんはありがとうと、また頭を深く下げました。私はもう一回ウールちゃんとの併走をお願いしました。今度は得意な差しの練習のために、私と少し差をつけてウールちゃんに先行してもらいます。

 

「お、今度はあたしが前?いいよー。今度も負けないからね」

 

二人は一斉に走り出して、私は速度を少し落としました。ウールちゃんからしてみれば、伸び伸びと走ることができて都合が良さそうですが、私は、先頭と比較的長めの距離があったほうが走りやすいだろう、とユウさんに言われました。

 

「このままだと逃げ切っちゃうよ。アーちゃん」

 

楽な手応えです。私には後ろから狙いを定めるのが似合います。落ち着いて、ただ前を向いて、足を弾ませて、ウールちゃんとの差を縮めていきます。そして、ついに抜き去って、ゴールしました。息は乱れていましたが、今度は全力で走り切った喜びでした。

 

「やっぱりアーちゃんは速いね。こっちの方が生き生きしててかわいい」

 

ウールちゃんは優しく微笑んでいました。ユウさんも、私の豹変に驚いているようでした。そして、すぐにまた浮かない顔になりました。

 

「トレーナーもそんなに落ち込まなくていいんじゃない?逃げを経験したアーちゃんは、絶対もっと強くなったよ。逃げの気持ちがわかるようになったもん。あたしたちのトレーナーなら、それくらい分かってて指示したんだよね?」

 

さっきの会話を聞いていたのでしょうか、ユウさんを励ましていました。そうです、ウールちゃんの言う通りです。私は今日の練習で、今までより何倍も成長しました。さっきみたいに走ることができれば、私はきっとアルテミスステークスでも良い結果を残すことができます。

 

「私、勝ちますから。見ててくださいね。ユウさんのミスも気にならないくらい、圧勝してみせます」

「ほんと、かわいい笑顔だなあ。アーちゃんは」

 

私の初めての重賞挑戦の幕が開きます。



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アルテミスステークス

「やっぱりこうしてみると人結構多いね。さすが重賞。みーんな、アーちゃんを見にきてるんだよ」

「あんまりアリアンスさんを緊張させないで。落ち着いていけば絶対勝てるわ」

 

大勢の観客に包まれる東京レース場に、私たちはやってきました。ウールちゃんとコートちゃんは、私を邪魔しないようにと観客席に向かいました。この人数、確かに緊張します。けれど、それを吹き飛ばすほどの自信が今の私にはありました。デビュー戦の時のような気温ではないですが、秋らしい絶好の日和となりました。ちょうど、夕日が顔を出し始める頃です。

 

「アリアンスなら大丈夫だ。何も全部完璧にこなす必要はない。最後に先頭でゴール板を通過すれば問題ない。がんばって」

 

大きく頷いて、ターフに入場しました。

 

「やっほー。アーちゃん見えてるかな、あ、こっち見てる。手振れば気づいてくれるかな」

 

ナタリーさんが遠くから手を振っていました。コートちゃんとウールちゃんの応援も聞こえてきます。

 

「一番人気は二連勝中、快勝ウマ娘、アリアンス!内枠から重賞初勝利を狙います。二番人気はビジョンスター!ここでリベンジなるかどうか!大外枠からのスタートとなります」

 

メイクデビューでも戦ったビジョンスターちゃんとの再戦です。至って落ち着いて観客を見つめていました。

 

「この前は確かにすごかった。けど今日は勝たせてもらうよ」

 

ビジョンスターちゃんが静かに闘志を燃やしています。けど、私も一歩も引くつもりはありませんでした。

 

「私も負けないよ。お互い頑張ろうね」

 

私はゲートへと向かいました。会場にファンファーレが鳴り響きます。観客の熱気は最高潮です。私の緊張も少しずつ高まっていくのでした。風に髪が少し揺れて、鼓動も高鳴ります。

 

「続々とゲートに収まっていきます。三番アリアンスも順調にゲートイン。今日は落ち着いています。さすが一番人気の貫禄か。七番ビジョンスターも収まりました。さあ、いよいよG3、アルテミスステークスの発走です」

 

ゲートの中は自分一人。周りの様子は見えません。ただ一人、ゲートが開くのを待つだけです。バンッ。

 

「おっとアリアンス、出遅れました!今日は後方からのスタートとなります。四番がハナを取り切り、逃げていきます。ビジョンスターは前から5、6番手の位置です。今日はアリアンスとビジョンスターの位置が入れ替わるようなレース展開となりました。波乱の幕開けになるのか」

 

足を滑らせてしまいました。多少のマークもあって、これでは前に行くことは叶いませんが、もとよりそのつもりです。今日は後ろから、ビジョンスターちゃんを狙います。皆軽快な足取りで、比較的スローでペースは流れていきます。問題は、出遅れのせいでコースの外を走らされることになりました。早めに抜け出さないと届きません。でも大丈夫、何回も練習してきたことです。落ち着いていけば問題ありません。

 

「なかなか動きはなく、ゆったりとした展開になりました。おっと、ここでビジョンスターが動いた!まだ半分だぞ、まだ半分だ!馬なりだったレースが動き出します!ビジョンスターが先頭に立った!どんどん加速していく、これには周りもついていくしかない!」

 

レース中盤、動きを読み合っていた関係は一気に崩れて、ビジョンスターちゃんが全速力で先頭に立ちました。稍スローだったペースは一転、皆先頭を追いかけていきます。けど、早めに出ようとしていた私には好都合でした。

 

「それなら私もっ」

 

一息入れて、加速を始めます。最終コーナーに入り、二番手を交わします。けれど少し息が苦しいです。出遅れ、大外、ビジョンスターちゃんの全力疾走。身体は悲鳴をあげていました。

 

「さあ外からアリアンスも追ってきた!最後の直線だ!まだ差を広げるビジョンスター、アリアンス追いつけるのか!さらに内から五番も迫ってくる!」

 

持てる全てを使い切って、先頭を追いかけます。けれどなかなか距離は縮まりません。負けたくない。負けたくない。焦りで息がさらに乱れます。体力は後ほんの少し。けど、限界の先まで、その向こうまで、絶対に負けられません。

 

「やばい、やっぱりアーちゃんかなり疲れてるよ」

「信じましょう。アリアンスさんならまだ追いつけるわ」

 

少しずつビジョンスターちゃんとの距離が縮まっていきます。800m近くの全力疾走。体力が持つはずがありません。お互いに満身創痍。ここからは意地と粘りの叩き合いです、絶対に負けません。

 

「負けるもんか。負けるもんか!」

「ビジョンスター粘る!しかしアリアンスが迫ってくる!交わすのか、交わすのか!残り100m!残り50m!」

 

手を伸ばせば、手を伸ばせば届くところに彼女はいます。けれど、もう体力が持ちません。これ以上足を加速させることができないことを、悟ってしまいました。意識が遠のく限界まで走り切ったのに、私は届きませんでした。周囲の歓声がだんだん遠のいていきます。それはもう、私に向けた歓声ではありませんでした。

 

「ビジョンスターゴールイン!粘った!粘り切りました!アリアンスはハナ差の二着です!ビジョンスター、やりました!重賞の舞台でついにリベンジを果たしました!」

 

走り切った瞬間。もう足は動かなくて、ただ下を向いて息を整えることしかできませんでした。敗北の味。それは模擬レースの時とは比べ物にならなかったです。勝利の歓声は心の底から気持ち良くて、嬉しくて、けれど、それが敗北に変わった瞬間、弾丸と化すのです。汗と共に涙が溢れてきました。負けるって、こんなに悔しくて、辛くて、苦しいものだったんですね。一番人気の私が負けることは、その分だけ悲しむ人がいるということ、非難する人がいるということ、呆れる人がいるということでした。

 

「お疲れ、アーちゃん。良いレースだったよ」

「私、私は負けてしまいました。みんなの期待を、裏切ってしまいました」

「勝者が得るのは自己満足だけだよ。悔しい思いなんて一切できないからね。今のアーちゃんの思いだけで、今回のレースは価値のあるものになる。アーちゃんは今回の負けを通して、三倍は強くなる。もし無敗で挑むトリプルティアラだったら、アーちゃんは負けていたかもしれない。そして、プライドが傷つけられて二度と立ち上がれない。だから、そんな顔、しちゃダメだよ。せっかくあたいがあげたリボンが解けてる」

 

涙で前が見えませんでした。止めようとしても、止めようとしても、溢れる悔しさが私に涙を流させます。何度も涙を拭く私を見ていたナタリーさんは、髪の私のリボンを直してから、そっと抱きしめました。

 

「あたいは小さいけど、あったかいでしょ。これはあたいが負ける度にもらってきたみんなの温もりだよ。アーちゃんにもおすそわけ。大事なのは、アーちゃんが見た夢を追い続けること。それは変わり続けるものだから、アーちゃんが今大事にしている、皆の期待に応えるということも一つの夢だと思う。けど、アーちゃんが最初に見た夢は、トリプルティアラだったはずだよ。皆の期待を全部背負うのは、それからでも遅くないと、あたいは思う。少し、重く考え過ぎだよ」

 

その通りでした。私の目標は、お母さんのためにトリプルティアラを取ること。皆の期待に応えるために全てのレースを勝ち続ける、そんな殊勝なウマ娘ではありません。むしろ逆で、負けても負けても、勝ちたいレースだけには勝つ。そんな一生懸命なウマ娘であるべきなのです。ナタリーさんの言葉に気づかされました。

 

「私、間違っていました。私の夢は、トリプルティアラです。そして、トリプルティアラを取ることは、私を応援してくれるみんなの期待に応えることにもなります。だから、ここで泣き続ける必要なんてないですよね」

 

私はようやくハンカチをしまって、前を向きました。ナタリーさんの優しい笑顔と、観客のねぎらいや罵声が心に染みました。

 

「結構周りが言うんだけど、アーちゃんは雪みたいに可憐だって。確かにそうだよね。見た目は雪を纏った天使のようだし、走る姿も雪みたいにふわっと浮いているようで、綺麗で美しい。さらに泣き顔さえこの上なく儚い。確かに可憐な雪だよね。だからこそアーちゃんはみんなから期待されて愛されるんだなって。変なこと言っちゃってごめんね。さ、トレーナーが待ってる。行っておいで」

「はい!」

 

私は今できる精一杯の笑顔をナタリーさんに向けました。



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二つの重賞

「あそこまでやれたのよ、落ち込むことなんて何もないわ。ほんの小さなきっかけで変わるような結果だった」

「本当にお疲れ様、アーちゃん。はい、クッキー焼いてきたよ」

「ありがとうウールちゃん。嬉しい」

 

週が明けて、コートちゃんとウールちゃんが慰めてくれました。けれど、私は立ち直りました。これからもっと強くなって、夢に向かって走り続けます。まずはそのためにたくさん食べます。負けたのですから悔しいには悔しいです。やけ食いです。

 

「おお、今日はめっちゃ食べるね。これはにんじんハンバーグ三皿いくかもしれない。がんばれアーちゃん」

「見るのもいいけど早く食べないと昼休憩終わっちゃうわよ。私はデイリー杯に向けてこの辺で遠慮しとくわ」

 

コートちゃんは再来週、つまり十一月の二週目、デイリー杯ジュニアステークスに出走します。ジュニア級の重賞ではトップのレベルを誇るG2ですが、おそらく堂々の一番人気になります。私たちも、コートちゃんが負ける姿は想像できませんでした。それほど今のコートちゃんは仕上がっています。まさに、世代最強です。さらに、その次の日には、女王を決める、世代を超えた戦いである、G1エリザベス女王杯があります。

 

「エリザベス女王杯もあるよね。もちろんアーちゃんの一押しは、デュエットナタリー先輩だよね。そして、ナタリーさんを秋華賞で負かしたウマ娘が、休養明けで帰ってくる」

「秋華賞と大阪杯の覇者、ローズピーチ先輩ね。休養明け一戦目にも関わらず衰えを感じさせない脚で、府中ウマ娘ステークスを圧勝。他にも、エリザベス女王杯にふさわしいメンバーが揃っているわ」

 

コートちゃんの言う通り、最強のウマ娘が集う秋の祭典です。私ももちろんナタリーさんから招待をいただきました。コートちゃんのデイリー杯と、ナタリーさんのエリザベス女王杯。どちらも見逃せません。今からドキドキしてきました。

 

 

寮に戻ると、ナタリーさんがノートをとっていました。ナタリーさんがいつもしてくれるように、お茶を用意してみました。

 

「ありがとアーちゃん。エリ女は楽しみにしててね、特等席用意しとくよう頼んどくから。あたいの持てる全てを出し切った本気のレース、アーちゃんのこれからのヒントになればいいね。アーちゃんが不思議そうに見てるこれは、相手の情報とか色々書いたお手製ノートだよ。あたいも今回ばかりは負けられない。ちょっと柄にもないことをしてみた」

 

何ページにも渡って全出走ウマ娘の情報が正確に書かれていました。脚質、過去のレース、コース適性、そしてあらゆる展開の予想図。一流のウマ娘は、下調べも一流でした。さらに達筆です。

 

「何百回とシュミレーションしたよ。それくらいしないとキツい相手だからね。ちょっと強くなり過ぎてる、あの子。けど、負けるわけにはいかない」

 

ナタリーさんに少し焦りが見えた気がしました。まるで、この前の私を見ているようでした。私にできることは何があるでしょうか。おかわりのお茶を注ぐ音が部屋に響きました。

 

「ナタリーさんは、私を何度も励ましてくれました。だから今度は、私がナタリーさんに元気を分ける番です」

 

大きく息を吸って、口を開きました。

 

「私の大好きなナタリーさんは、絶対に負けません。どんな重圧も、否定も、全部跳ね返しちゃう私の一番尊敬する先輩です。だから、そんな顔しちゃダメです」

 

私が口を膨らませると、くくっとナタリーさんは笑いました。

 

「ここまで慕ってくれる後輩にこんなかっこ悪い姿見せちゃいけないね。大丈夫、少し気後れしただけ。あたいは絶対に勝つよ。アーちゃんをそこまで心配させたからにはね」

 

さっきまでとは変わって、自信に満ちた私のよく知る二冠ウマ娘の瞳になりました。その後はナタリーさんの作戦を聞きながら、一日が過ぎていきました。夜はもう、冬の形相を見せ始めていて、女王誕生の日は、確かに近づいているのです。



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デイリー杯ジュニアステークス

「ついに来てしまったわね。さすがに緊張するわ。一応初めての重賞だし」

「コートちゃん、頑張って。私もウールちゃんもいっぱい応援するからね」

 

コートちゃんの調子は、絶好調そのものでした。この日までに積み上げられてきた圧倒的な実績。そして余裕のある佇まい。さすがに今日は少し緊張しているみたいですが。観客全員が、コートちゃんの登場を待ちわびていました。今まで以上の最高の仕上がりで走るコートちゃんを。

 

「ほんと、あたしの遥か先にいるよね。ま、頑張って」

「あら、私は結構迫ってきていると焦ってたわよ。今日勝つまではね」

「言うじゃん。それ、褒め言葉なの?」

 

いつも通りウールちゃんはコートちゃんに少しそっけないです。けれど、今日ここに来るまでに何度もコートちゃんの話をしていました。ウールちゃんにとって最大のライバルであるコートちゃんがここまで強いと、何か思うことがあるのだと思います。もちろんそれでも、今日は勝ってほしいという気持ちはウールちゃんも一緒だと思います。なんだかんだで仲良しです。

 

「じゃあ、そろそろ行ってくるわ。私の勇姿をちゃーんと見ておくこと」

 

「五番、コープコート」

 

一番人気、コートちゃんがターフに現れました。名家の期待を背負って、凛とした佇まいで余裕を見せつけています。周りのウマ娘で、コートちゃんを睨むような視線をおくっている子もいます。周りからも強くマークされ、ブロックされることが予想されますが、持ち前の判断力とパワーを存分に出し切って勝利を掴み取ってくれると信じています。ウールちゃんも、少しずつ口数が減ってきました。

 

「さあ、エリザベス女王杯を明日に控えた今日の大一番、デイリー杯ジュニアステークス!ここで勝てば未来へ大きな一歩を踏み出すことができます。一番人気は、圧倒的支持を集めるコープコート!名家の切れ味が本日も炸裂するのか、期待が高まります」

 

コートちゃんは周りの視線を受け流すような態度で、ゲートに収まりました。ここからはもう、応援して、祈るだけです。もう目が離せません。

 

「さあ、ついに始まりました。まずは大外七番が先頭。それに続いて二番と一番が番手争い。ここは二番が取り切りました。しかしこれは比較的ハイペースか、どのウマ娘も一息つきたいところです」

 

皆、レース序盤にしては足を早めています。コートちゃんは予想通りの最後方です。もしかすると、コートちゃんからのプレッシャーから逃げようと、皆速く走っているのかもしれません。コートちゃんの作戦かどうかは分かりませんが、この展開はプラスに働きます。このままなら体力を周りより少し多く温存したまま最後を迎えられそうです。

 

「結構いい感じだね。これならいけるかも」

 

ウールちゃんも、少し笑みを浮かべて、安心が混ざった瞳で見つめていました。

 

「コープコートはやはり最後方。しかし前がペースを早めていく!まるでコープコートを避けるように、コープコートとの差が開いていきます。コープコートと後ろ二番手との差はおよそ五馬身か。そろそろ中盤。前のウマ娘はここから踏ん張れるか、コープコートはこの差をまくれるのか!」

 

やや縦長の展開です。コートちゃんと先頭との差はかなり大きく開いています。もうすぐコーナーに差し掛かりますが、そろそろ動き出さないと間に合いません。しかし、まだ足を溜めています。

 

「残り600m!そろそろ中団も加速していきます。コープコートはまだ動かない。しかし余裕はありそうです。コーナーに入って、最終直線です。おっと、コープコートが動き始めた!」

 

コープコートちゃんの武器はその瞬発力です。一瞬で加速してトップスピードで駆け抜ける。残り400m。一般のウマ娘ならまだしも、相手はコートちゃん。まだまだ勝負はここからです。

 

「ここから最後の叩き合い!何だこのスピードは!栗毛のウマ娘が外から音速で迫ってくるぞ!コープコートだ!」

 

カーブを過ぎて瞬間から、大外を通ってコートちゃんが強烈な加速で追い上げていきます。ターフを思いっきり踏みつけて、最高速の脚が迫ります。

 

「コートちゃんすごい。これなら勝てるよ」

「余裕そうな顔してるし、さすがだね、ほんと」

 

残り200m。残りは三人です。まだまだ勢いは止まりません。残り二人、さらにもう一段階加速して、必死で逃げる上位二人を睨みつけます。秋の炎を纏って、上位三人のデッドヒートです。

 

「残り100m!前二頭は粘れるか!二番をコープコートが差し切った!一番必死で粘る!しかし最強は止まらない!まさかまだ加速するのか!止まらない止まらない!今差し切って、コープコート一着!無敗で重賞制覇を成し遂げました!」

 

「ふう。自分でもびっくりするくらい完璧だったわ。今日はアリアンスさんを誘ってスイーツ食べ放題でも行こうかしら」

 

観客はコートちゃんにすっかり魅せられて、会場は今まで聞いたことのない程の歓声に包まれています。私もコートちゃんも、思わず拍手していました。

 

「強い。あたし、正直ここまでとは思っていなかった。けど、燃えてきた。あたしは相手が強いほど燃えるからね。こんなにみんなから期待されてるあいつをあたしやアーちゃんが倒したら、みんなどんな顔をするのかな。ね、アーちゃん」

「ウールちゃんもコートちゃんも、二人ともとっても強くて、今の私じゃ敵わないと思う」

「え、そうかな。あたしは、あいつもアーちゃんも実力差はほぼ無いと思うけどな。アーちゃんは気づいていないだけで、素質あるよ。一緒に走ったあたしが言うんだから間違いない。それに、あたしはアーちゃんにちょっとおねだりされたら簡単に勝ち譲っちゃうしね」

「もう、ウールちゃん。うふふっ、ちょっと嬉しい」

「冗談言ったけどアーちゃんが強いのはほんとだよ。文武両道、才色兼備、あたし自慢の美少女ウマ娘だからね」

「あんまり褒められると恥ずかしいよ、ウールちゃんはすぐそういうこと言うんだもん」

「自分に自信を持ってもらうためだから我慢してください。さ、あいつのとこ行こっか」

 

耳元を気にしながら観客に手を振っているウマ娘がターフにいます。デイリー杯の覇者、コートちゃん。今回も他をものともしない高速の末脚で栄冠を手にしました。

 

「お疲れ様。良かったよ、レース」

「自分でも驚いてるわ、ここまでやれるなんて。これなら、本番も問題ないわね」

 

本番とはもちろん、ジュニア級の女王を決める戦い、阪神ジュべナイルフィリーズです。今一番その頂に近いのは、間違いなくコートちゃんでした。そして、私の次走も阪神ジュべナイルフィリーズです。まだ二人には伝えていないですけど。

 

「今日見せた以上の私も、見せつけるわ。あんたもアリアンスさんも、魅了してみせる。けどしばらくは休憩ね、ほんと疲れた」

 

さっきまでの威厳は無くなって、溶けたような顔をしていました。

 

「待って待って、アーちゃんを魅了するのはあたしだから。あんたには渡さない」

「そういうことじゃないわよ、まったくこの子は。そうだ、アリアンスさん、このあと予定が空いていたら、スイーツ食べにいかない?しばらく我慢していたから、もう耐えられないわ。もちろん私が持つわ」

 

その言葉に耳が勝手にピクピクと反応して、目を輝かせてしまう私。

 

「なんだよー、二人っきりでやましいな。あたしも連れてけー」

「しょうがないわね。じゃあ、また後で連絡するわ。いい店があるから、楽しみにしててね」

「また行けちゃうだなんて、すごく幸せ。楽しみだね、ウールちゃん」

 

そしてレースのほとぼりが冷めて月が姿を見せ始めた頃、三人のウマ娘は机いっぱいのスイーツを難なく平らげるのでした。



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女王誕生

「珍しく緊張しているな、ナタリー」

「さすがにね。絶対に負けられない。あたいはもう、自分一人の戦いじゃない。アーちゃんが見てるんだ。あの子のためにも、勝って道を示してみせる」

「本当に懐いているんだな、あの子は」

「もうどっちが慕ってるのか分からないけどね。よし、行ってくる」

 

 

今日の京都レース場は、何万人という規模の人が集まっています。文字通り、女王が誕生するレースが始まろうとしています。私もコートちゃんもウールちゃんも、落ち着かない様子です。

 

「ついにこの日が来たね。いやードキドキが止まらない。現役ウマ娘の最強が決まるんだよ、もう誰が勝ってもおかしくないよね」

「私もこの熱気に潰されそうだわ。G1はここまで空気が違うのね」

「特に今日はアーちゃんの大好きな先輩の晴れ舞台だからね。あたしたちが入学してからはあまりレースには出てなかったみたいだけど、二番人気だね。勝負服見た?めっちゃ似合っててかっこよかった」

「一番人気はやっぱりローズピーチ先輩ね。私たちの想像を遥かに超えるようなレースを期待しちゃうわ」

 

「十番、ローズピーチ」

 

そのローズピーチ先輩がターフに現れました。パドックでも騒がれていましたが、ここでも大歓声です。バラの髪がさりを耳につけていて、ウールちゃんみたいでした。

 

「六番、デュエットナタリー」

 

軽快なステップでナタリーさんが姿を見せました。両耳に桃と紫のリボンをつけて、今日は勝負服です。活発なナタリーさんに似合う赤を基調としたラフなデザインです。ショートパンツがかっこいいです。

 

「アーちゃんいたいた。見ててね、今日のあたいは本気だから。ちょうどこの勝負服みたいに燃えてるよ、着るのも久しぶりだけど」

 

いつもの調子の中に、闘志の炎が青く燃えていました。もうすでに、相手はローズピーチ先輩ただ一人と決めているようです。ライオンがシマウマを捕らえる時のような目つきで、二冠の覇気を隠し切れていませんでした。絶対に負けられない、その思いのぶつかり合い。頂点の戦いが、今始まります。

 

「秋の大舞台、エリザベス女王杯。ついにその火蓋が切られます。各ウマ娘枠入りは順調です、これは嵐の前の静けさなのでしょうか」

 

「久しぶり、モモちゃん。最近絶好調らしいね。あたいがいない間に暴れてくれたね」

「ずっと覗いてたくせによく言うよ。秋華賞以来か、またお前は私に負ける。それだけ。知ってる?バラは秋に咲き誇る」

 

「さあ八番が収まって、全員ゲート入り完了。トゥインクルシリーズ秋の最高峰、エリザベス女王杯が、今スタートしました!」

 

まずは外から十四番が先頭に立ちます。ナタリー先輩は前から三番手の位置。かなり落ち着いています。最初のコーナーも華麗に回って、集団は少し縦長の展開です。もちろん先輩方はただ走っているわけではなく、ここから見ていても分かるほど火花を散らして、牽制し合って、どうにか自分の得意なペースに持ち込んでいこうとしています。マークしている一人を前に出れないようにブロックしたり、後方の先輩方は、距離のロスが無くて、集団に揉まれないベストポジションを探しています。レースが動きにくい中盤でも、先輩方は有利を探して戦略をぶつけ合っています。これがG1、私では到底届かないほど、知識と経験の差がありました。

 

「今日は前走でも見た華麗な差しが決まるのか、ローズピーチは前から九番手、ここにいます。デュエットナタリーは前を睨んでまだ上がらない!残り1000m、激しい睨み合いはいつまで続くのか!」

 

今日のナタリーさんはレベルが違う、G1を獲る先輩の姿からたくさん学んでほしい、そうユウさんは言っていました。ここからは異次元の読み合い、努力のぶつけ合いです。先頭が最終コーナーに入りました。

 

「さあデュエットナタリーが上がってきた!それを見てローズピーチも加速してくる!やはりこの二強になるのか。秋華賞の再現か、それとも悲願のリベンジか!泣いても笑っても最終直線!一瞬の加速で外からデュエットナタリーが先頭に立った!」

 

十四番をかわして、外からナタリーさんが先頭に立ちました。けど、後ろから大勢が接近してきます。宿敵は、内から集団を抜けてきました。

 

「これは思い切ったコース選択!内からローズピーチがやってきた!恐ろしい脚だ!デュエットナタリー粘る!しかし差は縮まるばかり!残り200m!ローズピーチの勢いは止まらない!ここで差した、ローズピーチ先頭!」

 

ついにローズピーチ先輩が先頭をもぎ取りました。心臓が高鳴って、敗北の二文字が脳裏をよぎります。けど、絶対に認めたくありません。私の一番は、ナタリー先輩です。

 

「負けちゃ嫌です、先輩!!」

 

あまり大声を出すことが得意ではない私の精一杯でした。大歓声からみれば、届くはずもない、か細い声でした。

 

「確かに聞こえた。絶対に負けないよ。勝負は最後まで分からない」

 

次の瞬間、ナタリーさんの瞳に真っ赤な炎が宿りました。絶対に負けない、ただその執念だけが、ナタリーさんの足を動かしたのです。

 

「まだだ、まだナタリー落ちない!差し返す!ナタリーが差し返した!けれどもう限界か!ゴール板はもう目の前!今、二人並んでゴールイン!若干ナタリー有利だ!最後は栄冠への思いをぶつけて差し返しましたデュエットナタリー!これは写真判定です!」

 

私の瞳には、はっきりとナタリーさんがゴール板を先頭で通過する姿が映っていました。勝ちました、ナタリーさんは限界が来ても、最後まで諦めず走り続けて、勝利を手にしました。

 

「ほんと、魅せるレースしてくれるわね。さすが先輩、私も泣いちゃったじゃない」

「よかった、ほんとによかったよお」

「アーちゃん、泣き過ぎだよ。まあ無理ないよね、そんなとこもかわいいけど。これがG1か、ほんとすごいね、先輩たちは」

 

涙で前が見えなくて、語尾もままなりません。変な喋り方になってしまいました。レースの緊張の後に、安堵が襲ってきて、拭っても拭っても視界はぼやけていました。

 

「二人なら知ってるだろうけど、先輩、ほんとは追込が得意なウマ娘なんだよね。けれど、今回は迷わず先行を選択した。なんでだろう」

 

会場はナタリー先輩コールで溢れていました。しばらく手を振っていたナタリーさんは、私を見つけてやってきました。

 

「ただいま、アーちゃん。そんなに目腫らしちゃって、こっちまで涙出てきちゃうよ。あたいの勇姿、見ててくれた?やっぱりウマ娘は背中で示さないとね、なかなか危なかったけど、なんとか勝ててよかったよ」

 

余裕があるように振る舞っているナタリーさんの足は、確かに震えていました。

 

「ほんとに、ほんとにかっこよかったです。私、先輩が負けちゃうんじゃないかって。負けたらどうしようって」

「そんなわけないじゃん。言ったでしょ?絶対勝つって」

 

その後の言葉を濁らせたナタリーさんを私が不安そうに見つめていると、観念したように口を開きました。

 

「正直、危なかった。あたいの本気が通用しなくて、負けたと思ったよ。けどね、アーちゃんの声が確かに聞こえたんだ。だからもう一回がんばれた。諦めかけたあたいを救ってくれたのは、アーちゃんだよ。ありがとう。あたいはもう、栄冠なんかより、アーちゃんの想いに応えたかった。皆の期待より、アーちゃん一人の期待に応えたかった。結果、皆の期待も背負ったけどね。だから、ありがと、アーちゃん」

 

そう言い切ったナタリーさんからは、震えが止まって、目が潤んでいました。私に顔を近づけて、くくっと笑うと、ウインクしました。頭をぽんぽんと撫でています。

 

「そんな不安そうな顔しない。あたいは勝ったんだから、笑顔でウイニングライブ見届けてよ。今日は張り切っちゃうからね」

 

ナタリーさんの言葉で、渦巻いていた様々な感情からようやく解放されました。さっきまでは感極まって何も言えなくて、けれどようやく、話せます。全てを出し切ったレースで、私に先輩としての威厳と、道を示してくれたナタリーさん。もちろんお礼を言わなければいけませんが、まだ、ありがとうへの返事がまだです。

 

「先輩」

「なに、先輩だなんて改まって、どうしたの?」

「私の声、届いてよかったです。どういたしまして。私、ナタリーさんが大好きです」

 

ナタリーさんは勝負服と遜色ないほど顔を真っ赤にしていました。それは、夕焼けも相まって、さらに赤く染めています。全力の笑顔で、今の私の気持ちを伝えることが、感謝を述べることになると思いました。

 

「あ、先輩やられちゃいましたね、アーちゃんのスマイルに。いくら女王でも、アーちゃんには勝てなかったかー」

「ちょ、これは誰だってうろたえるって!ノーカンノーカン、先輩をからかうと痛い目みるよ!」

 

今回のレースは、私にとって忘れられないレースとなりました。誰かの希望のために、勇気になるために走る、そして、期待のために走る。私のこれから進むべき道をはっきりと意識させたのです。けどまずは、トリプルティアラのために。ウールちゃんとナタリーさんが冗談を言い合って、コートちゃんがため息をついています。この光景は、私にはこの上なく美しく思われました。この景色は、私と沈みゆく夕日が一生覚えています。

 

「じゃあ控え室行くから、みんな楽しみにしててね」

 

三人とも、今日一番の笑顔で頷きました。




レース回が多くなってしまいました。しばらくは日常に戻ります。今更ですが、誤字脱字の指摘や、違和感のある描写に関する指摘等があれば、教えていただけると幸いです。また質問や感想等もいつでもお待ちしております。ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。


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死闘の後に

「ナタリー、本当に良いレースだった。それにしても変わったな。一匹狼だった君が、あそこまで丸くなるなんて」

「あんたのおかげでもあるよ。あの日、あんたがいなければ、今のあたいはなかった。そして、アーちゃんが入学しなかったら、またまた今のあたいはなかった。みんなには感謝してもしきれない。だからあたいは走れるんだけどね」

「やっぱり君は強い。君を慕うアリアンスも、きっと世代を担うウマ娘になる。君たちがいれば、トゥインクルシリーズも安泰だな」

「あたいはルドルフにも走ってもらいたいけどね。まあいいや。次走はどうしようかな」

 

女王と皇帝は、静かに語り合っていた。

 

 

「あ、そうだ。次走、ホープフルステークス走るよ」

 

三人でお昼の談笑を楽しんでいたところ、突然思い出したでは済まされない発言が飛んできました。ホープフルステークスに出ること自体はそこまで驚くことではないのです。ウールちゃんの実力を考えれば、当然です。けど、最優先で伝えることではないのでしょうか。それがウールちゃんらしいのですが。

 

「そういう大事なことは最初に話しなさいよ」

「忘れてたものはしょうがない。ついにあたしもG1かー。夢だと思ってたけど、人生なんとかなるね。それで、もちろん勝負服を着ることになるんだけどさ、やっぱりデザイン楽しみだよね。どんなのになるのかなー。まあ、私の意見も結構入るんだけどね」

 

ウールちゃんの勝負服。私も全く想像がつきませんでした。私も次のレースで、初めての勝負服デビューです。ユウさんと色々相談しなければいけません。

 

「私も考えないとね。とびっきりオシャレで高貴なものにしてもらうわ。アリアンスさんの次走は決まっているの?」

「ユウさんと相談したんだけど、私も、阪神ジュベナイルフィリーズに出走しようと思うの」

 

コートちゃんとウールちゃんの目つきが変わりました。それもそのはずです、私が阪神ジュべナイルフィリーズに出走するということは、ジュニア級の最後に、満を持してコートちゃんとぶつかることになるのです。コートちゃんが笑みを浮かべてこちらを見ていました。

 

「ついに来てしまったのね。私とアリアンスさんの一騎打ち。今から楽しみでしょうがないわ。模擬レースの時と比べて、私たちは見違えるほど成長した。アリアンスさん相手なら何が起きても不思議じゃないわ。もちろん負けるつもりはないけど」

「まじかまじか、アーちゃんのリベンジマッチだ。これは応援しないわけにはいかない!練習全力で付き合うからね!」

 

まるで私が挑戦状を叩きつけたみたいになっていますが、リベンジを果たす時がやってきました。今のコートちゃんは世代トップクラスの実力を誇っています。そのコートちゃんと、どれだけ勝負ができるか、不安はありましたが、興奮が勝っていました。

 

「じゃあ次は三人ともG1ってことだ。これは忙しくなるよー」

 

レースまでは残り一ヶ月近くあります。ここからはもっと気合を入れて練習に取り組まなければいけません。

 

 

「え、あの子とやりあうの?ついにこの時が来てしまったね」

 

寮でナタリーさんにもお話ししました。今日はコーヒーを飲みながら、これからの練習予定などを話していました。

 

「ジュニア級最後の大舞台だからね、当然アーちゃんも出るし、あの子も出るか。他にも強い奴らばっかりだろうね。あたいから一つ言うなら、このレースは全体を広く見渡せるウマ娘が勝つってことかな。強者ばっかりっていっても、まだ経験はそこまで積んでない。だから序盤から動き出すウマ娘はあまり多くない点をみて、積極的に良い位置を取りにいけるといいよね。そこはトレーナーと相談しようか」

「分かりました。ありがとうございます」

 

ナタリーさんは言い終わると、何かに気づいたように目を大きく開きました。コーヒーを飲み干して、顔を近づけてきます。

 

「待った、アーちゃんの勝負服姿が見れるじゃん!やった、年末の楽しみが増えた!届いたら真っ先にあたいに見せて、一緒に写真撮ろう!」

 

びっくりするほどはしゃいでいました。ナタリーさんを見ていると、何かが引っかかります。聞きたいことがあったような気がします。記憶を辿ってみると、はっとしました。

 

「ナタリーさんは、なんで先行策をとったのですか?」

 

ウールちゃんも言及していましたが、ナタリーさんは差しから追込が得意なウマ娘なのです。何か作戦があったのか、気になります。

 

「やっぱ気になっちゃうよね。そうだな、一つだけ言うなら、アーちゃんの前だからかっこつけちゃったってところかな。アーちゃん、メイクデビューは先行してたでしょ。だからあたいもやってみようかなって。それで勝ったら先輩として良い背中見せれるしね。もちろん舐めてたわけじゃないよ、展開も考えた上でね」

「やっぱりすごいです。かっこいいです、ナタリーさん」

 

もっともっと褒めたまえと上機嫌で耳を立てているナタリーさんでした。目の前で誇らしそうにしているナタリーさんは、先輩としての勇姿を最高の形で私たちに示したのです。私も頑張らないといけません。いてもたってもいられず、トレーナー室へと向かうのでした。

 

 

トレーナー室にはまだウールちゃんは来ていませんでした。ユウさんは、珍しく北海道旅行のパンフレットを見ています。

 

「授業お疲れ様。今年もあと一ヶ月。先週のデュエットナタリーとローズピーチの手に汗握る本気の戦いから僕も色々学ばされたよ。トレーナーとして成長できたと思う。アリアンスもここからさらに実力を伸ばせるように、トレーニングがんばっていこう。まずは、ついにG1、阪神ジュべナイルフィリーズから」

「あの、ユウさん。勝負服のことなんですけど」

 

その単語を聞いて、さっきのナタリーさんみたいに目を大きく開けていました。これは、多分忘れていた時の反応です。

 

「すっかり忘れていた、色々デザインについて聞かないといけなかったのに。教えてくれてありがとう。じゃあ今日はその件からなんだけど」

 

私自身のイメージと比較して、要望を聞きながらメモを取っていました。万年筆の音が部屋に響きました。一段落ついて、届いたらまたお知らせするそうです。

 

「どんな服になるのか、楽しみです。かわいいといいな」

「練習のモチベーションになると嬉しいよ。いつも着ていたいくらいとびきり良い素材で作ってもらえるよう、頼んどくから。こういう時だけは、コネもいいものだよね」

 

ユウさんは冗談交じりに笑っていました。ユウさんとお父さんとの関係について、ユウさんと会ったばかりの頃に少しだけ聞いたことがあるのですが、あまり良好ではないみたいです。

 

「あ、そうだ。来週あたりに、レースに向けて雑誌のインタビューが入るかもしれないけど、嫌だったら教えてほしい。全然断るから」

 

雑誌のインタビューだなんて恥ずかしいですが、ちょっとだけ楽しみです。少しだけ見栄を張ってみようかなとか、思ったりもしました。インタビューの内容について聞いた後、トレーニングのためにターフに向かいました。




アリアンス
脚質適性:差し
次走:阪神JF
一口メモ:甘党

ショートウール
脚質適性:先行
次走:ホープフルステークス
一口メモ:課題の提出が遅れ気味

コープコート
脚質適性:追込
次走:阪神JF
一口メモ:体重増減無し

フルアダイヤー
脚質適性:?
次走:全日本ジュニア優駿
一口メモ:尾がよく動く

ビジョンスター
脚質適性:追込
次走:阪神JF
一口メモ:ダートも練習中

デュエットナタリー
脚質適性:差し〜追込
次走:未定
一口メモ:G1四勝女王


主要キャラの情報をまたまとめてみました。アリアンスに勝利したビジョンスターも追加しました。フルアダイヤーの次走は実は全日本ジュニア優駿ですが、出番はもう少しだけ後になります。ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。


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夜のターフで

ターフには、颯爽と駆けるコートちゃんの姿が見えました。私とのレースが決まって、一層自分を追い込んでいるコートちゃん。私も、負けていられません。

 

「今日から少しキツくなるけど、無理そうだったらすぐに教えてほしい。このメニューが無理だったとしても、実力をできるだけ落とさないメニューを考えるから、心配しないで、自分の体調を最優先で。それで、本題なんだけど」

 

ウールちゃんも合流して、まずは準備運動です。今日はいつもより何割か多めの基礎トレーニングでした。たくさん走って、体幹のトレーニングもして、柔軟もたくさんしました。なんだかメイクデビューの後を思い出すような練習メニューでした。

 

「満を持して、アリアンス自身のパフォーマンスを上げるトレーニングをどんどんしていこう。そうは言っても、とりあえずは今までやっていたものの量を増やしていくところからだけど。ウールも、綺麗なフォームでね。さ、もう少しだけ今日はがんばろう」

 

日が暮れるギリギリまで、私たちは己を追い込みました。全く疲れ果ててしまったので、珍しくウールちゃんも、練習後は食堂へ向かうまで静かでした。

 

「お疲れ様、ウールちゃん、今日がんばってたから、お代は私が払うね」

「まじですか!やったやった、ラッキー」

 

途端に目を光らせるウールちゃん。やっぱりこうでなくちゃいけません。今日のカレーはいつもより多めにトッピングを付けて、さらにはちみつのかかったレモンアイスまでデザートに頼んでいました。ハードな練習の後で、スプーンが止まりません。私はうどんをすすっていました。

 

「あんまり人いないねー。あたしたちってそんなに夕食遅いのかな。ま、静かな空間ってのもなかなかいいよね」

 

私が先に食べ終わって眠気と戦っていると、スープを上品に飲んでいたウールちゃんが唐突に口を開きました。

 

「ご飯食べ終わったら外行かない?少し寒いかもしれないけど、そんなに時間は取らせないから」

 

何か用事があるのでしょうか。まだお風呂に入るにしても、その後は少し時間を持て余すことになりそうだったので、ウールちゃんについていくことにしました。

 

「やっぱり寒いね、みんないないし、結構暗いし」

 

私が想像していたよりもターフに生徒はいなくて、ナイターが芝を照らすだけでした。ウールちゃんに手を引かれて、中央の方に寄りました。ウールちゃんのの白い吐息が、私に冬を強く意識させました。

 

「四月にアーちゃんと会ってから、もうあと一ヶ月で年が過ぎようとしてるよ。早いよね。長いようで短かったなー。色々あったのもそうだと思うけど、アーちゃんと一緒にいるのが本当に楽しくて」

 

くるりと一回転するウールちゃんは、新しい発見をした小さな子どものように目を輝かせて、餅のような白月を見上げています。耳をピクピクさせて、心なしか頬も少し赤くて、青髪は鈍く光ります。

 

「楽しい楽しいと思っていたら、いつのまにかG1に手が届きそうなくらい成長した。あたし、本当に幸せなんだ。形容できないくらい。全部アーちゃんと出会えたおかげ、アーちゃんを見てると、元気が出てくるんだ」

 

私の耳には、ウールちゃんの足音と、透き通った声だけが届いていました。私がプレゼントした銀のリボンを耳から解いて、肩までおろしていた髪に結びました。

 

「アーちゃんみたいでしょ。ちょっと髪の長さが足りないけど。だからその、何が言いたいかっていうと、あたしはアーちゃんにほんとに感謝してて、ありがとうってことと、これからもあたしの大親友の、大好きなアーちゃんでいてねってことを伝えたくて」

「ふふっ、ウールちゃん、照れてる」

「なんか改めて言うのは恥ずかしくて」

 

二人とも、赤かった顔をさらに染めて、くすっと笑い合いました。私が見つめると、目を逸らしました。

 

「この話終わり!すぐ帰るつもりだったからね、ほら、早く行かないと怒られちゃうよ!」

 

慌てて手を引くウールちゃん。ウールちゃんはさっきから、冬の夜の寒さのせいなのかなんだか落ち着きがありません。

 

「私は、もっとウールちゃんといたかったな」

 

なんてこともないターフの夜のはずなのに、なぜだか特別な気がしたのです。きっとそれは、ウールちゃんの気持ちを知ることができたからだと思います。この寒さも、ウールちゃんの心の暖かさが中和していたから、平気でした。むしろ、もう少しだけいたかったです。わざとらしそうに呟くと、またまた耳をピクピクさせていました。表情はもちろん見えませんでしたが、ウールちゃんの歩く速度は上がっていました。

 

門限はギリギリでしたが、寮へと戻ってくることができました。廊下は静まりかえっていて、なかなかお話もできなかったです。けど、声が目立つという理由だけだったのかは分かりません。あまりお喋りをすることなく解散になりました。いつも見ているターフとウールちゃんが、雪も降っていない冬に、これほど新鮮に見えたのは、何の魔法だったのでしょうか。インタビューでお話しすることが一つ増えたのでした。



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インタビュー

「失礼します。私は月刊雑誌『トゥインクル』の記者、乙名史悦子です。ユウトレーナーとアリアンスさん、本日はよろしくお願いいたします」

 

今日はインタビューの日です。コートちゃんもウールちゃんも、G1に出走するウマ娘なので、インタビューはあるそうです。記者の方は、すらっとしていて、蹄鉄のペンダントに、努力の跡が見られるショルダーバッグを肩にかけていました。ユウさんに誘導されて、乙名史さんはソファに腰掛けました。

 

「綺麗なお部屋ですね。居心地が良くて、心が洗われます」

「ありがとうございます。今日は乙名史さんがいらっしゃるとのことなので。いつもはここまではしてません」

「今日は、やっぱり次走のインタビューですか?」

「はい。他にも、お二人について色々お聞かせ願えればと思います。肩の力を抜いて、楽に答えてもらって大丈夫です」

 

温かいコーヒーをユウさんが出して、取材は始まりました。なんだか、有名人になった気分です。

 

「お二人はどのような経緯でパートナーに?」

「模擬レースの時に初めて見たんですけど、衝撃でした。今でも忘れられません。他のトレーナーに取られなくてよかったです」

「やはり心にくるものがあったのですね。素敵なことだと思います。ユウトレーナーはやはり、父が偉大なトレーナーだったことで有名でしたが、どのようなトレーニングを?」

 

ユウさんの瞳が一瞬大きく開いた気がしました。笑顔は崩しませんが、さっきよりも少し強く拳を握っていました。

 

「父は天才なのかもしれませんが、僕は父とは違った方針だと思います。綺麗事ではありますが、アリアンスがストレス無く能力を高められるような環境づくりを目指しています。けどそれは決して、楽をさせることではありません。トレーナーなら、無理をさせることなく最大限の効率が望まれるトレーニングを考えて然るべきです」

 

それを聞いた乙名史さんの目もまた大きく開きました。なんだか、ウズウズしています。

 

「す、すばらしいですっ!ウマ娘が怪我無く、ストレス無く走ることが大事と仰るのですね!大切なウマ娘のために身を削ることもいとわないと言うのですね!たとえ何日徹夜しても、火に飛び込むことになっても、担当ウマ娘の勝利のためなら喜んで取り組む覚悟もおありなんですね!」

 

乙名史さんのテンションが一気に最高潮になりました。けれど、ユウさんは至って冷静でした。私は乙名史記者の情熱の深さにしばらく開いた口が塞がりませんでした。

 

「もちろんです。僕はアリアンスがレースに勝つためなら、彼女が夢を掴むためならなんでもします。それがトレーナーです。僕は彼女の命を預かっていますから」

 

それを聞いた乙名史記者の手が止まりました。トレーナー室にしばらくの静寂が訪れます。その異様な空気に戸惑いを隠せませんでした。けどそれは落胆だとか畏怖だとかではなくて、むしろ全く逆の、尊敬からでした。

 

「す、すばらしいですっ!担当ウマ娘のために全てを受け入れて、ストレスの無いトレーニングを行うためならいくらでも消費をいとわないだなんて。ここまでの方がいたなんて!ユウトレーナー、やはりあなたも天才なのですね!感激しました!」

 

顔を真っ赤にして乙名史記者はメモを取り続けています。取り乱す乙名史記者をなだめるように、ユウさんが口を開きました。

 

「そう言っていただけて恐縮です。落ち着いたら、次の質問にいきましょうか」

 

乙名史さんは汗を拭いて、段取りを確認し始めました。そして、メモ帳のページをめくりました。

 

「それでは。アリアンスさんはアルテミスステークスは惜敗となってしまいましたが、それでも強みをしっかり残せたレースだと感じました。次走のためにも、これからに活かしていきたいご自身で感じる強みはありますか?」

 

乙名史さんの真っ直ぐな瞳が突き刺さります。取材の場で改めて聞かれると、なかなか頭が回りません。それでも私の強みと言えば、まず浮かぶものがありました。

 

「ユウさんにも言われたんですけど、レースペースの判断と足のバネだと思います。見た目より粘り強く走ってくれると確信しています」

 

自分の受け答えに自信がなかったのですが、ユウさんがうんうんと頷いてくれました。乙名史記者の万年筆の音が忙しないです。

 

「アリアンスは、正確なペースの把握と全くロスのない綺麗なフォームが持ち味です。いわば熱効率100%の機関と言ってもいいかもしれません。さらに最近は基礎能力の向上も著しいです。阪神JFは相手も強くなりますが、全く問題ありません」

「私も、間近でお二人を見て、何か貫禄のようなものすら感じてしまいました。アリアンスさんなら圧勝ということもあり得るのではないでしょうか!ならば、お二人が警戒する陣営をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

 

ユウさんが私に目配せをしました。私の番です。もちろん私が警戒する相手は。

 

「コープコートちゃんです。私はコープコートちゃんの走りに何度も圧倒されました。だからこそ、今回は、圧倒する側から、させる側になりたいです」

 

緊張で私のコーヒーはすっかり冷め切ってしまいました。その他にも、ビジョンスターちゃんやダートで活躍しているアイちゃんのお話もしました。取材は思っていたよりも長く続きましたが、緊張していた割には楽しかったです。乙名史記者も、宝を発見した探検家のように、上機嫌で去っていきました。

 

「熱意のある方だったね」

 

インタビューの後、ユウさんが呟きました。乙名史さんのためのコーヒーは、少しだけ余っていました。




乙名史記者のキャラがブレてしまっていたらごめんなさい。


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初G1、迫る

「じゃん、月刊トゥインクル買っちゃいました。阪神ジュベナイルフィリーズのことも載ってるから、アーちゃんとコートの特集もあるよ。ということで!さっそく見てみよー」

 

インタビューを受けた数週間後、阪神ジュベナイルフィリーズは少しずつ迫ってきていました。そんなある日、ウールちゃんが月刊トゥインクルを買ってきました。表紙には、エリザベス女王杯の覇者、ナタリーさんが大きく写っていました。勝負服を纏ったその姿はモデルさんみたいで、美しいです。

 

「どれどれ、あ、コートだ。無敗の赤眼が睨むはジュニア女王の座ただ一つ。カッコいいフレーズだね。色々インタビュー載ってるよ。日々のトレーニングで気をつけていることは、とにかく自分を追い込むことです。食事制限も怠らず、レースに対して真摯でいたいです、だって。さすがコートだね」

「恥ずかしいから読み上げないで。自分では当たり前のことを言ったつもりだったけど、なかなか気障なインタビューになってしまったわ。次からは気をつけないと」

「コートちゃんらしくて、かっこいい。私はすごく良いと思う」

「そ、そうかしら。アリアンスさんにそう言ってもらえるなら、良かったわ」

 

そう言いながら、少し頬を赤らめていました。ウールちゃんは、私のページを熱心に探していました。

 

「お、アーちゃんだ。白髪の天使はターフを雪に染める、目指すは一面の雪景色。やっぱりアーちゃんはかわいいね。これはアルテミスステークスの時の写真かな?このゴール板前、ほんと惜しかったね。こっちは取材用に撮ったのかな、おっとりしてて綺麗だね。アーちゃんの魅力が写真でも伝わってくる」

「私の時より褒めてない?ほんと、分かりやすいんだから」

「そりゃあたしはアーちゃん一筋だから。他には何が書いてあるかなー。あ、ライバルはコープコートちゃんです、だって。コートちゃんの走りには何回も圧倒されて、今度は私の番です。うんうん、良いこと言うなあアーちゃんは」

 

私も少し恥ずかしくなってきました。お茶を口に運ぶ頻度も高くなっていきます。

 

「アリアンスさん。なにも圧倒されたのはあなただけではないわ。私も、あなたの走りには何度も圧倒されてきた。だからこそ、譲れない。今回は負けられないわ。まだ時間はある、もっともっと仕上げて、最高の状態で戦いましょう」

 

あのコートちゃんからライバルとして認められたような気がして、嬉しかったです。その反面、ふさわしい走りをしてみせるという気持ちも高まっていくのでした。

 

「ユウトレーナーについても載ってるよ。僕はアリアンスが勝つためならなんでもします、だって。痺れるね!こんなことあたしも言ってみたい!」

「そこまでウマ娘のことを考えているだなんて、素敵な方ね。もっとも、アリアンスさんに対して変なトレーナーを寄こすのは、私が許さないけど」

 

ユウさんの話題で盛り上がっていました。この前のインタビューの後から、ユウさんは気持ちが少し引き締まったように見えます。やっぱりお父さんと比較されるのは好きではないのでしょうか。乙名史記者から「天才」のワードが出た時、少し唇を噛んでいて、感情を抑えているように見えました。

 

「そういえば、あなたもユウトレーナーのもとに移籍したのよね。どう、調子は」

「バッチリ。やっぱりすごいよ、あの人は。疲れはするけど、全然苦にならない。自分が確実に強くなってるって実感できるんだよね。それだけ良いメニューを考えてくれてるんだと思う。あんたも、入りたくなったらいつでもおいで。トレーナーは歓迎するって」

 

意地悪そうにウールちゃんがほほえみました。私も、ウールちゃんの気持ちはすごく分かります。ユウさんは本当に私とウールちゃんのことをよく見てくれていて、的確なアドバイスを与えてくれます。ナタリーさんが言っていた秀でた観察眼と豊富な知識で、私たちの背中を前へ前へと押し出してくれます。感謝してもしきれません。いつかお礼を言えるといいのですが。

 

「私は私でがんばるから。さ、長居しちゃったわ。そろそろトレーニング行ってくる。二人も、頑張ってね」

 

コートちゃんが部屋を去って、二人でもう少しだけ雑誌を見ていました。ビジョンスターちゃんの記事やローズピーチ先輩の記事、他にも今後のレースの情報がたくさん載っていました。ジュニア級最後の戦いは、確かに足音を強めていました。



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勝負服と想い

阪神ジュベナイルフィリーズは、いよいよ来週へと迫っていました。いつものようにトレーナー室に向かうと、ユウさんがちょうどよかったと段ボールを取り出しました。

 

「ついに勝負服が届いたんだ、僕も何も聞かされてないから、一緒に見たいなと思って」

 

G1の大舞台に出走するウマ娘のための勝負服、ついに私のところにもやってきました。唐突に緊張が高まります。中身を傷つけないようにユウさんが慎重に開けています。そしてそこから出てきたのは、黒を中心に白が混ざった、ツーピースドレスとケープマントでした。あまりの完成度の高さに、驚きを隠せませんでした。

 

「か、かわいいです。でも、こんなに良い物が私に似合うのでしょうか。ほんとに私の物ですか?」

「もちろん、アリアンスのためだけのものだよ。ちょっと多く金出して正解だった。せっかくだし、着てみる?」

 

私がこれを着るなんて、恐れ多かったです。けれど、身体は全く反対で、今すぐにでもそれを身につけたいとうずうずしていました。更衣室へと向かう足は、どんどん早くなっていきました。

 

 

「思った何倍も似合ってる。僕としては完璧だ。アリアンス的にはどうかな」

 

さっそく着替えてみました。ツーピースドレスは胸のあたりに小さな星形のボタンがついていて、全体的に、派手ではないですが、華奢なお嬢様を彷彿とさせるような装飾です。全然重さを感じなくて、走りづらい感じもありません。ケープマントも黒が中心で、上品にバラの刺繍が縫ってありました。手が少し見えるくらいの長さです。私にはもったいないくらいかわいくて、興奮がいつまで経っても冷めません。私の心は、これ以上ないほど満足していました。

 

「これを着て走れるなんて、とっても嬉しいです。ユウさん、本当にありがとうございます」

「喜んでくれたようでなによりだよ。僕から見ても、アリアンスの可憐なイメージが何倍にも意識されるデザインで、かなり良いと思う」

 

ここまで完成度が高いと、絶対に本番のレース以外では汚したくなくて、練習で使ってみたいという思いと最後まで戦っていましたが、なんとか踏み止まって、保管しました。これは、本番までのお楽しみです。

 

「勝負服が届いて、いよいよ来週だ。アリアンスの日々の努力のおかげで、タイムはどんどん良くなってきてる。コープコートちゃんやビジョンスターちゃんは確かに強い。けど、忖度無しでアリアンスは負けていないし、むしろ勝っている要素も多い。僕は、とにかく自信を持って走ってほしい。クラシックのためにも、走り切った時に精一杯を出し切れたと思えるレースにしてほしい。勝ち負けは、全力の先でしか意味がないから」

 

私は強く頷いて、練習へと向かうのでした。

 

 

トレーニングが終わって、寮へと向かうと、ナタリーさんと一緒に、小さな荷物が置いてありました。

 

「それなんだろうね、アーちゃん宛ての小包だって」

 

私が開けると、ナタリーさんも覗いてきました。中には、お母さんからの手紙と、小さな箱が入っていました。

 

「あ、お母さんからだったんだ。優しい字で、アーちゃんみたいだね。お母さんだから当たり前かな。これはありがたく読まないとね。そっちは?」

 

小さな箱には、指輪が入っていました。それは、私のよく知っている物でした。私が小さい頃から憧れていた、アメジストが埋まっている小さな指輪です。動揺を隠しきれません。お母さんの真意が知りたくて、手紙に手を伸ばしました。

 

「アリアンスへ。トレーナーさんから、来週のG1に出走することを聞きました。どうか、無事に走り切ることを願っています。願掛けの意味も込めて、昔から欲しがっていた私の大切な物を送ります。あなたが持っていてください。あなたは、私たちの宝だから」

 

滴る涙が、読み進めるにつれて大粒に変わっていって、さらに溢れてきました。この指輪は私が産まれた時にお母さんが買った物です。小さかった頃にこれを初めて見て、その美しさに惹かれてしまいました。お母さんは、私が大きくなったらプレゼントすると言っていました。お母さんの思いが、お父さんの思いが詰まったこの指輪は、私にとってかけがえのない物で、特別な物なのです。震える指を伸ばして、憧れだった指輪をはめました。私にピッタリのサイズで、部屋の明かりを反射して鋭く輝いていました。その美しさに言葉を奪われてしまって、しばらく何も言えませんでした。

 

「それはアーちゃんにとって大切な物なんだね、そんなうっとりとした顔のアーちゃん初めて見たよ。うん、確かに綺麗だし、とっても似合ってる」

 

これを身につけているだけで、お母さんが近くにいるような気がします。私が元気に活動するためにいつでも見守ってくれているのです。それだけで安心して、とめどなく流れていた涙は少しずつ引いていきました。

 

「今のアーちゃんなら、あの子にも勝てるよ。ジュニアの女王は、アーちゃんだ」

 

ナタリーさん、ユウさん、そして、お母さん。私はいよいよ来週、阪神ジュベナイルフィリーズに出走します。私の全力、見ていてくださいね。私を支えてくれる全ての人を心の中で強く意識したのでした。



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アイちゃんと

「これ見て、アーちゃん。あいつの勝負服姿の写真もらってきた。結構かっこいいよね」

 

そこには、プラネタリウムを思わせるような美しい夜空を身に纏うコートちゃんがいました。星がドレスの至るところで輝いていて、上品なコートちゃんにピッタリの勝負服でした。

 

「アーちゃんも勝負服届いてるよね?あたし見てないんだけど!今すぐ取ってきて!」

 

私が試着したその日、ウールちゃんは練習には来ませんでした。後で聞いてみると、どうやら仮眠のつもりがぐっすりと深く寝てしまって、トレーニングの時間をとっくに過ぎてしまったみたいです。勝負服が届いて練習のモチベーションが上がりきっていた私は、ウールちゃんとの併走を心待ちにしていたのですが、できませんでした。

 

「ウールちゃんが練習にちゃんと来てたら見れたもん。私、寂しかったんだから。だからウールちゃんも本番までお預け」

「そんな、酷いよアーちゃん!確かにあたしが悪かったけど、あの日はしょうがなかったんだ。私の大親友のアーちゃんなら許してくれるよね?どうかこの通り」

 

頭を下げながら、目の前に私の大好きなチョコアイスを差し出してきました。いつもはウールちゃんのペースに飲まれてしまう私ですが、今日という今日は、もう騙されません。

 

「アイスくれたって許してあげないもん。ウールちゃん酷い、信じてたのに」

「そ、そんな顔しないでよアーちゃん。ごめんって、ちゃんと謝ります。ジュースも奢るから、どうかこの通り」

 

少しやり過ぎてしまったみたいです。ウールちゃんも反省しているみたいなので、許してあげることにします。勝負服は本番まで着ないですけど。

 

「よかったー。やっぱりアーちゃんは優しいね!え、許すけど着てくれないの?そんなー」

 

かなり落胆していました。せっかく綺麗な状態で保存しているので、なかなか取り出しにくいです。アールちゃんには申し訳ないのですが、本当にお預けです。

 

「ごめんね、ウールちゃん」

「本番までなんとか耐えるしかない。気持ちを紛らわせるために今日こそいっぱいトレーニングしよう」

 

今日こそは、ウールちゃんと一緒にトレーニングです。ウールちゃんからもらったアイスを頬張りながら、練習メニューについて思いを寄せるのでした。

 

 

ターフには、いつもより少し気合が入っているように見えるユウさんがいました。大量に付箋が貼られたノートやファイルを持って、周りの様子を熱心に見つめたり、ノートと悩ましそうににらめっこしていました。

 

「よし、今日は二人揃ったね。アリアンスはここからはもう最終仕上げ。今の実力を本番まで保てるように、今日全力で走ったら明日からは本番のために体調を整えてほしい」

 

一通りの準備運動を終えて、ウールちゃんと並びました。今日も、私が後ろです。すると、一人こちらを見つめているウマ娘がいました。

 

「今日は二人じゃなくて、もう一人連れてきたよ」

「よろしく」

 

黒髪を艶やかに光らせるその子は、アイちゃんでした。最近はあまり元気が無さそうだったので、ユウさんの併走のお願いを了承してくれたのは驚きです。アイちゃんは真顔で軽く頭を下げました。

 

「ダートで活躍してることは知ってるだろうけど、それだけに収まらない器だと思う。きっと二人の良い練習相手になるだろうから、三人とも、本気で走ってほしい」

「練習付き合ってくれるなんて珍しいね、最近どう?」

「別に普通だけど、それが何?」

 

睨みつけるようにウールちゃんを見つめるアイちゃん。それに怯んで私の後ろに隠れてしまいました。やっぱりちょっと怖いそうです。確かに、最近のアイちゃんは入学したての頃よりも、ずっとずっと退屈そうな顔をしています。何にも興味がないような、走ることにも興味が無いように感じます。けれど、未だ負け無しの記録は本物のはずです。

 

「じゃ、いつも通り先行するよ。ちゃんとついてきてね」

 

軽い足取りでウールちゃんが走り始めました。私とアイちゃんがそれに続きます。半分を過ぎたくらいで、ウールちゃんが速度を上げました。それに続いて、私も芝を強く踏み出しましたが、後ろのアイちゃんの気配は、私を本気で追っているようではありませんでした。しかしそればっかり気にしていることはできなくて、ウールちゃんに必死でくらいつきます。残り200mほどになって、ようやくアイちゃんの足音が近くなりました。私とウールちゃんが激しく競り合う中、すぐ後ろにアイちゃんはつけていました。けれどそれ以上差が縮めることはなくて、私とウールちゃんが並んでゴールすると、一バ身差でアイちゃんもゴールしました。本気で走っていないようにも見えるアイちゃんの走りを、ユウさんはただ黙って見つめていました。

 

「すごい、まさか二人ともここまで走れるなんて。これならコープコートちゃん相手でも全然勝機はある。二人の実力は間違いなく世代トップクラスだ」

 

タイムを見たユウさんは、驚きと安心が混ざったような顔をしていて、ひたすら私たちを褒めていました。私は確かにコートちゃんに近づいているんだ、そんな実感がありました。けれど、浮かないのはアイちゃんでした。

 

「アイちゃん、大丈夫?最近ずっと体調悪そうで、さっきも元気無かった気がするの。何かあるなら、私でよければ相談してほしいな」

「別に何もないから、気にしないで」

 

本当に何も不安なことがない子は、浮かない顔もしないですし、レースにも集中できます。私はどうしてもアイちゃんに気持ちよく走ってもらいたかったのです。

 

「そんなはずないの。アイちゃんとっても辛そうだよ。私はいつでもアイちゃんの味方だから、いつでも相談してほしいな」

「分かったって。じゃ、もう帰るから、お疲れ様でした」

「せっかくアーちゃんがここまで言ってるのに、なかなか薄情だね。落ち込む必要ないよ、アーちゃん。あんなのほっとけばいい。ただやる気が無いだけだよ」

 

珍しくウールちゃんの言葉には怒りがこもっていました。本気で走らないアイちゃんに呆れの態度を示しています。なぜアイちゃんはレースに真摯になれないのか、私はひたすらに心配です。クラスメイトとして、友達として、いつか心の重りを消してあげたい、そう思うのです。

 

「行っちゃった。まあ誰でも練習に力が入らない日はあるよね。気を取り直して二人とも、続けようか」

 

一回目のペースを思い出しながら、仕上がりは上々でした。目立った身体の不調も無くて、無事練習を終えました。ここからは、本番までの残り数日を過ごすだけです。アイちゃんのことは気になりますが、今の私ではどうすることもできないのも事実でした。私にできるのは、レースでアイちゃんを勇気づけてあげることだけです。また一つ大きな目標が増えるのでした。



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阪神ジュベナイルフィリーズ 前編

もうとっくに紅葉は散って、朝は布団が身体にまとわりついて離れません。日の出が近い今も、こうして重いまぶたと重い布団と私は戦っています。もう少しだけだからと布団に潜ると、ふと日頃の授業が思い出されます。ウールちゃんやコートちゃんは上着をはおって、特にウールちゃんは一日中ぶるぶると震えているのです。夏とは一変した教室が、そこにはありました。何度か意識が落ちかけましたが、なんとか布団を脱出できました。気持ちよさそうに寝ているナタリーさんの横で温かいコーヒーを用意して、頭を強引に働かせます。しばらく静かに練習用のノートを読んでいると、ナタリーさんが毛布を蹴飛ばしました。それを直して、厚着をして、マフラーを着て、私は部屋を後にしました。

 

鼻が真っ赤に腫れて、息は雪のように白くて。そうはいっても、ここは雪はめったに降らないのですが。ちょうど日の出と重なって、昇る朝日が一日の始まりを告げています。

 

「冬の朝は、こんなに静かなんだ」

 

早朝から外に出るのは久しぶりで、自分以外は無機物になってしまったのかと疑ってしまうくらい、私の独り言は響いたのでした。夏はこれみよがしに激しく鳴いていたセミも、目を凝らさなければ前が見えないような時間帯からターフを走っていたウマ娘も見えません。冷たい世界に一人っきり。果たしてこの世界の時は止まってしまったのでしょうか、そんなことまで思ってしまいました。けれど、けれども、今日はいまだかつてないほどに白熱する。燃え盛る熱気が会場を包む日なのです。この静寂は、嵐の前の静けさなのです。静かな夜明けは、私を戦場へと送り出してくれています。今日は負けられない、私の今までの全てをぶつける日です。阪神ジュベナイルフィリーズ。ジュニア級の頂点を決める戦いを前に、私は身を震わせました。

 

「おはよう、やっぱり朝は寒いね。車の中はあったかいから安心して、さあどうぞ」

 

ユウさんが目の前に現れました。お礼を述べながら乗車して、差し出されたチョコを食みました。それと合わせて温かい緑茶もいただきました。寮を出た時よりも吐息は温かくて、白さは無くなっていました。

 

 

入念に体操をして、入念にアップをして、控え室に向かいました。朝から準備していたのは、万全の状態でレースを迎えるためです。馬場の調子も一日中観察して、私の戦略はそれに沿って、パズルを完成させるようにつくられていきました。いつもは心臓が飛び出るほど緊張してしまうのですが、今日は朝から心の準備をしてきました。イメージトレーニングの数も比較になりません。むしろ精神的余裕に満ち溢れているとさえ思われました。ただ静かに時を過ごしていると、ユウさんがやってきました。

 

「アリアンス、そろそろパドックの時間だ。いよいよ勝負服のお披露目といこう」

 

「十番、アリアンス」

 

なるべく傷まないように上着を脱ぎ去りました。照りつける日光が勝負服に吸収されていきます。温かくて丈夫なのに、この上なく走りやすい、このフィットした感じ。そしてこの可憐なデザイン。やっぱりこの勝負服は美しいです。この美しさに私自身が負けている気がしてなりませんでした。周囲の視線が痛いです。けれど、せっかく私に与えられた物なので、たとえ似合っていなくても、結果で証明してみせます。これを着る資格は、自分で勝ち取りたい、そう思う自分もいました。

 

パドックを終えて、控え室にて他の出走ウマ娘の録画を見ていると、ウールちゃんが入ってきました。羨望の眼差しで私を見つめています。嫌な予感です。

 

「アーちゃん」

 

今にも噴火しそうな表情で、そう呟きました。一瞬の静寂が流れて、ウールちゃんの瞳が光りました。

 

「超良かったよアーちゃん!めっちゃかわいかった!イメージにぴったりでもうあたし感動しちゃって、まさに妖精さんだったよね。天使か妖精が降臨したのかと思っちゃった。周りのお客さんも完成度の高さに驚いてて、ほんと、さすがアーちゃん。モデルさんみたい。今日は、みんながアーちゃんの走りに釘付けになって、未来の女王が誕生するんだよね!」

 

顔から火が出そうな思いでした。耳までピクピク動かして、ただウールちゃんの賞賛を聞いていました。嬉しいのか恥ずかしいのか、不安も大きかった分、複雑な思いでした。そんな私には構わず、外から歓声が聞こえてきました。きっとコートちゃんが姿を現したのです。まるで私を威嚇しているようです。けれど私には、ウールちゃんがいます。ユウさんがいます。お母さんがいます。

 

「とっても嬉しい。ウールちゃんにそう言ってもらえて、自信が持てたの。ありがとう、ウールちゃん」

「ちょ、今の天使アーちゃんに言われたらさすがのあたしも照れちゃうって!あいつも来てるみたいだし、もう観客席行ってるから、頑張ってね!」

 

焦って部屋を飛び出していきました。恥ずかしかったのか、それとも私を緊張させないようにしてくれたのかは分からなかったですが、笑みがこぼれてしまいました。ユウさんからも、さっきエールをいただきました。アリアンスが走りたいと思ったように走ってほしい、それで結果が出ても出なくても、僕はそれが一番嬉しい。そう話していました。作戦は、私自身の身体が決めます。そのための練習はしてきました。あとはぶつけるだけです。

 

白黒の勝負服に身を包んだ白髪のウマ娘は、リボンを結び直して、ゆっくりとターフへと向かったのだった。



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阪神ジュベナイルフィリーズ 後編

いざここに立ってみると、どうしても胸が高鳴ります。初めてのG1のプレッシャーは、想像の何倍も大きなものでした。絶好の晴天で、芝の様子も全く異常が見当たりません。まさにG1日和です。何をするのも自由、何が起きてもおかしくない、それぞれの作戦がいくつも飛び交いそうな予感がします。何度も深呼吸を繰り返していると、会場がどっと湧き上がりました。堂々の一番人気、コープコートの入場です。優雅に観客に手を振りながら、こちらへ向かってきました。

 

「今日の私は絶好調。いくらアリアンスさん相手でも、完膚なきまでに圧倒してみせるわ」

 

プレッシャーを味方につけているコートちゃんには、余裕がありました。今の私は誰にも負けない、強い威圧感が私の周りを支配していました。けれど私も、コートちゃんが走った数だけ、貼った絆創膏の数だけ努力してきました。コートちゃんに対抗するように、余裕のある顔をしてみせました。今の私も全く完璧です。後ろめたい要素など一つも残っていません。自信を持って迎えてやればいいのです。

 

「今日こそはリベンジだよ、コートちゃん」

「その顔。やっぱり今日はあなたが一番の強敵になりそうだわ、何をしてきてもおかしくない。そんなアリアンスさんに一つだけいいかしら」

 

私の耳元に顔を近づけて、ささやきました。

 

「女王は正攻法でやってくる」

 

ふふっと笑って、自身のゲートに向かっていきました。その意味は、まさしく宣戦布告でした。直線の圧倒的な切れ味でコートちゃんがぶつかってくることを示していました。少し動揺してしまいましたが、分かりきっていたことです。私は私の走りを突き通す、それだけは変わりません。

 

「ねえルドルフ、あたい、今までにないくらい昂ってるよ。今日をどれだけ心待ちにしたことか。あの二人の極限の戦い、この目に焼きつけとかないと」

「私もだ、誰が勝つのか全く予想ができない。確かにあのコープコートは強いが、レースに絶対はない。君の言うアーちゃんの健闘を期待しているよ」

 

ゲートに入る前、ナタリーさんと目が合いました。この距離では何を言っているのかは当然分かりませんでしたが、落ち着いて、そう言っているように思われました。

 

「ついにこの日がやってきました。ジュニア級最初の聖戦、阪神ジュベナイルフィリーズ!今日の阪神競馬場はかつてない熱気に包まれています!一番人気はデイリー杯の覇者、八番コープコート!二番人気はアルテミスステークスの覇者、五番ビジョンスター!三番人気は十番アリアンス!初G1の舞台でついに悲願の重賞制覇を狙います!」

 

 

気合の入ったアナウンスが響き渡ります。紹介が終わって、少しずつゲートに入っていきます。武者震いなのか、身体が震えています。この気持ちは何でしょうか。こんなに動悸は激しいのに、緊張しているはずなのに、どこか平静があるのです。これはきっと、自信です。私の全てをぶつけられれば勝つことができる、その自信の表れです。皆ゲートに収まって、私の初めてのG1が今、始まります。

 

「皆綺麗なスタートを切りました!ハナを取ったのは三番!流れるように隊列が決まっていきます。八番コープコートはやはり最後方、余裕綽綽、前の出方を伺っています」

 

私は三番手について、呼吸を乱さず、走っていきます。最初のコーナーはスムーズに走り切りましたが、その後でした。身体が違和感を感じました。先頭の動きがおかしいです、まるでやる気のないフォームでした。その瞬間、スローを察知しました。このままではまずいと、身体が言っています。このままペースに持ち込まれれば、体力が削られてしまいます。私が取るべき行動は、一つしかありません。

 

「おっとアリアンスが早くも動いた!なんと先頭に立ったぞアリアンス!今日はアリアンスの逃げ切りだ!」

 

歓声が大きく上がりました。私は逃げが得意ではないです、けれど今なら、自分を信じることができる今なら、やりきれます。少しだけペースを落として、極限まで後ろの子たちの体力を削ってみせます。プレッシャーに怯えていた私が、今日の先頭はむしろ開放感に溢れていて、堂々と余力をいつもより残して走ることができます。後ろの子たちの息遣いが荒くなっていきます。それもそのはずです。マイル戦だからといって、スピードばかり研究している諸刃のトレーニングは、いつかボロが出る、そうユウさんが言っていました。レースは残り半分、私はさらにペースを落として、足を溜めていきます。

 

「これはスローペースだ!この良馬場で、前代未聞の逃げが一人!特にコープコートには厳しい展開になりました!皆辛そうな顔をしています!さあ最終コーナーに差し掛かる!アリアンスさらに足を伸ばした!ぐんぐん逃げていく!これを差し切れる子は現れるのか!」

 

コーナーを過ぎた瞬間、さらに脚に力を込めて、全速力で飛ばしていきます。もう誰にも私の影を踏ませない、勝つのは私です。けれど、これだけ完璧な展開で、私のペースに持ち込んでいるのに、足音は確かに一つだけ、近づいてきました。背後から強烈なプレッシャーを感じます。ここまでの覇気を出せる子は、ただ一人だけでした。

 

「見事にやられたわ。けど勝負はここから。さあアリアンスさん、力比べといきましょう」

 

「なんとなんと内を通って伸びてきたコープコート!何という速さだ!しかし両者とも限界を迎えている!最後は純粋な力比べ!激しい思いのぶつかり合いだ!」

 

残り100メートル、尋常ではない速度でコートちゃんが迫ってきます。圧倒的なスピードは、全てをねじ伏せてしまうのです。けれど負けません、私の全ては、確かにコートちゃんに届くはずです。

 

「絶対負けない!!」

「アリアンス粘る粘る!しかしコープコートも落ちない!差が縮まっていく!アリアンス苦しいか!」

 

足が重い、私を突き動かすのは勝利への執念だけ。あと数十メートル、二人とも限界はとっくの昔に追い越して、思いだけをぶつけ合って。溺れた子どもが必死で前に進もうともがくように、ひたすら前へと進もうとします。けれど、またこの感覚です。届かない、またしても私の思いは届かない。走っても走っても、どれだけ走っても、加速できません。勝ちたいのに、勝ちたいのに。どれだけ鼓舞しても、足りませんでした。

 

「なんとコープコートが差し切った!アリアンスはアタマ差の二着!今ここに女王が誕生しました!コープコート、無敗のG1制覇です!その末脚は、確かに世代の頂点まで届きました!」

 

走り切った私は、ターフに倒れ込みました。たった数十メートルなのに、何千メートルも走らされているような気がしました。自分の身体が思うように動かなくて、力不足を実感させられました。突きつけられるのは、私がコートちゃんよりも弱いという真実だけでした。何回も何回も深呼吸をして、ちぎれそうな心臓と、自分自身をなだめていました。ふらついた足でようやく立ち上がると、歓声に包まれたコートちゃんが目の前に立っていました。

 

「本当に強かったわ、アリアンスさん。私のライバルは、やっぱりこうでなくちゃ。あなたとまた走りたい。いつでも待ってるから」

 

返事もすることなく涙を堪えている私を一人にするため、コートちゃんは去っていきました。何分間か経って、私は死人のように動き始めました。そこには、ナタリーさんがいます。何もかもを諦めた私の瞳を見つめながら、ナタリーさんは言いました。

 

「よくここまで泣かなかったね。本当に偉いよ。あたいがアーちゃんのことを好きなのは、そういうところ」

 

静かに私を抱きしめました。レースの内容に一切言及することなく、ただそれだけでした。私はナタリーさんの胸で、ひたすらに涙を流しました。何分も何分も、ナタリーさんは何も言わず、ただ温もりを与えてくれました。私が少し落ち着いたのを感じて、口を開きました。

 

「アーちゃんに弱いところは何一つなかった。ゴール版を過ぎた瞬間に涙を流さなかったのは、これで終わりじゃないからだよね。アルテミスステークスで敗北を知ったアーちゃんは、今日はここまで涙を堪えたんだよ。だから偉いんだ。だから強くなれるんだ。きっと次流す涙は、ウイニングライブの時だよ」

「ナタリーさん、また負けちゃいました。みんなを裏切ってしまいました」

「少なくともあたいは裏切られてないよ。だってアーちゃんは確かに強くなってたもん。私が裏切られると感じることがあるとすれば、アーちゃんがレースから逃げ出したいって言い出した時かな。もちろんお友達も、トレーナーさんも同じ気持ちだよ。アーちゃんは、背負い過ぎだよ。こんなこと、いつか言った気がするね」

 

いつものように私の頭をぽんぽんと撫でて、それから私に顔を合わせて、言いました。

 

「今日のレース、楽しかった?」

 

単純な質問でした。数秒もあれば考えられるほどの質問です。そしてウマ娘なら誰もがはいと答える質問です。

 

「勝敗の前にはさ、必ずこれがあるんだ。レースを楽しむっていう気持ちが消えてしまったら、そんなレースに価値はないよね、いくら勝利したとしても。アーちゃんは、今日のレース楽しかった?」

 

私が超えたいと思う人が、全力でぶつかってきて、お互いの全てを出し合って、思いをぶつけ合って。勝利に夢中になるあまり、一番大切なものを見失っていました。いつもいつも、ナタリーさんはそれに気づかせてくれます。高め合っている仲間との本気のレースが、つまらないわけがありません。最強であるコートちゃんとの勝負が、平凡なわけがありません。レース前、私の動悸の激しいのは、このレースを全力で楽しみたいという思いが一番でした。私はようやく、それを理解したのです。武者震いよりも平静よりも、単純なものでした。それに気づくと、少しずつ涙は引いていきました。

 

「私、とっても楽しかったです。胸がドキドキして、考えてみれば、これがレースの醍醐味ですよね」

「うんうん、分かればいいんだよ。何事も楽しまないとね。それに、このレースで二着って、本当はものすごいことなんだよ?間違いなくアーちゃんは世代トップクラスの実力なんだから、もっと誇ればいいのに。リベンジの機会なんてまだまだあるわけだし」

「そうですよね、その通りですよね。ナタリーさんの言う通りです!これからの努力が一番大事ですよね。ナタリーさんのおかげで、立ち直れました」

「あたいは何もしてないよ、結局アーちゃんがたくましく、強くなっただけだよ。あれ、アーちゃん、どうしたの?」

 

お小遣いを求める子どものように、すらっと忍び寄りました。ナタリーさんはすっと顔を近づけて、ねだりました。心残りが一つ、あったのです。

 

「がんばった私に、一つだけいいですか?」

「え、何その顔。アーちゃん急にちょっと怖くなってきた。けど内容によってはちょっとだけ考えさせてね?」

「そうですよね、嫌ですよね。私のお願いなんて、ナタリーさんの迷惑になるだけですよね」

「ウールちゃんが言ってたのってこういうことか、こんな顔されたら断れるわけないじゃん!分かった、分かったから!何でも聞くから、言ってみて?」

 

何もかも飲み込まれてしまいそうな夕暮れの下で、今まで流した涙を忘れるような、全力の笑顔で言いました。

 

「まだナタリーさんと写真撮ってなかったです。だから、思い出、つくりたいです」

 

残映に真っ赤に染まった二人の笑顔は、アリアンスの忘れられない思い出として、寮の写真立てに飾られることとなった。



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(番外編)五話 証明

パドックでアリアンスと別れて、全体が広く見渡せる場所から、ターフを見ていた。けれど争えぬ血なのか、みすぼらしい親父も、同じ場所に来ていた。今日はアリアンスとコープコートちゃんの戦いの日であり、僕と親父の戦いの日でもあった。僕はコープコートちゃんに親父の方針を少し重ねていた。極限まで計算されたスケジュールと体調管理。もちろんコープコートちゃんのトレーナーさんが親父ほど腐っていないのは承知の上だが、少し似ている節があった。親父のような方針の元で鍛えられたコープコートちゃんにアリアンスが勝つことができれば、それはすなわち僕が親父を超えたことになる。天才と呼ばれた男が間違っていたことの証明になる。それに気づくのは僕と父だけかもしれないが、それで十分だった。引退してもなお偉そうにふんぞり返って他者を評価している横暴な天才を、玉座から引きずり下ろしたかったのだ。

 

「お前のボンクラ、三番人気だってな。マイルを走るというのにそんな甘い仕上げじゃ、スピードも出なければ根性も無い。中途半端な出来だな。何かの事故があっても一番人気には勝てんだろうな。力の差があり過ぎる」

「あんたならそう言うと思ったよ。あんたの教えに忠実に育ってきたようなものだからね。ただ、レースは何があるか分からない。おしゃべりは身体に悪いよ、黙った方がいい」

「俺は絶対を創った男だぞ、お前みたいな夢しか見ない馬鹿とは違う」

 

相変わらず虫唾が走るような男だ。アリアンスをボンクラと非難し、その努力を否定しようとする。全てのウマ娘が勝利のため努力をしている世界で、それを罵倒するなどあってはならない。怒りを隠さずにはいられなかった。

 

「俺はあんたの何もかもが嫌いだ。こんなのを少しでも敬愛していただなんて、冗談でも恥ずかしい」

「周りは俺を尊敬して止まないがな。お前も、お前の下で育っていくかわいそうな子も、一生世間に認められない。まあお前が何をいったところで、このレースが全てを教えてくれる」

 

「皆綺麗なスタートを切りました!ハナを取ったのは三番!流れるように隊列が決まっていきます。八番コープコートはやはり最後方、余裕綽綽、前の出方を伺っています」

 

アリアンスは綺麗なスタートダッシュで前へ、予想通り三番の逃げでレースはスタートした。皆落ち着いた様子で軽々と走っていた。この感じなら大きく体力を欠くことはないだろう、定石通りなら。けれどあの三番の足取りは間違いなく周りの体力を削りにきている。初めてのG1でこれほどの博打が打てるのは、世代のレベルの高さを物語っていた。しかしアリアンスも、一筋縄ではいかない勝負根性と冷静さを持っている。持ち味が出せれば、身体がスローに反応してくれるはずだ。けれども正直、冷や汗が止まらなかった。

 

「おっとアリアンスが早くも動いた!なんと先頭に立ったぞアリアンス!今日はアリアンスの逃げ切りだ!」

 

思わず拳を握った。やはりアリアンスは強い。これなら自分は体力を温存して、さらに相手を疲弊させられるのだ。周りを見て冷静に判断できる、その能力がこの大舞台で発揮できるのは、アリアンスの強さそのものだった。

 

「これはスローペースだ!この良馬場で、前代未聞の逃げが一人!特にコープコートには厳しい展開になりました!皆辛そうな顔をしています!さあ最終コーナーに差し掛かる!アリアンスさらに足を伸ばした!ぐんぐん逃げていく!これを差し切れる子は現れるのか!」

 

アリアンスはさらに足を溜めていた。ついに最終コーナーを曲がって、一気に解放した。二馬身、三馬身。後ろを突き放し、加速していく。けれど綺麗なコース取りで、内からコープコートが迫ってきていた。アリアンスはおそらく限界、コープコートも今にも後退していきそうな走りだ。どちらが勝ってもおかしくない、あとは根性の差だけだ。けれど次の瞬間、アリアンスは少しずつ速度を落としていくのだった。

 

「なんとコープコートが差し切った!アリアンスはハナ差の二着!今ここに女王が誕生しました!コープコート、無敗のG1制覇です!その末脚は、確かに世代の頂点まで届きました!」

 

アリアンスの思いは、残り数メートルで散ってしまった。けれど、僕の胸は充実感に満たされていた。あのコープコートを相手に、G1という大舞台であそこまで完璧なレース運びをしてみせたのだ。咎められる部分は一つもなかった。自身の強みを最大限発揮し、作戦を瞬時に切り替えて戦ったアリアンスは、紛れもなく世代最強だ。僕の教えは、間違いじゃなかった。虚勢は姿を現した。アリアンスの走りは、僕を正しいと認めてくれた。目頭が少しずつ熱くなっていった。心の奥が沸々と煮えて、もう親父の罵倒も気にならなかった。

 

「どうだ、完封された気分は」

「本当にそう思っているなら、節穴だよ、お前」

「負け惜しみは見苦しいぞ、クソガキ。何笑ってんだ、気持ち悪い」

 

ありがとう、アリアンス。君はやっぱり強い。僕の教えを吸収して、よく戦ってくれた。何回も考えた、これで正しいのだろうか、僕は、アリアンスに対して適切な練習を与えてあげられているのだろうか。決して口には出せなかったが、自信がなかった。けれど今日、それを正しいとアリアンスが証明してくれたのだ。ひたすらに健気でひたむきで、純粋なアリアンスだからこそ、ここまで強くなることができて、それに僕は心を動かされるのだ。これをどうして笑わずにいられるだろうか。

 

「負けたくせに、ニヤニヤと往生際が悪いな。お前らはこれからも負け続ける、次のレースが決まったらまた見にきてやるよ。あ、そうだ、俺にすがるなら早い方がいい」

 

小さな猫背は去っていった。僕が超えたいと思っていた壁は、こんなに小さかったのかと思った。田舎の家のブロック塀を軽々と飛び越えるような感覚を持ったら、余裕で跨げる大きさだった。間違いない、僕たちはまた一つ、前へ進んだ。今回のレースで得たものは、僕とアリアンスを前へと押し進める大きな材料だった。次にアリアンスに会った時、かける言葉はもう決まっていた。



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阪神JFの後に

後日私はトレーナー室に向かっていました。そこには大量のお菓子が並べられていたのです。パーティとまではいきませんが、催し事のような雰囲気がありました。

 

「失礼します」

 

ユウさんは待っていましたと言わんばかりでした。そしてウールちゃんの姿もありました。きっとこれは、ギリギリで負けてしまった私を慰めるものなのだと思います。少しとまどっていると、ウールちゃんがそばに駆け寄ってきました。

 

「この前のアーちゃん、ほんとにかっこよかった。あいつとの一騎討ち、きっと誰もが二人に見惚れてた。アーちゃんが負けちゃっても、周りの人たちは、アーちゃんの健闘を讃えてた。あのルドルフ会長も、トゥインクルシリーズの柱が誕生したと絶賛してたんだよ!あたし、アーちゃんが負けちゃったっていうのに、みんながアーちゃんを褒めまくるから嬉しくて。トレーナーだって、アーちゃんがここに来るまで何度もレースを見返して、褒めてたんだよ」

「負けちゃったけど、そのおかげでたくさんのことを学ぶことができたの。ナタリーさんが、本人たちが全力でレースを楽しめば、観客にもそれは伝わる。だから、レースの勝敗に関わらず、皆が幸せになるレースがつくられるんだよって。コートちゃんとのレース、とっても楽しかった。だから、もう大丈夫だよ」

「アーちゃん……。うん、アーちゃんはやっぱりすごい!あたしが励ます必要なんて全然無かったね。あたしも夢中で応援しちゃったんだー。だから、その、ほんとにお疲れ様!」

 

尊敬の眼差しを向けるウールちゃんに、私はさらに充実感を感じていました。私の思いはコートちゃんには届きませんでしたが、観客の人たちには届いていました。それは紛れもない事実です。私は負けてしまいましたが、そこからさらに成長して、今度はもっと強くなった私を見てもらうことが、私を今回応援してくれた人たちへの感謝になります。

 

「ウールちゃん、やっぱり優しい。今度は私が、ウールちゃんのこといっぱい応援するから。私、声は小さいけど、がんばって応援するからね」

「ちゃんと私だけを応援してね!アーちゃんの視線はあたしだけのものだから、他のウマ娘なんて応援したらあたし怒るから!」

「私は、ずっとウールちゃん一筋だよ。信じてほしいな」

 

いつか聞いた言葉を、ウールちゃんにお返ししました。さっきまで元気だったウールちゃんは、急に顔を真っ赤にして縮まりました。目を逸らしたウールちゃんを、すかさず捕捉します。耳をピクピクさせて、尻尾がブンブン動いています。

 

「アーちゃん、そんな目出来たっけ。ドキドキしてしょうがないんだけど……」

「ウールちゃん、がんばってね」

「も、もちろんです」

 

ユウさんはうんうんと頷いていました。ユウさんも、なんだか目に光が宿ったような気がします。前よりも、優しい顔になりました。もちろん今までもとっても優しい方でしたが、心のしこりが無くなったような感じです。ユウさんから何か大きな不安が取り除かれた、そんな気がしました。

 

「アリアンス、本当にお疲れ様。トゥインクル史上に残る名レースだった。私的な話になっちゃうんだけど、あの日から周りのトレーナーの、僕を見る目が少し変わったんだ。活動の幅を制限されたり、情報が回ってこなかったり、結構肩身の狭い思いをしていたんだけど、少し緩和された気がする。何もかもアリアンスのおかげだよ、本当にありがとう。お礼といっては何だけど、今日はお菓子たくさん用意したから、好きなだけ食べてほしい」

「いえいえそんな、私はレースに出ただけです。それに、ユウさんにも本当に感謝しています。私がここまで強くなれたのも、ユウさんのおかげです」

 

今までにないほど穏やかな空気が流れていました。私が望んでいたのは、こういうことだったのかもしれません。私の走りが、みんなの希望になる。良い循環を生むのです。これほど嬉しいことはありませんでした。

 

「あ、そうだ、ウールの勝負服が届いたよ。あとで試着してみようか」

「え、まじですか。やったやった。アーちゃんのことばっかり考えてたけど、もうすぐあたしもG1だからなー。アーちゃんに胸を張れるようなレースをしないとね。ダメージが残っているだろうし、併走はさすがに厳しいよね」

「しばらくは休まないとね。いくら大丈夫だと感じても、身体にかかる負荷は想像の何倍も重いものだから、アリアンスはゆっくり回復させていこう。業後は暇だったら練習を見学して、ウールの練習から色々と学んでほしい」

 

ユウさんもいつになく饒舌でした。今後のウールちゃんの練習プランを説明するユウさんは、笑顔で明るくて、冬の寒空を吹き飛ばしてしまうような気がして、いつにも増して素敵です。ホープフルステークスまでは、あと二週間ほど、ここからは、ウールちゃんにバトンタッチです。

 

「さあさあ、早く見せてくださいよ、あたしの勝負服。これでも結構楽しみにしてたんですよー」

 

ユウさんが奥から何やら取り出してきました。中を覗くと、綺麗に畳まれた薄緑が姿を現しました。

 

「おー、めっちゃ爽やかな色だね、肌触りもサラサラしてて、動きやすそう」

「ウールちゃんのイメージにぴったりだね」

 

例えるなら、メロンソーダのような感じでした。純白の羽に淡緑を伸ばした、水玉のワンポイントがかわいらしいドレスです。快活で清涼なウールちゃんのイメージを底上げしています。試着しているウールちゃんは少し興奮気味でした。クルッと一回転して、誇らしそうにピースして。

 

「これで走れるなんて、もう今から楽しみだなー。あいつなんて言うかな」

「ふふっ、楽しみだね」

 

勝負服を堪能したウールちゃんは、私の手を引いて練習へと向かいました。



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三人で

ターフには、準備運動をしているコートちゃんがいました。こちらを見つけると、なんだか申し訳なさそうにしています。

 

「アリアンスさん。その、おはようございます」

「もう夕方だよ。なんか落ち着きないね。なんかあった?」

「あ、アリアンスさん。この前は、その」

 

コートちゃんは、阪神ジュベナイルフィリーズのことを気にしているようでした。聞いてみると、コートちゃんが勝ってしまったことで仲が険悪になることを心配しているみたいです。真面目で優しいコートちゃんらしいことだと思いました。

 

「ううん、気にしないで。私はもう大丈夫だよ。レースは遠慮なしだもん。私の心配までしてくれるなんて、やっぱりコートちゃんは優しいね」

「そんなの、当然のことだわ。でも本当によかった。私、嫌われてしまったとばかり思ってしまって」

「そんなことで嫌いになったりなんてしないよ。レースで本気になるのは当たり前だもん。それに、本気でコートちゃんが走ってくれて、私、嬉しかった。ありがとう」

 

どこまでも驕らず、他人を気遣えるコートちゃんは、私の自慢です。そんなコートちゃんだから、たとえ負けても清々しくいられるのだと思います。もっともっと一緒に走りたい、今度は勝ちたい、そう思えるのです。どことなく不安げな顔を浮かべているコートちゃんの手を、ぎゅっと握りました。

 

「また一緒にレースしようね、コートちゃん」

「と、当然だわ。私だってアリアンスさんがいいもの」

 

やっといつものコートちゃんの顔になりました。高貴な笑顔は、少しだけ苺のようでした。隣でウールちゃんがじれったそうな顔をしていました。

 

「ねえねえ、あたし実はさっき勝負服届いて、モチベ上がってるんだよね。せっかくなら三人で模擬レースしようよ。ジュニア級女王のコート様なら、受けてくれるよね?」

「ほんとに挑発が上手ね。私はいいけど、アリアンスさんは乗り気じゃないかもよ。レース後だから正直勘弁してほしいけど。そこまで言われたら引き下がれないわ」

 

断っちゃっていいわよと呆れた顔をみせるコートちゃんと、瞳を夕陽に光らせてこちらを覗き込むウールちゃん。私の気持ちはもちろん賛成なのですが、身体を休ませなければいけません。ユウさんに助けを求めて視線をやると、顎に指を当てて考えていました。判断を煽るようにしばらく三人でユウさんを見つめていました。

 

「うーん、身体に不調を感じた瞬間中断するように。あくまでもトレーニングだから。でもウールは本気でね」

「やった、さあアーちゃん行こう行こう」

 

私たちは三人で走ったことはまだありません。たとえ練習だとしても、一瞬も気を抜きたくないです。三人の間を、冬なのに温かい風が渦巻いていました。いくらレース明けでも、二人に恥ずかしい姿は見せられません。特にウールちゃんはもうすぐホープフルステークスを控えています。実りのある練習にするためにも、私の最大限を二人にプレゼントしなければいけません。

 

「さ、トレーナーさんの合図でスタートね」

 

三人とも、勢いよく飛び出しました。いつもの練習よりキレが良いウールちゃんの走りに二人でついていきます。少しコートちゃんが速度を落として、三人は馬なりに進んでいきます。先頭を走るウールちゃんはやっぱりいつもより軽やかで、さらに速度を上げていきます。2000mは終盤、三人の呼吸は必然的に合って、目を合わせたかのように、ラストスパートをかけていきました。逃げるウールちゃんと後ろから猛烈な勢いで迫ってくるコートちゃんに挟まれて、残り数百メートル。

 

「二人とも、このままだと置いていっちゃうよ」

 

ウールちゃんがさらに加速して、引き離します。私の脚はいつものようには伸びませんでした。後ろからは、前のような覇気は感じられませんでした。コートちゃんもまだ前のダメージが残っているようです。そうしている内に、ウールちゃんは完走しました。二人が遅れて到着すると、申し訳なさそうに近寄ってきました。

 

「ごめん!二人とも大丈夫?やっぱりキツかったよね。無理言ってほんとにごめん」

 

病院に運ばれた我が子を心配するように、ウールちゃんが駆け寄ってきました。確かに私たちは追いつけませんでしたが、そんな私たちでも、ウールちゃんの成長は十分に伝わりました。これならきっとG1の大舞台でも通用します。

 

「手加減なんかしてないわ。私は本気だった、あなたが早かっただけよ。ね、アリアンスさん」

「うん、ウールちゃん、私たちじゃ届かないくらい速くなってた。これなら、ホープフルステークスも一着だよね」

「え、いやそりゃ当然ですよ!って違う違う、それよりほんとに怪我はない?」

「全く大丈夫よ。リフレッシュになって楽しかったわ。私と練習した以上は勝ってもらわないとね」

「がんばってね、ウールちゃん」

 

ウールちゃんは面食らっていたようでしたが、笑顔でありがとうと呟きました。顔を赤くして、少し照れくさそうでしたが、日は落ち始めていたので、定かではありません。その後は三人で一緒に寮へと帰りました。ウールちゃんが先頭で、心意気を語りながら、その笑顔の表情だけは、はっきりと脳に刻まれました。



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希望の道は

「今日は贅沢に鮭いくらかなー」

 

ホープフルステークス。一年最後のG1レース、あたしはその一番人気を背負って出場する。考えれば考えるほど思考が窮屈になっていってしょうがなかった。第一に言えるのは、作戦がうまく決まらないと勝てないということ。いくつも考えてはいるけれど、正攻法で勝ちにいけるほどあたしの能力は高くはない。それを不満に思うことはあっても、言い訳にはしたくなかった。むしろだからこそ、あたしは強くなれるとすら思っていた。レースは技巧派が一番かっこいい、その点においては、やはりアーちゃんの阪神ジュベナイルフィリーズは一年で一番盛り上がったと言っても過言ではないと思う。アーちゃんはあたしと練習していくうえで、あたしの長所まで吸収してしまった。アーちゃんのことは、言葉も出ないくらい尊敬している。コートもその作戦に動じることなく正攻法を貫き勝利した。二人とも、おこがましいとは思うけれど、私の誇りだ。だからこそあたしも続かなければいけない。あたしはあたしの走りで、二人に答えてみせる。慣れない味のおにぎりなんか買って少し贅沢したのは、浮き足立っているからなのかもしれない。

 

 

ホープフルステークス当日、ウールちゃんは控え室でお茶をすすっていました。パドックの熱気は砂漠のようで、ウールちゃんも華麗に登場していました。皆、ウールちゃんの戦術を楽しみにしています。そして、今日のために耳飾りを新調したみたいです。バラがいつもより何割も増して輝いていました。エンターテイナーは観客をも惑わす。『トゥインクル』のウールちゃん特集ページの文言です。ウールちゃんの思いもよらない走りに、期待が高まります。

 

「一番人気、さすがウールちゃん。パドックとってもかっこよかった」

「まあね、今日もウールちゃん勝っちゃうから」

「絶対勝てるよ、がんばってね」

 

ウールは数をこなしてレースに慣れてきたら、爆発的に勝てるようになる。最終的にレースで勝つのは、能力値が高いウマ娘じゃなくて、ただ強いウマ娘。ウールの頭の柔軟さは、いつかG1の頂に手が届くから、今は焦る必要は全くない。そうユウさんも言っていました。今回は様々な環境に慣れるための訓練だということも言っていました。

 

「まったくトレーナーさんもあたしを甘く見過ぎだよね。そんなことくらい分かってるって。それを承知のうえで、あたしは完璧なレース運びで一着を取って、さらに上を目指す。だってあたしは強いからね!」

 

ピースを私に向けて、ターフへと軽い足取りで向かっていきました。ジュニア級最後の聖戦の幕が上がろうとしています。中山の熱気は最高潮、バ場に含まれた少しの水分でさえ蒸発してしまいそうです。飛び出しそうな心臓をなんとか静めながら、コートちゃんたちのいる観客席に戻りました。

 

 

「本日の中山で、新たな世代の希望が誕生します、ホープフルステークス!一番人気はご存知九番ショートウール!未だ無敗の天才ウマ娘の前走は、記憶に新しいでしょう。今日も見事なトリックが炸裂するのでしょうか!」

 

ターフに現れたウールちゃんは、真っ先に私たちの方にやってきました。

 

「なかなか似合ってるじゃない。私に恥じないレースをしてもらわないとね」

「もちろん。あたしの走りをみんなの心に刻みつけてやらないとね。当然、二人にもね。いつか二人を超えるために、今日はその最初のステップだから」

 

オーラと呼ぶのでしょうか。ウールちゃんが纏っていたそれが一段と濃くなりました。周りの雰囲気が少し重たくなって、ウールちゃんの顔も少し険しくなりました。

 

「じゃ、見ててね」

 

ゲートへと向かうウールちゃんの後ろ姿には、阪神ジュベナイルフィリーズの時にコートちゃんに感じた覇気がありました。間違いなくウールちゃんは、ここにいる誰よりも速い。そう否応無く思わされます。

 

「ピッドからは二人が出走です。二番人気は六番ナイズ!安定した走りで順当に勝利を勝ち取り参戦です。そして三番人気、十四番ミールラプソディ!リベンジを図ります!名門の刺客を振り切り、ショートウールは勝利を手にできるのか!中山メイン、ホープフルステークスのスタートです!」

 

盛大なファンファーレが響き渡り、ゲートに数人ずつ収まっていきます。ピッドの二人は、ウールちゃんを徹底的にマークするはずです。それどころか全員から狙われる状況で、ウールちゃんは力を出し切れるのか、その不安が心に重くのしかかってきました。きっとウールちゃんが抱えるプレッシャーは私の不安なんかとは比べものにならないほど大きいはずです。けれど、それを跳ね返してみせるのを信じるしかありませんでした。

 

「落ちる夕日に照らされて、十五頭は並んでスタートです。ミールラプソディが先頭に立って、続いて強引に番手を取りにきた、ナイズです。ショートウールは三番手、三強は最前に固まっています」

 

まずいな、ユウさんは一言呟きました。理由を聞くと、あれはブロックの形だと言います。どう考えても二人で結託して、ウールちゃんを外に回す気です。相手のチームは、そういう八百長にも似た行為を平気でしてくるようなチームだそうです。それに、もし先行しなかったら、ウールちゃんは間違いなく揉まれていました。さすがの英断です。けれど危ない状況ではあります。数百メートルが過ぎて、前の状況は依然として変わりません。

 

「でも、ウールちゃんなら、二人くらい」

「それはそうなんだけど、特に逃げのあの子がちょっとまずいかもしれない。このペースだとひたすらウールの体力は削られる。外を回るわけにはいかないし、早めに内を通るしかない」

 

「さあやはりハイペースでミールラプソディが逃げていきます。レースは残り半分を切りました。後続も少しずつ差を縮めにかかります。ショートウールはここからどの位置を取るのか」

 

後続がウールちゃんに被さるような形で迫ってきたその時でした。ウールちゃんは大地を大きく蹴って、全力で加速しました。内で抜け出せないのを嫌い、外から攻める決断に出たのです。一気にミールラプソディちゃんとの差を縮めて、外へ。そのままナイズちゃんを抜き去りました。けれどその影響で最終コーナーを外から大きく回ることになりました。しかしその甲斐あって、ミールラプソディちゃんとの一騎打ちです。

 

「外を回ってきたショートウール!さあミールラプソディとの一騎打ちだ!ミールラプソディはもう息が限界だ!しかし後ろからナイズだ、ナイズがやってきた!内から影に隠れてナイズが迫る!」

 

ウールちゃんを後ろから睨みつけていたナイズちゃんが、一気にウールちゃんと並びました。ミールラプソディちゃんも必死で粘って、三強の叩き合いです。

 

「残り100メートル!ミールラプソディが失速していく!ショートウールももう限界か!ナイズが差した!しかし差は広がらない!ショートウールが差し返す!」

 

もうとっくにウールちゃんの体力が限界を迎えていることは、誰が見ても明らかでした。しかし、ウールちゃんの勝利への執念がそれを許さないのです。ただ根性に突き動かされるままに、一瞬ナイズちゃんを差し返しました。

 

「しかしナイズがさらに差し返し今ゴールイン!クラシックへの希望が見えたか、ナイズが一着です!ショートウールは惜しくも二着!両者一歩も譲らない一戦となりました!」

 

ウールちゃんの執念はあと一歩のところで届かず、栄冠はナイズちゃんの手に渡りました。走り切ったウールちゃんは少しふらついて、その場に座り込みました。そしてそのまましばらく動きませんでした。



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希望の先に

「うっ、もう無理だ」

 

その場に座り込んでしまって、咳が止まらなかった。あたしの全力は届かなかった。二人は完璧なコンビネーションで私の進路を潰してきた。どちらかが欠けても、完璧な状態で迫ってきた片方があたしを潰す。同チームのメンバーで結託して一人を狙うなんて、正直予想がつかなかった。けれどそれで勝ってしまうのなら、誰も文句は言わない。悔しい、ただその思いが募っていくばかりで、前を見ることができなかった。何をすれば勝てたのか、あたしはどうしてあのコース取りをしてしまったのか。

 

「残念だったね。悪いけどここは負けられない。ミールラプソディばっか睨んでたのが君の敗因だよ。ウイニングライブはあーしの後ろで踊ってね。じゃあ」

 

何も言い返せなかった。もっと広く全体を見るべきだった。ようやく呼吸が落ち着いてきて、反省の材料がいくらでも頭に浮かんだ。冬だというのに、汗が止まらなかった。

 

「トレーナーさんと反省会だなあ。じゃなきゃこの気持ち、晴らせないや」

 

とりあえず二人のところへ向かった。二人に何を言われるか、少し怖かったからだと思う。落胆されるのなら、早い方がよかった。

 

 

 

「惜しかったわ。今回はあの二人に綺麗にやられたわね。作戦負けってとこかしら。全然落ち込む必要なんてないんだから、気にしちゃダメ」

「そう思う?あたしは他に方法があったと思う。未来が変わる選択肢があったはずだよ」

 

ウールちゃんの耳は垂れていて、敗北で心が荒んでいるのが表情から伝わってきました。見たことないくらい悔しさを前面に出していました。ユウさんが口を開こうとして、コートちゃんがそれを遮ります。誰も気の利いた言葉をかけてあげられない中、コートちゃんだけは果敢でした。

 

「もし勝ってたらそんなことも考えないんだから、負け得だと思わない?私がこんなに軽く言ってるのは、あんたは一度負けたくらいで凹まないと思ってるからなんだけど。私に言わせてみれば、最後あれだけやれたんだから、間違いなく一番強い走りをしたのはあんたよ」

 

いつもウールちゃんに見せる強い口調が、今日は頼もしく思われました。さすがのウールちゃんでも相応の心のダメージがあるはずです。けれど、ウールちゃんへの慰めに今一番効果的なのは、間違いなくそれでした。

 

「けど、悔しい。どうしても勝ちたかった」

「その思いがあれば、きっと次は勝てるわ。それに、あんたがそんな顔したら、大好きなアリアンスさんが悲しむわよ。最後の直線の粘りを見ていたアリアンスさんの目は、あんなに光っていたんだから。ね、アーちゃん?」

 

コートちゃんが初めて、私をあだ名で呼びました。少し恥ずかしそうにしていましたが、これがウールちゃんには効果大でした。さすがに動揺を隠せない様子です。

 

「最後のウールちゃん、とってもかっこよかった。ずっとドキドキしてて、見てて心が奪われたの。ウールちゃんはやっぱり私の憧れだよ。次はナイズちゃんに絶対負けないよね」

 

目を逸らしたウールちゃんは、恥ずかしそうにしていました。あまりに持ち上げられて照れくさくて、けれど敗北の味は深くのしかかって、複雑な表情をしています。

 

「アーちゃんにそんなこと言われたら、さすがに喜んじゃうって。あーもう、負けたのに変な気分になっちゃったじゃん!二人のせいだ、許さない!コートはおいしいお肉奢って!アーちゃんは日曜あたしに付き合って!」

「そうそう、あんたはそうでないとね。しょうがないから奢ってやるわ。ちょっとくらい労ってやらないとね」

 

ウールちゃんの顔にはさっきまでの暗さはなくて、週末の予定に想いをはせているようでした。そんな私たちの会話を、ユウさんは満足そうに見つめていました。とても優しい瞳です。

 

「けどトレーナー。明日は徹底的にレースの反省をしたい。あたしはもっと強くなりたいです。トレーナーの感じたこと、全部教えてくださいね」

「もちろん。コープコートちゃんも、ウールを励ましてくれて本当にありがとう。今度何かお礼させてほしい」

「いえいえ、お礼されるようなことは何もしてないわ。私はこの子の落ち込んでいる姿を、アリアンスさんに見せたくなかっただけ。それに私だって、二人をこんなに強いウマ娘にしてみせたあなたの手腕を買っているもの。強いて挙げるなら、明日のこの子の研究を手伝ってあげてってことくらいかしら」

「ほんと、頭が上がらないよ。さすがコープコートちゃんだ。貫禄が違う」

 

心の底から感心したように唸っていました。ウールちゃんはきっと、今日の敗北を乗り越えてもっと強くなります。超努力家なのです。私も見習わなければいけない部分がたくさんあります。他人の何倍も努力できるその姿勢が、今回の粘りに表れたのだと思います。周りを笑顔にするパッションの中に、それを秘めているのです。

 

「二人のおかげで立ち直れた、ほんとありがと!アーちゃん、日曜忘れないでね、街までお出かけだから!あ、コートはついてきちゃだめだよ。あたしとアーちゃんの二人旅だからね」

 

念を押してウールちゃんは去っていきました。ユウさんも用事があるそうで、一足先にトレセン学園に戻るそうです。残されたのは、私とコートちゃんでした。

 

「もう今年も終わるのね。年が変われば、私たちはついにクラシック級の扉を開ける。何が起こるのか、楽しみでしょうがないわ。私、ずっと思ってるの。いつかG1の大舞台を三人で走れる日が来ないかなって。だからそのために私は努力し続ける。二人に劣らないウマ娘のために」

「ふふっ、さすがコートちゃん。私も、二人とレースに出たいな。いつか絶対一緒に走ろうね。約束だよ」

「も、もちろんよ。けど約束と言われると、なんだか少し緊張してしまうわ」

 

私はこれからどんなウマ娘になって、どんなレースをしていくのでしょうか。当然今の私には分からないのですが、今日の約束だけは、いつまでも覚えていようと思います。私の赤い顔を照らしていたのは、夕日だけではありませんでした。そこには、屈託のない秀麗な笑顔のコートちゃんがいました。



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帰省

「激動の十二月だったね。色んな出来事があって、アーちゃんもついにクラシック級かー」

 

年末、ナタリーさんと寮で世間話をしていました。ユウさんは年末の仕事に追われているみたいで、なかなか近寄りづらい状況でした。コートちゃんは最優秀ジュニア級ウマ娘に選出されて、各雑誌のインタビューに引っ張りだこです。トレセン学園の年末は忙しないです。

 

「思い返せば色々あったなー。こんなに美しい子が入学してきたと思ったら同室で、めちゃ根性あって。世代のトップでずっと戦ってるんだもん」

 

ぽんぽんと私の頭を撫でています。これも、何回してもらったでしょうか、その度に、ナタリーさんに勇気をもらってきました。

 

「ナタリーさんだって、エリザベス女王杯、とってもかっこよかったです」

「まあ、みんなのおかげだよ。あ、そうだ、練習しばらく無いなら実家帰ったら?お母さんも会いたがってると思うよ」

 

最近はお母さんと連絡を取る機会がなかなか無くて、少し疎遠になっていました。そう考えてしまうと、いささかのホームシックの感情が心の内に芽生えるのでした。唐突の発言でしたが、年明けはさらに忙しくなってしまうので、帰省するなら今しかありません。久しぶりにお母さんの顔を見ることができると思うと、トレーナー室へ向かう私の心ははやるのでした。

 

「もちろん大丈夫だよ。せっかくだから両親に顔を見せてあげてほしい。練習の計画が立ったらまたお知らせするから、それまでは自由に過ごしてほしい」

 

すぐに寮へと戻って、荷物をまとめ始めました。

 

 

 

トレセン学園と比べて何度か肌寒くなって、流れる川は鏡よりも澄んでいます。夏はカエルや昆虫が活発に活動して、冬は逆に全く静かで、早朝は異界の雰囲気さえ醸し出す山奥。枯れない緑は呆れるほど眩しくて、遥か遠くまで続いているのです。時折私以外の存在が空虚に感じてしまうほどの静寂が訪れる広々とした場所でした。故郷に、帰ってきたのです。この少し立て付けの悪い戸も、電流が流れる柵に囲まれた畑も、私を出迎えていました。

 

「ただいま、お母さん。お父さん」

 

何十年育った実家に、落ち着きを隠すことができませんでした。大好きなお母さんとお父さんの元に戻ってきたのです。

 

「おかえり。そんなにはしゃぐと危ないよ」

「えへへ、久しぶりだから嬉しくて。お父さん、ちょっと痩せたね」

「お前がいなくなって寂しくてな。飯が喉を通らん」

「もう、私は元気にやってるっていつも言ってるのに」

「この人、レース映像も何度も見返しててね、手紙はまだか、電話はまだかばっかり」

 

二人の温かな瞳を見つめているだけで、少し目が潤んでしまいました。私の無事を祈り続けて、支えてくれている人がいる。お父さんとお母さんのおかげで私はこうして無事走ることができているのです。それを強く実感しています。二人のために、もっともっと強くなって恩返ししたい、その思いも比例して大きくなっていくのです。

 

「どのくらい泊まっていくんだ」

「一週間くらいだよ。私、おいしいもの食べたいな、お父さん」

「任せなさい。とびきり良いやつ買ってきてあるからな」

 

 

夕方、久しぶりの故郷を見て回ることにしました。雪が降りそうな天気の中、バスも来ることがないので、歩きで行くことができる範囲だけです。ちょっと暗いな、蚊の鳴くような声で呟いた言葉が山に溶けていきました。しばらく歩くと、この地域のシンボルの図書館が見えました。小さい頃からよく来ていて、トゥインクルシリーズに関する雑誌や本もたくさん読んでいました。ここだけは時代の波に乗り遅れることがなかったので、それなりに新しい情報が入ってきます。行くあても無かったので、吸い込まれるように私は中へと入っていきました。

 

木材の湿った匂いが鼻をくすぐって、中は閑散としていました。田舎なので賑わっているわけはないのですが、私はこの雰囲気が好きでした。近代化の波があるとすれば、それに飲まれることなくただ仁王立ちしているこの古さに奥ゆかしさを感じるのです。何を読もうか、歩き回っていると、奥のテーブルに、一人の女性が座っていました。コートを椅子にかけて、一冊の冊子を読んでいます。声をかけると、私に顔を見られないように、そして小さな声で返事しました。

 

「私、人を探してるんです。これを見れば何か分かるかなって思って」

 

手に持っていたのは『トゥインクル』でした。ある一ページを指差して、この子を探していますと小さな声で。それは間違いなく、私でした。なんとも偶然ですが、ちょうどよかったです。

 

「見つかってよかったです。私に何か用事がありましたか」

「はい。今からアーちゃんの自宅にお伺いしようと思いまして」

 

唐突に聞き覚えのある声が館内に響きました。そして、見えないようにしていた顔をこちらに向けると、見覚えがあるどころか、ずっと一緒にいた人が目の前にいるのです。

 

「ウールちゃん!?」

 

思わず取り乱して、大きな声を出してしまいました。ここはトレセン学園から何時間もかかるような田舎です。そんな場所に、ウールちゃんがいるはずがありません。頭がハテナでいっぱいになって、呂律が回りませんでした。そんな私を見て、にししっとウールちゃんは笑いました。

 

「作戦大成功だね、アーちゃん。デュエットナタリー先輩に聞いたら、帰省したって言うもんだから、ついてきちゃった。結構寒かったからここでゆっくりしてたんだけど、まさかアーちゃんの方から来てくれるなんて。やっぱりあたしたちは運命の関係なんだね」

 

きゃっとわざとらしそうに顔を手で覆い隠すウールちゃん。まだ頭が混乱しています。お母さんとお父さんは知っていたのでしょうか。ウールちゃんはさらに続けました。

 

「もちろんアーちゃんのご両親には伝えてあるよ、泊まっていいってさ。ほんと、アーちゃんに似て素敵なお二人だったよー。って、アーちゃん聞いてる?」

 

二人はウールちゃんが来ることを知っていて、ウールちゃんはわざわざここまで来て、さらにお泊まりする。何を言っているのか全く分かりませんでした。全然嫌というわけではないのですが、私にはあまりに突然のことだったのです。

 

「そういうことだから、時間もいい感じだし、家に帰ろー、お家に帰ろー」

 

驚きで何も言えない私を引っ張って、ウールちゃんは走るのでした。外はまた一段と寒くなったようです。

 

「雪降ってるじゃん」

 

決して積もるような激しさではなくて、地についた瞬間に溶けてしまうような気候でしたが、ウールちゃんはわーいとはしゃいでいました。私の手を引っ張る強さも上がって、けれどそれは、山の清澄な冬が私たちを連れていっているように思われました。



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家族

「お邪魔しまーす」

 

笑顔でウールちゃんを出迎えたのは両親だけではなくて、豪勢な食事も仁王立ちしていました。まず目に入るのは、大きな蟹でした。鍋に浸かって真っ赤に燃えて、湯気を放って私たちを誘惑してくるのです。しかし、それだけではありません。とにかく海鮮づくしで、鮮やかなマグロやサーモン、まるで何かの宴会のような、テーブルの端まで豪華な食事で埋め尽くされていました。それを認識したウールちゃんは、飛びつくように見入っていて、餌を前にしたライオンのようでした。みんな準備を終えて、「いただきます」。四人の声は揃いました。

 

「まって、この蟹おいしすぎでしょ!やばいやばい、ほっぺたが落ちゃう、というか落ちてる!」

 

箸が止まらないウールちゃんを、お母さんは笑って見守っていました。私も一口食べてみて、ここまでおいしい蟹があるのかと思いました。雑味が無いとか、味が深いだとかそんな言葉で表す必要はなくて、ただ身体が喜んでいました。人は本当においしい食べ物に出会うと、かえって感想が出なくなってしまうのです。それを肌で感じました。おかずには縁起の良い食材も並んで、正月のようでした。

 

「お母さんお父さん、これまじでおいしいです!あたし、心の底から幸せです、ほんとにありがとうございます」

 

そう言いながらもかきこむウールちゃんを見て、お母さんがふふっと笑いました。

 

「今の、アーちゃんにそっくりですね。お顔も佇まいもアーちゃんに似て素敵で美しいです!お父さんも、お酒あたしが入れますよ!」

 

褒め上手ねと二人して笑っていました。持ち前のコミュニケーション能力で、ウールちゃんはすっかり我が家に馴染んでいました。もう一人家族が増えたような気がして、心が暖かくなりました。それは、食事の効果でもあったのかもしれません。お父さんは顔を酔いで朱に染めて、なぜか涙を流していました。

 

「お父さん嬉しいぞ。あっちに行った時は不安でしょうがなかったが、こんなに素敵なお友達を連れてきて。ああ、俺は幸せ者だ。もうずっと泊まっていきなさい」

「もう、あなた。ごめんねウールちゃん。この人酔っちゃってるから、気にしないで」

「いやいや、あたしはもうここをアーちゃんと一緒に守っていく準備はできていますよ!任せてください」

 

ウールちゃんも悪乗りが過ぎます。お母さんは尊敬が混ざったようなため息をしていました。その後は時間があっという間に思えて、蟹鍋に負けないくらい、この空間は温もりで満ちていました。外の様子が全く見えないほどの暗闇が窓から覗いていますが、その分だけここは明るくなっていきます。そして寒さでさえ、吹き飛ばしてしまうのです。

 

「いやー、めっちゃ食べたね。あたしも久しぶりに本気出しちゃった。お腹もいっぱいだし、ちょっとだけ探索しちゃおっかなー」

 

酔ったお父さんが何やら色々持ってきました。誇らしげに見せたのは、私のアルバムでした。そこには小さい時の私の写真や、トレセン学園に入学してからの記事の切り抜きなど、日付も合わせて保存されていました。

 

「え、これ小さい頃のアーちゃん?かわいすぎる、ほんとに天使だ。かわいすぎて、逆に冷静になっちゃう」

「お父さん、恥ずかしいよ」

 

顔から火が出るような思いでした。ウールちゃんは私に構わずまじまじと見つめています。変な発言もしています。お父さんは、一枚一枚細かく説明していきました。

 

「アーちゃんはこの頃からひたむきで真面目だったんだね。綺麗な目も綺麗な髪も、昔から変わってない。さすがアーちゃん」

 

お父さんは、俺の自慢の娘だからと鼻を高くしています。次に取り出したのは、阪神ジュベナイルフィリーズの一枚でした。私にとっては負けてしまった苦い思い出。さっきまでは言葉に詰まらなかったウールちゃんも、この話題には触れにくそうでした。お父さんはこの写真を見せた時から涙を流していました。

 

「俺は嬉しい。愛娘がこんなにがんばって走ってるんだ。これを見てた時、涙が止まらなくてよ。今でも毎日見直して、その度枯れるまで泣いてんだ。こんなに幸せな思いをしちまって、俺はほんとに幸せもんだ」

 

お父さんの思いが移ったのでしょうか、お父さんのその告白を、涙無しで聞くことはできませんでした。お父さんはレースの結果なんてどうでもよくて、前を向いて走っている我が子の成長がたまらなく嬉しかったのです。他のウマ娘と切磋琢磨し自分を高めている姿だけで満足なのです。そう考えた途端、お父さんの愛情がとめどなく流れてきて、涙を流さずにはいられなかったのです。私は本当に、大好きなお父さんと大好きなお母さんに愛されていると、心から思います。私の走る姿は、確かに届いているのです。それが何よりも嬉しいのです。

 

「あたし、分かっちゃった。アーちゃんがなんでこんなに立派なのか。そりゃ、こんな素敵なお二人だから、アーちゃんも似るはずだよね」

 

静粛な空間だからこそ響いた声でした。しっとりとしていて、今にも消えそうな声でした。けれど私にははっきり聞き取ることができました。

 

「あたし、ここにきて本当に良かったです。生きていくうえで、一番大切なことを知ることができました。なれるなら、お父さんのような大人になりたい、そう思います」

 

その瞳は、確かに潤んでいました。お父さんの小さなコップに、ウールちゃんは最後に一杯ビールを注ぎました。それを一瞬で飲み干して、照れくさそうにお父さんは自室に戻っていきました。

 

「お風呂、先どうぞ」

 

机には、年季が入ったアルバムが静かに眠っていました。その表紙には、決して綺麗とは言えない文字で、アルバムの四文字と、私が送った手紙が畳まれていました。



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クラシックへ

「ふう、気持ちよかったー」

 

ウールちゃんがお風呂から上がりました。布団に突っ伏して、惚けています。私は窓から澄んだ夜空を見つめていました。昼の曇天とはうってかわって、どこまでも紺碧が広がっています。金平糖を砕いて散りばめたような星々が浮かんでいて、手を伸ばせば届いてしまいそうです。

 

「あっちじゃこんなに星見れないもんね。綺麗だねえ」

 

隣でウールちゃんがささやきました。その声は静かに消えていきます。二人でしばらく星空を眺めていると、唐突に顔を近づけてきました。

 

「やっぱりそうだ。いつものアーちゃんの匂いは、ここのシャンプーだったんだね」

 

ウールちゃんの髪が当たってくすぐったかったです。甘い匂いが周りに漂いました。

 

「じゃあ今のあたしは、アーちゃんと同じ匂いってことだよね!コートに自慢しちゃおー」

 

記念に二人で一枚撮りました。真っ先にコートちゃんに転送していました。その後、布団の上に寝転がって、何やら楽しそうでした。

 

「和室に布団が二枚で、アーちゃんとお泊まり。こんなことなかなか無いよね。あたし的には、布団は一枚でもよかったんだけど」

 

そんな冗談を言ういつものウールちゃんなのですが、風呂上がりのせいで、少し大人びたように思われました。私の視線をじれったく感じたのか、それとも発言に私が動揺しなかったからなのか、逆にウールちゃんが目を逸らしてしまいました。

 

「ちょ、アーちゃん!?」

 

途端に愛おしく思えてしまって、ウールちゃんの布団に忍び込みました。さすがにウマ娘二人には少し窮屈で、シャンプーの匂いが伝わってきました。ウールちゃんは向こうを向いて、じっとしていました。

 

「ウールちゃんとお泊まり、嬉しいな」

 

今度は私が呟きました。照れるウールちゃんはかわいくて、なんだか妹ができたような気持ちです。愛しさに満ちていました。二人の間にはしばらくの静寂が流れます。こんな時間が無限に続けばいいのに、そう思いました。

 

「二人だと温かいね」

「今日のアーちゃんは積極的だった……」

 

二人の体温で布団は少しずつ熱をもっていきました。耳が凍ってしまうほどの寒さでしたが、今はとっくに吹き飛んでしまって、残るのは心臓の鼓動だけでした。観念したようにすっかり静かになってしまったので、ようやく私は自分の布団に戻りました。友達と実家でお泊まりだなんて初めての経験なので、少しはしゃいでしまいました。

 

「もうすぐクラシックだね」

「ついに三冠に挑むことになると、なかなか時が過ぎるのも早いよね」

 

ウールちゃんの顔は熟れたトマトのように朱に染まっていました。年が明けたら、私たちはクラシック級の舞台に足を踏み入れることになります。そしてそれは、夢のトリプルティアラへ挑むということです。それを考えてしまうと、底が知れない不安が心の深い部分から、ゆっくりとこちらを見ているのです。胸に手を当ててみると、激しく振動していました。

 

「大丈夫、アーちゃんにはあたしがいるから。手、出して」

 

私の手をウールちゃんが白い手で包みました。布団から出した手は少しずつ冷たくなっていくはずですが、ウールちゃんの綺麗な手がそれを許しません。それどころか、やんわり温かくて。アーちゃんにはみんながいるよ、そのウールちゃんの思いが、手を伝ってきました。

 

「ふふっ、ウールちゃんの手、あったかい」

「あたしの体温の全てをアーちゃんに捧げてるからね。あたしたちなら大丈夫。二人で支え合っていこ?」

 

ウールちゃんの慈しみの心に、口から出かかっていた不安が消え去りました。もう二人が離れないように、手を強く握り返しました。ウールちゃんは満面の笑みを見せてからゆっくり立ち上がって部屋の電気を消しました。目の前が真っ暗になりましたが、私は気絶したように安心してしまって、そのまま眠りにつきました。

 

 

 

「数日間、本当にお世話になりました!」

「もう行ってしまうのか、また寂しくなるな。辺鄙な山奥だが、いつでも待ってるからな」

「また時間ができたら来るね、お父さん。私がんばるから、見ててね」

 

寒さで赤く腫れた私の顔には、ぬるい涙が染みました。少し寂しいですが、しばしの辛抱です。何か言うことはないか、思考を巡らせていると、一つ思い当たることがありました。

 

「お母さん、私、指輪嬉しかった。とっても綺麗で、ずっと付けてるの」

「それは私たちからの贈り物。今度は大切な人ができた時に、お揃いのを。ね?」

「お、お母さん、恥ずかしいよ。ウールちゃんもいるのに」

 

お母さんはふふっと笑っていて、ウールちゃんは隣でひっそりと笑っていました。雪景色の中で、私の頬は赤色でした。これはクラスで話の種になってしまいそうです。でも、悪い気はしませんでした。

 

「では、またいつか」

 

マフラーがひらりと舞って、二人のウマ娘は雪を踏み始めました。やっぱり空は灰色です。だから遠い異国の雪国に迷い込んでしまったような気持ちになってしまうのでしょうか。けれどそこには温かい実家が確かにあって。私の心の快いざわめきは、そのせいかもしれません。

 

「ほんと、良い所だね。来年もこよっか」

 

ウールちゃんの呟きが、灰色に消えていきました。




次でジュニア級編は終わりになり、クラシック級になります。拙く長い文章でしたが、二次創作として少しでも楽しんでいただけたら幸いです。見てくださった方、本当にありがとうございました。


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(番外編)六話 全日本ジュニア優駿

「ジュニア級ダートの頂点を決める戦い、全日本ジュニア優駿!中央からはこの子が出走、一番人気八番フルアダイヤー!デビューから数えて三連勝で、世代の最強を狙います」

 

トレーナーはこんな大舞台を用意した。今のあなたならG1級のレースでも勝ち切ることができる。天才の器だとか、最強だとか調子のいいことを色々言われた。コースに入場した途端、歓声がさらに大きくなって、私への期待の大きさを物語っていた。先日、今回のレースに向けてのインタビューをされた。やけに気合の入った人で、私の意気込みやこれからを事細かに聞いてきた。殊勝なことは何も言えなくて、良い雰囲気でインタビューが進むことは全くなく、記者のテンションも段々と落ちていった。やはり気高い目標がを持ったウマ娘の方が、かわいく美しく映るのだろう。とりわけアリアンスなんかは、特に目をつけられている様子だった。簡単に理想が持てたら、私だってこんなに苦労していないのに。

 

「中央からは五人参戦。地方の精鋭が迎え撃ちます。数々のスターを生み出したこのレースで、今日はどんなドラマが生まれるのでしょうか」

 

満月がヒーローの誕生を待ち望んでいる。白い土は思っていたよりも硬く、私にはマイナスに働く予感がした。気温は一桁になるだろう極寒の川崎で、熱戦の火蓋が切られようとしている。ふと観客席を見ていると、白髪のウマ娘が一人、こちらに手を振っていた。私が近寄ると、安心したような顔をしていた。

 

「よかった、アイちゃん気づいてくれた。一番人気なんてすごい。私、たくさん応援するからね」

 

アリアンスが月に映える今紫の瞳を輝かせて私を見ていた。私にこんなに期待して、どうしようというのだろう。心には暗雲が立ち込めていた。どうしても目標が掴めなかった。どうしても走ることが億劫だった。

 

「アイちゃん、大丈夫?なんだかとっても苦しそう。すぐにトレーナーさん呼んでくるから待っててね」

「大丈夫だから」

 

走り出そうとした彼女を止めた。トレーナーに近くで見なくていいと言ったのは私自身だった。彼女は病人を見るような目でこちらを覗き込んでいた。また色々と言われるのは正直面倒なので、私一人で走れると伝えていた。意味のないため息が白く光った。

 

「パドックでの様子はかなり落ち着いて見えました、フルアダイヤー。この子の前では重圧も敵ではないのでしょうか、ゲート入りは順調に進んでいます」

 

「地方だからって舐められるのはもうおしまい。フルアダイヤー、私はあなたを倒して、地方が中央に劣ってないことを証明する」

 

ゲートに入る直前、栗毛のウマ娘が威圧的な声をかけてきた。三番人気、七番のマロンナットだった。私の素っ気無い返事に驚いたようで、馬鹿にしているのと睨みつけてきた。他にも何か言っていたけれど、よく分からなかった。

 

「拍手に包まれて、バラついたスタートになりました。積極策に出るのは一番、それに続いて、流れるように後ろについていきます。フルアダイヤーは中団で周囲を伺っています。いつ抜け出すのでしょうか。それを見るように七番マロンナット、そして二番という形です。少々縦長の展開になりました」

 

後ろから強烈なプレッシャーを感じて、前は塞がっていた。私が仕掛ければ後ろから即座に差しが迫ってくる。けれどそもそも仕掛けることができない。前が空くのを待つしかなかった。ただゆっくり力を抜いて走っていた。最後方のウマ娘が外から被さって、最後のコーナーに差し掛かった。

 

「一番がさらに速度を上げる、土を被って最後の直線!一番が粘る粘る!フルアダイヤーは伸びない!外からマロンナットがやってきた!フルアダイヤーは完全に塞がれた!一番は粘るが恐ろしい末脚でマロンナットが迫ってくるぞ!」

 

いつのまにか私の進路は無くなっていた。そして、私のマークに必死だったウマ娘はそのまま脱落していく。観客の歓声が悲鳴に変わっていくのが分かった。けれどなかなか足は前に進んでくれなかった。前のウマ娘の隙間から微かに見えたのは、さっきのマロンナットと、一番の本気の粘り合いだった。もし私がこの集団から抜けられたとしても、この二人の勝利への執念と戦うにはあまりにも気持ちに差があった。

 

「マロンナットが差し切ってゴールイン!地方のウマ娘が見事に決めました!一番は惜しくも二着、しかし負けて強しの走りでした!一番人気フルアダイヤーは惨敗です!得意の末脚は夢となってしまいました。会場のどよめきはおさまりません!」

 

試合前はあんなにも私を煽てていたのに、観客の視線は冷たかった。私に心底絶望した瞳で、呆れていた。私に勝手に期待して、一度敗北したくらいでそれほどの罵声が飛び出すのも、私に劣らない痴れ者だと思った。ただ下を見つめながら控え室に戻ろうとすると、王者がまた声をかけてきた。

 

「私は本気で仕上げてきたのに、あの走りは何?地方だからって舐めてかかった?私ごとき敵じゃないって?」

 

取り乱しながらも、怒りを前面に出していた。念願の勝利のはずなのに、あまりにも納得のいっていない様子だった。本気じゃないと言えば聞こえはいいかもしれない。けれど私はただ走る気が無いだけだったのだと思う。しかし目の前のウマ娘の本気の瞳の前でそれを吐露するのは、あまりにも無礼だった。何も言葉が浮かばなくて、結局私は黙ったまま俯いていた。

 

「そう、何も言わないのね。私はあなたのあの力強い走りに憧れていたのに。周りとのレベルの差を見せつけたあの土の足跡を心から尊敬していて、ようやく戦えると思ったのに……!後ろを見て。あなたの足跡は、いったいどこにあるの?」

 

何も答えることが出来なくて、ただただ黙っていた。何も知らない子に憧れの対象とされて、呆れられて。いい迷惑だった。その様子にうんざりしたように彼女は吐き捨てるように言った。

 

「目も合わせず黙ったままなのね、信じられない……」

 

今にも泣きそうな、弱々しい声だった。私も知りたかった。どうしてそこまで走れるのか。どうして本気になって誰かを負かそうと思えるのか。練習すればするほど、目の前が暗くなっていくだけなのに、何をすればそれほど続けられるのか。迷いの渦に飲み込まれてしまった私には、彼女の言葉は届かなかった。それなら、聞きたかった。

 

「どうして、そんなに本気になれるの」

 

彼女に負けず劣らずの弱った声だった。その言葉に彼女は驚きを隠せないようだった。私は気にすることなくたたみかけた。

 

「そ、そんなの聞くまでもない。勝利の先の輝きのために決まってる。相手のことを知らなくたって、一度その走りに魅了されれば、一緒に走ってみたいと思うはず。そして本気のレースでお互いを知ることができる。その姿は何よりも美しく、尊いものじゃないの?あなたにはそれが分からない?」

 

そんな抽象的なもののためにがんばることは、私にはできない。それならもう、私には走る資格なんて無い。

 

「もう私なんて目指さない方がいい。あなたが思っているほど私は強くないし、誰かに憧れてほしいだなんて思わない」

 

最後まで目を合わせることなく罵声を受けながら私は去っていった。一番響いたのは、マロンナットの声だった。必死に私に呼びかけて、何かを伝えようとしていた。けれど、何を言っているかは分からなかった。

 

「そんなのって、そんなの酷すぎるよ……」

 

ジュニア級のダートの頂点に輝いたウマ娘の背中は、あまりにも小さく、惨めだった。泣きじゃくるその様子は観客に深い衝撃を与えた。そして、その姿はフルアダイヤーへの批判となって瞬く間に広がっていった。




今回で一区切りとなり、次回からクラシック級編に入ります。ここまで見てくださった方々、本当にありがとうございました。


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クラシック級編
新年、クラシック


「新年、明けましておめでとう。はいこれ、お年玉、好きに使っていいよ」

 

年が明けて初めてのトレーナー室には小さな鏡餅と、扉にはしめ縄が飾られていました。渡された小さな袋の中身は、私にはこれ以上ないほど光って見えました。ウールちゃんは飛び跳ねて喜んでいます。金欠に悩んでいたので、とても嬉しそうです。

 

「こんなにたくさん。本当にありがとうございます」

「全然いいよ、まあクラシック進級祝いも兼ねてってことで。そうだ、冬休みはリラックスできた?」

「はい、とっても」

 

私一緒に泊まったんですよ!とウールちゃんは自慢げに写真を見せていました。ユウさんは苦笑いしています。この光景も、かなり久しぶりに感じます。けれど私たちは確かに進んでいます。これからは、より気を引き締めて練習に臨まなければいけません。

 

「二人とも楽しめたようでよかった。そんな二人に早速で悪いんだけど、次走が決まったよ。前聞いたことを参考に、ウールはクラシック三冠路線、アリアンスはトリプルティアラ路線でスケジュールを組んだ。ウールの次走は二月のきさらぎ賞、アリアンスの次走は再来週の紅梅ステークスでいこう。二人なら少し余裕を持って戦えるレースだと思う。少しずつ調子を戻しながら、調整していこう」

 

ユウさんとの相談で、まずはレースに慣れていくために、少しずつ堅実に勝利を積み重ねていくというプランになりました。トリプルティアラの第一冠、桜花賞に向けて、比較的戦いやすい紅梅ステークスに挑戦します。ウールちゃんは、なんといってもサウジアラビアロイヤルカップを制した重賞ウマ娘なので、いきなり重賞のきさらぎ賞に向かいます。次走について、色々情報を聞いていると、聞き覚えのある声が耳に入りました。

 

「失礼するわ。と言いたいところだけど、忙しかった?」

「コートちゃん。明けましておめでとう。久しぶりだね」

「ほんと、久しぶりな気がするわ。ところでそこの青いのから送られてきた写真はどういう意味?なんであなたがアリアンスさんの実家にいたのかしら」

「いいでしょ、アーちゃんとお泊まりしたんだー。もしかしてコートも来たかった?ごめんね、忘れてた」

 

当のウールちゃんは白々しい演技をしていました。正直、コートちゃんの反応が正しい気もします。私も取り乱してしまったので、当然の反応だと思います。まあいいわとため息をついて、鏡餅を見つめていました。

 

「二人は次走、どうするの?今日はそれを聞きに来たんだった」

 

ユウさんが色々と説明しました。そしてコートちゃんの次走は、三月のチューリップ賞。格付けはG2の重賞レースで、桜花賞のトライアルレースとして、外せない一戦です。トリプルティアラを目指すあらゆるウマ娘の第一の目標となります。ユウさんの予想通り、コートちゃんも出走するとのことでした。

 

「当然と言えば当然だわ。てっきりアリアンスさんも出ると思ってたけど、そちらにはそちらのやり方があるもの。戦えないのはちょっと残念だけど」

 

紅梅ステークスの結果によっては私も出走する可能性は無いわけではないのですが、なんとも言えない状況です。けれど、今は次走に向けて練習するしかないです。コートちゃんも私の顔を見て納得したようでした。

 

「クラシック級になって成長したアリアンスさんの走り、期待してるわ」

 

優雅に去っていきました。しばらく練習メニューの相談をして、まだまだ寒いターフへ私たちも向かいました。縮こまってしまった身体をほぐすためにも、比較的軽めの運動やストレッチから始めます。そして数日間かけて身体の調子を戻していきました。新年のスタートダッシュは好調で、順調に今まで以上の練習を私たちは積み重ねていきます。ナタリーさんに挨拶したり、久しぶりの授業で眠気と戦ったり、忙しい日が続きました。あっという間に日は過ぎて、私のクラシック級初めてのレースが、足音を立てて近づいてくるのです。



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軽快、リステッド

「おいおい聞いたか?アリアンスの次走は紅梅ステークスだってよ」

「まじか、去年あのレベルの走りをしたんだから、その程度簡単に勝っちまうよ」

「やっぱりそう思うよな。当日は断然一番人気だろうな」

 

街を歩いていると、そんな声が耳に入ってくる。彼女にしてみれば、正直今回のレースは少し物足りないくらいかもしれなかった。阪神ジュベナイルフィリーズでの走りに皆魅了されて、期待してくれているのだ。並のウマ娘では相手にならないだろうあのコープコートとあれだけの接戦を繰り広げたのだから、当然の評価ではあった。けれど、ギリギリで届かなかった。それは一つの事実として確かに存在して、彼女は完璧なレースをしたのに負けてしまった。そこから反省点を見つけ出すのは容易ではないけれど、僕もアリアンスも、また一つステップアップするためには、現状に甘んじている暇はなかった。年末、今までのレースや練習をひたすら見直した。体力や瞬発力、パワーが足りない、そんな基礎の能力の部分の限界なんてものは、焦ったところでどうにかなるものではなく、そもそもそこでは彼女はコートちゃんに大きく劣ってはいなかった。ならどこが違ったのか、見れば見るほどアリアンスが勝っている部分しか発見できなかったが、一つだけ見つけた気がした。熱が出るほど考えた割には、あまりにも簡単なことだった。しかしそれは、トリプルティアラの第一関門である桜花賞は、非常に厳しい戦いになることを暗に示していた。

 

 

「全然気負うことはないから、好きなように走ってほしい。この前コートちゃんと戦った時よりも、アリアンスはさらに強くなっている。何も心配はいらない」

 

ユウさんに背中を押されて、いざターフへ。この前の勝負服が少し懐かしかったです。ウールちゃんは、今日は大丈夫だろうと言って、コートちゃんと一足先に観客席に向かっていました。

 

「圧倒的一番人気のアリアンスが姿を現しました。記憶に新しいあの一戦を見せられて、他のウマ娘たちはどのような戦いをするのでしょうか。重賞ではないですが、多くの観客が中京に訪れています」

 

私のクラシックはここから始まります。一番人気らしい威風堂々した佇まいで、ゲートに歩き出しました。

 

 

 

「アリアンス差し切ってゴールイン!一番人気の期待に見事応えました!やはりコープコートとの接戦は間違いなかったのか!次走が今から楽しみです!」

 

情熱的に称賛する声もあれば、このくらいは当然の結果だとクールな人もいて、久しぶりに浴びる歓声は心地良かったです。応援に来ていたウールちゃんたちも、笑顔で迎えてくれました。

 

「うん、いい感じだ。二位との差は一バ身ほどだけど、この差は大きなものだと思う。お疲れ様」

 

私としても、落ち着いたレース運びで最大限の力を発揮することができたと思います。控え室に戻ろうとすると、一緒に走った子に呼び止められました。

 

「やっぱりアリアンスちゃんは強いね。この距離なら私の得意分野だし、うまくいけば勝てると思ったんだけどな。けど良い経験になった、ありがと!」

 

負けたはずなのに、むしろ私よりも清々しい笑顔でした。私がコートちゃんと戦った時と同じです。尊敬する誰かを超えたくて、本気で戦えることが嬉しくて。だから私にはこの子の気持ちがよく分かります。けれど、私が誰かの目標とされて、超えたい壁として意識されるなんて、全く思ってもいないことでした。心の底から嬉しいことのはずなのに、小恥ずかしい気持ちもありました。ただ、湧き上がるこの気持ちは、なんとも快いものでした。

 

「もちろんだよ。私もすっごく楽しかった、ありがとう」

 

レース自体はもう何回も走っているはずなのに、今回は初めてのことばかりで、初心を思い出すような、そんな一日になりました。



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アイちゃんとバッタリ

「あれ、アーちゃん。どっか行くの?」

 

朝ご飯を終えたナタリーさんが部屋に戻ってきました。私はいつもより少し早く起きて、外出の準備をしていました。紅梅ステークスの翌日なので、一日フリーの今日は、街へお出かけです。この前買ったお洋服に浮かれていました。

 

「はい。気になるお店があって」

「まじか、あたいも一緒に行きたかったな。もう少し早く分かってたら全然ついてったのに。こんなことになるなら適当に返事するんじゃなかった。また今度、また今度行こ!」

 

歯を食いしばって悔しそうにしていました。けれど、ナタリーさんと街を歩いたら、周りの目が気になってしまいそうです。現役のウマ娘でトップクラスの実力を持つナタリーさんを、世間が放っておくわけがありません。そんなことを考えながらお茶をすすって、トレセン学園を後にしました。

 

 

「これ、おいしそう」

 

がんばって流行を追ってはいますが、それでもやっぱり田舎者は田舎者なので、何回来ても真新しいもので溢れています。何百何千と人が行き交う駅も交差点も、雲に届いてしまいそうな高層ビルの群れも、私の想像通りの都会の象徴です。その雑踏の中で、異彩を放つカフェを見つけました。焦香のイメージが強く残る木造の家屋です。無機質な建物が並ぶ場所で、ここだけは生きているように思われました。入ってみると、外の忙しない空間から隔離された静寂がそこにはありました。新聞を読む人や、思わず目を瞑る人、まるで時が止まってしまったかのようです。落ち着いたおばあさんが出迎えてくれて、席に案内されました。どうやら今日のおすすめは、いちじくのタルトとジンジャーティーだそうです。全く耳馴染みがなくて、強く興味をそそられました。他のメニューも目を通しましたが、心はそこにはなくて、結局注文してしまいました。しばらく時間が経って、香色の焦げが美しい扇型のタルトと、癖になりそうな香ばしい匂いを放つジンジャーティーが運ばれてきました。本格派とはこのことを言うのでしょうか。見た目も匂いも、全てのレベルが、私が今まで見てきたものとは違いました。フォークの入りはあまりにもスムーズで、その瞬間から甘い匂いが広がりました。サクサクという音の度に、上品な甘みが広がって、それをはちみつを入れないジンジャーティーが刺激で包み込むのです。はぁ、この上ない幸せに、思わず吐息が漏れてしまいました。ゆっくり楽しむのが定石だとは知っていましたが、耐えられませんでした。身体が芯から温まって、お風呂にでも入っているかのような気分になるのです。さらに、十分にタルトを楽しんだらはちみつを入れて、ジンジャーティーを二度楽しむのです。すっかり虜になってしまい、結局他の品まで注文するので退出にはかなりの時間が必要でした。またウールちゃんたちと来よう、そう強く誓いました。

 

 

まだ時間があったので、今度はショッピングモールに寄りました。何ヶ月か前にウールちゃんたちと来たのが懐かしいです。時間を忘れて楽しんでいました。今日は一人なので、それを思うと少し寂しい気もします。どこから行こうかな、地図とにらめっこしているとふと気になる人影が通りました。すらっとした黒の長髪。毛の揃った尻尾。アイちゃんでした。我ながらよく気づいたと思います。これは絶対に何かの縁です。アイちゃんと仲を深める大チャンスなのは、言うまでもありませんでした。

 

「アイちゃんも来てたんだね。アイちゃんがよければ、一緒に回らない?」

 

しばらく冷たい瞳をしていましたが、渋々納得してくれたようでした。どこか行きたいところはないのか聞いてみると、地図上のアイスクリーム屋さんに指を指しました。私は今日だけでいくつデザートを食べてしまうのでしょうか。先が思いやられます。

 

「アイちゃんは何が好きなの?」

「チョコミント」

「私も大好き。あとは、オレンジソルベも好きなの」

 

私はオレンジ味のアイスを、アイちゃんはチョコミント味のアイスを買いました。空いてる席に座って、アイちゃんは黙々と食べ進めます。これでは、せっかくのチャンスが無駄になってしまいます。こういう時、ウールちゃんならどうするのでしょうか。私なりに思考を巡らせました。観察するようにアイちゃんを見つめていると、一つの案が浮かびました。

 

「どうしたの、そんなにジロジロ見て」

「私、アイちゃんのも食べたくなっちゃったの。もらってもいいかな」

 

静かにコーンを差し出してきました。別にいいよ、そう言い終わる前に、私はアイちゃんのチョコミントを優しく食みました。

 

「ちょ、そこ食べたら」

 

チョコの甘さとミントの清涼感が口に広がりました。それとは対照的に、アイちゃんは顔を赤らめて、明らかに動揺を隠し切れていませんでした。

 

「いつも食べるチョコミントよりもおいしい。アイちゃん、ありがとう」

「べ、別にいいけど、そこ食べるのはよくないというか。わざわざそこじゃなくても、他にあったでしょ……」

 

小さな声で呟いていました。いつもクールなアイちゃんは、今はいつも以上にかわいかったです。

 

 

私の今日最大の目的が、まだ完了していないのです。落ち着いたアイちゃんと共に向かった場所には、指輪がたくさん並んでいました。ここに来るのが、一番の楽しみでした。お手軽なものから高級品まで、都会にはこんなハイブランドなものまであるのです。もちろん私にはそれを買うほどのお金は無いのですが、値段だけがその物の価値を決めるわけではないと思います。悩ましく顔をしかめていると、意外にもショーケースを見つめていたアイちゃんが、声を発しました。

 

「アリアンスは、指輪好きなの」

「うん、とっても好き。昔、お母さんに見せてもらった指輪がすごく綺麗で、その時から指輪に興味を持ち始めたの」

 

今日初めてアイちゃんから話題を振ってくれました。それが嬉しくて、私は続けました。

 

「私が小指につけてるのがその指輪で、だから私もお返ししたいと思って、高いのは買えないけど、今の私が買うことが大事だと思うの」

 

私が話に夢中になってしまって、慌ててアイちゃんの様子を伺うと、少しだけ微笑んでいるように見えました。

 

「ふーん。悪くはないと思うよ」

 

結局、私の貯めたお小遣いの範囲で、小さなルビーが埋め込まれた指輪を買いました。

 

 

帰り道、私はふとこの前の全日本ジュニア優駿を思い出していました。もちろんアイちゃんに直接その話をすることはできませんが、何か悩みがあるのは私でも分かりました。どうにか解消してあげたい、その思いが募っていきました。

 

「次のレースは決まってるの?」

「すばるステークス」

「私、絶対応援に行くから、がんばってね!」

 

少し不機嫌そうな顔をしました。けれど、ここで引き下がるわけにもいきませんでした。

 

「この前のレース、見てたでしょ。私はもう弱いよ、走れない。見る価値なんてないから、わざわざ来ないで」

 

強い圧迫感を感じました。心の底から何かを憎悪しているような鋭い視線を、私に向けました。レース本番の時のような緊張感に、辺りは包まれました。

 

「じゃあわたしもう帰るから、おつかれ」

 

ちょっと待って、そんな声も届かぬまま行ってしまいました。今日の一日が楽しかったのは事実です。しかし去り際がこれでは、結局私は何も解決できなかったことに他なりませんでした。まだまだアイちゃんについて知らないといけません。こんなことで挫けてはダメです。燃える夕日に新たな決意を誓って、私も帰路に着きました。




本来、すばるステークスの方が紅梅ステークスよりも前に開催されているのですが、諸事情で前後させてしまいました。お許しください。


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トレーナー室の暗雲

「え、あの子と一緒だったの」

 

翌日、ウールちゃんが興味津々に聞いてきました。サラダを食べていたコートちゃんも、尻尾を立てています。偶然鉢合わせして、一緒にアイスを食べたことや、お母さんのための指輪を探したことを伝えました。

 

「でも、上手にお話しできなかったの。もしかして、迷惑だったのかな」

「フルアダイヤーさんを応援したいというアリアンスさんの気持ちは、きっと本人にも伝わっているわ。口では色々言うけど、励みになってるはずよ」

「そうだと良いけど……」

「だいたい、アーちゃんがここまでしてあげてるのに、無愛想過ぎるんだよ。あたしは正直苦手だなあ」

 

ほっとけばいいんだよとポテトをつまむウールちゃん。何でもない、苦しくて辛い思いをしている人ほど、そう言います。アイちゃんの瞳からは誰が見ても分かるほどはっきりと光が消えていて、濁っていました。走りにも覇気が感じられなくて、それ自体に苦痛を感じているようなのです。それに、一人でひたすら困難を抱え込んでいます。どれだけ些細な悩みでも、誰かと解決してはいけないなんてことは決してなくて、自分一人で背負う必要なんて全くなくて、それが自分にとって苦しいのなら、好きなだけ周りを頼ればいいのです。ユウさんは言っていました。迷惑なんて、それで成長するなら好きなだけかければいい。それが支える者の役目だって。素敵なことだと思います。アイちゃんを見ていると、ふと思ってしまうのです。

 

「アーちゃん、大丈夫?もしかしてポテト欲しかったとか。はい、どーぞ」

 

ウールちゃんから差し出された細長いポテトを食みました。アイスの甘さとは違って、塩辛さが喉まで広がりました。

 

「確かに気にかけてあげるのは良いことかもしれないけどさ、あたしももっと見てくれないと妬いちゃうなー。一応あたし、次走重賞なんだけど。結構練習がんばってるんだけどなー」

「ご、ごめんねウールちゃん。ウールちゃんのこと無視してたわけじゃないの」

 

ふてくされるウールちゃんと、取り乱す私。いつものようにコートちゃんの仲裁が入ります。

 

「いたっ、もうちょい手加減してよ。なんだよ二人して、別にいいし、きさらぎ賞で結果出して、アーちゃんはあたしに釘付けだもんね。またあたしのとこに戻ってきてくれるって信じてるからいいもん。やっぱりウマ娘は走りで語らないとね」

「さすがウールちゃん。けど、本当にウールちゃんが圧勝しちゃったら、私、もうウールちゃん以外見えなくなっちゃうかも」

「なっ」

「何その満更でもなさそうな顔。色々文句言うけど、アリアンスさんの前では弱いんだから」

「絶対その言葉忘れちゃダメだからね!もし勝ったら一日中付き合ってもらうから!」

 

やれやれとコートちゃんが呆れていました。きさらぎ賞はG3ですが、それを忘れてしまうほど、ウールちゃんの実力が抜けているのです。ユウさんからは、ホープフルステークスで死戦を演じたピッドの二人はおそらくまだ出てこないだろうとのことでした。さらに、今回が重賞初挑戦の子もいるみたいだから、言葉は悪いけど、圧勝してもおかしくないとも話していました。けれど不安要素が全く無いというわけではありません。しかしその不安も、今のウールちゃんの笑顔の前では虚しいだけでした。

 

「午後の授業絶対寝ちゃうよー」

 

放課の終了を告げるチャイムが、無慈悲にも鳴り響きました。

 

 

「お疲れ様ですトレーナー」

 

トレーナー室のカレンダーに予定をあれこれと書き込んでいるユウさんがいました。今日はいつも以上に忙しそうです。

 

「何かあったんですか」

「ちょっと色々考えてて。もうすぐ終わるから少し待ってね。あ、そこのケーキ食べていいよ。コートちゃんがさっき持ってきてくれた。一応アリアンス宛だって」

「そういうことならありがたくあたしが頂きましょう。ご丁寧にフォークまで」

 

イチゴが二つ乗っている方はウールちゃんが取っていきました。その代わり一回り大きなサイズの方をもらいました。きっとコートちゃんは私たちのことを分かっていて、この二択にしたのだと思います。ユウさんの仕事が終わるまで談笑を楽しんでいると、唐突に扉が開かれました。

 

「失礼しまーす。えーと、あ、いたいた」

 

場を凍りつかせるような雰囲気を放つのは、ナイズちゃんとそのトレーナーさんでした。ウールちゃんの目つきが変わります。強い警戒心を抱いてるみたいです。私から見ても掴みどころの無い子で、何よりホープフルステークスでウールちゃんを負かしたウマ娘です。そんな子がトレーナーの方まで引き連れて何の用事なのか、不思議にならないなんて無理な話でした。

 

「わざわざ来てくださるなんて、何か用事がありましたか」

「あなたなら言わなくても分かるでしょう。私たちは、ショートウールの勧誘に来ました」

 

胸が急に苦しくなりました。ウールちゃんも目を大きく見開いています。何も考えられなくなるほど焦っている私に対して、ユウさんは至って冷静で、けれど見たことないほど鋭い目つきで睨んでいました。

 

「あなたのやり方ではこの子は破滅する。今回きさらぎ賞を使うと聞いて正直がっかりしました。いくら天才の子でも、天才本人ではない。あなたのトレーナーとしての才の無さは、正直呆れるほどです」

 

ユウさんは黙ったままでした。私も何も言えなかったです。一番尊敬しているトレーナーが目の前で蔑まれているというのに、何も言い返せませんでした。私が出ていって何ができるというのでしょうか。何も結果を残せていない私の言葉にどんな説得力があるのでしょうか。

 

「さあショートウールさん。あなたにここはふさわしくない。もしあなたが私のところに来ていたのなら、ホープフルステークスの結果もまた違ったものだったでしょう。面倒な手続きはこちらで全て済ませます」

 

今のウールちゃんの瞳と、ユウさんの瞳は、全く同じです。まるで、自分の何倍も大きなライオンに向かう鷹のようでした。

 

「分かりました」

 

小さな声でそう呟きました。えっ、呆気にとられた私は、思わず声を出してしまいます。けど、ウールちゃんはそう断って、続けました。

 

「あたしの強みと弱点、今すぐ五十個ずつ挙げてください。それができないなら出ていってくれませんか。その時点であなたはユウトレーナーの百倍は劣っています」

 

呆気にとられたようにポカンと口を開く長身の女性。見かねた隣のナイズちゃんが、歪んだ顔でウールちゃんに近づきました。

 

「あーあ、せっかく誘ってあげたのに。このままだと君はクラシックでもまたあーしに負ける。ドンマイ。もういいや、勝手に仲良くやってれば?行こうトレーナー」

 

嵐は去っていきました。ほんの一瞬の出来事でした。けれどそれが私たちに与えた影響はあまりにも大きくて、その後のトレーナー室にさっきまでの温もりはありませんでした。いつもは気が休まる場所なだけあって、今の居心地の悪さを異常に煩わしく思いました。



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私達のトレーナー

「なんなのあいつ。マジで感じ悪い。トレーナー、あんなの相手にしちゃいけませんよ。あたしは知ってます。トレーナーが誰よりもあたしのことを考えてくれていること。それに、あたしのレーススタイルを見つけてくれたのは、他でもないあなたです。こう見えて、ウールちゃん感謝してるんですよ。何てことない石ころを、ダイヤの原石にしてくれたこと」

 

やっぱり今のなし、と顔を紅潮させて慌てています。何もできなかった私とは違って、ウールちゃんは自分の言葉でピッドのトレーナーさんを追い返していました。自分に酷く呆れると同時に、ウールちゃんが女神様のようにも見えました。

 

「ウールちゃん、とってもかっこよかった。私なんて何もできなくて……。本当にごめんね」

「いいよいいよ、そもそもこれはあたしの問題だからね。けどイライラするよね、ほんと。何もかも馬鹿にして、今度は絶対に負けない!ほら、トレーナーもそんな顔しないでください。あたしもアーちゃんも、トレーナーを尊敬してますし、大好きですよ。ね、アーちゃん?」

 

ユウさんは俯いたまま黙っていましたが、ウールちゃんの言葉で、なんとか意識が戻ってきたようでした。

 

「二人とも、迷惑かけてごめん。嫌だと言うなら、いつでも僕は二人のトレーナーを降りる気でいるし、代わりの人だって探すから、いつでも言ってほしい」

「普段は頼りになるのに、こういう時ばっかり弱々しいんですから。アーちゃんからも何か言ってあげて?」

 

ウールちゃんからバトンを受け取った私は、机から動こうとしないユウさんの近くまで歩いて、おとぎ話を語り聞かせるように、声をかけました。

 

「ユウさんは、私の走りに助けられたって言ってくださったことがあります。けど、私もユウさんに見つけてもらえて、助けられました。ユウさんじゃないと、私を見つけてくれたユウさんじゃないとダメなんです。だから、それ以上言わないでください。大切なトレーナーを悪く言うのは、私が許しません」

「ここまでアーちゃんに言わせるなんて、トレーナーは罪な男だよね。だから反省も兼ねて、今日はおいしい店奢ってくださいね」

 

ようやく顔を上げてくれましたが、その顔は涙で滲んでいて、不安でいっぱいでした。耳を真っ赤に染めて、ユウさんが答えます。

 

「僕も、二人の担当になれて本当に良かった」

 

そう呟いて、何度も何度も、ハンカチで涙を拭っていました。やがて日が暮れ始めた頃、いつものユウさんの顔が戻ってきました。レースのことばかり考えていて、私たちのレース映像を何回も何回も見直して、練習記録用のノートを数日で真っ黒に染めてしまう、そんな素敵な私たちのトレーナーさんの顔でした。

 

「自信を持つのは、お互いの課題ですね」

 

ウールちゃんがささやくように言いました。少しずつ夜更けが遅くなっていくのを感じます。もうこんな時間なのに、太陽は落ち切っていませんでした。

 

 

その日の夜ご飯は、ウールちゃんの希望でまたまた回らない高級寿司店となりました。ちなみにコートちゃんも参戦です。サーモンばかり食べていました。私はというと、鯛や鮪がおいしくて、ひたすらつまんでいました。ウールちゃんはコートちゃんの二倍の量を平らげています。

 

「トレーナー、まだ頼んでいいですよね。まあいざというときのためにコート連れてきたんだし」

「ちょっと、それどういうこと?私は貯金箱じゃないわ。それに今日はお客様だから、一円も払う気はないわよ」

「私、少しなら出せるよ。今日はウールちゃんに助けられちゃったから、足りなくなったら私に言ってね」

「アーちゃんは出さなくていいから!そんな残酷なことあたしにはできない!トレーナー、マジでなんとかしてくださいね!」

 

その様子を見て、僕は特に給料が少ないから、数ヶ月はもやし生活だよと笑っているユウさんの顔は、今日一番の笑顔でした。艶のあるネタを頬張りながら、電灯の下の皆の笑顔は何よりも美しかったです。



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きさらぎ賞

「二番がここで出るなら……」

 

きさらぎ賞当日、控え室のウールちゃんの様子を見にいくと、レースの展開予想をしていました。テーブルの上には温かいミルクとにんじんロールパンが置いてあります。私に気づくと、真剣な蒼の眼差しが和らぎました。

 

「一個、どーぞ」

 

鼻腔をくすぐるのは、ほのかなバターの香りです。このロールパンを見ていると、トレセン学園に入学したばかりの頃を思い出します。不安と期待に胸を膨らませ、落ち着きがなかった私を、ウールちゃんの持ち前の優しさが包んでくれました。この匂いは、その香ばしさです。

 

「とってもおいしい。私とウールちゃんの思い出の味だね」

「えへへ、あたしとアーちゃんが始まった味。初心を忘れないようにね。それじゃあ、行ってきます」

 

ウールちゃんの温もりを感じる白い手をぎゅっと握って、真っ直ぐな瞳を見つめて。がんばってね、私からの精一杯のエールでした。

 

 

まだまだ寒い如月の冬。その名の通り、きさらぎ賞。クラシックに挑むために、まずはここから。戦況に応じて柔軟に対応できる力を身につけたかった。他のウマ娘との差をつくるとなった時に、あたしの一番の武器はそこにあるはず。だから今回は正攻法ではやらない。先行策が少しでも厳しそうなら、差しでも、最後方からでも追ってやる。

 

「落ち着いていけば大丈夫。周りとの実力差は圧倒的だ」

 

そうは言うけれど、トレーナーからの視線は落ち着かなかった。順当にレースが動けば勝てる、いつも通り走ることができれば圧勝できる。それはつまり、私が仕掛けを間違えれば、案外簡単に負けることもある、そういうことなのだろう。ならあたしは、圧勝してみせるしかない。

 

「ホープフルステークスでは二着に敗れましたが、強豪二人と真っ向勝負を仕掛け善戦したショートウールが参戦です。圧倒的な一番人気の前に、他のウマ娘たちはどう出るのでしょうか」

 

ストレッチはしたつもりだった。けれど、まだ身体は少し震えて、鈍い感じがする。走り出しから速度を上げていくのは危ないかもしれない。とにかく思考を巡らせながら、ゲートにゆっくりと入った。

 

「全ウマ娘綺麗なスタートを切りました。まずは作戦通り八番が先頭に立って、レースを引っ張っていきます」

 

予想通り、皆前目についていて、あたしがつけ入る隙は無かった。外から前に上がるウマ娘に防がれるように、あたしは内に揉まれていく。

 

「四番ショートウールは中団を選択しました。これは少し遅いペースか、第一コーナーを曲がっていきます。少しずつ隊列が決まっていって、集団はかなり固まっています」

 

あたしから同心円状に広がるように、他のウマ娘が並んでいる。それは、逃げの八番に引っ張られることなく、あたしをマークしているウマ娘が多いことを示していた。かなり厳しい展開で、このまま揉まれてしまえば作戦も何もなかった。あたしの走りは少しずつ乱れていく。

 

「向正面を過ぎて、先頭との差は四バ身ほど。逃げ切れるのか差し切れるのか、ショートウールはまだ揉まれている!残り600mの標識を通過して、外を回って後方の子たちが動いた!」

 

どれだけ必死に目を凝らして進路を探っても、前は空かない。そうしているうちに、後ろから外を回って中団に被さるように追い込みの子たちがスパートをかけ始めた。全ては最後の直線、あたしへのマークをズラして、他の子が前を追い始めてバラけた一瞬、そこから抜けるしかない。

 

「ショートウールは辛そうだ!これは作戦なのか、まだ伸びない、まだ伸びない、残り400!外を回って五番が追ってくる!八番はまだ逃げている、リードは二バ身!」

 

残り300m、前に立ちはだかる巨大な壁に、呼吸がさらに荒くなっていった。心臓が高鳴り、このまま埋もれてしまう未来が頭をよぎった。けれど、ここで諦めてしまったら、あたしは成長できない。まだ、まだ耐えるんだ。あたしはまだやれる。焦っているのは、あたしだけではないはずだ。残り150m、先頭との差は四馬身。その瞬間、ゴール版から差す一筋の光が見えた、今の今まで恐れていた目の前の壁へ、あたしは迷わず突っ込んだ。

 

「ショートウールが間を縫って追ってきた!なんという末脚、異次元の末脚!レベルが違う!一気に抜き去る!先頭は、五番が八番を抜き去って、最後の追い比べ!これに加われるかショートウール!」

 

前四頭の追い比べ、速度はマックス、今までにないくらい身体が軽い。あたしは確かに成長している。けれど、あまりにも遅過ぎた。

 

「四人縺れてゴールイン!勝ったのは五番か、六番か、これは写真判定です!なんと、圧倒的一番人気ショートウールは、見事に内から伸びてきましたが、少々届きませんでした」

 

あたしは五着、あと一歩届かなかった。けれどあたしは達成感に満ちていた。一番人気のために大勢からマークを受けてしまったのを、作戦で抜け出した。予想しなかったレース展開の中で、ここまで臨機応変に対応できたのは、我ながらよくやったと思う。そう考えると、このレースで得たのは、とても大きなものだった。呼吸をゆっくり整えるあたしに、キュートな天使が心配そうに駆け寄ってきた。

 

「ごめんねアーちゃん。負けちゃった。やっぱり重賞ともなると、みんな強いし、作戦もそれぞれあって、一筋縄じゃいかないね」

 

負けてもなお満足そうに振る舞うあたしに、アーちゃんは安心したような顔を向けた。冷たいあたしの手を握って、静かに言った。

 

「ううん。ウールちゃんもとっても強かった。私、全部見てたよ。あんなに囲まれてたのに、最後の最後まで耐えて、抜け出しちゃうんだもん」

 

あの走りはウールちゃんにしかできない、ウールちゃんはやっぱりすごいと、アーちゃんはひたすらにあたしを讃えた。周りからは大きな罵声が時々聞こえてきたけれど、そんな声よりアーちゃんの賛美がひたすら嬉しかった。

 

「でも、負けちゃったな。アーちゃんとのお出かけ、楽しみにしてたのに」

 

圧勝して、次の日にはアーちゃんと楽しくお出かけ。そんな夢のプランがあっけなく崩れてしまった。そう思うと内から黒い気持ちが急に襲ってきた。やるせなく俯くあたしの前に、サプライズをするような得意げな顔で二枚のチケットをアーちゃんが見せた。

 

「誰か友達とどうぞってユウさんがくれたの。明日、ウールちゃんと行きたいな」

 

頼まれているはずなのに、女神様の慈悲を受けたような気がした。アーちゃんは適当な慰めで言っているわけではなくて、あたしの今日のレースを心から尊敬しているのだから、こんな気持ちになるのだと思う。あたしは負けたというのに、アーちゃんにこう言われてしまうと、嫌な気持ちなんてどこかへと飛んでいってしまう。断れるはずなんてなかった。たとえ明日レースがあったとしても、アーちゃんの誘いなら迷いなくレースを切って了承するし、外国だったとしてもすぐに向かう。この子はどこまでも健気で優しくて、あたしも自然と笑顔になってしまう。

 

「アーちゃんはほんとに優しいね……。あたしが断るわけないじゃん!もう、アーちゃん大好き!」

「は、恥ずかしいよウールちゃん」

 

思わずアーちゃんに抱きついた。サラサラの髪がくすぐったくて、制服越しでも体温が温かくて、脳に広がるアーちゃんの匂いが甘美で。とにかく明日が楽しみで仕方なかった。けれど反省だけはしなければ。まずはトレーナーのところへ。集合時間を伝えてからアーちゃんと別れて、早足でターフから去っていった。



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ウールちゃんと水族館へ

ユウさんから貰った二枚の水族館のチケット。トレセン学園からは少し遠くて、私は行ったことがないのです。だから朝から気持ちが昂ってしまって、それが身支度に表れてしまっています。どんなお洋服にしようかな、一日のプランはどうかな、たくさん写真撮りたいな、などたくさんの望みが私の身体中を巡っています。

 

「ウールちゃんとお出かけ、久しぶりかも」

 

日曜なので、駅前は人で溢れていました。風はまだ冷たくて、マフラーの先がふわふわと舞っています。ティッシュを配っている人や、時計を何度も確認しながら、忙しそうに誰かと電話をする人、そしてお母さんに連れられて、はしゃいでいる子どもたち。そんな人の流れを見ながら、ウールちゃんを待ちました。

 

「アーちゃんいたいた、待たせちゃってごめんね」

 

後ろから甘い匂いがして振り向くと、ウールちゃんがいました。鼻が少し赤くて、走ってきたのか呼吸を少し荒げています。けれどそれとは別に、纏っている雰囲気がいつもと違うのです。活力に満ちていて、周りを巻き込んでしまうようないつもの明るさではなくて、むしろゆったりと肩を寄せてしまいたくなるような、シックな感じでした。短く切った髪と身に纏う漆黒が、普段とは全く対照的です。

 

 

「えへへ、どうかな。アーちゃんの前だからかっこつけちゃった」

 

ウールちゃんのウインクと同時に、私の胸が鳴りました。王子様というのは言い過ぎかもしれませんが、私はその大人びた魅力にすっかり魅入られてしまいました。顔を真っ赤にしてしまって、しばらく言葉が出なかったです。

 

「お、良い反応。アーちゃんにドキドキしてもらえるようにがんばったんだ」

「ウールちゃん、とってもかっこいい……」

 

恍惚の表情を浮かべて、とろけたようにウールちゃんを見つめてしまっています。雑誌のモデルさんのように魔性の妖艶を纏っているわけではなくて、一人を優しく包む清純なクールさがウールちゃんにマッチして、私を惹きつけるのです。細い脚が、緑の瞳が、私を釘刺して離しません。

 

「そ、そんなに見られると照れちゃうじゃん!ほら、水族館行くんだよね。さ、行こう行こう!」

 

操られるように、ウールちゃんの腕にゆっくりと抱きついて寄り添うと、さすがのウールちゃんも慌ててしまって、取り乱しました。その細い腕を、離したくありませんでした。

 

「ちょっと待って、アーちゃん!?なんか今日変だよ!?さすがにこれはあたしでも恥ずかしいから!それに、その、この体勢だと、アーちゃんの当たっちゃうし……」

 

そのウールちゃんの慌てぶりに、何かにとり憑かれたように積極的だった私もようやく目を覚ましました。自分が何をしていたのかにやっと気づいて、慌てて手を離します。ウールちゃんにすっかり見とれてこんなことをしてしまうなんて、顔から火が出る思いでした。

 

「ご、ごめんねウールちゃん。わ、私なんでこんなことを……。ごめんね、迷惑だったよね」

 

何回も謝って、二人とも顔の火照りは最高潮に達していました。羞恥心のために、しばらく言葉を紡ぐことができなくて、数分が経過しました。もじもじと慌ただしい二人でしたが、やっとウールちゃんが声を出しました。

 

「そ、そろそろ行こっか」

 

小さな声のはずなのに、雑音の中でその声だけはしっかりと聞き取れました。歩いている途中、何度も心臓の音がウールちゃんに聞こえてしまう気がします。その度に顔を赤らめてしまって、恥ずかしかったです。

 

「さっきのアーちゃん、まじでやばかった……」

 

 

 

興奮冷めやらぬまま、会話もあまり弾むことなく目的地へと到着して、今度は私からと、なんとか勇気を振り絞って、聞いてみました。

 

「ウールちゃんは、どこか行きたいところあるの?」

 

なるべく平静を装う私でしたが、それはウールちゃんも同じなので、お互い動揺を全く隠せていませんでした。外でも寒さを感じなかったくらいなので、暖房の効いた屋内は、暑いくらいです。

 

「あ、あたしはジンベエザメ見たいかな、なんて。ほら、大きいし」

 

とっさに出たかわいらしいジェスチャーに、二人とも思わず笑ってしまいました。そこから、少し二人の緊張は解れて。一度解れてしまったら後は簡単で、園内を回る順番を決めたり、いつのイルカショーを見ようか、そんな話をしたり、トントンと会話が弾みます。まずは、入り口付近のガチャガチャでした。

 

「これ、コートちゃん好きかも」

「確かに、あいつ意外とかわいいところあるから」

 

小さなペンギンのフィギュアを何個か当てました。白かったり黒かったり、精巧ながら、かわいさも持ち合わせている質の高いフィギュアです。これなら、コートちゃんも喜んでくれると思います。

 

「じゃあ今度はあっちだね。クマノミだよ、クマノミ」

 

日光が消えて、薄暗い空間にやってきました。エンゼルフィッシュやピラニア、有名な魚たちが元気に泳いでいます。

 

「見て見て、クマノミかわいいよね。イソギンチャクから離れないんだよ。ずっとくっついてて、まるであたしとアーちゃんみたいに」

「もう、ウールちゃんたら」

 

そんな冗談を言うウールちゃんの顔は、暗い照明の下からでも分かるほど、紅潮していました。けれど、私がイソギンチャクで、ウールちゃんがクマノミなのでしょうか。それとも、その逆なのでしょうか。クマノミとイソギンチャクは全く的を射ていると思いますが、どっちがどっちなのかは、あまり分からないかもしれません。

 

「コートに聞いたら、アーちゃんがイソギンチャクって言いそうだよね。アーちゃんはどう思う?」

「私はウールちゃんの側にいれるなら、どっちでもいいの」

「アーちゃんあざと過ぎる……。せっかくいつも通り喋れると思ったのに、恥ずかしいって!」

 

ふふっと私が笑って、続いてウールちゃんも。冗談を交えながらまだしばらく堪能して、大きなピラルクや、ピラニアだって、よく見るとかわいいです。ちなみに本当はそれほど噛まないみたいです。美しい小魚たちに見送られて、丁度良いお昼時に私たちは昼食をとることにしました。



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息抜き噛みしめて

「ハンバーガー、ラーメン、色々あるね」

 

お昼に食べるには重たいメニューばかりを吟味しています。周りの席から香る匂いと、おいしそうにそれを食べるお客さん。私も我慢が効かなくなりそうです。少しくらいなら胃もたれしないでしょうか、でもこんなにカロリーが高い物を食べている私をユウさんが見たらいくら優しいユウさんでもきっと激怒します。

 

「アーちゃんが今考えてること、当ててみてもいい?もし高カロリーの食事がユウトレーナーにバレたら怒られちゃうから我慢しないと、でしょ?」

 

ウールちゃんにピッタリ当てられてしまいました。どうやら顔に出てしまっていたようです。得意げな顔でジロジロと私を見つめています。私がこうしている間にも、ウールちゃんはハンバーガーを食べると決めたようで、席を決めてからスキップで買いにいってしまいました。

そうはいっても私も何か食べなければいけません。そうだ、うどんくらいなら大丈夫だと思います。きっとユウさんも許してくれるはずです。でも、でもその隣にあるおいしそうなピザが私をじっと見つめているのです。頭の中で天使と悪魔が戦っています。もちろんうどんもおいしいのですが、今の気分はやっぱりピザなのです。

 

「ただいまー。結構混んでたね。あれ、アーちゃんまだ決めてないの?じゃあお先、いただきます」

 

香ばしい匂いが漂ってきます。パティが三枚も挟まっているのです。赤茶のソースがはみ出して、水々しいレタスまで。それをウールちゃんはわざとらしく音を立ててなんとも幸せそうに食べています。私をこちら側へと誘うように、何度も何度も噛みしめるように。私の中の悪魔が天使を攻撃しています。優勢でした。

 

「はあ、おいしいなあ。こんなにおいしいのに、これを我慢しなきゃいけないウマ娘がいるなんて。この場でいくら食べても、トレーナーは見てないし、この後たくさんトレーニングすれば関係ないのに。ね、アーちゃん?」

 

私は恥ずかしそうにピザ屋の人混みに揉まれていきました。ユウさんごめんなさい。欲望には逆らえず、ウールちゃんの策略にもハマってしまいました。そして大きなベーコンと大量のチーズがトッピングされた悪魔のピザを買おうとしています。ジュースまで付けて。でも、食べてしまったらその分動けば問題ないはず、そう言い聞かせて結局注文してしまうのでした。

 

「うんうん、ご飯は食べたい物を食べなきゃね。アーちゃんは口にソースを付けててもかわいいね」

 

ウールちゃんはペットを見るような顔で私を見つめています。久しぶりに食べるピザは身体に染みました。トレセン学園ではたまにしか並ばないので、貴重な品です。並ばないということは、健康にもあまり良くないということなのですけど、それでも食べてしまいたくなる魔性の味です。何切れか食べているうちにウールちゃんは食べ終わって、この後の予定について考えていました。

 

「アーちゃんが食べ終わったらさ、イルカショー見にいかない?あたしめっちゃ気になってたから、おねがい!」

 

私も楽しみにしていました。当然了承して、少し食べる速度を速めました。ウールちゃんに写真を何枚か撮られて、私はすっかりお腹いっぱいになりました。身体中が幸せで満たされています。大袈裟に思われるかもしれませんが、そのくらいピザが久しぶりだったのです。

 

昼食を終えて、私たちはイルカショーのための席を探していました。朝は少し雲が見られた空も、夕方に差し掛かって一面に渡り夕焼けが広がっています。今日のイルカショーの公演はこれで最後なので、なんとか間に合って良かったです。

 

「良い席取れたね、ここからなら全部見えるよ」

 

徐々に人も集まってきています。主役のイルカたちと飼育員の方たちも登場して、いよいよスタートです。

 

 

「いやー、すごかったね!イルカってあんな大ジャンプできるんだ、こんなに濡れるなんて思わなかった」

 

両手を広げて感動を表現するウールちゃんはなんだか子どもっぽくてかわいいです。初めて見る大迫力のイルカの舞に、ウールちゃんは目を輝かせて見ていました。水しぶきがかかった時もはしゃいでいました。けど本当に美しい動きでした。まるで重力をコントロールして浮いているような優雅な動きと、三匹での演技もブレがありません。私たちで言うところの、折り合いがついていました。訓練されたことを訓練された通りにやり切ることができるというのは、私も見習わなければいけません。レース中、アドリブで良い結果が出せるのはトレーニングに忠実なウマ娘だけです。今日のイルカショーは私に練習への姿勢を改めて意識させてくれました。やる気アップです。

 

「いやー、ほんとに良い息抜きになったね!」

「私もとっても楽しかった」

 

ユウトレーナーに感謝しないとね、ウールちゃんは満足そうでした。ぐっと背伸びをして、駅までゆっくり歩き始めました。

 

「年末はお家に泊まらせてもらって、今日は一緒にお出かけして、気づいたらアーちゃんの方に身体が向かっていっちゃう。一緒にいるだけで楽しくて、幸せで」

 

その続きを静かに待っていたら、唐突に顔を真っ赤にして黙ってしまいました。

 

「き、急に何言ってんだろあたし。違うのアーちゃん!いや、違わないけど!これじゃまるで……」

「ふふっ、嬉しい。私もウールちゃんと一緒だと幸せだよ」

 

ウールちゃんからぼおっと炎が上がった気がしました。すっかり静かになってしまいました。今日の日記は一ページでは足りないかもしれません。こんなに照れているウールちゃんも初めてで、お人形さんのように縮こまっています。この些細な日常が私にとってもウールちゃんにとってもかけがえのない大切なものだということを言いたいのだと思います。

 

「本当に楽しかった……」

 

その小さな声はウールちゃんに確かに届いていました。




久しぶりの投稿になってしまいました。なんとか続けていきますのでこれからも見ていただけると幸いです。


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次走に向けて

「うん、二人とも良い顔。リフレッシュになったかな」

 

なんだか長い夏休みを過ごしたような満足感です。お土産のキーホルダーをユウさんに渡すと笑顔で受け取ってくれて、早速カバンに付けていました。そんな浮かれた気分も程々に、重要な連絡が伝えられました。

 

「次走のことなんだけど、アリアンスがアネモネステークス、ウールが弥生賞で考えているんだけど、どうだろう」

 

アネモネステークスは桜花賞のトライアルレースの中で、唯一重賞ではありません。そしてウールちゃんの弥生賞は言わずと知れた皐月賞のトライアルレース。なんといっても皐月賞と条件が一緒です。このレースの結果は皐月賞に大きくつながっていきます。少しずつ私たちにクラシックが近づいていることが実感されます。

 

「他の選択肢として、アリアンスはフィリーズレビューやコープコートちゃんが出走するチューリップ賞もありだと思ってる」

 

チューリップ賞は桜花賞と条件が同じで、直接桜花賞に繋がる大切なレースです。なぜユウさんはアネモネステークスを次走にするつもりなのでしょうか。

 

「コープコートちゃんとチューリップ賞でわざわざ戦う必要はないと僕は思う。今のところアネモネステークスの出走予定にアリアンスと互角に戦えるウマ娘はいない。それなら舞台は違っても色々と試してみようと思うんだ。もちろん、アリアンスの意見を尊重したい」

 

なかなか難しい判断でした。チューリップ賞でコートちゃんと戦う、つまりそれはもう桜花賞本番とピッタリ状況が同じなのです。私が桜花賞を勝つためには、コートちゃんは超えなければいけない大きな大きな壁です。阪神ジュベナイルフィリーズでは、私の作戦も含めて正攻法で叩きのめされてしまいました。それなのに、チューリップ賞で戦ってしまえば、手の内を全て晒すことになってしまいます。それなら、やはりアネモネステークスの方が良いのでしょうか。

 

「多分だけど、コープコートちゃんは前哨戦とはいえ手は抜かず全力で戦うと思う。アネモネステークスで作戦を立てて、それをチューリップ賞の走りを見ながらじっくり煮詰めていく」

 

ユウさんの言う通りにすれば、きっと最高のパフォーマンスが生まれるのかもしれません。けど、私が阪神ジュベナイルフィリーズで感じた絶望の差を打ち砕くための作戦は、やっぱり直接ぶつかってみないと見出せない気がするのです。

 

「私、チューリップ賞に出走したいです。コートちゃんと直接走るのが、私には一番合っているような気がして……」

 

ユウさんは大きく頷いて、簡単に了承してくれました。もう少し色々と聞かれると思っていたので、少し意外です。

 

「よし、アリアンスの次走はチューリップ賞にしよう。作戦とかは後でじっくり考えるとして、次はウール。弥生賞にしようと思うんだけど、どうだろう。ナイズちゃんやミールラプソディは出てこない。その代わり一人、とんでもなさそうなのがやってくるんだけど……」

「聞きましたよ、共同通信杯の覇者、サンドルーンちゃんですよね。あたしも見ました。正直、ゾッとします」

 

最近行われた重賞レース、共同通信杯で勝利したサンドルーンちゃん。毎年強豪が集う共同通信杯ですが、今年のレベルは特に高かったみたいで、その中でも抜けていたそうです。トレセン学園でもその評価は広がり、皐月賞は勝確だと言う人もいます。

 

「ちょうど良かったです。そんなに強い子と本番前で戦えるなんて。あたしの実力があの子にどこまで届くか、試してみたいです」

「よし、その意気だ。弥生賞に登録しておくよ。とりあえずこれで今日話したいことは全部だから、ここからは練習メニューのことなんだけど」

 

次走も決まって、早速トレーニングに移っていきました。




アネモネステークス(L)…中山で行われる芝1600mの競争。上位二着以内のウマ娘に桜花賞の優先出走権が与えられる。

フィリーズレビュー(G2)…阪神で行われる芝1400mの重賞。上位三着以内のウマ娘に桜花賞の優先出走権が与えられる。

弥生賞(G2)…中山で行われる芝2000mの重賞。上位三着以内のウマ娘に皐月賞の優先出走権が与えられる。


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フルアダイヤーの陰

「まさか、まさかアリアンスさんとトライアルで戦うことになるなんて。これは楽しみになってきたわ、今日のトレーニングを倍にしてもらわないと」

 

ペンギンのフィギュアを机に置いて、今日の話をコートちゃんに伝えました。想像よりずっと驚いていたので、きっと私が桜花賞に直行すると思っていたようです。隣ではウールちゃんがもぐもぐとカレー食べ進めています。

 

「うーん、やっぱりカレーはおいしい。あ、ちなみにあたしは弥生賞出るよ」

「ついにあのサンドルーンさんと戦うのね。今から再来週が待ちきれないわ。私ももっとメニューを考えないと」

 

チューリップ賞は再来週で、なんとその次の日が弥生賞なのです。とても忙しい週末になること間違いなしです。ウールちゃんはおかわりまでしていますが、私は変に緊張してしまって、食べるペースが少し下がってしまいました。

 

 

放課後、だるそうに窓を見つめているアイちゃんがいました。どうしても放っておけなくて、またまた引き寄せられるように話題を振ってしまいました。

 

「すばるステークス、惜しかったね。私たくさん応援したけど、足りなかったのかな……」

 

少し前、アイちゃんが出走したすばるステークスを観戦したのですが、五着に敗れてしまいました。なんだか調子が悪そうで、理由を聞いてもお話ししてくれませんでしたが、そういう日もあると思います。私にはそんな慰めしかできません。

 

「え、現地で見てたの。私は走れないって言ったのに。どうしてわざわざ見にくるの」

「今のアイちゃん、とっても辛そうに見えるの。もし何か原因があって走れないなら、相談してほしいなって……」

 

アイちゃんの剣幕に、私の語尾も弱々しく消えていきました。

 

「別に何でもないから、もう放っておいて」

「何でもないわけないと思うの。メイクデビューのアイちゃんの走りはとってもかっこよくて、私の憧れで……。今は何かに悩んでるように見えるから、相談してほしいな……」

「はあ、あんたに私の何が分かるの?皆が皆あんたみたいに全力で走りたいと思うわけじゃない。分かったならもう帰って」

 

心の深い部分を抉られたような気がしました。初めて話した時よりも何倍も怖い顔で、冷たく鋭い目つきで私を睨んでいるのです。何が、何がそこまでアイちゃんを苦しめるのでしょうか。あんたに私の何が分かるの、その言葉が何回も何回も肺をぎゅうぎゅうと押しつぶすのです。なんとか耐えて言葉を紡ごうとしても、次の一言が出ませんでした。私の心は折れかけてしまって、もう謝って帰ろう、そう思いました。でも、アイちゃんが何を言ってもレースだけは観戦したい、その気持ちは変わりません。

 

「ごめんね、私なんかがおこがましいよね。次のレースだけ教えてくれたら本当に帰るから、教えてほしいな」

「仁川ステークス」

「何かあったら相談してね。私はいつでもアイちゃんの味方だよ。ずっとずっと応援してるから」

 

それだけ伝えて、逃げるように寮へと戻りました。部屋ではナタリーさんが何かのレースを見返しています。アイちゃんのことをナタリーさんに相談したら、何か良いアドバイスがもらえるでしょうか。

 

「そんなことがあったんだ。なかなか厳しいことを言う子だね。でもそもそも彼女はどうして走れなくなって、怖い子になっちゃったんだろう」

「教えてくれないんです。私なんかに相談しても意味ないって思われてるのかもしれません」

「まさか、アーちゃんは相談役にもピッタリだとあたいは思うけどな。でも、そんなに走るのが嫌ならさっさと辞めちゃえばいいのにね。次走のことだって、来てほしくないなら話さなければいいのに」

 

ナタリーさんはしばらく探偵のような仕草をしながら思案していました。そして、お茶をすすって、閃いたようでした。

 

「アーちゃんがあまりにも自分に期待してくれてるから、きっと辞めようにも辞められないんだよ。最初の方は走る気があったんだから、きっと負けて何かあったんだろうね。例えば周りから非難されたとか。それでもアーちゃんは離れてくれないから、余計に強くあたっちゃうんだろうね。だからアーちゃんはあの子が折れるまでひたすら応援してやればいい。この前のすばるステークスの時だって、きっと声届いてたと思うよ、知らないフリしてるだけ。彼女に必要なのは、走る理由。そしてそれは、弱い自分も認めてくれて、それでも側にいてくれる人。その人のためなら、きっと走るようになるんじゃないかな。多分ポテンシャルはあるだろうし」

 

目の前がぱあっと明るくなったような気がしました。やっぱりやっぱりナタリーさんはすごいです。少し相談しただけでここまで見抜くことができるだなんて。夢中で話を聞いていたので、熱々のお茶も飲むことができるくらいの温度になっていました。

 

「ナタリーさん、ありがとうございます。私、自分がやるべきことが分かったような気がします」

「うんうん、それでいいそれでいい。アーちゃんの思いはいつか絶対に届くよ。だってあたいもルドルフも認めた子なんだから」

 

アイちゃんの次走、仁川ステークスでたくさんたくさん応援します。私の声が向かいまで聞こえてしまうくらい応援してみせます。アイちゃんのことを何も知らないからといって、諦められるわけがありません。全部教えてもらって、全部ぶつけてもらって、全部理解するのです。もうレースに全力を出さないなんて言わせないです。どんどんやる気に満ち満ちてきて、今から週末が待ち遠しくて仕方がありませんでした。



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(番外編)七話 堕落

学園に来たばかりの頃は熱心に授業を受けて、トレーナーの言う通り前向きにトレーニングをしていたのに、どこで道を踏み間違えたのだろう。ほんの一瞬、レースの意味がなくなってしまっただけなのに、どうしてここまで言われるようになったのだろう。

 

「フルアダイヤーさん、この前のジュニア優駿の件、どうお考えですか」

 

またこの質問だ。どうせまたあの子を泣かせてしまった件についてだろう。悪徳記者から意味のない質問ばかりを受ける。全てを話したら話したで、蜂のように群がって私を批判するくせに。レースがつまらないなんて、別におかしな理由じゃないはずなのに、この学園はそれを許さない。ついに私をもてはやす輩はいなくなった。ジュニア優駿前はあんなにちやほやしていたのに、皆マロンナットの涙に心を打たれてしまった。確かに彼女の姿勢は称賛されるべきで、あんな素敵な子が勝ったのだから私も全く文句はない。けれど、その本気に応えなかった私に何を言われても、どうすることもできない。そう言うなら、誰か私のこの堕ち切ってしまった情熱を呼び覚ましてくれないものだろうか。

惰性で日々を過ごし、トレーニングも気の向くままに行っていたある日、トレーナーから次走の連絡があった。

 

「すばるステークスに出走しましょう。この程度のレースなら、絶対に余裕ですよ!トレーニングの結果は良くないですが、きっと本気を出していないだけでしょう。本番で少し足に力を入れたら、絶対に勝てます」

 

そんなことを言われても、走る気になれないのだからしょうがない。もう私に期待してくれる人もいなくなった。むしろ毎日のように非難の手紙なんかが送られてくるのだからもうやる気なんて起きるはずもない。

 

 

「さあ、注目の一番人気、七番フルアダイヤーはここにいました。前回の敗北をすっかり忘れてしまうような走りに期待です」

 

「どうしたフルアダイヤー!全く伸びない!ここからはもう抜け出せないぞ!」

 

レースの結果は五着だった。当然非難の嵐だったけれど、レース中もずっとずっと透き通った声が私の脳に反響していた。アリアンスだった。周りが批判しかしない中で、一人私を応援し続けていた。来なくていいって言ったのに、あんなに熱心に私を応援して。そんな声を張ることができるタイプでもないのに。彼女は、私の前が塞がれて絶体絶命になってしまっても声を落とさなかった。最後の最後まで全力で私を応援した。観客のほとんどは私のことなんて見なくなったのに。それに私は全くもって全力ではないというのに、ひたすら応援していた。レースの結果なんてどうでも良かったけれど、アリアンスのそのひたむきな応援が私の心をチクチクと突いて仕方がなかった。ただの一観衆のはずなのに。

 

「アイちゃん、お疲れ様。ゆっくり休んでね」

 

水とタオルをトレーナーより先に持ってきてくれた。この子はいつもそうだ。冷たくあしらっても毎日のように機嫌を伺いにきて、優しい言葉をかけて去っていく。今だってこうして私を労っている。こんなに堕ちた私に対して何がしたいのか分からない。私は水だけ受け取ってさっさと控え室へと戻った。

 

教室で何も考えずに窓を見つめていると、アリアンスが話しかけてきた。

 

「すばるステークス、惜しかったね。私たくさん応援したけど、足りなかったのかな……」

「え、現地で見てたの。私は走れないって言ったのに。どうしてわざわざ見にくるの」

 

水まで受け取ったのに、まるで存在を認識していなかったかのような言い方をした。こうやって突き放せば去ってくれると思ったから。彼女は悩みがあったら相談してほしいと言うけれど、走る目的が明確にあって、今一番勢いがあるクラシックウマ娘といっても過言ではない彼女に、私の悩みの何が分かるのだろうか。それが偽善に見えて腹立たしかった。

 

「はあ、あんたに私の何が分かるの?皆が皆あんたみたいに全力で走りたいと思うわけじゃない。分かったならもう帰って」

 

少し後悔した。私の言葉を聞いた彼女の声は普段からは想像できないくらい醜いものだったから。何を考えていたとしても、心配してくれている人に対してあまりにも冷たい対応だった。謝罪しようとしたけれど、馬鹿みたいなプライドがそれを邪魔して許さなかった。彼女は心底傷ついたようで、さすがに帰っていった。やってしまった。今私と彼女が正反対なのは、全部全部自分のせいなのに。自分が本気で走っていれば、こんなに追い込まれることもなかったのに。彼女と同じように明るく生きられたかもしれないのに。自分が勝手に堕落していっただけなのに、それをまるでアリアンスのせいかのように彼女を責めて、それでもまだ助けようとしてくれる彼女を私は追い払った。自分の酷さ、情けなさに涙が出てきた。全部全部自分が悪いのに、誰かに助けてほしくてしょうがなかった。一人じゃ、耐えられなかった。もう一度誰かに手を差し伸べてほしい、そう強く思った。

 

「誰か、誰か助けて……」

 

教室の隅で私はひたすら泣いていた。小さな彼女の後ろ姿と弱々しい声を脳裏に貼り付けて、寮の門限になるまで机を濡らした。



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(番外編)八話 彼女のために

アリアンスを追い払ってから、私はトレーニングに出なくなった。トレーナーからの連絡も無視した。彼女さえ無視し、歯車がもう一段階ズレた私はさらに孤独になっていく。それでもレースには出なければいけないから、本番の少し前にトレーナーのところへ向かった。

 

「もうあなたとはやっていけません。このレースを最後に、辞退させてください」

 

当然だった。トレーニングを放棄してさらに自分のために精一杯働いてくれる人を無視したのだから愛想を尽かされて当然だ。表情ではだるそうに話を聞きながらも、歯を食いしばらなければ壊れてしまうくらい心は弱く、泣いてしまいそうだった。私はいつからこんなに涙もろくなったのだろう。トレーナーが去っていった部屋で、いつかの日のように泣いていた。そしてずっと泣きじゃくってから、人がいない道を通って教室へ戻った。ターフには行きたくない。だから一人でいつものように窓を眺めていた。ふと机の中に何か入っていることに気づいた。飴玉とメモだった。かわいらしい字で文字が綴られている。

 

『アイちゃん、次のレース、また応援に行くね。お節介かもしれないけど、私はアイちゃんが大好きだから、笑顔で走ってほしいの。きっと練習で疲れてると思うから、飴も置いておくね。何があっても、私はアイちゃんの味方です』

 

ああ、ああ。涙と共に嗚咽が溢れてどうしようもなかった。もう涙なんてとっくに枯れたはずなのに、止まらない。彼女はいつになったら私を見捨ててくれるのだろう。突き放しても突き放しても私の笑顔をこの子は求めるんだ。私の味方であろうとしてくれるんだ。ようやく、ようやく学園を出ていく決意ができたのに。こんな状態になっても私は結局、自分の全てを肯定して支えてくれる人を最後まで待っていたんだ。レースに興味がないからなんて勝手な理由で走ることを放棄して、本当はいくらでも私に期待してくれている大切な人たちがいたはずなのに。目の前にいたはずなのに。なんでその思いを背負おうと思わなかったんだろう。いや、違う。それに気づいた時には、周りは皆敵だったんだ。惰性で過ごしていたから周りは私を非難した。けれど全部自分のせいだから、強がって周りを拒絶して。私はそんなことできるわけもない涙もろいウマ娘なのに。小さな狐が吠えているだけに過ぎないのに。負のスパイラルの中で私はどんどん居場所を失って、とうとうトレーナーまで失った。それでもまだ強がろうとしていたところを、アリアンスが気づいて手を差し伸べてくれた。結局一番私のことを理解していたのは、私を一番知らなくて、一番理解しようとしてくれた人だった。それに気づいてからはもう涙が止まらなかった。後悔も希望も夢も絶望も全部流し切って、頭を真っ白にした。そして考えた、私はもう、アリアンスのためだけに走ろう。こんな私を見捨てず、支えて認めてくれた彼女のために、私のトゥインクルシリーズの全てを捧げようと思った。やっと、やっと走る理由ができた。堕ちて、堕ちて堕ちて、退学という最底辺まで堕落しようと考えて、ようやく一筋の光が見えた。机の上のいちご味の飴玉を噛み砕いて、誰もいない時間帯を見計らって門限なんか気にせずひたすらトレーニングを行った。

 

仁川ステークス、当日。私は全く不器用で、しばらくまともに練習をしていなかったから全身が筋肉痛だった。こんな状態じゃ勝利なんて夢のまた夢だ。トレーナーに会わないように気をつけながらさっさと会場に到着して、最後の抵抗にストレッチをしていた。控え室に入ると、また小さな飴玉が置いてある。送り主の正体はすぐに分かった。こんなかわいい包装紙の飴を配るウマ娘なんて一人しかいない。相変わらずそれを噛み砕いて、よしと気合を入れ直した。

 

「見ててね、アリアンス。私は今日から変わる。堕ち切ったウマ娘は、あとはもう這い上がるだけだから。あなたに見ていてほしい」

 

絶好の良バ場だった。レースに出走するウマ娘は次々と入場していて、そこには一番人気の姿もあった。確かジュニア優駿三着の子。今の私にはかなり厳しい相手だと思う。それでも、それでも今日だけは負けられない。どれだけ身体が痛くても、どれだけ周りの視線が痛くても、負けるわけにはいかない。

 

「さあ、最後は一番人気、八番ユーレーンがゲートに収まります」

 

ゲートの中ってこんなに窮屈だったっけ。本気になると世界の全てが変わる。窮屈で窮屈で仕方がない。だからこそ、最高のスタートが切れる。勢い良くゲートが開いて、私は思いを全てぶつけるように発進した。

 

「三番フルアダイヤーが良いスタートを切りました。そして少しずつ速度を落として後方へ、ハナはやはり行きました、二番です」

 

私はやっぱりこのスタイルがいい。一気に脚を爆発させるこの感じ、溜めて溜めて放出したい。今までの後悔も、これからの期待も。レースは少し流れて、こんなにスタンドから離れているのに、あの華奢なアリアンスの透き通った声が聞こえてくる。幻聴かもしれないけれど、それでもよかった。

 

「さあ向正面を過ぎて、いよいよ最後のコーナーへ。ここからは緩やかな坂が続いていきます。少し速いペースの中、脚を溜めていた二番がここで飛び出していきました!それを睨むように一番人気ユーレーン、二番人気五番と続いていきます!勝負は最後の直線に託されました!」

 

坂が顔を見せ始め、少しずつ筋肉痛が効いてくる。ここからはもっとスピードを上げないといけないというのに、既にギリギリだった。はあ、はあ、最後の直線に近づいて、いよいよ皆フルスロットルの中、全身の痛みでなかなか差が縮まらない。

 

「フルアダイヤーはまだ来ない!ここで先頭はユーレーン!そして五番、やはりこの二強になるのか!あと300!」

「負けられない、負けたくない!」

 

身体が言うことを聞かない。ここまで堕ち切ったツケの全てが私を今襲っている。五百キロの重りを乗せられているかのように身体が動かない。大穴から這い上がろうとしているのに、下から悪魔が私を引っ張る。

 

「アイちゃん!」

 

ずっと、ずっと聞こえていた彼女の声。スタンドの前でやっとはっきりと届いた。大声が苦手な彼女がなんとか振り絞って精一杯私のあだ名を叫んでいる。ツケがなんだ、悪魔がなんだ、私はアリアンスのために走るって決めたんだ。もう、逃げない!

 

「絶対負けない!!」

「残り200!外から猛追、フルアダイヤーだ、フルアダイヤーだ!恐ろしい末脚、フルスロットル、あっという間に並んだ!しかしもう止まらない、二バ身、三バ身!圧勝で今ゴールイン!!」

 

はあ、はあ、過呼吸で死んでしまうかと思った。重賞でもないのに、私の肺は充実感を取り込んで呼吸している。雲の無い橙の夕焼けが何よりも綺麗で、私の心も澄み切っていた。一番人気のユーレーンを応援していた奴らの罵声が心地良い。私はやったんだ。ようやく這い上がってきた。走る目的を見つけた。アリアンスが目を真っ赤にしてこっちを見ている。今の彼女の尊く美しい顔が、私の全てだった。久しぶりの先頭の景色は気持ちいい。アリアンスが本気で走る理由が分かった気がする。だって、誰かの思いを乗せて走るレースはこんなに楽しくて、気持ちよくて、心が晴れ晴れとするものなのだから。私はレースの時と同じくらい全力の笑顔を彼女に向けた。

 

「アリアンス、見ててくれた?私、やったよ」



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(番外編)九話 復活

レース後、アリアンスが前のようにタオルと水を持ってこちらへ駆け寄ってきた。

 

「ただいま、アリアンス」

「おかえり、おかえりアイちゃん!」

 

彼女から水を優しく受け取って、一気に飲み干した。夕焼けで眩んでいた視界も少しずつ落ち着いてきて、レースの興奮も少しずつ温くなってきた。私は彼女に真っ先に言うべきことがあった。

 

「やっと立ち直れた。全部アリアンスのおかげ。今まで酷いことばかり言って本当にごめんなさい。あなたはいつでも私を助けようとしてくれていたのに、全て冷たくあしらってしまった」

「ううん、いいの。さっきのアイちゃん、とっても楽しそうで、とってもかっこよかった……!」

 

改めて近くで見る彼女は、気後れしてしまうほど美しかった。こんなに瞳を輝かせて私を見つめている。私が今まで彼女に浴びせてきた心無い発言も簡単に許してしまう、どこまでも優しい子。どうして彼女のこの優しさを今まで無視してしまっていたのだろう。

 

「私のお節介なんかなくても、アイちゃんは強いのに、私は何も知らずに付きまとっちゃって……。ごめんなさい」

「違う、それは違う!」

 

輝きに満ちた彼女が暗い顔をするのが嫌だった。もう前のような声を出してほしくなくて、そんな姿見たくなくて。考えるより先に身体が行動し、ぎゅっと彼女を抱きしめた。

 

「それは違う。私は本当にあなたに助けられた。あなたのおかげで走れるようになった。あなたのために走りたいと思った。全部、全部アリアンスが変えてくれた」

 

無口な私にしては饒舌だと思われたかもしれない。けれど彼女は私の中でかけがえのない存在になってしまった。とにかく感謝を伝えたくて仕方がなかった。

 

「うふふっ、良かった。私、アイちゃんのこと、少しは理解できたかな」

 

その笑顔に私はすっかり魅入られてしまった。ひたすら周りを大事にして、レースで皆の思いを背負うことができる心優しいウマ娘のアリアンスだから、周りから注目されても無理はない。その周りの一人に私はなってしまった。そして今、彼女の強さが少し分かったような気がする。この笑顔は、彼女の強さの象徴だった。よりいっそう彼女のために走りたいという思いが強くなっていく。

 

「私は、アリアンスのためなら走れる。だから、私を見ていてほしい」

「えへへ、もちろん。私もアイちゃんのレースが大好きだから。あの、アイちゃん」

 

もじもじしながらアリアンスが言った。

 

「あだ名で呼んでほしいな、なんて……。ごめんね、嫌だよね」

 

せっかくなら誰も使っていないような名前で呼びたかった。私はじっくり考えて、答えた。

 

「アン。アリアンスだから、アン。私だけのあだ名」

「かわいい名前。なんだか照れちゃうね。でもアイちゃんに呼んでもらえるなんて、嬉しい」

 

私も耳を真っ赤に染めて、尻尾をぶんぶんと振って、恥ずかしさが取れなかった。でも、嬉しかった。しばらく沈黙が流れて、私は恥ずかしそうにタオルを受け取り汗を拭いた。かわいい刺繍が施されていて、アンらしいと思った。そして何回か深呼吸をして、二人で控え室に戻った。

 

「行こ、アン」

 

 

 

「待って待って、二人ってそんなに仲よかった!?」

 

週が明けて、私は真っ先にアンのもとへ向かった。アンの話をもっと聞きたかった。そう思っていたのだけれど、アンと仲が良いショートウールがやってきた。

 

「静かにして、せっかく話してたのに」

「いやだって、前まであんなんだったあんたがなんでアーちゃんと一緒にいるのさ」

「アンは優しい。それだけ」

「待って待って、どういうこと?あだ名まで付けちゃって」

 

ショートウールは何が何だか分からない様子だった。確かに意外かもしれない。でも、彼女の前だと色々と話したくなってしまうし、表情も柔らかくなってしまう。私のことを彼女が知りたいと思ってくれたように、私も彼女のことを知りたかった。だから話していたら、ショートウールがやってきたのだ。もう少し二人で話したかったのに。

 

「アーちゃんがいいなら別にいいんだけど、あたしにももう少し優しくしてくれればいいのに」

「ごめん、そんなつもりはなかった」

「え、ああ、謝ってくれるならいいんだけど。まさかフルアダイヤーがこんなに丸くなるなんて。アーちゃんは本当にすごい」

 

彼女は少し困惑していた。アンのおかげで私は前に進むことができた。立ち止まることはあっても、もう後退しない。目の前で笑っている彼女のために、自分ができる最大限のレースをしてみせる。私は改めてそう誓った。そしてもう一つ、彼女に渡したい物があった。

 

「アン、これ、受け取って。飴、貰ってばかりは嫌だから」

「わあ、嬉しい。えへへ、ありがとう、アイちゃん」



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ナタリーの過去

「その様子だと、あの子とうまくいったみたいだね」

 

私があまりにも上機嫌にお茶を淹れているので、ナタリーさんにも伝わったみたいです。

 

「ナタリーさんのおかげで、アイちゃんも元気になってくれました」

「いやいや、アーちゃんの熱意が彼女に伝わったんだよ。あたいは何もしてない。でも、少し昔を思い出した。あたいもクラシックの時は結構荒れてたから」

 

熱々の頂戴ね、そう言って中断していた作業に取りかかりました。ナタリーさんが荒れていたとはどういうことなのでしょうか。今の頼りがいのある先輩という姿からは想像もつきません。

 

「あたいはどうしてもトリプルティアラが欲しかったから、それはもう狂ったようにトレーニングしてたよ。感情がなくなるくらいね。そんなあたいが秋華賞で負けた。その後どうなったと思う?」

 

もう一回作業を中断して、少し重たいトーンで語るように聞かせてくれました。桜花賞、オークスと勝利して、三冠がかかったナタリーさんの不安や緊張、そして周囲の期待は凄まじいものだったと思います。けどナタリーさんは負けてしまった。今の私では想像ができないくらいの絶望が襲ってきたのだと思います。

 

「そう、もう全てがどうでもよくなった。辛くて、苦しくて、途端に自分の生きる意味を失って。アーちゃんの友達と同じだね、走る意味を失った。周りには失望する人もいたし、励ましてくれる人もいた。でもどんな言葉も空っぽのあたいには届かなかった」

 

いつものナタリーさんの顔なのに、瞳の奥が少し濁って見えました。思い出すだけで辛い出来事なのだと思います。私は頷くことも忘れて、黙って聞くことしかできませんでした。

 

「チームの練習にも出なくなって、授業もサボるようになって、日によっては一日中引きこもって。あたいはもう、生きているというよりは死んでないだけ、そんな状態だった。ある日寮にノックがあって、ようやく退学かと思ったんだけど、誰だったと思う?」

 

焦らして焦らして、もったいぶって言いました。

 

「ルドルフ会長だった。最強のウマ娘が、わざわざこんなあたいの部屋までやってきた。髪もボサボサで、目の隈は酷くて、少し痩せて病人のようなあたいを見て最初に言った言葉が、『おつかれさま』だった。なんか胸がドキッとしたよ。廃人になったあたいに退学を言い渡すでもなく、叱るでも指導するでもなく、一言労ったんだ。めっちゃ効いたよね。もう頑張らなくていいんだよって言われた気がして、認めてもらえた気がして。今までもたくさん励まされたけど、極限状態のあたいにはルドルフの言葉が一番強く響いたんだ。彼女は続けた、『君は、その思いを後輩に伝えられる強いウマ娘になればいい。それができるのは君のようなウマ娘だ』って」

 

ほんと、さすが会長だよねと笑っています。ナタリーさんは本気だったからこそ、本気で夢見ていたからこそ勝てなかった絶望に苛まれて苦しんだ。ルドルフ会長はそれを全て知っていて、ナタリーさんの進むべき道を先導したのです。勝つ喜びも、負ける悔しさも、それを誰よりも知っているナタリーさんなら、きっと後輩の良い手本になると確信したのです。

 

「その言葉に救われたあたいは、やっと立ち直ることができて、自分の目的を見出せた。勝つことが全てじゃないと彼女が教えてくれたから、あたいの第二の人生が始まったよね。そんなところにアーちゃんが来たから、あたいもウキウキだったんだよ」

 

くくっと笑っています。絶望を乗り越えて掴んだ幸せが、今のナタリーさんの笑顔なのです。とても愛おしくて、強くて、美しい先輩の笑顔。なんだか涙してしまいそうです。

 

「だから、たくさんたくさん頼ってね。アーちゃんはあたいと違って不器用じゃないからあたいなんていらないかもしれないけど、アーちゃん一筋の先輩としては頼られるのって本当に嬉しいから」

 

らしくない話しちゃったな。そう言って照れながら熱々のお茶をすすっています。ナタリーさんとの距離がグッと近くなったような気がします。先輩なのに、お友達のような、お友達なのに、敬意を払うべき先輩のような、言葉にならない感覚です。

 

「あたいの話はここまで、それで、お友達のレースはどうだった?」

 

私が口を開いた瞬間、ゆっくりとドアが開かれました。

 

「アリアンスさん、いますか」

「お、噂をすれば。はいはい、隣にいますよ。じゃあ邪魔にならないようにあたいは別の場所行くね」

 

ひらひらと手を振って去っていきました。わざわざアイちゃんが寮までやってきてくれて、何か用があるのでしょうか。

 

「ここがアンの部屋、ベッド、良い匂い」

「アイちゃん、あんまり嗅がれるとちょっと恥ずかしいよ」

 

私のベッドの周りを見回してから、ようやく本題に入ります。

 

「アンのチームに入れてほしい」

 

驚いて変な声が出てしまいました。理由を聞くと、トレーナーさんが辞退してしまって新しい人を探しているみたいです。

 

「きっとあのトレーナーなら大丈夫。それに、アンと一緒にいられるし、走れる。だから、アンのチームに入れてほしい」

 

有無を言わせないくらい迫ってきて。私は全然いいのですが、やっぱりユウさんの許可がいります。それにウールちゃんも。なんとか落ち着いてもらって、この後一緒にトレーナー室に向かうことにしました。



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加入

「え、ショートウールもいるの」

 

少し嫌そうな仕草を見せるアイちゃん。でも、同じチームで仲間として練習するわけなので、できれば仲良くしてほしい気持ちがあります。

 

「アンと同じチームになるためだから、少しは我慢する」

 

渋々納得していました。少し歩いてトレーナー室に到着です。ドアを開けると、ウールちゃんもいました。

 

「おかえりアーちゃん。って、なんであんたも」

「その、ウールちゃん。相談があるの」

「トレーナー、私をあなたのチームに迎えてほしい」

「待って待って、まだあたし何にも言ってないんだけど!」

 

はちゃめちゃな四人をユウさんが愉快そうに見ています。私の腕をアイちゃんがぎゅっと掴んで、ウールちゃんが引っ張って。

 

「二人が良ければ、もちろん僕は反対しない。むしろ心強いパートナーができて二人の実力も底上げされると思う。仁川ステークス、僕も見たけど強い内容だった」

「私はアイちゃんと一緒のチーム、嬉しいです」

「うーん、アーちゃんが言うならいいけどさ」

 

アイちゃんがぺこりとお辞儀して、正式にチームの一員となりました。チームといっても、名前も無ければメンバーも三人しかいないですけど。

 

「必要な手続きはこちらで済ませておくよ。まさかフルアダイヤーちゃんがこっちにきてくれるなんて。メニューの幅が広がるな」

 

ユウさんは自分のデスクに戻っていつものようにメモ帳やノートとにらめっこしています。もうチューリップ賞は今週末に迫っています。そんな私たちのための最善の練習を改めて練り直しているのです。

 

「アンはチューリップ賞に出るんだ」

「ちょっと、あたしも弥生賞出るんだけど」

「私もウールちゃんも頑張るから、アイちゃんにはどっちも応援してほしいな」

 

ユウさんに少し待っててほしいと言われ、ソファに腰掛けてお菓子を食べながら談笑していました。相変わらずウールちゃんには少しツンとした態度で接しています。なんだかんだでバランスはいいのかなと思います。

 

「色々考えたけど、フルアダイヤーちゃんを交えての練習は来週からにしよう、疲れはまだ残ってるだろうしね。週末のレースは予定通りの仕上げで。フルアダイヤーちゃんは二人をよく観察してほしい。二人とも世代トップクラスの実力だから、きっと学べることがあると思う。僕はこの後色々手続きがあるから、先にストレッチなんかを始めておいてほしい」

 

 

いつものようにターフに到着しましたが、今日はアイちゃんも一緒です。まだ準備運動しかしていないのに、タオルはいる?水持ってくるよと積極的でした。

 

「ほんと変わったね。前はアーちゃんのことあんなに嫌ってたのに、今はこんなにベタベタしちゃってさ」

「アンは私を変えてくれた。でも過去が消えるわけじゃない。アンにも、あなたにも酷いことを言ってしまった。ごめんなさい。でも償いはこれからの走りでするから」

「そ、そんなに頭下げないでよ。あたしも悪かったって。あたしが言いたいのは、ちょっとアーちゃんにくっつきすぎだってこと!練習できないじゃん!」

「ごめんねアイちゃん」

 

すごく寂しそうな顔をして離れました。そんな騒がしい中でユウさんがやってきて、ようやく今日のトレーニングの開始です。まずはいつも通り軽いアップと、それから坂路を少々。アイちゃんにじっくり見られながらは緊張します。

 

「どうだろう、フルアダイヤーちゃんから見た二人の走りは」

「アイでいいです。二人とも全然違う走りに見えます。

特にアンのような走りをするウマ娘は私の周りにはいませんでした」

「さすが、よく見てる。ウールもアリアンスも、これからもっともっと伸びる。そしてアイちゃんも。いずれはG1を難なく取るようなウマ娘に」

「私はG1にこだわりません。アンが喜んでくれるならそれでいいです」

「この前こっそり聞いたんだけど、アリアンスは力強く走れる子がタイプみたいだよ。特にダートのG1なんかはよく見てるから、それを簡単に勝っちゃうようなウマ娘がいたら、心を奪われてしまうって言ってた気がする」

「えっ」

 

指定されたトレーニングを終えてユウさんのところに戻ると、アイちゃんがキラキラと瞳を輝かせて言いました。

 

「アン、見ててね。私、G1勝ってみせるから」

「う、うん。楽しみにしてるね」

 

ユウさんといったい何の話をしていたのでしょうか。アイちゃんのやる気が絶好調です。レースの直後でまだ身体への負担が残っているはずなのに、今にも走り出しそうな勢いです。

 

「もう少し走ったら今日は終わりにしよう」



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トウカイテイオー

「ずっとフルアダイヤーさんのことを気にかけていたもの。ようやく距離を縮められたようでなによりだわ」

「ちょっとあたしにも優しくなったしね。アーちゃん様々だよ。縮め過ぎてる気もするけど」

「いよいよ明後日。私はトライアルでも手は抜かない。アリアンスさんにはアリアンスさんの作戦があるだろうけど、本気だったら嬉しいわ」

「じゃああたしから二人にプレゼント」

 

後ろからバニラアイスが差し出されました。ウールちゃんが気を利かせて買ってきてくれたのです。

 

「ちょっと時期が早かったかな」

「ううん、嬉しい」

 

久しぶりのアイスは脳に染みます。甘さと共に清涼感が駆け抜けていって、昼食後の睡眠欲が飛んでいきました。

 

「さ、今日もトレーニング行こっか。じゃあまたね」

「コートちゃん、さよなら」

 

コートちゃんも早くレースがしたくてソワソワしていました。

 

 

「今日は主にアリアンスのために、なんとかお願いして特別ゲストを連れてきた」

 

ターフにはユウさんともう一人、誰もが知るウマ娘の姿がありました。

 

「君が噂のアリアンスちゃんかー。はじめまして、ボクはトウカイテイオーだよ!」

 

クラシック二冠を達成し、絶望からの奇跡の復活。その物語のような逆転劇は皆の心に刻まれました。そんな誰もが知る最強ウマ娘。トウカイテイオーさんがそこにはいました。わざわざ自己紹介をしなくても、溢れ出る覇気が最強を物語っています。

 

「な、なんでトウカイテイオーさんが」

 

これには三人とも驚きを隠せません。ユウさんは自慢げに説明します。

 

「トウカイテイオーは今のアリアンスの練習相手にうってつけだと思う。何回も頼み込んで、一緒に走ってくれることになった。ぜひこの機会をチューリップ賞に活かしてほしい」

「アリアンスちゃんはカイチョーのお気に入りだからね。ボクも気になっちゃってさ。ほらほら、早く準備しないと、待ちくたびれちゃったよー」

 

気さくに会話をするトウカイテイオーさんでしたが、強者のオーラは隠し切れません。今の私では到底叶うはずもない相手なのに、どうしてユウさんは併走相手に選んだのでしょうか。

 

「アリアンス、今回の併走の一番の目的は、勝つためにあがく、これを覚えることだ。実力や実績が自分より上の相手に対してどうアプローチしていくか、どうやって一杯食わせるか、レースの駆け引きの細かい部分を肌で感じてほしい」

 

私は緊張しながらも白線が引かれたスタートラインの前に立ちます。すぐ隣にはあのトウカイテイオーさんがいて、私は今から真っ向勝負を仕掛けようとしているのです。君のタイミングで良いよ、そう言ってくれました。震える足を落ち着かせて、深呼吸をして、芝を思いきり蹴りました。併走が始まって数百メートル、私を試すように横にピッタリ張りついています。

 

「トウカイテイオーに相手を頼んだのはもう一つ理由があるんだ」

「アーちゃんの足の柔軟さ、まさにトウカイテイオーさんの武器と同じですよね」

 

一キロを過ぎても全く動きはありません。トウカイテイオーさんは相変わらず私の横にピッタリと張りついて離れません。私の前で逃げるわけでもなく、後ろからプレッシャーをかけるわけでもありません。最後の直線の末脚だけで決着をつけるために。実力だけで私を倒すために。二人は全く同じタイミングでスパートをかけました。少しずつ少しずつ差が開いていきます。私は必死で追いますが、その努力は虚しく一向に縮まりません。三バ身以上つけられて、私はようやくゴールしました。

 

「お疲れ様、今回負けたからといって、落ち込んでる暇は無いよ!」

「はい、ありがとうございました……」

 

まだ体力は余っているのに、終始トウカイテイオーさんに主導権を握られていたような感じがして、なんだか納得のいかないレースになりました。相手が自分より圧倒的に強いって分かってしまうと、こうも萎縮してしまうものなんだと思いました。

 

「アーちゃん、お疲れ様。とりあえずユウトレーナーから話聞こっか」

「色々と体験したことない感覚に陥ったと思う。結果として作戦らしいことはできなかったかもしれないけど、その感覚を大事にしてほしい。強い子と何度も本気でぶつかり合うことで、きっと活路は開ける。ちなみにアイちゃんだったらどうしてた?」

「逃げてると思います。直線の末脚で勝てないなら、ペースを乱して体力勝負に持ち込むしかない」

「それもありだった。アリアンスが今回それをしなかったのは、緊張していて何も考えれなかったか、最初から勝つことを諦めていたか、逃げは得意じゃないから置きにいってしまった、あとは実力で戦いたかったとか。厳しい言い方になっちゃったし、たくさん挙げちゃって混乱してるかもしれないけど、圧倒的な実力差を持つ子と戦う感覚を知ってもらえたら今回は御の字だと思う」

 

今日一日の練習で、私の常識が崩されたような衝撃を受けました。同時に一気に成長したような気もしました。私にとって圧倒的な力の差というのは、きっと今はコープコートちゃんのことだと思います。ユウさんは決して言わないですが、きっと桜花賞でコープコートちゃんを越えるための練習として、さっきの併走を組んだのです。そして私は何もできなかった。これを克服しなければ、いつまで経ってもコートちゃんには勝てません。でも、それは飛び越えるには大き過ぎる崖でした。さっきのトウカイテイオーさんとの一戦だって、今考えてもどうすれば勝てるか浮かばないのです。そんな私が、ましてレース中に打開策を見出すなんて不可能なのです。私は、私はいったいどうすればいいのでしょうか。

 

「思い詰めちゃダメだ。簡単に答えが見つかるなら、皆苦労しない。とても難しい課題だから、まずは今日はその不安を意識できただけでもすごいことだと思う」

「うんうん、アーちゃんはかっこよかったよ!」

「ボクも最後の粘りには驚かされちゃった。またカイチョーに伝えないとね。それじゃボクははちみー買って帰るから、ばいばーい」

 

トウカイテイオーさんはさっき、何を考えていたのでしょうか。それを聞くことができずに今日の練習はお開きとなってしまいました。帰り道、心に石のような塊が残ってしまって、嫌な気持ちが取れませんでした。



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実力差

「なるほどね、テイオーと併走したんだ。強かったでしょ、あの子」

「はい。歯が立ちませんでした」

「トレーナーの言う通り、まずはその気持ちが大事だと思うな、あたいも。こうすれば勝てたとか、ああすれば勝てたとか、色々考えて走ってるうちに自然とレースの駆け引きは上手くなっていくものだよ」

「でも、本当に何も分からないんです」

「これはガチで思い悩んでる顔だ……。困ったな、あたいはアーちゃんにどんな言葉をかけてあげればいいんだ」

 

ナタリーさんの言う通り、今は考えても仕方のないことなのかもしれません。でも、桜花賞はもうすぐなのです。トウカイテイオーさんに覆せない差を叩きつけられて、私はすっかり参ってしまいました。もしコートちゃんがトウカイテイオーさんと同じくらい強くなっていたら?そう考えると眠れません。

 

「じゃあさ、チューリップ賞はいっそのこと何も考えずに走っちゃおうよ」

 

えっ、それはもう呆気に取られた顔です。やっと良い顔してくれた、そう笑って続けました。

 

「思い詰めながら走っても絶対勝てない。なら、もういっそ何も考えず走ってみると、意外と良い結果につながるものだよ。テイオーだって、何も考えずがむしゃらに練習して、走り続けて、ようやくあれくらい強くなったんだから。それに、最後は結局根性だしね」

 

なんだか一気に身体が軽くなった気がしました。勝つことだけに囚われて沼に嵌ってしまったら、私はもうきっと戻ることができません。ナタリーさんの言葉が妙に腑に落ちたのです。

 

「ただ楽しんで走ってみよ?困ったらまずは楽しむことだよ!」

「はい……!」

 

良い返事だね、そう言ってくくっと笑いました。いつかナタリーさんが教えてくれたことを思い出します。レースを楽しまないと、その気持ちを無くしてしまったら、また私は前の自分に逆戻りしてしまいます。そう考えていたら、やる気が湧いてきました。心の中で何度も自分を鼓舞して、ナタリーさんに励ましてもらいました。今の私ならなんとかチューリップ賞で戦える。そう思います。コートちゃんとの勝負を楽しむ気持ちを忘れずに、ただ全力で。やっとでユウさんの言葉を心から受け入れることができました。今は弱い自分を自覚できただけで良いのです。気づくことさえできれば、少しずつ克服できます。

 

「ナタリーさん、私、頑張ります!」

「もちろん応援には行くからね。笑顔でゴール板、駆け抜けておいで」

 

明日は休息を取って、明後日はいよいよ桜花賞トライアル、チューリップ賞です。なんだかワクワクさえしてきました。頑張るぞ、心の中で小さく拳を握って深く毛布を被りました。



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力を抜いて、楽しんで

「よかった。あたしアーちゃんが心配で」

「心配かけちゃってごめんね。私、もう大丈夫だよ」

 

レース直前、ウールちゃんとアイちゃんが控え室までやってきてくれました。

 

「アン、頑張って。ずっと見てるから」

「えへへ、嬉しい」

「あたしだってアーちゃん応援してるし!あたしの方が見てるから!」

「ウールちゃんも、とっても嬉しい。そろそろ行ってくるね」

 

少しずつ春の陽気が顔を見せ始めた阪神に、春の女王を目指す十三人のウマ娘が集いました。最強、一番人気のコートちゃんは、威風堂々とした振る舞いでターフの目立つ場所で観客に手を振っていました。

 

「よく眠れた、そんな顔をしているわ。やっぱり私のレースにはあなたがいなくちゃ」

「今日のレースこそはコートちゃんに勝つんだから」

 

アリアンスは努力した分だけ強くなっている。今アリアンスが彼女と互角に戦えることだけは僕が保証するよ。そうユウさんは言ってくれました。やっぱりユウさんの優しい言葉は元気になれます。ずっと私を見てくれて、他の子も徹底的に研究して。ウマ娘の強さを知り尽くしたユウさんの言葉だからこそ、信じてしまいます。

 

「やはり今年もチューリップ賞は激戦区。なんと無敗のジュニア級女王コープコートと二着アリアンスというマッチアップ!誰がこんなに早く再戦を予想したでしょうか。実況席からも、二人のオーラが見てとれます。これがトライアルだとは信じられません。他のウマ娘たちはどう食らいついていくのか、さあ続々とゲートに入っていきます」

 

最近は寒暖差が激しいですが、今日は寒過ぎず熱過ぎずで過ごしやすい気候です。こんな日は、まさにレース日和。花粉を乗せる春の風にゲートに入るウールちゃんの髪が靡きました。私もゲートに誘導されて、重賞の静寂が流れます。

 

「夢を目指す十三人のウマ娘、その実力を測るにはもってこいのこのレース。今、勢いよくゲートが開きました。おっと、若干ばらついたスタートです」

 

ウマ娘たちが私を囲むように配置されていきます。かなり中団に固まっています。けどその固まりに一番人気はいません。今日もきっと一番後ろで虎視眈々とタイミングを計算しているのだと思います。前にも横にも後ろにもウマ娘。周囲の状況が把握しづらい状況で、少しずつ私は焦り始めていました。

 

「二番手までは一バ身といったところでしょうか。一番前がコーナーをゆったりと通過して、ペースを落としていきます。揉まれているアリアンスはいつ脱げ出すか、注目です。一番人気コープコートはやはりここにいました。余裕のある走りで、さすがは無敗の女王です」

 

流されるまま第三コーナーを過ぎて、最後のコーナーに差し掛かろうとしています。そろそろエンジンをかけなければまずい、身体がそう言っています。抜け出そうと力を入れてもなかなか行かせてくれません。ひゅっと風が吹き抜けて、大外を通って栗毛のウマ娘がギアを上げ始めました。コートちゃんです。一本髪を落とした時には、もう追いつけない距離まで遠ざかるのです。

 

「早く、早く抜けないと……!」

「ここでコープコートがやってきた!外を回されても関係ない!全ウマ娘を薙ぎ倒し、一気に先頭に立った!しかし少し早いか!けれどもアリアンスはまだ集団の中!」

 

お先に失礼、コートちゃんの口はそう動いていたように見えました。集団の外を抜ける瞬間一瞬見えただけなのに、はっきり分かりました。そしてその顔は、まるで友達と遊んでいる時のように笑っていたのです。私はついつい焦ってしまいます。まだ負けていないのに、脳に敗北後のビジョンがよぎってしまうのです。それが怖くてかかってしまうのです。せっかくのレースなら、怯えるより楽しんだ方が何倍も楽しいはずなのに。雑念を振り払うように一呼吸入れました。ナタリーさんの言葉も頭に入ってきて、やっとで身体が落ち着きました。

 

「そうそう、それでいい。笑お、アーちゃん」

 

最後の直線に入り、集団がバラバラになろうとしているその間隙に光の道が差しました。ナタリーさんが言っていたのはこういうことでした。落ち着いて、身体をリラックスさせてレースを楽しめば、あとは身体が道を示してくれる。私はその光に容赦なく飛び出しました。

 

「内だ!間を縫ってアリアンスがやってきた!コープコートも粘っているが!届くのか、届くのか!残り200!」

 

全身に血液を巡らせて、動け動けと命令して、目の前の栗毛を全力で。今日こそ、今回こそ仕留める。私に輝く光明は、桜の女王への布石です。

 

「もう負けないよ、コートちゃん!」

「外コープコート!中アリアンス!粘るコート!追いすがるアリアンス!残り100!壮絶なぶつかり合い!内か外か内か!もう三着以下は届かない、完全に二人の争いだ!今並んでゴールイン!」

 

息を切らしながら見た掲示板には、写真の二文字。写真判定です。リプレイを二人してじーっと見つめています。そしてゆっくり、ゆっくりコマ送りで再生されるゴール板前には、ほんの数センチ差で、栗毛のウマ娘が先着していました。

 

「なんという接戦!勝ったのは二番コープコート!またもや、またしても重賞制覇。このウマ娘を止められる者はいるのでしょうか!そして惜敗のアリアンスも頑張りました!本番もきっと善戦してくれるでしょう!」

「また負けちゃった」

 

はあ、大きなため息は出ましたが、いつもよりは気持ちを抑えることができました。ネガティブを克服できた今回のレースは、私にとって大きな成長でした。凄惨な未来を予知してそのまま何もできずにいたら、それこそその結果が真実となってしまう。レースを楽しむことを通して、私は自分の弱さをまた一つ克服することができたのです。ただ楽しもうという感情が、私の悲観を消してくれました。そして、あの光の道は自身の弱さと向き合い克服し、今までの努力を信じたからこそ生まれたものだったのかもしれません。克服するということは、自分を信じるということ。積み重ねてきた練習を、努力を信じるということ。私は新しい強さを身につけることができました。だから、負けちゃったのは悔しいですけど、しょうがないって思えます。

 

「アン、お疲れ様」

「抜け出すタイミングがもう少し遅かったら危なかったね。もう心配で心配で」

 

アイちゃんにお水をもらいました。ウールちゃんはコートちゃんにお水を渡しに行って、なにやら喧嘩しています。ムスッとした顔で戻ってきました。

 

「せっかく水持ってってあげたのに。かわいくない奴!やっぱりアーちゃんだけ、裏切らないのは!今日のレースも絶対アーちゃんの勝ちだった!」

「アン、お疲れ様。ずっと見てた」

「えへへ、二人ともありがとう」



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実力差を覆せ

「ユウトレーナー。あたし、どうやったらあいつに勝てるかな」

 

あいつというのはもちろん、サンドルーンのことだった。私は結構あいつとの実力差を感じている。瞬発力、粘り、スタート、多分どれを取っても負けていると思う。あたしも一応重賞を制したウマ娘だし、ホープフルステークスでも結果を残しているけれど、そんなの関係ないくらいの強さを共同通信杯では見せていた。あのレベルのウマ娘が揃った中での圧勝劇。全く歯が立たない可能性もゼロではなかった。正直不安に押しつぶされそうなくらいだったけれど、ユウトレーナーは意外と簡単そうに言った。

 

「全然勝てる。これはおだてて言っているわけでも、ふざけてるわけでもない。もちろん彼女の強さはよく知ってるけど、今回の弥生賞に関しては、勝つ確率はこっちの方が高いくらいだ」

 

自信に満ち溢れた表情で言うから、私が不安を抱えているのを見透かして、誇張しているように見えてしまった。でも何回聞いてもその自信は変わらない。でも、嬉しかった。今ここで少しでも不安な発言をされていたら、さらに心が荒んでしまったから。あんなに実力差がどうとか言っていたのに、実は勝てるって言ってほしかったとか、どういうことって言われるかもしれないけれど、それが乙女心です。乙女は弱ってる時こそ強い言葉が欲しいものなのです。

 

「陣営はあまり間隔が空いていないのに弥生賞に出走させようとしている。本番の皐月賞に直行させないのは、何か不安があるからだ。そしてもちろんその不安は、距離の問題。そして中山の短い直線と二度の急坂。彼女にも疲れが残っていることを考えたら、全く勝てない相手じゃない。ウールはホープフルで経験してるしね」

 

頼もしい言葉だった。さすがはあたし達のトレーナー。ユウトレーナーは周りから悪く言われてるみたいな噂を聞くけれど、そんなの関係ない。あたし達はこの人の教えで強くなれているのだから。

 

「じゃあじゃあ、勝ったらご飯奢ってくださいね!なんか勝てる気がしてきました。他には、他には何か無いんですか」

「じゃあ作戦の話をしよう。今回はいつもより前でレースを進めても良いと思う。僕の見立てでは、サンドルーンちゃんは間違いなく粘るウールを捕まえられない。前走は強かったけど、逆を言えばあれが今の最大値。ウールには届かない」

 

ボードを使いながらの説明を受けていると、アーちゃんとフルアダイヤーがやってきた。相変わらずアーちゃんにくっついている。ウマ娘ってこんなに変わるものなんだって思う。アンのために走るって言ってたけれど、アーちゃんはいったいどんな言葉をかけたんだろう。今じゃ見違えるくらい成長して、G1制覇も期待されるくらいの走りに、フルアダイヤーはなっている。もっともっとあたしも頑張らないと。

 

「ウールちゃん、ナタリーさんがおいしい紅茶をくれたの。あ、今忙しいよね、ごめんね。ソファで待ってるね」

 

弥生賞はアーちゃんのチューリップ賞の次の日。アーちゃんもあたしも勝って、良い流れでクラシックを迎えたい。さっき言っていた紅茶の匂いがこっちまで流れてきて、ふわっと優しい匂いがした。見てみるとアーちゃんが優雅に紅茶を飲んでいる。なんだかメジロ家のお嬢様みたいだった。一応コートも高貴な身分だけど、色々と庶民的でとっつきやすい感じはする。ダメだダメだ、集中しないと。

 

「ちょっと話し過ぎちゃったかな。よし、大切なことは大方話したから今日は少し走って終わろう」

 

「ふう、どうですか、タイム」

「うん、良い感じだ。坂も問題ない。三人とも、今日はこれで終わりにしよう。アリアンスもウールも、本番は焦らないこと。これだけは覚えておいてほしい。二人は強い、誰よりも。負けるならお互いだけだよ」

「はい!」



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弥生賞

「あたし、行ってくるよ」

 

アーちゃんは強い。昨日の惜敗はこたえているはずなのに、辛い顔一つ見せない。だったらあたしも不安なんか見せてはいけない。満面の笑顔で、勝ってやるぜと、100点の答案を見せびらかすような気持ちで戦ってやればいい。大丈夫、あたしはあいつに勝てる。いつもは調子に乗った発言をしているけれど、今日は少し気障ったらしい雰囲気で、しかし真剣も混ざった表情で、ターフへ向かった。

 

「頑張って、ウールちゃん」

 

「ショートウールの圧勝ムードの中、電撃参戦を決めた有力株、サンドルーン。やはり二強の対決になるのか弥生賞。皐月を占う最有力のステップレース、上位三人には、皐月賞への優先出走権が与えられます。最初に姿を現したのはショートウールです。少々顔つきも大人びたでしょうか」

 

今日はあたしが一番乗り。ちょっと早過ぎたかも。もう少しアーちゃんと一緒にいられたかな。緊張をほぐすため、レースに関係ないことを考えていたら、後ろからツンと鼻にくる匂いがした。良い匂いだけれど、少し強めだった。あたしの頭から足まで、舐め回すように見ている。

 

「あなたがショートウール?あらあら、思ってたよりちょっとだけ小さいのね」

「あなたも、あたしが思っていたより大人びてました。今日はよろしくお願いします」

「あらあら、畏まっちゃって。同い年よ、これでも。確かに胸は大きいけれど、ふふふふ」

 

そんなこと言われても、あたしより五歳上でもおかしくないくらいのこの妖気。それに、小さいってもしかして胸の話?あたしの胸が小さいからって子ども扱いされているのでは。ちょっと大きいからって、あたしだってまだまだ発展途上だし。もう絶対に負けない、緊張が一気に解れて、ようやく熱が入ってきた。

 

「負けませんから」

「私もよ。そんな怖い顔しないでほしいわ」

 

「ゲート前で二人の睨み合いが続いています。共同通信杯で見せたあの脅威的な末脚は今日も炸裂するのでしょうか。夕陽が眩しい中山で、今年のクラシック戦線の有力ウマ娘たちが揃います」

 

あたしが一番初めにゲートに押し込まれた。あたしは四番、隣の五番にあいつはいる。絶対に出遅れてはいけない。その瞬間にあたしの敗北は決まってしまう。周囲の情報をシャットアウトして、ただ目の前のゲートが開くのをじっと待った。歓声も、実況の声も耳から離れた瞬間、ばっとゲートが開いた。ふっと力を入れて誰よりも早く完璧なスタートを切った。ここからさらに、全力で逃げる!

 

「なんとショートウール逃げる逃げる!良いスタートから大逃げを選択しました!最初の坂も軽快に、どんどん差を広げていきます。さあさあ今日もトリックが、マジックが炸裂するのでしょうか」

 

これがあたしとユウトレーナーの作戦。ただ逃げるだけ。サンドルーンの直線の伸びは凄まじい。だから同時に抜け出したところで絶対に勝てない。今のあたしは体力もついてきた、それならいっそ大逃げで、中山の短い直線にも合っているし、このハイペースに皆がついてくるなら、あいつはきっと体力が持たないはず。レース前も逃げを試すような素振りを見せなかったし、スタートも完璧。全ての歯車が噛み合っていた。

 

「向正面を過ぎて第三コーナー。依然ショートウールは逃げ続けています。なんという大逃げ、カメラも極限までに引かなければ収まりません。七バ身、八バ身、どこまで行くのかショートウール!」

 

ただ夕日に向かって走り続ける。完璧な展開といってもやっぱり多少の無理はある。まだ最後の直線まで入っていないのに、いつもの何倍も胸が苦しい。でも、その分解放感があたしの背中を押してくれるからまだ、まだいける。

 

「まさかスローで流れやすいこのレースで大逃げをしてみせるなんて。やっぱり何考えてるか分からないわ」

「ウールちゃん、頑張って!」

 

最後の直線は約300m。このまま、このまま逃げ切る。遥か後方の気配が少しずつ音を立てて近づいてくる。満身創痍のあたしに、少しずつ、でもはっきりと大きく膨れ上がって大量のプレッシャーが迫ってくる。歓声もはっきりと分かる。もちろんアーちゃんの声もコートの声もはっきりばっちり分かる。だからこそ、逃げ切るしかない。

 

「なんとなんと、ショートウールはさらに加速した!最後の直線、後続を突き放しにかかる!サンドルーンは伸びてくるのか、どうだ、どうだ。少しずつ少しずつ差を縮めに伸びてきた!」

「なかなかやるわね。あんなに脚を使ってまだ伸びるなんて。これじゃ、これじゃあ勝てないじゃない!」

「ショートウール苦しそうだ!しかしゴールはもう目の前!サンドルーンも伸びてきているが!三バ身の差をつけて、今日もマジックが炸裂!ショートウールです!皐月も取ってやると、堂々と前哨戦を制しました!」

 

やってやった。あいつの方が直線で伸びるし、単純にスピードも速い。もしかしたら根性も上かもしれない。でも、それでも勝ったのはあたし。強いのはあたしだ!レースは速いか遅いかだけじゃない。本番も絶対に負けてやるもんか。あたしは堂々と観客席に向けてピースしてやった。負けても堂々としているサンドルーンがこっちに向かってきた。

 

「胸は小さくても、夢はあたしの方が大きいですよ」

「あらあら、気にしてたの?冗談よ、私は小さい子の方が好みだわ」

「べ、別に聞いてないです」

 

あたしに負けたっていうのに平気そうな顔をしている。よく分からない冗談まで言っちゃって。なんだかスッキリしない気分だったけれど、彼女の指は少し震えていて、あたしに見えないところで唇を噛んでいたという話も後から聞いた。

 

「次は絶対負けない。調子乗ってるあの子に今回の勝利はまぐれだって教えてあげないとね。もうクラシックに出れないように、圧倒的大差で勝利して、ボロボロにしてあげる」

 

拳を強く握りしめるサンドルーンは、敗北のターフで静かに皐月の勝利を誓った。



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劣等感

「ただいま。どう、かっこよかったでしょ?」

 

走り切ったウールちゃんの髪は少し乱れていて、呼吸もまだしっかりとは整っていませんでした。そして溢れる勝利の喜びが隠し切れていないことは緩む口元からすぐに分かります。この大舞台でウールちゃんは自分の作戦を見事に成功させてみせました。重賞二勝目、もう遠いウマ娘のように感じてしまいます。風に揺れる髪を押さえるその仕草は夕日に重なって少し大人びて見えました。

 

「ウールちゃん、とってもかっこよかった!」

「私も唸ってしまうくらい完璧なレースだったわ。やっぱりあなたは強い」

「今日は素直に褒めてくれるんだね。これはあたしがあんたを倒す日も近いかも」

 

今回ばかりはコートちゃんも何も言いませんでした。レース中ウールちゃんから目を離すことがなかったので、きっと心から尊敬しているのだと思います。そんなことを言う私も、心臓が張り裂けそうになりながらひたすら逃げ続けるウールちゃんにすっかり心を打たれてしまいました。

 

「本当にお疲れ様。その顔を見ていると大丈夫だと思うけど、今回の勝利は紛れもなくウールの実力だ。誇っていい。そして、皐月賞はもう目の前にある。手の届くところではっきりと輝いている。僕が二人をG1制覇まで導いてみせる」

 

今日のウールちゃんの勝利はユウさんの闘志にも火をつけました。もちろん私の闘志にも。私がコートちゃんに勝つために必要なことは、さっきのウールちゃんが示してくれたような気がします。もちろん同じ逃げを試すわけではないですが、確かな手がかりがあるはずです。

 

「あ、アーちゃんまた難しい顔してる。せっかくあたし勝ったのに。ウールちゃんすねちゃうよ」

「ご、ごめんね。そうだよね、こんな顔されたら嫌な気分にもなるよね」

 

レース後のウールちゃんとの距離が気になってしまったのです。サウジアラビアロイヤルカップと弥生賞を勝ったウールちゃん。それに対して私はどんなレースも善戦止まり。そんな私なんかとトレーニングをしたところで、ウールちゃんのためにならないのではないかと思います。でも、私の練習相手はウールちゃんが適任なのです。けどウールちゃんの練習相手は私ではない方がいい。少しずつ差が開いていく今の状況が不安なのです。

 

「それは違うよ、アーちゃん」

 

ふわっと浮くような感覚の後、レースの後で二倍になったウールちゃんの温もりに包まれました。私は抱きしめられていました。いつもの甘い匂いが汗で強調されています。その甘さの中には、妖美な香りも漂っていました。

 

 

「戦績、気にしてるんでしょ。アーちゃんが考えてること全部間違ってる。あたしはアーちゃんがいい。アーちゃんだから強くなれた。皐月賞も、あなたの応援で、併走で、笑顔で、いくらだって強くなれる。今日だって、アーちゃんと水族館で撮った写真、お守りで持ってきたんだから」

 

私の落涙でウールちゃんの肩が濡れました。そんなことを言われてしまったら、自信を持つしかありません。ウールちゃんの勝利への祝辞を忘れてしまうくらい悩んでいたことが一瞬で霧となって散ってしまいました。私の笑顔を確認して、ウールちゃんは離れます。すると何かに気づいたのか、途端に顔を真っ赤にして言いました。

 

「待って、あたし臭くなかったかな!?つい勢いであたしはなんてことを……!」

「うふふっ、私は好きな匂いだったよ」

 

鳥のような声を出して頭を抱えていました。いったいどんな感情なのでしょうか。少し恥ずかしそうです。コートちゃんはいつも通りやれやれと呆れています。アーちゃんのおかげ、そうウールちゃんは言ってくれました。私も同じです。ウールちゃんのおかげで桜花賞に挑戦できるくらい強くなれました。あと一ヶ月、ウールちゃんと一緒に全力で頑張っていきたい、そう改めて思いました。



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狂犬とコート

「それでさ、聞いてよ!あいつあたしの胸が小さいって馬鹿にしてきたんだって!まだまだこれから大きくなるのに!」

「胸の大きさより器の大きさだと私は思うわ。いくら胸が大きくても、あんたみたいな性格じゃ耐えられないもの。あと多分大きくならない気がするわ」

「ごめん、よく聞こえなかった。まあいいや、大きい奴と話したって仕方ない。アーちゃんはあたしの胸これから大きくなると思うよね?」

「私はウールちゃんなら大きくても小さくても素敵だと思うな」

「うう」

「やっぱり敵わないわね。さっきまでの威勢はどこに行ったのかしら」

 

勝ち誇った顔でコートちゃんが見つめています。ウールちゃんは寒さに耐えるように縮こまって頰を紅潮させていました。やっぱりウールちゃんは大きい胸に憧れがあるのでしょうか。私は貧相なので分かりません。今からでももっともっと食事に気を使えば、私の小さな胸も大きくなるのでしょうか。

 

「まったく、食事中になんて会話をしているの。ほら、あんたのせいでアリアンスさんが気まずそうにしてるじゃない」

「わわわ、違うんだって!変な話してごめんね、ほら、アイス奢るから!」

 

意識してしまうと少し悲しくなってしまいます。コートちゃんはあんなに大きいのに。やっぱり皆胸が大きいウマ娘の方が良いのでしょうか。

 

「いってえな。周り見て歩けよ。そうだ、お前弥生賞勝ったんだって?その程度勝ったくらいでいきがってたら、そりゃ周り見る余裕なんてないか。走ることしか脳がないもんな」

 

どんっ、何かがぶつかる音がしました。アイスを買いにいこうと席を立ったウールちゃんがぶつかったのです。相手は、宿敵とも言っていいミールラプソディちゃん。ウールちゃんを目の敵にしているのか、こちらを睨みつけます。ウールちゃんが弥生賞を勝ったのが気に食わないようで、さらに冷たい悪口まで放ってきました。さすがのウールちゃんも黙っていません。眉間に皺を寄せて、負けじと睨みつけました。

 

「あたしに先着したことないくせによく言うよね。そっちこそ、もっとレースに脳みそ使わないと誰からも相手にされなくなっちゃうよ」

「お前、調子乗んなよ。まぐれで勝っただけのザコのくせに!」

 

ミールラプソディちゃんの怒りは最高潮に達して、ウールちゃんに殴りかかりました。突然の事態に私は全く動けません。あわあわと慌てるばかりで、やめて、そんな声すら恐怖で引っ込んでしまいました。けれど、隣のコートちゃんは違いました。颯爽と間に入って拳を軽々と受け止めたのです。その風圧で栗髪が舞いました。本気で殴りかかっているのに、腕を掴むコートちゃんはびくともしません。周囲のウマ娘たちも騒然としています。何が起きたの、どうしたの、私も聞きたいくらいでした。

 

「いい加減にして。皆が憩いの時間を過ごす場所で殴りかかるだなんて、本当にみっともないわ。あなたの強さ、少しは尊敬していたけれど、私の目が間違っていたみたい。これ以上私の友人を傷つけたいと言うのなら、私ももう遠慮しない」

 

コートちゃんの緋色の瞳に睨まれて、まるでメドゥーサに見つめられたかのように動くことができません。その静かな怒りがたぎる剣幕は、確かにミールラプソディちゃんを畏怖させたのです。ごめんなさい、それを言うことができないくらい、コートちゃんの周囲は凍っていました。

 

「お前、ちっ、コープコートかよ。ジュベナイルを勝ったくらいでイキリやがって。言っとくけど、こいつにクラシックを勝ち上がる強さはねえよ。運だけでここまで期待されて、本番が楽しみだ」

「失望した。その口、一回黙らせないといけないかしら」

 

赤眼がいっそう鋭く、鈍く光りました。これはもうコートちゃんの怒りの沸点を遥かに超えています。まるで犯罪者を蔑むような顔をしています。さすがにまずいと思ったのか、ミールラプソディちゃんが少し怯んで目を逸らしました。

 

「ちっ、ボンボンが。どいつもこいつも気に食わない」

 

舌打ちをして、ようやく去っていきました。猫背が強調されるその後ろ姿は、見ていて心地良いものではありません。けれど、彼女が去ったことで周りの空気がすっと軽くなりました。私は肩の力が抜けて、コートちゃんもいつもの調子で、やれやれと呆れていました。

 

「ほんと、助かった。コートがいなかったらどうなっていたことやら」

「あんな奴気にする必要はないわ。それに手を上げるなんて言語道断。断じて許されることではないもの」

「コートちゃん、とってもかっこよかった!」

「ほんとだよねー。私ももう遠慮しない、だってさ!きゃー!ちょっとときめいちゃったじゃん!」

「か、からかわないで。私も少し大人気無かったと反省してるんだから」

 

さっきのルビーのような瞳の赤が移ったように、コートちゃんの頬がほんのり桃色です。咄嗟の判断と勇気を見せた冷静でクールなコートちゃんがいたおかげで、今かわいらしく照れているコートちゃんがいっそう際立って見えました。

 

「でも、本当に気にしなくていいわ。あなたは強い。この私が認めているもの。全部聞き流してやればいいわ」

「もちろん分かってるって。大切な親友の言葉が一番だからね!」

 

ウールちゃんの満面の笑みに、さらに桃色を濃くしていました。コートちゃんがここまで表情を乱すのも珍しいです。やけに素直なウールちゃんにペースが乱されているみたいです。さっきまではウールちゃんがからかわれていたので、仕返しかもしれません。

 

「でも、ほんとにありがと!」

「まったく、いいって言ってるでしょ。お礼ならアイスで勘弁してあげるわ。もちろん、アリアンスさんにもね」

 

もちろんと元気に返事をして、ウールちゃんはスキップをしながら購買に向かっていきました。



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桜花賞の軋轢

放課後、トレーニングのメニューやこれからのことを相談するため、いつものようにトレーナー室に寄りました。ふかふかの黒ソファーとおいしいお菓子もいつものように用意されています。ユウさんはすっかり私の好みを把握しています。お菓子が目当てではないですよ、あくまでも練習の相談です。お菓子はついでです、本当についでです。

 

「授業お疲れ様。ごめん、もう少しだけ待っててほしい」

 

今日は少し忙しそうです。キーボード入力の音がカタカタとトレーナー室に響いていました。ウールちゃんもアイちゃんもまだ来ていないので、お茶を飲みながらゆったり過ごすことにします。それにしても、このソファは何者なのでしょうか。一瞬でも気を抜くと同化してしまいそうです。それくらい気持ち良く私を包んでくれるのです。意識が落ちかけていたところを、ウールちゃんが勢いよくドアを開ける音に救われました。

 

「お疲れ様です!あ、アーちゃんお菓子全部食べちゃったの!?そんなー」

「ご、ごめんね。つい」

「もー、アーちゃんはほんとに甘い物に目がないよねー。そんなところもかわいいけど!」

 

いつのまにか皿一杯のお菓子を全部食べてしまいました。ユウさんの方をチラリと見ると、熱心に作業をしています。あの量のお菓子を全部食べたことをユウさんが知ったらさすがの優しさでもきっと怒られてしまいます。

 

「ユウトレーナー、聞いてくださいよ!アーちゃん全部お菓子食べちゃったんですー」

 

ちょうど良いタイミングでユウさんの作業が終わってしまいました。背中に冷たい感覚がします。今から何を言われるのでしょうか。

 

「分かった、また補充しておくよ」

「ごめんなさい」

 

私が頭を下げると、全然大丈夫だよと笑顔で許してくれました。

 

「そんな、ごめんだなんて。ちょっと食べ過ぎたくらいなんてことないよ。それにアリアンスは僕がわざわざ何か言わなくても大丈夫だと思う。自分でなんとか出来るウマ娘だから。もちろん嫌ならお菓子も出さないから言ってほしい」

 

胸がきゅっと苦しくなって、そして少し温かくなりました。ユウさんの火が灯った眼差しが嬉しかったです。私への信頼が溢れるくらい伝わってきて、なんてことない一言が、すっと身体中へ染み渡っていきました。それと同時に身体が硬くなって、ユウさんの方を見ることができなくなりました。

 

「どうしたの?」

「な、なんでもないです」

 

私はすっかり黙ってしまってしまいました。急に私が黙ってしまったので、自分が何かしてしまったのかとユウさんが慌てています。バタバタと忙しないトレーナー室のドアがまたまた開かれました。

 

「トレーナー」

 

続いてやってきたのはアイちゃんです。いつも通りの無表情で、右手には炭酸水を持っていました。

 

「次走のことなんだけど」

 

アイちゃんの実力なら重賞制覇もすぐ目の前のはずです。ですが、この時期のダート重賞はシニア級のものばかりで、ユウさんも困っていました。地方で行われる交流重賞もしばらく開催がなく、相談が必要でした。ユウさんの言葉を待つことなく、凛然とした態度でアイちゃんは言いました。

 

「桜花賞、出走させてください。もちろん、G1の」

 

部屋中の全員が困惑しています。それもそのはずです。アイちゃんはずっとダートを走ってきたウマ娘です。実力を考えれば確かに出走することはできると思いますが、それでもいきなりだなんて、無茶な気がします。

 

「私はアンと走りたい。アンがずっと目指してきた舞台で一緒に走れば、もっとあなたのことを理解できる気がする」

 

本気の瞳でした。仕事に向かうお母さんが子どもに留守番を言い聞かせるように、いたって真剣に、目線を合わせて。その眼差しに私は応えることができなくて、目を逸らしてユウさんに助けを乞いました。高層ビルを初めて見たハトのように口が開きっぱなしのウールちゃんの隣で、ユウさんは顔をしかめています。僕は彼女の申し出を思い切り否定した方がいいのか、それとも喜んで挑戦しようと練習メニューを組んだ方がいいのか。きっとユウさんは両極端だと思います。中途半端な判断をしたくないから、何も言わず悩んでいるのです。けど動揺している様子ではありませんでした。まるでその発言を待っていたかのように落ち着いています。もちろんこんなに悩んでいるユウさんが予測していたはずもないのですが。私とは大違いです。

 

「分かった。出走登録をしておくよ。今後は桜花賞に向けてトレーニングしていこう」

 

答えを出すまでの時間のわりには、あっさりと言い放ちました。もちろん適当に考えていたわけではなくて、私にはその物言いが余裕にも聞こえました。アイちゃんならきっと良い勝負をするだろう、そう言っているように感じました。

 

「ちょっと待ってください。世代のトップが集まるレースなんですよ?なのにそんな簡単に決めて。確かにこの子は強いかもしれないですが、桜花賞なんて無茶です」

 

アイちゃんがウールちゃんの前に立ち塞がっていつものように冷たい語気で言いました。

 

「私はレースに勝ちたいわけじゃない。アンのことを知りたいだけ。彼女のことが理解できるなら、結果なんてどうでもいい」

 

トレーナー室にヒビが入ったような錯覚に陥りました。空気がピリピリと震えています。その中心には澄ました表情のアイちゃんがいました。

 

「ちょっと待って。レースに勝ちたいわけじゃない?結果なんてどうでもいい?冗談じゃない。さすがにあたしも我慢できない。あんたはレースを舐めてる。みんなの努力を、その思いをバカにするようなその言い方。気に入らない。一度レースから逃げようとしたあんたが、結果に執着できないあんたが、レースに本気で立ち向かうアーちゃんのことを理解できるわけがない。アーちゃんの強さを理解できるわけがない。ユウトレーナー、もうあたしはフルアダイヤーとは一緒のチームでいられないです。せっかく、せっかく仲間が増えたと思ったのに……」

 

最後の一言は掠れていました。ウールちゃんは目に大粒の涙を浮かべて部屋を出ていってしまったのです。鼓膜を破ってしまうくらいの大きな音でドアが閉まりました。



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レースの意味

「ウールちゃん……」

 

その小さな声を最後に沈黙が流れました。正直なところ、私も少しショックでした。仁川ステークスのあの日、直線で伸びてきたアイちゃんは間違いなくその場の誰よりも光輝いていたのです。一着の後、私に向けた笑顔は確かに勝利の喜びを噛み締めていました。レースが持つ美しさを理解することができたように感じました。それなのに、今のアイちゃんの発言はその美しさを否定しています。一位じゃなくても、本気じゃなくても、私が喜んでくれればいい、私のことを理解できるならそれでもいい、それは違うと思います。あの日見たアイちゃんの輝きは、レースの楽しさ、尊さを身体中で受け止めて、その価値を理解しているウマ娘そのものでした。それは間違いだったのでしょうか。頭が必死に否定しているのに、目の前のアイちゃんの涼しい態度が私の美化を拒んでいます。聞いてみるしかありませんでした。

 

「アイちゃん、今の言葉……」

「気にしないで。アンは強い。だからあなたに追いつこうとすればきっと上位争いになる。無様な姿は見せない」

「違う、違うの。アイちゃんは、レースで負けても悔しくないの?」

 

少しだけ考えて、平坦なトーンで答えました。

 

「アンの前で負けるのは悔しい。あなたの前で弱い私は見せたくない。私の走る意味はアンだけ。私を見捨てないでいてくれたあなただけのために私は走ってる」

 

私の期待した答えは返ってきませんでした。私の不安で溢れてしまいそうな情緒を治めてくれる一言はありませんでした。単純なレースの勝ち負けには、やっぱりアイちゃんは興味がないようです。

 

「あなたが見てくれないのなら、私は走りたくない」

 

冷静そうに見えたアイちゃんは、少し震えていました。まるで何かに怯えているように。このままではいけない、私はもっとアイちゃんのことを知らないといけない、そう思いました。彼女の瞳の冷たさには何か理由があるはずです。それを知らずに物を言うのはアイちゃんを傷つけるだけだと思いました。

 

「ユウさん、少しアイちゃんと二人でお話ししたいです」

 

分かった、ウールは任せて。小さいけれど、それでいてはっきりと聞こえる声でユウさんはそう呟き、出ていきました。少し開いた窓から流れる風で、デスクのコーヒーが揺らめいています。突風で机上のプリントがバタバタと音を立てて暴れています。私たちはしばらく黙ったままでした。私は言いたいことを頭の中で何度もまとめて、ようやく口を開きました。

 

「アイちゃんは、どうして私をそんなに好きでいてくれるの?」

 

また責められると思っていたのか、意外そうな顔をしていました。

 

「あなたは、私を信じてくれたから。どんなに堕落した私でも、見捨てないで最後までその温かい目を向けてくれた。だから……」

 

少しずつ、少しずつ瞳に涙を溜めるアイちゃんに私は抱きつきました。アイちゃんを見ないようにしながら震える身体を抱きしめて。

 

「ハンカチ、ありがと。アン、温かい」

 

アイちゃんの鼻の先が赤くなっていました。照れているのか、耳をピクピク動かしています。十分に涙を流し落ち着いて、コーヒーがすっかり冷え切ってしまう頃でした。

 

「期待に応えられないのが怖い。周りはたった一回きりのレースで私を評価して、心無い言葉を吐きつける。それ以外の部分なんて見られない。でもアンは違った。私の全てを見てくれた。私を救ってくれた。だからあなたのためだけに走る。外野なんかどうでもいい。気にするだけ無駄だから。その場限りのちっぽけな歓声なんていらない。私を見てくれるたった一人の綺麗な声がいい」

 

ようやく分かりました。アイちゃんだってレースがどうでもいいわけではないのです。ただ、その着順に至るまでの努力を一切排除して着順だけで罵倒されるのが怖いのです。顔に出なくても、声に出なくても、レースに対して複雑な感情を抱いているのです。やっぱり負けるのは辛くて、努力が報われないのは悔しいのです。そうでなければ、アイちゃんのハンカチがこんなに濡れるはずがありません。クールに見えるアイちゃんでも、耐えられない時があるのです。それなら少しでも苦渋が軽くなるように、私も一緒に背負いたい、そう思います。

 

「アイちゃんのことを好きなのは、私だけじゃないよ。ユウさんだってコートちゃんだって、トレセンのみんなが、努力するアイちゃんが大好き。もちろん、ウールちゃんだって」

 

退学してしまうくらい追い込まれてしまったアイちゃんは、今少しずつ立ちあがろうとしています。泥だらけになりながらトレセンのダートを駆け抜けて、CWを駆け抜けて、もう一度だけ頑張ってみよう、そんなひたむきな努力はここにいるみんなが見ています。評価しています。

 

「そんなこと言ったって観客は酷い。仁川ステークスで私が追い込んできた時、胸が裂けるような声が聞こえた。きっと私以外を応援してた人だと思う。一着を取った時でさえ素直に歓喜されることはないの」

「だから、だからアイちゃんはあんなに喜んでいた、私はそう思うな」

「どういうこと」

 

腫れ物を見るような顔で私を睨みます。それでも怯まず私は続けました。

 

「勝ったことが嬉しかっただけじゃなくて、アイちゃんを弱いと思っていた人たちを見返してやれたのが嬉しかったんだよね。私もそうだもん、やっぱりあんた強かったな、見直したよ、観客の人にそう言われた時、とっても嬉しかったの」

 

観客はレースでしか評価してくれないけれど、レースだけは平等に評価してくれると思います。負けてしまった時の言葉は辛いものかもしれないですが、その後見返してやればいいのです。お前の実力を疑った俺が悪かった、そう言わせてしまえばいいのです。そしてそれに至るまでの努力は、私たち仲間がずっとずっと見ています。

 

「レース一つでマイナスになってしまうけど、全部プラスに変えることだってできる、私はそう思うの。レースでしか見てくれないからこそ、一着を取った時の歓声は涙が出ちゃうくらい嬉しいな。ウールちゃんはそれを知ってるからこそ、ちょっと冷たくなっちゃっただけだと思うの」

 

唇は震えていました。アイちゃんも、もちろん私も。感極まって重ねてしまった手のひらも震えています。風はもう止んでしまったので、そのせいではありません。一粒の涙が落ちる音が聞こえました。

 

「仁川ステークスの時のアイちゃん、とってもかっこよかった。眩しかったの。ウールちゃんもきっと同じこと、思ってたと思うの。だからもう一度だけ、私たちに見せてほしいな……」

 

アイちゃんは後ろを向きました。見ないで、こんな顔、アンには見せられない。嗚咽の混じった声でそう言いました。今はハンカチも受け取ってくれませんでした。改めて私の方を向いたアイちゃんの制服の袖は濡れています。でも、違う点はそれだけではありません。彼女は笑っていました。

 

「アンの言葉一つ一つが私の全てを変えてしまった。あなたは私の思っていることを見透かしながら話しているの?そう疑ってしまうくらい。言おうとしたことが何もかもあなたに跳ね返されてしまった。きっと私が桜花賞に出走すれば、大半が笑い飛ばす。だからこそ、私は皆見返してみせる。克服してみせる。もうあんなことは言わない。レース自体の意味を、アンが全部教えてくれたから」

 

私は涙の粒を浮かべ、うんうんと大きく頷いていました。私の瞳もアイちゃんの瞳も輝いています。そして瞳に溜まった涙が夕陽を反射してさらに強く光っているのです。私の思い、伝わりました。アイちゃんの思い、伝わりました。

 

「もちろん、一番見ていてほしい人があなたなのは変わらない。何を言われても、私が大好きなのはアンだけだから」

「うふふっ、嬉しい。私もアイちゃんが大好き」

 

二人とも鼻が真っ赤です。えへへと笑ってごまかして紅茶を淹れるのでした。




先日のリバティアイランドの走り、まさに二歳女王でしたね。大外一気は見ていて気持ちがいいです。こちらでももうすぐクラシック第一戦が始まります。


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三人の構図

「なんだよあいつ、ムカつく。ちょっとでもすごいと思った私が変だった」

 

正直、フルアダイヤーは強かった。今の血のにじむような努力を続ければ、もしかしたら桜花賞を勝ってしまうかもしれない。でも、そんなのあたしが許さない。確かに努力は認めるけれど、勝ち負けなんてどうでもいいだとか、結果は気にしないとか、そんなことを言うやつが桜花賞を勝っていいわけがない。そんな奴にアーちゃんの凄さが分かってたまるか。

 

「はい、お茶。ウールはアイちゃんのこと、なんだかんだ尊敬していたよね」

「はい、でももういいです。あたしはやっぱアーちゃんと二人がいい」

 

恥ずかしいし本人の前ではとても言えないけれど、少し憧れていた。アーちゃんに強い自分を見てもらうために、誰かのためにあんなに努力できる彼女を。でもあいつはそれだけだった。アーちゃんに見てもらえるならなんでもいいんだ。それ以外はどうでもいい。まさか、それでいいわけがない。ウマ娘は勝つために努力できるからかっこいいのに。結果に一喜一憂できるから楽しいのに。

 

「二人はいないんですね」

「アリアンスがアイちゃんと二人にしてほしいって。あの子なら大丈夫。アリアンスの強さはレースだけじゃないから。ウールが彼女のことを大好きなように、彼女はきっとアイちゃんも巻き込んで、三人を強いチームにしてくれる。アリアンスの周りには否応なく人が集まってくるんだ。そんな彼女を僕は誇りに思っているし、尊敬している」

「待ってください。あたしはもうあいつとは走りません」

「本当にレースの結果に興味のないウマ娘なんていない。アイちゃんは少し不器用なだけ。それをアリアンスは変えてくれるはずだよ」

 

何を言っているのか分からなかった。あんなに冷たい顔をしていたフルアダイヤーの心中にレースへの熱く強い気持ちがあるとは思えない。

 

「レースという巨大な舞台にアイちゃんが本当の意味で正面から向かうことができたら、きっとアイちゃんとウールは素敵な仲間になる。その仲介にアリアンスがいる。アイちゃんがここにやってきて、三人で練習している姿を見ていたら、そんな構図を思い浮かべてしまった。僕がずっと思い描いていたウマ娘の青春の光が、そこにはあったんだ。だからもしアイちゃんが前に進もうとしていたら、一言だけでいい、ウールも手伝ってあげてほしい」

 

窓から夕陽を見つめるユウトレーナーは遠い未来を達観していた。ショーウィンドウの向こうの高級な人形に憧れる子どものような眩い輝きの瞳で。そんなに熱く語られてしまったら、何もしないわけにもいかない。

 

「分かりました、けどあいつ次第ですから。次変なこと言ったらもう本当にあいつとは走りませんから!」

「よかった。ウールならなんだかんだ戻ってきてくれると思ってたよ。信じてくれてありがとう、アイちゃんのこと」

「別に信じたわけじゃないです!アーちゃんのためだから!」

「もちろん分かってるよ」

「な、なんですかその顔ー、絶対分かってない!」

 

あいつに戻ってきてほしいだなんてほんのちょっとしか思っていないのにユウトレーナーはちっとも分かっていない。ニヤニヤしている。あたしが顔を膨らませているともっと笑顔になった。

 

「やっぱり僕たちにはウールが必要だ。アリアンスが強くなるにも、アイちゃんが強くなるにも、僕が三人のトレーナーであるにも、ウールが必要だって改めて思った」

「そ、それはそうかもしれないですけど、いや、絶対そうです!アーちゃんにはあたしが必要ですから!」

「もちろん。さあ、二人が待ってる、行こうか」

 

甘い言葉に乗せられて、あたしたちはトレーナー室に向かった。

 

 

「ウールちゃんはきっと許してくれるよ。アイちゃんのこと、たくさんお話ししてたもん」

「でも、呆れられてしまった」

「大丈夫、今のアイちゃんなら、ウールちゃんも受け入れてくれると思うな」

 

アイちゃんは落ち着きがなさそうでした。どのようにウールちゃんに話を切り出せばいいのか分からないようです。うつむきながら悩んでいました。

 

「アイちゃんの今の素直な気持ちを伝えればいいと思うの」

 

そうこうしている間に、ドアノブがガチャリと音を立てました。ユウさんと、わざとらしく不機嫌そうに見せているウールちゃんです。後ずさるアイちゃんの背中に回って、とんと両手で後押しました。

 

「その、さっきはごめん。アンに言われてようやく気づいた。私はまたレースの恐怖から逃げようとした。今は支えてくれる皆がいるのに。私を認めてくれる人たちがいることを知って、あがいてあがいて勝利を掴み取るレースの尊さを知った。もうあんなことは言わない、思わない。だから、その、ごめんなさい」

 

つんとそっぽを向きながら話を聞いていたウールちゃんでしたが、深々と頭を下げたアイちゃんを見て少し笑顔になりました。アイちゃんの気持ちがウールちゃんに伝わりました。けれどそれをアイちゃんに悟られないように演技ぶった表情で言います。

 

「まああたしだって鬼じゃないから、許してあげる。あんたの実力は認めてたし、ちゃんと反省してくれたなら文句言ったってしょうがないから。今回だけだから!次はもうないからね!あとアイス奢って!」

 

しょうがないからと言うわりには笑みが溢れているのです。やっぱりアイちゃんもウールちゃんも、大切な仲間です。微笑ましいやりとりに胸をほっこりさせていると、ユウさんが隣にやってきてささやきました。

 

「素直じゃないね、ウールも」

「うふふっ、本当ですね」

「ちがっ、そんなんじゃ!」

 

りんごのような朱色の頬にはもう怒りは見えません。いつものかわいいウールちゃんでした。そしてそんなウールちゃんを、はてなを浮かべながらアイちゃんは眺めるのでした。



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三人の仲間として

「よし、改めて桜花賞までの計画を立てよう」

 

その一言で空気が一変しました。きっと今日、クラシックへの最終的な練習プランが決まります。私とアイちゃんは桜花賞、ウールちゃんは皐月賞、夢への大きな扉は、少しずつ近づいているのです。

 

「アイちゃんはまずは芝の感触に慣れなきゃいけない。そしてそこからG1で戦うレベルになるには、かなり苦しいメニューを強いることになってしまう。どうか許してほしい。けど、常識は崩そうと思った瞬間、あっけなく崩れ落ちる。芝とダートの境界を破壊してきたウマ娘を、三人は僕以上によく知ってると思う」

 

三人の表情は授業中のように真剣です。前置きが長くなってしまった、そう言っていつものようにホワイトボードに書き込み始めました。三月も中旬、高松宮記念を始めとした春のG1シーズンがやってきます。桜花賞までに私ができることを一つ一つ着実に積み重ねていきたい、そう思います。

 

「硬い芝でいきなり全力は危ない、だからアイちゃんはしばらくはポリトラックを使ってトレーニングしていこう。そしてウールは持久力の向上のためにさらに負荷をかけよう。これからのメニューはノートに残しておくから、この後練習に向かう時に見ていってほしい」

 

私はどうすれば良いのでしょうか、そう尋ねる前にユウさんはこの前のチューリップ賞の映像を用意して、私に見せました。

 

「そして、アリアンス。この前のチューリップ賞でアリアンスは大きく成長した。元々そのセンスはトップレベルだったけど、今回で無駄な力の消費が一切無くなって、フォームが全く変わった。まるで先日並走したトウカイテイオーのように、足の柔軟さの有利を百パーセント出し切ることができるようになったと思う。踏み込みを最小限にして、それでいて最大限に遠くまで」

 

最後の直線で私は、また一つレースというものを理解したと思います。ふっと風を切って、戯れるようにコートちゃんとぶつかり合いました。そのおかげか、光に導かれるように良いレースができたのです。ユウさんが指摘したように、緊張や責任感から来る余計な力みが消えたのかもしれません。ユウさんは言っていました。チューリップ賞を使って本当によかったと。何度もレース映像を見返していた理由がわかりました。

 

「だからこそ、最後の仕上げで磨いてほしいものは最高速度。単純なスピード。そんな当たり前のことを言われても困る、そう思うかもしれないけど、逆を言えば桜花賞において一番必要なスピードにまだ伸びしろがある状態で世代最強の鬼才、コープコートをあそこまで追いつめた。勝利まではあとほんの一歩だよ。そしてその一歩はあまりにも小さい」

 

ユウさんの分析に圧倒されてしばらく何も言えませんでした。コホン、饒舌を恥じるように咳払いをして、ユウさんが続けます。

 

「スピードに関する技術はたくさんあるけど、とりあえず短めの距離を何回も走ってみよう。もちろんタイムを意識しながら。あとはもう一つ、考えていることがあるんだけど、これはまた追って連絡する。三人とも、本番までもう一踏ん張り、頑張っていこう」

 

一通り話し終えたあと、ユウさんが黒い鞄から三つ、何かを取り出しました。目を泳がせて辿々しくそれを差し出します。

 

「僕はこういうの慣れてなくて、三人の技術には到底及ばないけど、バレンタインデーのお返し、受け取ってほしい」

「え、なになに〜?これ、ユウトレーナーが?へぇ〜、ふ〜ん。かわいいところ、ありますね!」

 

ウールちゃんが一瞬の間に飛びついてきました。美術品を観察するようにじっくりと、そして茶化すような表情で見つめています。ユウさんからのお返しはクッキーでした。美しい均一な茶ではなくところどころ黒い焦げが顔を見せているのが、私たちのために何回も作り直してくれたことを示しています。業務で忙しいはずなのに私たちのために。その思いがラッピング越しでも確かに伝わってきました。

 

「味も多分市販の物の方がおいしいし、見た目も焦げてて美しくない。無理して食べなくたって全然構わない」

「まさか、もちろんおいしく食べちゃいますよ。それに、こういうのは味じゃないんです。ね、アーちゃん?」

「うん!お返し、とっても嬉しいです。ユウさんの気持ち、ちゃんと伝わりました」

「私は、受け取れません。そもそも私はまだこのチームにいなかった。バレンタインとかホワイトデーとか、興味ないです」

「そういうこと言わないの、もうあんただって仲間なんだから、もらっちゃうべきです!」

 

いいってば、そうあしらうアイちゃんにウールちゃんが無理やり押しつけました。ユウさんは苦笑いしていましたが、受け取った本人は言葉ほど嫌そうな表情は見せていません。むしろ少し頬を赤らめていました。

 

「あれあれー、なんか嬉しそうじゃない?やっぱり欲しかったんじゃん!」

「違う、チームに認められて嬉しいとか、そんなこと思ってない」

「心の声漏れてるし」

 

さっきまでのシリアスなムードとは一転。いつも通りの和やかなトレーナー室になりました。アイちゃんはもう本当に私たちの仲間として、三人で一歩ずつ踏み出していくのです。



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バレンタインのチョコ作り

少しだけ時が遡ってバレンタインの一幕です。


2月14日。そう、バレンタインデーです。誰がなんと言おうと、バレンタインデーその日なのです。大好きなみんなにチョコを渡したくて、こっそり準備していました。王道のハート型のチョコや、イチゴの乗ったタルトなんかを、少しお高め、色とりどりの包装袋でラッピングして、一緒に撮ったプリクラも貼っちゃったりして。浮かれすぎじゃないでしょうか。一人一人の好みに合わせたお菓子を作ったつもりです。ウールちゃんにはいっぱいのハートを散りばめて、アーモンドも混ぜ込んで。コートちゃんは甘さ控えめです、ダークミルクチョコにして、少しビターで大人な味わいに仕上げてみました。もちろんアイちゃんの分もあります、まだ両思いのお友達とは言えないかもしれないですが、私の気持ちは伝わるはずです。ハズレがないようにくどくない甘さのブラウニーにしました。けど実はこのお菓子を作っている時、ナタリーさんとちょうど鉢合わせしてしまったのです。

 

「アーちゃん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、これ、何してるの?」

「あの、その、これは」

 

料理中だったので隠すこともできなくて、でも隠したい思いが暴れていたので、言葉が出てきませんでした。ナタリーさんはそういうことかとニヤリとほほえみます。

 

「なるほどね、これは良くないタイミングだったかも。どれどれ、このチョコ、アーちゃんが作ったの?」

 

ウールちゃんにプレゼントする予定だったチョコを見ていました。じっくりと眺めて、感心したように唸っています。私は火を止めて、色々と説明しました。

 

「めちゃくちゃオシャレじゃん!アーちゃんお菓子作り得意なんだ、さすが。あたい本気で感心しちゃった。そんなアーちゃんに折り入って相談があるんだけど……」

 

申し訳ないという気持ち全開で手を揃えて、頭を下げました。

 

「おねがい!あたいの先生になって!お菓子作りとか料理とか、ほとんどやったことがなくて、けど他の子にも頼みづらくてさ、どうかこの通り」

「そんな、ナタリーさんのお手伝いならいつでも大歓迎です。一緒においしいお菓子、作りたいです」

 

ほんと、ほんと助かる!そう言って部屋までエプロンを取りに行ってしまいました。ナタリーさんはどんなお菓子が納得がいくでしょうか。レシピ本を見ながら様々な思考を巡らせます。材料の残りを確認していると、髪を結んでやる気満々のナタリーさんが戻ってきました。

 

「あたい、アーちゃんが想像してる何倍も初心者だから、なるべく優しく教えてほしいな、ね?」

「もちろんです。ナタリーさんが納得できるまで、何回でもお付き合いします」

「ほんとアーちゃんは優しいね。あたいもほんとはその本に載ってるようなやつを作れたらいいんだけど」

「渡したい方はいますか?」

「お世話になってるトレーナーとか、あとはルドルフにも渡したいなー。あの子は他からもたくさんもらうだろうけど、全部食べてその分運動だから大変だよね」

 

分かりました!まるで先生になった気分で、初心者用のレシピ本を取り出してパラパラとめくります。まずはシンボリルドルフ会長です。他の人からももらうかもしれないなら、きっとオーソドックスな味は飽きてしまうかもしれません。そして、目を惹くような味わいと見た目を生み出す必要があります。付箋を頼りに頭でイメージした条件に合致したページを探していると、とある一ページ、ナタリーさんが身を光らせました。

 

「これいいね。これにしよう!でも、あたいでも作れるかな」

 

指差したのは、コーンフレークを使ったクランチでした。

 

「絶対大丈夫です、ナタリーさんのおいしいプレゼント、私が失敗させません!」

「くくっ、今日のアーちゃんはいつにも増して心強いね。あたいもやる気出てきちゃった。さ、やるぞー」

「まずは、コーンフレークとくるみとバナナチップスを砕いて……」

 

雄弁に饒舌に、探偵のように指を立てたりしてポイントを説明しました。お菓子作りはまるで料理教室のように進んでいきました。

 

「ふう、何とかできたー。やってみると意外とできるもんだね。アーちゃんのおかげで良い感じのプレゼントが渡せそう」

 

私の分と合わせて、千差万別のお菓子ができました。ナタリーさんも最初は緊張していましたが、途中からはレシピを見ながら楽しそうに勤しんでいました。

 

「今日は本当にありがと!お礼と言ったらなんだけど、はい」

 

ナタリーさんはクランチを一粒摘んで差し出しました。ぱくっ、まるでポテトを食べさせ合うカップルみたいに、一口いただきました。クランチ特有のザクザクとした食感と、確かなミルクチョコの甘みがほのかに、それでいてダイレクトに伝わってきます。ナタリーさんの猪突猛進さが表現された完璧なお菓子だと思いました。これは誰が食べても百点満点を叩き出すに決まっています。

 

「どうどう?おいしい?良かったー。実はちょっと不安だったから。あのパティシエのアーちゃんが言うなら間違いない、自信持ってみんなに渡せる」

「もう、パティシエだなんて、言い過ぎですよ。でも嬉しいです……」

 

ナタリーさんの笑顔が眩しくて、なんだか少し照れくさかったです。私のお菓子を何回も褒めてくれて、私の技術を何回も羨ましく思ってくれて、いつもは私が憧れる側だったので、ナタリーさんからこんなに言ってもらえるのは新鮮でした。

 

「じゃあじゃあ、色々道具片付けちゃおっか」

「一枚だけ、ナタリーさんと思い出つくりたいです」

 

スマホのカメラを向けて、パシャパシャと自撮りしました。写真には髪を結んでエプロンを付けた二人のウマ娘がいます。一人はホイッパーを片手に、口元にクリームを付けて、もう一人はスマホを持っていない左手がチョコで濡れていました。ナタリーさんの努力が見られる調理台を背景に、満面の笑みが二つ。この写真は、私の部屋の机に新しく立てられた写真立ての中身となるのでした。




先日、UA?が一万を超えていました。わざわざ足を運んで文章を読んでくださった方々、お気に入りを入れてくださった方々、本当にありがとうございます。励みになります。もしよろしければこういうことを書いてほしいというのがあれば教えていただけると幸いです。もちろん感想や評価も受け付けております。長い後書きになってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。


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レゾルーラとサプライズ

みんなへのバレンタインプレゼントを持って教室へ向かう途中、私は早足になっていました。その勢いで曲がり角でぶつかってしまったのです。

 

「いたたた。やっぱ廊下でスピード出すもんじゃないね。君、大丈夫?」

 

手を借りて起き上がると、私がぶつかったウマ娘とその隣にはもう一人、見覚えのあるウマ娘がいました。エリザベス女王杯でナタリーさんと死闘を繰り広げたウマ娘、ローズピーチ先輩でした。

 

「怪我はない?こいつのことはまた叱っておくから、許してあげて。あれ、あなた、どこかで会ったことある?」

「え、なになに、どうしたの?知り合い?まっさかモモちゃんに知り合いがいたなんて、ウチ驚きだわー」

「思い出した。あなたはナタリーの同室の子だ。名前は、アリアンス」

「ああ、君がアリアンスちゃん?ナタリーがさ、一番強くてかわいいのはアーちゃんだってよく言ってるよん。うーん、確かに美形だ、アイドルみたい」

「あんまりジロジロ見ない。ほら、自己紹介」

「レゾルーラ先輩ですよね。この前のスプリンターズステークス、とってもかっこよかったです」

 

私をジロジロ見つめるこの二つの眼の持ち主は、レゾルーラ先輩。昨年のスプリンターズステークスを圧倒的一番人気で勝利した最強のスプリンターです。特徴はなんと言ってもその暴力的なまでの豪脚。差しや追い込みが厳しいとされるスプリント路線で、他のウマ娘を一気に撫で切るその美しさは何度もレースを見直しました。そして、なんとオッドアイなのです。右目は黒く、左目は天使様からの贈り物のように美しい金色。黄色に近いでしょうか。

 

「お、ウチのこと知ってんだ。勉強熱心で感心感心。いや、ウチの知名度が上がったから意外と知られてるのかな?まあどっちでもいいや。じゃあさじゃあさ、ウチのレースっぷり、どうだった?先輩だからって容赦なく言っちゃっていいよ!それはもうキッパリと、バッチリと!」

「うるさい。はあ、こうなったらこいつもう止まらなくて。アリアンスちゃん、適当に一言言ってあげて」

 

私には適性のない短距離の世界。電撃とも形容されるその一瞬の戦いに身を投じているだけでもすごいと思います。ましてG1だなんて、私には想像もつきません。どんな作戦があって、どんな競り合いがあるのか。まるで別競技にすら見えてしまうのです。

 

「とにかく速かったです。ウマ娘のスピードの限界に挑んでいる皆さんは、本当にすごいと思います」

 

まるで狩りやすい獲物を見つけた時のように、不気味に、二本の八重歯を剥き出しにしてレゾルーラ先輩は笑いました。

 

「いいねいいね、そのカオ。へへ、へへへへへ。決めた、決めた決めた。今日からアリアンスちゃんとウチは友達!今度の高松宮来なよ!君の知らない短距離の世界、教えてあげるから」

 

ぐっと瞳孔を開かせています。一オクターブ低くなって唸るようなささやきに、私の背筋が凍るのを感じました。その辺にしときなよ、ローズピーチ先輩の呆れた一言で我に返ったのか、つまらなさそうにしていました。

 

「ビビってるからやめな。その顔やめろっていつも言ってるのに。そうだ、私からも一つ、いいかな」

「は、はい」

「勝ち逃げは許さない。大阪杯は絶対に出走しろ、そうナタリーに言っておいて。じゃあまたどこかで。あとそのお菓子、かわいいね」

「あ、ありがとうございます」

 

次から次へと情報が流れてきて何が何だか分かりませんでした。G1ウマ娘で現役トップの実力を持つお二人と初めてお話しして、レゾルーラ先輩の狂気に圧倒されて、ローズピーチ先輩に伝言を頼まれました。正直、ちょっぴり怖かったです。これはお二人が先輩だからなのでしょうか。色々思うところはありましたが、お菓子は両手で大事に抱えて教室まで向かいました。

 

 

「まあ、これ、アリアンスさんが?なんてかわいいの」

「サプライズだなんて、あたしとアーちゃんの仲なのに水くさいなぁもう!言ってくれればよかったのに!」

「それじゃサプライズにならないじゃない。こんなに綺麗なお菓子、本当にいただいていいのかしら」

「二人のために腕によりをかけて作ったの。喜んでくれたら嬉しいな」

 

コートちゃんは食べるのを戸惑っているのか、じっとじっとチョコを睨んでいます。ウールちゃんはというと、何やら嘆いていました。

 

「チョコでさえなければ部屋に飾れるのに。でもチョコだからこそアーちゃんのセンスが光ってこんなかわいい物を作ることができた。なんて残酷なんだ!」

「何言ってるの、早く食べないと、せっかく作ってくれたのに溶けちゃうわ」

 

そう咎めるコートちゃんのチョコも綺麗な三角柱を保っていました。そしてもう一人、プレゼントを渡したいウマ娘がいます。窓際の席まで私は歩いていって、本を読んでいるアイちゃんに声をかけました。静かに本を畳んで机に置きます。アイちゃんからしたら私のプレゼントなんて鬱陶しいだけかもしれません。受け取ってもらえなかったらどうしよう、そんなことばかり考えていました。

 

「アイちゃんのために作ったの、もしよかったら受け取ってほしいな」

「え、これあなたが作ったの」

 

何を言われるのでしょうか、いらない、まずい、見た目がつまらない。私の心は窮屈でした。その懊悩を吹き飛ばすように、小さく笑顔を見せました。

 

「ありがと、後で食べる。お菓子作り、得意なんだ」

「う、うん!アイちゃんにおいしいお菓子食べてほしくて……」

「そんな必死にならなくても、私のために時間をかけてくれたことくらい伝わる。時間のある時にゆっくりいただくから。それじゃ」

 

ぶっきらぼうでしたが、私の中では成功でした。少しだけかもしれませんが、距離が縮まった気がします。喜びに震えているのが伝わったのでしょうか、コートちゃんも嬉しそうでした。

 

「やっぱり根は悪い子じゃないみたいね。あんな態度でも、アリアンスさんの気持ちはしっかり伝わってると思うわ。あとはトレーナーにも渡さないとね」

「うん!」

 

この後、ユウさんの部屋に向かって、チョコを渡しました。作業を止めて、紅茶を入れて、一口一口大事そうに噛みしめて食べてくれました。高級ブランドにも劣らないとか、店を出せば絶対に成功するとか、何度も賞賛していました。ユウさんの子どもっぽさが垣間見れた気がして、ほほえましかったです。こうして、私のバレンタインサプライズは大成功に終わりました。



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青春の旅行

今日の教室はいつもと少し違います。まずはウールちゃんが用事でいません。そして、アイちゃんがコートちゃんとお話ししているのです。これは由々しき事態です。コートちゃんの前の席にアイちゃんが座って、身体をくるりと反転させ、一冊のノートを二人で見つめています。二人が馴染めてよかったとは思うのですが、いったいどんな話をしているのでしょうか。今の私は探偵です、二人にバレないように教科書を盾にしながら覗いていました。

 

「ただいま、先生話長くてたまんないよー。ねえねえアーちゃん、今度の週末なんだけど、あれ、どうしたの?コートの方じっと見たりして」

 

あがっ、情けない声を出したウールちゃんも気づいたようです。

 

「まあまあいいんじゃないの。成績優秀同士色々語り合いたいことがあるのかも。花粉症はどうやったら無くなるのか、とかね」

「そうだよね。喧嘩してるのかなって不安になっちゃったの」

「まさかー。あいつはともかく、コートは冷静だから感情的になんかならないよ。あ、そうだ、せっかくだから二人も呼んでみよっか」

 

何の躊躇もなく二人の元へ歩いていって、何やら相談を始めました。

 

「あたしめっちゃ桜の綺麗なスポットを見つけたんだって!今度の週末、一緒に行かない?もちろん一泊二日で!」

「ちょっと待って、桜花賞までもう一ヶ月も無いのよ。貴重な週末を旅行で潰すだなんて。確かに魅力的だけど……」

「私もやめとく。興味ないし」

 

さすがのウールちゃんも響いてしまったようです。時が止まったように静止して、思わず流れた涙を拭いました。二人に自分の顔を見られないように、手で覆っています。私はすぐさま駆け寄りました。

 

「ウールちゃん、大丈夫?」

「いいんだアーちゃん。コートの言うことはもっともだし、興味がないなら仕方ないよ。せっかくこの子も馴染めてきて、みんなが大好きだから、思い出つくりたいなって考えてたんだけど……。そうだよね、嫌なものは嫌だよね……」

「ま、待って、分かった、分かったわ。私だって大切に思ってるわよ。行くから、ちゃんと行くからそんな顔しないでほしいわ」

 

ポロポロと溢れる涙はウールちゃん一人の力では拭いきれなくなっていました。私はポケットのハンカチで溢れる涙をそっとさらいます。

 

「アーちゃんは来てくれるよね……?」

「もちろんだよ。みんなとお出かけ、楽しみ」

「待って、アンが行くなら私も参加する。それに、あんたにそんな顔されたくないし」

 

ウールちゃんの涙の前ではさすがの二人もきっぱりと断ることはできなかったみたいです。二人の同意を得た瞬間、ウールちゃんの涙は引っ込んで、笑顔が戻りました。

 

「えへへ、やったやった。じゃあ今週末ね!場所はここなんだけど」

「まったく、トレーナーになんて説明すればいいのよ」

 

机からパンフレットを取り出してきて、四人で見えるように開きました。さっきの涙が嘘のようなはつらつさでプランを語っています。元気になってよかったとは思いますが、もしかして大袈裟な部分もあったのでしょうか。コートちゃんまで言いくるめてしまうその演技力、さすがウールちゃんです。私たちもユウさんに連絡しないといけません。それにどれだけ私たちで予定を立てたとしても、コートちゃんのトレーナーやユウさんがダメだと言えば計画は遠い海の向こうに消えてしまうのです。ウールちゃんが計画について蝶々しく語った後、私たちは三人でトレーナー室へ相談に向かいました。

 

「それで、旅行に行きたいんです!今週末!」

 

トレーナー室に入るや否やデスクワークに勤しむユウさんに飛びついていきます。どんっ、デスクにパンフレットを叩きつけました。ユウさんは驚きながらも何ページかめくって、ゆっくりと閉じました。

 

「写真の景色はめっちゃ綺麗で楽しそうだ。よくこんな素敵な場所見つけたね。楽しんで行っておいで。でもくれぐれも怪我には気をつけて」

「さすがユウトレーナー!オッケーしてくれると思いました!あたし結構調べたんですよ!」

 

少し冷たい眼差しでパンフレットを見つめていたので内心は少し苦しかったのですが、まるで自分が行くかのように心を躍らせています。必要なら呼んでくれれば車ですぐにでも駆けつける、そんな優しさまで見せてくれました。ユウさんが許可してくれたことを伝えにウールちゃんは足音を立てて飛んでいってしまいました。

 

「反対すると思った」

 

一部始終を寡黙に聞いていたアイちゃんがふと漏らしました。私も全く同じことを思ったのです。自分で言うのも良くないですが、これ以上に無茶なお願いもないと思います。クラシックを一番の目標にしてきた私たちが、第一戦前の大事な休日を旅行に費やすなんて、到底許可されるべきことではありません。

 

「今の時期じゃなくてもつくれる思い出なら何回だって反対する。今週、さらに来週はウマ娘にとっては調整という最も大事な期間だからね。けど、それに負けないくらい、大好きな親友との時間も大事だ。きっとウールは全部理解して、今週のプランを立てた。多分たくさんパンフレットを読み漁って、ネットサイトを何個も巡ったと思う。四人を結ぶ、幸せで大切な時間を忘れないように記憶に残したい、そんな思いを胸に秘めながらプランを語るウールの笑顔が眩しくて、どうしようもなく心を打たれてしまった」

 

私たちの予定で埋め尽くされているカレンダーは、もちろんユウさんがいつも記入してくれています。G1の開催日や重賞の中でも特に大事なレースの日などにしか赤ペンを使うことはないのですが、今週の週末はまだ空欄です。先日、今週末は特に大切だからその日のコンディションを見て丁寧に予定を立てたいと言っていました。そんな二日間の欄二マスにまたがるように、大きく「旅行」と書き記しました。大切な人への手紙の最後の宛名を書くように、ゆっくりと。

 

「親友との時間は、G1にも代えがたい貴重なひとときだ。それに、旅行はストレス発散の最高効率の調整方法だしね。お金はいくらでも出すから遠慮なく楽しんできてほしい」

「トレーナーのこと、ちょっと見直した」

 

最後に「旅行」の隣に星のマークを残しました。アイちゃんも申し訳なさそうな顔をしていたので、納得したのだと思います。私たちのトレーナー、どう?素敵でしょ?アイちゃんにそう言いたくなります。

 

「せっかく桜の綺麗な場所に行くなら、何枚か写真をお願いしたい。もちろん、四人全員が写っていて桜が綺麗な二重の絶景の写真。みんなが帰ってから最高のパフォーマンスを発揮できるように僕も色々準備しないと。よし、頑張るぞ」

 

椅子が鳴き声のような音を出しながら回転して、ユウさんはまたパソコンとにらめっこを始めました。私たちも旅行があるからといって怠けていてはいけません。私はアイちゃんの手を引いてターフへ駆け出しました。



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(番外編)十話 コープコートとトレーナー

トレーナー室の雰囲気が相手によってこんなに変わることを、アリアンスさんのトレーナーの部屋に訪れた時に知った。空気は澄んでいて日当たりも良く、清潔感がある。私のトレーナーの部屋も、教育本や雑誌で溢れてはいるけれど、清潔感はあった。でも、ユウトレーナーのようにはいかない。張り詰めた空気が少し苦しくて、落ち着けない。ノックだってなぜか四回。部屋の中から声があって初めて入室を許可される。こんなこと絶対に思ってはいけないのに、ユウトレーナーの元で指導を受けるアリアンスさんたちが、部屋を訪ねれば訪ねるほど羨ましくなっていった。互いを信頼し、ソファで一息安堵できるその空間が羨ましかった。まるで家族といるような心持ちでいられるのに対して、私とあのトレーナーとの壁の厚さといったらどうだろう。どこまでいってもスパルタな教育者とそれに従う私、ただそれだけだった。

 

「失礼します」

「五分二十三秒。これが何を表すか分かるか?」

 

ワックスで鈍く光るオールバックとサングラス。私にはとても似合っているようには思えない。その頬杖も、このトレーナーが行うと見下されているような気分になった。

 

「私が遅刻した時間です」

「そうだ。お前は五分二十三秒も時間を無駄にした。何をやっていた」

「大事な相談を、していたわ」

 

カチ、カチ、カチ。漆黒の壁掛け時計が無機質な音を奏でる。規則的に動き続けるその態度は、まるで目の前のトレーナーのようだった。

 

「この俺との相談よりも大事なことがあるのか」

「アリアンスさんたちとの時間は大切。それに、少しだけよ」

「俺の話より大事なのかって聞いてるんだ。会話もできないのかお前。こんな奴が女王か、世代のレベルも高が知れてるな。まあいい。今日、先輩から連絡があった」

 

私は怒りを必死に抑えた。トレーナーにバレないように、唇を噛んで、拳を握って、床のフローリングを見つめた。私はどれだけ貶されてもいい、しかし簡単に皆を嘲るその卑劣な口が許せない。でも、怒りがバレてしまったら、何をされるか分からない。数々の名ウマ娘を輩出してきたこの人に楯突くことは、自分の未来をぐちゃぐちゃにかき消してしまうのと同義だった。先輩とは、この人をここまでの名トレーナーに育て上げた師匠のことで、同じく天才と呼ばれたトレーナー。そのトレーナーの前では、私のトレーナーもおかしいくらい霞んでしまうと聞いたことがある。そして伝説の天才トレーナーは、ユウトレーナーの父親だった。そんな天才から連絡があったみたいで、きっとまた練習メニューのことだろう。彼は度々助言を私のトレーナーに与えている。それから言われた通りにそのメニューを私にこなさせる。緻密に念入りに組まれたスケジュールのはずなのに、伝説トレーナーからの指示一言でガラリと変えてしまうくらい、私のトレーナーは彼を信頼していた。

 

「先輩はお前に底なしの期待を向けている。さっさと着替えてターフへ向かえ。遅れを取り戻す姿勢を見せろ、お前はこんなところで負けてはいけない。これは命令だ。敗北は許されない」

 

私は今日、話をしにきた。この人に対して、今週末の予定を白紙にしてほしいという相談を持ちかけにきた。到底叶うわけがない。でも、それでも納得させるしかなかった。

 

「今週末、アリアンスさんたちと旅行に行きたいの。その許可をいただきたいわ」

「お前、自分がどれだけ愚かなことを口走ったか分かってんのか。馬鹿もここまでいくと怒りを通り越して呆れるな。分かったらさっさと出ていけ。そして予定通りに行動しろ」

「もし私が、旅行に行かず練習尽くしの毎日で、本番に体調を崩してしまったら、あなたはどうするのかしら」

「今日はやけに強気にしゃしゃるじゃねえか。もしそんなことが起こるなら、所詮お前は俺と先輩のトレーニングについてこれなかった低レベルのウマ娘だったってことだ」

 

心臓が握りつぶされたような気がした。同時に、目の前に巨大な鉄の壁がそびえ立ったような、そんな心の距離を感じた。この人と私は、何も繋がっていない。アリアンスさんたちと違って、心の深い部分では何も繋がってはいない。トレーナーは私を全く信頼していないし、歩み寄ろうともしない。私がどれだけ走っても、信頼していないのだから評価は変わらない。私だって一人のウマ娘なのだから、旅行を選択する権利だってあるはずだ。下がる信頼が無いのなら、いっそのこと反抗期のように全部逆らってやる、そう思った。

 

「そう、じゃあ勝手にさせてもらうわ。私はもちろん旅行に行くし、結果も出す。それでは、失礼するわ」

 

トレーナーの発言なんて気にも留めていないような態度をとっていても、その実は心から傷ついたし、悔しかった。足は震えていたし、後ろを振り返る勇気もなかった。だから前だけ向いて、アリアンスさんたちの笑顔にすがるように部屋を出て、彼女たちのところへ向かった。



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レースの絶対と領域

「なんとか許可をいただいたわ」

「ほんと?よかったー。こっちも快く了解してくれたよ。正直一番の不安はコートだったから、なんとかなってよかった」

「ユウさんの言葉、とっても感動したのにウールちゃんいないんだもん。私涙出ちゃった」

 

無理を通してもらったのでしょうか、コートちゃんの顔は少し曇っていました。改めてウールちゃんが計画を発表していたのですが、その時間もなんだか浮かない顔をしているのです。

 

「楽しみだね、コートちゃん!」

「え、ええ、楽しみだわ。とっても」

 

前のめりになってウールちゃんに両手を重ねると、観念したように頬を緩ませました。でも、いつもの優雅な笑顔ではなくて、あからさまなつくり笑顔で、ぎこちないものでした。

 

「コートちゃん、何かあったの?私でよければ相談してほしいな」

「本当に何もないわ。気にしないで。えっと、何の話をしていたのかしら」

「もう、ちゃんと聞いててよ!」

 

意識がここにないような感じです。心配でした。でも、コートちゃんが気にしないでと言うなら、私ももうそれ以上は踏み込めませんでした。

 

「じゃあ当日は新幹線かあ、いいねいいね。駅前集合で一緒に行こう!えへへ、楽しみだなあ。コートも、浮かれ過ぎて下着忘れちゃダメだよ?」

「わ、私を誰だと思ってるの!そんな恥ずかしいミスはしないわ」

 

ウールちゃんのジョークで一瞬だけいつものコートちゃんの笑顔が戻りました。少しだけつり目で堂々としているコートちゃんは、笑顔を見せると子犬のようにも見えるのです。心から笑う彼女は、一人の乙女なウマ娘でした。ある程度の予定を立てて、私たちは解散しました。ウールちゃんと私は二人で寮に戻ったのですが、一緒に歩いている時も隣から爽やかなオーラが届くのです。

 

「ウールちゃん、ほんとに楽しみなんだね」

「それはもう!あたしがトレセン学園で達成したい目的の一つがもうすぐ達成できそうなんだもん」

「一つは、みんなで旅行?」

「正解。さすがアーちゃんだね。もちろん他にもたくさんあるけど、叶ったものなら、一緒に切磋琢磨できる親友をつくる、とかかな!」

 

もちろん、目の前のかわいいかわいいウマ娘のことだよ!上目遣いで自慢げに指を立てて語るウールちゃん。私だって、最初に出会えたのがウールちゃんでよかったと思ったことなんて数え切れないです。その笑顔に救われた回数は星の数よりも多いです。けど、今のウールちゃんにそれを言うのは少し恥ずかしくて。私はふふっと笑うだけでした。その後は一緒にご飯を食べて、それぞれの部屋に戻りました。通路の照明が新しくなった気がして、いつもより眩しかったです。部屋に戻るとナタリーさんが真剣モードでした。きっと大阪杯に向けて相手の研究をしているのだと思います。そんなナタリーさんを見て、レゾルーラ先輩を思い浮かべました。小声で呟くと、背中を向けていたナタリーさんの耳が反応しました。

 

「あれ、アーちゃんレゾルーラ知ってるの?」

「はい。この前初めてお話ししました」

「なかなかテンション高かったでしょ。なんか短距離って感じだよね、あの疾走感」

 

確かに、思わず頷きました。ローズピーチ先輩がなんとかなだめて、良いパートナーのような雰囲気を受けました。

 

「あいつはスプリンターズステークスの時よりも仕上がってる。高松宮は勝ち負けより、どう勝つかが問題だと言われてるくらい。世間は彼女が負ける想定を誰もしていない」

「ナタリーさんも、そう思いますか」

「まあね。レースに絶対はない。ずっと言われてきたことだけど。確かに生涯絶対負けないなんてことはないかもしれない。でも、ウマ娘が限界の限界、さらにその先を超えた時、一回くらいなら絶対は生まれてしまう。レースが始まる前から、今回はいけるとなぜか確信してしまう瞬間が。あたいはそう思うかな。努力とか戦略とか、過程なんて全部吹き飛ばした異次元の脚が生まれる瞬間が、ウマ娘にはあるかもしれないって思う」

 

限界を超えたさらにその先、私にはまだ想像もできない世界でした。ナタリーさんの言っていることを理解するには、必要なものが多すぎる、そう思います。

 

「レゾルーラのレース、きっと大変なことになるよ。アーちゃんがもっと強くなるために必要なことが学べると思う。ちょっと難しいこと言っちゃったかな。特別なことをするんじゃなくて、今まで通りレースに真摯に向き合っていれば、いつかきっと分かるようになるよ」

「ナタリーさんは、絶対のその瞬間を感じたことはありますか」

「もちろん。限界というピンと張った糸が、ある時ぷっつりと切れた。視界が歪んだと思ったら、急に身体が軽くなったよ。そしたらあたいは勝っていた。それ以来、似たようなことは起こってないけどね」

 

どういうことなのでしょうか。視界が歪んだら自分の百パーセント以上の実力を発揮できるというのは、少し不思議な話です。

 

「絶対を期待されたウマ娘は、みんな経験してるんだって、この感覚。アーちゃんは聞いたことあるかな、領域(ゾーン)の話。全ての歯車が噛み合って、その上で全てを出し切った時、奇跡が起こる。それが領域(ゾーン)。やっぱり難しい話かな。やめよやめよ。アーちゃんもあたいも忙しくなるし、そろそろ寝よっか」

 

領域(ゾーン)、ナタリーさんのその話し振りから、きっとウマ娘の中でも頂点しか味わえない感覚なのだと思います。そして、もしかしたらレゾルーラ先輩も経験できるかもしれないと言うのです。そんなおとぎ話のような存在に胸を躍らせる私がいます。もっと話を聞きたいと思っても、ナタリーさんは集中モードに入ってしまいました。

 

「コツコツと努力できない子には、奇跡は起きないよ。だからアーちゃんも頑張ること!三女神様は見てるよ、きっと。ああそうだ、あたいもお風呂行かないと」

 

ノートを開いたまま行ってしまいました。大阪杯に関する情報がびっしりと載っています。ナタリーさんが言いたいのは、きっとこういうことなのだと思います。努力を怠らない態度を忘れないこと、そう背中を押してくれているように感じました。まだナタリーさんには旅行の話をしていません。机の上のピンクのメモ帳に一言添えて、ノートに挟んでおきました。

 

「おみやげ、絶対買ってきますね」



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コートの陰

旅行の前日、私は一人でトレーナー室の前に立っていました。今日はウールちゃんもアイちゃんもいません。扉は静かに開きます。日が長くなってきて、トレーナー室を夕焼けの日差しが強く貫いています。それはちょうどユウさんのデスクに向かって伸びていて、肩を焼いていました。ユウさんは暖かく包まれながら椅子にもたれかかって、静かに寝息を立てているのです。きっと他のウマ娘が来ると予想していなかったのだと思います。大人としての余裕に溢れた普段のユウさんとは少し違って、日差しの心地よさにただ身を委ねるその姿は子猫のように微笑ましいものでした。そんな場面も刹那、私の気配に気づいたのか、機械のようにぱっちりと目を開けました。

 

「ごめん、すっかり眠ってしまった。何の用事だろう」

「聞きたいことがあるんです」

 

ナタリーさんが話していたゾーンのこと、もっと詳しく知りたくなりました。私が強くなるには知っておかなければいけないと感じたのです。頂点にいるウマ娘は皆ゾーンを体感したことがあると、ナタリーさんは言っていました。きっとユウさんなら何か知っているはずです。

 

「ゾーンに足を踏み入れたウマ娘は、その瞬間別人のような強さを発揮する。瞬発力、持続力、パワー、スピード、全部が一回りも二回りも一時的に成長する。でも僕はアリアンスにその話をする必要はないと思ってる。そんなこと気にしなくても、アリアンスは勝てるから」

 

聞くな、知るなという警告のようにも思われました。珍しく暗い表情で、語気を強めて、そして不安そうに。それ以上の詮索はとうとう叶いませんでしたが、理由が気になります。隠すような内容ではないと思うのですが、きっとユウさんにも考えがあるのだと無理やり納得します。

 

「大丈夫、僕が絶対にアリアンスを導いてみせる。アリアンスは最高のウマ娘だってことを証明する。ただ強いだけじゃない、速さだけに囚われないアリアンスの強さを皆に伝えたい」

 

安心して、そう言わんばかりの穏やかな瞳に私は包まれました。ユウさんの真っ直ぐな瞳が私を見つめています。やかんのお水が少しずつ沸騰していってやがて湯気が漏れ出てしまうように、私も顔が少しずつ赤くなっていくのを感じました。気のせいか蒸気まで発している気がします。改めてこんなに期待されてしまうと、どうしても顔を赤らめずにはいられません。

 

「も、もう一つ、相談なんですけど」

 

恥ずかして恥ずかしくて、話題を急いで変えました。

 

「コートちゃん、元気なかったんです。トレーナーさんに旅行の許可を取ることになって別れたんですけど、その後から怯えているようでした。何かあったんでしょうか」

 

ユウさんの眉が動いた気がしました。何か心当たりがある、そんな感じです。

 

「大丈夫、安心して行っておいで、そうコートちゃんに伝えておいてほしい。僕が何とかするから。皆の大切な時間を踏みにじるのは許されない」

 

全て分かっているかのような口振りでした。けれど、ユウさんなら大丈夫だろうという確信もありました。どうかコートちゃんの笑顔を救ってほしい、そう祈るばかりです。私の話を聞いて、ちょっと部屋を空けると言ってどこかへ向かっていきました。

 

寮に戻る途中、颯爽と前を歩く栗毛のウマ娘がいました。コートちゃんです。行き先はやっぱりトレーナー室でしょうか。声をかけるといつも通りの優雅な所作で対応してくれました。

 

「あら、アリアンスさん。明日は旅行なのに、こうして毎日アリアンスさんと会っていると、なんだかそんな気がしないわ」

「うふふっ、私も。コートちゃんはこれからトレーナー室?」

 

ええ、まあ、とやっぱり曇った返事をしました。その弱った顔を見て、すぐにでも伝えたいことがありました。

 

「ユウさんが、僕が何とかするから安心して旅行に行っておいでって言ってたの」

 

目を見開いて吃驚の表情が隠しきれないようです。びっくりされるとは思っていなかったので、私も仰天です。どういうこと?その表情がそう訴えてきます。

 

「私もよく分からないけど、何か心配事があるなら、きっとユウさんが解決してくれると思うの。だから旅行のことだけ考えてほしいな。せっかくなのに、コートちゃんのかわいい笑顔が見れないなんて嫌だもん」

「あ、アリアンスさん……」

 

さっきの私みたいに頬を赤らめて目を泳がせています。声にならない言葉の後、落ち着かない様子で言いました。

 

「そんなにジロジロ見られると恥ずかしいわ。それに、かわいいだなんて、アリアンスさんに言われたら……」

「うふふっ、コートちゃんが元気になるまでやめないよ」

「もう、意地悪なんだから」

 

二人で笑い合って、一緒に寮へと帰りました。いよいよ明日はみんなで旅に出発です。早く寝よう早く寝ようと何回頭で繰り返しても、ちっとも意味がありません。隣でナタリーさんは毛布をどかしてしまうくらい熟睡でしたが、私は興奮が邪魔をして、結局意識が落ちるのは布団に潜ってから何時間か経った後でした。

 

 

 

「ノックもできなくなったのか、お前。なっ、あんたは」

 

アリアンスからコートちゃんの話を聞いて僕は一目散にここに向かった。彼女が陰りを忍ばせる理由はここ以外にない。こいつの顔はよく覚えている。こいつの方針もよく知っている。馬鹿げた天才の幻想を赤子のようにはいはいと這いつくばりながら追いかけているだけの愚者。それがこの男だった。

 

「今の言葉、まさか担当ウマ娘に対して言っているのか」

「あんたには関係ない」

「あなたは自分が偉くて偉くて仕方がないみたいだ。あなたが大好きな父とまるで違わない。レースになれば何の手出しもできない無力なトレーナーがウマ娘より偉いだなんて、冗談じゃない」

 

趣味の悪い紫檀の机を思いきり叩いた。僕の剣幕に少し怯んだようで、何も言い返さなかった。少し強く出られた程度でこの小心振り、何から何まで理解できない。この男は天才の二代目だとか言われているそうだが、劣化でしかない。ウマ娘をいびり尊厳を傷つけることで己の欲求を満たしているだけの卑劣な男だ。

 

「コープコートちゃんに何を言った。もしかして、自分に従わず旅行を提案したから蔑んだとか」

「ふん、お前に何が分かる。あいつには俺が必要なんだ。俺から離れたら一勝もできない」

「逆だよ、あなたがいるからあの子は桜花賞を勝てない。他のトレーナーなら三冠も狙える。ちっぽけな親父が敷いたレールを走ってるだけのまがい者が偉そうなことを言うな」

 

黒光りするサングラス越しに僕を睨んでいる。俺は偉い、天才トレーナーだと言わんばかりに。そして身体を乗り出して反論する。

 

「お前にウマ娘の何が分かる。先輩の何が分かる。全ては結果だけだ」

「あなたにコープコートの何が分かる。あの子と顔を一度でも突き合わせたことがあるのか。そのサングラスを外したことが一度でもあるのか。全てのウマ娘がデータで支配できると思うな。今すぐにでも謝罪の連絡を入れろ、今の彼女には旅行の慰安が必要だ。それをあなたは認め支えるべきだ。一緒に手を取り合って歩いていくべきだ。偉そうにふんぞり返って彼女を否定することがあなたのやりたいことなのか」

 

言いたい放題言いやがって、さらに身を乗り出して殴りかかってきた。一瞬見えた彼の本当の表情は激しく乱れていて、もう僕の言葉は届かないようだった。その拳は左の頬の骨を抉る勢いでヒットした。怯んではいけない、怯えてはいけない。真っ赤に腫れ上がる頬でその拳を受け止めたまま、その腕を掴んでさらに睨みつけてやった。僕のその根性に気味悪さを感じたようで、振り解いて少し後ずさった。頬の一部は黒く変色している。あとで絆創膏を貼らないといけない。事実を突きつけられたら暴行に走るなんて、どこまでも救えない。彼のトレーナーとしての資質はゼロではないゆえに、こんなことしかできないのはいささか残念だった。

 

「早くしろ。あんたの態度次第ではこの拳はなかったことにしてもいい。こんなんでも天才の息子だ。あんたが尊敬してやまない天才の子どもだよ。それを傷つけたとなったらあんたの立場はないだろう」

 

次の一発はもう飛んでこなかった。血が溢れるくらい唇を噛んで、プライドをズタズタにされながら彼は手紙をしたためた。第一に、自身の態度を改めてウマ娘と真摯に向き合うこと、そしてウマ娘の健康のための努力を惜しまないこと。最後にコープコートへの今までの言動全ての謝罪と旅行に対する快い許可。それを約束させた。

 

「お前、調子に乗るなよ」

「好きに言えばいい」

 

黒檀の扉を開いて自室に戻った。これまた趣味の悪いドアを開けた瞬間、背後から何かを投げつけ破壊する音が聞こえた。あの男が物にあたっているのは明らかだった。コートちゃんは本当に自分にはあのトレーナーしかいないと思っているのだろうか。そんな疑問がしばらく頭から離れなかった。それでも一応これで彼女は心置きなく旅行を楽しめる、帰ったらまたトレーナーに怒られるかもとか、そんないらない心配をする必要はない。しかし、僕にはどうしても納得がいかない。あの男では彼女の能力を潰してしまうだけだ。手紙には書かせたものの、実践するかどうかは怪しい。彼女が帰ってきたらまたいつものように傲慢な態度で接するかもしれない。しかし、彼女に合っているのは僕ではない、そんな気もする。いったいどうすれば彼女を救ってあげられるのか。それだけを一日中考えていた。



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京都旅行 その一

ついに当日になりました。行き先はもちろん、京都です。古の街並みが残るあの空間に行けるだなんて、今から身体の疼きが止まりません。みんなはもう集合場所に到着しているでしょうか、それとも私が一番乗りでしょうか、まだ起きたばかりなのにそんなことを考えていました。早朝はまだ肌寒いです、カーディガンを持っていこうか悩んだり、ネックレスを選んだり、目玉焼きを食べながら考えていました。バッグに衣服やその他を詰めて、寮が静かなうちにトレセン学園を出ました。この時間だと出勤の時間と重なって多くの人と交わります。こんなに大勢の人がいるのに、足音ばかり大きくて、なんだか不思議な気分でした。駅の途中のコンビニも、自動ドアが忙しなく開閉されています。お腹が鳴ってしまったので、私もコンビニに寄ることにしました。飴とチョコレート、おにぎりをいくつか買って、さらに揚げ物まで付けてしまいました。「ありがとうございます」、店員さんとのやりとりの後、静かに駅まで向かうのですが、周囲の足音に溶け込んでいくような気がして、これもまた不思議な感覚でした。駅前では、大きな噴水が朝から放物線を描いて私を出迎えます。そしてその隣では背の高い時計が誰にも気づかれないように時を刻んでいます。もちろん、皆その時計を目印にしているので、意味はありません。むしろ一番目立つスポットでした。私はそのちょうどその間のあたりでみんなを待っているのです。ちょっと早すぎだったかな。そんな声を漏らして。三十分くらい経つと、すらっとした美脚のウマ娘がこっちへ駆けてくるのが見えました。モデルのような体型は、アイちゃんです。

 

「おはよ」

 

トレセン学園で見るより大人びています。漆黒に身を包んだその姿はどこか儚げにも映りました。カバンもそんなに大きくはなくて、アイちゃんらしいと思います。

 

「アンとの旅行、楽しみだった」

 

私の隣に立ち、腕を組んで肩を寄せてきました。私に重心を捧げてリラックスしています。まるで冬を凌ぐ鳥が身体を膨らませて密着するようでした。長いまつ毛と暗い藍色の髪を見ていると心臓が高鳴りました。まるで二人きりの空間になってしまったような、周囲の静謐も合わさってそんな幻に陥ってしまいます。そう考えると一気に羞恥が身体全体に広がって、私はすっかり黙り込んでしまいました。

 

「あー、またくっついてる!もう、早く離れて離れて!ほんと、どんだけアーちゃんのこと好きなの!」

「仲が良いのは素敵なことだわ。あなたも早く独り立ちしないといけないんじゃない?」

「なんだよー。コートだってアーちゃんの話ばっかりしてたくせに」

「そ、そんなことないわ!変なことを言うのはやめて」

「うふふっ、コートちゃん、そうなの?」

 

二人とも、学園にいる時よりも浮かれていることが分かります。コートちゃんの隠しきれない気品も、ウールちゃんの快活盛んな物腰も、いっそう際立っているように感じました。そしてなにより、昨日までのコートちゃんとは見違えるような振る舞いが眩しいのです。どこか不安げだった彼女の姿はもうありません。期待に尻尾を震わせて、瞳に光を宿して。いつものジュニア級女王でした。

 

「そうだよー。『アリアンスさんはすごいわ、私もあんな風になりたいわ。ああ、アリアンスさん、好き好き』だってさ!あたしのライバルがどんどん増えていくから困っちゃうよね」

「そんなこと言ってない!今日くらいは我慢しようと思ったけど、一回くらい痛い目みた方がいいかしら」

 

二人のやりとりもいつも以上のキレがありました。このままとりとめのない会話を続けるのもいいなとは思いますが、コートちゃんの一言で、私たちはやっと駅内へ歩き出しました。

 

 

新幹線といえば、もちろん駅弁です。旅の醍醐味です。駅弁というだけでただの梅干しの乗った白米がホクホク鮮やかな料理に見えてしまうという、そんな魔力をまとっています。目の前の牛カルビ弁当、サンプルに乗っている玉ねぎさえ鮮やかで美しいのです。隣のサバもその隣の卵焼きも、私には何倍も高級なものに見えました。実際、駅弁は値段も少しかかってしまうのですが。

 

「アーちゃんずっと駅弁屋に張りついてる。ほらー、もう行くよー」

「ま、待ってねウールちゃん」

「じゃあ私はこいつにしようかしら」

 

ウールちゃんはその手に海鮮丼の入った袋をぶら下げて、コートちゃんがひょいと大きなからあげの乗った弁当を購入しました。はわわ、私も早く決めなければいけません。あれもいいこれもいいと頭を抱えていると、アイちゃんがそばにやってきました。

 

「私はアンと同じのにする。ゆっくり選んで」

 

アイちゃんの熱い視線を受けながら、ようやく竹皮が巻かれた一つのお弁当をチョイスしました。アイちゃんと共に急いで新幹線に乗り込んで、私たちの旅行はついにスタートしました。



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京都旅行 そのニ

席を向き合わせて、女子会が始まりました。私はカバンいっぱいに詰めてきたお菓子の中からチョコを取り出してみんなにプレゼントします。他愛もない世間話から、京都の街の話まで、会話は弾んでいきました。窓の外はまだ東京の景色が続きますが、それでも快晴そのもので、私たちの旅行のこれからを占っているようでした。

 

「アーちゃん、鼻歌まで歌っちゃって楽しそうだね。かわいい」

「アリアンスさん、本当に楽しみにしていたもの」

 

浮かれていたのがまったく無意識に態度に出てしまっていました。ウールちゃんの隙のない旅行プランを聞いていると、身体が反応してしまいます。そうはいっても、ウールちゃんの口数は減らず、コートちゃんは珍しく何度も髪を気にしています。私に負けず劣らず浮かれているのを感じました。

 

「おい、来週からついに春のG1シーズンだぞ」

「分かってるよ。俺だって何回出走予定表を見直したか分からない」

 

ふと周りからG1への期待の声が聞こえてきました。来週、春の短距離女王決定戦である高松宮記念から始まって、大阪杯、桜花賞と続いていきます。その会話は私だけに聞こえていたわけではなくて、ウールちゃんたちの顔が一瞬強張るのを見逃しませんでした。

 

「高松宮はまずレゾルーラで決まりだな。スプリンターズステークスのあの走り、サクラバクシンオーを思い出したよなあ」

「スプリンターズの時より調子上がってるらしいぞ。本番は間違いなく圧倒的一番人気だろ」

 

ナタリーさんは言っていました。高松宮はレゾルーラ先輩が絶対に勝つ。あとは勝ち方だけ。初めて会ったあの日、仕上がっていることは一目見ただけで分かりました。レゾルーラ先輩には今、世間からの絶対が生まれているのです。彼女は絶対に勝つ、そんな期待が。

 

「そういえばアーちゃんはレゾルーラ先輩に会ったことあるんだっけ」

「うん。元気な先輩だったよ。ちょっと怖いけど」

 

あの気迫の強さは、自信の裏付けなのかもしれません。そして最強の領域へウマ娘が踏み出すその瞬間を見れるのかもしれない、そんな予感がしました。

 

「みんながあそこまで期待しちゃうと、本番も楽しみだよね。大阪杯だって、ナタリー先輩出るんでしょ?」

「エリザベス女王杯以来の激突ね。もちろんアリアンスさんはデュエットナタリー先輩推しかしら」

「もちろん。ナタリーさんは絶対勝つんだから」

 

チョコはニ、三個頬張りながら主張します。ナタリーさんの努力は私が一番知っています。きっと今回も勝利を掴んでくれる、そう信じて。

 

「あ、そうだ。旅館の写真なんだけどさー」

 

話題は尽きず、京都に着くまでの何時間が一瞬に感じられました。食べきれないくらい詰めたお菓子類も、なんと半分以上なくなっていました。さすがにこれは体重に響いてしまいます。やってしまったと肩を落としながら、ユウさんにメールを送るのでした。

 

 

「ついに到着、京都の街です!」

 

賑わう駅前は東京と変わりません。でも、街並みは全くと言っていいほど別物でした。高層ビルはなく、コンビニも歴史ある街並みを破壊しないような色合いだったのです。それはもう東西南北あらゆる方向が気になってしまって、私の視線は忙しなく動いていました。

 

「京都の街並みを守るために看板や建築物の規制の条例なんかがあるんだって」

「アンは京都、初めて?」

 

大きく口を開け、目の前の光景に目を奪われていた私とは対照的に、クールに、それでいて優しさも含んだ表情でアイちゃんがほほえみました。京都の街並みを見る私の目があまりにも光り輝いていたので、おかしかったのかもしれません。

 

「それなら私が案内する」

「え、あんた京都来たことあるの?」

「知ってるだけ」

 

目を泳がせるアイちゃんと、何かを悟ったようにニヤニヤと挑発するウールちゃん。

 

「じゃあ案内してもらおっかな。せっかくたくさん下調べしてくれたみたいだから!」

「ちがっ、そういうことじゃない!」

 

バッグからはみ出る雑誌を隠すように手で覆って、目を背けてしまいました。こちらから見えないその顔は、信号よりも赤いようです。

 

「うふふっ、ありがとう、アイちゃん」

「ほーら、せっかくなんだからアーちゃんをエスコートしてあげてよ!あたしたちは後ろの方歩いてるから」

「そうね。アリアンスさんに頼れる姿を見せてあげるのもいいんじゃないかしら」

 

コートちゃんも便乗してからかうように言います。滅多に表情を変えないアイちゃんがここまで動揺して顔を赤くするだなんて、コートちゃんの気持ちも少し分かる気がします。途端に愛おしく思えてしまって、私も頬が緩んでしまいました。

 

「エスコート、よろしくお願いします。うふふっ、アイちゃん、王子様みたい」

「アン……。からかわないで……」

 

突沸したように顔から湯気が出ています。私は慌ててごめんね、ごめんねと謝りました。まあまあとウールちゃんが一言仲介します。その光景に、コートちゃんはやれやれと呆れていました。そんな顔しても、コートちゃんだってノリノリはずです。ずるいです。

 

「じゃあ行こっか!」

 

ウールちゃんの一声で私たちの京都観光がいよいよ始まりました。もちろん、先頭はアイちゃんです。



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京都旅行 その三

観光バスに揺られて向かった先は、千体の千手観音像が並んでいることで有名な「三十三間堂」。コートちゃんのリクエストです。授業で仏像に関する内容を熱心にメモしていたので、特に関心があるそうです。目に入ってくるのは何といっても建物の長さで、本堂は百メートル以上もあるそうです。いくつか並べてしまえば、東京レース場の最終直線ができてしまいます。実際に入ってみると、想像の何倍も長く感じました。

 

「うわあ、なんだこの数。見渡す限り仏像じゃん。一匹一匹は小さいけど、こうして並ばれると迫力あるね」

「教科書でしか見たことなかったけど、小さい物でもこんなに情緒溢れるものなのね!これぞまさに歴史の風情だわ!」

 

千体もいるのでお一人お一人を詳しくみることは叶いませんが、コートちゃんはそれはもう熱心に見つめています。対話しているのかと思ってしまうくらい。一口に黄金色とは呼び難い重厚感のあるその身体。そのサビ一つ一つさえまるで本人がわざと演出しているのかと錯覚してしまう迫力があるのです。ただの仏像と侮ってはいけない、これが昔の人々が創り出した芸術なのです。それに、何本も手があるというのは、ここに佇むのは私たちよりも高次な存在ということです。その千体の仏像と私たちの間には、きっと見えない壁を隔てて大きな次元の境目があるのかもしれない。そう感じました。昔の人の想像力には驚かされます。

 

「ちなみに、どうしてここが三十三の名を持つかわかるかしら」

「そういえばそうだね。全く想像がつかないや。何が三十三なの?千堂でいいじゃん」

「まだまだ想像力が足りないわ。この数字は、本堂の柱間の数を表しているの。あとは、観音様は三十三の姿に変身して皆を救済したとされているわ」

 

ふふんと鼻高々に揚々説明するコートちゃん。興奮していることが伺えます。もっともっと説明したそうにこちらを見ているのです。そんなコートちゃんの説明を耳に流しながら、アイちゃんは中央にある一際大きな中尊を一人静かに眺めていました。この大きな仏像はリーダーなのでしょうか、想像が膨らみます。

 

「ちなみに、ここは正式には蓮華王院と呼ぶのだけど、ここの軒下は120mあるそうよ。そして昔、端から端まで放った弓矢を届かせる『通し矢』という競技があったみたい。それはもう大盛り上がりの一大イベントだったんだから」

 

雷神像の前までやってきたところで、コートちゃんの小話が始まりました。バスガイドのように私たちに解説をして、カメラマンのように写真を何枚も撮って、画家のようにじっくり観察して、果てしなく忙しそうです。江戸時代、弓矢で放った矢をここの端から端まで届かせる競技があったそうです。そしてそれは高度な技術がいるみたいで、低い軌道で強く正確に矢を放つ必要があったそうです。弓を見たことすらない私には想像もできない世界でした。

 

「待って待って、今あいつこっち睨んだって!」

「何言ってるのよ、そんなわけないじゃない。そう言いたいけど、そういうこともあるかもしれないわ。昔の人が思いを込めて精巧に製作したものなのだから、きっと私たちを見守ってくれているのよ。ね、アリアンスさん?」

「ウールちゃんの健康を守ってくれてるみたい」

「うーん、そうかなあ。あたしには睨んでるようにしか見えない。ほら、あいつも、あいつも!」

「うるさい」

 

アイちゃんに厳しい一言と一撃をもらっていました。右目に涙を浮かべて患部を押さえています。つん、とそっぽを向いて、アイちゃんは雷神像を眺める私の隣までトコトコ歩いてきました。過去の栄華に触れながらようやく渡り切った120mの仏像世界はやっぱり思っていたよりもずっと長く、深い世界でした。けれどそれは四方を仏像に囲まれる威圧感ではなく、私たちを見守ってくれる優しさに満ちた慈愛だったのです。最後に四人の写真を通りかかった方に撮ってもらって、次の目的地に向かいました。

 

 

 

「これが千本鳥居……。写真で見ると結構安っぽい気がしたけど、これは圧巻だ」

 

全国各地に存在する稲荷神社の総本山、伏見稲荷神社にやってきました。そして今はその目玉と言っても過言ではない、千本鳥居の前に私たちはいます。五穀豊穣や商売繁盛の初詣スポットとして名を馳せるここですが、まずは圧巻の楼門が私たちをお出迎えしてくれました。ムラのない朱色の荘厳たる巨大な鳥居、そしてその先には細美が際立つ本殿がありました。そしていよいよ、千本鳥居を目の当たりにしているというわけなのです。赤一色というのが幻想的な世界観を引き立てていて、その赤の均一さがどこまでも続いていくその景色は、まさに異世界への扉です。ここをくぐった先はもう京都であって京都ではないのかもしれない、ふとそんなことを思ってしまいました。鳥居の先、奉拝所に辿り着くと、名物の「おもかる石」と出会いました。この石は灯篭の上にポツンと乗っかっているのですが、ウールちゃんが言うには、まずは願い事をしてからこの石を持ち上げてみるそうです。その際石の重さを想像しながら持ち上げてみて、予想した石の重さよりも軽く感じれば、その願いが叶うみたいです。

 

「つまり一度この石の重さを知っちゃったらダメなわけだ。じゃあまずはあたしからいこうかな。ふむふむ、これは相当大きいね」

 

グイグイ顔を近づけたり遠ざけたりして、理科の実験のように観察していました。見た目はどこにでもある普通の石なのです。それに対してピタリと予想を当てるというのはそれはそれで難しい気もします。しかしウールちゃんは顔を歪ませることなく堂々と、チェスでチェックメイトを宣言する時のように、「決めた」と一言。ひょいと持ち上げてみせました。

 

「うーん、ピッタリ。これならあたしのクラシック制覇の夢も叶っちゃうかな」

「なかなか鋭いカンね。私はこういうの苦手だからやめとく」

「じゃあ私がやってみるね」

 

実家にはこのくらいの大きさの石もたくさんありました。おもかる石と似たような見た目の石だっていっぱいありました。私には分かります、これは、見た目よりもずっとずっと軽いやつです。ウールちゃんに負けず劣らずの自信顔で、持ち上げてやりました。

 

「全然重たい……」

「あははっ、これは大変だ!言ってなかったけど、予想より重いとその分努力しなきゃ叶わないんだって!もっともっと努力が必要ってことだよ!大丈夫、アーちゃんならできるできる。一緒に頑張ろう!」

「アンは何をお願いしたの」

 

トリプルティアラの称号がほしい、調子を崩すことなく健康に過ごしたい、色々考えました。でも、今の私をつくっている「一番」を大切にしたい、そう考えます。何よりも大切で、ずっと離したくなくて、大好きな、みんな。

 

「みんなとずっと一緒にいられますようにって、お願いしたの」

「アーちゃん……。もう、このこのー!かわいいやつめ!」

「アン、嬉しい」

「二人とも、こんなところで抱きつかないの。アリアンスさんが困ってるわ」

「アーちゃん取られたからって妬いてるんだ。素直に嬉しいって言えばいいのに、かわいくないやつ!」

 

右腕にウールちゃんが激しく抱きついて、左腕はアイちゃんが掴んでいるのです。まさに両手に花なのですが、恥ずかしくて恥ずかしくてたまりませんでした。恥ずかしさのあまり、汽車のように蒸気を発している気がします。

 

「べ、別に妬いてなんかない!でも、私もアリアンスさんと同じ願いを心に秘めてたわ。だからアリアンスさんの願いが予想より重かったとしても、私たち皆で分ければきっと大丈夫、綿より軽いんだから」

「コートちゃん……。うん、そうだよね、コートちゃんの言う通りだよね!」

 

私の思いがみんなに伝わって嬉しかった反面、予想の何倍も重かった事実には少し落ち込んでいる私がいました。しかし、コートちゃんの言葉はそんな曇りを吹き飛ばしてくれたのです。

 

「もちろんあたしも同じこと思ってたけどね!ほんとだから、ほんとにほんと!」

 

おもかる石は私たちの願いを占うだけでなく、四人の絆を再確認させ、深めてくれました。その粋な計らいに感謝しながら、私たちは帰りの千本鳥居を潜り抜けて異世界から元の世界に帰還するのでした。



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京都旅行 その四

いよいよ京都観光の大定番、清水寺までやってきました。清水寺で一番有名なあの場所のことしか私は知らなかったのですが、まさかここまで広いだなんて。大門や三重塔など、視界いっぱいに広がる厳かな清水の空間。観光客で溢れているのも納得できます。全部見て回ることはできないので、お目当ての場所まで早速向かうことになりました。

 

「見て見て、音羽の滝があるよ!」

 

清水寺の起源ともなった音羽の滝。ここでは三つの筧から清く澄んだ水が流れています。近くに置いてある柄杓を使って一口水をいただくそうです。そしてその際、どこかで聞いたように、願掛けを行えるみたいです。

 

「正面から見て右が長寿、中央が恋愛成就、左が学業成功をそれぞれ担当しているそうよ。それぞれに合った願いを清水に込めるように飲み干すの」

「なになに、恋愛だって!それは聞き捨てならない」

「ど、どうしたのウールちゃん」

 

ウールちゃんが私を羨望の眼差しで見つめています。期待に胸を膨らませている、そんな感じでした。私が中央の筧に向かうのを誘っています。

 

「アーちゃん、真ん中だよ、真ん中!」

「どいて」

 

私が戸惑っていると、柄杓をすでにその手に握ったアイちゃんがウールちゃんを押しのけ、中央の流れを受け止め始めました。いっぱいになった柄杓を音も立てずに上品に飲み干して、ふうと一息立てました。

 

「私の願い、きっと神様に届いた」

「ちょっと、痛いんだけどー!あたしもアーちゃんもまだなんだよ!」

「アイちゃんはどんなお願いしたの?」

「いくらアンでも、これだけは内緒。恋は秘密が隠し味だから」

「あんたそんなこと言うキャラじゃないでしょ」

「あら、ウマ娘だって恋する乙女よ。ね、フルアダイヤーさん?」

「そういうこと。あなたと違ってコープコートさんは話が分かる」

 

なんだよなんだよ、そう言いながらウールちゃんがすねていました。私もアイちゃんがどんなお願いをしたのか気になります。何より、中央の筧から流れ落ちる水を飲んだのです。アイちゃんには意中の方がいるのでしょうか、こういう話はやっぱり気になってしまうものなのです。

 

「さ、そろそろ行きましょうか」

 

前を歩いていた方に続くように荒い道のりを歩いていくと、一気に視界が開けました。ついに辿り着きました、ここが清水の舞台です。開けた視界には、さっきまで歩いてきた道も、一面に渡る木々も、そして京都タワーもありました。

 

「ここが清水の舞台かー。よしよし、飛び降りてみようよ!」

 

ここの高さは13m、有名な話ですが、過去には願掛けとして飛び降りる人たちもいたそうです。ウマ娘だって身体は繊細です。飛び降りて無事だったら願いが叶うと言いますが、きっとひとたまりもありません。それに、願掛けはもう二回しているので、三回も願うのは強欲だと思います。けれど、思い切ったことを決断することの例えとして、清水の舞台から飛び降りる、と言うこともあるそうです。せっかくなら、何か思い切ったことをしてみたいなんて考えてしまいました。そんな時、ユウさんから一通の連絡がありました。事故に巻き込まれて怪我をしていないか、怪しい勧誘に遭っていないか、ウールちゃんとアイちゃんは喧嘩していないか、文面から私たちの旅行を甚だしく心配していることが伺えます。楽しく過ごしていることを伝えるためにはやっぱり写真が一番です。舞台の中でも、周りの健気な桜に囲まれる中心まで私は駆けていきました。そして、ワンピースを春風にふわりと纏わせ一回転してから、みんなを手招きしました。

 

「写真、撮りたいな」

「ほら、アリアンスさんが呼んでるわ。そこの方、写真を数枚、お願いできるかしら」

 

談笑をしていた他の観光客の方を引き止めて、コートちゃんがスマホを手渡します。私たちを歓迎するような夕日に目を細めそうになりながら、心の昂りを表現したくて思いきり笑ってみせました。その後、写真をスタンプと共に真っ先にユウさんに転送して、喧騒に揉まれながら私たちは舞台を降りていきました。



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高級旅館

実はウールちゃんから旅行のプランを聞かされた時、旅館の情報はほとんど伏せられていました。せっかくみんなで泊まるんだから、できるだけ場所にしたい。お金の話はユウトレーナーに土下座するから大丈夫。そう言っていたのです。そんな、ほとんど知らない状態でバスに揺られた私たちが辿り着いた先は、旅館でした。バスから降りると、どこからかジージーと虫の音だけが耳をくすぐり、周囲の灯籠には蛾が集っていました。そして目の前には、遊郭のような雅と、歴史ある厳かさを兼ね備えた旅館が仁王立ちしていたのです。少し後ずさってみても、全体を視界に収めることは叶いません。開放感のある木造建築で、檜のツンとした香りが漂っています。入り口に飾られたのれんをアイちゃんが怪訝そうに見つめていました。

 

「こんな高級そうな場所、本当に大丈夫なの?」

「心配ご無用。みんなから徴収した代金にちゃーんと含まれておりますよ!ユウトレーナーが色々助けてくれて、常識的な金額に収まったんだー」

「また感謝を言わなきゃいけないことが増えてしまったわ」

 

満を辞して中へ入ろうとする三人に対して、私は旅館の雄大さに狼狽していました。

 

「こ、こんな素敵な場所、入ってもいいのかな」

「緊張するなら、一緒に行こ」

 

駆け寄ってきたアイちゃんが私の腕を組んで、そのまま流れるように中へ入っていきました。戸に手をかける瞬間、灯籠の光で見えたアイちゃんの白いはずの肌は、赤く染まっていました。

 

 

長い廊下を通って案内された先は、入ってみると清涼な和室でした。開かれた縁側の向こうには月に隠れた漆黒の世界が広がっています。そこに目印のように散りばめられた星々の下で、ただ一つ、提灯を灯した遊覧船を漕ぐ音が、風に乗ってここまで届いてきました。

 

「なんて静かなの……。快適過ぎてそのまま眠ってしまいそうだわ」

「窓の景色もいいでしょ。パンフレットで見た以上の美しさだね。あー、なんだかあたしも眠くなってきた。ちょっとだけ仮眠とらせて……」

 

 

大きな正方形をつくるように並べられた四つの布団が私たちを誘っています。その一角に向かってウールちゃんが倒れてしまいました。

 

「ちょっと、まだ色々とやることあるじゃない。全く、ほんとにこの子は。私も少し休憩してからにしようかしら。外の様子も見たいわ」

「それなら私、先入っちゃうね」

 

目を擦りながら荷物を整理していると、肩をつつかれました。

 

「アン……、お風呂、一緒にどう……?」

 

アイちゃんの黒尾がムチのようにしなっています。そのか細い声は、寝息を立てているウールちゃんはもちろん、縁側で遠い景色を見つめるコートちゃんにも届いていませんでした。ど、どうしよう、友達とお風呂だなんて。そう心の中の私が暴れ回っています。そんな経験が全くなかった私は、戸惑うことしかできませんでした。

もちろん、嫌ではないのです。旅行に来ているのですから、一緒にお風呂に入るということも想定はしていました。それでも、胸が熱くて仕方がありませんでした。

 

「ま、待ってね。心の準備が……」

「大丈夫。私がエスコートするから。行こ、アン」

 

慌てる私の手を引いて、檜の匂いを導線に廊下を進んでいきました。

 

 

竹柵で仕切られた向こうには、いったい何があるのでしょうか。月が映す透き通った水が流れ入る檜風呂に、二人は今浸かっています。空を見上げていると、背景に同化したカラスが一匹月に向かって飛んでいきました。

 

「檜、ずっと香ってたけど、嫌いじゃない」

「私も、なんだかクセになっちゃいそう」

 

あれだけ感じていた恥じらいも、いつのまにか湯船と目の前の静寂に溶けて無くなっていきます。専属のマッサージ師に身体をほぐされるような心地になって、すっかりリラックスしていました。

 

「アンの肌、髪、全部全部フィギュアみたいに綺麗……。あなたはどうしてそこまで美しいの……?」

 

水飛沫が飛んで、アイちゃんの人差し指が私の頬を撫でました。まるで大切なものを扱うかのように、ゆったりと指は移動して、腕まで這っていきます。アイちゃんの恍惚としたその顔は、湯気に包まれて赤く染まっています。そんな顔のアイちゃんと顔を突き合わせて談笑だなんてできるわけがありません。ああ、緊張します。ドキドキドキドキ、ただでさえ友達と一緒のお風呂は初体験だというのに、たった布一枚にしか守られていない私をそんなに注視されてしまっては、もう言いようがないくらいに恥ずかしいのです。

 

「あ、アイちゃん、そんなに見つめられたら恥ずかしいよ……」

「あなたは優しくて、強くて。誰よりも真っ直ぐ。あなたの、天使のような清らかな精神と、悪魔が嫉妬してしまうような美しさに、私はすっかり救われてしまった」

 

私とアイちゃんは見つめ合っているはずなのに、彼女は別の何かを見ているようでした。私を透視して、もっと遠くの何かを。

 

「その日から、私を信じてくれたアンのために練習を重ねるようになった。あなたに成長した私を見てほしい、あなたに褒められたい。その笑顔でもっと私を貫いてほしい。もっともっとアンに近づきたい」

「アイちゃん……」

 

顔以外も真っ赤になっていました。もう何十分も浸かっていたので、当然です。ですが、理由はそれだけではない気がしました。私は何も考えることなく、アイちゃんの心からの言葉をただ受け止めるだけでした。白星を映すアイちゃんの純真な瞳に、どこまでも吸い込まれてしまう気がして、目を離すことができません。

 

「桜花賞、ついにアンと走れる。あなたと全力でぶつかり合って、もっとあなたのことを知って、近づきたい。

だから、本気。ウマ娘なら、大好きな人を走りで魅了したい」

 

頬を緩ませ、満面の笑みでもって言いました。アイちゃんの本気が、静寂に乗って伝わってきました。今も身体中を駆け巡っています。大好きだからこそ本気だ、そう言ってくれたアイちゃんに、私も応えないわけにはいかないのです。

 

「うふふっ、嬉しい。私もアイちゃんが大好き。桜花賞、絶対に負けないよ」

「そ、その笑顔は反則……」

 

私も負けじと笑顔で対抗しました。アイちゃんはもうすっかりのぼせています。今度は私がアイちゃんの手を引いて、少しずつ少しずつ、露天風呂を後にしたのでした。もちろん、巻いたタオルが落ちないように。今度は四人で一緒に浸かりたい、そんなことを考えていました。



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とめどない不安、月光にウマ娘二人

その夜、アイちゃんの言葉が血液のように体内を循環していました。布団に潜ってから一時間ほど、桜花賞のことを考えていました。旅行の間は一人の女の子として、大好きなみんなと一日中京都を観光していましたが、トレセンに戻ってしまったら、もうライバルなのです。ついさっきまで笑顔で語り合っていたウマ娘たちと、身体をぶつけ合い、互いを抉り合うようなレースを演じなければいけない。今に始まったことではないのですが、不安になってしまったというのも嘘ではありませんでした。できれば、もう少しだけこの時間が続いてほしい、そう思ってしまったのです。はあ、眠れないなあ。すっかり睡魔が消失してしまった私は、数時間前コートちゃんが腰かけていた縁側の椅子に座って、闇夜に凛然と輝く月を見つめていました。その月は、まるで自分以外の光を許さない女王のようで、孤独なのです。そんな彼女を見ながら、目の前の小さなちゃぶ台に湯呑みを置いて。不安はさらに募っていきます。桜花賞は、泣いても笑っても一回勝負。これまで、何回も、何十回も、その頂に立つ夢を見てきました。生涯一度の挑戦が終わってしまったら、もうそんな夢を見ることさえ許されなくなります。その事実を頭に浮かべた時、湯呑みを持つ手が震えているのに気がつきました。結果によっては、夢も友人も失ってしまう可能性がある、言葉を失うような絶景の前なのに、ため息しか出ないのも仕方のないことかもしれません。

 

「あら、アリアンスさん。もしかして、眠れないのかしら。ふふっ、私と一緒ね」

 

縁側にはちゃぶ台を囲んで二つの椅子があります。もう片方にコートちゃんが音も立てずに腰をおろしました。

 

「手、震えているわ。何があったのか、私でよければ聞かせていただけないかしら。きっとアリアンスさんの力に」

 

白月が二人を覗いています。もしかしたら、優しく見つめているのかもしれません。左肩に下ろした栗髪をコートちゃんがかき上げると、ふわりと柔軟剤のような柔らかい匂いが鼻に染み込んでいきました。お風呂に入って数時間しか経っていないからでしょうか、いつもの艶かしく優雅な香りとは少し違います。けれど、その匂いに包まれると、自然と私の震えは引いていきました。良かった、コートちゃんの匂いだ――。その時飲んだ一口の緑茶は、淹れたてのように温かく、風味のあるものでした。

 

「少しは安心できたようね。そうだわ、こんな時だから、私の話も聞いてくれないかしら?」

「もちろんだよ。聞かせてほしいな」

「旅行に出発する少し前の話なのだけど」

 

小さな我が子におとぎ話を語り聞かせるようなゆったりとした口調で、言葉を紡ぎ始めました。一瞬、月を見上げるコートちゃんの紅瞳がそれを染色したような錯覚に陥ってしまったのです。そう勘違いしてしまうほど、この空間はコートちゃんの温もりに満ちていました。

 

「実は私、トレーナーに止められていたの。アリアンスさんも知っての通り、余暇を許さない人だったから。

そんな暇があるなら俺が組んだトレーニングをしろと言われ、さらに色々と罵られたわ。お前は弱い、俺に従え、お前は俺のおかげで強くなれたのに、恩を仇で返すつもりかって」

 

でも、私が至らないのだからしょうがないわ。そう言ってため息を漏らしました。コートちゃんはあまり自分のトレーナーさんの話をしません。貴重な話に私は耳を弾ませていました。

 

「あの子の旅行のプランを聞いていたら、どうしても行きたくなってしまって……。ついに、反抗してしまった。世代の頂点に立たせてくれたトレーナーに対して、否定の言葉を吐いてしまったの。そんな状況で、今度は何を言われるのか、内心はビクビク震えながら接していた……。もしかしたら殴れられてもおかしくない発言だったのかもしれないわ。でも、出発の直前になって、メールが一通届いたのよ」

 

漸次的に語りの調子が上がっていきます。コートちゃんのトレーナーの話が私の耳に入ってくることはほとんど無く、そんな酷い言葉を言われ、傷ついていたことを今初めて知りました。けれど、些細な調子の変化だからといってそれに気づくことができない自分に呆れるばかりでした。コートちゃんはいくらでも私を励まして支えてくれていたのに、私は大事な親友の心境一つ十分に察してあげることができなかったのです。

 

「私、コートちゃんが辛い思いをしているのに全然気づいてあげられなかった……。ほんとに、ほんとにごめんね……」

 

透明な涙が落ちる音は、隣の部屋まで聞こえてしまうほど、大きな音でした。湯呑みの水面では、不甲斐ない私がゆらゆらと揺れて。その私の反応にコートちゃんは目を見開いて、違う違うと否定しました。

 

「まさか、アリアンスさんは気づいてくれたじゃない。どうしたの、相談に乗るよって、心配そうに、ね。口にはとても出せないけれど、心の底では、とても嬉しくて、救われたのよ、その優しさの言葉一つに」

「そんな、大袈裟だよ。私は言葉ばかりで、何もしてあげられなかったの」

「ううん、そんなことないわ。あなたは確かに私を救った。話を戻すわ。そのメールは、トレーナーからだったのよ」

 

そんな怪訝そうな顔しないでほしいわ、私はアリアンスさんに感謝をしたくてこの話をしているの。私が今にも泣きそうな顔をしていたので、なだめられてしまいました。

 

「俺は今まで、お前に酷いメニューばかりを強制し、罵詈雑言を浴びせてきた。もうそんなことはしない、旅行も楽しんでこい、そう書かれていたの」

 

ドキッ、思わぬ展開に、嘘がバレてしまった時のように胸が弾みました。目の前のコートちゃんは、清々しそうに伸びをしています。きっと今まで、私の想像もつかないような過酷なメニューと侮言を与えられてきたのだと想像できます。そんな相手がとうとう謝罪の言葉を述べてくれたのですから、当然です。

 

「もちろん全て勝利のためだと思って我慢してきたわ、でも辛いものは辛いもの。仮にもG1を勝たせてくれた名トレーナーだし、全てを否定する気はないけれど。それでも、やってやったと思ったわ」

 

ガッツポーズと共にぴょんと飛び跳ねて、身体全体で当時の喜びを再現しています。

 

「それと同時に、アリアンスさんとユウトレーナーの顔が浮かんだの。すぐに理解したわ、アリアンスさんが私の身を案じてユウトレーナーに相談したんだろうって。

そして、ユウトレーナーの巧みな話術に丸められた。あの人が尊敬していたのは、ユウトレーナーのお父様だったはずですし。私は、またしてもアリアンスさんに救われてしまったわ」

 

コートちゃんは全て分かっていました。私がユウさんに相談したことも、ユウさんが説得したことも。ユウさんが説得しただなんて、今初めて聞いたのですが。さすがユウさんです。尊敬の眼差しを向ける目の前の麗しき令嬢に、私は顔を赤らめることしかできません。でも、救われたというのは違うと思います。私は相談しただけで、話をつけたのはユウさんです。コートちゃんの英雄は、ユウさんなのではないでしょうか。

 

「私は、何もできていないよ」

「そういうところもアリアンスさんらしいと思うわ。本人が救われたと言っているのだから、素直に受け取ればいいのよ。そもそも、私の異変に気づいたのはアリアンスさんだから、あなたは私を救ったのよ。もちろんユウトレーナーもかっこよかったけど」

 

私に迷いの言葉を紡がせないために、コートちゃんはまだまだ続けます。

 

「アリアンスさんと初めて食事をしたあの日、去ろうとした私を止めてくれたアリアンスさんのおかげで、孤独にメニューを積むだけだった私に大切な友達ができたわ。アリアンスさんは私から孤独を消してくれたの。そして、いよいよトレーナーの心境まで変えてしまった。アリアンスさんは一度ならず二度までも、私というウマ娘を救ってみせたのよ」

 

その話を聞いて、脳裏にはアイちゃんの言葉が浮かびました。アン、私はあなたに救われた。私は本当に、大切な人の力になれているのでしょうか。うつむく私を見逃さず、

 

「情緒豊かな優しさ、とでも言えばいいのかしら。誰にでも手を差し伸べられる心の広さと、感受性の強さによって、他者の気持ちを理解し、思いやれる気持ち。まるでその人になったかのように心に寄り添ってくれる。そんな魅力的なあなたに、きっと何人も救われてきたの。もちろん私も含めて、ね」

 

まるでさっきのアイちゃんのように、コートちゃんの顔もりんごのようでした。コートちゃんのようになりたい、そう思った回数は両手では数えられません。その堂々たる態度、レースの強さ、とても同い年とは思えません。私が克服したいと感じていたものを、彼女は全て持っていたのです。だからこそ、そんな尊敬の対象であるコートちゃんに、自分の弱みを称賛されたことが嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。魅力的、その単語が頭から離れません。

 

「アリアンスさんは、ずっとそのままでいてほしいの。私が心から尊敬しているアリアンスさんだからこそ、本気のレースで思いを伝えたい、そう思うわ。レースの結果は怖いけれど、レースで気持ちをぶつけ合えるのはウマ娘だけだもの。私からのお願い、聞いてくれるかしら?ふふっ、すぐに涙をたくさん流してしまうアリアンスさんも素敵ね」

 

そのままでいてほしい、そう言われたことは今まで一度ありませんでした。今の私を肯定してくれるコートちゃんに、もう涙は止まりませんでした。大嫌いなゴキブリが顔に止まった時だって、こんなに泣いたことはありません。大好きなソフトクリームが丸ごと床に落ちてしまった時だって、こんなに泣きじゃくっていません。こんな私でも、魅力的だと言ってくれる人がいる、優しいと言ってくれる人がいる、救われたと言ってくれる人がいる。私は改めて、自分の恵まれた環境を強く意識しました。それと同時に、レースへの不安も、月を横切るカラスに盗まれてしまったのです。コートちゃんやアイちゃんに私からの感謝を伝える方法は、レースだけなのですから。

 

「うん、うん……!約束するね……!コートちゃん、大好き……!」

 

瞳に涙を溜めながらアリアンスさんは笑顔をつくる。彼女が落とした透明の粒が、白髪へと絡め取られて月光に鈍く光った。そんなシンデレラのような彼女を前にして、私は胸の高鳴りを抑えることで必死だった。嫉妬すら忘れてしまう彼女のキュートに、今宵は月明かりが助長して、私はつい見惚れてしまった。今の彼女が京都の都で振り向けば、たちまち舞妓のスカウトやナンパが殺到してしまうだろう。ああ、どうしてアリアンスさんはこんなに魅力的なの?

 

「そ、その、アリアンスさん。せっかく旅行に来たのだから、一つ、聞いてもいいかしら?」

「もちろんだよ。なんでも聞いてほしいな」

 

りんごのようだったコートちゃんは、さらに朱を強くして、今はもういちごです。そんなに聞きにくいことなのでしょうか。口を開いては閉じてを何回か繰り返した後、目を合わせないようにしながらコートちゃんは言いました。

 

「アリアンスさんは、その、好きなタイプとか、あるのかしら……?」

「好きなタイプ、それって……」

「も、もちろん、好きなというのは、恋愛対象としてって意味よ。だって、アリアンスさんのような素敵な方、世の男性は放っておかないと思ったから……。わ、私だってそういう話は興味あるんだから!」

 

私もコートちゃんも、まるでさくらんぼのように仲良く顔が真っ赤です。突然そんなことを聞かれて、私の頭は大パニックです。何も考えられなくて、深呼吸、深呼吸とどこからか聞こえてきます。はわわ、どう答えればいいのでしょうか。私が好きな人、この人となら一緒にいたいと思える人。思考が止まった私の脳内に咄嗟に浮かんだのは、コートちゃんの影でした。

 

「私のタイプは、コートちゃんみたいな人、かな……」

「あ、アリアンスさん……。ほ、本気にしちゃうじゃない……」

 

フランベのような豪快な音がして、コートちゃんが蒸発してしまいました。肩を叩いたり、寝ている二人が起きないような声量で声かけを行うと、なんとかコートちゃんはこちら側に戻ってきてくれました。意識を取り戻した彼女は、顔を両手で覆い、悶えるように足をバタバタと震わせています。真っ赤な自分を見られたのが恥ずかしくてたまらないようです。けれど私は、そんな姿も愛おしい、そう思いました。

 

「アリアンスさんはほんとに冗談が上手なんだから……。ほ、ほら、明日も早いわ。もう寝ましょう」

 

一部始終を眺めていた月はもう、とっくに頂上を過ぎていました。



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忘れていた贅肉

「おはよー諸君。あれ、なんかコート嬉しそうだね。昨日の夜何かあったの?」

「別に何もないわ。目覚めがよかっただけよ」

「鼻歌なんか歌っちゃってさ。絶対ご機嫌じゃん」

 

頭の上にゆらゆら音符を浮かばせながら荷物をまとめるコートちゃん。私はというと、あの後は赤ちゃんのように差し支えなく眠れたのですが、睡眠時間が足りていないからか、コクコクと意識が落ちかける様子はメトロノームでした。けれどそんな私でも、青ざめて睡魔が霧散する行動を、目の前の、上機嫌でひまわりのように眩いウマ娘が行っていたのです。

 

「さてさて、せっかくだし体重を量っちゃおうかな。えっと、この辺に確か体重計あったよねー」

 

浴衣を音もなく解いて、桃色の下着と華奢なくびれがお目見えです。体重計に足を乗せ、ガクンと響くその瞬間を、血の気が引くような思いで見つめていました。まさにあんぐり、チューリップ賞の時に体重を量ってから、私はいったい何回お菓子パーティを重ねたでしょう。

 

「体重測定は構わないけれど、服くらい着なさいよ」

「私にとっては浴衣も重いの!完璧なウマ娘になるためにはまず体重からってこと。どれどれ……、あれれ、ちょっと増えちゃってるかも……」

「あら、完璧なウマ娘なんてどこにいるのかしら。私にはアイさんとアリアンスさんしか見えないわ」

「はあ?じゃああんたはどうなの!ほら、早く乗ってみなよ、はやくはやく!あれ、あれあれ、もしかしてコープコートさん、ビビってるの?」

「そんなわけないじゃない!ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、狼狽したまでよ。いいわ、乗ってやろうじゃない、あんたの話にも、体重計にもね!」

「ま、待ってコートちゃん。私、先にいいかな」

 

狼のように攻撃的にいがみ合っていた二人の仲裁を兼ねて間に飛び込み、目の前の体重計の針を睨んでいました。大丈夫、数キロならユウさんに坂路を増やしてもらえば――。片足ずつ乗せていった健闘も虚しく、そこには絶望の数字が表示されていました。

 

「どう、セーフだった?」

 

私の背中にしがみつき肩から数字を覗き込もうとするウールちゃん。やめてとアイちゃんに引き剥がされていました。もしや、私は冷凍庫の中にいるのでしょうか、それならこの数値にも納得ができます。この機械はきっと壊れています。きっとそうです。体重計に乗ってからの私の硬直に色々と察したのか、それこそ部屋は冷ややかな空気に包まれました。しかし、私の身体はサウナのように熱くて、汗が止まりません。お菓子は残酷です、酷いです酷いです。桜花賞まで日もないというのに、ユウさん、私はどうすればいいの?ウールちゃんがそっと私の肩に手を当てました。

 

「お菓子、ちょっと欲張っちゃったね。でも大丈夫、アーちゃんなら戻せるよ」

「うう……」

「アンと出会ってから落ち着いたけど、私もやけ食いくらい何度もしていた。だから大丈夫」

「ほら、ユウトレーナーならきっと分かってくれるわ。だから泣かないで、アリアンスさん。それに、多少ふくよかなアリアンスさんも私は魅力的だと思うわ!」

 

私が受けた衝撃はピラミッドのように大きく、朝食もせっかく高級旅館らしいラインナップだというのに、ほとんど喉を通りませんでした。焦げ目が香る鮭、艶やかな白米とその他惣菜。私の暴食が原因なのはもちろん理解してはいますが、深い憂慮の念が押し寄せてきます。はあ、ユウさんにどのように連絡すれば……。携帯を開くと、何通かのメールが届いていました。もちろん、あの方からのメッセージも健在です。『トレセンに戻ってからの予定なんだけど、いつものメニューから少しだけレベルを下げて段々慣らしていこう。そこからはアリアンスの意見も聞きながら調整していけたらと思う。最終日、全力で楽しんで』何の変哲もないごく普通の文章のはずなのに、私の悩みが見透かされているように感じてしまいます。いつもの調子のユウさんだからこそ、そう感じるのでしょうか。観念した私は、正直に全てを伝えることにしました。もし連絡を入れなかったとしても、今の私を一目見れば、ユウさんならきっと見抜いてしまいます。ただひたすらにごめんなさいと羅列した私の返信は、ユウさんに届いたでしょうか。

 

「最後は錦市場に行くよ、さあみんな、準備準備!。ほら、アーちゃんもいつまで落ちこんでるの!二人も心配してるよ?」

「アンを沈める贅肉は、私が食べてあげる」

「ほんと、あんたは一途だね」

 

いつまでも塞いでいては、せっかくの旅行が台無しになってしまいます。お腹にぎゅっと力を注入して、私は立ち上がりました。こうなったら最後まで全力で楽しんでやればいいのです。たくさんおいしい食べ物を買って、お土産もたくさん用意してやります。記憶の底に体重を追いやって、チェックアウトに向かいました。



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錦の占い師

「どこもかしこも新鮮な食品だらけ、さすがだねー」

 

行き交う客と店舗の熱気、京都随一の市場はやっぱり圧倒されます。ほのかに漂う鮮魚の生臭と、イートインコーナーでは観光客の団欒。そして自店の食材の優秀さを競うため、赤字で書かれた値札が店舗同士の火花散る争いを示しています。もう少し歩けば食材だけでなく、お土産や料理道具など古都風情に富んだ雑貨も揃っています。右を見ても左を見ても、私は感嘆の声を漏らすばかりでした。

 

「あ、見て見て、抹茶だよ抹茶!」

 

店頭販売のタワーのごとく盛られた抹茶わらび餅がまず目に飛び込んできました。ウールちゃんの言う通り、抹茶菓子が大量に並んでいるお店にやってきました。抹茶タルトに抹茶チーズケーキ、カステラやプリンまで取り揃えています。そしてなんと、パフェまであるそうなのです。これはもう私への挑戦状に決まっています。甘党の私に全て食べ尽くせと、そう命令しているのです。どんなお菓子でもアイスでも名フレーバーである抹茶に、私が我慢できるはずがありませんでした。

 

「あ、アーちゃん行っちゃった。待って、走ると危ないよー」

「ここにアリアンスさんを連れてきたのは失敗だったかしら。このままだとこのお店のあらゆる抹茶を食べ尽くして、体重もすごいことになってしまうわ」

「私は太ったアンもかわいいと思う」

「もう、あんたは黙ってて!ほら、二人とも、アーちゃんを監視するよ!これ以上食べたらさすがのユウトレーナーも怒るって!」

 

二階のカフェに向かおうと階段に足をかけると、強烈な視線を感じました。入口、レジ、そして真後ろ。私は見張られていたのです。この階段を上ってしまえば、もう欲望のままにお菓子を大量に注文する他ありません。その未来は想像するだけで耳が震えてしまいます。クラシック前に、自制の効かない怠惰で浮気なウマ娘を見て、ユウさんは何を思うでしょうか。「アリアンスを信頼していたけど、こんなこともできないなんて。失望したよ、君とはもうやっていけない」そう告げるユウさんの氷のような瞳が私の心臓を突き刺すのです。はわわ、怖いです、恐ろしいです。観念した私は踵を返し、みんなへのお土産を探し始めました。

 

「あ、戻ってきた。よしよし、偉いよアーちゃん。我慢我慢!」

「私たちの視線に気づいたのね。寂しそうな顔をしてるわ」

「お菓子くらい私がいくらでもプレゼントするのに」

 

どの商品も私の目には極上に映ります。取捨選択していると日付が変わってしまうと踏んだ私は、全部買ってしまうことにしました。こんなこともあろうかと貯めていた財布の中身を確認します。よし、大丈夫、お母さんにもお父さんにも、ユウさんにもいっぱいプレゼントしないと。両手には収まらないお土産たちと共に、私はレジに歩き出しました。

 

「ごめんね、遅くなっちゃった」

「おお、いっぱい買ったね。どれどれ、少し持ってあげよう」

「ありがとうウールちゃん」

「待って、私も手伝う。私の方が丁寧に扱うし、多く持てる」

「うふふっ、二人ともありがとう」

 

私が見回っている間、コートちゃんは陶器のために散策していたようです。お目当ての物が見つかったと、紙袋を抱えていました。その後も古都の品を堪能していると、一人の女性に声をかけられました。

 

「そこのかわいいウマ娘たち、せっかくの青春にアクセントの占いはいかがですか?」

 

占いと聞くと、上品な絹が敷かれたテーブルや水晶玉を思い浮かべるかもしれませんが、まさに想像通りの施設がそこにはありました。道端なので簡素なつくりですが、いささか異彩を放っています。表情を悟られないよう布で顔を覆い隠した占い師の方が、そこにはいました。冷淡な言い方をすると、うさんくさいのです。私たちが観光客であることはひと目見れば分かるので、それを頼みにして幸運の壺やら金満の数珠なんかを高額で売りつけられるかもしれません。怪訝に睨む私をよそに、一番敏感そうなコートちゃんは乗り気でした。

 

「まあいいじゃない、ちょっとだけ、寄ってみましょうよ」

「ちょっと不安だけど、コートちゃんが言うなら」

「いらっしゃいませ。お客様方は青春の真っ只中、色々悩みもあるでしょう。なので占い師である私の立場から、色々助言させていただけないかしら。お一人一回400円、何でもお答えいたします」

「いいわねその度胸、嫌いじゃないわ。それならまず、あなたが信頼に足る人物かどうか見極めさせていただけないかしら」

 

「何でもどうぞ」と不敵に笑うその口元に、占い師の矜持を感じました。私の顔をぐにゃりと曲げて反射する藍色の水晶玉をタオルで磨いて、準備完了のようです。

 

「私たちはウマ娘だから、当然支えるトレーナーがいるはずよ。四人それぞれのトレーナーの名前、教えてちょうだい」

「コートも手厳しいね、そんなの分かるわけないってー」

 

名家らしく強気で上品な言葉遣いで果敢に挑みます。しかし、占い師はその微笑みを絶やすことはありません。待っていたと言わんばかりに水晶に手をかざし、またまた不敵に笑いました。

 

「あらあら、私はてっきり四人分顔が浮かぶと思っていたけれど、このイケメンさんは相当モテているのね、妬いちゃうわ」

「なっ、どういうことなの」

「まずは後ろ三人、勇ましくて素敵なトレーナーさんをお持ちみたいね。ユウトレーナー、そう呼んでいるみたい。でも、そこの白髪のお客様以外のお二人は、最初は別のトレーナーだった。どう、当たりかしら」

 

唾を飲み込む音が聞こえた気がしました。日差しが眩しかったはずなのに、今はひんやりと冷たい汗が背中をなぞり、身体が震えます。コートちゃんもアイちゃんもウールちゃんも、動揺を抑え切れていない様子でした。ゴクリ、また一つ唾を飲み込む音が風のように耳を通り抜けました。

 

「最後に栗毛のお嬢さん。あなたはやっぱり名家のお嬢さんらしく、スパルタなトレーナーがついているみたい」

「待って、待ってちょうだい。もう十分、十分にあなたの凄さは伝わったわ。でも少し動揺してるの、落ち着くために少し時間をくれないかしら」

「あ、あたしも。占い師なんて所詮偽物だと思ってたから、正直ドキドキが止まらない……」

「ちょっとやりすぎちゃったかしら。でもこれで、私の実力を分かっていただけたでしょう?ペテン師とは違う『本物』の力、さあさあ、何でもお聞きくださいな」

 

覇気に包まれた占い師のその姿は、まるで威厳に満ちた女王様です。いつ消えてしまうかも分からないランタンの火がゆらめく真下で、沈黙を破ったのはウールちゃんでした。

 

「えっと、じゃあじゃあ、アーちゃんのこともっと教えて!」



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占い師の暴露

「せっかくなら、自分でも気づいてない部分を知りたいな」

 

再び、占い師は水晶との対話を始めました。私の目には、誰かの姿が浮かび上がる様子も、水晶が光り輝く様子も映ることはありません。しかし、占い師は執拗に藍色を睨みつけています。やがて、含み笑いの後、静かに口を開きました。

 

「アリアンスさん、素敵な名前ね。せっかくこんなにかわいいのだから、恋愛面の話をしちゃおうかしら。青春の醍醐味だものね。あらあら、あなたは超が付くほどの一途みたい。相手は慎重に選ぶけれど、心を許した相手にはとことん尽くし、夢中になる。そしてそして、独占欲も人一倍強いみたい。一度繋いだ手は二度と離さない、そんな感じ。ふふふ、私自身、ここまで綺麗なウマ娘さんは初めて見たけれど、この子に溺愛される伴侶様は幸せ者ね。あら、少しばかり赤裸々に語りすぎたかしら」

「あ、ああ……」

「アーちゃんが金魚みたいになってる。おーい、あらら、これはダメそう。あれ、何で二人まで顔赤くしてるの?」

「あ、アリアンスさんにそんな一面が……」

「アン、かわいい……」

 

サウナのように身体が熱を帯びています。心なしか、突沸している感覚まで。湯気でホカホカです。あまりの恥ずかしさに、うつむきながらもじもじと身体をくねらせることしかできません。ああ、心臓が窮屈です、赤裸々に語られた私の恋愛観。好きな人にべったりくっついて離れようとしない私を想像すると、顔から火が出る思いでした。うう、コートちゃん、アイちゃん、そんな顔で見つめないで……。

 

「へえ、まさかアーちゃんがこんなに大胆だったなんて!お相手は誰かな、まあ、誰であってもアーちゃんを取らせる気はないけど!アーちゃんはあたしにデレデレだもんね?」

「う、ウールちゃん、そんなに言わないで……」

「もう、その辺でやめときなさいよ!大丈夫よアリアンスさん。むしろ、その、私にはこの話は好感触だわ……。一途って、とっても素敵なことだもの」

「なんだよー、そうだ、今度はコートのこと聞かせて。お金はちゃーんと払うから!」

 

一息の間もなく、ウールちゃんはもう水晶の虜になっています。「まあ落ち着きましょう」とクスクス笑う占い師。これが落ち着いていられるはずがありません。顔の火照りが治らない間に、彼女は言葉を紡ぎます。

 

「コープコートさん、またまた素敵な名前ね。見た目通り高貴な身分で、常識人。アリアンスちゃんと会ってからはその人望もさらに強まったとか」

「い、今から何を言われるのかしら……。当たり前のように素性を言い当てられてしまうんだもの、感覚が麻痺してしまうわ」

「正義感が強く、堂々とした振る舞いで隙を見せないけれど、恋愛に関してはまだまだ初々しいみたい。特に意中の相手に対しては、顔には出さないけれど、頭はパニックになるくらい緊張している。だから少しでも強く歩まれると、すぐボロが出てしまう。恋愛的資質は奥手な子、そんな感じ。これまたかわいいわぁ。青春って感じ。いつか正直に気持ちを伝えられるといいわね」

「い、いったい何を言ってるのかしら!その占い、絶対外れてるわ!」

「コートちゃん、奥手なの?ちょっとだけ以外かも」

「そ、そうかしら」

「うん、とってもかわいいと思うな」

「な、何を言っているのよ!かわいくなんて……」

「なるほど、こういうところが脆いってことね」

 

からかうウールちゃんに回し蹴りが深く突き刺さりました。ブォン、音が聞こえた時には、ウールちゃんは悶絶していたのです。コートちゃんも容赦がありません。

 

「ぐふっ、いつもより痛い……」

「あんたが変なこと言うからよ。まったく、こうなったらあんたのことも聞いてしまおうかしら。さあ、教えてちょうだい」

「そう言われると思って、水晶はすでに全てを見抜いているわ。明るく活発、まさにムードメーカーのお手本といった素敵な子。けれど、その淡い髪と表情は、自信喪失の裏返し。他人を高く評価するあまり、自分には何もないと強く思い込んでしまう。だからこそ、他人を忖度なく評価できるコープコートちゃんや、細かい気遣いの天才であるアリアンスちゃんとの相性は最高。この三人はまさに運命の糸に引かれて出会った。フルアダイヤーちゃんとは最近仲良くなったみたいでよかったわ。どっちも素直な子だから、自然と衝突も増えてしまうのかしれないわね」

 

てっきりあたしの性癖でも暴露されるのかと思ったけれど、そんなことはなかった。私が度々自分の無力さを痛感していることを、この占い師は把握していた。そして、その痛みの数だけアーちゃんたちに支えられてきたことも。あたしが弱みを吐露するたびに、みんながそれを霧のように消してくれる。だから私は、こうして最前線で戦うことができる。あれ、なんで、どうして涙が。鼻がツンと痛くて、同時に頬を湿った雫が伝っていくのを感じた。この涙は、私がどれだけみんなを大切に思っているかを痛烈に表した一雫だった。私は涙が出るくらいみんなが大好きだから。

 

「ウールちゃん、大丈夫?どこかで休んだ方が……」

「ううん、違うよアーちゃん。気分がいいから、あくびが出ちゃった。なーんて、冗談だけど、調子が良いのは本当だから!気にしないで!ほらコートも、そんな顔で見ないで!本物の占い師はさすがだよね、全部当てられちゃうんだもん。おかげでみんなの大切さを再認識できた!」

「私とアリアンスさんは気絶してしまうほど恥ずかしい話をされたというのに、あんたの暴露がこれじゃ釣り合わないわ。もっととっておきはなかったのかしら」

 

ウールちゃんが突然涙を流し始めたのを見て、顔を真っ青にしてコートちゃんは駆け寄っていました。後一秒ウールちゃんの返答が遅かったら、救急車を呼んでいたと思います。今はかわいらしい憎まれ口を叩いてはいますが、親友の変化に敏感で、心から心配できる優しい子なのです。そんな姿が見られただけでも、立派な暴露だと、そう思います。

 

「もちろん私と水晶は全てを知っているから、探せば恥ずかしい話なんていくらでもあるのよ。例えば、ショートウールちゃんのベッドの下……」

「待って、待って待って!それ以上喋ったら許さない!プライバシーの侵害で訴えるから!」

「あら、何があるの?私やアリアンスさんにも言えないような物なの?ねえアリアンスさん、私たち、この子に距離を置かれているみたい。ひどいわ、もうずっと一緒にいる仲だというのに」

 

待ってましたと言わんばかりのコートちゃんの目配せに、私の中の堕天使が猛烈に反応しています。からかわれた分だけやり返してやりましょう、そう告げていました。取り乱すウールちゃんはなんとも珍しいのでこの誘いに乗らないわけにもいきませんでした。

 

「ウールちゃんは隠しごとしないって、私信じてたのに……」

「アーちゃんまで、もう、あたしが悪かったら!別にエッチな本とか置いてるわけじゃないの!だいたい、そういうのはベッドの下になんて隠さないし……」

「ならどこ」

「そもそも持ってないから!あんたは黙ってて!」

「ふふっ、必死ね」

「ウールちゃん、かわいい」

 

慌てるウールちゃんを存分に堪能して、お代を支払いました。結局ベッドに隠されている物の正体は秘匿されたままでしたが、知るなと言われるとその分だけ人は気になってしまうというものです。うん、やっぱり気になります。

 

「またのお越しをお待ちしておりますわ。ここに定住しているわけではないので、またがあるかは分かりませんが。耀かしい未来が青天の霹靂とならぬことを、心から祈っております」

 

水晶が少しずつ濁りを見せ始めるのと同時に、私の中にも濁った塊が煮えているのを感じました。これはきっと未来への不安です。これだけの実力の占い師なら、未来を占うことだって可能なのではないでしょうか。今の私が歩んでいく軌跡を、どうか占ってほしいのです。みんなには外に出てもらって、一対一で向かい合います。私の神妙な顔持ちに、少し驚いている様子でした。

 

「もう一つだけ、お聞きしたいです」

「何でもどうぞ」

「未来を占うことは、可能ですか」

 

占い師の唇がさらに潤んだのを、私は見逃しませんでした。



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絶対を透かす水晶は

「もちろん。私の水晶は写真よりも鮮明に全てを映し、照らす。何が知りたいのかしら」

「私は、桜花賞で一着を取れたでしょうか」

「もうそんな時期に。そうね、そうよね、ウマ娘なら皆、クラシックの結果が気になって、気が気じゃないわよね。ここであなたと会ったのも何かの縁、全てを占ってみせましょう。あなたにそれを受け止める覚悟があるなら。あらあら、その瞳、愚問だったみたいだわ」

 

未来を透視できるというのなら、見てみたい。もしその先に醜悪な敗北があったとしても、その絶望は好奇心には遠く及ばなかったのです。耳を立てて、はち切れそうになる心臓を無理やりに抑えます。しかし、何分経っても、求めた返答が返ってくることはありませんでした。

 

「あら、水晶が返事をしてくれないわ。ごめんなさい、どうも調子が悪いみたい。お代はいいから、皆のところへ戻った方がいいわね。占いを頼みにしなくたって、あなたならきっと勝てるわ。だって、私の周りはみんなあなたのレースに夢中だったもの」

「えっ」

「世代のトップクラスで切磋琢磨するウマ娘よ、国民の半分は顔を知っているわ。それに、どうして私の周りがあなたをこんなに持ち上げるのか、今応対してよーく分かった気がするのよ。あなたの魅力の全てを、水晶とその澄んだブドウのような瞳が教えてくれた。おまけにゴールドシチーにも比肩するビジュアルを持っているのだから、ファンがいるのも当然ね。桜花賞、楽しみにしてるわ」

「あ、ありがとうございます……!」

 

トゥインクルシリーズは誰もが注目する大舞台。この方が見ているのもおかしな話ではないのです。ですが、一般の方に私のレースを評価されることがこんなに快いものだということは知りませんでした。その言葉はまるで、私の今進んでいる道を肯定してくれているように感じたのです。それは水晶で開かれた未来よりずっと信頼できる一言でした。だからこそ、私は桜花賞のタイトルをこの手に掴まなければいけないのです。応援してくれている全ての人のために。私は机上のポシェットを慌てて拾い上げ、何度もペコペコと頭を下げてから、みんなの元へ戻りました。

 

 

「あの子には、水晶の結果を伝える必要はないわね。私の水晶の未来予知は残酷なまでに正確だけど、過去一度だけその未来を外したことがあった。デュエットナタリーの秋華賞、水晶の予知は空回りし、未来はあらぬ方向へと捻じ曲がっていった……。あらゆる事象の未来が決まっていたとしても、トゥインクルシリーズには絶対なんてない。だからこそ、血反吐を吐くような思いが時に絶対を凌駕し覚醒する。彼女、アリアンスなら、再び未来を変えてくれるに違いないわ。それに私はもう、しかも今度は現実で、廃人のような虚な目をしたあなたの姿を見たくはないから……。あんなの、水晶だって辛いわよ……」

 

アリアンスに虚偽の報告をしたことが吉と出るか凶と出るか、それは桜花賞の着順が出るまで分からない。もしアリアンス勝利したのなら言うまでもないし、敗北してしまったら、その敗因のほんの一部は私にあるのかもしれない。あのまま水晶の内容を伝えていたら彼女は堕落していたのだから、自責の念に駆られる必要はない、そう言ってくれる優しい人もいるのかもしれない。けれど私は、自分が正直に彼女に占いの結果を伝えなかったせいで彼女が負けたかもしれないという罪悪感に酔いしれながら彼女の運命を見届けることに、この上ない幸福を抱いてしまっていた。だってそのどん底から復活なんてしてしまった暁には、ワインがもっとうまいでしょう?

占いの結果を馬鹿正直に伝えるだけじゃあ、食っていけないのよ。

 

「さあアリアンスさん、夢はあなたの不断の努力の先にある」



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京都旅行 終

アイちゃんやウールちゃんから、何を聞いたのどうしたのと立て続けに質問されました。わざわざみんなを追い出してしまったのですから、当然です。冗談混じりに恋愛相談だよと言うと、質問攻めが激しくなってしまいました。そしてなぜかコートちゃんまで顔を赤くしていました。そんな冗談を交わしていたら、いよいよ長かった京都旅行も、残すは新幹線だけとなってしまいました。

行きは会話のキャッチボールもお菓子のキャッチボールも盛んだったものですが、帰りは閑古鳥が鳴いているようです。コートちゃんは特注のイヤホンを付けて感慨に浸り、ウールちゃんは窓にもたれかかって熟睡していました。ああ、楽しかったなあ。二人の顔を見ていると、自然と漏れてしまった一言。アイちゃんだけは聞き逃しませんでした。爽やかな視線を私に向けます。

 

「人生で一番楽しかったかもしれない」

「うふふっ、私も」

「居場所をつくってくれたアンは、私の恩人。あなたがいなかったら、こんな体験できなかった。友達がいるって、本当に幸せなんだね。会話するだけで心の内が温かくて、もっとみんなといたいって自然と身体が動いて。学園を辞めなくて、本当によかった……」

 

ポロポロとこぼれ落ちる、宝石のような涙。クールだった彼女が見せた、抑えきれない感情の吐露に、嘘偽りはありません。もうそこには以前の冷淡なアイちゃんはいないのです。情純な笑顔を私たちに向けてくれる親友が

一人、ちょこんと座っているだけでした。アイちゃんと仲良くなりたい、入学当初から叶えたかった願いがようやく、音を立てて、強固な鎖で繋がれた上で叶った気がしました。

 

「私もアイちゃんと出会えてよかった!」

「アン、大好き……!」

 

新幹線の中でもお構いなく私の胸に飛び込んできました。やっぱりアイちゃんはスキンシップが過剰です。目の前の二人に見られていたら、何を言われるか分かったものではありません。恥ずかしさで私が固まっているのをいいことに、ギアをもう一段階上げて抱きしめます。まるで猫を膝に乗せているような感覚でした。もしかして、本来のアイちゃんはとっても甘えん坊なのかもしれません。そう考えると途端に愛しくなってしまいました。十分なスキンシップの後で、私に肩を寄せて眠りにつく彼女を、起こすことはしませんでした。

 

 

 

「ユウトレーナー、やっほー!私たち、無事帰還しました!寂しかったですか?でももう大丈夫。一皮も二皮も剥けた私たちが来たからには安心です」

 

ホテルでチェックインをして、通された部屋の鍵を開けるとその清潔さに圧倒されてしまうものです。その感覚と全く同じものが、このトレーナー室では感じられます。ユウさんの綺麗好きの徹底ぶりは一流ビジネスホテルに匹敵するのではと、何回思ったことでしょうか。今、そんな場所に帰ってきました。

 

「みんなおかえり。アリアンスから送られてきた大量の写真や動画を見る限り、有意義な休暇になったんじゃないかと思う。本当によかった。通知が止まらないのを喜んだのも、今回が初めてだよ」

「え、アーちゃんそんなに送ってたの?」

「思い出をユウさんとも全部共有したくて、ダメだったかな……」

「もう、かわいいなあ!このこのー!」

 

私のスマホの写真アプリには、京都旅行の四文字が付与されたフォルダがあります。帰りの新幹線の中で、何周も見返していました。

 

「もちろんトレーナーさんへのお土産も買ってきたわ。ね、アリアンスさん?」

「お菓子、たくさん買ってきました。長時間作業のお供は糖分です。いつも夜遅くまで私たちのメニューを考えてくれるユウさんの助けになればと思って……」

「ほんとはアーちゃんが食べたかっただけのくせにー。帰りの時、内緒で全部食べちゃおうかなって私に言ってきたくらいなんですから!」

「ウールちゃん、もうノート見せてあげないんだから」

 

ウールちゃんが苦虫を噛み潰したような顔をしていますが、もっともっと、ユウさんに話したいことは山ほどあります。それぞれ語り合いたいことが山ほどあるので、トレーナー室はいつになく騒がしい様相を見せました。そのせいか、扉のキィという音にも気がつかなかったのです。

 

「ユウ君、頼まれてた資料、持ってきたよ……!」




書きたいことが多く、予定よりかなり長くなってしまいました。旅行が終わって、新キャラ登場です。そして読んでくださった方、お気に入りに加えてくださる方、励みになっています。本当にありがとうございます。


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もう一人のトレーナー

息は少し荒く、両手に積まれた大量の本で身体の半分が隠れていました。くせ毛をアンテナのように揺らしながら部屋に入ってきたその女性。もちろん私たちははじめましてでした。自分の入室の間の悪さを恥じているのか、その女性は慌てています。

 

「あ、いや、その……」

「そんなにたくさん持ってきてくれたんだ。ヒナ、ありがとう」

 

私たち四人全員が、頭の上に巨大なはてなを浮かべています。「それもそうだよね、説明しないといけない」そう言って女性が持ってきた資料をユウさんが受け取りました。

 

「ちょうどみんなが旅行に行っている間に、トレセン学園で新米トレーナーとして活動することになった、僕の同い年のヒナだよ」

「あわわ、その、私……」

 

その女性、ヒナさんは目を泳がせて、言葉に詰まっているようでした。頭が真っ白になっているヒナさんに、ユウさんは暖かい言葉をかけます。

 

「大丈夫、落ち着いて。アリアンスたちなら快くヒナを受け入れてくれるはずだよ」

「あの、私、つい先日からここでトレーナーとして活動することになりました、その、ヒナといいます……!至らない点も多いかと思いますが、わ、私、精一杯サポートするので、その、どうかよろしくお願いします……!」

 

ヒュンと音が聞こえてしまうほど勢いよく、直角に頭を下げます。エアコンが効いた清涼な一室で、ヒナさんの一滴の汗が照明で輝いているのが見えました。まるで目上の上司のような扱いを受けているので、当然私たちは困惑です。頭を上げたヒナさんは、私たちの機嫌を伺うような弱気な瞳をしていました。面接のようにピリピリとした空気が流れる中、それを切り裂いたのはやっぱり頼れるコートちゃんでした。

 

「ここには世代最強クラスのウマ娘が四人もいるのだから、緊張するのも無理ないわ。ふふっ、そうよ、私たちはすごいんだから。なーんて、ヒナさん、こちらこそよろしくね」

 

私はコープコート、そう胸を張って告げた後、ダンスを踊るように優雅にカーテシーを行いました。裾を持ち上げる動作は凛々しく、気品に満ちています。さすが名家のお嬢様です、ほんの小さな所作なのに、思わずうっとり見惚れてしまいました。

 

「あんた、そういえばお嬢様だったもんね。今見てて思い出した」

「な、どういうことよ。私だって礼節くらいわきまえてるわ」

 

いつもの二人のやりとりに、ヒナさんの口元の震えが止んだ気がしました。私としても、もっと気楽に、むしろどっしり構えて応対してくれるくらいでも丁度いいと思います。その一歩として、少しでも安心していただけたのなら、これ以上ない喜びです。

 

「それで、担当ウマ娘は決まったんですか」

「まだ、何も……」

「しばらくは僕の近くで、皆のサポートをお願いすると思う。ヒナには、アリアンスたちを支えていく中で自分に合ったウマ娘を見つけ出してほしい」

「よろしくお願いします、ヒナさん。私、アリアンスっていいます」

「あわわ、こちらこそ、どうかよろしくお願いします……!」

 

入学したばかりの時、ナタリーさんに対して、今のヒナさんのような動揺ぶりで挨拶を交わしていたような気がします。それなら私は、心配しなくていいよ、そう伝えなければいけない気がしました。

 

「ヒナさん、緊張、していますか?不安、ですか?」

 

アメジストの瞳でヒナを見上げるアリアンスは、心配しているというよりは、どこか子をあやすような温かな口調だった。まるで彼女のことを全て理解しているようだ。さらにその張り詰めた不安と緊張の糸をゆっくりと解こうとしている。それが彼女の天性の優しさだった。それが、ふわりとヒナを持ち上げて、そのまま包んでしまうような錯覚を起こした。思わず彼女は、はいと答えてしまう。

 

「ヒナさん、すごいです」

 

今度は尊敬の眼差しで、ヒナを見つめていた。

 

「私、自分のマイナスな気持ちを正直に伝えられる人って、とっても素敵だと思うんです」

 

トレーナーの方は、ウマ娘の前だとどうしても弱みを見せようとしない人が多いです。余計な心配をかけたくなくて、自分が取るに足らないトレーナーだと思われたくなくて。お父さんは言っていました、美しいトレーナーは、自分の強みも弱みも全部担当ウマ娘にさらけ出して信頼を得ようとする、と。彼女たちがどんなに巨大なモノを背負って走っているのか、それがどれだけ苦しいことかを理解しているトレーナーは、自然と自分の弱みを吐露し、歩み寄ろうとしてくれます。ウマ娘が背負うものは、レースの身体的辛苦だけではありません。自分や誰かの思い、背負うもの全てに押しつぶされそうになりながら走っている。そのことを理解できるトレーナーは、「自分だってこんなに情けない人間だから、君も完璧である必要なんてないよ。少しでも苦しくなったら、嬉しくなったら、何でも全部教えてほしい。素敵な報告なら僕も心から嬉しいし、冷たい話題なら、こんな僕だからこそ寄り添える部分もあるはず。どれだけ些細なことでも一緒に乗り越えていきたい、だから君のこと、全て教えてほしい」と言うのです。どこまでも対等であろうとするのです。ひたすらトレーニングメニューを指示し、ウマ娘を機械のように扱うだけでは、いずれ壊れてしまいます。まして、自分を崇高な存在だと告げるのはもってのほかです。さっきの言葉は、ユウさんが私に告げてくれたものです。その言葉で、私の心は救われたような気がしたのでした。そして今、ヒナさんにどこか似たような感覚を覚えたのです。小さな感覚でしたが、ヒナさんを離してはいけないと、そう言っているように感じたのです。この人はウマ娘を理解できる人だと、そう言っているのです。

 

「だから、ヒナさんに私たちのサポートをしてもらいたいです。一緒に頑張りたいです。だから、よろしくお願いします……!」

 

ヒュンと音が聞こえてしまうほど勢いよく、直角に頭を下げました。垂れた髪が目に当たって痛みを感じます。反射で、するっと涙が二粒、滴りました。

 

「あたしもアーちゃんと同意見!せっかくならみんな改めて自己紹介しないとね!」

 

ウールちゃんのいつもの爽やかな大声が、いっそう響き渡りました。



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(番外編)十一話 滲む父の姿

アリアンスたちはついさっき、駅に向かった。桜の季節には似合わない枯れ葉が、かろうじて枝にへばり付いている。何度も春風に吹かれては耐え忍ぶその姿を、僕はコーヒーを飲みながら意味もなく鑑賞していた。一難去ってまた一難、あの傲岸不遜なトレーナーを黙らせ、コープコートちゃんを引き剥がしたからといって、コープコートちゃんの実力をもっと伸ばすにはどうすればいいのか、その問題が部屋中を駆け巡っている。僕は彼女のトレーナーではないから、お前が干渉する問題ではないだろうと言われてしまえば心苦しいのだが、デメリットだけではない。レースの実力は言わずもがな、それならば、精神的成熟を完了させた彼女はアリアンスたちにとって超えるべき大きな障壁となるだろう。そしてそれを越えようと努力することで、コープコートちゃんに続くように飛躍的な成長を遂げるはずだ。そう、コープコートちゃんにとってストレスの少ない環境づくりは、僕にとっても大きなメリットがあるのだ。世代最強のウマ娘がさらに実力をつけたとき、それに続く者たちの実力も、右上がりの関数のように否応なく上昇していく。そんな理論ばかり捏ねてはいるが、実際は全く前に進んでいないばかりか、思案ばかりパソコンばかりで、体調を崩しかけていた。彼女が現れたのは、そんな時だった。

 

「あの、その、ここに、ユウトレーナーがいるとお聞きしたのですが……」

 

深夜、冷蔵庫の食材で腹を満たそうと、親にバレないようにこっそり台所に忍び込む子どものように音も立てずに扉を開いた女性がいた。一目見た途端、僕の記憶の鍵付き書籍の山が次々に音を立てて開いていった。バタ、バタ、バタ、何冊も何冊も。蘇った記憶の彼女とはまるで異なっていたが、その自信なさげな応対だけは変わっていなかった。まだ小学生だった頃、熱心に夢を語る僕の隣で、口元に手を当てて笑ってくれた女の子。一緒に馬にも乗ったし、家まで遊びに来てくれたこともあった。それが彼女、ヒナだった。

 

「私のこと、覚えていますか……?昔、たくさん一緒に遊んだよね。突然いなくなっちゃったから、私、どうしてももう一度会いたくて……」

 

その泣きぼくろ、どこまでも長い黒髪と頂点のくせ毛。変わってなんかいない、当時の面影はそこら中に散らばっていた。記憶の中の彼女の一つ一つのパーツが、パズルのように目の前の彼女にがっちりと当てはまっていく。ああ、君は本当にヒナなんだ……。彼女には数えられないほど言いたいことがあった。けれど、自分が逃げ出した負い目から、記憶に蓋をし、考えないようにしていた。だからこそ、ここで出会えたことに僕の情緒はめちゃくちゃにかき乱されていた。

 

「この見た目なら、覚えててくれるかもって思ったの……。ほら、ユウ君昔、派手じゃない女の子がタイプだって言ってたから……」

「どうして、どうしてここに……」

「ユウ君なら絶対、トレーナーになってるって確信してたの。私にいっぱいお話ししてくれたよね。私もトレーナーになれば、きっとユウ君と一緒に働けると思ったの。だからたくさん勉強して、少し前にトレセン学園の試験に合格したんだよ……!」

 

そんな、そんなことが。理解が追いつかなかった。冷えたコーヒーをちびちびと飲んでいたさっきまでの僕はどこに行ってしまったのか。高級そうな鞄から証明書を取り出し、嬉々として私に突き出してきた。分からない、どうしてそこまでして僕に会いにきてくれたのか。

 

「ごめん、少しだけ整理させてほしい」

「そ、そうだよね……。いきなり来られて迷惑だったよね。ごめんね、ほんとにごめんね」

「そんなに謝らないで。少し気が動転しただけだから。ほら、そこのソファに座って。ヒナには、たくさん話したいことがある」

 

ソファに腰かけ、ヒナは部屋を見渡している。どちらも声を発することはなく、コーヒーメーカーの虚しい機械音だけが響いた。

 

「はい、コーヒーどうぞ」

「お部屋すっきりだね……。ユウくんは昔から綺麗好きだったよね……!」

「ヒナ、どうしてトレーナーに」

 

正直なところ、めまいがするほど混乱していた。もう二度と会うことはないだろうと思っていた彼女が、記憶の底に閉じ込めていた彼女が、取るに足らない今日、今目の前にいるのだから。

 

「も、もちろん、ユウくんに会うためだよ……!トレーナーの試験は難しかったけど、どうしてもユウくんに会いたかったから……」

「そういう、ことか」

「でも、目の前にユウくんがいると思うと、ドキドキしちゃうね。とってもカッコよくなってたから、びっくりしちゃった……!ちょっとつり目になったかな……?」

 

僕の顔色を伺う彼女は、クリスマスプレゼントを我が子の枕元にセットする親に似ていた。弱々しい物言いに再会の喜びを包含している。敵意など微塵も感じられないというのに、僕は後ろめたさから肩の力を抜けなかった。

 

「ユウくんが担当してる子のレース、見たよ……!みんな信じられないくらい強くて、さすがユウくん……!」

「彼女たちの努力の賜物だよ」

「でも、ユウくんがトレーナーになって結果を残してるって分かって私、とっても嬉しかったよ……!昔、たくさんお話ししてくれたよね!」

 

こんな無垢な笑顔を向けているというのに、痛いところを突かれたような気がしてならない。彼女はやはり、僕が何も言わずに学校を辞めて街を出ていったことが許せないのだろうか。

 

「ユウくんならきっと、お父さんみたいに素敵なトレーナーになれるよ……!ううん、もっと凄いトレーナーに!だから、その……。あの、あのね!私にそのお手伝いを……」

 

パリン、マグカップが指からするりと落ちていった。来る、来ると分かっていた、親父の話。いざ語られると、身体中が震えて止まらない。どうして彼女は顔を赤らめているのだろう。僕はこんなに震えているのに。真っ青な顔で親父の話を拒絶しているというのに。心臓から得体の知れない何かが送り込まれ、喉までやってきた。艱難、喫驚、慚愧、あらゆる負の感情が喉元までやってきて、気づいた時には、机を叩いていた。

 

「親父の話はするな!」

 

つい数秒前までりんごのような鮮やかな赤を頬に宿らせていた彼女の顔が、途端に青白く変色していく。まるで殺人鬼とばったり出くわしてしまったかのように。自分でもどうしてここまで激情したのか分からない。彼女は、ヒナは、こんなに怯えているのに。もう一言彼女から言葉を発せられたら、どうにかしてしまいそうだった。

 

「ご、ごめんね……。そうだよね、嫌だったよね……」

 

何が起こったのか彼女には理解できていないことくらい、容易に想像できた。それでも、反射的に謝罪の雨ををユウへと注いでいる。その姿を見て、ようやく自分がしていたことの愚かさと虚しさを彼は理解した。自分を求めて遠路はるばるやってきてくれたヒナを怒号でもって拒絶したこと、八つ当たりに等しい背徳行為を行ってしまったということを、鈍器で殴られるような衝撃と共に理解した。彼は音も立てずにソファへと深く座り直した。

 

「もう、昔の話はしたくないんだ。悪いけど、出て行ってほしい」

「――ごめんね、ユウくん」

 

乾いた音を立てて、扉は開いた。



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(番外編)十二話 父との邂逅

窓から見える枯れ葉は、ついに落ち切ってしまった。強風でガタガタと揺れる窓が僕を責め立てる。僕はいったい、彼女に何を言った?何をした?到底許されることではない深い傷を負わせてしまったことだけは分かった。

冷え切った教室で、僕は呵責と自責を繰り返していた。

僕の古い記憶には、背後霊のように親父が付きまとう。どの記憶を覗いてもあいつがいるから、全て封印することにした。そのはずなのに、今日、ヒナがここまでやってきたのだ。そんなことは当然想定外で、僕は動揺し、記憶の蓋はあっさり開いた。まだ小学生だった頃、彼女に自分の話をこれでもかというくらい浴びせた。それに耳を傾けるヒナは僕以上に瞳を燃やして聞いてくれていたと思う。けれど、その記憶を掘り起こすということは、親父に憧れていた自分という、考えたくもないコンプレックスが浮き彫りになってしまう。そのせいで、彼女との談話にも熱が入らず、むしろ怯えるような態度になってしまった。この行為が彼女をどれだけ失望させ、失礼に値したかは言うまでもない。ごめん、そう言いたかった。今すぐにでもここを飛び出し、床を蹴り上げて彼女に謝りたかった。しかし今の廃人のような僕が彼女に一言謝意を述べたくらいでどうにかなる問題ではないことは、こんな僕でも理解できる。過去と向き合い、親父との軋轢を乗り越える勇気と度胸、それを身につけなければ、僕は前には進めないのだ。僕は目を瞑り、洞窟を探索するように隅から隅まで記憶をたぐっていった。ヒナに語った理想はあの日、数秒で砂城のように塵と化した。親父に失望した僕は、夢も希望も目標も無くし、やがて学校に行くこともなくなった。それくらい、僕には衝撃的な事件だった。それを見かねた母親は、熟考を重ねて僕を転校させることにした。それを聞いた僕は、その機会を親父との決別の良い機会だと考え、転校してからは狂ったように、孤独にレース理論を学んでいった。もちろん、彼女には何も言わず僕は去った。あらゆる記憶全てが鮮明に沸いてくる。それと同時に、一つの温かい感情が胸を包んでいるのが分かった。

 

「あれ、想像していたよりずっと、苦しくない」

 

呪ったように封じていたはずの記憶を掘り起こしたのに、苦しくなかったのだ。改めて顔を突き合わせて向かったのに、自分が考えていたよりもダメージは小さかった。その意味はすぐに分かった。そうか、僕はまだ、逃げていたんだ。とっくに一人じゃなくて、こんなに素敵な仲間がいるのに――。今の僕は、孤独にレースを学ぶ臆病な僕じゃない。アリアンスやウール、そしてヒナ。みんながいるんだ。過去を越えるための準備はとっくにできていた――。父を追い続けた、過去の後ろめたい僕は、今の順風満帆な僕には遠く及ばない。だから、ダメージが少なかったんだ。カップから溢れるくらいの涙を流した。いくら親父に悪態をついても、決別したと考えていても、結局僕は変わらないままだった。口では越えようと言っていても、ただ見ないようにして逃げていただけだったのだから。けれど、もう逃げない。親父を越えるということの本当の意味と、支えてくれる皆の輪郭を、この瞳で眩いほどに捕まえたから。今すぐヒナに謝りに行こう、そして全て聞いてもらおう。そう思ったけれど、セットした前髪も乱れて、まぶたは腫れている。

 

「こんな顔じゃ、ヒナに謝れないよ……」

 

変な失笑が出た。でも、そんな心の余裕が心地よかった。何度も深呼吸して、いつも以上に髪をキメてから、鏡をよく確認し、部屋を出た。



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(番外編)十四話 彼の乖離

今日のターフはいつもより静かだった。それでも多少の賑わいはあって、トレーナーとウマ娘のペアが米粒のように散らばっている。そんな中に、ヒナはいた。ただ孤独に芝を見つめ、夕日を透過してしまいそうなほど霞んでいた。砂粒の混じる芝を踏みつけ、魂の抜けた彼女に声をかける。どう説明しようとか、何て声をかけたらとか、そういうことを考えるのはやめた。

 

「ユウくん……」

 

トレーナー室で僕と再会した彼女が持っていた艶やかな髪の代わりに、今は濁ったクマを宿していた。ホームから身を投げようとしている人間が持つ負のオーラをまとっている。

 

「ヒナ、さっきはごめん。幼稚で浅はかで、酷いことを言ってしまった。何時間も努力して、せっかく会いに来てくれたヒナに対して、本当に冷たい態度をとったと思う。本当にごめん」

 

ヒナは灰色の瞳で僕を見つめているが、何も答えることはない。

 

「ヒナのおかげで、僕は過去と向き合うことができた。僕は君と一緒にトレーナーとして高め合いたい。そのためなら何でもする。だからどうか、僕を許してほしい。もう二度と、自分の感情に任せて誰かを傷つけるようなことはしない」

 

ウマ娘みたいに、彼女の耳がピクっと動いた。固まった血液がとめどなく流れ始めるように、彼女の瞳の端から少しずつ、色彩が戻っていく。僕の謝罪を一言ずつ、受け入れてくれたようだった。

 

「私、ユウくんの隣にいてもいいの……?」

「ああ、もちろん。むしろこちらこそ、お願いしたい」

 

よかった、私、拒絶されていなかったんだ。ユウくんのあの顔、私は触れてはいけない禁忌の扉を開いてしまったのかなって。数十分の時間だったけれど、煩わしくて、何もやる気が出なかった。でも、今目の前にいる男性は、私が焦がれたユウくんだった。二人の間のわずかな距離が鬱陶しくて、私は走り出した。でも、小石につまずいて、視界が歪んだ。顔が地面にぶつかる寸前、差し伸べられた大きな両手は、私を金魚すくいのように優しく受け止めた。

 

「危なかった。大丈夫?怪我はない?」

「あわわ、あわわわ……」

 

彼の顔が近い。それどころか、身体がユウくんの腕と密着してる……!布を隔てていても、彼の確かな温もりが

伝わって、じんわり広がっていくのが分かった。でも、それと拮抗しているのは、急接近した恥じらいで、彼のたくましい腕に支えられていることを実感させた。あわわ、ユウくん、いい匂い……。

 

「ごめん、離れないと」

「あ、う、うん!」

 

トキのように真っ赤になる私とは対照的に、彼は芝のソファに座り込んで語り始めた。

 

「僕は、尊敬してた親父の闇を見てしまった」

 

ここから百メートル先に、芝コースの向こうでトレーニングを重ねるウマ娘がいる。ユウはそれを普段の温かい瞳ではなく、呪われたような表情で見つめていた。

 

「親父は天才なんかじゃなかった。確かにG1を勝つようなウマ娘を育て上げることは並みの人間にはできない。でも、あいつのやり方は間違ってるんだ。自分のつまらないエゴのために、ウマ娘の要望を無視して育てたいように育てる。もうあれは改造だよ」

 

彼の手に力が入る。憎しみにも侮蔑にも見える感情が渦巻いていた。

 

「巧みな言葉でウマ娘を誘い、身に余るような練習メニューを組み、出走レースさえ相手に決めさせない。それがあいつのやり方だったんだ。僕はそんな人間を崇拝していたと知って居ても立ってもいられなくなった」

「そんなことが……」

「その時から僕は親父とまともな会話をしなくなった。ショックでしばらくは学校に行けなかった。そしてついには転校が決まって、ヒナにお別れも言えなくて。本当にごめん」

「えっ、ううん、全然大丈夫だよ……!」

 

ヒナの中の疑問が少しずつ音を立てて崩れていく。ずっと知りたかった、気になっていた、今の彼のこと。想像を絶する父との軋轢を、その濁った瞳に見た気がした。

 

「転校を機に、僕は猛勉強を始めた。親父とは全く違うトレーナーになるために。ウマ娘に心から笑ってもらえる環境を提供できる人間になって、天才を超えるために自分ができる最大限の努力をしたと思う」

 

だから私の言葉に――。お父さんのようなトレーナーになれるよ。ヒナのその言葉は、ユウに深く刺さった地雷だった。私はユウくんになんてことを……。彼にバレないよう心の内で深く後悔するヒナに、ユウが急接近した。

 

「何も言わず感情的になってしまってごめん。ヒナが知らないのも当然なのに、僕は思い出したくなくて、反射的に強く当たってしまった。でもヒナのおかげで、自分の過去と向き合うことができた。そしてヒナに、きちんと事情を説明したかったんだ。ヒナが傷ついたのなら僕はなんでもする」

 

おかしいくらいまっすぐな瞳の輝きは、彼女が焦がれた昔のユウと微塵も変わってはいなかった。ヒナはその事実だけで満足だったが、最後の一言も聞き逃さなかった。

 

「な、なんでも……?」

「うん、もちろん」

 

なんでもと言われると、かえって何も浮かびません。注がれるユウくんの熱い視線――。紫外線よりも強力です。それでもなんとか絞り出して、ここに来た目的を伝えました。

 

「ユウくんと一緒に働きたいな、なんて……」

「そんなの、もちろんだよ。むしろ僕の方からお願いしようと思ってた!ヒナがいてくれれば僕はもっと良いトレーニングを提供してあげられると思う。だから、一緒に、どうかな!」

 

天真爛漫なこの感じ、小学生の頃、私に理想を語っていた時のユウくんそのままだった。透き通るような青空を見上げて、先生のように身振り手振り教えてくれた彼は、目の前にいた。大人びた今の彼と、お父さんを慕っていた記憶の中の彼がちょうど重なって――――。ここまでやってきて、本当によかった。もう一度、ユウくんと……!

彼女は涙を浮かべながらほほえんだ。



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(番外編)十五話 彼のもとで

「ここが僕の部屋だよ。僕のというか、学園から借りてる部屋になるかな」

 

ユウに連れられてヒナは学園を回っていた。何度か訪れたことがあったので、新しい発見は無かったけれど、彼の説明には興味津々のようだった。そしてついに今、ユウが仕事をしているという部屋に到着した。もちろんここに入るのは初めてである。興味と緊張が同時に彼女を襲った。

 

「はわわ……!」

 

そこにはオフィスの一室のようなさっぱりとした空間が広がっていた。その清潔さは彼がトレーナーとしてまさに一流であることを高らかに証明している。しかし、不思議と張り詰めた空気は感じなかった。開いた口を塞ぐことができないでいると、ユウはふっと笑って、ソファに案内した。

 

「ヒナにそう言ってもらえて嬉しい。結構気を配ってるんだ、昔はヒナに色々やってもらってたから、ちょっとは成長したところを見せたくて」

 

ユウは、はにかむように笑った。昔はよくユウくんのお部屋を掃除したっけ――。彼の笑顔に呼応し、思い出が滝のように流れ落ちてくる。

 

「ユウくん、勉強熱心でよくお部屋散らかってたよね、行く度に掃除したの、覚えてるよ……!」

「ここに来てから、ヒナがどれだけ丁寧に掃除してくれていたのか、それがどんなに大変だったか身に染みたよ。もう僕も大人になったから、綺麗な部屋に招待しないとね」

 

冗談混じりの口調で言った。ユウの成長を感じるのは嬉しかったがその裏側で、胸がチクリと痛んだ。ユウくんに頼られることがまた一つ減っちゃったな……。静かにコーヒーを喉に運んだ彼女を見て、ユウは口を開いた。

 

「掃除はできても、トレーナーとしてはまだまだなんだ、僕は。ヒナもここに来るまでに感じたかもしれないけど、色々あったから僕は周りに結構嫌われてるんだ、もちろん良くしてくれる人もいるんだけどね。だからトレーナーとして切磋琢磨できる人がいないから一人ぼっち。ああ、例えば僕の近くでサポートしてくれるような人がいてくれるといいんだけど、できれば同年代で。ヒナ、誰か知らないかな」

 

じーっ、ヒナに突き刺さる黒い視線。どぎまぎが治らない彼女だったが、ある考えが脳裏に浮かんだ。そうだ、今の私はもうトレーナーなんだ。掃除はできなくなったけど、今度はトレーナーとしてユウくんを支えることができるんだ……、いや、支えたい!

目の色が変わったのを見て、ユウはうんうんと頷いた。

 

「決まりだね、よろしくお願いします、ヒナトレーナー!」

「う、うん、私、精一杯頑張るね!」

 

それぞれが別のウマ娘を担当し、トレーナーとして信念を持ってぶつかり合う。一緒に働くとはそういう意味だと解釈していた。そうはいっても、自分でウマ娘をスカウトする勇気もなければ、知識ばかりで実践に乏しい彼女にとって、この誘いは願ってもないことだった。

 

「私、ユウくんのサポート頑張るね!私にできることなら何でもするから、言ってほしいな……!」

 

頭の固い僕一人よりも彼女がいてくれる方が今よりもレベルの高いメニューを組んであげられる、その確信があった。ヒナがトレーナーとなってここまでやってくるだなんて想像もできなかったが、考えてみればメリットだらけだった。これが棚からぼたもちというやつなのだろうか。僕は一言お礼を述べて、現状を語り始める。

 

「僕が担当しているウマ娘についてなんだけど、まずはこの子がアリアンス。僕のトレーナーと生活はこの子と始まったんだ。そうは言っても、まだ一年だけどね」

 

履歴書のような整った線が引かれた用紙には、アリアンスのプロフィールと写真が記載されていた。じっと眺めていると、じわじわとカタチになっていくイメージ。あ、この子はジュベナイルの時の――。ヒナは確かにこの子を知っていた。強烈な末脚で他のウマ娘をねじ伏せる一番人気に最後まで食らいついていたあの子に間違いない。ヒナはここで働くにあたって過去のレースは何度も見直したが、ジュニア級でこれほどの駆け引きができるのかと感心したレースこそ、去年のジュベナイルだった。まさかその相手のトレーナーがユウだったのだから、驚きを隠せなくても当然だろう。

 

「アリアンスは強い。その胆力と精神力、そして何よりウマ娘には無くてはならない、夢に向かって羽ばたく翼を持っている。この子のトレーナーになれて本当に良かったと思ってるよ」

 

アリアンスちゃん、うまく言葉にできないけど、この子のレースを見ると、胸が満たされる。自分の応援していたウマ娘がハナ差でこの子に負けたとしても、仕方ないと思うことができる。明らかな実力差も、この子なら吹き飛ばしてくれるんじゃないかって、そう思える。いったいどうしてだろう。これがユウくんが言う強さなのかな。

 

「次に、この子がショートウール。アリアンスの一番の親友で、いつも一緒に行動してる。コープコートの強さに何度も打ちのめされそうになるアリアンスを、彼女はいつも支えてあげていた。アリアンスも彼女の前ではよく冗談を言うしね。スピードや加速が抜きん出てるとか、パワーが他の子よりあるとか、フィジカルの面では大きく目立った部分はないけど、目立ちたがりだから、レースでは思い切った判断で重賞を勝ち取った。僕の自慢の一人かな」

 

とにかく爽やかな印象を受ける子だった。アリアンスちゃんが静なら、この子は動。アリアンスちゃんが百合なら、この子はヒマワリ。まだ二人のことは何も知らないけど、良いパートナーだな、そう思った。

 

「最後にフルアダイヤー。ダートが得意なウマ娘で、重賞を勝つポテンシャルは十分に持っている。口数は少なくて、サッパリとした子だけど、アリアンスにはベッタリくっついてる。まあ仲が良いのは素敵なことだよね。時計だって最近は加速度的に良くなってきてるし、あとは僕の腕次第、彼女の適性をしっかり見極めないと」

 

ファイルに刻まれた三種類の資料を見せながら、ユウくんは饒舌に語った。私はこれから、今紹介された未来ある三人のウマ娘のサポートをするんだ。うまくできるかな、そもそも受け入れられるかな、こういう時に前向きになることができず不安ばかり募ってしまうのが私の悪い癖だった。

 

「大丈夫、僕とヒナならきっとやれるし、彼女たちもきっと歓迎してくれる。いや、絶対だよ、絶対。自信を持って。よし、それじゃ改めて、ヒナ、これからよろしくね!」

 

夜天をかき消すほどの笑顔は、ヒナの心の奥深くまで突き刺さった後、優しく包み込んだ。



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レースに魅せられて

「ねえねえヒナちゃん、今のところどの子がお気に入り?やっぱりあたし?それともアーちゃんかなー。まああんたはナシとして。無愛想だし」

「なんか言った」

 

カラスのように鋭く睨みつけるアイちゃん。困惑するヒナさんを私たち三人は興味津々に囲んでいました。特にウールちゃんが暴走しています。新しいトレーナーさんに夢中のようです。三つの視線にとり憑かれて、頭が真っ白になっているようです。

 

「み、みんなかわいいと思うよ……!」

「じゃああたしが一番ってことで!あ、そうだ、ヒナちゃんはユウトレーナーとどんな関係なの?」

「ウール、あまりヒナを困らせないで。聞きたいことはたくさんあるかもしれないけど、トレーニングの後にしよう。ヒナ、今日のトレーニングの説明をお願い」

 

ユウさんから渡された紙を、何度も噛みながら読み上げています。なんだか我が子を見守るお母さんのような気持ちでした。隣でニヤニヤしているウールちゃんも、そんな心持ちだったと思います。読み終わると、肩を撫で下ろしました。

 

「お疲れさま、初めまして早々で悪いけど、準備ができたらターフに集合しよう。ヒナはしばらくトレーニングの様子を見ながら、色々と学んでほしい。きっと僕じゃ見逃してしまう発見も、ヒナなら気づける、そんな気がする」

「う、うん!」

 

 

 

「ちょっとびっくりしたけど、優しそうな人でよかったー。アーちゃん、すっかり懐いてたよね」

「ヒナさん、とっても綺麗な目をしてたの。まるでユウさんみたいな……」

「アーちゃんはほんとに『目』が好きだよねぇ」

「私はウールちゃんの目も大好きだよ」

「な、なな、かわいい奴め、このー!」

 

ターフに向かう途中、ヒナさんの印象について話し合っていました。これから私たちのトレーニングがどんな風に変わっていくのか、その甲斐で私たちはどんな成長を見せるのか、仲間というには上から目線かもしれませんが、新しいトレーナーさんの登場に、足取りも軽やかになってしまいます。

 

「久しぶりだけど、頑張らないとね!」

「うん!」

 

 

久しぶりの芝の匂いが鼻に絡まります。踝まで浸かる長い芝はふかふかのベッドのようでした。疼く気持ちを抑えながら、まずは念入りに準備運動を行います。さあ、早くトレーニングを、腕を伸ばす二人からも私と同じ気持ちを感じます。

 

「よし、再来週の桜花賞に向けてトレーニング再開だ。三人とも、少しずつ慣らしていこう。まずはウールとアリアンスから」

 

対照的な二人が直線に並んだ。芝に足を食い込ませて、ホイッスルが鳴る。動きを見せないハシビロコウが、目の前を過ぎ去る獲物に一瞬の加速で噛みつくように、二人は轟音と共に駆け出した。まだスタートダッシュを決めただけのはずなのに、ヒナは既に二人から目が離せなかった。向正面に差しかかり、一バ身の差は未だ埋まらない。しかしコーナーに入った瞬間、その均衡は崩れた。アリアンスが前を走るウールに襲いかかったのだ。直線、一度は抜かれたウールが差し返す、しかし、アリアンスももう一度。二人の表情に一切の余裕は見られない。ウールの小生意気な様子も、アリアンスの静謐さも、そこにはない。目を見開き、腕を振り抜き、呼吸は乱れていく。身体中の血液を沸騰させて走力に変換し、お互いを越えるためだけにその蹄鉄を芝の土まで抉らせる。その迫力はヒナにとって、ウマ娘二人が並走している、という客観的情報だけで収まるものではなかった。ただひたすら貪欲に、前向きに、ひたむきに、一歩だけでもその先に、執念と執念のぶつかり合いに見えたのだ。これが、この迫力で、練習なの……。言葉を失っていた。そんな中、走り切った二人が汗を流しながら戻ってくる。並走時に感じた猛獣のようなオーラはすっかり消え失せ、溌剌なウールと清廉なアリアンスが笑顔で会話していた。

 

「いやー、もうちょっと待つべきだったかなー」

「うふふっ、今日は私の勝ちだね」

 

夕日に二人のジャージが照らされている。これが、今のが、ウマ娘……。「夢」を追いかけるウマ娘の姿を、ヒナは確かに胸に刻んだのだった。

 

「どうだったかな、二人の走りは」

 

動揺では済まされない、圧巻と憧憬が渦巻くこの感情。魚のように口をパクパク開閉させていたヒナを見て、自慢げだった。

 

「二人とも、とっても凄かった……。速いだけじゃなくて、それで……」

 

続く言葉が出てこない。しかしそれでも、ユウは続けた。

 

「これが、ウマ娘の可能性。アリアンスたちの可能性は、まだまだこんなものじゃないよ。そして、その可能性を切り拓くのが、僕たちトレーナーの役目だと思ってる。それはいつか夢になってレース場の皆に広がり、どこまでも光り輝く。僕は、アリアンスたちが輝いている姿が見たいんだ」

 

その言葉を受けて、ヒナは自分の感情と改めて向き合った。喉元まで出掛かっているのは、この子たちと一緒に歩んでいきたいという思い。私にできることなら精一杯サポートしてあげたい。走りに魅せられた彼女は、トレーナーとしての自分を確かに意識した。

 

「後でヒナが感じたこと、聞かせてほしい。ほら、二人が帰ってきた」

「ヒナちゃん、あたしたち速かったでしょ!あとちょっとで勝てたんだけど、今日は調子が悪かったかな、うんうん。いつもは勝ってるんだよ、ほんとだから!」

 

隣のアリアンスの笑顔を見て、それが嘘であることはすぐに分かった。しかし見栄を張ってしまうところも、負けず嫌いが現れているのかもしれない。

 

「二人とも、映像で見るよりずっと速くて、本気なのが伝わってきたよ。アリアンスちゃんもウールちゃんも、本当に強いんだなって。なんだか勇気を与えられたっていうか……。ごめんね、こんなことを聞きたいんじゃないよね……」

「嬉しいです」

 

ウールに発言を許していたアリアンスが食い気味に言った。

 

「私たちは勝つためだけに走っているわけじゃないです。私たちのレースが誰かを勇気づけられて、力になれる。それは、ウマ娘にとって勝利と同じくらい嬉しいんです。だから、ヒナさんの言葉、とっても嬉しいです……!」

 

私の中で色々な正の感情が暴れていた。二人の走りは活力に溢れていて、その躍動は観戦する私に勇気を与えてくれる。ウマ娘のレースの魅力を再発見させられた。この感情をうまく言葉にできなくて、強いとか速いとか、ありきたりな感想しか言えなかったのに、アリアンスちゃんはとびきりの笑顔を私に向けてくれている。世代の頂点で争っている彼女たちは、強いも速いも、勇気を貰えたという言葉さえ聞き飽きているはずなのに、まるで初めてその感想を受け取ったかのような反応をアリアンスちゃんはしてくれた。彼女をユウくんがスカウトした理由がまた一つ分かった気がした。この子はどこまでも実直で、自分とレースの可能性を信じているんだ――。

 

「もっともっとヒナさんの感想、聞きたいです……!」

「アーちゃんにこんなに言わせるなんて、あーもう、また敵が増えちゃったじゃん!ヒナちゃんずるい!アーちゃんの笑顔はあたしのものなのにー!」

 

夕日を吸収する彼女の白い髪に、努力の汗が滲んだ。



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虚ろなレゾルーラ

「アーちゃんってやっぱりかわいいよね、才色兼備なアーちゃんを世間はもっと煽てもいいと思うけどな、あたしは。ヒナちゃんもそう思うよね!」

「えっ、う、うん。モデルさんみたいだよね。髪も白くて、ウマ娘には珍しいよね」

「だよねだよね!だってさ、あんなにかわいいのに、あんなに強いんだよ?あたしはコートとあんな勝負ができるアーちゃんをもっとフィーチャーしてもいいと思う!いや、むしろするべき!コートに何回も挑戦する勝負根性もカッコいいのに」

 

ユウが作業に追われ構ってくれないからか、今後のレース予定に目を通しているヒナに向かっていた。今日は珍しくアリアンスとは一緒ではない。

 

「ウールちゃんは本当にアリアンスちゃんのことが大好きなんだね」

「もちろん!あたしの一番の親友だから!あれは十年前のこと……」

 

電源が入りっぱなしのテレビに映ったのは、ついに直前となった高松宮記念のインタビュー。各陣営の意気込みが語られる中、注目株として挙げられたのは、昨年のスプリンターズステークスの覇者、レゾルーラだった。普段の奇抜な言動から、どんな言動が飛び出すかと思われたが、これ以上ないほどの単調な一言が飛び出した。

 

「勝つよ」

 

戸惑うインタビュアー。もっと撮れ高のある、迫力に満ちた言葉を期待していたのだろう。レゾルーラの瞳は虚ろにも見えて、「じゃ」と言い残して去ってしまった。これにはパソコンに向かっていたユウも思わず手を止め、食い入るように見ている。

 

「明らかに様子がおかしい……」

「ちょっと怖いね……」

 

今日はたまたま気分が乗らなかっただけかもしれない。G1という大舞台で、なおかつ一番人気を背負うウマ娘のレース前というのはセンチメンタルになることもあるだろう、ユウは自分にそう言い聞かせていたが、冷や汗が止まらない。この感じ、もしかして、まさか

この子は――。

 

「ユウくん、大丈夫?」

「ああ、うん。ごめん、なんでもない」

 

嫌な予感がする。僕はレゾルーラの異様な雰囲気の意味を知っている。いや、忘れてはならない。忘れたくても忘れられない。青ざめた顔でテレビを凝視する僕を二人が心配している。その声でようやく我に帰った。

 

「遅れてごめんなさい」

 

痺れる空気の中にアリアンスが舞い込んできた。本当はテレビの内容に肝を冷やしていただけなのだが、自分が遅れてきたことでやはりユウが怒っているのだと勘違いして、ペコペコ頭を下げている。

 

「違う、違うんだアリアンス。君に怒っているわけじゃない。事前に連絡も受けていたし、全く問題ない」

「じゃあユウトレーナーはどうしてそんなに驚いた顔をしてるんですか。あたしがかわいいのはいつものことですよ?」

 

茶化す声を軽くあしらって、やはり思案に深く没頭している。トレーナー、トレーナー!ウールのその声にようやく反応した。そして彼が蚊の鳴くような声で呟いた一言。

 

領域(ゾーン)、あれは間違いなく、絶対に……。レゾルーラはあと一歩でウマ娘の限界の先に足を踏み入れてしまう……」

「ユウさん、今日のメニューを教えてください!」

 

スイカ割りの一撃のように、身体を頭上から二等分にかち割る衝撃を受けた気がした。声の主はもちろん、アリアンス。ふと周りを見回すと皆が心配していた。普段あまり表情を変えることがないフルアダイヤーさえ不安そうにこちらを見ている気がする。なおさらアリアンスの憂慮の表情といったら、言うまでもなかった。

 

「ごめん、心配をかけてしまった。誰が勝つのか気になってつい。やっぱりG1は予想し始めると止まらないな。さあ、今日のトレーニングなんだけど」

 

我ながら苦しい言い訳だったと思う。強引に話をすり替えた僕に戸惑いながらもこれ以上詮索しまいと皆は合わせてくれていた。それなら僕も、切り替えなければいけない。今は担当ウマ娘のことだけを考えていればいい。他のことに慄いている暇なんて一瞬たりともあるわけがない、あっていいわけがない。アリアンスとウール、そして少しずつ体を慣れさせていったフルアダイヤーを芝に送り出し、すぐに向かうと一言伝えた。トレーナー室に残されたのは、僕とヒナの二人だった。

 

「ユウくん、すごい汗だよ。声に出すとちょっとは楽になるかも、だから私でよければ話してほしいな……」

 

そんな顔をされて、いよいよ黙っているわけにはいかないな……。ユウは俯きながら語り始めた。

 

「少し昔の話になるかな、狂ったように過去のレースを漁ってた時期があったんだ。G1はもちろん、条件戦も残ってる分は全部見た。何か発見があればいいなって」

 

ユウの指先が動いた気がした。

 

「勝つウマ娘の特徴って言ったら大仰だけど、見つけた。それは、レース中のある瞬間から唐突に走りが軽やかになって、桁違いの伸びを見せる、ということ」

 

ヒナはポカンとしている。もっと誰も気づかないような特徴を挙げると思っていたからだろう。ユウは少し自嘲気味に笑って続けた。

 

「そんなの当たり前って思うかもしれない、でも見れば見るほどおかしいんだ。まるで魂が抜けたように、いや、魂が何かに引き寄せられるような、とにかく言葉にできない走りで、一着をもぎ取っていた」

 

例えるなら、光。光速は無質量ゆえにその速度は全ての頂点に君臨する。そのウマ娘たちは、光になったのかもしれない、そう思わされるほど足取りが軽かった。

 

「それだけなら、問題ないと思うけど……」

 

ヒナは恐る恐る当然の疑問を口にする。それに食い入るようにユウは首を振った。

 

「違う、違うよヒナ。その後なんだ、僕が信じられなかったのは。その状態を経験したウマ娘は、廃人のようになってしまうんだ。みんな、分け隔てなく。ある子はその後全く勝利を手にできなくなり、ある子はその感覚に憑かれて、身体がボロボロになっても壊れるまで走り続けた。もちろんトレーナーの声なんて届くわけがない。嘘に聞こえるかもしれないけど、本当の話なんだ」

 

「その感覚はきっと、麻薬のようなもの。一度力が解放されたら、当時の感覚をもう一度発揮するために全てを捧げてしまう。全く勝てなくなってしまうのは、その感覚でもって勝利を手にした時の自分の圧倒的な強さに再びたどり着けない絶望から。壊れるまで走り続けるのは、身体が当時を求めてしまうから。僕はかつてその感覚と共にG1タイトルを手にしたウマ娘に会いに行った」

 

かける言葉が見つからない。ただただ衝撃の連続だった。

 

「G1タイトル、それは全ウマ娘が喉から手が出るほどに求める栄冠で、全体の1%にも満たない人数しか手にできない、選ばれた者だけの称号。それなのにそのウマ娘は、かつての自分の足跡を家に一つも置いてなかったし、トゥインクルシリーズの話も拒んだ」

 

ユウの語りは止まらなかった。突拍子もない話のはずなのに、その濁った瞳の前では、疑う気力すら湧いてこなかった。



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危険な力

「何が何だか分からなかった。勝利を掴み取ったウマ娘たちが、悉く堕ちていく。僕は急いでその感覚の調査をした。もちろん科学的に証明されている現象ではないし、普通のトレーナーはそれを目指してメニューを組んだりしない。でもなんとか、二つの事実を発見したんだ。一つは、それが領域(ゾーン)と呼ばれていること。そしてもう一つが」

 

トレーナー室には、心臓がはち切れそうな緊張が走っていた。

 

領域(ゾーン)を発揮したウマ娘のほぼ全てが、僕の親父の担当ウマ娘だったということ」

 

ヒナは後頭部を思い切り殴打されたような鋭い衝撃を受けた。

 

「親父は知ってか知らずか、領域(ゾーン)を担当ウマ娘に発揮させることでG1を勝たせてきた。あいつにしてみれば、自分が担当すればG1を一つは勝てるという肩書きだけが欲しかっただけだから、その後は語らなくても想像できると思う」

 

領域(ゾーン)はウマ娘を狂わす危険な力、そしてそれによって親父は数多くのウマ娘の理想を葬ってきた。僕はその力も、それを使って栄華を築いた親父も許せない」

 

ユウもヒナも、指先は震えている。

 

「ただ、領域(ゾーン)の存在は広く認知されてはいないし、その危険性も当然広まってない。それならアリアンスたちがその存在を知る必要はないし、使う必要もない。僕はそう考えながら今までやってきたんだ」

 

深い深呼吸の後、ユウはさらに表情を曇らせた。

 

「そして今日、その兆しを見た。レゾルーラは高松宮で、領域(ゾーン)に到達する。インタビューのあの虚ろな表情で僕は確信した」

 

あまりにも唐突だった。絶対に触れてはいけない力に、一人のウマ娘が到達しようとしている。さっきは頭が混乱して、何も考えられなかった。ただ僕がレゾルーラに声をかけるには、知識が不足し過ぎていた。そもそも領域自体、信じていない者もいるような力だ。何か言ったところで無駄かもしれない。それなら今回の高松宮で何が起こるのか、この目で見届けなければいけない。領域について解き明かす何かを掴むしかない。ヒナに打ち明けて、その覚悟ができた気がした。

 

「ユウくん……」

「ごめん、話が長くなってしまった。ヒナにそんな顔させちゃダメだ。もう行こう、アリアンスたちが待ってる」

 

私の前だからって、ユウくんは今無理をしている。さっきまではあんなに震えていたのに。ウマ娘がまた一人危ない橋を渡ろうとしているのに、何もできない自分を責め立てている。それでも私は、心配そうに見つめることしかできなかった。

 

 

 

 

「私には、何ができるんだろう」

 

みんなのトレーニングをユウくんの隣で見ていた私は、ふとそんな一言を漏らした。彼の視線は、タイマーとバインダーとみんなとを三角形を描くように動いていたけど、私の一言にその動きを止めた。

 

「ヒナは誰かに寄り添うのが得意、僕はそう思う」

「えっ」

 

一瞬の間もなかった。まるでその質問を期待していたかのような。

 

「資料を集めたり、道具を準備したり掃除したり、コーヒーを作ったり。僕がヒナに任せてきたことは、確かにヒナじゃなくてもできるようなことばかりだったかもしれない。でもヒナは既に、ヒナにしかできないことで成果をあげている」

「そんな、そんなことないよ、私なんて……」

 

さっきまでウマ娘たちを見ていた、熱心でまっすぐな、貫くような彼の目が私に向いた。あわわ、私、ユウくんに見つめられてる……。紅潮する頬と共に高鳴る鼓動、見つめられて照れているという事実が、さらに私を赤くさせた。

 

「ヒナが来てから、みんなの笑顔が増えた。ウールはヒナによくちょっかいをかけるし、アリアンスは年相応の女子会トークのようなものをよくヒナと話してるよね。そんなの普通だよと思うかもしれないけど、その本質は、ヒナが誰かに寄り添うのが得意だということなんだと思う。寄り添うというのは、誰かを笑顔にするということ。それは、誰かの傷ついた心に優しく触れてあげるだけじゃない、何気ない会話で誰かを笑顔にできるというのも大切な要素なんだ」

 

もう冷え切ったコーヒーの香りが鼻に浸透していく。

 

「ヒナは自分が思っているより魅力に溢れている。でももしかしたら、誰かに寄り添えるヒナは、その自信のなさに根差したものなのかもしれないね。ふっ、人間ってなかなか難しいなあ。堅苦しい僕じゃ皆のあんな笑顔は見れない。だから何が言いたいかというと、ヒナはそのままのヒナで十分素敵だよ。僕がヒナを勧誘した理由のほとんどが達成されている、これだけははっきりと言える」

 

その目は真実を語っていた。よかった、私、ユウくんの役に立てているんだ……。そのままの私でもいい、気を遣ってそう言ったんだと思ってしまいそうだけど、彼の表情がそれを許さない。

 

「でも、もっとユウくんの役に立ちたい……!」

「ヒナならそう言うと思ったよ、そういうところが素敵なんだけどなあ。それなら、もっとレースを見てほしい。アリアンスやウール、フルアダイヤーだけでなく、そこのダートで走っているウマ娘も、G1を勝った先輩の走りも、何十戦も未勝利で苦心している子も、さらには、これからのG1レースも。そして僕に感想を伝えてほしい。書き起こしてもいいから、ヒナの言葉で感じたことをもっと僕に教えてほしい。多くは語らないけど、今の僕にはヒナの言葉が必要だ」

 

ユウくんがどうしてそこまで私に拘るのかは分からない。トレーナーとなった私だけど、まだまだ新人だし、担当ウマ娘も当然持ったことはない。それなら実績豊富な人に見てもらった方が何倍も成長に繋がる気がする。でも、ユウくんに頼まれた以上、そんな疑問を口にすることは許されなかった。それに、今の私がどれだけ思案したところで、その答えは多分見つからない。

 

「わ、私でよければ……」

「うん、頼んだ!あ、余計なお世話かもしれないけど、これ、バインダー。ウールが間違えて買い過ぎちゃったから、一つどうぞ。これを持ち歩くだけで様になるからオススメだよ」

「あ、ありがと……!」

 

ユウくんとお揃いのバインダーを貰ってしまった……!って、ちょっと子どもっぽいかな……。そんな反省をしつつも、やっぱり終始浮かれてしまっていた。今日は普段の何倍も集中して練習を見れた気がする。

 

「ねえねえヒナちゃん、あたしの走りどうだった!かっこよかったでしょ!ちょっと踏み込みを強くして、力強く走ってみたんだー。やっぱりウマ娘はかっこよくないとね!」

「タイム落ちてた」

「うるさいなー!あたしはあんたと違って魅せる走りを研究してるの!タイムはここから上げるんだから!」

「ヒナさん、後で相談があるんですけど……」

 

そう、この感じ。練習後のこの充実感は、皆のこの笑顔は、僕には出せない。皆のメンタルケアをするには、僕はいささか理論家すぎる、ヒナ、君は大丈夫だよ。いつか見た夕日の下で、そんな言葉を心の中で放った。




今更ですが、アリアンスが深く関わってこない話を番外編としています。番外編なのに本編と結構関わりがあるので、分ける必要は無かったかもしれないです。書きたいことが多くなかなかクラシックまで辿り着けていないですが、今度こそ本当にもうすぐなので、これからも見ていたいただけると幸いです。ここまで読んでくださった方、お気に入りを押してくださる方、本当にありがとうございます。


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劣等感

「今日の中京には五万人を超える来場者が訪れております!立ち見も当たり前のように端から端まで人で埋まっているその様子からは、春のG1戦線への期待の大きさが窺えます。大観衆が目にするのは春秋スプリント制覇か、それとも新時代の幕開けか!まだパドックまで時間はありますが、今から楽しみです!」

 

ずっと遠くにあるはずの実況席の声が、耳元で反響しているような気がしました。私も実況席も、他のお客さんも、みんな同じ興奮を囚われています。久しぶりのG1、胸に手を当ててみても鼓動は止まることを知りませんでした。

 

「もう、アーちゃんってば自分が走るわけじゃないのにすごい顔してる。そんなに緊張しなくても大丈夫だって!」

「私も、トレーナーになって初めてのG1だから、ちょっとだけ……」

「もう、二人してー。あれ、ユウトレーナーは?」

「もうすぐ来るって。ねえアン、あそこにグッズが売ってる」

「待って待って、あたしも行く!」

 

アイちゃんに腕を引っ張られて、ウールちゃんがヒナさんを引っ張って。会場の人混みも合わさってお祭り騒ぎでした。

 

「おー、ぬいぐるみがいっぱい。ペンやクリアファイルに、あっ、アーちゃん見て!コートのもあるよ!」

「ほんとだ、コートちゃんのぬいぐるみ……!」

 

デフォルメされたコートちゃんのぬいぐるみが数体、そこには並んでいました。星が煌めく夜天のような勝負服に身を包んで、笑顔でこちらを見ています。なんてかわいいんでしょうか。私は急いで買い物カゴに入れました。二千円、痛い出費ではありますが、コートちゃんのぬいぐるみなら安いものです。

 

「うーむ、認めたくないけどかわいいじゃん。やっぱりG1を勝つとこういうオシャレなグッズも販売されるんだね。いいなー」

 

ぬいぐるみの端には「阪神ジュベナイルフィリーズ」の文字が刻まれています。私の初めてのG1で、まさに完敗と呼ぶにふさわしい敗北でした。もう何回、コートちゃんに敗北しているのでしょうか。私は本当に、桜花賞を勝てるのかな。私のぬいぐるみは、ちゃんとここに並ぶのかな……。カプセルトイを見ていたウールちゃんが、沈む私の方に駆け寄ってきました。

 

「あ、アーちゃんが曇ってる。こら、今日はそういう気分になるために来たわけじゃないよ!素直にかわいいで買っておけばいいんだって!ほらほら、あっちには去年の下半期に活躍したウマ娘のガチャガチャキーホルダーがあったよ!」

「ふふっ、こっちもかわいいね」

 

私は悩みから逃げるように、コートちゃんのキーホルダー眺めていました。でも、ウールちゃんの言う通り、今日は観戦をする日です。先輩のレースから、これからに繋がる何かを見つけ出さなければいけません。お昼ご飯とグッズを両手に、いよいよ私たちは熱気高まるターフに向かいました。

 

「や、レゾルーラ」

「やあナタリー。モモちゃんは一緒じゃないの?」

「あの子なら今牛丼食べてるよ。どう、調子は。勝てそう?」

 

彼女はボロボロになった練習用のシューズを勢いよく投げつけた。もはや紐さえ機能していないようだった。

 

「ウチが負ける?へへ、へへへ、あははははっ!ありえないありえない!五バ身?八バ身?それとも大差?二着が絶望する顔が浮かぶんだぁ、どうしようもなくタノシミ!」

 

両目を裂けるくらいに開かせるレゾルーラ。レース前とはいえ、控え室は異様な空気に包まれていた。

 

「脚も腕も心臓も肺も思考も、全てがカンペキ。身体が軽くて、超絶好調!だから見てて、極限のウチを」

「大口ばかり叩くところ、昔から変わってないね。そういうところ、嫌いじゃないよ。でも、アドレナリンを出し過ぎると怪我の元になる。気をつけてね」

「そのクセはほんの数週間前に直したんだ。今はもう実力通りのことしか言わないって決めてる。今日のウチのレースは伝説になるよ。短距離はあんま目立たないけど、今日だけは皆ウチの客。スプリントが電撃と呼ばれる理由、モモちゃんにもナタリーにも見せたげるよ。へへっ、タノシミダナァ」

 

その透き通った声は、高揚しているようで無機質だった。こんな彼女を見るのはナタリーも初めてのはずだったが、うろたえることもなく、焦ることもなく、至って冷静に返した。

 

「勝てたとしても、あたいはレース前にビビってるあんたの方が好きだったかも。念願のG1タイトル、おめでと。よかったね、勝てて」

「その余裕が気にくわないって言ってんの。血を吐くほど努力してるはずなのに、何年も結果が出せずドン底にいる奴の気持ちなんて、お前には分からない。常に上から他者を見下したように会話するお前が嫌いだった。一生最強で華やかな立場のくせに、底辺を知った気でいるお前が……!」

 

パリン、マグカップを床に叩きつける乾いた音が反響した。激情を抑えられないレゾルーラに怯むことはなく、

粉々になったマグカップを見ることもなく、ただ冷たい瞳でレゾルーラを見つめていた。

 

「その大嫌いな最強に今まさに自分がなろうとしてるって、あたいは言ってるんだけどな。まあいいや、レース、頑張って」

「おい、ナタリー!」

 

ドスの効いた叫びも虚しく、空気に溶けていった。ナタリーはポケットに両手を突っ込んで、優雅に廊下を歩いていた。

 

「全部、全部今日のレースで……。今日、全てが変わるんだ……!」



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覚醒の歪み

「レゾルーラは確かに隙が無く戦術も多彩ですが、こちらはこちらの戦術で戦うだけです」

「彼女の弱点は把握しています。徹底的にマークして、絶対に逃しません」

 

レゾルーラは他の出走者陣営のインタビューを見ていた。圧倒的な一番人気を目の前に、どこまでやれるのか。そのスピード感や一瞬のミスが命取りとなる様子から、ただでさえ他とは一線を画すスプリンターの世界。些細な展開のズレがレースに大きく影響し、予想しないような番狂わせが起こることも珍しくない。つまり、レゾルーラが下位に沈んでしまう可能性は十分にあった。スマホの電源を落とし、八重歯をギラつかせて、彼女は部屋を出た。

 

「こいつらみんな、ウチを見誤り過ぎだっての」

 

 

一番人気の登場に沸き立つ大観衆。中京レース場に集う五万人を超えるオーディエンスのほとんどが、スプリンターズステークスと高松宮記念という二大短距離レースの制覇を期待していた。

 

「レゾルーラ先輩だ!おーいおーい!こっち見てー!ダメだ、集中してるのか全然こっち見てくれない」

「アイドルじゃないんだから、そんなファンサはないわ」

 

コートちゃんも参戦し、いよいよ熱戦の火蓋は目の前です。ちなみに、コートちゃんに見えるようにわざとぬいぐるみを腕に抱えていたのですが、とにかく照れていました。何も言えないコートちゃんを見るのは新鮮で、それそれはそれはウールちゃんの餌食になっていました。

それはそれとして、実況も解説も緊張が抑えられない様子です。

 

「いつもは笑顔を見せる一番人気レゾルーラも、今日はこの集中ぶりです。その燃えたぎる瞳には、一体どんな思いが託されているのか、そして、今日はどんな走りを見せてくれるのでしょうか!」

 

燃えたぎる、というには少し泰然としているように感じます。私がレゾルーラ先輩だったらこの重圧は大き過ぎますが、何とも思っていないようです。萎縮することもなく、かといって落ち着きをなくすこともなく、まるでそれは、勝ちを確信しているようでした。

 

「あー、ナタリーはあそこでルドルフがそっち、シービーはあっちで、ブライアンは思ってたより近い。よし、これなら全員見てる。ウチのレースは雷よりハヤイ!」

 

レースの緊張を何倍にも引き上げる生演奏のファンファーレが暮れの中京に響き渡った。

 

「さあ、続々とゲートに入れられて、一番人気六番レゾルーラも落ち着いています。最後に十二番が入って、今スタートしました!」

 

地鳴りのような激しいスタートと共に、レースはスタートした。

 

「まずは予想通り八番が逃げていきます。目立った動きはなく、そのままコーナーに差し掛かっていきます。レゾルーラはどこにいるのか、ここにいました、いつものように好位につくことは叶いません。若干後ろの展開からどう動くのか」

 

少し急な中京のカーブを集団演技のように無駄なく曲がり切っていきます。縦長だった隊列は横に広がっていきました。まだ中盤だというのに、蹄鉄が芝に激しく突き刺さり、土を大きく飛ばします。この速度、刹那の判断ミスも許されません。これが究極の六ハロン、息が詰まる思いでした。

 

「カーブを曲がって最終直線!集団は大きく横長に!おっとここでレゾルーラがぶつかったぶつかった!外に大きく膨らみました!」

 

コーナーのちょうど中間あたりで七番が躓き斜行して、体重をかけられたレゾルーラ先輩は外へと大きく吹き飛ばされました。長い髪で表情を隠してはいるものの、衝撃で飛び散る汗とよろける脚は、先輩にとっての緊急事態を表しています。短距離のスピードでぶつけられたら勝利は絶望的、誰もがそう思いました。最終直線に入ったところで、客席からは絶望と歓喜と驚愕の声が飛び出します。そのパニックに私は何も言葉を発することができず、息を呑んで展開を見守るしかできませんでした。

 

「この不利は絶望的だ!さあ直線は横一線!一番が内から飛んでくる!外から十六番も飛んできた!残り200!」

 

誰もが一番と十六番やその他の拮抗を見届けていたその時、その魔物は大外からやってきた。オッドアイの眼光を悪魔のようにギョロリと開かせ、洗い呼吸も忘れて笑っている。かなりのロスを被った彼女は、残り数百メートルというところで、一人、また一人とその影の後ろに隠していく。その走りはウマ娘とは思えないほど一心不乱で乱れていたが、かけっこをする子どものようにも見えた。

 

「あははっ、あははははっ!へへ、へへ、へへへっ!これが、これがウチ?軽い、身体が軽い!あはははははっ!」

 

一瞬の間に十人以上を薙ぎ払う彼女の走りに観客の興奮は最高潮。その大声は止まることを知らない。タップダンスを踊るように滑らかに、けれど暴力的に音を立てて芝を踏み抜き差を広げていく。

 

「一、ニ、一、ニ。世界が遅くて遅くてシカタナイ!ほら、みんな、見て!ウチを見て!これがウチの……。最強のスプリンターの

誕生……!」

「何ということだ!一バ身、ニバ身、どんどん突き放していく!これがレゾルーラの走りだというのか、今圧勝でゴールイン!レゾルーラは人気に応えその実力を遺憾なく発揮しました!」

 

ああ、視界が歪む。でもその感覚が気持ちいい。ウチがウチでないみたい。コーナーで吹き飛ばされて、終わりだと思った。心臓が破裂するくらい跳ねまくって、身体中が石像のように硬直して、何も考えられなかった。無意識のうちに敗北を悟ったその瞬間、何かが弾けた。切れちゃいけない何かが、ぷっつりと。そしたら途端に身体が沸騰するくらい熱くなって、気分が高揚した。わたあめみたいに足取りが軽くなって、自分でも想像できない速度で走れるから、視界が歪む。あんなに絶望的だった差が一瞬で埋まって、後ろのウマ娘が遅くて遅くて惨めに見えた。そして今、節々が痛くて、頭痛も激し過ぎて吐きそう。でも、デモ、それが心地よくて、気持ちよくて仕方がなかった。今のウチは、誰にも負けない、ルドルフにもシービーにもブライアンにも、ナタリー

にも――。

 

「ナタリー、見てる?ウチはやっとあんたを超えたよ。誰にだって負けやしない、だってこんなに気持ちが晴れてるんだもん。負けようがない、あはは、アハハハ!」

 

慟哭するような激しい狂笑が天に向かって響いた。



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領域の美酒

「凄まじい走りでしたね!これでとうとうスプリントG1ニ連覇なわけですが、これからの予定はありますか?」

 

レゾルーラ先輩の圧巻の撫で切りが炸裂して間もなく、インタビューが始まりました。私も含めた観客のほとんどが、まだ興奮冷めやらぬ様子です。まさに別格、あの乱暴な走り、いったいどれほど練習を積めばたどり着けるのでしょうか。

 

「決めてない。今はただ、全てが心地いいから……」

「そ、そうですか!やはり勝利の美酒というものは、レゾルーラさんでも飽きないようです!」

「アハハ、いいね、それ。勝利の美酒かぁ、そう、ウチは今酔ってんの……!決めた、次はウチ、海外に行くよ、日本のスプリンターは弱過ぎて、もう相手になんないもん」

「こ、これは大きく出ましたね!再臨した女王がこれからどんな活躍を見せるのか、今から楽しみです!レゾルーラさん、ありがとうございました!」

 

モニターに映し出されるインタビューのレゾルーラさんは少し不気味でした。いくら勝利の喜びを噛み締めていたとしても、ここまで高揚するのでしょうか。胸の奥の小さな疑問は、いつのまにか隣にいたナタリーさんにも届いていました。

 

「アーちゃん、目に焼きつけておいて。あれが領域。レゾルーラは最後の直線で、ついにこっちの世界にやってきた。その反動で今は何も考えられなくなってる。まあ、その辺は気にしなくていいよ」

 

今のが、領域……。何が何だか分からなくて、ナタリーさんの言葉もよく聞き取れない状況でした。

 

「凄いでしょ、あの強さ。領域は絶対を演出するんだ。アーちゃんもきっとすぐにでも、こっちの世界に来れるよ。でも、あの子は他人を蔑むような言葉を言う子ではなかったんだけどね……」

 

帽子を深く被り直して、どこかへ消えていきました。私は初めて目の前で領域を見ました。観衆が呼吸も忘れるその速さと強さに私はすっかり心を奪われていました。

 

「私も、早く領域を……!そうすればクラシックでコートちゃんに……。いったい、いったいどうすればいいんだろう……」

 

 

 

「ユウくん、あれが……」

「うん、あれは間違いなく領域」

 

こんなに心が乱れているのに、彼女の前だから淡々と言った。あのレゾルーラの様子、やはり領域に足を踏み入れてしまった。走ることに憑かれ、思いや感情の一切をそれに捧げて快楽としてしまう。領域は、ウマ娘をただ勝利に固執するだけのマシーンにしてしまう。そこには勝つ理由も喜びも存在しない。そんなの、ウマ娘の正しい姿なわけがない。絶対に、絶対にアリアンスたちにこの力を使わせるわけにはいかない。僕は拳を強く握り直した。

 

「領域は、ウマ娘をこんなに変えちゃうんだね……」

「ああ、絶対に間違ってる」

 

ヒナはレゾルーラのインタビューに慄いている様子だった。そして、レゾルーラを崇め讃える観衆にも戦慄していた。彼女は確かに、途方もない努力の先の勝利を掴み取った。しかし彼女は今、レースに勝利した喜びに震えているのではない。自分が感じた領域の快楽を貪っているのだ。それがどれだけ虚しいことかも理解することはない。彼女はこれから、ただ速さだけを求めるウマ娘になっていくだろう。戦略も駆け引きも実行することはなく、速さによる勝利を渇望する。

 

「彼女はあと一歩だった。諦めなければ、勝ち筋はいくらでも存在したんだ。でも、報われない努力に絶望し、勝利を手にすることを諦めてしまった。そんな状態で発動した領域に、意味なんてない。そこから生まれたものに、彼女を強くする要素なんて一つもない。ただ、領域が魅せる錯覚は、自分が強くなったと思わせてしまう。そんなもの、その場しのぎに過ぎないのに」

 

冷や汗が止まらない。スーツってこんなに暑かったか、そんなつまらないはてなが浮かんだ。ダメだ、現実逃避をしてはいけない。ヒナが心配そうにこちらを覗き込んでいる。

 

「ユウくん、大丈夫?」

「ごめん、心配させてしまった。もうみんなのところに戻ろう。ヒナ、この後は空いてる?今後について話をしたくて」

「も、もちろんだよ。私でよければいつでも……!」

 

歓声とやけに眩しい夕日が鬱陶しかった。



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最終調整

「レゾルーラ先輩ほんと速かったねー。まさに一閃、不利があってもごぼう抜きしちゃうんだもん!先輩こそ短距離最強の名にふさわしい!」

「圧巻だったわ。ただただ速かった。私たちも負けてられない」

「そう、だね……」

 

興奮冷めやらぬまま、その日は解散となりました。先輩の強さを目の当たりにして、それぞれが異なる感想を抱いたと思います。私のこの感情は、前向きなものなのか、はたまた暗いものなのか、自分を前に進ませるものなのか、後退させるものなのか、それすらも分かりませんでした。

 

「おかえり、アーちゃん。くくっ」

「あ、ナタリーさん」

 

部屋に戻る私を見るなり、ナタリーさんは笑っていました。

 

「いや、ピッタリ想像通りの顔をしてたもんだから、つい。アーちゃんの顔に何かついてたわけじゃないよ。強かったね、あの子は」

「あれが、領域なんですよね……」

 

私が浮かない顔をしているのもお見通しのようでした。今日は紅茶を淹れて、私の頭にポンと手を置きます。その手は小さくても、温もりは芯まで確かに浸透していきました。

 

「怖いんです。でも、その正体が何か分からなくて……」

 

うーん、首を傾げるナタリーさん。そんな漠然とした言葉では、伝わるはずもありません。自分でもこの霞がかった気持ちの正体は掴めていないのです。

 

「あの子のテンションは異常だった。速かったけど、何かにとり憑かれて走っている、そんな印象を受けた、とか」

「そう、そうです……!」

 

ソーダを飲んだ時のように身体中がすっきりしました。レゾルーラ先輩の走りは暴力的で、レースの本質をどこか見失っているように感じました。それでもやっぱり、圧倒的な力でねじ伏せたあの強さは今の私にとっては何よりも魅力的に映るのです。あれだけ強ければ、私は桜花賞で勝利を掴むことができる――。

 

「そんな深く考えちゃダメだよ、アーちゃんはすぐ考え込んじゃうから。今は練習練習、自分を信じることが勝利への第一歩!大丈夫、アーちゃんは勝てるよ」

「ナタリーさん……」

 

か細い声の私の頭をナタリーさんはわしゃわしゃ撫でました。小さい手のひらなのに、温かくて、少し乱暴なのがかえって心地よくて。もう何回もされてきたことなのに、その度に心が落ち着きます。

 

「自分を信じて、突き進もう。練習も、本番も」

「はい……!」

 

 

 

桜花賞まであと数日となり、最後の調整が近づいています。学園でもその空気感は重苦しく、自然と口数も少なくなっているのを感じました。ウールちゃんは相変わらずですが。

 

「桜花賞まであと数日、やれることは限られてる。今日は最終調整、気を抜かず頑張ろう。もちろん並走なんだけど、アリアンスとアイちゃんだけじゃなく、もう一人」

 

最終調整とはいえ、いつものように集まって、いつものように練習が始まるのだと思っていた私は、ヒナさんに連れられて、こちらへ向かってくるウマ娘に驚きを隠せませんでした。

 

「ウオッカさん!?」

 

おっす!軽快なその声の主は、誰もが知る最強ウマ娘、ウオッカさんでした。トウカイテイオーさんに引き続き、とんでもない先輩をユウさんは招待していたのです。無謀と呼ばれたダービー挑戦に果敢に挑み、全ての不安をレースで一蹴、まさに挑戦者と呼ぶにふさわしい女帝。何回瞬きをしても、目の前で準備体操をしているのはウオッカさんその人でした。

 

「話は聞いてるぜ、スカーレットの何倍も優等生だって。今日は俺の走り、その目に焼きつけな!」

 

またまた偉大な先輩との並走、緊張のリミッターが外れてジリジリとベルが鳴っています。でも、それでも、例え絶対的な強さを持ったウマ娘が相手でも、戦わなければいけない時はあるのです。この並走、最後の成長のチャンス、絶対に物にしてみせます。

 

「ウオッカ先輩、よろしくお願いします!」



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ウオッカの助言

「はあ、はあ、はあ……」

 

結果は惨敗。長くはない直線で、一バ身、二バ身。がむしゃらに走るだけだった私を、ウオッカ先輩はどんどん突き放していきました。レース中、一番踏ん張らないといけない場面で、実力の差を否応なく分からされてしまうこの感覚。息が荒くなって、泣きそうになって、練習で積み上げた自信がドロドロに溶かされてしまうこの感覚――。私は力なく膝をつき涙を落としていました。

 

「アーちゃん……」

 

ユウは口を開かない。彼女の抜け殻のようなその姿に、ウールはただ憐憫の眼差しを向けることしかできなかった。周囲の空気が澱んでいく中、その悔しさに唇を噛むアリアンスにウオッカが手を伸ばした。

 

「いいじゃねえか、それで」

「えっ」

 

大敗した私を責めるつもりでも、傷つけないように繕っているわけでもなさそうでした。とても見せられないようなレースをしたはずなのに、ウオッカ先輩は満足感に満ちた表情をしています。けれどその姿は、動転していた私の心を少しずつ宥めていきました。

 

「レース運びはどうだったか、いい勝負ができたかどうか、そんなの関係ねえ。俺たちに必要なのは、こいつに負けたくないって気持ちだけ!どれだけ情けなくても、弱くても、醜いレースを見せたとしても、ライバルをぶっ倒してやるって思いが熱く燃えたぎっているなら、いつか必ず成功する。俺はそう思うぜ!」

 

ウオッカはアリアンスが自分に及ばないことを知っていた。桜花賞を数日後に控えたウマ娘を本気で叩き潰すのは、彼女の自信を大きく削いでしまうと考え、少しだけ手加減をして接戦を演じようかとも、心の奥底では考えていた。しかしスタートの合図が鳴った瞬間から、そんな邪な考えは吹き飛んだ。アリアンスの気迫が彼女を襲ったからだ。全力で、本気の走りで、絶対に差し切ってやる、お淑やかな言動からは想像もできないほど危機迫った表情で。それを感じてしまったのだから、応えないわけにはいかない。ウマ娘として、これほどカッコよくて、ロックで、クールで、嬉しいことはなかった。

 

「どんだけ強かったとしても、やる気も根性も消し飛んだダッセェレースをするなら俺は認めねえ。ただ、アリアンスは違うだろ?今日のレースは醜くなんかねえ、ダサくなんかねえ。俺を心から倒したい、追いつきたいっていうアンタの熱がバイクのように真っ直に俺に届いた。カッケェよ!アリアンス!」

 

歯を見せてへへっと笑いました。感激、尊敬、そんな言葉では語り尽くせない感情が私を襲います。コートちゃんに勝ちたい、例え無敗のウマ娘だったとしても、勝たなきゃいけないんです。彼女を倒したいという気持ちだけは誰にも負けません。ウオッカさんの熱意は私の闘争心をみるみる高めていきました。ぎゅっと手を掴んで、グイと顔を寄せます。

 

「ウオッカ先輩、今日は本当にありがとうございました!」

「お、おう!その、初めて見た時から思ってたんだけどよ……、アンタ、モデルとかにはならないのか?スタイルとか、顔とか、イケてると思うし……。ほ、ほら、髪も白色って結構レアだろ?俺はクールでロックだと思うぜ!」

「クールでロック……、ですか?」

 

いつの間にか私の隣にいたウールちゃんがニヤニヤと笑みを浮かべています。楽しそうに何か言っていましたが、聞き取れませんでした。

 

「ま、まあともかく。本番、スカーレットも呼んで、絶対見に行くからな!このウオッカに認められたんだ、ドンと構えてかっ飛ばせ!」

 

最後にガッツとエールを私にプレゼントして、ウオッカ先輩は去っていきました。

 

 

 

「あ、アリアンスさん!?これで四杯目よ、今日はやけにたくさん食べるのね……!」

 

質素なお椀に箸が進んで一杯、二杯とアリアンスに取り込まれていく。普段は少食のアリアンスでも、今日ばかりは大量に掻きこんでいた。

 

「もうすぐ桜花賞だから、たくさん食べないと……!」

「ウオッカ先輩との並走でやる気がぐーんと上がったみたい。ちょっと気合の入れ方が間違って気がするけど、そんなところもアーちゃんらしくてかわいいよね」

「適当なこと言わないで!無茶してはダメよ、もっとゆっくり、よく噛んで食べないと!」

「私のゼリーもあげる。いや、アンが望むなら何だって……」

「アンタ、そんなキャラだったっけ?」

 

目の前の白米と格闘する彼女の隣にフルアダイヤーが寄り添う。彼女もアリアンスと桜花賞でぶつかるというのに、コープコートに見られるような覇気やライバル心は無かった。

 

「ちょっとだけ、休憩……」

「二人とも、アーちゃんはあたしが見ておくから、先寮戻っちゃってよ。しっかり休んで睡眠取って、最高のパフォーマンスを見せるように!」

 

半ば強引に誘導されて二人は部屋へと戻っていった。ウールは彼女から一秒たりとも目を離さない。ようやく完食し終わった時、大きなため息をついた。

 

「さっきまでアーちゃんを囲んでいた三人が、数日後には殺気と熱気の海の中でバチバチにやり合うんだもんね」

 

ウールは残念そうに俯いていた。アリアンスはその消えるような声を聞き逃さない。食器を片付けるのも忘れていた。

 

「何回も何回もシュミレートしたんだ。コートが勝ったら、あいつが勝ったら、そして、アーちゃんが勝ったらどうなるんだろうって。クラシックは生涯一度で、何千人のウマ娘の内、一人の夢しか叶わない。それを念頭に置いてまたまた何度もシュミレートしても、あたしが考える最高の展開は訪れなかった。みんなが幸せになる未来は訪れない。勝った一人以外はみんな涙を流して悔しい思いをしているんだ」

 

でも――、ウールはそう続けた。その声は力強く食堂中を反響し、駆け巡った。

 

「それならあたしは、アーちゃんに勝ってほしいって思っちゃったな。だって、あたしに夢を教えてくれたのは、アーちゃんだから……!」

 

涙が溢れて止まりませんでした。ウールちゃんの目の前で、恥ずかしいと思う暇もなく涙が流れてきます。ウールちゃんの笑顔が、その想いが、言葉を伝って私の心に響くのです。一番近くで支えてくれた親友の温もりが、最後の一歩の勇気を私に与えてくれました。

 

「ちょっぴり泣き虫なところも、アーちゃんのかわいいところだね」

「うふふっ、こんな姿、ウールちゃんにしか見せないんだから……!」

 

彼女は袖で腫れたまぶたを拭って、ウールの紅潮に満面の笑みを返した。

 

 

 

 

「やっぱりウオッカに頼んで正解だったよ。あの子くらい前向きで、けど泥臭く実直に努力できる人材がアリアンスには必要だった。アリアンスは桜花賞間近にして、コートちゃんに負けないくらいの精神力も手に入れた。ヒナ、ウオッカを連れてきてくれてありがとう。ヒナの助言がなかったら彼女を連れてくることはなかったかもしれない」

「ぜ、全然大丈夫だよ!ユウ君の役に立ててよかった……!」

 

彼の言葉がよほど嬉しかったのか、大量の付箋が貼られたノートをぬいぐるみのように抱えていた。



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桜に滲む緊張

「や、アーちゃん」

 

控え室で瞑想していた私のもとに、ナタリーさんはやってきました。ウオッカさんとの訓練からあっという間に当日。どれだけ気持ちを落ち着かせようとしても、すぐに不安が漏れ出てしまいます。一人で心細かった私には、ナタリーさんの訪問は少しだけ胸が温かくなりました。

 

「やっぱり勝負服は様になるね、パドックも全員分見たけど、アーちゃんが一番似合ってる。そして、アーちゃんが一番強い」

 

一瞬、ナタリーさんの声が低くなった気がしました。

 

「ナタリーさんからの最後のアドバイス、聞きたいです」

 

待ってましたと言わんばかりに、私との距離を詰めました。指は少し震えています。

 

「あたいはあたいなりにアーちゃんを見てきたつもりだけど、やっぱり最後はどれだけ自分に自信を持てるかどうか、かな。G1を勝つようなウマ娘ほど、最後には自分自身と戦っているものだよ」

 

聞きたいことが多すぎて、言葉がうまく出てきません。ナタリーさんも経験したはずのこの空気、そして、どうやってそれを打ち破ったのか、今は少しでもナタリーさんの言葉が欲しかったのです。

 

「手、震えてる。アーちゃんはこんなに強いのに、どこまでも人間味があっていいね。あたいは負ける気がしなかったから、正直何も感じなかったよ。あたいとはまるで対照的なアーちゃんだったからこそ、期待しちゃうのかな」

「わたし、絶対に勝ってみせますから……」

 

当日でも、ナタリーさんはいつものように私の頭をポンポンと叩きます。でも、今朝から止まる気配のなかった激しい心臓の鼓動が、少し優しくなった気がしました。そんなことをされたら、ナタリーさんだって震えてるだなんて野暮なことを言う気になんてなれませんでした。

 

「頑張れ、アーちゃん。桜の夢はもうすぐそこだよ」

 

気持ちを落ち着かせ、振り向いた時にはもう、ナタリーさんはいませんでした。代わりに視界に入ってきたのはユウさんです。

 

「桜花賞は直線一気でも十分に間に合うコース。さらに、外枠を引いたコープコートは間違いなくその瞬発力でもって差し切りを狙ってくるはず。つまり、彼女はよっぽどのことがない限り全力を出せる。だからこそアリアンスは、多少ペースが流れたとしてもじっくり脚を溜めていくことが大切だ。直感よりも窮屈じゃない、決して焦ってはいけない。コープコートはもちろん周囲から警戒されているけど、それはアリアンスも同じだ」

「そんな一気に言っても伝わりませんって。ほら、アーちゃんキョトンとしてる」

「確かにそうだ、僕が緊張してちゃ世話ないよ。とにかく、自信を持って。今までアリアンスが積み重ねてきたものの全てに嘘はない」

 

ユウさんから最後のアドバイスをもらって、私は桜舞う舞台に降り立ちました。

 

 

 

「トリプルティアラ第一冠、桜花賞!桜が見頃なここ阪神で、若姫たちが争います。一番人気は八枠16番、無敗のジュニア級女王コープコート!世間の期待を大いに背負い、名家の女王が第一冠戴冠へ!続く二番人気、女王に待ったをかけるのは、五枠10番アリアンス!惜敗続きの美少女は、春に一面の雪景色を演出するのか!三番人気は二枠三番ビジョンスター!重賞制覇を果たした実力は本物、アリアンスを破ったその末脚で桜の栄冠を虎視眈々と狙います」

 

ターフに立ち入ると夥しい数の拍手喝采。私を奮い立たせるのは、いつだってこの歓声でした。今日まで続けてきた努力は、この瞬間のためにあるのです。緊張が極限まで高まって、歓声によってアドレナリンに昇華する。今の私は、誰にだって負けません。もちろん、無敗の女王だって倒してみせます。

 

「アーちゃん、頑張ってーーーー!!」

 

ウールちゃんの声援はいつも通りです。いつも通りの、私の大好きなウールちゃんの声。そう、いつも通りでいいのです。そよ風が吹き抜ける柔らかい芝に足跡を残して、私はゲートに向かいました。

 

「うぅ、私、緊張でどうにかなっちゃいそうだよ……」

「大丈夫だよヒナちゃん!アーちゃんがぶっちぎって勝つから心配しないで!そうだ、アーちゃんが帰ってきたらお花見行こうよ!」

 

最前列でアリアンスを見守る二人。ヒナの拳は手汗が滲み、ウールは少し呼吸が荒かった。まばたきの回数も少し増えている。身を乗り出して柵を越えたくなる気持ちをグッと堪えて、ただレース開始の瞬間をソワソワしながら待つだけだ。

 

「そろそろ始まるよ!」

 

生演奏のファンファーレ、陽気軽快な音色と手拍子がアリアンスの胸にズキズキと突き刺さる。ここに立つことを許された十六人を讃えるそれは、アリアンスには形容し難いほどの重圧だった。しかし、自身に向けられた期待と、圧倒的な一番人気を覆す情熱でもって、コープコートを睨みつけるように見つめた。

 

「いい顔だわ、アリアンスさん。あなたのその怒りにも似た瞳は今日は私だけのもの。でも、今日の主役は私、絶対に負けるわけにはいかない」

 

女王が静謐にゲートインを終えると、ついに桜の戦いのゲートは開かれた。

 

「アン、絶対についてくから」




だいぶ期間が空いてしまいました。大変申し訳ございません。今度こそは期間を空けることなく絶対に完結させますので、どうか見ていただけると幸いです。


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桜花賞

フルアダイヤーが軽やかに先頭を奪い堂々と逃げ始めた。それに繋がるように後ろが続き、向正面を過ぎていく。アリアンスは中団の内、揉まれる形にはなったが、ひたすら冷静に周囲を伺っていた。ウオッカは言っていた、ライバルに勝ちたいという気持ちさえあればいいと。しかし、アリアンスは今日、それに留まらず全てを倒すつもりで走っていた。コープコートに勝つのは通過点だと、そう自分を奮い立たせて。

 

「風に吹かれて桜に押されて隊列が決まっていきます。さあさあここから外回り、非常にゆったりとしたペースで走っているのはフルアダイヤー、初の芝、初の逃げ、しかし冷静に、ゆっくり足を溜めています」

 

観客全員が夢を持って見守っている。多くの夢を託された一番人気、コープコートは堂々と一番後ろに待機していた。後方二番手との差は2バ身ほど、先頭は第三コーナーを大きく回って、少しずつ、少しずつ、燃えるような火花が散って集団の隙間が埋まり始めた。地を這う蹄鉄の豪音が桜に広がり、会場の熱気へと届いて、一着への執念がぶつかり始める。

 

「隊列は横に広がって、大外はやはり一番人気コープコート、段々と着実に虎視眈々と距離を詰めて、いつ出るのか、いつ仕掛けるのか。先頭は以前フルアダイヤーが陣取って、ついに、桜が笑う最後の直線、トリプルティアラ第一冠がやってくる!」

 

先頭集団が足を伸ばそうと姿勢を低くした瞬間、レースは最盛を迎えた。会場にいる全ての関係者の夢を乗せて、ウマ娘たちは輝きを求め最終直線を駆け抜ける。

 

「コートちゃんはまだ後ろ、それならここで!」

「くっ、ギリギリかしら。さあやりましょうアリアンスさん、全てを賭けて全力で!」

 

最内で揉まれながらも強引にアリアンスは抜け出した。同時に外から巨大な影が襲いかかる。関係ない、コートちゃんもアイちゃんもビジョンスターちゃんも、全部振り切って、私が勝つんだ。

 

「キタキタ、やっと来ましたコープコート!内からアリアンス、アリアンス!しかし粘り続けるフルアダイヤー!最後の力を振り絞って加速する!あと200、大外強襲コープコート!間に合うのか、間に合うのか!」

 

二バ身、一バ身、声援を浴びてコープコートが一気に迫る。負けたくない、勝つんだ!もう一センチでも前へ、たとえ足が折れても。何も見えずがむしゃらに目の前を、フルアダイヤーの影を追い続けた。

――――あれ、コートちゃんじゃ、ない……。

 

「距離が、縮まらない……!違う、私は負けない、女王は私よ!」

 

コープコートはアリアンスを意識し過ぎてしまった。いくら彼女でも、あそこからでは届かない。前二人、アリアンスとフルアダイヤーとの差は一バ身から変わることはなかった。どれだけもがいても、焦りを見せても、もう届かない。

 

「アン、私を変えてくれたあなたと、いつかこうして走りたいと思ってた。芝はやっぱり慣れないから、私にはこうするしかなかった。コープコートは届かない、アン、これで二人きりだよ。もっと、もっと、あなたの必死な表情を、皆の知らないあなたを私にぶつけて」

「はあ、はあ、私が勝つんだ……!」

「なんと、なんとなんと粘る粘るフルアダイヤー!コープコートは届かない!アリアンス、フルアダイヤー、内からアリアンス!しかしもう一度フルアダイヤーが差し返す!」

 

一度は勝ったと思った、しかしフルアダイヤーは彼女の想像を遥かに超えていたのだ。私はまた、届かないの……?桜の冠が遠のいていく。一生に一度しか挑戦できない栄光を、私はこんな簡単に逃してしまうの……?ナタリーさんと誓った約束を、私は果たせない……。その時、アリアンスの加速が止まってしまった。

 

「二人もつれてゴールイン!わずかに外フルアダイヤーが優勢か!なんとびっくり、芝初挑戦にして、トリプルティアラ第一冠、桜花賞の栄冠を掴み取りました!これには会場のどよめきも収まることを知りません!二着は惜しくもアリアンス、一番人気コープコートは少し離れて三着となりました!果敢に逃げに挑戦したフルアダイヤー、一瞬の判断で未来を変えてみせました!」

 

そんな、アーちゃんが、負けた。ウールは足が震え、現実を受け入れられない。だってトリプルティアラはアーちゃんの夢で、その話をするアーちゃんはいつだって眩しくて、あたしの背中を押してくれた。なのに、どうして。

 

「あぁ、あはは……、そっか、わたし、負けちゃったんだ」

「アン、私の走り、どうだった。私のこと、見ていてくれた……?」

 

そこにいたのは、嗚咽を漏らし溢れる涙で枯れてしまったアリアンスだった。



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桜の亡骸

私の全てが砕けて壊れて、暗闇に閉ざされてしまったような気がしました。全てがどうでも良くなって、もう自分に価値を見出せなくなって。こんなことなら、ウマ娘になんかなるんじゃなかった。こんなに苦しいなら、レースになんか出るんじゃなかった。だって私はこんなにも弱くて醜いのに、叶えもしない夢ばかり大きくて、実現できない理想だけは広くて、結局何もできない弱虫なんですから。期待を背負うだけ背負って、全てを裏切る最低なウマ娘の正体、それが私だったと、ようやく気づきました。

 

「アン……?」

 

アリアンスは静かに立ち上がり、目の前のフルアダイヤーの声に反応も見せないままぶつかり、押しのけて歩いた。抜け殻のような彼女を心配したフルアダイヤーは急いで手を握り、顔を覗かせた。

 

「アン、大丈夫?どこか悪いなら私が連れていく。骨折なら急いで対処しないと、無理に歩いてはダメ。だから……」

「邪魔だから、どいてほしいな」

「えっ……」

 

もうそれ以上、彼女が言い返すことはなかった。フルアダイヤーが焦がれたアリアンスはもういない。前髪の間からかすかに見えた彼女の表情は、ひどく醜く歪んでいた。トリプルティアラ第一冠というこの上ない名誉を手に入れたウマ娘は、ターフの上で立ち尽くし、自分に希望を与えてくれたウマ娘が力無く去っていく様を見るしかなかった。

 

「待ちなさい、アリアンスさん」

 

汗を滲ませ、呼吸を荒げながら、コープコートは立ち塞がった。

 

「フルアダイヤーさんは強かった。でもそれは、アリアンスさんへの渇望なのよ。彼女はよく言っていたわ、『アンは私の恩人、だからこそG1の大舞台で本気で戦ってみたい』って。芝に転向してまであなたとの一戦を求めたフルアダイヤーさんに対して、その態度はあんまりじゃないかしら」

「だから、何?」

 

いくらコープコートとはいえ、この言葉は深く突き刺さった。冷静を保っていられなくて、怒りだけじゃない様々な感情が口から溢れ出ようとしてくる。アリアンスが壊れてしまったのは明確だった。だからこそ、必死にそれを抑えながら言葉を続けた。

 

「私は、私の気持ちはどうなるの……!今日はアリアンスさんだけをマークして、あなたにだけは負けたくない、その思いで全てをぶつけたというのに……!結果負けてしまったけれど、今日ほど清々しい日も無かったわ。なのにあなたは、あなたは……、フルアダイヤーさんだけじゃなく、私や他の皆の思いまで裏切るというの……?」

「もう、いいかな」

 

こんなの、こんなのアリアンスさんじゃない。何も認めたくなかった。彼女の闘志が燃え尽きたことなど信じたくなかった。けれど、それは叶わない。

 

「私の見込みが間違っていた。あなたは優しく純粋で、理想高く努力を惜しまない。数回敗北した程度では決して折れない屈強な精神を持つ皆の憧れ。私にはもったいないくらいのライバルだと、そう信じていた私がバカだったわ。辞めたいなら辞めればいい、もう私たちの前に姿を見せないで、弱いウマ娘はいらないもの」

 

強い言葉を吐きながら、それでも泣き崩れそうになるコープコートを押しのけて、反論することなくアリアンスは行ってしまった。会場のどよめきはしばらく収まることはなかったが、それは大穴を開けたフルアダイヤーに対してではなく、今日のターフを確かに盛り上げた彼女が消えてしまったことに対してだった。

 

「アーちゃん、どうして……」

 

自分をこれほど無力に思ったことはなかった。コートがあんなになるまで語って無理だったのだから、今更あたしが行ったところでアーちゃんを変えることなんてできないだろう。ここからターフまで、一直線に駆け足で辿り着くことができるのに、あたしは足がすくんで、ただひたすらにアーちゃんが戻ってくることを祈るばかりだった。

 

 

 

 

「ちょっと行ってくるよ、ルドルフ」

「ああ」

 

小柄なウマ娘は静かに立ち上がった。



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