散歩するには良い日和 (てるてる)
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散歩するには良い日和

 

 

 忘れる、というのは人間に与えられた機能の中で最も優しいものだと思う。

 

 犬を飼い始めた。

 正確に言えば二匹目の犬だ。まだ仔犬と言っていいほど小さく、部屋の中を駆け回る黒毛の姿は目も眩むようだった。

 数年前まで飼っていた彼女とは対照的なその様に、今もほとほと手を焼いている。

 

 彼女が亡くなってからどれくらい経つだろうか。

 年月が経つに連れて、彼女の全てを少しずつ忘れていくのが辛かった。

 指に絡まる事もなくすっと通る毛並みも、あまり鳴かなかった彼女が本当に嬉しい時にだけ上げていた微かな唸り声も、芯まで冷え込むような夜に毛布の中へ潜り込んできた体温も、少しずつ忘れていく。

 

 記憶の中のその顔を思い返す度に、最後に撮った写真を眺めてみる。何処か食い違っているそれを寂しく思うと同時に、人間とはよくできているものだと感心した。

 

 ただ未練はあったのかもしれない。彼女がよく使っていた毛布だけは洗う事もなく、ずっと椅子の背に掛けっぱなしにしていた。その横を通る度に微かに香る獣臭さに、顔を顰めながらも懐かしく思う事ができたから。人の最も強い記憶とは、嗅覚に結び付いているらしい。

 

 先日の豪雨でそんな微かな名残すらも消えてしまった。流れ込んできた雨水により泥で汚れ、湿気で腐った家財は幾らでも買い戻せる。だが乾いた土がこびり付いた毛布を洗った所で、もうそれはただの薄汚れた襤褸切れでしかない。

 最早彼女の匂いはしないそれに、油をかけて燃やした。立ち昇る煙は、やっぱりただの煙に過ぎなかった。

 

 

 

 それで踏ん切りが付いたという訳でもないが、犬を飼う事にした。

 彼女も裏切ったとは思わないだろう。仮に自分が先に死んで、彼女が誰かに引き取られたとしてもそれを裏切られたとは思わない。

 実際に飼ってみるとその世話に忙殺され、何となく感じていた寂しさを紛らわせてくれた。

 特に意識した訳ではないが、よく勝手知ったる彼女との散歩コースを歩いた。自分にとっては慣れ親しんだ道を、忙しなく辺りに興味を示しながら鼻を鳴らす彼に引きずられるようにして、河沿いを往くのが日課だった。

 

 その日は本当に良い天気だった。頬を撫でる秋風は微かに涼しく、高くなった空は広々と晴れ渡っている。模範的な秋晴れと言えるだろう。

 散歩するには良い日和だな、そう呟いた時だった。

 

 柔らかな日差しか、そよぐ猫じゃらしか、はたまたその場全ての景色によるものか。

 

 自分の足下に擦り付く彼女の姿を見て、思わず立ち竦む。白昼夢か幻か、すぐに消えたそれに縋るように暫くその場に蹲っていた。

 突然歩みを止めた主人へ怪訝な視線をぶつけながら、ひょこひょこと彼が歩いてくる。新しいパートナーを見つけた自分に対して、彼女からのメッセージなのだろうか。そんな考えが取り留めもなく浮かんでくるのを、苦笑混じりに首を振ってかき消す。

 

 人は忘れる事ができる。そして同時に思い出す事もできる。それだけの事に過ぎないのだ。切っ掛けはほんの些細な事だろう。それは誰かのお気に入りの毛布だったり、こんな散歩するには良い日和だったりする。

 

 ふと顔を上げると、濡れた(つぶら)な瞳が蹲っている私を見つめていた。その柔らかな頬にそっと触れる。この一時さえいつか忘れてしまうとしても、忘れられてしまうとしても。

 

「俺はお前の思い出になれるか?」

 

 当然、返事はない。

 

「なれるよう頑張るよ」

 

 わん、という返事と共にリードを手繰る。生きた重みを手の中に感じながら家路を往く。遠くで焼き芋屋の張り上げる声が聞こえた。

 もし願いが一つだけ叶うとしたら、彼女にこう尋ねてみたいと思う。

 俺はお前の思い出になれたか、と。

 

 

 忘れる、というのは人間に与えられた機能の中で最も優しいものだと思う。

 それと同じくらい何かを思い出すという事は、哀しくて優しい。

 

 こんな良い日和には、きっとまた彼女の事を思い出せる。

 

 

 



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