エイシンフラッシュの娘。 (ソースケ2021)
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1話

あたしは、今年トレセン学園に入学したウマ娘。
あたしのお母さんは、ダービーと天皇賞を制覇したあのエイシンフラッシュで……。

自分の実力と母の栄光、そしてその親子関係に葛藤しながらも
競争生活を全うしようとする、一人のウマ娘のお話です。

こんな感じの娘ですので、
【挿絵表示】
よかったら皆様の読書の
一助にしてください。


吾輩はウマ娘である。

 

名前は……。

 

そうだね。

もうすぐレースだし、それが終わってから自己紹介しようかな。

あたしの名前を聞けば誰もが多分、いろいろ『あぁ……』と思うだろうから。

 

 

中山芝2000M・未勝利戦。

あたしの順位は、10人中4着だった。

まあ、こんなもんかな。

自分なりに、よく頑張ったと思う。

 

「おつかれ、アデリナ」

「ウイッス。お疲れ様であります、親愛なるトレーナー同志閣下。偉大なる母上様からの、レース後お小言メールが早速届いたでありますか?」

 

あたしは敬礼の真似事をしながら、迎えに来てくれたトレーナーにそんな軽口をたたく。

 

「……そういう言い方するなよ。フラッシュも君を心配して色々言ってくれてるのは、分かってるだろう?」

 

そんなことをいうトレーナー兼父親に(そうなんだよ)、あたしはピーピーと調子の外れた口笛を吹いて、何も聞こえないふりをした。

子供っぽいと言われればそれまでなんだけど、実際16の小娘なんだから仕方ない。

 

もうバレてるだろうから早速自己紹介してしまうと、あたしのフルネームはフラッシュアデリナという。

 

なんの因果かウマ娘に生まれ落ち、レースなんてヤクザな商売をしているわけだ。

 

この名前は母親であるエイシンフラッシュからと、彼女の故郷、ヨーロッパのドイツで使われている女性名から名付けたものだと聞いている。

 

あたしは、自分の名前がすごく気に入っている。

 

……母親がダービーと天皇賞を制したあの名ウマ娘・エイシンフラッシュだ、ということがまるわかり、というところ以外はね。

 

「フラッシュの見る限り、ゲートの出方とラストスパートの掛け方にまだまだ修正の余地があるそうだ。もちろん、君もある程度分かっているだろうけど。いつものようにフラッシュが今日のレース動画を編集してから、具体的なアドバイスを声で入れてその動画を送信してくれるから、一緒に見よう」

 

あたしの嫌味にもめげす、トレーナーでもある父は、母から届いたであろうメールの内容を親切にもそう伝えてくれる。

 

「……そういうのって、トレーナーの仕事じゃないの?はっきり言ってやんなよ、俺の仕事に口出しするな!って」

 

レース後いつも繰り返される何回めかのあたしの皮肉に、この人はいつもの苦笑いを浮かべるだけだ。

 

「そうは言うけどな。レース経験者であるフラッシュのアドバイスは貴重だし、君の指導に大きく貢献していることは、よく分かっているだろう?」

「それならお母さんがトレーナーの資格取ってあたしに直接指導すればいいじゃない。動画編集にかまけられるぐらい、ヒマなお菓子屋さんなんかやめちゃってさ」

 

前半部分はいつもの口上だったけど、後半は思わず口がスベってしまった。

……自覚している欠点を指摘されたことと、デビューから4連敗を喫してしまったことで、気持ちがクサクサしてたのかもしれない。

 

「アデリナ、いい加減怒るぞ。お母さんがどれだけ忙しい中、あの動画を作ってくれているか、お前が知らないはずないだろう」

 

つい感情的になって【ヒマなお菓子屋】なんて言ってしまったが、実を言うと地域でも指折りの人気洋菓子店を、母はオーナー洋菓子職人として経営していたりする。

 

「はいはい、ごめんなさい。次からスタートとスパート、それからモノの言い方には気をつけるようにするよ」

 

それを聞いて多少は納得したのか、あたしのトレーナーをやってくれている親父殿は、それ以上はなにも言わず、控室の方に歩き出した。

 

 

「ただいまー。あ〜、疲れた!」

 

中山レース場から寮の自室に戻ったあたしは、疲れと重力の赴くままに、ベッドへ身を放り投げた。

 

「おかえり、アデリナちゃん。レースお疲れ様」

 

柔らかい笑みを浮かべてあたしに労いの言葉をかけてくれたのは、ルームメイトのスプラッシュスターちゃんだ。

 

くりくりっとした、エメラルド色の大きなタレ目がかわいらしい優しげな顔立ちで、髪型はセンターに一筋だけシルバーが入った茶色の髪を、キレイなショートカットにしている。

 

あたしと同学年でデビュー時期も一緒、それにいまだお互い未勝利という身分であるということもあって、結構仲良くしてもらっているんだ。

 

彼女の出自は珍しく、家族を始めとして、親戚身内にウマ娘が一人もいないらしい。

国勢調査だったかウマ娘の歴史本だったか、ソースは忘れてしまったけど、確かこういうケースは1%未満だったと記憶している。

 

親族初のウマ娘ということで、あたしとはまた違った種類の期待を家族や親戚から背負わされているウマ娘だ。

 

「いいレースだったのに、残念だったね」

「ありがと。んー、まー、自分なりに全力を出せたから、それなりに納得の結果かな」

「うん!アデリナちゃんの実力なら、きっと近いうちに初勝利を挙げられるよ!」

「……うん、ありがとう」

 

笑顔であたしを励ましてくれるスターちゃんの言葉に、少しばかり心がチクッとする。

 

スターちゃんの、デビューから4連敗という戦歴はあたしと同じなんだけど、その……内容があたしに比べて少しばかり厳しかった。

 

彼女も一生懸命努力を続けているんだけど……デビュー戦から11着、8着、12着、9着と、ちょっと成績がふるわない感じだ。

 

スターちゃんがレース後にいう、『私はトレセン学園に入れたのが奇跡なくらいの才能しかないから……』という自虐に、あたしは『そんなことないよ。晩成型のウマ娘なんていくらでもいるし、お互い初勝利目指してがんばろう!』くらいしか言ってあげられないでいる。

 

「アデリナちゃん、もう夕食は済ませてきた?」

 

あたしがなにか空気を重くしない言葉を小賢しく探しているうちに、かろうじて気まずさを感じない絶妙なタイミングで、スターちゃんは沈黙を破ってくれた。

 

「うん、今日はお父さ……トレーナーが帰りしなに晩御飯ごちそうしてくれたからね」

 

当たり前と言えば当たり前だけど、トレセン学園内とレース場では、父のことをお父さんと呼んだりしない。

 

そう決めているはずなんだけど、気のおけない人の前だと、ついつい実家でのクセが出てしまう。

 

「あ、じゃあもうお腹いっぱいかな?」

「……ちょっと、小腹が空いてるかも」

 

このやりとりは、今から行う悪事のための儀式みたいなものだった。

 

「実家がお菓子屋さんの子に出すのも、ホントは気が引けるんだけどね……」

 

はにかみながら机の引き出しから取りだしたのは、コンビニで買ってきたであろう、パックの中に並べられた3本のみたらし団子だった。 

 

「見た目によらず、スターちゃんってワルだよね〜」

 

からかうあたしに、スターちゃんはいたずらっぽい笑みを浮かべるだけ。

実は、自室にお菓子などの食べ物を持ち込むことは、寮則で原則禁止されている。

 

その理由をわざわざ、寮長やトレーナー、学校の先生に尋ねたことなんかない。

 

食べ盛りの、それも半端ないトレーニング量をこなすウマ娘たちにそれを許せば、部屋にお菓子やファストフードを持ち込んで、際限なくそれを貪り食うヤツが出てくるに決まってるからだ。

 

「それを黙認するどころか、喜んで一緒に食べてるアデリナちゃんも同罪だよ」

 

そんなことを言いながら、スターちゃんはパキッと軽い音を鳴らせて、みたらし団子の入ったパックを開けてしまった。

 

「ふむ。では我々は秘密を共有したイケナイ共犯者というわけですな?」

「That's right.」

 

あたしの冗談に、似合いもしない悪い笑みを浮かべながら下手な英語で同意すると、スターちゃんはみたらし団子を手に取った。

もちろんあたしも、遠慮なくご相伴に預かる。

 

禁断の味に舌鼓を打ちながら盛り上がる話は、もちろん恋バナである。

 

「ねぇ、アデリナちゃん。引退したら、まず何がしたい?」

 

レースから引退したら何をしたいか?という話題は、トレセン学園に通うウマ娘の伝統のようなものだ。

先輩方が食堂で、カフェで、寮のリビングでそんな話をするのを聞くうちに、自然と後輩たちにも伝播するんだと思う。

 

トレセン学園での競技生活は、決して窮屈なものではない。

けれど、【外の世界】に対する憧れは多かれ少なかれ、ここに通うウマ娘なら誰もが持っているはずである。

 

「そうだねー……やっぱり、恋だよ恋。かっこいい男の子と素敵な恋愛したいよね」

「だよねえ~。基本的に現役期間は恋愛禁止だし。アデリナちゃんはどんな男の子がタイプ?」

「顔はまあ、そんな贅沢言わないけど。やっぱ、優しい人がいいよね。あと、トレーナーだけはダメ、ゼッタイ。男性トレーナーはロリコンの巨乳好きに決まってるから。あたしが言うんだから、間違いない!」

「アデリナちゃん、恋バナするとそれ絶対言うよね」

 

あたしの断言に、スターちゃんは苦笑いを浮かべる。

 

うちの母はトレセン学園に入学してすぐ、体育大学のウマ娘トレーナー科を卒業したてで当時トレーナー1年目だった、あの父親にスカウトされたらしい。

 

一体全体どうして、トレーナーとしてルーキーだったお父さんが、将来G1を勝つほどのウマ娘を担当することができたのか全くの謎である。

 

レースはG1とか重賞ぐらいしか見ないよ、という人にはあまりピンとこないかもしれないけど、G1を勝つというのは大変に名誉なことで、三女神様の祝福を受けた、本当に選ばれたウマ娘しかその栄誉をつかむことができないのだ。

 

G1を勝つことはおろか、出走することすら叶わないで引退していくウマ娘がほとんどなのだから。

 

事実、お父さんももう長い間トレーナー業を営んでいるけど、母であるエイシンフラッシュ以降、G1ウマ娘を手掛けたことはない。

 

トレセン学園入学前に、一度だけ両親にそのことを聞いたことがあるが、そのときは二人揃っての『運命だったんだよ』という言葉に煙を巻かれて、それ以来聞く機会が訪れていない。

 

あたしが邪推するに、当時22歳の新人トレーナーであった父が無謀にも、母が持っていたあふれんばかりのレースの才能と、あのキレイな顔プラスこれまた勝負服からこぼれそうなほど大きなおっぱいに惹かれて声を掛け、たまたまトレーナーの決まってなかったスキを突いて担当することになったんだろう。

 

で、それにかこつけて世間知らずで相当年下である母を、父は口説き落としたに違いない。

付き合い始めたのはお母さんがレースから身を引いたあとだよ、なんて二人して言っているが、いまだに結構ラブラブしている両親を見るに、あたしは頭からそれは嘘だと決めつけている。

だからあたしは、どうも恋愛に対して誠実さに欠けそうな、トレーナーという職業の男性は絶対にNG!と心に固く誓っているわけだ。

 

「そういうスターちゃんはどうなのよ、好きなタイプは?って聞いても素朴で優しい人、としか言ってくれないし。具体的にどんな感じよ?芸能人でいうと?」

「私は芸能人詳しくないけど、学校の先生とかトレーナーさんでいうとね……」

 

そんな、女の子であれば誰でもするような他愛のない会話を交わしながら、レースでは命の次に大事な1勝を懸けて競うかもしれない未勝利ウマ娘同士、あたしたちは確かに友情を感じ、青春を謳歌していた。

 

 

続く。




読了、お疲れさまでした。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。


あんまり上手でもないんですけど、自分で描いたイラストを差し挟んでみました。
少しでも読んでくださった方々の目を楽しませられるものであったのなら良いのですが……。

オリジナルウマ娘が主役のお話でしたが、ウマ娘ファンの方々に、
少しでも楽しんでいただけたのなら、幸いです。

それではまた、近いうちにお目にかかれたら、と思っています。


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2話

偉大な母親を持つウマ娘・アデリナが、自身の実力と母親の実績、その親子関係に葛藤しながらも競争生活を全うしようとするお話です。

※オリウマ娘注意です。

登場人物
フラッシュアデリナ

【挿絵表示】

誕生日:4月28日
体重:おおよそ理想
身長:159センチ
スリーサイズ:87・58・86



どこからか、声が聞こえる。

その声が遠くからのものなのか、近くからのものなのか、どうも判然としない。

ただ、その声はあたしに安心感を与えてくれるものだった。

 

「……リナちゃん。アデリナちゃん!もうすぐ5時だよ。そろそろ起きて~」

「……ん。あぁ……」

 

その声を頼りにベッドから体を起こし、寝ぼけまなこをこすりながら、う~ん……ととりあえず伸びをする。

 

「あ、おはよう。いつも悪いね……」

「おはよう。そんなの気にしなくていいよ。じゃあ私、先にトレーニング行くからね~」

 

そういってルームメイトのスプラッシュスターちゃんは軽く手を振り、さっそうと部屋から出ていってしまう。

 

学園の慣例的に、朝のトレーニングは一応6時からということになっている。

だからあたしのように5時ぐらいまで寝て、それから準備しても寮に住んでいれば十分に間に合うのだけど……。

 

スターちゃんは4時には起きて、5時過ぎはもうバ場に入って自主練を行っていた。

 

『才能がない分、努力で補わないと!』

 

それが彼女の口癖だった。

 

あたしもスターちゃんに触発されて、彼女の早起き自主練に付き合ったこともある。

でも、どうもあたしは8時間以上寝ないとまったく体が動かないタイプらしく、自主練に付き合った日のタイムはボロボロ、授業中は居眠りしてこっぴどく怒られると散々だったので、それ以来無理にお付き合いすることはしないようにしていた。

 

「……起きるか」

 

二度寝したい誘惑に駆られるけど、それは毎朝起こしてくれるスターちゃんの友情への裏切りだろう!と自分に言い聞かせて、ベッドからの脱出になんとか成功する。

 

髪型をセットするために、立ち上がってベッドのすぐそばにあるクローゼットを開けた。

そこに、姿見鏡が設置してあるからだ。

映り込むのは、髪の長いウマ娘の姿。

 

あたしの髪は太陽のもとで見れば深い青に見えるほどの黒色で、それを腰まで届くロングにしている。

目は一応二重まぶたのタレ目で、特徴らしい特徴といえば色素の薄い青色をしている、ということぐらいだ。

 

あたしはあんまり、自分の顔が好きじゃない。

あの名ウマ娘・エイシンフラッシュに似た、自分の顔が。

中学生の時読んだ、父の部屋にあったラノベに『優秀な双子の姉に、姿形だけを分不相応に似せたのが自分』なんてセリフがあったけど、その妹の気持ちが、あたしには痛いほどよく分かった。

 

……小さい頃は、母に似た自分が誇らしかった。

 

耳飾りも母と同じデザインのものを付けていたし、髪も美容室に行くたび、美容師さんに『お母さんと同じ髪型にして!』とお願いしたりしていた。

 

でもある時を境に、お母さんと同じ髪型、よく似たビジュアルをしていることが心底嫌になった。

 

あたしが本格的にレースに向けてのトレーニングを開始したのは、小学2年生からだった。

 

最初は良かったんだ。

同じ歳のウマ娘たちより、多少は脚が速かったから。

 

しかし周りのレベルが上がるにつれ、どんどん自分の思うような成績が残せなくなってきた。

小学生高学年になるころには少しずつ自信が崩れつつあったのを自覚していたけど、『あたしはお母さんの娘なんだから、まだまだ頑張れる!』と自分に言い聞かせて、日々のトレーニングや模擬レースに取り組んでいた。

 

忘れもしない。

中学1年生の夏合宿のときだった。

あたしはたまたま、世代トップレベルの子と模擬レースを行うことになったんだ。

結果は、8バ身差の惨敗。

レース直後、勝った子がこう言い放った。

 

『エイシンフラッシュさんの娘なのに……脚、遅いんだね』

 

負けたあたしは、何も言い返せなかった。

その後も何食わぬ顔でトレーニンクを続けたけど……夕方、合宿所に戻る前に誰もいない水飲み場に直行し、声を押し殺してあたしは号泣した。

その時、耳につけていた母と同じデザインの耳飾りを、遠くに放り投げたんだ。

 

それ以来、あたしの耳飾りは赤いリボンをちょうちょ結びにしただけ、というものになっている。

 

美容院にも、めったにいかなくなった。

セミロングの母より、ずっと長く伸ばすために。

……少しでも、エイシンフラッシュの幻影から逃れるために。

ショートカットも考えたんだけど、髪型アプリでシミュレートしてみたらあんまり雰囲気が変わらなかったので、その案は却下にせざるを得なかった。

 

そんなあたしを見てお母さんは少しばかり寂しそうな顔をしていたけど、あたしはそれを見なかったことにした。

 

目の方も本当は赤いカラコンを入れて、青い瞳を覆い隠してしまいたかったんだけど、『アデリナ。あなたの目は2・0も見えているのに、なぜコンタクトを入れる必要があるんですか?』という母の正論のせいで、それもダメになってしまった。

 

まさか『あなたに似た青い瞳を隠すためです』とは、さすがに言えなかった。

 

……つまんないこと思い出しちゃったな。

 

そのせいというわけでもないけれど、あたしはいつもより少し乱暴にブラシを手に取ると、いつもより長い時間を掛けて、自慢の長い髪の手入れをした。

 

 

>>

まだ陽も登りきらぬ、早朝のトレーナー室。

 

『おはようございます。どうですか、アデリナの調子は?』

 

その部屋の火元責任者であるトレーナーのノートPCから、女性の声が聴こえてくる。

彼はビデオ通話を通して、彼女と会話しているようだった。

 

「おはよう。相変わらずだよ。いい意味でも、悪い意味でも」

 

その言葉にPCの中の女性は、苦笑いを浮かべた。

画面の中の女性はパリッとした制服に身を包み、その美顔に上品な薄化粧を施している。

 

特徴的なのは頭上にあるふたつの大きな耳で、彼女がウマ娘であることを如実に物語っていた。

彼女こそ日本最高峰のレース・東京優駿と、数あるシニア級レースの中でも最も伝統と権威のある天皇賞という2つのG1を勝ち取った名ウマ娘・エイシンフラッシュその人であった。

 

今は夫でもあるトレーナーの地元に自身の洋菓子店を持ち、オーナー職人としてその辣腕を振るっている。

朝も早いのに身だしなみがきちっとしているのは、それが理由だ。

 

『アデリナは、素質あるウマ娘です。綿密な計画のもとトレーニングを組み立て、それを正確に実行できれば、重賞でも勝ち負けできる子のはず。あの子にはどうも、熱心にトレーニングに取り組む姿勢が足りない気がします』

「う~ん……そんなことはないんだけど……」

 

フラッシュのお小言に、彼は難しい顔を浮かべるだけだ。

普段はあれだけ冷静沈着で、物事を客観的かつ俯瞰的に見られる彼女が、自分の娘に対してはどうしてこうも盲目的になってしまうのだろう。

 

俗に言う、【親の欲目】というやつなのかもしれない。

 

「とりあえず、君からのメッセージは伝えておくし、もらったアドバイスは有効活用させてもらうよ。ただ、あの子はあの子なりに一生懸命努力はしているんだ。それは分かってあげて欲しい」

『私も、アデリナの頑張りを否定したいわけではありません。ただ、それで結果が出ていないのは、何かが決定的に足りていないのだ、ということを自覚してほしいだけなんです』

 

一本筋が通っているというか、頑固というか、フラッシュのそういうところは若い頃から変わらないな……と彼は思う。

まぁそんなところに惚れてしまったのだから、仕方ないのだが。

 

「……それも一応、伝えておく。じゃあそろそろトレーニングの時間だから、失礼するよ。フラッシュ、愛しているよ」

『私も心からあなたを愛しています。それでは』

 

夫婦は笑顔で愛の言葉を交換し合うと、ほとんど同時に通話を切った。

 

「ふぅ……ウマ娘の間に入ると大変だよ、ホントに」

 

誰もいないトレーナー室で冗談めかしてそういうと、彼は机の上に出しっぱなしにしてあったアデリナのトレーニングノートを手に取った。

 

フラッシュからのアドバイスももちろん参考にはするが、基本的には自分がアデリナを見て、最適だと思えるトレーニングメニューを組んでいる。

 

ウマ娘の能力や性格は、一人ひとり全く違う。

あるウマ娘には最善のトレーニングでも、あるウマ娘にとっては最悪のトレーニングになる、なんてことはザラだ。

そこを見極め、彼女たちの能力を最大限発揮させるのがトレーナーという職業の使命であり、この仕事の醍醐味でもある。

 

自分が考え抜いて組み上げたトレーニングメニューの下には、その日アデリナが記録したタイムも書き込んである。

……正直、どれも一流のウマ娘のタイムとは言いがたかった。

彼は自分の娘の能力を【展開が向けばどこかで未勝利は脱出できるかもしれないが、そこから先はプレオープンで入着がせいぜい】と見積もっている。

 

 

アデリナの進路と素質に関しては、彼女が中学3年生になる直前にかなり剣呑な雰囲気の中、本人とフラッシュを交えて話し合ったことがある。

 

そろそろ梅の見頃も終わる、そんな季節の夕食後のことだった。

 

「そうそうアデリナ。あなたも春からはいよいよ受験生ですね。トレセン学園のパンフレットを取り寄せておいたので、ぜひ目を通しておいてくださいね」

 

夕食後の片付けが一段落したあと、フラッシュは笑顔で美しい芝の映える、校内の模擬レース場の写真が表紙のパンフレットをテーブルの上に置いた。

 

当然のようにフラッシュは、娘には自分と同じようにトレセン学園に入学して、恵まれた環境とレベルの高いライバルたちの中で切磋琢磨し、実りある競争生活を送ることを望んでいた。

 

「私も在籍していましたが、トレセン学園は本当に素晴らしい環境の学園です。あなたもきっと、充実したレース生活、学園生活を送れると思いますよ。一生付き合えるような、良い友人とも巡り会えるはずです」

「うーん……。そのことなんだけど」

 

上機嫌でそんな事を言う母親に、なぜかアデリナは渋い表情を作って、なかなか首を縦に振らない。

色々思うところがあるとはいえ、尊敬する母親の希望である。

できれば、その期待に応えたいという気持ちは持っていた。

 

だが、アデリナは中学時代の実績やタイムを鑑みるに、トレセン学園に合格することはできるかもしれないが、その中の第一線で戦い抜くのは自分の実力ではかなり厳しいと考えていた。

 

「あたし、仮にトレセン学園に入学できたとしても、そこで活躍できる自信ないんだ。今担当してくれているトレーナーさんも、正直あんまりあたしに期待してないみたいだし」

「……私も入学当初は、それほど大きく期待されていたわけではありませんでしたよ。それでは一体、あなたはどこに進学したいというんです?」

 

娘の言葉を聞いて、少しばかりフラッシュの口調に険がこもる。

 

(こういう時のフラッシュは怖いんだよな……)

 

母娘のやり取り聞きながら黙って紅茶をすすっていた彼は、今日は荒れそうだ、と内心覚悟した。

 

「うん、それなんだけど……」

 

アデリナはその先の言葉を少しためらったようだったが、ふぅ、と大きく息を吐くと母をまっすぐに見据えて続ける。

 

「あたし、できれば地方のトレセン学校に入って、ダートを走りたいと思ってるんだ。明らかに自分に合ってない高いレベルのところで無理するより、自分がより輝ける可能性のある場所で頑張りたい」

 

あのエイシンフラッシュの娘、ということで意外に思われるかもしれないが、アデリナはスペシャリストほどでないにせよ、ダートもある程度こなせる器用さを持っていた。

 

トレーナーでもあり、父でもある彼は娘が初めて言った進路に多少驚きはしたが、娘のその考えはいいアイデアのように思えた。

中央が主催するダービーや天皇賞、有マ記念などの芝の大レースに目が行きがちだが、地方のレース場を含めると、日本のレースの実に8割はダートで行われている。

 

日本は意外にも【ダートレース大国】なのだ。

 

地方のレースは、主催する自治体によってかなりレベルに違いがある。

学校のレベルになぞらえるなら、偏差値50くらいの中堅的な地域もあれば、偏差70後半程の【ダートのエリートたち】が集まっている地域もあり、それぞれの地域に特色がある。

 

自分の実力により見合った環境を選んで戦えるというのも、地方のトレセン学校を選択する大きな魅力だ。

 

「……ダートを走ることが悪いことだ、とは言いません。しかしそれなら、トレセン学園に入学してから適性を見極めてもいいのではありませんか?」

 

フラッシュの言葉に、少しずつ熱が帯び始める。

どうやら譲る気のないらしい母の言い分を受けて、アデリナの表情も固くなった。

そんな二人を見て、議論が白熱し彼女たちが完全に熱くなる前に、自分の考えを述べておくべきだと彼は考えた。

 

「まぁまぁ、フラッシュ。君の希望も分からないわけじゃないが、アデリナも自分で色々考えたんだろう。アデリナはダートも得意だし、自分の力に見合った環境で存分に実力を発揮するのも、一つの良い戦略だと思うよ」

 

そんな感じで娘の意見に同調すると、なぜかフラッシュにきつく睨まれた。

普段温和な彼女にそんな表情を向けられると、より怖く感じてしまう。

 

「ほう。あなたがそれを言いますか?」

「!……あ……。いや、その……」

 

射抜かれそうなフラッシュの視線を受け止めつつ、彼は鮮明に思い出していた。

春先はG2・G3で無難に勝利を積み重ね、秋の天皇賞に望みたいと言った彼女に、かなりハチャメチャな方法でG1路線を戦うよう背中を押したのは誰だったか。

彼はわざとらしくコホン、と父の威厳を出すように咳払いをして、喉の調子を整えてから今度は娘を諭しにかかる。

 

「アデリナ。それも悪くないが、やっぱりお父さんは自分の力の限界を試すべきだと思うぞ」

「……えぇ……うそでしょ……」

 

さっきまで賛成してくれていた父の熱い手のひら返しに、アデリナは言葉を失ってしまった。

 

閃光のような妻の厳しい視線の次は、娘からの心底軽蔑したような、冷たい視線が彼のハートを撃ち抜いてくる。

もう勘弁してくれよ、と言いたくなるが、これが結婚して子供を持つということなんだ、と彼は半ば諦めの境地だった。

家庭を持ち、家族と一緒に住む以上、こうした揉め事はつきものだ、とある程度は受けて入れていく必要がある。

 

「いや、お父さん。さっきは賛成みたいなこと言ってくれてたじゃん……。なんなの?お母さんに弱みでも握られてんの?」

「いや、断じてそんなことはないぞ。お母さんの一言で、意見が変わったんだ。ほら、昔から言うだろ?『君子は豹変す』って」

「それって元々は、こういうシーンで使わない良い意味だった気がするけどな……」

 

どうやら勉強もしっかりしているらしく、アデリナはきちっと正しいツッコミを入れてくる。

実は彼女、全国でも有数の進学校に合格できるくらい学校の成績は良かったりするのだ。

ウマ娘に生まれさえしなければ、こんな悩みも抱えまいに……と、出自に文句を言っても仕方ない。

 

「とにかく、あたしはトレセン学園を受験するつもりはないから。お母さんには悪いと思ってるけど」

 

話は終わり、とばかりに席を立って、アデリナは自室に戻ろうとする。

 

「待ちなさい、アデリナ。とにかく、もう少し話し合いましょう」

 

フラッシュのその一言を聞いて、アデリナはとうとう感情を爆発させた。

 

「話し合いって……お母さんいつも自分の意見を押し付けてくるばっかりで、あたしの話なんかちっとも聞いてくれないじゃない!」

「それは違います。私はあなたのことを思って……」

「うるさいうるさいうるさい!もうこの話はおしまい!」

「待ちなさい、アデリナ!」

 

それから母娘の間で喧々諤々のやりとりが始まってしまい、どうにも収集がつかなくなってきた。

 

フラッシュとアデリナは母娘でありながら、かなり性格が違う。

完璧主義者で、どんなことでも最善・最高を目指し、綿密な計画を立てて目標達成に最大限の努力をしようとするフラッシュ。

基本的におおらかで、少しバッファーをもたせた現実的な目標を立て、無理のない創意工夫をしようとするアデリナ。

どちらの性格も個人としては素晴らしいものであるが、今回のようにその価値観がぶつかり合うと、折り合いをつけるのが難しくなってしまう。

 

普段は決して仲の悪い母娘ではないのだが……ウマがあわないというのか、こうした意見の衝突は二人の間ではよくあることだった。

 

激しい言い争いが小一時間ほど続き、それまで二人の意見や言い分を傾聴して基本的にはなだめ役に徹していた彼が、タイミングを見計らって一つの案を提案した。

彼としては、この母娘が本気の取っ組み合いを始めてしまう前に、なんとしても停戦にこぎつけたかった。

……走力的な意味でも、腕力的な意味でも、人間がウマ娘に勝てるわけがないのだから。

 

「まぁまぁふたりとも落ち着いて。アデリナ。君ももう小さい子供じゃないんだから、言いっ放しはないだろう?一応お母さんの意見も取り入れて、トレセン学園を第一志望に受験シーズンを頑張ってみなさい。思うところは色々あるだろうけど、君には十分トレセン学園に合格する力があるんだから。それをチャンスと捉えてみてくれないか?」

「うーん……まぁ、そういう考え方もありなのかな……。ちょっと意地になっちゃってたけど、あたしも絶対トレセン学園に行きたくない!ってわけじゃないし……」

 

アデリナは決して話の分からない子供ではない。

父の言葉に、納得のいかない表情を浮かべながらも自分の意見を再考し始めてくれたようだ。

 

「フラッシュ。アデリナもこう言ってくれているし、もしアデリナが一年間頑張ってトレセン学園合格がダメだったのならまた、その時は家族で話し合えばいいじゃないか。どうだい?」

 

彼は現状で最善の提案したつもりだったが。

 

「あなたは本当にアデリナには甘いのですから……。そんなことでは困ります。アデリナには、トレセン学園を専願で受験するぐらいの意気込みでいなさい、ぐらいは言って聞かせていただかないと」

「……結局お父さんはお母さんの味方なんだから。やってられないよ」

「……」

 

今回の一件で彼は、紛争国の周辺にある、停戦調停役を押し付けられる国々や国連の外交官たちに深く共感し、同情した。

彼の提案に不満そうな表情を浮かべていたフラッシュとアデリナだったが、同時にため息を付いて着席してくれたところを見るに、彼女たちは一応そこを議題の着地点にしてくれたようだ。

似た顔の妻と娘に呆れたような視線を向けられ、彼としては恐縮するよりほかない。

昔の映画のタイトルではないが、まったく男はつらいよなのである。

 

ただ、彼とて場を丸く収めるためだけに、そんなことを言ったわけではない。

 

もしアデリナがトレセン学園に進学してくれたら……。

 

フラッシュと駆け抜けたあの栄光のターフを、自分が娘のトレーナーになって、また一緒に駆け抜けたい。

果てしない勝利への夢を、父娘で追いかけてみたい。

 

そんな気持ちも、決してないわけではなかった。

 

 

「ま、現実はそんなに甘くなかったわけだけど」

 

過去想起から意識を今に戻した彼は、ぽつりとつぶやいてトレーニングノートを閉じ、それを手にとって立ち上がる。

そろそろアデリナも、バ場に出てきている時間のはずだ。

 

「アデリナの次のレース、再来週の未勝利2200Mあたりが良さそうだな。今日のミーティングはそこも含めて話し合うか」

 

確かに、父娘で大レースを目指すという大きな夢には叶えられていない。

でも、娘が懸命に取り組んでいることを、こうして精一杯身近でサポートできている。

それは結構幸せなことなんだ、と彼はしっかり自覚していた。

 




長文読了、お疲れさまでした。
書きたいこと書き連ねていたら、つい長くなってしまいました。

好きな作品の二次創作を書いていると時間を忘れて
書きふけってしまいますね…(笑)。
書いていて、とても楽しかったです。

よかったらまた、次回作も是非見に来てくださいね!



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3話

偉大な母親を持つウマ娘・アデリナが、自身の実力と母親の実績、その親子関係に葛藤しながらも競争生活を全うしようとするお話です。

※オリウマ娘注意です。

登場人物
フラッシュアデリナ

【挿絵表示】

誕生日:4月28日
体重:おおよそ理想
身長:159センチ
スリーサイズ:87・58・86


学校の授業が終わって、その放課後。

 

「1・2・3・4……」

 

あたしはバ場に座り込み、本格的な走り込みの前にストレッチをしていた。

 

世間の慣習にしたがって放課後、なんて言ったけど、この学園に通っていたら放課後なんて概念はないに等しい。

一応トレセン学園はフツーの中学・高校と同じように、国の定めたカリキュラムに沿って授業が行われてはいる。

だけど我々ウマ娘からすると、授業が始まる前とその後のトレーニング、それにレースが自分の本分という感じだ。

 

実際大学への進学は、レースの成績で結構進路が変わる。

母が言うにはG1ウマ娘にもなると、日本の私大なら推薦状1枚でどこでも合格できたりするらしい。

ただうちのお母さんは、レース引退直後に父とドイツに飛んでお菓子作りの修行を始め、その修行中に結婚してあたしを出産(小学校入学前には戻ってきたけど、一応帰国子女なんだよね)。

で、今は日本に戻ってきてお菓子屋さんをやっているという変わり種だから、それが本当のことかは分からない。

 

まぁ、今のあたしには縁遠い話だ。

 

さて、ストレッチも終わったし、トレーナーが来るまでウォーミングアップ的に軽く走り込んでおくか、と思ったときだった。

 

「お、フラッシュちゃん。がんばってんね」

 

ニヤニヤと笑いながら、二人のウマ娘が声をかけてくる。

髪の短いのと、意地悪そうなツリ目の二人組。

 

「……お疲れ様です」

 

あたしはその二人に顔を見せないよう、頭を下げてから苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。

彼女たちはクラシック級を走っているウマ娘で、つまりあたしの【センパイ】たちだ。

 

「この間のレース見たよ。4着とか5着とかだっけ?」

 

ツリ目のほうがニヤニヤ顔のまま、あたしにそう聞いてくる。

どう聞いても、その声は応援や励ましに聞こえない。

この人達があたしに話しかけてくるときは、いつもこんな感じだ。

 

だいたい、あたしのことを【フラッシュちゃん】なんて呼ぶ人は2通りしかない。

初対面で悪気なしにあたしのことをそう呼んで、『できればアデリナと呼んで欲しい』とお願いした人と、それを無視する底意地の悪い奴だ。

 

あたしは別に悪目立ちするようなことはしてないつもりだし、彼女たちに失礼なことをした記憶もないのだが、入学以来なぜか目をつけられて、ことあるごとにこうして絡まれている。

 

こんな意地悪なパイセンはできれば無視したかったが、そうもいかないのが体育会系の辛いところだ。

 

「……はい。4着でした」

「4着?4着かぁ……この時期に未勝利で入着が精一杯とか、結構ヤバイんじゃない?」

 

髪の短い方が心配を装ってそんなことを言ってくる。

表情を見ればどんな意図であたしにそんなことを言っているか、誰でもわかることだろう。

 

「恐縮です。自分なりに頑張ってはいるんですけど」

 

あたしはただただ、この二人が早く自分の視界から消えてくれることを祈るばかりだった。

 

「あんた、確かエイシンフラッシュさんの娘さんでしょ?そんな成績で大丈夫なん?親御さん、何も言わない?」

「……」

 

この二人は未勝利・プレオープン・オープンとすでに3勝を挙げており、重賞にも出走している実力者だ。

外から見れば華やかそうに見えるウマ娘の世界も、所詮は女子校の部活の一形態に近いもの。

当然こういう【意地悪な先輩方】も、一定数存在する。

 

あと、トレセン学園に所属するウマ娘たち独特の【カースト】問題もある。

学園内では一応、勝っているレースなどでの上下関係はない、という建前はある。

ただそれは結局建前でしかなくて、ウマ娘とて勝負の世界に生きている身。

競走成績が自分の立場に影響を与えないなんてことが、あるはずない。

あたしたちウマ娘のカーストは年齢やジュニア・クラシック・シニアという階級よりも、勝ち数や勝利したレースの格が重要視されているのが現実だ。

 

……未勝利というカーストの最下層にいるあたしは、彼女たちになにも言い返すことはできなかった。

 

「いやーでも、G1ウマ娘の子で秋もそろそろ終わるというのに、まだ未勝利とか。しかも、お父さんがトレーナーでしょ?それだけ恵まれた環境にいて、一つも勝てないなんて……アタシなら恥ずかしくて学園にいられないわ~」

「ホントだよね。あ、でもそれぐらい強いというか、面の皮の厚いメンタルしてんなら未勝利ぐらい拾えるんじゃない?その後は知らないけど」

 

もうただただあたしを傷つけるためだけに二人は言葉をかわし、ギャハハ!と同時に不愉快な高笑いをあげる。

さらに調子に乗ってツリ目が続けた。

 

「同室の……なんだっけ?なんちゃらスター。あの子も未勝利だったよね?しかもひっどい惨敗続き。学園もちゃんと考えてるよね~。才能のない者同士、同じ部屋にしたってことでしょ。やっぱり、レース後は未勝利同士で傷のなめあいっていうの?なぐさめあってるって感じ?」

 

あたしが傷つけられるだけなら、まだ我慢できた。

でも、その言い草だけはどうしても許せそうにない。

 

……この場にいない親友のことまで悪く言われたなら、もうこいつら、ぶん殴っても良くない?

 

ってか、それで退学なら上等だよ!

 

と、握りこぶしを作って彼女たちがバカにした遅い脚で思い切り踏み出そうとしたときだ。

 

「お。どうやらまた、私のうわさ話かな?これはすまないね。G1・3勝ウマ娘と三冠ウマ娘が身内にいるにも関わらず、うだつの上がらない成績で」

 

『!!』

 

声をした方を3人で振り返ると、そこには一人のウマ娘が立っていた。

 

「ビワタケヒデさん……!」

 

髪の短いのが彼女の名前をつぶやいた。

ビワタケヒデさんはあのビワハヤヒデ・ナリタブライアンを姉に持つ、シニア級のウマ娘だ。

その実力は確かなもので、クラシック級の時にG3・ラジオNIKKEI賞を勝利している。

シニア入りしてからも重賞で着実な成績を収めており、間違いなく今のトゥインクルシリーズを賑わせている一人だ。

 

「まぁ、みんなの期待に応えられていないことは、申し訳ないと思っているよ。私の成績は到底、姉さんたちには及ばないからね。私は私なりに、一生懸命やっているつもりではいるのだが」

「え、いえ。その……タケヒデさんのことでは……」

 

さっきまでの威勢はどこへやら、先輩たちはキョドりながらビワタケヒデさんにボソボソとなにやら弁明している。

オープン戦勝ちウマ娘と重賞勝ちのあるウマ娘では、格にかなりの隔たりがある。

あたしがパイセン方に何も言い返せなかったように、彼女たちも重賞ウマ娘であるビワタケヒデさんには決して強く出られない。

そしてどこの世界でも、立場の弱い者に高圧的なヤツは、自分より立場が上の人にはめっぽう弱いものだ。

 

「……キミたちも色々とフラストレーションを溜め込んでいるのは、わからなくもない。が、後輩をいじめてウサ晴らししても仕方ないだろう。もうその辺にしておいてやってくれないか?」

 

パイセン方は『そんな、いじめなんて……』とぶつくさ言っていたが、結局それ以上は何も言わず、まるで逃げ出すようにこの場から立ち去っていった。

 

嫌なセンパイを追っ払ってくれたタケヒデさんは、笑顔でこちらに振り向いてくれる。

 

「……すまない、アデリナさんだったね。君たちの会話が耳に入ってきて、早く止めに入るべきだ思って急いでやってきたつもりだったが……。少しタイミングを逃してしまったようだ。友人のことまであのように言われては、君も悲しかっただろう。つらい思いをさせてしまったね」

「いえ、そんな……ありがとうございます」

 

なんとかしぼり出したお礼の言葉が、涙声で震えていないか心配になる。

ビワタケヒデさんが不出来な後輩のために、トラブるのも覚悟してわざわざこうして間に入ってくれたことが、あたしは本当に泣くほど嬉しかった。

 

あたしからすると、重賞を勝っているシニア級のビワタケヒデさんは文字通り雲の上の存在である。

こちらはもちろん彼女の顔と名前、それとだいたいの競走成績ぐらいは知っていたが、直接の面識があったわけじゃない。

そんなビワタケヒデさんがあたしの名前を知っていてくれていて、こうして助けてくれたのは……やっぱり、母の名声があるからなのだろうか。

 

「お互い、身内にすごいのがいると辛いものだね。私もジュニアのときは先輩たちに結構【可愛い】がられたものだよ」

「そんな……!ビワハヤヒデさんとナリタブライアンさんを比べたら、うちの母なんて……」

「そんなことはない。君のご母堂は日本ダービーと天皇賞という、日本を代表するG1を勝っていらっしゃる。それは本当に立派なことだ。君は、誇りに思っていい」

 

誇り。

あたしにとって母は、誇りなのだろうか。

 

「……ビワタケヒデさんにとって、お姉さんたちってやっぱり誇りなんですか?」

 

初対面の格上の先輩に、本当はこんなことは聞くべきではないのだろう。

ちょっと優しくしたら調子に乗りやがって、と思われたかもしれない。

それでも、あたしはどうしてもそのことを聞かずにはいられなかった。

 

彼女には、あたしの心中などお見通しだったのだろう。

ビワタケヒデさんはちょっとシニカルな笑顔を浮かべる。

 

「もちろんだとも。彼女たちは私の誇りであり、大いなる目標だ。今はまだ、彼女たちの域に届いていないことも当然自覚しているけどね」

「……なるほど」

 

失礼に取られかねないことを聞いておいて、あたしは本当につまらない、無難な言葉で相づちを打つくらいしかできなかった。

そんな自分が、ちょっと嫌いになる。

 

「ただ……」

「ただ?」

 

彼女は少し口ごもったが、今度はなんの含みもない笑顔をあたしに向けてくれて。

 

「ありきたりな言い回しになってしまうがね。姉たちは姉たち。私は、私だ。その誇りを胸に、私は私の競走人生を悔いなくまっとうしたいと思っているよ」

 

それだけいうと、ビワタケヒデさんはトレーニングの邪魔をして悪かったね、と言って手を振りながら去っていく。

 

あたしはそれを見送りながら改めてお礼をいい、彼女の言葉を自分に置き換えて反芻してみた。

 

母は母。

あたしはあたし。

お母さんは、あたしの……

 

「誇り、かぁ……」

 

どうなんだろう。

確かに小さい頃は、自慢のお母さんだった。

ダービーとてんのうしょうを勝った、すごいお母さん。

 

でも、初めて面と向かって母と比べられた中学生のあの日から、母はあたしの重荷になってしまった気がする。

 

「お、もうアップは済ませてあるようだな。感心感心」

 

そんなことを考えていると、定刻きっちりにあたしのトレーナー兼父親がトレーニングコースに現れた。

 

「あの後ろ姿は……ビワタケヒデさんかな。彼女となにか話していたのかい?」

 

普段はどこか頼りない感じだけど、変なところで鋭いお父さんだ。

ひょっとしたら、なにか不穏なものを感じ取ったのかもしれない。

 

「女の子のお尻見て誰かわかるって、なんか変態っぽい……」

「違う!俺だって一応トレセン学園のトレーナーだから、生徒の顔と特徴、それに名前ぐらいはある程度把握してるってだけだよ。いやもちろん、その娘の能力を図るために、下半身の筋肉とかを視認することはあるが」

「その言い方がもうヤラしいよね」

「じゃあもう、どう言えっていうんだよ……」

 

バカ話でお父さんの意識を違う方向へ向けることは、なんとか成功したようだ。

それならすぐにトレーニングに移ればよかったものを、あたしはつい、余計なことを聞いてしまう。

 

「ねぇ、お父さん。お母さんって、あたしの誇りなのかな?お母さんのこと、誇りに思ったほうがいいのかな?」

 

普段学園内やレース場などでお父さんと呼ぶと注意が飛んでくるのだが、今日はやっぱり何かを感じ取っていたらしく、そんなこともしなかった。

 

「アデリナ。誇りとかプライドとか、そういうものは人に決めてもらうものじゃない。自分が信念を持って真摯に生きていれば、自分の中から自然に湧いて出てくるものなんだと俺は思うぞ」

 

もう何十年もウマ娘のトレーナーをしているオヤジ殿は、そんなわかったようなことをいう。

わかったようなことだからこそ、それはきっと真実なのだろう。

 

「そんなもんですかね……うちのトレーナーも、たまには良いこというなあ~」

「まあ俺も一応、ウマ娘のベテラントレーナーだからね」

 

それはきっと、あたしぐらいの歳の子なら誰でも抱えるような、些細な悩みごとだったのだろう。

その小さな悩みごとを、父親の一言があっさり解決してしまってちょっと面白くなかったあたしは、足元のダートを軽く蹴飛ばしてやる。

 

小石一つ混じっていないよく手入れされたその砂たちは、風に乗ってバ場に散っていった。

 

つまらないことしてないでトレーニング始めるぞ、といさめてくるトレーナーを、あたしはちょっと見直したのだった。




読了、お疲れさまでした。
今回も最後まで読んでいただき、まことにありがとうございました!

どこにいても、いくつになっても、人間関係というものには
悩まされるものですよね。

ただ、自分を救ってくれるのは、やっぱりそのめんどくさい人間関係だったりします。

よかったら次回作も、ぜひ読みに来てくださいね!


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4話

偉大な母親を持つウマ娘・アデリナが、自身の実力と母親の実績、その親子関係に葛藤しながらも競争生活を全うしようとするお話です。

※オリウマ娘注意です。

登場人物
フラッシュアデリナ

【挿絵表示】

誕生日:4月28日
体重:おおよそ理想
身長:159センチ
スリーサイズ:87・58・86


光陰矢のごとし、という言葉があるが、季節は矢どころか、光のように流れていった。

あっという間に冬が来てお正月が終わり、梅の花が咲く季節になった。

 

桃の節句が終わったかと思うと、すぐに桜が咲き始める。

桜の開花と同時に初々しい新入生たちがやってきて、同じ歳のエリートたちはやれ三冠路線だ、トリプルティアラだ、と光当たる道を歩み始めた。

 

そのエリート路線の皐月賞が終わると、新緑の季節がやってくる。

もうすぐレースの祭典、母が制覇した日本ダービーの日がやってくる。

あたしがここに入学してから、もう1年以上が経っていた。

 

……なのに未だ、あたしは1勝も挙げられないでいた。

 

 

「……3着か……」

 

今のレース、中山未勝利戦・ダート1800Mの結果が表示された掲示板を呆然と眺め、あたしは心ここにあらずな感じでポツリとつぶやいた。

 

あたしはデビューから一貫して芝の中距離を走ってきたのだけど、どうしても結果を出すことができないでいた。

そこでトレーナー(あたしの父でもある)と相談し、去年の冬からいろいろな条件のレースを試してみている。

 

短距離・マイル・長距離・ダート……。

 

だがどの条件のレースを走っても、思わしい成果が得られていない。

今日の3着は、直近のレースでは一番マシな結果だった。

 

呆然自失の体でなんとか控室に戻ると、トレーナーがスポーツドリンクを持って出迎えてくれた。

 

「アデリナ、おつかれ。よく頑張ったな」

「うん……」

 

差し出されたスポーツドリンクを受け取ることもせず、あたしはただただ頭を抱えて備え付けの椅子に座り込む。

 

本当は、怒り狂いたかった。

結果を出せないウマ娘に叱責もしないトレーナーに。

結果を出せない、情けない自分に。

 

今年に入ってすぐくらいまではそんな怒りも湧いてきていて、理不尽にも父親でもあるトレーナーにそれをぶつけたりもしていた。

 

でも最近は、そんな気力すら湧いてこない。

 

もう、疲れたんだ。

 

勝てないことに怒りを覚えることも。

 

誰かと、競走することにも。

 

……出走制限が近づく中で、レースを戦い続けることにも。

 

 

ウマ娘の引退には、2通りのパターンがある。

ひとつは自分の能力や怪我の具合に限界を覚え、自ら現役に幕を引くケース。

この場合、ほとんどのウマ娘は現実を受け入れ、それなりに納得してレース生活に別れを告げることが多い。

 

もうひとつは……5月後半期に行われるダービーまでに、一勝もできなかった場合。

なぜかというと、クラシック級の未勝利戦が番組に組み込まれているのがこの月の最終週、つまりダービーの日までだからだ。

中央でデビューし、メイクデビューや未勝利戦をこの日までに勝てなかったウマ娘は、もう出走できるレースがなくなってしまう。

このケースでは本人がどれだけ現役続行を望もうとも、中央で走り続けることはできない。

 

だって、出られるレースがないのだから。

 

では、そうなったウマ娘はどうなってしまうのか。

 

どうしても現役を続けたい場合は、出走制限のない地方のトレセン学校に転校する娘もいないわけじゃないんだけど……。

ほとんどの娘は自分の才能に見切りをつけて学園の理事会とURA宛に【引退届】を提出し、レースからは完全に身を引いて、あとは【普通の女の子】として学校生活を送ることになる。

でもそれが精神的に辛くて、レースとは無縁の中学校や高校に転校する娘もいるのが現実だ。

 

彼女たちはもう二度と、ウマ娘として栄光のターフやダートを駆け抜けることはない。

 

あたしはいやでも、その現実と向き合わなければならなかった。

 

「アデリナ」

 

父の声が、ずいぶん遠くから聞こえたような気がした。

 

「とりあえず、学園に戻ろう。……昼食はどうする?」

 

レース後の昼食。

普段学園の食堂で食べているあたしにとって、数少ない外食の機会だ。

それが厳しいレースを戦ったあとの、楽しみだった。

でも、今日は……。

 

「いらない。お腹空いてない……」

 

負けていじけて、そう言っているわけではない。

ここ2ヶ月ほど、レースのあった日から数日間、ほとんど食事が喉を通らないという状態が続いている。

ウマ娘もアスリートだから、こんな状態が続くことがいいことであるはずがない。

でも、無理に食事を取ろうとしても、全部もどしてしまう。

 

医師にも見てもらったが、どうやら精神的なものらしく、胃薬と軽い精神安定剤を処方されただけで、それ以上は対処のしようがないそうだ。

それらの薬も、全く効いている感じがしない。

 

「……そうか。なら、帰ったらおかゆを作るよ。それを食べて今日はゆっくり休んでくれ」

 

おかゆはこの地獄のような食欲不振のあいだ、なんとか口にできる食事だ。

あたしはだまってうなずくと、ゾンビのような動きで帰る準備を始めた。

 

 

帰りの電車の中。

いつもなら今日のレースを振り返ったり、次のレースについて話し合ったりするのだが、今日に限ってはふたりとも無言だった。

 

……お母さんには、今のあたしの状況を伝えていない。

お父さんはもちろん定期的にお母さんとやりとりしているけど、『絶対にあたしの今の状態を言わないで』と固く口止めしてある。

お母さんには心配かけたくない、という娘らしい感情ももちろんあったけど、自分が弱っている今の状況をあの母にだけは知られたくない、という気持ちのほうが強かった。

 

ふたりとも無言のまま、電車はトレセン学園の最寄り駅に到着する。

駅から学園までの帰り道も、あたしたちは言葉をかわさなかった。

学園につくと、父の使っているトレーナー室に直行する。

 

ともあれ、おかゆを胃の中に流し込むためだ。

 

おかゆくらい学食のおばさんに言えばもちろん作ってくれるんだけど、こんな状態の自分をたくさんの生徒たちに見られるのは、耐えられなかった。

 

本来トレーナー室は火気厳禁であり、IHであってもコンロの持ち込みはダメだそうだが……お父さんはあたしのために、ルールを破ってくれている。

 

なんとか食欲が戻ってくるまでのあいだ、あたしは食事のたびにここに通うわけである。

 

……ほんと、ダメだなあたし。

普段あれだけお父さんに生意気な口を叩いているくせに、結局完全に甘えてしまってる。

 

「できたよ。熱いから気をつけてな」

 

あたしは礼も言わずにおかゆの入った少し大き目の茶碗をお父さんから受け取ると、スプーンでそれをすくってなんとか口に運んだ。

 

吐き気はするが、戻してしまうほどじゃない。

 

味はしない。

 

しっかり塩味をつけてくれているはずなんだけど、舌はただただ、おかゆを熱い物体と認識しているだけ。

レース直後のおかゆはいつもこうだ。

まるでその無味無臭のおかゆから、『お前もなんの味もしない、つまらないウマ娘だ』と責められているような気分になる。

あたしはとうとう耐えきれず、ボロボロと涙をおかゆの中に落としてしまった。

涙で塩味が増したはずのおかゆは、それでも無味無臭のままだった。

 

お父さんはそんなあたしを、黙って見守ってくれていた。

 

 

「ただいま……」

 

夕食もおかゆを喉の奥に押し込み、点滴代わりの甘酒を飲んで自室に帰ってきたのは、寮の門限直前の時間だった。

ルームメイトでもあり、親友でもあるスプラッシュスターちゃんには弱りきったあたしの姿をできるだけ見せたくなかったので、最近のレース後は門限ギリギリまでトレーナー室で時間を潰してから部屋に戻るようにしていた。

 

「あ、おかえり。アデリナちゃん。……レース、おつかれさま」

 

椅子をぎぃ、と言わせながら、同室のスプラッシュスターちゃんがなんとも言えない微笑で出迎えてくれる。

きっと彼女は、あたしの今日のレース結果を知っているのだろう。

 

「ありがと。……スターちゃんはまた勉強?」

 

あえてその結果には触れず、あたしはスターちゃんの机の上に視線を向けた。

そこにはスマホとシャーペンと消しゴム、それになかなかレベルの高い参考書と問題集が置かれていた。

 

最近スターちゃんは、熱心に学校の勉強に取り組んでいる。

時には消灯時間を過ぎても、スマホの明かりで問題集を解いていたりするぐらいだ。

それでいて、朝5時からの自主練はきちんと毎日続けている。

本当に、すごい娘だと思う。

 

「うん……まあ、私も学校の勉強くらいは頑張らないとね」

 

不安をオブラートで包んだかのような口調で、スターちゃんはそんなことをいう。

自分が『なぜ』勉強を頑張っているか、その理由までは言おうとしなかった。

……彼女もあたしと同じでいまだ未勝利クラスを抜け出せず、次のレースが引退レースになるかもしれないという身だったから。

 

「……ねぇ、スターちゃん。もし、未勝利を抜け出せなかったらどうしようと思ってる?」

 

あたしたちは同室で、同じ未勝利の身でありながら、この手の話題はあえて避けてきた。

今まではまだ出走制限までに時間的余裕があったし、お互い苦しい立場なのがわかっているから、わざわざ重苦しい話をしようとしなかったわけだ。

 

でも、もう事ここに至れば、お互いそういう相談をしておくのも悪くないだろう。

あたしの友人の中で、そんな気まずい話ができるのは親友のスターちゃんだけ、という身勝手な理由もあった。

 

「う~ん。中央で勝てなかったら、もっと自分のレベルに合った地方のトレセン学校に転校する娘もいるらしいけど、私はもうレースはいいかなって。かと言って私ぐらいの競走成績でこの学園に通い続けるのも申し訳ないし……多分、地元に戻って学力的に入れそうな高校に転校することになると思う」

 

あたしが勝手に始めた不愉快な話にも関わらず、スターちゃんは率直に自分の思うところを言ってくれる。

 

入学前、お母さんが【一生付き合える友人に出会うこともできるでしょう】と言っていたのは、どうやら本当のことらしい。

 

もちろん、スターちゃんが嫌でなければの話だけど。

 

「そっか。あたしは……」

 

少々勉強ができるつもりの頭を引っ掻き回して、未勝利戦で勝てなかった時の人生プランを考えてみる。

彼女が言いにくいことを言ってくれたのに、あたしがそれを言わないのはあまりにアンフェアだ。

 

…………。

 

あれ?

 

「あたしは……」

 

トレセン学園生活が未勝利で終わった時、どうするつもりだったのだろう。

スターちゃんと同じように、どこぞの普通科の高校に転校するつもりだったのだろうか。

入学前に家族と話していたように、地方のトレセン学校に転校しようとしていたのか。

それともそのまま素知らぬ顔をして、高校卒業の歳まで学園に居座るつもりだったのだろうか。

 

「あたしは……」

 

そこから、言葉が出てこない。

あたしの脳はまるでその現実を拒否するかのように、そこから先の言葉を出させようとはしなかった。

 

しばらく、重苦しい沈黙が続く。

 

「……アデリナちゃん」

 

沈黙を破ったのは、スターちゃんの方だった。

 

「ちょっと、今からお出かけしようか」

「え、今から!?」

「そう、今から」

 

スターちゃんはいきなり、真顔でとんでもないことを言いだした。

当然、寮の門限の時間はもう過ぎてしまっている。

 

「さすがにこの時間からは……」

 

あたしもルールを破るのは嫌いではないほうだが、この大事な時期に問題を起こしたくない、というのが本音だった。

 

「まあまあ、たまにはいいじゃない」

 

そう言ってスターちゃんはパジャマ代わりジャージからあっという間に私服に着替え、薄手のカーディガンを羽織ってしまった。

なし崩し的に、あたしもなぜかお気に入りの私服に着替えてしまっている。

 

「でも、どうやって寮から抜け出すの?消灯後ならともかく、この時間ならまだあちこちに人いるでしょ」

「それなんだけどね。私、たまにリビングで消灯時間近くまでおしゃべりしていることがあるでしょう?その時気づいたんだけど、今ぐらいの時間、寮の勝手口の近くには誰もいないことが多いの。裏門まで守衛さんに見つからなければ、外に出るのは簡単だと思う」

 

裏門にはもちろんカギが掛かっているだろうが……そんなものはよじ登って飛び越してしまえばいいだけの話だ。

 

あたしたちは未勝利と言っても一応ウマ娘であるから、それくらいのことは朝飯前である。

 

……ダメだな。ちょっと自虐的になってる。

 

こういう精神状態の時は変にアクティブなことはせず、さっさと寝てしまうのが一番いいと思うのだけど……今夜は、そんな気にもならなかった。

 

「OK。じゃあ行こうか。夜のお散歩に」

 

あたしの返事に、スターちゃんは最近見せてくれてなかった、明るい笑顔を向けてくれたのだった。

 

学園から抜け出すのは、拍子抜けするほどカンタンだった。

スターちゃんが言ったとおり寮の勝手口には誰もいなかったし、寮から裏門にたどり着くまで、守衛さんに見つかることもなかった。

 

そもそも、トレセン学園はそれほど厳重に警備されているわけじゃない。

トレセン学園が結構へんぴな土地に建てられていて、見慣れない人間がやって来たらすぐわかる、ということもあるけど……。

大金が置いてあるわけでもない、腕力や脚力で普通の人間を遥かに上回っているウマ娘だらけのトレセン学園にわざわざ強盗に入ろうなんてバカは、強盗に入るほどのバカでも考えないだろう。

 

そんな楽園からルールを破って抜け出したあたしたちは、それ以上の大バカなのかもしれなかった。

 

学園からの脱出に成功したあたしたちは、とりあえず最寄り駅から電車に乗った。

どこに行くかなんて決めていない。

最初にホームに入ってきた電車に乗り込んで、あたしたちは空いていた座席に二人並んで腰掛ける。

 

あたしたちは、終始無言だった。

 

トレセン学園はさっき言ったように都内のくせに結構な田舎にあるので、乗ってすぐは空席もあったけど、ひと駅止まるごとにたくさんの人が車内になだれ込んでくる。

 

仕事帰りの会社員。

塾帰りの子供。

町内会の催しの帰りだろうか、グループになったお年寄り。

部活帰りなのだろう。

制服姿の、あたしたちと同じ歳くらいの高校生たち。

 

彼らの笑顔が、疲れきったサラリーマンの顔さえも、あたしにはひどく眩しく見えた。

 

疲れた顔を拝見すれば分かるように、もちろんあの人たちもみんながみんな、順風満帆な社会生活を送っているわけじゃないだろう。

でも、彼らは社会から必要とされて、社会の第一線で頑張っている。

 

会社で大変な思いをして働いている彼らと、才能がなくてもうすぐレースの世界から叩き出されようとしているあたしと、一体どっちが幸せなんだろうな……とやくたいもないことを考えたりしてしまった。

 

ひょっとしたら、隣りに座っているスターちゃんも同じようなことを考えていたのかもしれない。

彼女は何も見えないよう、目をつぶって眠っているふりをしていたから。

 

 

スターちゃんが『ここで降りよう』といって降車した駅は、あたしが初めて降りる場所だった。

 

知ってる場所なのかと尋ねたところ、「適当に乗ったんだから、適当に降りるのも悪くないでしょう?」という返事が戻ってくる。

 

まあ確かに、それはそれで悪くないのかもしれない。

それでも初めての場所はさすがに不安なので、スマホでマップを起動させる。

どうやらここは、学園から10駅ほど離れたところにあるベッドタウンらしかった。

地図アプリで周辺情報を見てみたところ、あたりにあるのは居酒屋とラーメン屋とパチンコ屋ばかりという、典型的な住宅街の駅前という感じで、あたしたちが気楽に立ち寄れそうなところはコンビニくらいしかないようだった。

でも、同じようにスマホで地図を見ていたスターちゃんの見解は違ったらしい。

 

「ねぇ、近くに小高い丘があるみたい。ちょっと登ってみない?」

 

中山のきつい坂を登ったあとにまた坂か……とも思ったけど、わざわざ反対するほどの理由でもない。

あたしがいいよ、と返事すると彼女は「じゃあ、いこうか」と改札に向かって歩き始めた。

 

 

スターちゃんは小高い『丘』なんていったけど、実際登り始めると思いのほか標高が高く、結局ちょっとした山登りを体験するハメになった。

 

この丘はもともとハイキングコースらしく、道はわりかし整備されていて、歩きにくいというほどでもない。

でもあたしにはほとんど山登りの経験などなく、しかも光源がときおり思い出したかのように設置してある頼りない街灯だけとあって、足元がかなりおぼつかない。

 

対照的にスターちゃんはどうやら登山に慣れているらしく、ふだんとなんら変わらない歩調で山道を踏みしめている。

 

「アデリナちゃん、大丈夫?」

「うん、大丈夫。今日のレース結構激しかったから、思ったより疲れていたのかも」

 

山歩きに慣れてないことを悟られたくなくて思わずそんなこと言ってしまったが、これではスターちゃんに気を使わせてしまうじゃないか、とすぐさま後悔した。

 

「ごめんね、付き合わせちゃって……。私もその辺考えて提案すればよかった。じゃあもう戻ろっか?」

「いや、こちらこそごめん。実は脚はそんなに疲れてないんだけど、その……山道って歩き慣れてなくて」

「そっか。アデリナちゃん、ドイツ生まれの東京育ちだもんね」

 

彼女はそう言って朗らかに笑うと、あたしの手を取って歩き始める。

初めて握った彼女の手は、思ったより大きくて、暖かかった。

 

「私の地元って山間部にあってね。冬は雪で閉じ込められて、けっこう大変な地域なんだ。でも、春になると山桜が咲き乱れて、すっごくきれいなの。あの景色、アデリナちゃんにも見せてあげたいな」

 

スターちゃんが地元のことを自分から話すのは、初めて聞いた気がする。

もう1年以上一緒にいることもあってそういう話題も出たことがあったけど、そんな時彼女はいつも『何もない田舎町に住んでたよ』とだけ言って、それ以上は話そうとしなかった。

 

「ずっと前に言ったかもしれないけど、私って親族で初めてのウマ娘だったから……すっごく期待されてね。うちは貧乏ってほどでもないけど、それほどお金に余裕のある家ってわけでもなかった。でも、どうしても将来、私をトレセン学園にやりたいと思った親戚たちがお金を出し合って、ウマ娘レース科がある、ふもとの小中一貫教育の学校に行かせてくれたんだ」

 

こんなことを話してくれるのも、初めてだった。

あたしは1年以上スターちゃんと生活をともにしながら、彼女のことを何も知らなかった。

あたしはただただ、スターちゃんの話を傾聴する。

 

「でも、ああいうきちんとした英才教育の学校に行くと、嫌でも自分のレベルを思い知らされちゃうでしょ。小学2年になるころには、私ははっきり落ちこぼれになっていた。その学校も全寮制だったから、模擬レースで負けたときなんかは、もう逃げ出して帰りたい!って思ったこともあった。だけど、出発の日私の手を握って、『辛いこともあるだろうけど、頑張るんだよ』って言って送り出してくれたおばあちゃんの顔を思い出すと、それもできなくってね」

 

そのおばあちゃんも、中学3年の夏休みに亡くなっちゃったんだけどね……と、彼女は悲しげに目を伏せる。

 

色々と思うところはあるけど、あたしの近くにはいつも家族がいてくれた。

幼い頃、模擬レースに負けて泣いて帰ってきた時は、『勝った相手はあなたよりもっと努力をしていたのです。あなたも頑張ればきっと、次は勝つことができますよ』といって抱きしめてくれるお母さんがいた。

 

でも、スターちゃんは小さい頃から、たったひとりで戦い抜いてきたのだ。

 

「トレセン学園受験時は担任の先生にも『合格は正直、厳しいと思うぞ。地方の受験も視野に入れたらどうだ?』って言われてたけどね。応援してくれた親戚たちの手前、そういうわけにもいかなかった。なんとか合格して進学が決まった時は、その親族総出で祝賀会までしてくれて。乾杯の掛け声、何だったと思う?『未来のG1ウマ娘に、乾杯!』だよ?ギリギリ合格のウマ娘に期待しすぎでしょって、心のなかで笑っちゃった」

 

ごめん、なんか一人でしゃべっちゃってるね、と照れ笑いを浮かべるスターちゃんに、あたしは愛想笑いしながら「そんなことないよ」ぐらいしか、言ってあげられなかった。

どうして、こんな大事なときにいつもはよく回る舌が回らないかな……。

でも、対戦相手だけでなく幼い頃から孤独とも戦ってきた彼女に、あたしが一体何を言えたというのだろう。

 

そんな朴念仁を信頼して、スターちゃんが大切な過去の話をしてくれたことを、あたしはとても嬉しく思った。

 

そんな話をしているうちに、鬱蒼とした木々ばかりの景色が少しずつ開けてくる。

どうやら山頂が近いらしい。

それを感じたあたしたちは心持ち歩くスピードを上げて、ゴールを目指して歩き続けた。

 

『うわぁ……』

 

山頂についたあたしたち二人は、そこからの景色に思わず感嘆の声をもらしてしまった。

桜の季節も終わっているし、時間も時間なので景色には大して期待していなかったのだけど……山頂から見る夜の街は大小さまざまな明かりに彩られていて、不思議な幻想感を魅せてくれていた。

 

「きれいだね」

「うん」

「これだけきれいな景色、見たの久しぶりかも……」

 

そう言ってスターちゃんは、夜の街の明かりたちに見とれている。

あたしも景色が綺麗だ、と感じたのは久しぶりだった。

 

というより、何かを見て心動かされる、感動するということが久しぶりだった。

 

特にここ2ヶ月ほどはレースのことで頭の中が一杯で、感動したり、楽しんだりした記憶がまったくといっていいほどなかったんだ。

 

「アデリナちゃん」

「なに?」

「この明かり一つ一つに、きっとそこにいる人達の生活があるんだよね」

 

今まで街の明かりを見てそんなことを考えたこともなかったが、言われてみればその通りだ。

ここから見えるマンションの一室の明かりのもとにも、笑い、泣き、いろいろな不安にさいなまれながらも、たくましく生活している人がいるはずである。

 

「こんなこと言うと甘いって怒られそうだけど……これだけの人が明かりのもとで生きているんなら、私達が仮にレースから引退することになっても、人生なんとかなるんじゃないかな……。負けて引退することになっても、そこで人生終わりってわけじゃない」

 

レースを戦うウマ娘としては、スターちゃんはきっと甘いことを言っているのだろう。

だが、世知辛いこの世を生きる一人の人間として、誰が彼女のことを責められるだろう?

 

「そうだね。負けたって、死ぬわけじゃない」

 

もちろんあたしたちは、1回1回のレースを必死の思いで戦い抜く。

ウマ娘は文字通り人生を懸けて、毎回レースに臨んでいる。

だけど、たとえそこから望まぬ退場を強いられて、もう戦えなくなったとしても、ウマ娘の人生はそこで終わりというわけではないのだ。

それはそれできっと、一つの人生なのだろう。

 

そういうことなら、未来の自分がその【一つの人生として】過去を振り返った時、後悔しないよう最後までやりぬいてみよう。

 

最後まで全身全霊で、レースに臨んでみよう。

 

こうして言葉にしてみると、なんだか戦う勇気が湧いてきた気がする。

 

あたしは、あたしたちはまだ、戦える。

 

「帰ろっか、スターちゃん。せめて最後まで、戦い抜くために」

 

あたしはちょっとカッコつけすぎたかな、と思ったけど、スターちゃんはそんなあたしを笑いもせず、真摯にこくりとうなずいてくれたのだった。

 

 

あたしとスターちゃんの脱走劇はもちろんその夜のうちに寮長や寮母さん、それに先生方やトレーナーにもバレ、もう一生分怒られたんじゃないか、というぐらいあちこちで怒られまくった。

 

なんと理事長室にも呼び出されて、直々に理事長からお説教を食らい、反省文を書かされることになってしまった。

 

スターちゃんは『ごめんなさい。私があんなこと言い出さなければ……』と憔悴しきった面持ちで謝ってくれたが、それに反対もせずノリノリでついていったあたしも間違いないなく同罪である。

だからあたしは、『まぁあたしも楽しんじゃったし、お互い様だよ。確かに無断外出は褒められたことじゃなかったけど、これはあたしたちにとって必要なことだったと思う。こっちこそ気を使わせてごめんね。……ありがとう』と彼女に謝罪とお礼を言った。

 

大人たちには理解されないかもしれないけど、昨夜の出来事のおかげで、あたしは本当に心を救われたんだ。

 

いやーでも、人って怒られ過ぎると変に客観的になって、『なんかすげー怒られてんな』ぐらいしか感じなくなるんだね。

それでも父親から平手打ちを食らったのには驚いた。

あの普段優しい父親から手を挙げられたのは、初めてだったから。

もう二度とこのようなことはすまい、とあたしは心の底から誓ったのだった。

 

 

ただ、あの脱走劇の翌日からのトレーニング内容が劇的によくなったのは事実だ。

 

まるで鉛が詰まったかのように重く感じていた脚が軽く捌け、実際にタイムも以前とは比べ物にならないぐらい良くなっている。

あれほど落ち込んでいた食欲も、普段どおりに戻ってきた。

 

「よし、アデリナ!今日のトレーニングはここまで!」

 

タイムを取ってくれていた父親兼トレーナーが、向こう側で手を振って声を上げている。

それを聞いたあたしは小走りにトレーナーのもとまで帰ってきて、ストップウォッチを覗き込んだ。

 

「おお~、自己記録更新してる!」

「うむ、この分なら次のレースは勝てるかもしれないな」

 

トレーナーからはっきり『勝てる』と聞いたのは、これが初めてかもしれない。

 

「トレーナー室に戻ってミーティングだ。次のレースの作戦を立てよう」

「……そうだね」

 

次のレース。

……あたしの、最後になるかもしれないレース。

そうならないために、トレーニングも作戦立案もすべて最善を尽くしたい。

仮に本当に最後になってしまったとしても、せめて後悔だけは残さないように。

 

トレーナー閣下に『あの無断外出が良い気分転換になってタイムが良くなった、なんて思わないように。あ、ちなみにお母さんには何も言ってないからな』などと、先日の脱走劇についてのイヤミを言われているうちに(うちのオヤジは男のくせにこういうところしつこいんだ。悪かったよ)、トレーナー室についたあたしたちは、早速次走についての話し合いを始めた。

 

「よし。まずは改めて、現状と君の能力の認識共有からだ。アデリナ。今までのレースを見返してみた限り、君には多分、広々としたレース場が向いているように思う」

 

あたしの成績はたしかに13戦して未勝利という誇れたものではないのだけれども、掲示板には8回乗っていて、勝機がまったくなかったわけじゃない。

その敗戦の中には、いい内容のレースもあったわけである。

トレーナーは、それらのレースを分析して言ってくれているのだろう。

 

「そうだね。あたしも小回りの意識が必要なレース場より、ゆったりと回れるコースのほうが少し走りやすいように感じているよ」

 

小回りがきかない脚というわけでもないのだけれど、どちらかといえば大きく回れるレース場のほうが得意だ。

これはあたしの脚質も関係していると思う。

……ちなみにあたしの脚質は、母譲りの【差し】である。

 

「それから、バ場適性のことだ。ダートを走り始めてから確実に着順が良くなっている。おそらく君は芝も走れないわけじゃないけど、ダートのほうが向いている脚なのだろう」

 

トレーナーの言葉に、あたしは黙ってうなずいた。

もういまさら蒸し返す気もないけど、地方のトレセン学校に行きたいと言ったのは別にお母さんに反抗したいだけではなかったんだ。

トレセン学園への進路を選んだのは、結局自分だしね。

 

「最後に距離について。これについては君には幅広くこなせる器用さがあるみたいだね」

「うん。ある程度の距離幅はこなせると自分でも思ってる」

 

さすがに3600Mとかの超長距離はスタミナが持たないだろうけど、芝なら1400Mから2600M、ダートなら1200Mから2400Mぐらいまでなら、自分のペースで戦える自信がある。

 

いやー、そもそも母譲りのこのおっぱいで長距離は無理でしょ。

譲ってもらったのは、脚質だけではなかったりする。

 

ほら、過去の偉大なステイヤー達を見てみなさいよ。

ライスシャワーさん、メジロマックイーンさん、テイエムオペラオーさん、マンハッタンカフェさん、etcetc……。

皆さんスレンダーな体型をしていらっしゃるでしょう?

 

お母さんもいろんな距離を走ったけど、本質的には中距離を得意とするウマ娘だったのだと思う。

 

え?ゴールドシップさんとかスーパークリークさんとかはどうなんだって?

……そのあたりのモンスターと比べてはいけない。

 

重要な話をしている最中なのにこんなバカな自動思考が湧いてくるあたり、あたしはまだ結構リラックスできているのかもしれない。

 

厳しい状況の時だからこそ、ユーモアは大切なのである。

かといって今は自分の今後を左右する、大事なミーティングの最中だ。

 

あたしはことさら真面目ぶった表情を作り、その自動思考を中断してトレーナーとの会話に意識を戻す。

 

「ただ、そのせいで俺も今まで君の本当の距離適性を見極められなった。これは俺の落ち度だ、すまない」

「今までは、ってことは、今はちゃんと把握できているってこと?」

「うむ。俺が推測するに君の真の距離適性は、マイル近辺でほぼ間違いないと思う」

「うーん……あたしにその実感はないんだけど、そうなんだね」

 

マイル(1600M)は芝で4戦走っているけど、5着・7着・6着・6着とそれほど良かったわけじゃないし、手応えがあったという感じもしない。

ただ、勝ち負けに絡んだ2回のレースは、ダートの1800Mだった。

意外と自分の能力というのは自分ではわからないものだから、ここはベテラントレーナーの意見を信頼しておくことにしよう。

 

「今の状況と君の能力を定量的に分析すると……選ぶレースの最適解は、東京レース場のダート1600Mになる」

「……そっか」

 

あたしの記憶が確かなら、残りの未勝利戦の中でそれに当てはまるレースは、一つしかなかったはずだ。

 

「じゃああたしの次のレースは、ダービーが行われる5月最終日、東京レース場未勝利戦・ダート1600Mってことになるかな」

「そういうことになるな。なにか異論はあるかい?」

「トレーナーが決めたのなら、異論はないよ。言いたいことはいっぱいあるけど」

 

あたしの含みのある言い回しに、トレーナーは苦笑いを浮かべるだけだ。

 

「はあ~、目標が決まればあとはそれに向かって全力疾走するだけだから、気楽といえば気楽だね。ミーティングは以上?」

「ああ」

「じゃああたしはカフェに寄って軽く食べてから部屋に戻ることにするよ。ありがとうございました」

 

あたしは自然にそう言って、ていねいに頭を下げた。

学園にいる間は親子である前に、トレーナーとウマ娘の関係である。

 

「おつかれ。食べすぎて過体重にならないように」

 

女の子に向かってなんてこと言うんだ、この男は。

ひょっとしてヤツはあたしのことを、まだ小さいベイビーちゃんだとでも思っているのだろうか。

 

いつまでも子供扱いするこのトレーナーにあたしは精一杯の抗議の意味を込めて、子供っぽくアカンベーをしたのだった。

 

 

次の日からのトレーニングは、一層熱を帯びるものになった。

あたしも真剣だが、トレーナーの熱量も相当なものだ。

 

「アデリナ!脚が上がってないぞ!もうバテたのか!」

「まだ行けます!うぉおぉおぉおおぉ!」

 

本日5本目の坂路トレーニング。

脚はもう限界だけど……限界じゃ、足りない。

限界を超えないと、押し広げないと……!

跳ねる肺と心臓を抑え込み、もう無理だよ!と悲鳴を上げている脚に心のなかで鞭を入れる。

 

うごくじゃないか。

いけるじゃないか!

 

気合と根性だけでゴールに到達し、あたしは思わずその場に倒れ込んだ。

 

「はぁ……はぁ……」

 

体はキツイが、気持ちはかつてないほど充実している。

負けたら引退、というプレッシャーを感じずにすんでいるのは幸いだった。

 

今行っているトレーニングレベルは、次のレースに勝っても負けても少し休養が必要なほどにハードなものだ。

トレーナーがこれほど厳しいトレーニングを課すのは、悔いの残らないようやれるだけのことはやっておきたいということが第一なんだろうけど、あたしをランナーズ・ハイのような状態に置き、引退をできるだけ意識させないようにするため、という意図もあると思う。

 

自室に戻ったら疲れ果てて寝るだけだけだから、寝る前にそれについて思い悩むということもない。

 

「5分休憩したら、トレーニングルームで筋トレするぞ。いけるな?」

「はい」

 

あたしは5分の間、とりあえず酸素を体に送り込むことに集中しようと心に決めた。

 

 

激しいトレーニングを終えてシャワーを浴び、夕食をお腹いっぱいに食べた後、くたくたになった体を引きずりながらあたしはほうほうの体で自室に戻った。

もうとにかく、早くベッドで横になりたい。

そんなことを考えながら部屋の扉を開けると、スターちゃんがなぜか部屋の灯りもつけず、机の上で頭を抱えていた。

 

「ただいま。どうしたのスターちゃん。大丈夫?」

 

あたしは部屋の蛍光灯をつけると、とりあえず彼女にそう声をかけた。

 

「私の、次のレースが決まったんだ」

「そうなんだ!いつのレースになったの?」

 

スターちゃんも、次が引退をかけた大勝負のはずだ。

それで少しナイーブになっていたのだろうか。

 

あたしの質問に彼女は深いため息をついてから、纏わせた重たい雰囲気にふさわしい口調で答えてくれた。

 

「……5月最終日、東京レース場未勝利戦・ダート1600M」

「それって……」

 

あたしが出走する予定のレースだ……。

 

あたしのほうが先に引退をかけたレースの日程が決まっていたので、スターちゃんにはそれを日々の会話の中でそれとなく伝えていたんだ。

 

だからこそ、彼女は思い悩んでいた。

 

あたしたちは確かに友人である前に、レースを走るウマ娘であり、レース場では命の次に大切な一勝を奪い合うライバル同士である。

それを重々承知して、あたしたちは儚い、それでも確かな友情を育み合ってきた。

 

でも。

でも、こんなのって……。

未勝利戦を行っているレース場や日程は、他にもあるのに……。

二人が同じレースを走ることなんて、今まで一度もなかったのに……!

 

「……しかた、なかったんだ。私もトレーナーさんに抗議したよ。『トレーナーさんも私がアデリナちゃんとはルームメイトで、しかも仲が良いのも知ってらっしゃるじゃないですか。どうしてこのレースにエントリーしたんですか?』って。でも、もうそこしかエントリーできるレースが残っていなかったの。トレーナーさんも、苦渋の決断だったんだと思う……」

 

スターちゃんの抗議は、トレーナーによっては甘いこと言ってるんじゃない、と叱責されそうなものだった。

しかし彼女のトレーナーは優しい感じの若い女性で、そういう厳しいことを言ったり、ウマ娘を今回のような精神的に厳しい状況に置いてメンタルを鍛え上げようとするタイプではないことは、あたしも知っている。

 

ということは、本当に仕方なかったのだろう。

そういうことなら、仕方がない。

 

「スターちゃん。あたし、負けない。絶対負けない。あたしが、勝つ」

 

あたしはあえて厳しい表情を作り、挑発的に聞こえるようそう宣言して、彼女の大きな瞳を睨みつけた。

これがあたしの、精一杯の友情表現だった。

 

「………………」

 

スターちゃんはあたしと違って、本当に心根が優しい娘だ。

激しい感情が、彼女の心の中をかき乱しているに違いない。

 

でも、スターちゃんは優しいだけでなく、それ以上にハートの強いウマ娘だ。

そうでなければどうして、結果の出ない中で、あたし以上のハードトレーニングを黙々と続けてこられるだろう。

 

「私にだって、積み重ねてきた努力がある。勝利を諦めたことなんて一度もない。勝つのは私の方だよ、アデリナちゃん」

 

半泣きになりながらも、彼女はウマ娘らしい、勝負師らしい誠意を持ってあたしの言葉に応えてくれた。

 

スポ根漫画やアニメにあるように、わざとらしく健闘を祈り合う握手なんてしなかった。

あたしたちにはその言葉の交換だけで、十分だったのだから。




長文読了、本当にお疲れさまでした。
そして、ありがとうございました。

長い文章で読者の方々にご負担をおかけしてしまうのは大変申し訳なく思いましたが、
どうしてもここは一つの章として読んでいただきたかったのです。

読んでくださった方々に、長文だけど読んだ価値あった、と思っていただければ
それ以上の喜びはありません。

重ね重ねになりますが、長文読了、本当にありがとうございました。

また近いうちに、次話のあとがきでお会いしましょう!


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5話

偉大な母親を持つウマ娘・アデリナが、自身の実力と母親の実績、その親子関係に葛藤しながらも競争生活を全うしようとするお話です。

※オリウマ娘注意です。

登場人物
フラッシュアデリナ

【挿絵表示】

誕生日:4月28日
体重:おおよそ理想
身長:159センチ
スリーサイズ:87・58・86

フラッシュアデリナの秘密1:実は母に教えてもらったポーカーが趣味。

(ドイツでは結構、テキサスホールデムと呼ばれるポーカーがさかん)


あの日からスターちゃんとは同じ空間で生活していながら、必要最低限の会話とおやすみの挨拶以外しなくなった。

お互いに手の内をバラしたくない、とか気まずくなったというわけではなく、ちょっと変な言い方だけど、自然とそんな空気になったという感じだ。

 

当然だけど、朝スターちゃんがトレーニングに行く前にあたしを起こしてくれる、ということもなくなった。

今あたしを起こしてくれているのは、スマホのアラームである。

 

 

ピピピピピピ……。

 

今日もスマホが1秒の狂いもなく朝の5時にあたしを叩き起こしてくれる。

ベッドからもぞもぞと腕を伸ばし、スマホを取って停止をタップしてやかましいアラームを止めた。

 

まだ意識が朦朧としている上半身を起こし、眠い目をこする。

元々寝起きはそれほど良い方ではないのだけど、アラームで起きるようになってからそれがさらにひどくなったような気がする。

なにかもっと目覚めが良くなるような、他の音に変えてみるかな……。

 

なにはともあれ。

 

「あと一週間……」

 

そう、勝負の日までとうとう一週間を切った。

あたしはいつものように重たい体をベッドから引きずり下ろすと、とりあえず髪としっぽの手入れをしはじめた。

 

スターちゃんはあたしを起こすとすぐにトレーニングに行ってしまっていたから、一人で身だしなみを整えるのは前と変わってないはずなんだけど、どういうことだか、ちょっと『寂しいな』と感じてしまう。

 

っと、いけないいけない。

いまスターちゃんはあたしの親友というだけでなく、現役続行への最後の切符を賭けて戦うライバルなのだ。

 

芽生えかけた人間らしい感情を修羅の心で押し殺して、あたしはしっぽの手入れに集中することにした。

 

 

トレーニングは順調そのものだった。

例の事件のお陰で心が晴れた、ということもあるのだろうが、ここ2週間ほどのタイムの伸びはまるで別人のようだった。

 

あたしの父親でもあるトレーナーいわく、『たぶん君は【超晩成型】のウマ娘なんだろう。こういうタイプはクラシック級の4月辺りから急激に力をつけて、ようやく本来の実力を発揮できるようになる。この成長型の特徴は、努力が実を結ぶのにすごく時間がかかってしまうという点だ。トレーニングを重ねても結果が出にくいから、【本格化】するまでに心が折れてしまう娘も多い。俺自身はそういう娘を担当したことはないけど、実例は何回か見たことがある』らしい。

 

お母さんはジュニア級の10月には初勝利を挙げてクラシックで大活躍したのに、全く不思議なものである。

いつも思うんだけど、ウマ娘って一体どれだけの競走能力を親から受け継ぐのだろう。

エアグルーヴさんとかダイイチルビーさんのように【母娘でG1制覇!】みたいなのは目立つけど、実はああいうケースの方が珍しいんだよね。

お母さんはあんまり活躍してなかったけど、その娘がG1ウマ娘になった、というパターンのほうが圧倒的に多い。

もちろん、あたしみたいにその逆のケースもけっこうある。

まぁ確率的にそうなることの方が多いのは当たり前なんだけど、このへんのことは科学的にもよく分かっていないらしい。

もう一つ言うなら、お父さんの職業とか運動能力は生まれてくるウマ娘の競走能力にほとんど影響を与えないと言われている。

大活躍したウマ娘のお父さんが世界的なアスリート、という文字通りサラブレッドという場合もあれば(しかしこのサラブレッドって言葉はどこから来たんだろうね?)、私の父は普通のサラリーマンです、って娘もたくさんいる。

どんな生まれのウマ娘が強くなるのか?という疑問は、科学的にも生物学的にも分かっていることがほとんどない、というのが現状だ。

 

 

ミーティングのためにトレーナー室に行くと、神妙な面持ちでトレーナーがタブレットを操作していた。

 

「来たか、アデリナ。次のレースに出走するメンバーが発表されたぞ」

 

トレーナーが差し出してきたタブレットには、URAの公式ホームページから見られる出走メンバー表が表示されていた。

 

あたしは無言でそれを受け取り、ざっと出走メンバーを確認してみる。

 

……1枠2番に【スプラッシュスター】、6枠11番に【フラッシュアデリナ】の名前を確認して、ようやく『ああ、本当にスターちゃんと戦うんだ……』という実感が湧いてきた。

 

「正直今の君の力なら、大きな不利を受けなければこのメンバー相手に負けることはないだろう。要注意なのはここのところ連続2着に来ているローズフレイアくらいかな」

 

ローズフレイアさんという娘とは直接の面識はなかったが、出走メンバー表で直近のレース結果を見る限り、結構良いタイムで2着に食い込んでいるようだ。

ただ……。

 

「実績から当日は彼女がおそらく1番人気になるだろうが、ここのところかなり無理してレースに出走しているみたいだし、彼女が当日を絶好調で迎えるのは難しいと思う。本調子でない彼女さえ競り落としてしまえば、あとの娘は君に追いつけないだろう」

 

この時期、引退を回避するために強行スケジュールでレースに出ている、という娘も少なくない。

担当しているトレーナーも本当は良くないことだ、と分かってはいるだろうけど、本人が出たいといえば出走の許可を与えないわけにもいかない。

懸かっているのは、そのウマ娘本人の進退なのだから。

一般的には連続でレースに出られるのは体力的にも気力的にも2週ぐらいまで(URAでは毎週土日にレースが行われている)、と言われているが、ローズフレイアさんは3週連続出走で最後の勝負に挑むようだった。

 

「……スターちゃんは、どうかな?」

 

お父さんもスターちゃんがあたしと同室で、しかも仲が良いのを知っているから気を使ってあえて話題に出さなかったのだろう。

でも、まったく彼女のことについて触れないのはむしろ不自然な気がしたので、あたしから話を切り出してみることにした。

 

「彼女も頑張ってはいるんだろうが……。前走は3着に来ているとはいえ、先団に取り付いて自分のレースができていたにも関わらず、勝ちきれなかったわけだからな。彼女には申し訳ないが、俺はそれほど意識しなくていいと考えている」

 

こういうところはさすがにプロで、客観的な事実だけを淡々と語ってくれているはずなんだけど。

あたしから彼女の話を出したくせに、その事実がまるで親友の悪口を言われたように感じられて少し腹を立ててしまった。

 

……きっとあたしは、本質的なところで勝負に対しての執念が甘いのだろう。

 

トレーナーはあたしのそんな心境に気づいたのか気づいていないのか、「ミーティングは以上だ。何か質問は?」と聞いてきたので、あたしは黙って首を横に振り、トレーニングに出かける準備をし始めた。

 

 

5月30日の日曜日。

あたしは目をさますと、天気を確認するためにまず部屋のカーテンを開けた。

降り注ぐ朝日。

今日はどうやら、快晴のようだ。

 

「よし」

 

あたしは小さく、ガッツポーズを作る。

雨の日のダートも抜き足が良くなって嫌いではないが、あたしの脚は一瞬の切れ味を活かすというより、いい脚を長く使うタイプなので、パワーが要る良バ場のほうがありがたい。

 

スターちゃんは、部屋にいない。

彼女は『最後にトレーナーさんとみっちりミーティングしたいから』という理由で、寮に届け出を出した上で昨日の夜から外出して、東京レース場の近くのホテルに泊まっている。

 

そういう理由ももちろんあるのだろうけど、本当の理由は言うまでもない。

 

いつものようにクローゼットを開け、姿見を見ながら髪にくしを通す。

 

変わったことをする必要はない。

いつものように、いつものレース場を走るだけ。

こういうことを意識している時点で平常心ではないのだろうけど、『自分は今、平常心ではない』と認識していることが大切だ。

自覚していれば、対策が打てる。

あたしの場合、多少の緊張感はむしろパフォーマンスにいい影響を与える、という心理学の研究結果を信じることにしていた。

 

 

「おはよう、アデリナ」

 

集合場所のトレセン学園正門前に行くと、すでにトレーナーが待っていてくれていた。

これもいつも通りで、あたしは約束の時間ギリギリに行くけど、お父さんはだいたい10分前には待っていてくれているらしい。

『そんなことでは社会に出てから困るぞ』っていつも言われるけど、そんなことは社会人になってから考えればいいや、とあたしは思っている。

 

「うん、おはよう」

「緊張してるか?」

「さすがに、少しね」

 

大勝負前独特の雰囲気を感じ取ったのか、そう声をかけてくれたトレーナーにあたしも無理に気張ることはせず、苦笑いを浮かべてそう答えた。

トレーナーもそのへんは分かってくれているようで、変に励ますようなことはせず、「そうだろうな。じゃあちょっと、しゃべりながら歩くか」と言うと、駅に向かって歩き始める。

 

道すがらの話は昨夜の学食のメニューやトレーニング後の体調のような、いつも雑談として話すようなことばかりだった。

トレーナーも意識してそうしてくれているのだろう。

今日のレースのことが頭から完全に離れるようなことはなかったが、おかげで少しは気が紛れて余計なことを考えずに済んでいた。

 

「そういや、お母さんからの連絡は?」

 

あたしはその雑談に乗っかるような感じで、少しばかり気になっていたことを聞いてみる。

お母さんは定期的にお父さんと連絡を取っているので、レースの日程などは把握してるはずである。

ちなみに、あたしのほうにはお母さんからは何の連絡も来ていない。

 

「あ~……レース見に来ないかって一応、誘ったんだけどな」

 

父はちょっと困ったような表情を浮かべ、それ以上は言おうとしない。

まあG1を勝った母からすると、娘が未勝利のレースを勝とうが負けようが、どうでもいいことなのだろう。

例えそのレースで負けて、引退に追い込まれたとしても。

 

ま、いっか。

あたしの方からも『見に来て』みたいな連絡は入れてないしね。

 

「いつも思うんだけど。お父さん、よくあんな偏屈女と結婚したね……なんで結婚したの?顔が良かったから?」

 

母親の悪口を言って緊張といらだちをほぐそうとしているあたり、あたしも本当にまだまだ子供だな、とちょっと自分が嫌になってしまう。

 

「母親のことをそういうふうに言うもんじゃないぞ。いや、確かに多少は偏屈だし、美人なのは認めるが」

 

妻へのグチとノロケを父から同時に聞かされたあたしは、自分で話のきっかけを作ったのにもかかわらず、少しうんざりしてしまった。

 

「確かに偏屈に見えるときもあるだろうがな。お母さんはただただ、頑張り屋さんなだけなんだよ」

 

それは知ってるよ。

お店でもクリスマスの時期なんかは一日に2時間ぐらいしか寝ないで、従業員さんたちとひたすらにケーキを作っている。

反抗期真っ盛りの中2の冬休み、たまたま厨房の前を通りかかると、そこから1gがうんぬん、とかいう母の独り言が聞こえてきて、『そんなもん海原雄山でもない限りわからんでしょ』と思わず心のなかでツッコんでしまった。

……それでいて26日には必ずあたし達家族のために手作りケーキを用意して、ちょっと遅いクリスマスをお祝いする。

疲れた顔を隠しているつもりなのか、普段は薄化粧なのに、その日のファンデーションはいつもよりすこし厚めだ。

 

「そりゃもう誰かが止めてあげないと、どこまででも突っ走ってしまうぐらいのがんばり屋さんだ。フラッシュは何でもできるし、手先は器用なのに、性格はとことん不器用っていう放っておけない女(ひと)なんだよ」

「ふーん」

 

知ってることを言われても、それぐらいしか返す言葉がない。

ま、夫婦は夫婦の間にしかわからないことってあるのだろう。

 

「頑張り屋のところと、最後まで諦めない気持ち。そういうところはアデリナもお母さんに似たんだろうな」

「あたしはお母さんに似てないよ。……似たのは、顔とおっぱいぐらいかな」

 

ヘンなことを言うお父さんにバカなことを言いながら呆れ顔で手を振ったけど、それが照れ隠しであることぐらいは、子供なあたしでもさすがに自覚していた。

 

 

道中トレーナーとバカ話(そう、あれはバカバカしい話なんだ)をして多少は緊張がほぐれたつもりでいたが、控室に入って体操服に着替えると、さすがに心も体も張り詰めてきた。

 

負けたら、引退……。

 

その言葉が頭の中を無限に反芻する。

 

「toi,toi,toi……」

 

脳内の反芻を打ち消そうとするように、呪文みたいな言葉が勝手に口をついて出た。

母がいうには、ドイツに古くから伝わるおまじないらしい。

 

確か小学校二年生の時、生まれて初めて本格的な模擬レースに参加することになって、あまりの緊張に泣き出しそうなあたしに、お母さんが『心が落ち着くおまじないですよ』と言って教えてくれたのだと思う。

 

でも、小さい頃は夢中で遊んでいたお気に入りのおもちゃも、大きくなるにつれいつの間にか自分の部屋からなくなってしまうように、そのおまじないもいつの頃からか使わなくなってしまっていた。

 

今のあたしは、基本的に占いやおまじないなどのたぐいは一切信じない。

それでも今だけは、それにでもすがりたい心境だった。

 

『アデリナ、時間だぞ』

 

着替えている最中外に出ていてくれたトレーナーが、扉をノックしながら定刻を告げる。

 

「分かった。いくよ」

 

あたしは気合を入れるためにパン!と頬を叩くと、用意してあったミネラルウォーターを手にとってグビッとひとくち喉の奥に流し込んだ。

 

体は緊張しているが、頭の中は引退の文字ではなく、なぜか先ほどの呪文がリズミカルに繰り返されている。

 

心理学やら脳科学の方から見ると、単に覚えやすくてリズミカルな単語が頭の中を支配した、ということなのだろうけど……。

ひねくれ者のあたしも今回ばかりはそんな小賢しいことは考えず、小さい頃このおまじないを教えてくれたお母さんに心のなかで感謝した。

 

東京レース場・ダート1600Mの未勝利戦。

そのレース前のパドックは、静かな熱狂に包まれていた。

普段の未勝利戦では、感じることのない感覚である。

 

人は、今日の午後から行われるダービーのような、偉大な栄光や名誉を競う者たちに大きな声援を送る。

 

しかし逆に【進退を懸けた勝負】というものにも、深い興味を覚えるものらしい。

毎年この時期の未勝利戦は【負けたらあとのない】ウマ娘たちの深刻な戦いを見守ろうと、一種の野次ウマ根性でたくさんのひとが観戦に訪れる。

もちろん、推しているウマ娘を最後まで応援しようと駆けつけている熱心なファンも大勢いるけどね。

 

慣れない雰囲気の中あたしがパドックに出ていくと、ひときわ大きな歓声が上がった。

今日のレースの一番人気は前走・前々走と2着が続いているローズフレイアさんかな、と思っていたけど、なにがどうなっているのやら、あたしが一番人気に推されているらしい。

一番人気なんて【あのエイシンフラッシュの娘】というだけで期待されていたメイクデビュー以来である。

 

トレーナーにその疑問をぶつけると、苦笑を浮かべて『金曜日のトレーニングを乙名史さんに見られたからだろうな……』と答えてくれた。

乙名史さんはお父さんとも古い付き合いがある月刊トゥインクルの名物記者で、彼女のウマ娘を見る目は確からしく、彼女が厚い印を打つとその娘は人気になるそうな。

 

パドックの中央に出てペコリ、と頭を下げると(派手なポーズを取ったりする娘もいるけど、あたしはあまりそういう目立つようなことはしない)、『がんばれよ!』『応援しています!』という声が、いつもの倍くらい飛んでくる。

 

応援してくれる人がいる、というのはそれだけで心強いものだ。

あたしは笑顔で観衆に手をふると、そのまま彼らに背を向けて地下バ道に向かう。

 

……途中スターちゃんとすれ違ったが、彼女はあたしと目を合わせようともしない。

傍目にも、彼女がピリピリしているのが分かった。

 

だからあたしも、話しかけるようなことはしなかった。

 

 

ゲートに入ってからの心境はそのウマ娘によって違うのだろうけど、あたしの場合は案外落ち着いてしまうことが多い。

幸い今回のレースも同じような感じで、もちろん胸は高鳴っているんだけど、緊張で呼吸が乱れるなんていうことはなかった。

 

もうすぐ、スタートだ。

勝っても負けても、これがあたしの戦う最後の未勝利戦である。

 

(toi,toi,toi……)

 

あたしはもう一度、お母さんの教えてくれたおまじないを声を出さず口の中だけで唱えてみる。

うん。

あたしは、落ち着いている。

大丈夫だ。

 

ガチャン!

 

運命のゲートが、開いた。

 

スタートはいつも通りだった。

あたしの脚質は後方からレースを進める【差し】なので、大きな出遅れさえしなければロケットダッシュのようなスタートは必要ない。

 

できれば道中は中団より少し後ろに位置して、レース展開を見守りたいところだ。

 

ただ、今日のレースは逃げの戦法を得意とする娘がいないのでスローペースになるはず。

二番人気のローズフレイアさんは先行だし、いくら東京の長い直線があるとはいえ、あまり後ろの方だと最後に届かない可能性が……。

 

「!?」

 

あたしの予想を裏切るように、一人のウマ娘が単独で先頭に立った。

バ群に押し出されて仕方なく、と言った感じではなく、自らの意思でハナを奪いにいったようにみえる。

 

(スターちゃん?)

 

先頭を奪ったのは、なんとスターちゃんだった。

彼女の脚質は典型的な先行型で、今まで一度も逃げという戦法を取ったことがないはずである。

焦って掛かってしまったのか。

 

……なにか、秘策があるのか。

 

周りの娘たちも不思議そうな顔をしていたが、そのうち平静さを取り戻し、余裕の表情さえ見せる娘もいる。

あたしには、彼女たちの腹の中が透けて見えるようだった。

 

【放っておけば、あの子の脚ならどこかで逃げツブれる】

 

正直なところ、あたしもそう思った。

スターちゃんの地力では、長い東京の直線を最後まで先頭で走り抜くことはできないだろう。

むしろ逃げが一人いることで、彼女を良いペースメーカーにすることができる。

あたしはレースを作っているスターちゃんのペースに合わせて、レースを組み立てることにした。

 

 

第二コーナーを過ぎ、レースは淡々とした流れで進んでいる。

 

……おかしい。

 

このレースがハイペースで流れているのか、スローペースで流れているのか、どうも判然としない。

いつもならこのあたりを過ぎれば、体が勝手に判断してくれるのだが。

 

基本的にはハイペースの時はあたしたちのような後ろから行くウマ娘が、スローの時は逆にスターちゃんのように前にいるウマ娘が残りやすい展開になる。

 

もちろんそのあたりはみんな承知しているから、前の娘はハイペースすぎるな、と思ったらペースを落とすし、後ろの娘はペースが遅いな、と思ったら心持ち早く仕掛けに出る。

 

周りを伺うと、他の娘達も少し困惑したような表情で走っている。

彼女たちも、レースのペースが掴めていないのだ。

 

こういう時は、だいたい2つのケースであることが多い。

レースの流れこそ凹凸があるものの、タイムそのものは平均ペースで進んでいて、意識しても仕方ない場合。

もうひとつは……逃げている娘にレースを支配されていて、こちらのペースをぐちゃぐちゃに乱されているという場合。

 

ただ、後者の場合は逃げている娘が実力的にかなり上位で、彼女のペースを意識しすぎて、もしくは意識しないということを意識しすぎて他の娘は自滅する、ということが多い。

セイウンスカイさんや、古くはカツラギエースさんなどがそういうレースを得意とした。

スターちゃんが逃げの戦法を取るのは今日が初めてのはずだし、そんな彼女がレースを支配するほどの試合運びをしているとは思えない。

ということは、レースは平均ペースで流れていて、意識したって仕方ないのだろう……。

そうは思うが、どうも脚と頭のどこかが引っかかるような感じがする。

 

言語化できない、レース中のウマ娘だけが感じる違和感。

 

 

ペースが掴めないまま、第三コーナーを過ぎた。

いっとき二番手を走る娘がスターちゃんに追いつきそうになったが、また少し引き離して変わらず彼女が先頭で逃げている。

まだ誰も、彼女を捕まえに行かない。

 

周りの子達は平均ペースだと割り切ってレースを進めているようだ。

 

みんな、逃げているあの娘にレースを支配するほどの力はない、と考えているのだろう……。

 

でも、あたしはどうしても、さっきからおかしな感覚が拭えない。

なんだ?

なんなんだ?

むしろいつもより楽に走っている感覚すら……。

 

楽に?

第三コーナーも過ぎているのに、楽に走っているということは……。

 

!!

 

あたしは、スローペースで走らされているんだ!

 

どこでそんな術を学んだのかは知らないが、スターちゃんは完全にこのレースを支配していて、あたしたちの体内時計をメチャクチャにしてくれていたらしい。

 

あたしがそれに気づけたのは、彼女がレースで勝つために、どれだけの努力をして工夫を重ねていたか、そのことを彼女の身近で見てきたからだ。

 

それを知っててなお、ナメていた。

あたしは親友を、スプラッシュスターというウマ娘をナメてかかっていた。

 

……そのツケを支払わせられる前に、気づいたのは幸運だった。

 

第三コーナーの1/4を過ぎたあたりから、あたしは加速を開始する。

これはスローペースでレースが流れた時の仕掛けと、ほぼ同じだ。

 

罠は気づかれないからこそ、効果を発揮する。

見つけた罠に引っかかるバカはいないからだ。

 

そしてあたしは、彼女が仕掛けた罠を見事にかいくぐった。

 

このレースは、もうあたしのものだ!

 

 

>>

(来た……!)

 

スプラッシュスターは後方から迫りくる強烈なプレッシャーを感じとっていた。

 

おそらく、アデリナだろう。

最後のレースが決まってからの、トレーナーとの日々が頭の中に蘇る。

 

(スプラ。レースメンバーが正式に発表されました。このメンバーなら怖いのはフラッシュアデリナ、ただ一人です。彼女にさえ競り勝てれば、勝利は間違いありません)

(私もそう思います。それだけのトレーニングをやってきたという自信がありますから。ですが、今の私の実力でアデリナちゃんに勝てるでしょうか……)

(あなたも近頃力を付けてきているのは確かですが、正直な所、このまま真正面から今の彼女にぶつかっても勝つことは難しいでしょう。ですから……)

(この動画は?)

(もう古いものですが、カツラギエースというウマ娘がジャパンカップを逃げ切った時のレース映像です。同じ東京レース場、参考になることもあるかと思って用意しました)

 

(ダートとはいえ、スピード勝負に持ち込まれたら話になりません。ですがあなたには、尋常ではない努力で積み重ねてきたスタミナがあります。他のウマ娘たちを徹底的に混乱させ、消耗させ、泥沼のスタミナ勝負に持ち込めば、勝機は必ず見えてくるはずです)

 

(どんなにうまくレースを運んでも、最後はおそらくフラッシュアデリナとの叩き合いになるでしょう。今の彼女には、多少不利なレース展開をひっくり返すだけの力があります。ですが、それは望むところです。根性勝負の競り合いになれば、あなたに勝てるウマ娘なんていないのですから)

 

(スプラ、どうしたのです!立ちなさい!勝ちたくないのですか!?レースで負けるのは仕方ないですが、自分に負けてあなたは競走生活を終えるつもりですか!?立ち上がって、もう一本走るのです!)

 

(……よくこのトレーニングに耐えてくれました。今までもあなたは、私の厳しいスパルタメニューに文句一つ言わず、こなしてくれていましたね。私も何人かウマ娘を担当しましたが、あなたほどハートが強くてガッツのあるウマ娘はいませんでした。大丈夫です。当日は必ず、あなたが勝ちます。あなたは、私の誇りです)

 

自分の方こそ、トレーナーさんには感謝しかない。

こんな時期まで未勝利のウマ娘なんて、見捨てられても仕方なかったのだ。

でもトレーナーさんは諦めず、自分を徹底的に鍛え上げてくれた。

 

今までの努力を、苦労を、水の泡にするわけにいかない。

勝つことでしか、トレーナーさんに恩を返すことなんてできない。

 

私は、絶対に負けない!

 

スプラッシュスターは栄光のゴールを目指して、ギアを5速に切り替えたのだった。

 

 

>>

スターちゃんの背中が見えたのは、第四コーナーの入口だった。

あたしはその時点で、2番手まで位置を上げていた。

あたしより後ろの娘たちはペースをとことん狂わせ続けられ、心身ともに疲労困憊でコースを回ってくるのが精一杯という感じだろう。

 

これでほぼほぼ、あたしとスターちゃんとの一騎打ちになった。

 

彼女とはまだ4バ身ほどの差があるが、あたしはまだ、脚を十分に残している。

 

……結局頼りになるのは、母親から譲り受けたこの末脚か。

そう思うと少しばかりうんざりしたが……。

 

捕まえられる。

 

もう、見くびらない。

もう、油断しない。

 

勝つのは、あたしだ!

 

あたしはトップスピードに持っていくために、さらに脚の回転を上げた。

 

みるみるうちに、スターちゃんとの距離が縮まっていく。

あちらも慣れない逃げの作戦で、相当に消耗しているはずである。

 

その証拠に体幹はヨレヨレで、脚色もどんどん悪くなってきている。

あたしとまともに競り合うだけのスタミナはもう残っていないだろう。

 

あたしはその手負いのウマ娘をあっさりかわそうとしたが……。

 

「う、うおぉおぉおぉおおぉ!」

 

彼女はありったけの叫び声をあげ、こちらをにらみつけ、あたしを突き放そうとする。

彼女は決して、先頭を譲ろうとはしなかった。

 

……なんてやつだ。

 

スタミナなんて、とうに使い果たしたはずじゃなかったのか。

 

まだ、このレースに勝てる気でいるのか。

 

>>

「よし、よし、よし!!」

 

いよいよ最後の直線、レース場の観客席に若い女性の大声が響き渡った。

 

レースも大詰めということもあり、観客席は大声が飛び交っているが、その中でも彼女の声はひときわ大きかった。

 

「応援にも熱が入りますね。園田トレーナー」

「あなたは……」

 

園田と呼ばれた女性が声を掛けられた方に顔を向けると、そこには直接の面識はなかったが、最近意識することの多かった一人の壮年の男性が立っていた。

 

「フラッシュアデリナさんのトレーナーさん」

「僕のこと、ご存知でしたか」

「それはもう。あのエイシンフラッシュを育て上げた名伯楽ですもの。で、今は彼女の夫でもあらせられる」

 

彼女の言葉に、彼は思わず苦笑する。

実はエイシンフラッシュの幻影に囚われているのは、娘だけではない。

彼にも、【エイシンフラッシュ以降、G1ウマ娘を担当していない】という現実があった。

そもそもG1ウマ娘を担当すること自体が難しいことなので(それまでの実績やら人脈やら運やらが絡む)、それ自体は恥ずかしいことでもなんでもないのだが、未だに【エイシンフラッシュを担当したトレーナー】と言われるたびに、少し心がじくりとする。

 

「……まったく、トレーナーというのも因果な商売ですな。こういう残酷な勝負も、見届けなければならない」

 

彼の言う【因果】には別の意味もあったが、話の後半に現在の状況を説明することで、うまく話題をすり替えた。

 

「それを覚悟で選んだ道です。それに」

「それに?」

「今回に限って言うなら、残酷な結果になるのはフラッシュアデリナさんのほうですから。叩き合いになったら、相手がナリタブライアンでもスプラは絶対譲りません」

 

なんと気の強いお嬢さんだ。

相手がナリタブライアンでも、というのはさすがにフカシすぎだと思ったが、それだけのことをやってきた自信があるのだろう。

 

そして自分が担当しているウマ娘を、深く信頼している。

 

それはそれとして、言わせっぱなしではベテラントレーナーとしてもカッコがつかないし、なにより自分の担当ウマ娘でもあり、娘でもあるアデリナがナメられたようで面白くない。

 

かといって、怒鳴り返すのも大人げない。

 

なので彼は、

 

「叩き合いになれば、うちのアデリナも相当なものですよ。まあ、見ててください」

 

と余裕たっぷりのニヒルな笑顔でそんなことを言うのにとどめておいたのだった。

 

 

>>

とうとう、残り200のハロン棒が見えてきた。

比較的余裕があったあたしの脚も、そろそろ限界に近づいている。

並びかけては突き放され、並びかけては突き放され、なかなかスターちゃんを捉え切ることができない。

 

わずか半バ身の差が、果てしなく遠く感じる。

 

彼女も慣れない逃げという作戦とレースの展開作りに、相当苦心したはずである。

 

そんなレースを走ってきた彼女だからとっくに限界を迎えていてもおかしくないと思うのだが、微塵も脱落する気配を感じさせない。

 

こんなに強いウマ娘だったのか……。

 

もちろんあたしは彼女がどれだけの努力を積み重ねてきたか、それはよく知っている。

 

でも、あたしは彼女の努力量だけを見ていて、その努力によって培われた【実力】を軽視していたのではないだろうか。

 

それは、とても失礼なことではないのだろうか。

 

ごめん、スターちゃん。

スターちゃんは、やっぱりすごい娘だったよ。

 

……あたしは、そんなすごい娘に勝ちたいっ……!

 

あたしは、最後の力を振り絞る。

 

あたしだって、やれるだけのことはやってきた。

あたしを支えてくれた人も、たくさんいる。

 

お父さん。

学園に務めるスタッフの方たちや先生方。

……それに、お母さん。

 

偉大で、偏屈で、わからず屋で、大好きなお母さん。

 

そういう人たちのことを考えると、限界だと思っていた脚に力がみなぎる。

 

「うおぉおおぉおぉおおぉぉっ!!」

 

こういうことは結局、最後は根性勝負だ。

 

あたしは考えなしに大声を出し、最後の気力と根性を振り絞る。

 

半バ身あった差がすぐに縮まり、あたしはそのまま彼女を追い去ろうとする。

彼女も、あたしを突き放さんと更に脚を伸ばす。

 

あたしは、必死に食らいつく。

 

負けない。

負けない!

ぜっったい、負けないっ……!

 

お互いの存在を視界に入れながら、距離も、時間さえも超越したように感じる空間を、あたしたちは駆け抜けていた。

 

ゴール板が見えてくる。

 

まだ彼女を振り払えない。

彼女はまるで幽鬼のような表情であたしを睨めつけ、あたしの隣を走っている。

 

スピードも、スタミナも、パワーも、末脚も、スキルも、作戦も、気力も、根性も、精神力も、自分を支えてくれた人たちへの感謝の気持ちさえも使い果たしたあたしたちにできたことは、ただただ脚を動かすことだけだった。

 

そのまま二人、もつれるようにゴールイン。

 

その場で突っ伏したいところだったが、後にゴールしてくる人たちのことを考える理性はかろうじて残っていたようで、あたしはそのまま外ラチに向かってヨロヨロと歩き、後続の人たちの邪魔にならないところまで移動してからばたん、と仰向けに倒れ込んだ。

 

空は、憎々しいほどに青く澄み渡っていた。

 

どうやらスターちゃんも同じような判断をしたらしく、あたしの隣に寝っ転がって激しい呼吸を繰り返している。

 

「……ねえ」

 

スターちゃんの声を、久しぶりに聞いたような気がする。

 

「……なに?」

「……正直、私が勝ってると思う……」

「いやいや、あたしが勝ってるって……」

 

睨み合うか、笑い合うかしたかったところだけど、あいにくあたしたちにそんな力は残っていなくて、あとはゼイゼイ肺が赴くままに呼吸をしているぐらいしかできなかった。

 

しばらくそうしているとお互いのトレーナーが小走りにやってきて、二人の口に酸素を当てはじめる。

しばらく肺に酸素を送り込んでいると、多少は呼吸が落ち着いてきた。

 

「……あたしが勝ってるよね?」

「と思うが……」

 

あたしの問いかけに、お父さんは確信を持てない表情を隠そうともせず答えてくれた。

あたしはお父さんの肩を借りてなんとか立ち上がると、少し顔を上げて掲示板を確認してみる。

3着にはローズフレイアさんが入ったみたいだったが……。

1着と2着には何も表示されておらず、確定のランプも点灯していない。

 

少し離れたところではスターちゃんもトレーナーの肩を借りて立ち上がり、不安げに掲示板を見上げている。

 

5分。

10分。

 

その間、レース場の観客席には大勢の人が詰めかけているにも関わらず、奇妙な沈黙がその場を支配していた。

 

未勝利戦でこれだけの時間、順位が確定しないのは珍しい。

……いやむしろ、これからの進退を決定してしまう勝負だからこそ、慎重に審議しているのかもしれない。

 

そして、15分後

 

1着 11

2着  2 ハナ

 

2つの数字が無機質に表示され、確定のランプが点灯した。

 

それを見た観客が、割れんばかりの大歓声を上げる。

 

「……勝ったんだ、あたし」

 

勝ったらものすごい嬉しさとか感動が押し寄せてくるのかな、とあたしは想像していたが、襲ってきたのは圧倒的な脱力感だった。

 

あたしはまるで重力に引きずられるかのように、ダートのバ場にへたり込む。

 

「大丈夫か、アデリナ!?」

「大丈夫……ちょっと、疲れが出ただけ……」

 

そうは言ったものの、脱力感がひどすぎてしばらく立ち上がれる気がしない。

 

立てた膝に頭を乗せ、呼吸を整えているあたしの耳に、東京レース場全体を揺るがすほどの慟哭が響いてきた。

 

それは一人のウマ娘のやるせない感情の渦であり、断末魔でもあった。




今回も長文読了、本当にお疲れさまでした。

レースシーンの描写に力が入ってしまい、ついつい長くなってしまいました。
親友同士の少し切ない激闘を、少しでも楽しんでいただけたのなら幸いです。

重ね重ねになりますが、長文読了、本当にありがとうございました。
書きたいだけ楽しく書いていますので、次回が短く済むかは完成させてみないとわかりませんが……。
よかったら次回作もまた、ぜひ読みに来ていただけると嬉しいです。

それではまた近いうちに、次話のあとがきでお会いしましょう!


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6話

偉大な母親を持つウマ娘・アデリナが、自身の実力と母親の実績、その親子関係に葛藤しながらも競争生活を全うしようとするお話です。

※オリウマ娘注意です。

登場人物
フラッシュアデリナ

【挿絵表示】

誕生日:4月28日
体重:おおよそ理想
身長:159センチ
スリーサイズ:87?・58・86

フラッシュアデリナの秘密2:実は最近胸が大きくなってきて悩んでいる。



呼吸も落ち着いてきたあたしは、トレーナーの手を借りてなんとかバ場から立ち上がった。

 

もう一度、掲示板を確認する。

 

1着 11

2着  2 ハナ

 

間違いない。

あたしが、勝ったんだ。

 

あたしが……。

 

「…………」

 

電光掲示板に表示された無機質な番号が、あたしの心を激しく揺さぶった。

 

声は出ない。

ただただ、ボロボロと静かに熱いものがあたしの頬を伝っていく。

 

トレーナーは何も言わず、あたしを静かに見守ってくれていた。

 

「アデリナちゃん」

 

ガラガラ声のした方を振り返ってみると、大きな瞳を真っ赤にしたスターちゃんが、あたしの目の前に立っていた。

 

「スターちゃん……」

「優勝、おめでとう。私も嬉しい……いや、ごめん。ほんとはメチャクチャ悔しい」

 

瞳の端に涙をためながら、スターちゃんはそういって苦笑する。

 

「……うん、ありがとう」

 

こんな時、なんて言えばいいのか、あたしには分からなかった。

 

「あ~、それにしても惜しかった!胸の差で負けたのかなぁ。アデリナちゃん、スタイル良いもんね~」

「かもねぇ」

 

そんなバカなことを言いあって、あたしたちは泣きながら笑いあった。

 

これはスレンダーなウマ娘が僅差で負けたときの常套句みたいなもので、一種のブラックジョークである。

実際にはウマ娘は頭から突っ込むような体勢でゴールするので、バストの大きさが勝敗を決するなんてことは起こり得ない。

 

こんなバカげたことでも言っていないと、負けた方はやっていられないのだ。

 

「でも、これで引退かぁ。結果にはちょっとばかり悔いは残るけど、今までやってきたことにはなんの悔いもない。最後、親友と本気で戦えて本当に良かった」

 

スターちゃん……。

こんな遺恨試合みたいなレースのあとでも、彼女はあたしのことを【親友】と言ってくれた。

 

「アデリナちゃん、これからもどんどん勝ち進んでね!それでね、アデリナちゃんが将来G1に出走したら、周りの人に自慢するんだ。私はあの娘とハナ差の勝負をしたことがあるんだよって!」

 

そういって彼女は、あたしに背を向け駆け出していく。

 

もう、我慢できなかった。

 

あたしは今度こそ、声を上げて小さな子供のように泣きじゃくった。

 

 

ライブ前の、ステージ袖。

 

(センター。……あたしが、センターで歌う……)

 

もちろん、ステージに立つのは初めてではない。

バックダンサーとしては、過去13回舞台で歌い踊ってきた。

センターで歌う娘を見ながら、次はあたしの番だと言い聞かせて。

それは、周りでバックダンサーを務めていた娘も同じだっただろう。

 

それにしても、この時期の未勝利戦優勝ウマ娘が【センター】として歌えるのは幸運なことで、本当に人に恵まれた。

 

この時期の未勝利戦ウイニングライブは、勝ったウマ娘以外ステージを辞退する娘も多い。

自身は武運つたなく敗れて引退していくのに、バックダンサーとしてステージに立とうという気になれない、というのはよく分かる(数ミリ違えば、あたしがその立場だった)。

 

だから関係者も、その辞退を無理に引き止めるようなことはしない。

 

そういった事情があり、今の時期の未勝利戦ウイニングライブは、ソロライブになることのほうが多いのだ。

でもあたしの場合、2人の娘がステージを盛り上げてくれる。

一人はスターちゃんで、もうひとりは3着に入ったローズフレイアさんだ。

 

髪をショートカットにしていて、いかにもサバサバした女の子といった感じの彼女は『あれだけのレースを見せられたんじゃあ仕方ない。わたしも納得してトレセン学園から転校できるってもんだ。わたしで良ければ、バックダンサー務めさせてもらうよ』と快くステージに残ってくれた。

 

ステージ袖で少し話してみたところ、彼女はレースから身を引くわけではなく、地方のトレセン学校に転校して走り続けるようだった。

彼女の実力なら、転校してすぐにでも初勝利を上げることだろう。

 

「本番5秒前です!」

 

スタッフさんが、声をかけてくれる。

なんとあたしは、引退がかかっていたさっきのレース前より緊張してしまっていた。

 

「toi,toi,toi……」

 

心が落ち着く、魔法のオマジナイ。

 

大丈夫。

 

今日応援してくれた人たちに、今日まで応援してくれた人たちに、そして今まで一緒にあたしと戦ってくれたすべてのウマ娘たちに、感謝の歌を届けよう。

 

スタッフさんの無言の合図とともに、あたしは初めてセンターとして、ステージに駆け出した。

 

 

センターから見る観客席は、今までの景色と全く違っていた。

 

色とりどりのペンライト。

勝者を称える歓声。

あたしの名を呼ぶ観衆たち。

 

みんな、あたしだけを見てくれている。

 

これがセンターからの景色か……。

 

必死で歌い、必死で踊っているにもかかわらず、その光景はどこか他人事で、夢見心地だった。

 

歌い終わり、ペコリと観客席に向かってお辞儀をすると、割れんばかりの拍手が巻き起こった。

その拍手が鼓膜を打ち、あたしの胸の奥から、ようやく勝ったことによる歓喜の渦が巻き起こってきたのだった。

 

 

初めてセンターを務めたライブを終え、バックダンサーを務めてくれた二人に改めてお礼をいうと、彼女たちは笑顔でそれぞれの控室に戻っていった。

あたしもいつもより軽い足取りで控室に戻るとトレーナーが待っててくれていて、よく冷えたスポーツドリンクを差し出してくれる。

 

「改めて、初勝利おめでとう。どうだった?」

 

このどうだった?には、きっとふたつの意味があるのだろう。

そう思ったあたしは、トレーナーの質問に感じたままを答えることにする。

 

「そうだね。ああいうレースだったから、勝った実感が湧いたのはライブのあとだったよ。ライブは……本当、最高だった。また勝って、センターで歌ってみんなに感謝を伝えたい」

 

あたしの言葉に、トレーナーは心なしか満足げな表情を浮かべてうなずいた。

 

「そうか。まあ、ここの所ハードなトレーニングをしてたから、しばらくは休養して英気を養うといいだろう。休養明けからは更に上目指してビシバシ行くぞ」

 

そうだ。

ある意味あたしは、やっとスタートラインに立ったのだ。

トレーナーの言葉にあたしは黙ってうなずくと、とりあえずロッカーからスマホを取り出す。

 

以前読んだ小説に【誰もが、この小箱から離れられないようだ】って一文があったけど、あたしも例に漏れず、なにか一段落ついたらとりあえずスマホを見るクセがついてしまっている。

 

通知欄を見ると、そこには色んな人からの【おめでとう】で溢れていた。

 

クラスの友人。

学園の先生。

長く連絡を取っていなかった中学時代の友人もレースを見てくれたのか、わざわざお祝いのメッセージを送ってくれたようだ。

 

……嬉しいなあ。

頑張ってきて、あきらめないで本当によかったな……。

 

メッセージアプリに届いている、たくさんの心温かい祝福を感謝の気持ちで確認していると、その中にひとつ、実にシンプルなものがあった。

 

母:初勝利おめでとうございます。次もがんばってください。

 

……あの人はそういう人だ。

別にさ、歓喜の涙を流して喜んでくれよとまでは言わないけどさ、もうちょっとこう……。

 

「ふぅ……」

「どうした?」

 

しまった、思わず出たため息を見とがめられてしまった。

まぁ、隠しても仕方ないか。

 

「いや、お母さんからお祝いのお言葉が届いてたんだけどさ」

 

そういってあたしはスマホに届いていたそのメッセージを、あたしの父でもあり、エイシンフラッシュの夫であるトレーナーに見せた。

 

「あぁ、なんというか……フラッシュらしいよな」

 

そういってお父さんは苦笑いを浮かべる。

 

「そりゃG1勝ったお母さんからすると、あたしの未勝利戦勝ちなんて大したことないんだろうけどさ。もう少し喜んでくれても良いような気もする」

 

あたしがグチ気味にそういうのを聞きながら、お父さんはなぜか自分のスマホを取り出して、あたしにそれを手渡した。

 

表示されていたのはメッセージアプリで、メッセージのやり取りは1週間ほど前のもののようである。

 

「!」

 

それは、お父さんがお母さんを今日のレースに誘ったときのものだった。

そのメッセージの返信はこうだった。

 

『これから何度でも観戦の機会があるでしょうに、なぜわざわざそのレースを見に行く必要があるのです?』

 

今日ここに来る前の会話の中でこの言葉をあたしに伝えなかったのは、どうやらプレッシャーにならないよう気を使ってくれたかららしかった。

 

それにしても……

 

「偏屈すぎない?あたしのお母さん……」

 

脱力したり、泣いたり笑ったり、また泣いたり、今日はなんとも情緒不安定な日だ。

母に泣かされたのは小さい頃、友達に見せびらかしたいがために仕事道具を勝手に持ち出して、優しく諭されたあの日以来である。

 

まったく、偉大な母親を持つと苦労するものだ。

偉大な母親というのは、叩いたり、怒鳴りつけたりしなくても、こうして子供を泣かせることができるのだ。

 

この点に関して言うなら、どこのお母さんも同じようなものなのかもしれない。

 

あたしはきっと、一生お母さんに勝つことなんてできないんだろう。

 

 

感動の初勝利から1週間が経った。

あたしはレース前のハードトレーニングの疲れを癒やすべく、1ヶ月の休養に入っている。

休養期間のトレーニングはストレッチと筋力を維持するための軽い筋トレぐらいで、激しい走り込みなどは一切なしだ。

そんなわけであたしはゆっくりしたものだったけど……ルームメイトのスターちゃんはこの一週間、慌ただしくあちこち動き回っていた。

 

「っと。これで全部かな」

 

あたしはスターちゃんのクローゼットから衣服を全部ダンボールに詰め、一息ついた。

 

「ごめんね、手伝わせちゃって……」

「いやいや、これぐらいさせてくれないと。スターちゃんには散々お世話になったしね」

 

申し訳なさそうなスターちゃんにあたしは笑顔で返事して、持っていたガムテームでダンボールに封をする。

 

結局スターちゃんはURAに引退届を提出してレースからは完全に身を引き、トレセン学園から地元の高校に転校することになった。

 

家族にそのことを報告する時、『期待されてた分、やっぱり申し訳ないよね……』と言って部屋から出ていったけど、ご家族には【今までよくがんばった。長い間、ひとりきりにして申し訳なかった。早く帰っておいで】と労われたみたいで、そのことを泣きながらあたしに話してくれた。

 

「でも、明日からはこの部屋に一人きりか……寂しくなるなぁ」

 

そんなことをあたしが言うと、スターちゃんはすこしビターな微笑を浮かべる。

 

「また家族と一緒に暮らせるのは嬉しいけど、アデリナちゃんと離れ離れになるのは私もやっぱり寂しいよ。それに、新しい学校でうまくやれるかな……」

「スターちゃんはいい子だから大丈夫!それにカワイイから、絶対男の子にモテるよ。カレシができたら、絶対教えてね!」

 

あたしは湧いてくる寂しさを誤魔化そうと、わざとらしい大げさジェスチャーで笑顔を振りまく。

 

「そうだね。別に私は可愛くなんてないけど……もし彼氏ができたらアデリナちゃんに一番に教えるよ」

 

レースで先着されたんだから、恋人ゲットレースぐらいは先着したいね、とスターちゃんは冗談っぽく言った。

そんな冗談を飛ばせるようになったということは、彼女の中でレースのことはもう、ある程度吹っ切れているんだろう。

 

それからあたしたちは、夜がふけるのも忘れておしゃべりした。

 

出会った日のこと。

お互いなかなかレースに勝てず、励まし合いながらトレーニングに勤しんだこと。

内緒で食べた色々なお菓子のこと。

将来のこと。

 

そして、最後のあの激闘のこと。

 

そのおしゃべりは朝日が昇ってスターちゃんが出発する時刻になるまで、尽きることはなかった。

 

 

スターちゃんはどうやら飛行機で地元に戻るらしく、学園の正門前で『別れが辛くなるから、ここでいいよ』と言ってくれたのだけど、そんな彼女に強引に付き添ってあたしも空港までついてきていた。

 

「アデリナちゃん。本当にありがとうね」

 

搭乗前。

スターちゃんはあたしの手をしっかり握って、泣き笑いしながらお礼を言ってくれる。

 

「あたしの方こそ……スターちゃんに会えて、良かった」

「それは私の方だよ。アデリナちゃんに会えて……トレセン学園にきて、本当に良かった」

 

その言葉に、涙腺が思わず緩みそうになる。

でも、あたしは懸命にそれをこらえた。

 

忘れてはいけない。

彼女に引導を渡したのは、あたしなのだ。

 

最後まで、彼女を笑顔で見送る。

 

あたしには、それが勝者の義務のように思えた。

 

「じゃあ、行くね」

 

握っていた手をそっと離すと、スターちゃんはその手を小さくあたしに振る。

今度こそ、本当にお別れの時だ。

 

「うん、元気でいてね」

「アデリナちゃんも。がんばってね」

 

あたしはスターちゃんから初めて、『がんばれ』という言葉を聞いた気がした。

彼女は誰よりもレースに、トレーニングに、勉強にがんばっていた。

だからこそ、人に気軽に『がんばれ』という言葉を使わなかったのだろう。

 

そんな彼女の『がんばれ』という言葉は、今まで聞いたどんな【がんばれ】よりも、重く、尊いもののように感じられた。

 

「がんばるよ、あたし」

 

スターちゃんの分まで、とは言わなかった。

ウマ娘は常に自分のために、自分を応援してくれるファンのためにがんばるのだ。

 

そういうあたしに笑顔でうなずいてくれると、スターちゃんはきびすを返し、さっそうとした足取りで搭乗ゲートに向かっていく。

そしてもう、彼女はこちらを振り返ることはしなかった。

 

 

スターちゃんを見送って寮の自室に戻ってくると、すでに夕日が部屋に差し込む時刻になっていた。

 

「ただいま」

 

そう言っても、返事してくれる人はいない。

スターちゃんのいなくなった部屋は、少しばかり広く感じられた。

彼女はそれほど、物を部屋に持ち込むタイプではなかったのだが。

 

思い返してみれば、スターちゃんはあまり物を持たないタイプの子だった。

 

服も制服やジャージを含めてダンボール1箱に詰められるぐらいしか持ってなかったし、いつも机の上にあったのはいくつかの小物と文房具だけだった。

 

いつだったか、中学の頃から使っているというノーブランドのショルダーバッグの中身を一度見せてもらったことがある。

その中に入っていたのはスマホとリップクリーム、絆創膏とハンカチにティッシュ、それに小銭の入った小さな古い財布だけというシンプルさだった。

 

財布にしても普段はスマホで支払っていて、【何かあったときのために一応】持っているだけだったらしい。

 

本棚には教科書と参考書だけが並んでいて、マンガや小説のような、趣味の本は全部スマホで読めるようにしていた。

 

『勉強するのは紙の本のほうが良いけど、楽しむだけの本なら場所を取らないスマホでいい』と言っていたのを思い出す。

 

ふと彼女が使っていた机に目をやると、昨日おしゃべりしながら食べたおまんじゅうの空き袋が一つ残っていた。

もちろん本来は、持ち込んではいけないシロモノである。

 

スターちゃんがあたしに差し出してくれるお菓子は、基本的には和菓子ばかりだった。

初めて会って好きな食べ物の話になった時、『甘いのは好きなんだけどね。でも、うちって実家が洋菓子店だから、ケーキとかクッキーって飽きちゃっててさ』と言ったのを覚えていてくれていたのだ。

 

そういう、細かい気配りをしてくれる子だった。

 

おしゃべりにしても、スターちゃんはすごい聞き上手だった。

あたしの大して面白くもない話を時にはオーバーアクションで、時には傾聴して、真剣に聞いてくれていた。

彼女との会話は、結局あたしが7割ぐらい話していたように思う。

 

……あるじがいなくなった、スチールの枠組みがむきだしのベッドを眺めていると、つらつらとそのようなことが思い出される。

 

「スターちゃん……」

 

いまさら、涙がぼろぼろとあふれ出てくる。

 

勝者の義務なんてカッコつけてないで、親友に抱きついて、『寂しいよ!』と泣き叫び、その胸の中で別れの涙をいっぱい流しておけばよかった。

 

【心の中にぽっかり穴が開く】なんて使い古された言葉があるが、あたしは今、身と心を持って嫌というほどその比喩の意味を痛感していた。

 

 

1ヶ月の休養が明け、あたしはトレーニングを再開した。

だけど……。

 

「どうしたアデリナ。どこか体調が良くないのか?」

「そんなことはないんだけど……」

 

心配そうに、トレーナーが声をかけてくれる。

心身ともに充実していた未勝利戦前と違い、まるで何かが抜け落ちてしまったかのようにあたしの動きは鈍くなっていた。

 

タイムも以前ほどのものが出ないし、フォームもストロークもバラバラになってしまっている。

 

「おそらく【負けたら引退】という極限状態から脱したことで、多少心身のバランスが崩れているんだろう。トレーニングを重ねているうちに、感覚が戻ってくるはずだ」

「そうだよね……」

 

フォローしてくれるトレーナーに、あたしは愛想笑いを浮かべてそう答えるのが精一杯だった。

 

「もうあと坂路2本。行けるか?」

 

トレーナーの指示にあたしは無言でうなずくと、坂路コースのスタートラインに立つ。

合図とともにあたしはスタートを切った。

体調が悪いわけではない。

脚もいうほど、動いてないわけじゃない。

だけど……。

 

「ダメだ、アデリナ。今日は坂路を取りやめて、ダートをしっかり走り込むことにしよう。まずスタミナと走る勘を取り戻すぞ」

 

ストップウォッチをみたトレーナーが、苦虫を噛み潰したような表情であたしに言う。

あたしはうなだれるように首を縦に振ると、ダートコースに向かって歩き始めた。

 

 

シャワーを浴び、食堂で夕食を取ってから誰もいない自室に戻ってきた。

あたしは部屋の灯も付けず、どさっとベットに倒れ込む。

 

……あたしのやってることって、一体何なんだろう。

 

青春のすべてを犠牲にして、毎日汗だくの泥だらけになって、親友を転校にまで追いやって……それで得たものはたった1つの白星だけ。

 

あたしががんばることで、勝つことで喜んでくれる人は確かにいるんだろう。

それは、わかっている。

 

でもそのがんばりや勝利の感動を届けるのはあたしじゃなくてもできることであり、あたし以上にたくさんの人たちにそれらをお届けできるウマ娘は、それこそ星の数ほどいるわけだ。

 

ウマ娘にとってレースというものは、得られるものに対して、失うものが大きすぎるのではないか。

一部の天才ならともかく、あたしのような非才なウマ娘がこんなことをやってて何になるのか。

 

最近こんなことばかりが脳裏によぎる。

 

最初のうちはお父さんの言うように、あのレース前のハードトレーニングの反動でネガティブなことが頭の中を駆け巡っているだけだろうと考えていた。

 

でも、考えれば考えるほど、あたしにとってレースとはなんなのか、分からなくなってしまう。

 

小さい頃は、単純に走るのが好きだったから走っていた。

それがいつの頃からか、走ることは優劣を競い合い、人に認めてもらうための手段になった。

 

あたしは、自分の優秀さを証明するためだけに走り続けたいのだろうか?

あたしは、そんなことを青春をかけてやり続けたいのだろうか?

 

あたしはいったい、なにをしたいのだろう?

 

 

その日、あたしはひとつの覚悟を持ってトレーナー室を訪れていた。

 

「引退する?アデリナお前、本気で言っているのか?」

 

あたしの言葉に、トレーナーは珍しく語気を荒らげてそう言った。

 

「うん……あたしもう、レース辞めたい」

「……どうして?」

 

父親でもあるトレーナーは、当然その理由の説明を求めてくる。

 

「理由は色々ある。あるけど……いいたくない」

「言いたくない、では済まされんだろう。たくさんの人がお前に期待して、お前のために労力を惜しまず協力してくれているんだ。口幅ったく聞こえるかもしれないが、もちろん俺もその一人のつもりだ。もしどうしても引退するというのなら、その人たちに対しての説明責任がお前にはあるはずだ」

 

それは、そうだと思う。

でもあたしがどんなに真摯に理由を話しても、どうせ大人たちは『それぐらいのことで辞めたいなんて甘ったれてる』『そんなことでは社会に出たらやっていけない』といった【正しいこと】しか言わないだろう。

 

今のあたしにそんな【正しさ】は必要なかったし、聞きたくもなかった。

 

聞きたくもないことを知ったような顔で聞かされるぐらいなら、だんまりを決め込んで叱責を受けたほうがまだマシというものである。

 

いや、大人たちはどうでもいい。

でも、引退したらスターちゃんにだけは、大人のいうところの【説明責任】を必ず果たそう。

あたしがどうして、その決断を下したのか。

 

自分を引退に追いやったウマ娘の勝手な言い分に、優しい彼女でもきっと落胆し、怒りに打ち震えることだろう。

 

それで縁を切られたとしても、構わない。

 

スターちゃんとの関係がどのような結末を迎えても、あたしは彼女に対してだけは、隠し事をしたくなかった。

 

「………………」

「だんまりか。分かった。とりあえずこの一件は預かる。それから、お前はしばらくここを休学して実家に戻れ。これは【トレーナー命令】だ」

 

トレーナー命令と来たか。

トレセン学園で使われるこの言葉の意味は重い。

もし従わないのであれば理事会の承認を経て、ウマ娘との契約をトレーナー側から一方的に破棄することすらできるからだ。

 

「分かりました。仰せのままに」

 

あたしは持ってきていた引退届を机の上に置くと、慇懃無礼に頭を下げてこの部屋からさっさと出ていくことにした。

 

 

>>

「まったく、困ったやつだ……」

 

大きなため息をつき、トレーナーは疲れ果てたかのようにどかっと荒々しく椅子に腰を下ろした。

実際あのやり取りには、かなり神経を消耗させられた。

 

彼にはもちろん、アデリナがあんなことを言い出した理由は分かっている。

 

あのハードトレーニングと負けたら引退というレースという重みが、アデリナの心身に想像より大きなダメージを残してしまい、彼女が一種のバーンアウト症候群に陥っていることがひとつ。

 

それにそのレースが心ならずも、ルームメイトでもあった親友に直接引導を渡すような形になってしまったことも、アデリナの燃え尽きかけていたメンタルに追い打ちをかけたのだろう。

 

そのことを彼女は自責し、深く傷ついている。

 

アデリナもそれが自分の責任ではないと頭では分かっているのだろうが……そう簡単に割り切れない気持ちも彼は理解していた。

 

アデリナにそのことを指摘し、『甘ったれるな』とか、『そんなことは生きていればこれからいくらでもあることだぞ』と言って叱ることは彼にとっては簡単だった。

 

もし彼がチームプレイ競技のトレーナーなら、迷わず彼女をそう叱責していただろう。

そうしないと、チームの規律が保てないから。

 

しかしそこがウマ娘のトレーナーという仕事の難しいところで、基本的に彼女たちとは1対1の関係であるから、もう少し慎重な言葉選びが必要になってくる。

 

しかし今の状態のアデリナに、トレーナーの自分がなにを言ってもその言葉に説得力を持たせるのは難しいだろう。

 

「……彼女なら、もしかしたら……」

 

彼はスマホを取り出すと、電話の連絡先を表示させて通話マークをタップする。

しばらく呼び出し音が鳴って……。

 

「もしもし、ライトハローさんですか?ご無沙汰してます。お変わりありませんか?……」




今回も長文読了、お疲れさまでした。

実は今回の話で合計文字数が5万字を超えてしまいました。

一般的な文庫本の小説が10万字ほどと言われているので、
皆様にはその半分ぐらいお付き合いしていただいたことになるんですね。

拙い文章と物語にここまで付き合ってくださった方々には、
感謝の言葉しかありません。

本当にありがとうございます。

よかったら次のお話もまた、ぜひ読みに来ていただけると幸いです。

それではまた近いうちに、次話のあとがきでお会いしましょう!


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7話

偉大な母親を持つウマ娘・アデリナが、自身の実力と母親の実績、その親子関係に葛藤しながらも競争生活を全うしようとするお話です。

※オリウマ娘注意です。

登場人物
フラッシュアデリナ

【挿絵表示】

誕生日:4月28日
体重:おおよそ理想
身長:159センチ
スリーサイズ:87?・58・86

フラッシュアデリナの秘密3:実はURA公式グッズの写真が現役ウマ娘の中で3番めに売れている。



まるで童話の中から飛び出してきたかのようなメルヘンチックなその建物は、閑静な住宅街の真ん中にあるせいか、少しばかり目立ってみえた。

建物の中からただよってくる、甘い香り。

 

【ふらっしゅのおかしやさん】

 

その看板が示すように、この建物は製菓店だ。

で、このお菓子屋さんがあたしの実家だったりする。

 

あたしは1年と数カ月ぶりに、自分の家に帰ってきた。

学園と寮に提出した休学届には【ケガ・病気療養のため】って一応理由を書いたけど、実際は父親であるトレーナーに『とりあえず1ヶ月は色々考えてみろ』と帰宅命令を出されて、ほとんど強制送還のような形で実家に戻ってきたわけだ。

 

帰ってきたといっても実はあたしの家からトレセン学園までは、電車で片道一時間ぐらいしか離れていない。

これぐらいの距離なら、寮生活ではなく電車で通学するのが普通だと思う。

じゃあどうして寮で暮らしているのかというと、お母さんに『寮生活は絶対にあなたの人生に大きなプラスの影響を与えますから』という考えがあったからだ。

あたしも寮生活っていうのに興味があったので、特に反対もしなかった。

 

うちは1階がお店と厨房、2階と3階が家族の居住スペースになっている。

余談だけどこの家は父と母の共同名義になっているらしく、なんでもお母さんが2/3の権利を持っているんだとか。

まあ、稼ぎ(母の方が良い)と建築にかかった費用からするとそんなもんだろうな、とは思う。

 

小さい頃から『お店の玄関はお客様が出入りするところだから、家に入る時は必ず裏口から入りなさい』と母から言われていることもあり、あたしはそちらに回ることにした。

 

実家の裏口は当たり前といえば当たり前だけど、あたしがトレセン学園の寮に入る前と特に何も変わっていなかった。

 

お店や厨房を掃除するための清掃道具などが壁に立てかけてあり、従業員さんたちのエプロンや長靴が洗濯されて干されている。

 

「ただいま……」

 

裏口の鍵と扉を開け、まるで泥棒のようにそっと入ると、焼き菓子の甘く香ばしい薫りがあたしの鼻孔を満たした。

実家住まいのときはこの香りに飽き飽きしていたはずなのに、今はただただ、懐かしかった。

 

誰にも見つからないよう、そっと2階に上がろうと思っていたんだけど……。

 

「お嬢さん!アデリナお嬢さんじゃありませんか!」

 

休憩にでも行こうとしていたのか、従業員さんに2階に上がろうとするところを見つかってしまった。

あたしが小さい頃から知っている50歳ぐらいの恰幅のいい女性で、うちで一番古株の従業員さんだ。

確か旦那さんが公務員で、もう社会人の息子さんと娘さんが一人ずついるんだったかな?

 

「こ、こんにちわ……」

 

そうあいさつしたあたしの笑顔はきっと、不法侵入を見つけられた泥棒のように引きつっていただろう。

 

「お帰りになるなら連絡くださればお迎えに上がったのに!水臭いですよ!」

 

あいかわらず、元気なおばちゃんである。

そういえばあたしがトレセン学園に合格したときも、まるで自分の娘が名門高校に受かったかのように喜んでくれていたっけ。

 

……まあ、変に気を使われたりするよりよっぽどいいか。

 

「いやあ。みんな忙しいの知ってるし……」

「それを水臭いって言っているんですよ。オーナー、オーナー!アデリナお嬢さんがお帰りになりましたよ!」

 

あたしの心境や状況を知ってか知らずか、古株さんは今一番会いたくない人を大声で呼んでしまった。

そうはいってもいつまでもお母さんと顔を合わせないわけにもいかないだろうから、さっさと言葉をかわしておいたほうが気は楽かもしれない。

 

呼ばれてから少しすると、パリッとした制服に身を包んだ、いかにもコンディトリン(ドイツ語で女性の菓子職人)といった感じのウマ娘が厨房の奥から現れた。

 

「おかえりなさい。アデリナ」

 

久しぶりに会ったお母さんはあたしを見て微笑を浮かべるでもなく、かと言って怒るでもなく、学校から帰ってきた娘を普通に出迎える感じでそう言った。

お母さんもどういう状況であたしがうちに帰ってきたか、知っているはずなんだけど……。

 

「……ただいま」

 

あたしは今の状況で、お母さんとどう接すればいいのかわからなかった。

だから中学の時と同じように、帰宅のあいさつをするしかなかった。

 

「リビングにシュネーバルが置いてあります。お腹が空いているなら、食べてください。紅茶もいつもの棚にありますよ」

「あ、うん。ありがとう……」

 

それだけ言うとお母さんは、さっさと厨房に戻ってしまう。

うーん……。

あいかわらず、よくわからないお人だ。

 

お母さんもあたしを愛してくれていると思うし、あたしもお母さんのこと尊敬しているけど、正直あたしとお母さんって、昔からどうにも波長が合わないんだよね……。

 

「あはは。オーナーもアデリナお嬢さんが帰ってきて嬉しいんでしょうけど、ああいう性格の人ですからねぇ。ま、あまり難しく考えないで、普通に接してあげればいいと思いますよ」

 

古株さんはどうやら、今の会話の雰囲気であたしとお母さんの心境を察したらしい。

この人は昔からそうで、あたしとお母さんが微妙な状態になってしまっている時はその空気を感じ取って、押し付けがましくないアドバイスをくれるのだ。

 

そして多分、オーナーと従業員という距離感を絶妙に保ちながら、お母さんの方にも【母という役目の先輩】として色々アドバイスをしているんだと思う。

 

正直、この人がいなかったらお母さんとの仲はもっとギスギスしたものになっていただろう。

 

「そうだね。それが一番、いいかもね」

「じゃあわたしは休憩に行きますね。また時間があるときに、トレセン学園の土産話でも聞かせてくださいな」

「うん。……いつもありがとう」

 

あたしがお礼を言うと、古株さんは軽く手を振りながら足取り軽く裏口から出ていった。

 

 

今日の夕食は玉ねぎの肉巻きとカボチャの煮物、それにご飯と味噌汁だった。

お母さんは洋菓子職人だからといって和食が作れないわけではなく、作ってくれるご飯はふつうに美味しい。

ちなみにカボチャはあたしの大好物だ。

 

「どうですか、久しぶりの家のご飯は?」

「あ……うん、美味しいよ。あたしがカボチャ好きなの、覚えててくれたんだね」

「娘の好物ですからね。当然です」

「おやつにおいてくれてたシュネーバル、久しぶりに食べたけどおいしかったよ。やっぱりお店でもあいかわらずの人気?」

「ええ、遠くから買いに来てくださるお客様もいらっしゃいます。ありがたいことですね」

 

そういってお母さんは味噌汁を音も立てずにすすり始めた。

……久しぶりの会話だからどこかぎこちない、というわけではなく、あたしとお母さんの会話はいつもこんな感じだ。

ちなみに、お父さんは今日はいない。

担当するウマ娘がいなくても、研修やら資料のまとめやら、それにレース関係の人達との付き合いとかでトレーナーという仕事は結構忙しいらしい。

だから小さい頃から、こうしてお母さんと二人で食事することが多かった。

 

「あの……お母さん」

 

あたしが話を切り出そうとすると、お母さんはお椀をテーブルにおいて首を横に振った。

 

「もう、あなたも小さな子供ではありません。自分でとことん考え抜いて、納得のいく答えを探し出してください。それがどのようなものでも、私はあなたを応援しますよ。もちろん、考える過程で行き詰まるようなことがありましたら、いつでも相談してくださいね」

 

そう言われては、こちらとしてもこれ以上会話のしようがない。

お母さんは遠回しに『今は話をしたくない』と言ってるのだろうから。

 

あたしは機械的に箸で切り分けたカボチャをつまむと、それを口に放り込んでもぐもぐと咀嚼する。

大好きな、お母さんの作ってくれたカボチャの煮物のはずなのに、ふた口めのそれはなぜか美味しいと思えなかった。

 

 

>>

彼は少しばかり、酒が入っていた。

今日もレース関係者との飲み会で、帰宅が日付の変わる前になってしまった。

 

トレーナーにとってレース関係者との飲み会は単に酒を飲み交わす席というだけでなく、人脈を広げるための貴重な社交場でもある。

 

こういう場所で顔をつなげて信頼を得ておくと、思わぬ有益な情報が流れてきたり、小学校や中学校でウマ娘を指導しているトレーナーや先生に『トレセン学園のあのトレーナーさんは腕もいいし、人間的にも信頼できますよ』と彼女たちやその親御さんに口コミ的に紹介されて、それが縁で素質ある娘を担当することになる、なんてこともよくあるからだ。

 

そういった事情を理解して、呑んだくれて夜遅く帰ってくる自分に何も言わないでいてくれる妻に、彼は心から感謝していた。

 

酔い醒ましに水をいっぱい飲もうと思ってリビングに向かうと、そこから灯りがこぼれている。

朝が早いフラッシュはもう明日に備えて寝ているはずだし、今日から自宅に帰ってきているアデリナが夜更かししているのだろうか。

 

「フラッシュ?」

 

彼がリビングに入ると、意外なことにフラッシュが頭を抱えてソファーに座り込んでいた。

 

「ああ、あなた……おかえりなさい」

「ただいま。こんな時間まで起きているなんて、一体どうしたの?」

 

0時近くまで彼女が起きているなんてことは、結婚してから一度もなかったはずだ。

クリスマスやハロウィン、それにバレンタインなどの繁忙期以外は、夜はどんなに遅くてもいつも10時には寝ているはずのに。

 

「わからないんです」

 

彼女は憔悴しきった表情で、首を横に振りながらそうもらした。

こんなエイシンフラッシュを、彼は見たことがなかった。

 

「わからない?なにがだい?」

「アデリナの考えが、気持ちが、全然わからないんです」

「…………」

 

彼はとりあえずフラッシュの話を聞こうと、そっと彼女の隣に腰掛けた。

 

「どうしてあの娘は、引退するなんて言い出すのでしょう?確かに、友人とのお別れはとても悲しかったのでしょう。それがあのような形になってしまったことも、本当に辛かったのだと思います。でも、そうしたことをバネにして走り続けるのが、ウマ娘というものではありませんか?」

 

彼は愛する妻の、困惑に満ちた言葉をただ傾聴する。

 

「私だって現役時代は、辛いことや悲しいことがたくさんありました。でも、あなたと話し合い、たまには衝突することでたくさんの困難を乗り切ってきたではないですか。それなのにあの子は、第一に信頼すべきトレーナーであるあなたに何も言わない。おそらくアデリナは、私にも決して心の内まで明かそうとしないでしょう。どうして?私たちは、そんなに頼りないのでしょうか。なぜ私たちは、それほどまでにあの娘に信頼されていないのでしょう?わからない。もう、私には何もわからないのです」

 

熱を帯びたフラッシュの困惑は、途中から切ない嗚咽に変わった。

そうして気持ちを吐露し終えた彼女は、ただただ静かに涙を流す。

 

「あの子がわからない。もう、あの子が怖いんです……」

 

性格も考え方も、そしてウマ娘としての境遇もまるで違う娘との接し方に混乱し、途方に暮れるフラッシュに彼ができることといえば、優しくそっと抱きしめてやることぐらいだった。

 

「俺もアデリナが何を考えているのか、何を思っているのか、よくわからないよ。俺もアデリナが引退すると言ってきた時、言葉を尽くしたいと思った。……でもきっと、俺の言葉ではあの子の心に届かない。俺はしょせん、トレーナーでしかないから。それを歯がゆくも思う。ただ、アデリナも俺たちのことを信頼していないわけじゃないと思うよ」

「それなら一体なぜ、アデリナは私たちに本音を話してくれようとしないのです?確かに、私たちにも至らないところはあったでしょう。ですが、私たちはあの子を精一杯愛する努力をしてきたではありませんか」

 

フラッシュは間違いなく、尊い無償の愛をアデリナに与え続けてきた。

母親には劣るかもしれないが、彼も娘の父親として、できる限りのことは精一杯やってきたつもりだ。

アデリナが両親の惜しみない愛情を感じ取っているのは疑いのないことだし、彼らも娘がまったくその愛を感じてくれていない、とは思っていない。

 

ただ、今回のことはちょっとばかり、アデリナにとって現実が重たすぎたというだけだ。

父や母への愛情や信頼が、少々揺らいでしまうほどに。

それにもう一つ、本当は絆でつながっているからこその、親子間での問題がある。

 

「……アデリナが本心をさらけ出してくれないのは、俺たちが信頼されていないとかじゃなくて、きっと距離が近すぎるんだ。俺たちにもあっただろう。親には話せなくても、友達とか信用できる身近な大人には話せた、なんてことが」

 

夫の言い分に、フラッシュは心当たりがあった。

そしてそんな話を聞いてくれていたのは、一体誰だったかにも。

 

「アデリナも襲ってきた現実にどう対処して、どう気持ちを整理していいのか、分からないのだろう。厳しい現実への立ち向かい方は人によって違う。誰の、どんな言葉が自分の心に突き刺さるかも。今はあの子を信じて、見守っていてあげようじゃないか」

 

愛する人の真摯な言葉に、フラッシュはその胸の中でうなずくことしかできなかった。

 

 

>>

朝、目を覚ますともう9時を回っていた。

こんな時間に起きたのは一体いつぶりだろうか。

 

寮では起きたら真っ先に髪の手入れをしていたけど、今はほとんど謹慎中の身。

誰にも会うこともない。

それなら身だしなみに気を使う必要もないだろう。

 

ボリボリお腹を掻きながら、そういえばお腹すいたなあと感じたのでリビングに向かう。

朝ごはん、どうするかなあ。

寮にいる時は食堂に行けばよかったけど、家に戻ってきたらそうもいかない。

 

……さすがに朝から忙しいお母さんやお父さんにあたしの飯を作れ、という気にはなれなかった。

 

昨日の晩ごはんとかお母さんたちが食べた朝ご飯でも残ってないかなあ、なにも残っていなかったらコンビニでもいくか、と思ってテーブルに近づくと、朝ごはんの準備と1枚のメモ用紙、それによく見知った1枚の紙切れが置いてあった。

 

メモ用紙には綺麗な字で、こんなことが書いてある。

 

【おはようございます。朝食は準備しておきました。昼食は作りに戻ってきます。これはお小遣いです。息抜きにでも行ってきてください。 母より】

 

そんなメモと共に、1万円札が置いてあるのだ。

 

……こんなお金、もらえないよ。

自分の身勝手な理由で家に帰ってきて、ニートみたいな生活してて、もらって喜んで使えるわけがない。

 

1万円は、大金である。

 

うちで売っているいちごのショートケーキが、1個300円。

 

原価やら人件費やら消費税やらの難しい話を抜きにしても、1万円を稼ぐにはこれを30個以上売らないといけない。

 

あたしは絵に描いたようなバカJKで、アルバイトの経験すらない世間知らずだけど、それがどれだけ大変なことなのかぐらいの想像はできる。

 

あたしは1万円札が風で飛んでいかないようにテーブルソルトをその上に置いてから、ありがたく朝食の目玉焼きをいただくことにした。

 

 

お昼ごはんを作りに来てくれた時、お母さんは『そんな気を使わなくても大丈夫ですから、使ってください』と1万円札を渡そうとしてきたけど、あたしは『まだ今月もらったお小遣いが残ってるから大丈夫だよ』と言い返してそのお金を決して受け取ろうとしなかった。

 

少し気まずい空気の中、昼食を済ませるとあたしは逃げるように自室に戻った。

といっても、何するかなあ……。

 

トレセン学園では平日は朝のトレーニング、昼間は授業、放課後はまたトレーニングをして、それが終わったら寮に戻ってお風呂に入ってご飯食べて、あとは部屋で寝るだけ、というシンプルな生活を送っていた。

 

休みの日はクラスの友人や……スターちゃんと連れ立って、繁華街を歩いたり、遊園地とかに遊びにいったりしていた。

しつこいナンパを追い払ったり(あんまりしつこいので蹴ってやろうかとも思ったが、さすがにやめておいた)、ジェットコースターに乗って気分が悪くなって、みんなにからかわれながらも看病されたりしたことが、妙に懐かしく思い出される。

 

そういえば退屈するのなんて、一体いつぶりだろう。

中学時代、ヒマなときって何してたかなあ……。

 

そうだ、スマホだ。

中学の時、買ってもらったばかりのスマホにとりあえず流行っているゲームとか、興味のあるゲームをダウンロードして遊んでいたのを思い出した。

 

あたしは久しぶりに、メッセージアプリ以外のアプリを起動させた。

 

……1年半ぶりぐらいに起動させたポーカーのアプリ内の大会に参加したら、どうにもならない不運が重なり続け、3回も参戦したのにどれもまともな成績を残すことができなかった。

うんざりしながらスマホを放り投げて窓の方をなにげなしに見てみると、もう夕日が部屋に差し込んでくる時間になっている。

 

なんというか、あんまり有意義な時間の使い方とも言えないけど、他にすることもない。

でも、勉強だけは引退したときのためにしておかないとなあ……。

高校受験の時は偏差値73ぐらいあったし、学園でもテストの成績は一応トップクラスだった。

だけどそれは学業的にはそんなにレベルの高くないトレセン学園での成績なので、他の高校の編入試験を受ける際には、そのことをあまり過信しないほうが良いだろう。

 

じゃあとりあえず、晩ごはん食べてから寝るまでの時間は勉強しようと決めると、あたしはまたポーカーのアプリで夕食までの時間をつぶすことにした。

 

 

そんな生活を続けて、2週間が過ぎた。

夕食を食べてから寝るまでの間の3・4時間勉強する以外、何一つ高校生らしいことはしていないし、人の役に立つようなこともしてない。

皿洗いぐらいはするかと思い、生まれて初めてキッチンに立って洗い物を始めたまではよかった。

けど、洗い終わるまでにコップを2つ、お茶碗を1つ割ってしまって、洗い物をしている時間よりそれら破損物を片付けている時間の方が長くなってしまうという体たらくである。

そんな有様をお母さんに見られ、『今度は一緒に皿洗いしましょう。コツを教えてあげますから』と苦笑いされてから、もうそれすらやっていない。

……あたし、社会に出てやっていけるのかなあ……。

よくよく考えてみれば、あたしは走ること以外、人生でなんにもやってきていない。

もちろん走ることに関してはそれなりに努力してきたつもりであるが、その努力はつまり、他の人がやっているはずの努力を放棄してやってきたことなのである。

 

例えば、勉強・最低限の家事・人との付き合い方・etcetc……。

 

そして、あたしの努力はいろいろな労力で支えてくれている人がいるからこそ、できていた努力なのだと今更ながらに気がついた。

 

それならもっと、人の役に立つことにその努力を振り向けるべきじゃないのかな……とあたしは最近考えるようになった。

じゃああたしは、一体何にその努力を使うべきなんだろう?

走ること以外やってきてないあたしに、その答えがすぐに見つかるわけもない。

 

なんか、モヤモヤしてきたなあ……。

そういや実家に帰ってきてから、コンビニ以外どこにも出かけていない。

 

あたし、マジでニートみたいな生活してるな……。

 

そんな厳しい現実はともかくとして、夕食までにはまだ少し時間がある。

 

ちょっと、出かけてみるかな。

小さい頃から悩みごとがあったら、いつも出かけてたあの場所に。

 

裏口から出かけようとすると、お母さんがペットボトルを片手に持って、壁に寄りかかって休憩を取っていた。

あのペットボトルの中身は、お母さんが自分で抽出している自家製ハーブティだったりする。

 

「お母さん」

「お出かけですか?」

「うん。ちょっと河川敷まで」

 

隠すようなことでもないので、あたしはお母さんに行き先を伝える。

こうしてお母さんもお父さんも一生懸命働いてくれてるから、あたしは走り続けることができていたんだなあ……なんて柄にもないことを考えたが、罪悪感に押しつぶされそうになったので、あたしは慌ててその思考を意識的に中断させた。

 

「そうですか。気をつけていってきてください」

 

お母さんはほぼニートなあたしにお小言も言うでもなく、微笑を浮かべて手を小さく振って送り出してくれた。

あたしが家に戻ってから、引退や進路についてお母さんやお父さんがなにか言ってきたことは一度もなかった。

もう呆れられているのか……あたしがなにか答えを見つけるまで、見守っていてくれるつもりなのか。

 

考えてもわからなかったので、あたしは「うん」とだけ返事して、河川敷に向かって歩き始めた。

 

 

休日は家族連れやボール遊びをする子どもたちで賑わう河川敷も、平日の夕方となれば誰もいない。

あたしは敷き詰められた芝生に腰掛け、なにするでもなく流れる川を眺めていた。

 

小さい頃から、こうして川の流れや海辺で波の満ち引きを眺めているのが好きだった。

それだけで少し、あたしの心は安らぎを覚える。

 

……走りたいな……。

 

しばらく水の流れを見ているうちにそう思ったあたしは、立ち上がって軽く屈伸し、芝を蹴って駆け出した。

 

早足から駆け足へ。

駆け足から、疾走へ。

 

ぐんぐん、景色が後ろに流れてゆく。

風が、あたしの頬を、髪をなでる。

 

気持ちいい……!

 

走るのって、こんなに気持ちよかったっけ……。

 

こんな気持ちで走るのはここしばらく……いや、幼い頃自由に大きな公園を走り回った時以来かもしれない。

 

半マイルくらいは走ったのだろうか。

たったそれだけの距離なのに、レース用に整備されているわけでもない芝生を久しぶりに全力で走ったせいか、あたしは疲れ果ててその場に倒れ込んでしまった。

 

ゼイゼイと激しい呼吸を繰り返しながら、ごろんと仰向けになってオレンジ色に染まりきった空を見上げる。

 

あたしやっぱり、走ることが好きなんだ……。

 

でも、走ることが好きなのとレースを続けたいという気持ちは、また違うもののような気がする。

レースを続けるとなると、また戻ることになる。

失うものばかりが大きくて、得られるものがあまりにも少ないあの世界に。

走ることによってなにかを失うなんて、もうゴメンだった。

 

……やっぱり、引退しよう。

今日それを、お母さんとお父さん、それにスターちゃんに伝えよう。

 

そう決心して立ち上がろうとしたあたしの背後から、単調な拍手が聞こえてきた。

 

「さすが、現役のウマ娘は違いますね」

 

声がした方にあたしが振り向くと、そこには一人のウマ娘が立っていた。

歳はお母さんより、少し上ぐらいか。

この人には、見覚えがある。

確か年末の恒例ライブの時に紹介されてた……。

 

「ライトハロー総合企画部長」

 

ってなんかすごい肩書の人だった気がする。

 

「その呼ばれ方も慣れないんですけどね。よかったらライトハローって呼んでください」

 

年齢に似つかわしくないと言ったら失礼なのだろうけど、彼女はそう言って意外とかわいらしい微笑を浮かべた。

 

「こんにちわ。アデリナさん……ですよね?」

「ええ」

 

いえ、エイシンフラッシュです、とか名乗ろうと思ったが、さすがに悪ふざけがすぎると思ったのでそれはやめておいた。

彼女はあたしの名前を確認すると、スポーツドリンクを差し出しながら隣にちょこん、と腰掛ける。

 

「あ、どうも……」

 

一瞬受け取って良いものか迷ったが、目上の人の好意を無下にするのもそれはそれで失礼な気がしたので、ありがたく頂戴することにした。

 

しばらく居心地の悪い沈黙が続いたが、話を切り出したのはライトハローさんの方だった。

 

「お父様とお母様から聞いたんですけど、引退を考えているそうですね」

 

……まぁ、そんなところだろう。

一介の、それも1勝クラスウマ娘のところに有名プロダクションの部長が来るなんて、なんらかのしがらみがあること以外考えられない。

 

G1ウマ娘のお母さんはともかくとして、平トレーナーであるはずのお父さんも、なぜか妙な人脈を持っていたりする。

 

この部長さんもきっとそうなんだろうし、意外なところでは樫本理事長ともわりと親しい間柄らしい。

 

「はい、まぁ」

 

あたしは色々勘ぐりながら、彼女にあいまいな返事をした。

この場所がわかったのは、あたしが出かけてからすぐにお母さんが彼女かお父さんに連絡を取ったからなんだろう。

そして彼女がここに現れた理由は……たぶん両親になにか言われて、あたしを説得だか説教だかに来たんだと目星がついた。

しかし、両親とどんな繋がりがあるのかは知らないけど、わざわざ大企業の部長さんがねぇ……。

ひょっとして部長というのはヒマなんだろうか。

 

「どうしてです?」

「いやまあ、いろいろと」

 

どうして?はこちらのセリフである。

どうして初対面の、ほとんど知らない人にそんなことを話さなくてはいけないのか。

 

「実は私も昔、トレセン学園に所属してトゥインクルを走っていたんですよ。残念ながら、結局一度も勝てずに引退することになってしまったんですけどね」

「そうなんですか」

 

あたしは川面を眺めながら、気のない相槌をとりあえず打っておいた。

そんな昔ばなしを聞かされても、だからなんなんだ、としか言いようがない。

わざわざ口に出すようなことはしなかったけど。

 

「私のラストランは、5月のダービーの日でした。今でも鮮明に思い出せますよ。あの日の空。あの日の熱狂」

「……」

 

もう帰りたいなあ……と思ったが、【人のメンツを潰すのは、そいつを殺す予定があるときだけにしておけ】という物騒な海外の格言を思い出したおかげで、いきなりその場を立ち去る、という真似だけはせずに済んだ。

 

「当日、私は一番人気でした。一番人気なんて祖母も母もG1ウマ娘、ってことで期待されていたメイクデビュー以来でしたから、気合が入ったものですよ」

「……なるほど」

 

ふーん、あたしと似た境遇のウマ娘だったんだな。

レースに関する話だと、ついついこの大きな耳を傾けてしまうのは結局あたしもウマ娘だからだろうか。

 

「気合も乗って絶好調。体調も体も完全に仕上げて、展開的にも負けるわけがないと、私もトレーナーさんも思っていたのですが……」

 

なぜか、そこでライトハローさんの言葉が詰まる。

どうしたのかと思って彼女の表情をチラミすると、今にも泣き出しそうな表情を浮かべ、きゅっと唇を噛んでいた。

 

……彼女の年齢から推測するに、それはもうあたしが生まれる前の話であるはずだ。

それなのに、その時のことを思い出すだけで、大の大人が泣きたくなるのをこらえなければならないほど、悔しかったのだろうか。

 

「でも、結果はアタマ差の負け。私を負かしたのは、クラスで特に仲良くしていた二番人気の娘でした」

「……悔しくなかったんですか?」

 

それは、あまりに底意地の悪い質問だったと思う。

でもあたしは、どうしても聞かずにいられなかった。

 

「そりゃあもう、悔しかったですよ。3日ほど眠れませんでしたし、大人たちが眠れない時にお酒を飲んでいたのを思い出して、年齢も量も考えずにガバ飲みする、なんてバカな真似をするほどには」

 

そんなことして、大丈夫だったのだろうか。

 

「まぁ、吐き散らして病院に急性アルコール中毒で救急搬送された挙げ句、周りの大人からは『私、怒られ死ぬんじゃないか』と思うぐらい怒られまくりましたけどね」

「そりゃあそうでしょうね」

 

どこまで本当の話かわからないが、それぐらい悔しかったのは事実なんだろう。

同じ境遇だったら、お酒を飲むかどうかは別にして、きっとあたしもそれぐらい荒れたに違いない。

 

「……その、仲の良かった友人さんとはどうなったんですか?その娘のことを、憎く思ったりしなかったんですか?」

 

優柔不断なあたしにしては、勇気を振り絞ったほうだろう。

あたしは一番聞きたかったことを、単刀直入に聞いてみた。

 

そうすると、彼女は朗らかな笑顔を浮かべた。

 

「悔しくは思いましたが、負けたのは私の力不足ですから、彼女を憎く思ったことなんて一度もありません。彼女はその後、オープンまで勝ち上がって重賞にも出走しました。何度か応援に行って、勝てずに一緒に悔しがったのもいい思い出です。彼女とは、今でもいい友達ですよ」

「……あなたの夢を、将来を奪った相手だったのに?」

「負けた方はそうは考えないものです。それこそ自分勝手な話ですが……せっかく自分に勝って現役を続けるのだから、彼女にはたくさん活躍して欲しいと、自分の夢を重ねてしまいましたけどね」

 

自分を負かした相手に、自分の夢を重ねる、か……。

スターちゃんが彼女と同じように考えているかは、もちろんわからない。

でも、スターちゃんが今でもあたしのことを【自分の将来を奪った相手】と思っている、とあたしが勝手に罪悪感を持つのは、あまりに彼女に対して失礼ではないのか。

親友を、信頼していないのではないだろうか。

 

「ライトハローさんは、あたしの両親に引退撤回の説得を頼まれて今日はここに?」

 

ここまで話してもらったんだ。

これぐらい聞いても、失礼に当たらないだろう。

 

すると彼女は首を横に振った。

 

「アデリナさんのご両親に頼まれたのは『あなたの経験をあの子に話してあげて欲しい』と、ただそれだけですよ」

 

彼女の真剣な表情を見るに、それは嘘でも方便でもないんだろう。

 

「私にそれ以上のことはできませんし、するつもりもありませんでした。引退するのか、現役を続けるのか、決めるのはあなた自身です。あなたはトゥインクルで活躍する、一人前のウマ娘なんですから」

 

一人前の、ウマ娘。

そんなふうに言われたのは、初めてだ。

あたしはたしかに皿洗いすらまともにできない世間知らずで、勝ち星をひとつ上げただけの、平凡なウマ娘に過ぎない。

でも、ことレースに関していていうなら、それぐらいの自覚やプライドをあたしは持ってもいいのかもしれなかった。

 

「では、私はそろそろ会社に戻りますね。……あ~、また部下に『勝手に外回りに出られては困ります。少しは自重してください』って小言言われるんだろうなあ……」

「あ、偉くなっても小言って言われるんですね」

 

そうぼやいたライトハローさんの顔が、いたずらをして母親に怒られるのを覚悟している子供みたいに見えて、あたしは思わず笑ってしまった。

 

「偉いと言いましても、しょせんCEOですからねえ……」

「CEO?部長って聞いてましたけど、それだとメチャメチャ偉いじゃないですか」

 

CEOって確か、最高経営責任者って意味だった気がする。

社長とどう違うのかあたしにはよくわからないけど、とにかく偉い人のはずだ。

 

「いえ、ちょっとだけえらいおばさんの略です」

 

ライトハローさんは、キメ顔でそんな愚にもつかないことを言う。

オヤジギャグという言葉があるが、つまらないことを言うのに性別はあまり関係ないようだ。

……そんな面白くもないことを言うことで、彼女があたしの張り詰めた心を解きほぐしてくれようとしているのは、人の機微にさとくないあたしでもさすがにわかったけど。

 

「すみません。正直、つまらないです」

「……部下と同じ反応をしないでください。悲しくなりますから。ともかく、専務からはお尻叩かれるし、部下からはせっつかれるしで、部長って言ってもあんまり偉くなった気がしないんですよね」

「大人は大変ですね」

「その分、やりがいもあるってもんです。自分で選んだ道でもありますしね」

 

彼女はそう言うと、待たせてある車の方に歩き始めた。

 

「ライトハローさん!」

「どうしました?」

「その……ありがとうございました」

 

お礼を言うあたしに、ライトハローさんは笑顔で手を振ってくれる。

そして彼女はそのまま車に乗り込こむと、会社へ戻っていった。

 

自分で選んだ道、か。

今あたしはきっと、その道を選ぶ分岐点に立っているのだろう。

 

あたしは芝生から立ち上がると、一つの覚悟を胸に黄昏時の帰路についた。




今回も長文読了、本当にお疲れさまでした。

親子の関係というのは、仲が良いにせよ悪いにせよ、嫌でも長い付き合いで密になってしまう分、いくつになってもどちらの立場からでも難しいものですよね。

毎回のことですが、今回も長文読了、本当にありがとうございました。

こんなに長く書かないで何話かに分けたほうが読んで下さる方々も読みやすいよな、と思いつつ、書いていくと『ここはまとめて読んでいただきたい!』というエゴに勝てず、結局毎回長くなってしまっています。

こんな作者の駄文ですが、よかったら次回作もまた読みに来ていただけると幸いです。

それではまた近いうちに、次話のあとがきでお会いしましょう!


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8話

偉大な母親を持つウマ娘・アデリナが、自身の実力と母親の実績、その親子関係に葛藤しながらも競争生活を全うしようとするお話です。

※オリウマ娘注意です。

登場人物
フラッシュアデリナ

【挿絵表示】

誕生日:4月28日
体重:おおよそ理想
身長:159センチ
スリーサイズ:92・58・86

フラッシュアデリナのひみつ4:実は、走ることが大好き。


>>

『さあ、残り200Mを切ったぞ!後ろを大きく突き放した、これは強い!フラッシュアデリナ、今一着でゴールイン!フラッシュアデリナ、これでプレオープン、オープン、そしてG2東海ステークスと休み明け3連勝!エイシンフラッシュの娘という良血が、遅咲きながらダート路線で、今完全に花開きました!』

 

>>

肌に突き刺さるような寒さを感じる、1月の中京レース場。

空気は凍りつきそうなほど冷たいのに、あたしの顔と体、それに限界まで酷使した脚は燃え盛りそうなほどに火照っていた。

 

「はぁっ……はぁ……」

 

あたしは荒い呼吸を繰り返しながら、掲示板を確認した。

 

……審議もなく、あたしが間違いなく一着である。

 

勝てた。

勝った。

あたしが、非才なウマ娘のあたしが、重賞を制した……!

 

「やったぁあぁああぁあぁ!!」

 

あたしは人目も気にせず、その場で喝采を上げ、ガッツポーズを作る。

それは、自然に溢れ出た感情表現だった。

 

 

控室に戻ると、トレーナーが珍しく満面の笑みであたしを出向かえてくれた。

 

「アデリナ、よくやった!おめでとう!」

 

オープンまでは勝っても控えめな微笑みで「おめでとう」と言ってくれるだけだったのだけど。

 

「ありがとう」

 

あたしも笑顔で返事して、差し出してくれたよく冷えたスポーツドリンクを受け取った。

レースのあとはいくら水分を補給しても足りない。

あたしは早速それのふたをパキッと開け、一気に中身を飲み干した。

全力を尽くして乾ききった体に、水分が、ミネラルが行き渡っていくのを感じる。

 

「……ぷはー!」

 

勝ったあとに飲む冷えたスポーツドリンクよりうまい飲み物を、あたしは知らない。

これから何度でも、味わいたいものだ。

 

水分を取って一息ついたあたしは、ようやく椅子に腰掛ける。

 

「アデリナもとうとう重賞ウマ娘か……本当に、おめでとう。ここまで、長かったな」

「ちょっと、まるで終わったようなこと言わないでよ。むしろこれからでしょ?」

 

思わず苦笑しながらそう言うと、トレーナーも同じような表情を浮かべる。

 

「いや、もちろんそうだ。そうなんだが……」

 

そこから先は、言葉にならなかったらしい。

……あたし、トレーナーでもあるお父さんに本当心配かけつづけたもんな……。

 

 

ライトハローさんのお話を聞いたあと、あたしはひたすらに自分との対話を繰り返した。

 

あたしに、なにができるのか。

あたしに携わった人たちに、なにができるのか。

そんな人たちに、なにかお返しできるのか。

 

あたしは、なにがしたいのか。

 

あたしの中から、いろんなアイデアが湧いて出てきた。

 

勉強を頑張って、たくさんの人の役に立つような仕事につく。

高校を卒業したあと、社会に出て懸命に働く。

今すぐ家からも飛び出して、とにかく自分の力で生きてみる。

地方のトレセン学校に転校して、イチからレース人生をやり直す。

 

他にも現実的なことから非現実的なことまで、様々な将来像があたしの中から浮かんでは消えていった。

 

でも、結局残った想いはたった1つだった。

 

走りたい。

 

あたしは確かに、平凡なウマ娘かもしれない。

走ることしかしてきてないのに、ちっとも速くなれないで、現役を終えるかもしれない。

 

それでもあたしは……。

 

たくさんの思い出がある、たくさんの人とつながったトレセン学園で、走り続けたい。

 

何度も確認した。

それでいいのか。

一度は逃げ出そうとしたその道に青春を費やして、後悔はないのか。

 

結論は、【わからない】だった。

 

でも、やりたいと思ったことをやらずに後悔するより、やって後悔するほうが絶対に自分の選択に納得できると思った。

 

そのことを両親に伝えると、お父さんは黙ってうなずき、お母さんは……ボロボロ涙をこぼして喜んでくれた。

お母さんの笑った顔や怒った顔はよく見知っていたが、泣いている顔というのは初めてみた気がする。

正直、あたしが現役を続けることをお母さんがなぜあんなに喜んでくれたのか、理解できなかった。

 

ひょっとしたらそれは、あたしが母親の立場になった時にわかることなのかもしれない。

 

 

休学が明け、学園に戻ってからのあたしは今まで以上にトレーニングに取り組んだ。

 

『故障のリスクを負ってもいいから、あたしが限界を超えられるよう、厳しく鍛えて欲しい』

 

あたしはトレーナーにそう懇願した。

あたしの言葉に、トレーナーは『わかった』と一言だけ力強く返事してくれた。

 

好きなことを突き詰めたい。

そして、もし図らずも走ることをやめなくてはいけなくなった時に、後悔したくない。

 

そう考えると、自分の限界を押し広げるための厳しいトレーニングにも耐えられた。

 

体はきつかったが、その分メキメキと自分の実力がついていくのを感じた。

毎週のようにタイムは自己新記録を更新し、そのことは大きな自信になった。

その自信はハードなトレーニングを耐えるためのメンタルの安定につながり、良い循環が生まれていく。

 

そして11月に阪神レース場プレオープン・ダート1800Mの復帰戦を皮切りに、12月のオープン戦、そしてシニア級初戦であった今日の東海ステークスまでなんとか3連勝することができたのだった。

 

 

「重賞、それもG2を勝ったとなると……次は当然、G1を目指すことになるな」

 

トレーナーのその言葉に、あたしの全身が震えた。

G1。

レースを走るウマ娘なら、誰もが憧れる最高の舞台。

 

その舞台に、あたしが出走する。

出走制限ギリギリで未勝利を脱出し、自分の才能や人間関係にうじうじ悩み、周りの人間を困らせ続けたあたしが。

 

こんなことが現実に起こるだなんて、いまだに信じられなかった。

 

「いよいよ、G1に挑戦かぁ……チャンスがあるとすると……」

 

少しこわばった声でそういうあたしに、トレーナーが力強くうなずく。

 

「東京で2月の最終週に行われる、ダート1600M・フェブラリーステークスだな」

 

東京ダート1600M。

あたしが、未勝利戦を脱出した距離と場所。

……そしてあたしの母、名ウマ娘・エイシンフラッシュがダービーと天皇賞を制覇した地でもある。

 

「挑戦するつもりなら出走登録をしておくが……どうする?」

 

あたしの答えなんて分かりきっているはずなのに、トレーナーはそんなことを聞いてくる。

トレーナーはきっとG1という最高の舞台に立つ覚悟を問うているだけなんだろうけど、そんなことをされるとあたしもちょっとばかり、いじわるなことを言いたくなる。

 

「いやー。春先はG2・3路線で力をためて、秋冬のJBCとかチャンピオンズカップに備えたいかな~」

「……勘弁してくれ。ウマ娘と競争できるほど、もう俺は若くないんだ」

 

お母さんを真似た戯言に、トレーナーはそんなユーモアと現実が入り混じった言葉で切り返してくれた。

 

 

中京競馬場からトレセン学園の寮に戻ってくると、もう夜の9時を回っていた。

消灯時間は一応9時となっているが、土日は今回のあたしのように関東圏外まで遠征していたウマ娘が結構遅い時間に帰ってくるので、この時間でも寮には結構な人の出入りがある。

 

あたしはコンコン、とノックをしてから、

 

「ただいま」

 

と自室の扉を開けた。

 

「おかえりなさい、アデリナさん」

 

部屋には一人のウマ娘がいて、あたしを笑顔で迎えてくれる。

彼女はあたしが休学中に地方のトレセン学校から転校してきた、ファルコンレアさんというウマ娘だ。

 

涼やかなツリ目が特徴的な美人系の顔立ちで、艶のある栗色の髪を少し肩にかかるぐらいのセミロングにしている。

身長は170センチという長身で、スラリとした体型はまるでモデルさんのようだ。

 

「あ、まだ起きてたんだね」

「ええ、どうしてもお祝いを言いたかったものですから。重賞初制覇おめでとうございます」

「……うん、ありがとう」

 

祝辞に返答したあたしの笑顔は、どう見ても不自然なものだっただろう。

 

「次走はフェブラリーステークスですか?」

「たぶん、そうなると思う」

 

彼女の質問に、あたしは顔をこわばらせないようにするのが精一杯だった。

 

「そうすると、わたしたちはライバルですね。わたしはここを勝ってドバイにいくつもりですから……負けませんよ」

 

不敵な笑みを浮かべるわけでもなく、あくまで自然体でそんなことをいう。

それが嫌味にならないのが、この娘のすごいところである。

 

「G1は初出走だけど……あたしも精一杯がんばるよ。ごめん、今日は疲れたからそろそろ寝るね。あたしが帰ってくるまで、起きててくれてありがとう。おやすみなさい」

 

あたしはできるだけ友好的な笑顔を作りながらそう言うと、そそくさとベッドの中に逃げ込んだ。

 

レアさん自身はとってもいい娘なんだけど……色んな意味で付き合いにくいタイプなんだよね……。

 

 

ファルコンレアさんは地方で実績を積んでトレセン学園に転校したという、よくあるパターンでここにやってきたわけだけど……この娘の場合、経歴がちょっと並じゃない。

 

ジュニア級の8月に大井レース場でデビューすると、ジュニアG1の全日本ジュニア優シュンも含み、クラシック級のジャパンダートダービーを制覇するまで8戦全勝。

すべてのレースがレコード、もしくはそれに近いタイムでの大楽勝で、この時点で早くも【ダートでは国内に敵なし】と噂されていたらしい。

 

彼女はジャパンダートダービーを勝ったあとすぐ、さらなる強力なライバルと充実したトレーニング環境を求めて、トレセン学園に籍を移す。

時期的には、ちょうどあたしが実家でウジウジしていたあたりだ。

彼女は寮生活を望んだらしく、スターちゃんが転校して空いていたあたしの部屋に入寮することになったそうだ。

 

トレセン学園転校後、8月に行われたレパードSを大差をつけての圧勝で制覇し、中央のバ場でもレースに何ら問題ないことを世間にアピールしてみせた。

 

あたしが正式に復学したのは夏休みが明けた9月からだったので、この注目の転入生のことは知らなかったし、初顔合わせはそのときだった。

 

……休学中は意図的にレースの情報を見ないようにしていた、ということもある。

 

普通転校生と在校生の初対面というのは、当然のことながら転校してきた娘が緊張するものだろうけど、あたしの場合は立場が逆になってしまっていた。

 

トレセン学園のカーストが、暗黙のルールで年齢やクラシック級・シニア級という階級より、レースでの勝ち星や勝ったレースの格に重きを置かれているからだ。

 

こんなウマ娘はほとんどいないが……極端な話をすると、ジュニアG1を勝ったウマ娘が、G1未勝利でシニア級を走っている年上のウマ娘に『私には敬語を使いなさいよ』と言い放ったとしても、それをとがめることはなかなかできない空気感がある。

 

もし、すでにG1をも制しているこの転校生の性格が上下関係をはっきりさせたいタイプだった場合、彼女がどれだけ高圧的に接してきても、あたしは我慢するよりない。

 

さいわいレアさんはそんなタイプではなく、初対面のときに『この度南関東トレーニング学校より転校してきたファルコンレアといいます。よろしくお願いします』と丁寧に挨拶してくれた。

 

あたしは少しホッとしながら、敬語なんて使わないでタメでいこうよ、と言ったんだけど、彼女は『先輩相手にそんなクチの利き方はできません』と譲ってくれなかった。

 

本当にいい娘で、謙虚なタイプだったのは良かったんだけど……今度はあたしのほうが彼女との距離のとり方に戸惑うことになった。

 

キャリアは段違いであちらが上だけど、トレセン学園ではあたしのほうが先輩。

それでいて、年齢や階級は同じ。

 

名前の呼び方ひとつにしても、結構気を使わせられたもので。

 

『えーと……ファルコンさんって呼んでいいかな?』

『いえ、できればレアと呼んで下さい。ファルコンだと母と混同されることもありますので』

『あ……じゃあレアさんのお母さんって……』

『ええ。わたしの母はスマートファルコンです。確かあなたのお母様とルームメイトだったと聞いていますけど』

 

あたしのお母さんはスマートファルコンさんと今でも仲が良いらしく、関東圏以外での仕事が多いらしいスマートファルコンさんとは、たまにメッセージアプリなどでやり取りしているとお母さんから聞いたことがある。

ちなみにスマートファルコンさんのご職業は【ウママドル】。

あたしのお母さんとさほど変わらない年齢(少しファル子さんが年上だった気もする……)で、現役当時と変わらないダンスと歌声をネットの動画などで披露していらっしゃる。

 

その影響もあるのか、レアさんはダンスも歌もむちゃくちゃうまい。

彼女のそれと比べると、あたしのパフォーマンスなんて幼稚園のお遊戯会のようなものだ。

なんでも小さい頃から、歌とダンスは基礎から徹底的にファル子さんから教わったそうな。

 

そんな彼女は秋に入ってからついにシニア級との混合レースに乗り込み、マイルチャンピオンシップ南部杯、JBCクラシック、チャンピオンズカップ、東京大賞典とシニア級ウマ娘をまったく寄せ付けず制覇し、ダートウマ娘としては史上初、三冠路線やトリプルティアラ路線で活躍したウマ娘たちを押しのけて、最優秀クラシック級ウマ娘に選ばれた。

 

去年は三冠路線でもトリプルティアラ路線でも2冠以上制したウマ娘が出なかった、という一面も確かにあるけど、レアさんのシニア級を含むG1・5勝の実績を引っさげての受賞に、誰も文句をつけなかった。

 

実績であたしにどんどん差をつけていくにも関わらず、彼女は恬淡としていて部屋でもあたしとの接し方はなにも変わらなかった。

学園内でもレアさんが誰かに対して偉そうにしていたり、威張ったりしているのを見たことがない。

 

ちなみに勉強もよくできるようで、期末テストでは確か学年8位とかだったと思う。

 

頭も良く、人間も出来すぎていて、彼女を見ていると自分は欠陥だらけのダメウマ娘なんじゃないかと思えてくる。

 

そんなレアさんが唯一と言っていいくらいに人間臭い話をしてくれたのは、彼女のお母さんとのことだ。

 

歌もダンスもウマ娘の中ではトップクラスにうまいレアさんは、彼女のお母さん、つまりスマートファルコンさんにウマドルとして活動することを強く勧められたそうだ。

ただ、彼女は一言、『あまり興味がないから』といって断ったらしい。

その時スマートファルコンさんは少し寂しそうな顔をしたが、それ以来ウマドル活動をやりなさい、とは言われなくなったそうだ。

 

その話をしてくれた時、レアさんは珍しく苦笑いを浮かべて、『あっさり断ってしまいましたけど、もうちょっと考えて返事しても良かったかもしれませんね。歌もダンスも嫌いではないのですから』と言っていたのが印象的だった。

 

 

お昼ごはんのあと、カフェでミルクティを飲みながらぼんやり昨日のレースの余韻に浸っていたら、バッグの中のスマホが鳴った。

電話って珍しいな……と思いながらスマホを手に取ると、そこには嬉しい名前が表示されていた。

 

「もしもし?」

『もしもし、アデリナちゃん?』

 

その声を聞いただけで、あたしはなぜか泣きそうになってしまった。

 

『東海ステークス優勝、本当におめでとう!念願の重賞初制覇だね!私絶対、こんな日が来ると信じてたよ!』

「うん、ありがとう!」

 

通話相手が興奮気味に、あたしをお祝いしてくれる。

その祝福が嬉しくて、返事するあたしの声も少しばかり大きくなってしまった。

スマホの先にいるのは、今は地元の高校に通っているあたしの元ルームメイト、スプラッシュスターちゃんだ。

彼女とは時折メッセアプリでやり取りしていたが、こうして電話をかけてきてくれたのは初めてだ。

 

『G2を勝ったとなると……次はもちろん、G1に挑戦だよね?』

「うん。トレーナーとも相談してて、多分次走は2月末のフェブラリーステークスになると思う」

 

G1に挑戦という言葉を聞いたり、そこに出走すると自分で言ったりするたび、あたしの体は少しばかり緊張する。

今からこんな感じで大丈夫なのかなあ?

 

『だよね!それでなんだけど……』

 

どういうことだか、スターちゃんは少しばかり言いよどんだ。

 

「だけど?」

『あ、あのね?この前できた彼氏がレース好きで……『友達がG1に出るかも』って昨日話したら、じゃあ直接応援しに行こう!って言ってくれてて……』

「はぁ」

 

ほぉ、カレシさんが……。

 

「ええっ!スターちゃん、カレシできたの!?聞いてないんだけど!?」

 

さっきの御礼の言葉なんかよりよっぽど大きな声を出してしまい、図らずも周りのウマ娘たちの注目を集めてしまった。

 

あたしはバツが悪そうに周りを見回してから「コホン。失礼」と誰ともなく謝罪し、少しばかり声のトーンを落とす。

 

「え?え?一体いつ頃から付き合ってんの?」

『えーと、去年の夏休みからだから……そろそろ5ヶ月かな?』

「カレシできたらすぐ教えてくれるって言ってたのに……」

 

女同士の友情とは恋愛が絡んでしまえば、かくも薄情なものである。

どこかで『女同士の友情は生ハムより薄い』って読んだなあ……。

 

ああ、あの激闘はすでに過去のものになりにけり。

 

『いや、もちろんそうしようとしたよ!?でもほら、私初めてのお付き合いだったし、すぐ振られちゃうかも、と思ったらなかなか……』

「ふーん」

 

ま、ここは長い付き合いのよしみで一応それを信じてあげるとしましょう。

 

「応援に来てくれるのはもちろん嬉しいけど……。スターちゃんの地元から東京レース場までだと、かなり交通費も掛かるでしょ?」

『それも彼が宿泊費込みで全部出してくれるって言ってて……。私もアルバイトしてるから、当然ある程度は出すつもりでいるけど』

「え?カレシってもしかして、いいとこのお坊ちゃんなの?まさか年上で社会人とか?」

 

そのお金をぽんっと出せる男性というと、そのふたつのパターンぐらいしかあたしには思い浮かばない。

ひょっとしてスターちゃんのカレシというのは、うちの父上と同じご職業の方だったりするのだろうか。

 

あれだけトレーナーだけはやめておけ、といったのに……。

 

『ん、いや。フツーの高校生だよ。だた、人よりちょっとバイト頑張ってるみたい』

 

それを聞いて少し安心したけど……。

好きな女の子のために見栄を張りたい、という男心は恋愛未勝利(こんな切ない未勝利があっただなんて!)のあたしにも、多少は想像できる。

ただ、それだけのために多額のお金を出せるものなんだろうか。

 

まぁ、それだけスターちゃんが愛されているという証なのかもしれない。

だいたい人の彼氏のお金の使い方に口を出すのも、おせっかいが過ぎるというものだろう。

 

「そうなんだ。ま、スターちゃんも出すのなら、多少は甘えておいてもいいのかもね。じゃああたしも当日、恥ずかしいレースにならないようにビシビシ自分を鍛えておくよ!」

『うん、応援してる!ところで、G1ともなると体操服じゃなくて、自前の勝負服着るでしょう?』

 

勝負服。

そういやG1にはそんなシステムがあったような……。

 

「そ、そうだね……」

 

あたしの背に、一筋のイヤーな冷や汗が流れていくのを感じた。

 

『私アデリナちゃんの勝負服って見せてもらったことなかったし、それもすごく楽しみにしてるんだ!試着したら、絶対写真送ってね!』

「う、うん……」

 

あたしは錆びたノコギリ以上に歯切れの悪い返事をして、会話の流れを変えることにした。

 

「ところでスターさん。カレシさんって、どういう人なんですか?あたしには聞く権利があり、あなたにはそのことについて話す義務があると思うのですが?」

『あっ、やっぱりアデリナちゃん、ちょっと怒ってる?』

「イエスマム。あたしは大変怒りに打ち震えております」

『お願いだからそんなに怒らないで……。えっ、えーとね、別にフツーの男子高校生、って感じの人なんだけど』

 

ふぅ。

なんとか話題を変えることには成功した。

 

そのあと昼休みが終わるまで、あたしたちは久しぶりに女子高生らしい話に花を咲かせた。

 

その通話が終わったあと、あたしのお腹はお昼ごはんを腹8分目にしていたにも関わらず、どういうことだかひどい胸やけを感じていたのだった。

 

 

あたしは今トレーナー室にいる。

……一週間ほど前に、仕立て直しをお願いしていた勝負服が今日届いたからだ。

 

「ぴったりですわね!本当によくお似合いですよ」

「どうも……」

 

そう言ってくださる仕立て師さんに、あたしはなんとか愛想笑いを浮かべることに成功した。

 

「私もこの仕事を長くさせてもらっていますが、母娘で同じデザインの勝負服を着たウマ娘さんというのは初めて担当させていただきましたよ。アデリナさんは、本当にお母様を尊敬していらっしゃるのですね!」

「はぁ。まぁ……」

 

彼女のその言葉を聞いて、あたしはちょっとばかり憂鬱な気分になった。

 

 

実はトレセン学園に入るウマ娘のほとんどが、入学前に勝負服を用意する。

 

それはあたしのような、とても将来G1に出場できそうになかった非才なウマ娘も例外ではなく、親や親戚が『早くこれを着てG1に出られるような、立派なウマ娘になって欲しい』という願いを込めてプレゼントするケースも多い。

 

かくいうあたしも、両親の勧めで一応作ったんだ。

勝負服はもちろん本人が希望したデザインを元に作られるわけなんだけど、あたしはどうせ自分がG1になんか出られるわけがない、と高をくくっていたから、『じゃあお母さんと同じ勝負服で』とテキトーにお願いしてしまったんだよね……。

 

……こんなことになるなら、あの時もうちょっと真剣に考えて用意しておけばよかった。

後悔先に立たずとはよく言ったものだ。

 

でも、着ることになってしまったものは仕方ない。

それだけならまだ良かったんだけど、入学直後に作ったものだから、少しばかりサイズが合わなくなってしまっていた。

 

いや、身長とかはほとんど変わっていなかったんだけど……胸だけがどうも少し大きくなってしまったらしく、どうしても仕立て直す必要があった。

 

高校生になったら胸が大きくなるって本当だったんだ……。

 

数字になおすととうとう90代に突入してしまい、乳のデカさだけはおそらく現役当時の母に勝っているだろう。

 

……ちっとも嬉しくない。

 

しっかし、この衣装……。

 

「これ、走っていてポロリ、なんてことないですよね?」

 

ドイツの民族衣装をモチーフにしたものらしいが、胸元が必要以上に大きくはだけていて、バストの三分の一以上が見えてしまっている。

脚に履いているオーバーニーもガーターベルトで止めるタイプのもので、ふとももをやたらセクシーに強調するような作りになっていた。

なんだろう、ひょっとしてうちの母親は、若い頃は鍛え上げた自慢のボディを見せつけたいタイプの女の子だったのだろうか。

普段は割と、シックな感じの服装を好んでいるのだけど。

 

「それだけは絶対にありえませんよ。レースでそんなシーン見たことないでしょう?万一にでもそんなことがあったら、その仕立て師はもう業界にいられませんからねえ」

 

確かにそれはそうだ。

 

発言してから『しまった、彼女の仕事へのプライドを傷つけてしまったかな』と反省したが、彼女は気を悪くしたふうでもなく、苦笑いを浮かべてそう言ってくれたので少し安心する。

 

「いやー、ジャストフィットしてるんで本気でそんな心配したわけではないんですけど、ちょっと胸元見え過ぎかなーって心配で……」

 

なにかフォローしようと仕立て師さんに話しかけていると、コンコンとノックが鳴った。

 

『アデリナ、着替え終えたか?』

 

あたしが着替えている間、『コンビニに行って飲み物でも買ってくるよ』と言って外に出てくれていたトレーナーが戻ってきたようだ。

 

「うん、大丈夫だよ」

 

あたしの返事を聞いてから、トレーナーが扉を開けた。

 

「!!」

 

あたしの姿を見るなり、なぜかトレーナーは硬直して手に持っていた袋を床に落としてしまった。

……そして、普段は理知的なその瞳からボロボロと涙がこぼれ出る。

 

「お、お父さん……?」

「あ……いや、すまない。すまない……」

 

謝る声は嗚咽まじりで、お父さんは手で目尻を拭うけど、涙は次々に溢れ出てきて止まりそうにもなかった。

 

「アデリナ、気分を悪くしないでほしいのだが……」

「うん」

「君の勝負服を見ていたら、フラッシュと駆け抜けた日々を思い出してしまってな。そしてまた、娘と一緒に栄光のG1に挑戦できるのだと思うと……。いや、本当にすまない。君は、君だ。お母さんとは違う。君は一人の、立派なウマ娘だ」

 

……やっぱり、この勝負服にするのはやめておけばよかったかな。

お父さんを泣かすのは、花嫁衣装を着たときと小さい頃から決めていたのにね。

 

お母さんと比べられたり、オーバーラップされたりするのは正直気分がいいわけではなかったけど……今回ばかりは、男泣きに暮れるお父さんを責める気になれなかった。




今回も長文読了、本当にお疲れさまでした。

実は今回の話、書き進めていた第8話の前半部分でして…。

8話として書いていた話の文字数が2万字を超えてしまい、
これはさすがに分けたほうが良さそうだ、と思えたので
少しブツ切れ感がありますが、このあたりで投稿させていただくことにしました。

毎回のことですが、今回も長文読了、本当にありがとうございました。

物語もそろそろ終盤です。
よろしければ、アデリナのストーリーに最後まで付き合っていただけると
嬉しいです!

それではまた近いうちに、次話のあとがきでお会いしましょう!


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最終話

偉大な母親を持つウマ娘・アデリナが、自身の実力と母親の実績、その親子関係に葛藤しながらも競争生活を全うしようとするお話です。

※オリウマ娘注意です。

登場人物
フラッシュアデリナ

【挿絵表示】

誕生日:4月28日
体重:おおよそ理想
身長:159センチ
スリーサイズ:92・58・86

フラッシュアデリナのひみつ5:実は、お母さんのことが大好き。



G1に向けてのトレーニングは、過去最高レベルにハードなものとなった。

 

授業が始まる前の早朝トレーニングで、40分の筋トレとマイルのダートを2本をこなす。

朝のトレーニングは前座のようなもので、授業が終わってからのトレーニングが本番だ。

キツイ筋トレはウォーミングアップのようなもので、レースを想定した1000Mのダートを1本、それから全力坂路トレーニングを5本行う。

 

金曜日だけはリフレッシュの意味合いも兼ねて、プールで200Mほど泳いでであとはお休み。

 

トレーナーが言うには、これだけのトレーニング量は現役中でも体力気力ともに最盛期を迎えているわずかの期間にしか、こなすことができないそうだ。

そのハードトレーニングのせいで故障し、最盛期に引退を余儀なくされる可能性も0ではないため、実際にここまでやるウマ娘はほとんどいない。

 

でもあたしは、そのトレーニングをトレーナーに望んだ。

最高の舞台に出る以上、やれることは全部やりたいと思ったから。

 

トレセン学園に入学して以来、あたしは自分の走りに才能があるだなんて思ったことは一度もないけど、体の頑丈さには多少自信があった。

 

それでも正直……。

 

「アデリナ、へばってるんじゃないぞ!まだあと坂路3本残ってるんだからな!」

「……はい!!」

 

トレーナーの檄に、あたしはヤケクソ気味の大声で返事した。

 

キツイ。

休みたい

もう、やめたい……!

 

感情がそう叫びちらしているが、あたしは脚を動かすことのみに全神経を集中させることで、そのネガティブ思考を切り離す。

 

あたしたちのハードトレーニングを見て、『せっかく重賞を勝ったんだから、ケガだけはしないように大事にね』と言ってきてくれたトレーナーさんがいた。

 

クチの悪い、お父さんよりキャリアの長いトレーナーに『その練習量はウマ娘がかわいそうってもんだよ。しかもその子、アンタの娘さんだろう。アンタ、大事な自分の娘と重賞ウマ娘をブッ壊すつもりかい?』とまで面と向かって言われたこともあった。

 

どちらにせよ、あたしたちのことを気遣って声をかけてきてくれたわけだから無下にもできない。

でも、あたしたちは『やれるだけのことをやっておきたいので』と笑顔で返事するだけだった。

 

『才能がない分、努力で補わないと!』

 

そう言って頑張っていたスターちゃんを思い出しながら、あたしは3本目の坂路のスタート地点に向かって駆け出した。

 

 

放課後。

あたしはあさってに控えた大勝負へのはやる心を落ち着かせるように、広いプールの中をゆっくりと平泳ぎで泳いでいた。

2月の室内プールは温水になっていて、普段酷使している筋肉をほぐすのにうってつけだ。

100Mのレーンを往復してから、あたしは設置してあるはしごまで泳いでいき、それに足を掛けてプールサイドにあがった。

自慢の長い髪から水滴がぽたりぽたりとしたたり落ち、乾いていたプールサイドの床を濡らす。

 

「アデリナ。よくこの厳しいトレーニングを耐えきったな……。お疲れ。本当に、お疲れ様だった」

 

プールから上がってきたあたしを見て、トレーナーが尊敬にも似た眼差しを向けてくれているのをあたしは感じ取っていた。

 

「うん。あたしもやれるだけのことは、やりきったと思う」

 

体重は前走より4キロ近く絞れ、筋肉のハリ・ツヤともに今まで体験したことないような仕上がりだ。

体調・やる気ともに絶好調で、これから先、これ以上の状態を経験することはそうそうないだろう。

 

「明日はスプラッシュスターが応援に来てくれるんだってな。言うまでもないと思うが、緩みすぎない程度に楽しんでおいで」

 

あたしは久しぶりに、優しいお父さんの笑顔を見た気がする。

 

「わかってるよ、ありがとう」

「それと……フェブラリーステークスには、お母さんも観戦に来てくれるそうだ」

「!!」

 

お母さんが。

あたしの引退が懸かったレースさえ見に来なかった、あの偏屈のお母さんが、レースを見に来てくれる。

 

「あ、そうなんだ。がんばらないとね」

 

あたしは興味なさげにそっけなく答えたけど……心の奥からこみ上げてくるものを抑えるのに、それをお父さんに悟れられないよう無表情を装うことに、必死だった。

 

 

あたしがトレセン学園の前でぼんやり道を眺めていると、駅の方からスターちゃんが歩いてくるのが見えてきた。

 

「アデリナちゃん!久しぶり!」

 

あたしの顔が見えたのだろう、スターちゃんはそう言ってこちらに手を振ってくれる。

……彼女のとなりには、あたしたちと同じぐらい歳の男の子。

あの人がおそらく、件の彼氏さんだろう。

 

「久しぶり!元気だった?」

 

長らく会ってない友人に聞きたいことや話したいことはたくさんあるけど、結局一番知りたいのは【元気でやってる?】ということなのかもしれない。

 

「おかげ様で。アデリナちゃんは……聞くまでもないみたいだね」

 

スカートから伸びたあたしの太ももを見て状態を見抜くあたり、さすが元ルームメイトである。

 

ちなみに現ルームメイトのレアさんはいつも通りに朝起きて、いつもどおりの休日を過ごすのだろう。

レアさんの休日は部屋で本を読んでいるか、彼女のクラスメイトと一緒にどこかにでかけていることが多い。

キャリアの違いもあってあたしからは遊びに誘いにくかったし、彼女もあたしが遠慮しているのを薄々感じとっているのだろう、必要以上にあちらから距離を詰めてくることもなかった。

スターちゃんとの付き合いと比べるとちょっとさみしい気もするけど、あたしとレアさんはきっとそれが良い距離感なんだろうと思っている。

 

「ところで、そちらの男性は?」

 

あたしは少し意地悪な笑顔を浮かべて、スターちゃんに彼の紹介を促した。

なぜだか彼がちょっと、いや、かなり緊張した面持ちなのが気になっているんだけど。

 

「あ、うん。……ほら、自己紹介してよ」

「そ、そうだね……」

 

普段はきっと男の子らしいしっかりした声なんだろうけど、今はやっぱり緊張で震えているようだ。

彼女がいるような男の子でも、初対面の女の子との会話というのは緊張するものなのだろうか。

 

「はじめまして。も、盛岡 優真(もりおか ゆうま)といいます。どうかよろしくお願いします」

「はじめまして。フラッシュアデリナっていうんだ。よろしくね」

 

あたしが手を差し出すと、ちょっと困ったような顔をされてしまった。

ん~。

握手はすこし、なれなれしく感じさせてしまったかもしれない。

そんなに汚い手じゃないとは思うんだけど。

 

「え?いや、その……いいんですか、握手……」

「あ、ごめん。なれなれしかったかな?」

 

あたしもちょっと戸惑っていたところに、スターちゃんが助け舟を出してくれる。

 

「あのね。この人、小さい頃からレースファンみたいで、ウマ娘のことをとてもリスペクトしてくれてるの。アデリナちゃんは初めて間近で見る現役ウマ娘で、それも重賞を勝った娘ともなると、彼からすると憧れのアスリートにご対面!って感覚なんだよ」

「そうなんだ!」

 

いやいや。

そんなことを聞いてしまうと、嬉しいやら恥ずかしいやら。

 

「あたしたちのことそう思ってくれてるの、とっても嬉しいよ!これからもぜひ、応援してね!」

 

あたしが改めて手を差し出すと、彼はおずおずといった感じでそれを握り返してくれた。

彼の手は男の子らしい大きな手で、ちょっと汗ばんでいたのは緊張している愛嬌みたいなものだろう。

 

「あたし明日レースだからそんなに遠出できないんだけど、まずは喫茶店でも入ろうか。スターちゃんは懐かしいんじゃない?」

「まだ転校してから1年も経ってないからそうでもないかな……と思ってたけど、なんだかもう、やっぱり懐かしいね」

 

そんな話をしながら、あたしたちは喫茶店を目指してぶらぶら歩き始める。

 

あたしとスターちゃんは思い出話に花が咲いたけど、彼にはちょっと退屈だったかもしれない。

そこであたしは、彼にも話を振ってみた。

 

「盛岡くん。盛岡くんはスターちゃんのどういうところが好きになって、付き合おうと思ったの?」

「ちょっ……アデリナちゃん……!」

 

テレ顔で手をブンブン振りながら話を中断させようとしているけど、内心喜んでいるのがバレバレである。

……元々結構わかりやすい娘ではあったけど、昔はここまでではなかったんだけどねぇ。

 

「あ~……そうですね……」

「ああ、敬語なんてナシでいいよ。同じ歳でしょ?」

「そうですけど……」

 

リスペクトしてくれるのは嬉しいんだけど、プライベートでヘンに距離を置かれてしまうのも、それはそれで寂しいものだ。

 

彼はチラリ、とスターちゃんの方を見る。

スターちゃんはその視線を感じたらしく、微笑でコクリとうなずいた。

 

……いいなあ。こういうやり取り。

あたしもいつか、素敵な男の子とこんなアイコンタクトを交換する日が来るんだろうか。

 

「じゃあ、お言葉に甘えて。好きになった所、尊敬するところっていっぱいあるんだけど……」

「ちょっと、ユウ!」

 

顔を真っ赤にしてスターちゃんは彼に抗議するが、彼はそんなスターちゃんの反応に慣れているようで、からかうような微笑を浮かべるだった。

というか、カレシのこと【ユウ】って呼んでるんだね。

 

あ~。なんだかちょっと、妬ましくなってきたなぁ!

 

「優しいところ、気遣いができるところ、それに……メチャメチャがんばり屋なところがすごく尊敬できるんだ。スプラを見てると、俺も勉強と部活、それにバイト気合い入れなきゃ!って頑張れるんだよね」

 

カレシができても、スターちゃんの根本的なところは変わっていないらしい。

で、スターちゃんは彼からは【スプラ】なんて呼ばれているんだね。

 

……どうしてだろう。

仲睦まじい二人を見ていると、なんだか急に死にたくなったきた。

なぜあたしは晴れ舞台のG1初出走を前にして、死にたくならねばならないのだろう?

これはもう、一種の哲学ではなかろうか。

 

もちろん、こんな内心は顔に出さない。

それは恋愛未勝利(こんな切ない未勝利が存在するなんて!)ウマ娘の、せめてもの意地だった。

 

「あ~、わかるわかる。スターちゃん、学園にいたときも4時には起きてトレーニング行ってたもん」

「マジで?」

 

スターちゃんに似て、彼は素直な青年らしい。

おそらく普段使っているであろう短い言葉で、驚きをあらわにしてくれた。

 

「マジで」

「やっぱスプラはすげえなあ……」

 

そういうと彼は優しく彼女を肩から抱き寄せた。

スターちゃんも寄せられるまま体を彼にあずけると、頭を肩口に乗せて幸せそうな微笑を浮かべている。

 

はたから見ればただ単にいちゃついてるカップルなのかもしれないけど、あたしにはそれがとても自然なスキンシップのように見えて、羨ましかった。

 

 

喫茶店につくとみんなとりあえず上着を脱ぎ、スターちゃんはカフェラテ、盛岡くんはホットコーヒー、あたしはミルクティの甘めをウエイトレスさんに注文する。

 

「ところでアデリナちゃん」

「はい」

 

神妙な顔をしているスターちゃんに、あたしもなぜか緊張の面持ちで返事してしまう。

 

「そろそろもったいぶらないで、勝負服みせてくれてもいいんじゃない?いくらお願いしても『今度会ったときに見せるから』でかわされてきたんだけど?」

 

なぜか彼氏さんも、スターちゃんの要求にウンウンとうなずいていたりする。

恋人の援護射撃をするのは、当然と言えば当然か……。

 

うーん、さすがにそろそろあきらめ時か。

別にもったいぶっていたわけじゃないんだけどね。

単純に見せるのが嫌だっただけで。

 

まあどうせ明日レース場に行けば、たくさんの人の前であの衣装を晒すことになる。

 

あたしはため息をつきながらスマホを操作し、お父さんが撮ってくれた勝負服姿の写真を表示させて渋々それを二人が見える位置においた。

 

「うわぁ、かわいい!この勝負服って確か、エイシンフラッシュさんと同じ衣装だよね!」

「うん。まぁ……」

「アデリナちゃんエイシンフラッシュさんのこと色々言ってたけど、お母さんと同じ勝負服を着たい!と思うぐらい、やっぱりすごく尊敬してたんだ!」

「そうかもね……」

 

キラキラした瞳で見つめてくれるスターちゃんに、『いや実は自分がG1に出られるってみじんも思ってなかったから、デザイン考えるのがメンドーでお母さんと同じ衣装を作ってしまった』なんて真実を伝えることはどうしてもできなかった。

それに……うん、あたしも別にお母さんを尊敬していないわけじゃないから、まったくの彼女の勘違いというわけでもない。

 

知らぬが仏という言葉もある。

ここは照れたふりして曖昧な笑みを浮かべておこう。

 

で、カレシさんはというと……食い入るようにあたしの勝負服姿の写真を見つめている。

いや、男の子に目の前でそんなことされると、けっこう恥ずかしいんだけど。

 

「ユウ!どこ見てんのよ!」

 

じっとあたしの写真を見ている自分の彼氏に、なぜか急にスターちゃんがキレだした。

正直、ちょっと怖かった。

 

「え、いや。普通にカッコいいなと思って写真見てただけだけど……」

「ウソ!アデリナちゃんの胸のところ、じっと見てたでしょ!?」

 

そうなの?

恋愛未経験のあたしがいうのもなんだし、それがはっきりわかるとさすがにちょっと嫌だけど、男の子はある程度は仕方ない気もする。

 

「いや、違う。誤解だ!それに、アデリナさんに対しても失礼だろ!?」

「なによ、アデリナちゃんをタテにして言い逃れするつもり!?」

「だから、違うって!ちょっと落ち着いてくれ、スプラ。話せばわかるから」

「問答無用よ!あんたはいつも女の子の胸ばっかり見てるでしょ!そんなにおっぱいが好きなら、胸の大きい女の子と付き合えばいいじゃない!」

「だから、違うって!」

 

なんだかよくわからないうちに、痴話喧嘩が始まってしまった。

スターちゃん、別にまったく胸がないわけじゃないけど、どっちかといえばスレンダーな方だからなあ……。

なんて思っていたら、思わぬ方向から矢玉が飛んできた。

 

「アデリナちゃん、なんか思った!?」

「いえ、なにも」

 

あたしは無表情で、ただただ首を横に振った。

なんだろう、この娘は読心術にでも目覚めたのだろうか。

 

「なんで君はそうも思い込みが激しいんだ!話を聞いてくれ!」

「話を聞かないのはユウの方じゃない!」

 

彼の必死の懇願にもかかわらず、スターちゃんはその大きな耳を彼に貸すつもりはないようだ。

あ~……けっこう大きな声で言い合いになっていて、ちょっとばかり恥ずかしい。

 

少し困ったような顔で飲み物を持ってきてくれたウエイトレスさんに、あたしは手刀と苦笑で謝罪しながら注文したものをそれぞれの手前においてくれるようにお願いした。

 

 

結局彼のほうが全面的に非を認め、地元に帰ってから【スイートキャロットスペシャルパフェ】をスターちゃんにおごることで合意が成立したようだ。

状況的にはほとんど彼氏さんの無条件降伏である。

 

お母さんがちょっとした夫婦喧嘩のたびに言っている、【人間がウマ娘に勝てるわけがないのです】というのはこういうことだったのか。

ひとつ、勉強になったなあ。

 

ところで彼、スターちゃんがお手洗いに行っている間に、「勘違いさせるようなことしてごめん。これだけキレイに撮れている勝負服姿のウマ娘さんの写真って見たことがなかったから、ついつい不躾なことをしてしまって……本当に申し訳ない」と謝ってくれたので、あたしは笑顔で小さくうなずいておいた。

 

あたしのおっぱいを凝視してたかは、問い詰めなかった。

 

ひとしきり彼の謝罪が終わると、「わかってくれたらいいよ」とスターちゃんは笑顔で今回の件を手打ちにした。

きっとこれが彼女たちなりのコミュニケーションなんだろう。

 

それからしばらくはふたりが知り合って付き合い始めた経緯とか(夏休みの夏祭りで……とか聞いた時はなんてベタで羨ましいんだ!と悶絶しそうになった)、彼が中学の時から陸上部に入っているのは、小さい頃からウマ娘のレースを見ていた影響だったとか、そんな話を聞いていたんだけど、ふと話題が途切れたときにあたしはちょっとした好奇心で質問してみることにした。

 

「でもこっちまで来るの、大変だったでしょう。親御さんたち、心配しなかった?」

 

あたしがそんなことを聞くと、二人は顔を見合わせる。

二人の表情を伺うに、やっぱり高校生二人が東京まで泊まりでレース観戦しに行くことを説得するのはかなり大変だったようだ。

 

「まぁちょっとは両親に反対されたけど、結局【可愛い子には旅をさせよ】ってことで納得してくれたんだ。親も俺がレース好きなのは知ってくれてたしね」

 

そう言ってくれたのは盛岡くんの方だったけど、苦笑しているところを見ると本当はそんなに簡単な話でもなかったんだろう。

 

「ユウって小さい頃からレースをテレビとかで見てたそうなんだけど、私の話を聞いてどうしてもG1レースを生で見たいって気持ちが抑えきれなかったんだって。今回も『レースを見たいっていうのは、俺のわがままだから』って言って、旅費はほとんどユウが出してくれたんだ」

「金のことはあまり言わないでくれよ」

 

照れ隠しなのだろう、彼はわざとらしく不機嫌な声を作って少しばかり顔をしかめた。

なるほど。

あたしたちウマ娘のレースを絶対に自分の目で見たかったからこそ、貴重な休日を使い、決して安くない交通費を支払って東京まで来てくれたのだ。

 

あたしはウマ娘を応援してくれる人のリアルを、初めて目の当たりにしたのだと思う。

 

こうした人たちの熱い思いが、あたしたちの生活やトレーニング、そしてレースを支えてくれているのだ。

 

そう思うと魂が震え、涙腺が緩みそうになる。

 

「それを聞くと……明日は絶対、無様なレースはできないね」

 

自分で思っているより真剣な声色になってしまっていたのだろう。

二人が同時に、びくり、と震えるのが分かってしまった。

驚かせてしまったことは申し訳ないと思ったけど、今の言葉は嘘偽りないあたしの本心だった。

 

 

それからウインドウショッピングやお昼ごはんなどを楽しみ、カラオケで歌い倒してゲームセンターで遊んでいたら、あっという間に日が暮れてしまった。

 

「いやー、遊んだ遊んだ!ここのところトレーニング三昧だったからほんと、いい気分転換になったよ。やっぱ人間、遊ばないとバカになる!ふたりとも、本当にありがとうね。楽しかった!」

「レース前って充実してるけど、やっぱり緊張もすごくするもんね。私もとっても楽しかったよ!」

「俺も。その上アデリナさんの気分転換にしてもらえたんなら言うことなしだね」

 

そんな言葉をかわしながら、あたしたちは大きな声で笑い合う。

ホント、これだけ楽しい気分になったのっていつ以来だろう。

 

「でも、そろそろ門限かな」

 

あたしがスマホで時間を確認すると、その時刻が迫っていた。

 

「じゃあ今日は、このへんで解散かな?」

 

名残惜しそうなスターちゃんに、あたしも苦笑いしながら首を縦に振る。

明日はさすがに、ふたりと言葉をかわしている時間はないだろう。

レース場で話すことも難しいだろうから、残念だけど今回はここでお別れである。

あとはあたしが全身全霊のレースを見せて、観客席で応援してくれる二人に応えるだけだ。

 

「アデリナちゃん。今日は色々ありがとうね」

「ううん、こちらこそ。来てくれて、本当に嬉しかった」

「明日は、がんばってね」

「もちろん!」

 

そう言ってあたしたちは、今度こそガッチリと握手を交わした。

そんなあたしたちを、盛岡くんはなにか崇高なものを見るように静かに見守ってくれていた。

 

「じゃあ、私達はそろそろいくね。明日は精一杯、応援するから!」

「うん」

「アデリナさん。勝ってください!なんて俺たちからはとても気軽に言えません。でも、後悔のないレースをしてください。応援しています!」

「……ありがとう」

 

彼が敬語を使ったのは初対面のときのようにあたしに対して距離を保とうとしたからではなく、あたしを一人の競技者としてリスペクトしていることを表してくれたのだろう。

 

二人の声援に、払ってくれている敬意に、あたしはより一層身が引き締まる思いがした。

 

二人は控えめに手を振ると、あたしに背を向けて駅の方へ歩いていく。

あたしはスターちゃんたちの背中が見えなくなるまで、その姿を見送った。

 

 

あたしがスマホのアラームで目を覚ますと、レアさんはすでに起きていて、もう出かける準備を済ませていた。

 

「おはよう」

「おはようございます。今日が初めてのG1出走だというのに、ずいぶん熟睡されていたようですね」

 

こういうところは、さすがに勝負師だ。

ただ、あたしも一応、一廉のウマ娘。

言われっぱなしではいられない。

 

「うん、あたしは8時間寝ないと体が動かないタイプだから。ゆっくり寝られてよかったよ。今日はいい感じで走れそう」

「それは楽しみです。では、東京レース場で会いましょう」

 

そういうとレアさんは王者の余裕すら漂わせて部屋から静かに立ち去った。

……ひょっとしたら、少し震えながら言い返したのもバレていたかもしれないな。

 

でも、それでいい。

あたしは今日、日本レース史上最強のダートクイーンとまで言われているウマ娘に挑む挑戦者なのだから。

 

 

身支度を済ませると、待ち合わせ場所の正門前に向かうために寮から出る。

外は空気が肌に突き刺さってくるような寒さだった。

2月の冷たいからっ風を頬に感じながらなんとなく空を見上げると、今日の空はどんよりとした曇模様。

あたしたちウマ娘は雨風の中を走るのは慣れたものだけど、見に来てくれる人たちは大変だと思うから、なんとか持ちこたえてほしいと思う。

 

正門前に到着すると、いつものようにトレーナーが先に待っててくれていた。

いつもは動きやすいジャージ姿のトレーナーだが、今日はG1ということもあってか、ビシッとスーツで決めている。

 

「おはよう。やっぱなんか、スーツ着てると変な感じだね」

「おはよう。そんな軽口が叩けるということは、けっこう落ち着いてるようだな」

「まぁね。G1に出る、って実感が単にまだないだけかもしれないけど」

 

そんな会話を交わしながら、あたしたちは駅に向かって歩き始めた。

 

「昨夜はどうだ、眠れたか?」

「うん、引退がかかったレースのときとか、初めての重賞のときもそうだったけど、あたしの場合大レースの前に眠れなくなる、ってことはないみたい」

「それは大きなアドバンテージだ。そういや昨日はスプラッシュスターと遊びに出かけていたんだったな。ここのところトレーニングばかりで遊べなかっただろうから、良い息抜きになったんじゃないか?」

 

最近気づいたんだけど、レース前のこういう雑談は意外と大切だ。

話すことによって気分が落ち着いたり、緊張感がほぐれたりすることは確かにある。

トレーナーもそれがわかっているから、積極的にあたしに話しかけてくれるのだろう。

 

「うん、とっても楽しかった。スターちゃんが彼氏連れできたのが、正直羨ましかったけど」

 

カレシの一言にお父さんの表情が、面白いぐらい厳しいものに変化する。

 

「……アデリナ。現役中は恋愛厳禁だぞ。わかってるな」

「わかってるよ。なんでそんな怖い顔してるの?」

「その禁忌を破って恋人を作って、トレーニングやレースに集中できず成績不振に陥ったウマ娘をたくさん見てきたからな。だから俺の担当するウマ娘には、それだけは絶対に守らせている」

 

ああ、人間とはどうしてこんなに残念な生き物なのであろう。

この目の前の男のように、自分はするくせに人には禁止したりするのだ。

 

「自分は担当するウマ娘に手を出してたくせに……。しかもそのウマ娘がお父さんが担当した、唯一のG1ウマ娘じゃない。恋愛したほうがウマ娘って強くなるんじゃないの?」

「それは違うぞアデリナ。それにフラッシュとは彼女が現役を引退してから付き合い始めたって何度も言っているじゃないか」

「あっそう」

 

そんなもん、誰が信じるというのか。

どうせ若さと勢いに任せて、さんざんウマぴょいしていたに決まってる。

 

まぁその結果あたしが生まれているわけだから、そのへんに関しては何も言えない。

ちなみにあたしはお母さんが22歳、お父さんが28歳のときの子供である。

 

今回もそんなバカ話をしているうちに駅についた。

あたしの場合、緊張にはこうしたバカ話が一番効力を発揮するようだ。

お父さんもそれを知っていて、話に乗ってきてくれたんだろう。

……たぶんね。

 

 

レース場に着き、控室で勝負服に着替えると、とたんに猛烈なプレッシャーが襲いかかってきた。

 

初めての重賞出走であった東海ステークスのときもかなり緊張したが、それとは比較にならない重圧だ。

 

鼓動が早い。

息が乱れる。

胃がムカムカする。

 

勝負服が、重い。

 

衣装合わせをした時は決してそうは感じなかったのに、まったくプレッシャーというのは困ったものである。

 

「to……」

 

例のオマジナイを唱えようとしたが、あたしはそこで口をつぐんだ。

 

いつまでもこのオマジナイに頼っていては、あたしは精神的に成長できない。

……いつまでも、お母さんに甘えていられない。

 

そう思ったから。

 

「よし」

 

控室に備え付けてある姿見で勝負服の具合を最終確認し、あたしは頬をパンッ、と叩いて気合を入れる。

やれるだけのことは、やった。

 

心臓は暴れまわってるし、呼吸は過呼吸寸前だし、胃はムカツキから痛みに変わってきた。

 

でも、あたしはそれを全部受け入れて。

 

あとはG1という最高の舞台に臨むだけだ。

 

 

「アデリナ」

 

控室から出ると、トレーナーに声をかけられた。

 

「トレーナー」

「似合っているぞ。その勝負服」

「……ありがとう」

 

その言葉にはきっといろいろな思いがあったのだろうけど、あたしはなにも気づかないふりをして、そう返事した。

 

「がんばってこいよ。俺はお母さんと観客席で応援してるから」

 

そういうトレーナーにあたしは無言でヒラヒラと手だけ振ると、パドックに向かって歩き始めた。

 

 

>>

朝から曇り模様だった空はとうとう持ちこたえることができず、ぽつぽつと雨が落ちてきた。

 

経験上、この雨はきっと強くなるだろう。

 

そう感じたフラッシュは傘を差しながら、熱狂の大観衆の中に身を置いていた。

 

ここは変わらない。

 

自分がダービーを制覇したあの日から。

天皇賞を制覇した、あの日から。

 

観客の中には自分のことに気づいた人も何人かいたようだったが、パドックに今をきらめくウマ娘たちが姿を表すと、もうこちらに視線を向けることもなくなった。

 

「フラッシュさーん!」

 

人混みをかき分け、明るい声を出しながらこちらに一人のウマ娘が向かってくる。

 

「ファルコンさん。人混みの中を大声出しながら小走りで……迷惑ですし、危ないですよ」

「久しぶりに会ってそうそう、いきなり小言!?変わってないなあ、フラッシュさんは」

 

苦笑いを浮かべながら目の前で立ち止まったのは【砂のサイレンススズカ】と呼ばれ、ダート界で一世を風靡したスマートファルコンだった。

 

今だから言えるが、彼女はあまりその二つ名を気に入っていなかった。

ルームメイトだったフラッシュに一度だけ、『スズカさんのG1勝ちは1つだけど、私はG1を5勝してるんだよ?なんか納得いかないなあ』ともらしたことがある。

スマートファルコンといえばウマドルとしても活動し、たくさんのファンから愛されたウマ娘として記憶されているが、そのエピソードからもわかるように、超一流のウマ娘らしい強烈なプライドと自負も持ち合わせていた。

 

ひょっとしたらそんなこともあって、彼女はダートレースの認知・地位向上に力を入れていたのかもしれない。

 

「でもでも!ルームメイトだった二人の娘が、一緒にG1を走るだなんてすごいロマンチックだと思わない?」

「そうですね。ロマンチックかどうかは分かりませんが、偶然ってあるものなんだな、とは思いますよ」

「ええっ~……。フラッシュさん、ちょっとドライじゃない?」

「いえ、別にそういうわけでは……。それにしても、ファルコンさんは昔からあまり変わっていませんね」

 

そう言ってフラッシュは優しい微笑みをファルコンに向けた。

 

「むーっ。それ、あんまり褒められてる気がしないんだけど……」

「そんなことありませんよ」

 

ビジュアルも気性も、昔と変わらず若々しいファルコンをフラッシュは称賛したつもりだったのだが、どうもそうは取ってもらえなかったようだ。

 

「それは良いとしまして……」

「それはいいんだ。まぁ、いいけど」

「ファルコンレアさんはすごいですね。もうG1を6勝ですか。戦歴だけで言うなら、すでにお母さんを超えているんですね」

「うん、そうなんだ!レアは私の自慢の娘だよ。きっとあの娘は、世界を獲ってくれると信じているの」

 

なんだかはぐらかされたような気がしたファルコンだったが、我が娘のことを褒められることには悪い気はしていないようだった。

 

「あとはウマドル活動してくれたら、もっと嬉しかったんだけど……」

「G1を勝ってくれた親孝行娘に、まだぜいたく言いますか。バチが当たりますよ」

 

ファルコンの親バカぶりに思わず顔をしかめたフラッシュだったが、その言葉にファルコンは神妙な面持ちで首を縦に振る。

 

「確かにね。たくさん勝って大活躍してくれるのは、もちろんとっても嬉しい。でも、一番の私の願いはレアが元気に走って、無事に私のもとに帰ってきてくれること。本当は本当に、それだけなんだよ」

「……そうですね」

 

私もそうだ、なんてことは言わなかった。

それはウマ娘を子に持つ親にとって、あまりに当たり前のことだったから。

 

そんな話をしていると、観衆がひときわ大きくざわめき始める。

 

「あっ!あれ、アデリナさんじゃない?」

 

ファルコンが指差す方に目をやると、たしかに自分の娘がパドックの中央まで歩を進め、一体どこで勉強したのやら、立派なカーテシーを観衆に披露していた。

 

初めてのG1の舞台だというのに、なかなか堂に入った挨拶をするではないですか、と思ってしまうのは、やっぱり自分も親バカだからだろうか。

……自分が現役時代に着ていた勝負服を娘が着てくれている、という嬉しさもそれに補正を掛けているのかもしれない。

 

「アデリナさんってフラッシュさんと同じ勝負服なんだ!きっとお母さんのこと、とっても尊敬してるんだね」

 

からかうふうでもなく、どうやら本気でそう言っているらしいファルコンに、フラッシュは思わず苦笑いを浮かべてしまった。

 

「どうですかねぇ。小さい頃からめんどくさがりな子でしたから、単に自分でデザインを考えるのが面倒でそうした可能性が高いですけど」

「……昔から思ってたけど、フラッシュさんってちょっと素直じゃないところあるよね?」

 

急所を突いてきたファルコンの一言を聞こえなかったことにして、フラッシュは続ける。

 

「でももし、少しでもそう思ってくれているなら……やっぱり母としては嬉しいですね」

 

やっと少しばかり素直になったフラッシュに、ファルコンは太陽のような笑みを向けた。

 

それからしばらく二人は学園時代の思い出話に花を咲かせていたが、フラッシュの夫がこちらに向かってきているのが見えたので、あまり男に聞かせたくない女同士の過去バナはそこでおしまいになったのだった。

 

 

>>

ワァアアァアアアァッ!

 

パドックに出ると、大歓声があたしを出迎えてくれた。

それから、あたしに突き刺さる真冬の冷たい雨も。

 

先ほどからぽつぽつと降り始めた雨は、あっという間にすっかり土砂降りになってしまっていた。

 

だけど観客席から感じる熱狂は、冬の寒さや雨の冷たさを忘れさせてくれるぐらい圧倒的な熱量だった。

 

この熱狂に、ひるむな。

あたしもG1出走の権利を、この最高の舞台を走る資格を手にしたウマ娘のひとりなのだ。

 

あたしは胸を張ってパドックの中央まで進出し、この日のために作法教室に通って学んだカーテシーで大観衆に一礼する。

 

それと同時に、爆発的な拍手が起こった。

絶叫にも近い応援の声が乱れ飛んでくる。

 

「がんばってー!」

「応援してるよー!!」

「フラッシュも着ていた勝負服、似合ってるぞ!母が得意としたレース場で、お前の走りを見せてくれ!」

 

それらを聞きながら、あたしはぐるりと観客席を見回した。

 

まず、スターちゃんと彼氏が一つの傘の中に寄り添いながらあたしを見つめてくれているのが目に入った。

きっとあたしの勇姿を見るために、朝の早くから並んでくれたのであろう。

 

それから……シックな服装に身を包んだお母さんとスーツ姿のお父さん、それに少し派手めな衣装に身を包んだ妙齢のウマ娘が見えた。

あれは多分、スマートファルコンさんだ。

彼女もきっと、娘の晴れ舞台を見に来たんだと思う。

 

熱狂する観客席に背を向け、今度は今日出走するウマ娘たちに視線を向ける。

 

みんなG1に出走するほどのウマ娘であるから、どの娘も強敵であることには変わりない。

 

その中でもあたしはG1初出走にもかかわらず、前走のG2・東海ステークス勝利を評価されたのか、4番人気に推されていた。

 

3番人気は……。

 

「よっ、久しぶりだね。元気してた?」

「ローズフレイアさん!」

 

そう。

あの未勝利戦で3着になったあと、南関東トレーニング学校に転校した彼女は、あたしが休学している間に大井レース場を主戦場にし、着実に実績を積み重ねて秋口にはA1に昇格。

去年の11月には中央の交流競走のひとつ、G3・みやこSを勝って、あたしより先に重賞ウマ娘になっていた。

 

その後もG1を含む交流戦重賞やオープンで必ず掲示板に載るという堅実な走りを見せており、今やローズフレイアさんは【地方の華】である。

 

「今日はメチャメチャ強いのがいるけどさ。同じ歳だもん、負けてられないよね。下積み時代が長かったウマ娘の意地を見せよう!」

「そうだね、がんばろ!」

 

そう言ってローズフレイアさんが掲げた手を、あたしはパチン、とハイタッチした。

 

「あっはっはっ。若いのが意気軒昂なのは大変によろしい!せやけど、ウチのことも忘れてもうては困りまんなぁ」

 

そんな声がした方を振り返ると、そこには小柄な鹿毛のウマ娘が一人。

 

「ウエストチェスターさん」

 

この人は今日の2番人気のウマ娘で、彼女はシニア3年めの大ベテランだ。

 

すでにG1を5勝している超一流のダートウマ娘であり、ファルコンレアさんが出てくるまではこの人がダート界の第一人者だった。

 

「レアはんには確かに最近少々分が悪うおますけどな。ちょっとここらでお局様の本気みせとかんと、ダートは楽な世界やと若い娘ぉらに思われるもの癪でっからなぁ」

 

そう言って彼女は不敵な笑みを浮かべた。

 

古めかしくさえ聞こえる大阪弁は大阪で貸金業を営んでいるお父様譲りだと、月刊トゥインクルのG1ウマ娘こぼれ話に書いてあったのを思い出す。

 

そして、強烈なのはその方言だけではなかった。

 

「今日のレースはせいぜい、覚悟しといておくれやす」

「!……どうぞ、お手柔らかに……」

 

トップクラスのウマ娘が放つ、鮮烈で攻撃的な威圧感にあてられてあたしは少し……いや、かなり萎縮してしまった。

さっきまで落ち着いていた胃痛が、またキリキリとぶり返してくる。

それをさとられないよう、ぺこりと彼女に頭を下げてから、あたしはパドックで観衆に一礼しているひとりの栗毛のウマ娘に視線を向けた。

 

黒を基調にした、まるで彼女が持つ天性のスピードを具現化したような、流線的フォルムの勝負服。

単勝推し率87%。

今日の圧倒的1番人気。

 

ここまで13戦13勝、うちレコード勝ちが7つ。

G1の勲章がすでに6つ。

 

今までのレースで2着につけた着差は90バ身というモンスターウマ娘。

 

「ファルコンレアさん……」

 

観客への顔見せを終え、輪に戻ってきた彼女に向けられるウマ娘からの視線は様々だ。

 

恐れにも似た視線を向ける娘もいる。

憧憬さえ感じさせる視線を向ける娘もいる。

視線を合わせることさえ、怖がっている娘もいた。

 

当の本人はそれらの視線をまったく気にした様子もなく、堂々とパドックを闊歩している。

 

その偉容からは覇者のオーラが立ち上っているようであり、打ちつけている雨でさえ、彼女を祝福しているかのように思えた。

 

飲まれてはいけない。

怖がってはいけない。

 

頭ではそう理解しつつも、意識の深層が、戦うウマ娘としての本能が、ファルコンレアというウマ娘を恐れているという事実を、あたしはどうしても振り払うことができなかった。

 

 

本バ場入場してからも、雨は一向に収まる気配を見せず、むしろ雨足は強まる一方だった。

 

「フラッシュアデリナさん!早くゲートに入ってください!」

 

係員から、そんな注意が飛んでくる。

 

わかってる。

頭ではわかっているんだけど……どうしても、脚が言うことを聞かない。

 

ゲートインが怖い。

 

レースが、怖い。

 

こんなことは、デビューしてから初めてだ。

 

ゲートインを怖がる娘がいるのはもちろん知っていたし、そういう娘と同じレースになったこともあったけど……どうしてこんなことを怖がるのか、その時のあたしには理解できなかった。

でも自分が同じ状況に置かれて、彼女たちの気持ちが痛いほどわかった。

 

彼女たちもきっと、レースが恐ろしかったのだ。

 

ざわつく観客の雰囲気が伝わってくる。

 

早くゲートに入らないと……。

 

気ばかり焦るが、どうしても脚が前に進まない。

 

あたしはしっぽを自分で引っ張って、大きく深呼吸をする。

 

一回、二回、三回……。

 

ダメだ。

 

もう一度強くしっぽを引っ張り、今度はより深い呼吸を意識してみた。

一回……二回……三回……。

 

もう一度。

 

一回……二……。

 

ようやく無意識に脚が動き、あたしはゲートに入ることができた。

 

あわてて係員が後ろゲートを閉めたかと思うと、ワンテンポだけ置いてスタートのゲートが開く。

 

ガチャン!!

 

ゲート入りはデビュー以来最悪だったにも関わらず、スタートはそれほど悪くならなかった。

こういうところが、勝負の不思議である。

 

まるで雨を斬り裂くかように勢いよくハナを奪っていったのは、ファルコンレアさんだった。

 

彼女の脚質は母であるスマートファルコンさんと同じ【逃げ】で、レアさんがデビューして以来、彼女の前を走ったウマ娘はいない。

 

今まで何人ものウマ娘がレアさんに鈴をつけに行ったのだが……誰もが彼女のスピードについていけず、逃げ潰されるだけの結果に終わっている。

 

あたしは何度もレアさんのレースビデオを見て、なんとかスキを見つけようとトレーナーと研究し尽くしたけど……正直、弱点らしい弱点は見当たらなかった。

 

自らハイペースでレースを作り、上がり三ハロンをキレイにまとめてしまう化け物を、一体どうやって倒せばいいのだろう?

 

二番手にはレアさんからかなり離れて、ローズフレイアさんがつけている。

彼女を先頭に何人かで先行集団を作っていて、あたしはその直後のバ群の中団につけていた。

 

あたしのすぐとなりに、ウエストチェスターさんが並走するような形で走っている。

 

そろそろ第二コーナーを過ぎようとしているけど……。

 

「なんやねん、これ。おかしいやろ……」

 

隣で走っているウエストチェスターさんのつぶやきが、あたしの耳に入ってきた。

レースを走っているウマ娘の声が聴こえてくることなんて、ゴール前の叫び声以外ほとんどないことだ。

 

ただ、彼女がそうぼやきたくなる気持ちもわかる。

 

レースの流れがハイペース過ぎるのだ。

 

あたしは今まで15戦以上レースを走っているけど、経験したことのないような超ハイペース。

 

これは……。

 

「あいつ、掛かりよったんとちゃうか?」

 

返事こそしなかったが、あたしも同じようなことを思った。

レアさんの才能はたしかに圧倒的だが、あたしが彼女のレース映像を見て感じる限り、それほどレース巧者というわけではない。

というより能力で他のウマ娘を圧倒していたから、レースを巧く作るなんてことを意識することすら必要なかったんだと思う。

 

レアさんのような天才ウマ娘の宿命的な弱点として、才能で楽して勝ってきた分、それを過信したり、勝負に淡白になりすぎてあっさり折れてしまう、というものがある。

 

レアさんもその弱点が出てしまったのではないか。

 

もしそうであるなら、あたしはあたしのレースをすれば、どこかでチャンスが巡ってくるかもしれない……!

 

もちろん今回のレースを最初からあきらめていたわけではないが、まったく光明が見いだせていなかった状態と、実際にチャンスを感じられる状況になるのでは、気の持ちようが違う。

 

あたしは自分のペースを守ることを徹底することを意識し、スパートの仕掛けどころをミスらないようにだけ神経をとがらせることにした。

 

第三コーナーを過ぎても、そのハイペースが落ちる気配は一向に見られなかった。

むしろ先頭を逃げるレアさんと先行集団のウマ娘たちとの距離はどんどん広がっていっている。

 

間違いない。

レアさんは、掛かってしまっているんだ。

 

レアさんの大逃げに観客席が大きなどよめきに包まれている。

 

「レア、無理してくれるな!」

 

そんな声も聴こえてくる。

 

……昔からのファンの中には、サイレンススズカさんが天皇賞で故障してしまったあのワンシーンが脳裏に蘇ったという人もいたのかもしれない。

 

あのレースも、信じられないほどのハイペースだった。

 

先頭のレアさんが第4コーナーに差し掛かった。

その時、さすがにすこしばかり彼女のペースが落ち着いて、2番手のローズフレイアさんとの距離が縮まった。

どんなに速くて強いウマ娘でも、一息も入れずにマイルを逃げ切ることは不可能である。

 

今だ!

 

仕掛けるとしたら、このタイミングしかない。

ハイペースだからといってこれ以上タイミングを遅らせると、脚を余して捉えきれないなんてことになってしまいかねない。

 

あたしはギアを切り替え、思い切り加速する。

 

激しい雨のせいでまるで田んぼのようになったバ場を蹴り上げ、バ群の中を縫うようにあたしは徐々に順位を上げていき、第四コーナーを回ったときには4番手の好位置につけることができた。

 

少し前にはローズフレイアさんがいて、半バ身後ろにはウエストチェスターさんがいる。

 

3人とも、思っていたことは同じだろう。

 

あとは、先頭を行くファルコンレアを捉えるだけだ!

 

彼女との差はおよそ7バ身ほど。

 

東京の直線は長いし、あたしは十二分に脚を残している。

レアさんのスピードは一息入れたときとそれほど変わっていない。

 

……捕まえられる。

無敗のダートクイーンに、土をつけられる!

 

あたしは栄光の勝利だけを目指して、エンジンをトップギアに切り替えた。

でも、当然のことながら彼女を目標としているのはあたしだけ、というわけではなく。

 

「すまんな。ここは年功序列で先にいかせてもらうで!まだまだ若いのには負けてられんさかいな!!」

 

そう啖呵を切り、ウエストチェスターさんがまず抜け出した。

さすがの加速力で、あっというまに2バ身ほど離されてしまう。

 

「いやいや!地方代表のウマ娘として、わたしがダートで絶対負ける訳にはいかないから!」

 

それに呼応するように、ローズフレイアさんもトップスピードに乗ったようだ。

 

あたしだって、負ける訳にはいかない。

 

……お母さんが栄光をつかんだこの場所で、無様な姿は晒せない。

 

「うおぉおおぉぉおぉっ!」

 

あたしは脚に持てるだけの気合を込めて、全速力を絞り出す。

 

あっという間にあたしも二人に追いつき、先頭にいる最強のウマ娘への挑戦権を懸けて3人が横並びになった。

彼女との差は3バ身ほどにまで縮まっている。

 

残りは400M……!

 

その時、ちらりと一瞬だけ、レアさんがあたしたちを振り返った。

そして彼女はもう一段、深く体を沈めると……。

 

『嘘……』

 

やろ、でしょ、だよね、ともれ出た三人の語尾は違ったが、心中はおそらくまったく同じことを思っていただろう。

 

あれだけのペースで逃げていたのに、まだ加速できるのか。

まだ、余力を残していたのか……。

 

レアさんはどうやら、道中掛かってスタミナを浪費していたわけではなかったらしい。

あれが今日の彼女の【マイペース】だったわけだ。

 

……怪物ウマ娘め!

 

あたしも最高速度を維持しているのに、レアさんの背中はどんどん遠くなる一方だ。

 

勝てない。

追いつけないよ、あんなの……。

 

きっと一生、追いつけない。

 

そう思った瞬間、あたしはポッキリと心が折れたのを自覚してしまった。

横並びだった二人から、一歩、二歩と遅れを取り始める。

 

二人は脱落したあたしにもう目をくれることもなく、一心不乱に先頭にいる天才を追いかけていた。

 

そうだ。

まだ、レースが終わったわけじゃない。

勝てないまでも、ひとつでも上の順位を、死にものぐるいで取りに行かなければ!

 

それすらできないのなら、応援してくれている人たちにどう申し開きするつもりなのか!

 

あたしは自分をそう叱咤し、砕け散った心の破片を拾い集めて必死に気持ちを立て直そうとした。

 

でも、一度折れた心でもち直せるほどG1は甘いものじゃなかった。

 

ウエストチェスターさんにもローズフレイアさんにもまるで追いつくことができず、うしろから来た6番人気の娘に差されたところが、ゴールだった。

 

あたしのG1デビュー戦は、5着というほろ苦い結果に終わった。

 

ゴールしてから気づいたのだが、どういうことだかあれだけ騒がしかった大観衆が奇妙なほど静まり返っている。

 

なにか大変なことでも起こったのだろうかと思い、ターフビジョンを確認してみると……。

 

レコード

タイム 1.32.0

 

え……?

 

は……?

 

いや、ウマ娘が出していいタイムじゃないでしょ、それ……。

 

驚愕の世界レコードをあっさり叩き出したレアさんは、それがまるでなんてことでもないかのように、どしゃぶりの雨の中でウイニングランを沈黙の観衆に披露していた。

 

あまりにも鮮やかな逃げ切り勝ちを決めた彼女は、光り輝いていた。

 

これは単なる比喩ではなく、ドロドロの不良バ場だったのにも関わらずレアさんはほとんど砂を浴びていなかった。

 

みんな勝負服を泥だらけにしている中で、最初から最後まで先頭を駆け抜けた彼女だけが、美しい勝負服のままだった。

 

圧倒的なスピードと強さを誇るファルコンレアに、誰も泥を被せることができなかったのだ。

 

「はぁっ、はぁ……。一回、あいつの血ィ調べたほうがええわ。ウマ娘の血やのうて、ハイオクでも流れとるんとちゃうか」

 

荒い呼吸を繰り返しながら苦虫を噛み潰したような表情で、2着でゴールしたウエストチェスターさんがそんなことを言いながらこちらへやってきた。

 

「ウエストチェスターさん……」

「ウチはまだ、幸運な方やったんかもしれん。あないなバケモンと最盛期が被らんかったからな。でもあんたらは……」

 

そこから先は、さすがの大先輩も口にしなかった。

 

「それでも!」

 

その会話が耳に入ったのか、3着を確保したローズフレイアさんがおぼつかない足取りであたしたちのもとに来て、叫んだ。

 

「わたしたちは、逃げるわけにはいかない。100回やって100回勝てなかったとしても、わたしたちは、ファルコンレアという天才にぶつかり続けるしかないんだ!」

 

それは魂の叫びだった。

 

涙ながらに吠えるローズフレイアさんに、あたしは黙ってうなずくしかなかったし、ウエストチェスターさんも「そうやな。それがウマ娘の宿命みたいなもんやさかいな……」と、静かな口調でそう言うだけだった。

 

 

ウイニングライブ前の舞台袖は、妙な沈黙に包まれていた。

G2までのライブ前の空気は『勝ち負けはあるけど、みんなで良いレース作ったよね。今日は勝ったあの娘を祝福しようよ!』みたいな感じになることが多かったんだけど、やっぱりG1ともなると違うのだろうか。

 

「ちょっとピリピリしとるやろ。普通ウイニングライブちゅうたら、レースの勝ち負けは時の運やし、まあライブはノーサイドでやろうやって感じになるもんやけどな。あの娘が勝ったあとのウイニングライブは、いつもこんな感じや」

 

あたしがいつもと違う舞台袖の雰囲気に少し戸惑っていると、ウエストチェスターさんがそんなことを耳打ちしてくれた。

なるほど。

毎回格の違い、才能の違いを見せつけるような勝ち方をしていれば、妬み・嫉み・憧憬・恐れなど、いろいろな感情がレアさんに向けられて、通常のようなムードでライブを行うということが難しくなってしまうのだろう。

 

当のレアさんはというとそんな空気感をまったく気にした様子もなく、振り付けをチェックしたり、軽く発声練習をしていたりする。

 

きっとこのような雰囲気にはもう慣れっこなんだろうし……天才ゆえの孤高も、彼女はきっと受け入れているのだろう。

 

「本番5秒前です!」

 

スタッフさんが、あたしたちに声をかけてくれる。

この場にいるウマ娘たちの、いろいろな感情が絡み合っているのは理解した。

それでもあたしは、あたしが勝った時に【おめでとう】と言ってくれたレアさんのために、素晴らしいレースを披露したレアさんのために一生懸命バックダンサーを務めて、ライブを盛り上げたいと思った。

 

そしていつかあたしがG1に勝ってウイニングライブのセンターで歌う時が来たら、その時は彼女にあたしのライブを精一杯盛り上げてもらうことにしよう。

 

 

ウイニングライブを終えてあたしが控室に戻ろうとすると、なぜかトレーナーが部屋の前で突っ立っていた。

 

「トレーナー?」

「お疲れ、アデリナ。初めてのG1はどうだった?」

「そりゃいろいろ大変だったし、すごく戦い甲斐もあったけど……どうしたの、鍵でも失くしたの?」

 

あたしの疑問に、トレーナーは苦笑して答えてくれる。

 

「いや。フラッシュがアデリナと二人で少し、話をしたいと言っていてな」

「ってことは、中にお母さんいるの?」

 

あたしが聞くと、お父さんは静かに首を縦に振った。

 

「そっか」

 

短くそれだけ答えて扉をノックしようとしたときだった。

 

「アデリナ」

「ん、なに?」

「がんばったな。君のトレーナーとして、父親として、俺は君を誇りに思うよ」

 

いつだったか、誇りについてお父さんから話を聞いたことがあったなあ。

 

たしか誇りっていうのは、真摯に物事に向き合っていれば自然と自分の中から沸いてくるもの、って言ってたっけ。

 

ってことは、今のお父さんの言葉は……。

 

それを思い出してちょっと照れくさくなったあたしは、一応コンコンと高速でノックしてから、そそくさと控室の中に逃げ込んだのだった。

 

 

返事も待たずに控室に入ると、お母さんが備え付けのソファーにリラックスした佇まいで腰掛けていた。

 

「お母さん」

 

基本的に控室はレース関係者しか入ることが許されていないのだが、トレーナーや主催者側の許可があればその限りではない。

もちろん今回は、トレーナーであるお父さんが許可を出したのだろう。

 

「アデリナ、お疲れ様でした。初めてのG1はどうでしたか?」

 

お母さんはゆっくりソファーから立ち上がると、優しい微笑を浮かべてお父さんと同じことを聞いてきた。

別にここで意地を張る必要もないだろう。

あたしは感じたことを、感じたままお母さんに伝えることにした。

 

「そうだね。緊張で過呼吸になりかけるし、吐きそうになるし、ゲート入りはあんな感じだったし、おまけに負けてしまうしで、いろいろ最悪なG1デビューだった。でも、あたしはまたG1に出たい。……この大舞台で、絶対に勝ちたいと思ったよ」

「そうですか。その気持ちがあれば、勝利に向けて努力を続けられます。そしていつかはきっと、栄冠を掴み取れるはずです」

 

お母さんは静かな口調でそう言って、あたしを真っ直ぐ見つめた。

どうしてだろうね。

お母さんの静謐な青い瞳を見つめていると、なぜだかそれを信じていいような気持ちになってくる。

 

それは、小さい頃からそうだった。

 

「まあ今回のような体たらくじゃ、勝利はまだまだおぼつかないだろうけどね。今日はごめんね。せっかく忙しい中来てくれたのに、カッコ悪いところばかり見せちゃったね」

 

あはは……と苦笑いしてると、不意に懐かしい柔らかさと体温が全身に感じられた。

お母さんは泥だらけの勝負服姿のあたしを、自分の服が汚れるのも構わず、しっかりと抱きしめてくれていた。

 

「かっこ悪くなんてありませんよ。あなたは、私の自慢の娘です。私の誇りです。アデリナ。本当によくがんばりましたね」

「お母さん……」

 

我慢なんて、できなかった。

負けた悔しさ、カッコ悪いところを見せてしまった情けなさをすべて押し流すかのように、あたしの瞳からはとめどなく涙が溢れ出てくる。

 

涙の熱さはきっと、お母さんが惜しみなく与えてくれる愛情のへ嬉しさなのだろう。

 

あたしはお母さんにしがみつき、ごめんね、ありがとう、あたしもっとがんばるね、と繰り返しながら小さい子供のように泣きじゃくった。

 

あたしは、走ることが好きだ。

でもきっとそれと同じぐらい、走ることでお母さんに褒められたかったのだ。

 

偉大なウマ娘であるエイシンフラッシュに、自分の走りを認めてほしかったのだ。

 

あたしは今日G1を戦ったことで、ほんの少しだけどその願いが叶ったような気がしたのだった。

 

 

そろそろ春の匂いも入り混じり始めた、3月の晴れた放課後。

 

「来たか、アデリナ。今日の体調はどうだ?」

「うん、いつも通り絶好調。どんなトレーニングでもどんと来いだよ」

 

状態を確認してきてくれるトレーナーにあたしはそう答えて、調子をアピールするようにトン、と自分の胸を拳で叩いた。

 

どんな大レースでも、終わってしまえばまた日常がもどってくる。

それはそのレースで栄冠をつかんだウマ娘も、負けて涙に暮れたウマ娘も同じだ。

 

 

フェブラリーステークスで鮮烈な勝利を収めたレアさんは、それからすぐにダートの世界最高峰のレース、ドバイワールドカップに出走するためにかの地へ旅立った。

 

日本勢からはもう長らくそのレースを制したウマ娘は出ていないが、レアさんならきっとやってくれるはずとあたしは信じている。

 

あたしは彼女の旅の安全と活躍を願って、出発前にバ頭観音のお守りを贈った。

 

彼女は一瞬キョトン、としたあと、初めて見るような愛らしい微笑を浮かべて『ありがとう。大切にするわね』と言ってくれた。

 

その時に初めて、彼女は敬語を使うのをやめてくれた。

 

あのレースで2着に入ったウエストチェスターさんは、数日後に引退を表明。

突然の引退で困惑するマスコミのインタビューに『若くて活きのええのがぎょうさん出てきた。もうウチの時代は終わってしもたってことや』と簡潔に答えて、ひと時代を築いた古豪らしく潔く現役生活に自ら幕を下ろした。

 

ローズフレイアさんは南関東トレーニング学校に戻ると、フェブラリーステークスでの敗戦を糧にしたのか、あれからすぐに地元の地方重賞を制している。

 

同じ路線を歩む者同士。

彼女とはきっと長い戦いが続くだろう。

 

でもあのレースのあとにLANEを交換して、たまに一緒に遊びにいったりする仲になった。

ローズフレイアさん、もとい、フレイアちゃんは初対面の時に感じた通りサバサバした性格で、けっこう本音でモノを言い合える友だちになれそうだ。

 

ライバルだけど、友だち。

 

そんな関係が長く続くといいな、と思っている。

 

スターちゃんは相変わらず元気に地元の高校に通っているようだ。

たまーに『彼ってひどいの』みたいなグチというかノロケというか、そんなLANEや通話が来るけれど、基本的には仲良くやっているらしい。

 

学校生活も楽しくやっているみたいで、最近はなんでも吹奏楽部に入ったのだとか。

彼女が音楽をやるイメージがまるでなかったので、どういうことなのか聞いてみると、デートで何気なく入った楽器屋さんに置いてあったフルートになぜか心を惹かれ、それで始めてみる気になったとのこと。

 

『今は雑用と基礎練習ばかりだけど、走り始めたばかり頃のことを思い出して、なんだかとても新鮮な気持ちだよ。今はまだ全然下手くそだけど、卒業までに1度は演奏会のメンバーになれるよう、一生懸命がんばっているんだ』

 

スターちゃんは楽しげに、そんなことをあたしに話してくれた。

あたしと接する時は明るく振る舞ってくれているが、彼女は夢に破れ、挫折したウマ娘の一人なのである。

そしてスターちゃんに引導を渡したのは、間違いなくあたしなのだ。

 

そんな彼女が新しい目標ややりがいを見つけられたことは、あたしにとってちょっとした救いだった。

 

あたしもスターちゃんにトレーナーとか先生とかのグチを聞いてもらったり、学園であったバカみたいな話を面白おかしく聞いてもらったりして、付き合い方自体はルームメイトだったときとあまり変わっていない。

 

きっとあたしたちはこんなふうに一生付き合っていくんだろうな、という予感がある。

 

あたし自身の生活は相変わらずだ。

最低限の勉強をして、トレーニングに励み、レースに挑む。

少し変わったところがあるとすれば、週末はたまに実家に帰るようになったことぐらいかな。

 

家に帰れば美味しいご飯とお菓子、それに偉大なる母上様のお小言が待っている。

 

前まではただただうざったいだけだったけど、最近は少しばかり、素直にこの大きな耳を傾けられるようになった。

 

長かった反抗期がようやく終末に向かいつつあるということなのかもしれないし、あたしがG1に出られるぐらいのレベルになったことで、お母さんの話すことの意味が少しばかり理解できるようになってきた、ということなのかもしれない。

 

 

あたしがお母さんと同じように、G1で大活躍するウマ娘になれるかはわからない。

 

でも、それを目標において努力を積み重ねることはできる。

あきらめないで、挑戦を続けることはできる。

 

様々なトラブルに見舞われても、現役生活の最後までG1のタイトルに挑み続けたお母さんのように。

 

だってあたしは、エイシンフラッシュの娘なのだから。

 




長文読了、本当にお疲れさまでした。
今回もいつものように長文になってしまいました。
これでは読んでくださる方に負担をかけるし、
やっぱりまた2話に分けようかとも思ったのですが…。

長くなったぐらいで読んでもらえなくなるなら、
そもそも自分に読んでもらうだけの話を書く力が足りなかったのだと言い訳して、結局書きたいだけ書かせていただきました。

今回で【エイシンフラッシュの娘】は完結とさせていただきます。

読んでくださった方には、結局ちょっとした小説1冊分ほどの分量に
付き合っていただくことになってしまいましたね。

ランキングに乗るほどではありませんでしたが、それでも私の中では
たくさんの方に読んでいただけた作品になりました。

ウマ娘プリティーダービーという魅力的で広大な世界に、
フラッシュアデリナというウマ娘がいた、ということを皆様の心の片隅にでも
置いていただけたのなら、それ以上の幸せはありません。

拙いストーリーを最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

それではまた、違う作品でお会いしましょう。


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side story ~ファルコンレア~ 1話

エイシンフラッシュの娘。に登場したファルコンレアのストーリーです。

登場人物:ファルコンレア
※オリウマ娘注意です。
こんな感じの娘です。

【挿絵表示】

よろしければ皆様の読書の
一助にしていただけると幸いです。

誕生日:5月5日
体重:絞れていい感じの仕上がり。
身長:171センチ
スリーサイズ:84・58・84

ファルコンレアのヒミツ1・実は歌とダンスが現役ウマ娘の中でトップレベルにうまい。



人は、わたしのことを天才という。

 

いわく、天性のスピードを持っている。

いわく、選ばれたウマ娘。

……いわく、やっぱりウマ娘は血統だ。

 

わたし自身一度もそんなことを思ったことはないけれど。

 

確かに、戦歴だけを見ればそれなりのウマ娘なのかもしれない。

 

でも、わたしから言わせてもらえばそれは単なる結果論であり……あの戦歴はわたしに携わった様々な人の、途方もない努力と労力、それに支えがあったからこそだ。

 

そもそも、わたしのレース人生はすべりだしからして、順調とはいえなかった。

 

だって、トレセン学園の入学試験に落ちているのだから。

 

***

 

その日は、3月の上旬にしては温かい日だった。

ただ、わたしの流している汗はその気温のせいだけではないだろう。

 

「……ない……」

 

わたしは張り出された合格受験番号の羅列を、呆然と眺めていた。

わたしの受験番号は、1289。

 

1287は、ある。

次の合格受験番号は1290だった。

 

ということは、あいだが抜けている二人は不合格、ということなのだろう。

 

嫌な汗がわたしの背中を伝ったが、冷めた理性のどこかが『やっぱりね』とつぶやいているのも自覚していた。

 

これは単なる負け惜しみ、というわけではない。

元々合格は厳しいと先生とトレーナーに言われていた、ということもある。

 

先生たちには、学力と模擬レースは問題ないだろうと言われていた。

ただ……。

 

いや、落ちてしまったものは仕方ない。

わたしはとりあえず、家に帰ることにした。

 

……わたしの不合格を知っても、お母さんが無理に明るく振る舞ってくれるであろうことを考えると、少しばかり憂鬱だったが。

 

 

テーブルに並んだ食事は、いつもよりかなり豪華なものだった。

……きっとお母さんは【トレセン学園合格おめでとうパーティ】をするつもりだったに違いない。

 

「落ちちゃったものは仕方ないよね!うん、お母さん、レアがすごーくがんばってたの知ってるから」

 

お母さんはそう言いながら、にっこにこの笑顔を作ってわたしを励ましてくれる。

なんというか、ここまで自分の子供に行動を予測される母親っていうのもどうなんだろうと思ってしまうけど。

まあ、お母さんは人を励ましたり元気づけたりすることを仕事にしているから、というのもあるだろう。

わたしのお母さんは【ウママドル】というなんとも聞き慣れない職種の人で(わたしが生まれるまでは【ウマドル】だったらしい)、ネット配信やテレビ番組で歌ったり踊ったりすることを生業にしている。

その名前をスマートファルコンといって、レースファンなら聞いたことがある人もいるかもしれない。

昔トゥインクルを走っていて、ダートで一世を風靡したことがあるウマ娘だ。

 

「ごめんなさい……」

「謝ることなんかないよ!そりゃ結果も大切だけど、目標に向けて頑張りきった、という過程もとても大切。ね、あなた?」

 

お母さんはそう言いながら、ビールをちびちびやり始めているお父さんに声をかけた。

 

「うん。なにかに打ち込んでいる以上、挫折はつきものだ。これをバネにしてがんばりなさい」

 

そう言ってお父さんも笑ってくれる。

ちなみにわたしのお父さんはプロの将棋指しで、ウマドルとして活動していたお母さんとはあるテレビ番組に共演した縁で知り合って結婚したんだとか。

 

結構几帳面なところがあるお父さんと、わりと大雑把なお母さんが結婚して仲良くやっているというのは、男の子とのお付き合い未経験のわたしにとって、なんとも不思議に感じられる。

 

「辛いことがあった時は、美味しいものを食べるのが一番!さ、冷めないうちにどうぞ!」

 

そう言ってくれるお母さんにわたしは「いただきます……」を言って、巨大サイズのにんじんステーキをナイフとフォークで切り分けて口に運んだ。

 

それは、合格して食べていればもっと美味しかったに違いない、と思えた味だった。

 

 

 

結局わたしは第二志望だった南関東トレーニング学校に通学することになった。

 

中央のトレセン学園に進学できなかったのは残念ではあったが……ダートを得意とするウマ娘たちが進学する地方の学校の中でも、【砂のエリート】が集まると言われているこの学校に進学できたことは、素直に嬉しかった。

 

ただ、ここでも問題が発生した。

……だれも、わたしの専属トレーナーに名乗りを上げてくれなかったのだ。

 

確かに、わたしの練習タイムは新入生の中でもトップレベル、というほどではない。

それでもわたしより遅いタイムの子がどんどんトレーナーと契約していくのを見ていると、平静ではいられなかった。

 

慣習上、ウマ娘の方からトレーナーに契約を迫るようなことはできない。

プロスポーツのドラフトなどで、学生の方から行きたいチームを指名できないのと同じような理屈である。

 

仕方がないので、わたしは担任の先生にそのことを相談してみることにした。

すると、先生は言いにくそうな感じでその理由を話してくれた。

 

「あのスマートファルコンさんの娘さん、となると、ここじゃなかなか手を上げてくれる人もいないらしくて。それに……」

 

そこまでいって、先生はしまった、という表情を浮かべた。

その表情を見て、わたしは気づいてしまった。

……わたしのタイムは母を彷彿とさせるほどのものではないので、もし担当してわたしが大した成績をあげられなかった場合、【スマートファルコンの娘を担当してあの程度か】と噂されるのを避けたいのだろう。

 

それは分からないでもないが……なにはともあれ、トレーナーがつかなくてはデビューすらおぼつかない。

それにもう、両親にレースのことで心配をかけるのは嫌だった。

 

「あの……先生の方からなんとか、トレーナーの方々に推薦していただくことはできませんか?わたし、精一杯がんばりますから」

 

そうわたしは食い下がったが、先生は渋い顔をしながら「自分の一存では、なんとも……。焦る気持ちはわかるけど、地道にトレーニングをしてトレーナーさんたちに声をかけてもらうのを待ちなさい。みんなそうしているんだから」としか言ってくれなかった。

 

 

 

「はぁ……ふぅ……」

 

わたしは今日も一人、広いダートコースで自主練をおこなっていた。

入学してもう2週間以上が経つけど、いまだにどのトレーナーさんからも、契約のお声掛けはもらえていない。

 

わたしの走りって、そんなにひどいのかな……。

 

自分では今までそう思っていなかったけど、これだけ声がかからないと疑心暗鬼になってくる。

確かに練習ではタイムは出てないけど、模擬レースではいつもそれなりの成績を収めているのに……。

 

実際、この学校の入学試験の模擬レースでもわたしは一応一着だった。

 

それでもトレーナーさんたちが声をかけてこないのには、理由がある。

 

模擬レースの成績がよくても、練習タイムがよくないウマ娘はどうしてもそれをフロックに見られてしまうのだ。

その上、そういうウマ娘は【もう今以上に伸びしろのない、早くに燃え尽きてしまうタイプ】とみなされてしまいがちなのである。

 

そしてその見解は、統計上決して間違いではないのだ。

 

どういうわけだか、わたしは小さい頃から練習タイムがあまり良くなかった。

トレセン学園に不合格になってしまった主な理由も、おそらくはそれなのだと思う。

 

それなのに、模擬レースだとそれなりの成績が出てしまう。

 

トレーナーや周りの娘たちからは『練習は手を抜いて、レースだけ本気で走ってるんじゃないか』なんて言われたこともあるけど、もちろんそんなことはしていない。

 

むしろ練習でのタイムが悪いと分かっている分、ほかのウマ娘たちよりも一生懸命に取り組んでいるつもりだ。

 

ご覧のとおり、その努力はあまり報われている感じがしないのだけれども。

 

本当はもう一本走る気でいたけど、今日はやめて帰ろう……。

そう思って更衣室に戻ろうとしたときだった。

 

「おっ。お前さんがファルコンレアかい。トレセン学園落っこちてこっち来たっていう、スマートファルコンの娘ってのは」

 

ダートの柵の向こうから、いきなりそんな不躾な言葉を投げかけられた。

一体なによ、と思ってそちらに視線を向けると、一人の男がそこに立っていた。

その人の年齢は50代後半ぐらいだろうか。

壮年というにはやや年がいっていて、老人というには少し早い。

それぐらいの年齢に見えた。

 

それにしても、失礼な人だ。

この人が先生かトレーナーか知らないが、いくらこちらが一年生だからといって、初対面の人間にこんなことを言う人を無視してもバチは当たらないだろう。

わたしはなにも聞こえなかったふりをして、立ち去ることにした。

 

「おいおい。それだけでっかい耳してて、聞こえてないわけないだろ?こりゃ思ったとおり、俺と似たタイプの、面白いウマ娘みたいだわ」

 

なんてことをいうんだろう!

いきなりあんなことを言ってくる人と、誰が似てるって!?

 

「あの!」

「おう、聞こえてたんじゃねえか。なんだい?」

 

わたしが怒りの表情を浮かべて大きな声を上げているにもかかわらず、彼はニヤニヤしながら腕を組んでいるだけである。

その態度が、ますますわたしを苛立たせた。

 

「さっきから聞いていれば、いきなり失礼じゃないですか?トレセン学園落っこちたとか、あなたに性格が似てるとか!」

「あれ?違ったか?それなら謝るんだが」

「トレセン学園に不合格だったのは違いませんけどね!わたしがあなたのような失礼な人に似たタイプだ、という言い分には断固として抗議します!」

 

わたしがそういうと、彼は不思議そうに首を傾げる。

 

「ん?お前さん、素行不良でトレセン学園に落っこちたんじゃないのか?俺もお世辞にも、品行方正なタイプではないからな」

「わたしのなにを見てそう思ったんですか!?」

 

別にわたしは優等生といったタイプではないが、素行不良で目をつけられるような真似はしていないつもりである。

 

「なにをみてって、そりゃ……」

 

そう言うと彼は近づいてきて、なにを思ったかいきなりわたしのお尻をパン、と軽く叩いた。

 

「きゃあぁああぁあぁあぁっ!なにするんですか!?」

「走るウマ娘ってのは、ケツとももを見ればわかる。お前さん、俺の見る限り素質だけでいや母親のスマートファルコンよりよっぽど上だ。それなのにトレセン学園に落っこちた、ってことは素行不良以外ありえないと思ってな」

 

わかった。

この人は、きっと不審者なのだ。

お母さんに聞いたことがある。

両手に針を持って「あんし~ん!」とか言って施術を迫ってくる、鍼師を装った不審者が学園に現れたことがあるって。

きっとこの人も、そのたぐいのセクハラ不審者なのだ。

 

わたしは大きく息を吸い込むと……。

 

「警備員さーん!不審者です!ウマ娘のお尻を触り回す、ヘンタイ不審者が出ました!」

「ちょ、おま、まて!なんてことを!!」

 

不審者は慌てまくってるわりに、この場から逃げ出そうとしない。

人間パニックになると、その程度のことも思い浮かばなくなるのだろう。

 

わたしの声が届いたのだろう、校舎の方からものすごい脚で警備員さんたちが駆けつけてくれた。

 

「不審者ですって!それはどこに!?」

「警備員さん、この人です!」

 

なぜか憮然とした表情で仁王立ちしている不審者をビシッと指差すと、警備員さんはその人を見てあきれたようなため息をついた。

 

「……この人、れっきとしたこの学校のトレーナーですよ。ちょっとばかり、素行に問題がある人ですけどね」

 




読了、お疲れさまでした。

今回も最後までお読みいただき、まことにありがとうございました。

【エイシンフラッシュの娘。】という物語を書き上げたあとで蛇足であることは承知していたのですが、
書き終えてしばらく経つと、【叩き上げのウマ娘】であるアデリナのストーリーとはまた別に、
終盤に登場させた【天才ウマ娘・レアの物語】も書いてみたいな、と思ってしまいました。

この作品から読み始めていただいた方にはもちろん、アデリナの話も読んだよ、という方にも
少しでも楽しんでいただけるお話を書いていきたいと思っていますので、
よろしければ今しばし、拙い物語のお付き合いください。

それではまた近いうちに、次のあとがきでお会いしましょう!


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side story ~ファルコンレア~ 2話

エイシンフラッシュの娘。に登場したファルコンレアのストーリーです。

登場人物:ファルコンレア
※オリウマ娘注意です。
こんな感じの娘です。

【挿絵表示】

よろしければ皆様の読書の
一助にしていただけると幸いです。

誕生日:5月5日
体重:絞れていい感じの仕上がり。
身長:171センチ
スリーサイズ:84・58・84

ファルコンレアのヒミツ2・実は、結構なドルオタ。




わたしの大声を聞いて駆けつけてきた警備員さんや先生方、それに周りのウマ娘たちの反応を見る限り、このヘンタイ不審者さんはどうやら本当にこの学校のトレーナーらしかった。

 

……その反応は決して、人気者のそれではなかったけど。

 

「騒がせてすまなかったな。さ、散った散った」

 

なぜかその不審者さんがヒラヒラと手を振りながら周りに謝って、場を収束させようとしている。

それを見て集まってきた人たちも、あきれたため息をついたり、肩をすくめたりしながら解散していった。

 

まあいいか。

いや、お尻を触られたのは全然良くないけど、この不愉快な人ともう二度と会わないで済む代償だと思えばまだなんとか耐えられる。

 

さっさと着替えて帰ろう……。

 

そう思ってカバンを持ち上げたときだった。

 

「おい、お前さん。どこいくんだよ」

 

……まだわたしに用があるのか。

 

「いえもう、帰るんですけど」

「まだそんな時間じゃねえし、体力もあり余ってるだろ?もう一本、走っていけ」

 

この人はわたしのトレーナーというわけではない。

無視して歩を進めていると。

 

「……お前さん。練習で走り込む時と模擬レースの時、同じように脚を使えているかい?」

 

いきなりなにを言い出すんだろう、この人は。

そんなの当然……。

 

「練習と模擬レースでは環境も状況も、履くシューズも違います。まったく同じように走れるわけがないじゃないですか」

 

そうだ。

練習のときは練習用のシューズを履くし、レースのときはレースの距離やバ場に応じて適切なシューズを用意する。

こんな当たり前のことを聞いてくるなんて、この人は本当にトレーナーの資格を持っているのだろうか。

 

「そりゃあ、そうだ。まあでも練習と本番、まったく同じように走れなくても、普通はどちらでも自分のパフォーマンスをそれなりに発揮できるもんだわな。じゃあなんでお前さんはそのギャップがとんでもなく大きいんだと思う?」

 

わたしのことを知っていたのはちょっとびっくりしたけど、【タイムは大したことないのに、レースの成績だけはいい新入生がいる】くらいの噂は聞いているのだろう。

 

もうわたしはこの人と話す気力なんてとっくに失っていたけど、この人が生きてきた年月だけになんとか敬意を払い、会話を続ける。

 

「それがわかれば、わたしは悩み事なんて抱えていないんですよ。あなたには、それがわかると?」

「一本俺の目の前で走ってくれればな」

 

……もうめんどくさい。

とりあえず一本走って見せて、あとはなにを言われても全力で逃げよう。

 

わたしはそう決めると、これみよがしに大きなため息をついてからスタート地点に脚を運んだ。

やる気なさげに走ってやろうか、とも思ったが、周りにはまだ真剣にトレーニングをしているウマ娘もたくさんいることだし、こちらの都合で彼女たちのモチベーションを下げたりすることは避けたかった。

 

トントン、と足元のダートを軽く蹴ってから、わたしは一完歩めから全力で加速してみせた。

 

これはあくまでデモンストレーション。

そんなに長い距離を走る必要もあるまい。

わたしは半マイルほど全力疾走してから、駆け足で元の位置に帰ってきた。

 

「……これでいいですか?」

「ああ。ちょっと靴脱いでみ。右のだけでいい」

「ここで?」

「おう。これバ場にひいて脚のっけてな」

 

そう言うと彼は、思ったより……というと失礼なのかもしれないが、清潔なハンカチをこちらに投げてよこした。

 

……これが噂に聞くブーツ狩りだろうか。

まあ、ここまで付き合ったんなら、あとで文句言われないために最後まで好きにさせてあげたほうがいいかもしれない。

 

わたしはそのハンカチをバ場においてから靴を脱ぎ、そこに右脚を置いてから彼にシューズを手渡した。

 

すると彼は腰に巻いていたポーチから小型のハンマーを取り出すと(変なもの持ち歩いているわね)、右のシューズに取り付けていた蹄鉄の真ん中あたり――ちょうどわたしの足の中指と薬指に当たるあたりだ――をガンガン叩いて少しばかり凹ませてしまった。

 

それからまたあのポーチから薄い鉄の板らしきものと接着剤っぽいものを取り出してペタン、とシューズの底にそれを貼り付けるとそれをわたしに返してきて、「これ履き直してもう一回、同じように走ってきな」と指示を飛ばしてくる。

 

毒を食らわば皿まで、という格言に従ったわけでもないのだけれども、わたしはもう一度スタートラインに立ち、同じように駆け出してみた。

 

!!

 

「うそっ……!」

 

踏み出しだ瞬間に、気がついた。

 

一歩目から、全然加速力が違う!

 

まるで脚につけられていた見えない重石が、外れたようだった。

模擬レースのときと同じように、自分の力が全部出ているのがわかった。

 

いや、それ以上かも……!

 

わたしは脚が赴くまま、全速力でバ場を疾走する。

 

すごい!

気持ちいいっ!

 

今度は1マイルも走っただろうか。

 

ギャロップを緩めて立ち止まると、周りからざわめきが聞こえてきた。

 

あの娘、すごく速かったね。

だれ?

あれってたしか、スマートファルコンさんの娘さんの、ファルコンレアって娘じゃない……?練習じゃあんまりタイム出てないって聞いてたけど……。

 

「どうだ、悪くないだろう~?」

 

あたりの困惑の声に混じって、柵の向こうからそんな声が聞こえてくる。

 

まったく、ウマ娘を含め、人間というのは現金なものだ。

彼に持っていた悪感情はあっという間に霧散して、わたしは「悪くないどころか……最高ですよー!」と、笑顔でブンブン手としっぽを振りながら、大きな声で返事をしていた。

 

彼に、今までの非礼を詫びなければ。

 

そう思って駆け足で彼のもとにやってくると、彼は真顔でわたしの顔を見てこう言った。

 

「それがお前さんの、本当の地力だよ。これからはそのスピードで稽古することができる。……化けるぞ、お前さん。文字通り、化け物にな」

 

 

「俺が見た感じ、お前さんの走りは少しばかり左に重心が偏っていたんだ。それをちょっとばかり、靴に細工して修正してやったってだけさ」

「じゃあでもなぜ、レースだとしっかり走れていたのでしょう?」

「レース用のシューズは練習用のシューズよりしっかりした造りだし、同じサイズのシューズでも、そのウマ娘によりフィットするよう形がさらに細分化されていて、自分の足に一番しっくりくるものを選べるだろう?そのおかげで練習用のシューズよりかは、多少力を発揮できていたんだろうよ。というか、本当に今まで一度も右脚に違和感を覚えたことはないのか?」

 

トレーナーの質問に、わたしは過去の記憶を掘り起こしてみた。

中学の時は、とくにそんな気配はなかったように思う。

それ以前となると……。

 

「レースを始めたばかりの、小学校低学年の頃の話なんですけど……『右足の中指と薬指がちょっと変な感じがする』って当時指導してくれていたトレーナーさんに伝えたことがあったと思います。でも『そんなことは誰にでもよくあることだから、気にしなくていいよ』って言われたのを思い出しました。その違和感はそのトレーナーの言った通り、多分すぐに消えたんだと思います」

 

実際今こうして言われるまで、そんなことは忘れていたわけだから。

 

「……まあ、本当によくあることだからそのトレーナーに気づいてやれ、っていうのも酷な話か……。右に違和感がある分、左が頑張っちまってわずかに重心がずれたんだろうな。しかも身体ってやつはやっかいで、そんな状態でも慣れてしまえば【これがデフォルトだ】って勘違いしてしまいやがる。だが、その靴を半年も履いていれば、重心ももとにもどってくるはずだ」

「でも、練習用シューズの蹄鉄って一ヶ月ごとに打ち直す必要がありますよね?今日打ってもらった分はしばらく大丈夫としても、これからどうすれば……」

「なあに。それぐらいは俺がやってやるさ」

「そうおっしゃってくださるなら、お言葉に甘えますけどね」

 

わたしたちはトレーナー室でそんな会話を交わしていた。

ただ、このトレーナー室……。

 

「さすがに、散らかりすぎでしょ……。まるで一人暮らしの男性の部屋のようですね」

「何だいお前さん、一人暮らしの男の部屋に入ったことがあるのか?」

「!!イメージです!」

 

ニヤニヤしながらわたしの失言に揚げ足を取るトレーナーに、おもわず赤面して怒鳴り返してしまった。

……彼の年齢のせいもあるのか、お尻の件といい、このトレーナーはこういうジェンダーに対してのコンプライアンス意識が著しく低いように感じる。

 

ありていにいってしまえば、ちょっとばかりセクハラオヤジの気があるのだ。

 

それも相当な問題なのだが、この部屋の散らかり具合いも結構な問題で、レースに関する本や資料は言うに及ばず、ジュースの空き缶やコンビニ弁当の空き箱などもあちこちに散乱していた。

 

わたしは別に潔癖症というわけではないが……自分の周りに物が散らかっていると、集中力が削がれてしまうタイプだ。

 

ここに招き入れられた瞬間、思わず「こうも散らかっていてはミーティングどころではありませんよ。まず、片付けましょう」と言ってしまって、それで今二人でトレーナー室のおかたづけをしているわけである。

 

「……トレーナーさん。まさかこれ、仕事中に飲んでいませんよね……?」

 

わたしは部屋のすみっコに転がっていたビールの空き缶を拾いながら、彼をジト目で睨みつけた。

 

「お、ああ!もちろん!きちんと就業時間が終わってから飲んでいるぞ!」

「というか、いくらトレーナー棟が校舎から離れているといっても、一応学校の中なんですから、酒なんて持ち込まないでくださいよ……」

「いや、少しばかりアルコールが入った方が独創的なトレーニングのアイデアが出てきたりしてな……」

 

トレーナーの戯言を聞き流しつつ、わたしはそれを缶・ペットボトルばかり入れている袋にポイ、と放り込んだ。

ゴミの分別はきちんとしないとね。

 

「それからトレーナーさん……」

「それ」

 

トレーナーさんはわたしの言葉を止めると、いきなりこちらを指さした。

 

「どうしたんですか?」

「その、トレーナーさんって呼び方やめてもらえるかい?」

「はぁ」

 

じゃあ、なんと呼べばいいのだろう。

 

「では、どうお呼びすればよろしいのですか?セクハラさんとかですか?」

「そうじゃねえよ。だいたい自分の担当のウマ娘から『セクハラさん』って呼ばれてるトレーナーってヤバすぎるだろうよ」

 

彼がセクハラオヤジなのは事実なんだからそれでいいような気もするが、彼にも一応【セクハラはよくないことだ】という倫理観はあるようでホッとする。

 

言動が一致していないのが困りものであるが。

 

「昔はトレーナーも【先生】とか【テキ】とか、風流な呼ばれ方したもんだけど、いつの間にやら横文字になっちまったなあ。嘆かわしいことだ」

「じゃあ、先生と呼べと」

 

別にいいけどね。

昔はトレーナーも先生って呼ばれてたのは知ってたけど、テキっていうのは初めて聞いた。

昔のトレーナーという職業の男性には、このトレーナーさんのように女の敵が多かったからそう呼ばれていたのだろうか。

 

「いや、それもしっくりこねえ。俺には佐神弦二郎(さがみ げんじろう)っていう立派な名前がある」

「おお。あんまり顔とイメージが一致しない、いいお名前ですね」

「さっきから気になってたんだがお前さん、キレイな顔してるくせになにげに口悪いな!?」

「顔はあんまり関係ないかと」

 

口の悪さは両親にもたまに言われるけど、わたしは自分に正直なだけであるし、口調に顔はあまり関係ない気がする。

 

お父さんはわりとこういうブラックな言い回しに理解がある方だが、お母さんには『ウマ娘はたくさんのひとに愛されなければいけない存在だから、そういう言い方はやめたほうがいいよ』とよく注意される。

 

わたしはこれも個性と思っているから、お母さんからのお説教は参考程度に聞き流してあまり気にしないようにしていた。

 

「まあ、いいや。とりあえず俺のことは『ゲンさん』とでも呼んでくれや。今まで担当してきた娘達にはみな、そう呼ばせてたから」

「そうですか。ではそう呼ばせてもらいますね」

 

自分を指導してくれる人がそうした方がスムーズだ、と考えているのなら、別に反対する理由もない。

トレーナーを名前で呼ぶのは少しばかり違和感はあるが、これもきっと慣れてくるのだろう。

 

「あ、あと。俺に対して敬語はナシな」

「……は?なぜです?」

 

さっきこちらの口調をとがめてきた人の言い分とは思えないんだけど。

 

「敬語ってやつは便利だ。腹の中はともかくとして、使っていれば従順を示せるし、立場も明確にしやすい」

 

敬語もそんな理由ばかりで使われているわけではないだろうが、そういう一面も確かにあるだろう。

 

「ただ、本音のホンネの話をするときにこの言葉遣いは向いてねえ。少なくとも俺は、ウン十年生きてきて敬語を使わきゃいけないような相手に自分の本心を話したことは一度もない。結局、敬語ってやつはよそ行きの言葉なんだよ」

 

豪放磊落な彼が敬語を使っている姿をイメージするのは難しかったが、言いたいことはわからないこともなかった。

 

確かに敬語を使うような関係の相手に自分の本心をぶつけるという経験はなかなかないだろうな、くらいのことは小娘のわたしにも想像できる。

 

でもさすがに……。

 

「これは俺の持論だがな。トレーナーとウマ娘ってのは、一種の運命共同体だ。ぶっちゃけると、担当したウマ娘の成績がこっちの給料に関わってくるからな。さすがにビジネスパートナーとまでは言わないけどよ、そういう関係は対等だと思って付き合ったほうがいいと俺は思っているんだよ」

 

ふむ。

トゥインクルを手掛けるトレーナーともなると、いろんな考えの人がいるもんなんだな……。

 

「なあに、難しく考える必要はねえ。近所のおっさんに声掛ける感じでやってみてくれりゃいい」

「わたしはご近所さんにも敬語くらいは使うんだけれども。トレーナーがそういうのなら、やってみるわね」

 

わたしのタメ口に、トレーナー、いや、ゲンさんはにっこり微笑んだ。

 

「ところで……わたしの専属トレーナーはあなたに決まりってことなのかしら?できればもっと、若くてイケメンなトレーナーが良かったのだけれども」

「今更それ言うか!?」

 

わたしのとっておきの冗談に、彼は大げさに驚いてみせてくれた。

 

「……なんかお前さんとは、長く仲良くやれそうな気がするよ。そのイケメン云々ってのはそのうちなんとかするからよ、今は俺でカンベンしてくれや、レア」

 

初めてわたしの名前を呼んで差し出してきた彼の右手を、わたしは少しばかりシニカルな微笑を浮かべながらも、しっかりと握り返したのだった。

 




読了、お疲れさまでした。

今回も最後までお読みいただき、まことにありがとうございます。

今回はレアとトレーナーの出会いを中心に書いてみました。

天才ウマ娘と破天荒トレーナーが紡ぐレース奇譚。。
そんなストーリーを少しでも楽しんでいただければなあ、と思っています。

実際の競馬では、昔はレース用とトレーニング用の蹄鉄は違うものを
使用していたようです。
ですので、シンザン鉄と呼ばれた特殊なトレーニング用の蹄鉄なども
存在していました。
ただ、レースのたびに蹄鉄を打ち直すのでは馬の蹄へのダメージが大きいことから
レースとトレーニング両用の蹄鉄が1980年代に開発され、現在では
それが主流になっているようです。

前回・今回とだいたい5000字程度で区切ってみたのですが、
アデリナ編のときは長文でも読んでくださる方も多かったので、
あまり字数は気にせず、(今回のように)キリのいいところで
書き上げてもいいのかもしれませんね。

それではまた、近いうちにあとがきでお会いしましょう!


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side story ~ファルコンレア~ 3話

エイシンフラッシュの娘。に登場したファルコンレアのストーリーです。

登場人物:ファルコンレア
※オリウマ娘注意です。
こんな感じの娘です。

【挿絵表示】

よろしければ皆様の読書の
一助にしていただけると幸いです。

誕生日:5月5日
体重:絞れていい感じの仕上がり。
身長:171センチ
スリーサイズ:84・58・84

ファルコンレアのヒミツ3・実は、ネット将棋で初段の腕前。



わたしに専属トレーナーが付いたことを両親に報告すると、ふたりとも安心した表情を浮かべてくれたのだが、特にお母さんのほうはとても喜んでくれた。

 

「よかったー!レアに限ってそんなことはないだろうけど、このまま4月が終わってもゴールデンウィークを過ぎても、トレーナーさんがつかなかったらどうしようかとちょっと心配してたんだよ!」

 

基本的には専属トレーナーがつかないとレースに出られないので(トレーナーには身元引受人のような役割もある)、そんなことになっていればわたしのデビュー自体が危ぶまれるところだった。

 

トレーナーが決まったということは、正式にわたしがメイクデビューを戦う資格を得た、ということだ。

 

そうなって一番ほっとしたのは、きっとわたし自身だっただろう。

 

 

専属トレーナーが付いたのは良かったんだけど……。

 

「ほれほれレア、あとまだダート3本残ってるぞ!」

 

放課後のダートコースに、そんな声が響き渡った。

 

「そのあとみっちり、筋トレするからな。で、最後に30分かけてストレッチだ」

「ええ……わかったわ」

 

どうも彼はスパルタ方針のトレーナーらしく、他の娘よりトレーニングメニューが明らかにきつい。

体感で言うと、3割ぐらいは他の娘より練習量が多い感じだ。

 

わたしは別に練習嫌いというわけでもないのだけれども、他の娘よりもたくさんやりたい、がんばりたいというタイプでもないので、正直ちょっと困惑しているところもある。

 

しかも、なんというか……。

 

「お、疲れた顔してんな。根性が足りんよ、根性が。ガンバレ、とにかくガンバレ」

「………………」

 

佐神トレーナーの評価をまわりから聞いていると、人間的には問題あるところもあるが、トレーナーとしての腕は確か、って感じなんだけど……。

わりと根性論を振りかざすことが多くて、この人について行って本当に大丈夫なのかな、と思わされることもある。

 

「ねぇ」

「あん?どした?」

「別にわたしもトレーニングするのは嫌じゃないんだけど。その……こんなにたくさん練習しなきゃだめなもんなの?もちろんトゥインクルに挑戦するわけだから、生半可なことじゃ通用しないのは分かってるし、そんなに甘いものじゃないのも理解しているつもりよ。でも、明らかに他の娘より練習メニューキツイじゃない」

「そうそう!そういうホンネを言いやすくしておきたかったから、敬語はナシって言い聞かせておいたんだよ!」

 

わたしが不満を表明すると、まるでその言葉を待っていました、とばかりに彼は持論をぶち始めた。

 

「そもそもの話だ。ウマ娘の能力って何で決まると思う?」

「それは……持って生まれた才能と、それを伸ばすための練習じゃないかしら?」

「そのとおりだ。じゃあ持って生まれた才能っていったいなんだ?」

 

そんなことを急に聞かれて、わたしは思わず考え込んでしまった。

改めてそう聞かれると……。

 

「親から譲り受けた、その人の限界能力って意味なんじゃない?」

「それだけか?」

「細かいことをいい始めたらキリがないだろうけど、それで間違っていないと思うわ」

「ふむ。まあ、大まかは間違っちゃいねえ。だが、ひとつ大きなもんが抜けちまってる」

 

そう言って黙り込んだのは、わたしにその答えをもう少し考えてみろということなのだろう。

でもわたしは間違ったことは言ってないつもりだし、辞書的にも【才能】という言葉はそういった意味のはずだ。

わたしはちょっとした意趣返しも込めて、沈黙に沈黙を返すことにした。

 

「……分かんねえか。それはな、練習量だ。俺は練習量はそのままそのウマ娘の才能の量だと思っているんだよ。少しのトレーニング量で超一流になった天才ウマ娘ってのは、いないんだ」

 

なによ、そのありきたりな言い分は。

結局根性論じゃないの。

 

「……要するに、努力できるかも才能、って話?」

「ちょっとニュアンスが違う。それだと努力ができるかさえ親がそう生んでくれたか、って意味になっちまう。才能に限界があるのは、俺も認める。だが、その限界がどこにあるか神ならぬ身にわかるわけもないし、そいつはある程度努力で押し広げることができると信じているんだ」

 

それは少し、理想論が過ぎる気もするけど……。

 

「限界を押し広げるためにも、厳しいトレーニングが必要ってことね?」

「持って生まれた能力の限界まで鍛え上げりゃもう十分ってなら、人並みのトレーニングでも構わねえだろうよ。でもな、俺が担当するんならそれ以上の能力を引き出してやりたいと思ってる。でないと、担当するのは俺じゃなくても良かったってことになるからな」

「ふむ……」

 

普段はどことなく掴みどころのない感じのする人だが、実際はかなりの熱血漢らしい。

 

「別にそこまでやりたくないってお前さんが言うなら、それはそれでかまわない。ただ、それなら俺が指導する必要はないわけだから、お前さんとの縁もここまでだ。今のレアになら、いくらでも指導したいってトレーナーもいるだろうしな。もしトレーナーを変えたいって考えてるなら、早いうちの方がいいと思うぞ」

 

わたしの答えは、決まっていた。

 

「あなたのいうことは少しばかり理想論が過ぎる気もするし、極論のような気もするけど……理想を追っかけることすらしないなら、実現なんてしないものね。これからも、よろしくお願いします」

「そこまでぶっちゃけてきたウマ娘は、お前さんが初めてだよ」

 

彼は苦笑いしながらそう言って、でも、嫌いじゃねえ。じゃあ残りのメニュー消化してこいと指示を出した。

 

 

今日の夕食はメインが豚生姜焼き、副菜にニンジンのしりしり、あとはご飯と味噌汁だった。

職業柄お父さんが家にいることが多いこともあって(ちなみにプロの将棋指しだ)、食事はお父さんとお母さんが一日置きに交互に作ってくれている。

 

……どっちの方が料理がうまいかは、想像におまかせしたい。

 

「レア。今度の日曜日、勝負服を作りにいきましょう!」

 

わたしが好物の生姜焼きに舌鼓を打っていると、いきなりお母さんがそんなことを言いだした。

 

「勝負服……?」

 

うん、そういう物があるのはわたしも知っている。

でも……。

 

「いや、あれって基本オーダーメイドだし、安いもんじゃないでしょ。まだわたしがG1に出れるようになるかなんてわからないし。勝負服なんて、わたしがG1に出られるようになってからでいいわよ」

 

なんなら作らなくても、URAが用意してくれている勝負服もある。

 

G1に出られることが急に決まってもそれを着ればいいし、もしわたしに才能があってG1の常連にでもなるようなら、改めて作ってもいいと思う。

 

「私もそんなに急いで作らなくてもいいかな、とも思っていたんだけど、お父さんがレアのデビューが決まったのなら勝負服を作ってあげたいって言ってくれてて」

「お父さんが?」

 

わたしはちょっと驚いて、思わずお父さんに視線を向けてしまった。

お父さんはわたしの進学に関して特になにも言わなかったから、そういうことを言ってくれたのが少し意外だったのだ。

 

思い返してみれば、お父さんがわたしのレースの成績や取り組み方に対してなにか言ってきたことは、今まで一度もなかったように思う。

もちろん大きな模擬レースで優勝したりしたときは『おめでとう』ぐらいは言ってくれていたけど、逆に言うとレースとお父さんとの思い出はそれぐらいしかない。

 

「俺はそんなにレースの世界に詳しいわけじゃないが、G1という大舞台に出るときのための服があるとは聞いていてな。お前のデビューが決まったら、その勝負服をお祝いに贈ってあげたいと思っていたんだよ」

「そうなの。お父さんっててっきり、わたしのやっていることにはあんまり興味がないと思っていたわ」

「そんなことはない。ただ、門外漢が口を出すのはどうかと思って、お前の進路やレースのことは専門家のファル子に任せていただけだよ」

 

自身が将棋のプロ、ということもあるのか、お父さんは餅は餅屋という考え方を強く持っていて『その道のことはその道の専門家が考えればいい』というのが口癖だった。

 

「勝負服っていうのは、そのウマ娘がデザイナーと相談しながら自分でデザインするものらしいな。俺はその手のセンスがからきしで、スーツのネクタイ合わせもファル子にお願いしているぐらいだから、その場にいてもボーッとしているだけになりそうだ」

 

そう言ってお父さんはカラカラと笑った。

そんなことを言ってくれるということは、今度の日曜日は一緒に来てくれるのだろう。

 

「じゃあ、お願いしようかな。勝負服」

 

わたしがそう言うと、お父さんもお母さんも満足そうに笑顔でうなずいてくれた。

わたしはきっと、それ以上に嬉しそうな笑顔を浮かべていただろう。

 

最初ああは言ったものの、自分だけの勝負服というものにワクワクしないウマ娘はめったにいないのだから。

 

 

次の日曜日には約束通り、家族三人で勝負服の専門店に行き、デザインの相談から採寸まで済ませてきた。

 

「わたしは黒とか紺色、白色が好きで……」

「えーっ、もっとピンクとか黄色とか入れたほうが絶対にかわいいって!」

 

「こう、なんといいますか、デザイン的にはあんまりヒラヒラしたものよりも、スラッとしたイメージのものの方がいいかなって考えていて……」

「それだとライブのときに映えないよ。フリルとかリボンもたくさんつけた方がファンの目を引くよ!」

「いや……それ絶対、大柄のわたしに似合わないでしょ……」

「そんなことないよ。小さい頃、ピンク色のハートのステッキを振り回して『魔法少女れあ・マギカ☆』とかやってたじゃない!とってもかわいかったんだから!」

「……ちょっと黙ってて。お願いだから」

 

わたしが原案を出し、お母さんがそれにダメ出しをし、デザイナーさんが苦笑いをするといったシーンをお父さんは楽しそうに眺めていた。

 

結局わたしは全部自分の意見を押し通して、黒を基調にした、流線型のデザインが特徴的な勝負服を発注することにした。

 

デザイナーさんに完成時のイラストを描いてもらったけど、ほとんど自分の理想通り、いや、それ以上に洗練されたデザインのものになっていたことに感動した。

 

餅は餅屋、とはよく言ったものだ。

 

イメージとしてはお母さんがこだわった【カワイイ】を感じさせるより、かっこいいという印象が強いデザインだ。

アイデア出しに付き合ってくれたお母さんには申し訳ないけど、こちらのほうが絶対にわたしらしい勝負服だと思う。

 

うちの両親のいいところは、わたしの考えをないがしろにしてまで自分の意見を押し付けてくる、ということはしないということだ。

 

入学前にお母さんには『レアは歌もダンスも上手だから、ウマドルをやってみたらどう?』って言われたこともあったけど、『あまり興味がないから』と言って断ったら苦笑いしてそれ以上言われることもなかったし、プロ棋士であるお父さんにも将棋のルールを教わったけど、それ以上はわたしに将棋の勉強を強要することもなかった。

 

お父さんには『本人に興味があって強くなりたいなら、勝手に将棋を勉強する』というドライな考え方があったみたいだけど。

 

勝負服を作るのにかかったお金はデザイン料も含めて7ケタに近いものだったけど、それはお父さんが自分のポケットマネーから全部出してくれた。

 

「俺もプロになったとき、師匠から和服一式を贈ってもらったんだ。それには『早くこれを着てタイトル戦に出られるような、立派な棋士になりなさい』という願いも込められていて、いただいたときには一層身が引き締まったものだよ。俺はお前にも、大舞台で戦えるような立派なウマ娘になってもらいたいと思っている」

 

普段口数の少ないお父さんらしい、実直な言い方だった。

いつもは少しチャラけたところのあるお母さんも、このときばかりは神妙な表情を浮かべて、お父さんの言葉に静かにうなずいていた。

 

こういうところを見るとお母さんもやっぱり、一廉の【戦うウマ娘】だったんだろうなと思う。

 

不器用なお父さんはお父さんなりに、きっと『がんばれよ』とわたしに伝えてくれているのだろう。

 

「うん。わたしは、精一杯戦うよ。お父さん、お母さん。本当にありがとう」

 

だからわたしも大げさな言い回しはせず、一番伝えたいことだけを率直に両親に伝えた。

 

 




読了、お疲れさまでした。

今回も最後までお読みいただき、まことにありがとうございます。

私は結構多趣味で、こうして駄文を連ねる他に、絵を描いたり麻雀を打ったり、
将棋を指したりすることもあり、こうして小説の中でも登場させたりして
楽しんでおります。

読んでくださっている方には伝わっているかと思いますが、
私の文章にはちょくちょく【わかる人にはわかるネタ】みたいなのを
差し込んでいて、また作者のワルイ癖が出てるよ、と苦笑いして
読み流していただけていれば幸いです。

それではまた、近いうちにあとがきでお会いしましょう!


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side story ~ファルコンレア~ 4話

エイシンフラッシュの娘。に登場したファルコンレアのストーリーです。

登場人物:ファルコンレア
※オリウマ娘注意です。
こんな感じの娘です。

【挿絵表示】

よろしければ皆様の読書の
一助にしていただけると幸いです。

誕生日:5月5日
体重:絞れていい感じの仕上がり。
身長:171センチ
スリーサイズ:84・58・84

ファルコンレアのヒミツ4・実は、料理が得意。




GWも終わり、吹く風が一年で一番心地よい季節になった。

 

そんなある日、わたしはちょっとした用事があってトレーナー室にいた。

 

「おお、いいじゃねーか」

 

わたしのトレーナーであるゲンさんが、勝負服姿のわたしを見てそんな感想をもらした。

昨日自宅に届いた勝負服を、担当トレーナーである彼に早速お披露目しているわけである。

 

もちろん勝負服を作ってくれた両親には一番に見てもらっており、勝負服姿のわたしをはさんで家族三人、庭で記念撮影をした。

 

このことはきっと、一生の思い出になるだろう。

 

「でしょう?」

 

彼の褒め言葉に気を良くしたわたしはふふん、と得意げに笑って、くるり、とその場で回ってみせた。

 

「まだわたしがG1に出られるようになるかなんてわからないから、別にいいっていったんだけどね。デビューが決まったお祝いと……『早くこれを着てG1に出られるような、立派なウマ娘になりなさい』って願いも込めて、両親が作ってくれたの」

「そうか。お前さんは幸せものだな」

 

それに関しては全面的に同意なので、わたしは黙って彼の言葉を首肯する。

 

「さて。いくら勝負服が立派でも、それに身を包んでるウマ娘がダバ娘じゃ勝負服が泣いちまうってもんよ。ご両親の願いどおり、それを着てG1に出られるようなウマ娘になれるよう、しっかりトレーニングしないとな」

 

言い方!と思ったがそれもまったくそのとおりであるので、わたしはうなずいていつものジャージに着替えようとそれに手を伸ばしたが……。

 

「ん?どうした?」

「着替えんのよ!わかってるでしょ、でてけーっ!!」

 

にやにやしているだけで一向に部屋から出ていこうとしないゲンさんに、わたしは近くにあったシャーペンを投げつけてやった。

 

彼はそれをお腹でペしり、と受け止めると、やれやれと肩をすくめて出ていったけど……まったく、やれやれはこちらの方である。

 

 

そんなことが朝のトレーニング前にあり、トレーニングが終わるとシャワーを浴びて制服に着替え、それから自分の教室に移動した。

 

わたしの通う南関東トレーニング学校には寮もあるけど、自宅が学校から片道30分くらいのところにあるので、寮生活はしないで電車と徒歩で通学している。

 

トレーニングが終わってから朝のHRが始まるまでの時間は、わたしにとって貴重な自由時間である。

わたしはタブレットを取り出し、昨日ダウンロードしたばかりの雑誌を早速タップして読み始めた。

 

「おっはよ、レア。あ、もう今週号配信されてたんだ!」

 

雑誌を読み始めたわたしの背中をぽん、と叩き、一人のウマ娘が挨拶してきた。

 

後ろの席の、フロストシルヴィという娘で、入学式の日に席が前後になったことが縁でお話したのをきっかけに、友だちづきあいをさせてもらっている。

 

優しい感じの顔立ちをした娘で、くりっとした大きくてまるい翡翠色の瞳が目を引く。

髪は艶のある鹿毛を肩甲骨周りまでのロングヘアにしていて、どことなくお嬢様然とした雰囲気を醸し出している。

その印象はあながち間違っているわけではなく、実際彼女のお父様はどこかの大企業の役員さんを務めていると聞いた。

その話は彼女から聞いたわけだが、それをまったく嫌味に感じさせなかったあたりが、この娘の人徳と気さくさなんだろうなと思う。

 

「おはよう、シルヴィ。うん、わたし毎週配信30分前にはタブレット用意して待機してるからね」

 

わたしは挨拶を返しながら、再びタブレットに視線を戻した。

そこには涼やかなツリ目の瞳をカメラに向けた、髪の長い美少女が写っている。

彼女は今をときめく【アイドル】だ。

マイクを握り、華やかな衣装に身を包んだ彼女からは、歌の持つ力を信じてその思いを精一杯伝えようとする気迫が、カメラの向こう側から伝わってくるようだった。

 

わたしが見ているページを、シルヴィも興味深そうにのぞき込んできた。

 

そう、何を隠そうわたしは結構な【ドルヲタ】なのである。

で、シルヴィも実は【そのスジの人】らしく、わたしと結構会話が盛り上がったというわけだ。

 

「シルヴィ、見て見て!今週は推しのRENの特集で、めっちゃ楽しみにしたのよね。ホント、RENって歌もうまいしダンスも素敵だし、顔もいいしでホント最高……!お母さんも元アイドルの渋谷凛さんで、やっぱり血統ってあると思うの。この前の動画配信で母娘でそれぞれの持ち歌を交換して歌ってるの聞いて、もうエモくてエモくて鳥肌ものだったわ!」

 

わたしの、早口で言いたいことを言いたいだけいうオタク独特の特性にも引くことなく、彼女はうんうん、とうなずいて理解を示してくれる。

 

「RENってビジュアルやパフォーマンスが素晴らしいだけじゃなくて、ファンにも親切だよね。私前にさ、一度だけ偶然街で見かけたことがあってね。その時思い切ってサインお願いしたら、嫌な顔ひとつせず笑顔で書いてくれたもん」

「え、シルヴィってRENの生サイン持ってるの?みたいみたいみたい!」

「じゃあ今度、うちに遊びに来たときに見せてあげるよ。……レアってばなんか遠慮して、私の家に一度も遊びに来てくれたことないでしょ」

「いや、別に遠慮とかしてるわけじゃないんだけれども……」

 

……なんかさ、お金持ちの友達の家ってちょっと行きづらくない?

家にメイドさんとかバトラーとか普通にいてそうだし、そんな人達に『お嬢様の御学友ですか』なんて言われた日には、どんな顔すればいいかわからない。

 

それはともかくとして、そんなアイドルオタクらしい話で盛り上がっていると(ヲタ話のいいところは格差関係なく盛り上がれるところだ)、ふとシルヴィが「う~ん……」とうなりながらわたしを見つめ、不思議そうな表情を浮かべた。

 

「どうしたの?」

「というかさ、前から疑問に思ってて聞こうかどうか迷っていたんだけど……。そんなにアイドルが好きなら、そっちの方でも活動すればいいのにって。レアって顔立ちも綺麗だし、歌もダンスもとっても上手じゃない。それに確かレアのお母様ってスマートファルコンさんで、ウマドルとしても活動されていたんでしょ?」

 

うーん。

まぁ、なんとなく聞きにくかったのはわかる。

母娘関係、特にウマ娘のそれは結構微妙なことも多いからね。

 

それを聞いてきてくれた、ということは彼女からの信頼感が、わたしに少しずつでも生まれてきているということなのだろう。

 

それは素直に嬉しく思う。

 

いやー実は、それ中学生の時からよく言われるんだけど……。

 

「あー、なんというか……ファンとして応援するのと自分がやるのは、またなんか違う気がするのよね。例えばさ、いい曲を聞いて感動しても、別にそれで自分も曲を作ってみたいとは普通の人は思わないでしょ」

 

どんなジャンルでも、プロのパフォーマンスを見て自分もそれやってみたい!と思う人は、もうそれだけで特別な人なんだろうなと、わたしみたいな凡人は思ってしまう。

 

「なるほど……。言いたいことはなんとなくわかる気がする」

 

そう言って彼女はすこし曖昧な笑みを浮かべた。

直感的に理解しやすい例ではなかったかもしれないけど、こういうのは感覚の問題なので、フィーリングでなんとなく伝わればそれでいいのだ。

 

「そうそう。お母さんと渋谷凛さんの話ししてたら思い出したわ。お母さんが現役時代の話なんだけどね。渋谷凛さんの事務所とウマ娘がコラボしたことがあるらしいのよ。その時にアイドルソングを歌うのがウマ娘たちの間でも流行って、みんなで歌って盛り上がったりしてたんだって」

「それ、聞いたことある!またそういうコラボやってほしいよね」

 

それとなく話をもどしたわたしにツッコミを入れることなく、シルヴィは話の流れに乗ってくれたようだ。

その時にはキタサンブラックさんと佐藤心さんのデュエットという、謎のコラボもあったらしい。

……このユニットは一部の人達の間で話題になったそうだけど、わたしにはよくわからない話である。

 

「でもさ、この曲をメイショウドトウさんが歌ったときは、みんな神妙な面持ちでその歌を聞いていたらしいわよ」

 

私はそう言ってその曲をタブレットから呼び出し、イヤホンを差し込んで片方を彼女に手渡した。

シルヴィがイヤホンを耳に差し込んだのを確認してから、わたしは再生ボタンをタップする。

 

その曲の歌詞は、こんな出だしから始まる。

 

【ただただ君に似合う あのステージ衣装 笑顔で見てたけど 好きじゃなかった】

 

「あ~……うん。これは分からないでもないかな……」

 

【君のステージ衣装、本当は……】を聞いたシルヴィは、ドトウさんがその歌を歌っているシーンを想像したのだろう、妙にシリアスな表情を浮かべた。

 

「……まあ、5回もセンター奪われて、自分はその隣で歌っていた、となるとねぇ……」

 

ドトウさんとテイエムオペラオーさんの激闘に思いを馳せ、ステージ衣装を勝負服に変えてみると、ウマ娘なら誰しも神妙な気持ちになるだろう。

 

ただ、ドトウさんのすごいところは6回目の挑戦の果てに、G1宝塚記念で見事に世紀末覇王を撃破した、ということだ。

この不屈の執念は、見習うべきところがある。

 

「将来G1のような大舞台に出られるかどうかはともかく、わたしたちもがんばらないとね」

 

わたしがそんなことを言うと、まるでそれを待っていたかのように授業の予鈴が鳴った。

それと同時に担任の先生が教室に入ってきて、楽しいヲタ話の時間は終わりを告げた。

 

 

午前の授業が終わり、わたしとシルヴィは机を向かい合わせにしてお弁当を広げていた。

彼女のお弁当は意外にも普通な感じで、毎日お母さんが作ってくれているらしい。

ちなみにわたしのお弁当は、毎朝自分で作っていたりする。

 

料理はわたしの数少ない特技のひとつだ。

実は中学生の時から自分でお弁当は作っていて、それとなく一緒に昼食を取っていたグループの女の子たちにそのことを伝えていたら、それを拾い聞いたクラスの男子から『お前が作ってる?嘘つけ!』と言われたことがあった。

 

売られた喧嘩は、買わねばなるまい。

 

調理実習のときにわたしの料理の腕を証明してやり、その件の彼に『ごめんなさい』と謝らせたことがある。

 

しかし……わたしはそんなに料理できないタイプの女の子に見えるのだろうか。

 

そんな過去を思い出しながら、里芋の煮っころがしを箸でつまんでいたら。

 

「ねえ。私のシューマイあげるから、レアのたまご焼き一切れちょうだい」

「ええ、いいわよ」

 

と、こんな感じでお互いのおかずを交換し合うことも多い。

 

「んー、だしがきいてて美味しい!これ、自分で作ってるんでしょ?」

「まあ、大したもん作れないけどね」

「そんなことないよ。たまご焼きが作れるって、それだけでもう料理できるって感じするもん」

 

お世辞だと分かっていても、褒められると嬉しいのは人のサガである。

 

「たまご焼きなんて何回か失敗したら、誰でも作れるようになるわよ。失敗したらスクランブルエッグにしちゃえばいいし」

「なるほど~。うーん、私も料理挑戦してみようかな」

「うん、いいと思うわ。料理って結構気分転換にもなるしね。もし始めるなら最初は料理のサイトとか見て、調味料とかも量りながらその通りに作るといいわ。慣れたらフィーリングでだいたいの量とか分かってくるけどね」

「あ~……メシマズにしちゃう人って、その辺り最初っから自分の感覚だけで作っちゃう人多いって聞くよね……」

 

と、そんな感じでしばらくは料理談義に花が咲いていたのだけど、たまにはウマ娘らしい会話もいいだろうと思ったわたしは「そういやシルヴィのデビューってどれくらいになりそうなの?私は8月の上旬ぐらいになりそうって話なんだけど」と聞いてみた。

 

「うん?そういや、いつぐらいなんだろう?特に聞いてないかな」

 

大事なデビュー時期の話なのに、まるで他人事のようである。

 

「トレーナーとそういう話しないの?」

「レースとトレーニングのことは全部トレーナーに任せてあるからねぇ。こっちからは聞くこともないし」

 

それに……と彼女は声を潜めて、こんなことを言った。

 

「あんまりココじゃ大きな声で言えないけど……私さ、昔重賞を勝ったことがあるお母さんに言われてこの学校に来ただけで、実はそんなにレースとかに興味ないんだよね」

「……そうなの?」

 

シルヴィのその言葉を聞いて、ちょっと驚いてしまった。

 

そういう娘もいるんだ。

 

この南関東トレーニング学校に入るのも、そんなに簡単なことじゃない。

 

確かにうちの学校のレベルは、【日本最高峰】のトレセン学園には及ばない。

でも、高校受験になぞらえるなら【卒業後は高学歴といわれる大学を狙う生徒が多い進学校】に入るぐらいの実力が必要なのだ。

南関東トレーニング学校に入学したウマ娘はみんな、ここに入るためにそれ相応の努力を小さい頃からしてきているはずである。

 

「私も一応ウマ娘だから走るのは嫌いじゃないし……応援してくれてる人もいるから、もちろんそれなりに一生懸命やるつもりでいるけどね。でもほんとは他にやりたいことがあるんだ」

「やりたいこと?」

「……レアになら、言ってもいいかな」

 

彼女はそう言うと、スマホを取りだしてなぜかウマッターを表示させた。

そこに表示されたアカウントはアニメイラストのアイコンのもので、入学式の日に教えてくれたものとは違っていた。

 

プロフィールをチラミすると、表示されていたのは知らないユーザー名と……。

 

「フォロワー8000人!?」

「うん。イラストを描いてる人の中だと、そんなに多いほうじゃないけどね」

「そうなんだ。……これってやっぱり、シルヴィのもう一つのアカなの?」

 

わたしの疑問に、シルヴィは少し恥ずかしそうに首を縦に振る。

 

断りを入れてスマホを彼女から受け取ると、わたしは【投稿されたツイート】をタップし、スクロールして拝見する。

そこにはとても上手なアニメイラストが、たくさん投稿されていた。

 

「これ、シルヴィが描いてるの?」

「一応……まだまだ下手くそだけど」

「いや、ムチャクチャうまいじゃない。普通にマンガとかラノベの表紙に載ってそうな感じね」

「いやいや、さすがに褒め過ぎだよ……」

 

シルヴィは恐縮したように苦笑いを浮かべたが、彼女の絵は素人目にはそれぐらい上手に見える。

 

「これぐらい上手ってことは、やりたいことって絵を仕事にしたりすること?」

「うん、まだ家族にも言ってないけどね。でも自分の競走生活が一段落したら、イラスト系の専門学校に行って本格的に学びたいと思ってるんだ」

 

そう語る彼女の表情は、レースのデビューの話をしているときとは比べ物にならないほど、輝いて見えた。

 

「そうなのね。それって、とても素敵な夢だと思うわ!」

 

わたしがそう言うと、彼女は照れくさそうな、それでいてちょっと安心したような微笑みを浮かべた。

この学校でレース以外の夢を語ることは、彼女にとって少し怖いことだったのかもしれない。

 

「そうだ。もし私のイラストが気に入ってくれたのなら、一枚描いてあげようか?」

「ほんとう?」

 

わたしはあまり二次元の方には詳しくないけど、これだけ綺麗な絵ならぜひ描いてほしい。

そうね……。

 

「じゃあ、RENを描いてくれる?」

 

少し考えてからわたしが今朝話題にのぼったアイドルの名前を出すと、彼女はちょっと難しそうな顔をした。

 

ひょっとしたらアニメイラストの女の子を描くのとリアルの女の子を描くのでは、感覚が違ったりするのだろうか。

 

「いいけど……写実的な感じじゃなくて、私の画風にコンバートされたイラストになるけどいい?」

「もちろん!それは描いてくれるシルヴィにおまかせするわ。できあがるの、楽しみにしてるわね!」

 

わたしの言葉に、シルヴィは少し得意げな感じでうなずいてくれた。

彼女にとって絵を描く、というのはそれだけ誇らしいことなのだろう。

 

 

一週間後、彼女は描き上げた絵をわたしのLANEに贈ってくれた。

マイクを握り、きらびやかな衣装に身を包んで歌を歌っているRENのイラスト。

見ているこちらも明るい気持ちになれる、華やかで素敵な絵だった。

 

なんでもこの絵、ウマッターにRENのファンアートとしてアップしたらご本人にもウマイネとリツイートされたらしく(羨ましい!)、自己最高のウマイネ数を獲得できた、とシルヴィは心底嬉しそうに報告してくれた。

 

インスピレーションを与えてくれたレアのおかげだよ、なんて満面の笑みでお礼を言われると、なんだかこちらもちょっとむず痒い感じだ。

 

わたしはプレゼントしてもらった絵を、早速スマホのロック画面の壁紙にさせてもらった。

 

……恥ずかしい話なんだけど、わたしは友だちが少ない。

小中学校で付き合いのあった友人も進学してからは疎遠になってしまったし、ここに入学してからできた友人らしい友人はシルヴィだけだ。

 

友だちが、わたしのためだけに描いてくれた絵。

 

この絵を見るたび、厳しい競争環境にいてもわたしは一人じゃないんだと思えて、ちょっと勇気がもらえる。

 

そんなスマホのロック画面を閉じ、ミーティングのために呼び出されたトレーナー室に向かう。

ノックをして扉を開けると開口一番、ゲンさんは不敵な笑みでこう言った。

 

「お、レア。来たな。お前さんのデビューの日が決まったぞ。8月の第一土曜、大井レース場メイクデビュー・ダート1200Mだ。デビュー戦で初勝利目指して、ビシバシいくぞ」

 

いよいよデビュー。

それを聞いて、わたしの身がギュッと引き締まる。

 

「望むところよ。よろしくお願いするわ」

 

彼の言葉にわたしも精一杯強気な笑みを浮かべて、返事したのだった。

 




読了、お疲れさまでした。

今回も最後までお読みいただき、まことにありがとうございます。
今回はレアたちの日常風景を書いてみました。

どんなジャンルでもトップレベルの人はそれが好きでやってる、と
思いがちですが、オリンピックに出るような人の中には
『別に走るのは好きじゃないけど、得意だからやってるんだ。
みんな応援してくれることもあるしね』という考え方の人もいる、と
どこかで読んで、天才も人それぞれなんだなあ……と
妙に感動した覚えがあります。

それではまた、近いうちにあとがきでお会いしましょう!


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side story ~ファルコンレア~ 5話

エイシンフラッシュの娘。に登場したファルコンレアのストーリーです。

登場人物:ファルコンレア
※オリウマ娘注意です。
こんな感じの娘です。

【挿絵表示】

よろしければ皆様の読書の
一助にしていただけると幸いです。

誕生日:5月5日
体重:絞れていい感じの仕上がり。
身長:171センチ
スリーサイズ:84・58・84

ファルコンレアのヒミツ5・実は、ワンダーアキュートのジムに行ったことがある。



特に雨が多かった今年の梅雨も終わって、7月上旬の暑い日。

 

いよいよ具体的なデビューの日も決まり、トレーニングも一層激しさを増した……といいたいところだけど、実のところトレーニングの強度はほとんど変わっていない。

 

というのも、わたしの毎日のトレーニングは肉体の限界のほぼ85%ほどで行われているからだ。

 

クラスメイトの話などを聞いていると(いくらわたしに友人が少ないといっても、シルヴィ以外のクラスメイトと話もしない、というほどではない)、トレーニングの強度は担当しているトレーナーによって方針がだいたい二通りに分かれているようだ。

 

普段は限界の70%から75%ほどの強度のトレーニングをして、本番のレースの前に95%以上の強度のトレーニングを施す、という方針。

 

もう一つはわたしのように普段から9割近い強度のトレーニングを指導する方針だ。

 

これはどちらがいい悪いの問題ではなく、そのトレーナーの考え方やウマ娘の体質によってトレーニングの方向性が分かれる、というだけの話らしい。

 

ただ、後者の場合はトレーニング内容が単調になりがちなので、メリハリを付けるために様々なメニューをトレーナーが考える必要がある。

 

例えば同じダートの走り込みでも、違う距離のタイムを測ったり、並走する相手を見つけてきて競争させたり、といった工夫が考えられる。

 

わたしのトレーナーのゲンさんはそのあたりは得意なようで、トレーニングに対するモチベーションが下がらないよう、色々工夫してくれていた。

 

今日のメニューはスマートウォッチを使ってのトレーニングで、800M・1200M・1600Mをレースのつもりで走ってみて、タイムと心拍数がどう変化するか見てみろ、という指示だった。

 

ゲンさんは結構古いタイプのトレーナーだから、スマートウォッチを差し出されたときにはちょっとびっくりしたものだ。

 

「ふっ……はっ……」

 

1200Mを走り終え、スピードを少しずつ落としていたときだった。

 

「!!」

 

不意に、足首のあたりになにかがぶつかったような違和感を覚えた。

その次の瞬間にはわたしは盛大にすっ転んでいて、ダートのバ場に顔を突っ伏していた。

 

「ぷっ……クスクス……」

 

頭の上から、そんな笑い声が聴こえてくる。

わたしは顔や体のあちこちについた砂を払い除けながら、ゆっくりと立ち上がってその声の主を確認した。

 

そこには柵にもたれかかるように、二人のウマ娘が立っていた。

髪が長いのと、短いのと。

 

声を漏らして笑っていた髪の短い方が腕を組み、まるで見せつけるかのように髪と同じように短い足を精一杯バ場に伸ばして、明らかな嘲笑を浮かべていた。

 

その二人からわたしに向けられる、小馬鹿にしたような視線。

 

……なるほどね。

 

ばしぃっ!!

 

わたしは有無を言わさず、髪の短いウマ娘の、薄笑いを浮かべている胸クソ悪い顔に思い切りビンタを叩き込んでやった。

 

こちらの行動をまったく予期していなかったのだろう、受け身も取れず、盛大に吹っ飛んでいく短髪のウマ娘(仮にAliceにしましょう。名前知らないから)。

 

「あ、あんた!なにすんのよ!」

 

髪の長い方(こいつはBobにしましょう。以下同文)が、バ場に倒れ込んだAliceを視線で気遣いながらも必死の剣幕でわたしを怒鳴りつけてくる。

 

「なにすんのよ、はわたしのセリフだわ!足引っ掛けて転ばせてきたのはそいつでしょ!?」

「そ、そんな証拠がどこにあるのよ!」

「あんたら、バッカじゃないの!?このバ場にどれだけのウマ娘がいると思ってんのよ。ねえみんな、見てたでしょ、こいつが足引っ掛けてきたのを!」

 

……わたしが声を上げても、だれも賛同してくれるウマ娘はいなかった。

 

まあ、厄介事に巻き込まれるのはゴメンだという気持ちはわからないこともない。

 

悲しいことではあるが。

 

ふとこいつらのジャージを見てみると、袖口に赤い小さなリボンを付けている。

ってことはこいつら、シニア級の連中か。

 

「ふふん、誰もそんなの見てないらしいわよ?あんた、これどう責任取るつもり?」

「知らないわよ。そいつに脚引っ掛けられたのは事実なんだから、わたしは単にやり返しただけ。こっちは競走人生のかかってる脚やられたのに、そいつにはへちゃむくれの顔にビンタだけにしてやったんだから、お釣りがほしいぐらいよ」

 

わたしが肩をすくめてそう言い放ってやると、Aliceが健気にも身を起こしてこちらを睨みつけてきた。

 

「ア、アンタ!ジュニアのくせに生意気なのよ!」

 

そういってAliceがわたしにビンタをくれてくる。

かわそうと思えばかわせたけど、わたしはそれをそのまま食らってやることにした。

 

Aliceの手のひらがばしぃっ!といい音立ててわたしの頬を振り抜いてくるけど、それだけ。

そんな非力なビンタで倒れるほど、やわいトレーニングは積んでいない。

 

「ふん、先輩の顔は立ててやったわよ?じゃあわたしはトレーニングに戻るわね」

 

わたしがそういってその場を立ち去ろうとすると、なぜかBobに後ろから羽交い締めにされてしまった。

 

「……なに?」

「先輩に無礼(ナメ)たマネして、なに一発だけで許してもらおうと思ってんのよ。……その生意気なツリメ顔、しばらく見れないようにしてやるわ」

 

わたしがBobに押さえつけられているのを確認してからAliceは右拳をわたしに見せつけると、それをわざとらしくポキリ、と左手で鳴らした。

 

なんとも古めかしい儀式である。

 

そしてそれを振り上げ、わたしの顔めがけて打ち込んできた。

 

……なんて腰の入ってないパンチだ。

 

「えっ!?なにこいつ!?」

 

わたしはBobの拘束を一瞬で解き、Aliceのパンチをかわすときれいなカウンターパンチをお見舞いしてやる。

 

再び吹っ飛ぶAliceちゃん。

 

そして振り向きざまにBobにも軽くジャブを入れた。

 

気の毒なことに、彼女はよっぽど足腰が弱いのだろう。

Bobはわたしのジャブを食らうと、へなへなとその場に倒れ込んでしまった。

 

「こ、こいつっ!!」

 

わたしが殴り飛ばした左頬を抑えながら立ち上がり、なおも拳を振り上げようとするAlice。

倒れ込んでもわたしの足首をしっかりつかんでくるBob。

 

ふむ。

大したガッツだ。

……降りかかる火の粉は払わねばなりますまい。

 

 

「……で。上級生二人相手に派手にケンカして、一人には前歯が欠ける大怪我させて、もう一人には鼻の骨を折る重傷を負わせた。そんでもって、お前さんはまったくの無傷。いやあ、お前さんは引退してもボクシングのウマ娘級で十分やっていけそうだな、おい」

「……すみません……」

 

あのあとしつこく食い下がってくる二人を相手に大立ち回りを演じていたのだけれども……さすがに誰かが通報したらしい。

警備員さんと体格のいい男性トレーナー二人に抱え込まれて「やめないか!」とどなりつけられたことで、わたしは我に返った。

 

そのあと二人は病院へ搬送され、わたしは生徒指導室で生徒指導の先生とトレーナー主任という人からこってりと絞られた。

 

一応理由を話すとそれなりにわたしの話は信用してもらえたが、それでも先生たちの立場上、わたしをきつく叱責しないわけにはいかなかったのだろう。

 

で、今はトレーナー室で恐縮しながら縮こまっている、というわけである。

 

「理由は主任や先生、周りのウマ娘たちからも聞いたよ。気持ちはわかる。でもな、レア。それでも先に手を出しちゃ、お前さんの負けだよ」

「……わかっているわ……」

 

わかってる。

もうわたしも、小さい子どもじゃない。

ああいう嫌な先輩がいることも知ってるし、いつか社会に出て働くようになったら、今日のことなんてなんでもないと思えるような、辛くて嫌な目に遭うであろうとも想像くらいはできる。

 

それでもわたしは、地位や立場をカサに着て理不尽に人を貶めたり、傷つけたりする奴を許すことができない。

 

そういう連中が、死ぬほど大嫌いなのだ。

 

それこそ、感情が制御できなくなるほどに。

 

どうしても、愛想笑いでも浮かべてそれをやり過ごす、ということができない。

 

以前も、こんなことで……

 

「レア!」

 

勢いよくトレーナー室の引き戸が開いたかと思うと、すごい勢いで一人のウマ娘が飛び込んできた。

 

「……お母さん」

 

学校からの連絡で私のしでかしたことを知って、慌てて飛んできたのだろう。

普段服装とお化粧には人一倍気を使うお母さんが、洗いざらしのTシャツとGパン、それにノーメイクでここに来たのがその証左だった。

 

「あなたは、また……中学の時、もう暴力は振るわないって約束してくれたじゃない!忘れたの!?」

「……ごめんなさい……」

 

そう、わたしは中学2年のときにも一度、先輩相手に同じような問題を起こしている。

あの時も泣いているお母さんにもう暴力は使わない、って誓ったのに……。

 

「どうして?どうして……」

 

お母さんは椅子に座っているわたしの両肩を掴み、わたしの瞳をまっすぐ見つめてボロボロと涙をこぼしている。

熱い雫が、わたしの頬を直撃した。

 

お母さんの瞳から落ちてくる涙は、上級生からもらったビンタの、何百倍も何千倍も痛かった。

 

「レア。警察にいきましょう。それから学校に退学届、URAに引退届を提出するの。仕方ないよね?あなたは、それだけのことをしたんだから」

 

袖口で涙を拭くと、お母さんが聞いたこともないような断固とした口調でわたしにそう言い聞かせる。

……お母さんが、G1ウマ娘・スマートファルコンがそういうのなら、わたしに弁明の余地はない。

わたしはこくり、とうなずいて椅子から立ち上がった。

 

すると、わたしたち二人のやりとりが一段落つくのを待っていたかのようにゲンさんが間に入ってきた。

 

「はじめまして、スマートファルコンさん。レアさんのトレーナーさせてもらってる、佐神です」

「……はじめまして。初対面のご挨拶がこんな形になってしまって……なんて申し上げればよいのやら。私の教育がしっかりしてなかったせいでトレーナーさんにもご迷惑を……」

「いえ、今回の件は僕の指導力不足のせいです。本当に、申し訳ありませんでした」

 

……以前、敬語で本音は話せない、なんて彼は言っていたが、敬語でお母さんに頭を下げるゲンさんからは誠心誠意、心からの謝罪の念しか感じられなかった。

 

「いえ、そんな……私が甘やかしすぎたのと、この娘に【レースを走るウマ娘】としての自覚がなさすぎたことが今回の原因の全てです。ですから……」

「スマートファルコンさん。僕も娘の父親ですから、同じ過ちを繰り返した娘を許すわけにはいかない、という気持ちはよく分かります。しかし、今回の件は僕にも日頃からレアさんと真摯に向き合ってこなかった、という落ち度がある。どうか僕に、一度だけチャンスを頂けませんか?」

「トレーナーさんが私の娘をかばってくださるその気持ちは、本当に嬉しいです。しかし……」

 

どうあっても結論をひっくり返すつもりのないお母さんに、彼は普段の軽薄な感じから想像もできないような真剣な表情で、こう言った。

 

「わかりました。もし次にレアさんがなにか問題行動を起こしたら……。レアさんに本人の退学届と僕の退職届を、学校に提出させましょう。もちろんURAにもレアさんの引退届と僕のトレーナー廃業届を提出させます。何ならこの場で書いて、あなたに預けておいてもいい」

 

それはもう、ほとんど恫喝のようなものだった。

それを聞いたお母さんはしばらく押し黙っていたけれど……。

 

「佐神さんはレアの担当になって、まだ2ヶ月ちょっとですよね?なぜ、そこまで私の娘を信じてくださるのですか?」

「……それはウマ娘であるあなたが、一番良くご存知のはずですよ」

 

その言葉を聞いたお母さんの全身が、まるで電流に打たれたかのように身を震わせて大きく瞳を見開いた。

 

お母さんは一度止まった涙をその瞳から静かに流して、「不出来な娘ですが、どうかよろしくお願いいたします」と頭を下げてくれた。

 

 

今回の件の処遇はまた後日自宅の方に連絡するから、今日のところは家に帰ってそれを待つこと、とのことでわたしは帰宅を許された。

学校から駅までの道のりはふたりとも無言で歩いていたけど、電車の中でお母さんの方から話しかけてきてくれた。

 

「……いいトレーナーさんだね」

「そうね。わたしには、もったいないぐらい」

 

それは、わたしの嘘偽りのない気持ちだった。

 

「レア。約束して。もう二度と、一生誰にも、暴力は振るわないって」

 

わたしの肩を持って、目を真っ直ぐ見据えてお母さんが言う。

 

「約束するわ。……三女神に誓って」

 

三女神への誓いを破ったウマ娘は、彼女たちの加護によって与えられている人間離れした走力を、彼女たちへお返ししなければならないという言い伝えがある。

 

ウマ娘がこの言葉を口にするのは、どんなことがあっても守り切る意志と覚悟のある、本当に大切な誓いのときだけだ。

 

「……前のときに、その誓いをさせるべきだったね……その言葉、絶対に忘れちゃだめだよ。私、レアのこと信じてるからね」

 

お母さんの言葉にわたしがうなずくと、肩から手を離していくつかの感情が入り混じったため息をついた。

それからお母さんは車窓の方に視線を戻して、そっとその大きな瞳を閉じる。

 

お母さんも本当はもっと色々言いたいことがあるのだろうけど、さっきの言葉通りきっともう一度だけ、わたしを信じてくれたのだと思う。

 

ありがとう。

本当にごめんね、お母さん。

 

本当はお母さんの目を見て伝えたかったけど……バツの悪さと照れくささが心のなかでぐちゃぐちゃに入り混じってしまって、それを口にすることができなかった。

 

 

もちろん今回の件はお父さんにも伝わったわけだけど、お父さんはあきれたため息をついて一言、「もうしないように」と言っただけだった。

 

娘の蛮行にあきれて物も言えないぐらい怒ってるのかと思ったけど、お母さんいわく、「お父さんも若い頃、荒れてた時期があったからね」とのこと。

 

普段は物静かで口数少ないお父さんが荒れているところというのは少し想像しにくかったけど、ウマ娘同様、将棋という勝負の世界に身を置いていると、きっと色々なことがあったんのだろうなと思う。

 

 

その日の夜に学校から自宅に電話がかかってきて、わたしへ処分が通達された。

明日被害者が両親同伴で学校にやってくるので、その場で正式な謝罪を行うこと。

その翌日より1週間の停学。

その間、毎日反省文を書くこと。

この処分が妥当なのか重いのか、それとも大目に見てもらったのか、わたしにはわからなかった。

 

学校に着くとわたしとお母さんは生徒指導室に案内され、そこでしばらく彼女たち親子の到着を待つことになった。

そして、あとからやってきた彼女たちの両親から散々になじられた。

こちらが先に手を出してケガをさせてしまった、ということは事実なので、耐えるよりなかったが……。

 

わたしのことはともかく、彼女らの両親にお母さんが『あんたは母親失格だ。G1ウマ娘の子供だからといって、なにさせてもいいと思っているのか』と言われたときには、思わず言い返しそうになってしまった。

 

でもお母さんはそんなわたしをそれとなく制止し、「本当に申し訳ありませんでした」とただただ頭を下げて、被害者たちの両親の怒りを受け止めていた。

 

お母さんが保護者として、わたしのしでかしたことの責任を取るために侮蔑的な言葉を受け止めながら頭を下げてくれたことを、わたしは一生忘れない。

 

もちろんわたしも、精一杯の謝罪の意を込めて頭を下げ続けた。

 

ちなみにあの二人はきまりが悪そうに終始無言で、視線をあさっての方向に向けているだけだった。

 

最後に無保険で治療してもそんなにはかからないだろうと思える金額が入った封筒を、お母さんが丁寧に向こうの両親に差し出した。

するとどちらの両親も、なんの遠慮もなくいきなりその場で中身を確認しだす。

封筒の中身を確認しながら、Aliceの父親がため息をついて「警察沙汰にするところを勘弁してもらったと考えれば、安い金だわな」と言い放った。

残りの親たちもそれに首肯すると、ふん、と鼻息荒く娘たちを連れてこの場から出ていってしまった。

 

……わたしのせいでひどく屈辱的な思いをさせられたにもかかわらず、お母さんはわたしに、決してなにも言わなかった。

 

 

停学中の学生とは昔で言うところの蟄居中の武士のようなもので、家の外はおろか、部屋の外に出るのも少しばかり謀られるものである。

本当はこんなことを感じてはいけないのだろうけど……反省文を書き、最低限の勉強を済ませてしまうと、あとは暇で暇で仕方がない。

まあ、この暇に罪悪感を覚えるのも罰のひとつか……なんて殊勝なことを考えていたら、ゲンさんからLANEがきた。

 

ゲンさん【おう、元気でやっとるか?】

    【そうね。問題と言えば性欲を持て余すぐらいことかしら】

ゲンさん【健康そうでなによりだ。停学中だと外出もできないだろうから暇で仕方ないだろ?

     自室でもできるトレーニングを考えておいてやったぞ。これで性欲も発散しろ】

 

そんなLANEを送ってきたゲンさんは、それから長文のトレーニング内容を書き込んだメッセージを送ってきてくれた。

しかし、このメニューは……

 

    【……これ、いつもの筋トレよりきつくない?】

ゲンさん【おうよ、こいつはヒートトレーニングってやつだ。走り込めないんだから、これぐらいやれ。

     お前さんは忘れてるかもしれんが、デビュー戦まであと一ヶ月切ってるんだからな】

 

忘れていたわけではない。

……思い出すと自分の愚行で死にたくなるから、思い出さないようにしていただけである。

 

    【わかったわ。どうせ暇だし、きっちりこなしておくわ】

ゲンさん【よろしい。あと、しつこくは言いたくないが、こんなことは今回限りにしてくれよ。

     お前さんが今度ヤンチャしたら、俺も腹切らなきゃならなくなったからな】

 

そうなのよね……。

お母さんはそこまでしなくてもいいって言ったんだけど、ゲンさんは本当に退職届とトレーナー廃業届をあの場で書いて、お母さんに無理やり預けてしまった。

もちろんわたしも同じように、退学届と引退届を書かされた。

 

その4通の超重要書類のありかは、お母さんしか知らない。

 

    【わかってる。もう絶対にこんなことはしない。今回は本当にありがとう】

ゲンさん【いいってことよ。お前さんみたいな気性難のウマ娘を担当するのは、初めてじゃないしな】

 

気性難って……。

まあ今回はそう言われても仕方ないだけのことをしてしまったけれども……。

 

それでもちょっと腹を立ててしまったわたしは、少しばかりの抗議の意味を込めて、意味不明なスタンプを送りつけてやった。

 

 

停学中の反省の日々は、思ったより穏やかに過ぎていった。

朝、いつも通りの時間に起きるとゲンさんが考えてくれたトレーニングをして、学校の授業に遅れないよう、ウマチューブの動画を参考にしながら一日3,4時間ほど勉強する。

 

たまにお母さんがヒートトレーニングに付き合ってくれたり(40歳を超えているのに、普通にわたしと同じ量をこなせたのには驚いた。さすがG1ウマ娘である)、お父さんが2枚落ちで将棋を教えてくれたりもした。

 

ゲンさんもたまに、トレーニングサボってないか?みたいなLANEをくれた。

 

みんな、デビュー戦前という大事な時期にバカなマネをしでかしたわたしを、気遣ってくれた。

 

自分がバカなことをしてしんどい思いをするのは、当然の報いである。

でもそんなときにそっと寄り添って、精神的に支えてくれる身近な人達の存在がこんなにもありがたいものだなんて、わたしはこのときまで知らなかった。

 

停学明けの通学路は、なんだか少し新鮮なような気がした。

たとえは悪いが、刑務所から出所したばかりの人の気持ちってこんな感じなのかもしれない。

 

そんな妙な新鮮感のせいなのか、一週間ぶりの教室の引き戸に手をかけると少々の緊張を覚えた。

 

ちなみにちょっと体の動かし方がぎこちないのは、停学明けで緊張しているからだけでなく、あちこちが筋肉痛だからだ。

あのヒートトレーニングってやつは思いの外キツく、運動慣れしているはずのわたしでも『もうサボってしまいたい!』と思うほどの負荷だった。

正直、いつものトレーニングをこなしていたほうがまだマシに思えるほどだ。

 

……そのきつさのおかげで、停学の罪悪感とデビュー前に走り込めない不安に押しつぶされずに済んでいたのは確かだったけど。

 

ガラッと扉を開けると、教室中の視線がわたしに集まってくるのを感じた。

こればかりは、仕方ない。

居心地の悪さを感じながら、わたしは平静を装って一週間ぶりに自分の椅子に腰掛ける。

 

何気なくかばんからスマホを取り出してニュースサイトを見ていたが、みんなの視線が気になって、何一つ頭に入ってきていない。

 

それに、気になっていたことがもう一つあって……。

 

そんなマインドワンダリング状態のまま他のニュースサイトを開こうとしていたとき、うしろからぽん、と肩を叩かれた。

 

「……おはよう、レア」

「……おはよう、シルヴィ」

 

そう。

実は停学中、一度も彼女からの連絡がなかったのだ。

シルヴィはお嬢様だし、揉め事起こして停学食らうやつなんか縁切られても仕方ないよね……などと考えつつ、停学中の身ではこちらから連絡することはためらわれて、モヤモヤしたまま処罰の日々を過ごしていた。

 

「レア。その……ごめんなさい!」

 

彼女はパン!とまるで拝むように手を合わせると、そのままぺこり、と頭を下げてしまった。

 

「え、いや。その……」

 

そんな彼女の言動にわたしは少しパニックになってしまって、どうしていいかわからなかった。

 

「本当は心配したし、LANE入れたかったんだけど……その、連絡していいか、わからなくて……。あなたが辛いときに、なにもしてあげられなくてごめんなさい」

 

そうか。

【友だち】だからこそ、距離感が難しいときって確かにあるよね。

わたしは、なにを心配していたのだろう。

 

……心配かけたのは、こちらの方だったのに。

 

「ううん。わたしのほうこそ、余計な心配かけてごめんなさい。シルヴィがそうやってわたしのことを気にかけてくれてたの、とっても嬉しく思うわ」

 

わたしがそういうと、彼女はいつものように屈託ない笑顔を浮かべてくれた。

 

やっぱりシルヴィには、こういう笑顔がよく似合う。

 

それからわたしたちはいつものようにアイドルの話をして、シルヴィから最近学校やクラスであったことを面白おかしく聞くことができた。

 

そんな話が一段落したときだった。

 

「あのね」

「うん」

 

彼女はなぜか、声のトーンを少し落として話し始めた。

 

「今回の件で、レアのこと悪く言ってる人なんてほとんどいないよ」

「……そうなの?」

「あのふたり、下級生の娘に陰湿なイジメっぽいことすることで有名でさ。このクラスにも何人かターゲットになっていた娘がいたんだよね」

 

そんなこともあるだろう。

あの二人がああいう嫌がらせをわたしだけに仕掛けてきた、というのは考えにくい。

 

「実は私もあの二人にタオルとかシューズとか隠されたことがあってね。……ここだけの話、レアがあの二人を殴ったって聞いたとき、ちょっとスカッとしちゃった」

 

そう言ってシルヴィはぺろっと舌を出して、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

 

もちろんわたしがしたことは決して許されることじゃないけど……あの蛮行が友だちの気持ちを少し軽くしたのだと考えると、ちょっとだけ心の澱が浄化されていくような気がしたのだった。

 




読了、お疲れさまでした。

今回も最後までお読みいただき、まことにありがとうございます。

腕力を行使するかはともかくとして、きっと誰もがレアのように振る舞いたいと考えたことがあるのだと思います。

嫌いなこと、自分の正義に反することに正面向かってノーを突きつけるのは、なかなか難しいものですね。

レアのお父さんには【実は彼は棋士として遅咲きの24歳でプロになり、それまでファル子が経済的も精神的にも支えていた。彼がプロになった日が、結婚記念日】という設定があったりするのですが、さすがにレアと関係なさすぎるので、本編で書くことはなさそうです(笑)。

それではまた、近いうちにあとがきでお会いしましょう!


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side story ~ファルコンレア~ 6話

エイシンフラッシュの娘。に登場したファルコンレアのストーリーです。

登場人物:ファルコンレア
※オリウマ娘注意です。
こんな感じの娘です。

【挿絵表示】

よろしければ皆様の読書の
一助にしていただけると幸いです。

誕生日:5月5日
体重:絞れていい感じの仕上がり。
身長:171センチ
スリーサイズ:84・58・84

ファルコンレアのヒミツ6・実は、小学生の頃の模擬レースで【追い込み】の作戦で勝ったことがある。


放課後のダートバ場練習場は、熱気に包まれていた。

8月に入り、メイクデビューを迎えるウマ娘も増えてきて、それを取材するための報道陣が学校に押しかけるからだ。

 

「はっ……ふっ……!」

 

その熱気に当てられたわけでもないけれど、わたしの走りにも力が入る。

 

「よーし、レア!ラストスパート!!」

「はいっ!」

 

トレーナーの檄にわたしは更に脚に力を込め、トップギアでバ場を走り抜けた。

蹴り上げた砂が、風に乗って派手に舞い散ってゆく。

そしてわたしは、指示されていた距離を全速力で走り切った。

 

「よーし、5分休憩!休憩終わったらあと一本、走り込むぞ」

「はぁ……はぁっ……はいっ!ふぅっ……」

 

わたしは荒ぶる呼吸を整えながら、なんとか彼に返事する。

夏の暑さもせいもあるだろうが、したたる汗の量が尋常ではなかった。

 

たしかに体はきついが……気持ちはかつてないほどの充実感を覚えている。

 

「佐神トレーナー。スマートファルコンさんの娘、ファルコンレアさんがいよいよ今週末デビューですね!」

 

トレーナーへの取材に聞き耳を立てながら、わたしはゲンさんが用意してくれていたスポーツドリンクを一気に体内へ流し込んだ。

火照った体に、水分とミネラルが染み渡っていくのを、体全体で感じられる。

 

「ああ、そうだな」

「どうですか、自信のほどは?」

「見ての通り、仕上がりは悪くねえ。まあでも、勝負は水ものだからな。あとはやってみなくちゃわからねぇな」

 

彼の応答を聞いて、わたしは少し意外な感じがした。

普段の彼を見ているともっとこう、威勢のよい感じで『負けるわけねぇだろ』みたいなやり取りをしそうだ、と勝手に思っていたからだから。

 

「あの、ファルコンレアさんに直接取材させてもらってもよろしいですか?」

「ああ、かまわんよ。レア、ちょっと来てくれ」

 

バ場の柵の向こう側にいたゲンさんに手招きされたわたしは、駆け足でそちらへ向かう。

 

「ファルコンレアさん、いよいよデビューですね!お気持ちの方は?」

 

挨拶も名乗りもなしで、いきなり本題である。

取材というのは、こういうものなのだろうか。

 

「……そうですね、デビュー戦ということで緊張していますが、トゥインクルのレースを走れるということを楽しみにもしています」

「それは頼もしいですね!お母様のスマートファルコンさんは、デビュー戦を見事勝利なさっていますが、意識することは?」

「あー……。まあ、お母さんはたくさん勝ってますから」

 

お母さんはあまり、自分から現役時代のことを話さない。

小さい頃、わたしがその辺りをお母さんに聞いても『ダートで一生懸命走っていたんだよ』ぐらいしか教えてくれなかった。

お父さんにも聞いてみたが、得られたのは『G1を勝ったすごいウマ娘だったんだぞ』という、なんとも解像度の低い情報だけだった。

 

そういうわけでわたしが母・スマートファルコンの戦歴を知るには、自分で調べる必要があった。

それで小学生の頃、お母さんの戦歴を調べたのだけど……(Umapediaで自分の母親のことを調べるのは、変な気分だった)。

うちのお母さんは通算成績34戦23勝という恐るべき戦歴の持ち主で、一時期、平地重賞最多勝記録の日本記録も持っていたらしい。

その内訳は重賞19勝。内G1・5勝。

それ以上に驚愕したのはお母さんはあの小柄な体格で、30戦以上もの激戦を戦い抜いたということだ!

 

それを知った幼いわたしが『お母さんってすごいウマ娘だったんだね!』と目を輝かせていうと、『たくさんのひとが私を応援してくれたから、それだけがんばれたんだよ。レアもファンから愛されるウマ娘になってちょうだいね』と言っただけだった。

 

すごい実績があるのに、それをことさら誇示したり、自慢したりすることもないお母さんを、わたしは娘としてもひとりのウマ娘としても、心の底から尊敬している。

 

そんなお母さんと今から比べられても……という感じである。

 

「目標はやはり、G1制覇ですか?それとも、お母様を超えたい?」

「……いえ。そんな先のことは考えず、まずは目の前のことに全力を尽くしたいと思っています」

 

わたしがテンプレートみたいな応答で記者からの質問に答えていると。

 

「記者さん。うちの担当に注目してくれるのはありがたいんだが、そろそろトレーニングに戻らせたい。トレーニングのあと、ミーティングも控えてるしな」

「あ、これは失礼しました。では、デビュー戦がんばってくださいね。応援しています!」

 

記者さんはそういうと、別れの挨拶をするでもなく次のウマ娘への取材へ向かっていったようだ。

 

「今日のところは、無難にやり取りしたな。……まあ、マスコミってのはああいうもんだ。常識や礼儀なんてもん気にしてたら、奴らとは付き合えねえ」

 

記者さんの背中が見えなくなってから、ゲンさんはそんなことを言って肩をすくめながら苦笑いを浮かべた。

 

「……そういうものなのね」

「気に障る連中が多いことも確かだが、彼らのおかげでレースが盛り上がっているのも事実だ。マスコミとの付き合い方は俺もある程度は教えてやることができるが、そのへんはお前さんのお母さんのほうが慣れているだろう。アドバイスもらっておいても損はないと思うぞ」

 

超一流の成績を収めていた上に、ウマドルなんて目立つ活動をしていたお母さんだ。

当然、マスコミとの交流もたくさんあったに違いない。

 

「そうね……。まあでも、そんなことはわたしがもっとマスコミに注目されるようになってから考えるわ。記者さんたちも今はあのスマートファルコンの娘、ってだけで注目してくれているだけだろうし」

 

そうか、と彼はうなずくと、じゃああと坂路一本こなしてこい、と次のトレーニングの指示を出した。

 

 

わたしが最初に訪れたときのことを考えると、このトレーナー室もずいぶん片付いたものだ。

 

この季節、シャワーを浴びたあと冷房が効いた部屋にいられるというのは、なんともぜいたくである。

 

「さて。じゃあまぁ、今週末のデビューに向けて軽くミーティングといくか」

 

そういうと彼は手元に置いてあったノートを長机に広げながら、わたしの正面に腰掛けた。

 

「前から伝えておいた通り、お前さんの走るレースは大井レース場のダート1200Mだ。お前さんの距離適性を考えると少しばかり短いが、こればっかりはどのウマ娘も通る道だからな」

 

彼の言葉に、わたしは首を縦に振った。

秋まで待てばもう少し長い距離のメイクデビューのレースもあるが、それだと年末に行われるジュニアの大レース、全日本ジュニア優シュンに間に合わない可能性が出てくる。

もちろん早くデビューすれば必ず出られる、というわけではないが、出走できる可能性が高まるのは確かだ。

 

「それと。しばらく南関東を走るお前さんにすぐ関係するわけじゃないが、芝はまったく走れないのかい?」

「えっ、芝?」

 

それは、意外な質問だった。

 

「うーん……。トレセン学園を受験する前に一応受けた模試だと、確かわたしの芝適性はBだったと思う。ちなみに、ダート適性はSだったわ」

「レアのダートに対する適性を疑ったことなんて一度もねえよ。ってことは、まったく走れないってわけじゃないんだな」

「とは思うけど……いったい、どうして?」

「いや。地方にも盛岡競馬場には芝レース場もあるし、将来の選択肢は広い方がいいだろう?それで一応、確かめておいたのさ」

 

彼が真剣にわたしの未来を考えてくれているのは、嬉しい。

でも。

 

「トレーナーが芝を走れ、と言うならもちろん走るのだけれども」

 

わたしは彼を真正面に見つめ、宣言する。

 

「わたしはダートを走りたいわ。そのために、【砂のエリート】が集まるこの学校に来たんだもの。それに……」

「それに?」

「笑わないで聞いてほしいんだけど……」

 

彼がうなずいたのを確かめてから、わたしはちょっと照れながらその先を続ける。

 

「その。お母さんがダートで勝ちまくって、ダートレースの評価を上げたのがすごくカッコよくて。わたしも、ああなれたらなって思っているのよ」

 

わたしの、ともすればマザコンに取られかねない発言に、ゲンさんは真摯な表情でうなずいてくれた。

 

「なんも恥ずがしがることはねえさ。憧れのウマ娘のようになりたいってのは、当然の感情だ。よし、お前さんの目標と適性についてはわかった。次は戦法と脚質のことなんだが……」

 

そう言って彼は手元のノートをペラペラとめくり始める。

 

「中学時代の模擬レースをいくつか見せてもらったよ。お前さんは一貫して【先行】で走っていたんだな」

「ええ、そうね」

「俺が見る限り、この戦法はレアにあんまり合ってないように感じるんだがな。走ってるお前さんはどう考えているんだい?」

 

彼の日常生活はたしかにいい加減なところもあるけど、ウマ娘に対する観察眼はさすがのものらしい。

 

「そうなのよね……。なんというか、消去法でこの戦法を取っているって感じなのよ」

 

ウマ娘の戦法は、その娘が持っている脚質でほぼ決まる(戦法と脚質は同義に語られることもあるけど、厳密に言うと少し違う)。

ではその脚質がどう決まっているかというと、そのウマ娘の性格や体質、持っているスタミナなどに左右される。

 

わたしは残念ながら、キレる脚を持っているというタイプのウマ娘ではなかった。

かといって優れたスタミナや、持久力のある筋肉を持っているわけでもない。

 

うしろから行くと、キレる脚がないので前を捕まえられない。

前に行きすぎるとスタミナ切れでバテてしまう。

 

なんとも中途半端な脚質で、道中は仕方なく真ん中より少し前にいるようにして、結局第四コーナーあたりから加速してよーいどん、というレースになるわけだ。

 

シンボリルドルフさん、古くはシンザンさんに代表されるように【先行は王者の脚質】なんて言われたりするけど、先行の戦法を取っているウマ娘には、わたしのようなタイプも結構多いのである。

 

「それにお前さん、レース中に他のウマ娘が気になって、集中できてないときがあるだろう。道中チラチラと隣の娘とか後ろの娘を見てしまうクセがあるみたいだな」

「レース動画でそこまでわかるものなのね。それも欠点のひとつだってわかってはいるんだけど……」

 

他の娘の様子をうかがいながらラストスパートのタイミングを図っている、とかならまだいい。

しかしわたしの場合は、ただただ近くに他の娘がいると気になって集中力を散らしてしまうという難儀な弱点を抱えているだけだ。

そのせいで【ソラ】を使ってしまい、これが何度注意されてもなかなか直らない悪癖だった。

 

「それならいっそ、スマートファルコンのように逃げちまったらどうだい?逃げちまえば周りのウマ娘が気になるってこともないだろ」

「それもやってみたことがあるわ。でも、スタミナが切れちゃって最後バタバタで……」

 

中学時代、結構大きめの模擬レースで【逃げ】を試してみたこともあったんだけど、結果は2ケタ順位という惨敗で、周りからは『カッコつけてお母さんと同じことするから』なんて言われるし、もう二度とやるもんかと心に誓ったものだった。

 

「ふむ。スタミナはともかく、その時の集中力の方はどうだった?」

「うーん……どうだった、と聞かれても」

 

思い出したくもない黒歴史であるが、トレーナーの指示なら仕方ない。

わたしは脚を組み、あごに手を置きながら記憶の沼を引っ掻き回してみた。

 

「もう2年も前のことだからはっきりとは覚えてないんだけど……。第四コーナーまでは気分良く先頭で走れていた記憶があるから、それなりに集中力は維持できていたんじゃないかしら」

 

わたしがそういうと、ゲンさんは強気な笑みを浮かべて膝を叩いた。

 

「よし。それなら、デビュー戦で【逃げ】を試す価値は十分にある。今のレアなら、スタミナもおそらく問題ないだろう。その逃げつぶれたレースってのは、体の軸が左にずれちまってる時の話だろ?」

「それはそうだけど……」

 

初めて彼に出会ったときに指摘された体の軸のズレは、彼の矯正蹄鉄のおかげで今ではほとんど完全に修正されている。

 

「それに、スタミナに関して言うなら、初めてお前さんの走りを見た時からちょっとばかり不安があったからな。それを補うために、地道なダートトレーニングを多めに組み込んでおいたんだよ」

 

……ああ、なるほど。

他の娘と比べてダートの走り込みが結構多いな、と感じることがあったんだけど、そういう理由があったのね。

 

それは納得できたのだけれども。

 

「でも……やっぱりデビュー戦で慣れない作戦を取るのは不安なのよ。もしそんな作戦でメイクデビュー大惨敗、ってなったら精神的にも立ち直るのが難しそうだし……。わたしとしてはデビュー戦は手堅く、走り慣れた先行策で戦いたいわ。で、しばらく先行策で走ってみて、ダメなら逃げを試してみるというのはどうかしら?」

 

わたしの不安に、彼は力強く首を横に振った。

 

「レア。気持ちはわかるが、考え方が逆だ」

「逆?」

「作戦の変更は、キャリアを重ねれば重ねるほど難しくなる。ちょうど今のお前さんのようにな。だから作戦を変えるのに、中学までのキャリアがリセットされたトゥインクルデビューというのは、これ以上ない良いタイミングなんだよ」

「ふーむ……」

 

そう言われてしまうと、なかなか反論は難しい。

 

「もしデビュー戦でダメだったのなら、さっさとその作戦に見切りをつけて次の策を練ることができる。ウマ娘の全盛期は短い。試せることは早いうちにどんどん試して、弱点を改善していくのが大切なんだ」

 

それはまあ、納得させられる考え方ではある。

トラウマすらある逃げの戦法を取ることに、一抹の、いや、かなりの不安はあるけれど。

 

「わかったわ。じゃあ当日の作戦は【逃げ】でいきましょう」

「よし。お前さんなら俺を信じてそう言ってくれると思っていたよ」

 

笑顔でそう言いながら、ゲンさんは手元のノートをパタン、と閉じた。

 

「ミーティングは以上だ。他に質問は?」

「特には」

「よし。となればあとはやることはひとつだな!」

「というと?」

「そんなもんデビュー戦の前祝いに決まってんだろ。なんか食いたいもんあるか?なんでもごちそうしてやるぞ!」

 

おお、それは豪気な。

担当しているウマ娘のやる気を上げようと、身銭を切ってご馳走しようとしてくれる気持ちは、泣くほど嬉しい。

 

でも、ゲンさんってあんまり経済的に余裕がありそうに見えないのよね……。

 

「ありがとう。とっても嬉しいわ。じゃあわたし、いちごのかき氷が食べたいわ。練乳をたっぷり掛けてもいいかしら?」

「……レア。お前さん、俺のこと貧乏人だと思ってないか?」

 

どうしてバレたのだろう。

どうやらわたしは、気遣いが下手な女らしい。

そんなわたしに、彼は苦笑を浮かべた。

 

「たしかに金持ちってわけでもないが、ウマ娘ひとり腹いっぱい食わすぐらいの甲斐性はあるよ。ほら、なんでも食いたいものを言え。あ、できれば気兼ねなく酒が注文できる店がいいんだが」

 

そこまで言ってくれるのなら、遠慮するのはむしろ失礼に当たるだろう。

わたしの好きなもので、お酒が出てきてもおかしくないお店か……。

 

「そうね、それなら焼肉をごちそうになりたいわ。わたし、こう見えて肉食系女子なのよ」

「お、いいな。焼肉屋なら酒も遠慮なく飲めるしな。じゃあ、行くか」

 

そういうと彼はウキウキした様子で椅子から立ち上がった。

まだ少し陽のあるうちから、焼肉を肴に酒が飲めるのが嬉しいのだろう。

一度ゲンさんの私的な買い物に付き合ったことがあるけど、その時買い込んでいたお酒の量を考えるに、彼は結構な酒豪のようだった。

 

ゲンさんはもうそんなに若くないし、少し自重してほしいという思いもあったが、前祝いと言ってくれているのにそんな小言をいうのはさすがに無粋な気がしたのでやめておく。

 

「どこに連れて行ってくれるの?」

「この辺で焼肉といえば、やっぱかめ竹かな。どうだい?」

「本当?嬉しいわ!ごちそうになります」

 

わたしはついこぼれ出る笑みを我慢できず、ちょっとしまらない顔のままゲンさんに感謝の意を込めて頭を下げた。

 

かめ竹はこの学校から一駅行ったところにある、小洒落た雰囲気の焼肉屋さんだ。

この付近に住んでいる人からすると、【ちょっとした贅沢をしに行くお店】という感じである。

 

わたしも大好きなお店であり、大きな模擬レースを勝ったときなどにはよく両親が連れて行ってくれる。

 

「今日はかめ竹だけどよ。お前さんがG1ウマ娘になったらジャジャ苑にでも連れて行ってやるからさ。楽しみにしてな」

 

本気ともジョークとも判断がつかない顔で、ゲンさんがそんなことを言った。

ジャジャ苑というと、普通の人にはちょっとばかり敷居が高く感じる超高級焼肉店である。

 

まあこれは彼なりの、これからデビューを迎えるウマ娘に対しての発破なんだろう。

G1に勝つどころか、その大舞台に出走することでさえ、本当に一握りのウマ娘にしかできないことなのだから。

 

「本当?じゃあ、わたしがG1ウマ娘になった時のために、お金いっぱい貯めておいてね。もしそうなったらわたし、行ったジャジャ苑にあるお肉全部食べ尽くすつもりでごちそうになるから」

 

冗談めかしてそんなことを言うわたしに、なぜか彼は妙に真剣な面持ちでうなずいたのだった。

 




読了、お疲れさまでした。

今回も最後までお読みいただき、まことにありがとうございます。

焼肉のことを書いてたらなんだか自分も食べたくなってきて、
その日のメニューは焼肉になってしまいました(笑)。

デビュー戦までは書いてしまおうか、とも思ったのですが
ファル子のことやミーティングとかを書き込んでいたらあっという間に
5000字を超えてしまったので、次回にすることにしました。

次回こそはレースシーンがありますので、楽しみにしていただけると嬉しいです。

それではまた、近いうちにあとがきでお会いしましょう!


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side story ~ファルコンレア~ 7話

エイシンフラッシュの娘。に登場したファルコンレアのストーリーです。

登場人物:ファルコンレア
※オリウマ娘注意です。
こんな感じの娘です。

【挿絵表示】

よろしければ皆様の読書の
一助にしていただけると幸いです。

誕生日:5月5日
体重:絞れていい感じの仕上がり。
身長:171センチ
スリーサイズ:84・58・84

ファルコンレアのヒミツ7・実は、練習が嫌い。



わたしはベッドの中で、今夜何度か目の寝返りを打った。

……どうも、寝付けない。

 

明日はメイクデビューの日だというのに。

 

小さい頃から、大きなレースの前の日はいつもこうだ。

わたしは翌日に大事なことがあると眠れない性格らしく、大レースの前夜にぐっすり寝た記憶というのがほとんどない。

 

眠れないときの対処は色々あると思うが、わたしの場合、睡魔が襲ってくるまでは無理に寝ようとしない。

わたしはベッドから身を起こし、枕元においてある時計で時間を確認する。

 

1時か……。

浅い眠りと覚醒を繰り返しているうちに、日付を超えてしまったらしい。

 

わたしはため息をひとつ付くと、眠ることをあきらめてキッチンに向かった。

 

当然家族はもう寝静まっていて、家の中は真っ暗だ。

キッチンに行くまでに両親の部屋の前を通るので、わたしはできるだけ足音をさせないよう、ゆっくりと歩く。

 

ちなみにうちの両親は、それぞれ違う自室で寝ている。

これは別に夫婦仲が悪いからというわけでなく、お父さんは徹夜で将棋の研究をしている時があるし、お母さんも朝までライブの練習やネット配信をしてたりするからだ。

 

仕事熱心な両親を見ていると、わたしも将来それだけ夢中になれる仕事を見つけることができるといいなあと思う。

 

キッチンに到着したわたしは、パチリとスイッチを入れて明かりをつけた。

テーブルの上には、一枚のメモが置いてある。

 

それを手に取り目を通すと、丸っこい文字でこう書かれていた。

 

【レアへ。きっと、眠れないのでしょう?冷蔵庫にバナナヨーグルトを作ってあるから、食べてね。無理に寝ようとしなくても、レアなら大丈夫。明日はレースを楽しんできてね! ファル子☆】

 

文末が【母より】などではなく、色紙などに書く署名のサイン文字になっているところがなんともお母さんらしい。

お母さんはレースの前になると眠れなくなるわたしのために、ネットや本などで不眠について色々調べてくれた。

その結果バナナが不眠に良いと分かったらしく、それからはレースの前の夜には必ずバナナを使ったお菓子を作ってくれているのだ。

 

わたしは冷蔵庫を開け、綺麗なガラスの器に盛られたバナナヨーグルトを取り出すと、テーブルに戻ってありがたくこれをいただくことにした。

 

正直これを食べたからと言ってぐっすり眠れるわけでもないんだけど……お母さんが作ってくれたバナナのお菓子を食べると『自分はひとりで戦っているわけじゃないんだ』と思えて、とても心が安らぐ。

 

「ごちそうさまでした」

 

バナナヨーグルトを平らげたわたしはお母さんの丸っこい顔を思い浮かべながら、空になった器に手を合わせる。

温かい感情に満たされたお腹をさすり、わたしは自分の部屋に戻ることにした。

 

 

デビューの地・大井レース場にはトレーナーのゲンさんと一緒にいくことになっている。

待ち合わせ場所は、わたしの通う南関東トレーニング学校の正門前だ。

 

約束の時間の15分前には到着するつもりで自宅を出たが、ゲンさんはもう正門前で待っててくれていた。

 

……呑気に歌なぞ歌いながら。

 

「はしれ~はしれ~ウマ娘~。本命穴ウマかきわけて~。ここでお前が負けたなら~おいらの生活なりたたぬ~」

「……おはよう。なんて歌うたってんのよ。そこは『ここであの娘が負けたなら ライブで応援できないぞ』じゃなかったっけ?」

 

というか、トレーナーにそんなの歌われたら、プレッシャー半端ないんだけど。

しかもなんか妙にぴったりあっている歌詞が、プレッシャーにさらなる拍車をかけていた。

 

「おう、おはよう。いやあ、お前さんが負けたら生活しんどくなるのは確かだからな!俺の今季の査定はキミの成績にかかっている!がんばって俺の給料を上げてくれ!」

「実際そうでも、担当ウマ娘にそれを言うかしら……」

 

わたしは大切なレースを前にして、ただただ呆れたため息をつくしかなかった。

 

「まあ、冗談はともかくとしてだ」

「……本当に冗談だったの?」

「……こほん。その目を見る限り、あんまり良く寝られなかったようだな」

「小さい頃から大きなレース前はこんな感じだったから。実は見た目ほど体調は悪くないのよ」

 

これは本当の話で、睡眠不足が原因で力が出しきれなかった、という経験はほとんどない。

 

医学的なことは分からないけど、おそらくそういう状態でレースを走るということに体が慣れてしまっているのだろう。

 

「そうか、期待してるぞ!お前さんが負けると家のローンは払えず、女房と子供に逃げられ、飼っているネコがねこまんまさえ食えずに餓死してしまうからな!いや、もう女房と子供には逃げられてしまったが!」

「ごめん、さらっと重たいこと言わないで。で、その重責をわたしに押し付けないで」

 

一人の男が人生を懸けて背負うべき重荷を、わたしに押し付けられても困る。

その中でわたしに期待していいのは、せいぜいネコのご飯代ぐらいだ。

 

そんなバカ話をしているうちに、わたしはすっかり脱力してしまい、眠気もどこかへ飛んでいってしまっていた。

 

 

大井レース場の控室は、中学時代まであてがわれていた模擬レースの控室とは一線を画す広さと綺麗さだった。

 

これがトゥインクルを走るウマ娘の待遇であり、この待遇に見合うレースをしてくださいね、ということでもあるのだろう。

 

「どうだ、緊張してるか?」

「多少はね。でも、このぐらいの緊張ならパフォーマンスに影響なさそう」

 

わたしがにっこりほほえみながらそう言うと、ゲンさんはうむ、とうなずいた。

 

「メイクデビューだから対戦相手のデータはないに等しいが……追い切りのタイムを見るに、今日のお前さんの相手になるウマ娘はいないよ。自分のレースさえできれば、悪い結果にはならないはずだ」

 

どんな相手でも油断をするつもりなどないが……そういってもらえると、少しばかり安心できる。

 

「時間ね」

 

壁がけ時計を確認すると、そろそろパドックへファンに顔見せしに行く時間だ。

控室のドアノブに手をかけたわたしに、ゲンさんが一言だけ「がんばれよ」と声をかけてくれる。

 

わたしは軽く手を振って、それに応えた。

 

 

わぁああぁあぁあっ!

 

わたしがパドックに足を運ぶと、大歓声が出迎えてくれた。

模擬レースの時ももちろん観客はいたけど、トゥインクルを見に来てくれるお客さんの数はまさに桁違いのようだった。

 

「きゃあぁあぁっ!レアさーん!がんばってー!」

「ファル子の娘!がんばれよ!」

 

そんな声が、あちらこちらから聞こえてくる。

飛んでくる声援を聞きながら、わたしは大観衆に向かってぺこり、と頭を下げた。

男性ファンの方が圧倒的に多いのかな、と思っていたのだけど、見た感じ女性も3・4割はいてそうだ。

 

大井レース場第2レースメイクデビューの出走ウマ娘全12人中、今日の一番人気は一応わたしで、単勝推し率が40%を超えているらしい。

つまり、この中の40%もの人がわたしが勝つと信じているわけだ。

 

たくさんの人の期待に、応えたい。

 

そんな闘志を胸に秘め、わたしはパドックの輪の中に戻った。

 

 

本バ場入場はスムーズに行われた。

メンタル的な問題か、ゲート入りに手こずる娘もいるけど、わたしは小学生時代から一度もゲート入りを嫌だ、と思ったことはない。

むしろ、ゲートインしてしまえば気持ちが落ち着いてフツフツと闘志が湧き上がってくるぐらいだ。

 

がちゃん!

 

ゲートが開いた。

 

スタートはまずまずだった。

 

わたしは先日ゲンさんと練った作戦通り、ハナを奪いに行くことにした。

先頭を陣取ろうとするわたしに、ひとりのウマ娘が競りかけてくる。

きっと彼女も、先頭でレースを作りたいのだろう。

 

どうする?

あっさり譲ってしまって、二番手に構えるか。

それとも……。

 

スタミナが許す限り、先頭争いを演じるか。

 

わたしは今までの練習量とトレーナーの指示を信じて、先頭を譲らないことにした。

 

わたしが一歩、前に出る。

彼女も負けじと競りかけてくる。

 

そんな鍔迫り合いに、メイクデビューのレースとは思えないほどの歓声がわく。

 

600Mあたりまで小競り合いが続いたが、結局彼女は先頭をわたしに譲って二番手でレースを進めることにしたようだ。

 

ようやくここで、わたしは単独で先頭に立った。

 

さて、これが吉と出るか凶と出るか。

 

自分の感覚では、それほどスタミナを浪費した感じはしていない。

ペースもさほど、早くなっていることはないだろう。

 

残り400Mを切った時点で、わたしの脚色にはまだまだ余裕があった。

それに、後ろから足音も聞こえてこない。

 

ふむ。

いつもはこのあたりからスパートを掛けるのだが。

前半戦のこともあるし……ひょっとすると後続の娘たちはハイペースと思っていて、仕掛けを遅らせているのかもしれない。

 

ハイペースでレースが流れているなら、今わたしがラストスパートを掛けると、少しばかり早仕掛けになってしまって後ろの娘に捕まえられる可能性もある。

 

いや。

そうなったら、そうなったときだ。

 

仕掛けを遅らせて脚を余らせるより、脚を使い切って負けるほうがまだマシだ。

 

わたしが判断に迷った時は、積極的な決定の方に身を委ねることにしている。

少し怖かったが、わたしはギアを最高速に切り替えた。

 

さあ、最後の直線!

まだ、後続の足音は聞こえてこない。

 

わたしの脚には、まだ余裕がある。

 

……このまま、勝てるのか?

 

いや、トゥインクルに出てくるような娘達を相手にしているのだ。

最後まで、油断できない。

 

わたしは歯を食いしばり、更に脚を伸ばした。

 

残り200M。

まだ、後ろから足音は聞こえない。

 

残り100M。

聴こえてくるのは割れんばかりの大歓声と、わたしが蹴り上げる砂の音だけ。

 

無我夢中でゴール板を駆け抜け、ギャロップから駆け足へを速度を緩めながらゆっくりと立ち止まった。

 

そこで後ろを振り返ってみると……ようやく2着の娘が、ゴールしているところだった。

それから、掲示板を確認してみる。

 

1着 3

2着 7 大差

3着 ……

 

ジュニアレコード

タイム:1・10・3

 

着差とタイムが表示されると、観客席から大きな拍手が巻き起こった。

 

なんとそのタイムは、ジュニアレコードを更新するものだった。

自分で言うのもなんであるが……メイクデビューのレースタイムとしては、相当なものだろう。

 

「……よしっ!」

 

それらを見てようやくわたしは、勝った実感が得られたのだった。

 

 

レースの熱と比べると、ウイニングライブの盛り上がりは正直今ひとつ、いった感じだった。

まだ午前中ということもあるのだろうけど……重賞レースクラスのウイニングライブならともかく、メイクデビューしたばかりのウマ娘たちのそれがみたいという人は、そんなに多くないのだろう。

 

実はわたしは歌ったり踊ったりするのが結構好きだ。

……ウマドル、なんてガラじゃないから、お母さんが勧めてくれた活動は丁重にお断りしたけれど。

 

まばらな観客席を見渡しながら、わたしは精一杯踊り、歌った。

そしていつか満席の、大レース後のウイニングライブでセンターを務めてみたいと強く思った。

 

 

「デビュー戦勝利おめでとう、よくやったな」

 

控室に戻ってきたわたしに、ゲンさんは短くも力強い祝辞を述べてくれた。

 

「ありがとう。ゲンさんの、普段の指導の賜物ね」

「担当ウマ娘にそういってもらえると、トレーナー冥利に尽きるってもんだ」

 

そういいながら彼は「ほれ」と冷えたスポーツドリンクをわたしに手渡し、荷物をまとめ始めた。

わたしは帰り支度をゲンさんに任せて、飲み物をいただくことにする。

 

「お、そうだ。終わったばかりでなんだが、次走の話だ。次は2週間後の川崎レース場のプレオープン1400Mを予定してるから、そのつもりでいてくれ」

「……ずいぶん間隔を詰めるのね」

 

中1週でのレース出走というのが珍しいわけではないが、ウマ娘の出走のペースはだいたい3週間から1ヶ月に1度くらいが平均的とされている。

 

「ああ。今のお前さんを見てたらそんなに疲れもなさそうだ。それに、今日のようなレースができるなら、当然年末の全日本ジュニア優シュンも視野に入れたい。G1を目標にするなら、お前さんにはできるだけレース経験を積ませてやりたいし、出走ポイントも稼いでおきたいと思っている」

 

出走ポイントというのは、その名の通りレースの着順に応じて与えられるポイントである。

もしあるレースの申込みが多数で定員オーバーになってしまった場合、この出走ポイントが少ないものから足切りされていく。

ポイントが同じ場合は、出走する権利は抽選で決められるというわけだ。

 

まあG1を見据えるなら、確かに経験はできるだけ積んでおきたい。

彼の見立て通り、今日のレースでそんなに疲労が蓄積されたわけでもない。

 

「わかったわ。また2週間後のレースの勝利を目指して、がんばりましょう。……でも今日のわたしって、とってもがんばったと思わない?」

 

わたしのおねだりアイコンタクトに、彼はわかったわかったと言わんばかりにうなずいた。

 

「じゃあ初勝利のお祝いも兼ねて、ステーキでも食わせてやるよ。ここのレース場にある【マイケル】って店が、旨い肉食わせるんだ」

 

そうそう。

トゥインクルにデビューするって決まったときに、ちょっと楽しみにしてたのが各レース場のグルメ巡りなのよね。

 

「さすが南関東1の名トレーナー、佐神先生!ウマ娘の気持ちがわかっていらっしゃるわ!ごちそうになります」

 

嬉しいことを言ってくれる彼に、わたしはとびっきりの笑顔でお礼をいう。

 

「調子のいいこと言ってやがるなぁ。行くぞ」

 

若干あきれたため息をついて控室から出ていこうとする彼のあとを、わたしはスキップせんばかりの歩調でついていった。

 

 

お母さんとお父さんも、もちろんわたしの初勝利を喜んでくれた。

お母さんはわたしが勝つと信じて疑っていなかったらしく、夕食にちょっといいお肉を使ったすき焼きを用意してくれていた(トレセン学園の件は忘れたってことにしておきましょう)。

今日一日の献立は昼食にステーキ、夕食にすき焼きという、貴族もそこのけのぜいたくなものになってしまった。

お腹が一日中好物で満たされているときほど、人間幸せなことはない。

 

しかもそれがレースに勝った日であるなら、なおさらだった。

 

 

わたしが生きてきた中でも指折りに幸福な一日を終え、自室に戻ってきた。

 

「ふぅ……さて、と」

 

ベッドに潜る前にスマホを確認すると、シルヴィを始めとして友人知人からたくさんのお祝いLANEが来ていた。

わたしはしまらないニヤケ顔のまま、祝電をくれたひとたちにお礼の返事をしたためる。

お礼のLANEを送信するたび、祝辞をくれたひとりひとりの顔が笑顔で思い浮かんで、なんだかそれがとっても嬉しかった。

 

「今日は、本当にいい日だったわ」

 

そんなことをつぶやき、わたしは満ち足りた気持ちでベッドに潜り込んだのだった。

 

 

2週間後。

わたしは川崎レース場で行われたプレオープンをあっさり勝ち上がった。

2着に10バ身差以上をつける楽勝だった。

 

うん。

この調子なら、トゥインクルでも十分にやっていけそうだ。

 

わたしにはきっと才能があるのだ。

ケガをしないように、普通に競走生活を送っていれば、わたしはきっといい線までいくウマ娘になれる。

 

少しがんばれば、お母さんのようにも、なれるかもしれなかった。

 

 

放課後の、ダートコース練習場。

 

「……レア。俺は目一杯追ってこいと指示を出したはずだが」

 

ゲンさんが珍しく、渋い顔してわたしに問い詰めてくる。

 

「あ~。なんかちょっと、体調悪くて」

 

彼の指摘を、わたしは愛想笑いを浮かべてごまかした。

実はそんなこともないんだけど、なんだか今日はちょっとやる気がしない。

ここのところレース間隔も詰まっていたし、練習もいつもと同じようなメニューだったので、モチベーションが下がっているのだ。

 

それに……こんなスパルタな練習を毎日こなさなくても、わたしの能力ならどんなレースでもきっと勝ち負けできる。

 

だいたい、初めて会ったときゲンさん自身がわたしの素質はお母さんより上、って太鼓判を押してくれていたではないか。

 

「……そうか。G1の前にもう一つ、レースを使いたいと思っているから、しっかり走り込んでおいてほしいと思ってるんだがな」

「あ、全日本ジュニア優シュンのステップレースを決めてくれたのね。そうすると、北海道で行われるJBCジュニアクラシックかしら?それともG2の、園田で開催される兵庫ジュニアグランプリ?」

 

どちらもG1のステップレースにふさわしい重賞レースである。

わたしの前2走の勝ち方からしてどちらのレースに出走してもおかしくないし、きっと優勝争いが期待されることだろう。

 

「いや、JBCと同じ日に行われるプレオープンを予定している。川崎の1600Mで、本番と同じ条件で走れるしな」

 

前哨戦を走るのは、やぶさかではない。

でも……。

 

「どうして重賞レースじゃないのよ?わたしはもう2勝していて重賞に出走する権利を持っているし、その力も十分に身についているはずだわ」

「レースの格はともかくとして、本番と同じ条件のコースを走っておくのはお前さんにとって悪いことじゃないからだ。それに……」

「それに?」

「いや、なんでもない。それより、今日はもう疲れてるんだろ?家に帰ってゆっくり休め」

 

歯切れ悪くそう言い、まるでわたしを追い払うかのように手を振ってトレーニングの終了を告げる彼の態度は、はっきり言ってまったく面白くなかった。

 

 

天気の良い昼下がりの土曜日。

わたしは久しぶりに、街に遊びに出かけていた。

 

「いやー、ごめんねシルヴィ。急に誘っちゃって」

「それは別にいいんだけど……」

 

私服姿のシルヴィは食べていたいちごクレープを飲み込むと、少し困ったような表情を作った。

 

「レアって明日、レースじゃなかった?いいの、こんな食べ歩きなんかしてて」

「ああ、いいのいいの。わたしなりに、ちゃんとトレーニングもしてきたし。こういう息抜きも大切よ」

「そういうことなら、いいんだけどね」

 

そういうと彼女ははむっといちごクレープを再び口にする。

シルヴィにはああは言ったものの……実のところここ数日、あんまりトレーニングに身が入っていない。

 

あの日以降、それとなく重賞に挑戦してみたい、とゲンさんに伝えてはいるのだけれども、彼は『まあ、そのうちな』と気のない返事をよこすだけ。

 

練習内容は単調だし、次に出るレースは一度勝利を収めているプレオープンのクラスだ。

出走表のメンバーを見てみたけど、気をつけるべきは前走の未勝利戦をちょっといいタイムで勝ち上がってきた娘ぐらいである。

 

どうやっても負けるわけがない。

 

こんな状況で、どうやって高いモチベーションを保てというのだろう。

気の合う友人と美味しいものを食べて遊ぶ以外の方法があるのなら、教えてほしいものである。

 

「ま、ま。今日ぐらいはレースのこともトレーニングのことも忘れて楽しみましょうよ!ね、次はカラオケいかない?RENの新譜歌ってみたくてね」

「あ、いいね。じゃあお互いの推しアイドルの持ち歌縛りで点数勝負しない?負けたほうが、部屋代持ちで!」

「よし、受けて立つわ!」

 

そうしてわたしたちはいつも行っているカラオケ屋になだれ込んだ。

さんざん歌い倒して、カラオケ屋を出たのはすでに日付が変わった時刻になっていた。

 

 

「どうした?今日も寝不足か?」

 

いつものように集合場所の正門前に行くと、すでにゲンさんが待っててくれていた。

 

「うん、まぁ……」

 

カラオケで歌いすぎた翌日特有の、ガラガラ声でわたしは返事する。

 

「何だ、その声。風邪でも引いたのか?季節の変わり目だから気をつけろよ」

「そうね……」

 

さすがに、昨日夜遅くまでカラオケで遊び倒したせいでこんな声になっている、とは言えなかった。

 

「じゃあ、行くか」

 

それだけ言うと彼は、何も言わずにスタスタと歩き出した。

今日はどうしたのだろう。

いつもなら、なにかしら雑談でもしながら駅に向かうのだけれども。

 

まあ、彼も人間だし機嫌が悪いときもあるか。

わたしが勝てばきっと、いつもみたいに喜んでくれて機嫌も直るに違いない。

 

黙って歩き続けるゲンさんに、わたしの方から話しかけるようなこともしなかった。

 

 

それから特に彼とは言葉をかわすこともなく、いつもどおりに控室で着替えてパドックでファンに顔見せし、地下バ道を通って本バ場に入場した。

 

今日の一番人気はもちろんわたしで、単勝推し率はなんと75%にも上っていた。

それはそうよね。

デビュー戦はジュニアレコード勝ち、前走は10バ身つけての圧勝劇。

 

わたしが負ける要素なんて、どこにもない。

与えられた枠もおあつらえ向きに、逃げたいわたしが欲しかった内枠の3枠3番である。

へそ曲がりな予想記者は初のマイル挑戦に若干の不安、なんて書いていた人もいたけど、体幹の欠点を克服した今のわたしなら、なんの問題もなくこなせる。

 

ゲートイン完了。

 

ガチャン!

 

スタートはいつもどおり、いい感じで切ることができた。

わたしはその勢いに任せて、ハナを奪いに行く。

みんな前2走のわたしの走りを知っているのだろう。

誰もわたしに競りかけてこない。

 

こういう展開になると、もう独擅場である。

先頭にいるわたしが、好きなようにレースを作れるのだから。

 

結局誰もわたしに鈴をつけに来るようなことはせず、淡々とレースは進む。

もう完全に、わたしのペースだ。

 

誰も、わたしに追いつけない!

 

第四コーナーをカーブして、さあ、最後の直線。

あとはいつもどおりに後続をちぎるだけのレースである。

 

わたしは脚に力を込め、ギアを切り替えようとした。

 

「!?」

 

どういうわけだか、脚の回転がこれ以上上がってくれない。

 

あれっ!?

 

どういうことなの?

 

ギアをあげられる感じが、全くしない……!

 

初めて聞こえてくる、後続の足音。

観客席から聞こえくる、悲鳴にも似た大歓声。

 

うそっ、うそでしょっ……!?

 

もしかして、わたし、バテてしまっているの……?

 

「はぁっ……はぁっ……!」

 

そう意識した瞬間、急に息があがり始めた。

 

呼吸が苦しくなる。

気持ちばかりが焦って、脚がまったく思ったように捌けない。

 

どうして。

 

どうして?

 

どうして!?

 

ひょっとしたらわたしは極端なスプリンターウマ娘で、あまのじゃくな記者が予想したようにマイルでさえ長かったのだろうか?

 

一体、何が原因なの!?

 

今、そんなことを考えたって仕方ない。

理性はちゃんとそれをわきまえていたが、感情のほうが今すぐどうにかできるわけもない疑問を垂れ流しまくってしまって、まったくレースに集中できていない。

 

と、とにかく逃げ切らなければ。

 

わたしは鉛のように重くなった脚に鞭打ち、早くゴール板がわたしを迎えに来てくれることだけを祈った。

 

川崎レース場の直線は大井のものに比べると短いはずなのに……。

今日の最後の直線は、デビュー戦のものよりはるかに長く感じられた。

 

後続の足音が、大きくなってくる。

わたしの視線の端が、ひとりのウマ娘を捉えた。

 

彼女の末脚は、今のわたしなんか鎧袖一触にされそうな、ものすごいものだった。

 

あ……差された……。

 

そう思った瞬間が、ゴールだった。

 

それと同時に、観客席から激励ともヤジともつかない怒声が聞こえてくる。

 

「レア、お前何やってんだよ!お前の力はそんなもんじゃないだろう!?」

「どうしたの、本気で走ってなかったの!?」

 

そんなわけがない。

わたしは、本気で走った。

 

その証拠に今までにないほど呼吸が乱れているし、心臓が今にも肋骨から飛び出してきそうなほど暴れまわっている。

 

見ているだけの人はいいわね!

 

無責任なヤジにそう怒鳴り返したかったが、今のわたしにはそれだけの気力も残っていなかった。

仕方がないので首だけ少し角度を上げ、おそるおそる掲示板を確認してみる。

 

3着から下は着順が表示されていたが、肝心の1・2着がまだ何も表示されていない。

 

……おそらく、負けているだろう。

追い込んできた娘の末脚と気迫は、本当にすごかった。

 

きっと今日のレースに標準を合わせ、ハードなトレーニングを積んできたに違いない。

 

それに対して、どうしてわたしはこんな不甲斐ないレースをしてしまったのか。

 

狡猾でプライドだけはいっちょ前に高い自動思考くんは、それらしい原因をいくつも用意してくれる。

 

初めてのマイルで、うまくペースが掴めなかったのだ。

本当のわたしはスプリンターで、マイルという距離がすでに距離適性外だった。

ここのところレースに使い詰めで、ちょっと疲れが溜まっていただけだ。

 

……ううん。

いくらわたしがバカでマヌケでも、そんな都合の良い妄想に騙されたりはしない。

 

練習不足。

 

今回の結果は、わたしのおごりと怠惰が招いた自業自得だ。

それ以外に、原因はない。

 

トレーナーの指示に従わず練習の手を抜き、レースの前日に夜遅くまで遊び呆けていたツケがこれだ。

 

負けるのは、仕方ない。

 

わたしだって小学生1年生のときに初めて模擬レースに出走した時から、数え切れないほど負けてきている。

 

敗戦は、ウマ娘の日常だ。

 

でも【全力を尽くすべきときにそれをやらなかった。できるはずの準備を怠ってしまった】という事実が、心をズタズタに引き裂くのだ。

 

こんな、競走を始めたウマ娘ならどんな幼子でも知っている当たり前のことを、わたしはすっかり忘れてしまっていた。

 

わたしは、才能あるウマ娘でもなんでもなかった。

 

トゥインクルを走る、一人のウマ娘というだけなのだ。

 

トゥインクルを走るウマ娘は、みんな一戦一戦、人生を懸けてレースに臨んでいる。

そんな厳しい競争環境で自分への手綱を緩めてしまえば、こうなるのは当たり前だった。

 

何が重賞に挑戦したい、だ。

……なにが、お母さんのようになれるかもしれない、だ……!!

 

バカだ、バカだ。

わたしは、大バカだ。

 

……でも、もう自分がバカだということを自覚しよう。

自分は天才でもなんでもなくて、勝利を目指すひとりのウマ娘にすぎないということを受け入れよう。

 

今回の敗戦を教訓にして、きちんとやるべき練習をしよう。

 

そのためには、まずトレーナーに謝らなければ。

 

ここ数日、彼が不機嫌だった理由が、バカのわたしにもようやく理解できた。

 

最後に、敗戦の記憶をしっかり刻んでおこう。

そう覚悟を決め、わたしはもう一度掲示板を確認しようと首を上げる。

その瞬間、1着と2着の番号が表示され、確定のランプが灯った。

 

1着 2

 

やっぱり、彼女が勝ったのだ。

掲示板には、残酷なまでにしっかりとその結果が表示されていて……。

 

 

2着 3 同

3着 ……

 

「同……」

 

え?

同ってことは……。

 

その結果に、観客席からはなんとも言えないどよめきが起こった。

それから少し間をおいて起こる、大きな拍手。

 

……その拍手は不甲斐ないレースをした一番人気の【負けなかった】ウマ娘に向けられたものではなく、素晴らしいレースを魅せてくれた【勝った】ウマ娘に対して贈られているものだということは、バカなわたしでも理解していた。

 

わたしは、今日の同着のレースを忘れない。

わたしと同じぐらいの才能を持ったウマ娘なんてたくさんいるのだ、努力なくしてその中を勝ち抜くことなんてできないのだ、と思い知らされた今日のレースを、絶対に忘れない。

 

 

1着が同着だった場合、ウイニングライブは【ダブルセンター】という形で行われる。

めったにないことなので、ダブルセンターの振り付けの練習をしているウマ娘なんてほとんどいない。

わたしたちもその例にもれなかったので、急遽舞台袖で簡単な振り付けの変更の確認を行うことになった。

 

その時のことだ。

 

「今日のレアさんの調子が本調子だなんて、私も思っていないよ。それはちょっとくやしいけど……でも、勝負は勝負。結果は結果。今日は私も堂々とセンターとして歌わせてもらうわね」

 

能力があり、これだけ志の高いウマ娘が一つの白星を目指してしのぎを削っているのが、トゥインクルという世界なのだ。

 

楽に勝てるレースなんて、存在するわけがない。

敗戦という形で慢心と怠惰の代償を支払わずに済んだのは、本当にただの偶然だった。

 

【勝者】としてそう宣言する彼女に、わたしはなんとか作った笑顔で「わたしももちろん、そのつもりよ」と強がっているふりをするぐらいしか、できなかった。

 

 

「負けなかったんだな、おめでとうよ」

 

ゲンさんは目一杯皮肉を利かせた笑みを浮かべて、わたしを出迎えてくれた。

……彼にはきっと、わたしの腐った性根も行動も、全部お見通しだったに違いない。

 

「……本当に、ごめんなさい。わたし、ちょっと連勝できてたからって調子に乗ってたみたい」

 

わたしは精一杯の反省と謝意を込めて、頭を下げた。

 

「お前さんが自分でそのことに気づいてくれるなら、黒星ひとつぐらい安いもんだ、と思って今まで何も言わなかったんだがな。最近あれだけいい加減な練習してて負けなかったのは、2戦目までは必死にやっていた貯金だよ」

 

どうしょうもないウマ娘であるわたしを、そう言って彼はフォローしてくれた。

 

「……本当のこと言うと、わたしあんまり、トレーニングって好きじゃないのよね……」

 

そんな彼に、わたしは爆弾発言を放り込む。

 

わたしもウマ娘であるから、走ることは好きだ。

ただ、それでもやっぱり練習となると辛いな、と思うことはあるし、筋トレやストレッチなどは正直、できるだけやりたくない。

 

もちろん本来なら、このようなことはトレーナーに言うべきではない。

でもゲンさんなら、わたしの本心を受け入れてくれて、その上で解決方法を考えてくれるのではないか、と思った。

 

彼のことをそう信頼した上でわたしは思い切った告白をしたわけだが、それでもあきれられるか、ひょっとしたらひどく激高されるかもしれないと覚悟していた。

 

でも、ゲンさんはさもありなん、とうなずくだけだった。

 

「レアの練習嫌いは、担当についてすぐに気づいていたよ。最初、俺の練習メニューにひとこと言ってきたときにもそう思ったし、たいていのウマ娘は決められている練習が終わっても、体調が良いときやモチベーションが高い時は追加の練習をトレーナーに申し込んでくるもんだ。でもお前さん、それ一度も言ってきたことないだろ?」

 

……そういう些細な事からでも、練習嫌いってバレるのね……。

 

「別にそのことを『やる気のない奴だ』と責めているわけじゃない。オーバーワークしたがるウマ娘も、それはそれで困りものだしな。ただまぁ、それもあって普段から少し負荷の高いトレーニングを組み立てている、ということはある。お前さんは確かに練習嫌いだが、真面目なところもあるから言われた練習メニューは不満な顔しながらでも、こなしてくれていたからな。最近は少しばかり、手抜きしてたようだが」

 

彼はそう言ってハッハッハ、と快活に笑いながら、ぽん、とわたしの肩に手をおいた。

 

「今日のレースで、トゥインクルが甘いもんじゃないってことを身をもって知ることができたろ?昔のアニメのセリフじゃねえが、勝負事ってのは【もう何も怖くない】って瞬間が一番怖いんだ。自分は今順調だ、と感じているときほど、気を引き締めなきゃならねえ」

 

ゲンさんのありきたりな言葉に、わたしは真摯にうなずいた。

確かに彼の言葉はありきたりなもので、同じようなシーンで、たくさんの人が同じようなことを言われているのだと思う。

 

だからこそ、それはきっと真実を含んでいるのだろう。

 

「トレーニングも、嫌いなもんはまぁしょうがねぇ。好きになれ!とトレーナーに怒鳴りつけられたところで、好きになれるもんでもないしな。でもな、その中にでもなにか楽しい、面白いと思えることを探してみろ。例えば筋トレなら、持ち上げられる重さやできる回数が増えていくことに成長を感じてみる、というのも悪くないぞ。いろんな筋トレ器具を試してみて、ちょっとでも面白さを感じられるものを使うようにする、というのもいいだろう。もちろん俺も、レアが少しでも興味を持ってトレーニングに取り組めるよう、工夫するつもりでいるけどな」

「……面倒かけるわね」

「それがトレーナーの仕事だ。気にすんな。さ、昼飯食って帰るぞ。なんか食いたいものあるか?」

 

今朝のわたしの思惑とは違った形になったが、そう言ってくれる彼の雰囲気から察するに、かなり機嫌を直してくれたようだった。

 

「そうねえ……。そうだ、もつ煮込ってのを食べてみたいわね。ここの名物なんでしょう?」

「また酒が飲みたくなるメニューを……。ま、今日は勝ったことだし、昼間から一杯やっても許されるだろ!」

 

まったく、なんか調子のいいことを言ってるわね。

今度はわたしが観察眼を発揮しなければならない場面だ。

 

「ダメです。今日は負けなかっただけなんだから、勝利の美酒は次のレースに取っておきましょうよ。それにゲンさん、最近お酒の量増えてるでしょ?たまーに二日酔いでわたしの指導してるの、知ってるんだから」

「バレてたのか」

「わたしの練習嫌いより、よっぽどわかりやすかったと思うわよ?」

 

わたしの皮肉に、彼はバツの悪そうに苦笑した。

 

「それはひどい。ちょっと酒は自重するかな」

 

結局ゲンさんはノンアルコールのビール片手に、やっぱ本物が飲みてーと言いながらもつ煮込とおでんをつまんでいた。

 

わたしももつ煮込とおでん、それにとりのから揚げをごちそうになった。

もつ煮込というのは初めて食べたが、思ったよりクセもなく、出汁がモツに染み込んでいて絶品だった。

 

ひょっとしたら、わたしも酒飲みになるのかもしれないわね。

 

お酒が飲める歳になったら、この飲んだくれのトレーナーとお酒を飲み交わすのも悪くないのかもしれない。

 

その酒の席で彼に、『お前さんは確かに練習嫌いだったが、それなりにがんばってトレーニングに取り組んでいたよな』と言われるぐらいには、一生懸命練習しよう。

 

そして、今日のようにレースのあと後悔が残るような、いい加減な練習は二度としない、と固く自分の心と彼に誓ったのだった。

 




読了、お疲れさまでした。

今回も最後までお読みいただき、まことにありがとうございます。

どんな人にでも敗戦があり、失敗した経験があると思いますが、
その挑戦に対して準備や練習を精一杯やってきたのなら、
ある程度はあきらめがつくものですし、場合によっては
やりきった、と思うことができますよね。

でも、やろうと思えばもっとやれたはずなのに……
努力する時間もリソースもあったはずなのに……という
後悔の残る挑戦には、失敗した時は言うに及ばず、
たとえうまくいったとしても、妙な後味の悪さが残るものです。

今回のレアのように、その代償を払わずに済む、というケースは
きっとほとんどないのでしょうね。

私の場合、山ほどその代償を支払うことが多かったので……(笑)。

それではまた、近いうちにあとがきでお会いしましょう!


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side story ~ファルコンレア~ 8話

エイシンフラッシュの娘。に登場したファルコンレアのストーリーです。

登場人物:ファルコンレア
※オリウマ娘注意です。
こんな感じの娘です。

【挿絵表示】

よろしければ皆様の読書の
一助にしていただけると幸いです。

誕生日:5月5日
体重:絞れていい感じの仕上がり。
身長:171センチ
スリーサイズ:84・58・84

ファルコンレアのヒミツ7・実は、お菓子作りに興味を持っている。



>>

『さあ、ここの直線は短いぞ!最初に立ち上がったのはファルコンレア、ファルコンレアが先頭!後続はまだ来ない、後続はまだ来ない。ファルコンレア突き放した、これは強い、これは強いわ!ファルコンレア今一着でゴールイン!G2兵庫ジュニアグランプリを制したのはファルコンレアです!圧巻の強さを見せました。やはり今年のジュニアダート界の主役はこの娘なのか!』

 

>>

わたしが控室に戻ると、喜色満面でトレーナーのゲンさんが出迎えてくれた。

 

「重賞初制覇おめでとう!よくやった!」

 

彼は普段からはっきりと感情をあらわにする方だが、これほど喜んでくれている彼を見るのは初めてだ。

 

「ありがとう。まあ、なんとかって感じね」

 

わたしはまだ整わない呼吸のまま、用意してくれてあったスポーツドリンクを口に含んだ。

 

「お前さんの実力は疑っちゃいなかったが、初めての遠征でどうコンディションが変わるかは、不確定要素だったからな。どうやら、心配はなさそうだ」

「実はそんなに大丈夫、というわけでもないんだけどね」

 

楽観的なことをいう彼に、わたしは思わず苦笑してしまう。

 

そうでなくても大レースの前は寝付けないのに、初めての重賞挑戦、初めての関西遠征ということでいつも以上に緊張してしまって、昨日の夜はほとんど眠ることができなかった。

新幹線の中でうたた寝していなければ、本当に寝不足で力を出しきれなかったかもしれない。

 

「でもなレア。【旅慣れる】ってのは一流の条件だ。どんなジャンルでも一流のプレイヤーは全国を、場合によっちゃあ世界中を転戦しなきゃならん。重賞を勝ったお前さんはもう【一流】のウマ娘なんだ。その自覚を忘れないようにな」

 

彼の言葉に、わたしは身が引き締まる思いでうなずいた。

わたし自身はまだまだ自分のことを一流のウマ娘、なんて到底思えないけれど。

重賞を勝ったとなれば、世間の見る目も変わってくるだろう。

 

「ま、堅苦しい話はここまでにするか。せっかく兵庫まで来たんだし、レアが勝ってくれると信じていたからな。三宮で神戸牛のうまい鉄板焼屋を予約してある。いくか!」

「神戸牛!?」

 

彼の信じられない一言に、わたしは目をキラキラさせる。

御存知の通り、わたしは大の肉好きであるから、嬉しい申し出であることには間違いない。

でも……。

 

「でも、お高いんでしょう?」

「……どうもまだ、お前さんの中で俺の貧乏人疑惑が晴れてないようだな?」

 

いや、そういうわけでもないわけでもないわけでもないんだけど(何言ってるのかわからなくなってきたわね)。

 

「ま、金のことは心配すんな。寂しい男のひとり暮らし、担当ウマ娘とうまいもん食うぐらいしか金の使い道もねえんだよ。さ、行くぞ」

 

ん……?

以前わたしが乱闘事件を起こしたとき、お母さんに娘がいる、みたいなこと言ってなかったかしら?

 

う~ん……。

気にはなるけど、立ち入ったことを聞くのもよくない気がする。

そんな気がしたわたしは「ぜにのないやつぁ~おれんとこへこい オレもないけど心配すんな~」と心配になるような歌を唄いながら控室を出て行こうとする彼に、黙ってついていくことにした。

 

連れていってくれた鉄板焼屋で食べた神戸牛は、本当に最高だった。

今まで食べた肉で、一番美味しかったかもしれない。

鉄板で焼いたエビやイカなどの魚介類も、また美味しかった。

 

酒好きの彼も、今日はほとんどお酒を飲まずに肉や魚介類、野菜を堪能していた。

珍しいこともあるものだと思って「今日は勝利のお酒は飲まないの?」と聞いてみると、「最近少し、禁酒してるんだよ。俺ももう若くないしな」と笑いながら肉を頬張っていた。

 

お酒を控えるのはいいことだし、お肉が美味しいから、お酒で味覚を鈍らせるのがもったいなかったということもあるんだろう。

 

大きなレースの関西遠征で勝った時は、また連れてきてもらおう。

レースで勝ったあとに食べる好きな食べ物ほど、美味しいものはこの世に存在しないのだから。

 

 

わたしがミーティングのためにトレーナー室にいくと、彼はタブレットで何かを読んでいるようだった。

 

「お、レア。来たか。これ見てみ」

 

そういってゲンさんは読んでいたタブレットをこちらへ投げ滑らせてきた。

はしっと受け取って目を通すと、それは月刊トゥインクルだった。

 

見出しは【今年の主役はファルコンレアだけじゃない!?アーロンアラステラ、堂々の逃げ宣言!】。

 

「ん~、なになに……」

 

【兵庫ジュニアグランプリで鮮やかな逃げ切り勝ちを収め、強烈な印象を残したファルコンレア。その鮮烈な勝ちっぷりに早くも【天才ダートウマ娘】【ファル子の再来】との声も。今年のジュニアダート界の主役はこの娘だと言われているが、それに待ったをかけようとするウマ娘がいる。それがトレセン学園所属ジュニアクラスのウマ娘、アーロンアラステラだ。【アーロン】【ステラ】の愛称で親しまれているアーロンアラステラは抜群のスタートダッシュと天性のスピードを武器に、メイクデビュー・オープン・JBCジュニアクラシックと、気持ちの良い逃げっぷりでダートを現在3連勝中】

 

……【天才ダートウマ娘】【ファル子の再来】とは、まぁ持ち上げられたものね……。

わたしは内心苦笑しながら、続きを読む。

 

【アーロンアラステラは我々の『次走の全日本ジュニア優駿には、G2・兵庫JGを制したファルコンレアも出走してくると思われますが?』との質問に、『ファルコンレアさんは確かに強い娘だとは思うけど、あのレース振りを見る限り、彼女は短い距離向きのウマ娘だと思う。私は1800MのJBCを良いタイムで制覇しているし、マイルの土俵なら私のほうが優位に戦えるはず』と答え、強気の姿勢。G1出走への意気込みを『トレセン学園代表のウマ娘として、恥ずかしくない成果を持ち帰りたい。当然、G1でも自分のレースをするだけです』と語り、堂々と逃げ戦法を宣言した。ご存知の通り、ファルコンレアの得意戦法も【逃げ】。【逃げウマ娘対決】が今から楽しみだ。 ライター・乙名史悦子】

 

アーロンアラステラさんのことは、多少は聞き知っていた。

といっても、この記事に書いてあるとおり彼女とは通っている学校が違うし、知ってることはここにあることぐらいだったけど。

 

「でも実際のところ、どうなの?」

「ん?何がだ?」

「いや、わたしの距離適性。確かにマイルでは同着まで詰め寄られたけど、あれは……わたしがだらしなかったことが大きな原因だろうし。トレーナーから見て、どうなの?」

 

わたしの疑問に、彼は腕を組んで考え始めた。

 

「正直なところ、距離が伸びれば伸びるほどいい、ってタイプじゃねえな。マイルまではまぁ、問題なくこなせると思う。だが2000Mとなると、それはお前さんの努力次第、といったところかねぇ」

「……なるほどね」

 

努力次第、か。

練習嫌いのわたしにとって、それはなんとも重たい言葉である。

わたしが『努力でなんとかなるならがんばろう!』と思えるタイプのウマ娘であるなら、どれだけ良かっただろう。

 

「センロクで限界なのと、ニセンまで走れるのだと、戦えるレースの幅が大きく違ってくるわよね?」

「だな。期待してるぜ、天才ウマ娘さんよ」

 

……わたしが天才でもなんでもなく、練習嫌いのただのウマ娘であることを一番良く知っているのはあなたですよね?

 

そう喉まで出かけたが、いらない口答えをしているより、走り込みや筋トレをしている方が適応できる距離が伸びるのは間違いないので、わたしは黙ってトレーニングに出かける準備をし始めた。

 

 

意外なことに、ゲンさんにはG1勝ちの勲章がなかった。

担当してもらうことが決まったときに、彼の成績をトレーナーデータベースで調べてみたことがある。

通算重賞勝ちが22勝というのは、間違いなく名トレーナーの成績だ。

 

それなのになぜか、その中にG1が含まれていない。

 

もちろん、トレーナーにとってもG1を勝つということは難しい。

トレーナーのなかでも、G1勝ち経験者は10%ほどだと言われている。

G1トレーナーになるには、優れた指導力を持っていることは当然のことながら、そういうウマ娘と巡り合う幸運や人脈を持ち合わせていないといけないのだ。

 

それでも、22個も重賞を勝っていてG1勝ちがないトレーナーというのは相当に珍しい。

そのことをそれとなく、この前の関西遠征のときに彼に言うと、うまそうに日本酒をあおりながら『ああ、そういやそうだな。まあ、めぐり合わせってもんがあるからなあ』と、気のない返事が帰ってきただけだった。

 

彼だって、G1を勝ちたいに決まっている。

G1という勲章は、ウマ娘に携わるすべての者にとって、最高の栄誉なのだから。

そしてわたしが重賞を勝った今、彼もそれを意識していないはずがない。

 

それでも彼がG1のことに関して気のないようなことを言ったのは、きっとわたしに余計なプレッシャーを与えたくなかったからなのだろう。

 

まったく……。

両親といいゲンさんといい、わたしの周りにはどうしてこんなに、デキた大人が多いのだろう。

きっとわたしのような不出来な子供ほど放っておけなくて、こうしてデキた大人が集まってきてくれるのだ。

 

デキの悪い子ほどカワイイ、とはこのことなのだろうか。

 

……勝ちたい。

わたしを拾ってくれて、本来の力を出させてくれた彼のためにも、わたしはG1を勝ちたい。

 

お母さんはよく、【応援してくれるファンのためなら、辛いトレーニングもがんばれた】と言っていた。

 

それを聞いた時は自分のためならともかく、人のためにがんばれるという気持ちがよくわからなかったのだけど……トゥインクルを走り始めた今になって、その気持ちが少しばかりわかり始めてきた。

 

彼と【ふたり】で、G1を勝ちたい。

そう思えば、大嫌いな筋トレも集中して取り組むことができた。

そんなわたしを、ゲンさんは何も言わずに見守ってくれていた。

 

 

12月15日、日曜日。

 

今日の決戦の舞台である川崎レース場ではナイターレースも運営しており、メインレースである全日本ジュニア優駿はそのナイターで行われるため、家を出るのは夕方になってからだ。

 

「行ってくるね」

 

わたしは出かける前に、リビングにいた両親にいつもどおり、そう挨拶した。

 

「おう、気をつけてな」

「は~い。いってらっしゃ~い」

 

お父さんはテレビで明日の天気予報を見ながら、お母さんはいつもと同じように笑顔で手を振って見送ってくれる。

それは、いつもと変わらない風景だ。

 

お父さんもお母さんも、勝負の世界のことを知り尽くしてる人種である。

大勝負の前は変に励ましたりするより、いつもどおりに送り出してやるほうがプレッシャーが少ないということを、よくわかっているのだろう。

 

だからわたしも時間帯こそ違えど、いつもどおり履き慣れた靴を履いて、いつもどおりに家から出発した。

 

 

冬の夕暮れは切ないぐらいに短く、陽はすでにどっぷりと暮れている。

 

集合場所である学校の正門前に着くと、ゲンさんはもう先に待っててくれていた。

……G1に出走するというのに、彼はジャージ姿にポシェットを腰に巻いているという、いつものスタイルだった。

 

「おーう。この時間から出発するのは、なんだか妙な気分だよな。昨夜は眠れたか?」

「いつもどおり、あんまり。ってかゲンさん、なによその格好」

「ん?なんか変か?」

「いや、G1のときのトレーナーって、男性はスーツ着てるイメージがあったから……」

「あ~。変にカッコつけてもなんだしな。ま、細かいことは気にすんな!」

 

そういって彼はワハハ、と笑った。

……わたしが緊張しないよう、いつもどおりの服装で来てくれたのかもしれないし、単にスーツを用意するのが面倒だったのかもしれない。

 

彼は普段から、服装にはあまり構わないところがある。

いつも同じジャージを着ているわりに、クサかったり汚なそうだったりしたことはないので、そのことを彼に聞いてみたことがあった。

すると彼はなぜか得意げになって、『なにを着るか考える時間がもったいないから、同じジャージを5着持っていて、それを着回しているんだよ。スティーブ・ジョブズみたいでカッコいいだろ?』と、よくわからない答えを寄越してくれた。

 

まあ、そのジャージ姿はいいんだけれども。

 

「ゲンさん。いつも思ってたんだけど、そのボロボロのポシェットはなんとかならないの?なんか、すごく浮いてるわよ」

 

別にそれが不潔とかいうわけでもないのだけれど、パッと見ただけで年季が入っているな、とわかるようなシロモノだし、そろそろ買い替えてもいいんじゃないかな、とわたしはひそかに思っている。

 

わたしがそんなことを言うと、彼は珍しく困ったような微笑を浮かべた。

 

「あ~……、これだけはな。子供っぽいとは思うが、気に入ってるんだよ。カンベンしてくれ」

「ふーん」

 

歳に関係なく、そういう持ち物は誰にでもあるものなのかしら。

わたしだって、いつ買ってもらったかも覚えていないうさぎのぬいぐるみを、未だにまくらもとに飾ってあったりするものね。

 

そういうことなら、それ以上ツッコむのは野暮というものでしょう。

それからわたしたちはいつものようにとりとめのない雑談を交わしながら、駅に向かって歩き始めた。

 

 

わたしは控室で、お父さんから買ってもらったあの勝負服に袖を通していた。

試着は何度かしたことあるけど、勝負の場で着るのはもちろん初めてである。

 

勝負服に袖を通し、スカートを履いて小道具を付けながら思う。

 

……勝負服って、こんなに重たいものだったのか。

 

この重量はきっと、これから向かう大勝負へのプレッシャーだったり、たくさんの人がわたしに抱いている期待だったりするのだろう。

 

勝負服に着替え終わり、姿見に自分を映してみた。

 

わたしは髪の色以外、あまりお母さんに似ていないってよく言われる。

 

目元はお父さんに似たらしくツリメ気味だし、お母さんみたいに女の子っぽく可愛らしい顔立ちをしていないことは、しっかり自覚している。

 

でも、レース終盤の、勝利を追い求めて懸命に走る顔だけは、お母さんによく似ていると自分では思っていた。

 

……今日もレースで全力を出せますように。

 

わたしは三女神と偉大なお母さんに、心のなかでそうお祈りした。

 

 

パドックから観客席を見回すと、寒さ厳しい12月の夜であるにもかかわらず、文字通り溢れんばかりの人がそこにいた。

前回重賞に出走した園田レース場もたくさんのひとが見に来てくれていたが、なんというか、人の密度が違う。

……以前シルヴィが話してくれた、【こみけ】ってイベントもこれくらいの人が集まるのかしら?

 

そんなことを考えながら少し、いや、かなり緊張した足取りで、わたしはパドックの舞台に立って頭を下げる。

それと同時に、割れんばかりの拍手と大きな声援が飛んできた。

 

「レア!今日もすごい逃げ切りを見せてくれ!」

「レアさん!愛してます~!がんばって~!!」

 

野太い声の男性からの激励もあれば、女性からの黄色い声援も聞こえてくる。

たくさんのひとに応援してもらえるというのはもちろんプレッシャーもあるが、だからこそそれを力に変えてがんばれるという一面は、確かにある。

 

今日の一番人気は、わたしだ。

単勝支持率は34%。

 

今までのレースの中で一番低い支持率だけど、それでも三人に一人はわたしが勝つと信じてくれているわけだ。

 

二番人気は当然……。

 

わたしが舞台から降り、しばらくパドックを周回していると、わたしのときと同じぐらい大きな歓声が沸き上がった。

 

彼女もここまで3戦無敗。

北海道のJBCジュニアクラシック覇者。

 

アーロンアラステラさんだ。

 

彼女はわりと小柄なウマ娘で、芦毛の髪を腰まで届くロングヘアにしている。

そのプラチナブロンドの髪がナイター照明に照らされて、まるで光り輝いているように見えた。

 

彼女はその髪をふわり、と見せつけるようにかきあげ、軽く会釈しながら大勢の観客たちに笑顔で手を振っている。

 

浮かべている表情にはとても初めてのG1を走るとは思えない余裕があり、大物然とした彼女に大観衆は惜しみない拍手と歓声を送り続けていた。

 

そんなパフォーマンスを終え、彼女もパドックの輪にもどってくる。

 

そのとき一瞬だけ彼女と目があったが、彼女はわたしに冷徹な視線をくれただけだった。

 

だからわたしも、無表情を貫いた。

 

 

本バ場入場からゲートインまでは、極めてスムーズに進んだ。

レースを恐れてゲートインを拒むような娘は、一人もいなかった。

一応わたしとアーロンアラステラさんが人気を集めて注目されてはいるが、その他に出走しているウマ娘たちも、全国から集まった、各トレーニング学校の【最優秀ジュニアウマ娘】クラスの娘ばかりだ。

 

例えば、岩手レース学校から出走している、3番人気のパヒュームセリエさん。

 

彼女は地元の岩手レース学校が主催するレースで5戦全勝の成績を収めており、【岩手の怪物二世】とまで言われている逸材。

マイルの距離も複数回経験しており、その勝ちタイムだけならわたしやアーロンアラステラさんとまったく遜色ない。

 

そんな娘ばかりが集まって、唯一人の勝者を決める。

 

それが、G1という舞台なのだ。

 

全員、ゲートイン完了。

 

ガチャン!

 

スタートは気持ち遅れた気がしたが、この程度なら問題なさそうだ。

わたしはいつもどおり、ハナを奪いに行くために加速する。

 

でも、わたしの外側から一人のウマ娘があっというまに抜き去っていった。

 

アーロンアラステラさんだ。

彼女のスタートセンスは、わたしなんかよりよほど優れたものらしい。

相当良いスタートを切らないと、あれだけの加速力は得られないだろう。

 

わたしの脚質はもともと先行気質だし、二番手に控えても全然良かったんだけれども。

彼女の、雑誌でのインタビューやパドックでの強気な態度を見ていると、こちらからも挑戦したくなってくる。

 

わたしは少しばかりギアを上げて、彼女に並びかけにいく。

横並びになると、彼女はこちらをチラリ、と見てさらにスピードを上げて突き放しにかかる。

 

あちらもまったく、譲る気などなさそうである。

 

ふむ。

 

冷静に考えるなら、彼女にハナを譲ってしまって、わたしは二番手で自分のレースをすればいいのだろう。

 

でもなぜか今日は、とてもそんな気になれなかった。

 

いいでしょう。

 

戦争を、しましょう。

 

そんな気分になったのは彼女の今までの態度が鼻についた、ということも多少はあるけど、それ以上に彼女の素晴らしいスピードに挑戦したい、自分の力を試してみたい、という気持ちが大きかった。

 

わたしはさらに加速し、アーロンアラステラさんを内側から追い抜こうとする。

そうはさせない、とあちらも脚のピッチを上げる。

 

レースは前の二人が先頭を奪い合う、激しいデッドヒートになった。

 

その様子に観客席から、悲鳴とも歓声ともつかない声が聞こえてくる。

 

「……しつこい」

 

わたしの隣から、ポツリとそんな声が聞こえた。

……あなたが譲ってくれれば、わたしもあなたに競りかけるマネをせずに済むんですけどね!

 

わたしはそう言う代わりにもう1段階ギアを上げて、アーロンアラステラさんを一気に抜き去った。

すると彼女も意地を見せて私をもう一度抜き返す。

 

レースのペースはきっともう、想像したくもないぐらいハイペースになっていることだろう。

ただ、そんなペースで走っているにもかかわらず、わたしの脚は思ったほど消耗している感じはしていない。

 

あの不甲斐ないレース以降、手を抜かずに指示されたトレーニングメニューをしっかりこなしている、ということもあったのだろうし、自宅に帰ってからも(渋々ながら)スタミナ補強に重点をおいた筋トレを地道にやっていたことの成果が出ているのかもしれない。

 

抜きつ抜かれつ、結局お互い全く譲らないまま、レースは最後の直線へ向かう。

 

先に仕掛けたのは、アーロンアラステラさんだった。

これだけのペースで競ってきたわけだから、あちらも本当はわたしの仕掛けを見てから脚を使いたかったに違いない。

それでも彼女が自分のペースで仕掛けたのは、自分のほうが強い、という自信と意地があったからだろう。

 

でも、その自信と意地は、彼女だけのものじゃない!

 

わたしは彼女の仕掛けを見てから、ギアを最高速に切り替えた。

強いウマ娘と競ってハイペースのレースをしてきたわけだから、脚にはかなりの疲労が感じられたけど、スタミナが底をつきそうな感じはまだしない。

 

内側から彼女の抜いた、と思えば、彼女も勝負根性を見せてものすごい形相で食らいついてくる。

 

今度は半バ身、彼女が前に出た。

それだけは許さん、とわたしはひじがこすり合うぐらいの距離で競り合い、彼女を睨みつけ、もう一度内から差し返す。

 

二人の激しい一騎打ちに、スタンドが大きく沸き立つ。

 

トゥインクルにデビューしてから突き放すレースが続いたが、こういう競り合いになるレースこそ、実はわたしのもっとも得意とするところなのだ。

 

残り200Mのハロン棒を越したあたりで、彼女の脚が急激に悪くなり始めた。

一歩、二歩と、彼女がわたしに遅れを取り始める。

 

……競り潰した。

 

長年の勝負感が、脳内でそう告げる。

視界のすみに彼女の泣きそうな顔が目に入ったが、わたしはそれを見なかったことにした。

 

おそらく彼女にはもう、わたしを差し返す力は残っていないだろうが……まだ安心できない。

これだけのハイペースで飛ばしてきたのだ。

 

うしろの娘達は、たっぷりと末脚をためているに違いない。

 

でもまだ、わたしのスタミナには少しばかり余裕がある。

 

わたしは最高速度を維持したまま、最後の直線を駆け抜ける。

 

残り100M。

 

残り50M。

 

ゴール板が、見えてくる。

 

後続の足音は聞こえてこない……!

 

わたしは先頭で、G1のゴール板を駆け抜けた。

 

……よし!

わたしが、G1を勝ったんだ……!

 

そう思うと自然に笑みがこぼれ、無意識に拳を夜空に突き上げていた。

 

そんなわたしのパフォーマンスに、スタンドからは爆発的な歓声があがった。

 

 

高揚した気持ちのままウィナーズサークルにやってくると、意外にも平静な顔をしたゲンさんが出迎えてくれた。

 

「G1制覇、おめでとう。よくやった」

「うん、ありがとう」

 

わたしは反射的にお礼を言ったけど、なんだか拍子抜けしてしまった。

彼にとっても初めてのG1制覇だし、もっと喜んでくれるものだと思っていた。

 

まあ、ゲンさんも長く生きているわけだし、G1ひとつ勝ったぐらいじゃ感激なんて……。

 

「本当に、よくやってくれた。なんと言えばいいか……」

 

そういうと彼は、その大きな右手で顔を覆ってしまう。

聞こえてくる、小さくて低い嗚咽の声。

 

「ゲンさん……」

 

そうか……。

平静を保ったふりでもしてないと、すぐにでも感情が溢れ出しそうだったのね。

 

わたしはきっと、大人の男の人が泣いているのを初めてみたのだと思う。

そんな彼を見ていると、わたしも胸が一杯になってくる。

 

わたしはそんな彼を、ただただみつめていることぐらいしかできなかった。

 

 

ウイニングライブの会場は、立錐の余地もないほど人で埋め尽くされていた。

 

G2までのウイニングライブは、正直なところそんなにたくさんの人が集まってくれるわけではない。

一部の物好きな人たち以外は、レースが終わったらウイニングライブなんて見ないで、次のレースの予想を楽しんでいるか、さっさと帰ってしまうから。

 

でも、G1のウイニングライブは違うようで、帰る人なんてほとんどいないようだ。

あのスタンドにいた人たち全員がこの会場に集まってきているのではないか、と思えるほどの盛況ぶりだった。

 

この大観衆の前で、わたしがセンターとして歌う。

 

披露する曲は、【UNLIMITED IMPACT】。

 

ダートG1のウイニングライブで歌われる、激しい曲調の歌だ。

 

【砂の女王】とまで言われ、ダートのG1を勝ちまくったお母さんは、この歌をセンターとして数え切れないほど唄った。

この歌はお母さんの持ち歌、というわけじゃないけど、【UNLIMITED IMPACTのセンターといえばスマートファルコン】というイメージがあるほど、ファンの記憶に残っている曲である。

 

そんな歌を、わたしがセンターで歌える。

 

トゥインクルに参加して、本当に良かったと思えた瞬間だった。

 

辛く、厳しいときでも歩みを止めないで。

あなたには、あなたにしかできないことがあるはずだから。

 

そんな意味の歌を、わたしは精一杯の思いを込めて歌い上げる。

 

わたしたちの歌を聞いて、わたしたちウマ娘のレースを見て、勇気や元気をもらえるという人が、少しでもいるといい。

 

ペンライトを振り、涙さえ流しながらわたしたちを応援してくれる人たちを舞台から見渡しながら、わたしは心からそう思った。

 

 

肉の焼ける香ばしい匂いが、それほど広くない個室を満たしていた。

 

「レアよ、よくやった。本当によくやってくれた!今日は人生最良の日だ!」

「わかった、わかったから。それから、お酒臭いから肩組んで近寄るのはやめて。というか、禁酒してたんじゃなかったの?」

「このめでたい席に無粋なこと言うんじゃねえよ。店員さん、日本酒を熱燗で持ってきてくれ。あと、特選カルビとシャトーブリアンをこいつに持ってきてやってくれ!」

 

ゲンさんは呼び出した店員さんに大声で注文すると、ジョッキに口をつけてグビグビとビールを喉の奥に流し込んだ。

 

もう大ジョッキ3杯目で、わたしはお酒の加減なんてわからないけど、結構なペースで飲んでいるのではないだろうか。

 

まあでも、彼の言う通り今日はめでたい席である。

そのめでたい日のお祝いに、ゲンさんはいつかの約束通りにわたしを高級焼肉店のジャジャ苑に連れてきてくれた。

 

最初のうちはその高級店でおいしい肉をつつきながら、しんみりとG1初勝利の喜びを二人で分かち合っていたのだけれども……。

2杯目を越えたあたりから彼のテンションが上がり始めて、3杯目に突入した今、すでにデキ上がってしまっているというわけだ。

 

「聞いてくれ、レア。実はな、お前さんの走りを初めて見たときから、俺には叶えたいと思っている夢があるんだよ。アイハブアドリームってやつだ!」

「へぇ」

 

なんで英語なんだろう?

しかも、発音がベタベタである。

 

「お前さんがもっと強くなって、国内のレースで敵なしになったらな、アメリカへ遠征するんだ。挑戦するレースは、世界最強のダートウマ娘が集うブリーダーズカップクラシックだ!」

「それは、とても素敵な夢ね」

 

酔っ払いの戯言、と聞き流すにはずいぶん熱の入った弁である。

わたしは運ばれてきたシャトーブリアンを焼きながら、大きな耳を彼の言葉に傾け続けた。

 

「そうだろう!昔、一度だけ行った家族旅行でな。生でブリーダーズカップクラシックを見たんだよ。レアも知ってるだろう?ブリーダーズカップクラシックが行われる日はBCデーと言って、世界中から芝・ダートともにトップクラスのウマ娘が集うんだ」

 

彼の説明に、わたしはうんうん、と相槌を打った。

アメリカのブリーダーズカップはフランスの凱旋門賞とともに、ウマ娘であれば誰もが憧れる世界最高の舞台の一つであることには違いない。

 

「その時勝ったのが、フライトラインってウマ娘でな。出走ウマ娘は全員G1ウマ娘という超豪華メンバーの中、8バ身以上の差をつけて圧勝よ。忘れられねえ思い出でな。その時思ったんだ。俺もいつか、これぐらい強いウマ娘と一緒にこのレースに挑戦して、そいつとふたりで世界一になってみたいってな!」

「いや、わたしに期待してくれるのは嬉しいのだけれども。フライトラインさんと同じぐらい期待されると、非常に心苦しいというかなんというか……」

 

フライトラインといえば史上最高のレーティングポイントを獲得し、アメリカレース史上最強の一人とまで言われたウマ娘で、わたしたちダートを走る者にとって伝説的な存在である。

……そこまで期待されても正直困るのだが、わたしがトレーニングやレースを頑張って実績を積み重ねれば、彼をブリーダーズカップクラシックにつれていくことぐらいはできるかもしれない。

 

「謙遜は美徳だ。でもなレア。お前さんは間違いなく世界を獲れる器のウマ娘だよ。それにはもちろん、厳しいトレーニングに耐え抜く必要があるがな!」

「……前向きに善処いたします……」

 

彼の夢を聞いているあいだにシャトーブリアンがいい感じに焼き上がったので、わたしは前向きに善処するつもりのないヤツの常套句で返事してから、肉を適当に切り分けて口に運んだ。

 

いやもちろん、トレーニングはそれなりにがんばるつもりでいるけどね。

 

ん……。

このお肉うまっ!

 

至福の味を口内で堪能しながら、わたしは彼の話を聞いているうちに沸き出てきた一つの疑問をぶつけてみた。

 

「ダートで世界ナンバーワンっていうんなら、ドバイワールドカップやサウジカップなんかもそうじゃない?もちろんブリーダーズカップクラシックは家族と行った旅行で生で見た、とかフライトラインさんの衝撃とかもあって思い入れがあるのだろうけど、その2つのレースにはあんまり興味ないわけ?」

 

わたしがそんなことを聞くと、彼はジョッキに残っていたビールを飲み干し、熱燗をお猪口にそそぎながら答えてくれた。

 

「いや、もちろんその2つのレースも大変素晴らしいのだが。ほら、そのレースが行われている国って、勝ったあと勝利の美酒に酔いしれる、というわけにいかないだろ?いろいろな事情で」

「あー……なるほどね」

 

ここではあまり掘り下げないけど、その事情はなんとなく察することができた。

 

「お前さんがブリーダーズカップクラシックを勝ったあかつきには、カジノの一室を借り切ってパツキンのスタイル抜群なバニーガール美女に高いワインを御酌してもらって、勝利のほろ酔い気分に浸りながらスロットゲームに興じるわけよ。最高だろう?」

「…………そうかしら」

 

まぁ、それは好きにすればいいと思う。

じゃあわたしは彼が爛れた快楽を享受してる間、観光にでも行ってこようかしら。

ブリーダーズカップは開催地が持ち回りだから、どこの観光に行けるのかは、その時にならないとわからないけれど。

 

その夜わたしたちは、そんなバカみたいな話や出会ってから今日までの思い出話、それにこれからのことを日付が変わる時間まで喋り倒した。

 

お会計の額はわからない。

会計の直前に彼は『ちょっとトイレ行くから、先に出といてくれや』と言って、わたしを店の外に出してしまったからだ。

 

それはきっと、彼なりの気遣いだったのだろう。

支払いを済ませて出てきた彼に、わたしは心から「ごちそうさまでした。ありがとう」とお礼を言った。

 

そんなわたしに、「いや。こちらこそありがとう。レアのトレーナーになれて、俺は本当に幸せものだ」と酔っ払いとは思えないような、いつになく真剣な声で、そう言ってくれたのだった。

 

 

帰りの電車の中でスマホを確認すると、今まで経験したことのないような数のLANEやメールが届いていた。

 

それらが全部、わたしのG1勝利をお祝いしてくれているメッセージだった。

 

小中学校時代の担任の先生や、当時指導してくれていたトレーナー。

同じく小中学校のときの、少し疎遠になっていた友人たち。

もちろん今通っている南関東トレーニング学校の先生やクラスメートからも、たくさん届いていた。

 

やっぱり、G1を勝つっていうのはすごいことなのね……。

 

どこか他人事のような気持ちになりながら、わたしはそれらの祝辞に一つづつ返事をしたためていく。

 

でも、少しだけ気になることがあった。

その中に、シルヴィからのメッセージが、なかったのだ。

 

もちろん彼女も暇なときばかりでないだろうから、たまたま送るタイミングを逃しているだけなのだろうと思うけど。

 

そんな心の引っ掛かりは、たくさんのひとにメッセージを返信している間に、霧散していった。

 

 

自宅に戻ると、トレーナーさんにごちそうになるから遅くなる、と連絡を入れておいたにもかかわらず、お父さんもお母さんも起きてくれていた。

 

玄関に入るなり、「レア。おめでとう、本当におめでとう!!」とお母さんが泣きながら抱きついてきたのにはまいった。

久しぶりに感じたお母さんの抱擁の温かさに、思わずわたしも泣きそうになってしまった。

 

そんなお母さんのうしろで腕を組んで満足そうにうなずいているお父さんに「お父さんに買ってもらった勝負服を着て、大きな勝負に勝つことができたよ。ありがとう」とお礼を言うと、「そうか。よかったな」とだけいって、お父さんは自室に入ってしまった。

 

これにも少し、困惑してしまった。

お父さんには、結婚式の日にわたしの前で初めて泣いてもらう予定だったからだ。

 

あの乱闘事件の日に『親を泣かすようなことは決してするまい』と三女神様に誓ったけど、こういう泣かせ方ならきっと、女神様たちもバチを当てるようなことはなさらないだろう。

 

 

たとえ大レースを勝っても、わたしの世間的な身分は南関東トレーニング学校に通うイチ女子高生ということからは、なにも変わらない。

 

歓喜の夜の翌日も、眠い目をこすりつつ、わたしは普通に学校に登校して授業を受けた。

 

キーンコーンカーンコーン……。

 

4時間目が終わり、お昼休みの時間になった。

今日はレースの翌日ということもあり、わたしは朝練がなかったわけだけど……わたしを含め、ほとんどの娘は朝練のあと、一応パンとかおにぎりとかの軽食をお腹に入れて午前の授業に臨む。

だが、育ち盛りの上に激しいトレーニングをこなしたあとのウマ娘のお腹が、そんなもので満たされるわけがない。

だいたい2時間目が終わる頃にはもう、お腹ペコペコになってしまっている。

2時間目と3時間目の間の、少し長い休み時間に早弁したり間食したりする娘もいるけど、それが習慣化すると太ってしまいそうなので、わたしはお昼ごはんまでは食事を我慢することにしていた。

 

さて、お弁当持ってシルヴィの席にお邪魔しようかな。

カバンからお弁当箱を取り出し、シルヴィの席に視線を移すと、そこに彼女はいなかった。

 

……お手洗いにでも行ったのかしら。

彼女の前の席の娘の椅子を借りてしばらく待ってみたが、帰ってくる様子がない。

ちょっと心配になってLANEを入れてみると、5分ほど経ってから返事がきた。

 

シルヴィ【ごめん。今日は学食で食べてる】

 

彼女が学食で昼食を取るのは、珍しい。

というか多分、わたしたちが知り合って初めてのことじゃないかな。

 

もちろんそんな日もあるのだろうけど……いつも一緒に食べてるわけだから、一言わたしに伝えてくれてもいいように思う。

 

そういえば結局、彼女からお祝いの言葉はもらっていない。

 

今日の休み時間はなぜか、彼女はいつもどこかへ行っていて教室にいなかったということもある。

 

なにか釈然としない気持ちを抱えたまま、わたしは珍しくお母さんが作ってくれたお弁当を広げると(いつもは自分で作っている)、今日はギリギリまで寝てしまっていて朝食がとれなかったこともあって、すぐに食べ終わってしまった。

 

……それにしても、ヒマね。

昼休みはいつもシルヴィとアイドルの話をしているか、シルヴィの席に集まってくる彼女の友人たちと雑談していることが多い。

考えてみればこの教室でわたしとある程度仲良くしてくれている娘って、基本シルヴィ繋がりなのよね……。

 

彼女はわたしと違い、人当たりがよくて優しい上に、細かい気配りができる娘だから、周りに人が集まってくるのだ。

 

仕方がないのでわたしはバッグからスマホを取り出すと、【週刊ウマ娘】のアプリを起動させた。

このアプリはサブスクで月400円を支払えば、全国で行われているレースの結果や注目を集めているウマ娘の動向、それに携わる人達の記事を読むことができるというサービスである。

 

今日のトップ記事は【佐神トレーナー男泣き。URA・G1初制覇!】だった。

 

【先日川崎レース場で行われたG1・全日本ジュニア優駿は、南関東トレーニング学校所属のファルコンレアが優勝した。トレセン学園所属以外のウマ娘がこのレースを制するのは、実に5年ぶりのこと。勝ちタイムも1・34・4というコースレコードでの圧勝劇だった。ジュニア級のウマ娘がコースレコードを叩き出す、というのは川崎レース場始まって以来のことで、末恐ろしいウマ娘である】

 

うーん……。

こういう場合、どうしても勝ったわたしが注目されてしまうけど。

このレコードタイムはアーロンアラステラさんという強いウマ娘が、最後まで意地を見せて競り合ってくれたからこそのものであって、わたし一人の能力だけでは到底なし得なかったタイムである。

そのあたりのことも、もっと掘り下げて記事を書いてくれると嬉しいんだけどな……などと思いつつ、続きを読む。

 

【南関東所属の佐神トレーナーは、意外にもこれがURA主催のG1初制覇。羽田杯・東京ダービーを始め、数多くのSG1や交流重賞を勝っている佐神トレーナーだったが、なぜかG1とは無縁だった】

 

日本中で行われているウマ娘のレースは、主に2つの開催形態がある。

ひとつは、URAが主催する【中央】のレース。

もう一つは、各地域のトレーニング学校やレース学校が主催する【地方】のレースである。

 

【中央】のレースは所属がはっきりしていれば、どのウマ娘も出走することができるが(ルール上は海外のウマ娘も参戦可能だ)、各地域の学校が主催する【地方】のレースには、基本的にはその地域に所属しているウマ娘しか出走することができない。

 

地方主催のレースは地域によってかなりレベルの違いがあり、この違いを高校受験の偏差値風に例えるなら、偏差70以上の、トレセン学園にも引けを取らないレベルの地域もあれば、50前後の中堅どころの地域もある。

 

偏差70の地域をそこそこの成績で走ってるウマ娘が、偏差50の地域に遠征して勝ち星を【荒稼ぎする】なんてことを防ぐために、出走制限のルールが定められているのだ。

 

で、例外的にトレセン学園所属ウマ娘も含む、どの地域のウマ娘でも出走できる地方のレースが【交流競走】と指定されているレースで、地方で開催されるG1などの重賞はこの交流競走にあたる。

 

それとは別に、各地域が独自に格付けしている重賞もある。

先程のSG1というのは、南関東トレーニング学校(サウスのSね)独自の格付けで行われているG1レースのことだ。

 

こちらの【ご当地重賞】は中央の重賞や交流競走の重賞とはまた別の評価基準で格付けされていて、それらのレースとは明確に区別されている。

 

【トレーナー業苦節30年での初栄冠に、彼は『ファルコンレアと、僕が今まで担当してきたすべてのウマ娘たちに、感謝を伝えたい。彼女たちの誰が欠けても、トレーナーとしての今の自分はいなかったと思いますので』と、涙ながらに語った】

 

このインタビューを受けていた彼の様子を思い出すと、今でもちょっと、涙腺が緩くなってしまう。

 

がんばってきてよかったな……。

G1トレーナーという称号を、長くがんばってきた彼にプレゼントできて、本当に良かった。

 

スマホの小さい画面を見つめながら、わたしは素直にそう思うことができた。

 

それと同時に、やっぱり親友のシルヴィから、一言ぐらい『おめでとう』の言葉をもらいたいな、なんてことを考えていた。

 

 

放課後になると、どうしてだがシルヴィはわたしの方を見ようともせず、さっさと教室を出ていってしまった。

 

いつもは一緒に更衣室に行くのに、今日は本当にどうしたのだろう。

 

わたしもあとを追うように更衣室に行ければいいのだけれども、今日はあいにくゲンさんから『G1を勝った次の日ぐらい、余韻に浸ってゆっくりしろ』との指令が出ていて、更衣室に行く必要がなかった。

 

……わたし、何か彼女の気に障ることをしたのかしら。

 

自分でも自覚しているが、わたしは少しばかり、口が悪いところがある。

悪気なく言ったことが相手を傷つけていて、それが原因で喧嘩になったり疎遠になったりしたことが多少なりともあった。

 

でも、シルヴィはわたしのそんなところも個性だって認めてくれていたし、クラスメイトと雑談してる際にわたしが言い過ぎてしまった時は『あ、それはちょっと言い方きついかも~』と冗談っぽく注意してくれていて、わたしはそのたびにきちんと相手に謝っていた。

 

もちろん彼女がそんなわたしに愛想を尽かし、最近それが限界に達して友だちをやめようと決意したってこともないとは言えないだろうけど……シルヴィの性格上、そういう縁の切り方はしないような気がする。

 

友人同士といっても、さとりサトラレのように、なにも言わなくても完全にわかりあえるわけじゃない。

わたしは思い切って、今日の態度の理由をLANEで聞いてみることにした。

 

【シルヴィ、今日はどうしたの?なんか、わたしを避けてるみたいよね。なにかわたしがシルヴィの気に障ることをしたのなら、言ってほしいわ】

 

トレーニング中ということもあったのだろう。

そのメッセージには、なかなか既読がつかなかった。

 

 

結局シルヴィからLANEの返事が戻ってきたのは、夜の11時を回った頃だった。

 

それは長文のメッセージで、内容はこんな感じだった。

 

シルヴィ【ごめんなさい。急にあんな態度取られたら、不安になるよね。でも私、そうする以外あなたとの距離のとり方がわからなかったの。あのね、ずいぶん前にお話させてもらったと思うんだけど、私ってあんまり、レースの勝ち負けとかには興味がないんだ。レースに関する才能も、全然ないしね。でも、レアは違う。あなたは、G1を勝った。きっとこれから、もっともっとすごいウマ娘になる。それこそ、あなたのお母様のスマートファルコンさんにも負けないぐらいの、すごいウマ娘になると思う。そんな娘が、私みたいにやる気のないウマ娘の近くにいちゃダメだよ。レアまでダメなウマ娘になっちゃう】

 

……どうしてシルヴィは、そんなことをいうのだろう?

そんなこと、絶対にありえないのに。

わたしがシルヴィとアイドルの話をしたり、トレーニングの愚痴を言い合うことで、どれだけ日々のモチベーションを維持できていたことか……!

 

続きを読むのが怖かったけど、読まずに放置するなんて方がよっぽど怖くて、わたしは恐る恐る先を読み進めた。

 

【イラストの世界でもそうなんだけど、絵を描くモチベーションがすごく高い人でも、あまりやる気がなかったり、絵に対する情熱をなくしちゃったりした人の近くにいると、その人に引っ張られて絵を描くのをやめちゃったりすることが、多々あるんだ。それにね、言おうかどうか迷ったんだけど……私と夜遅くまで遊んだ次の日のレース、あなたは同着にまで追い詰められてしまいましたよね。あんなこと、あなたの実力ではありえないこと。そのことで私がどれだけ思い悩んだか、きっとあなたには想像できないでしょうね。あなたはもう、特別なウマ娘です。私のことなんか忘れて、これからは自分を引っ張り上げてくれる人たちと付き合ってください。遅くなったけど、G1制覇おめでとう。これからも応援しています】

 

……こんなの、全然納得できない。

絵の世界のことなんか知らないし、友達の影響ぐらいで成績が悪くなるようなウマ娘がいたら、きっとその娘にはもともと才能がなかったのだ。

 

あの同着のことにしたって、シルヴィが悪いわけじゃない。

むしろシルヴィはわたしを心配して、もう帰ろうとさえ言ってくれていた。

その忠告を無視して日付が変わるまで遊んでしまったのは、わたしの油断と怠惰以外何者でもない。

 

わたしはもう少し話し合いたい、というLANEを送ったけど、悲しいことにわたしのことはもうブロックされてしまっていた。

 

当然だけど、彼女に電話が通じることもなかった。

明日もう一度シルヴィと直接話し合いたい、という気持ちはあったが、彼女にそれを拒絶されたら、わたしはもう、どうしていいかわからない。

 

憔悴した気分のまま、わたしはスマホを枕元に投げ出して、とりあえず眠ろうとベッドに潜り込んだが……ここ数日の睡眠不足にも関わらず、今夜はまったく眠れる気がしなかった。

 

 

次の日の朝練前、わたしは担当トレーナーのゲンさんに、シルヴィとの一件を相談することにした。

 

クラスメイトの中にシルヴィ以外の友人がいないわけじゃないけれど……こんなことを相談できるほど、親しい友人はいなかった。

 

かと言ってこれだけ深刻な出来事を自分一人で消化できるほど、わたしは人間関係を達観できているわけでないし、人間が成熟しているわけでもない。

 

両親に相談する、という手もあったのだろうけど、ようやくあの娘も順調にレース人生を歩み始めたと思ってくれているであろうお父さんとお母さんに、余計な心配をかけたくなかった。

 

他に信頼できる人……となると、わたしには彼以外思い浮かばなかった。

 

「うむ……それは、辛かっただろう。よく俺に相談してくれた」

 

彼はわたしの話を最後まで傾聴すると、彼は神妙な面持ちでそう言ってくれた。

 

「わたし、本当はなにか彼女の気に障ることをして嫌われたのかしら……」

 

わたしが上目遣いでそんなことを聞くと、彼は難しそうな顔をして首を横に振った。

 

「正直、それはわからん。でも、そのシルヴィさんとは本音で語り合える親友だったんだろう?じゃあ彼女が言う通り、今後のお互いのことを考えて、お前さんと距離を置くことにしたってだけだろう」

 

なんでも本音で語り合える親友、か。

わたしは勝手にそう思いこんでいたけど……それももう、本当にそうだったのかわからない。

わたしがうなずくこともせずに黙りこくっていると、彼は静かに話し始めた。

 

「気を悪くしたら申し訳ないんだが、こういうことは一流の成績を収めているウマ娘なら、よくある話だ。それにな、大人の世界でも、例えば収入が大きく自分とかけ離れてしまった友だちとか、生活環境があまりにも自分と違う世界に行っちまった友人とは、学生時代どれだけ仲が良かったとしても、自然と疎遠になってしまうものだからな。でもそれは、悪いことじゃない。成長することで人生のステージが変わって付き合う人が変わる、というのはごく自然なことだからだ」

 

人生のステージが変わる、か。

G1を勝つ、ということはそれだけウマ娘の人生に大きなインパクトを与える出来事なのだろう。

でも。

 

「……その【人生のステージが変わってしまった友だち】とは、もう仲良くできないのかしら?」

「そんなことはない。ただ、シルヴィさんはそうは考えなかったというだけだ」

「……もう、シルヴィと仲直りするのは難しいのかしらね……」

 

わたしはきっと、未練たらしいことを言っているのだろう。

ゲンさんは、そんなわたしを諫めるようなこともせず、彼の考え方を聞かせてくれた。

 

「あのな、レア。お前さんはジュニア級のダートで日本一強いウマ娘になっちまった。お前さんには、レースで勝ち抜くための才能がある。……才能あるウマ娘ってのは、孤独なもんよ。酷な言い方になっちまうが、早くお前さんも【孤高】というものに慣れた方がいい」

「じゃあもう、離れていこうとしているシルヴィとは距離を取ったほうがいいって、ゲンさんは思うの?わたしは、もう少し話し合いたいと思っているんだけど……」

「お前さんがそうしたい、というんなら別にそれを止めはしないさ。でも、【去る者は追わず、来る者は拒まず】という言葉がある。人生の先輩として言えるのは、これが一番マシな人付き合いの方法だってことぐらいだな」

 

亀の甲より年の功。

きっと彼の言っていることは正しいのだろう。

たとえ、そうであっても……。

 

「友達がいなくなる、というのは寂しいものね……」

 

わたしが力なくポツリとそういうと、彼はそれはそうだよな……とつぶやいてなにか思案し始めた。

 

「そうだ。お前さん、なんか趣味とか、やってみたいことはないのか?」

「趣味とか、やってみたいこと?」

 

唐突な質問に、わたしはちょっと面食らってしまった。

う~ん……。

そうねぇ。

一番の趣味は多分、好きなアイドルのヲタ話とかだと思うんだけど……今はそれをやりたいとも思えなかった。

 

「趣味って言えるほどのものかはわからないけど。お父さんから教えてもらった将棋を指したり、料理作ったりするのは好きかもしれないわ。そうそう、お菓子作りっていうのも、前からちょっとやってみたいと思っているのよね」

「おう、いいじゃねーか。じゃあ、そっちの方のコミュニティに顔出してみちゃどうだい?将棋道場とか料理教室とか、ネットでいくらでも探せるだろう。別にG1ウマ娘が学校外で友だちを作っちゃいけない、なんて法律や校則はないわけだし、そこで友人を見つけるのもいいと思うぞ」

 

ああ……なるほど。

言われてみれば当たり前のことだけど、世界はわたしの家とレース場と南関東トレーニング学校だけでできている訳ではない。

 

違うコミュニティに所属して友人を見つける、というのは、いいアイデアかもしれない。

 

「そうね……考えてみるわ」

 

そう言って立ち上がると、わたしはトレーニングに出かける準備を始めた。

 

「お前さん、昨夜もあまり寝れてないだろ。今日はトレーニングやめておくか?」

 

まぁ、クマの深い顔を見れば、睡眠不足はまるわかりよね。

そう気遣ってくれる彼に、わたしはそっと首を横に振った。

 

何もしないでぼーっとしているより、トレーニングでもしている方が、きっと気も紛れるだろうから。

 

トレーニングのあと、わたしはスマホのロック画面の壁紙にしていた、シルヴィからもらったRENのイラストを消去して、デフォルトの設定に戻した。

これはわたしにとって、彼女との決別の儀式だった。

寂しかったし、悲しくて涙が止まらなかったけど、わたしにとってどうしても必要な儀式だった。

 

イラストをデフォルトする時、シルヴィとの思い出もデフォルトされていくようでとても辛かったけど……わたしとシルヴィの関係は、お互いの人生の中でその役割を終えたのだ、と考えることにした。

 

そして心のなかでわたしと友人でいてくれたことを彼女に深く感謝し、さようならの言葉を送った。

 

 

それからわたしはお母さんの紹介で、以前から興味のあったお菓子作りの教室に通うことにした。

 

この教室はお母さんの友人のエイシンフラッシュさんが主催しているものだったので、そういった意味でも通いやすかった。

 

エイシンフラッシュさんはお菓子作り初心者にはちょっと厳しい先生だったけど(1gの誤差も見逃してくれない。お菓子界の海原雄山とか呼ばれたりするのかしら……)、それだけ彼女が真摯にお菓子づくりと向き合い、生徒たちにも真剣に教えてくださっているということなのだろう。

 

受講後、作ったお菓子をお茶請けにして生徒みんなで行うティーパーティはとっても楽しかったし、このあいだの講義でわたしが作ったシュネーバルをフラッシュ先生に食べてもらって、『美味しいですね。とてもよく作れていますよ』と褒めてもらった時は、レースで勝ったときとはまた違った達成感と喜びを感じることができた。

 

その教室ではわたしは数少ない中高生だったので、年上の大学生のお姉さんや若いOLさん、それにマダムたちからも、とても可愛がってもらえた。

その数少ない学生の中ででも、何人か友だちと言える人間関係もできて、今度原宿へスイーツ食べ歩きにいこう、という話になっている。

 

このお菓子教室では、わたしのことを知っている人なんて、誰もいなかった。

もちろんフラッシュ先生はわたしがG1ウマ娘だということを知っているのだと思うけど、そんなことはおくびにも出さず接してくださったし、また、そのことを他の生徒に言いふらすなんてこともなさらなかった。

 

わたしが全てだと思いこんでいたレースの世界のことなんて、ここではだれも気にしていないのだ。

 

世界は、一つだけじゃない。

 

そう考えれば、休み時間に一人でいることや、お昼ごはんを一人で食べることもあまり気にならなくなった。

 

レースの世界で、【孤高】のウマ娘であることは受け入れよう。

 

でも、視野を広く持ち、いろいろなことを経験して様々な人達と関わりを持とうというと気持ちだけは、絶対に忘れないようにしようと強く思う。

 




読了お疲れさまでした。

またしても長文になってしまい、大変申し訳ありません。

『長かったけど読み応えがあって、読めないこともなかったな』と
少しでも感じていただけるストーリーに仕上がっていると良いですが……。

私の場合、本編ほどきっぱりと縁を切られた友人はいませんが、
やっぱり色んな事情で疎遠になった友人はそれなりにいます。

色んな感情の行き違いなどもあったのだと思いますが、
楽しい時間を共有した友人であったのも事実です。

そんな人達には、やっぱり感謝の気持ちをいだきたいものですよね。
もちろん、友人関係でなく、過去の恋愛に対してもそうありたいものです。

こんな最後の駄文までお読みいただき、本当にありがとうございました。
それではまた、近いうちにあとがきでお会いしましょう!


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side story ~ファルコンレア~ 最終話

エイシンフラッシュの娘。に登場したファルコンレアのストーリーです。

登場人物:ファルコンレア
※オリウマ娘注意です。
こんな感じの娘です。

【挿絵表示】

よろしければ皆様の読書の
一助にしていただけると幸いです。

誕生日:5月5日
体重:絞れていい感じの仕上がり。
身長:171センチ
スリーサイズ:84・58・84

ファルコンレアのヒミツ8・実は、海外留学に興味を持っている。



わたしのジュニア級での戦いは、5戦5勝・重賞2勝、うちG1・1勝という上々のもので終えることができた。

 

無事新年を迎え、いよいよクラシック級になったわたしは、第一目標を【南関東三冠ウマ娘】になることに定めた。

 

南関東三冠は南関東トレーニング学校(南関校)が主催する、歴史あるクラシック級の三大競争だ。

その長い歴史の中で、南関東三冠は何度かのルール変更やレース変更を経ている。

現行での南関東三冠は、羽田杯(5月上旬)・東京ダービー(6月上旬)・ジャパンダートダービー(7月中旬)の3つを指す。

 

この内、羽田杯と東京ダービーは南関生だけが出走できるSG1の格だ。

 

過去何人かの偉大な先輩たちが【南関東三冠】を達成しているが、現行ルールになってからの達成者は未だ存在していない。

 

そんな【南関東三冠ウマ娘】になることは、南関校に所属する者にとって大変な名誉である。

 

南関東三冠のレースはすべて大井レース場で行われ、距離も1800M(羽田杯)と2000M(東京ダービー・ジャパンダートダービー)と、似た条件のものが続く。

条件だけで考えれば、この距離を最も得意とする一番強いウマ娘が、全部簡単に持っていきそうなものだ。

 

なのに、現行のルールになってから【南関東三冠ウマ娘】が出ていないのには、理由がある。

 

南関東三冠のラストレースであるG1・ジャパンダートダービーは、ダートを走るクラシック級ウマ娘たちにとって最高峰の交流競走であり、その名誉を求めて全国から砂の猛者が集まる。

当然、そこには日本一レベルの高い【トレセン学園勢】も参戦するので、【南関東三冠ウマ娘】という称号へのハードルが、かなり高くなってしまうのだ。

 

南関校所属の生徒たちだけで行われる、羽田杯、東京ダービーまでを制した二冠ウマ娘は、現行ルールになってから何度か現れている。

 

しかしそんな南関生最強の彼女たちでさえ、三冠目のジャパンダートダービーでは、ことごとくトレセン学園勢の厚い壁に跳ね返され続けてきた。

 

ここ10年以上、ジャパンダートダービーはトレセン学園勢の天下になってしまっているのが現状だ。

 

……わたしは一度、受験不合格という形でトレセン学園の壁に跳ね返されている。

ダメ元で受けた試験だったとは言え、それなりに挫折感を味わったのも確かだ。

 

江戸の仇を長崎で討つ、というわけでもないけれど、ジャパンダートダービーでトレセン学園勢の猛者を蹴散らし、南関東三冠ウマ娘になることで、その挫折を払拭したいとわたしは強く願っていた。

 

>>

『南関東三冠の初戦、羽田杯、いよいよ先頭が最後の直線に差し掛かりました。先頭はたくさんの人の期待を背負って、一番人気のファルコンレア!ファルコンレアが先頭!リードはおよそ7バ身。今日も一人旅になりますか。追ってくる娘はいるのか。ファルコンレア先頭!突き放した突き放した、これは強い!大きく後続を突き放して、今一着でゴールイン!ファルコンレア、実力の違いを見せつけました!』

 

>>

『東京ダービー、二冠目を目指してファルコンレアが今日も単独で最後の直線に入りました。スタンドからは大歓声、スタンドからは大歓声、ファルコンレアが先頭!もう誰もこの娘に追いつけないのか、突き放す突き放す!後続ははるか後方、その差、6バ身・7バ身・8バ身、ファルコンレア、今一着でゴールイン!勝ちタイムはなんと2分0秒4!母・スマートファルコンが保持するレコードタイムタイを叩き出しての大楽勝です!全国のウマ娘よ見てくれ、これが南関東が誇るファルコンレアだ!ジャパンダートダービーでは唯一の南関東三冠ウマ娘候補として、南関校最強のウマ娘として、全国の、そして中央の猛者たちをここ大井レース場で迎え撃ちます!』

 

 

>>

ウイニングライブを終えて控室に戻ると、いつものようにいつもの笑顔でトレーナーのゲンさんが出迎えてくれた。

 

「東京ダービー制覇おめでとう!これで南関東二冠だな、よくやってくれた!」

「ありがとう。たくさんの人の期待に応えられて、ホッとしたわ」

 

レースに勝てば勝つほど、わたしに期待してくれる人が増える。

今日の単勝支持率はなんと82%だった。

期待されるのは嬉しいことだけど……当然ながらそのことは、大きなプレッシャーとしてわたしにのしかかってくる。

ここ数戦、勝った時は嬉しい、という気持ちより、たくさんのひとの期待を裏切らなくてホッとした、という気持ちのほうが強くなっていた。

 

もちろんこういうプレッシャーが勝ち続けている者の宿命だということは理解しているし、この重圧に打ち勝ってレースを戦い抜いていくことが、南関東のクラシック級ウマ娘を代表する、わたしの使命だと自覚している。

 

「しかし、これでレアも二冠か。次のジャパンダートダービーで、いよいよ【南関東三冠ウマ娘】へ挑戦だな」

「そうね」

 

なんてことのない風を装って返事したが、彼のその言葉にわたしは今までにない重圧を感じた。

 

【三冠】という言葉は、レースに携わる者にとって特別な意味を持っている。

三冠を制するということはその世代の頂点を極めるという意味であり、次の時代の覇者になることを義務付けられる存在になるということだ。

 

そのプレッシャーに、わたしは耐えられるだろうか。

わたしに、その資格があるのだろうか?

 

そんな疑問が、浮かんでは消えてきて、わたしの身をこわばらせた。

 

ゲンさんの言葉を聞いてわたしがちょっと固くなってしまったのを感じ取ったのか、彼はそれをほぐすように、いつもの軽薄な感じで笑ってくれた。

 

「まあでもよ。これだけ勝ちが続くと、お前さんにかける祝辞の言葉もネタ切れしてくるなあ。昔、羽生さんが7冠全部取ろうとしてた時、羽生さんの師匠が『表彰式が続きすぎて、最後の方は彼にその場でかける言葉がなくなってきた』ってどこかで書いてたけど、まさか自分がその立場になるとは思わなかったよ」

 

なんともぜいたくなことを言うゲンさんに、わたしは思わず苦笑を浮かべてしまった。

 

「ゲンさん。わたしをお祝いしてくれる気持ちがこもってさえいれば、言葉なんてなんでもいいのよ」

「レア……最近はちょっと、考え方が大人になってきたな!おじさんは若い子の成長が嬉しいよ」

 

なにやら年寄りくさい事を言いつつ、ヨヨヨ……と下手なウソ泣きまでやりだした。

そちらがそういうノリなら、わたしも多少の悪ノリは許されるだろう。

 

「あ、でもほら。勝利をプレゼントしてくれた担当ウマ娘にトレーナーがどうしても誠意を見せたい、というのなら、わたしがそれを受け取ることは、決してやぶさかではないのよ?」

 

そんな彼にわたしが冗談めかしてそう言うと、今度は彼が微苦笑を浮かべる番だった。

 

「お前さんはやべー国にいる、賄賂を要求してくる警官か?わかったわかった、レアの活躍のおかげで今年の給料はちょっと上がったし、なんかうまいもんでも食いに行くか」

 

うんうん、もう1年以上の付き合いになるだけあって、わかってくれてるわね。

そう言ってくれるって、信じていたわ。

 

「さすが去年の優秀トレーナー賞受賞者ね。ゲンさんはトレーナーの鑑のような存在だわ!」

「……お前さんは奢ってもらえるとなると調子がいいなぁ。未来の彼氏さんの苦労が忍ばれるよ」

 

いや、わたしも相手が大人だからこんな軽口をとばせるわけで、もし将来恋人ができたとしても、別に全部奢ってもらうつもりでいるなんてことはない。

まぁ彼は古いタイプの人間だから、【デートの時は男が全部出すべき】って考え方を持っているのかもしれない。

 

「ま、とりあえず俺は外に出てるから、さっさと着替えてしまいな。今日はなにを食べに……」

 

そこまで言うと彼はなぜか顔をしかめて、お腹をさするような仕草をした。

 

「……どうしたの?」

「いや、ちょっと胃が痛くてな。なぁに、朝からなにも食ってないから、空腹のせいで胃酸が出すぎているんだろう。少し腹になにか入れれば、落ち着いてくるだろうさ」

 

……朝から?

今、夜の9時前なんだけど。

 

「それって今日一日、なにも食べてないってこと?大丈夫?」

「ああ、ちょっと気の早い夏バテ気味か、最近食欲がなくてな。若い頃なんかは夏は余計に食欲が出たもんだが。年は取りたくないもんだな」

 

彼はそんなことを言ってちょっと辛そうな微笑を浮かべると、お腹をさすりながら控室を出ていった。

 

夏バテね……。

彼が最近ちょっと元気がなくて、顔色が悪いのはそのせいなのかもしれない。

今はそんなものと無縁でいられてるけど、わたしも年齢を重ねるといつか体験することになるのかしら?

 

着替えながら彼と同じ歳になった自分を想像してみたけど、どうにもうまくシミュレートすることができなかった。

 

その夜彼はちょっといい感じの居酒屋に連れて行ってくれたけど、彼が頼んだのはビール一杯とタコワサだけだった。

よほどひどい夏バテなのか、その注文した2品さえ、彼はほとんど口にしなかった。

 

 

今日の予定は南関東三冠の最後のレース、ジャパンダートダービーについてゲンさんとミーティングだ。

 

このレースには、わたしの【南関東三冠ウマ娘】の称号がかかっている。

今日のミーティングで、1ヶ月先に行われるジャパンダートダービーまでの綿密なトレーニング計画を立てるつもりである。

 

南関東三冠が現行のルールになって四半世紀以上。

その間、南関東の二冠を制したウマ娘は、あと一歩のところでトレセン学園の【刺客】に煮え湯を飲まされてきた。

 

でも、今年は【わたし】がいる。

 

タイムでも実績でも、わたしの実力がトレセン学園の【超エリート】たちに、引けを取っているとは思えない。

 

わたしは別に愛校心溢れる南関生、というわけでもないけれど、自分の所属している学校に注目度が集まって、地域のレースが盛り上がればいいな、ぐらいの気持ちは持ち合わせていた。

 

もしわたしが南関東三冠ウマ娘を達成すれば、きっとそれなりに話題になって、南関東全体のレースが盛り上がるに違いない。

 

そうなればお客さんも、南関東のレース場にたくさん足を運んでくれるようになることだろう。

 

お母さんがレースに勝ちまくることで、ダートの価値そのものを高め、ファンの注目をダートレースに集めたように。

 

「ゲンさん、入るわよ」

 

そんなことを考えながら、トレーナー室の引き戸をノックして部屋に入ったのだが……。

 

わたしの目に飛び込んできたのは、お腹を押さえて苦しげな声を上げながら、机に突っ伏しているゲンさんの姿だった。

わたしは慌てて彼のもとに駆け寄って、肩をゆすりながら声をかけた。

 

「ど、どうしたのゲンさん!大丈夫!?」

「お……ああ……レアか……」

 

わたしの顔を覗き込む彼の視線はうつろで、顔色は土色をしている。

その土色の、げっそりした顔からは、おびただしい量の冷や汗と脂汗が出ていた。

これはただごとではない。

 

「救急車呼ぶから!ちょっと待ってて!」

 

わたしがカバンからスマホを取り出そうとすると、彼はそれを力の入らない手で制した。

 

「救急車呼ぶほどのことじゃねえ……すまんが、医務室まで肩貸してくれ。保険医さんに頼んで、車で近くの総合病院まで連れて行ってもらうから」

「ダメよ!明らかに顔色がおかしいもの!救急車呼ぶからね!?」

 

わたしの剣幕に、彼も観念したようだ。

わたしはバッグからスマホを取り出すと、生まれて初めて119番を押して救急車を呼んだ。

 

そして彼を抱き上げると、とりあえずソファまで運んでそこに横たわらせる。

彼の体重は、成人男性のものとは思えないほど、軽かった。

 

「大丈夫?すぐに救急車着てくれるって!」

「ああ……すまん、大事なレースの前に……」

「なに言ってるのよ、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!?」

 

……命の危険が迫ってるかもしれないときに、わたしのレースの心配をするなんて……。

どうしてだが、そのことにわたしの目頭が急に熱くなった。

 

それから5分もせず、救急隊が駆けつけてくれる。

 

「こちらの方ですね?」

「はい」

 

わたしが返事すると、救急隊員さんたちはテキパキと彼をソファーから担架に移した。

救急隊員さんたちの切迫したやりとりを聞いている限り、やはり彼はかなり危険な状況にあるらしい。

 

素人判断せず、救急車を呼んだのは正解だったようだ。

 

救急車へ運ばれていこうとする彼に、当然わたしも付き添おうとしたけど……。

 

「レア。お前さんはいい。トレーニングしておけ」

「でも……」

「いいから、トレーニングしておけ!」

 

その裂帛の声は、これから救急車で運ばれようとしている人間のものとは、思えなかった。

救急隊員さんに「あなたは危険な状態なのですから、もうしゃべらないで」と言われても、彼はわたしにトレーニングメニューを伝えるのをやめなかった。

 

「トレーニングは、いつものメニューに坂路を1本追加すること。それから、手を抜かずにしっかりダートを走り込んでおけよ。落ち着いたら、LANEで連絡する。なぁに、心配するな。すぐに戻ってくる」

 

そう言って担架の中で微笑む彼に、わたしはそれ以上なにも言えなかった。

 

 

その日の夜の8時頃、彼からLANEがあった。

とりあえず彼が自分でLANEが打てる状況であることに、わたしは心底ホッとした。

 

ゲンさん【騒がせてすまなかったな。ちょっと酒の飲み過ぎで体をやっちまったようだ。情けないことに、しばらく入院だとよ。でも心配するな!LANEでしっかりトレーニングメニューは伝えることができるからな】

 

……今、そんな話をしている場合じゃないでしょう?

わたしは少し苛立ちながら、LANEに返事を打ち込んだ。

 

【わたしのことは大丈夫だから、今は体を治すことに専念して。そんなことよりお見舞いにいきたいんだけど、どこの病院に入院してるの?】

 

結局わたしは救急車まで付き添わせてもらえなかったので、彼がどこの病院に運ばれて入院したのか、わからずじまいである。

 

ゲンさん【俺のことは家族がちゃんとしてくれるから、心配すんな。見舞いなんかに来ている暇があるなら、南関東三冠達成に向けてきちんとトレーニングしておけ】

 

この人はこんなときに一体、なにを言っているのだろう?

 

……三冠とかトレーニングとか、そんなこと今どうだっていいじゃない!

 

それに、家族って……。

 

わたしたちは1年以上一緒にいるのに、ゲンさんの家族のことなんて、飼っているネコのゴアのこと以外、ほとんど聞いたことがない。

 

多分ゲンさんには……【今】一緒に住んでいるような家族は、いないんだと思う。

 

【わたしは、ゲンさんが心配なの!どこに入院しているの?わたしに内緒にしてても、他のトレーナーさんとか学校の先生とかから病院の場所聞き出して、お見舞いに行くからね!】

 

感情的なその一文に、返事がきたのは10分後だった。

 

ゲンさん【レア。お前さんが俺を心配してくれる気持ちは、本当に嬉しい。でもな、お前さんがトレーニングを頑張って、レースに勝ってくれることが、今の俺には、何よりの薬になる。だから今は、ジャパンダートダービーに、南関東三冠を獲ることだけに集中してくれ。頼む】

 

そんなこと言われたら……。

 

もうわたし、なんにも言えないじゃない……。

 

こんなレースバカ、ウマ娘バカのトレーナーにわたしができたのは、【わかったわ】と返事することぐらいだった。

 

 

それから毎日、ゲンさんは朝練前の5時ごろと、授業が終わる3時半頃にその日のトレーニングメニューをLANEで送ってきてくれた。

 

体調のことを聞いても【大丈夫だ、心配するな】しか返ってこないので、彼の本当の病状はわからなかった。

 

本当のことを言うと、入院当日にLANEでも言ったように、他のトレーナーさんや学校の先生に聞き回ってでも入院先を探り出して、彼のお見舞いに行きたかった。

 

でも、それは彼の望みではない。

わたしは彼の病気が快復することを祈りながら、彼が病身を押して作ってくれているトレーニングメニューを全身全霊でこなした。

 

 

彼が入院して2週間を過ぎたあたりから、少し気になりだしたことがある。

それは、彼が本番のジャパンダートダービーまでに退院できる状態であるのか、ということだ。

 

正直に言うと……わたしは少し難しいだろうな、と感じていた。

 

この頃になると、彼がトレーニングメニューを送ってくれる頻度が、少しずつ減っていていたからだ。

 

わたしが理由を聞いても【大事な時期に申し訳ない。体調は問題ないんだが、検査が忙しくてな。そういう時は前日と同じメニューをこなしていてくれ】みたいな返事しか戻ってこないけど……。

 

最近の彼からのLANEを見ていると、送ってきてくれるメッセージが今までよりかなり短い文章になっていることに気づく。

そんな短い文章なのに、誤字脱字がやたら多かったり、文脈がどうにもつながっていないメッセージが来ることがある。

 

……こういうメッセージを見ると、嫌でも想像できてしまう。

たぶん今の彼の状態は、普通にLANEを打つのさえ、厳しいような体調なのだろう。

 

わたしは、迷っていた。

本当に、彼に会いに行かなくていいのか。

いくらゲンさんが望んでいることとは言え、恩師が病に苦しんでいるときに、自分の名誉のためにトレーニングをしているわたしは、薄情者なんじゃないか。

恩知らずなんじゃないか。

 

そのことを、お父さんとお母さんに相談してみた。

両親がくれたアドバイスは、それぞれ異なるものだった。

 

お父さんは『トレーナーさんがお前に一生懸命練習することを望んでいるのなら、そうすべきだ。見舞いに来るな、というトレーナーさんはきっと、病気の自分を見せることで、レース前のお前に余計な不安や負担を感じてほしくない、という気持ちを持っておられるのだと思う。俺がお前の立場になったら、師匠の病気の回復を祈りながら、懸命に将棋の勉強をするだろう。大勝負を控えているなら、なおさらだ。それが恩返しというものだ』と言ってくれた。

 

お母さんは『トレーナーさんが入院先を隠していても、学校の先生とか他のトレーナーさんに聞けばわかるよね?すぐに行ってあげなさい。口では『来るな』なんて言っていても、担当しているウマ娘にお見舞いに来てもらって、元気にならないトレーナーさんなんていないから!お見舞いに行ったからといって、全部の練習時間がなくなるわけじゃないでしょう?レアの顔を見せてあげるのが、何よりのお薬になるはずだよ』と言ってくれた。

 

二人の言葉は、わたしをますます混乱させた。

戦うウマ娘としては、お父さんのアドバイスのほうが正しいと思う。

でも、トレーナーを心配するウマ娘としては、お母さんのアドバイスのほうが正しい気がする。

 

結局はわたしは、この悩みをトレーニングに打ち込むことで解消することにした。

 

【わたしが一生懸命トレーニングをして、南関東三冠ウマ娘になったら、彼の病気もきっと快復する】

 

そんな儚い願いを抱かなかった、といえば嘘になる。

 

 

自宅から出ると、もう陽が暮れているにも関わらず、空気はまとわりつくように蒸し暑かった。

生ぬるい風が、わたしの全身をなでる。

そんな風を感じながら、わたしは何気なく空を見上げた。

 

今夜は、晴夜だ。

夏の大三角形が、よく見える。

 

今日はいよいよ、南関東三冠の最後の交流レース、ジャパンダートダービーが行われる。

残念ながら、ゲンさんはこの日までに退院することができなかった。

 

退院するどころか、3日ぐらい前に【ちょっと体調が優れん。しばらく連絡できないかもしれんから、ジャパンダートダービー当日までのトレーニングメニューを先に伝えておく】というLANEが来た。

 

でも、その日送ってきてくれたLANEは今までの短文や誤字脱字だらけのメッセージとは違い、密度と内容の濃い長文だった。

 

体調が良くない、というのは気になるけど……これだけしっかりした文章を打てるなら、ゲンさんは大丈夫。

 

わたしが勝てば、それが励みになって彼は元気になる。

わたしが勝てば、全部いい方向に向かう。

 

考えてみれば、わたしの人生はずっとそうだった。

 

レースに勝つことで、わたしの人生は開けてきた。

 

だからきっと、今回も大丈夫。

 

わたしはそう信じることで、なんとか平常心を保っていた。

 

 

レース直前にひとりきりでいる控室はただっ広くて、夏の盛りにもかかわらず、ちょっと肌寒く感じられた。

ひょっとしたら少し冷房が効きすぎているのかもしれない。

 

思い起こしてみれば、レース場の控室に一人できたのは初めてだ。

 

別に彼がいたからと言って、レース前に特別なことをしてくれていたわけではない。

レース直前までなんてことのない雑談をして、出発前には『がんばれよ』と声をかけてくれていただけだ。

 

ただ、それがないだけなのに……どうしてわたしはこんなに、心細く感じているのだろう。

 

わたしはもっと、自分のことを強いウマ娘だと思っていた。

 

お願い、ゲンさん。

わたしに力を貸して……!

 

彼に直接言葉をかけてもらえないなら、せめて今まで彼が送ってくれたLANEのメッセージを見て自分を励まそうと思ってスマホを持った瞬間、通知が鳴った。

 

……ゲンさんからだわ!

 

今日が本番なのに、連絡をくれないことにちょっと心配していたけど……。

 

彼のことだ、テレビをつけてわたしがレース前であるのを思い出して、励ましのメッセージを送ってくれたに違いない。

 

わたしは高揚した気持ちで、スマホをタップした。

そんなわたしの目に入ってきたのは、期待した文章とは正反対と言える内容だった。

 

ゲンさん【ファルコンレアさんへ。佐神の弟です。突然のメッセージ失礼いたします。兄の弦二郎が危篤状態に陥りました。入院先の病院のURLを送信いたしますので、できるだけ早く来てやってください。よろしくお願いいたします】

 

……危篤。

 

その言葉を見て、わたしの心臓が早鐘をうち始めた。

スマホを握る手に、嫌な汗も滲んでくる。

 

考えないように、考えないように、とはしていたけど……そういう未来がやってくることも、全く想像しないわけではなかった。

 

このままレースに出てしまったら、わたしは彼が亡くなるときに、そばに……。

 

ううん。

……大丈夫。

 

彼が、わたしが南関東三冠ウマ娘になるという集大成を見ないまま、死んでしまうわけがない。

 

彼が、まだまだ未熟なわたしを放っておいて、どこかへ行ってしまうわけがない。

 

ゲンさんは、わたしのトレーナーなんだから。

 

わたしは震える指で【わかりました。でも今から、彼と一緒に目標にしてきた、大レースの出走なのです。必ず良い結果を持ってそちらに伺いますので、待っていてください】と返信した。

 

ゲンさんの弟さんが、どんな方なのかはわからない。

レースを知らない人がこの文章を見たら、わたしのことをとんでもない冷血漢だと思うことだろう。

いや、レースにある程度理解がある人が見たとしても、わたしはやっぱり薄情者に見えるのかもしれない。

 

でも、この場を投げ出してゲンさんのもとに向かうなんて、絶対に彼も望まない。

そのことだけは、確信できた。

 

 

スタンドから押し寄せる熱狂。

これからレースを走るウマ娘たちが発する、極限までの緊張感や闘争心。

そのウマ娘たちを照らす、ナイター照明。

 

G1レースの時の本バ場は、独特の雰囲気に包まれている。

 

わたしにとって大切な人が大変なときでも、ここではなにも変わらずにレースが行われる。

それはなんだか、不思議な気分だった。

 

「ちょっとアンタ!」

 

そんな感傷に浸っていると、鋭い声がわたしの方に飛んできた。

一体だれ?と思ってそちらの方に顔を向けると、見慣れないウマ娘が、明らかな敵意と侮蔑の感情満載の視線でわたしを睨んでいる。

えーと。

とっさに名前が出てこなかったが、彼女は確か今日の二番人気の娘で、トレセン学園に所属しているウマ娘のはずである。

 

「……なにか用かしら?」

「アンタ、ファルコンレアっていったっけ?スマートファルコンさんの娘で、最近ちょっと成績いいからって調子に乗ってるみたいじゃない。二冠、って言ったってしょせん【地方】のご当地G1での話でしょ。私のように、レベルの高い【中央】で戦ってきたウマ娘の敵じゃないわ!今日はそれを思い知らせてあげる」

 

……こういう形で相手を挑発し、こちらを苛立たせて精神的に優位に立とう、というヤツがいることは知っているし、そんなことは今までも何回か経験してきている。

この手の輩は無視するに限るのだが……あいにく今日のわたしは、ひどく気が立っていた。

 

「……まれ」

「ん?聞こえないわ、なんですって?」

「わたしは黙れって言ったのよ。アンタがどこのどなた様か知らないけど、弱いウマ娘ほどよくいななく、とはよく言ったものね。わたしになにか聞いてほしいのなら、その太くてどんくさそうな脚で、一度でもわたしの前を走ってから口を開きなさい。話はそれからだわ」

 

わたしの口の悪さは、両親とゲンさんのお墨付きである。

わたしの口上を聞いて彼女はよほどお怒りになったらしく、大きな耳を後ろに引き絞り、全身をプルプル震わせ始めた。

 

「地方のウマ娘風情が、中央の重賞を勝っている私に、よくもそこまでナメた口を利けたものだわ!その減らず口、レース後に絶対後悔させてやるんだから!」

 

そう喚き散らすと、彼女は足元のダートを蹴りつけ、ゲートの方へ行ってしまった。

 

残念だけど、わたしはこのレースを後悔するような結果にする訳にはいかないし、レース後にあんなつまらないウマ娘の相手をしているヒマはない。

 

わたしには、【わたしたちの勝利】を、待っていてくれている人がいるのだから。

 

 

そんなちょっとしたトラブルはあったが、それ以外はスムーズにゲートインが行われた。

最後の一人が、ゲートに収まった音がする。

 

ガチャン!

 

わたしの【南関東三冠】を賭けたジャパンダートダービーが、スタートした。

 

わたしのスタートは、いつも通りの良好なものだった。

その勢いのままインコースを目指してぐんぐん加速し、先頭を奪いに行く。

 

他にも逃げの脚質の娘がいたはずだが、誰もわたしに競りかけてこない。

ここ数戦はいつもこんな感じで、わたしに行かせるだけ行かせ、自分たちは脚をためて終盤勝負、というのが対戦相手の戦術らしかった。

 

しばらくすると、観客席から大きな拍手が聞こえてきた。

 

これを聞くと、ああ、わたしはG1という大きな舞台で戦っているんだな、という実感が湧いてくる。

 

 

レースは淡々としたペースで進んでいる。

 

第二コーナーを過ぎたあたりで少しペースを落ち着けた際、ちらりと後続を確認してみると、わたしのすぐ後ろにピタリとあのけんかを売ってきた娘がついてきていた。

 

「偉そうなこと言ってた割に、大したスピードじゃないわね。ほらほら、あなたがバカにしてくれたふっとい脚で、カンタンに抜かしちゃうわよ?一度でもアンタの前を走ったら、私の話を聞いてくれるんだっけ?」

 

ふん。

なんとも安い挑発である。

 

「わたしの前を走り続けて、勝てるだけのスタミナを残している自信があるなら勝手にするといいわ。約束は約束だから、一度でもわたしの前を走ったのなら、話を聞いてあげてもいいわよ?今夜は先約があるから、明日になるけど。まったく、モテる女はツラいわね」

「ホント、生意気なヤツ!」

 

わたしの減らず口に悪態をつきつつも、こちらを意地で抜き去るような気配は彼女から感じられなかった。

 

もちろんわたしも、彼女の言葉に熱くなって、無駄に彼女を突き放すなんてマネもしない。

 

彼女がわたしを【地方のウマ娘】とバカにしていることは確かだろうが、この娘はその侮蔑に挑発することをミックスすることで、相手を怒らせたり怯えさせたりして、無駄に力を浪費させようとしてくるタイプのウマ娘なのだ。

 

でも、今のわたしにそんな揺さぶりは通用しない。

 

『お前さんのスピードとスタミナは、一級品になりつつある。だが、どうにもメンタル面でかなり不安が残るな。全日本ジュニア優駿でも、ちょっと突っつかれただけで道中やりすぎたことがあっただろ?ああいうのを直していかないと、超一流にはなれないぞ。負けん気があるのはいいことだが、使い方ってものがある』

 

そう言った彼が勧めてくれたのが、瞑想やマインドフルネスといったメンタルトレーニングだった。

 

正直わたしはその手のメンタルトレーニングの効果に、結構懐疑的だった。

だけど信頼している彼の指導だったし、実際こうして憎まれ口を叩いている口と行動を完全に切り離せているわけだから(メンタルトレーニングの肝は、感情と行動を意識的に切り離せるようになることだ。感情を感じなくしたり、封じられるようになることではない)それなりの効果は出ているのだろう。

 

彼の指導は、正しかったのだ。

 

……そんなゲンさんは、このレースを見てくれているだろうか。

 

レース中に、ペースや対戦相手のこと以外が脳裏に浮かぶ、というのは今までほとんどなかったことだった。

 

彼は今、危篤状態に陥っているという。

普通で考えれば、テレビを見ているはずなどないのだろう。

でもなぜかこの時は、きっと彼は見てくれている、という確信があった。

 

見ていて、ゲンさん。

あなたが見出し、あなたが鍛え上げ、あなたが育て上げたウマ娘が、最高の栄誉を勝ち取る瞬間を!

 

 

>>

『最終コーナーをカーブして、南関東三冠ラストレース、ジャパンダートダービーもいよいよ最後の直線に差し掛かります。先頭は大きく後続を引き離して、ファルコンレア、三冠へ向けて、ファルコンレアが先頭!2番手、ユニコーンステークス勝ちのベッシュドーガが追い上げます。外から並びかけるようにパヒュームセリエがやってきているが、先頭はファルコンレア!』

 

『二番手との差は6バ身、さらにリードを広げていく!ベッシュドーガ必死に追いかけますが、まったく差が縮まらない!先頭はファルコンレア、がんばれ、ファルコンレア!南関東三冠はもう目前だ!先頭はファルコンレア!ファルコンレア、今一着でゴールイン!ファルコンレア、やりました!南関生として12年ぶりにジャパンダートダービーを制覇!そして全国の強豪、中央のエリートたちを完封しての、堂々の南関東三冠制覇です!』

 

『勝ちタイムは……2分フラット!なんと2分フラットです!20年以上更新されなかった、母スマートファルコンが持つコースレコードを、その娘がコンマ4秒短縮して驚愕のレコード勝ち!おそらく、スマートファルコンも喜んでいることでしょう!……ん?どうしたのでしょう、ファルコンレア、一直線にウィナーズサークルに行って、なにやら係員に話しかけているようでありますが……』

 

 

>>

「あの!」

 

1着でゴール板を駆け抜けたわたしは、まずウィナーズサークルにいた緑色の制服を着た女性に声をかけた。

 

……喜びの感情を爆発させるのは、彼と一緒のときでいい。

 

「いかがなさいましたか?」

 

急に大きな声で話しかけたにも関わらず、彼女は柔和な笑みでわたしに対応してくれた。

 

「優勝者に贈られる、レイを貸してほしいんです!どうか、お願いします!!」

 

わたしの唐突なお願いに、彼女は少し困ったような表情を浮かべた。

でも、わたしの形相になにかを察してくれたのだろう。

彼女はうなずくと、小走りで事務室の方へ向かい、少ししてから【ジャパンダートダービー優勝】と金文字で刺繍された優勝レイと、立派な一帖の盾を持ってきてくれた。

 

「本当は表彰式で、URAの理事長から贈られるもののはずだったんですけどね」

 

苦笑を浮かべながら手渡してくれたその盾には、【羽田杯・東京ダービー・ジャパンダートダービー優勝  南関東三冠ウマ娘 ファルコンレア トレーナー 佐神弦二郎】と彫り込まれていた。

 

「ありがとうございます!」

 

それらを丁重に受け取って頭を下げ、わたしは急いでその場を辞そうとする。

 

「お急ぎなら、車をお出ししましょうか?」

 

彼女の申し出はありがたかったが、レース直後はここに来てくれている人達の車で、結構道が渋滞していることを思い出した。

 

「いえ、レース後で道が混んでいるでしょうから……ウマ娘専用レーンを走っていきます!ありがとうございました!」

 

気を使ってくれた彼女にお礼を言い、わたしはレース場の出口目指して走り出した。

 

レイを受け取るときに彼女の名札をチラリ、と見たが、そこには【駿川 たづな】と書かれていた。

後日改めて、きちんとお礼を言うために伺おう。

 

 

病院への道すがら、わたしはゲンさんと過ごした騒がしい日々を思い出していた。

 

縁起でもない、と理性が自動思考を叱りつけたが、脳裏によぎり始めたその日々たちの映像は止まらなかった。

 

お尻を触られて、最悪だった初対面。

わたしが乱闘事件を起こした時、自分の進退を懸けてでもわたしをレースの世界に引き止めてくれたこと。

初めて勝った、メイクデビューの日。

レースなんてカンタンに勝てる、と調子に乗っていたわたしをきつく怒るようなことはせず、そのことに自分で気づくまで、辛抱強く待っていてくれた彼。

 

そんな彼はわたしがレースで勝つたびに、本当に嬉しそうにして食事に連れて行ってくれた。

 

二人にとっての、初めてのG1制覇。

あの時初めて見た、彼の涙。

 

毎日交わしていた、たわいもないバカ話。

 

そして、わたしに語ってくれた彼の夢。

 

彼と過ごしたのはたった1年ちょっとなのに、こんなにたくさんの思い出があることに驚いた。

 

……わたしたちはまだまだ、これからたくさんの思い出を作っていくはずだった。

 

 

URLに記載されていた病院に着いたのは、大井レース場を出発してから20分後のことだった。

その病院はこの地域に住んでいる人なら誰もが名前ぐらいは知っている、地域医療の根幹を担っているような大きな病院だった。

わたしは病院の夜間出入り口にあった守衛室でゲンさんの入院している部屋を教えてもらい、エレベーターでその階に向かう。

 

病棟は西と東に分かれていて、彼が入院しているのは12階の東病棟だった。

守衛さんから連絡が入っていたのだろう、ナースステーションにいた看護師さんに声をかけると、「こちらです」と、消灯時間間近で静まり返っている病棟内を案内してくれた。

 

ゲンさんの部屋は個室らしく、ネームプレートには彼の名前しか書かれていない。

 

かたく閉じられた扉をノックすると、「どうぞ」と返事があった。

おそるおそる扉を開けると……そこには壮年の男性が一人と、すでに白い布を顔に乗せられた――信じたくもなかったもなかったが――ゲンさんがいた。

 

男性はたぶん、連絡をくれたゲンさんの弟さんなのだろう。

わたしがどう声をかけていいものか迷っていると……。

 

「はじめまして、ファルコンレアさん。生前は兄が大変お世話になりました」

 

弟さんはそう言って、おそらく親子ほど年が離れているであろうわたしに、丁寧に頭を下げてくださった。

……もうそろそろ、現実を受け入れなければならないようだ。

 

「いえ……わたしのほうこそ……あの、弦二郎さんのお顔を、拝顔させていただいてもよろしいですか?」

 

わたしの言葉に弟さんは静かにうなずくと、ゲンさんの顔を伏せていた打ち覆いをそっと外してくれた。

 

彼の死に顔は穏やかで、ただ、眠っているように見えた。

心なしか、少し微笑んでいるようにもみえる。

 

「兄は今朝から意識が混濁していたのですが……つけっぱなしにしていたテレビであなたのレースが始まると、はっと意識を取り戻して『テレビがよく見えねえ、頭を上げてくれ』と」

 

そっか。

やっぱりゲンさん、わたしのレース、見てくれてたんだ。

 

「それで、あなたが1着でゴールしたのを見届けてから、『あの娘を見てくれ。速いだろう。強いだろう。ファルコンレアっていってな、俺の、俺の愛バなんだ……』と言って、そのまま……」

 

愛バ。

 

それはトレーナーが担当しているウマ娘に贈る、最大限の親愛表現だった。

 

わたしは彼に近づき、手にしていたレイと盾を彼に向けた。

 

「見て、ゲンさん。わたし、ジャパンダートダービーを勝って南関東三冠ウマ娘になったの。誰も、わたしに追いつけなかった。わたし、知っての通り練習嫌いだけど、ゲンさんが作ってくれたメニュー通りに、とってもトレーニングがんばったのよ」

 

彼の顔を見ていると、涙が瞳から、とめどなく溢れ出ててくる。

悲しみと悔しさと喪失感がごちゃまぜになったような、お腹の底から溢れ出てきている感情が、まるで瞳の奥から押し出されているようだった。

 

「それに、この盾。わたしとゲンさん、二人の名前が入っている、とっても立派な盾でしょう?わたしたちの南関東三冠制覇を記念して、URAが作ってくれていたのよ。表彰式で渡してくれるつもりだったらしいんだけど、わたしが負けていたら、どうしていたのかしらね?……きっとみんな、わたしが、わたしたちが勝つって、信じてくれていたのね……」

 

レイと盾を彼の枕元において、わたしは彼の、まだ温かい手を握った。

 

「ねぇ、ゲンさん。わたし、すごくがんばったの。いつもみたいに、よくやった、って言ってよ。おめでとうって言ってよ。うまいもの食いに行くか、って言って……」

 

そこから先は、言葉にならなかった。

わたしはただただ、彼の腕にすがりついて、お父さんとはぐれてしまった幼い子供のように、泣きじゃくった。

 

 

彼のお葬式会場にやってくると、すでにたくさんの人が弔問に訪れていた。

 

昨夜はどうやって自宅に帰ったのか、覚えていない。

病院から車に乗ったのは覚えているが、弟さんの車で送ってもらったのか、タクシーで帰ってきたのかは本当に記憶にない。

 

記憶にあるのは、とりあえずパジャマに着替えて、ベッドに潜り込んだことだけだ。

 

本当のことをいうと、気持ちの整理が全然ついていなくて、ベッドの中にそのままずっと潜り込んでいたかった。

お葬式に出席することで、彼を失った、という現実に向き合うのが怖かったのかもしれない。

 

でも、以前どこかで【お葬式は死者のためではなく、これから生きていく人のためにある】と聞いたことがある。

 

その言葉を思い出したわたしは、気持ちの整理がついていないからこそ、彼とのお別れにきちんと向き合うべきだ、と思い直し、パジャマから制服に着替えて、彼のお葬式に参列させてもらうことにした。

 

お葬式にはゲンさんの友人知人、職場関係の人ばかりでなく、現役時代彼が担当したというウマ娘も、何人も来ていた。

 

彼女たちはみな、わたしを見つけると『ゲンさんにG1をプレゼントしてくれてありがとう』と礼を言ってくれた。

 

わたしはただただ恐縮して、「ゲンさんの指導のおかげで、なんとか勝てました」と先輩方にお返事させてもらうだけだった。

 

 

「少し、いいかしら?」

 

お焼香を上げさせていただくために参列者の列に並ぼうとすると、一人のウマ娘に声をかけられた。

年齢はわたしより10歳ぐらい上だろうか。

上品な黒い喪服に身を包み、黒真珠のネックレスがよく似合っている、知らない美女だった。

 

「はい、大丈夫ですけど……」

 

わたしの困惑が伝わったのか、彼女は友好的な笑みを浮かべて自己紹介してくれる。

 

「ああ、そんなに警戒しないで。私はあなたの【先輩】に当たるウマ娘よ。現役時代、ゲンさんに担当してもらっていたの。彼が最期に担当したウマ娘さんと、ちょっとお話ししたいなと思って声掛けさせてもらったのよ」

 

ああ、そういうことか。

わたしも、以前彼がどういうウマ娘を担当していたか、少し興味がある。

……人と話すことで、少し気分も紛れるかもしれない。

 

「それは失礼しました。ぜひ、お話させてください」

 

わたしがそういうと彼女は笑顔でうなずき、じゃあちょっと外でお話しましょうかと言って歩を進める。

少し離れて彼女についていくと、彼女は人気のない自動販売機の前で立ち止まり、500円硬貨を入れて「好きなの選んで」と言ってくれた。

 

「すみません、ごちそうになります」

 

わたしはお礼をいい、ホットココアのボタンを押す。

彼女は微糖のコーヒーを購入し、飲むのを待っていたわたしに「遠慮せず、どうぞ」と言ってくれたので、いただきます、とひとこと言ってからタップを開けて温かいココアに口をつけた。

 

「最近のゲンさんって、どんな感じのトレーニングメニューだったの?」

 

彼女はコーヒーを一口飲むと、微笑を浮かべて興味深げにそんなことを尋ねてきた。

 

「そうですね……正直、トレーニングは厳しかったです。体感で他の娘の3割ぐらい、練習量が多い感じでした」

「あ、やっぱりスパルタな感じは変わらなかったのね」

「そうおっしゃるってことは、先輩の時も?」

「ええ。2・3回彼のもとから逃げ出したぐらい、きつかったわ」

 

そう言って彼女は苦笑いを浮かべる。

ひょっとしたら昔の彼は、もっときついメニューをウマ娘に課していたのかもしれない。

 

「それにゲンさん、細かくて口うるさいから……正直、うんざりすることもあったでしょう?」

 

……?

それは、わたしの持っている彼のイメージと重ならない。

正直に言うべきか迷ったが、彼女はきっとわたしの本音を聞きたいのだろうと思い、失礼がないと思われる範囲でわたしの所感を述べることにした。

 

「いえ。わたし、練習嫌いでトレーニングを手抜きしてたことがバレたりしたこともありましたけど、彼から何かきついことを言われたり、うるさく言われるようなことはありませんでしたね」

 

わたしがそういうと、彼女はなにか得心したかのようにうなずいた。

 

「ああ、あなたはキツく言わなくても、自分でわかってくれる子だと思われていたのね。私は結構キツく言われないと気づかないタイプだったから……」

 

そうなのかもしれないし、歳を重ねるに連れて担当するウマ娘への接し方が変わったのかもしれない。

いまのわたしに、それはわからなかった。

 

「でもやっぱり、ゲンさんってすごいわ。多分ウマ娘の性格によって、接し方を変えていたのね。私も最近新入社員の子を受け持つようになってわかったんだけど、それってなかなかできないのよね。私がキツく言われてきたほうだから、ついその子たちにも同じように接しちゃう」

 

その子の性格とか見極めてちゃんと言うべきことと、言わないほうが良いことを本当は分けないといけないのだけども……とつぶやいて、小さくため息をもらした。

 

彼女の様子を見ていると、やっぱり人を育てるのって大変なんだな、と若輩の身ながら想像してしまう。

 

「あ、ごめんなさいね。関係ないグチみたいなの聞かせちゃって」

「いえ」

「でも……最期にゲンさんがあなたのような才能あふれるウマ娘を担当して、G1トレーナーの仲間入りすることができてよかったわ。彼がそんなウマ娘を受け持つだなんて、思ってもなかったから」

「……?どういうことですか?」

 

彼はたしかにG1は未勝利だったが、SG1やG2までの重賞は数多く制していて、周囲からも【名トレーナー】という評判を得ていた。

そんな彼だから、今までもきっと、才能豊かなウマ娘をたくさん担当してきたのではないだろうか。

 

「気分を悪くしたならごめんなさい。……彼が今まで、どんなウマ娘たちを受け持っていたか、知ってる?」

「いえ。でも、あれだけたくさんの重賞を勝っているわけですから、才能のあるウマ娘たちを担当していたんじゃないですか?ゲンさんぐらいの指導力と実績があれば、素質ある娘の指導をお願いされることもあったでしょうし」

 

わたしがそういうと、彼女は静かに首を横に振った。

 

「それがまったくの反対なの。私も一応、重賞を勝っているんだけどね。入学してしばらくは、タイムも模擬レースの成績も全然伸びなくて。担当してくれていたトレーナーさんから、私から契約を破棄するように言われちゃったのよね。つまり、私は落ちこぼれウマ娘だったわけ」

 

URAの規則では【トレーナーは、担当しているウマ娘との契約を、正当な理由なく一方的に打ち切ることはできない】となっている。

 

正当な理由とは、レースに復帰が望めないほどの大ケガや病気をしてしまって、ドクターストップがかかったり、ウマ娘が何らかの罪を犯して、警察に捕まってしまったりしたケースがそれに当たる(後者が適用された、という話はあまり聞かないが)。

 

つまり、建前上は『担当してみたけどこの娘は思ったほど走りそうにないから、契約打ち切ってやっぱり他の娘探そう』みたいなことは、一応できないようになっている。

 

一方で、ウマ娘の方からはいつでも契約を白紙に戻すことができる。

 

これは学生であるウマ娘が、トレーナーに無理なレース日程やトレーニングを強いられた時のための、一種の保護的規則なのであるが……。

 

しかし実際は彼女のようにこの規則を逆手に取られ、トレーナーの想定した成績を残せなかったウマ娘が【自主的な】契約破棄を迫られる、というケースは珍しくないのだ。

 

「でも、そんな私を拾ってくれたのがゲンさんでね。私を含めて、彼はそんな『訳アリ』のウマ娘の面倒ばかり見ていたトレーナーだったの」

 

それは少し意外な彼の過去だったが、反面、彼の性格からすると、そういうことをしていてもまったくおかしいと思わない。

 

彼は本当に心根が優しくて、担当したウマ娘に真摯に向き合ってくれるトレーナーだったから。

 

そんな彼が、わたしの担当トレーナーだったことを、誇りに思う。

 

「そうだったんですね。実はわたしも【余り物】で、ゲンさんに運良く拾われたウマ娘なんですよ」

「え、そうなの?」

 

驚く彼女に、わたしは彼との出会いを端的に語った。

 

模擬レースの結果ばかりが良くて、練習タイムが全然ダメだったこと。

そのせいで【伸びしろのないウマ娘】と思われて、トレーナーから全然声が掛からなかったこと。

彼が体幹の欠点を見抜いて、それを修正してくれたこと。

 

わたしの話を聞いた彼女は神妙にうなずいて、「彼らしいエピソードね」と言ってくれた。

 

「長い時間つきあわせちゃって、ごめんなさいね。じゃあそろそろ、お焼香上げに行きましょうか」

「そうですね……。わたしの方こそ貴重なお話を聞かせていただいて、ありがとうございました」

 

そんな言葉をかわし、わたしたちはお焼香台が置いてある部屋に戻った。

そしてわたしたちは、ウマ娘を育てることに人生を捧げた、わたしたち自慢のトレーナーの冥福を、心からお祈りした。

 

 

そんな感じでお葬式は故人の人柄が偲ばれる、良いお葬式だったと思うのだけれども……少し、気になったこともあった。

 

喪主は弟さんが務めていらっしゃるようだったけど、その弟さん以外、ゲンさんの親族・家族らしき人をお葬式で見かけなかったということだ。

 

わたしは今まで、単に奥さんと子供とは別居しているのか、ひょっとしたらもう離婚しているのかもしれないな、ぐらいに思っていたのだけれども、お葬式にすら顔を出さないとなると、もっと根深い事情があるのかもしれなかった。

 

 

お焼香を済ませ、先輩方とも言葉をかわし、そろそろおいとましようとしていると、弟さんから「ファルコンレアさんさえよろしければ、兄のお骨をあげていただけませんか?」と声をかけていただいた。

 

幸いなことにわたしは今まで近しい人をなくした、という経験がなかったのでお葬式の作法に詳しいわけではないけれど、こういうセレモニーは普通、親しい親類縁者だけで行うものだろう。

 

そんなお別れの儀式にお声掛けいただいた、ということは、弟さんから見てもわたしとゲンさんにはそうするだけの絆があった、と見てくださっているのだと思う。

 

わたしは「お願いします」と返事し、出棺までの間、喪主である弟さんのお手伝いをさせてもらうことにした。

 

 

ゲンさんは彼の棺が納められた火葬場から上がる煙とともに、天に召されていった。

 

お骨上げに参加したのは、弟さんとわたし、それに出棺直前にお葬式会場にやってきた、その弟さんの息子さんだけだった。

彼の息子さんの年齢は20代の半ばくらいだろうか。

黒いスーツに身を包んだ彼はイケメンだったけど寡黙な人らしく、わたしには「佐神です。よろしくお願いします」とだけ挨拶してくれて、それっきりだ。

 

骨壷への納骨が終わり、あとのことは親族である彼らにおまかせして、わたしは家に帰って彼を悼もうと思っていた。

 

「ファルコンレアさん。この後のご予定は?」

「いえ、特には。自宅で弦二郎さんとの思い出を振り返ろうかな、と思っていたところです」

「そうですか。今から息子と食事にでも行こうか、と思っていたところでしたので、ぜひその思い出を私達にも聞かせていただけませんか?兄もきっと、喜んでくれると思います」

 

そのお誘いにわたしは少し、困ってしまった。

こういう場合、断るのが常識なんだろうか。

それとも、断ったらむしろ、失礼に当たるのだろうか。

 

困惑したわたしをみて、弟さんはしまった、という表情を浮かべて微笑を浮かべた。

 

「すみません。まだ高校生のあなたに、少し配慮が足りませんでしたね。兄はいつも、あなたがレースに勝った時はそのお祝いに食事を御馳走した、と言っていました。あなたのG1勝利のお祝いを、兄の代わりにさせていただけませんか?」

 

世間知らずのわたしに、気を使ってくれたのだろう。

そこまで言ってくださるのなら、ごちそうになっても失礼には当たるまい。

 

「気を使わせてしまって申し訳ありません。そういうことでしたら、ご一緒させてください」

 

そう返事すると、弟さんは笑顔でわたしを自分の車に案内してくれた。

もちろん、息子さんも一緒である。

しかしこの人、ホントしゃべらないわね。

なんにも言わずに助手席に乗り込んだイケメンに、わたしはちょっと訝しげな視線を送っていた。

 

 

連れて行かれたお店は、以前ゲンさんが連れて行ってくれたジャジャ苑と同じ系列の、もうワンランク上のお店だった。

 

著名人やお金持ちがSNSやメディアなどで話題にしている【高級焼肉店】といえば、ジャジャ苑ではなくこちらのお店のことである。

 

「え……?ここですか……?」

 

声に出してしまってから、連れてきてもらってそれはさすがに失礼極まりないと思ったのだが、今のわたしを、誰が責められるだろうか。

 

「はい。ファルコンレアさんはお肉が好きだ、と兄から聞いていましたので、こちらにお連れしました」

 

いや、気持ちはめちゃくちゃ嬉しいんですけどね。

ここ、18歳以下が入っても大丈夫なんだろうか。

 

「え、いや、でも、ここめちゃくちゃ高……」

 

失礼の上塗りを重ねる前に、彼は笑顔でわたしの言葉を遮ってくれる。

 

「子供がそんなおかしな遠慮なんてするものじゃありませんよ。さあ、入りましょう」

 

子供って……。

もうわたしも17歳なんですけどね。

でもまぁ、店の雰囲気に圧倒されて失礼なことばかり言っているわたしは、そう言われても仕方なかったのかもしれない。

普通にお店に入っていく弟さんとその息子さんに、わたしはただただ着いていくよりなかった。

 

 

生まれて初めて入った超高級焼肉店の内装は、焼肉屋というより、料亭といった雰囲気だった。

といってもわたしが料亭になんか行ったことあるわけないから、これはあくまでイメージである。

案内されたのが個室だったので、余計にそんなイメージを抱いたのかもしれない。

 

……こんなところで食べて、お肉の味なんかするのかしら。

 

こういうお店にいると店員さんが持ってきて飲み物のグラスも、お肉が盛られているお皿も、なんだか国宝級に高級なものに見えてくるから、不思議なものだ。

 

弟さんはゲンさんの骨壷をテーブルに置くと、その隣に注文していたビールを置いた。

 

そして自身もグラスを手に取り、「弦二郎の冥福を祈って、献杯」とグラスを掲げる。

わたしもそれに習って、静かにオレンジジュースが入ったグラスを掲げた。

 

「じゃあ、はじめましょうか。どんどん、焼いていってくださいね」

 

そう言って弟さんは、ピカピカの網にキラキラ光って見えるお肉を乗せ始めた。

まあ、どこで食べてもお肉はお肉。

あまり店の雰囲気に圧倒されていないで、とりあえずお肉を楽しもうとわたしは決める。

 

「ところでファルコンレアさんは、弦二郎の家族のことについて、どれぐらい聞いていますか?」

 

う~ん……。

いきなり肉の味がさらにわからなくなりそうな、ディープな話題である。

 

「そんなに詳しいことは……どうやら結婚して娘さんがいるらしいことと、飼い猫の名前がゴアってことぐらいしか、聞いていません」

「ああ、結婚していることは、ご存知なんですね」

「といっても、母と同席していたときに漏れ聞いただけで、わたしが直接聞いたわけではありませんけど」

 

その同席していた場所が乱闘事件を起こした後のトレーナー室だった、ということは、とりあえず伏せておいた。

 

「そうですか。ご存知でしょうが、兄はウマ娘の育成にすべてを捧げたような、そんな人間でした」

 

弟さんの言葉に、わたしは静かにうなずく。

それについては、なんの異論もない。

朝練前にトレーナー室にいくと、よく机に突っ伏して寝ているゲンさんの姿を見たものだ。

早く来たからちょっと仮眠していた、なんて彼は言っていたが、わたしのトレーニングメニューや機材を用意しているうちに、徹夜になってそこで寝てしまっていたのは明白だった。

 

「そんな弦二郎は、職業人としては尊敬できる存在です。文字通り、自分の仕事に人生のすべてを捧げていたのですから。ですが、家庭を持つ男としては、決して褒められたものではありませんでした」

 

弟さんは少しさみしげな表情を浮かべると、ゲンさんの家族について語り始める。

 

「弦二郎には、妻と娘がいました。30になるかならないかぐらいで結婚して、翌年には娘さんを授かっています。ただ、兄は根っからのトレーナーでした。結婚してからも、子供が生まれてからも、ウマ娘さんを中心にした生活は何一つ変わりませんでした」

 

手際よく肉を焼きながら話す彼の話に、わたしはじっと耳を傾ける。

 

「いつだったか、兄が酔っ払ったときに話してくれたのですが、娘さんが小学生の時、遊園地に連れていったことがあったそうです。でも、その時担当していたウマ娘さんが自主練中に怪我をした、という連絡が入ると、『すまん。埋め合わせは今度する』とだけいって、そのウマ娘さんのもとに行ってしまった、なんてこともあったらしいのです」

 

いかにもありそうなその風景を想像して、わたしは少し、心を痛めてしまった。

わたしがその子の立場だったら、お父さんなんて大嫌いになっているに違いない。

……自分からお父さんを奪い続けた【ウマ娘】という存在も。

 

その話を聞いて、奥さんも娘さんもお葬式にすら顔を出さなかった理由が、ようやく理解できた。

 

弟さんがどうぞ食べてください、といい感じに焼けたお肉を勧めてくれたので口に運んでみたが、店の雰囲気のせいなのか、聞いている話の内容のせいなのか、きっといいお肉なんだろうな、ということ以外、よく味がわからなかった。

 

「そんなことが積み重なったのが原因なのでしょう、数年前に娘さんが経済的に独立したのを機に、奥さんの方から離婚を切り出されて、そのまま別れてしまいました。その時期からでしょうか、もともとお酒は好きな方で嗜んでいましたが、まるで浴びるように飲むようになってしまったのは」

 

何度か彼の買い物に付き合ったことがあったが、そのときに買い込むお酒の量にいつも驚かされたものだった。

『そんなに飲んで大丈夫なの?』とわたしが聞いても、彼はいつも『俺は強いから大丈夫』と言うだけだった。

 

……体を壊すほどお酒を飲んでしまっていたのは、きっと家庭を失った寂しさと孤独を紛らわせるためだったのだろう。

 

「すみません。別にウマ娘であるあなたに恨みをぶつけるために、この話をしたわけではない、ということだけはご理解ください。ただ、兄がトレーナーという仕事にどれだけの情熱を注ぎ込んでいたのか、ウマ娘という存在にどれだけの愛情を注ぎ込んでいたか、最期の担当ウマ娘さんのあなたに、どうしても知っておいてほしかっただけなのです」

 

弟さんの言葉に、わたしはうなずくことすらできなかった。

正直、彼の話は【子供】のわたしには重すぎた。

でも、弟さんがこの話をわたしに聞いてほしかった、という気持ちは理解できたし、そんな大事な話をわたしにしてくれたことを嬉しくも思った。

 

「奥さんと子供さんと別れ別れになってしまったのは残念ですが……お話を伺っていると、弟さんとは仲が良かったのですね」

 

少しばかり話をずらして話題を弟さんに向けると、彼はなぜか苦笑いを浮かべる。

 

「兄は、私にとってヒーローのような存在でしたから。まぁ、どちらかというとダークヒーローという感じですが」

「ダークヒーロー?」

 

さっきの話とは打って変わって、ちょっと面白そうな単語が出てきた。

 

「私は少しばかり勉強が得意な内向的な少年でしたが、兄は文武両道に秀でていて友人も多く、高校生まではずっと生徒会役員に推薦されるような、そんな少年だったのですよ」

「なんか、そんなイメージあんまりわかないんですけど」

「かもしれませんね。でも、そんな表向き優等生をやっていた兄が私に教えてくれたのは、非力でもケンカに勝てる人体急所の殴り方とか、麻雀の押し引きの確率論とか、そんなくだらないことばかりでしたよ。両親ともあまりウマが合わず、しょっちゅうケンカしてましたしね」

 

そういうことを聞くと、ああ、やっぱりゲンさんは子供の頃からゲンさんだったんだな、と納得させられる。

 

「そういえば、弦二郎さんがトレーナーを目指すきっかけになった出来事って、なんだったのでしょう?小さい頃から、レースを見ていたとか?」

 

わたしの質問に、彼は少し目を細めて遠くを見つめた。

おそらく、子供の頃の記憶を引っ張り出しているのだろう。

 

「具体的にいつウマ娘さんのトレーナーになろうと思ったのかは聞いたことはありませんが……中学生ぐらいの時から、ウマ娘さんを育成するゲームをやっていたのは覚えています。その影響なのか、週末は必ず実際のウマ娘さんのレースを見るようになっていましたね」

 

野球とかサッカーでも、育成ゲームから実際の競技に興味を持ってプロを目指し始めた、って人もたくさんいるから、彼もそういったパターンだったのだろう。

 

「そんな兄の武勇伝は色々ありますが、一番痛快だったのは兄が大学卒業を控えて、進路を決めるときのことです。お話したように兄は頭も良かったものですから、両親は兄には医師になるか、大学に残って、将来は偉大な科学者、研究者になってほしいと願っていました」

 

へぇ。

お医者さんを目指せるぐらい、頭が良かったのね。

こう言ったら天国からゲンさんが怒ってきそうだけど、やっぱり何だか意外である。

 

「でも兄はそんな両親にきっぱりと『俺、ウマ娘トレーナー科のある大学に編入してトレーナーになるわ』と宣言したんですね」

「それはなんとも、ゲンさんらしいですね。で、ご両親はそれをお許しになったのですか?」

「いえ。『東大にまで入れてやったのに、なんでそんなこと言いだすんだ!』と両親は大激怒して、当然大ゲンカになりました」

「ほうほう、そんなことが……」

 

ん?

とうだい?

灯台?

 

「とうだい!?それって東京大学のことですか?」

 

わたしの驚き具合に、彼は苦笑を我慢できなかったようだ。

 

「ええ。兄は一応、東京大学を卒業しています。ただ、兄はそのときに親から絶縁されていますから、大学の講義の傍ら、家庭教師や塾の講師の仕事をして学費と生活費を稼ぎながら、なんとか大学を卒業しました。それからウマ娘トレーナー科のある大学に編入するのは、なかなか大変だったようですよ」

「でしょうね……」

 

ある時わたしがトレーナー室に学校からの課題を持ち込んで頭を抱えていると、『俺が教えてやろうか?』と言って、勉強を教えてくれたことがあった。

妙にわかりやすくて記憶にも残る教え方に『なんかゲンさんに勉強教わると、負けた気になるわ』なんて軽口を叩くと、『おいおい、俺も一応大学出てるんだぞ。高校生の勉強なんか、朝飯前だよ』と苦笑していたのを思い出す。

東大を出ているなら、南関校の課題を教えることなんて本当に朝飯前だったことだろう。

 

「さて。そんな思い出話は尽きませんが、お酒が入る前にこれをお渡ししておきますね」

 

そう言って弟さんは持っていたメンズ用のハンドバッグから、一通の白い封筒を取り出した。

 

「これは?」

「兄から預かった、遺言書です。『俺が死んだら、すぐに読んでもらえ』と言付かっています」

「……今、読ませていただいても?」

「ええ、お願いします」

 

わたしは丁寧に封筒の封を解き、入っていた便箋を取り出した。

そこには思ったよりしっかりした、綺麗な文字が綴られていた。

 

【親愛なる愛バ、レアへ。これをお前さんが読んでいる、ということは、俺はすでにくたばっちまっているということだろう。お前さんの面倒を現役生活の最後まで見れなかったことは、すまなかったと思っている。酒をもう少し控えることができれば、ちっとは長生きできたんだが……バカは死ななきゃ治らない、ってのは本当みたいだな。こんなバカな俺を許してくれ。でも、お前さんは優しいから、こんなバカでもいなくなったら、きっと多少は悲しんでくれることだろう。悲しむな、とは言わん。というかちょっとは悲しんでくれないと、俺が悲しいからな(笑)。しかし、気持ちの整理がついたのなら、お前さんは中央に移籍、つまりトレセン学園に転校しろ】

 

トレセン学園に、移籍?

一度不合格になったわたしが、そんなことできるのだろうか。

 

【普通のウマ娘なら一度落ちたトレセン学園に編入するのはほぼ不可能だろうが、お前さんぐらいの実績と実力があれば話は別だ。初めてお前さんの走りを見たときから、こんな日が来るだろうと思って準備しておいた。うちの学校ももちろん悪くないが、トレセン学園はトレーニングのための設備も、通っているウマ娘のレベルも正直、かなり違う。強いウマ娘は、そのレベルに見合った環境に身をおくべきだと俺は思う。実は全日本ジュニア優駿を勝った頃から、URAとも両校とも、ある程度話は進めてある。この遺書に同封してある俺の推薦書と、トレセン学園側のトレーナーの推薦書を持って、トレセン学園の樫本理事長を訪ねろ。おそらく簡単な編入試験だけで、転校できるはずだ】

 

そうは言っても……。

わたしにはトレセン学園のトレーナーなんかに、ツテなんてない。

どうやってその【トレセン学園側のトレーナーの推薦書】を手に入れればよいのか。

お母さんにでも、相談してみるか。

そんなことを考えながら、先を読み進める。

 

【トレセン学園側のトレーナーの推薦だがな、お前さんが俺と初めて会った日に約束していた、若くてイケメンなトレーナーを用意しておいたぞ。そいつから推薦をもらえ。佐神 稜真(りょうま)といって、俺の甥っ子だ。俺と違って口数は少ないが、誠実で腕の立つ男だ。きっとお前さんとも、仲良くやれると思う】

 

その一文に思わず目を大きく見開いてしまい、それから肉を頬張っていた例のイケメンにわたしは視線を移した。

 

「あの、トレセン学園の推薦状を書いてくださるトレーナーさんって……」

「ええ、私の息子のコイツです。おい、肉食うのはあとにしろ。すみません、ファルコンレアさん。こいつ、G1を勝ったあなたのことを担当するって決まってから、もう緊張しっぱなしで。今日もなかなかご挨拶できずに……」

「いや、オヤジずっと喋ってたから、割り込めなかったんだよ……」

「言い訳するな。早く挨拶せんか」

 

弟さんにうながされて、彼はようやく、その涼しげな目元をした瞳をわたしに向けてくれた。

 

「は、はじめましてファルコンレアさん。ご挨拶が遅れました。僕があなたをトレセン学園で担当させて頂く、佐神稜真です。未熟な若輩ですが、どうぞよろしくお願いします」

「いえ、こちらこそよろしくお願いします……」

 

イケメンなのは良いけれど、なんだかちょっと、正直頼りないわね……。

大丈夫なのかしら?

 

「息子自慢に聞こえたら申し訳ないのですが……。こう見えてこいつ、最優秀新人トレーナー賞を受賞していたり、すでに重賞を勝ったりしてますから、そんなにひどいトレーナーというわけではないと思いますよ」

「オヤジ……G1勝ってる娘に、そんな自慢にもならないことを言わないで……」

 

彼は情けない顔をして自分を褒める父親をたしなめるけど、あの歳ですでに重賞を勝っているというのは、素直にすごい。

それなのに謙虚そうなのも、個人的には好ましい性格だ。

お互いに信頼関係ができれば、良いパートナーになれるかもしれない。

 

「でも見ての通り、ちょっと気弱なところがありますから、ファルコンレアさんがガンガン引っ張っていってやってください」

「引っ張っていけるかはわかりませんけど……」

 

そういってわたしは、彼の方を見る。

 

「よかったら、わたしのことはレアって呼んで下さい。親しい人は、わたしのことをそう呼びますから」

「わかったよ、レア。俺のことは……そうだね、君の好きなように呼んでくれ。あと、無理強いはしないが、できれば敬語はナシにしてもらえたほうが接しやすいかな」

「ふふっ、伯父様と同じ方針なのね。わかったわ。わたしもそちらのほうが、色々お話させてもらいやすいかも。これからよろしくね、稜真さん」

 

わたしたちは同時に手を差し出し、そしてしっかり握りあった。

彼の手は結構大きなペンだこがあり、そのキレイな顔に似合わずゴツゴツしていた。

きっと彼も伯父に似て、努力家で勉強家なのだろう。

 

ちなみに、遺書はこんな一文で締めくくられていた。

 

【死んじまうのは無念だが、あの世ってところもそんなに悪いところではなさそうだ。なんせ、行って帰ってきたやつがいないんだからな。きっと娑婆に戻ってくるのが嫌になるぐらい、良いところなんだろう。そんなところで美女にでも囲まれながら、お前さんのレースをいちファンとして楽しむことするよ。病人の俺が言うのもなんだが、体には気をつけてな、それじゃあ達者でな】

 

それじゃあ達者でな、の言葉を見て、わたしの瞳の奥から涙が溢れ出てきた。

これが、本当に彼からもらう、最期の言葉だろうから。

そんなわたしを、二人は静かに見守っていてくれた。

 

天国から見ていてゲンさん。

 

美女と一緒にいることなんかより、よっぽどワクワクするレースを、魅せてあげるから。

 

 

その夜わたしたちは、美味しいお肉をつつきながら日付が変わる時間近くまで故人を偲び、思い出話を語り、そしてこれからのことを話し合った。

 

その席でわたしは、ちょっとした興味というか、勢いというか、話の流れで彼らにいらないことを聞いてしまった。

 

「あの。ゲンさんの元奥様って、やっぱりウマ娘だったんですか?」

 

わたしの下世話な質問に、弟さんが笑って答えてくれた。

 

「いえ、レースとはなんの関係のない、普通の美しい女性でしたよ。元奥方に限らず、兄がお付き合いしていた女(ひと)はみんな、普通の女性でした。兄にとってウマ娘さんは恋愛や結婚などの対象ではなく、その競走生活をサポートし続けたい、彼女たちをたくさん活躍させてやりたい。きっとそんな存在だったのでしょうね」

 

わたしが中学までお世話になっていた男性トレーナーさんたちは奥さんがウマ娘、って人が多かったからゲンさんもそうなのかな、って勝手に思っていたけど、そういうトレーナーさんもいるのね。

 

そんな秘話も聞くことができたこの時間はとても有意義だったし、あの日の約束通り、イケメンのトレーナーを紹介してくれたのは嬉しかったけど……。

 

でもゲンさん。

 

わたしがレース生活に別れを告げるまで、あなたにわたしのトレーナーでいてほしかった。

 

 

***

 

それからすぐにトレセン学園に転校し、わたしがそれなりの成績を収めたのは、周知のとおりだ。

ゲンさんが飼っていたネコのゴアは稜真さんが引き取ることになって、たまに動画でその様子を見せてもらったりしている。

茶トラの彼女は気まぐれで気高く、それでいて愛らしさにあふれており、厳しい競走生活にいっときの癒やしを与えてくれた。

 

ゴアの動画と料理教室の友人さえいれば、レース関係の友人は必要ない。

そう思っていたのだけど。

 

『中央ダートの総決算、チャンピオンズカップもいよいよ大詰めです!最後の直線に入って、最初に立ち上がったのはローズフレイア、ローズフレイアが先頭!JBCクラシックを制した粘り腰をここでも発揮するか。その外からパフュームセリエもやってきているぞ、さらにはガシャガシャもいい脚だ!ローズフレイアが先頭!しかし、やっぱりやってきた、今日もすごい脚でやってきたぞフラッシュアデリナ!真っ黒な髪をなびかせて、外から一気にフラッシュアデリナ!ものすごい脚だ!バ群を一気に切り捨てて、今一着でゴールイン!!』

 

『二着はどうやらローズフレイアか。フラッシュアデリナ、やりました!JBCでの無念を晴らす劇的な勝利です!フラッシュアデリナ、これで南部杯CS、そしてチャンピオンズカップと秋のダートG1を2勝!近年稀に見るダート英雄譚は、暮れの大井レース場、東京大賞典へと語り継がれていきます』

 

中央での二大ダートレースの一つ、チャンピオンズカップは彼女が制したらしい。

 

わたしは今アメリカにいて、さっきのレースシーンはURAが公式ホームページにアップしているものを、ノートPCで見ていたのだ。

ホテルで借りたそのノートPCが映し出す動画は、レースのあとのインタビューへとシーンを変えた。

 

『フラッシュアデリナさん、これでダートG1・2勝目ですね。おめでとうございます。今のお気持ちは?』

『ありがとうございます。前回大きなレースを僅差で取り逃がしているので、今回の喜びは大きいですね』

『次の目標レースは当然、年末の東京大賞典だと思いますが、意気込みの程をお聞かせください』

『今回と同じように、全力を尽くすだけです。それから……』

 

彼女はインタビュアーからマイクを譲り受け、視線をカメラの方へ移した。

 

『レアちゃん。あたしは、強くなった。年末、大井レース場で待ってる』

 

力強い視線でそれだけいうと、アデリナはマイクをインタビュアーに返して、さっそうとその場を立ち去っていった。

 

わたしは今年のフェブラリーステークスのあと、海外に遠征したり、日本に帰国してG1に出たり、また海外に遠征したりして、なかなか多忙な日々を送っていた。

 

それでもその間に同室のアデリナとは、帰国したときに一緒に遊びにいったり、海外にいる時もオンラインでお話したりしているうちに、結局いい友だちになってしまったのだ。

 

転校当初、アデリナもわたしに遠慮していたところもあって、何とも言えない妙な距離感があった。

わたしも別に友だちが欲しかったわけじゃないから、それはそれでいいかな、と思っていた。

 

まぁでも、基本的にウマ娘って、わたしも含めて実は寂しがりな娘が多いから、同じ空間で生活している娘と距離を取り続けるのって難しいのよね。

 

もちろん友だちになれたのは、アデリナが社交的な上に付き合いやすいタイプで、とてもいい娘だったから、というのが大きいけれど(あと、彼女のお母様のエイシンフラッシュさんに似て、やっぱり美人さんだ)。

 

しかし当然、レースとなれば友人といえども話は別で、今年の帝王賞では5バ身の差をつけてきっちりとアデリナを叩いてある。

それでもめげずに挑戦状を叩きつけてきたところをみると、彼女の闘争心はまったく折れていないようだった。

 

まったく、なんとも叩きがいのある友人だ。

 

ねぇ、ゲンさん。

あなたの言う通り、わたし、トレセン学園に来て本当に良かったわ。

 

わたしは心のなかでそう囁いて、手首につけているブレスレットに視線を移す。

 

【Breeders' Cup Classic Winner Falcon Rea Trainer Ryoma Sagami・Genjiro Sagami】

 

ブリーダーズカップクラシックを制したウマ娘に贈られるブレスレットには、勝ったウマ娘の名前とそのトレーナーの名前が彫り込まれている。

 

トレーナーのところには、本当は今担当している人の名前だけ刻印されるのだけど……わたしの強い希望で、ゲンさんの名前も入れてもらったのだ。

 

このブレスレットを作る際、わたしが稜真さんに『勝利トレーナーの名前のところにゲンさんの名前も入れたいのだけれども、いいかしら?』と聞くと、人の良い彼は『偉大な伯父と同列に名前が記されるのは恐縮するけど、君がそうしたいのなら、そうしよう』と笑顔で言ってくれた。

 

ブレスレットを作ってくれる職人さんにも、そのことを話した。

陽気な笑顔が素敵なふとっちょの彼は「OKOK!そういうことなら、そいつの名前も入れてやらないとな。そのトレーナーは、幸せものだな!」といって、ゲンさんの名前も入れてくれたのだった。

 

天国にいるゲンさんもきっと、ブリーダーズカップクラシックを勝って【世界一】になったわたしのことを、喜んでくれているに違いない。

 

世界ナンバーワン。

おそらく今のわたしには、そう言って差し支えないぐらいの実力があるだろう。

 

でも、予感がある。

わたしの力は今が最盛期で、この実力を長く維持することはできないだろう。

 

あの調子に乗っていたジュニア時代のある日、ゲンさんが言った一言を思い出す。

 

『お前さんの本質は、早熟のスピードタイプだ。一戦一戦、大事に走れよ』

 

この全盛期は長くて……今年いっぱいか。

それなら。

 

「わたしのラストランは、その東京大賞典かな」

 

大井レース場。

わたしの、始まりの地。

そこで友人との大一番を走る。

 

実を言うと、今いるアメリカで引退を宣言して、そのままここに留学しようかとも考えていたのだけれども……。

 

そういう最後も、悪くない。

 

わたしはそっとノートパソコンを閉じると、そのことをトレーナーに伝えるために部屋をあとにしたのだった。

 




長文読了、本当にお疲れさまでした。

そして、ありがとうございます。

これも書きたい、あのシーンも入れたい……と詰め込んでいったら、
なんと今までで一番長い章になってしまいました。

これはさすがにふたつの話に分けたほうが良いのでは……と思いましたが、
今回はクライマックスのシーンでもありますし、変に章を分けて
話の流れをぶつ切りにするくらいなら、少々長くなっても流れの方を
重視しよう!と思い直して、このまま掲載することにいたしました。

長い話になってしまったものの、自分ではそれほど捨てたものではない
ストーリーになったのではないか、と思っているのですが……。

読んでいただいた方々に、少しでも同じように感じていただけたのなら、
書き手としてそれ以上の喜びはありません。

つい楽しくなってしまい、長々と書いていた【エイシンフラッシュの娘。side story ~ファルコンレア~】も、これが最終話になります。

一度完結させたお話のサイドストーリーにまで付き合ってくださった方々に、
改めて感謝申し上げます。

最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!

今また【メジロの娘。】という、双子のウマ娘を主人公にしたストーリーを
書き始めておりますので、掲載した暁にはまた、目を通していただけると
嬉しいです。

それではまた、近いうちに新作のあとがきでお会いしましょう!


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