渡世は鬼ばかりの現代終末記〜食べられて天使になった俺、終わりゆく現代世界に光あれと呟く〜 (飴玉鉛)
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第一章「天使になったヒト」
01,メシアの生れた日


 

 

 

 

 

 

 変身願望。

 

 代わり映えのしない生活を送り、自らの置かれた環境に不満を持ち、自身の意思で現状を打破することができない者は、えてして『こことは違う環境で、違う自分として生きたい』と思うようになりやすい。それが俗に変身願望と言われるものだと俺は考えている。

 

 俺にも変身願望があった。

 

 毎日毎日、仕事、仕事、仕事。加齢による体力の衰えに伴い、趣味に打ち込む情熱が色褪せ、ダラダラと余暇を浪費してまた仕事に出向く日々。

 友人なんてリアルで会う機会もなく、次第に疎遠になり関係は自然消滅したに等しい。子供は遊びの達人だというが、俺は大人になってから遊ぶのが下手になっていた。

 こんなにも無為な毎日を送っていても良いのか、もっと有意義に時間を使うことができるのではないか。そんなふうに思ってみても、『怠いから』と無駄な時間を過ごしてばかりいる。

 

 昔はそうじゃなかった。

 昔はもっと輝いていた。

 

 そうやって過去の記憶を懐古しても虚しくなるだけで、無気力に生きている自分を段々嫌いになってしまいそうになって。昔の俺は俺のことが大好きであったはずなのに、いつしか俺は俺のことが好きじゃなくなりつつあった。このままじゃいけないと、漠然とした危機感に肩を叩かれる日々を送っていたのだが――やっぱり、怠惰な生き方はなかなか抜けることがない。

 俺は今の俺とは違う、俺が好きになれる俺になりたい。なりたいが、自分で行動を起こす気力もない。『誰かにこんな俺を変えて欲しい』という受け身な願望が常に根底にはあって、そんな情けのない俺のことを、記憶にある昔の俺は蔑んでいた。

 

 だから、これ(・・)事故(・・)だ。

 

 その時(・・・)、偶々そこにいたのが俺だった。それだけの話。

 運の良し悪しで論じるのなら――俺は、最高に運が()かったのだろう。

 

 

 

「た、救けなさいっ」

 

 

 

 女が、いた。

 

 夜遅くまで進んで残業し、くたくたになってマンションに帰ってきた俺の前に。

 

 女が。

 

 驚いて声を上げなかったのは、悲鳴を上げるだけの元気もなかったからだ。

 何より想像もしていなかった事態に、俺の脳はフリーズしてしまったのかもしれない。

 俺は玄関に入る前、ドアの手前にある部屋番を見る。405号室、間違いなく俺の寝床だ。

 

「………?」

 

 困惑した。戸惑った。俺の家の中に灯りはついていない。当然だろう、朝早くに出社する前に、きちんと電源を落としてあるのだから。

 俺は一人暮らしだ。どうせ金を使う宛もないのだからと、そこそこ高い家賃が設定されている、2DKの結構良質な部屋に引っ越していた。今日も仕事から帰ったら、安い缶ビールを片手に晩酌し、PCでお気に入りのVtuberの配信でも見てから寝るつもりでいた。

 そんな俺のささやかな幸せを噛み締める時間が、今、無惨にも破壊されている。ベランダに通じるガラスドアが割れ、リビングにガラス片が散乱していたのだ。そしてリビングの真ん中に、芋虫のように這う白い女がいる。――不法侵入者だ。

 

「………」

 

 我に返った俺だったが、しかし、瞬時に行動することができなかった。

 スマホを取り出して警察に連絡するでもなく、部屋の中に入って女に駆け寄るでもなく、かといって逃げ出し助けを求めに行くでもなく、ただただ白い女に見入ってしまったのだ。

 なぜなら、異常だったからである。

 雲に隠れている故に月明かりなんてなくて、四階にある俺の部屋には地上の電灯の明かりなんか届くわけもなく、真っ暗であるはずの俺の部屋の中が明るかったから。

 より正確に言うなら、女が(・・)光っているのだ。

 眩いというほどではない。しかし、仄かに女自身が発光している。加えて女の格好も異様だ。白いワンピースに似た衣服を着て、傷んではいるが純白の羽根を背中から生やし、頭の上に黄色に近い輪っかを浮かべている。一目見て瞬時に連想するのは、天使だ。

 

 仮装(コスプレ)か?

 

 女は凄まじい美女だった。目にしただけで圧倒される神聖さを感じてしまうぐらい。

 しかし、見るからに重大な傷を負っている。板張りの床にうつ伏せになり、こちらに顔を向ける女の背中は真っ赤に染まっていた。ツン、と鼻をつくこの臭いは、おそらく血である。

 小さな血の池が女を中心にして広がっていて、凄絶な形相で女は俺を睨んでいた。

 

「オマエに、私を、救けさせてあげます……! 私を救けられる栄誉に、か、感謝なさい……!」

 

 女が何かを言っている。理解の及ばない目の前の光景に、俺はアホ面を晒したまま立ち尽くしていたけれど。明らかに死に瀕している女の居丈高な台詞を聞いて、やっと俺の脳は再起動した。

 

「きゅ、救急車……? いやこういう時って警察か? どっち?」

 

 スマホを急いで取り出す。混乱し始める俺だったが、頭の片隅で『ラノベで見た雑な導入みたいな光景だな』と思ってしまい、薄っすらと失笑を浮かべてしまっていた。

 ラノベの雑な導入? もしそうだったら、俺の役割はなんだ? まさか主人公なわけがない。となると取るに足りない端役で、雑に処理されるだけの演出の一部だろう。

 

「何をしているの……!? は、早く……『ここに来て私を救けるのよ』!」

「え?」

 

 救急車の番号って119だっけ? 警察は110だよな。そんなことを思いながら急いでスマホの画面をタップしていると、焦燥感が色濃く滲んだ声で、女が俺に強く命じた。

 すると、どうしたことか。俺の体は勝手に動き出して、土足のまま部屋に上がり、女のすぐ傍まで走って行ってしまったではないか。訳が分からないで混乱する俺が、わ、わ、と間抜けな声を上げると、反対に天使みたいな女は酷薄な笑みを浮かべる。

 

 体の自由が利かないためか、スマホが手の中からこぼれ落ちた。女の流している血溜まりに膝をついた自分が信じられず、動転するままの俺に女は優しく言った。

 

「ふふ……あなたの献身を、嬉しく思いますわ。さあ、あなたのマモ(・・)を、捧げなさい……!」

 

 女が手を伸ばし、俺の腕を掴む。血が通っていないかのように冷たく、陶器じみた手だった。

 引き寄せられるまま身を寄せてしまう。女はあたかもご馳走を前にヨダレを流す、卑しい犬のような表情で俺の手の甲に唇を落とし、そして。

 

「あ、れ……?」

 

 くらり、と目眩がする。急速に視界が霞み、意識が遠のいた。

 女は俺の手の甲に口づけたままだ。立っていられなくなった俺がその場に倒れて、なんとか立ち上がろうと藻掻いて見せても、顔色一つ変えず、いや、女は口角を上げて笑っていた。

 俺が最後に見たのは、残酷なまでに慈悲深い眼差しだ。悪意なんて一片もない、当たり前の恩恵を享受する上位者の瞳である。その瞳を見て、俺は――

 

(あ、すっげぇ綺麗(きれ)ぇ……)

 

 ――憧憬に似た気持ちを懐いた。

 

 だって、彼女はとっても嬉しそうで。

 とっても、美味しそうにしていた。

 いいなぁ、と思う。

 何が美味しいのか分からないけど、そんなに美味いなら俺も食べてみたい。

 

 意識が、溶ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁぁぁぁ……」

 

 白い羽根を有する美貌の女は、男の手から口を離し、頬を紅潮させて恍惚としていた。

 信じがたい光景だ。背中に奔る深い刀傷、腹部を抉っていた銃創、どちらも死に至る重大な傷だったにも拘らず、まるで最初から存在しないものだったかのように綺麗に塞がったのである。

 立ち上がった女は口端からヨダレを垂らし、足元に転がる男に対して喜悦の眼差しを落とした。彼女にあるのは純粋な感謝、人が食したものへ抱く程度の『ごちそうさま』である。

 

「すっごく美味しい。やはり、マモは直吸いに限りますわ」

 

 美味しかった。近年稀に見る美味さだ。

 男のマモ――人間が言うところの()は、いたって平凡なもの。質も、密度も、特筆すべきもののない凡庸な味わいでしかない。

 しかし空腹こそ最高の調味料というように、死に瀕していたからこそ、男から摂取したマモは女に上質な感動を与えた。これだけで、男には今まで生きてきた価値があるのだと女は確信する。

 故に女は足元に転がる男の抜け殻へ告げるのだ。上位者として、残酷に。

 

「あなたは今日此処で、この私にマモを捧げるために産まれ、生きてきたのですね。あなたの人生には確かに価値はあった。私がそう認めてあげますわ。――えぇっと、名前、なんですっけ?」

 

 まあいいか、と女は思う。マモを吸ったのだから、探れば名前はおろか歩んだ人生の全てを辿ることはできる。だが、たかが一人の人間如きに、自分がわざわざ労力を割いてやる気はない。

 暇な時なら気紛れに名前を覚えてやろうと思っていたかもしれない。普段は人間を死に至らしめるほどマモを吸いはしないし、こうして一人の人間のマモを直吸いすることもなかったのだから。

 しかし今は火急の時である。こんなところで油を売っている場合ではない。急いで戦線(・・)に復帰して味方の援護に行かなくてはならないのだ。

 

「げえっぷ」

 

 不意に、お下品にもゲップをしてしまった。口を押さえた後、女は自らの腹をソッと撫でる。

 そこには男のマモがある。今に溶けて、消化されようとしているマモが。

 

「嫌だわ。こんなのを誰かに聞かれてしまったら、私、恥ずかしくて死んでしまいそう……って、あら?」

 

 女はふと、違和感を覚えた。なんだか、お腹の調子が悪い。もぞもぞする。

 

 ――この時、己が致命的な失策を犯していたことに、女は気づいていなかった。

 

 自身を傷つけた存在の特性と、それに致命傷を負わされたという危険性を理解しないまま、人間相手とはいえよりにもよって異性のマモを食してしまったのである。

 死に瀕していたから余裕がなかった、というのは言い訳にもならない。

 天使の如き美貌の女は、首を傾げて自らの腹部に意識を向ける。何かおかしい。何かがいる(・・)。自らの腹の中に。なんだと思うも心当たりはなかった。嫌な予感を覚えて、女は更に注意を割く。

 

「あガッ……!?」

 

 すると、激痛が奔った。

 尋常じゃない腹部の痛みは、女が今まで一度も体験したことのない種類のものだ。

 それもそのはず。彼女の体験しているその痛みには名前がある。

 陣痛(・・)という名前が。

 

「が、ァ、ァアア!?」

 

 天使が悶え、苦しむ。両腕で自身の腹部を押さえ、未知の痛みに抵抗する。

 だが無意味だ。天使の末路は既に決まっているのだから。

 交戦していた相手の特性。種は違えど異性のマモを丸ごと食らったこと。そして食らった相手が、平凡なものとはいえ変身願望を抱いていたこと。これらの要素が揃った時点で未来はない。

 マモの持ち主が、現状に満足している人間ならまだ良かった。しかし『今』に満足し、不満を一片たりとも懐いていない人間なんて――この現代社会に於いては稀有な存在である。

 故に女は苦しむのだ。平凡な(マモ)、平凡な願望、常なら路傍の石にもならない穢れを、自らが受けた傷のせいで受け入れてしまった。心ではなく、体が。胎が。彼女の女の部分が。

 

「ァぎャッ」

 

 絞め殺された鶏じみて、醜い断末魔が暗い部屋に響く。

 女の腹の中から、外に、腕が伸びた(・・・・・)のだ。

 小さな腕である。幼児のそれだ。白く、丸く、未熟な腕。しかしそれは人のものであり、女の腹を裂いて無理矢理に外の世界へと這い出てくる。

 女は意識を焼く灼熱の激痛と、信じがたい光景への驚愕にフリーズし、ただただ自らを襲う異変に耐えるしかない。

 やがて女の断末魔は途絶えた。倒れ伏した女は虫の息で、消え去りそうな意識を必死に繋ぎ止めることしかできずにいる。

 

「ぁあ?」

 

 女の腹から這い出たのは、本物の天使のように可愛らしい幼児であった。くりりとした大きな瞳は黒く、額に張り付く濡れた髪は濡れ羽色。ミルクのように白い肌に汚れはなく、塗りたくられたような女の血液すらも妖しい魅力を掻き立てている。歳の頃は三歳かそこらで、その愛らしさは女の美々しさを受け継いでおり、血の繋がりを否応なしに感じさせるものだった。

 そんな幼児に腹を裂かれた女は、こひゅ、こひゅぅ、と掠れた吐息を零し、霞んだ目で幼児を見遣る。悍しいものを見る目だ。しかし愛らしさの化身たる幼児は、そんな『母親』の視線になどなんら痛痒を覚えた様子もなく、自我のない眼差しで『母親』に手を伸ばした。

 

「ひっ、ゃ、やめ……」

 

 女は幼児が何をしようとしているのか気づいたのか、はたまた自らの末路を無意識に悟り、根源的な恐怖を覚えたのか。幼児の手が自らに添えられるのに情けない悲鳴を上げた。

 だがその声は小さい。抵抗する力もない。幼児を産んだ(・・・)時、自身の力をほとんど吸い取られていたのだ。

 だから幼児に何をされても、されるがままになっている。尋常ではない力で肉を裂かれ、強力な顎の力で貪られ、生きたまま啜られる感覚に痙攣するしか術がない。

 

「ギッ、ヒッ、ビッ、ぁおっ」

 

 バリ、ガリ、ボリ。無惨で残酷な音色が奏でられる。女の小さな悲鳴はいつしか消滅し、悍しい音だけが暗い部屋に反響していた。

 やがて、部屋の中には幼児しかいなくなる。

 いや。幼児だったモノだけに、と言った方が正確か。

 

「……あれ?」

 

 自我のない目に、理性の光が灯る。

 

 そこには十歳かそこらの少年とも、少女ともとれる姿にまで成長した、この世の者とは思えぬ美貌の天使が一糸纏わぬ姿で立っていた。

 

 

 

 

 

 

 



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02,産声は戸惑いの色

 

 

 

 

 

 

 足元もおぼつかなくなるほどの法悦に、束の間、俺は呆然としていた。

 

 いつの間にか晴れていたのだろう。雲に隠れていたお月様が顔を出し、割れたガラスドアから吹き抜ける風に乗って俺を照らしている。

 外からは喧騒が聞こえる。車の走る気配、通行人の奏でる話し声、誰かが信号を無視して横断歩道を渡ったのか、車のクラクションが鳴らされてもいた。

 どうでもいい。少し前まで堪らない快感に脳を焼かれていた。呆然としたまま、何時間もその場に佇んでいた気がする。我を取り戻した後にも、快感の余韻で上手く頭が回らない。

 

「……何が」

 

 何があった。そう思って呟くと、妙に高い声が耳朶を打った。

 誰の声だ? 聞き覚えがない。のろのろと辺りを見渡して、ふと肌寒くなっているのに気づいた。

 それもそのはず、割れたガラスドアから夜気が流れ込んでいるのだ。

 晩夏を迎え、夜はすっかり秋の顔をするようになっている。四季とは意外と尻軽なもので、いつの間にか移ろうものだとはいえ、寒いものは寒い。なんでガラスドアが割れているのか皆目見当もつかないが、こうも寒いとまともに寝られないだろう。明日もまた早いのだ、どうにかして塞がないといけない。

 

「ん?」

 

 ガラスドアの修復とか面倒臭くて敵わん。マンションの管理人にでも連絡して、事情を説明してなんとかしてもらおうにも、今夜中にどうにかできる話でもない。

 どうやって塞ごうかと頭をひねっても良案は思いつかず、なんでもいいからとにかく塞いでしまおうと思った。……思っただけだ。なのに――唐突に無数のガラス片が目の前で浮き上がり、ガラスドアがひとりでに修復され、完全に元通りになってしまった。

 

「………?」

 

 我が目を疑う。ごしごしと手で目を擦り、改めてガラスドアを見ても、そこには綺麗な状態のガラスドアがあるだけだった。

 

「酔ってんのか、俺……?」

 

 確か仕事の帰りにビールを買って帰ってきたはず。俺の脳はアルコールに侵されているのか? 自分でも気づかない内に泥酔している……? いやいやそんなまさか。意識は完全に醒めてるぞ。

 自身の見たものが信じられず、よたよたとした足取りでベランダに近づいていった。ガラスドアに手を触れて、割れていないか確かめようとしたのだ。しかし、

 

「おっ、と……?」

 

 暗くて足元にあるモノに気づかず、足を取られ転びそうになってしまった。

 慌てて体勢を維持しようとするも叶わず、みっともなく転倒してしまう。だが咄嗟に両手を床について、衝撃を緩和することはできた。すると予想外の感触を全身に感じる。

 何か、濡れている。床に水たまりがあるのだ。なんだ? 床についた手と、膝と足に感じるこの生温い液体は。暗くてよく見えない、ビールでもこぼしてしまっているのだろうか?

 

「あ?」

 

 次に気づいたのは、俺が足を取られたモノ。俺のすぐそこに、見知らぬ誰かが横たわっていた。

 ヒッ、と悲鳴みたいな声が漏れる。だ、誰だお前! そう叫んだかもしれない。尻餅をついたまま後ろに下がり、威嚇するように誰何するも、反応は何も返ってこなかった。

 

「ハァ……ハァ……ハァ……」

 

 動揺の余り息が荒くなる。光源がお月様しかない部屋だ、今まで気づかなかったのも無理はない。しかし気づいてしまったからには対処しなくてはならなかった。俺は立ち上がると無反応な男の傍に慎重に歩み寄る。そうして息を潜めて近寄って、男の様子を注視した。

 すると、既視感を覚える。よく見ようとすると、闇に目が慣れたかのように――まるで昼間のようにくっきりと男の姿を目視することができた。明らかにおかしい、目が良すぎる。その違和感に気づく前に、俺は男の正体を悟って瞠目してしまう。

 

「ぇ、あ……こ、コイツ……俺と同じ顔……!?」

 

 横向きになって倒れていた男の顔は、俺のものだった。

 

 なんで俺と同じ顔のやつがこんなところに!? 動転して言葉を失くすも、自身の手足に付着する液体の正体にも気づいて、俺の心的許容値はいよいよ限界に達した。

 血だ。余りにも膨大な量の血が、リビング全体に散っている。よく見たら白い骨らしきものや、肉片や内臓なども飛び散っていて――俺はそこでようやく全てを思い出した。

 

「ぅ……ん」

 

 ばたり、と。受け入れ難く、理解し難い現実を前に、俺はその場に倒れ気絶してしまうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 スマホの着信音が鳴り響いている。会社からの鬼電だ。

 俺は皮肉にも、忌避しているその着信音で目を覚ました。

 

「………」

 

 夜は明け、朝日が昇っている。俺はコールし続けるスマホに手を伸ばして、画面に目をやり上司の名前が表示されているのを確かめた。

 無言で切る。後が怖いが、今はそれどころではない。

 のっそりと上体を起こした俺は、スマホを放り出して頭を抱えた。

 

「なんだってんだよ……」

 

 呻くように悪態を吐く。現状はあらゆる全てが理解の範疇になかった。

 昨日、帰宅した俺は自宅に不法侵入している女を見つけた。その女に、俺は何かを吸われた(・・・・・・・)のだ。

 その後、なぜか俺は女から産まれ、飢えていた俺は本能のままに、女を――

 

「うぷっ……!」

 

 吐きそうになる。いや、吐いた。ゲェゲェと、気持ち悪さの全てを吐き出すように。

 しかし腹の中には何もなかったらしい、胃液しか吐くことはなかった。どこか俯瞰して自分を見ている俺が頭の片隅で思う。そんな馬鹿な、あれだけ貪っていた肉や骨が、欠片も腹に残ってないなんておかしいだろ、と。まさかもう消化したのか? 息が荒くなるも、暫くすると嫌でも落ち着いてしまう。動揺し続けるのにも体力を使うのだと初めて知った。知りたくもなかったことだ。

 

 精神的な限界から、一周回って落ち着くと、猛烈に頭が痛くなる。

 

「……俺、どうなったんだ」

 

 くしゃりと髪を掻き上げ、頭を掻く。ぽつりと呟いた独り言の響きがおかしいと、今更気づいた。

 声が高いのである。嫌な予感を覚え、俺は無言で立ち上がると自分の体を見下ろした。

 

「………」

 

 裸だ。全裸である。しかしそんなことよりも、俺の意識は全く別のことに向いていた。

 まず、体格がおかしい。肌も異様に白くなっている。そして何より、自分の体が縮んでいるばかりか、股間にあったはずの男性の象徴がなくなっている。女性のそれもない。

 喉が渇いた。カラカラに、口の中も乾いている。放り出したスマホに手を伸ばしカメラアプリを開くと、自身にカメラを向けた。するとどうだ、そこに映っていたのは見知らぬ少年だった。

 

 艶のある黒髪に、大きな黒い瞳。顔立ちは――昨日見た、女の不審者を彷彿とさせるもの。

 

 手の中からスマホが滑り落ちる。動揺がブリ返し、持っていられなくなったのだ。

 掌で両目を塞ぎ天を仰ぐ。深呼吸をして、激しい動悸が鎮まるのを待った。

 

「フゥー」

 

 細く、長く息を吐く。手をおろし、目を開いた。

 

「声、出してけ。無言になるな、俺。なんでも声に出して、確認して、現状を把握するんだ」

 

 自分に言い聞かせる。それは新社会人だった頃の自分に課した自分ルールという奴だった。

 相談する相手がいたとしても、まずは相談する内容をはっきりさせておかないといけない。そういう時、『何が分からないのかが分からない』という状態は論外だからだ。

 だから声を出す。喋って、自分の中で疑問や取るべき行動を整理する。

 

「まず……部屋、綺麗になってんな。疑問一、なぜ部屋が綺麗になってる?」

 

 とんでもなく汚かったはずだ。血と……肉片と、内臓とかで。

 思い出すとまた吐き気が蘇る。しかし必死に堪えて、声を出した。

 

「疑問二、俺はなんでこんな(・・・)になってる?」

 

 縮んだ俺。いや、子供化しているだけじゃなく、完全に別人になっている。

 性器すらないのだ、明らかにおかしいし……何より昨夜の不審な女に似通った顔なのも気になった。

 

「疑問三……疑問三……」

 

 ひとまず疑問に解答を出すのを後回しにしながら、疑問の全てを克明にしようとする。

 そのために周囲を見渡して、すぐに目が留まった。

 リビングの中心に倒れている、俺と同じ顔の男を再認識したのだ。

 ドクン、と一際強く心臓が鳴る。

 

 固い唾を飲んで、俺は男に歩み寄った。

 スーツ姿の男の懐へ手を入れて、そこから財布を抜き取る。

 

「……コイツ、俺か?」

 

 中にあった身分証や所持金を見て、この男が間違いなく自分なのだと理解してしまった。

 

「ぎ、疑問、三。……コイツが、俺、なら……」

 

 混乱しそうになりながらも、意識して声を出し続ける。聞き慣れない美声で気が狂いそうだ。

 

「コイツが、俺なら……ここにいる俺は、誰だ……? と、とりあえず、俺を起こそう」

 

 見たところ倒れている男の俺に外傷はない。ピクリとも動かない自分に触れるという、気色悪い体験に鳥肌が立つ。筆舌に尽くし難い違和感を努めて無視し、俺は別の自分の体に触れた。

 

 ――花房藤太(はなぶさ・とうた)。三十歳。1992年2月21日生まれ。血液型はA型。身長178cm、体重75kg。出身地は山口県で、大学に進学する際に上京。現在彼女なし、貯金そこそこ。50歳になるまでに2000万円貯めて、故郷に帰ってのんびり暮らすのが目標。生涯独身のまま孤独死コースまっしぐら、でも死ぬまで楽しけりゃそれでいい。趣味はVtuberの配信を見ることと、ネット小説を読み漁ること。推しのVは笑い声が特徴的な兎さん。

 

 自身に関する情報を脳内で並べつつ、今の自分の記憶に穴がないのを確かめる。花房藤太としての記憶は残っていた。子供の頃の楽しかった思い出、忘れたい黒歴史、どちらも覚えている。思い返して自己認識を再認しつつ、花房藤太の体を揺する。

 起きない。

 最近は睡眠が浅いのが悩みで、些細なことで目を覚ます俺からは想像が付きにくい無反応さだ。それでも根気強く揺するも、やはり花房藤太は目を覚ます様子は全くなかった。

 だんだん苛立ちを覚える。しかしその苛立ちも長続きせず、すぐに不安な気持ちにシフトした。

 

「まさか、死んでんのか……?」

 

 自分で言っておきながらゾッとした。背筋が泡立つ感覚に突き動かされ、俺は花房藤太の口元に手を翳す。すると、微かに呼吸を感じられた。

 

「息、してるな。死んでない」

 

 ホッとする。流石に自分――らしき男の死体なんか見たくもなかったのだ。

 死んでないならそれが一番良い。だが……だったらどうして起きる気配がない? 死んでないなら意識が戻るはずだろう。俺だったら他人に触られた時点で目を覚ましてる。

 安堵した反動で苛立ちが蘇り、舌打ちして花房藤太の頬をビンタした。これで起きるだろうと思って、遠慮なしに。それでも反応はない。一拍の間を空けると、冷や汗が額に滲んだ。なんで起きない? 再度ビンタをして反応を待つも花房藤太は眠ったままだった。

 

「おい、おい! 起きろよ、おい!」

 

 声を荒げて揺すったり叩いたりする。それでも全く反応を示さない花房藤太に、俺は遂に諦めた。

 

「げ、原因不明やけど、なんでか俺が……俺? 俺……だよな。俺は、寝たまま。なんでだ? いやそれを言うならそもそも俺が『俺』なのに……花房藤太が起きないって表現がおかしい?」

 

 表現がおかしい。自分でそう言って、なんとなくピンとくるものがある。

 現実的じゃないが、昔はサブカルチャーの沼にどっぷり浸かっていたのだ。今でこそ仕事の疲れで遠ざかってこそいるものの、その手の知識は一応ある。いわゆるオタク知識というやつだ。

 そのオタク知識に頼ると、類似した現象はある。少なくとも発想の手がかりにはなった。

 だからもしかしてと思える。

 もしかして花房藤太の体は、俺という自意識を持った魂がない状態なんじゃないか? と。

 別人になった俺がここにこうして居る以上、花房藤太は抜け殻になっているのかもしれない。

 

 確証はない。現実的じゃない。そうした否定的な見解は、そもそも今の状況そのものが現実的じゃない以上、説得力は極めて希薄だと言わざるを得ないだろう。

 

「俺一人の手じゃ余る」

 

 結論はそうなる。多くの疑問があるし、オタク知識と勘でこじつけることはできても謎は解けない。手に負えないのなら恥なんかない、すぐにでも他人に頼るべきだというのが最適解になる。

 でも、じゃあ誰に頼れば良い? って話になるわけだ。

 会社の同僚とか先輩? んなアホな。仕事と関係ないトラブルだぞ。頼っても迷惑になるだけだ。なら大学時代のダチに……社会に出てから疎遠になってる、いきなり連絡しても相手が困るし、なんなら俺の方が困りそうだ。なにせ今の俺って、これ(・・)よ? 全裸の少年だか少女だか、ともかく今の俺は子供になってしまっている。花房藤太の子供と名乗るのも無理があった。

 

 俺の交友関係終わってんな……? 交友関係に縋れないなら、公共機関に縋りつくしかない。

 

(こういう時は救急車、か? んで俺の体を病院に持って行ってもらって、そっからどうするよ)

 

 このまま放置して衰弱死されても困る……困るか? 困る、よな。多分。

 どうしたらいいか分からんから、そこからはもうノータッチにするとして。後はどうする?

 

(ラノベのセオリーなら……こういう時、『敵』か『味方』がコンタクトを取りに来てくれて、否が応にも状況を動かしてくれんだろうけど……)

 

 半笑いになる。そんな馬鹿な話があるか。

 味方って誰だよとか、敵なんて物騒なのが来たら詰むとか、色々とツッコミどころが満載だ。

 そう思う。

 思っていたのに。

 ――ピンポーン、とインターホンを鳴らされたのが聞こえた。

 

「……マジ?」

 

 予定にない来訪者。その存在に、俺は顔を引き攣らせた。

 

 

 

 

 

 




久方ぶりの作品投稿となります。どうぞ応援のほどよろしくお願いします…!


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03,叛逆者は出会う

 

 

 

 

 

「以前より本部が指定していた、【曙光(ルシフェル)】の第一級背信施設の所在を特定した」

 

 事の起こりからして不穏だったのだ。

 

「場所は日本の首都、東京。シンジュク区なる地の、地下三階相当の深さにある。調査の結果、奴らは人為的に悪魔を誕生させるべく、非人道的な実験を繰り返しているらしいことが分かった」

 

 教団の潜入調査員から齎されたリーク情報。忌むべき悪魔信仰者どもの施設内部から発信されたそれは、全ての教団員に激震を走らせた。

 悪魔信仰勢力は【曙光】と名乗っている。仰々しい名前だろう、悪魔という害虫を信仰している連中は身の程を知らないようだ。いや、身の程知らずだからこそ、悪魔を人為的に生み出そうとしているのだろう。まったく、余計な仕事を増やしてくれて……忌々しい。

 

「被験体を【人造悪魔】と仮称するが、現時点で二体の【人造悪魔】を確認しているらしい。それ以外の詳細は不明、潜入調査員は引き続き調査を続行する――その報を最後に連絡が途絶えた」

 

 記録を遡るのも馬鹿馬鹿しくなるほどの大昔から、【救世教団】に弾圧され続けているくせに、奴らはゴキブリ並みのしぶとさで生き長らえている。聞くだにうんざりする話だろう、ご先祖様がやり残した仕事が、子孫であるオレの代まで降りかかっているなんて。

 お蔭様でオレまで教団切っての名門、純血の一族にして信徒の鑑扱いをされてしまっている。全く以て不本意な話だ、何が悲しくてあんな天使(害虫)なんぞの走狗をしなくてはならない。

 神の名の下になら何をしてもいい、自分達こそが唯一無二の絶対的な正義である。天使達は本気でそう信じているばかりか、本音ではオレ達人間など家畜としか思っていないのだ。人間であるオレからしてみれば、敵対者である悪魔どもと同類だとしか思えない。

 

「事は急を要する。もし我々の手が伸びていると知れたとするなら、連中は小賢しい悪知恵を働かせ身を隠さんとするだろう。我々の無能で奴らを取り逃がそうものなら、罪もない市民が危険に晒されてしまうのだ。そうなる前に我らが主の庭を穢す忌まわしい者らを、なんとしても討たねばならんッ」

 

 居並ぶカソック姿の部下達を見渡し、オレは努めて強く宣言した。

 すると、悍しい気配が背後で動く。

 

$∃∆≫±&≠$>≠<(使命は理解しましたね)? #$%^&$#%(さあ行きなさい)&*^‰∀^*&^(我が信徒達)!」

 

 お高くとまった羽虫が、何事かを囀った。耳に入れるのも厭わしい、神経を逆撫でる羽音だ。なのに必死に耳を澄まし、なんとか羽音の意味を理解しようとしている己に嫌気が差す。

 コイツはオレの一族が代々仕えてきたという天使、フィフキエルだ。オレのご主人様面をして、偉そうに命じてくる声を聞く度に、堪え難い殺意を抑え込むのに苦労してしまう。

 外見は綺麗なのだろう。オレには人間様の姿を模した虫けらにしか見えないが、オレの部下はこのフィフキエルの美貌に心酔し、その神秘的な姿と力に心底から信仰を捧げている。阿呆らしい話だが、オレも表面上は同意して見せていた。同調圧力を感じるからだ。

 

「いと貴き御方のご意思が示された。ブリーフィングを終了する、ただちに行動を開始せよ」

 

 オレがいるのは空飛ぶ大型トラックとも称される、輸送ヘリの中だ。オレやフィフキエルを含めて55名を搭載した輸送ヘリは、既に日本国首都東京の上空にまで到達していた。

 東京には眠らない街があるという。その上空に来ているのだ、普通なら道行く人々は我々の乗っている輸送ヘリの存在に気づき、何事だと注目してきていただろう。だというのにカブキ町というらしい街の人々に、こちらへ気づいた様子はない。

 

 天使の加護だ。

 

 我々はその加護により、あらゆる生命や文明が捉えることができない【聖領域】内にいる。その領域の中にいる限り、一般の人々は何をされようとこちらに気づくことはないのだ。

 これにより古今、表世界の人間のほとんどは、天使と悪魔の実在を知らずに生きている。悪魔側にも【聖領域】に似た力があり、奴らも表世界からは身を隠していた。

 天使が自らの存在を隠す理由も、オレはもちろん知っている。――無知で無辜の人の祈り、信仰から摂取するマモが美味いからだ。それっぽい建前は幾つもあるが、本音はそれだけだろう。同様に悪魔の方も、何も知らない人間を弄び、利用する為に存在を伏せている。流石は太古の昔から争う敵同士。性根がよく似ていて、反吐が出そうだ。

 

 趣味嗜好で表世界と裏世界を区別し、人外どもは人からマモを搾取する。祈り、信仰、そうしたものにも人の(マモ)は宿る故に、人外にとって人は生きているだけで食糧を生む格好の家畜なのだ。

 

 ――そうした思想が透けて見えるが故に、オレは天使を含めた人外が憎い。

 

(ああ、そうさ。みんな死ぬべきなんだ、貴様らは揃って人に仇なすだけの虫けらなのだ)

 

 輸送ヘリのハッチが開き、そこから戦闘員たる部下達が飛び降りていく。それを見ながら、オレは切実な呪いの念を胸の内に満たした。

 憎い。オレから自由を奪う天使が。ただ天使に仕える一族に生まれたというだけで、死ぬまで奉仕させられる人生が。オレの安全を脅かす悪魔や、その信仰者、全て死ねと呪わずにいられない。

 

$#^@!&(ゴスペル)? ×≦≮≥‰∂∀∃@$*%$(どうしたのです、貴方も行きなさい)

「……仰せのままに、フィフキエル様」

 

 天使が命じてくる声を聞き、平素の様子で重苦しく応じる。輸送ヘリから飛び降りると、夜の冷たい風が全身を包み込んだ。

 パラシュートなどの降下用の装備は必要ない。忌々しいことに天使に仕えるこの身は、加護により常人を遥かに凌駕した身体能力と、それに見合った耐久力を有しているのだ。

 近づいてくる地上を見ながらオレは内心吐き捨てた。馬鹿が、と。資料を読んでいないのか? ブリーフィングで何を聞いていた。これから出向く戦場には十中八九、未知の存在がいる。人造悪魔の脅威度が明らかになっていないのに、この部隊の柱である天使の警護を薄くしていい道理はない。部隊最強はオレだ、忠実な素振りで身辺に侍ってやっていた理由にも察しがつかないのか?

 

 そうは思うも口には出さない。諫言などしない。意見など言わない。なぜならフィフキエルはそんなもの求めていないのだ。コイツはオレ達を、都合良く扱える奴隷としか思っていないから。

 

(――真の同胞(・・・・)との会合が待ち遠しいな)

 

 高度五十メートルの高さから音もなく着地する。

 オレには仲間がいる。こんな、クソみたいな教団なんかじゃない、真に人の為に戦う本当の仲間が。

 裏から人を支配する畜生共なんぞとは違う。本当の仲間達のことを想えば、こうしてここにいることにも耐えられる。今は雌伏の時だ、苦しくても耐えねばならない。全ては――

 

(オレの。そして全ての人間の自由の為に)

 

 人を家畜にする人外ども、今に見ていろ。オレ達がきっと、貴様らを絶滅させてやる。

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 もしも運命が人の顔を持っているのなら、運命は確かに微笑んだのだろう。

 

 【救世教団】の幹部の一族として、人生を縛られて生きていたゴスペル・マザーラントという男に。

 

 そして支配する天と貪る魔に反攻する、抗う人々へと。悪戯げに、残虐に。

 

 運命は性悪だ。最悪のメシアが、間もなく産まれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 爆炎に包まれ墜落する輸送ヘリを見て、部下達から悲痛な悲鳴が上がった。

 

 兎の脚と熊の胴体、ライオンの頭を持つ醜いキメラ。悍しい姿のその化け物が、【曙光】の作り出した【人造悪魔】の内の一体だった。

 オレと部下が襲撃を仕掛けた研究所から飛び出したソイツは、フィフキエルの乗っていたヘリに突撃し、純白の天使を最寄りのマンションの一室に吹き飛ばしたのである。

 

「ふぃ、フィフキエルさまぁ――ッ!?」

「チッ。おい、オレはフィフキエル様の救出に向かう! お前達はあの化け物を抑えておけ! 跡形も残さずとも構わん!」

 

 悲鳴を上げたいのはオレの方だ。後でどうやって隠蔽するか、今から頭が痛い。

 オレを傍に置いておけば避けられた事態だったのにな、という内心を隠すように舌打ちし、正気を失くして取り乱しそうになっていた部下達に命じて走り出す。オレの指示を聞いた部下は、敬愛する天使様を傷つけた存在を思い出して殺意に染まった。

 狂気的な叫び声を上げて、キメラじみた人造悪魔に報復のため襲い掛かる部下達を尻目に、オレは立場上の義務に従ってマンションの一室に向かう。位置的には四階だろう、ベランダ沿いに跳躍を繰り返せばすぐにでも辿り着ける。しかしもしフィフキエルが無事なら、激昂してすぐにでも飛び出してくるはずだ。それと鉢合わせて八つ当たりされては敵わない。

 こういう時はまずフィフキエルの認識外から近づき、機嫌の良し悪しを見定めてから接触するのが賢明である。もし不用意に近づいてしまえば、あの女にマモを吸われかねないからだ。

 

(――それにしても【曙光】の連中、とんでもない化け物を造り上げたものだな。三種の属性を具えたキメラ体の悪魔……あれは天然物にも匹敵するぞ)

 

 性交、不幸、破滅。複数の獣を掛け合わせたような姿の人造悪魔が有していた属性だ。その組み合わせは見ただけで、どんな用途で生み出されたのかが解る凶悪さだろう。

 加えて不意打ちになったとはいえ、一撃であの(・・)フィフキエルを戦闘不能にした。油断しきっていた上に天使以外を見下す性悪とはいえ、フィフキエルは生粋の戦闘天使。生半可な実力では、たとえ上手く不意打ちしたとしても返り討ちに遭うはずだ。

 

(悪魔の人為的な製造か。侮れん……この情報は仲間達にも伝えておかねばならんな)

 

 遠回りをする為にわざわざマンションのエントランスから侵入する。オートロックの自動ドアを、自らの一族に由来する加護により、透過(・・)して通り過ぎると階段を駆け上がっていった。

 オレの頭には、キメラに挑んでいる部下の安否などない。所詮は薄汚い教団の信徒どもだ、天使の報復のために死ねるなら本望だろう。互いの言動を無自覚に監視し合うような、表世界の共産主義者じみた密告合戦に熱心な奴らなど、どうなろうと知ったことじゃない。

 だがフィフキエルを救出した後は、どうあれあの化け物と交戦せざるを得ない。それまでに部下が相手を消耗させていることを期待したいところだ。そうすれば、幾らか楽に仕事を終えられる。

 

 そんなことを考えながら、オレは四階の渡り廊下にまで到達した。

 

 この間、10秒しか経過していない。わざと遅くした方だが、これ以上遅ければ流石にフィフキエルにも怪しまれるだろう。頭の中身が軽い奴だが、あれでフィフキエルは頭も悪くはない。性格が致命的に終わっていて、何も考えていないから宝の持ち腐れだが。

 仮初の主人を貶しながら走り、目的の部屋の前に到着する。この部屋の住人は、おそらくフィフキエルにマモを吸われているだろう。死んでいなければ助けてやれるが……どうなっている?

 巻き込まれたかもしれない人間の安否をこそ気に掛けつつ、オレはドアを蹴破ろうと脚を上げた。

 

 しかし、ピタリと脚が静止する。

 

「……何?」

 

 自分の意思ではない(・・・・・・・・・)。にも拘らず体が動かないのだ。

 だが原因は明らかだ。この感覚、フィフキエルの力の気配だろう。

 フィフキエルは入って来るなと命じているのか。

 

(あ、の……アバズレが!)

 

 食事中なのだろう。となると、部屋の住人はもう……。

 また罪もない一般人を貪っているとは、百度八つ裂きにしてなお足りない怒りに襲われる。

 唇を噛み締め、グッと堪える。まだだ、まだ時は来ていない。まだ忠実な下僕のフリをしていないといけない。そう自分に何度も言い聞かせる。

 

 仕方なく部屋の前で待機した。食事が終われば、この強制力は消える。それまで待とう。――怒りで意識が白熱するが、暴発して独断専行しても良いことはない。自身を必死に律した。

 だが――遅い。待っても待っても、全く強制力が消えない。これはどうしたことだ? 流石に不審に思っていると、階段の向こう側から複数の気配が走ってくるのを察知して視線を向けた。

 

「隊長! 何をしているのですか!?」

 

 やって来たのはオレの隊の副長だった。他に三人の部下を引き連れている。

 渋面を作り、オレは返答した。

 

「シモンズ、貴様こそ何しに来た。あの汚らわしい化け物の始末を任せたはずだが?」

「それはっ! グッ……も、申し訳ありません、逃げられました……」

 

 逃げられた? ……逃げただと? 人造とはいえ悪魔には変わりないはずだろう。なのに、人間を舐め腐っているプライドの塊である悪魔が逃げた?

 いや……と思い直す。悪魔のプライドの高さは、長く生きてきたが故の物。能力の高さを自覚しているからこそ、短命な上に脆弱な人間を見下す。であれば、あの人造悪魔が産まれたばかりと仮定した場合、無駄なプライドを醸成する期間などあるはずがなく、身の危険を感じたら逃走するのに躊躇うこともないのかもしれない。それは、却って厄介な性質だ。

 付け加えてこの副長だ。オレの直属の部下に当たる副長は、名をエーリカ・シモンズという。女の身でありながら熱心な信仰心を武器に、男の信徒以上に過酷な修練を経て、天使級の実力を身に着けつつある若手のホープである。彼女は【浄化の追っ手】という加護を、フィフキエルから気に入られて授かるほどの才媛。加護の性質と実力を鑑みて、逃走は決して容易ではない。

 ダークブラウンの髪を短く切り揃えた、藍色の瞳の戦闘シスター。シモンズが逃げられたと言うのならオレでも追跡は不可能だろう。責められはしない。

 

「そうか。だが所詮は悪あがき、すぐにでも行方は知れるだろう。次の機会に備え、今度こそ確実に仕留めればいいだけの話だ。気に病むなよ、シモンズ」

「は、はい。ありがとうございます、隊長。それで……なのですが」

「ああ……フィフキエル様は中にいらっしゃる。貴様も感じるだろう?」

「え、ぁ……た、確かに。これはいったい……」

「詮索するな。我々はフィフキエル様のご意向に従い、ここで入室の許可が降りるまで待てばいい」

 

 シモンズと他の部下達も、オレが感じた強制力を察知したのだろう。中で何が行われているのか察したらしく、微かに羨ましそうな顔をした。

 天使フィフキエルにマモを吸われる。それほどの幸運に与れた一般人に嫉妬してもいた。

 屑どもが。内心そう吐き捨て、オレは無言で待機する。

 

 しかし……。

 

 余りにも……。

 

 長い。

 

「……妙だな」

 

 待ちくたびれて呟く。既に二時間が経過していた。なのに一向に強制力が衰えない。

 数分待つだけでいいと思っていたのに、なぜこんなにも待たされる? 最初の10分が過ぎた辺りでシモンズ以外の部下に命じ、墜落したヘリの隠蔽と、代わりのヘリの手配をさせたが、流石に二時間は待たせすぎだ。部下達もヘリの処理を終え迎えを待っている段階である。

 他の奴らには無理だが、オレはその気になればフィフキエルの強制力を無視できる。だがそのことを明かす気はない。故に大人しく待っているわけだが、そろそろ困惑が勝ってきた。

 

「隊長。中でフィフキエル様は何を……」

「知らん。知る必要もない。黙って待っていろ」

 

 不審に思っているのはオレだけではなかった。襲撃した先の研究所から、研究資料やら何やらを接収し終えた部下達や、ヘリの処分と代わりの手配をした部下達、そしてシモンズも渡り廊下で待ちぼうけを食らっている。だがオレには突っぱねる以外の選択肢はなかった。

 辛抱強さが教団の信徒の長所である。待てと言われたら延々と待ち続けるのが彼らだ。まるで忠犬みたいで可愛げがあるが、オレからしてみると情けない奴隷にしか見えない。

 苛立つ。フィフキエルにも、部下達にも。内心の侮蔑を隠すのに、また随分と苦労した。

 

 ――やがて、強制力が消えた。

 

 夜が明け、完全に外が明るくなっている。作戦開始から七時間以上も待たされたのだ。

 しかしその頃になるとオレの苛立ちも消えている。幾らなんでも尋常ではない事態だ、これだけフィフキエルが時間を無駄にするのかと、微かな不安が胸中に満ちてきている。

 それは部下達も同じなのだろう、強制力が消えると露骨に焦りを浮かべた。

 

「た、隊長!」

「待て。今、オレが入る。貴様らはもう暫し待機せよ」

 

 言って逡巡し、オレはゆっくりとインターホンのボタンに手を伸ばす。

 何があるか分からない。気紛れなフィフキエルが、これだけの時間を浪費したのだ。不用意に顔を合わせたくはなく、顔を合わせるまでにワンクッション置くためにインターホンを押した。

 ピンポーン、と。ひどく平和な呼出音がする。

 

「………」

 

 反応がない。もう一度押そうか悩むも、部下の手前これ以上惰弱な姿勢は見せられない。意を決してドアノブを掴んで回す、すると施錠されていなかったらしいドアは簡単に開いた。

 

 そうして、オレは目撃した。

 本質を視る(・・・・・)瞳を生まれ持ったオレは、束の間、瞠目する。

 

 ――黒髪に黒目という、天使にはない特徴を持つ天使の子供。

 

 中にいた天使を目にしたオレは呆然とし、有り得ない本質に我が目を疑う。

 凡庸だった。平凡だった。

 

 それは、人間の魂を持った天使だったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 




読了ありがとうございます。感想評価よろしくお願いします。皆様の応援が作者の励みになります故、なにとぞお頼み申しあげます……!


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04,何事も諦めが肝心

 

 

 

 

 

 ピンポーン。場の空気にそぐわない、インターホンの呑気な呼出音。

 

 なんとも締まりのない電子音がリビングに響くと、俺はぎくりと体を強張らせてしまった。

 

 日常的な音響なのに、非日常的な事態の只中にいると、打って変わって不気味に感じるのはなぜなのか。インターホンの音が耳に残って、いつまでも頭の中で反響している。

 まるでホラー映画だ。嵐の前の静けさというのか、恐怖展開の直前にある、水を打ったような一瞬の沈黙が肌に痛い。糸を張ったみたいな緊張感に、俺は呼吸を忘れてしまいそうになった。

 本当にホラー映画だったならどれだけいいか。幾ら恐ろしくともホラー映画はフィクション、作り話に過ぎない。見慣れていると展開を予測し、来たなと覚悟を決めて身構えることができる。

 しかしいざそれが現実のものとして現れたなら、どう覚悟を決めろというのだろう。

 

(だ、誰だ……? いや、ふ、普通に考えたら……大遅刻してる俺に腹ぁ立てた上司(ハゲ)が、運のない奴に起こしに来させた、ってことになるはずなんだが)

 

 その場合、俺を起こしに来るのは誰だ? 同僚や先輩なら如才なく躱しているだろうし、まだ要領の良さを身に着けてない新人の後輩あたりが貧乏くじを引いた可能性は高いだろう。

 可哀想な話である。申し訳なくて堪らない。もしそうだったらきちんと侘びて埋め合わせをしてやらないといけなかった。

 

 ――まさか漫画みたいに、『敵』とか『味方』みたいな役割の人物が訪ねて来るとは思えない。

 

 いや思いたくないといった方が正確だ。そんなのどう対応したらいいか全然分からないのだ。もしも玄関先に居るのが『敵』なら逃げるしかないし、『味方』なら従うしかないのだろうが、現実はラノベみたいに甘いわけがない。こちらの想像もしていないような措置を取られてしまえば、俺には成す術がないだろう。まさにまな板の上の鯉になるわけである。

 逆に会社の人間でも困る。『俺』の体である花房藤太は抜け殻だし、起きる様子はない。しかもあからさまに不審な子供(オレ)がいるとなったら、どう説明すればいいか見当もつかなかった。

 

 ――どちらに転んでも不都合だ。俺はどうしたらいいんだ…?

 

 そうやって悩んでグズグズしていると馬鹿を見る。仕事だとそうだ。玄関先にいる人物が、大人しく応答を待ってくれるような相手だという保証もない。そんなことは分かっていた……分かっていたが、じゃあどうしたらいいのかなんてすぐには思いつかなかった。

 感覚が矢鱈と冴えている、優れた動体視力が玄関扉のドアノブが回り出したのを視認した。直後、危機感を覚えた俺の脳が、人間には有り得ない速度で具体的な思考を叩き出す。

 

(ドアノブを回した? インターホンを一回鳴らしただけで? せめてもう一回ぐらい鳴らせよ。いやそうじゃなくてこれってもしかしてヤバい? 会社の奴ならもう一回鳴らすか、ドアをノックして俺の名前を呼ぶなりするはずだろ。ってかなんだよ、部屋の外に五人(・・)いるのがなんとなく分かっちゃうんだけど。これなに? 俺の五感に人感センサーでも積まれてる? 明らかに会社の奴らじゃないんだが。逃げた方がいいか? ……逃げる? ここ四階だぞ、どこにどうやって逃げるんだ。ヤバいこれ詰んでる、逃げ場なんかないぞオイ。逃げ場がないなら……出迎えるしかない?)

 

 明瞭過ぎる思考の形に違和感はない。そんなものに注目する余裕はなく、なぜか外に五人いると察知してしまった今、どう対応するかに思考のリソースを回す。そして回した結果、どうしようもないという結論しか出ずに諦念を懐いた。無理じゃん、と。

 もはや覚悟を決めて対処するしかない。覚悟を決めるとか格好良く言っても全然決まってないが、現実に回り出したドアノブが急に止まる訳がなかった。焦り過ぎて自分の格好が気になってきてしまい、テンパってアホみたいな台詞が口から飛び出してしまう。

 

「ま、待った! 俺まだ裸――」

 

 言い切る前にドアが開く。きゃあエッチ! なんて戯けた態度を取ったらウケるかな、なんてことを頭の片隅で思う。ウケるわけないわ、今の俺って子供の姿だし気まずくなるだけだろ。

 現実逃避できたのはそこまでだった。

 ドアを開いて玄関に一歩踏み込んで来たのは、完全無欠の赤の他人だったのである。――最初に頭を過ぎったのは、デカッ、という驚嘆。招かれざる客はひたすらにデカかった。

 

 見ただけで圧倒される背丈は、数値として表すと二メートル近い。加えて体格(ガタイ)もよかった。専門的に肉体を鍛えているのが一目で分かる重厚な胸板と太い首、広い肩幅が肉体に搭載している筋肉量の凄まじさを視覚的に教えてくれる。ゆったりとした服装をしているというのに、もう全身筋肉祭りでワッショイしており、失礼ながら脳味噌まで筋肉で出来ていそうであった。

 

 厳つい顔の彫りは深く、肌は白い。脱色しているわけではないのなら、色素の抜け落ちた白い髪は若白髪だろうか。積年の労苦を想わせる髪を短く切り上げている様は、もう神父様みたいな格好をしていても軍人にしか見えない。目つきの悪い三白眼を今はこれでもかと見開いているが、彼に睨まれてしまうと俺みたいな一般人はみっともなく脚を震えさせてしまうだろう。

 

「ぁ、あー……その、部屋ぁ間違ってますよ? ははは……」

 

 あからさまに外人だ。日本語が通じるか怪しいが、俺は日本人だぞ! と謎のホームグラウンド感を出して強気に話しかけてみる。

 ……別に謎じゃないな、まんまホームグラウンドだ。ここは俺ん家だぞ。他人は出て行けと言外に告げたつもりだが、迫力感満載の偉丈夫が青い瞳でこちらをジッと見詰めてくると、堪らず気圧されて日本人特有の愛想笑いで誤魔化そうとしてしまう。いかん、グローバルな社会だと日本人の愛想笑いは気味悪がられてるんだ、なに笑ってんだコイツと思われる!

 

 相変わらず頭の隅っこで軽薄な部分の俺が喚いている。

 

 極度の緊張下に置かれた時、俺は心のどこかでふざけてしまう癖があった。そのお蔭で取引相手との大事な商談の時でも、ある程度は心的余裕を確保していられたわけだが、おバカな俺君も今回ばかりは萎縮している気がする。いつもよりキレがないのだ。おいおいどうしたよ俺、もっと馬鹿になれ。インテリより馬鹿の方が好かれることもあるんだからな。

 

「……いいえ、間違ってなどおりません、天使様」

 

 お、耳に心地よいバリトンボイスじゃん。すっげぇ良い声だ妬ましい。

 慇懃な様子で応じてくれた巨漢は、流暢な日本語で返してくれる。まあね、流石に日本にいるんだから日本語で話すのが礼儀だよね、特にお客様はそちら側なんだから。

 ――いい加減、自分でも馬鹿な部分の俺が鬱陶しくなってきた。インテリな部分を前面に強く押し出して、浅くなりつつあった呼吸を意識的に整える。

 今、コイツはなんて言った?

 間違ってないって言ったのか。しかも、俺を見て天使様だと? どう考えても間違ってるぞ。確かに今の俺は天使みたいな……ああ待て、天使? 天使って言ったのかコイツは。

 

「………」

 

 くそ、嫌なことを思い出した。もしかして俺をこんなことにした奴の身内なのかよコイツは。

 

(だとしたらどうしたらいいんだ?)

 

 咄嗟になんて応えたら良いのか迷い、沈黙を挟んでしまうと、巨漢が土足のまま上がり込んでズンズンと歩み寄ってくる。その様に後退るも、男の目に敵意はなかった。

 上着を脱いでタンクトップ姿になった男は、まさしく筋肉の悪魔である。上腕二頭筋をこれみよがしに見せびらかしながら、男は裸の俺にデカい上着を被せてきた。その行動は紳士的だ。

 いや、すぐさま片膝をついた様は紳士というより従僕といった方が正しいかもしれない。大柄な男の上着を着せられ、裸マントみたいな格好にさせられた俺に、男は至極丁寧に語りかけてくる。

 

「突然の非礼、お詫び致します。ですが御身の玉体をいたずらに衆目に晒すわけにもいきますまい。粗末で恐縮ですが、どうかそのお召し物で辛抱してくださると幸いに存じます」

「ぁ、ああ……えっと、ありがとうございます……?」

「礼など不要です。私は当然のことをしたまでなのですから」

 

 いやに丁寧過ぎる。今の俺みたいなガキが裸でいたら、落ち着いて話もできないという気持ちは分かる。分かるのだが、こうも露骨に傅かれると居たたまれなさで鼻血が出そうになる。

 率直に言うと怖い。誰か男の人呼んでぇー! と言いたくなった。

 そんな俺の心境などまるっきし無視して、玄関の方から更にお客様が踏み込んできた。揃いも揃って土足だが、それを指摘して怒る気になれない。俺としたことが完全に気圧されているらしい。

 若い美人のシスターさんと、目の前の巨漢ほどではないが長身の男たちが三人。全員が教会の人が着ているようなカソックや修道服で身を包んでいる。先頭を駆け足で進んできたシスターさんが英語で何事かを言いかけ、瞬時に巨漢からの叱責が飛んだ。

 

『隊長! フィフキエル様は――』

『黙れシモンズ。天使様の御前だ、無闇に騒ぐ無様さを晒すな』

「………」

 

 俺の英語力はそこそこだが、ネイティブな発音もなんとか聞き取れた。シスターさんは巨漢を隊長と呼んだのだ。シスターさんの名前はシモンズで、フィフキエルというのは……誰だ? もしかすると状況的に見て、俺をこんなにしたあのクソ女天使のことか。

 というか神父様を隊長呼ばわりしたよコイツ。堅気(カタギ)じゃないじゃん。ヤバいよ。どうやら現実は小説より奇なりというのはマジらしい。すぐに危害を加えてくる様子はないが、お約束的な展開で『味方』枠がエントリーしてきたようだ。でもなんだろう、どうにも嫌な感覚をシスターさんやその後ろにいる神父様達から感じる。目の前に跪く巨漢からは何も感じないのにだ。

 シモンズがこっちを見る。驚いた様子だ。慌てて彼女が跪くと、他の神父達もそれに倣った。

 

『こ、これは天使様……このようなところでいったい何を……?』

「こっちの台詞だよ馬鹿野郎。ここは俺ん家だぞ」

 

 英語で問われ、日本語で返す。こちらはなんとか意味を理解できたというのに、シモンズの方は日本語を理解できなかったようだ。眉を落として困った顔をしている。他の神父達も困惑した表情で顔を見合わせていた。それを見て、メチャクチャ調子の良い頭の中で思う。

 

(顔色、身振り……演技には見えない。日本語が分かるのはゴスペル(・・・・)だけか)

 

 だったらコイツらの上役っぽいゴスペル以外は基本無視して、ゴスペル越しにコミュニケーションを取った方が良いな。英語を聞き取る方はなんとかできるが、話す方にはあまり自信がないし。

 そう、思って。はたと我に返る。

 

(……え? ゴスペル(・・・・)……? 誰だそれ。……もしかしてこのデカい人? だとしたらなんで俺、この人の名前なんか知ってるんだ?)

 

 猛烈な違和感に全身の毛穴が開いたかのような怖気を覚えた。気味が悪い。気持ちが悪い。自分が自分じゃないようで、ああ、そういえば今の俺は別人だったなと思い出す。

 堪らなく不愉快だ。この不快感はなんだ? くそっ、気分が悪い。本当になんだってんだ。頼むからもう、この意味不明な状況から解放してくれ。俺に何が起こったのか誰か説明してくれよ。

 無性にムシャクシャして仕方ない。足元がグラついているみたいで、自分が今何をしようとしているのかすら曖昧だ。本当に、これからどうなるんだ?

 

 俺のその不安と苛立ち、疑問を感じ取ったのか、ゴスペルが俺の様子をうかがいながら口を開く。

 

「天使様。――いいや、貴様はこの部屋の住人だな?」

「………! あ、ああ、分かるんですかっ?」

「私の目は特別でな。貴様の正体は勿論、何があったのかにも察しはつく」

 

 最初は丁寧な口調だったのに、急に言葉を崩してきた。だがそんなことは気にならない。ゴスペルの問い掛けに食いつくと、彼は穏やかな語調で続けた。

 

「ひとまず私に合わせろ。この者らにこの国の言葉は分からん。如何にも大事な話をしているという顔を見せておけば誤魔化せる」

「……分かりました」

「先に問うぞ。貴様はなんだ? 人間か? それとも――」

「人間だよっ。それ以外の何に見えるってんだっ」

天使(・・)に見えるな。ただし、黒髪黒目という天使らしからぬ姿だが」

 

 急に気が立ってきた。自分でも情緒不安定かと馬鹿にしたくなるが、不随意に荒くなる自分の心を制御できない。こんなこと、大人になってからは初めてだ。

 ゴスペルは至って平静に、優しげにすら聞こえる声で言う。俺が天使に見えると。そんなアホな話があるか、俺には気味の悪い白い羽根なんか生えてないんだぞ。

 ――そう思う一方で、実は納得もしていた。

 やっぱり? と。幾ら混乱していても、状況を見たらそうとしか思えない。何より俺は一度、不思議な現象を目撃していた。砕け散っていたガラスドアが一人でに直るのを見ているのだ。あれが俺の意思によるものなら、確かに俺は人間じゃない。

 

 ゴスペルは安心したように、しかし戸惑っているようにも、考え込んでいるようにも見える雰囲気で一瞬沈黙した。

 

「……だが、そうか。私はおろか、他の誰が見ても天使にしか見えない貴様は……『自己が人間である』と認識しているわけだな。クク……これは、面白いことになったな……」

「何ブツブツ言ってるんですか、まどろっこしいなぁ……! ゴスペルさん、説明してください、俺はどうなったんですか? それに、これからどうなるんです? 元に戻れるんですかっ?」

「私の名前を知っているのか? ……いや、なるほど。どうやら貴様は、フィフキエルの全てを継承しているようだな。ならば私の名を知っていても不思議ではない。おい、貴様の名は?」

「無視すんなッ! 訊いてんのは俺だろうが!?」

 

 辛抱ならずに怒鳴りつけると、ゴスペルは驚いたようだ。低姿勢で居たから舐められたのか? ふざけやがって、訳も分からん内に適当に流されるばかりが日本人だと思うなよ!

 俺の怒鳴り声で部屋全体が振動する、意味不明なことに謎の強風が俺を中心に吹き荒ぶ。シモンズ達とゴスペルの髪や服が靡くが、そんなことも気にならないほど頭に血が上りかけて。

 

「フッ……フゥ……」

 

 自分で自分に急ブレーキを掛ける。

 なんだ、なんで俺はこんなに怒ってる? 確かに苛ついてはいたが、俺は初対面の人に怒鳴りつけるような単細胞じゃないはずだ。落ち着け俺、クールになれ。みっともないから冷静になれよ。

 そう自身に言い聞かせて、必死に荒れ狂う激情を抑え込む。知らない内に癇癪持ちにでもなってしまったのか、なかなか冷静になれずにいる。それでも深呼吸を繰り返し、なんとか息を整えた。

 

「……すみません、急に怒鳴ったりして」

 

 とりあえず謝罪する。すると、ゴスペルは苦笑した。

 

「構わない。こちらも無神経だった、私からも謝ろう。すまなかった。……互いに謝ったのだ、これで水に流すということでいいか?」

「……はい。日本語、お達者ですね」

「はは。こう見えて、私は日系人だ。母から日本語は習っている。お蔭様で堅苦しい話し方しかできないがな」

 

 突然怒鳴りつけられたのに、ゴスペルは嫌な顔一つしない。良い人……のようだ。歳の頃は俺と同じぐらいだろうか? 出会い方が違えばいい友人になれたかもしれない。

 

「それより貴様の名前をまだ聞いて……いや、いいか。おい、貴様はこれからフィフキエルと名乗れ(・・・・・・・・・・)

「……はい?」

 

 突然の通告に、理解が追いつかない。なんで? と、純粋にそう思った。

 

「事情は後で全て説明する。訊かれたことには全て答えるし、意図して隠し事をしたりもしない。訊かれなかったから言わなかった、などという詭弁も用いない。だから頼む、今だけはこちらを優先して、私の話に合わせてくれ。時間がない(・・・・・)

「……時間が?」

「こちらの迎えが来ている。断言してもいいが、私以外に貴様の正体が露見すると、間違いなく殺されるぞ」

「………」

 

 遠くから『バラバラバラ』というヘリのプロペラ音がする。この辺りではまず聞くことのない音だ。

 迎えというのはこれのことか? それに、殺されるだって? 何を馬鹿な、とは言えなかった。

 なぜなら俺は、ゴスペル以外の人たちからは強烈に嫌な感覚を覚えている。ゴスペルの言葉が嘘じゃないと感じてしまっている。頭では疑っても、別のところでは納得してしまっていた。

 だから、不承不承(ふしょうぶしょう)ながらも頷いた。どのみち、俺一人だと手に負えない状況なのだ。頼れる人がいるなら頼るべきだろう。

 

「……分かりました。ただ、この体なんですけど」

「この部屋の住人だな。分かっている、こちらから手を回しておこう。それでいいな?」

「はい。頼みますよ、ほんと……」

 

 そう言うと、ゴスペルはシモンズ達の方に振り返り、英語で何事かを話し始める。それを聞き取ろうという気にはならない。なんでもいいから早く、全部説明してくれとしか思わないのだ。

 俺は倒れたままの花房藤太を見る。三十年間連れ添った、大事な自分の肉体だ。このままにはしておけないが、今は仕方ない。ゴスペルを信じて任せるしかないだろう。

 

「では――フィフキエル様(・・・・・・・)、こちらへ」

 

 恭しく手を差し出してくるゴスペルの手を取る。歩き出した彼に合わせ、俺は名残を惜しむように一度だけ振り返った。

 上京してから数年の後、引っ越した先の我が家。五年以上を過ごしたこの部屋とお別れになる。

 どうしてか、唐突に離れ難くなった。もう二度と、ここに帰ってこれない気がするのだ。

 

『ふぃ、フィフキエル様、どうかなさいましたか?』

 

 シモンズが顔色をうかがってくる。それに、俺はのろのろと首を左右に振って――今度こそ、この部屋を後にした。

 失礼、と断りを入れてゴスペルが俺を肩に乗せる。

 そして四階の高さから飛び降りて、一気に地上まで降り立った。

 だというのに、俺は全く恐ろしいと感じない。なぜだろうと、また一つ疑問が増えた。

 

 輸送ヘリがマンションのエントランスの先に到着している。

 

 人通りはあった。なのに、誰も俺達の方を見ない。ヘリの存在にも気づいた様子がない。プロペラで強い風が吹いているのに、だ。

 

(あー……こりゃ、考えるだけ無駄だなぁ)

 

 本当に諦める。サブカルの知識を参照するなら、誰にも気づかれないマジカルなパワーが働いてるんだろうな、ぐらいにしか思えなかった。

 

 開かれたヘリのハッチの向こう側に、ゴスペルの肩に乗せられたまま向かっていく。

 その直前、会社で見知った後輩が、エントランスに入っていくのに気づいた。

 

(……来るの遅いんだよ、山田くん)

 

 我ながら理不尽な悪態を、心の中で呟く。

 これで『俺』は病院送りだ。

 元に戻れたらいいなぁと思う反面、無理なんだろうなぁとも思う。

 直感的に、今の俺は不可逆の状態なのだと感じていたのかもしれない。

 

(ま、こうなりゃなるようにしかならんわな)

 

 もう、ホントに、ホントの本当に、一旦全部諦めよう。

 諦めたものについて考えるのは、事情を理解してからでいいだろう。

 

 

 

 

 

 

 




今見たら総合日間ランキング4位でした! ありがとうございます! めちゃくちゃ嬉しくてニヤニヤしちゃってます。目指せ1位! ということで引き続き応援、評価などお願いします! みなさんの応援とか嬉しすぎて昨日に続いて更新できました!


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05,まともなのは俺だけか

総合日間ランキング1位! 1位になってる(午前の部で)!
ありがとうごさいます! ほんっとうに嬉しいです!





 

 

 

 

 

 一切の穢れがない、清浄無垢なる空間。白いとか、黒いとか、赤いとか、そうした色彩の印象は些事として残らず、ただただ『目映い』という事実だけが強調される聖なる領域。

 安置された白き円卓に十二の席を並べ、それぞれの席に十一の人型が座している。いずれもが眉目秀麗なる美男美女だが――全員がその背に、白く清らかな翼を有していた。

 

「まあ。フィフキエルったら、相変わらず頭の弱い子ね。また油断したのかしら?」

 

 頬に手を当て「いけないわ、いけないわ」と繰り返し唱える天上の美声。

 天使の特徴である完全な左右対称の美貌を、明らかな呆れの色に染めて言ったのは女天使だ。豊かな肢体とウェーブの掛かった長い金砂の髪が目立つ、席次三位の【下界保護官】の一人である。

 名はキミトエル。【捻じ伏せる慈悲】の号を、天上の御方に与えられた暴力の担い手。

 下界の清浄を保つ役割を有した者達の中でも、屈指の発言力を具えた女天使の背には、二対四枚の大きな羽根があった。彼女は席次十二位であるフィフキエルの実姉である。妹の犯した失態に心底から心配そうな顔をするのも、仲の良い妹を気遣っているからだ。

 

 反対に、露骨に鼻を鳴らしたのは隣席の席次四位、【晒し上げる意義】の号を持つエンエルだ。

 

「はン、【傲り高ぶる愚考(フィフキエル)】に相応しい失態だ。いっつもそうだ、我々の席に名を連ねる力がありながら、くだらない見栄や慢心で台無しにする。どうせ今回も下僕に力を分けていた(・・・・・・・・・・)んだろォ?」

 

 枯れ木のように細い手足と、やせ細った体。貧相な細面には縁のない眼鏡が掛けられ、眉に神経質そうな皺を刻んで同胞の失態にも容赦なく毒を吐く。

 キミトエルはそれに眉根を寄せるも反論はしない。彼の指摘が正しいと思っているからというのもあるが、エンエルの在り方もまた至尊の御方の望んだ通りのものだからである。

 地上にいる本物の(・・・)天使は彼ら十二体だけで、他の名も無き雑兵とは異なり序列の高低はない。それぞれが真の天使の誇りを持って、自らの規定された在り方と使命を遵守している。

 だからこそ辛辣なエンエルの言葉は棘だらけでも、語気そのものは弱い。最も年若く脇が甘い、実力以外の面で未熟なフィフキエルを心配する気持ちはあるのだ。

 

 故に、彼が睨むのは下等種族である人間だった。

 

「なァ、マザーラント」

『はい』

 

 白い円卓の中心に、一人の人間の姿が映し出されている。

 筋骨隆々たる偉丈夫。教団の幹部を数多く輩出している、古くからフィフキエルに仕えてきた一族の者だ。三十一歳という若さでフィフキエル直属の親衛隊を率いる立場であり、【下界保護官】の全員にその名と顔を記憶されているという、人間たちの中での有望株。

 そんな彼の姿は半透明だ。それもそのはず、円卓の真ん中に立つ彼の体は、遥か遠い極東の地にあるのだ。ここにあるのは虚像、エンエルにより映し出されたゴスペルのマモである。

 彼から『フィフキエルが負傷した』と知らされ、エンエルが睨みつけたというのに、ゴスペルには萎縮した様子がない。淡々と返事をしたゴスペルは、あくまで事務的に肯定した。

 

『エンエル様のご賢察の通り、フィフキエル様は我々に多くの加護を授けて下さり、また多くの力を割いて守護して下さっておりました』

「故に不意を打たれたとはいえ、人造の悪魔などという下賤なキメラに遅れを取った。だが弁えているのかァ、マザーラント。オマエをフィフキエルの阿呆に付けたのは、下らん見栄を張るアイツの周りを固める為だ。なーんでフィフキエルはここに顔も出さんほどの傷を負ったというのに、フィフキエルを守るべきオマエは無傷なんだァ? あぁ?」

『返す言葉もございません』

「返せよ言い訳をよォ!」

 

 ダンッ! と激した様子でエンエルが円卓に拳を打ち付ける。

 すると円卓の一部から声が上がった。

 

 列席している天使たちが反応したのではない。そのままの意味で、円卓そのものが苦悶したのだ。

 

 この空間にある天使以外の全ては、実のところ物質で形成されているわけではない。

 あらゆるものがマモで形作られている。

 死後も天使に奉仕することを特別に(・・・)許された、誉れある人間たちの魂だ。故によくよく目を凝らせば見えるだろう――全てに、びっしりと、人間の顔らしきものが薄く現れているのが。

 

 エンエルは苛立ちも露わに言い立てた。

 

「だから僕は反対したんだ! あんな僻地にフィフキエルがわざわざ足を運ぶなんてなァ! 『信徒を守るのは天使の義務』なんて薄っぺらいお題目を、見栄の為に守る薄ら馬鹿が。『天使(僕ら)を身を呈してでも守るのが信徒の義務』の間違いだと何度言えば分かんだァ!」

『………』

「オマエもだ、マザーラント! どうせオマエのことだ、フィフキエルの決定に何も異を唱えないで、思考停止して従った挙げ句にフィフキエルの傍から離れたんだろォが! 馬鹿なのか!?」

『申し訳ございません』

「間抜け! 謝んなよオマエは悪くねェ。悪くねェがオマエが悪ィ! 帰ったら再教育してやる、ありがたく思えよォ、マザーラントよォ!」

『……はい』

 

 ふぅ、ふぅ、と呼気を乱すほど怒鳴りつけたエンエルに、ゴスペルは殊勝に頷いた。

 やっとエンエルが鎮まったのを見届けてから、フィフキエルの姉であるキミトエルが口を開く。

 どの角度から見ても、正面を向いているように見えるゴスペルの虚像を見詰め、彼女は言った。

 

「ねぇ、マザーラント。わたくしの可愛い妹の顔、見せてくれないかしら?」

 

 それはお願いという形の命令だった。人間如きが天使のお願いを断るわけがないし、断ってはならない。当たり前のことだ、当たり前だからこそ一切の悪意はなく、純粋に優しい。キミトエルとはそういう天使である。無論、ゴスペルが断るわけはなく――

 

『申し訳ございません。フィフキエル様は、皆様にお会いになりたくないそうです』

 

 ――断った。

 

「……え?」

 

 こてん、とキミトエルは小首を傾げる。

 なんと言われたのか理解できない、彼女の顔はそう言っていた。

 

「なんて言ったの? もう一度、はっきり、言ってもらえる?」

『フィフキエル様は皆様にお会いになりたくないそうです。それというのも、フィフキエル様は人造悪魔の卑劣な不意打ちを受け、重篤な状態であらせられます。具体的に申し上げると、力そのものは健在なれど、人造悪魔に姿を汚された挙げ句、玉体が幼いものに退化し、更にはお記憶も幾らか欠損しておられるご様子でした』

「――――」

 

 キミトエルが顔を強張らせる。使命の達成に失敗した上に、負傷したとは聞いた。しかし事態は想像していたよりも、ずっと深刻なのかもしれないと思い至ったのだ。

 動揺したのは彼女だけではない。他の天使たちも、驚いていた。

 フィフキエルの姉は、我に返ると強くお願いする。拒否は許さないと、語気を強めて。

 

「わたくしの妹の顔を見せてちょうだい。ね、マザーラント。良い子だから」

『しかし……いえ、フィフキエル様が承諾なさいました。フィフキエル様、どうぞこちらへ』

『………』

 

 とうのフィフキエルが良しとしたらしい。ゴスペルの虚像のすぐ隣に、小さな子供の姿が浮かび上がる。それを見て十一体の天使たちは目を見開いた。

 有り得ない。見たことがない。無論、聞いたことも。

 黒い髪と黒い目、更に幼い容姿。間違いなく(・・・・・)フィフキエルだと一目で判じられるが、その変貌ぶりは明らかに異常だ。唇を戦慄かせ、キミトエルは声を震えさせた。

 

「フィ、フィフキエル……?」

『………』

「なんてことなの……どうして、そんなことに……」

『……もういい? 見られたくない』

 

 震撼する様子に居たたまれなさを覚えたように、フィフキエルはそそくさとゴスペルから離れる。すると彼女の姿が消えてなくなった。キミトエルが発狂したように叫ぶ。

 

「待って! 待ちなさいフィフキエル! 帰ってきて! 今すぐに帰ってくるのよ! ダメよそんなみすぼらしい姿! すぐに天界に帰って再調整してもらわないと!」

『畏れながらフィフキエル様のお言葉を代弁させていただきます』

 

 ゴスペルは淡々としていた。あくまで自分の意思を持たない、人形のような従順さで。

 しかし、だからこそ明確な拒絶が示されている。

 

『フィフキエル様は自らの意思でご帰還を拒絶なさいました。我が主はこのままニホンに残り、頓挫した使命を今度こそ完遂なさるおつもりです。そしてご自身を貶めた元凶を見つけ出し、誅伐を下した後、自らの清浄なるお姿と記憶を取り戻すと仰せになられました』

「ダメよ!」

『フィフキエル様のご意思です。このようなみすぼらしい姿、一秒たりとも晒したくはないと、決意は固く断じて帰還しないと仰っておられる』

「で、でも……エンエル」

「あー……気持ちは分かる。気持ちはな。キミトエルのも、フィフキエルのもだ。僕ならそんな無様な姿、仲間に見せたくないしなァ。同じ立場ならオマエでもそう思うだろ、キミトエル」

「う……」

 

 言葉に詰まるキミトエルに、エンエルは嘆息する。バカ真面目なゴスペルの顔はもう見ていない。そんなものより彼にとっても予想外な、フィフキエルを襲った異変の方が気になる。

 人造悪魔といったか。力を無駄に分散していた上に、油断しきっていた馬鹿の自業自得とはいえ、貴き存在である天使をあんな姿に貶めるとは。【曙光】はどうやら、いよいよ赦されぬ大罪を犯したらしい。すぐにでも叩き潰してやりたいが、問題は天使を傷つけられるレベルにまで達した【曙光】の悪徳だ。このまま好きにさせてしまったなら、【下界保護官】の名折れである。

 

「マザーラント、もういい、オマエは失せろ」

『はい。それでは失礼します』

「あァ……」

 

 完全にゴスペルから興味を失くしたエンエルが、円卓の面々を見渡す。

 そうして仲間内で最も叡智に長けたエンエルは、重々しく告げた。

 

「オマエら。【曙光】の奴らが造ったっていう人造悪魔……どう思うよ?」

 

 愚問なり、ただちに浄化せよ。

 天使たちの意思は一つだ、彼らは事態の深刻さを受け止めている。

 故にこそ円卓の中心から虚像が消え、自意識が極東に回帰した信徒が嘲笑っているのに気づかない。

 だってそうだろう、人間が家畜のご機嫌取りなどしないように、天使もまた信徒の胸中になど関心はないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

「よし。これでひとまず時間は稼げる」

 

 謎の光の柱に呑まれ、瞑目していたゴスペルが目を開くと、俺は居心地悪さに身動ぎする。

 俺は今、どことも知れない教会にいた。本当にどこか分からない、ヘリでここまで移動した後、場所を把握する間もなく教会に押し込まれたからだ。

 

「……ゴスペルさん、本当にこれでいいんですよね?」

 

 訳が分からないなりに、ゴスペルの言う通りに動いただけだ。それで、あの見るからにヤバげな連中を誤魔化せるのだろうか。俺のそんな不安げな様子に巨漢は笑った。

 

「無論でございます、フィフキエル様。万事このゴスペルにお任せください、なんら不都合などありませぬ故」

「……あの、そう畏まらないでくれます? やり辛いったらないんですけど」

「今は勘弁を。些細な気の緩みから尻尾を出す羽目にもなりかねません、こういうのはまず形から入るべきかと愚考致します」

「そ、そっすか……」

 

 う、胡散臭ぇ。怪しさ評価がMAXレベルに感じるからやめてほしい。

 とは思うものの、いちいち改めさせるのも面倒だ。俺は気を取り直してゴスペルを見遣る。

 

「それで、説明してくれるんですよね? 全部」

「はい。人払いはしてあります、今の内に全ての疑問を晴らして頂けるように尽力しましょう」

 

 そう言ったゴスペルに、頷く。やっとだ、やっと聞けるのである。

 ヘリで移動すること一時間か二時間、もう我慢の限界だ。俺は乾いていた唇をぺろりと舐め、今までに頭の中で纏めていた疑問の数々を、順繰りに吐き出すことにした。

 

「じゃあ、最初に聞きたいのは――」

 

 意外に素早く、天使達がこちらに増援を送る判断を下していることを、この時の俺はまだ知らず。俺はただただ疑念の消化に勤しんだ。全ては現状を完全に理解すること、その為だけに。

 生まれたてのベイビーの知識欲は貪欲だ。俺は一刻も早く用を済ませ――ゴスペルというやべぇ奴(・・・・)から離れたくて仕方なかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 




久々に燃え上がるモチベ。もっと、もっとだ、もっと熱くなれよ!
というわけで今日も更新。次回は説明回&主人公くんちゃんがゴスペルに何を感じたか描写回です。

作者は背中を押す声が大きければ大きいほど、多ければ多いほど、調子に乗る『煽てられて木に登る』タイプの作者です! どうかこのまま応援のほどよろしくお願いします!


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06,奇跡の器と策謀

お待たせ。思ったより長くなりました。



 

 

 

 

 

 

 人間の感情は消耗品だ。

 

 いつまでも怒り続けられるほど、人の体力や気力は長続きしない。変わらぬ愛を誓っていても、心の摩耗には耐えられない。褪せないはずの悲哀も、時間の経過に希釈させられる。楽しかった経験までもが薄ぼけて、感謝の気持ちは軽くなるのだ。どれだけ劇的な体験を経て生涯忘れなかったとしても、虚しくなるほど細部の記憶は朧気になる。

 人間は感情や記憶を上書きし続ける生き物だ。永遠なんてものはなく、変わらないものなんかどこにもない。だから自身に根付いた感情を風化させない為に、日々の言動で関係維持の為の感情を更新し続けるのである。感情のアップデート、これは人の基本機能なのだ。

 

(なんか、おかしいよな)

 

 だから必然だった。社会人として一般的な常識やモラルを持っている俺は、時間経過と共に完全な落ち着きを取り戻せてしまった。

 俺が人並外れて冷静沈着だった、なんてことはない。激流じみた状況の変遷に取り残され、混乱し続けることで懐いた諦念やらなんやらを、ずっと維持し続けるのに疲れてしまったのだ。長時間緊張し続けられるほど、俺の精神がタフじゃなかったというだけの話である。

 

 すると一般的な価値観を有する俺が、ゴスペルに疑念を持つのも仕方ないことだ。

 

 俺は自分が万人を惹きつける超一流の人間力を有しているなんて驕ってはいないし、無条件に人の厚意を信じられるほど能天気でもない。今の世の中ギブアンドテイクが基本である以上、他人に無償の善意を期待するような世間知らずでもなかった。

 だからゴスペルは逆に怪しいのである。

 なんでゴスペルは俺を保護してくれた? なんで事情を全て説明すると言ってくれる? 今のところ何から何まで、ゴスペル側に利益があるようには見えない。俺側に情報が皆無なのだから、ゴスペルが俺に親切を働く動機がまるで想像できないのだ。

 もし俺が二十歳未満の小僧だったら、頼りになるし親切な人だと安心して、全幅の信頼を置いていたかもしれない。そうでなくても頼りになるのは事実だし、まるでラノベみたいな展開だと内心ドキドキしていた可能性もある。だがこれでも三十路のオッサンなのだ、無邪気に未来が保証されていると信じていたらただのアホだろう。そして俺はアホじゃないと自分では思っている。

 

(普通に考えてゴスペルは、あのクソ女天使の身内だろ? マッチポンプはないにしても、よくよく考えてみれば信じられる要素も特にないんだよな)

 

 ヘリで移動するだけの一時間だか二時間だかは苦痛だった。時間感覚が馬鹿になるほど、機内の誰もが一言も喋らないし、ゴスペル以外の奴らは全員こっちをチラチラと見てくるのである。

 気になって仕方ない。気が休まらない。針の筵とは違うが、会ったこともない親戚達に混じって忘年会を過ごした時のような気分だ。要するに普通に気まずい。本当に辛い時間だった。

 どことも知れない場所に着陸し、ゴスペルの先導に従って教会に入ってからは、ゴスペルやシモンズ達が人払いをしてくれたから人心地がついたが。それだってどの方角にどれぐらい離れた場所へ連れて来られたか、自分では全く分からない不安を打ち消してはくれない。

 

(極めつけは、アレだ)

 

 俺を教会中央塔の最上階に連れてきて、一人にしてくれていたゴスペルが、唐突にやって来るなり『話を合わせろ』と無茶振りしてきた。途端に謎の光の柱が発生して、それに映し出された謎の場所にいる天使達と、理解の追いつかない話をし始めたのだ。挙げ句、俺を妹と呼ぶ不審者と顔を繋いで来て――普通に現実離れした現象に、俺は普通に圧倒されたものである。

 

(これはアレだろ。お(かみ)がよくやるアレ。事情をよく分かってない新人を、訳が分からん内にカタに嵌めて逃げ場を失くして、無理にでも投げ出せない仕事の山に落とすアレだ)

 

 何がなんだかよく分からんが、このままではマズイとサラリーマン魂が叫んでいる。デキる男とは仕事ができる男という意味ではない、リスク管理と能う仕事の見極めができる男という意味だ。できないならササッと身を躱し、できる奴とやる気のある奴に流す男である。

 俺はデキる男だと自認している。できないことはできないから、能わない仕事はサッと躱せるのだ。長年と言うほどの経験値はないが、磨いてきた直感が告げている。――ゴスペルは俺に無理難題を押し付けようとしている、と。どんなことになるかは分からんけども、そうした気配に敏感にならなければ、現代社会の荒波を泳ぎ切ることは困難である。

 

(結論。ゴスペルは他の奴らよりはマシっぽいが、頭から信じ込んでたらヤバいタイプ。だって目がイっちゃってるもん。会社に魂を売り渡した社畜先輩味を感じる。敬遠するのが大吉だぞ俺)

 

 これでも人を見る目はあるつもりだ。それがないと生き辛い世の中に嘆けばいいのか、見る目を磨いてくれた世の中に感謝すればいいのか……判断に困るが、俺のするべきことは決まった。

 

(とりあえずゴスペルから話を聞けるだけ全部聞いて、自分の頭で考えて、行動する。これだな。言うなら定時間際で急に仕事を押し付けようとしてくる先輩とか上司を躱せってことだ。得意分野だぞそういうの……社畜の沼になんか絶対にハマらないんだからな……!)

 

 残業する時は手当目当てだと決意を固めてゴスペルと対峙する。

 

 あの謎の会合を経て、コイツはこれで時間が稼げると言った。猶予があるという意味だろうが、別の見方をすれば『なんらかのアクションを起こしたくても制限時間がある』とも取れる。 

 状況が理解できないならそれでもいい。こういう時の対処法を俺は知っている。乗り越えがたい局面を迎えた時は、目の前にある課題を過大評価せず、むしろ矮小化させて捉えるのだ。

 これはゲームだ。ゲームだと思え。勝利条件も敗北条件も曖昧だが、それを探りながら目的を達成するゲームであると。そして眼前の難題を矮小化させ、ゲームであると捉えたら話は簡単だ。

 

 ゲームの仕様を把握しろ。ゲームのルールを見つけ出せ。攻略法は絶対にある、そのためにもまずは情報を揃えろ。自分というプレイヤーキャラを操作して、目指すゴールに辿り着くのだ。

 

(対戦よろしくお願いします)

 

 声には出さず、ゴスペルを見る。ゲームスタートだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、最初に聞きたいのは――俺のことですね。俺ってどうなったんですか?」

 

 辺鄙な山奥にあるような教会だが、意外と小綺麗で掃除が行き届いている。

 それでも中央塔の最上階にあるこの部屋は、普段利用されていないらしく物置になっていた。

 そこそこ埃臭いし、蜘蛛の巣が天井の隅にある。長居したい場所ではないが贅沢は言えない。我慢して古くなりクッションの萎んでいるベッドに腰掛け、若白髪の巨漢を見上げる。

 間抜けみたいな質問だし、実際間抜けではあるが、これをはっきりさせておかないと前には進めないだろう。前ってどっち? って話ではあるが、進める方向が前だと思っておく。

 

 名も無き天使の質問に、ゴスペルは笑わなかった。真面目くさって、真摯に答えてくれる。そうしていると本物の神父様みたいだ。いや、本物なのか。

 

「誤解や勘違いのしようがないように、はっきりと申し上げます。あなたは死にました(・・・・・・・・・)

「……生きてるんですけど?」

 

 反駁する声の響きが、自分でも驚くほど軽い。何故だと考えてばかりの一日だ、沢山の『何故』に求める答えは一つも示されない。自身の小さな体を見下ろして、顔を上げる。そんな場合でもないのに、ゴスペルの似合わない慇懃な態度で半笑いになってしまった。

 

「死んでおります。少なくとも元の人間としては確実に。その上で、しかとご理解いただきたい。あなたは死んだ上で蘇りました。――天使として」

「天使、ねぇ……」

 

 天使。世界的に有名な虚構の存在だ。少なくとも無神論者だった元人間はそう認識していたし、救世教の信者を除く世間一般の人達も同様であるはずだ。

 救世教に関して名無しの天使は然程詳しくない。しかし天使と悪魔、名前すら不明な神様がいることは常識のレベルではある。

 救世教の教えで名無しの天使が知っているのは、大昔に救世主が生まれて世界を救ってくれたから今の世界があるんだよ、だから皆は救世主に感謝して正しく生きるべきなんだという程度だ。かなりフワッとしているし、曖昧すぎて詳しくは語れない。

 肝心なのは、元人間が虚構の存在に生まれ変わってしまったということで、それを頭から否定して掛かる術がないということだ。だって今の元人間の体が明白な証拠になってしまっている。

 

「マモ……表の世界では魂と言った方が通りは良いでしょう。あなたは魂を我が主である天使、フィフキエル様に取り込まれ、確かにフィフキエル様の危機を救うという誉れを得られました」

「はぁ?」

「しかしなんの因果か、フィフキエル様は取り込んだ人間を受胎してしまい、ご出産した末に命を落とされたのでしょう。そしてあなたは母たるフィフキエル様の全てを継承し、更に昇華させてこの世に降臨なさいました。フィフキエル様の全てを受け継いだ以上、あなたは誰から見てもフィフキエル様であると認識される。それが今のあなたを取り巻く状況というわけです」

「あー……わざと俺が理解し辛いように言ってます? 噛み砕いて説明してください。妙な表現で煙に巻かれても、理解できるまで繰り返し質問しますよ? そんなの時間の無駄でしょう」

「ではお望みのまま、簡潔に述べましょう。あなたは瀕死になったフィフキエル様に、傷を癒やす手段として魂を食べられた。如かる後にフィフキエル様はあなたに力を奪い取られ、肉体はおろか存在そのものを簒奪されお亡くなりになられ、新たに二代目フィフキエル様とでもいうべき存在として生まれ直されたというわけです。そして多くの者は、あなたをフィフキエル様だと感じてしまわれる。細かい理屈を抜きにして言うと、そうなります」

 

 数秒、間を置く。話された内容は、およそ理解し難いものだ。

 しかし思考を放棄するわけにはいかない。なんとか情報を飲み干して、自分なりに理解する。

 そして質問した。

 

「ゴスペルさんの口ぶりからして、本来なら俺がこうしてここにいることは有り得ないんでしょう。あなたの言うフィフキエルって奴が、五体満足のままここにいる方が自然というわけだ」

「仰る通りです」

「じゃあなんでこうなってるんですか?」

「それに関してご説明すると、少し長くなります」

 

 そう前置きしてゴスペルは朗々と語った。話し慣れているのか、淀みない語り口である。

 自分達は【救世教団】という組織に属し、地上に欲望と混沌、穢れを撒き散らす害悪の存在、つまりは全ての悪魔と悪魔信仰者集団【曙光】を滅ぼそうとしている。日本には【曙光】の研究所があり、人造悪魔という危険な存在を作り出した奴らを粛清する為に来日した。

 研究所をゴスペル達は襲撃し、ほとんどの資料を接収して、研究員達もほぼ粛清したものの、フィフキエルは人造悪魔の奇襲を受けて重傷を負った。だがここで、フィフキエルも予想だにしていない事態に見舞われたのだろうとゴスペルは言う。なんでもフィフキエルに傷を負わせた人造悪魔は、三つの属性を具えていたというのだ。それこそが性交、不幸、破滅だ。そんな奴に深手を負わされた女天使は男の人間の魂を食べることで、擬似的に性交をしたと見做されてしまい、不幸にも受胎して、力と存在を奪われる形で破滅したわけだ。

 

「へぇ、ならその人造悪魔ってのは俺の命の恩人ってわけですね。ありがたい話ですよ」

 

 元人間が嫌味を言うとゴスペルは微笑んだ。全く気にしていない顔である。

 

「流石はフィフキエル様。ご理解が早い。それともアニメ大国ニホンの方だから、こうした事態にも想像力が働きやすいのですか?」

「どうでもいいでしょう、そんなの。それで? ゴスペルさんは気にしていないみたいですけど、ゴスペルさん達からしてみたら俺はフィフキエルのパチモンでしょ。なのになんであなた達は俺を守ろうとしてるんです? ……いや、シモンズさんですっけ? あの人達は俺がフィフキエルそのものだと思ってるみたいですが、あなたは違いますよね。なら正しく言うとあなたが私を守ろうとしている。俺が人間だってバレたら殺されると言ったのに。なぜですか?」

「保身のためです」

 

 臆面もなくゴスペルは言い切った。スッ、と心が冷える。

 

「私の一族は代々、フィフキエル様に仕えております。一族の者は多く、その全てがフィフキエル様にお仕えしているわけではありませんが、こうしてフィフキエル様にお仕えする栄誉を賜っていながら、主をお守りできなかったとなれば我が身の破滅は必定です。私はそれを避けたかった。私はまだ死にたくないのです」

 

 嘘だな。元人間は直感的にそう感じる。この野郎は今、嘘を吐きやがった。

 言っていることに嘘はない。ないが、思惑の全てを話したわけじゃないってところだろう。

 なんでそう感じて、しかも確信しているのかは自分でも分からない。

 だが伏せた。自分の事情を。思惑を。それは間違いないと感じている。なら100%絶対に信じるというのはやっぱり無理だ。理性の話じゃない、感覚的な話である。そしてこの感覚が絶対的に正しいのだという、傲慢なまでの自信が名無しの天使にはあった。

 

 いいさ、何を信じるかは俺が決めることにするよ。元人間はそう思う。

 

「なるほど、気持ちは理解できます。誰だって死にたくはないですよね? 俺は誰かさんのせいで死んだらしいですけど」

「それは……」

「ああ、単なる嫌味です、気にしないでください。次です……あなたは俺を一目見ただけで人間だと気づいてましたね。なのに他の人達には気づいた様子がなかった。何故です?」

 

 嫌味を言うことで、ゴスペルの嘘に気づいていないという態度を取り、それとなく話を進める。

 隠し事してるじゃん、約束と違うぞとツッコミを入れるのは簡単だ。しかし平然と約束を破るような奴に、そんなツッコミをしても無駄だろう。逆に嘘を見抜かれたと知られ、変に身構えられる方が不都合だ。こういう時には敢えて気づいていないバカのフリをした方が色々とお得だと思う。なぜなら人間はその心理上、自分が下に見た相手には油断するものだから。

 下に見た相手にこそ人は安心する。わざと自身を低く見せ、望んだように話を進ませるのも商談を有利に纏めるテクニックの一つだ。サラリーマンに腹芸は無理だと思うなよ? 舐めてたら痛い目に遭うなんてのは、社会だと割とありふれた話だと思い知らせてやる。

 

「簡単な話ですな」

 

 言いながらゴスペルは思った。思いの外、頭の回転が早いなと。元からなのか、それとも性格的な欠点で明晰な頭脳を活用できていなかった、フィフキエルの素養を有効に引き出せているのか。

 どちらでもいいが、馬鹿ではない。悪くないなと彼は評価する。

 ゴスペルとしては嘘を吐いたつもりなど毛頭ないのだ。故に悪気などない、【教団】に属するゴスペル・マザーラントとしての本音は隠していないのだから。ただ単に叛逆者としての顔を見せるのは早いと判断しているだけ。――当然のリスク管理だろう。幾ら相手が人間の魂を持った存在とはいえ、【下界保護官】の一員である天使の同位体でもあるのだ。この存在の本質は視えているが、いきなり信頼して全てを明かすのは愚かな行為である。ゴスペルは現在、元人間を見定めている最中なのだ。そうした慎重さがなければ、到底スパイじみた活動などできる訳がないのである。

 

「私の目は特別製です。私は視認したモノの本質を捉えてしまう。故にフィフキエル様の中身――魂が本来のものとは全くの別物であり、あなたが人間であると分かってしまうのですよ」

「へぇ……魔眼みたいなものですか。リアルにあるんですね、そういうの」

 

 言いながら黒髪の天使は思惟を走らせる。

 本質を捉える目。この存在を明かしたゴスペルに、少し驚いたのだ。

 それは一部隠し事をした相手に明かして良いことなのか? だって普通に考えてヤバいほど便利な力だ。どこまで捉えるのかは不明だが、対面している相手の性格的なものを視覚で認識できるということだろう? 交渉事に於いてはとんでもないチートであろう。

 いいなそれ、仕事が楽になる。サラリーマン魂が羨む声を脳内で上げるが、ゴスペルの中での線引きがどこで為されているのか不透明になり、走った思惟が具体的な思考を瞬時に組み立てる。

 

(……待てよ。考えてみたら簡単だ。俺がフィフキエルじゃないってバレたら殺されるっていうのがマジなら、俺がフィフキエルじゃないって知ってるゴスペルは【救世教団】ってところの忠実な信徒じゃないってわけだ。俺のこと周りに隠してるし。隠し事の内容は分からんけど、コイツ……副業やってんな)

 

 持っている資格(スキル)は隠さない。しかしやってる副業は秘密。あるある、そういうのある。勤めていた会社から転職する前に、転職先で自分のスキルが通用するか試すため、ちょっとした副業に手を出す慎重派な人もいた。四十路に入った先輩がまさにそれで、ちょうど半年ぐらい前に酒を飲みに行った時ぽろりと零していた。そして三ヶ月前に会社を辞めたのだ。

 ありがちな話だ。そのありがちな話にゴスペルが該当するかは不明なはずだが、副業をしていてそちらへの転職を考えているとするなら、転職前に不祥事を起こして上司に睨まれたくない気持ちは理解できた。つまり隠し事の内容は副業に纏わる視点、業務内容的なものだ。

 

 我ながら的を射た推察だと感じる。感じるが――そうした勘を信じ過ぎている自分が少し怖い。

 

「ゴスペルさんのその魔眼で、俺の何が、どこまで視えてるんです?」

「魔眼という呼称は正しくありませんが……まあいいでしょう。私の目に映るのは、捉えた者の具える属性や性格、思想、そして能力となります」

「凄いですね。じゃあ、俺のこと教えてください。ちょうど次は俺に何ができるのか聞きたいと思っていましたから」

「承知しました」

 

 思い出すのは、あれだけの惨劇があった自分の家で、ガラスドアを目の前で修復してしまったこと。そしてフィフキエルを喰ったというのに、部屋が至って清潔であったことだ。

 たぶん天使的な何かの力で、不思議なことを起こしたのだろうとは思う。しかし具体的に何ができるのか知れるなら知っておきたい。今後はどう楽観視しても、身の危険に晒されるのは自明だ。自衛の手段を得られるならなんでもするべきだろう。

 天使の問いに人間は惜しまず頷いた。どこか愉悦を滲ませて。

 

「フィフキエル様は【傲り高ぶる愚考】の号を与えられた、【下界保護官】の一員であります。()は体を表すとはよく言ったもの、我が主は傲慢であり、確かな知恵があれども有効に活用しきれない愚か者でありました。その性質は今のあなたにも受け継がれております。そこにあなたの人としてのマモが混ざり、程度は軽減されているようですが」

「あー……つまり、何? フィフキエルは頭の良い馬鹿ってことですか」

「左様です。見栄を重視し、相手を見下し、実力に不釣り合いな小さな事故で命を落とす。愚かという他にありますまい。しかしそのお力は確かなものでした。ああ、端的に言いましょう。『あなたは素晴らしい母胎から産まれ直されたのだ』と」

「わざと俺の癪に触る言い方をしなくてもいいですよ? 普通に苛つくだけなんで」

「申し訳ありません。本題に移りましょう」

 

 本質は視えても細かい性格は分からないのか。だから俺が怒ったらどう反応するか探りを入れた。天使はそう察するが、衝動的に口を衝いた台詞に自分で動揺する。言う気のなかった失言だ。

 ゴスペルが笑う。なるほど、愚かなフィフキエルの性質というのはこういうことか。不本意ながら確かに受け継いでいるのだと実感してしまう。もしかしてそれを自覚させてくれたのか?

 

「あなたはフィフキエル様です。しかし、フィフキエル様ではありません」

「……元々の属性? っていうのから変化してるってことですか」

「はい。フィフキエル様は生粋の戦闘員であらせられました。得意とするのは浄化、洗礼、祝福、そして破壊の四種の奇跡です。しかしあなたは処女である母が処女受胎し、お産まれした経緯から【聖偉人】と【祝福】の二つの属性を得られ、また強調されております。お喜びください、フィフキエル様。あなたは我らの信仰で伝えられているところの、メシアと同じ産まれ方をなさった」

「……ん、ちょっとよくわからないので、もう少し詳しく」

 

 世界一普及している本、神書。そこに記された救世主と同じ産まれ方。聖偉人や祝福とかいう属性もよく分からない。天使がそう言うと、ゴスペルは皮肉げに応えた。

 

「お持ちの力と、起こせる現象を、端的に述べましょう。あなたはフィフキエル様にできたことならなんでも能う。そして同時に、あなたの力が及ぶ範囲という注釈は付きますが、望みを叶える(・・・・・・)力がお有りだ。あなたの存在そのものが、奇跡の産物なのですよ」

「……え。なにそれ、チートじゃないっすか」

いかさま(チート)ではありませんな。確かに他に例を見ないものではありますが、理不尽と言えるほどのものではありますまい。御身は、天使なのですから」

「………」

 

 ガラスドアが修復されたのは、その望みを叶える力とかいうのが、無意識に働いたからなのか。ではあの部屋も無意識に綺麗にしていたのか……?

 

「その、願いを叶えるって……無意識にやっちゃったりもするんですか?」

「考えられますな。お力に無自覚だからこそ、無作為に願いを叶えた可能性はあります。たとえばご自身が意識を取り戻すまで、誰も近寄るなという拒絶の意思を現象として現したりなど」

 

 思い返したように言いゴスペルは笑う。あの部屋に中々入れず、七時間以上も待たされた理由が今なら分かる。この名もない天使が自己防衛本能を発露して、無意識に侵入を拒んでいたのだ。

 面白い力だ。非常に。

 だが悲しいかな、誰にでも通じるわけではない。現にあの時の強制力も、ゴスペルがその気なら無視もできたのである。故にゴスペルはあくまで親切で黒髪の天使へ告げる。

 

「ああ、そのお力を行使なされば、一時的に裏の世界から逃れることは能うでしょう。しかし逃亡生活は長続きしません。たとえば【下界保護官】の一員であらせられる、【晒し上げる意義】の号をお持ちのエンエル様などには、一日と保たず見つけ出されるでしょう」

「……はは、そうですか。それは残念です。けどもっと残念なのは、俺にその気はないってことですかね。なんせそういう力の使い方とか、全然分かりませんし」

 

 嘘だな。本質が視えるゴスペルは内心断定する。

 この天使(・・)は凡庸だ。力ではない、魂が平凡なのである。

 特異なものはどこにもなく、現状を理解すれば理解するほど、力を自覚すればするほど、やりそうなことなど容易く想像がついてしまう。

 実に人間的だ。素直に好ましく思う。だが、関係ない。どれほど人間的であれ、既に説明した通りこの人間は天使である。自身もよく知るフィフキエルの性質と混ざったのなら、なおさら読みやすいというものだ。だからゴスペルはわざと自覚を促す。

 

「あなたはフィフキエル様の全てを継承なさっておいでだ。そしてフィフキエル様が私の部下に授けた加護はまだ継続している」

「つまり?」

「今もお力を行使なさっておられる最中ということです。使い方がわからないというのは有り得ない。それでも分からないというのなら、それはそうした力をお持ちであると自覚していなかったからでしょう」

「なるほど……?」

「目を閉じて、強く願ってみてはどうですか? きちんとした衣服が欲しい、などでよいでしょう」

「分かりました」

 

 天使が目を閉じる。

 

 男が見れば女に、女が見れば男に見える中性的な少年。いや性別などないのだ、少年や少女という形容は相応しくないだろう。だが性別がないからこそ、人智を超えた美しさがある。

 真剣に自らの力を感じ取ろうとする姿を黙って見詰め、ゴスペルは思った。男の天使も、女の天使もいる。しかし性別がないモノなど天使には居ない。ならば、この者は果たして天使なのか?

 天使ではある。しかし、天使ではない。結論はそうだ。

 なぜならこの者は不安定だ。無性という状態がその証拠。おそらく人間としての精神と、天使としての肉体の調和が取れておらず、どちらに傾くかで性別が変わるのかもしれない。

 人間なら男に。天使なら女に。どちらかの属性に傾くことで、在り方まで変容する可能性がある。そしてゴスペルとしては、どちらにも傾かず今の状態のままでいる方が幸せだろうなと思う。

 

 なぜならば無性である今の状態だからこそ、天使フィフキエルの欠点が軽減されており、人間としての無力さが現れていないのだ。謂わば人の精神と天使の力という、双方の利点だけが顕在化している状態だと言えた。まさしく、理想的な兵器(・・・・・・)だ。

 

 ――果たして、黒髪の天使は忽然とその姿を消した。

 

「逃げたか」

 

 ゴスペルは失笑する。

 

「願いが叶うと知り、現状の危うさを理解すれば、逃げると思っていたとも」

 

 元人間にとっては巻き込まれた世界だ。自分には関係ない、放っておいてくれと思いたいはずだ。

 実際、あの元人間にとってはとんでもない災難であり、理不尽である。逃げたくなって当然で、むしろ果敢に現実へ立ち向かう強さを凡人が持ち得るはずもない。

 だからこうなるのは分かりきっていたのである。

 

(……聞こえているな? 予想通りターゲットが逃げた、回収を急げ。下界の守護者を気取る畜生共に気づかれる前に)

 

 天使に説明をしに訪れる前、事前に話を通していた相手を思い描いて内心呟けば。

 

『りょーかいっ。どーせ東京の歌舞伎町あたりに逃げ込むでしょ? 間もなく最寄りの子が到着するってさー。言われた通り、めちゃくちゃ優しくしてあげろって伝えてっからね』

 

 彼の頭の中に、ここにはいない人間の声がした。

 ゴスペルは笑う。

 

(オレの許から。そして天使の名から逃げられたと安心させてやる。暫しの別れだ、再会の時を楽しみにしておけ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 




天使くんちゃん「gg! 対あり!」

全てを説明するのに一人でやると不自然なので、残りの未説明事項は追々、別の機会に触れます。割と早くその機会が来るかも。
天使くんちゃんが軽率だ! 逃げるの早すぎ、もう少し話聞いていけよ! と思われるかもですか、こうした軽率さもフィフキエルマッマの影響です。本来の天使くんちゃんなら逃げるタイミングはもっと後になっていたでしょう。


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07,発想元は違法少女☆撲殺センカ

 

 

 

 

 

「あれっ?」

 

 言ってみるならば、魔が差したのだ。

 

 俺には自分の願いを叶える力があると聞き、試しにまともな衣服でもどうだと言われた。俺は半信半疑ながらも、言われた通りに服が欲しいと願ってみようとしていたのである。

 だがどうだ、実際には全く別の願いを叶えてしまったではないか。

 もしゴスペルの言うことが本当なら。もし本当に俺には自分の願いを叶える力があるのなら――帰りたい。明らかにヤバげな何もかもから、逃げ出してしまいたいと強烈に願ってしまったのだ。

 

「……やべ。どうしよ。戻った方がいいよな? 絶対」

 

 山口県にある実家ではなく、東京の歌舞伎町にある我が家に、俺はいつの間にか忽然と現れた。

 見慣れた光景である。もう何年も一人で暮らしているのだ、一番落ち着く空間だと言っていい。

 そこに現れてしまった俺は、やっちまったと後悔する。早くゴスペルの所に戻らないと拙い、そう思うのに全く戻る気になれない。俺の心はあそこに戻りたくないと思っているのだろう、そのせいで真剣に念じてみても視界に映る光景が変わることはなかった。

 

「………」

 

 どさりとリビングの床に腰を落とし、周りを見渡すと、無人の空間が広がっている。

 花房藤太の体はない。山田くんが救急車でも手配してくれたのか? だとしたら助かる。細かい事情は分からないが、一人になれたのは幸いだった。

 

「はぁー……しんど。なんもやる気起きんわ」

 

 もう座っているのも大儀だ。

 ソファーやベッドに移動する気にもならず、その場に仰向けになって寝そべった。

 そうして天井を見上げる。頭を空っぽにして、穏やかに流れる時間に身を委ねた。

 

「………」

 

 何も考えなくても、昨日の夜から今日の今に至るまで、自身に降りかかった事態の数々が自然とリピート再生される。繰り返しゴスペルとの遣り取りも想起して、じっくりと現実を認識した。

 寝転んだまま、ゆっくりと、願う。

 流石に裸コートみたいな不審者スタイルは嫌だし、きちんとした服が欲しいなぁ、と。すると今度は別の願いも浮かばなかったこともあって、すんなり俺の体が衣服を纏った状態に変化する。

 見てはいないが、肌触りで分かるのだ。あ、服ある、と。苦笑いした。

 

「マジかよ」

 

 勢いよく立ち上がり、姿見鏡の前に早足に向かう。俺の願った通りなら、この服の正体はアレのはずだと思って。

 姿見鏡の前に映ったのは、肩の辺りまで伸びていた黒髪をゴムで纏めた絶世の美人。いつも着ていた黒スーツを纏い、青いネクタイを締めてタイピンをした姿。子供の体格なだけあり普通なら似合わないはずだが、人外級の美人なお蔭で凄まじく似合っている。

 

「マジかよっ」

 

 苦笑いは、ヤケの色を滲ませた笑いに変わる。

 

「ははは、マジだ。マジじゃんかっ」

 

 声を上げて笑ってしまう。

 鏡の中で見慣れない美人が腹を抱えて笑っている。

 

「あっははは! 腹減った! 肉食いたいなぁ! カセットボンベとカセットコンロも! ああ、炊きたてのお米とか肉とか超欲しい! ビールは? あったあった、コイツもキンッキンに冷えてたら最の高よ! 肝心のタレとか食器がないしそれもな!」

 

 笑い転げながら、あれが欲しいこれが欲しいと願うと、本当に出てくる。どこにでもあるスーパーで買えるような安物ばかりなのは、俺がそういう物しか買わないからだろう。

 だが、こんな夢みたいな話があるか? 願っただけ。願っただけでこれだ。これなら文明圏で暮らさなくても普通に生きていける。欲しいものを欲しいと願うだけでいいなら働かなくていい。なんて夢のようなのだろう。最高過ぎて涙が出てきた。

 

「美味い! 美味いなこれっ! ちゃんと味するっ! 意味分かんねぇっ!」

 

 笑いながら泣いて、食べながら笑う。昨日買っていた缶ビールも、放置されていたのに冷えていて本当に最高――じゃない。

 

「ブフォッ。()()! ヒヒッ、馬ッ鹿じゃねぇの!?」

 

 口に含んだビールは最高に不味かった。味覚が変化しているのか。その事実に、更に笑う。

 一人陽気に早めの昼飯を済ませる。平日の昼飯に焼き肉とか普段なら考えられないが、それでいいのだ。むしろ何も考えたくない気分だったのだから。

 とはいえ一頻り一人で馬鹿笑いしていると、流石に急激に上がったテンションも沈静化する。何より腹が満たされてしまうと、心まで満たされてしまうようで安心してしまった。

 

「はぁー……食った食った。さぁーて、これからどうすっかねぇ」

 

 いい加減、現実を見よう。花房藤太、三十歳。いい歳こいた男がいつまでもウジウジしていたらウザいだけだろう。今の見た目なら可愛いかもだが、中身が俺なんだから可愛げなど求めてない。

 

「よっこらしょ」

 

 立ち上がってソファーに移動し、どっかと腰を落とす。

 足を組んで腕も組み、目を閉じると長考を始める。

 

(現実。全部、現実だ。ゴスペルの言っていたことも、アイツが俺を助けた理由以外は事実だと見といていい。ってなると、今の俺が最優先でしないといけないのはなんだ?)

 

 くえすちょん。あなたはなにをしたい?

 

(元に戻りたい。でもそれは無理だ。だって今の俺はフィフキエルなんだろ? このまま逃げ隠れしていても、天使様の仲間が俺のことを連れ戻しに来るっぽいぞ。そんで俺がお求めのフィフキエルじゃないってバレたらお終いだ、そうなれば俺は殺される……らしい)

 

 元に戻れない、どころの話ではない。生きるか死ぬかの瀬戸際に今の自分はいるのだ。ならばどうする? 安全の確保のために誰かに保護してもらいたいところだが……。

 

(警察……は、無理だろ。自衛隊? 個人のために動くのかよそれ。国も役に立たねぇ。というか普通の人間がどうやって今の俺を守るんだ? なら事情を知ってる人……ゴスペルしかいねぇ)

 

 ゴスペルの所に戻るか? ダメだ。

 

(アイツん所に戻ったらいずれ俺以外の天使と会うことになるだろ。その時に俺はフィフキエルでござい〜って誤魔化せる自信がない。どんだけ先延ばしにしても詰むのが目に見えてる。だいたいゴスペルの野郎が信頼できるとも限らないだろ。副業やってんだぜアイツ)

 

 副業が何かは考えても仕方ない。予想して当たっていたら凄いが、外れていたらアホだ。馬鹿の考え休むに似たりと言う、なら馬鹿丸出しの無駄なことは考えなくていい。

 

(誰だ? 誰に守ってもらう? 悪魔は論外、曙光とかいう連中も。今の俺は天使の体になっちまってるんだ、何されるか分かったもんじゃねぇ。ってなると自分の身は自分で守りましょうって? アホかよ、右も左も上も下も理解してない奴が、一人でなんでもかんでも上手く回せるもんか。絶対にどこかで躓く、早いか遅いかでしかない)

 

 今の俺に一番必要なのは、庇護してくれる誰かだ。そしてその誰かとは組織であることが望ましい。それも俺が天使だと知っても構わないような。

 

(問題はそれを、俺が一人で探せるもんなのか、ってことだ。ま、無理だな)

 

 あてもないのに出来ます! 頑張ります! なんて意気込んでも無駄だ。

 それを弁え、すっぱりと諦める。

 

(ならどうすんの? 今の俺には情報が足りない。ゴスペルに聞きに行くか? ごめんごめん、腹減ってたから飯食ってたわって謝ればいけるだろうけど。できれば関わりたく――待てよ?)

 

 嫌々ながら、ゴスペルの所に戻る方が賢いかと思い悩んでいると、不意にそれを覆す閃きを得た。

 

(ほしいのは情報……で、俺には願いを叶えるって力がある。ならあるんじゃないか? 情報源が)

 

 ちらりと横目に姿見鏡を見ると、絶世の美人な子供と目が合った。あっ、すげぇ可愛い。

 自分なのにそう思ってしまう。いかん、これは邪念だ、雑念だ、気を取られてる場合じゃない。

 

(俺は……あのクソ女天使フィフキエルの全てを継承してるんだよな。ならソイツの知識が頭の中にあってもいいはずだ。俺はゴスペルに名前を聞く前からアイツの名前を知っていた……だったら引き出せるはず。フィフキエルの知ってることを)

 

 解決するべきは、上手いこと引き出せないそれを、どうやって出力して形にするかだ。

 さらなる閃きを求めて右を見て、左を見て、スマホを見た。分からない時は検索するべし。

 では何を検索する? 無論、アニメだ。現実的じゃない状況の中で、現実に発想を求めるのは馬鹿馬鹿しいことだろう。空想の世界の方が、却って俺に閃きを与えてくれるはずだ。

 

「今月の放送予定アニメは……ん、違法少女☆撲殺センカ、か」

 

 スマホの画面に表示されたのは、拳で戦う幼い少女の物語。なんだか凄く気になる色物系っぽいが、そんなことより俺の目についたのは主役らしき少女の足元に転がる、スポ根のトレーナーじみた渋い顔をしている、白いリスっぽいマスコットキャラだった。

 

(……これか? ……これ、だな)

 

 イケるかどうかは実際怪しいが、イケるという自信がある。自信があるならやってみよう。

 願う。俺は願う。

 情報がほしい、絶対確実に裏切らない情報提供者が。それを自分の中から汲み取りたい。自分の頭の中にある知識を取り出したい。もしフィフキエルの知識があるなら教えて欲しい。俺の疑問の全てに、懇切丁寧に応えてくれる便利なマスコットキャラが。

 頼む。頼む、頼む頼む頼む! お願いだから教えてくれ!

 

 ――切実な念を込めてそう願うと、何かが俺の頭の中から抜けていく感覚を覚えた。

 

 白い光が目の前に現れる。粉雪みたいな光の粒が乱舞して、次第に一つの形になった。

 それは、今の俺を更に小さくし、デフォルメした小さな人形。掌サイズのぬいぐるみだ。

 

「………」

 

 どうだ、という確認の意思を持ってその金髪の人形を見る。その人形はフィフキエルをマスコットキャラにしたら、こんな感じだろうという外見であり、羽根もあった。ソイツはゆっくりと目を開き、そして俺の方を見るなり首を傾げる。

 

「……あら?」

 

 喋った。ぬいぐるみが。知らず生唾を飲み込む。本当に出来たぞ、と自分自身に驚きを覚えて。

 ソイツはきょときょとと視線を左右に走らせ、焦ったように俺を見上げた。

 

「あなた……誰? すっごく大きいけれど……天使よね?」

「……ああ。それで、そういうお前は自分が誰か分かるか?」

「わたくし? わたくしは……えぇっと。そう……フィフキエルよ。見たことのない顔……お姉さまに似ている気もするけど、あなたは誰なのかしら。新しく下界に降りてきたの?」

 

 フィフキエル。コイツがそう名乗ったのを聞いて、つい会心の笑みを浮かべてしまった。

 成功だ。思いつきのぶっつけ本番だったが、マジでなんとかなった。もしかして俺って天才なの?

 安堵の吐息を零してまずはフィフキエル――よし、コイツがフィフキエルだ――を手に乗せる。抵抗しようとしたが無意味だ。コイツは俺の被造物、単なる知識の出力装置。抵抗する力はない。

 

「ちょっ、ちょっと! いきなり何するのよ!」

 

 喚くフィフキエルに、俺は失笑しかける。人格まで出来ているのは面倒だが構わない。話が拗れるのも面倒だから適当に合わせ、追々調整すればいいだろう。今は話を聞くのを優先する。

 

「いいから聞け。いいか? 俺はフィフキエル、お前だ」

「……何を言っているの? フィフキエルはわたくしよ」

「いいや違う。お前は俺から切り離された『知識』だ。ちょっと訳があって、あー……そうだな。人造悪魔? とかいう奴の呪い……みたいなのを受けて、徐々に記憶を失くす状態になった」

「……え? そ、そうなの……? 大変ね」

 

 即興の作り話をした。意味が分からず困惑するフィフキエルに、良いから信じろと願いという形の命令を送る。するとすんなりと俺の言い分を信じた。

 確かな手応えを感じる。

 しかし些か勢いだけで作り過ぎたようだ。コイツは試作品ということにしよう。次に作る際には最初から命令を聞く仕様にして、俺の言うことに疑問を覚えないようにしないといけない。

 

「ああ、大変なんだ。だから全てを忘れてしまう前に知識を切り離して、いつでも思い出せるようにお前を造った。知識にAIじみた擬似的な人格を与えておけば、俺の質問にいつでも答えてもらえるだろ? そういうわけで、お前はフィフキエルじゃない、俺の知識だ」

「そうなの。言われてみたら確かにそんな気もしてくるわ。流石はわたくし、冴えてるじゃない」

「それほどでもある」

 

 褒められて悪い気はしなかった。

 フィフキエルは俺を食い殺したクソ女天使だ。しかし、実を言えばそこまで悪感情はない。

 というか悪感情を懐きようもないのだ。なんせあの時は色々なことが突然過ぎたし、理解が追い付いていなかった。殺されたという実感もない。俺がこんなことになってる元凶ではあっても、本音を言うと恨んでやるという気持ちはなかった。

 だからか、この人形が普通に可愛く見える。

 

「それじゃあ面倒だし、お前のことはフィフキエルって呼ぶな? 俺の質問に答えてくれ」

「ええ、いいわよ。でもその前に、あなたはなんて呼べばいいのかしら? どう呼びかけたら良いか決めてないと、後々不便に感じるわよ」

「は? あぁ……そうだなぁ……」

 

 言われて考えてみる。名前、名前か。俺の名前は花房藤太だが、俺の元の体は一応生きてる。ならそっちを花房藤太として、今の俺は別の名前を名乗っとくべきか? いやいやそんな面倒で無駄なことはしなくていいだろ、俺は俺、花房藤太だ。それしかない。

 

 普通に本体って言えばいいだろ。

 

 そう言おうとした。しかし、その直前。

 不意に何事かに気づいた様子で、フィフキエルが顔を外に向けた。

 

「っ!? あなた、伏せて!」

「はあ? なんで――」

 

 直後。バサッ、バサッ、と何か大きな物が羽ばたく音がして。

 なんだと思いそちらに顔を向けた俺は、驚愕の余り固まってしまった。

 

『見ヅケダッ! 見ヅケダッ! 女、オレノ女ァッ!』

 

 ――兎の脚と、熊の胴体。ライオンの頭とコウモリの羽根。体長三メートル近い巨大な化け物が、ベランダの向こうで嬉しそうに嗤っている――そして、俺に向けて一直線に突撃してきた。

 

 

 

 

 

 




面白い、続きが気になると思ってくださった方、感想と評価などをしてくださるよう、よろしくお願い申し上げます。それがあるだけで作者は頑張れます!


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08,悪魔退治のすぐそこで(上)

 

 

 

 

 

 複数の獣のパーツを、無作為に組み合わせた姿の怪物。兎、熊、獅子、蝙蝠――キメラと形容する他にない化け物は、自らを繋ぐ枷が破壊された瞬間から自由を手に入れていた。

 だが自我が発生してまだ間もない怪物である。最も古い記憶は統一された衣服で揃え、嫌な気配を漂わせる人間達が迫ってくる光景だ。なぜか攻撃され、痛いと思った。あらゆる欲望も、あらゆる雑念も持たない誕生直後の無垢とすら言える状態だったこともあり、その怪物は少しの痛みにすら怯え、堪らず逃げ出した。痛いのは嫌だとグズる幼子のように。

 

 ――直後のことである。外見通りの獣に等しい本能で、怪物は自身の危機を察知した。

 

 天使だ。地上に存在する、僅か十二体の本物の天使。

 だがそのたった十二体で任を成す、あらゆる悪の天敵である。

 怪物はその姿を感知した。輸送ヘリの中で寛ぐ姿を、ヘリの装甲越しにはっきりと視た。

 本能的に、三つのことに気づく。

 雑念がない無垢な状態だったのが、その怪物には幸いした。

 余計な理性で思考にノイズが走らなかったのだ。

 故に悟った事実を受け入れられたのである。

 

 格が違う。対峙した瞬間に殺される。あらゆる意味で歯が立たない。

 逃げられない。ここで殺される。逃げ回っても天使とその配下の人間に殺される。

 ――殺せる(・・・)今なら(・・・)

 

 どういうわけか、天使はこちらを見もしていない。気づいていないのではない、逆に明らかに気づいている。しかし格の差も同様に見抜かれ、自分が手を下すまでもないと侮ったのだ。

 天使の心中など怪物は知らぬ。ただ事実だけを認識している。

 幸いだったのはその天使は自らの力の多くを、配下の人間に割いて加護を与えていたこと。それにより本来よりも大幅に弱体化しており、力を与えられている配下も別の人造悪魔を仕留める寸前にいたことこそ幸運だった。それによりこの瞬間だけはこの怪物の周りは手薄であり、一か八かの賭けに出る余地を生んでしまっていたのである。

 更に。天使は、驕っていた。たとえ自身の力が弱まっていても、なお力の差は歴然としている。天使は怪物より深く勘付いていたのだ。とうの怪物が自身との格差に気づき萎縮した、と。故に油断していた、まさか自分に向かってくることはないだろう、なんて。

 

 ――ヘリの装甲を突き破り、間近に迫った怪物を見た時の天使の顔は見ものだった。

 

 え? と驚いた顔をしていたのである。果たして怪物の獅子の頭が持つ、豊かな鬣が蠢き、生まれた時から存在した知識にあった武器に変化した。間近で放った対物ライフルが女の腹部に風穴を開ける。逃れようと身を捻っていた背中に、刀身だけの刀で斬りつける。

 ほぼ同時に渾身の頭突きを見舞い、天使を吹き飛ばした怪物は愕然とした。

 油断を突いた、不意を打った、今出せる全力を振り絞った。なのに、それでなおも死んでいない。

 致命傷を与えられはした。だが殺せていない、人間基準の致命傷程度では死なないだろう。

 

 そこからはもう必死だった。知識として知っている、天使が死なないと人間に与えられた加護は消えない。つまり天使を傷つけられ激昂した人間の群れと戦えば、自分は殺される。

 特にあの人間(・・・・)だ。

 群れの中で一際大きいあの人間だけはダメだと怯える。幸いにもあの人間はこちらに向かってこなかったが、もしこちらに来ていたら逃げられもしなかっただろう。

 加護の臭いはしない(・・・・・・・・・)のに。素の力しかないはずなのに。人造とはいえ悪魔である怪物を凌駕するアレは、化け物だ。だから怪物は遮二無二に逃げて、逃げて、逃げた。逃走に徹した。

 

 必死に逃げ惑ったお蔭で、怪物は無事に死地から脱せられたのである。

 

 だが逃げたところで怪物に目的はない。

 もう安全だと判断した頃に、怪物は根源的な飢餓感に襲われた。

 

(不味イ)

 

 無知で無力な人間は、悪魔や天使、そしてその加護の下に在るモノに気づけない。天使の【聖領域】と類似した、天然物の悪魔が具える【侵食域】を、この怪物も当然のように具えている。

 故にやりたい放題だ。もちろんやり過ぎれば、先程の人間の群れに見つかるリスクが増す。だから知恵を働かせて病院なる施設に向かい、寝たきりの人間からマモを全て奪って喰った。

 

(不味イ)

 

 最悪の味だ。全く満足できない。歓楽街に行って、適当な若者を見繕いマモを奪う。

 やはり不味い。更に若い子供を、住宅街に忍び込み一人喰ってみる。

 

(不味イ!)

 

 何故だ。何故不味い?

 

 怪物は人間のマモを吸う度に、知性を獲得していっていた。人間並みとは言わない。まだ成熟には程遠い。しかし確かな知性が怪物を悪魔にした。知性の成長と共に、欲望が芽生えたのだ。

 

(人間ノ『マモ』ハ美味イノデハナカッタノカ!? 不味イデハナイカ!)

 

 苛立ちの余り、マモを失くした幼子を抱いて寝ている女の頭を握り潰す。怒りが収まらず男の心臓を引きずり出した。それでも抵抗がない、何をされているのか気づかないまま一家は死んだ。

 何故だ! 何故だ! 悪魔は煩悶としながら、凄惨な光景の中で頭を捻る。

 そうしていると、悪魔の頭に、あの驚いた顔の天使が浮かび上がった。

 ドクンと心臓が脈打つ。未知の感覚に驚いて、悪魔――製造者に付けられた名はヌーア――は胸の真ん中に手を置いた。なんだこれはと疑問に思って、悪魔は思考する。

 

(アァ……ソウ、カ……)

 

 この世に生を受けて、一番最初に触れたモノ。それがよりにもよって人間とは比較にならぬほど美しく、強く、貴いものだったから。極上の美味を、返り血で味わってしまったから。だから人間如きでは満足できなくなってしまったのだ。

 あの時は堪能する余裕がなかったが、今なら分かる。あの女しかいない、あの貴い天使だけが自分を満足させてくれる。そう錯誤したヌーアは飛翔した。家屋の天井を突き破り、天高く。

 その様は日輪に近づきすぎたが故に天に落ちた男のようで、背徳的なまでにひたむきだ。悪魔は何時間も根気強く、ただただ己の欲する天使の気配を探し続ける。

 

 故に悪魔(ヌーア)それ(・・)を感知した時、歓喜して脇目も振らず突貫したのだ。

 

 気づかないわけがない、感知できないわけがない。だって男を狂わす娼婦のように、あんなにも熱心に奇跡を連発している(尻を振っている)のだ! あんなに【天力】を垂れ流されては馬鹿でも分かる!

 

『見ヅケダ! 見ヅケダ! 女、オレノ女ァッ!』

 

 あの天使が健在であるなら到底勝ち目はない。天使が単独であるとは考えづらく、近づく前に人間の群れに殺される。更に言えば一度不覚を取った相手にまで油断する馬鹿はいない。――そうした当たり前の危険性は、悪魔の頭から抜け落ちてしまっていた。

 

 人の諺にこんなものがある。恋は盲目、と。

 

 悲しいかな、ヌーアは一目で天使への恋に落ちていたのだと、自覚できるだけの知性をまだ持っていなかった。恋への免疫を持たない故に、後先を考える計算高さを持ち合わせなかったのだ。

 もしも今少し人を襲い、マモを喰らって知性を育んでいたのなら。もしも今少し悪魔らしい悪辣さを磨けていたのなら。犠牲者を認知していない今の天使になら取り入れて、その傍にいることができたかもしれない。だが最早、そんな未来はどこにもなかった。

 

 狂奔する人造の悪魔が往く。

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 せっかく修復したガラスドアが砕け散る。

 外から突進してくる化け物を見た瞬間、本能的な危機感を刺激された俺の体は勝手に動いていた。

 

「うっ、わぁぁぁ――ッ!?」

 

 俺の矮躯を掴もうと伸ばされた熊の両腕を、反射的に左腕で弾き上げる。

 予想外の膂力を発揮した一撃は容易く人造悪魔にバンザイの格好を強制し、左足を軸に左回転した体が獅子の頭へと回転上段蹴りを放っていた。

 流れるような防御からの反撃。鞭の如く撓った右脚に伝わった衝撃で、間違いなく人造悪魔(キメラ)の牙を圧し折ったという確信があった。だが自らが繰り出した、神業めいた反射行動に驚きを覚える前に悲劇が起こる。俺の足刀を食らったキメラが真横に吹き飛んだのだ。

 するとどうだ、醜悪なキメラはマンションの壁を貫通して、視界から瞬く間にいなくなってしまったではないか。撒き散らされる轟音と、コンクリートの破片――唖然とした俺は声を震わせる。

 

「え、え? なんで、俺……」

「あなた、手を抜いたでしょう!? わたくしらしくないわ! あんな雑魚、やるなら今ので終わらせなさい!」

 

 何故か全身に鳥肌が立っているのに気づく余裕はない。凄まじく下卑た気配だったのだ、余りの嫌悪感に震え上がってしまう。だがフィフキエルの叱責に引かれ呆然とする愚は避けられた。

 手加減なんかしてるわけない。そも、全てが反射行動だったのだ。むしろどうしてあんなにも鮮やかな反撃ができたのか、そちらの方が不思議だろう。

 マンション全体が激しく振動している。震度七の地震を超えたのではないかというほどの揺れに、マンションの住人達が動揺する気配を感じ取ってしまった。言語化できない焦りを覚える。

 

「フィフキエル! お、俺はどうしたらいい!?」

 

 どうすればいいのか分からないなら、分かるはずの相手を頼る。普段から通していた姿勢が咄嗟にぬいぐるみ姿のフィフキエルに判断を仰がせた。すると即答でフィフキエルが言う。

 

ベランダ(そこ)から外に出なさい! 雑魚相手とはいえ万が一があるほど今のあなたは弱いわ、態勢を整えてから迎撃するのよ! 冷静に対処すればあなたの方が100倍強い!」

「わ、分かった!」

 

 フィフキエルを掴んで自身の肩に乗せると、言われた通りに大急ぎでベランダに出る。しかしここは四階だぞ、どうしろというのか。まさか、飛べと? どうやって?

 

「羽根はどうしたの!? なぜ仕舞っているの! 天使の誇りよ、さっさと出して飛びなさい!」

「ああ! ……でもどうやって? こ、こうか?」

 

 羽根を出せと言われても出し方なんて分からない。だから先程と同じ要領で願い、羽根を出したいと強く念じた。すると背中に違和感、ばさりと羽ばたく感覚に後ろを窺うと、白い羽根が俺の背中に生えていた。なんてメルヘンなんだと思うも、笑ってる場合じゃあない。だが即座に飛び立つ覚悟は固まらず、南無三! と叫んでベランダから虚空へと身を投じる。

 落下する感覚に心胆が縮み上がる。必死に羽根を動かすと、一度の羽ばたきで一気に浮遊した。急に生えてきた新しい腕、そんな感覚に『新鮮な違和感』とでも言うべき異物感を得る。だが自身が空を飛んだという驚嘆に、そんなものは一瞬で掻き消えた。

 

「おっ、おおおお! とっ、とと、飛んでる!? 飛んでるぞっ!?」

「当たり前でしょう? 何をどこまで忘れているのかしら……まあいいわ、それより早くあのゴミを掃除するわよ。あんな雑魚、本当ならわたくしが出るまでもないというのに……ゴスペルはどこをほっつき歩いてるのかしら。使えないわねぇ……」

 

 言っている間にもマンションから凄まじい轟音が轟いていた。

 下に落ちた、空を飛んだという新感覚に興奮しかけていた意識が冷め、無意識に体勢を制御して振り返ると、眼前で信じ難い光景が作り出されているのに瞠目してしまう。

 キメラの勢いは留まることを知らなかった。まるで見失った宝物を必死に探す幼子のように、玩具箱をひっくり返そうとしているかの如く、マンションの四階層を遮蔽物を無視して駆け回っているのだ。だが超常の存在であるキメラが、人の造った建築物の中で縦横無尽に駆け回ればどうなるか、当然の帰結となるアンサーが示されてしまった。

 

 高さ60メートル、20階層を誇るタワーマンションは、四階層を崩壊させられることでバランスを保つことができず、ジェンガのように崩れ去ろうと大きく傾いたのだ。

 

「――――ッ!?」

「どこを見ているの、あのブサイクなのが来るわ!」

 

 探しものが外にいると気づいたキメラが、砕けた牙にも構わず再度突貫してくる。飛翔してくる醜悪なキメラの姿をはっきりと視認した俺だったが、しかし今はそんなものよりも気を取られてしまうものがあった。住み慣れた住処の崩壊――マンションの中にいた人達。そして外を歩いていた通行人。最寄りの建築物。放っておいたら大惨事が確定している、だから発作的に叫んでいた。

 

「『元に(・・)ッ! 戻れ(・・)ェェエエエ――ッ!!』」

 

 声よ枯れろとばかりの絶叫。体の中からごっそりと、何かの温かみが減る。満面に汗を浮かび上がらせると、時間が巻き戻るかの如くタワーマンションが元に戻っていくではないか。

 願いを叶える能力。まさに神の奇跡とすら言える劇的な現象。だがそちらに気を取られたのがいけなかったのか、キメラが俺の至近にまで辿り着き毛むくじゃらな腕で俺を捕まえた。

 その様はまるで抱擁にも似て。堪らず総毛立った俺は、キメラの醜悪に歪む顔を見上げた。

 

『ヅッ、ヅヅヅ、捕マエタァ! アッハハハ!』

「テ、メェ……気安く触んな、獣臭いんだよこの動く動物奇想天外がァッ!」

 

 全力で足掻くと、やはり容易くキメラの拘束から脱せられた。俺の体の2倍以上もあろうかという太さの腕を強引に払いのけて、自分の住処を破壊してくれやがったクソ野郎への怒りと触られた嫌悪感をぶつける。顔面に全力で踵落としを放ったのだ。

 だが獅子の鬣が蠢き、触手のように伸びて俺の蹴り脚に絡みつく。その感覚が怖気がするほど悍しくて全身が震えてしまいそうだった。キメラが嗤う。黒板に爪を立てたかのような不快な声で。

 

『逃ガサナイッ! ドコニモ行クナ、オレノ女ァッ!』

「誰が誰の女だ、俺は男だぞッ!」

「男でもないようだけど?」

 

 力任せに振り払うと、黄色い鬣がハラハラと千切れ飛ぶ。執拗に迫るキメラから逃れようと、羽根を動かして急上昇していく。しかし慣れの問題なのか、諦めずに追い縋ってくるキメラの方が僅かに速い。徐々に追い付いてくるキメラが腕を伸ばして再び抱きしめようとしてくるのに、俺は泣きそうになりながら叫び声を上げ、全身全霊を込めた鉄拳を熊の胴体部分に突き込んだ。

 固い筋肉を貫き、体の芯まで通る衝撃にキメラが吐瀉して一気に落下する。そのまま地面に激突してアスファルトの破片を巻き上げた。

 

「だぁから触ろうとすんなや! 男の人呼ぶぞ!?」 

「あなた、気をしっかり保ちなさいな。言動がおかしくなってるわよ……? わたくしってこんな性格だったのかしら……?」

 

 肩にしがみついているヌイグルミが何か言ってるが、今は耳に入らない。そんなものより、今は地面の方が気になっていた。他人への迷惑を気にし過ぎる日本人の鑑とでも言うべきか、俺は破壊されてしまった通路が気になって仕方がなかったのだ。

 

「『……戻れ』」

 

 呟くように願うと、遥か下方にある地面が元通りになる。すると今まで自覚していなかった、俺の中の何かが減る感覚を感じ取れた。

 なんだこれ。得体のしれない感覚に、もしかしてMPでも減ったかなとゲーム脳で思う。

 正解だった。果たして地面に大の字で倒れていたキメラが、にやりと嗤って言ったのだ。

 

『【天力】ヲ無駄打チスルトハ。ソンナニ大事ナノカ、コンナモノガ。ナラコウシテヤル』

 

 天力? 魔力みたいなもんか。キメラの声が聞こえてそう思ったのも束の間のこと。おもむろに拳を振り上げたキメラが、そのまま地面を殴りつけた。

 

「は?」

「何やってるの、あれ」

 

 困惑する俺とフィフキエルの前で、キメラが地面を滅茶苦茶に破壊する。

 立ち上がって電信柱に駆け寄ったと思えば圧し折り、近くのコンビニを殴りつけて壁を壊す。

 

「『……戻れ』」

 

 元通りにする。キメラがこちらを見上げた。

 今度は有料駐車場に走り、駐車している車を跳ね飛ばしていく。ちらりと、またこちらを見る。

 まるで意中の女の子の気を引こうとする、小学生男子の悪戯めいた行動。

 それに、俺は青筋をこめかみに浮かび上がらせた。

 

「『戻れ』……おいたが過ぎるなぁ、こんのクソガキがァ……!」

「ちょ、ちょっと、あなた? 何をそんなに怒っているの?」

 

 我慢の限界だった。むしろなぜ我慢していたのだ。生理的に受け付けない存在へと成り下がった獣畜生に、俺は確実にブチキレてしまって。

 なぜか嬉しそうにこちらを見る悪魔の許に、一気に降り立ちに向かう。コイツは生かしておいちゃいけない害獣だ、駆除してやろうという尋常ではない殺意を懐いて。

 

 自分の中で人らしい心理的ブレーキが、音もなく壊れたことにとうの俺は気づいていなかった。

 

 

 

 

 

 

 



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09,悪魔退治のすぐそこで(下)

 

 

 

 

 

 カツン、と硬質な靴音が鳴る。スマートな靴音の正体は、革靴の踵が生んだものだ。

 恋した天使が自ら近づいてきてくれたことで、悪魔(ヌーア)は興奮した様子だ。熱っぽい眼差しからは期待の欲が透けて見える。だが上空から降り立った天使は、その欲望を一顧だにしなかった。

 カツン、カツン、カツン。まるで歌劇の舞台上。靴音だけで道行く通行人をエキストラ以下の背景にまで叩き落とす、天蓋の如き存在感。黒髪を纏めていたゴムが切れ、ふわりと流れた毛先から黄金へと色を変えた。頭上に描かれる目映い天使の輪が、舞台上の天使を異様なまでに輝かせる。光を纏ったその姿は、まさしく【傲り高ぶる愚考】フィフキエルそのもの。

 スーツ姿の天使は背中の羽根を畳む。傲慢な視線は子供の容姿であるのに堂に入り、自身に比して遥かに巨大な悪魔を塵芥のように見下していた。人には有り得ぬ天上の威光だ――悪魔は恋い焦がれる天使へと吸い寄せられるように歩み寄り。

 

「『平伏(ひれふ)せ』」

 

 動くことを赦さぬという強烈な意思を秘めた言霊に、その五体を地面へと叩きつけられていた。

 

『アッ?』

 

 命じられただけだ。それだけでヌーアは自らの体を地面に投げ出したのである。自傷をも厭わぬ全力での平伏、意のままにならぬ体に悪魔は混乱し。その頭を、天使の小さな足が踏みつけた。

 

「ママに習わなかったのか? 人様に迷惑をかけちゃいけませんって」

『イギャァアアア!』

 

 ぐりぐりと、悪魔の頭を踏みにじって告げる天使の視線は冷徹な白銀色。天使の体に人の魂を持つ聖偉人には、比重を限界まで天使に寄せてしまった自身の変容に気づいた様子はない。

 絶妙なバランスで奇跡的に成り立っている無性の天使。天使に寄れば寄るほど傲慢に、それ以上に強力な天力を発揮するが、そうであるが故に今の聖偉人には悪魔という『地上の汚れ』が許容できない。増幅し続ける殺意は瞬く間に臨界にまで達し、踏みつける悪魔の頭をそのまま踏み潰そうとした。だがそうすることで生じた地面の亀裂に目を細める。

 

「チッ……」

 

 特大の舌打ち一つ。

 聖偉人は自身の足から力を抜き、どうすれば周りに被害を出さないで片付けられるかを思案する。

 思案して。

 周りの被害(そんなの)はどうでもよくない? と、思ってしまった。

 

「あら、やっとわたくしらしくなった」

 

 危険な思考に歯止めをかけたのは、本人にその気はないのだろうフィフキエルだった。

 愛らしいヌイグルミの彼女は上機嫌に言う。

 

「悪魔というだけで薄汚いっていうのに、人間なんかに造られた雑魚は足蹴にするのが相応よ。そのまま踏み潰しちゃいなさいよ」

「………」

「どうしたの、あなた?」

 

 人間なんか。何気ない言葉が引っ掛かる。フゥ、と息を吐いた。

 聖偉人が目頭を揉む。凄まじい全能感に酔い、怒りに呑まれている自分を俯瞰する。

 怒るな、怒りは仕事に差し障る。新社会人の頃、飲み会の席で絡んでくる上司にプッツンして、グーパンを食らわせてしまったことを思い出せ。後日、上司は覚えてないと言ってくれたが、露骨に干されてしまって部署を変えられた苦い思い出だ。

 短気は損気だろう、自身にそう言い聞かせると怒りが引いた。

 すると聖偉人の髪が黒に戻り、頭上の天使の輪も消え去る。ついでに『なんでもできる』という全能感も。呆気にとられたのはフィフキエルだ、折角本来の自分に戻ったと喜んでいたのに。

 

「みすぼらしい姿に戻らないで。見苦しいわよ」

「うっせ」

 

 明らかに力が弱まったのは感覚で理解している。悪魔の頭を踏みつけたまま聖偉人は感覚を辿った。

 先程のアレ。アレはいいものだ。どんな感じだったかなと思いを馳せて――

 

『ウッ、グゥゥアアア! オレヲォ、足蹴ニスルナァ!』

「うわっ」

 

 地面に這いつくばらされていた悪魔が、癇癪そのものとも言える怒りを爆発させて、全力で跳ね起きた勢いで聖偉人を後退させる。蝙蝠の羽根を羽ばたかせ飛翔した悪魔の目には涙があった。

 なんでだ。なんで自分の想いに気づいてくれない。どうしてこんな酷いことをする。どうして自分に優しくしてくれない。好きになってくれない。嫌だ、こんなの嫌だ、認めない!

 意中の相手にフラれた初心な子供のように、悪魔は泣きながら逃げ去っていく。しかし、やはりというべきか、聖偉人は全く悪魔の内心になど関心を示すことはなかった。

 

 思いのほか強い抵抗を受けて驚いたが、それだけ。聖偉人は数秒の沈黙を挟んで頷いた。

 

「うっし、こんな感じだったか? 朝、仕事に行く時の気合の入れ方だな」

 

 途端、聖偉人の頭上に再び天使の輪が出現し、髪がフィフキエルのものと同色へ変じる。無性の聖偉人は自らの成した変化をいとも容易く再現したのだ。

 我に返ったせいで弱体化したのは分かった。それはマズイ気がした。そしてできそうだったからやった――それだけの話である。制御を全く苦としないその様に、誰かが息を呑む。

 

「なによ、できるなら最初からやりなさいな」

「できるってことを今知ったんだから仕方ないだろ。それよりフィフキエル、アイツなんだけどさ、このまま逃がしてやってもいいと思うか?」

 

 怒りが萎み冷静さを取り戻したお蔭か、聖偉人は悪魔の様子がおかしいと察していた。

 まるで体ばっかり大きい子供を相手にしている気分になったのである。

 実はそこまで悪い奴じゃないんじゃないか、そう思ってしまったからこその問い。

 

 それにフィフキエルは呆れたように答えた。彼女は聖偉人の疑問には全て答える存在である。

 

「いいんじゃない? どうせアレのこと、【曙光】が回収する為に動いているでしょうし。あの雑魚を泳がせるだけで【曙光】の拠点が割れるなら安い買い物よ」

「あー、そうなる?」

「当然。でも【曙光】の回収が遅かったら、またわたくしの所に戻ってきそうね。力の差は思い知ったはずだから、手当たり次第にマモを集めるんじゃないかしら。そう考えると逃がすのは全然有りだと思うわよ? わざわざマモを集めて来てくれて、わたくし――じゃなくてあなたの力を回復させられるかもしれないんだから」

「……なんだって?」

 

 遠ざかっていく悪魔の姿は、既に彼方にある。豆粒みたいに小さく見えるほどに遠いのだ。

 聖偉人はフィフキエルの言葉に眉を顰める。物騒な予感を懐かせる台詞だったからだ。

 

「マモを……集める?」

「……? ええ。あなたもマモは必要でしょう? 呪いに冒されたせいで記憶が失くなってるなら、マモを糧にして回復するのが一番効率がいいもの。充分なマモがあれば呪いも洗い流せるわ」

「……アイツが、人を殺すってのか?」

「そう言ったつもりだけど? 別に良いじゃない。アレが集めたものも、あなたが取り上げればいいのだから」

 

 あっけらかんと言い放つフィフキエルに、人の心が絶句する。

 

 マモとは魂だと聞いた。それを集めるというのは、すなわち殺人行為を意味する。

 聖偉人はまたしても舌打ちした。悪魔は所詮、悪魔でしかないのだ。

 あんなものを野放しにしていては、とてもじゃないが枕を高くして眠れないだろう。あの悪魔を逃がしたせいで人が死ぬと知ってしまったら、余計な罪悪感を覚えて安眠できなくなってしまう。

 

「クッソ、それなら逃がす訳にはいかねぇじゃねぇか!」

「どうして?」

 

 フィフキエルの疑問は無視し、スゥー……と深く息を吸って念を溜める。

 何度も使った能力だからか、もはや意識するまでもなく行使は能う。人間の感覚ではない、天使の具える機能でもない、規格外の才を宿した肉体が遣り方を教えてくれた。

 

「『戻ってこい! ここに、今すぐに!』」

『――ナッ――ンダ!?』

 

 願いとは意思のベクトル。何に願うかではない、どうしてほしいかを考える思念の形だ。ゴスペルに聖偉人と称された金髪銀眼の天使の目の前に、願いの形が具現化する。

 遥か遠方にまで逃れていたはずの悪魔が、唐突に出現したのだ。距離を手繰り寄せる異常な現象、それに逃げ切ったはずの悪魔が瞠目する。見たことのある景色がそこにはあって、混乱した。

 だがすぐ後ろにある天使の気配に、悪魔はすぐ我に返り慄然とする。そんなまさかと背後を振り返ろうとした巨体のキメラは――しかし、振り返ることを赦されなかった。

 

「『平伏せ!』」

『アガッ』

 

 先刻と全く同じだ。肉体が随意とならず、地面に叩きつけるようにして這いつくばってしまった。

 藻掻く悪魔の背中を、苦々しい顔で見詰めながら、天使はフィフキエルへと問う。

 

「……殺すなら、どうやって殺せばいいんだ」

「え? 殺すの?」

「……不本意だけど、俺がやらなくちゃ人が死ぬだろ。放り出して俺は知りません、なんて無責任な態度は恥ずかしくて取れねぇよ」

「殺してもメリットなんかないと思うけど……いえ、あったわね。このブサイクな雑魚悪魔が死ぬ、これに勝るメリットも考えてみたらなかったわ」

「………」

「そうねぇ、殺すならわたくしの『浄化』を使えば? 悪魔には効果覿面よ。ああ、さっきからあなたが連発してる、おかしな力でもいいわよ? わたくしにそんな力はなかったと思うけど、使えるなら使うべきね。『死ね』とでも命じたら死ぬんじゃない?」

 

 悪魔は頭上で交わされる会話に恐怖した。愛しの天使が自分を殺す算段を立てている、なんで、どうして。自分はこんなにも――こんなにも? こんなにも、どうしたんだ?

 混乱する。迫る死の予感と、足蹴にされた痛みと、胸のあたりから発される謎の痛み。これはなんなのだと懐疑して、足掻くように悪魔の【魔力】を全開にして立ち上がろうとする。

 だができない。立ち上がれない。天使の天力に抗えるだけの力が自分にはないのだ。まさか、このまま死ぬのか? 成す術もなく、殺されてしまう?

 

『イ、嫌ダ……嫌ダァァァ!』

「………」

 

 駄々をこねる子供のように手足をばたつかせるも、やはり這いつくばる体に力が入らなかった。自身の意思に逆らい、天使の命令を遵守してしまった。

 それを憐れむように見下ろす天使に悪魔は抵抗する。体が動かないなら別の力を使うしかない。今はとにかく生き残るのが先決だ。昨夜、天使を一度は行動不能にまで追いやったように、獅子の鬣を変化させて多数の武器にした。

 刀、剣、槍、銃。その全てに渾身の魔力を宿して、通常兵器の数十倍にまで威力を跳ね上げたそれを愛しの天使へと向けてしまった。

 だが、それが通用したのは奇襲だったからだ。天使が油断していた上に、完全に視線を切っていたからである。目の前で相対した状況で、なおかつフィフキエルほどの傲慢さを具えていない聖偉人は、驚きながらも簡単に対応してのけた。

 

 四方八方から迫る刀剣類の悉くを、手を払うような所作の一撃で全て破壊してのけたのである。あまつさえ分厚い鉄塊をも貫く、魔力で強化された無数の銃弾をも蝿のように叩き落された。

 

「おっ、と……おいおい、俺の反射神経ぶっ壊れすぎだろ」

 

 乾坤一擲の反撃に対する天使の感想はそれだけだった。這いつくばりながらも悪魔は愕然とする。

 ここまでなのか。ここまで力の差があったのか。だったらどうして、昨夜はあんなにも簡単に不意打ちなんかを食らったんだ。意味が分からない――そう思って。

 

『ア……オマエ、誰……?』

 

 ようやく、悪魔は目の前の天使がフィフキエルではないと気づいた。

 フィフキエルによく似ている。天力も、姿も。だが全く違う存在ではないか。

 だってフィフキエルは、こんな、こんな――

 

「『死ね』」

『ィイッ』

 

 天力が自身の体を侵す。己を死に至らしめようとする。ヌーアはそれに死に物狂いで抗った。

 何度も天力を無駄遣いしていたせいだろう、消耗している奇跡の力に拮抗してみせた、悪魔の底力を見てフィフキエルが呆れたように呟く。

 

「あらら。天力の使い過ぎみたいね。ガス欠だわ」

「マジでか。よりにもよってこのタイミングかよ」

「どうするの? 下僕(しもべ)達に割いてる力でも還元する?」

「……いや、それをしちゃダメな気がする。勘だけどな、なんでかこの勘を無視できねぇ」

「なら方法は一つね。天力が尽きかけてるなら、拳で殴り殺しちゃいなさい。わたくしなら汚くて触りたくもないけど、どうしても今ここで殺しておきたいなら他に方法はないわよ?」

「うぇぇ……クソッ、こんなことなら焼き肉天国するんじゃなかった」

 

 嫌がりながらも、さほど心理的な抵抗を覚えていない様子なのは、きっと人間の心が天使に傾いている状態だからなのだろう。腕まくりをしながら悪魔の背中の上に立った聖偉人が嘆く。

 

汚れたくない(・・・・・・)なぁ……ああ、嫌だ嫌だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

「うるさいなぁ! 静かに死ねよ!」

「面白いこと言うのやめて?」

「混ぜっ返すのもやめろ、フィフ! 素面でこんなのやってられるか!」

 

 断末魔を上げる悪魔の後頭部を、天使が小さな拳で殴り続けている光景に、その天使の回収に来ていた少女は顔を引き攣らせてドン引きしていた。

 セーラー服姿の彼女は、一部始終を目撃していたのだ。

 これ、ホントに人間? 黒髪の少女は乾いた笑みを零し、呟く。

 

「――バケモンじゃん、コイツ」

 

 アタシの手には負えない気がするんだけど。

 少女の呟きは、小さくなっていく悪魔の断末魔に紛れて消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




初戦闘回のつもりだったのが、ただのイジメになってしまった……。

面白い、続きが気になると思っていただけたなら、感想評価よろしくお願いします!!


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10,退魔少女との邂逅

 

 

 

 

 

 まるで十八歳未満の閲覧が禁止されているグロ画像だ。頭蓋骨が木っ端微塵に砕け、脳漿や脳髄が四散し辺りをデコレーションしている光景は、尋常の神経の持ち主なら正視できないだろう。

 手足をビクン、ビクンと痙攣させる息絶えた混合獣(キメラ)から離れながら、悪魔にも死後硬直はあるんだなと無駄な所感を得る。意外としっかり生き物なんだなぁ、と。てっきり倒したら消えるものだと思っていたが、死体はきちんと残るものらしい。処理が面倒だ――頭頂部から足の爪先まで、たっぷりと返り血を浴びた俺は、うんざりとした溜め息を溢して言霊を吐く。

 

「『綺麗になぁれ』と」

 

 自身の体と衣服が清潔な状態に戻る。肉体的な疲労はあまりなく、少し良い運動をしたなという心地よい疲れが残っていた。ボランティア活動をした後の『良いことをした』気分の良さだ。

 願いを叶える奇跡の力は、概要だけを聞くとフワッとしていて使い辛い。だから俺は言葉にすることで、能力に指向性を持たせて使いやすくしていた。第三者が見たら言霊みたいなものに見えるのだろうが、本質は全然違う。素人の見解で恐縮だが、これは『俺の叶えて欲しいお願いを、生物・非生物問わず指定した対象に、無理矢理叶えさせてしまう』ものだと言えた。

 

「ねぇ、あなた。マモは回収しないの?」

「ん? するわけないだろ、俺は人殺しなんかゴメンだ」

 

 肩にしがみついたままのヌイグルミが戯言をほざくのに、俺は呆れたふうに言い捨てる。

 だがフィフキエルはそういうことが言いたいんじゃないと否定した。

 

「何も罪のない人間を殺せなんて言ってないわよ。ほら、そこに転がってる雑魚を見て。コレが取り込んでいたマモが溢れてきているわ。食べたばかりだから消化が終わってないのね」

「この、薄い光みたいな奴? この野郎……もうとっくに人を殺してやがったのか……」

「そうよ。マモのことも忘れてるなんて重症じゃない……」

 

 言われて振り返ると、確かに悪魔の死骸から薄っすらとした何かが漏出している。これが、マモ。一度視認したら、どうしてか目が離せなくなった。

 しかし理性的な忌避感で、視線をマモに釘付けにされながらもフィフキエルに問いかける。

 

「なあ……マモを回収したら、それはどうなるんだ?」

「あなたのモノになるわ。放置していたら死霊(レイス)化するかもだから、放っておくのはわたくし的に推奨できないわね。それと……いちいちそんなことを訊いてくるぐらいだから忘れてるんでしょうけど、わたくし達【下界保護官】には人間の魂を蓄える義務があるわ。いずれ天上へ還った時、蓄えた人間の魂の良し悪しを見極めて、天の国に住まう資格があるか裁定するの」

「そうなのか? 俺はてっきり、天使もマモを食うんだと思ってたんだが」

「食べはするわよ。だって美味しいもの。けど訳もなく食べたりはしないし、善の魂も基本避けるわ。地獄に落ちて当然の人間を、たまーにつまみ食いするのがわたくしの趣味ね」

「……へえ、そうなんだ」

 

 だったらなんで俺を喰ったんだ。俺は喰ってもいい悪人判定したのか?

 一瞬、フィフキエルを握り潰してやろうかと思ったが、コイツはフィフキエルじゃない。その知識でしかなく、本人はとっくに死んでいる。何をしても八つ当たりにしかならないだろう。

 苛立ったが、嘆息して怒りを忘れ、悪魔から漏出したマモに手を翳す。すると薄い光が俺の手を伝い吸収されていった。その感覚に、俺は硬直する。

 

(う、美味っ……!? な、なんだこれ……!?)

 

 あたかも全身が舌になり、五感の全てが味覚に置き換わったかのような、広く深淵な味。これまで食べてきた何にも似ていないのに、どれもに似ているような矛盾的感動。マモを取り込んだ刹那に体の芯を美食の槍が貫いたかのようだ。多幸感に脳が痺れさえする。

 言葉にならない。だが同時に、もう二度と味わってはならない感覚だとも思わされた。この先何度もこれを味わえば、人としての道を致命的に踏み外してしまうという確信がある。

 歓喜に震える本能を、理性を掻き集めて総動員し、強引に抑え込むことで心が満たされる感覚から意識を逸らした。そして理性が保っている内に、言霊という形で自身に言い聞かせる。

 

「『マモに味を感じるな。マモの味を忘れろ』」

 

 奇跡の力が効力を発揮し、自分自身を縛り付ける。口の中に溢れそうなほどの涎を飲み込んだ。

 フィフキエルはそんな俺を、変人でも見るような顔をして眺めている。無性に腹が立って肩から引き剥がし、両手で力強く挟み込んでやった。

 

ひょっひょ(ちょっと)!? いひゃい(痛い)! にゃにしゅるのよ(何するのよ)!?」

「うるせぇ。黙って遊ばれてろヌイグルミ」

 

 ご主人様に廃人コースの味を教えやがった罰だ。今は無理にでも忘れたが、あんなのまた食べたくなってしまうに決まってるという感想は残っていた。同時にそれを戒める理性も。

 もし忘却しなければ、いずれこの欲に耐えきれなくなり、人を殺してしまう自分の姿がリアルに想像できてしまうのだ。それほどまでに衝撃的で、罪深い誘惑の味だったのである。

 そうして傍目に見ると、往来でヌイグルミと戯れる美人な子という図になっているのを俯瞰して、少しばかり気恥ずかしくなったが、誰も見てないんだから気にしなくてもいいよなと思う。

 だが不意に、人の気配が俺に近づいてくるのを知覚した。

 

「あ、あのぉ……」

「っ――!?」

 

 声を掛けられると、過敏に反応して勢いよく振り返る。

 これまでどれほど派手に大騒ぎしていても、全ての人が見ざる言わざる聞かざるの三猿になって、単なる通行人と化していた。天使が具える基本機能【聖領域】の効力によるものだ。

 俺はそれを使っているという自覚がなかったが、無意識に【聖領域】を展開していることへの理解は密かに持っていたのだろう。だから俺は話しかけられたことに仰天してしまったのである。

 

 振り返った先にいたのは、今日日(きょうび)見かけない、古めかしい装いのセーラー服の少女だった。

 

 衣替えをした後なのか、真新しい冬服のコーデ。丈の長いスカートは清楚さと奥ゆかしさを、くるぶしまでを覆う短いソックスは軽快さを、そして鮮やかな紺の色は和を想起させる。

 肩に提げているのは革の学生カバンと、いやに長い竹刀袋だ。セミロングの艷やかな黒髪を背中に垂らし、愛嬌のある大きな瞳を緊張で揺らしている少女の顔は僅かに幼い印象を受ける。クラスで三番目ぐらいに可愛くて、親しみやすそうな雰囲気を湛えるセーラー服の剣道少女といった風体だ。一回りも二回りも年下の少女に話しかけられた俺は、少女以上の緊張に襲われる。

 

 地元で暮らしてる時にはなかった、社会人になったが故の都会男子の習性のようなものだ。特に駅で年頃の女の子には絶対に近寄ってはいけない。依然としてなくならない、凶悪な痴漢冤罪の餌食になるという常識的な危機感に見舞われてしまうのだ。

 

「なっ……な、なにかな?」

 

 何もかもを取り繕う勢いで返事をすると、少女は手に持っていた赤いカバーの手帳を見せてくる。

 開かれた手帳には、よく分からない紋様と、少女の顔写真が貼られていた。

 色は違うが、似ているのは警察手帳だろうか。

 

「えっと、はじめまして。アタシは家具屋坂刀娘(カグヤサカ・トウコ)っていいます、どうぞお見知りおきをー」

「あっ、あっ、ご丁寧にどうも……俺は……あー……フィフキエルっていいます」

「なに(ども)ってるのよ……共感性羞恥で死ぬからやめて……」

 

 フィフキエルが両手で顔を覆い、恥ずかしそうに声を震わせる。あっあっ、これは腹話術です気にしないでください俺は二重人格の異常者なんです。

 誰にともなく弁解じみたことを言いそうになると、少女――家具屋阪刀娘は緊張も露わに言った。

 

「救世教団の天使サマですよね? アタシは国営退魔組織【輝夜】の下請けっていうか、下位組織っていうか、そんな感じの【曼荼羅】ってとこに所属してる新米退魔師なんですけど。ちょこっとお話聞かせてもらっていーですか?」

 

 少女の台詞を受け、俺は手の中で弄んでいたヌイグルミを見下ろすと、小声で囁きかける。

 すると律儀にフィフキエルも合わせてくれた。

 

「(え、何この子、電波系なの? どうなのフィフちゃん)」

「(自分を愛称で呼んでる痛々しい奴みたいだから、フィフちゃんはやめてくれない……?)」

「(いいだろフィフ、可愛い響きじゃん)」

「(ハァ……性格変わり過ぎよ、あなた。本当、わたくしに何があったらこうなるのかしら……この子に関しては好きにしたらいいんじゃないの? 【曼荼羅】なんて聞いたこともないから、零細組織なのには変わりないでしょうけど【輝夜】なら知ってるわ。本物かどうかはまだ見分けはつかないけど、暇潰しにはなるんじゃないかしら)」

 

 退魔組織とか国営してるんだ、日本……そんなのあるならどうして外国の天使様がいたんですかね。きちんと仕事してるんですか、その【輝夜】ってところは。してないんだろーなー。していたら俺はこんなことになってないんじゃないですかねー? そう思うも、とりあえず疚しい動機で話しかけられた訳ではないと判断できたので、俺は自然と落ち着くことができた。

 というか非日常的な接触よりも、痴漢冤罪の方に緊張する自分が可笑しくて少し笑えてしまう。

 

「退魔師さんですか。ゲーム脳と心の中の十代男子が疼いちゃう響きですね。俺はちょっと忙しいんでまた今度にしてもらえます?」

 

 具体的には悪魔の死骸をどうするか考えないといけない。普通に消えろと念じたらいいのだろうが、天力が枯渇する寸前なので安易に使いたくないというのが正直なところだ。

 あとぶっちゃけこんなに若い女の子と話したくない。社会通念的に未成年の女の子と話していたら、周りから探るように見られてしまうのが確定的に明らかなのだ。今の俺ならそんな事はないのかもしれないが、染み付いた社会人的護身の心構えが邪魔をする。

 というわけでお断りだ。マンダラだかガンダーラだか知らんが、もっと歳のいってる素敵なお姉さんを送ってきなさい。むしろ爺婆の方が安心するまである。もっと言うなら未成年者が本当に退魔師とかいうお仕事をしてるようならますます信用ならない。そういうのは漫画とかアニメの世界とかだけで充分だろう。リアルで子供が駆り出されるような組織とは関わりたくない。

 

 そんな感じで遠回しに断ると、刀娘なる女の子はあてが外れたのか若干焦っていた。

 

「えっ、えぇ……? そんな取り付く島もない……後生ですから話聞かせてもらえませんか?」

「ええ、ですから要件が済みましたら考えておきますよ。(考えるだけな。なあフィフ、この悪魔の死骸はどうしたらいいと思う? ついでにこの子への対応とかアドバイスしてくれよ)」

「(知らないわよそんなの。好きにすればって言ったでしょう。どうしても関わりたくないなら、コレの処理を押し付けるのも有りなんじゃない?)」

「(それだ! ナイスだフィフ!)」

 

 意外と名案を出してくれたフィフキエルに感謝して、俺は笑顔で家具屋坂さんに言った。

 

「あ、急用を思い出したので、この悪魔の処理をお任せします。本当に退魔師ならできますよね?」

「……えっ?」

「それじゃ、縁があったらまた会いましょう」

「ちょっ、ちょっと待っ――」

 

 『マンションに帰る』と念じると、なけなしの天力が俺の座標を住処へと瞬間移動させる。ホントに便利だなこれ。ソッとベランダから顔を覗かせて、家具屋坂さんがどうするかを覗き見た。

 すると俺を見失った家具屋坂さんは右往左往して大慌てした後、頭を抱えて悶えていた。それから少しして、嘆息して立ち上がるや竹刀袋から大太刀を取り出したではないか。

 おお、と感嘆の声を上げる。家具屋坂さんは一息に、腰の回転と共に大太刀を抜き放ったのだ。その所作の美しさたるや、熟練の演武を見ているかのようである。そして大太刀の刀身にビッシリ刻まれた紋様が光っているのもあり、神秘性すら付加されて綺麗だった。

 

 家具屋坂さんの大太刀で、華麗に両断された死骸が霧散していく。

 

「おー。すっげぇ。ホントに退魔師なんだな、あの子」

「どうでもいいけど、いつ帰るの? あなた」

 

 フィフキエルの問いに、心の中でもう帰ってるよと思う。

 あちらこちらを見渡しながら、明らかに俺を探している家具屋坂さんを見下ろして、俺は密かに頭を悩ませはじめた。なんだか妙な流れを感じるな、と。

 転職してぇなぁ、俺もなぁ。独り言めいて呟くと、フィフキエルは馬鹿を見る目で俺を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




めんどくさい立ち回りしてんな。なんでだ……?(筆滑り)
次話は話が進みますぞ。

面白い、続きが気になると思ったら感想と評価をくだしゃれ!
作者という人種はそれだけで頑張れるのだ!


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11,伸びる魔の手と刀娘さん

 

 

 

 

 

 

 世の中には『表』と『裏』の世界を線引きする境界線があった。

 人が暴き定義した法則が支配し、様々な取り決めで回っているのが『表』の世界。政治も戦争も盗みも殺しも、清濁含めた人の営み全般を含める、到って健全で常識的な人の世界だ。

 こちらを『表』と定義するのに重要な要素となるのは、おおよその人が理解し易いかどうかだ。要するに無力で無知な人々の暮らす牧場のようなものである。箱庭とも言えるだろう。

 そうした箱庭、牧場の外と定義されるのが『裏』の世界。政治もある、戦争もある、盗みも殺しもなんでもありな無法地帯。かと思えば力あるモノが取り決めという名の法律を整備し、施行している実力主義の修羅の世情。無知ではなく無力でもないが、結局のところは弱者が食い物にされる強者のための箱庭だ。箱庭の外には更に大きな箱庭が広がっている、そういう話である。

 

「ちょぉ〜っと、マズいんじゃぁ〜ないかなぁ〜? えぇ? 多津浪岩戸(タツナミ・イワト)くぅ〜ん?」

 

 ねちっこく、ジトジトと、嫌味ったらしく間延びした言葉遣いで、ニヤニヤ笑いながら詰問してくる陰険な白衣の男。片目は笑ってるのにもう一方の目は全く笑ってない、器用な表情だ。

 海藻類のような癖のある茶髪を膝下まで伸ばした、無精髭を生やした痩せぎすの男の詰問に、筋骨逞しい日本人は無言という答えを返す。すると白衣の男は露骨に特大の溜め息を吐いてみせた。

 多津波岩戸と呼ばれたのは、全く似合っていない白衣を纏った大男だ。彼は今、裁判所の証言台のような席に押し込まれていたが、岩戸の左右には検察官と弁護人の席はない。証言台を見下ろせるほど高い位置にある、横に長い裁判官席が正面にあるだけだ。

 

 それ以外は黒い絵の具で雑に塗り潰されたかの如く、全く見えなくなっている。地面も、周囲の空間も全てだ。証言台と裁判官席、そしてそこに就いている者以外は漆黒に呑まれている。

 

「黙ってちゃぁ〜なぁ〜んにも分かんないんだけどぉ〜? なぁ、多津浪。オレのこと、無視しないでもらえると嬉しいんだが?」

 

 唐突に間延びした声に覇気が籠もる。茶髪の陰険な男は、小さな丸眼鏡越しに岩戸を睨んだ。

 しかし、なおも無視を決め込んで沈黙しようとする岩戸の様子を窘めるように、裁判官席の中央に座すモノが口を開く。

 

「イワト君、ワタシも聞かせて欲しいな。キミを信じて任せていた研究には、我々にとっても少なくない額を投じていたんだ。ワタシ達には今回の仕儀を知る権利があると思うのだけどね」

 

 耽美な声だった。艶を帯びた、極めて優しげで聞く者を蕩けさせるような美声。

 声にすら籠もる莫大な魔力の波動は、彼にとっては無意識に呼吸をしているのと同義の余波。あまりに強大過ぎる故に、本人にすらコントロールが利かない力の末端だ。

 岩戸はその男を見上げる。身長が2メートルと半ばほどもありながら、細くスマートな印象を受ける人外の美貌の持ち主を。鞭のような尾を波打たせ、頭部に羊のものに似た捻れた角を有し、蝙蝠に似た巨大な翼を畳んだ青い肌の大悪魔の顔を。

 慇懃に、恭しく、信仰する御方へ岩戸は応じた。

 

「御意。しからばご報告致します、罪深き魔界の罪人、【追放者】メギニトス様」

 

 岩戸が口を開くと、丸眼鏡の男は露骨に舌打ちした。不快げで敵愾心の滲む視線を完全に無視した岩戸は、メギニトスと呼ばれた大悪魔のみを見詰めて語り出す。

 

「人の手による悪魔の製造は無事成功しました。製造方法も、必要な設備も、私なら一ヶ月以内に全て揃えることが可能です」

「へぇ? なら、量産は?」

「容易でありましょう。メギニトス様の望むがまま、軍を組織することも能うと確約します。規模にもよりますが1000を揃えるのに、2年ほど頂けたなら質にもご満足頂けるかと」

「なるほど」

 

 岩戸の報告に、メギニトスは眉を動かし表情を緩めた。しかし微かな疑惑も込められており、その視線は岩戸と丸眼鏡の男を見比べていた。

 わなわなと肩を震えさせた丸眼鏡の男を尻目に、メギニトスは探るように岩戸へ言う。

 

「ワタシが聞いていた話とは違っているね。ワタシが位座久良(イザクラ)アラスター君から聞いた話だと、キミの施設に【教団】のスパイが入り込み、先日襲撃され研究資料、試験体、成功体、それら全てを軒並み奪われるか破壊されたらしいんだけど」

 

 丸眼鏡の男――位座久良アラスターは、メギニトスの疑問を聞いて台を叩くと勢いよく立ち上がる。

 

「そうだ! オレは貴様がしくじらないかどうか監視してたんだ、メギニトス様を前にして、くだらない虚偽を口にするじゃぁ〜ない!」

 

 やはり、無視。岩戸はアラスターの存在を完全に黙殺していた。ビギリとこめかみに青筋を浮かべたアラスターを横に、今度は同じく白衣の美女が口を開く。

 

「――岩戸さん、わたしは貴方ほどの人がしくじるとは思っていないわ。けれどこの場の趣旨を理解して頂戴。わざわざメギニトス様にまでご足労して頂いているのだから、無駄な時間を掛けるのは赦されることじゃないわよ。岩戸さん、答えて。位座久良の言ってることは本当なのかしら?」

 

 手入れのされていないボサボサの銀髪と、切れ長の双眸に宿る膿んだ湖の如き瞳。白皙の美貌には気疲れが滲み、目元に隈を拵えているダウナーな女だ。

 女の名はアガーフィヤ・ドミトリエヴナ・ペトレンコ。ちらりとペトレンコを見遣った岩戸は、肯定するように小さく頷いた。間違いなく、答えは是だ。

 

「メギニトス様の仰ったことは全て事実だ、ペトレンコ」

「そら見ろ! オレの言った通りじゃぁ〜ないかぁ! えぇ、多津浪? この失態の咎をどう――」

「だがなんの問題がある? それらの被害も、総じて私の目論見通りだ」

「――なに?」

 

 徹底してアラスターを無視して岩戸が言うと、悪魔は興味を持ったのか麗しい紫の魔眼を細めた。

 

「へぇ、へぇ! どういうことなんだい、イワト君。説明してくれ」

「人工的な下級悪魔の量産に向けた研究のさなか、私はあらかじめスパイを特定していたのですよ。故に利用した、それだけのことです、メギニトス様」

「そうなんだ。何を目的に?」

「無論、【教団】を釣るために」

 

 一拍の間を置く。彼の目はあくまでメギニトスを、そしてペトレンコのみを視界に入れている。

 アラスターだけが眼中にない。

 

「あの施設は元々破棄する予定でした。あそこにあった資料は悉く失敗例を元にした物のみで、失われたところでなんら痛手とはなりえません。試験体や成功体、部下の人手という点だけが被害と言えるでしょうが――必要経費と割り切ったなら無視できる範囲です」

「そうなのか。なら相応の利益にはなったわけだね? 教えて欲しいな、わざわざ【教団】を招くような真似をして、どんな利益を生めたんだい?」

「私の目的は下級天使。それを被験体として、成功体の内の一体、ヌーアかバスクをつがい(・・・)にあてがうことでした。人工の悪魔と天使の交配、結果として何が生まれるか見ようとしたのです」

「――へへぇ。なるほど、それは愉快な試みだね」

 

 メギニトスの機嫌が上向きになる。

 それを見たアラスターは歯軋りするも、対照的に岩戸は誇らしげで恭しく一礼した。

 

「しかし、お喜びください。誤算でしたが予期せぬ大物が釣れました」

「大物? 誰が来たんだい?」

「【傲り高ぶる愚考】フィフキエルです」

「ハッ――? ……ハハハ! フィフキエル? フィフキエルだってぇ!?」

 

 メギニトスが呆気にとられ、次いで大口を開けて爆笑する。台を愉快げに何度も叩くのは、岩戸の成した功績を明白に予感したからである。

 岩戸はその鉄面皮を微かに緩め、同様の喜悦を滲ませて続けた。

 

「完全に想定外でした。成す術もなく壊滅させられるかとも思いましたが、なんの偶然かヌーアがやってくれたのです。ヌーアは油断し切っていたフィフキエルに見事手傷を負わせ、偶然にもあの上級天使と人間を交配させることに成功しました。そして、吉報をお一つ。フィフキエルが自らの命を糧に生み出してしまったのは――神書に記されるメシアと同じ属性の持ち主だったのです」

「――クハッ、クヒヒ……ギャァッハハハハ――ッ! なっ、なんだってぇ? イワト君、いったいそれはなんのジョークなんだい? あんまり笑わせないでくれよ!」

「ジョークではありません。どのようなメカニズムを経てそうなったのかは、まだ分かりません。しかし必要な素体に関しては明らか。人間のマモ、上級天使、そしてヌーアの待つ属性。これらを再び揃えられたなら、同様の個体を生み出すことは不可能ではありますまい」

 

 なるほど、なるほど、とメギニトスは眦に涙を浮かべながら繰り返した。笑い過ぎだった。

 岩戸を見る魔眼には、もはや隠されていた苛立ちはない。

 裏返った悪感情は岩戸を信じ、試すものとなっていた。

 

「イワト君、キミはそのメシア様に似た奴を確保したいんだね?」

「はい」

「いいよ、と言いたいんだけどね。キミは多忙じゃないか、あんまり仕事を増やしては可哀想だよ。メシア様だかなんだか知らないけど、残念ながらそっちは主目的じゃない」

「心得ております。しかし……」

「まあ待ちなさい。悪魔は強欲なものだけどね、あれもこれもと手を伸ばし、本来の目的から横道に逸れるのは賢い遣り方とは言えない。ここは一つ……そうだねぇ……うん、ペトレンコちゃんとアダムス君に任せたいんだけど、どうかな?」

「よきお考えかと。ペトレンコとアダムスなら、しくじるにしても成果は確保するでしょう」

「決まりだ」

 

 アダムス――ロイ・アダムス。メギニトスの左隣に黙ったまま座していた、金髪碧眼の優男。

 神父の格好をしているその男は、嘆息してアラスターを横目に見た。

 ぎりぎりと歯軋りし、悔しそうに岩戸を睨む男の様子に、ロイはやれやれとばかりに肩を竦めて。

 

「これでお開きにしよう。次の報告を楽しみにしているよ?」

 

 メギニトスがそう言って、パチンと指を鳴らすと、全てが漆黒の闇に呑まれて消えた。

 まるで電源を切られたテレビの映像のように。

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 ピンポーン。鳴らされたインターホンに返事をする。

 

「はーい」

 

 すると、玄関扉の向こう側から少女の声がした。

 

「あのー、アタシは【曼荼羅】の家具屋坂刀娘っていう者なんですけどー。ここにフィフキエルさんっていう天使がいる気がするんですよー。入れてもらえますー?」

「フィフキエルー? 誰っすかそれー。いませんので他ぁ当たってください」

 

 おいおい。おいおいおい。

 

「(フィフ、なんでバレた!? なんであの子は俺のいるところが分かったんだ!)」

「(さあ? たぶんだけど、さっきいた所に残っていた、あなたの天力の残滓を逆算したんじゃないの? 大した情報処理能力じゃない、褒めてあげなさいよ)」

「(わあ凄い! 逆算とかできるものなんだねぇ、ってアホか! そういうことができるなら最初から言えよこの馬鹿!)」

「(訊かれませんでしたしー? わたくしは悪くないわよ? ホントに)」

 

 小声でヌイグルミを詰るも、とうのフィフキエルはどこ吹く風。

 ドンドンドン、と扉を強く叩かれた俺は、びくりと肩を揺らした。

 

「あのー! 開けてくださーい! 開けてくれないと、この部屋に空き巣が入ってるって警察に通報しますよ!」

「やめろ! やめて!」

 

 色んな意味でそれはマズイ。本当にマズイ。

 天力さえ回復したらどうとでも誤魔化せるとはいえ、できれば人相手に力は使いたくないのだ。

 常識的に考えてもみろ、筋力が強いからって平気で人を殴れる奴はいるか? 世の中には他人を殴っても全く心を痛めない屑もいるが、少なくとも俺はそうじゃないのだ。平和的にいきたい。

 俺はやむなく玄関扉を開けた。

 するとニッコリと満面の作り笑顔を浮かべた家具屋坂さんが、するりと我が家に入ってくる。

 

「話、聞かせてもらえます?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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12,選択肢

 

 

 

 

「……にわかには信じ難い話ですね」

 

 ことりとテーブルに茶碗を置いて、家具屋坂刀娘さんは難しい顔で確認してきた。

 

「あなたは元々この部屋の住人で、天使フィフキエルにマモを食べられた。しかし目を覚ましたら今の姿へと変化していて、なんやかんやで今に至ると」

「『なんやかんや』で端折らないでくれます? それに話したことに嘘なんか混じってませんよ」

 

 ソファーに腰掛けて、ちょこんと座っている家具屋坂さんは疑いの目を俺に向ける。だがそんな目で見られても、一から十まで全て話したのだ。嘘は一つも吐いていない。

 一応、面倒な茶々を入れられたくないので、今はフィフキエルの電源は落としてある。電源なんて気の利いたものはないが、寝てろと言ったらストンと転がりただのヌイグルミになっていた。たぶん俺から供給される天力(MP)がカットされたからだろう。意識はない。

 

 俺が招かれざる客であるところの家具屋坂さんに対して、包み隠さず真実を全て話したのは、彼女が本物の退魔師らしく、国営組織に属しているらしいということを信じたからだ。家具屋坂さんの話が本当か判じようはないものの、何もかもを疑っていたらキリがない。事態を好転させたい俺としては、何かの切っ掛けになってくれたら嬉しいなと思ってのことだ。

 あと自分の家にこんな若い女の子がいるせいで、恐怖にも似た緊張感を覚え従順になってしまっているのかもしれない。流石にそんなことはないと思いたいが、社会人としての護身の心得が、俺に不必要なまでの警戒心を持たせてしまっている可能性はある。

 

 家具屋坂さんはテーブルの上に転がるフィフキエルをちらりと一瞥して、それから俺を見た。

 

「別に疑ってないですよ。アタシから見ても貴方は天使フィフキエルにしか見えませんし? 『なぜか誰も彼もが貴方をフィフキエルだと誤認する』っていう話も本当なんでしょ。実際こうしてお話してみると、貴方が天使フィフキエルだとは思えないですもん」

 

 聞いてた人物像と全然違います、と家具屋坂さんは言う。その口ぶりに俺は釣られた。

 

「家具屋坂さんってフィフキエルを知ってるんです?」

「知ってますよ? というかこの業界でフィフキエルとその下僕達を知らないなんて、もぐりもいいとこですし。天使として外部に露出することが多くて、日本でも有名ですもん、アレ」

「へぇ。なら……ゴスペルって奴も知ってるんですか」

「勿論。【超人】ゴスペル・マザーラント――上位者の加護なくして魔を屠る、品種改良の到達点。アタシの知る限りだとある意味フィフキエルより有名なんじゃないですかね」

「……品種改良?」

 

 何やら不穏な響きを無視できず、聞き返すと家具屋坂さんは僅かに嫌な顔をした。

 話が脇道に逸れるのを嫌がっている。すぐに表情は戻したが、髪の毛の先を弄り出した仕草に内心は現れていた。退魔師であろうと少女は少女、まだまだ(あお)さは隠せないようだ。

 

「【救世教団】のマザーラント一族は代々、天使フィフキエルに仕えることが多かったらしいです。でも天使フィフキエルは貴い自分に仕える人間が、ただの人間なのは相応しくないって言って、マザーラント一族を1000年掛けて改造してきたんですって。そして現代に生まれたのが最高傑作のゴスペル・マザーラント。【曙光】の大悪魔メギニトスを相手に、天使フィフキエルと二人掛かりで渡り合った武勇伝は【輝夜】でも知り渡ってますよ」

 

 ほう、と感心する。なるほどなぁ、あの転職したそうな奴は、そんなに凄い奴だったんだな。

 もう大悪魔と渡り合ったっていう字面からして凄さが伝わるし、それを聞くとゴスペルのところから逃げたのは失敗だったかなと内省してしまった。

 あのまま素直に保護されていても良かったんじゃないか? でもなぁ、なんか胡散臭かったし、逃げて正解だった気もする。社畜先輩味を感じたあのガンギマリの目、明らかにヤバかった。

 

「まあそれはどうでもいいとしてですね、貴方がフィフキエルじゃないっていうのには納得してます。信じ難いって言ったのは、実はアタシ見てたんです。貴方があの悪魔を殺したところ」

「……マジです?」

「マジです。聞いた話だと貴方は今の貴方になってまだ24時間も経過していません。それなのにすんなり自分の力を使いこなしちゃってるじゃないですか。金色に変身したりしてますし」

「あぁ、アレですか。スイッチのON-OFFみたいなもんですよ。今はOFFですが、気合入れたらああなるって感覚でやっちゃってましたけど……凄いんですか、アレ?」

「率直に言って凄すぎますね。アレを見たせいで、貴方が元人間だっていうのに説得力がなくなってますよ。何が凄いって一般人だった貴方が、ああも躊躇なく悪魔を惨殺したのも凄いです」

 

 惨殺したと聞いて、あれは仕方ないじゃんと思う。やりたくてやったわけではない。天力に余裕がない状態だったのだから、殴る以外にあの悪魔を始末する方法がなかったのだ。

 家具屋坂さんは探るように俺を見ていて、若干いたたまれなくなる。髪の毛の先を弄っていたからか、ちらりと黒髪の一房に黄色いメッシュが入れられているのが目に映った。

 お洒落だな。オジサン、髪を染めたことないから素直に羨ましく感じるよ。ハゲは遺伝するって聞いて、若い頃から頭皮へのダメージを気にしてたから、憧れるだけでやらなかったんだよな。

 

 家具屋坂さんは髪の毛を弄るのをやめて、膝に手を置くと俺を見据えた。真剣な目だ。

 

「で、貴方は結局どうするんですか?」

「どう、とは?」

「天使として【教団】に帰るのか、それとも一人で生きていくのか、ってことです。組織人的にはなるはやで【教団】に帰ってほしいなって思いますけど」

「あの? 俺の中身がフィフキエルじゃないってバレると殺されるって話しましたよね?」

 

 したはずだ。絶対にした。なのに帰れって、俺に死ねと? ゴスペルから聞いた話を全面的に信じるわけじゃないが、実際に見た他の天使の雰囲気からして、フィフキエルの中身が俺だってバレると、ろくな目に遭わないのは確定的に明らかな気がしていた。

 なので【教団】とかいう所に帰る選択肢は最初からない。そういう意図を込めて家具屋坂さんの目を見つめると、彼女は微かに赤面して目を逸らした。

 

「……組織人的にはって言いましたよね?」

「ええ、そうですね」

「ぶっちゃけちゃうと、今の貴方は日本にとってメチャクチャ迷惑な火種なんです。なんのこっちゃと思うでしょうから説明しますと、どう取り繕ったところで貴方は天使なわけですよ」

「………」

「知ってます? ヨーロッパは【教団】の天使が支配してるんですけど、日本にはたくさんの神様が実在してます。日本の支配者は日本の神様なんです」

「……マジで言ってます?」

「マジです。不敬を承知で言わせてもらうと、神様とは言っても強さは大したことないのが大半ですけどね。おまけに支配者っていうのは名義だけで、【高天原】から出て来ることも稀です。けど日本がそういう神様の国であるのは確かで、外国の天使が暮らす分には普通に見て見ぬふりをしてくれるでしょうけど、天使は違いますよね? いや、違うんですよ。たぶん。絶対」

 

 日本に神様が実在する。本物(モノホン)の退魔師がそう言ったことと、天使や悪魔を目にした経験が、神様の実在をすんなり俺に信じさせる。だが驚きだった。まさかそんな上位者がポンポン存在してる世界だったなんて。現実は小説より奇なりなんてレベルじゃねぇぞ。

 俺が密かに衝撃を受けているのに、家具屋坂さんは待ったは無しだとばかりに話を進めた。

 

「天使って我こそが正義なり! って感じなんです。おまけに仲間意識がとんでもなく強い。プラスして使命こそが全てに優先されるってタイプ。貴方が帰りたくないって言っても、普通に貴方を連れ戻そうとしますよ? 絶対に。そして貴方が嫌がれば、まあ実力行使ですよね。するとどうなります? 貴方が嫌がって抵抗したら、この国が戦場になっちゃうんですよ。それはダメです、【輝夜】と【教団】の間で戦争が始まっちゃいます」

「せ、戦争……!? そ、そこまで大事になるんですか……!?」

「十中八九、なりますね。だから日本から出て行ってくれ、って遠からず要求されると思いますよ。ただでさえ【曙光】とかいう不埒者が不法滞在してるんです、それを駆除する為に、下請けもいいとこなアタシ達【曼荼羅】まで駆り出されてるんですから」

「…………」

 

 想像を遥かに絶した未来予想に絶句していると、家具屋坂さんが疲れたように嘆息する。

 戦争。

 俺が、日本にいたら、戦争になる……? マジで?

 で、でもだ、俺は……嫌だ。死にたくない。殺されたくない。

 

 対面のソファーに座っていた俺は、両手で顔を覆った。

 

「……俺、死にたくないです」

「ん……」

「……人間に戻りたい。俺の元の体は無事なんです、なんとか戻ることって出来ないんですか?」

「んー……まあ、はい。期待させちゃったら酷なんで、はっきり言いますね」

 

 家具屋坂さんは言いづらそうだった。それだけで答えを察するが、聞かずにはいられない。

 

「貴方はダムにいっぱいまで溜まった水を、小さなコップに溢さず全部注ぎ込められますか?」

「………」

「無理ですよね。今の貴方のマモと肉体はそれほどのものなんですよ。『花房藤太』っていう人間の肉体に、貴方のマモの断片でも入れたなら、目を覚まして生活していけるでしょうけど……今ここにいる貴方の存在が消えるわけじゃありません。別人として『花房藤太』が独立して動き出すのを、貴方は許容できますか? キッツいですよ、それ」

「………」

 

 残酷だなぁ、と俺は乾いた笑いを溢すしかなかった。

 つまり『花房藤太』は人間として活動を再開できるが、それは今の俺っていう自我の入ってない別人だということ。早い話クローンとかドッペルゲンガーを自分で作っているようなものだ。

 しかもそのクローンが、本来の自分として生きていくのだ。マジでキツい。想像しただけで嫌悪感が半端なかった。家具屋坂さんはホントに、ばっさりと俺の期待を切りやがったんだな。

 通りで彼女は俺の名前を聞いても『貴方』としか呼ばないわけだ。俺がフィフキエルじゃないなら、元の人間として生きていけないと知っている以上、今の俺は名無しの権兵衛でしかない。

 

 落ち込む俺に家具屋坂さんは同情したのか、気の毒そうに言う。

 

「――ここからは個人的な話になるんですけど」

 

 そう前置きをした彼女の顔に、俯けていた顔を上げて視線を向けた。

 

「魂は日本人なんですし、ウチの(・・・)神様なら匿ってくれると思うんですよね。【教団】に連れ去られるのが嫌で、この業界を一人で生きていくのに自信がないなら、アタシのとこに来ません?」

「……何が目的なんですか? 俺ってメッチャ迷惑な火種なんでしょ」

「よかった、考える頭は残ってましたか」

 

 救いの女神にすら見える提案だが、素直に飛びつけるほど能天気にはなれない。家具屋坂さんは俺が訊ねると、微笑みながら話してくれた。

 

「アタシが貴方の境遇に同情したってのはあります。けどそれ以上にですね、貴方っていう力は魅力的なんですよ」

「……つまり?」

「万年人手不足の【曼荼羅】的に、上級天使の力が手に入るなら手に入れたいわけです。ウチに来てくれるなら、そりゃ働いてはもらいますけど、とりあえず破滅まっしぐらなルートからは外れられると思いますよ? アタシの独断ですし、ウチの神様が貴方を受け入れるかはまだ決まってませんけど、ひとまずバイトの面接にでも行くと思って来るだけ来てみません?」

 

 上手いなと、密かに感心する。家具屋坂さんは話の持って行き方が上手い。

 一通り混乱してばかりの一日だったから、お前は詰んでるんだよと暗に伝えられても絶望はしていない。しかし深刻な気分になったのは確かだ。そうなると状況的に、家具屋坂さんの提案を蹴る理由が今の俺には全くないのである。将来はいいセールスマンになれるぞ。

 そんなことを思いながら即答はせず熟考する。相手に話のペースを握られ、一方的に与えられた情報を鵜呑みにして判断をしているようじゃ、実績を求められるサラリーマンは務まらない。

 割と重要な分岐点だ。騙されている可能性もなきにしも非ずだが、疑うばかりじゃ埒が明かないのも事実ではある。八方塞がりで行くべき道が見えないなら……乗ってみるのも悪くないだろう。

 

「そういえば」

 

 家具屋坂さんがなんのけなしに、なんてことはない話を振ってきた。

 

「貴方はどうしてアタシみたいな年下に、敬語で話してくれるんです? もっとラフに話してくれてもアタシは気にしないですよ?」

「……まあ、俺も学生の頃と、新社会人だった頃は年下に敬語なんか使ってませんでしたけどね」

 

 苦笑する。苦笑して、懐かしい体験を口にした。特に隠すようなことでもない。

 

「会社の先輩が後輩に偉そうにしてたんです。俺も知らずの内にそれに倣って、一年後入社してきた後輩に偉そうに接してました。んで、ある時俺の先輩が俺の後輩に偉そうに接してるのを見てですね、ふと思っちゃったんですよ」

「なんて思ったんです?」

 

 絶妙な間の相槌だなぁ。口が滑らかになっちまう。

 

「あ、こいつダセェな、って。その先輩って仕事が出来ない奴でしてね、歳のことでしか偉ぶれない奴だったんですよ。……ダセェなって思ったらもうダメでした、そいつと同類になりたくないし同類だと思われたくない。だから年の差で態度を変えるのは改めようって思って、相手が誰だろうと敬語で話すようになりました。タメ口で話すのは仲の良い奴だけですよ」

「……そうなんですか。なんというか、真面目で難儀な人ですね」

「はは。人のふり見て我がふり直せって奴です。俺の座右の銘ですよ」

 

 言いながら思い出す。そういやぁ昔は、ダセェことが嫌だったなぁって。

 ……うん、そうだな。ダセェのは、嫌だなぁ。

 ウジウジするのはダサい。どうせ何をどう考えても煮詰まるだけなんだし、ここは行動あるのみだ。

 

「行きます。家具屋坂さんのとこ、案内してください」

 

 腹を括って、俺はそう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 



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13,【曼荼羅】の神様の出迎え

 

 

 

 

 

 おい見ろよ。あの子、すっげぇ可愛いぞ。

 

 ん? ……うおっ、マジだ。けど可愛いっていうより綺麗系じゃね?

 

 いやあの子は男の子でしょ。スーツとかカッコいいじゃん。隣の子の彼氏なのかな。

 

 まだ子供だよ? 違うでしょ。 姉弟(きょうだい)なんじゃないの?

 

 子供用のスーツ着てる、モデルなのかな? 確かめてみようよ。声掛けてみてさ。ね!

 

 い、いやぁそれはちょっと……なぁ?

 

 分かる。あんだけ顔面レベル高いと、もう見てるだけで満足しちまうって。

 

 意気地なし。

 

 でも気持ちは分かるかなー。わたしもちょっと……。

 

 

 

「……家具屋坂さん。なんか俺、見られてるんだけど」

 

 先導する家具屋坂さんの背中を追い街中を歩いていると、通行人のほぼ全てが俺を見てくる。

 未だ嘗てない経験に、企画のプレゼンをしている時とは別種の居心地の悪さを感じていた。

 そんな俺の気分を知ってか知らずか、セーラー服姿の家具屋坂さんは振り向かずに軽く言う。

 

「さっさと慣れた方が身のためですよー? 先に言っときますけど【聖領域】使って周りの目から逃げちゃいけませんからねー」

「【聖領域】を発動し続けて天力の無駄遣いをするな、人目に触れて天力の回復を促せ――でしたね。前者は分かるんですけど、後者はどんな理屈なんですか?」

 

 そう。今の俺は【聖領域】を使っていない。だからこうして東京の人達の視線に晒されている。

 【聖領域】は人を含める生命全般、文明に含まれる機械全般の認識からズレる、完全犯罪を容易くしてしまう危険な結界である。これを使っていたなら人目に触れて居心地の悪さを覚えることもなかっただろうに……人目に触れて天力の回復を促すという、家具屋坂さんの言い分は今一よく分からないものだ。

 俺が改めて疑義をただすと、なんてことのない薀蓄を語るように、俺の一歩前を歩く家具屋坂さんは答えてくれた。どうやら彼女は勿体ぶったりするタイプではないらしい。

 

「古来、伝承に残るような人外は、恐ろしく美しいか醜いかの二択でした。醜くなくとも一目で誰か分かる特徴を有していた、と言った方が正確かもしれませんね。ともかく、なんで人外はそうした姿をしていたのか? 答えは簡単です。不特定多数の心あるモノの恐怖や憧憬、好意や憎悪、嫌悪や友愛――どんな形であれ感情を向けられる、印象に残ることでマモを得られるからですよ」

「マモを? でもマモって魂のことですよね。大丈夫なんですか、それ」

「あ、そっからですか。マモっていうのはですね、常に生き物から垂れ流されてるものなんです。たとえるなら魂の老廃物として外部に漏れてる、みたいな感じですね。天使や悪魔、神性や妖怪みたいな人外は、そうしたものを回収して自分のために利用できるんです」

「うげ。……魂の老廃物って、やたら汚い表現やめてくれません? 気分悪くなるんですけど」

 

 天使なら信仰、悪魔なら禁忌、そんな感情の老廃物を摂取してるんですね。なくても生きていけますが――家具屋坂さんの物言いはあけすけだ。理解しやすくはあるが、気分はよくない。

 思わず呻いて、咎めるように言うと彼女は苦笑した。チラリと一瞬だけ振り返ってくる。

 

「アハハ、ごめんなさーい。けどこの場合、汚いのは人間の方なんですよ?」

「……そうなんですか?」

「はい。漏れ出ているマモは自然消滅しないんです。放置カマしてたら溜まりに溜まって【異界】ができちゃって、それはもうとんでもない大災害の切っ掛けになったりするんです。なので、定期的に大気中に散らばってるマモを回収する人がいないと皆が困っちゃいます」

「……異界とか災害とか、穏やかじゃない響きですね」

「でしょー? だから人を害獣認定して毛嫌いする神様もいるぐらいですよ。そんなわけでマモを有効活用できるなら、とことんやってくれた方が有り難いんです。花ちゃんさんの天力が回復していく仕組みは、ざっくり言うとそんな感じの慈善活動なわけですよ」

 

 マジか。何気なく喋ってるけど、それってとんでもない裏話じゃんか。

 

「俺が人に見られることでマモを得られるのには、そんな理屈があったんですか」

「そです。花ちゃんさんって軽ぅく人間の域を超えた、とんでもない美人さんですからね。一目見るだけで大半の人は忘れられないと思いますよ」

「なるほど……納得はしましたけど、その美人っていうのはやめてもらえません?」

「えー? でも花ちゃんさんって少年でも少女でもないでしょ? 男でも女でもないなら、もう美人としか言えなくないです?」

「………」

 

 花ちゃんさんってのもやめてほしいんだが。まあ……呼び方に困るってんで仮称として使われてるのは分かるから、わざわざツッコミはしないけどさ。

 でも、そうだよな。俺……男でも女でもねぇのか。おまけに名前すらない。

 名前、名前ねぇ。新しく自分の名前を考えないといけないのか? 嫌だな、それをすると本格的に人外になるみたいで。もうなってるけど、自分で認めるみたいでなんか嫌だ。

 これは未練なのか? 割り切ったつもりなんだが、良さげな名前も思いつかないしな……暫くは花ちゃんさん呼ばわりも許容しておいた方が良さそうだ。今後は『フィフキエル』なんて名前で通す気はないし、通称に関しては一応真剣に考慮しておこう。

 

「………」

 

 懐に突っ込んでるヌイグルミは、相変わらず沈黙している。コイツは俺が継承したらしい知識の図書館だから、電源を切ってる状態のままでいるのは望ましくないだろう。

 けどネックがある。コイツがフィフキエルの人格を再現してることだ。今のままだと、家具屋坂さんとの話を聞かれると関係が拗れかねない。ヌイグルミ――フィフをさっさと起こさないと、騙されてしまう危険性があるのは分かるし、早急に手を打っておこう。

 具体的には全面的に俺の味方をしてくれるように――いや現時点で絶対に信じられる存在のはずなんだが、再現されてる人格が面倒なんだ。フィフと話してて、なんか愛着も湧いてるし人格を歪めたくなくなってる。性格をそのままに、俺が『フィフキエル』だと勘違いしてる状態を是正したいというのが本音だ。難しいだろうが、トライしないで諦められるものでもなかった。

 

(やっぱ……『言霊』で調整するのがベストなんだろうな)

 

 願いを叶える能力を、俺は『言霊』と称することにしている。実際の言霊とは全然違うが、言葉に出した方がコントロールしやすいから似たような感じになってるんだ。

 この『言霊』を使うなら言葉には細心の注意を払わないと、フィフがバグる可能性が出てくるだろう。プログラミングをミスってフィフに悪影響が出てしまったら堪らない。今から用いる言葉を慎重に吟味して、いい感じに調整できるように考えておこう。

 

 そうして自身の裡に埋没し、意図的に周囲からの視線を無視する。

 

 後はもう、家具屋坂さんが案内してくれる先に着くまで、口を開くことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

「着きましたよ。アタシが先に入って話通して来ますんで、花ちゃんさんはちょっと待っててくださーい」

「あぁ、はい」

 

 俺は歌舞伎町のある新宿区から渋谷区まで歩き、三階建てのアパート前まで来ていた。

 アパート名はシニヤス荘。

 寂れていて、人が住んでいそうな雰囲気はない。……そりゃそうだ、シニヤス荘なんて不吉な名前のアパートに、誰が住みたいと思う。字と発音を変えたら『死にやすそう』なんだぞ? 正直俺も嫌な名前だと思ったぐらいだ。今の状況的に俺には全く笑えない。

 俺を置いてシニヤス荘の一階にある部屋に、ノックもせず入って行った家具屋坂さんを待つことにはしたが、ホントに大丈夫なのか? という疑問が生じてしまっていた。こんなボロアパートを根城にしてるような組織なんか聞いたこともないぞ。

 

 この疑問もすぐに晴れるはず。無理にでもそう思ってからフィフを取り出して、ここに来るまでに考えていた台詞を舌に乗せた。

 

「『フィフは現行の人格をそのままに、俺の状況と状態を誤解なく理解しろ。その上で全ての面に於いて俺を最優先の対象にして、絶対に裏切らない味方として受け答えするんだ』」

 

 洗脳みたいで気が引けるが、もともとが俺の被造物である。俺とフィフの立ち位置を誤認されたままだと困るし、せっかく気兼ねなく相談できる相手なのだから仕方のない措置だろう。

 悪いなと呟いて、起きろと命じた。

 すると天力をほんの微かに消費した感覚と共に、手の上でフィフがひょっこりと起き上がる。

 途端に不機嫌そうな顔になっていた。感覚的なものだが、俺がここに来るまでの記憶もフィードバックされているのだろう。むっつりとした顔で睨みつけられてしまう。

 

「……あなた、人間なの? フィフキエルじゃなかったのね?」

「ああ、そうだよ」

「ふーん……わたくしもとんでもない勘違いをしていたものね。けどあなたもあなたよ。わたくしが勘違いしていたのなんてすぐ察したでしょうに、なんで放置したの? すぐ情報を共有してくれてたら、わたくしも馬鹿みたいな振る舞いをせずに済んだのに」

「……ごめんなさい」

「いいわよ別に。所詮わたくしはあなたの使い魔みたいなものだし。けどわたくしに相談しないで、あの小娘にほいほいついて行ったことに関しては文句を言わせて。あなた、馬鹿なの?」

「んっ……だ、ダメだったか?」

「ダメじゃないけど、馬鹿をしているわ。あの小娘が未熟なだけなのか、わざとそうしたのかは判断に困るところだけど、少なくとも無知な人間が一人で決断していい場面じゃない。反省して」

「……俺、なんかやらかしてるのか?」

 

 意味深に匂わされると気になる。新人時代に知らない内にヘマをして、尻拭いをしてくれた先輩に後から嫌味を言われた時の嫌な思い出が蘇った。フィフは呼吸なんかしてないのに嘆息する。

 

「やらかしてるから叱ってるのよ。天力の回復を優先するのはいいけど、このタイミングで人目に触れるべきじゃなかったわ」

「……なんでだ? 素人質問で恐縮なんだけど、俺にとってMPの回復は最優先にするべきだろ。護身のための最大の武器なんだ、ちんたら自然回復を待つのはナンセンスだと思うぞ」

「だからタイミングが悪いって言ってるのよ。あなた、自分がどこに狙われてるか理解しているの? 今は敵意を持たれてないけど、あなたがフィフキエルじゃないってバレたら【教団】は殺しに掛かってくるのよね? ついでにあの雑魚悪魔が近場にいた以上、東京には【曙光】の勢力が進出してるのは確定。【教団】に帰るものと思ってたから何も言わなかったけど、あなたは【教団】と【曙光】二つの組織の手が及ぶ範囲で姿を晒したのよ。自殺したいの?」

「そんなわけないだろ。……でも家具屋坂さんがいる【曼荼羅】なら匿ってもらえるって……」

「ばか。このおバカ! いい? もしあの小娘が善意の第三者なら構わないけど、そうでない可能性は考慮してないの? もしも意図して姿を晒されていたら、いえ、意図してなかったとしても、あなたは【曼荼羅】とかいう名前も聞いたことがないような弱小に縋るしか道がなくなるの。退路を潰されたってこと! それぐらい理解しなさい!」

「……ま、マジ?」

「マジよ!」

 

 言われて家具屋坂さんの態度を思い返す。が、特に怪しいところはなかったように思えた。

 けど敢えて難癖をつけるなら、なんか押しが強かった気はする。

 ガリガリと頭を掻いた。こりゃあ、あれだ。今の俺は新人時代のように社会のマナーとかルールを全く把握してない、どこに出しても恥ずかしい未熟者らしい。今までの経験がまるで通用しない業界に、いきなり転職したようなものだ。そう考えると確かに軽率だった。

 となると本格的に頼りになる知恵袋、フィフの存在が手放せないだろう。もっとしっかり相談しておくべきだったと強く反省した。

 

「ごめん。次からはちゃんと相談する。やっちまったもんは仕方ないから、とりあえずこのまま行こうと思うんだけど、どうだ?」

「ここまで来たらどうしようもないわよ。どうせエンエルの奴が本気であなたを探しだしたら、単独だと隠れきれるとも思えないし……もうなるようにしかならないわ。……先に言っておくけどあなたの『言霊』で、遠くに逃げたら時間を稼げるなんて思ってるなら、そんな甘い考えは捨てておきなさい。天力の残滓を辿って、秒も掛けずに追跡できる奴なんて割といるんだから」

「分かった。安易に逃げられるとは思わないでおく」

 

 こうして叱られるとつくづく自分の間抜けさを痛感させられる。フィフの警告を心に刻んで、同じ過ちを犯さないように覚えておこう。

 しかし、こうも真正面から叱られるのなんて何時ぶりだ? 意外と悪い気はしない。きちんと俺のことを考えてくれての叱責だからだろうか。

 馬鹿の考え休むに似たり、だ。今の俺は業界のド素人なんだ、下手に頭を使うより先に、分かる奴に頼る姿勢をもう一度意識し直そう。

 そう決めて、気を引き締め直す。

 すると家具屋坂さんが入って行った部屋のドアが、勢いよく開け放たれた。

 

「おーっ。オマエが刀娘の言ってた元人間の天使ね? よく来たわ、あたしが歓迎したげるぞ!」

 

 ――まずは家具屋坂さんが本当に善意の女の子だったのか、そして【曼荼羅】が俺をどうするつもりなのか、慎重に見極めよう。

 

 シニヤス荘から飛び出してきた赤い短髪の子供を見て、内心そう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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14,過疎った世界と神のログイン率

 

 

 

 

 

 小さな子供だった。

 

 燃え上がる炎のような髪は鮮血のようでもあり、短く整えられた様は少年的だ。子供らしい矮躯には元気が有り余って、肌寒い時期だというのに短パンと半袖のシャツという格好だ。

 印象的なのは爛漫とした真紅の瞳だろう。紅玉めいて美しい瞳には瞳孔が二つずつ並び、子供らしからぬ妖しい光を放っているようにも見えた。あたかも無邪気を装う狡猾な蛇である。

 だが蛇は蛇でも、蛇の抜け殻だ。存在感が希薄で、確かに其処にいるのに目を離した途端に見失いそうな影の薄さがあった。子供の姿で大人の知性を滲ませているかと思えば、自己主張の塊のようであるのに影が薄い。総じてちぐはぐな印象を受ける少女である。

 

「おーっ。オマエが刀娘の言ってた元人間の天使ね? よく来たわ、あたしが歓迎したげるぞ!」

 

 傍に駆け寄ってきた少女が両手を広げてそう言うのに、一瞬困惑した俺はなんと応えたらいいのか悩んでしまった。助けを求めるように視線を彷徨わせていると、赤い少女の後から出てきた家具屋坂さんと目が合った。彼女は腰に手を当て露骨に嘆息する。

 

「アグラカトラ様ー。花ちゃんさんが困ってるじゃん、勢いだけで話し掛けるのはやめたげなよ」

 

 アグラカトラ。

 そう呼びかける家具屋坂さんの口調はラフなものだ。様付けで呼んでいるのに随分親しげである。

 赤い少女は不服げに振り返り、家具屋坂さんに言い返した。

 

「えぇ? コイツはあたしン所のギルドに入ろうとしてんよね? あたしは了承しとんのよ? んならコイツはもうあたしの仲間やん。どう話しかけようがあたしの自由ってもんじゃろ?」

「順序を踏めって言ってんの。はじめましてなんだから自己紹介から入るのが当然じゃん、常識まで忘れちゃったんですか、アグラカトラ様」

「はぁ、自己紹介ねジコショーカイ。しゃあない、常識は大事、やったらぁ。よく聞けよ名無しの権兵衛、あたしの名はアグラカトラ様。【曼荼羅】を結成したギルドリーダーよ。よろしく」

 

 ウザったそうにしながらこちらに向き直って、面倒臭そうな様子を隠さず名乗ってきた少女――アグラカトラに俺はなんとも言えない顔をしてしまった。ギルドって言いやがったぞコイツと。

 威厳も何もあったものではない。家具屋坂さんの話を聞いた上で察しているが、この子が本当に神様なのか? ただのゲーム脳な小娘に見えるぞ。

 ちらりと家具屋坂さんを一瞥すると、彼女は呆れたような顔で肩を竦めた。……大丈夫なのか? 不安は拭えないが、ひとまず言われていた通り、面接のつもりで来ていたから真面目にやろう。

 

「ご丁寧にどうもありがとうございます。私は花って家具屋坂さんに呼ばれてますが、現状だと貴女の仰るように名無しの権兵衛という身の上です。どうぞよろしくお願いします」

「おう、礼儀のなっとる子ぉは嫌いじゃないわ。オマエの状況は聞いたよ、難儀な身の上じゃね、同情するわ。中身はともかく力は天使なんやし、あたしより強いんじゃろ? 同情ついでに歓迎したげるから、あたしの下でたくさん働いてくれね。待遇は応相談、ひとまず提示できるもんは提示するから不満があればすぐ言って。ウチはアットホームな職場じゃけ、対応は早いよ」

「は、はぁ……」

 

 マシンガンみたいに早口で喋る子だな。なんだか感心する。俺の地元の方言に似てる気はするが違う気もする、妙ちくりんな方言で話されてるのに違和感もない。自然体そのものだ。

 早口言葉に圧され、俺がたじろいでいるとアグラカトラは更に喋った。

 

「待遇の話するよ? 月給は固定で60万、ボーナスは年に二回で月給の四倍の240万、勤務時間は基本24時間体制じゃけど勤務態度は適当でええよ。あたしから割り振られた仕事を期日以内にこなしてくれるなら、一日中遊んだり寝たりしても問題ないわ。あと危険な仕事やからね、危険手当もまあ弾んだる。こういう手当が欲しい! ってのがあれば言え、妥当と思えば頷くよ。そんで住居も世話したる。ウチのアパート、シニヤス荘を使えばええんじゃ。戸籍、口座、保険証も用意しよ。部屋ん中は好きに改装してええし、欲しい備品があれば用立てたってもええね。あ、ちなみにオマエ今何歳よ?」

「はっ、え……あっ、み、三十路なったばっかりっすね……」

「はぁーっ!? 三十歳なの!? なんじゃそりゃ聞いとらんよあたしは! あたしの基本形態と完全にタメ(・・)じゃん! オマエの見てくれに合わせてやったのに無駄な気遣いじゃねぇのよ!」

 

 怒涛の如く吐き出される言葉。弾丸じみたその内容は破格とも言えるほどの高待遇に感じて、俺は驚愕の余り顔色を失くしてしまった。しかも俺が年齢を口にすると逆ギレされてる。

 ガーッ、と完全に勢いだけで喋り倒しているアグラカトラは、その体から突然白煙を噴出し、瞬く間に肉体が成長していった。そして一気に見上げるほどの高身長になったかと思えば、短髪の赤毛と短パン、半袖シャツの衣服をそのままに、爆乳美女へと変貌を遂げる。

 こうなると服装は露出狂一歩手前だ。唖然とした俺は、呆然と呟く。

 

「か、神……?」

「んぁ? ああ、あたしは神よ? 驚きのホワイト待遇は国内の業界で随一なんよ。神と崇めたくなる気持ちも分からんでもない。これでも一時期は大手ギルド【国開き】のギルド員として金庫預かっとった身なんじゃし、あたしの経歴にかけて半端な待遇は提示せん。不満も湧かんように気持ちよく働かせてやんよ。台所事情はギルド規模に反比例してるけどな、それはあくまであたしの権能ありきじゃし、危なくなったらあたしのことは死ぬ気で守れな? あたしが死んだらウチのギルドは終わりじゃから。あ、ギルド規模が成長したら待遇は更に上げてくからそのつもりで期待しなね。そんじゃあ話の続きはウチん中でしようか。ああ、オマエさ、なんで子供の姿でいんのよ? あたしと同じで可変式よね? さっさと大人の姿になって欲しいな。子供相手してるみたいで疲れるわ」

 

 言葉の濁流に押し流される。お喋りな女神様だ。気圧されたままフィフに心の中で語りかける。

 

(――フィフ。俺、ここに就職するわ)

(……勝手にしたら? 見た感じ、この異教の悪魔は人間に利する存在みたいだし、あなたにとっては都合が良いとは思うわよ)

(お、おう……って、悪魔なのかこのヒト)

(天使にとっては異教の存在は全部『悪魔』なの。それだけの話よ)

 

 なんだそりゃと心の片隅でツッコミを入れる。だが天使の悪魔を定義する解釈なんかどうでもいい。肝心の業務内容は不透明だし、なんなら命の危険があるのは明白だが、そんなのは今更だ。

 高待遇で迎え入れてもらえるなら万々歳だし、望み得る限り最高の職場に思える。比較対象がないから盲信する気はないものの、俺が務めていた会社なんかよりは格段に給与は高かった。

 

「……? ちょっと、花ちゃんさん? どうかしたんですか?」

 

 虚空をぼんやりとした目で眺めていたからか、不審そうに家具屋坂さんが話しかけてくる。

 我に返った俺は(かぶり)を振り、曖昧に笑って誤魔化し返事をした。

 

「いや、別に。アグラカトラさん……社長? って呼んだ方が?」

「んぁ? あぁ……様付けで呼んでもいいし、ギルド長でも社長でも好きに呼べばいいわ」

「では社長で。社長が最後に仰っていたことが腑に落ちませんで、少々困惑しておりました」

「最後?」

「可変式って奴です」

 

 ああ、とアグラカトラは納得した様子だ。

 

「オマエ人間の常識引きずってんのな。んなら覚えとけ、あたしら人ならざるモンに寿命の概念はないんだわ。寿命がないから肉体の劣化も成長もない、つまり外見年齢に縛りはないってわけよ。今あたしが見せたみたいに、子供にも大人にも自由自在ってこと」

「――なるほど。それは、勉強になります」

「ウチに入るんなら危ない仕事することになるんじゃし、子供と大人の姿は上手く使い分けな。基本は大人の姿をベースにした方が力の出力は上がるし、肉弾戦のリーチも伸びる。あたしは暇してること多いしな、勉強はいつでも付き合ってやっから分からんことはなんでも訊きなよ。とりあえず他に訊きたいことある? あってもいいけどさっさと部屋ぁ入ろうね。この格好だと肌寒ぅてならんから。大人形態の難儀なとこは、子供形態より寒さに弱い点かもなぁ」

 

 一つ訊ねたらもう無限に喋る勢いだ。が、嫌いじゃないタイプだった。だって抜群のスタイルと美貌は、完全に俺の好きなタイプだし。声の響きも耳に心地良いし第一印象は完璧である。

 割と本気で親しみやすい。マジで就職してもいい気がする。社長を推せる会社とか最高じゃない? 俺の中でアグラカトラはアイドルみたいに好ましい立ち位置になりそうだった。

 しかし子供形態に大人形態か。肉体年齢が可変式だというのは朗報である。中身はオジサン歴一年生ぐらいなのに、子供そのものの容姿はずっと気になってはいたのだ。

 

 踵を返してさっさと部屋に戻っていくアグラカトラの背中を見ながら、こんな感じかな? と首を捻りつつ肉体年齢を操作する。

 今の俺になってから、やりたいことが大体感覚で分かるようになっているのは便利な話だ。

 感覚に任せて念じていると、きのこを食べた配管工みたいにするすると手足が長くなる。それに合わせてスーツまで伸長したのは、俺の『言霊』がいい感じに作用したからだろう。

 

「わっ、急にイケメンになるじゃん……」

 

 こっちを見ていた家具屋坂さんが、感嘆したようにリアクションしている。

 今まで俺より身長が高かったのに、急に俺より頭一つ分は小さく見えるようになった。地面に近かった目線の高さが明白に違っている。手をグッと握り、開いて、感覚を確かめる。

 違和感は……不思議なほどにない。

 

「マジで成れた……凄いね、人体」

「人体じゃないですよそれ」

「おぉい、あたしを待たせんな。茶ぁ用意したげるんだから、さっさと上がりなさいよ」

「あ、はい」

「ちょっと待ってください、花ちゃんさん。アタシ、アグラカトラ様に任された仕事がまだ残ってるんで、一旦ここまでにさせてもらいますね?」

「仕事が? 女子高生なのに大変だね……」

「学生でもバイトはするでしょ? そんな労らなくてもいいですけど……同情してくれるなら、今度一緒に写真撮らせてくださいね? 友達に自慢できちゃうし」

 

 そう言って軽やかな足取りで走り去っていく家具屋坂さんに苦笑する。

 写メかぁ、別にいいけどな。家具屋坂さんは退魔師らしいが、それをバイトと言う辺りの感覚を可笑しく感じてしまう。住んでる世界が違うなと。あれが若さなのか。

 家具屋坂さんが去ったのを見送って、俺はアグラカトラが先に入った部屋に入室する。玄関で靴を脱いで上がらせてもらうと、アパートの中は畳間――和室風になっていた。

 アグラカトラはモダンな座卓の傍で胡座を掻き、茶碗を二つ用意していた。急須もある。煎餅までも置かれていて、客を招く準備は万端といった風情だった。

 

「やっと来たね。あたしを待たせるなんて良い御身分――ってまだ正式に雇用したわけじゃないからいいか。あたしも今はオマエを花って呼ぶけどいい?」

「ええ……まあ、いいですよ。女の子の名前みたいで本当は嫌ですけど」

「んならさっさと名前考えとけ。なんならあたしが名付けてやろっか?」

「遠慮します」

「あ、そう」

 

 失礼しますと断りを入れて座卓の前で正座する。

 肉体年齢をいい感じにしたお蔭か、アグラカトラと俺の身長は同じぐらいだった。

 アグラカトラは沈黙とは無縁らしく、早速とばかりに口を開く。

 

「刀娘からざっくり話は聞いた。態度見た感じホントにフィフキエルじゃないみたいだしね、あたしもオマエの話は信じてみることにしたわ」

「……ありがとうございます。というか、社長もフィフキエルを知ってるんですね」

「当たり前じゃん。後ろに引っ込んだキミトエルと入れ替わりに、1500年以上昔から活動しとる暴れん坊だもん、あたしが知らんわけないわ。向こうはこっちを知らんだろうけど。あたしのいた【国開き】についても、話にぐらいしか聞いたことないじゃないの」

 

 そうなの? と心の中で訊いてみたら、フィフは気まずそうに身動ぎする。いずれ駆逐する異教としか思ってなかったわ、なんて言い訳をするように返答がなされた。おいおい……。

 

「肩のそれはオマエの使い魔かなんかなん? まあいいか。それよりウチで働く意思はあるの? 一応確認なんだけど、ウチの仲間になって働くって言うなら天使共から匿ってやるよ?」

「匿ってもらえるなら嬉しいです。けど、話の流れからして……えっと、エンエル、でしたっけ。ソイツが本気になったら一日も保たず見つかるって訊いてるんですが、大丈夫なんですか?」

「ああ、あのインテリ眼鏡? アイツの手口も能力も知っとるけど、あたしならまあイケるな。直接情報を持って帰られるか、アイツ自身に見つからん限りは隠し通せるよ。金庫番は秘密の塊でね、そう簡単には晒し上げられんわ。あたしとしては優秀な仲間はどれだけいてもいいし、花が仲間になってくれるなら本気で喜ぶよ、あたし」

「………」

 

 流石に即答はできかねた。待遇面での話を聞いた時は、冗談半分だが転職したいと思った。

 しかし安易に頷ける話でもない。ないが――元々ここまできて選択肢なんか残ってるわけもない。

 ひっそりと嘆息して、頷いた。

 

「よろしければここで世話になりたいと思っています。まだまだ知らないことの多い青二才ですが、どうか私をここに置いてください」

「よっし、全然良いよ!」

 

 ガッツポーズをするアグラカトラに、俺は苦笑する。そんな露骨に喜ばれると、なんとも面映い気分にさせられた。

 

「決まりだね。これからあんたは【曼荼羅】の仲間だ。今いる面子の中だと四人目だし、これから仲間が増えてったら古参面できるよ。やったな、花!」

「四人? ……え?」

「んぁ? 刀娘から聞いてない? ウチはまだ【輝夜】の下請けもいいとこな弱小って。でも安心しな、すぐに大手に成り上がるから。何せあたしは封印されるまで【国開き】っつう日本国内最大手に属してたんよ。今のヌルい環境なら成り上がりなんぞアッという間だわ」

「は、はぁ……そうですか……」

「面子は花を除いたらバイトの刀娘に、ギルド員の老いぼれが二人だ。爺と婆な。若い上に寿命の心配がない花の加入は本気で嬉しいよ。能力面でも大いに頼れるとなったら尚更ね。外部協力者も一人いるけど、ソイツに関してはまだ秘密。今の段階で何か質問ある?」

「あー……そう、ですね……」

 

 四人。俺を入れて四人。なんだこの会社、創業して間もないペーパーカンパニーかなんかか?

 入社したいと言った手前、口にし難い一抹の不安を覚えるが、それはグッと堪えて考える。

 質問、質問か。何かあるか?

 

「……えっと、社長って……神様、なんですか?」

「え? 見て分からんの?」

「……えぇー……と、まあ、はい」

「げぇ、あたしってそんな威厳がないのね。割とショックだわ。いやまあ神に見えんってのも仕方ないよな。よっし、気にしないぞあたしは。ちなみにあたしは正真正銘、神様よ。なんの神様なんかは訊かんでほしいな。あたしにも分からんしね」

「分かんないんですか……」

「分かんないね。自己申告で神様でございーって名乗っても疑わしいかもしれんけど、そこは信じてもらうしかないわ。昔は神もたっくさんいたけど、ほとんどが引退しちゃったからね、余ってる権能が多くてどれが本当のあたしの権能か分からんこうなっとるんよ」

「………? 引退、って。え? 神様って引退できるものなんですか!?」

 

 衝撃的な発言だった。アグラカトラは昔は多くいた神が、ほとんど引退してるせいで権能が余っていると言ったのである。そんな簡単に辞められるものなのか? なら俺も天使を辞めたいぞ?

 俺が予想外に驚いたからか、アグラカトラはたじろぎながら頷いた。

 

「引退できるよ。まあ引退ってのは言葉の綾で、あたしが勝手にそう例えてるだけなんじゃけど。その気になったら復帰してくるんじゃないかなーとは思うけどね、望み薄ではあるわ」

「は、はぁ……なんかよく分かんない話ですね」

「そう? 分からんなら現代っ子に理解しやすく話したろう。あたしの好きなゲーム方式で例えるとな、この世界は神にとってゲームなんよね」

「……例え話ですよね?」

「うん。安心していいけど、オマエらは別にNPCってわけじゃないからな。あくまで例えよ。その例え話で簡単に言うと、この世界は過疎っちゃったわけ」

 

 アグラカトラは軽く言う。それは、例えにしても虚しくなる表現なのに。

 過疎った。ゲームに例えられてしまうと一気に理解しやすく感じる自分が嫌でもある。ゲーム脳な自分が嫌なんじゃなく、なんとなく神様事情を察してしまったのが嫌なのだ。

 

「現代に伝わる神話は、その括りで纏めて一つのギルドってことになる。世界中のギルドは覇権争いをして、或いは内ゲバで自滅したりもして。そりゃもう毎日がお祭り騒ぎの楽しい日々だったけど、色んなことをやりこんだ結果、この世界に飽きちゃったんよね。生き残ってた神っていうプレイヤーはゲームから遠ざかり、ログイン率は一気に落ち込んで今に至る。この世界に残ってるのはよっぽど愛着があるか、なんらかの理由で追い出されてきたか、稀に昔の情熱が蘇った気分屋が戻ってきたかってな具合じゃ」

「へぇ……そりゃあまた、随分と勝手な話で。っていうか、社長の例えに沿うなら、社長はこのゲームに愛着があるから残ってるんですか?」

「いんや。あたしは最近まで封印されてた口でね、まだこの世界から去ろうと思うほど飽きてないってだけよ。あ、ちなみにあたしが封印されたのは、前のギルドでリーダーの不倫をバラして回ったからなんよね。逆恨みで逆ギレよ、酷くない? そんな感じであたしは現代を謳歌中なの。現代は良い世界なんね、昔とは違う娯楽に溢れてる。仲間はみーんないなくなってるし、どうせならあたしがリーダーになって一からやり直してみっかなと思ったんが【曼荼羅】を立ち上げた動機なのよね。夢はでっかく国内最大手! あわよくば世界一の覇権を手に入れるのも面白いかも。そんでなんもかんもをやり尽くしたら、あたしもサヨナラバイバイって寸法よ」

「……この世界の外に出て行くんですか?」

「いんや? 潔く滅びるか、長い眠りにつくかよ。信仰してくれてる民には申し訳ないけど、神は身勝手なんだわ。だから人間も好きにしなってあたしは思う。楽しそうなら混ざるから」

 

 マシンガントークのせいで全く悲壮感も何もない。曖昧に相槌を打ってるだけで訊いてもいないことを山ほど知れたのは収穫かもしれないが。

 喋り倒して満足したのか、アグラカトラは茶碗を手にしてお茶を飲む。ごくりと豪快に嚥下して、赤毛の女神はニヤリと笑って俺を見た。

 

「いずれあたしがこの世界に飽きるまで、あたしとオマエの両方が無事に生き延びてたら、オマエもあたしと一緒に来る?」

「………?」

「花は神じゃないけど、寿命がないならいつかは生きるのに飽きるよ。滅びるのが嫌なら一緒に寝るのもいいんじゃないかって思うわ」

「……すみません。その、まだ飽きるとか……そういうのは分からないです」

「そっか。ま、時間は腐るほどあるし、ゆっくり考えな。あたしもサヨナラする前にはもう一回ぐらい誘ってやらんでもないから。寝てたらそのうち楽しいイベントが起こるかもだし、そういうイベントが起こったら――もしかすると神のログイン率も上がるかもね」

 

 ログイン率かぁ。気楽にこの世界にやって来れるみたいだな。

 俺は嘆息して茶碗を取り、注がれてたお茶を一気に干す。

 

「……重ねてすみません、色んな話を聞けて楽しかったですが、今日はちょっと疲れました。休んでもいいですか?」

「いいよ。ほら、オマエにやる部屋の鍵。二階の一番奥の部屋な。明日から働いてもらうから、今日はもうゆっくりしてな。自由時間だ」

「はい、ありがとうございます」

 

 差し出された鍵を受け取り、立ち上がってアグラカトラの部屋を辞去する。

 外に出て階段を上がっていきながら、俺はフィフに対して愚痴るように言った。

 神様って、話してるとなんか疲れるな、と。

 

「バカ正直に付き合うからでしょ。バーカ」

 

 

 

 

 

 

 

 




面白い、続きが気になると思って頂けたなら、感想評価よろしくお願いします。みなさまの感想に、作者は励まされています!

次回はアグラカトラから早速お仕事を頼まれます。


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15,新しい朝が来た

 

 

 

 

 

 三階建てのシニヤス荘には12部屋があって、俺に与えられたのは二階の一番奥のものだ。

 2−5号室。マンションやアパートだと、4と9の数字は不吉として飛ばすことになっているが、それはこのシニヤス荘でも例外ではなかったらしい。

 鍵を開けて中に入ると、線香を焚いたような匂いがした。

 子供の頃に嗅いだ、爺ちゃんの家みたいな匂いだ。無人の静けさが横たわる部屋に上がると、精神的な疲労からすぐ畳の上で大の字になって、見慣れない板張りの天井を見上げる。

 

「あら。みすぼらしい部屋ね。曲がりなりにも神を名乗る不心得者のくせに、住処を飾り付ける見栄すらないのかしら。貧乏くさくって嫌なところね」

 

 俺の肩から飛び降りていたフィフは、どうやらこの部屋が気に食わないらしい。不満を隠しもせずに吐き出して、ぷりぷりと怒っている。清貧を推奨する神書の天使とも思えない発言だった。

 だが揚げ足を取るようにツッコミを入れる気にはならない。何かをする気になれないぐらい、なんだか疲れてしまっている。激動過ぎる一日に俺の精神は参っていたようだ。

 しかしフィフの言う通り、部屋の中には何もない。引っ越しのために荷物を持ってきていたわけでもないのだから当然だが、これでは生活感がなさすぎて寛げる気がしなかった。

 

「……そうだな。『言霊』で色んなもん作ってみるか」

「天力を使うの? 全快したわけじゃないのだから、多用しない方がいいと思うのだけど」

「つってもこのまんまじゃ俺の気が休まんないんだよ。出掛ける気分にもなれねぇし、ちょっとぐらいイイだろ? 不必要なもんまで作る気はねぇしな」

「うーん……まあ、それなら仕方ないわね」

 

 俺はズブのド素人だ。俺なんかが持っていても上手くアウトプットできない大量の知識を、天使フィフキエルの人格を元にしたフィフが引き出して、否と言ったのなら素直に従うつもりでいた。

 だから強く反対されたら諦めていたが、知恵袋がゴーサインを出してくれたので上体を起こす。部屋の間取りはリビング・キッチンが八畳、ダイニングが六畳で玄関に隣接している。トイレ、洗面台、浴室はちゃんと分けられていて寝室が四畳半ってところだ。

 最初に部屋に上がった際にチラ見した程度で、完璧に間取りを把握している自分の脳が立体的なイメージを描き出し、俺は若干の薄気味悪さを覚えつつ家具やらを設置していった。

 

「えー……『寝室にベッド、エアコン。窓とガラスドアにカーテン。リビングに座卓とソファー、液晶ディスプレイ。ダイニングにテーブルと椅子二つを設置しろ』……後は追々だな」

 

 言いつつ、なんか足りねぇなと思って頭を捻る。

 虚空を見詰めたままだが、天力が毛筋の先ほどの少量が消費され、部屋の中に次々と家具が現れるのを知覚していた。元の俺の部屋にあったのと同じものや、以前店頭で見て欲しいなと思っていたものなどだ。だがこれだけではまだ俺らしい家じゃない。

 何が足りない? ……ああ、そうだ。こういう気分の時にこそ、必要なものがあるだろう。

 

「『寝室にデスクとリクライニングチェア、最新のデスクトップパソコン一式。ネット環境を設置。あとはビールと枝豆も』」

「お馬鹿。そういうことするなら一括してやりなさい。天力を多用して力を乱発したら、あなたを探す輩に感知されかねないのよ。潜伏する時の基本じゃない、力と生体反応を誤魔化すのは」

「んっ……そうなのか。すまん、それとありがとう。忠告助かるよ」

 

 こういうことをすると、金なんか要らない気もしてくるが、その点に関しては自戒した方が良い。呆れ混じりのフィフの忠告へ素直に感謝すると、力の行使を自重する方向で意思を固めた。

 しかしふと思った。そういえば『言霊』で作ったネット環境って、使った場合不正になったりするんだろうか、と。立ち上がって寝室に向かう短い時間考えてみたが、限りなくアウトな気がする。

 忽然と出現していたベッドを横目に、リクライニングチェアに腰掛けるとパソコンを起動する。初期設定なんて面倒なものは既にクリアされている不思議仕様は無視して、流れるようにネットに接続すると推しのVtuberのチャンネルを開いた。推しの配信予定は事前に予告されている場合全て覚えている。土曜日である今日この時間からは、推しが案件配信(おしごと)をする予定なのだ。

 

「おっ、ラッキー。ギリ間に合ってる」

 

 推しが宣伝を兼ねて先行プレイするのは『お帰りあそばせ地獄村』だ。たしか前作は鬼畜ゲーだったらしいが、新作の難易度はどうなっているのだろう。配信がスタートするまでのオープニングを見ながら、俺はもう面倒臭い思考は全て放り出すことにした。アウトだろうがセーフだろうが知ったことか、推しの配信を見ること以上の優先事項などあまりないのである。

 

 俺は推しの案件配信が長時間の配信になるよう身勝手に祈りながら、頭を空にして配信開始の瞬間を待って――果たして俺の祈りは推しに通じた。

 

 誓って言うが、『言霊』は使ってない。推しは9時間プレイしてもステージクリアができず、まだまだ配信を終わらせられる気配がなかったのだ。

 想像を絶する難しいゲーム難易度で、推しの悲鳴や罵倒が聞けて大変満足できた。非常に有意義で楽しい時間を過ごすことができたし、これには疲れ切っていた俺もニッコリである。

 缶ビールも美味い。子供形態でいた時は吐くほど不味く感じていたが、大人形態だとしっかり美味だと感じられる。いいね、この喉越しが堪らん。枝豆もきちんと美味いしビールに合う。

 

「ふぁぁ〜……あ、まだやってるの?」

「ン? そうだな。やっと中間まで来たぐらいだし、あと何時間やるんだろうなぁ。…お、また死んだ。こりゃ1時間2時間じゃ終りゃせんっぽいぞ」

「……あなたって変な趣味持ってるのね、こんな絵がゲームをしてるのを見て満足するとか、頭おかしいんじゃないの? 知ってるわよ、人間ってゲームが好きなんでしょ。暇を潰したいなら自分でした方が絶対に有意義じゃ――」

「――フィフ、それ以上言うな」

 

 退屈そうにデスクの上で待機していたフィフが、大欠伸をしながら言ってくるのに、俺は一瞬で怒りのボルテージを臨界までブチ上げ、危うくマジギレするところだった。

 だが俺は大人なので、怒りを抑えてフィフに言う。

 

「人の趣味に余計な茶々を入れる奴の方がおかしいんだよ。理解できない上にする気もない奴が割って入ってゴチャゴチャ抜かすなや。俺は楽しい、それで話は終わりだろ。違うか? あ?」

「な、なに? 怒ってるの? ご、ごめんなさい……」

「怒ってないが? 俺が何をどう怒ったって証拠だよ」

「言語野がイカレるぐらい怒ってるじゃない!」

「俺の趣味に口出しすんな。別に迷惑掛けてるわけじゃねぇんだから。アイドルの応援もアスリートの応援も同じだろ? な、理解したかなフィフちゃん」

 

 ブンブンと頭を縦に振るフィフを見て、ひとまず溜飲を下ろす。

 いかんな。仲良くしてた同僚にVヲタだというのがバレて、馬鹿にされた時みたいにキレちまいそうだった。あの時は同僚のアウトドア趣味を馬鹿にし返して、キレてきたところに『お前が先に俺の趣味を馬鹿にしたじゃねぇかタコ助』と言って喧嘩別れしたんだったか。微塵も後悔してないが、フィフと喧嘩しても良いことは何もない。反省してくれたみたいだし我慢しよう。

 ふ、俺も大人になっちまったな。我慢を覚えることで子供は大人になるって聞いたが、俺の大人レベルがこれ以上あがっちまったら聖人君子になっちまうよ。心のゆとりは人生を豊かにするね。

 

「ん……」

 

 我ながら頭空っぽな思考を垂れ流すと、頭の中に軽薄な自分が帰ってきているのに気づく。全ての物事を軽く捉え、責任重大な仕事中でも自分のペースを保てるバカな部分の俺が帰宅していた。

 おかえり、バカな俺。やはり推し事は偉大だ、メンタルが一気に回復した。

 すると現金なもので、心のどこかで張り詰めていた糸が緩んだらしい。睡魔がここぞとばかりに押し寄せてくる。天使の体でも眠くなったりとかするんだな……と、他人事のように思いながらリクライニングチェアから小さなベッドに移動し、横になってパソコン画面を見る。

 

「天使に睡眠は不要よ。あなたが眠いと思ってるのは、心が疲弊してるからでしょうね。人間的で実に結構なことじゃない」

 

 不貞腐れたようにフィフが言うのを、どこか遠くから話しかけられている心地で聞いて、俺は重くなる目蓋をゆっくりと閉ざした。そっか、俺の心はまだ人間なんだな、なんて安心しながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドンドンドン、と扉を叩く音で目を覚ました。

 

 閉じきったカーテンは微かに明るみ、外では日が昇りだしたのを悟る。

 一夜が明けて朝になったのだ。くぁぁぁ、と大口を開けて欠伸をすると、起きていたらしいフィフが「はしたないわね、やめなさいよ」と小言を言ってくる。

 

「おぉー……おはよう、フィフ。今何時?」

「午前8時よ。随分熟睡してたわね、あなた」

 

 おお、時計代わりにもなるなんてフィフは高性能だなと感心した。ベッドから出て両腕を伸ばし、ポキポキと体の節々から音が鳴るのを聞いてから、未だにノックをやめない人に呼びかける。

 

「はいはい、朝っぱらから騒がしいですねー。どなたですかー?」

「アグラカトラ様だ!」

「あ? 誰? ……ああ、社長!」

 

 ほんの数秒知らない奴だと思ったが、意識が覚醒するにつれ昨日の出来事を思い出す。

 相手が社長だと分かると一気に背筋が伸び、急ぎ足で玄関に向かった。

 着たまま寝ていたスーツが()れている、ネクタイも曲がり情けない格好だ。そういえば昨日は風呂にも入ってないし、着替えてすらいないなんて不潔である。ヤバッ、と今更焦ってしまった。

 仕方なく手で撫でつけて縒れを直し、ネクタイをきっちり締め直した。臭くねぇかなと内心緊張しながらドアを開く。

 

「はい、お待たせしました。おはようございます、社長」

「おうっ、おはよう花。早速だがこれを受け取りなって。ギルド入り祝い兼、約束の品よ」

 

 大人形態になった俺とアグラカトラに身長差はほとんどない。同じぐらいになっていた。

 しかし今目の前にいるアグラカトラは、俺よりも頭二つ分以上背が高い。思わず見上げてしまった赤毛の女神様は、困惑する俺には構わず黄金の指輪を押し付けてくる。

 ――シンプルなデザインだが、はっきりと感じる重量感。おまけに得体の知れない感覚――いや、天力に近い力の気配を指輪から感じた。

 指輪から目を上げてアグラカトラを見ると、彼女はまたもや弾丸の如く喋りだす。

 

「そりゃあたし謹製の護符よ。身に着けた奴の生体反応パターン、天力や魔力の波長を誤魔化しちゃう加護を内包しといたわ。そいつをつけてる限り、遠隔からオマエを見つけるこたぁあたしにしかできない。ちなみにあたしの権能をフルに使ってるから誰にも同じものは作れんし、あたしが破棄を決定したらすぐ壊れっから持ち逃げなんてバカな真似はするんじゃないぞ? 【曼荼羅】のギルド員の証でもあるから失くさんといてよね。ついでだから仕事を頼むけどいい? ああ拒否権はないから聞くだけ無駄か、無駄な質問をしてごめんなさいだわ。花、オマエは秋葉原に行って来て。あそこに異界発生の兆候があるって聞いたから。東京で異界が生まれそうなのをあたしが見過ごすわけないし、たぶんこれは人為的に作られかけてる異界じゃろうね。きな臭いし一人で行くのが不安なら刀娘に声掛けんさい。一人で行ってもいいけど無理だと思ったらすぐ引き返せ。そういうわけだから後は頼んだわ、期日は3日! 仕事は無事に完了するものとして皮算用立てとくから、なるはやで終わらせてね!」

「……あ、はい」

 

 アグラカトラは朝っぱらから元気一杯の絶好調だ。苦笑を誘われてしまう。

 言い終わるなりさっさと立ち去っていこうとする社長だったが、思い出したように振り返った。

 おいおい、まだ喋る気なのか。

 

「あ、そうだ。花、オマエの基本形態って子供の方なんじゃね。縮んどるのに気づいとる? 寝ぼけ眼で可愛いもんじゃけど、寝癖もついとるぞ。それからコイツはあたしから新人へのプレゼントよ、受け取っときな。大手を振って持ち歩いても公僕に呼び止められん、認識を阻害する代物よ。あたしの趣味じゃないから返品はお断り、ありがたくもらっといて」

 

 投げて寄越されたのは、アグラカトラが手に持っていたものだ。慌ててそれをキャッチする。

 渡されたのは朱色の漆で塗られた棍棒で、持ち手にはスイッチが二つ付いていた。小さい手でも握れるほど細く、辛うじて棒状だと言えるぐらいに短い。

 なんだこれ。武器? 武器なのか? このスイッチはなんだろうか、試しに押してみよう。

 

「うおっ……と」

 

 すると朱色の棍棒が一気に伸びた。長さにして三メートルまで。凄く長い。反対のスイッチを押すと縮小していき、元の長さにまで戻ってしまう。

 質量保存の法則どこいった? とんでもない代物だ。こんなの要らねぇよと呟き掛けて、思い直す。

 これから危ない仕事をすることになるんなら武器は必要かもしれない。となるといきなり刃物を渡されても怖いから、武器としては意外と助かるチョイスかもしれなかった。

 

「……よく分からん神様だな」

 

 寝ている間に体縮んでるし。騒がしく起こされるし。挨拶交わした後は喋り倒してすぐいなくなる。完全に社会不適合者だろう。人によってはとことん嫌いだと感じるかもしれない。

 俺は好きだけど。見ていて面白い生き物に感じるからだ。

 手の中で短い棍棒――撲殺丸なんて物騒な銘が彫られてあるのは見なかったことにしつつ――くるりと回してみて、朝の澄んだ空気にあてられもう一度欠伸をした。

 

「ふぁぁぁ……期日は3日だっけか?」

 

 やることもねぇし、散歩がてら見るだけ見てこようかねぇ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




メイン武装を刀にしようかと思ったけどやめました。刀娘いるし。他にも刀メインの人も登場予定だし。銃もやめました、イメージと合わないので。なんで、ビジュアルを重視して如意棒もどきを採用。

一度寝たことでメンタルリセット。頭の中にバカ一匹を飼った、人間時の精神状態に近い状態で出勤。
心強い知恵袋もいるし、これで安心よ!()


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16,さよならを言いに

お待たせしました。


 

 

 

 

 

「きゃぁぁぁぁ――っ!」

 

 うわ五月蝿(うるさ)っ!? 急に耳元で悲鳴を上げられた俺は、反射的に両手で耳を塞いでいた。

 悲痛さと怒りが絶妙にブレンドされた、いっそ見事な貫通力を誇る金切り声である。俺は軽い耳鳴りに見舞われ、鼓膜に爆音という打撃を食らわせてきた下手人に怒号混じりに抗議した。

 

「うっせぇ! いきなり耳元で叫ぶなこのバカ!」

「バカはあなたよ! このバカ! なんてことをしているの!? 正気!?」

 

 だが俺の肩に陣取っているふてぶてしいヌイグルミは、俺の正当な文句に逆ギレで返してくる。あまりの剣幕に――ヌイグルミだから全然怖くないが、反論を赦さぬ憤激に閉口させられた。

 

髪を短くする(・・・・・・)だなんて信じられない! あなた、わたくしの神聖な髪をなんだと心得ているの!? 今すぐ戻しなさいよ!」

 

 俺は今、洗面台の前にいた。

 事の発端はこうだ。アグラカトラから指輪と如意棒もどきを渡され、暇だし仕事の現場を見に行くかと決めた後。とりあえずシャワーを浴びて身支度を整えた時のことである。

 濡れた長い髪が顔に張り付いて鬱陶しかったのだ。長いとは言っても肩に掛かる程度だが、それでも元の俺が短髪だったのもあって、必要以上に長く感じてしまったのだろう。

 一度気になるともうダメだった。邪魔だし切りたいと思ってもハサミなんかなかったし、『言霊』で作るのもバカらしく、社長に借りに行くのも面倒でしかなく。ではどうするかと軽く頭を悩ませていると、感覚的に肉体年齢を操作する要領で、髪の長短も調整できそうな気がしたのだ。そうした感覚的な直感は、昨日までの短い経験でも信頼できると分かっていたので従った。

 するとどうしたことだ、至極あっさりと髪の長さが調整できてしまって、元の俺に近い髪型になり満足できたのだが――俺の髪型が変化したのに気づいたフィフが耳元で絶叫しやがったのである。

 俺は辟易として言い返した。

 

「お前の髪じゃねぇよ。俺は自分の髪が長いのは嫌なんだ。鬱陶しいだけだしな」

「愚か! あなたはフィフキエルの全てを受け継いでいるのよ? ならわたくしの髪も同然じゃない! このわたくしの髪を粗野な形にするだなんて許せないわ!」

「お前もフィフキエルじゃねぇだろ……」

「自己認識はフィフキエルだからいいの! いいから言うことを聞きなさい! わたくしに無断で、こんな所に所属したことはそれで許すわ!」

「……ハァ。はいはい、分かりましたよ。これでいい?」

 

 こりゃ五月蝿くて敵わん。言うことを聞かせるのは簡単だが、自我を持ってる相手にはあんまり無理強いしたくなかった。やらなきゃ不都合だってんなら仕方ないと割り切れるが、こんなくだらない諍いでフィフに手を加えるのは気が引けてしまうし。

 そうして深々と嘆息して髪の長さを戻したのだが、フィフは当然のように要求を続けてきた。

 

「ついでだから今後の髪型はわたくしに決めさせなさいな。相応しい美しさに仕立ててあげる」

「はぁ? ヤだよ。今のままでいいじゃん?」

「ダメよ。ホントはその乱暴な口調もやめてほしいんだけど、わたくしって懐が深い天使だし? 最低限尊重して我慢してあげてるの。そんなわたくしが我慢ならないのが身嗜みよ!」

 

 天使でもないじゃん。と、内心で呻く。だが口にはしなかった。

 フィフの人格は女性型だ。こういう時、口答えすると後に尾を引くというのは知っていた。

 仕方ない。髪型ぐらい言うことを聞こう。髪は傷めない程度、会社勤めとして見苦しくない程度にしか気を遣ってこなかった俺だ、見栄えのするセンスなんか持ち合わせがないんだし。

 

「分かった分かった、じゃあどうすりゃいいんだ?」

「あと三センチ髪を伸ばしなさい」

「はいはい」

「後、ここに屈みなさいよ。わたくしが手ずから結わえてあげる。……ふふ、ここには口煩いキミトエルもいないし、好きに整えられるわ」

「………」

 

 洗面台の上に飛び移ったフィフに背中を向け、大人形態に移行していた俺は素直に屈んだ。髪ゴムを片手に俺の髪を弄り出したフィフが、聞き覚えのある名前を出すのに眉を顰める。

 キミトエル。たしかフィフキエルの姉だったか。ゴスペルと一緒にいた時に見た顔は、確かにフィフキエルのそれとよく似ていたような気がする。姉、姉貴か。妹が実はもう死んでると知ったらキミトエルとかいう天使はどう思うんだろう……いや、考えなくていいか。深く想像したらこちらの気が滅入りそうになってしまう。だいたい、俺は100%悪くないのだから。

 

「できたわ!」

 

 言うなり俺の肩にフィフが飛び乗ってくる。屈めていた背中を伸ばし、振り返って洗面台の鏡を見遣ると、俺の髪はお団子みたいに結わえられていた。

 シニヨンという髪型だ。今の面がとんでもなく美人なもんで、我が事ながら非常に似合っている。というかどんな髪型でも似合いそうで、意外と悪くない気分にさせられた。

 

「良いセンスだ」

「当然じゃない。わたくしの美的センスは天界でも評判だったのよ」

「どこだよ、天界」

 

 これ以上鏡を見ていたら、自分の顔に見惚れるナルシストみたいになっちまう。実際、自分の顔をまだ見慣れていないせいか、じっくりと見入ったら惚れてしまいそうだ。

 そんなのは御免被る。さっさと洗面台を後にして、革靴を履き外に出た。

 黒いスーツに青いネクタイ、タイピン。右手中指に金の指輪。そして最後に背中に負った如意棒を収めるホルスター。最後の装備品だけで一気に浮くが、人には見えないらしいので気にしない。

 大人の姿に変形してスーツを着ていると、自然と気が引き締まるのは社会人あるあるだと思う。そうしてシニヤス荘から出て行くと、割とすぐに呼び止められてしまった。

 

「花ーっ! これ持ってっときなよ!」

 

 アグラカトラの声だ。振り返ると再び何かを投げ渡される。

 彼女は自分の部屋の玄関から一歩出た先で、俺に革の財布とスマホを投擲してきたのだ。

 難なく掴み取ると、アグラカトラはにかりと笑う。

 

「それギルド入り祝いの支度金! 好きに飲み食いして、好きなもん買えばええよ! 飲食も睡眠も風呂も要らんし、刀娘から聞いたオマエの力があったら買い物とかも要らんじゃろうけどね、そういう無駄なことも楽しむんが吉よ! 人間性を失ったら辛いけぇな!」

「――はい。ありがとうございます、社長」

「カカッ、礼儀正しい奴! んじゃな、これからランク上げにゃならんし、あたしはもう戻る! 今度気が向けば一緒にゲームしよ!」

 

 言うなりこちらの返事も待たずドアを閉められる。朝っぱらからゲームかよと思うも、なんだかにくめない人だ。いや女神か。本当の意味でのアットホームな空気に、知らず頬が緩んだ。

 財布の中身を確認すると、意外なほどの大金が収められていて目を見開く。

 おいおい、どんだけ気前いいんだよ。百万も入ってんじゃん。封印される前は大手ギルドの金庫番をしていたと言っていたが、金銭感覚どうなってんだ? 財布を持つ手が震えちまう。

 懐に財布を入れて、アグラカトラの部屋に頭を下げてから街に向かった。今まで持ち歩いたことのない大金が懐にあるためか、足元がふわふわしているような気分になる。

 

(無駄なことを楽しめ、か)

 

 確かに、今の俺には『言霊』があるから、人間社会の大半は無駄だ。

 でもアグラカトラの言葉は金言だと思う。

 今の俺にとっての『無駄』が、俺の精神を人間のものとして維持する大事なセーフティーネットになるのだろう。せっかくの厚意なのだし、金も含めてありがたく頂戴しておこう。

 しかしこうも恩を受けるとアグラカトラには頭が上がらなくなりそうだ。いや、現時点の恩で充分縛られている気もする。……別にいっか。どうせ行く宛もないんだから。

 

(秋葉原で人為的に異界が生まれそうになってる、だっけ)

 

 仕事の内容を思い返す。思い返した上で、いまいちピンとこない――わけではなかった。

 現代日本人のゲーム脳を侮ってはいけない、ファンタジーな現象に対する想像力は、おそらく世界一と名乗っても過言ではないような気がしないでもないのだ。

 故に異界という単語だけでおおむねどんなものかイメージが湧いてくる。

 だが問題が一つ。俺は大人として現実と空想の線引きぐらいきちんとしているが、一般人にとっての現実と空想の境界が、今の俺は曖昧になっているのが懸念事項となっていた。

 

 なんせ今まで俺が空想だと思っていた存在に、俺自身が成っている。果たして俺の持つ空想に関する知識を、どこまで空想に等しい現実に適用できるものなのか。その辺りを把握していない今、不用意に行動するのは厳に慎むべきではあった。

 

「なあ、フィフ」

「なに?」

「異界ってなんだ? 知ってる限りの詳細を教えてくれ」

 

 だから空想の塊みたいな天使の知識に頼る。当たり前の判断だ。

 フィフは諳んじるように答えてくれる。

 

「異界っていうのは、知性と感情から漏れ出たマモによる位相の歪みね。あの小娘から聞いたと思うけどおおむね人間の欲望、悪感情から形成されることが多いわ」

 

 ……そんなこと言ってたか? 魂の老廃物云々が原因とは聞いたが。

 

「たとえるならこの下界の中に、一つの小さな世界が生まれてしまうようなものかしら。異なる世界というように、世界が違えばルールも違う場所よ。異界には異界のルールがあって、中にあるモノにはルールへ従わせようとするの。あなたには関係ないでしょうけど」

「関係ない? なんで?」

「いいことを教えてあげる。塵も積もれば山になるものだけど、あなたが身を置くことになった世界では塵は塵なの。山ほどあっても吹けば飛ぶわ。雑多な怨念程度で、存在の次元が違う相手を従わせることは叶わない。塵の課すルールで天使が囚われることはないの。例外があるとするなら、その塵のルールを強化する輩がいる場合ね。同格以上の相手が異界を支配していたら、相応に厄介なことになるわ。あなたはその点にだけ気をつけておきなさいな」

「なるほどね。完璧に理解した」

「本当かしら……」

「ホントだよ。マジで理解したから安心してくれ。で、異界を放置したらどうなるんだよ」

 

 こちとら妄想力のエリート戦士だ。社会人になってからは一線を退いていたが、それでも青春を捧げた思い出の作品たちが俺の背骨になっている。そう簡単に忘れたりはしない。

 だからここまで聞けば、異界を放置したらどうなるかも予測がついている。家具屋坂さんも災害の原因になるとは言っていたし、知りたいのはどうして災害に繋がるのか、だ。

 最悪のケースに至る場合のメカニズムを理解しておけば、現場の対応も変わるものだろう。

 

「異界を放置したら? これも簡単ね。ダムが決壊するようなものよ」

「あー……なるほど? 異界が限界まで膨張したら、破裂して現実世界に異界の中のもんが流れ込んでくる的な?」

「あら、理解が早いじゃない。その通りよ。下界に異界のルールがなだれ込んで、下界のルールと異界のルールが衝突するの。基本的に異界の方が規模が小さいし、下界のルールに圧し負けるのが必然だけど、世界と世界のルールが衝突し合えば少なくない余波を生むわ」

「それが災害に繋がると。オーケー、確かに異界は早期に潰すに限る訳だな」

 

 理解した。ただ――

 

「社長は異界が人為的に作られてるかもって言ってたよな。そんなことできるのか?」

「できるわ。異界を人為的に作るのは、簡単じゃないけど不可能じゃない」

 

 そうなの? ちらりとフィフを見ると、彼女は歌うように続けた。

 

「天使の【聖領域】も異界の一種なのよ。その濃度――強度や厚みとも言えるかしら。それを強めれば比較的簡単に異界そのものは出来上がる。だけど旨味はないわね。後処理が面倒なだけだから真似はしないで」

「旨味がない? じゃあなんで異界なんか作ってる奴がいるんだ?」

「さあ? 異界を作る輩の人物像を想定するとしたら、わたくしが予想できる限りだと三つね。異界を成長させ下界とぶつけることで周りをメチャクチャにしてやりたい自殺志願者か、異界の中に隠れ潜んでよからぬ企てをする知恵者気取りか、異界を潰しに来る――たとえば今のあなたみたいなのをおびき寄せたい狩人か。……ああ、もう一つあったわね。有り得ないとは思うけど」

「……なんだよ? なんか急に帰りたくなってきたとこなんだが」

 

 三つの想定されるパターンだけでお腹が痛くなってくる。自殺志願者も、知恵者気取りもろくでもないが、狩人とかいうのは今の俺にとって嫌な想像を掻き立てられるものでしかないのだ。だというのにまだあるのか? 秋葉原に向かう足も、自然と緩くなってしまう。

 

「人造悪魔。今までこんなものが作られたことはない。有り得ないとされてきたものよ。その有り得ないモノが実現しているということは――秋葉原とかいう場所に異界を形成している輩が【曙光】の手の者の場合、異界を有効活用する術を見つけ出すか開発した可能性が浮上するわね。繰り言になるけど、わたくしは有り得ないと思ってるわよ?」

「やめろよ。そういうのフラグになるんだぞ」

「……フラグ? 今の話のどこに旗があるの?」

 

 小首を傾げるフィフに反応を返さず、俺は嘆息して方向転換した。うん、明らかに散歩がてらで見に行って良い場所じゃなさそうだ。家具屋坂さんと合流してから行こう。

 そう腹を決めると、途端に暇になってしまう。今日は日曜日だ、家具屋坂さんも学校は休みだろう。部活さえしていなければまだシニヤス荘にいるかもしれない。……いや待てよ? 家具屋坂さんがシニヤス荘に暮らしてるとは限らないな。というか普通にありえん。常識的に考えて親と一緒に暮らしているはずだし、あのシニヤス荘にはアグラカトラと俺以外の気配がなかった。

 気配がなかった、なんてしたり顔で決めつけているが、外れているとは思えん。というか昨日別れた時に、彼女は普通にどこかへ走り去っている。あれは家に帰っていったのだろう。

 

「あ、あのぉ……」

「ん?」

 

 アグラカトラに渡されたスマホに、家具屋坂さんへの連絡先が登録されていたらいいんだが。

 そう思ってスマホを取り出し、ロックされていない画面を開いていると、不意に知らない人から声を掛けられてしまう。ちらりと視線を向けると、そこには一人の少女が立っていた。

 ……誰だ? 見たことのない少女である。

 金髪に染めた長髪を内向きにカールさせ、整った容貌を適度に化粧して華やかせている、可愛らしく明るい印象の()だ。服装は私服で流行に乗ったものだろう、ティアードワンピースにニットベストを合わせたクラシカルな着こなしをしている。

 知らない年頃の少女というだけで、警戒心がむくむくと顔を出してきた。都会の社会人男性が基本装備する警戒心は、駅にいる時ほどのものではない。しかし油断は禁物だ、未知の手法でしてやられる可能性はある。この少女にも仲間がいるだろう、仲間はどこだ?

 

 素早く視線を動かしてみれば、いた。少女の後ろの方で、二人の少女が顔を寄せ合い、こちらの様子をうかがってきているのを発見する。

 

「なんですか?」

 

 ぶっきらぼうになり過ぎず、警戒している素振りも見せず、穏やかで優しげに応対する。如何なる隙も晒さず、慎重に現状を把握するのだ。

 すると少女は興奮したように頬を上気させた。後ろの方の少女達がヒソヒソと声を掛け合うのを天使イヤーではっきりと聞いてしまう。

 

「ね、ね! 聞いた今の!? すっごく綺麗な声!」

「聞いた聞いた! めっちゃ優しそうじゃん!」

「………?」

 

 な、なんだ? 何が目的だ? 困惑してしまっていると、目の前の少女がズイっと近寄ってくる。

 未知の圧力だ。いや未知じゃないな、会社の後輩からも似たような圧を受けたことがある。

 

「もしかしてなんですけど、モデルとか俳優とかしてたりしますか? 芸能人だったり!」

「……ん?」

「よ、よかったらなんですけど、一緒に写真とか撮ってもらったりしちゃっていいですか? 暇なら一緒に遊んだりとか! ね、どうですか!?」

「……ああ、なるほど……?」

 

 興奮気味にまくし立ててくる少女に、やっと彼女達の目的を察する。

 これは逆ナンという奴か。されたことがないから察するのが遅くなったが、たぶんそうだろう。

 改めて思い返せば、今の俺は自分の顔を見つめるのも憚られるようなとんでもない美形だ。家具屋坂さんに曰く人間離れしているレベルの。下手をしたらナルシストになりかねないと自分でも思うほどなので、そりゃあ他人が惹かれてしまっても仕方ない。

 こういう思考自体がナルシストみたいでちょっとイヤだが、客観的に見るとそう判断できる。

 

 俺は少女達を改めて見据えた。普通に可愛い。学生時代にたとえると、学校のクラスカーストで最上位にいそうだ。今までの俺や、昔の俺なら鼻の下を伸ばしてしまっていたかもしれない。

 だが、不思議と惹かれなかった。天使だから人間を下に見ているとかいうのではなく、誤解を恐れず明言するなら彼女達に『性』を感じないのである。

 男女であれば互いに性的な魅力を感じるかどうか判断がつく。しかし今の俺には性別がない。だからだろう、見ず知らずの少女達に惹かれるものは全くと言っていいほど感じられなかった。

 

「すみません、私はこれから仕事でして、先を急いでいるので付き合うことはできません」

「あっ……そ、そうなんですか……」

「はい。せっかく声を掛けてもらったのに袖にして、申し訳なく思います。また今度、縁があったらその時に改めて誘ってください。都合が合えば喜んでお付き合いしますよ」

「わ、分かりました! また今度会えたら誘わせてもらいますね! お邪魔してごめんなさい!」

 

 こちらがやんわり断ると、無理強いしようとはせず素直に引き下がっていった。残念そうではあったが俺に対する悪感情はなかったように思える。というか普通に話しただけで喜んですらいた。

 感じの良い娘だったな。さぞかしモテるだろう。身の回りにあんな娘がいたら毎日が楽しいかもしれない――と、自分の学生時代を想って立ち去る少女達を見送る。何度かこちらを見て手を振ってくるのに、俺も手を振り返すと黄色い声を上げて興奮していた。

 

「………」

 

 適当に歩いて物陰に入ると、スマホを開いて登録されている連絡先を確かめる。

 『アグラカトラ様』『家具屋坂刀娘』『坂之上信綱』『勅使河原誾』の名前が並んでいるが、後者二人は誰だ? もしかして、もしかしなくても、まだ会えていない【曼荼羅】の人か?

 読みは……サカノウエ・ノブツナ。テシガワラ・ギン、だろうか。

 察するに坂之上さんはお爺さん、読み辛いが勅使河原さんの方がお婆さんなのだろう。なんというか家具屋坂さん含め、珍しい名字だなと思う。近い内に挨拶したいものだ。

 

「えー……『おはようございます。仕事の件で相談したいことがあります。急ぎではありませんので、ご都合の合った時に連絡してください』と」

 

 面識のある家具屋坂さんにメールをする。これでよし。後は返信があるまで暇になったな。

 まだ午前9時にもなっていない。これでは暇を持て余してしまうが、アグラカトラに財布とかを預かったばかりなのに帰宅するのは気まずかった。

 ではどうする。うーん、と悩み、ふと思い出した。

 

(そういえば、元の体はどうなったんだ?)

 

 ゴスペルは任せろと言っていたが、手を回してくれているのだろうか。それとも手を回すまでもなく病院にいる? 一度気になると無視できなくなり、俺はすぐに決断した。

 よし、俺の体の様子を見に行こう、と。

 

 

 

 

 

 

 



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17,人間の自分に決別を

 

 

 

 

 

 

 探し病院(もの)は案外簡単に見つかった。

 

 なんとなくここにいるだろうなと思った所に足を運んだら一発だったのだ。単純に勘が鋭いだけとは言い切れないほどあっさりしていて、我ながら拍子抜けさせられたものである。

 あれだろうか。今の体の中身が俺だから、元々の体との繋がりが残っていて居場所が分かるとか、そういう感じのサムシングなのだろうか。不思議ではあるものの、原因を敢えて突き止めようとは思わない。俺の元の体が運ばれていたのは東京でも一番大きな病院で、意外と大事にされているんだなということが分かった程度で充分過ぎた。

 俺は【聖領域】をえいやと感覚で自身に貼り付け、目的の病院に侵入すると入院患者リストをパラパラと盗み見しつつ、『花房藤太』がいる病室へと歩いていく。

 

「監視カメラも人も全く認識できないとか、よくよく考えてみなくてもヤバいよな」

 

 看護師さんや患者さん、患者さんの見舞いに来ている家族の人達とすれ違いながら、目の前で手を振ってみたりして無反応なのを確かめつつ、【聖領域】の犯罪的な危険さに独り言を零した。

 一度でもこの力を悪用してしまったら、自分の行動に歯止めが利かなくなりそうな予感がして恐ろしさを感じてしまう。まあ病院に忍び込むこと自体が悪用だと言われたら痛いが、自分の元の体の調子を見に来ただけなんだ。今回ばかりは大目に見てノーカン扱いでいいと自己弁護しておこう。別に誰かに迷惑を掛けるわけでもなし、超法規的措置みたいな感じで許して欲しい。

 

(ここか)

 

 花房というレアな名字が記された表札を見て、元の体が安置されている部屋の前まで辿り着く。

 カルテを盗み見たところ、元の体には脳死判定が下されていた。体はいたって健康そのものだが、脳波が全くない植物状態になっているという事だろう。

 俺の様子を見に来た後輩の山田くんには悪かったなと今更思った。俺が通勤してこないからと様子を見に行かされたら、会社の先輩が脳死状態で倒れていたと知ったら仰天するだろう。

 そういや大きな商談が纏まるまで後少しってとこだったんだが、俺が抜けたら誰が後を任されてしまうんだろうか。会社も寝耳に水だろう、迷惑を掛けてしまっているのは申し訳ない。

 

(んぁ?)

 

 軽い気持ちで病院まで来て、『俺』のいる病室まで来ていたわけだが、俺は病室の中に複数の人の気配を感じてドアの取っ手を掴んだまま静止した。

 誰だ? 話し声がする。耳を澄ませてみると、よくよく聞き覚えのある声が三つもした。

 

「――ありがとうございます、ウチの子の見舞いになんて来てくれて」

「いえ、お構いなく。私も勝手に来ただけなので……」

「あはは、ウチの兄も隅に置けませんね。山田さんみたいな美人さんと仲が良いなんて聞いたこともないですよ。もっと早く知り合いたかったです」

 

 は? と声を漏らして、身が固まるのを自覚する。

 息が止まるほどの驚愕。そして唐突に沸き起こる焦燥。

 俺はドアを開いて勢いよく病室に入る。【聖領域】のお蔭で誰も俺が入室したことに気づかない。ドアが開いたことに感づいた気配すらなかった。

 だがそんな些末な異常なんかどうでもよかった。病室にいたのは――

 

「か、母さん……」

 

 60手前の、髪に白いものが多く混じった、積年の苦労の滲む年配の女。間違いなく俺の母だ。

 

「冴子も」

 

 俺より二つ年下の妹、去年結婚したという特別仲は良くはなく、悪くもない存在。

 母は山口県に。妹は大阪にいたはずだ。日曜日とはいえ昨日の今日で、いきなり東京まですっ飛んできたのか? 驚きすぎて言葉を失くした俺をよそに、もう一人が苦笑いする。

 

「山田くん……?」

 

 まだ入社三年目の会社の後輩。ギリ新人扱いが通る頃だ。今年で25になるんだったか? 新卒で入社してきて以来、俺が面倒を見させられていた手の掛かる奴だ。

 要領はよくないし、物覚えもそんなによくない。けどただただ真面目で、率直に慕ってくれていた彼女を俺もそれなりに可愛がっていたつもりである。

 

「美人だなんてそんな。十人並ですよ、私なんか。けど先輩の妹さんにそう褒められたら悪い気はしないですね。……先輩、全然褒めてくれませんから」

「あ、そうなんです? まったく兄さんは……」

「ごめんなさいね、藤太ったら気の利かない子なのよ」

「あ、いえ。仕事のことなら褒めて伸ばす方針みたいで、度々褒めてくださってます。ただ、まあ。公私をきっちり分けてる人なので、プライベートでの付き合いはないですし、仕事以外のことだと全然で……どうやったら仲良くなれるのかなって、ずっと悩んでました」

 

 ベリーショートの黒髪と、体育会らしい健康的に日焼けした肌。真面目な性格の現れとしてきちんと整えたスーツとズボン。運動部の活発なマネージャーといった、さっぱりとした印象を受けるもんだから俺は彼女を『くん』付けで呼んでいた。

 そんな山田くんが、しおらしくしながらはにかんでいる。母も妹もその様子に微笑んだが、病室の空気はどこか固い。

 

「山田さんって、もしかして兄さんのこと好きなんですか?」

「は?」

 

 三つ年下でも、出会ったばかりだからか敬語で話す妹の冴子だが、突拍子もないことを質問するもんだから無意識に声を漏らしてしまった。慌てて口を抑えかけるも、やはり俺の存在には誰にも気づかない。そんなわけねぇだろ! 男と女がいたらすぐ恋仲か何かと決めつけるなよ馬鹿が! そう吐き捨ててやりたかったが、山田くんが微かに照れたように頷いたのを見て思考が止まる。

 

「あ、はは……わ、分かります?」

「――――?」

「分かりますよっ。ただの会社の先輩後輩ってだけで、わざわざプライベートの時間削ってまで見舞いに行くような人の方がレアなんですから!」

「やっぱり? わたしも怪しいなって思ってたわ。そうなのねぇ……藤太のことなんか、好いてくれる女の子がいたの……」

「ちょ、ちょっと、照れくさいんでやめてください」

 

 途端に賑わったが、すぐに場の空気は沈んだ。山田くんが『俺』の顔をちらりと見て、母と妹もそれに釣られて視線を向けたからだ。ベッドの上に横たわる『俺』は、身動き一つしていない。

 

「……先輩が倒れてるのを見つけたの、私なんです」

「あ……そ、そう、なんですか」

「それじゃあ救急車呼んでくれたのも山田さんなのね。わざわざありがとう」

「当たり前のことをしただけですよ。ほんとう……突然のことで、まだ全然実感が湧きませんし」

 

 山田くんが曖昧に言うのに、冴子が呟く。

 

「……脳死って、なんでそんなことになったんだろうね」

「……さあ。私にも、なぜかは分かりません」

「お医者さんも、原因は全然わからないそうよ。どこをどう調べても、藤太は健康体そのものだって」

「だったら兄さんが、なんでこんなことになってんのよ。意味分かんない」

「………」

 

 全員が黙り込むと、母は一気に老け込んだように嘆息した。

 

 不幸自慢みたいで口にはしない。だが疲れ切った母の顔を見ると、過去を強烈に想起させられた。

 

 俺はいわゆる母子家庭という奴で育ったんだが、普通の母子家庭ではなかった。

 父親が相当な屑で、母と離婚したはずなのに俺達の家に転がり込んで来ていたのだ。幼かった俺と冴子は無邪気に父がいることを受け入れてたもんだが、母の心労は相当に酷かっただろう。

 何せ母は稼ぎが少なかった。パートを幾つも掛け持ちして必死に働いていたのに、クソ親父は働きもしないで母の財布から金を盗んで酒とタバコを買い、泥酔しては騒ぎ立てたのだ。

 母は何度も叫んでいた。金を盗るな! と。金を色んな所に隠しても、家中を探し回って金を盗み続けた。挙げ句に酒を飲んだ日には疲れ切って寝ている母に触れ、寝させない始末だ。

 思い返すだけで胸糞が悪い。母は天涯孤独で、こんなクソ野郎にも情なんか持ってたから追い出せずにいて。満足に寝れない中で働き通し、遂には精神を病んでしまった。小さいガキ二人を養うのに必死で、病院にもいかず、ただ心身を削って働いて。俺と冴子を塾に行かせ、高校にも行かせてくれた。自分の楽しみなんかなんにもないのに、立派になってねと言って。

 

 クソ野郎は、最後には半殺しにしてやった。

 

 ガキの頃の俺は、最初は慕っていたクソ親父を、ひたすら親父を恐れるようになった。泥酔した時に包丁を片手に「一緒に死んでくれ」と、泣きながら言われた時の恐怖は今も覚えている。

 そんな奴が身近にいて怖くないわけがない。母に追い出してくれ、別れてくれと何度も懇願した。冴子もだ。だがそれでも母はアイツを追い出さない、最初は情のせいかと思ったが違うのだ。母もまたクソ野郎が怖かった……追い出そうとしたら何をされるか分からなくて恐れていたのである。精神を病んでもなお、俺達に何かがあったらいけないと、決断が下せずにいた。

 警察に頼りもしない。行政に訴え出ることもしない。なんでなのか、今なら分かる。小さいガキを育てるのに必死で、休日なんかないほど毎日働いて、家でもクソ野郎の目が俺達に向かないように必死で――誰かに頼るという発想すら出ないほど、周りから救いの手を差し伸べられても気づかないぐらい追い詰められていたのだ。

 

 そして俺という糞餓鬼は、ただ親父を怖がって何も出来なかった。男のくせに、とんだ腰抜けだ。

 

 だがある時、俺が高校を卒業する頃だった。酔ったアイツが冴子に手を上げやがって――俺はその時恐怖を忘れ、怒りに突き動かされるままクソ親父をぶん殴ってしまったのだ。

 そうしたら、クソ親父は吹っ飛んだ。あの時の母と冴子の驚いた顔も忘れられない。そりゃそうだろうと納得したものだ。十数年もまともに運動もしていない、不摂生に暮らしてるクソ野郎が――健康な高校生男子に力で敵うわけがなかったのである。

 人生で初めて本気で我を見失ったのはあの時だ。親父が反撃してくる前に、馬乗りになって何度も何度も殴り続け、母と妹の二人掛かりで羽交い締めにされてやっと我に返った。

 

 親父とはそれっきりだ。病院に運ばれたアイツを、俺は強硬に退院させず、アルコール中毒の患者を閉じ込める病院に叩き込んでやったのだ。母は出してあげようよと言ったが、精神状態がまともじゃない母の言い分は聞かず、今回だけは俺の言うことを聞いてほしいって泣きながらお願いしたっけ……。何年前だったか、アイツが死んだって話を聞いた時は心の底から安堵したものだ。

 

 大学を出て、上京して、働いて。金を貯めたら地元に帰ろうとしていたのは――孤独な母と約束をしていたからだ。40歳になるまでには絶対に帰る、毎年顔を見せにも戻る、だから待っててくれ、絶対に親孝行をするからと。母は笑って言った。そんなのいいから、いい嫁つかまえて幸せになってくれって。

 

「っ……」

 

 目頭が熱くなる。ああそうさ、俺はマザコンさ。けどな、こんだけ苦労して育ててくれた人がいるのに、その人のことを嫌いになんかなるわけねぇだろ。世界で一番大事なのは、母さんだ。

 冴子は大事は大事でも、同志って感じか。趣味も同じだし、嗜好も似てる。ガキの頃はずっとクソ親父から身を守りあったし、疲れてる母さんが寝られるように二人でクソ親父から守ったこともある。怖くて堪らなかったが、とにかく必死だったんだ。

 

 そんな境遇だったもんだから、青春時代は大学からで。携帯電話も大学生になってバイトして、はじめて自分の物を持てたぐらいだ。高校生の頃もバイトはしていたが、冴子が中学の時に貧乏くさいからとイジメられたと聞いて、携帯電話も服も靴も小物も俺が買ってやっていたから、自分のために金を使えたのは初めてでメチャクチャ嬉しかった覚えがある。

 

「藤太……早く起きてくれない? 久しぶりに話がしたいなぁ」

 

 疲れた目で、乾いた呟きを漏らす母に、俺は唇を噛み締める。

 

「ほら、お母さんも来てくれてるんだよ? 山田さんだって暇じゃないのに、来てくれてる。さっさと起きないと、酷いんだからね」

 

 表情は普通なのに、目だけ潤ませている冴子の声に拳を握り締める。

 

「……先輩。私、まだ先輩に何も返せてません」

 

 手間の掛かるうっかり癖のある後輩の様子に、全身まで震えが広まった。

 

「……あぁぁぁ! もうォォォ――ッ! 分かった、分かったよ! なんなんだよお前ら、揃いも揃ってさぁ!」

 

 辛抱できずに叫んで、頭をガリガリと掻き毟った。

 なんで俺が悪いみたいになってんだよ。ふざけんじゃねぇ。

 自分の中のスイッチを押す感覚で意識を切り替え、『言霊』の使用態勢を整える。

 すると黙っていたフィフが、どうでもよさげに言った。

 

「いいの? そんなことしたら、あなたのアイデンティティが揺らいじゃうんじゃない?」

「知るかそんなもん! 俺は俺だろ! ただちょっと俺が『花房藤太』じゃなくなるだけだろが! 母さん達にこんな顔させといて、見てみぬふりなんかできるわきゃねぇだろって!」

 

 これをしたら俺は本格的に人外になる。最初からなってるって話じゃない、人間という括りからサヨナラしてしまうのだ。だが選択肢なんかない、ただでさえ母さんは歳なんだし、余計な心労を与えてしまいたくないんだよ。冴子もそうだ、結婚生活で幸せにしてるのに、俺のことで余計なノイズを走らせたくはない。山田くんも独り立ちするには早すぎる。

 だったら『花房藤太』を放置しておけるわけない。今まで考えないようにしていたもんを、こうも不意打ちで見せつけられたら知らんぷりできるわけがあるか!

 

「『俺のマモを適量、元の体に入れる。花房藤太はさっさと起きて、今まで通りの花房藤太として生きていけ! 母さんを大事にな! 冴子が泣きついてきたら面倒見てやれよ! 山田くんのことは自分で考えろやこの馬鹿が!』」

 

 ブチッ、と俺の中の何か、魂が千切れる感覚がする。ちょっとチクッとした程度の、悲しくなるほど小さな雫が一滴流れただけ、という感覚だ。それが寝ている元の体に流れ込む。

 俺はもういても立ってもいられず、病室から飛び出した。

 背にした病室から、驚いたような声と、気配を感じながらも走り去る。ほんの数秒程度で病院の敷地外から出てしまって、やっと立ち止まった俺は息も乱さず立ち尽くした。

 

「……ハァ。ハァァァ……ほんと、勘弁しろよ」

「茶番は終わった? くだらない愁嘆場に酔ってる暇はないんじゃないの?」

「……あぁ?」

 

 フィフの物言いにカチンとくる。元はと言えば誰のせいで――と言い掛け、やめた。八つ当たりほど情けないものないし、フィフの様子からは悪意を感じなかったからだ。

 モデルのフィフキエルは素で共感性に欠けていたんだろう。人間のことに関心がない。絶対にそうだと確信した。だからフィフも無神経な物言いをするのだろうと。全く、腹立たしい。

 

「……確かにな」

 

 フィフの台詞で、俺はスマホにメールの返信が来ているのに気づいて相槌を打つ。

 家具屋坂さんからだ。返信内容に目を通しながら、俺はフィフに言う。

 

「おい」

「なに?」

「俺の新しい名前、お前が考えろ」

「いいけど。わたくしが決めていいの?」

「いいから。変なのはやめてくれよ」

 

 自分で自分の名前を考えるのはなんか嫌で、フィフに丸投げする。

 うーん、そうねぇと首を傾げて悩んでる様子を尻目に、家具屋坂さんとの合流場所と時間を頭に叩き込んでいると、ヌイグルミの天使はパッと顔を輝かせて口にした。これからの俺の名前を。

 

「――エヒム。あなたの名前は、エヒム。どう?」

 

 エヒム。……悪くない。悪くないが俺は日本人だ。和名にしてほしかった。

 

「由来は?」

「超越者。エヒムは神書の『超越者』を意味する名前なの」

「はッ……」

 

 悪くない名前なのは確かだが、由来を聞くと失笑してしまう。

 けどまぁ、縁も所縁もない名前のほうが、却って踏ん切りもつくか。

 俺はスマホで家具屋坂さんにメールする。

 場所と時間を了解した旨と、新しい名前――エヒムと呼んでくれというお願いを添えて。

 

 ちらりと病院を振り返った。

 

「………」

 

 そして、何も言わないまま遠ざかる。絶対に気のせいだが、花房一家と山田くんの姿が見えた気がしたから――結局は何も、気の利いたことは言えなかった。

 

 サヨナラ、『俺』。母さんも、冴子も、山田くんもサヨナラ。俺も俺で、なんとか生きていくよ。

 

 

 

 

 

 

 

 




これにて導入となる第一章は終了。
次話の第二章から本格的にバチバチしていきます。

種蒔きの時間は終わりだぁ!


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第二章「TOKYO危機」
18,ファイト・イズ・マネー! 金のために戦え!


新章開幕! バトルが始まる!




 

 

 

 

 

『さっき起きました。アタシ今日暇だし今からでいいです。秋葉原の喫茶店LaLaイオン前で待ち合わせお願いします!』

 

 LaLaイオン。家具屋坂さんに指定された合流地点は、スマホで検索したらすぐに分かった。

 大人としての面子があるし、誘った側でもあるのだから家具屋坂さんを待たせるわけにはいかない。俺が先について待っておいた方が格好がいいだろう。

 というわけで一足先に件の喫茶店へ到着した。何もせず突っ立っておくのもアレだし、スマホを開いて推しのVtuberのチャンネルを開いて配信予定を確かめておこう。

 

「こんちわー! お姉さんもしかして暇なのー? 暇なら俺達と遊ぼーぜ!」

 

 お、朝っぱらからナンパか? こんなご時世に随分と気合の入った野郎がいやがるもんだ。

 まあ俺には関係ない。推しのチャンネルやツブヤイチャッターにも配信予定は立っていないな。なら推しが所属してる箱全体を軽くさらってみて……お、あった。今日は後輩とコラボするのか。

 あー、でも13時からやんのかよ。それじゃリアルタイムで追えるか分からんな。仕方ない、本当はリアルタイムで見たいがアーカイブで追うのも視野に入れておくとしよう。

 ……ん? 新しいグッズが出るのか。買いだな。今の俺ん家は殺風景だし、前の家だとやってなかったけど推しのグッズで満たすのもいいかもしれん。私生活はオタク全開で暮らしていこう。

 

「ちょ、ちょっとお姉さーん? 無視はひどいって。もしもーし!」

「……ん?」

 

 目の前から声がして不審に思い顔を上げると、そこには二人の男がいた。遊んでそうな大学生ぐらいの男どもだ。明るく染色した髪と着崩した衣服とも相俟って、元気そうな印象を受ける。

 彼らは困ったような半笑いの表情で俺の方を見ていた。

 何だコイツらと半眼で見詰め、左右を見渡してみたりする。俺の周りには特に人はおらず、男どもの視線の向きから事態を認識した俺は半信半疑で声を上げた。

 

「……もしかして、俺に声かけてるんですか?」

「そうそう! やっとこっち見てくれた!」

「……? おい、このヒト今、俺って言ったぞ……?」

 

 ポリシーを守って敬語で訊ねる。相手が舐めた口を利くクソガキどもでも、親しくもない相手に崩した口調は使わない。人によって態度を変えるなんて、そっちの方がダサいだろう。

 すると片割れの男は嬉しそうに絡んでくるが、もう一方は耳聡く俺の一人称に眉を顰めた。が、相方はそれを慌てて窘めている。

 

「やめろって。ダチでもねぇのにいきなりツッコむなよ。気ぃ悪くされたらどうすんだ」

「お、おう……」

「いやぁゴメンねお姉さん! コイツって空気読めなくてさー! それよりこんなとこで突っ立ってどうしたの? もしよかったらオレらとどっか遊びに行かねぇー?」

 

 よく気がつく奴なのか、ナンパしてきたのにこちらを不快にさせないように言ってくる。俺は苦笑させられた。漫画の影響で、昔はこういう手合いは一纏めにして気に食わんと思っていたが、今は行動的な奴だなと偏見なしに見れるようになっている。軽薄な野郎は良くも悪くも態度は軽いのだ。タチの悪い一部の奴が目立っているだけで、喧嘩腰で応じるような相手じゃない。

 あと、俺はお姉さんじゃない、お兄さんだ。悲しい勘違いをしている奴らの認識を正してやる義理はないが、今のところ悪印象はないしきっぱりと言っておこう。

 

「悪いですが、今待ち合わせてる子がいましてね。その子には大事な用に付き合ってもらうんです。貴方達に付き合う暇はありません」

「あ、そうなんスね。それならしゃあないっスわ。先約があるのに声かけてごめんねぇー? オレら邪魔になんねぇようにもう行くっスわ。じゃあねー、お姉さん! また今度遊ぼうよ!」

 

 はっきりと断ると、男はツレを伴ってさっさと立ち去った。

 無理矢理に因縁をつけ、強引に絡もうとするようなDQNもいるにはいるが、大多数はそうではない。むしろ断られたら時間も有限なのだし、さっさと次に行こうとするものである。

 コイツらはそうした点を心得ている奴らだったのだろう。立ち去る様はあっさりとしていて、こちらに不快感を与えてはいかない。人付き合いの上手い本当の陽キャって感じだ。

 女と思われたのはアレだが、仕方ないとは思う。苦笑いしたままヒラヒラと手を振ってやると、野郎どもは嬉しそうに手をブンブン振り返してきた。俺が男だと知ったらどう思うんかな。

 いやまあ、性別ないんだけどね、俺。

 

「――うわぁ。エヒムさん、めっちゃナンパされてるじゃん」

 

 すると今の場面を目撃したのか、聞き知った声で話しかけられる。

 振り向くとそこには私服姿の家具屋坂さんがいた。

 イエローのブラウスで華やかさと品の良さを添え、黒いロングスカートでそれを際立たせている。革のロングブーツを履いて、物干し竿並に長い竹刀袋を背負った彼女は、一房の黄色いメッシュを前に垂らして残りの黒髪をアップにして纏めていた。

 早速とばかりに新しい俺の名前を口にした辺りに律儀さを感じつつ、俺はまず会釈をする。

 

「おはようございます、家具屋坂さん。いきなり呼びつけるような真似をしてすみません」

「あーあーいいですよ別に。あとその敬語もやめて、名前で呼んでくれると助かります。名字、そんなに好きじゃないんで」

「ん……んー……よし、分かった。考えてみたら長い付き合いになるかもだしな。すっと堅苦しくしたまま通すのもなんか違うか。そんじゃ、改めてよろしく、刀娘さん」

「さん付けも要りませんって」

 

 苦笑しながら言ってくる家具屋坂さん、改め刀娘。ポリシー的には今まで通りの態度でいきたいところだが、そう言ってくる相手にまで丁寧にしていたら却って嫌味になってしまう。仕方なく口調を崩したが、それでもまだ不服らしく、刀娘はめげずに訂正してきた。

 

「それで、仕事の話ってなんですか? アタシってバイトだし、収入が入るから誘われる分にはウェルカムなんですけど、肝心の仕事内容聞いてないんですよねぇー」

「そうなんか。んじゃ、俺が知ってること話すね」

「その前に【聖領域】張ってもらっていいですか? 一般人に聞かれてもゲームの話だってシラを切れますけど、いちいち変な目で見られるのも嫌ですし」

「了解。ほれ」

 

 言われるがまま【聖領域】を展開する。

 刀娘まで俺を認識できなくなるんじゃないかと、結界を張ってから気づいたが、どうやら刀娘は【聖領域】の影響を受けなかったらしい。こちらを見る視線にブレはなかった。はて、どんなカラクリだ? まあ今はいいか。後で聞こう。

 それより秋葉原にある喫茶店を合流場所にしたもんだから、てっきり知っているものと思っていたが違うようだ。危ない仕事をバイトと言い切る刀娘に思うところはあるものの、踏み込んでいい話でもなかろうと今はスルーして、アグラカトラから聞いた話を伝える。

 もう少し深い仲になったら、刀娘が退魔師として【曼荼羅】で働く理由も話してくれるだろうか。案外こちらの気にし過ぎで、訊ねたら気軽に話してくれるかもしれない。その辺を見極めよう。

 

「――なる。把握しました。それなら三日と言わず今日の内にサクッと終わらせましょう、時間掛けてたら厄介なことになりかねませんしね」

「へぇ……? 異界だから厄介、って判断したふうでもないね。なんで今日中に片ぁつけるべきって思ったか聞いていいか?」

 

 業界未経験のド素人としては、指導役の判断理由は今後のために是非とも聞いておきたい。

 俺が訊ねると、刀娘は真面目な顔で言った。

 

「経験則って奴? ですねぇ。お家柄、そういうのに勘が働くっていうか、放置決め込んでもいい奴と悪い奴の見分けがつくんです。今回のはダメな奴で、これこれこういう要素が混じって自然発生してない異界は、なるべく早期に片付けるのが吉って感じです。最低でも威力偵察カマして、どの程度の難度なのか把握しておきたいんですよ。アタシ達で無理そうなら応援呼びますし」

「なるほど」

 

 相槌を打ったはいいが、感覚的な話すぎてあまり参考にならない。俺なりに要点を纏めると、自然発生してない異界は臭いって感じか。肩の上のフィフを見ると、彼女は何も言わずにいる。

 フィフは二人きりにならないと喋らない傾向にあるらしい。なんでだ? 疑問に思ったのが伝わったのか、フィフは耳元に口を寄せて小声で囁いてくる。

 

「(わたくしはあなたの頭脳なのよ、エヒム。わたくしがどんな用途の使い魔なのかを知られたら、わたくしを潰せばエヒムはカモになると思われかねないでしょう? この小娘には知られてもいいかもしれないけど、用心するに越したことはないわ。どこから話が漏れるか分からないのだし、誰を信用するかはわたくしが判断するから、エヒムは余計なことを言わないでね)」

 

 気にしすぎだろと思うが、そういうことなら納得しておこう。懸念事項を伝えられて無視するのは、前の会社のクソハゲみたいで嫌だ。事が起こったら責任転嫁をするような奴だからだ。

 それにフィフは本当に俺より頭が良い。ゴスペルはフィフを頭の良い馬鹿だと言っていたが、本物の天使フィフキエルではないからか馬鹿っぽくはない。説得力があるし、やはり基本的に言うことを聞いておいた方が賢明だろう。前より今の俺の方が迂闊っぽいしな。

 しっかし、刀娘も刀娘でサラッとお家柄なんて言っている。隠したいわけでもなさそうだし、今度暇な時に踏み込んでみるのも悪くないかもしれない。

 

「目の前でこそこそ話さないでくれますー?」

「ああ、ごめん。それじゃあ早速行動に移りたいんやけど。どうやって異界なんか探すんだ?」

 

 ジト目で咎めてくる刀娘に謝って、質問して話を逸らす。

 刀娘はすんなり誤魔化されてくれて、「んー……」と唸りながら辺りを見渡した。

 

「とりあえず適当に歩いてたら、澱んでるマモの気配がするはずなんで、そこらへんから異界に侵入する感じですかねぇ。とりま百聞は一見に如かずってことで付いてきてください」

「お、おう……随分フワッとしてんな」

「仕方ないでしょー。アタシって体系だった説明とか苦手なんですぅー」

 

 そういうのは困る。マニュアルが全てとは言わないが、ノウハウを普遍的な型に落とし込めないとできる奴だけができる、少数精鋭的な弱小企業の域を出られないだろう。アグラカトラ――社長は大手に成り上がるつもりみたいなのだし、明確に説明できる状態でないと後続になる新入社員が苦労しかねない。今回はもう仕方ないし、俺の体験を可能な限り言語化できるようにしよう。

 

「それじゃ後は歩きながら話しましょ」

「勉強させてもらいます、先輩」

「ちょっ、そういうのやめてくださいって。……あっ、そうだ!」

 

 歩き出した刀娘の後に続きながら揶揄(からか)うと、少女は快活な笑顔を浮かべる。そしてすぐに思い出したような声を上げると、懐からスマホを取り出して俺に歩調を合わせる。

 なんだと思う間もなく、肩を寄せてきた刀娘の香りが鼻孔を擽った。スマホを翳してピースサインを作った笑顔の刀娘が、パシャリとシャッター音を立てて写真を撮った。

 

「へへぇー。超絶イケメンとツーショット! 友達に自慢できるっ!」

「……おいおい」

「昨日約束したでしょー? エヒムさんもそろそろ自分の顔が世界遺産級だって自覚してた方がいいですよ! でないといざナンパされた時とか、いつかあしらい方ミスっちゃうかもだし」

「ナンパなぁ。一回二回はまだ流せるけど、流石に何度もされるのはなぁ。っていうか、刀娘には俺が男に見えるんだろ?」

「ですです」

「んで、男には女に見えると。難儀なもんだよ、この顔」

「女の人に声掛けられるのは役得ぐらいに思えば良いんじゃないですか?」

「それがな……女にも男にも、性的魅力を一切感じないんだよな。三大欲求の一つが明らかに欠けてんだわ。なってみたら分かるだろうけど、実際かなり妙な気分だぞ、これ」

「そういうもんです? アタシには分かんないかなぁー」

 

 十歳以上も離れた少女と、こうして肩を並べて歩くのも妙な気分だ。しかも刀娘はかなり可愛いし、普通に話せる雰囲気の持ち主である。男としての感覚があるなら今頃大喜びしていたはずだ。

 その場合見苦しい態度になるかもしれないから、平常心を保てる今の状態の方がいいのだろう。こんなに年の差のある女の子を相手にデレデレと鼻の下を伸ばしていたら、俺の体面は死んだも同然のものになってしまいかねない。何事も一長一短だなと思った。

 ――と、歩き出して数分としない内に、刀娘がぴたりと足を止めた。

 釣られて立ち止まった俺が刀娘の様子をうかがい、彼女の視線の向き先を辿ると、そこには先程俺に声を掛けてきた二人組の男たちがいるではないか。

 

「……エヒムさん。あれ、見てください」

「ん……? ああ、アイツらか」

「どう思います?」

 

 どうって、何が? 二人は普通に歩いているだけに見えるが……。

 しかし何も考えずに答えるのもやる気に欠けた態度だ。一応観察してみる。

 

 二人は何事かを駄弁りながら、特に目的もなく街を散策しているようだ。歩行スピードは遅いが、やはり変わったところは見受けられない。こりゃお手上げかなと思いかけて――気づく。

 エヒムの頭脳が些細な違和感を察知したのだ。俺はその閃きを後から拾っただけである。なんとも言えない奇妙な閃きの感覚を、俺は能う範囲で噛み砕き言葉として出力した。

 

「……誘われてる(・・・・・)?」

「ええ。ラッキーですね、アイツら異界の側から(・・・・・・)引き寄せられてるみたいです。後を追えば自然と案内人になってくれますよ」

 

 朗らかな空気を一掃し、真剣な表情となった刀娘の瞳に冷酷な光が灯った。

 年頃の女の子が極めて物騒な、暴力の気配を纏うのに面食らいながらも、俺も頷いておいた。

 

 あの二人の男は、目が虚ろなのだ。前を見ているようで、何も見ていない。だというのに目的地が定まっているかのように進行方向に迷いもなく、どんどん人気がない方へと進んでいる。

 加えて言うと、薄っすらとだが臭う(・・)のだ。強烈な臭気の片鱗とでもいうべきか、退廃的な未知の臭いが漂ってきている。しかも臭いとは言っても肉体の具える五感ではなく、もっと深いところにある根源的な感覚――とでも言うべきもので嗅ぎ取ったものだ。

 

「エヒムさん、その感覚は覚えていた方が良いですよ。これがマモの澱み、異界の気配です」

「……了解。なるほど確かに、言語化は難しいな、これ」

「でしょ?」

 

 他人に理解できるように表現する方法を考えておこう。今日の課題だなと思いつつ、二人の男の後を追う。するとビルとビルの隙間に男達が入って行ったのを見た途端、刀娘が駆け出して瞬時に男達へ接近するなり、その長大な竹刀袋で男達の頭部を一撃ずつ叩いた。

 容赦ない打撃で昏倒する男達。刀娘の後に続いていた俺は、つい苦言を呈してしまった。

 

「おーい……手加減してやれよ。頭殴るなんて、後遺症があったらどうするんだ」

「これが一番手っ取り早いし、安全で確実なんですよ。放っておいたら確実に死ぬんだし、むしろ助けられたんだから感謝してほしいですよ、まったく」

 

 ふぅ、と嘆息しながら竹刀袋から大太刀を取り出した刀娘が、すらりと白刃を抜き放つ。

 大太刀の柄と鞘の真ん中を掴み、腰を回転させながら一息に抜刀する様は、傍から見ていると惚れ惚れするほど様になっている。だが見惚れている場合ではない、特徴的な紋様をびっしりと刻まれた刀身を掲げた刀娘が、その場を一閃したのだ。

 すると空間そのものが断裂する。何かのゲームで見た、異次元に繋がっていそうな虚空の傷だ。

 

「すんなり異界は見つけられましたね。早速行きましょう」

「お、おう……何か気をつけとくべきもんとか、スローガンみたいなのはあったりする?」

「ありますよ。アタシの後に続けて言ってください。【曼荼羅】の神様の有り難いお言葉ですから」

「わ、分かった」

「それじゃいきますよ――『ファイト・イズ・マネー! 金のために戦え!』……エヒムさん?」

 

 まるで躊躇する様子もなく、刀娘ははっきりと言い放った。……凄まじい神のお言葉だ。資本主義の女神と呼んでやろうか。ドン引きである。

 早く言えと圧力を掛けてくる刀娘に、俺は半笑いになりつつ応えた。

 

「ファイト・イズ・マネー。金のために戦え」

「パッションが足りないけど、まあいいです。行きますよ!」

「お、おう」

 

 言うなり異界の入り口に飛び込んでいく刀娘を追って、俺も如意棒を抜きつつ異界に突入した。

 なんだか緊張感が抜けるなぁ……と、若干のやり辛さを感じながら。

 

 

 

 

 

 

 

 




面白い、続きが気になると思って頂けたなら、感想評価などよろしくお願いします。作者に燃えたぎるモチベーションの薪を焚べてください!


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19,信仰者の箱庭

 

 

 

 

 

 

 未知の世界で、未知の経験をしようとしているのに、不可解なほど恐怖はなかった。

 ほんの僅かにでも張り詰めているものはある。しかし俺はほぼリラックスしていて、心身が緊張に縛られ固くなってはいない。そしてそれは、異界の中でも変わらなかった。

 

「こいつは……」

「あー……ね。そういう系かぁ」

 

 異界の中は外界と変わらず秋葉原だ。だが空気そのものがガスで染められたかのように黒くなり、明白に澱んでいる。人の姿も見当たらない無人の空間であり、遠方には天まで届く漆黒の壁が屹立していた。あたかもその先に、地続きの世界はないかのように。

 呼吸するだけで気分が悪くなりそうだ。視覚化された『不気味』と肌を覆う『不快』の隔壁内部。迂遠な言い回しになるが、敢えて言語として例えるならそうなるだろう。

 俺は目算で漆黒の巨壁までの距離を測り、刀娘に訊ねた。

 

「刀娘、あの壁みたいなのは?」

「遠くの奴? あれは世界の果てですよ。あそこから先には行けませーん、異界の範囲はここまでですよってのが目に見える感じですねぇ。補足すると異界の強度次第でもっと範囲が広がって、最悪東京全体まで広がる可能性はありますよ。そしてこのタコが海中でタコ墨を吐いたみたいな空気、これが濃くなればなるほど異界の成長限界が迫ってるっていう目安になります」

「何も見えないぐらい真っ暗になったら?」

「破裂まで秒読みですよってこと。外と異界の境目が崩れて大惨事コース。普通に首都崩壊まっしぐらなんで割と洒落になりませんね」

 

 へぇ、と危機感に欠如した相槌を打ってしまう。というのも俺より事情通である刀娘に、切迫した様子がまるでないのだ。特に何事もなく片付けられる目算が立っているのだろう。

 歩き出した刀娘に続きながら訊ねる。

 

「ちなみに刀娘から見て異界が破裂するまでどれぐらい掛かりそうだ?」

「一週間ってとこですかね。アグラカトラ様の読みだと、四日以降は【輝夜】が出張って来てこの異界を畳んじゃうってことなんでしょ。三日間縛りの理由は」

「……ああ、そういやそんな組織があるってのは聞いてるな。流石に首都でこんなのが発生したら、発見も早期にされるもんだよな。むしろ四日も対処に掛かるのかってぐらいだよ」

 

 そりゃあそうだ。俺達がなんとかしないと東京が滅びる! なんて漫画にありがちな『他の大人は何をしてるんだよ!』みたいな展開はないらしい。

 それにしたって四日は時間掛けすぎだろとは思うが、事前に三日の猶予を設けているのは組織らしい腰の重さではある。パッと思いつく限りだと、異界の位置の特定、異界の性質の調査、事態解決のための作戦会議と人員選抜、人員の移動、これらを行うのだと予測するのがベターだと思う。それらを踏まえると三日間、対処に乗り出すのに時間が掛かっても仕方ない。

 大手ゆえの初動の遅さは、弱点であると同時に確実な成果を出す強みでもあるわけだ。

 

「ですよねぇ。【輝夜】も愚図じゃありません。こんな日本のど真ん中で異界が発生したんですし、全国にネットワークを持ってる連中ですから、もう秋葉原に異界があるってのは特定済みかもしれませんよ。案外先行してる調査員と鉢合わせるか、アタシ達の直ぐ後に侵入してくるのは有り得る展開です。そういう場合はすぐに身分を明かしてくださいね」

「ああ、了解。……っていうか、俺としちゃあ割と嫌な予感はするけどな」

「ん? なんでです?」

 

 小首を傾げる刀娘に、もしかしてこの子ってば頭脳労働苦手なのかなと思ってしまう。

 

「社長の話じゃ、ここは人為的に作られたかもしんない異界なんだろ? ズブのド素人の俺はともかくとして、ここを作った奴らなら【輝夜】ってとこが対応してきて、すぐに潰されちまうのが目に見えてるはずだ。じゃあなんでこんな目立つところで異界なんか作ったんですかって話になるだろ。早い話、制作側の意図が読めんくて不気味だってことよ」

「あー……なる。言われてみたらそうですね」

「……刀娘センパイ?」

「アハハ……あのぉー、残念な奴見る目やめてくださーい。アタシってば考えるより先に動くタイプですし。……ちなみにエヒムさん的に、制作側って何考えてると思います?」

「俺に訊くのそれ? むしろ俺の方が教えてほしいんだけど……あくまで想像だけで言うと、潰される前にしたいことがあり、目的を達成できる目途が既に立ってるんじゃないかな。そんで用が済んだら異界は放置して退散、後始末は他人が勝手にしてくれるってとこか」

「へへぇー……エヒムさん頭良いんですね。ソンケーします」

 

 いや、あくまで想像なんだけどね。俯瞰的に状況と要素を見ると、外れてそうではないが。あとこれぐらいなら誰でも予測がつく範囲だし、なんなら【輝夜】の方はそうした予測も踏まえ、異界の製作者の目的を掴むため迅速に動いていると見ていいはずだ。

 となると刀娘の言った通り、【輝夜】の人員とこの異界内で遭遇する可能性は充分にある。大穴で、この業界に【輝夜】と【曼荼羅】しか組織がないとは思えないから、似たような組織の連中と出くわす可能性まであった。なかなか楽しくなりそうな想像である。

 

「俺の頭が良いっていうより、こういう状況にもイメージを湧かせ易くしてくれてるアニメが凄いだけだな。リアル視点とサブカル知識を組み合わせてテキトーなこと言ってるだけだし、俺」

「ふぅん……つまりオタク君は凄いってこと?」

「そ。好きこそものの上手なれってね。オタクは凄いぞー? 世界中にオタクは沢山いるからな。軍事オタクに政治オタク、機械オタクに医療オタク、仕事オタクに運動オタク。オタクのいない業界なんてないし、何かに熱中できる奴のことをオタクっていうんだ。だからアニメやゲームのオタクだけ弾圧する世間様に俺は叛逆したい」

「……今、盛大に脱線した? なんの話してたっけ?」

「オタクの話だよ」

「……世の中なにが役立つか分かんないってことですね! 今度からアタシもクラスのオタク君に優しくしてあげよっと」

「そうしろそうしろ、オタクに優しいギャルっていうフィクションを現実にするんだ」

「む……聞き流せませんよ、それ。エヒムさんにはアタシがギャルに見えてるんです?」

「おう。ギャルの定義が分からんしね、もう若い子全員ギャルって呼んでいいんじゃない?」

「そういう雑な括りと決めつけが偏見を生んで、世間のオタク君が肩身の狭い思いをするんだ! 怠惰で悪い大人だなぁ! オタク君に謝れ!」

「えっ……ご、ごめんなさい」

 

 くすくすと笑った刀娘に、俺も柔らかく笑った。テキトーに合わせてふざけただけだが、刀娘がノリの良い子で助かった。滑ったら気まずくなるしね。

 しかしふざけては見せても刀娘の目は真剣なままだ。無人の秋葉原を散策する足取りは重く、視線も左右を見渡すために一定に留まっていない。

 暫しの沈黙を挟んで、刀娘が訝しむように呟く。

 

「……人、いませんね」

「そうだな。それが? ……って、いや、そうか」

 

 刀娘の言わんとすることを察する。確かに不自然だ。

 

「さっきの奴ら、異界に吸い寄せられてたんだよな? だったら他にも同じような奴らがいるはず。まさかアイツらが一号さんってわけでもあるめぇし」

「そです。マジで頭良いですね、エヒムさん」

「あんまり褒めないでくれん? 俺、褒められたら調子に乗って失敗するタイプなんだわ」

「なら褒めないようにしましょうか」

「そこは適度に褒めてくれ。新人のモチベーション維持は先輩の仕事の内だぞ」

「助っ人のバイトに高望みしないでくださーい。責任の薄さがバイトの特権でーす。でもお給金弾んでくれるなら無責任に褒めまくってあげますけど?」

「ヨイショばかり上手いバイトってのも考えもんだろ」

 

 それ、普通に他のバイトから嫌われる要素だから、マジでやめた方が良い。

 社会人としてバイトの学生に忠告してやろうかとも思ったが、それより先に刀娘が口を開いた。

 

「――そういえばなんですけど、エヒムさんって死霊(レイス)のこととか知ってたりします?」

「ん? 知ってるぞ。RPGとかだと割とポピュラーな敵キャラだな」

 

 最近、フィフからも死霊に関して言及されている。

 刀娘と出会う切っ掛けになった、あの人造悪魔を殺した後のことだ。外部に漏れ出たマモを放置していたら、死霊になってしまうと言っていたのを覚えている。

 今その話をしたのは――そういうことなんだろう。

 

あれ(・・)、死霊です」

 

 刀娘が大太刀を構える。カチャ、なんてありがちな音はしない。そんな音がする刀剣は整備不良で、使用中に破損する恐れがあるとかないとか、そういう話を聞きかじったことがある。時代劇とかで刀を鳴らすあれは、あくまで演出だってことだな。悲しいなぁ。

 と、余所事を考えている場合じゃない。大通りに黒いモヤみたいなのが浮かび上がっていた。それは人型を象り、次第に質量を伴って一人の人間になる。ただし肌は青紫で、頭髪は抜け落ち、歯もほとんど生えていない奴だが。死霊というよりゾンビ映画のゾンビである。

 リアルで見るゾンビは気色悪い。うげぇ、と内心呻いてしまうが、不可解なことに精神的余裕は充分なほどにあった。雑魚だなと一目見て感じてしまったからだろうか? 簡単に殺せそうだ。

 

「……思いっきり質量ありそうなんだが。あれで霊って言っていいんか?」

 

 雑魚一匹がポップしたところで脅威にもならん。――傲る思考に警鐘、フィフキエルのダメな部分が表面化しているのが自覚できる。

 自制しながらも、メリットは見い出せた。このフィフキエルの傲慢さのお蔭で一般人だった俺が冷静さを保ち、精神的な余裕を確保できているのだろう。それを自覚できるだけ、フィフキエルのダメなところと俺の悪いところが打ち消し合ってるようだ。

 俺の些細な疑問に、刀娘は律儀に言った。

 

「死霊は不定形なんです。人型になる時もあれば、人魂みたいになる時もあるんですよ。ああいう魔物はマモの豊富な異界だと頻繁に現れちゃって、まあまあ処理が面倒です。死霊は魔物の中でも最下層に位置する雑魚ですけど、数だけは多いのが難点ですね」

 

 言いながら、ゾンビよろしく呻きながら近づいて来るゾンビを、刀娘がズンバラリンと唐竹割りにする。頭頂部から股下まで真っ二つにされたゾンビは、そのまま何もなかったように霧散した。

 おお、と感嘆の声を上げて如意棒を持ったまま拍手してしまう。だが数が多いと言うだけあって、死霊が続々と形となっていくではないか。前方に現れた死霊(ゾンビ)の数は――ほんの数秒程度で、ザッと30を数えるまでに膨れ上がっている。

 

「うわぁ……」

「とりあえずアタシが片付けます。ちょっと見ててください」

 

 刀娘は軽い足取りで、機敏に動き出したゾンビの群れへと進んで行った。

 助かる配慮だ。彼女がどう立ち回るのか、ここで勉強させてもらおう。

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 状況の変化を観測する。計器のメーターが微動するのを見逃さなかった。

 来訪者の訪れは想定通りだが、予測よりも異界の容量が圧迫されている。計算外の存在が侵入してきたのだと判断を下し、椅子を回して背後のモニター群を正面に迎え素早く視線を動かす。

 ところ狭しと設置された、十を超える数のモニター内の一つに映り込んだ者達はすぐ発見できた。

 

「あら……」

 

 暗黒の中、モニターの発する光だけが女の姿を照らしている。

 濃い緑の双眸を物憂げに細め、ボサボサの銀髪を揺らして女は呟いた。

 

「こういうの、この国だと招かれざる客って言うんだったかしら」

 

 異界には受け入れられる容量に限界がある。所詮は急造の異世界だからだ。そこに上級天使(・・・・)が入ろうものなら、たちどころに異界は崩れ去ってしまうに相違なかった。

 故に異界そのものの防衛反応として、溢れ出ようとしたマモが死霊という魔物を排出し、許容できない異物を排除しようとしている。排除できればよし、できなくとも余分を処理できる、というシステムである。そのシステムを組んでいた女――アガーフィヤ・ドミトリエヴナ・ペトレンコは、ゆったりとした所作でモニターの画面を撫で、悩ましげに吐息を零した。

 

「……フィフキエル」

 

 正確にはその後継。どういう経緯で自分が築いた異界にやって来たのかは不明だが、幸運な偶然だと言えなくもない。ペトレンコは数秒沈思し、ゆるゆると頭を振った。

 

「……ダメね。欲張り過ぎは身を滅ぼすわ。当初の予定にないことは、突発的にやるものじゃない。わたしはあくまで自分の仕事を完遂する、今はフィフキエルの後継の居場所を掴めただけ幸運だと割り切るべきね」

『そうだナ! そうだナ! アガーシャ、賢イ! 賢イ!』

 

 ペトレンコの愛称を呼んで無邪気に称えるのは、彼女の足元で尻尾を振る小型犬だった。白い体毛が異様に長く、全体的にふわふわとしている愛らしい人造悪魔(・・・・)である。

 

「仕事の邪魔はやめてほしいわ。納期が近いの。だから――ちょっとの間、雑魚と遊んでて頂戴?」

 

 遊んでいる様も、ついでに眺めておいてあげる、と。ペトレンコはやはり、憂鬱そうに呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




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20,ひそやかに迫る破滅の足音

おまたせ


 

 

 

 

 

 刀身だけで150cm近い刀娘の大太刀は、重量にしても約4kgもある凶悪な兵器だ。

 

 銘はない。無銘である。しかし人間の女の子が携行し、武器として振り回すとなれば、甚だ不適格であるのは火を見るよりも明らかというものだろう。

 だがここに至るまで、大太刀を持ち歩いていた刀娘に疲弊した様子は一片もなく、槍にも等しい刀剣を晴眼に構えていても、刃先に至るまで微動だにしていない。並の成人男性と比しても図抜けた膂力を有しているのは自明である。

 立ち止まって見守る天使の視線を背中に受け、大太刀を晴眼に構えたまま摺り足で進み出た刀娘は、迫る死霊――ゾンビの群れを無言で見据える。始動したのは先頭の一体と会敵する直前、体幹と目線の高さを揺らすことなく、掴み掛かるゾンビを躱して後退した。

 

 そうしてするりするり、するりするりと蛇行しながら後退し、先頭のゾンビと後続がなしている列を整理する。斯くして大群ほぼ三列直線――斬り易し。斬り放題。

 

「フッ」

 

 足捌きのみで整頓された群れを視認後、滑るように後退していた刀娘が突如進撃を再開する。

 晴眼に構えていた大太刀の切っ先を、僅かな腕の振りと手首の捻りだけで操作し、先頭のゾンビの喉を深く割いた。群れが突進する勢いは止まらない、しかし刀娘は呼気鋭く歩を進め、先頭のゾンビを躱し様に二体目の腕を肘から断ち落とし、返す刃で首の半分を斬った。左右に素早く動きながら蛇行前進することで、ゾンビの群れの中を掻き分けるように進みながら、悉くを最小の動作のみで進軍するのに邪魔な腕を、首を薙ぎ、あるいは心臓を刺し貫いていく。

 

 ――鮮やかな手並みだった。さながらまな板の上に乗せられた魚を捌く、料理人の熟達した包丁捌きを彷彿とさせられる、まさしく職人技という他にない光景である。

 

 殺気はなく、殺意もない、淡々とした作業を熟しただけの姿勢に乱れなし。一度も大振りすることなくゾンビの群れの中を泳ぎ切ると振り返り、眼前に翳した手の中に一枚の御札を形成した。

 紫の光が虚空から集まり、御札となったのだ。幻想的な現象に天使が目を見開き、若干の興奮と共に見詰める先で、刀娘は人差し指と中指で挟んだ御札を地面に倒れるゾンビ達に投げ放つ。

 

「ここに晒すは不浄の肉叢(ししむら)(はら)(たま)え、清め給え。御身の庭たる地上に満つる呪を落とし、水垢離(みずごり)の儀にて祓い給え」

 

 祝詞。

 厳粛な面持ちで唱えられた文言により、効力が発揮された御札が溶けるように四散して、慈愛の雨の如くゾンビの群れを包み込んだ。効果は即効、たちまちゾンビ達の姿が薄まり消えていく。

 そうして残されたのは小さな金粒だ。ゾンビの群れが僅か三つの金の粒に変じてしまった。刀娘はそれを拾いながら天使の許に歩んでくる。金粒は彼女のポケットの中に収められた。

 

「――とまあ、お手本はこんな感じですかね」

 

 フフンと得意げに胸を張った少女に、天使は惜しみない拍手を送る。

 

「凄い。メッチャ格好良かった。刀娘センパイは剣術の達人だな!」

「へっへへぇ。褒め過ぎですってばぁ。まあ? アタシと同年代の奴には早々劣らない自信はありますけど? 雑魚処理がアタシほど上手い奴はあんまりいないんじゃないですかね?」

「流石だなぁ。憧れちゃうなぁ。まだ高校生なんだろ? それなのにあんなに立ち回れるなんて、リアルでアニメの戦闘シーン見せられたみたいで興奮しちまった! 天才じゃんか!」

「へへへ。……弱い者イジメが得意なだけなんですけど、そこまで褒められたら照れますなぁ」

 

 赤らめた頬をポリポリと掻く様は、本当に年相応だ。――尋常でない修練を積んだのだろう。素人のエヒムにも察しがつくほどに、病的な鍛錬の痕跡が彼女の立ち回りにはあった。

 花の女子高生なのに、だ。元一般人としての感性で、痛ましい気持ちになったエヒムだが、無思慮に触れていい領域ではない気がした。故に表情には出さず褒め称えた後に質問を投げる。誤魔化すためでもあり、この一幕を見たことで気に掛かった点もあったから。

 

「勉強になりました。全く真似できる気はしませんでしたが、幾つか先生にご教示いただきたく」

「うむ、苦しゅうない。何が聞きたいのだね、エヒムくん」

「はい。先生はそのでっかい刀を爪楊枝みたいに軽く操ってましたが、実際重くないんですか?」

「重くないですねぇ。だってアタシ、こう見えて握力は300kgありますし。腕力もそれに釣り合う程度はあると自負してますよ」

 

 さらりと告げられた握力数値に、エヒムは一瞬目が点になった。

 刀娘が身構えるのに、ポツリと溢す。

 

「……ゴリラ?」

「はい言うと思ったぁー! けどこれぐらい普通だから! アタシは平均ぐらいですぅー! ちなみに絶対エヒムさんの方が腕力ありますからね、アタシがゴリラならエヒムさんは鬼ですよ」

「マジ? ウホウホ言ってるのが平均値とか、この業界って動物園なのかよ」

「言い方! 言っときますけどね、アタシ達の世界には神様から品種改良された天才と、その子孫しかほとんどいないんですからね? 突然変異で出て来る天然物の天才とか一握りですから!」

「品種改良とかガチで闇深い発言だな……」

「常識ですよー。神話の頃から続く伝統ですからね。ギリシャのヘラクレス、インドのアルジュナ、北欧のシグルド、日本のウガヤフキアエズノミコト――全部品種改良の成果なんです。アグラカトラ様ふうに言うと、神様は強いユニットを作ってたんですよ、戦いに勝つために大昔から。そんなとんでもユニットと比べたら、アタシの身体能力は普通でか弱いもんでしょ」

 

 分からん。刀娘のか弱いという基準が全然分からん。だが本当に刀娘の身体能力が平均だというのなら、いちいち気にするべきものでもないのだろう。若干引きながらも、続け様に質問する。

 

「あとは三点ぐらい気になってる。刀娘がヤッたのって死霊なんだよな? ゾンビでいいのか? どちらにしても首とか心臓潰されただけで動かなくなったんはなんで? 素人の偏見だけどそれだけで死ぬイメージないんだが。刀娘も最後は魔法みたいなの使ってたし、おまけになんか金色の石みたいなの拾ってたし。あれってなんなの?」

「……めんどい! めんどいんで簡潔に纏めると、アタシのが特別製だから人型特攻が入って、人型の奴は人と同じ急所を突かれたら死ぬ仕様になってるんです。あと魔法じゃなくて陰陽術! 金の石はマモ! 裏社会の通貨みたいなものでマモが結晶化したものです!」

 

 オッケー!? と本当に煩わしそうに言われる。

 流石に場を弁えてなかったなと反省して淡白に応じた。

 

「オッケー、把握した。ちょいちょい疑問とかあって納得はできんけど、まあ理解はしたよ。悠長にお喋りしてる場合でもなさげだし、残りは社長に聞いとくわ」

「そうしてくれると助かります。アタシ、説明とかホント苦手なんで」

 

 考えてみたら年下の女の子、それも女子高生を捕まえて質問攻めにする成人男性とか、絵面的にたいへんよろしくない。おまけに、また(・・)死霊が現れていっている。

 二人して秋葉原の大通りを見遣って、鬱陶しそうに目を眇めた。処理が面倒だから『言霊』で一掃してやろうと、使用する単語を脳内で検索していると、見咎めた刀娘が待ったをかけてくる。

 

「待ってください。エヒムさん、『言霊』とかいうの使おうとしてます?」

 

 図星だったので素直に頷いた。新たに現れかけているのは、60近いゾンビの群れ。先程の倍だ。これで打ち止めになるならいいが、このまま際限なく現れてきたら面倒でしかない。

 

「ああ。あれぐらいならきっと一言で消せるぞ」

「それやめて」

 

 なんで? エヒムが横目に刀娘を見遣る。すると刀娘もまた真摯に告げた。

 

「エヒムさんの『言霊』で片がつかない奴は少ないと思います。それぐらい強力な武器ですけど、それしか武器がないといざって時に手詰まりになっちゃう危険性がありますよね。これテストに出ますけど格上相手に異能はほぼ無力ですからね? 『言霊』が効かない相手と交戦することになったとしたら嬲り殺されちゃいますよ。そういう時に備えて他の武器を作っといた方がいいです」

「……なるほど?」

「なんでフォローはしますんで、その撲殺丸でやってください。最初は雑魚を相手にして経験値を稼いどくのがベストかなって。近接戦闘のスキルは持ってても腐ることはないですよ。ぶっつけ本番で同格か格上相手に殴り合いたくないでしょ、エヒムさんも」

(もっと)もですね。……いや尤もだな。じゃあ……やってみようとは思うんだけど、なんかコツとかあったりする? 訓練とかもしたことないし、どうしたらいいか分かんなくて怖い」

 

 理屈は理解できたし納得もした。だがエヒムは元々一般人だったのだ、殺さなきゃならない敵と殴り合うなんて経験、あるわけがない。精神的な怯えとかは笑えるほどにないが戸惑いはあった。

 すると刀娘は微笑して言う。

 

「殴られる前に殴れ、殴った後も殴れるようにしろ。アタシの先生からの受け売りですけど、極意ってのはシンプルなもんです。とにかく一方的に殴り続けられる立ち位置の確保が肝ですよ」

「……喧嘩は度胸的な?」

「そです。怯んだら負け、鈍ったら負け、止まったら負け。細かい技術なんか後から身に着けたらいいんです、気をつけるべきなのは一方的に殴れる立ち位置を確保すること、とにかく止まらないことだけですねぇ。そしたら格下相手に死ぬことはありません」

「分かった。下手こいたら怖いんでフォロー頼みます、センパイ」

「任されましたっ」

 

 にっこりと笑いかけてくれる少女に苦笑して、エヒムは密かにズルをする。大人ってのはバレないように楽をするもので、デキる男は楽をした上で効率よく成果を出すものである。

 密かに呟くのは『言霊』だ。ただし対象は自分にする。

 天力の消費は抑えたいが、かと言って使い惜しんで痛い目を見るのもアホらしい。目に見えているリスクを回避せず、怪我は勲章、失敗は成功の母などと言ってはいられないだろう。

 

「『戦闘終了まで勇気100倍。雑念カット』」

 

 心の中で祈る相手はエヒムが個人的に崇めるアクションアニメーターの神、NAKAMURA様だ。

 アニメで見た神戦闘シーンの数々をイメージしての突発的な精神操作は、果たしてエヒムの精神から余分な感情を切り離してのける。

 ――そうして現れたのは、剥き出しの、【聖偉人】という才能の権化。

 エヒム自身が知らずにいて、世界中の誰もが見たこともない、理不尽なまでの暴力的才能(・・・・・)である。

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 濡れ羽色の髪が、金に染まる。黄金の環が頭上に形成され、解放された天力が総身を染め上げた。

 白銀の瞳が出現せし無数の死霊を睥睨する。争いとは無縁だった者の臆病な心は勇者のそれへと変貌して、無造作に如意棒を自身の身の丈に並ぶものへと伸長させた。

 引き寄せられるように押し寄せる死霊の軍勢。

 くるりと手の中で如意棒(撲殺丸)を旋回させたエヒムが、脇を固める少女を引き連れ進発する。

 

「ッ――!?」

 

 驚嘆は少女のもの。戦慄は退魔師のもの。

 怯懦など知らぬとばかりに始動したエヒムは、知能なきゾンビと化した死霊が己を捕まえようと伸ばした腕を、如意棒の先端で軽やかに叩いて弾き飛ばし――旋回させた勢いそのままに、ゾンビの下顎から跳ね上げた。爆散するゾンビの頭部、纏われた天力の余波のみで遺骸も浄化され消滅した。直後である、先頭の両脇から飛びかかってきた二体のゾンビが同時に頭部を喪失する。

 エヒムが回転させた如意棒は止まることなく、流れるようにして左右のゾンビの頭部を殴打したのだ。右を頭頂部から、左を下顎から。恐るべきはその流麗さ、先頭のみならず後続も視野に収めて連撃を意識し、恙無く処理してのける鮮やかさである。

 少女の助言通りにエヒムは止まらない。死霊の大群へと向かう様には一切の無駄がない。刀娘の驚嘆の在り処は、止まることなく押し寄せる大群との距離をエヒムが測り損ねず、適切な間合いを保持し続けていることにあった。大群とはいえ所詮は連携なき個、数の利も活かせず襲い来るだけとはいえ、それぞれの優先順位を誤らず的確に叩いているのだ。驚愕の所以もまたそこにある。

 さながら棒術の達人、対多数戦闘にも習熟した歴戦の勇士だ。フォローを入れる余地などなく、完璧な技量は素人の付け焼き刃とは思えない完成度を誇った。

 

(ゴスペルさんの見立て……間違ってなかった。このヒト、やっぱり……)

 

 戦闘経験のない白紙の状態、初戦闘にして文句の付け所がない実力。磨けば光る原石どころの話ではなかった、磨くまでもなく莫大な光を放つ宝石そのものである。

 幼少の頃から戦闘訓練に従事してきた刀娘には分かる、エヒムは今その身が宿す才能だけで暴威を振るっているのだ。嫉妬を通り越す恐怖の念が少女の胸に去来するほどの、人智を超えた才能の光に心が折れそうになる――だが、退魔師としてじゃない、一人の少女としての家具屋坂刀娘は確信した。考えるのは苦手でも、目の前で見せつけられた真実まで見誤るほど馬鹿じゃない。

 

殺せる(・・・)っ! このヒトを本当の意味で味方に出来たら殺し尽くせるっ! あの月の奴ら(・・・・)をっ!)

 

 縦横無尽に振るわれる紅い棍棒の軌跡が目で追えない。変幻自在の棒術を、真後ろから見ているのに予測できない。沸き起こるのは圧倒的な歓喜、初戦闘でこれなのだ、さらなる経験を積めばどれほど化ける? 単純な性能は上級天使という肉体が保証してくれる、生まれ持つ属性の数々が伸び代を確約している、肉体を駆動させる魂が人の側に寄り添ってくれる。まさに天恵だ。沸騰する狂喜に打ち震え、雑魚に過ぎない死霊(ゾンビ)の群れが掃討されるのを見届けた。

 

「――そういやぁ、聞き忘れてた」

 

 コンッ、と音を発して地面に撲殺丸を立てたエヒムが、白銀の瞳を刀娘へと向けるのに、ゾクリと腹の底から痺れるのを少女は自覚した。

 

「異界って、どうやったら消せるもんなんだ?」

「……シンプルですよ、エヒムさん。異界を維持するリソース分を削ればいいんです。方法は主に三つほどで、湧いてくる魔物を殺し続けるか、異界そのものを物理的に破壊して回るか、ここのどこかにある異界の核を破壊してしまうかですね」

「そっかぁ。なら、あれ(・・)もヤッとくべきだな。俺に任せてもらってもいいか? ヤれる気がする」

「どぉーぞっ。雑魚相手の試運転も済んだでしょうし存分にやってください――あ、アタシはちょっと外しますね。よその人達(・・・・・)が来たみたいなんで挨拶してきます。ここはアタシらの稼ぎ場だから、邪魔しないで帰ってくれって頼みたいんで」

「オーケー。チャチャッと済ませて戻ってきてくれな? ちゃんと俺のこと見て、後で講評してほしいから」

「はーい」

 

 新たに出現せしは虚空に渦巻く巨大なマモ。急速に成した形は――単眼の巨人だった。

 一軒の家屋ほどの身の丈と、それを支えるに足る重厚な筋肉。数本の丸太を束ねたかのような太腕は巨躯に見合う大槌を掴み、腰蓑を巻きつけた姿は巨大な原始人と言っていい姿である。

 それが十体。虚空から産み落とされた巨人達が地響きを立てて着地する。ゾンビを象った死霊を遥かに超える危険度の個体が群れを成していて、刀娘はその様を見ることでこの異界の本質の一端を理解した。

 

 この異界には特有のルールがない。たとえば左腕を動かそうとしたら右腕が動く反転現象や、特定の条件を満たさないと一定の範囲から出られないといった、理不尽な法則が存在しないのだ。

 死霊から巨人へ一気に魔物のグレードが上がったのがその証拠。普通の異界なら出現する魔物の種類は統一されているもので、ゾンビの魔物の最上位個体は吸血鬼である。その法則を無視している以上は、出現する魔物の種類が操作されているのが明らかだ。――人為的に形成された異界とはこういうことなのだろう。おそらくこの異界の製作者は、今もこちらを観測している。

 

 どうあれ製作者が手出しをしてこないならエヒムを心配する必要はない。刀娘はそう見切り、この異界へ新たに足を踏み入れた者達の許へ向かうため、単独行動を開始した。

 探す必要はなかった。刀娘達が通った入り口から入ってきているのは分かっている。

 

「――もしもぉーし。もしかしてなんですけど、アンタ達って【輝夜】の人達ですかぁー?」

 

 異界の入り口である路地裏には二人の男がいた。

 肢体に張り付くような黒い防護服を着込んだ男達は、刀娘を見るなり身構えたものの、その顔を見ることで驚愕し目を見開いている。その反応で刀娘は破顔した。

 

「あっ、あんた……まさか、刀娘様――」

「やっぱり【輝夜】の人達でしたか! 奇遇ですね、それともお久し振りの方が? ともかく――」

 

 警戒心を失い驚いた反応をした相手達に、親しげに歩み寄った刀娘は。

 

「――()入れられて(・・・・・)ますね? ならダメです、死んでくださーい」

 

 大太刀を無造作に一閃し、男達の首を一振りで刎ね飛ばした。

 切断面から鮮血を吹き出し、首を失った体が倒れ伏す。その遺体すらもが溶けて消えていくのは、彼らのマモが異界に吸収され養分になったからだ。

 人間を二人も不意打ちで殺したというのに、刀娘の顔に罪悪感はない。「虫を入れられてたら見逃せませんよね」と。害虫を駆除した程度の感慨しか懐いていなかった。

 

「まったくもう、ダメですよー? 【輝夜】を名乗るなら、月の虫(・・・)に寄生されちゃあ」

 

 仕方ない人達ですねぇ、組織の名前が泣いてますよと嘯いて。大通りに再び顔を出した刀娘は、棍棒を片手に巨人達と戯れる天使を見て口元を歪めた。

 

「……へへへぇ。やっぱりバケモンだったかぁ。うんうん、最初からアタシより強いとか、本当に素敵なヒトだなぁ……エヒムさんは」

 

 うっとりと呟いて、刀娘は不意に何もない上空を見上げる。

 目が合った(・・・・・)。誰かと、確実に。

 だから、満面の笑みを浮かべた少女は独り言のように囁いた。

 

お金(マモ)稼ぎにご協力下さりありがとうございまーす。潤っちゃいますよ、ホント」

 

 

 

 

 

 

 




テンポあげてくぜぇー。

感想欄でお嬢様ふうに返信するブームが過ぎたので、以後は普通に返信します。


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21,チュートリアルは終わり

タイトル変えました。キャッチーなタイトルとか全然思い浮かばんなりに頭捻ったけど、前の方がよかったとかは言わんといてください……! 豆腐メンタルが砕け散る!



 

 

 

 

 

 異界・秋葉原の大通り、歩行者天国に耳を(ろう)する轟音が轟いた。

 

 アスファルトの地面に尨大(ぼうだい)なクレーターを生み、無数の破片を撒き散らしたのは破城槌とも見紛う大槌である。単眼の巨人が上半身の筋肉を大きく隆起させ、渾身の一打を放ったのだ。

 規格外の背丈に載せられた膂力は怪物的。回避したはいいものの、巻き起こる衝撃波に圧されエヒムの体がふわりと浮いた。直後、アスファルトの破片がその身を細かく打撃する。

 至近で手榴弾が炸裂したに等しい破片の破壊力は、常人ならズタズタに肉体を引き裂かれて即死していただろう。だが、エヒムは眼球にも破片の直撃を受けたというのに目蓋を閉ざしていない。失明はおろか傷一つすら負っておらず一瞬視界が塞がれた程度だ。

 理外の頑強さは天使由来のものなのか。エヒムは自らを支配した『言霊』に心を湧き立たせる。

 

「ぃゃあははッ」

 

 退避した先に間断なく振り下ろされてくる大槌は、さながら大地を穿つ隕石の雨。踊るようにひらりひらりと身を躱すエヒムに業を煮やしたのか、巨人たちの一体が地震のような地響きと共に背後から迫り、力任せに蹴り飛ばそうと塔のような脚で蹴撃を繰り出す。果たして巨人たちに囲まれていたエヒムは躱しきれず、無数に立ち並ぶビルまで吹き飛ばされてしまった。

 

「いひひひひ!」

 

 エヒムを蹴り飛ばした巨人が蹲る。蹴り足を抑え、苦痛に歪む(かお)に脂汗を浮かべた。その脚が凄まじい力で抉り取られたかのように、足首の半ばまでもが喪失していたのだ。

 激突したビルの壁面に埋まったエヒムが、堪えきれずに哄笑する。イキってるみたいでダサいと頭の片隅で思うも、未体験の喜悦によってか狂笑を止められなかった。

 

「やぁっははははは――ッ!」

 

 動く。動く。イメージ通りに、思った以上に、体が己の想像を超えて動く。

 能わぬことなど無いという全能感、己を壊せるものなど無いという無敵感、この体が具える才能に身を任せる爽快感。それらが混ざり合い筆舌に尽くし難い快楽をエヒムは味わった。

 己を蹴り飛ばさんとした巨人の脚を、神速で振るった如意棒で抉ったはいいものの、接触したことで生じた慣性に吹き飛ばされはした。アスファルトの破片も受けた。ビルに激突して半壊させた。普通ならそのいずれであっても即死し挽き肉になるのが道理というのに、体は一切の不調を訴えない。むしろ蝿が止まったかのような感覚しか覚えず、少々擽ったいぐらいだ。

 

 なんだこれは――なんなんだこれは。

 

 100倍した勇敢な心は恐怖を駆逐する。膨れ上がった蛮勇が戦闘方法を模索する不安を撲滅する。残るのは敵と定めたモノを屠らんとする目的意識と、才能に体を明け渡す興奮だけだった。

 ビルの瓦礫を蹴散らし、エヒムは巨人の群れ目掛けて飛びかかった。横薙ぎにされる大槌が唸りを上げて迫るのに、如意棒を軽く添えることで起点とし、曲芸じみた体捌きで体を浮かせる。大槌が伴う破滅的な慣性を完璧に受け流したのだ。大槌を振るったことで隙を晒す巨人と目が合う。――唖然とする目を見て、感情があるのかと意外の念に駆られるも。

 

 無慈悲。

 

 エヒムは容赦なく虚空で如意棒を伸長し、腕を突き出すことで腕力を乗せ、単眼そのものを突き破ることで殺害する。頭蓋の内側から浸透するエヒムの天力の余波を受けたことで、尋常の手段では死なぬはずの死霊(巨人)は即死して、地面に倒れるまでに肉体が消滅した。

 

 ――浄化されたのだ。エヒムが天使から継承した属性の一つ、『浄化』は自らが敵と定めたモノを一方的に不浄と定義して、理不尽な消滅を強要するのである。

 

 着地の隙を狙い左右から大槌が叩きつけられる。如意棒を短縮し、つっかえ棒のようにして挟むことで、サンドイッチの具のように潰されるのを防ぐ。エヒムの両手を通じた衝撃は地面にも伝わり足元へ亀裂を刻むも、エヒムには子供に叩かれた程度の感覚しかなかった。

 腕力の差はまさに大人と子供。

 手の中でくるりと旋回させた如意棒で、左右の大槌をほぼ同時に弾き返すと二体の巨人がたたらを踏んだ。右の巨人は万歳し、左の巨人は地面に大槌を埋められている。桁外れの力で弾かれたからだろう――隙だらけだ。伸長させた如意棒を素早く回転させるや、まるで粘土細工を引き千切るような容易さで、左右の巨人の下半身と上半身を泣き別れさせてしまう。

 

「ヤァハハハ!」

 

 笑いが止まらない。楽しくて堪らない。身体能力(からだ)と如意棒しか使わない縛りプレイでも、未知の才能と恐怖のない心は初見プレイ同様の純粋な喜悦を齎してくれる。

 ゲームだ。これはゲームなのだ。勝利が確定した時に見られるムービーの一幕。神作画の上等なバトルシーンを垂れ流す、雑な爽快感と優越感を味わうためだけのボーナスなのである。

 油断? 慢心? そんなものはない。感情があるモノを殺すことへの躊躇? 忌避感? ないわけがないだろう。勇気を持って殺害に至る工程を辿っているのだ、情けない泣き言なんか彼方にまで吹き飛んでしまっている。『言霊』による精神操作が消えた後、自分が何をどう思うかなんて今はどうでもいい。愉しいのだ、楽しいのである、なら今はとことんまで(たの)しむだけだ。

 

 エヒムは笑いながら巨人の群れを蹂躙する。慄然として鳥肌を立たせるどこかの女の視線を感じながらも、関係ないと切り捨ててひたすらにチュートリアルに勤しんだ。

 

 鮮やかなるかな職場体験。縦横無尽に振るう如意棒が自身を叩き潰さんとする大槌を弾き、弾く。拳打、蹴撃、悉くを羽毛を払うように捌き切り、全ての巨人を一掃した。

 後に残るのは無残な戦場跡と化した歩行者天国。

 目につく範囲のビルは半壊し、巨人の攻撃が齎した破壊の痕跡。

 ミサイルでも降ってきたかのような光景は、異界のそれであっても背筋が凍る。

 

(――何あれ。フィフキエルの後継……とんでもない化け物じゃない……!)

 

 モニター越しにその光景を見ていたペトレンコは、総毛立ち戦慄していた。

 

 生後一週間も経っていない存在とは思えない。これで経験の浅いひよっこだと? 馬鹿を言うな。これは規格外の化け物である。通常の尺度で図ろうとするほうが間違っている。

 ――アガーフィヤ・ドミトリエヴナ・ペトレンコは賢者であった。人間という大きな括りの中で全体を見渡しても、おそらく十指に入るほどの叡智の持ち主である。だからこそ【曙光】でも若くして幹部の席を与えられているのだ。そして、ペトレンコは戦闘員ではない。

 故に彼女は自らの認識が甘かったことを即座に認められた。あれは片手間に相手をしていい存在ではない。罷り間違っても無意味に戦闘経験を積ませてやってはならないと判断を下せた。

 

 初戦で、徹底的に、全力で叩き潰さねばならない類いの天災的天才(ディザスター・ジーニアス)。生みの親であるフィフキエルを凌駕するのも時間の問題だと直感的に理解した。

 

「――岩戸さん、アレが救世主の再来ってわけ? 冗談キツイわよ。……ボーニャ、引き上げるわ」

『……いいのカ?』

 

 暗黒の中、ペトレンコは即断で撤収を決める。すると撤収していいのかと言いたげに足元の白い犬が首を傾げると、彼女は疲れたように言い聞かせた。

 

「異界全体のマモはわたしが掌握している。その全部を結晶化して持ち帰るのにはまだ時間がかかるのは確かよ。けれど、その時間をかけてフィフキエルの後継に経験を積ませたら駄目なの。この異界番号6を放棄してでも撤退し、ロイと協力して当たらないと仕損じる。言うことを聞きなさい。次にアレと出会った時、余計に成長したアレとボーニャも事を構えたくないでしょう?」

『……アガーシャが言うこと、間違いナイ! 従ウ! 従ウ!』

「そ。なら早くなさい。悠長にしていたら……わたし達が見つかってしまうかもしれないわ」

 

 救世主の属性を有する天使だなんてデタラメな存在と、正面切って対峙するなんて御免だ。ペトレンコは内心そう毒吐き、席を蹴って立ち上がると白衣を翻す。

 ――そうして【曙光】の女幹部は秋葉原の異界から撤退していった。

 どのみち手元には碌な戦力がないのだ。見つかったら戦闘力のないペトレンコはいっかんの終わりである。この不意の遭遇が幸運となるか、不幸に転ぶかは自分たち次第だが、フィフキエルの後継の脅威を早い段階で認識できたことだけは幸いだろう。

 

「……? なんだ、終わりか?」

 

 巨人の掃討を終えたエヒムは、再び魔物が現れないかと辺りを見渡した。

 しかし何も現れない。拍子抜けするほどの沈黙が辺りに落ちている。

 戦闘終了と認識してしまったからか、『言霊』の効力が切れて本来の精神状態に回帰していく。エヒムは麻薬じみて爽快だった戦いの愉悦を、なるべく忘れるために頭を振った。

 名残を惜しむ。沈静化した頭で、自らが振るった暴力を回顧する。しかし思いの外なんにも感じるものはなかった。てっきり相手を殺した感触に、罪悪感や気持ち悪さを覚えるかと思っていたのだが……特になんてことはない。相手が明らかに化け物だったからか?

 

「打ち止めっぽいですねぇー、エヒムさん」

「ん……刀娘。挨拶は済んだんか?」

「ええ、アタシ達が先に来たんだから帰ってって言ったら、意外と素直に引いてくれましたよ」

 

 刀娘は抜身の大太刀を虚空に放り、真っ逆さまに落ちてきた大太刀を鞘で受け止める形で納刀する。スタイリッシュな戦闘態勢の解除に感心して問うと、少女はさらりと第三者の退場を告げた。

 

「打ち止めって言ったよな。それってどういうことだ?」

「ここの製作者さんがですね、どういうつもりかは知りませんけど、たった今ここからサヨナラしたみたいなんです。なんで分かるのってぇーのは、まあ勘ですかねぇー」

「勘か」

「はい、勘です」

「勘なら仕方ないな。俺もそんな気がしてるし」

 

 あやふやで確実性に欠ける物言いだが、エヒムも誰かに見られているのは感じていた。その視線と気配が消えている、だから刀娘の言うことは本当だと直感的に判じられた。

 そういう曖昧な勘はあまり信じない(たち)なのだが、疑って調査しようという気にはならない。製作者がいないのなら長居するだけ無駄だろう。ならさっさと異界を消してしまえ。エヒムがそう結論つけているのを尻目に、刀娘は腹の中で笑っていた。

 

アタシみたいに(・・・・・・・)気配探知のスキルがあるわけでもないでしょーに。本当にただの勘でいないって確信してるなら……ホント、凄すぎて好きになっちゃいますよ、エヒムさん)

 

 視線に熱を込めてしまいそうだ。今まで他人に懐いたことのない好感を覚えてしまいそうである。

 刀娘は天使の環を消し黒髪黒目に戻るエヒムが、自身から血の臭いを嗅ぎ取る前に、誤魔化し半分で畳み掛けるように忠告しておいた。

 

「ちなみに魔物……モンスターが打ち止めになったって根拠なんですけど、アタシが思うにモンスターがフィールドにポップするのを、製作者サイドが手動で操作してるっぽいからなんです。あとここには普通の異界にならあるはずの法則変異が起こってないってぇのもありますかね。普通こんなにピタッとモンスターが出てこなくなったり、アタシ達の目の前にしかモンスターが出てこないってことはないんですよ。天然物の異界はこんなに生温くないんで……これが普通だって思わないでくださいね?」

「了解。ちなみに法則変異ってのは何か聞いても?」

「はい。えーと、例えば空気が可燃性ガスだったり、体を動かす脳内コントローラーがバグって操作が覚束なくなるとか、重力が反転して空に落ちていくのがスタンダードだったりとか、外の世界じゃありえない現象が起こってるのが法則変異って奴です。アタシはそういうのに影響され辛いタイプですし、エヒムさんもどうとでも対応できるでしょうけどね」

 

 ほら。知らない言葉とか交えたら、真面目なエヒムさんはすぐ食いついてくれる。刀娘は内心で得意満面になった。これでもヒトを見る目と誤魔化し方の選定は得意なのである。

 あとは楽な仕事だ。異界を消して終わりである。エヒムには難易度の低すぎるチュートリアルだったかもしれないが、刀娘的には文句の付け所のない体験だったと言えた。

 

「それじゃ、あとはアタシに任せて先に上がっていいですよ、エヒムさん」

 

 刀娘にそう言われるも、エヒムとしては頷けない。新人とはいえこちらは正社員、刀娘は先輩とはいえバイトなのだ。バイトの子を残して先に帰るとか、普通に考えて有り得ないだろう。

 エヒムが拒否して残ろうとするのを、見透かしたように目を細めて刀娘は続けた。

 

「エヒムさんはまだスマートな異界の消し方分かんないでしょ? いーから先に帰ってくださいって。なるべく外界に影響が出ない感じにしたり、ここに捕まっちゃってる人がいたら無事に帰してあげたりとかするのに、エヒムさんがいると邪魔なんです」

「じゃ、邪魔ときましたか……」

「なんたってエヒムさんは天使ですし? 位階が高いヒトはいるだけでここの容量食ってるんで、まあ邪魔なんですよねぇ。安心してくださいよ、今度異界の消し方とかレクチャーしてあげます。なので先に帰ってアグラカトラ様に仕事完了って報告しといてください」

「……分かった。確かに現場経験のない奴は邪魔にしかならん時もあるわな。『言霊』でシニヤス荘に跳んでもいい感じ?」

「いいですよ。あ、帰ったらアグラカトラ様に、アタシが虫けら始末するのに頑張ってたって口添えしてくださいね。バイト代弾んでくれるかもなんで」

「虫けら……? モンスターのことか?」

「虫けらでいいですよあんなの。一言一句間違えないでくださいね」

「はいはい、了解しましたよ。今回の礼はまた今度する。それじゃ、ありがとうな」

 

 お礼、期待してますねー、と手を振った刀娘に黙礼し、エヒムは空間転移してシニヤス荘へと帰宅した。便利な力だなぁと少し羨ましく思いながらも、刀娘は三枚の御札を形成する。

 

「さって。ついでに余ってるマモもできるだけ結晶化して帰ろっと」

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 あらぁー。とアグラカトラは悩ましげに顔を顰めた。

 

 流石は花――改めエヒムといったところか、1日もしない内に異界を攻略してくれたのはいいが、それ以外には概ね()からぬ要素が並んでいた。

 人為的に作成された異界。

 途中で離脱したらしい製作者。

 おまけに刀娘の言う『虫けら』とかいうもの。

 赤毛の女神は一礼して退室して行った元人間を見送った後、深刻そうな貌で――しかし楽しい遊戯に興じるかのような貌で――呟く。

 

「虫けらってのは月の虫じゃな。刀娘め、なんぼなんでも手が早すぎ……バレたら【輝夜】にどう言い訳したらいいんよ」

 

 刀娘の言い方からして目撃者はいなさそうだし、刀娘に限って他者の気配を読めないとは思えないから露見する心配はない。だからそれはいいとしてだ。

 

「異界を作ったって奴……【輝夜】じゃなさそうやしなぁ。消去法的に【曙光】か? んなら色んなとこで辻褄合いそうやん。ハッハハ、こいつぁ楽しくなりそうじゃんね……」

 

 ごろりと畳の上に寝転んで、アグラカトラは口元を緩める。

 時の果てとも言える現代、もはや活発に動く神は自分だけ。だがまだまだ楽しめそうなことはたくさんあるし、自分だけで楽しむのも勿体ない。

 嘆くように、寂しがるように、アグラカトラは柔和に呟いた。

 

「――現代いいとこ皆もおいで、ってね。こりゃあたしが楽しんでるとこ見せつけて、出てくるように促したらんとダメかなぁ」

 

 プレイヤーが一人しかいないのに、覇権を獲っても面白くない。そもそも、実は覇権にもあんまり興味はない。ゲームのやりこみ要素に手を出してるだけといった感覚だ。

 くそったれな浮気野郎を告発しただけで封印されて。皆に置き去りにされてしまった。ゴスペルとかいう人間に封印を解かれ、その目的を聞いて楽しそうだから味方になってやった。

 やはり、何事も楽しんだ者勝ちだ。

 もっと楽しいことないかなぁ。あったらいいなぁ。アグラカトラは頭を掻いて知恵を絞るも。

 

「ダメだ。あたしにその手の発想力はない。誰かぁー、あたしに楽しい遊びを教えてくれよぉ」

 

 自分の会社(ギルド)を国内最大手にするのは楽しそうではある。ゴスペルの目的に協力してやるのも本当に楽しめそうだ。だが――どこか物足りない。

 

「――ま。今はいいわ。コツコツやってりゃその内『機』はくる。今回は、そうさなぁ……」

 

 アグラカトラは起き上がり、テレビゲームのコントローラーを握った。対戦相手が揃うのを待つ待機時間が終わったのだ。プレイを開始しながら、女神は何気なく独り言に結びをつける。

 

「【曙光】はエヒムに絡みたそうやし、いい具合に見合いの席セッティングしてやるか」

 

 エヒムになんかあったら可哀想じゃし、信綱の爺でも呼んでやろかねぇ。

 

 女神はそう呟いたきり、FPSのオンライン対戦に没頭した。

 

 

 

 

 

 

 

 




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お気に入り登録の減り方がえぐい……つまらんのかな……。


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22,冷酷なる悪の意思

 

 

 

 

 

 

 喫茶店LaLaイオンの野外客(テラス)席に、二人の男女がいた。

 

 ボサボサの銀髪と腐った湖のような瞳、目の下の色濃い隈が特徴の白衣の美女ペトレンコと。カジュアルな髪型に整えている金髪碧眼の神父、甘いマスクが印象的なロイ・アダムスだ。

 他の場所であれば周囲から浮く二人だが、ここ秋葉原では奇特と言い切れない格好ではある。殊に時期はハロウィン間近、コスプレした外国人だと周りは勝手に解釈してくれるのである。

 

「――君の懸念は理解した。確かにこれは杞憂だと言い切れない数値だね」

 

 それでも人目を引く美男美女であることに変わりはないが、日本人というものは外国人を見ると近寄り難い心理的抵抗感を覚えるもの。遠巻きに視線を向けることはあっても、彼らの話し声が届く位置までわざわざ近寄ることはしない。仮に声が耳に届いたとしても、彼らはネイティブな英語で会話しているのだ。ますます近寄り難い印象を植え付けられるだけである。

 彼らはそうした日本人の国民性を理解しているのか、誰に憚るでもなしに平然と会話を交わす。ロイはテーブルの上に置かれたノートPCの画面を見て、同胞であるペトレンコへと同意を示した。

 もし誰かに話を聞かれたとしても、彼らとしては一向に構わない。彼らには最初から、無理にでも隠し通すつもりはないし、ゲーム開発やアニメの話だとでも誤魔化せば一般人相手には通じる。そして一般人以外であるならば――ロイという青年を見れば無策で近寄る愚は犯さないだろう。ロイ・アダムスとは相応に名の通った悪魔信仰者、【曙光】でも有数の戦闘員なのだから。

 

「天力による強化はなし。素の力(・・・)で怪力自慢の魔物を駆逐する戦闘力か。おまけに、君が推測するにこれが二度目の戦闘で、生まれてからまだ約三日ほど。驚異的な才幹があるのに疑いの余地はない」

「少なくとも映像の中でも、戦闘の経験値をリアルタイムで反映させて成長しているのが分かるわ。それにこの武器を見て。【教団】のものではなさそうだし、【輝夜】か下位組織に引き込まれている可能性がある。捨て置いたら絶対にダメよ、取り返しがつかなくなるわ」

 

 開かれているノートPCの画面はロイに向けられている。彼は異界番号6とナンバリングされた人工異界で記録した、天使フィフキエルの観測データを共有しているのだ。

 死霊を相手にする現代の救世主が行う戦闘詳細。検知される天力の数値、身体能力、反応速度、可能な限りの全てを数値化して、なおかつ戦闘員として幹部に名を連ねるロイの意見を聞こうとしているのだ。畑違いの分野でまでデカい顔をする気はない、ペトレンコは荒事のプロに意見を求めることを躊躇うような、プライドという言葉の意味を履き違えた女ではなかった。

 ロイは形のいい顎に手を当て、思案しながら言う。

 

「……フィフキエルから継承した属性と、莫大な天力があるのは間違いない。単独で積極的に雑魚を相手にしていることから、精神性でもフィフキエルほど隙があるわけじゃなさそうだ。脅威度で言えば現時点でもメギニトス様の眷属に並ぶかもしれないな」

「そうよ。影すら踏めない駄作じゃない。これは岩戸さんの作品の中でも間違いなく最高傑作、たとえ偶発的に生まれたに過ぎないものでも、メギニトス様の脅威になるなら排除するべきよ」

「完全に同意見だ。だがどうするんだ? もしも【輝夜】に回収されているなら、アレを狙えば芋づる式に【輝夜】の精鋭が出張って来かねない。いくらメギニトス様が寛容でも、無駄な戦いで戦力を消耗すればお怒りになられるぞ」

 

 ロイはメギニトスに卓越した戦闘力を買われている青年だ。しかし知恵という面ではペトレンコに遠く及ばないことは自覚しているし、認めている。故にペトレンコの考えを聞くのに抵抗はない。

 ペトレンコは難解な数式を前にした学者のように腕を組む。そうすると薬品の臭いが充満する研究室の空気が漂うのだから、気怠そうにしていても彼女の神経質な気質が滲んでいた。

 彼女はトライ&エラーを厭わない研究者だが、こと今回の任務では失敗は避けねばならない。ぶつけ本番は好みではなく、入念な準備をして計画を立てるのが性に合っている。ペトレンコからしてみると天使の後継は想定外の不確定要素であり、安易な結論は出しかねた。

 

「……あなたはどうしたらいいと思うの、岩戸さん(・・・・)

 

 故にもう一人の同胞に意見を仰いだ。

 

 彼らの同胞には位座久良アラスターという男がいる。陰険だが技術者としては間違いなくトップクラスに優秀な男であり、能力の高さは自他共に認めるものだ。人造悪魔の製造の基礎理論を打ち立てたという功績からしても、その有能さには疑いの余地がない。

 しかしその基礎理論を発展させ、実用段階まで飛躍させたのは新参の男だ。

 名を多津浪岩戸。単純な能力で言えば位座久良やペトレンコに劣るものの、発想力という点や悪魔的な冷徹さは他の追随を赦さない。彼の胆力を知るペトレンコは岩戸を高く評価しており、自身も研究に行き詰まった時には岩戸に助言を求めたこともあった。

 

 ノートPCから音声がする。

 

『頭が固いな、ペトレンコ』

 

 岩戸は淡白に応じる。彼は別件で多忙を極めているが、事が事だ。絶対の忠誠を捧げている大悪魔の悲願の為にも、同胞の力になるのを厭う男ではなかった。

 

『メギニトス様の最終目標は魔界への帰還(・・・・・・)だ。そして帰還後に自らの領地を取り戻し、あの御方を追放した裏切り者共を鏖殺することを悲願となさっておられる。であるなら何を躊躇う?』

「……それは」

「多弁だね、タツナミ。つまり何が言いたいんだ?」

『確かにメギニトス様は可能ならフィフキエルの後継を確保したいと思われているし、私も今後の研究の為に手に入れたいとは思っているが、それらは必須事項ではない。捕獲が困難なら始末すればいいだろう。現場の判断を軽んじて咎めるほど、メギニトス様は狭量ではないはずだ。違うか、アダムス』

 

 すんなりと言い切られ、ロイは確かにその通りだと頷いた。

 しかしペトレンコは顔を強張らせている。ロイは畑が違うこともあって普段はろくに顔を合わせることもないが、ペトレンコと岩戸は良き隣人である。だからこそ岩戸の思考を辿れていたのだ。

 ペトレンコの醸す緊迫感を、察しているのかいないのか。岩戸は調子を変えないまま、淡白に、しかし冷徹に告げる。

 

『とはいえ確実を期すなら、そちらの戦力だけでは仕損じる可能性はある。捕獲は無理、始末も失敗となると流石にメギニトス様も苛立ってしまわれるかもしれない。お前たちが始末するべきと判断し、そうしようとするなら確実な手を打つべきだろう』

「確実な手と来たか。是非聞かせてほしいね? 君ほどの男が言う確実な作戦という奴を」

「………」

「………? どうかしたのか、ペトレンコ」

 

 顔色が悪いのはいつものことだが、その『いつも』に増して青褪めているペトレンコの様子に気づいたロイが様子をうかがう。だがペトレンコは何も言わない。そして岩戸も頓着せず続けた。

 

『作戦は単純だ。複雑にする必要がない。いいかアダムス、観測結果を見るに現状だとアレの精神性は人間に近い。恐らく素材となった人間と自我は地続きだ。ならアレの性能を制限する枷は容易く用意できる……枷を嵌めてしまえば後は簡単だろう。アダムス、お前と部下で仕留めろ。まさか出来ないとは言わないだろうな?』

「うん、今ならまだ出来る。私一人でも打倒は能う範囲だと断言しよう。だがどうやってアレを仕留めるつもりだ? 既存の人工異界はもうほとんど使い潰してあるし、新しく作って誘い出すにも手間が掛かるだろう。アレだけを狙って誘うのは難しいぞ」

『何を言っている? なぜ誘い出す必要がある』

 

 冷たい声に、ようやくロイも背筋が凍る感覚を覚えた。

 嫌な予感がする。緊張しているペトレンコの雰囲気も、それを助長した。

 だというのに岩戸だけは平素と変わらぬ、鉄壁の声音で淡々と言った。

 

『我々にとってメギニトス様の目的以外は些事だ。そしてメギニトス様の目的は、魔界への帰還と報復にこそある。ならこの世界の被害(・・・・・・・)など度外視してもいい、ということだ』

「なっ――」

『天使共や、世界各地の悪魔、神、妖怪、魔物。それらとの暗黙の了解を守る必要はない。なぜならメギニトス様は直に悲願を遂げられる。永遠に去る世界になど何も気を遣うことはない、思う存分に巻き込んで傷跡を刻んでしまえ。そうすれば、アレは周りの被害に気を取られ満足に性能を発揮できまい』

 

 それは。岩戸の言っているそれは、表世界と裏世界の境界を、完全に無視して破壊する作戦だった。

 悪魔的な冷酷さだ。考えもしなかった冷徹さだ。

 あらゆる上位者たる人外が、人外間で結んだ協定のようなもの。それは無知な人間の世界を維持することにある。そうすることで天使は無垢な信仰を食べられるし、悪魔は強欲な人間を玩弄できるし、神は各々の趣味嗜好に合った楽しみ方に興じられるのだ。

 太古の時代を終えて、文明が発展したのはその協定があったからだ。それがなくては人間など永遠に石器時代から抜け出せなかったのは間違いない。だというのに、岩戸は協定そのものを破壊してもいいと断じている。なぜなら今後の自分たちには無関係だから、と。

 

 人間が、人間の世界を、無価値と見做して破壊する。個人で手を出せば一時間としない内に殺されて、しでかした事柄も揉み潰されるのが関の山だ。組織であっても協定を破ったら袋叩きにされ、やはり暴露されたものを消し去られる。人間全体の記憶からもだ。

 だというのに岩戸はその禁忌を恐れていない。メギニトスや自分たちが抜けた後、【曙光】が滅ぼされても知ったことではないと断じている。ロイは声を震わせて言った。

 

「だ、だが……そんな真似をして、メギニトス様の目的を達してもだ、今度は魔界の領地を取り返したメギニトス様が周囲から攻められてしまう。長期的に見れば愚策だろう。そもそも無理を押してまでアレを始末するのに意味はないはずだ」

『果たしてそうかな』

「な、なに……?」

『悪魔の本質を読み違えているぞ。いいかアダムス、今のメギニトス様を除く全ての悪魔は飢えている。飽きている。新しい娯楽(・・・・・)を求めているのだ。こちらからそれを提供してやろうというのだ……メギニトス様を攻める気になどならんと断言してやれるぞ。それにアレを始末することには意義がある。放置してしまえば日本におられるメギニトス様に累が及ぶからだ』

「………」

 

 ロイは言葉を失った。絶句して、ペトレンコを見る。

 すると岩戸に並ぶ賢者、ペトレンコは青い顔のまま呟く。彼女はメギニトスに累が及ぶと言われた理由が理解できているのだ。

 

「……効果的ね。非の打ち所はないわ。短期的なわたし達の身の危険から目を逸らすなら」

 

 腐った湖のような目が、ロイを見た。彼女はノートPCに手を置いて、閉じながら続ける。

 

「ありがとう、岩戸さん。わたしにはなかった発想よ。……やるわよ、アダムス。メギニトス様の悲願成就の為に。異論なんて……ないわよね?」

 

 

 

 

 

 

 



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23,TOKYO危機 (上)

 

 

 

 

 

 子供と大人が肩を並べてディスプレイに集中していた。

 両手で握っているのはコントローラー。

 銃器を装備した兵士達が画面の中で駆け回り、激しい銃撃戦を繰り広げている。

 

「スナイパー()りました」

「ナイスぅ! 芋ってばっかでウザい奴じゃったからな、助かるわ」

「次は何したらいいんです? 裏取ったんで後ろから突っ込みましょうか」

「おう、今あたしのいるとこに敵が固まっとるからな、後ろから行って上手いことやりゃキル数を稼げるはずよ。状況変わる前にやっちまえ」

了解(りょ)

 

 黒髪黒目のスーツ姿である子供、エヒムの戦果報告に露出の激しい短パン姿の女、アグラカトラは嬉色に彩られた称賛を送る。二人は今、FPSで同じチームに属して遊んでいるのだ。

 カチャカチャと音を鳴らしてゲームに興じる二人の腕前は、基本に忠実というわけではない。むしろエヒムにいたっては基本って何と言わんばかりの初心者ゆえに、なんとなくの感覚でプレイしているに過ぎなかったが、それでも見るに堪えない下手糞さはなかった。

 セオリーを知らないからアグラカトラの指示通りに動いているだけだが、エイム――銃で照準を合わせる技術と、不意に敵と遭遇した時に見せる反応速度は人外のそれだ。とても初心者とは思えない落ち着きぶりも、エヒムの戦績を高いものへと昇華させている。

 

「そういやぁなんですが、社長に訊いときたいことがあるんですよ」

「んぁ? なんじゃ、言うてみぃ。知っとることなら答えちゃるけぇ」

 

 エヒムは元々、色んなゲームに触れて慣れ親しんできたゲーマーだ。社会に出てからはプレイ頻度はガクッと落ちたが、昔取った杵柄とでもいうべきか、ゲームセンスには目を瞠るものがある。

 肉体に具わる反射神経と判断力が合わされば、プレイ経験のない種類のゲームであっても、最初から熟練者に匹敵する技術を発揮できてしまった。ツールでも使ってんのかと疑われかねないほど正確なエイム技術も、敵との撃ち合いによる勝率を100%にしている。

 

 操作キャラをアグラカトラのいる所に向かわせながらエヒムが思い出したように言うと、アグラカトラは普段に増して訛りながら応じた。ゲームに集中する余り、地の部分が出ているのだろう。

 

「いやね、昨日のことなんですが、刀娘と異界に行ったって言いましたよね」

「言っとったね」

「そん時になんですが、刀娘の奴が陰陽術ってぇの使ってたんです。アレって俺も使えますか?」

「使えんなら使いたいっちゅうとる(って言ってる)ように聞こえんな」

「ええ、まあ。恥ずかしながら、ああいうのにちょっと憧れがありまして」

「ほーん……分からん話じゃなぁ」

 

 気のない反応をしたのは、純粋に共感できないからだろう。

 アグラカトラはエヒムの憧れに関心を示すことはなく、しかし無下にすることもない。

 

「使えんわけじゃないけど、使う意味はないわ」

「どうしてです?」

 

 エヒムはアグラカトラの訛りを気に入っていた。故郷の訛りに似ているからだろうか、彼女には格別の親しみやすさを感じている。同じ人外同士という認識もあるから友人にもなれそうだ。

 だからこうしてゲームの誘いにも乗っていた。でなければ肩を並べて遊んだりはしない。そうしたエヒムからの気安さを感じているからか、女神は天使の反駁に丁寧に答えた。

 

「陰陽術、錬金術、魔術、呪術、仙術、道術、カバラ――他にもあるかもやけどね、そういうんは人間向けに劣化調整(デチューン)されちょる術なんよ。神魔の異能、権能の一部を模した粗悪品みたいなもんで、昔々に自勢力の人間ユニットをな、一端の戦力にしやんとした奴の試みが全体に広まったもんなんよ。つまり天使のエヒムが使わんでもいいっちゅうわけ。魔術とか陰陽術とか使うまでもなく、もっといいもん使えるわけやし」

「そうなんですね……残念です。残念ついでに関連した豆知識ください」

「……何がついでなん? まあいいか。今言った中に錬金術ってぇのがあるやん? 錬金術は今の科学の祖先みたいなもんでな。天使の【聖領域】で人間と機械の知覚から外れられるんは、錬金術がオマエやあたしらに通じないからっちゅう理由がある。科学の根底に錬金術がある以上、どんだけ文明を発展させても、どんだけ強力な武器を作っても高位の上位者には通じん」

「……そいつはまた、理不尽ですね。ステゴロなら効くんですか?」

「いんや? 全然効かんよ。蟻に殴る蹴るされて痛がるような星があるん? 裏方仕事しかしてないあたしですら、普通の人間なんか総人口ぶつけられてもへっちゃらよ。たぶん」

「比較対象に星を持ってくるんですね……」

 

 そんぐらい差があるっちゅうわけ、とアグラカトラは皮肉げに笑った。

 

 画面の中で敵集団の真後ろを突き、流れるように撃ち殺しながらエヒムは思う。それだけ格差があるなら、何も知らない方が人々は幸せなのかもしれないな、と。自分達の世界の外にこんな化け物がいるなんて知った日には、人間社会は恐慌に陥り酷い状態になるだろう。その化け物の一人になっているエヒムだが、今まで人間として何も知らずにいれた幸運を偲ばざるを得ない。

 だが一度興が乗ったアグラカトラは話し出すと止まらなかった。黙って耳を傾けるエヒムに向けて楽しげに喋り通している。

 

「――けど流石にこれはつまらん(・・・・)って、どこかの誰かが思ったんやろね。ゲームに例えんなら運営がパワーバランスの調整を試みたんよ。弱々で雑魚雑魚な人間、食いもんにしかならん人間、コイツらを資源として使い回すだけじゃ芸がないんで、戦力として使えるようにしようとしたんよね。そうして最初に生まれたんが半神半人……俗に言う神話の英雄って奴よ。例え話に過ぎんが人間を品種改良した背景はそんな感じじゃね」

 

 品種改良。何度か既に耳にしているが、やはり気分のいい話ではない。エヒムがまだ人間視点で聞いているからだろうか? もしかしてそのうち自分も上位者視点で共感してしまうのか?

 だとしたら、その時こそが自分の中の人間性が死んだ瞬間だろう。それは、嫌だ。明確に言葉として表現することが出来ないが、上位者としての感性に従う自分を想像すると不快になる。

 エヒムが顔をしかめているのに気づいていないのか、アグラカトラは過去を懐かしむように言う。

 

「当時はもう大盛り上がりじゃった。中には神殺しを成し遂げるバケモンみたいな英雄(ヒーロー)ユニットも出てきて、ソイツらをイジメて遊ぶのが流行したわけよ。盛り上がりすぎて、終わる頃には燃え尽き症候群にやられて引退者続出したほどじゃな。あたしは金庫番らしく裏方にいたし、お祭り好きの馬鹿共みたいにヒーロー作っとらんかったけど。ヒーロー作って何が楽しいか分からんかったからなぁ。あたしは身内で馬鹿やってる奴を見るんが好きだっただけじゃし。あぁ、そうそう。エヒムは刀娘から聞いとる? 日本にも英雄ユニットの子孫がおるっちゅうのを」

 

 ゲームに例えてもらえると理解しやすい。だが共感はできそうになかった。アグラカトラが品種改良とやらに手を出していないと聞いて、自己申告に過ぎないとは弁えつつも少し安心する。

 せっかく親しめると感じた女神なのだ。社長なのである。変な所で不快感を懐きたくはない。そう思いながら話を聞いていると、アグラカトラから問い掛けられエヒムは素直に答えた。

 

「いえ、聞いてませんね」

「そう? ならあたしが教えとく。一応エヒムに傷をつけれる脅威になるかもしれんわけじゃしね。いいかエヒム、日本には【神座六十四家】っちゅうもんがある。現存する英雄ユニットの子孫、その直系じゃったり子孫同士の交配で興った家じゃったりする奴らやけ、分家のもんを含めると百は超える家があるんよ。んで、その大部分は【輝夜】に属しとる」

「……なるほど。刀娘ももしかしてその【神座六十四家】ってのの一つの出なんですか?」

「うん。刀娘のプライバシーじゃし、細かいことは本人に聞けな。そんなわけで雑魚しかいねぇって油断してんなよ? 他の上位者の加護持ちとかにも、エヒムを殺せる可能性は微粒子レベルで存在しとるし」

「分かりました。……物は相談なんですが、社長が知識として知ってることを纏めた本とか書いてくれません? 【曼荼羅】を大手に成長させるなら、後から入る新人のことも考えて、できるだけ実用性の高いマニュアルとか制作しときたいんで。全員が全員事情通ってわけじゃないでしょ?」

「んっ……おいおい、エヒム。まさかオマエ、後輩を指導してくれるんか?」

「ええ。まあ、今は俺の方が指導してもらう側ですが。長い目で見たら俺が指導する側に回ってることも有り得るでしょう。なら今の内に備えておきたいんです」

 

 エヒムがそう言うと、アグラカトラは感激したように声を弾ませた。

 

「そりゃ助かる! いやぁ持つべきは優秀で勤勉な仲間よなぁ! ……あっ、すまん。()っちった」

「は? ……あ、死にましたね」

 

 操作を暴発(ミス)したのだろう。ゲームの中でアグラカトラが手榴弾を投げてしまい、フレンドリーファイアが解禁されていたのかエヒムの操作キャラクターが爆死する。

 おろおろとして目を泳がせる女神だったが、目くじらを立てて怒るようなことではない。それにそろそろゲーム終了の時間が迫っていて、丁度リザルト画面に移行しようとしていた。一度死んだだけなのだし、意外と楽しかったからエヒムに文句はない。

 

「ご、ごめんね? あたし、ちょっとハシャいじゃった」

「いいですよ別に。気にしてないんで」

「そ、そう? んなら……そうさな。エヒムにあんまり付き合わせんのも悪いしな、ちょっと外に遊びに行くといいよ。あたしのランク上げに付き合ってくれた礼に、コイツもあげる」

 

 急によそよそしくなったのは、自分のミスでエヒムを死なせてしまったからだろうか。ゲームのことなのに大袈裟な態度だが、それがアグラカトラの内面を滲ませている。

 微笑んだエヒムは厚意に甘えることにして、女神が差し出してきたものを受け取った。それは先日の仕事中にも見た、金の粒。マモの結晶だ。

 五百円サイズの金の粒を手に、目をぱちくりとさせた子供形態のエヒムが問う。

 

「……これ、マモですよね? 何に使えるんです?」

「いろいろよ。食べて味を楽しむも良しじゃし、食べたら天力とか魔力とか神力とか、そういうんを回復させられもすんな。あとそのサイズのマモで1000マモって通貨になる。探せばどっかにある闇市で、便利な道具とか色んなもんを買えたりもするよ。あたしがオマエにあげた撲殺丸――如意棒の後継機も闇市で買ったもんなんよね」

「なるほど。ちなみにその闇市ってどこにあるんですか?」

「決まったとこにはない。商売の神が遺した眷属共は、世界中を気紛れに回っとるからな。いつどこで出会えるか分からんし、目玉商品を仕入れた時は大々的に告知してくるけぇ、そこで大人数相手に競売に掛けたりしとる。そういうんは不定期じゃし、手元にマモを常に置いとくのは嗜みみたいなもんね」

「分かりました。勉強になります」

「うん。そんなわけで、暇ならマモと現金持ってブラブラ歩いとった方がいいよ。現代は色んな娯楽があって楽しいけど、やっぱ他人を相手にしとる方が刺激も受けれるし心のアンチエイジングも捗るってもんやしな。そんじゃまた今度一緒に遊ぼうな、エヒム。機会があればあたしと街歩こう」

「はい。でしたら今度は俺から誘わせてもらいます。失礼します」

 

 立ち上がって一礼し、エヒムはアグラカトラの部屋を辞した。

 またなぁ、と背中越しに手を振ってくる女神は、玄関の扉を閉められる寸前に意味深なことを言う。

 

「――あ。そういやエヒム、あたしの占いによるとオマエの今日の運勢は最悪じゃから。ラッキーアイテムは上司からの贈り物って出たし、簡単に手放さんようにしときな」

 

 エヒムは首を傾げ、はい、と素直に返事をしておいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

「――あっ!」

 

 外に出る時は大人形態になる。

 家電でも見るかと街の店を目指して歩いていると、横合いから聞き知った声が耳に触れた。

 声のした方に俺が目を向けると、そこには昨日俺を逆ナンしてきた女の子が一人でいて、俺の方に早足に向かってきているではないか。

 金髪に染めた長髪を内向きにカールさせている、高校生ほどの女の子だ。歳の頃は刀娘と同じぐらいだから間違いない。今日は日曜日、昼間に出歩いているのも不自然ではなかった。

 

「昨日ぶりですねっ! わたしのこと覚えてますか?」

「……ええ。覚えてますよ。昨日の今日でこうして会うなんて、奇縁ですね」

「ですよねっ! 今暇です? 暇なら一緒に遊びません? わたしも超暇してたんです!」

 

 ぐいぐい来るな、この子。昨日声を掛けられた後だからか、それともタフな仕事を体験した後だからか、不必要なまでの警戒心は鎌首をもたげない。

 俺は苦笑した。この子のことを可愛いとは思うが、無性ゆえか下心なく普通に付き合っても楽しそうだとしか感じなかった。暇しているのは確かだし、社長から仕事の話もされていない。手持ち無沙汰だから相手になってもらってもいいだろうという気はした。

 懐でヌイグルミが呟く。物好きね、と。それを聞き流して、俺は少女に言った。

 

「構いませんよ。しかし私は引っ越したばかりで、家具がまだ揃ってないんです。これから家電を見に行こうとしていたところなんですが、それでも構いませんか?」

「あ、そうなんです? もしかして一人暮らしだったり?」

「はい」

「実はわたしもなんです! 大学生になったばっかりで、一人暮らしの初心者なんですよ! 最新の家電とかも気になりますし全然一緒に行けますよ!」

「大学生なんですか?」

 

 高校生に見える……そういうニュアンスで驚いてしまうほど、少女は年齢より幼く見えた。

 すると少女は苦笑する。慣れているのだろう、不機嫌になった様子はない。

 

「そうですよ。これでも成長した方で、ちょっと前は中学生みたいってよく言われてました」

 

 そうなのか。しかし……大学一年としても今は10月だ。一人暮らし初心者と言っていいのか?

 いやツッコミを入れるのは野暮だ。今が一番楽しい時期なのだろうし、余計な茶々は入れまい。

 

「わたし、熱海景(アタミ・ケイ)っていいます。19歳です! お兄さんの名前聞いていいですか?」

「ご丁寧にどうも。私は――」

 

 名乗られたから丁寧に応じるが、はたと思い至る。そういえば名前は決めていたが名字は決まっていないじゃないかと。どうする? 悩んだ瞬間に懐から小声がした。

 ヤーウェ。その響きに流れを察した俺は、咄嗟にヤーウェというのを名字として設定した。

 

「――エヒム・ヤーウェ。歳は……そうですね、アタミさんは何歳に見えますか?」

 

 渾身の愛想笑いで答えに詰まったのを誤魔化し、さらに年齢も誤魔化す。

 するとアタミさんは赤面して、目を逸らしながら唸る。

 

「ちょっ……このイケメン反則ぅ……! ……あっ、そ、そうですね。エヒムさんは、その、わたしより少し上の20歳か21歳ぐらいですか? あ、あと日本語お上手ですねっ!」

「――正解です。私は20歳ですよ」

 

 あたふたするアタミさんの反応に苦笑しつつ、さらりと実年齢より10歳ばかりサバを読む。どうせ肉体年齢は可変式なのだし、他人からどう見えるかで年齢を申告していいだろう。

 当然だが名前からして日本のそれではなく、外見もこれだ。日本人には見えないらしいことが改めて突きつけられ、もう笑うしかない。俺は苦笑いを深めてアタミさんに言う。

 

「一個上だったんですか! どこかの大学に……ってふうには見えませんね」

「ええ。でもこう見えて大卒の資格はあるんですよ。今は社会人として勤めています」

「そうなんですか!? あ、海外だと飛び級とかあるんだっけ。エヒムさん凄く頭いいんですね!」

 

 嘘はなるべく言いたくない。なのでこれ以上突っ込まれる前に話を逸らすことにする。

 俺はアタミさんに微笑みかけた。

 

「あはは……お褒めに与り光栄です。それよりアタミさんにせっかく付き合ってもらうんですし、幾つか店で見繕ってプレゼントしますよ。お金には余裕がありますしね」

「――いいんですかっ! やたっ、超助かります!」

 

 本当に金には余裕がある。というより、使い道が特にないというべきか。

 俺からの申し出にアタミさんは一切遠慮する素振りを見せず、喜色満面で食いついてきた。素直な子だなと微笑ましくなる。人好きのする笑顔に、散財もいいかもなぁと思わされた。

 どうせ……今の俺には貯金する意味なんかないのだから。

 ナルシストみたいで公言するつもりはないが、今の俺の顔面レベルはヤバいほど高い。これからも男女問わず声を掛けてくる人は間違いなく絶えないだろう。こうなれば気に入った人にプレゼントを贈りまくる『あしながおじさん』を気取るのもいいかもしれない。

 となると、あしながおじさんとしてプレゼントを贈る第一号はアタミさんだな。せいぜい楽しんでもらって、気分よく過ごしてもらうとしようか。

 

 そんなことを思っていると、不意に俺の肌に静電気が走ったような感覚がする。

 

「ん?」

 

 無意識に視線をアタミさんの後ろに向ける。

 すると人混みの中に一人の男がいるのを瞬時に見つけられた。

 カソック姿の神父だ。

 金髪碧眼の美青年が、こちらを見ながらまっすぐ近づいてくる。

 

(なんだ、コイツ)

 

 神父。その格好から、【教団】の人間を連想した。

 嫌な予感。その予感の正体は、決して穏やかものじゃない。

 あの神父から発されるのは、極めて不穏で危険なものの気がするのだ。

 我知らず注視してしまう。するとアタミさんが怪訝そうに俺の視線を辿って背後を振り向く。

 

「どうかしました?」

「いや……それより、少し私に寄ってください」

「え? あっ……」

 

 神父は、懐に手を入れた。思わず身構えてしまい、アタミさんを庇うように腕を引いた。アタミさんが照れながらも戸惑うのを無視して、神父を睨むと。

 青年が懐から取り出したものを見て、全身に一気に緊迫感が駆け抜けた。

 手榴弾だ。奇しくも先ほどゲーム中で見た物と同じもの。

 投げ放たれたそれを見た途端、一瞬で時間が停滞する。俺はその停滞した時間の中で素早く動き、投擲されてきた手榴弾を虚空へと蹴り飛ばした。

 

 轟音。

 

 遙か上空で爆発音がして、辺りの人々が仰天して一斉に空を見上げた瞬間、俺は神父を取り押さえるべく瞬時に動き出そうとした。その時だ。神父が小声で呟く。

 

「――認識阻害(チャフ)を撒いた。今だ」

 

 俺の耳は本来聞こえないはずの声すら拾う。英語だ。だというのに意味を理解する。

 チャフだと? と疑問を覚えた刹那、遥か後方の高所から無数――数にして30――の射撃音を知覚。振り向き様に視認したのは俺を狙う100を超える銃弾の雨だった。

 体が反応する。不意打ちのそれを、正確に捌く。一つ一つの銃弾、俺とアタミさんに当たる軌道にあるものだけを選び、掌で軽く叩いて脇に逸らしていった。そうしながら銃弾に刻まれている紋様を見て取る。理解は出来ないが、なんらかの文字がびっしりと刻まれていた。

 なんらかの力の気配を感じる。一発掌で触れて捌くごとに、何かが麻痺していた。なんだ?

 

「流石。やはり対処してのけたか。だが、迂闊だぞ。私に背を向けるのはな」

 

 それは【曙光】が対天使戦闘を想定し、天使に対して特に効力を発揮する感覚麻痺弾だと――懐のヌイグルミからなぜか読み取れ(ダウンロードでき)た知識。まさかと目を見開いた俺のすぐ後ろで青年、ロイ・アダムスという【曙光】の戦闘幹部の声を聞いた。

 気配を読めない。感じられない。体が反応しない。ただ声にだけ反応するも、間に合わずロイの一撃を食らった。厳ついメリケンサックを装着したロイの拳が、俺の脇腹を抉ったのだ。

 

「ウグッ――」

 

 大型トラックに跳ね飛ばされた子供のように――俺は飲食店の店舗内まで吹き飛んでしまった。

 明滅する意識の中、悲鳴が辺りに響く。突如として発生した激痛に、体を丸めそうになった俺に。

 懐の中のフィフが這い出て、叫んだ。

 

「――しっかりなさい! 来てるわよ!」

「ッ――!?」

 

 かつてない焦燥に襲われ意識が覚醒する。跳ね起きた俺が見たのは、眼前まで迫ったロイの姿。

 

「あ、待っ――」

 

 ――て、と。言い切るより先に、俺の顔面をロイの拳が穿つ。

 

 更に吹き飛ばされた俺の体は飲食店の店舗を貫通し、そして。

 路地裏にいた異形のソレ。

 白い、毛むくじゃらの、巨大な犬に左腕を齧りつかれた。

 

「ギィッ……!?」

 

 激痛に呻きながらソレを見る。人造悪魔だと一目で理解した。2メートルに迫る巨体に相応しい大きな口と強靭な顎で、俺の左腕を根本から噛み砕こうとしている。

 プチン。

 何かがキレた。

 頭の中で、激情が唸りを上げる。

 ふざけんなよ……人が、折角、気分よく過ごしていたのに。

 なんで、こんな所で、こんな事を、する。

 

「誰の腕に噛み付いてんだ犬っころ……死ねよヤァ――ッ!」

 

 黒髪が変ずる。黒目が変ずる。燃え上がる炎のように聖なる天力が巻き起こり。

 

「――いい子だ、そのまま抑えていろ、ボーニャ」

 

 追撃に来た神父が、俺の左肩に手刀を落とし。左腕が、切断された。

 

「   」

 

 鮮血が吹き出る。白い人造悪魔から解放され、体が浮く。痛みを知覚する前に、ロイは素早く連撃を叩き込んだ。人中、喉、鳩尾。連続する急所突きに全身が軋み、内臓が破裂した。更に回し蹴りが俺の頸椎を捉え、何も出来ないまま弾き飛ばされる。

 なんの偶然か、蹴り飛ばされた先は最初にいた地点。アタミさんが目を見開いて驚愕している。そして俺の姿を認識した瞬間、絹を破ったような悲鳴を上げた。

 

 状況認識が追いつかない。だが、状況は待ってくれない。

 

 こうして――苛烈な奇襲から、全てが始まったのだ。 

 

 

 

 

 

 

 

 




本番開始。


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24,TOKYO危機 (中)

お待たせしました。


 

 

 

 

 

(――左腕が失くなった)

 

 錯乱し、狂乱し、恐怖と激痛により真っ白に染まったはずの頭の中。

 白濁とした意識は薄く、視線は像を結ばず、今に掻き消える蝋燭の火のような命。

 だが不気味なまでに冷静な自分が、頭の中心に居座っている。

 まるで別人だった。

 自身の体が機体と化し、脳というコックピットに他人が乗り込んだかの如き客観性。

 肉体という軍組織の総司令として、冷静な誰かが状況把握を命じた。

 レスポンスは全身から。続々と上がる情報が集まり、脳が淡々と処理する。

 

(左肩から出血。顔面からも。鼻が詰まってる。口呼吸も覚束ない。血がせり上がっている……喉が裂けているのか。肋骨が折れて肺に刺さってもいる。内臓……心臓が破裂している? 致命傷だが即死はしていない。この体にも人間みたいな臓器があるらしい)

 

 朧気な視界の中、誰か――おそらくアタミさん――が悲鳴を上げるが耳に入らない。

 

(俺の体は天使だ。天使の肉体構造は人間と同じなのか? なら心臓が破裂してるのに即死していないのはなぜだ? 体が人間と同じ構造なら俺はもう死んでないとおかしい。なのに生きているということは、これだけじゃ致命傷にはならないのかもしれない)

 

 刻一刻と迫る死の感覚は、途方もなく深く、冷たく、悍しいものだった。命あるモノなら抗えない恐怖であるはずなのに、停滞する体感時間の中で掻き集めた意識の断片が深化し、明晰な思考を紡いで事細かに分析する誰かがいる。何者なのかを追求する必要はない、余分な思考は全てカットされ、純化していく思惟は最適の解を導き出していった。

 自らの肉体が訴える信号を、俺の脳がキャッチして正確に読み解いている。全身が死にたくない、生きるための方策を出せと頭脳に要求しているのだ。そして、俺はその要求を叶えられる。

 

(――傷が蠢いている。傷が……塞がろうとしている? 再生しようとしているのか。だが思ったように再生できていない。何かが阻害しているみたいだ。起点はあの男に殴打された鼻の下――人中と喉と鳩尾。そこから何かが流れ込んでいる。俺の天力とは正反対に感じるな……ならこれが魔力という奴なんだろう。体の自動修復機能は用を為さない。ではどうやって治す?)

 

 エラー。脳が欲する知識が欠落している。魔力らしきものまで体内に入り込んだ以上、『言霊』も満足のいく効力を発揮するか怪しい。即座に治癒しなければさらなる追撃でトドメを刺される。

 早急に意識と体を回復させないといけないが、効果的な対応ができない。停滞した時間は理外の集中力が齎しているに過ぎず、実際の時間が遅くなっているわけではないのだ。

 

 ではどうする?

 

(フィフ――)

「追撃が来るわ! 早く起きなさい! その程度で参るあなたじゃないでしょう!?」

 

 懐から出てきたヌイグルミが、必死の形相で俺に何かを言っている。だが聞こえない。

 聞こえないが、問題ない。何が必要かは明白だからだ。

 俺は自分の手に触れるフィフに意識を傾ける。そうして、俺は自身の欺瞞を悟った。

 

(知識を外部に置く、思うように取り出せないから――そんなものは嘘だ。願いを叶える俺の力が、俺という人間性を維持したいが為に、天使という余分を摘出することで隔離していた。出来る限り精神性に影響を及ぼさないようにしていたんだ。『言霊』という形にしていても無意識の願いを汲み取っていた。そして俺はそれに気づいていなかったのか……ダサいな)

 

 だが。脳が欲する答えは切り離した知識の中にこそある。

 機械的に最適の公式を当て嵌めるようにしてヌイグルミを握り潰す。

 何をされたのか理解できないという顔のまま消えたヌイグルミに対して強く命じた。

 

(――帰ってこいフィフキエルの知識。頭の外に知識を放り出す馬鹿は死ね。俺が、生きる為に)

 

 流れ込んでくる膨大な知識の中から、現在最も必要な知識を探り出そうとする。氾濫する大河の如き知識の奔流――ひとつの図書館を引っくり返し、蔵書の全てを頭の中に落とし込まれているかのような感覚の中、桁外れに優秀な脳が求める情報を整理して把握し、閲覧して最善の答えを導き出した。迷う余地はまったくない、即座に実行に移す。

 

「『魔……力、排しゅ……つ』」

 

 掠れた声で呟く。最短の語句で纏めた『言霊』だ。すると僅かに操作が能う範囲にあった天力が、全力で俺の体内から魔力という毒を、傷口から血とともに排出した。

 穴だらけの意識が、暗い穴の中に落ちていくように薄まる。時間がない、急げ。

 

「『全、快』」

 

 更に『言霊』を行使。魔力が俺の天力に抵抗したせいか、予想より多く天力を消費してしまっていたが問題ない。言葉に込められた願いが、即座に俺の傷を塞ぎ流血した分の血を補填した。無惨に折れた骨と内臓を元通りに復元する――だが左腕は戻ってこない。

 急速に色づいた視界。左腕が失われたままなのは予想通り。

 跳ね起きた俺を見て、傍らの女が唖然としながら尻餅をついているのを無視し、素早く健在な右腕で如意棒をホルスターから抜き放ちながらロイの姿を探す。ロイはどこにいる――いた。飲食店の店舗の方から音速で駆け付ける、人外に等しい運動性能を発揮する神父だ。

 致命傷を負わせたはずの俺が立ち上がっているのを見て目を見開くが、動揺は殆どしていない。冷静なままだ。両手に嵌めたメリケンサックを握り締めたまま近づいてくるのを直視し、現段階で接近されるのは不安要素が勝ると判断して呟いた。

 

「『上空転移』――ッ。『天使化』」

 

 一瞬で俺に致命傷を与えたところからして、現時点の俺が接近戦を演じるのは不都合だ。

 故に一旦上空に退避目的で移動しようとした。だが得体の知れない力場のようなものに阻まれる。感覚としては冬場に静電気の溜まった金属のドアノブに触れたようなもの。

 転移できない。襲撃者は俺に対する対策を万全に整えている?

 いや俺の能力がこんなに早く露見しているとは考え辛い、襲撃者の対天使を目的としたハラスメント行為が、偶然俺の能力に刺さったと考えるのが妥当。形態変化が解除され、黒髪黒目に戻っていた為、次善策として『言霊』により瞬時に自らの性能を極限まで高めた。すると金の髪と銀の瞳に変じ、天使の羽根が背中に生えて、黄金の輪が頭上に形成される。

 

「フッ――!」

「チィッ……」

 

 俺の戦闘形態を見ても動揺することなく迫った神父が、カソックの裾を翻し拳を振るわんとする。安いストリートファイトではない、素手の殴り合いに付き合う義理はないのだ。俺は舌打ちしながら伸長した如意棒を振るって懐に入れまいと試みるが、的確に握り締めるメリケンサックで如意棒を殴り返され、淀みなく接近されてしまう。

 白兵戦での技術の差を理解する。如意棒に返ってきた打撃の威力から膂力に差がないと関知する。一朝一夕で埋められるものではない、殴り合いになればサンドバッグにされかねなかった。

 故に跳び退く。徹底的に相手の土俵には上がらない。神父の瞳は凍えるほど冷たく、冷徹にこちらを分析している。そして間合いを詰めながら機を窺っている気配を肌で感じ、地上にいるのは下策と見做して羽根を動かした。一気に飛翔して人間の手が届かない空に逃れようとしたのだ。だが、そうはさせじと彼方から飛来した銃弾が俺の周囲を制圧する。

 

「なっ――」

 

 咄嗟に如意棒を短縮して、俺に当たるものだけを弾くことには成功したが、俺が驚いた要因は不意の制圧射撃にはなかった。もっと根本的なもの、周りにいた多くの人々が音速戦闘を認識できず立ち尽くしていたのに、それに構わず銃撃してきたから驚愕したのである。

 銃弾の直撃を受け、血飛沫を上げて倒れる人が多数。死にはしなくとも手足や胴体に鉛玉を食らい平気な人間などいない、俺や神父が通り抜けた後、遅れて悲鳴が上がるのを見て歯噛みした。

 

「見境なしか……!」

『さあ、どうする救世主の再来。伝説通り人を救ってみせろ』

 

 天使の【聖領域】や悪魔の【侵食域】が展開されていないと、やっと察しがつく。襲撃者は無関係な人間の被害なんて度外視して俺を殺そうとしているらしい。

 反吐が出る。

 俺の注意が僅かに逸れた途端、神父が一気に加速した。

 銃弾より速い。神父が駆け抜けた後に衝撃波が発生し、近くの人間が藁のように吹き飛ぶ。反射的に如意棒を横薙に振るって牽制するが、跳躍して躱した神父が強烈な回し蹴りを見舞ってきた。

 

「グッ……!」

 

 如意棒で受けるも、重い。先日交戦した単眼の巨人よりも響く。人間サイズであんな化け物より力が強いのか。

 どう考えても人間に搭載可能な筋力ではないが――大型車に撥ねられたかのように地面を転がされるも、瞬時に地面に手をついて体勢を整え、残った慣性をなるべく殺さず両足で地面を滑る。そうしながらマルチタスクで状況を整理して、現実に迫る神父を迎撃した。

 右腕で操る如意棒を旋回させ神父へ連撃を叩き込む。変幻自在と言えるほど達者ではないが、自身の力と手の速さで牽制を繰り返し、とにかく間合いに入れないことに注力した。まともにやり合う気はないのだ。そうしながら頭の後ろで思考を走らせる。

 

(化け物みたいな力と速さ。どちらも人間離れしている。だがこれだけとは思えん。情報を暴け)

 

 上下左右縦横無尽に振るう如意棒を、神父は淡々と機械的に拳で打ち払い続ける。やがて周囲の人々が俺や神父が戦闘に入っているのに気づいたのか、目玉を零さんばかりに目を見開いたり声を上げたりしていた。耳を傾ける余裕はない、一打、ほんの一打だけ強振して俺の如意棒を強く弾いた瞬間、神父が地面を滑るようにして一瞬で間合いを詰めてきた。

 銃弾をも容易く見切る動体視力ですら残像しか捉えられない速さ――刹那、俺の肉体は待ってましたとばかりに反応する。左半身を後方に捻じり、呟く。

 

「『腕部形成』」

『――ッ!?』

 

 『言霊』が外部に作用させられなくとも、自身には効力を齎せるのは確認済みだ。

 失くした左腕が突如として再生し、俺の動作に連動して神父へとカウンターとなる拳撃を放つ。正面切っての不意打ちは意趣返しである。ないはずの腕に殴りつけられた神父の拳が頬を掠める、対して俺のカウンターは見事に神父の顔面を捉えていた。

 

 風に巻かれた藻屑のように飛んでいった神父がビルの壁面に激突する。当然あれぐらいで死にはしないだろう、だが明確に時間の余裕ができた。

 

(状況整理。一、外部に働きかける『言霊』が阻害され、効果が著しく弱まっている……対天使を想定した未知の道具が用いられていると想定。二、無関係の人間を巻き込む攻撃を受けている。非常に目障りだ。三、人造悪魔がいたはずだが攻撃に加わってこない。何を目的として設定しているかは不明、警戒は解かない。四、【曙光】幹部ロイ・アダムス。知識の中にある限りだと【救世教団】を裏切り多数の信徒を殺害した裏切り者。戦闘スタイルは知識通り、だが今見せた加速能力は未知。【曙光】の悪魔による加護を授かっているのか。加護の詳細は不明、あの不自然な加速現象からして――時間系(・・・)か? だとしたらロイに加護を授けているのは大悪魔メギニトスだな。なぜ俺を狙うのかは――今は考えなくていい。五……出力を上げれば『言霊』を強引に外部へ作用させられる)

 

 この間一秒。直後、降り注ぐ銃弾の雨を睨み、如意棒で捌きながら大きく息を吸った。

 

「スゥ……『天力最大出力』『銃弾停止』『死ね』」

 

 狙いは遠くからチマチマと豆鉄砲を放つ雑魚共。最大の力を込めて放った俺の『言霊』が、周りの人達にも当たりそうな銃弾を虚空に静止させ、さらには射撃した当人達を爆散させた。

 目で見える範囲にはいないが、肉体が内側から弾け飛んだのを確信する。

 しかし俺は眉を顰めた。

 

(――今の手応え。半分近く(・・・・)がレジストした? チッ、面倒な)

 

 遠くに作用した俺の天力が成果を報せてくる。肌感覚によるものだが半分は死んだ。戦果は甚だ不服ではあるが、作用した相手の数を正確に把握できただけ上等だと割り切ろう。

 俺に銃弾を浴びせてきていた奴らの総数は二十人。残り十人。位置も掴めたが、すぐに移動しないところを見るに『言霊』の作用で苦しんでいるらしい。死んでいないだけで暫くは行動不能だ。

 さあどうする。このまま俺がここにいれば、無関係の人達を巻き込んでしまいかねない。ならさっさと逃げてしまえば奴らの目的は果たされないだろう。撤退するべきか? ……するべきだな。

 怒りはある。殺意もある。だが余計なプライドはない。逃げる選択肢は最有力だ、合理的に考えて逃げの一手を打たない理由はないはずだった。

 

「――正気か、コイツら」

 

 しかし不意に、異様な気配を上空に感じ、見上げた視線の先にあるものを見咎めると、堪らず悪態が口を衝いてしまった。

 東京の空。それを埋め尽くすとまではいかないが、高層ビルに切り取られた空の景色を半分埋めるほどの、多数の人造悪魔が襲来してきていたのだ。

 パニックに陥りかけていた人々も謎の影が落ちてくるのに気づき、次々と空を見上げて絶句している。まるで映画(ウソ)のような光景に呆然とし、隣り合う人とあれが何かを聞き合っていた。

 

 俺は懐から金の粒、マモを取り出す。それを口の中に放り込んで噛み砕くと無味乾燥とした味が口全体に広まった。言語を絶する美味のはずだが、以前の俺が自身に掛けた、マモの味を感じるなという『言霊』の効果が残っていたのだろう。底が尽きかけていた天力が回復していくのを感じながら、これを贈ってくれた社長に感謝を捧げる。

 

「……確かにラッキーアイテムだ」

 

 そして、再び息を吸う。今度は最大出力でなくてもいい。相手はただの人間だから。

 

「『もたもたするな! 脇目も振らずにさっさと逃げろォ!』」

 

 俺の声が辺り一帯に響き渡る。すると騒然としていた人々が一斉に走り出した。

 額に汗が浮かぶ。それを拭いながら天力の残量を認識して、次の瞬間。

 

『お優しいね。流石は慈悲深い天使様だ』

 

 神父の声が背後からするのに、振り向き様に如意棒を振るい――後ろにいたのが、アタミさんだと気づいて咄嗟に寸止めする。いや、させられた。

 アタミさんの姿で俺の視界を遮り、死角に回り込んでいたロイが嗤った。

 

『だが、甘い』

「ブッ……!?」

 

 ネイティブな英語での嘲笑。決定的な隙を突かれた俺の脇腹に、ロイの拳撃が抉り込まれる。

 動きが鈍った須臾の間に、次々に着弾していくロイの拳。瞬く間に血達磨にされ、しかし倒れることも吹き飛ぶことも赦さず、コンパクトに纏めた拳打で如意棒を振るおうとする腕の動きすらも事前に潰された。反撃もままならずにサンドバッグにされる中――ガチリと嵌まる心の箍。今、人の俺と天使の俺が合一したのを自覚する。

 

 血塗れの死化粧に染まった、天そのものに授かった美貌が歪み、凄絶な笑みを湛えた。

 

「――お前。楽に死ねると思うなよ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 数奇な運命、という言葉がある。

 

 果たして今日この時、世の命運は終末に向けて加速の一途を辿り出す。

 

 神書の救世主の再来。それを狙う【曙光】の襲撃。

 

 そして――

 

 

 

『――フィフキエル様(・・・・・・・)ッ! 増援に参りました!』

 

 

 

 人造悪魔の存在を知り、その壊滅を企図して【教団】が送り込んだ、【下界保護官】たる天使フィフキエル直属の精鋭部隊。部隊長はゴスペル・マザーラントの副官だったエーリカ・シモンズ。

 人造悪魔の群れを見つけ、急行したエーリカ達【教団】の手先。その襲来を受け、東京は遂に戦場へと変遷してしまうのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




おもしろい、続きが気になると思って頂けたなら感想評価等よろしくお願いします。


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25,危機の合間に

お待たせしました


 

 

 

 

 

 作戦は順調に推移していた。想定していた通り進められていたのだ。ファーストコンタクト時に加えた一撃、続く追撃、悉くがクリーンヒットして左腕を奪うことにも成功している。

 ――だというのに、だ。

 ロイ・アダムスは薄皮一枚下で這い回る、静電気に似た戦慄の感覚に焦燥させられていた。

 

(クッ……!)

 

 両手に嵌めたメリケンサックは悪魔の住処である魔界に生息する、ドラゴンの鱗を加工して造られた衝撃槌である。装着者の魔力に呼応して打撃力を高める性質を持ち、更には打ち込んだ相手の体内に自身の魔力を浸透させ、相手の異能や魔術などの発動を阻害する機能が搭載されていた。打ち込んだ魔力が一定量まで到達すると、内部で自らの魔力を爆発させることもできる。

 これを装備したロイの打撃力は、【下界保護官】たる上級天使達にも通用する位階に達していた。すなわち白兵戦状況下に於ける戦略兵器と称しても過言ではない武器だということだ。

 

 ――であるのに。既に数十にも及ぶ拳撃を見舞っており、下級天使なら一撃で撲殺できる威力の拳打を大量に受けているのに、上級天使の後継たる無性の天使は健在のまま。

 

 内部爆破は機能せず。如何なる異能か、負わせたはずの傷が全快している。奪ったはずの左腕も再生して、奇襲の意趣返しだと言わんばかりの逆撃に用いられ、見事に殴り飛ばされてしまった。

 腰を抜かして座り込んでいた女の首を掴み、麗しい天使に対する盾として利用して接近し、雨霰と拳打を打ち込んだ。あらゆる反撃を初動の時点で潰す、コンパクトに纏めた連撃を食らわせ、瞬く間に血達磨にしてやりもしたのだ。――だというのに、一方的に殴り続けているロイの方こそが、実は追い詰められているのだと誰が理解できるだろうか。

 

(なぜ死なない……!)

 

 そう、ロイは既に全力を振り絞っていた。

 天使の体は人間に似ている。いや、正確には人間が(・・・)天使に似ている。もともと人間とは天使を大幅にグレードダウンさせ、大量繁殖に最適化された種なのだ。故に肉体の構造が似ているのは自明であり、そうであるからこそ行動の起こり(・・・)を事前に読んで潰すのは、白兵戦技能に特化して習熟したロイにとって容易であった。

 経験の浅い、生まれたての赤子。エヒムと呼ばれていた天使は未熟なはず。

 ロイは特製のメリケンサック【竜顎】を装備していなくとも、素手の打撃で山を掘り進めていける英雄級の実力者である。それが大悪魔の加護を受け膨大な魔力を獲得し、【竜顎】を用いて数十倍にも増した打撃力を発揮しているのだ。相手が上級天使であっても、既に殺し切れているはずのダメージを負わせているはずなのである。なのになぜ死なない? なぜ立っていられる?

 

 懐疑するも、卓越した技量を有する戦士としてのロイは事実を悟っていた。

 

 踏み込んだ脚の角度、腰の捻転、肩の駆動、肘の回転、拳のインパクト・タイミング。いずれもベストなものを選び続けた結果、ロイに殴られ続けるエヒムと名乗る天使は――着実に、そして確実にクリーンヒットを避け始めているのだと。

 顔面を抉る拳打を首を後ろに逸らしながら、顔を左右に揺らして打撃時の衝撃を逃がし。顎を狙い脳を揺らす為の拳撃を、膝の力を抜いて僅かに体勢を崩して打撃ポイントをズラし。潰されると分かっていても敢えて反撃の素振りを見せ、肩や腰への打撃を誘発し、致命的な攻撃を受けるタイミングを失くしている。次第に精度を増すダメージを減らす防御技能が致命傷を負わせない。

 

 そして遂にエヒムはロイの連打が生む、生き地獄に等しい打撃の檻から脱してのけた。

 

 ロイは格闘戦のプロフェッショナルだ。決して焦ったからと大振りの拳打を放つことはない。だがペトレンコが天災的天才と称した人外は、ロイの打撃を異常な学習速度で学び取り、一瞬とはいえロイの手首を掴んでみせたのだ。ゾワリと総毛立ったロイが、咄嗟に手首を半回転させて天使の手を弾いた瞬間、僅かに生じた隙をエヒムは見逃さず、如意棒を振るってのけたのである。

 躱さざるを得ない、見事な反撃。ロイはまんまと自身の間合いから脱してみせたエヒムを睨む。

 天使エヒムは死に体だ。背面を除く全身に打撲の痕がない箇所は存在せず、いたるところから出血してボロ雑巾のようになっている。着込んでいたスーツも襤褸同然だった。だが――

 

「ペッ……『全快』『修復』」

 

 血の混じった痰を奥歯と共に吐き捨てた天使エヒムが、力ある言葉を口にした途端、その身に刻まれていたダメージがなかったものとして掻き消える。あまつさえ衣服すら新品同然となった。

 堪らず苦笑する。上着(ベスト)を脱ぎ捨てこちらを見据える銀の瞳に、神聖を見限り悪魔信仰者に転身した人間は、不覚にも魅入られそうになってしまったのだ。在りし日の信仰の日々が脳裏に蘇りそうになるのを、奈落のように黒い失望を思い返すことで封じ込める。そして冷静に戦力差を精査する為、ほんの少しでも時間を稼ぐ目的で口を開いた。

 

「呆れた打たれ強さだ。お前はサンドバッグの生まれ変わりらしい」

「……急に喋りかけるな。下衆の声で耳が腐る。俺と気安く話せる友達にでもなりたいのか?」

「つれないな。お前が此の世で見る最後の顔かもしれないんだ。少しは打ち解けていた方が、お前も無念なく逝けるかもしれないだろう?」

 

 言いながら気づく。意図していなかったが、ロイの言葉が通じている、と。

 天使エヒムは日本出身。現代がグローバル社会である以上、堪能な英語能力があっても不思議ではないが、発音までネイティブなのは些か腑に落ちない。

 もしや天使フィフキエルから継承した知識を万全に運用できているのか? だとしたら脅威度は跳ね上がる。知識に経験と実力が釣り合ってしまえば、ロイが単身で勝てる相手ではないのだ。

 だが肝心の実力はまだ手の打ちようがなくなるほどではない。驚異的な成長率なのは明白だが、短期決戦に持ち込めたなら単独撃破は能うだろう。

 故に分析する。

 天力の籠もった言葉により、天使エヒムは全快してのけた。衣服の修復と左腕の再生まで成してみせた上に、急展開について行けず立ち往生する見込みがあった愚かな民衆まで避難させた。

 天力を宿した言葉が現実に作用する力なのだろう――エヒムの前身になかった能力だ。汎用性を含めて極めて危険な力であると評価する。これに加えフィフキエルの力まであるとすると、本格的に成長される前に叩かねば、主である大悪魔メギニトスの脅威になる。

 

 最後にメリケンサック【竜顎】の特性が通じていない理由に憶測を立てる。正鵠を射ている保証はどこにもないが、有り得るとするならば流血と共に天力で魔力を押し流しているのだろう。言うまでもないことだが、そんな真似は普通なら自殺行為にしかならない。失血死が避けられない結末となるからだ。だというのに堪えた様子がないのは……単に相手が普通ではないからだろう。

 

「スゥ……」

 

 細く、しかし深く、一気に空気を吸う。自身の背後から無数の魔力の塊が襲来するのを感じた。ペトレンコの判断により、人造悪魔の軍勢が投入されたのだ。――作戦は、まだ順調である。より正しく言うなら、この段階に到っても仕留め切れず長引いているのか。

 本来ならこの段階までに殺せていたはずなのである。最悪のケースを想定して、未だに予測の範囲に留まっているとはいえ……これ以上長引かせてはこちらの想定を上回られる可能性が高い。

 迅速に、一気に終わらせる。なぜならば。

 

「俺が手に負えなくなるかもしれないから、か?」

「………!」

 

 心を読まれた? ニッ、と意地の悪い笑みを浮かべたエヒムが嘲る。

 

「顔に書いてある。ポーカーフェイスは苦手らしいな」

 

 エヒムはそう言うが、そんなはずはない。ロイは無駄に表情を動かしていないのだ。密かに動揺するロイを前に、如意棒を縮小してホルスターに収めたエヒムは穏やかな殺意を滲ませた。

 

「俺も驚いてる。分かるのさ、お前がどう動き、どう対処すればいいのか。咄嗟に下す判断の精度が増しているのも、どう動けばお前を殺せるのかも、少しずつ見えてきた。だからもう暫く遊んでいけ。言っただろう……? お前は、楽には殺さないとな」

「強気だな。私を殺す算段が付いたと言っているように聞こえるが」

「そんな算段は立っていない。立っていないが分かる(・・・)のさ。俺は、お前を、殺せると」

 

 シャツを締めるサスペンダーが両脇に現れる。

 履いていたズボンもタイトなパンツに変化し、スポーティーな印象に格好が変わった。

 両手に嵌めるような素振りをすると黒い手袋が現れ、天使エヒムは白翼と黄金の環を消し去る。トントンと軽くステップを踏んだ後、エヒムは好戦的な所作でクイッとロイを手招いた。

 ロイは堪らず失笑を漏らす。まさか武器を収めて、格闘戦を自分とするつもりなのか? 力量差は未だ大きいと、骨の髄まで理解できたはずなのに……舐めているのなら大変結構だ。

 救世主の再来を討てるのなら、ロイ・アダムスの培ってきた全てを擲ってもお釣りがくる。

 

「ならば試させてもらおう。人間(わたし)が上位者を(ころ)せるのか――人の手は神に届くのか。存分に」

 

 東京の上空まで辿り着いた悪魔の軍勢を示すように両腕を広げ、ロイ・アダムスは嗤った。

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 最終戦争(ハルマゲドン)前日。

 そう形容するのが適当だと思わされる、此の世の終わりが迫っているかのような光景だった。

 

 人造悪魔――正確には完成した人造悪魔の試験型(プロトタイプ)。廃棄されるのを待つばかりだった悪魔の軍勢は、大衆がイメージする分かり易い『悪魔』の如き容貌をしている。

 黒い体皮に隆起した筋肉、巨大な蝙蝠の頭部と翼、邪悪さを表す血の色の双眸。体長は3メートルにも届こうかという巨躯であり、漲る邪悪さは魔力の発露だと言えよう。

 まさに悪魔だ。フィクションの世界にだけ生息する、架空であったはずの悪の権化。百を優に超えるその軍勢が、東京上空に達したその時、熱海景は呆然と空を見上げて呟いた。

 

「なに……あれ……」

 

 聖天使の『言霊』は作用している。間違いなく効力を発揮している。だが戦闘神父に奇襲の為の盾にされた際に腰が抜けて、立ち上がることすらできなくなっていた。

 これでは逃げられない。

 だがそんなことよりも、極一般的で平凡な少女である景には、自身の目に映る全てが信じられないもので。今に降りかかりそうな災害を前に、無力な子羊のように縮こまるしかなかった。

 天使様に変身した綺麗な人と、神父のコスプレをしている美形の青年が、目にも留まらない超高速でアクション映画のワンシーンのように殴り合う様も。東京の高層ビル群を薙ぎ払い、ガラスやコンクリートの破片を撒き散らしながら進撃する悪魔の軍勢も。全てが全て現実のものとは思えない。目の前の光景を現実のものだと受け入れきれなかった少女は、乾いた笑みを浮かべた。

 

「あ……はは……ゆ、夢、だよね……?」

 

 そう、夢だ。夢に決まっている。だってこんなの、絶対にありえない。

 自らに言い聞かせる自己暗示の言葉は、無力であるが故に自身の心を守る為の自己防衛だった。

 だが健気な自己防衛は意味を為さない。景の真上を一体の悪魔が通り過ぎた直後、その悪魔が破壊したビルの大きな破片が頭上に落ちてきたのだ。

 人間一人、容易に押し潰して余りある瓦礫。それを見上げた景の目には理解の光は宿されておらず、少女は成す術もなく押し潰されて肉片と化す結末を迎えようとしていた。

 

 しかしその小さな悲劇は阻まれる。

 

 突如として瓦礫を打ち砕き、凄惨な死から助け出してくれたのは、見ず知らずの他人だった。

 ダークブラウンの髪を短く切り揃えた、藍色の瞳のシスターである。

 身動きのしやすいように改造された修道服に身を包んだ西洋人の美女は、両手に握り締めた厳ついトンファーを振り抜いて、心配そうな眼差しで景を見下ろしていた。

 

『――無事ですか、迷える人』

「……えっ、あ、ぁ……」

『無事なようですね。イーサン、彼女を安全なところへ避難させろ』

『了解。すぐ行って戻ってくるんで、それまでヘマしないでくださいよ、副長殿』

『減らず口を叩く暇があるのか? さっさと行け!』

 

 流暢な英語。日本語ではない。故に夢見心地は覚めなかった。景は英語が苦手なのだ。

 夢の中にいるとしても、危ないところを助けられたのならお礼を言うべきなのかもしれない。漠然とした心境のままシスターに対して感謝の言葉を伝えようとした景は、根っからの善人だった。

 だが気がつくと景のすぐ後ろに神父が立っている。そして有無を言わさず神父の肩に担がれ、景は目を白黒させてしまった。やはり急展開の連続について行けていないのだ。

 

『総員傾注!』

 

 シスターはこれ以上一般人に時間を割く気はないらしい。トンファーを装備したシスターを中心に集結した、カソック姿の男達の集団に向けて号令を発したのである。

 景を肩に担いで走り出した神父は、瞬く間にバイクの最高速に等しい速さに達し、悲鳴を上げる少女を無視して疾走していく。余りの恐怖に意識を薄れさせ、失神してしまった景はこうして退場させられたのだが、彼女がいなくなるのを見届けることはない。

 シスターは覇気の充実した声音で大喝した。

 

『これより無法を働く悪魔共を一掃する! サーチ・アンド・デストロイだ! 私はフィフキエル様の援護に向かうが、貴様らは二人一組(ツーマンセル)を崩さず敵に当たれ、いいな!?』

 

 了解ッ! と唱和される。東京の一角を破壊し尽くさんとする悪魔の群れを掃討せんと、急行した【教団】の精鋭部隊総勢32名が散開する。

 たかが人間如きと悪魔は嘲るだろう。だが天使フィフキエルの加護に与る精鋭部隊こそが嘲るのだ。下級悪魔にも満たぬ雑魚ばかり、駆逐するのになんの苦労があろうかと。

 連携も何もなく無作為に破壊を撒き散らし、火の手を放つ不浄の悪魔共を狩る為、神父達は光の刃を形成する筒と拳銃を手に交戦状態に移行する。それを尻目にシスターは、探し求めていた敬愛する主のお傍に馳せ参じようと疾走した。そして言うのだ、増援に来たと。

 

 主の危機を救う。優れた下僕(しもべ)としてこれほどの幸福があろうか。これほど存在意義を示せる場が他にあるのか。燃え上がる信仰心を胸に、エーリカは崩壊していく街の中を疾駆して。

 

『――ああ、もう。こうも最悪のケースに行き当たるなんて、本当に嫌になるわ』

 

 しかし、忠実な信徒であるシスターことエーリカ・シモンズの行く手を阻む者が現れた。

 わざわざ通せんぼをするような行儀の良さはない。わざわざ語り掛ける愚かさもない。当たり前のようにエーリカの横合いから白い影が突進し、彼女が驚異的な反応速度で固めたガードごと、強引に撥ね飛ばした怪物がいた。

 それは毛むくじゃらの、白い犬だった。ポピュラーな悪魔の群れに匹敵する体躯の大きな犬。大量のヨダレを地面に垂らし、アスファルトを溶かした白犬から女の声が発されている。

 

 交差したトンファーで白犬の頭突きを防いだエーリカは、軽やかに着地しつつも冷淡に悪魔を睨む。

 

『どうして【教団】の犬がこんな時に、こんな所へ現れるのかしらね。お蔭で段取りが狂いそうよ。だから……お願いよ、ボーニャ。さっさとその女を殺してちょうだい』

『分かッタ! 分かッタ! ボーニャ、アガーシャの言うコト、聞く!』

『………』

 

 エーリカはこめかみを痙攣させる。

 本来の隊長であるゴスペルが本部に召集されている今、なし崩しとはいえ己こそが天使フィフキエルの随一の下僕であるのだ。であるのに、満足に役目も果たせないとあっては信徒の名折れ。行く手に立ちはだかる白犬の悪魔を無機質に見据えて、敬虔な戦闘シスターはトンファーを重ね硬質な音を響かせた。

 

『おぉ……フィフキエル様。愚かな私に試練をお与えになるのですね? 眼前の汚物をただちに便器へ流せと……ッ! であれば今少しの猶予をお与えくださいッ! 今すぐに片付けて、御身のお傍に駆けつけましょう!』

 

 エーリカにとって、悪魔とは対等な敵ではない。存在そのものが許容不能な汚物でしかなかった。

 

 故に殺意はなく、敵意もなく、純粋な信仰のみで殺害できる。

 

 言葉通りの汚物を前にしたかのように、心底からの嫌悪を隠さず表に出したエーリカは、狂信に突き動かされるまま白犬へと襲い掛かった――

 

 

 

 

 

 

 

 




申し訳ない。本当はあと五千字ぐらい書いて一区切りつけるはずだったんですが、体調不良につき一旦区切らせてもらいました。


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26,TOKYO危機 (下)

お待たせしました。


 

 

 

 

 

 東京都のシンボルとも言える東京タワーが圧し折れる。

 

 白犬の姿をした悪魔が、口内に溜めた爆炎を圧縮して吐き出し、熱線(レーザー)と化した炎で鉄筋を半ばから溶解させたのだ。果たして自重を支えきれなくなったタワーが音を立て崩壊してしまう。

 東京タワーの重量は約3600トン。単純に考えてもその半分もの質量が倒壊したとなれば、周囲の被害は計り知れないものとなる。だがそれを成した白犬ボーニャには、悪魔らしい破壊行為への愉悦を覚えた様子はない。自らの破壊行為になんら関心を示さず、踏みしめた地面に亀裂を刻むほどの脚力で跳躍し、空中にいた獲物に向けて全力での突撃を敢行していた。

 

「オォォゥッ、ラァァァ――ッ!」

 

 ミチミチと音が鳴るのはトンファーの柄。桁外れの握力が生む異音だ。

 改造修道服の裾をはためかせ、虚空を蹴って熱線を回避したエーリカ・シモンズが、ミサイルも斯くやといった白犬の頭突きに対してトンファーを叩きつけた。

 衝突した打撃点を中心に凄まじい衝撃波が発生する。

 周囲の高層ビルの窓ガラスが全て砕け散るほどの破壊力に、猛々しい気合を口腔から迸らせていた戦闘シスターが顔をしかめる。白犬ボーニャが額から青い血を噴出し地に落ちるのを見届けることなく、更に足場のない虚空を蹴って体勢を整えた後、悪し様に毒吐いた。

 

「便器にしがみつく頑固な汚れめ。一撃で洗い流されていればいいものをッ」

『……下品だわ。【教団】の品性は絶望的ね』

 

 着地した白犬ボーニャの口から響く女の嫌味などエーリカには聞こえない。聞く気がない。一分一秒の遅れが彼女にとっては許し難い屈辱なのだ。元より糞の塊でしかない悪魔やその信仰者の言葉を認識するつもりもない。一点の曇りなき信仰に生きるエーリカにとって、無知ゆえに無神論者であるならともかく、悪魔に魂を売った輩など須らく死ねばいいと思っている。

 地獄の責め苦を負うのが相応の罪人の言葉や個性など、記憶するだけ無駄でしかないというのが猛き信仰の女の志操だ。故に人工的であろうが天然物であろうが、悪魔など消し去るべき汚物でしかないのである。そしてそうであるからこそ、適切に戦術的判断も下せた。

 

「無知な人々の営みの為に。何よりフィフキエル様の御為(おんため)に。私は貴様ら如きに手間取っていられんのだ、速攻で片をつけてくれるッ」

 

 空中に立つエーリカが漲らせたのは膨大な天力。素の力だけで強大な実力を有する【教団】の英雄、ゴスペル・マザーラントとは異なり、副長であるエーリカは天使フィフキエルに気に入られ、10分の1もの天力と加護を授けられた神造戦士である。

 つまり、エーリカの力の源泉は天使フィフキエルであり、誰よりもフィフキエルに尽くす忠実な下僕であるということ。個人的に(・・・・)フィフキエルを至高の存在と信じて疑わないエーリカは、傲慢なフィフキエルの心の琴線に触れて仕方なかったのである。

 だからこそ贔屓された。他の隊員の誰よりも愛された。そしてそうである故に、【下界保護官】直属の精鋭部隊【天罰】にて、若くして副長の座を与えられているのだ。

 

「私はエーリカ・シモンズ! 下界を保護してくださる慈悲深き御方、フィフキエル様より【浄化の追っ手】の号を授かりし使徒である! 糞の掃き溜めを住処とする蛆虫め、本来なら貴様などには拝む資格もない、至尊の光で照らしてやるぞッ! 余りある栄誉に打ち震えたまま消え去るがいいッ! この蝿に集られるのが相応のウ○コ野郎めがッ!」

 

 吼えた戦闘シスターの姿が純白の光に包まれる。

 白犬ボーニャは明確な隙を見つけても動かず、魔力を漲らせて待ち受ける構えだ。空中に足場があるかの如く移動できる戦闘シスターを相手に、空を飛べない白犬が襲い掛かれば、それこそ手痛い逆撃を受けるという判断を下しているのだろう。そしてボーニャには賢者ペトレンコがバックに付いている、彼女の指示通りにしていれば間違いなどないと信頼していた。

 莫大な天力を費やし、エーリカが成したのは天与の加護。純白の光が二つに増え、四つに倍増し、八つに分かれ、十六、三十二、六十四、百二十八と激増した。

 そしてそれら全てがエーリカと同じ姿に変じる。

 空中に佇むのは全てがオリジナルと比しても遜色のない、単独からなる戦闘シスターの軍勢だ。その内の半数は倒壊していく東京タワーへ向き直り、オリジナルを含めた残り半数が二つのトンファーを重ねて構えた。まるで兵士が肩に担いだロケットランチャーのように。

 果たして音を立ててトンファーが変形し、合体するや、細身の筒の如き形状へと変化した。背中合わせになったエーリカ軍は祝詞を唱えるかの如く宣言する。

 

「『天に在りし御遣いは、天に仕える地の不浄を見下ろし嘆かれた。おお、地に満つる命よ、なにゆえ我らの庭を穢すのか。主の嘆きを受けしは我のみ、我のみが威光を遮る不徳を濯げるのだ。忌まわしき穢れよ、悍しき汚点よ、我はどこまでも清浄なるを求め、あらゆる不徳を糾し主の庭を浄化する』――洗浄せよッ! 清め払えッ! これが私のォ! 授かりし力ァッ! 【天浄】!」

 

 放たれるは光の魔弾。主たるフィフキエルの性質を宿すそれは、対象となるモノを不浄と断定し、あらゆる障害を貫通して対象を消滅させる。浄化とは名ばかりの消滅の天罰、それが本質だ。

 果たして半数の魔弾は東京タワーの上半分が消え去るまで虚空を奔る。その様は、さながら与えられた餌を貪る飢えた犬。斯くして東京に甚大な傷跡を刻みかねなかった、東京タワーの倒壊は防がれて。残り半数の魔弾に狙われた白犬ボーニャもまた同様の末路を――

 

『お生憎様。私達は対天使戦闘を想定していたのよ。そしてボーニャは岩戸さんが造り、私が改造したカウンター装置。徹底したハラスメント行為に特化した人造悪魔なの。肉弾戦、魔術戦、どちらにも対応している現状の傑作個体。容易く始末できると思わないことね』

『舐めるナ、舐めるナ!』

 

 ――辿らない。

 防御すらせずに全ての魔弾を受け止めたボーニャは、浄化の光に灼かれながら嘲笑う。

 喰らったのだ。エーリカの放った光輝の魔弾、その天力を。間髪空けずに後ろ足で立ち上がった白犬が大口をあけ、吸収した天力を全て魔力に変換するや否や口腔に爆炎を発生させた。

 

「なんだとッ!?」

『死ネ、死ネ! 死んデ俺の餌になレ、人間ッ!』

 

 白い悪魔ボーニャの口内に装填された炎が黒く染まる。圧縮された炎は、先程のものとは比較にもならない破滅的な魔力の波動を発していた。空間が歪むほどの膨大な魔力に光に目を見開いたエーリカは、咄嗟に虚空を蹴って退避行動に移り――そして。東京都港区を地獄の様相へと転じさせる熱線が放たれ、破壊の光として辺り一帯を容赦なく蹂躙して――不意にペトレンコが叫ぶ。

 

『……ロイっ!? ボーニャ、北の方角!』

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 東京都港区の中心で、二つの人影が演じる死闘も佳境に入っていた。

 

「シッ!」

「ッ……!」

 

 踏み込みは迅雷の如く。打ち出される拳は土砂の滑落。地面から水平に降り注ぐ雨のように、鉄拳が視界を埋め尽くす弾幕となる。どの一打を取っても必殺の威を孕み、決死の力を宿していた。

 当たれば大地を穿ち、巨峰を抉り、城壁を崩す絶死の拳撃。音を置き去りにする驚異の拳速は、掠めただけで並大抵のものは崩壊するだろう。それは断じて力任せのラッシュではない、技術の粋を集めた怒涛の連撃だ。だというのにそれを悉く捌く麗人は何者なのか。

 黒手袋を嵌めた両手が神父の拳の脇に添え、逸らし。踏み込んで距離を詰められるや僅かに退き、望む間合いを維持し。あるいは逆に踏み込んだと思えば神父の肘に触れ関節を極めようと試み。弾かれるや深追いせず後退、途切れず続くラッシュを正確に捌く。

 

 ――交わされる攻防で夥しい衝撃波が生じ、周辺に台風の如き風圧を巻き起こしている。

 

 防御に専念しているとはいえ、格闘の達人を相手取れているこの麗人が、つい先程まで格闘術のイロハも知らない素人だったなどと誰が信じられるのか。

 被弾はある。顔面を撃ち抜かれ、腹部を抉られ、足を踏まれ、太腿に膝蹴りを受け打撲痕を残し、肩から前腕に掛けて青痣になっていない箇所はない。鼻血を垂らし、口の端を切って血を流し、逆流した胃液で口の周りが無惨に汚れている。

 だが全てが致命打となっていない。一手交わすごとに成長――否、進化する麗人の防御技能は、異常な速度で被弾率を低下させていた。そして残像を残すほどの超高速格闘の最中、一分が経過する頃になるや麗人は反撃に打って出たではないか。

 

「ッ……!? チィッ……!」

「ヤハッ。ヤッハハ。ヤァハハハ――!」

 

 拳撃の応酬は常人の動体視力では何一つ見て取れまい。神父の被弾は未だに零。しかしその満面に浮かぶ汗と、苦い表情が内心を如実に物語っている。

 血塗れになりながらも凄惨な笑みを浮かべる麗人とは、まさに対象的な様子だ。

 哄笑する麗人の拳は黒手袋に覆われている。伊達や酔狂で手袋をしたのではない、麗人の有する【浄化】の属性が物質として形成された物であり、神父の魔力を中和して無害化させているのだ。

 故に競われるのは純然たる力と技、速さと思考。一方的に降り注ぐだけだった水平の雨に、鏡合わせのような弾幕が重ねられる。拳と拳が幾度も激突を繰り返し、ソニックブームを発生させ、見えない衝撃が大音響と共にアスファルトの地面を割っていく。

 麗人の技は完璧に神父の技をトレースし、同一人物同士の撃ち合いに等しくなった。だが拮抗したのは僅かに数秒、徐々に、徐々に、麗人の体捌きが洗練され、より高度な次元へと進化する。

 

「がっ……!?」

 

 そして遂に麗人の拳撃が、はじめて神父の顔面にクリーンヒットした。

 浮かべていた汗が散り、鼻血を吹き出し、前歯が半ばから圧し折られ、顔をのけぞらせ。明確な隙を逃さず踏み込んだ麗人が、哄笑したまま次々と神父の上半身に砲弾のような拳を叩き込む。

 のけぞらせた瞬間に、腹部に肝臓撃(レバーブロー)を食らわせて体を畳ませ。下がった頭を両手で抱いて顔面に膝蹴りを叩き込み、咄嗟に片手を滑り込ませて膝蹴りをガードされるや後頭部に肘を落とし。不自然な挙動で瞬時に着地するや右フックで脇腹を抉り、反撃の為に繰り出された拳打に掌を添えて流し様、神父の手首を掴んで捻じり上げ、身を捩って抵抗してしまった神父の下顎を、一歩下がった麗人のハイキックが打ち砕く。――丁寧に人体を破壊する残酷な私刑、情け容赦なく繰り返される追撃と追撃。この時、彼我の実力差は完全に逆転していた。

 

「そぉら、ボーナスタイムだ。右の頬を殴られたら反対の頬も差し出しなさいよォ――ッ!」

 

 報復の時は来た。因果応報、神父はこれまでに麗人に見舞った打撃の全てを返される。全く同じ威力で、全く同じ箇所に、全く同じ手順で拳打の雨が叩き込まれていく。

 朦朧とした意識のまま、サンドバッグにされる神父は、薄れゆく視界の中で残酷に嗤う麗人を見た。

 まさに天災。災害に等しい才気の塊。ほんの僅かな交戦で、異常なほど進化し、挙げ句の果てには神父の技術を吸収した末に高度なものへと進歩させたのだ。敵わない、こんな化け物に人間が敵うわけがない。神父は思い知る、救世主の再来の脅威を。

 

 だが。

 

(――十秒(・・)だ)

 

 意識が完全に途絶える寸前、裏切り者の神父ロイ・アダムスはそう思う。

 

(十秒でいい。エヒムが私を凌駕したのが七秒前。だから十秒で――)

 

 全身の骨という骨が砕かれる、内臓という内臓が破壊されていく。心臓や脳が破壊されないのは、それをすると報復する前にロイが死ぬと思われているからか。事実だが、いい。

 エヒムはやはり、【傲り高ぶる愚考】フィフキエルの後継だ。殺せる時にロイを殺さないのが良い証拠である。その傲慢な復讐心こそが、唯一の付け入る隙だった。

 

 やがて報復が終わりを迎える。受けたダメージの全てをロイの全身へ均等に配ったエヒムが、これで最後だとばかりに見せた、ほんの微かな――刹那の間にも満たない僅かな意識の弛み。

 

(ここだ――ッ!)

 

 エヒムの意識の弛みは、既にロイは指一本動かせないと見切っているが故の判断に起因する。

 それは正しい。しかしロイには敢えて切っていなかった手札がまだある。

 大悪魔メギニトスに授かりし加護。それこそは時間系(・・・)魔術だ。

 

【全遡行・対象・エヒム】【限定遡行・対象・ロイ】

 

 行使される強大な魔術に、ロイの魔力の九割が削がれる。心身を削り、神経を刺激される激痛がロイの総身を舐め上げ、知らず絶叫していた。

 瞬間。エヒムを見えない檻が囲む。ロイを透明な檻が囚える。瞠目したエヒムに、ロイは薄く笑いながら離別を告げた。

 

「さよ、ならだ……またすぐ、会おう」

「………」

 

 瞬間、エヒムの周りの時間が巻き戻る(・・・・・・・)。ロイもだ。

 この時に起こった理不尽な現象を正確に把握していたのは術者のみ。ロイはエヒムの時間を十秒巻き戻して、その身が蓄積した記憶や経験を十秒前のそれへと回帰させたのである。

 エヒムからしてみれば、突然十秒後の未来に放り出されたようなもの。そしてロイは、自身の肉体だけを限定的に巻き戻した為、十秒前の無傷の状態に置き換えられている。

 ――この一瞬こそがロイの賭けた唯一の勝機。

 現在と過去を置換させることで生じる、認識の空白期間。現状を把握される前に動き、一気に決着をつける。果たしてエヒムは目を白黒させていた。ここにいるのは十秒前のエヒムだからだ、自身に猛攻を仕掛けるロイの拳打を捌き切る為に防御姿勢のままである。

 

 これで決める。魔術を行使する為の時間を稼ぐ攻防は終えた。

 ここから先は、本当の意味で全ての力を投入した決戦だ。

 

【時間加速・対象・ロイ】

 

「ウッ、ォォォ――ッ、ウオオオオオ――!」

「なっ……!?」

 

 雄叫びを上げたロイの時間だけが加速する。一秒を十秒に、十秒を百秒に。時間の流れを切り刻みながら突貫したロイは、正常な時間軸に身を置くエヒムへ、渾身の拳打を力と魔力が続く限り叩き込み続ける。痛みに反応するまでの動作すら止まって見えた。ロイは魔力を枯渇させ、さらなる魔力を捻出する為に己の血肉を削りながら、血反吐を吐きつつ天使が死ぬまで攻撃した。

 

「ハァッ……はぁ、ハぁ……はァ……ハ……ァ……」

 

 仕留めた。

 完全に殺した。

 頭部を粉砕し、心臓も、それ以外の臓器も破裂させ、残骸を手刀で割いた腹から引きずり出した。

 最後に殴り飛ばし、吹き飛んだエヒムを見届け、魔術【時間操作】を解除したロイは、全身を自傷による鮮血で濡らしたまま息を切らす。気を抜けばそのまま倒れ、死んでしまいそうになりながらも、ロイは確かな勝利に酔いしれた。

 

「は……ははは……」

 

 殺せた。あの、化け物を。人間である自分が……上位者である救世主の再来を殺したのだ。

 乾いた笑いの理由は、失意(・・)にあった。

 ロイは泣きそうな顔で呟く。

 

「……私程度に殺されるとは。これは、買い被りだったかな」

そうか(・・・)? ご期待(・・・)に沿え(・・・)ず申(・・)し訳な(・・・)いな(・・)

「――――」

 

 聞こえるはずのない、声が、した。

 背後から。

 後ろに振り向いたロイの首を、黒手袋に覆われた手が掴み上げる。ロイの足が地面から浮いた。

 ロイを片手で持ち上げたのは、エヒム。麗しき無性の化け物。

 驚愕の余り瞠目したロイは、その人外の美貌を阿呆のように見詰めた。

 

「ガッ……ば、馬鹿、な……お前は、今……」

「さよならって言われたし、久しぶり(・・・・)って返そうか? ちょっと驚いたよ。大した魔術だ。大掛かりな陣も、詠唱もなく、俺に通用する規模の魔術を出してきたのには感心した」

「………」

「代償はなんだ? 死の寸前まで痛めつけられるのを条件に設定し、自らの死と引き換えに俺を殺す、といったところかな。未来の自分と契約するパラドックス的な変則契約は、時間系魔術の使い手だけが成し得る裏技らしいが……それが成立しなかったからお前が死なずに済んでいるわけだから、ある意味俺は命の恩人になるか。……ああ、安心しろ。その()はすぐ返してもらう」

「ど……やっ……て」

「ん?」

「どう、やって……?」

「どうやって? フン……」

 

 どうやって、凌いだ。エヒムは絶対に死んだはずだ。絶対に殺したはずだ。自身の手に残る手応えがその事実を訴えている。

 故に心の底から疑問だった。どうやって、あの覆せないはずの結末から抜け出したのだ。

 掠れた声で、なんとか問いを投げるロイに、エヒムは嗜虐心を滲ませた笑みを湛える。

 

「お前がメギニトスの使徒で、時間系魔術を使うのには勘付いていた。なのに正面から使ってこない時点で気楽に連発できるものじゃないと判断し、最後の最後に使う切り札だろうと想定した」

「………」

「時間を操るならどうするのが効果的か数パターン計算し、どのパターンでも俺が殺されるだろうと想像がついた。だから(・・・)躱した(・・・)。俺の能力はな、制御し易くする為に言葉にしているだけで、別に言葉にしないと使えないわけじゃないんだ。後は簡単だな? 魔術の気配を感じた瞬間、お前の目の前に俺の分身を置いて、本体の俺はお前の後ろに転移したわけだ」

 

 つまり。

 

 ロイが切り札を行使した瞬間に、エヒムもまた能力を行使したということ。結論だけを言えばそれだけだ。だがそれをあの一瞬で、ロイに気づかれない次元で成し遂げたというのか。

 口角が歪む。力尽きた故に笑い声一つ漏れてこない。

 辺りには破壊の騒音が響いている。悪魔の群れと人間の部隊が交戦し、夥しい火球が飛び交い、天使の加護を受けている超人達が悪魔を次々と仕留め、掃討していっていた。

 ロイはエヒムに笑いかける。

 

「殺……せ……」

「もちろんだ。約束通り、楽には死ねなかっただろう?」

 

 あっさりと言って、エヒムは躊躇う素振りすらなく、掴んでいたロイの首に力を込める。

 意識が白濁する。ゆっくりと絞め殺していく様はやはり化け物のそれで。慈悲深く一思いに死なせてくれないのは、化け物らしい残酷さだったが。同時に化け物らしからぬエゴの強さもある。

 ロイはそれだけを確信し、穏やかに微笑んだ。悔いはない、役目は果たせたから。懸念もない、この化け物がただの化け物ではないと理解したから。

 そうして死の闇にロイの意識が溶ける寸前。

 

「ん?」

 

 ピカッ、と何処かから強烈な閃光が迸り。

 横薙に振るわれた魔力による黒い熱線が、ロイの首を掴むエヒムの腕を切り落とそうと迫る。

 だが理外の反射神経を見せたエヒムが、熱線に反対の手を翳して容易く受け止めた。

 

「お約束みたいに逃がすわけないじゃないか」

 

 そう言って、グギッ、とロイの首を握り締めて粉砕した。絶命したロイの遺体を受け止めていた熱線に翳して蒸発させると、どこかから悔しげに歯を食いしばる気配を感じる。

 熱線が消える。ロイが存在した痕跡が消え去ると、エヒムは辺りをぐるりと見渡した。

 炎の海に沈む東京都港区を見て、エヒムは嘆息する。死者0人とはいかなさそうだなと嘆いて。

 

「『消えろ』」

 

 言霊を用いて、とりあえず街を嘗める火の手だけは消し去った。

 元通りの町並みに戻したいところだったが、生憎とそれをするには天力が足りない。今は応急処置的な手しか打てないのが残念だ。

 

「さぁて……お次の面倒事は」

 

 エヒムは自身の負ったダメージを消し、衣服も修復し、汚れを無かったものとする。手を翳して脱ぎ捨てていた上着を引き寄せると袖を通し、そうして辺りに被害を出しながらも悪魔の群れを掃討した人間達が、こちらに向かってくるのを見て額を抑えた。

 

「……【教団】か。見た顔もある。どうしたもんかな、これは」

 

 一応は味方として来てくれたのだろうとは思う。だからこそ対応に困るわけだ。

 彼らがいなければ東京の被害は更に拡大していただろうし、人造悪魔がこちらに来ていればどうなっていたかも分からない。剣呑な姿勢で相対するのにはどうにも躊躇いを覚える。

 

 まあいいかとエヒムは割り切った。事ここに至ればやむを得まい、場当たり的にいこう、と。

 

 ――こうして、唐突に迎えた東京の危機にはひとまずの区切りがついた。

 

 隠し通せない大規模な破壊の痕跡を残して。

 

 

 

 

 

 




おもしろい、つづきがきになるとおもっていただけたなら、かんそうひょうかよろしくおねがいします。


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27,曼荼羅の狂人ども

お待たせ()


 

 

 

 

 

『――以上、現場からの中継でした』

 

『正直に申し上げましょう。私も視聴者の皆様と同じ気持ちです。信じ難いですが、たった今ご覧頂いた映像と、現場からの中継でお送りした被害状況の一部始終はノンフィクションです。繰り返します、先程のものは一切がノンフィクションです。当局が放送いたしました映像には、全く加工や修正など施されておりません。あるがままを皆様にお送りさせていただきました』

 

『本日午後1時頃、東京都港区にある六本木交差点北で、港区を壊滅状態に陥らせる未曾有のテロ事件が発生しました。一般の方が撮影された映像もネット上に拡散しているようで、多くの人が同様の出来事を目撃していたようです。東京タワーは上半分が消滅、港区西から北に掛けて3階以上の高さの物が切断され、倒壊して地面に残骸の山が積み重なってます。被害総額はまだ不明ですが、とんでもない事態なのは確かでしょう』

 

『死傷者の数もはっきりしていませんね。少なくとも1000人以上の方が重軽傷を負い、100人以上の方がお亡くなりになっている……これは、なんと言えばいいのでしょう。ほんとうに現実に起こった事件、いや事故……? 失礼しました、仮にこれを事件と称しますが、この事件は本当に現実で起こったものなのでしょうか?』

 

『いやぁ……流石にこれはナイでしょぉ? CGとか集団幻覚か何かでしょうこれは。いくらなんでも有り得ませんって。まずあの……なに? テレビでこの発言が適当かは分かりませんが、グロテスクな黒い化け物からして有り得ませんよ』

 

『悪魔みたい、でしたね』

 

『空想上の悪魔そのものですよ。2メートルから3メートルほどの巨体、蝙蝠のような頭と翼。はっきり申し上げまして、あんなのを生き物だなんて言えないでしょうよ。だいたい生物学上の見地から見ましてもね、あんな化け物がこの世に存在するわけがない』

 

『まあ……そうですね』

 

『というかあんなにデカいのに、普通に浮いてる……いや飛んでる? うん……飛んでますね。あんな巨体で飛べる訳がない。おまけになんですかあれ。天使って奴ですか? 10代後半から20歳前半の女性が、神父のコスプレ? みたいな格好の外国人男性と殴り合っていたり、無数の悪魔と神父達が戦っていたり……アニメじゃないんですよ? あんなものが現実だって言うなら、なんで今までそれらしい目撃情報が上がってなかったんですか?』

 

『ええ。随分と手の込んだ映像ですね……嘆かわしい限りですよ。いいですか? これは明確なテロ行為です、しかも日本史上でも類を見ない規模の、直接的なテロだ! 個人的な意見ですがネットに動画をあげてる人も疑わしいもんですよ、凶悪なテロ事件を悪質極まる手法で煙に巻こうとしているんじゃないですか!?』

 

『……あのな、あんたは何を言ってるんだ? これは現実のもんでしょう。現に多くの目撃者が出てる上に、六本木交差点前は実際に被害が出てる! 道路は陥没したり罅割れてるし、付近のガラスは全滅してるんだ。CGとか集団幻覚で片付けられる問題じゃない!』

 

『だからテロか何かなんじゃないですか、って言ったじゃないですか? 集団幻覚を引き起こしつつ爆弾でも使ったんでしょう』

 

『馬鹿げてる! もっと真面目に考えたらどうなんだ?』

 

『はぁ。あなたは馬鹿げてると言いますがね、こんなものを現実のものだと思えって言うんですか? お約束の議論なんかできる余地はないでしょ』

 

『幻覚が映像に残るわけないだろう!?』

 

『だから撮影者もグルじゃないかってことですよ。映像を自前で加工でもなんでもして、それっぽくしてるだけに決まってます。現実的にものを考えれば誰だってそう思いますって』

 

『撮影者に無駄な疑いを掛けるなんてどうかしてるぞ、無責任に喋ってんじゃない!』

 

『だったらどうやったら説明がつくか教えてもらいたいですねぇ。ええ? どうなんですか――』

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 バリボリと硬い煎餅を噛み砕きつつ、短髪の赤毛が目立つ美女が呑気に言った。

 

「こりゃ大変な(どえらい)ことになってんなぁ。明日にゃ世界中が注目しかねん」

 

 他人事じみた態度である。茶の間を賑わす珍事件を眺めているだけといった調子だ。

 だが他人事として流せないのは自明である。本来ならもっと深刻に受け止めて、真剣に対応するべく知恵を絞るべき案件だろう。しかし女神アグラカトラにはまるで危機感がなかった。

 むしろ気のない台詞とは裏腹に、その目はキラキラと輝いていて、楽しいイベントを前にした子供のような無邪気さを醸し出している。それを見咎めた訳ではないだろう、逆に同調するかのように翁が歯を剥いて笑った。まるで悪鬼のような笑みだ。

 

「ヒヒ……おいおいどうするんだ神さんよ。情報社会の弊害って奴がもろに出てるやねぇのよ」

 

 死装束の如き白い着流しを纏い、片膝を立てて畳の間に座り込んでいる為、締めている白い褌まで露わにした老人だ。しかし老いていても精力は絶倫、丸太の如き手脚は筋肉に覆われている。

 老いてなお盛んだ。195cmの恵体は衰え知らずの筋骨により支えられ、剥げ上がった頭には側頭部に白髪がしがみついているのみ。それが却って古の侍を想起させる有様で、老人の傍らに立て掛けられている大小の刀がその印象を助長させていた。

 

「これから裏に表に大騒ぎ。切った張ったの馬鹿騒ぎよ。問題はどこまでを切り、どこまでを許容するかだ。半端でお仕舞いにはできねぇ、下手すりゃ国の一つや二つは消し飛ぶかね?」

 

 老人の名は坂之上信綱。隠居していたところをアグラカトラに勧誘されて、【曼荼羅】に招かれた豪傑である。面白いことをするから気が向けば遊んで行けとの誘い文句に乗った酔狂者だ。

 喜悦を滲ませて嘯く信綱の傍らで、背筋を伸ばして正座しているのは小柄な老婆。使い古された安物の着物を着込み、纏め上げた白い髪には簪を差して、閉ざされた双眸と深い皺が相俟り穏やかな印象を醸している。柔和な弧を描いた口元には品があり、膝の前に置かれた短刀さえなければ、猫でも可愛がって暮らしていそうな長閑さがあった。

 老婆は勅使河原誾という。信綱の昔からの知己であり、裏世界でも生き抜いてきた古人だ。であるなら当然見た目通りの老婆であるはずもなく、人のよさそうな誾は窘めるように信綱へ言った。枯れ木の如き様でありながら、見応えのある花のような声で。

 

「甘いねぇ。昔から事を軽く見るのはアンタの悪癖さ」

「あん?」

「国の一つや二つで済むもんかい。徹底的にやるのを好む連中なら、日ノ本を海底に沈めてネット環境とかいうものを人から取り上げるよ。文明の初期化が想定される中で最悪の結末さね」

 

 物騒である。だが真に迫った確信が誾の口ぶりからは感じられた。

 文明の初期化。石器時代への逆行。人という種が積み上げた歴史の積み木を蹴散らす神の所業。事が事とはいえ、たかがあれ(・・)だけのことでそこまでするかと疑うのは人の価値観だ。

 しかし、やる(・・)

 やりかねない存在を彼女達は知っている。

 人の文明になんら価値を見いださず、ただのマモ製造器としか思っていない連中なら。

 アグラカトラは相変わらず呑気に煎餅を齧っていた。バリボリ、バリボリ。咀嚼して飲み込み、熱い茶の湯で口を潤した。そうして赤毛の女神はテレビから目を逸らし、視線を天井に上げる。

 

「婆さんが言う通りの仕置きは充分有り得る。なんせ人の世界は半端に育っちまってんかんな。変に情報が拡散するのが早いんで、記憶を消したり痕跡を潰すのに手が追いつかん。こんだけの規模で馬鹿騒ぎされちまったら、いっそ消し去った方が楽っちゅう奴もおるよ」

「相変わらず始末に負えん話だ。老い先短い儂は別に構わんが、神さんはどうするつもりだ?」

「そうなぁ。あたしとしちゃ、面白けりゃなんでもええんじゃけど……」

 

 茫洋とした視線で虚空を見詰めたまま思案するアグラカトラだったが、やおら愉快犯的に呟いた。

 

「……どうせ遊ぶなら楽しまんと損よ、損。そう思うじゃろ、オマエらも」

「ヒヒ、そらそうよ。儂らはその為に神さんのとこに来てんだ。なぁ、お誾」

「一緒にしてほしくないね。ウチは傍迷惑な老害が、迷惑振り撒いてくたばる様を見届けるだけさ」

「ギャヒャヒャヒャ! 儂より性悪な糞婆め! 細かいとこ抜かしたら儂と同類よ!」

 

 バンバンと膝を叩いて呵々大笑した老骨は、愉快そうに目を細めながら女神に言った。

 

「神さんよ、揃いも揃って儂らは屑だ。己が死んだ後のことなんざどうだっていい、儂らが(・・・)楽しけりゃいいんだ。これ以上儂らの顔色なんざ窺わんでいいぞ、神さんも楽しめ」

「言われるまでもねぇな。オマエらの顔色も知らん。あたしの腹は決まってんのよ。――人間は何も知らん方が美味い、そう言うんが多い、じゃからと言って簡単に片付けさせるんも二番煎じで薄味展開よね? ここいらで一つ、(かぶ)いてみるんも面白いんかもしれんってあたしは思ってんのよ」

 

 人は愚かである方が楽しい。無知である方が美味い。それは真理だ。神の一角としてアグラカトラも否定できない真実である。だがしかし、アグラカトラは愉快犯的な面が強い神格だった。

 マモの味とは無垢の味、無知の味とは罪の味。どれだけ貪っても味は落ちないが、それはそれとして過去何度かあった文明の初期化もつまらない。どのみちマモを大量に欲する欲はなく、さりとて少量の質に拘る性分でもないのだ。ならばこの時代、この世界の節目で遊ぶのが吉だと言える。――言えてしまえるのが【曼荼羅】の面々であり、【曼荼羅】の主神アグラカトラなのである。

 

 赤毛の女神は退屈しない明るい前途を想って笑みを溢しつつ、事の元凶に関わっている存在に思いを馳せた。

 

「そういやぁ爺、それと婆。うちの新顔とはもう会った?」

「新顔?」

「お誾も知ってるはずやが。中身人間のオモシロ天使のことだぞ」

「中身が人間だって? 話には聞いてたが……あれはマジなんかい? けったくそわるい笑い話として聞き流してたんだがねぇ」

「何が『気分が悪い(けったくそわるい)』んだか。儂以上にツボっとったのはバレてるぞ」

 

 呆れる信綱に、誾は都合の悪いことは聞こえないふりをしつつアグラカトラに問いを投げた。

 

「主神殿。其奴(そやつ)の名は? 今どこで何をしておる?」

「名ぁはエヒムよ。今どこにいるんかは……」

 

 室内であるにも関わらず、遠くを眺めるように片手を額の上に翳したアグラカトラは、話題の人物の居所を視認して破顔した。ほんとうに退屈させん奴やんなぁと、心底楽しそうに。

 

「――おいおい。【教団】の手勢を率いて、埼玉にあったらしい【曙光】の拠点に殴り込んどるぞ」

 

 アグラカトラの台詞を聞いて、一瞬押し黙った爺と婆は顔を見合わせた。

 

 それからすぐに声を上げて爆笑する。

 

 奇人変人の巣窟【曼荼羅】で、最古参二人の狂人に大層気に入られてしまったとは、さしものエヒムも想像だにしていないだろう。

 アグラカトラとしては数少ない仲間と、共に笑っていけそうで大変結構なことだと思う。無論その笑顔の裏に邪念は微塵もない。面倒臭い性質のモノを好む女神は馬鹿騒ぎが大好物だから。

 赤毛の女神はワクワクとしながら、遠く離れたシニヤス荘の一室で、推しの天使の活躍を観戦する。爺と婆がうるさいから、実況などもしてやろう。

 

「さあ始まりました、エヒム選手の渾身のキックで……プレイボールです!」

 

 

 

 

 

 

 



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28,サイタマ危機 (上)

お待たせしました。


 

 

 

 

 

 戦闘モードとして運用していた、便宜上【天使化】と名付けた形態。

 この形態になると息をするだけで微弱に天力を消耗していたから、戦闘を終えると元の黒髪黒目に戻るのがベターである。しかし、どうやら【天使化】が体に馴染んだらしい。戦闘モードを解かずにいても、天力の消費がなくなったので解除する必要性を感じなかった。

 これから【教団】の人間と対面することになるのだし、天使フィフキエルと同一視されていることは分かっているが、面倒事を回避する為にも無用な差異を露わにする意味はないだろう。特に負担もないから金髪銀眼の状態を維持することを選択した。

 

「フィフキエル様!」

 

 瓦礫の山が積み上がる東京の街。いの一番に駆けつけてきたのはフィフキエルのお気に入りである戦闘シスター、エーリカ・シモンズだった。残りも少し遅れて集結してきている。

 ザッと見たところ悪魔の群れを駆逐していながら欠員は零。ロイ・アダムスほどの手練はいないが、平均的な戦力数値は人造悪魔を問題にしないレベルだろう。彼ら全員の力の根源はフィフキエルの加護、つまりは今も俺が継続している天力の付与である。彼らに与えた加護を取り上げたなら、俺のカタログスペックは大幅に上がるはずだ。

 つまり【天罰】の基本性能は俺ありきということ。俺が加護を取り上げたなら、なんら脅威にはなりえない。そんな確信があるからエーリカ達を迎え入れるのに不安を感じることはなかった。

 

 どう対処したものかと頭を悩ませつつ、眼前で跪いた33名を見据える。部隊員の多くは神父で、修道女はエーリカを含めてたったの3名だ。当たり前だが日本人は一人もいない。

 コイツらに気を遣う必要はないなと判断する。どうせ何もかもが『遅かれ早かれ』という奴で、変に都合よく誤魔化そうとしてもどこかでボロを出すだろう。最低限度だけ話を合わせてやり、後は思う通りに振る舞うことにした。

 

「皆様、よく来てくれました。貴方達の尽力のお蔭で被害は最小限に留まったと言えるでしょう。要請もしていないのに来援してくださったこと、心より感謝します」

「っ……! お、お褒めいただき歓喜の極み! しかしフィフキエル様にそうまで遜られては身の置きどころがありません……! どうか頭を上げてください!」

 

 頭を下げて礼を言うと、慌てたようにエーリカが懇願してくる。

 東京在住の身として礼を言っただけなんだが、話を詰まらせるつもりは俺にもない。頭を上げて部隊員の顔を見渡した。軽く労っただけで感極まったように目を潤ませる連中ばかりだが、一人だけ特に恐縮した様子もなく顔を伏せた修道女がいるのを発見する。

 クリームみたいに明るい髪色だ。被った黒いヴェールで髪の長さは隠され、碧く鋭利な双眸を黒縁の地味な眼鏡で覆っている。名前は確か、クリスティアナ・ローゼンクロイツだったか。

 薔薇十字団の創設者の子孫らしい。表の世界だと空想上の人物とされていたが、彼女の祖先は実在していたようだ。独自に保有する技能として錬金術があるようで、頭のキレもよく【天罰】の作戦行動は主にローゼンクロイツが立案してきたようだ。

 

「それで貴方達はなぜここに? 来援は助かりましたが、少しタイミングが良すぎますよね?」

 

 実際問題、俺視点だと図ったようなタイミングだ。事実として助かりはしたが、なぜこのタイミングで来たのかは聞いておきたい。俺が質問をするとエーリカが率直に答えた。

 

「は。フィフキエル様が我らの許を離れ単独行動を始められた折りに、本部から我らへ指令が下されたのです。曰く、極東にて悪魔の人工的な製造を企てる【曙光】の邪気あり、早急にフィフキエル様と合流し、悪魔信仰者どもの企みを叩き潰せ――と。マザーラント隊長は本部に呼び出された故、私が隊長代理として指揮を執り急行した次第。これにあるローゼンクロイツが、東京に行けば必ずフィフキエル様と合流できると断定したので……」

「なるほど?」

 

 経緯は分かった。だがなぜ東京に行けば俺がいると判断できた? ローゼンクロイツをちらりと見るが、能面のような無表情を崩すことなく俯いている。フィフキエルの知識を参照しても、お気に入りやゴスペル以外はほとんど記憶しておらず、ただの下僕の一人としてしか認識していなかったのが分かるだけで、ローゼンクロイツの人となりは把握できなかった。

 とりあえず知りたいことは知れた。後は向こうの誤解を解いて……いや、俺がフィフキエルじゃないと説明したらどんなリアクションが返ってくる? よくて激高され、悪ければ殺しに掛かられるかもしれない。負ける気はしないが一応は恩を受けたのだし、無駄な争いを起こすのは避けたいが、では帰らせるのかというとそれも避けたい。俺が東京にいるという確定情報を持ち帰られてしまえば、それこそ俺に不都合な事態を招くことになるのは明白だからだ。

 

(面倒臭いな。いっそ恩を踏み倒してしまおうか)

 

 人間如きの為になぜ俺が頭を悩ませないといけない? 知恵を絞るのが億劫に感じ始めた時、不穏で傲慢な思考が脳裏に奔る。俺はそれに対して特に違和感を覚えることはなかった。

 腹の底にゾッとするほど冷たい殺意が芽生え、極寒の眼差しで跪く者達を見下ろす。幸いにも周囲に人影はない。街中ゆえに無数にある監視カメラも破損しているものばかりで、機能しているものからもここは死角になっていると知覚していた。目撃者は出ないだろう。

 殺してしまおうか、と思ったのではない。召して(・・・)やろうかという思惟が芽生えたのだ。

 人間は須らく死後は天国に逝くのを望む、それを叶えて天国に召してやろうというのだ。むしろ感謝されて然るべきで、なんて慈悲深いのだと自己陶酔に近い志操が脳を満たしていく。なんとも心地のいい独善は――しかし、ローゼンクロイツの発言で途絶えた。

 

「フィフキエル様、発言をお許しください」

「……なんですか?」

「先程、フィフキエル様はロイ・アダムスを手ずから討ち取っておられましたが、我らが来援するよりも前に負傷しておられたのではないですか?」

「……ええ。それが?」

「ご不快に感じられましたら申し訳ありません。ご存知の通り私は『過去視(・・・)』の異能を有しております。フィフキエル様ほどの御方の歴史は一時間も辿れはしませんが、それでも視えるものもあります。フィフキエル様は白い犬のような悪魔に、左腕を奪われておいでだ。これについてどうなさるのか、フィフキエル様のご意思をご教示ください」

 

 ローゼンクロイツの平坦な眼差しには、確かな怒りの火が灯っていた。

 彼女の言を受けてエーリカをはじめとする部隊員達が一気に殺気立つ。立ち上がったエーリカが憤怒を滲ませ、ローゼンクロイツを見下ろし怒鳴りつけるようにして詰問した。

 

「ローゼンクロイツ! 貴様、それは本当か!? だとすれば由々しき事態だぞ!? なぜ貴様は先程私を止めた? あの腐れう○こ野郎をブチ殺してやろうとしたこの私を! フィフキエル様に仇をなした汚物を逃がせとは、一体どんな了見があってほざいたッ! 度し難い不敬だ……ローゼンクロイツ、事と次第によってはフィフキエル様に代わり粛清してやるぞ!」

「……落ち着いてください、隊長代理。全てはフィフキエル様が決定なさるのです」

 

『過去視』か。ああ……そういえばローゼンクロイツにはそんな異能があったな。

 自己申告されるまで思い出しもしなかったが、確かに彼女の一族は独自にその異能を保有している。

 ありとあらゆる物質、人の辿った歴史を視認してしまえる異能だが、それにも出力の限界があり、一般人なら百年単位で読み解けても天使などの人外には通じにくい。俺は上級天使に分類される上位者の継承個体、故にどれだけ気合を入れて過去を視ようとしても、一時間あたりが限度だろう――というのが分かる。実につまらない異能だ。

 しかしローゼンクロイツは知恵者である。なぜ左腕のことを聞いてくるのか真意を問おう。

 

「ローゼンクロイツさん。なぜそんなことを? 当然(・・)、ブチ殺すに決まっているじゃないですか」

 

 そう。ロイに報いを与えてやったのに、もう一方のクソ犬を見逃してやる道理はない。俺は絶対にあのクソ犬をこの手で縊り殺してやるつもりでいた。

 だが問い掛けてすぐに気づいた。俺は苦笑してローゼンクロイツに言う。

 

「……ああ。ローゼンクロイツさん、貴女は私がアレをこの手で殺そうとしているのを察しているんですね。だからわざと逃がし、エーリカさんに後を追わせ拠点を暴こうとしているわけだ」

 

 するとローゼンクロイツは微かに瞠目した。その反応に俺は苦笑する。なるほど、ローゼンクロイツはフィフキエルをよく見ていたらしい。

 

 あの天使はローゼンクロイツを個人として認識はしていても、下僕の一人としか見ていなかった。だからローゼンクロイツの知恵や異能にも関心がなく、折角の頭脳も活用しないフィフキエルの性格を彼女は理解していたのだ。自分がきちんと意見しないと、フィフキエルは短慮を起こすだろう、と。それを自然に諌め、コントロールしていたのがローゼンクロイツだったわけだ。

 

「ご賢察です。フィフキエル様がお望みになられるであろう通りに、道筋を整えるのが忠実な信徒としての責務。差し出がましい真似をして申し訳ありませんでした。どうか、お許しを」

「許すも何も咎めるつもりはありません。寧ろよく気を遣ってくれました。私は嬉しいですよ、ローゼンクロイツさん。だからそう畏まらないでも大丈夫です」

「……っ! 勿体なきお言葉。しかし……」

「しかし、とは?」

「……いえ、なんでもありません」

 

 何やら俺の言葉遣いが気になって仕方ないらしいと察する。気にしないでほしいと思うが、ふとなぜ俺は人間如きを相手に丁寧な言葉遣いで応じているのか気にかかる。

 なぜだ? それは自分のポリシーだからだ。ポリシーだと? 相手が誰であれ、年下だろうが後輩だろうが、親しくもない相手に気安く接するのはダサいだろう。だから俺は親しい相手以外には慇懃に対応してきたはずである。故に今回もそうしているだけだった。

 

 そうだよな、と思う。相手が人間風情でも、安易に見下しては人として下の下……人として?

 

 そこで、やっと俺は目を見開いた。人間如き、だって? 俺も人間であるはずなのに、なんでそんなことを思った? 自らの変容に気づきゾッとする。慌てて自戒した。

 

(……私の価値観や倫理観が、人間のものではなくなってきているのか? 私も元は人間だということを忘れるほど。他人の価値観に影響されるとは情けない……自戒するべきだな)

 

『言霊』で自身のマインドを変化させることは出来ない。根幹が自身の願いを叶える力である以上、本心ではこの変容を悪いものだと思えていない為、期待した通りの効力を発揮しないからだ。

 だから意識して自戒するしか自身の変容を抑える術はない。その自覚を俺は胸に刻む。それはひとえに俺が俺じゃない誰かの影響で、自我の形を変えられるのが情けないと感じるからである。

 

「フィフキエル様。今一度差し出口を叩く愚昧さをお許しください」

 

 ローゼンクロイツが言う。いい加減フィフキエル呼ばわりされるのも不快になり、我慢の限界を迎えつつあったが、ひとまず先を促すことにした。

 無言でローゼンクロイツを見据えると、彼女は頭を下げて発言する。

 

「白い犬の悪魔はフィフキエル様の左腕を確保しております。これを【曙光】の拠点まで持ち帰られては良からぬ真似をされかねません。よって急襲を仕掛けるなら早い方がよろしいかと」

「………」

 

 奪われた左腕に良からぬ真似? そういえば元はと言えば俺がこんな状況に立つ羽目になったのも、あの連中が人造悪魔なんぞを造ったからだ。そんな連中が俺という天使もどきのサンプルを得たら何を仕出かすだろう? ……想像するだけでもなかなか不愉快な話だ。

 俺はエーリカに体ごと向き直る。

 あのクソ犬を早期にブチ殺すには、一撃を加えた相手の居場所ならたとえ地球の裏側にいようと正確に追える、【浄化の追っ手】という加護を持つエーリカに頼まなければならない。

 

「理解しました。私も自分の腕を何処の誰とも知らぬ輩に好き勝手されるのは不快です、よければ私を連中の居所まで案内してください」

「畏まりましたッ! しかしフィフキエル様、先程からどうなさったので? いつも通り我々にお命じください、御身の御心を乱す不遜の徒を討てと! 御身の手足として働けとッ!」

「ッ……」

 

 堪らず舌打ちしそうになるのを堪える。フィフキエル呼ばわりされるのが、どうにも癪に障って仕方がない。いっそこちらの事情をぶちまけて、コイツらを放り出してしまいたくなるが、それをすると後が面倒だしクソ犬も追えなくなる。今は我慢し利用するべきだろう。

 というか本気で読めないのだ。エーリカ達がフィフキエルの死を知ればどう動くのかが。激高して襲い掛かられたら反撃しないわけにもいかないし、穏便に済ますには嘘を吐くしかない。クソ犬を縊った後は全て打ち明けようかとも思い掛けたが、やめておいた方がお互いの為だろう。丸く収める為の方便を今から考えておいて、なるべく綺麗にお別れしたいところだった。

 なので仕方なくエーリカの求めに応じる。下僕なんか持ったことはないが、部下や後輩だと思えば音頭を取るのに抵抗もない。飲み会の幹事をさせられるよりは楽な仕事だと思い込もう。

 

「私から言えるのは単純なことだけです。今は目の前にあるタスクを片付けるだけでいい。貴方達は人造悪魔の製造所を潰す、私はクソ犬を殺す、これだけです。これだけで各々の目的は達成されますし、副次効果として無関係な一般人が巻き込まれるリスクも減ります。貴方達にとっても楽な仕事だ。気張らず手早く始末して、さっさと家に帰りましょう。いいですね?」

 

 淡々と告げる。だが【天罰】の面々の反応が悪い。訝しんで見渡すと、いつもと勝手が違うと感じているらしく戸惑っているようだった。

 俺は嘆息し、もう一度繰り返す。

 

「……いいですね?」

「は、はいっ!」

「よろしい。早速業務に取り掛かりましょう。シモンズさん、頼みます」

「お、お任せください。こちらにヘリがあります、急ぎ【曙光】の粛清に向かいましょう」

 

 やる気は充分。俺はエーリカの先導に従って歩き出し、俺の後ろに続く神父や修道女をなるべく意識しないようにしつつ、【聖領域】で囲って一般人の知覚範囲から隔離した。

 街の外れに安置されていたヘリのコクピットに、実力ではエーリカを上回るイーサン・スミスという神父が搭乗する。俺は他の連中と一緒に後部ハッチ内部に乗り込んで缶詰になった。

 

「なんですか。じろじろ見ないでください」

 

 適当な所に座ると、なぜか離陸を始めたヘリの中で【天罰】の部隊員達の視線が集まる。煩わしさを感じて軽く睨むと、申し訳ありません! と声を揃えて謝罪され視線が散った。

 大方これまでのフィフキエルとの差異が気になっているのだろうが、無駄に親睦を深めるつもりもない俺は口を噤んだままでいる。口は災いの元だ、どうせ短い付き合いになるからと、無駄に角を立てる必要もないだろう。

 

 ――こうして俺は、半ば流れに乗る形で【曙光】の拠点へ向かうことになった。

 

 ヘリが目標地点まで飛翔する中、俺は【天罰】の面々から向けられる信仰心で、天力の自然回復速度が向上しているのに複雑な思いを抱えつつ。目を閉じてロイとの戦いを脳裏で反芻する。

 いい経験をした。いいことを学べた。殴り合いの技術もそうだし、白兵戦状況下での読み合いもそうだ。何より貴重な実感を得られたのが大きい。

 俺はロイとの交戦でとても爽快な気持ちを知ることができたのだ。

 

 それは、正義は楽しい(・・・・・・)ということ。あの爽快さは、病みつきになる。

 

 俺は目を閉じたまま薄く笑んだ。正義の行いを執行するのは気分がいい、この感覚は危険だが――相手が無関係な一般人を巻き込むような悪人になら、気を遣って自重する理由もなくなる。

 

(早く着いたらいいな)

 

 俺は切に希望する。爽快な復讐を、正当な暴力を。

 

 だって、悪人は死んだ方が世のため人のためになるだろう。

 復讐するは我にあり、というわけだ。

 

 

 

 

 

 




次回、対ペトレンコ戦。


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29,サイタマ危機 (中)

お待たせしました。


 

 

 

 

 

「――ロイが死んだ、だって?」

 

 【曙光】の三大頭目の一角であり、最も魔力に長ける大悪魔はピクリと眉を動かした。

 信頼する女からの報告が、およそ想像の埒外にあった結末だったのだ。

 戦闘員としての幹部の一人で、自身の腹心でもあった男の戦死。それは彼にとって決して軽い損害ではない。アガーフィヤ・ドミトリエヴナ・ペトレンコは顔を伏せて告げた。

 

「はい。プラン通り奇襲を仕掛けたものの仕留めきれず、僅かな交戦期間でロイを凌駕しました。エヒムと名乗る救世主は、真実【救世主】足り得る才覚を有しています。このような無様を晒していながら帰還した挙げ句、エヒムの捕殺を断念する決断を下したこと、どうかお許しください」

 

 何もない深淵の闇の如き暗黒の空間に、大悪魔メギニトスと女科学者ペトレンコが二人きりで相対している。跪く女を見下ろす大悪魔の視線に色はない。冷酷な眼差しに、女も無表情で応じた。

 

「いいけどさ……キミとロイがいて、なんの成果も得られなかったのかい?」

「はい」

「エヒム君だっけ? それの左腕を手に入れたって聞いたけど?」

「はい、確保してあります。しかしこれだけで成果を得たと言い張るほど厚かましくなれません」

「……ふぅん?」

 

 メギニトスは腕を組んだまま、自身の二の腕を指先でトントンと叩く。

 彼は寛大な悪魔だと自認している。相手が誰であれ契約は守るし、有能で勤勉な部下には甘い。

 今回もそうだ。ペトレンコは極めて優秀だから特に咎める気はなく、誰にでもミスはあるから気にしないでいいよと慰めてやるのも吝かではなかった。

 だがどうにも納得がいかない。メギニトスは生じた疑問をそのままにせず、率直に投げつけた。

 

「……なんでキミ、生きてんの?」

 

 言ってから、率直すぎたなと反省する。

 メギニトスは事細かに言葉を尽くす真摯で紳士的な悪魔だった。無知な人間相手でも、契約する時は詳細に内容を詰めるし、自身の取り分がなくなるほど親切にメリットとデメリットを説明してもやる。なぜならそこまでしてやってなお破滅する愚か者が好きだから。

 故に自らの欲望に逆らい、自制する人間をメギニトスは憎むし、愛する。悪魔の誘惑に耐えられる人間など稀有だから、特別に目を掛けてやるのである。その目を掛けてやっている人間がペトレンコでありロイなのだ。

 

「ロイを殺せるぐらい実力があるならさ、キミのとこのワンちゃんも殺されてないとおかしいよ。現場にはフィフキエルの奴隷達も来てたんだよね? ゴスペルとエーリカがいたらまず逃げられないはずだ。ワタシでさえフィフキエルとゴスペルのコンビは撃退がやっとなんだしさ、ホワイトなワンちゃんとキミじゃ太刀打ちできないはずだよ?」

 

 メギニトスは敵対者を愛している。何百、何千、何万年と殺し合ってきた間柄だ。これはもう愛がなければ成り立たない関係だとメギニトスは思う。故に相手の実力は正当に評価していた。

 かつて。といっても僅か十年前だが、メギニトスはフィフキエルとゴスペルの二人と交戦している。流石は下界を保護する天使と宣う上級天使と、【救世教団】製の最高傑作である英雄で、大いに苦戦した覚えがあった。油断や慢心のないフィフキエルは当然として、人間の英雄如きに苦しめられたのには新鮮な驚きを覚えたものである。ゴスペルは神話の時代の大英雄に匹敵する力を発揮していたのだ、現代ではもう極めて稀有な存在だろう。

 だからこそ解せない。エヒムはまあいいとして、ゴスペルがいたなら白い犬の悪魔とペトレンコは逃げられる余地はないし、生還してのけているのは奇跡としか言い様がないのだ。そして奇跡とは天使側の専売特許、都合のいい偶然など悪魔勢力には有り得なかった。

 

 この疑問にペトレンコは単純な事実で返す。

 

「ゴスペル・マザーラントはいませんでした。エーリカ・シモンズが【天罰】の隊長代理として現れ、わたしのボーニャと対峙したのみです」

「ゴスペルがいなかった? 【天罰】が来たのに? なんで?」

「おそらくフィフキエルが死亡した件を、【教団】はまだ把握していないのだと思われます。エヒムをフィフキエルだと誤認したままなのでしょう」

「……へぇ。ペトレンコ君、どう思う?」

「フィフキエルの死を、現場にいたゴスペルが把握していないはずはありません。なのに他がフィフキエルの死を知らないとなれば、ゴスペルが主の死を隠蔽しているのでしょう」

「へへぇ……なぁるほど。ゴスペルはただの奴隷じゃなかった、ってわけか」

 

 英雄はやっぱそうでなきゃ、と楽しげに呟き、ペトレンコが生存した理由に納得する。

 もしやペトレンコが裏切ったのかと内心疑っていたが、そういう事情があるなら理解可能だ。

 

 ゴスペルが主の死を隠蔽しているなら、【教団】はフィフキエルの死を知らないのだろう。ならばその隠し事を暴き、【教団】がゴスペルの秘密の罪を追求するように仕向ければ、面白いことになりそうではあるが。生憎と一朝一夕で成功させられるプランではない。

 大体【晒し上げる意義】エンエルがいる以上、こちらから意図して情報を流すのは不可能だ。潜入員を送り込もうと早晩露見し、無駄に人員を損耗するだけに終わる。思いつきの嫌がらせとしては悪くないが、通じないのであればやるだけ無駄だろう。メギニトスはそこで思考を打ち切り、ペトレンコへと次の指令を与えた。彼にとっても、ペトレンコにとっても当たり前の命令だ。

 

「まあ何はともあれボーニャは廃棄しなよ。エーリカと交戦して殺せてないなら、絶対キミじゃ逃げきれない。早々に始末して、エヒム君の左腕だけでも持ち帰って来な」

「……お待ちを。あのシスターから逃げきれない、というのはなぜですか?」

「……え?」

 

 まさかの反駁にメギニトスは呆気に取られた。コイツは何を言っているんだと思い掛け、しかしはたと思い至る。そして悪魔なのに天を仰いだ。

 

「あー……そっか、そうだった。ペトレンコ君、キミって異能の代償として、無作為に記憶の一部を失うんだっけ。それでエーリカのこと忘れちゃってるんだ?」

「……どうやらそのようです」

「あちゃあ。よりにもよってこのタイミングで、エーリカのことをピンポイントで忘れるとか。ワタシの使徒らしい不運というか、天使らしい幸運というか……詰み掛けてるよ、早く逃げなさい」

「は?」

 

 疑問を覚えた様子のペトレンコに、丁寧にエーリカの有する加護を教えてやる。するとペトレンコはただでさえ白い顔を更に青褪めさせた。自身が如何に危機的状況にいるか理解したのだ。

 

「も、申し訳ありません。早急に撤退します、エヒムの左腕も――」

「それは要らないから、キミだけでも早く逃げなさい。ぶっちゃけキミに代わる人材なんていない、キミを失う方がワタシ的には痛いよ」

「――――」

「どうせ大々的にヤッちゃった後なんだよね? ならもう徹底的にヤッちゃいな。イワト君に言って出せる駒は出させる、ワタシの方からも幾つか駒を回そう。そしたらエヒム君もキミを追うのが難しくなるはずだよ。分かったらさっさと行動に移るんだ、いいね?」

「――は、はいっ!」

 

 跪いたまま深く頭を下げ、頬を紅潮させて感激した様子のペトレンコの姿が消える。

 何もない漆黒の世界にはメギニトスだけが残された。

 だが、他に誰もいないはずなのに、メギニトスは語り掛けるように言葉を紡ぐ。

 

「さてさて――ロイ(・・)君、キミの若年期が殺されたようだけど?」

「ははは。参りましたな、アレ(・・)は私の全盛期だったのですが……」

 

 すると、一人の老人が忽然と現れた。

 色素の抜けた白い髪と、皺だらけで枯れた肉体。しかし背筋をピンと伸ばしたその様は、裾の短い黒い外套を羽織っていることも相俟って、美しい老い方をした上品な紳士といった風情だ。

 名は、ロイ(・・)アダムス(・・・・)。死んだはずの男である。

 彼の諧謔をメギニトスは鼻で笑った。

 

「ハッ。たくさんある世界線(・・・)で一番強いロイ君はキミだよ? 老境まで生き残ってるロイ君もキミだけだ。結構疲れたんだからね? キミをワタシのいる世界線に引っ張ってくるのは。労力に見合うだけの働きはしてくれないと流石のワタシも怒るぞ?」

「怖いですな。では私は万一の場合に備えての後詰めでもしますか?」

「頼むよ。ペトレンコ君に死なれるとホント困る。他の世界線に干渉するのはもう御免だからね? 何度もやってたらワタシといえども暫く魔力が枯れてしまう。この時期にそれは非常にマズイ」

「仰せのままに、偉大なるメギニトス様」

 

 一礼し、老人は消える。それを見送って、メギニトスもまた消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 埼玉県加須市にある、自然豊かなテーマパーク。その地下空間を切り抜いたかの如く、一つの広大な人工異界が展開されていた。

 この異界にテーマはない、異界特有の【法則変異】による物理法則の崩壊もない。ただ通常世界と隔絶しているだけの、単なる異空間でしかない場所だ。

 

 そこに、一人の女がいた。

 

 ペトレンコである。

 

 施設管理室の一室にいた彼女は、慌ただしく一つの革鞄に資料の束を押し込んでいた。

 この現代社会に在って、彼女はデジタルな情報管理を一切信頼していない。紙に記したアナログな情報にこそ秘匿に向く絶対性があると信じていた。

 故にペトレンコは筆まめであり、自身の得たデータは直筆の資料として纏めている。彼女が鞄に詰め込んでいるのがそれだ。まるで夜逃げの為に荷造りをしている、自己破産者の末路を辿る最中にいるかのようで、いっそ哀れを誘う有り様だった。

 

『ペトレンコ様! こちらゴーウィン01、応答願います!』

 

 そんな彼女に、無線機越しの悲鳴が届く。

 デスクの上に置いていた細身の無線機を引っ手繰り、ペトレンコはすぐさま応答した。

 

「何?」

『【聖領域】の反応を感知! 奴ら(・・)です、テーマパークの上空までヘリが! 【天罰】の奴らが!』

「っ……もう来たの。慌てないで、急ぎ迎撃しなさい。民間人を盾にすれば時間は稼げるはず。焦る必要はないわ、時間さえ稼げたら増援が来る。それまで耐えるのよ」

『りょ、了解! 迎撃しますッ!』

 

 明らかに浮足立っている部下の報告に舌打ちするも、ペトレンコとて東京から帰還して一時間としない内に襲来するとは思いもしなかった。もしメギニトスへの報告を遅れさせていたら、きっと完全な奇襲として成立し成す術もなく蹂躙されていただろう。

 ここは単なる研究施設だ。隠蔽に特化していたからまともな防衛機構も実装されていない。流石のペトレンコもこうまであっさり見つけられるのは想定外で、【浄化の追手】であるエーリカ・シモンズの存在さえ覚えていたらここにボーニャを連れてくることもなかった。

 ペトレンコは大事な資料を鞄に詰め込むと残りは焼却した。山のように積み上げた書類へ向けて掌を翳し、あらかじめ仕込んでいた魔法陣を起動。単純な発火の魔術で燃やし尽くす。踵を返して管理室から飛び出したペトレンコは、ドアを開くと一度立ち止まって振り返った。そして管理室の隅に寝そべっていた白い犬、ボーニャに向けて短く命じる。

 

「……ボーニャ。そこで待ってなさい、敵が来たら好きにしていいから」

『分かっタ、分かっタ。……アガーシャ、ドコ行く?』

「わたしはここから退避する為、脱出路を開きに行くわ。あなたをここに残すのは、わたしが戻るまでに管理室を抑えられたら困るからよ。いい? わたし以外を管理室に入らせないで」

 

 嘘ではない。部下にも増援が来るとは言ったが、本当に来る。メギニトスは嘘を吐かないのだ。

 だが主目的はペトレンコの救出である。既にこの拠点は駄目になると分かりきっている、だから他の全てを捨て駒にして、ペトレンコだけでも逃がすのがメギニトスの決定だった。

 部下達はおろか、現行の人造悪魔の中でも最高傑作であるボーニャも、ペトレンコが生還する為の捨て石に過ぎない。本音ではボーニャを捨てるのは惜しいが、データは既に取ってある。これと同型の悪魔も量産可能になるだろう。なら惜しくても捨てることは出来る。

 ペトレンコは後ろ手に扉を閉めると、すぐさま走り出した。白衣の裾を翻して、手にした鞄を抱えながら全力で。自分だけは死ぬわけにはいかない、なぜならメギニトスはこのペトレンコの生還を望んだ。主に求められたのだ、これほど光栄なことはない。

 

「はっ、はっ、はっ……」

 

 アガーフィヤ・ドミトリエヴナ・ペトレンコは人間である。【曙光】は悪魔信仰者と、三柱の大悪魔によって成り立つ組織であり、メギニトス以外の大悪魔に仕える幹部は半悪魔化している。だがペトレンコをはじめ、メギニトスに仕える幹部は人間のままだ。

 なぜならメギニトスは悪魔という種を信頼していない。だから人造悪魔という禁忌に平然と手を出すし、造られたものとはいえ悪魔が人間に従うことを許容している。メギニトスは知っているのだ、たとえ人間でも上位者に迫る実力を具えることは能うのだと。

 故にペトレンコの身体能力は人間の域から逸脱していない。ロイ・アダムスが身体能力に特化し、位座久良アラスターが魔力に特化しているように、多津浪岩戸とペトレンコは頭脳にのみ特化して成長する、拡張手術(・・・・)を受けているからだ。その恩恵でメギニトス配下の幹部達は、それぞれの分野で他派閥の幹部を圧倒している。

 

(ロイ……!)

 

 走りながら、ペトレンコは死んだ仲間を想う。

 彼さえここにいてくれたら、こんなに焦ることはなかったのに、と。

 ロイはエヒムに敗れた。結末だけを見たら完敗だったと言えよう。だがペトレンコには分かる。あれは一つの駆け引き、読み合いで上回られただけなのだと。もしその読み合いで勝っていたのなら生死は逆転していた。そう……【曙光】の中だとロイだけが、エヒムに勝利し得る人間なのだと、ペトレンコは正しく理解しているのだ。

 だけどそれ以上に、ペトレンコは思う。ロイを惜しんで、悲しみに浸る。

 

(なぜ死んだのよ。あなたは、わたしを――)

 

 ――瞬間。人工異界を劈く轟音が、激しく地面を揺らした。

 

「きゃぁぁぁっ!?」

 

 堪らず転倒したペトレンコの思考が中断される。凄まじい衝撃だった、コンクリートの破片が飛び散り、破片の多くが粉状に四散している。施設の天井が撃ち抜かれたのだ。

 慌てて立ち上がり背後を振り返ると、ペトレンコは信じ難いものを目撃する。

 

 ――天使(・・)がいた。

 

 タイトな黒いパンツを穿き、白いワイシャツに青いネクタイを締め、スーツを纏った人外。

 人間の域を逸脱した完璧な左右対称の美貌に、銀の瞳が氷のような冷徹さを添えて。純度100%の純金より目映い金色の髪をシニヨンの形に結わえ、その頭上に光の円環を浮かせていた。そしてその背には、純粋な天使には有り得ない、天力による非実体翼(エネルギーウィング)が神々しく展開されて。ペトレンコは戦慄の槍で、頭頂部から串刺しにされた心地を味わった。

 

(エヒム!? は、早すぎるわ……! それに、なにあの翼――進化(・・)しているというの!?)

 

 救世主(ヒカリ)の再来エヒム。その視線が、ちらりとペトレンコを一瞥した。瞬間、光り輝く祝福の死が落ちてくるのを覚悟させられるも。エヒムはペトレンコの顔を視認すると、興味を失ったように背を向けて、管理室へと歩んでいった。

 呆然としたのは一瞬だけ。コツン、コツン、と刻まれるエヒムの足音を聞いて我に返ると、ペトレンコは必死の形相で再び走り出す。ここは異界だ、人工のものでも。であるのにエヒムはどうして、管理者であるペトレンコにも察知されずに侵入できているのか。

 そういう疑問も今は捨て置く。

 幸いだったのが、エヒムとその前身フィフキエルが、ペトレンコの顔を知らなかったことだろう。知らなかったが故に、エヒムはペトレンコではなく自身の定めた標的を優先したのだ。何よりも人間を殺す気が今のエヒムにはなかったというのが大きい。

 

 その幸運を瞬時に理解したペトレンコは、ひたすらに手足を振って脱出の為に必死になる。

 

 ボーニャがエヒムを相手に、一秒でも長持ちすることを願いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ハチャメチャが押し寄せてく。


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30,サイタマ危機 (下)

お待たせしました……!

メリークリスマス!

年内に後もう一度は投稿したいですね……!


 

 

 

 

 

 【救世教団】製の武器のバリエーションは豊富だ。

 

 杭、釘、縄、鞭、聖水、聖火、枝、車輪などの一見武器には見えないものから。剣、弓、槍、棍棒などの前時代的な兵器。更に銃や戦車、航空機、軍艦、弾道ミサイルなど、個人運用の能わないものまでも取り揃えられている。早い話、古今東西のありとあらゆる武器防具が用いられているのだが、信じ難いことに戦車から弾道ミサイルまでも個人で運用する信徒もいるようだ。

 どうやって? 個人用の携行兵器に全く適していないはずだろう。少し現実離れしていて想像がつかない。余程のキワモノらしく、フィフキエルも存在は知っていても該当人物と直接会ったことはないようだったが、なまじ知識として知ってしまうと私は気になった。

 そう、知識としては知っている、だ。知っているだけで、俺は実物を見たことがない。私の前身である上級天使フィフキエル直属の遊撃部隊、【天罰】の人間が採用している武器も生で見たことはないのだ。だから俺は是非にと頼んで彼らの武器に触らせてもらっていた。

 

「カテゴリーC・AMガウエル。拳銃型の天力兵装ですか。良い物を使っていますね」

「は、はい。恐縮です」

 

 輸送ヘリが目的地に急行している最中だ。私がゴツゴツとした自動拳銃を手に持って褒めると、眼鏡を掛けた修道女クリスティアナ・ローゼンクロイツは身を縮こまらせた。

 カテゴリーCとは銃火器全般を指す。Aが縄や杭などで、Bが刀剣や弓などだ。そしてAMガウエルとは【教団】製で最先端の拳銃である。注ぎ込んだ天力の変換効率が100%を誇り、引き金を引き続けている限り秒間10発のエネルギー弾を放ち、威力の調整も容易で大小の戦闘規模を選ばない兵器だ。人間が使うものとしてはかなり優秀だと評価できるだろう。

 クリスティアナはこのAMガウエルを二挺用いる。二挺拳銃スタイルとはなかなかロマンのある戦闘スタイルだが、実際に実力が伴っているのだから誰にも嫌味を言われないはずだ。

 

 彼女はAMガウエルの二挺拳銃をメインに据えているが、他の面々はエーリカを除きオーソドックスなスタイルである。AMガウエルを一挺と、筒状の金属棒だ。長さにして30cmで、天力を注いだ分だけ長いエネルギーブレードが展開される。

 カテゴリーB・AMザウエル。展開されるブレードは実体を持っていないようで持っていて、つまるところ実体と非実体を切り替えられる万能刃だ。使い手次第では斬りたいものを斬れるのが売りだという、刀匠泣かせの大量生産製妖刀ってところだろう。

 【天罰】の部隊員はこのザウエルとガウエルを主兵装にしていて、最新兵器であるこれらを優先して配備されていた。エーリカにいたってはフィフキエルのお気に入りだから、オーダーメイドの武器を使っているし、上級天使の直属部隊だけあってかなり優遇されている。

 

 右手でガウエル、左手でザウエルを弄りつつ、俺はさもたった今思い出したように言った。

 

「ああ、そうだ。皆さんには言っておかないといけないことがあります」

 

 社会人経験のある人間が忍者や超能力者を題材にした漫画を見ると、必ずと言っていいほど憧れる能力がある。他ならぬ私自身も、少なからず憧憬の念を懐いた覚えがあった。

 それは目的地に一瞬で到達する瞬間移動能力だったり、自身の分身を作成して好きに過ごせる時間を確保できる分身の術だったりだ。そして幸運かはさておき、今の俺はどちらも再現が能う。

 

 ならやらない理由はないだろう。

 集中する視線に私はにこりと微笑んで『願いを叶え』る。

 

 私の天力は充分回復している。彼らの信仰心の矢印が俺に向いているからだろう、普段よりも余分に溜まっているほどだ。この余剰分を使って俺を複製(・・・・)することは容易かった。

 天力が光の粒子となって私の隣に人型を形成する。驚嘆の声が上がるのを無視して、複製した俺の人格をフィフキエルのものに変更した。フィフキエルはもはや不要の存在だったのだが、確実に【天罰】の面々に首輪を掛け、効率的に動かせられるのは私ではない。

 彼らからの信仰心を心地良いと感じる一方、見ず知らずの他人に崇められるのは気分が悪いのだ。騙しているようで気が引けるし、道案内の件がなければ彼らと一緒にいたくない。かといって俺に対して実害を齎す可能性の目も摘みたいとなると、これはもう私以外の私に面倒事を放り投げたくなっても仕方ないだろう。

 

 俺には最初から具わっていたが、天使フィフキエルにはなかったはずの力。それをこうまで堂々と見せつけることで、クリスティアナ達が不審に思う可能性は念頭に置いてある。

 

 だが私としては怪しまれても一向に構わないのだ。今この一時だけやり過ごせるなら問題ない。なぜならばフィフキエルが(・・・・・・・)なんとかしてくれると確信しているからだ。

 天使フィフキエルのガワを用意し、余剰分の天力を中身に詰めた。彼らが大好きな天使様だ、その信仰心を女天使が受信できるように設定すれば、燃料切れで消えてしまうこともないだろう。

 完璧に再現されたフィフキエルが薄く目を開くのを尻目にして、俺は笑顔を崩さずに告げる。

 

「これは私の分身です。ですが私自身でもあります。私からの指示を求めるなら、この分身に従い行動してください。何か異論はありますか?」

「――あるわけないじゃない」

 

 私に似た、しかし決定的に異なる女性的な声で即座に否定が入れられる。

 目を開いたフィフキエルが、天使の羽と金色の環を顕し、俺の方を流し目で見ていた。

 随分と久しぶりに感じる。ヌイグルミじゃないフィフと再会したかのような気分になった。私に生み出された存在に過ぎないとはいえ、天涯孤独になってしまった今の俺にとっては無条件で信頼できる存在だからだろう、コイツをどうにも好ましく感じてしまっていた。

 モデルになったフィフキエルが俺を殺した実行犯だったとしても、俺自身に殺された実感がないから憎むに憎めない。もうそういうものだとして諦めて、素直に現実を受け止めていられた。

 

 フィフは【天罰】の面々を見渡して、フッと鼻を鳴らした。

 

「ここにいるのは私の為だけに生きる可愛い人間達よ。異論なんかあるわけがない――そうよね、クリスティアナ?」

「はい。仰る通りです」

 

 当たり前みたいに見下した視線を向けられたのに、クリスティアナや他の信徒達は自慢げに胸を張っていた。フィフの言う通り、フィフキエルの為なら命も惜しくないのだろう。

 パッと見た感じだと、俺が分身を作り出したことに懐疑の念を覚えた者はいないように見える。もしかするとフィフキエルなら何を成しても不思議じゃないと思っているのか?

 有り得る。知ってはいたが、やはり重かった。俺なら到底受け止める気にはなれない信仰心だ。彼らの想いを躱して分身に押し付けるのは不誠実な気もするが、そもそも私自身とは関係のない存在である。罪悪感を感じる必要は、客観的に見ても皆無であるはずだ。

 なので気にしない。少なくとも俺があのクソ犬をブチ殺すまでは、俺の分身を今は亡き主人として仰いで気分よく仕事をしてもらいたいところだ。

 

「ねぇ、あなた」

「……ん?」

「これから作戦を詰めるけど、あなたから希望はあるかしら?」

「ないな。好きにしろ」

「あら、そう? ちなみにだけど、もうすぐ目的地につきそうなのには気づいてる?」

「ああ」

 

 どこかつっけんどんなフィフから話し掛けられるのを無愛想に返して、私は意識を切り替える。彼らがどんな作戦を立てようが本当にどうでもいい。俺の邪魔にさえならないなら構わなかった。そしてこのフィフキエルなら俺の邪魔になるようなことはしない。

 

「さっきはよくもやってくれたわね。後で埋め合わせなさいな。さもないと酷いわよ、エヒム」

「あ? ああ……うん」

 

 腹を割れる相手がいないのは辛いし、今回の件が片付けばフィフのヌイグルミを復活させるのもいいかもなと思っていると、フィフキエルが耳元に顔を寄せて恨み言を漏らしてきた。

 一瞬なんのことかと首を捻ったが、もしやロイとの戦いの時に握り潰したヌイグルミと、記憶が地続きになっているのかと察する。なんでだ? そんな仕様にはしていなかったはずなのに。

 まあいいかと疑問を切り、俺は後部ハッチの角にいる神父へ声を掛けた。

 

「すみません。ハッチを開けてください」

「え? ……あ、はい! 畏まりました!」 

 

 声を掛けられたのがそんなに意外なのか、青年神父が一瞬硬直した。しかしすぐに立ち上がって壁に付いているボタンを押す。

 するとハッチが開く。地表から遠く離れた上空である、冷たい風が強く吹くのを肌で感じつつ、私は部隊員の皆に振り返ってから告げた。

 

「目的地は分かりました。勝手で申し訳ありませんが、私はここから別行動です。皆さんよりも先行しますが気にせず、そちらのフィフキエルの指示に従ってくださいね」

 

 返事を待たずに虚空へ身を投げた。背中に翼を生やして一気に加速し、『言霊』を囁く。

 

「『誰も私に気づかない』」

 

 言いながら飛翔する俺はあっさり輸送ヘリを置き去りにして、埼玉のテーマパーク上空まで到達した。

 急制動を掛けて停止し、眼下を見下ろすと、いるわいるわ――無関係な一般市民達と、それに紛れる魔力持ちの人間。銃器やナイフを隠し持っているのが文字通り透けて見えた。

 だが悪魔の姿は見えない。天力を減衰させる結界も、凶暴な魔獣も、万全の防衛戦も構築されている様子はなかった。テーマパークが普通に運営されているところから察するに、防衛機構を何も備えないことで、逆に隠密性を高めた拠点なのだろう。エーリカがいなければ見つけることもできなかったかもしれなかった。

 

「………」

 

 見渡す限りの人、人、人。親子連れ、友人同士のグループ、恋人同士、孫と遊びに来た老人、テーマパークのスタッフ。聞こえる歓声、絶叫マシンのある方からする悲鳴、民間人の喧騒。他には緊張して佇む警備員、迷子を案内するスタッフに紛れた不審者、隠れ潜む人間などもいる。これは武器を隠し持つ魔力持ちの連中だ。

 どれだけ目を皿にして見渡しても悪魔はいない。クソ犬が、いない。

 だがそんなわけはなかった。どこにいる? どこに隠れている。我知らず舌打ちした。魔力を感知する自分の感覚が弱い。レーダーでもあればいいのに。

 

(……レーダーか)

 

 ピンと閃く。閃きの感覚に従って、俺は自身の背にある翼を一瞥した。

 羽ばたいている白い天使の羽。これは正直メルヘン過ぎてデザインが気に入らなかった。丁度良い機会だ、自分好みの形に改造してしまおう。

 造形変化のヒントにしたのはAMザウエルというエネルギーブレード。非実体と実体を選択できる機能だ。翼は天使の誇りだそうだが、俺にはそんな誇りはない。翼の根本から変換し、天力で構成した白銀の非実体翼(エネルギーウィング)へと変貌させた。

 

「うん、いい感じだ」

 

 呟き、変更後のデザインに満足する。無論だがただのイメチェンの為にやった訳ではない。この銀翼からは極めて微弱な天力の波動を発せられ、触れたものを解析する機能を実装したのだ。

 試しに羽ばたかせ、テーマパーク全体に電波状の天力を送り込む。俺の天力には【願いを叶える】属性が具わっている為、そうすることで俺の望む情報をキャッチしようと試みたのである。

 すると一人の警備員が目についた。年嵩のいった一人の壮年男性だ。平凡な警備員の恰好をしているが魔力の反応がある故、間違いなく悪魔信仰者の一人だが、気になったのは装備品だ。

 

(無線機?)

 

 誰も上空に静止する俺の存在を察知していない。故に遠慮なく注視していると、ようやく輸送ヘリがテーマパークから視認できる位置まで接近してきた。

 だが私の【聖領域】を引き継いで発動しているフィフキエルが搭乗している為、民間人は誰も輸送ヘリに気づかない。【聖領域】の効果上、彼らに殺されようとも気づかないだろう。

 しかし【曙光】の末端の構成員達は、なにがしかの要因で【天罰】の接近を察知したようだ。慌てて動き出したニンゲン共を見下ろしながらも、無線機を持った男から視線を逸らさずにいた。

 すると男が無線機を使う。果たして、非実体翼を通して俺の脳は察知した。

 

「見つけた」

 

 にやりと笑んでしまう。無線機が発したのは電波ではない、魔力だ。それが送信され、受信し、更に応答して返された電波から位置を逆算。地下にテーマパークと同じ空間があるのを把握。

 地下に大規模な空洞はない。地下駐車場があるだけだ。しかしこの感覚には覚えがある。東京の秋葉原で体験したチュートリアル――異界の存在だ。地下に異界があるのだろう。

 

 それを確信したらもう止まれなかった。ぶるりと歓喜に震えた体が勝手に動き出す。

 

 非実体翼を羽ばたかせ、一気に急降下した私は、テーマパークの地表を貫通して。

 望むままに、表世界と異界の隔たり(次元の壁)を突破した。

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 逃げ去っていく白衣の女は見逃した。

 

 魔力の気配(におい)はしていたが、特に恨み(関係)のない人間だったからだ。至近に探し求めたクソ犬の気配があるのに気づいていたから、そちらの方を優先したかったからでもある。

 口端を緩め、ゆったりと歩きながら腰のホルスターから如意棒を抜く。ナイフほどの長さから自分の身長に伍する長さに伸ばし、先端部をテーマパークの施設管理室へと向けた。

 閉ざされた扉は鉄製だ。異界に突入した際に把握したが、この人工の異界は表世界にある遊園地と全く同じ構造をしているらしい。表世界の方とは違って人の姿はまるでなく、そうであるが故に痛いほどの沈黙が場に落ちていた。

 

 管理室からは警戒と敵意を感じる。あれだけバカでかい騒音を撒き散らしたのだ、気づいてないわけがないだろう。『言霊』で俺の存在に気づけなくなっているはずだから、なぜあんな爆音が鳴り響いたのか理解できていないはず。そこまで考えて、ふと思った。

 

(――妙だな。なんでさっきの女は俺に気づいた?)

 

 白衣の女。銀髪の美人さん。逃げ去ったあの女と俺は、思いっきり目が合っていた。

 俺の『言霊』が効いていなかったのか? だとするなら強力な魔力を有しており、俺の天力に抵抗できていたことになる。用のない人間だからと、見逃したのは浅はかだったかもしれない。

 

(まあいい)

 

 どうでもいいかと切り捨てた。

 そんなことよりも手早く目的を達しよう。衝動に従って埼玉まで出向いてしまったが、もともとは家電を見に行く最中だったのだ。さっさと野暮用は片付けてしまいたい。

 ここまで来たなら『誰にも気づかれない』状態は不要だ。無駄な天力の消費をカットした。すると劇的な反応が返ってくる、管理室内から厳戒態勢に移った悪魔の気配がしたのだ。

 遅いんだよと内心せせら笑いながら、如意棒を高速で伸長させた。

 

『ッ――ズアッ!?』

 

 グンと伸びて壁を粉砕した如意棒が、管理室内にいた白い犬の悪魔の肩を貫通させた。カツンと足音を立てて歩みながら、コンクリートの粉塵の只中を進んで晴れやかに声を掛けてやる。

 

「やぁ、さっきぶりだな? 毛むくじゃらの畜生くん」

 

 中にはやはり、あの忌々しい害獣がいた。肩を如意棒に貫かれ、宙吊りにされた白い獣。体躯は俺よりも優れているが、所詮は見掛け倒しだ。嘲笑も露わに語り掛けると、害獣は長い体毛に覆われた両目を見開き、信じられないといった面持ちで俺を睨んでくる。

 

『オ、オ前はっ……!? な、なンデここに……!?』

「ャッハハ。喋る犬とは珍しい。おまけに人間様よりも大きいときた。――図が高いぞ? 犬なら犬らしく、這いつくばって出迎えるのが礼儀だと……飼い主に躾られなかったのか?」

 

 言いながら如意棒を振るい、遠心力で如意棒から白い犬を解放する。室内のモニター群を巻き込み、軒並み破損させながら壁に激突した白い犬から視線を切った。

 一室を埋め尽くす無数のモニターは、施設内のあちらこちらに仕掛けられていると思しき監視カメラの映像を映していた。ちらりと左右を見渡すと、部屋の片隅に得体の知れない液体が詰まった培養槽があるのを見つける。液体は半透明の緑色……漬けられているのは俺の左腕だ。見ていて気分の良いものではない、顔を顰めて如意棒を振るい培養槽を破壊すると左手を翳した。

 

「来い」

 

 どちゃりと音を立てて床に落ちた左腕が、俺の命令に従って飛来する。それを掴み取ると、異常がないかを検分した。

 と。俺がよそ見をしていたのを隙と見做したのか、無言で飛びかかって来た白い犬に一瞥も向けず、右手に握る如意棒を旋回させ頭部を横殴りにし、畜生の巨体を地面に叩きつける。

 苦悶の声を漏らした白い犬が機敏に跳ね起きようとするのを、先端部だけ巨大化させた如意棒で上から押さえつけ身動きを封じた。奪われていた左腕には異常らしきものは見受けられない。善からぬことはまだされていないようだ。結構なことではあるが、左腕は既に再生させているので取り戻しても使い道はない。身に備えていた『浄化』の属性を用い、白い炎で丸ごと焼き尽くした。

 

『ギュゥウウンンンッ……!』

「ん? ンッフフ」

 

 自分の腕を自分で処理するのもなかなか珍しい体験だろう。

 耳障りな呻き声を耳にして、雑音のする方に目をやると、俺の如意棒を跳ね除けようと懸命に踏ん張る畜生がいた。その無様な様子に堪らず含んだような笑い声を漏らしてしまう。

 

「なんだ、立ちたいならそう言え。折角喋れるんだ、コミュニケーションでも楽しもう」

『ガァァッ!』

 

 親切に如意棒を退けてやって縮小すると、犬は殺気も露わに牙を剥いて飛びかかって来た。

 嘆息して腕を突き出す。如意棒で犬の額を強打してやれば、ひっくり返って後頭部を床に叩きつけられ悶絶する。間抜けな姿に更に失笑を重ねた。なんとも知恵の足りない醜態だ、俺を笑わせたいのなら充分に合格である。

 

「喋らんのか? 愛嬌のない奴だ。仕方ない……私から話してやろう」

『……ガァ!』

 

 懲りずに突撃してくる犬。狭い室内だ、天井に向けて跳び鋭角に襲い掛かってくるのを如意棒で打ち返し、地面を這うように突貫してくるのを下から掬い上げる一打で跳ね返す。

 

「お前の名はシモンズさんから聞いた。ボーニャというのだろう? 並の悪魔なら一撃で殺せる、シモンズさんの攻撃を受けても無事でいられる頑丈さがあるらしいな。おまけに天力を魔力に転換する能力を具えてもいる。現に私の攻撃をこうまで受けながら、さして堪えた様子がないからな。頑丈さに関しては認めざるを得ないよ」

 

 めげずに突撃を繰り返す白い犬ボーニャの様は、まるで戦車のような迫力と質量を感じさせる。だが生憎と、俺は戦車如きに脅威を感じる生命体ではなくなっている。ミニ四駆か何かが体当りしてくるのを、テキトーにいなしている程度の感覚しかなかった。故にこれはロイの時のような戦いではない。軽く如意棒で迎撃しながら言葉を続ける。

 

「しかしながら、幾らか気に掛かる点がある。なんだと思う?」

 

 弱いものイジメは、正当性さえあるなら楽しいものだ。弱い悪を強い正義で叩きのめすのは快感ですらある。だがいつまでも同じことを繰り返していては飽きが来るというもの。俺は次第に笑みを消しながら、淡々と事務的に告げることにした。

 

「何度も何度も、お前が愚直に突撃を繰り返すのは何故だ? 東京で見せたあの破壊光線を何故私に向けて撃たない? 折角の頑丈さもこれでは宝の持ち腐れだ、サンドバッグにしかならない。人造悪魔はお前を含めて幾らか見たが、設計に明確なコンセプトがあるように見受けられるのに、だ」

『ガウッ! ガァァッ!』

「答えは自明だ。あの破壊光線はシモンズさんの天力を吸収して放ったもの。つまり、お前自身には大層な魔力は具わっていないんだ。だから外部からエネルギーの供給を受けないと満足に性能を発揮できない。愚直に突撃を繰り返しているのは、焦れた私が天力を用いてなにがしかの攻撃を仕掛けるのを待っているからだ。違うか?」

『――ッ。ガァァァ!』

「ヤハハハ! 分かりやすい奴だ、愛しさすら感じるぞ!」

 

 どれだけ跳ね返されても間断なく襲い掛かってきていたボーニャが、俺の指摘を受けて一瞬固まる。その反応を見逃さず、俺は発作的に笑声を溢しながら如意棒でボーニャを叩き伏せた。

 流石に五十七回も俺に殴られたら堪えているのだろう、僅かずつ動きが鈍くなってきている。如意棒を縮小させ、先端を銃口に見立ててボーニャに突きつけた。

 

「頑丈さに任せて相手のエネルギーを吸収、カウンターとして放つ……お前のコンセプトは強力な味方との連携にあるらしい。味方が前衛と後衛を務め、お前は遊撃として盾になるのがベストな形だろう。お前がロイと共に来ていたら私も危うかったかもしれないが――能力の種が割れてしまえば対処は容易い。徹底して、物理で殴り殺せばいいわけだ。念の為、じかに触るのは無しで」

『………』

「さようなら、畜生くん。私は犬より猫派でね、お前が猫だったらもう少し躊躇っていたかもな」

 

 お別れは済んだ。ジリ、と。動き出そうとしたボーニャの足元の砂利が鳴るのを合図に、俺は一気に如意棒を伸長させる。四つん這いで始動しようとしていたボーニャの額を打突し一気に縮小。更に伸長させて体勢を崩していたボーニャの左前脚の付け根を打突して、踏ん張りを利かせず転倒させるとまた如意棒を縮小させる。伸長と縮小、伸縮をひたすら繰り返し、ただただ如意棒の先端部での打突を、ボーニャが死ぬまで続ける。その気になったら一撃で殺せるが、コイツは人造悪魔だ。また似たような奴と対面しないとも限らない。可能な限り耐久力を調べる意味もあって、半ば以上嬲り殺しにさせてもらった。

 可哀想とは思わない。所詮は害獣なのだ。しかも俺の左腕を食いちぎった奴でもある。即死させず有用なデータを取ってやっているのだから、むしろ俺の役に立てたことを感謝して欲しいものだ。

 

「……574発か。意外と耐えてくれたな、ボーニャ?」

 

 機関銃めいた打突の雨をそれだけ受けると、さしもの人造悪魔もピクリとも動かなくなった。

 死んだふりではない。頭蓋が割れて脳が床に落ち、胴体からも様々な内臓が溢れている。これで死んでいなかったら流石に驚く。

 念の為、巨大化させた如意棒で遺骸を叩き潰して挽き肉にしてやった。この一撃だけ本気でやったら地面が陥没して大穴が空いてしまったが、それでも反応はない。原形を失くしたボーニャの挽き肉が、空いた大穴に落ちていくのを見て死亡を確認すると、俺は背中の羽根と頭上の黄金環を消し去り戦闘モードを解除した。

 

「用は済んだ。帰るか」

 

 後はフィフがなんとかするだろう。俺は元々ボーニャにしか用はなかったのだし、そのことも皆には伝えてある。先に帰っても文句はないだろう。

 縮小させた如意棒をホルスターに戻し、んーっと伸びをして体のコリをほぐすと『言霊』を使う。

 

「『転移』」

 

 目的地は東京だ。シニヤス荘に帰ってもいいが、その前に家電を見に行かないといかない。

 熱海さんは無事だろうかと、いまさら気になってきたが……まあ、生きていて縁があったらまた会えるだろう。

 そうして天力の残滓を残し、俺はその場から消えた。

 

 この時の俺は、埼玉のとあるテーマパークが全壊し、多くの民間人が犠牲になるとは想像だにしていなかったのだが――シモンズさんとローゼンクロイツさんだけを連れ帰ってきたフィフが、悪びれもせず耳打ちしてくるのに溜め息を吐かされることになる。

 

 フィフは言ったのだ。

 

「あなたの都合が良いように、【天罰】の子たちはこの二人以外間引いておいたわ。後ろから、バレないようにグサッとね」

 

 ――と。

 

 

 

 

 

 

 

 




サンタさんな読者の皆! クリスマスプレゼントくーださい!


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31,エヒムと愉快な仲間達

あけましておめでとうございます。
年末にかけて思いの外いそがしく、長らくお待たせすることになりました。多少時間に余裕が出てきたので更新頻度も少しはマシになるはずです。よろしくお願いします。




 

 

 

 

 

 ぐりぐりと眉間を揉み、俺は眼前に跪く二人のシスターを見下ろした。

 

 新たな住居に足りない家電を、持て余している現金で一括購入した帰りのことだ。シニヤス荘の軒先で埼玉から帰還してきたフィフとシモンズ、ローゼンクロイツの三人と対面することになり、あまつさえ予想だにしていなかった報告をされて頭痛を覚えたのである。

 フィフは言った。【天罰】の面々を、シモンズとローゼンクロイツ以外は間引いてきたと。バレないように後ろから殺したと。当たり前のように、人間を殺したのだと誇らしげにして。

 このフィフは、ヌイグルミの時と記憶や自己認識が地続きになって連続しており、別個体というわけでもない状態だ。俺の分身なだけあって、本体である俺を最優先に物事を考え行動するように設定してある。だというのに何故、彼女は人間を殺した? フィフは俺の分身のはずだろう。これだとまるで、俺がなんの躊躇いもなく人を殺せる人でなしみたいじゃないか。

 

 だが訳も聞かずに弾劾するのは早計だ。

 

 フィフが俺の分身として正常な判断をしたなら、二人だけ残して【天罰】の人たちを皆殺しにした理由があるはず。なんらかの処置を下すにしても訳を聞いてからでも良いだろう。

 

「……シモンズさん、ローゼンクロイツさん。お二人は少し、ここで待っていてください」

「……はい」

 

 沈痛な面持ちで頷いた二人の様子は気がかりだが、ひとまずフィフに向けて顎をしゃくり、付いてくるように促して踵を返すと彼女達から距離を置く。

 念の為シモンズ達に会話が聞かれないように気を遣い、背中を向ける。心得たように肩を寄せてくるフィフは、底の知れない不気味な笑みを湛えていて、俺は苛立ちつつも小さな声で詰問した。

 

「俺が何を聞きたいか分かっているな? 簡潔に説明しろ」

「そんなに殺気立たなくてもいいじゃない。言われなくてもそのつもりよ。私も無駄なことはしない主義なのだし、少しは信じてくれても良いんじゃないかしら」

「御託はいい」

「はいはい、怖いから睨まないで」

 

 厳しい声に肩を竦めたフィフが、ちらりと背後のシモンズ達を一瞥する。そうしてから、簡単な数式を解くかのように、理路整然と現場で起こった事態の説明を始めた。

 

「第一に、このままあの子達を帰らせたらエヒムにとって不都合なのは分かるわね?」

「……ああ」

 

 俺の所在地が【救世教団】に知られるのは困る。中級から下級の天使、信徒達は構わないが、オリジナルのフィフキエルと同等かそれ以上の実力者が揃っている、【下界保護官】の上級天使達が来訪してきたらどうなるか、結果は火を見るよりも明らかだろう。

 他の上級天使達はフィフキエルと違って弱体化してまで信徒を守らないし、油断はしていても慢心はしていない。職務に忠実だからだ。そしてもし幸運にも彼らが俺をフィフキエルだと誤認したとしても、フィフキエルとしては異常な状態である俺を天界とやらに連れ帰ろうとするのは自明。調整されたら俺は死ぬ。この体は変わらず生きていたとしても、精神性がフィフキエルのものにされるのだ。それは俺の自我が失われるという意味であり、つまりは俺という存在の死――消滅を意味する。

 

 天界とは何か。調整とは何か。詳細をフィフキエルは知らない。それが意味するのは、フィフキエルの知識を継承している俺も知り得ないということ。

 天界がどういう場所で、調整とは何かを知っているのは上級天使でも一体だけだ。それは下界保護官席次一位、【光が指し示す法】ミカイエル……ないとは思うが、もしミカイエルが俺のところに来てしまったら、終わりだ。ミカイエルの保有する天力量は、全ての下級から上級天使を含めたものに匹敵する。単純な戦闘力ならフィフキエルの実姉キミトエルと同等だが、天力量の差が桁違いであるため上下関係は決して覆らない。

 

 故に万が一がないように、俺の居場所を知られないようにするのは当然の措置ではある。

 

「だからと言って殺して良い理由にはならないだろう」

 

 何も殺すことはない。俺が東京から離れるか、日本から出て行けば済む話なのだ。俺の能力があれば言語の壁なんかないのだし、どこでだって生きていけると思う。

 俺の反駁に、フィフは真顔になって言った。

 

「私だってそれだけを理由に間引いたわけじゃないわ。第二の理由として現場の状況と、あなたの置かれている状況や環境が挙げられるの」

「状況と、環境だと?」

「環境に関してはあなたも知っているはずよね? 私の知識を共有しているんだから」

「ああ……日本は身を隠すのに最適の国だ。なんせ日本は最も【教団】の影響が薄い国だからな。どこにでも連中の目があるわけじゃない」

「ええ。だから現場の状況を聞けばあなたも納得するはずよ」

 

 納得。人を殺した理由に俺が納得するはずだ、だと?

 訝しんで先を促すと、フィフは淡々と続けた。

 

「先に言っておくと、エーリカとクリスティアナはあなたの力、『言霊』で連れ帰ってきたわ。エヒムがしているように『転移』の要領でね。だから時系列としてはさっきの話になる」

 

 言われてみれば、今のフィフは俺のコピーである。俺と同じ力を持っているのも当然だ。道理で東京に帰ってくるのが早かったわけである。

 

「私はあなたの望み通り、この子達の仕事を見守っていたわ。【曙光】の奴らが無辜の民を巻き込みながら攻撃してくるのに、苦慮しながら応戦する様子をね」

「………」

「これも先に言っておこうかしら。さっきまでいたテーマパークで、多くの人間が死んだわよ。巻き添え上等で攻撃してきてた奴らのせいで。相手は雑魚ばかりだったから、最初は民を守りながらでもあの子達は優勢を保てていたんだけど……急に強い奴が現れたから」

「……強い奴?」

 

 多くの一般人が死んだと聞かされてピクリと眉を動かすも、それに関しては特に思うこともない。

 沈痛な気持ちになるだけだ。テレビやネットで痛ましい事故を知った時のように。

 何故ならこの件に関して俺は無関係だから。酷い話だとは思う、しかし無関係な事件にまで共感して哀れんだり、憤ったりはできないのだ。あくまで他人事なのだから。

 仮に俺がいなかったとしても、使命を帯びていた【天罰】はエーリカに率いられて埼玉のテーマパークに襲来し、【曙光】と交戦していたはずである。故に俺は悪くないだろう。俺にその痛ましい事件を防ぐ力があったとしても、防いでやる義理はない。義務もない。青い正義感に身を任せられるほど、俺は聖人じゃないのだ。これはいたって一般的な感性のはずである。

 

 故に俺が気になったのは、フィフの言う強い奴だ。

 俺の分身が強いと称するということは、俺にとっても脅威に成り得る存在だということだから。

 

「ソイツは老いぼれだったわ。コートを着た紳士って感じの。ソイツは少数の悪魔を率いていて、それはもう派手にヤッてくれたわよ」

「老いぼれ……お前は何もしなかったのか?」

「ええ。私が本物のフィフキエルならともかく、身を危険に晒してまで助けてあげる義理はないし? あの子達には悪いけど、もともと死んでくれた方が都合が良いとも思っていたし。ついでにその老いぼれってば、たぶんだけどゴスペルぐらいには強かったのよ。分身に過ぎない私じゃ手に負えないわ」

「………」

 

 ゴスペルと同程度の強さの老紳士と聞いて眉を顰める。これはエヒムである俺の主観だが、上級天使フィフキエルの知るゴスペルは力を隠していると判断している……が、公にしているだけの実力でも、ゴスペルは英雄級の強者である。それなら確かに分身であるフィフの手には負えない。今の俺でも最初はロイにされたようにサンドバッグにされかねなかった。

 

「だからか。放っておいても全滅しかねかなったから、シモンズさんとローゼンクロイツさんだけ回収し撤退を選んだ、と」

「その通りよ。ゴスペルがあそこにいて、なおかつ私が手助けしたなら問題なく勝てたけど、あなたに関わる利害としてはリスクが高い状況だったの。纏めると、あの子達を生かしたままだとあなたの居場所が【教団】に露見する。身を隠すのに最適な日本から離れないといけなくなる。デメリットはそんなところね。逆にあの子達を間引くメリットは【教団】にあなたの所在が割れない、あの子達が死ぬことで与えたままだった加護が還元され、あなたの天力量が元に戻る……ってとこかしら。これだけの理由があれば、むしろやらない理由を探すほうが難しいと思うわよ?」

 

 理屈は分かる。納得もできる話だった。人命を考慮に入ず、合理性のみで下した判断であっても。

 確かに彼らが死んでいくにつれ俺の天力量は大幅に上がっていた。エヒムとして新生した直後と比べたら、今の俺の天力は五十倍近く跳ね上がっている。これだけの天力があるなら、大抵の相手は俺の『言霊』の出力を上げるだけで無理矢理にでも対処できるだろう。

 そんな明白な利益を享受していながら、フィフの行いを咎めるのは筋が通らない。だが一つだけ理解できかねることがあった。

 

「ならば何故シモンズさんとローゼンクロイツさんだけ生かして連れ帰った? 彼女達を連れ帰っている今、お前の言い分に一貫性がないように見えるぞ」

「しょうがないじゃない。【天罰】のあの子達は、力の根源があなたありきとはいえ、【教団】内でも精鋭と称するのに不足がない子達なのよ? 残らず始末するより、連れ帰って手駒にした方が有用だと思うわ。何よりエーリカとクリスティアナは、私……もといフィフキエルに対して個人的に仕える子なの。あなたか私が言えば平気で【教団】を裏切って、私達の下につくはずよ」

「………」

 

 上級天使フィフキエルに仕える一族は、ゴスペルのマザーラント一族の他にもある。シモンズがそうだし、ローゼンクロイツもそうだ。他にはあと二つ、マモンとクインスという一族もいる。

 当代のマモンとクインスは実力不足として【天罰】に入隊を認められなかったからいないが、ゴスペルやシモンズ、ローゼンクロイツだけは自分の駒だとフィフキエルなら言い切るだろう。

 その割にフィフキエルはローゼンクロイツに大して関心がないようだが。

 フィフキエルがあてにしていたのがゴスペルで、気に入っていたのがエーリカ・シモンズ。クリスティアナ・ローゼンクロイツは一応手駒の一つ程度の認識だった。

 

 俺としては手駒なんか要らない。だが要らないという思いは感情面での話であり、合理的に見るならいた方がありがたくはある。俺は再び気落ちしているシモンズ達を見遣って、嘆息した。

 自分達を残して同僚が全滅している今、彼女達の内心はどうなっているのやら。そう思いを馳せようとして、やめる。無意味だからだ。俺には彼女達を思いやる資格がない。

 

「……分かった。だが俺は彼女達の面倒を見ないぞ。拾ってきたお前が世話してやれ」

「最初からそのつもりよ。こんな形で部下を持ったらあなたの負担になりそうだもの。けど一つだけ頼まれてくれないかしら」

「社長だな。シニヤス荘に彼女達を住まわせてもらえないか相談してやる。それでいいだろう」

「ええ、頼むわね。私はあの子達に、私が堕天(・・)して【教団】から離れることを伝えておくわ。もしちょっとでも反感を示すようなら、私が責任を持って処分するから安心していいわよ?」

「……ああ」

 

 非道で、非情だと思う。

 だがフィフの冷酷な物言いに、心のどこかでホッとしている自分がいるのに俺は気づいていた。

 俺が感情的に容認できないことを、フィフが進んでやってくれるのは助かるからだろう。

 腹の中で俺は悪くないと、責任転嫁をしたがっているのだ。

 

 情けないのではなく、残酷な態度だと思う。徹底してシモンズ達の進退に関心を寄せないのは、俺が彼女達の今後に対して無関心な証拠だろう。俺が元々そういう冷たい人間だったのか、それともエヒムになったことで感性や価値観が変化してしまったのか。自身の精神状態を俯瞰してみようにも、本心ではどうでもいいなと感じていて真剣に考えられない。

 フィフがシモンズ達のもとに歩み寄るのを尻目に踵を返し、俺はシニヤス荘の一階にある女神アグラカトラの部屋を訪ねることにした。色々と話を通しておかないといけないからだ。

 

 コン、コン、コン、とノックをする。

 ガチャリと開かれた扉から、女神が輝く笑顔で迎えてくれた。

 

「おーう、エヒムやん。丁度いいとこに来たね、上がってくんな」

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 通された先は見知った和室。

 シニヤス荘というチンケなアパートに相応しくない、雅な内装の部屋だ。

 

 畳の匂いが肺を満たし、懐かしの実家を思い出させてくれる。今は遠い望郷の香りだ。

 しかし感傷的な気分にはなれなかった。その和室には見知らぬ老婆と老人がいたのである。

 

「ん……」

 

 ビリ、と皮膚の上を静電気が嘗めたような心地。老体とは思えないほど筋骨逞しい翁は、戦国時代の老将の如き迫力を醸している。眼光鋭くこちらを見る視線は刃物のようで身構えてしまった。

 反面、翁とは正反対に存在感が薄い老婆。着流し姿の翁とは異なり、上品な和服に身を包んでいる。こちらは人の良さそうな雰囲気であり、縁側で猫を愛でていそうな空気を纏っていた。

 

「紹介すんな? この老いぼれ共はあたしの仲間、【曼荼羅】の初期面子よ」

 

 後ろから肩に手を置いてきた女神アグラカトラが、にかりと笑いながら言った。

 

「爺の方は坂之上信綱。婆の方は勅使河原誾。オマエとコイツらにゃ上下関係なんざ無ぇから、普通にドついてもええけんな?」

「おう、儂が坂之上よ。お誾共々老い先短けぇから、長い付き合いは期待できんがよ、せっかく縁のできた人でなし仲間だ……精々愉快に絡んでくれや」

「………」

「ああ……すまんねぇ、坊や。いやさお嬢さんかな。ともあれ、この老害の言の葉は真に受けんで聞き流してええよ。ウチは主神殿のご紹介に与った通り、勅使河原って婆さ。よろしく頼むよ?」

 

 坂之上に人でなし呼ばわりをされ、咄嗟になんと返したものかと言葉に詰まると、勅使河原が自然な形でフォローを入れてくれた。俺はそれで気を持ち直せて、二人に対して会釈をする。

 

「先輩方に先に挨拶をさせてしまい申し訳ありませんでした。私はエヒムといいます。【曼荼羅】へは先日入社させていただいた者です。なにぶんこの業界での経験は浅く、右も左も分からない未熟な若輩者ですので、どうぞご指導ご鞭撻の程よろしくお願いします」

「止せ止せ、儂は堅っ苦しいのは嫌いだ。そういうんが嫌で隠居しとったんだからな」

「この爺に同意すんのは癪だがウチもそうだよ。そもそもウチらは人様から敬われるほど上品に生きてきちゃいない。ついでにお前さんの流儀に合わせて言うなら、ウチらはここの社員じゃなくてお客様みたいなもんさ。正社員第一号はお前さんってことになるね」

「……そうなんですか、社長?」

「んぉ? ぉう、まあ……そうともいう?」

 

 勅使河原の台詞を聞いてアグラカトラに水を向けると、彼女は曖昧に濁しながら肯定した。

 

 ……どうやら俺は、とんでもない零細企業に転職してしまったらしい。これは早まったかなと思いかけるが、入社してしまったものは仕方ない。それに、悲観するのはまだ早いだろう。

 というのも坂之上と勅使河原は、パッと見ただけで分かるほど莫大なエネルギーを秘めている。魔力や天力とは違う、社長の神力とも違う。おそらく人間だけが有する霊力という奴だろう。

 霊力は魔力や天力、神力や妖力などの性質を選んで出力できる万能エネルギーだ。霊力持ちの人間は魔術だろうと聖術だろうと、好きなものを扱えるのである。

 加えて彼らが漲らせている生命力の強さときたら、俺をサンドバックにしてくれた、あの忌々しいロイよりも数段格上だと感じる。……正社員が俺しかいないというのはアレだが、彼らが味方としているのなら大いに頼りになるだろう。バイトの家具屋坂刀娘も、いずれ正社員として入社してくれたらもっと頼れるようになるはずだ。

 

 コホン、とアグラカトラがこれみよがしに咳払いをした。

 

「まあええやん。エヒムがいて、この老いぼれ共がいて、刀娘っちゅう将来性抜群の子もいる。あたしらはこっからデカくなるんよ。顔合わせも済ませたんじゃし、互いに好きに絡んで、好きに遊んでくれな。ああ、もちろん危害を加えるんはナシよ? そんなことしたら除名処分にしなくちゃならんくなるし」

「はい」

「んで、こっから仕事の話をしたいんじゃけど……その前に。エヒム、外におるの、誰?」

「あぁ……今から説明します。彼女達は――」

 

 と、言いかけた直後。不意に轟音が鳴り響き、軽度の地震がシニヤス荘を揺らした。

 おいおいと思う。目をぱちくりとさせたアグラカトラより先んじて、坂之上がまっさきに立ち上がり玄関へ向かう。玄関扉を躊躇なく開け放った彼の手には、鞘に収まっている打刀があった。

 嘆息して坂之上に続くと、背後に勅使河原がつく。坂之上の肩越しに外を見ると、そこには予想外の光景が広がっているではないか。

 

「――もう。ヤるならもっとスマートにしなさいな。エヒムがびっくりしちゃってるじゃない」

「も、申し訳ありませんでしたッ! エヒム様、フィフ様!」

 

 なんと血塗れのシモンズが、フィフと俺に向け交互に頭を下げていて。

 頭部を粉微塵にされたシスターが、地面に脳漿をブチ撒けていたのだ。

 

「………」

 

 絶句する。シモンズが浴びているのは返り血だろう。

 手にしているトンファーにも、血や髪の毛が付着している。

 唖然としていると、フィフがこちらに向き直って微笑んできた。

 

「ごめんなさい。『言霊』で本音を話させたら、クリスティアナはあなたについていくことが出来ないって言ったのよ。エーリカったらそれを聞いた途端、有無を言わさず殺しちゃったわ」

 

 そんな笑顔で言うことか?

 頭痛を感じて額を押さえると、顔を見合わせた坂之上と勅使河原が笑い出したではないか。坂之上は遠慮なく爆笑し、勅使河原は袖で口元を隠し小さく含み笑っている。嫌そうな顔をしているのは社長だが、彼女は自分の庭を汚すなという思いが顔に出ていた。

 ……本当に、頭が痛い。異常者の集まりなのか、ここは?

 それとも自覚がないだけで、俺も異常者の一人なのだろうか。

 人が無惨な死体を晒しているのに、笑っている面々に対して嫌悪感も湧かないのだ。まるで親戚の子供が粗相をしたのを見て、少し困っただけのような心境なのである。

 

 アグラカトラがこちらを見る。俺は重苦しく告げる他になかった。

 

「――ご覧の通り困ったちゃんでして。そこのシスターの為に、部屋を一つ貸して頂けませんか?」

 

 社長は嘆息して、苦笑する。返事は是、だった。

 

 

 

 

 



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32,胃痛の呼び水

 

 

 

 

 

「ハッハァ、久々に見たぜぇ? ここまでガンギマってるガキはよ! ハァッハッハァ!」

 

 何度も手を打ち鳴らして爆笑する坂之上は、血の臭いが漂う凄惨な光景になど、まるで気を取られた様子がない。筋骨隆々の翁は愉快そうに歯茎を剥き、長身を反らして呵々大笑していた。

 口元を和服の袖で隠している勅使河原も、目が笑っているので喜悦を隠し切れてはいない。老婆と翁の異様な喜びように、仲間の頭部を粉砕したばかりの修道女は胡乱な目を向けた。

 

 シスターの格好こそしているが、エーリカ・シモンズは救世教を信仰する信徒ではない(・・・・)。彼女は十三体の上級天使に仕える為だけに生まれた奉仕一族、つまりは生粋の下僕(スレイヴ)なのだ。

 

 マザーラント、シモンズ、ローゼンクロイツ、マモン、クインス。この五つの一族を品種改良の末に育て上げたフィフキエルは、それぞれの一族にとってはまさしく生みの親、あるいは神なのである。流石に神と呼んで崇めるのは禁忌だが、事実として主が忠誠を捧げているから神の教えにも忠実なだけで、主が堕天するというのなら地獄の底まで共に堕ちるのが彼らだった。

 【教団】の信徒としては当然失格だ。処刑されるのが道理の不敬さである。だがそれが赦されているのが十三体の上級天使に仕える六十五の一族であり、その過剰なまでの依怙贔屓こそが彼らの末路を表していた。――究極的に言うと、彼らは非生物(・・・)なのである。

 

 もちろん肉体は人間のものだ。魂もある。だが彼らは死後、一切の慈悲なく消滅する(・・・・)のだ。

 死んで地獄に堕ちるでも、天国に導かれるでも、下界を彷徨うでもなく、消え去ってしまう。

 救世教の定義として、そうしたものは生物ではなく道具だとされていた。

 

 そう、彼ら奉仕一族は人間ではなく、道具に過ぎないと定義されているからこそ贔屓を赦され、神ではなく上級天使という持ち主を信仰する不敬が容認されているのだ。人ではない道具になど、信仰という崇高な祈りを持つ資格はない、といったところだろう。

 

 だが、上級天使の中でただ一体、フィフキエルのみは自らの道具に例外的な処分を下している。

 フィフキエルはその称号通りの愚考を働かせていたらしく、死して消滅を待つ身となった道具の魂を回収し、自身に取り込んでいたのだ。フィフキエルが何を考えそうしていたかはともかく、それが意味するのは天国への導きだ。すなわち救いである。

 上級天使は一万年に一度、天界へ帰還する義務がある。その際に死した奉仕一族もフィフキエルと共に天界の門を通り、天国に住まうことを赦されることになるのだ。死後には消滅しか残されていないモノ達にとって、これがどれほどの救いとなるのか……仮に主が堕天したとしても、行き先が天国から地獄に代わるとはいえ、消滅だけはしないで済むのは同様である。

 

 故にフィフキエルに仕える奉仕一族は、他の上級天使に仕える奉仕一族よりも格段に熱気を帯びている。高い士気を保持している。異常極まる忠誠心を捧げている。

 

 フィフキエルの存在こそが彼ら奉仕一族にとって唯一の救いだからだ。

 そしてそうであるからこそ、エーリカには何一つとして理解が出来ない。なぜクリスティアナがフィフキエルという至高の主に付き従えないのか、と。

 理解できない故に、そして主への従属に否と答えた故に、エーリカは一瞬の躊躇いすらなく、刹那の間に殺意を滾らせクリスティアナを撲殺した。これはもはや自然の摂理とすら言えること。彼女の価値観で言えば、名も知らぬ翁に笑われる謂れなどない。

 

 不快げに翁を睨んだエーリカは、トンファーにこびり付いていた血痕と髪の毛を振り払い、翁の巨躯や霊力の強さに怖じけづくことなく問いを投げた。

 

「ご老人、なぜ笑っているのです」

「あぁん? 何言ってんのか分かんねぇな。日本にいるんなら日本語で喋るんが礼儀だろが」

「……言葉が通じていないのですか? 困りましたね……どうしましょう」

 

 片方は英語を知らず、片方は日本語を知らない。マルチリンガルも珍しくない世の中とはいえ、言語の壁は依然として厚いままだ。それを見兼ねたわけでもないだろうが、エーリカに対して坂之上の言葉を伝えるべく口を開いた者がいた。女神アグラカトラである。

 日本の古き神である神性とはいえ、神は神。神に言語の壁などない。故に、アグラカトラは笑顔で友好の意を示しながら親切に通訳してやったのだ。

 

「やぁ、忠実な下僕たる誉れの人。あたしはアグラカトラ、エヒムの仲間だ」

「む……私はエーリカ・シモンズ。我が主の仲間……新たな同盟者であるとは聞き及んでおります。アグラカトラ殿、私の如き未熟者にまでお声掛けいただき、心より感謝致しましょう」

「お、礼儀正しい娘じゃね。あたしそういう娘ぉ大好きよ。じゃけぇ教えちゃるけど、このクソジジイはな……今、オマエん忠誠心を笑いおったんよ」

「……なんですって?」

 

 柳眉を逆立てるエーリカを見て、咎めるようにエヒムが口を開こうとするのを、アグラカトラはまあ待てとばかりに身振りで制した。

 エヒムにも言語の壁はない。故になぜ嘘を吐くのか理解できなかった。だがアグラカトラはあくまで堂々とエーリカへ讒言を囁くばかりである。

 

「オマエは躾のなってない犬やね。人様んとこの庭を汚すなんて、オマエの飼い主は道理っちゅうもんを弁えてない野人なんか? って。恥じゃ思うんなら飼い主連れてこい、犬っころの代わりに掃除させちゃるってさ」

「……貴様」

 

 エーリカが殺意を秘めた目で坂之上を睨む。自分はともかく、主まで引き合いに出して侮辱するとは何事だ。あまつさえ至高の主を野人と例えるだと? 万死に値する。

 突然向けられた殺気に、しかし坂之上は全く動じずアグラカトラへ問い掛けた。

 

「おう主神殿よ。この小娘になに吹き込みおった?」

「楽しいこと。ほら、笑顔で手ぇ振っちゃりぃ。この娘も早く遊んでって誘っちょるやろ?」

「……ならいいか! おうおうガキぃ! こっち来いこっち!」

 

 一瞬考え込んだ坂之上だったが、すぐに思考を放棄したらしく、エーリカを笑顔で手招いた。

 それを挑発と見做したエーリカは無言で青筋を浮かべる。一応怒りを抑えようとはしたのだろう、だが堪え切れなかったのかトンファーを握る手が震え、エーリカは小声で宣言した。

 

「……不衛生な髭面だな。不細工な畑のようだ。綺麗に耕して、少しはマシにしてやろう」

「ぉおうっ? ハッハ、なかなか良い踏み込みしてんなぁ、ガキぃ!」

 

 地を蹴り音速で踏み込んだエーリカがトンファーで殴り掛かるのに、打刀の鞘で受け止めた坂之上が陽気に笑った。漲る殺気に身を任せて怒涛のラッシュを仕掛けるエーリカは、笑いながら逃げに転じた坂之上を追っていく。やがて二人が遠ざかった頃に、アグラカトラは一度パンッと手を打ち鳴らして空気を変えた。あたかも何事もなかったかのように。

 

「そんじゃ仕事の話と洒落込もうよ」

「――いや。社長、あの二人は?」

「ええんよ別に。あのジジイはおったらおったでいらん茶々ばっか入れてくっし。あの娘はあの娘でなんだか落ち込み気味じゃったし。遊んどきゃそのうちスッキリして帰ってくるじゃろ」

 

 呆れながら指摘したエヒムだったが、意外と理知的な返事に納得した。

 坂之上の人柄を知らないエヒムだが、アグラカトラが言うなら仕事の会議中でも騒ぐ人なのだろう。それなら席を外してもらった方が良いし、エーリカも気落ちしていそうではあったから気晴らしをするのもいいかもしれない。エーリカは自分を残して仲間が全員死んだばかりなのだ、気を遣ってやった方が良いに決まっている。

 そうやってエヒムが無理にでも自分を納得させていると、勅使河原が薄く笑んだまま女神アグラカトラへと伺いを立てた。

 

「ま、それはそれとして、仕事の話をしようってのに血の臭いがするんは嫌だねぇ。片付けちまうが構わないかね? 主神殿」

「おお、ええよババァ。好きに(・・・)して」

「そんじゃちょっとばかり失礼するよ」

 

 和服の裾を捲り、人差し指を目の前で立てた勅使河原が瞬きの間に霊力を練る。そして人差し指を修道女の死体に向けるや否や、彼女の足元から影が伸びたではないか。

 

「忍法・影送り」

 

 まるで獲物を飲み込まんと舌を伸ばした蛙。一瞬にして獲物を絡め取って飲み込んだかのように、勅使河原の影は死体を取り込んでしまった。

 異様な現象である。血の一滴、肉片の一つも残さず綺麗に消し去ったのだ。エヒムは目を細めて老婆の業を見ていたが、とうの勅使河原は素知らぬ顔で引き下がっていった。仕事の話ならどうぞご勝手に。口は挟まないから勝手に始めてくれ――そう態度で示したのだ。

 後を引き継いだのはやはりアグラカトラ。彼女は存在感の弱い女神であり、声を発していないと姿を見失いそうである。自己主張の塊のような個性を持っているのに可笑しな話だ。

 

「そっちの別嬪さんはエヒムの影ってことでええんよな?」

「ええ。余計な口出しはしないから、さっさと話を進めてちょうだい」

「ん。まず直近に起こり得る、特大イベントの告知をすべきじゃな。――このままだと日本は滅亡する!」

 

 デデドン! という擬音まで口に出して言ったアグラカトラに、エヒムは眉を顰めた。

 

「いきなりですね。どういうことですか、社長」

「情報化社会の弊害よ。東京での事件は一週間以内に全世界に知れ渡る。埼玉の件もすぐに広まると思うんよ。そうなるとな、まあ過激な奴らがログインしてくるのはほぼ確実なんよな。この過激な奴らってのにあたしは心当たりがあるんじゃけど、まだ若いエヒムや知識の継承元のフィフキエルも知らんはず。なんせフィフキエルよりもずっと古い奴らじゃし。ソイツらが動くっちゅうことは【輝夜】んとこもてんてこ舞いさせられるし、日本が戦場になるんは確定じゃから余波とかで日本沈没不可避の流れが来ちょるんよな。あたしは日本が滅ぶんはまあええとは思うけど? 流れに乗るだけっちゅうんはつまらんし、敢えて流れに逆らおう思うとるんじゃけどな。そうするんにもちぃとばっかし足らんモンが多すぎる。んなもんで、その足らんモンをなんとかせんといかんわけ。ここまではオーケーか?」

 

 流石はアグラカトラ、喋り出すと止まらない。途中で何度か口を挟もうとしたエヒムだったが、あまりの情報量にそんな隙は見い出せなかった。

 エヒムは嘆息した。話が急過ぎるし、事がデカすぎる。そのせいで深刻に受け止められず真実味も得られないままだ。しかしひとまずアグラカトラから出された情報を整理して首肯しておく。

 

「はい、オーケーです。その足りないものというのは人手だという理解でいいですか?」

「うん。流石エヒム、ちゃんと話を理解してくれちょるね」

「何が流石ですか。【曼荼羅】の正社員は私だけなんでしょう? 幾らなんでも頭数が足りないのは明白です。人員の補充は急務としか言えません」

「そ。んなわけで呑気に求人募集しとるわけにもいかんのよな。じゃけぇね、あたしは今のあたしンとこみたいな弱小ギルドを糾合したいんよ。あわよくば最大手の勢力の一部を取り込みたい。そこでエヒムには弱小ギルドんとこに足運んで、ウチんとこの仲間にしてもらいたんよね。オーケー?」

「ノー。私も営業の経験はありますが、その件を成功させられる自信がありません。やれと言われたらやりますが、失敗は目に見えてるでしょう」

「やっぱりぃ? あたしも無茶言ったなとは思うんじゃけどね。弱小言ぅてもあたしの【曼荼羅】より規模の小さいとこなんかないしなぁ。じゃあどうすんのよって話にならん?」

 

 アハハと快活に笑う女神の様子に、またしても嘆息させられるエヒムであった。

 日本滅亡は確定であるなんて言っているのに、まるで緊迫感がない。どうしたものかと真剣に悩んでいる様子がないのだ。組織のボスがそんなだと、下の者もどうしたらいいと迷ってしまう。

 そもそも急に日本が滅びると言われて、本当にそうなると信じられはしないだろう。エヒムがフィフを一瞥すると、彼女も肩を竦めた。どうやら思考を放棄しているらしい。

 

 仕方ないのでエヒムは自分の頭で考えた。日本が滅ぶ、日本列島が海の底に沈没する原因に成り得るものを脳内で列挙してみたのだ。

 

 まずは【曙光】の件。人造悪魔などというものを作り出し、人工異界まで容易に確立する技術も開発してのけている。不穏な気配を察知した【教団】が、意図不明の企みを潰すべく仕掛けているのは身を以て理解している。【曙光】が既存の暗黙の了解を無視し、公然と一般人を巻き添えにしはじめたのがそもそもの発端である。今後も自重するとは思えない。

 次に【教団】の件。こちらは【曙光】の暴走を止めるべく動いているが、別に正義の味方というわけでもない。彼らは正義であるつもりだが、表世界が一般的に認識する正義を標榜しているわけではないのだ。彼らは彼らの正義を果たすために、最後には形振り構わないようになるかもしれなかった。具体的には近日中に、日本へ中級天使までが派遣されてくるだろう。中級天使達の手にも負えない事態となれば、上級天使が出張ってくる可能性は極めて高い。

 最後にアグラカトラの言っていた過激派とやら。詳細はこの女神に聞くしかないとはいえ、彼らが東京や埼玉の件で裏世界の情報流出を重大視し、なんらかの暴力的な手を打つとして。女神の言う通り日本が戦場になれば、【輝夜】も出動して争うことになる。そうなれば三つ巴どころの騒ぎではなくなるだろう。

 

 普通に考えて、まあ、普通に日本の危機であるのは事実だ。新参のエヒムをして、机上の知識しかない身であるがそう考えざるを得なかった。

 

「ちぃとババァが口を挟んでもいいかい?」

 

 早くも行き詰まった感が場に満ちると、呆れた様子で苦笑した勅使河原が口を開いた。

 するとアグラカトラは一喝する。

 

「駄目! なわけないから言うてみ?」

「ああ。アンタら揃いも揃って発想が貧弱だねぇ。アンタはあの上級天使の後継で、しかも伝説上の救世主とおんなじ属性まで持ってるんだろう? なら手早く頭数を揃える手はあるじゃないか」

「へぇ! 冴えてるなババァ! その案採用!」

「……勅使河原さんはまだ何も言っていませんが?」

 

 嫌な予感がして声を上げると、アグラカトラは愛想笑いで濁した。

 

「しゃあないじゃん? あたしに名案なんかないし。まあとりあえず冴えたババァの案を聞こうか」

「は。東京でエヒムの坊やに救われた人間を集めりゃいいのさ。声を掛けたら何人かは絶対に(・・・)主神殿のところに加わるだろう。所詮は素人の腑抜けばかり、弱卒ばかりとはいえね、エヒムの坊やが加護を与えりゃ戦えはするはずよ。そうじゃあないかい? 主神殿」

「いいなそれ採用!」

「……本気ですか?」

 

 勅使河原の案を聞いたエヒムが、露骨に渋面を作る。全く以て気の進まない話だったからだ。

 しかし老獪な老婆はニヤリと笑んで意地悪く言う。

 

「本気よ。なんせ日本の危機なんだ。日本人に手を貸せと言ってもバチは当たるまい? 有象無象でも猫の手を借りるよりかはマシだろう? それとも他に名案があるってぇのかい?」

「……対案のない身で物申してもアホらしいですね。しかしどうやってあそこにいた人達に接触しろと言うんですか」

「それを考えて実行するんはエヒムの仕事! はいこれ決定! ギルド長命令じゃけぇな!」

「………」

 

 ニマニマと笑うアグラカトラと、ニヤニヤと嗤う勅使河原。二人に挟まれたエヒムは頬を痙攣させた。

 助け舟を求めてフィフを見遣るも、やはりフィフは素知らぬ顔をしていた。

 困った。本気で。どうしてそうなるんだと不満と不安が脳内を駆け抜ける。だが勅使河原はともかく、アグラカトラの無駄に巨大な信頼の目を向けられては断れない。恩義があるからだ。

 それに勅使河原の言にも一理はある。日本という国の危機なら、自分達だけではなく日本人の手を借りてもいいはずではあるだろう。天を仰いで熟考したエヒムは、諦めたように開口する。

 

「……分かりました。では本件は私が仕切らせていただきます。異存はありませんね?」

「おうともよ! 全部任せっからあたしを楽しませてぇな、エヒム!」

 

 無責任とまでは言わないが、ポンと全権を放り投げてくる社長に、期せずして副社長か専務にでもさせられそうなエヒムは腹を押さえた。どことなく、胃が痛くなりそうだったからだ。

 久しい感覚だ。サラリーマン時代にも味わった覚えがある。まさか人外になってまで胃痛の気配に怯えそうになるとは、まさしく鬼の目にも涙という奴だろう。……いや違うか。

 嫌な未来の足音が聞こえた気がするのを努めて無視し、エヒムは言った。

 

「明日から本気出しますんで、今日はもう休みますね」

 

 今日はもう、本当に色々と有り過ぎた。端的に言って疲れた。

 一礼してシニヤス荘の自室に戻る旨を伝えると、アグラカトラと勅使河原は笑顔で手を振った。

 

 

 

 

 

 

 

 




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33,忠実な部下は涙する

 

 

 

 

 

「望むと望まざるとに関わらず、私は動かざるを得ない。そして【晒し上げる意義(エンエル)】の探知網に掛かる可能性が出る以上は、そのリスクを減じる為の方策も取らされてしまう」

 

 シニヤス荘の二階にある俺の部屋で、俺は今後の動静に関してフィフと話し合っていた。

 ソファーに腰掛け真剣にこれからの展望を見据える俺の前に、コトンとカップを置いたフィフが対面に腰掛ける。カップからは湯気が立ち上り、コーヒーの芳醇な香りが鼻孔を衝いてきた。

 上品で、優雅で、美しい。絵画に描かれる天使よりも遥かに美々しいフィフも、典雅な所作で自身の口元にカップを近づけている。コーヒーの香りを楽しんでいるのだろう、俺もわざわざ用意してくれたコーヒーを放っておくことはせずカップを手に取った。

 

「……悪いが明日一日、お前に出張してもらう必要がありそうだ」

「ふぅん。ま、妥当な判断だと思うわよ?」

 

 口を潤して告げると、フィフは豪奢な金髪を掻き流して目を細める。白銀の瞳が愉快げに細められ、羽根の片翼だけを開くと羽先で口元を隠した。

 羽根越しにクスクスと笑うフィフは、歌うように事実をなぞる。

 

「あなたのしようとしていることは効率的ではあるけれど、広域に顔や声を晒すとなったらエンエルに見つかりかねないわ。だから私は欧米に飛んで、それとなく教会へ顔を出してエンエルの注意を引きつけないといけない。さもないとあなたが見つかりかねないもの」

「そうだ。危険ではあるが、私と同じ能力を持つお前なら上手く立ち回れるだろう」

「けど私の力は所詮、あなたのコピーに過ぎないわ。あなたの『言霊』……いえ『奇跡』の属性は、本体のあなたにしか使いこなせないものよ。唯一性が武器なのだし。私が使っても限界はすぐに来る。あまり長いこと囮にはなれないから、その点だけは留意していてね?」

「無論だ。だから明日だけでいいと言っている」

 

 タイミングを図ったわけではないが、二人同時にコーヒーを一気に呷る。

 白いワンピースのような衣を一枚纏っただけの美女。黄金の環を頭上に浮かべ、天使の羽根を背中に生やしている分身は、空になったカップを数秒弄ぶと意味深に微笑んだ。

 

「……それじゃ、私は行くけど。エーリカとはこの後で話しておいてね」

「………」

「嫌そうな顔をしないの。いい子なのよ? あの子。それに私があなたの分身に過ぎないってことはあの子も知ってる。ヘリの中であなたが言ってしまったものね。だから本体であるエヒムが話をしてあげないと不安がってしまうわ」

「……そうは言うがな」

 

 面倒を見ろと押し付けた相手が、まさか一日だけとはいえすぐいなくなるとは思わなかった。エーリカ・シモンズと対面するにしても、せめてもう少し時間を置きたいところだったのだ。

 露骨に顔を歪める俺に、フィフは諭すように優しく窘めてくる。

 

「いい? 感情面で忌避してしまうなら、理屈で納得なさい。どうあれこれからのあの子は、あなたと同じ組織で一緒に働く仲なのよ。しかも新兵を参入させていくことになったら、あの子を貴重な戦力として重宝するようになる。あなたにとって頼りになる部下になるの。そんな部下と距離を置いていてもいいと思っているのかしら?」

「……他人事だからと好き放題言ってくれる。フィフキエルはテキトーにやってただろうに」

「私、フィフキエルじゃないし? ……明後日以降は言いつけ通り、私が面倒見てあげるんだから、せめて今よりマシな関係を築いておきなさい。それがあなたのためになる。いいわね?」

 

 じゃあね、と。あっさり一時の離別を告げ席を立ったフィフが、俺と自分のカップを取って台所へ運んでくれる。そのまま玄関扉を開けて出て行った分身を横目に見送り、俺は深々と嘆息した。

 本当に溜め息の多い一日だ。

 確かに今後はシモンズも俺の部下になるのだろう、だがそうだとしても容易に受け入れられるものではなかった。何故ならシモンズには、幾らかの負い目と嫌悪感のようなものを懐いている。

 

 彼女が俺を従来の主、フィフキエルだと誤認しているのを承知で指摘していないのだ。これは明確に騙していることになるだろう。そのせいで彼女はローゼンクロイツという仲間を自らの手で殺す羽目になった。埼玉でも俺の意向や都合を汲んだフィフにより仲間を見殺しにされて、後ろから刺され殺されてもいる。俺がやったことじゃないと言い訳をするのは簡単だが、今のところ徹頭徹尾、俺の都合に振り回されている被害者がシモンズなのだ。後ろめたく思う気持ちがあるのは自然なことだろう。

 それらを踏まえた上で、簡単に仲間を……人を殺せてしまうシモンズに嫌悪感を持ってもいた(いない)。先程はそんな場合ではなかったから口や態度に出さずにいたが、気分のいいものではなかった。

 もちろんシモンズの認識上、俺に従う判断をしなかったローゼンクロイツは裏切り者であり、仲間などではないから即座に殺せたという事情は承知している。しかもそうしたスタンスも、俺が本当の主人ではないことを黙っているのだから、シモンズが悪いわけではないのも分かっていた。

 

 悪いのは俺なのだ。俺にとって、こちらに付かない判断をしたローゼンクロイツは死んだ方が都合がいいから、フィフはシモンズの凶行を止めようともしなかったのだと察しがつく。

 俺がシモンズを遠ざけたがっている理由の全ては、俺の中に負い目、罪悪感があり。反面、容易に人を殺せる精神性への嫌悪感――を、特に感じなかった自分を直視したくなかったからだ。

 そうだ。

 俺はローゼンクロイツの無惨な死体を見ても。シモンズがローゼンクロイツを殺したことに対し、心の底では全くと言っていいほど関心を懐いていないのである。

 

「………」

 

 こうして自身の精神を分析すると、全部が全部、自分のことばかりだ。他人のことなんて何も考えずにいて、自己中心的で幼稚な論理を展開している。

 俺はこんなに幼稚な人間だったのか? そんなはずはない。以前の俺は、少なくとも今よりは大人だった。だというのに今の俺は自分より若い子を、手前勝手に振り回しているではないか。

 

「………〜〜〜っ!」

 

 胸の内を掻き回し、頭皮を蛆が這い回っているような羞恥を覚える。

 ワナワナと震えさせた手で顔を押さえた。こうして一人きりになり、落ち着いて思い返さないと自覚すらできないなんて。ダサい、ダサ過ぎる。これで大人面しても説得力がないだろう。

 大の大人がこんな様でどうする。こういうのを無様というのだ。

 

「――エーリカです。エヒム様……今少しお時間をいただけないでしょうか」

 

 コンコンコン、と玄関扉を三回ノックされ、ぴたりと静止する。

 どうやら出て行ったフィフが声を掛けておいたのだろう。タイミングが良すぎる来訪だった。

 シニヨンの形に結わえていた髪を解く。さらりと肩の上に落ちてきた黄金の髪で、はたと気づいた。あんまりにも天使化しているのが自然すぎて、通常形態に戻るのを忘れていたのだ。

 数瞬、迷い。元の黒髪黒目に立ち返ると子供の姿に戻った。本音で言うと見栄のこともあり大人の姿のままでいたいが、俺の本当の姿はこれなのだ。この手足の短い子供の形態が。

 

「……ええ、構いませんよ。鍵は掛けていないので入って来てください」

「はいっ、失礼します!」

 

 畏まった様子で静かに扉を開き、キビキビとした所作で入室してきたのは、ダークブラウンの髪を短く切り揃えた修道女だ。藍色の瞳に緊張の色はなく、白皙の美貌に生気が溢れている。

 エーリカ・シモンズだ。改めて見ると、愛国心の強い軍人みたいに硬質な印象を受ける。愛国心がそのまま俺への忠誠心に置き換わるのだとすれば、なんとも居堪まれない気分にさせられた。

 彼女は入室してくるなり部屋の構造を把握し、微かに不満そうな顔をした。敬愛する至高の主に相応しくない、質素過ぎる部屋だとでも感じたのだろう。手に取るように彼女の内心が分かった。

 一般的な範囲で小綺麗にしていて、日々を過ごすのに不足はない部屋なのだが。ともあれ子供の姿の俺を見て、目を瞬いたシモンズに対し声を掛ける。

 

「話があるんでしょう。どうぞ、こちらに掛けて」

「畏まりました!」

 

 促すと、西洋的に土足で上がろうとしてくる。しかしすぐさま俺が靴を脱いでいるのを見咎めると、慌てて靴を脱ぎ部屋に上がって、俺の示した対面のソファーへと腰を落とした。

 思っていたよりも注意深く、観察力のある動きだ。座ったままの俺を待たせまいと、テキパキとした所作で腰を落とす思い切りの良さもある。加えて全身から放射される敬意の念……フィフキエルでなくても気に入りそうな振る舞いだ。特に目下の人間から慕われたいタイプの人間なら、シモンズと相対して悪い気はしないと確信できる。

 

 背筋をピンと伸ばし、両手は膝の上にキッチリ置いている。視線は俺の目をしっかりと見据え、一ミリの雑念もない瞳をしていた。まさしく、絵に描いたような純粋さが形に成っている。だからこそ逆に気圧されそうで、俺は軽く咳払いをして緊張を誤魔化した。

 

「コホン。……それで、なんの用ですかシモンズさん」

「はい。実はエヒム様の胸の内をお訊ねしたく、こうして参上しました」

 

 胸の内? 意味が分からず無表情で見返すと、彼女は真っ正直に告げた。

 

「エヒム様の分身、フィフ様よりある程度の事情はお聞きしております。しかしフィフ様のご説明は些か端的に過ぎ、エヒム様が堕天を決意なさった所以は把握できておりません。このまま事情の把握を怠っては、今後私の不出来な行いによりエヒム様の思惑を妨げる結果に繋がる可能性もあると愚考しました。故に深遠なるお考えの一端を、この身に教示していただきに参ったのです」

「………」

 

 シモンズの言葉を、俺は俺なりに受け止めて意訳してみると。上司や会社の企画・方針を理解できていないから、きちんと説明してほしいというわけだ。

 なんてデキる女なんだ。まだ20歳そこそこに見えるのに、社会人としての心得をきちんと具えているとは……お蔭で相互の情報伝達を怠っている、俺の情けなさが際立っている。

 まともだ。シモンズは、かなりまともである。だからこそ心苦しい。しかし正直に全てを話すわけにはいかない俺側の事情も……ああ、いや……女々しいぞ、俺。何を無様な言い訳ばかり重ねている。腹を括るべきだ。いつまでも騙して上司面するなど、そんな恥知らずな真似をしては心が腐ってしまう。人と対するなら誠実さを忘れてはいけないはずだ。

 

 誠実であれ。誰よりも自分のために。自らにそう言い聞かせて意を決し、口を開いた。

 

「失礼ですが逆に訊ねます。シモンズさんはどのような話を聞いているのですか?」

「はい。御身が【教団】より離反し、今後は独自に行動する、その道に同道することを許すとフィフ様は仰りました。そして今後はあなた様をエヒム様、分身の御方をフィフ様と呼ぶようにとも」

「……それだけですか?」

「はい」

「……それをローゼンクロイツさんは拒んだ。だから殺したと」

「はい。それが何か? ……あ、今少し己の罪深さを思い知らせてから天誅を下すべきでしたか?」

「いえ……」

 

 衒いなく、淀みなく、疑いなく。まっすぐに応じる姿に、少したじろぐ。

 反抗は罪、従属こそ絶対という彼女の志操が伝わった。人の生死や殺害行為に、なんら忌避感を覚えていない今の俺が何かを言ったところで、シモンズには何も響かないだろう。

 まさしく愚問だったらしい。意味がなく、馬鹿丸出しの質疑だった。

 

「話を戻しましょう」

 

 俺は内心を表に出さない。不安はなかった、フィフが何も言わずにいたからだ。おそらく大丈夫なのだろうと自分に言い聞かせる。

 大丈夫じゃなかった場合は、覚悟を決める必要があるが。

 

「まずはじめに、私はあなたの知るフィフキエルではありません」

「………?」

 

 言った。が、反応は鈍い。いまいち理解できなかったのだろう。首を傾げてこちらの言葉の真意を探るシモンズに、俺は能う限り淡々と事実を重ねて伝えた。

 

「あなたの主人は既に死んでいます。私がエヒムと名乗っているのは、なにも【教団】から離反するから元の名を捨てるという意味ではありません。そもそも最初から別人だからです」

「……申し訳ありません。私の頭はそんなにデキがよくなく、仰っていることが理解できません」

「あなたの前にいる私は、フィフキエルの力を継承した、人間の魂を持つ別人だということです。私の分身であるフィフは、あくまでフィフキエルの人格を再現したコピーに過ぎない」

 

 俺は懇切丁寧に自分が何者なのかを説明した。人間だった時の名前、フィフキエルの死因、フィフキエルが属していた組織に戻らない理由、全てをだ。

 シモンズは黙って俺の話を聞いた。ゆっくりと俺の話を飲み込み、理解しようとしている。

 

「その上であなたに問います。あなたは私をどう思いますか? 本音で話して下さっても構いません」

 

 ここまで話したが、もしも(・・・)の場合はあまり考えない。

 なるべく何も考えず、頭を空にしてシモンズの反応を待った。

 

 数秒の沈黙が俺とシモンズの間に横たわる。たかが数秒が、いやに湿っていた。

 

 湿っている……? なんだ、と思う。重いのではなく、軽いのでもなく、湿った空気感。

 徐々に困惑が俺の胸中に満ちていく中、ややあってシモンズは――はらり、と落涙した。

 

「っ……?」

 

 ギョッとする。完全に予想外の反応だ。顔を伏せたかと思えばはらはらと透明な涙を流し出し、感情を沸騰させ嗚咽を溢したシモンズが、遂には蹲って号泣しだしたではないか。

 

「ぅっ……うぁぁ……ぁぁぁ……っ。ひっ、ひぃ、ぁぁあぁぁああぁ!」

「ちょっ、し、シモンズさん……?」

「わっ、わぁ……! わだじはっ! なんて無能なんだ……! ブィ、ブィブギエル様ぁ……!」

 

 濁点塗れで喚き、声を大にして、幼子のように泣くシモンズの様子に動揺させられる。

 なんだ、これはどういう反応だ、俺はどうしたらいい?

 どう声を掛けたらいいのかも判じられず、おろおろとしてしまう。泣いてる女性を慰めた経験なんてない、本当にどうしたらいいのだ。

 何もできずに口をパクパクさせていると、やがて涙ぐみながらもシモンズは顔を上げた。

 まっすぐに俺を見る目には、怒りも殺意もない。ただただ純然たる決意の光が宿っていた。

 

「み、見苦しいところをお見せして、申し訳ありませんでした……っ」

「え……ええ。……いえ、お気になさらず……それで、あなたは私をどう思いますか?」

「どう思うも何も、事実をそのままに受け止めたまでです」

 

 止まったと思った涙をまた流しはじめ、目を真っ赤にしながらシモンズは鼻水を啜った。

 

「ズズッ……ふぃ、フィフキエル様は、お亡くなりになられた……っ! わ、私が無能なばっかりに! それは理解っ、致しましたっ! です、が……でずがっ! だからこそ、フィフキエル様の忘れ形見であられるエヒム様にっ、私はたとえ地獄に落ちようとっ、永遠に忠義を尽くしますっ! そ、それが、私にできる、唯一の贖罪なのですぅ……!」

 

 わぁぁぁ! と。またもや号泣しだしたシモンズに、俺は呆気にとられてしまった。

 どうしよう。ちょっと、理解に苦しむ。あまりにも巨大な感情の奔流を叩きつけられ、どう受け止めたものか戸惑うばかりだ。

 似たような事例があれば理解しやすいのだが……ああ、そうだ。分かりやすい例がある。シモンズは例えるならば、戦国時代の大名に仕える家臣のようなものなのかもしれない。

 フィフキエルという主に仕える忠実な武将だ。しかしフィフキエルは非業の死を遂げてしまい、後にはエヒムという嫡男が残されている。シモンズという忠臣は、遺児であるエヒムを盛り立てる為に忠義を尽くそうとしているのだ。そう考えると、理解できる話である。

 

「……つまり、あなたは変わらず私のもとにいる、と?」

「ばいっ! わだっ、わだじは、エヒム様に、お仕えしますぅ……!」

「……私の中身は人間ですが?」

「関係、ありませんっ!」

「私はフィフキエルが望んで生んだ存在ではありません。それでも意思は変わりませんか?」

「当然、でずっ! だっで……だっで、フィフキエル様がいなぐなっで、エヒム様にもお仕えでぎなぐなっだら……わだじは、なぜ生きでるのが、わがりまぜぇん……!」

「………」

 

 流されるな。気圧されるな。冷静に、観察しろ。シモンズは嘘を吐いていないか? 俺を騙し、俺の不意を突いて奇襲をしようとはしていないか?

 まがりなりにもシモンズは【救世教団】にいたのだ。人造とはいえ悪魔という外的要因によって生み出された俺は、到底受け入れがたい存在のはず。

 そう思い、疑いの念を無理にでも持って注意深くシモンズの様子を観察するも、どう見てもシモンズが演技をしているようには見えなかった。俺の感覚的にも、信用できる気がしている。

 

 参った。

 

 どうやら俺とシモンズは、徹底的に相性が悪いらしい。客観的に信頼できる要素はないはずだが、今の俺はもう彼女をどうこうしようとは思えなくなっている。

 肩に乗っている黒髪を手で払い、俺は苦笑いを浮かべてか細い息を吐いた。

 

「……分かりました。では明日から私の部下として、私を助けてください」

「ばいっ!」

「また話をしましょう。あなたが落ち着いてから、ゆっくりと。今日はもう休んでくださいね」

「ばいっ! 失礼、じまずっ!」

 

 素直に応答して立ち上がったシモンズは、キビキビとした所作で玄関に向かい、ブーツを履いて退室していこうとする。

 そこでふと思い出したことがあって問いを投げた。

 

「……ところで坂之上さんはどうしました?」

 

 するとシモンズは振り返り、えぐえぐと泣きながら、はっきりと断言した。

 

「あの老いぼれば、いづが足腰立だなぐじで、エヒム様の眼前に跪がぜ、悔い改めざぜでみぜまずっ!」

「そ、そうですか……」

 

 どうやらあの老人は、殺意漲るシモンズを良いようにあしらったらしい。

 無事ではあるようだが、坂之上とシモンズの確執は……火種を撒いた当人、アグラカトラになんとかしてもらうとしよう。

 

 俺の部屋を後にしたシモンズを見送って、俺はぐったりとソファーに深く凭れ掛かった。

 

「……アクの強い部下は、お前だけでよかったのにな。山田くん」

 

 ポツリと無意識に漏らした名前に、俺は努めて気が付かないふりをした。

 明日から忙しくなる。俺も、もう寝よう。

 

 ――そういえば。

 

 俺はいつも寝る前に、していることがあったはずだが。

 はて……果たしてそれはなんだっただろうか。

 一瞬考え、思い出せないのなら大したことじゃないなと忘れることにした。

 

 

 

 

 

 



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第三章「神の再臨」
34,プロローグ


新章開幕。


 

 

 

 

 

 ――東京都港区を襲った怪事件より僅か数時間後、埼玉県加須市にあるテーマパークでも恐ろしい事件が発生していたそうです。

 

 ――被害者は事件発生時にテーマパーク内にいた全職員、来園者のほぼ全て……重軽傷を負った怪我人は数百人にも及んだそうです。いやぁ……これは、なんと言いますか。

 

 ――上手く言えないのも分かりますよ。これは戦後最大のテロ事件ですよ。東京での事件のこともあり同時多発的に行われた、非常に計画性の高い犯行なのではないでしょうか。

 

 ――現場からの中継があります。田辺さん、どうぞ。

 

 ――はい。わたしは今、凄惨なテロに見舞われたテーマパークに来ております。ご覧ください、普段なら来園者で賑わっていただろうテーマパークが、まるで瓦礫の山みたいになっています。

 

 ――被害者の方に話を聞くと、昨日テーマパークを襲った凶悪犯達は二つのグループに別れているようであり、片方は一般の方々を見境なく銃火器のようなもので襲い、もう一方のグループは自分達を守ろうとしてくれていたとのことです。このことから一つは警察か自衛隊のグループなのではないかと言われていますが、警察や自衛隊は関与を否定しています。

 

 ――他には何かありませんか?

 

 ――それが、東京での目撃証言と同様、悪魔のような生き物を見た、神父やシスターが自分達を守ろうとしてくれていたという話があるばかりで……。

 

 ――東京での一件もそうですが、やはり二つの事件にはなんらかの関連性がありそうですね。田辺さん、ありがとうございました。

 

 

 

 部屋の片隅にあるディスプレイがニュース動画を映している。世界的な動画共有サイトの動画だ。自動再生がオンになっているらしく、関連のある動画が次々と流れていっていた。

 整理整頓がきちんとなされている部屋だ。その中をうろうろと歩き回り、落ち着かない様子でスマホをチェックしているのは一人の青年である。

 夜が明けた。眠れない夜だった。明るい髪色に染色している青年は、夜通し友人達のグループと忙しなく遣り取りをしていたのだ。

 

「……クソっ」

 

 悪態を吐いて、スマホをベッドの上に放り捨てる。昨日の昼、あの(・・)非現実的な事件に巻き込まれてはぐれてしまって以来、どれだけ連絡をしても親友からの反応がない。

 目撃証言もなかった。いても立ってもいられず、夕方から深夜に掛けて外を走り回ったりもしたが、結果は空振りを繰り返すばかり。外ではパトカーや救急車、消防車などのサイレンが止まることなく鳴り響いていて、軽いノイローゼになりそうである。自衛隊まで出張って来ているらしく、事の重大さを嫌でも思い知らされて……しかし、気落ちしている場合ではない。

 青年は田舎から上京してきた身だ。だが親友は生まれも育ちも東京で、親友の家族とすら連絡がつかないとなると心配で堪らないのである。あまつさえ友人達のグループから入手した情報によるとだ、親友の暮らしているマンションは倒壊しているらしい。もしかすると親友の家族達は今頃……。

 

「どうすりゃいいんだよ、マジでさぁ……!」

 

 青年の名は四月一日五郎丸(わたぬき・ごろうまる)。珍しい名字と、珍しい名前だ。ゴロっちと気安く呼んでくれた親友とは、大学に入ってからの短い付き合いとはいえ妙にウマが合っていた。

 ソイツは無神経で、空気が読めず、自己中心的な奴ではあったが、五郎丸に真っ先に話し掛けてくれて、友達になって、大学で孤立しないように自分の属するグループに入れてくれた。もしも親友がいなかったら、楽しい大学生活なんて遅れていなかったかもしれない。

 そのことに恩義を感じているのかと言われたら首を傾げる。しかし五郎丸は確かに親友に対して友情を感じていた。だから無事でいてくれと、五郎丸は心の奥底から痛切に願うのである。

 

「っ!?」

 

 スマホに着信がきた。慌てて手に取って画面を見るも、親友からではない。付き合いの浅い友人の一人からだ。期待が外れて気落ちするも、なんらかの有力な情報をくれるかもしれないと思い通話に応じる。

 

「もしもしっ」

『ん、おっ! ゴローくん? おはよう! 朝早くにゴメンな!』

「いやいいよ。それよりなんだけどさ――」

『安室っちのこと? あー、グループチャットに流れてんのは見たから事情は知ってるけどさ、ゴメンけど安室っちのことは知らねーんだわ。そんなことより(・・・・・・・)、アレってマジなん?』

 

 そんなこと? 今、コイツはそんなことと言ったのか?

 愕然とする五郎丸の様子に気づかないのか、通話している相手は興奮気味に訊ねてくる。

 

『ゴローくんって事件の時に居合わせたんでしょ? ってことは見たんだよな? 悪魔と天使(・・・・・)! おまけに戦う神父とかさぁ! それってマジなんかな。マジならアニメじゃんか!』

「………」

『ゴローくん? おーい、どした?』

 

 無言で、通話を切る。腹の底から湧いて出る嫌悪感に突き動かされ、今の相手をブロックした。

 そんなこと。そんなこと……? ふざけているのか。断じて『そんなこと』なんかじゃない。港区がどれだけ悲惨なことになっていると思っている。巻き込まれた人がどんな思いをしたか想像も出来ないのか。わなわなと全身が震えて、五郎丸は壁に拳を叩きつけた。

 

「ッハァ、ハァ、ハァ……」

 

 息を荒げ、肩で息をしてしまうほどの怒りを覚えた。もし目の前にさっきの奴がいたら、ブチ切れてぶん殴るだけじゃ済ませられなかったかもれない。

 昨日の事件は、既に日本中を騒がせている。それに巻き込まれた自分と親友は、あの混乱の最中に離れ離れになっていた。我を忘れて逃げ惑ってしまったからだ。五郎丸が我に返ったのは、家賃の安いアパートに帰って来てからで、以来ずっと親友の行方を探している。

 その事を知っていて、なぜあんな軽薄に訊ねてくる? どんな神経をしてるんだ?

 ああ、確かに見た。訳の分からない化け物と、そんな化け物と戦う人達を。だがそれがどうした。現実的じゃないとかアニメみたいだとか、そういうことよりも先に、まずは巻き込まれた人の保護状況の把握が先決だろう。見知った相手が事件に巻き込まれたと知っているなら断じて他人事じゃないはずだ。こういう時に笑っているような奴なんか、もう友達でもなんでもない。

 

「……今度はなんだっ」

 

 再び着信。ただし、今度は通話ではなくメッセージだ。

 五郎丸はスマホを見る。しかしそのメッセージは差出人不明のものだった。

 

「……ああ?」

 

 普通なら目を通すこともせず、削除していただろう。しかし得体の知れないファイルを見て、なぜか五郎丸は無性に気になってしまった。

 無題。タイトルも何もなく、内容が不明なもの。動画が中にあるらしく、五郎丸は暫しの間、凍りついたように画面を凝視してしまっていた。

 

「――――」

 

 ネットリテラシーに基づいて考えるなら、すぐに削除してしまうべきだ。そう思うのに五郎丸の指はそのファイルを無意識に開いていて、中の動画を再生してしまっていた。

 我に返った五郎丸は慌てて動画を消し、ファイルごと削除しようとしたが、それよりも先に動画に映る女性を見て再び固まってしまう。

 

「え……あの時(・・・)の、お姉さん?」

 

 呆然と呟く。その動画には昨日の昼、五郎丸が親友とナンパした人が映っていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

『――10月25日、午後1時前。この日付を聞いて思い当たる事件がある方ですね?』

 

『本動画を視聴なさっているのは、あの東京都港区を襲った事件の被害者であるはず……ああ、あらかじめ断りを入れておきますと、被害者の方以外には本動画を視聴することはできません。動画共有サイトやSNSなどにアップロードすることもです。そしてこの動画は一度再生された後、データごと消去されるようになっています』

 

『どうやってと疑問を懐かれるかもしれませんが、今はお答えする気はありません。そんなことよりもまず、とても大事なことをお伝えしなければならないからです』

 

『昨日の事件現場で皆様は目撃なさったでしょうか? 東京の空を埋め尽くした悪魔の軍勢を。そしてそれを迎え撃つ人々の姿を。もし目撃していなかったとしても、現実としてあの街に刻まれた被害状況は既知であることを前提に、これから話をさせていただきます』

 

『まずはじめに、私は人間ではありません(・・・・・・・・・)。証拠は、この翼と頭上の環を見せれば充分でしょう。私は天使の身だというわけです』

 

『お疑いになる気持ちは分かります。私自身、皆さんの立場なら馬鹿げていると思うでしょう。しかし疑われては話が前に進みませんので、一つ皆さんに願います(・・・・)疑うな(・・・)と』

 

『……信じてくれましたね? では話を進めます』

 

『あの事件の真相が気になる方。今、日本がどのような状況に置かれているか知りたい方。あの悪魔はなんなのか、悪魔から人々を守ろうとしたのは誰なのか、疑問は山のようにあるでしょう』

 

『私はそれら全てに答える用意があります。ただし、無償で、無資格で答える気はありません』

 

『我々は今、共に働く仲間を求めているのです。弊社に就職し、共に働く気概を持つこと。これのみを応募資格として、面接にやって来てくださった方のみに真実を明かしましょう』

 

『給与や待遇等は面接時に改めて説明します。この場で全てを丁寧に伝えようにも、下手に動画を長引かせるわけにはいかない事情がありますので、その点に関しては申し訳なく思います』

 

『ああ……ささやかながらも、面接に応募してくださった方には特典もつけましょう』

 

『程度によりますが、私に可能な範囲で願いを叶えてご覧に入れる』

 

『私は天使です。人の願いを叶える程度、造作もありません。信じて(・・・)ください』

 

『信じましたね?』

 

『では本動画はここまでとさせていただきます。面接日時、面接を行う住所は皆様の頭の中に浮かぶようにしました。明日には忘れてしまうでしょうから、今日中に奮ってご応募ください』

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 東京都渋谷区にある三階建のアパート、その軒先まで来た五郎丸は息を呑んだ。

 

 指定された場所、指定された時間(10時)である。シニヤス荘という安っぽいアパートの前に、些か不釣り合いに見える背格好の人達がいたのだ。

 

 腰の両サイドにトンファーを提げた、スーツ姿の長身の人。フルフェイスのヘルメットを被っているため顔は分からないが、ボディラインを見る限りだと女性だと判じられる。

 その人の隣にいるのは、同様にスーツを着込んでいる背広の人。人語の限りを尽くしても語り尽くせない美貌の人だ。水気を帯びているかのように艶めいた黒髪を、何気のないハーフアップの形に纏め、そこに立っているだけなのに巨大な塔のような存在感があった。

 前者はともかく、後者の人には見覚えがある。五郎丸が昨日の昼に、身の程知らずにもナンパをした相手なのだ。彼女は五郎丸の顔を見ると意外そうに目を瞬き、次いで苦笑した。

 

「――三人目はあなたでしたか」

「え?」

 

 三人目? そう言われて辺りを見ると、私服姿の人が五郎丸の他に二人いるのが見て取れた。この異常な存在感の美女のせいで気づかなかったらしい。

 一人は童顔の女だ。高校生になったばかりにも見えるが、五郎丸はなんとなくその女が同い年ぐらいだろうなと察した。服の着こなしから年代を推察したのである。無意識に。

 そしてもう一人は、眼鏡を掛けた暗い雰囲気の少女である。

 こちらは明確に年下であり、都内の高校の制服に身を包んでいた。眉の上で切り揃えた前髪と、首筋を撫でる程度にカットされた黒髪、そして黒縁の分厚い眼鏡が特徴的だ。

 二人の女性は小柄で、華奢だった。五郎丸が隣に立つと一層目立つほどに。

 

「……他には来そうにもありませんね」

「不届きです。エヒム様からの呼び掛けに応じないとは万死に値します」

 

 腕時計を一瞥して美貌の人が呟くと、ヘルメットの人が苛立ち気味に吐き捨てた。ヘルメットの人は不機嫌そうだったが、それには構わず美貌の人が一歩前に出て、五郎丸達を見渡す。

 

「……時間ですね」

 

 たった三人かぁ、と露骨に残念がりながらも、すぐに頭を振って気を持ち直したその人は言う。

 

「早朝に発信した私の誘いに応じ、このような場所までご足労いただきありがとうございます。私に言いたいこと、聞きたいことなどもあるでしょう。しかし質疑応答をする前に自己紹介をさせてください。――私はエヒム、こちらは部下のエーリカ・シモンズです」

「ご紹介に与ったエーリカ・シモンズです。今後長い付き合いになることを期待します。以上」

 

 エーリカはヘルメットを取って素顔を晒し、軽く目礼をするとまたヘルメットを被った。

 とんでもない美人さんだ。無骨なヘルメットのせいで全く華がないが、ハリウッドの女優級である。

 戸惑いを隠せない。何が始まるというのだろう。五郎丸は何か、異様に大きな流れの上に身を晒してしまっている気がしてきたが、ヘルメット越しに強烈な視線の圧に貫かれ、なんとなく求められているものを察して吃りながら名を名乗った。

 

「お、オレは……四月一日五郎丸、です。しがつついたち、って書いてワタヌキって読みます。歳は20歳で、大学生です……」

 

 名乗ると、ヘルメットの人――エーリカの視線の圧が横にスライドした。

 ビクリとした女が五郎丸に倣い名乗る。

 

「わ、わたしは、熱海景……19歳、大学生です……」

「あの時の市民でしたね。良い名前です、励みなさい」

「は、はい……? ありがとう……ございます……?」

 

 エーリカはアタミ・ケイと名乗った女を知っていたのか、満足げに腕を組んで頷いていた。景は困惑しながら礼を言うが、励めとは何に対して言っているのだろうか。

 五郎丸と景が名乗ると、その流れで自分の番だと察したらしい少女がモゴモゴと口を開いた。

 

「ぁ……ウチは、春夏冬栗落花(アキナシ・ツユリ)で、す……17歳……」

 

 全員が名乗るとエヒムがにこやかにえくぼを作る。栗落花の声の小ささを咎めようとでもしたのか、前に出ようとしたエーリカをさりげなく制しながら。

 

「四月一日五郎丸くんに、熱海景さん、春夏冬栗落花さんですね。ようこそ、我々【曼荼羅】はあなた方を歓迎します」

 

 エヒムが微笑んでいる。彼女が有する美は、人類に表現できる域を遥かに逸脱していて、見た者の心を根こそぎ奪い取る魅力に溢れていた。

 まさしく魔性。呆然とエヒムの美貌に見入った五郎丸は、自分がとんでもなく早まったのではないかと本能的な部分で悟ってしまう。何か、途方もないことに巻き込まれるのだと。

 

 ――五郎丸の勘は正鵠を射ていた。

 

 この時三人の人間は全く想像だにしていなかったが、彼らは今後【曼荼羅】という組織の中核を成していくことになる。道半ばで斃れ、死ぬことさえなければという但し書き付きで。

 

 自身を取り巻く環境や状況を、知れば知るほど痛感していくことだろう。たとえエヒムが許そうと、状況を理解してしまった自分自身が途中下車を許さないだろう、と。

 一方通行の片道切符を掴んでしまったのだと気づくのには、今暫くの時間が必要とされる。無知なままでいられる楽な道が閉ざされたのだ。そしてそれを恨むことは誰にも出来ない。

 

 四月一日五郎丸は、世界の裏側へとその脚を踏み出してしまったのだから。

 

 

 

 

 

 

 




五郎丸と景は既に登場済みの人達。栗落花だけ新キャラです。


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35,昼に月明かりが落ちるのは

 

 

 

 

 

「――ようこそ、我々【曼荼羅】はあなた方を歓迎します」

 

 魅惑の微笑みを湛えて言ったエヒムだったが、三人の若者達が浮かべる表情は困惑一色――いや、自惚れでもなんでもなく、陶酔も入っているようだ。

 ナルシズムとは無縁であるが、客観的に見てもエヒムの美貌は人の域を超越している。人には決して有り得ない完璧なシンメトリーを成すパーツ配置と、磨き抜かれた宝石よりも端正な印象を受けるそれぞれのパーツ配色。そして目や鼻、口や耳、眉や髪質、どこを切り取って見ても文句の付けようがない完全な美を体現しているのだ。エヒムとて自分の顔でなければ永遠に見詰めていたくなるほどに、『エヒム』という人型の存在は美しい。

 故に無理もない反応なのだ。理解の及ばない話よりも、理解しやすい埒外の美の方が、自然と意識を吸い寄せてしまうもの。三人の若者達が気もそぞろな様子なのは仕方がないと言える。

 

 が、それはそれ、これはこれだ。こちらとしてはちゃんと話を聞いてもらわないと困る。

 今まで彼らが生きてきた世界とは、全く異なる条理が支配する業界へと、彼らは進出することになるかもしれないのだ。そんなところへ唐突に放り込まれて、即座に適応できる道理はない。

 たとえ日本の誇る豊富なサブカルチャーに触れていようと、現実と空想を混同しているような間抜けではあるまい。空想に憧れていたとしても、空想が現実だったと知れば、程度の差はあれ少しは動揺してしまうはずだ。その点を踏まえ、責任者として話をするべきだ。

 

「――とはいえあなた方をいきなり現場へ放り出すつもりはありません。まず我々の業務内容、勤務時間、給与などがどのようなものか口頭で説明します。その上で新人教育を行い、試用期間を設けますので、期間中に働いていく自信がなくなったならいつでも遠慮なく申し出てください。無理に引き止める真似はせず、いつでも辞職の申告を受け付けます」

 

 ここまで言って、ようやく曖昧な相槌がある。はぁ、とか。うん、とか。

 学生に対して少し事務的過ぎたかなと自省しつつも説明責任は果たそう。

 

「まず弊社での業務では拘束時間が不定です。一日、一週間、一ヶ月と休みなく働き通しになる可能性は常に付き纏います。また死傷するリスクも高く、私が言うのは可笑しな話ですが就職はオススメできません。無論ですが危険手当てや時間外労働への手当て、各種保険は充分なものをお約束しましょう。書面での契約も詰めておりますので、後ほど配布する資料や契約書にはよく目を通すことを強く進めます。また副業や学業に集中したい場合も、緊急性の高い仕事がない場合はそちらを優先して下さっても構いません」

 

 ブラックだ。いやブラックというより暗黒である。紛争地帯の企業かと思ってしまいそうだ。

 ここまでなら普通に考えてお祈り不可避だ。もちろん面接に来た側からのお祈りである。しかし若者達があまりにあんまりな話にポカンとしている今の内に、一気に畳み掛けておこう。

 

「次に業務内容ですが、これは多岐に亘ります。専門用語を交えての説明になり申し訳ありませんが、まずは近隣や遠方に発生した異界の排除、民間人に危害を加える悪魔や天使、妖怪、魔物、神仏の類い、これらを【曼荼羅】の社長の判断により捕縛、あるいは交渉、排除が主な業務内容になると思われます。状況によっては異なる対処をする必要があるかもしれませんが、その場合は現場の判断を優先しても構いませんし、私に判断を仰いでも構いません。そして最も肝心な給与面での待遇となりますが、基本は週休二日が約束されております。暇な時間も発生し、もし仕事がなければ一ヶ月間、もしくはそれ以上に休日が発生するケースもあるでしょう。弊社での業務は拘束時間が不定だというのは、こうした閑散期などがある為に存在する規定です。しかしご安心ください、たとえ年間を通して一度も出勤することがなかったとしても、月々に振り込まれる給与に変動はなく、最低でも月に三十万円は手取りで得られるように調整されております。また業務が嵩み多忙となれば、月に一千万円以上を稼ぐのも決して不可能ではありません。身の危険を顧みず金銭を稼ぎたいのなら、是非とも正社員として就職することをオススメします」

 

 自分だったらこんな説明をされて、就職します! なんて即答はできない。

 むしろなんだこの意味不明な会社!? とドン引きするだろう。妖怪だの異界だのなんだの、こんなことを馬鹿真面目に説明されては正気を疑う。

 案の定、微妙な空気にはなった。だが事前にエヒムから送信された動画を見ているからか、彼らはエヒムが天使であることを信じている。そのお蔭で正気を疑うまでにはなっていないようだ。

 

「より詳細な労働条件、雇用契約に関する話は、また個別に面接の場を設けますのでその席でさせていただきます。このまま野外で簡素に話していては、とても理解できないでしょうからね」

 

 四月一日五郎丸(ワタヌキ・ゴロウマル)熱海景(アタミ・ケイ)春夏冬栗落花(アキナシ・ツユリ)。成人しているのは五郎丸だけで、残り二人の女性にいたっては20歳未満。面接に来てくれたのはこの三人だけである。

 だが【曼荼羅】とかいう上場もしていない零細企業、常識外れの業界だという条件を鑑みれば、三人も面接に来てくれただけ快挙と言えるのではないだろうか。

 

「さて、ここまでで何かご質問は? ないようでしたら場所を移して、個別での二次面接を行おうと思うのですが」

 

 言うと、ハッと我に返ったらしい五郎丸が声を上げる。

 おや、と眉を動かし応答した。

 

「あ、あのっ! ちょっと待ってくれないっスか!?」

「はい。なんでしょうか、ワタヌキくん」

「今朝に見た動画での話なんスけど、えっと、願いを叶えてくれるって……」

 

 確かに言った。エヒムは今からか? と少し不審に感じつつも首肯する。

 まだ面接も終わってはいないのだし、別に後でもいいだろうと思うが、五郎丸は切羽詰まっているように見える。ここで仕事の話を優先するのは情に欠けるだろう。円滑に話を進める為に、また多少の好感度は稼いでおこうという打算も含めて応じることにした。

 

「ああ……いいでしょう、どうやらお急ぎのご様子ですし、今から約束通りに願いを聞きましょう。しかし事前にお話した通り、私に可能な範囲での願いにしてください」

「えっ……と、エヒムさん? に出来るかどうか分かんないスけど……その、昨日のあの事件の後、オレのツレと連絡が付かないんス。なんで、コイツが今どこにいるか教えて下さいッ!」

「は……?」

 

 そんなことでいいのか? と言い掛けて口を噤む。

 エヒムに頼らずともそのうち分かるだろうに――なんてこと、断じて口にするべきではなかった。

 友人の安否を心配する、実に素晴らしい願いであるはずだ。エヒムは五郎丸の、外見に似合わない真摯な友情に好感を覚えつつ質問した。

 

「そのツレというのは、先日私と顔を合わせた際にいた、もう一人の男性のことですか?」

「そうです! ソイツです! 名前は――」

「いや、名前は結構ですよ。少し待ってください」

 

 エヒムの記憶力は優れている。関心のない相手だろうと、一日前に会ったばかりの人間の顔はすぐに思い出せた。

 目を閉じて、『奇跡』の力を『言霊』という形にして唱える。口の中で、あの時のあの人は今どこで何をしているか知りたい、と。すると閉じた目蓋の裏に、薄く遠くの景色が映った。

 見覚えのある青年が、港区の瓦礫の山に埋まっている。しかも下半身がほぼ潰れ、右半身も瓦礫で強く圧迫されているようだ。これは死んでいるなと思いかけたが、幸いにもまだ生きてはいるらしい。生きているだけで虫の息だが、たった今自衛隊が救助したようだ。

 このままなら辛うじて生き残る目はある。だが病院に搬送されるまでに息絶える可能性はあるし、奇跡的に助かったとしても五体満足とはいかないのは見ただけで分かる。

 ここはサービスして、彼に少しばかり願いを掛けた。無事に生き長らえろ、と。ついでに回復後は後遺症なく健康になれ、と。途端に顔色が良くなるのを見届けて、エヒムは目蓋を開いた。

 

「……ワタヌキくんのご友人は港区から逃げ遅れ、瓦礫の下敷きになっていたようです。しかし安心して下さい、たった今自衛隊に保護されました。ご友人はこのまま病院に搬送されます」

「マ……マジすか?」

「本当です。信じられないなら、そうですね……一時間後に都立OD病院に電話し、件のご友人が搬送されていないか確認を取ってください」

「い、いや、信じます! 信じられます(・・・・・・)! なんでかは分かんないスけど、エヒムさんが嘘言ってるとは思いません!」

「そうですか? なら良かったです」

 

 心底から安堵した様子の五郎丸に、エヒムは不思議に思いつつも微笑んだ。

 別にこちらの言うことを全て信じろとまでは言っていないはずだが……もしや今朝に送った動画の副作用でも残っているのだろうか。

 不都合はないから別に構わないが、フェアにいくためにもクリーンな状態に戻れと願うべきかもしれない。少し様子を見て、そうするかを決めよう。

 

 エヒムは五郎丸から視線を外し、栗落花や景を見遣った。

 

 こうして五郎丸の願いを叶えたのに、彼女達の話を聞かず放置するのは公平ではない。順序が前後してしまったが、今から彼女達の願いを聞こう。

 

「アタミさん」

「は、はい……」

「それからアキナシさん」

「……は、い」

「あなた達の願いを聞きましょう。約束通り、私の力が及ぶ範囲で叶えて差し上げます」

 

 こうして言ってみると胡散臭い宗教屋のようだ。非常に安っぽく聞こえて苦笑いしてしまう。

 しかし二人とも笑ったりはせず、真剣な面持ちでいてくれた。

 景と栗落花は互いの出方を伺っていたが、ややあって景の方から先に口を開いた。

 

「あ、あの……わたしは別に、叶えてほしい願いとかがあって来たわけじゃなくて……」

「そうなんですか?」

「はい……昨日そちらのシスターさんに助けていただいたので、エヒムさんが天使様? だっていうのを聞いて……ここに来たらエーリカさんに会えるかもと思ってお礼を言いに来たんです」

「ああ、なるほど」

 

 律儀で良い子だなと感心しつつ、ちらりとフルフェイスのヘルメットを被っている女を見た。

 昨日までは修道服を着ていたのだ、シスターと天使をセットで見てしまうのは自然だろう。

 エヒムの視線を受けて前に出たエーリカが、景をジッと見詰める。しかしそのヘルメットのせいで無駄に威圧感が出ていて、景は微かに気圧されたようにたじろいだ。

 

「……シモンズさん、ヘルメットを外しなさい」

「? はい」

 

 言えば素直に素顔を晒し、ヘルメットを脇に抱える。

 なぜエーリカは正装としてスーツにヘルメットの組み合わせを選んだのだろう。エーリカはこれが好みの格好だと言っていたが、センスが独特過ぎないだろうか。好きな格好をしていいと言った手前、やめろと言いづらいが、流石にこういう時は外していてほしい。

 TPOを弁えろと厳命しておくべきかもしれないが、そもそもエーリカの出自的に一般的なTPOを知らない可能性もある。もしそうなら暇な時間を見繕い、エーリカに教え込む必要があった。

 ともあれエーリカが素顔を晒したことで言いやすくなったのか、景は深々と頭を下げた。

 

「エーリカさん、あの時は危ないところを助けていただき、ありがとうございました!」

「お構いなく。罪なき人は能う限り救えというのが今は亡き主の意向です。そして私は主の命令を果たすことに喜びを得る下僕(しもべ)に過ぎません。亡き主の望み通りに貴女を救えた……この喜びを報酬として受け取った以上、貴女からお礼までもらっては持て余してしまいます。故に感謝は不要だと言わせてもらいましょう」

「え……で、でも……」

 

 景はエーリカの物言いに困惑している。景は極めて一般的な感性で、命の恩人に感謝の気持ちを伝えたのだ。なのに独特な価値観を盾に感謝は不要だと言われたら戸惑ってしまうだろう。

 エヒムはエーリカの脇腹を肘鉄で軽く抉り、変なことは言うなと無言で制止した。するとエーリカは小さく呻いて、なんとなくエヒムの言わんとすることを察したのか言葉を足した。

 

「うぐっ……ど、どうしても私に感謝したいのなら、私が救ったその命を可能な限り長らえてください。そして善行を積み、誰からも敬われる価値ある人になるのです。貴女が徳のある素晴らしい人になれば、私も貴女を救ってよかったと誇りに思えます。いいですね?」

「は……はいっ!」

 

 これでどうですか? と、ドヤ顔でエヒムを見るエーリカ。エヒムは癖の強い奴だなと思いながらも曖昧な顔をした。ギリ及第点、といったところだ。

 しかしこっちを見ている場合ではないだろう。景はきらきらとした目でエーリカを見ているぞ。完全に眼中にナシなんて態度はやめてやれ。

 嘆息したくなるのをグッと堪え、今度は栗落花に目を遣った。すると女子高生の彼女は待ってましたとばかりに身構える。

 

「アタミさんの願いは保留ということにしておきましょう。それでは次の、アキナシさん」

「はいッ!」

「……元気があるのはいいことです。アキナシさんの願いを聞きましょう」

 

 ぱっつんの前髪、さらりと首筋を撫でる程度の後ろ髪。黒縁の眼鏡と小柄な体躯。見るからにインドア派で、暗い雰囲気の少女が目を輝かせている様は、なんというか変な圧力がある。

 エヒムが内心引いているのを知ってか知らずか、栗落花はズズイと迫ってきた。興奮しているのか小鼻を膨らませ、鼻息も若干荒くしてしまっている。

 

「あの、エヒムさんは天使なんですよね?」

「……ええ。それが?」

「そして悪魔がいて、妖怪もいて、色んな悪い奴と戦ってる人……いや天使なんですよね? そしてそして、悪い奴と戦う為にウチらに協力してほしいんですよね!?」

「いいえ」

「……あれっ?」

 

 否定を入れると、栗落花はズッコケそうになった。

 

「誤解しないでください。確かに人手はほしいですが、『協力』してほしいのではなく弊社の従業員になってほしいのです。そして従業員として加わったのなら私やシモンズさん、そして社長などの指示に従い働いてもらいます。働き手となるのですから『協力』と言っては語弊があるでしょう? 給与等での対価を与えるのですから、従業員には雇用契約に反しない程度の労働力を提供してもらいます。ですのでお客様にでもなるつもりでいるのならお帰りいただきたい。我々はあなた方を接待する為ではなく、弊社に就職してほしいからこうした場を設けているのです」

「は、はぁ……」

 

 何やら香ばしい思い込みがありそうだったので訂正する。その言動に浮ついたものを感じたのだ。

 えてしてそういう(・・・・)人は、非日常に強い関心を持ち、非日常に関わるキッカケを得たら高揚して周りが見えなくなるかもしれないな、と。自分も若ければそうなるかもしれないのだ。

 栗落花もそういう(・・・・)タイプなのかもしれない。夢を見ていると言い換えてもいい。

 仕方ないと言えば仕方ない。自分は特別なチャンスを得て、乞われて秘密組織に入るのだと思いたがる気持ちは理解できる。だがそれではいけないのだ、一度正式な雇用関係が生まれたら、通常業務には忠実に従ってもらう必要がある。従業員と会社側は対等なのだ、断じて『働いてやっている』なんて意識でいられたら困るのである。

 そうした社会人的な意識を、まだ女子高生でしかない少女に持てというのは酷かもしれない。だがたとえバイト感覚でも、しっかり働いているという意識ではいてほしいものだ。

 

 栗落花は冷水を浴びせられかけたような顔をしたが、気を持ち直したのか願いを口にした。

 

「じゃあ、就職します」

 

 えらくキッパリと言い切って、栗落花は手を差し出してきた。

 

「なので……ウチに、超能力をください」

「いいですが、そんなに早く決断しても構わないのですか? 一度話を持って帰り、ゆっくり落ち着いて考えてからでも遅くないと思いますが」

「……別にいいです、そういうの。どうせウチの家、失くなっちゃったし。みんな、死んだんで」

「………」

 

 栗落花は急に冷めた顔をして、吐き捨てるように言った。

 昨日の事件で家族と家を失くしたらしい。エヒムは言葉に詰まった。

 なんと言えばいいのか言葉を探していると、それに構わず栗落花は呟く。

 

「昨日、なんでああいうことがあったのか、なんて……割とどうでもいいんです。友達いないし、学校もなんか吹っ飛んじゃったし、まあやることなくなっちゃったんで……これからウチはどうなんのかなって、公園でぼんやりしてたら、エヒムさんの動画見て。あ、こんなことになったのって、悪い奴がいたからなのかなって、思ったんです。なら、別にいっかなって……悪い奴ブッ殺したら、パパとママも喜んでくれますよね。いや、仮に喜ばなかったとしても、ウチが喜びます。だから、ウチの全部を壊した悪い奴、ブッ殺してやりたいって、思うんです。……そういうの、ダメ、ですか?」

 

 たどたどしく言い募り、栗落花は掠れた笑顔を見せる。

 エヒムは呻いた。どうやら勘違いをしてしまったらしい、と。栗落花は確かにサブカルチャーにかぶれた趣味嗜好を有しているかもしれないが、夢見心地で遊びに来たわけではないようだ。

 明確な殺意がある。怒りがある。しかし性格上、それが表面化しにくいタイプなのかもしれない。ただし表に出にくいだけで、しっかりと恨み辛みを抱える性格なのだろう。

 暫し考慮して――エヒムの脳裏に、母や妹の顔が浮かんだ。

 これはダメだ。エヒムには栗落花を諭す言葉が見つからない。同じ立場になったら、きっとエヒムも栗落花と同様に殺意を燃やすだろう。そんな自分が栗落花の動機を否定してはならない。

 大人としてよくない道に進むなと諭すべきなのだろうが、そもそもの前提として相手は法律で裁ける相手ではない。法で裁けないのなら、個人の殺意で裁いても咎められる謂れはないだろう。

 

 もともと働く理由は人それぞれだ。やる気があるなら結構である。

 

「ダメではないですね。あなたが我々の指示に従う限りに於いて、ではありますが」

「従います。バイトですけど、働いたこともありますし。テンチョーの言うことも聞いてました。なので超能力、ください。……くれるんですよね?」

「ええ。どんな超能力がいいですか?」

 

 栗落花は高揚している。なのにどこかフワフワしていて、虚無の瞳をしていて、その上で自発的な意思の強さを宿していた。

 自暴自棄になっているのかもしれない。大切な家族を失くし、どうにでもなれと思っているのか。

 だからこんなにも思い切りがいい。

 そして行き場のない感情をぶつけられる、八つ当たりできる相手を探してもいる、と。

 

 ……ああ、ダメだ。頭の片隅で、可哀想にと上から目線で哀れんで。同時に都合のいい人材だと思ってしまう。受け皿として受け入れてやろうなどと、何様のつもりだ。

 エヒムは深刻(軽薄)な自己嫌悪に苛まれつつも、栗落花の希望を訊ねる。彼女の望み通りの力を、自分なら与えられるのだと知っているのだ。もちろん与える能力の規模や強度は、エヒムの胸先三寸で決められる為、如何ようにも管理できる自信があった。

 

 栗落花は一瞬考え込み、滴る悪意を込めて笑う。

 あどけない容貌の少女に似つかわしくない、破滅的な色気を醸した笑顔だった。

 

「じゃあ、とんでもなく痛い奴がいいです。……あ、痛いのは悪い奴だけで」

「細かいオーダーだ。ならこういうのはどうですか?」

 

 エヒムは瞬時に最適の能力に思い当たる。自身が上級天使フィフキエルから継承した、『浄化』の属性に起因した異能だ。

 ――人外の上位者は、何気ない所作で栗落花の肩に手を置いた。するとエヒムの有する『洗礼』『祝福』の力が発動し、栗落花の体を仄かな光が包み込む。

 

「わぁ……」

 

 目を輝かせて、栗落花は虚空に散る光の粒子に心を奪われ。そして唐突に彼女の脳が、自身に付加された新しい機能(・・・・・)を知覚した。

 まるで新しい手足が生えてきたような感覚。最初からあるのが自然で、当たり前のように使いこなせるという確信が芽生える。栗落花は自身から離れたエヒムを気にせず、空に手を掲げた。

 そしてその小さな手から、白い炎を燃え上がらせる。

 熱を感じない炎だ。当然である、これは栗落花が悪だと認識したモノだけを焼き払う『浄化』の炎なのだ。与えられた『祝福』により『浄化』の使い方を知悉し、授けられた『洗礼』によって彼女の体が異能に耐えられるように作り変えたのである。

 

「素敵、です……」

 

 うっとりと白い炎を纏った自身の手を見て、栗落花は陶然と呟いた。

 マジかよと五郎丸が呻く。景も信じがたい光景に目を見開いていた。人外の上位者はビジネスライクな笑みを湛えたまま、一応の筋として解説する。

 

「アキナシさん、それはあくまで私に起因する力です。ですので私はいつでもその力を取り上げることが出来ます。悪用しようとは考えないように」

「……悪い奴は、これで痛い思い、するんですよね?」

「ええ。死ぬほど(・・・・)痛いでしょうね。痛覚のあるなしに拘わらず、とにかく痛みを与えることに特化させましたから」

「なら、いいです。悪用なんか、しません。約束します」

「結構。では――」

 

 二次面接を行います、室内に場所を移しましょうとエヒムは言った。

 頭蓋の内側から、誰かがノックしているような偏頭痛を僅かに感じながら。

 コンコンコン(無責任な真似を!)コンコンコン(ふざけてんのか!)。エヒムの行為を糾弾して喚く声は、エヒムの声だった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぐちゃり。

 地に落ちたカボチャをプレス機で潰すように踵を落とし。

 

 ひゅん。

 鋭利な風切り音が野菜をスライス。

 

 ぐちゃり。

 単純作業のように踵が落ちる。

 

「あーあー、バッチィなぁ、もう」

 

 袈裟に振り払って血糊が流れ、刀身が蛍光灯の明かりを反射する。

 一房にだけ黄色いメッシュを入れた少女は、屍山血河の只中を愚痴りながら闊歩していた。

 ブーツの踵がピチャリと赤い池を踏みつけて、真っ赤にデコレーションされた高層ビルを一望する。

 一階のフロント。二階に至る通路。三階、四階、五階、六階、七階。全ての階層で、現在息をしているのは少女だけ。ここはまさしく死体だらけの死の棺桶だ。

 最上階は壁面がガラス張りになっているため遠くまでもがよく見える。港区の悲惨な景色もこれこの通り、気軽に遠望できてしまうのだった。

 

「みんな考えることは一緒なんだね。飽きてきた(・・・・・)からちゃぶ台返しでもしようっての? パンピーにまで虫さん潜ませちゃってさぁ、駆除する側の身にもなれってぇーの」

 

 ブツブツと不平不満を口走り。少女、家具屋坂刀娘は抜身の大太刀を背後に突き出した。

 ぐさりと手応え。背後から迫っていたサラリーマンの男を、顎下から脳天まで貫く切っ先。

 刀娘は振り返りもせずに大太刀を引き払い、刀身の峰で自身の肩を叩く。トントン、と。

 

「んー……これはもう、一人で頑張るのも限界かなぁ? 昼間だってのにお月様がよく見える(・・・・・・・・・)し。地上からの貢物に不満でもあるんかな? 引っ込んでりゃまだ可愛げがあるってのに、目障りったらありゃしないわ」

 

 もしかして。

 アグラカトラ様の言う祭りの主賓って、お月様のことなんじゃなかろうか……なんて。

 心の内で冗談めかして呟いてみるも、的を射ちゃってる可能性も無きにしもあらずな気がする。

 だとしたら願ったりではあるけれど。

 

「仕方ない。エヒムさんに助けてもーらおっと」

 

 流石に単独だと手に余ってしまうので、刀娘は躊躇なくヘルプミーとメールした。

 仕事中だったらごめんなさい、だ。刀娘は迫る神気を朧気に感じ取り、悲願成就の時が近いことを予感して、噎せ返りそうな血の臭いに身を浸す。

 為したのは殺人。しかれど成したのは救済。寄生虫にヤられてしまった人間は、一切の例外なく空の果てに吸われて消えるのだ。だから殺してあげるのが慈悲というものである。

 

「助けてー。このままだと東京の人達、マモを食べられちゃうよ。……一人残らず、ね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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36,幸運は災いのもと

お待たせしました。難産回です。


 

 

 

 

 

 

「バカ真面目にクソつまらんことやってんな」

 

 小指を耳の穴に突っ込んで、耳垢を穿りながら坂之上信綱は愚痴った。

 シニヤス荘は三階建だ。だが急遽エヒムが四階目を増設し、エレベーターを設置して、四階の全フロアを面接会場として整理していた。全て『奇跡』の力である『言霊』によるものだ。

 そこで現在行われている二次面接とやら。その様子は肉眼で捉えることなど能うべくもないが、常人を遥かに上回る五感を有する超人であれば、普通に会話している声を拾うなど造作もない。

 一階の女神アグラカトラの部屋で片膝を立てて寝そべり、頭を片腕で支えた姿勢でだらけている翁の愚痴に対し、ギルド長アグラカトラは苦笑いをして窘める。

 

「まあまあ、そう言うなよジジイ。エヒムは根っこは真面目な人間なんじゃ。アイツにこういうことやらせりゃこうなるっちゅうんは目に見えとったわ」

「ハッ。つまらんだけならともかくよ、やることまでヌルいとなりゃ儂も愚痴の一つぐらい吐きたくなるわい。折角の便利で融通の効く能力も持ち腐れだ。欲しい数を集めんやならんなら、強制的にあと十人は呼び寄せて、テキトーに洗脳でもカマしとけばいいだろが。あんな雑魚どもをたった三人集めただけで満足して、挙げ句の果てには自由意志で配下に加わるか選ばせるたぁヘソで茶が沸くってもんだ。なあ、お誾」

「さぁてねぇ」

 

 ボロクソに酷評する信綱に、勅使河原誾は曖昧な笑みで応じる。正座をして瞑目し、四階で行われる面接の様子を盗み聞きしながら。

 

「ウチはまあ、エヒムの坊やのすることは楽しくていいよ」

「あぁ? 楽しいだぁ?」

 

 予想外の意見に、信綱は胡乱な目を誾に向ける。アグラカトラも興味深げに老婆を見遣った。

 

「だってそうだろう? あのお嬢さん達は東京での一件を体験している。その上でエヒムの坊やの言うことを信じさせられてんだ。坊やが事情を説明しちまえば、嫌でも現実のことだと信じざるを得ない。……ならアンタの言う雑魚のお嬢さん達はこう思うだろうねぇ」

 

 ――このまま帰ったら、誰にも庇護してもらえない……ってさ。

 

「知らないでいるってのは楽なもんさ。けど人間ってのは知っちまったら後戻りできないだろう? 表の世界でなら頼りになる警察も自衛隊も、ウチらのシマじゃ全く以て役に立たないんだ。誰かの庇護もない状況で、またあんなことがあったら助かる保証はない。そういう脅威を知っちまったら……まあ、普通に考える頭と度胸がありゃ帰られはしないよ」

「ほぉ……目から鱗だな」

「だろう? 本人に自覚があるかは知らないがね、エヒムの坊やも残酷なことをするもんさ。裏の怖い世界を教えてやってんのに、ウチらの配下になんないなら守ってやらない……手ぶらで帰れと言うんだからね。クク……しかも自分の意思で【曼荼羅】に入るかどうかを決めさせるんだ、お嬢さん達に無理矢理従わされてるって言い訳もさせてやらない気なんだよ。なかなか面白いねぇ」

 

 知れば知るほどドツボにハマる。何せエヒムの配下でいられるというのが、どれほどの安心材料になるかをあの若者達は知らないのだ。

 上級天使――それも救世主の再来としての力を持つ化け物だ。こちらの世界に通じれば通じるほどに、エヒムの庇護下から離れ難くなるのは自明である。

 懇切丁寧に退路を潰し、自身に忠実な手駒を獲得する手腕は、自覚的であれ無自覚的であれ、かなり高く評価するに値するだろう。誾がそう結ぶと、なるほどなぁ、と信綱も納得した。

 アグラカトラは言われるまでもなく同じ見解を持っていたのか、誾と信綱に向けて問いを投げる。

 

「オマエらはあの三人の中で、強いて言えば誰が一番有望じゃ思う?」

 

 五郎丸という青年、景という女、栗落花という少女。

 女神の問い掛けに信綱と誾は顔を見合わせた。

 

「あぁ……? あー……お誾はどう思うよ」

「そうさねぇ。ウチからして見れば、あの栗落花とかいう小娘は論外(・・)だね」

「その心は?」

「ふん。自暴自棄になっちまってるなまっちょろい小娘なんざ、ちょっと現実にぶち当たっただけで折れちまうよ。それならまだ平和ボケしている小娘の方がマシなんじゃないかい」

「あの景ってガキか。お前の嫌いそうな、平和で人の好さそうなガキだな」

「はン。そういうアンタはどうなんだい?」

「儂は五郎丸ってのだな。ダチの為にここまで来た行動力を気に入った。どいつもこいつも才能なんざ欠片もねぇ、平々凡々な雑魚どもだがな、同じ雑魚ならあのガキが一番マシだろ」

「……真面目に答えるんじゃないよ。ウチがバカみたいじゃないか」

「ヒッヒッヒ。お前が好みで答えるんなら栗落花ってガキなんだろ? 知っとるわ、お誾が好きなイジメ甲斐のありそうなガキじゃねぇのよ」

 

 誾は小さく舌打ちして顔をそむけた。

 放っておけば延々とお喋りに興じそうだったからか、アグラカトラは手を叩きながら口を挟む。

 

「はいはい二人だけでお喋りしてんなよ。年寄りの話は長いもんじゃが、オマエらん話聞いちょったら胸焼けしちまうわ」

「ギャッヒャッヒャ! 大層な言われようだな!」

「人のこと言えるほど若くないだろう? それで、主神殿はウチらに何をさせようってんだい」

「ババアは察しがよくて助かる。ジジイ、ババア、オマエらであの人間共を鍛えちゃれ。配役はジジイが五郎丸で、ババアは栗落花な。エーリカには景を付ける気でおる」

「……あぁん?」

「………」

「文句は聞かんぞ。いつまでもオマエらを無駄飯喰らいさせとくんは勿体ない……っちゅうんは建前で、エヒムに頼まれとんのよなぁ、アタシも。新人研修よろしくお願いしますってな」

 

 心底嫌がってそうな雰囲気で、隠す気もなく面倒臭そうに顔面を歪める老人達。だがアグラカトラは決定を覆す気がなさそうだった。誾は嘆息して肩を竦めた。

 だが信綱は往生際が悪い。寝転がったままブゥッと屁をこいて抗議する。

 

(くっせ)ぇ! 内臓腐っとるんか己は!」

「生理現象だっつの。それより刀娘はどうした、ガキ共なんざ刀娘に面倒見させりゃいいだろ。未熟なガキ同士なんだ、仲良くやらせてりゃいいだろが」

「刀娘?」

 

 鼻をつまんだアグラカトラは信綱を睨みつつ、嫌味ったらしく吐き捨てた。

 

「内臓腐っとるジジイは脳も腐っとんのか? 刀娘は今ぁ害虫共の駆除で大忙しよ。そろそろ尻の締まりの悪いジジイじゃなくて、エヒムにでも便りを出すんじゃねぇの。手ぇ貸せってな」

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 人の脳に寄生する【月の虫】はムカデに似ている。細長い体と無数に蠢く脚は、多くの人の視覚にえもいわれぬ嫌悪感を与えるだろう。

 だが【月の虫】の恐ろしさは、奇怪な昆虫に似ていることには起因しない。資格(・・)ある者にのみ見て取れる昼の月、太陽と横並びに連なる不可解な満月にて生誕するソレは寄生虫なのだ。

 

 なんたる悲劇なのか。どこかの企業が有していた高層ビル、その全フロアにいた全ての男女は、老いも若きも関係なく醜い虫けらに寄生されてしまっていた。

 

 もしも寄生させたまま放置しては、被害者は輪廻転生の環に入ることもできず消滅の末路を辿り、その過程で剥き出しの神経に熱湯を浴びせかけたが如き激痛を味わうだろう。

 肉体的なものではなく、魂そのものを咀嚼される痛みは、およそあらゆる生命体に耐えられるものではない。故に、寄生された時点で詰みなのだ。(マモ)()まれる前に殺してやり、脳に寄生する虫を潰してやるのが、無力で無知な人々に対するせめてもの慈悲なのである。

 

「明日の朝刊に載っちゃうかな、これ」

 

 とはいえ、だ。殺された側に救われた自覚はないだろう。むしろ殺戮者である刀娘を恨み、憎み、莫大な無念と怨念を遺すのは自明の理だった。

 渦巻く血の臭いに交じる怨霊の気配を肌に感じつつ、刀娘は黙祷を捧げる。すっかり人殺しに慣れてしまったし、罪悪感もどこかに置いてきたが、儀礼的な弔いの作法を欠かしたことはない。両手を重ねて握り、ビル全体に漂う全ての霊に呼びかけるのだ。

 お前たちを殺したのは自分だ、と。すると全ての霊は泣きながら、怒りながら、憎みながら、悲しみながら刀娘に襲い掛かる。吸い寄せられるように刀娘の肉体に百を超える霊が吸収され、刀娘はほんの微かに顔色を悪くした。

 

「……制幽鬼符――皆さん善き来世へお進み下さい」

 

 刀娘の霊体から捻出される霊力が、掲げた彼女の右手に一枚の御札を形成する。制幽鬼符と名付けられた、怨念や祟りを鎮め、成仏させる祈りの結晶だ。

 その御札を己の胸に貼り付け、パンと音を鳴らして合掌すると、彼女の内に吸い込まれていた全ての怨霊が浄化される。御札を通して虚空に消えていく魂は安らぎ、輪廻の環に向かったのだ。

 刀娘は大儀そうに肩を回し人差し指を立てると、その指先から青紫の炎を現す。人の世である物質界にはない性質の霊的な炎だ。刀娘は自らの指先に灯った炎の濃さを確かめる。

 

「――前から思ってたけど虫の経験値って(しょ)ッパ過ぎない? バランス調整絶対ミスってるって。こんな調子じゃ次のレベルアップはまだまだ先っぽいじゃん」

 

 霊炎は刀娘の魂が有する霊力の密度、強度、総量を表しているのだ。青紫の霊炎は、レベル表記をすると150ほどか。一般人が1から10であることを考慮すると、刀娘は充分に超人の域にいる。

 だが足りない。全く以て不足している。刀娘はとある霊媒師に自らの霊体へ手を加えてもらい、殺めた命の数と質に伴い霊力を増す体質になっていたが、まだまだ目指す域は遥か彼方だ。

 求めるレベルは1000である。刀娘は自らの霊力をゲーム感覚で数値化しているが、あくまでそれは体感による皮算用に過ぎない。確実を期すなら1100は欲しいと思っていた。

 

 故に、刀娘は薄く笑むのだ。

 

「だからさぁ。あんた達(・・・・)もアタシのレベル上げ、手伝ってくんない?」

 

 転瞬。刀娘が黒いロングスカートの裾をはためかせ、身を翻したのと同時、床下から真っ直ぐに伸びた穂先が刀娘の残像を貫いた。

 疾走。革のロングブーツが軽快な足音を鳴らし、黒髪の少女はジグザグに走る。それを追うかの如く連続して穂先が刀娘を狙うが、悉くが残影を掠めるだけで命中しない。

 跳躍。壁に両足の裏をつけて着地した刀娘は、壁を蹴りながら真下に大太刀を振るった。四角く斬断されたコンクリートの床が地滑りし、重力に引かれて下の階層へと落下する。

 落ちていく四角い床に着地した刀娘は、素早く九字を切った。

 

「――青龍、白虎、朱雀、玄武、勾陳、帝台、文王、三台、玉女」

 

 手刀で空中に四縦五横の格子を描く、陰陽術の破邪の法だ。破邪の法は護身を目的とした法で、下の階層に刀娘が移動した瞬間飛来した多数の銃弾を全て遮断する結界(たて)となった。

 陰陽術に限らず、あらゆる『特別な術法』は、時代を経るごとに更新(アップデート)されている。過去の業もそのまま現代まで伝わってはいるが、過去よりも今が進化しているのが道理だ。

 故に『九字の破邪法』もまた更新され物理的な護りとしても作用する。火花を散らす結界と銃弾の鬩ぎ合いを視界のノイズと切り捨て、刀娘は素早く左右に視線を走らせ敵を視認した。

 

 人型、三。衣装は黒い戦闘服。機能的なそれは【輝夜】のもの。微かに露出する首に、赤黒いムカデのような痣がある。敵は【月の虫】に寄生された哀れな宿主か。

 得物は一人が長槍。使い手は壮年の男。痩身だが腕がやや長い。槍の柄は複合金属、穂先は見たことがない材質の幅広なもの。

 二人目は刀。一般的な打刀と同規格。ただし鍔はなく、柄もない、剥き出しの刀身と一体になっているタイプだ。いつかのどこかで見たSFアニメに登場する刀に似ている。使い手は10代半ばの少女で華奢だ。機能的な黒いヘルメットを被っており容貌は見て取れない。

 三人目は拳銃。ここまでで使用弾数は31……弾切れもリロードも無し。霊力で弾丸を形成しているようだ。拳銃自体にも肉厚のコンバットナイフが括りつけられている。使い手は逞しい肉体の老年の男。白い髪を総髪にしている。勘だが保有霊力量も一番強い。隊長格だ。

 

(――人型、三。虫の宿主。得物は槍、刀、ナイフ付き拳銃)

 

 驚いた。全員(・・)アタシより強いじゃん――雑多な情報を僅かに脳裏へ奔らせて処理し、刀娘は結界が保っている内に現代版陰陽術を行使する。 

 御札を三枚形成し、瞑目して詠唱した。

 

元柱固具(がんちゅうこしん)、八隅八気、五陽五神、陽動二衝厳神(おんみょうにしょうげんしん)、害気を攘払(ゆずりはらい)し四柱神を鎮護し、五神開衢(かいえい)悪鬼を(はら)い、奇動霊光四隅(きどうれいこうしぐう)衝徹(しょうてつ)し、元柱固具、安鎮を得んことを慎みて五陽霊神に願い奉る」

 

 古代では陰陽師が毎朝に朝日へ向かって唱えていた呪文だ。己の生活を律して四柱神の加護のもと心身を神に捧げ、五陽霊神に願い奉ります――種々の災難を退けて、幸いを齎す言霊である。

 だが現代ではより先鋭化し、一部の効能だけを任意に切り取って特化させることが可能になった。それにより刀娘は『朝日』に込められる清浄な空気を強調し、効果範囲に存在する邪なモノ、即ち【月の虫】に対して毒となる空気を散布した。そして概念的な『幸運』が自身に働きかけやすいように因果律へ干渉したのだ。

 

「がヒュっ……!?」

 

 最も強い反応を示したのは老年の男だ。当然である、格上三人を相手に全員にデバフを掛けようだなんて強欲だろう。故に狙いを一人に絞ったのだ。

 喉を押さえて苦悶し、たたらを踏んだ隊長格が苦しそうに喘ぐ。――僅かな間、最も厄介そうな敵を行動不能にした。それを見止めた刀娘は結界の内側で大太刀を肩に担ぐ。注ぎ込んだ霊力が刀身に刻まれている文言を青く光らせ、初撃に打ち込む大技の準備に入った。

 陳腐だが、必殺技だ。出せば必ず殺す技である。

 必殺技を有しているのなら、実戦で使い惜しむ刀娘ではない。対処されない自信があるなら、初撃から速攻で開陳して叩き込むのがセオリーだと信じていた。元より戦とは己の得意を押し付け合うもの――開戦したなら余計な駆け引きなど不要、格上だろうがなんだろうが寄って斬れば終いだ。

 

「――隊長ッ!?」

「うろたえるなウィンター! 隊長の解毒を優先しろ、奴は俺が対処する!」

「ッ……了解!」

 

 刀を持つ少女が一喝されるも指示に即応し、蹲る隊長格の許に駆け寄ると背中に手を置き、何やら濃密な霊力を練りはじめた。

 長槍を持つ男が踏み込み接近してくる。突き出された槍の一突きで、限界が近かった結界に罅が入る音がした。次で砕けるという確信を、刀娘と男は共有する。

 故に始動だ。刮目した刀娘は心の内で独語した。

 

(柳之流一刀礼法・『上座』の崩れ――『龍巻』)

 

 師より伝授された刀法の奥義を、刀娘が使いやすいように崩した型。家具屋坂刀娘が唯一持つ、名前を付けられた必殺の技だ。

 迅雷の如き刺突を放ち結界を破った男に、刀娘もまた大太刀を肩に担いだまま突貫する。男が迅雷なら少女は神速、刀娘の刀身は最悪の竜巻災害、最大風速94m/sを超える最大風速127m/sもの風力を帯びていた。周囲に及ぼす影響は全くの零――余計な風圧を生じさせない技量こそ見事であろう。残像すら発生しない驚異の踏み込みに、敵手である男は驚愕しながらも対応した。

 

 なんたる速度。一歩の踏み込みで長槍の間合いは潰されている。突くことも払うことも能わぬ、退いても追われて斬られるのが瞭然、ならば一度は受けて即座に反撃するのが最善手だ。

 初見ゆえに刀娘の速さへ反応が遅れたが、そのまま斬り伏せられるほどヤワではない。半身になった男は槍を斜めに立て、刀娘が大上段に振り上げた大太刀の振り下ろしを捌く。刃と槍の柄が接触した瞬間に槍を旋回させ、上半身の捻転と共に鋭い中段蹴りを見舞って刀娘の腹部を打撃し距離を稼いだ。そのまま旋回させた長槍に霊力を注ぎ、反撃の回転払いで刀娘の胴を横薙ぎにする。

 

 ――つもりでいた。

 

 決着は一瞬だった。

 一気呵成の振り下ろしは落雷の如し。引き締めた唇は無言の気合いを溜め、防御に回った男の得物に大太刀の刃を叩きつける。同時、男は不可解な手応えを知覚した。受け止めたはずの刃に重みがない、と。あるはずの重さ、手応えの行方は何処(いずこ)か。超人たる男の動体視力は、最期にその軌跡を視界に収めるも、鮮やかな颶風の行方を終端まで見届けることは能わなかった。

 少女の稲妻の如き太刀筋は、槍の柄に触れた瞬間直角に切り上げられ、長槍を握る男の指を切り落としていたのだ。刃は止まらない、駆け抜け様に刀娘は再度上段に掲げられた大太刀を振り下ろしている。大上段からの振り下ろし、からの斬り上げ、終わりに袈裟斬り。慣性を無視した魔剣の冴えはまさしく必殺。男の左肩から右腰までを刃は素通りし、大太刀を振り切った刀娘は残心もせずに疾走する。向かうは行動不能になっている老兵の許。この機に畳み掛ける腹積もりだった。

 

「ソウマっ!」

 

 老兵の背に置いていた少女の手には、霊力の淡い光が灯っていた。刀娘は目を眇める。【曼荼羅】の勅使河原誾が使う忍法に似ているが、忍法の使い手なのかもしれない。おそらく老兵を苦しめる陰陽術の毒素を抜いているらしいと看破する。

 悠長に回復を待ってやる義理はない。両手で大太刀の柄を握り締め、突撃する刀娘の先手は刺突だ。槍の間合いにも匹敵する長大な刀身が、蹲ったままの老兵を貫かんと迫る。だが刀娘の背後で鋭利な風に微塵切りにされ、跡形もなくスライスされた男の末路を見た少女が悲痛な声を上げながらも反応した。機械的な刀を握って立ち上がった黒衣の少女が迎撃のため身構える。

 刀身に纏った風の刃は維持されている。このまま敵に受け手を()い、防御不能の必殺の末路を押し付けるのだ。しかし――運良く(・・・)刀娘はつんのめって体勢を崩した。

 

「っ……!?」

 

 この階層にも刀娘が成仏させた人の残骸があったのだ。床に転がっていた誰かの腕を踏んでしまい、危うく転倒してしまう寸前で咄嗟に片手を床に付く。同時のことであった、直前まで刀娘の頭があった位置を、何者かの放った銃弾が通過していくのを察知する。

 

「あっぶないなぁ、もう!」

 

 ひやりとして冷や汗が浮かぶ。慌てて体勢を整えた刀娘は視界の隅で、拳銃弾がいとも容易くビルの壁を貫通していくのを捉えていた。放たれた軌道上には誰もいない、しかし斜め横に腕を伸ばした老兵の姿も見えている。壁に弾丸を跳ね返させ刀娘の死角から銃撃する跳弾の技を披露してくれたのだろう。発砲音も壁に弾丸が跳ね返った音もしなかったことに脅威を感じる。

 

「おまえ……!」

 

 転倒を免れたはいいものの、体勢を崩してしまっては攻撃の機は逸した。老兵が顔を上げ、苦しげに表情を歪めてはいるものの復帰は間近と判断。2対1で相手取るのはマズイ。

 体勢を整えるため床に突き刺していた大太刀を瞬時に薙ぎ払い、足元を崩壊させた刀娘は更に下の階層へと移動する。だが逃がすものかと踏み込んできた少女が片手突きを見舞ってきた。

 早い。速く、鋭い。しかし応手を誤るほどでもない。刀娘は自身の髪を括っていた髪紐を素早く抜き取ると、落下していきながら霊力を解き放ち髪紐を少女へ投げつけた。

 

「分身の術! なんちって」

 

 その髪紐は数年前に散髪した際、取っておいた刀娘の髪の毛で編んだ物だ。

 片手で印を結んだ刀娘が茶目っ気を滲ませて片目を閉じ、舌を出しながら言うや否や三体の分身が出現する。全てが刀娘と同じ姿、同じ武装を有した本物(・・)だ。十秒という時間制限付きで実体を得た分身の有用性は計り知れないものがある。

 

「小細工ッ!」

 

 一体の分身が少女――ウィンターと呼ばれていた――の刀を大太刀で防ぐ。そして残り二体の分身は本体と共に下の階層へと飛び込んでいた。

 本体と分身達は散開して別行動に出るも、全員が下へ下へと向かっていく。床を斬り、落ち、床を斬って落ちるのを繰り返したのだ。

 しかし本体はぴくりと眉を動かす。僅か一秒で足止めしていた分身が消えたのである。朧気な感覚としては、ウィンターはたったの三太刀で分身を斬り捨てたらしい。

 明確な力の差がある。必殺技を叩き込む機を逃した以上、分身三体と本体で挑んでも返り討ちにされてしまいかねない。だが刀娘に危機感はなく、むしろニヤリと意地悪い笑みを浮かべた。

 

()っよ。けど強いだけ(・・)と見た。逃げたアタシを追わなきゃなんないでしょーに、追うための時間を短縮する動きがないもんねぇ? コイツは強くても手札が少ないタイプじゃん?)

 

 なら、カモだ。格上殺しなら何度もしてきた。敵が自分より強くても、刀娘の手札は豊富である。手元にあるカードを使いこなして勝利を掴むのは得意分野だった。

 刀娘は運が良い。運勢を操ることにかけては卓越した才がある。この手の術法で、己に勝る術師を見たことも聞いたこともないほどに。

 ウィンターは逃げた刀娘を追うだろう。だが残り二体の分身を始末するまで本体の自分とは出会わないだろうという確信がある。故に刀娘の行動に迷いはなかった。

 

 下に、下に、下に。不規則に移動しながら一番下の階層に到達した頃、分身が全て斬り捨てられた。所要時間はたったの六秒。化け物じゃんと笑う刀娘はあくまで陽気だ。

 ズザッと。両脚を開いて地面を踏み締めた刀娘は、自身の首の裏に大太刀の峰を乗せ、大胆に全力の霊力を漲らせる。刀娘の気配を追って襲来したウィンターが、三階から飛び出さんとしているのと目が合ってまた笑った。少女はヘルメットを被っていて顔が見えないが、確かに驚愕の色を感じられたのだ。

 

「もういっちょっ。柳之流一刀礼法・『上座』の崩れ、『龍巻』をご覧あそばせ!」

「っ……?!」

 

 自然災害としても最大級の風速規模を自在に操る刀娘の魔剣技が、躊躇なく二度目の解放を謳う。

 果たして横薙ぎに振るわれた太刀筋は、死の棺桶と化していた高層ビルを輪切り(・・・)にした。

 飛翔した風の刃がビル一つを丸ごと微塵切りにしたのだ。果たして瓦礫の積み木となったビルは、自重に耐えられず倒壊していく。中にあった遺体ももはや判別不能だろうが、魔剣技の範囲内にいた老兵やウィンターもただでは済んでいないだろう。

 少し前までならこんな大胆な真似はしなかったが、東京や埼玉の件があったから躊躇う理由もない。どうせ他の連中も自重を失くしていく一方だろうし、自分だけ律儀に暗黙の了解を守る気はなかった。自分の命が懸かっている局面だとなおさらである。

 

「一人は殺ったし、一旦退かせてもらいまーす。おつかれぃ!」

 

 快活な笑顔で片手を上げ、軽く敬礼じみた所作を取り別れを告げる。

 刀娘は踵を返して颯爽と退却していった。人の目を避けるためだ。これだけの大破壊、騒音を撒き散らして呑気に構えているほど馬鹿ではなかった。

 あ、そういや鞘と竹刀袋、なくしちゃったなぁ……なんて反省しつつ。

 剥き出しの大太刀を担いで走る刀娘は、出来る限り人に見つからないよう気をつけたのだった。

 

「ッ……!」

 

 山のように積み上がった瓦礫を蹴散らし、無傷(・・)で這い出た少女と老兵が、刀娘が逃げ去っていった方角を憎たらしげに睨んでいるのは知らんぷりして。

 

 

 

 

 

 



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37,そうして月の姫へと刃を向ける (上)

 

 

 

 

 

 

 1+1は2となるように、至極当たり前の現実が立ちはだかった。

 

「家具屋坂刀娘! 我らの同胞の仇、ここで取らせてもらう――!」

 

 路地裏を疾駆する刀娘の行く手を阻む、三人の男たち。黒い戦闘服は革製の鎧。不本意なことにすっかり見慣れてしまった【輝夜】の戦闘員諸兄だ。

 そりゃそうなる。先程の襲撃の一件を鑑みると、彼らは明らかに刀娘を狙って襲ってきた。組織が意図して攻撃してきた以上、たったの三人しか刺客がいないと考えるのは浅はかだろう。

 急制動を掛けて足を止めた刀娘は、大太刀を肩に担いだまま苦笑する。三人ともが打刀を装備し、腰に拳銃と手榴弾を、胸元にナイフを装着しているのを確認しつつわざとらしく惚けた。

 

「あらら、こいつは魂消(たまげ)た。天下の【輝夜】様がアタシみたいな小娘になんの用なの? さっきもそうだけど、アタシはアンタ達に襲われる理由が分かんないんだけど」

 

 ――わぁーお。さっきの三人ほどじゃないけど、それでもアタシぐらいのレベルじゃん。

 流石は日本最大手の国防組織。これで単なる一般戦闘員だというのだから、層の厚さと自身の弱さにうんざりしてしまいそうだ。

 相手は刀娘の言葉に柳眉を逆立て、怒りを滲ませ糾弾する。

 

「戯言を。訳は知らないが、貴様が罪もない市民や我々の仲間を襲い、殺傷していることは調べが付いている。既に我々だけでも四十七名が、貴様によって殺害されて――」

「よせ、くだらん口舌を交わす意味はない。ここに奴がいるということは、賀島(ガトウ)隊長の班ですら取り逃がしていることになる。油断するな、全力で、早急に始末するぞ」

 

 最初に誰何し、糾弾してきていた男を制して、リーダー格らしい男が刀を抜いた。それを見て他二人も刀を抜き、刀娘に向けて殺気を放った。

 張り詰める空気の中、刀娘は吐き捨てる。言っても無駄だと分かっているから心の中で。

 

(アタシが殺して回ってんのは虫けらに寄生されてる奴だけだっての。アタシに仲間ヤられてんのを恨むんなら、しょーもない虫にヤられた自分達を呪うのが筋じゃない?)

 

 とはいえ、だ。この三人は見える位置にムカデ形の痣はないし、虫の気配もしない。つまり刀娘の標的足り得ない相手なのだが、そんな甘いことを言っていたら普通に殺される。

 残念ながらやるしかないだろう。標的じゃないからって大人しく殺されるぐらいなら、敵を殺してでも生き残るのが家具屋坂刀娘の信条だった。

 しかし悠長にしていたら増援が駆けつけて来かねない。かといって大技を使おうものなら、この三人を倒したところで追っ手は撒けないだろう。戦闘の気配を探知し損ねる手合いではない。

 せっかくここまで逃げてきたのだ。鮮やかにキメてしまいたいところではある。できるなら速攻で、陰陽術も必殺技も使わず、他の派手な手札も切らずに倒してしまいたいが……それができるなら苦労はしないわけで。あれ、詰んでない? と少女は思った。

 

 格上ではないが、格下でもない敵が三人。油断と慢心がない同格三人を向こうに回して、こちらは全力を出さずに短時間で決着を付ける……なんてことは不可能だ。

 

 そのことに気づいた刀娘は一瞬で意識を戦闘から逃走へと切り替えた。

 大太刀を正眼に構え、切っ先をリーダー格の男に向けつつ目を閉じる。五感を強化し、第六感とも言える霊体の触覚を周囲へと引き伸ばした。

 拾う音は表通りの雑多な足音やパトカー、救急車などのサイレン。通行人や公共機関の人の気配。刀娘の超人的な集中力はそれらを遮断し、必要な情報だけを取得する。

 

(アタシの方に向かってくる強い霊力の持ち主は……探知できる範囲だけで9つ。向かって十時の方向から3つ、六時の方向から3つ、三時の方向から3つ……と。うーん、退路塞がってんね)

 

 キャッチできた気配だけで9つもあるが、それだけとは限らない。刀娘の超感覚を掻い潜れる手練がいる可能性も想定できた。となると、率直に言って詰んでいる。

 遅ればせながら気づいた。

 どうやらビル一つ、中にいた人を丸ごと【月の虫】に寄生させていたのは、刀娘を炙り出す為の餌だったのだろう。そうして罠に掛かった刀娘を狙い【輝夜】の正規部隊を出してきたわけだ。

 あちゃあ。アタシって、ほんとバカ。ちょっと冷静になったら露骨な罠だと分かったのに。

 微かに悔やむも、時既に遅し。罠に掛かった哀れで愚かな獲物は狩人に狩られてしまうだろう。こうして正規部隊を堂々と送り込める以上、【輝夜】はもうダメになったのだと判断できるが、いまさらそれを知れたところでどうしようもない。

 

 しかし刀娘は絶望していなかった。なぜなら刀娘は運が良い(・・・・)

 諦めさえしなければ、必ず活路は開けるのだと確信しているのだ。

 そしてその確信を裏付けるように、聞き知った()が路地裏に響く。

 

「不穏なメールを送ってくるから何事かと思えば……これはどういう状況なんですか、家具屋坂さん」

 

 人間は身体構造の都合上、普段は真上を意識して見たりはしない。故に死角となりがちだ。

 だからこそ突如として響いた玲瓏なる声に、戦闘員達はギョッとして上を見上げ。そして刀娘は笑顔を浮かべて声の主にリアクションを返した。両手を上げての大歓迎である。

 

「やたっ! 待ってましたエヒム(・・・)さぁーん!」

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 エヒムは背中に展開した非実体翼(エネルギー・ウィング)により浮遊しつつ眼下を見下ろした。

 知己を結んだ恩義ある少女、刀娘と相対する三人の男達。どんな因縁があるのかは知らないし、どちらに非があるのかなんて知りようもない訳だが、【曼荼羅】の正社員としては……やはり自社に勤めるバイト戦士側に立つべきだろう。

 男達が突然現れたエヒムの姿を、驚愕の眼差しで見詰めたのは一瞬だけ。明らかな人外、明白な脅威を前にすぐさま警戒態勢に移り、困惑を交えながらも睨みつけてきた。

 

 この世に於いて人外の人型はほとんどが人間よりも優越した種だ。鍛錬せずとも、経験を積まずとも、ただその種に生まれたというだけで手練の戦士を容易く屠れる化け物である。

 故に警戒されて当然なのだ。不用意に先制攻撃を仕掛けないのは常識的な判断である。なんせ男達からするとエヒムは、存在すら想定していなかった未確認の仮想敵。自分達が狩りの最中に、虎の巣穴へ入り込んでしまったのだと気づいてしまえば、優秀な者ほど慎重になるものだ。通常、人外を相手にするには相応の準備と対策を練るのが当たり前なのだから。彼らにとって遭遇戦など最悪極まるのである。だから男達のリーダー格は言葉短く誰何した。

 

「……何者だ」

「これは失礼。私は――」

「エヒムさん、所属を明かしちゃダメ。事情は後で説明するから!」

「……いいでしょう。状況が理解できませんが、貴女の判断を尊重します」

 

 律儀に名乗ろうとしたところ、刀娘から制止が入る。

 何があったのか把握できないままだが、現場の判断を誤るようなバイト戦士ではあるまい。そう信じる程度にエヒムは刀娘の能力を信頼していた。

 だから失礼と弁えつつも男達へ告げる。

 

「というわけです。勝手な都合で申し訳ありませんが、この場はお開きとさせていただきたい。あなた方はどうなさいますか?」

「ふざけるな。貴様はその外道に味方する者なのだな? ならば、もはや問答無用。外道に組するならば諸共に討ち果たすまで!」

 

 遭遇戦は避けたい、情報を持ち帰り対策を練るべき。そうした後ろ向きな思考はあるものの、それを度外視してでも戦うことを男達は選んだ。

 要因は二つ。一つに、超危険人物である家具屋坂刀娘を逃がすわけにはいかないこと。二つに、戦闘に入れば間もなく増援が駆けつけてくれるだろうと判断が出来たこと。危険な選択だが、刀娘を逃がすぐらいなら冒してもいいリスクだと考えたのである。

 

 エヒムは背中に非実体翼を展開しているが、頭上に天使の環は浮かべていない。戦闘モードになっていないからだ。だから黒髪黒目のままであるし、纏う天力も微弱なものでしかない。

 男達にはエヒムの正体が分からないだろう。見たことのない翼、黒髪黒目という外見的特徴からしか情報を取得できていない。天力も表面化していないから感じ取れていないのだ。

 それでも敵と判断したなら躊躇はしていなかった、。男達は殺気も露わにエヒムを睨み、睨まれたエヒムは嘆息して天力を練り上げた。ほんの数秒だけ、身に宿る天力が瀑布の如く迸る。

 男達に戦慄する時間的猶予はなかった。

 

「『この場での遣り取りを、全てなかったことにして忘れなさい。あなた方はここで、私や家具屋坂さんとは出会わなかったのですから』」

 

 『言霊』が奔る。すると莫大な天力の発生に仰天する暇もなく、男達はぎくりと身を強張らせ、その場で立ち尽くして沈黙してしまう。呆けたように虚空を見上げ、固まってしまったのだ。

 一瞬の間を開けて、男達は自身らが抜刀していることに戸惑う様子を見せ、納刀すると何処かへと駆け去っていく。刀娘はポカンとして一連の流れを見届けて、何が起こったのかを理解すると笑いだしてしまった。

 

「……ぷっ。なにそれ、とんでもないチートじゃないですか、エヒムさん」

「自分より弱い人にしか通じませんよ。なんらかの対策をしている人や、天力とは正反対の性質である魔力の保有者にも効き目は薄い。そんな様だとチートとは言えないと思いますけどね」

「んー……? あのぉ、ちょっといいです? そのバカ丁寧な喋り方やめてくれません? アタシのことは呼び捨てでイイって、この前も言ったじゃないですか。言いましたよね?」

 

 刀娘の抗議を受けてエヒムは眉を動かす。言われてみればその通りだ、先程まで面接官をしていたから意識が仕事モードになっていたらしい。苦笑を浮かべたエヒムは刀娘の傍に降り立つ。

 

「すまん、他所様の人がいたから気を張ってしまった」

 

 刀娘の姿を見渡し鞘を持っていないのを認識すると、ピッと人差し指で大太刀を指した。

 すると刀娘の大太刀が鞘に収まった状態になる。刀身を覆う形で鞘が出現したのだ。

 

「あっ。ありがとうございます」

「……今の奴らもそうだが、随分と物々しいな。何があったのか詳細に説明してくれ」

 

 言うと、刀娘は気の抜けた笑みで口端を歪めて頷いた。

 

「もちもちですよ。むしろエヒムさんには是非とも手伝ってもらいたいっていうか? 【曼荼羅】的にも避けては通れない話になっちゃってるっていうか? 嫌だって言っても聞いてもらいます」

「もちもち……? ……ともかく、話をするにしてもここではアレだ。周りの奴らがこっちに向かってきているからな、河岸を変えよう。場所はシニヤス荘でいいか?」

「はい。ついでにアグラカトラ様にも話しときたかったんで、そこで一緒に話させて下さい」

「分かった。それじゃあ刀娘、私の手を取ってくれ」

 

 手を差し伸べる。

 刀娘は差し出されたその手を一瞬見詰め、一拍の間を開けてから自らの手を重ね合わせた。

 はわっ、スベスベだぁ! なんて感嘆する少女の声を無視し、エヒムはここに来た時と同様に空間転移を行なって、一瞬にしてシニヤス荘まで移動する。

 空間転移を経験したことはないのか、刀娘はきょろきょろと辺りを見渡して苦笑した。

 

「……やっぱズルいぐらいチートですよ、これ。なんでも出来ちゃうんですもん」

「私に言われても困る」

「あーあ、アタシもチートほしいなぁ。楽してズルしてイージーモード、そういうのって素敵じゃん」

 

 冗談めかして溢しながら、刀娘はシニヤス荘が一階分高くなっているのを見咎め首を傾げる。それからエヒムを一瞥して嘆息すると、アグラカトラの部屋へと脚を向けた。

 

「僻むのはこれぐらいにして、さっさとアグラカトラ様のとこに行きましょ」

 

 

 

 

 

 

 

 




長くなるので分割。


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38,そうして月の姫へと刃を向ける (下)

お待たせしました


 

 

 

 

 

 折角エヒムが拵えてくれたんじゃし、四階にみんな集めて話そうよ。

 アグラカトラからそのような提案を受け、急遽【曼荼羅】の面々はシニヤス荘の四階に集合した。

 増設されたシニヤス荘の四階層目は、まるで上場している企業の事務所のようで、入社希望者に面接試験を課すのに最適なフロアとなっている。遺憾ながらシニヤス荘というボロアパートには不釣り合いだが、それなりの人数が集まるのに適していると言えるだろう。

 

「………」

 

 指示通りパイプ椅子に腰掛けていた青年が、居堪れないように身動ぎする。

 彼は訳分からん動画を見たことをキッカケに、訳分からん面接を受けることになってしまった一般人の大学生である。その左右には彼同様の一般人である女性達もいた。女子高生と女子大生だ。

 どちらもが容色に優れている為、いつもなら能天気に喜んでいただろうが、生憎そんな気分にはなれずにいる。なぜなら今の彼が身を置いているのは、非日常的な世界の一幕なのだ。これから何が話し合われるのか、事情を知らない側からすると不安になるのである。

 

「そんじゃ、あたしの右腕の副ギルド長はエヒムっちゅうことにするけぇ、後んことはエヒムが仕切ってくれやぁいいよ。これも経験じゃ、刀娘の持ち込んだ一件を綺麗に畳んでみぃ」

 

 これからは頭に『元』が付くことになるであろう一般人達の不安など見向きもせず、口火を切ったのは存在感の薄い美女だった。

 彼女は【曼荼羅】の総責任者である。豊満な双丘のせいでパツパツに伸びたTシャツと、臀部がはみ出るほど丈の短い短パンを穿いた自称女神だ。

 血の色の短髪というパンチの強い出で立ちも相俟って、一組織の頭目に相応しい威厳は具わっていないように見えるが、名指しされた麗人は女神を舐め腐り侮るような態度をしていない。

 

 人界には比較対象に成り得るモノすらない、人語で為せる形容の域を超えた美貌の新副ギルド長は、女神アグラカトラの左右に座る老人達を視界に入れつつも確認を取る。

 

「……それはつまり、私を専務に任ずるということですか?」

「んぉ? おぉ……まあそんな感じ。あたしが仕切ったら詰まらんことになりかねんしな、ここは一つエヒムのお手並み拝見っちゅうことで」

「……いいでしょう。しかし社長、部下に一度任せたなら、後から余計な口出しをするのは控えてください。指揮系統の統一を遵守せず、現場の混乱を招かれては堪ったものではありませんから」

「はっきり言うなぁ。わぁっとるから安心せぇ」

 

 席配置は単純だ。四角形を描く形で設置された四つの長机、向かって十二時の方角にいるのが女神アグラカトラ。その左側で腕組みをしているのが勅使河原誾。右側で机に頬杖をついているのが坂之上信綱である。どちらも退屈そうにしていて、実に行儀が悪い。

 アグラカトラの対面にはエヒム。その隣にエーリカ・シモンズ。三時の方向にいるのが春夏冬栗落花、四月一日五郎丸、熱海景。九時の方向に一般人達は初見となる少女、家具屋坂刀娘がいた。客観的に見たらどんな集まりなのか全く分からないだろう。統一性があるのが、エヒムとエーリカがスーツ姿でいることだけで、他は全員私服姿なのだ。

 ここに来てからずっと困惑し通しで、地に足がついていない心地でいる五郎丸の様子に気づいているのか、エヒムはそちらに視線を向けて声を掛けてくれた。

 

「ワタヌキくん、アキナシさん、アタミさん」

「はっ、はい!?」

「あなた方はまだ正式に弊社との雇用契約を結んだわけではありません。この場は謂わば職場見学の一環として設けられた席です、肩肘を張らずリラックスしていても構いませんよ」

 

 そう言われて気を抜ける奴はいない。が、とりあえず形式的に五郎丸たちは返事をしておいた。

 エヒムは刀娘に視線を向ける。いよいよこの会議の本題に入るのだ。

 

「それでは家具屋坂さん、こちらの新入社員候補の方々にも分かるように、貴女の持ち込んだ事情というものを一から十まで詳細に説明してください」

「はーい。こういう形式に慣れてないんでいつも通りにやっちゃいますけど、いいです?」

「いいですよ」

「助かります。ほらアタシって花の女子高生ですし? 堅苦しいのは苦手なんですよ。嘘ですけど」

 

 砕けた態度をしている刀娘は、五郎丸達からすると他の面々より異彩を放って見えた。

 緊張感のない弛緩した表情からは、場馴れした凄みのような存在感があるのだ。とても年下とは思えないし、同年代である栗落花もまた自身とのジャンル違いをヒシヒシと感じてしまっている。

 ジャンル違いとは、住んでる世界の違いだ。表と裏、陰と陽――刀娘が新顔の三人に興味を示していたのは最初だけ。今は関心を失くしているらしく、全く眼中にもない様子で言葉を練っている。どのように話を進めるか、頭の中で形を作ってから発言する為だ。

 

「えっと、アタシの事情はアグラカトラ様とクソジジイ、クソババアは知ってるんですけど――」

「だぁれがクソジジイだクソガキ。目上のモンへの礼儀って奴を、一から百までこっとりとっくり丁寧に教え込んでやろうかぁ? あぁん?」

「凄むんじゃないよ老害。ハナタレの言うことに一々凄んでちゃ格が落ちるってもんさ」

「ウザ。キモ。死ね。――エヒムさんは知んないでしょうし、ホントに一から話しますね」

 

 条件反射的に喧嘩腰になる信綱と、それをしたり顔で窘める誾に、刀娘もまた二人に対する険悪な感情を隠さず顔を歪めた。だがすぐに気を持ち直して、丁寧な口調で語り始める。

 

「アタシのことを話す前に、まず【輝夜】の成り立ちをざっくり話したいんですが……エヒムさんはお伽噺で有名な『かぐや姫』を知ってますか?」

「もちろん」

 

 刀娘はエヒムにだけ話しかけているが、エヒムは一応栗落花や景、五郎丸の方を一瞥した。

 彼らも当然かぐや姫のお伽噺を知っているらしい。日本で最も有名なお伽噺の一つなのだから、むしろ知らない方が驚くに値するだろう。

 エヒムの明瞭なリアクションに、刀娘は苦笑いを浮かべる。まるで自嘲するかのように。

 

「実はあのお伽噺は、現実にあった奴なんです。ほら、ありがちな話でしょ? とある童話が実話を元にしたお(はな)しだった、っていうのは。そして実は実在していたその人が、今をときめく大組織の母体を築き上げたんだってことも。……ああ、チープな展開だなんて言わないでくださいね? アタシもそう思ってるんで」

「そんなこと思っていませんよ」

「ホントにぃ? まあどう思われようとどうでもいいんですけどね。で、【輝夜】を立ち上げたのはその『かぐや姫』のメインキャストで、かぐや姫に求婚していた戈作皇子(ほこづくりのみこ)なんです。色々と無茶苦茶だったかぐや姫が、唯一心を赦した(・・・・・・・)人ですね」

 

 そこまで言って、刀娘は手元にあるペットボトルに口を付け喉を潤す。

 

「ご存知の通りかぐや姫と戈作皇子は一夜を共にして結婚までしたんですが、最終的にかぐや姫は月の使者に連れ去られてしまいます。戈作皇子はそれはもう悲しんで、かぐや姫のいない世界に絶望し自殺してしまってお噺しは終わるんですが……ここからが裏側の話。戈作皇子は本当は自殺なんかしてなくて、かぐや姫を月から取り戻そうとアラビトブシ様っていう神様に祈りました。愛するかぐや姫を月から取り戻したい、どうか力を貸してくれって」

「アラビトブシ?」

「鍛冶と火事を司る火の神様です。戦争の神様とも同一視されてたりしますけど……詳しく知りたいならネットで調べたら出てきますよ? そこそこ有名な神様なんで。漢字だとこう書きます」

 

 刀娘はその細く繊細な指で、虚空に文字を描く。

 荒火土武自(アラビトブシ)

 今後重要な存在になりそうだと思い、エヒムはその名を頭の片隅に留め置くことにした。

 

「戈作皇子はアラビトブシ様の助力を得て、月の国に対抗する組織を作り上げました。それが愛する人の名前を借りた【輝夜】なんです」

「失礼。そのアラビトブシはなぜ戈作皇子に手を貸したんですか? まさか無償というわけではないでしょう」

「ところがどっこい、アラビトブシ様は無償で力を貸したんですよ。なんでかというと、アラビトブシ様は日本という土地に強い愛着があって、日本に住むあらゆるモノは自分の所有物だって考えてたんです。だから以前から何かと地上を賑わしたり、外来のモノを運び込んできてる月の国に敵愾心を持ってたんですね。憎き外敵と戦うと言う戈作皇子の言葉は、アラビトブシ様にとっては歓迎できることだったわけです。結果として戈作皇子の組織した【輝夜】が、日本最大の国防組織になったのにはアラビトブシ様もご満悦だったみたいですよ」

「……そのアラビトブシは今、どこに?」

「さあ? アグラカトラ様風に言うとログアウトしちゃいました。具体的には江戸時代末期、江戸幕府が鎖国をやめちゃった辺りで。外来のモノが多く日本の土地を踏んでるのを知った時、千年の愛も冷めるぐらい白けて愛着を失くしちゃったらしいですよ」

 

 なんともはや、閉鎖的で困った神様ですよと刀娘は肩を竦める。

 

「んで、月の国。便宜上そう呼んでるだけで正式名称は知らないんですけど、コイツらってば地球を一括りに下界扱いしてましてね。早い話が地球を植民地か何かと認識してるヤベー奴らです。コイツらがなんでかぐや姫を地上に落としたのか、そして回収したのかは不明なんですけど、植民地から搾取する宗主国気取りで定期的に人のマモを奪っていってます。手段は【月の虫】って奴、これも本当の名前は知らないんでアタシが勝手にそう呼んでるんですが、外見はまんまムカデみたいで、人に寄生することでマモを吸収してます。マモを全て吸収した【月の虫】はどこかに消えていくんで、たぶん月に転移か何かをしてるんだと思います。コイツらに食われた人のマモがどうなるかはアグラカトラ様が教えてくれました。完全消滅ですね。寄生されたら終わりなんで、マモを吸い尽くされる前に殺してあげるのが慈悲ってことになります」

「その言い方。貴女は既に何人も殺していると言っているように聞こえますが……」

「殺してますよ? 今日も云十人、もしかすると百人超えで殺してきました。きっちり成仏させてあげたんで気にしないでください。まあ一日の内にこんだけ殺したのは流石に初めてですけど」

「………」

 

 いきなり殺伐とした話になってきた。月の国とかいうもの、寄生虫のこと、殺人のこと、それらを語る刀娘の口ぶりには全く熱が籠もっていない。

 人を殺してきたばかりだと告げる刀娘に、エヒムはなんとも言えない気分になった。アグラカトラや信綱達は素知らぬ顔をしているが、刀娘の所業は既知のことだろう。なのに止めもしないということは、本当に殺してやるのが慈悲だという証左なのかもしれない。

 幸い五郎丸達は目を丸くしているだけで、特に反応を示していなかった。実感が追いついていないだけなのだろうが、今はその方が都合がいい。変に理解を迫る真似は慎むべきだろう。

 

「コイツらが何を企んでんのか知らないんですけど、近年――アタシが生まれた頃ぐらいかな。そんぐらいから急に【輝夜】の構成員を中心に、地上の人達へ【月の虫】を寄生させていきました。今までにない異常なペースで、です。これまた理由は分かんないんですけど、動向としては【輝夜】の乗っ取りでも企んでそうな感じですね。そしてどういうわけか、【月の虫】が見えたり気配を感じたり出来るのがアタシだけなんで、仕方なくアタシが【月の虫】を駆除して回ってたってわけです」

「……何点か不明な箇所がありますね。質問しても?」

「質問は待ってください。まだ話は終わってないんで。……で、えーっと、どこまで話しましたっけ? ええぇーっとぉ……そうそう、気色悪い害虫を殺して回ってるって話でした。そもそもなんでアタシがそんな七面倒くさいことをしてるのかっていうとですね、実はアタシってば【輝夜】だとお姫様なんですよ」

「ん……? お姫様、ですか?」

「そですよ。笑っちゃうでしょ?」

 

 あははーなんて可笑しそうに愛想笑いをしつつ、刀娘は自身の髪先を人差し指でクルクルと巻いた。

 エヒムは話の流れと彼女の名前を紐付け、なんとなく察したように訊ねる。

 

「……もしかして家具屋坂さん。貴女は、かぐや姫と戈作皇子の子孫、なんですか?」

「はい。実は家具屋坂刀娘っていうのは偽名なんです。アタシの本当の名前は匠太刀(ショウダチ)刀子。正真正銘【輝夜】のお姫様なんで、子供の頃はそれはもう大事に大事にされてました。剣術のお師匠様だって、【輝夜】はおろか人類史上最強と名高い純人間、鬼柳千景(オニヤナギ・チカゲ)とかいう超絶化け物が付けられたほどですよ」

「ほう。お姫様なのに、剣術の修行をしていたんですか?」

「えぇまあ、はい。【輝夜】は武家みたいなもんなんで、トップが強くないとナメられちゃうのです。そして武家の次期棟梁になる為、日々の鍛錬を頑張ってたりしたんですが……どういうわけか例の寄生虫がアタシに寄生して来ようとしまして」

「なんだと? ……失礼、大丈夫だったんですか?」

「大丈夫でした。寄生される前になんとなくヤバいって感じて、プチッとブチ殺したんで。んで、話はここから急展開ですよ? アレはダメな奴だってなんでか察したアタシなんですが、子供がどうこう騒いでもどうにもなんない。周りの人達はだぁーれも寄生虫に気づかないし、あの鬼強超絶化け物仙人のお師匠様ですら認識できませんでした。なのにほぼ毎日、執拗に虫けらはアタシに寄生しようとしてくるんです」

 

 思い出したくもないと顔を顰める少女は、話を畳みに入る。

 

「寄生虫は単体だとクソザコなんで普通に対処できたんですが、アイツらってば途中からアタシの周りの人間に寄生して、操ってアタシを取り抑えようとしてくるようになりまして。最初はお師匠様が助けてくれたんでなんとかなったんですが、なんやかんやアタシが嘘を言ってないと信じてくれたお師匠様が言うんです。このままここにいたら、いつかお前も寄生されるぞって。お師匠様のことは【月の虫】も避けてたみたいなんで、お師匠様の近くにいたら安全ではあったんですが、四六時中一緒にいられるわけでもなくって……仕方ないから【輝夜】から出奔して、日本全国津々浦々を巡るようになりました。そんな時ですね、アタシの路銀が尽きて途方に暮れてた時――」

「あたしと出会ったってわけじゃ。あたしに逃亡中に出会えるとか、ホントに刀娘は運が良い」

「この方は本当に便利な神様でして、偽の戸籍とか住処とか通える学校とか手配してくれました。滅茶苦茶に恩義のある神様なんです。特に学校! そんなとこに行ったのははじめてで、同年代の人達と会って話したのもはじめてで、まあとにかく楽しい毎日でした。アタシの話はこれで終わりですけど、なにか質問とかってありますか?」

 

 いやぁ、こんなに喋ったのって久しぶりですわ、なんて溢しながらペットボトルを手に取った刀娘を見つつ、エヒムは話の内容を頭の中で纏める。

 

 刀娘の本当の名前は匠太刀刀子。元は【輝夜】のお姫様。【輝夜】はお伽噺の『かぐや姫』の登場人物である戈作皇子が組織したもので、刀娘は戈作皇子とかぐや姫の子孫。月の国という場所。【月の虫】という寄生虫。このあからさまな害虫は刀娘を狙っている。この害虫は刀娘しか認識できない。寄生された人は操られる。害虫はマモを吸い尽くして人を殺傷する。

 

 一通り大事な要素を並べると、エヒムは形の良い頤に指を添えつつ口を開いた。

 

「……話を聞くに、【輝夜】はもう、月の国とやらの傀儡になっていそうですね」

「あ、エヒムさんもそう思います?」

「ええ。貴女しか認識できない寄生虫がいて、寄生された人は操られる。この時点で人間の組織に対抗する術はありません。いえ、私が知らないだけでどうにかする手段もあるのかもしれませんが……お姫様である刀娘を【輝夜】の構成員が襲っていた点を加味すると、どう考えたところで手遅れとしか考えられませんよ」

「あれ? エヒムさんにさっきの人達がウチの人だって言いましたっけ?」

「いいえ。あの人達は貴女の偽名を呼んでいました。人の名前と顔を一致させるには組織の調査力がないと難しい。後は話の流れでそうなんだろうなと察しただけです」

「ほぇー……頭の良い人の思考回路、どうなってんのか不思議ですねぇ」

「加えて」

 

 感心しながらペットボトルの水を飲んだ刀娘から目を逸らし、アグラカトラを見据える。

 

「彼らは貴女の偽名を呼んでいた。つまり身元の特定も済ませていると捉えていいでしょう。近い内にこのシニヤス荘に彼らが訪ねてくる可能性は高い。どうやら早急に対応を考えたほうが良さそうですね」

「流石はエヒムっちゅうとこぉか? あたしもそうなると思っとるよ。で? 我がギルドの副ギルド長はどうしようって考えるんか、いっちょあたしらに教えてほしいもんじゃな」

「………」

 

 ニヤニヤと。ニマニマと。愉しそうに笑う女神と老人達。

 アグラカトラはいい。いや、よくないが、いいとしよう。しかし部外者面で傍観する老人達には、エヒムも少し苛つきを覚えた。

 どう対応する? 穏便に話し合いで済ませるのが一番だが、それができるなら苦労はしない。

 最初から諦めてはいけないとは思う。しかし先程の人達は、刀娘が自分達のお姫様だと知りもしない様子だったし、仮に彼女の本当の名前を伝えたところで立証する術はなかった。

 『言霊』で信じさせたり、操ったりするか? 試してみる価値はあるが、寄生虫とやらが中にいたら通じる保証はない。【月の虫】を『言霊』で取り除けるかも試しておくべきだろうが、そちらもまた成功する保証はなかった。何もかも上手く行くと想定するわけにはいかないだろう。最悪の事態を想定しておくべきで、となるとどうするのが正解となるのか。

 

「……ひとまず【輝夜】の人達とは一度、会って話をするべきですね。私の力が通じるならよし、通じないなら仕方ないので、無力化するか殺してしまう他にないでしょう」

 

 エヒムがそう言うと、アグラカトラ達はにんまりとした笑みを深めた。刀娘もこういう結論になるのは悟っていたらしく、余り意外そうにもしていない。

 だがここで論を結ぶのは早い。結論にはまだ続きがある。

 

「そして、もし彼らを殺傷してしまったらもう我々は止まれません。【輝夜】対【曼荼羅】の対立構造が出来上がってしまうので、彼らを我々で潰し、取り込むまでいかないと事態に収拾がつかなくなるでしょう。もっと言えば【月の虫】とやらの大元、月の国とかいうのをなんとかしない限り刀娘の身の安全も保証できなくなる。……最善は【輝夜】との話し合いで穏便な決着を。それが叶わないなら全面衝突は不可避で、上手くいってもいかなくても、月の国というものには消えていただかないといけませんね」

「アタシを【輝夜】に差し出すって選択肢もありますけど?」

「何を馬鹿な」

 

 刀娘がなんの気なしに口走った台詞を、エヒムは言下に切って捨てた。

 そんなものは最初から考慮の内に入っていない。当たり前だろう。

 エヒムは刀娘に視線を向け、力強く断言した。

 

「私の目が黒い内は、部下を人身御供にするようなブラックな真似を赦しはしません。職務上、安心安全とはいかずとも、クリアな職場を保ち続けます。こんなものは当たり前の義務でしかありませんが、私は自社の人を見捨てるようなことは決してしない。決して、です。絶対に貴女を差し出すような真似はしないので、刀娘も安心して我々に頼ってください」

 

 少女は笑みを消した。探るように目を細め、ジッとエヒムの目を見詰める。

 やがてエヒムが本気で言っていると判断したのだろう、刀娘は溜め息を溢した。

 

「……正直とても嬉しいですけど、少し複雑ですね。人間っぽいようで――そうでもなくなってそうですよ、エヒムさん。まるで天使様みたいです」

 

 

 

 

 

 




元人間の人間離れ進行中。
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39,付け焼き刃は承知の上

 

 

 

 

 

 四月一日五郎丸(ワタヌキ・ゴロウマル)は、自分が平凡な男である自覚があった。

 

 オレは学力の高さが人生の要訣だと考える、一昔前のドラマで見るようなコテコテの教育ママの許で生まれ育ち、少年時代は窮屈さを自覚する余裕もないほど勉学に打ち込んでいた。

 辛うじて交流のあった学友とも遊ぶ時間がないまま、親の圧力に煽られ必死に勉強していたお蔭で地元だとトップクラスの偏差値を誇ったが、上京して東京の大学に入ると辛うじて下の上に位置する程度であり、地味に井の中の蛙という現実を思い知らされたものだ。

 最初の挫折は上京前、好きだった女の子に告白して『勉強しか出来ない奴とかつまんなくて嫌』と手酷くフラれたことだったが、井の中の蛙だった自分を自覚させられたことは現時点で人生最大の挫折だったと思う。学力しか取り柄がないオレから学力という武器を取り上げてしまえば、後に残るのはなんなのか? 打ちのめされながら出した答えも、やはり平凡なものだった。

 

 何もない。驚くほど、オレという人間には引き出しがない。

 

 幸いオレは図太い性格だった。自覚はなかったのだが、挫折したら立ち直れず、そのまま失意に暮れて何もかもが上手くいかなくなる、なんてことにならない程度には前向きだったのである。

 唯一の取り柄だった勉強で上には上がいることを知り、ならもっと頑張ってトップを目指そう! なんて息苦しい方に舵を切らず、自覚的に楽な方へと流れていくことが出来たのだ。

 親元を離れて一人暮らしをしていたのも良い方に作用したと思う。もし親元で暮らしていたら、親の期待という重圧を背負ってストレスを感じ続けていただろう。一人暮らしの大学生活という、ある意味で気楽な環境がオレに人生の幅広さを教えてくれた。

 

 自然と勉学から目を逸らしたオレが感じたのは、男としての本能というか、女の子にモテたいという欲望だった。上京前に好きだった女の子にフラれたことも関係している。勉強しか出来ない奴はつまんない――なら、勉強以外も出来る奴になってやろうと考えたのだ。

 我ながら脳天気だと思う。だが確実に良い方への変化ではあるはずだ。だって女の子にモテたい! なんて下心満載の欲求に目を向けた途端、肩の荷が下りたように気が楽になったのだ。

 それからのオレは、ひたすら勉強した。

 知らないことを学ぶのは『勉強』という他にない。女の子にモテる為の学問を専攻するのだ、これを勉強と言わずになんとするのか。どれだけ図太く前向きでも、骨子の部分だと理詰めに考えてしまう辺り、オレの根本にあるのはガリ勉気質ということだろう。

 

 女の子にモテる為の学問、略してモテ学を学ぶ為にオレはとにかく色んな雑誌を読み漁った。清潔さを維持するのを心がけて、流行の衣服を着こなす体型を作るのに苦慮し。男性用のナチュラルメイクを欠かさず、明るく染めた髪もオレに合うようにセットし、常に明るい表情と声音を出せるように意識した。教材は雑誌であったりネットの動画だったり、小中高大の先輩後輩だ。

 陽キャのリア充と定義される人達は最高の教材である。何せ彼らを分析すれば、自ずと理想的な対人関係構築術のスペシャリストになれるのだ。

 陽キャのリア充、特にトップカーストに君臨する人は、途轍もなく会話デッキや語彙が潤沢で、会話力も射撃の達人並みに的を射ている。場の空気を読んでの気の遣い方も素晴らしく、およそ後ろ暗いこととは無縁のように光り輝いて見えるのだ。

 

 そんな具体例から学んだオレは、時事ネタを収集し、ネットで面白い話題の種を探し、友人でもない他人と実際に話し、常に会話のバリエーションや話し方のテクニックを磨いてきた。

 まだ足りない。ゲームをした、色んなジャンルの本を広く浅く読み漁った。その過程でラノベも読んだし漫画も読んだ。真の人間関係取り扱い術の達人はオタク趣味を否定したりはしない。真のリア充で真の陽キャなら、『オタク君キモ過ぎ!』なんて言わず、『へぇそういうのもあるんだ、興味あるから少し教えて?』と分け隔てなく接するのである。オレの知る陽キャはそうだった。

 

 そこまで出来るようになってやっと、どこにでも必ずある人間関係のカーストで、中間から上位に入ることが許されるようになる。

 

 最初はもちろん苦痛だったし、大変だった。だがオレは自分が平凡だと知っているし、でも平凡で退屈な奴だと思われたくもないし、女子にモテたいし、友達は沢山ほしいし、将来は良い暮らしをしたい。だからこそ『他人に見せない努力』という奴を欠かさなかった。

 そんな今のオレを指して陽キャだの、リア充だの、軽薄なナンパ男だのと揶揄する奴もいる。だがそうした『他人に見せない努力』を知らない、したこともない奴に何かを言われたところで心に響くわけがない。オレはそういう奴らを見て学んだのである。

 

 他人を妬み、嫉み、羨むのは。努力をしない、根気がない、向上心もない、気を遣わないし他人に声を掛ける勇気もない、いつも誰かに何かをしてもらうのを期待する意気地なしなんだと。

 大学に入って自己改造に励んだ後に出来た親友には辛辣だなと笑われた。

 だが辛辣にもなる。たった一年とはいえ、オレがどれだけ必死に自発的な変化をしたのかも知らず、変わる為に費やした努力の量を知ろうともせず、ただ一方的に妬んでくる奴に甘い言葉を掛けてやる気にはなれない。そう答えたオレに親友は言った。

 

『いや陰でどんだけスゲぇ努力しててもさ、見えないもんを見ようとしろってのも了見が狭くね? 人間知らないもんは知らねぇし、興味がなかったら深く掘り下げて知ろうともしねぇよ。人それぞれだろ、伸ばしてるアンテナの方向と広さって。お前が自分のことを他人に知ってほしいんなら、その人の持ってるアンテナに引っ掛かるように、広い人間になればいいだけじゃん?』

 

 これが人間関係の妙という奴なのだろう。親友の言葉を受けて、オレ一人だと啓けなかった蒙がこじ開けられた気分になった。ポロポロと目から鱗が山ほど落ちたのである。

 なるほど、確かに。よく知りもしない相手の好悪の感情なんてどうでもよくて、気になる人、仲良くなりたい人の感性(アンテナ)に合わせた電波を発信すればいい。真理である。

 言われてみれば簡単な話だが、無駄に他人からの負の感情を拾う必要なんてない。好きなように生きて、波長の合う人とだけ交流する。社会に出たらそれだけで生きてはいけないだろうが、少なくとも私的な時間でだけはそれが許されるはずだ。

 

 そう思った。

 

 オレはこれからも陽キャで居続けるし、親友の言う『広い人間』で在り続ける。誰にでもとはいかずとも、多くの人に分け隔てなく接するつもりだし、誰かの好きなものや嫌いなものにも否定から入らず、とりあえず話を聞いて理解してから同調するかどうかを考える。

 頭から否定して掛かるような意固地さは捨て、何事にも柔軟に対応していこう。『広い人間』とはそういう人間のはずだ。知らないアニメ、知らないオタ知識、知らない法律、知らない医学、知らない電気工学――数えだしたらキリがない『知らない』ことも、積極的に受け入れて自分に合うかどうかを吟味しよう。オレはそれが出来る人間が一番かっこいいと思うのだ。

 

 が。

 

 まあ、その、長々と自分語りついでに言っといてアレだけど。

 

「……天使だの悪魔だの。かぐや姫だの寄生虫だの。挙げ句の果てには超能力とか殺しとかさ。流石に一日で処理すんのは無理筋な情報量じゃん、これ」

 

 オレが今いるのは、シニヤス荘とかいう不穏な響きのアパートの四階。面接会場があった階層の、つい先刻まであった謎の会議が行われていたのとは別の部屋だ。楽屋の裏にある待合室のような、少人数で固まって話すには最適のスペースの空間である。

 並べられたパイプ椅子は三つ。それぞれ一つずつにオレと女性二人が座っていて、なんとも形容が難しい空気でみんな沈黙していた。

 オレはその沈黙が耐えられないといった調子で、おもむろに自分語りをしたわけである。そうすることで沈黙している重い空気を払拭し、さりげに自分語りという自己紹介を済ませてしまったのだ。後このまま黙りこくっているのは不毛だという判断もある。

 

 何一つ言葉を発しない、年下の女の子二人の顔色を見ながら、オレは努めて軽薄な声を絞り出し、明るいだけの雰囲気で言葉を続けた。

 

「ああ、一人でずっと喋っちゃっててゴメンね。もしかしてうるさかった? オレってさ、訳分かんないことあったら全部声に出して吐き出しちゃうんだよね。そうでもしないと頭がパンクしちまいそうでさ。ってかさっきのアレもほぼ理解不能だったっていうか、未だに何がなんだか分かんないんだよ。二人はどう? 不安とかあったらオレみたいに吐き出しちゃいなよ。むしろ言ってほしいかな? じゃないとオレだけクソダサいバカ男じゃん?」

「……ワタヌキさんは」

 

 バカみたいに明るく言うと、ずっとオレの話に耳を傾けてくれていた女の子がレスポンスを返してくれる。や、どっちも大人しく聞いててくれたんだが、リアクションがあって少しホッとした。

 反応してくれたのは、オレより一つ年下のアタミ・ケイだ。

 童顔で、小柄で、ぶっちゃけ中学生だと言われても信じてしまいそう。さっきの自己紹介の時に年齢を言ってくれてなかったら、かなり年下の子に対する態度を取ってしまっていただろう。

 でもそうした幼さを抜きにして、抜群に可愛い。明るい金髪を内向きにカールさせている様はフワフワで気持ち良さそうだし、シルクでしっとりした服装は外見の幼さを上品に仕立てている。相対した人を優しい気持ちにさせてしまいそうな絵本のお嬢様みたいだ。

 

 そのアタミ・ケイは、微妙にぎこちない笑顔を浮かべる。

 

「なんていうか、気遣い上手で、ホッとする人で、よかったです」

「……ん? なんの話? いきなり褒めてもなんにも出せないよ?」

「そういうところが、です。わたしなんかとっくに頭パンクして、状況に流されてるだけなのに、わたし達の肩から力を抜けさせてやろうって、バカみたいに明るく話してくれてるんですもん」

「ダハハ、バカみたいって率直にディスるじゃん! 言っとくけどこれ素だから! ダッハハ!」

 

 一頻り無理に笑うと合わせたようにアタミも笑ってくれる。場の空気が少し弛緩したのが分かった。

 ちらりとアキナシ・ツユリを見ると、彼女の表情からも微かに険が取れている。些か無理矢理感は否めなかったが、道化を演じた甲斐はあったようだ。

 笑いが収まると、バレないように小さく嘆息する。それを見咎めたわけじゃなさそうだったが、アタミは僅かながらリラックスしたように椅子へ深く腰掛け直した。

 

「……まさか街中で話し掛けた人が、天使様だったなんて……普通思わないですよね」

「え、なに。エヒムさんのこと? もしかしてアタミ……あ、名前の方が好きな響きだからケイって呼ぶね。ケイもエヒムさんに街で声掛けたんだ? 実はオレも一回ツレと話し掛けたんだよね」

「えっ? ま、まあ、そうですけど……あの、ワタヌキさんも?」

「ゴローでもゴロッちでもゴロ助でもいいよ。仲良い奴はゴロウマルのゴロウのところからもじって呼んでくるし。いやぁーエヒムさんすっごく美人さんでさ、こりゃもう記念に声の一つでも掛けるかってなるよな? 分かる分かる」

「そ、そうですね……ご、ゴローさんは、どう思います?」

 

 普段なら軽薄なオレも、いきなり女の子を下の名前で呼んだりはしない。そういうのを嫌う子がいるのを知っているし、パーソナルスペースも見極めず距離を詰める真似は避けるべきだからだ。

 だって変に嫌われるのも疲れる。気軽に交友関係を結ぶには、そういう感情のシーソーゲーム、あるいは綱引きみたいなものに敏感でなければならない。

 そうした鉄則、お約束を破ってでも強引に距離を詰めたのは、なんとなく。そう、なんとなくだ。なんとなく……今ここにいる、オレを含めた三人は絶対に仲良くなっていて損はない。いや、違うな。絶対に仲良くなっておくべきだという勘が働いたのだ。

 

 たとえるなら、受験戦争時、意識が低く目指してる大学のランクが違う相手と一緒にいるより、同じランクの大学を目指して勉強している奴といた方が、集中して励める状況のように。ある種の戦友とでも言うべき存在を欲する気持ちが強烈に生じていたのだ。

 この衝動に下心は介在していない。ケイやアキナシ……もといツユリは可愛いし、健全な男なら仲良くなりたいと思うものだろうが、今はそんなことよりも、同じ鉄火場に向かうことになるであろう面々と足並みを揃えたい気持ちの方が強かった。

 

「どう、って?」

「その……さっきの話と、今の話です。エヒムさん達がしてた……」

「ああ……」

 

 言われ、一瞬考える。いや一瞬じゃちっとも足りない、じっくり長考した。

 朝に送られてきた動画。シニヤス荘の軒先での話。面接会場での話。謎の女子高生、自称かぐや姫の子孫だという女の子を交えた話。

 ケイが聞きたいのは感想なんかじゃないだろう。だが望んだ答えをすぐに察して出せるほど、オレは事情通なんかじゃないし便利な超速理解スキル持ちでもなかった。

 咄嗟の答えに窮していると――三角形に向き合う形で座っていた結果――向かって左側にいるツユリが掌を広げる。そしてその掌から白い炎の塊を具現化させ、揺らめかせた。

 

「……少なくとも、マジの話、です。これ」

「あー……ね。そんな超能力(モン)をポンとくれるような人だし。信じたくなくてもなんでかエヒムさんの話を信じちゃってるオレがいるし。さっきの話も全部が全部マジの話なんだろうけど」

「……ウチ、ここにいます。二人は、帰るんですか……?」

「そんな不安そうな顔しなくていいよ、ツユリちゃん」

 

 暗い子が暗い顔と声で不安そうな表情をすると、一気に場の空気が死にそうになる。だから意図して明るい調子を強調した。なにやらオレやケイがここに残らず、帰ってしまうことを懸念してあるようだが、ツユリのそれは杞憂というものだ。

 名前呼びをされて視線をキョトキョトさせ、ぅ、ぅ、と呻きながら視線を逸らしたツユリに全力の笑顔を炸裂させた。不安がってる弱気なオレを隠して強がるのだ。可愛い女の子の前だと見栄を張りたくなる年頃なのである、陽キャ歴一年のオレも。

 

「オレは……あと多分ケイも、あの話聞いて帰るようなバカじゃない。だってあからさまにヤバい話をしてたしな。面接ん時にもされた【聖領域】とかいう激ヤバ能力知って、天使とか悪魔とかの超ヤヴァイ奴らのこと知って、自衛もままならないのが人間なんですって知っちゃった後なんだ。自衛能力もなんにもないまま帰れるかって話だ。むしろその超能力もらったツユリちゃんは今から帰っても自衛ぐらい出来そうだし、帰るならツユリちゃんだろ。客観的に考えたら」

「う、ウチは、帰んない……」

「うん、知ってる。そんでオレらも帰んない。な、ケイ」

「はい。言いたいこと全部、ゴローさんが言ってくれましたけど、わたし達も帰らないから安心して……その、ツユリちゃん?」

「う、ん……」

 

 一番年下で、一番悲惨な目に遭っているツユリが、動機や形はどうあれ残る意思を一番強く固めているのだ。なのに芋を引いたら情けないし、理性的に考えても残った方が良いと判断できる。

 オレは年長者として、男として、出来る限り頼れる奴として振る舞わないといけない。女の子の影に隠れてビクビクしてるような情けない奴になるのはゴメンだ。リーダーシップを張るのは柄ではないが、柄じゃないからってイキがれないようじゃ終わってる。何が終わってるのかって、そんなの馬鹿野郎のクソ安い見栄が、だ。男が見栄の一つも張れないでどうするよって話である。

 

「ケイもツユリちゃんも、なんとなく分かってんじゃないかな。オレ達は揃いも揃ってズブのド素人集団なんだ、無駄にいがみ合ったり遠慮し合ってるようじゃ色々不便なこともあるだろ? 必要に応じてって形はちょっとアレなんだけど……これから仲良くしていこう」

「ですね。正直わたし、かなり安心しました。ゴローさんがリーダーシップ、張ってくれる人で。わたしそういうの苦手なんで……多分、これから結構な確率で頼っちゃうかもですけど、よろしくお願いします。ツユリちゃんも」

「う、うん……ウチも、よろしく。……二人が良い人そうで、ウチも少し、安心した、かも……」

「……ダッハ! ちょっとらしくなく真面目ぶったな、オレ! ま、気楽にやろうよ! 全員が全員素人なんだし、絶対誰かがミスるからな。特にオレなんか大事な時にやらかすかもだし? そういう時はフォロー頼むよ? オレも絶対するから。ミスっても仕方ない、自分にはフォローしてくれる奴がいると思ってドンと大きく構えておこう!」

 

 情けないことを敢えて強調して言って締めると、二人とも微かに笑顔を浮かべながら頷いた。

 よかった、こういう音頭を取るのははじめてだが、滑らなかったらしい。

 密かに安堵して、さあこれからどうするのか話し合おうとして――あたかもタイミングを見計らっていたかのように、この待合室の扉が勢いよく開かれて三人ともビクリと肩を揺らした。

 

「失礼。短い休憩で申し訳ありませんが、今からあなた達には新人研修に移ってもらいます。私に付いてきてください」

 

 やって来たのは何やら急いでいる様子のエヒムさんだった。

 咄嗟にオレは質問を投げる。

 

「ど……こに行くん、ですか?」

 

 エヒムさんは事務的な愛想笑いを口元に佩く。そんな表情も、絵画に描かれる聖母のようだった。

 

「ここの庭です。空間を拡張するのは思ったより大変でしたが、準備は整えています。そこであなた達に私から仕事道具(・・・・)を支給しますので、是非とも慣らしていただきたい」

 

 仕事道具ってなんだ? と、そんな当たり前の疑問を口に出すことはできなかった。

 話を聞いているだけで仕事内容は剣呑極まりなく、故にその仕事内容と必須の道具にも察しはついたからだ。

 こんな例えは不謹慎かもしれないが、流石にゲームとは違うというべきだろう。エヒムさんはレベル1の未熟なメンバーを、いきなり魔境に放り出すケチな王様ではないらしい。しっかりきっかり、武器を渡してレベリングをしてくれるようだった。

 

 

 

 

 



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40,準備万端には程遠く

お待たせしました。


 

 

 

 

 

 オレ達が待合室で小休憩をしている間に、シニヤス荘の周辺環境は一変していたらしい。シニヤス荘の狭い敷地内に、先程までなかったはずの四つの小屋が建っていたのだ。

 

「うぇっ?」

 

 現実離れした現象である。目を疑い、正気を疑い、もう一度目を疑った。ゴシゴシと目を擦るも四つの小屋は消えてなくならない。素っ頓狂な声を上げてしまった自分も消えてはくれない。

 この光景を現実のものだと認められなければ、今日の出来事を夢幻として忘れるしかないだろう。

 だが都合よく忘却してしまえるほど人の脳は便利に出来ておらず、オレ達は必然として異常な光景を受容するしかなくなった。

 懐疑を口に出してしまったのはケイである。トントントン、とテンポよく階段を降りていくエヒムさんに対して、彼女は及び腰になりながらも問いを投げた。

 

「エヒムさん……?」

「はい、なんでしょう?」

「あ、あの……アレはなんですか? わたし達が来た時は……なかったですよね……?」

 

 呼び掛けられるなりすぐに足を止め、階段の下の方からエヒムさんが頷きを返す。それから視線を四つの小屋へと向けて、詳細を省き説明してくれる。

 

「ええ。あなた達に小休憩をしてもらっている間、社長から許可を取り手早く作っておきました。なにぶん急造なので内装や設備は不十分ですが、今後必要に応じて改善していくつもりです」

「つ、作ったって……あんな短時間で、どうやって……?」

「……使用感を確かめた後、改善案を思いついたら言ってください。手と時間が空いていたら対応させていただきます。今は時間が惜しいので、早く倉庫に行きましょう」

 

 本当に急いでいるらしく、エヒムさんはそれだけ言うと再び前を向いて階段を降りていった。

 オレ達は顔を見合わせ、彼女の後に付いていくことにする。仕事道具を支給すると言われたのだ、付いていかない選択肢はない。

 そうして一階まで到着すると、改めて異様な景色が広がっているのに直面した。

 

 シニヤス荘の敷地はもうギチギチに詰まっており、人が一人で通れるスペースしか空いていない。

 いずれも簡素なプレハブ小屋で、安価でお手軽そうではあったが、やはりどう考えても簡単に用意できるものではないはずだ。

 

 エヒムさんは呆気に取られる暇をオレ達に与えない。エヒムさんがオレ達を連れてきた先には、倉庫と銘打たれた看板付きのプレハブ小屋があった。先導してくれていたエヒムさんはドアノブを回して戸を開くと、さっさと中に入って行く。そうして中から入ってきてくださいと指示され、こんな小さい小屋に四人も入っていいのかと戸惑いつつも指示に従った。

 

 途端だ。

 

「うおっ……!?」

「えっ……!」

「――――」

 

 中に入るとオレやケイ、ツユリは仰天させられる。この小屋はどう見ても外見の大きさと釣り合わない、広大な空間を内包していたのだ。

 

 天井は高く、四方を囲うコンクリートの内壁は遠い。間取りの広さは高校の体育館に匹敵する。視線を上下左右に走らせ、次いで最後尾にいたツユリが外に出たり入ったりして確かめるも、小屋の規格に合うはずがない内部空間に驚愕し直していた。

 

 倉庫と銘打たれた小屋なだけあり、工場のように無機質な場所である。

 

 無数のロッカーと長椅子が立ち並ぶ区画、空白だけを載せる棚の列、そして社有車が置かれた区画もあった。中にある物がチグハグで、倉庫というより物置といった様相を呈している。

 中でも目を引いたのは、伽藍としたスペースに設置されたステンレスのテーブルだ。

 机の上にはメカメカしい四角形の物体がある。見たことがある物の中で近いのは3Dプリンターだろうか。

 

「先程も通達しましたが、今からあなた達に仕事道具……より直截に言うなら武器防具を支給します。危険な仕事ですからね、身を守る道具は不可欠と言えるでしょう。ワタヌキくん、そこに手を翳してください」

「へ? あ、はい」

 

 指示されたオレは恐る恐る3Dプリンターに手を近づけた。四角い物体にはボタンも何もなく、手を翳してどうしろというのか見当も付かない。

 だがオレの手が近づいたのを感知したのか、唐突に箱体がスライドし銃口のような黒々とした筒が顔を出す。驚いて手を引いてしまったが、関係ないとばかりにレーザーらしきものが照射された。

 

「うわっ!」

 

 咄嗟に躱そうとしたのは、未知への本能的な忌避感ゆえだろう。だが照射されたレーザーはお構いなしにオレの手首に纏わりつく。レーザーは素早く左右に動き、ほんの数秒でオレの左手首に一つのスマートウォッチみたいな物を形成した。

 何もない空間から物質が象られたのである。唖然として自分の手首に巻かれた物を見詰めると、エヒムさんがどこか自慢げに胸を張りながら言った。

 

「このプリンターや手首のそれに名前はありませんが、便利なものでしょう? SFチックで実にロマンがある仕組みに仕上がったと自負しています。どうですか?」

「ど、どうですかって言われても……」

「液晶画面に触れて操作してみてください。きっと驚きますよ」

 

 困惑。戸惑い。微かな動揺。言われるがままスマートウォッチもどきの液晶画面に指を這わせると画面が光り、まるでゲームで言うステータス画面みたいなものが表示された。

 一番上に装着者であるオレの名前と、その隣にレベル1と表記されている。その下に全部が1か2の数字で埋まった『ステータス』、『装備品』や『周辺地理』と表記されていた。

 思わず顔を上げてエヒムさんを見ると、彼女は微笑んで指示を出してくる。

 

「装備品の欄をタップしてください」

「………」

 

 タップする。すると、現在オレが着ている衣服の種類が表示された。

 だが見覚えのないものもある。オレが持っていないはずの物だ。名前は『全耐機能スーツ』『カテゴリーB・AMザウエル』『カテゴリーC・AMガウエル』である。

 無言でスーツとやらを押してみたのは、単なる好奇心というか、ここまできたら逆にワクワクを覚えてしまった故の軽率な動機だった。

 果たして変化が現れる。一瞬オレの体が光ったかと思えば、エヒムさんが着ているようなスーツ姿へと早変わりしていたのだ。

 流石に驚いて、おぉ、と意味のない感嘆の吐息を溢しつつ、両腕を広げて自身の姿を見下ろす。

 

「どうです? それは圧力や慣性、熱や寒さ、電撃や精神作用など、私が思いつく限りの危険から身を守る優秀な防具です。スーツ姿なのは……残念ながら私にその手のデザインセンスがないからですね。こんなふうにしてほしい、というアイデアがあれば是非教えて下さい。個別に対応できるのは【曼荼羅】が小規模な今の内だけですから」

「……すっご。マジのSFじゃん。……あ、このザウエルとガウエルっていうのはなんなんスか?」

「武器です。出してみてもいいですよ」

「ウッス」

 

 もう細かいことはどうでもよくなって、オレは素直に自分のワクワクに従うことにした。

 いまさら躊躇することもなくタップすると、右手が微かに光る。次の瞬間、忽然とメカメカしい一本の筒が現れた。成人男性の前腕ぐらいの長さで、握りの部分はグリップが巻かれ握りやすくされた物だ。重さはさほど感じられず、まるで鉄パイプみたいである。

 グリップの部分には丁度人差し指を引っ掛けるパーツ――銃器の引き金そのものがあり、ご丁寧にトリガーガードで人差し指が保護される形になっていた為、エヒムさんに視線で確認を取る。

 

 頷かれた。トリガーを引く。すると鋼と鋼を擦り合わせたような排出音が鳴り、AMザウエルという筒から一枚のブレードが飛び出した。

 びくりと肩が震える。重量に変化はない、にも拘わらず刃渡り1メートルの刀身を、当たり前のように具えてしまったAMザウエルに、質量保存の法則の不在を突きつけられた。

 

「それは【救世教団】の最先端武装です。使い手を選ばず斬りたいものだけを切断することが可能で、たとえば対象の衣服を傷つけず生身だけを斬れたり、皮膚に傷一つ付けず内臓のいずれかだけを切断できます。本来は西洋剣のような両刃のものでしたが、【教団】のものと区別する為に片刃の刀へ形状を変更しました」

「……なんつーか、すげぇ物騒っスね」

「ええ、同意しましょう。私も本当ならこんな業界にいたくはありません。ともかく、あなた達にはその手首に巻くモノ……名前は適当なものをいずれ付けますが、それを支給します。万一紛失したり破損させてしまっても問題ありません。一番最初に装着した方にしか使用できないようプロテクトが掛かっておりますし、失くしてもここに戻れば、私がいなくとも再生産可能ですので」

 

 さあ、アタミさんとアキナシさんも。彼女にそう促されたケイとツユリは顔を見合わせ、ソッと箱体に近づき手を翳した。おっかなびっくりといった様子で操作をしてスーツ姿になる。

 どちらとも、服に着られているような印象だ。容姿に幼さが残っているせいだろうが、正直あまり似合っているとは言い難い。オレも別の意味で似合ってないだろうし、口に出したりしないが。

 

「そのままで結構ですので、話だけ聞いていてください。私からあなた達に、もう一つ武器を支給します。身体能力を向上させる加護……スキルのようなものですね」

 

 エヒムさんの声が鼓膜に浸透する。脳に直接染み込んでいるかのように、記憶にこびりつく魅惑の音波のようだ。彼女は相変わらず事務的に告げている。

 

「どれだけ優れた装備を所持していようと、あなた達は元々一般人です。その道に精通し鍛え上げているプロフェッショナルには、どう足掻いたところで相手になりません。鎧袖一触、当たるを幸いに薙ぎ倒されて終わりでしょう。そうした事態を防ぐ為、せめて身体能力だけでも競合他社の方々や、駆除対象に劣らないようにしなければなりません」

「……えっと、どうするんスか?」

「ジッとしていてください。先程アキナシさんに超能力を与えたように、あなた達全員に身体能力強化系のスキルを付与させていただきます。これは任意での発動となりますので、日常生活に支障をきたすことはありません。なお、当社から退職されてしまった場合は、申し訳ありませんが支給した全ての物品やスキルは回収させていただきます」

 

 言いながら翳されたエヒムさんの手から、淡い光のようなものが放たれる。それはオレ達を包み込み、そして光が体の中に吸い込まれて消えていった。

 変化は、ない。戸惑いながら視線を交わすオレ達に、エヒムさんは左手首を指し示す。

 

「使用方法はまだ分からないでしょう。数をこなせば補助がなくとも発動できるでしょうが、そうでない内はその手首の物にあるステータス画面を開き、私が付与した【強化】の欄をタップしてください。そうすればスキルが問題なく発動するはずです。ああ、今はやめてください。あなた達にはそれぞれ個別に付けられた指導官がいます。早速彼らと対面し訓練に移ってもらいますので、スキルを発動させるのはその時にでも。……ここまでで何か質問は?」

 

 ない。というか、あったとしても思いつけないだろう。情報量が多すぎて、頭脳が飽和状態になっているのが自分でも分かる。

 黙っているとエヒムさんは手を打ち鳴らし、注目を集めた上でオレ達に指示を出した。

 

「よろしい。ではここから出て赤い屋根の小屋に入ってください。それが当社の訓練施設です。中であなた達を個別に指導する方が待っていますので、なるべく早く向かうように。いいですね?」

「………」

「………」

「………」

「……返事は!?」

「っ――!? はっ、はいっ!」

 

 返答に窮していると、エヒムさんが叱声を上げる。怒られたというより注意された感じだ。厳しくはなく甘くもない、しかし弛んだ心の糸を一気に張り詰めさせる毅然とした声である。

 反射的に背筋を伸ばし、声を揃えてオレ達は是と返答すると、エヒムさんはさっさと倉庫から退室していく。

 

「あ、あのー、エヒムさんはどうするんですか……?」

 

 ケイが不安げに訊ねると、彼女は足を止めて首を巡らし、横目にケイを見て短く応じる。

 

「私は別件の仕事に当たります。あなた達はあなた達で、どうか励んでください」

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 一足先に外へ出た私は、連なる四つの小屋が視界に収まる位置まで離れると、あの三人が倉庫から出て赤い屋根の小屋へ入っていくのを見届けた。

 懐からボールペンのような筒を取り出し、先端に付いているスイッチを押した。すると音もなくシニヤス荘の敷地が横にスライドし、四つの小屋が地下へと消えていく。後に残ったのは、なんの変哲もないアパートのみ。四つの小屋という異物は地下に消え、代わりにシニヤス荘の隣に地下へ続く階段が出現する。私がいなくても地下の小屋から出られるように、という配慮だ。

 

 SFチックな3Dプリンター。四つの小屋。小屋の地下収納スペースと、その仕組み。スマートウォッチじみた物に、小屋の中の拡張空間。それら全ては、私の『言霊』で作り出したものだ。

 たとえ専門的な知識がなくても、私が叶えたいと願えば、現行人類の科学技術では再現不能なものでも生産できる。詳細な設計図や製造設備がなくても、過程をすっ飛ばして結果を得られるのだ。

 我ながら破格の便利さだと思う。だがそのお蔭で一々新人達の装備を作る手間は省けた。後は時間の流れを遅れさせた訓練施設内で、新人達がどれぐらい訓練を続けられるかだが……指導担当者が上手いことやってくれることを期待するしかない。

 

「フゥー……」

 

 疲れたなと内心独語する。幾ら便利でも程度を考慮せず、ひたすら能力を酷使すると疲弊してしまうのである。【天罰】のメンバーに分けていたままの天力を回収していなければ、これだけの無理を通すのは不可能だっただろう。必要経費とはいえ短時間の内に働き過ぎた。

 嘆息して肩を回し、私はいいタイミングで戻ってきた分身、フィフの気配を察知する。白い羽根を羽ばたかせ、上空から舞い降りた天使を見上げた。

 

「ただいま、エヒム」

「おかえり。思っていたより遅かったな? 何か問題でもあったか?」

 

 フィフは私から独立した自我だ。有する知識量は同一だが、異なる人格であるからこそ話し合いの相手としては最適だと認識している。

 外的要因、性格的な陥穽で私が見落としたものも、別の観点から見て考えられるフィフがいれば、抜かりのない結論を導けるはずだ。

 フィフは昨日の夜の内に日本から出て、海外でそれとなく姿を晒すことで、私を発見する恐れがある外界保護官――エンエルの目を誤魔化す撹乱行為に従事していた。こうしてフィフが無事に帰還した以上は、さしたる問題は起こらなかったと見ていいはずだが。

 私の問いを受け、すぐ傍まで歩み寄りながらフィフは報告してくる。

 

「心配しないでいいわ。エンエルの耳目は日本以外だとどこにでもあるもの、念の為慎重に行動していたから時間が掛かっただけよ。それより、エヒムの方の首尾はどうなの?」

「三人集まった」

「三人? ……たった三人? 嘘よね? え、本当に三人なの?」

 

 端的に成果を伝えると、フィフは唖然として聞き返してきた。

 私は渋面を作る。確かに三人は少ない。だが、仕方ないだろう。

 こちらの表情を見て、フィフはあからさまな失望を表現する。

 

「……信じらんないわね。これから先のことを考えたら、戦力の拡充は絶対に外せない義務なのよ? なのに三人しか手駒が集まらないって……いえ、集めないなんて何を考えてるの? あなたのことだから個人の自由意志を尊重したいとか、眠たいことを考えてるんでしょうけどね、そんな甘ちゃんなことしてる場合じゃないのは分かってるの? それとも馬鹿になっちゃった?」

「……耳が痛いが、正解だ。そして無理にでも頭数を揃える必要があるのも理解はしている」

「理解はしても実行しないんじゃ意味ないわよ。まったく……それで? なんか状況が変わってるようだけど、私にも情報共有はしてちょうだい」

 

 辛辣に詰られるも反論できない。いちいち尤もな指摘だからだ。黙り込んでしまう私にフィフは更に呆れたようだったが、気を持ち直したように問い掛けてくる。

 どうやら私の天力が著しく消耗しているのを見て、予定外のことが起こったのだと察したらしい。こうしてみると本当に頭の回転が早く、なぜオリジナルのフィフキエルは人造悪魔如きに不意を打たれて死んだのか、理解に苦しむ。もしやフィフキエルの継承体である私に【傲り高ぶる愚考】の性質が受け継がれているから、分身に過ぎないフィフはニュートラルに物を考えられるのか?

 

 だとすると、ますます私にとってフィフの重要性が上がる。私はフィフが不在だった内に起こった出来事を、要点を押さえて端的に伝えた。

 

「――ふぅん。あの娘は月の国ゆかりの人間だったのね」

 

 なるほど、とフィフは頷く。

 

「お前はどうするべきだと思う」

「貴方と同じ答えしか出せないと思うわよ? だって月の国は所在を隠しているし、表立って行動する奴らじゃないもの。本来ならね」

「本来なら、か。まあ確かに【輝夜】の乗っ取りなんざ、連中からしてみると無駄でしかない」

「でしょう? だって私や貴方なら【月の虫】とかいうのは目視できるでしょうけど、普通の人の目には映らない霊的存在のはずよね。テキトーに虫をばら撒いて、テキトーにマモを回収して暮らしてきた連中が、どうして今になって急に地上の組織に関わってくるのよ。何千年もずっと繰り返してきたルーチンを破って行動してるんだから、そこには必ず理由があるはずじゃない?」

「つまり、刀娘がキーになるわけだ」

「そうね。あの娘の身柄を確保し続けていたら、そのうち向こうから墓穴を掘るんじゃないかしら」

 

 フィフのそれは案の定、私と同じ結論だった。

 

 私の母体となった天使の知識の中に、かぐや姫の物語にある月の国の存在はある。だがソイツらはほとんど表舞台に立たず、裏から細々とマモを集めているだけの穏健な存在だった。

 故に他所と争うことはなく、交流を持つこともない。ただそこにいるだけの無害な奴らだ。もちろん人間にとっては唐突に襲い来る死神に等しいわけだが、ほとんどの勢力は彼らを無害と見做して放置していた。外界保護官を謳う天使ですら、月の国に関しては優先度を低めに設定しているほどである。

 

 だからこそ解せない。刀娘の言葉を信じるなら、何故近年になって急に【輝夜】の乗っ取りなどを始めたのか。そのような真似は、何千年も、何万年も確認されていないはずなのに。

 突如として沈黙を破ったこの行為には、必ずなんらかの意味がある。であるなら月の国が執拗に狙っているという刀娘を守っていれば、自ずと道は開けるはずである。

 問題があるとするなら、その過程で【輝夜】と【曼荼羅】が激突してしまうことか。勢力の規模的に考えると、普通に踏み潰されて終わりそうだ。

 

「あんまり目立っちゃダメよ、エヒム」

「分かっている。私が大手を振って行動すれば、【教団】に所在を気取られかねない。そうなればなんの為に【曼荼羅】に籍を置いたのか分からなくなる。刀娘や新人三人のサポートをして、後はあの老人達にも働いてもらう他にないだろうな」

「たぶん言うこと聞かないと思うわよ、あのお年寄り達」

「………」

 

 フィフが揚げ足を取ってくるのに眉を顰めるも、私も内心そう思っていたから強くは返せなかった。

 坂之上信綱。勅使河原誾。あの老人達が素直に言うことを聞くようなタマではないのは、なんとなく察しがついている。新人三人の指導役も、まともにしてくれているか怪しいものだ。

 となると実質的に動かせるのは刀娘と新人達だけということになるが……。

 

「……私が力を抑え、『言霊』の使用も控えたら、働けなくもないか?」

 

 入社時にアグラカトラにもらった指輪。これを嵌めている限り、遠視などの能力で私を見つけることは出来なくなるという代物。それを撫でながら呟くと、フィフは一拍の間を開けて肯定した。

 

「まあ……そうね。私……もといエヒムの天力は特徴的な波長だから、派手に使い過ぎたらエンエルに発見されちゃうでしょうけど、力を縛って肉弾戦に終始したら支障はないんじゃない?」

 

 それでも頭数は五人だ。たったの五人で、日本最大の国防組織に喧嘩を売るのか?

 はっきり言って馬鹿げているが、どうとでも捌いてしまえる自信があった。

 甘い見積もりはしたくないものだが、根拠のない自信が胸の中を満たしているのだ。私がいる、なら如何なる障害も些末である、と。

 所詮は極東の島国という狭い国の、ただの虫けら如きに乗っ取られるような組織だろう。そんなものにこの私が遅れを取るわけもないと、本気で思っているのだ。

 

「自制。自制」

「いきなり何?」

「いや。……それより、思ったより早く客が来たようだぞ」

「あら、そう? ……じゃあ私はちょっと消えておくわね」

 

 シニヤス荘へ真っ直ぐ向かってくる、複数の人間の気配がする。

 いずれもが天力や魔力とは異なる性質の力、霊力を具えた精強な人間達だ。

 私の視線を辿って招かれざる客を視認したフィフは、自身の存在は伏せておくべきだと考えたらしく透明化する。私の『言霊』と同じ力によって。

 

 私は深く息を吸い、意識を切り替えた。想定より大分早いが、想定外のことは常に起こるもの。本当ならまだ色々と準備したくはあったが、慌てず騒がずしっかりと応対しよう。

 可能なら穏便に済ませたい。だが、きっと事は荒ぶるという予感がする。

 私はシニヤス荘の軒先で客人達を出迎え、柔和に微笑んで告げた。

 

「ようこそ、【輝夜】の皆様。当方に何用でしょうか?」

 

 

 

 

 

 

 

 



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41,人界のターニングポイント その1

(近況です)
お待たせしました。
扁桃炎で死にかけており、一週間以上も熱が引かず苦しんでおりました。薬もなぜかきかず、強い薬を処方されたら副反応で発疹が起き、全身痒いし喉も治らないしまだ病院にかからないといけません。
熱はなんとか下がったので表面上は元気になりましたが、まだ通院を余儀なくされておりますので、投稿ペースがどうなるかは不透明です。気長にお待ちくださると幸いに存じます。


 

 

 

 

 

 人間とは弱い生き物だ。

 

 物理法則という貧弱な枷に囚われる程度の身体能力、物質界の病原体のいずれかだけで死に至る免疫機能、酸素がなければ一時間も生存できない脆弱さ。激しい寒暖に耐えられず、肉体が僅かに損傷するだけで再起不能となる哀れな構造強度。突然変異で生まれた一部の才人や、過去から連綿と続く血族だけが有する霊力も、ほとんどが超越者たる上位存在の影すら踏めない。

 人は弱い。それもそうだ、元はといえばマモを生むだけの家畜に過ぎず、単なる家畜として運用するのは勿体ないとして、便利な兵隊として設計され直したのが現行人類なのである。ほんの四千年前に遡る程度の起源からして、人が弱者の域から出ないのは当然だった。

 

 だが弱者には弱者の論理があり、道理があり、意地がある。

 

 ただ食い物にされるだけの立場に甘んじず、自分達の身は自分で守ろうと奮起する者も少なくない。その為にあらゆる努力を重ね、時には恥も外聞もなく上位者の庇護を受け、智慧を磨き、術を開発し、血と汗を流して人という種の貧弱さを克服しようと研鑽した。

 上位存在にはない数を力に、特異な力を取り込み続け、数千年もの間必死に牙を研いだのだ。全ては人という知性体の尊厳の為だ。食われるだけの存在意義を否定して、家畜という立場から脱却する為には、人よりも上位に位置する生命達に侮られない力が必要だから。

 人は弱い。弱いからこそ臆病であり、貪欲であり、狡猾にならなければならない。表世界という家畜小屋から脱して、裏世界という世界の真実の姿に対抗する者達は、自らが弱者であることを自覚しているからこそ、何よりも賢明でなければならなかった。

 

 

 

「――ようこそ、【輝夜】の皆様。当方に何用でしょうか?」

 

 

 

 故に、訪れた先にいた存在を目にした時、人間達は本能が掻き鳴らす警鐘を一瞬で認識した。

 

 人外。

 

 其処に立つ理不尽。人の形をした惑星。言葉を話す別法則。そう形容するのが最も妥当となる、あまりに人から掛け離れた埒外の理だ。

 たとえ力を抑え、律していようと関係ない。どれほど完璧に力を隠そうと、人とは異なる規格の存在であることは、裏世界に生きる者であれば鋭敏に感じ取れて然るべきものである。

 一目で人か否かを判別する識別能力(アンテナ)の強さは、裏世界に生きる人間には必須となる能力だからだ。その精度の高低が生死に直結すると言っても過言ではない。裏世界に精通したプロフェッショナルは、須らく人外の纏う『人でなし』の気配に敏感であることが求められるのだ。肉食獣の気配を鋭敏にキャッチする、臆病で慎重な草食獣の如くに。

 

「(大塚班長……こ、コイツは……!)」

「(狼狽えるな。最悪のケースだが、想定はしていたはずだ。俺が対応するからお前は黙っていろ)」

 

 男――【輝夜】の構成員は体の中心を貫く戦慄を抑え、冷や汗を背筋に浮かべながらも冷静に呼吸を整えた。そうしながら率いてきた二人の部下を宥め、班長として毅然と背筋を伸ばす。

 東京の一角にあるシニヤス荘なるアパート。男達がそこを訪れたのには理由がある。シニヤス荘は一般人を大量虐殺し、更には【輝夜】の構成員を次々と惨殺する超危険人物、家具屋坂刀娘が足繁く通う場所であると調べがついていたからだ。

 

 彼らの目的はあくまで家具屋坂刀娘の確保、あるいは殺害である。シニヤス荘には此処がどういう場所なのか、先行偵察へ赴いて来たに過ぎない。

 家具屋坂刀娘の凶行が、果たして如何なる目的の下にあるのかを知る必要があったのだ。家具屋坂刀娘が人格破綻者で殺戮を愉しむ外道であるのか、はたまたなんらかの目的で【輝夜】を攻撃する敵対組織の構成員なのか、情報を確定させたいという思いが【輝夜】上層部にあったのである。故にシニヤス荘が敵性組織の拠点であった場合、そこに人外がいる可能性は想定されていた。

 

 五名の部下を持つ男は白髪混じりの総髪を撫で、出来る限り穏やかな笑みを口元に佩いた。腰を低くして、下手に出たのである。

 

「――これは、これは。まさか貴方様のような御方がいらっしゃるとは……アポイントメントも取らず急にお訪ねした無礼、伏してお詫び申し上げます」

 

 男、大塚文雄。57歳。この歳まで堅実に生き残ってきた上で、なお現場の最前線にいる歴戦の猛者。卓越した戦技と頭脳を有するその男は――全く躊躇せず跪き、流れるように土下座した。

 実力と経験と運を兼ね備え、性格はともかく能力面では部下からの信頼も厚く、上官からも頼りにされるほどの男が、恥などないとばかりにへりくだったのだ。両脇に従っていた男達も慌てて彼に倣うも、土下座という無防備を晒す大塚ほど自然体ではなかった。

 

「……詫びる必要はありません。頭を上げてください。そうされていては話がしにくい」

 

 面食らったのは人外の方だった。荒っぽい展開になるかもと警戒しながら出迎えた相手が、こうも露骨にへりくだってくるとは思いもしていなかったのである。

 大塚はそうして地面を見ながら、対面した相手の情報を脳内に纏めていた。容姿から入り、内包する力の性質を分析していたのだ。更に自身の土下座が齎した効果にも着目している。

 

(この感じ、傅かれて困惑している? 悪魔ではないな。天使でもない。妖怪や神仏の類いでも。人間如きにへりくだられて戸惑うとは……余程の世間知らずなのか? ……何者だ、これは)

 

 大塚は冷静だった。平静を保っていた。だがしかし、同時に過去最高に緊張し怯えてもいた。

 だってそうだろう? 人外がいる可能性は想定されていた。しかし――神クラス(・・・・)のバケモノがいるかもしれないとは、全く考慮していなかったのだ。

 

 大塚は感知能力に優れた男だ。だからこそこの人外が内包する力の規模が、【輝夜】が所蔵する神アラビトブシ様の遺物――その力の残滓を明白に上回っているのを察知してしまっている。

 こんな化け物と不意に遭遇して、なお冷静さを保てる人間など極一部の英雄級の超人だけだ。そんな超人は今の【輝夜】には二人しかおらず、当然大塚は二人の超人の片割れなどではない。だが大塚は明らかに力の格が違う相手を前に冷静さを保てていた。

 

 理由は二つ。一つは相手が自身の力をひけらかす真似をせず、威圧してこなかったから。もう一つが話が通じそうな雰囲気が相手にあったからだ。もしこの黒髪黒目の麗人が居丈高な物腰で威圧してきていたなら、百戦錬磨の大塚をして恐怖は隠せなかっただろう。

 相手の反応を受け、大塚はソッと顔を上げる。するとスーツ姿の麗人は困ったように眉を落とし、どうしたものかといった表情で跪く大塚達を見下ろしていた。

 

(……話は、できそうだ。少なくとも問答無用で言うことを聞かせようとするタイプではない?)

 

 僥倖だ。圧倒的僥倖だ。一番困る対応は、大塚達に対して問答もせず、自身の論理を一方的に押し付けてくることだった。それがなかっただけで、大塚は相手に対する好感を覚える。

 だって人間の話を聞いてくれる人外は、大抵の場合が寛大で、人間に好意的で協力的なのだ。そうした存在の有り難さは、大塚ほどに経験を積んでいなくても裏世界の者なら痛感している。

 一抹の安堵を覚えつつ、大塚はゆっくりと顔を上げ、麗人の整いすぎている美貌を直視した。そうして慎重に言葉を練り、礼儀正しくはっきり告げた。

 

「無礼を働いた愚かな身共(みども)に、慈悲深くも寛大なお言葉を賜してくださるとは……心の奥底から感謝の念も絶えませぬ。しかし愚昧極まる身共には、御身の深き慈愛を讃える言葉が見当たらぬ有様……どうか身共の不明を正す機会をお与えくださいませ。貴方様はいったい如何なる頂きに座す御方でありましょうや」

「……申し訳ない、もう少し分かりやすく話していただけませんか?」

「………?」

 

 遠回しだが、意味は通じるはずの物言い。大塚は黒髪黒目の人外に問い掛けたのだ。

 貴方は天使なのか、悪魔なのか、なんらかの神仏なのか、と。まさか妖怪ではあるまいと思いつつ。

 だがこの物言いが相手にとって難解だったなどとは、流石の大塚もすぐには理解できなかった。

 

「貴方様は日ノ本の如何なる神性に連なる御方なのでありましょう。御身の面貌を見知りおくことなき身共の蒙昧さは大きな恥、故にお望みになった貢物をすぐにでも手配したく存じまする」

 

 一拍の間を開けて、恐る恐る言い直すと、麗人はやっと得心がいった様子であった。

 

「ああ、貢物。……貢物?」

 

 言語の意味を理解はした。だがスーツ姿の麗人は、まるで難解に翻訳された外国語を目にしたような曖昧な表情になる。麗人からしてみると、普通に応対しただけで貢物を差し出すなどと言われたのだ、言葉の意味は通じても理解が及ぶかと言われたら怪しいだろう。

 要らない。この一言を端的に告げるのは却って失礼に当たるのか。煩悶としたのは数瞬、麗人は愛想笑いを強張らせながらも順当に、かつ穏当に返した。

 

「贈答品を受け取る理由はないのでお断りさせていただく。それより立ってくれませんか? こちらだけ立っていたのでは話がし辛い。お互い暇ではないでしょうし、建設的にいきましょう」

「……は」

「当方からしてみれば、貴方達の来訪自体が予定にないものです。余計な前置きなどは不要ですので、何をしに此処へ来たのか話してもらえませんか?」

 

 無欲な要求に大塚の方こそ困惑しつつ、両脇の部下二名に目配せをしながら立ち上がる。

 神を含む超越者のほとんどが、人を家畜か何かかと見下しているものだ。そうでなくとも替えのきく兵隊蟻と見做しているもので、安易に優しさを見せるモノは希少ですらある。

 ともあれ求められたら応じるのが定石だ。その上で望む方向に誘導するのがプロである。誰が強力な嵐に正面切って挑む? 強い風は帆を張って掴み、利用するのが道理だろう。

 大塚は嘘偽りなく自身らの目的を告げた。

 

「御身に無用な労をお掛けした段、平にご容赦いただきたく。身共は現在、家具屋坂刀娘なる凶悪な殺人鬼を追っているところでございまして、件の殺人鬼の足取りを追い調査していたところ、ここシニヤス荘なる場に足繁く通っていることを掴み申した。もしも家具屋坂刀娘がここにいるのなら、どうか我らに身柄を引き渡していただきたく存じまする」

「………」

「御身の威名すら聞き及ばぬ愚かな身ではありますが、愚昧なりに己が職責に尽くして参りました。なにとぞ身共(われわれ)に課せられた職責を果たすことにご協力いただけぬでしょうか」

 

 大塚は目の前の麗人の反応で、家具屋坂刀娘が間違いなく此処にいることを確信した。

 誠実な人外である。平然と嘘を吐き、騙そうとしてもいいというのに、安易に虚偽を働かぬのは。

 だが、だからこそ踏ん張り時である。長年の経験で大塚は知っているのだ、虚偽を好まない人外ほど譲歩を引き出すのは至難であることを。なんとかして目的を達したい、しかし無理を押してもならない。大塚は腹を決めた。ここは家具屋坂刀娘の所在を確定させられただけで上首尾とする、と。そしてこの未確認の人外の存在を知れただけ上出来である、と。

 これ以上は求めない。長生きし、最低限の成果だけでも持ち帰るのが良い仕事人というものだ。欲張らず謙虚に振る舞うのが人外への対応の秘訣である。

 

 早くも見切りをつけ、この場から退くことを決めた大塚を前に、麗人は悩ましげにこめかみを揉んだ。

 

「家具屋坂刀娘は、確かに当方預かりの身です。しかし彼女を貴方達に引き渡すつもりはありません」

「……訳をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「一般人の殺傷、及び【輝夜】への敵対行動、いずれにも尋常でない訳がある為です。家具屋坂刀娘の個人的趣味嗜好による行動であるなら擁護するつもりはありませんが、そうでないなら当方は彼女の身の安全の保全を優先します。一応、彼女の行動の理由をお話したいのですが、構いませんか?」

「聞きましょう」

 

 聞いたところでなんの意味がある、とは思う。どんな理由があれ、家具屋坂刀娘が大量殺人を実行した凶悪犯であるのに変わりはないし、仲間を殺された【輝夜】が納得するはずもない。正当な理由があっても、報いを受けさせたいと誰もが思うだろう。

 とはいえ名も知らぬ麗人が話したいと言うなら話してもらう。無駄に反抗して、反発的な態度を見せるのは馬鹿なガキのすることだからだ。何よりこの麗人の正体も知りたい。先程、日ノ本の如何なる神性に連なるのかという大塚の問いを、彼女はさらりと流したのだ。自身の種族を隠す意図はないのかもしれないが、こちらが把握していない以上は同じことである。

 今後の対応策を練るためにも、正体不明のままでは困る。大塚は人間らしい小賢しさを発揮し、麗人の語る言葉に耳を傾けた。

 

 しかし、大塚は困惑した。麗人の語ることの一々に、ノイズが走ったのだ。

 

「――今、なんと?」

 

 朗々と、饒舌に、麗人は何かを語った……はずだ。しかし、よく聞き取れずに反駁してしまう。

 麗人は大塚の反応に目を細めた。まずい、機嫌を害してしまったか。内心そう身構えた大塚を見据えた麗人は、まるで部下のミスを発見した上司のように嘆息する。

 

「……失礼」

 

 麗人は懐からスマートフォンを取り出し、誰かと通話する。それからすぐに大塚らを見渡した。

 残念そうに。憐れむように。屠殺される豚を見るように。大塚の全身に、鳥肌が立った。

 何か、まずい。麗人はスマートフォンを仕舞う。

 

「……どうやら貴方達も寄生されているようですね。パッと見えるところに痣はありませんが、既に貴方達の脳は【月の虫】とやらにヤられているようだ」

「………!」

 

 月の、虫。

 その単語を耳にした途端、大塚と部下の二人を強烈な使命感が襲う。

 目の前の存在が途方もなく危険で、今すぐに排除しなくてはならない敵であると確信したのだ。

 なぜ、という単純な疑問すら浮かばない。話し合いで穏便に済ませるという選択肢が消えた。大塚は背中に回した手でハンドサインを送り部下に指示を出す。交渉は決裂した、応援を呼べと。

 部下は即応した。無線機に指を当て、トントン、トントン、と軽く叩いたのだ。離れた地点で待機している班員がそれを聞けば、すぐに対応する為に行動する手筈になっている。

 

 大塚らの密やかな行動を知ってか知らずか、麗人は至極残念そうに言った。

 

「名前を出されただけでそう反応しますか。短絡的ですね。後ろ暗いものがあると自白しているようなものですが……一応試しておきましょう。『寄生虫、消えろ』『宿主から退去しろ』」

「ッ、グギっ……!?」

 

 強い言葉。見知った力。これは、天力。この麗人は天使だ!

 何をされたのか判然としないまま、大塚は相手の正体を察して堪らず叫ぶ。

 

「こ、攻撃を受けた! 交渉は決裂、現有戦力での反撃は無謀だ、すぐに撤退しろォ!」

「りょ、了解!」

 

 大塚の出した指示に部下達はよく従った。瞬時に身を翻して走り去ろうとする面々を見て、首を左右に振った麗人は諦めたように呟くのみだった。

 

「私の『言霊』でも手の施しようは無し、と。いよいよ手遅れ感が否めませんね。残念ですが最後に警告しておきましょう。当方に貴方達と敵対する意図はありません。家具屋坂刀娘から手を引くなら私から何かをすることはしない。応じる気があるなら止まりなさい」

 

 大塚もまた一も二もなくシニヤス荘から、ひいては天使から逃走する。この天使の力の格からして、まず間違いなく【下界保護官】の誰かだ。平の戦闘員でどうこうできる相手ではない。なんとしても生きて帰る、そして対天使の装備や作戦を立てなければならない。

 警告を背にして走り去ろうとする大塚達を見て、麗人――エヒムは心底から悔やむように呟いた。

 

「……フィフ。私は結構気を遣ったつもりなんだが、何かミスっていたか?」

「さあ? 私からすると甘すぎるほど甘い対応だったと思うけど、聞く耳もなければ引く気もない相手には無駄だったようね」

「はあ。よほど刀娘の身柄を確保したいと見える。が、譲る理由もないしな、面倒だが腹を括るか」

 

 声が増えた? 大塚は先に逃した部下の後ろで、不意に出現した声の正体を確認しようと首を巡らせる。

 走りながら視線だけで後ろを振り返ったのだ。

 そこには麗人と瓜二つの――麗人をより女性的に象ったような姿の天使がいた。

 

「どうする気?」

「【月の虫】は宿主に寄生しているどころか、ほぼ完全に同化している。これを無理に取り除けばそのまま宿主も死ぬレベルだ。寄生虫に干渉するのは無理筋らしいとなれば、まあ……宿主自体を安楽死させた方がいいだろう」

 

 天使が、二体。どちらもが上級天使クラス。

 

 シニヤス荘。ここはいったいなんなんだ。

 大塚が感じた戦慄をよそに、麗人の頭髪が黄金に変化した瞬間を目撃する。

 そして次の瞬間だ。銀の瞳が大塚を捉え、麗しき唇がたおやかな音色を紡ぎ――

 

「『死ね』」

 

 ――唐突に、大塚の意識は暗転した。

 

 

 

 

 

 




面白い、続きが気になると思っていただけたなら、感想評価などよろしくお願い申し上げます。


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42,人界のターニングポイント その2

 

 

 

 

 

 たった一言の『言霊』で息絶えた三人の男達を見下ろし、私は深々と溜め息をこぼした。

 

 如何に裏世界にて日本の国防を担う【輝夜】といえど、末端の構成員では私の脅威足り得ない。然程の天力を費やさずとも、速やかなる安楽死を齎す程度なら容易いという他になかった。

 収穫と言えば収穫だろう。今の私なら人間の過半数が障害にならないと知っているが、それは私の経験や学習に拠らない事前知識に過ぎなかったのだ。実際に確認が取れたのは自信になる。だが私としては直接人間を殺めてしまったことには、些かの慚愧の念を覚えずにいられなかった。それはやはり人殺しは悪だという倫理観念が私の中にあるからに違いない。

 にしては罪悪感が全くないわけだが、感受性の変容に関しては流石に自覚している。意図的に人を殺めたことに関して、一ミリも衝撃を受けていない件は強く戒めるしか対処法はなかった。

 

 まあ今は気にする必要はない。

 

「ん……」

 

 三人の男達の傷一つない遺体目掛け一筋の影が伸びていく。私は一度それを見たことがあった為、特に妨害することなく見過ごした。代わりに影の伸びてきた方を一瞥する。

 そこには見知った老婆がいた。老婆の足元から伸びた影は三つの遺体を飲み込み、無間の闇へと引きずり込んでいく。私はそれを認識しつつ、気配なく現れた老婆に声を掛けた。

 

「勅使河原さんですか。こんな時になんの用ですか? 貴女にはたしか、アキナシさんの指導という役割があったと記憶しているのですが」

「ああ、心配しなさんな。それならもう済ませたよ」

 

 影を戻した老婆、勅使河原誾は常の穏やかな微笑を湛えたまま肩を竦めた。

 勅使河原は説明を求める私の視線に答えながら歩み寄ってくる。

 

「所詮は身寄りを失くしてヤケになってるだけの小娘だがね、馬鹿とハサミは使いようさ。力の使い方と心構えだけはウチの術で刷り込んでおいたよ。何をしたところで付け焼き刃にしかならない素人なんだ、洗脳でもなんでもして、敵を攻撃することに躊躇しないよう調整するのが一番さね」

「洗脳だと?」

「そう睨みなさんな。いざって時に躊躇った挙げ句、隙を突かれおっ()ぬよかマシだろう? 精神面での調整さえ済ませりゃ、アンタの与えた加護の性能でゴリ押しにするのが最適解なんだ。細かい技術や立ち回りは、これから先じっくり時間を掛けて身に着けさせるのが最善だと判断したまでさ。三十年みっちり鍛えりゃ一流にはなれるんじゃないかねぇ……文句があるならアンタが鍛えてやりゃいい。ウチより上手く調整できるならね」

「……アキナシさんに説明はしましたか?」

「もちろんさね。自由意志で本人に選択させなきゃ、アンタの不興を買うのは目に見えてるからねぇ、一から十まで懇切丁寧に説明してある。それより、ほら。アンタにはこれをやっとくよ」

 

 言いながら放られたのは、淡い黄金色の粒だった。見覚えがある、それは人のマモだ。掴み取ったマモの粒を見もせずに、私は目を細めて勅使河原を見据える。

 

「なんのつもりです」

「アンタが仕留めた【輝夜】の末端三人、ソイツらの骸から抽出したモンだ。ウチには無用の長物だからね、アンタが食っておやりなよ」

「……私は、人の魂を食べる気はありません」

「四の五の言わずにさっさと食いな。ソイツは【月の虫】に寄生されてた奴のマモなんだよ? 放っておいたら跡形もなく消滅しちまうじゃないか。完全に消え去らせちまうぐらいなら、天使であるアンタが食って供養した方がずっといい。無駄になんないんだからね」

「………」

「それにアンタが何を思って断食(・・)してんのかは知らんがね、完全にマモを断ってりゃいずれアンタは衰弱する。飯を食わなきゃ力が出ないのは誰でも同じなんだ。食わないと死んじまうよ?」

 

 勅使河原の言に、私は眉を顰める。だが理解できる理屈ではあった。

 人のマモを食べることに私は抵抗を覚えていた。人の魂を口にしたら後戻りできなくなるような気がしていたからだ。しかもマモを美味と感じてしまうのが心理的な抵抗感を強めている。

 だが勅使河原の言う通り、いつまでも断食しているわけにはいかない。人の食い物を食べることは出来るが、そこから摂取できる栄養だけでは天使としての空腹を満たすことは出来ないのだ。

 

 抵抗はあるが、これが天使を含めた人外の生態だとすると、いつまでも毛嫌いしているわけにはいかないのが道理だろう。私だって死にたくはないのだ、いずれは食べないといけない時が来る。それがたまたま今だったというだけのことで、罪もない人のマモを食べたりするようにならなければいいだけのことだ。ただそれだけの話である。

 

 理屈として受け入れた私は躊躇いつつ、掴んでいたマモの結晶を口にする。

 

 ――途端に口内へ広がる筆舌に尽くし難い旨味。

 

 甘露であった。甘く、しかし辛く、濃厚なようでさっぱりしていて、ありとあらゆる美食を生ゴミ以下の汚泥に貶めるかのような味が舌を蹂躙した。

 一瞬何もかもを忘れて恍惚としてしまう。だが、直後に飛来した無数の情報の奔流で我に返った。

 

「………」

 

 流れ込んできたのは、マモの持ち主である三人の男達が辿ってきた人生の軌跡だ。

 どのような家に生まれ、どんな親兄弟に囲まれ育ち、どのように生きてきたのか。人間三人の明確な記憶の数々と、まるで己の物のように追体験する感情の瑞々しさ。これまで相対した人外、犠牲にしてきた仲間や己の家族、そして最後に対峙した私の顔が見えた。

 特に濃密だったのは、三人の中で年長だった大塚文雄という男の人生だ。組織の末端、下っ端、替えの聞く人材。そうであっても五十数年分の人生の重みは若造の私にとっては非常に重く――

 

「……はぁ」

 

 こんなものは(・・・・・・)要らない(・・・・)。だから軽く吐いた息と共に、他人の人生の情報を押し流した。

 私の反応を見守るフィフと、微塵も表情を動かさない人の好さそうな老婆を尻目に、私はマモの味わいを忘却してしまう。全く以て不要極まる故に。

 

「どう? はじめて新鮮なマモを食べた感想は」

 

 フィフがからかうように言う。

 私はじろりと彼女を睨むも、すぐに目から力を抜いて吐き捨てた。

 

「どうもこうもない。味はクセになりそうなぐらい美味いが、他人の人生なんかを見せられては愉しむ気になれん。私には重過ぎるし、余分だ。いちいちまともに受け止めていたのでは、私の頭の方が破裂してしまいそうだよ。今後はこの手の情報は遮断する」

「あらそう。ま、妥当だと思うわ。私のモデルもほとんどそうしていたし」

「ヒヒヒ……流石は天使様だねぇ。人間一人の人生なんざ、記憶する価値すらないとは」

 

 なんてことのないように私の答えに同調するフィフとは別に、勅使河原は嫌味ったらしく嘲笑う。

 心の温度が下がるのを感じつつ、私は勅使河原に能面のように平たい視線を向けた。

 

「……勅使河原さん。貴女は私にわざとマモを口にさせ、彼らの人生の情報を追体験させましたね。なんのつもりか答えてください」

「なんのつもりも何も、普通に善意しかないさ。どうあれいずれは同じ目に遭うのは確実なんだよ。ウチみたいな人間が他人のマモを取り込んじまったら、アンタの言うように頭がパンクするのがオチでもある。折角の資源を無駄にするよりこうしていた方がいいだろう」

「なるほど、よく分かりました。本音を話すつもりはないことが。……話は終わりです」

「ヒッヒッヒ、怖や怖や。それじゃ最後にババアからの忠告でも聞いときな。エヒムの坊や、自分が内心でどう思おうと、アンタはもうとっくにバケモノなんだ。人間だった頃みたいに甘いこと抜かしてたらいつか足元を掬われる。それが嫌ならさっさとバケモノとしての自分の芯を作っときな。さもなきゃなんもかんもが中途半端になっちまうよ?」

 

 言いたいことを好き放題に言い放って、着物姿の老婆はシニヤス荘の方へと踵を返した。

 楚々とした足取りに音はない。気品がありながら華がない。彼女の背中を色のない目で見詰め、シニヤス荘の中に消えたのを見届けた私は意識を切り替える。

 勅使河原の真意がどこにあるのかなどはどうでもいい。だが気を許していい相手ではないという認識だけを胸の内に留め、今後の展開について思いを馳せた。

 

「――あ、もう終わっちゃってます?」

 

 すると勅使河原とは入れ替わりに、渦中の人物である少女、家具屋坂刀娘がやって来た。

 見れば彼女の手首にも、五郎丸達に支給したものと同じモノがある。彼女の大太刀がその腕巻きに格納されているのを感じ取れた。

 

「ああ……刀娘か。終わりはしたが、始まったとも言えるな」

 

 仕事の支給品を勝手に取るなと叱るべきか悩んだが、彼女もバイトとはいえ従業員であることに変わりはないなと思い直す。

 仕事の場ではない為、素の態度で応対した。刀娘は近くのフィフに不躾な好奇の視線をやりつつ私のすぐ傍に寄り、自然体のまま会話の端緒を開く。

 

「始まった、ってことは……【輝夜】のヒトを殺っちゃったんですね」

「穏便に済ませたかったんだけどな、ああも取り付く島がなければ話し合いもクソもない。なぜ刀娘を狙っているのかは知らんが、少しは穏当に解決しようとする姿勢は見せてほしかったよ」

 

 無闇に人を殺めねばならない選択は可能な限り避けたいと思う。もう過ぎた話だから、いつまでも未練がましくするつもりはないが、人間を害する行動は今でも避けようと考えてはいた。

 だが無理はしない。私が守るべきなのは敵対者ではなく、無関係な人や自社の従業員である。責任ある立場になってしまったからには、敵は鏖殺してでも身内を守るべきだと決めてもいた。

 刀娘は気まずそうに身動ぎする。フィフは何か物言いたげにしていたが、結局何も言わずに透明化した。己が私の分身だと弁えているからこそ、口出しは控えようと判断したらしい。口頭での説明がなくても理解できるあたり、私のフィフへの理解が深まったようだ。

 

「……これからどうするんです? 一応アタシの問題に巻き込んでるカタチなんで、アタシにできることならなんでもしますよ」

「お前はうちの従業員なんだ、当たり前だろ。刀娘には新人三人の世話を焼いてもらうことになるからそのつもりでいてくれ。で……これからどうするのかという質問に関しては……」

 

 頭の痛い話だが、と前置きして。

 

「現状、月の国とやらの所在地、構成員、目的の一切が不明である以上、しばらく専守防衛に徹さなければならんわけだ。だがそんな悠長に事を構えていたら、【輝夜】の人員を無意味に排除し続ける羽目になるし、よしんば【輝夜】を潰せたとしても、月の国とやらが手駒を変えたらイタチごっこになるのが目に見えている。故に奴らの居場所を探し出すのが当面の目標になるだろうな」

 

 おまけに月の国だけが脅威というわけでもない。東京や埼玉の件で好き放題してくれた【曙光】もこのまま大人しくしているとは思えないし、それに対応する為に【教団】が動くのも明白だ。

 既に二回も公の場でやらかした【曙光】の連中が、今後は自重してくれる保証もない以上、無関係の人々を保護する必要性に駆られる場面が出てくる恐れは充分にあった。

 月の国ばかりにかまけている暇はない、というわけである。アグラカトラの方針は理解に苦しむが、月の国に関する案件は私が預かった為、他の問題に関する対応は社長に任せたいが……肝心の組織力が底辺である【曼荼羅】に、複数の案件に対応する力がないのが辛い。

 

 故に私に出せる結論は一つだ。

 

「――今最も厄介なのは【曙光】だ。忌々しい悪魔信仰者どもが要らんちょっかいを掛けてくるかもしれない。だからアイツらを一度叩かないことには落ち着いて本命に対応できんだろうよ」

「長いです。簡潔に言ってください」

「……纏めると【教団】に対しては無難にやり過ごし、【曙光】を黙らせ、月の国の本拠点を特定するといった手順で行動することになると考えている」

「へぇ……つまり後手後手に回ってなし崩しに事態が好転するのを待つ、ってこと?」

「有り体に言うとそうなるな。はっきり言って【曼荼羅(うち)】の組織力がゴミ過ぎて、できることが少なすぎるわけだ。底の浅いリソースしかない今、私達は相手からのアクションを待たないと、何をするにしても明確な方針を立てられない状況なんだよ。悲しいが」

「情けなさ過ぎて泣きたくなりますねー、それ。でも心配しなくていいと思いますよ?」

「……どういうことだ?」

 

 意味深な発言に眉根を寄せ反駁すると、刀娘はニヤリと嫌らしい笑みを浮かべて言った。

 

「エヒムさんは自分の強さに対する自覚が薄いですね。いいですか? なんでかアタシを狙う月の国の奴らは、【月の虫】を通して知っちゃったんですよ。アタシがエヒムさんっていう、現代だとレアな超越者の庇護下に入ったってことを。これは割と致命的なんです、なんせ現代でエヒムさんに対抗できるレベルの超常存在は少ない。地上の駒をどう動かしたところで、エヒムさんの庇護下にいるアタシをどうこうできる訳がないんです」

「……つまり」

「はい、つまりそういうこと(・・・・・・)です。本気でアタシの身柄を確保したいなら、地上の駒なんかに頼らず自分達が出張ってこないと、エヒムさんからアタシを奪うことはできません。【輝夜】にも相当なバケモノはいますけどね、流石にその人達には【月の虫】も寄生できないでしょうし」

「……待っていたら勝手に墓穴を掘る、か」

 

 さっきフィフが言っていた通りの展開になるわけか。私もそうなる可能性はあるとは思っていたが、刀娘が私やフィフと同じ考えなら現実的にありえると想定しても良さそうである。

 となると、幾らでも手の打ちようはある。後手に回るのに変わりはないが、無為なイタチごっこを避けられるとなれば明るいニュースになりそうだ。

 しかし履き違えてはならない。驕ってはならなかった。確かに私の肉体が有するポテンシャルは、刀娘の言う通り卓越したものではあるだろう。しかし私自身の戦闘経験が浅いゆえに、ロイ・アダムスにされたように一部の強者には翻弄される可能性は高かった。

 ロイの時は読み合いで上回れたからなんとかなった。天力量が格段に向上した――否、加護を与えていた【天罰】の面々が死亡した為、元の性能に戻った今の私なら、ロイを相手にしても万が一はもう無いと断言できるが、彼以上の実力者がこの世にいない訳ではないし、初見殺しの能力者に巡り合わないとも限らない。油断は禁物という他にないだろう。

 

 私がそう考えていると、刀娘は嫌らしい笑顔のままさらなる爆弾を投下してきた。

 

「あと月の国の場所もなんとなく分かりますよ? 太陽の隣に月が浮かんでるのがアタシには視えてますからね」

 

 

 

 

 

 

 

 

  †  †  †  †  †  †  †  †

 

 

 

 

 

 

 

 

 宴会。この字面を見た者は、ほとんどが飲めや歌えやの大騒ぎを想像するだろう。

 だが【輝夜】の本拠点、京都の一角を占有する広大な旅館の一室に集まる者達は、豪勢な料理や酒を口にしながらも無駄口を叩くことはなかった。左右一列ずつ並べられた卓を前に正座して、それぞれが上品に箸を動かし、あるいはお猪口に注がれた酒を嗜んでいる。

 沈黙。ただただ、重たく堅い空気が畳間の客室に満ちていた。

 左右の座には十五人ずつが並び、総勢三十人の男女が老いも若きもなく座している。そして左右の座を平等に見下ろせる上座には、さながら戦国大名の如き威厳を纏った壮年の男が寛いでいた。

 

 白髪の混じった、藍色の着流しを纏った長身の男だ。もうすぐ老境に差し掛かろうとしているその男は、自然体で寛いでいても他を圧する覇気を宿し、平素の眼力にも尋常ならざる剣気が込められている。傍らに置かれた打刀が飾りでないことなど一目瞭然だろう。

 肘置きに凭れ掛かり、下座の面々が事務的に交わす会話を見遣る男は、重厚な存在感を抑えようともせずに盃に口を付ける。口に運ばれた酒は極上の品、しかし男に酔う気配は微塵もない。

 

「――当家の担当する区画に、貴殿の担当区画から妖怪が流れ込んでおる。取るに足らぬ雑魚だったからいいものの、些か怠慢が過ぎるのではないか?」

「何を申されるかと思えば、斯様に些末なことか。当方から貴殿の担当区画に小者が流れ込んでいる程度で文句を言われる筋合いはない。当方など既に三度は貴殿の方から流入した小者を処理しておるのだぞ? だがそれで当方が貴殿に苦情を申し立てたことがあるか? ないだろう。その程度ならば互いを補い助け合えばよいことだ。暗黙の決まりごとを先代に教わらなかったか?」

「よく喋る。当家は何も、妖怪の流入を大袈裟に騒ぎ立てたいのではない。当家の管理する『大妖』が何か忘れたわけではなかろう? 当家は狐の大妖、白面の九尾の封印を受け持っておるのだ。何が言いたいか分かるか?」

「む……もしや」

「そちらから流れ込んできたのはな、狐の(あやかし)だ。九尾の狐の封印を破ろうと、当家に忍び込もうとしておったのだ。これが狐以外の妖怪であれば、当家も貴殿を非難する気はなかった」

「ぬ、ぅ……その件には、謝罪しよう。相済まぬ。この通りだ、許してほしい……今後は此度のような失態は犯さぬことを誓う」

「謝罪は受け入れる。故、もう頭を上げてくれ。担当区画が隣り合う家同士なのだ、これからも補い合い助け合おうぞ」

「うむ……」

 

 左右で正面に迎えた相手と語り合う者達。円満に済んだ話は、既に上座の男は把握していた。

 男は卓に盃を置きつつ、声に出さずに思う。

 

(無能共め)

 

 辛辣に内心吐き捨てたのは、どちらもが『小者の狐妖怪』と認識しているモノが、実は小者などではないことを知るが故のもの。

 両家が事態を察知するよりずっと先に感知した男は、家の者を遣いに出して密かに狐妖怪を弱らせていたのだ。分家の者達の面子を潰さず、領分を侵さぬ為に、わざわざトドメは刺さずに。

 件の狐妖怪の位階は『空狐』だった。狐妖怪――妖狐の位階は野狐、気狐、空狐、天狐の順にあり、二番目の位階だった件の妖狐は神に等しい天狐ほどではなくとも極めて厄介な妖怪である。

 現代では非常に稀有な、強力な外敵だった。【輝夜】を率いる頭領家、男が当主を務める本家の術士でなくば太刀打ちできなかっただろう。

 

(血を分けた分家といえど質の低下が著しい。どうにかして血を入れ替え、刷新せねば血が腐る)

 

 男。【輝夜】の頭目たる匠太刀武蔵屋(ショウダチ・ムサシヤ)は、緩やかに弱まる血の力に危機感を懐いていた。

 明治時代から始まったとされる、【輝夜】の武力の低下は匠太刀一族にとって解決しなければならない課題であった。

 武力が弱体化している原因は分かっている。【輝夜】が創設時から戴いていた神、アラビトブシが外なる世界へと立ち去ってしまったからだ。人間とはどれほど研鑽しても、所詮は弱者。大いなる超常存在の庇護なくして、世の不条理に立ち向かう術はほとんど無い。

 匠太刀一族は辛うじて最盛期の力を維持できているが、それ以外は目も当てられない。嘗ての頼りになる分家は力を弱め、組織として見ると斜陽を迎えているのを認識せざるを得なかった。

 

(刀子め……)

 

 武蔵屋は全く面に出さないまま、内心憎々しく娘の顔を思い出す。行方を晦ませた家出娘の顔を。

 匠太刀刀子。才気煥発にして、次代の匠太刀家当主の筆頭候補だった少女。匠太刀家が代々受け継いできた当主の証、『荒火土(アラビト)の分け御霊』を継承すれば、すぐにでも武蔵屋を凌駕するであろう武才を秘めていた。

 だからこそ【輝夜】に属する二人の超人の片割れ、鬼柳千景に武蔵屋は頭を下げて弟子に取ってもらい、()の剣神の如き女仙の剣術を学ばせたのである。武蔵屋も打算込みとはいえ娘を精一杯可愛がり、正室の女や乳母に任せきりにせず教育に勤しんで、手塩にかけて育て上げてきた。だというのに、家出だと? そんな身勝手な振る舞いをする娘に育てた覚えはない。

 

 武蔵屋は、刀子に期待していたのだ。

 

 刀子ならこの斜陽を迎えた【輝夜】を立て直せる。根拠はないというのに、不思議と娘を見ていたら確信してしまうのだ。武蔵屋の中にある『荒火土の分け御霊』が囁いている気がするのである。この少女こそが、【輝夜】が長年求め続けてきた存在なのだ、と。

 だからこそ失望している。怒りもしている。かといって見限り、捨て去り、忘れる気はない。武蔵屋はなんとしても娘を探し出して、なんとなれば自分の手で連れ戻すつもりでいた。

 勝手な真似をした咎は、拳骨の一発でも落とさねば気が済まない。どれだけ心配しているか分かっているのか、あの馬鹿娘は。心を占める怒り、不安、親心を鉄面皮の裏に秘め目を閉じる。

 

 瞑目した武蔵屋の耳に、下座の会話の一部が入ってきた。

 

「――そういえば聞いたか、越前の」

「なんの話だ、要石よ」

「いやなに、東京と埼玉の一件よ。我らが日ノ本に【曙光】が潜み、よからぬ企みをしておったのは皆も把握していようが、あのような愚行を侵すとは想像だにしておらなんだ」

「であるな。それが? その一件は武蔵屋様が近く号令を掛け、掃討に移るという話であろう」

「左様。しかし東京を守護しておった太刀之浦(タチノウラ)家当主が言っておったらしいぞ。なんでも――」

 

 と、その時だ。武蔵屋の傍に一体の影が忍び寄る。

 無論、接近には気づいていた。反応を示さなかったのは、それが何者かも察知していたからである。

 人型の漆黒。人を黒い墨で塗り潰したかのような暗黒の影。それは匠太刀家に仕える忍の者。中でも武蔵屋が重宝する、忍の中でも特に優れた者だった。

 

勅使河原(・・・・)か。何用だ?」

「主殿、お耳を拝借」

 

 誰も忍、勅使河原の者の存在に気づいていない。

 衰えたりといえど、ここに集うは【輝夜】主要の者。匠太刀家の分家を預かる一廉の強者であるはずなのに、だ。それほどの隠密の使い手なのである、勅使河原の忍というものは。

 勅使河原の忍の中でも一等に信を置く、勅使河原一族の現当主が耳打ちしてくる話の内容に、武蔵屋はただ黙して耳を傾け。次第に眉根を寄せ、鉄面皮を歪め、纏う覇気が平素のものから戦時のそれへと変化していくのを抑えられなくなっていった。

 

「……真か」

「間違いなく」

「そうか。報告は終わりか?」

「いえ、もう一つ」

 

 まだあるのかと武蔵屋は口元を歪める。だが主の苛立ちを気にも留めず、影は淡々と続けた。

 

「妖の血を混ぜた北欧の者の一族、カルグラム家のウィンターという娘をご存知か」

「愚問。実験的に半妖を【輝夜】に組み込む沙汰を下したのは俺だ。把握しておるに決まっておろう」

「ウィンターの属する隊が敗れました」

「何?」

 

 北欧のとある一族と、日本人のハーフ。その者に呪術で縛ったとある妖怪を番わせ、半妖として生まれさせたウィンター・カルグラム。その性能、才能は分家当主を凌駕するものだった。

 今はまだ未熟だが属させた隊は精鋭である。それが敗れた? 何があった。勅使河原の忍が耳元で囁く報告に、武蔵屋は遂に肘置きに拳を叩きつけて破壊すると勢いよく立ち上がる。

 ギョッとした分家当主達の視線が集まるのを気にも留めず、武蔵屋は焦燥も露わに語気強く命じた。

 

「下がれ、木月(きずき)

 

 勅使河原の忍の名を呼んで下がらせる。幻のように消え去った忍を意識から外し、武蔵屋は居並ぶ面々を見下ろしながら言った。

 

「聞け、皆の者。東の京の地に、【曼荼羅】なる木っ端が在るのを掴んだ。戦の支度をせよ、各々の抱える最たる(つわもの)を出せ。当家の者に指揮を取らせる。此度の会合はこれまでだ。散れ!」

 

 

 

 

 

 

 

 



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