仮面ライダー:RE (大荒鷲)
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Heros Archive

メモ書き兼外部向け解説書。

ネタバレを含むので閲覧の際はご注意を。


ライダーデータ

 

《スカルマン》

 

「冥界より蘇りし骸骨男――スカルマン…!」

 

 Spec

 〇パンチ力:1.7トン

 〇キック力:3.2トン

 〇ジャンプ力:ひと跳び28メートル

 〇走力:100メートルを5.8秒

 

 External Information

 突如2017年の日本に出現した髑髏の仮面を被った謎の犯罪者。「死の国から来た骸骨男」を自称し、この名も自らそう名乗ったものである。

 見た目通りの銀色の髑髏を模した仮面に、防弾機能を備えた黒いライダースーツとプロテクターを纏い、常人離れした異様な身体能力と銃器、爆弾、ナイフ等様々な装備を駆使してテロ行為を引き起こし、その際に髑髏のホログラフィックを挑戦状代わりなのか置いていくがそれ以外に犯行声明のようなものは一切出しておらず、目下の所その正体や目的は掴めていない。国民からは恐怖の象徴と見られているが一部では彼を崇めるような輩も存在するらしい。

 また単独でこれほどの装備を入手し、運用する事は困難であるため背後に何かしらのバックアップが存在する可能性は極めて高いがこちらも現段階では特に情報がない。

 

 Detailed Information

 その正体は山城幹斗と言う名の青年。更に言うならスカルマンとしての姿の他に「ヴェルノム」と呼ばれる異形の怪物へと変容する事が可能でスカルマンとしての身体能力は全てここに由来している。戦闘に際してはその並外れた身体能力を以てしての肉弾戦を主流とするが、携行できる範囲であれば銃器も爆弾も使用する。いずれにせよ周囲の被害や犠牲は全く顧みない所があるため、周囲の被害は甚大なものになりがち。

 

 

 Equipment

・《マシンバトルボーン》

 スカルマンが駆る高性能大型バイク。フロントカウル部分に髑髏を象ったような意匠が備わり、骨のようなパイプラインが各所に配置された悍ましいフォルムをしている。その姿は多分に目的を考えれば「余計な装飾」であり、性能的な意味よりも見るものへの畏怖や恫喝を主目的としたものであろう。ある程度の自動操縦に対応している他、背部コンテナに対人地雷等の埋設機能や各種武装のプラットフォームを備えるなど単騎でスカルマンの活動を支える、誇張なしに最大の武器のひとつである。

 

 

 

《エースゼロ》

 

「《エースゼロ》レディ…ステディゴー…!」

 

 Spec

 〇パンチ力:2.6トン

 〇キック力:4.4トン

 〇ジャンプ力:ひと跳び22メートル

 〇走力:100メートルを6.5秒

 

 External Information

 全身を金属の鎧で包み、十字型のバイザーを備えたヘルメットを被った正体不明の戦士。スカルマン出現から1年目となる日に突如姿を現し、スカルマンと衝突しているという。

 スカルマン同様、正体は不明。少なくとも警察はその存在を把握してはいないらしく、その存在も一部の事件の目撃者から語られたのみである。だが分かる限りでも謎の怪物たちと対等に戦い得るポテンシャルを持っており、少なくとも高度な技術と知識に支えられているのは間違いがないようだ。

 但しあくまで目的は対象の捕縛であり、抹殺ではないようだ。

 

 Detailed Information

 正体は琥月辰雄と名乗る少年。「神樂」という謎の存在に属する身らしく、エースゼロとなって戦う事もその使命の一つのようだ。

 全身に耐弾性能、耐衝撃性能に優れた鎧を装着し、最後にベルト状のユニットを装備して初めて行動可能となる。このベルトはヴェルノムの機能を人工的に再現したものであり、現状ヴェルノムやスカルマンに対抗し得る唯一の装備。アーマーの硬度やシステムのアシスト効果も手伝ってか単純な防御力・膂力ならスカルマンを上回っている。

 戦闘においては情報収集能力を備えた頭部マスクで相手の分析を行いつつ、様々な武装を駆使して戦う技巧的なスタイルを取る。とは言え後述の身体への負担などシステム全体としては未だに調整中の所があり、完全とは言い難い。

 

 Equipment

・《エースドライバー・ゼロ》

 エースゼロが腰部に備えるベルト状動力機関。エースゼロの心臓部であり、全ての力の源である。

 腰に装着し、システムを起動させる事で使用者に超人的な身体能力を付与することが出来る。全身のアーマーは単純な鎧以上にその際の負荷を軽減するための機能が組み込まれている。バイクのハンドルのようなスロットルユニットを左側に備えており、これを捻る事で「Low」「Medium」「High」「Ultimate」の4段階に身体にブーストを掛けることが出来る。上に行くに比例して能力値も上昇していくが同時に身体の負担も各段に増大するため、基本的に2回以上の使用は推奨されない。

・《マシンセクターゼロ》

 エースゼロ専用のマルチホイールビークル。4輪によってどんな悪路でも安定した高速走行が可能な他、備え付けのガトリング砲やエースゼロ用の各種オプション武装などを搭載可能。エースゼロはそもそもこのマシンとの連携を前提に設計されており、そういう意味ではこのマシンも含めてのエースゼロシステムである。ハンドル部分は「ヴァニシングエッジ」と呼ばれる専用武器を兼ねている。刀身を特殊な記憶形状セラミックで形成できるこの剣はエースドライバー同様、4段階に出力を調整可能。最大出力であれば巨大サイズのヴェルノムすらも溶断できる。

 

 Finishing Arts

・ヴァニシング・エンド

 Ultimateモードでは絶大な負担の代償に身体強化のみならず「必殺技」とも称される特殊な機能が開放される。代表的なのがコブラヴェルノム戦で使用したこのキック技である。危険度が高いため普段は厳重に封印されており、使用者の意思に応じて解除される。アルティメット効果によって極限まで上昇した身体能力による打撃と脚部装甲に内蔵された機構により「Cウェーブ」と呼ばれる特殊な電磁波が放射され、これを浴びた対象の水分を一斉に沸騰・最終的には爆散させる(要は生き物を電子レンジでチンするようなものである)。当然使用者の身体的負担も非常に高いため、やはり使用は最終局面に限られる。



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Character Archive

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〈主要登場人物〉

 

●成澤哲也

・プロフィール

性別:男

年齢:24歳

職業・身分など:「レイニー・ジャーナル」の記者見習い

 

 本作の主人公。駆け出しの見習い記者だったが知り合いの刑事からとある依頼を受けた事でスカルマンに纏わる事件を追っていく事になる。

 16歳の時に両親を失い、東京の叔父叔母夫婦に引き取られたが、心の傷やすれ違いが続いた事からかつては道を踏み外してしまい、暴走族まがいの事をやっていた。しかしその事が遠因となって育ての親であった叔父を死なせてしまった事を悔い、「何者かに変わりたい」という願いを胸に今の仕事を続けている。

 相応に喧嘩っ早い所があり、やや粗暴で口が悪い所もあるが本来的には困っている人や助けを必要とする人を放っておけない優しい性格である。心を開いた相手には明るく、世話焼きな反面過去の経験から鬱屈した内心を隠して、一人で抱え込みやすい部分がある。総じて良くも悪くも激情家で未熟な所は多いが不思議と人を惹きつける。

 趣味はバイクで族時代から乗っていた「真紅の雷電」とかいうダサい二つ名付きのバイクを今も愛用している。その時の経験があるのか腕っぷしもそれなりに強い方で度胸もある。

 

 

●山城幹斗

・プロフィール

性別:男

年齢:24歳

職業・身分など:派遣社員→テロリスト

 

 もう一人の主人公。普段は「山下幹夫」の名で都内の工事現場等で日雇いの派遣社員として働いているが、その正体はスカルマンという仮面のテロリストである。

 哲也の幼馴染でかつては彼と共に「あかつき村」という小さな村に住んでいたがある出来事がきっかけで死亡扱いになっており、以来哲也とは会っていなかったがスカルマンの事件を追う中で両者は思いもかけない形で再会する事となる。

 職場でも倒れた同僚を庇ったり、健輔の事を気に掛けていたりなど他人に対して思いやりや気配りを見せる事はあるが、何かしらの対象に強い憎悪と復讐心を抱いており、その事になると見境が無くなる危うさを持つその内心は妹の柚月にすら「怪物」と称された。しかしながらそんな自分に何かしら思う所があるようであり、哲也に自分を止めて欲しいと思っているフシがある。

 

 

●山城柚月

・プロフィール

性別:女

年齢:18歳

職業・身分など:エースゼロのサポーター

 

 本作のヒロイン。スカルマンの起こした事件現場に出没する謎の少女で彼女の捜索を哲也が依頼された事から物語は始まった。

 その正体は幹斗の妹で哲也とも幼い頃からの知り合いである。兄同様本来は「あかつき村事件」で死亡した筈であるが、今になって表舞台に姿を現し、兄の凶行をなんとかして止めようとエースゼロに変身する謎の少年、辰雄と共に行動している。

 幼い頃からあまり他人に心を開く事がなく、不思議と大人びた雰囲気の少女だったが現在もあまり変わっておらず、常に淡々とした態度を崩さないが親しい人の危機や「命を奪う」という行為に対しては穏やかではいられない事が多いようである。

 

 

●九條梗華

・プロフィール

性別:女

年齢:24歳

職業・身分など:神樂?

 

 もう一人のヒロイン。哲也と幹斗の幼馴染の一人で小学生の頃にあかつき村に転校してきた。

 元々体が弱く、都会に馴染めなかった事から療養を兼ねた一時的な滞在だったものの両親を白零會の地下鉄テロ事件で亡くし、以来村で祖母と共に暮らしていた。自分の居場所を作ってくれた哲也と幹斗にとても感謝しており、二人との絆を大切にしていた。

 かつては朗らかで快活な性格だったが、7年間の間に何かあったのか幹斗の子と思しき少女「ミホ」を設けている。哲也の見立てではかつて幹斗と良い仲だったらしいが真相は不明。柚月同様スカルマンとなってしまった幹斗を止めるべく彼の元から出奔し、柚月や琥月と行動を共にしている。

 

 

●土枝健輔

・プロフィール

性別:男

年齢:24歳

職業・身分など:派遣社員

 

 哲也のかつてのクラスメイトで暴走族時代からの親友。現在は日本各地を回って日雇い労働に従事している。

 養父との折り合いが悪く、彼への反発でヤンキー崩れになっていた所で哲也と知り合い、彼を自分のグループに引き込んだ。とは言え本質的には哲也の過去を全て知った上で彼を受け入れるなど懐の深い所があり、同じような身内との軋轢を抱えるなどして孤立している者には優しい所がある。事実あまり喧嘩は強くなく、荒事は不得手な方。かつてはお調子者なムードメーカーであったが、荒んだ生活を続けてきたためかやや卑屈で根暗な性格になってしまっている。

 鬱屈した生活を送っていた所を同僚の山下幹夫と親しくなった事で徐々にスカルマンを巡る陰謀に巻き込まれていくことになる。

 

 

〈警察関係者〉

 

●立木正尚

・プロフィール

性別:男

年齢:61歳

職業・身分など:警察官・生活安全課

 

 台東区警察署の生活安全課に所属するロートル刑事。コロンボの出来損ない。

 哲也とは彼がヤンキー時代からの付き合いであり、陣内とも古くから親交がある。哲也にとっては今の生活を斡旋してくれた恩人でもあり、「おやっさん」と呼ぶなど現在でも慕われている。土枝健輔も彼には特別な気持ちがあるようだ。

 以前スカルマンの事件現場で見かけた謎の少女にただならぬモノを感じ、仕事の合間を縫ってこっそり彼女を追跡していたらしい。その際に哲也と久しぶりに再会し、彼にその少女――柚月の捜索の手伝いを持ちかける。

 

 

●成澤拓務

・プロフィール

性別:男

年齢:27歳

職業・身分など:警察官・捜査1課

 

 哲也の3つ年上の従兄。警視庁捜査1課に所属する刑事。スカルマンの事件を追っている。

 かねてから暴走族をやっていた哲也と折り合いが悪かった上にその事が切欠で父親である勉を亡くしてしまった事も相俟ってか彼に対しては敵意に近い感情を向けている。とは言えそんな自分の態度に思う所がない訳ではないらしい。

 

●深町マリア

・プロフィール

性別:女

年齢:33歳

職業・身分など:公安関係者(実態はCIA)

 

 スカルマンの事件を追って突如特別対策本部に派遣された謎の女性捜査官。

 一応公安の身分で活動しているが実態はCIAの捜査官であり、極秘裏に独自の権限を使って山城幹斗他ヴェルノム達の捕縛を目論んでいる。目的のためなら手段を厭わない所があり、銃火器の使用や民間人である哲也の捜索を命じるなど苛烈な所がある。

 

〈神樂〉

 

 謎の組織。少なくともスカルマンが敵視している事から彼の誕生に何かしら深く関わっている可能性がある。エースゼロを運用し、スカルマンやヴェルノムに戦いを挑む等、少なくとも超常的な技術を開発・運用可能な資金力、組織力を持つことは確かである。

 

●琥月劉生

・プロフィール

性別:男

年齢:70歳以上?

職業・身分など:神樂の当主

 

 神樂の代表にして創始者でもある男。70歳以上と目される老人でありながら年齢を感じさせない仙人のような雰囲気を宿した不思議な男。

 山城柚月の祖父を名乗っており、自らを「あかつき村事件を引き起こした男」と称しているが実態は依然謎のまま。強大な組織や政財界への影響力を持つとされ、スカルマンの事件を裏から追っているが決して自らは表に出てこようとしないなど、食えない人物である。

 

●琥月辰雄

・プロフィール

性別:男

年齢:15~16歳

職業・身分など:エースゼロ装着者

 

 謎の戦士エースゼロに変身する少年。まだ幼い容姿ながら卓越した身体能力と状況判断能力を持ち、エースゼロの各種装備を的確に運用しながらスカルマンに戦いを挑む。命令は捕縛だが必要とあらば抹殺も厭わない、とする強靭な意志力を持つ。

 とはいえ、年相応に激高しやすい所もあり、いざとなったら己の命すらも捨て身にして任務を達成しようとする危うい一面もある。

 

 

●楠

・プロフィール

性別:男

年齢:不明

職業・身分など:エースゼロのサポーター

 

 エースゼロの活動をサポートする初老の紳士。一見小柄で風采の上がらない男だがメカニックに車の運転、情報収集等様々な技術に精通しており、それらの知識を以てして辰雄たちの活動をサポートする。

 

 

〈レイニー・ジャーナル〉

 

 主にモバイル誌かポッドキャストでニュースコンテンツ等を配信するニュース配信会社。「大手メディアにはないフットワークの軽い取材」をモットーに読者から寄せられた情報などを扱っているがこの所部数は伸び悩み気味らしい。社員は哲也を含めて総勢7人と少なめ。

 

●陣内実篤

性別:男

年齢:60歳

職業・身分など:社長兼編集長

 

 レイニー・ジャーナルの社長兼編集長。ケチで頑固でいつも機嫌が悪いが何故か憎めない。

 かつて暴走族だった哲也を(知り合いの口利きとは言え)雇ったりするなど、割と人望はあるし不正や偏向に対しては厳しい姿勢を見せるなど真っ当なジャーナリズム精神もあるのだが、上記の性格もあって実感しづらい。奥さんには頭が上がらない。

 

 

●一之瀬真琴

性別:女

年齢:26歳

職業・身分など:記者

 

 哲也の指導係。レイニー・ジャーナルの主力記者で誠実な取材姿勢と行動力で社内においてはまだ若手かつ女性ながら記者としては信頼は篤い。

 哲也に対しても厳しくも優しく接しており、短絡的な行動には頭を抱えつつも彼の熱意や根気は評価している。とは言え、些か発想が硬すぎるきらいがあり、非常識な出来事はなかなか受け入れがたい頑固さがある。また物怖じしすぎない性格もあって知らぬうちに敵を作ってる事も…。

 

 

●貴志田衛

性別:男

年齢:37歳

職業・身分など:エンジニア

 

 レイニー・ジャーナルのシステムエンジニア。陣内に次ぐ古株であり、穏やかで滅多に声を荒げる事無く、会社の屋台骨の構築に編集長との緩衝材、日々のメンタルケアまで卒なくこなす、まさに「縁の下の力持ち」もしくは「オカン」。

 妻子がいるが現在スカルマンの被害から逃れるため、地方に疎開中。

 

 

●櫛浜静梨

性別:女

年齢:23歳

職業・身分など:キャスター

 

 レイニー・ジャーナルのポッドキャスター。哲也より後輩だがポッドキャストの人気が高いため、正社員扱い。

 童顔で子ダヌキのような可愛らしい容姿にアニメのヒロインみたいなキュートな声もあって、少なくとも彼女が担当するようになってからポッドキャストの人気は急速に上がったらしい。誰が呼んだか「ゴミ溜めに鶴」。ゴミ溜めは言い過ぎだろぉ…

 

●原アニク

性別:男

年齢:23歳

職業・身分など:安楽椅子記者

 

 レイニージャーナル第七の社員。その実態は自らは部屋から一歩も出ずにハッキングとネットサーフィンのみでありとあらゆる情報を入手する情報屋。

 哲也の高校時代の知り合いで紆余曲折あって引きこもり生活を送っていた所を彼の紹介でレイニージャーナルで働く事になった。普段は顔には出さないが恩義を感じているらしく、有能さもあって社員達からも頼りにされているようだ。

 

 

●陣内早苗

性別:女

年齢:61歳

職業・身分など:副社長兼副編集長

 

 陣内の奥さん。彼を完全に尻に敷いており、哲也の評価では「レイニー・ジャーナルで一番偉いのは奥さん」との事。

 

 

〈その他〉

 

●成澤勉

性別:男

年齢:享年58歳

職業・身分など:公務員

 

 拓務の父で哲也の叔父(父方の弟)。哲也曰く自分の父親とは対照的な真面目で実直な人柄だったようだ。

 急に両親を失った哲也を気にかけ、彼なりに愛情を注いでいたがお互いのすれ違いや不器用さもあってなかなか心を通わせられずにいた。そんな中で漸く彼と本音で語り合い、お互いの気持ちを理解しあえた矢先に暴漢から哲也を庇って死亡した。彼の死は拓務と哲也の間に禍根を遺す事となったが、少なくとも哲也は彼が今際に遺した言葉を自分なりに受け取って生きている。



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Velnom Archive

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《ヴェルノム》

 

 2018年の東京で暗躍するスカルマンの活動の陰には常に彼とは別に正体不明の怪物の影が見え隠れしていた。それらは常に都市伝説のように実しやかに語られながらその実在性についてはハッキリしなかったが、作中のとある一件により遂に表舞台にその姿を現す事となった。彼らの名前は世間には公表されてはいない、しかしその存在を知る者からは《ヴェルノム》というコードネームで呼ばれているのだ。

 何かしら地球上の動植物を象ったような身体的特徴と能力を持つが、総じて醜悪且つ性質も極めて凶暴。だが重要なのは()()()()()()()()()()()()、という事。これはまだ世間一般には公にはされていない。更に驚異的なのが体のどこかに内蔵した「毒針」と呼ばれる体内器官であり、これを対象に向けて何らかの方法でヴェルノムの毒――体が適応できなければ灰化消滅し、適応すればヴェルノムへと変化を促す――を投与し、個体を増やす事が可能である。因みに毒にも強弱が存在し、一撃で人間を殺傷できるレベルのものから遅効性のものまで多々。

 基本的にヴェルノムが持つのは毒によって仲間を増やすという増殖本能のみであり、生物としての一般的な感情やましてや元の人間らしい複雑な情動は一切備えていない。総じてホラー映画のゾンビに近い存在であり、理性や知性はなく、痛覚や恐怖心もかなり鈍磨しており、その怪力や毒針の存在も合わせれば相手が重武装の特殊部隊であっても脅威である。

 

 但しこういった個体はまだヴェルノムの一部分の過ぎない。更に低い確率で人間的な知性と感情を残したまま、その力を行使できる存在も発生し得る。便宜的に通常の理性無き個体は「フェーズ1」、そうでない個体は「フェーズ2」と呼称されている。フェーズ2は通常の個体が消失している理性や痛覚をそのまま残しているため、防御力という面では劣る事があるが人智を超越した力を理性で以て制御可能という点ではフェーズ1を遥かに超えて厄介な存在である事は間違いない。なおフェーズ2は毒針の使用は任意で選択可能で作戦を効率的に遂行するためなら敢えて選ばないという選択肢を取る事が出来る。

 

 以下そのヴェルノムの個体特性を記す。

 

 

●《クモヴェルノム》

 ・種別:ヴェルノム(フェーズ1)

 ・毒性:中

 ・毒針:口腔から発射する毒牙

 ・変身者:名前不明の女性

 

 蜘蛛の特質を備えたヴェルノム。正式な名称は《ジョロウグモヴェルノム》。

 人間の女性と蜘蛛の半身を融合させたような極めて醜悪な姿をした怪物であり、その姿に違わず極めて凶暴且つ好戦的な個体。口から精製した牙に毒を纏わせて相手に射出する事が可能。毒はヴェルノムとしてはあまり強くないが、それでも作中では人体を即座に溶解させるという十分に凶悪な効果を発揮した。この毒で相手の動きを止めた上でバラバラに引き裂くと言った残虐極まりない行為に及んだ。

 実はあらかじめスカルマンの命令を聞くように脳内に特殊なチップを埋め込まれており、これによりスカルマンの活動をサポートする事が可能。彼からは「ガロ」という愛称で呼ばれている。また体内には最悪の事態を想定しての自爆装置も搭載されており、こちらもスカルマンの命令により任意で起爆させられる。

 他にも節足状の肢による刺突攻撃や腹部から糸を発射する事も出来る。

 

 

●《モズヴェルノム》

 ・種別:ヴェルノム(フェーズ2)

 ・毒性:中

 ・毒針:羽に毒を纏わせて発射可能

 ・変身者:千鳥瑛輔

 

 モズの特質を備えたヴェルノム。正式な名称は《ズグロモリモズヴェルノム》。

 人間の体に羽毛が生えたような外見を持ち、手足には鋭利な爪を備える。また体を更に変異させる事が可能で両手を巨大な翼に変形させて、まさしく怪鳥とも言うべき更なる異形の姿を取る事も可能。この姿はより飛行に特化した姿であり、格闘能力は低下する代わりに極めて高い制空能力を得る。毒針はフェーズ2という事もあって任意に調節可能。使用する際は専ら硬い羽に纏わせてこれを手裏剣のように相手に射出する。勿論毒の効果がなくとも容易く人体を貫通する極めて強力な武器である。

 変身者は千鳥瑛輔。高い格闘センスを持ち、その経験とヴェルノムの種族特性を存分に活かして戦う厄介な相手である。

 

 

●《ガンガゼヴェルノム》

 ・種別:ヴェルノム(フェーズ1)

 ・毒性:弱

 ・毒針:全身から発射する針

 ・変身者:ゴロウさん

 

 ウニの特質を備えたヴェルノム。名前の通りのガンガゼ怪人。

 ウニらしく全身に長く鋭い棘が生えた外見で、戦闘においてはこれを射出したり各部に生えたものを無理矢理ぶつける事によって毒を注入する。毒はあまり強くなく、クモやコブラのものに比べると遅効性だがその分複数の相手に指す事に特化している。またスカルマンとも渡り合えるレベルの怪力を備えており、痛覚等の鈍磨が他の個体よりも著しい。頭を半分吹き飛ばされても生きているなど生命力も強い。毒棘は一度刺さると容易に抜く事も出来ず、そういう意味ではかなり厄介な相手だと言えるだろう。

 健輔の同僚のゴロウが突如変異し、暴れ出した。

 

 

●《コブラヴェルノム》

 ・種別:ヴェルノム(フェーズ1)

 ・毒性:強

 ・毒針:口から発射する毒液

 ・変身者:少年

 

 コブラの特質を備えたヴェルノム。正式な名称は《ドクフキコブラヴェルノム》。

 人間の下半身が異様に肥大化し、蛇と化したような悪趣味な見た目の怪物。胴体だった所から頭が出現し、そこに備えた牙から毒を噴射するか噛みつく事によって毒を注入する。特筆すべきはその巨体と生命力。全長6メートルクラスとヴェルノムの中でも最大レベルのサイズを誇り、それに比例するかのように肉体も極めて頑健。エースゼロの必殺技を二度も受けてなお脱皮や再変異と言った手順を踏むことで復活する事が可能と最早生命という領域すら逸脱しているレベルである。口から吐く毒もかなり強力なものであり、当たった人間を一瞬で消し炭に変えてしまう異様な強さである。通常ヴェルノム同士はある程度毒に耐性を持つが、このクラスになるとそれすら通用しない。巨体を駆使した戦闘力もかなりのもので総じて全方位に全く隙が無い。

 変身者は病院の通院患者だった少年。ガンガゼヴェルノムの毒を注入される形で変異した。

 

 

●《バッタヴェルノム》

 ・種別:ヴェルノム(フェーズ2)

 ・毒性:弱

 ・毒針:爪に纏わせて使用する

 ・変身者:山城幹斗

 

「――変身…!」

 バッタの特質を備えたヴェルノム。スカルマンの正体である山城幹斗が変身する。

 見た目通り全身の皮膚が薄い緑色に染まっており、バッタ由来の高い運動性を備える。特にジャンプ力は驚異的であり、高速移動と併せた三次元的な戦闘機動を取る事が可能。他のヴェルノムと違い、毒はあまり強くないようだがそれでも強力な爪や牙、各部の棘を備えており、総合的な戦闘能力は全く申し分ない。また背中に一対の副椀を備えており、これは実際の手首程器用には使えないが相手の意表を突くと言った用途に主に用いられる。

 

 

●《ドクガヴェルノム》

 ・種別:ヴェルノム(フェーズ1)

 ・毒性:強

 ・毒針:鱗粉に含まれる

 ・変身者:不明

 

 蛾の特質を備えたヴェルノム。

 その名の通り、蛾が人間と混ざったような不気味な外見であり、小柄で貧弱な体に反して巨大な翅を持つ。この翅に含まれる微細な鱗粉こそがコイツの毒針であり、直径0.01㎜に満たないそれはどんな小さな隙間にも潜り込み、確実に対象を殺傷する。飛行も可能で行動半径が広く、基礎体温も低いためレーダー探知も不可能(これは他のヴェルノムも同様)。またクモヴェルノム同様「ガロ」のコードネームで呼ばれ、スカルマンの命令を聞くように調整されているため所によっては要人暗殺など高度な任務にも投入可能と汎用性が高い。

 

 

●《幼体カエルヴェルノム》

 ・種別:ヴェルノム(フェーズ1.5)

 ・毒性:不明

 ・毒針:不明

 ・変身者:土枝健輔

 

 カエルの特質を備えたヴェルノム。というかまだ“オタマジャクシ”の段階であろう。

 両生類のような湿った皮膚に長大な尻尾を備えている。更に今の段階で身長3メートルクラスの大型個体であり、それに見合わぬ膂力と質量で暴れ出すと手が付けられない。防御力も相応に高く、特殊部隊の銃弾を敢えて避けずとも大したダメージを受けない。但し変身者の土枝健輔が元々戦闘慣れしていない事や荒事に向かない性格であるため、全能力は発揮できているとは言い難い状態である。おまけに今の段階ではフェーズ1とフェーズ2の間を行ったり来たりしている状態で、過大なダメージを受けると暴走状態に陥ってしまうなど制御が難しい(ヴェルノムに鳴りたての頃はよくあるらしい)。現状毒針も使用方法が不明な為、能力の全貌は明らかになっていない。

 

 

●《ナイトレイス》

 ・種別:不明

 ・毒性:不明

 ・毒針:不明

 ・変身者:不明

 

「二つだけ確かな事があるぜ?一つはかつての俺は死んだって事。そしてもう一つは…そんな事考える奴はハナからマトモじゃない…て事さ」

 ラスプーチンに従う正体不明の怪人物。人相も含めた全てが不明であり、そもそもヴェルノムであるのかすら定かではないのだが便宜上ここに記載する。

 色素が完全に抜けきったような白い包帯状の布地を全身に巻きつけ、同色のフーデッドを纏っており、色合いもあって妙に現実感に乏しい。神出鬼没っぷりも特徴であり、気が付いたら部屋の中に入り込む、人の後ろに回り込むなどまさに幽霊の如き存在である。どうやら人間をヴェルノムに変える事が可能なようだが、本人は専らこれを暗殺業に駆使しており、スカルマンともラスプーチンともまた別の思惑で動いている節がある。決して本心を誰にも明かさず、おどけて嘲弄的に振る舞い、必要と判断すれば躊躇いなく人を殺傷する等、スカルマンやラスプーチンからも警戒されるレベルの残虐性を秘める。

 



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第一部 SKULLMAN
CHAPTER-0:『REsurgence』‐①


初めまして、大荒鷲と申します。
初の二次創作ライダー小説「仮面ライダー:RE」をお読み下さり、ありがとうございます。

…と書いたは良いですが、あらすじでなんとなく分かる通り、どっちかと言うと「スカルマン」を題材にした作品で、「仮面ライダーの物語」に到達するまでかなり時間が掛かると思われます。

なるべく楽しんで頂けるよう心掛けるつもりですので気長な方は是非どうぞ。

それではよろしくお願いします。



 突如として「ソレ」はこの不夜の街を震撼させるに十分な存在感を放って、漆黒の空に顕現した。数年後に控える祭典の開催が決定した事があるのかないのか、それとも時代が平成と呼ばれるようになってから殊更終わらぬ不景気から――もしくは6年前の「あの日」から――目を反らさんとするかのような刹那的な喧騒なのか、とにかく日本の首都:東京の只中に出現した「ソレ」は当初は単に祭典の準備のためのネオンサインか、はたまた名も知らぬ新興企業のデモンストレーションかと思われた。いずれにせよこの街ではよくある光景だ、と。しかし少しの間を置いて往来を行く人々の中には「ソレ」がそんなおめでたいモノ等ではないのではないかと感じる者も少なからずいた。

 成澤拓務(なるさわひろむ)もその一人だった。

 拓務が「ソレ」を目撃したのは、職業性の為せる技か、道行く人々がその存在に気付くより少しだけ早かった。やがて周囲の視線も新宿駅甲州街道改札方面からの歩道からも前方にそびえ立つ幾多ものビル群を超えて遥か上空に浮かんでいるその存在に吸い寄せられていき、少しずつどよめきが広がっていくのを感じた。

 

 「おい、ありゃあなんだよ…」

 

 隣で先程まで呑みの勧誘に熱心だった木ノ原正臣(きのはらまさおみ)が唖然としたように呟いた。勿論自分に向けられた言葉ではなく、誰に聞かせるでもなく自然とその威容を前にして口をついて出た言葉である。一方で拓務はただ黙ってその光景を見つめていた。

異変に気付いた周囲の道路からけたたましくクラクションが鳴り響き、人々は畏怖半分、或いはそれ以上の興奮を以てスマートフォンを構え始めた。

 

 「え、何アレ?」

 

 「なんかヤバくない?」「ヤバいヤバい」

 

 「映画の撮影とか?」「てゆーか怖いんですけど…」

 

 興奮するようなどこか湿った笑いを含んだ声が口々に発せられる。気が付くと改札口周りは元よりショッピングモールの中からその光景を目撃した者、駅とモールを繋ぐ連絡橋を行き来する人々までもがまるで花火大会の見物でもするかのようにそこに見入っていた。そんな地上の喧騒をただ嘲笑うかのように「ソレ」――ホログラフィで描かれた銀色のドクロ――は街を睥睨していた。   困惑、恐怖、好奇様々な感情が向けられる中で怒っているようにも泣いているようにも笑っているようにも見えるが、やはりただただ無貌でしかないソレはたちまちSNSを通じて日本中、否世界中に晒されていった。

 

 2017年3月12日、金曜の19:00ちょうどという時間帯に新宿の街に出現したドクロの怪異にちょうど不夜の街を行き交う人々は僅かな惧れの後に、それを吞み込まんとするようにこの状況に異様な興奮を感じた。無論中には純粋に恐怖を抱く者もいたがそれ以上に大半の人間たちは鬱屈した日々の最中に突如として降って湧いた非日常な光景を自分とはさほど、もしくは全く縁のないものとしてしか、或いは日々無意味に発信される情報のネタ程度にしか考えが及ばなかった。

 良くも悪くも平和に慣れきったが故の反応だ。ただの愉快犯による悪戯、何かしらの警告、広義なら死の暗示なのか、また某国がなにかしでかしたんじゃないのか、いや悪魔ないしは神の啓示である、「名前を言ってはいけないあの人」の支持者だろう、宇宙人のメッセージではないか…瞬時にインターネット上で大真面目に、ないし下らない議論の対象となって、しばらくはワイドショーやまとめサイトのネタとして消費されながらやがては人々の興味を失い、結局漫然と過ぎていく日々に追い立てられていくように姿を消すだけだろう。刹那的な享楽にはしゃぎながら詰まる所、殆ど誰もがそう考えていた。

 

 その時拓務と木ノ原が考えていたのはこれはひょっとすると自分達の仕事になるかも知れない、という事だった。ようやく抱えていた事件がひと段落つき、木ノ原としては一杯ひっかけたい気分になっていたし、拓務も大きなトラブルもなかった事と共に現場で戦う所轄の署員たちから意外と良くして貰った事に対する安堵から久々に肩の荷が下りたような開放感も感じていた。その矢先に突如発生した怪異としか言いようのない事態に冷静さを保つように心掛けながらもどこか頭の片隅で焦りも感じていた。上空の様子を確認するために恐らく立川の航空警察が動く事はあるかも知れない、地上から動く事も考慮してここは一度署に戻るべきかも知れない…

 不眠の街に生きる人々の間で様々な思いが交錯する中で、それがまだまだ甘い判断であったと気付いたのは、数瞬後の事だった。いやその場に居合わせた何十人かはそう知覚する事すら叶わなかっただろう。既に謎の怪奇現象を一目見ようと黒山の人だかりが出来ていた新宿駅東南口広場、同東口駅前広場、同西口小田急百貨店前で次の花火が上がったのは数瞬後の事だった。次の瞬間、つんざくような轟音と共に小規模な太陽ともいえる熱波が瞬時に顕現し、辺り一帯は窯の底が開いたような炎の煉獄と化した。

 

 爆発、そう自覚するより前に達した鉄の暴風はその場にいた者達の五体を無慈悲に引き裂き、遅れてやってきた地獄の業火によって何の痕跡もなく焼却せしめられた。彼らの大半は苦痛を実感する暇もなく、ひいては己の死すら自覚する事なく、それはほんの僅かでも幸いな事と言えるだろうか。それとも己の痕跡すら殆ど残す事無く、文字通り消滅させられた事はやはりこの上なく不幸であると言えるだろうか…

 拓務たちのいた場所は爆発地点から200メートル程度しか離れておらず、ハッキリと火山が噴火するような不気味な轟音が人工の大地と周囲のビル群を揺さぶり、軋ませるのを知覚した。これは只事ではないと膝をついた瞬間、爆風が体を覆い駆け抜けていく。それと共に舞い上がった噴煙が目に入り、視界を滲ませはしたがそれでも拓務は僅か先に上がった薄気味悪い爆炎を確かに捉えていた。炎の赤と粉砕されたコンクリートや土くれの茶灰色が混じった黒煙はまるで巨大な老木のような複雑な形を織りなし、空へと広がっていった。

 …そしてまるで煌びやかな花火が夏の夜空に吸い込まれて消えていくように…衝撃と轟音が消え去った後に一瞬静寂が訪れ…次の瞬間に街は打って変わって恐慌状態に陥った。立ち込める黒煙と粉塵によって状況も定まらぬ中、少なくとも生きる者の本能的な直感で次また何処かが爆発するのではないかという恐怖が生じ、更なるパニックに飲み込まれていく。拓務と木ノ原は比較的冷静さを保っていた方で、次の瞬間には混乱に右往左往する市民に声をあげ、なんとか宥ませようと努めたが所詮二人では限界があった。むしろ爆発のあった地点にまだ生きて助けを必要としている者がいるかも知れない、瞬時にそう判断し、二人は早速一番近い東南口広場に向かって駆けだしていた。

 普段なら走れば二分も掛からない距離だが、一も二もなく逃げ惑う人々の間を縫って向かうのは困難を極めた。一旦高架線方面に回り込み、爆心と思しき広場に辿り着くと果たしてそこにはこの世の地獄のような光景が広がっていた。

 

 「ひでぇ…」

 

 「なんて事を…」

 

 二人ともそれ以上の声は出なかった。瀟洒なコンクリートタイルが引き剥がされ、街路樹は薙ぎ倒されて引火した炎によりブスブスと燻っていた。周囲のショッピングセンターの窓ガラスは大半が割れて地面に散乱し、よく見ると外壁にも亀裂が入っているのが見える。道路では爆風に吹き飛ばされた車が横倒しになったり、近隣の建物に突っ込んでおり、そして爆発のあった広場では――無数の物言わぬ煉炭と化した、かつて人であったであろう欠片が散らばっていた。中には四肢を消し飛ばされたり、無数のガラス片に貫かれ、落ちて来た瓦礫に潰されながらもまだ息をし、微かな呻き声をあげる者までいた。

 助けなければ…!警察官の本能か瞬時にその必要性に思い至ったものの、しかし拓務は次の瞬間どこから、という弱気に足を竦ませられ、その場から一歩も動くことが出来なくなった。これが本当に日本という国の光景なのか、と頭はどこか現実を受け入れられずに判断力や思考力を次々と奪っていった。

 

 「危ない!」

 

 不意に木ノ原が叫ぶのが聞こえた。背中に硬い衝撃がぶつかり、彼に突き飛ばされたのだと自覚した瞬間、再び轟音と共に爆風が拓務の体を吹き飛ばした。体がふわりと浮き上がり、やけにスローモーに見える視界の中で背後で地面に転がっていた車から漏れたガソリンが引火したのだと分かった時にはもう豪炎の中に呑まれていく木ノ原の姿が見えた。声を上げる事も叶わず、拓務自身も飛散してきた車の破片の礫を浴びながらやがてアスファルトの大地に頭を打ち据え、急速に意識を失っていった。

 爆発から13分後、立川の航空警察隊本部から駆け付けたヘリのパイロットは銀色のドクロに見下ろされながら、立ち上る爆炎とその下で右往左往する市民の姿に思わず戦慄を覚えた。その頃地上でも駆け付けた警察や救急隊、消防隊がなんとか状況の対処に当たろうとしていたがかつてない大規模な事件故の市井の混乱や崩落、火災など無尽蔵に発生する二次災害に暫く混乱は続いた。状況に対応する者、恐慌に陥る者、その様子を黙って見るしかない者、今起きている全てを伝えようとする者、下界で発生している全ての事象を見下ろすようにドクロはただそこに存在し、やがて暗黒の空に溶けていくように消えていった。

 

 [新宿事変]

 

 死者87名、重軽傷者1700名以上という未曽有の被害を出し、後に日本を揺るがす事になる事件の幕開けは後にこう呼称される事となる。

 

 

 ・・・・・・・・・

 

 

 それから二カ月の間…

 新宿の爆破事件のすぐ後にテレビでお馴染みの国民的なアイドル兼女優の惨殺死体が都内の公園で発見された。遺体はバラバラに切り刻まれ――否…喰い千切られたように五体を引き裂かれ、組成のよく分からない糸で出来た袋に詰め込まれていたそうである。史上稀に見る猟奇殺人でかつ国民の注目度も高い事から警視庁は、ただでさえ新宿の事件の影響で食われ気味だった人員を割いてまで、彼女の当日の足取りから交友関係に至るまでを関連付けて徹底的調査を行ったが物証も目撃証言も驚くほど上がらず、捜査は早々に暗礁に乗り上げてた。犯人は依然として捕まっていない。

 

 そこから1週間もしないうちに地元の選挙区へと向かっていた某党の若手議員を乗せた車が突如高速道路上で暴走、多くの車を巻き込んだ挙句に最終的には凄まじいスピードで高架橋の壁高欄を突き破り、遥か下の森へと落ちていった。激しく炎上した車内からは議員と秘書、運転手と思われる3人の遺体が発見されたが損壊が激しく、原因すら特定出来なかった。最終的には運転手に突発的なトラブルが発生し、事故が起きたのではないか、もしくは運転手による無理心中ではないかという点で一応の決着が付いたとされるがどうにも腑に落ちないと感じる人間達が多かったのは言うまでもない。

 

 それから更に2週間後、大手服飾会社の社長が社長室から突如失踪し、捜索の末に本社から60㎞以上も離れた山間部の鉄道線路内で轢死体となって発見された。遺体の切断面からは生活反応が認められず、結果他殺の可能性が高いと診断されたが、現場は周辺に民家のない山中であり、どのように遺体を運搬したのか、更に社長の遺体にはまるで高所から突き落とされたかのように複雑骨折が確認された他、そもそも人の目の多い社長室からどうやって消えたのか等、多数の謎を残したまま時が過ぎていった。

 

 余談となるがいずれの事件でも現場付近で謎の怪物が目撃されたという情報が相次いだ。だがあまりにも非常識すぎる上に夜間の出来事である事や証言の内容がコロコロ変わる事もあって単なる集団ヒステリー程度の認識しかされずにオカルト雑誌を賑わす程度に終わった。

 これらの事件は新宿の爆破テロで不安定になっている世論に実体の不確かな、幻肢痛のような恐怖を与えていった。そしてそこから本当に世間に震撼させ、その恐怖の正体が幻などではなく、実態を持った明確な「力」そのものである事を知らしめたのは、更に一月後、東京都港区は六本木からだった…。

 

 

 ・・・・・・・・・

 

 

 クソ、なんでこんな事に…!繁華街の狭い通りを走り抜けながら蛯野は内心毒づいた。途中路を練り歩くサラリーマン達の肩にぶつかり、一様に怪訝な目を、ある者には露骨に剣呑な視線を向けられても振り返らずに男は走り続けた。街の喧騒が今日はやけに遠い。ネオンサインが凶暴なほど目に痛く、いっそ煩わしいとさえ思ってしまう。

 街は蛯野の庭だった。大学にいる同年代の奴らには分不相応な景色だが、自分にとっては別だ。自分は他の奴らとは違う、金も女も力もあるのだから…!大学で知り合った「イケてる」先輩の紹介で恋愛関係にあると女を思わせて、キャッチバーに誘い込んで借金を負わせた上で風俗業に斡旋する、今の仕事を始めてから2年近くになる。バーバックとスカウトバックで少ない時でも100万円以上は稼げた。奨学金や日々のバイトで頭を悩ませたり、就職難に喘ぐ他の学生達と違い、何よりも自分を高めてきた…その筈なのに…!

 酒の回った頭を必死に巡らせながら、走り続けると次第に息が上がってきたし、吐き気もこみ上げてくる。本来なら自分にこんな泥臭い真似は似合わない、出来れば一旦足を止めて一息付きたい所だが、それは許されない。今この瞬間立ち止まったら確実に殺される―――!

 

 ともすれば今にも絡みついてもつれそうになる足を動かす、その刹那後方から街の喧騒とは異なるざわめきの気配が生まれ、それがつんざくような悲鳴に変わるのに時間は掛からなかった。それはもう「奴」がもう追い付いてきた何よりの証左であり、そうなると既に仲間達…この「職場」で共に学び、競い合い切磋琢磨したきた仲間達やこの天職を与えてくれた先輩達は既に「奴」に殺されてしまったという事に他ならず、蛯野はいよいよこのまま膝をついて絶叫したい衝動に駆られた。もう困惑と疲労で足も萎え、全てを投げ出して地面に倒れこんだ方が…もはや何が最善手かも分からない感情を男が抱いた直後、一筋の乾いた激音が鳴り響いた。

 

 今のは銃声…?「奴」が発砲したのか、そう認識したと同時にそれを切っ掛けにして街のパニックはいよいよ止め処の効かないモノになった。銃が誰かに向けて発砲されたのか、それとも空に向けて発射されたものなのか、それは分からないが少なくともその音が発した強烈な暴力と破壊の空気が繁華街を再び更なる混沌の坩堝に堕とし込んだようだ。

 恐怖と混乱は途端に悪性のウイルスのように瞬く間に周囲に伝播し、人々から秩序を失わせていく。街全体が先程までの自分と同じパニックに包まれていくのを感じた蛯野は、或いは死を猛烈に痛感したからこそなのか、不意に妙に意識が晴れて冷静になっていくのを感じた。

 何故?冗談じゃない、殺されてたまるか、そうだ俺はこんな所で終わったりしない…!

 クリアになった頭で瞬時に周囲を見回した彼は呑み屋街を抜け、大通りに殺到しようとする黒山の人だかりに目を向けた。一かバチか、人混みに紛れて一気に逃げるしかない。リスクもあるが一旦大通りに出て、大都会の更なる喧騒の中に逃げ込んでしまえば「奴」でももう俺を見つけられはしない。一瞬で思考を巡らせると脱兎の如く駆け出し、人混みの中に身をすり込ませた。パニックになる群衆とは対照的に、妙に冷静になっていく頭で群衆を掻き分けていく。やがてビル街を抜け、視界の先にまだ漆黒の空を見渡せる開けた景色が広がった。まずは大通りに出られた、後は通りを超えて更に向こうの駅に向かうか、手っ取り早く地下街に逃げ込むか…その先を考えようとした所――。

 

 不意に足元に何かゴトリと転がる音がした。

 

 足元を見やるとアルミ缶大の筒状の物体が転がっているのが見えた、というか視界の端で捉えた感じだと確かどこからか投げ込まれたようにも見えたが…缶の開け口を思わせる突起から線香のような薄い煙を吐き出しているこれは…?

 蛯野が冷静に思考できたのはそこまでだった。それの正体について思い至るより前に、物体は閃光と共に炸裂し、やや遅れてやってきた衝撃波と破片が男のみならず、周囲の人々をズタズタに引き裂いた。

 爆弾…?残酷な事に携帯性と投擲性を重視したその爆弾は対象を瞬時に死に至らしめるようなモノではなかった。無数の破片に臓腑を貫かれ、両脚をもぎ取られても蛯野はまだ生きていた。真っ赤に染まった――右側しか効かない視界で周囲を見やると、同じように多数の呻き声を上げ、全身を抉られ、体を焼かれ、四肢を吹き飛ばされた人々の姿が見える。やがてコツコツと…コツコツと、少しずつ自分に近づいてくる存在が見えてくる。「奴」はそこかしこに転がる人体を踏みつけながらゆっくりと、確実に男に近づいて来るのだった。

 

 何でだよ…俺達がお前に何したってんだよ…

 

 どうせ殺されるならせめてもの抗議の声を上げようとしたが出たのはゴヒューゴヒューという血の混じった空気音だけだ。それでもせめて無数の「何故」を込めてやがて自分の前で立ち止まり、ゆっくりとこちらを見下ろしてくる「奴」に目を向ける。周囲の人間達もまた、意識のある者はそこに立つ存在に向かって同じような問いかけを発しているようだった。

 

 「奴」――全身を漆黒のライダースーツに包み、所々に銀色のプロテクターを、そして――顔にドクロを模したような銀色の仮面を身に着けた人間――はそんな男に見下ろしながら、やがてゆっくりと…唯一露出した口元を笑みの形に歪めた。

 

 「俺が何者か…って?そう聞きたいのか、お前?」

 

 やがて銀ドクロが嘲笑うように口を開いた。若い男の声…少なくとも俺とあまり変わらない…薄れゆく意識の中でそう知覚した蛯野に骸骨は右手に持った拳銃を向ける。

 

 「ふっふっふ、良いさ冥途の土産に聞いとけ、俺は死の国から来た骸骨男…そうだな…《スカルマン》とでも呼んでくれ」

 

 《スカルマン》?…その名を反芻する暇はなかった。直後「奴」―――《スカルマン》の拳銃が火を噴き、蛯野という男の意識を根こそぎ奪い取っていった。男の命が確かに失われた事を確認した《スカルマン》の昏い高笑いを彼が聞くことはなかった。

 

 

 ・・・・・・・・・

 

 緊急招集。

 警察職を拝命して1年余り、この所頻繁にそれが発せられる事態に村瀬基樹巡査は確かな異常事態を感じるのだった。例の祭典の開催が決まってからこちら、お祭り騒ぎに興じる都民とは裏腹に自分たち警察官はテロへの警戒やらでそれどころではないとぼやきつつ、頭の片隅では無意識に日本でまさか今のような事態になるとは思っていなかったのかもしれない。

 村瀬巡査の勤務する派出所は繁華街にほど近いエリアに位置する事もあって酔っぱらいの喧嘩の仲裁などなら頻繁にある方だろう。違法風俗の摘発からドラッグの売買、ヤクザに変わって台頭し始めた半グレによる特殊詐欺など大きなヤマも経験してきたつもりだ。平和とは言えないがそれでも――ニュースで報じられる銃乱射事件や続発する過激派によるテロのニュースを目にすれば、どこか日本はまだまだ平和だと――何処か他人事のように思わずにはいられないのだった。

 

 それが変わり始めたのは2ヵ月前――あの忌むべき新宿事変からだった。村瀬巡査がまだ幼かった頃、かつてこの国を震撼させた地下鉄テロ事件以来、20年振りに都心をテロリズムの暴力が襲った。以来戒厳令下になったかのような澱んだ空気が東京の街を覆っていった。幸いにしてしばらくは何も起こらず――いやその言い方は適切ではない。新宿事変と前後して、アイドルが何者かに殺害されたり、不可解な轢殺事件や車の暴走事故が相次いだ。…そして時には謎の「怪物」の目撃といったオカルト染みた証言がまことしやかに囁かれるようになったのだった。

 以前であればバカバカしいと一笑に付されるような話ではあったが、新宿事変を境にして目に見えないが確実に存在を主張し始めた不安と閉塞は確実に街を、いや日本を蝕んでいった。得体の知れぬ陰に吞まれそうになる都民を間近で見てきたからこそ、篠村巡査は自分たち警察官こそがこんな時にしっかりしなくてはどうするのかと己を鼓舞する思いであった。だからと言って一交番勤務でしかないいち巡査に出来る事など限られているのだが。

 

 村瀬巡査は高校卒業からすぐ警察官を志望し、警察採用試験に臨んだ。高卒の試験倍率が高いことも昇進試験を受けるにしても大変な道である事は分かっていたが、迷わずその道を選んだのは単純に経済的な事情もあったが、それ以上に早くこの仕事に就きたかったという事の方が大きかった。そうした熱意が認められたのかは定かではないが無事面接も突破し、10ヵ月の警察学校期間を経て、今の管轄に配属となったのが1年前。あの頃は世の中がこんな風になるとは思ってもみなかったな…

 今日も今日とて夜勤の最中に突如発せられた緊急招集のコールに同じく当直に当たっていた先任巡査と共に飛び出し、現在急行を命じられた場所に向けて環状三号にパトカーを走らせていた。その間駅方面に上がっている黒煙が既に街がただならぬ事態に置かれている証左に思えた。

 

 『一○一より各車、六本木三丁目プラウザビル付近にて大規模な爆発発生、テロ事案の可能性あり、負傷者多数の模様、直ちに急行せよ』

 

 「23時05分。以上一○三」

 

 同乗していた先任巡査が無線を受ける。声は明瞭だが僅かに焦りが感じ取れた。やはりテロか――それに三丁目と言えば繁華街の中とは言え、自分たちの所轄の目と鼻の先ではないか。そんな所で堂々と爆発を起こされたと言うのか――慄然とする思いの村瀬巡査の思考を吹き飛ばすように新たな無線が入ってきたのは次の瞬間だった。

 

 『撃4より各車、爆破事件の首謀者と見られる車両が現在412号を渋谷方面に向けて逃走中、車両は改造車と思しき二輪車、首謀者の身なりは――』

 

 それ以降を続ける筈の無線は次の瞬間、突如夜の街を揺るがす爆音によって遮られた。何事だと視線を右側に向けてみようとした所ですぐにパトカーは66プラザ下麻布トンネルに突入し、遮られた。

 

 「ちょっと待て、412号って…」

 

 今自分達が走っている道と合流する所ではないか?恐らく先任巡査はそう続けようとしたのだろう。となると自分たちの車両とちょうど合流する可能性があるのか、もしくは既に通り過ぎているのか、そこまで考えた所でパトカーはトンネルを抜け、県道に合流する交差点へと辿り着いた。

 元より不夜の街だが、もはや街はそれすらも静寂に思えてしまうほど、混乱に満ちていた。先程火の手の上がった右側に目を向けてみるとやはり駅方面には朦々とした黒煙が上がり、更には首都高の橋脚にパトカーが一台、頭から突っ込んでいる光景が見えた。

 

 村瀬巡査は慄然とした。

 

 だってそれはまるで映画の中で見るような戦争の光景そのものでここが21世紀の日本である事を忘れてしまいそうになるほどだった。あのパトカーの乗員は、他の同僚達は、なによりも市民たちは無事だろうか…そこまで考えた直後、静寂に呑まれた大通りを何かが駆け抜けて来た。大型の二輪車か、と思ったのも一瞬、豪炎に照らされて姿を現したそいつの異常な姿に村瀬巡査は今度こそ心臓が止まるような戦慄を感じた。

 

 まず目についたのはそいつが跨るバイク。見た目はクルーザータイプの大型バイクだが全身が闇のような漆黒に塗装されたボディにまるで骨のようなパイプ状のラインが纏わりつき、やがてそれは後輪部に異様な形状のマフラーとして収束していた。本来ならヘッドライトが配置されているフロントカウル部分にはこれ見よがしに人の頭蓋骨が象られ、眼窩を爛々と輝かせるように光を放っていた。まさに死神か何かを想起させる悪趣味な改造バイクだ。

 そしてそれを駆るのもまた――漆黒のライダースーツに人骨のような意匠の銀色の鎧、そしてそれらと同色のドクロのような仮面を被った更に異常な風体の人物だった。

 

 なんなんだコイツは――。

 

 しかしそれ以上その人物の風体を確かめる暇はなかった。ドクロ人間はこちらを見咎めもせずに、環状3号線、即ち今さっき自分たちが来た通りの反対車線に車体を乗り入れ、そのまま走り抜けようとした。

 

 「先輩、アイツを…!」

 

 「分かってる!」

 

 村瀬巡査は思わず声を上げようとし、先輩も皆まで言わずともその先を察したようだ。

 先程の無線で聞こえた『改造車と思しき二輪車』という言葉、どう見ても平和的とは言えない異様な容姿、何よりも一瞬確認したアイツは背部にショットガンのような銃器を背負っているのが確認できたのだ。どう考えたってマトモではない。恐らくアイツが無線で聞いた事件の首謀者だろう。現場に急行する事は出来ないかも知れないがここで逃がす訳にはいかない。

 ハンドルを握る先輩は即座に切り返しを行い、反対車線に進入した。ドクロ人間のバイクは66プラザ下を走り抜け、そのまま環状3号に至る車線に向かおうとしていた。パトカーが改造バイクの後部を捉えたのと同時に村瀬巡査も即座に無線を取った。

 

 何者か知らないが新宿事変以降日本全体を覆っていた不穏な事件の正体はコイツだったのではないかと確証はないがその時不思議とそう思った。もしそうなら…今のこの国を包む闇の正体が少なくとも得体の知れない超自然的なモノではなくあくまで目の前にいる不気味なドクロ人間――そう、少なくとも同じ人間によるモノである事が分かる。幽霊やモノノケが相手なら自分達警察にはどうする事も出来ないが、少なくとも目の前に実体を以て存在する以上は警察の管轄だ。そうと分かれば臆する必要など何もない。絶対に逃がしてなるものか…!

 

 「一○三より各車、不審な車両を追跡中、車両は黒の大型二輪車、現在環状3号を鳥居坂下方面に向け、逃走中、至急応援を…」

 

 しかし村瀬巡査のその言葉はそれ以上発せられる事はなかった。

 

 続く言葉は直後下から突き上げてきた鉄の暴風にかき消され、虚無へと消えていった。トンネルに入った直後黒づくめのバイクは後部のコンテナ状のユニットから何かを投下した。後続のパトカーはその微細な物体に絶妙な暗さのトンネル内部の状況も相まって気付く事は出来なかったのだ。

 その物体の正体は弁当箱程度の大きさの小型地雷だ。警察車両の動きを読むように投下され、瞬時にアスファルト上に敷設されたそれは圧力以外にも磁気や振動にも反応する機能を備えており、間を置かずにその上を通過したパトカーの影を検知すると同時に炸裂した。村瀬巡査に自分の死を認識する間はなかった。地雷に内包された700個余りの鉄球はマイゼン・シュレーディン効果により上方にのみ向けて一斉に解き放たれ、音速を超える速度を得た自己鍛造弾が即座に構造の脆弱な車体底部を貫き、その上にいた村瀬巡査と先任巡査の肉体を千々に引き裂いた。

 

 併せてタイヤが爆裂した事により、完全にコントロールを失ったパトカーは車道を外れ、そのまま左側のガードレールに激突し、支柱を歪ませるとその勢いのまま、前転するように大きく横転し停止した。やがて破壊された燃料タンクから漏出したオイルがそのままどこからか生じた火花に引火し、二度目の爆炎を上げてトンネル内部を荒れ狂った。

 

 

 ・・・・・・・・・

 

 

 その光景をバックミラー越しに眺めていたバイクを駆る男――《スカルマン》はニヤリと口元を歪める。

 

 予想以上の戦果だった。

 

 警察への挑発も兼ねての行動だったため、一戦交える事は承知済みだったが、装備が思っていたよりも絶大な効果を発揮してくれた。街の破壊に使用した多数の爆弾や白兵戦用の武器、なによりこのバイクは思っていたよりも自分の期待に応えてくれるようだ。これならこの国を相手取って戦うことも、そしてゆくゆくは未だ正体を現さない「何者か」を仕留める事も決して無謀ではない筈だ。

 せいぜい首を洗って待っていろよ、と《スカルマン》は密かにその時を夢想し、体が興奮に打ち震えているのを感じた。

 とは言えこれだけの騒ぎを起こせば当然警察も自分を逃がすまいと全力で追いかけて来る筈。来ても返り討ちにする自信はあるが必要以上に時間を掛けるのは避けたい所だ。やはりもういくつか花火を上げておこうか…

 《スカルマン》はバイクの操縦桿部分にあるコンソールを操作する。その瞬間予めこの六本木周辺各所に配置しておいた小型爆弾が一斉に起爆した。爆弾の効果は様々だ。市販花火を束ねた程度のこけおどし爆弾から手榴弾クラス、またはプラスチック爆弾を使用した大規模なモノまで、その他発煙弾や焼夷弾など複数の特殊効果爆弾も各所で花開き、街は更なる混乱の渦に呑み込まれていった。

 そうした混沌の闇に消えていくように《スカルマン》はやがて各地の警戒の目を搔い潜って姿を消した。それに呼応するように猛火に包まれた六本木の空に再びドクロが出現したのはそれから数分後の事であった。

 

 新宿事変から2ヵ月、死者12名、負傷者1200名以上という夥しい犠牲を出したこの事件を以てインターネット上に拡散された犯行映像からこの国に生きる者達は否が応でもその男――とある若者を殺害した際に名乗っている動画が拡散され、以降その自称に倣って《スカルマン》と警察やマスコミ各所でもそう呼称されるようになった――の存在を脳裏に刻み付けられていく事になるのであった。

 

 




という訳でプロローグでした。スカルマンは登場します。

ホントはもっと続きますけど、長すぎるので少し小分けにして投稿いたします。
次回以降はいつになるかやや未定ですが、なるべく早く投稿するようしますので、上記の通り、気長な方は是非お付き合いください。

初二次創作という事もあって色々至らぬ点、拙い点等あると思います。ご意見・ご感想・ご指摘・ご指導等いただけたら励みになります。

ではまた次回。


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CHAPTER-0:『REsurgence』‐②

お待たせました。序章の第二話(ややこしい)をどうぞ。

…まだ仮面ライダーには至りません。


 凶暴なまでに照らしつける日の光はどこまでも世界を眩しく染め上げ、それを一身に受けながら絡まるように繁った木々が陰影のコントラストを描き、自分達を守ってくれる。吹き抜けていく風は微かに土の黴臭さと共にどこか湿り気を帯びており、ふと遥か前方の山々に目をやれば鮮烈な空と共に山よりも巨大な入道雲が浮かぶ。――夏の景色、神社の境内、蝉しぐれ、石段を下った先には見慣れた町の景色――記憶はいつだって鮮烈だ。目に痛いほどの色合いで瞼の裏に焼き付いていつまで経っても離れようとしない。

 

 『ワタアメみてーだなぁ…いやかき氷かな…食いてえなぁ…』

 『バカ、あの下は雷雨だぞ。雷に打たれたいなら空飛んで食ってこい』

 

 町のちょっと高台に鎮座する神社の境内。その一角の木陰に並んで座っていた俺は遥か先の空に向けてそんな感想を投げてみる。しかしちょっと言ってみただけなのにミキトときたら読んでる本から顔も上げず、にべもない事を言う。

 少しばかりカチンとしながら俺は『かき氷食いたいって言ったの!』と隣に座る少年に向かって叫んだ。そう言うと途端にこの茹だるような暑さを意識せざるを得なくなり、思わず体を芝生に投げ出した。短く刈られた芝は剝き出しの肌にはちと痛いが、木陰で適度に冷めた地面の温度は心地良い。だがそれでこの暑さがどうにかなるわけでもないのが癪に障る。

 

 『知るか、持ち金10円しか持ってないのが悪い』

 

 相にも変わらずつれない上に口も悪い。

 同い年の癖にこの幼馴染はいつも自分だけが大人であるように振る舞う。ちょっとばかし(じゃ済まない気がするが)自分より頭が良いからって…。そのクールっぷりでこの気温も少しは下がったりしないもんかと皮肉の一つもいってやりたくなったが、『そんなんで気温が下がるなら地球温暖化なんかで困ったりしない』とか超現実的な突っ込み返しされてお終いな気がするので、そのままチェッ、と口を曲げながら、そっとミキトから視線を外した。

 

 確かに口は悪いけどミキトは嫌な奴じゃない。なんだかんだ言っても毎年夏の宿題を手伝ってくれるし、こうして外に出かける事をもう嫌がったりすることだってなくなった。案外自分よりバランスが良いのかも知れないと思う。

 

 今思うとあの時のミキトは必死だったのだろう。どこか漠然と大人になるなんて想像もついていなかった自分に対してアイツはもうとっくにその先を見据えてた。少しづつその兆候はあり、殊更に去年の春、家族が増えるという経験をしたばかりのアイツにとっては否が応でもそれを選んでいくしかなかったのだろうか…

 

 『――やっぱりここにいた…!二人ともぉ――』

 

 不意に涼やかな風が通り抜けるように声が聞こえた。顔を上げると案の定ちょうど石段を登り切ってきた少女が息を弾ませてこちらに手を振っているのが見えた。肩の上で切り揃えた髪、その名前を連想させる淡い紫色のノースリーブが夏の日差しに映えている。左の肩にはクリーム色の帆布バッグ。そして彼女の後ろに隠れるように5歳くらいの少女が僅かに半身を出して、おずおずと俺達を眺めていた。

 

 ――この光景もまた、鮮明に思い出せる。

 

 『おお、キョウカ、どうしたんだよ』

 『家に行ったらミキトと出かけてるって言うから…と言うわけでハイこれっ!』

 

 言うが早いかキョウカは帆布バッグの中からペットボトルの麦茶を取り出して俺に押し付ける。おお、天からの助けとはまさにこの事。俺は礼を言うよりも先にボトルをひったくると天を仰ぐように一気に半分ほど呑み込む。その勢いにキョウカはやれやれ、というように肩をすくめ、ミキトは呆れたように生温い視線を俺に注いでいた。

 

 『ぷはぁ、サンキュー生き返ったぜ…』

 『おばさんに言われたの、どうせとっくに水分切らして脱水になりかけてるだろうから持って行ってあげてって』

 『さすが、よく分かってる。いやそこまで読まれるお前が単純なのか…』

 『うるせえ、ほっとけ!』

 

 隣で勝手な事を呟く幼馴染をどつきながら、ふとキョウカの足元に隠れるようにこちらを見やる少女に目を向ける。俺と目が合うや否や少女はヒッと短い声を挙げ、キョウカを盾にするように隠れた。おい、なんでビビるんだ。

 

 『あーあ、ケモノみたいにグビグビ飲むからユヅキちゃんが怯えちゃったんだよ』

 『ユヅキ、怖がることないぞ。動物園で見たラクダだと思えば良いんだ』

 

 憮然としてる俺を横目にミキトとキョウカは少女――ユヅキにめいめい勝手な事を吹き込んでいる。思わず『誰がラクダだ!』と叫ぶがそれが更に恐怖心を刺激したのか、少女はますます体を竦ませ、キョウカのハーフパンツの裾を引っ張って今すぐにでも退散したいと言わんばかりである。俺は溜息を吐いた。どうも小さい子の相手はよく分からない。

 

 『で、二人してナニしてたの?』

 

 よしよしとユヅキをあやしながら不意にキョウカが視線をこちらに、殊更に、俺の方に向けてくる。思わぬ不意打ちにドキリとした俺はその大きな瞳を直視出来ずに、『別に…』と敢えてつまらなさそうに呟きながら、隣に投げてある虫かごを指差した。

 

 『大したモンじゃねえよ、夏休みの宿題で昆虫採集してただけ…』

 

 見てみるか?そう続けようとする前にキョウカは露骨に顔をしかめて、『ゲッ、ホントに大したモンじゃないわ…』とあっという間に興味を失くしたように視線を外す。どうやら虫がお気に召さないらしい。小さい頃は嬉々として蝉とか捕まえようとしてた癖に、なんで女子はこう虫が嫌いになるんだろう。

 

 『キミも昆虫採集?』

 『一緒にするな、ボクはコイツのお守りだ』

 『誰がお守りだ、誰が!』

 

 俺の抗議をスルーしながら転じた視線の先にいたミキトにキョウカが改めて話しかける。簡潔に答えてすぐに本に意識を戻すミキトに構わずキョウカは『ところで何を読んでいるのかな?』となおも食い下がっていた。ミキトはしばし迷った後に本のカバーを剥がしてこちらに向ける。太陽を背にして立つ男、の影が描かれた表紙。題には「復活の日」と記してあった。

 『なんか難しそう』

 『別に難しくないさ、新型ウイルスが発生して…』

 

 そう話すミキトの声はいつもと変わらず、どこか醒めたようでいながら、心なしか興奮しているように聞こえた。ああ見えてたぶん誰かに話したくて仕方がなかったのかも知れない。俺には絶対に話そうとはしないだろう、ナチュラルに『お前に話しても分からん』とか言いそうだ(そしてその判断は癪な事に正しい)。キョウカの声もいつもより弾んで聞こえる。

 俺は無意識に肋骨を押し上げるような痛みに息苦しさを感じて、二人の声を聴かないように意識の外に追い出そうとする。

 視線を二人から逃れるように外すとふと、投げ出した虫かごをユヅキがしげしげと眺めているのが見えた。

 

 『なんだよ、虫好きなのか?』

 

 先程より声色を抑えて、心持ち穏やかに努めて少女に話しかける。ユヅキは一瞬キョトンとした顔をこちらに向けると、ゆっくりと言葉の意味を噛みしめるように頷いた。そして再びかごに視線を向けながら、ゆっくりと指差した。

 

 示した指の先には数匹の虫の中でも一際目立つ緑色の虫がいた。どうやらそれに興味があるらしい。

 

 『コイツか?こいつはトノサマバッタって言うんだ』

 

 かごを掲げてズイとユヅキの前に突き出す。一瞬また怯えるかなと思ったが、ユヅキは怯まなかった。むしろその大きな瞳で食い入るようにその存在を捉える。変わった奴だなと思いながらその様子を眺めていると不意に少女がこちらに向き直った。

 

 『このコ、どうするの…?』

 

 絞り出すように、意味を吟味するように、ゆっくりと言葉を発する。俺は咄嗟にその意味を理解出来ず、また理解したらしたらでどう答えたら良いのか、迷いを感じた。標本にするんだ、と答えるのは簡単だが、それは要するに今この小さな箱の中で生きて動いてる命を奪うという事だ。小さな子にそれを理解させるのは難しい…言葉では何とでも誤魔化せるけど、それをするのは酷く卑怯な事であるように思えた。――いや、それ以上に自分をまっすぐ見つめる大きな瞳は何よりもその意味を理解しているのではないかと感じさせる切実さがあった。

 

 5歳ばかりの子どもに何が分かるのだろうか、一方で或いはユヅキなら…。思考の堂々巡りに陥りかけた己を自覚せずとも、俺はそれ以上の言葉を紡ぐことは出来なかった。ユヅキの目は切迫した色こそあれどあくまで何かを要求したりするような強さはなく、どこまでも淡々と答えを求めてた。

 

 はぁ、全く…。俺は溜息を吐くとそっと虫かごを持ち上げた。

 

 『昆虫採集用に採った。本来ならこのまま殺すんだけどさ…』

 

 ユヅキは何も言わなかった。俺はなるべくその視線から目を外さないようにしながらそっとかごの蓋を開放したのだった。

 

 『なんかやる気なくしたわ…ほら、出てけよ』

 

 その時の己の行動に納得したのか、それとも半ば自棄になったのかそれは分からないが、俺はそのまま天地がひっくり返る勢いで虫かごをひっくり返した。ぶちまけるように中にいた数匹の虫が重力に従って地面に放り出され、ひと刹那後には三々五々勝手な方向にすぐに飛び出していく。俺は特に何の感慨もなく、その様を眺めていた。放してしまえば呆気ないものだよな、と。ユヅキも嬉しがるでも虫を追いかけるでもなく、とにかく子どもらしい反応など何一つなくその様子を見守っていた。やはりこの子の事はよく分からない。

 

 ふと背後に視線を感じて振り返るといつの間にか話を終えていたミキトとキョウカがこちらを見ていた。呆れたような、どこか生暖かいような、得心しているのか、とにかく色々複雑な感情を含んだ視線だ。

 

 『はぁ…なんで逃がすんだ…一日無駄にする気か…』

 『ホントにねぇ…でもキミらしい』

 『お前ら、うるさい…』

 

 相変わらず勝手な事を言う二人に俺は小声で毒づく。『まあまあ良いじゃない、無駄にしたって』とキョウカがからから笑いながら、立ち上がる。

 

 『そろそろ帰ろ。ほらお兄ちゃんも本から顔上げなさい』

 

 そう彼女から肩を小突かれたミキトも一瞬顔をしかめながら、本を閉じ、ようやく鋼よりも重い腰を持ち上げた。それからキョウカの言葉を反芻しながらそっとまだ地面を眺めているユヅキの方を見た。

 

 『ユヅキ、そろそろ帰ろう。父さん達が心配する。』

 

 心なしか、少なくとも自分には絶対向けないような優しい声色で少女に声を掛け、ユヅキもコクンと頷いて答えると、ミキトの方に小走りで駆け寄っていく。ミキトが不器用におずおずと彼女に手を伸ばし、ユヅキもすこしおっかなびっくりしながら、やがて噛みしめるようにその手を取る。

 並んで家路に着く二人をなんとも無しに眺めていると、いつの間にかキョウカが隣に立っているのに気付いた。

 

 『結構うまくいってるね、あの二人』

 

 耳元で囁くように発せられた声に僅かにドギマギしつつも俺は極力平静を保ち、『もう一年以上だよな』と呟いた。

 去年の春、ずっと二人だったミキトの家に家族が増えた。新しいお母さんとその連れ子がユヅキだ。何か複雑な事情があるらしい事は近所でも何かと話題になっていたが、一番戸惑っていたのは他ならぬミキトだった。俺やキョウカも以来ずっと親友として支えてきたと思う。正直まだまだユヅキについては分からないことが多いが、少なくとも二人の奇妙な兄妹の距離は以前よりもずっと自然な物になってきた。

 

 何処か感慨深げに二人を目で追っていると、『テツヤ』と軽い手の感触が肩を軽く叩いた。

 

 『キミもお兄さんらしいじゃない、ありがとう、あの子ああいうのに敏感だから…』

 『別にそう言うんじゃ…』

 

 俺はそんなガラじゃないよ、とフッと息を吐く。そうだ、そんな立派なモノじゃない、他にどうしようもなかっただけだ。思えばああした所で虫達が死ぬのが数日、或いは数時間遅れるだけの事だ。目に見えない所に追いやっただけで何も解決してない。第一…

 

 『お陰で宿題はやり直しだしな…』

 

 今度は盛大に溜息を吐く。その消沈っぷりにキョウカは『本当にキミって…』と弾むように笑った。他人事だと思いやがって…と恥ずかしいやら何やらで毒づこうとしたがそれより先に彼女が『ところでさ…』と声を滑り込ませる。

 

 『わたしね、今自由研究で町史の制作してるのよ』

 『チョーシ?』

 

 なんだかよく分からないが、もともとクラスでも優等生のキョウカの自由研究だ、きっと立派なモンなんだろう、うんそうに違いない。何が何だか分からない俺の内心など無視してキョウカは続ける。

 

 『でもね、いざ始めると話聞いたり、本で調べたりとなかなか大変で。良ければ少し手伝ってくれない?共同研究で良いから』

 

 えッ…?俺は言われた事の意味が分からず、キョウカの方に驚いた視線を向けたが彼女は気にもせずにこちらを見つめている。その瞳には『やるのやらないの?ハッキリなさい』と書かれていた…気がした…。

 

 『俺はミキトほど役に立たない気がするけど』

 『ミキトには忙しいって断られたの。だから次点のキミにする。良いでしょ、どうせ暇なんだし』

 

 『どうせ暇なんだし』の部分を思いっきり強調しながらキョウカは楽しそうに笑って手を差し出した。誰が暇人だッ!と俺がデコピンのポーズを取ると額を庇いながらきゃあッとはしゃぐ。ユヅキとは正反対にどこまでも分かりやすいのが彼女だ。

 

 『――分かったよ、手伝えば良いんだろ!』

 『素直でよろしい、じゃ明日図書館に来てよね?』

 

 そう言ってキョウカは俺とハイタッチするとパッと身を翻し、前方を行くミキト達を追い越して駆けていった。一瞬振り返った彼女は俺たちに何も言わずにただ指鉄砲を構えるような仕草を取り、今度こそ背中を向ける。

 『また明日ね』。言葉に出さずともその仕草と表情は何よりも雄弁だ。途中ドンと肩を突かれたミキトが少し呆然とした表情で彼女を見送る。ユヅキは控えめに去っていくキョウカの陰に手を振っていた。

 

 まあ、虫は惜しかったけどご利益はあったかも知れないと肩をすくめるとふとこちらを振り返ったミキトと目が合った。いつもの皮肉っぽい微笑を浮かべていたが、長い付き合いだからなんとなく分かる。これはどっちかというと激励に近いポジティブな笑みだ。素直に微笑み返すのも照れくさくて断ったのそっちだからな、あと言われなくとも!と敢えて挑発的な視線を返すとちょうど家に行きつく小路に差し掛かり、俺はそのままミキト達に指鉄砲を発射しながら家路に駆けて行った。

 言葉は要らない、その仕草は俺たちにとっていつだって一つの意味しかないから――。

 

 

 『また明日』――

 

 

 ・・・・・・・・・

 

 <…こちらは昨夜爆発のあったトライングループ本社ビル前です。昨夜未明から激しく燃え盛っていた炎も消防隊の決死の消火活動によってなんとか下火になりつつあるようです。一時期は道路を埋め尽くす程の煙が溢れていましたが、何とか本社ビルの姿が見えるようになってきました…>

 

 「あぁっ…!やっぱ近づけもしねぇか…」

 

 都道50号線新大橋通りをひたすら走る事20分弱、ようやく大手門橋に至り、東名高速道路のジャンクション前に辿り着いたのは良いが、既に現場は警察官による封鎖が敷かれ、その手前は野次馬や「同業者」達による黒山の人だかり。遥か上空にはどこかの大手が飛ばしていると思しき、ヘリの姿。あーあ、うちもヘリ欲しい、でなきゃせめてドローンくらいあっても良いかも知れない、と下らないない物ねだり。

 

 そろそろ本庁の偉いさん辺りが臨場してもおかしくない頃合いだが、生憎と汐先橋奥にまだブスブスと燻る黒煙が見えるのはともかく細かい状況は接近しない事には何も分からない。こりゃあ完全に出遅れたな、と成澤哲也(なるさわてつや)は溜息を吐くと、ジーンズのポケットにしまっていたラジオのスイッチを切り、左耳にだけ掛けたイヤフォンを外した。

 まずは息を整えて、と思いつつもこの人混みでは却って息が詰まりそうだな、と思う。遥か先に立ち込める噴煙の周りはもっと空気が悪そうだ。

 

 この分じゃ新橋駅方面から回り込んでも無駄だろう、見事な出遅れっぷりに我ながら呆れつつ、もはや完全に編集長にどう言い訳するかを考え始めた矢先、大手門橋の高欄に手を掛け、他の野次馬共々現場を注視している見知った顔がいるのに気付いた。

 安物、という訳ではないだろうが既にクタクタによれているスーツに既に大半が雪原となっている頭髪、一見すると穏やかな顔に見えても目線だけは油断なくジッと一点を見据え、明らかにカタギではない雰囲気。渡りに船、なのかは知らないが間違いなく、そこら辺の素人よりかは頼りになる人なのは確かだろう。「ちょいとごめんなさいよ」と人垣を掻き分けながら、「立木さん」と哲也はその人物の肩を背後から掴んだ。

 

 「哲也か、お前こんなトコで何やってやがる…って今更愚門か…」

 

 怪訝な顔で振り返ったのも一瞬、哲也の顔を見咎めると男――立木正尚(たちぎまさなお)は皮肉っぽい笑みを浮かべた。()()()()()()()()()()()()()、昔と何一つ変わらない態度に哲也は苦笑しながら「そっちこそ」と立木の肩を押しだす。

 

 「なぁに、例によって刑事の勘って奴を頼りに来ただけだ、若い奴らに迷惑かけるから課長には言うなよ?」

 「言いませんよ、俺あの人苦手ですし…」

 

 なんて事のない会話を交わしながら哲也はふと思った。どうせ出遅れたのなら目の前にいるこのロートル刑事の勘とやらに頼って、取材にかこつけても良いのではないだろうか?どうせ手ぶらで帰っても編集長にドヤされるだけだし、立木はいい加減な思い込みで動くような男ではない。彼の口から何か目新しい情報でも聞き出せれば御の字ではないか…

 

 とそこまで考えた所で眉間に強烈な手刀が叩き込まれた。痛ってぇ!と額をさすりながら顔を上げると立木が呆れ果てたと言うような苦笑を浮かべている。

 

 「…ったく、あわよくば俺から何か聞き出して、ってか?考えがミエミエなんだよ、ブン屋向いてねぇぞお前」

 「だって気になるじゃないですか、〝生安のおやっさん″がこんな所で油売ってりゃ俺みたいな見習いでもなんか察しますよ…大体立木さんの管轄は台東区でしょ?」

 

 久々に叩きこまれた立木の鉄拳制裁に抗議の意を表すると立木も「確かにな」と失笑するようにくたびれた背広の肩を揺らした。

 

 「お前なんぞに察せられるようじゃあ俺も年貢の納め時だ、話し相手になってやるよ」

 

 さらりと失礼な事をほざきつつ、前方で広がる喧騒に踵を返して歩き出す。哲也はなんとか望み通りの展開に持って行けた事にひとまず安堵しながらそれはそれで釈然としないものを感じる。「お前なんぞは余計です、なんぞ、はっ!」どうせ聞く筈のない抗議を上げながら哲也は立木の後に続いくように歩き出した。

 

 

 ・・・・・・・・・

 

 

 警察といってもひとえに目的や対する犯罪によって様々な部署や課が存在する。

 

 殺人、強盗、傷害等の凶悪犯罪に対処する捜査1課・強行係。

 詐欺、横領、贈収賄等の経済犯罪を担当する捜査2課・知能係。

 空き巣や引ったくりを扱う捜査3課・盗犯係。

 かつては「マル暴」と呼ばれ、主に暴力団関係の事件を罪種を問わず担当する事になっていた捜査4課は現在では銃火器や薬物の不正な取引等の捜査も行う組織犯罪対策部となっている。

 立木のいる生活安全課もそうした部署の一つだ。

 

 当たり前の事だが、警察、特に刑事課の仕事は基本的に「事件が起きてから」なのに対し、生活安全課は昔は防犯課と呼ばれていたように「事件が起きる前」、即ち犯罪の抑止や監視に重きを置いている部署だ。

 

 未成年者の犯罪捜査、もしくは補導や猟銃など所持に特殊な許可が必要な物や風俗店等の営業許可の申請や不法な所持、営業の調査、最近ではストーカー、ハイテク犯罪のような刑事課の管轄外の調査活動も含まれており、その職務は多岐に渡る。捜査以外では防犯対策の啓発の他、警察に寄せられる相談への対応や担当課への引継ぎ等も含まれる。

 

 立木は生活安全課の少年係において長年未成年者の補導や検挙に携わってきた経験を持つベテランだ。学生時代散々「世話になった」哲也の経験から言ってもこの年齢にして不良やその他の未成年者の心理にはかなり詳しいと言えるだろう。時折他の課からも知恵を拝借される事もあるとも聞く。〝生安のおやっさん″の愛称もそうした実績を称えられての事、らしい。

 

 「で、〝おやっさん″が管轄外、しかも巷で噂の骸骨野郎の犯行現場に何の用なんですか?刑事の勘とやらは何を嗅ぎつけたんです?」

 

 事件現場から離れる事、徒歩10分、築地市場に居を構える古めかしい喫茶店にて顔を突き合わせるように腰を下ろすと、哲也は開口一番そう告げた。

 立木は「そう急くなよ」と苦笑しながら、まず運ばれてきたお冷で口を湿らす。手は何かを探し求めるようにテーブルの上をしばし彷徨っていたが、やがて入り口付近の壁に貼られた「()()()()」の文字を見咎めて、世にも情けない顔をして溜息を吐いた。〝生安のおやっさん″と時に慕われ、時に恐れられる男の意外な一面を見た気がした哲也もとりあえず水を口に含み、一旦考えを整理する事にした。

 

 …本日未明、太陽が顔を出し始めた4時34分頃、突如東京は港区に本社を構える日本でも5指に入る大手マーケティング会社「トライングループ」本社が突如爆破された。正確には都道316号線海岸通りの上り線を規定速度を超える勢いで暴走していた黒塗りのバンが連結する日の出ふ頭線に乗り上げ、逆走し始めたかと思うとそのまま歩道に乗り上げ、ガラス張りのビルに突っ込んだ、というのが事の始まりだ。

 

 一瞬酔っぱらい運転による事故にも思えたが、その直後車体が突如爆発し、駆けつけた警備員諸共1階のフロアを粉々に吹き飛ばした、という。単に車体から漏れた燃料に何かが引火した、とかそういうレベルではなく、ちょうど向かいのホテルに泊まっていて外の様子を見ていた客の話によると、ビルの屋台骨を揺るがすような轟音と共に数回上のフロアのガラス張りまでもが一気に吹き飛び、その衝撃と爆炎は道路を超えてホテルまで達した。

 

 突然の事態に宿泊客の避難を始めたホテルの従業員は爆炎に隠れたままのビルの遥か屋上から突如銀色のドクロの印が上がるのが見えたと言う…。

 

 《スカルマン》の犯行だ。

 

 去年3月の「新宿事変」を切欠とし、都内各所で散発的にテロ行為を行う銀色の仮面の男の自称だ。六本木の爆破事件の際にそう名乗っていたのが生存者の口から語られ、以降メディアにおいてはそう呼ばれている。犯行現場に何らかのホログラム投影装置のようなものを設置しており、事件後に巨大なドクロを現場に出現させるのが犯行サインのようだ。現状目的も正体も全く不明、2年後に控えている国際的な祭典までには何としてでも逮捕する、と政府関係者も息巻いているがこの1年、未だ尻尾の先すら掴めていない。

 

 やがて二人の前にカップが運ばれてくる。女性の店員はどうぞごゆっくり、と頭を下げて去って行ったがチラッと見えた横顔は「この二人何者なのかしら」とはっきり書いてあった。殆ど頭の白くなりかけた初老の男と安物ジャケットにジーンズの20代の男の取り合わせ。確かに傍から見れば妙なコンビだろう。考えを一旦中断して哲也はコーヒーを啜った。職場や自宅で淹れる安物のインスタントにはない芳醇な酸味と香りが心地良い。

 

 「哲也、お前さん《スカルマン》の目的は何だと思う?」

 

 同じくコーヒーを啜っていた立木が一息つくようにカップをソーサーに戻し、哲也に問うてきた。いよいよ話の確信か、と得心した哲也はふと考える。この1年近く見習いブン屋なりに真剣に巷を騒がすドクロ男の目的や正体について考えていた訳でもないのだが、今一つピンと来ないのだ。特に事件に深入りすればするほどその正体は朧気になっていく。本当に幽霊の相手でもしているのではないかと思える程に。

 

 「今回のトライングループ本社の件ですけど…やっぱ二年後のアレを妨害するため、ってのがネット上では未だに濃厚ですよね…」

 

 黙ってる訳にもいかず、とりあえず今のところネット上で一番有力視されてる考察を上げてみる。トライングループは例の祭典の有力スポンサーなのだ。既に洒落にならない規模の公費が投入されており、その中抜きに群がる形で政商に巨額の金が動いている、という黒い疑惑が度々報じられている。

 

 実際東京都内だけでも既に海浜公園や青海等の臨海副都心や飛行場・港などの交通の要所が既に被害にあっており、トライングループ以外でも被害にあっているのは大手建設会社やテレビ局、人材派遣業などいずれもこの先のイベントには切っても切り離せないような所ばかりがターゲットに選出されている。

 「これは我が国の壮挙を妬む者達の仕業と断言して良く、我々は決してこのような暴力による恫喝には屈しない」と某党の大先生の発言が喝采を浴びたり、炎上したりと混沌とするなか、既にネットではその説で確定のような空気が溢れており、某メディアなど既に名指しこそしないまでも犯人すら特定するかのような記事をぶち上げている。最も数か月前から風向きが変わってきており、今は民意の半数くらいは異なる意見を掲げては分断の兆しを見せているが。

 

 「はッ!小さぇ小さぇ、奴がそんなケツの穴の小さいタマかよ」

 

 そんなネット社会の情報など取りつく島もないと言わんばかりに立木は吐き捨てる。曰くネットに籠もってマトモに事件と関わってもいない奴らに分かるものかよ。と。どうでも良いが口が悪いな、と思いながら哲也は

 

 「じゃあ立木さんは何だと思うんです?」

 

 と不満げに問いかける。立木はニヤリと不敵に笑いながら再度コーヒーを口に含んだ。

 

 「歴史、宗教、イデオロギー…古今東西人が争う理由は様々だ、特に今は社会が複雑になりっぱなしなご時世だしな。だがな、奴の根源はもっとシンプル、原始的な考えだよ」

 

 人間は社会というものを作り出した生き物だ。

 家族以外の他社という存在を受け入れる事で強靭な筋力も鋭い牙も爪も分厚い毛皮も持たない脆弱な生物は非情な自然界の中にあって一大勢力を築き上げるまでに成長したのである。だが所帯が増えればそこに思想・信条の違いや限りある資源の争奪、はたまた共同体の維持を巡って対立が生まれるのも世の常。

 

 特に近代以降社会のシステムはますます巨大化・複雑化の一途を辿り、それによる軋轢は二度に渡る凄惨な戦争という形で社会に表出した。現代に入り、冷戦が終結すれば曲がりなりにも東西とに二分されていた世界秩序は終わりを告げ、代わりに突入したのが対テロ戦争という終わりのない混迷と経済・情報・金融・エネルギー等社会の中核を為す産業利害が複雑に入り混じった世界だ。自由主義と共産主義、保守と改革、民主主義と専制主義、かつてのように簡単に世界を二元論で括れた情勢は既にない。

 

 しかしながらとっくに人の脳の許容量と情報処理速度を超えている社会においてはやたらと分かりやすく、耳障りが良い言論ばかりが幅を利かせ、却って議論は決定的な無理解を抱えたまま平行線を辿るだけだ。

 世が混沌とするに従って、人が単純化を求めるのは皮肉以外の何物でもないのだが、目的も正体も不明のテロリストとあらば動機くらい大衆にとって分かりやすいものであって欲しいとなるのも道理だ。

 

 が、《スカルマン》の行動原理はそうした社会的・思想的な背景を抱えたモノではない、と立木は言う。所詮見習いとは言え、記者として人並み以上には事件等に触れてきたと自負している哲也としては本当にそんなものなのだろうか、と思うが一方で或いは幽霊のように掴み所のないこの犯人ならさもありなん、という矛盾した実感もあるのだった。

 しかし「原始的」とは如何な意味か。

 

 立木はまっすぐに哲也を見据えながらニヤリと笑う。

 

 「奴の行動はなんら高尚なモンじゃあない…もっとプリミティブな感情、即ち怒り、復讐だよ」

 

 

 

 

 




という訳で序章その2でした。

長すぎるので今日はここでお終いです。前回が読みづらかったので少し整理しました。

仮面ライダーの影も形もなく、今週はスカルマンさえいませんが主人公は出てきました。

あらすじにもある通り、彼が(一応)この作品の主人公です。この場を借りて人物紹介を。

・成澤哲也
 :年齢:24歳
 :職業:見習いジャーナリスト
 :モバイルネット雑誌「レイニージャーナル」の見習い記者。やる気と熱意はあるが空回りしがちで、あまり後先考えない等やや脳筋の気がある。バイクに乗るのが趣味だが、最近あまり乗れないのが悩みの種。

基本は彼の視点で話が進んでいきます。相変わらず長くなりますが気長な方はどうかお付き合いください。

感想・評価その他諸々何でもいただければ励みになります。来週はなるべく早めに投稿しますので暫しお待ちを。それでは。


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CHAPTER-0:『REsurgence』‐③

お久しぶりです。

という訳で3話目…というかこれまでは事件を追う側の視点から話を描いてましたが、今回は事件に直接関わらない市民の視点やスカルマンの登場を切欠とした変化などを描いた番外編的なエピソードになります。

「いや、本筋書けよ」と本当に思うのですが、こういう背景とかを説明しないと今後分からなくなる事が多いので…。
引き続きお付き合いください。


・ある警察関係者の記録

 

 「背後関係無し。単なる便乗犯ですね…」

 

 新宿署捜査1課の一室、やけにあっさり片付いた割に妙に物々しい空気が漂っていた事件の顛末に付けられたのは結局そういうオチだった。白けたような呆れたような部下の報告に桑島は本日何本目になるか分からない煙草を吹かしながら「だろうよ」とぼやいたのだった。他の刑事たちも同じ感想なのだろう、そこかしこで溜息や失笑が漏れる。

 新宿事変から早1年近く、気付けば《スカルマン》とやらの影を追い続け、桑島達捜査員は気の休まる暇がなかった。如何に人員を導入しようとも一向に尻尾を掴ませない骸骨男に署員たちは苛立ちを募らせていった。

 尻尾を掴みにくい理由はシンプルだ。《スカルマン》の行動がてんでバラバラな事にある。マスコミや世間では2年後の大会の妨害を目論む勢力――はっきり言えばいつぞやの過激派だとか外国人の仕業だという意見が大半を占めているが、事はそう単純ではない。マスコミは不可解な行動を関連付けてストーリーに仕立てて、より刺激的な形で市民にお届けするのが好きだし、今朝方には筆頭スポンサーであるトライングループの本社ビルが狙われたというのだからその認識も宜なるかなと思うが、冷静に奴が関わった小さい事件にも目を向けていくと、最初の六本木事変ではそこを拠点にして、主に大学生などの女子をターゲットにしているホストクラブ――というか要は半グレ団体をターゲットにしたものであったようだ。監視カメラにはとあるクラブに突入し、一部の従業員を散々に打ちのめした挙句に構成員の1人を執拗に追撃し、通行人を巻き込んで爆殺している。その当時はまだ骸骨野郎の目的は不明なままであったが、その後の競技場や空港を狙った犯行から2年後のイベントの妨害が目的だ、と政治家などがヒートアップし、いつの間にか警察もマスコミをその方向で舵を切る事になってしまっていた――一説では上の方になんらかの圧力があったとかないとかまことしやかに囁かれている。

 

 まあ最初のうちはそれでも良かった。度重なる被害に某新聞社が「これはこれで痛快な光景かもしれない」と迂闊な発言をして炎上するくらいには、世間は骸骨男に敵意を燃やし、警察上層部も敢えて勇ましい発言を出して、民衆の支持を得ていた、最初の1カ月くらいは。事件が長期化するにつれ、骸骨男の行動が大会の妨害ではないのではないか、という考えは自分達以外にもマスコミや市民の間に広がっていった。

 新宿事変を除くと最初の事件からして半グレ団体への報復じみた排撃を目的としていたし、その後も似たような半グレ団体や暴力団、歓楽街が小規模な被害ながら標的にされており、更には新宿事変を契機にして起きた複数の未解決事件への関与の疑いだってあるのだ。2カ月前には某政党の母体である新興宗教団体の支部にてやはり爆発事故が起き、その上空には奴が犯行声明代わりに残す巨大なドクロの幻影が広がっていた。

 

 もともと半年くらい前から機運が変わっていはいたが、この頃になると市民やマスコミの間でも骸骨男の目的が単なる国への妨害行為ではなく、一種の()()()ではないのか、という意見が出るようになった。折り悪く例のイベントに関わるゼネコンや広告代理店の利権疑惑、政治家や関係者の不適切な発言などが報じられ、例の宗教団体も元々いくらかの疑惑が挙げられていた事もこの意見に拍車を掛けた。

 現在世論は確実に分断されつつある。《スカルマン》の目的は自国の壮挙の失敗を目論む勢力の仕業であるとする言説と現代に現れた世直しであると叫ぶ者が意味のない対立を続けている。

 前者は稀代の犯罪者を未だ捕らえる事の出来ない警察に不信を募らせ、それを支持するマスコミはそれに便乗して、日本警察の不甲斐なさを叩いた。後者は元々反骨的な団体や報道機関を巻き込んで、政権批判に躍起になり、他方過激な勢力は「権力に媚びるだけの警察は世直しを邪魔するな」と脅迫を送り、時に捜査を妨害するなどより始末の悪い行動に出るのだった。

 

 今朝方署管内の繁華街に居を構えるバーに男がガソリンを巻いている光景を警邏中の制服警官が目撃し、逃走と乱闘の末に放火未遂並びに公務執行妨害の現行犯で逮捕した。男はハロウィンで使うドクロの被り物と黒いライダースーツを纏い、近くの建物に「スカルマン参上」という落書きをスプレーで残していた。取り調べに際して男は「世直しのためだ」「あのバーはキャッチセールスの悪徳な商売をしていた」等と供述していた。その後結局件の店はキャッチバーでも何でもなく前に男が従業員の女の子に迷惑を掛けて出禁になっただけだったという間抜けなオチが付いたのだが。

 

 事件が長期化するにつれて厄介な点は今回のように模倣犯、便乗犯が後を断たなくなった事だ。特に奴の行動を世直しと捉える者が増えるのに比例してこういった奴らも増加の傾向にあり、ただでさえ連日の激務と世間からのバッシングに疲弊している警官たちにとっては更に追い打ちを掛けるが如く、余計な仕事を増やすだけの存在だ。

 何が世直しなモノかよ、と胸の奥に湧き上がる苛立ちを吐き捨てるように煙草を吐き捨てる。《スカルマン》によるテロの死亡者は既に200人近くに達しようとしているのだ。規模を考えれば少ないのかも知れないと外野が言おうとそれだけの人の命が奪われているのだ。いつだってテロリストという奴はお耳触りのいい美辞麗句を並べ立てて命を全体の数でしか見ようとしない。あの事件で現場に居合わせた刑事二名が車の引火に巻き込まれ、重傷を負ったし、あの後も市民の救助に当たった同僚の多くが二次災害で負傷したのだ。

 

 絶対にそのふざけたコスプレ仮面を引き剝がして下の素顔を世間に晒してやる、その上で絶対に絞首台に送ってやるからな――!

 

 刑事としてはいささか感情的に過ぎる言葉かも知れないが桑島はそう思った。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

・ある学生の記録

 

〈…今私は今朝爆発のあったトライングループ本社ビル前に来ています。先程から朦々とビルを覆っていた煙の勢いが弱くなっているのが分かります。消防からの情報によりますと先程火災は消し止められたようです。死傷者の明確な数は未だ不明なまま…〉

 

 朝のテレビはこの時間の恒例のドラマを休止して先程から今朝の事件のニュースを流している。父と母も固唾を呑んで画面の中の光景に見入っている。他の局もインターネットのニュースサイトもこの話題一色だった。付近の汐留駅並びに新橋駅周囲にも若干の被害が出たらしく、通学圏内にある一部の高校は休学になった事が報じられた。いずれにせよウチの周りではあまり関係ない事だった。この1年でこんなニュースもだいぶありふれたモノになってしまったが…慣れたくはないなと菜穂は思った。

 

 新宿事変の時はまだ空気感は違っていた。夥しい犠牲者を出した事件にしてもいくら同じ日本でも直線距離でも300㎞以上離れている仙台市に居を構える菜穂の家族にとってはまだ何処か対岸の火事という印象が拭えなかった。もちろん映画の中でしか見たことがないようなその光景には父も母も固唾を呑んで見守っていたし、少女自身も何か漠然と恐ろしい事が起こるのではないかと戦慄したのは確かだ。

 しかし喉元過ぎれば熱さを忘れるとはよく言ったもので1カ月は不可解な事件が時折メディアを賑わせる程度で特に進展のない事件の情報は地方の方ほど忘却に至るのは早かった。ワイドショーもネットも次第にただのイデオロギー対立で中身のない論争に終始していくだけという体たらくだ。

 

 そこから1カ月くらい経った時に六本木で大規模な戦闘騒ぎが起こり、かなりの犠牲者を出した辺りから本格的に流れは変わりだした。事件を起こした正体不明の人物は《スカルマン》という奇妙な名を自称しており、東京都を中心に破壊活動を繰り広げるようになったのだ。

 

 最初こそまだ映画みたいな光景だなとか当分東京に遊びに行きたいなんて言えないなという程度の感想で済んだ。だが次第に続発する事件の中で東京に住んでるクラスメイトの親戚が巻き込まれてケガをしたとか爆破されたのが父の会社の取引先だったとか言う情報が飛び込んでくると自分の周りすらももう無関係ではいられないという実感が今更過ぎる程押し寄せてきて、虫が這うようなゾワゾワとした不安に包まれていくのが分かった。

 そのうち《スカルマン》の目的は2年後に控えてる世界的なイベントを邪魔する事にあるのではないかとメディアで言われるようになった時には本当に心の底から恐怖を感じた。いくら東京で開催すると言っても利府の宮城スタジアムも開催場所に選ばれているのだ。いつ地元にまで被害が及ぶのかと県民は戦々恐々で、終いにはスタジアムを競技会場から外してくれ、という一部の県民から嘆願まで寄せられ、それを豪気に突っぱねた県知事の発言が称賛されたり非難されたり…。

 

 ニュースの情報を片目に追いながら菜穂はスマホを開き、よく閲覧してる掲示板サイトに飛んだ。以前なら母が「ごはん中にスマホ見るのはやめなさい」とお小言の一つでも飛ばしていただろうが今は誰彼も情報が欲しい時だ。流石に食事中はしないが母も以前なら開きもしなかったパソコンを開いて事件の情報を追うようになったらしい。おかしなサイトの情報を鵜呑みにしなきゃ良いけど、と不安になりもしたが自分も人の事は言えないかも知れないと軽く自戒する。

 と言うのもここ数カ月の間に実は《スカルマン》の目的は「()()」なのではないか、という説がネット上でまことしやかに囁かれるようになったからだ。ネットに明るい級友達の間では特に広がりが早い。初めは本当にネット上だけの珍説の域を出ていなかったが嗅覚の鋭いどこぞのマスコミによって取り上げられるや否や瞬く間に日本全体に広がっていった。

 

 正直言って不謹慎な話だと思う。少なくとも新宿事変や他の事件に巻き込まれて命を落とした人達の遺族にはたまったモノではないだろう。今は平成であって幕末ではないのだし…。そう思いつつもニュースや掲示板等に情報が上がってきたり、クラスメイトの話題を聞いてたりすると言外に否定できなくなるような弱気に駆られてくる。

 六本木事件の時、《スカルマン》に射殺された男とそれ以前に犠牲になった何人かの男達は大学生で、実は女性を会員制のバーに誘い、高額な酒を買わせては借金を背負わせ、風俗に堕とす――という悪質な商売をしていた事が分かっていた。ネットには彼らが壊滅したおかげで救われたと語る女性の話が載っていた――最もどこまで本当の事なのか確かめようがないのだが。他にも怪しい宗教団体がつい最近攻撃されたり、例の大会の筆頭スポンサーや関連企業が被害にあったと思ったら、実は裏で巨額の金を受け取っていたり等の疑惑が浮上したり…。《スカルマン》が藪を突くように何処かを攻撃すれば絶対に埃の如く何らかの黒い噂が出てくるのだ。

 

 極端な所になると《スカルマン》を崇拝する輩までネット上にはいるらしいのだから本末転倒も良い所だ。流石にこれはバカバカしいと思う程度の分別は菜穂にもあったが、一方で正しい事ってなんだろうな…と思わずにはいられないのだった。

 

 正直《スカルマン》が正しいとは思わない。でもそれなら疑惑が表沙汰になってもテレビの前で悪びれた様子もなく記者会見に臨んで、都合の悪い所を突かれれば「自分は被害者だ」と開き直ったりする年寄りや、世間の非難には一切耳を貸さずに逆に批判する側こそ社会の敵だと言わんばかりに世間を煽る政治家達は《スカルマン》を糾弾する資格があるんだろうか…。

 メディアだって新宿事変の時は警察を応援し、犯人を批判してた癖に時流が変わると掌返しで警察の不甲斐なさを叩き、まるで次に狙われるのは何処だと《スカルマン》の行動を楽しんでるきらいさえある。

 知事は「テロに屈する訳にはいかない」と会場変更を拒否したが、それは地元の人達を不安にさせてでも守らなきゃいけないほど大切な事なんだろうか。菜穂には分からなかった。

 

 一年前には確かに地面に根差した物だと思えたこの世界というものが実は張りぼての浮島だったのではないか――。仮に《スカルマン》が捕まったとしてももうこの世界が元の形に戻る事なんてのは永遠にないんだろうな、と少なくともそれだけは菜穂にも確信はできた。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

・ある男性の記録

 

[スカルマンが与党による自演であるこれだけの証拠:6]

 

[○○→#スカルマンを歓迎します]

 

[【速報】音声解析で遂にスカルマンの正体が判明!]

 

 いくつかのまとめサイトを更新し、一息ついた所で途端にヤニ臭い空気が鼻に纏わりつくのを感じ、ウンザリした気分になる。今時パチンコ屋の換気設備だってもっとしっかりしてるだろうにこのネットカフェと来たら、照明は薄暗い上にブースの壁や机にすら何やらベタ付いた脂の感触がする。いくらここしか空いてなかったとは言え、こんな所にずっといたら肺が腐りそうだと思った毒島は気分直しにドリンクバーに向かった。一応は分煙されてはいるからドアを開けて階段を下りてと言う手順を踏む必要があるのが実に鬱陶しい。こんな事ならもっと他の場所を探せば良かったか、と思いつつも結局は安さが大事だ。

 

 まとめサイトの活動は毒島にとっては貴重な収入源だ。むしろ最近では本業の店より熱を入れてるかも知れないが、それでも自分のサイトの伸びはまだ悪い。もっと刺激的な情報を発信した方が良いかも知れない。毒島の家は自営業だ。とはいっても親がやってた家業を継いだに過ぎず、更に過疎化の進む地方都市にあっては碌に儲かりもしない。ほんの副業で始めた仕事だったが今では本業よりも懐を潤してくれる。

 最も最初のうちは全くアクセス数も伸びず、従ってアフィリエイトも微々たるものでしかなかったが、大体1年前、《スカルマン》を名乗るテロリストが世間の話題を席巻するうちに事情が変わった。正体も目的も不明で、未だ警察も逮捕に至れない謎のドクロ男に関する情報は真贋を問わず、人々が欲するようになったのだ。

 

 都合の良い事にネット上では《スカルマン》の暗躍は幾度となく続けられてきた憲法の改正世論を強めたし、半ば忘れ去られてた改革派による事件やカルトによる地下鉄テロの恐怖を思い起こさせてくれた。恐怖は猜疑を生み、猜疑心はイデオロギーの違いや外国人等のマイノリティーへと向けられた。

 毒島はこの空気を敏感に察知すると早速まとめサイトやSNSを駆使して、ネット上に蔓延る様々な情報を挙げていった。最初のうちは他人の情報を適当にコピーして、それに若干の脚色をすれば良かったが繰り返してるうちに政治系のネタ、特に所謂ネット右翼やネット左翼を相手にした方が儲かりやすいと知った。

 

 真偽なんてどうでも良かった。右派系サイトではとにかく「スカルマンの正体は外国人だ」「被害のあった場所に外国人が攻めてくる」と彼らが喜びそうなネタを「投下」し、左派系サイトでは「スカルマンは与党による自作自演だ」としつこく言いふらしたり、自分で右派系サイトに纏めたデマをバラまいて敵対を煽った。時には自分で自分のサイトに文句をつけたりもする。

 

 毒島自身は特に政治的な思想は乏しい。選挙なんて何年も行ってないし、憲法が変わろうが外国人がどうなろうが正直どうでも良かった。今だって右派も左派も煽りながら本質的には金儲けが目的で、一時的に記事が受ければそれで良いと思っている。フェイクだと看過されれば記事だけ消してしまえばなんの責任も生じない。

 最近では主にネットを拠点にする自称ジャーナリストも増えている。大手と違ってファクトチェックが甘く、とにかく記事を欲している彼らの存在も毒島にとってはありがたかった。彼らの中継を介する事で自分の情報が「識者の意見」という体で発信され、より広がりやすくなる。情報提供の報酬もいくらか入るし、それでサイトのビューワーも増えて、アフィリエイトもアップする、という訳だ。適当な情報でもそれなりに稼げるんだから、かなり美味しい。もう少しすればもっと収入もアップし、こんな古ぼけたネットカフェを使う事もなくなるだろう。

 

 最初のうちこそフェイクニュースがニュースで社会問題として報じられる度に一抹の不安を感じる事もあったが、今はそれもすっかりなくなった。()()()()()()()()()。自分だけ非難される謂われはない。

 事件の犠牲になった人に不謹慎ではないかとは別に考えないし、どうせ関東周辺で起こる《スカルマン》の事件は四国に住んでる自分には関係ない。なにより――結局金が大事だが――毒島にとっては自分の発した情報が社会に発せられ、それが人々を煽って世間を動かしているように感じられる事が何よりも快感だった。この時だけ毒島は片田舎の吹けば飛ぶような店の跡継ぎから、人を世間を高みから動かす事の出来る大いなる存在になったような気分に浸れるのだ。

 

 大いなる存在――言ってしまえば()か――それも悪くない、と愉悦に身震いした所でふと、もしかしたら《スカルマン》もこんな気分なのかも知れないなと思う。己の手で命を摘み、暴力を以て世を疑心と恐怖でコントロールする事を楽しいと感じているのかも知れない。そう考えたら毒島は不思議と正体も分からない骸骨男に親近感を覚えた。

 

 まあアイツのおかげでこっちはそれなりに儲けさせて貰ってる訳だし…ここはひとつ今後の《スカルマン》大明神様の活躍に期待するとしよう。再びブースに戻ってまとめサイトを発信しながら毒島は密かに《スカルマン》が巻き起こす次の事件を熱望した。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 

・あるOLの記録

 

 ネット上に上がっている不鮮明な動画。漆黒のレザースーツに金属的で硬質な銀色の鎧と…同じ色をした骸骨を模したヘルメット。それが今目の前で命乞いするかのように蠢く男に向けて、その手に握った銃を放ち、男の命を断ったのだと分かった。

 主にアングラサイトを中心にネット上で出回ってる動画だ。『《スカルマン》とでも呼んでくれ』、音声についてもかなり粗いがなんとかそう言っているのは分かった。ただこれだけでは目の前の骸骨男のハッキリとした年齢までは分からない。ただ音声解析サイトの見解では意外と若い男なのではないかと囁かれている。

 何度見ても恐ろしく――そして()()()とさえ思える光景だった。帰宅したばかりの部屋の中はかなり寒い筈なのに、額に掌に汗が滲み、心臓が撥ねるように鼓動する。何もしていないのに体が火照り、乳首が隆起するのが分かったが、流石にそこから先はまだ理性によって歯止めをかけられた。そのような浅ましい感情は画面の前の存在を穢すような気がした、というのもあった。

 

 良くないなこういうのは…。椎子はノートパソコンの画面を閉じるとそのまま脱力したようにベッドの上に横になった。スーツが皺になる、と気にしつつもすぐにどうせ自分の見た目なんて誰も気にしないか、と自虐的な気分になった。

 

 何が良くないのか、自分の中の邪な劣情かそれとも…。

 

 「彼」と出会ったのはほんの半年ほど前、珍しく川崎市への出張に同行した際だ。

 勿論最初はイヤでイヤで仕方がなかったと言うのが本音だ。その時東京どころか首都圏は散発するテロへの厳戒態勢に当たっており、巻き込まれやしないかしら、という恐怖があったが、結局は断れなかった。巷を騒がすテロリストよりも今時辞書にハラスメントなんて言葉は書いてない上司に睨まれる事の方が椎子には切実な問題だったのだ。

 どうせこっちにいても彼氏もいないんだろ、金も性欲も溜めてんならホストにでも貢いでこいよ。そう下卑た声で嘲笑される屈辱に歯噛みしながら、迎えた川崎での夜。駅周辺でも一番安くて古いホテルの硬い寝台の上で自分は何してるんだろうとつくづく考えた。

 30も過ぎて未だに結婚もせず、職場と家を往復するだけの日々。昔気質で自分と母に暴力と雑言をぶつけた父とそんな生活に耐えられなくなり、ある日椎子を置いて男と蒸発した母以外の思い出などない家に帰っても正直気詰まりなだけだったが、縁もコネもない自分が他に生きていける土地などなかった。そんな父も若年性アルツハイマーを患って以降すっかり大人しくなってしまったが、今度は施設の入院費と言う負担で椎子の首を絞め続けるのだった。いっそ母のように全てを捨てて消えてしまいたくもなったが、結局自分にそんな相手が現れる筈がないという暗澹たる絶望に至るだけだった。そう少女漫画のようにいつか自分を救ってくれる王子様みたいな存在なんてこの世界のどこにもいやしないんだから――。

 

 惨めな気分でいつの間にか眠りに落ちていた所、突然夜更けに大地を揺るがすような轟音と共に安普請のホテルが大きくたわんだ。すぐさま避難警報が発動し、椎子も隣の部屋にいた上司も着の身着のままホテルを飛び出した。

 外に出ると街は繁華街の各所から火の手が上がっており、通りはそれに追われて飛び出した人の群れでごった返していた。安全な所に避難を、と駆け付けた警察官たちが誘導していたが、既に数百の黒蟻の大群と化した群衆をそれだけで抑えられはしなかった。生来の鈍臭さもあって人の波に流されるがまま、いつの間にか国道に繋がる大きな通りにまで出ていた。

 

 そこに広がっていたのはこれまでテレビの画面越しでしか見なかったような地獄そのものといった光景だった。何台もの一般車両やパトカーが横転し、一帯には警察官達が無惨な姿で死屍累々と横たわっているか、まだ息のある者はその喧騒に中心に位置する存在と対峙してはその山の中に加えられていった。

 

 その中心に「彼」が――《スカルマン》がいた。

 

 銀の鎧に揺らめく炎が反射して橙色に煌めき、流れるような体捌きで次々と屈強な警察官達を斃していく。その時ゾクリと椎子は――その光景を美しいと思ったのだ。その肉体は鋼のように硬質で、でもしなやかだった。父のように本質的に気の弱い矮小な男が自分より弱い者に力を振るって悦に入っているような、そんな低次元な存在ではない。「彼」は真に強いのだ、雄々しく誇り高い肉食獣のような…!

 

 その後どうなったのかはハッキリと記憶にない。恐らく駆け付けた警察官が自分を避難させてくれたのだと思う。彼にとっては恐らく如何にも田舎者の冴えない三十路女が事件現場に出くわし、ショックで呆然自失としているとしか思わなかっただろう。だが実際は違うのだ、椎子はあの時明らかに《スカルマン》の姿に魅入られていた。

 以来椎子の人生はボンヤリとだが変わった。気が付けば《スカルマン》の引き起こすニュースを追い、その姿をなんとか捉えようと躍起になっていた。あたかも恋する乙女が学校の運動部のエースに熱い視線を送るかのように。

 

 ()()()()()()。そう自覚するのに時間は掛からなかった。

 

 勿論犯罪は許せない。大勢の人が亡くなっているのに不謹慎にも程があると考える程度には自制も効いた。しかしネットを彷徨っていると少なからず同じように考える同好の徒と出会うようになり、それに連れてある種の開き直りの境地が椎子の中にも生まれてきた。

 憧れて何が悪いのか、赤穂浪士だって歌舞伎の世界では見事主君の仇を討った忠臣かも知れないけど、現実では単なる騒動を引き起こしただけの暴徒だし、近代社会を築いたと称えられる維新志士も敗北してれば単なるテロリストに過ぎない。実際《スカルマン》が六本木で撃ち殺したあの男は女を食い物にして自分達は贅沢三昧の生活を送っていた屑だったというし、彼に狙われた企業や国も裏で散々汚い事をしてきたハイエナ共ではないか――!

 誰かが「彼は現代に現れた革命家なのである」と語った。革命、なんて世界史の授業でしか聞いた事のない椎子にはいまいち実感しにくかったが、間違いなく自分の灰色だった人生を変えたのはあの紅蓮の爆炎の中心に佇む勇壮な姿だった。

 

 今の椎子の目標は一刻も早くこの閉塞したつまらない町を出て、彼の待つ首都圏へと移る事だった。無論決して楽な支出ではないだろうし、都会に行けばいつかテロに巻き込まれて自分もあの時の警官たちのように死ぬだけだろう。そんな事は分かっているがどうでも良い、彼の手に掛かって死ねるのならそれでも良いとさえ思えた。

 同じように彼に恋情を燃やす女達に対して自分が数少ない優位に立てるポイントは直接その目で彼を捉えているという点だが、事件が拡大化するにあたってその優位性も崩れつつある。多くは望まないがせめてその姿をもう一度見たい、願わくばその仮面の奥、あの髑髏の面が隠す悲しみと傷――椎子はそれを信じていた――に触れ、自分こそが唯一無二の理解者なのだと伝えたかった。

 

 まだ先は長いだろう、でもその日はいつかきっと…!

 

 そう夢想するその瞬間だけ自分は確かに生きてると実感できるのだ。

 

 

 

 




本日はここまで。
世間には色んな人間がいます。事件が起きた時、無関心を決め込むもの、利用するもの、憧れるもの…スカルマンの出現で変わった世界の象徴が彼らです。割と参考にしてる物はありますが、特に特定のモデルはいません。
あ、一応彼らの中には今後も登場して事件に関わる人達もいます。回りくどいですが、今後の展開の布石と受け取って頂けたら幸いです。

感想・評価・改善要望・文句その他諸々いただけたら嬉しいです。ではもう少し気長にお待ちください。


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CHAPTER-0:『REsurgence』‐④

番外編から開けて本編再開。
今回は新たに主要な登場人物が出ます。
但し時系列は再び半年ほど遡ります。


 「手を止めるな、クズ共が!納期に間に合わなくなるだろ!」

 

 現場に吹き渡るのはひたすらに照り付ける陽光であったり、重機の往来によって無意味に舞い上がる土埃だったり、現場監督の時代錯誤な怒声であったりする。いつもの光景であってもげんなりする事には変わりがない。叫ぶのもイラつくのも勝手だが頭ごなしに怒鳴って俺らの集中力を削ぐな、と内心で愚痴りながら、土枝健輔はブロックや土を積載した一輪車を押していく。

 「ムナジマ組」なんて今時ヤの付く人と勘違いされそうな会社名だがその名の通りガテン系というか何というか…「上からの指示には絶対服従」な体育会系の悪しき側面だけを絞り出して濃縮したような社風そのもので、そんな会社の現場において現場監督サマに日雇いの非正規雇用でしかない健輔が文句を言うなど許される筈もなかった。

 それでもこの現場監督と来たら、監督とは名ばっかりでする事と言えば視察に来た重役に媚びへつらうようか意味のない罵詈雑言や根性論を非正規達――現場の大半を占める――に投げかけるばかりで健輔は彼の事を内心で「()()()()()()()」と呼び、心底軽蔑していた。

 

 「昼飯なんぞマトモに食ってる場合だと思うな!この区画は今週中に終わらせるんだよ!」

 

 炎天下の最中なお()()()()()()()の怒声が響く。それで仕事が捗ると思っているのか、実際に現場の空気はかなり悪くなっているのが気付かないのか。苛立ちが募る中、額から大量に流れた汗が目に入るのを感じた健輔は首にかけたタオルで目元を拭う。既に真っ黒になった手拭いで顔を洗っても却って汚れるだけな気もするがそんな事気にしてはいられない。

 

 もう9月だというのに茹だるほど暑い。近年の東京の気温は異常なレベルで上昇しており、健輔達外作業の従事者達にはひたすらにしんどいだけだ。ホワイトな会社なら現場作業員に配慮して作業を軽減するなりするだろうが、労働基準法どころか作業員の人権すら辞書にないムナジマ組には期待しても無駄だ。

 顔が火照る。僅かに息も荒いし、めまいもする。これは少しマズイかもな、と思った直後僅かに体が傾くのを感じた。倒れる――と確信したが、突如横合いからスッと手が差し伸べられ、よろめきかけた健輔の体を受け止めた。同時に

 

 「先輩、大丈夫ですか?」

 

 土埃まみれの現場に似つかわしくない澄んだ声が耳朶を打ち、健輔は危うく飛びそうになっていた意識を取りもどした。ふと右側を見ると同じくムナジマ組の作業服とヘルメットを被り、頭にタオルを巻いた青年の顔が見えた。

 

 この現場で自分を「先輩」と呼ぶのは一人しかいない。土汚れで真っ黒に染まってても分かる端正な顔立ちは山下幹夫のものだ。確かつい1ヵ月前に入ったばかりの新入りで、自分とさして変わらない年、だからと言って殆ど話した事もなく、職場でさりとて目立つタイプでもない。痩躯の割には意外なほどしっかりした力で健輔を支えると体調を確認するように体を叩く。不意に山下は自分の大腿部のポケットから何かを取り出すと、それを健輔に右手に握らせた。手を開くと白い色の飴玉が三つ、掌に収まっていた。

 

 「塩飴です、気休めにはなると思いますよ」

 

 表情一つ変えずに山下は早口にそれだけ告げた。言葉こそそっけないが人を気遣ってくれている事は流石に理解出来た。サンキュと言葉を返そうとした直後、「そこぉッ、ナニやってんだ!」と完全に存在を失念してた現場監督の怒声が飛んできた。つくづくうるせえ野郎だな、と思わず舌打ちしながら健輔は奴の顔も見ずに作業に戻る。

 

 「()()()()()()()が…」

 

 苛立ち紛れにありったけの呪詛を込めてそう呟いた。聞こえたらしい山下が「ハートマン軍曹?」と言いながら監督のを方に目を向けるのが見えた。手押し車を動かしながらアイツに妨害されたせいもあるが、礼も言わずに立ち去るとは随分感じ悪い態度になっちまったかも知れないなと思う。仕方なかったとは言え、こんな所にずっといたら心まで薄汚れていくのではないか…?暗澹とした想いを抱えながら、せめての意味も込めて先程貰った塩飴を頬張る。染み出した水分と塩気がスポンジのようにしみ込んで、乾いた口腔を潤していくのを感じたら不思議と苛立ちが引いていったようだった。

 

 

 

 結局その後、30分ほど水分補給の時間を取ってから、午後の作業が始まった――因みにハートマン軍曹は冷房の効いた正社員用の現場事務所で遅めの昼食を取っている。本来なら朝8時から始まる作業を30分も前倒しで始めた癖に休みまで返上させて働けとは…!明らかに現場の士気は下がってるし、憤懣だって溜まっている気がする。あの監督はそれにすら気付かないのか、それとも反抗するような馘を斬れば良いと思っているのか…恐らくは後者だ。

 健輔達が従事しているのは公園の再開発事業だ。公園と言っても広大な森林を有し、野球場とかもあった立派な公園だったようだ。もともと3年くらい前からこの公園の南面の森を伐採し、より立派な公園に改修する計画が出たらしい。防火林の役目もあった木々を伐採する事には地元から反対の声が上がり、最終的には地域住民の9割から反対の意見が寄せられたらしいのだが、どういう訳か工事は強行された。

 何故そうまでして公園の改修を進めたのかと言うと、どうやら2年後に控えた世界的なイベントに便乗してスポーツ意欲の増進のため、という名目――要は今は「その名」を出せばなんでも金と事業を動かせるから――らしい。計画ではそのイベントに集まる人のための練習場やキャンプ場も兼ねるらしい。

 反対運動を取り仕切る住民達は「たかだか数週間の祭りのために市民の憩いの場を潰す気か!」と叫んでいたが、健輔にとって社会とは、大人とはそういう理不尽なものだった。この公園がどうなろうが別に地元民でも何でもない自分には関係ないし、もっと言うなら例のお祭りだって開催されようがされまいがどうでも良いのだ。その日を暮らしていけるだけの金が最終的に手元に残りさえすれば良い。

 

 ところが流れが変わったのは1ヵ月前の事だった。基本的に住宅地のど真ん中にあるこの現場は夜間と土日祝日は休みなのだが、殆ど人のいない夜間の作業現場に突如打ち上げ花火が咲くように――健輔達は公園近くに作られた作業員宿舎の中でそれを見ていた――()()()()()()()()()()()()が浮かび上がったのだ。この半年でそれが意味する事を嫌と言うほど知っているのは地域住民も健輔達作業員も同じだった。

 直後改修の対象となっている公園の四方を囲むようにある5つの公園から一斉に轟音と共に火の手が上がった。後で知った事だが爆弾は焼夷弾と言う炎を起こす事に特化した爆弾だったようで、いずれも住宅地付近にあった事もあって迫りくる火の手に町はパニックに陥った。最終的に東京中の消防隊員達の尽力のおかげで火は消し止められたが、いくつかの住宅に延焼した他、公園内の多数の木々が焼け落ちた。

 

 明らかに《スカルマン》の犯行だった。アイツは事件を起こす前か後に警告か犯行のサインであるかのようにホログラフィによるドクロを出していくのだ。

 

 警察が作業現場に立ち入り、調べてみるとにちょうど陸上トラックを作ってる辺りにホログラム投影装置が埋まっているのが発見できたという。おまけに故意なのか装置の故障なのか爆発しなかった多数の小型爆弾も一緒に、というオマケ付きでだ。

 当然現場作業は一時中断する事となった。上やお役人としては一刻も早く再開したっかたのだろうが、当然地域住民がそれを許す筈もなかった。曰くこの工事は国や区が自分たちの都合で勝手に始めた事である、つまり初めから工事をしていなければスカルマンに狙われる事もなかった筈だ、と。勿論この住民の意見が全て通った訳ではないが、最終的には中止を求める意見に対して、周囲にまだ不発弾等がないか徹底的に捜索し、安全が確保されるまでは工事を中断する事、警備を強化する事を条件にして――それにしたってそう言う口約束をして取り繕った感があるが――ようやく改修工事は再開された。

 

 結果ただでさえ遅れ気味だった工程のしわ寄せやら警備で無駄に掛かる費用やらへの八つ当たりで親会社は更なる無茶苦茶を現場に強いてきた。人手は断固として増やさないが工期はより短く、人件費はより少なく、と言った具合で最近では昼飯の時間すら碌に取らせようとしない。高校生の時だったらここが平成の日本と言う国なのだとは思わなかっただろう、世の中の事なんて何にも知らなかったが、思えばあの頃が一番楽しかった…再び暑さでどうにかなってしまいそうな頭が――飴はとっくに切らした――ついさほど遠くない昔に意識が持っていかれそうになる。

 

 全く世の中はクソだ、と健輔は思う。

 

 《スカルマン》も地域住民の苦情も二年後のイベントも全てどうでも良い、いっその事まとめてどうにかなってしまえ、と頭の中でブツブツ呟いていた所で唐突に「おい、ゲンさんッ!」と叫び声が聞こえ、急に現実に引き戻された。

 

 見ると100mほど離れた場所で一人の人夫が倒れ、周りに他の作業員達も集まっているのが見えた。倒れた男をちょうど抱えるように様子を見ているのは…山下のようだ。

 どうやら大事らしいと判断した健輔も流石に手を止めて人だかりに走って行った。輪に近寄るとやはり山下が倒れた人夫――確かゲンさんと呼ばれてる50歳くらいの男だ――を抱えてしきりに呼びかけをしていた。周囲の男たちは「何があった?」「ゲンさん、大丈夫か?」とかおずおず声を掛けながらもその様子を遠巻きに眺めてるだけだ。

 

 「源田さん聞こえますか?俺の声、聞こえてますか?」

 

 しきりにゲンさんの体を揺すったり、額に掌を当てたり、二本の指を目の前で動かしたりしていた。ゲンさんはそれに対して僅かに反応を示すも、答えたり動いたりするのも億劫そうだ。山下はまた塩飴を取り出してゲンさんの口に含ませたが殆ど口も動かせないらしい。これでは却って喉に詰まらせるだけだと判断したのか、山下は飴を口から抜き、周りを見渡した。ふと健輔と目が合う。恐々と見守るばかりで近づけもしない健輔に山下は躊躇いなく叫んだ。

 

 「先輩、恐らく熱中症です。至急何か水分を取ってきて下さい、監督に――」

 

 「誰が手を止めて良いと言ったぁッ!さっさと持ち場に戻れクズ共!」

 

 山下が皆まで言い終わる前につんざくような怒声が響き渡り、健輔は思わず身を硬くした。声のした方向を見ると案の定肩を怒らせた()()()()()()()こと現場監督が大股で近づいてくる。監督は倒れているゲンさんとそれを支える山下を道端に転がる汚物でも見るように一瞥すると、不意に健輔の方を向き直った。

 状況の説明をしろ、という事だろうかと思ったが口を開くより先に頬に突如衝撃が走った。視界がグラリと歪んだのを知覚した時には健輔の体は硬い土の上に投げ出されていた。頬が熱い、脳がグラグラと揺れる。思わず溢れた涙で滲んだ視界の先には現場監督が仁王立ちになってこちらを見下ろしていた。殴られた、と自覚した矢先に再びハートマン軍曹は周囲の男達を散らすように怒鳴り声を上げた。

 

 「工期も切羽詰まってるってのに休憩とは良い御身分だなぁ?テメエらにいくら無駄な金と時間使ってると思ってるんだ、さっさと仕事しやがれ!」

 

 一思いに怒鳴り散らした原版監督は犬を追い払うように手を振りながら人夫達を掻き分け、ゲンさんと山下に近づいていく。恐らくゲンさんを無理矢理立たせて仕事に向かわせる気だろう。逆らえば馘だと脅しながら。どこまでそんな権限があるのか不明だが、少なくとも行き場のない日雇い達には死刑宣告に等しい。特にゲンさんのような年寄りには。

 あまりの理不尽に言い返したかったが、暴力に晒された体は自分のモノではないようにいう事を聞かない。やっぱり俺はずっとこうなのか…と最早常態化した諦めの境地が広がっていき、気力の萎えるまま健輔は俯いた。チクショウ、結局自分の人生なんてこんなモンだ、殴られて謝って結局こうして地を舐めてるだけ。それがこのまま一生…!

 

 「お言葉ですけど」

 

 太陽光で乾ききった現場に凛とした声が響いた。顔を上げると依然ゲンさんを抱えたままの山下がまっすぐに監督に向き合っているのが見えた。その目は些かも怯んでいない、()()()()()()()が彼を見下ろす形をとってはいるが、その姿は正しく目の前の理不尽の塊に対峙していた。

 

 「これは熱中症です、既にⅡ度に達してますが、まだ意識はあります。すぐに涼しい場所に移動させて水分を取れば――」

 

 「屁理屈を言うな屁理屈を!何が熱中症だ、根性が足らねえからこんな事になるんださっさと立ちやがれ!」

 

 またも言い切る前に怒鳴り声がその先を掻き消す。最早会話そのものを拒否している。しかし山下も怯まなかった。ゲンさんを一度そっと横たえるとスッと立ち上がり、()()()()()()()に一歩近づく。こうして並ぶと山下の方が身長が高いと気付く。流石にそれを意識したのか()()()()()()()に僅かな怯みが生まれるのが見えた。

 

 「熱中症を甘く見てはダメです、このまま悪化すれば命の危険だってあります。監督だってそれは本意ではない筈でしょう?」

 

 感情的ではない、あくまで冷静に理性に訴え掛ける言葉だと分かった。「それは…」と現場監督は明らかに言葉に詰まり、気圧されている。だがそれも数刻の間、怒鳴っても無駄だと察したのか、本能的に目の前の青年に惧れを抱いている事を見透かされたくないのか、監督は「五月蠅い!」と叫んで、眼前の山下の体を突き飛ばす。山下は後ろによろけ、尻餅をついた。

 山下の目線や頭の位置が下になった事で再び優位を確信したのかすかさず怒声を上げようとしたハートマン軍曹だったが、それ以上彼の言葉が発せられる事はなかった。地面に座り込んでいる山下は決して怯んでなどいなかった。それどころか口元に笑みすら浮かんでいる。

 

 「な、何が可笑しい?そ、そんな奴どうなった所で変わりはいくらでも――」

 

 「そうですか、分かりました。なら事は急を要するので救急に通報させて頂きます。恐らく労働基準監督署の方にも話が行くと思いますのでその時はよろしくお願いします。」

 

 「な…なに?」

 

 今度は山下が()()の言葉を遮る番だった。彼はゲンさんを抱えて立ち上がると懐から携帯電話――旧式のガラケーだ――を取り出すと、ボタンを押し始める。

 

 「待て待て、一体どこに掛けるつもりだ?」

 

 明らかに狼狽しだしたハートマン軍曹に肩を掴まれながらも彼は平然と「市民の義務を果たすだけです」とにべもない。その態度に再び怒りを刺激されたのか監督は「調子に乗るなよ!」と叫び、山下の胸倉を掴んだ。

 

 「救急車でも何でも呼べるもんなら呼んでみろ!どうせそいつは治療費なんて払う金もないし、会社は労災なんて絶対認めんぞ!」

 

 「だから労基に連絡すると言ってるんです、たぶんその方が早い」 

 

 今度こそ現場監督は絶句した。威圧と暴力だけで現場を支配してきた男にはここまで整然と言い返された経験などないのだろう。二の句も告げずに御池の鯉よろしく口をパクパクさせている監督に耳打ちするように山下が囁いた。

 

 「分かりました。通報はしない代わりにゲンさんが休みを取るのを承諾して下さい、それと…30分に1回シフトくらいの割合で誰かがついててあげた方が良いですね?」

 

 まるでこちらが「妥協()()()()()」ような形を取る事で最初に提示した話を飲ませる手だ。「貴様…交渉出来る立場だと思って…」等と毒づいていた監督もやがて労基に話が伝わる面倒さと自分の安いプライド、どちらを天秤に掛けるかぐらいの判断力はあったらしい。山下の方を見もせずに「分かった…」と歯噛みするように呟くのに10秒も掛からなかった。

 

 「お心遣い感謝します」

 

 その言葉に満足した山下は華麗にヘルメットまで取ってお辞儀した。健輔に染み付いた卑屈な姿勢ではない、掴むものを勝ち取った勝利のお辞儀だと思った。それを見たハートマン軍曹は何も言えずにただ背を丸くしながらせめて「勝手にしろ」と捨て台詞を吐いて去って行ったのだった。

 数分前には予想もしなかった出来事に完全にポカンとしている健輔だったが、山下に「先輩」と声を掛けられて正体を取り戻す。

 

 「ゲンさんを運ぶの手伝って下さい、出来れば事務所に運んだ方が良い、ホントは一刻を争うんです」

 

 その声色は勝利を誇っている風では全然なく、むしろ下らないやり取りに時間を使ってしまった事を後悔している風だった。なんとかゲンさんを事務所に連れていき、服を脱がした上で備え付けてあったタオル等で体を冷やしているうちに幸いにもゲンさんも次第に自分で水分を摂取したり出来るようになっていった。「お前さんは命の恩人じゃなぁ」と笑うゲンさんに山下は澄ました顔で

 

 「それだけ言えればもう大丈夫ですね」

 

 と微妙にそっけない態度で仕事に戻っていった。彼にゲンさんの面倒を頼まれた健輔は自分も打たれた頬を冷やしながら、ふとアイツは何でこんな所にいるんだろうと思った。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 「いやぁ、それにしてもケッサクだったなぁ、あのタコ監督のあの顔!」

 「俺らも次からやるべ、文句があるなら労基に駆け込むぞ、ってさ」

 「やめとけヌケサク、お前じゃ迫力がねえ。『だから何だ!』で凄まれておしめぇさ」

 「全くだ、山下くんだから出来たことさ、若ぇのにてェしたモンだよありゃあ」

 

 いかにも安さと酔っぱらい達にとって居心地の良さがウリと言った風情の大衆酒場内は見知った人夫達の他にも仕事帰りと思わしきサラリーマンや地元の商工会と思しき男達の声でも賑わっていた。一番奥の上がり席を占拠しているのは健輔も含め6名の仕事仲間達、上座に座っている、正しくは座らされている山下を囲むように周囲の男達がめいめい勝手に騒いでいる。目立つ席で何処となく戸惑っている風の山下に「なんか悪いな」と目線を送りながら、ビールを舐める。そう言えばこうして酒を出す店に入るのも久し振りだな、と思った。基本金に余裕のない身としては滅多に外呑みはしない。せいぜい山下を除くここの5人の部屋で飲むだけだ。

 

 今日、外に繰り出して飲んでるのはその「滅多」があったからだ。山下に屁理屈を悉く言い返され、顔面蒼白になっていた()()()()()()()現場監督の醜態が可笑しくて溜まらなく、それを肴に一敗やりたかったらしい。元々は仕事終わりに山下に駆け寄り、しきりにお礼を言っていたゲンさんの姿を目ざとく見かけた男達が「俺らからも礼だ」と言って、皆で繰り出したのが始まりだ。他人を口実に呑めればなんでも良いと言ってしまえばそれまでだが、切り詰めた生活の男達が珍しく山下には奢ると言ってきたのだから、よほど今日の事が痛快だったのだろう。まあまだ給料日前なので、「泡の出る飲み物」オンリーのコースだが。

 

 「それにしてもお前さん、ケータイ持ってたんじゃな。ここじゃあ珍しい…」

 

 ふとゲンさんが山下に向かってそんな事を尋ねていた。確かにこういう飯場では余計な金がないと言って持っているのはそこまで多くはない筈だ。かく言う健輔も持ってない、と言うより捨てたのだ。電話代が勿体ない事もあるが、何より持ってるとなんとなく過去に執着してしまいそうで嫌だったというのがある。

 

 「ああ、コレですか?」

 

 山下が懐から先程見た古い型の携帯を取り出す。見せるように皆の前で開いてみせたが、画面は暗いまま、何も変化がない。

 

 「コレ、実は使えないんです。なのであの時のはハッタリです」

 

 無表情に山下が種明かししたのに一拍置いて座の男達が大爆笑した。「意外と策士だねぇ」とか笑いながらさも愉快そうに酒を煽る。つまりあの()()()()()()()が見事に引っかかった事が判明したのでそれが面白くてたまらない、と言った感じだ。盛り上がった男達は山下に酒を勧めるが、本人はやんわりと断って、あまり減ってないビールをチビチビ吞んでいる。あまり強くないらしい。

 

 「あんましつこく勧めるな、今そう言うのは…何だっけか…アルハラとかになるんだぞ」

 

 「この職場でそんなの関係あるかい…まあ、ほだならケンボーが吞め」

 

 ケンボー、というあだ名に話が自分に振られたのが分かった。こういう時最年少の健輔はやたらと「若いんだから」という名目で他人の酒の後始末を任される事が多い。「それもアルハラっすよ」とか突っ込み返しながら、お相伴には預かる事にした。幸いにしてアルコールには強い方だったし、こうして皆で飲むのがなにより好きだったのがある。例え今だけの関係なのだとしても、例え世の中はクソだと思ってもこの瞬間だけは心から楽しいと思えるのだ。それは高校の時にひたすら当時の仲間たちとバカをやりまくった時の高揚感に似てる…。

 

 

 

 健輔は台東区の日本堤に生まれた。所謂山谷の一角、古くから安宿や簡易宿泊所が並び、そこを拠点に生活する今の健輔みたいな日雇いの労働者達が暮らす町。物心ついた時から父親は既になく、水商売の母と二人暮らしという生活だった。決して楽とは言えない生活の中で時には露骨に生まれを見下してくるような奴らもいたが、もともと体力には自信があった事もあって嗤う奴は真っ向から叩き潰してやった。母は夜には殆ど家を空けている事は多くそれは寂しくもあったけど、それでも学校で遠足があればちゃんと弁当を用意してくれて、仕事が休みの日には自転車で浅草寺に連れていってくれた。母が死に物狂いで自分を育ててくれている事は分かってたから不満はなかった。だから俺ももっと強くなって母さんを守るんだ、幼い頃の健輔はそう思った。

 

 風向きが変わったのは中学生に上がってからの頃だ。母の帰りが妙に遅くなったりと微かにその兆候はあったが、ある日見知らぬ男が母と一緒に家に上がり込んで――「新しいお父さんよ」母は男をそう紹介した――再婚する事とその男が養父になる事を聞かされた。

 

 それ自体は別に良い。狭いアパートも饐えた空気の漂う地元も引き払って引き払って隅田川を跨いだ新しい住居に越した事も別に構わない。ただこの養父はとにかく健輔とは合わなかった。養父は、事実だから否定しようがないが、健輔を育ちが悪いと決めつけ、徹底的に健輔を真人間に「更生」しようとした。

 地元の友達と会ったり、連絡をしようとするのを禁じ、新しく入った中学校でも友人作りに干渉した。曰く「あんな奴らと付き合うな」と。養父は本当は私立の学校に通わせたかったらしいが、中学からでは間に合わないと断念したらしい。その分高校からなら編入出来ると信じ、テレビも漫画も禁じた上で勉強に専念させられた。多感な時期故当然不満もあったが、もし養父に嫌われたら母に迷惑を掛ける事になると思うと反抗する気にはなれなかった。母も「お義父さんはあなたのために言ってるのよ」と支えてくれた――少なくともその頃はそう思っていた。

 

 そんな緊張感しかないような生活が破綻したのは、中学の終わり、私立高校の受験に失敗した事だ。地元の公立高校には何とか受かったが、養父にはそれが酷く不満であったらしい。養父は健輔をいつものように「育ちの悪い野良犬」と詰った挙句、母に「お前の育て方が悪かったからだ」と罵り、頬を打った。

 その光景を見た途端に張りつめていた糸が切れ、気付くと健輔は養父に掴みかかっていた。キッチリしたワイシャツの襟元を掴み上げ、躊躇なく鼻面に拳を叩き込もうとした刹那、「やめなさい!」と金切り声が聞こえてきた。見ると母がまるで異常なモノでも見るような目で健輔を睨みつけていたのだった。母も一緒になって「どうしてお義父さんの期待に応えられないのこの恩知らず!?」とヒステリックに叫ぶのを聞いた時に健輔の中で何かの糸が切れた。

 

 結局母は自分よりもこの男を選んだだけだ、地元の友達から引き離され、新しい友達すら作れず孤独を感じていた時もしたくもない辛い受験に耐えていた時も養父に罵られた時も決して庇ってなどくれず、「あなたのためを思って」と言って、この自分を躾の必要な犬としか見ない男を優先したのだ。俺はずっと母さんを守るって思ってたのに、この女は自分を人身御供にして己の幸せを掴んだだけだったんだ…!

 

 そう悟った瞬間全てがどうでも良くなった。養父の言いつけを守る事も母を庇うことも何もかもが。その結果だろう、高校に入って健輔は覿面に荒れた。とにかく養父なら絶対に関わるな、と言いそうな奴らと積極的に付き合い、彼らのノリに従って酒も煙草も覚えた。自然にグループのようなモノが出来上がり、その中で健輔は生来の喧嘩っぱやさもあって、絡んでくる奴らを積極的に殴りにも行った。家にはたまに帰る程度で友達の家に泊まるなどして寄り付かないようにし、夜はバイクを持ってる友人の後ろに乗せて貰い、夜の街を爆走する快感を味わった。世間一般に言うなら不良だったのだろう、但し誓って言うが恐喝とかは一切していない。自分達よりガラの悪いグループに出会う中で自然に出来た暗黙のルールみたいなものだった。

 グループの中には健輔と同じように親との折り合いが悪かったりと似たような境遇の者が多かったようでそうした縁から自然と繋がっていったからだろうか、結束は固かった。女子も数名いたし、そんな中で初めてガールフレンドも出来た。世間様からすれば風紀を逸脱した鼻つまみ者の集まりと謗られても無理はないし、たまに顔を合わせた養父や母からも「あんな落ちこぼれとつるむのはやめろ」と何度も釘を刺された。それでも当時の健輔にとってはそこが唯一の居場所であったのだ。

 

 そんな生活が破綻したのは17歳の頃、ギリギリで進級し高3になった春であった。グループの女子の一人が下校中に拉致される事件が起きた。健輔達は心当たりを含め、徹底的に探したがその日のうちには見つからず、二日後荒川の河川敷に打ち捨てられていたのが発見された。女子は酷い暴行を受けていて、一命こそ取り留めたが決して消えない傷を体中に刻まれ、左足に障害が残るだろうと診断された。警察はまず真っ先に自分達を疑うだけ疑って、終ぞ犯人の事は教えてくれなかったが、その後自分達で調べた結果、他の地区を根城にしている暴走族…それどころか半グレの集団だったと判明した。こちらよりも遥かに規模も大きく、場合によってはヤクの販売なんかもやるかなり危ない集団だったが仲間を傷つけられ、気が立っていた健輔は一も二もなく、そいつらに喧嘩を売りに行こうと皆に発破を掛けた。そして結局健輔の音頭に乗る形でそいつらが経営しているというクラブに殴り込みを掛けたのだ。

 

 結論から言うと健輔達は徹底的に負けた。向こうは20人以上の頭数がいたのに対して、こっちは女子を除いてたったの8人、「気力なら勝ってる」なんて精神論が通用する相手ではなく、殺されずに済んだのは単に危険を察知した女子が馴染の生活安全課の刑事に掛け合って警察を呼んでくれたからに過ぎない。

 全員それなりに大怪我を負ったが、中でも健輔は左腕と肋骨を折り、しかも折れた骨が肺を傷つけるという重症だった。半年以上の入院を余儀なくされ、漸く退院した時には養父から今度こそ三行半を突き付けられた。曰く「もうお前に金は出さん、もともと縁も所縁もない人間なのだからこれからは勝手に生きろ」と。母はそんな養父の後ろで怯えるように顔を背け、血を分けた息子の顔を見ようともしなかった。

 

 こっちの台詞だと吐き捨てて家を飛び出したが、さりとて行く所がある訳ではない。仲間の所に行かなかったのは自分が喧嘩をしに行こうと言わなければこんな事にはならなかったのではないか、という罪悪感があったのと地元にいるとあの半グレ達が自分を見張っている気がして気が休まらなかったからだ。ハッキリ言うと健輔は恐怖によって心も折られたのだ。

 更に高校を半ば中退するように飛び出し、学も資格も碌にない若造に仕事のアテなどなかった。あるのは多少腕っぷしの覚えくらいだったが、何かなる訳ではない、漫画ならボクシングジムの会長とかに拾われて、なんて事にもなったろうがそんな都合の良い話などある筈がなく、現実にはせいぜい暴力団の使い走りにでもなるしか道はないのだろう。でもそれだけは死んでも御免だ、暴力はもうウンザリだったのだ。

 

 散々迷った末に養父から貰った手切れ代わりの僅かな金を持って大阪に向かった。なんで大阪かと言うと単に東京から離れたかったのと商売の街なら何か仕事があるかも知れないという何の根拠もない期待に縋っての事だった。

 まず大阪の萩之茶屋周辺を拠点にしてそこで1年暮らした。そこからは全国津々浦々から流れてくる人の話を頼りに、日本中を回って日雇い労働に従事した。そんな生活を続ける事そろそろ5年になるだろうか…。今はこうして東京に帰ってきて、でも結局自分の立場は何も変わっていない。自分の心は結局あの日本堤のアパートとその周囲から一歩も離れていないのかも知れない――

 

 「おい、どうしたケンボー?もう飲みすぎたか?」

 

 突然肩を揺すられ、健輔はハッと我に返る。目の前にゲンさんの赤ら顔が心配するような、不思議なモノでも見るような目つきで顔を覗き込んでいた。どうやらだいぶ干渉に浸って普段なるべく思い出さないようにしている昔の事を思い出していたらしい。

 

 「す…すみません、なんか感傷に浸ってて…」

 

 「なぁに詩人みたいな事言ってんだ、明日も仕事だろうが、お前まで倒れたら叶わんわ」

 

 ゲンさんはそう言って健輔の肩を叩くとガハハと笑った。それから暫くして飲み会はお開きとなった。

 

 

 

 飯場の部屋と言うのは酷く粗末なものだ。

 プレハブの小屋は狭いし夏は暑く、冬は寒いという有様で当然風呂やトイレなんてものは備え付けられていない、全部外だ。まあそれでも外のホテルなんかに泊まるより格段に安いので別に構わないのだが。俺は根無し草だ、草は寝床に快適さなんて求めない。因みに風呂は歩いて15分掛かる銭湯に行くかこれまた粗末な構造の共同風呂に行くかのどっちかだ。

 

 共同トイレで用を足した健輔は部屋に引き返そうとした所でふと母は、そしてかつての仲間達は今どうしているのだろうと思った。

 当時は母の裏切りは許せなかったが今思うと極貧の生活を経験したからこそもうあの頃には戻りたくないと思えたのだろうと今なら考えられる。自分が学のない人間だからこそ水商売しかする事がなく、だから息子にはその轍を踏んで欲しくはない、という想いが厳格な養父と共に暮らすうちにこの生活を失いたくない、という想いに変わって行ってしまったのかも知れない。

 そう思うなら何故もっと孝行してやれる道を選べなかったのだろう…結局は養父の言った事が正しかったのではないか…?今の自分の状況を鑑みるとどうしてもそういう思いが頭をもたげてくる。

 

 でも…それでも高校時代に仲間たちと出会えたことは無駄ではなかったと思いたい。結果として自分は日本中でいつも土を弄る生活を送る事にはなったが、皆と出会えてなければもっと荒れた生活を送るか、養父のような他人を野良犬と見下す酷くつまらない大人になっていたかも知れない。

 この場所からなら生まれた町まで1時間足らずで行ける筈だが、でもやっぱり行く気にはならなかった。確かめるのが怖いというのが一番の理由だろう。会いに行くのも勿論なんだか今何をしているのか、その程度の事さえ怖がって考えられない自分がいる事に気付いた。

 

 つまらない感傷はよそう、明日も働くんだし…と頭を振って健輔は部屋に戻る道を引き返したが、突然建物の陰から出てきた人影とぶつかりそうになり、慌てて後ずさるはめになった。驚いたのは向こうも同様らしい、こちらの姿を見咎めた山下は最初こそ僅かに目を見張っていたがすぐにいつもの無表情に戻るとペコリと頭を下げて健輔の脇をすり抜けていった。

 

 山下がこの飯場に来たのは確か1ヵ月ほど前、ちょうど《スカルマン》の一件で中断されていた工事が再開された辺りだった。人出をケチっていた親会社も《スカルマン》のせいで他所の現場に逃げていった奴らの分の補填くらいは考えたらしい。新たに現場入りした数名の中に山下もいた。

 入ってすぐに周囲からはとにかく変な奴――呑みに付き合ったりもしないし、一人でいる事を好み、おまけに休日は何処かに姿を消すなどと言う噂も流れていたので、そう言われていた。実際彼は決して背が低い訳ではないがさほどガッチリした体型でもなく、進んでこんな肉体労働に従事したがるタイプにも見えなかった。でもこうして呑みに行ってみると感情こそ読みづらいがさほど異質な奴と言う気もしなかった。昼間によぎった、こいつは何者なんだろうという疑問が急に顔を出してくるのを感じ、健輔は気付いたら「山下」とその背中に声を掛けていた。

 

 山下は何も言わずに振り返った。声にこそ出さないがその瞳で「なんか用ですか?」と冷静に訴えかけているのを感じた健輔はしまった、と己の迂闊さを恥じた。ここではどうあれ過去を詮索する事はNGなのだ。なんとか咄嗟に取り繕おうとあれこれ考えを巡らせた結果、

 

 「昼間の件、どうもありがとうな。お陰で皆助かった」

 

 とそれだけ告げた。それを聞いた山下も一瞬何処か納得したような表情を浮かべると「別に。当然の事ですから」と素っ気なく答えると踵を返して共同トイレの方に歩いて行った。アイツが何者かなんて気にする必要はない、と健輔は改めて思う。どうあれここで働く以上はアイツは俺達の仲間だ、と今度こそ部屋に戻ろうとした所で「土枝ァッ!」という怒声が背中に突き刺さった。

 

 思わず振り返ると顔を真っ赤にした()()()()()()()現場監督がこちらに歩み寄ってくるのが見えた。なんでここにいるんだ、とかとっくに帰ってる時間だろとか思う間もなく、突然()()()()()()()は健輔の胸倉を掴み上げ、コンテナの外壁に叩きつけた。

 

 「今日はよくも調子に乗ってくれたなぁ、てめえら人夫如きが俺に逆らいやがって…」

 

 背中の痛みに思わず顔を顰めた。顔に吹きかかる息が酷く酒臭い、どうやら現場事務所で残務を引き受ける事になり、家にも帰れず酒を煽っていたという所らしい。この荒れ方だとかなり上の方から叱責されたのかも知れない。それで俺達に八つ当たりってトコか…、相変わらず小さい男だ――次の瞬間今度は後頭部ごとコンテナに叩きつけられ、先程よりも遥かに強い痛みに思わず声が呻き声が漏れた。

 

 「なんだその目は?俺の事を見下してんのか、この()()()が!」

 

 野良犬、その言葉に健輔は怒りや反抗心といった強い感情が急速に萎えていき、体が芯から冷えていく感覚を味わった。その言葉は養父が自分を罵る時に好んで使った言葉だ。その一言に健輔は14歳の自分に――養父に詰られながら何も言い返せず、機械のようにごめんなさいと繰り返すだけの子どもに戻っていくような感じさえした。

 頭がガクガクと揺さぶられ、後頭部に硬い感触がする。だがもう痛みは感じなかった。意識は体から切り離され、手足は立っているのが不思議なくらい弛緩していく。顔に酒と臭腺とヤニが混じった吐息が降りかかる。

 

 「いいか、犬は犬らしく俺の言うことを聞いてりゃいいんだ、俺とお前じゃ立場ってモンが違うんだよ、ニンゲン様の真似をするなお前ら役立たずの野良犬は――」

 

 「黙れよ」

 

 刹那低い声がそれ以上の()()()()()()()の声を遮った。気付くと()()の背後から伸びてきた手が彼の襟首を掴み、そのままの勢いで振り回して後方に投げ飛ばすのが見えた。顔を上げるとさっきまで()()の立っていた所に山下が立っているのが見えた。

 投げ飛ばされた現場監督は最初こそ「誰だ俺を誰だと思って…」と威勢よく喚いていたが、顔を上げ山下の姿を目に捉えると途端に顔面を蒼白にして、立ち上がりもせず尻をついたまま後ずさり始めた。背を向けている山下の顔は見えない、しかしその姿はいつも何処か冷静で周りから一歩引いているような態度の山下とは違って見えた。一体()()()()()()()には山下の表情がどんな風に見えているのだろう…

 もともと拮抗していた訳でもない睨み合いはあっさり終わった。奇妙な悲鳴を上げながら()()()()()()()は四つん這いになりながら一刻も早く山下から離れるように逃げていった。そっちの方がよっぽど犬みたいなだな…と健輔はぼんやり思った。

 

 「大丈夫ですか先輩?」

 

 現場監督が去って行くのを見届けてから、山下がゆっくりと健輔に寄ってきて声を掛ける。その声はまごう事なきいつもの山下幹夫のものだった。健輔は恥ずかしいやら情けないやらで答えらえないでいると山下の方から健輔を肩で支えて立ち上がらせた。今日はコイツに世話になりっぱなしだなと頭の片隅でふと考え、健輔はやっとの思いで

 

 「悪いな…今日はお前に助けられてばっかりだ」

 

 と絞り出した。

 

 「余計な事は言わないで下さい。とにかく戻りましょう。明日も仕事ですし…」

 

 山下の声はあくまで冷静で、でもひどく優しい声だと感じた。さっきのアイツの背中からはいつものコイツとは違った感覚――近いものなら殺気のような――がしたように見えたがたぶん気のせいだろう。恐らく自分も()()()()()()()も呑みすぎでおかしな気配を感じただけなのだろう…。

 そう言えば()()()()()()()と言えば…

 

 「明日からあのハートマン野郎、どうなるのかな?変に目付けられなきゃ良いけど…」

 

 「たぶん大丈夫でしょう、もともとそんな度胸のある奴じゃない、黙って仕事してれば何か言える奴じゃないですよ」

 

 仕事中に余計にいびられるのではないかと心配する健輔とは逆に山下はあくまで冷静だ。やっぱコイツはタダモノじゃねえなと思い、何故か微妙に可笑しさがこみあげてくるような気がし、コイツの正体を詮索する気などさらさら失せていくのを感じた。

 

 「あ、そう言えば…」

 

 唐突に足を止め、山下が健輔の方を見る。珍しく口元に笑みが浮かんでいる。

 

 「そのハートマン軍曹ってのはやめた方が良いですよ、迫力も威厳もサッパリでロナルド・リー・アーメイに失礼だ」

 

 その言葉に健輔は今度こそ大爆笑した。

 

 




…またしても1万字越え…長いあまりにも長い…

亀更新な上にこんな仮面ライダー要素のカケラもない話書いて俺は一体ナニやってんだ!と思う事多々。でもここ書かないと話にならないので書かざるを得ない訳ですよ…
ファンタジーと現代ものは書かなきゃいけない事が多すぎると言うのが持論(&言い訳)

今回登場した二人の男は今後も主要な登場人物として出てきます。是非今後の動向にご注目下さい。

感想・評価・アドバイス・文句その他諸々いただけますと励みになります。

では次回まで気長にお持ちください。


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CHAPTER-0:『REsurgence』‐⑤

 「復讐、ねぇ…そりゃあまた随分壮大なんだか矮小なんだか分からん話だな」

 

 世間的には分煙が進んで久しいと言うのに何故この社長室はいつまで経ってもこうケムいままなんだろうと編集長兼社長の不機嫌そうな声を聞きながら哲也はそんなどうでも良い事を思った。眼前で編集長が臭いの根源である吸い殻の山からかなり小さくなったクズ煙草を取り出してはキセルになんとか付けようと悪戦苦闘してる様を「煙草をチビチビ吸うのはよしなさいよケチめ」とでも言いたげな冷めた顔を向けている一之瀬真琴(いちのせまこと)と共に眺めながら、果たして立木から貰って来たこの話に彼は興味を示すのだろうか、それが気がかりだった。

 

 陣内実篤(じんのうちさねあつ)、とかいう胡散臭い事この上ない名前が本名なのかは知らない、というか十中八九偽名だろうと内心哲也は思っているが、とにかくこの頑固でケチでいつも機嫌が悪い上司のGOサインが出ない事には記事を書くことも取材に行くこともままならないのが見習いの立場の辛い所だ。

 

 「つまり動機は個人的な怨恨って事?だとしたら誰に対する復讐なの?」

 

 「おやっさ…じゃなくて立木刑事曰く『奴の標的は国・政府そのものじゃない、その背後にいる』と言ってました。『一連の犯行は目的というより手段に過ぎない』とも…。つまり何か政治的な主張を通すためじゃなくて、単なるパフォーマンスって事なんじゃないでしょうか?」

 

 「そんな…!大勢の命を奪っておいてそんなのある?」

 

 隣で真琴が最もな疑問を投げかける。

 哲也より2つ年上の26歳、社内においてはまだ若手かつ女性ながら記者としては信頼は取材対象者からも記事を書く編集長からも篤い。元々哲也含めて社員が7人と少ないレイニー・ジャーナル社においては貴重な戦力と見られている。そんな聡明な彼女にとっても、いやだからこそ信じられない思いなのだろう。実際哲也自身どこまで立木の見立てを信じて良いのか、また疑って良いのか分からない。

 

 元々レイニー・ジャーナルは「大手メディアにはないフットワークの軽い取材」をモットーに読者から寄せられた情報なども無下にせずに取材し、自前のモバイル誌かポッドキャストで配信するというやり方だからプレゼン次第では決して一蹴はされない筈。でも如何せんあからさまに嘘くさい情報や真偽のハッキリしない話は取り合わないから結局五分五分だ。

 

 「いや確かに…言い分としては分からなくもないか…」

 

 哲也が言い淀んでいると漸くキセルに煙草を付けられたらしい陣内が不意に口を開いた。あれ、意外と感触良いのか?元々彼と立木はどういう関係なのかは詳しく知らないが、それなりに親しい関係にあるらしく、彼の意見はなかなか無下にはしない傾向にある。

 まあそうでなくともこの男、モバイルニュースの配信会社を手掛けるだけあって意外と確かな見識がある――と思う。3年以上見習いとして馬車馬の如くコキ使われてきた身としては業腹だがそこは認めざるを得ない。

 

 「どういう事ですか?あとその『背後にいる』モンってのはどこのナニモンなのよ!?」

 

 納得いかん、という感じで真琴が陣内と哲也に交互に詰め寄る。まあこのように相手が男だろうが年嵩の上司だろうが全く物怖じしないのが彼女の良い所ではあるのだが、こういう状況になるとちょっと怖い。

 陣内は「少し落ち着け」と宥めるように言いながら燃えカス同然の吸い殻に再び火をつけると、それをゆっくり口に運ぶ――前に机に乗せたブザーからけたたましい音が鳴り響き、陣内は危うく椅子から飛び上がりそうになった、どころか軽く椅子ごと僅かに飛んだように見えた。

 見るとパーテーションの向こうの社員用オフィスに座っている陣内の奥さん兼副社長の陣内早苗がニッコリ微笑んでいるのが見えた。彼女は社長室に繋がっている内線電話――というか送信機と受信機、社長室の方からはメッセージは遅れない――から「()()()()()()()()()()()()」と柔らかく、しかし有無を言わさない口調で告げるとスイッチを切った。

 渋々火を揉み消した陣内はしばし狂った調子を整えようとするように軽く頭を振ると今度こそ真琴と哲也の方に向き直って口を開いた。

 

 「いいか、そもそもテロっていうものはだなぁ――」

 

 刹那けたたましいブザー音が再び室内に鳴り響き、それに思わず飛び上がった――いや椅子ごと後ろに吹き飛んだ陣内はそのまま壁に椅子ごと激突し、暫くその衝撃に目を回していた。思わずパーテーションの方を見ると送信機の子機を取った奥さんがご機嫌な顔で「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()」と柔らかな、しかし有無を言わさない口調で告げていたのだった。

 

 哲也は溜息を吐くと、まだ目を回している陣内に代わって窓を開け、ついでに吸い殻の入った灰皿を持って、処分場所に持って行った。水で濡らしておけば後で業者が回収してくれる仕組み。オフィスに戻るとちょうど椅子に腰かけていた奥さんが「どうもうありがとうね」と強烈な微笑みを浮かべながら哲也の労をねぎらってくれた。

 

 再び社長室に入ると陣内は何故か血圧を測っていた。さっき立て続けにブザー攻撃を食らった関係なのかそれとも「血圧を測る時間よ」とか奥さんに再びブザー攻撃を食らったのかは知らない。真琴は思いっきり不機嫌そうに足を鳴らしながら「このやり取りもう嫌」という感じの表情で顔を顰めていたのだった。

 

 「で?編集長、そろそろお話は大丈夫ですか?」

 

 我慢も限界、といった感じで真琴が話を切り出す。すっかり気が削がれたと言わんばかりに消沈していた陣内も流石に落ち着きを取り戻したらしく、しばしばパーテーションの向こうにお伺いを立てるようにチラチラ見た後に一度咳払いし、今度こそ哲也達の前に向き直る。

 

 「成澤、そもそもテロリズムとは何だ?」

 

 

 

 テロリズム。

 言葉にすると簡単だが要するに暴力や恫喝、拉致監禁等の過激な手段を用いて敵対者ないしそれとは無関係な市民等を攻撃し、政治的な目的を達成しようとする事である。この場合政治的な目的とは国家体制や政権の転覆、外交的な優位や譲歩を得るため、自らの主張の宣伝等が上げられる。

 きっかけは極左もしくは極右政党や宗教間の対立によるものなど多岐に渡る。古くはローマ帝国の支配下に置かれていたユダヤ人のグループが独立を目指して、散発的にテロを行ったと言われているくらいだから、そういう意味では人間がいる限りテロは起こるという事なのだろう。

 

 「手段はどうあれ、テロリストは社会を敵と規定している。最終的には達成すべき目標がある事になるが翻ってみて《スカルマン》の目的というのは何だ?」

 「それは…確かに…」

 

 真琴が何か答えようとしたがすぐに詰まったように言い淀む。確かに今の所《スカルマン》の目的と言われているものは各メディアが勝手に予想しているだけのもので、奴個人から発信されてるメッセージというのは主張も何もないドクロのホログラフィだけだ。

 

 「立木が着目したのはそこだろう、かつての連合赤軍やら今でいう所のイスラム過激派やら…テロが事件を起こしたきっかけにはなにかしらの主張が存在し、それを世間に向けて積極的に発信していた。例の地下鉄爆破事件だって白零會が国家転覆を企てた立派なテロだ。で一方でコイツと言えば…」

 

 そこまで言うと陣内は真琴に向かって《スカルマン》関連の事件のスクラップを持ってくるように命じた。新宿事変からこっち彼女が丹念に纏めていたものだ。結構細かく模倣犯と思しき犯行も事件の参考になるから、と一緒にしているらしくスクラップブックは結構な厚さになっている。因みにネット記事も出力した上で入れてるらしい。こういう几帳面さと多岐に渡るアンテナの貼り方が彼女が社のエースと言われる所以だよなと哲也は思う。陣内はいくつかのページをめくりながら記事を抜粋し、それを二人に、どっちかというと哲也一人にか、見せてから口を開いた。

 

 「これまで主に《スカルマン》がターゲットにして来たのは半グレ集団、イベントの設備とスポンサー、交通機関、マスコミ系だ。特にマスコミ関係はミソだな、主義主張も関係なく襲ってるし、半グレに至っては政府とはなんの関係もない。意外とそっちの施設については印象の割にはそうでもない、これはマスコミの報道の仕方だな…。これで例のイベントの妨害だの政権転覆だのとは言い切れない。現に永田町そのものは一度もターゲットにされてない」

 

 「そうですね、トータルで見ると言うほどそれ関係の施設やスポンサーへの襲撃は少なくて、意外と無作為にターゲットを選出してる気がするんです。先週はナントカ言う宗教関係の施設が爆破されましたし…」

 

 真琴は陣内に同調しながらいくつか他のスクラップを選んでいく。出てきたのは首都高で暴走族の一団がバイクチェイスの末に全員殺害されたというニュース、とある私立大学で発生した火災事件、総合病院の送電施設が突如爆破されたという事件等だった。いずれの事件でもあの仰々しいドクロマークと《スカルマン》の姿が確認されている。

 

 「確かに…結構無茶苦茶だ。あ、でもだったら『何処が狙われたか』じゃなくて『何処が狙われてないか』で調べればひょっとして目的が見えて来るんじゃ…」

 

 何気なく言ったつもりだったが直後「バカか!」の声と共に正面と右隣から頭をはたかれた。陣内と真琴がそれぞれ呆れたと言った顔で哲也を睨んでいた。因みに真琴は手刀で、陣内は孫の手だ。

 

 「むしろその方が絞り込みづらいだろう、まだ襲われてない所がいくつあると思ってるんだ!」

 

 言ってみただけじゃあねえか…と内心ボヤきながらもそりゃそうだよなと思う。下手したら万単位の施設とかに護衛を配備する必要が生まれ、そうなると当然日本警察のマンパワーが全然足らなくなる。現在《スカルマン》の目的が主にイベントの妨害であるかのように言われているのは、マスコミや政府にとって分かりやすいストーリーが欲しいという事の他にも警備の観点もあるのだろうか。

 

 「あとは『背後にいる者』か。これについて立木の奴は何か言ってたか?」

 

 「いや、特には…。俺にはあんま詳しい事は教えてくれなったんで…」

 

 「だ か ら !なんでそこでもっと食い下がらんのだお前は!」

 

 正直に伝えると突然額にティッシュ箱を投げつけられた。対して硬くもないけど中身がぎっしり詰まってればそれなりに痛い。前はファイルぶつけられた事があるからそれよりはマシと思う事にする。

 「ホントにねえ…まさか『闇の政府(ディープステート)』とか『世界征服を目論む悪の秘密結社(ショッカー)|』なんて言わないわよね?」

 「…そう言えばアメリカで大統領が暗殺された時にそんな話が出て来たな、あれは未だ公には真相不明だ…」

 

 何やら神妙なようなそれとも阿保らしいとでも言いたげな顔で話し込む二人。「それってなんでしたっけ?」と哲也が尋ねたら今度は真琴に「それくらい自分で調べなさい」とデコピンされた。全く見習いだからってやたらとド突くのはやめて欲しい、仮にも今は平成の世である。あとこれで時給600円は安すぎる。まあでもそんな事より重要なのは、だ…。

 

 「じゃ、食い下がってきたらこの話記事にしてもいいっスか?」

 

 今はまだ試用扱いの見習い記者だが、もし自分で取ってきたネタで記事を書いてそれの反響が良かったら正社員に登用してやるとはここに就職した時に陣内から言質を取った条件だ。特に今《スカルマン》関係のニュースはこんな弱小ジャーナルでもそれなりに閲覧数が稼げるほど受けが良い。『《スカルマン》の目的は復讐?暗躍の背後に潜む国の暗部とは?』みたいな見出しなら注目も集めやすいかも知れない。「出来れば俺が書きたいんですけど」と続けようとした所で再度「バカか!」の怒声と共に顔面に机の上に積まれていた週刊誌が飛んでくる。さっきよりは痛みはないが顔全体にクリーンヒットしたのでかなり良い音がした。

 

 「仮に食い下がって来たとしてなんて書く気だ!?背後になんかいるとしてそれの関与をどうやって証明する?ウチはこれでも一応真っ当なジャーナルなんだ、こんな半陰謀話持ち込んでないで正直に検証しがいのあるスクープ取ってこい!そんなんだからおま――」

 

 『――えはいつまで経っても半人前なんだ!』とでも続けようとしたのだろうが、残念ながらその先の言葉が紡がれる事はなかった。陣内の怒声よりも更にけたたましくブザーが三度社長室中に鳴り響き、哲也と真琴は一瞬身を硬くし、陣内に至っては慌てて立ち上がろうとした結果、膝を机にぶつけて悶絶する羽目になった。

 またか、と思ってパーテーションの方を見ると案の定奥さんが人差し指を口に当て、「()()()()()()()()()()()()」と柔らかく、しかし有無を言わさない口調でニッコリと艶やかな笑みを浮かべていた。果たして机に突っ伏して悶絶している陣内に届いたかは定かではない。そのブザーの方がよほど体に毒だ、と思わないでもなかったが流石にそれを言う度胸はなかった。

 

 3分後漸く起き上がった陣内は一言「水を取ってきてくれ」と哲也に告げた。仕方がないので備え付けのウォーターサーバーから水を汲んできて渡すと一気にそれを飲み干した所で一息吐けたらしい、いつもの不機嫌面に戻ると哲也の方をジッと睨みつけて

 

 「で?」

 

 とこれまた不機嫌極まりない顔で一言告げてきた。いやそれだけ言われても返答に困ると思っていたら「ボケっとしてるな!」と怒鳴られ、いつの間にか取り出したストレス解消にぎにぎボールを額にぶつけられた。ぶつかったボールは哲也から見て右側に弾み、危うく真琴にぶつかりそうに――なる前に避けられた。

 

 「まさか話はこれで終わりとは言わんよな、そもそも生安の立木が何故事件現場に出てくる?奴さんが動くならそれなりに理由がある筈だ、それも話せ」

 

 さっき半陰謀話とか言ってた癖に、と哲也は溜息を吐きながらふと逡巡する。正直話すべき内容なのかいまいち自分でもよく分からないからだと言うのが大きい。何せ《スカルマン》の目的以上に曖昧な部分の多い話なのだから…。

 

    

・・・・・・・・・

 

 

 立木正尚という刑事は専ら生安の中にあっても非行少年・少女の補導や彼らが起こした事件の捜査をメインに活動している。当然《スカルマン》の事件に当たっては動いてるのは基本的に強行係や組織犯罪対策部、公安等が動いているようなので当然生安は管轄外だ。する事といったら住民パトロールや防犯団体への支援や寄せられる相談に応対するくらい。

 

 それでも立木が事件現場に定期的に顔を出している理由は半年前の出来事によるそうだ。

 

 きっかけは《スカルマン》が彼の管轄内で起こした事件に遡る。

 台東区内の風俗店で乱闘騒ぎが発生し、例によって《スカルマン》が事件に関与している事が判明したのだが、その店は以前から半グレ組織による違法な営業が行われている可能性があったらしく、許認可係が兼ねてより目を付けていた所だった。ウラを取る前に潰されてしまい、その後捜査が入ってみればあの骸骨男の蛮行から生き残った構成員の中にはまだ18歳未満の未成年も含まれていたという。そのグループは元々浅草一帯でそれなりの勢力を築いている事もあってか、立木も及ばずながら捜査に加わっていた。

 

 乱闘どころか銃撃まであったらしく、その拍子に火事まで発生して問題の店が入った雑居ビルは無残にも黒煙を発していた。いくらどうしようもない馬鹿共だからってここまでする程の理由があるのかね、と立木は思いながら周りを見渡すといつの間にか野次馬が結構集まっている事に気付いた。

 元々徒歩10分圏内に普通に住宅地もあるエリアなので突然の大火事に不安になってきたのだろう、無理もない事だ、と思ったが野次馬の中、それも少し離れたような所で一人の少女が雑居ビルを見上げているのが目に留まったのだ。見たところ高校生くらいか、大方近所の学生が火事場見物で見に来たのだろうと最初は思ったがすぐに妙な胸騒ぎがして立木は少女の表情を捉えた。

 

 あまりここら辺りでは見ない顔だった。首のすぐ上くらいで切り揃えた黒髪、目鼻立ちの整った顔立ち、上に羽織っているのは何故か男物と思しきモスグリーンの秋コート、膝の辺りが破けたジーンズにスニーカーという飾り気のないスタイルもあって華やかな印象はないが人目を惹く美人だった。だが全体的にコートは所々に皺が出来ているし、ジーンズもダメージパンツというより自然に破けてそうなった感じがする。スニーカーは雨に濡れたような汚れが見えるしかなり素材が劣化しているような感じだ。もしやこちらの方に流れて来た家出娘という体ではあるまいなとも思ったが実の所そこはさほど問題ではなかった。立木だってここいら全域の子どもの顔を把握している訳ではないし、家が裕福でないなど何かしら事情を抱えてる子どもだっている。服装程度で無闇に疑うのは性分ではなかった。

 

 問題は――一言では言い表せない――少女の目だった。周囲の野次馬の驚愕と恐怖と少しばかりの好奇心を綯交ぜにした目やこれまで相手にしてきた非行少年達の怒りや悲しみといった強い感情が混ざった目でもない。あれは強い絶望の感情の目だ、単純にビルの中に親族がいてその安否が望めないとかそういう次元ではない。後悔と恐怖と悲哀に極限まで塗りつぶされ、希釈され、ガラス玉のようになるまで透き通った目だ。その少女の印象を立木はそう語っていた。

 刑事の勘が無条件に立ち上がり、立木はこの少女に声を掛けてみるべきだと察知した、が向こうも咄嗟に何かを察したのだろうか不意にビルから目を離して立木の方に視線を向ける。対峙は一瞬だった。すぐに少女は立木から視線を外すとそのまま脱兎の如く駆けだしていったのだった。

 

 「きみ、ちょっと待て!」

 

 立木もすぐに少女の後を追ったが、とにかくその少女は猛烈に足が速かった。立木自身何年も不良やツッパリを負い続けて脚力には年齢に見合わないそれなりのモノがあると言う自負もあったがそんな次元ではない。かなりのペースで走っている筈なのに一向に少女との差は埋まらず、開いていくばかりだった。狭い通りを抜け、大通りに出た辺りで完全に姿を見失い、それ以上の追跡は断念した。

 

 

 

 そこから1ヶ月の間はその少女を思い出す事はなかった。

 そうでなくとも立木の仕事は多忙を極めており、《スカルマン》にも正体の分からない少女の事にもいちいち構っている余裕はないと言うのがあった。しかし次の再会はまたも《スカルマン》と共に訪れた。

 上野駅付近の首都高を走行していた暴走族が突然《スカルマン》の襲撃を受け、壮絶なバイクチェイスが繰り広げられた末に何台かのバイクが4号線に逃走した。最終的に暴走族達は仲間を見捨てて逃走した2台の乗員を除いて全員、ある者はショットガンで打ち抜かれ、ある者は手榴弾の爆発によって、またある者はバイクから落ちた所を轢殺される形で命を奪われた。当然周囲を走行していた一般車両や通行人にも少なくない被害が発生し、上野駅前は一時騒然とする事になった。すぐに包囲網が敷かれたが《スカルマン》は混乱に乗じて忽然と姿を消した。

 

 立木が現場に駆け付けた時には駅前の通りは封鎖され、周りの道路や駅のペデストリアンデッキには突然の凶行を固唾を呑んで見守る市民の姿があった。現場の真ん前にあった事もあり対応に追われる駅前交番の巡査に話を聞いていた立木はふと一瞬どこかで感じたような気配に気付き、朦々と巻き上がる炎をジッと見つめる華奢な背中に気付いた。野球帽をかぶっているため髪形はよく分からなかったが、その薄汚れたモスグリーンのコートには見覚えがあったらしい。あの背はまさか――直感的にその存在を悟った立木は自分より二回りも小さい影の隣に並び立つとそっと横合いから肩を叩いた。影が一瞬怯んだように身を硬くしながら、彼の方に視線を向ける。帽子の下にあったのはやはりあの時の少女だった。

 

 「やあ、また会えたね」

 

 少女と目が合い、立木は努めて穏やかにそう告げた。別に捕まえようとかそういう事は考えてない。先刻の瞳に宿った言い知れぬ影は気になったが、単なる家出少女の可能性もある訳で、職業柄放っとけないだけだ。しかし立木のそうした心境を知ってか知らずか少女は端正な顔を歪めたと思ったらまたも立木の肩を振り切って逃走した。立木も一応追いかけたが、結果は以前と同じだ。少女は人の波をすり抜けるように掻き分けながら姿を消した。

 

 

 

 二度は偶然のうち、三度あったら必然と思え、が立木の持論だ。そして三度目の機会は意外と早く訪れた。

 日本の学びのメッカであり、文化財の都でもある文京区の銀行にて奇妙な強盗事件が発生した。同区の銀行にて白昼堂々装甲車が突入し、中からは「我は《スカルマン》」と名乗る骸骨の覆面をつけ武装した6人の男達が出てきたという。すぐに警察による包囲網が敷かれたが彼らは動ずる事なく、客を人質に取りながら庫内の現金をありったけ集めさせ、いざ意気揚々と去ろうとした時、突然現金を詰め込んだ装甲車が爆発した。当然爆発の勢いは装甲車を吹き飛ばしただけに留まらず、爆炎が封鎖された銀行内を荒れ狂い、人質はおろか犯人グループ達をも巻き込んだ。その時銀行の屋上から見慣れたドクロのマークが浮かび上がったという…

 

 後から分かった話だが、幸いという言葉が適切なのかはこの際さて置いて、爆弾の威力は見た目に反してさほど高くはなかったようで、爆心から離れていた人質の一般客、行員は全員負傷し、中には重傷者もいたようだが死者は出なかったのに対して強盗グループは6人中4人が死亡した。この犯人達は巨額の報酬を餌にネット上で集められ、その日が初対面だった事、強盗に際して《スカルマン》を名乗るように要求された事がその後生き残った一名の口から語られたそうで、装備も装甲車も()()()()()()から支給されたものだったという。そして引き上げようとした矢先に突如車が爆発したと語った上で「ホンモノに騙されたんだ」と証言した。実際グループのうち焼け跡から死体が見つかったのは4名だけで、後の一人は依然見つかっていない。その後生き残りの男は警察病院に入院させられたが数日後に変死、これにも《スカルマン》の関与が疑われたが、結局の所謎のままだ。

 

 閑話休題、署内で事件の報道を見ており、事件が意外な顛末を迎えたのを目撃した立木はその瞬間居ても立っても居られなくなり、文京区の件の銀行へ向かって飛び出した。畑が違うのも服務規程違反スレスレであるのも百も承知だったが「事件現場に迎え」と彼の本能のようなモノが全力で叫んでいた、という。

 

 いざ現場に着くと既に黒山の人だかりが出来ており、流石にこの中から一人の少女を見つける事など不可能に思えた。別にいないならいないでそれが一番良いと思いながら、周囲を掻き分けていくとふと制服を着た女子高生と思しき姿が目に留まる。一見何てことなく溶け込んではいるものの、その後ろ姿は立木には酷く不釣り合いなものであるように思えた。根拠なんてない、外れりゃ手帳見せて人違いだと言えば良いんだと開き直りの境地で立木はその女子高生の左腕を掴んだ。果たしてギョッとしたように振り返ったその顔はまさしく1カ月前に目撃したあの少女のモノで相違なかった。よく見ると制服ではなくてコスプレショップで売ってるようなニセモノ臭い服で、妙に古めかしいソックスやスニーカーとの落差が大きかった。

 

 「覚えてるようで嬉しいよ、よく事件現場で会うね?」

 

 目を見張った少女の表情に確信を得た立木が警察手帳を見せながらそう告げると

 

 「…ストーカーですかアナタは…」

 

 ドン引きだと言わんばかりの目つきで少女が顔を顰めながら呟いた。確かにこの人だかりで三度の遭遇だ、普通にそう思われても無理はない。

 

 「すまないね、職業柄なんとなく嗅覚が発達してるんだよ、君みたいにどことなく場違いな雰囲気を出してるのはなんとなく分かるんだ」

 「…やっぱり変態じゃないですか…」

 

 よく言われるよ、立木は手帳を突き付けながら「いくつか聞きたい事があるんだけれど?」と語りかける。少女の目の警戒の色がより一層濃くなった。

 

 「これって職質って奴ですか?」

 「まあそんな所だよ、職務だと思って受け流してくれ…()()()()()がないならね?」

 

 この少女は只者じゃない、もしかしたら《スカルマン》の事で何か知っている可能性がある――立木はそう確信したらしい。極力微笑みを浮かべながらも実は少女の細い腕を掴む掌が緊張でじっとり湿っているのが分かった。僅かな睨み合いの末、ふと少女が微かに笑った――ように見えた。

 

 「お断り、します」

 

 刹那、少女の細腕が電撃のように立木の掌を振り払い、逆に腕を絡めとられた。そこから更に膝をしたたかに打ち据えられ、体制を崩したと分かった時には立木はもう腕を捻られ、地面に組み伏せられていた。この突然の乱闘騒ぎに周囲を流石に何事かと視線を向けて来るのが分かったが、そこからの少女の行動は更に予想外のモノだった。

 

 「この人、痴漢です!捕まえて下さい!」

 

 目立つことを承知で言い放たれた男を抹殺する禁句に立木がギョッとしていると更に強い力が腰の上あたりにのしかかって来た。どうやら通行人の男性が自分を拘束したらしいと分かる。そのまま頭を強く地面に抑えつけられ、しばしの呼吸困難に陥った立木に弁解の時間は与えらえなかった。気付いたら複数人の男性に体を拘束されたまま、近隣の警官が駆け付けて来た時に思い切り弁明すると言う1年分の恥を味わう羽目になった。その間に完全に少女の行方は分からなくなり、後に自分を抑え込んだ男性たちに確認しても異口同音に「気付いたらいなくなっていた」という返事が返ってきた。

 

 勝手に管轄外の現場に出た挙句に痴漢と間違われ、同僚の警官に拘束されかかる、という大失態に激怒した署長に訓告を食らった挙句に減俸1カ月の処分を食らった事は完全に踏んだり蹴ったりだったし、件の少女が《スカルマン》について何か知っているかも知れない、という事の根拠がロートル刑事の個人的な勘では何の根拠にもならんという事ぐらいは自覚していたため、立木は表向きにはこの件には深入りしないと上に従い、日々の仕事をこなしている。だが時折事件が起きる度に立木はあの少女がまたあの場にいるのではないかと考え、上司の目を盗んで密かに《スカルマン》の犯行現場を訪れている、のだそうだ。

 

 成澤哲也と出くわしたのはちょうどその時だ。

 

 

   

・・・・・・・・・

 

 

 

 「…という訳らしいです、なんかその女子が事件に関わってんじゃないかって…」

 

 一応立木本人から聞いた話を元に纏めてみた形になるがどうにも自信がない。実際哲也自身も聞いている最中はどことなく半信半疑で、最中に何度か気のせいなのではないかとさり気なく、問いかけてみたのだが、立木はやたらと確信があるような感じだった。但し「どうにもきな臭い」とか「俺の勘が告げてんだ」とか要領を得ない回答ばっかりだったが。

 

 経験者から言わせて貰えば確かに立木には不思議な、というかいっそのこと妙ちきりんと形容した方が良さそうな勘の良さがあった…と思う。学生時代学校をサボって仲見世通りをウロウロしていたらなんでか決まって見つかったし、お膝元の外なら良かろうと伊勢崎線浅草駅や上野駅に行って町を脱出しようとすればまるで知っていたかのように駅で待ち伏せされている事もしばしば。そう言えばその時もよくつるんでいた女子の一人からストーカー呼ばわりされて、心外だと言わんばかりに「お前らの考えなんざミエミエなんだよ」と毒づいていた。

 

 ただやはり目の前と右隣の二人には実感しづらいのか腕を組んでしきりにウーンと唸っている。というか陣内は話の途中に何度かカルシウム錠剤を齧ってたのでたぶんイライラしているんだと思う。やがて首を捻りながらも真琴が口を開いた。

 

 「話の内容は分かったけど…でも今の話って全部その立木さんって人の主観よね?」

 「そう言われると返す言葉もないです…」

 「…仮に奴さんの勘を信じるとしてもそれ要するに『俺一人じゃ人探しはしんどいから誰か手伝え』って事なんではないのか?」

 「…否定のしようもございません…」

 

 まあ実際そうなのだ。築地の喫茶店で立木から話を聞かされ、その際せっかくだから仕事だと思って協力してくれ、と半ば強引に押し付けられ、その少女の似顔絵まで渡されている。それで良いのか刑事が、と思わないでもなかったがそもそもここへの就職の口利きをしてくれた恩があるのでどうにも彼の頼みは断りづらい。「こっちも仕事でやってんじゃねえんだ、気楽にやってくれどうせ暇なんだろ」と甚だ大きなお世話な事も言われて結局NOと言えず、ここまで持ってきた訳だが…。

 

 「『キツネ目の男』か『偽白バイ隊員』みたいだな全く…ますます事件の闇が深くなりそうな気がする…」

 

 どちらも有名な未解決事件の犯人ないし関係者と目されている人物だ。ただでさえ犯人の動機も正体も不明、おまけに色々原因不明の怪事件が頻発する昨今の治安情勢も相まって不安が広がる世の中だと言うのに今度は事件現場にしばし出没する謎の美少女とあってはゴシップ雑誌辺りが黙ってないだろう。でも悲しい事に陣内はその手の不確定な記事やオカルトっぽい俗説が大嫌いと来てる。いくら何でもこんな事調べたいとか言っても相手にされるわけないか…?

 

 「成澤」

 

 不意に陣内が重々しく口を開いた。哲也は反射的に姿勢を正す。これはひょっとするとまたカミナリ(とついでに奥さんのお叱りブザー)が飛んでくるかと身構えていると

 

 「お前、この件についてどの程度確信がある?立木じゃない、お前自身が、だ」

 

 あれ、意外と好感触か?いつもなら「下らん」で一蹴なのにまさかの脈ありの反応な上に自分自身はどう思うのか、と問うて来ている。これはまさか自分もそろそろ一人前と認められて来たという事なのではないだろうか、そうなればプレゼン次第では仕事を回して貰えるかも知れないし、正社員登用の芽も出て来たという事なのでは…?

 そうと思えばこの件全力で推す価値があるかも知れない、哲也は目の前のテーブルに両手をバンと叩きつけ――陣内が思いっきり嫌な顔をしたが気付かなかった――思いの丈をぶちまけるようにまくしたてる。

 

 「俺、じゃない僕個人としては意外とが確信があります!学生の時の経験ですがあの人の勘は結構当たるんですよ、もしかしたらこの謎だらけの事件に関して何か重要な秘密を知ってるかもしれません許可さえあれば早速東京中探し回ってその少女をとっ捕まえ――」

 

 我ながらイケてる事言ってるつもりだったがどうやら本当に「つもり」だったらしい。おしまいまで言うより前に陣内から「ええい、鬱陶しい!」と新聞をギュウギュウに絞った紙バットで顔面をド突かれ、哲也は勢い余って後ろによろけて尻餅をつく羽目になった。横の方を見上げると真琴が頭が痛いと言わんばかりにこめかみの辺りを抑えて渋い顔をしていた。完全に呆れ果ててる表情だ。

 

 「どう思うって言ったのは編集長じゃないですか!」

 

 「やかましい暑苦しい顔で絡みおってからに!ウチは『探偵ナ〇トスクープ』じゃないんだそんな()()()()()()()()()()みたいな話をいちいち真面目に検証してられるか!いくらウチがフットワークの軽い取材をモットーにしてるからってんな事までやってたら早晩破綻するに決まっとろうが!そんな事も分からんから――」

 

 『――お前はいつまで経っても半人前なんだ!』とでも続けようとしたのだろうが、残念ながらその先の言葉が紡がれる事はなかった。

 直後これまでの比じゃないレベルでけたたましいブザー音が3回も鳴り響き、それ以上の言葉が発せられるのを阻止した。受け身を取り忘れた哲也と真琴も思わずその場で飛び上がるような感覚を味わい、陣内に至っては椅子ごと飛び上がった挙句着地に際して古くなった椅子の車輪が遂に折れたらしい。バランスを失ったままそれごとひっくり返って壁に頭を強打、更にその拍子に壁から外れた会社目標の書かれた額縁が顔面にクリーンヒットしたのがとどめになり、陣内は完全に沈黙してしまった。

 

 パーテーション越しに奥さんの方を見ると社員の全員に『()()()()()()()()()()()()()()()()』と呼び掛けているのが見えた。それから哲也達の方を見てニッコリと微笑みを浮かべ『貴方達も』と柔らかく、しかし有無を言わさない口調でそう告げた。何やら只者ではない凄みを感じた哲也達は即刻頷くと社長室から退散した。

 

 「まあ貴方ったら社員の前でこんな時間からお昼寝なんてみっともない」

 

 部屋から出る前になんかそんな声が聞こえた。こうなったの貴方のせいだと思いますけどね。

 

 「…奥さんのアレってわざとなんすかね、天然なんすかね?」

 「私に聞かないでよ…」

 

 二人はとりあえず編集長はどうでも良いけど、奥さんに逆らうのはよそう、という結論に達しながら昼下がりの街に出向いていくのだった。

 

 




とりあえずここまで。これまで暗かったのでなんか少し明るくなりましたね。

相変わらず無駄に長いですが、いくつか今後に関わる重要なトピックを提示しました。どうかお見逃しのないよう…

他、今回登場した「一之瀬真琴」及び「陣内実篤」は今後のストーリーに関わる主要人物でもあります。是非今後の動向にご注目を。
煽る訳ではないですが、話に出てきた少女はかなり重要な役です。念のため。
…どうでも良い事ですが陣内にはモデルがいます。まぁアメコミに詳しい人ならひょっとしてお分かりになるかと

それでは続けてどうぞ。


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CHAPTER-0:『REsurgence』‐⑥

中途半端なのでもう一丁。


 「真琴さん、俺何がいけなかったんでしょう?」

 「情熱と暑苦しいの違いを理解出来ないバカだってことに尽きるわよね」

 

 時刻は20時を16分ばかり回った所、レイニー・ジャーナルオフィスから徒歩10分の焼き肉屋「さとちゃん」の座敷席にて運ばれてきたお通しに手を付ける気力もなくドハーッと深い溜息をつく哲也に構いもせずにホルモン焼きをかき込み、ついでにビールジョッキを煽りながら辛辣な返しをする真琴。やけに強調された「バカ」に心臓を貫かれた哲也になお追い打ちをかけるように

 

 「大体動機が不純なのよアンタは。さっきのだって純粋に『この件を追いたい』というより『あわよくばこれをきっかけに正社員に』とか考えてたんでしょ。不純が悪いとは言わないけどアンタの場合邪念が多すぎ」

 

 更に精神的にハードヒットを叩き込む。もし精神にゲームでいう所のHPバーが存在しそれが可視化出来るとしたら既に哲也のそれはゼロを下回ってマイナスのラインに到達しているだろう。

 元々定時なんてあってないような職場環境、朝やら昼間の一件やらで精神的にも肉体的にも疲労困憊まっしぐらな哲也に珍しく「奢ってあげるからとっとと仕事かたしなさい」とキツイ言い方ながらもありがたい申し出を下さった真琴についていけばこうして怒涛の追撃を叩き込まれてる訳だから、つくづく「出来る人」とは呑みに行きたくないものである。

 

 「マコちゃんやめなって~、てっちゃんのライフはもうゼロだよ~」

 「そうそうあのタコ編集長は奥さん以外には誰にでもああなんだから」

 

 横合いと正面から伸びて来た手が肩と頭をポンポンと叩く。幼子をあやすような仕草に鬱陶しいと思わないでもなかったが振り払う元気もなかった。相も変わらず辛辣な態度を崩さない真琴は「食べないなら貰うわよ」とか言って哲也の前に盛られた肉までかっ攫おうとするが、それだけは何としてでも阻止する。

 

 「いやぁそれにしても『復讐の骸骨仮面』に『事件現場に現れる謎の美少女』かぁ、相変わらず成澤君は面白いネタを拾ってくるなあ」

 「採用されるかどうかは別にしてもね~」

 

 横から肩を叩きながらシステムエンジニアの貴志田衛(きしだまもる)が褒めてるんだかフォローしてるんだか追い打ちをかけているんだか分からないがとりあえず何のフォローにもなってない事を言い、正面から頭を撫でながら――否グー手でパンチしながら櫛浜静梨(くしはましずり)が間違いなく追い打ち目的の茶々を入れる。なんかもう無駄に落ち込んでこの人達を楽しませるのも面白くないので哲也は観念して目の前の肉から処理していく事にした。

 

 貴志田はレイニー・ジャーナル開業当時からあの鬼編集長の下で働いてるらしく、会社でも最古株の37歳、奥さんの陣内早苗があれの右腕とするなら彼は左手と言った所だろう。海軍では「艦長を父親、副長を母親と思え」なんて風潮があるらしいが、滅多に声を荒げる事無く社員達の仕事の環境から日々のメンタルケアまで卒なくこなす様はまさに「オカン」の気質の持ち主だろう。

 静梨は哲也より1個年下の23歳で会社で配信しているポッドキャストのキャスターをしている。入社してから1年余りと哲也にとっては初後輩だがかたや万年見習い、かたやしょうもない人気しかなかったポッドキャストの聴取率を大きくアップさせた立役者、扱いの差が歴然としているのはこの際仕方ない…。童顔で子ダヌキのような可愛らしい容姿にアニメのヒロインみたいな独特の声質でむさ苦しい編集部とスマホの前の聴き手に癒しと元気を届けるさまは正に「ゴミ溜めに鶴」だ。

 

 「怒鳴られるのは期待の裏返しだよ、ああ見えてホントは成澤君に期待してるんだよ」

 「そうそう編集長はツンデレなんだよ~」

 「あんなちょび髭強面のツンデレがいてたまるか!!」

 

 各々勝手極まりない事をほざく二人に流石に哲也も堪忍しきれなくなり断固反論する。が二人とも全く堪えない上に静梨に至っては「わあ~てっちゃんが怒った~」とケラケラ笑っている始末だ。その辺りでこのやり取りに耐えられなくなった真琴がうるさい、と哲也と静梨を怒鳴ってようやく場が収まった。

 新宿事変、そして《スカルマン》の登場を経て自分達マスコミの仕事も随分多くなった。レイニー・ジャーナルは元々真琴の他にあと二人ベテランの記者とライター担当がいたのだが、去年の年末辺りに大手に引き抜かれてしまい、以来慢性的な人手不足だ。なんとか分業して対応してはいるが一部は外注や単発のバイトに頼らざるを得ない部分も増えており、そういう意味では陣内が見習いの成長を期待するのも分からなくはないが…どうにも期待されてると言われるとピンと来ない。

 

 「ていうかさ~、てっちゃんってその立木さんって人の口利きでウチに入ったんだよね?」

 

 不意に静梨が尋ねてきた。なんだその話か、と哲也としては他人にあまり触れて欲しくない領分になるのだがこうも真っ向から問いかけられるとどうも適当な事を言ってはぐらかすのも気が引ける。流石は恐れを知らぬ女、と賞賛すべき所なのかよく分からないが言い淀んで黙ってると却って訝しがられるだけだし、さてどう答えたら良い事なのやら…

 

 「そうそう、こう見えて昔は今時珍しいコテコテのヤンキー君だったのよ、髪なんか今時ダサい金色に染めちゃってさ」

 「浅草通りを改造二輪でブイブイ言わせてたんだって。『()()()()』とか名乗ってたんだっけ?」

 「人の過去を勝手に掘り起こすのやめてくれますか!あとそんなダサい二つ名じゃありません『()()()()()』です!」

 「…余計ダサいわよ…」

 

 悩んでいる間に後輩の前で遠慮会釈なく微妙に誇張された過去を暴露する先輩二人に必死になって抗議する年上の見習い社員の姿が彼女の目にはどう映っているのかは――既にレモンサワー3杯で出来上がっているのか「ウケル~」とか言ってケラケラ笑っている姿を見れば一目瞭然か。

 

 「グレてたのは本当。そん時によく面倒みてくれてたのがあの人なんだよ。で、卒業した後にどっかに就職したんだけど、色々あってさ…路頭に迷ってたらここ紹介してくれたの…」

 

 観念して正直に伝える事にした。どうせ今更カッコつけるような外聞もプライドも持ち合わせてはいないと半ば自棄になって言ったような気分だったが、当の静梨は先程の冗談めかした爆笑を引っ込めて、それ以上嗤うでも引くでもなくどこか安心したような微笑みを浮かべていた。

 

 「そっか~…。てっちゃんも色々あったんだね~」

 

 しみじみと言った風情の口調だった。「てっちゃんも」という言葉が気になりはしたが追及する気分にはならなかった。普段はすき好んで他人に言わない過去も口に出してみると案外晴れやかな気分で受け入れられるようになるのかも知れない。もしかしたら自分から言いやすくなる土壌を作るためにこの先輩二人も敢えてああいう形で暴露したのではないか、それとも流石にそれは考えすぎというものだろうか…?

 

 「そ、みんな色々あってウチに来たんだよ」

 

 チラと横に座る貴志田に目を向けると哲也の心情を知ってか知らずか、どこか遠くを見るような瞳に柔和な笑みを加えながら確認するようにそう呟いた。もしかしたらこの人達には自分のもう一つの過去の話、7年前にとっくになくなった自分の故郷の話をしてもこんな風に受け入れてくれるモノだろうか、と哲也は不意に思う。しかし今はそれを確認する度胸も覚悟もまだなかった。

 

 今思えば中学や高校の時のティーンだった自分は何かにつけて苛立ちを抱えていた気がする。馴染めない叔父叔母夫婦もいつの間にか心が離れてしまった従兄も口先だけ偉そうな教員も…とにかくそいつらの象徴である大人のあり様の全てにだ。

 自分より弱い他人を殴ったりするような人道に悖るような真似こそせずに済んだのは何かの信念というよりそんな事をしたら余計に苛立ちが増すだけな気がしたからに過ぎない。高校に入り、久しぶりに仲間と呼べる存在、立木という初めて真正面から自分達に向き合ってくれる大人に出会えた事は幸いと呼ぶべきなのだろう。それは今も同じなのかも知れない、恵まれてるな俺は、と思うからこそかつてのようにそれを壊す事はしたくないと思った。

 

 

 「で、これがその件の女の子ってわけ?」

 

 時刻は既に21:30、ここの呑み放題コースは2時間だから未だ宴もたけなわと言う風情で各々ラストオーダーの注文を済ませた時辺りに不意に貴志田が件の《スカルマン》事件現場に出没する少女の事について言及し始めたのだ。曰く探すのを手伝ってくれと言われたのならイラストか写真くらいあるだろう、と。

 

 「え~、キシさんやらし~、奥さんと娘さんがありながら~?」

 「人聞きの悪い言い方はよしてよ静梨ちゃん、これはジャーナリストとしての純粋な興味だよ」

 「キシさんエンジニアでしょ~」

 

 既に完全に酔っ払って、絡み酒モードに入っている静梨を無視して哲也は手帳を開いた。例の少女の似顔絵だったら立木から別れ際に貰っており、いつも持参している手帳に挟めておいたのだ。一枚の紙片を差し出すと興味をそそられたのか静梨と真琴もズイと顔を近づけてそれを覗き込んでくる。

 

 「なんて言うか…これがホントなら綺麗な子だね~」

 「…なんか癪だけどそうね…」

 「確かに。ていうか絵上手いんだね刑事さん」

 「昔っからなんか得意なんスよね…」

 

 率直な感想、明後日な方向の感想と色々出たが概ねそこに描かれた少女の容姿に対する感想は一致していた。因みに哲也は立木の似顔絵の正確さは学生時代の経験でよく知っている。下手すれば聞き込みだけでかなり精緻に描きあげてくる事もあるくらいなのでこの絵については恐らく実際の少女に限りなく近いと言って良い筈だと思っている。

 

 立木の証言や周囲の感想通り、その少女はかなりの美人だった。釣りあがった目尻に対照的な大きな瞳は気の強い猫を思わせる。そこから高くはないが形の良い鼻梁を経てへの字に結ばれた唇が生み出す造作は確かに見る者を惹きつける力がある。刃物のようなシャープさとまだ幼さを残す頬と顎のラインの丸みが全体的に何処かアンバランスで年齢不詳な雰囲気が与えているがそれが却って少女特有の面影を作り出している。

 

 「服装はだいぶ汚れてたんだよね、てことは家出娘かなにかなのか?」

 「でもこんな子が家もなくウロウロしてたら目立つわよ、それこそ警察がとっくに探してるって」

 「いっそもう家に連れ戻されてたりして~?」

 

 確かにそれが一番現実的な落としどころだし、実際哲也もその線を立木に問いただしてみたが、()()()()()()()()のコネを総動員してみて水面下で情報をそれとなく集めてみたらしいが、その少女の行方は杳として知れないらしい。いっそ《スカルマン》ともども地獄の底から蘇った幽霊なのかも知れないな、と立木はどこか皮肉っぽく笑っていたが、その言葉に哲也は何故だか言い知れぬ不安を搔き立てられた。

 

 「で、『記事になるか』はともかくとしてアンタはこの話、どう思ってるの?」

 

 不意に真剣な雰囲気になって真琴が尋ねる。どうやらそれを確かめる事が本心らしい。

 

 「正直よく分からないんスよねぇ…」

 

 真剣に問いただされれば答えないわけにはいかないとは思うのだが、功名心とか下心とかそういう建前を抜きにして考えれば、それは偽らざる心境だった。だいぶ興奮が冷めた、というのもあるけど。

 確かに立木の勘は信頼してるのだが、なんかこう…どこか不自然な違和感を感じる。でもそれがなんなのかは哲也にも正直分からなかった。我が事ながら呆れるレベルで漠然としている。強いて言うならアレだ。

 

 「昼間はそうでもなかったんだけど、この絵の子…見てると変に不安になるって言うか…。探すのが不安になるんですよね、どこかで会った気がして…」

 

 時間が経つにつれて募ってくるのがそういう心境だ。デジャヴュというのか頭の中に靄が掛かってそこから先にある、知ってる筈の記憶の蓋が開かないような気持ちの悪い感覚が襲ってくるのだ。横合いから「ナニソレ、ナンパの決め台詞~?それとも昔振られた子に似てるとか~?」とかてんで的外れな勘繰りを入れてくる酔っぱらいの言い分も分からなくはないが、こんな子に一度会ってたらなかなか忘れないとは思うし、第一そんな呑気な次元の話ではない…と思う。

 どこかで会った気がする、という口にしてみると酷く曖昧模糊なその言葉は、しかし何か鋭い棘のように記憶の隅を抉り取っていくのだ。その感覚にそれ以上考える事を封じられる、いや何か本能が考えるな、と警告しているのだろうか…。

 

 「そう思えるのなら…アンタにとってこのネタは調べるに値するって事なんじゃないのかな?」

 

 二の句が継げずにいた哲也に真琴が語りかけてきる。あくまで真剣に、迷える後輩に対して諭すような口調だったが、同時にどこか自分自身にも言い聞かせるような色を帯びていた。

 

 「私もね、取材をする時、いつも確信がある訳じゃない。むしろ確信のある話ほど迷ってるかも。心のどこかでは絶対に間違ってたらどうしよう、その結果誰かを傷つけてしまったらどうしよう、って考えながら動いてる。でもね、自分なりに信じぬいた先には絶対何かの真実があるって思うから動くのよ。それで外したら可能性が一つ減るだけ、次に行けば良いってね」

 

 どこか恥ずかしそうに真琴は告げる。もしかしたら酒の勢いでも借りないと上手く伝えられないのかも知れない。でも酔ってはいるだろうがその口調はハッキリしており、普段の怜悧な立ち姿にはない熱意と闘気が溢れていた。たぶん真琴さんの本来の姿はこっちなんだろうな、と哲也は頭の片隅で思った。

 

 「確かにアンタはバカだし鬱陶しいし、考えがすぐ表に出るしその癖すぐ落ち込むしでまぁ要するに大バカ野郎だけど…」

 

 一息に人に罵詈雑言を放つが、不思議と心を折られるような感触はない、無理矢理にでも人を奮い立たせるような強引さを含ませながらもいつもより声色が優しいからかだろうか…。

 

 「でも思い立ったら暑苦しく進もうとする強引さは私にはない、アンタの強みだって思ってる。だったら自分の信じてみたいものは信じて良いじゃない」

 

 信じてみたいもの、俺は立木さんの持ってきたこの話を信じているんだろうか…?《スカルマン》の目的が復讐だと聞いた時に感じた怖気も、絵の少女に抱いている実態の分からない感情も全てこの二つの話を追っていく事でこの実体の伴わない幽霊のような事件に迫れると感じているからなんだろうか…。正直そこまで確信はなかった、単に他と違う事を言えれば注目されて、仕事を得られる程度の不純な思いではなかったのだろうか…。

 

 「下心は誰にだってあるわよ、そこは恥じる事じゃない。でもねホントに下心しかない奴はこんな話を持ち込んできたりはしない、途中でバカバカしいと放り捨てるわよ。ウチまで話を持ってきたのはアンタが信じてたからよ、そこは自信持ちなさい」

 

 そんな後ろ向きな内心を見透かされたのか、真琴は止めと言わんばかりにまくしたててくる。同様のあまり周囲を見ると貴志田と静梨も何度も頷き合って、哲也を見つめていた。

 

 「俺の信じる事か…」

 

 自分がこの仕事に向いてないんじゃないかと思う時が多々ある。元々なんとなく文章を書いたりするのが好きだった、程度の理由で立木に紹介されてあれよあれよという間に雑用をこなしながら3年以上ガムシャラに勤めてきたが、未だ見習いだしすぐ考えが読まれるとバカにされ、陣内には怒鳴られる。そんな日々や元々の性格、特に7年前の「あの日」に起因する失う事への恐れは哲也から何よりも自分への信頼と言うものを失わせたのかも知れない、いや失わせたのは結局自分自身か…。

 

 自分がこの件をどう思ってるのか、それは結局の所よく分からないままだ。でもこれまでみたいに分からないからと放置して結局何も得るものがないのではいつまで経っても進めない、分からないならこの件、自分が納得いくまで向き合うしかないのだろう。

 

 「真琴さん、俺…この件調べてみます。立木のおっさんだけじゃ大変だろうし…それに俺個人が結構気になるって思ってるんで」

 

 何週目のかの思考の堂々巡りの末、やっと出たのがそんな答えだった。我ながら曖昧な上に変わり身の激しすぎる滑稽な台詞かも知れないがそれが自分の精一杯だ。それを聞いていた真琴は「素直でよろしい」とニヤリと笑った。

 

 「じゃあ、個人的に調べてみなさいよ、編集長には私の手伝いで外回りしてるって言っとく。…まあもしかしたら何か察してくれるかも知れないし、ね?」

 「なんかやけに優しいですね…」

 「私はいつも優しいわよ!」

 

 怒鳴りながらもどこか照れたような口調の真琴。まあ色々厳しいけどやっぱり信用できる人なんだろうな、と思う。

 そんな自分を笑いもせずに見守ってくれる貴志田と静梨もそうなのだろう。なら…俺は俺を信じてくれる人達を信じてやれる事をやろうと思う。信じぬいてその先に何もなかったらその時はその時、記者はネットと違って自身の名と社名を背負う訳だから、ミスを認めた上で次に進めば良い。見習い風情とは言え自分に足りなかったのはそういう覚悟だったのだろう。

 とにかく先輩の協力は得られた、後は明日から動くだけだ、と思いつつひょっとしたら呑みすぎで二日酔いになりゃあせんかと少しだけいつもの弱気が首をもたげてくるのに内心苦笑した。

 

 

 どうやら本当に呑みすぎたらしい。

 後輩の決意に気を良くした真琴がとにかく進めてくるもんだから、哲也もそれに合わせてたらいつの間にかこのざまである。呑みに出た4人の中で一番酒に強いのが真琴、ついで静梨と来てそこからグッと下がって哲也だ。貴志田はいつも潰れるより遥か手前でやめるのでよく分からない。人は大学時代や成人式の同窓会での飲み会などで潰れる経験を通じて己の限界値を学ぶと言うらしいがどちらも経験してない哲也はいまいちよく分からない。というか調子に乗って呑みすぎる癖がどうしても抜けない、呑み放題とかになると余計に。

 

 つくづく自分の学習能力の無さを呪いながら自宅の近い貴志田に少し休んでいったらどうだ、と気遣われたもののその申し出を謹んで固辞し、自宅のアパートに帰る道を辿っている。

 タクシーを使う金なんかないので職場の最寄である亀戸から総武線、大江戸線と乗り継いでシートの座り心地の悪さと車両ごと胃袋を揺さぶられるような感覚に辟易しながらなんとか自宅に一番近い月島駅に辿り着いたのが22時41分。周囲に高層住宅のひしめく一帯はこの所、気味が悪いほど静かだ。以前はもっとこの時間でも人の行き来があったし、周辺の呑み屋もこの時間までは煌々と灯りを輝かせていた。やはり《スカルマン》の出現以降、確実に深夜の往来は減ったし、それに合わせて深夜からが本番とでも言うべき居酒屋や風俗店も営業を自粛するようになった。幸い「さとちゃん」は変わらずに営業を続けていてくれているが、思えば職場の周りも月島駅周辺も随分と「休業中」や「一身上の都合により閉店いたします」の張り紙が増えた。見慣れた景色がこのような形で変遷していくのは何とも言えず寒々しいものだ、と思いながら哲也はひとまずコンビニかなんかに寄ろうと思った。

 

 6番出口から出ると最初に目に映るのは月島を象徴する高層タワーマンションの威容。星の殆ど見えない暗黒の空に佇むその姿はさしずめ鉄の巨城だが、まあここでは見慣れた光景だ。タワーの1階に居を構えるコンビニは深夜営業や24時間営業の方針が見直されつつある昨今でも変わらず営業中で、変わらず仕事帰りの哲也を労ってくれる。

 麦茶を購入し、自宅まで待たずに店の前にて速攻で半分ほど飲み下すとようやく人心地ついた気分になった。空になったペットボトルを処分するのも面倒くさいのでこのままここで全部飲むか、とも思ったが僅かにアルコールの抜けた体に夜風がやけに冷たい。この所だいぶ暖かくなってきたとは言っても3月初旬夜の寒さは流石に身に染みる、おとなしく部屋に帰ろうと思った所で唐突に今日が3月12日だという事を思い出した。

 

 《スカルマン》が現れてから今日でちょうど1年になるという事で、そう言えば新宿の東京都庁が半旗を掲げていたのをニュースで見た気がする。しかしそれ以上に、という事は明日でちょうど「()()()」から7年目だと思い至った時、寒さとは違う悪寒のような感触が頭から下肢までを一瞬で走り抜け、哲也の全身の肌を粟立たせた。

 ――思えば何故今までそこに気付かなかったのだろう。《スカルマン》の起こす事件の目的が復讐なのだとしたら、もしかしてこの日付にこそ大きな意味があるのではないか…。

 怖気のように瞬時に辿り着いた考えはしかし、数秒後にはバカバカしいと自ら一蹴するに至った、というより無理矢理にでも結びつけまいとしたという方が正しいか。仮に復讐だとしたらそれこそ誰に対する復讐だ、国や半グレやカルト団体を狙う理由がますますなくなるではないか、第一「()()()」の関係者は自分以外もうどこにも…

 

 (テツヤ…!)

 

 最早忌まわしい思い出とも化している記憶を振り切ろうとした刹那、哲也の頭に耳介を通して、というより脳内に直接語りかけてくるように凛とした鈴のような声が響いた。まるで幽霊か超能力者にでも話しかけられたような、体感したことのない現象に今度こそ哲也はパニック寸前の状態に陥った。コンビニの前でホラー映画の主人公の如く情けない悲鳴を上げずに済んだのは思わず手から離したペットボトルが爪先に当たり、その痛みと麦茶の冷たさが咄嗟に正気の淵に意識をとどめてくれたからだろう。

 もう先程の声は聞こえない、やはり気のせいか、もしくは酒の酔いが見せた幻聴か、うんきっとそうだ…。これまでも呑みすぎた事はあったが、まさかありもしない声まで聞こえる程、酔っ払うとは。明日も仕事なんだしさっさと帰って休もう、となんとか己を宥めながら引き返そうと顔を上げた時、不意に懐かしい気配が頭によぎった。

 

 何故懐かしいと感じるのか、それは分からないが確かに懐かしいとしか形容しようのない気配だった。それがどこから「漂ってくる」のか哲也は不思議とそれが分かるような気がした。何か内なる声に導かれるように佃仲通りを抜け、そこに連結する新富晴海線の横断歩道前に辿り着く。新月陸橋の高架下、月島駅のエレベーター口を経てその先、距離にして30メートルばかりのそこにその気配の大本――彼女が立っていた。

 

 遠目にも華奢な、しかし姿勢の良い立ち姿、男物のジャンパーを羽織っているせいでやや上半身が大きく見える。肩に届かない程度に切り揃えられたショートヘアーの下の顔はしかし暗がりでよく見えない。だが哲也には何故か分かった、あれは立木が追っている例の少女だ。

 歩行者用信号機は依然と赤のままでそれが互いを隔てる壁になっていた。殆ど車通りもないし、いっそこのまま突っ切ってあの少女の元まで行くか、そうすればこのよく分からない感触もハッキリするかも知れない、とまで考えた所で少女側の道路を一台のトラックが走り抜けていった。時間にしてみればほんの一秒に満たなかった筈なのに、トラックが過ぎ去ったあと少女の姿はどこにもなかった。

 

 まさか、本当に幽霊なんじゃ…、そう思い至った時、()()という言葉に一つの可能性が行きつき、哲也は今度こそパニックに陥り、直ちに回れ右すると自宅のアパートまで猛ダッシュで駆け抜けていった。せめてみっともない悲鳴だけは上げまいとする最低限度の理性を頼りに、頭の片隅で酔いのせいだと必死に言い訳を重ねて、自分のアパートの一室に逃げ帰った。

 

 正直芯から体が冷えているのを実感したが風呂に入る気力もなく、そのまま服を脱ぎ散らかすとすぐさまベッドに入り込んだ。部屋に帰り着けば流石に緊張も解れるのか、はたまたいい具合に酔いが効いてくれたのか、気付くと哲也は気絶するように眠りに落ちていった。

 

 

 

 




少し短めですが、ここまで。

何気にサラッと不穏な情報を開示してますが、まあ明らかになるのはもう少し先かな?という感じですね。
件の少女についても本格的に出てくるのはもう少し先になるかもですが、まあ気長にお待ちください。

感想・評価その他諸々いただけると励みになります。それではまた次回。

――次回久々にスカルマンが動きます。


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CHAPTER-0:『REsurgence』‐⑦

 どうにも寝苦しい、と健輔は自室の煎餅布団の中で本日何度目になるか分からない寝返りを打った。

 体はクタクタでアルコールが僅かに残留している頭は絶えず揺らめいている筈なのに何故か意識がハッキリしたまま、一向に沈んでいく気配がない。煙草をふかしてみても却って目が冴えていくばかりで逆効果だったし、本を読むとかネットでも見るとか出来ればいいのだが生憎とそんな洒落たものはここには置いてない。適当にコンビニとかで強めの酒でも買ってきて、適当に導眠剤代わりに煽ってみるかとも考えたが、それも却下だ。今は1円でも金が勿体ない。

 今更布団が硬いとか3畳しかない部屋が狭苦しいとかそんな贅沢な問題ではない。そんなのは5年近くになる日雇い労働の日々で既に慣れっこだ。意識を占めるのは別の問題だ。

 

 山下幹夫というどっちかと言うと目立たない方だった仕事仲間の存在。だからこそそ半年前、目立たない同僚があろう事か本社の現場監督に食って掛かるという一面を見せた事には驚嘆を禁じ得なかったわけだが。ここでは本社の人間と言えば神にも等しい雲上の存在で逆らう事はおろかタメ口をきく者すら、荒くれ者揃いの飯場にあってさえ一人もいなかったというのに、あの山下はあっさりと僅かなやり取りで相手から譲歩を引き出してしまった。大した成果でこそないが「お上絶対」の現場においてはまさしく風穴を開けるが如し出来事だったと言えるだろう。

 実際あれ以来現場において“ハートマン軍曹”が威張り散らす事はなくなったし、待遇もやや――本当にそんなレベルだが――改善された。相変わらず工事は本社の烏合の衆っぷりが災いして遅々として進まないが、現場は以前ほど張りつめてはいない。単純に上で頭ごなしに威張り散らすだけの能無しが大人しくなるだけで、人の心というのは案外穏やかになるものらしい、あれ以来なんとなく周囲から外れていた山下も自然と人夫達の輪に混ざっているようになったと思う、相変わらず何を考えてるのか分かり難い所はあるにしても。

 

 しかしなんとなく親しくなったと思えば思う程に、アイツは何者でどうしてここに来たんだろう、と変に気に掛かるようになって行った。過去の事は詮索しないのが暗黙の了解とは言え、基本的に飯場に集まる人間達とは総じて健輔のように肉体労働でしか生計を立てる術を知らないようなタイプかもしくは何かしらの後ろ暗い事情を抱えた、凡そ世間のルールから逸脱したはみ出し者だ。

 総じて世の酸いも辛いも舐めた者のみが知っている老獪さは有していても、基本的に言葉や知識、謂わば弁論で相手の優位に立つ術を知っている者は皆無と言っても良いだろう。実際健輔は労働基準監督署なんて知らなかったくらいだ。

 

 「ひょっとして逃走中の知能犯だったりして…なんてな…」

 

 ふと想像してみる、実は山下はオレオレ詐欺であくどく稼いでいた特殊詐欺グループの構成員で警察の一斉摘発から逃れ、現在は各地の日雇い労働に潜んだりしながら捜査の包囲網からなんとか逃れようとしているとか…。なんかあり得る、微妙に。少なくとも当時は案外そんなもんかも、と思っていた。

 大体山下幹夫という男はどうにも日雇いの肉体労働で稼ぐタイプには見えない。背こそ170センチ以上あるが、腕も腰も細く、見るからに繊細そうな印象さえ抱かせる。ほんの1ヵ月前に入社してきた時はまだ肌も未成熟な大根の如き青白さで、周りの男達からは「カイワレ大根」等と呼ばれてさえいたのだ。以前まだ萩之茶屋にいた時にあいりん地区の生活状況を実際に体験してその記録をルポルタージュにするのだと息巻いている駆け出しジャーナリストに出会った事もあるが、そいつも同じように如何にもそこら辺の大学生と言った風情のモヤシっぷりで、すぐにただの肉体労働者ではない事は察しがついた。

 咄嗟に現場監督相手にハッタリをかませる度胸や以前に見せた得体の知れない凄み等を考えても山下が世間一般にいう普通の人生を謳歌していた訳ではない事は察せられる。

 

 別にそれ自体はだいぶ前の話だし、今更どうでも良い。だが“ハートマン軍曹”にとってはそうではなかったようで、あの一件から5カ月ほど経った頃辺りからだろうか、事あるごとに山下の動きをつぶさに捉えようとしているのが現場でも見て取れるようになった。その目にはどこか探りを入れるような、怯えが混じっているような、とにかく尋常じゃない色を湛えていた。

 何かヤバいのでは…?と思った健輔はそれとなく、山下にその事を伝えていたのだが、当人はケロリとした顔で「アイツに出来る事なんてありません」と気にも留めていない風だった。だがだんだんそうもいかないように思えてきた。たまの休日に皆で呑みに出た時の事、近所の呑み屋街の一角でふと粘ついた視線を感じた健輔は、思わず振り返ると果たしてそこには探るような視線でこちらを注視する“ハートマン軍曹”の姿があった。魚のように濁ったその黒い目は健輔や周りの人夫達を素通りして、確かに山下だけを捉えていた。

 明らかにこちらの、というか山下の事を探っている。そう確信した健輔だったが、一方で何故、という疑問も確かにあった。以前の意趣返しを企んでいるのか、だとしてもなんで今になって…?

 疑問は尽きなかった。そんなある日、山下の持ち物や彼の触ったものが突然なくなる、といった事件が頻発し、酷い時には山下の部屋が家探ししたように荒らされている事さえ起きた。申し訳程度に他の人夫達の持ち物や部屋も荒らされていたが、山下に関してだけやたら執拗な雰囲気がした。個人的には“ハートマン軍曹”がなにか嫌がらせでやってるんじゃないかと思ったが、なんの証拠もない。

 

 流石にこれはおかしい。それが3週間近く続くと、とうとう堪忍袋の緒が切れた健輔は仕事終わりに“ハートマン軍曹”に詰め寄りに行った。その日、たまたま手洗いに寄った帰りに官舎の周りをウロウロしている奴の姿を目撃し、疑いが確証に変わったと言うのが大きかった。証拠もなんもある訳ではないが、とにかくきな臭い雰囲気を嗅ぎ取ったのは確かだ。

 

 「いい加減にしろ、なんで俺達の周りをコソコソ探ってるんだ!」

 

 “ハートマン軍曹”の胸倉を掴み上げて、そう問いただした。以前ならこんな事は出来なかっただろう、だが半年前の一件でコイツが所詮威張り散らすだけしか能のない臆病者だと分かってしまえば。もう遠慮も会釈も必要ないとさえ思えた。そんな奴が俺達の仲間に何しようってんだ!その憤りに駆られて、健輔はいつになく激しい勢いで“ハートマン軍曹”にそう問いただしたのだった。

 流石に健輔に見つかるとも、反対に吊るしあげられるとも思ってなかったようだ。“ハートマン軍曹”は明らかに同様の表情を浮かべて、しばらく御池の金魚の如く口をパクパクさせていたが、やがて健輔の表情をジッと眺めだしたと思ったら、今度は唐突にクツクツと喉を鳴らして、乾いた笑い声を漏らし始めた。

 

 「何笑ってる!何が可笑しいんだよ、アァン⁉」

 

 コイツとうとう気が触れたか?その不気味な感触に慄いた健輔は、しかしそんな惧れを振り払うように“ハートマン軍曹”をプレハブの壁面に叩きつけながら、久しぶりに凄んでみせた。高校時代やんちゃしてた時期によくやってた奴だ。

 だがそんな似合わない凄みも“ハートマン軍曹”にとっては笑いの材料を投下するようなモノだったらしい。余計可笑しそうに咳のような笑いを溢しながら、“ハートマン軍曹”は「そうかそうか」と一人納得するように口元をグニャリと歪めた。

 

 「そうだよなぁ…お前さんはなぁ~んにも知らないんだよなぁ――」

 

 嘲りと憐れみが混ざった、濁った笑みだった。コイツ一体何言ってるんだ…?動揺が体に伝わって掴み上げていた手が緩んだらしい。“ハートマン軍曹”は努めて穏やかに健輔の拘束を解くと、肩をポンと叩き、息を吹きかけるように耳元で囁いた。ゾワゾワとした悪寒が全身を駆け抜ける。

 

 「なに…まだ確証はないんだがな…ひょっとしたら俺はスゲェ情報を掴んだかも知れないんだ…。時期に確証が掴める…そうしたらお前さんもきっとぶったまげるぞぉ…」

 

 停滞した溝川のように澱んだ声で“ハートマン軍曹”はそう語り掛けると、身を翻して現場事務所の方に戻っていった。なにやら薄気味悪い予感が体を強張らせ、健輔はそれ以上奴を追及する事は出来なかった。

 

 ――それが“ハートマン軍曹”を見た最後の日だった。

 

 

 

 次の日の昼頃、“ハートマン軍曹”が突然死んだと告げられた。というかそういうやり取りが本社の人間達の間で為されているのを、たまたま人夫の一人が聞き、それがあっという間に広がったと言うのが正しい。

 昨夜の深夜、退勤の途中に事故にあったらしい。聞いた話によるとかなり酷い事故だったそうで、特に遺体の損壊が酷く、奥さんと子どもは――奴にも家族がいたのだとその時知った――その見る影もない姿に絶句するよりなかったらしい。警察は特に事件性はないと判断したようだが、何故か事故現場では異形の怪物の噂が囁かれ、ただの事故におかしな尾ひれを残したそうだ。

 

 「先輩」

 

 健輔があまりの衝撃に立ち竦んでいると不意に後方から声が掛けられた。見ると山下が涼しい表情でこちらを覗き込んでいる。

 健輔は“ハートマン軍曹”が死んだらしい事を山下に伝えると、本人は無表情に「聞いてます」と素っ気なく返しただけで、すぐに踵を返した。

 

 「それより早く昼飯の時間ですよ、モタモタしてると時間が無くなる」

 

 もう興味も失くした、という感じの酷薄な声色だった。何とも思わないのかよ!と思わず声を荒げたが、山下本人は振り返りもせずに「…自分には無関係です」と素っ気なく呟いただけだった。

 確かに。健輔もそれ以上何も言える事はなかった。自分達には何も関係ない、単にムカつく現場監督が1名、事故で死んだだけ。それ以上でもそれ以下でもなく、自分達の生活にもなんだったら現場の進捗にも全く影響はない。なんだったら明日には代わりの現場監督が派遣されてきて、アイツの穴埋めをするだけで、自分達にとってはそいつとウマが合うかどうかその事の方が余程重要だった。でも――だからと言って――!

 “ハートマン軍曹”は最期、自分に何を伝えようとしていたんだろう。アイツはどうやらお前の周りを探っていたみたいだけど、お前はその事を知っていたのか。お前は何かアイツに探られるような秘密があるのか…。いくつかの疑問が頭をもたげては口に出す前に消えていった。何かそれを声に出してしまったら、取り返しのつかない事になってしまう気がした。

 

 ふと顔を上げると、だがしかし山下の肩が僅かながら震えているのが見えた気がした。泣いているのとは明らかに違うが、コイツもコイツでなんだかんだ言っても“ハートマン軍曹”の死に動揺しているのかも知れないな――そう思った次の瞬間――一瞬こちらを振り向いたその顔に――ほんの僅かな間だけ――喜悦の表情が浮かんだ――ように見えた。

 

 ――ゾクリ

 

 瞬間これまで感じた事もないような恐怖の感情が頭からつま先までを駆け抜け、健輔の皮膚を粟立たせた。まるで山下幹夫という人間を覆う皮袋が崩れ落ち、その下に眠る異形の骸骨が嗤ったように見えた。

 

 なぁまさかとは思うが…。

 

 アイツはお前が殺したのか?なんでだ、アイツはお前の何かを探っていたのか?そんな疑問が喉から出掛けた直後、「先輩」と少し強めな声がし、目の前でパアンと小気味の良い音が響いた。

 思わず目を瞬かせると「なに呆けてるんだ?」と言った感じの表情で山下が両腕をこちらに向けていた。どうやら猫だましのような事をされたらしい。先程愉悦の形に歪んだように見えたその顔は驚くほどいつもの山下幹夫そのものだ。

 

 「先輩はいつも気に病みすぎです。悪いとは言わないけど…そのうち心に堪えますよ?」

 

 どうやら“ハートマン軍曹”の突然死や遺された家族の事を気にして、落ち込んでるんだろう、と――そう解釈されたらしい。それだけ言うと山下は今度こそ踵を返して去って行く。その後姿に先程感じた異形の面影は綺麗サッパリ消え去っている。

 結局健輔はバカバカしいとそれ以上追及する事はなかった。表情の事だってきっと気のせいだし、自分の勘なんかアテになる筈がない。

 

 どうあれアイツはもう俺達の仲間なんだ、飯場では過去を詮索しないという掟は過去に何かを背負う者同士の礼儀でもあれば、面倒事に巻き込まれないようにするため、どうせ短期間で別れるそれまでの関係だからと割り切るドライで打算的な一面も内包している事は否めない。

 しかし健輔にはそれ以上に仲間とみなしたら何があっても信じぬく、決してその仲間を誰かに売り渡してはならない、という自分なりの信念みたいなものだ。どうせいつか路地裏の片隅でゴミみたいに死ぬ身の上だ、せめて自分の信念くらい持ってても良いじゃないか、それを失くせば俺は本当にただの野良犬だ――。

 そんな下らない思い込みに囚われて、仲間を疑うとは俺も随分臆病になったよな、と健輔は皮肉っぽく苦笑する。思えば高校時代から随分遠くの世界に来てしまった、あの頃はこんな世界の一端なんて知る由もなかったし、ましてや自分がそこに身を投じているなんて完全に想像の埒外だった。それなりに世の辛酸を舐めて変わってしまったのだろう、その変化が果たして正しい事なのかは分からなかったが。

 だが健輔の心にはどうしても晴れない部分が残っていた。それは喉の奥に詰まった異物が()()()となるように、健輔の心から離れてくれる事はなかった。

 

 

 「だぁっ!やっぱ眠れねぇっ!!」

 

 そんな事今更考えても詮無い、と再び万年床に横になって今度こそ眠りにつこうとしたがやはり一向に睡魔は襲ってこなかった。こりゃあ完全に不眠症だな、少し外で頭を冷やしてこよう、と健輔は無理矢理自分を納得させるとパジャマ兼普段着のスウェットの上から作業着をジャンバー代わりに羽織り、なるべく音を立てないようドアを開けて忍び足で階段を降り始めた。

 こりゃあうっかり目撃されたら泥棒かなんかと勘違いされそうだなとどうでも良い事を考えながら、ひとまずは公園を一周してみるかという結論に至った。簡易宿舎が建てられている公園の南側に一番近い出口から出ると特にこの辺でも古くからの住宅地に繋がり、更に10分程度歩けばコンビニにぶつかりもする。まだ3月の寒さは身に染みると考えれば暖房の入っているコンビニ店内で雑誌を立ち読みしたいと思わないではなかったが、小汚い男が一人延々と立ち読みしてたら営業妨害になりかねない上にあそこはおでんやらカップ酒やら誘惑が多すぎる。ここは健康的に未だ造成中の公園をウォーキングと洒落こむのも乙なものだろう。

 

 そう結論付けて気付けば南口付近まで歩いてきたは良いが、ふと目を凝らすと南口から人が一人足早に出ていくように見えた。

 この暗闇ではあまりハッキリ姿は見えないが飯場の作業着を着ていたようだったし、更に言うならその背中は山下のもののように見えた。アイツだとしたらこんな時間になにしてるんだと思ったが、すぐに俺も人の事など言えない事に気付き、思わず笑いだしそうになった。アイツもひょっとしたら寝苦しいのかも知れないし、というかそもそもあの背中が山下のものかどうかも分からないのだから。なんか四六時中アイツの事ばかり考えている気がする、良くない兆候だこれじゃあまるで「その気」がある人だ、と失礼千万な言い訳をしながら、健輔はそれ以上の考えを打ち切った。

 

 どうも今日は変な事ばかり考える、さっさと公園を適当に周回して早めに眠りにつこう。

 歩くか走るかは迷ったが夜の公園を走っても足元がおぼつかないし、最悪転んで足を捻挫しかねないので、仕方なく歩く事にした。どうせこの公園の広さならぐるりと一周するだけでも15分は潰せるし、と結論付けて土の地面の感触を確かめるように心持ちゆっくりと歩きだす。夜の帳が降りた世界にただ一つ響く靴音、見上げれば一面満点の星空が――なんてハードボイルド小説みたいなお約束もなく、掘り起こされた地面は土を蹴る音すら響かせず、万年不夜のこの街で星空など望むべくもなかった。代わりに月は明るい。

 

 もともとこの公園には1万本以上の木が植えられていたそうだが、今やその殆どが根こそぎ薙ぎ倒され最早見る影もない。当初の公約では伐採する木の総数は元々の半分という事だったようだが、明らかにそれより多く斬られており、結局役所の言う事なんていい加減なもんだと思う。特に自分達が主に担当している南面は体育館の建設やら何やらで禿山も同然になっているが、北面は流石にまだ森林公園の面影を残している。工事工程が遅れに遅れてる南面と違って、北面は殆ど整備も済んでおり、丁寧に敷き詰められたタイルや人工林のような味気の無さは感じさせない程度には整理された樹木の植え方もあってなかなか歩く分には気持ちの良い空間だ。俺が設計したわけじゃないけど、俺達が造った公園だぞ、と少しだけ自画自賛してみるが、そんな虚栄心を見透かすように3月らしい寒風が健輔の全身を貫き、一瞬で鳥肌が粟立つのを感じれば、北口から住宅地の方に出て、公園を周回する計画だったが、まだ部屋の中の方がマシだ、不眠症でも良いからやっぱり早く戻ろうという気になってきた。こうして何かしようと思い立ってもなんだかんだ言い訳を拵えてはすぐに諦めるのが己の悪い所だぞ、という心の声からの突っ込みは盛大に無視することにして。

 

 そのまま元来た道を引き返すのも癪なのでせめてそれ以外での部屋までの最短ルート――野球場のルートを半時計周りに歩いて依然造成中の遊歩道を通って行こうと決め、一端は道を戻ると途中で向かって右に折れて、野球場の前を横切っていく。森や自然と違ってこういう無機質な人工物は夜の闇に堕ちると酷く硬質で冷たい感じがする、人が使ってないなら猶更だ。何故かやたら不気味な存在感を放つ球場を無視して健輔は足早に歩を進めた。最もこの先は木々も散策路も整備途上なのであまり早歩きも出来ないのだが。

 

 ガサリ。

 

 半ば程行った所で突然草木の擦れるような音が聞こえ、健輔はギクリと立ち止まった。ふと音のした方を見やると特に誰もいない、が冷静に考えれば猫でも通ったんだろうというとなるのが当たり前で我ながらのヘタレっぷりに嫌気がさしたが、よく耳を凝らすと何やら囁くような声も一緒に耳に入ってくる。明らかに人の声としか思えず、しかも茂みの奥から。

 

 「だ、誰だ…こんな時間に…!?」

 自分もそのうちの一人だろうが、とかまさか幽霊じゃあるまいな、とかこんな新設の公園に出る幽霊があるか、とかどうでも良い事を一度に考え、やっと絞り出した声は案の定上ずっている上に夜の闇に碌に反響もせずに消えていくだけだった。少なくともその声の主には全く届いていないのは未だに微かに聞こえるヒソヒソ声が証明している。

 ええい、なんなんだクソと自棄になって、こうなったら茂みに直接分け入って正体を直接見てやろうか、と思った矢先にこれまで囁くようだった声が一際ハッキリ聞こえてきて健輔は瞬時にその身を硬直させた。

 

 「んん…んねぇ…こんな所でスるつもりぃ…?」

 「どうせ人なんか来ないよ、まだ工事中なんだから…」

 

 耳に飛び込んできたのは酒に酔ったような男女の嬌声と啄むような搔きまわすような水音、それが何を意味するのかは流石に健輔にも理解でき、慌てて咄嗟に手近な低木の陰に身を隠した。心臓が妙にバクバク鳴っているのはよもや自分の声や発した音が向こうの相手に聞こえやしなかったかという疑念か、はたまた見てはいけない聞いてはいけない世界に踏み込んでしまったような罪悪感と否が応でも想起される行為への情景故か…。

 いずれにせよ自分が立ち寄って良い状況ではない事に変わりはなく、健輔に思いつく事は可及的速やかにこの場を退却する事だと察した。本来なら勝手に敷地に入り込んだ輩に何か物申す事があるのだろうが、それは本社の人間が居たら勝手にすれば良い事であって自分には関係ない。

 とは言えなるたけ音を立てたくないとなると足早に去るのも難しく、暫くは地面を四つ足で這ってひっそりと距離を取ろうとしたものだが、これがなんとも犯行現場からコソコソ立ち去る空き巣、いや拾い食いの現場を目撃されてとっとと逃走する野犬の構図で、我ながら惨めだ。この5年間風俗で女を抱いた事はあっても、カノジョなんて望むべくもないのは分かってはいるのだが、それにしたって世間とはかくも不公平なモノである。

 

 不意に恵麻(えま)の事を思い出した。高校時代散々バカをやってた時期に付き合ってた人生唯一のガールフレンド。やたらスピード狂で俺の後ろに座っては「もっと速くぅ~」なんてせがんで、その癖ヘルメットが嫌いでいつもバッサリ切った金髪を揺らしていた。恵麻とは地元を飛び出して以来会ってないし、住所が定まらないので勿論手紙のやり取りもしてないが今はどうしているのか、なんてこの所思い至る事もなかった。かつては僅かな文面のメールだけでも心躍り、連絡が来ない時間がもどかしかったにも関わらず、いつの間にか音沙汰もなく不意に思い出すだけの記憶に堕してしまっている。人は変わっていくし、こんな状況にも結局慣れていくのだ。

 そう言えば恵麻とは()()()()()()()()()の3人でアメ横をほっつき歩いていた時に出会ったんだった、あの二人も今どうしているのだろう…。

 

 と明後日の方向、しかも性懲りもなく過去に思考を飛ばしかけている自分にうんざりした健輔は頭を振って余計な思考を追い出した。今すべき事はさっさとねぐらに戻って明日に備えて寝る事、ガラにもない事するからこんな事になるんだと十数分前の自分の決断を呪いながら、流石にこれだけ離れれば大丈夫だろうとすくっと立ち上がった。その刹那――

 

 「キャア″ァァァァァァァァァッ!」

 

 つんざくような悲鳴、それも確かな人間の女性の声が健輔の耳朶を打った。先程の嬌声とは明らかに異なる恐怖や嫌悪の混ざった声だ。戻って様子を確かめてみるべきかと逡巡したのも一瞬、もし勘違いだったらその場で直ちに穴を掘って自害したい気持ちになる事請け合いになるのも承知で健輔は来た道を引き返す事にした。

 突然木々を掻き分けるような音と共に前方から黒い影が現れ、なんだと思う間もなく健輔と正面から衝突した。咄嗟に影をその手で受け止める事には成功したが、受け身を取るには至らず、その重さを引き受けた身は憐れもんどり返って背中を地面に強打する羽目になった。思わず呼吸が止まりそうになる程の衝撃に危うく意識までをも手放してしまいそうになったが、自分にのしかかる体制になった小さく柔らかい感触と荒い息遣いの生々しさを知覚し、あと一歩の所で踏みとどまる事が出来た。

 

 確認するまでもなく腕の中の軽い感触といい、先刻の声といい、今その手にかき抱いているのは間違いなく女のものだと分かり、不意に林の中で乳繰り合っていたって事は…と場違いな思考を巡らせそうになったが、それも暫くもがくように健輔の腕の中で動いていた女の口から「助けてください!」とほぼ悲鳴のような声が発せられるまでだった。

 

 「助けるって…一緒にいた男に何かされたのか?」

 

 「違います…!バケモノ…()()()()が…!」

 

 バケモノ。その言葉の意味を反芻するのにしばしの時を必要とした。それが過ぎれば予想の斜め上を行く発言に健輔がまず最初に思ったのは「この女、大丈夫か?」という事だった。もしかして良くない薬でも盛られたんじゃあるまいな、まずは落ち着かせないと…としかし、この場においてそういった常識的な反応は却って女を恐慌に陥らせるだけだったようだ。女は手足をジタバタ動かして健輔から離れようとする。

 こりゃあ落ち着かせるのに苦労しそうだな…と考えた矢先、再び茂みがガサリと音を立て、暗闇の中に一際大柄な体躯が姿を現した。その音を聞いた女性の悲鳴が一際高くなり、もしかしてさっきの男か?と思って暗がりに目を凝らしたが、その瞬間健輔は己が盛大に過ちを犯していた事に気が付いた。木々の隙間から差し込む月の光に照らされ、今目の前に現れたその姿はまさしく――

 

 「ッ…!()()()()…」

 

 “ソレ”はそうとしか形容の出来ない姿、少なくとも健輔の知る世界での「普通」ではない事は一目瞭然だった。

 全身を薄汚れた包帯で覆ったその姿は、しかし明らかに人間の形をしていない。長さが常人の2倍はある左腕の先には鋭い爪が並び、下半身は特に腰回りから臀部にかけてが異常な程肥大化しており、そこから伸びる左足も節足動物のように変形し、あろうことか2本生えている。

 何より醜悪なのがその頭部であり、そこだけは包帯の大半がはだけ、人、それも女と思われる素顔を晒していた――但し()()()()()()()()()。口は耳元まで裂け、口腔内には不揃いな乱杭歯が無数に生えており、左半分は焼け爛れたような真っ黒い皮膚に覆われ、目のある位置には無数の赤い単眼が欄々と輝いていた。よくみると包帯に包まれた体も左半身の皮膚は同じように変色している。総じて“ソレ”は右側は僅かに人間の面影を残してはいるものの、もう片方はそのまま別の生物のパーツを無理矢理貼り付けたような――まさに「バケモノ」そのものだった。

 

 そのバケモノは倒れている健輔達の姿を正面に捉えると、裂けた口元をグニャリと笑みのような形に歪めて開く。その口腔内には――恐怖に歪んだまま固定されたような表情を浮かべた男の生首が咥えられていた。まさか先程の声の男か…!?と認識したのと同時に途端に嘔気がこみ上げてきた。よく見るとその歪な両手にはバラバラにされた人体と思しきパーツが握られている。

 

 「イヤァァァァァァァァァッ!来ないでえええええェッッッッッ!」

 

 さっきまで一緒にいた男の無惨な姿を捉えた所で女の恐慌は頂点に達したようだ。組み敷いた健輔を押しのけるように立ち上がると脱兎の如く駆け出していくが、混乱故か足元が不安定で覚束ない。横に押し出された衝撃で健輔も気絶だけは免れた。

 しかしバケモノの方はそんな女を見逃しはしなかった。口に咥えた男の生首を吐き出すと女の方に首を向け、唾棄するようにその裂けた口腔から針をショットガンから弾を打ち出すように発射した。針は女の逃げ足よりも早く背中やふくらはぎに突き刺さり、その衝撃で彼女は足を獲られたように地面に倒れ込んだ。しかし悪夢はそれだけでは終わらない、さらに女の叫びが悲痛なモノになっていく事に気付いた健輔がなんとか体を起こして駆け寄ろうとすると、地面に倒れた彼女は涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら必死に両手を動かして、地面をのたうち回っていた。なんと既に彼女の両脚は針が刺さった所を中点に壊死したように変色し、動くたびに融解していく。

 

 (ウソ…だろ…なんなんだよ一体…!)

 

 健輔がへたり込んだままその場から一歩も動けないでいると、徐々に這うように――その体つきのせいであまり速く動けないらしい――バケモノが女に覆いかぶさっていき、

 

 「キシャァ“ァ“ァ“ァ“ァ“ァ“ァ“ァ“ァ“アッ」

 

 次の瞬間、気味の悪い奇声を発するとその大口を開き、同時に左腕と足で引き裂くように女の体を解体し始めた。二本の節足が女に突き刺さった時、怪物の奇声に合わせるように女が一際高い悲鳴を上げたがその声も次第に弱くなっていく。鋭い爪と足先の鋏が肉を抉り、無理矢理千切られた四肢と臓物が辺り一面に散らばり、気が付くと夜の森には怪物の唸り声とグチャグチャという咀嚼音だけが響き――

 

 「う、」

 

 突如――腰を抜かした健輔の前に何かが投げ出される。それは鮮血に塗れながらも先程まで確かに生きていた女の顔の半分だけで――

 

 「――うあ゛あ゛あ゛ああぁぁぁぁっ!」

 

 理性を保っていられたのはそこが限界だった。あまりにも非現実的、この世の物とは思えない地獄のような惨劇とそれを引き起こしたバケモノに対する恐怖、混乱、生理的嫌悪それらの感情が綯交ぜになり、ひとしきり叫びを上げれば先程は抑えていた嘔気がこみ上げ、気が付けば健輔は足元に吐瀉物をまき散らしていた。暑くもないのに気持ちの悪い汗が全身に流れ、体を芯から凍えさせていく。

 そんな健輔の叫びを聞いたバケモノは女を解体する手を止め、健輔の方に向き直る。左の昆虫のような表情のない目が捉えた獲物を睨めつけるように妖しく光り、もう片方はまるで小さな生き物を弄ぶ子どものような嗜虐心を唆られた人間の瞳で健輔を捉えた。舌なめずりするように口元を歪めると、ゆっくりと――だが確実に腰を抜かした健輔の方ににじり寄ってくる。変形した足は動くたびにガチャガチャと鋏を打ち鳴らすような音を立て、それがバケモノの処刑宣告のように思えた。

 

 「来るなぁ…!来んなよ…来ないでくれぇ…っ!」

 

 死ぬ、いや殺される。身も世もなくその時健輔はそう確信した。

 いや単に死ぬだけならまだ良い、あの女のように毒針で体を溶かされ、生きながらにして全身を喰い千切られて、あのバケモノの餌にされるのだ。この世界に入った時からいつかどこかの路傍でゴミのように打ち捨てられて死ぬのだと悟り、心の片隅でそれはイヤだなと思いながらも何もかも諦めて生きてきたつもりだった。でもこんなのはもっとイヤだ、だってこんなのあまりに理不尽ではないか…!母親も親友も恋人も…全てから引き離された挙句にこんな所で無惨に喰い殺されるなんて。確かに俺は学も生産性もないただの野良犬だ、でもこんな死に方しなきゃいけないほど悪い事なのかそれが…!

 

 「助けて…誰か…!死にたくない、死にたくないよ…っ!」

 

 もし助かったら今度こそ母さんにちゃんと孝行する、養父とだって正面から話すし、友とも恋人とももう過去の事だって逃げずに向き合うから…!やり直せる事だったらなんでもやり直す、だから神様…もしいるなら、もうちょっと俺に生きる時間を下さい…!その言葉が声に出たのかは知らない、だがその刹那――

 

 「止せ、《ガロ》!」

 

 木々を震わせるようにその声が暗闇から響いた。瞬間こちらににじり寄ってきていたバケモノは動きを止め、その異形の相貌を後方に転じる。茂みの奥から足音が聞こえ、何かがこちらに歩いてくる気配を感じた。

 助かった…のか…?なんだかよく分からないが先程とはうって変わって大人しくなったバケモノの姿を見て健輔はボンヤリとそう思った。顔は既に汗か涙か鼻水か涎かも分からぬほど、グシャグシャになり、股間の辺りもじっとりと湿っているのを感じた。やがて闇の奥からそのシルエットが月明かりの下に姿を現す。淡い月の光を受け、その銀色の仮面が幽鬼の如く鈍く輝いた。

 

 「全く…、代議士のドラ息子だけの筈だったってのに…。余計な目撃者を増やしちまいやがって…」

 

 如何にも不快で不本意だ、とでも言いたげな不機嫌な男の口調。舌打ちするように口元を歪めているが、分かるのはそれだけで、それ以上のその人物の感情は読み取れない。その人物の顔は口元以外銀色のドクロを模した仮面で覆われていた。マットな質感のレザースーツに仮面と同じ色の鎧を身に着けたその姿は――!

 

 「ス…《スカルマン》…!」

 

 実際その姿を見るのは初めてだった。だがこの1年あまり一度だってニュースでその名と姿が報じられなかった日はない程、今や日本中がその存在の動向を注視していると言っても過言ではない。悪趣味な仮面を被り、一人でこの国へと攻撃を仕掛けた稀代の犯罪者…。そいつが今目の前に立っている事、加えてその脇に佇むバケモノの存在自体どこか夢のような出来事だ。

 

 だがそんな事は何の慰めにもならない。怪物が大人しくなった時一度は助かったと思えた希望が急速に塗り潰され、絶望の色に染まっていく。何のことはない、バケモノの次はもっと危険なただのコスプレ殺人鬼が現れただけ、このままコイツに殺されて自分も憐れな《スカルマン》の犠牲者にカウントされる、それだけの事だ…

 

 「頼む…。やめて、殺さないで…っ!」

 

 もう完全に萎え切って動く気配すらない足を必死に引きずって、せめてカラカラの喉から声を絞り出す。そんな健輔の無様な様子を《スカルマン》は暫し苦虫を嚙み潰したように口元をへの字に曲げ、眺めていたが、やがて大仰そうに溜息を吐くと、腰元から何かを抜き取るとそれを健輔に向かって突き出した。

 

 「アンタもとことん不運だよな…。恨むならアイツを恨むんでくれよ…!」

 

 人を殺す事にとことん快楽を覚えるような嗜虐芯に溢れた声ではない、意外と理性的で下手すれば穏やかとも思えるような声だった。何より思っていたよりずっと若い…不意にどこかで聞いたような声だなと思ったが、それも眼前に突き付けられたそれが拳銃だと気付くまでだった。無情なまでに昏く冷たい銃口が健輔に否応なしに死を連想させる。

 

 ごめん、やっぱ俺ここまでみたいだ。その言葉は誰に向けられたモノなのか、自分にも分からなかった。やがてその先からまばゆいまでの閃光が瞬き、健輔の命を消し飛ばす――筈だった。

 

 「ウオォォォォォォォォォォォォォォッ!!」

 

 転瞬、地響きのような咆哮――いや雄叫びか――と共にナニカが現れた、いや正しくは「降ってきた」と表現した方が適切か。本日三度目となる非常識な来訪者は先程まで《スカルマン》が立っていた場所に向かって大跳躍から自由落下の勢いを加味して拳を振り下ろした。咄嗟に身を躱した《スカルマン》だが、その拳を打ち付けられた地面はクレーターの如く、大きく抉られ、その衝撃波はまさしく暴風となって《スカルマン》、そして健輔の体を大きく吹き飛ばした。

 

 (なんなんだよ一体…!)

 

 吹き飛ばされた勢いのまま、森の木の一本に背部を強打する。今度こそ息が止まりかねない痛みが全身を突き抜け、意識が急速に薄れていく中で健輔はせめて唐突に出現した鋼の暴風の正体を見極めようとした。

 ボンヤリとした視界に映るのは鋼鉄の鎧のように見える背中…正直敵か味方かも分からない。次に目が覚める時、果たして自分は生きているのかそれとも涅槃にいるのか、そんな事を薄っすらと考えながら健輔は意識を手放し、夜よりも昏く深い暗黒に落ちていった。

 

 

    

・・・・・・・・・

 

 

 「おいおい…。なんだよその姿は…?」

 

 

 《スカルマン》が戸惑ったように、もしくは嘲るように問いを投げかけた。隣に佇む蜘蛛と人が溶け合ったような異形の怪物が威嚇するように吠える

 それに対していちいち答える筋合いはない。自分の任務は明白だ、目の前にいるこの悪趣味なドクロ男を倒す事、それに尽きる。

 奴に対抗し得る力量はあると自負している、迷いはない、この黒い鎧が齎してくれる力も十分自分に応えてくれる。ならば自分がすべき事は可及的速やかにそれを果たすだけだ。

 

 (任務開始――!)

 

 赤く染まった十字型のバイザーの向こうに佇むターゲットをしっかりと捉え、黒い鎧の戦士――《エースゼロ》は臨戦の構えを取った。

 

 




久し振りにスカルマン登場。ついでに怪人も登場。あ~長かった!!!

今回戦闘パートのつもりでしたが、長くなりすぎたので謎の新戦士が登場したタイミングで終いです。
次回はたぶんみっちり戦う事になります。


乞うご期待。


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CHAPTER-0:『REsurgence』‐⑧

本日で序章は終了となります。


 「おいおい…。なんだよその姿は…?」

 

 不意に自分達の間に割って入った闖入者…。その異形の姿を捉えた《スカルマン》は仮面の奥の顔を歪めた。それが驚愕故なのか呆れによるものなのか、だがそれ以上にどこか可笑しさすらこみ上げてくる。

 それは全身を黒い装甲で覆った現代的なデザインの鎧武者――少なくとも他に形容する言葉が見当たらない、異質な戦士だった。メカニカルなデザインのアーマーが全身を覆い、腰の所には右側にバイクの操縦桿のような物が備わり、中央から不可思議な光を放っているベルト状の装備帯が付いていた。頭部もまた自分と同じような仮面で覆われているが、十字架のような形状をしたバイザーが、赤い光を発しながら明滅している。さしずめ悪魔祓いだな、どんなセンスか知らないが何とも酔狂な奴には違いない。最も格好に関しては自分も人の事は言えないけどな、と内心苦笑する。

 ただのコスプレ人間ではない事は先程見せた尋常じゃないパワーが証明している。間違いなく自分や隣に佇む《ガロ達》共々人外…この世の理を踏み外した側に立つ者の姿だ。それが今こうして敵対者として佇んでいる、それは即ち「アイツ」が遂に自分の存在を認識し、始末するための刺客を送り込んできたという事の何よりの証左ではないか。これが笑わずにいられるだろうか!

 

 「その姿…アンタも俺とご同類だよなぁ?誰の指示でここに来た、えぇっ?」

 

 《スカルマン》は目の前に佇む方の異形に問いを投げかける。しかしそれ――《エースゼロ》というコードで呼ばれている――は一切受け答えする事もなく、腰ベルトにささった銃のような機具を左手で抜くと、それをゆっくりと掲げた。

 なんだ西部劇らしく銃撃戦がお好みか、と揶揄しながら《スカルマン》も同じように銃を相手に向ける。しかし次の瞬間《エースゼロ》はそれを遥か頭上に掲げると《スカルマン》の存在など無視して発砲した。必要以上の轟音と共に発射された弾は遥か上空で炸裂すると、ピンク色に近い光を発し、周囲に光をしばしの間照射した。

 

 彩光弾か…!その光景を見ながら《スカルマン》は思わず歯噛みしながら、己の迂闊さを呪った。主に通信や救命活動に用いられる数分の間光を発し続ける信号弾と呼ばれるタイプの弾種だ。恐らくこの光を見てすぐにでも警察が駆け付けて来るだろう、そうなれば突破出来ない事はないだろうが、かなりの手間と時間を要する事になる。それは出来れば避けたい事だった。

 チラリと《エースゼロ》の背後で倒れている土枝健輔に目を向ける。あの様子だと恐らく気絶しただけで死んではいないだろう、自分の姿を見た者を始末すべきか否かで言えば正直気は進まないが取るべきは前者、これまで大勢の命を奪っておいて何を今更、と心の声が語りかけてくるのは承知だが、その一方であくまでその場に居合わせただけ、あのドラ息子とは無関係だし、ボイスチェンジャーの性能が確かなら――と本気で思っている自分がいる事にも驚いた。いっそ彼を担いで逃走するか、とでも思ったが前の前に佇む十字仮面にそんな余裕が許されるとは思ってない、実際《スカルマン》がほんの数瞬抱いた葛藤を《エースゼロ》は見逃さなかった。

 

 瞬間《エースゼロ》がこちらに目掛けて手の甲部分に仕込まれた銃器のような装備を発射してきた。《スカルマン》は咄嗟に右に避けて直撃を避けようとしたが、それはまるで意志を持つように軌道を変えるとそのまま《スカルマン》の左腕に絡まりついた。それは先端に三本爪状のアンカーが取り付けられた細い鎖で、腕に絡まると同時に巻取りを始めたのかきつく締まりだす。

 マズイなこの状況は。《スカルマン》は仮面の奥の顔を歪ませながら、チェーンを振りほどこうとするが硬いだけでなく多少の粘性も備えた特殊な金属らしい、自分のパワーを以てしても強引に振り切る事は難しそうだ。おまけに悠長に相手をしている程、時間的余裕もないと来た。

 

 「なるほどそれ(時間稼ぎ)がお前の目的って訳かい!?」

 

 だが《エースゼロ》もそんな甘い相手ではなかった。敢えて射出したチェーンを自分の手で掴むとそのまま目一杯の力を込めて薙ぎ払うように振り回し始める。

 

 「うおぉっ!」

 恐るべき膂力だ、地面にしっかりと足を付け、抵抗する間もなく《スカルマン》の体は砲丸投げのように振り回され、付近で佇んでいた《ガロ》目掛けて投擲された。二つの異形の姿同士が衝突し、《ガロ》が鈍い咆哮を発する。避けるか受け止めるかして援護しろ、これだから碌に知性もない不適合体は…!と言っても詮無い愚痴を吐きながら、隙を作らないように瞬時に体を起こそうとしたが、常人にとっては早すぎる立ち直りも目の前の《エースゼロ》には無限にも等しい間だった。気が付いた時には既に《エースゼロ》は地面を蹴って、《スカルマン》の間合いにまで肉薄していた。即ちそれは自分にとっても拳の有効範囲という事だが、如何せん向こうは既にストレートの拳を繰り出す所まで来ている、カウンターを狙うにはこちらの出が遅すぎだ。だが…!

 

 「――舐めるなぁっ!」

 

 《スカルマン》は咄嗟に自分の背後で蠢いている《ガロ》を掴むと、盾にするように相手の拳に向けて突き出した。強靭な威力で以て放たれた打撃は的確に《ガロ》の体に突き刺さり、悲鳴のような叫びが森に木霊した。《ガロ》の声だ。その叫びは獣のようでありながら、どこか女性の嘆きのようにも聞こえる悲痛さだ。

 そこに僅かながら動揺したのか、《エースゼロ》の挙動に刹那の隙が生まれた。だとしたら甘いと言わざるを得ないだろう、いくら半分人間の面影を残していても、そいつは所詮実験台のバケモノだ、人間らしい知性など既になく、命令に従う事だけの獣だ。しかし今はそれがありがたい、お前の命取りになる。

 

 「《ガロ》ぉ、そいつに組み付け、死んでも離すなっ!」

 

 少なくとも命令に忠実という点でこのバケモノは実に有能だった。瞬時にその蜘蛛のような脚で《エースゼロ》を挟み込んだ《ガロ》はそのまま異形の左腕と普通の人間らしい右腕で抱擁するようにその体を締め付ける。そのまま更に追い打ちを掛けるように、なんとかその体を押し返そうと藻掻く左腕に容赦なく鋭い牙を突き立てた。

 

 「ぐううぅぅぅぅぅぅぅっ…」

 

 これまで言葉の一つも発しなかった《エースゼロ》が初めて苦悶の呻き声を漏らす。どうやら「毒」が注入され始めたらしい。ああなったらほぼ助かる見込みはない、その時点でほぼ勝利を確信した《スカルマン》だったが、ここで慢心するような愚は侵さない。

 

 「――自爆しろ…っ!」

 

 受諾。その声が脳内にハッキリ聞こえた。《ガロ達》の最後の手段だ。彼らの体内にはその体を瞬時に炎上させるに足るだけの炸薬が仕込まれている。万が一戦闘不能になった際に目撃者を確実に始末しつつ、証拠隠滅にもなる。実に合理的なシステムだ、合理的過ぎて虫唾が走る。だが今はそれを実行する必要があった、目の前の襲撃者を確実に倒すため、そして何より――この憐れな半人間をいい加減楽にしたいと思ったのもある。

 

 だがしかし――

 

 「おぉおぉぉぉぉぉぉっっ!」 

 

 直後組み付かれている《エースゼロ》の体から蒸気のような白煙が吹き始めた。まさかアイツも自爆する気じゃないだろうな、と思ったのも束の間、《エースゼロ》の右腕が電撃のような速さで動き、奴を拘束している《ガロ》の左手脚がバターのように寸断された。今度こそ悲痛な絶叫が森中に響くような音響で放たれ、切り裂かれた《ガロ》の体から真っ黒い血液が滴る。

 その隙をついて《エースゼロ》は目の前の巨躯を蹴り飛ばして、その反動で距離を取ると左手からもチェーンを発射した。鎖の先の爪は《ガロ》の体に深々と突き刺さり、更に肉を抉り取るように浸食していった。先程告げた自爆コマンドが発動仕掛けているのか、次第に《ガロ》の体が沸騰するように熱を放ち始め、蒸気が上がる。

 その頃合いを見計らって再び《エースゼロ》は力任せにチェーンを振り回すと、擲弾のように《ガロ》を上空に放り投げた。次の瞬間臨界を迎えた《ガロ》の肉体が一瞬不吉に光ったかと思うと、その異形の姿は爆発四散した。先程の彩光弾とは比べ物にもならない輝きと轟音、衝撃波が放射状に吹き荒れ、更に最悪な事にその爆発が周辺の木々に火をつけ、火災が誘発され始めた。

 

 最早一刻の猶予もない、《スカルマン》の焦りを敏感に感じ取ったのか、《エースゼロ》は更に追撃を仕掛けてくる。右腕のチェーンが横鞭のように振り回され、本能的な危険を察知して即座に背後に飛び退ると案の定鞭の範囲内にあった木々が両断される。見ると前とはうって変わって鎖は赤熱化し、それが()()()()()のように物体を溶断していたのだと気付いた。

 確かに危険な武器だ、現に《エースワン》は左腕にも握ったチェーンをヌンチャクのように振り回しながら、確実に《スカルマン》の動きを封じてくる。だがそれ故に密着の間合いに隙が多い、どこか奴の動きには迷いがあるのを敏感に感じるのである。もしかしたら抹殺ではなく捕縛するように仰せつかっているのかも知れない、そういう所はなんだかんだでこの国らしいと思うが、だとしたら自分も随分と安く見られたものである。殺す気でいる者と命を奪えない者、戦いの場においてその差は絶対だ。

 

 《スカルマン》は敢えて飛び回るのをやめ、地面に着地すると腰のホルスターから拳銃を抜き放つ。それを見た《エースゼロ》も鎖を振り回す動きを止め、こちらとの間合いを図った。今二人が対峙しているのは距離にして凡そ20メートル程度、鎖のリーチを上回ってはいるが、奴なら一瞬で到達し、接近戦のレンジに持ち込めるだろうが銃ならそれより速く相手を撃ち抜ける。

 《スカルマン》は慌てて動かず、銃を相手に構えるが恐らく相手も相応に防弾仕様の筈だ。闇雲に撃っても効果は薄いだろうが、この距離なら確実に首やバイザー等の急所に当てられる。

 膠着状態は時間にしてほんの数秒だった。突如《スカルマン》は発砲するでもなく、《エースゼロ》に向けて走り出した。最短距離の正面ではなく、向かって左側から回り込むような軌道だ。

 予想外の行動に一瞬《エースゼロ》がバイザー奥の目を見開いた――と思う。傍から見れば睨み合いに焦れて接近戦を仕掛けてきたようにも見えるのだろう。だがやはり相手も対応は素早く、すぐに右手に仕込まれたチェーンを相手に向けて発射した。漆黒の闇の中に赤化した鎖とその先の鋭い爪がギラリと輝く。

 

 それを待ってた!

 

 《スカルマン》は走りながら即座に拳銃を構えるとチェーン先端のアンカーユニットに向けて弾を発射した。常人にとっては走りながらの射撃も暗闇の中、ピンポイントに鎖の先端だけを撃ち抜くのも困難な所業だったが、自分にとっては造作もない事だ。最も一瞬の行動選択の結果が命取りになりかねない戦いの場では内心冷や汗ものだが。

 放たれた弾丸は狙い違わず、アンカー部分を破壊し、自分に向かっていた鎖の軌道を変える事に成功した。まさかの事態に《エースゼロ》は続けて左手の鎖を発射しようとしたが、先程と比べてコンマ0.3秒反応が遅い。格闘の癖から気付いたのだが恐らく奴は右利き、そして左手は《ガロ》との戦いで負った傷があり、動きが鈍い。そして《スカルマン》にとってはそのほんの少しの隙で十二分だった。

 《エースゼロ》が二発目のチェーンを発射した時、《スカルマン》は既に相手の頭上の高さまで跳躍し、悠々とそれを回避しながら放物線軌道のまま、跳び蹴りを放っていた。相手も咄嗟に両腕で防御の体制に入ろうとしたが、間に合わずその仮面にまともに《スカルマン》の蹴りが突き刺さる。その衝撃は凄まじく《エースゼロ》はそのまま数メートル以上吹き飛び、地面に叩きつけられて漸く止まった。

 

 常人なら今ので確実に首の骨が折れるかして死亡する勢いだが、やがて《エースゼロ》はゆっくりと起き上がる。動きは先程と比べて精彩を欠いてはいるが足取りはしっかりしており、脳震盪などはなさそうだが、一方でまともに蹴りを食らったマスクはグシャグシャに砕かれ、幾多もの複雑な亀裂が入っていた。

 流石にタフな奴だな、と賞賛の一つでも送ってやろうかと思ったが、どうせ碌に口も開きもしない奴なのだし言っても無駄だなと思っていると、《エースゼロ》は半壊状態のマスクを脱ぎ捨て、無造作に足元に投げ出した。

 

 果たして炎に照らされた闇の中に《エースゼロ》の素顔が晒される。

 破壊された仮面の破片で切ったのか頬や額に血が滲んではいるものの、まだ少年という形容が通じる顔立ち。乱雑に短くカットされた髪とムスッとへの字に曲げられた口元も相俟って余計に幼い印象を与える。自分よりも遥かに若い、下手すれば15,6くらいの少年…、こんな奴が刺客なのか…?その事に少なからず《スカルマン》は動揺を禁じ得なかった。

 

 だがそんなこちらの事情などお構いなしに少年は猶もこちらに肉薄し、拳打や蹴りを放ってきた。それらを捌きながら、そう言えば先程《ガロ》に左腕を嚙みつかれ、本来ならとっくに「毒」が回っていてもおかしくない筈なのに、という点に思い至る。負傷している左手のみ微かに動きが鈍いが、逆に言うとそれだけで、常人を遥かに超越している己の動きに追従し続けている。成程その出で立ちに惑わされもしたが、やはりコイツは自分達と同じ突然変異のバケモノなのだな、という確信が改めて湧き上がっていく。

 それなら何の遠慮もいらない、と思う所だが、しかし状況は格段に良くない。既に最初の信号弾が上がってから5分近く立とうとしている。恐らく最寄りの交番はとっくに異変に勘づき、近くの署の応援も到着しかねない頃合いだ。このままバケモノ同士で不毛な殴り合いをするメリットがこちらには無さすぎる。

 

 「なあ、アンタも警察は困る身の上だろ、ここは引いた方がお互いのためだと思うぜ?」

 

 焦りを悟られないように、さも余裕そうな口調でそう告げるが相手は例によって何も返答しようとしない。それが殊更に《スカルマン》の神経を逆撫でする。なんなんだこのガキは、もしかして口がきけないのか…!

 

 「このまま俺と俺と心中する気か…、なんとか言えよ、えぇっ!?」

 

 どうにも自分のペースを乱されているようで腹立たしい。その苛立ちがつい口をついて出た。すると向こうの少年も舌打ちするように口を歪ませ「…五月蠅い」、と低く呟いた。その声と同時に腹部に鋭い痛みが走り、《スカルマン》は大きく後方に跳ね飛ばされていた。

 なんとか空中で受け身を取って着地には成功したが、装甲とスーツを貫通する勢いで体にめり込んだ衝撃は臓腑を震わせ、その奥の神経すら痛めつけたような気さえした。見ると《エースゼロ》は右掌底を大きくこちらに突き出した、独特の構えで臨戦態勢を取っていた。今のは恐らく掌底突き、しかも何か特殊な拳法の型だ。

 やはり悠長に撤退を許してくれるような相手ではないらしい、なにより戦いの最中に引き際を考えた方が負けだ。気付くと周辺に既にパトカーのサイレンの音がどんどん近くなり、機動隊の大型輸送車と思しき車の気配も感じる。どうやら意地でもコイツを始末してその後、警察達を徹底的に殲滅する必要がありそうだ、と《スカルマン》が覚悟を決めたその時、

 

 「キュイィィィィィィィィィィィィィィィィィィッ!」

 

 満月に影を差すように何かが過った、と思った途端、鋭い雄叫びが《スカルマン》と《エースゼロ》を襲った。同時に十数本のダーツのようなモノが《エースゼロ》に襲い掛かり、彼はそれらを回避する事を余儀なくされた。大きく開いた二人の間合いにその影が降りたつ。

 影の正体は鳥のような姿をした人間――いや最早人間と呼んで良いものなのか分からない――だった。

 頭部の形状は鳥そのもの。体は墨のように黒く変色し、光沢を帯びている。左手から右足に掛けて袈裟斬り状に羽毛のような形の硬質な突起を複数生やし、鱗に覆われた脚はまさしく猛禽類の如き巨大な鉤爪が鋭く尖っていた。第三者が見れば間違いなく《ガロ》と呼ばれた怪生物と同質のバケモノ、という感想を抱いただろう。

 だがその瞳――地面に降り立ち《スカルマン》をジッと見つめる両眼には確かな人らしい知性を備えていた。

 

 「――いつまで遊んでいるつもりだ…。引き時を見失うなミキト」

 「…千鳥(ちどり)か…!」

 

 静かな、だが確かな人間の言葉でその怪物は《スカルマン》に告げた。その声に《スカルマン》は歯噛みしながらもここは素直に了承する道を選ぶ事にした。目の前の少年相手に互角の対決に持ち込まれ、引き際を見失う程の無様を晒してまで、撤退を選ぶのは正直屈辱以外の何者でもなかったが、それも全て自分の蒔いた種だ。目の前の男――因みにコードは《モズヴェルノム》だ――の言う事は正しい。《スカルマン》は「っ…分かった…」と絞り出すようにこの場の撤退を了承した。

 

 「少年」

 

 新手の闖入者相手に依然警戒を解かない《エースゼロ》の方に向き直って《モズヴェルノム》が突然口を開いた。

 

 「今回は我々の負けと言う事で良い。だから今日の所は君も素直に引いてくれたまえ」

 「…そう言われて了承すると思うのか…?」

 

 《モズヴェルノム》の提案に対して少年が憮然とした表情で答える。目の前の相手に先程の型の構えを見せ、臨戦態勢を解かぬまま、「…お前達を捕らえる事が俺の任務だ。任務はやり遂げる…」静かに、だが有無を言わさぬ口調で少年もまたそう告げた。

 

 「ふっ…生真面目な事だ…行くぞミキト」

 

 どこまでも頑ななその受け答えに《モズヴェルノム》が思わず苦笑する。そういう仕草も実に人間的だが、次の瞬間その体が大きく変形しだした。両腕がより肥大化し、特に指が大きくの伸びて鳥の翼のようなフォルムを形成する。併せて上半身もその翼椀を羽ばたかせるに足る筋肉量を得るためなのか、胸筋が大きく盛り上がっていき、最終的には一回り程大きくなったその姿はまさに巨大な怪鳥そのものだった。さっきまで両腕だったその翼をはためかせるとその巨体がふわりと浮き上がりだす。《スカルマン》は咄嗟に《モズヴェルノム》の脚に捕まるが、その重量でさえも妨げにはならない、二人の影は一気に地上を離れ、月明かりの空に飛び出した。

 

 「逃がすか…!」

 

 勿論それを黙って見ている《エースゼロ》ではなく、無事だった左手の鎖を射出しようとしたようだが、その瞬間、以前に彼目掛けて発射され、地面に突き刺さったままだったダーツ――《モズヴェルノム》の羽毛状の突起物だ――が一斉に起爆した。爆発と言っても小規模な花火程度のモノだったが、一瞬目を眩ませるには十分な威力で、その僅かな隙をついて《スカルマン》と《モズヴェルノム》の二つの異形は闇に消えていった。

 

     

・・・・・・・・・

 

 

 

 完全に不覚を取った。

 

 満月の夜空に消えていく影をただ遠巻きに眺めながら《エースゼロ》は歯噛みした。その途端これまでの戦闘で蓄積した疲労がグンと押し寄せて、高熱に浮かされるような感覚と共に、地面に片膝を突きそうになったが、かろうじて急いでこの場を立ち去らねば、という使命感が倒れ込みそうになるのを防いでくれた。やはりシステムもまだ完全ではないのかも知れない、なんとか格闘戦で食らいつく事は出来たが、それにしてもシステムの恩恵ありきであり、それもこの通り限界ありの代物と来たものだ。

 それに加えて完全な任務失敗、それもあと一歩という所で――。あの奇怪な鳥人間の襲撃さえなければ、と詮無い事を考えてみても、事実は覆らない、むしろたらればに依存している内は達成など望むべくもない事だ。こういう結果になった以上今自分がすべき事は速やかに、それも警察の手に掛からず、この場を離れる事、せめて無用な騒ぎを起こせば失敗どころではない。肉体の休息も成し遂げられなかった事への後悔もその後についてくるべきものでしかない。大丈夫だ、命ある限り次の機会は必ず訪れる――。

 

 そう、命あってこそだ、それを失ってしまえば永遠にそのチャンスは巡ってこない。

 周囲を見渡すと、かつて人だった者、そして今は無惨な血の跡と骨肉の破片が転がされていた。恐らくあの《ガロ》とか呼ばれていた獣の仕業だろうが、それを指示したであろう骸骨男もまさに人を人とも思わぬ、鬼畜の所業と呼んでも良いだろう。所詮自分はアレと同類なのかと思うと再び暗澹とした気持ちがこみ上げてくるが、決定的に違うものがあるとすれば…。

 

 (――すまない、助ける事が出来なかった)

 

 二つの遺体を前に今は静かに手を合わせる。所詮それがただの気休めでしかない事も自己満足に過ぎない事も百も承知だ。ただ今のこの状況では火に葬し弔う事はおろかせめて花を手向ける事すら叶わない。非力な自分を恨んでくれて構わない、必ず仇は取るから――。

 そう、少なくとも自分はまだ人間だ、人の痛みに共感し、死を悼む事の出来る、面倒くさく不条理で得た物よりも失った物の重さしか実感出来ない、ただの。例え自分にあるのがこの歪んだ力とそれを同じように振るう事だけなのだとしても。

 

 そこまで考えた所でふと、そう言えば自分が来る直前まであのバケモノに襲われていた人影があった事に気が付き、すぐ視線を自分の拳が穿ったクレーター擬きの付近を見やる。果たしてそこから15メートル程離れた木の陰にその男は倒れていた。服装から察するに恐らくこの公園の改修工事に当たる作業員だろう。なんでこんな時間に出歩いていたのかは知らないが、とりあえず髑髏男の関係者ではないようだ。完全に意識を失ってぐったりしているものの、息はあるし一酸化炭素中毒の兆候も見られない、これなら助けられるだろう。そう判断すると《エースゼロ》は男を米俵のように担ぎ、そのまま走り出した。こうなった場合の逃走経路はあらかじめ頭に入れてある、この男は手近な所で降ろせば良いのだし、とそれだけ瞬時に計算し、《エースゼロ》は煙に巻かれる森の中を駆けだす。

 不意に耳介からではなく、首の辺りから骨を震わせて声が響く。スーツの下に仕込んだ咽喉マイクからの通信だ。

 

 〈どうやら敵は撤退したようですね、そちらはやられたのはヘルメットだけですか?〉

 

 耳朶を介さず頭に直接響くようなその声老成したバリトンボイス、間違えるでもなく(くすのき)のものだと知れた。揶揄うでもなく気遣うでもなく、凡そ感情的とは無縁な淡々とした声色だが、決して機械的な訳でも冷徹な訳でもない、あくまで感情を御する術を心得てるだけの老人の声は戦いを終えたばかりでささくれ立っている気を鎮める効果もあるのかも知れない。

 

 「増援があった、巨大な鳥人間。千鳥と呼ばれてた。リストの中に該当者は?」

 

 〈少々お待ちください…。恐らく…千鳥瑛介(えいすけ)、元自衛官。監視役として派遣されていたようですが、後にA()S()()()に志願、やはり彼らと共に失踪しています〉

 

 数少ない「生き残り」にして「成功体」という訳か、更に離反者という事は何かしら《スカルマン》達に共鳴する所があったのだろう。事情は凡そ分からなくもないが、それでも奴らのもたらす夥しい流血がこれから起こる事を好転させるとは思えない。「あの人」の懸念が半ば現実になりつつあるのは、その先見性の確かさの証左とは言え、歓迎すべき事態ではないのは少なくとも確かだ。

 

 〈…こちらの存在を悟られてしまった以上、彼らはあまり大胆には動きづらくなりましょう。あまり焦りすぎは禁物ですよ?〉

 

 自分の声色はそんなに焦っていたのだろうか?珍しく湿り気を帯びた楠の声に若干訝しみを覚えたものの、彼は「逆だ」と即断する。確かに少々気は立っているかも知れない。

 

 「こちらを知ったからこそ敵はより強気になる可能性もある。却って俺達が動きにくくなる可能性だって…!」

 

 マイクの向こうで楠の息を呑む気配が伝わった。覚悟していた事だ、恐らく今後《スカルマン》は自分達を標的として動き出す可能性が高くなる。もしくは自分達を燻りだすためならより無辜の人々を犠牲にしようとさえするかも知れない。いずれにせよここからが本当の始まりになる。

 

 〈――でしたら辰雄様もご帰還の際にはくれぐれも注意を…。今逃走経路を送ります〉

 

 そこで通信は途絶した。すぐに右目にはめ込んだコンタクトレンズを介して周囲の警察や住民の動き、カメラや車両の位置などがリアルタイムで網膜に投影される形で脳に送信される。今必要な全ての動きを精査し終えた《エースゼロ》――琥月辰雄(こげつたつお)は脇目もふらずに走り出し――そう言えば肩に担いでいるこの男はどこで降ろそうかと考えた。流石に苦言の一つでも呈されそうだが、もう一度楠に通信を開いてみるかと思った。

 

 

     

・・・・・・・・・

 

 

 

 ここはまさしくバベルの塔そのものだな、半ば夜の闇に溶け掛け、それでも完全には眠る事のない街を見下ろしながら《スカルマン》はマスクを外した。全高643メートル、殆ど都会に溜まった塵芥とは凡そ無縁な世界は酷く居心地が良い。

 

 バベル――バビロンは今でこそ神話世界の伝説のように語られがちだが、実際は紀元前6世紀ごろに世界最大の都市とさえ称されたメソポタミア文明・バビロニア帝国の首都であったとされる。史実として伝わるバベルの塔は全高98メートル、まさしく永遠の都、強大なる軍事帝国、巨万の富の象徴として相応しい威容だったのだろう。なんでもその塔の建設には数十万からなる敗戦国民からなる奴隷の存在によって支えられていたというが、逆にそれこそが言語の乱れと帝国の没落と結びついてこのような形で後世に永遠に伝わるのは果たして何の皮肉か…。

 

 混乱(バベル)、まさしくこの街に似合いの言葉だ、最も違うのは下りて裁きを降すのが天下った神ではなく、地獄から蘇った亡霊という所だが…。

 

 「何を黄昏れてるつもりだ、ミキト?」 

 

 瞬間塔の頂点に吹きすさぶ強風のように静かな、だが強い声がマスクを外した《スカルマン》――山城幹斗(やましろみきと)の背中に突き刺さる。振り向かなくても分かっている、すぐ後ろで獣化を解除した千鳥瑛介のものだ。この高さにも強風にも臆する事無く、千鳥は幹斗の片隅に並び、サングラス越しにこちらを睨みつけてきた。その目と声色には明確な非難の色があった。

 

 「この1年間お前は、いや俺達はやり過ぎた。世界は決して俺達を受け入れないだろう」

 

 分かっていた事だ、「スポンサー」の口車に乗せられている事を自覚しながらも、表向きは敢えてそれを受け入れ、道化を演じてきた。うわべだけでも大義にかこつけ、世を煽ってきた結果、意外と当初のイメージよりも支持者は集まったが、本当は単に自分は復讐がしたいだけだったのだろう。

 先程あの十字架を模した仮面の男とやり合っていた時、自分は純粋に戦うことを楽しんでいた。いやそれよりもずっと以前から人の命を奪い、その手綱を握る感覚にどこか高揚を覚えていたのは紛れもない事実だ。もう目を逸らす事は出来ない。なんだかんだと言っても自分は単なる精神を病んだ復讐中毒者だ。

 何に対してだろう?政治家か、この国そのものか、そこで安穏と生きる全てか、それともその象徴たる「アイツ」か…。それは最早自分にとって分かちがたく、結びついた物であり、今更不可分のものなのかも知れない。そんな事しても心は虚しいままだととっくに自覚はしているだろうに…。

 

 だが今は――。

 

 「それでも、やるしかない。元より俺達には道はないんだ」

 

 バビロンから全地に散らばっていき、出エジプトを経て、それでもなお居場所もなく世界から迫害を受け続けた旧約聖書の民族がそうであるように、自分達も最早帰るべき故郷はなく、恐らくこの先決して受け入れられる保証もないという四面楚歌。止めに救世主(メシア)の伝説も取り戻すべき希望もないという有様だ。そんな彼らが縋るべき者がこの復讐中毒の骸骨男しかいない不運を今更詫びてもどうにもならない。自分が出来るのはせめて彼らが脚を止める事のないよう道を拓く、ただそれだけの事だ。

 

 「ああ、そうだな」

 

 それしかないのだな。半分くらいの諦観と憐れみと、それでも確かな決意を込めて、千鳥は頷く。サングラスの覆われた表情は凡そ感情が読み取れないが、幹斗にはハッキリ分かる。なら俺はお前についていく、その顔はハッキリとそう決意していた。

 

 「それはお前の決意か?それとも皆の?」

 

 「愚門だな、俺達は皆お前についていくと決めている、例え地獄からの片道切符であったとしてもな。ただ――梗華(きょうか)は出ていったぞ、あの子を連れてな」

 

 言いづらいと感じるでもなく、千鳥は淡々と耳の痛い事実を告げてくる。だろうな、と内心で頷いてもその言葉は幹斗の心を抉るように深く突き刺さった。

 元々梗華を守っていた筈の千鳥が来た時点で薄々そんな気はしていた。これも覚悟していた事だが、だからと言って胸に去来する痛い程の感情がそれで治まる訳でもない。何を今更、この1年間散々その痛みを彼女に味わわせていたのはお前自身だ、結局お前は彼女を重圧のように扱って逃げ出したんだ、そんな奴が皆の事を考える資格なんて――。内なる声が毒虫の羽音のように自分を責め立てる。

 

 それは俺が背負わなければいけない弱さだ。かつてした事、今している事、そしてこれからするであろう全てにつき纏う後悔の根源だ。だったら受け入れて進んでいくしかないじゃないか、失う事しか出来ないならせめて失う痛みを忘れないようにするしか…!幹斗は一度息を大きく吸い、「梗華の事はお前に任せる」と絞り出すように告げた。

 

 「俺は一度あそこに戻る。身を隠すにはうってつけだし、な。暫く潜んでアイツらの事を探ってみる」

 「…分かった、俺も仲間と共に動こう。上手くいけば奴らに出くわせる」

 

 目立たないようにな、そう告げたかも分からないうちに背後からフッと気配が消え、気が付くと漆黒の空の果てにその影は溶けて消えていった。相変わらずせっかちな奴だ。

 

 「哲也」

 

 再び独り闇の世界に取り残された事を自覚した幹斗はふと眼下に広がる世界に、その光の世界の中に生きているであろう「友」に語り掛けた。勿論声が届くなど思っていない、だからこれは祈りみたいな物だ。帰る故郷のない憐れな亡霊がせめて人間として発する最後の詞だ。

 

 「お前は怒るだろうな、これじゃ昔とアベコベだって…。梗華と柚月(ユヅキ)を泣かすなって…。二人はそっちに行ったよ、もしかしたらお前に会いに来るかもな。ひょっとしたら…」

 

 俺もその内会えるかもな。

 そう続けようとしたその言葉はしかしそれ以上は続かなかった。空と地上を分かつ距離はあまりに遠く、彼自身も知らぬうちに頬に流れた雫はやがて頤を伝って、遥か下の世界に落ちていきながら、風に吹き散らされて届く前に完全に蒸発した。

 

 

 

 

 




以上序章でした。

あーーーーーーーー長かった!!!!

ここまでざっと10万218文字!同人小説は文庫サイズで10万字、200ページくらいが適量と言われてるそうなので、たかが序章になにやってんだ!と我ながら突っ込みたい衝動です。構成が下手なせいですね、書き直したい…


次回から本格的に本章が始まります。引き続き気長にお付き合いいただけると嬉しいです…と言いつつ来週は諸事情でお休みします。


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CHAPTER-1:『REvengerⅠ』‐①

…PREVIOUSLLY ON…

2017年、新宿で突如爆破テロが発生、奇怪な事件が相次ぐ中、遂に《スカルマン》と名乗る謎の怪人物が現れ、この国を、警察を、人々を翻弄していくのだった。
1年後、見習い記者の「成澤哲也」は古い知り合いの刑事から奇妙な人探しを依頼される。それは《スカルマン》の事件とも関わり合いがあるらしく、不可解なモノを感じながらも哲也は謎の少女の捜索に乗り出す事になるのだった。

一方その頃、都内の工事現場で働く青年「土枝健輔」はある夜、謎の怪物とそれを操る《スカルマン》に遭遇する。絶体絶命の最中、目の前に現れたのはもう一人の仮面の戦士《エースゼロ》だった…!


 “魔女の住む藤屋敷”に最近魔女以外が住み着いたらしい、と言うのは単なる口実だった。

 別にきっかけなんてなんでも良かったのだ、川に巨大なゲンゴロウがいるぞとか、幽霊が出るらしいトンネルの噂だとか。大事なのはこの滅多に家どころか自分の部屋からすら出ようとしない本の虫を如何に外に誘い出すかであり、そのための会話の糸口がたまたまそれで、おまけに普段なら梃子でも動かぬ半引きこもりがたまたまそれに興味を示した、という偶然が重なっただけの事だ。

 

『そもそもなんで魔女なんて呼ばれてるんだ?』

『だってさ、すっげえ家なんだぜ!それに森に一人で暮らしてるんだ、魔女に決まってんだろ!』

『つまり思い込みか、根拠のカケラもない』

 

 相変わらず()()()()とか無駄に難しい言葉を使う上にノリも口も悪い。じゃあなんでついて来たんだよ、と問いただしたくなるが、ミキトの気まぐれはいつもの事だし、じゃあやっぱり行かないとか言われたら、それはそれで困るので敢えてここは何も言わないでおく。

 藤屋敷に通じる砂利道を俺が先頭、次いで久々の散歩に心躍るのかどこかはしゃいでいるようにも見えるシベリアンハスキーのガロが続き、最後にガロに引っ張られるように、しょうがないという顔のミキトが続く。

 ひがな一日家に閉じこもり、遊び相手と言えばガロばかりなミキトを外に連れ出すのが俺の仕事みたいなものだ。今でこそ当たり前のようになってきたが、最初はイヤだった。何考えてるのかいまいち分からないし、口が悪いのも無駄に大人びた口を効くのも最初は気に入らなかった。ミキトのお父さんのお陰で町はすごく大きくなったらしけど、でもいくら同い年で同じ町内会だからって俺があのネクラと仲良くしなきゃいけない理由なんて何もない、ミキトを避けて仲良くやってる友達のグループに自分も混ざりたかったというのが当時の偽らざる心境だ。

 

 それが変わったきっかけは詳しくは覚えてないが、記憶の限りでは確かガロだっただろうか。その日は確か酷く感情的にアイツに怒鳴った気がして、もう二度と来てやるもんか、と決意して家を出ようとした所、庭に佇んでいたガロがすごく哀しそうな顔で俺の顔を見つめていた。

 その顔を見ているとなんだか急速に怒りが萎んでいくようで、気が付くと俺はガロの方に歩み寄ると、そっと顎の下を撫でた。クーンと気持ちよさげな声を上げながらガロはその優しい青い目で俺を見つめる。怒らないで、ミキトを嫌いにならないで。なんだかそんな風に言われてる気がした。

 だってアイツわけ分かんないだもん、口開けば意地悪な事ばっかり言うし、ベイブレードやポケモンの話を振っても興味ないって言うし、俺だって皆と遊びたいのに…!犬に言っても詮無い愚痴の筈なのに、まるでガロは全てを分かっているかのように俺にされるがままにしている。

 不意に背後に視線を感じ、思わず振り返ると呆然とした表情のミキトが立っていた。その手にはさっき俺が思わず投げ捨てて、部屋に置き忘れたままになっていたドラえもんのコミックスが握られていた。

 

『おどろいた…ガロが僕意外に懐くなんて…』

 

 相変わらずミキトの表情はよく分からない、でもこれは少なくとも拒絶の感情ではなさそうだ、というのは何となく分かった。そんな俺達の様子を見ながらガロが一声「ウォン!」と嬉しそうに吠えた。

 

 その後、どういう経緯があったかはよく覚えてない。普通そこをこそよく覚えておけよ、と言われそうだが、とにかく以降ミキトの俺への態度は確実に軟化した。あくまでガロを散歩に連れ出す、という口実こそ最初はあった物の次第に「フィールドワークだ」とか訳の分からない事を言い出して、興味を惹かれれば主体的に外出するようにもなったし、それまでカケラも興味を示さなかったポケモンやハイパーヨーヨーだって「知らないんだ~」「ははぁ~、さては勝てないと思って逃げ出したな」とか言って挑発すれば、途端にやる気を出して、ルールから攻略法等に至るまでマスターしようとして、いつの間にか俺より上手くなっていた。

 確かに依然として気まぐれだし、口が悪いのは確かだけど…ミキトは案外良い奴だし、凄い奴だ。今は何よりもそう思えるのが俺には不思議な気がしたけど、一方で何よりも自然な事のように思えた。

 実際ミキトは色んな事に詳しかった。効率よくカブトムシを集めるにはどうすれば良いとか川を泳ぐ魚を簡単に捕まえる方法だとか、理論にはやたらと精通しており、それを実践するのが俺の役割だ。たまにガロにも手伝って貰ったりしてるけど。そういう意味ではミキトと過ごすのは同年代の他の子どもたちと一緒に遊ぶのは違った意味で刺激的だったし、過度に顔色を窺ったり、空気を読むと言った子どもの世界のルールを気にする必要もないので気が楽だった。

 

 だから俺自身も別に目的はどうでも良かった訳だ、ミキトの気を惹ける話題を掴んできて、見事部屋から連れ出せたら勝ち、そうでなければ負けっていうゲーム。だからこの一件も何か条件が違っていれば俺の子ども時代のありふれたエピソードの一つに収まってたりしたんだろうが、運命と言うのはこういう時に不思議な悪戯をするものだ。

 

『『うわぁ…』』

 

 山道を進む事、30分ほど、ようやく目的地の魔女が住むという藤屋敷に辿り着いた時、思わず二人同時に声が漏れた。達成感のため息か、それともやはり目の前の光景に圧倒されたのか…。

 実際俺もあまり詳しい訳じゃない。たまに外出した時に国道沿いから車で見えたりとかクラスメイトの話の又聞きとかで、こんなに間近で見るのは初めての事だったから。

 藤屋敷は赤レンガで組まれた瀟洒な作りの洋館で、生垣から見える壁一面には文字通り藤の花が纏わりつくように植えられていた。決して無秩序に伸ばしっぱなしになってる訳ではないのは窓枠や屋根の塔の形がハッキリと見えるよう綺麗に刈り込まれている事からも明らかだ。よく見るとその手前の庭にもあまりこの辺では見ないような多様な花々が植えられている。

 

『…確かにこれは魔女でも住んでそうだな…』

『…だな』

 

 珍しく目の前の光景に圧倒されたように息を呑むミキトとあまりの光景に語彙が吹っ飛び、至極単純な感想しか言えない俺。そんな俺達の間でガロが何故か周囲をキョロキョロ眺めている。

 そう言えば…ここからどうしよう…?まさか家から30分以上歩いてきて、このままハイさようならじゃあまりにも味気ないし、かといって勝手に他人の家に入る訳にはいかないし…。

 

 下らない事で悩んでいると不意にガロが走り出した。『あっ、こら!』ミキトが慌ててリードを引っ張ろうとするが何しろガロは体も大きいし力も強い。日頃碌に運動をしないインドア派では相手にならず、ガロはリードを振り切ると屋敷の裏の方に走って行った。

 

『何やってんだあのバカ犬…』

 

 顔を見合せたのも一瞬、俺達はすぐにガロの後を追うように走り出した。いくら犬の癖に歩行音痴で小心なガロだが、妙にらしくないな、と思いながら屋敷の裏手の方に回ると生垣の一部が草のトンネルのような形になっている個所を見つけた。元からあったのかガロが空けたのかはよく分からないが、どうやら屋敷の中に入っていっちまったらしい、と確信した直後、『キャアッ!』と短い悲鳴が上がった。

 

 まさかガロの奴、家の中に入って家主に襲い掛かったりしてないよな、とイヤな予感がこみ上げ、俺とミキトは居ても立っても居られなくなり、すぐさま草のトンネルの中に飛び込んだ。幸い小学1年生の男子2人くらいは十分に通れる隙間があった。逸る気持ちをなんとか抑えつつ、抜けた先に広がっていた光景は――。

 

『こら、ちょっとくすぐったいってば…!よしてよあはは…!』

 

 出た先は家の裏側、綺麗に刈り込まれた芝生の中に自作と思しき木製のベンチが置かれており、そこに座っている少女にガロがじゃれついていた。

 

『へ…?』

『…何がどうなってるんだコレ…?』

 

 生垣から腹ばいのまま、体を半分ほど出しているというかなり間抜けな態勢の俺とミキトが呆然と呟く。ガロが他人に懐くなんて滅多にない事なんだけどな、少なくとも俺とミキト以外には…。

 よく見ると少女のネックストラップには細くて短い木製の筒のようなもの――たぶん犬笛だ――が架かっていた。あの音にガロは反応したんだろうか?

 そう思っていたら突然『アン!』と小さいが強い犬の声がした。ガロの声ではないな、と思って視線を転じると屋敷のウッドデッキの方から明るい茶の毛色の小さな犬――たぶんポメラニアンだろう――が飛び出してきた。いくら小さくても犬は犬、傍から見ると主人と思しき少女に襲い掛かっている、ように見える大型犬に向かって果敢に立ち向かってきた。

 それに思わず驚いたのか、ガロはパッと少女から飛び退くと一目散といった感じでこちらに向かって走ってきた。そのままようやくトンネルから全身を出した俺達の足元に纏わりつくように…というか盾にするように後ろに隠れた。おい、それで良いのか猟犬の血筋。

 

『…え、誰?』

 

 そこまでしてようやく少女の方も俺達に気付いたらしい、小型犬を抱き上げたまま、不思議そうにこちらを見つめていた。

 

 これが…キョウカ――九條梗華との最初の出会いだった。

 

 

  

・・・・・・・・・

 

 

 

 聞くからに無粋な電子音が眠りの幕を突き破り、急速に意識が生身の体に引き戻されていくような感覚を味わった。気が付くと目の前にあるのは見慣れた安アパートの天井とその中で満面床に横たわる24歳の肉体だ。

 

 体を起き上がらせると妙に節々が痛み、後頭部に重い疼痛の感覚がする。浅い眠りに陥った時にありがちな片頭痛だな、と実感した。この時期の朝は油断してるとまだ肌寒いくらいなのに寝巻代わりのシャツは首元が妙に汗でビッショリだった。目覚ましに使っているスマートフォンを除くと時計はちょうど6:20の数字を表示していた。何もかもいつも通りの朝、微妙に痛む後頭部を抑えながらシャワーでも浴びるか、と哲也は思った。

 そういや昨夜は風呂にも入らず即寝たんだった…と思い出し、風呂場に向かう。昨夜帰ってくる前になにかあった気がするがいまいち頭に靄がかかってるような感触がしてよく思い出せない。

 湯を張ってる時間はないので、適当にシャワーだけ浴びて体を洗い、大体10分前後、髪を拭きながらリビングに戻ると先程人を眠りから叩き起こしたスマホが振動していた。目覚ましは切ってた筈なので、恐らく電話の方だなと、着信を確認するとそこには「編集長」の三文字。途端にシャワーで温めた体温が一気に低下する気分を味わった哲也は、3秒ほどこのまま無視してバックレようかと懊悩したが、そんな事したら電話に出るより恐ろしい目に合う事必至なので、渋々着信ボタンを押した。ついでにスピーカーモードに設定しておく。

 

「もしも~し、成澤ですけど…」

〈ですけどぉ~、じゃなぁぁぁい、何回電話させる気だ貴様は!さっさと出んかバカモノッ!!〉

 

 耳に当ててなくて良かった、予めスピーカーモードにして軽く50センチは離して応対したのにこの声量。本日も陣内実篤はご機嫌ナナメのようだ、と思ったら直後陣内の濁声より遥かにけたたましいブザーの音が電話口に鳴り響き、椅子とか書類とかがドサドサとひっくり返るような音がした。

 …朝からオフィスはかなり賑やからしい。

 

〈…まあ良い、さっさとテレビを付けろ、どこのニュースでも良い〉

 

 沈黙から数刻後、暫く咳き込むような音と共にいくらかクールダウンした陣内の声がそう告げる。何の話だろう、と思って哲也は布団の隅に放り投げられていたテレビのリモコンを拾って、スイッチを操作した。

 あまり朝にテレビを見る習慣がない哲也としては、なんか他所にウチが追ってた案件をすっぱ抜かれたのかしらん、とでも思ったのだが。果たして真っ先に映ったニュース番組で映していたのは…。

 

〈こちらは中野区にあります都の杜公園の様子です。昨夜爆発が発生し、公園の大半を占める森林部分が延焼したようです。地域住民によりますと昨夜未明、公園の上空で爆発があったという事でその後火災が発生したとの事、また焼け跡から男女2名の遺体が合わせて発見されており――〉

 

 その公園なら哲也も知っている。何でも地域住民の反対運動を無視して、公園の改修計画が進められていた、という黒い噂があったとかで、以前ウチの方でも取材をした事がある。確か結局工事は強行されて、その後確か《スカルマン》に襲撃された筈…。

 

「《スカルマン》の事件ですか?」

 

 それを思い出し、哲也は思わずそう問うていた。だが陣内は素っ気なく〈知らん〉と返しただけだった。

 

「知らんってなんすか?こんな事する奴が他にどこに…」

<出てないんだよ、例のサインが>

 

 例のサイン?と一瞬考えかけたがすぐにあのドクロマークの事か、と言う結論に至った。

 過去の事件でもいずれも《スカルマン》が犯行声明代わりなのかなんなのか、必ず置いていく悪趣味なホログラフィだ。因みに一度科研で分析したらしいのだが、システム自体は高度ではあるが意外とありふれたものらしく、そこから犯人を特定する事は出来なかったらしい。

 

〈少し前に奴の模倣犯の記事を書いたろう?また模倣犯かも知れんが、ここまで大規模なのは珍しい。目撃者にアポ取れたから一之瀬を向かわせた、お前も助手で行ってこい〉

 

 おお、あの堅物オヤジが自分に仕事振ってくるなんて珍しいと思いつつ、そう言えば昨夜の一件を思い出した。真琴は確か件の少女の件についてなんとか編集長に根回ししておくと言っておいてくれたが…。

 

「それは良いですけど…真琴さんからなんか聞いてません?俺の仕事の件とか…?」

<ああ、アレだろ立木が言ってた事件現場に出てくる女の子の話だろ、後にしろ、今はこっちのが先だ>

 

 えぇ…そんな直接的に伝えてたんかい真琴の嘘つきめ…と哲也は天を仰ぎたい気持ちになった。たぶんこれ絶対に調査とか許可されませんね…。

 

「…了解いたしましたぁ…」

 

 自分としては無駄な抵抗はせずに比較的素直に応じたつもりだったが、陣内にはあっさり看過されてしまったらしい、<何やら不服そうだな?>と電話の向こうの声が剣呑になる気配がした。いや、決してそのような事は…と言い訳しようとしたが間を置かずに<言っておくがな!>と再び陣内の怒鳴り声が耳に反響し、それ以上の言葉を続けるのを遮った。

 

<うちは探偵じゃないんだ、家出娘の捜索がしたきゃ勝手にやれっ!だがその前に目の前の仕事を片付けろ物事には優せ――>

 

 『優先順位ってものがあるんだ』、とでも続けたかったんだろうたぶん。その先のオチは読めてたので哲也は敢えて電源を切らずに携帯を耳から遠ざけた。直後電話の向こうでけたたましいブザーと何かがひっくり返る音が響いたのに僅かながら溜飲が下がる思いがして改めて通話を切った。

 

 とりあえず朝飯は何にしよ?

 

 

 

 半分に切ったパンにそれぞれチーズとマヨネーズをまぶしたシンプルなトーストに簡易カフェオレという如何にも男飯な朝食を食べ終えると、ちょうど真琴からメールが入った。取材対象へのアポは朝の10:00からとの事で、中野区の病院に直接来いと簡潔に書かれてあった。現地直行で出社はしなくて良いとの事でこういう時、比較的自由の利く仕事なのはありがたい。

 

 朝飯も食べてしまうとどことなく手持無沙汰な気がしたが、かといって二度寝と洒落込もうと思う程、図々しくもなれず、朝のニュースをボンヤリと眺めながら、哲也は憂鬱な気分になった。公園の不審火事件が終われば、今朝からは「()()()」のニュースばかりだ。そう言えばもう7年も経つんだよな…と気が塞ぐ思いだったが、同時に自分はなんて遠い所に来たんだろうという感慨もあった。

 

 あの日、まだ16歳の世の中の事なんか何一つ理解していなかったガキが一時の感情で故郷を飛び出し、さりとて何がしたかったでもなく、散々迷走しまくった末に辿り着いたのが今のこの月島の安アパートと上司と締め切りと事件に追い立てられる日々だ。多くを望まなければ決して悪くはない人生だ、未だに何かになれているような感覚とは到底無縁だが…。

 

(忘れるな――お前はまだ何者でもないんだ…!)

 

 不意に心の奥に懐かしい声が響いてきた。普段意識的に思い出さないようにしてきた過去の断片が不意に頭をもたげてきたのは、らしくない感傷に浸ったせいか…。

 そう言えば去年の盆やお彼岸はおろか一昨年の三回忌にも顔を出していなかった事実に今更ながら罪悪感がこみ上げてきた。散々勝手をやっておいて今更、という感も拭えない、実際避けてたのも、俺が今更顔を出しても、という言い訳を重ねてたのも事実だ。

 

 ――久しぶりに会いに行くか…。そう決意したのは今このタイミングでこれを思い出したのもある種運命だから、と思わないでもなかったからだし、今日は月命日でも休日でもないから、万が一にも鉢合わせする可能性が少ないから、という妙な計算を働かせたのもあった。

 回り道になるが、今から出れば間に合うだろう、なら善は急げだ、と哲也は慌ただしく朝食の片づけをすると服を着替え始めた。後で取材に行くなら喪服と言う訳にはいかないので、せめて黒い色のジャケットを取り出して羽織った。リビングに戻りテレビに目を向けるとなんとかいう党のなんとかいう大臣の演説に画面が切り替わっていた。

 

〈こんな時に、と言いますがね。こんな時だからこそ!なんですよ。卑劣なテロに屈して中止など決してあってはならない、あの忌まわしき事件から今日で6年、いや7年か…?とにかく!世界中に我が国があの事件を乗り越え、見事前に進んでいる事を知らしめるためにも今こそ我々は一丸となって――〉

 

 どうやら《スカルマン》の出現以来、ケチがつきっぱなしの例のイベントの開催意義について滔々と語っているらしい。甘いマスクと若さゆえの歯に衣着せぬエネルギッシュな物言いで一定の人気を博している御仁だが、その言葉に今はただ不快な思いしか感じず、哲也はその言葉を打ち消すようにテレビの電源を落とした。

 

 別にあのイベントが嫌いな訳じゃない。無関心でもないしどっちかと言うと楽しみだ。こんな事件さえなければ普通に特集ページでも組もうか、なんて会社皆で盛り上がっていただろうし、恐らくその様子を見ながら陣内辺りが「その裏にある利権を暴いてこい!」とか息巻いていただろう。

 しかしその口実に「()()()()」を利用し――それも忌まわしき、なんてまるで不吉の象徴であるかのような語り口で過去に全てを捨てていこうとするかのような姿勢が気に入らなかった。事あるごとに前に進め、と奴らは言うがそれで置き去りにされた側の想いが晴れる訳がないというのに…!

 ギリリと歯噛みしたのも数瞬、結局味わったのは更なる虚しさだけで哲也はこれ以上考えるのはよそうと思った。奴に悪意がある訳じゃないし、こんなささくれ立った気持ちで故人に参りにいくものじゃない、と理性が優ったからというのもある。

 

 結局俺が一番前に進めてないだけなんだよな、と哲也は独り言ちながらリュックサックを背負うと今度こそ玄関を開けて安アパートを後にした。

 

 

 ――「あかつき村事件」から時期に7年が経つ…。

   

 

 電車の時刻を調べようとしたらいくつかの路線が運休だった。

 なんでも爆破予告が各所であったらしく、安全を考慮して運行をストップしているらしい。こういう事をするのは大抵《スカルマン》に影響を受けて、この1年ばかりで急速に増えた便乗犯共の類だ。脅迫は勿論いたずら電話も立派な犯罪だと度々メディアを通じて呼呼びかけられているのに、未だ理解しない奴らが多い。

 

 迷惑な事この上なかったが、お陰で久しぶりに我が愛車に跨がれるのだから、そこは良しとしよう――って訳にはいかないが…。ともかくアパート裏の駐輪場に幌を掛けたまま放置していたCRF250Lに1カ月ぶりに火を灯し、月島のアパートを後にしたのはそこから10分後の事だった。久々の愛車の振動と排気音、それらを身に感じながら風のように駆け抜けていくのが心地いい…とはちと表現がクサいか。八重洲通りを抜けて、365号線にぶつかれば後はひたすら道なり進んでいけば、そこより先は最早勝手知ったる風景だ。上野駅方面は流石に混んでるので主要通りからは外れて時折バイクを降りてでも裏道を進むと言う回り道を繰り返していると目的の場所についたのはちょうど8時を少し回った所だった。

 昔は毎日のように乗り回していたと言うのに、最近は数える程しか乗れてない。愛車の整備をしてくれている藤田に怒鳴られそうだな、と独り言ちる。

 最初は手近な駐輪場に停めて直接向かうつもりだったが、よく考えたら供花の一つも買っていなかった事に気付いた。どうしたモノかと考えた末、手近な所を探そうと一番目的地から近いコンビニに寄った所、そこにいくらか売られていたのは実に僥倖だった。墓所の近くにはこんなサービスも必要なんだなと現代日本のコンビニサービスのありがたみを実感し、ついでにバイクも暫くそこに置かせてもらう事にした。

 

 本日の東京の空は少しづつ冬に春の匂いが混ざった空気が漂い、雲一つない快晴だった。墓参りに日和があるのかはよく知らないが、とりあえず何するにしても良い日なのは間違いないかも知れない。しんみりした気分にならないならそれに越した事はなかった。

いざ着いてみると相変わらずだだっ広い敷地内にズラリと墓所が立ち居並ぶ様は圧倒されると言うか…何しろほぼ5年ぶりに訪れた事もあってようやく目的の場所に辿り着くのにたっぷり10分近くを要する事となった。

 

 その墓は元々設定されていた古い墓石の他、横に明らかに新設したと分かる小さい墓石が添え物のように置かれていた。どちらも几帳面に整えられているのは流石にマメな葉子叔母さんらしいと思いつつ、哲也は花と線香を備えて静かに手を合わせた。墓誌に刻まれている俗名の方をチラリと見やる。古い方にはそこだけ新しく「成澤勉(なるさわつとむ)」の名が、小さい方には「成澤(さとし)」「成澤優実(ゆうみ)」――哲也の両親の名が刻まれていた。

 

 この新しい墓は元々ここにあったものではない。勉叔父さんと葉子叔母さんがせめてもの供養にと建ててくれたものだ。それは突如肉親を失った甥に対する最大限の配慮だったかとは今では痛い程分かるが、当時の哲也にはそれを慮れるだけの精神的余裕はなかった。実際今こうして手を合わせても両親がここに眠っていると実感できる事などない。実際両親がこの場所にいない事だけは絶対に確かで、なんだったら墓誌に刻まれた「2011年3月13日」の日付も本当の事は誰にも分からない。両親がいつどのような形で亡くなったのか自分は何も知らないのだから――。

 

「…何故ここにいる?今更何しに来た?」

 

 不意に氷のように凍てついた声が哲也の意識を瞬時に現実に引き戻した。声のした方に目を向けると案の定、声の主――成澤拓務(なるさわひろむ)が露骨に嫌悪の感情を含んだ険しい視線でこちらを睨みつけていた。周囲の気温が下がった気がして、その視線に耐えきれなくなった哲也は意識的に顔を背けながら「…別に」と小さく呟いた。

 

「兄さんこそどうしてここに――」

 

 今日という日なら鉢合わせする可能性は低いだろうと思ったのに。そんな自分の浅はかな計算を読んだ訳ではあるまい、それを誤魔化そうとつい口をついて出た言葉に拓務の目尻がより一層険しくなった。

 

「気安く兄さん、なんて呼ぶな…。うちに弟などいない、特にお前のような碌でなしはなっ…!」

 

 唾棄するように痛罵に哲也は何も言い返せなかった。実際事実なのだから仕方がない、3つ年上の従兄にここまで敵意を向けられるほどの過ちを犯してしまったのは自分なのだから――。

 つかつかと歩み寄ってきた拓務は既に備えられている花と線香にちらと一瞥をくれると小さく舌打ちして、黙って手を合わせた。本当は自分の備えたモノなど、叩き出したいのだろうがそこまでは理性で堪えてるようだ。ただ寡黙に、そして頑なに目を閉じて一心に祈りを捧げてるようにも見える拓務の横顔を見ているのは辛く、哲也はその横顔から視線を外した。

 ふと視線を従兄の首辺りに向けるとそこから、顔の右頬にかけて皮膚の色が明らかに張り合わせたように変色しているのが見えた。よく見ると耳や合わせた右手にも同じように痣状の傷が見える。

 

「…兄さん、その傷――」

 

 思わず口をついて言うべきでない言葉が出てしまったのに気付いても一度でた言葉は二度と取り消せない。己の迂闊さ加減を呪っていると、拓務も「ああ、これか…」と苛立ったようにコートの襟で首筋を隠した。

 

「…去年の新宿で負った。爆発に巻き込まれてな」

 

 新宿事変か――それがちょうど去年の今日この日だ。まさか身内が巻き込まれていたとは――改めて全く関りを持たないようにしていた己の不実を実感すると共に、考えてみれば当たり前の話だと納得した。拓務は警視庁の刑事なのだ。この若さで本庁勤務なのだから、かなり優秀なのは間違いない。

 

「今日はあの日から1年だからな。決意表明みたいなものだったが…。まさかお前に出くわすとはな…」

 

 苛立ちを隠さない従兄のその姿に哲也はもう帰ろうと痛感した。従兄にとって叔父の墓に参る事は何よりも重要な事だろう、自分がいてはそれの邪魔になるだけだ…。一方で従兄を気遣うフリして自分は結局また逃げ出そうとしてるだけではないか、という思いが頭をよぎりもしたが、今は従兄の背中にかけるべき言葉は何一つとして思いつかなった。

 

「…じゃあ、俺はもう行くよ…」

 

 従兄にも叔父にも背を向けて、哲也は引き返す道を辿る。直後不意に「おい」という鋭い声が投げかけられ、思わず身を竦ませた。

 

「もう金輪際ここには来るな…!忘れるな、父さんを殺したのはお前だ…!」

 

 逃げ出す事も許さない、という訳か…。ここまで徹底的に拒絶されるともう悲しみも怒りも何も感じず、乾いた真綿のような虚しい気持ちに支配されていくような気がした。言い返す事も首肯する事も出来ず、哲也は黙って立ち去る事しか出来なかった。

 




お久しぶりです。
本日より新章となります。何度も書きましたがまだ「仮面ライダー」ではなく「スカルマン」です、まだだいぶ仮面ライダーらしくありません。それでも今後序章よりはマシになっていく筈ですけど…

「あかつき村事件」、そして哲也の身内。彼を構成するものがいくつか出てきました。今後のオリジンに関わるので、どうかお見逃しのないよう…


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CHAPTER-1:『REvengerⅠ』‐②

今回は回想。主人公の過去に纏わる回です。


 思えば哲也が叔父夫婦の家に引き取られたのも「あかつき村事件」が切欠であるから、ちょうど今のこの時期くらいになるのだろう。村の唯一の生き残りである哲也を叔父夫婦は、暖かくとは言わないが精一杯の気遣いと思いやりを以て迎え入れてくれたと思う。

 しかし当時の自分にはそれがどこか腫れ物に触れるようなよそよそしさに思えてしまい、その善意に心を開くことはなかった。当たり前だ、誰だって完璧などではない。急に家族も故郷も丸ごと失ってしまった甥に100%の完璧な心遣いが出来る人間など、よほどの聖人君子でもない限りいやしない。そんな事さえ分からないかったのが、当時の自分だ。

 

 それもあったのだろう、当時16歳の高校2年生に進級したばかりだった哲也は覿面に荒れた。

 進級と言ってもそれまで通っていた高校から離れ、馴染みのない土地の馴染みのない学校に編入した形で、クラスメイトの輪に入る事は出来なかったし、良く言えばおおらか、悪く言えば大雑把な両親と違って都の役人である勉とそれを支えてきた葉子と言う、自他ともに認めるお堅い家風も当時の哲也には気詰まりでしかなかった。

 故郷の事も家族の事情も誰にも話せないまま、群れから外れたはぐれ者が同じように疎外感を感じていたグループと惹かれ合ったのは必然だろう。何より彼らは哲也があかつき村の当事者と知っても一切避けたり、上辺だけの思いやりを見せたりする事はなかった。こっちに来てから半年もしないうちに哲也は碌に家に帰り着くことすらなくなり、仲間達――世間的には「不良」と呼ばれるグループであってる――の家に入り浸り、時には学校すら殆ど通わない状況になっていた。

 

 世間的に見れば十分道を踏み外していると言える甥を放っておく勉ではなく、立木に捕まってこってりとしごかれる度に迎えに来ては「もうあんな連中と付き合うのはやめろ」「将来の事を真剣に考えるんだ」と釘を刺してきたものだった。が当時の哲也には鬱陶しい小言以外の何者でもなく、毎度不毛な応酬を繰り広げてはまた家を飛び出して、という悪循環を延々と繰り返した。

 

 永遠にこんな事してはいられない事くらい分かっていたが、そこから目を逸らし続けたのは単なる逃げだった。その逃避根性が最悪な形で終わりを告げたのはある種報いだったのかも知れない。

 グループにいた女子が暴行を受ける事件が起き、その主犯格のたむろするクラブに殴り込みに行って徹底的に敗北した。相手も半分は病院送りにしてやったし、その後警察が動いてくれたお陰で敵のグループはほぼ壊滅したらしい。大筋で言えば喧嘩に負けて勝負には勝ったかも知れないが、当然哲也達も大怪我を負ったし、事が警察沙汰になった以上、学校側も哲也達に停学を下すなど重い措置を講じた。停学が開けて戻ってみれば、もう以前のように皆で集まって一緒に騒ぐような事はなくなった。折しも就職や進学を考え始める時期だ、誰も好んで無茶をやってまで、将来を棒に振る事はない。一緒にいる間は絶対だと思ってた繋がりも所詮自分の故郷と同じ、吹けば飛ぶような脆弱で細い糸でしかなかったと思い知った高校3年生の夏だった。

 哲也も周りがそうしてきたように自然と就職について漠然と考えざるを得なくなった。ようやく人生をやり直す気になってくれた不肖の甥を叔父夫婦は恐らく精一杯い支えてくれたと思うが、やはりしでかした事がそれで帳消しになる筈もなく、暫くはぎこちない関係が続いた。元より正義感が強く、警察官を志していた従兄に至っては、哲也と関わる事を嫌い、大学に進学するや否や家を出ていった。

 再び寄る辺のなくなった虚しさはどうしようもなく、とにかく一刻も早く家を出たい、寮とがついてれば何でも良いと捨て鉢な気分で場末の警備会社に飛び込んだ。

 

 結局そこで乱闘騒ぎを起こして、クビになって台東区の叔父宅に戻る羽目になったのが1年後。これでももった方だと思う。喧嘩を起こした理由は至極単純で哲也があかつき村の生き残りだと知った口さがない先輩が事あるごとに「細菌持ち」と揶揄した事だ。子どもっぽい安い挑発だと分かってはいても郷里や家族、親友たちを穢された事に対する怒りは収まらず、徹底的に叩きのめしてやった。幸い警察沙汰は会社の揉み消しで避けられたが、もうそこにいる事は出来なかった。

 結局寮を出て叔父夫婦の家(ふりだし)に出戻り。理由だけ話して、後は捨て鉢な気分になって再び家を飛び出した。結局俺は何も変わっていないんだな、と痛感しただけだったが、あの頃と違ったのは勉が飛び出した哲也を追いかけてきた事だった。

 

『少しだけ話さないか?』

 

 そう提案してくる叔父にお説教はたくさんだ、と吐き捨てて拒絶してもこの日ばかりは勉も強情で、『そういう事を言いたいんじゃない』と言い募り、やがて哲也が根負けして、勉に連れられるまま、馴染みだと言う居酒屋で初めて酒を酌み交わした。

 

『俺、未成年だけど良いの?』

 

 勿論突っ張ていた時期に平然と酒は吞んでいたので今更な気もするのだが、真面目人間である勉がそれを許すとは思えなかった。

 

『今日ぐらい別に良いだろう』

 

 勉は冗談めかしてそう言うとどこか照れたように笑った。曰く『わしもお前くらいの年に兄さん――お前の父さんと一緒によく呑んだりしたよ』と。そこから勉は思い出すように父との事や過去の自分の事をポツポツと語ってくれた。慎重な自分とは対照的に豪放磊落を絵に描いたような人物で、無茶をしたりもしたが、でも自分にないものをいっぱい持っている何よりも父を慕っていた事、そんな父に触発されて時には大胆な事もやった事、葉子叔母との出会いを年甲斐もなく、照れくさそうに話してくれた。

 これまで真面目一辺倒だと思っていた成澤勉というのはこのような人間だったのかを実感すると共に、急に自分はこれまでこの人の事を何も知らなかったのだな、と改めて痛感した。勝手に死んだ親の役割を仮託して、それなのに拒絶して、子どもみたいに駄々をこねて…。哲也は改めて己の不実を恥じた。同時にずっと心の奥底で蠢いていた制御の効かない熱が少しずつ、じんわりと全身に広がっていくような暖かい気持ちになって胸中を満たしていくのを実感した。

 

『…叔父さんごめん…。俺…何も分かってなかった…なのに…一人だって決めつけて…周り皆拒絶して…』

 

 そこから先はもう言葉にならなかった。燻っていった熱を冷ました代償に確かな熱さを得て溢れた涙が頬を濡らした。両親が死んだと、故郷を失ったんだと実感した時でさえ、流れる事はなかったのに――哲也はほぼ3年ぶりに泣いた。

 

『良いんだ、そんな事はどうだって…』 

 

 年甲斐もなく涙を流す甥の肩を勉は優しく叩いた。

 

『わしだってお前に謝らなきゃいけない。お前になんて声を掛けて良いか分からず、厳しくする事も優しくする事も半端にしか出来なかった。それに――』

 

 勉はそこで一度息をつくと、気を引き締めるように水を一杯飲み干して哲也の顔をまっすぐに見据えた。

 

 『わしはお前の仲間の事を何一つ理解してなかったんだ。何かある度にあんな連中と付き合うのは止せとか偉そうな事を言ったな。でもな、彼らは間違いなくお前を理解してたよ、そこに気付かなかったのは間違いなくわしの落ち度だ』

 

 そういって勉は深々と頭を下げた。突然の事に哲也は面食らうしかなかったが、叔父は顔を下に向けたまま、かつての仲間の事を話してくれた。

 

『お前がケガで入院した時の事だよ。わしが見舞いに行った時、病院で突然女の子二人に声を掛けられた。「哲也の叔父さんですよね?」って…。後ろには松葉杖をついた男の子も一人いたよ。顔を見た瞬間、ああ、お前がつるんでた奴らだって分かった…。正直言ってわしは彼らに良い印象を持ってなかった、己の不甲斐なさを棚に上げてお前が道を踏み外したのはこいつ等のせいだって責任転嫁してたんだ…!

顔を見たら文句の一つでも言ってやるつもりだったかも知れん。だがな…あの子達は言い訳の一つもなく、お前を巻き込んで本当にごめんなさい、と謝ったよ…それどころか後ろの男の子が喧嘩は俺達が始めた事だ、哲也は皆を必死に守ってくれたんだ…自分達は詰られても良い、だからお前の事を叱らないで欲しいって必死に言ってきたよ…

あの子らはお前の出身地の事も知ってた。なのに何の偏見も惧れもなく受け入れてくれてたんだな…わしは猛省したよ、あの子達もお前も確かにあまり褒められた事はしてこなかったろう、でも間違いなく彼らはお前の先輩なんかより遥かに立派だ、「あんな連中」と詰って良い子らではなかったんだ…それなのにわしは…!』

 

 そこまで言って勉はふぅっと悲しそうに息を吐いた。その瞳にある色は後悔かそれとも――。

 

 『わしはあの子らに何も言えなかったよ…「気にするな」でも「甥を庇ってくれてありがとう」でも…そういうべきだったな…。でもわしは呆然として逃げるように、何も言わずに立ち去る事しか出来なかった…あの子らとはあの後あまり会ってなかったな…きっとわしのせいだよ…』

 

 そこが限界だったのか、勉の声にも嗚咽が混ざり始める。うっすらと頬に赤みが指しているのはきっと酒のせいだけではないだろう。哲也もまた――先程叔父がそうしてくれたように――顔を濡らしながらその肩にそっと触れた。思っていたよりもずっと骨ばった、小さい肩だった。

 言葉は要らない、今はそれで十分だった。すれ違いの日々を埋めるように、二人は暫し無言で盃を交わし合った。

 

 それから家路に着いたのは11時も周った頃、哲也と勉は並んで雷門通りのアーケードを歩いていた。途中から自分の酒の弱さを知っている叔父はほどほどに酒量をセーブしていたのに対して、気を効かせて呑み放題のサービスをしてくれた居酒屋のオヤジのご厚意に甘えた哲也は、明らかに呑みすぎ気味で世界が震度2くらいの速度で回っているような気分を味わった。

 限度というモノを知らんのかお前は。呆れたように嘆息した叔父はふと柔らかく微笑んで、ふらつく足取りの哲也をそっと支えた。

 

『なぁ哲也、故郷がどうだったとか、学生の頃がどうだったかとか…その事でお前はこれからもきっと躓くだろう…。でも、忘れるな――お前はまだ何者でもないんだ…!それらがお前と言う人間の全てじゃない…だからどんなに悩んでも苦しんでも…自分を見失うな…!お前がお前である限り…わしらはお前の味方だ…』

 

 …その言葉に哲也はなんて答えただろうか。「よしてよ照れくさい」と茶化しただろうか。それとも若輩なりのその意味を受け止めて強く頷けたのだろうか…。今となってはハッキリと思い出せない。酒の回った頭でその言葉をなんとなく反芻した哲也は不意に前方にドキリとするような冷たい気配を感じた。

 

 最盛時よりは少なくても未だ人通りはいるアーケード街の通り。哲也達の100メートル程前方にその影は佇んでいた。如何にも着の身着のままという薄汚れた風体、頭に巻かれた包帯、手に持っているのは…

 瞬間全身が総毛立つような怖気が全身を刺し貫いた。その手に握られているのは明らかに刃渡り21センチはある牛刀…!そしてそれを握りしめ感情の失せた表情でこちらを睨みつけるその姿には明らかに覚えがあった。

 

 前の職場で哲也を揶揄した職場の先輩だ。確か無様に降参の声を上げる程までに打ちのめされて、今は自宅謹慎中だった筈…!

 

『うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!』

 

 その声は誰が発したものだったのか。包丁を構え、人の物とは思えない雄叫びをあげて突進してくる男の声か、それともその異様な姿にパニックを起こした群衆のあげた悲鳴か…。ともかく突如騒然となった夜のアーケード街において、哲也が咄嗟に考えたのは相手を倒す事、そして叔父をなんとかして守らなければ、という二点だった。

 

 が、向かってくる相手に対峙しようと足を踏み出した瞬間、世界がぐるりと反転したような感覚に襲われ、猛烈な吐き気がこみあげてくるのを感じた。こんな時に――!いう事を聞かない足を叱咤してなんとか立ち上がろうとした時、既に男の影は哲也の手の届くところまで迫っていた。

 

 あ、これは死んだな。

 

 スローモーションで迫ってくるように見える男の姿を捉えた哲也は不意にそう思った。せっかく分かり合えたと思ったのに、やり直していけると思ったのに、ごめん叔父さん、どうやら俺ここまでらしい――。

 最早どうしようもない死の瞬間を知覚した時、思い浮かんだのは故郷の景色でも懐かしい幼馴染達の姿でもなく、そんな感慨だった。哲也はただ目を閉じてその瞬間を受け入れようとした、がいつまで経ってもそれが訪れる事はなかった。

代わりに飛び込んできたのは咄嗟に自分を守るように覆いかぶさってきた人の影とその熱さ、そして次の瞬間ズブリという鈍い音と共に肉の壁を通して伝わってきた衝撃だった。

 まさか…。嫌な予感に目を見開き、視線を上げた先には自分と男の間に立ちふさがる勉の姿があった。勉は男の方に向き直り、その体を押しとどめようと両手を伸ばす姿勢で立っており――その腹部には男が突き出した牛刀が深々と突き刺さっていた。

 

『…ってっめぇ…!どけジジイッ…!』

 

 思わず邪魔が入った事に苛立ちを隠せない男は身を捩って叔父の拘束から逃れようとしたが、叔父の腕は万力のような強さでその肩を離さない。興奮も相俟って怒りが頂点に達した男は牛刀を勉の腹から抜き取った。途端に傷口から大量の血が溢れ、勉の細い体が大きく傾いだが、今度は男の脚にしがみついてその動きを封じようとする。

 

『くたばり損ないがぁっ…!』

 

 男はしがみつく勉を蹴り上げると、そのまま横薙ぎに脚を払ってその体を吹き飛ばす。その衝撃で完全に力の抜けた勉の体はタイルの地面に倒れ伏したまま、今度こそ完全に動きを止めた。

 その光景を見た瞬間、溶岩のように焼け爛れた感情が頭に湧き上がり、気が付いたら哲也は酔いも吐き気も全て忘れて、地面を蹴って男に躍りかかっていた。呆然としているその顔面に渾身の拳を叩き込み、男がよろめく。その機を逃さず、手刀で牛刀を叩き落とすと、胸倉を掴んだまま勢いで男を地面に投げ落とした。頭を思いっきり打ち付け、しばらくは指一本動かせない状態になっている相手にのしかかかると、マウントポジションのまま男の鼻柱に再度拳を振り下ろした。一発だけでは終わらない、頬骨、瞼、額、口元ありとあらゆる箇所に血が飛び散るのもお構いなしに拳骨を振り下ろし続けた。

 

 何発叩き込んだか分からない、その段になって急に肩を掴まれ、男から引き剥がされた。背後を見ると通行人と思しき複数の男達が哲也を羽交い絞めにしていた。しきりに『落ち着け』『やめないか、それ以上やったら死んじまう』と囁いていた。しかし完全に視野狭窄に陥っていた哲也にその言葉に耳を貸す余裕はなかった。両腕を滅茶苦茶に振り回し、なんとか彼らを引き剥がそうとしたが、次に背後の男が言い放った言葉が哲也を現実に引き戻した。

 

『やめないか!そんな奴より君のお父さんの心配をしろ!』

 

 瞬間冷水を掛けられたように煮えたぎる感情が霧散した。そうだ叔父さんは…!?先程彼が倒れていた場所に視線を転じると数人の通行人に囲まれている勉の姿が見えた。周りの人々は耳元で呼びかけていたり、勉の腹の辺りを手で押さえたりしていた。何かを必死で抑え込むように圧迫している手、その隙間と言う隙間から赤黒い液が漏れているのがやけに鮮明に見えた――。

 

『叔父さんっ!』

 

 哲也は瞬時に拘束を振りほどくと倒れ伏している叔父の傍らに駆け寄った。横で勉の腹を抑えている男性が『くそ、血が止まらない…!』『救急車はまだか!』等と叫んでいるのがやけに遠くに聞こえた。

 

『叔父さん…叔父さんっ!起きろよ…目ぇ開けろって…なんで…なんでこんな事…!』

 

 勉の顔を両手で押さえて哲也は絶叫する。腹のみならず、口元からも血がせり上がってきて、刻一刻と大切なものが溢れ出ていくようだった。

 やがてひゅうひゅうという呼吸の音と共に咳き込むように更なる血が吐き出され、勉がうっすらと目を開けるのが見えた。叔父さん、と語り掛けようとした刹那、二の腕を物凄い力で締め上げるように掴まれた。赤く血走った目で、濡れた口元を動かしながら腕を握りしめ、勉は呟いた。

 

『忘れるな――お前はまだ何者でもないんだ…!』

 

 意識の混濁による譫言などではない、微かな、だがしっかりとした意思を持った言葉だった。それを最後にふっと腕を掴む握力が緩み、叔父の全身から力が抜けていくのが分かった。血は既に取り返しのつかない程に広がり、その失われた物がもう二度と取り戻せない物である事が分かった。

 

『叔父さぁぁぁぁぁぁぁん!』

 

 まだ温もりを残した肩にしがみついて哲也は絶叫した。とめどなく溢れる涙と共に無数の「なんで」が頭の中を跳ね回る。

 

 なんで俺なんか庇ったんだ。

 

 なんで最期までそんな風に俺に道を示そうとするんだ。

 

 なんで…ならなんで置いていったりするんだ…!

 

 叔父さんがいなくなったら叔母さんは、拓務はどうするんだ。なにより俺達だってまだこれからじゃないか、ようやく家族になれたと思った。まだ酒を酌み交わしたり、話したりする機会がいくらでもあったじゃないか…!

 

 乾いた漆黒の空に一人きりの慟哭がいつまでも木霊し続けていた。

 

 

 その後駆け付けた警察によって男は逮捕された。

 昔から腕っぷしで鳴らしてきた自負を持つ人物で哲也に徹底的に負けた事で激しい恨みを抱いたと言うあまりにも子ども染みた動機に取り調べに当たった警官も呆れ果てたのだとか。

 しかしそれが分かったからと言って哲也の心が晴れる事はなかった。むしろ自分の短慮がきっかけで取り返しのつかない事態を招いてしまったという後悔だけが重くのしかかった。

 

『お前のせいだ。お前が殺した』

 

 事情を聞いて駆け付けた拓務は哲也の顔を見るなり、感情の消えた表情でそう告げた。悲しみに暮れる叔母と彼女に寄り添う拓務を尻目に哲也は今度こそこの家に居場所がなくなった事を確信して黙って家を出た。

 

(忘れるな――お前はまだ何者でもないんだ…!)

 

 叔父の言葉を思い出す。何をすれば良いのかそれは分からなかったが、ただ変わらなければいけない、それだけは確信出来た。しばらくは友達の家を転々としながらも、一人で職を探し、最終的には立木の口利きで今のレイニージャーナルに就職する事になった。元々文章を読むのも、写真を撮る事は好きな方だったし、住居が定まるまで暫くオフィスに住み込んで良いという条件を提示してくれたのは大きかった。

 陣内が認めるまでは見習いだと言う厳しい採用要件と薄給に合わないハードワーク、ケチで頑固でいつも苛立っている上司の下でしごかれ続ける日々には流石に閉口したが、何もせずに苛立ちを抱えてる日々よりかは遥かに充実していた。

 あれから3年以上経つが、ローマは一日にして成らず、未だに見習いのままだ。叔父さん、俺は何者かになれているだろうか…?自分の過去から、ひたすら荒れていたあの時期から、そしてあの日の抱えきれない程の後悔から…脱皮して変わって行けてるだろうか…?

 

 当然その問いに答える者はいない。結局全ては自分で見つけるしかないんだ…!

 

 その決意だけを(よすが)にして哲也は再び歩き出した。

 

 

 

 




少し短いですが、今回はここまで。
どんな作品でも主人公のオリジンって大事なのでそこはしっかり描きたい所です。

それではまた次回。


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CHAPTER-1:『REvengerⅠ』‐③

明けましておめでとうございます。

本年も「仮面ライダー:RE」をよろしくお願いいたします。
でもまだ「スカルマン」


「…だからっ…!怪物を見たんだよ、それがその女と男を食ったんだ…!そしたら《スカルマン》が現れて…」

 

 生まれて初めて取り調べと言うものを受ける――実際は取り調べじゃなくて単なる事情徴収らしいが、少なくとも健輔は最初そう思った。少なくとも取調室――と言うのかはよく分からないが、ドラマなんかによく出てくる薄暗い部屋だ――に連れていかれて、強面の若手から「洗いざらい吐かんかいオラァッ!」とか凄まれて、後ろでベテランと思しき老刑事が穏やかに宥めて…みたいな事にはなってない。単に病室であれこれ事情を聴かれているだけだ。え、勿論カツ丼なんかは出ないのは知ってたよ、あれはフィクションの産物だ…。

 

 因みに今目の前にいる刑事は二人とも男で、ここはやはりと言うかベテランと若手の組み合わせ。但し年配の方は妙に派手な顔したスキンヘッドの大男、若い方は眼鏡を掛けた妙にチャラそうな優男のコンビで――こいつらホントに刑事か…?

 

「怪物ねぇ…じゃあその怪物は一体どんな姿をしていたの?」

「暗くてよく覚えてねえけど…とにかく体の半分女で、もう半分が蜘蛛みたいな、変な形になったバケモノだよ…あんな人間いるわけねぇって…!」

 

 自分が口下手なのは自覚しているが、それにしたってもっと上手い説明は出来ないのだろうか…目の前の刑事は見るからに不審げな顔をしながらメモを取っている。

 

 どうでも良いが、このスキンヘッドなんでオネエっぽい口調なんだろう、おまけに妙に様になってるんだから不思議だ。そんな事が気になるのも今日だけで嫌と言う程この話をしてきて、いい加減ウンザリしてるからだ。

 記憶が確かなら昨日の深夜、健輔はたまたま散歩に出た所で突如正体不明の怪物に遭遇し、その後更に《スカルマン》にまで出くわした。危うくそいつらに殺されかけた所を、今度はまたも正体不明の鎧武者とも忍者ともつかない人影が目の前に現れて…とその先で記憶がない。どうやらそこで気を失ったらしい、気が付いたら既に今いる病室に収容されており、この病院の目の前で倒れていた、と医師から説明された。

 

 どうやら仕事場の方は昨日発生した火災と焼け跡から見つかった遺体の調査で完全に封鎖されているらしく、当分は休業せざるを得ないらしい。健輔も軽い脳震盪を起こしてると言われたので一日くらい入院して様子を見るよう言われた。入院する金なんかねぇよ!と抗議したくなったが、珍しく会社が負担すると言ってきた。たぶん警察にあれこれ探られるのを恐れたのだろう。

 しかしながら、実際に事件を目撃してるとあっては警察も放っておく事は出来ないのだろう、意識が戻ってからというもの、事件現場で何を見た、何故あの時間あそこにいた、被害者はどんな感じだった、といった感じに任意と言う名目で証言を取らされているという事で今に至る。

 

 ただ言わせて貰うなら健輔は警察は嫌いだ、苦手と言った方がより正確か。高校時代に散々ヤンチャしていた時期にしたってアイツらの大半は自分達をろくでなしだと決めつけて、何かある度に疑りの目を向けてくるのが気に入らなかった。健輔が唯一信頼してたのが度々世話になった生活安全課の立木というロートル刑事だ。そう言えば彼は今どうしてるんだろう…。

 とは言いつつも、「怪物に襲われました、そいつが犯人です」なんて証言する奴を信じろなんてのも土台無理な話かも知れない。何しろ健輔自身が未だに信じられないのだから。

 でも確かこういう場で嘘を言ったりすると後で偽証罪とかの罪に問われたりするんじゃなかったけか…?と思うからこそなるべく見たまんまを話している訳だ。怪物は《スカルマン》に使役されてたと思うと言う事、奴からは《ガロ》と呼ばれていた事、《スカルマン》の声の感触は若い男に聞こえた事…。本日何度も話した事を一通り伝える。スキンヘッドの男はどこか考え込むような表情で手帳に目をやっていたのに対して眼鏡の若手刑事はどこか疑わし気な目でこちらを睨んでいた。

 これってもしかしたら心の片隅で俺があの男女を殺したんじゃないかとか疑ってたりしてな…。しばらく気詰まりな時間は続くらしい。

 

    

・・・・・・・・・

 

 

「だぁからねぇ、私は反対だったのよあんな訳の分からない公園作るのは!昔は野鳥も時には狸なんかも来たのよあの森には…。大体近頃の若い人は自然を愛するって心が足りないのよ――!」

 

 60代くらいの婦人の話を聞きながら、表向きはウンウンと頷きながらも真琴は内心「ダァメだこりゃ」と即刻このバカげた時間を投げ出したい心境であった。

 昨夜の都の杜公園爆破事件の目撃者と語る女性のインタビューを受けて早1時間近く、しょっちゅう脱線したり明らかに偏向した無関係な話題を繰り出しまくる女性の軌道を修正するのは実に神経が擦り切れる。無理矢理話題を誘導して、こちらの望む話を聞き出そうとするのは真琴の主義ではないが、それにしたってこれはもうその域を超えている。

 因みに陣内が寄越した頼りない援軍(成澤哲也)は先程から死んだような眼をして、病室の上に備え付けられた空調ファンが行ったり来たりしている様をボンヤリと眺めている。何故か今朝この病院で合流した時から微妙に元気がなかったが、一体何があったんだろう?と余計な事が気に掛かる――ああっもう今はこんなのにかかずらってる場合じゃなかった!

 

 とりあえず女性の証言を要約するとこうだ。昨夜都の杜公園上空で巨大な轟音と共に辺り一面が昼間になったような特大の花火みたいな光があがったそうだ。その数分前には線香花火みたいな赤い光が少し灯ったらしい。その後に公園に火の手が上がり、気が付いたら一気に広がった火事に慌てて避難した所、転んで頭を打ってしまい、不本意ながら1日だけ検査入院する羽目になったらしい――ここまで聞き出すのにかなり苦労したが、それがここまでの経緯。

 

 で、本題はここからで…

 

「で、その時あなたは《スカルマン》とは違う人影を目撃したんですよね?」

 

 そういう話題だ。女性はもともとウチのWEBニュースの読者だったらしい。この年でよくもまぁこんな場末のモバイルニュースなんか読むよ、と陣内が聞いたら怒り千万で怒鳴り込んできそうな感想を思わないでもなかったが、とにかく避難の最中に妙なモノを目撃したらしい女性はウチに情報を提供してきた訳だ。

 

「そうなのよ、あれは絶対にあのすかるなんたらじゃないわよ、ありゃ忍者よ絶対!なのに警察ったら私の話なんかまるで信じちゃくれないんだから…!全く近頃の公僕は一体何を考え――」

 

 真琴は溜息を吐いた。その後も何度か女性を宥めすかして、聞き出した話による女性が見たというのはお馴染みの骸骨マスクではなく、人を抱えて家々の屋根を八艘飛びのように飛び回る人影だったという。なんでも細身の鎧のようなものを纏った忍者みたいな人影だったらしい。一応写真も撮ってるらしいが生憎と夜闇に紛れて全く分からない。

 

「あとね!空を見たら満月の中に途轍もなくでっかい鳥が見えたのよ、あれは間違いなくゼウスが化けた大鷹に違いないわ――」

 

 またも脱線して最早三流怪奇小説みたいな証言をしだす女性の話題を正す気力ももうなく真琴は人前でなければ脱力して椅子にもたれかかりたい衝動に駆られたが、流石にそこは最低限度の理性と記者魂で乗り切った。これじゃあ編集長に怒鳴られる事請け合いね、と嘆息しながら、ようやく女性の話から解放されたのは正午を40分ほど回った所だった。

 

 

 

「今度は忍者みたいなコスプレ男かぁ…模倣犯だと思います?」

 

 とりあえず女性が泊まっていた病室を後にして、カフェ棟に続く廊下の最中。哲也がそう問い掛けてきた。ひたすらボーっとしてたようで要所はちゃんと聞いていたらしい。それに対しては真琴も今の時点では何とも言えず「さあ?」と返すしかなかった。

 これまでも《スカルマン》の模倣犯は何度か出現してるがいずれもハロウィンコスプレ用のゴムマスクとか自分でドクロのペイントを施すとか、どちらかと言うと《スカルマン》というアイコンそのものへのフォロワーと言う側面が強かった。正直模倣犯の心理すらいまいち理解出来ないのに何故忍者?と思わないでもない。

 もしかしたら模倣犯でもフォロワーでもなく、全く別の思惑があるのかも知れない…それが何なのかはいまいち分からないけど。

 

「それに…あの事も気になりますね…」

「あの事って?」

 

 珍しく神妙な顔つきで何か考え事をしている風な表情の哲也。ちょっとはいつもの直情っぷりが戻ってきたじゃない、と思いながらそう尋ね返すと彼は口元に手を当て少し考え込んでからふっと口を開いた。

 

「いや、とんでもなくデカい鳥も見たとか言ってましたよね…あれひょっとしたら巷を騒がす怪物の正体なんじゃ――」

「バカ!」

 

 珍しく思案顔と思ったらそんな事考えてたのか!真琴は持ってた手帳で後輩の頭を思いっきりはたいた。当の本人は頭をさすりながら「何するんですか!」と抗議の声を上げている。

 

「だって新宿事変の後くらいから変な怪物の目撃談ってあったじゃないですか!今回のだってそれかも――」

「バカバカしい、そんなのいるわけないでしょう!」

「これでも真剣に調べたんですよ、日本最大の鳥はオオワシで、それでも2メートルくらいだって。そんなデカい鳥日本にはいませんよ!」

「分かんないじゃない、ミナミジサイチョウとかペットの外来種が逃げ出した可能性だってあるでしょうが!」

「…ミナミ…?なんすかそれ…」

 

 あっという間に喧々諤々。因みにミナミジサイチョウってのはサバンナに生息してる大型の鳥、確か少し前にペットとして飼育されてた個体が逃げたとかで大騒動になったらしい。

 更に因みにな事を言うと怪物と言うのは《スカルマン》が現れてから、度々巷で噂になっている半ば都市伝説染みた話だ。なんでも《スカルマン》には彼の命令に忠実に従う三人のしもべが存在し、暗躍の陰で人を襲い、食らっているという。なんでも正体は蛾人間だとかチュパカブラだとか、真面目に調べても昔よくあったオカルト話に毛が生えたレベルの与太だと判断するより他なかった。バベル二世かっての!

 

「とにかく!怪物の事は放っときなさい!『謎の家出娘』のがよほどマシだわ…」

「なんでそうやって決めつけるんですか!いつも俺に言ってるでしょ、『先入観を捨てて物事を見ろ』って。怪物事件だって一緒かも知れないでしょ…!」

 

 散々調べまくった挙句にそう判断したのよ!とここが病院である事も忘れて反駁しかけた刹那、「嘘なんか言ってねえよ!」と自分達にも負けず劣らずの大声が廊下に響き、真琴は思わず眉をひそめながら、声のした方を視線を飛ばす。

 

「俺はやってねぇよ!犯人は蜘蛛みたいなバケモノなんだよ、なんで信じてくれねぇんだよ…!」

「あ~、ハイハイ誰もそんな事言ってないでしょ?」

 

 病室の前だった。部屋の前で入院着の男が二人の背広姿の男に食らいついている。二人の男は片方がスキンヘッドの大柄、もう片方は眼鏡を掛けたチャラ男風だ。なにやら鬱陶しそうに掴みかかる男を振り払おうとしている。どう見ても穏やかな雰囲気じゃないし、第一堅気にも見えない。

 関わり合いになるべきかしら、と逡巡していると何を思ったか哲也がパッと飛び出して行って「まぁまぁここは病院ですから」とか言いながら仲裁に入りだした。こういう時の行動はホントに早いんだから、と感心すべきなのか呆れるべきなのか、真琴はホウッと息を吐いた。とは言ってもアイツが入っていったんじゃヤブヘビだわ、とここは気が進まないがこっちも間に入るべきだろうと思って、駆け寄ろうとする。すると不意にスキンヘッドの方がこちらを見咎め、次いで哲也の方にも視線をやると再び真琴の方を指差し、「ああっ!」と大声を上げた。

 

「アナタ達、レイニーナントカの記者ね!またワテクシ達の邪魔をする気かしら⁉」

 

 …なんでかこっちを知ってるらしい。こんな知り合い居たかしら、てかなんでオネエ口調なのよ…と頭を回していると哲也も哲也で「え…誰…?」と素直すぎるリアクションを溢していた。

 

Ca c'était quoi?(なんですって”)我が野方署はアンタらから受けた恨みを忘れてないわよ⁉」

「野方にこんなオカマいたかな…って警察ぅ⁉」

「何よその反応は!あとオカマいうなぁっ!」

 

 案の定話が更にややこしくなっている。真琴は溜息を吐きながら、気が付いたら掴み合いの言い争いに発展しているスキンヘッドと哲也の間に割って入り、両者を引き離した。因みにスキンヘッドの方は眼鏡の男がなんとか抑えている。

 

「いい加減にしなさいよこのバカ!」

「ここ病院ですよ!ホラもう帰りましょうって…」

 

 流石に周囲の患者や看護師からの視線が痛いのか、恐縮しきりといった感じでオカマ刑事を連行していくチャラ男風。スキンヘッドは納得いかないのか腕を振り上げながら「覚えてなさいよォッ!」と叫んだ。

 

「アンタらの名前絶対に忘れないからねぇ、一之瀬真琴!それから…え~と…ナルオカテツロォォォォォォ!!!!」

「成澤哲也だぁぁっ!早速忘れてんじゃねぇかぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 

 去って行く二人に負けず劣らずの大声で叫び返す哲也。静かにしなさいバカ!と一括して空手チョップを打ち込んで黙らせたが、居たたまれない事に変わりはない。奇異なモノでも見るような周囲の視線が痛く、早急にこの場を立ち去るべしと理性が告げているが、ふと視線を転じると先程刑事二人に組み付いていた青年が呆然とした表情でこちらを見ていた。その視線は真琴を経て哲也に達すると確信に満ちたように見開かれ、それに気づいて目線を絡ませた哲也の顔もやがて同じ色に染まった。

 

「哲也って…もしかして…てっちゃんか…⁉」

「ツッチー…?ツッチーか⁉」

 

 驚愕の表情も一瞬、両者の声はすぐに懐かしい者と再会したような喜色を含んだものに変わった。

 

「え…何?知り合い?」

 思いがけずはしゃぐ両者に真琴は困惑の声をあげた。

 

 

 

 青年の名は土枝健輔というそうだ。職業は――何と言うか人材派遣会社に籍を置く日雇いの肉体労働者、らしい。今は例の事件のあった都の杜公園の改修作業に住み込みで従事しているようで哲也とは高校時代の同級生だそうだ。長い間会っていなかった上になんか複雑な事情があるらしいが、まあ第三者が立ち入るのは野暮というモノだ。

 

 日焼けした顔立ちに坊主に剃った頭は如何にも外作業従事者といった感じだが、対して荒れた掌や不健康そうに扱けた頬からはあまり健康的な生活は遅れていないらしい、と分かる。

 病棟で散々騒ぎまくってしまった事もあってか、あの辺りに居座るのも居心地が悪かった。そういう事もあって今真琴達は病院各階に設置されているラウンジの一角に腰かけていた。哲也が買ってきた缶コーヒーで喉を湿らせながら、どこか所在なさげにオロオロしている青年を見る。

 さっさと会社に引き上げるでもなく、こんな所にまだ残ってる理由は外でもない、青年が昨夜の事件の目撃者だと言うからだ。しかも本人の弁によるとかなり奇異な出来事に遭遇したそうで、それを信じてくれない警察に疑われているのではないか、と気が気ではないらしい。

 

「じゃあ、君は昨夜《スカルマン》を目撃したって事で良いんだよね?」

 

 真琴はICレコーダーを起動しながら、健輔に尋ねる。健輔はどこか自信なさげに「まぁ…それだけじゃねぇって言うか…」と言葉を濁しがちだ。どうやら話しても信じて貰えるかかなり自信がないらしい。真琴はひとまずフッと息を吐くと、健輔の肩をさするようにそっと叩いた。

 

「大丈夫よ、私は無闇に笑ったり疑ったりはしないから。とりあえず何があったのか話してみて?」

 

 話しにくいならウチの見習いにでも良いけど?と付け足すと健輔はようやくホっとしたように薄っすらとした笑顔を浮かべた。

 

 土枝健輔の主張は大筋でこんな感じだ。公園内で発見された二名は半人半蜘蛛のような姿をした奇妙な怪物によって殺されたのだという事、そいつに襲われそうになった時突然《スカルマン》が現れた事、その後今度は《スカルマン》に殺されそうになった所、それとは別の謎の仮面をつけた人影が現れて、その後意識を失った事、そして気付いたらこの病院の前に倒れていたらしい、という事だった。

 

「…やっぱ信じられねぇよなぁ…」

 

 以上の証言を照らし合わせた上で口元にペンを当てて、考え事をしていた真琴の表情を見てか、健輔が弱気になったように言った。隣で哲也が真琴さん、と小声で二の腕の辺りを軽く突いた。

 

「…ツッチーは嘘を吐くような奴じゃないです。確かに奇妙な事件かも知れないけど…」

 

 まぁ不安になるのも無理はない。実際さっきまで真琴自身が「怪物なんている筈ない」と哲也に言い放ってたのだから。というかそこで余計な援護射撃出すから、取材対象が余計不安になるんでしょうが、と思わないでもない。

 なので真琴は鬱陶しい後輩の事は「少し黙ってなさい」と強烈なデコピンを食らわせて口を封じ、その上で俯いている健輔に向けて口を開いた。

 

「…個人的にはもう少し確証が欲しいとは思う…。でも私は貴方の言う事信じるわ。」

 

 その言葉に健輔はハッと顔を上げた。真琴が怪物なんて信じない、と言ってるのは一重にピンボケ写真に曖昧な証言、ブームの時だけ集中的に目撃と相成って後は影も形も現さない、怪しさしかないような報道姿勢のせいだ。頭ごなしに否定はしないし、検証する価値くらいはあると思う事は多々ある。ただこの手のオカルト話というのはどうにも「検証は罪だ」と言わんばかりの似非科学者や妄信主義者ばかりが大半を占めている所がどうにも気に食わない。

 実際少し話してみて思ったのは、主観が混じって申し訳ないが、土枝健輔という青年の目は嘘を言ってない正直な目だと感じた、という事だ。そういう所は確かに今隣で額を抑えて悶えている後輩と同じタイプだろう。

 

「真琴さん…なんかやけに優しいですね…」

「私はいつも優しいわよ!」

 

 ようやく顔を上げたと思ったら失礼な事をほざく哲也の顔面に裏拳を叩き込み、真琴はラウンジのテーブルの上にいくらかのメモ紙を広げた。健輔と顔を痛そうにさする哲也がなんだなんだ、という風情でそれを覗き込んだ。

 

 「さっきのあの女性の証言も纏めてみたのよ、その上で健輔君の証言はあの人の話と矛盾しないわ。」

 

 そう、例のご婦人が言うには昨夜、事件現場から逃走する忍者みたいな人影は人を抱えていたように見えた、と言う。で、あるならば恐らく健輔をこの病院に運んだのがその忍者男である可能性が高い。それに加えて月明かりに浮かぶ巨大な怪物の姿。もし健輔が蜘蛛のようなバケモノに遭遇したのだとすれば、半人半鳥の怪生物とかが今更出てきても驚かない。

 その旨を話すと横で哲也が「さっき怪物なんかいない、とか言った癖に…」と何処か不満げにぼやいていた。信用できる証言は信用するだけよ、と屁理屈の多い後輩の鼻頭をノック式ボールペンを弾いて黙らせた。

 

「それに貴方、《スカルマン》を直接見たんでしょ?だったらどんな些細な事でも良い、何か覚えてる事ない?声とか体格とか…」

 

 もしかしたら警察にもとっくに話してる事かも知れないが、この情報はかなり重大だ。《スカルマン》に直接襲撃された人間、もしくは奴に相対した警察官等は現時点で多くが死亡しており、僅かな生き残りも重傷を負っていたり、はっきりした印象を持ってない、という事がとにかく多いのだ。

 でも証言を信じるなら、この土枝健輔という青年は間近で《スカルマン》に遭遇し、あまつさえ声を聞き、生存したのだ。もしかしたら今後《スカルマン》の正体に迫る上で大きな手掛かりになるかも知れない。

 

「え~と…体格はよく分からないけど、俺より少し大きいくらいかな…。声は…なんかくぐもったような独特の声だった…ボイスチェンジャーかなんか使ってんじゃないかな…でも、たぶん若い男の声だよ…ていうかなんか不思議と知ってる声だなと思ったけど…」

 

 健輔の証言を聞きながら、真琴はさして新しい情報は手に入りづらいか、と僅かに落胆した。健輔が悪いわけではない、やはり《スカルマン》は早々尻尾を掴ませてはくれないらしい。

 

「他に何か気になった事は…?例えばその例の怪物は《スカルマン》が操ってたって事で良いのよね?」

 

 これも都市伝説的に囁かれてた根も葉もない噂だが、健輔の見た話ではそういう風に見えたらしい。だとするならこれまでただの風聞・ゴシップと見なしてた情報を一部洗い直しする必要が出て来るかも知れない。

 

「…ですね…俺にはそう見えました…」

 

 しかし健輔の声もあまり確信ありげではない。混乱してたのでよく覚えてないとの事だ。しかし暫し考え込んでいた健輔が途中で急に大事な事を思い出したように顔を上げた。

 

「――そう言えば!あの髑髏野郎、怪物の事を《ガロ》って呼んでました!そしたら急にあの怪物が大人しくなって――」

 

 《ガロ》?

 不可思議な響きに真琴が思わず首を傾げると不意に床に何かが転がるような硬い音がした。

 いきなり何よ?と思って音のした脚元を見下ろすとコーヒー缶が床に転がり、中身を溢れさせていた。そこから視線を転ずるとまるで金縛りにあったかのように呆然とした表情を作っている哲也がいた。どうやら彼が落としたらしいと分かるが、心なしか表情が青い。

 

「ちょっと?どうしたのよアンタ?」

 

 目の前で手を振ってみても微妙に反応が薄い。埒が明かないので軽く頭頂に握った拳を振り下ろした所でようやく正気に返ったらしい。「痛てぇっ!」と大袈裟な声を上げてうずくまる。

 

「ナニ黄昏てんのよ?大丈夫?」

「大丈夫?と聞くんなら殴らないで下さい!」

 

 頭を抑えながらも抗議の声を上げるその姿はまごう事なきいつもの彼だ。とりあえず叫べるんなら問題ないわね、と思うが今朝会った時と言い、どうにもいつもの彼らしくない。

 

「今朝からなんか変よ?体調とか大丈夫?」

「…まあちょっと変な事思い出しちゃって…」

 

 頭をさすりながらそう答えるが、なんとなく確かにいつもの精細さに欠ける。いつもなら仕事中にボケッとするな、とか激の一つでも飛ばす所だが、今の哲也を見てるとどうもそんな気分になれない。色々不安になってる健輔も含めて、ここは何か気分転換した方が良いかな、と思った所、キュルルルと小さく腹がなったのを感じた。

 時計を見やると今の時刻はとっくに1時を30分回ろうとしている。昼食にしても遅すぎる時間だ。真琴は溜息を吐くと、哲也と健輔の肩をそれぞれ叩き――哲也の方がやや荒っぽい叩き方だったが――提案してみる事にした。

 

 「ねぇ?時間も時間だし…続きはお昼でも食べながらにしない?この際だから奢るわよ?」

 

 微妙に沈んでいた二人の顔に明るさが刺す。特に哲也はともかく健輔の方はその提案にどこか抗いがたいような顔をしていた。まぁ取材対象者に奢って良いのかどうかはよく分からないんだけど、この際別に良いだろう。健輔の生活事情を考えるとあまり食に恵まれているとは思えないし。

 そうと決まれば善は急げと先人は言った。確かこの病院の1階には結構立派な食堂が付いていた筈だと思い出し、三人はいそいそとラウンジを後にした。

 

 「流石真琴さん、気前良いですね、ツッチー喜んでますよ?」

 「調子に乗るんじゃない、アンタは自腹よ」

 

 とか言いながら自分が一番嬉しそうにしている現金な後輩の胸辺りに肘鉄を食らわせるながら、真琴達は早速エレベーターホールに向かっていった。

 

 

 




キリが良いので今回はここまで。
次回辺りでもう少し話が動くと思いますが、正直会話と説明の多いパートなので話が進んでるようで進んでないような…

も少ししたら結構衝撃的な展開になると思ってます。気長にお付き合いください。


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CHAPTER-1:『REvengerⅠ』‐④

お久しぶりです。

体調不良で先週はお休みしてました。
エタった訳じゃないので引き続きお付き合いください。


 最近の病院の設備というのはなかなか侮れない物だな、と思う。申し訳ないが哲也個人としては病院というモノはおおよそ薬剤や消毒の匂いに満ちていて、ひたすら白一色の辛気臭いイメージがあった。ましてやそこに備え付けてある食堂なんて、如何にも病人用の薄味・栄養価優先の味気ないメニューばかりなんだろうなぁとか失礼極まりない印象を勝手に持っていたのだが…。

 

 この病院はそんな雰囲気ではない。特に1階に設置された食堂は、大きく開放的な窓が中庭に面して作られ、明るい陽光が注ぐ空間だった。椅子やテーブルも蛍光カラーでカラフルに彩られており、温かみがある。食堂というよりは開放的な雰囲気のカフェテリアだよなぁと思ったら、実際中庭にもオープンスタイルの席がいくつかあった。

 これならメニューの方も結構期待できるのではないか、と思う哲也であった。最も俺は自腹なのであんまり高い物は選べないけど。

 

 お昼には少し遅い時間なのもあって、あまり混んではいなかった。ひとまず入口近くの席を取り、メニューを…と思ったらシンプルなタブレットが一つ置いてある。どうやらこれで注文するらしい。最近はこういう所でも進んでるもんだなと感心しきりだが、どうやら水やお茶はセルフサービスらしい。席に着く二人を見て、ここは俺が行くのが筋かな、と哲也は空気を察して、ドリンクバーの機械と共に設置されている給水コーナーに向かった。

 給水機の隣に設置されているコーヒーメーカーを見るとなんだかよく分からないブレンド名が多々。こういうのも今は随分発展してるんだなぁと本日何度目かの関心をしていると唐突に「おい」と肩を掴まれた。

 不意打ちに思わず変な声を上げそうになったが、辛うじて呑み込み、振り返るとその先には髪の殆どを白く染めて、くたびれたスーツを着た初老の男――立木正尚がいた。

 

「お前…こんなトコで何やってやがる?今度はナニ企んでんだ、え?」

 

 如何にも怪訝そうな顔でいつもの口癖が飛び出す。どうやらこの男にとって俺は永遠にやんちゃ坊主の学生らしい。哲也はそっちこそ、と突っ込みたいのを堪えて「仕事ですよ!」と強弁した。そう言われて立木もようやく納得がいったように首を振った。

 

「それもそうだ。俺ぁてっきり遂にバカにつける特効薬が開発されて、治療に来たのかと思ったよ」

「誰がバカですか⁉だ れ が ! ?」

 

 さらっと無礼にも程がある事を口にする立木に哲也は猛抗議したが、すぐに周りの視線が咎めるようにこちらを捉えているのを自覚して、それ以上は引っ込めざるを得なかった。

 

「おやっさんこそ何してるんですか?平日に管轄外ウロウロして…またおサボりですか?」

「抜かせ、俺は今日非番だ。どこでなにしてようが勝手だろうが」

「そんなカッコで非番もクソもあるか!」

 

 非番ならそんなコロンボの出来損ないみたいな恰好じゃなくて、もう少しそれらしい服装もあるだろう、自覚はあるのか立木も「違ぇねぇ」と肩を揺すって苦笑した。

 

 「非番は本当だが、まあ昨日の事件の事でな…ほら、例のアレさ…人探しだよ」

 

 ああ、その事か…。要するに立木が今密かに追いかけているらしい、事件現場に現れる少女の話だ。昨日の件が《スカルマン》によるものだとしたら、確かに出てきても今回も出てきてもおかしくはないと考えるのも道理だが…。

 

「他にもなんか妙な目撃証言も多いらしくてな…目撃者に話聞けりゃ早いって思ってここまで来たんだが、どうにもガードが硬くてな…病室すら分からん…」

 

 おかしな話だ、生安とは言え立木だって警察の人間だ。少なくともこの病院に来ている同僚の話に聞いてみるなり、そうでなくとも病院の関係者から許可を得る事だって十分可能な筈だ。実際そう伝えてみると、立木は渋い顔をして溜息を吐いた。そう簡単な事ではないらしい。

 曰く警察にはセクトというモノがあり、管轄も違えば、課も違う立木の立場では他所の事件にはおいそれとは首を突っ込めないらしい。だから例の少女の捜索も今回の事件の情報集めも誰にも知られずひっそりとやるしかないのだそうだ。そんなモンかね、大人の世界の事はよく分からん、と哲也は嘆息した。

 というかそれ以前に例の少女の件はともかく、昨日の事件の事をなんで立木が嗅ぎまわっているんだ、大体そんな頻繁に管轄外に出てていいモノなんだろうか。そう問いただすと「モノのついでだよ」と老刑事は神妙な顔で答えた。

 

「…何と言うか…あの子の件、うまく言えねえんだが、一刻も早く解決しないと取り返しのつかない事になりそうな気がするんだよ…だからとにかく今は情報が欲しいんだ…」

 

 そう語る立木の顔には珍しく焦りの色が浮かんでいた。自分も大概長い付き合いだと思うが、彼のそうした表情を見るのは初めてだった。どうやら本人なりには結構切迫した状況らしい。俺も出来る事があれば、と言いかけて、ふと――。

 

「――あ、昨夜の目撃者、今いますけど…?」

 

 そもそもそれに関して詳しい話を聞くために今ここにいるんだったと思い出した。それを聞いた立木は「ナニィッ!」と言わんばかりの表情で目を瞠る。今日は随分と表情豊かだなぁと思いながら、こりゃあアイツの顔見たら更に驚くかもなと哲也は心の片隅でそっと考えた。

 

 

 

「健輔…?お前健輔か…?」

「――え…アンタ生安の立木さん…?」

 

 案の定。

 真琴と健輔の待つ席に立木を連れて戻った所、昨夜の事件の目撃者が健輔だと分かった時の立木の反応、及びそれを見た健輔の反応は実に予想通りというか…お互い口をあんぐり開けて、予想外の人物との対面に戸惑っている様子だった。因みに真琴はというと「なに部外者を勝手に呼んでんのよ?」と不機嫌な表情でこちらを睨んでいた。

 

「…って事は昨夜の目撃者ってのはお前さんかい?」

 

 ようやく平静になったらしい立木がそう尋ねた。その顔には驚嘆とも戸惑いともつかない複雑な表情が浮かんでいるように見えた。

 

 「とにかく!ボーっとしてないで座んなさい、刑事さんもホラ!」

 

 流石にレストランで座りもせずに呆然と男三人が立ち竦んでいるのはかなり奇妙を通り越して滑稽な光景だ。居たたまれなくなった真琴が哲也達を蹴り飛ばすかの如く、追い立てながら着席を促した。そこで立木もようやく正気に返ったらしい、「俺も座って良いんかい?」と目を白黒させながら真琴に問いただしていた。

 

「それは刑事さんの持ってる情報もトレードって事でどうですか?」

 

 立木を席に促しながら真琴が、こうなったらこの際どうでも良い、という態度で言った。確かに何かと知り合いがいた方が健輔も話しやすかろうが…。なんか微妙に自棄になってませんかね?不安になる哲也であった。

 そんなこんなで各々が席に付き、テーブルに備えてつけられていたタブレットに注文内容を打ち込んでいく。因みに哲也はカツ丼、真琴はナポリタンを注文した。せっかくなので立木が皆に奢ってやると言いだしたのは意外だった。いくら勤続歴の長いベテランとは言え、給料日も迎えてないこの中途半端な時期にそんなに余裕あるもんだろうか。まぁ実際そう揶揄ってみたら「てめぇに懐具合心配されるほど落ちぶれちゃいねぇよっ!」と頭にゲンコツを落とされたが。

 

「変わんないなぁ…てっちゃんは…」

 

 そんな様子を見ながら、健輔がどこか感慨深そうな、或いは寂しそうな微笑みを浮かべていた。まるで自分はとても遠くの世界に行っていたような…そんな我が身と対比しているかのような、そんな笑顔だった。

 お前はだいぶ変わったな、対して哲也にはそう返す事は出来なかった。確かに目の前にいる青年は5年以上前、いつも一緒にいた土枝健輔に間違いはないのだが、坊主に刈り上げた髪も扱けた頬もそこに浮かぶ無精髭も――諦観と郷愁の入り混じったその弱弱しい笑みもかつてとは別人のようだった。

 

 哲也の知っている健輔は、いつも似合わない金髪をツンツンに逆立てて、それをヘルメットもかぶらず、バイクの受ける風にただ吹かれるがままにしている、そんな男だった。一昨日は美容師になると言い、昨日はバンドマンを目指すと言い、今日は料理人になると言い――たぶん明日も変わっている――、詰まる所、刹那的にモノを考えてばかりなのに、その癖妙に自信に溢れてて、そうやっていつも皆を笑わせていた。

 確かに5年以上の年月は人のあり様すら大きく変えてしまうのかも知れない。しかし健輔のその変質はいっそ痛々しい程だ。

 

 「――なぁ、健輔…お前この6年間、どこにいたんだ?良かったら…聞かせちゃあくれねぇか…?」

 

 勿論嫌なら無理にとは言わねぇけどよ…。躊躇いがちに、だがどこか決然とした表情で立木はそう聞いた。健輔は暫くの間、躊躇いがちに哲也と立木の顔を行ったり来たりしながら、やがて何か決意したように口を開いた。

 

 「…分かった。ちょっと長くなるけど…聞いて貰える…?」

 

 そこから暫くは健輔のこれまでの来歴を聞いた。例の大騒動の後、養父から勘当同然に突き放されて学校を辞めた事、半グレ連中の仕返しが怖かった事と地元に居辛かったので、大阪にまで赴いて所謂「あいりん地区」で日雇い労働者として働き始めた事、以降各地を転々としている事…。

 

 その先で出会った人や事、経験は決して辛いモノばかりではなかったようでそこはひとまず安心した。だが無理して明るい話題を捻りだそうとする所や昔と比べて明らかに憔悴しきっていると分かるその姿からはやはり過酷な5年間だったんだろう事は想像に難くなかった。

 以前その日の暮らしにすら事欠き、ネットカフェや簡易宿泊所にしか寄る辺のない現代の難民達の事を取材した事があるが、それがいざ自分のかつての親友に現実として降りかかっていた事実だという事にはやはり衝撃を禁じ得なかった。

 

「…そうか…。お前さんも色々あったんだな…」

 

 その間ひたすら聞き手に徹していた立木が口を開いた。決して安直に同情するでもなく、かと言って冷淡に受け流す事もしない、彼らしい包容力のある声だ。自分だとこうは行かないし、実際健輔の話を聞き終わって、すぐにどんな反応をすれば良いのか分からなかったのだ。 

 こういう所はいくつになっても“生安のおやっさん”のままだ、と思う。しかし一方でさっき立木は「お前さんも」と言っていた。もしかしたら立木にも5年間という歳月で彼にも何か変化があったのかも知れない。

 

「すんません、なんか暗い話しちゃって…」

 

 心底申し訳なさそうに健輔が言った。何も謝る事なんてないのに、本当に悪いと思っているようなその口調に哲也は心を痛めたが、ここで自分が何も言えなくてどうする、と己を奮い立たせると「謝んなって」と言いながら、少々乱暴なくらいの勢いでその痩せた肩を叩いた。

 

 「分かった。お前にはとにかく食う事が必要だ。頼むなら一番高い奴にしろ、な?」

 

 どーせおやっさんの奢りだし、と付け足してタブレット端末の中から一番高いメニューを探し出した。うむ、ステーキの類はないのでやはりそうなると凝った洋食メニューとか辺りだろうか…と吟味しながら最終的に鰻重の肝吸い付き御値段3500円也とか言うのを見つけ出して、強制的に注文リストの中に入れる。

 

「オイこら待て…!」

「てっちゃんそんな無茶な…!」

 

 突如突飛な事を始めた哲也に立木は思わず絶句し、財布の中身を確認し始めた。健輔もそんな立木の様子を見て、哲也を止めに入ろうとした。

 

「っるせぇ、四の五の言うなって…!人間飯が旨けりゃ、大抵の事はそれで忘れられる。食って力付けろ、そんで悩みなんざ吹っ飛ばせ!」

 

 半ば強引に注文を確定させ、立木の方には「これは俺が持ちますから!」と無言のアイコンタクトを送った。そんな様子にやがて呆れ果てたのかなんなのか、老刑事は観念したように苦笑する。

 

「刑事に二言はねぇよ、それ頼め、いくらでも奢っちゃる」

 

 ヤケクソ気味にそう叫べば、健輔も最初こそ恐縮しまくってたモノのやはりウナギの誘惑には抗いがたい物があったのか、観念したように「…ゴチになります…」と小声で呟いた。

 

「よっ、流石“生安のおやっさん”、懐が深い!」

「…やかましいっっ!」

 

 褒めたのに何故か顔にグーパンを食らわされた。前から思ってたがなんで皆してやたらと俺をぶん殴ったり、ひっぱたいたりすんだ…。

 

 そんなこんなで10分くらい経ってから、料理が運ばれてきた。健輔は落ち着きなさそうに周りをキョロキョロ眺めながら、ゆっくりとお重の蓋を開ける。途端に立ち上るウナギの脂とタレが織りなす香気に健輔のみならず、哲也も思わず生唾をゴクリと呑み込んだ。 「これホントに食って良いのかなぁ…」といった顔で尚も恐れ慄いていた健輔もやがて覚悟を固めたのか、「…頂きます」とその飴色に照り輝く身に箸を突き立て、ご飯ごと思いっきり口に頬張った。

 

「…美味い…」

 

 かなり恍惚とした表情。料理漫画だったら1,2ページは使いそうな感動っぷりである。曰くウナギなんてそれこそ10云年ぶりらしい。哲也もその様子に満足して、自分も、とカツ丼を口に運――ぼうとしたが、そう言えば立木の奢りだったな、と思い出す。彼の方を見て軽く頭を下げながら健輔と同じように「頂きます」と一言言い添えた。彼も鷹揚に片手を上げてそれに応えてくれた。

 

 

 

 各々が食事を終えて暫く食休みという感じでお茶を啜ってたりする事、15分弱。

 

「そろそろ昨日の事、聞いて良い?」

 

 真琴がレコーダーとメモ帳を取り出して健輔達にそう尋ねてきた。昼時もだいぶ過ぎて食堂のスペースにも余裕があるので、せっかくだから今座ってる席も暫く間借りさせてもらう事にした。

 

「悪いけど刑事さんにも聞いて欲しいので、さっきの事もう一度話して貰える?さっきよりももっと細かく、あとどんな些細な事でも良い、気になる事があったらそれも話して?」

 

 真剣な表情と口調に健輔も固唾を呑んでコクリと頷いた。聞き取りはそこから20分ほどかけてさっきよりも細かく行われた。

 

「じゃあ、《スカルマン》は代議士のドラ息子、って言ったんだよな?」

「それさっきニュース速報で出たわ。被害者の身元判明、向坂悟朗議員の息子だってさ、女性の方は――風俗勤務。交際関係にあったんじゃないかって」

 

 真琴がスマホのニュースアプリを開いて、さっき更新されたばかりの情報を見せてくれた。確か〇〇党の有力議員の一人だった筈だ。それに何より哲也にとっては忘れがたい名前だ。

 

「…確かあかつき村の出身者だよ…な…。地元に例の研究所を誘致した立役者の一人で…でもあの事件については知らぬ存ぜぬ、を決め込んでたって…。まだ議員続けてやがったのか…」

 

 立木が一瞬哲也の方をチラと見ながら苦々し気に呟いた。そう、コイツは大本を辿ればあの事故――いや事件の間接的な元凶の一人だ。いつの間にか思い出す事もなくなってはいたが、まさかこんな所でその名前を見る事になるとは…!

 その時不意に昨日の夜、思い至った一つの可能性が頭に思い浮かんだ。やはり《スカルマン》はあの事件の関係者なのではないか。何らかの理由で生き残った誰かが復讐を果たすためにドクロの面を被って復讐をしようとしているのでは――と。

 

「――あ、コイツ公園の改修事業にも一枚噛んでんのね、知らなかったわ」

 

 突然湧きあがった疑問に哲也が懊悩していると記事をスクロールさせていた真琴がそう呟いた。隣の健輔も興味深そうに画面の覗き込んでいる。曰く記事によると前々から議員と公園の改修事業を手掛ける大手ゼネコンとの関りが取り沙汰されており、この代議士もその1人らしい。因みに記事にはその他、件のドラ息子は度々その女性との逢瀬のために工事中の設備にこっそり忍び込んで、なんて事を繰り返していたらしい、なんて事も書かれていた。要は今回もそういう事やっている最中に何かしらの事件に巻き込まれたのではないか、と書かれていた。

 

「で、ツッチーはコイツが怪物に殺される所を目撃した、と…。確か怪物の目撃情報って前からありましたよね?」

 

 気を取り直して健輔から聞き取った情報で最も不可解な所に踏み込む事にした。それに真琴はどこか嫌そうな顔をして頷いた。

 

「…あった事はあったけど…正直オカルト雑誌とかがバカバカしい見出しで報じてる印象しかなくてちゃんと調べてないのよねぇ…」

 

 あらゆる情報に多岐に渡ってアンテナを張り、偏見に囚われずに真実を追う事を自身の理想とする真琴にも苦手なモノがある。オカルトとか都市伝説とかそういう類の世界だ。科学的に説明を試みる事が出来るなら別らしいが、検証のしようがない分野の事は本当に苦手らしい。因みに断じて怖い話が嫌いな訳ではないとは本人の弁。

 

「――あ、その手のネタなら俺がいくつか持ってるぞ」

 

 不意に立木が自分のカバンから表紙におどろおどろしい紋様が描かれた雑誌を数冊取り出してみせた。「ARIENAIZER」とかいうタイトルがついたサイケな表紙を不吉で意味ありげな記事タイトルが彩ってる辺り、もしかしなくとも如何にもなオカルト雑誌だ。

 

「…なんでそんなモン持ってんですか…?」

 

 ドン引きと言った感じの表情で健輔がボソリと呟いた。真琴も哲也も同様に渋い顔をしている事に気付いた立木は途端に恥ずかしそうな顔をして「俺だって好きで持ってんじゃねぇ!」と叫んでその胡散臭い表紙をテーブルの上に叩きつけた。

 

 

「…元山克之(もとやまかつゆき)、覚えてるだろ?今コイツを発行してる会社に勤めてるそうでな…、こないだ会った時に押し付けられたんだよ…」

 

 どこかバツが悪そうに眼を逸らしながら呟く。その名前に哲也はハッとなった。

 

 

「「ヤマピーがぁ?」」

 

 健輔も同様だったらしい、二人の声がユニゾンになって立木に突き刺さった。真琴は「誰よそれ?」みたいな顔をしている。

 

 ヤマピーこと元山克之は二人の同級生だ。言うまでもなく当時散々やんちゃしてた時期の付き合いで、立木によくお世話になった仲だ。思えば「真紅の雷電」伝説はこの3人から始まったと言っても過言ではな――いや仕事中だ思い出に浸るのはよそう。

 

 とりあえず気を取り直して受け取った雑誌を開いた。ザッと目録を眺めてみると『激撮!UFOスクープ映像20選!!』『魔法の世界が実在するこれだけの証拠』『戦慄!映画にもなった猫浪村の真実とは!?』みたいな聞くだけで胸焼けしようなタイトルがひしめいている。アイツ転職したとは聞いてたけどよもやこんな所に勤めてたとは…。哲也は頭が痛くなりそうな予感を覚えながら、立木に勧められるまま栞の挟んである記事を開いた。

 

『《スカルマン》事件の裏で暗躍する謎の“怪物”達。果たしてその正体は?』

 

 タイトルは相変わらずだが、読んでみると内容は意外と至極真面目なものだった。

 

 まず新宿事変のすぐ後に起きた女優殺害事件。

 公的にはバラバラ殺人事件と広まっているが、ネット上で広まっている噂は正しく、実際は刃物で切断された、というよりかはまるで食い千切られたと形容した方が正しい程の惨状であった。実際遺体を複数の通行人が目撃しており、記事は彼らからの聞き取りを取り上げていた。あまりの惨たらしさに皆一様に「獣に襲われたのだと思った」と語っている。

 この雑誌が本格的に怪物の存在を疑い始めたのは警察に不可解な人とは思えないような存在を見たという証言が複数寄せられたからだそうである。

 事件の起きた公園は元々その女優が日課のトレーニングで走り込みを行っていた事で知られており、他にも同じように散歩やウォーキングでこの公園を利用する者は多かったようだ。事件が起きたのは当に夜の帳が落ち切った辺りからとされており、流石に昼間や夕方より利用者は減っているがそれでもゼロではない。

 曰く「聞いた事もない獣のような咆哮を聞いた」「犬が茂みの辺りをやけに吠えてた、次の日そこが事件の起きた場所だと知った」「不気味な影が歩いているのが見えた」という証言が数件ほど寄せられたそうだ。

 勿論警察は怪物の存在など聞き入れもしなかった、それどころか「忙しいのにふざけるな」と一喝されたそうだ。そりゃあそうだと思う所だが、彼らの多くは嘘なんか言ってないと食い下がるも聞き入れられる事はなく、それなら、とこの雑誌に証言を寄せたという事らしい。

 記事は最初に彼らの証言を取り上げた後に獣害、即ち都内に今回のような事件を起こせる巨大な生き物がいるか、はたまたペットで飼われている危険生物が起こした可能性を生物学者への取材から検討した。結果そのような生物がいるとは思えないという結論に至り、やはり人が起こした事を前提に人体を事件のように解体して遺棄するのに掛かる時間と手間をシミュレートした。こちらも道具を使わない、しかも暗がりの屋外という条件では時間的・物理的に絶対に無理だと言う結論で、怪物――少なくともそれに類するものの存在を暗示させた。

 

 以降も若手の議員を乗せた車が暴走の末に転落した事故と大手服飾会社の社長が失踪後に轢死体となって発見された事件を題材に共通点――自殺他殺も含め依然真相が不明な事、仮に自殺とした場合動機がハッキリしない事、他殺とした場合は手口が分からない事、そして――周囲で同じように怪物の目撃証言が相次いだ事を報じていた。

 奇妙な事に怪物の目撃証言はまるで示し合わせたかのように大体一致していたと言う。一種の集団ヒステリーならば証言者毎に内容が違う事は多々あるが、今回の場合前者ならば「空を飛ぶヒトガタ」、所謂フライングヒューマノイドか蛾人間“モスマン”、後者ならば事件現場付近をたゆたう白く発光する幽霊で大体一致していたという…。

 

 

「…意外と真っ当な内容なんですね…なんかもっとこう…」

 

 記事を読み終えたらしい健輔が呟いた。それには哲也も同意だった。

 オカルト雑誌と言えばもっと陰謀論と「友達の友達の友達の~」みたいな真偽不明なソースとハッキリしないピンぼけ写真で構成させれているモンだと勝手に思い込んでいたものだが…。但し真琴の方はまだ「そうかしら?」といった疑わし気な表情で記事を睨んでいた。

 

「まぁまぁ真琴さん、ツッチーの証言もありますし、検証は後程にって事で…」

 

 放っておくと記事に対する突っ込み所の指摘を始めてしまいそうな勢いだったので哲也が慌てて先輩記者を窘めて、話の軌道修正を促す。真琴は些か不服そうだったが、健輔の方をチラリと見ると少しバツの悪そうな顔をして、溜息を吐いた。

 

「…分かったわ、じゃあ土枝君?貴方が見たと言う怪物の事、詳しく話して?」

 

 とにかく記事の真偽は後回し、ひとまず健輔の目撃情報を信用する前提で聞き書きは再開された。因みに立木はその証言をもとに手帳に何やら絵を描き込んでいた。

 

「…え~…とりあえずお前さんが見た怪物ってのはこんな奴か?」

 

 昨夜の顛末――怪物がどんな奴で如何にして人を襲い、殺害したのか。その聞き取りが一通り終わったタイミングで立木が手帳をズイと突き出した。そこには精彩な筆致で描かれた異形の生物の姿があった。

 

 「――っ!コイツです、細部はちと違うけど大体こんな感じ…!コイツが急に現れてあの人達を…っ…!」

 

 話してる時は平気だったが、絵という具体的な対象で改めて思い出すのが堪えたらしい。急に健輔が顔を青くして嘔気を堪えるように体を縮こまらせた。真琴もその背中をさすりながらも、その表情は紙上に描かれた“それ”から目を離せないようだった。

  そこに描かれていたのは体の体の左半分がドロドロに融解した後に蜘蛛と結合したようなグロテスクな、まさしく“怪物”としか形容しようのない異形だった。コイツが健輔の目撃した怪物の正体なら確かに未発見の新種の生物とかそんな次元じゃない、こんな生き物が自然界に存在する筈がない――!

 

 更に何よりも気になるのが…

 

 「《スカルマン》はコイツを《ガロ》と呼んでいた…。これは確かね?」

 

 真琴が一瞬哲也の方を気遣うようにチラリと見てから健輔に問うた。健輔もその問いかけに頷きならも怪訝そうに哲也を見ている。予想してたとは言え、息が詰まるような感覚を覚えながら、哲也は深く息を吐いてなんとか平静を保った。

 まさかこんな所でその名を思い出す事になるとは――。

 

 ガロ。シベリアンハスキーのガロ。最初に聞いた時、センスのない名前だな、と悔し紛れに言ってやった。アイツは読んでた本から顔も上げずに『うるさい』とだけ返した。

 また思考が明後日の方向に飛びそうになるのを辛うじて抑えながら、一心不乱にこれまで聞いた内容を手帳に書き記していく。確かに変な名前だ、実際梗華にもそう言われた、でも所詮それだけだ。昔そんなタイトルの映画があったし、漫画雑誌の名前とかフォークユニットにもそんなのがいた筈じゃないか。何も可笑しい事なんかじゃない。

 しかし理性でそう納得しつつも哲也の心にはどうしても晴れてくれない物があった。《スカルマン》が活動し始めた今日という日付、村の件に関わってた代議士のドラ息子の殺害、“復興”の名のもとに過去を全て忘却の果てに追いやろうとする国、《ガロ》と呼ばれる怪物――。

 果たしてそれらは本当に無関係な1本の点でしかないのだろうか。もし、万が一にでもそうでないとしたら《スカルマン》の本当の目的は――。

 

(テツヤ…!)

 

 刹那哲也の脳内に昨夜の光景が、聞こえたと思った鈴のような声がフラッシュバックした。そうだ、今朝はどうせ酔っぱらいの幻覚だと決めつけてスルーしようとしたが、俺はこの声に、あの姿に確かに覚えがあった筈なんだ…!

 

「――ちょっと成澤!しっかりしなさいよ…!」

 

 自分は突如頭を押さえて苦悶の表情を浮かべているのだろうか、自身の傍らに回り込んできて、肩を揺すりながら心配そうな表情の真琴が見える。その顔に不思議と混乱が過ぎ去り、自分でも不思議な程頭が冷えていくのを実感した哲也は「…大丈夫です」と一言だけ告げて、そっと真琴の手を引き剥がした。

 

「…なぁてっちゃん?俺、なんか嫌な事思い出すような事言ったか?なんか様子変だぜ…?」

 

 健輔も同じように気遣うような、それ以上に下手すれば自分よりも不安に苛まれている色を顔に浮かべていた。そう言えばコイツとおやっさんはあかつき村の件を知ってるんだった…。こんな時に気味悪がったりもしないし、余計な事一つ言わないのは彼らの良い所だと改めて実感した。

 

「…心配かけました…。とりあえず大丈夫です、それよか真琴さん…?」

 

 ちょっと話の腰折っちゃうけど、良いですか?努めて冷静さを心掛けながら真琴に問い掛ける。彼女は一瞬怪訝そうにしながら、ひとまず無言で頷いた。その心遣いに感謝しつつ、哲也は手帳の中に挟んで置いた一枚の紙片を健輔に見せた。

 

 少し個人的な動機も含まれるかも知れない。でも今ならこの件には何か《スカルマン》に繋がっていくのではないか、という確信が不思議と持てた。何より俺自身も言い訳を並べ立ててる場合じゃない。

 

「おい、それって…?」

「それが何か関係あるの?」

 

 立木と真琴が驚きと共に口を挟んだ。それは昨日彼から渡された例の少女の人相書きだ。 

 

「ツッチー、どんな些細な事でも良い、この女の子に見覚えないか?」

 

 当の健輔は紙片を手に取りながらかなりの困惑顔だ。そりゃあそうだろう、突然見も知らぬ少女の似顔絵を渡されて、コイツ見た事ないか?なんて聞かれたら普通戸惑うのもむべなるかなだ。哲也は手短にこの少女が《スカルマン》の事件現場に度々出没するらしい事、立木が訳あってこの少女を探しているらしい事を伝え、その上でもう一度同じことを聞いた。

 確か健輔の働いている公園は前にも《スカルマン》による爆破事件が起きている筈だ。その一縷の望みに掛けてみたのだが、何分だいぶ前の事だしあまり期待はしない方が良いのは分かってる。絵を持ちながら懸命に頭を捻っている彼を見ながら哲也は内心そう思った。

 

「…あれ…これもしかしてアレかな…?」

 

 果たして似顔絵を見続ける事1分、健輔が首を傾げながら絞り出すようにそんな事を言った。

 ナニ、もしかして脈アリか…!?まさかの収穫に哲也は同じく呆然とした表情の立木と顔を見合わせると健輔に詰め寄った。

 

「アレってなんだ!ひょっとして見たのか?」立木が叫ぶ。

「何か話したか?どんなシチュエーション?」と哲也が詰め寄る。

 

 あまりの険相に驚いた健輔はタジタジになりながら交互に二人の顔を見て呟いた。

 

「…これ何の取り調べ…?」

 

 




会話ばっかりで長いので今週はここまで。

徐々に怪物の存在がクローズアップされてきます。
果たして怪物の正体は一体何なのか、既に《ヴェルノム》という呼称と《ガロ》という名前を出してますが、それが意味するものも追々描ければな、と思います。

それではまた来週。


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CHAPTER-1:『REvengerⅠ』‐⑤

 今から半年くらい前の事だ。

 

 健輔が務める都の杜公園は四方にも同じようにそれなりの面積を誇る公園がいくつかある。緑の少ない都心部に当たって自然の憩いを忘れぬように、という区や都の涙ぐましい努力によるものだ。因みにそのうちの一つはこの病院のすぐ隣にある。

 《スカルマン》の標的にされ、直接被害を受けたのは健輔達が働く都の杜公園ではなく、その周辺に位置する公園だ。そこに焼夷爆薬が仕掛けられ、周辺に大火事が発生、都の杜公園にはいつものホログラフィック投影装置が設置されたらしく、大火事に慌てふためく街を悠然とドクロが見下ろしているようだったと言う。

 

 今回は新宿事変の時と同じように最初にドクロが出現し、後に爆破が起きたタイプだ。当然一日の仕事を終え、一服ついていた人夫達や公園の周辺住民達は突然の凶事に慌てふためき、警察の勧告も虚しくパニック状態になった。てっきり公園が爆破される物だとばかり思った飯場の職員達も住民達も都の杜公園から800メートル程離れた学校の校舎に退避した。それ以外の地域でもなるべく広い場所を目指して避難を始めたそうだが、ドクロの出現から3分もしないうちに花火よりも何倍も激しい轟音と火柱が打ちあがった。

 火は瞬間的に燃え上がり瞬く間に公園の木々を焼き付くすと周辺の民家にまでその凶暴な(かいな)を伸ばしだした。閑静な住宅地は一挙に炎の煉獄と化し、一挙にパニックに陥った。火が消し止められたのはそろそろ夜空が白んできた頃だと言う。

 結局延焼や不発弾の可能性もあり、地域住民達は暫く避難先の校舎で過ごす事になった。職場が事件の渦中に晒され、仕事どころではなくなった健輔達も例外ではない――大体職場が閉鎖されてしまえば自分達には居場所がない――が、実際肩身は狭かった。

 

 元々反発の多かった工事である。それに携わっていた人夫達を見る住民の視線は剣呑で、言外に「お前らのせいでこんな事になったんだ」と告げているように感じられた。健輔としては知るかそんな事、と毒づきたい心境だったが、無駄に騒ぎを起こしても仕方がないので、なるべく仕事仲間達で固まってジッとしているより他になかった。

 そんな風にどことも距離を取っていたからだだろう、どこか町内の住民と言った風体ではないその少女の事が不思議と目に留まった。体育館で縮こまっている年寄りや校庭で炊き出しをしたり消防団と話している主婦層に目もくれずに一心に何かを探しているよう風な10代後半と思しき少女だ。

 

 男物の薄汚れたブルゾンにスニーカーという風体は洒落っ気の欠片もなく、目深に被ったキャップも相俟って遠目には少年のようにも見えたが、スラリと伸びた脚の線の細さは間違いなく女だった。

 だからどうしたという話。別にその少女に心を奪われたとかナンパ目的に話しかけた、とかそういう呑気な事ではない。少女に声を掛けたのは単なる気まぐれだった。年頃の娘らしくない煤けた姿もどこか不安げに周囲を見回している姿が――どことなく昔の自分達に似ていたから、そんな根拠のない直感だった。

 

「どうした…の…んだ?…しゃ、さっきからずっとウロウロしてるみたい…だけど…?」

 

 が、やはり馴れない事はするもんじゃない、少女に話しかけた自分の声は見事に上ずっていた。案の定怪訝そうな目でこちらを一瞥した少女の視線の強さだったり、薄汚れたその服装には似合わない程に整った顔の造作だったりに急速な場違い感を抱いた健輔はすぐさま「ごめんなさいすみません人違いでしたー!!!!」とか叫んで逃走したい心境に駆られたが、それをやったら余計にただの不審者だ、という結論に至り、何とか再び少女に話しかけたのだった。

 

「…もしかして…家族を…探してる…のか?…逸れた?他の避難所とかは…」

 

 こんなくたびれた格好の男に話しかけられた普通は不審がるだろうなぁと懸念したら延々と自己嫌悪に圧し潰されそうなので、極力そこは考えないようにしながら努めて穏やかに声を出す。       

 家族、という言葉に少女の表情がピクリと動いたのを見た健輔は内心に抱いたのは「わぁ~図星だったどうしよう!」という更なる焦りの感情だ。

 やはり火事で焼け出されて、逸れた親とかを探しているんだろうか?こういう場合家はどの辺り?とか聞いて良いもんなんだろうか?大体話しかけてどうするつもりなのか、お前が一緒になってこの娘の親探しを手伝えるのか?とか、とめどない自問に悶絶仕掛かる健輔の心を読んだのか、そんなわけはないだろうが「…いえ…」とゆっくり口を開いた。

 

「…兄です…。兄を探してるんです…」

 

 何度か躊躇うように息を吐きながら少女は呟いた。長い睫毛に縁どられた大きな瞳が苦しそうに伏せられる。どこか言った事を後悔しているようなその表情に健輔は違和感を覚えた。

 昨日逸れた兄を探しているとかそんな類の表情ではない、もっと必死で切実な感情を湛えていた。これは放っておいたらいけない奴だ、理屈じゃなくそう思った健輔は数刻前の躊躇いも忘れて「どんな人…?」と少女に問い掛けていた。

 

 少女がハッとしたように顔を上げる。まっすぐに健輔を見据えたかと思うとすぐに己の迂闊さを呪うようにキュッと口元をへの字に結び、顔を逸らせた。恐らく少女は己が誰かと関わり合いになる事を本能的に恐れている、と悟った健輔は、少女が次の言葉を紡ぐのを待たずに声を発していた。

 

「お兄さんはどんな人?何か写真とか…人相の分かる物は持ってるか?何か俺に出来る事があったら…」

 

 自分でも驚くくらい必死な声だったと思う。普段ならこんな事絶対しない自信があるが、少女の何かを堪えるような瞳に学生時代のような激しい気持ちが熾ったように感じられたのだ。思えば哲也も恵麻も初めて会った時はこんな目をしていた…。

 そう言ってもなお、少女は躊躇うように顔を俯けていた。ええいじれったい、と健輔は「大切な人なんだろ!」と畳みかけた。

 

「…分かるよ…。俺じゃないけど家族をずっと探してる人を知ってるから…!」

 

 哲也の事を思い出していた。彼は実の両親の最期を知らない。いつ、どんな風に、どこで亡くなったのかそれすら…。だからずっとその死を実感できずに、もしかしたら生きているかも知れない可能性に縋って苦しんでいたんだ。少女の兄がそうでないのなら間に合うかも知れない、なら放っておく事は出来ないと思った。

 少女がハッと顔を上げる。端正な顔を歪めながらも、その瞳の奥にこれまでの苦悩とは違う光が浮かぶのがハッキリと感ぜられた。未だに揺らめかせながらも今度は正面から健輔を見据えているようだ。

 

「わたし――」

「――――。」

 

 少女の言葉はしかしそれ以上紡がれる事はなかった。不意に差し込まれた硬い声がその先の言葉を封じたからだ。思わず少女の肩の後ろに視線を向けると、こちらに歩み寄ってくる男の影が見えた。

 

 男…というよりいっそまだ少年の表現が通じる姿があった。吊り気味の太い眉とその下の鋭い眼光、むっつりと結ばれた口元からは頑固そうな性分が漂っている。

 一瞬この彼女に兄か?と思ったが、すぐに到底そうは見えないと思った。少年の上背は少女と同じか少し低いくらいで、顔立ちもどう見ても10代半ば、せいぜい高校1年生くらいが関の山だろう。兄どころか弟だ。

 

「タツオ…」

 

 少女が驚いたように呟いた。タツオと呼ばれた少年はフンと息を鳴らすと健輔の方に一瞥をくれる。言外に「コイツ誰だ?」と少女に問い掛けていた。

 量販店モノのどこにでもあるようなパーカーで顔を覆い、ポケットに無造作に両手を突っ込んでる様は如何にもこの年頃のガキ、と言った風情だが、隙を感じさせない脚の配置や佇まいは明らかに荒事になれてる風情だ。学生時代の勘がまだ多少残っているのか、コイツは出来る奴だ、と判断した健輔は咄嗟に身を引き締めた。

 視線が交錯する事数刻、やがて少年の方から興味を失くしたように顔を逸らすと、少女に歩み寄り、その肩をポンと叩いた。「もう行くぞ」低いがどこか優し気な声色で少年が告げる。

 少女は一度健輔の方を見たのも数瞬、体を翻して少年と共に去って行った。一人取り残された気分で健輔が呆然としていると、少女はこちらを振り返り、小さく頭を下げて今度こそ本当にその場を後にしたのだった。

 

「すみません。忘れてください」

 

 最後に少女の唇がそう告げた気がした。

 

 

 

 

 日々の肉体労働に忙殺されている身としてはつまらない日常の出来事など殆ど覚えていられない、半年以上前の出来事等と言ったら猶の事で何とか記憶を捻りだして漸く語り終えた時には既に取材(&顔馴染み二人による“取り調べ”)を始めてから40分近く経過していた。

 これでも自分にしてはよく覚えていた方だ。なんで覚えていられたのかというと偏に《スカルマン》が絡んだ事件はそれだけ印象深いという事だろうし、そう言えばこの件からそんなにしないうちに出会った山下幹夫の存在と結びついているからかも知れない。

 

 そんな事はさて置き、立木は先程から何か一心不乱に手帳に書き記しているように見える。なんでそんなに気に掛かるんだろう?と不思議に思ったが、何か真剣に考え事をしている風にも見えたので敢えて探りは入れない方が良いと思った。

 

「…なぁ…」

 

 そんな風に老刑事の方を見つめていると先程から顔を俯けて話を聞いていた哲也がゆっくりと顔を上げ、声を発した。なに、と答えようと彼の方を振り返った健輔は二の句を継ぐより先に絶句した。哲也の顔色が青い。呆然と唇をわななかせ、絞り出すように声を出しているのが分かった。

 

「アンタ…今日は本当にどうしたのよ…。体調悪いんじゃないの…?」

 

 彼の先輩の一之瀬真琴という女性記者が何度も彼の体調を気遣っているようだが、哲也はまるで痛みを堪えるように、いや敢えて痛みを受け止めようとするかのように平気です、という表情で歯を食い縛る。

 なんでそこまでしてこの件が気に掛かるのか。哲也がこういう状態になるのは珍しいのは確かだが健輔は何度かこの事態を見た事がある。こういう風に哲也が柄になく取り乱したり、平静でいられなくなったり、その顔が苦悶に歪んだりするのは――。

 

 あかつき村。彼の故郷とそこで亡くなった大切な人達の事を思い出した時だ。

 

 でもどういう事だろう…。健輔は疑問に思った。件の少女は何かそれに関係しているんだろうか。その事を問いただしたいと思ったが真琴がいるのではそれも出来ない。彼の過去の事を詳しく知っているのは自分達と彼の叔父夫婦、それに立木くらいだ。この先輩にそれを伝えているのかどうか分からない以上、ここであかつき村の名を出す事は躊躇われた。

 

「…その女の子…なんて呼ばれてた?」

 

 暫し何度も息を吐き、何度も躊躇しながら、やがて哲也が問い掛けた。やはり重要なのはそこらしいが、残念な事に今の健輔では期待に応えられそうにない。

 

「…そこは…ハッキリ聞こえなかった…。なんだけっか…確か『ハヅキ』だか…『ツバキ』だったか…そんな風に聞こえたような…」

 

 我ながらいい加減だ、と本気で自分の記憶力の無さを呪いたくなるが、それを告げられた哲也本人はまた当てが振り出しに戻ったような失望感とそれ以上にどこか安堵したような表情で「…あっそう…」と溜息を吐いていた。実際哲也の中ではかなり複雑な感情が蠢いていいるのだろう。

 真実を知りたい、けど知りたくない。そんな矛盾した相反する感情が。

 

「…女の子の方はとりあえずは振り出しか…で健輔よぉ…」

 

 さっきまで何かを書き込んでいた立木が話に割り込んでくる。「お前さんが見たって言う小僧はこんな感じかい?」そう言って健輔の前に手帳をそっと突き付けた。

 なるほどさっきまで描いてたのはそれか、と納得した健輔に続いて真琴と哲也もその手帳を覗き込む。果たしてそこには意外に繊細な筆致で綴られた人物画――意志の強そうな太い眉にへの字に結ばれた口元、短く刈り込まれたボサボサの黒髪――細部は勿論違うが概ねあの時見た少年で間違いないと思った。

 

「時々おやっさんの画力って驚かされる事あるよな…」

「ホントに…顔に似合わないって言うか…」

「顔は余計だっ!」

 

 似顔絵は立木の特技の一つだ。なんでも他の部署からその腕前を見込まれる事もあるほどなんだとか。思わず迂闊な事を言った健輔の頭にゲンコツが振り下ろされ、頭に星が飛び散る思いを味わったが「確かにコイツです…」としっかり自信もって答える事は出来た。

 

「でもなんだってまたコイツの事を…?」

 

 些か不可解だ。いくら立木でも聞き書きだけでここまで精巧な絵を描けるものだろうか。どういう事だろう、彼はこの少年を知ってるのか?と健輔が訝しんでいると、哲也や真琴も同じ感想なのか立木の方をジッと見ている。その反応に納得できるものがあるのか、立木も観念したように息を吐き出し、「まぁ…6年くらい前だったな…」と呟いた。

 

「当時ウチの部署で変死体が出たんだよ…。被害者は…まぁ近所でも悪評判の破落戸(ごろつき)夫婦でな、度々怪しげな勧誘をやって煙たがられとったらしい…。で、その被害者宅でもっと変なのが見つかった。子どもはいない事になってる夫婦宅になんでか子どもがいたんだ。放心状態になって包丁を握ってる所を見つかったらしい…」

「え…?じゃあその子どもが犯人って事か…?」

 

 絶句したように哲也が呟いた。表向き夫婦の間に子どもはいなかった、だが事実としてそこには子どもがおり、しかも近所の住民も誰一人としてその存在を知らない、それどころか付近の医者や学校ですらだ。全く社会に認知されていなかった子ども、それが意味するところは一つしかない――。

 

「…無国籍児…!出生届の出されてない子どもって事?」

 

 真琴がギリリと歯噛みする。新聞など凡そ読まない健輔でもそれの意味するところは分かる。在留資格を持たない外国人の間に出来たりだったり、出生の際に夫婦が届け出を怠ったりなどして国籍が取得されないままの人間が往々にしてあるのだ。

 

「…でもその事と何の関係が…?」

「その事件で保護された子どもが夫婦殺しの犯人で間違いなかったよ、ついでに自分が間違いなくそいつらの子だともハッキリ認めた。でお察しの通りその子には国籍がなかった、どころか名前も知らないし、生まれてこの方まともに外に出た事すらなかった。家の地下室でずっと監禁、だったそうだ…」

 

 胸糞の悪い話だぜ…と吐き捨てる立木。曰くそうした特殊な環境下で育った事と年齢を加味して、流石にその子どもに刑事責任を負わせることは不可能だと判断され、児童養護施設への送致となったようだ。

 

「…もしかしてその子がこの絵の子だったって言うんですか…?」

 

 恐る恐る尋ねる真琴に神妙な顔で立木が頷く。当時1度だけ会った事があるらしい。調べによれば当時9歳との事だがやせ細ったその姿はどう見ても6~7歳くらいにしか見えなかったそうだ。

 タツオ、と呼ばれていた少年はどうやらその子どもの面影を強く残しているらしい。

 

「…その子は今どうしてるんですか…?」

 

 真琴の声は震えていた。不幸な境遇で育った子どもだからこそ、せめてその後の人生は平穏なモノであって欲しいと願うのは自然な事だが、立木の語り口からはあまり良い状況ではないらしい、それがなんとなく察せられた。

 

「…分からん。引き取って1ヵ月もしないうちの施設から消えたそうだ、誘拐なのか自発的な失踪なのかそれすらも…。ウチでも捜索に当たったけど結局見つからなかったよ…」

 

 分かってはいたが予想以上に悲惨な末路に誰も言葉が出なかった。しばらくテーブル上に沈鬱な空気が漂っていた。

 

「…その親は一体なんでそんな事を…」

 

 沈黙を破ってそう呟いたのは哲也だ。まるで理解が及ばない、と言った風な顔をしている。それはそうだろう、いくら複雑な家庭の事情があっても哲也は少なくとも実の親との関係は悪くなかったし、叔父夫婦も色々すれ違いがあっただけで悪い人ではなかったようだ。親が子に無償の愛情を注ぐという事は当前であるべきだが、この世界においては決してそれは普遍な事ではない。親になる事に資格や試験は要らない、中には子を産み育ててはいけない人間というのは確実に存在するのだ。

 だがそれにしたって――!

 

 健輔の養父だって親としては確かに碌でもない人間だったかも知れないが、少なくとも自らの血の繋がらない子に学費を払い、歪んだ形ではあっても教育という財産を与えようとする人ではあった。だがこの親はそんなレベルではない。自分の子の出生すら隠して、名前も与えず地下に押し込めておくなど最早餓鬼畜生の所業ではないか…!

 

「さぁなぁ…当の本人たちがおっ死んじまってるんで真相は藪の中だよ…。さっきも言った通り近所でも評判の悪い奴らだったそうだぜ、近所に変な勧誘はする、バカみたいに高額な品物を押し売りに来る、夜中に複数の人間を集めて奇妙な儀式をやりだす、と。後で分かった事だがその親、白零會(びゃくれいかい)の熱心な信徒だったそうだ」

 

 白零會…。

 

 学のない健輔でもそれくらい分かるし、それどころかこの国では知らない者の方が少ないだろう。確かに16年前の地下鉄爆破事件によって、主要だった教祖と幹部の大半が逮捕された上に信者への過剰献金やリンチ殺人などが明るみに出た事で教団そのものは解散となったものの、その後継団体は今でも活動を続けていると言う…。

 

「《スカルマン》、謎の怪物、でその事件現場に出没する謎の少女と少年、おまけにその背後には白零會の疑惑って訳…?なんか話がどんどん大事になって来たわね…」

 

 おまけにそれらにどんな関係性があるのか、そもそも本当に関係性があるのかすら今の段階では全く不明と来たモンだ。真琴ですら頭を抱えたくなる情報量とくれば健輔の処理能力をとっくに超えてる。

 全員同じような感想らしい。席全体にどことなく重たい空気が沈殿するような雰囲気が漂う。土台《スカルマン》の真相など1年以上前から自分より頭の良い人間達が人海戦術で動いても未だに辿り着けない領域なのだ、自分の証言如きで劇的な真実が判明して、なんて漫画みたいな展開が起こるとは思ってない。だがそれにしても怪物の事も何一つ分からないまま、矢継ぎ早に色々な疑惑が湧き上がってくるのは気持ち良いものではない。

 そんな陰鬱な空気が破れたのは突然だった。

 

「おーいケンボー!ここにいたのかぁっ!」

 

 いくら食堂とは言え、極力静かでいるのが常識の病院にあって突如聞いた事のあるしゃがれ声が響き渡って、健輔は思わずビクリと肩を震わせた。振り返ると案の定こちらを目ざとく見つけては大袈裟に手を振る二人の男の姿があった。殆ど禿頭の小柄な姿はだいぶ以前に熱中症で倒れたゲンさん、隣にいるのは皆に「ゴロウさん」と呼ばれている筋者っぽい風体の男だ。

 体格(ガタイ)上背(タッパ)もあり、肩から除く彫り物を隠そうともしない、という如何にもな人物であるゴロウさんはいるだけで無駄に注目を集める。それが大股でまっすぐこっちに歩み寄ってくるというのは何とも言えず、不安な気分にさせられる。

 話してみれば陽気で話好きと決して悪い人ではないのだが、健輔はこの男の事がやや苦手だった。昔誰々を半殺しにしてやったとか女に散々貢がせた挙句風俗に売り飛ばしてやっただとかそんな眉を顰めるような話を自慢げにする所や実は両刀であるとか自ら吹聴しているところなんかがそうだ。

 まぁ言ってしまえばあまり人に知られたくない仲間ではある。殊に哲也や真琴など「普通」の側にいる人達には。

 

「ここにいたのか、病室にいるっつのーにいねぇモンだからよっ!」

 

 遠慮会釈なく寄ってきたゴロウさんは近隣の席から手近な椅子を引っ張り出すとどっかりと腰を下ろした。「会社が珍しく入院費出したんだってな、VIP待遇じゃねぇか、全くとんでもねぇ奴だよお前」と品なくゲラゲラ笑った。周囲の人達の視線がこちらに注目しているようで居たたまれなかった。

 何の用なんださっさと帰ってくれ、と内心思いながら横目でゴロウさんをジロリと睨むが、意に介した様子すらなく、それどころかこちらの視線に気付いているのかすら疑わしい。その後ろで佇むゲンさんと目が合うと、彼は申し訳なさそうに健輔に目配せをくれた。

 

「それよかオメェ何なやってんだ?こんなトコで座ってこの美人さんに接待されてんのか?良い御身分だねぇ、いっそ俺も入れてくれよ」

 

 不躾に真琴の方を見て、舌なめずりせんばかりにジロジロ眺めている。その無遠慮な視線に真琴がムッとしたように眉をひそめたが、ゴロウさんは気付きもしない。仕方なく健輔は真琴達はとあるWEB雑誌の記者で、昨夜の事件の事で取材をしているんだという事を説明した。

 

「へぇ~、記者さんだったのかい。そりゃあご立派な事で…」

 

 侮ってるようにも感心してるようにもどちらとも取れるで口調で受け取った名刺をゴロウさんはヒラヒラと眺めている。不意にその視線を健輔の方に向けると底意地悪く、口元がグニャリと曲がった。

 

「その記者さんがケンボーに何の用なんで?見ての通りコイツは学もなぁんもねぇしがない日雇いだぜ?どんなにひっくり返したってなんも出やしねぇよっ!」

 

 なぁんもねぇ、の所を思いっきり強調しながらガハハと下品な笑いを上げるその姿に哲也がカチンと来たようだった。席から立ちあがりそうになった気配を察して立木がブルゾンの袖を引っ張って宥めていた。哲也は不服そうに口元を歪めながらも、なんとか平静になったらしい。手元の手帳を広げるとそれをゲンさんとゴロウさんの二人に突き付けた。

 

「人を探してるんです。この絵に描かれた二人の子どもの内、どっちかを見ませんでしたか?」

 

 一応二人に聞いてる体だが、視線は完全にゴロウさんを無視してゲンさんにだけ向いている。最も聞かれた当人は当惑したように「誰じゃコイツは?」と顔中で語っていたが。

 

 「おいちと待てよ…」

 突然ひったくるようにゴロウさんが哲也の手から手帳をひったくった。まじまじと何か思い出すようにその絵を眺めていたが、やがて「アッ!」と大きく叫んで椅子から立ち上がった。引き出された椅子が思いっきりゲンさんの向う脛に当たり、老人は露骨に嫌な顔をしてみせた。

 

「なんじゃあ騒々しい!」

「コイツに知ってる俺!この小僧は知らんけどこっちの娘っ子は――ってかジジイ、おめえも会ってるだろうがっ!」

 

 ツッコミを入れるようにゲンさんの腹辺りを何度も叩くゴロウさんに対して、ゲンさんは「はて?知らんのう…」とチンプンカンプンな表情で首を傾げていた。

 

「え…ホントに…?因みにそれはいつ頃の話で…?」

 そんな二人の反応を見ながら哲也がどこか不審げに尋ねた。正直半信半疑、いや()()()()くらいだぞ、と諸に顔に出ている。記者がそんなに露骨で勤まるんだろうか、と思わずにはいられない。

 だが幸いな事にそんな丸見えの表情を気にするゴロウさんではないようで、機嫌を良くしたように哲也の前に座り込んだ。「確か1ヵ月くらい前だよ…」そう得意げに話そうとした矢先…、一瞬その目が意味ありげに健輔の方を見据えた。

 

「…どうしました?」

 

 不意に黙りこくってしまったゴロウさんに怪訝そうに哲也が問い掛けた。やがてゴロウさんが大仰な――如何にもわざとらしい嘆きの声を上げだした。

 

「だぁめだっ、前の事過ぎてなんも思い出せねぇや!ていうか腹が減りすぎてなんも昨日の事すら碌に覚えてねぇっ…!」

 

 大根役者、というのはこういう時に言う言葉なんだろうなと思う。如何にも不本意だ、という顔をして意味もないのに天を仰ぐ姿はまさにそれだ。勿論この男はそれが本気で通じるなんて思っちゃいないのだろう。単に自分の立場を利用して、軽い得をしたいだけなのだ。図々しいともみみっちいとも取れるその態度に健輔は溜息を吐いた。

 

「やめんか見苦しい」

 

 呆れ果てたような嘆かわしいような、そんな声を上げてゲンさんがゴロウさんの頭をはたいた。

 

「そもそもわし等は土枝君の見舞いに来たんじゃろうが。それだと言うのにこんなトコで人様に集りおってからに…。山下君は途中でいなくなるし、一体お前らは何を考えとるんじゃ…!」

 

 後半は殆どボヤくような口調で「全くあのワカモンの考えるこたサッパリ分からん…」とかブツブツ言っており、実際哲也も真琴もはたかれたゴロウさん本人も全く聞いていなかった。だが健輔は妙にその内容が気になった。

 

「山下…?アイツも今日来てたんですか?」

 

 何しろアイツの事を考えてたら眠れなくなって、外に飛び出したらそれっぽい人影を目撃して、そしたらこの妙な事件に巻き込まれて、という顛末を辿ってるのだ。それが何の関係があるんだ、と内心思っていても、やはり妙に彼の動向は気になるのだった。

 

「…んん…?ああ、君の見舞いに行くと言ったら付いて来たんじゃよ…。ただここに着く前に『なんか用事が出来た』とか言って帰って行ったがね…」

 

 それがどうした、という顔でゲンさんが言った。なんか流石に今の態度は不審だったかな、と思い、健輔が言い淀んでいると不意に焦れたような声で

 

「だぁからっ!腹が減ってなんも思い出せねぇつってんだろうが…!」

 

 とゴロウさんが無様に怒鳴るのが聞こえた。あまりにミエミエなその態度に呆れ果てたように哲也が溜息を吐きながら言った。

 

「なんか食べますか?ぶぶ漬けとか」

 

 




中途半端ですが、字数が流石に多いので今日はここまで。
次週は2話掲載します。ちょっとした衝撃展開があると思いますので気長にお待ちください。

感想・評価その他諸々なんでもいただけますと励みになります。
それではまた次回。


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CHAPTER-1:『REvengerⅠ』‐⑥

お久しぶりです。
今回は予定通り2話投稿します。


  流石に健輔に続いてゴロウさんについてまで立木に奢らせる気はない――その義理もない――ためか、哲也の持ちでそこは捻出される事になった。健輔としては申し訳なさ過ぎて、せめて半分くらいは出したいと思わないでもなかったが、そこまでの持ち分がある自信がなかった。

 しかし意外な事にゴロウさんが頼んだのはお高そうなメニューではなく、この食堂にあってはむしろ平均的な値段の豚丼だった。甘じょっぱいタレが特徴の十勝風の味付けの奴。なんでも出身がそっちの方だとかでずっと食べたかったらしい。案外みみっちい。

 

「さぁて、飯が来て気が変わっちまう前に話しておくか…おいジジイしっかり思い出せよ?」

 

 食ったら食い逃げしちまいそうだからな、とか言ってガハハと笑うゴロウさんの背後でゲンさんがやれやれと息を吐いた。確かにガラも態度も悪い男だがこういう所では案外気が良いと言うか…義理堅いのかよく分からない人だと思う。

 

「1ヵ月くらい前だな、ちょうど“ハートマン軍曹”が絡んでたからよく覚えてんだ」

 

 何故か得意げな口調で語りだすが、いきなり身内にしか通じない綽名を出しても通じる筈がなく、哲也が即刻「“ハートマン軍曹”って誰だ」とツッコミを入れた。

 

「うちの“元”現場監督。とりあえず今はそれで呑み込んどいて」

 

 説明しても無駄にややこしくなるだけなので、それだけ言ってゴロウさんに続きを促す。やや気勢を削がれたような形だが、そんな事は欠片も気にせず、ゴロウさんは話し出した。

 

 曰くまだ“ハートマン軍曹”が生きていた頃の事だそうだ。給料日だった事もあって、手近な居酒屋に呑みに行った帰りの道中、このまま部屋に戻るかもう一軒行くか、なんて話をゲンさんとしていた所だった。

 とりあえず歩きながら考えようと思って、呑み屋街をブラブラうろついていると不意に短い悲鳴のような声が聞こえた――気がした。喧騒に紛れて一瞬空耳かと思ったが、辺りを見渡してみると付近のラブホテルの手前、一人の中年男が女と思しき華奢な腕を掴み、女はその腕を振りほどこうともがいている、そんな光景が目に飛び込んできた。

 別にそんなもの、ここでは珍しくもない光景だ。女は恐らく客引きか、もしくは今流行りのナニ活って奴だろう。で助平オヤジと諍いを起こして今格闘中という訳だ。明らかに女の方が男から逃れようと体を捩っており、そんな女を無理矢理力任せに男が引き込もうとしている、典型的な図だ。

 普段ならとっくにスルーしている所だが、この日ゴロウさんはそうしなかった。別に正義感で女を助けに駆け付けようとかそんな風に思った訳じゃない。たまたま相手の男に見覚えがあったからだ。

 

 “ハートマン軍曹”だった。ケンボーが陰でそう呼んでいるモンだから、いつの間にかそれが定着してしまった典型的な「嫌な本社の現場監督」。確か最近きな臭い動きをしてると噂になっていたが、まさかこんな所で出くわすとは思わなかった。

 そこで瞬時に頭を働かせて思ったことはこれはもしかしたら、アイツの弱みを握れたのではないか、という事だ。確か奴には妻子があった筈で、それがこんな所でエンコ―等しているとなれば夫婦間の揉め事は免れない、本社だって良い顔しないだろう。下手すりゃ今後アイツにたかりまくって骨の髄までしゃぶってやれるのでは、と邪な思いを抱いた。

 そうと決まれば、と思った所で、そう言えば携帯なんぞ持ってない、という事にようやく気付いたのだそうだ。カメラがなければ証拠が納められない、証拠がなければ知らぬ存ぜぬで躱されるに決まっているので、要は端からこの企みは成立しない訳だ、その事実にゴロウさんは思わず歯噛みした。

 こうなったら偶然を装って、イチかバチか“ハートマン軍曹”に突撃を掛けて、その上で1回分だけでも脅迫の種にしちまうか、そう判断して奴に近づこうとした矢先だった。女は急に“ハートマン軍曹”の腕を引って体勢を崩させると即足払いを掛けて、地面に引き倒し、そのまま脱兎の如く遁走したのだった。

 女も急に走り出したからか、周りがよく見えなかったらしい。こちらに寄ってきたゴロウさんと正面から衝突する羽目になった。突然の衝撃にゴロウさんもバランスを崩し、アスファルトに尻餅をつく無様を晒す形なった。

 女はぶつかった衝撃でよろめきながらも、器用に脚を組み替えてなんとか体勢を維持したようで、地面に腰を打ったゴロウさんはその時女の顔をハッキリ見たと言う。

 

 女、というより殆ど少女と言って差支えのない、幼さを残した顔立ちだった。だが不思議と人を惹きつけるような年齢不相応の美貌を纏ったその造作は、こりゃ確かに“ハートマン軍曹”でなくともナンパしたくなるわ、と頷けるものがあった。思わず「気を付けろ!」とか「どこ見てやがる!」とか、お決まりの文句を叫ぶのも忘れて、ゴロウさんはその相貌に見入っていたらしい。

 睨み合いはほんの数秒、やがて少女はゴロウさんに一瞥だけくれると瞬時に身を翻して雑踏の中に消えていった。この人混みの中でよくもまあ、と呆れるほどの速さだったらしい。

 気が付いたら“ハートマン軍曹”の姿も見えなくなっていた。こちらに気付いたのかは定かではない。この件に触れるべきか否か、そんな事を考えてるうちに件の事故が起こり、それっきり彼は帰らぬ人となったそうだ。

 

 

「まあ、そんなこんなだよ、この絵はその時見た娘っ子だ、間違いねぇ」

 

 立木が人数分持ってきた水を一気に飲み干して、一息ついたゴロウさんがそんな風に言う。隣でゲンさんが「そういやそんな事もあったなぁ…」と遠い目をしており、対して哲也や真琴達は呆れ果てたような、そんな生温い視線を向けていた。

 

「…それホントにこの娘で合ってます?」

 

 微妙に疑わし気な表情で哲也が問い掛ける。健輔も同様だった。あの日、目撃した切羽詰まったような少女の表情がどうしても、呑み街で“ハートマン軍曹”と言い争ってたというイメージと結びつかない。

 

「間違いねぇよ、こんな別嬪さん一度見たら忘れねぇって」

 

 絵を眺めながらゲシシと品のない笑い方をする。どことなく下卑た視線に閉口する思いを味わっているとようやく席にさっき注文した豚丼が運ばれてきた。店員は如何にも風体のゴロウさんとゲンさんを不審そうにジロリと一瞥したが、それ以上は言う事もなく去って行った。

 

「まぁとりあえずこんな程度の話さ、豚丼の代金くらいの価値はあるだろ」

 

 言うが早いか、早速箸を割るとゴロウさんはそのまま豚丼をかっ込み始めた。そんな様子を見ながら立木はお茶を飲み干すと徐に立ち上がった。「そろそろ行くわ」そう言ってよれよれのコートを引っ掛ける。

 

「なんだもう行くんスか?」

「テメーらといつまでも話し込んでる程ヒマじゃねえんだよ」

 

 からかうようににやけ顔を浮かべている哲也の額を軽く小突いた。

 

「すみません、ご協力ありがとうございました」

「よせやい、俺は何もしてねぇ」

 

 真琴にそう言われた時はどことなく照れくさそうな笑みを浮かべながらも、口調とは裏腹に礼儀正しく頭を下げると、最後に健輔の肩を軽く叩いた。心持ち強めの力に驚いた健輔が振り返るとこちらに顔を半分だけ向けた立木が酷く優し気な笑みを浮かべているのが見えた。

 

「じゃあな」

 

 素っ気なくそれだけ告げると、立木はゆっくりと立ち去って行った。なんだかその背中が学生の時の記憶よりずっと痩せて小さく見えるのは気のせいかだろうか。どことなく不安な思いを感じながらも健輔は正面に座る哲也と真琴に視線を戻す。

 そろそろいい加減この女の子の話と《スカルマン》、なんの関係があるのか話してくれてもいいだろう。と思ったが横でガツガツと丼を頬張っている部外者がいるのでは話しにくい事この上ないだろう。

 どう話を切り出したもんか、と思っていると不意にゴロウさんが変な声を上げながら、胸の辺りを叩き始めた。なんだ?と思う間もなく空いてる方の手が健輔の目の前に置いてあるコップを引ったくったと思ったら、一気に煽った。コップの中身が空になったと思ったら、当のゴロウさんはスッキリと晴れやかな表情で無駄にデカい息を吐いた。

 …どうやらかっ込みすぎで喉に詰まらせたらしい。お前は子どもか、と呆れたようなゲンさんの指摘も意に介した風でもなく、満足そうに腹をさするとゴロウさんは「じゃ、俺らももう行くわ」と言って立ち上がった。

 結局何しに来たんだよ、とか思っているとゲンさんが同じような事を言ってゴロウさんの頭をはたいた。しかしこの人相の悪い男をはたいたり出来る辺り結構な度胸だよな、と感心するが、気にした風でもない二人は退院したら普通に仕事だからな、とだけ告げて去って行った。

 良かった、どうやら普通に仕事は続けられそうだ、という事にとひとまず安堵する。本当ならすぐにでも退院しても良いくらいだと思っているが、そうもいかないらしい。警察に疑われているのでは、と思っていた時は正直癪だったが、入院したおかげでこうして哲也や立木にも再会出来たし、真琴のように無闇に自分を疑ったり、蔑んだりしない人がいる事も知れた。色々散々だったが、そこだけはまあ良しとしよう。

 

「さて私たちもいい加減行こうかしら?」

 

 時刻は3時を17分程回った所。まばらになって来た周囲を見渡し、真琴がそう言った。

 

 

  その後どういう話し合いが行われたのか定かではないが、真琴は一件別の所に寄ってから会社に戻る事にして、哲也はそのまま戻って良い、という許可が下ったらしい。次の場所まではバスで言った方が早いらしく、真琴は暫く院内の待合所で待機していた。

 健輔としては別に病室に戻っても良かったのだが、なんとなく消毒の匂いの漂う部屋に戻る気が起こらず、しばし二人と一緒にいる事にした。それに真琴達に話したい事もあったし。

 哲也はトイレに行くと言って今はいない。狭い待合所は他に人もなく、どことなく所在なさげな空気を感じていると、それを感じ取ったのか真琴が徐に「ねぇ?」と口を開いた。

 

「君さ、成澤と同じ高校なんだよね?」

「?はいそうですけど…」

 

 何を今更、と自分は余程怪訝な表情を浮かべていたのだろう、真琴はどこか躊躇うように、心苦しそうに顔を歪めると「なら何か心当たりない?」と問うてきた。

 

「アイツは確かに色々バカで、向こう見ずで…とにかく半人前で…!でも本当に脇目も振らずに走れるくらい、まっすぐな奴なのよ…!それが今回の件、アイツはいつになく思い詰めてる…でも止まれない…正直良くない傾向だと思う…」

 

 哲也は職場でもそんな感じなのか、健輔が最初に抱いたのはそんな印象で、同時に変わらないんだな、と改めて思った。

 てっちゃん――成澤哲也とは昔からそういう所があった。良くも悪くも単純漢で情に感化されやすく、喧嘩だって仲間を守るためなら真っ先に挑みに行く。思考なんて動きながらすれば良いを地で行く猪突猛進っぷりで、確かに凡そ思慮や遠謀なんて言葉とは無縁な男だ

 その癖そういう自分の性格を短所と認識してる節もあって、一度思い詰めると途端にそれを周りに打ち明ける事も出来なくなる臆病さも持ち合わせる。下手すれば自分の扱いが雑なのだとさえ思えてしまう。どうやらそういう所も変わってはいないらしい。

 特に哲也が大きく取り乱したり、不安定になったりする。そういう時は大抵決まってある傾向がある事も健輔は当然知っていた。

 

「今回の件、成澤を思い詰めさせる要因があるのは分かってる…。それに何か心当たりはある?」

 

 真剣な表情で真琴はそう尋ねた。やはりそう来たか。予想していた事とは言え、健輔はそれに対して何と反応したら良いのかまでは分からなかった。肺が詰まったような息苦しさを覚えながら、健輔は真琴の視線から顔を外した。

 そこ――あかつき村の件は恐らく、いや確実に哲也にとって最も繊細な場所だ。当時――まだ世の事も大人の社会の事も何も知らない、無神経なガキだったあの頃の俺達ならいざ知らず、今だったら絶対おいそれとは触れられないような――。

 そう、今だったらあの時の大人達、近寄る事も離れる事も出来ず、中途半端に腫れ物に触れるような曖昧な対応しか出来ず、密かにアイツを傷つけていた大人達の気持ちが理解出来てしまうのだ。その事が――健輔には酷く哀しい事のように思えた。

 

 沈黙。どちらとも何も答えるでもなく、問いただす事も出来ず、重たい空気だけが待合所を支配した。やがて真琴が「…そう」と小さく溜息を吐いた。

 

「じゃあ…それはひょっとすると…7年前の故郷の件に関係あると思う?」

 

 7年前。そして故郷という言葉。直接の言及こそ避けてはいるが、それが意味する所は一つしかなく、健輔は今度こそ心臓を鷲掴みにされたような衝撃に喉を詰まらせた。二の句を告げずに水槽の金魚よろしく口をパクパクさせるしか出来ない沈黙を肯定と受け取ったらしい、真琴は「やっぱりか」と言いたげな表情で顔を曇らせた。どこか物憂げなその表情に健輔は思わず「知ってたんですか…?」と間抜けな問いを掛けていた。

 

「一応ね…あまり真っ当な手段じゃないけど…」

 

 どことなくバツが悪いような、か細い笑みをそっと浮かべて真琴はそう肯定した。

 

「たまたま聞いちゃったのよ、編集長と奥さんが話してる所…。当面は伝えないようにしておくって言ってたし、アイツも秘密にしたがってるんだろうな、って分かってたから。ゴメンね、じゃあ無理には聞かない事にするわ」

「…どうして…?」

 

 存外淡々と事実を伝える真琴に対して健輔は動揺を隠せなかった。あの件に対する風評は今でこそ当時と比べればだいぶマシになって来た感があるが、7年前はもっと苛烈でかつ、極端なモノだった。好奇の視線とそれ以上の心無い言葉は容赦なく、村を擁する県や隣市の出身者にまで向けられ、終いには県の生産品を締め出そうとする動きややナンバープレート狩りが公然と行われるというさながら近世の魔女狩りの如き異常事態に見舞われた。

 

 今こそ助け合いを。一つになろう。

 口先では共助という名の美辞麗句を謳い、陰では前時代的なムラ社会さながらの陰湿なデマと同調圧力が支配する世の中で、自分達がそれに陥らなかったのは今では単なる世間に対する認識の薄さと大人達の社会への反骨精神ばかりが優っていたのだと分かる。それが分かってしまうのが一番虚しい事だという事も分かっている筈なのに…。

 目の前の女性記者は事も無げにその事実を受け止め、哲也という人間のあり様を受け入れていたのだ。無意識化で世を構成する大人なんてものは皆同じようなモノだと思っていたのに。

 

「ウチは皆訳アリよ、誰にだって自分ではどうしようもならない事で世の中に振り回される事はあるわ、私も…まぁ色々…。正直誰にでも話せる、と言ったら嘘になるわ」

 

 決して卑下するでもなく、決然と心臓の辺りを叩く。

 

「人は畏れや偏見に流されやすい生き物よ、そこは仕方ない。でもそれで苦しんでる人達も大勢いる、それに立ち向かえるのはせめて真実だけだと私は思ってる。及ばずながら、だけどそれが私がこの仕事続ける理由」

 

 理想通りにはいかないけどね?そう言って真琴は悪戯っぽく舌を出して微笑んだ。茶化すような言い方だが、それはまさしく自分のあり様に誇りを持ち、進むべき道を見据えてる人間の言葉だった。その姿を、言葉を健輔は皮肉るでもなく、自嘲するでもなく、美しいと思えた。

 

「話して分かった。君が、君たちがアイツが道に外れないように支えになってくれてたのね?」

 

 決して揶揄しているのでもなく真琴がそう言った。おかしな話だと思う。むしろ自分達は世間一般にはハグレ者の烙印を押されていて、そこに哲也を呼び込んだのだ。むしろ道を踏み外させたの間違いではないか。健輔のその疑問に気付いたのか真琴が「あ、そういう事じゃなくてね」と首を横に振った。

 

「置かれた状況が悪かったらアイツももっと、引き返せない道に進んでたかも知れない。成澤が本質的に優しい奴のままでいてくれたのは、君達がちゃんとアイツを気遣って、仲間でいてくれたからだわ。君は決して君が卑下するような人じゃない」

 

 異論は認めません。最後に冗談っぽく柔らかな、しかし有無を言わさない口調でそう告げた。

 

「じゃ、そろそろ行くわね、成澤の事よろしく?」

 

 二の句を告げずに呆然としていると時計をチラリと見た真琴は姿勢よく立ち上がり、最後に健輔にそれだけ告げて待合室を出ていった。その先の停留所に先程停止したバスがアイドリング音を響かせている。

 颯爽と去って行くその姿に本当の大人っていうのはああいうのを指すんだろうな、と何処か他人事のように思った。彼女や己なりに信念を職務に誇りを持っている立木。哲也はああいう人達の存在あって今の場所にいるんだな、と思った。

 

 同時に俺もまたその一部であれているんだろうか、と自問する。それは分からないが少なくとも今こうして再会した事にはきっと意味がある筈だと信じたい。

 真琴が自分だけで行ったのは、旧交を温める以上に彼女では出来ないやり方で哲也を――あの向こう見ずでお節介な友人を支えて欲しいと思ったからだろうか。

 

 自分にそれが出来るかは分からない。だが少なくとも自分はそれを望んでいる事だけはハッキリと自覚出来た。健輔はそれ以上は考えずに待合室を後にして、哲也を探しに行った。

 

 この5年間の事、これからの事、話したい事はまだ他にもたくさんある。全てはそれからだ。

 

 

 




後編に続け。


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CHAPTER-1:『REvengerⅠ』‐⑦

 真琴がこの後寄る所があるからとここで解散という事にして、哲也には帰っても良いと命じたのは久々に再会した旧友に対するせめてもの気遣いだけでない事はいくら自分の鈍い頭でも推測は出来る。というか実際哲也としても今は健輔の傍を離れるわけにはいかなかった。

 もし健輔の話通り昨夜《スカルマン》に殺されかけ、間一髪謎の忍者みたいな奴に救われたんだとしたら――仕損じた獲物を討ち取るためにあの髑髏男はまたやってくるのではないか、そう思えるからだ。実際話してみて健輔の話はかなり信憑性が高いように感じられた。

 

 本来なら一刻も早く警察に伝えるべきなのだろうが、健輔の印象では奴らはあからさまに自分を疑ってるような気がする、という事で色よい返事が貰える確証はなさそうだ。警察に話を通すならせめて立木には同行して欲しかったとは思うものの、甘えてばかりいる訳にもいかない。

 旧友を守るためなら多少は大胆な手も使う腹積もりだった。幸いケガは軽いようなので例えば主治医に頼み込んだ上で何とか退院させて貰って、その上で月島のアパートにでも匿うか…。バレたら色々問題になりそうだったが、そこは仕方ない、と腹を括る。

 件の少女の事含め色々気になる事はあまりにも多いが、今はこっちが優先だ。そんな事を言ってそれが単にあかつき村に――自分の過去に触れる事になる可能性があるから、避けようとしているだけではないか。性懲りもなく頭の内奥に湧き上がる亡霊の囁きを哲也は無視して歩を進めた。

 

「おーい、てっちゃあん!」

 

 とまぁ、そんな意気を挫くような呑気な声が病院の廊下に響き、哲也は思わずガクッと膝が折れそうになる錯覚を覚えた。

 声のした方を見ると案の定健輔がこちらに手を振って駆け寄ってくるのが見えた。ただ空元気を張り付けたようなその表情は彼もまた不安を無理に取り繕っている事が十分に窺えた。それが彼なりの気遣いであろう事くらいは流石に察せられ、哲也もまた意識して緊張した心を緩めると鷹揚に片手を振り返した。

 

「真琴さんは帰ったよ、後はよろしくってさ」

 

 その台詞は要するに会話の始動のきかっけみたいなもので特に意味のない事は分かってる。なので哲也も「あいよ」ととだけを返した。とは言えさっきまで考えていた事をどうやって健輔に伝えるものか、と思う。自分が再度狙われる危険性がある事はひょっとしたら健輔だって気付いてるかも知れない。だからと言っておいそれと「《スカルマン》がお前を狙ってる、何とかしてここを逃げよう」とか言えるだろうか。

 気付いてなければ無駄な混乱させるだけに終わる可能性が高く、杞憂で終われば最悪単なる遁走だ。日雇い労働である彼の立場も考えると無理矢理連れ出すと却って立場を悪くするだけかも知れないしな…なんて真剣に考えていると不意に「あのさ、てっちゃん?」と横合いから声を掛けられた。

 自分の隣を歩く友人を見ると何処か問いただすような真剣な視線をこちらに注いでいる。どこか言い淀むように口元をムズムズさせているその表情になんだよ、と問いかけようとしたが、再び健輔が口を開く方が早かった。

 

「…あのさ…、真琴さんっててっちゃんのカノジョかなんか?」

 

 なんだと思えば開口一番放たれた強烈な爆弾に危うくギャグマンガ宜しくずっこける、という感覚を始めて味わった気がした。

 

「…どこをどうなったらそうなんだっ…!」

 

 直前まで真面目に考え事してなかったら、もう少し漫才みたいなノリと動作でツッコミが炸裂してたかも知れない。天下の病院という事もあってそれも自制していると、こっちの心情を知ってか知らずか健輔は急にさも可笑しそうに破顔した。

 

「だよなぁ~、そんな気全然しないもん、夫婦漫才師ならいざ知らず」

「誰が漫才師だっ!ツッコミ役はどっちだ!?」

「…聞く所おかしいだろ…」

 

 周囲から生温い視線が注がれている事に気付かないでもなかったが、そんな馬鹿なやり取りをしているとふと必要以上に張りつめていた心が適度に解れていくような気がした。そう、何も使命感に囚われる必要性はない、俺は一人の親友として何が健輔のためになるのが一番なのか、それを一緒に考えれば良いだけなのだ。

 

「カノジョと言えばさ…てっちゃん、恵麻とは連絡取ってる?」

 

 先程のはこの話題へのジャブだったらしい。また不意打ちで健輔がそんな事を尋ねてくる。

 エマ?それが人の名前だと認識され、更に藤田恵麻(ふじたえま)の名に変換されるのに多少の時間を要した。

 

 そこに至って漸く思い出す。当時の健輔は恵麻と付き合っていた…と思う。世間一般でいう所の交際関係が俺達のグループに当てはまるのかは定かではないが、少なくともグループ内ではなんとなくそう認識されていた。確か健輔が姿を消して以降ちゃんと連絡は取ってなかった筈だ、成程気になるのも道理。

 健輔が言い訳がましくモゴモゴと何かを言っている。曰く昨夜死にそうな目にあって最初に思い出したのが、恵麻とお袋さんだったらしい。今更未練がましい事なんか分かってる、やり直したいとかそんなんじゃない、ただ知りたいだけ、とブツブツ独り言っぽく言っているのを聞いた哲也はいっその事アイツにでも預けるかなぁ…と場違いな思い付きを考えた。 

 

 藤田は今下北沢辺りのバイク屋で働いている。哲也の愛車の手入れをしてくれているのも彼女だ。確か今亡くなった祖父母の家を引き継いで、戸建てに住んでる筈で都合が良いかも知れない。

 勿論いきなり連れて行ったら「ナニ勝手に決めてんだバカ」とか言ってぶん殴られる気がするが、そこは本質的に情に厚く、仲間内には暖かい彼女の事である。訳アリの知り合い、特にかつて愛した男の危機となれば決して悪い顔はしないのでは、と思う。

 

「いっそ会いに行ってみるか?」

 

 だからと言ってそんな事を聞いたのは何もそんな事を本気で実行しようと思ったから、という訳ではない。ここからならバイクでそんなに遠くないし、もし会えたら健輔も嬉しいだろう、とそんな程度の事だった。病院から連れ出したら流石に問題になりそうだが、《スカルマン》が絡んでる状況であれこれ言ってる暇はない。

 

「良いの?いきなり言ったら迷惑じゃない?」

 

 期待するような、でもそれ以上に不安になってるようなそんな表情で健輔が尋ね返す。

 

「会いに行きたいのか、行きたくないのかどっちなんだよ!?」

 

 そう問いただすと健輔は健輔は今にも世界の終わりが来そうな表情で「だって…」とぼやく。

 

「…例えば…カ、カレシとかがいて…?これから会う約束してたりしたら、傍迷惑この上ないよなぁ…と思ってさ…」

 

 カレシ、という言葉の辺りで一瞬言葉を詰まらせ、口に出した途端今にも泣きだしそうになったその表情は実に分かりやすい。コイツ今でもそんなに…とこちらが面映ゆくなるような感情を抱かせる所はやはりどこまで言っても自分の知る土枝健輔の物だ。そう理解した途端に可笑しさがこみ上げてきて、哲也は肩を揺すって含み笑いを溢した。

 

「何で笑うんだよっ!俺は真剣に…」

「ワリィワリィ…」

 

 ひとしきり笑いを吐き出してから顔を上げた。それから赤い表情でこちらを睨んでいる健輔の肩をそっと叩いた。

 

「男はいないよ、相変わらずスピード狂で『アタシより遅い男なんぞいらん』とか言ってるよ…」

 

 これは本当の事だ。下北沢のバイク屋は彼女目当てで足繫く通うバイク乗り達が少なからずいるが、彼らからのお誘いをいつもそうやってすげなく断ってる。最近じゃ彼女の心を射止めるべくゼロヨン(ドラッグレース)を開催しようとか、駐車場を借りてドリフト大会を開こうとか良くない騒動まで起きかけたとか起きないとか。

 それを聞いた健輔の表情が途端にふやけたように緩んだ。敢えて言葉に出さなくても心の底からホッとした、という顔をしている。分かりやすいなぁと呆れるような羨ましいような奇妙な感慨が胸に満ちていくのを感じた。

 

「…でどうする?ここからなら15分で行けるぜ?」

「……行く」

 

 そうなれば今度こそ覚悟を決めたらしい。存外素直に健輔は頷いた。勝手に病室を抜けたらそれはそれで大変な事になる気はするが、その時はその時。いけない事をするというのは本質的にワクワクする行為だ。なんだか久しぶりに高校生の時に戻った気がした。健輔もそれを察したのか、哲也の方をチラリと見やると二人してニヤリと笑った。

 他にも恵麻に当時の仲間の中から誰か頼れる人間がいないか、当たってみようと思った。怪物の記事を書いてたヤマピーこと元山の事も気に掛かる、後で連絡してみよう。それだけ思い、後はどうやってここを出るか、という考えだけが頭中を満たしていった。

 

 その矢先――。

 突如吠えるような鋭い叫び声が静かな廊下に響き渡り、哲也は背後を振り返った。

 見ると先程自分が出てきたトイレの入り口付近に人影が蹲り、一人の小柄な姿がその傍らで何やら呼びかけている光景が見えた。単にむせたとか吐き気を催したとかそういう類ではない、喉の辺りを搔きむしるように抑え、のたうち回るその姿は明らかに病院内にあってもなお、異様な光景だった。しかしその倒れている男に寄り添う人物、その薄汚れた作業着の背中に見覚えがあった。

 

「ゲンさん!」

 

 健輔もそれに気付いたのか、男の方に駆け寄っていく。哲也もそれに追従していくと、果たしてそこにいたのは倒れている方が先程食堂で会った人相の悪い男――確かゴロウさんとか呼ばれていた――と作業着を着た小柄な老人は彼と一緒にいた健輔の同僚で間違いなかった。

 ゴロウさんの顔面は蒼白だった。目は血走り、息苦しそうに額に脂汗を浮かべながら、荒い息を吐いている。

 

「ゴロウさん、どうしたんだよ!」

「大沢君!しっかりするんじゃ!」

 

 健輔とゲンさんが呼びかけているがゴロウさんは答える事はなかった。声が届いているかも定かではない。まるで電流が体を駆け巡っているかのように細かい痙攣を繰り返しながら、男は苦痛に喘いでいた。

 

「アツイッ…アツイィィ…!」

 

 聞き取りづらいがそう言っているように聞こえた。だがその声はまるで獣の唸り声のようで人としての理性のようなものが今にも消え入りそうだった。このままじゃ喉を掻きむしりかねない、と思った哲也は気道を確保するためにも一旦態勢を整えさせようと、男に触れたが――

 

「熱っ…!」

 

 その途端予想もしなかった熱量が指先に走り、哲也は反射的に手を引っ込めていた。衣服越しでさえ熱湯に突っ込んだような異常な体温だった。人体の温度というモノがこんなに上がる事など普通はあり得ない事のように思えた。

 周辺の患者や来院者達も不安そうな表情でこちらを見ている。誰か医者を!そう叫ぼうとした刹那、白衣を着た40代くらいの男が駆け寄ってきた。首元に内科を示すネームプレートがぶら下がっている。

 

「どうされましたか?」

 

 静かな、だがよく響く声で床上でのたうち回るゴロウさんとその傍らで佇む健輔達双方に訊くように医師が言った。

 

「わ、分からん全く…。10分くらい前から体調が悪いゆーて…トイレに籠もったっきり…出てきたら出てきたらで痛いとか熱いとか痒いとか言いよるし…」

 

 相当焦っているのかゲンさんの説明はかなりたどたどしくて要領を得なかった。医者は軽く頷くとゴロウさんに呼びかけながら、素早く脈や呼吸の状態を確認していく。

 しかしながらその体温の異常性は医者であったとしても面食らうものであったらしい。「なんだこの症状は…?」医者が小さくそう呟くのを哲也はハッキリと聞いた。

 しかし異変は収まらなかった。男の体が一際大きく撥ねたかと思うと次の瞬間、まるで溶岩のような勢いで赤黒い液体が口元から噴出した。ゴロウさんの顔を覗き込んでいた医師はその洗礼をまともに顔面に浴びる羽目になった。

 

 血…?そう認識したのと医師が「出血確認!」と叫んだのが、どちらが先かは判別が付かなかった。突然の吐血に医師も動揺を隠せなかったようだが、傍目には何とか平静を取り戻すと、胸元から小型の無線機のような機械を取り出し、それに向かって叫んだ。

 

「こちら1階ロビー前、急患発生!発熱・吐血・意識混濁有り、大至急スタット――」

 

 しかしながらその医師の言葉は最後まで紡がれる事はなかった。一瞬湯気のような白い煙が視界の端を掠めたと思った刹那、猛烈な熱と共に突き上げた衝撃が放射状に広がり、ゴロウさんの傍らに寄り添っていた男4人を吹き飛ばした。

 それを認識できたのは実際体が木の葉のようにふわりと浮き上がったのを自覚してからで、直後塩化ビニル樹脂の床面に背中から叩きつけられ、五感が一瞬消し飛ぶような感覚と共に息が止まるような感覚を味わった。吹き飛ばされたという事は認識出来ても、すぐに何が起きたかは掴めず、哲也はバカになった耳と目で周囲を探った。

 

 視界が上手く効かないが、先程一瞬見えた薄い蒸気のような靄が元から白い廊下に立ち込める状況ではどの道ハッキリした事は分からない。辛うじて悲鳴と怒号が飛び交うのが感じられたが、方角も音量もハッキリしなかった。ふと傍らを見ると先程の医師が体を横たえながら低く呻いていた。そうだツッチーは無事だろうか、とそう思った直後、ぼやけた両目が靄の向こうに何かが蠢くのを捉えた。

 黒い影がヌラリと幽鬼さながらに立ち上がるのを知覚したと思った途端、急速に明瞭になった網膜にその姿がハッキリと焼き付いた。ゴロウさんと呼ばれていたさっきの男…?咄嗟にそれが判別出来たのは纏っている作業着に覚えがあったからだ。最もその作業着は今は赤黒く変色し、下地の色すら分からない有様だが。

 

 ゴロウさんの全身は凄惨だった。口からの吐血のみならず、目や鼻、体中の孔という孔から血を吹き出し、異常に加熱した体温が即座にそれを蒸発させる。何かを訴えかけようと口を開くも飛び出てくるのはゴボゴボという血が湧き上がる水音だけで、目だけが異様に欄欄と輝いていた。ゆっくりと両手を前に突き出しながらこちらににじり寄ろうとしたが、しかし脚を踏み出した直後、まるで時が止まったかのように静止した。

 なんなんだ一体…?蛇に睨まれたカエルの如く動けぬまま、不気味に沈黙する男に目を向ける。そうしている間にも蒸気は以前朦々と吹き上がり、やがて血に濡れた皮膚が不気味に蠕動を始めた。

 

「ク”ゥゥゥル”ワ”ア”ア”ア”ア”ァァァァッッッ!!」

 

 人とも獣ともつかない不気味な叫びがゴロウさんから発せられた物だと知覚するのに数秒の時間を要した。次の瞬間、再び猛烈な熱と蒸気が男の体から吹き上がるのと共に()()は始まった。

 

 全身の筋肉が風船のように膨張したかと思うとそれに合わせて破けた服を更に引き裂くように無数の“棘”が皮膚下から出現したのが哲也には見えた。やがて蒸気の中から脚を踏み出して現れたソレは果たしてそれはもう先程食堂で図々しく豚丼を頬張っていた男のモノではなくなっていた。

 

 筋骨が不自然に隆起した体の左半分を剣山さながら鋭い棘に覆われ、歩くたびに不気味にシャナリシャナリと音を響かせる。右半身は先程全身に纏わりついていた血のように赤黒く変色し、濡れたように光っていた。最終的に一回り程大きくなったその姿は最早到底人とは呼べない、だがその相貌――棘に覆われていない左半分に半ば融解するように、それでも張り付いているように残るソレは確かにゴロウさんの面影を残していた。

 

 人、獣、どれも当て嵌まらない。異形のモノ、だがかつてはまさしく人であったモノ、そして今獣同然の身に堕したモノ。その姿はまさしく――。

 

「バケモノッ――!」

 

 それは自分の口から発せられたものなのか、それとも周りから発せられたものなのか。

 

「キ”イ”ィィィヤ”アァアァァァァッ!!」

 

 だがその言葉に反応するかのようにバケモノはまるで産声の如く咆哮を上げた。

   

 

・・・・・・・・・

 

 

「来た…!」

 

 今は大手運輸会社の配送車両という事になっているバンタイプの運転席で少女――柚月が突如電流が走ったように体をのけぞらせたかと思うと、形の良い眉を苦悶の形に歪めて、そう呻いた。痛むのかこめかみに辺りを押さえながらも、「…《ヴェルノム》」そう呟くのがハッキリと聞こえた。

 単にその存在を“感知”しただけなならこうはならない。この反応は“顕現”の方だな、と理解した琥月辰雄は予想していた事態とは言え、出来れば起きて欲しくなかった事態が起きてしまった事を痛感した。 

 いくら後手に回る事しかない立場とは言え、こうも事を掻きまわさせるのは不愉快極まりなかった。だがそんなこちらの苛立ちを瞬時に感じとったのか、痛みに顔を顰めながらも柚月はチラリとこちらを一瞥する。行って下さい、そう訴えかける目にそう背中を押された気がして、辰雄は吐き出しかけた息を呑み込んだ。

 

「…現場まで頼む、射出したら目的地までの指示を」

「分かりました」

 

 漸く“顕現”の時に発せられるらしい()()()の洗礼から解放されたのか、なんの抑揚もなく淡々とそう告げる横顔はすっかりといつもの山城柚月に戻っていた。自分なりにやるべき事を見出している者だけがなし得る顔だ。そう断じた辰雄は最早何も言わず、運転席との間にあるハッチを開放するとそこに体を滑り込ませた。

 無論その先にあるのは配送トラックにあるような貨物スペースではない。所詮ガワはあくまでもガワという事だ。左右の壁には自分達の“装備”を収めた棚が設置され、中央部にはこれまた特殊な改造を施されたバイク――というより4輪を備えたマルチホイールビークル《セクターゼロ》が鎮座している。まさに格納庫だ。

 

 その格納スペースで待機していた楠と一瞬目を合わせると、辰雄はもう何も言わずに瞬時に上下の衣服を脱ぎ捨てた。

 元から下に着こんでいるインナースーツのみの姿となった辰雄はそのまま両腕を広げ、壁面に設置されたラックに身を預けた。そのまま楠が慣れた手つきで次々と装備帯から取り出した金属製の鎧を辰雄の体に装着していく。脛当てと貫が一体化したようなブーツから始まり、大腿・肩・二の腕を経て、両手には籠手状のグローブユニット。最後に上から着こむようにボディーアーマーを装着すると総量15㎏になる《エースシステム》が辰雄の小柄な体を苛んだが、それも楠が腰の辺りにベルト型の装備帯を巻き付けるまでだった。

 

 鎧の重量に呻く辰雄に構わず、楠はベルトをアクティブ状態にする。その途端微弱な電流が体に流入するような痛みが全身を貫いたが、次の瞬間には体にのしかかっていた鎧の重みが瞬時に消失したように感じられた。まるで最初から自分の身体そのものであるかのようにしっくりと馴染む。頼もしいとは思うが、正直どうもこの感覚は好きになれない。試しに指先や腕を動かしながら辰雄はそんな事を思った。

 だが奴らと渡り合うには必要な力だ。そう結論付けた辰雄は余計な事は考えずに《セクターゼロ》に跨った。首元に伝道スピーカーを装着すると共に最後にハンドル部分に引っ掛けてあったフルフェイスヘルメット――というより兜の如き最後の鎧の構成パーツを被った。

 他の装備は楠に任せているが、最後のこれだけは自分の手でやる。謂わば人間を超越した他のモノになるために必要な儀式のようなものだ、と辰雄は思っている。その決意に呼応するかのように頭部ユニットに備わった十字型のバイザーが赤く発光する。

 

「《エースゼロ》レディ…ステディゴー…!」

 

 《セクターゼロ》を起動させ、スロットルレバーを捻る。激しいアイドリング音が狭い格納庫の中に響き渡り、楠が僅かに顔を顰めたのも一瞬の事、彼は黙って別のスイッチを操作した。それと共に後部のハッチが解放され、射出用スロープがせり出す。

 

〈タツオ、気を付けて下さい…〉

「ご武運を」

 

 通信機から柚月の声が聞こえたのと、楠がそう言って頭を下げたのはほぼ同時だった。辰雄は何も言わずにバイクの拘束パーツを開放すると抑えを失くしたマシンはゆっくりと後方に流れていき、スロープを伝って地面に降着した。途端に安定性を欠いたマシンが横転しそうになったが、常人を超越した動体視力でそれを難なく抑え込むと、辰雄は――《エースゼロ》は一気にスロットルを吹かし、ハイエースを追い越した。

 すぐに送られてきた様々なデータが網膜に投影され、行くべき道を示してくれた。

 

 

 ・・・・・・・・・

 

 一体何が起きたんだ…。

 目の前の光景が現実のものとは思えず、健輔は眼前に佇む異形を前にして言葉一つ発せられず、ただその姿を捉え続ける事しか出来なかった。

 バケモノ――それは理解できる。昨夜目撃した奴もあんな姿をしていた。左半身は醜く膨れ上がり、ハリネズミかウニの如く鋭い棘を無数に生やしているのに対して、その半身はグズグズに融け堕ちて異形と混ざり合っていてもまだ人の面影を残している。何よりも――バケモノのその顔、正確にはその半分には半ば融解しかけているとは言え、確かにゴロウさんの相貌が張り付いていた。

 

 それが示すのは間違いなくあの怪物が間違いなくゴロウさんという、先程まで自分達の仲間だった男だと言う事、そしてそれが見る影もないバケモノの姿に変わってしまったという事だ。それを眼前の状況から頭が理解できても、心がそれを受け入れられない。

 そんな筈ない、あんなモノがゴロウさんの筈ない、人があんなモノに変わってしまう筈がない…!

 

 それでも冷静に頭を回せたのはそこまでだった。ようやく蒸気が晴れ、爆発的な轟音に巻き込まれた人々が今この病院のロビーで起きている異常事態に気付き始めた。それが次なる災厄を起こす呼び水となった。

 

「キャアァァァァァァァァァァッッッッ!!」

 

 つんざくようなその悲鳴が切欠か、それとも突如始まった恐慌状態に対して発せられた声なのか、それは分からないが、突如出現したバケモノに対して、周囲の反応は至極当然のものだった。その姿を認めた人々は皆一様にそれに恐怖を、厭悪を、害意を、少なくとも好意的では決してない種々の感情を本能的に抱き、一刻も早くその場から逃げ出そうと一斉に手近な自動ドアへと殺到した。

 最初の咆哮以降黙して動く事のなかったバケモノはそんな人々の方に目を向けると――というより彼らが発する声や靴の音等を捉えると――最早人の形をしていない五本の歯が生えた提灯のような口を開いた。

 

「ギィシャァァァァアァァァァッッッ」

 

 瞬間つんざくような咆哮が再び発せられ、体を覆う無数の剣山が不気味に鳴動を始めた。その棘同士が触れあう事で発せられる乾いた音はまるで赤子のあやす音響玩具のようでさえあった。昨夜の記憶、蜘蛛のようなバケモノが同じような逃げる女にその肉体を溶かす針を発射した光景を思い出した健輔は次の瞬間恐怖を圧し潰す勢いで跳ね上がってきた峻烈な感情に押し流されてあらん限りの声で叫んでいた。

 

「そこにいたら危ない…!皆逃げろぉっ…!!」

 

 だがその時には既に全てが遅かったし、仮に間に合ったとしてもそれを聞いた全ての人が咄嗟に適切な行動に出られる筈もなかった。健輔が叫び終わるか終わらないうちにバケモノから解き放たれるようにその左半身を覆う棘が射出され、逃げ惑う人々に向けて襲い掛かった。ヒュンッと空気を切り裂いて飛ぶそれは弾丸に匹敵する速さで人々の体に食い込み、千々に引き裂け、その体内に留まった。

 群衆の中から短い悲鳴が上がり、先程まで入り口付近に立っていた人々の半分以上が棘が刺さった箇所を押さえながら、痛みに絶叫した。それが更なる恐慌を呼び、人々は解き放たれるように三三五五の方に散らばっていった。時には前を行く者を押し出し、倒れ伏した者を足蹴にしながら少しでもバケモノの脅威から逃れられそうな所へ。

 バケモノはそんな人々にはもう興味がないとでも言わんばかりに見向きもせず、覚束ない足取りで歩き始めた。その先には痛みに呻きながら逃げる事も出来ない犠牲者達の姿があった。健輔の脳裏に昨夜の光景が思い浮かぶ。毒針で倒れた女性、その女性の肉体を容赦なく解体するバケモノ、健輔のすぐ近くに食い千切られた顔の半分が飛散し――。

 

 待て、やめろ、早く逃げろ…!自らが仕留めた獲物ににじり寄る冷徹さで倒れ伏す人々に迫っていくバケモノに、または奴に今まさに食われんとしている人々に向かって健輔は叫ぼうとしたが、恐怖に竦んだ体は何一ついう事を聞かず、乾いた咽喉は声にならない呻き声だけを発するだけだった。心は居ても立っても居られない、あの人達を助けたいと願っている筈なのに、体はまるでいう事を聞かない。いや違う、分かってはいても恐怖が心を蝕んでいるのだ、と気付いた健輔はそんな己の浅ましさを叱咤するように笑いだしそうになる腿を叩いて、脚に力を込めようとした。

 しかしそんな健輔よりも先に立ち上がり駆けだした者がいた。目の端に映ったその小柄な体は間違いなくゲンさんのものだった。

 

「やめろ!大沢くんなんじゃろう!?だったらこんな事はするな…!」

 

 しかしゲンさんは逃げ遅れた人々の方ではなく、あろう事かそれに向けて歩を進めるバケモノの方に向かっていった。棘の生えていない方の肩と腕を掴み、痩せたその体躯のどこにそんな力があったのかという程の必死さでその異形を抑えつけようとした。

 或いはバケモノのどこかにゴロウさんという人間の意思が残っていると信じたかったのか。その必死さを湛えた声はそれを願ってやまないと確かに感じ取れ、その事は飯場に集まった人夫達を家族のように思っていた彼らしい反応だと言えた。

 

「無茶だゲンさん!」

 

 しかしそんな“至極真っ当な”想いはここでは裏目にしか出なかった。健輔が叫ぶより先に鬱陶しいハエを払い落とすようにバケモノが身を捩るとゲンさんの小柄な体は寸分の抵抗も虚しく、跳ね飛ばされる事になった。枯れ枝のように宙を舞い、壁に打ち付けられたゲンさんは意識が朦朧とするのか、「大沢くん…」とそれでも必死に呟きながら、かつてゴロウさんだったモノに手を伸ばす。バケモノが身を震わせ、再び棘を放ったのはそれと同時だった。

 健輔の絶叫も虚しく、十数本の棘がゲンさんの体に吸い込まれていく。棘が撃ち込まれる度にその痩せさらばえた身が痙攣するように跳ね、やがて伸ばした手が力尽きたように堕ちた。

 

「う”あ”ぁぁぁあ”あ”あ”ぁぁぁぁっっっっ!」

 

 喉が破れるのではという勢いで鼓膜に飛び込んできたその声が自分のものだと認識したのは、とっくに体が床を蹴り、走り出していた時だった。

 畜生畜生畜生――!もつれそうになる脚を必死に動かしながら健輔は胸中に絶叫していた。まただ、昨日と同じだ、目の前で人が食われて命を奪われて――!俺はそれをただ眺めてるだけだ、怖がって恐れて何もしない言い訳ばかり上手くなった今の自分そのものだ。もうそんなのはごめんだ、これ以上目の前で奪われてたまるか――!

 

 激情に駆られながら健輔は遮二無二脚を動かしながら、バケモノに向かって走り、その体にタックルを食らわせた。それなりに全力を込めたつもりだったが、その巨躯は重石の如く微動だにせず、逆に健輔に向かって拳を薙ぎ払った。

 咄嗟に腕を挙げて防御したつもりだったが鋼のような硬さを帯びた拳から放たれる打撃を防げるものではなかった。薙ぎ払いのその衝撃だけで健輔もまた大きく跳ね飛ばされ、意識が跳ぶ感覚を味わったと思った直後にはもう床に叩きつけられていた。拳を受け止め、その直後に体重をまともに受け止めた右腕に鈍い痛みが走ったと思ったのも一瞬、その感覚が急に失せていくのが感じられた。折れたな…、そう認識したのも束の間、目の前にバケモノが迫っているのを認めた健輔は今度こそ息を呑んだ。

 

 ヤバい…!下手すれば飛びそうになる意識の中でそれだけは認識出来た健輔は折れた右腕を庇うように身を捩ってでも迫るバケモノから逃れようとした。だが既にバケモノは健輔の目前まで迫っており、最早脚を一歩踏み出せば健輔に辿り着く距離だ。いくらバケモノの脚が速くなくてもこれはもう逃げられない、眼前に迫る圧倒的な“死”を齎す異形に戦慄した刹那――。

 

 これまでのものとは異なる閃光と轟音が病院の廊下を圧した。一拍遅れて殺到した衝撃にバケモノは出鼻を挫かれたように動きを止めた。飛び散る鮮血、鼻の辺りに纏わりつく硝煙の匂い。まさか銃撃――?いきなりの事態に動転した健輔はボヤけた視界で探るように先程の轟音がした方向に視線を転じた。

 

 それは周囲に残された人々も同様だったらしい。突如バケモノを銃撃した主を探すべく、視線を交錯させ、やがて全てがある一点で止まった。未だ混乱の最中にある病院内を悠然と歩いてくるその影を見定めたからだ。その影は確かに小型の拳銃を腰溜めに構えながら、仮面で覆われた表情の見えない相貌をバケモノに注いだ。

 瞬間一旦は冷静になりかけたように見えた群衆に再びパニックが巻き起こる。それは当然だろう。今この場にいる者ならば誰の目にもそれは救いの手等ではなく、むしろ新たな騒乱と虐殺を引き起こすだけの災厄そのものだとしか思えなかった筈だ。

 

「…全くもう滅茶苦茶だな…、こんなお披露目は予定になかったぞ…」

 

 その忌々しそうな声色は健輔の耳にハッキリと聞こえた。

 

 痛みによる防衛本能からか撃手の方に向き直ったバケモノが再び空気を震わせるような低い咆哮を発した。それを柳に風、というように受け止め、いなしながら《スカルマン》はしゃれこうべのそれを思わせる虚ろな黒い瞳で目前の異形を睥睨していた。

 

 




という訳で一挙投稿でした。
久々に怪人の登場です。ここから色々急展開に転じますのでお見逃しのないように。
それではまた次回。


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CHAPTER-1:『REvengerⅠ』‐⑧

お久しぶりです。詳しくは後述ですが、ひとまず定期投稿を再開します。


「あれが…《スカルマン》…」

 

 本日何度目かの予想だにしない事態に哲也は呆然とそんな呟きを漏らす事しか出来なかった。

 

 その姿を間近で見るのは思えばこの1年で初めてになる。黒ずくめの出で立ちに銀色のマスク、物々しいプロテクターという姿はこれまでテレビの画面や週刊誌の写真を通して何度も見たが、大抵それらはメディアというフィルターを通して希釈された情報に過ぎず、こうして眼前にそれが改めて突き付けられる重さとは全く異なるものだった。漠然とだが、ああ、本当に存在してたんだな…そんな風に感じられた。

 意外と華奢なんだな、それが最初の印象だった。背は哲也とそんな変わらないが、マスクを被っていても頭が小さい、というか…ネットの動画で見た警察官との立ち回りの様子から見てももっと大柄でガタイの良い男を想像していたのだが。くぐもって聞こえる声はボイスチェンジャーか何かの効果だろう。

 

 ここに何しに来たんだ…?最初の衝撃が過ぎ去れば次に頭をもたげてくるのはそんな疑問で、健輔が《スカルマン》が怪物を操っていたと証言していたのを思い出した。まさかコイツがあの人夫をバケモノに変えたのか…そう思った次の瞬間には《スカルマン》は病院の床を蹴ってバケモノに躍りかかっていた。

 敵意を認識したのはバケモノも同様だったらしい。三度体を震わせ、体にびっしりと生えた棘を再度射出しようとした。マズイ、またアレが来るのか…。哲也は思わず身構えたが、それより《スカルマン》の拳がその巨躯に突き刺さる方が早かった。

 その拳は棘に覆われていない方の半身を正確に捉え、肉を打つ鈍い音が響いた。僅かに態勢を崩したその隙を逃さず、《スカルマン》はその顔面を鷲掴みにすると、渾身の力を込めてその巨体を床に叩きつけた。

 凄まじい轟音と衝撃がこちらにまで達する。粉塵が舞い散り、哲也は思わず顔を覆った。視線を《スカルマン》のいた方に転じると、叩きつけられた衝撃が凄まじかったのか、合成樹脂製の床が穿たれたように大きく陥没し、バケモノは頭部をめり込ませていた。

 

 アレ本当に人間業かよ…。意外と華奢、という印象を哲也は哲也は引っ込める事にした。尋常じゃない怪力だ、明らかに人間のレベルを超越している。バケモノも非常識ならそれに対峙する骸骨男もこの世の道理ではない、というのも納得だ。まるでこの世の物とは思えないその戦いに哲也は戦慄した。

 だがバケモノもやはりバケモノだ。人間なら良くて脳震盪を起こすか、悪ければ頭が潰れかねない衝撃を受けたというのに、まるで意に介していないように棘だらけの左腕を《スカルマン》に薙ぎ払った。

 

「チイィッ!」

 

 だが《スカルマン》も咄嗟にバケモノの頭から手を離すと宙返りするように飛び退って、左腕の一撃を回避した。苛立ったように怪物が五角形の口を開けて咆哮した。しかしその唸り声が終わらないうちに頭部が衝撃にのけ反り、口から墨滴のような血糊が飛んだ。回避したまま地面に着地した《スカルマン》がバケモノの口腔に銃弾が叩き込んだのだと分かった。

 その隙を逃さず、二発目の銃弾がバケモノの右の側頭部に突き刺さった。パッと花が咲くように血以外の紫色のナニか――たぶん脳漿だろう――がまき散らされ、バケモノはそのまま崩れ落ちるようにうつぶせに倒れ込んだ。

 

 静寂。先程まで殺気という名の喧騒に支配されていた病院において、その静けさは異形同士の激闘に決着が付いた事を雄弁に物語っていた。周囲に身を潜めていた人々は固唾を呑んでバケモノを斃したドクロの仮面を被った男を見守っていた。《スカルマン》はそんな人々を一顧だにする事無く、腰のホルスターに銃を収める。

 哲也もしばし呆然と目の前の状況を見守っていたが、不意に健輔は、ゲンさんと呼ばれていた老人は無事だろうかと、先程まで彼らのいた方向に目を走らせようとした――その刹那、同じく視線を彷徨わせていたのか周囲を見回していた《スカルマン》と目が合った。

 

 ドクロのマスクの顔色は窺えない。だが哲也にはその唯一露出した口元が驚嘆したように軽く開かれているように見えた。黒い目は逸らす事無く、こちらを見据えている。

 なんなんだ一体、お前は何者なんだ――。その視線に怯んだ哲也は思わず、顔全体にその思惟を込めて、《スカルマン》を睨みつけた。

 視線が交錯したのはほんの一瞬だったか、不意にその張りつめた糸を解くように《スカルマン》がふっと肩を震わせた。酷く可笑しそうに、その口元が緩く笑みの形を作るのが見えた。

 ゾクリと肩が震える。その笑みはなんだか途轍もなく懐かしいもののように思えた。なんだ、俺はこの笑みを知っている…?そう思った次の瞬間、哲也はその口元のある一点に視線が吸い寄せられた。下唇の向かって右下、そこに特徴的な2連のほくろがあるのを見つけた時、哲也は今度こそ心臓を直接鷲掴みにされたような心地を味わった。

 ――まさか、お前…!思わずそう叫びそうになったが、カラカラに乾いた喉から絞り出されたのは壊れた笛のような掠れ声ばかり。だがそれも長くは続かなかった。《スカルマン》の後方、左下。倒れ伏したバケモノの棘塗れの指がピクリと動くのを哲也は捉えた。

 

「――()()、後ろだ…!」

 

 極度の興奮状態に陥った脳が意味を、事象を理解するより先に思わず声を発していた。直後俺は一体何を言っているんだと、そんな気に駆られた。

 だが少なくともその言葉に咄嗟に《スカルマン》が振り返る。銃弾で半分吹き飛んだ頭部、大きく裂けた口を晒し、墨適のような血を吐きながらバケモノが吠え、襲い掛かってきた。

 まさかの事態に《スカルマン》も動揺を隠せなかったようだ。咄嗟に体を横に転がしてバケモノの左手の振り下ろしの避けたが、躱しきれず肩の辺りを棘が掠めた。鋭い突起物はレザー製と思しきスーツを引き裂き、赤い鮮血が噴き出すのが見えた。

 

「ぐあっ…!」

 

 《スカルマン》の動きが一瞬鈍ったように見えたが、すぐに態勢を立て直すとそのまま転がるように床を滑り、バケモノと距離を取った。傷を負った肩を右の掌が庇うが、その指の間から血が流れている。暫し荒い息を吐きながらバケモノを睨みつけていた《スカルマン》だったが、不意にその口元がグニャリと歪んだ。まるで戦う事が心から楽しいと言わんばかりに。

 《スカルマン》は左肩から手を離すと、後腰に手を伸ばし、何かを引き抜いた。遠目にもそれはナイフだと分かった。それも刃渡り250㎜以上はありそうな超大型のアーミーナイフ。如何にも殺傷に特化した凶悪な鋭さを宿した刃が昏い赤色に輝いた。

 

「グアアァァァアァァァァァッッッッ!!」

 

 バケモノが吠えた。同時に《スカルマン》も床を蹴ってナイフを突き立てるべく襲い掛かった。かくして人智を超えた二人の怪物の第2ラウンドが幕を開けた。

 幹斗…。その言葉に反応した気がするのは気のせいか…?本当にお前なのか…?ぶつかり合う異形同士の戦いを呆然と眺めながら哲也は胸中にそう発した。

 

 

 

「グルァアァァァァァァッッッッ!」

 

 空気を揺るがすようなバケモノの咆哮が響き渡る。

 

「はあぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!」

 

 裂帛の気合を乗せて《スカルマン》が叫ぶ。

 

 バケモノがその長大な四肢を振るい、棘を射出するたびに壁や床が粉砕され、穿たれていく。対して《スカルマン》は悉くそれらを回避しながら、隙あらばバケモノに肉薄し、その体にナイフを突き立てようとする。

 戦いは既に常人が入り込める領域ではなくなっている。悔しいが自分に出来る事は何もないと痛感した哲也はもう一度幹斗、と口内で反芻すると、力の抜けた体を無理矢理にでも立ち上がらせた。今すぐにでもあの髑髏男の前に割って入って、その正体を問いただしたい心境はあったが、そんな事しても巻き込まれて死ぬだけだ、と冷静な部分で考え直し、今は自分が出来る事をしなければ、それだけの想いを胸に脚を動かす。

 

 視線の先には壁にもたれかかったままの老人とその向こうで左腕をダラリと下げたまま倒れ伏している土枝健輔の姿が見えた。哲也はなるべくバケモノに気取られないようにしながら、しかしなるべく足早に健輔に駆け寄ると「大丈夫か!?」と声を掛けてその様子を窺った。左手に触れると健輔が僅かに呻いた。やはり骨折しているようだ、とりあえずこっちの呼びかけに応答出来るくらいの意識はあるらしい、という事に一安心する。とりあえずここから連れ出さないとな、と思っていると健輔が掠れ声で「ゲンさんは…?」と呟いた。

 その言葉に哲也はハッとして背後を振り返る。よく見ると壁にもたれかかった老人の肩が僅かに上下しているのが見えた。まだ息がある…!哲也はそう確信してゲンさんに駆け寄った。その痩せた体には腹部と左肩の辺りにあのバケモノから放たれた鋭い棘が突き刺さっていた。触れてみると、人体を貫通するだけあって結構な強度があるように思えるが、何しろ細い。下手に抜こうすれば途中で折れて体内に残る可能性があるし、なにより当たり所が悪ければ大出血を誘発しかねない。ここはこのままにしておくしかないな、と結論付けると、次に何処に二人を連れていくべきか、という思いが頭を満たした。

 

 どうすべきか決めあぐねていると不意に後ろから肩を叩かれた。思わず変な悲鳴をあげそうになったが、すぐに「落ち着け!」と被せるように囁かれて、なんとかパニックだけは避けられた。背後を見ると先程ゴロウさんに駆け寄っていた医師がいた。

 

「一旦食堂の方に避難するんだ、この人は私が運ぶ。君は彼を!」

 

 周りを見渡すと他にも十名程いたバケモノの犠牲者達を何人かの看護師や来院者と思しき人達が運んでいるのが見えた。だがそれ以上に目につくのはバケモノの棘に撃ち抜かれ、そのままピクリとも動かなかったり、爆発の余波や建物の一部の崩落に巻き込まれたのか倒れた多くの人の姿。ここはまるで戦場だ――地獄のような光景も目の当たりにして哲也はそう思った。

 

「なにしてるんだ早く!」

 

 医師に急き立てられるようにして哲也はハッと我に返る。そうだ今はとにかく健輔達を安全な所に避難させねば…。病院ロビーの方は今《スカルマン》達が戦っているため、食堂を経由して中庭の方に避難しようという事か。そう了解した哲也は健輔に駆け寄るとその肩を支えて立ち上がらせる。折れた骨に響くのか呻き声を漏らしたのが聞こえたが、今は耐えてもらうしかない、とその場を後にすることにした。

 食堂までなら本来ならほんの20メートル程度の距離の筈なのだが、今は途轍もない長い時間に感じられた。哲也と医師が部屋に入ったのを確認すると、看護師が入り口に設置された防火扉を閉じた。それに合わせて他の人々が一斉にテーブルや椅子をドアの前に次々と積み上げていった。ちょっとしたバリケードである。あのバケモノ相手にどの程度効果があるのか知らないが、時間稼ぎくらいにはなるだろう。

 食堂の中には看護師などの医療従事者を含めて大体30人ほどがいるだろうか。うち10名ぐらいが床に寝かされて鋭い棘が刺さった箇所を抑えながら、苦痛の声を漏らしている。バケモノの攻撃を直接喰らった人たちだろう。先程の医師がゲンさんを同じように床に寝かせ、体温や脈拍を測りだした。その表情には困惑が見て取れた。

 

 健輔の治療を近くにいた看護師に任せ、哲也はゲンさんと彼の様子を見ている医師に近づく。窺うようにそっと首元に触れてみるとかなりの体温が上がっていた。医師が作業着を引き裂き、患部の様子を確認しているのを見ると棘の刺さった辺りが濃い紫色に変色していた。

 

「どんな状態なんですか、この人達?」

 

 そう問い掛けると医師は医師は「…分からん」と小さく首を振った。

 

「症状は主に患部の炎症、不整脈、痙攣、嘔気、発疹。酷くなると呼吸困難に肺水腫…そして高熱だ。生物毒に近いんだろうが、種類が全く特定出来ん…」

 

 そう説明する医師の表情は困惑とそれ以上の無力さで塗り固められていた。本来なら自分達のホームグラウンドと言える場所で突発的に起こった怪物騒ぎとそれによって生じた怪我人、正体不明の毒、こんな場所に押し込められたせいで満足に治療も出来ない。医師としてこれ以上の屈辱もないだろう。

 それにしても高熱が酷い。キノコ毒の中毒症状にも高熱を誘発するモノがあるが、発汗具合と言い、体中に浮き出た発疹と言い、まるでウイルス由来の感染症だ。専門の知識こそないが、下手すれば命に係わる症例なのではないか…。

 そこまで考えて不意に背筋の寒気が走った。いや違う、これは怖気だ。高熱、意識混濁、痙攣…先程まで確かに人間で、今やバケモノとなって《スカルマン》と闘っているゴロウさんと呼ばれていた男の最後の光景がフラッシュバックした。

 まさかこの人達も…?最悪の光景が頭に浮かんだ次の刹那――

 

「ギャアアアアアアアアアアアアアアッッッッッ!!!」

 

 つんざくような悲鳴とも雄叫びとも取れない絶叫が薄暗い食堂に木霊した。声のした方を見ると1人の中年女性が大きく体をのけ反らせて絶叫していた。表情は完全に白目を剝いており、皮膚は死人のような土気色に染まっていた。まるで悪魔に憑かれたような光景だ、とそう思った次の瞬間、悲鳴は何事もなかったかのようにピタリとやんだ。女性は糸の切れた人形のように崩れ落ち、それっきり動く事はなかった。

 

「マズイ!ショック症状だ、AEDを!」

 

 医師が叫ぶ。付き添っていた看護師がその声に従って、食堂の隅に設置されたAEDボックスに駆け寄りに行った。家族と思しき男性が女性の体を揺すって、耳元で叫んでいる。だが決定的に全てが激変したのは次の瞬間だった。

 元々土気色に染まっていた女性の全身の皮膚が更にどす黒い色に染まっていく。指先から徐々に中心に広がっていくように。その色はまるで灼けた煉炭のようであり、さしずめ体全体が高熱の末に焼け焦げていくかのようだった。

 明らかな異常を察した医師が女性に駆け寄ろうとしたが、それは遅きに失した。いやこの場合どんな対応でも間に合う事はなかっただろう。女性の全身はほんの数秒で炭化するように変色し――最期は自らの重みに潰されたかの如く脆く崩れ去った。後に遺されたのは砂状の黒い灰と衣服だけ――。

 

「《黒禍熱(こっかねつ)》だ…!」

 

 不意に誰かがそう呟いた。いやそれは自分だったかも知れない。だが少なくともこの場にいる全員がその光景をそう認識しただろう。「あかつき村」の件からまだ7年しか経っていない。この場にあの光景を忘れた者などいよう筈がなかった。かつて日本に存在した一つの村を呑み込んだ奇病とそれが引き起こす無惨な死に様を…。

 

「うわあああああぁあああっっっっっ!!」

「嘘だろ…なんで…なんで!」

「出せ…!ここから出せよぉ!」

「感染した…みんな死んじゃうのよっ!」

 

 そこからがパニックの始まりだった。バケモノに刺された人間達は《黒禍熱》のキャリアーだ、そういう認識が瞬く間に醸成され、一斉に食堂内は混沌の渦に呑み込まれた。先程まで患者に付き添っていた人々は掌を返すかの如く彼らを放り捨て、我先にと食堂の中庭に通じる窓を開けようとする。それはまだ大人しい方で中には備え付けの椅子を持ち上げて窓を叩き割ろうとさえした。

 哲也自身も愕然とする思いだったが、同時に頭の中の冷静な部分が《黒禍熱》、というその単語を否定した。いくらなんでもそれはあり得ない、《黒禍熱》はこんなに急速に症状が出たりして死に至る事はない。似ているがこれは全く別のものだ――と。

 慌てた看護師達たちが止めに入ろうとしたが、完全に恐慌状態に陥った彼らは止まらない。それどころか――。

 

「触らないでよっ!」

「オメエらは奴らに触れてんだろうが!俺らを感染させる気か!」

 

 最早狂気の暴徒と化した彼らは看護師達の言葉に耳を貸さないどころか、無理矢理自分達から引き剥がそうとするなど、完全にタガが外れている。生き汚いとしか言えないその光景に哲也は愕然とした。

 《黒禍熱》は現在確認されている限りでは性交渉もしくは血液を介した場合以外での感染はなく、その感染力も極めて弱い事が分かっている。少なくとも7年前の時点でそれはとっくに判明していた事だ。なのに未だにその事がこれほどまでに伝わっていないとは…。いくら恐怖は個体の生存本能に基づくものだとしても、《黒禍熱》よりもそれの方が余程悪性のウイルスではないか。哲也にはそのようにしか思えなかった。

 そんな恐慌状態に呼応するかのように再び悲鳴が上がった。しかも今度は一つではない、二つ三つ…いやそれ以上にバケモノの棘にやられた患者達が一斉に悲鳴を上げながら、やはり崩れ落ちていく。当然例外はなく――哲也の足元に寝かされていたゲンさんもまた口から泡を吹きながら、のたうち回りだした。まだハッキリ意識があるにも関わらず、その指先は既に変色している。

 

「ゲンさん!」

 

 異変に気付いた健輔が彼に駆け寄る。その声が聞こえたのか彼は虚ろな表情で健輔の方を見、何か声を発しようとしたが、直後口元が、瞬く間に顔全体が黒く染まり、ゲンさんは物言わぬ炭素の塊となって、崩れ落ちた。それはまるで死という最後の安寧すら否定するかのような酷く冒涜的な光景だった。

 彼が崩れ落ちたのを最後に悲鳴と怒号の坩堝となっていた食堂に静寂が走る――かと思ったのも一瞬、これまでの比ではない、一際激しい絶叫が轟いた。パニック状態になっていた人々もそれで無理矢理正気に引き戻されたのか、声のした方向に一斉に振り返る。

 

「――ィィィ…ッ痛い…!イタいよぉっ…!」

「シュウイチ!大丈夫…大丈夫だから…!」

 

 まだ声変わりもしてない、中学生くらいの男の子だった。傍らで母親と思しき女性が少年の手を握りしめて、必死に呼びかけている。その手を握り返す少年の手は――いやその全身は既に全身から血を吹き出して真っ赤に染まっていた。

 まさか――!《黒禍熱》に似た現象の出現で完全に頭から吹き飛んでいた先程の光景が頭に浮かんだ。しかし口をついて言葉が出るよりも先にもう次の事象は始まった。始まってしまった。

 少年の体が一際大きく撥ねたかと思うと、宙に浮いた二本の脚が一瞬で膨れ、肥大化した。変化はそれだけに留まらず、長大な脚だったモノはまるでお互いが絡みつくように渦を巻いて融合を開始した。最終的にものの数秒で一つとなったそれは最早人の下肢ではない。太く、しかし長い“尻尾”だ。

 下半身が異形の姿に変貌した少年はそのまま“尻尾”を叩きつけるとそれを支えにして立ち上がった。巨大化した下肢に合わせて食堂の天井に達する程になったその姿はまるで鎌首をもたげるコブラのようだ。よく見ると右腕もまた太さはそのままに通常の倍近い長さに引き延ばされた異様な出で立ちとなっている。

 少年の顔は既になんの生命力も感じられない程に虚ろだった。死んでいるのかアレは…と思った直後、少年の上の衣服を引き裂いて、その胸から腹にかけてが膨れ上がり、横に大きく裂けた。その見た目はさながら光彩のない蛇の頭で、裂け目は「口」のように広がり、鋭い牙のような突起物が二本左右に生えた。さしずめその姿は毒牙を備えた巨大な顎――!

 

「ジャアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァッッッッ!」

 

 かつて少年だった者、そして今や蟒蛇の化身と化した新たなバケモノが咆哮した。地響きの如き叫びが鼓膜を震わせ、誰もが睨み据えられた蛙のように身動き一つ取れなかった。

 

「シュウちゃん…」

 

 縋るように、祈るように母親がポツリと大蛇を見上げて呟いた。直後蛇のバケモノの口から、正しくはその牙から酸のような液体が噴射され、女性の全身を包んだ。座り込み、呆然と手を伸ばしたその姿勢のまま――女性は次の瞬間には焼け焦げたように炭化し、灰に還っていった。

死んだ…?いや消えた。それだけだ。まるであたかも初めからそんなモノは存在しなかったかのように痕跡一つ遺す事なく…。

 

「「「うわああああああああああぁあああああぁあああっっっっ!!!!」」」 

「「「いやあぁあああああああああぁああああああああっっっっ!!!!」」」

 

 その光景を前に最早平静を保てる者など一人もいなかった。先程までは冷静だった医師や看護師達ですら、泣き叫ぶように悲痛な絶叫を上げ、再び中庭側に向かって逃げ惑う。しかし最初に窓枠に飛びついた者が開けようとするより先に次の群衆がなだれ込み、彼らを圧し潰す。進む事も引き返す事も出来ず押し合い圧し合い状態となっている人々に蛇のバケモノは容赦なく、毒液を吹き出した。一人また一人、いや複数人が一度の噴射で一気に塵と化していく。またある者はその長大な尻尾で叩き潰され、またある者は迫るその顎に捉えられて体を引き裂かれた。

 今の光景を形容する適切な言葉があるとしたら一つしかない。

 

 地獄だ。

 

 最早欠片も現実とは思えないその光景に哲也は逃げる事も忘れて慄然としていた。

 ひとしきり目前の人間達を食べ終えたバケモノが周囲を見回しだした。その段になって漸くマズイと思い立った哲也だが、もう遅い。既にバケモノはこちらの方にゆっくりとその凶暴な顔を向けていた。

 絶対的な死が迫りくる。そう確信した哲也は声も上げられずに呆然とその時を覚悟したが、いつまで経ってもそれは訪れなかった。

 なんだ…?思考の纏まらない頭でそれ以上考える事は出来なかった。次の瞬間、ガァンッ!という乾いた音が防火扉の向こうで響いたと思ったら、もう蛇のバケモノはそこ目掛けて突進し、バリケードと防火扉を打ち破ると、食堂の外に飛び出していった。

 何故…外の方に…?不可解な事態に惑いつつも今は助かった、以上の感慨は抱けず、哲也はそのまま崩れ落ちるように瓦礫の散乱した床にへたり込んだ。

 

 

     

・・・・・・・・・

 

 

 

 コイツは思ったよりも厄介な相手だ――!

 

 既に膠着状態となった戦況に《スカルマン》は軽く歯噛みした。

 マスクの向こうに佇む、体の半身がウニのような形に変異を遂げたバケモノ――《ガンガゼヴェルノム》とでも呼べば良いのか――は既に多量の血を流し、多少動きが衰えているものの、既知生物の範疇では既に非常識なレベルのしぶとさだ。頭の半分と口腔を吹き飛ばし、喉笛や鳩尾にナイフを突き立てたというのにまだ動く。いい加減くたばれよ、と皮肉の一つでも言いたくなるが《ヴェルノム》に言っても詮無い事だ。

 

 それにしても、だ。既に戦いを開始してから5分以上が経っている。いい加減周囲の道路も警察に封鎖されつつあるだろうし、もしかしたら今頃「《スカルマン》が出た」との情報を聞きつけて、虎視眈々と自分を捕える網を準備しているかも知れない。さっさとコイツを始末して帰りたいというのが正直な心境だ。やはり馴れない事などするモノではないな、だからこんな場所でアイツと再会したりするんだ、とつい口元が緩みそうにさえなった。同時にそんな事を懐かしむ余裕がまだ自分にあった事にも驚くが、そんな感傷に浸ってる暇を与えてくれるほど相手は悠長ではなかった。耳障りな雄叫びを上げた《ガンガゼヴェルノム》はタックルの要領でその棘だらけの左半身を突き出して吶喊してきた。

 

 ワンパターンなんだよ動きが!

 内心にそう毒づきながら、《スカルマン》はひらりと飛び上がってその突進を難なく回避した。そのまま着地と同時に半回転し、素早く《ガンガゼヴェルノム》の方に向き直ると、その無防備な態勢の喉笛に再度ナイフを突き立てようとした。

 

 だがしかし――

「なにっ!?」

 

 そのまま再度喉笛に突き立てて、押し拡げてやろうと思ったナイフの切っ先を《ガンガゼヴェルノム》はあろう事か敢えて右の掌底で受け止める事で致命傷を回避した。おまけに太い指でそのままグリップの辺りを握り込んで、武器まで封じてみせた。

 嘘だろう!?《ヴェルノム》、それも最低ランクのフェーズ1の分際でそんな知性的な動作をする事など予想だにしていなかった。その動揺が一瞬判断に鈍らせ、気付いたら右側の視界に剣山の如き左手が迫っていた事に気付くのが遅れた。狙いが当たっていれば間違いなく《スカルマン》の胸をぶち抜いていたであろうそれを寸での所で回避したものの、代償にナイフを回収する事は叶わなくなった。

 

 くそ――旗色が悪い。《スカルマン》は吐き捨てた。これも日頃の行いが悪いせいだなと冗談めかして思いつつ、頭では冷静に次の手を考えていた。

 敵は見た目通りのウニのオバケ。あの棘一本一本が毒針であり、どうやら射出してもある程度は補充が効くらしい。人に刺さった反応から見るに“弱毒”タイプではあるようだが、如何せん数が多い。普通ならとっとと毒針をもぎ取って武器を封じてやる所だが、さっきから何度もナイフを振るって片端からへし折ってるのに一向に減る気がしない。おまけに折れた跡もまだ毒針機能は健在のようだ。

 更に最悪な事にコイツは極端に痛みに鈍感なタイプだ。確かに《ヴェルノム》は基本的に痛覚が鈍磨しており、生物的な恐れとも無縁だが、それでもあくまで既知の生物と比べて、である。なのにコイツは鉛弾をぶち込まれようが、ナイフで切り裂かれようが動じない上にさっきは逆にカウンターまで決めてきた。とことん長期戦に特化したタイプだ、自分みたいなタイプへの嫌がらせには最適な個体だな、と思う。

 

 対して自分はどうか。まさかこんな事態になるとは思ってなかった事もあって、装備は碌にない。ナイフはさっき奴に盗られたし、銃弾は携行しやすい小型のタイプのみで、前に3発使ってしまったので残り3発。爆弾も小型のものが1個しかない。これでアイツを吹き飛ばそうと思ったら、あの裂けた口にねじ込んで吹き飛ばすしかないようだ。

 結論としては自分に圧倒的に不利だという事だ。いっそこのまま尻尾巻いて逃走決め込むか?と真剣に考える。警察に《ガンガゼヴェルノム》をけしかけてその隙に俺は悠々と逃走する――。悪くない手だ、だが不可能ではないだろうが、それだとあのウニの存在が公的機関に正式に知られる事になるし、仮にアイツらが仕損じて中途半端に“死体が残ってしまった”場合、後始末が色々面倒になる。

 やはり自分の手で確実に仕留めるしかないなと結論づけ、チラリと先程何人かの民間人が避難していき、今は固く閉ざされている防火扉の方を見る。ゲンさんはたぶん助からないだろうが、あの二人は無事だろうか。

 

 『お前さんは命の恩人じゃなぁ』そう言って微笑むゲンさんの顔が脳裏に浮かぶ。

 『その“ハートマン軍曹”ってのはやめた方が良いですよ』そう言った後の健輔の大笑いが耳に響く。

 

 それに何より――

 『幹斗、後ろだ…!』

 

 アイツは、哲也はあの時そう叫んだ。普通ならあり得ない筈の事を。

 

 それだけでずっと俺がそうだったように、アイツもまた俺達の事を引きずっていたんだという事が痛い程分かる。

 脱出の際にせめて安否だけでも確認すべきか、と一瞬思ったがそんな悠長な事を言ってられる状況ではない、と五月蠅い声を脳内から追い出した。自分には、自分達にはやるべき事がある、こんな所で止まるわけにはいかないんだ、と己に言い聞かせ、周囲の状況を確認した。穿たれたコンクリートの柱から除く鉄筋と近くにある消火設備――アレは使えるな。

 武器を失った事を好機と判断したのかまでは知らないが、《ガンガゼヴェルノム》はまたも左手をこちらに向けて毒棘を発射してきた。マシンガンもかくやと言わんばかりの連続射撃を横ロールで回避すると《スカルマン》はそのまま壁際まで転がり、壁に掛けられていた消火器ボックスを開く。案の定中には一般的なモノより大型の6㎏消火器が入っていた。一般的には結構な重量のそれを《スカルマン》は難なく持ち上げるとそのまま《ガンガゼヴェルノム》に向かって放り投げた。

 

 《ガンガゼヴェルノム》はいきなり飛んできた赤色の円柱に特に反応できずに、それなりの重量があるそれをまともに顔面に受けた。だが勿論そんなものでくたばるとは思っていない。《スカルマン》はそれがぶつかったタイミングを逃さず、拳銃を取り出すと消火器を狙って外す事無くそれを撃ち抜いた。

 鉛の弾丸は薄い金属版をあっさりと貫通し、その圧力から解放された消火剤が一斉に放出される。弱くとも突然の衝撃と瞬く間に視界を白く染め上げた物質の洗礼に《ガンガゼヴェルノム》の動きが止まった。今はそれだけあれば十分だった。《スカルマン》はコンクリートの柱から覗く鉄筋を掴むと力任せにそれを引き抜いた。途中衝撃で構造上脆い個所から引き抜けた鉄筋と一緒についてきた20㎏程のコンクリート塊が即席のメイスとなった。

 《スカルマン》はそれを力任せに持ち上げると未だ動きを止めたままの《ガンガゼヴェルノム》に突進し、その塊を叩きつけた。その一撃でコンクリートは全て砕け散り、それだけの衝撃を受け止めた《ガンガゼヴェルノム》は脳震盪を起こしたかのように大きくたたらを踏んだ。いくら痛みに鈍感でも体を突き抜ける衝撃に対してはそうもいかない。《スカルマン》はダメ押しと言わんばかりにその脳天に蹴りを叩き込んで、強引に床に引きずり倒した。

 

「グオォォォォォォォオォォォォ!」

 

 《ガンガゼヴェルノム》が威嚇するように絶叫したが構わず、《スカルマン》は右手を――正確にはそこに握られた折れ、切っ先が鈍く尖った鉄筋――を渾身の力を込めて振り下ろした。槍や剣に比べると到底鋭利さには欠けるその鉄筋は、しかし《スカルマン》の尋常ではない力によって容易に怪物の左胸、ちょうど心臓の辺りを刺し貫いた。更にそのまま床材さえも貫き、完全にその巨躯を縫い付ける。

 

「グギャアァァァァアァァァァッッッッ!」

 

 《ガンガゼヴェルノム》が抵抗するように雄叫びを上げる。流石に体を貫かれ、直接内臓を抉られるのは苦痛なのだろうか、妙に悲痛なその絶叫に手が止まりそうになったが、《スカルマン》は構わず攪拌するように刺さった鉄筋を無茶苦茶に動かした。それによって更に傷が押し広げられ、その下にあるであろう心臓を、肺を、血管を抉っていく。

 しかしまだ抵抗は終わりそうにない。埒が明かない、と《スカルマン》は追い打ちを掛けるべく、左手を貫手の構えにして突き出した。その手は先程まで血が滴っていた人の手ではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「はああああああああああっっっ!」

 

 常人より硬さも鋭さも遥かに超越したその左手を《ガンガゼヴェルノム》の右胸に突き立てようとした。これで終わらせる――!そう意気込んだ次の瞬間、背後で猛烈な轟音と共に何かが吹き飛ぶ音が聞こえた。

 なんだ、と思い振り返ると一瞬食堂らしき所に通じていた防火扉がひしゃげたのが見えた。直後その扉が完全に粉砕され、一際巨大な影がロビーに躍り出た。

 

「新たな《ヴェルノム》…!」

 

 《スカルマン》が仮面のに覆われた顔を驚愕に見開いた。異様に肥大化し、一つとなった下半身に人の胴体に大顎が付いたような、このウニの怪物に負けず劣らずな悪趣味で冒涜的な姿は他に考えられなかった。さしずめ《コブラヴェルノム》といった所だろうか――。

 それ以上にアイツが出てきたという事は恐らくあの食堂の中にいた人間達が“毒針”の影響で変異したのであろう事は容易に想像がつく。あの中に避難していた哲也や健輔は果たして無事なのだろうか。

 

 だが余所見は許さないとばかりに《コブラヴェルノム》が口腔から酸のような液体を吐いてきた。アレがアイツの“毒”か…!本能的にそう察知して《スカルマン》は咄嗟に飛び退いた。案の定先程まで立っていた場所に液体が命中したと思ったら、その床材はドロドロに溶解し、ツーンと鼻につく異臭まで立ち込める。あの威力は間違いなく“強毒”だ、あのレベルだと流石にまともに喰らったらただじゃ済まない…!そう判断した《スカルマン》は何とか距離を取ろうとしたが、《コブラヴェルノム》は予想以上に素早かった。床を滑るように移動し、毒牙を突き立てるか、接近してその異常な程長い右腕で切り裂いてくる。それらを躱して接近を試みれば長大な尻尾を薙ぎ払ってこちらが近寄るのを阻んでくる。恐ろしい程に攻守に隙の無い《ヴェルノム》だ。

 

 しかも最悪な事にまだ先程まで戦っていた方の《ヴェルノム》も健在だ。さっき飛び退いた際に巻き込まれて多少毒液を食らったのだろう。右腕が肩口の辺りから溶けて無くなっていたが、それでも“毒針”を備えた左腕は健在だ。このガンガゼの相手だけでも手一杯なのに更に追加でもう一体とは…。つくづく最悪な事態が続く事にはさしもの《スカルマン》も暗澹たる思いを禁じ得なかった。

 おまけにコイツ等、ターゲットを自分一人に絞っているのか、それともお互いの事は眼中にないのか共食いもせずに執拗に自分の方に攻撃を仕掛けてくる。いくら《ヴェルノム》――それもコイツ等のようなフェーズ1の基本習性は同胞の増殖が大半を占めるとは言え、こうも寄ってたかって攻められるとは。

 

 撤退も悪手、戦っても戦局は不利、おまけに逃げねばどの道捕まるだけ。完全に四面楚歌な状況に《スカルマン》は苛立ちながら、自分の左手を見る。先程あの《ガンガゼヴェルノム》を仕留めようと“変異”させた腕だ。出来ればこれは目撃されるリスクのある所では使いたくなかったが、背に腹は代えられない。切り札を使う時が来たようだ、と《スカルマン》は自らの象徴である髑髏を模した仮面に手を掛けた。 

 

 しかしその刹那――

 

 拳銃の発射音とは比べ物にもならない激しい轟音が何発、何十発と空気を切り裂いて飛来し、病院ロビーのガラス窓を粉々に粉砕した。鼻につく硝煙の臭い――銃火器弾だと咄嗟に判断した《スカルマン》は射線を予測してその場から飛び退き、ロビー中央に設えられた柱の陰に避難した。

 

 所詮ガラスなど飛来物――5.56x45mmの小口径高速弾に対しては紙切れにも等しい障害でしかなかった。障壁を粉砕した弾丸は殆ど威力を減衰させる事なく二体の《ヴェルノム》に殺到した。次から次へと飛来する暴風雨の群れはその強靭な皮膚を抉り、内部で弾けるように分解して神経という神経、筋肉という筋肉をズタズタに引き裂いていった。漸く嵐が去った後、全身に風穴を穿たれた《ガンガゼヴェルノム》が崩れるように倒れ伏した。そのままその棘だらけの体がまるで細かい粒子状になって消失する。あの《ヴェルノム》を瞬殺するとは、恐るべき破壊力だ。その光景をどこか他人事のように《スカルマン》は思った。

 

 弾の飛んできた方向を睨みつける。警察にしてはやる事が過激すぎる。自衛隊がこんな早く展開する筈もない。だとすれば――

 果たして()()は続けて残った自動扉の型枠を吹きとばして半壊したロビーになだれ込んできた。前方から突き出した二門の砲身と4つの車輪を備えた異形のバイク――というよりマルチホイールか――とそれに跨るのは十字架が象られたマスクで顔を覆った鎧の戦士だ。そのバイザーが血のように妖しく輝く。

 

「やはり来たな…!」

 

 まさかこんな早く会えるとは思わなかった。直前までの焦燥も本日の悪運も忘れ、《スカルマン》は歓喜の声を上げた。

 

 

 




今回はここまでです。まさに怪人総進撃…

二回目になりますがまずはお久しぶりです。サボる気はなかったのですが、様々な事情が重なって全く執筆の時間が取れずに気付けば1カ月以上経ってました。申し訳ありません。
環境が再び整ったことと一定のストックが溜まったので定期の投稿を再開しようと思います。
引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。

それではまた次回。


PS.シン・仮面ライダーの公開に合わせられて本当に良かった…


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CHAPTER-1:『REvengerⅠ』‐⑨

休日があるので連続投稿


 

 状況は思ったよりも最悪なようだ。柚月が“感知”した波動の出所を追ってこの病院に辿り着き、今まさに目の前に広がる現況について辰雄――《エースゼロ》は思わずバイザー奥の顔を歪めた。

 

 瀟洒な作りになっていたであろうロビーは各所が粉砕され、ガラス片やコンクリート塊、そして何よりも至る所に横たわる人の影が全てが遅きに失した事を何よりも雄弁に物語っていた。

 この惨禍を引き起こしたのは間違いなく目前のウニと大蛇を思わせる二体の《ヴェルノム》だろう。ここに向かう途中柚月が二回目、しかも先程より大型の波動を“感知”した時点で察しはついていたが、片方はやはり()()()()…厄介な相手になりそうだ。

 

 そして《スカルマン》の存在だ。何故奴がここにいるのかは正直分からない。奴がこの惨状を引き起こしたのか、もしくはなにか偶発的な理由でこの場に居合わせた、《ヴェルノム》二体に襲われたのか。状況から見るに恐らく後者だろうが、その理由はこの際どうでも良い。自分のやるべきことは変わらないのだ。

 

 即ち――このバケモノ二体の撃破とあの髑髏男の捕獲だ…。

 

 不意に視界の端に何かが蠢くのを捕えた。見ると《コブラヴェルノム》が血を流しながらユラリと鎌首をもたげて立ち上がった。デカいだけあってタフな奴だ、と独り言ちた《エースゼロ》はマシンのスロットルを引き上げ、急速にマシンを加速させた。デカい奴は確かにパワーが物凄いが半面死角も多い、そこを突くのが定石だ。

 一気に足元に回り込んだ《エースゼロ》を補足しきれず、蛇のバケモノは瞳のない頭部を右往左往させている。恐らく音で情報を得ているタイプなのだろう。何故そんな不合理な変異を遂げたのかは分からないが、とにかく好都合だった。走り回る限りおいそれと相手はこちらを捕らえる事は出来ない。

 十分引き付けたか、そう判断した《エースゼロ》はマシンのコンテナから鉄パイプの先端に円錐形が上下二つ付いたような形をした奇妙な物体を取り出した。傍目には機械的なデザインのフレイルメイスかなにかだろう。だがこれは勿論そんな原始的な武器ではない。しっかりと《コブラヴェルノム》を見据え、トリガーを引き絞った。

 それに応じて先端の円錐形のユニットが相手に向かって射出された。1秒と間を置かずに敵に突き刺さったそれは着弾と同時にその構造通り、すり鉢状に成型された内部火薬を炸裂させた。円錐中心軸に収束する形で放たれた衝撃波は弾頭先端から金属の噴流と共に射出され、《ヴェルノム》の強靭な外皮すらも打ち破った。

 

「キシャアアアアアアアアアアアアッッッ!」

 

 《コブラヴェルノム》が苦悶の声を上げた。いくら痛覚が鈍いのが奴らの常でも体を穿たれ、表皮に風穴を開けられる苦痛は消しようがないらしい。爆炎に包まれ大きく傾いだその頭部に《エースゼロ》は左手首部分に仕込んだチェーンを発射した。先端に鉤爪状のアンカーが備わったそれは擲弾がまともに命中した箇所に突き刺さり、さらにその肉を抉っていく。

 案の定想像を絶する苦痛に襲われたらしい《コブラヴェルノム》がその巨体を身悶えさせ始めた。それだけで人間の体風情などいとも簡単に振り飛ばされそうになるが、ここで負けるわけにはいかない。《エースゼロ》は空いた右手でベルトに備え付けられたスロットルを1回捻った。

 

〈Medium…Activate…〉

 

 無機質なガイダンスボイスがベルトから発せられると共に熾り火のような熱が全身を駆け抜け、更に《エースゼロ》のパワーが増加する。比例するように焼きゴテを当てられたかの如き痛みが全身の筋肉を襲った。骨が軋み、臓腑が悲鳴をあげる。呼吸を荒げながらそれでも《エースゼロ》は握り込んだ鎖を力の限り引き寄せた。

 

 常人には到底あり得ない膂力で《コブラヴェルノム》の巨体が傾いだ。相も変わらず蛇のバケモノは体を捩って逃れようとしたが、少なくともこれでパワー的には互角だ。更にギアを上昇させれば完全にこのバケモノのパワーを上回れるだろうがこれ以上はこちらの身体が持たない。しばらくの膠着状態に焦れた《エースゼロ》は左腕ユニットに内臓された“切り札”の一つを開放した。

 一瞬《コブラヴェルノム》に突き刺さったままのチェーンが激しく青白い色に明滅した。その直後には電圧150万V、電流3.0Aと過剰な程出力を高めた電撃が《コブラヴェルノム》の頭部から尻尾に掛けてまでを走り抜けた。

 

「ギャアアアアアアアアアアアアアアアッッッ……!」

 

 その声はどこか人間の面影を遺しているように聞こえた。コイツはどんな人間だったのだろう、どんな人と関りを持ったのだろう…。身を焦がされる激痛に晒される怪物の悲鳴を聞きながら、ふと《エースゼロ》――辰雄はそんな事を思った。だが考えても詮無き事だ、どの道コイツはもう人間に戻る術はない…そう再認識し、止めとばかりに注ぎ込めるだけの電撃を叩き込んだ。

 時間にしてほんの3秒にも満たなかっただろう。左腕ユニットのコンデンサーが空っぽになると共に放電も止まった。途端に鎖にグンと怪物の重みがのしかかってくる。どうやら完全に意識を喪失したようだと判断した《エースゼロ》はマシンの右ハンドルを掴み、まるで刀のように引き抜いた。その形状は完全にバイクのハンドルそのものだが抜刀と同時にその接続部に赤熱化した巨大な鉈のような“刃”が形成された。柄に当たる部分に収納された形状記憶液体金属を応用した《エースゼロ》の“剣”だ。抜刀と同時にアクセルレバーを兼ねるトリガーを握り込み、刀身に更にパワーを送る。

 

〈High…Activate…〉

 

 レベル3開放。刀身を形成する金属分子が振動と赤熱を纏い、更に巨大化する。《エースゼロ》はそのまま左手のチェーンを引き込みながら地面を蹴って《コブラヴェルノム》に躍りかかった。鎖を巻き取る出力もプラスして大きく跳躍し、バケモノの頭上を取る。瞳のない頭部の頂点にはすっかりと精気を吸い取られ、ミイラのように萎んだ人本来の頭が見えた。従来のセオリーならここを潰せば――!《エースゼロ》はそこ目掛けて剣を振り下ろした。

 最大出力でならばセラミックすらバターのように溶断する出力を持った刀身だ。刃はあっさり硬化した外皮を切り裂き、それこそスイカのように《コブラヴェルノム》の“頭”が両断される。果実の中身が噴き出すように脳漿が飛び散り、黒い血が勢いよく噴き出して仮面を濡らした。そのまま落下の勢いに任せて頭頂から鼻先までを切り開き、《エースゼロ》は床に着地した。同時に地響きのような音を立てて、《コブラヴェルノム》も倒れ込んだ。

 《エースゼロ》は蛇のバケモノの頭から剣を引き抜いた。怪物はそれから動くことなく、その皮膚が末端から少しづつ炭化するかのように色合いに変化していく。数秒も経たずに《コブラヴェルノム》の全身は暗灰色に変色したまま、完全に沈黙した。《ヴェルノム》にとっての死の瞬間だ。やがて内部まで完全に炭化すると塵となって崩れ落ちる。

 これで一つ。《エースゼロ》は血を掃うように剣を振った。同時に刀身の結合が解け、吸い込まれるように柄内に消えていく。この武器は多大な電力を食う、ハイモードまで開放すればリチャージまで暫くかかるだろうが残りは二体のバケモノを相手して疲弊している《スカルマン》のみ。こちらもミディアムレベルまで開放した後、という事もあって肉体的な疲労は大きいがまだ戦える。

 《エースゼロ》は髑髏のマスクを被った酔狂な男の方に向き直ると、今度は《セクターゼロ》の左ハンドルを左手に、そして右手にはマシンの背部コンテナから取り出したアタッシュケース型の装備を持った。

 

 アクティブ。アーマーを介して《エースゼロ》からの指令を受諾したアタッシュケースは一瞬でサブマシンガンのような形状へと変形した。ハンドルの方は先程よりも短いナイフ状の刃に成型される。銃とナイフ、二つの凶器を両手に持ったまま近づいてくるこちらに《スカルマン》は嘲うかのように口元を歪めた。

 

「おいおい…こっちは手負いなんだぜ…?エモノ使うのは卑怯ってもんじゃあねぇのか?」

 

 ボイスチェンジャーが戦いの衝撃で破損したのか知らないが、昨日よりは明瞭な声だ。だが相変わらずどこか人を食ったような話し方をするのは気に入らない。時間を稼ぎたいのか、こちらを挑発したいのか意図は何でも良い、《スカルマン》の軽口を《エースゼロ》は無視して、右手のサブマシンガンを向けた。無論投降しろ、という呼び掛けだ。

 

「――面白い。イヤだと言ったら?」

 

 それだけでこちらの真意を察したのは流石というべきだろうか。だが如何にもこちらを舐めきっているようなそのニヤケ面が気に入らない《エースゼロ》は今度も何も言わず、銃のセーフティを解除した。ガチャリ、という重たい音が木霊する。

 それでこちらの本気を悟ったらしい。《スカルマン》の口元から笑みが消え去った。

 

「おいおい、お前の仕事は俺を捕まえる事だろう、殺しちまって良いのかよ?」

 

 おどけたような口調だがその目は恐らく油断なく周囲を見渡して反撃の隙を狙っているのだろう。こちらはどうせ自分を殺せないと高を括っていたようだが、捕縛は可能な限りの命令であってその最終的な判断は《エースゼロ》――琥月辰雄という個人に委ねられている。必要とあらばコイツを射殺する事も辰雄は厭わないつもりだった。

 “彼”や柚月の想いに応えたい気持ちは確かにあるが、戦いにおいて変に情けを掛ければこちらが命を落とすだけだ。互いの視線がぶつかり合い、不気味な沈黙が漂う。先に口火を切ったのは《スカルマン》の方だった。

 

「一つ聞かせろ、お前は誰の命令で動いてる?」

 

 なんとか余裕を保とうとしているのか僅かに口元を笑みの形に作り直す。いちいち癇に障る笑い方だ、と心中に苛立ちを抱えながらも《エースゼロ》はそれを呑み込み、「答える義務はない」と返答した。

 

「知りたいなら投降しろ。そうすれば全部教えてや――」

「――()()()…」

 

 そう呼び掛けた所で突如《スカルマン》がその単語を発した。その言葉が無意識的に「神樂」という言葉に変換される気分を味わった《エースゼロ》は思わず息を呑んだ。フルフェイスのヘルメットで覆っている表情が読まれる筈はないが、それでも相手に向けた銃身の先が僅かに揺らいだだけで相手はこちらの動揺を悟るのは十分だったらしい。「やっぱりな」と最早取り繕う必要もない笑みを浮かべながら《スカルマン》はユラリと立ち上がった。

 

「その名はとっくに知ってるんだ、悪いな。知りたいのはその頂点(テッペン)だ…」

 

 こちらの焦りを見透かしているのか、髑髏の男はいっそダンスでも踊るように小刻みに体を震わせる。それが一層神経を逆撫でし、安い挑発だと分かっていながらも《エースゼロ》は警告も兼ねてサブマシンガンの引鉄を引いた。

 発射された弾丸は《スカルマン》ではなく、病院の天井に向けて放たれた。本人にぶっ放さなかったのはせめてもの情けと理性の賜物だったが、当人はどこ吹く風、「おお、怖…」と舞台役者のような大仰な仕草で天井を仰いだ。

 

「案外短気だなお前。やたら人に噛みつくもんじゃないって御主人様に躾けられなかったのか、えぇ忠犬ポチ公よぉ?」

 

 御主人様、という言葉を殊更に強調して嫌味っぽく《スカルマン》が畳みかけた。それが誰を示しているのか、そしてそこには多分に侮蔑の意が込められている事を悟らずにはいられなかった。その瞬間かろうじて理性を保っていた最後の線が切れるのを実感した《エースゼロ》は冷厳な戦闘マシンとしてではなく、琥月辰雄という個人として「黙れ!」と声を荒げていた。

 

「知ったような口を聞くな!何も分かっていないんだお前は…!」

 

 こちらの激昂に気を良くしたのか《スカルマン》は一層楽しそうに肩を竦めた。露出した口元が嗜虐心に満ちた色に歪められる。

 

「アイツの事ならなんだって知ってるさ、いっそお前よりな?昔っから自分は安全な所にコソコソ隠れてるだけの救いようのない臆病者――」

 

 そこまでが限界だった。腹の底から湧き上がる溶岩のような激情に衝き動かされ、辰雄はサブマシンガンをニヤケ顔の骸骨に向かって発射していた。装填された拳銃弾が毎秒20発という速度で一斉に開放され、樹脂の床を抉り砕く。しかしそんな弾道など予測済みと言わんばかりに《スカルマン》は横跳びにそれを躱した。

 ただ怒りに任せた、という自覚はあっても意外と冷静さは消えてない。むしろ怒りによって頭の芯が冷え切ったのかその動きはやけにスローモーに見えた。その動きを予測していた辰雄――《エースゼロ》は左手のチェーンを相手に向けて放った。さっき《ヴェルノム》を倒すためにバッテリーを最大まで使用してしまったのでチャージが完了するまでは電撃も溶断も使えないが、捕縛するならこれで十分だ。

 

 チェーンは狙い違わず《スカルマン》の右肩に突き刺さり、レザーのスーツを破ってその下の肉に食い込んだ。本来ならそのまま着地する筈だったであろう《スカルマン》は転んだように膝を付いた。勿論奴も並大抵の身体能力じゃない、ほんの数瞬動きを止めただけですぐに態勢を立て直す。常人なら到底対応できる時間ではないが、如何せん自分達のような異形者の世界ではその隙は致命的だ。《エースゼロ》はあらん限りの力で鎖を引き寄せると同時に右手のサブマシンガンを奴に向けた。

 だが――

 

「遅いよっ…!」

 

 サブマシンガンの銃口が火を噴くより前に《スカルマン》は右手に握った何かを投擲してきた。それは狙い違わず銃本体に突き刺さった。渾身の力ではたかれたような衝撃が腕全体に走り、思わずサブマシンガンが手から零れ落ちた。投げられた物体をよく見るとそこら辺に散らばっていたゴルフボール大のコンクリート片らしい。小石程度の重さしかない脆い物体だったが、常人を遥かに上回る怪力を備えた“自分達”の手に掛かれば、そんな物体でも十分凶器になり得るという事の何よりの証左だ。

 《エースゼロ》は銃を掴みなおそうとすればそれが隙になると判断し、咄嗟に鎖を装甲内に回収する手段を選んだ。機械仕掛けと自身の力で強引に奴を格闘の間合いに引き込むと同時に短剣を右手に持ち替える。膠着はなかった、抵抗する間もなくこちらに引き寄せられた《スカルマン》のガラ空きの胸目掛けて《エースゼロ》はナイフを突き出した。

 しかしやはりというべきか、そう簡単に殺られてはくれない。《スカルマン》は心臓の辺りを庇うように脇を絞めて左上腕でナイフを受け止めた。肉を切らせて骨を断つ戦術だが、出力を切り替える事で熱や高振動を纏い、硬度や長ささえ自由に調節できるこの“剣”「ヴァニシングエッジ」にその戦術は愚策だ。即座にトリガーを引き絞って強化した刃を突き立て、出来るなら左手ごと切り裂いてやるつもりだった…が――。

 

 なんとヴァニシングエッジの刀身は《スカルマン》の腕を貫通するどころか貫きさえしなかった。《エースゼロ》はバイザー奥の目を見開いた。見ると奴の腕が薄い黄緑色に染まった異形の形へと変化していた。その腕には硬く短い棘がさながら飛蝗の後足のように生え、それが絶妙な角度で刃を受け止めたのだと理解した時には奴の右掌が貫手の如くこちらに突き出されていた。

 

 矢のような速度で放たれたそれの指先に鋭い“爪”が生えているのを認めた《エースゼロ》は、そのままだったら確実に喉を切り裂いていたであろうその一撃をなんとか寸での所で身を沈めて躱したが、肩の装甲をアンダースーツごと抉り飛ばされ、切り裂かれた箇所から鮮血が飛んだ。アドレナリンが放出され、痛みを和らげるのを自覚する間もなく、《エースゼロ》は即座に右手のヴァニシングエッジを下から斬り上げて反撃に転じようとしたが、それも胸部に追い打ちの膝蹴りが叩き込まれるまでだった。

 理論上は拳銃弾の直撃にも耐え得る強度を持つ胸甲だが、如何せん至近で鈍器をぶつけられるようなものだ。重たい衝撃が装甲を貫いて、皮膚を透過し、その下の肋骨や臓腑までをも震わせる感触に息を詰まらせる。一瞬僅かに体が傾いだのが《スカルマン》にとっては十分な隙だ。そのまま右膝をつき崩され、地面に叩きつけられた。

 床を穿つ程の衝撃を受け止めた頭部がグワングワンと揺れる感覚を味わったと思ったら、次なる一撃が頭部に襲い掛かった。マウントポジションを取られたまま、拳が二発三発と振り下ろされ、頭部の装甲がひしゃげ、バイザーが砕き割れる。

 

 ああ、また壊した…楠に怒られるな…。意識が跳びそうになる中でぼんやりとそんな事を思うと同時にぼやけた視界の向こうにギラリと奴の爪が光るのがやけにスローモーに見えた。その硬質で殺人的な輝き、突き出されれば確実に《エースゼロ》というユニットごと辰雄の命を奪うであろうその凶暴な輝きに逆に急速に視界が冴えるのを自覚した。

 そうだ、俺は死ぬわけにはいかない――!

 咄嗟に右手が腰のベルトに向かって伸び、そこに備わったスロットルを素早く4回捻った。

 

〈Ultimate…Activate…。VANISHING END…!〉

 

 その瞬間先程までとは比べ物にもならない、体の内部から燃やし尽くされるような強烈な痛みが全身を走った。気絶すら許さないような激痛が神経を、筋肉を苛むがそれにより逆に意識を完全に覚醒するのが分かった。痛みを糧にして奮起した《エースゼロ》の掌底がそのまま覆いかぶさる《スカルマン》を押し上げるように脇腹に突き刺さった。

 

「うおおおおおぉぉぉぉぉっっっ!!」

 

 マウントを取られた状態で拳を突き上げても普通ならさして効果はないが、今の状態の《エースゼロ》なら話は別だ。身体への強烈な負荷の代償に何倍にも跳ね上がった筋力は上に覆いかぶさる《スカルマン》の体をあっさりと吹き飛ばした。予想外の反撃を受けた《スカルマン》だったが、やはり浅かったのか受け身を取りながらなんとか着地した。そこから素早く攻勢に転じようとしたが――。

 

「かはっ…」

 

 クリーンヒットはしなくても先程の衝撃が内蔵に伝わったのか、奴の口元から血反吐が噴き出る。すかさず《エースゼロ》は最早グシャグシャに潰れ、ただの金属の塊になったヘッドユニットを剥ぎ取ると《スカルマン》目掛けて力任せに投擲した。あまりに強引な反撃に奴はギョッとしたような反応をしたが咄嗟に右手の爪を薙ぐように振りぬいて、それを払い落とした。しかし次の瞬間、ヘッドユニットに紛れる形になっていた二撃目――投擲されたヴァニシングエッジが隙をついて《スカルマン》の右肩に深々と突き刺さった。

 

「ぐああああああああっっっ…!」

 

 《スカルマン》が苦悶に呻いた。先程の擲弾は完全な囮だ。そこに隠す形で放たれた二撃目こそが本命――。しかもこれで終わりではない、攻撃はまだ続いている。《エースゼロ》は両の掌でマイクロチェーンを握り込んだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「はああああああああああ!!!」

 

〈Ultimate…Activate…。VANISHING END…!〉

 

 本日二度目となる最大出力を起動した。本来なら立て続けに使用するモノではないのだが、構ってはいられない。中途半端に己が身を案じていてはコイツには到底勝てない。再度全身に襲い掛かった激痛が骨を軋ませ、筋肉を焼き、全身の血液を沸騰させる感覚に耐えながら《エースゼロ》は遠心力に任せて体を高速回転させた。

 《スカルマン》は何とか体に食い込んだ刃を引き抜こうとしたがもう遅い。こちらの目論見に気付いた時にはその体は完全に宙に浮いていた。

 回転に視界が滲む。強烈なGがのしかかり、体を圧し潰そうとする。がそれは向こうも同じ、いやそれ以上だ。ここで容赦する手はないと更に右腕部のコンデンサーも開放する。遠心力の反動と電撃が《スカルマン》に襲い掛かり、奴が絶叫するのが聞こえた。電撃も最大出力も持ってせいぜい数秒、その間に全てを終わらせる――!

 《エースゼロ》は更に無茶苦茶に力任せに鎖を振り回した。砲丸投げの如く繋がれた《スカルマン》の体が壁に床に天井に見境なく叩きつけられる。最早戦術もクソもない脳筋攻撃だ。やがて最大出力が限界時間を超えて強制停止したのと度重なる負荷に耐えかねて鎖が切れたのはほぼ同時だった。繋がりを断たれた《スカルマン》の体が勢いのまま放り出され、壁に激突する。コンクリートの壁にめり込むと同時に天井がこれまでの衝撃により崩落し、その体を呑み込んでいった。

 

「はぁ…はぁ…はぁ…」

 

 勝った…のかは分からないが、少なくともこれが自分の出せる全力だ。そう思った矢先に体に纏った鎧が急に重みを増し、《エースゼロ》――辰雄はその場に崩れ落ちた。高熱を出して寝込んだ時のように体の節々が鈍く痛み、心臓が早鐘のように拍動し、肋骨を突き破って飛び出してきそうだ。こみ上げてくる吐き気をなんとか堪えながら辰雄はふらつく体を立ち上がらせた。そうだこれで終わりではない、奴を即座に縛り上げて柚月達と合流しなければならないし、じきに警察が到着する。モタモタしてる時間はないんだ――。

 

 鉛のようになった手足になんとか力を込めて立ち上がる。風邪に浮かされたように頭はまだボンヤリとするが回らない事もない。柚月達との合流ポイントの決定、そこに至るまでの最良のルート選択、後は奴を担いでなるべく目立たないようにしなければならない。酷使し続けた肉体には悪いがここでもうひと踏ん張りして貰わなければ、と己を奮い立たせた矢先、やけに物々しい喧騒がこちらに近づいてくるのを感じ取った。それがサイレンの音や複数の足音であると分かったのは紺色のベストとヘルメットに身を固めた集団が突入してきてからだった。

 

「動くな!両手をゆっくりと挙げて頭の後ろに回せ!」

 

 タクティカルベストと呼ばれる各種携行装備を収納しておくための専用ベストを着こみ、サブマシンガンとライオットシールドを構えた20人ばかりの一郡はまごう事なき警察の特殊部隊だ。今になって漸く到着かよ、と詮無い愚痴を言いながら辰雄は、さてこの状況はどうしたものか、と迷いを感じた。

 この惨状には流石に特殊部隊でも絶句したようだ。ヘルメットに覆われた顔からは表情は窺えないが、各所が崩落した内部の様子やそこに横たわる無辜の市民、そして一際目立つのが真っ黒に染まったままピクリとも動かない巨大な蛇のような怪物、と来たもんだ。それでも彼らは気を取り直したように動揺を悟られないように辰雄に短機関銃を向けている。それはそうだろう、《スカルマン》かバケモノが病院で暴れている、という報告を受けてきたのだろうが来てみればそこにいるのは派手にやり合ったと思しき《スカルマン》と大差ないコスプレ鎧男だ。剣呑な態度も致し方ない。最悪ここで警察に捕まっても自分の身柄くらいは何とかして貰えるだろうが、確実に今後の行動に支障が出るし、何より“彼”にいらぬ苦労を負わせる事になる。出来ればそれは避けたかった。

 手を上げながら特殊部隊の方に顔を向けるとまた彼らが僅かに動揺する気配が伝わった。自分が子どもなのは理解しているし、それは時に相手の油断や動揺を引き出す事に繋がる。どうにも陰険臭いがこの時は自分の容姿に少し感謝したい気分になった。特殊部隊から視線を外さないようにし、彼らにゆっくりと近づくふりをしながら《セクターゼロ》の方に注意を向ける。あの中にスタングレネードが入っていた筈だ。あれを利用して彼らの目を眩まし、その隙に《スカルマン》を捕まえてマシンと一緒に脱出する――。正直上手くいくのか未知数だし、如何にも脳筋で作戦と呼べないような作戦だが、彼らと一線を交えずここを引くにはそれしかなさそうだ、と判断した辰雄は隙をついて素早く《セクターゼロ》に飛びつこうとした。

 

 ――その矢先。

 

 特殊部隊と自分の間、先程奴を生き埋めにしたコンクリート片が爆発するように吹き飛び、中から《スカルマン》が飛び出してきた。まさか不死身かよ、と辰雄は絶句した。こちらは碌に戦う余力も残ってないと言うのに…!特殊部隊も巷を騒がす悪名高きテロリストの突然の出現には流石に面食らったようだが、すぐにその存在を後方に待機している筈の本部に報告したようだ、「貴様も大人しく投降しろ、もう逃げ場はないぞ!」と警鐘を発した。

 

 こっちも既に満身創痍だが《スカルマン》の姿を見れば向こうも大概のようだ。レザー製のスーツはあちこちが裂けて下から血を滲ませており、プロテクターも各所が欠けたり、ひびが入っていたりと無惨な有様だ。特にその名を象徴する髑髏のマスクは右目の辺りから側頭部にかけてが砕け、顔の半分が露出している。口元から血を流しながら、こちらと警察隊を交互に眺め、不敵な笑みを浮かべるその顔立ちはいっそ線が細いといっても過言ではない。その目元は何となく辰雄の知る人に似ている気がした。

 なんとかコンクリート片を弾き飛ばしたは良いものの、各部に負った傷には深いものも多いらしい。あれほどの衝撃を受けたのだ、肋骨が折れて肺に突き刺さっていてもおかしくはないし、左脚を引き摺っているあたり骨折した可能性もある。

 

「あ~あ、全く今日はとんだ厄日だ…。運が悪すぎて虫唾が走る…」

 

 この四面楚歌な状況をどこか楽しむように《スカルマン》は喉をクツクツと震わせた。それでいてどこかに苛立ちを抱えているようにも聞こえるその声色に辰雄は慄然とした。まさか奴はこの状況から脱する手立てでも持っていると言うのか…。

 

()()()を使うのはまだ早すぎる気がするんだが…。まあこうなっちまったら仕方ないよなぁ…」

 

 コイツ。なんて事のない言葉がやけに禍々しい響きに聞こえた。まずい、何をする気か知らないが止めねば――!酷く怠い体を無理矢理にでも奮い立たせて辰雄が走り出したのと《スカルマン》が両手を広げ、天を仰ぎ、咆哮したのはほぼ同時だった。

 

「うおあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」

 

 まるで内に眠る獣が解き放なたれたようなそんな声だった。それと同時に強烈な熱が奴を中心にして放出されていく。辰雄はスロットルを捻って強引にブーストを掛けると地面を蹴って奴に殴り掛かった。その拳が奴の頭に届きそうになった、その刹那――。

 

 

「――変身…!」

 

 

 まるで何かの決意表明のように。

 

 奴はそう呟いた。

 

 直後辰雄の体は暴力的な熱風の洗礼を浴び、辰雄の体は後方に大きく吹き飛ばされた。彼らより100メートル程後方の位置に待機していた特殊部隊達もまともにその衝撃波を浴び、ある者は咄嗟に吹き飛ばされまいと身を硬くし、ある者は飛んできたコンクリート片がまともに胴体に直撃する事になった。まさか自爆か…?そう判断し、ライオットシールドを立て、防御の陣を敷いた事までが現実的な判断で対処出来た所だった。

 

 吹き飛ばされた衝撃で何度もバウンドしようやく《エースゼロ》は止まった。ただしその衝撃で完全にバックルの機能が停止してしまったらしい。一切の支えを失くした鎧が辰雄の体に重くのしかかる。シールドを構え、何とか飛散物から身を守った特殊部隊の隊員達は視察窓の向こうに、先程の爆発の中心となった存在を捉えた。辰雄は薄れゆく意識の中で何とかその姿を瞼に焼き付けた。そこにいたのはもう先程の《スカルマン》ではない。

 

 複雑に筋肉が隆起した皮膚は黄緑色に染まっており、背中には小さな翼を髣髴とさせる正体不明の器官が備わっている。四肢には短い棘のような突起物が備わり、そのフォルムをより凶暴なものに見せていた。何よりも変化が著しいのはその頭で、まるで昆虫のようなフォルムに変化した口元は凶悪に牙を剝き出しつつも、虫の複眼とは明らかに異なるその瞳がもともとかろうじて人間の面影を残していた。額の中央からは頂に向かって伸びるように二本の触角が備わっており、そこに引っかかっていた髑髏の鉄仮面を鬱陶しそうに剥ぎ取る。

 

 そこに佇むのはもう《スカルマン》ではない。これまでの法則に倣うならさしずめ()()()()()()()()()》といった所か…。薄れゆく意識の中で辰雄はそう思った。

 

「う、撃てぇ!」

 

 その姿にいつになく動揺したのは特殊部隊の方だった。仕事柄凶悪犯の相手など訓練の想定内だし、必要とあらば猛獣の相手もしなくてはならないのが警察の職務だ。だが目の前に佇むコイツは明らかに獣ではないし、ましてや絶対に人ではない。想定を超えた相手の出現に特殊部隊隊員達に出来たのはコイツは危険だ、というプリミティブな判断だけだった。

 

 ライオットシールドを構え、防御の陣形を崩さぬまま、サブマシンガンの銃撃が一斉に《バッタヴェルノム》に向けて放たれる。《バッタヴェルノム》はそれに全く臆する事なく、両腕の爪を展開すると弾丸の驟雨を潜り抜け、特殊部隊に襲い掛かった。

 




という訳で前回に引き続き、新たな怪人が登場でした。

「変身」とは言いましたが、まだ仮面ライダーって訳ではありません、他作品で言うとまだ黒殿様飛蝗怪人くらいの立ち位置です。

当分怒涛の展開が続く事になると思うのでお見逃しのないように。次は平常通り日曜に投稿すると思います。それではまた次回。


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CHAPTER-1:『REvengerⅠ』‐⑩

最新話です。
今回遂に…!まあとにかく読んでください。


「なにがどうなってんだよ…!」

 

 病院のロビーで繰り広げられる惨劇を前にして哲也は呆然と呟いた。隣で健輔も固唾を呑んで見守っている。

 

 あの蛇みたいなバケモノが何故か急に目標を変え、食堂の外に飛び出していったのは僥倖だった。哲也は僅かな生き残りの人々共々今度は厨房の方に避難し、そこに急増でバリケードを拵えて、当面はそこに立てこもる事にした。待っていれば必ず警察が助けに来る筈だ、と降って湧いた異常事態に怯える人達を励ましながら。健輔の折れた右腕は壊れた椅子を添え木にする形でとりあえずの応急措置を施し、そうして待つこと十分ばかり。建物が砕ける音やバケモノの咆哮と思しき奇声、一時期は銃撃のような轟音すらも鳴り響く中で皆一様に怯え、肩を寄せ合いながら、漸く静寂が訪れたのは実際はそんなもんだったようだが、哲也達には何十時間に感じられた。

 耳を澄ませると微かにサイレンのような音も聞こえ、警察が到着したのか、と感じられた。その段になって哲也は一旦外の様子を見てくる旨を進言し、今ここに至る。周りに止められはしたもののそれでも無理を押してきたのは一重に《スカルマン》の事で確かめたい事があったからだ。あの時自分は咄嗟にあの骸骨男の姿に()()()の影を感じていいた。それだけなら単に自分の思い込みで済むのかも知れないが、アイツはあの時自分の呼び声に瞬時に反応してみせた、それだけあれば自分には十分だった。

 

 何をバカな、と頭の中の冷静な思惟がそんな夢想を嗤う。

 

 彼は――幹斗は死んだ。7年前、今はもうない自分の故郷と一緒に。

 

 常識的な思考ではそうなるのかも知れない。しかし現実問題、哲也は両親は勿論誰一人の死体すら見ていないのだ。政府の公式発表とそれが墓の代わりと言われても到底実感できない無機質な慰霊碑以外、それを裏付けるものは何もない、もしそれが間違っていたとしたら…?そう思ったらこの目で確かめずにはいられなかった、ブン屋の気概とかそんなモンじゃない、成澤哲也という一人の人間の意地だ。

 健輔までついて来たのは少し意外だった。傷に響くから止せ、と言ったのだが「てっちゃんにだけは言われたくない」と至極真っ当な返しをされれば黙るより他なかった。どうやら彼も《スカルマン》の事で何か思う所があるらしい。それが何なのかは教えてはくれなかったが。

 

 しかし半壊した防火扉から顔を覗かせて見ればそこに広がっていたのは更なる惨劇の図だった。まず飛び込んだのは避難者達を虐殺した蛇のバケモノの巨躯。それがどういう訳か全身が炭のような光沢のある黒色に変わり、横たわったまま動かない。死んでいるのだろうか、気にはなったが確認する勇気はなかった。そしてその向こうでは今なおこの世の物とは思えない戦いの光景が広がっていた。紺色のボディースーツにベストという厳つい出で立ちの男達が両手に携えたサブマシンガンを発砲している。それに対するのが――そしてこの戦いの中心にいるのが先程のウニや蛇と異なる第三のバケモノだった。

 

 黄緑色の皮膚に頭部から生えた二本の触角は幼い頃村で捕まえたトノサマバッタを想起させた。中途半端に人と融合したような姿のウニや蛇と比べればまだ人の姿形を強く残した洗練された外見だ。だが今はそれくらいしか分からない。ここからだと遠い、というのもあるが相手が速すぎるのだ。

 その動きはまさに縦横無尽だ。バッタのバケモノは特殊部隊の間を間を縫うように高速で駆けずり回り、かと思えば跳躍して壁や天井を蹴って三次元に動き、両手に備えた鋭い爪や棘で隊員達に襲い掛かる。バケモノが疾風迅雷の如く駆け抜ける度にボディースーツが切り裂かれ、隊員達が血祭りにあげられていった。

 彼らだって警察における選りすぐりの精鋭たちだ、弱い筈がない。だがあのバケモノはあまりにも常識を逸脱しすぎている。内側から食い破るが如く間合いを詰め寄られたせいで銃撃は出来ず、たまに隙をついて発砲してもバケモノはそれをやすやすと回避してしまう。ライオットシールドを構えて防御に回ってもカバーしきれない上側や背面を一瞬で取られ、葬られる。酷い時にはシールドすら貫通され、そのまま串刺しにされた隊員までいた。

 

 まさに一方的な虐殺。戦場どころかこれではただの狩場だ。

 

 あのバケモノはさっきまでの奴らとは違う。哲也は戦慄と共にそう思った。先程のバケモノ――《ガンガゼヴェルノム》や《コブラヴェルノム》――は確かに常人を上回る圧倒的な力があったし、毒針や毒液と言った強力な武器を備えていた。だが本質的にあれらは獣に近い、知性や理性とは無縁で本能のまま暴れるだけの存在だ。だが奴はアレらと同質の武力を備え、武器を真っ先に破壊し無力化する、防御に対してはその構造的な隙に付け入り、必要とあらば相手を心理的な盾としても利用してみせるという知恵を見せるその様は憎たらしい程に“人間”そのもの。最早“バケモノ”という言葉では形容出来ない、人の知性に獣の力を併せ持つ存在――まさしく“怪人”としか形容しようがない存在だ。

 そう言えば、と思い哲也は周囲を見渡し、ここに来た目的――《スカルマン》の姿を探した。だがどこを見渡しても本来なら必要以上に目立つあの姿は見られない。もう撤退したのだろうか、それとも――?バッタの怪人に目を向けながらその可能性をチラリと思い浮かべたその時、ロビー中央に放置されたままの蛇のバケモノの死体がピクリと動いた――ような気がした。

 

 いや、気がした、ではない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。白かった皮膚は砂色の鱗で覆われており、より蛇らしく、より攻撃的な姿に進化したのは一目瞭然だった。

 

「ジャアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァッッッッ!」

 

 《コブラヴェルノム》が歯牙を剥き出しにして咆哮し、僅かに生き残った特殊部隊の隊員達に襲い掛かった。尻尾の薙ぎ払いで吹き飛ばされる者、その巨体に圧し潰される者、顎に呑まれ、食い千切られる者、そして――毒で焼かれる者…。先程の悪夢の再来だった。

 成す術なく蹂躙されていく命に哲也は恐怖と――そして依然無力でしかない己を自覚し、暗澹たる絶望を感じた。理不尽に命が奪われていく。理由などない、ただそこに居合わせたというそれだけの理由で。そして自分は相変わらずそれを眺めているだけだ。

 

(忘れるな――お前はまだ何者でもないんだ…!)

 

 脳裏に勉叔父さんの声が響いた。

 

 その言葉はいつだって哲也にとって心が折れそうな時の最後の砦であり――そして消えない呪いだ。叔父さん、あの日から俺は何も変わってないよ、自分が何者かも分からないまま、何者にもなれないままだ。今だってこうして目の前に理不尽に奪われている命があるのに何も出来ない。ペンは剣より強し、なんて理想を掲げてこの世界に飛び込んだ訳じゃないけど、やっぱり自分は何も出来ないままだ、という不実を改めて突き付けられただけだった。

 

 あの特殊部隊の隊員達にも家族がいるのだろう。怪物になってしまったあの子どもはどんな夢があったのだろう。怪物に変貌してしまった我が子に焼かれて消えた母親は今わの際に何を思ったのだろう…。ゲンさんも、ゴロウさんも、他にも今この場で突然命を消し去られた人達にだって明日があった。それを無惨に奪われた時、人はどこに行くんだろう…。残された人達は何を思えば良いのだろう…。

 《スカルマン》の強さを、この時少し羨ましいとそう思った。奴のようになりたい、という訳ではない。だがもし今の状況を変えられるとしたら――そのための力だったら欲しい、と哲也は思った。なんでも良い、今の自分を超えられるような、そんな何者かに――。

 

 ()()()()()()()()()()()()()、と。

 

〈Ultimate…Activate…〉

 

 そんな子どもじみた夢想を吹き消すように。

 

〈VANISHING END…!〉

 

 だが確かに勝鬨を上げるように。

 

 声が上がった。

 

「アイツは…」

 

 健輔が呟いた。声のした方に目を向ける。そこに立っていたのはボロボロの鎧を纏った、まだ少年の形容が通じる姿。額から血を滲ませ、覚束ない足取りながらもしっかりと地面を踏みしめて立ち上がり、強靭な意志を宿した強い瞳でバケモノをしっかりと見据えていた。

 

「あああああああああああああああっっっっっっ!!!!!!」

 

 絶望を吹き散らすように、少年は雄叫びを上げた。

     

・・・・・・・・・

 

〈タツオ、聞こえてますか!?聞こえてるなら早く立って!〉

 

 誰かが頭に直接呼びかけているような気がした。それが柚月のものだと分かり、弛緩した体に僅かに力が籠るのを辰雄は知覚した。

 

 その声から察するに自分は意識を失っていたらしい。何秒か何分かはよく分からないが、とにかく《スカルマン》――改め《バッタヴェルノム》はどうなった、と思い、鉛のようになった瞼をスッと開く。右目がやや不鮮明で視界はボンヤリとしているが、周りの状況くらいは分かるだろう、そう考えた矢先に警察の特殊部隊達が一方的に蹂躙される鮮烈な光景とそれを引き起こしている二体の怪物が目に入り、辰雄はそれだけで一気に現実に引き戻される心地を味わった。

 一体は髑髏男もといバッタのバケモノ、そしてもう一体は先程仕留めたと思っていた《コブラヴェルノム》だ。より皮膚が硬質化・鋭角化し、より戦闘的な姿になって特殊部隊を一方的に屠る様に辰雄は歯噛みした。

 やられた。あの時あの《ヴェルノム》は本物の蛇のように体の表皮だけを敢えて炭化状態にさせる事で自らの死を偽装し、その下で新たな戦闘形態への進化を行っていたのだ。あの時確実に止めを刺そうと思えばさせた筈なのに目の前のターゲットを優先して碌に確認もしなかった。その結果がこれなのだとしたら、完全に自分の迂闊さが招いた事態だ。

 

 寝てる場合じゃない、ここで今度こそケリを付けねば――。鎧の重量に骨が軋み、筋肉が断裂するような気さえしたが、構ってはいられない。まるで酒か薬にでも溺れたように手が震える。指先にも力が入らず、ともすればそのまま滑り落ちてしまいそうだったが、左手で包み込むように添えて無理矢理ベルトのスロットルを握らせた。

 二日酔いのように頭がふらつき、吐き気さえこみ上げてくる。気を抜けば崩れ落ちてしまいそうな膝をどうにか支えながら、辰雄は力任せにスロットルを捻った。

 

〈Ultimate…Activate…。VANISHING END…!〉

 

「あああああああああああああああっっっっっっ!!!!!!」

 

 体が燃え滾る。丹田を中心に全身に力が流れ込んでいくのが分かる。それと比例して最早堪えようがない激痛が全身の責め苛んだが、辰雄はそれを振り払うように雄叫びを上げた。

 

〈――なにやってるんですか!?これ以上は危険です、今すぐに退却を――〉

 

 車内で恐らくこちらのバイタル等をモニターしてるに違いない柚月が自分のしている事に気付かない道理はないだろう。いつもの平静さを完全に失った声で絶叫したのはそれはそれで貴重な光景だと思ったが、戦闘中に叫ばれると鬱陶しいので辰雄は首に掛けた骨伝導スピーカーを剥ぎ取り、床に投げ捨てた。

 背水の陣。本来なら想定にないどころか硬く禁じられてきた3回目の全開放もそうだし、今取れる最後の手段もそうだ。先程の戦闘で落としたヴァニシングエッジを取りに行っている時間はないし、他の武器にしても然りだ。何よりあの《コブラヴェルノム》に有効な武器など今はない。とすればこれからする事は特攻紛いの最後の手段だけ。刺し違えてでも奴らと心中する気なんてさらさらないが、せめて自分の不始末くらいは拭わなければならないし、それに――、辰雄は《バッタヴェルノム》の方に目を向けた。

 こうして拳を交えれば分かる。アイツは死を恐れていない。だがそれは死んでも良いという捨て鉢さに依るものではない、文字通り己が命を賭けても為すべき事があると思うからこそ奴はここまで全てを敵に回して戦ってこれたのだ。決して奴の心根に感化されたと思うことはないが、せめて自分も同等の気概を以て当たらなければ永遠に奴に勝つ事など出来ない、ただそれだけだ。

 

 だから柚月、俺は行くぞ…。後で謝罪ならいくらでもする。そう一言付け加えて、辰雄は床を蹴って走り出した。狙うのは奴の頭頂部、硬質化した鱗に覆われている中で先程斬撃を加えたあの箇所の回復がまだ完全ではないのが一瞬だが確かに見えた。逆にあそこが治れば外敵からの備えがほぼ完全になるという事だ。それだけは何としてでも阻止する。辰雄は踏み出す自分の脚、その右一点に《エースゼロ》システムの全エネルギーを集中させるようスーツを操作した。

 こちらに向かって走ってくる影の存在に漸く気が付いたのか《コブラヴェルノム》が鎌首をもたげるような体制でこちらに振り向いた。威嚇するように一回唸った蛇のバケモノは躊躇う事なく、《エースゼロ》に向けて毒液を放出した。銃弾のような速度と機械の如き正確さを以て放たれたその毒は当たれば一瞬で辰雄の体など溶解させていただろうが、神経も肉体も極限値にまで研ぎ澄まされた今の状態にとってはそんなものは影絵に等しい。毒液が眼前に迫り、あわや直撃という事態になったその瞬間を見計らい、辰雄は地面を蹴って飛び上がった。

 

 常人を遥かに凌駕するその脚力によってあっさりと怪物の頭部に届く距離まで達した体を一回転させ、遠心力さえも味方につけた《エースゼロ》は右足を前方に突き出した。エネルギーの集中した右足に紫電のような力場を纏った《エースゼロ》はその態勢――跳び蹴りの姿勢を維持したまま、鋭い鉾となって《コブラヴェルノム》に突進していった。

 

「うおおおおおおおおおおっっっっっっ!!!!」

 

「ギシャアァァァァァァァァァッッッッッッッ!!!!」

 

 《エースゼロ》――辰雄と《コブラヴェルノム》の声が重なった。目がなくともある程度は己の位置が探知できるのか、《コブラヴェルノム》が顔を上げたが、もう遅い。二度目の毒液を吐くための照準すら定める暇はなく、《エースゼロ》の体が怪物の頭頂部――ちょうど人間だった時の首が生えている辺りに突き刺さった。

 

 これが《エースゼロ》の最後の手段――。普段はシステムの稼働や肉体のアシストに割いている分を最低限度まで残して、一点に集中させる事で他のどの専用武器よりも高い破壊力を生み出す、文字通りの特攻だ。窮鼠猫を嚙むとはよく言ったもので全ての武装を喪失してもなお、その肉体こそが最大の武器になり得る。まさに「AS計画」の神髄だ。

 表皮を覆う頑強な鱗は暫くはその跳び蹴りに対抗してみせたが、それもほんの1秒程度だった。言うなれば硬い盾に鋭利な鉾を突き立てたようなもので、ちょうどヴァニシングエッジで斬り込みを入れられていた事も手伝い、その切っ先はやがて表面の鱗を抉り砕き、その下の筋繊維までもを貫いた。

 

 勿論ただの蹴りでコイツを殺せるとは思っていない、本領はここからだ…!

 

 それと同時に《エースゼロ》の足先から紫電のような光と共に放たれた“Cウェーブ”――ヴァニシングエッジの刀身と同じく《ヴェルノム》を殺しきる事が可能なエネルギー波がその巨体に殺到した。ちょうどマイクロ波が分子を加熱するが如く、瞬く間にバケモノの全身の筋肉を焼き尽くし、水分を沸騰させ、神経という神経を破壊し尽くしていった。

 

「シ〝ャア〝ア〝ア〝ア〝ア〝アャアッッッッッッッ!!!」

 

 各部が破裂したように《コブラヴェルノム》の鱗の隙間という隙間から血が噴き出る。その激痛に身を捩らせた《コブラヴェルノム》は頭を無茶苦茶に振り回して、そこに食らいつく《エースゼロ》を振り払おうとしたがそれよりもそのエネルギー輻射が肉体を貫通する方が早かった。傍目には《コブラヴェルノム》の頭部に相当する部分が風船の如く膨張したように見え、次の瞬間どす黒い血糊をまき散らしながら爆裂した。それより早く頭部を蹴って離脱した《エースゼロ》は残された尻尾部分が地面に倒れ込む光景を見ながら着地した。

 

 これで今度こそ完全撃破だ。呆然といった佇まいでこちらを見ている《バッタヴェルノム》の存在が視界に入った辰雄は少しばかり溜飲が下がった思いでニヤリと口元を歪めた。これが俺達の力だ、と。だがまだ終わりではない、コイツを倒さなくては本当の意味で自分の為すべき事は為されないのだから。再びベルトのスロットルを捻ろうとした刹那、直接脳髄を殴られたような衝撃が遅い、急速に四肢から力が失われていく。世界から音と光が急速に褪せていくのを実感しながら、成程これが力の反動か、使いすぎるなよ、と言われたその意味が漸く分かった…と今更実感したのを最後に辰雄は急速に意識を失った。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 やったのか…?

 

 鎧を纏った少年が跳び蹴りをバケモノに向かって放ち、それが命中したと思った次の瞬間にはバケモノの頭部はもう電子レンジで温められた卵の如く爆散していた。後に遺されたのは本体から置き去りにされた末尾のみで、トカゲの尻尾か陸に打ち上げられた魚のようにのたくっていた。

 バケモノを撃破した少年はなんとか着地したようだが、既に体は限界を超えていたらしい、バッタのバケモノを見据えながら、そのまま膝から崩れ落ちるように倒れた。

 

 静寂。先程までの争乱から打って変わってロビー内にシンと凍えるような静けさが訪れた。バッタのバケモノも生き残りの特殊部隊達も呆然と目の前の光景を眺めていた。特殊部隊は既に大半が血溜まりの中に沈んだままピクリとも動かない。息があるのはせいぜい片手で数えられるくらいでその分にしても深手を負っているのか、息が荒く、立つ事すらままならないようだ。

 どうすれば良い?哲也は自問した。確かに最大の脅威と思えた蛇のバケモノは倒されたが、まだアイツが残っている。警官も待っていれば増援が来るとは思うがいつになるかは分からないし、先程の惨状を見ればあの怪物に勝てるとは到底思えない。つまり依然危機は去っていないという事だ。自分達二人と奥にいる数名の人達全員で生き延びるためにはどうすれば――。

 

 あの少年が使っている装備は何なのだろうか?とふと考えた。見た所腰の辺りに取り付けられたベルト状の機械、それに付いているスロットルを捻る事で先程の常人離れした身体能力を得ていたように哲也には思えた。機械的な装置に依るものならそれを使って自分もおんなじ事が出来る筈ではないだろうか…。

 

 確証はなかった。あの鎧が一種のパワードスーツでベルトはただの制御装置なのだとしたらそれだけあっても何にもならない。大体あの少年は何者なのだろうか、警察関係者にしては若すぎるし、あんな装備が警察で開発されたなんてニュースは少なくとも聞いた事がない。

 明後日の方向に思考が行きかけたのを自覚し、哲也は頭を振ってそれを追い出した。今は難しく考えてる場合じゃない、迷っているとあの少年も、残りの警官隊も、奥にいる人達も、俺達もみんなあのバッタのバケモノに殺されるぞ――。

 そんな自問のサイクルにはまったこちらの迷いを見透かした訳ではないだろうが、バケモノの方が先に動いた。倒れたままピクリとも動かない少年を一瞥すると、そのままゆっくり彼に向って歩み出す。その指先に展開した鋭利な爪が妖しく輝く。

 

 マズイ――!その殺気に満ちた仕草に止めを刺す気だと悟った哲也はそれ以上考える事もなく走り出していた。咄嗟に倒れている隊員の方に駆け寄り、その右腿に装着されたオートマチックピストルを剥ぎ取った。ズシリと想像以上に重い感触を受け止めながら、映画等で見た記憶を総動員してスライドを引く。弾が薬室に装填されたのを確認すると両手で銃を握りしめながらそれをバケモノの方に向けた。冷静に考えられたのはそこまでで後はせいぜい外れてくれるな、それだけ祈って力任せにトリガーを引いた。

 

 ガァン!と乾いた激音が木霊した。同時に両掌にバットで殴られたような衝撃が襲い掛かり、その反動に哲也は思わず顔を歪ませた。結果として発射された弾はバケモノには命中せず、その頭の側面を掠めるに留まったが、それで怪物の注意は哲也の方に逸れてくれたらしい。動きを止め、こちらの方に振り返ったのを見逃さずに続けて二発目を発射した。覚悟はしていても拳銃の反動というものは想像以上で連発すれば掌が潰れるのでは、と感じたがそんな事は気にしてはいられない。自分より小さい子どもが無理を押して戦っていたのに俺が我が身を可愛がっていられるか、という半ばヤケクソの境地だ。

 しっかり頭を狙ったともりだった二発目は僅かに逸れて相手の右肩口に突き刺さった。呆然としていたバッタ男のそこに銃弾がめり込み、赤い血が飛び散る。その体が僅かに傾き、よろめいたのをしっかりと見た哲也はとにかく銃は効くらしい、という確信を得た。たった二発撃っただけで掌がじんじんと痛むがとにかく当ててさえしまえば勝機はある事を見出し、続けて三発目を発射しようと狙いを定めた。

 

 しかしそこから先は流石にバケモノの方が早かった。反動で僅かに上を向いた銃口を向け直すその数瞬の間にバッタ男は急速に哲也の手が届く範囲にまで距離を詰めてきた。

 早すぎる――!焦った哲也はもうゼロ距離でも良いとトリガーを引き絞りかけたが、直後スライド部分を掴まれ、それ以上の行動は阻止された。揉み合いが拮抗したのはほんの数瞬だけ、すぐにバケモノの尋常ではない握力によって強化プラスチックで構成された本体は破壊され、そのまま哲也は振り払われるように放り出されていた。

 

「てっちゃん!」

 

 健輔の声が聞こえた。痛むのか右腕を抑えて顔を顰めながらもヨタヨタとした足取りでこちらに駆け寄ってくる。思わず来るな、と叫びかけた所でその背後に打ち捨てられたバケモノの尻尾が不意にのたうち回るのをやめたのが見えた。それだけなら今度こそ完全に死んだのだろうと思う所だが、その断面部分に急速に吸盤状の口蓋が再形成されていくのが見えた。

 

 ゾクリ――とイヤな予感が背筋を震わせる。

 

「ツッチー、逃げろ!!」

 

 怖気が瞬時に全身を駆け巡り哲也は叫んだ。バッタ男もバケモノの残骸の異変に気が付いたらしく、爪を展開してそれに襲い掛かろうとしたがお互いにその判断は遅きに失した。バッタ男が走り出した時にはその尻尾の断面部には円形に歯列が並んだ円口類(ヤツメウナギ)を思わせる“口”が新たに作り出された。変異した《再生態コブラヴェルノム》はまるでそれが本能であるかのように一番手近にいた目標――健輔に飛び掛かり、その首筋に食らいついた。

 

「うああああああああああっっっっ!!!」

 

 絶叫と共に健輔の体が倒れた。変異型はそのまま体を回転させ、尚も深く肉を抉っていく。まるで健輔の肉体に入り込み、乗っ取ろうとしているようにも思え、哲也はゾッとした。

 しかし数秒もしないうちにバッタ男の手がその尻尾部分を掴み、それ以上はさせないとその体を健輔から引き剥がそうとした。しかし変異型もヤマビルの如きしつこさで離れようとしないらしい、業を煮やしたバッタ男は腕部分に生えた棘を展開し、力任せにその体を叩き斬った。どす黒い鮮血が飛び散り、健輔とバッタ男の体を濡らした。引き裂かれた変異型も流石にそれ以上は肉体を維持するだけのエネルギーがなかったようで力が抜けたように健輔から離れて地面に落ちた所をダメ押しとばかりにバッタ男に踏みつけられて今度こそ完全に塵へと回帰して、霧散していった。

 

「ツッチー!」

 

 健輔に駆け寄ってその体を抱え起こす。既にその首筋は血塗れになっており、意識も混濁しているのか視線も定まっていない状態だ。口端から泡を吹き、各所には異常発汗と共に疹が浮き出ている。その様はバケモノに変異する前のゴロウさんやあの男の子、もしくは《黒禍熱》の如き症状で悶死していった被害者達と全く同じ状態だった。

 

「ツッチー…死ぬな…おい…死ぬなよ…!こんな所で…まだ…こんなのって…!」

「…てっちゃん…お、おれ…」

 

 体を揺さぶって懸命に呼び掛けた事が功を奏したのか、虚ろだった瞳に僅かなりとも光がともる。だが体は依然として高熱状態な上にチアノーゼ反応のように顔色が悪い。不意に健輔が右手を哲也の方に伸ばして肩の辺りを掴んだ。震えながらも肉に食い込むほど強い力だ。

 だがその事実に哲也はハッとなった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、なのに――。

 

 まさか――!肩の方に目を向ける。健輔の手は――既に表面が滑りを帯びた黒色に染まっており、その指と指の間には水かきのような器官が形成されていた。既に二の腕辺りまでが染まっており、徐々に肩口の辺りまで浸食されていく。

 

 怪物化が始まっているのだ…!時期に健輔もあのウニや蛇のバケモノのような姿に変異するというのか――!

 

「やめろ!バケモノになんかなるな!お袋さんや藤田に会うんだろっ!こんな所で終わるなよ…!」

 

 肩を揺すって懸命に呼び掛けるがもう何の反応も寄越さない。白目を剥き、破傷風のように体を痙攣させる姿に哲也の声が届いているのかは定かではない。滑り気のある皮膚はもう体の半分ほどを覆っている。

 

 畜生――!どうして――!またこんな風に――!

 

 幾千もの後悔と自問が押し寄せ、涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら哲也は健輔の胸の辺りに拳を何度も打ち付けた。

 

 死ぬな――!帰ってこい――!お前まで俺を置いていくな――!

 

 懇願と半ば八つ当たりを込めて心臓を叩く。意味のない事だと分かっていてもせずにはいられなかった。

 

 だがその刹那――。

 

 まるで破裂寸前の風船が萎むように、痙攣が止まり、急速に高熱が引いていくのが感じられた。黒くなっていた皮膚も元の色を取り戻していき、最終的には元の土枝健輔という“人間”の腕へと戻った。よく見ると首の傷も塞がっており、治った腕もそのままのようだ。

 

「――止まった…?」

 

 荒い呼吸のまま呆然と呟いた。当の本人は完全に意識を失ったのかぐったりとしたまま目を覚まさない。それでも呼吸は安定しているし、高熱も嘘のように引いている。何があったのかよく分からないがその事に哲也はひとまず安堵した。

 ふと視線を感じて振り向くとバッタ男もまた呆然といった感じでこちらを見ていた。無機質な能面のせいで表情は窺えないが醸し出す雰囲気からなんとなく驚いているかそんな感情が伝わってくる。哲也は困惑した。今のバッタ男からは先程までの特殊部隊を相手にしていた時の殺気や闘気が全く感じられないのだ。さっき哲也と闘った時だってその気になれば一撃で屠れた筈なのに武器を破壊しただけ、あまりに落差がありすぎる。

 

 そこまで考えた時に一つの可能性が頭をよぎり哲也はハッと顔を上げてバッタ男を見据えた。さっきのウニや蛇のバケモノは元は人間が変異したものだった。この場にさっきいた筈の《スカルマン》の姿が全く見えない事を考慮すると――自ずと答えは一つしかないように思えたのだった。

 

 お前は《スカルマン》なのか?それがお前の本当の姿なのか…?

 

 それに何よりも――お前は幹斗なのか…?

 

 先程マスクの下側から見えた口元の連なった黒子を見た時哲也は反射的にそう叫んでいた。だが理性はそれを全力で拒否している。そんな筈はない、だってアイツは――()()()()は7年前に俺の故郷と一緒に…。

 

 だがそれは本当に正しいのか。脳内のもう一つの意思がその思考を打ち消した。俺は両親も含めて誰一人の死すらこの目で確かめていない。もし政府の発表が真実と違うものであったとしたら?現に俺は件の少女に確かに“あの娘”の面影を重なていたではないか――。

 あり得ない。だがあり得ないなんて事はあり得ない。今日1日だけで散々非常識を見せつけられた身には最早それは目の前で起きている事を否定する根拠にはならなかった。

 

「…お前は幹斗なのか…?」

 

 バッタ男を見据えながら呆然と呟いた。その言葉に目の前の怪物の顔が僅かにピクリと動いたのを哲也は見逃さなかった。

 やはりそうなのか――!疑惑が僅かに確信の方に傾きかけたその刹那、別の冷静な部分が鎌首をもたげてきた。

 だが仮にアイツが幹斗だったとしてその心までもが幹斗である、と何故言える?事実ゴロウさんやあの男の子は理性も何もかも失い、本能に任せて暴れるだけの怪物と化したではないか…。むしろ何故目の前のこのバケモノだけが理性を保っていられると思うか…。

 

 その可能性に哲也は僅かに後ずさる。だがやはりバッタ男はジッと自分と健輔を見るばかりで一向に動こうとしなかった。

 なぁ…お前は一体何者なんだ?再びそう問いを発しようと口を開きかけた時、急速に怪物の体から冷気のようなものが発せられ、その体躯が萎んでいくように哲也には見えた。

 なんだ――?怪物が誕生した時の爆発的なエネルギーの奔流、あれと似ているが明らかに異なる緩やかさに哲也は急に周囲の空気が冷えていくような心地がした。やがてドライアイスの気化を思わせる冷気の放出が終わったと思った時、果たしてそこに佇んでいた影は――。

 

「――よぉ?久しぶり…7年ぶりか…?あんま変わんないな、お前…」

 

 7年前より少し背が伸び、痩せぎすだった肩幅は幾分かたくましくなってはいたが、彫刻めいた端正な顔立ちも理知的な瞳の色も、僅かに皮肉っぽく曲げられた口元も――。記憶の世界で会う姿とは少し変わっているが、紛れもなくかつて失ったと思った親友が――山城幹斗がそこに立っていた。

 

「お前――」

 

 まるで一週間かそこら会ってなかっただけのような気安い仕草で挨拶する友人に対して哲也はそう呟くのが精いっぱいだった。それにしたって掠れ声が喉から漏れただけで碌に言葉になったかすら怪しい。とにかく何か言葉を紡ごうとした哲也は目の前に佇む男の首から下の様子を見て今度こそ息を呑んだ。

 あちこちコンクリート粉や怪物の血で煤けてはいるし、更に言えば破けたり欠損している箇所も多数だが、幹斗が身に纏っているその服装は――黒いレザーに銀色のプロテクターという出で立ち――間違いなくこの1年間散々日本を騒がせた《スカルマン》が纏っていたものと同じものだった。

 そんな哲也の視線に気付いたのか幹斗は「ああ、コレか?」と襟元の辺りを引っ張ってみせた。

 

「俺の一張羅だ、なかなか良い趣味してるだろ?」

 

 まるで自分のお気に入りの服を自慢するかのような気楽さでそう嘯く。それは言外に「俺こそが《スカルマン》だ」と誇示するのと同じことだというのに――。

 その言葉に頭の芯が瞬間的に冷え、断線してショート状態に陥っていた思考回路が急速に復旧していくのが感じられた。怒りなのか悲しみなのか混乱なのか、或いはそのいずれかも含むものなのかそれは分からないが、哲也は「…ふざけろよ…!」と咽頭から声を絞り出した。

 

「なんで…なんで…こんな事やってんだ!この1年の事は全部お前の仕業だってのかよ!?この状況だってお前がやった事なのか!?答えろよ!!」

 

 なんで《スカルマン》なんかになった。お前が生きていたなら梗華は、柚月は、他の皆はどうしているのか。あのバケモノは一体何なのか。なんで幹斗がそれに変身しているのか。それも全て「あかつき村事件」と繋がっている事なのか…!

 他にもそんな幾多もの疑問が浮かび上がってくるが言葉にすらならなかった。興奮のあまり息を吸いすぎたのか、漂っていた粉塵が気管支に入り、哲也は激しく咳き込んだ。そんな様子に幹斗は「落ち着けよ」と苦笑する。

 聞き分けのない子どもをあやすような口調だ。いつだってそうだ。いつも自分だけが大人であるように振る舞って、世の中を冷めた目で見てる。長らく忘れてた友人の悪癖を久しぶりに思い出して哲也は逆にああ、紛れもなくコイツは幹斗だと確信が持てた。

 

「話したいのはやまやまなんだがな…如何せん時間がない。間もなく警官の増援が来るし、そうすりゃ俺だって素顔晒してる訳にもいかない。だから単刀直入に言うぜ、俺と来い」

 

 最後の言葉がやけに耳に響いた。咄嗟に何を言われたかも分からず目を白黒させている哲也に幹斗が手を伸ばす。

 

 ――だがその刹那。

 

 静寂を打ち破るようにけたたましいクラクションの音、そしてエンジンの音がロビー内部に飛び込んできた。ちょうどバッタ男の後方の位置する所に殆どガラスが粉砕され、フレームだけになった窓枠をぶち破り、ロビー内に踊り込んできたそれは1台のバンタイプ車両だった。大手運送会社のロゴと車体カラーが印刷されているが、何故かそれは壊れたディスプレイのように不規則に明滅しており、車体の各部にもよく見るとあっちこっちにぶつけたような跡がある。

 

 急に雪崩れ込んできた奇妙な新手に哲也は唖然とした。最初はてっきり警察の増援か救助が来たのだろうか、と思ったのだがこんな非常識極まりない登場を日本警察がするとは思えないし、第一あの奇怪な車両で乗り込んでくる意味もない。

 おまけにそれは躊躇う事もなく、幹斗に向かって突進してきた。改造を施しているのか目も眩むほどに強力なハイビームが前方に照射され、幹斗は思わず顔を覆った。ぶつかる――!そう思った矢先に幹斗は常人離れした跳躍を見せ、車そのものを飛び越えてみせた。そうなると分かっていたのか、車は先程幹斗が立っていた場所から10メートル程滑って止まった。

 

「全く…感動の再会に水差すな…っていうか轢かれたらどうするつもりだよお前!」

 

 絶体絶命になりかけた割にはどこか楽し気に幹斗が車に向かって怒鳴った。あの運転手と知り合いなのか、と疑問に思った直後、右サイドのドアが開き、ひらりと人影が着地した。警察――では絶対にない、薄汚れたジャンパーにジーンズという出で立ちは公職にある者ではないだろうし、何よりその立ち姿はあまりにも華奢すぎる。

 

「どうせ避けるんでしょう?」

 

 幹斗に向かってその人影が凛然と言い放ち、両手に持ったオートマチックピストルを構えた。姿から分かっていた事だがそれは間違いなく女、それも年若い少女のものだと分かった。無骨なピストルのフォルムとそれを握り込む少女の手の細さがあまりに不釣り合いな気がして、哲也は思わず少女の方を見つめる。少女もこちらの方に意識を向けたのか、一瞬だけこちらの方に視線を向けた。

 哲也は思わずドキリとした。ややつり上がった大きな目に肩までかかった黒髪、バランスよく整った顔立ちに対してややオーバーサイズ気味な煤けたジャンパーが不釣り合いな印象があったが、逆にそれが造り物めいた少女の造作を人間らしく引き締めている。その姿はまさしく立木の似顔絵にあった少女に間違いはない。同時に――こうして目の辺りにする事でかつてより抱いていた疑惑が確信に変わった。或いは直前に死んだと思っていた親友と顔を合わせた事も無関係ではないだろう。

 

「兄さん、これ以上こんな事はやめて下さいっ!」

 

 明らかに手馴れている仕草でピストルを構え、少女は――山城柚月(やましろゆづき)は叫んだ。

 

 

 




という訳で最新話でした。あーここまで書くの長かった…

今までぼかして書いていたこの作品の主要人物が出てきました。ここを書くために今までの展開があったようなものです。

スカルマンの正体は山城幹斗。
彼を追う妹の山城柚月。

この作品の主要な登場人物です。是非記憶に留めておいて下さい

次回でこの章も終わりかと思います。一つの終わりと新たな始まりにご期待ください。
それではまた次回…



PSイチローとルリルリっぽいなと思ったけど偶然です。


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CHAPTER-1:『REvengerⅠ』‐⑪

今回で今の章は終わりです。

最後までお見逃しのないように…


「兄さん、これ以上こんな事はやめて下さいっ!」

 

 その言葉が自分の確信をよりハッキリしたものに変えてくれた。いや、本当の事を言えば昨日の時点でなんとなく察していたのかも知れない。だが考えないようにしていた。そんな事はあり得ない、と意識の片隅に追いやって結局自分の過去から逃避していただけなのだろう。生硬い表情で銃口を幹斗――己の兄に向ける柚月の姿を見て、哲也はボンヤリとそんな事を思った。

 

 最後に会ったのは――確か彼女が11歳の時か?ちょうど村を出るバス停の前でボンヤリと佇んでいた時にたまたま通りすがった彼女と言葉を交わして折良く現れたバスに飛び乗ったのがあそこでの最後の記憶だ。目の前で毅然と幹斗を見据える少女の姿を捕らえながら、気付けなかったのもむりないか、と何処か場違いな感慨を抱いた。

 

「こんな事か…無理もないか…。だがそれならお前はどうなんだ、裏切り者のお前は?」

「それは違います!お願いだから話を聞いて!」

「なにが違うって?親父達を殺した奴らに取り入ってなにやってんだ、えぇっ!」

 

 どこか嘲弄的な口調で幹斗が叫んだ。聞いただけだと何処か愉快そうな声色だが、その内奥には心を凍えさせるような憎悪と殺気が含まれていおり、裏切り者、という言葉も含めて凡そ肉親に向けるべきものではないように思えた。そのあまりの冷たさに哲也は背筋がゾッと強張るのを感じた。そもそも親父達って…。山城博士たちの事か?彼らが「()()()()」…?

 

 どういう事だろうか、あかつき村の件がただの事故等ではないという事か…

 

 柚月もその感情を鋭敏に感じ取ったのか僅かに怯んだように見えた。だが決して臆する事無く顔を上げると「兄さんがバカな事するからです…!」と負けじと言い放った。

 

「新宿でも、六本木でも…今ここでも…!兄さんのエゴで罪のない人の命を奪って…それで誰が満足するんですか!?」

 

 だがその声はどこか湿り気を纏って、悲痛な色を帯びていた。昔から人一倍感受性が強い柚月らしいその声音に何故か胸が締め付けられるような気がしたが、それも「エゴ?罪のないだと!?」という幹斗の怒声が被せられるまでだった。

 

「奴らに罪がない!?ふざけるな、あっさりと俺達の故郷を見捨てて過去に追いやったのは誰だと思ってる!」

 

 さっきまでとは違い、そこには明確に激しい怒りの感情が籠っていた。柚月の腕がビクリと震える。幹斗は口元をグニャリと歪めるとゆっくりと彼女の方ににじり寄ってくる。

 

「いつだってそうだ!喉元過ぎれば熱さを忘れるで、センセーショナルな事があればほんの一時だけ騒ぎ立てて後は忘れるだけ。自分達に都合が悪くなりゃ、あっさり趣旨替えして知らん顔を決め込むばかり。そうやって意志も理性もなく、状況に流されるだけの奴らに本当に罪がない、と言えるのか!

…そりゃあ一人一人は善人で勤勉で目の前の事を一生懸命やってるだけの“普通の人”達なんだろうさ…だから虫唾が走るんだよっ!俺からすりゃあ奴らなんてあの時吹き飛ばした半グレ共と一緒だ、悪を為す自覚もなく、その癖時間が経てば全部忘れましたってほざくならもう一度一生消えない傷にして思い出させてやる!」

 

 狂気――。その二文字が哲也の背筋を粟立たせた。だがそんな簡単な一言で済ますにはあまりにもその炎は高熱を纏っていた。かつての自分が思い浮かぶ。そうだ、あの時の俺はそんなやり場のない怒りをどこかの誰かにぶつけていたんだと…。

 

「そんな奴らを操ってるメディアや起業家に政治家、挙句そんな奴らの金儲けの道具でしかないあのナントカいうバカ騒ぎ!何が復興だ、何が平和だ!そんな美辞麗句で全てを忘却に追いやろうってんなら俺が全てを思い出させてやる…!」

 

 立木の言葉が蘇る。『奴の行動はなんら高尚なモンじゃあない…もっとプリミティブな感情、即ち怒り、復讐だよ』。確かにこれは復讐だ。テロリズムによって国の態勢を変えようとか曲がりなりの道義も持ち合わせてはいない。酷く個人的な感情を剝き出しにしてこの国の全てに戦争(ケンカ)を吹っ掛けただけだ――。

 柚月の手が届く位置にまで距離を詰めた幹斗は彼女の腕を掴むとその銃口を自分の胸に押し付けさせた。ビクリ、と少女の細い肩が震える。「俺を殺せよ」耳元に顔を寄せ、低くそう囁いた。

 

「俺を止めたいなら躊躇うな、甘い考えなんざ捨てろ。俺に追い付くにはそれしかない」

 

 撃て撃て撃て…!呪詛のように言葉を吐き掛け、銃口を額に移動させた。底なしの昏い相貌は俺を止めてくれと懇願しているようにもどうせ撃てやしないと嘲笑っているようにも見えた。気圧されたように柚月はたじろぎ、頭をゆっくりと振る。まるで幼子がイヤイヤとするように。やがて興味を失くしたように幹斗はその小さな体を突き飛ばした。抑えを失った華奢な体躯はたたらを踏んで床に尻餅をついた。

 

「…兄さんは…怪物です…」

 

 座り込んだままペタリと両手を下ろし、顔を俯けて柚月は呟いた。その声が湿っているように聞こえたのは気のせいではないだろう。

 

 怪物。その言葉に幹斗の肩が僅かに震えた。どうやら喉をならして笑いを堪えているらしい。やがてその含み笑いを堪えきれなくなったのか決壊したように幹斗は笑い出した。嘲弄、憤怒、悲哀――様々な感情を詰め込んだような狂気の哄笑がロビー一帯に木霊した。

 

「そうだよ…俺は――()()()怪物さ…!」

 

 幹斗の体から蒸気のようなエネルギーが噴き出し、再びその体を異形のバッタ男へと変えていく。その姿に柚月がハッと目を瞠る。変異した腕でそのシャツの襟元を掴んで引き寄せた。

 

「『まだ殺さない。お前が築き上げた砂の城が崩れ去るのを見ながら首を洗って待ってろ』……ってお前の新しい保護者に伝えろよ」

 

 言うだけ言って手を離すと柚月は膝から崩れ落ちたまま、もう顔を上げる事もしなかった。それを顧みる事もなく幹斗は踵を返し、彼女から立ち去る。少女の頬に雫が伝わるのが見えた。か細い嗚咽の声が耳朶を打つ。

 

 瞬間、哲也の頭の中に一つの光景が頭の中にフラッシュバックした。昏いままだった幼い少女の瞳に溢れた大粒の涙、それを敢えて拭ったりせずに受け止めるだけ受け止めて、それからおずおずと手を伸ばした少年の手、初めてあの子の目に光が宿ったあの時、二人が――幹斗と柚月が初めて()()()()()()あの時の光景――。

 

 そこから次に湧き上がって来たのは峻烈な怒りの感情だった。膝をつき、顔を俯けたままの少女と彼女を一顧だにせず背を向ける異形。その光景に先程幹斗がぶちまけたものと同質の原始的で根源的な破壊の情動が頭に湧きあがったのを自覚した哲也はその激情を糧にして萎えた脚を立ち上がらせた。

 その言葉がどれほどの艱難と辛苦を以て刻まれ、どれほどの痛みと怒りが籠められているのかいるのかは、遠ざかっていた自分が知れる事ではないし、その言葉に一度は心が傾きかけた事も認めよう。だがそれと同じ所にある内なる声が全力で叫んでいた、お前は一体何をやっているんだ、と。

 凡そ理性的ではない、だが獣のそれとは確かに違う人としての激情が己を駆り立てるのを実感しながら、哲也は目前のバッタ男に向かって拳を繰り出していた。一瞬虚を突かれたように固まったその異形の顔面に全体重を乗せた一撃を叩き込む。

 

「…ぐっ…」

 

 バッタ男が呻き声をあげ、その異形の巨体が揺らめいた。見た目通りの硬質な皮膚は思った通り、冷たくざらついていてこっちの手の方にも鉄を殴ったような鈍い痛みが走り、実際さっきの一撃で付け根の辺りの皮が剥けたのが感触として分かった。血の滲んだ手の甲を再度握りしめ、立て続けに二発目を放ったが、流石にそれを許してくれるほど甘い相手でもなく、異形の手がその一撃を受け止めた。鋭い爪が皮膚に食い込む痛みに顔を顰めると眼前の異形の、その口元がニヤリと笑ったように見えた。

 

「――ったく…やっぱお前はそう来るのか?」

 

 まるでそうするのが必定で、そのために敢えて最初の一発を甘んじて受けたとでも言わんばかりのその態度にまた頭が沸き立つ気がして、哲也は痛みも怖気も明後日の方向に放り投げて「…ってめぇ!それでも兄かよ…!」と絶叫していた。

 

「なにがあったのかなんて知らねぇが…妹を泣かせるような下衆野郎に堕ちやがって…!そうまでしてお前は一体何がしたいんだっ!」

 

 無理矢理右手を引き剥がして蹴りを放つ、がそれよりもバッタ男もとい幹斗の反応速度の方が早く、あっさり躱された脚は無様に宙を掠め、あわやこっちがバランスを崩しそうになった。なんとか踏ん張ってみせ態勢を立て直そうとした矢先、首筋に衝撃が走り、哲也の体は今度こそ瓦礫の散乱する床に倒れ込んだ。

 呼吸が止まりそうな程の鋭い痛み、それが幹斗から貰った手刀の一撃によるものと分かったのはこちらを見下ろすように佇むバッタ男の姿を認めた時だ。バッタ男はこちらを一度一瞥してからもうここに用はないとばかりに踵を返す。その肩にまるで米俵でも持つように担がれているのは同じように、自分とぐったりと四肢を投げ出した人の影…?汗と涙で滲み、今にも朦朧とかき消えそうな視界でもそれが先程まで一緒にいた土枝健輔のものだという事は分かった。

 

「…ま――っ!つっぉ…!ど…す…」

 

 待て!ツッチーをどうする気だ…!そう叫ぼうとしてもまともに動きもしない体はそんな意味のない言葉を吐くばかり。そんな無様を嗤うでも憐れむでもなく、幹斗は信じがたい程の跳躍力で去って行った。

 

「今日は引いてやるよ、また遊ぼうぜ…?哲也…柚月…」

 

 最後にそう言い捨てていった気がした。そのまま鉛のようになった意識がゆっくりと音と光を失い、沈んでいく。

 

 「テツヤ…!」

 

 不意に視界の片隅に少女が駆け寄ってくるのが見えた。拭いきれない涙の粒子が澱んだ視界に舞い、ふわりとした甘い香りが鼻孔を突き抜けていく。殆ど断線しかけた意識の中でそれだけを感じながら哲也は「柚月…梗華…」と視界の先の少女とここにはいないもう一人の少女の事を想い、呟いた。

 

 幹斗が、柚月が生きていた。なら君もどこかで生きているのか…?

 

 俺達はまた会えるだろうか。あの空の下でまた笑って一緒に歩けるんだろうか…?

 

 幾千もの顔が、景色が走馬灯のように浮かんでは消えていく。縋りついてきた少女の重みと体温を受け止めながら、哲也の意識は深く沈みこんでいった。

 

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 病院を狙った《スカルマン》による未曽有のテロ。この日の出来事は後にそう報じられた。

 

 増援に駆け付けた警察隊が目にしたのは徹底的に破壊し尽くされた病院のロビーとそこに横たわる夥しい数の死体の山。特に先行した特殊部隊は隊員27名の内、25名が結果的に殉職となり、日本警察としては歴史に残る大敗北という批判を甘んじて受けるより他なかった。特に民間人の犠牲者数は確認できた限りで16名、遺体が見つからず行方不明扱いとなった21名の計37名と新宿事変に次ぐ記録となった事もあり、暫くの間マスコミ各社を大きく賑わせた。

 特に一部の生存者の間で「謎の怪物を見た」「黒禍熱で人が死んだ」という情報が放出され、それはSNS等のツールを経由してたちまち世界中に広がっていった。ネット上にはそれを裏付ける動画も多数投稿され、その映像の真偽について激しい意見の応酬が繰り広げられる事になったのと同時に本当にこれは《スカルマン》による犯行なのか、奴はただの人間ではないのではないか、もし件の情報が本当なら7年前の黒禍熱、ひいては「あかつき村事件」を巡る一連の政府の対応は本当に適切であったのか、など千々に枝分かれしていき、メディアも政府も国民も混沌の渦に呑み込まれていく事になった。暫くは怪しい風説に注意しろ、というお達しが各地に回ったがまるでそんな抵抗を嘲うかのように様々な情報が各メディアに広まった。

 

 全ての混乱の序章となった「新宿事変」、《スカルマン》のその存在を世間にしろしめす事となった「六本木事件」、そして今回の件を経て、一連の事件は新たなフェーズを迎える事となるのだが、それを世論が認識するのはもう少し後の事になる。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 地上がやけに騒がしい。遥か下に臨む首都高環状線や日比谷通りをサイレンを鳴らした交機のパトカーがひっきりなしに駆けずり回り、道端には物々しい装いで警察官達が佇み、道行く衆人の動向を絶えず探っている。今頃各所には検問が設置され、遥かお江戸の世のようになっているだろう。特に日本警察の総本山は今頃天地をひっくり返したような大騒ぎになっている筈だ。

 今テレビを付ければどこもかしこも同じ話題で持ち切りになっている筈と思うが、確かめてみる気にはならなかった。凡そ自分のした事の成果など確認したくもないし、嫌な事を思い出すだけだ、今はひとまず休みたい。ただその思いだけを抱いて山城幹斗はリビングに設置されたソファに腰を沈めた。

 

 体重を掛けただけで腰のあたりまで沈み込んでいきそうになるマットレスの感触は、しかし自分にとってはさほど心地いい感触とは言えなかった。むしろ無心で体を預ければこの体ごと意識まで底深い深淵に沈んでいく気がしてならず、畢竟死に損ないの骸骨男には何もかもが場違いでしかないという感慨に至るだけの事だ。

 なにもソファに限った話でなく、今ここに与えられたこの部屋そのものがそうだ。電気を消しているため夜の帳に沈んでいる室内の総面積は280㎡、40階からの大パノラマが自慢だというこのスイートルームの全てが。所謂全館空調で細部まで快適さを追求したのだとか、輸入物の低反発マットレスだとか、室内を彩る極一級の調度品だとか御託は結構だが、ハッキリ言って趣味には合わない。“スポンサー”の厚意は素直に受けるべきという大人の世界の礼儀とは理解しながらもどこか空疎な空間は幹斗を辟易させた。

 

 傍から見れば塵一つ落ちてない清掃の行き届いた部屋で一人、埃と血と礫に塗れた身を投げ出している男の図というのは余程場違いだろう。千鳥辺りならそう苦言を呈しそうだし、“彼女”なら――呆れながら風呂に入りなさい、と尻を蹴っ飛ばすだろうか…。いやとっくに愛想も何もつかされているであろう我が身がそんな想像をしても意味のない事か、と幹斗は自虐的に笑った。

 

 たぶん今日の一件でますます愛想尽かされただろうな。あの子だけでなくたぶんアイツにも…。そんな事態を招いた己の不実にふと怪物、という言葉が頭を過った。

 

 彼らはあの後、どうしただろうか。各所に警察の検問が設置されている筈だからあの場から退却するのは容易ではなかった筈だが――まぁ何とかなっているのだろうし、自分には心配する資格がない。

 時々自分が自分でなくなる、と思う時がある。あの日から燻り続けた憎悪はそれに関係するモノを前にすると熾りのように激しく燃え上がり、終いには心までをも焼き尽くす程の激しい感情に支配される。そんな時内なる声が吠えろ、怒れ、戦えと己を鼓舞し、それに何もかも身を委ねる事を心地いいと感じてしまう。だがそれが過ぎ去ってしまえば後に残るのは燃えカスのような空虚な感情の残滓だけだ。そんな時程どちらが本当の山城幹斗なのだろう、いやひょっとしたら俺の心はもう《ガロ》達のように理性のない怪物と化し、そこにある仮初の知性が山城幹斗という個人を演じているのはないか、と堪らない気分になってくる。

 

 だが…だからこそ引き返す訳にはいかない、と思う。少なくとも復讐を望み、その状況を生み出したこの国がどのような選択を選ぶのか、せめてその先を見たいと思ったのは間違いなく自分の意思だと信じたい。エゴ、怪物、その言葉を反芻しながら、戻れないならせめてその道を突き進むしかない、と己の胸に決意を刻み込んだ。

 

「なぁに黄昏てるんだよ、《スカルマン》?」

 

 刹那、窓から一迅の風が吹き込むような冷たい怖気と共にその声が響いた。窓は閉めていた筈だがな、と独り言ちた幹斗は背後を振り返る事もなく、「何の用だ、《ナイトレイス》?」と声を発した。

 

 次の瞬間、革張りのソファの背後にそれが“出現”する気配がした。全身を色彩感覚が消えたのではないかと思わせる程の白い布地で包み、同じ色のフーデッドを纏っている自分と同質の異形の者。暗い室内でそれ自体が光を発しているように薄い光を発しているその姿はまさにその名が示す通り幽霊そのものだ。

 

「何故勝手に騒ぎを起こした、《ラスプーチン》の計画に背くつもりか?…と、あの御方(ヤロウ)からの忠告だ。で、俺はお前さんの真意を確認しに来ただけだ」

 

 少しも生真面目そうでもない口調で《ナイトレイス》はそう告げた。《ラスプーチン》…帝政ロシア崩壊の遠因と作ったともされる怪僧の名か…。相変わらずもっとマシなセンスのある奴はいないのかね、と苦笑した幹斗は背後に佇む幽霊男に向かって「勝手はお互い様だ」と返した。

 

「あの病院での一件、元凶はお前だろう?お前こそ何を企んでんだ?」

 

 実際そうだ。あのタイミングで病院で人を《ヴェルノム》に出来る要因はコイツを置いて他にない。こっちこそ運悪く巻き込まれただけの被害者だ、と背後に佇む異形に抗議の意を込めた視線を送る。布地に包まれ、右目だけが不気味に光っている無貌の顔がヒュッと嗤いの形に歪んだ…気がした。

 

「はっはっは…!そう来たか、確かにそりゃあごもっともだ」

 

 表情も読み取れないがその声もちっとも笑ってるように聞こえない。芝居のように大仰な仕草ともあって、コイツはとにかく感情が読みづらい。お互い腹に一物抱えている身なのは重々承知だが、出来れば顔を合わせたくない相手である事に変わりはない。

 

「なぁに、ちょっとした実益を兼ねた余興だよ…。目撃者の消去と“俺達”のプレゼンテーション…さ、実に合理的だろう?お前さんの本来の姿も存分に見学出来て、お陰でオーディエンスからの反応は上々だ、まぁちょっとばかし予想外の成り行きではあったが」

 

 要するに多少のアドリブはあれどあの怪物騒ぎもそこで巻き込まれた人々の運命も全てこの男の掌の上、という訳か。こうもあからさまに宣言されると最早怒る気にもなれない。ここまで行くとそれにのこのこ首を突っ込んだ自分の行動も見越している可能性はあるが、確かめてみる気にもなれなかった。幹斗は息を吐くと《ナイトレイス》の方を睨みつけて言った。

 

「そうかい、じゃあそれに免じてお互い勝手はチャラにしよう。確認が済んだらとっとと帰れ」

「そうはいかない。分かってんだろ?まだ本来のターゲットの始末は済んでないんだ、ここにいるんだろ、ん?」

 

 やはりそう来たか。コイツがここに現れた時点でこうなる気はしていた。《ラスプーチン》においても特に暗部に精通してるこの男が来るという事は即ちそういう事だからだ。幹斗はソファから腰を持ち上げると、「よせ…」と低く唸って飄々と佇んでいる《ナイトレイス》を睨みつけた。併せて両腕を異形の姿へと変化させ、その鋭い爪を突き付ける。

 

「おお…怖怖…」

 

 しかして《ナイトレイス》は特に動じた気もなく、大袈裟におどけてみせた。その姿が一段と癪に障る。

 

「まさか、とは思うが今更人一人殺させないなんて言うなよ?もしそうなら今すぐこれまでブチ殺したウン百人に土下座しに行け。良いか、いっぱしの人間様を気取るな、その腕を見てみろ?お前さんも俺も同じ――」

 

 バケモノなんだよ、とでも告げようとしたのだろう、たぶん。耳障りなその語句を幹斗は「分かってる」と遮った。感情を押し殺し、自分は冷静だという事を示す。

 

「お前も見ただろう?彼は“変異”を超え、“進化”の兆候を見せ始めた。俺達以外では貴重なサンプルだ。生かしておくのは手だろう?」

 

 これは少なくとも嘘ではない。実際に普通ならフェーズ0、即ち灰化して死ぬか、フェーズ1で理性を失ったバケモノになるかの段階で彼は“変異”を抑え込み、元の姿を取り戻した。実の所このメカニズムはまだ完全に解明された訳ではない、そういう意味では《ラスプーチン》にとって決して不利にはならない筈だ、それだけは幹斗にも確信があった。

 

「面白い、そう来たか…。実に合理的、分かったよ、あの御方(バカ)にはそう報告しといてやる」

 

 その答えに満足したのか《ナイトレイス》は酷く可笑しそうに肩を揺すりながら、踵を返した。この成り行きも全て想定の上か?終わってみれば結局コイツの思うままに振り回された気がしてならない。そうしたやり取りも仕事の上、と心得ているのかその振る舞いはやたらと楽し気だ。いよいよこの《ナイトレイス》という同僚の気が知れなくなった幹斗はその背に向かって「おい」と言葉を投げかけた。

 

「お前に一つ聞きたい。ここでこうして振る舞ってるお前は本当のお前か、それともバケモノがお前を演じてるだけか?」

 

 限りなく自分と近いコイツは己をどう顧みているのだろう。同じ《ラスプーチン》の手駒でありながら多分に独自の思惑を持っているこの男の意志はどこから来ているのか。考えても詮無い事とは思いつつも尋ねずにはおれなかった。しかし本人は「そんなの知るかよ」とにべもなく、嘲笑を返しただけだった。

 

「二つだけ確かな事があるぜ?一つはかつての俺は死んだって事。そしてもう一つは…そんな事考える奴はハナからマトモじゃない…て事さ」

 

 湿った高笑いを部屋中に響き渡らせながら、《ナイトレイス》の気配が徐々に薄くなっていく。振り返ってその背中に爪を突き立ててやりたい衝動を堪えながら、幹斗は異形の拳を握りしめた。気付くと奴の気配は完全に、まるで初めからそんな者はいなかったかのように霧散していた。

 

 握った掌から血が滴る。その血の赤さと伝わる痛みが己がまだ人間である、人間でなければならないと告げているようで幹斗は心底ウンザリした。結局俺は人間でいたいのか、いたくないのか、それすら分からず茫洋とその狭間を揺蕩うだけの己の中途半端さを自覚しただけだった。今度こそ幹斗はソファに身を投げ出し、ゆっくりと目を閉じた。

 

 今日はもう休もう。そう思った。

 

 明日になればやる事が増える。自分の事を隣の部屋で眠る彼に伝えなければならない。今頃柚月を通じて向こうにも自分の情報は伝わっているだろうから、その上で哲也はどうするだろうか、あの少年は今後も自分を止めようとするだろうか、それが気掛かりだった。彼らを厄介な敵と判断すれば《ナイトレイス》も黙ってはいないだろうし、《ラスプーチン》も本気で動く筈だ。いずれにせよ厄介な事態になる、そうなる前に少しでも体を休ませておくべきだ。

 

 閉じた瞼の裏側にあかつき村の空が浮かぶ。この記憶だけが今となっては己の縁のようなものだ。皮肉気にそう思いながら幹斗の意識はあの空の下へと還っていった。

 

 




書いたら思ったより短めになりましたが、まあエピローグという事でこんなもんかと。

という訳で次回から新章になります、これまで碌に説明してこなかった言葉の詳細が一気に明らかになりますのでどうかお見逃しのないように…

それではまた次回。


…そろそろ図鑑系とか必要かな…


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CHAPTER-2:『REvengerⅡ』‐①

…PREVIOUSLLY ON…

《スカルマン》の事件を追っていた哲也は真琴と共に訪れた病院でかつてのクラスメイトだった土枝健輔に再会する。久々の旧交を温める暇もなく、彼が《スカルマン》と謎の怪物の目撃者だという事が判明。次々と明らかになる事実に戸惑う中、突如病院内で人が正体不明の怪物《ヴェルノム》へと変貌し、パニックを巻き起こる。

そんな怪物たちを倒すべく《スカルマン》、そして《エースゼロ》が現れ、両者は壮絶な死闘を展開。激闘を制した《スカルマン》――果たしてその正体は哲也の幼馴染で死んだ筈の山城幹斗であった。

だが続いて幹斗を止めるべく彼の妹である山城柚月までもが現れて――。


「おっと…これはこれは…なかなか予想外の動きだ…。だがまぁ良いでしょう、これこそが制御された、完全なる《ヴェルノム》です!」

 

 然程広くないその室内に声が朗と響く。蒼く暗い室内を照らす大型モニターにその姿が映った時、この場に集った“観客達”の間に確かにどよめきが広がった。普段何があっても泰然自若、いやいっそのこと慇懃無礼と形容した方が良い機械的な反応しか寄越さない奴らのそうした反応に男は密かに溜飲が下がるような気がした。今手元にある質の良い葡萄酒を一週間ぶりに口にした時より甘やかな酩酊感に似ている。

 

〈Wie scheußlich ... Wollen Sie damit sagen, dass dies die Erscheinung von etwas ist, das in das Reich der Götter eingetreten ist ......(なんと悍ましい…。これが神の領域に踏み込んだものの姿だと言うのか…)〉

 

〈《Vellnom》...is the devil itself... No, it was 《Skullman》...?(《ヴェルノム》…まさに悪魔そのものだな…。いや《スカルマン》だったかな…?)〉

 

〈Не похоже, чтобы в лозунге «Сильнейший солдат» было какое-то преувеличение или обман...(確かに“最強の兵士”の謳い文句に誇張や偽りはないようだ…)〉

 

 モニターが映す映像の中で縦横無尽に暴れる《バッタヴェルノム》のその戦いぶりに男はいっそ清々しい気分になった。スカルスーツを排除してあの姿を披露した事は正直青天の霹靂だったが却って良い結果になったかも知れない。画面の中の主役はまさしく彼だった。人智を超越したその力を存分に振るい、立ち塞がる旧態依然を次々と屠っていく。まさに進化した生命が適応できない旧種を淘汰する姿そのものではないか。

 

 そんな《バッタヴェルノム》を見つめる“観客達(オーディエンス)”の反応は様々だった。惧れ、好奇、揶揄…もしくはそのいずれも。この領域にある感情の全てを正確に言い表すのはなかなかに困難だろうが、ひとつだけ確かな事は計画のお披露目としてはちょうど良いものになったという事だ。少なくとも男は彼らの反応に確かな手応えを感じていた。

 ある意味予定外の形で始まったプレゼンテーションは予定外らしく様々なトラブルに見舞われたが、首尾は上々のようだ。リスクを恐れていては良いビジネスなど出来ない、という男のビジネスマン哲学にも合致する。

 

〈…But if you can’t increase production, can’t call it a weapon.The reliable operability and adjustment… Above all, it’s a human rights. Isn’t there too many uncertainties?(…だが増産出来ねば兵器とは言わん。制御の確実性や整備性、…何より人道上の問題だ、不確定要素が多すぎやせんかね?)〉

 

 水を差すとはこの事だ。ホログラフィとして投影された男の一人がそう口を挟んだ。その言葉にこの場に集った一同は途端に考え込むような神妙な表情になる。戦争屋が今更人道などとつまらないお題目を口にするな、と男は舌打ちしたい衝動に駆られたがそれはスマートではない、と思い直すと男のホログラムに向き直り「ご心配なく」と告げた。

 

「山城幹斗の存在が全てを保証してくれます。彼の研究をもとにいずれの課題も近いうちに解決するでしょう」

 

 最後の一つは敢えて無視した。どうせ男はそんなモノ気にも留めないし、何だったらここに集うものはそれを踏みにじる事で利益を得てきた者達ばかりだ。建前上では口に出してもそれを貫くような神経は持ち合わせてはいない。男はそう確信して一息に葡萄酒を嚥下した。

 

<…だが万が一彼らが敵に回るような事があればどうするつもりだ…?こんなものを見せつけられたのでは…とてもではないが…>

 

 どことなく不安そうな海の向こうにいる男達と違って、ホログラム越しとは言え、同じ国の地面の上にいるこの男――“P(パパ)”とここでは呼ばれる事が多い――を不機嫌を隠さずに憤然と呟いた。その様子が可笑しいと思った男は敢えて空惚けた風に「お気に召しませんか?」と投げかけた。

 

<いい気な訳がなかろう…こんなモノを見せつけられて…>

 

 “P”の視線は画面の中で《バッタヴェルノム》に為す術なく葬られていく警察の特殊部隊を注視していた。この国の治安機構が手塩に掛けて育ててきたこの国の守り人達だ、それを人身御供として差し出すに等しいこの状況に面白いと感じる事など出来よう筈もない、と言いたいのだろうが男からすればさもどうでも良い話だった。分かっていて差し向けたのはそちらの筈。そのような偽善的な感性こそ男が最も唾棄すべきと思っている感情論だ。

 

〈それよりもだ…。ここまでの騒ぎにしてしまった以上こちらとしてはもう《ヴェルノム》の存在は看過出来ん。今後は今までのようにはいかなくなるぞ…〉

「構いませんよ、こちらとしてももう一人のテロリストを演出し続ける気はない。《ヴェルノム》のプレゼンと併せて次なる段階に進めるべき時でしょう…」

 

 それは更なる流血を招く事になるが…。男はそう言いかけてすぐさま引っ込めた。今更そんな事を言うのは野暮というものだ、いつだって革命は多大なる闘争と犠牲の果てに実るものと相場が決まっているのだから。

 ホログラムの男達も各々神妙そうに頷いた。唯一“P”のみが不服そうに顔を顰めていたが、まぁ所詮は小者の考えそうな事だと男はスルーする事にした。

 

「それでは…今日はここまでにしましょう。ご観覧真にありがとうございます。それでは次のイベントをお楽しみに…」

 

 男はショーマンのように大袈裟にお辞儀の動作を取って、通信の電源を切った。同時にモニターの光が落ちると共に男達の姿のホログラフィが消失し、反対に部屋の明かりが灯った。

 男は満足げに革張りのソファーに身を沈ませると手元のグラスに再度葡萄酒を注いだ。ワインはキリストの血だというが、ならこれは流れた血へのせめてもの手向けか…?と柄にもない事を思った男は一息にそれを飲み干そうとした。

 

「反応は上々のようですなぁ…これで少しは私の働きも評価していただけますかな?」

 

 不意に後方からしわがれた声が響き、静寂を破った。そう言えばコイツがいたんだったな…と独り言ちた男が振り向こうとするより早く、そいつは男の前に姿を現していた。

 まさに無彩色――昔のモノクロ映画から抜け出てきたように錯覚する程に白い布地をミイラのように全身に纏い、同じ色のフードを被った異形の姿。その奥には深海魚の如き瞳が煌々と光っている。神出鬼没ぶりと併せてまさにその名の通りの《ナイトレイス》だな、と男は思った。

 

「あぁ…今回の舞台のセッティングは君だったね…。まぁ些か騒ぎを大きくしすぎだと思うが…想定の範疇だよ、よくやってくれた」

「お褒めに預かり光栄です。つきましては次なるターゲットとしてあの鉄仮面の本格排除が必要かと思いますが…」

 

 口調こそ丁寧だが奴の言葉には何かしらの慇懃な色がある。まぁそんな事はどうでも良い、そんな非礼をいちいち咎める程男は小さくはない。

 それにしてもアイツ等か――恐らく“神樂”の奴らだろうが…。男はワインを飲みながら考えた。今回のお披露目の最中にも突如乱入してきてあろう事か《ヴェルノム》二体を仕留めてしまうという損害をこちらに与えてくれた奴だ。前回も《蜘蛛ヴェルノム》が奴の手で屠られたと聞くし、確かにいい加減邪魔だ。

 

 とは言いつつも…

 

「いや、そこは幹斗に任せておきたまえ…。彼の本懐のようだし、君には引き続き不確定要素の排除に尽力してもらいたい…」

 

 そう、山城幹斗というあの男を衝き動かすものこそが復讐心であり、同時にそれは彼を制御する唯一の術がそこにあるという事だ。ならばこの計画の「スポンサー」としてはそれを出来得る限りサポートするべきではないか。それがビジネスパートナーとしてのせめてもの礼儀だ。

 

「…仰せのままに。全ては“AS計画”完遂のため…」

 

 恭しくお辞儀の構えを見せたかと思うと《ナイトレイス》の姿はもう室内から消えていた。後には痛々しい程の静寂が残された。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 ここを訪れてみようと思ったのは言ってしまえば直感のようなものだ。どんな職業でも続けていると何かしらの勘や嗅覚のようなものが発達してくるというが、一之瀬真琴にとってもそれは例外ではなかった。記者の仕事というものは人と事件という点と点を結び、その先にある真実を見つける事だと思っているが、そのための線というものは案外思いもよらない所と繋がっていたりする。それは大抵の場合単なる絡まって混線した雑多な結び目でしかなかったりもするが、たまに思いもよらない真相に繋がっていたりする。だから地道な作業でも一つ一つ確実に当たっていくしかなく、ここに来たのもそんな作業の一つだ。

 

 幸いだったのは以前の取材の縁でこちらの連絡先を知っていた事、向こうもこちらの仕事ぶりを評価してくれたらしく、突然のアポイントメントにも関わらず、快く応じてくれた事だ。なんやかんや言っても真面目にやるという事は裏切ったりしない物だと微かに充足感を抱く。哲也も連れてきても良かったのだが、置いてきた。まぁ久々に知り合いと再会したみたいだし、旧交を温めさせてやるのも悪くないと思ったからだし、彼ならなんだか今日1日しんどそうにしていた彼の心情を酌んでくれそうだと思ったからというのもある。正直先輩としてはどうなんだ?とでも思わないでもないのだが…。

 

「お待たせしました、色々立て込んでまして…」

 

 案内された応接室のドアが開いて、スーツ姿の男が入ってきた。もう四十路を過ぎてる筈だが、男――羽住圭から受ける印象は仕立ての良いダブルスーツもあって意気に溢れ、まだ十分若々しいで通る。噂によると《スカルマン》の出現に際する諸々のトラブルの処理で多忙らしいが、こうして少しの疲労も見せない所はやはり自分を頼ってきた依頼人を不安にさせないために弁護士という職種には必要な事、と心得ているのかも知れない。

 

「いえ、こちらこそお忙しい所、すみません。お時間をとって頂き、ありがとうございます」

 

 応接のソファから立ち上がろうとした真琴を軽く制して、羽住自身もまた対面に腰を下ろす。小脇に抱えたキングファイルを取り出し、デスクの上に広げた。どうやら事前に話していた分に関する資料をわざわざ準備してくれたらしい、それにしてもそのファイルの厚みはあの件の底の無さを想起させるに十分だ。

 

「いえ、それよりも…()()()の事で確認したい事があるんだとか…?」

 

 挨拶もそこそこどこか訝し気な羽住の視線に真琴は身が引き締まるような気がした。そう、その名だ。今ではとっくに過去の遺物となり、しかして未だにこの国に強烈な禍根を残すこの団体の名が頭の片隅に引っ掛かり、何かがあると自分の直感が告げていた。だから少しでも情報が欲しいとここに来た。真琴はゾクリと体を震わせ、肌を粟立たせた。

 

 

 

 白零會。

 

 この奇妙な名の教団について日本で知らぬ者はいないだろう。ある一時期は単なる「テレビによく出てくる面白可笑しい集団」でしかなかったが、ある時期を境にその言葉の持つ重みは大きく変質する事になる。

 

 佐崎統夫(ささきむねお)――いや世間から最もよく知られている方に倣って八千餐誡(やちさんかい)と呼ぶべきか――ただの心療内科の医師でしかなかった男がよくあれほどの大それたことをしたものだ、と彼をよく知る者は口を揃えてそう言った。

 実家は八王子の土地に祖父から続く内科医院で、地元ではそれなりに佐崎家は有名だったらしい。そこの一粒種であった統夫は当然の如く病院を継ぐものと思われていたが、何を思ったか監察医の道を志し、かと思えば数年後には精神科を学び直すという奇妙な経歴くらいしか取り立てて特徴と呼べるものはなく、彼を知る者はおしなべて「目立たない奴だった」「今でいうコミュ障で人と関わるのが苦手だったんだと思う」と語った。父の急逝と共に彼が()()()()地元に戻り、代々のクリニックを畳んで心療内科を細々と続けていた彼が突如「精神道場白零」を名乗りだしたのが1984年。奇しくも全体主義のディストピアを描き、近代文学の傑作と称えられたジョージ・オーウェルの著作と同じ時代にそれが産声を上げたのは因果な話だった。

 

 いずれにせよこの精神道場を名乗るスクールが平々凡々、目立つところのない彼の人生の転機となったのは事実だ。ここではメンタルクリニックからヨガ教室、カウンセリング等々今でいう所のメンタルヘルスに当たるあらゆる事を手掛けており、事実利用者からの評判は上々だったらしい。一方で超能力への開眼といった怪しい謳い文句もあったらしいが、オカルトいうものが今ほど胡散臭いものと見られていなかった時勢故、さほど問題にもならなかった。次第に会員、もとい後の信者達が徐々に増え始めたのはこの1年後、会員の数が1000人を超え、道場を都心の一等地に移していったのはそこから更に2年後の事だった。この頃より道場の名が「白零會」に改められると共に名実ともにその活動は宗教法人としての様相を呈していった。

 

 この世代の間に浸透していたオカルトブームに乗るようにパラレルワールド、そこから迫る脅威による世界崩壊の危機、堕落した世俗から離脱し、上位生命へと到達する事こそが唯一の救いの路と説く様は後世から俯瞰してみれば噴飯物の与太話でしかないのだが、事実多くの人間がそれに惹きつけられた。その中には極一般的なサラリーマンや主婦、高齢者のみならず、名門大学の門をくぐった一握りのエリート達、特に国立大の理工系出身者達や未来の官僚候補生達がそれなり以上に含まれていた事も鑑みれば如何にその影響力が大きかったのか分かる。

 

 それだけならまだ無害だった。事実当時時折メディアに露出していた八千は博識で且つ理論家、歴史や古今東西の宗教、果ては文化人類学にまで通じた勤勉で物静かな男と言った風であり、一部のインテリからも評価される程だった。無地の質素な法衣に長髪豊髭の容貌魁偉な男はその博学さを買われ、当時新興宗教法人の締出しに躍起になっていた大学に講演に招かれる程で、聡明で純粋な若者達にとっては稀代のカリスマと捉えられたのも無理からぬ話だ。

 後に事件を総括して曰く「彼らが本当に優秀であったのなら八千の如き詐欺師に言い包められる事などなかった」「詰め込みばかりで人間的な素養や常識を育てようとしなかった受験の弊害」と厳しい論調で信者に――その結果おぞましい犯罪者に身を堕とした若者達に厳しい論調を述べる者も多かったが、そう単純ではない、と真琴は思う。

 

 89年の天安門事件、90年の東西ドイツの統一と来て91年のソビエト連邦の崩壊は長らく続いた民主主義と社会主義の対立、東西冷戦に終結を意味していたが、同時にそれは社会主義というある種の理想が単なる幻想に過ぎなかった事実とそれに代わるものは果てのない民族・宗教の内戦という新たな対立構造だという身も蓋もない現実を世に知らしめただけだった。国内はといえば狂乱の如き泡沫の空夢(バブル)から醒めてしまえば、終わりのない不況と就職地獄が社会全体を緩やかに閉塞させていった。投票率が戦後最低にまで落ち込んだという話はそれと無関係ではなく、要するに若者は社会に、政治に、そして未来に期待するのをやめたのだ。ひっそりと窒息していく社会を尻目に自分には何も出来ないという諦観とそんな自分を認められず、何者かでありたいという願う若者達の心の隙間に上手く潜り込んだのが白零會だった。

 彼らの多くはただ純粋であったのだ。そこそこ裕福で一見するとなに一つ不自由のない暮らしの裏で、しかしどうしようもなく社会や人生に疑問を抱いた――やがてそれらを自明との事と呑み込み、つまらない大人になる事も、そのモラトリアムとして若さを空費する事も良しと出来なかった、ただそれだけの…。

 バブルの物質至上主義とダイオキシンで荒んだ若い心に八千は語り掛けた。

 

「偉大な事を為す力は誰の中にも本質的に備わっている、私の役目は君達を導く事ではない、ただ君達の開眼の一助となる、ただそれだけだ」と。

 

 その言葉はそれこそ自分の超能力とやらをひけらかすばかりの他のカルトの教祖とは一線を画すもので、皮肉にもそのカリスマ性が彼に身も心も依存しきる集団心理を生み、いつしか教団はどこにでもあるご都合主義のちゃんぽん宗教の域を超え、一人の男を中心にした巨大なドゥームズディカルトへと成長していった。教団はいずれこの物質主義・拝金主義の世の中は限界を迎え、信仰を忘れた人類の堕落ぶりに怒り狂ったアンゴルモアの大王が1999年に地上に降臨し、現文明は全て終わりを告げるだろうと唱えた。その時宇宙(ユニバース)の神秘に触れた者だけが生き残る資格を与えられ、高次元生命《スペリオル》へと進化を遂げる事が唯一の救いの道だと。

 

 奇しくも95年に発生した大震災がそのトンチキな主張に無駄な説得力を与えてしまい、教団にとっての「審判の日」とされた年の1年前にはその信者数、教団の活動規模共にピークに達したという。

 

 だがかつては一世を風靡したノストラダムスの大予言もブームが去ってしまえば必然の如く忘れ去られていくように、結局の所そこが白零會の限界でもあった。審判の日とされた99年が大過なく過ぎ去り、2000年問題さえも単なる笑い話で済んでしまえば必然の如く、稀代のカリスマの言霊もその効力を失っていった。

 それどころか新時代を迎えればかねてより指摘されていた諸問題――曰く在家信者から過剰な献金を要求していた、修行と称したサイドビジネスで信者を奴隷のようにこき使っていた、それら不当に搾取した資産で以て放埓と紊乱の限りを尽くす幹部達etc.と叩けば埃が飛び散るかの如く、実態が明るみに出始め、教団は威光の失墜と共に司法の介入という二重苦に追われる事になった。掌を返すかのようなマスコミの攻勢に、売り言葉に買い言葉で面と向かって子どもじみた罵声を飛ばす幹部の姿が取り沙汰されればますます世間からの反感は高まり、いつしか90年代のカリスマはただの詐欺師にまで堕ちていった。このまま宗教法人資格を剝奪され、解散命令が下るのも時間の問題か、と思われた2002年の1月に事件は起きた。

 

 ちょうど正月休みも明けた1月5日午前8時頃、当時の営団地下鉄(現東京メトロ)、丸ノ内線・日比谷線・千代田線を走るの計4本の先頭車両に仕掛けられた時限式の爆薬が炸裂し、ちょうど通勤ラッシュの最中にあった人々を強襲した。ちょうど車両が駅構内に入り込んだまさにそのタイミングであり、当該地下鉄に乗り合わせた乗員乗客、更にはホームに居合わせた大勢の人間が巻き添えを食らった。最終的には死者158名、重軽傷者1496名という戦後日本でも類を見ないレベルの人的被害を生み出すに至った。この規模は新宿事変を遥かに上回る。

 

 爆弾の正体はC-4と呼ばれる米軍をはじめとする各国の軍隊で使用されているプラスチック爆弾だった。粉末状にした爆薬をワックスなどの樹脂に練り込んだそれは一見するとただの粘土にしか見えないが、TNT換算にして1.34倍の威力を持ち、その携帯性、可変性から持ち運びも容易という悪魔的な代物だ。それを新聞紙に包み、時限装置をセットして紙袋と共に車両の中に放置しておくという至って単純な手口を以てして事件は起きた。

 9.11アメリカ同時多発テロから4カ月も経たないうちに行政府のお膝元で起きた未曽有の大事件に首都は騒然とし、それこそ東京中から警察官と消防庁、医療従事者や自衛隊までもが出動が掛かり、事に当たる事態となった。

 

 だがその日が終わらないうちに事件は思いもよらない方向に推移した。実は事件発生の数十分前、日比谷線八丁堀駅にて紙袋を抱えたまま、構内をウロウロしていた不審な男の姿を警ら中の警察官が目撃しており、職質を試みた所男は警察官を突き飛ばし、逃走を試みた。この態度に甚だ不穏な臭いをかぎ取った警官は即座に男を拘束し、交番へと連行した。警察官の調べに対して男はしどろもどろになってよく分からない発言を繰り返すだけで時は過ぎ、そんな折霞が関の事件の報が飛び込んできた、という経緯だ。その後男の持っていた男の紙袋こそが犯行に使用されたプラスチック爆弾であると判明すると警察は徹底して男から供述を引き出した。結果的に男が白零會の信者である事、教祖である八千餐誡からの指示でこの犯行を命じられた事が明らかになった。

 

 このニュースは光陰の如き速さで瞬く間に世間に伝わり、事件から二日後、富士裾野にある教団本部も含めた全国80箇所の教団施設への強制捜査が執行された。延べ10万人という類を見ない規模で各地に押し寄せた警察隊を前に信者達はバリケードの敷設やシュプレヒコールをがなり立てて対抗するという一昔前の学生闘争を思わせる抗争が繰り広げられたが所詮焼け石に水に過ぎず、先んじて逮捕された男の証言通り各地で隠し持っていた武器や爆薬の他、衰弱状態になった多数の信者が発見され、国民の疑惑は確信へと変わった。

 

 そして地下鉄爆破事件から2カ月後の3月18日、毒ガスを検知するためのカナリアを連れた捜査員を先頭とした捜査員が教団本部へと再度踏み込んだ。一連の事件を経て最早教団の事件への関与は疑う余地なしと判断され、八千含めた全幹部に対する逮捕状が降ったのだった。多数の機動隊員と特殊部隊、中には防護服にガスマスクという物々しいという表現では済まない一団が粗末なバラック小屋に踏み込んでいった。

 その光景はリアルタイムで日本全国に中継された。他のカルト教団と違って白零會は華美な建物や偶像には凡そ興味がなかったらしく教団本拠とされるそこもプレハブとバラックを積み木の如くデタラメに重ねただけのお粗末な造作で薬物と拷問に汚染され、瘦せ細った信者達や頭に正体不明のヘッドギアを取り付けられた子ども達の姿、そして保管されていた大量の武器と爆薬、毒ガスなどのBC兵器等の存在等もあって退廃という表現がしっくりくる有様だった。捜索開始から1時間後、本拠最奥の隠し部屋に隠れていた八千餐誡こと佐崎統夫、以下主要な幹部15名の逮捕の瞬間が全国に映し出された。当時小学生だった真琴もその瞬間はよく覚えている。

 

 両手を警察官二人に抱えられ、凡そ1年ぶりに衆目に姿をさらしたかつてのカリスマは二回り以上も小さくなったように見えた。一方でこれほどまでに巨大に成長した団体を纏め上げ、その数と得た知識を悪用して日本を恐怖に叩きこんだ悪の大首領と呼ぶにもその姿はあまりにみすぼらしく、まさしく何をするにしても身の丈に合わず、という評価が正当なように思えた。

 

 唱えていた審判の日はデタラメ、あれほどの犠牲者を出したテロ事件の真相も教団への強制捜査を遅れさせるためと自らが唱えたドゥームズディを意図的に引き起こすためというあまりに矮小な動機に起因するものだった事、ひたすら黙秘を貫き、消沈したように項垂れるばかりの浅ましい姿が信者達の失望を買い、ポツポツと自供が始まった事。その姿は実はカツラだった髪と髭も併せてまさに化けの皮が剝がれた道化師そのもので、国民の目には痛く滑稽で惨めに映った事だろう。

 

 兎にも角にもこの一連の教祖と幹部16名の逮捕劇を以て前代未聞の大取物劇は一応の終結を見た。その後も逃走を続ける幹部の捜索や残された教祖の子ども達の処遇、後継団体の存在を巡ってのいざこざは今も続いている。更に一時期は数千億円とも言われた教団の活動を支えた資金は未だに見つかっていない。

 

 

 

 教団の黒い噂が持ち上がり始めたのは最盛期の少し前の1993年。いつの世も隆盛の裏には何かしらの影がつき纏うものだが、ちょうどこの時期、当時32歳だった羽住の下にとある二人の老夫婦が訪れた。老夫婦は自分達の一人娘――仮にA子としておこう――と孫を白零會から取り返して欲しいと願い出てきた。

 羽住は当初正直戸惑った。未成年ならいざ知らず成人した女性が入団した宗教から引き離すのは難しいと思ったからだ。下手な行動に出れば信教の自由を理由にこちらの行動の方が人権侵害になりかねない、とその時は思ったという。

 しかし老夫婦は機先を制し、そんな理由で何処にも断られた、それでも私達はやらなくちゃいけないんだと切実に訴えてきた。そのあまりに真剣な眼差しに気圧された羽住はとりあえずは話だけでも、と夫婦に席を勧めた。これが彼の長きに渡る教団との戦いになった。

 

 A子の息子は当時8歳で小児性白血病を患っていた。訳あって父親はおらず彼女は一人で息子の治療に向き合っていた。勿論老夫婦も援助の手は絶やさず、その甲斐もあってか一度は寛解したのだが、それから1年後、彼の体を蝕む悪魔は再び活動を再開した。当然病院も出来得る限りの手を尽くしたのだが、経過は芳しくなく、癌の治療は幼い体に多大な負担を与えた。一向に良くならない息子の容態は彼女が現代の医療に対する失望を植え付け、そんな彼女の不安と絶望をついて忍び寄ってきたのが白零會だった。

 

 現代の医療など所詮は拝金主義の医療機器メーカーと製薬会社の実験場に過ぎない、科学等という人類の傲慢に頼っていては息子さんは永久に救えない、我らが尊師(八千の事だ)に救いを求めなさい、そして彼の下で宇宙(ユニバース)の神秘に触れるのです、さすれば必ず息子さんは救われるでしょう…。

 追い詰められた心程脆いものはない。白零會はA子とその子どもを病院から引き離し、教団の支部の一つに連れて行ったらしい。老夫婦がそれを知ったのは病院から彼女がもう二カ月も来ていない事を告げられた時だった。老夫婦は絶句した。その1週間前、娘は新しい治療法が見つかったのだと言って、そのために必要な治療費5千万円を強力して欲しい、と頼み込まれたのだそうだ。老夫婦は貯金を積み崩し、いくつかの私財を打ってA子に金を渡した。それ以降彼女とは連絡が取れていない。

 老夫婦は彼女の知り合いの証言などから背後に白零會がいる事を掴み、娘がいると思しき教団本部に説得に向かった。だがそこに常駐する教団のメンバーは俗世の人間を連れ込むわけにはいかないと老夫婦を突っぱね、漸く会えた娘もここでなら息子を救えるんだと言って聞かなかず、恍惚とした表情で教団の勧誘が言ったような文言をそのまま諳んじてみせたのだ。その顔は最早自分達の知っているA子ではなかった。

 当然老夫婦は当然納得出来ず――神秘主義だがなんだか知らないがそんなオカルト主義に傾倒されては孫は遠からず死ぬことが明らかだった――警察から懇意にしている弁護士にまで相談に行ったそうだが、どこも信教の自由、前例がない等と言って取り合ってくれなかったそうだ。

 

 孫の病状に対する話があるのなら信教の自由とは関係無しに白零會に抗し得るかも知れない、それまで宗教絡みの案件は分が悪いという認識がされていたがその一点に羽住は勝機を見出した。だがそれはあくまで一つの要因に過ぎず、孫と娘の無事を願う老いた夫婦の気持ちに応えたいという思いが強かった。

 彼はすぐに動いた。同様の被害を抱えている家庭を調べ上げ、「白零會被害者の会」を組織するとその反社会性を批判・追求し、マスメディアの力も借りて白零會と交渉を開始した。教団側は「信教の自由は何事にも侵されない」と羽住達の追及を一蹴し、対して羽住達被害者の会も「人を不幸にする自由などない、ましてや幼い子どもまで巻き込むのは言語道断だ」と徹底的に教団の不法を糾弾し、交渉は決裂した。

 

 だが翌年思いもよらない事件が起きた。元より彼の事務所や自宅に不審な手紙や無言電話が届くなど不気味な兆候はあり、それらを白零會の仕業と断じた羽住は下らない嫌がらせはやめろと教団に抗議したが、向こうは向こうで被害妄想、でっち上げとしらを切り続けた。そうしたやり取りが続く中である夜、彼の自宅マンションに覆面姿の男4人が鍵をこじ開け、突如侵入した。覆面の男4人は就寝していた彼とその妻、更に当時3歳と1歳だった二人の娘に襲い掛かり、何やら怪しげな注射を打とうとしたらしい。

 

 結論から言えばこの襲撃事件はものの見事に失敗した。隣家の夫人が住民が羽住宅に押し入る不審な人影の姿を目撃しており、警察に既に通報が行っていたのだった。隣の夫人は夫共々町内の住民を叩き起こし、大騒ぎを起こして彼らの乗ってきた不審なバンを包囲した。この降って湧いた騒ぎに仰天した襲撃犯は慌てて羽住宅から逃走し、宵闇の中に消えていったという。因みにその車は盗難車だったことが後の警察の調べで分かった。

 結果的に近隣住民の勇敢な行動によって命を拾った羽住は教団への疑惑をより強め、一層被害者達を救う事を尽力した。そうした活動が功を奏し、老夫婦の下にA子が戻ったのは98年の暮れの頃だったそうである。彼女は酷く衰弱しており、結局助からなかった子の事を酷く悔やんでいたそうだ。やりきれない結末に羽住もまた自分の無力さを嘆いた。

 

 2018年現在、羽住は今でも後継団体の二世問題や教団の中で育った児童の今後についての案件を担当している。

 

 

 

 




後編に続け!


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CHAPTER-2:『REvengerⅡ』‐②

本日二話目。


「あれからもう20年になりますね。未だに私の中の後悔の一つですよあの件は…」

 

 白零會が起こした児童拉致監禁事件の事で話がある、そう徐に切り出した真琴に羽住は心苦しそうにそう語った。彼自身にとって後悔ややり切れない記憶を呼び起こす事になるのは忍びなかったが真琴はそれでも確かめたかった。

 

「当時白零會は“子どもこそ最も進化の素地がある”と称して信者の子を取り上げたり、何と言うか…多くの女性から子どもを産ませたり、時には他所から子どもを拉致したりなどしてたそうですね…。その子達は当時どのような生活をしていたのか、そして今どうしているのか…。それをお教えいただけないでしょうか?」

 

 真琴のその問い掛けに羽住は眉を潜めた。それはそうだろう、信者が子どもを薬漬けにして教団の教義を叩き込んでいた、なんて話は普通に知られている。ネットでちょいと検索を掛ければそれにまつわる記事がヒットするだろうし、何なら他の同業者に当たっても確度の高い情報はつかめる筈だ、わざわざここに来る理由は薄い。

 

 だが少し前に取材して得た確信なのだが、羽住というこの弁護士は白零會に、そしてそこで生まれ育った子どもたちの事について何よりも詳しい。実際教祖である八千餐誡の娘の一人とも交流を持っているという。

 向こうもそこは察しているのか、警戒心の籠もった瞳を真琴に向ける。前に取材した件で一定の信頼を得ているからこその反応で、これが見ず知らずの他人だったらもっと剣呑な反応をされていたかも知れないと真琴は内心ヒヤリとしたものを感じた。羽住は不審そうに「それは…つまり私が担当している八千の御嬢さんや他の元信者の子ども達に話が聞きたい、とそういうお願いでよろしいのですか?」と口を開いた。

 

「…いえ…流石にそれは…。出来れば先生の口から知ってる範囲の事をお聞かせ頂ければそれで良いんです」

 

 その言葉に羽住は虚を突かれたように目を丸くした。その顔を真琴は逸らす事無く正面から見据える。そうする事でそれが本心であると示したかった。実際白零會の事件の後、教祖の娘は後継団体の新たな象徴として祀り上げられそうになったり、どこに行っても「あの八千餐誡の子ども」として色眼鏡で見られ、遠巻きにされてきたという。確認出来る限り、要するに教団の認知出来る範囲で八千の子どもは14人いたらしく、うち正妻――教団結成前からの妻だ――の子は5人程いたとされる。教団が解散した後も新たなスクープを欲したマスメディアはこの子らの足取りを執拗に追い掛け続けたそうで、残された子ども達が決して平穏な人生を歩めた訳ではないのは想像がつく。そうしたマスメディアの醜悪さを目の当たりにしてきた羽住が、いくら知らない仲ではないと言っても真琴に警戒心を抱くのは分かっている。だからこそ決して邪な目的があってここに来たのではないと示したかった。

 

「それは構いませんが…私から聞ける範囲の事であれば著作に纏めてありますし…。その程度の事でレイニー・ジャーナルの記者さんがわざわざ足を運んでくるのはどういう事ですか?」

 

 貴方の所の編集長(陣内実篤)は過去の事件の振り返りなんかで満足する方ではないでしょう?未だに晴れない所があるのか、真琴の胸の内を測るかのように羽住は問うた。流石に鋭い人だ、と真琴は息を吐く。詰まる所真琴自身にも確信のある話ではない、確信がないうちにあれこれ点でしかない要素に次々と当たっていくのは正直好きじゃなく、成澤じゃあるまいしと本人がこの場に居たら文句の一つでも言いそうなことを想わないでもなかったが、それでもこの弁護士に変に誤魔化したり、嘘をついて聞き出そうとするのは不誠実だという結論に辿り着いた真琴は洗いざらい正直に話す事にした。

 

「羽住先生…。《スカルマン》についてどのような認識をお持ちですか?」

「《スカルマン》…?それが白零會と何の関係が…?」

 

 一層怪訝な顔になった羽住に真琴は今自分が感じている疑惑の全てを伝えた。

 

 《スカルマン》も主に爆薬など凡そ民間人が入手し難い武器弾薬を所持している事、標的が無差別に近い事、更にまだ疑惑の域を出ないが事件現場に出没する二人の少女と少年の事、そして少年の方は6年前教団の後継団体の会員である親に監禁されていた、という事を洗いざらい話した。

 羽住はそれがどうした、という怪訝そうな顔をしていたものの話が件の少年の件になると途端に眉をピクリと動かした。何か感じるものがあったらしい。

 

「つまり貴方はこの一連の事件の裏に白零會が何かしらの形で絡んでいる可能性があると…そうお考えなのですか?」

「正直分かりません。事件っていうのは点なんです、ひとつひとつは何の関りもなくてそれを繋ぐ線が見えないと全貌は分からない。だから少しでもその線の手掛かりを探したい」

 

 件の少年とその背後にいると思しき白零會の間に何かしらの繋がりはあるのか。それを調べるためには最も詳しい人間に意見を窺うしかないと思ったのだ。なのでこれは私の個人的な興味関心に近い、そうハッキリと伝えた所、羽住は一拍置いてややその口元に微苦笑を浮かべた。

 

「記者というのも大変ですね…事に貴方は何事もハッキリさせないと気が済まない人のようだ、良いでしょう私が答えられる範囲で何か真実が分かるならご協力致しましょう」

 

 但し依頼人の不利益になるような事はお答えできませんよ?そう言って羽住は悪戯っぽくウインクしてみせた。妙にサマになってるその姿に張りつめた肩が軽くなる気がして真琴は「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。

 

 

 

「白零會が子どもを浚って何をしていたのか…。当時のニュースでは“洗脳教育”等の表現で済まされてましたが、それでもまだ穏当な表現です。…あれはもっとおぞましいもの…そう、“人体改造”とでも言うべきものでした」

 

 吐き捨てるように漏れた羽住の言葉に真琴もまた背筋の辺りが寒くなる気がした。人体改造…人間の体を植物かなんかのように改造出来る等という思い上がりも甚だしい。筋金入りのマッドサイエンティストでもなければ到底付いていけないような話だった。

 

 頭にヘッドギアを嵌められた状態で本拠から救出された子ども達の姿、彼らを抱きかかえる警官隊達に「私達の祝福の子を返せ」と叫び、投石をしてきた親と思しき――しかし完全にまともな思考体系をしているとは思えない狂気に満ちた表情を浮かべる大人達。その姿は度々ニュースで報じられてきたから真琴も覚えている。自分とそんなに変わらない年の子ども達に嵌められた多数のコードを生やした異形の鉄枷は本能で教団の狂気を感じされるには十分で、真琴もそれが何なのか隣に座る母親に尋ねる事さえ出来なかった。

 

「サイコツール――あのヘッドギアはそう呼ばれいたそうですが…。あれは単なるついでの作業です、八千の教えを刷り込み、また特定のワードで人間をコントロールさせるある種の洗脳システム、それでさえ序の口だったんです。投薬、外科療法、精神コントロール…その他ありとあらゆる手段を用いて子どもを…彼らの言う所の高次元生命へと改造しようとした…。子どもが選ばれたのは単に肉体的に成熟している大人よりかは楽だろう、というただそれだけの理由です」

 

 実際改造には主に投薬がよく用いられたらしい。外科手段よりは“人道的で穏当”だという五十歩百歩な理屈で実施されたその行為の是非は実の所、高学歴で鳴らした教団メンバーにすら見当も付かなかったらしい。それはそうだろう、その高次元生命とやらは「超能力が使える」だとかそんなあやふやな定義しかなく、どの段階に達したら完了になるのかとかそんな事さえ不明瞭なまま進められたのだ。しかし尊師である八千の命令に逆らう事は教団内においては絶対の罪であり、彼の提唱した理論に意義や具体案を求めるなど不可能だった。かくして教団の上意下達という名の無思考・無責任体質の元、多くの子ども達が薬物の被害にあった事はまさしく愚の骨頂という他ない。

 

「私が本事案に関わる切っ掛けになった依頼人の子どもしてもそうでした。記録を当たった所、治療と称してあの子に行われたのは教団が開発したという正体不明のドラッグの投与や奴らの造ったおかしな機械装置で得体の知れないガスを吸わせたりなど…、治療なんて呼べるものじゃなかったアレは…!奴らは尊師のご機嫌取りとせめてもの実地データを得るために多くの子どもを切り刻んだんですよ…!」

 

 そうまでして教団が――否八千餐誡が欲した高次元生命(スペリオル)とはなんだったのだろうか。それともそれは稀代の詐欺師が自分の頭の中で作り上げた妄想なのか…。いずれにせよ根拠なき投薬や外科治療に晒され、一体何人もの人々の命が奪われたのか…記者としては事実から逃げる事は許されない、というのは真琴の持論であり、自負だったが出来る事なら知りたくはない、という気持ちが強くなる。

 

「八千の子ども達もまた例外ではありませんでした。私の知る子ども達も少なくとも全員幼い頃に何かしらの投薬の対象になってます。中にはそれの後遺症に苦しめられている子もいますし…その子によれば本当は兄妹はもっといた、でも皆生き残れなかったとも…」

 

 流石に絶句する話だった。マスコミは事件の後も彼の子ども達を執拗に追い続けた。日本史上最悪のテロリストの血を継ぐ子息らはどんな子どもなのか、彼らは最も教団の教義を叩き込まれたのではないか、いずれ父の後を継ぎ、この国の再び恐怖に叩き落とそうとするのではないか――!

 国民全員がそれを知る権利があると手前勝手に暴走を始めたメディアと熱に浮かされるままそれを支持した大衆。逮捕劇が終わり、事件がひと段落を迎えれば、次の贄はどこだと言わんばかりにいつしか教団にも匹敵する狂気を内包した報道と弁護団体との攻防が繰り広げられる事になるのだが、確かに正直当時の真琴も「八千の子ども達が一緒の学校に通う事になった」等と言われても承服は出来なかっただろう。それだけ当時の国民にとってこの事件はありふれた日常から遠く離れた光景だったのだ。そんな風に当時としてはありふれた国民の一部でしかなく、今の今まで単なる知識としてしか向き合ってこなかった身が言えることではないかも知れないが、八千の子ども達もまた被害者だったのだろう、と真琴はそう思った。

 

「さて…この少年は白零會の信徒とされる両親の元で育てられていた…と。確かにそのニュースは覚えがありますよ…この少年がその子どもなのかまでは測りかねますがね…。確かにあの事件の後教団は三つの団体に分派しました、今では自分達こそが正当な後継者だと言って争い合ってますよ全く…」

 

 事件から半年後の7月19日、未だ半分の幹部がしぶとく逃げ回る中、改めて教団には解散命令が下された。残存した平信者達による即時抗告も棄却され、白零會という宗教法人は法令上は消滅した。とは言え信仰の自由を盾に個人の心情までをも制限することは出来なず、水面下で活動を続けていた教団の残滓は4年後比較的軽い量刑で済んでいた元幹部を迎えて形式的には復活を果たした。その後はお定まりの如く教義の解釈と教団の行為に対する是非を巡って複数の団体に分裂し、今日に至るというのが地下鉄テロ事件という前代未聞の騒動を経て、今日の残る狂気の残滓だ。

 

「但しこの三団体はいずれも公安警察の監視下に置かれ、何か違法な活動を行っていると判断されれば問答無用で強制捜査の対象になり兼ねない。確かに未だに私の元には後継団体に関わる依頼が寄せられますが、それにしても以前のような洗脳や殺人と言った強烈なものは飛び込んできません。ましてや《スカルマン》絡みなんて言ったらとっくに公安が調べに回ってるでしょう…『絶対にあり得ません』と否定できない所が闇の深い所ですけどね…」

 

 やはりそんな所か。僅かに肩を揺らして苦笑した羽住に釣られて真琴も含み笑いを返す。去年新宿事変が起こった時、真っ先に人々が思い浮かべたのが白零會の存在だった筈だ。実際《スカルマン》がその姿を現すまでは警察もその線で捜査を進めている、という旨の噂は自分達マスコミサイドの人間達にも伝わっていた。

 

 教団の本部を家探しして分かった事はその異常な生活実態だけではなく、倉庫に保管されていた大量の武器弾薬、毒ガスや生物兵器の精製設備と言ったまるで戦争を始めるのではないかとさえ思わせた異様なほどの「軍事力」であった。同時にただのいち宗教組織がこれほどの装備を備えている事自体、どこかバカげた話で警察にとっても市井の人々にとっても晴天の霹靂という他なかった。それを多くの人が記憶に留めていたのだろう、過激派も赤軍派も認識の湧かない過去のものとなりつつあった現代において、あれほどの残虐で凄惨な行いをしようとするのは白零會の残党くらいしかいない、と感じるのも無理からぬ話だった。

 

 だがそれも六本木の事件以降は完全ではないにせよ、以前ほど話題にはされなくなっていった。新たに第三国によるテロ行為の可能性が説として浮上してきた事もあったが、警察の見解でも組織は依然厳重な監視に置かれている上に人員・技術共に最盛期の10パーセントにも満たないと言われる現在の教団にはそれほどの影響力はないと判断されたのだ。

 

「後継団体に最盛期程の影響力がないのは国民が教団の実態を知ってしまったから、というのもあると思いますが…それ以上に八千餐誡というある種の異様なカリスマを持った存在を欠いてしまった事だと思っています。所詮は一教祖の独裁状態ですからね、頭目さえいなくなってしまえば、後に残るのは烏合の衆だけという訳だ。そして教団の奴らも薄々それに気付き始めている…そこが気になるんですよ…」

 

 実は数年前から羽住と接点のある八千の娘――三女に当たるらしい――からこのところ不審な人影に見張られているような気配がすると訴えがあったのだ。三女は反教団の筆頭だった羽住と関りを持つだけあって白零會ともその後継団体とも敵対する立場にある。彼女は教団の嫌がらせだと即断して、一緒に生活する弟妹達にも注意するよう呼び掛けたのだが、そんな事を言ってる間に一人が連れ攫われそうになる、という事件も起きた。幸い大事には至らずに済んだようだが、教団は明らかに自分達の身柄を狙っているとそう思わせるには十分であった。

 

「私はね、思うんですよ。ひょっとしたら教団は八千の後継を欲しがってるんじゃないかって。奴の血を引く子らをお飾りに据えてその上で教団の権威付けに利用しようなんて考えるか赤の他人の子をカリスマの後継に育て上げようとするか…。いずれにせよ奴らならやりかねない…と思っています。」

「…!じゃあこの少年も…?」

「さぁ…そこまではまだ何とも…」

 

 羽住が歯切れ悪く答えた。少なからずその声色には戸惑いが滲んでいる。

 真琴は訳が分からなくなってきた。《スカルマン》関連の事件現場に出没する少女の話を聞いていたら白零會の後継の元で育てられた疑惑のある少年の身元に話が及び、それを追っていくと今度は子どもの拉致事件の疑惑か…。ますます混迷していく事柄の渦にこっちが呑まれそうになる。おまけにここに「あかつき村事件」と「謎の怪物」の情報まで加えていったら最早事件の輪郭すら曖昧になっていく気がした。

 

「《スカルマン》の事件を追っていくといつもこうなのよ…!色々情報を集めていっても最後に出る答えは必ず『何も分からない』…!」

 

 考えてみれば日本の捜査機関が束になっても未だに真相に辿り着けないのだ。いち記者が頭を絞ったって出ない物は出ないというのは致し方ない事なのかも知れないが、それにしてもこうも不可解な事ばかり続いた挙句に日本事件史最大の闇とも言える壁にぶち当たってその繋がりさえ見えないまま、今のところはそこでお終いだ。何か取っ掛かりが掴めればと思ってここに来た筈なのに、結局いつもと同じ結論に辿り着くという事が無性に腹正しい。失礼と思いつつも気付けば真琴は憤然と荒げた声を吐き出していた。

 

 そんな真琴に羽住は苦笑して「私もですよ」と投げかけた。真琴は顔を上げる。

 

「白零會の件もそうです。最初の依頼からかれこれ20年以上になりますが未だにあの件は分からない事ばっかりです。何故ただの精神科医でしかなかった佐崎があんな恐ろしい男に変貌してしまったのか…何故誰も教団の暴走を止められなかったのか…何故今でも信じ続ける者がいるのか…。類推は出来ても本当の所は結局五里霧中。もしかしたらそういう根柢の所でこの二つの事件は似てるのかも知れないですね…」

 

 そんなものだろうか、と真琴は思う。確かに両者を繋ぐ線が非情に曖昧模糊な物である事を考えれば畢竟そんなものなのだろうな、という気がしてくるが真琴はそれだけではないような気がした。底が見えない暗闇のような先行きであってもどこかには辿り着く、それがなんなのかは分からないがこれは自分の記者魂を賭けるべき事だとそう思った。

 

 その後いくつか話を聞いて真琴は羽住の事務所を後にした。流石にかつての教団関係者への聞き込みなんかは許可してくれなかったが、それについてはウチの方でもコネクションがあるかも知れない。不明瞭でか細い糸かも知れないがまずはその線を当たってみようと思った。

 最後になって羽住が立木の描いた人相書きのコピーを取って良いか?と聞いてきた。なんでも気になる事があるので自分の方でも当たってみたいのだという。

 真琴はそれを了承すると事務所を出て帰路の道すがらに会社の方に電話を掛けてみようと思い、今までバッグの奥にしまっていた携帯を取り出した。取り出してみると携帯には会社どころか貴志田や静梨発の不在着信が何件も入っていた事に気付き、真琴は怪訝な顔をしながらその番号に電話を掛け直した。

 

 ほんの数時間前まで自分がいた中野区の病院で絵空事のような大事件が起き、多くの死傷者を出した事、成澤哲也とも連絡が付かない事を知ったのはそこから数分後の事だった。

 




相変わらず無駄に長い…!とはいえ今回の話、今後の展開に大きく関わってくるので内容が細かくてウンザリするとは思いますが、記憶に留めて頂けると幸いです。
この章はこれまで曖昧にしか語ってこなかったワードが一気に判明する段になります(たぶん…)、色々判明するまで気長にお読みください。

それではまた次回。


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CHAPTER-2:『REvengerⅡ』‐③

「特別対策捜査本部?…ですか…?」

 

 悪夢のような出来事に東京中の警察関係者が振り回され、そのまま狂乱の渦に晒されて二日ばかり。仮眠室でひとまずの休憩を取っていた所に叩き起こされるかの如く、呼び出されて告げられた言葉がそれだった。とはいえ何を今更、というのが成澤拓務の率直な感想で、その気配を敏感に察したのか「そんな顔すんなよ…」と捜査一課長は渋い顔をこちらに向けた。

 六本木の事件を以て正式に合同捜査本部まで立ち上げたのは良いが、その後事件は関東を中心にした各県に広がり、早くも広域指定事件となった《スカルマン》絡みの犯罪。既存の捜査本部のあり方では対応できないとして以前から立ち上げが検討されていたらしいとは聞くが。

 

「なにせ事件が広域に渡ったモンでな…。ウチ(本庁)のみならず神奈川、千葉、埼玉…とりあえず関東全域。そこまで行くと立ちはだかるはセクトの壁…、挙句に()()もきな臭い動きをしてるとなりゃあ、な。船頭多くして船山に登るで漸く話が付いたって訳だ…。昨日の今日ってところがもう呆れてモノも言えんが…」

 

 そうした上のしがらみの多さというか不甲斐なさというか…そうした世の汚濁もこうして苦笑一つで捌けてしまうのがこの人の良い所だとは思うのだが、拓務としては溜息の一つでもついてやりたい気分だった。

 

 1年前の新宿事変からこっち、警察の対応はずっと後手後手だった。いや最前線に位置する身からすればそれは違うと言いたくもなるが、それは内からの目であって少なくとも外からはそのような目で見られている事は確かだ。神出鬼没を地で行く髑髏男に気付けば関東中の警察官が振り回され、未だに尻尾どころかあの悪趣味なレザースーツの切れ端さえ掴めない。終いには彼は現代の義賊であり、世直しなのだという怪しげな情報がネット上に飛び交い、それに追従したフォロワーが出てくれば警察はそれだけで手一杯になる。連日のバッシングと模倣犯の浅はかな犯行に自棄になった捜査員から「なんでこんな連中のために働かなきゃならねえんだ!」と不満が飛び出ても拓務もすぐにはそれを否定できなかった。

 失望が生じたのは組織に対してもそうだ。事件が広域に広がっていくたびに捜査の手は遅くなっていき、捜査情報は錯綜する。こんな時こそ全てが一丸となって事に当たるべきだろうにセクト主義という因習が情報を出し渋らせ、各部署の足並みを乱れさせる。それらは些細な瑕疵でも関東全域に広がっていけば最早無視できないレベルになる。だからと言ってこの初動の遅さは如何ともしがたい。ここまで行くと何か上の方に探られたら痛い胎でもあるのではないか、と思ったがそれを口に出す程迂闊ではないつもりだった。

 

「まあそんな所だ。ウチからはお前さんと数名出す事になった。なんか凄いらしいぞ?科捜研や大学、霞が関からの出向も含めて相当な顔ぶれだって話だ、思う所あるだろうが名誉の抜擢だと思って頼むわ…」

 

 それこそ烏合の衆になり兼ねない危険を孕んでいると思うのだが…と世の不実を実感した後、身支度やら職務の引継ぎ等慌ただしい手続きを経て、拓務は同じく特対にお呼びがかかった同僚数名と共に隣の警察庁、正しくはそこの職員が入居する警察庁総合庁舎に向かった。空中廊下でこちらの本庁と連結しており、距離にして200メートルもないというのにまるで魔窟に向かう御一行の如き隊列の一部となりながら、酷く他人行儀な気がする建物に脚を踏み入れた。

 

 警視庁と警察庁。

 言葉にすると一文字違いだが、警視庁はあくまで東京都を管轄とする行政機関、対して警察庁は都道府県警を管理統括する省庁であり、要は上位に位置する組織だ。ドラマなんかではよく現場の刑事達とそこに口を挟んでくるキャリア組、という構図でその対立が描かれる事がよくあるが、別にあそこまで仲が悪いわけではない。個々人の折り合いを除けば、それこそドラマの如く日常茶飯事でいがみ合ってる訳ではないのだが…。

 ではこの気の重さは何かというと偏に捜査員全体に蔓延している一連の事件に対するきな臭さ、それを知りながら存ぜぬと振る舞っているように見える上――省庁どころかもっと上の奴らだ――への不信感そのものだ。最初の頃こそ《スカルマン》を名乗るこの稀代のテロリストをとっ捕まえて、司法に突き出してやると息巻いていた男達だったが、この1年悉く成果が出ない焦りに加えて、捜査を進めても正体不明の怪物の仕業だの白零會だのと真偽不明の情報が飛び出し、かと思えばセクト主義や「組織の圧力」という名の壁に阻まれてそれ以上の接近を禁じられる。事件の陰で蠢いていると思しき()()の存在もきな臭さを助長させた。

 

 ハム――公安警察はパブリックセーフティー、即ち公共の護持を主目的とする警察機関だ。その実態は「思想」に関する犯罪を扱い、組織としては「諜報」の趣が強く、その前身は現代においては悪名高い特高警察にまで遡るとされる。

 警視庁と警察庁の仲は悪いわけではない、と拓務は思うがこと公安警察と刑事部は折り合いが悪い、いっそ険悪と言っても良いと思う。自分達刑事はあくまで事後の対処が基本でその活動の本質は市民を犯罪者の手から守るものと自負し、誇りとしている。対して公安が守る対象としているものは何を置いてもまずは国家であるという事が大前提だ。

 確かにマクロな視点で見れば市民の生活の安寧はまず国家という基盤ありきのものであり、そこを否定するつもりはない。実際白零會の地下鉄テロ事件以降、大規模なテロ事案に見舞われず、今でも後継団体が教祖の奪還などの大それた行動に移らず、息を潜めているのは公安の活動が功を奏しているからだ。そこを否定するつもりはない。

 だがそれでも本質的な所で俺達は相容れない、それが拓務を含め刑事部に所属する者達の総意だろう。公安の主目的が政府にとって有害と判断された組織・思想・主義者の燻りだしであるとしても、言論の自由が保障されている近代国家において強権的な介入は許されない。そのためには盗聴やピッキング、作業玉と呼ばれるスパイの運営など非合法な活動も辞さず、最終的な組織の摘発のためなら些事と判断した事案は敢えて泳がせ、しかもその活動は徹底的に部外秘と来ている。目の前で起きる犯罪は絶対に見逃さない事を金科玉条とする刑事部からすればその態度は酷く冷徹なものに映るのだ。

 

 《スカルマン》の事件においてもハムの動きは早い段階からあったと見ているし、それ自体は至極当然だろうと思う。相手は主義主張は不明でも明らかに市民生活を脅かすテロリストなのだ。だがテロリストである以上その行動が個人によって実行されているなどというバカな話はなく、その背後には必ずあれだけの装備や行動を支える組織が存在している筈なのだ。天下の公安警察がそれらの動向を把握できなかった、等という事があるだろうか。

 

 先輩の刑事に言わせれば公安の影が見え隠れする事そのものが問題なのだという。もし奴らの秘密主義がなければその存在を事前に掴むことが出来たかも知れないし、今だって背後の組織の存在を掴むために敢えてあの酔狂な髑髏男を泳がせている可能性だってある。時々見え隠れする奇怪な目撃証言などは刑事部の捜査を撹乱するためのダミーなのではないか…と。些か考えすぎな気がしないでもないが、この1年できな臭い空気を死ぬほど五臓六腑に沁み込ませた身からすれば素直に否定できない。

 

 この特対とやらだって刑事部の情報を効率よく収集するための根っこに過ぎないのではないか…?一行の気が重い理由はそれが理由だ。

 

 せめてそれを相手には絶対悟られまいと気を引き締めて向かった先で拓務達は「S事案特別対策本部」の張り紙が張られた大会議室に招かれた。案の定というか閑散とした室内にまだ封を開けられて久しいと思しきパソコンやファイル類が簡素なロングデスクの上に無造作に乗せられた様は比喩でなく、寒々としていた。

 なんとか取り繕った能面を引き攣らせている面々に「やぁ、早かったね?」とともすれば呑気とも取れる声が浴びせられ、顔を上げればこの場で今最も遭遇したくない筆頭を目の当たりにすれば誇張でなく、げんなりと溜息の一つでも吐きたくなる心境に駆られたのは拓務だけではないらしい。

 

 文官と思しき女性の隣、まだ椅子も置かれてないデスクの上に悠然と腰かけ、手を振っている五十絡みの男は照原警視正。警察庁の警備局においても花形である警備企画課の長であり、一介の兵隊からすれば文字通りの雲上人が気安げに微笑んでいる光景に思考が硬直したと言えば嘘はないが、問題はそこだけではない。各都道府県の警備部を統括する警備局においての長とは文字通り公安部の運用であり、そこの筆頭は即ちその頭目に等しい。それがここでこうして泰然と待ち構えているという事はやはり公安の小間使いをやれ、と宣告されたのと同義であり、早速暗澹たる気分が一同に広がっていくのが感じられた。

 

「まぁまぁそう硬くならないで。生憎諸手を挙げてとは行かないけど、我々は君達の参加を心から歓迎しよう、ようこそ特対へ!」

 

 両手を大仰に広げて、胸を張ってみせる照原。幹部とは思えないその軽いノリにますます室内の空気が冷え切っていくのを自覚したのか、「あちゃ滑ったか…」等と頭をかいて改めて拓務達の方に向き直る。

 

「改めて。正式な挨拶は後になるが警備局の照原清一郎警視正です。とは言っても直接私が指揮を執る訳ではありませんが…。事件の早期解決のため、諸君らの奮闘に期待します」

 

 人好きのする笑みを引っ込め、即座にキャリアらしい怜悧な能面を引き出した照原の敬礼に拓務達は内心背筋が冷えるような想いを抱きながら即座に答礼していた。その様子に満足げな笑みを浮かべた照原は傍らに控えていた女性に意味ありげな顔を浮かべた。その態度に拓務はおや、と不審気な感触を抱いた。てっきり内閣府辺りの職員と言った雰囲気で控えめに傍に立っていた彼女の存在感が不意に重みを増したように感じたからだ。この閑散とした小会議室の得体の知れない空気、この場を支配するのは照原ではなく、自分だとばかりに拓務達捜査員に向き直った女性は顔に掛けたサングラスを外した。

 三十代前後――咄嗟にそう類推したのは尻の青い若者にはない場慣れ感がそう判断させたからだ。全体的には整った顔立ちの美人だが、どことなくバタ臭さの浮かんだ相貌が造り物めいた違和感を与える。そんな拓務の気を知ってか知らずか、ルージュを引いた唇を弓なりに曲げてみせた女は値踏みするように捜査員全体を見渡した。その眼光の色に拓務は再び背筋が凍るような錯覚を覚えた。

 笑みを浮かべた口元に反してその瞳は全く笑っていない。自らを巨大な装置の歯車に組み込む事も受け入れ、他人さえもその一部としてしか見ようとしない酷薄な人形の瞳だ。

 

「失礼。深町マリアです。特別顧問として特対に参加させて頂きます。よろしくお願いします」

 

 所属も立場も告げずに女はそう告げ、照原のものと同質の敬礼を拓務達に返した。一片の硬さもなく、肘の高さから掌の向きまで理想的な形に整えたその所作はマネキンのような現実味の無さを想起させた。

 

「此度は急にお呼び立てして申し訳ありません。この国の捜査機関は優秀だとお聞きしています、その手腕を見込んでこの三名の人物を早急に探して欲しい、と照原警視正に依頼に参った次第です」

 

 その手腕を以てしてもドクロ面のコスプレテロリスト一人捕まえられない有様だ。優秀、という一文にそこはかとない嫌味臭さを嗅ぎ取った一同が一様に顔を顰めるが、そんな事お構いなしに深町マリアは三枚の紙片を人数分ズイと突き立ててきた。

 この国の、という言葉により一層きな臭さが広がっていくのを知覚しながら、とりあえず拓務は全員を代表して紙片を受け取った。どうやら特定の人物の個人情報らしい。いくつかのパーソナルデータと共に若干不鮮明な顔写真が添えられている。人数は合計3人、まだ若く10代後半から20代で通用しそうな男が1人、女が2人という内訳だ。気になるのはその情報の所々が意図的に歯抜けにしたように虫食いになっている所だが。

 

「コイツ等は…?」

 

 それに奇妙なものを感じたのは拓務だけではない。傍らで資料を覗き込んでいた同僚が詰問気味に口を開いた。マリアは挑発的に妖艶な笑みを浮かべた。

 

「確かな筋からの情報です。今回の件の重要参考人…と受け取って下さって結構。山城幹斗、山城柚月、九條梗華。この三名の足取りを早急に知りたいのです」

 

 

・・・・・・・・・

 

 酷く体が痛いな、それに寒い。

 

 冷たく硬い感触を後頭部に受けながら健輔はそんな風に思った。酩酊とは違う感覚に揺蕩いながら記憶は子どもの頃に遡る。小学1年生の時、クラスでインフルエンザの集団感染があって自分も感染した。とにかく頭以外にも腕の関節や肩や腰がズキズキ痛んだし、タミフルが見せた悪夢のせいで眠ろうにも眠れないというひたすら辛い体験だったが、今の気分がやたらとそれに似てる。でも一方辛かったのはその一晩だけであの時は珍しく母さんが仕事にも出ずにつきっきりで看病してくれて、意外と風邪ひくのも悪いもんじゃないのかも、と思ったのもまた事実だ。

 

 今はどうだろう。やっぱ風邪は良いもんじゃないかも知れない。有給なんて上等なものは日雇いの身では到底望めないから、休めばそれだけ給料に響くだけ。する事もなく、立ち会ってくれるものもなく、飯場の煎餅布団にくるまっているのはただ虚しくて寂しいだけだ。

 

 それにしたって寝心地が悪い。いくら飯場の布団にそんなモン期待するだけ無駄と言ったってこれじゃ治る風も治りはしない。いやこんな経験は初めてだし、もしかして布団じゃなくて自分の体にいよいよガタが来たのではないか、というネガティブな想像が頭を過った。冗談じゃない、対して頭も良くなく、資格もコネもなんもないガキが今更肉体労働以外で稼げるもんか、これを乗り切らないと後はホームレス一直線だぞ、と無理矢理にでも己を奮い立たせるべく、せめて薄い掛布団を引き寄せようと――した所で虚しく手が空を切った。その瞬間明らかに布団とは異なる冷たく硬質な感触が全体に感じられ、半分眠ったままだった意識が一気に覚醒したのを感じた。

 

 そうだおかしい、俺は職場じゃなくて病院にいたんだ、そこで同級生の哲也と再会して、気が付いたらあの不気味なバケモノが――!

 

 バケモノ――!。

 

 その言葉を契機に次々と異形のモノたちが頭を過っていく。半分蜘蛛と癒着した不気味な姿、ゴロウさんの体を乗っ取るように生まれた半分棘だらけのウニみたいなバケモノ、高熱に苦しむ子どもが突如変容した巨大な蟒蛇(うわばみ)、そして――殺戮の限りを尽くすバッタのような姿をした怪人…!

 それらが一斉に自分の肉を食らおうと襲い掛かってきた。泥のようになった体を無理にでも起き上がらせて健輔は逃走したが、蛇の大口から次々とはい出てきた無数の子蛇にあっという間に周りを取り囲まれ、逃げ場を失くす。恐怖に竦んだ脚を次々と蛇のバケモノが舐めるように這いあがってくる。もうどこにも逃げ場ないぞ、そう嗤うバッタ男の顔が目前に浮かび上がり、健輔はたまらず絶叫した。

 

 

 現実に引き戻された神経が最初に知覚したのは部屋中に木霊した自分の声、次に力の抜けた肉体の重みとそれを受け止める糊の効いたシーツの感触だった。じっとりと体に纏わりつく汗の臭いと冷たさに急速に魂が肉体に帰還するのを自覚した健輔は薄闇の中に浮かぶ天井を呆然と見上げた。

 知らない部屋だ。

 ある程度意識がハッキリすれば最初に浮かんできたのはそんな感想で、そんな状況に我知らず戸惑いを抱いた健輔はゆっくりと体を起こした。まるで何日も眠っていたかのように手足が怠く、頭が自分を中心にして円を描いているかのような錯覚に捕らわれたがそれも掌に擦れたシーツの手触りを実感するまでだった。

 さらりとした新品同様の質感は間違いなく、飯場にある自室のものではない。先程まで自分の首を受け止めていた枕も体を覆っていた掛布団も詳しい事は分からないが、数段上等なもののようだった。俺はなんでこんな所にいるんだ、なんだか場違いなような感慨に捕らわれた健輔は布団を跳ね除けてベッドの外に脚を踏み出していた。

 

 どうやら本格的に夜が明けだす前の刻限のようだ、と独り言ちながら部屋をザッと見渡す。簡素だがそれなりに凝った作りのベッドに床を覆う柔らかなカーペットの感触、シミひとつない壁のクロスとやはり相応の調度品だ。間違っても俺の仕事場とは無縁な世界のものには違いない。

 

 健輔は憤然と息を吐いた。いきなり起きたら自分とは縁も所縁もない世界の一部になっているとは冗談が過ぎる。まさかドッキリカメラの類ではないだろうなとバカげた想像を仕掛けた矢先、ふと壁に掛かった巨大な姿見が目に留まり、僅かな違和感に首を傾げながら鏡に近寄る。額にはこれまた精緻な彫刻が施されたその鏡ももしかしなくともかなり立派なものだと分かるが、こういう時決まってこの手の備品はマジックミラーになっていて向こうの部屋と繋がっていたりするものだ。冗談半分でもまさか本当にドッキリではないよな、とそれを覗き込もうとした直後いよいよ先程から感じていた違和感が本格的に首を擡げてきた。

 鏡に映ったそれは24年の人生でイヤという程見てきた己の姿から大きく変わっていたからだ。

 いや、この言い方は少々大袈裟か。正しくは顔は特に変わっていない。短く刈り上げた髪も細長い面も確かに自分のものだ。大きく変容していたのは即ち首から下だった。

 

 過剰な労働と不健康な食生活の影響で肋骨が浮き出る程、痩せさらばえていたその体はまるでスポーツ選手のような精悍で屈強なものに変わっていた。特に肩筋や二の腕、腹筋にかけての発達は著しく、一瞬体だけ別の人物のものに挿げ替えたのではないか、と思う程の変わりようだ。だが試しに体を動かしてみれば僅かな感触のズレこそあれど間違いなく自分の体だと分かるほど馴染むとあってはその可能性はないように思えた。

 

「なにがどうなってるんだよ…」

 

 頭が混乱する。体を取り換えられるのは確かにおかしいが、(体感だが)一晩でここまで肉体が変貌するのもおかしいの度合いにおいては然程の違いはない筈だ。それこそ映画の世界だ、例えば超人兵士になる血清を投与しただとか放射性の蜘蛛に噛まれただとか――

 

 ――蜘蛛…?噛まれた…?

 

 その言葉に反応するように急に記憶の蓋が開いた。蜘蛛と人を融合させたような姿の異形のバケモノ、そいつから逃れた先で目覚めた病院で再び現れたウニやコブラのような姿をした新たなバケモノ。確か自分はそいつに喉笛を嚙み千切られた筈ではなかったか…!

 その先の記憶は酷く不鮮明だが、あの瞬間の痛みと傍らにいた哲也の悲痛な絶叫は確かに身体に焼き付いている、夢なんかでは絶対にない…!健輔はあのバケモノに食いつかれた辺りに手を当ててみた。だがそこには傷の姿どころか感触さえなかった。薄皮が張って傷を塞いだとかそんなレベルすらない、まるでそんなモノ初めからなかったかのように綺麗サッパリと…!

 明らかに自分の体に常軌を逸した異変が起きている。いよいよ混乱状態に陥った頭ではそれだけしか分からず、健輔は矢も楯もたまらず絶叫したい衝動に駆られたが、

 

「お目覚めかい、センパイ?」

 

 刹那水を差すようにその声が思わず膝をついた体に降りかかり、浮遊しかけた意識が瞬時に引き戻された健輔はパニックの一歩手前で踏み止まる事が出来た。知っている声だな…とそう実感した時には声のした方、部屋の片隅のドアに視線が向いていた。それに違いはなく壁に寄りかかるような態勢でこちらを見つめている顔は間違いなく健輔のよく知っている人物のそれだった。

 

「――!…山下…?」

 

 山下幹夫。目の上あたりまで伸びたやや長めの髪、まだ少年の面影を残した端正な顔立ちに口元のほくろ。半年ほど前に健輔の職場に現れたどこか謎の多い同僚に相違なかった。だが今現在彼が纏っている“気”は職場にいた頃とは全く異なる物になっていた。顔形から立ち姿に至るまで全く同じ筈なのに、どこか斜に構えたような口調や挑発的な色を浮かべた目の色が健輔の知る山下幹夫という人間と奇妙に一致しない。

 そんなこちらの戸惑いを見透かしたのか、山下はさも可笑しそうに肩をくつくつと揺らした。

 

「ワリイワリイ…山下幹夫ってのは偽名さ…。本当の名は山城幹斗っていうんだ…」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()か…。妙な語感に納得させられたかと思ったら、次の瞬間、そういう事じゃない、という反感がムラリ…とこみ上げてきた。何故俺はここにいるんだ、あの怪物の事を知っているのか、そして一体俺に何が起きたんだ…!幾多もの疑問符が浮かび上がっては口をついて出そうになり、叶わず喉の奥に再び吸い込まれていった。

 

「疑問だらけ…って顔だな…。まぁ無理もないか…実際俺自身もセンパイがこんな事になるなんて当初の予定にはなかったわけで――」

 

 そんな健輔の反応をよく分かるよ、という感じの態度で受け流しながら山下幹夫改め山城幹斗は憐憫の入り混じった視線をこちらに注いだ。図らずも状況に巻き込まれたらしいこちらの身を慮っての事だと理解は出来ても、その態度は何だが偉く高慢なように感じられ、頭の芯が沸き立つのを自覚した健輔は「――なんなんだよ…!」とその声を遮った。

 こちらの苛立ち感じ取ったのか幹斗は不思議そうに言葉を引っ込め、こちらに視線を注いだ。

 

「一体なんだってんだよ…人がバケモノになったり、変な奴らが暴れ回ったり…!こないだからおかしな事ばっかりだ…!お前は何か知ってるのか、お前は一体何も――」

「《スカルマン》だよ」

 

 一息にまくしたてた所でその声と言葉が硬質な響きを以て、脳髄に響き渡った。頭全体を鋼鉄のバットでぶん殴られたに匹敵する衝撃が揺さぶり、健輔は「なんだって…?」と呻き声を漏らした。

 

「《スカルマン》だよ。それが俺の正体さ…」

 

 思う所があるのか、苦み走ったように一瞬口元を歪めたが、思いの他淡々とそう吐き捨てた。

 

「驚いたか、この国を騒がす稀代のテロリスト、死の国から蘇った骸骨男、それが俺だよ…。」

「ナニ言ってんだお前…?」

 

 健輔はすぐにその言葉を信じられずに呆然と声を漏らした。息が荒れる。喉が酷く乾く。耳奥がワンワンと鳴っている。全ては目の前に立っている、何はともあれ自分達の仲間だと思っていた男のその言葉が信じられなかったからだ。

 

 だが…思えば――いくつか思い当たるフシはあった。彼がウチの現場に入ってきたのは《スカルマン》による爆発騒ぎからすぐの事だったし、凡そ飯場に来るようなタイプには見えなかった事もそうだが、それでもウチのような現場は脛に疵持ちが多い事情もあっていちいち労務者の人となりなど調べないし、その素性をあれこれ探ろうとする者もいない。

 探ろうとする者と言えば――。

 

「じゃあ…“ハートマン軍曹”は…?」

 

 そう、“ハートマン軍曹”だ。奴は幹斗の周りをなにやらコソコソ嗅ぎまわっていた。健輔がその事について問い質すと奴は「ひょっとしたら俺はスゲェ情報を掴んだかも知れないんだ…。」そう言って下卑た嗤いを浮かべて――その次の日に死んだ。

 もし奴が掴んでいた「スゲェ情報」というのが山下幹夫が本当の名前ではなく、この国を騒がすお尋ね者の正体だと気付いたからではないのか…。現場監督という立場上、労働者の勤怠状況を管理している立場にある奴なら《スカルマン》の出没とその日の幹斗の動きを照らし合わせる事くらい出来ただろう。そして遂にその確証を掴んでしまった結果、口封じのために事故に見せかけて殺された…?もし幹斗が《スカルマン》なのだとしたら、という前提で考えれば全てに辻褄が合う――気がする。

 

「ハートマン軍曹?」

 

 虚を突かれたような表情をする幹斗だが次の瞬間にはその名に思い至ったのか、栓から空気が抜けたような乾いた笑いを溢した。「だから寄せって、リー・アーメイってガラかよ…」

 

 可笑しく思ってるわけでもなく、かと言って嘲ってる風にも見えない、あまりに無機的な笑いだった。“ハートマン軍曹”の死を伝えた時の彼の表情、事務的に受け流しながら、ほんの僅かな間確かに浮かび上がった酷薄な笑み、それと全く同じだった。

 それを見た瞬間、あの時抱いた疑念――お前がアイツを殺したのか――が確信に変わった。自分でも驚くほどの激情に衝き動かされて、健輔は泰然と壁に身を預ける幹斗に掴みかかった。簡素なシャツの胸倉を掴み、壁に叩きつけると意識した以上の力が出た気がした。シミひとつない白塗りの壁が軋み、部屋全体に衝撃が伝道する。自分の意思で体の制御が効かない――そんな感覚に戸惑いを覚えたが、それも眼前の端正な相貌がどこか面白がるように嘲りの表情を浮かべている事に気付くまでだった。「自業自得さ」幹斗が嘯いた。

 

「コソコソ人の周りを嗅ぎまわって粗探し…仕事も碌にせずにさ…大人しく黙ってれば死なずに済んだんだ」

「…やっぱり…!」

 

 “ハートマン軍曹”は幹斗が《スカルマン》である事に気付いたのだ。だから口封じのために殺された。なんだよそれ…やっぱ保身のためなんじゃないか…!

 

「なんだよその目は?あの小者に散々甚振られてたじゃないか、何を怒る必要があるんだよ?あんな奴死んで当前なんだよ…」

「――本気で言ってるのか…?」

 

 同じ人間の口から出た言葉とは思えなかった。人一人の死すらいっそ淡々と受け止めて、状況の一部と受け流す硬質さに健輔は戦慄した。

 確かに“ハートマン軍曹”は良い上司ではなかった。いやいっそ唾棄する程嫌っていたし、心の中で呪い殺した事はそれこそ数えきれない程だろう。だが奴だって人間の筈だ、家に帰れば奥さんや子どもがいるかも知れない。あんな奴だってその死を悼んで、涙を流してくれる人がいるかも知れない。それが無下に失われた事実と健輔の個人的な厭悪とは別の問題の筈だ。

 

「アイツにだって…帰る場所や大切な人がいたかも知れないだろ…!それを奪う権利なんて誰にもないんだよ…!」

 

 だってそう思わなければあまりに虚しすぎる。俺達だってただの野良犬だ、いつか路傍で誰にも看取られずに死んでいくかも知れない根無し草だ。愛する者にも巡り合えずに己が生きた足跡を誰にも知られず死んでいくだけの人生だってんなら俺達だってこの世界の塵芥だ、でもその塵芥だって泣いたり、笑ったりするしプライドだってある。人の命を奪ってせせら嗤うように下衆に堕ちるつもりは毛頭ない。

 不意に幹斗の顔が哀し気な笑みを形作った。先程の酷薄な表情が全て虚飾に過ぎなかったかのように、飯場で時折人を気遣う素振りを見せた山下幹夫としての顔がそこに重なり、健輔は面食らったが次の瞬間、

 

「…お前には分からないさ」

 

 酷く素っ気ない言葉と共に後方に突き飛ばされた。同時に今度は自分が胸倉を掴んで引き寄せられた。怒気と悲憤が入り混じった整った顔が視界一杯に広がる。

 

「この世界は個人の権利や価値なんて斟酌してくれやしない。ある日突然に何もかも奪われて理不尽に虐げられるのが世界のルールだ…。そうやって奪われた命なんかいくらでもある、所詮アイツも爆発で吹っ飛んだ他の奴らもその一部さ…!」

 

 憤怒の中にどこか諦観の色を帯びたその声が耳朶を打ち、健輔は目の前の男の正体に確信を抱いた。正体は分からないが激しい憎悪を燃やして、それがルールだって嘯いて、こんなバカげたテロを引き起こした。その癖それで奪われる人の命の重みを一端に理解していながら、仮面で覆い隠して、冷めたフリをしているだけの中途半端な狡い奴だ。

 

「だからって…自分が理不尽になって良いって法はないんだ…!」

 

 義憤に駆られたわけではないし、今更正義漢ぶるつもりもさらさらない。コイツが端っから人の命を奪う事を何とも思わないテロリストであったならいくらでも諦めがつく。だが、幹斗は――目の前の男は間違いなく自分達の仲間だった。最初こそ群れからはぐれた変わり者だったが、その実、日射病で倒れた老人夫の事を思いやったり、彼のために現場監督に立ち向かうだけの気骨を見せたりもする。気紛れで不愛想で周囲と壁を造りがちなのは人と接する事に酷く不器用なだけで、そういう意味では俺達と何も変わらない人間だ。死の国から来た亡霊を気取ろうってんなら俺の手でその仮面を砕いてやる――!

 峻烈な熱情に駆られて健輔は床を蹴った。何か体の内奥から強い“力”が目覚めだし、全身に漲っていくのを感じながら眼前の幹斗に向けて拳を放った。

 

 だがその拳は彼に届く前にあっさりと受け止められた。まるでこちらの動きを全て読んだかのように的確にこちらの打撃を受け止めた幹斗の腕、それが目に入った瞬間、健輔は驚愕に目を開いた。

 眼前に掲げられたその腕は人のモノではなかった。肘から先が黄緑色に変色し、指先や前腕には短くも鋭い棘が規則的に生えている。拳先を掴むその掌に力が籠るとそれだけで拳が砕けそうな強い力が襲い掛かった。健輔は思わず呻き声を漏らしながら拳を無茶苦茶に動かして振り解こうとした所、自分でも予想以上の力が腕に掛かり、その拘束を振り切る事が出来た。ただ急に抑えを失くした体の方はバランスを崩し、再びたたらを踏んで床に転がる無様を晒す羽目になったが。

 

「――ったく…どいつもこいつも同じことを言うな…お人好し共め…」

 

 そんな健輔の様子を眺めながら幹斗は腕をさすっている。忌々し気に舌打ちをしながらも目はどこか楽しそうに笑っているように思えた。舐めてんのかお前は…!再度健輔が起き上がろうとしたその刹那、不意に「話は変わるがテツヤと知り合いだったんだな」という声が浴びせられた。

 

「テツヤ…?てっちゃんの事か…?」

 

 文字通り冷や水を被った心地を味わいながらもそれが成澤哲也の事を指しているのだろうという事は何となく察せられた。そう言えば《スカルマン》に向かって哲也が「幹斗」と叫んでいた――気がする、意識が朦朧としていたので確証はないが。

 哲也は《スカルマン》が山城幹斗だと知っていたのだろうか…?しかしあの隠し事をするのが苦手な男がそんな重大な秘密を黙っていられるとも思えないし、その可能性はなさそうだ。

 だがそうなると自分達と出会う以前の知り合いの可能性が浮上する。つまりそれが意味する事は――。健輔はゾクリと背筋を粟立たせた。とりあえずコイツが哲也と知り合いらしい事は分かってもますます目の前の男の得体が知れなくなった心地が押し寄せ、健輔は「お前は何者なんだよ…」と溢していた。

 

「《スカルマン》だとか山城幹斗だとか…!そういうのは分かったけど…じゃあその手は何なんだよ…?俺はゴロウさんがバケモノになる瞬間を確かに見たんだ…。お前もまさか…」

 

 あのバケモノ達と同質のナニかなのか…?喉元まで出掛かったその言葉を健輔は呑み込んだ。なんだか…バケモノ、というその言葉を幹斗に吐いてしまったら、それが酷く侮蔑的な意味を含んでしまうような気がしたからだ。

 健輔がその先を言い淀んでいる理由を察したのかそれは定かではないが、幹斗の口元が薄く笑みの形を作った。息を吐き出すように彼が口を開く。

 

「俺達は…《ヴェルノム》だ…」

 

 確かに宣言するように幹斗はそう呟いた。「《ヴェルノム》…?」聞き慣れないその言葉、妙におどろおどろしいその語感を反芻していると不意に凄まじい熱量が幹斗の体から発せられ、噴き出した蒸気がその体を包み込んでいく。あの時ゴロウさんがバケモノ――いや《ヴェルノム》か?――に変異する前に発生したあの光景によく似ている、そう思った次の瞬間には全身が生々しい黄緑色の皮膚に覆われた異形の者が立っていた。その姿は病院で機動隊を屠っていたあのバッタ男そのものだ。

 

「AS計画――だかなんだか知らないが“あかつき村事件”の副産物の一つだと…。現生人類の認識では怪物とかバケモノで間違いない。だが…俺達にとっては違う…これは進化した生命のあり様だ…!」

 

 AS計画、あかつき村、進化…?一挙に押し寄せたその言葉の意味は当然すぐに脳内で処理できるものではなかった。確かなのはやはりその姿は異形の存在にしか見えない、という事だけだった。情けないと理性が叫びながらも健輔は後ずさりした。

 

「おいおい逃げるなよ…ってまぁ無理もねえか…」

 

 おどけたようにバッタ男が肩を竦める。人語を発し、各所に人体の構成要素を残しながら、かと言って絶対に人ではない異形がそんな仕草を取るのは実にシュール極まりない光景だ。健輔は暫し呆然と目の前のバッタ男を見上げる事しか出来なかったが、それも目前のバッタ男が予想外の事を口にするまでだった。

 

「でもアンタももう同類だぜ…センパイ?こうなっちまったらもう引き返せない…」

 

 右掌をゆっくりと健輔の方にかざしながらバッタ男が呟いたその一言に健輔は心臓がドクンと不穏に揺れた。すぐにその意味が分からず、健輔は「なんだって…?」と呆然と声を漏らした。――いや分からなかった訳ではない。

 

「本位じゃないのは分かる…誰しもそうさ…。だが受け入れるしかないんだ結局は…。――ようこそ《ヴェルノム》(俺達)の世界へ…!」

 

 《ヴェルノム》…俺が怪物…?そう、言葉を理解できても脳が、心がその事実を受け入れる事を拒否しているのだ。なら…俺はもう人間じゃなくなってしまったのか…。アイツ等…あの蜘蛛やウニの怪物のように理性を失い、人を襲う存在にいつか成り果ててしまうのか…?

 

 思い当たる事がある。あの蛇のバケモノに変異した子どもは直前にあのウニ擬きの棘が刺さっていた。要するにあれが毒針でそこから毒を投与され、結果適合しなかったしなかった人間は《黒禍熱》によく似た症状で死亡し、そうでなかった人間の肉体には変化が現れ、怪物に――幹斗のいう所の進化した生命となる…そういう事か…。

 

 あの時健輔はヘビのバケモノが残骸みたいな奴に首筋に食いつかれた。そこから先の記憶は曖昧だが少なくとも今こうして生きており、気が付けば肉体に謎の変異が現れている…。つまりこれが肉体が《ヴェルノム》とやらに変異したという事の何よりの証左ではないか…。

 恐怖と混乱で戦慄く健輔の頭にバッタ男――幹斗の異形の掌が触れる。それ自体が内燃機関を宿しているような異常な熱が頭蓋を通して健輔の体内に侵入してくる。

 

「解き放て…お前の真の姿を…!」

 

 幹斗の声が内耳に木霊した。その瞬間電撃が体を駆け抜けていくような、他に形容しがたい“力”の奔流が健輔に襲い掛かった。この感触は知っている、あの時――異形の怪物に喰いつかれた時に襲い掛かってきた感覚と全く同じものだ。

 

「う〝あ〝あ〝あ〝あ〝ぁぁぁあ〝ぁぁぁあ〝ぁぁぁ…!!」

 

 全身の神経という神経に一斉に電流が駆け巡る。心臓がメルトダウンを起こした原子炉のように熱を放ち、血液が沸騰する。そんな筈はないのにそうとしか形容出来ない程の熱量が全身を責め苛んでいく。体が千々に砕かれそうな“力”の濁流に晒されながらも、あの時と違って不思議と意識はハッキリしていた。いや、むしろ“力”が全身に浸透していく度に意識は一層鋭敏になり、急速に増減を繰り返す細胞の動きも張り巡らされていく神経の動きすらも感じ取れるようになっていく気がした。

 

 これが力に適合するという事か…!

 

 だがそんな事はなんの慰めにもならない。沸騰するような激痛に呑まれながらも健輔は己の肉体が変異していく様を克明に捉えていた。それはまさに生きながらに人ならざるモノとなっていく事を知覚しながら人のままでしかあれない心を持ち続けるという事だ。

 いっそ気が狂えたら。ゴロウさんやあの少年のように“力”そのものに完全に支配され、本能のままに動く一匹の獣になれたら。そうすればこの身を苛む激痛からも人としてのアイデンティティすら失うこの恐怖から逃れる事が出来るのに――!

 だが頭蓋の奥に誰かの声が響く、荒れ狂う嵐の中にあってただ道を示す灯りのように。

 

『やめろ!バケモノになんかなるな!お袋さんや藤田に会うんだろっ!こんな所で終わるなよ…!』

 

 哲也の声だと分かった。それが浚われそうになる意識を繋ぎとめる唯一の縁だと理性が呼びかけているのだと察した健輔は遮二無二意識をそこに集中させた。

 

 そうだ、死にたくない、死ぬわけにはいかない――!まだ俺は何にも満足しちゃいない、漸く会えた仲間がいる、会いたい人だっている、なにより目の前で悠然と佇むコイツを一発ぶん殴ってでも止めてやらないと気が済まない…!

 健輔はもう無理に抗う事はせずに猛る“力”の奔流に身を任せた。決して呑まれる訳ではない、どんな波にも必ず乗りこなす術があるように路を見つけるんだ…!気を取られれば丸ごと持っていかれそうな意識を保つように健輔は鋭い爪が生え始めた10指を己の肩の辺りに突き立てた。

 

「ぐぅぅ…あぁぁぁぁぁぁああぁぁぁ…!!」

 

 肉が抉られ、血が指に滴る。だがその痛みが意識を繋ぎとめてくれる。少し顔を上げるとその様子をバッタ男が黙って見ていた。流石にこの行動は予想外だったのか、その無貌は少しばかり動揺しているように思えた。その様子に少しばかり満足した健輔は思いっきり肩に刺さった爪を引き抜いた。途端にまるでそれがトリガーになったように乱流の彼方に微かな光を捉え、健輔は躊躇わずそこに意識を伸ばした。

 

(ごめん、てっちゃん…!)

 

 瞬間全身を駆けずり回っていた暴力的な“力”の濁流が引き、視界が鮮明になっていくのを知覚しながら、健輔は心の中で昨日再会したばかりの親友に詫びた。バケモノになんかなるな…、その約束は守れそうにない、俺はもう目の前のコイツ(山城幹斗)と同じ異形のモノに変わりつつあるようだ…。

 

 でも俺は俺だから…!心までは呑まれない、このバカとその背後にいる何かを叩きのめして、必ず皆の前に突き出してやる――!その決意と共に健輔は立ち上がった。

 

 次の瞬間、健輔の体が変異を開始した。全身の筋肉が膨張し、二回り程その体躯が肥大化する。四肢はその体に比して長大に引き延ばされ、皮膚は黒く変色する。指と指の間には水かきのような膜が形成され、短い爪が出現する。

 

 

 全身から噴出した蒸気がやんだ時、出現したその姿は体とほぼ一体化したような巨大な頭部を持ち、長く太い腕を備えた両生類の如き異様だった。特に特徴的なのは体の二倍以上の長さを持つ尻尾でそれが一層この姿を巨大に見せている。

 人型から大きく逸脱した異形にも関わらず、その瞳は確かに人らしい理性の光を宿していた。白く濁った眼をギョロつかせるだけの“フェーズ1”ではない、意識を完全に保っている“フェーズ2”、それも想像を遥かに超える大物だ。もしかしたら予想以上の成果だったかも知れないな、とバッタ男――山城幹斗はほくそ笑んだ。

 

「うおぉぉぉぉおおぉぉぉぉぉぉっっっ!!!」

 

 部屋全体が鳴動するような雄叫びを発して、健輔だったもの――そして新たな《ヴェルノム》が《バッタヴェルノム》に襲い掛かった。

 

 




つくづく会話劇と説明が多くて、ここら辺はかなり心が折れかけましたね。その代わり次週はそれなりに戦闘シーンがあると思います。

それではまた次回。


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CHAPTER-2:『REvengerⅡ』‐④

「…しっかしなんなんスかねあの人?あれもこれも全部秘密秘密秘密って…」

 

 首都高都心環状線を台場方面に向けて進むトヨタ・アリオンの車内で若干不服そうにハンドルを握りながら、新宿署の寺坂克己が疑問を投げ掛けたのに対して拓務はと言えば、素っ気なく「ちゃんと前見て運転しろ」とだけ返した。それだけで寺坂の気が済む訳でもなく、口を尖らせながら万年渋滞の道路を睨みつけている。青いというか…何かと分かりやすい奴だな、と拓務はボンヤリと思った。

 拓務より2つ下だから25歳か。俺もコイツくらいの年齢の時はこんな感じだっただろうか、と思って思いを馳せてみる。それで思い起こせたのはひたすら交番勤務での実地の日々ばかり、あの時はひたすら仕事を覚え、警察官の職務を実践するのに必死であまり細かい事は覚えていない。特にその1年前に父が亡くなってからというもの、元々神経質で余裕がない、と言われた心根は更に張りつめ、早く一人前にならなければ、という気負いばかりが大きくなっていた。勿論そこで学んだ事を忘れたことはないが、今更思い返しても遠い過去の事だ、という感慨の方が先行する。

 

 そう、あまりに遠い。ほんの1年前、あの事件を機に変わってしまった世界を目の当たりにすれば否が応でもそういう気がしてくる。止まっているようで確実に進流れている景色を何とはなしに眺めながら、日々とはこういうものなのだろうなとポツリと思った。

 

「今時過激派もへちまもないでしょ、北の工作員だって方がよっぽどしっくり来る…」

 

 それでもなお憤懣やるたかないといった感じで寺坂はぶつくさ文句を言っている。拓務はそれ以上は口を挟まず、これは吐くだけ吐かせた方が良いな、と思う事にした。年若い寺坂の不満も最もと思うからこそだ。

 特対とかいう怪しげな捜査本部に移動して早速、これまた怪しげな女から仰せつかった怪しげな任務。《スカルマン》絡みの胡散臭げな空気でただでさえ肺が悪くなりかけている刑事部の男達にとっては上からの指示だから、と言ってはいそうですかと拝命出来るものでもなかった。

 

 刑事部というのは常々犯罪者を追うという事は自分の頭で考え、その判断を正しいと信じてするものだ、という自負がある。この点は徹底した秘密主義で、現場の捜査員にすら必要以上に情報が開放されず、上の人間が定めたターゲットを監視する事に明け暮れるだけの公安とは違うという考えに繋がっている。それが正しい認識なのかどうかはさて置いて、刑事とは凡そそういう考えの人間達だ。

 件の男女三名については身長・年齢等のざっくばらんなパーソナルデータ以外には殆ど開示がされていない。最後の目撃情報――たぶんそれも公安で探ったものだろう――と人相だけを頼りにこの1千万都民の中から探し出せ、というのも土台無茶な話だが、詳しい経歴――出身地、学歴、親族・交友関係に至るまでの情報等は不明。ナントカいう過激派の残党であり、《スカルマン》関連の人物として内々にマークしていた、という話が素直に呑める筈もなく、捜査員の間ではハッキリと不満の意見が上がった。そこに照原警視正がよせば良いのに「事は国家の存亡に関わる重要な問題だ」と更に火に油、どころか業火にガソリンをぶちまけるような事を言い出せば、そこで爆発しなかったのが奇跡だと思う。

 

 かくして気が乗らない人探しが特対の仕事第1号となった訳で、遅れてやってきた公安や内閣府の人間達だけが顔を突き合わせて、資料のやり取りをしている様を見せつけられれば、要は俺たちゃアイツらの脚代わりの情報端末くらいの役割しか期待されてないという気分が広がりながらもこうして捜査に赴くのは率先して上意下達の原則を捻じ曲げるような気も起きないからだし、ある種組織なんてそんなモンだろうという半ば諦めの境地かも知れない。

 確かに公安(と思しき奴ら)に主導を握られるのは気に入らないが、この1年で犯人と思しき人間に全く辿り着けないのも確かでその間に大勢の仲間を失っている。かく言う拓務自身もそうだし、この寺坂もそうだ。新宿事変が起きた日、拓務は新宿にいた。警視庁の刑事としての所轄に赴いた際の事だ。拓務は先輩の刑事である木ノ原と共に事件の最寄に居合わせ、更に二次災害によって二人とも負傷する羽目になった。拓務は軽度の火傷と裂傷を負ったし、木ノ原に至っては下半身不随になるほどの重傷を負い、警察官を退職する事になった。古参だが気の良い刑事で何かと拓務にも気を使ってくれたし、寺坂も兼ねてより世話になっていたらしい。

 

 木ノ原だけではない、六本木の事件でも相当数の被害が出てる上にこの1年で殉職した警察官の数は都内だけでもうすぐ三桁に届くレベルだ。そういう意味では既に状況は刑事部の意地の問題では済まず、例の3名が事件とどういう繋がりを持っているにせよ僅かな線でも見逃したくはないのは確かだ。特に参考人の中で唯一の男――山城幹斗とかいう人物は捜査員全員の注目を集めた。パーソナルデータによれば年齢20代前半で身長は175センチ前後、この点が《スカルマン》と一致するためだ。

 確かに見た目だけなら該当する人物なんて腐るほどいるし、そんな些細な一致で《スカルマン》の正体を決めつける程早計な警察官などいない。だが1年目にして漸く入った新情報に当たってみたいと思うのは皆一緒という訳で、かくしてどこかきな臭いものを感じながらもこの捜索劇が開始されたという経緯だが――。寺坂としては勝手にしゃしゃり出てきた奴らに手綱を握られるのは甚だ気に喰わないようだ。事はそう単純ではないし、とは言えそんな組織の不実を後輩に説いても詮無き事で実際寺坂の気持ちも分かってしまうのは確かで、我ながら中途半端な立ち位置だ。つくづく遠くに来たものだ、と改めて思う。

 

 拓務は改めて溜息を吐くと硬いシートに心持ち身を預けた。この所碌に寝てない神経がいよいよ張り詰めそうだったが、まだなんとか耐えられる範囲だ。少しだけ気を休めようと思った直後スーツの胸ポケットにしまった携帯電話は振動する感触が伝わった。なんだと思ってディスプレイを確認し、眉を顰めた。着信は母の葉子からだった。

 

 珍しい事もあるな、と思う。「便りがないのは元気の証」が信条の母は殆ど連絡などしてこないし、警察官の激務っぷりを知っているともなれば猶更だ。一瞬職務中に身内からの電話に応答して良いものか悩んだのだが、一瞬の逡巡の末、拓務は通話ボタンを押した。母がわざわざ電話を掛けてくることなんてそれこそ5年前――父が亡くなった夜くらいだ。何か重要な事が起きたのではないか、と思った。

 

〈もしもし…拓務…?ごめんなさい仕事中に…〉

 

 スピーカーの奥から申し訳なさそうに葉子の声が聞こえた。心なしか声に憔悴の色が浮いているように感じ、拓務は次の言葉を待たずに「なにかあった?」と聞き返してたが、当の葉子は少しばかり歯切れ悪く、言い淀むように何か呟いている。

 だがやがて意を決したように<昨日の事なんだけど…>と口火を切った。

 

<一昨日、中野の病院でテロがあったでしょ…。あの事で…>

 

 あれか…拓務は内心で気を引き締めた。葉子の言う通り、一昨日中野の病院で《スカルマン》が絡んだとされる大規模なテロがあった。警察は虎の子の特殊部隊まで投入したが、あろう事かほぼ壊滅の憂き目に遭った上に逃走を許してしまった。警察は夜を徹しての非常線と追跡に追われる羽目になるも結局その足取りは掴めず、日本警察開闢以来の大失態だとマスコミから非難が殺到した。

 確か確認できる限りで少なくない死者が出た筈だが…。もしや母の知り合いに該当者がいたのだろうか…、と考えたところで葉子の口から予想外の名前が飛び出した。

 

〈さっき、警察の人から哲也が行方不明になってるって聞いたの…。仕事でそこに居たって…連絡がつかないのよ…!〉

「――な…!」

 

 その名を聞いた時、拓務は絶句した。確か昨日の事件では死者の他に遺体すら見つからず行方不明として扱われている当事者も多数いる筈だが…まさかその中で従弟の名を聞くとは思っていなかった。曰く現場で彼が持っていた手帳が発見されたそうで、職場に確認した所、確かにそちらに赴いていた事が確認されたのだそうだ。

 

<…ごめんなさい…貴方には貴方の仕事があるものね…。…でも何か分かったら教えて…>

 

 しかし拓務の沈黙から葉子は何かを察したらしい。心底申し訳なさそうに言い添えて電話を切ってしまった。だが最後に添えた一言にもっと切実な響きが込められていた事はいくら拓務でも分かる。せめて何か言おうとして果たせず、光の落ちたディスプレイを虚しく眺めながら拓務は溜息を吐いた。

 

「どうしたんスか…?なんかの連絡?」

 

 そんな分かりやすい意気消沈っぷりから何か察したのかハンドルを握る寺坂が視線を寄越す。何か重大事か、と勘繰るそれが痛く、拓務は冷静を装って口を引き結んだ。

 

「何でもない…。母からな…従弟が昨日の事件で行方不明だって…」

「マジで?大変じゃないっスか、確認してみた方が良いんじゃ…」

「良いんだ、他の事に気を取られてる場合じゃない…!」

 

 驚きながらも気遣わし気に投げ掛けられたその声をピシャリと遮って拓務はそう言った。横で寺坂が絶句する気配が伝わったが、それは綺麗に無視する事にして窓の外に視線を投げ掛ける。その背中から質問するな、という空気を感じ取ったのか、彼がそれ以上この話題に触れてくる事はなかった。くそ、と内心で舌打ちした。

 

 何故こうもアイツの事になると心を乱されるんだ、と己の勝手を自覚しながらも拓務は毒づいた。3つ年下の従弟に良い思い出は殆どなく、当時大学生だった自分の目からも手の掛かる問題児そのもので度々警察に補導されては帰ってくる頭痛の種だった。親類の行動が警察採用の際の考課に影響するという話はないにせよ、それでも当時既にこの道を志していた拓務にとっては哲也は甚だ鬱陶しい存在だった。それでも家さえ出てしまえばまだ関わらなくて済むと思っていたが、それから3年後に哲也の影響は思わぬ形で家族の元に降りかかってきた。

 

 父の訃報だ。しかも兼ねてより哲也に恨みを抱いていた暴漢から彼を庇って死んだ、そう聞かされた。勿論結果を見れば犯人の言い分は極めて身勝手なもので哲也に絶対的な非があった訳ではない。実際病院の廊下で再会した従弟は見るからに憔悴しており、一回りも二回りも小さくなってしまったようだった。ああ…コイツはこんな子どもだったんだな、と遅まきながらに拓務は実感した。

 唐突に両親どころか育った場所すらを失くした16歳の子どものまま、肩肘を張って、やり場のない感情を世間に向けて発信する事でしか、己の感情を発露する術を知らなかった。ただそれだけの事だったのだ。

 だが理解できたのはそこまでで次の瞬間言いようのない反発心が湧き上がり、従弟に対する憐憫の情が霧散した。それがどうした、世の中親を亡くしたり、辛い事やトラウマを抱えて生きている人間なんて山ほどいる。自分だけが被害者ぶって他人に甘えて、拒絶して、噛みついて、その結果の全てがこれじゃないか。今更後悔する資格なんかお前にはない…!自分でも制御出来ない程の強い感情に衝き動かされて拓務はその細い背中に声を振り落とした。

 

『お前のせいだ。お前が殺した』と――。

 

 警察官としては勿論、身内としても最低の台詞だ。だが一度発した言葉は二度と取り消す事は出来ず、いつまでも心に刻みつけられる。哲也と言葉を交わしたのはそれが最後で以降葬儀が終わるまで一切目を合わせる事もなく、その内アイツは家を出ていった。その後母の口からどこかのジャーナルに就職したらしい事は聞かされても、なんの関心も湧かず、むしろ母はまだアイツを気遣っているのか、と無駄な苛立ちの方が優った。

 この数年間ひたすら考えず、目に入れず、頭に思い浮かべまいとした。そうする事で自分の後悔も嫌悪もいずれ消えていくと思っていたが――。どうやらそれは甘えた考えだったらしい。つい昨日父の墓に詣でた際に顔を合わせた時にはやはり子どもじみた感情で哲也を追い立てただけだった。今だってそうだ、従弟を心配する母に無駄な心痛を与えてまで彼の事を考えるのを拒絶しようとしている自分がいる。それで事態が変わる訳でも死んだ父が戻ってくる訳でもないと分かっている筈なのに無駄な反発心だけが沸き起こる。哲也の事をとやかく言う資格はない、俺こそなにも進歩していない、と拓務は自嘲した。

 

 そんな事を考えている内に車はレインボーブリッジに乗り上げた。この通りも心なしか車の往来が減った気がするな、と思う。どことなく以前より活気を失ったように見える人口の島、それを象徴するフジテレビの特徴的な本社ビルが見え始めた時、それは起こった。

 

 初めは遠くで――それこそ右手の人工島の方で地鳴りのような音がしたと思った次の瞬間には数多の轟音と火の手が一気に噴き上がったのが確かに見えた。

 

「なんだ…!」

「何か起きたのか…」

 

 二人はほぼ同時に右手側の方に目を向けた。ちょうど潮風公園辺りの方で何かが炸裂したらしく、煙が立ち込めている。だが規模はそれ程ではない。新宿事変の時のような悍ましいまでの黒煙ではなく、何かに火がついて燃え上がった、という感じだろうか。だがいずれにせよ穏やかな事態であるとは思えず、周囲の車もクラクションを鳴らして互いに警告を発している。

 

「なんだ…アレ…?」

 

 寺坂が潮風公園の方を注視している。流れる他の車や構造物、更には公園内に植えられた樹木に遮られて状況は窺えないようだ。地鳴りのような音が潮風に乗って微かに聞こえる。音が響くたびに公園辺りを根城にしてる海鳥たちが一斉に飛び立っていき、木々が不気味に鳴動する。ナニかがいる、拓務は不思議とそう思った。

 もしや《スカルマン》絡みか…いやこれはもっと違う…。何か得体の知れない事態が起きていると判断した拓務はひとまず寺坂に気を取られず、運転に集中しろと告げ、社内のラジオのスイッチを入れた。だがいきなりの事だからかどこの局も番組を垂れ流すのみで情報源にはなり得なかった。仕方ないと今度はスマートフォンを引っ張り出すとSNSのアプリを立ち上げる。情報の確度はグッと落ちるがこういう時一番早いのはやはりこういったネットワークだ。

 

 目的の情報はすぐに見つかった。潮風公園の方に居合わせた人々からの情報が即座にアップされたらしい。画面を埋め尽くさんばかりに広がる情報の量もさる事ながら、更に拓務を絶句させたのはその内容だった。

 投稿された多数の動画や写真に写るソレは――公園内を縦横無尽に暴れ回る怪物――他にそうとしか形容しようがない――の姿だった。両生類のようなヌラリとした皮膚を黒く光らせ、長大な尻尾を生やしたそれは周囲の木々と比較しても3メートル近くある。だがその怪物は明らかに人のような四肢を生やし、それを振り回しながらもう一体の怪物と闘っているのだ。そのもう一体の姿は一方より小さい上に動きが素早い事もあってか、よく姿は見えない。だがその動きや遠目に見えるフォルムからは人間ではないという事は何となく分かった。

 

 なんなんだコレは…!?

 

 これが一件だけの動画や写真なら悪戯と一笑に付すことも出来ただろうが、それが一斉に異なる報じられたとなれば最早そんなレベルでは済まされない。そう言えば昨日も《スカルマン》を追う最中で謎の怪物の情報が飛び交い、上の人間が露骨に不機嫌そうに「悪質なデマや下らぬ風聞に惑わされぬように」というお達しを発していた気がするが…。

 

「何か分かったんスか?」

 

 ハンドルを握る寺坂が焦れたようにこちらに目を向けた。拓務はその顔を見ながらも咄嗟に二の句が継げずに口籠った。

 怪物が二体潮風公園で暴れ回っている。映画の世界の出来事のような世界が今起きているらしい。そう告げたらこの後輩はどんな顔をするだろうか。最早自分が正気でいられる自信すらなく、拓務は肌を粟立たせた。付けっ放しにしたラジオが情報を報じたのはそれから数分後の事だった。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 突如出現した“災害”に辺り一帯は騒然となった。何かが砕け散るような音が聞こえたと思った次の瞬間、空から潮風公園の駐車場に降ってきた()()は落下の勢いのまま、直下にあった複数の車を圧し潰して破壊した。重圧に車体がひしゃげるのが見えたのも束の間、火炎を上げて車群は爆散した。突如降って湧いた事態にたまたま駐車場に居合わせた人々は何が起きたのかと半ば混乱に陥りながらも手にしていた携帯を炎の方に向けた。

 しかし本当の混沌はそこからだった。爆炎を突き破るように異形が二つ出現したのは直後の事だった。片方は尻尾を生やし、常人の倍以上の体躯を誇る巨人、もう片方はスリムなフォルムながらも昆虫のような意匠を備えた姿だった。正体は不明ながらも明らかに人間ではない異形の出現に周辺はパニックになった。ほうぼうに逃げ出す市民の姿を尻目に二つの異形のモノ――《ヴェルノム》同士はぶつかり合った。巨人がその巨大な拳を繰り出し、《バッタヴェルノム》は蹴りを以てそれを受け止める。手足がぶつかり合った瞬間、衝撃波が飛び散り、強烈な余波となって周囲に拡散した。

 

 その衝撃にお互いの体が吹き飛んだ。こうなると体の軽い方が不利だ。巨人の方が後ろに僅かにのけ反っただけなのに対して、《バッタヴェルノム》となった幹斗の体は5メートル以上後方に吹き飛ばされた。なんとか空中で態勢を立て直し、停めてあった車の屋根にふわりと着地できたまでは良かったが、その時にはもう他の車を吹き飛ばしながらかつて健輔だった巨大な《ヴェルノム》が迫ってくるのが見えた。予想以上の俊敏さで間合いまで迫った巨体が尚も拳を振り下ろす。まともに喰らったら流石にただでは済まないな、と判断した《バッタヴェルノム》は今度は持ち前の脚力で跳躍し、その拳を躱した。

 その判断は正しくもあり、間違ってもいた。車ごと地面を抉り砕いた拳は打ち付けられた反動で強烈な衝撃を生み、空振りしてもなおその風圧が《バッタヴェルノム》に襲い掛かった。

 

 なんてパワーだ…。自分達の領域から見ても桁外れの膂力に《バッタヴェルノム》は感心すると共に呆れた。俺達の中でもあれほどのパワーの奴は早々いないぞ…。再び態勢を立て直しながら、今度は着地と共に跳躍を繰り返して相手から距離を取り、今一度その巨体をよく観察する。

 

 3メートル近い巨躯に加えて、全身是筋肉とでも言う程盛り上がった身体、特に四肢の逞しさには目を瞠るものがある。パッと見で際立つのは濡れたように黒く光る体表と腰から伸びた長大な尻尾だ。長めの腕と相まってそれがより一層相手を巨大なものに見せる。よく分からないが…尻尾の姿が魚類に近い意匠を備えている事を考えると、どことなく両生類っぽい。断定は出来ないが恐らくカエル、それもまだ幼体(オタマジャクシ)の段階ではないかと思う。さしずめ《幼体カエルヴェルノム》か――。()()()()()()()()()()()()()()()()ならかなりの拾い物だ。

 

 厄介な事に暴走状態にはないらしい、先程までの立ち回りを思い出し、《バッタヴェルノム》は独り言ちた。従来《ヴェルノム》は自分や千鳥のように完全に人間としての自意識を保っているタイプと、《ガロ》達やこの間の二体のように完全に獣に身を堕としているタイプとに大別される。それを体系化して奴らは後者を「フェーズ1」、そこを乗り越えた幹斗達を「フェーズ2」と称した。見た所、目の前の巨人の動きにはまだ人間としての知性や強い感情のようなものが感じられる。だとしたらかなり厄介だ。理性のない奴を相手にする分には動物を相手にするのと対して変わりはない、身体的なアドバンテージがほぼ同等なら幹斗達の方が圧倒的に有利だが、こうも身体面で差を付けられた上に獣性に支配されてないとなるとほぼこちらの有利は存在しない。

 

 まぁ、そうなると後は経験の差と…怪物としての年季の違いくらいか、《バッタヴェルノム》はそう心の中で呟くと指先から爪を展開した。警察特殊部隊のジェルラミンシールドすら貫いてなお相手を殺傷できる切れ味を誇る武器だ、《スカルマン》やってる時と違って実質武器はコイツしかないのだが、心許ないという事もない。騒ぎを起こすのは得策ではない事くらい百も承知だが、どの道ここでぶつからなければこちらに引き込めるかどうかも判断できない。

 

「――ぐぁあぁあああぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!」

 

 漸くこちらの姿を認めた《幼体カエルヴェルノム》が咆哮した。それだけで空気がビリビリと伝導し、衝撃となって襲い掛かった。それに怯む事無く《バッタヴェルノム》は相手に向かって跳躍し、対する方もそれに応えるように走り出した。

 身体が小さい分、機動力は《バッタヴェルノム》の方が上だ。《幼体カエルヴェルノム》が拳の射程内に相手を捉えたと思った時、こちらはもう更に密着の間合いに入り込んでいた。この距離ならその長大な腕では届くまい――《幼体カエルヴェルノム》の驚愕に異形の相貌を歪めると、次の瞬間には貫手の如く爪を突き立てた。

 だがその爪先は相手の体を貫く事はなかった。正確には先端だけ少し掠めた気がするが、その皮膚に突き刺さるより前に《幼体カエルヴェルノム》は紙一重で後方に飛び退いていた。デカい癖に意外とやるな、それに順応も早い、もうこの体をモノにしている。意外な動きの良さに感心した《バッタヴェルノム》は怯む事無く、次の攻撃に移ろうとしたが、その瞬間横合いから巨大な質量が叩きつけられた。

 

「…が…っ…!」

 

 《ヴェルノム》の耐久力を以てしても息が止まる程の衝撃だった。受け身を取る暇もなくマトモに特大の力の洗礼を受けた《バッタヴェルノム》はそのまま吹き飛ばされ、駐車場前に植えられた防波林をも薙ぎ倒して20メートル程先の公園広場の地面に叩きつけられて漸く止まった。

 駐車場から逃れてひとまずこの辺りに逃げてきた一般人がまだ少しばかりいたらしい。木々を突き破って現れた異形の人型を目撃するや否や再び恐慌状態に陥り、大半は蜘蛛の子を散らすように逃げていったが、よく見ると売店周りの柱に隠れて携帯を構えている図太い奴らもいるようだ。いくらここからだいぶ距離があると言ってもこの状況下で実況だか配信だかなんだか知らないがそんなモンに勤しんでられるとはある意味驚嘆に値する。それだけ平和に慣らされた期間が長いという事だろう、特にこの1年間散々《スカルマン》という名の恐怖を味わわされたというにも関わらず…。

 

「うぉおおぉぉぉぉぉおぉぉぉっっっっ…!」

 

 しかし流石に《幼体カエルヴェルノム》が地響きのような咆哮を上げればヤバいという事は判断できたのか、即座に勝手な方向に逃げ出していく。そこも見越してやっているのだとしたら結構な判断力だ。既に《ヴェルノム》としての力を存分に振るってる辺り、なかなかの素質の持ち主のようだ。

 ――ますます殺すには惜しいな。幹斗はそう思った。それなら出し惜しみはしない、どうせスポンサーからも思う存分プレゼンを行うよう指示されているのだ。後で《ナイトレイス》か千鳥には苦言を呈されるかも知れないが、それならこちらもやれるだけやらせてもらう…。

 

 そう決意すると同時に《バッタヴェルノム》の眉間から生えた長い触角のような器官が震えた。それは常人には近く出来ない振動波だったが、確かにある信号を以て周囲に響いた。特に海に面し、遮蔽物の少ないこの場ではかなりの効果を発揮する筈だ。

 

 《幼体カエルヴェルノム》となっていた健輔の耳にもその音は確かに響いた。頭蓋に反響するような高音に頭が僅かに痛んだが、それでもその音が何かの信号を発しているのは分かった。そう、まるで何かを呼んでいるかのように――。

 

「――来い、《ガロ》…!」

 

 まるで何かに宣言するように《バッタヴェルノム》は叫んだ。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

「迂闊に動くなってどういう事だ!一体何が起きてる…?」

 

 天井部に取り付けたパトランプを光らせ、寺坂が運転するトヨタ・アリオンが台場青海線をダイバーシティ方面を疾走する。運転は彼に任せて拓務はと言えばランプを降りた辺りに掛かってきた電話の主に向かって叫んでいた。ラジオは情報を先程より拾うようになり、潮風公園で何やら正体不明の怪物が戦っている、とだけ告げていた。

 

〈言葉通りの意味よ、相手は人間じゃない。貴方方の手に負える相手じゃないわ…!〉

 

 電話口に怒鳴り返した拓務に負けじと向こうの相手――マリアも同じように叫び返した。相変わらず慇懃な口調だが、どこか焦りを感じているようにも思えた。拓務も負けじと「人間じゃないってなんだ!」と聞き返す。

 

 昨日の中野区の事件は実はテロなんかではなく、怪物によるものだ、という噂が実しやかに広まっており、ネット上にはそれを裏付ける動画も存在している。実際人智を超えた怪物の存在でもなければあれほどの惨事は起こせない、とする見方はあるのだが、まだ調査中だ、というのが警察の見解だ。それどころか奇妙な言説に注意しろ、という勧告まで各所に発した程でともすれば神経質な程、この話題に触れる事を拒んでいるようだ。

 拓務も別に怪物など信じていない。ネス湖のネッシーや屈斜路湖のクッシーくらいならまだ笑い話で済むがそれの実在するかどうかとなると別の話だ。だから件の動画の件にしても基本は半疑で悪質な悪戯程度に考えていたのだが…今ニュースでは二体の怪物が戦っている様を報じ、電話の向こうでマリアはまるでそれについて知悉しているかのような口振りだ。

 

 コイツ等はなにか知っている。その確信が拓務と寺坂を意固地にさせた。それに現場にはまだ逃げ遅れた市民がいる可能性もあるし、先程拾った無線からも既に近隣の警察署に署員の出動要請が出ている。ならば俺達が手を出さない理由などどこにもない。怪物の存在を知っているマリアたちがその存在を知られたくないというならそいつをこの目で確かめてやろうじゃないか…。半ば意地になった二人はそういう結論に今現場に向かって車を走らせている。

 

<それは…後で必ず伝えます…。間もなく特殊部隊も着くから今は…>

 

 皆まで言わせず拓務は通話を切った。その様子を見てた寺坂が「奴さんなんですって?」と聞いて来たのに対して、拓務はそれに応えず不敵な笑みをただ浮かべた。このまま突っ込め、言外に込めた真意を寺坂は汲み取ってくれたようだ。同じような形の笑みを返すとアリオンのアクセルを一気に踏み込んだ。

 

 

 




ちょっと短いですが今回はここまで。
戦闘がある回は書いてて楽しいですが、文字数の調整が大変ですね。
しばらくストックを確保する必要性があるので更新が不定期になるかも、です。連休中にどれだけ進められるかが肝だなぁ…

それではまた次回。


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CHAPTER-2:『REvengerⅡ』‐⑤

「…どういう事だ…?」

 

 テレビをつけてみろ。白昼のオフィスに突然現れた奴にそう言われ、その通りにしてみればそこに映っていたのは異形の怪物二匹がぶつかり合う光景だった。明らかに予定にない行動の上にあの大きい方の《ヴェルノム》はなんだ…?3メートル近い体躯に長大な尻尾を生やしたその異形は自分達のリストの中にはなかった筈だ。

 あの小さい方は明らかに山城幹斗だろう。確かに彼は近隣のホテルをセーフハウスとしてそこに匿っていた筈だが、だが何故こんな所で予定外の騒ぎを起こしているのだ。

 確かに今後の実地テストに当たってこれ以上《ヴェルノム》の存在を秘匿しておく意味は薄いとは考えていたが、それにしても段取りというものがある。今このタイミングというのは明らかにおいしくない。

 

「一体何がどうなっているんだ…!アイツは何をやっていて…アレはなんなんだ…!?」

 

 男は手に持ったリモコンを投げ捨てると応接のソファで悠然と脚を組んで寛いでいる不審者――《ナイトレイス》に向かって怒鳴った。言われた当人は意に介した風もなく、知恵の輪なんぞで遊んでいる。男の根城であるオフィスに白昼堂々と現れた事も気に入らなければ、そこで我が家の如く振る舞う様も気に入らない。そんな男の苛立ちなど知悉しているのだろう、「実地テストですよ」と肩を揺すりながら奴はそう言った。

 

「奴は我らが《ラスプーチン》の新たなメンバー足り得るかも知れない。そこら辺の素質も含めて今幹斗直々に入団試験中という訳です。まぁ多少目立ってしまったのは予想外の事でしたが…」

 

 予想外、という言葉がやけに白々しい上になんの説明にもなっていない。完全に人を舐めくさってるな、と直感した男は「ふざけるな!」とソファを占領する怪人物に怒鳴った。

 

「これが多少か!何人に目撃されたと…既に報道までされているんだぞ…!今このタイミングで《ヴェルノム(お前達)》の存在を暴露してなんになる…!?」

 

 男の計画では《ヴェルノム》は見えざる脅威だ。暫くは水面下で行動させ、いずれ《スカルマン》対処のための特殊部隊の十分な強化が為されたタイミングを見計らって本格的に投入、更なる脅威と畏怖を国民に植え付けさせ、否が応でも今以上の不安と恐怖を煽る。何より“オーディエンス”達にもその方が効果的だ。兵器のプレゼンは何よりも効果的なタイミングにこそある、というのが男の持論であり、それを気紛れでかき乱されるのは我慢がならなかった。

 

 そんな男の神経を逆撫でしたいのか何なのか《ナイトレイス》はスッと立ち上がると男の傍まで寄ってきて馴れ馴れしく肩を叩く。「まぁまぁ落ち着きなすって」笑いを嚙み殺すような口調だ。

 

「知り合いの奥方のいう事なんですがね…あんまり怒鳴ると体に毒――」

「うるさい…!」

 

 ここまで行くとこちらを煽って楽しんでいるようにしか見えない。男は強引に《ナイトレイス》を振りほどいた。この怪物も山城幹斗と同じく本質的には復讐という動機を抱えているという点で共通しているだけでその内面は全く異なる。時に爆発的な凶暴性すら見せる《スカルマン》と腹の内が読めず、底知れない雰囲気すら纏わせる《ナイトレイス》――。こうまでして制御の効かない奴らばかりだというのがまた腹立たしい。

 

「まぁまぁ…王様は椅子にでも座って泰然としてなさいな…。私の目算では計画はまだ修正可能な範囲です…変に狼狽えてるとそれこそ差し障る」

 

 人を無理矢理ソファに座らせ、《ナイトレイス》は聞き分けのない子どもに諭すように言った。誰のせいでこんな事に、と反駁しかけた口を指で遮って尚も続ける。

 

「御覧なさい、特殊部隊のお出ましだ。だが今の奴らの装備じゃあ俺達には勝てない。一昨日に続いて彼らは世紀の大敗を喫するでしょう。その様に国民は失望する、失望した奴らは更に強い力を求めていく…。ほら何も変わってない…慌てなくとも私は《ラスプーチン》に背くような真似はしませんとも…」

 

 今一度テレビの方を見る。確かに近隣の署に待機していた特殊部隊が漸く到着したらしい。既に市民の避難誘導に当たっている一般の警察官に交じって明らかに物々しい出で立ちの男達が二体の怪物を包囲していく。だがその動きにも明らかな動揺が見て取れた。いくら精鋭揃いの特殊部隊でも今の状況ではハルクとゼノモーフが戦ってる光景に割って入れというようなものだ、既存の常識が全く通用しない相手にどうすれば良いのか、決めあぐねているのかも知れない。

 

〈現在現場は特殊部隊による作戦が行われているようです…しかしなかなか市民の避難は完了せず、現場はかなりの混乱状況にあり――あぁ…!アレはなんでしょう…!?〉

 

 現場上空を旋回するヘリから状況を中継していたアナウンサーが突如素っ頓狂な声を上げた。今度はなんだ、と男が画面の方を見やると船の科学館上空を横切って何かが現場に飛来するのが見えた。テレビだとハッキリとそのフォルムを見る事は出来ないが、いくつかのデータを読み込んでいる男にはそれがなんなのか分かった。

 

「――アレは…!」

 

 この上まだ混乱の種を増やすつもりか、と歯噛みしている男とは対照的に隣に腰かける《ナイトレイス》はと言えば、最早愉快さを隠す気もなく、その光景に高笑いを上げていた。

 

「はっはっはっ…!幹斗の奴、遂に《ガロ》まで呼びやがったか…良いねぇ…ギャラリーは多ければ多い程盛り上がる…」

 

 《ガロ》というのは確か《スカルマン》――というか幹斗の命令を聞くように調整された個体に対して彼が特別に付けていた愛称のようなものだった筈だ。確か一定の範囲内なら特殊な高周波を発する事で任意に呼び出せるのだとか…。うち一体は既に斃された筈だから後は確か…。だがいよいよ混迷を増すばかりの事態に溜まらず、男は叫んだ。

 

「呑気に笑っている場合か、どうやって事態の収拾をつけるつもりだ…!」

「千鳥の奴もちゃんと現場で見張ってます。万が一こちらの不利益になるような事があれば文字通り飛んでいきますさ…」

 

 ()()アフターフォローも効かせておいた…と来たか。つくづく抜け目のない奴め…と男は脱力し、ソファに倒れ込んだ。いつもなら迎える客をもてなす以上に弛緩させ、こちらの立場が上と理解させるための舞台装置のようなものだと心得ているその柔らかさがこんな時にありがたい。

 

()()()()()…大目に見る…。その新メンバー候補とやらも利用出来そうならな…これでつまらない成果だったら許さんぞ…」

 

 精一杯の怒気を込めて《ナイトレイス》を睨みつける。流石にコイツもふざけすぎを自覚したのか、大仰な仕草はなしで静かに頭を下げた。「勿論…」瞳を危ない色に輝かせ、低く呟く。

 

「私の目的は常にAS計画の完遂のためにこそ…。それに仇為すような事はしませんよ、そう例えば…」

 

 そこまで言って《ナイトレイス》は言葉を濁す。なんだ、と男が訝しがるのと同時に「ヒッ…!!」という短い悲鳴が上がった。思わず声のした方に目をやると扉の方に今しがた入ってきたと思しき若い女――男の秘書だ――が口元を抑え、瞳に驚愕の色を浮かべていた。その視線はソファの横に立っている《ナイトレイス》に注がれていた。

 驚くのも無理はない、いきなり部屋に入ってくれば自分の上司が妖しい出で立ちの怪人物と話しているのだ。呆然としたのも束の間明らかに危険な空気を感じ取ったのか、瞬時に顔を青ざめさせる。

 

「――バケモノ…!」

 

 そう小さく呟き、女は瞬時に踵を返して部屋から出ていこうとした。その様に男は今日はとことん厄日らしい、と溜息を吐いて傍らに佇む《ナイトレイス》を見やったが既にその姿は男の視界から消えていた。気が付いた時にはその白い姿は女の後方に素早く回り込んでいたのだ。瞬きする瞬間にもう距離を詰めてきた異形に女は体を硬直させ、悲鳴を上げようとしたがその腕が女の口を塞ぐ方が早かった。

 

「バケモノとは心外だねぇお嬢さん…。まぁこんな出で立ちじゃあ無理もないか…」

 

 掌で口を塞いだまま、そのまま女の体を持ち上げる。女はもう恥も外聞もなく、手足をバタつかせ、何か懇願するように息を漏らしていたがやがてその動きが小さくなっていく。恐らく掌から“毒”を注入されたのだろう、やがて急速に風化していくようにその体が炭のように変色し、崩壊を始めた。容姿は悪くないと思っていた秘書だったが、こうなると見る影もないなと感慨しかない、男は思った。やがてその体は衣服と塵を残して完全に消滅した。

 

 時間にして僅か数秒の事、男は戦慄と興奮で身を震わせた。いつ見ても恐ろしく、そして見事としか言いようのない力だ。《ナイトレイス》は掌に残ったらしい女の残滓をはたいて落とすと「申し訳ない、床を汚してしまいました」と如何にも軽く声を掛ける。

 

 所詮事故だ、仕方がないと男は肩を竦めるととりあえず処理担当に連絡する事にした。新しい秘書を探さなくてはならないし、彼女の失踪に関する言い訳などをあれこれ考えなければならないな…とそれだけ考えて《ナイトレイス》に声を投げた。

 

「お前はもう行け…。こんな所をウロウロしてたら余計なゴミが増えるばかりだ…」

「それでは…仰せのままに…」

 

 《ナイトレイス》は大儀そうにお辞儀の仕草をした。それも束の間、瞬きする間にその姿はもう完全に消え去っていた。床に転がる灰と衣服以外、異形のモノがここにいた痕跡など綺麗サッパリ残っていない。相変わらずの神出鬼没だな、と感服すると同時にやはり奴は危険だな、と思った。

 気が付けばどこにでも侵入してくるあの能力は諜報や暗殺には甚だ便利だが一度敵に回すと厄介極まりない。おまけにあの通り本質的に忠誠を誓っているとは言い難く、何かのきっかけで裏切ったりしかねない。それは幹斗にしてもそうだ、こちらが手綱を握っている事をどうも本質的に理解していないらしい。ここはひとつきつく言い聞かせる必要性があるようだ。

 

「飼い主のいう事を聞かないイヌには鞭を…だな…」

 

 男は自分のデスクに設けられた金庫のロックを解除した。中からこのオフィスには似つかわしくないオートマチックピストルを取り出すと、そのマガジン部分に専用の特殊弾を装填した。

 これを使うのはスマートではないが必要に駆られれば躊躇いはない。飴と鞭こそが男のビジネスモデル、そして人材活用論だからだ。従順に育つように言葉巧みに利用し続け、少しでも反抗の意思を見せれば自分の立場を否が応でも認識させる事で逆らう意気を削いでいく。そうして自分の思惑通りに動かす事でここまで会社を大きくしてきたと男は自負していた。

 

「バケモノ共が…。勝手に出来るのも今の内だぞ…」

 

 オートマチックをテレビで依然として暴れている三体の《ヴェルノム》に向けた。そいつらに向かって拳銃をぶっ放す真似をした所で多少は溜飲が下がった気がした。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 一方で怪物の惨禍に晒されている現場の状況は凄惨の一言だった。

 

 当初の予想より遥かに早い速度で展開した特殊部隊だったが、彼我兵力の差は絶対としか言いようがない。おまけに市民の避難が完了しきらない状況下では迂闊な発砲も出来ず、全力を出し切れない状況だ。市民の避難に当たる制服警官達も併せて次々と戦場を高速で駆け抜ける《バッタヴェルノム》に屠られていく。

 

 最初に上手く、二体の怪物を分断できた事は僥倖だと思った。銃撃で小さい方を追い立てながら、夕日の塔方面に追い込んだと思ったが、それは間違いだった。彼らは追い込んだのではない、誘い込まれたのだ。

 開けた地形より木々に囲まれたプロムナード周辺の方が《バッタヴェルノム》にとっては戦いやすい。

 

 指先や肘部分の棘で切り裂かれ、強靭な四肢による打撃で次々と吹き飛ばされる。死にはしないだろうが戦線復帰も難しいレベルの傷だ、そういうレベルにわざと力を抑えているからだ。自力で撤退する事が困難なレベルの手傷を負わせればその手助けに確実に付き添いが必要になり、確実に兵力を下げる事が出来る。同時に彼らが避難させようとする民間人もしっかりと巻き添えにする必要があった。殺される事はないと分かれば奴らは確実にそこに付け入る隙を見出そうとする戦術を編み出してくるだろうが故意に守るべき対象の民間人を狙えば奴らは否が応でもヒットアンドアウェイ等の戦術を使う暇もなく、《バッタヴェルノム》と真正面から戦わざるを得なくなる。おまけに傷を負わされた市民の中には警察に対する不満や不信感を抱く者もいるだろう、まさに兵力と警察の存在意義双方を削ぐ事を目的にしてるという訳だ。

 

 バケモノの癖にやたら姑息な奴だ、と隊員は思った。正直アイツがなんなのかは分からない、だが時に仲間や市民を盾に使ったり、こちらから奪った武器を効果的に使ってくるその様は明らかに人間的な知性がある、それもとびっきり性格の悪い奴だ、と独り言ちた瞬間、目の前に源義経の八艘飛びの如く、並み居る木々を足場にしてその異形が迫ってきた。

 銃を抜いても間に合わない、咄嗟にそう判断した隊員は拳銃ではなく、腰に装備していた特殊警棒を引き抜いていた。そのまま貫手の如く突き出された手の動きを読みながら、手首部分に強烈な一撃を叩き込んだ。テロの鎮圧を考慮に入れたチタン合金の特殊警棒だ、普通なら手の骨くらい容易に叩き折るだけの威力があるが、しかしながら《バッタヴェルノム》には全く効果がなかった。それどころか次の瞬間にはその鋭い爪が特殊警棒すら切り裂いてしまう。あまりに非常識な力に隊員は驚愕に目を見開くと、その隙をついて《バッタヴェルノム》は素早くもう片方の手を伸ばして、隊員の首を締め上げてきた。頸動脈を塞がれ、隊員は息を漏らす。

 だがその時確実に奴に隙が出来た、と察知した別の隊員は自分も特殊警棒を引き抜き、素早くバケモノに殴りかかった。銃を使わなかったのは万一の場合の誤射を防ぐためだったが、この場合その判断は誤りだった。警棒が《バッタヴェルノム》の背中を確実に射程に捉えた次の瞬間、その背中に生えた翼のような形状の一対の突起が急速に隆起した。それはほんの刹那の間にいくつかの“節”を備え、四肢にあるものとよく似た突起物を備えた凶暴な形状へと姿へと変化していた。

 ――虫の肢…?咄嗟に隊員がそう認識した時にはそれは彼の認識より早く伸長し、その凶悪な切っ先が彼の体を貫いた。最後の力を振り絞って隊員は至近で拳銃を発砲しようとしたがその前に突き刺さった肢が体を引き裂いた。視界全体が鮮血に染まると共に前方の同僚が首の骨をへし折られ、絶命し崩れ落ちる光景が男の最期の記憶になった。

 

(バケモノめ――!)

 

 真っ赤に染まった視線に精一杯の呪詛と怨嗟を滾らせながら、吐き捨てたその言葉はしかし血反吐をを噴く音にかき消され、口から出る事はなく、そんな男の最期の思惟を《バッタヴェルノム》はただ平然と見つめていた。

 

 

 ――さてこれで概ね片付いただろうか…。つい今しがた絶命した二名の隊員を眺めながら《バッタヴェルノム》――幹斗は思った。コイツ等の大半は現場に来るまで《ヴェルノム》の基本詳細すら知らされてなかったようだ、彼らひとりひとりは厳しい訓練を勝ち抜いた精鋭中の精鋭なのだろうが、流石に人外の相手までは想定にはいれてはいまい。組織の上がどの程度自分達の事を想定しているのかは知らないが、それすら知らされず戦場に赴かねばならない彼らに幹斗は少しだけ憐憫の情を抱いた――最も殺したのは自分だが。

 

 下らない感傷を振り払って《バッタヴェルノム》はそのまま太陽の広場の周辺にまで戻った。そこでは依然として特殊部隊と《幼体カエルヴェルノム》が戦いを繰り広げていた。

 

 一方的だった幹斗とは違い、《幼体カエルヴェルノム》――健輔の方はやや劣勢のようだ。その巨体から繰り出される打撃や長大な尻尾の一撃は確かに脅威だが、距離をとって戦う分には問題にはならないし、何より――幹斗と違い、健輔は人を殺すことを躊躇っていた。それは戦い――即ち命のやり取りの場においては圧倒的に不利だ、仮に相手が人間であれば特殊部隊といえど無闇矢鱈と発砲したりなどしないだろう、だが哀しい事に彼らは目の前の巨人が土枝健輔という人間である事を知らない。故に躊躇うことなくその巨体に向かってサブマシンガンの弾を発砲する。幸いな事にデカいなりにあの皮膚は通常弾では容易く傷つける事は出来ないらしいが、流石にノーダメージとはいかない。銃弾が撃ち込まれる度に痛みが走り、《幼体カエルヴェルノム》は苦悶の悲鳴を上げるが、それで銃弾の雨が止むことはない。

 

 立て続けに銃撃を浴び続けるその顔に苦悶の色が浮かぶ、がそれだけではないな、と幹斗は思った。攻撃が激しくなるたびに怪物の黒い瞳が理性と獣性の間で明滅するのがハッキリと感じられた。《ヴェルノム》として覚醒したばかりの頃にありがちな兆候だ、自分がこの姿になったばかりの頃にもあった事だからよく分かる。覚醒してすぐ怪物としての本能に呑まれてしまうフェーズ1と違い、自分達フェーズ2は暫くは人間としての感情や理性を保っていられるが完全に馴染むまでは変身の度に、その力を振るう度に湧き上がってくる闘争本能とのせめぎ合いが発生する。

 今健輔の心にも生物としての防御衝動が湧き上がり、「人を傷つけたくない」という人としての理性との間で相克が起きている筈だ。そのまま力に呑まれるか、もしくは完全に力の制御を身に着けるか…幹斗としては後者であって欲しいとは思うが、どの道このまま警察相手にただやられるようでは所詮その程度の器という事だ、ここは手を出さずに暫く静観と決め込むか、と考えた所でまたしてもサイレンの音が響くのが聞こえてきた。

 

 また増援か…いい加減鬱陶しいなと思い、空を仰ぐと明らかに警察のモノとは違うヘリコプターが現場上空を旋回しているのが目に入った。恐らくこの近くにあるテレビ局の取材ヘリだろう、上空で高みの見物とは暢気な…と半ば呆れていると今度はそれとは別の方向から飛来する影を捉えた。

 漸くこちらの増援も到着か…と幹斗――《バッタヴェルノム》はほくそ笑む。どうせならアイツを使っていっちょ派手な花火を上げるか、そう決断すると額から突き出た触角状の器官に自身の“思惟”を込めて放射した。

 

 上空から迫る増援は――《ガロ》はそれをしっかり受け取ったらしい。彼個人の忠実な獣はその声に従って、吸い寄せられるようにヘリに向かって突進していった。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 凡そ現実の光景とは思えないな…。眼下に広がる惨状を捉えて梨元はそう思った。

 

 駐車場方面では各所で火の手が上がり、そこから向かって海側、いつもなら観光客や都民が訪れ、散策やバーベキューを楽しんでいる公園内は文字通りの戦場と化していた。

 最も戦争を人同士の争いとするならこれは戦争ですらない、突如現れた正体不明の怪物と特殊部隊同士の戦い――これは果たしてなんと形容すれば良いのか、流石に梨元にも思い浮かばなかった。

 

 こんなの局勤めの人生で初めてだよ…。仕事とあらば台風で大荒れの埠頭にも雪崩の起きそうな雪山にも赴くと決めているし、それが現地レポートの役目だとこの仕事を拝命した時から自負しているが流石にこんな日が来るとは思わなかった。現場まではかなり距離がある、がそれでもその景色はハッキリと捉えられた。

 

「こちらは潮風公園上空です…。信じられません、全く信じられません…。まるで怪獣映画のような光景です…!」

 

 そう、強いて言うなら怪獣映画だ。子どもの頃映画館やテレビで見たキングコングとかトレマーズとか…。とにかく人智の及ばぬ生命体が突如現れて街は瞬く間にパニックに呑まれていく――そんな映画の中だけだと思っていた景色が今眼下に広がっていたのだ。特に太陽の広場周辺で特殊部隊と闘っているデカブツなどまさにそれだ。局で聞いた話だともう一体プレデターみたいな怪物がいるらしいと聞いたのだがそれはここからだとよく見えない、ただ時折マズルフラッシュが木々の間で煌めく瞬間があるのでもしかしたらそこに居るのかも知れない。

 

「潮風公園に突如現れた怪物が今警察と戦いを繰り広げています…!ご覧ください…これは映画の撮影などではありません…今まさに現実で起きている光景なのです…!」

 

 ヘリのローター音が鬱陶しい事この上なかったが、何とかカメラに向かって梨元は叫んだ。ふと操縦席の方に目をやると二人のパイロットが言葉を交わしている光景が見えた。どうやら「もっと近づけないのか?」「冗談じゃない、巻き添えはごめんだ」とかの言い合いをしているようだと分かり、ふと梨元は歯痒い心境に駆られた。

 

 こういう時自分達マスコミは大抵傍観者だ。大きい災害のあった地域に赴いてもそこで自分達に与えられているのは現地の情報を拾ってくる事であり、どんなに望んでも現地で戦っている警官や自衛隊、市民の手助けをする事は許されない。そんな自分達を非難する世間の声がある事も当然知っているし、そんな自分を情けなく思う時がないと言えば確実に噓になる。だが餅は餅屋というように人には各々に振られた役割がある、自分達素人がその場の衝動に衝き動かされて救助活動に首を突っ込めば二次災害を引き起こす可能性だってあり、そうなっては本末転倒も良い所だ。だから自分達は極力現場の邪魔にならない位置で目の前の出来事を発し続けるしかないのだ…そんな境地に辿り着けて久しくてもやはりそれとこれとは話は別だ。

 自己満足かも知れない、所詮俺に出来る事なんて神頼みくらい不確実なモノなのかも知れないが…後生だから、皆無事であってくれ…!直下の惨劇を目の当たりにして梨元はそう祈らずにはいられなかった。

 

「現在現場は特殊部隊による作戦が行われているようです…しかしなかなか市民の避難は完了せず、現場はかなりの混乱状況にあり――あぁ…!アレはなんでしょう…!?」

 

 柄にもない感慨に囚われそうになった身を自覚しつつ、梨元はレポートを再開しようとしたが直後、自分達の右奥方向、ちょうど船の博物館の辺りから飛来してくる物体が目に留まり、思わず素っ頓狂な声を上げていた。何言ってんだお前?と怪訝な顔を向けたカメラマンを無視して梨元はその物体に改めて目をやった。

 最初は鳥かと思った。潮風公園目掛けて左右の羽根を羽ばたかせてを真っすぐに飛んでくる物体は事実そのように見えた――が次の瞬間そんな生易しいモノではないと梨元は直感した。理由はシンプルだ、鳥にしてはあまりに巨大すぎる――!

 

 この距離でもハッキリと知覚出来るという事は少なくとも2メートルはいかない間でもそのくらいの大きさは十分にあるという事で、日本にあんな鳥がいる筈はない。カメラマンやヘリの操縦士達もそれに気付いたらしく、固唾を呑んで見やっていた。更にその物体が近づいてくるとその異様さはますます際立っていく、特にカメラマンはカメラの機能を駆使してそいつを鮮明に捉えたらしく、顔を引き攣らせて「なんだよアレ…」とぼやいていた。

 鳥なんかではない、翼というよりももっと大きく広がったそれを鳥類よりも遥かにゆっくりはためかせて飛行するその動きはむしろ昆虫――それも蝶とか蛾のそれだ。だがそんな事はもっとあり得ない、あんな巨大な虫なんてそれこそあり得ない…!

 梨元の耳に填まったインカムから局からの声が届いてくる。「何が見えますか?梨元さん?」スタジオにいるアナウンサーの声がやけに遠くに感じられた。眼下の怪物と言い、何かが起きている、俺達の常識では測れないようなもっと悍ましくて底が知れない何かが…。間が持たないと分かっているのに何一つ声を発する事が出来ない梨元の意識は、しかし唐突に発せられた操縦士の悲鳴で引き戻された。

 

「アイツ…こっちに来るぞ…!」

 

 その言葉が全てだった。突如その飛行物体は鋭角に身体の向きを変えるとこっちに向かって来たのだった。虫みたいな動きの癖に信じられない速さだ、そう思った時にはその異形が取材ヘリの側面、ちょうど梨元のいる位置に張り付いてきた。

 

「うわあぁぁあぁぁぁっっっ!」

 

 その声は自分のものなのか、それともカメラマンか操縦士のものか、それすらも咄嗟に分からない程梨元の意識は混濁に呑み込まれた。蛾?蝶?違う、目の前の物体はそんなモノでは断じてない…!

 

 ヘリの側面に取りついたそれは昆虫のような6つの肢を備えていたが節足動物のそれよりかは人間の手足に近い構造だった。事実ガラスに張り付く手には人間のものに近い指まで確認でき、またそれが生えている体の構造も確かに人間のそれに近いのだ。

 だが皮下組織を剥かれたような赤黒い体表に短い毛をまばらに生やしたそれは明らかに人間のものではない。特にその顔――大きさに比して異様に肥大化し、赤い色に染まった複眼を備えている――は最早バケモノとしか形容しようがないモノだった。黄ばんだ歯牙を剥き出しにしながら蛾人間――《ドクガヴェルノム》が威嚇するように吠えた。

 

「う…うあぁぁぁぁあぁぁぁ…!」

「振り切れ、早く…!」

 

 あまりに常識からかけ離れたバケモノが突如現れた事にヘリ内部は完全な恐慌状態に陥ったが、操縦士は咄嗟に冷静さを取り戻し、乱暴に機体を傾かせて取りつく怪物を振り落とそうとした。当然機内は大きく揺れに揺れ、咄嗟に何かに掴まり損ねた梨元とカメラマンは狭いヘリ内部のドアや天井に散々体を打ち付けられる羽目になった。その衝撃でインカムが外れ、床に落ちる。同じく騒然としている局の様子が届かなくなったと思った矢先、しつこく機体に取りついていたバケモノがユラリと飛び立った。

 なんだ助かったのか…!あちこち痛む体をさすりながら梨元は窓の外に目をやった。《ドクガヴェルノム》はゆっくりと翅をはためかせながら依然こちらを見ていた。遠目にはその姿は確かに蛾と人間が融合した姿のようで、怖気を禁じ得なかった。

 

 次の瞬間、《ドクガヴェルノム》はヘリに向けてその巨大な翅を羽ばたかせた。それと同時に何かキラキラ光る粒子のようなものが放出されたような、と思ったがそれは気のせいではなく、たちまち微細な輝きを放ちながらヘリ全体を包み込んでいった。

 

 なんなんだ一体…!その醜悪な姿に似つかわしくない幻想的な光景に戸惑っていると不意にヘリが大きく傾いだ。今度はなんだ、と操縦席の方に目をやると二人の操縦士が共に喉の辺りを掻き毟って悶え苦しんでいた。操縦する事すら覚束ないらしい、このままじゃ墜落するぞと咄嗟に梨元はせめてなんとかしようと操縦席に駆け寄ろうとしたがその瞬間、梨元も肺に激しい痛みを感じて咄嗟に胸を抑えた。まるで肺を中心に内部から全身を焼き尽くされるような強烈な痛みだった。よく見るとカメラマンも同様らしい、カメラを手放してシートに体を倒しながらのたうち回っているのが見えた。

 本当に何が起きたんだ――!最早機体がどっちを向いてどこに落下しているのかも分からず、痛みにえずく事しか出来ない梨元が最後に見たのは再び機体に取りついてきた《ドクガヴェルノム》の異形だった。

 数秒後機体が激しく叩きつけられた衝撃と共に爆発的に燃え広がった炎が梨元の体を引き裂き、圧し潰し、無情な程の勢いで焼き尽くした。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 《ドクガヴェルノム》の“毒針”は翅に埋め込まれた微細な鱗粉だ。直径0.01㎜に満たないその毒鱗粉は空気ダクトやエアコン等どんな細かい隙間にでも潜り込み、それが体に取り込まれると全ての《ヴェルノム》の毒がそうであるように人間の体に変異を促すように作用する。極稀に克服して変異に至る人間がいるが大抵は体が耐え切れず死亡する。

 以前どこかの党の若手議員が暴走事故で死亡した事件に関与した際にもそうだが、このように乗り物に乗っている等密閉状態にある場所でも確実に対象を攻撃できるという点でこの《ヴェルノム》の能力は実に便利だ。

 

 操縦士を失い、完全に制御権を失ったヘリは旋回しながら落ちていった。そんな機体に《ドクガヴェルノム》が再び取りつき、その巨大な翅を以てして落下先を制御する。それで落下は止められはしないだろうがある程度落下先をコントロールする事が出来る。勿論フェーズ1であるコイツにそこまでの知性はないのでコントロール主である《バッタヴェルノム》――幹斗がある程度誘導してやる必要があるのだが。元々上手くいったら万々歳のレベルだ、成果は特に気にしていない。

 

 だがその思惑とは裏腹にヘリの落下ルートは予想以上に上手く制御出来たようだ。《ドクガヴェルノム》に運ばれる形で落下したヘリはそのまま482号線を封鎖して現着したばかりの特殊部隊の輸送車、指揮車に直撃した。圧し潰されたヘリと車両が激しく炎上し、ヘリの乗員と隊員の多くは己の死を知覚する暇すらなかった。

 だが悪夢はまだ終わらない、後続車両に乗り合わせた隊員達やほうほうの体で生き残った隊員達の前に突如姿を現した《ドクガヴェルノム》が襲い掛かったのだ。突然降って湧いた脅威に隊員達は咄嗟に応戦したが、放出された毒鱗粉の前に悉く力尽きていった。

 

 どうやら戦果は予想以上のようだ、予想外の攻撃に総崩れとなった警察隊の様子を確認しながら《バッタヴェルノム》は身を震わせた。一方で依然として警察隊相手に防戦状態の健輔の様子を確かめる。いくら《ヴェルノム》と言えども不死身ではない、警察の装備程度で死にはしないだろうがこのまま追い詰められてダメージが蓄積すれば変身解除、なんて笑えない事態にもなり兼ねない。幸いな事に増援の方は《ガロ》の方が足止めしてくれているようだし、ここはひとまず加勢してやるべきなのかと思った所で、先程よりその動きが激しくなっている事に気付いた。

 

 もっと言うなら動きが荒っぽくなり、見境がなくなりつつある。これはそろそろ暴走の潮時か…ならこのまま暴走させるだけさせてみよう、と思った。悪く思うなよ、俺達(ヴェルノム)は所詮そうやって生きていくしかないんだ、言い訳染みた内心を弄びながら《バッタヴェルノム》は暫し目前の状況に視線を注ぐことにした。

 

 




怪人総進撃Ⅱ

もはや仮面ライダーもスカルマンも吹っ飛ばしてモンパニ映画の様相ですが、そういう作風ですので…。
何気にヴェルノムというものに関する詳細を初めてまともに書いた気がしますが。既にお察しの方もいる通り、一部のヴェルノムは「毒針」と呼ばれる攻撃手段を持っており、これで人間を殺傷し、毒に適合すればヴェルノム化します。ここら辺のより詳細な設定はいずれ本編で書くか、図鑑等で説明します。

それではまた次回も怪人総進撃にお付き合いください(違


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CHAPTER-2:『REvengerⅡ』‐⑥

 打ち付けるような激しい轟音と共に黒煙が上がった。先程テレビ局のヘリが落下したのは見えたが確かあの辺りには現着したばかりの特殊部隊の増援がいた筈ではなかったか…?彼らは無事なのだろうか、という淡い期待すら打ち砕くほどその黒煙は毒々しく、また無慈悲だった。完全にやられっぱなしだな…と拓務は苦虫を嚙み潰しながら上手く柱に身を潜めながら売店に通じる扉にするりと身を潜らせた。3畳ほどのスペースの狭い売店内部を見渡すとすぐ横に固唾を呑んで周囲に聞き耳を立てている寺坂の姿が、その背後、彼に守られるように4歳くらいの女の子とその父親が今にも決壊しそうな表情で身を強張らせている。

 既にこの状況が始まってから1時間以上、何とか来園者の避難を誘導し始めたのと特殊部隊が二体の怪物相手に攻撃を開始したのはほぼ同時だった。その間いち早く現場に到着していた拓務達は制服組と共に来園者の避難に当たっていたのだが、どう見てもこちらの旗色が悪い事は一目瞭然だ。無線に届いてくる声では小さい方――《バッタヴェルノム》の相手をしていた部隊との通信は既に途絶して久しいらしく、どうやら全滅と判断されたようだ。あれ以降姿を見せていないため、今何しているのかは不明だが少なくともまだこの公園のどこかに身を潜めている事は確からしい。

 一方で巨大な怪物――《幼体カエルヴェルノム》の方は先程から周囲を包囲しての銃撃が行われているが、一向に倒れる気配がない。銃弾が効いていないようだ、という事に気付いた拓務は背筋がゾッとし、隣にいた寺坂は「バケモノかよ…」とぼそりと漏らした。

 

 ここにいても埒が明かないな、と拓務は思った。あらかた都民の避難を完了させたと思った矢先、ここにいる少女と父親がいる事に気付き、駆けつけたのは良いもののその時にはもう特殊部隊の攻撃が始まっていた。それ以降なんとかこの親子を避難させるタイミングを見計らってこの売店内に隠れている訳だが、こんな事態になって既に30分以上が経過するがこれ以上は幼い子どもの精神が持たないな…。明らかな恐怖が浮き出た少女の表情にと拓務は危機感を覚えた。

 とはいえ既に逃げ道はないに等しい。駐車場方面は先程ヘリが墜落した辺りで正直言って危険だ。その手前の公園管理事務所に避難する手も考えたがそれをするには現在戦場となっているエリアを突っ切るに等しい。自分と寺坂だけなら無問題でも民間人にそのリスクを負わせるわけにはいかない。せめて小舟か何かで海に出た方がまだ安全な気さえする…と半ば自棄になってそんな考えに思考が行きかけた時、ふと頭の中で閃くものがあった。海…?

 

「おい、マップかなにか出せるか?」

「え…?あ、はい出せますけど…」

 

 突然声を潜めてそんな事を問い質してきた拓務に寺坂は一瞬怪訝な表情を向けたもののすぐに気を取り直したように自分のスマホを取り出して渡してくれた。因みに自分のは混乱の最中で紛失したようだ。スマホ上のマップを表示するとGPSで自分達の現在地が表示される。公園内の売店の上で止まっている青い点が俺達だ、そこから周囲を検索し、お目当ての情報をピックアップした。これはひょっとしたら行けるかも知れないな…と乾いた唇をそっと舐める。

 

「お父さん、次私が合図したらここから避難します。ついてきてくれますね?」

 

 携帯を寺坂に返しながら拓務は目の前の親子、その父親の方に声を掛けた。父親は驚いたような不安なような、それでいて僅かに安堵したような表情で拓務の言葉に目を見開いた。スマホの画面を見ていた寺坂もどうやらこちらの思惑を察したらしい、神妙な顔で頷いた。こういう時勘のいい奴で助かる。

 

 今の状態では避難経路は一つしかない。文字通り海の上を行く道だ。

 勿論本当に海原に乗り出そうと言うのではない、この潮風公園は大雑把に分けて二つのブロック、今拓務達のいる太陽の広場と船の科学館を有する噴水広場に分けられる。本来ならこの二つのエリアは橋で繋がっているのだが、現在は老朽化のため改修中となっている。だがまだ人が通れないだけで仮組用の足場くらいは設置されている可能性があるし、何より首都高湾岸線の東京湾トンネルがちょうど真下を通っているのだ、今は作業員以外は立ち入り禁止になっているが、上手く潜り込めればそのまま噴水広場方面まで抜けられる可能性はある。ちょうど特殊部隊の作戦行動エリアとも被らない位置にあるため、抜けるにはここしかないと思った。

 

「…わ、分かりました…お願いします…」

 

 やはり正体不明の怪物が暴れ、銃弾が飛び交う外に出るのは尻込みするようだ、父親は不安そうな眼差しを向けたが、自分以上に不安に呑まれそうになっている我が子を見て覚悟を決めたのか、ややぎこちないながらも頷いて見せた。

 

「よぉし…じゃあ行くよ?大丈夫、俺達が絶対に守るから」

 

 外に出るの、と怯えたような色を浮かべた少女に寺坂が笑いかけて、その小さな頭をそっと撫でた。それでも少女の顔色は完全には晴れはしなかったが、目の前で彼がぎこちなくサムズアップを決めるとその口元が微かに安堵の形に変わった。こういう時意識して人を安心させる事が出来るのは自分にはない、寺坂克己という男の才能だな、と拓務は思いながらジャケットの内側を探り、その中にあるリボルバーの感触を確かめた。いざとなったらコイツに頼る事になるが…と気を引き締めた。臆するな、俺は警察だ。寺坂のように人懐っこく振る舞うのは苦手でも市民のために戦う事に掛けては躊躇いはない…。

 

 まず拓務が先行して売店のドアをそっと開けた。視線を太陽の広場方面に向けると依然として怪物と特殊部隊の一団が戦いを繰り広げていた。その距離が100メートル程度しか離れていない事に改めて気付き、拓務はヒヤリとしたものが背中に伝うのを感じた。おまけに先程より心なしか怪物の動きが激しくなっている気がする――いや恐らく気のせいではないだろう、事実奴の周囲を取り囲んでいる特殊部隊の数が少し前に確認した時より減っており、周囲に体を投げ出しているのが確かに見えた。あの怪物が明らかに先程より凶暴になっている、確証はないがなんだかそんな気がした。

 拓務は特殊部隊の方を見る。彼らは命を賭して正体不明の怪物と闘っているのに自分はこの場から離れる算段をしている…という罪悪感が一瞬脳裏を掠めたが、拓務はすぐにそんなそんな場違いな迷いを振り切った。自分達にも逃げ遅れたあの親子を早く安全な場所に避難させなくてはならない、特殊部隊の隊員達が自分の仕事を全うしているなら俺達が自分の仕事をしなくてどうする、と弱気を蹴り飛ばすと今度こそ売店のドアを再び開け、親子と寺坂に行くぞ、と合図した。父親も覚悟を決めたように頷くと少女を抱えて立ち上がり、寺坂は拓務と同じようにリボルバーを取り出すと殿に付いた。

 

「成澤さんが先導お願いします、後ろは任せてください」

 

 リボルバーの様子を確かめながら寺坂は不敵に笑ってそう言った。後輩に危ない橋を渡らせるのは忍びなかったが議論の時間が惜しいため、ここは素直に従う事にした。拓務は親子の手を引いて建物の裏手に回った。周りの木々もあって意外と身を隠せる場所は多いし、工事関係者用の入り口までざっと60メートル前後、よし行けると確信し、動き出そうとした――その刹那。

 

 少女が背負っていたリュックサック、その横にぶら下がっていた防犯ブザーの紐が切れたらしい。地面に叩きつけられた拍子にスイッチが入ったらしいそれがけたたましい高音を鳴り響かせた。

 拓務は心臓が飛び出すような感覚を覚え、咄嗟に怪物の方を見た。児童の安全のために設計されたブザーはそれなりの距離まで届く。まさか奴に気付かれてはいまいか…!ここから100メートルと離れていない場所に位置する怪物の方に目を向けた時、最悪な事にこちらに気付いたらしい《幼体カエルヴェルノム》と目が合った。

 

 怪物の目はどこか人間のそれを想起させる色をしていたが、同時に爬虫類か何かのように濁った凶悪な色を宿していた。()()()()()()()()、と拓務の背筋に怖気が走った。重度の薬物中毒によって僅かに残っていた理性が消し飛んだ人間の目に似ていると思ったのは一瞬で、それが即ち危険なものである事を確信した拓務は躊躇わず親子に向かって「走れ!」と叫んでいた。

 

 呆然としている父親の表情をじれったく思い、その手を掴んで意地でも走り出した。敢えて後ろは振り向かないようにしたが先程チラッと見えた背後ではこちらを捉えたらしい怪物が走り出したのが見えた。マズイな、逃げられるか――?焦燥に駆られながらそんな考えが過った直後乾いた轟音が木霊した。風に乗ってきた硝煙の臭いに背後を振り返るとリボルバーを構えた寺坂が怪物と拓務達の間に仁王立ちしているのが見えた。

 

「行ってください、ここは俺が…!」

 

 覚悟を決めたように寺坂が叫ぶ。拓務がしかし…と躊躇っている間に銃声に反応したらしい怪物が雄叫びと共に走り出した。巨体に似合わぬ俊敏な動きに一瞬絶句したが寺坂は全く怯む事無く二発目のリボルバーを発射した。

 その音から数瞬遅れて怪物の動きが止まった。同時にその頭部からパッと赤黒い花が咲いたように何かが飛び散った。それが怪物の血だと悟ったのは奴が右目の辺りを抑えて苦し気な咆哮を上げたからだ。やけに人間臭い声だな、と場違いな感想を抱いたのも一瞬、拓務はこれは好機と捉えて、素早く親子の手を引きながら今度こそ走り出した。工事用入口を蹴り倒して無理矢理中に入る。案の定工事用の資材が積み重ねてはあるが十分通れるだけのスペースがあった。

 

「行ってください、ここを出れれば湾岸署の方に出れます。そこで保護して貰って、良いですね?」

 

 言い聞かせるように父親にそう言い聞かせた。彼はやや躊躇うような顔をしたが拓務の表情と娘の顔を交互に見渡すと申し訳なさそうに「ありがとうございます…」とそう呟いて踵を返して行った。

 

 本当はこのまま先導するのが警察の責任なのだろうが、寺坂を残してはいけないし、怪物をあちらに寄越す訳にはいかない、やはりここは俺達が食い止めるしかないんだ。そう覚悟を決めて拓務はそこら辺にあった資材で素早く出入り口を塞ぐと寺坂のいる方に走り出そうと振り返ったその刹那――ほんの数十メートル先、片目から血を噴き出しながら雄叫びを上げる怪物とその視線の先で尚も拳銃を構える寺坂の姿が映った。迫る《幼体カエルヴェルノム》に対して寺坂は拳銃を撃って応戦するが、先程のように運よく急所を掠めることはなく、その皮膚に虚しく弾かれる。それでも引き下がらない彼に対して怪物は五月蝿い羽虫でも追い払うように――広げた右掌を彼に向けて振り下ろす――。

 

「逃げろっ、寺坂…!!」

 

 拓務はあらん限りの声で絶叫した。その声で寺坂は自分の存在に気付いたらしい、一瞬こちらを振り返ったその顔は存外晴れやかだった。

 

「なんで戻って来たんスか…?」

 

 呆れたような表情で彼はそう呟いた――気がする。その後の一連の光景は拓務の目には酷くスローモーに映った。直後怪物の大きな掌が文字通り寺坂の体を叩き潰し、水風船か何かが破裂したかのように辺り一面に真っ赤なモノが撒き散らされた。それはやけに生暖かい温度を以て飛散し、十数メートル先にいた拓務の頬とワイシャツを汚した。

 怪物が満足したかのようにゆっくりと手を上げた。掌に掛かった粘度のある液体が滴り、その真下には圧力で圧し潰され、軟体動物の死骸のようになった見慣れた姿が――!

 

「うおぉおぁあぁあああああぁぁぁぁぁあぁぁぁぁっっっ!!!」

 

 喉が破れ、血が飛び散るかのような凄惨な呻き声が木霊する。それが自分のものだと気付いた時には拓務はもう両手に携えたリボルバーを発射していた。しかし放たれた弾丸は怪物の皮膚を貫通する事無く肩の辺りに当たって跳ね返った。怪物は蚊に刺された程度の表情で拓務の方を一瞥する。先程寺坂の拳銃で穿たれた筈の右目すらも既に血が凝固してさほどのダメージにすらなっていないようだ、その事実がますます拓務の心を逆撫でした。

 

「この…バケモノがぁぁっ…!」

 

 マグマのような怒りと憎しみに駆られて拓務は引鉄を立て続けに引いた。だが精神力が銃弾の威力を向上させるなんて漫画みたいな出来事がある筈もなく、結果は変わらない。怪物もいい加減鬱陶しくなったのか、右の拳を握り込むと先程そうやって寺坂を叩き潰したように拓務に向けてそれを振り下ろしてきた。

 

 だが怒りで頭に血が上っている拓務にはその動きがやけに鈍く見えた。自分でも驚くほどの勘の良さで即座に飛び退き、怪物から距離を取ろうとした。だがその巨大な拳を避けたと思った次の瞬間台風でも吹き荒れたかのような風圧が拓務に殴りかかってきた。怪物の拳が地面を抉り、その衝撃波が襲い掛かったのだと分かった時には拓務の体は木の葉のように吹き飛び、その先にあった木々に激しく叩きつけられた。

 

 その反動で内臓に傷を負ったらしい、口から赤い鮮血が呼気と共に吐き出された。電波の乱れたテレビのように激しく明滅する視界の先に今度こそ仕損じた獲物に止めを刺そうと怪物がゆっくりと歩を進めて来るのが見えた。

 

 …どうやら俺もここまでらしい。ハッキリしない意識の中でそう思い、実際今にも途切れそうな意識の中でそれでも拓務はここで終わってたまるか、そう峻烈に思った。

 

 目の前の怪物がナニモノなのかは知らない、だがコイツを放置すれば被害を被るのは間違いなく罪もない無辜の市民であり、彼らを守るための警察官達も否応なしに傷ついていくと言う事だ、そんな事は断じて容認は出来ない。

 口元や額から血を噴き出しながらも拓務は木を支えにして立ち上がる。目の前の怪物を睨みつけ、再び銃口を向けた。

 

 だがその直後こちらと対峙していた怪物の動きがピクリと止まった。撃ち抜かれていない左の眼が僅かに揺れた。

 なんだ一体――?血が抜け茫洋とする意識の中で拓務は思った。まさかこちらの気迫に気圧された、なんて漫画みたいな事態ではないよな、と考えている間に怪物は周囲に目をやった。その視線が潰された寺坂の遺骸を認めてピクリと止まるとその巨体は明らかに動揺したようにワナワナと震えだす。目の前の現実を受け入れられないように頭を振り、やがて自分の右掌に行きつく。そこにべったりと貼りついた赤い血糊を認めると口元から小さく声を漏らした。

 

「―ゥゥう…」

 

 苦しんでいるようなその声色に拓務は訝しんだ。怪物はその事実を拒絶するように頭を掴む。その行為で頭部の傷が開いたのか再び右目から重油のような黒い血が溢れ、怪物の掌を濡らし、既にこびりついた寺坂の血と混ざっていく。赤と黒のまだらに染まったその手を見つめ、怪物がやがて決壊したように叫んだ。

 

「――ウ〝ア〝ァ〝ァ〝ァ〝ア〝ァ〝ァァァァ!!!あ〝あぁぁあぁぁぁぁぁっっっ!!!」

 

 ただの獣の咆哮とは違う、もっと根源的な所で人間臭い、更に言えば目の前の苦しみ、罪の意識に叩きのめされた人間が発する悲痛な叫びだ。以前取り調べの際に深く、自分の行いを悔いていた犯人は全てを洗いざらい吐いた時にこんな声を出していた。その事に拓務は愕然とする、何なんだコイツは…そんな声を出したら()()()()()()()()じゃないか――!

 

 怪物は膝をつき、懊悩するように体を縮こまらせた。両手で頭を抱え、自罰するかのように付近の木に体を打ち付け始める。その衝撃と嘆きの声が空気を震わせた。

 

 そして異変は始まった。怪物が身を縮まらせるようにしたと思ったのと同時に全身から急速に冷気のようなものが発せられ始め、それに呼応するようにその体が収縮していく。黒い皮膚は人に近い肌色に染まり、特徴的だった尻尾はアポトーシスのように体に吸い込まれていく。

 冷気が完全に収まったと思った時、果たしてそこに倒れ伏していたのは痩せ型の人間――それも間違いなく男の姿だった。目の前の光景に拓務は本日何度目かの異常事態に目を見開く。怪物だった男は呻くように体を震わせながら、片方が潰れた目で救いを求めるかのように拓務を見ている。頬のこけた坊主頭の青年だった。どこか不健康そうな印象のあるその顔立ちにどこか見覚えがあるな――と思ったのはほんの僅かの事で次の瞬間、青年は糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。

 

 なんなんだ本当に――。すぐに目の前の事態が呑み込めず、呆然とその光景を見ていた拓務だったがすぐに我に返ると痛む体を無理矢理にでも引きずって青年の傍に駆け寄った。その体を起こし、素早く生死の確認を取り、どうやら生きているようだと息を吐いたのも束の間、青年の顔を改めて見やった。見た所20代前半くらいのようだ、ぐったりとして動かないその顔を一瞥し、やはり知っている顔だなと確信を改めて持った。そんな事を思っていると先程まで怪物と交戦していた特殊部隊の隊員達3人が拓務の元に駆け寄ってきた。一人は脚を引きずっており、もう一人は肋骨の辺りを抑えながら隊員の一人を抱えている。どうやら生き残りは彼らだけらしい。

 脚を引きずっていた男が拓務の方に来るとその顔を覆うマスクとゴーグルを取り払った。30代半ばと思しきその男も目の前の光景が信じられないらしい、ハッキリと戸惑いの色を浮かべながら拓務と青年の顔を一瞥した。

 

「な…何がどうなってるんだ…?俺にはあの怪物が縮んで人間になったように見えたんだが相違ないか…?」

 

 確かにそう見えたのだが目の前で見ていた自分自身未だに信じられないのは確かだ。拓務は恐らく、と曖昧に頷いた。とにかくこの青年に話を聞いてみなければならないな、と思い立った拓務はとにかくここを退こう、と示して青年を背負った。脚を引きずってる隊員も手を貸してくれた。

 だが目の前の異常事態に気を取られている時こそ、注意が散漫になりやすい。だからこそ木々の間を縫って駆け抜けてきた影に気付きのが遅れた。何かの気配を察知した時には既に《バッタヴェルノム》が飛び出し、肩を支えてくれていた隊員の体を切り裂いていた。

 

 もう一体の怪物か――!目の前の事態に気を取られてその存在を完全に失念していた己の迂闊さを拓務は呪った。素早く拳銃を抜き放ち、《バッタヴェルノム》に向けようとしたが向こうの方が早かった。その鋭い爪がギラリと閃き、銃口ごと切り裂かれた。なんという力だ――戦慄する拓務の反応を隙の付き、怪物は鋭い爪を以てして今度は自分を切り裂こうと腕を振り上げた。

 

「さぁせるかぁぁぁぁっっっ!!」

 

 しかしその貫手は最後まで果たされる事はなかった。横合いから特殊部隊の隊員が渾身のタックルを《バッタヴェルノム》に浴びせてきたのだ。僅かにその体が傾いだのを見逃さず、もう一人の隊員がその胸板に持っていたサブマシンガンを押し付けた。

 

「これでも…喰らえぇっ…!」

 

 直後至近距離で放たれた弾丸がその体に残らず、吸い込まれ《バッタヴェルノム》は激しく吹き飛んだ。しかしてそこまでやってもなお致命傷には至らないらしい、胸部から血を滴らせながらも怪物はすぐに空中で態勢を立て直し、地面に着地してみせた。だがその直後その怪物の足元にリンゴ大の大きさをした丸い物体がゴロリと転がった。それがなんなのか認識するより前に「伏せろ!」の怒号と共に隊員が覆いかぶさり、それに一拍遅れて劈くような轟音が耳朶を貫いた。

 

 閃光音響手榴弾(スタングレネード)か――。暴徒鎮圧に特化した強烈な閃光と160デシベル以上の大音響によって一時的に敵をショック状態に陥れる非致死性爆弾を使ったのだと悟った拓務は咄嗟に目を瞑り、指で耳を塞いだ。それで相殺出来るようなものでもなかったが光が消え去った後になんとか体の反応を調べてみれば何とか立ち上がるぐらいの事は出来るようだった。上に覆い被さった隊員は即座に拓務から飛び退くと爆心地点――即ちそこにいた《バッタヴェルノム》に向き直った。

 

 流石に至近距離でまともにスタングレネードを食らったのは如何な怪物と言えど堪えたらしい。むしろなまじ常人より視覚や聴覚が鋭敏なのかかなり効果があったようだ。好機、と隊員達2人は即座に各々が持っていたサブマシンガンとピストルを構えた。拓務も音響のダメージを振り払って立ち上がると手に持ったリボルバーの銃口を《バッタヴェルノム》に向ける。

 

 今なら奴は無防備だ、一斉射撃でここで仕留める――!

 

 全員が同じことを考え、一斉にトリガーを引き絞った。

 

 だが次の瞬間――!

 

 そうして放たれた弾丸だったが、怪物に命中する直前になって上空から急降下してきた物体に命中し、全て遮られる事になった。本日三度目となる闖入者の姿に拓務と隊員達は絶句した。その姿は――またも人間ではない、新たな怪物だ。

 

 一見すると翼を袈裟懸けに纏ったような意匠が目に付く――さしずめ鳥人間と言った所か…。まだこんなのもいたのかよ…と一同は歯噛みした。まるで怪獣映画のように次から次へと異形の怪物たちが現れるこの状況は一体何が起きているんだと思わずにはいられない。

 鳥人間――《モズヴェルノム》はゆっくりと拓務達の方に左手を掲げた。何か来る…と身構えた直後、だらりと持ち上げたその手が開かれた。まるで止そう、とそう言っているように見えた。明らかに人間らしい挙動に一同が戸惑っていると鳥人間は《バッタヴェルノム》の方に向き直った。

 

「退け。これ以上の事はこちらとしても許可出来ない…だそうだ。」

 

 喋った――。その事実に拓務達は愕然とした。目の前で巨大な怪物が突然人間の姿になった事も驚きなら、それとは別の怪物は今度は流暢に日本語を操ってみせたのも驚きだ。まさかコイツ等の正体は人間だとでも言いたいのか…その可能性に一同は戦慄する。

 

「おいおい…そう急くなよ…せめてここにいる奴らだけでも全員始末しとかないと…だろう?」

 

 やはりというか《バッタヴェルノム》もそう口を開いた。怪物の声は分かりにくいのだがなんとなく鳥の方が年配なのに対してコイツは若い男の気がする、とそう感じた。

 

「ふん…お前の勝手のせいで既に全国ニュースだ、今更機密もヘチマもない。第一…もう何の意味もない…」

 

 憤然と呆れたように《モズヴェルノム》は息を吐いて明後日の方向をチラリと見やった。その意味ありげな仕草に拓務達と《バッタヴェルノム》もその先に視線を向けた。轟音と共にそれが飛び込んできたのは次の瞬間だ。

 

 船の科学館方面、先程親子を逃がした辺りの入り口から工事現場の壁を粉砕してそれは飛び込んできた。先鋒を務めたそれは漆黒に塗装された大型車両、そして後方から続く形でそれよりは僅かに小さい装甲車両が二台。それらが怪物たちを包囲するように陣形を組んで停止すると共に新たな特殊部隊隊員達が一斉に降車し、サブマシンガンを構えた。一瞬警察の対テロ特殊車両とその部隊かと思ったが、立ち振る舞いも威圧感も明らかに日本警察のものではない。

 

「お前たちは完全に包囲されている。言っとくが逃げ場はないぞ…」

 

 警察車両の外部用無線機のスイッチが入ったらしい、戦場に男の声が響いた。この声は照原警視正か…と拓務は思った。よく見ると特殊部隊の先陣に立っているのは深町マリアとか名乗っていたあの女だ。

 

「流石にこの数を相手にする暇はない。分かったらさっさと退くぞ」

「ちぇっ…仕方ないか…」

 

 肩を竦めながら《バッタヴェルノム》が腕白小僧のようなリアクションを取る。それと同時に上空からもう一つの影が飛来する。先程テレビ局のヘリを叩き落としたバケモノ――《ドクガヴェルノム》だ。そいつは二人の怪物の間に着地すると威嚇するように周囲を睨みつける。これでこの場に集った怪物は計3体、意識を失っているあの青年も含めれば4体か…。凡そ現実とは思えない、映画のような光景に拓務達は固唾を呑んだ。

 

(土枝)は私に任せろ…。合流ポイントは《レイス》から指示がある」

「…アイツまで動いてるのか…仕事熱心なこった…」

 

 会話から察するに逃げる算段らしい、しかもどうやらこの包囲網を逃げおおせる気でいるようだ。随分舐めた態度だ、と彼らを包囲する特殊部隊の中に微かな苛立ちの気配が立ち込める。「そんな事が出来ると思って?」深町が鋭い声を投げ掛けた。

 

「言っとくけどこれで全力だなんて思わない事ね。貴方達は殺しすぎた…ここから先はお目こぼしは効かないわよ?」

 

 その声に呼応するように彼女の盾になるように隊列を組んでいた隊員達が一斉に銃を構えた。それは明らかに警察が所有するレベルのものを超えている、軍用のアサルトライフル…明らかにこの国においては「攻撃的」に過ぎる代物だ。それを構える彼らの動作にも一切の躊躇と迷いがない、命令があれば捕縛だの確保だのそんな小難しい事は一切考えず標的を殲滅する事を厭わないだろう。

 

「なるほどな…面白い…!」

 

 《バッタヴェルノム》のその異形の相貌を崩すようにほくそ笑んだ――気がした。その次の瞬間、その体から冷気のようなものが放たれ、急速に気が抜けるように萎んでいくように見えた。先程の巨大な怪物の時と同じだ、まさか――拓務がそう思った時には《バッタヴェルノム》の姿は消え去り、怪物達の中心には一人の青年が佇んでいた。特殊部隊はおろか深町や怪物達でさえ一瞬何が起きたのかを認識出来ずに呆気にとられたような視線を目前の人物に注いだ。

 

 怪物の姿からは想像もつかない、どちらかと言うと線が細く若い男だった。やや眦の下がった瞳にいっそ中性的でさえある整った造作は口元に柔和な笑みを浮かべている。その姿に拓務は息を呑んだ。少し前に深町が捜索を依頼してきた人物――写真に写っていた姿よりやや年月を経ているような気がするが――山城幹斗に相違なかった。

 

「…なんのつもり?人の姿になれば私達が撃たないとでも?」

「まさか…。アンタにそんな殊勝な心掛けは期待してないよ…アンタの子飼い共はどうだか知らないけどな…」

 

 目の前に佇む、いっそまだ少年とさえ形容できそうな男の挑発的な姿勢に深町は一瞬たじろぐような表情こそ見せたが、強硬な姿勢は揺らがないようだ。だが彼女の周囲に立つ特殊部隊の方は別だ、異形の怪物が明らかな人の姿に変わった事に動揺を隠しきれないようだ。深町はグッと唇を嚙みしめた。

 

「…それに…陸地にばっか気を取られすぎじゃないか?周りがお留守なのは良くねぇな…」

 

 嘲弄的な笑みを浮かべながら幹斗は指を海の方に向けた。なんだ、と釣られるようにその指先に目を向けた拓務と深町は思わず息を呑んだ。中型クラスのプレジャーボートがここから600メートル程の距離にてこちらに側面を向けて停泊していた。個人所有と思しきフィッシング船だろうが後部のスターンデッキに乗り込んでこちらを見ている一団が迷い込んだ民間人な訳がなく、大方意図的にボートを拝借して様子を窺おうとしているマスコミとか配信者の類だろう。あの距離ならこちらの様子はばっちり捉えた事が出来た筈で恐らく人間としての姿を晒した山下幹斗の事もばっちり見ていた筈だ。恐らく上空に封鎖令が出たか何かで現場を見れなくなったから、それなら海から…とでも考えたのだろうがそれにしたって迂闊にも程がある…!

 

「全く…この国の連中はああいう奴らに甘すぎよ…」

 

 唾棄するように深町が紅い唇を歪めた。対照的に幹斗の方はさも可笑しそうに微笑み、「良いじゃないか、これで俺達は楽できる」と呟いた。

 

 次の瞬間、それが合図だと言わんばかりに《モズヴェルノム》が動いた。その体が一回り程大きくなったと思うと両腕を巨大な翼に変形させ、同じく鳥そのものになった肢で倒れている青年――土枝健輔の体を掴み、飛び上がった。凄まじい風圧が拓務達に襲い掛かり、それと共に幹斗に脚を掴まれた《ドクガヴェルノム》も飛び立っていた。

 

「逃がすか…撃てっ…!」

 

 ふわりと飛び上がった異形達を睨みつけながら深町が叫び、当然それに応えて特殊部隊達は携えたアサルトライフルを発射した。迷うことなく生身の山城幹斗の方に放たれた鉛弾は本来なら一瞬でその華奢な体をズタズタに引き裂く筈だったが、残念ながらそれらは彼に到達する前に素早く前方に割り込んできた《モズヴェルノム》によって全て防がれた。脚に抱えた健輔をしっかり守りつつ、その巨大な両翼で弾丸を全て受け止める。その強靭さに一同が戸惑いを覚えた隙をついて《モズヴェルノム》は翼をはためかせ、自身の弾丸――鉄の如き強度を持つ羽を地上に向けて発射した。

 強烈な旋風と共に放たれた羽弾は音速の速さを以て隊員達に襲い掛かった。深町も含めた何名かは咄嗟にジェルラミンシールドに体を沈めて、その驟雨から身を守ったが対応しきれなかった者達は無慈悲にボディアーマーごと体を貫かれた。なんとか身を守った隊員達が即座に攻勢に転じようとした時には二つの空飛ぶ異形は東京湾の方に飛び去り、件のプレジャーボートへと襲い掛かっていた。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 呑気にこちらを凝視していたプレジャーボートまでの距離は凡そ600メートル程、《ガロ》の飛行能力を持ってすればほんの僅かな隔たりでしかない。その細い肢に掴まったまま一気に海上を駆け抜けた幹斗は十分な位置に近づいたと思った瞬間一気に体を跳躍させて、プレジャーボートの後部甲板に降り立った。船に乗員は操舵主も含めて3人、元々人が数名乗れば満員レベルの狭い甲板に人が着地すれば動転は必死で元々乗り合わせていた男達――持ってるカメラがマスコミのものにしては些かちゃちなものなので恐らく配信者の類か――はいきなりの闖入者の登場に面食らったのか、揺れる船体に掴まりながらもこちらを凝視していた。それはそうだろう、向こうの様子はこちらからばっちり捉えていた筈で、つまり彼らの目線ではバケモノが突如人間になり、それが別のバケモノに掴まって自分達のボートに飛び乗ってきたという事になる。あまりの事態に声も出せず御池の鯉よろしく口をパクパクさせている男の胸倉を掴んで、無理矢理引き起こすと彼の持つカメラを覗き込んだ。

 

「コイツは録画か?それとも生配信?」

「な…なんなんだよお前は一体…」

 

 事態が上手く呑み込めないのか男は四の五の言っていたが幹斗が指をぱちりと鳴らすとそれを合図に《ドクガヴェルノム》が操縦席の屋根に着地し、威嚇するように唸り声を上げた。答えないとコイツをけしかける、と言外に告げた意図を察してくれたようで男は「…ライブだ」と低く呟いた。幹斗はその返答にニヤリとする。つまりこの状況は今頃全国に筒抜けという訳だ、話題のためなら危険も辞さない今の動画配信者達には心から感謝しよう。

 

「ちょうど良いな、今から俺が言う事流せ。一字一句漏らすなよ?」

 

 カメラを構えていた男とパソコンを弄っていた男、それに操舵主の3人は一様に困惑した顔になった。配信にいきなり割り込んできた怪物人間の要求を聞くべきかなんなのか考えあぐねてるようだ。やがてノートパソコンを動かしていた男が恐々と「アンタ何者だよ…」とぼやいた。

 

「山城幹斗。またの名を《スカルマン》」

 

 カメラを持っている男の顔が凍てついたように固まった。恐怖、混乱、困惑、興味…様々な感情が去来しているであろう事が窺える。日本を騒がす稀代のテロリストになにか協力したら警察から睨まれるのではないか、そもそもコイツが本当に《スカルマン》なのか、コイツは本当に人間なのか、いやそれでも脅されたという事にして応じれば良いのではないか、上手くいけば配信が相当盛り上がる筈だ…とか今頃恐怖と理性と下心で皮算用してんだろうが…。

 

「何する気だよ…」

 

 やがて諸々観念したのか男がおずおずとマイクを差し出して、カメラをこちらに向けてくる。話が早くて助かるよ、と幹斗はニヤリと嗤うとカメラを覗き込んだ。視聴者の反応がリアルタイムで伝わってくるらしい、横でパソコンを視聴していた男が興奮したように息を吐いた。ならもっと興奮させてやるよ、と幹斗は意気込んでマスクに向かって声を張り上げた。

 

「俺はの名は《スカルマン》。せっかくだから宣戦布告といこうじゃないか、仮初の平和に浸る退廃の街よ…。あかつき村の一件は終わってない、俺達は帰って来たぞ、《ヴェルノム》としてな!」

 

 あかつき村、というその単語に男達も意表を突かれたように身を竦ませた。まるで幽霊でも見るかのようなその視線に少しばかり溜飲が下がった気がした。幹斗は猶も続ける。

 

「あの件は決して不幸な事故なんかではない。全ての事は意図的に引き起こされ、俺達村の住民はそれを隠匿するために死亡扱いとなった…。俺達は生きてる、それが真実だ。そして今のこの世界は嘘で塗り固められた秩序の上に立つ紛い物だ!」

 

 恐らくこの動画を見た所で大半は本気になどしないだろう。神樂の奴らは一斉に噂を揉み消しにかかるだろうし、怪物の存在は別としてもこんな非現実的な話をすぐに鵜呑みにするほど、世間というものも甘くはない。だが今はそれで良い、投げ掛けられた波紋は確実に広がり、やがて全体に広がっていく。

 

「宣告してやる。《スカルマン》最後の大舞台だ、3日後始まりの地でもう一度花火を上げる。止められるものなら――止めてみな…!以上、配信終わりっ!」

 

 言うが早いが幹斗は即座に自分を映していたカメラを掴むと海に放り投げた。それで配信は途絶したらしい、画面を見ていた男が「あぁっっ…!」と情けない悲鳴を上げた。これで良し、後は野となれ山となれだと心に整理を付けると船に乗る三人の男達の方をぐるりと見渡す。彼らは一様に顔を青くし、怯えの色を浮かべていた。頼む殺さないで…戦慄いた口元からそんな声が漏れたように聞こえた。次の瞬間男達は幹斗に瞬く間に胸倉を掴まれ、悉く機材ごと海の上に放り出されていた。

 

「ケーサツに拾ってもらいな、それじゃどうもありがとう!」

 

 海中から顔を上げてなにやら抗議の声を上げている男達に軽くウインクすると幹斗は船を始動させた。船が走り出したのと同時に飛行形態を解除した《モズヴェルノム》が健輔を抱えたまま、後部甲板に着地してきた、と思った次の瞬間にはその姿は千鳥のものに戻っていた。鋭い眼光を歪ませ、呆れたと言わんばかりに呟く。

 

「今度同じことやったら頭の形が変わる程殴ってやる。分かったな?」

 

 俺は本気だぞ、と顔中で語るその様が実に可笑しくて幹斗は思わず声を出して笑った。駆け抜ける潮風の如く、実に清々しい気分だった。恐らくあの御方(バカ)も今頃パニックに陥っているだろうし、《ナイトレイス》の反応も実に気になる所だった。この先も様々な面倒が待っているだろうが今はこれで良い、俺を縛り付けようとする《ラスプーチン》からも俺を殺そうとする“神樂”からも今は自由だ、それが何よりも心地良い。

 

「賽は投げられた…。さぁ俺を止めに来いよ、柚月…哲也…!」

 

 離れていく東京の街並みに目を向ける。きっとあのどこかにいるであろう二人に向かって幹斗は叫んだ。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

「逃がすな、海上警察に協力を要請するんだ!」

 

 プレジャーボートに乗り込んだ山城幹斗が何かやっていたのかは分かったが、そこから1分もかからずに船は元々乗り込んでいた乗員を放り出すと脱兎の如く発進し出した。途中で鳥の怪物も合流し、瞬く間にその機影は遠くなっていく。逃がしてなるものか、と照原警視正が声を張り上げているが、果たしてそう上手くいくだろうか…と拓務はうっすらと思った。

 検問を敷くなどすれば陸路の封鎖は容易いが相手は船だ。このままバカ正直に東京湾の外に遠洋航海に赴く筈などなくなく絶対にどこかで水路や河川に逃げ込むと考えられるし、生憎と東京はそのための運河や河川が死ぬほどある。おまけにアイツらは飛べるのだ、適当な所で煙に巻いたらそのまま空におさらば、なんて事にもなり兼ねず、そうなったら航空警察でも導入しなければ探索は難しい。ある意味やられたな、と歯噛みする。

 

「ええいっ!」

 

 不意に苛立たし気な声が静寂を破った。見ると忌々しそうに深町マリアがヘッドセットを放り捨て拳を震わせている。というより単に癇癪を起して八つ当たりしているようにしか見えないその姿に不意に拓務はむらりと反感がこみ上げてくるのを実感した。

 思えばこいつらは終始何かを知っているような感じだった。歯抜けにした参考人とやらを探せという怪しい任務を仰せつかったと思ったらその内の一人が怪物となって現れ、この惨事を引き起こした。ひょっとするとコイツ等は何か知っているのかも知れない、《スカルマン》も怪物も、とにかくこの1から10まで何もかもが訳の分からない事態の裏にある得体の知れない物の正体を。

 

 理性が根拠のない類推で、仮にも上の人間に噛みつくのは寄せと目一杯叫んでいたが構うことはない、元よりこちらは同僚を殺されて苛立ってるんだ、と激情に身を滾らせながら、拓務は深町の方に歩み寄るとその細い両肩を掴んでいた。ハッと振り返ったその相貌に「何がどうなっている!?」と叫び散らしていた。

 

「お前らは何を隠しているんだ!?あの山城とかいう男が怪物に変身する事も知ってる風だったな、奴は《スカルマン》となんの関係が――」

「奴が――山城幹斗が《スカルマン》よ、それは間違いなく…!」

 

 鬱陶し気に拓務の手を振り払って深町もまた吠えた。苛立たし気に髪を掻き毟るその姿になんでか拓務は激情がしおれていくような心地がした。別にコイツの気持ちが分かったとかそういうのではなく、単に綻びを見せた表情に、コイツも同じ組織人なんだな…と実感を得たから、それだけの事だ。

 

「おい、そこまで伝えてしまっては…」

 

 こちらの様子を心配そうに窺っていた照原が気遣わし気に声を投げ掛けたが深町は「良いのよもう…」と諦めたように溜息を吐き、目元を隠していたサングラスを外した。

 

「今更機密もへったくれもないわ…。これ以上の秘匿は無意味だしね…」

 

 最早覆い隠す事など無意味、そういう意思表示のようだった。深町はサングラスの下に隠された青い瞳を拓務に向けた。怜悧な視線は「聞いたら後戻りは出来ないわよ?」という最後の意思確認を求めていた。嫌も応もなく、それが必要な事なら…と拓務は頷いた。

 

「バカね…貴方は…」

 

 仕方ない、とばかりに肩を竦ませた深町は拓務の傍らに目をやった。その視線に追従すると先程拓務と共に戦った特殊部隊の隊員達がどうにか体を立たせながらこちらを見ていた。

 

「ここでは話せないわ…ひとまずここを後にするのが先決よ」

 

 上空から航空警察のものと思しきヘリのローター音が聞こえてきた。ひとまず今の戦災は終結した、いや終わりではないか、むしろここから長い一日になりそうだと思った拓務はそう言えば携帯を紛失したままだった事に気付いた。暫く母にも連絡できそうにないし、あの従弟の事にも気を回してる余裕はなさそうだ、と漠然と思い、溜息を吐いた。

 




とりあえず今回はここまでです。一旦怪人総進撃もひと段落という事で次回は久しぶりに(一応)主人公が登場します。

とりあえず次回以降はこれまで示してきた謎の類が一気に明らかになると思います。お見逃しのなきよう。
それではまた次回。


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CHAPTER-2:『REvengerⅡ』‐⑦

いろいろあって2週間ぶりになってしまいました。
久し振りに主人公(?)が登場します。


『九條梗華です。東京から来ました、よろしくお願いします!』

 

 夏休みが開けて新学期開始早々、先生が「転校生が来る」と開口一番に告げた。それ自体は別に珍しくもなんともない、この村の小学校は元より「地元の子」と「“研究所”の子」の2種類に大別され、後者は結構入れ替わりが激しい。小学校どころか保育園レベルで転校生が来た、逆に誰それが転校していった、なんていうのは昨今のあかつき村では珍しくもない光景だ。その筈だったのだが教室のドアを開けて彼女が――九條梗華が入ってきた時は思わず唖然としてしまったものだった。

 確かに梗華――キョウカは目立つ子だった。東京から来た子なんてありふれているが、やや明るめの毛色もどことなくこじゃれた服装のセンスも子どもながら整った顔立ちも含めて彼女には「垢ぬけている」という表現がよく似合っており、1年坊主共のクラスはちょっとした騒ぎになったものだった。

 かく言う俺も先生がクラスを宥めているのを尻目に少し後ろに座っているミキトの方に視線を転じた。興味なさげに窓の外にでも視線を注いでいるかと思いきや、同じように呆けたような表情で黒板の前に立つ少女に魅入っている友人の姿が目に入り、俺は少しばかり意外な気分になった。但し俺の視線に気付いたのか、ミキトはすぐにバツが悪そうに視線を逸らすと机から本を取り出してそれに無理矢理にでも意識を振り向けようとしたのだった。

 なんだか面白いようなそうでもないような気分になって俺は再び黒板の方に向き直る。そうすると今度はキョウカと不意に目が合った。彼女はすぐに俺と後ろの方にいるミキトの存在を認めたらしい、ひらひらと小さく手を振ってみせた。なんて事ない仕草に何故か気まずいような気がして俺は窓の外に視線を転じた。まだ終わり切らない夏の日差しが眩しい、頬が熱いのはこの熱気のせいだ、そう思う事にした。

 

 

 

『それでね、暫くこっちに居ても良いってお祖母ちゃんが言ったの。だから二学期からこっちに通う事になったんだよ、驚いたでしょう?言ってなかったからねっ!』

 

 新学期の始まりは半日帰りだ。いつもなら俺とミキトと二人でとぼとぼ家路につく訳だが、今回は違った。今日やってきたばかりのキョウカが何故か纏わりついて帰路に付いてくる、という訳だ。こちとら変わり者のミキトの影響もあってほぼ二人でつるむ事が常態化しているため、なんだかこそばゆかった。

 キョウカは元々こっちの子ではない。藤屋敷の魔女、もといお婆さんの孫で夏休みの間にこっちに来ていたのだが、開けて2学期になってもこっちに残る事になったのだそうだ。元々あまり体が丈夫でなく、そのせいで東京ではあまり学校に通えなかったらしい。そのせいか向こうの学校に馴染めず、ますます行きづらくなる、という悪循環に陥っていた彼女を見兼ねたお婆さんが暫く空気の良いこっちで静養させたら、と提案した事が切欠でこっちにやってくる事になったのだそうだ。

 

 あの日シベリアンハスキーのガロがいきなり藤屋敷の庭に飛び込むと言う謎の行動に出た事が彼女との出会いの切欠だった訳だが、あの日以来元々こちらに知り合いのいないキョウカの相手をするために藤屋敷を訪れる事が二人の日課になった。元々お婆さんも足腰が悪くて、買い物に行ったり畑――とは言っても庭先の小さい一角だが――の世話をするのに難儀しているというのもあって来てくれるのはとても助かる、と素直に感謝された。

 特にミキトが嫌がりもしなかったので夏休み中は何となく三人、と互いの犬の二匹で過ごすのが常態だった。遊びに行くにしても元々体の弱い彼女にはあまり無茶はさせられなかったが、そこはミキトの扱いで手馴れたものだったし、都会から来た子の割には田舎の生活や自然に抵抗がないと言う度胸の強さは俺達にはありがたかった。

 そうして夏休みが終わりに近づけばキョウカは自然と東京に帰るものだとばかり思っていたが、本日何故かこうして現れたとなれば驚きもひとしおな訳で…。ずっと二人だけだった家路に新たな輪が加わった事は素直に嬉しい事だったが、それを素直に言葉や態度に現すのはなんだかとても恥ずかしい事のような気がした。

 

 ともあれあまり話さないし、変に大人びた所のあるミキトとの間に明るく溌溂としたキョウカが加わった事は単純に嬉しかったのだ。頭の良い彼女はミキトとも話があったようだし、そんな彼女が手伝ってくれればミキトを部屋から連れ出す作戦も以前よりずっと楽になった。

 ただキョウカはあくまで「暫くこっちにいる」と言った。それがいつまでなのかはなんだか聞く気になれなかった。横で興味なさそうに本を読んでいるミキトも特に尋ねはしなかった。

 

 

 

 暫くはなんて事のない日々が続いた。3人でいる事が日常の一部になり、それがこの先もずっと続くんだと無根拠に思い始めて迎えた冬休み。事態が大きく変わったのは正月が開けてすぐだった。

 子どもにとってはまだ冬休みの真っただ中の1月5日、ブラウン管に映った、一番近い街とは比べ物にもならないレベルの大都会の風景とそこに差し込まれた異様な光景をすぐさま現実のものとは認識出来ずにまるで昨日見た映画みたいな光景だと呑気な事を思った。

 都会の喧騒も事件もこの村にとっては別次元の出来事でしかなく、特に社会の仕組みにすら想像が及ばない子どもの身なら致し方ない事だ。とにかくなんだか知らないがとんでもなくヤバい事が起きているんだと本能的にそれだけは察知した俺はすぐさまミキトの家に走って言った。果たしてその光景を固唾を呑んで見守っていたミキトは俺の顔を見るや否や「これはテロだ」、そう呟いた。

 テロ。確か去年の9月にアメリカのニューヨークに飛行機が突っ込むという事件が起きた時にそんな言葉が飛び交っていた。イスラムゲンリシュギとかシュウキョウセンソウとか聞き慣れない言葉が飛び交う光景を見ながらミキトや父さんはそう言ったが、俺にはあまり理解出来なかった。一つだけ分かったのはこの国で何か途轍もなくヤバい事が起きた、それだけだ。

 だがそのブラウン管の中の光景は決して虚構のフィルムでもなければ自分達には全く関係のない他所の世界の出来事でもなかった。俺達がそれを身を以て知らされるのは次の日の事だ。死者だけで158名という未曽有の被害を出した事件、彼らに何か落ち度があった訳ではなく、たまたまそこに居合わせただけ、というあまりに理不尽な愚行の犠牲の中にはキョウカの両親の名も含まれていたのだ。

 

 キョウカの両親とは年末に会っていた。祖母の元で暮らす一人娘を尋ねに来たウチと違って品の良い身なりをした二人は手紙のやり取りで俺やミキトの事を知っていたらしい。いつも娘と遊んでくれてありがとう、と俺達に大きなケーキをくれた優しい人達だった。東京の方で何か立派な仕事をしているんだ、と藤屋敷のお婆さんは微かに誇らしげにそう教えてくれた。あの優しい人達がもういないのだとすぐには実感できず、俺は居ても立ってもいられず藤屋敷に走った。しかしのその日は家には誰もおらず、冬休みが明けてもキョウカが学校に戻ってくる事はなかった。「白零會」という言葉が世を席巻する中、俺にはキョウカの事だけが気掛かりだった。

 

 キョウカが再び学校に来たのはそれから1か月後の事で――子どもにとってはあまりにも長い期間だ――久しぶりに登校した彼女からは以前のような溌溂さは失われていた。既に彼女の親が地下鉄テロ事件の犠牲者だという事は知れ渡っていて、先生も腫れ物に触るような態度しか取れず、周りも声を掛けあぐねて遠巻きに彼女を見ているだけだった。かく言う俺もその一人だったのだが。戻ってきたらなんて声を掛けようかあれほどシミュレートしてた筈だったのにいざ本人を前にしたらどんな言葉も行動も意味を持たない気がしてきた。そんな自分がただひたすら情けなく、恨めしい。心からそう思った。

 

 そんな折だった。

 

『ほらこれ…』

 

 気まずい沈黙を打ち破るようにどこか気の抜けたその声はしかしやけにハッキリ響いた。目を伏せたままだったキョウカが驚いて顔を上げると何気ない顔をしたミキトが彼女の机の上に一冊の本を投げ落としたようだ。

 

『正月開けたら貸す約束、だった。それだけ…』

 

 それだけ素っ気なく告げるとミキトはもう自分の席に戻っていった。周りは奇異な目を向けたが元々その変人っぷりから何を囁かれても柳に風と受け流すミキトの事だ、気にした風もなく席に付くともう興味をなくしたと言わんばかりに窓の方に視線を向けたが、一瞬少し気にしたようにキョウカの方を、そしてチラリと俺の方を見た。

 ミキトなりの気遣いだったのだろうが、それにしたって迂遠に過ぎるし、あまりにいつもと変わらない態度だと今でも思う。でもそれできっと良かったんだ、直前まで何も映していなかったキョウカの目にほんの微かな色が灯ったように見えた。変に気を遣うでもなく、遠巻きに眺めるでもなく、ただいつものミキトとして接する事が。

 俺はそんなに自然には出来ないなと悟った時、言いようのない劣等感みたいなのが頭を駆け巡ったが同時にそんな些事に囚われる自分がもっとイヤになった。気付いた時にはノートの隅を破り、それに下手な字で書き殴るとそれをスーパーボールに包んで、彼女の机にまで投擲した。狙い違わず、即席ダーツは彼女の机の上にコロンと落下した。急に飛んできたメッセージをキョウカは怪訝な顔で紙を開いて、読んだらしい。その時の顔は見てない、気まずいから。

 『元気出せ』『頑張れ』そんなありきたりで無責任な強い言葉は今は届かない事くらい子どもの俺でも分かる。頭の良くない俺があれこれ余計な言葉で気を回してもヤブヘビになるかも知れないし、さりとてミキトみたいに泰然自若と振る舞える自信もない。だからシンプルに、たった一言だけ、少なくとも一切の偽りのない気持ちを。

 

おかえり

 

 少しだけ気になって顔を上げるとこっちの方を振り返っているキョウカの顔が見えた。少し濡れたように見える大きな瞳とハッキリと視線が絡み合い、俺はまた気まずくなってそれを外した。やはり無神経に過ぎただろうか…なんて思っていると急に頭頂部の辺りに軽い衝撃が加わった。なんだ、と思って見ると先程投げたスーパーボールが紙に包まれて机の上にあった。それが意味するものを理解した俺は一も二もなくメモ紙を広げた。猫のキャラクターが描かれたメモ紙に小さく彼女からの返事があった。

 

うっさいバーカ!

 

 罵倒なんだかよく分からない返事に思わず顔を上げて再びキョウカの方を見ると少しばかりクシャッと顔を歪めて微笑んだキョウカと目が合った。なにやら急速に気恥ずかしくなった俺は咄嗟にノートの切れ端に『バカとはなんだ』と書いて再度即席ダーツを放り投げた――。

 でも何事もやり過ぎは良くない。力みすぎたせいで明後日の方角に飛んだ即席ダーツは運の悪い事にちょうどクラスに入ってきた先生の鼻頭に直撃したのだった。怒り心頭の先生『廊下に立ってなさぁいッ!!』が直撃し、慌てふためく俺の様子を見ながらキョウカは小さく笑った。

 

 後で分かった話だけどキョウカは九州に住んでた親戚の家に引き取られる話もあったのだそうだ。お婆さんももう年だし、今後の事も考えるとその方が良いのではないかとお婆さんも含めた大人達は思ったのだそうだ。でもお祖母ちゃんを一人にしたくないと言ってキョウカはここに帰ってきた。かなり後になってその事を話してくれた時、彼女はすごく照れくさそうに笑って最後に言った。

 

『ここに帰りたいって思ったの。君とミキトがいるこの村に…ね?』

 

 

 

 あの時はこの関係がずっと続くんだって無邪気にそう信じていた。やがて3人が4人になってもそれはずっと変わらないものなんだって。少なくとも9年後のあの日まではそれは疑いようのないものだった――のだろうか…。

 

 それとも俺だけがそう思ってただけで、もしかしたら少しづつ世界は変わっていったのかも知れない。それを薄々気が付いていたから俺は村を飛び出したんじゃなかったのか。それは単に変わっていくものから目を背けたかっただけなのか、それとも俺もまた変わりたかったんだろうか…。分からない、思い出せない、だんだんと景色も空気も朧げな記憶に堕していく…。

 

 俺は消えていく景色に向かって手を伸ばした。でももうそこには届かない。全てはこの7年間の記憶と昨日見た景色が塗り潰していく。

 

『忘れるな――お前はまだ何者でもないんだ…!』

 

 叔父さんの声が響いた。掌から零れていく命を繋ごうと強く握りしめてもそれは隙間から零れ落ちて行く。

 

『俺は――俺達は怪物さ…!』

 

 ミキトの声が、姿が変わっていく。全てを呪うように吐き出された言葉と共に異形の怪物が目の前に現れた。

 

『…兄さんは…怪物です…』

 

 泣きそうな声であの子がそう言った。最後の記憶よりずっと大きく、美しくなった姿はそれこそ流れた年月の重みを痛感させた。それと同時に今の兄妹にある隔たりが余計に哀しかった。

 

 最後にもう一人の少女の顔が思い浮かぶ。未だ新しい記憶に塗り潰されていない、あの日の照れくさそうな笑顔に向かって俺は、その名を呼んだ。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

「梗華…!」

 

 ツンとした消毒液の臭いが鼻孔を掠めた。それと同時に急速に意識を取り戻した生身の肉体に痛みが走り、成澤哲也は顔を顰めた。なんだか知らないが点滴を打たれた後みたいに妙に頭がふわふわするが、見慣れぬ天井の木目から少なくともここが佃島の自宅アパートでない事だけは一目で分かった。まだ少し肩や首筋に痛みがあったが耐えられない程ではない、と緩慢に体を起こして部屋の様子を確認する。天井の印象に違わず、哲也が横たわっていたのは10畳ほどもありそうな広い和室だった。木目の色調や襖の色合いから相応の年季が入っている事は窺えた。

 

 ここはどこだ…と哲也は戸惑った。部屋の佇まいは由緒正しい高級旅館を想起させたが、そんな一泊だけで諭吉が何枚もすっ飛んでいくような部屋に自分が泊れる筈がない。記憶を辿ると最後に思い浮かぶのは《スカルマン》もとい幹斗が健輔を連れて去って行った光景だ。その後の事はハッキリしない事を考えるとどうやら意識を失っていたらしく、その間にここに連れてこられたようだ。

 見ると傷を負った各所は丁寧に処置が為されており、この布団もそれなり以上に上等なものだ。少なくとも怪しげな組織に身柄を拘束されているとかそんな心配はない、と考えて良いのだろうか、哲也は訝しんだ。

 いやいや、つい布団の寝心地の良さに気持ちが呑気になりかけたが油断は出来ない。なんにせよあの鎧と言い、怪物の事と言い、それらの事を知っているらしい幹斗に柚月と言い、あまりに不自然な事が多すぎる、確実なのはここがどこだか分からず、自分の身の安全に関しても確証が持てないという不安定な立場にある、という事だけだ。呑気に構えて、油売ってる訳にもいかない、と体を起こそうとした刹那、不意に何かが駆けてくるような足音が響いた、と思った次の瞬間には勢いよく部屋の襖が開け放たれた。

 

「哲也…!やっと起きたよ…!」

 

 その声の正体が文字通り部屋に飛び込んできた時、張り詰めていた室内の空気がと華やいだ気がした。上気したように息を弾ませ、大きな瞳がまっすぐに哲也を見つめている。記憶にあるより髪が伸び、頬の輪郭が丸みを帯びていたがその顔を見間違う筈がない。

 

 九條梗華がそこに立っていた。

 

 梗華――!と思わず叫びそうになった哲也だったが、その言葉が発せられる事はなかった。言葉を継ぐ前に駆け寄ってきた梗華が哲也の首の後ろに手を回して縋りついてきたからだ。ふわりと鼻孔をくすぐる香りと受け止めた身体の重さ、そして押し付けられた胸から伝わってくる鼓動が彼女が今ここに生きている事を伝えてくる。

 

「…良かった…。絶対また会えるって信じてたよ…」

 

 微かな嗚咽が耳朶を打つ。確かめなくても彼女がすすり泣いている事が分かり、哲也は考えるよりも先に梗華の細い背中に手を回していた。さらりとしたTシャツの奥に確かな温もりが宿っている、梗華が生きていた。こうして生きてまた会えた。その事が何よりも嬉しく、気が付いたら哲也の頬にもまた熱い雫が伝って来た。

 

 どれくらいそうしていただろうか、最初の熱が過ぎ去ればとりあえず冷静にはなるもので、不意に羞恥の念が押し寄せてきて哲也はパッと梗華の体を引き離した。彼女も気が付いたのか黙って下がるとやや気まずそうに長い髪をくしけずっている。そんな仕草を見ながら哲也は改めて本当に梗華なんだだな、と実感した。視線をじっと向けられている事に気が付いたのか梗華は少しばかり顔を赤くして、口を尖らせながら「言っとくけど幽霊とかじゃないよ?」と呟いた。

 

「6歳の時に君達と出会って以降あかつき村で育った、正真正銘ホンモノの九條梗華です…。ついでにここがどこか…ってのも説明すると長くなるけど少なくともあの世ではない…」

 

 なんとなく照れ臭さを押し隠すようにそう言った。困った時にどこか冗談めかした言い方をするその癖こそ間違いなく梗華そのものだと言えたが、それが分かると今度は急速にここはどこで今彼女らは何をしているのか、7年以上の時間をどう過ごしてそして何故今になって現れたのか、という疑問が頭をもたげてきた。知りたい気持ちと知りたくない気持ち、知らなきゃいけない気持ちが一気に押し寄せてきて、ただでさえ千々に裂けていた心が更に攪拌されるのを自覚しながらも哲也はなんとか「…聞いても良いか…?」と絞り出していた。梗華がビクン、と肩を震わせる。その様に一瞬心が揺れかけた心をなんとか奮い立たせて哲也は更に続けた。

 

「今…街で《スカルマン》っていうテロリストが事件を起こしてる、それが幹斗だったんだ。柚月はそれを追ってた…。なぁ教えてくれ、一体この7年間の間に何があったんだ…?」

 

 自分でも情けないと思うぐらい唇が戦慄き、心臓が早鐘を打つのが感じられた。惧れの根源は分かっている、幹斗の事、柚月の事…彼らに何があったにせよそれが決して平穏なモノではなかった事は容易に想像がついた。その間自分はのうのうとこの世界で生き延びて、あろう事か皆の事を過去に葬ろうとさえしてたのだ。その罪悪感が今更ながら押し寄せ、胸をギリギリと締め上げる。それでも、今は俯いたらダメだ、と顔を上げ、梗華の瞳を正面に捉える。

 

 視線が絡まったのはほんの数瞬の事だった。《スカルマン》という言葉に反応して目を見開いた梗華は悲しそうに目を閉じ、やがて決心したように「色々あったんだよ…」と漏らした。

 

「…どこから話したもんかな…うん…やっぱり村に何があったかだよね…あの日、ね…」

 

 どこか沈鬱な空気が漂い始めた、と思った次の瞬間些か今の空気にそぐわない程、けたたましい声が部屋中に響き、哲也は硬直した体が途端に脱力するような心地を味わった。奥さんに毎度毎度気勢を削がれまくる編集長の気分が少しだけ分かったような気がするぞ、と内心でぼやきながら、その声の正体が明らかに人の、それも赤子の声だと分かり、梗華に対面した時以上の戸惑いを覚えた。

 

「――あ、しまった…!」

 

 梗華がハッとしたように立ち上がると先程入ってきた部屋の向こうに消えていき、なんだなんだ、と思って哲也もそれに続いた。襖一枚隔てた隣の部屋はこちらより少し狭く、6畳敷き程のスペースの隅に小さめのベビーベッドが置かれており、声の主は案の定その中で横たわっている小さな生き物だった。

 

「あ~…ごめんねぇ…。どうしたのかな~?お腹すいたかな?」

 

 人の子でも赤ん坊というのは年も性別も分かりづらい、生後どれくらいかは定かではないが、とにもかくにも今の状況とはあまりに場違いな存在とそれ以上に――その主を梗華が手馴れた手つきであやして、あれこれ様子を確認している事に哲也は本日何度目かの衝撃、それこそ雷に打たれたかの如く。

 

 目の前の小さな命に向ける暖かい視線、慈しむような手つきと柔らかい口調。もしかしてこの子は梗華の――!?

 

 突然降って湧いた事実にただ声も出せずに困惑していると、ふと視線を感じた。見ると赤子を抱えた梗華がジトっと湿った視線を哲也に注いでいた。ハッキリした事は分からないが「ナニぼーっと見てるんだ?」と言っている気がする。

 

「あのさぁ…そうジッと見られるとやりにくいんだけど…」

「へ…?」

 

 なんの話してるんだ一体、と突っ込もうとした所で、梗華が赤子を抱えながらある一点を指差しているのが見えた――ちょうど薄手のTシャツをつきあげる豊かな膨らみの辺りを…。

 

 という事はつまり…。

 

 転瞬、顔に火が付いた。

 

「うわああああああああああああっっっっっ!!!ゴメンナサイスミマセンモーシワケアリマセンデシタアアアアアアアアアアッッッッッッッッッ!!!」

 

 全ての意味を察し、あろう事かその先の想像してはいけない領域にまで思考が到達しかけた我が身の不実を盛大に呪いながら、哲也は180度ターンして元居た10畳に飛び込むと襖をピシャリと閉めて乱れた布団に頭から包まった。

 大丈夫これでとりあえず視覚と聴覚はとりあえず封じられる、何も見えない聞こえない、あとは思考が不埒な方向に飛んでいかないようにとりあえず真面目な事でも考えよう、国際情勢の動きとかその中にあって日本が果たすべき役割とか…って俺にそんな事分かるかバカモノッ!

 

「ってヤダ冗談よ冗談!!」

 

 そんな挙句で布団に頭から突っ込んで醜態を晒している哲也を見兼ねて梗華が慌てた様子で布団を引き剥がした。そう言われてよく見ると部屋の片隅にちゃんと乳児用の粉ミルクとや離乳食のセットがちゃんと置いてある。それに今更気が付いて赤い顔のまま呆然自失としている哲也を見下ろしながら梗華は呆れた、と言わんばかりに嘆息した。

 

 

 

 そう言えば赤ん坊が突然泣き出すケースは生後9か月くらいまでがペースだが、1年くらいは突然泣き出す事はよくある、と聞かされたっけか。横ですやすやと安らかな顔で眠る赤子を見つめながら哲也は産婦人科医だった母が言っていた事を思い出した。

 

「はぁ~…この子割に偏食だから大変なんだよね…」

 

 疲れたように、だがそれでもどこか楽しそうに梗華が吐息を漏らした。それだけでこの子が彼女の子だと察するには十分で哲也はなんと二の句を次いでいいやら分からず、頭を掻き毟った。なんだか自分が踏み込めない領域の話の気がして、その問いを発するのが憚られたが、梗華がなんと説明したものやら、と躊躇いがちにこちらを見ている気配を感じて、哲也は鉛のように重たくなった口を開いた。

 

「幹斗の子…か?」

 

 確証があった訳ではないし、別に目の前の子どもがアイツに似ている気がする、とかそんな訳でもない。ただ自分の梗華に関する記憶はあの高1の時期と変わっておらず、そこから導き出せる類推が他になかっただけだ。出来ればそうであってくれという気持ちとそうであって欲しくない気持ち、矛盾した二つを抱えたまま哲也はそう尋ねた。

 

 梗華は口には出さなかった。幹斗、という言葉に胸が痛むように肩を震わせるとやがて微かに――見逃してそうなくらい微かに頷いた。それから思い出したように「名前はミホ。女の子だよ」そう付け加えた。

 

 やっぱりか、ズシリと重くなった気持ちを膝ごと抱え込んで哲也は俯いた。あまりに立て続けに色んなことが分かり過ぎたせいで頭がはち切れそうだ。聞きたい事は山ほどある筈なのに次に何を聞いたら良いか分からない。子どもの父親の話をしてる筈なのにあまり幸福そうには見えない梗華の様子も含めてこれ以上何か聞いたら取り返しがつかなくなるような気さえした。暫し重たい沈黙が部屋を覆った。

 

「お目覚めのようですね」

 

 そんな静寂を打ち破るように部屋を仕切る障子戸が突如開け放たれ、哲也達は飛び上がるように声のした方に目を向けた。

 

 入ってきたのは60代半ばくらい、仕立ての良いスーツを着た男性だった。前半分くらいが薄くなり、白髪も混じっている髪や小柄な体格は如何にも風采の上がらない印象だが、背筋はピッと伸びており、油断なく引き締められた口元も含めてただの老年の男性にはない凄みを醸し出している。潔癖そうに嵌めた白手袋も併せてどことなく執事のような印象がする。

 

「楠さん…」

 

 男を見て梗華が呟いた、それが男の名らしい。楠は梗華の方に小さく会釈をくれるとそれから鋭い眼光を哲也の方に向けた。

 

「失礼。成澤哲也様でいらっしゃいますね?我が主が貴方様にお会いしたいと申しております。お目覚めになられましたら、こちらに連れてくるように、とのお達しでした」

 

 声色こそ柔らかいがどことなく有無を言わさぬ口調だった。「我が主」という更に得体の知れない響きに哲也は無意識に肌を粟立たせた。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 老舗の高級旅館みたいな雰囲気だな、と思った最初の印象に違わず二人のいた部屋はやはり離れのような作りになっていた。中庭のような一角にポツンとある部屋、というか小体な一軒家の玄関はそのまま屋根付きの渡り廊下に繋がっており、複雑に入り組んだその道を楠と呼ばれた男の案内に従って哲也と赤子を抱えた梗華は進んだ。行く手にはさほど小さくない筈の離れでさえ霞んで見える程の豪奢な造りの屋敷があった。どことなく武家屋敷を想起させる赴きで、だがそうなるとなんだか年を感じさせない足取りで先頭を行くこの男の格好とどうも不釣り合いだ、と思う。

 

 さしずめ魔物の住処、という印象だな、哲也はどことなくゾっとした心地を味わった。

 

 本館に入って、この屋敷を取り巻く違和感に気が付いた、とにかく人の気配というものがしないのだ。こんなデカい屋敷なら普通は使用人が大勢詰めててもおかしくはない、と思うのだが。ここは一体どこでアンタらは何者なんだと思わず問い質したい心境に駆られたが、寡黙に突き進む背中ともう慣れたと言わんばかりに後に続く梗華の様子を見れば口を開くのは躊躇われた。

 屋敷の中を更に進むと何もない突き当りに行きついた。周りと同じ古びた木目の壁があるだけの空間に戸惑いを抱いたのも束の間、楠が慣れた手つきで懐から取り出したスマートフォンサイズの機械を操作しだした。途端に木目の突き当りが融けるように消失し、代わりに明らかにこの屋敷の雰囲気にそぐわない硬質な金属扉が出現した。

 

「なんだよコレ…光学迷彩かなんかか…?つーか現代版忍者屋敷?」

 

 あまりに現実離れした光景に哲也は思わず素っ頓狂な声を上げていたが、残念なことに楠は興味なさそうにその問いを黙殺した。再度タブレットを操作すると重たい解錠音と共に扉がゆっくりと開いた。完全に開ききったのを確認してから楠はちらとこちらを一瞥する、どうやら乗れと言ってるようだ。有無を言わさぬその態度に哲也は溜息を吐き、こうなりゃ自棄だ、とその奥に脚を踏み入れた。

 入ってみると中にあったのは畳を4枚ほど縦に敷いただけの極めて簡素な造りの一室だった。さしずめ現代の座敷牢か拘置所の内部だ、こんな所で何するつもりだよと哲也はいよいよ戦慄した、というか梗華がいなかったらとっくに発狂していたかも知れない。

 

「大丈夫、別に閉じ込めようってんじゃないから」

 

 挙動不審気に視線をキョロキョロさせていたのだろう、梗華がこっそり耳打ちした。気恥ずかしさやら何やらで顔を赤くして振り返ると、彼女は安心させるようにほんのりと微笑んだ。少しだけ胸のつかえがとれたような気はしたものの、これじゃあ全くアベコベじゃねぇかと若干の自己嫌悪に襲われたのもまた事実だった。

 そんな哲也達の様子を見るでもなく、楠は手早く再びタブレットを操作した。認証するような音と共にゆっくり鉄扉が閉まったかと思うと次の瞬間、ガクンという音と共に部屋全体が落下するかのように感覚を味わった。とは言え別にフリーフォールのような性急なモノではない、これは恐らくこの部屋自体がエレベーターになってるんだと理解すると同時にこんなものを用意した上で哲也達を招待した「我が主」とやらの気がいよいよ知れなくなった。

 

 やがて部屋が完全に停止したと思ったのと同時に扉が開いた。それと同時に風がヒヤリとした空気が吹き込み、頬を撫でた。寒いなと思い、目を凝らすと戸の向こうに広がっていたのは広大なコンクリート造りの円形地下空間だった。広さはザッと中央を起点として半径300メートル、高さは最大で20メートル近くはありそうなコロシアムか何かを想起させる。

 部屋の温度は異様に低く、何故か回廊になっている箇所を除き、床全体が水で満たされている。各所に配置された立方体状のオブジェが不可思議な明滅を放っており、まるでSF映画か何かの世界だな、と哲也はそう思った。

 

「あちらで…我が主がお待ちです」

 

 恭しく楠は一礼して、哲也と梗華を先に行くように促した。その手の先には部屋の中央に設えられた浮島、そしてそこにポツンと建つ東屋のような建造物があった。建造物の中に建造物ってどういう神経だよ、と突っ込みたい心境を堪えて、哲也は固唾を呑んだ。あの先にどうやら今の事態の全容を知れる可能性がある、それと同時にここで踏み出したら二度と引き返す事の出来ない奈落の道に通じてる可能性もあるわけだ。ともすれば笑い出しそうな膝を一度叩くと哲也は一度梗華の方を一瞥した。

 これ以上逃げるのはごめんだ、地獄への道だろうが何だろうが、それが幹斗達の事を知る切っ掛けになるならばなんだって選んでやる。覚悟を決めたのか自棄になったのかよく分からない、という内心を無理矢理抑えつけ、それから足を踏み出した。

 

 歩を進めると立方体状のオブジェの正体はどうやらスーパーコンピューターのようだ、と思い至った。現物を見た事はないが、以前にニュースで見た神戸理化学研究所計算科学研究センターにあるスーパーコンピューター《富岳》がこんな感じではなかったかと気が付いたからだ。そうなるとこの異様に低い室温も床を満たす水もスパコンの冷却システムなのではないだろうか。鳥肌が立ちそうな程の室温に身震いすると梗華も同様なのか小さくくしゃみをした。今の彼女の格好は薄手のシャツに室内用のショートパンツというかなりラフな格好なので寒いのも無理はないし、ていうかこれ下手したら赤ん坊には悪い環境だぞ、と思い至る。

 しかしどうやら楠という男も先刻承知なのか、どこからともなく――恐らくエレベータールームにでもしまってあったのだろうか――赤ちゃん用の防寒着を持ってくると、梗華からミホを受け取って着せていた。その手つきは存外優しく、気遣うような表情を浮かべており、梗華も安心して我が子を預けている素振りであり、哲也は少なからず面食らった。

 

 防寒着を着せたミホを抱いた楠は再びエレベーターの方に戻っていく。俺達が「我が主」とやらに会っている間に子どもの面倒を見ていてくれるらしいが、果たして梗華はそれで良いのだろうか。「任せて大丈夫なのか?」隣を歩く梗華に哲也はそう尋ねた。

 

「大丈夫。案外お世話上手なんだよあの人」

 

 心配ないよ、というその横顔には信頼の色があった。淡々とした無機質で不気味な印象と違って存外いい人なのかも知れないな、と哲也は彼の認識を少し改める事にした。

 

 中心にポツンと建つその建物は遠目には東屋というか庵というか、とにかくそんな印象があったが、いざ近くまで来てみると周囲を光沢のある壁材で覆われた未来的なシルエットを除けば、むしろ神殿のような雰囲気さえした。さていよいよ我が主とやらとご対面か、と思いきや不意に東屋の壁の一部がドアのように開き、梗華や楠よりも更に小柄な影が姿を現した。ボロボロになった男物のジャンパーに無造作に両手を突っ込み、こちらを見ているその姿は間違いなく――。

 

「二日ぶりにお目覚めですね。よく眠れましたか?」

 

 呑気な奴だと言外に告げているジト目でこちらを睨みながら山城柚月はそう口を開いた。

 




中途半端ですが文字数の関係上ここまで。
そろそろこの作品の根幹が明かされると思いますのでどうかお見逃しのないように。

それではまた次回。


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CHAPTER-2:『REvengerⅡ』‐⑧

 例えこの星から人類が死に絶えたとしてもそれでも地球は変わらず回っているだろうし、更に言うなら地球そのものが無くなったとしても太陽系に特に支障はない。なんだったら銀河系はそれでも動き続ける、虚しい事にそんなモンだ。星という我々からしても巨大に過ぎる単位でさえ宇宙レベルからすればそうなのだ、畢竟人の社会だってそんなモンなのは当たり前なのだろうが…

 

 なんで不意にそんな事を思ったのかというと…。

 

「ネットニュースでもSNSでも良い、直接聞きこんできても構わんからもっと確度のある情報(ネタ)持ってこい!」陣内実篤が怒鳴った。

 

〈どうせ何拾ってきても文句言う癖に…〉原アニクが画面の向こうで大仰そうに溜息を吐いた。

 

「はぁ…全く…怪物とか幽霊とかばっかし…。オカルト雑誌やってるんじゃないっての…」貴志田衛がぼやいた。

 

「って言うか編集長うるさい!ポッドキャスト始まるんですけど!?」櫛浜静梨が怒鳴り返した。

 

「なんだとうるさいとはなんだうるさいとはっ!」陣内が更に怒鳴り返した。

 

 僅か5人しかいないオフィス内で主に陣内実篤が誰にともなく怒鳴り散らし、静梨がそれに抗議の声を上げ、久々に編集業務に駆り出された貴志田はそのやり取りにうんざりした様子で黙々とキーボードを叩いている。陣内と静梨の不毛な舌戦が過熱すれば即座に早苗の御仕置きブザーが鳴り響き、それで黙らされるが暫く経つと結局元の木阿弥。真琴はうんざりだと露骨に大息を吐いたが、それにしたって陣内の怒号や静梨の絶叫に掻き消されて碌に響き渡りもしない。

 レイニージャーナルは目下の所激戦の真っただ中だ。社員の一人が行方不明だというのにそれでも仕事は回ってくるし、自分達はそれを捌いていくしかない。分かっている事でも何かとやるせない、と真琴は思う。

 

 勿論皆誰も彼も心配してない訳じゃない、静梨は哲也が行方不明と聞くや否や真琴の携帯に繋がるまで何回も掛けていた程だったし、貴志田もその間に警察などに掛け合ってくれていたようだ。陣内もこういう時こそ落ち着くんだ、と皆を諭してはいたものの内心ではかなり動揺しているらしく、自分が一番落ち着きが無くなっていたり、無理して仕事に没頭しようとしては心ここにあらずと言った風情になっている。

 それはとにかく中野区での集団行方不明&《スカルマン》出現のニュースに関しては警察の公式発表が「依然調査中」と不明瞭な点が多すぎる上に一部ネット上で「謎の怪物が出現した」という奇妙な目撃証言が相次ぎ、それに対してカウンター気味に「奇妙な言説に注意せよ」という触書がどこからともなく湧き上がればネットを中心に憶測が憶測を呼ぶ事態になるのも必定だ。そして元よりリスナーからの情報をもとに「大手にはないフットワークの軽い取材」をモットーにしているレイニージャーナルに多数の情報が寄せられるのもまた必定だ。

 

 SNSに広まっている情報を「市井の反応」という形で取り上げるのはWEBメディアの常套戦略だったがウチは生憎陣内がそういう手抜き記事を嫌うため、しっかりと取材や情報のファクトチェックを確認するので仕事量は多い。ましてやそんなこんなをやっている内に今朝方潮風公園に突如怪物が二体出現した、という冗談みたいなニュースが飛びこんできたのだった。テレビを見ている内に怪物は一体、また一体と増えた挙句に《スカルマン》を名乗る青年が突如犯行予告染みた動画をネット上に挙げたとあればネットを中心にメディアも市民も騒然となり、必然社内もますます混乱状態に陥って今に至るわけだ。一応警察にも相談してはみたもののやはり現状の事件の事で手一杯なのか、あれから二日間、成澤哲也の行方は杳として知れない。

 

 正直手詰まり感が強いと真琴は力なくデスクの上に上体を投げ出した。静梨が「マコちゃん行儀悪い」とツッコミを飛ばしてくるがあまりの無力感に恥も外聞も知ったこっちゃない、それが今の偽らざる心境だった。

 

〈ビックリするくらい情報が出てこないな、こりゃあケーサツの方でもサイバー対策課かなんかが監視してるかも知れない〉

 

 モニターの向こうにいるアニクが淡々と報告を飛ばす。しかして冷静なようでどことなく切迫した色を帯びているように聞こえるのはやはり哲也の件があるからだろう。もしかしたら昨夜からずっと寝てないのかも知れない、浅黒い肌の目元にうっすらと隈が浮かんでいる様子から真琴は何となくそう察した。

 

 レイニージャーナル第7の社員、原アニクは哲也と同じ24歳、名前や肌の色から分かる通りでインド人とのハーフで現在絶賛引きこもり生活中だ。彼の職場はこの狭っ苦しいオフィスではなく漫画とプラモとゲームという彼の趣味に囲まれた自室、そこに接続されたパソコンで安楽椅子探偵の如く、様々な情報にアクセスし、本社の方に情報を提供するのが彼の仕事、という訳。

 哲也や土枝健輔とは高校の同級生、というか不良グループの仲間だったらしい。卒業後はIT関係の職場に勤めていたのだが、人間関係で揉めたとかで以降ずっと実家で引きこもり生活を送っていた所、その並外れたハッキング能力を知っていた哲也に買われ、「自宅から一歩も出ない」事を条件に採用が認められた、という経緯を持つ。最初は編集長も渋面だったし、真琴も真琴で恥ずかしながら「引きこもりに何が出来る」と高を括っていたものの、それが偏見だったとすぐに思い知らされた。今では立派なウチの社員だ(待遇はあくまでバイトらしいが)。

 

「…ご苦労様…。成澤の件、何か進展あった?」

〈なぁんにも…。足取り終えたのはやっぱり病院まで…。以降は街中の監視カメラ総動員して調べてるけど影も形もヒットしない〉

 

 どこか忌々し気にアニクはぼやいた。哲也が行方不明、という報を聞いて真琴が真っ先に頼んだのは彼に哲也の足取りを追ってもらう事だった。結果見つかったのは病院の駐車場に置きっ放しになっていた彼のバイクだけで本人はおろか土枝健輔の行方すら掴めない現状で、流石に何事においてもマイペースを崩さないアニクも焦燥しているようだ。

 

「危ない橋渡っちゃダメよ?なんかヤバいって思ったら無理せずに引く事、良いわね?」

〈分かってます…。でももう少し粘ってみますよ…負けてたまるかってんだ…〉

 

 そう言ってアニクは通信を切った。真っ暗になったモニターを尻目に真琴はオフィスの中を見渡してみる。静梨はポッドキャストの配信を駆使してリスナーから情報をやり取りしているようだし、貴志田は哲也がいない分まで久々に編集業に取り掛かっているようだ。アニクも今頃危ない橋を渡りながらネットの海を漂っている事だろう。みんなそれぞれが自分に出来る事をやっている、虚しいだのなんだのと腐っている場合じゃないな、と思って立ち上がろうした刹那、オフィスの電話が鳴りだした。

 社会人の反射条件で咄嗟に表示されている番号を確認するとどうやら携帯用のナンバーのようだ、読者の情報提供か取材対象者からの連絡か…なんにせよそんな所だろうと判断し、真琴は受話器を取った。

 

「はい、お電話ありがとうございます。レイニージャーナルですが…」

 

 せめて通話の時くらい、げっそりと疲れ切った声は出すまいと努めて明るい声を出そうとしたが直後〈ハロー♪〉というどこか惚けた声が耳朶を打ち、それ以上の言葉を遮った。軽快な言葉とは裏腹にしわがれた老人のような不気味な声だった。

 なによりその声は――明確な悪意と害意を纏っているように聞こえ、真琴は背筋が凍るような気がした。仕事柄碌でもない奴らに恫喝の言葉を投げつけられる事は慣れているものの、ここまで酷薄な色を纏った声は聞いた事がない…。

 

〈時間がないから手短に言うぞ…これは警告だ…。今後()()()には深入りするな。分かったね?〉

 

 この件ってどの件よ?せめてそう怒鳴り返してやりたかったが声が上ずって思うように出なかった。電話の主はその無言をどう受け取ったのか言うだけ言って電話は切れた。後に残されたのは空虚なツーツー音だけで一気に体温が下がった気がした真琴は受話器を置いてオフィスを見渡した。

 

「どうした?何かあったのか?」

 

 どうやらかなり顔色が悪くなっていたらしい、陣内がいつもの不機嫌顔を引っ込め、神妙そうな面持ちで真琴を見た。

 

 一体何が起きているのだろうか…。すぐには声に出す気になれず、真琴は乾いた唇を戦慄かせた。

 

・・・・・・・・・

 

「これで良し…と。まぁ気の強そうなお嬢さんだったからあれで引き下がるかは知らんがね…」

 

 むしろそうならない方が面白そうだ、と言わんばかりに目の前の男――《ナイトレイス》は笑うと手にしていた携帯電話を握りつぶした。いくらトバシの携帯とは言え、面白半分で使った挙句にぶっ壊すというのはどうなんだ、と幹斗は思ったが特に口には出さなかった。

 

 薄気味悪い場所だな、と今いる部屋を見渡して思った。見た目は古めの体育館か集会場といった風情だが殆ど半地下構造なので日は差さないし、音も無駄に反響する。その分外部から見えづらいし、声も漏れづらいという意味では日陰者が集まって何かするにはうってつけなのだろうが…こんな所で寄り集まって共同生活を送るだとか修行だかなんだかをして過ごす、というのは正直ゾッとしない。如何にも「後ろ暗い事しています」と言わんばかりじゃないか、よくこんな所で信者とやらを集められたものだ、と思う。最も都内の各地にこんな場所をこっそり残してくれたお陰でこっちもつつがなく潜伏出来る訳だから、文句をいうつもりもさらさらないが…。

 

「こんな時にイタ電とは随分と呑気なんだな《レイス》よぉ?」

 

 壁に寄りかかった千鳥がジロ、とこちらを睨みつける。安い挑発だという事は承知なのか奴自身も「誰のせいでこうなったと思ってる?」と言葉とは裏腹にどこか楽し気に幹斗と部屋の片隅に蹲っている土枝健輔を交互に見やりながら返した。

 

「お前の起こした勝手な騒ぎのせいで火消し役は大変なんだぞ…まぁ今更こんな事しても確かに意味はないよな、だがあの御方にも最低限の礼儀って奴はあるだろう…勤めは果たさないとな…?」

 

 最低限、とかハッキリ言う辺り忠誠心の欠片もないのがまるわかりだったが、そこはお互い様だ、咎める気はない。不意に千鳥が首を巡らしてくすんだ色の壁に掛かったモニターを見やった。「それ聞こえるように言ったらどうなんだ?始まるらしいぞ」そう告げると同時にモニターが発光し、案の定不機嫌さを隠そうともしない男の顔が映し出された。

 

 50を間近に控えたようには見えないすらっとした立ち姿に肌艶、冴えわたる弁舌で情報番組や雑誌のインタビューに応じる姿はビジネスマンのみならず、本業とは関係ない立ち位置にある女性陣まで魅了する事もあるらしい…がそれはパブリックなイメージに過ぎない。日頃の愛想の良さなど捨て去ってひたすら慇懃無礼にモノを見る目をこちらに注いでいる姿をネットにでもアップすれば流石の人気も引くだろう。

 壁に向かったままだった健輔がちらとこちらを一瞥したが、画面の中に映る著名人の顔にも興味がそそられる事はないのか、すぐに目を伏せた。目覚めてからずっとこんな調子だ、人を殺した事実が重くのしかかっているのか最早反抗する気力も意気も削がれたように消沈している。今は放っとくよりしょうがない、と千鳥は言っていた。

 

「よぉ…《ラスプーチン》閣下、ご機嫌麗しゅう…いやあんまりよろしくないようで?」

〈黙れ《レイス》。それにその名は私を示すモノではない、()()が《ラスプーチン》だ。それ以上でも以下でもない〉

 

 おどけた口調で茶々を入れる《ナイトレイス》を睨みつけると男――《ラスプーチン》はさも不快だと言わんばかりに吐き捨てた。大義とやらの前では一つの“国”を率いる王もまた一個人ではなく、総体の一部だという訳か、酔狂なこったよな、と幹斗は含み笑いを溢した。個人名ではなく、組織名でもない、ただ志を共にする者達を束ねるための名前、それが《ラスプーチン》だ…便宜上ではそうでも今現在では彼がその“集まり”の盟主のようなものなのでついそう呼びたくもなるが、どうやら癪に障る応答だったらしい。

 部屋の片隅に寄りかかって他人事のように肩を揺すっているこちらの態度を見咎めたらしい、《ラスプーチン》は視線を幹斗の方に向き直すと〈何が可笑しい?〉と詰問を寄越した。

 

〈私が問いたいのは一つだ、山城幹斗。本日の件、何を勝手な事をした?〉

「勝手な事とは?ホテルぶっ壊してそこで寝てる奴と乱闘おっ始めた事?それとも《ガロ》を呼び出してモンパニ映画状態にした事?それとも顔出しして犯行予告し――」

〈全部だ!〉

 

 皆まで言わせず男は声を荒げて幹斗の声を遮った。成程、紳士的な人格者を演じていても社内では案外横柄で且つワンマン、という噂は本当らしい、少しペースを乱されただけで年甲斐もなく怒鳴り散らす所などまさに砂上の楼閣の主にはピッタリだ。ここであからさまに笑いを顔に出せば更に燃料を投下するだけだと分かっているので敢えて何も言わないでおく。

 

<忘れたとは言わせないぞ、《スカルマン》も含めお前たちはあくまで“兵器”だ。制御が効き、適切な運用が為されなければ何の意味もない。私の指示なしに勝手な行動は――>

「同時に俺達は脅威でもある。だからこのタイミングで世間にその身を晒しても問題はない筈だ、ちょうど世間も良い具合に盛り上がってるみたいだしな、計画に支障はないよ」

 

 このまま喋らせると延々と中身のない話を聞かされそうだと判断し、幹斗は適当な所で《ラスプーチン》の言葉を遮った。あからさまに気分を害したような顔こそしたものの、熱くなりすぎている事は自覚したのかそれ以上は特に追及してこなかった。

 

 とはいえ基本はハッタリだ。公園で暴れ出した事も動画投稿サイトで正体を明かした事も含めて何もかも計画通りだった訳ではない、というか大半はアドリブとその場の緊急対応だ。AS計画だか何だかは自分にとっては然程優先順位として高くない、ただ自分にとって必要な力を与えてくれる事、そして厄介な枷で繋がれている事に端を発する程度の、それだけの縁で結びついている同盟だ。

 もともと契約も忠誠も俺達の間にはない、そんなものがあると思い込んでいるのは自覚の有無を問わず、自分の方が立場が上だと信じて疑わないこの男の厚顔無恥ゆえだ。

 

「計画を次のフェーズに進めるには新たな脅威とその演出が必要だ。それが《スカルマン》の正体とそいつが暴く真偽不明の怪情報、そして正体不明の怪物、って訳だ。しばらくメディアや国民はおろか永田町も大賑わいになるぜ?」

〈…単に無駄な騒ぎが増えただけではないかそれは…〉

 

 男が苦々し気に呟く。事実としてネット界隈では現在幹斗がばらまいた情報の真偽を巡って各所で激論が巻き起こっているようだ。それはあかつき村の真実とやらに関する信憑性であったり、《ヴェルノム》の正体についての考察、そもそもこの動画の主が本当に《スカルマン》なのか、だとしたらどこの誰なのか、というものがメインであり、真相に辿り着けそうなものは殆どないのだが…。

 

〈忘れるな、君達(ヴェルノム)の存在は《スカルマン》という社会に対する仮想敵あってこそ成り立つという事を…。潜在的な脅威こそ兵器ビジネスにとっては最適解であり、プレゼンのタイミングや仕方を誤れば途端に商品価値を失くす、という事を…〉

 

 兵器、プレゼン、商品価値…。人は所詮替えの効く部品、とそう言って恥じない男の思想を体現するかのように、そう言い放った張本人はこちらの心情すら斟酌する気はないようだ。傍らで聞いていた千鳥がピクリと眉を顰め、《ナイトレイス》は失笑するように息を吐いた。コイツのように経営者というのはある種の共感性の低さこそが重要な素質なのかも知れない。

 

 2年前、どうせ廃棄処分を待つだけの幹斗達に男が持ち掛けてきた取引は極めてシンプルだ。どうせ復讐をするなら、その命を存分に活かせ、そのためにはこの国を震撼させるテロリストとなれと。そうして互いの利害を一致させ、山城幹斗は人間でなくなった身にスーツとマスクを被って《スカルマン》となった。

 AS計画の事をどこで嗅ぎつけたのか、幹斗達の前に姿を現した《ラスプーチン》は「私は君達が本当に憎むべき相手を知っている」そう伝えてきた。それは我々にとっても邪魔な存在なのだと…。

 

 この国を裏から牛耳っている《神樂》と呼ばれる存在――言葉にしてみれば実に荒唐無稽で嘘のような話だが、そもそも村の隆盛も滅亡も“彼ら”に依るところが大きい。奴らは自分達を閉じ込めた上で今は用済みとして抹殺しようしている。証拠となる資料を提示しながら男はそう話した。そうして幹斗は父親を殺害し、自分達の運命を捻じ曲げた相手を見定め、引き換えに男の望む役割を担う事となった。

 

 《スカルマン》となって《神樂》に少しでも関りのある人間達や企業、そして《ラスプーチン》が定めた相手を狙ってテロ事件を起こす日々はそうして始まった。無作為にこの国を襲うテロリストを演じる事で内部に対しては未知なる存在への恐怖心を植え付けて、男達(ラスプーチン)の望む方向に社会変革を促し、一方目の前の男が“オーディエンス”と呼ぶ諸外国の死の商人やこの国のある特定の分野の人間にはその様を中継する事で《ヴェルノム》という新開発の生物兵器として売り出す――それがこの1年で男との間に取り交わした契約の実態だ。要するに仇を手伝う代わりに男の子飼いの生物兵器となれと――そういう取り決めだ。

 

 そうしてこの1年多くの人間を血祭りにあげてきた。あげてきてしまった。村に“研究所”を誘致した代議士のバカ息子、《神樂》の影響下にある政党の議員や企業の社長、そいつに囲われている女優…そして村の全てを忘れて安穏と生きるこの国の人間達と彼らがバカ騒ぎしてまで求めている祭典etc…。

 

 当時柚月も梗華も反対したが、幹斗はそれを全て理解した上で了承した。少なくともここで坐して死を待っても自由は訪れない。どうせ法律上は死んだ身で最早人間ですらないのならせめて自分達の運命を捻じ曲げた相手を道ずれにしてやる――内なる獣の声に従い、幹斗は今の道を選んだ。

 だからもう止まれない。バカな事だと承知してそれだけの命を奪った俺にもう止まる資格はない。幹斗はモニターを睨みつけると強がって凶悪な笑みを浮かべてみせた。

 

「忘れてはいないさ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()よりかは上手くやってやるからもう少し様子を見てろ」

 

 白零會、というその言葉に男は不快そうに眉を歪め、〈あれは失敗だった〉と吐き捨てた。

 

<所詮は個人崇拝に依存した、教祖がなければ何も出来ん烏合の衆共だったよ、君は彼ら以上の働きが出来ると期待して良いのだね…?>

 

 今は俺達を潜在的な脅威として利用しているようにかつて《ラスプーチン》が幹部と結託して育て上げたのが白零會だった。人の心に付け入り、経済を握ると共に将来的には国家の転覆さえも企図するかも知れない…冷戦が終結した秩序において、新興宗教に新たな恐怖の象徴として目を付けた先見性は確かに慧眼と言ってやらなくもないが、そうして件の奴らを野放しにした結果があの地下テロ事件という訳だ。男に言わせればアレは教団の独断と暴走が招いた結果だと言い張るのだろうが…。

 

<まぁ良い…。君が私の期待を裏切るような事があれば…君を信じ、慕う者達の命脈を断つ事になる…。改めて君にはその事を自覚して欲しかっただけだ…。では三日後とやらを楽しみにしているよ、山城幹斗君…>

 

 男は懐から拳銃を取り出すとこちらに見せつけるようにそれ専用の特殊弾を装填し、こちらに向かって掲げてみせた。意味する所は明白だ、お前たちの命は私の掌の中…つまりそういう事だろう。おどけたように<バーン…♪>と口ずさむと男は通信を切った。用済みとなり何も映さなくなったディスプレイに千鳥がグラスを投げつけたのはそれと同時だった。

 

「クソでも喰らえ…」

 

 同時にコンクリートの床に唾を吐き捨てる。幹斗は何も言う気になれず、はぁっ…と息を吐くと冷たい床に腰を下ろした。本当に俺は何をやってるんだろうな、と自嘲する。

 

 唾棄する程のクソヤロウと手を結ぶしかない身の上とそうまでして成し遂げたい事…。結果仲間の命を危険に晒し、人としての扱いすら保証してやれない。全てを天秤に掛けて俺は本当にこんな事がしたかったのか…そう何度も自問した。柚月がいなくなった日、ミホが生まれた日、梗華がいなくなった日、――哲也と再会した一昨日。その度に何度も己に自問した、その度にこれしかない、と己を鼓舞してここまで来た。今更引き返すという選択肢はない。

 

「…山城」

 

 不意に低い声が木霊し、耳朶を打った。顔を上げるといつの間にかこちらを向いていた土枝健輔が立っていた。治りの良くない片目はまだアイパッチを嵌めているものの、何も映さず虚ろだった瞳には僅かな光が宿っていた。

 

「今の話…どういう事だ…?命脈を断つ、とか…アイツ何言って…」

 

 どこか縋るような声だ。よりにもよってその話かよ…と幹斗は大きくかぶりを振って立ち上がった。千鳥の方を見ると、好きにしろとばかりに憤然と息を吐く。巻き込んだのはお前だ、ならお前の責任の範疇でやれ、そういう事だ。

 

「そのまんまの意味だよ…他の村の生き残りが人質にとられてる。逆らったらズドン…そういう事になってるんだよ」

 

 流石に絶句したようだった、無事な方の片目を広げて口を戦慄かせている健輔を見て、これが本来なら普通の反応だよな…と幹斗は独り言ちた。ひたすら血なまぐさい環境にいすぎたせいでまるでさもなんでもない事のように語る癖が常態化してしまっている。

 

「…なんだよソレ…」

 

 やがて絞り出すように健輔は声を漏らした。困惑、疑心、怖気…そして少しばかりの怒気の籠もった声だった。「なんなんだよ本当に…」誰に言い聞かせるでもなく、そう呟いた。

 

「なんなんだよ一体…!あかつき村だの白零會だの《ヴェルノム》だのラスナントカだの…!一体何が起きてるんだ、何がそんなに皆を狂わせて、お前を駆り立てるんだ…いい加減に答えろよ…!」

 

 冷たく湿った部屋に健輔の声が反響する。それをどこか虚しいと感じてしまうのは己の心が乾ききった故からだろうか…。もう本格的に引き返す道はない、地獄への道連れが延々と増え続けるだけだ…。

 済まないな…。その言葉は誰に向けられたものなのか自分でも分からなかった。健輔を方を見据えながら幹斗は息を吐いた。

 

「…全てはあかつき村事件から始まったんだ…。あれは単なる研究所の暴走とそれによるバイオハザードなんかじゃない…あの日、村は新しい世界への扉に触れちまったんだ…」

 




どうも週間ぶりです。この辺りはこれまで張って来た伏線の回収期に当たるのでなかなか難物でした。
今回遂にスカルマンと白零會の事件が繋がった訳ですが、次回辺りで更にいくつかの謎が明らかになります。

中途半端なので、この次は水曜くらいに投稿したいと思っております。それではまた次回をお楽しみに。


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CHAPTER-2:『REvengerⅡ』‐⑨

 ここはまるで野戦病院だな、と拓務は思った。青海地区P区画各所に虎の子の特殊救急車を先代型も含めて3台、都知事肝いりの緊急救命チームまで招集し、防災用の白テントが経ち居並ぶ現在の光景はまさにそれだ。最終的に警察官を中心に死者31名、重軽傷合わせた負傷者64名と大被害を受けた臨海地区の怪物騒ぎの顛末という訳で、早急に対応が必要な者から軽い怪我を負った者まで纏めてここで治療を行い、野外では難しい者についてはドクターヘリで空輸する措置で何とか対応している現状だ。

 2年後のイベントに向けて消防庁が救急対策能力の拡充を図っていたのが功を奏した形になった。幸いにも民間人の死者は出ておらず、重傷を負った警官達も順調に治療が進んでいる事は救いだが、それはそれだ。失われた命が戻ってくる事はないし、依然この騒動を起こした下手人達は逃走中で、1時間前に乗り捨てられたプレジャーボートが都内の運河で見つかったという報告以降は足取りさえも掴めていない。警察としては一昨日の件に引き続き、完敗と言っても良い程で――いや新宿事変からこっちずっとそうか…。

 

 だが何度敗北を重ねてもそれで自分が警察官である事の矜持が折れた訳ではない、治療もそこそこに区画の端に場違いに止めてある移動指揮車に足を運んでいるのは一連の事件の根源を確かめるためだ。

 

「おい、刑事さん」

 

 ふと後方から声を掛けられた。振り向くと左腕を吊った大柄な男が効く方の手を振りながらこちらに駆け寄ってくるのが見えた。見覚えのない顔だな、と思ったのも束の間、特殊部隊用のズボンを履いている事とその声は知っている、と思い至った。先程バッタのバケモノに襲われかけた時にタックルで助けてくれた特殊部隊の男か。そう承知した拓務は頭を下げた。

 

「先程はありがとうございました」

「良いって事よ、それが俺の仕事だからな」

 

 傷は勲章、鷹揚そうに言って自分の肩を叩いた男はふと神妙な顔付きになった。「悪かった、もう一人の方は…」。

 

 寺坂の事を言っているのだろう、その名を考えると拓務の胸は痛んだ。男も彼があの巨大な怪物に潰されるのを目の当たりにしていたのだ、いつだって生き残った者は何故自分ではなく、アイツが…とそう自問し続ける。寺坂はまだまだ未熟で粗削りだったが自分にはない我の強さがあったし、それに機転も効いてここ一番の度胸もある男だった。このまま成長すれば自分よりよほど良い警察官になり得ただろうに…。この1年で何人もの同期や先輩後輩を失くしてきた経験をしてもそうした忸怩たる思いは消えない。横の男も同じなのだろう。

 

「気に病まないで下さい。生き残ったからこそやれる事があります、それは俺達の務めです」

 

 だから拓務はそう言った。そうだ、迷ってる暇はない。例え相応しくなくとも俺は生きてる、生きてるって事は寺坂や死んでいった人たちの分もやれる事をやらなきゃいけないという事だ。男も承知したのか不意に、しかし多分に無理矢理そうしたようにニヤリと笑ってみせた。

 

「これからあのお偉方の所に殴り込みに行くんだろ、俺も行くぜ?」

 

 男が移動指揮車の方を見やる。別に殴り込みにいく訳ではないが、心持ちとしてはそんな所だ、拓務を意気を引き締めた。あの中で照原に深町というこの件の裏で何かコソコソ動いているらしい二人が何かやり取りしているのは知っている。引き揚げたら洗いざらい話してもらう約束だ、これ以上煙に巻かれてはたまらない。

 

「そこまで過激な事はせずとも(ぬえ)共と対決するなら味方は多い方が良いだろう」

 

 そう言って男は動く方の腕で胸をドンと叩いた。威勢の良い奴だな、と頼もしさを感じると共に深町の怜悧な視線が頭に浮かび上がってきた。聞いたらもう引き返せない、あの瞳は確かにそう告げていた。

 拓務は逡巡する。間違いなくこの先は地獄の1丁目だ、そこに彼を巻き込んで良いのだろうか、寺坂がそうであるように自分の選択如何によって彼をも地獄の一丁目への巻き添えにして巻き込んでしまうだけではないか、という懸念が頭を過った。

 

「辛気臭ぇ顔すんなよっ」

 

 そんなこちらの葛藤を見透かしたのか男は拓務の頭をはたいた。何するんだと抗議の視線を向けると存外冷徹な色を湛えた瞳がこちらを見据えていた。いや違う、これは恐らく極限まで昂った静かな怒気か。

 

「こっちも部下を大勢殺られて気が立ってるんだ。真相とやらを拝んでやらなきゃ手向けにもならねぇ…」

 

 その目にはもう迷いはなかった。ならば自分があれこれ言った所で止まりはしないだろう。自分こそ覚悟が必要だな、と拓務は息を吐いて男に右手を差し出した。

 

「成澤です、成澤拓務。この先もよろしく」

 

「あいよ、(とび)だ、鳶(まさる)。さぁて魔窟に向かうとしますかね」

 

 握手するというより手を打ち付け合ったのも一瞬、拓務と鳶は目前の指揮車に目を向けた。ちょうど声を聞きつけたらしい深町が降車し、こちらを認めると形の良い唇を歪め、やがて小さく嘆息した。

 

 

 

 

 移動指揮車の中、というのは存外手狭なものだな。内装の大半を埋め尽くすのは通信や解析に使用するであろうコンピューター機器の類でそれさえ除けば人が5人も入ればかなり満席、と言っていいくらいのスペースしかない。拓務と鳶、それに深町と照原を合わせれば狭っ苦しいとしか形容しようがない。実際鳶の大柄にはかなり窮屈らしく、こころなしかその巨体をすぼめていた。

 

「これで役者は全員?」

 

 照原は一度鳶の方をじろりと一瞥したが、すぐに気を取り直すと指揮室に備わった回転椅子にどっかりと腰を下ろした。不審げに立ち尽くす拓務と鳶を見るや「ま、立ち話もなんだからさ、座ってよ」等と昼行燈気味な口調で着席を進める様は如何にもいつもの彼だ。その態度がどことなく癪に障ったがここは大人しく従う事にし、拓務も鳶もそれ以上は言わず大人しく席に付く。

 照原はやや疲れたように溜息を吐くと、不意に懐からクシャクシャになった煙草のパッケージとライターを取り出し、拓務達の眼前に突き付けた。吸うかと言ってるらしい、拓務も鳶も無言で首を横に振って固辞の意を示した。

 

「みぃんなそう言うんだもんな…肩身狭いったらありゃしない…」

 

 どこか不満げに自分の分を付けようとした照原だったが、深町の手が電撃的に動いてその手からパッケージをはたき落とし、禁煙、とその口を動かしたように見えた。照原は世にも情けない顔をすると渋々煙草をスーツの内ポケットにしまう。なんだか妙に気安い関係だな、と二人のやり取りを見て拓務はなんだかそう感じた。

 

「さぁて…聞きたい事は山ほどあると思うけど…どこから話す?」

 

 気を取り直すように照原は居住まいを正すと拓務達と深町の方をそれぞれ一瞥する。深町ははぁっ…と溜息を吐くとこちらを見据えた。薄暗い室内でもハッキリと分かる青い瞳を正面から見つめた拓務がまず口火を切った。

 

「深町さん、あなた警視庁(ウチ)の人間じゃあないでしょう。大方“赤坂”辺りの人ですね?」

 

 ざわ、と僅かに動揺した空気を尻目にそれがなんだ、と深町は拓務を睨みつける。初めて会った時から階級を名乗らなかった辺りや言葉の端々からなんとなくそんな予感はしていた。それでも疑念に留まるレベルだったが、先程明らかに日本のモノではない装備や人員を率いてきた点でほぼ確信に変わった。鳶の方は寝耳に水だったのか絶句したように「マジかよ…」と呟いた。

 

 “赤坂”とは中央情報局の隠語、日本においてはCIAという名称の方が通りがいい。即ちアメリカ合衆国の抱える諜報機関で、極東地域における中枢は駐日アメリカ大使館にあるとされているため、専ら「赤坂」の隠語で呼ばれる事が多い。要するに隣にいる照原がそうであるように公的なスパイ機関だ。

 

「マジかよ…どんどん話がデカくなってんじゃねぇか…」

 

 鳶が呟いた。正直すぎるその感想に深町は呆れたように「半分だけ正解」と答えた。

 

「半分?」

「CIAの所属なのは本当よ、でも厳密にはこれは正規の任務ではない。ある事件とそれが齎した結果に関する調査が私の使命よ」

 

 なので使える人員も装備もかなり限られてる。酷く素っ気なく深町は言った。ある事件か…拓務はその言葉の意味を口内で転がした。最早その酷く曖昧模糊な言葉の意味を敢えて疑問に思うまでもない。

 

「“ある事件”とはあかつき村事件、“それが齎した結果”というのがあの怪物どもの事だな」

「それは正解ね。なかなか鋭いじゃない、スパイに向いてるわよ?」

 

 褒めてるんだか貶してるんだかよく分からない軽口を拓務は無視し、代わりに先程救急隊員から貸してもらった携帯電話をずいと突き付けた。そこに表示されたテレビ中継には山城幹斗が動画を通じて発信した映像をバッチリ報道している。

 

「あちゃぁ…こりゃもう報道管制敷いても遅いわなぁ…」

 

 困り果てたぞ、といった感じで照原が頭をぼりぼり搔いている。彼の言葉通り今この映像の真偽が各所で加熱しているのだ。とにかく事実関係の検証をすべきだと叫ぶ一派とテロリストの言葉を真に受けるな、耳を貸すなと声高に叫ぶ一派に大まかに分かれている。普段なら拓務もネット上の議論など一笑に付す所だが、現実に目の前で異形の者たちの所業を見せつけられた後とあっては話は別だ。あの山城幹斗とかいう青年の言う通り全てはそこから始まっている、その確信があった。

 

「答えろ、7年前あの村で何が起きた?」

 

 拓務は照原と深町の二人を睨みつけ、詰問した。あの事件は従弟の――哲也のその後の人生にも大きな影を落とした。それがきっかけとなって自分達の家族にも影響している。決して他人事では済まされない。

 

 拓務の視線を受け止めながら深町は小さく息を吐く。やがて傍らの照原も観念したように口を開いた。

 

「我々も全てを把握している訳ではない、というか今でも信じ難い所があるものでな…」

「でも紛れもなく事実よ、現に私達はその成果をこの目で見ている、《ヴェルノム》という異形の進化へと至った者達をね…」

 

 《ヴェルノム》…?それがあの怪物達の名だろうか…。いや幹斗の発言を鑑みるに恐らくは元は同じ人間達…?やけに禍々しいその響きを拓務は胸中に受け止めた。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 あかつき村は周囲を三つの急峻な山々に囲まれ、山間の集落にありがちな平家の落人伝説が残る以外には取り立てて特徴のない村であった。実際拓務の世代でも過去の村の様子など殆どイメージが付かず、村の名を聞いても思い出せるのはあの妙な形状をした建物――矢頭山と言う一帯の親山の一角をくり抜いて鎮座する“研究所”の威容だけだ。

 

 実際高度経済成長期の折より、徐々に人口減少が問題になりつつあったこの村を変えたのが“研究所”の誘致だと言っても過言でない。時に1988年、ちょうど昭和の終わり頃の事だ。

 その2年前に生じたチェルノブイリ原発事故の影響により、原爆投下由来の核に対する拒絶反応が世論として高まりつつあった時期。そんな折に新たな可能性として提示された核融合発電で、その実用化に向けた本格的な研究を行うと謳った施設の建造が突如持ち上がった。

 ウラン235という物質に中性子を当てる事で原子核は二つに分裂し、その際に膨大な熱エネルギーを発生させる。その反応を利用する原子力発電に対し、重水素とヘリウム3の原子核が融合し、ヘリウム元素に変化する際のエネルギーを利用するのが核融合だ。要するに恒星のメカニズムを人為的に再現しようとする試みであり、未だ課題の多い研究だ。

 

 だがこの年に城南大学に所属する若干26歳の若手研究者である山城慎吾博士を中心とした画期的な新理論の提唱が行われ、その実用性を検証するための研究所がこの小さな村に建造してはどうか、という話が持ち上がった。研究所には広大な敷地が必要で、山林を切り崩せばその面積はすぐ確保できる、というのが事の発端らしい。

 勿論当時は核融合の詳細なメカニズムなど知らない者が多かった事情もあって、選定に当たっては地元住民――特に兼ねてよりここに住み、山からの恩恵に預かってきた人達との間にひと悶着があったとされる。そうでなくとも山城博士の理論そのものもアカデミー内でも不明確な所の多いものなのだという意見があった、慎重になる意見があるのも分からなくはない。だが最終的にはこの辺一帯に支持基盤を持つ議員の熱烈な後押しによって正式に決定されたと言われている。

 

 顛末だけ見ればやや強引な成り行きだったが、結果として研究所の誘致は村にとっては大きな福音となった。先進的なエネルギー事業の先駆けとして辺境の村は日本はおろか世界中から注目されるようになった。それに合わせて公共設備や観光事業の整備も進められ、山林資源と農業くらいしか強みのなかった村は一躍世界中から注目されるようになったのだった。1991年に「プロメアセンター」と正式に命名された研究所が本格的に稼働するようになれば、職員達の移住も始まり、過疎に喘いでいた村は活気を取り戻し始めた。なんだかんだと言っても村民もその恩恵に預かって暫くは順風満帆とも言える年月が流れた。

 

 ちょうど20年目となる2011年に例の事故が起きるまでは…。

 

 

 

 その日に関する記録はあまりハッキリした事は分かっていない。研究所の職員や関係者が全て死に絶えてしまった現状、何が事故の要因となったのか詳細な証言が失われてしまったのだ。確かなのはしきりに報道された突如爆発し、一瞬で火の海の中に消えていった研究所の様相とそこから発生して瞬く間に村全体を包み込んだ謎の“霧”の存在だ。とにかく村の中心部より離れた位置に建造され、山の一部をくり抜いたような形をした研究所が朦々と黒煙を噴き上げているかと思ったら、そこからまるで溢れ出るように対照的な真っ白い“霧”が放出され、麓の村を呑み込んでいく光景は何度もメディア上で報じられた。

 

 村の大半は山林によって形成されており、山間にぽっかりと開いた盆地部に役所や学校、住宅地、道の駅等が集中している地形がこの場合不幸に働いた。“霧”は瞬く間に村を包み込み、まるで意志を持っているかのようにそこに滞留し続けた。不可解な事に村とは通信の一切が途絶し、何が起きたのか、村民は無事なのかと言った情報が一切入ってこないまま、業を煮やした近隣の警察関係者や消防団が依然“霧”に包まれたままの村にわけいって行き、やはり消息を断った。

 

 何が起きたのか全く分からない。だが確実に恐ろしい事が起きたのは確かだ。突如出現した異界の光景を全国民が固唾を呑んで見守った。

 事態が急転したのはそれから二日後だ。村役場のある中心部から国道沿いに20㎞も離れた隣町の河川敷に計7名の男女が川を降って現れたのが地元民により発見された。地元民ではなく、たまたまキャンプに来ていたグループだ。彼らはすぐに地元の病院に搬送されたが、聴衆に応じた彼らの口から語られたのは更に不可解な事実だった。

 曰く自分達は、突如発生した謎の“霧”から逃れようと走っている内に川に転落し、命からがら川を降ってなんとかここまで辿り着いた。“霧”の正体については全く分からない、だがまるで意志を持っているかのように村に襲い掛かり全てを呑み込んでいった。とにかくとても怖いもの、それだけは確かだ。そう主張したのだ。

 

 しかし翌朝事態は更に急転した。一行の容態が突如急変したのだ。

 元より生じていた微熱が今朝方になって高熱に転じ、発疹や肺水腫、出血といった激烈な症状が現出した。中には理性を失ったかのように凶暴化し、看護師に噛みついた者まで出た事が記録されている。

 医療スタッフは手を尽くたが、決死の治療も虚しく、彼ら全員がその日の日が沈むより前に命を落とした…そしてその小さな灯火が消えたと思った次の瞬間、まるで灼け焦げた煉炭のように少女の皮膚がどす黒く染まり、多くの病院スタッフの前で瓦解したのだ。まるであたかも原初の姿に還るかのように彼らは塵となって消えた。

 

 当然この事態に病院スタッフはパニックに陥った。それも当然だ、古今東西の細菌、ウイルス、自然毒、化合物等を照らし合わせてみてもこのような症状を引き起こすものは存在しないからだ。何かしらの未知の奇病、まさか人工ウイルスによるものではないか――!?一同が恐怖に慄く中、次の事態は容赦なく始まった。

 

 遂に病院スタッフや入院患者にも同様の症状を訴える者が現れたのだ。微熱等の症状が出たと思った数日後には容体が急変して死に至り…そして遺体は灰状になって崩れ去る――件の男女と全く同じだった。ことここに至って漸く人々は事態を把握した。この奇怪な変状は伝染する、即ち未元のウイルスないし細菌によるバイオハザードが発生したのではないか、と…。

 

 これには県全体――否それどころか日本全国がパニックに陥った。島国である事や衛生観念に関する意識の高さもあって海外で起きる感染症騒ぎには対岸の火事でいられたが国内で発生した未知の感染症への対応となるとノウハウが全くなく、暫し混迷の極みを晒す羽目になった。折り悪く漸く事件から5日を経て漸く“霧”が晴れたあかつき村の中心部の惨禍――道路や校庭の各所に人の形をした塵芥と衣服が転がっている様が中継で見せつけられれば否が応でも冷静でいられる者はいなかった。

 非常事態宣言の布告と共に各国からの早期封じ込めの要求をされれば国としても強権的な措置を取るしかなく、《黒禍熱》と暫定的に命名されたこの奇病に罹患したと思しき人間はあかつき村内の病院に隔離入院させる事になった。

 

 無論慎重論・懐疑論も出た。あの“霧”の正体も特定出来ないのにあまりに性急過ぎる、まだ感染症と決まった訳ではない、研究所から漏出した未知の放射性元素による可能性もあるのではないかetc…だが患者は日に日に増えていく現状であり、手を拱いていれば日本中にこの悪夢のような奇病に日本中、いや世界中が呑まれてしまうともなれば悠長な事を言ってられる筈もなく、村中心部に全患者を収容した上であかつき村は完全に封鎖された。

 

 古来より感染症との戦いは差別との戦いでもある。ウイルスのメカニズムがハッキリしていなかった古代、中世は言わずもがなで近代以降になってもハンセン病やHIVなどのキャリアが不当な扱いを受ける事はよくある話だ。確かにその観点で言えば決してベストな選択肢であったとはいえないだろう。だが数年前の新型インフルエンザと違い、症状が激烈で且つ異様な死に様を迎えるその見えない脅威に対して冷静でいろというのは土台無茶な話なのだ。だから人々はこの封鎖を患者達を助けるためにも必要な事なのだと無理矢理納得させた。後は派遣された医療スタッフが上手くやってくれる事を祈るよりしょうがない、と誰もがせめて天に祈り続ける事、1か月後。収容患者全てと治療に当たった医療スタッフの過半数が死亡した事が発表された。

 

 誰もが悪意があった訳ではないし、このような結末を望んだ訳ではない。だが結果として大いなる落胆と失意と呵責を以て一連の騒動は幕を下ろした…かに見えた。

 

 周りも次々命を落とす中、命からがら生き延びた医師の報告によるとやはり《黒禍熱》の大元は何かしらの切欠で突然変異(ミューテーション)を引き起こした細菌によるものだったらしい。最終的に分かった事は潜伏期間は1日から2日、発熱、痙攣、発疹、意識混濁等を伴う症状の末に罹患者を死亡させる、主に血液等を経由し、数個でも侵入すれば発症する、但し自然界では殆ど生存できず、人にしか感染しないという事。蓋を開けてみれば生命としては驚くほど惰弱な性質が明らかになり、このようなちっぽけな生命体に日本中どころか世界中が振り回され、挙句の果てに多くのものを失った現実に唖然とするより他なかった。

 

 だが裏を返せば生物としては酷く脆弱な存在でも、人工的な何か――即ち「兵器」という側面に限ってみればかなり有用なのではないか。出所は不明瞭ながらネット上にてやおら顔を覗かせたその一考察が新たな疑惑を生んだ。潜伏期間の短さは感染域の広がりを抑制する効果がある、人にしか感染せず、宿主にくっついていなければ生きていられないコイツがどうやって自然界に存在していたのか…。

 

 様々な疑惑が交錯した末に「研究所では本当は新型のウイルス兵器の実験をしていたのではないか」もしくは「研究の副産物、例えば未知の放射能によって既存のウイルスが変異したのではないか」という説が世論を賑わすようになった。勿論両方ともハッキリした根拠があった訳ではなく、所謂陰謀論の類に過ぎなかったがSNSという触媒を得た情報はそれ自体が悪性のウイルスであるかのように瞬く間に拡散した。

 古今東西より細菌やウイルスを兵器として利用する手はある。スペイン人の持ち込んだ天然痘がアステカ文明を滅ぼし、モンゴル民族もペスト患者の遺体を投擲して、意図的に感染を広めたと言われている。かつてアメリカでマスメディアや政治家に炭疽菌の入った容器が贈られた事件があったし、あの白零會もボツリヌス菌やエボラウイルスを生物兵器として研究していたという。現代は国際法によりBC兵器の製造・所持は禁止されているが律儀に守っている国はどの程度いる事か…。

 製造が比較的低予算で済み、感染率、致死率と言った“威力”が高いのもさることながら、誰がウイルスに罹患しているか分からないという疑心暗鬼が社会的混乱を呼び起こす、それがBC兵器の真に恐ろしい所だ。実際今回の事件でもあかつき村のみならず県全体を閉鎖すべきだという過激な論調が本気で叫ばれ、該当する地域のナンバープレートを付けた車が車上荒らしに遭ったり、県内で生産されたものの流通を締め出したりなど深刻な風評被害が各地で発生した。人は何か分からない事が起きた時に必ずそこに原因を求めて安心したがる――それが正しいかどうかは別として。

 

 疑心の末に最終的な全ての矛先は研究所の責任者であった山城慎吾博士へと向かった。彼は既に故人となっていたため、勝手な憶測を立てるには格好の餌食だったのだろう。両親不詳の孤児であった、小学校の教師曰く「優秀だがどこか達観してて不気味な子だった」、中学の同級生曰く「アイツの周りでは不思議と事件が起きるんだ」、大学の同窓に()()佐崎統夫がおり、彼らは親友であった、()()()()()()――。

 

 頭は良いが心に闇を抱えた孤独な男が世間とそこに住む者達を憎み、大規模なバイオハザードを仕掛けた――そんな痛快で分かりやすい筋書きを求めた者達によって連日連夜様々な“疑惑”の名の元に過去の研究から交友関係に至るまで全てのプライバシーが暴かれ、彼はメディアと消費者の玩具とされた。あかつき村は実は村八分の村だ、あの研究所に派遣されたものは生きて還ってはこられない、とか言った噂もついでの如く飛び出たが、さほど関心が惹かれる事はなく、疑惑の大半はやはり彼絡みだったと言える。

 

 そこに飽きれば今度は政府はどの程度事態を把握、ないし関与していたのかという追及が野党から始まった。が研究所を誘致した件の代議士も含めて誰もが知っているのか、いないのか曖昧な態度を取り続け、結局数名の関係者が責任を取って退いた程度のスキャンダルに終わった。これを機に政界の抜本的改革が行われるだとか、政権交代に発展するだとかそういった一大変革も特になく、結果的にはただの力のない野党が一時的に与党の揚げ足を取って政治という椅子取りゲームの盤面を優位にしようとする程度のカード止まりだった。

 

 結局の所、真相究明や今後の研究の引継ぎと言った重要な事は後回しにされ、暫くは面白半分の三面記事ばかりが誌面を賑わした事で却って核心部はいつの間にか有耶無耶になった。事件から半年もすれば国民の関心は別の方面に移り、その間に中心部を失ったあかつき村が最早自治体として成立する事が出来ず、災害後の人口流出もあって地方自治体としては完全に消滅した辺りを最後に世論も飽きたかのようになんとなく沈静化した。

 

 消滅した一つの村もそこに存在していた筈の人々もあれだけ騒ぎ立てていた筈のマスコミも消費者も…まるで端から存在していなかったかのように。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 全てが終わってみればあの時自分達は何に振り回されたのだろうか。本当に知るべきだった事柄には目を向けずに何もかもが宙ぶらりんなまま、ただなんとなく過ぎていく日々の生活という名の現状維持に押し流され、いつの間にか忘却されていった惨禍と痛哭から得た物はあったのだろうか。

 拓務は件の事件を思い返しながら自問したが分からなかった。ではどのような道が最善であったのかいくら俺如きが頭を捻っても辿り着ける筈がない、何しろ自分自身その当事者に向き合う事を拒絶して、逃げ出してきた身の一人に過ぎないのだから…。

 

「でも彼らは生きていた。そして今になって帰って来たのよ、《スカルマン》としてね…」

 

 薄暗い指令室の中、深町がそう呟いた。鳶も照原も何も言わずにじっと傾聴している。帳を破るように拓務は「何があったんだ…」そう口を開いた。

 

「彼らが生きていたなら何故政府はそんな嘘を吐いた?一体あの事件の直接の原因はなんなんだ…!?」

「理由は簡単。知られるとまずかったからよ。あの“霧”を引き起こした根源、そもそも研究所の本来の姿をね…」

 

 本来の姿…?あの研究所は単なる新エネルギーの実験機関ではなかったのか…?そう問い掛けるより前に深町がファイルを取り出すとそれを放って寄越した。訝し気にそれを受け取って中身を確認すると中に収められていたのは複数の資料だった。論文と思しき形式の紙束にモノクロで不鮮明な写真がいくつか――いずれもそれなりに古いものらしい。これは一体なんだ…?

 

「“プロメアセンター”とはよく言ったものね…、人間に火という文明と共に争いを授けた神…。人には過ぎた力というのならまさにこれほど適切な表現もないわ」

 

 呆れたようにそう嘆息する深町を尻目に拓務は論文に目を通した。大学で専攻していた事もあり、英語は日常レベルで使える自信はあった。所々難解な専門用語が用いられている箇所もあったがそこは前後の文脈でなんとなく判断する。少しばかり時間を置いて資料を探るとそこに書かれていたのは――。

 

「――バカな…!こんな事が…!」

 ある筈がない。本当にそう言い切れるだろうか。

 

 人類の進化、その結果としての《ヴェルノム》、それを応用した超人兵士、その根源に在る無限の力…。それを齎す福音の究明こそがあの研究所の根幹であり、その末路があの事件…?論文の内容をかみ砕いて言うとそう言う事だ。

 

 バカげている、三流SF映画の世界じゃあるまいし。こんな話普段の拓務なら一蹴しているレベルだ。だが先程の怪物…《ヴェルノム》と言い、拓務も最早この世の理を超越した領域を目の当たりにしてしまっているのだ。今更かぶりを振って否定する事など出来なかった。

 

「そしてその懸念は正しかった。分不相応に神の領域に手を出そうとしたツケが彼らの姿であり、我々が追うべき亡霊の正体…。後戻り出来ない、と言った理由が分かった?」

 

 拓務はギリリと歯を噛みしめた。悔しいが深町の懸念は正しい、確かに知らないふりを出来たなら少しは平穏の人生を送れたかも知れない。背後で照原が哀しそうに瞳を伏せた。完全に話に付いていけていない鳶だけが不可解そうな表情をこちらに向けている。

 

「こうなった以上貴方も他人事ではないわ…。それに私達ももう形振(なりふ)り構ってはいられない…」

 

 最悪の事態も考慮して対象の抹殺も已む無し。そう告げると深町は拓務の方に向き直り「猶予は三日よ」そう告げた。

 

「何をしでかすつもりか知らないけどそれまでにあの骸骨男を捕まえなくてはならない…。そのための切り札の一つが今朝の資料だわ」

 

 というと山城幹斗の他に渡された二人の少女の事か。確か名前は山城柚月と九條梗華。やはり二人ともあかつき村の関係者なのだろう。だとするなら深町が彼女らの行方を追う理由も自ずと検討がついてくる。拓務は椅子から立ちあがると泰然と腰かけている深町を睨みつけた。

 

「人質にしろって事か…」

 

 恐らく二人は《スカルマン》こと山城幹斗にとって近しい人物なのだ。だからこそ奴に対する“アキレス腱”になり得る可能性がある。卑劣な手だ、年端も行かぬ少女をテロリストの交渉に利用するなど凡そ警察官としてあるまじき事だ。その可能性が有効と思えても到底承服出来ない、その意思を示すように拓務は吐き捨てた。

 

「事態は思ったよりもずっと深刻よ。一個人の感情でどうにかなる範疇は当に超えている…それとも…こっちのがお気に召すかしら?」

 

 冷徹にそう言い放つと深町は懐にしまったもう一つのレポートを拓務に手渡した。受け取る事さえ癪に障る気分だったが、渋々手を伸ばす。だがそこに記されていた情報に今度こそ拓務は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚えると共に自分の迂闊さを心底呪った。思い返せばきっかけはいくらでもあったというのに何故真っ先にこの可能性に行き当らなかったのか…。

 

 深町曰く九條と山城妹の方は法的には少なくとも死亡扱いになっているため多少強引な手を使う事も不可能ではなかったそうだが、こちらはそうは行かない。故に本当にどうしようもなくなった時にまで温存しておくつもりだったと、深町は説明した。その事も見越した上で拓務は特対に招聘されたのだという事も…。

 

 あかつき村最後の生き残り。

 

 彼はいざとなったら《スカルマン》――山城幹斗に対するカードになり得ると踏まれていたようだ。

 

「とにかく綺麗事言ってる場合ではないのよ。我々は早急にこの三人の身柄を抑える必要があるわ、これ以上の惨劇は御免被るわよ…」

 

 その言葉をどこか遠いモノのように感じながら拓務は渡された資料を床に叩きつけた。資料に写されていた三つ下の従弟――成澤哲也はそんな周囲の思惑など知る事なく、口を引き結んだ仏頂面を浮かべていた。

 




漸くここまで書けた、今そんな気分です。

ある意味ヴェルノムを除けばこれをやって初めて仮面ライダーらしい、現実離れしたロジックのアイテムを出せるようになると思ってましたので、まずはここを書く事が第一関門でした。

ここまで書けばひたすら難産のスカルマン編も折り返し、という所なのでもう少し頑張ります。

それではまた次回。


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CHAPTER-2:『REvengerⅡ』‐⑩

「柚月…!」

 

 奇妙な空間に佇む奇妙な東屋…のような棟。その前に佇む華奢な人影は山城柚月に相違なかった。そう言えば先程楠とか名乗ったあのおっさんはこの先で我が主が待っている、と言っていた。という事はつまり――!

 

「え、なに、ここの主ってお前の事?この屋敷もこの変な機械も全部お前の持ち物とか…?」

 

 それこそ予想外というもので哲也は素っ頓狂な声を上げていた。だとしたらどこにそんな財力があったんだ、というか7年間の間にどんな環境の変化があったんだよ、とか問い質しかけた所で――。

 

「いや、そんな訳ないでしょ…」傍らの梗華が呆れたように嘆息した。

「違います。バカですか貴方は」柚月が思いっきり冷たい声色でボソリと言い放った。

「バカと言うな、バカと!」

 

 哲也の抗議を柚月は華麗に無視すると「こちらですよ」と言って踵を返した。どうやら付いて来いと言っているらしい。

 おい、待てよと声を掛けようとした所、梗華は躊躇いもなく脚を踏み出した。慣れた動きだ、さっきから思っていたが何度か来た事があるらしい。そうなると「我が主」とやらの事もどうやら知悉済みのようだ。なんだか一人だけ置いてけぼりを食らったような気分でそれはそれで釈然としない思いを感じながら哲也は渋々後に続いた。

 

 柚月に続く形で通された部屋は巨大な一間だった。そしてそれにつけても奇妙にも程がある間取りだ。青めの灯りに照らされたやや薄暗い室内で最初に目についたのは哲也達の真正面、向かいの壁一面に埋め込まれた巨大な有機ELディスプレイ、そして部屋の中央に安置された不可思議な輝きを放つ装置だった。というよりその輝きが部屋全体を照らしているのか…という事にそこで気が付いた。

 

「アイツは…」

 

 思わず部屋全体を見渡して哲也は軽くそう声を上げた。視線を右側に走らせるとそこにはマネキンのように安置された機械的な鋼の鎧が置かれていたのだ。各部が破損した状態でケースに収納され、左右から伸びるマジックハンドが火花を散らせている辺り如何にも修理中といった感じで、やはりSF映画のような光景だ。詰まる所凡そ現実的ではない。

 

「なぁ…あの人が言ってた“主”ってのは一体なんなんだ…?」

 

 隣に立っている梗華の耳元にそう囁いた。この屋敷にしても設備にしても何から何まで大袈裟すぎる、こんな所に居を構える奴なんてそれこそ余程の大物か酔狂者くらいだろう。神秘的というよりいっそのこと不気味でさえある。

 梗華は答えあぐねるのか困ったように眉間にしわを作った。

 

「なんて言ったらいいのかなぁ…私もハッキリとは分かってないんだけど…」

 

 曰く自分もつい先日ここに来たばかりでまだ1回しか会っていないという。そんな人を信用して良いのかよ、と哲也が尋ねると一瞬悩まし気な顔をしたがやがて意を決したように口を開いた。

 

「強いて言うなら…柚月ちゃん達のお祖父さんだよ…」

 

 なんだって…!?その言葉の意味を咄嗟に理解できても呑み込むのにしばしの時間を要した。その言葉を胸中で反芻し、どういう事だよ、と尋ね直そうとした所、「驚きのようだ」と静かな、だが威厳のある声が耳朶を打ち、哲也は思わず体を硬直させて声のした方に向き直った。

 

 中央の装置が放つ不可思議な光に照らされるように声の主は姿を現した。声の印象や直前の梗華の発言から予想はしていたが、果たしてそこに立っていたのは藍色の着物に黄土色の羽織を守った老年の男性であった。右手に杖を突いているが背はまっすぐに伸びており、足取りにも覚束ない所はない。雪のように白く染まった髪と髭からは相応の年齢を感じさせたが、頑健そのものに見える肉体もあって総じて年齢不詳という印象を抱かせた。

 恐らくこの老人が異質な屋敷の主なのだろう、そして――。

 

「初めましてだ、成澤哲也君。柚月から話は聞いているよ」

 

 その気安い呼び方からやはりこの老人が柚月の祖父なのだろうな、と確信を抱いた。という事は幹斗にとっては…と一瞬考えが及びかけたがすぐにそのそれを打ち消した。アイツと柚月は親が違う筈だから関係はないか…。いやしかしそれは()()()()()()()()()だし…。

 ふと視線を感じ、柚月の方を見た。彼女の老人を見る目つきが存外剣呑な色を帯びている事に気付き、凡そ身内に注ぐものではないな、と感じた哲也は内心ゾクリとした。すると柚月も哲也の視線に気付いたかやや気まずそうに顔を逸らした。

 二人の関係性が分からなくなり、哲也が戸惑っているとそんな内心を察したのか老人が片手を差し出してきた。

 

琥月劉生(こげつりゅうせい)。ここではその名で通しておるよ。…察しの通り柚月の祖父でもある、一応はな」

 

 一応、という言葉に腑に落ちない物を感じながらも哲也はその手を握り返した。やはり触れたその手の握力は強く、老いを感じさせなかった。

 

「アンタ…いや貴方は何者なんですか…」

 

 その哲也のというに琥月という男は意味ありげに口元を緩めた。笑っているようにも悲しんでいるようにも戸惑っているようにも見える何とも言えない表情だった。だが年を感じさせない色艶の良い肌とは対照的にそこに刻まれた皺には苦悩の跡が浮かんでいるようにも見えたのだ。思わず仙人みたいな人だな、と思った。

 

「私達の村を滅ぼした人です」

 

 直後氷のような冷たい声が耳を聾した。は…?と声のした方を見ると柚月がなんの感情も湧かないガラス玉のような瞳を老人に注いでいるのが分かった。その声に梗華は苦しそうな口元を結び、俯くように顔を伏せた。その言葉を受け止めた老人――琥月が瞳に寂寥のような色が浮かべ、「否定はしない」そう呟いた。

 

「結果的にだが…あかつき村事件を引き起こしたは私だ…。そうして《スカルマン》という怪物を生んでしまったのもな…」

 

 何を言ってるんだ…。そう続けようした喉から出たのは、しかし掠れた呼吸音ばかりで声になる前に搔き消された。代わりに急速にせり上がってきたあの村の、あの日の記憶が哲也の意識を塗り潰していった。

 

・・・・・・・・・

 

 その日村を飛び出した事に何か特別な意味があった訳ではない。いや、それは相応の年月を経た今から俯瞰してそう言えるというだけの事であってあの時の俺にはたぶん酷く切実な事だったんだ。

 

 この狭い村で終わるだけの男にはなりたくない、もっと広い世界を見てみたい、俺が一番輝ける場所はどこなのか確かめたい――。言い訳は色々あったけど詰まる所叔父さんの言葉を借りるならば「何者かになりたい」、それだけの想いを(よすが)にして俺はあの日、ありったけのお金だけを持って東京行の最後のバスに乗る決意をした。携帯は持っていたら弱気になりそうだったから置いてきた。別に東京に当てがあった訳ではない、ただ漠然とそこに行けば何か変わる気がした、それだけの話だ。そもそもが半ば衝動的に飛び出しただけで目標なんてないに等しかった。

 

 高校生の子どもにとって外の世界を繋ぐ唯一の手段が道の駅に停まっているバスだ。中でも長期休みの時期に臨時で運行している東京行の高速バスの便がその日あったのは実に僥倖で俺は最早これが運命なんだと思うより他なかった。何も考えず熱に浮かされるようにチケットを購入したのは本当にバスが出る5分前というタイミングだった。

 慌ててターミナルに向かおうとしたその時、不意に視界の端が見慣れた人影を捉えた。思わず、と言った風にそちらに視線を向けるとちょうど道の駅から出てきたらしい少女が――ユヅキがこちらをじぃっと凝視しているのが分かり、俺は思わず息を呑んだ。たまたまここに来て、そしてたまたま目が合っただけ、狭い村の中だとよくある事だ、と分かってる筈なのに何故か後ろめたいような心地がした。ユヅキはそんな俺に歩み寄ってきた。

 

『どこに行くんですか?』

 

 近くに停まっている東京行のバスと俺の方を交互に見ながら彼女はそう言った。その目も口調も11歳とは思えない程不思議と大人びている。俺は気圧されたような気分になりながら顔を逸らして『別に…。どこでも良いだろ…』そうぶっきらぼうに呟くしかなかった。

 ユヅキはどこか疑わし気な目で依然俺の方を見ていた。どうもこの子は苦手だな、と思う。ミキトとは兄妹でも二人は血は繋がってない、というのになんか幼い頃のアイツによく似ている。むしろ下手すれば同性同い年の気安さや挑発すればすぐノってきてくれる扱いやすさがない分、ミキト以上に扱いに苦慮しているかも知れない。流石に付き合いも長くなった今では単に人付き合いが不器用なだけだという事も分かるがふと何かの拍子にそう感じる事がある。

 何より彼女の瞳だ。年の割に大人びているとかそういう事ではなく、時折なんだかこちらの考えを見透かすような…そういう不思議な色を帯びる瞬間がふとあるのだ。なんだかこちらの酷く矮小で浅ましい内心まで読み取られそうな気がしてしまう。

 とにかくこれ以上グズグズしているとバスに遅れる事必至な事もあって、俺は早々に踵を返して乗り場まで向かおうとした。ところがそんな時に限って浮かんでくるのが初めてこの村にやってきた時の彼女の感情をどこかに取り残して来てしまったような寂しそうな瞳であり――それに背を向けて黙って行ってしまう事はこの娘にもアイツにも、なんだか途轍もなく不誠実な事であるように思えた。

 

 俺は振り返ってユヅキの方に駆け寄るとその小さな背に視線を合わせた。

 

『すぐに帰ってくるよ。だからそれまで兄貴にもキョウカにも言うなよ…?』

 

 その名を言うと胸に甘い痛みと締め付けるような苦い痛みが同時に押し寄せるような気がしたが、それを敢えて無視して俺は苦笑しながらそう言った。上手い具合に「いつもの自分」を取り繕ったつもりだったし、向こうもそれに納得したのかは正直よく分からないが、彼女はその言葉を受けてコクリと頷いた。俺は『頼むぜ?』ともう一つ念押しすると今度こそ発車しかけのバスに向かって走っていった。発車の十数秒前に飛び乗ってきた高校生を訝し気にジロリと睨みつけた運転手の視線には気付かないふりをして俺は指定席に就いた。やがてバスが走り出して、道の駅が見えなくなるまでユヅキはそこにいたようだった。

 すぐに帰ってくる。少なくともこの時点ではその台詞に嘘偽りはなかったが結果的にこれが俺にとって16年間育った村での最後の記憶になった。

 

 

 

 東京までザッと4時間。15時のバスが最終便なのも分かる話でいくつもの山を越えて首都高に乗り、漸く終点に辿り着いた時はまだ高かった日もすっかり沈んでいた。とは言えバスタ新宿周辺は村とは大違いの不夜城っぷりで、まずはその人混みの多さに気圧されたものだった。東京に来たのはそれこそ中学の修学旅行以来だったから、せいぜい2年ぶりの筈だが、あの時はこんな風に夜に出歩いたりはしなかったから実感しづらかった。あの時はキョウカがあまり乗り気じゃなくて――たぶん両親の事を思い出すからだろう――ミキトもいつも通りさも泰然自若としてたから俺一人だけはしゃいでるのがなんだか取り残されたような気分だったけど、二日目に行った日本最大の遊園地に行った時は流石にそんな事も忘れて思いっきり楽しんだ。嫌がるミキトに俺とキョウカが無理矢理ネズミの耳を被せて撮った3ショットを彼女が『貴重な写真だよね』とか言ってケラケラ笑っていたのがなんだか印象に残った。

 

 そこまで考えてまた二人の事に囚われそうになった俺は慌ててかぶりを振ってそれを振り払うと今度こそバスタ新宿を後にした。

 ネオン看板やビルの窓から漏れる灯り、そして行き交う車のライトが目に痛く、さながら「ブレードランナー」に出てくる街みたいだなと呆然としていたが、あまりぼんやりしていると露骨に田舎者臭いため(事実だが)、とにかく当てもなく今夜泊る所を探さねば、と漸く思い至った。こういう所がつくづく粗忽者たる所以だよ、とブツブツ愚痴を内心に吐きながら俺は歩き出した。ミキトだったら事前にあれこれ調べたりしてもっと上手くやれたりするんだろうか、とちょっとでも考えてしまうのがもうイヤだった。

 

 そんなこんなで人の荒波に揉まれまくり、漸く古めのネットカフェの一室を借りれたのがそれから30分後の事。都条例による未成年の夜間外出やらそもそも身分証がなければ入れないのでは、と言った今更の懸念を他所にあっさりと泊まれた事に驚きながらも幸運にひとまずは感謝する事にした。

 適当に道中のコンビニで買ったカップラーメンを食べつつ、残りの残額を確かめると早くも溜息が漏れた。お年玉やらなにやらで貰った金の総額が3万と4873円。既にバス代6000円とここの滞在費が5200円、カップ麺代で220円消費してるから残り23000円とそこら。この分じゃあっという間に底をついちまうな…という結論に至った。かと言って家出人の高校生にそうそうバイト先が見つかる筈もなく、試しにネットで検索して当たってみると住所やら身分証やらは絶対不可欠みたいで早くも世の中の難しさを実感した。

 こんな時漫画だったらたまたま入った喫茶店のマスターが行くとこないなら二階にでも住め、と言って快く部屋を貸してくれるとかたまたまチンピラに絡まれている老人をやっつけたらその人がボクシングジムの会長だったとかあったりするんだろうがそんな幸運が都合よく転がって来る筈もなく。現実は少年漫画やファンタジー小説みたいにはいかないのだ、とつくづく痛感する。というかそんな事にすら思い至らない辺り、俺はつくづく阿呆の粗忽者だという事だけが分かり、俺は思いっきりフラットタイプのマットレスに身を投げ出した。スプリングのいかれた安いマットレスの感覚は心地よさとは真逆の境地で、おまけに味の濃いカップ麺が齎した胃もたれ感もあって、気分は最悪だった。

 

 村に居たら今頃は母さんの夕飯を食べて風呂に入って漫画読むかテレビ見るかしていた時間なんだろうなぁ…という感慨に耽ってるうちに俺、なんでここに来たんだろう、ここで何してるんだろう…という弱気が頭を擡げてきた。そんな時いつだって思い浮かぶのは郷里の景色ではなく、いつも一緒にいた二人の顔だ。

 

 

 

 山城幹斗と九條梗華。

 

 いつの間にか随分と二人と遠ざかってしまったな、と思う。物理的な距離もあるけどもっと精神的な所で。いつからだろうか、ずっと一緒だと思ってた二人の間に距離が出来てしまったのは。いやもしかしたらそんなものは自分の勝手な思い込みに過ぎないのかも知れないが、だとしたら自分が二人から遠ざかろうとしているという事になる。

 中学にあがった辺りからだろうか。幼い頃からの博学才英っぷりにますます磨きが掛かり、村や県下を飛び越えて全国レベルの秀才達と成績争いをし出すようになれば、周囲の幹斗の評価は「頭は良いけど協調性皆無の変な奴」から一変した。全国学力テストで学校開闢以来の好成績を出したとかなんだとかで村長から表彰されたり、「流石は山城博士の子だ」と皆がその天才っぷりを讃えた。当人はと言えば相も変らぬマイペースっぷりでむしろ何かと耳目を集める事を心底鬱陶しがっていたが。

 梗華は梗華でたまたま道の駅の産直で売り子をやってる光景がホームページの動画で公開されたら、それが凄まじい勢いで再生され――俗な言い方をするとバズった。以来学業に差し障りのない範囲で、という条件こそ付いたが地元のPR活動の急先鋒を務めている。現在も絶賛継続中。

 

 そんな訳だから村からバスで30分掛かる県下の高校に進学した際も早くも有名人になっていた。幹斗なら望めばもっと上の高校に行けただろうし、実際先生からもそう薦められたのだが、何故かアイツは地元に拘った。理由は最後まで教えてくれなかった。そんな謎の入学経緯もあったし、()()()()()()()()少女漫画のヒーローみたいな端正な顔立ちだ、校内にはファンクラブまで結成されているらしい。半ばの地元のアイドルと化している梗華は言わずもがなだ。

 

 最初はむしろ自慢だった。クラスは離れてしまったが学校中の注目を集める二人が親友である事が誇りだった。しかし異なった歩幅の距離が次第に離れていくように段々と俺達の関係は嚙み合わなくなっていった。自分はと言えば多少身体能力が高い以外秀でた所もなし、それにしたって球技大会でヒーローのような大活躍を見込めるものではなく、むしろ目立ちすぎる二人の前では平々凡々も良い所。たまに話しかけられたと思ったら、山城君の知り合いなんだって?、九條さんに紹介して欲しい、彼に手紙を渡して欲しい、付き合ってる人いる?云々…要するに都合の良い伝書鳩役だ。

 これではダメだと思った。膨れ上がるばかりの僻みと劣等感が自分を圧し潰して、いつか三人の関係に取り返しのつかない亀裂を生んでしまう前に二人のように何か必死で打ち込めるモノが欲しい、そう思った俺は少し二人と距離を取った。無論声を掛けられれば普通に応じるし、互いの家に行って他愛のない話をする、そういう関係は続いたが以前みたいに四六時中一緒にいるような事はしなくなった。梗華はそんな俺を怪訝そうに眺めてたが幹斗は特に何も言わなかった。察しの良い友で助かる。

 

 遅ればせながら何かやりたい、と思った俺が叩いたのは空手部の扉だった。小学生の時に夏休みに一度だけ体験で入った事がある、という極めて安直な動機でかなり遅い入部届を出した事を早くも後悔する羽目になったが、過酷な練習を続けるうちに自分の中にも何か手応えが生まれた。一度だって何か真剣に打ち込めた試しのない身には新鮮な歓びだった。

 

 そんなこんなで間もなく最初の1年が過ぎ去り、漸く学期末考査も終わったタイミングで奇妙な噂が耳に飛び込んできた。「梗華と幹斗が付き合っている」部活の先輩から突如そんな話をされ、俺は天地がひっくり返るような衝撃を覚えた。

 

 二人が度々告白されても断り続けていた事は知っていた。幹斗が誰かと付き合うなんてそれこそ天地がひっくり返るレベルで想像しづらい世界の話だよな、と漠然と思っていた所にまさに青天の霹靂、寝耳に水だった。

 話を持ってきた先輩は美男美女の組み合わせで悔しいけどお似合いかもなぁ、なんてちっとも悔しくなさそうに能天気に笑ったが、俺はと言えばどうしようもないくらいの不安と不快感がこみ上げてそれが心臓を締め上げてくる感覚を覚えた。そんな筈はない、と頭が全力でその可能性を拒絶した。

 俺達の関係はそんな風に変わるものじゃない、アンタにはそんな事が分かる筈もない、と全力で叫び出したかったがまるで全力疾走した後のように咽頭が乾き切り、声が出なかった。俺は何も言わずにその場を後にした。

 校内を全力で駆け回って二人の姿を探した。とにかく会って無性に話がしたかった。確かにこの1年、以前よりかは話す機会は減っていたけどそれでも俺達の関係は健在だってそう思っていた。一刻も二人の顔を見てそれを確かめたかった。校内中駆けずり回った挙句に二人がとっくに下校したと知るや否や脇目も振らずに学校を飛び出した。別に二人が一緒だとは限らない、帰宅部の幹斗はともかく梗華には部活があるのだし、件の噂があくまで噂でしかないのだとしても自然と視線は二人の姿を追っていた。

 いつもの帰り道の筈なのに随分と長く彷徨した気がして、村に向かうバスのロータリーがある駅前に辿り着いた。果たしてそこに見慣れた背中を漸く見つけた俺は、しかし声を掛けるより前にその光景をハッキリと捉えた、捉えてしまった。

 

 並んで歩いている二人の姿。ずっと昔から見てきた景色の筈なのにどうしたってそれが「いつも」と違う事に気付かない訳にはいかなかった。幹斗の隣を歩く梗華が彼の左手に手を伸ばしてゆっくりと重ねている。幹斗は暫し手汗を気にするように指先を揺らしていたが、やがて意を決したようにぎこちなく、その手を握り返した。その様子に満足したのか梗華が悪戯っぽく微笑んだのが見えた。その笑顔が俺の知っている梗華の笑顔とは似ているようでまるで異なるものなのだと察した時――俺は踵を返して二人とは正反対の方に走り出していた。後ろを振り返る気にはなれなかった。

 

 その後どうなったのかいまいち覚えていない。次の記憶はどんな経緯かで帰宅した自室のベッドで呆然と訳もなく天井を眺めている事だった。

 数日前にこの部屋を訪れた幹斗と他愛もない事をあれこれ話した筈なのに、それがやけに遠い昔の事のように思えた。俺は目を閉じて胸中に何度も尋ねた、何故だろう、と。

 ずっと続くと思っていた関係が変わる切っ掛けはなんだったんだろう。二人はそれが変わる事が怖くはなかったんだろうか。それとも俺が勝手にそう思い込んでいただけで二人にとってはその程度のモノに過ぎなかったんだろうか。何より――

 どうして俺を何も言わなかったんだろう。どうして俺を置いていったんだろう。――どうして俺じゃなかったんだろう。そこまで考えて今度こそ制御不能の痛みと熱がどうしようもなく胸を焦がすのを俺は知覚した。

 

 そうじゃない、たぶん俺はずっと知ってた。いつからかはハッキリ分からないけど俺はそこに入れないと分かって意図的に目を背けて見ないふりをした、耳を逸らして聞こえないふりをした。子どもの頃と同じ筈なのに梗華が幹斗に話しかける声にいつの間にか俺に向けるものとは違う、艶やかな潤いのようなものが混ざり始め、それに応じる幹斗の声もずっと柔らかい。そう感じ出した。

 

 それが本音だ。見たくなかった、聞きたくなかった、認めたくなかった。今のままじゃ何もかも幹斗に及ばない気がして、だから二人から遠ざかってまでこれまでと違う自分になりたかった。だってそうでもしないと――梗華の隣に立てるようにはなれないと思ったから。そうでなければ俺は自分の中に芽生えてしまったこの邪な感情に向き合えない。

 

 隠して、誤魔化して、目を瞑って、耳を塞いで、その結果それが何の意味もない事だと知って漸く俺はそれを認めた。

 

 俺はずっと彼女が好きだった。

 

 幹斗の抜け駆けを謗る資格なんか俺にはない。俺自身がずっと変わらないと思ってた関係を誰よりも変えたいと思っていた側なんだから。

 

 

 

『梗華…』

 

 ひたすら不愛想な天井を眺めて俺はその名を呟いた。それは虫の羽音みたいに微かに俺の耳朶に響いただけで澱んだ室内の中に消えていった。所詮俺の想いなんてそんなモンだろうと自嘲する。

 あれから二人とまともに話せなかった。何もする気もなく電話もメールも全部無視してその挙句に今こうして都会の中に一人だけポツンと寝そべっている。どこにも行き場のなくなった俺の気持ちと同じく誰にも顧みられもしない。ひょっとすると俺はこうなる事を望んでいたんだろうか。幾分冷静になった頭はそう考えていた。

 

 ここに来れば何かが変わるなんて本気で信じていた訳じゃない。そう、ただあの二人から離れたかっただけだ。それだけじゃない、三人の思い出が多すぎるあの村からも。

 だから土台この小旅行になんて何の意味もないのだ。1年前から何一つとして変わらないモラトリアムと飽き性の延長戦上から未だに抜け出す術も知らず、かと言って岸を探したりせめて藻掻いたりする選択肢も持たずに、漫然と揺蕩っているだけ。風と潮に流される事しか知らないクラゲの如き我が身を自覚するだけの旅だ。

 

『バッカみたいだ俺…』

 

 最早溜息を吐く気力もなく、俺はごろんと安いマットレスに体を横たえた。体が鉛の如く沈み込んでいく気がするのは相応に肉体も疲れているのか、それとも俺の精神の持ちようの問題か。どっちにしてもここにいる事に何の意味もない事を自覚しながら、その癖今更村に帰る気にもなれない我が身の愚かしさを揶揄する自意識が鬱陶しく、俺は頭を振って俺自身の声を締め出した。そうしてこの世の全てから隔絶したような気分になりながら、俺は眠りについた。

 最後に思い浮かんだのは何故か幹斗の澄まし顔でも梗華の笑顔でもなく、どこか寂しそうな色をその大きな瞳に湛えたユヅキの事だった。

 せめて約束は守らないとな…。でも一体それはいつになるのやら…。

 

 

 

 眠っては起きて、また眠っては起きて。そんな覚醒と揺らぎの間を延々と彷徨いながら本格的に目が覚めてしまったのが朝6時より少し前。これ以上この黴臭い部屋に居ても気が滅入るばかりだと判断した俺はネットカフェを後にした。

 とはいえ家に帰る踏ん切りも付かず、かと言って他に行く当てもないという根無し草の身に変わりがある筈もなく、どうしたモンかと考え抜いた末に浅草の方に行こうと思ったのはこれまた何か大きい意味があった訳ではなく、単に他に記憶にあった場所というのがそこだったから、というこれまたやけにボンヤリとした理由だった。親父は元々こっちの方出身で父方の祖父母が健在だった時は行く事が多かった。巨大な提灯とその先に広がる商店街の風景は村にはないものでそれはそれで楽しかった。祖父母が鬼籍に入って以降ぱったりと疎遠になっているが従兄と叔父叔母夫婦も住む土地は、このやけに他人行儀な街よりはマシだろうと思った、本当にその程度の事だった。

 

 だからと言って新宿駅からひとまずの目標とした上野恩賜公園までの7㎞ばかりの道のりをひたすら歩き続けたのはやはり蛮勇の為せる技だろう。交通機関を使うのも勿体ないというせめてもの金勘定だけをして、碌に道も分からず僅かな道路標識だけを頼りにひたすら歩き続けて、迷走と寄り道をしまくった挙句に目的地に辿り着いたのはとっくに10時を回っていた。

 靴擦れと汗に喘ぎながら上野動物園の入り口前をウロウロする。春休みと事もあってか親子連れを中心として人通りは多かった。あかつき村も休みになると登山やらスキーやらで観光客が訪れる事もあるが、ここまでの人出はない。井の中の蛙とはよく言ったモノで自分の知っている世界なんて余程ちっぽけなものだと思えてくる。関心半分呆れ半分ボンヤリと流れゆく人の波を眺めていると不意に影が差した。誰か他人が自分の横に立ったのだと知覚した俺は視線をそちらに送った。

 

 何年も着古したようなよれよれのコートはあまりに色がくすみ過ぎて元が何色だったのかもよく分からない。合わせるかのようにコートの主も如何にも年季の入った、という言葉が良く似合う壮年の男性だった。髪にだいぶ白いものが混じっており、それなりの年齢である事が窺えたが一方で背筋は存外しゃんと伸びており、不健康そうな印象もない。何より目が違った。俺と目が合うと男は意味ありげな色をその瞳に湛えて、ニヤリと笑ってみせたのだ。

 なんか昔テレビにこんな奴がいたような気がするな…と思ったのも束の間、何かマズイ、と俺はその視線を振り切り、脱兎の如く走り出した。別に男に反社会的な危ない臭いを感じ取ったという訳ではない、ただコイツに掴まったら確実に面倒な事になる、というある種の野生的な直感が働いただけの事だ。

 だが所詮は都会の喧騒になれない田舎者の逃避が早々通じる訳もなく、都会に出てきた田舎のネズミが車の群れに翻弄されるのと全く同じ原理で多すぎる人の群れを掻き分ける事すら叶わず、あっさりと俺はその男に掴まった、というか犬の子みたいに首根っこをひっつかまれていた。男はどこか楽しむように耳元に囁いた。

 

『なんで逃げるんだ、えぇ?』

『アンタが追いかけるからだ…!』

 

 首が苦しい、とせめてもの抵抗にジタバタ手足を振りながら俺は吠えた。周りの訝し気な視線に羞恥心と自尊心が著しく刺激され、余計に抵抗が激しくなる。そんな俺の様子に呆れたのか、男は唐突に手を放し、その結果急速に支えを失った俺は思いっきりたたらを踏んでアスファルトの上を転がる羽目になった。幸い頭こそ打たなかったが地面に付いた膝小僧と掌が痛く、呻いていると唐突に手が差し出された。どうやら眼前の男が差し伸べたらしい。

 

『悪かったな、立てるかい少年?』

 

 その言葉にもどこか余裕があった。俺は転ばされた事や公衆の面前で醜態を晒す羽目になった恨みやらを込めて抗議しようとしたが、それよりも男がよれよれのコートの懐から取り出したそれを突き付ける方が早かった。

 チョコレート色の革製。縦に開かれた上部分には男のものと分かる顔写真が、下側には金色の輝くエンブレムがあった。よく刑事ドラマなんかでよく見る光景だが現実で見るのは初めてだった。

 

『アンタ警官か…?』

 

 目を合わせた時に感じた直感の正体はこれか、と思うのと同時に目の前の風采の上がらない男が何に似ているか思い出した。昔BSの再放送で見た古い刑事ドラマの主人公がこんな感じの奴だったと思う。

 

『そんな所さ、そういうお前は家出少年だな?』

 

 なんで分かったんだよ…?その質問に男は答えず、ニヤリと笑ってみせた。これが後々まで何かと腐れ縁になる立木正尚との最初の出会いだった。

 

 

 

 立木とか名乗ったその男に強制的に連行されたのは管轄である警察署にある6畳間だった。てっきりドラマなんかでよくあるようにパトカーに乗せられて署の取調室にでも連れ込まれるのかと思ったがそういう事は基本しないらしい。老刑事はテレビの観すぎだと言った。

 気になるのはなんで自分が家出してきたと分かったのか、という事だ。よもや親に東京に行った事がバレて(ユヅキ辺りが出所になったのか?)、既に手配写真が回っているとかそんな事か…と密かに戦慄していると立木は『そういう事じゃあない』と断言した。

 

『俺の鼻は特別製でね、お前みたいに奴を見つける事にかけちゃあ天下一なんだよ』

『…ストーカーの素質あるぞおっさん…』

 

 なんとなく不気味な印象が拭えず、そう告げると立木は気にした風もなく『よく言われるよ』と声を上げて笑ってみせるのだった。屈託のないその笑い声に悪い人ではないんだろうな、というのは何となく感じ取れた。住所氏名やいつこっちに来たのか、みたいな形式上の質問以外は一切してこない所や頭ごなしに『親御さんが心配してるぞ』とか『とにかく終わったらすぐ帰れ』とかそういう事を聞いてこない辺りにもそれが窺えた。

 実際そう言ってみたら刑事は困ったように顔を顰めた。『まぁ本来なら聞くべきなんだろうがな』

 

()()()()がね、言うんだよ。「あの年頃に細かい事をあれこれ言うのは野暮だ」ってさ…。まぁ仰せに従う訳じゃあねぇけど、本人が話す前から根掘り葉掘り聞きだすのも偉ぶって説教するのもなんか違うだろ?』

 

 そこは普通「()()()()()()()」だろ、とか軽口を叩いてやろうかと思ったが、その言葉は意外と真剣な色を宿しているようで、ひとまず男が自分みたいなタイプのガキを捕まえるのにそれなりに真剣にやっている事は分かった。立木とかいうこの老刑事は生活安全課のベテラン捜査員で特に非行少年や家出人、大なり小なり逸物抱えた青少年の世話をするのに熱心な人なのだ、という事はもう少し後で分かった。

 

 結局住所を聞かれた上で近所に住んでいる葉子叔母に連絡が言ったらしい。なんでかあかつき村の実家とは電波が悪いのか繋がりづらい、と制服の巡査がぼやいていたが、俺は言えばそれを特に気にも留めるでもなく、漫然と迎えにくると言っていた叔母さんを待っていた。頭の中にあったのは両親と叔父叔母夫婦にどう言い訳しよう、とかこうなった以上この一人旅もここで終わりかな、という諦念だけだった。なんとなく面白くないな、そう思った俺は6畳間を出て、その先にある待合所のような一角に向かった。あそこなら雑誌もテレビもあるし、逃げたとも思われないだろう、ただそう考えての事だった。

 

 ただいざ行ってみると果たして待合所に置かれたテレビの様子を皆が固唾を呑んで見守っていた。画面の内容は人垣の端々から僅かに見えるだけで何かはハッキリとは分からない。ただ人々の微かな息遣いや震えるような声色からは何か深刻な事が起きた事は想像出来た。俺がその時点で抱いたのは純粋な好奇心のみであり、その先にある景色なんて想像もせずに、人の群れを掻き分けながら、画面を覗き込んだ。あかつき村、という教科書の表紙より見慣れた言葉がテロップとアナウンサーの声に乗って届いたのは次の瞬間だった。

 

〈こちらは現場のあかつき村上空、プロメアセンターの様子を中継でお伝えしています…。センターから朦々と煙が上がっているのが見えるでしょうか、これはまるで…〉

 

 その先の言葉はもう耳には入ってこなかった。プロメアセンター、村では殆ど“研究所”としか呼ばれないそれの映像は、しかし自分にとって馴染みのある、ありふれた風景の映像だとは到底信じられなかっただろう。それがあまりに非現実的で自分の住んでいるのと同じ世界の光景には見えなかったからだ。

 研究所、村のどこからでも見えた山の一角をくり抜いて造ったようなドーム状の構造物は既になく、そこからは朦々とどす黒い噴煙が上がっていた。その煙はまるで岩肌か年代物の大樹のようにゴツゴツして見える表面を流動的にうねらせて、遥か上空に広がっていった。研究所を擁し、ここら一帯の親山である矢頭山よりも巨大な黒雲はその頂点の辺りで徐々に水平方向に広がっていき、笠状に転じた。空撮用カメラが目一杯引き下がって漸く全貌を捉えたソレはまるで巨大なキノコのようだった。

 

 その禍々しいフォルムに俺は心臓を鷲掴みにされたまま、引き剥がされるような恐怖を覚えた。あの形状は知っている。映画や毎年夏のドキュメントでよく見る光景。まるで人類がその手で生み出したモノの中で最も恐ろしく、愚かしい力の象徴のように見えた。

 ナニか途轍もなく恐ろしい事が起きたのだ、あそこで、俺の村で…!凍り付いた時間の中でそれだけは確かに実感できた。皆は、親は、幹斗は、梗華は…どうなっただろうか…。遅れて思考がそこに行きついたのと同時にそれさえも浸食していくように研究所から溢れ出した真っ白い“霧”が俺の知っている全てを呑み込んでいった。

 

 

 

 そこから俺の記憶はまた暫く途切れがちになる。辛うじて葉子叔母さんが迎えに来て、「きっと連絡があるわ、それまでここで待ちましょう」そう言って浅草の家にお世話になった、それだけはハッキリと覚えている。村にはあらゆる通信手段が通じず、確認に行った有志も終ぞ帰ってくる事はなかった。

 今思い返すと突然降って湧いた事態に勉叔父さんも葉子叔母さんも混乱していただろうに、いきなり舞い込んできた不肖の甥を嫌な顔一つせずに迎えてくれた上に、精一杯勇気づけようとしてくれた。その事はいくら感謝してもし足りない、その筈なのにその時の俺はあまりに子どもで、それを実感出来たのはかなり後になってからだった。

 叔父叔母夫婦の家にお世話になりながら俺は事の推移を見守った。村を覆い尽くす禍々しい“霧”がいつか消え去って両親や幹斗から連絡が来る、そう信じて俺は、俺達は祈り続けた。結論から言えばそれが届くことはなく、5日後漸く“霧”が晴れたあかつき村に最早人の形を成さなくなった遺灰が散らばっているだけの光景を俺は見る事になった。その後ただの高校生一人の力ではどうにもならない世界で、大人達の話し合いが為された末に村は完全に封鎖された。

 

 今でも考える。両親は、幹斗や梗華はあの“霧”の中であの物言わぬ灰になって果てたのか、一体何が起きて、どうしてこんな結果になったのか、それとも誰かがこんな事態を引き起こしたのか、そして――()()()()()()()()()()()()()()()()、何故俺は皆と一緒に死ねなかったのか…。何度考えても答えが出る事はなかった。確かだったのは生き残ったという事はこれからも生きていかねばならない、という事だけ。しかしそれは容易ならざる道のりで、俺は今でもそれが本当に幸か不幸であったのかを自問し続けている。

 




ちょっと長すぎるので今週はここまで。
次回でこの章もお終いです。漸く折り返しと言った所ですかね。

…いい加減今の編何とか書き上げたい…と思いながら書いている。それではまた次回。


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CHAPTER-2:『REvengerⅡ』‐⑪

今週でCHAPTER-2は終了となります。


 あかつき村を擁する県への風評被害はかなりのモノでナンバープレート狩りや生産物の締出しすらまだ生温いレベルであり、酷い時には少しでも《黒禍熱》への感染の疑いがあると判断された人間への強烈なバッシングや同県から越してきた人間に対してモノを売るな、公共機関への利用を禁じろ等と要求する中世の村八分さながらの異常事態が各所で勃発した。

 連休が明け、漸く編入や転居の手続きが済み、哲也は正式に叔父夫婦の元で暮らし、こちらの学校に転入する事になった。担任の教師はまだ理解のある人で(いたずら)に哲也の経緯を触れて回るような愚は犯さなかったが全員が全員、そうであった訳ではない。中にはクソな大人もいたもので露骨に哲也を遠ざけ、邪険に扱う者もいたしそれが生徒の中に伝染すれば彼らはそれに乗っかって哲也を排斥した。自分も自分でそんな奴らに媚びへつらうつもりなど毛頭なく、そんな奴らは拳を振り下ろして黙らせてやった。クソ教師は殴られた奴らを庇い、哲也だけを一方的に糾弾した、もうそんな奴とは話し合う気にも理解を求めるのも全てどうでも良くなりやっぱり拳骨で病院送りにしてやった。

 

 何かに変わりたくて、確かな自分が欲しくて覚えた空手の技で人を傷つけた。

 

 そこに達成感はなく虚しさと息苦しさが増していくばかりだった。

 

 その後の人生の事は何度も回想し、その度に考え続けた。やはり俺が間違っていたのだろうか、ならどうすればあの時もっと上手く立ち回れたのだろう。俺がほんの一時耐え忍ぶ事が出来たのならば、異なる道に進む選択肢もあったのだろうか、もしその道を選んでいたのなら()()()()()()()()()()()()()()()()()()()…と。

 全ては考えても詮無き事だ、いずれにせよ大元は正体不明の事故に起因するものであり、それの原因や真相が結局村と共に埋もれてしまった事を思えば最早誰が悪かった、何がまずかった等で済む話ではなく、結局仕方のない事だと割り切って全てを後ろに追いやってでも前に進んでいくしかないのだと――そう思っていた。

 

 だが目の前にいる琥月とかいう男は「自分があかつき村事件を引き起こした」、とそう言った。それが哲也の心を千々に搔き乱した。

 

 この男は何を言っている…?村を滅ぼした…?ならあの事件はただの実験中の事故等ではなく、人為的、しかも意図的に引き起こされたものだと言うのか…?いやそれともこいつが事件を隠蔽して、生存者はいないと偽り、村にいた人達の人生を狂わせたという事か…?

 

 目の前の男が何を言っているのか哲也には分からなかった。だが一つだけ確かなのは眼前の老人に対してかつてない程峻烈な怒りを覚えた、という事だけだ。男の瞳に浮かぶ寂寥にどれほどの艱難と辛苦が刻まれているのかは知らない、言っている事自体殆ど理解してない自覚こそあったが、それで冷静になれる程、あの事件は哲也にとって軽いモノではないのだ。

 男が齢にして70代には届いていそうな老人だという事実も忘れて哲也はその小奇麗な和服の首元に左手を伸ばして掴みかかった。同時に右の拳を堅く握りしめ、振りかざす。

 

「儂を殴るか…。ふふ…それも良かろう…その権利が君にはある…」

 

 琥月は畏れるでも怯むでもなく、厳かな声でそう呟いた。まるでそうされる事が当然と受け止めているかのようなその態度に余計に腹が立った。

 こんな風に眉ひとつ動かさず、大勢の人の運命を狂わせておいて、開き直る気か。俺なんて確かにちっぽけな虫けらかも知れないが意地のひとつくらいある、こんな事しても死んだ皆の命には到底足りないがそのお偉そうなツラに一発叩き込んでやる…!

 

 冷たい程の怒りに駆られて老人目掛けて構えた拳はしかし繰り出される前に柔らかい肉の熱に包まれて止められた。「哲也、やめて…!」梗華の必死な声が耳朶を打ち、暖かい掌の熱が急速に怒りを霧散させていく。

 

「…でも…コイツは…!」

「分かってる…。でもまずは話を聞いて…一緒に幹斗を止めてぇ…!」

 

 今にも泣きだしそうな声と共に拳を受け止めた体温が更に熱くなった気がした。その手を振りほどく事など出来る筈もなく、哲也はゆっくりと拳から力を抜いた。それでも行き場のなくなった感情がどうにかなるわけでもなく、気の抜けた身体は依然(おこり)のように震えている。それを察したのか梗華が哲也の首に縋りついて後ろから抱きしめた。そんな哲也達の様子を老人はどこか慈しむような、だが酷く哀し気な目で見ていた。

 

「済まないな…儂のしでかした事で結果的に君達の運命を狂わせてしまった…。その上でこんな事を頼むのも甚だおこがましいが…どうか力を貸してはくれんかの…」

 

 その声には確かな悔恨と根深い絶望を纏って、湿った響きと共に胸に刺さった。行き場を失くした怒りを今更どうにか処理できる筈もなく、哲也は半ば自棄になって琥月を睨みつけながら「何をすれば良いんだよ…」そう呟いた。

 

「あ奴は今儂を殺すという妄執に取り憑かれておる。そのためならどんな犠牲も厭わない程にな…。それでも…アレにせめてもの理性が…人らしい心が残っておるなら…儂はそこに賭けてみたい」

 

 そう信じたからこそこの二人をここに招き入れた。琥月はそう告げると梗華と柚月の方を一瞥した。梗華は気まずそうに目を伏せ、柚月は相変わらずの剣呑な目つきで琥月と目を合わせようとせず、明後日の方を向いている。哲也はどういう事だ?と梗華に問い掛けた。

 梗華はやや息苦しそうに唇を噛みながらゆっくりと口を開いた。

 

「…あの後、私達はずっと村に閉じ込められてた…何年も何年も…。そんな時間ばっかりが過ぎて…ある時私達はもう全員廃棄処分されそうになった…。もう研究の価値無しだって…」

 

 なんだそれは…!?あかつき村は患者の治療のために封鎖されたのではなかったのか…?なのに梗華の言葉からはそんな響きは欠片も感じ取れなかった。あの封鎖が医療目的でなかったのだとしたら…それでは初めっから助ける気などなかったかのようではないか…。

 あまりに衝撃的過ぎる言葉が脳髄を震わせた。何を言っているんだ…と声を出そうとしても喉がカラカラに乾いて殆ど吐き出される事すらなかった。廃棄処分…?研究の価値…?そんなモノに使うような言葉を人が人に向けて言ったと言うのか…。

 

「そんな時《ラスプーチン》とか名乗る人達が現れて私達を買い取るとか言った。あの人は幹斗に琥月さんが村を滅ぼして、お父さんを殺した、日本中が私達を見捨てたんだってそう教えたわ…。それで幹斗は全部に復讐するってそう言って《スカルマン》になった…」

「それがアイツが戦う理由か…?」

 

 二日前幹斗と再会した時にアイツが言った言葉を思い出す。父親は殺され、村は半ば見捨てられるような形で封鎖された事、アイツはそれに対する怒りと憎悪をぶちまけた。柚月はそれをバカな事だと言って諫めたが幹斗はそれを受け流してこの老人への警告とも取れる言葉を残して去って行った。

 その時の事を思い出したのか柚月が漸く口を開いた。

 

「わたしは兄さんを止めたかった…こんなバカな事はやめて欲しいって…。でもわたし達は兄さんへの人質として自由に動けなくて…。10ヵ月前に漸く隙をついて脱出出来たんです。…そこで琥月(この人)に保護された…」

「私も少し前にやっと脱出して柚月ちゃんに合流できた…。逃げる時…(さとし)おじさんが助けてくれたの…」

「……ッッ!親父が…!?」

 

 その言葉に今度こそ哲也は頭を思いっきりぶん殴られたような衝撃を覚えた。成澤慧――親父が…生きてる…?その言葉に耳を疑うと同時に何故そこに思い至らなかったのか、という己の迂闊さを呪った。幹斗や柚月だって生きていたのだ、親父が死んでなかったとしても何ら不思議ではない筈ではないか…。

 それと同時に幹斗を《スカルマン》に仕立て上げた《ラスプーチン》とかいう奴は何者でそもそも琥月は何故梗華達をいち早く保護する事が出来たのか…という疑問が頭を擡げてきた。この老人もそうだがあかつき村事件に関わっている奴らも只者ではないのではないか。

 

「なら…親父達は一体どこにいるんだ…?っていうかその《ラスプーチン》とかいうのはどこの何者なんだよ…!」

「…個人の名ではないよ…勿論正規の名でもないし、会員名簿もなければ決まった名も存在しない。ただ儂ら(神樂)に成り代わろうとしているだけの…古い時代を継ぐ事しか知らない愚か者の集いじゃよ…」

 

 《ラスプーチン》?《カグラ》?立て続けに意味の分からない言葉が飛び交い、哲也は一瞬呆けたがその口ぶりから要するに何らかの組織なのか、という結論に至った。そして二つの組織は抗争状態にあり、互いの動向を探り合っている…とそう言う事だろうか。というかそこまで考えて《神樂》という言葉には聞き覚えがあった事を思い出した。

 

「《神樂》…って…あんなモン都市伝説だろ…?」

 

 そうだった、前にネット上に存在する陰謀論の類の取材を行った時にそんな言葉を聞いた気がする。現代の陰謀論、都市伝説においてはマイナーな部類ながら“闇の政府(ディープステート)”だとか“世界征服を目論む悪の秘密結社(ショッカー)”だとか果ては“黒い幽霊団(ブラックゴースト)”だとかの王道なモノとよく似た存在だったと思う。要するに『この世を裏から牛耳る秘密結社』の類という奴だ。ただこれらと比べると噂の存在が割と昔から存在し、尚且つ日本のみで囁かれている、という点が印象に残ったのは確かだが、この手のネタに例に漏れず荒唐無稽が過ぎるのもあって今の今まで忘れていたのだ。

 

 それがこの目の前の琥月劉生とかいう男だというのか…?

 

「ふふ…都市伝説か…言い得て妙じゃな…いやむしろ影というべきか…。光の裏には必ず影が存在しているように…儂らの存在もそうして許容されてきた、という訳だよ…」

「意味が分かんねぇぞ…」

 

 確かに眼前のこの老人が裏社会の首領だと言われたら信じてしまいそうになるくらいの雰囲気は宿している。だがだからと言って今時そんなモンが存在します、等と言われてはいそうですかと易々と信じる程こっちだて単純ではない。挙句の果てにその後釜を狙う同じような存在と来られれば最早往年のヤクザ映画の世界で信じ切れる内容ではない。実は意外と矍鑠(かくしゃく)として見えるこの老人も実は過度な認知バイアスでも抱えてるだけなんじゃないかと失礼千万な事を思い始めた。

 そんな事を思っていたらこちらの思考を読んだかのように柚月が口を開いた。

 

「信じられないかもだけど本当の事です…。ついでに言えばイカレてもいないですよ、この人もわたし達も…」

「最もそれが正常な反応だとは思うがの…。だがどうか今は信じて欲しい…あ奴を止めるためには…今はこう言うより他はない…」

 

 依然として老人に対する疑念が晴れた訳ではなく、むしろそのままだったがひとまず余計な矛は収めるべきと思った。ひとまずこの老人も真剣に幹斗の事を憂えばこそこう言っているのだと、それだけは確かなようだという事は実感できたからだ。

 そう思い至った瞬間、哲也は琥月とかいう老人が何をしようとしているのか確信が持てた。先程柚月は自分達を幹斗に対する人質だと言い、同時に親父達も密かに生き残っているらしい。そうなると導き出される答えは一つだ。

 

「…つまり…俺達で村の皆を助ければ良い…。そういう事だな…?」

 

 柚月と梗華はずっと村にいたと言った。逃がしてくれたのは親父だとも。だとするならまだ他にも生き残っている村民達がいるという事だ。彼らが《スカルマン》として活動する幹斗への人質になっているならこっちで助けに行けば良い。確証はないがそれで多少なりともアイツが冷静になる可能性に掛けるしかないという事か。

 柚月がハッキリと頷いた。子どもの頃はどちらかというと内向的で意思表示に乏しい娘だという印象だったが今の表情は大きく違う。確かな決意と使命感を得た人間の顔だ。確かにコイツも変わったんだなと思い、哲也は琥月の方に向き直り、「やるよ、やってやる」そう宣言した。

 

 正直この男の事をハッキリと信用した訳ではないし、まだあかつき村事件の真相の全てを聞いてもいない。胡散臭いかと言われればかなり胡散臭い相手だが今は親父や他の皆の安否が最優先だ、と己に言い聞かせる。なら相手がなんだって契約してやるさ…!

 

 琥月もそんな哲也の心境を感じ取ったようだ。今はそれで良い、と満足げに微笑むと部屋に備え付けられてるモニターを開いた。映ったのはちょうど夕方の時間帯のニュースでそこで改めてもうとっくにそんな時間だったのかという事を遅まきながら実感した。だがその画面に映された映像に哲也はまたも絶句した。

 どうやら動画投稿サイトに配信された映像をニュースで流しているらしい。妙に映像が粗く、船の上で撮影してるからかやたらと揺らめいている映像の主はなんと幹斗だった。《スカルマン》としての姿でも警察隊と闘っていた時のバッタ怪人の姿でもない。正真正銘自分の良く知る山城幹斗としての姿がそこに映っていた。

 映像の中で幹斗はあかつき村事件は終わっていない、その当事者たる自分達はこうして帰ってきたと告げた。合間に《ヴェルノム》とかいう謎の言葉を挟んでいたが、その内容は概ね世間に対する宣戦布告のそれだ。

 

『宣告してやる。《スカルマン》最後の大舞台だ、3日後始まりの地でもう一度花火を上げる。止められるものなら――止めてみな…!以上、配信終わりっ!』

 

 言いたいだけ言い放つとそこで映像は暗転した。そこでニュースはスタジオの風景に移り、アナウンサーや専門家と思しき人間のコメントに切り替わった。何やら小難しい事を喧々諤々しているが直前のインパクトが激しすぎて内容は全く頭に入ってこなかった。その様子を見ながら琥月が深々と溜息を吐く。梗華もどこか悲しそうに顔を伏せ、柚月は憤怒とも焦燥ともつかない生硬い瞳を画面に注いでいた。

 

「ご覧の通りじゃ、あまり猶予はない…急がねばな…」

 

 暫し重たい沈黙が流れた部屋の空気を切り裂くように琥月はそう言った。哲也は少女達の顔をそれぞれ一度ずつ一瞥すると再びスタジオのモニターに大写しになった幹斗を睨みつけた。以前病院で殴り掛かった時のような峻烈な怒りは不思議と湧いてこなかった。代わりに感じた感覚はどこか挑発的な笑みを浮かべた口角は悔しい事にやはり自分の知る幹斗という少年そのものだ、という事だった。

 どこか斜に構えたモノの見方をして世間を達観して捉えている、人と関わる事が割と苦手で、でも人と関わらずにはいられない。どこまでも不器用で面倒臭く出来ているが自分の知る山城幹斗だ。あの時敢えて最初の拳を甘んじて受け、今はこうして自分が不利になると分かっていても世間全てに宣告しようとする。その真意を自分は何となく理解できるのだ。

 

 俺を止めに来いよ、テツヤ、ユヅキ…!その瞳はハッキリとそう告げていた。

 

「……上等だ…。ナニする気か知らねえけど…これ以上お前に罪は重ねさせねぇよっ…!」

 

 親父も皆も俺達が救う。アイツの後ろにいる()()()()()()いう奴らも出てくるようならぶっ潰す。全部片づけたら梗華と柚月の前に引きずり出してキッチリ詫び入れさせてやる。確かに俺だって真っ当な人生歩んできた人間じゃない、幼馴染のよしみを含んでいてもお前の気持ちだって多少なりとも理解出来ると思ってる。だから正義とか平和のためとかそんな偉そうな大義名分は掲げない、親友がバカな事をしたら全力で止める、これ以上柚月や梗華を悲しませない…それだけの事だ。

 

だから――

 

「――お前こそ待ってろよ、大バカ野郎…!」

 

 血が滲むくらい握り込んだ掌の痛みが逆に冷静さを呼び起こしてくれる気がして哲也はそう低く呟いた。

 

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 

〈前々から要望されていた(スカルマン)用の新装備だ。より正確には君達(ヴェルノム)の潜在能力をより発揮しやすくするためのモノだがね…〉

 

 男――《ラスプーチン》がカートに取り付けられたモニター越しにそう言った。直にこちらと対面している男は特に何も感じた風もなく、淡々と運んできたスーツケースをデスクの上に置いた。

 

 剣呑なやり取りから一晩明けてみればこうして計画に必要な装備を手下(信者)を通じて届けてくれる。利害さえ一致するならばどこまでもこちらの希望を通してはくれるという点においてはコイツはスポンサーとしては100点だよな、と幹斗は思った。最も相手は自分達を首輪で以て飼い慣らす実験動物としか見ておらず、俺も俺の目的のためにコイツを利用しているだけ。そういう意味ではパートナーには決してなり得ない関係だ。

 だが今はそんな事をいくら考えても詮無い事だ、とそれ以上の思考は打ち切り、幹斗は恭しく差し出されたスーツケースを受け取ると中身を検めた。案の定中に入っていたのは綺麗に折り畳まれた革製のスーツに各種プロテクター――山城幹斗を《スカルマン》たらしめる装備群だ。だがこれまで使ってきたモノとは細部のデザインが変更されており、そういう意味ではお色直し用の新装備と言って良い。

 

 別に一昨日まで使っていたモノが壊れたから新調した訳ではない。以前から幹斗の《バッタヴェルノム》としての特性をより活かしやすい装備の開発が進められており、たまたまそれがロールアウトしたのが今のタイミングだっただけの事だ。

 幹斗は一新されたスーツを取り出してしげしげと眺める。プロテクターもより軽量化と頑丈さを両立させるべく洗練されたフォルムに変わっているし、《スカルマン》の象徴たる骸骨のマスクも一層禍々しい姿になっている。だがそれ以上に特徴的なのは新たに追加されたベルト状のユニットだ。以前も腰に装備帯は付けていたがあれとは明らかに異なるものだ。

 

 色はメタリックな黒色、両脇にはダイアルのような機構も取り付けられた事で従来品より大型化したそれのバックル中央部分には円形状のユニットが設けられているが、今はシャッターで覆われている。より小型でされ、シンプルな形状をしているが、どことなくアイツ――《エースゼロ》のモノに似ている、そう思った。

 

〈“活性因子強制増幅機構《ヴェノムドライバー》”だ…。君の《ヴェルノム》としての能力を120%発揮させる事が出来る筈だ…試してみるかね…?〉

 

 試してみる、というのは要するにガロ同様に完全に怪物化した村の誰かを当て馬にして検証するという事だろう。分かってて言う男の挑発を幹斗は「いらん」とだけ素っ気なく返した。

 

「性能はアテにしているよ、ポンコツ品を掴ませても損するのはそっちだからな…。それよりも例のアイツの件は…?」

〈つれないな、良いプレゼンの機会だと言うのに…。まぁ良いだろう、今データを送る〉

 

 男がそう言うと共に幹斗の端末にファイルが送られてきた。何かの設計データとそれに纏わる基礎理論らしい、と幹斗はそれに目を通す。だが皆まで読み進める間でもなくそれがお目当てのモノである事はハッキリと分かった。

 

 全身を纏うように配置された金属のプロテクターに特徴的な十字型のバイザー。ベルト状のユニットこそなかったがそこに映されていた設計データは明らかにあの《エースゼロ》に酷似していたのだ。

 

 この数日で二度も対峙したアレの出自が気になった事もあって男に調査を任せていたのだ。借りを作るようで真に腹立たしいがそういう捜査関係の事は公的には死人の時分では限界がある、コイツに任せた方が色々と確実だ。

 

〈とうに廃れたものだからね、私も失念していた。…まさかGユニット…幻の拡張兵士構想の遺物がこんな所でお目見えとは…正直驚いたよ〉

 

 Gユニット…平成の初め頃に局地戦における「最強の兵士」として自衛隊での運用が検討されたパワードスーツだ。だが制御系統のAIの稚拙さ、駆動源となるバッテリー等の諸問題が解決しなかった挙句にもっと上の方で降りかかってきた横槍によって敢え無く頓挫したらしい。結局一度も日の目を見る事無く、凍結された、レポートにはそう纏められていた。

 

「だがアイツはもっと高性能だったぜ?20年以上前の骨董品ってレベルじゃない」

 

 確かにGユニットは常人の何倍ものマンパワーを装着者に与え、全身を覆うその鎧は優れた耐弾性能を発揮した。民間への転用を前提としないだけあって、だいぶ前のパワードスーツとしては現行品以上の性能があったと言えるが、それにしたって《ヴェルノム》に対抗出来る程のレベルではないだろう。それはレポート上に記されたの性能諸元からもしっかりと窺える。

 Gユニットの最大の難点は稼働時間の短さにあった。背部にバッテリーが備えられており、こちらも当時としてはかなりの出力と容量を持つ最新技術だったのだが、それを以てしても通常稼働で1時間が限度、全力での戦闘オペレーティングは10分に満たない、という限界があったのだ。技術者はこれから改良していけば良い、と息巻いていたようだがバッテリーの性能を上げようとすると必然的に大型化、重量化し運動性の低下を招く。それを回避するためにはより高出力の動力源が必要になり…と際限なく発生するスパイラルを振り払う事は出来なかったようだ。つまり本来のGユニットの性能では《ヴェルノム》には到底及ばない上にまともに稼働する事すら敵わない筈。技術進歩にしても明らかにオーバースペックだ。

 

 という事はつまり…。

 

 それらの諸問題を一気に解決するモノがあるのだとしたら…。たった一つあるのだ、幹斗にはそれの心当たりが。

 

〈つまり…奴も例の力の片割れ…即ち“天の石”を持っている…そういう事さ〉

 

 やはりな。男の言葉に幹斗はニヤリとした。そうでなければあの尋常でないパワーは説明がつかない。つまりある意味ではアイツも俺達(ヴェルノム)のご同類って訳だ。

 

〈恐らくあの腰についているベルトが力の源だろう。どうあれ技術の行きつく先は結局同じ…それが対となる二つの石が齎すものだとすればいっそ粋と言っても良いくらいだ〉

 

 面白い事でも言っているつもりなのだろう、愉快そうに笑う男を冷めた思いで見ながら、一方で幹斗もまた軽い興奮を覚えていた。これで奴らが――《神樂》の連中が“天の石”を持っている事に確信が持てたからだ。自分達の人生を狂わせ、今もなお命を狙う奴らの元にそれがあるという事には運命的なモノを感じずにはいられない。なんにせよそれを仇を打った上でそれを奪い取るというオマケが増えたのは喜ばしい事ではないか、いや“天の石”と自分達の持つ“地の石”――その両方を手中に収めるという事はある意味ではもっと重要な事柄かも知れない。

 

 初めて己の進んでいる道に未来が見えた気がした。しかしながらそこにはどうしたって自分の居場所はないのだろう、それだけは確かに分かった。

 

 光明が見え始めても頭に浮かんでくるのは、アイツの先には必ず《神樂》の根源がいるという事。恐らくまた騒ぎを起こせば必ず現れる筈、そうなったら今度こそ徹底的に叩きのめした上で俺達が味わった以上の絶望と恐怖をその身に刻み込んでやろうじゃあないか…という昏くて冷たい復讐心と戦いへの渇望、それだけだったからだ。

 衝動のまま幹斗は新しいスーツとマスクを纏う。最後に腰に付けたヴェノムドライバーを起動させると一気に全身に熱のような強烈な拍動が駆け抜けていき、激しい闘争心と破壊衝動が脳を支配する。その瞬間山城幹斗という存在が曖昧になり、《スカルマン》としてのもう一人の自分が出現するのだ。幹斗はそれを「変身」と呼んだ。この不条理には似合いの言葉だ。

 

 その時だけ確かに己の空虚さが埋まる気がするのだ。戦い、命のやり取りをすれば自分がまだ生きてると実感できる。復讐に身をやつせば己が身にまだ存在価値があるように思える。そうすれば()()()()()()()()()()()()()父が認めてくれるかも知れない。そういう子どもじみた欲求。過去に縋るばかりで最早帰る場所も失くし、愛する者達を失望させた半端者に元より未来など用意されている筈もない。

 

〈やはり君にはその姿が似合うな。いずれにせよ次の働きには期待させてもらうよ…その末に君の本懐が果たされん事もね…?〉

 

 薄ら寒い男の発言を無視して幹斗は通信を切った。後に残されたのは底冷えするような部屋の昏さと何も映さないディスプレイに投影された《スカルマン》としての自分の姿。ぼんやりと浮かぶその姿はさながら幽鬼のようで無機質な髑髏の仮面と併せていよいよ己の正体を呑み込んでいくかのように思えた。

 

 果たして俺は全てを遂げた先に何を見るのだろう。全ては茫漠とした膜の中にあって何の答えも見えては来なかった。

 




という訳で長かったCHAPTER-2もこれで終了です。次回からは新章になりますがここまでくるととりあえず《スカルマン》編も折り返しになると思います。

なるべく早めに投稿ペースを保てるように努力しますので、引き続き楽しんで頂けたなら幸いです。

…ていうか仮面ライダーのタイトルつけてる癖に出て来ないわ、スカルマンも最後にしか登場しないわ、怪人(つーか怪獣)ばっかりだわでこの作品はマジでナニ目指してるんだと自分でも思います。でもこれがRE流なので。

それでは新章でお会いしましょう。


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CHAPTER-3:『REjectionⅠ』- ①

…PREVIOUSLLY ON…

《スカルマン》と謎の怪物《ヴェルノム》の戦いに巻き込まれて傷を負った哲也は琥月劉生と名乗る老人の邸宅にて目を覚ます。そこで彼を出迎えたのは同じように死んだと思われていた幼馴染の少女、九條梗華。そして幹斗の妹・山城柚月であった。
同時に琥月は自らを一連の事件の元凶だと白状する。

一方幹斗は臨海副都心にて遂に《ヴェルノム》の存在と自らの正体を警察隊及び世間に向けて暴露し、宣戦布告を仕掛けるのだった。
改めてあかつき村事件の真相を知った哲也は幹斗の暴走を止めるべく、未だ晴れぬ疑惑を抱えながらもどこかに囚われている村の生き残りを開放するために今は琥月を手を組む事を決めたのだった。

タイムリミットは残り三日――。


 親父――成澤慧の印象は子ども心に自由闊達とか豪放磊落とかそんな印象だった。とにかく人好きのする豪快な笑みを浮かべていつの間にか人の輪の中に踏み込んでお祭り騒ぎに興じているようなそういう人。色んな職に就くも、どれも合わないと言ってはすぐに辞め、散々日本中を放浪した挙句に旅先で出会った母さんと駆け落ち同然にあかつき村に移住した、なんて漫画みたいな経歴からもそれは明らかだ。だのに元来閉鎖的な村というコミュニティにおいて疎まれも蔑まれもせず、一端の農家として生計を立てている、というのはもう驚異的という他なく余人には終ぞ真似し得ない領域だと思う。

 そんな傾奇者(かぶきもの)道まっしぐらな親父だったから心のどこかでは死んだなんて信じたくないという気持ちがあったようだが、それで村の生存者はゼロ、という報告が覆る事もなく、やはり死は突発的にそして平等に降りかかるものなのだという事を痛感せしめられた。

 

 ――だがその前提条件が全部嘘だったとしたら。

 

 あの日あかつき村で発生したのは感染率、致死率ともに異常に高いウイルスによるバイオハザードではない。村の住民は生き延びており、今もどこかに監禁させされている。そして村の生き残りである山城幹斗が《スカルマン》となり、妹の山城柚月と幼馴染の九條梗華は彼を止めるべく奔走している。そして二人の脱走を手引きしたのは他ならぬ親父自身なのだという。

 

 これまた漫画みたいな話だが、これが昨夜哲也が聞いた一連のあらましだ。正直今でも信じられない。

 

「最初に“療法所(サナトリウム)”――あ、私達はそう呼んでたの。どこかの山の中にある病院みたいな場所。そこを脱走したのが柚月ちゃんだった。私はこの子の事があったから逃げられなくて…最近になって漸く柚月ちゃんが迎えに来てくれて一緒に逃げ出したの…」

 

 屋敷の離れの一角。世の喧騒も人心の乱れも知らずにスヤスヤと眠り続ける赤子――ミホを抱えながら梗華はそう語った。「で、それを手伝ってくれたのが親父だったと?」話を聞きながら哲也はそう付け足した。梗華がコクリと頷く。

 

「あの霧が溢れて村を覆った時、パニックになる中で率先して皆を宥めて…閉じ込められても必死で励ましてくれたのが慧おじさんだったの…。おじさんは間違いなく皆の希望だったと思う…」

 

 梗華はそう感慨深げに呟いた。親父らしいな、と哲也も思う。東に病気の子どもあればおぶって病院に運んでいき、北に喧嘩あれば止めに行っていつの間にか喧嘩に混ざっている。畢竟親父はそういう男だ、非常時にあっても及ばずながら皆を勇気づけようとしていた事は想像に難くない。

 でもそんな親父であっても幹斗が《スカルマン》になる事は止められなかった。そう言うと梗華も苦しそうに目を伏せた。

 

「…おじさんも必至で皆を纏めようとしたけど…でもそれが何年も続くと…。その内村の人達も色んな派閥に分かれていった…」

 

 仕方ない話だ。極限状況下においてはどうしても人心は荒れやすく、そこに付け入るように押し入ってくる不安を払拭するために人は群れという単位を作るものだ。無理からぬ話だとは思ったがそれでも慣れ親しんだ村の人達がそんな風に分裂してしまったという話は正直信じたくなかった。

 

「改めて教えてくれ、あの日村で何があったんだ?」

 

 畢竟行きつくのがそこだ。哲也自身もまだ自分の知る範囲でしかあの事件の事を知らないのだ。知る事は怖い事だと全力で頭が警告を発していたが、知らなきゃ俺は前に進めない。そのためにもここで真実を知らなければならない。そうでなければ皆を救うなんて言えないのだ。

 梗華は一度溜息を吐くとそっと腕に抱えたミホをベビーベッドに横たえた。慈しむようにそっと掛布団を被せてやると哲也の方に向き直った。

 

「私の主観でしか語れないけど…聞いて欲しい。あの日村に何があったのかを…」

 

 これが全ての始まり。同時に《スカルマン》誕生の物語。俺はそれを受け入れなければならない。その重みに哲也はゾクリと背筋が冷えるのを感じた。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 あの日は朝から慌ただしかった――少なくとも()()()の周りは。

 理由は誰あろう(テツヤ)のせい。最初こそ慧おじさんも優実おばさんも特に気にしなかったみたい。8時になっても帰ってこないとあっても高校生の男子がそんな時間に出歩いたからって特に気にする事もなし。どうせミキトかあたしのトコにいるんだろうと高を括っていたみたいで10時を回ってもじゃあミキトの家に泊ったんだな、と勝手に解釈してなんと寝てしまったらしい。いくら便りがないのは元気の証と言っても無理があるゾ…。

 そして翌朝。ミキトの家に電話を掛けてみたらテツヤなんて来てないとなった。そこでうちにも確認が行って(そんな訳ないでしょ、冗談はよして!)そこから本格的に騒ぎになった、明らかに遅すぎます。

 

 村中大捜索の挙句に山狩りまで実施して午前中終わった辺り。昨日道の駅のバス乗り場で見かけた、というニュースが飛び込んできた。早速あたしとおじさん、あとユヅキちゃんの3人で発着場に向かってあれこれ確認した所、どうやらテツヤは昨日の東京行の便に乗っていったらしいと分かった。同時にユヅキちゃんがバスに乗る所を目撃していた事を白状した。

 なんでそれを早く言わなかったの?と問い詰めるとユヅキちゃんは『誰にも言わないでって言われたから』としらっと返した。

 いくら探しても見つからない筈、テツヤは村にいないのだと分かり、事態は途端に行方不明から単なる当人の自発的な家出でケリがついた。なぁんだそれなら一安心だ、とおじさんは胸を掻いて大笑いした。

 

 いや東京だって何かと物騒だし、田舎者の未成年なんてなんかのカモにされるかも分からない。さっさと向こうに連絡した方が良いと思ったのだが、おじさんも呑気なもので

 

『なぁにアイツはバカだが帰り道が分からなくなる程バカでもねぇよ。向こうには弟夫婦もいるし、いざとなったらアイツに頼れば大丈夫さ、可愛い子には旅させろ、だろ?』

 

 どうなんだろ、この放任主義?と思わないでもなかったがだからと言ってあたしが代わりに東京に向かってその首根っこをふん捕まえてくる選択肢がある訳でもなく、それ以上は何も言えなかった。無事に帰ってきてよね、そう祈るしかなかった。

 

 どうしても不安になってしまうのはやはり両親の件があるからだろう。10年前あたしの両親は東京都心で白零會のテロに巻き込まれて死んだ。死体は殆ど原型を留めていないとかで会わせて貰えなかった。少し前のクリスマスに会いに来てくれたあの時が最期になるなんてその時は思いもやらず、世界というものはそんな風にあっさり変わってしまうものなのだとその時痛感した。東京はあたしの故郷だけど、今はもうかなり遠い街。テツヤも両親みたいにどこか遠くに行ってしまうような気がする、そんな風に不安になるのも生まれた街を悪者のように感じてしまうのもイヤだった。

 

 この所テツヤとの間に隔たりを感じるようになった。高校生にもなるとお互いの生活や趣味も変わって来るから前みたいに四六時中一緒にいる訳にはいかなくなったのは確かだけど、そういう時間的な話ではなく、もっとこう心の距離、みたいなそういう領域の話だ。

 テツヤとミキトはこの村で初めて会った同年代の子どもだった事もあって基本的にいつも一緒にいた。妙に大人びてて難しい本をやたら読んでいるミキトと快活でいつもどこかを走り回っているテツヤという取り合わせは傍目には酷く奇妙な関係に映ったかも知れないが少なくともあたしにとっては二人が一緒にいる事は至極自然な事だった。なんと言うかお互い向いてる方向は違っても心の形がしっかりとハマりこんでいるような、互いの持っているものと持ってないものを尊重し合っているような、そんな関係なのが分かったから。

 そこは男の子同士でしか入れない微妙な距離感だと思ったからこそ正直あたしがそこに入って良いのかどうかは迷う事もあったけど、二人の間にいる事は単純に心地よくてついついそこに安住する事を選んだのだ。そんな関係がずっと続くと思っていて高校生になった辺りからだろう。なんだかテツヤがあたし達と距離を置くようになった…気がした。

 

 有体に言えば避けられてる。うん、そういう事だ。具体的には5月の連休が明け始めた時期くらい。これまで絶賛帰宅部だったテツヤが遅ればせながら空手を始めただとか何とかで一緒に行動する機会が減ったからかなぁ、とでも思えれば良かったのだろうが、生憎その裏にあるもっと些細な心の動きを見逃す程浅い付き合いはしておりません。

 あたしだけならまだしも――でもないが――ミキトの事も避けてるようであればもうこれは決定的で単純にあたしは困惑した。なんか嫌われるような事でもしたんだろうか、とひとしきり不安になってあれこれ想いを巡らせた挙句に「あたしらアンタに何かしたか!?」と問い詰めに走り出しそうになったが、寸でのところででミキトに止められた。

 

『アイツにはアイツの世界があるんだよ、やたらに首突っ込むな。大丈夫、答えが出たらアイツは絶対に()たちの所に帰って来るよ』

 

 なんだかサッパリ分からなかったけどミキトは少なくともそう信じているようだった。その横顔にあるのは強い信頼の色で、やっぱりミキトとテツヤの間には中々立ち入れない領域があるのだという事を久々に痛感させられたモノだった。

 

 良いなぁ男の子って。あたしはそう思ったのだ。

 

 閑話休題。とにかくこんなに皆に心配かけおってからに。帰ってきたら購買のアイスクリーム毎日奢らせたる、なんて意地の悪い事を思っていると不意に腹がきゅるると鳴った。

 

『なんだ、お腹減ったかい?そりゃあそうだよな朝からずっと捜索しどうしだもんな、よし俺が奢ってやるからなんか食おうぜ!』

 

 大勢の人も近くにいる中で黙っていてくれりゃあ良いものを全く空気も読まず、デリカシーもへったくれもなく慧おじさんがそう言い放つモンだから、あたしとしてはもっと気を遣うとかしてよ、とか言いたくもなったが奢り、という言葉には抗しがたい魅力がある。結局あたしもユヅキちゃんも素直におじさんに御馳走してもらう事になり、道の駅の食堂に入った。

 道の駅はあたしにとって馴染みの深い場所。特に元々やってた売り子として出演した動画がやたらと再生されまくったせいでいつの間にか売り子兼P()R()()()()()使()(?)とかいう訳の分からない肩書を任ぜられてからは余計にここに通う頻度が増えた。まあ人前に立って何かするのは嫌いじゃないし、注目されて悪い気もしないではないが以前なら気兼ねなく通ってたここで、目立つからと用もなくプラプラしたり買い食いしづらくなってしまったのはちょい辟易します。

 だから近頃は用もなければここに来る機会は減ってたし、気兼ねなく食堂でご飯食べれるなんて事もなかったわけだ。折角なのでとレストランの席に着くと慧おじさんは集まりだした他の村人達にもにこやかに声を掛けながら何か頭を下げていた。会話の内容はよく聞こえなかったけどたぶん『ウチのバカ息子がお騒がせしました』とかなんとか言ってテツヤが東京に行った旨を報告しているんだろう。帰ったらこりゃ村民皆からイジくりまわされる事確定だよね、と思ってあたしはテツヤに少し同情した。

 

 あ、そうだミキトにも電話しなきゃ。そこで漸くそこに思い至り、あたしはしまっていた携帯電話を取り出し、ミキトの携帯番号を選択した。テツヤの居場所が分かったよ。そう報告するつもりだった。今他の男衆と一緒に山狩りの真っ最中の筈だから通じればの話だけど。

 

 ところがそうして電話を掛けた所で違和感に気が付いた。何度掛けてもすぐに切れてしまい、全く繋がる気配がないのだ。最初は単に相手が電波の通じない所にいるからだろう、と思ったがそういう領域ではない。試しにお祖母ちゃんの家にも電話を掛けてみたが全く同じ反応。そこでやっと携帯のアンテナが殆ど立っていない事に気が付いた。どうやら周りも同じ反応らしい、他の村の人達も同じことを言い合っている。

 

 何よ、こんな時に通信障害?と唇を尖らせたその時だった。

 

 

 空をつんざくように、突如サイレンが鳴り響いた。

 

 

『なんだべ一体?』

『“研究所”の方からでねぇか?』

『なんか起きたか?こげなの聞いた事もねえぞ…』

 

 慧おじさんを始め、村の人達も一斉にその音に身を竦ませた。その音は警報というよりまるで空気が悲鳴を上げているように聞こえ、あたしは背筋がゾッとなるのを感じた。突然の事態に周りが混乱する中、慧おじさんが真っ先に道の駅の外に走り出した。様子を確かめに行ったのだろう、他の男衆数人も続き、あたしもユヅキちゃんに『少し待っててね?』そう告げると外に飛び出した。何か胸騒ぎがした。

 

 道の駅の広い駐車場に出れば――というか村のどこにいたって大体は――風変わりな形をした“研究所”はよく見える。矢頭山の一角をくり抜いてそこにはまりこむ様に鎮座するドーム状の構造物はそうでなくともやたらと目立つのだ。やはりこの耳を聾するような異様なサイレンはあそこから響いているらしい。何が起きたんだろう、こんな事初めてだ。

 

 次の瞬間だった、それが起こったのは。

 

 最初に感じたのは地鳴りのような不穏な蠕動、それが大気を、大地を震わせたと思った直後、遥か上に見える“研究所”の丸い屋根が火の手を上げて吹き飛んだ。まるで内に秘めた力を一気に開放するかのような暴力的な光景。あたしだけでなくその場にいた全員が咄嗟に声も出せずにその光景を見守っていた。『まずい…!逃げろぉっ…!』おじさんがそう叫んだのが辛うじて聞こえた。

 

 しかしその直後には一拍遅れて爆風が木々を揺らし、土を巻き上げ、そしてあたし達に襲い掛かってきた。それを知覚するより前におじさんが咄嗟にあたしに覆い被さり、庇ってくれた。鉄のような暴風が家々の屋根を引き裂く勢いで揺るがし、窓がガタガタと鳴動する音に鼓膜が割れそうだった。

 永遠にも思える一瞬が過ぎ、顔を上げるとあたしに覆い被さったおじさんが『大丈夫か、ケガはないか!?』そう肩を揺すって叫んでいるのが分かった。少しばかりいかれた聴覚でもなんとかその声を捉えたあたしは自分の身を確認しながら頷いた。

 おじさんこそ、そう言うより前におじさんは肩を話すと周りを見渡した。そうして皆さん、無事ですか?と大声で叫ぶと倒れている人達に向かって駆け寄って行ったのだった。流石に村の男衆達もタフだ、すぐに起き上がると音を聞きつけて建物から出てきた女性達に向かって同じように声を上げた。

 

『“研究所”が爆発した!何が起きたかようけ分からん、今すぐ役場の方に行ってくる!』

『あんだけの爆発だ、山火事が起きるかも知らん。とにかく119番、そいから消防団にも!』

『山狩りに行った衆が心配だ、誰か連絡つくかぁ!』

 

 胴間声を張り上げて方々に走り出していく彼らの様子を眺めながらあたしは漸く“研究所”はどうなった、という所に思い至った。

 

 “研究所”――プロメアセンターという名前があるがあまり呼ばれない――にはミキトのお父さんが勤めている筈だ。他にも常にあそこには100人ばかりの職員が常日頃から詰めているのだ。何が起きたのか正直見当もつかないがあれほどの爆発が起きて果たして無事でいられるだろうか。それだけではない、さっき誰かが言ったように今一部の村民がテツヤ捜索のために山の方に行っているのだ、彼らは――特に同行した筈のミキトは無事だろうか…。

 

 ミキト。山城幹斗。もう一人の幼馴染。テツヤとはもっと前からの親友。ユヅキちゃんのお兄ちゃん。

 

 言葉にするとそんな感じだけど正直あたしの昔からの印象はとにかく生き急いでる奴、そんな感じだった。小難しい本を読み漁っては年齢以上に大人びた口の利き方をする少年を村の人やクラスメイト達は「流石博士の子だ」と羨望の目を持って接したけど、あたしに言わせれば一刻も早く大人になろうと必要以上に背伸びするだけの、普通の子だった。何も特別な事なんてない。

 

 ミキトと博士はあまり折り合いが良くないようだ、となんとなく実感したのは小学校も半ばになる頃辺りからだろうか。いや、というよりもいつも研究所に籠りっきりで碌に子どもと顔を合わせようとしない山城博士とミキトの間ですれ違いが生じているといった方が正確か。元々殆ど面倒を見る事がなく、日々の世話を成澤夫妻に任せっきりになっていたくらいだ。近頃はそれがますます顕著になった気がする。

 折しも遠縁の親戚の子を養子として引き取る事になり、彼の元に新しい家族がやってきた、それがユヅキちゃん。でも守るべき存在が出来た事はますますミキトを焦らせたようで以前よりもずっと勉強に没頭する事が多くなった。それはそれで立派な事だと思うけど少しばかり痛々しい、あたしはそう思った。

 

 必要以上に物事を取り繕ったり、多くを語らないからいつも周りに誤解されるし、協調性の欠片もないからあたしかテツヤが“通訳”に入らないと孤立するばっかり。達観しているようで変な所で子どもだから放っておけない。

 最も本人もそんな自分に思う所がなかった訳ではないらしい。中学に上がる頃には勉強に苦戦してる子の指導役を買って出たり、生徒会に入って見たりとかして曲がりなりにも周りと関りを持とうと努めるようになった。まあ結果として教えるのが下手だったり口の悪さが災いしていらんトラブルを生んだりと大いなる挫折を味わう羽目になったのだが、そうやって躓いて自分なりに何が一番適切なのかを考えなくちゃ人は成長できない。だからあたしもテツヤも敢えて黙ってその様子を見守っていた。

 

 そんな経験も経たからだろう、高校に上がる頃には何とか人並みかそれより少し低いくらいの水準だったがなんとかクラスメイトとかとコミュニケーションを取れるようになった。相変わらずあたしやテツヤ以外には積極的に関りに行こうとはしなかったがそれでも昔を知るあたしからすれば格段に進歩した、テツヤに言わせれば昔は部屋から連れ出すのも一苦労だったそうだから感慨もひとしおらしい。もう“親”だよね、完全に。

 変わったといえば高校に入ってからミキトは俗な言い方をすればモテるようになった。なんでもクラスや学年を超えてファンクラブまで存在するらしい、と風の噂で聞いた。お前は少女漫画の主人公かなんかか!と突っ込みたくもなったが、あたしとしては不安の方が大きかった。

 考えてもみたまえ、いくら昔よりマシになったとはいえ、本質的にコミュ障・空気読まない・なかなか心を開かないという三拍子の揃ったアイツに、告白してくる女子に対する気遣いなんて期待出来ると思うかね?無神経な返し方をしたりして相手を傷つけたりしやしないかと内心冷や汗モノだった。

 

 まあ結論から言うとここは杞憂だった。告白されようもんならミキトは本質的に自分がそんな対象で見られる事など考えも及ばなかったようでしどろもどろの挙動不審になりながらも存外誠実にお断りしていた。なんでそんな事知ってるのかというとたまたまその光景を目撃したから。いつも必要以上に大人びて泰然としているアイツのあの様はなかなか可愛くて見応えがあったけど、それ以上にあのミキトがそんな風に人と一端にコミュニケーションを取れるようになったのだと思うと感慨深かった。

 その後もそれで済めば良かったんだけど、そうもいかないのが世の中だ。結論から言うとある日突然ミキトに俗な言葉で言うとコクられました――いや厳密にはそういう事ではなく。『彼女のフリしてくれ』そう言われました。

 

『この所何故か他の女子にやたら告白される。あんまりOKしないモンだから実は男好きなんじゃないかという噂まで流れてきた。いい加減鬱陶しいからほとぼりが冷めるまで協力して欲しい』

 

 どういう意味よ?とあたしが尋ねると返ってきたのはそういう返答。()()()()()()()()()()とか()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()とか突っ込みたい事は山程あったけど正直言ってこの頃のあたしも一部の男子から時折告白されて困ってたのもあって、それがお互いのためになるなら、と了承した。こうして互いの契約交際が始まったのであった…ってなんとロマンの欠片もない話!

 

 でも変な話、あたしはミキトを、そしてテツヤの事をどう思ってるんだろう。と考えもなしに安請け合いした後でふとそんな事を思った。どちらもあたしにとっては異性な訳で高校生にもなってくればそういう感情のひとつやふたつ芽生えたって可笑しくはないのではないか、と。結論から言うと分からなかった。たぶんあの日――両親が死んだ日からあたしにとっては二人は不可分の存在なのだ。どっちかが欠ける未来は想像がつかないし、したくもない。だからそういう事には恣意的に目を逸らしていたのかも知れない。

 

 

 ねぇ?

 もしあたしにもっと勇気があったなら。踏み出す事が出来たのなら。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。私は貴方を止められたのかな?それが出来るだけの資格があったのかな…。

 

 哲也…幹斗…? 

 

 

・・・・・・・・・

 

 

「ちょっと待った!」

 

 放っておけばしょっちゅう脱線しまくる梗華の話を軌道修正させたのはこれで何度目か。そんな中で突如飛び出てきた爆弾発言に哲也は思わず素っ頓狂な声を上げて彼女の話を遮っていた。突然の大声に梗華は大きな瞳を丸くして「何よ一体?」と首を傾げた。

 

「なんか今変な事言った!ついさっき!」

「え、おじさんが放任主義だって?」

「その後!」

「研究所が爆発した下り?」

「もっと後!幹斗の話!」

 

 やたらと反応の鈍い梗華に「幹斗」の言葉をやたら強調して言うと漸く得心が言ったように「あ~…」と呟きながら握った手を掌に打ち付ける仕草を取った。妙に古臭い動きだが彼女がやると何故か様になる。それから少しばかりバツの悪そうな顔をして哲也から顔を逸らした。

 

「…言い訳じゃないけど…別に秘密にしたかったわけじゃないの…。ただ…別にストーカーに合ってた訳でもないし、こんな下らない事で君の邪魔したくなかっただけっていうか…」

 

 何やらへどもど言っている彼女の話を聞き流しながら哲也は盛大に溜息を吐いた。なんだったんだろう、つまりなんだ全部は所詮俺の勘違いの独り相撲。なんとなく変わってきた気がする二人の関係性も幹斗へのコンプレックスが見せた幻想かなんかだったって事か?

 7年越しに判明したまさかの事実に骨折りなんだか安堵なんだかよく分からない感情が去来してきて、このまま脱力した衝動に駆られたが、まだまだ話は終わってないという理性を総動員させて何とかそれを堪えた。そんな哲也の態度を不審そうに見ていた梗華がやがて口火を切った。

 

「とりあえず何でもないんだったら続けて良い?」

 

 やたらに脱線させてるのはそっちな気もするけどな、という人の事言えないツッコミはひとまず置いておいて哲也は梗華の方に向き直った。彼女も脱線気味なのは気付いたようで「どこまで話したっけ…」とボヤいていた。

 

「あぁ…そうか“研究所”の辺りだったよね…。あの後何が起こるか分からんって…役場から村中に学校に避難しろって指示が出たの。でもその直後にアレが起こった…」

 

 そうしてあかつき村は消えた。代わりに《スカルマン》と《ヴェルノム》という新たなモノが生まれたのだ。

 




という訳で今回から新章です。
の割にやたらと中途半端な幕開けですけど、流石に長いのでここで切ります。
この章、序盤は回想ばっかの後半戦闘ばっか回になりそうなので、ペース配分考えないとぶつ切りばっかりになりかねないのでそこはなんとか注意しながらやっていきます。
いい加減週一ペースも取り戻したいのでここらが勝負所ですね、引き続きお付き合いお願いします。

それではまた次回。


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CHAPTER-3:『REjectionⅠ』- ②

 依然空は悲鳴を上げるように戦慄いていた。どうやらその音は“研究所”の方かららしい、と気が付いたのは役場の方から避難を告げる無線が鳴り出したからだ。

 

〈――こちらはあかつき村防災無線です。山火事が発生する恐れがあります。住民の皆さんは速やかにあかつき村小学校まで避難して下さい――〉

 

 さっきから村の古いスピーカーはそればかり鳴らしている。無機質な防災無線の声と割れ気味の音も手伝ってやけにその声は不気味に響いた。何が起きたの一体…。あたしはユヅキちゃんの手を引きながら顔見知りのおばちゃん達と一緒に小学校を目指していた。

 明らかに普通じゃない、何か途轍もない事が起きてる。“研究所”の方に視線を転じると最早その特徴的な建物の影は形も見えずに代わりに古木のようなどす黒い噴煙が立ち上っていた。おまけにそれは遥か上空でキノコのような形を形成し始めていて、不気味という言葉では括れない程の畏怖を麓の民達に叩きつけた。

 

 村の小学校――正確には中学校も一緒の校舎にあるのだが――は数年前に新築したばかりでいざという時の災害の拠点や公民館としての機能も持たせてあるから地元の人全員を収容するだけの余裕は十分にある。だから落ち着いて避難して、と呼び掛ける役場の人達と避難民の波を見ながらその中に知らない顔ぶれも結構ある事に気が付いた。明らかに事態に戸惑っており、避難の足取りが覚束ない。恰好からしてキャンプや登山に来ていた観光客だろう。村民に交じって進むその顔には明らかに「なんでこんな事になるんだ」とハッキリ書いてあった。

 でも不安なのはお互い様、正直あたしはお祖母ちゃんが心配だ。元々腰が良くない上に1週間前に転んで足を捻挫している、とても一人でここまで来れる訳がない。今村の若い人が迎えに行ってくれた筈だがそれにしたって車がまともに使えない状況下で無事に辿り着けるだろうか…。

 

『――おい、アレなんだ…!?』

 

 漸く小学校の校庭に入ったと思ったその直後誰かがそう叫んだのが聞こえた。ここからでもよく見える“研究所”の方を指して言っているようだ。あたしはその指先に釣られるように未だ火の手を上げる山を見上げた。依然村の上空に顕現したキノコ雲は燻っていて滞留している。正直見るだけでも恐怖が押し寄せてくるが、そこから更に生じた光景にあたしも含め、その場にいた全員が目を見開いた。

 

『――なにアレ……?』

 

 震える声であたしはそう呟いた。さっきまで“研究所”のあった辺りからまるで窯の蓋が空いたかのようにソレは溢れ出てきた。禍々しい黒煙とは対照的な、どこまでも混ざり気のないかのような真っ白い、それ故に寒々しく美しい――“霧”。突如現出したそれはまるで水が高い所から低い所に流れていくかのようにゆっくりとこちらに押し寄せてきた。

 全員が固唾を呑んで見守っていた。何か想像だにしない事態が起きた――そんな現実を忘れてしまいそうになる程幻想的な光景。しかしそれは突如『ダメェェェッッッ!!!』という絶叫によって掻き消された。

 

 声はあたしのすぐ近くから聞こえた。ユヅキちゃんだった。あたしの手を硬く握ったまま、大きな瞳に激しい恐怖の色を浮かべていた。こんなに取り乱す彼女を見るのは初めてであたしは背筋がゾクリとなった。

 

『アレはダメ…!アレに触れたらみんな…みんな…逃げてぇぇぇぇぇぇぇっっ…!!』

 

 そう言ってユヅキちゃんは頭を抱えて絶叫した。その声に皆正気を取り戻したらしい、途端に迫ってくる白い“霧”が上空のキノコ雲以上に禍々しいモノであるように思えて、一斉に走り出した。理屈じゃない、アレに触れたらマズイし……あの中には()()()がいる…!本能的にせり上がってきた恐怖に衝き動かされるようにあたしもユヅキちゃんを背負って校舎に向かった。

 

 既に人が殺到する通用口の方を見ながら咄嗟に体育館の方を目指した。慧おじさんがそこから叫んでいるのが見えたというせいもある。少なくとも校庭から人影が消えたのを確認して、全ての扉が閉め切られてから数分後、真っ白い“霧”が押し寄せて校舎を、そして周辺の家々を呑み込んだ。後に残されたのはどこまでも真っ白い景色ばかりでその景色の異様さにあたしは震えるユヅキちゃんを抱きしめながらも無様に自分こそ竦み切っている事を実感した。

 

 

 

 幸い校舎と体育館は渡り廊下で繋がっているから行き来には問題ない。扉という扉、窓という窓を閉め切ってしまえばあの“霧”も流石に入ってこれないようだという事にひとまず安堵はしたものの、それで事態が好転した訳では全くない。あたし達は完全に校舎内に閉じ込められてしまった。

 

『――とにかく、だ。何が起きたのかは分からないがここで待ってれば必ず助けは来る。不安もあるだろうが…それまではここで待とう…なぁ?』

 

 慧おじさんが努めて明るくそう言ったがそれでここに集った百十数名の不安が払拭される事もなく。実際各所には重い沈黙が垂れ込めており、そんな先行きの見えない不安を象徴するかのように“霧”は依然としてそこに滞留していた。

 

 実際不安の種は尽きなかった。あの“霧”が出てからというもの何故か携帯の電波が全く入らなくなった。どんなに上の階に行ってみてもディスプレイに表示されるのは「圏外」の二文字のみでアンテナ一つ立つ気配がない。外界からの情報を得る手段もなければ当然村内との連絡も付かない訳で家族や友人の安否確認すら出来ない状況は否が応でも皆を苛立たせた。

 皆の前では敢えて泰然と振る舞っているおじさんだって優実おばさんがここにいない事が本当は不安で仕方なかった筈なのだ。あたしもミキトやお祖母ちゃんの無事が気になる。この得体の知れない“霧”の向こうで皆果たして無事でいるだろうか…?

 そんな状態で一晩を過ごした。だが夜が明けて依然学校をすっぽりと包んだ“霧”が消えてないと分かれば一晩は耐え抜いた人々の不安も高まりだした。ここにいても埒が明かない、車か何かで外に助けを呼びに行くべきだ、という声が出始めた。家族の安否が心配だ、迎えに行きたいという声がそれに続いた。

 それは危険だ、血気に逸るその声をおじさんはそう言って宥めた。

 

『この濃霧の中迂闊に動いても二重遭難になる恐れがある。山登りでも霧の時は迂闊に動かん方が良いというだろう?苦しいかもしれんが今は耐えるんだ…』

 

 そう言っていたがこの場の多くの人がそれだけではない、そう感じていた。この“霧”は何かおかしい、その「何が」というのは具体的にはハッキリと分からないのだが何か…名状し難い感情が掻き立てられるのだ。恐怖に怯えていたユヅキちゃんの表情が呼び起こされる。

 だがそんな実態のない不安も二日も経てば目前の閉塞感に圧し潰されそうになる。二晩経っても全く進展しない事態に遂に一部の人々の間で不満が爆発した。

 

『いつになったら助けとやらは来るんだよ!』

『もう俺達は限界だ、止められても外に行くぜ、こんなトコもう知るかよ!』

 

 朝起きて玄関前を見ると大学生風の二人組――見ない顔だからたぶん観光客だ――が慧おじさんに詰め寄っているのが見えた。そんな二人を彼は何とか翻意させようと説得していたようだが完全に興奮しきっているらしい二人には届かない。このまま静観してたら大変な事になる、と咄嗟に思ったあたしは三人の間に入ろうとしたが、それよりも早くあたしの足元を小さい影が駆け抜けていった。

 

『行ったらダメ…、です…!今行ったらアレが入ってくる……!』

 

 ユヅキちゃんだった。興奮のあまりおじさんの胸倉を掴んでいた男の腰辺りにしがみつき、必死にそう叫んでいた。男はいきなり現れた少女に戸惑いを隠せなかったもののやがて開き直ったように『邪魔だ!』と叫んで脚を振り回した。振り飛ばされるようにバランスを崩し、小さい体が床に叩きつけられる。

 流石にカッとなった。非常時に冷静でいられなくなる心境は理解出来るがそれは皆同じ。連絡の取れない家族の安否を気にして、それでも必死に耐えているというのに勝手に喚き散らして、ましてや小学生の女の子に手を上げるなんて…!あたしはユヅキちゃんの方に駆け寄るとその体を助け起こし、同時に大学生風の二人を睨みつけた。『二人に謝って!』そう叫んだ。

 

『二人とも縁も所縁もないアンタ達の事心配してここまで言ってるんだよ!なのに何よ自分の事ばっかり……。大人の癖に恥ずかしくないのっ!?』

 

 今思うとあたしも言い過ぎた、と思う。たかだか高校生の小娘に真っ向から非難されて流石に彼らも一瞬たじろいだもののもう引っ込みがつかなくなったのか、振り払うように『う……、うるせぇっ!』と口角泡を飛ばした。

 

『心配してくれなんて頼んだ覚ねぇんだよっ…!俺らはこんな村でくたばるつもりなんかねぇ…ウチに帰りたいんだっ…!』

 

 最後の一言だけやけに切なそうな表情でそういうと二人はおじさんを突き飛ばして扉を開けるとそのまま“霧”の向こうに走り去っていった。『待て、君達!』おじさんの叫び声に一瞬翻意したようにこちらを振り向いた二人は、しかしすぐに踵を返すと塗りこめられた白亜の向こうに消えていき、すぐに見えなくなった。

 

『行っちまったか…』

 

 止めきれなかった事を悔いるようにおじさんが呟いた。あたしは直前の苛立ちもあったし、酷く気に病んでるように見えるおじさんを励まそうと思って、『知らないよ、あんな人達』そう憤然と吐き捨てていた。

 

『みんな必死に耐えてるのに…!あんな人達どうにでもなっちゃえば良いんだ…』

 

 あたしだってお祖母ちゃんがいない。ミキトとも連絡が取れないし、いたら絶対に無駄な元気をくれそうなテツヤに至ってはそもそも村の外だ。こんな時に一番傍にいて欲しい人達がいてくれない事実に思った以上にあたしの心はささくれ立っているようだ。普段は言わないような事を平気で毒づいてしまえるくらいには。

 

『どうにでもなれば良い、なんてそんな事は言っちゃあダメだぞ、キョウカちゃん?』

 

 そんなあたしの苛立ちなんて分かっているのだろう、それでもおじさんは肩を叩きながら敢えてそう言った。

 

『人が人にしちゃあなんない事はいくつもあるけど…。その一つは自分から手を離す事だ。そうなったらもう二度と大事な人の手を掴めねぇ…。例え振り払われても、な…?』

 

 そういうとおじさんは精悍に笑ってみせた。そんな事言われても正直納得出来なかったけど、少なくともおじさんも諦める気は皆無らしい、すぐに近くにいた学校の先生に『なるべく長いロープはあるかい?』そう問いただしていた。

 何する気ですか?先生が尋ねるとおじさんはさも当然のようにさっきの二人を連れ戻してくる、今ならまだ間に合うからな、そう言いだした。騒ぎを聞きつけたのはユリ子さんや駐在さんをはじめ、数人の村人が飛んでくる。

 

『無茶ですよ!それこそミイラ取りがミイラってモンでしょ!』

『だから命綱つけて行くんだよ。少しならなんかあったら鈴を鳴らして合図する、そしたら手繰って導いてくんな!』

 

 どうやら本気らしい、おじさんは胸に用務員室から持ってきたらしい鏡みたいな大型のランプを下げて、頭には二本の棒型懐中電灯を取りつけて捜索態勢に入っていた。ちょっと待った、その出で立ちじゃあ救いじゃなくて、地獄からの使者かなんかと勘違いされる事請け合いだからやめなさいよ…。

 

『落ち着きな、アンタが出てっちゃなんにもならんだろうっ!?』

 

 そんなおじさんの暴走っぷりに業を煮やしたのか、直売所のリーダー格、婦人会のまとめ役であるユリ子さんが頭をひっ叩いて冷静になりな、と喝を入れた。流石こういう時におばちゃんは強い…。

 

『裏にアタシの車が停めてある。アタシがそれ使って拾いにいって来るさね。なぁに…カーナビ見てりゃ道は分かるし、いくらトロトロ走っても人の足より遅いなんてことあんめぇ?』

 

 柔らかいが有無を言わさない口調でユリ子さんはそういう。だがよ、とおじさんは猶も食い下がろうとしたが睨まれて少したじろいた。こうなったら引き下がらない事は皆知っている、おじさんも諦めたのか『分かった…気を付けろよ』そう言った。

 

 だが――

 

 『ダメ!』ユヅキちゃんが叫んだ。

 

 ユリ子さんは一瞬虚を突かれたように彼女の方を見たが、どこかすまなさそうに力なく頷いた。

 

『ありがとうね心配してくれて…。でもね…大人にゃあやんなきゃなんない時があるんさ…』

 

 それだけ言うと目元と口をしっかり覆って車まで走っていった。やがてエンジンの胎動が静寂の外に響いたかと思うと、真っ白な視界に僅かな朱が刺した。それも次第にうっすらと“霧”の向こうに消えていったのだった。

 

 行かせて良かったんだろうか…?その光景をどこか不安げに見つめながら誰もがそう思った、勿論あたしもだ。今の今になって誰も外に出て助けを呼ぼうとしないのには単純に視界が効かない状況下で下手に動けば危ない、という以上にナニか本能的にこの“霧”を惧れたからというのもあった。それはユヅキちゃんの尋常じゃない怯えっぷりからも明らかだ。

 

 村の皆は知っている。こういう時のユヅキちゃんは何か()()()()()()()のだ。とは言えそれがなんなのかは誰も知らない、ただ彼女が何か感じた時大抵何かが起きる、ただそれだけの事だ。

 

 不思議な子。それが恐らくユヅキちゃんに皆が抱いている印象だろう。ある日山城博士が養女として引き取った、ミキトとは血の繋がりのない妹。それしか分からない。本当の親が誰なのか、何故博士に引き取られる事になったのか、誰も深くは聞かないからだ。

 でも色々あって今はこうして彼女は皆の輪の中にいる。彼女の直感や予感のようなものを決して無下にはしない。あかつき村(ここ)はそういう場所、だからあたしはこことそこに住む人達が好きなんだ。

 だから無事に帰ってきて。見送る事しかない罪悪感を誤魔化すためなのかせめてあたしは心の中でそう呟いた。

 

 

 

 3日目。皆は張り詰めていた。部屋の空気も心なしか冷え切ってジッとしていると鳥肌が立ちそうになる。あたしは毛布を肩に掛け直してみるがそんな事で震える体を抑える事は出来ない。それは仕方ない、震えるのは寒いからじゃなくて、怖いからだ。

 昨日とうとうユリ子さんは帰ってこなかった。自動で作動する設定になっている12時と5時のチャイムが鳴っても彼女が戻ってくる気配は杳としてなく、流石に村の人達も焦りを見せ始めた。とは言え通信が遮断されている以上連絡を取る手段があろう筈もなく、何も為せない無力感が学校全体を覆い始め、それは行き場のない苛立ちとして各所で放出された。

 

『そもそも原因はあの訳のわからねぇ研究所のせいだろっ!村の事はてめぇらで責任取れよな!』

『だから何が起きたかなんて知らんと言っとるじゃろう!ワシらに八つ当たりするのも大概にせぇ!』

 

 今も誰かと誰かが怒鳴り合っている。周りを憚らないその怒声にユヅキちゃんが怯えたように身を竦ませてあたしにしがみつく。あたしもそんな少女の頭を撫でながら窓の外を見た。依然として日の光は差さず、どこまでも白い“闇”が広がっているのだった。

 

 いつしか学校に避難した凡そ200余名の間には派閥が形成されていた。最も分かりやすいのは20人程からなる観光客達。元々この地域の人達ではないからどうしたって村民達からなるコミュニティには属せない。必定として彼らは彼らで独自のグループを作り、時にこんな事態を引き起こしたとして村の人達を非難した。それに対して慧おじさんが懸命に彼らを諭していたがただでさえ学校に箱詰めにされた上に身に覚えのない誹謗まで食らってはたまらない、と一部の村人は彼らに反発した。二日目の夜辺りから気が付くと各所で言い合いが発生しているようだ、幸いまだ言い争い程度で済んでいるが下手すれば掴み合いや取っ組み合いに発展しかねない一触即発の空気が漂っていた。

 剣呑な空気を察知しているからかユヅキちゃんも落ち着きがない。人見知りな上に元々争い事やそれが生まれそうな空気が嫌いなのだ。ただでさえ父親と兄の安否が分からない中で知らない人に大勢囲まれている状況下では落ち着かないのも当然だろう。あたしはなるべく彼女と一緒にいるようにしていた。

 

 しかし明らかな異常を告げる出来事はその日の夜に起きた。

 

 その日の夜は酷く冷え込んだ。競技用のマットを布団にし、避難所の物資として用意されていたブランケットを纏っていて凌げるようなモノではなく、あたしは寒さで不意に目を覚ました。付けっ放しにしている腕時計を見ると時刻は夜中の2時を少し回った所。眠いという感覚さえ起きずにあたしは毛布を被ったまま起き上がった。気配を察知したらしくユヅキちゃんも目を開けた…というかずっとそうしていたらしい、『眠れないの?』と訊くとコクリと喉を僅かに動かした。

 

『なんかイヤな感じ…です。外も皆もずっとそう…』

『そうだね…仕方ないよこんな事態だし…』

 

 外を見る。すっかりと夜の帳に包まれているが月の光一つ差し込まない真なる闇は間違いなくあの“霧”の影響だろう。夜になっても消えないそれはまるで世界全体を覆い尽くすようで昼間とは別の意味で怖かった。

 皆がピリピリしているのはイヤだけどその気持ちも分かってしまう。あれからもう3日、いや日付を考えると4日か…。一向に改善しない状況にもう実はこの“霧”はとっくに世界中を覆い尽くし、人の文明を全て呑み込んでしまったのではないか、という気さえしてくる。つまりとっくに世界は滅亡していてあたし達だけがこの世界にただ一人取り残さてているのではないか、という…。そんな不安を敏感に感じ取ったのか握ったユヅキちゃんの手にギュッと力が籠められる。思わずその痛みで正気に返ったあたしは彼女の方を振り返った。お互い気が滅入るばかっりで良い事がない。あたしは少しだけ口元を緩めてユヅキちゃんに言った。

 

『ねぇ、図書室にでも行こっか?』

 

 

 

 学校と体育館を繋ぐ渡り廊下は二階、そこから本校舎の方に行って一階に下りれば図書室がある。元々小さい学校だから蔵書もそんなに多いわけじゃないけどテレビも何も映らず、携帯さえ見れない今の状況では間違いなく最大の娯楽だ。あたしはユヅキちゃんの手を引いて本校舎の廊下を歩いた。本当はなるべく一箇所にいるように言われてて、特に日が沈んでからは勝手にどこかに行かないようにと言われているのだが、皆寝静まってるし問題ないだろう。

 図書館に至る廊下を行くと途中灯りが漏れている事に気が付いて脚を止めた。多目的室とかいう名目でおいてある和室だ。どうやら村の大人達の寄り合いが開かれているらしい、僅かに開いた隙間から声が漏れている。あまりいい話じゃなさそうだ、と判断したあたし達はなるべく早く立ち去ろうと決めて抜き足差し足で教室の前を横切っていった。そんな僅かなスリルに久々にささやかな高揚を味わった。ユヅキちゃんも同じ気分なのか目が合うと少しだけ笑顔を見せてくれた。

 スリルと言えば図書室の鍵が開いてなければとんだ骨折り損のくたびれ儲けになるのだけど、幸いな事に鍵は開いていた。引き戸を少し開けて部屋内に体を滑り込ませると素早くあたしは閲覧室の明かりをつけた。暗い所で読む気にはならないし、ここなら扉から明かりが漏れないからね、ユヅキちゃんにとっては勝手知ったるなのか特に暗闇に惑う事なくお目当ての本があるらしい書棚に向かっていく。そんな様子を微笑ましく思いながらあたしも適当に書棚を見繕う。最終的に英語版の『ドラえもん』を数冊抜き出した。

 

 閲覧室に戻るとユヅキちゃんも既に本を広げて読んでいた。ロアルド・ダールの単行本。時折一文を読んでは小さく含み笑いをしている。ここに連れてきて良かったかも知れないな、そう思ってあたしも『ドラえもん』を読み始めた。暫くは穏やかな時間が流れた。「あの窓にさようなら」を読み終えて少し気分がしんみりしてきたな、と思うと適度に眠気も感じ始めた。ユヅキちゃんの方を見ると彼女も少しばかり目を擦っている。何はともあれ良い気分転換にはなったみたいだし、そろそろ戻ろっか?そう告げようとした時、不意に閲覧室の窓に何かゴトリと硬いモノがぶつかる音が聞こえた。 

 

『なに…!?』

 

 不意打ちに心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受け、窓の方に目をやる。しかして依然として外に広がっているのは茫洋とした何もない漆黒。しわぶき一つ立たない静寂に僅かに息を呑みながら気のせいかと部屋を後にしようとしたその時、今度は空耳でも何でもなく()()()が窓ガラスに飛びついてきた。

 

 窓に張り付くそれは間違いなく人の掌だった。それが二つとも広げた形のまま窓ガラスを執拗にガンガンと叩きつけている。この非常時なら“霧”の中を彷徨っていた人が漸くここを見つけて開けてくれと言わんばかりに迫っているようにも見える。だがその手の動きはまるで獣のような執拗さで人であって人でないもののようだった。あたしはユヅキちゃんを庇いながら後ずさりした。

 

 やがて手はそれだけでは飽き足らなくなったのかヌラリと出現させた頭を窓ガラスに打ち付け始めた。そんなことするのがマトモな人間の筈がない、あたしは背筋が凍りつくような恐怖を感じた。ユヅキちゃんがあたしの二の腕にギュッとしがみつく。

 

 頭は唸っていた。開けてくれ、とか入れてくれ、とかそんな人間らしい台詞じゃあない。犬が威嚇する時のような、飢えた獣が喉を鳴らすようなそんな尋常ではない――。よく見ると叩く手は血に塗れており、それが窓にも手形としてべったりとついている。

 

 やがて額をぶつけ、頭頂部しか見せていなかったその顔がゆっくりと顔を上げた。広い窓にその姿形をハッキリ映し出す。

 

『――っっ…!』

 

 あたしは息を呑んだ。その顔は知っていた、昨日慧おじさんと言い争いの末に飛び出していった大学生風の男の片割れだった。

 

 だがその姿はまるで昨日とは別人だった。髪は全て真っ白になり、虚ろに開いた口元からは犬のように涎を垂れ流している。何より――虚ろに落ち窪んだその瞳から大量の血の涙を流していたのだ。真っ赤に染まったその瞳を限界以上まで押し広げ、男は窓を打ち破らんとするかのように叩き続けた。

 

『『――いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!』』

 

 人?助けを求めている?違うあれは亡者だ。亡者が人を欲して嗅ぎつけてきたのだ…!本能的に抱いた恐怖と厭悪に衝き動かされてあたしとユヅキちゃんは悲鳴を上げた。

 

 

 

 その声を聞きつけてすぐに大人達が飛んできた。慧おじさんを筆頭に混乱状態になっているあたし達を宥めすかして、漸く口を聞けるようになるのに10分少々。その間にとっくに目から血を滴らせた亡者は姿を消していた。だが窓にはしっかりアイツの手形が残されており、それが確かに存在していたであろう事を示していた。

 おじさんは少なくともあたし達の見た事を信じてくれた。だが中にはそれを全く信じない人達もいたのだ。その先鋒が観光客グループのリーダー格をしていた30代くらいの男性だった。彼は何をバカな、と言ってあたし達の話を一笑に付した、それどころかあたし達が助けを求めている人を怪物扱いして追い返したのだろうと決めつけた。これに慧おじさんが激昂した。

 

『バカな事を言うな!この子達はそんな子じゃない、言いがかりはやめろ!』

『あたし嘘なんて言ってません。あの人明らかに普通じゃなかった…!アレは…!』

『ならなんだ?ゾンビか、キョンシーか?その方が余程現実的じゃあないだろう、とくにそっちのお嬢ちゃんはやたらと妄想癖があるようだしなあ?』

 

 明らかにバカにし切った口調で男はユヅキちゃんの方を視線を這わせた。粘つくような害意が向けられている事を知覚したユヅキちゃんがビクリと肩を震わせる。あたしも総毛立つような嫌悪を感じて男を睨みつけた。男も自覚的にそれを受け止めてニヤリと口元を歪める。

 

『そうだろ?あの時だってやたら霧に怯えたフリして無理矢理ここに押し込んだんじゃないか?この村の奴らも異常な程神経質になっているようだが、どうせ全部その嬢ちゃんが勝手にビビってるだけさ、そんなモンは無視してさっさと外に助けを求めに行く方が余程懸命だ。皆もそう思うだろう?』

 

 明らかに小ばかにしたような口調でそういう男に続いて彼の派閥がそうだそうだと一斉に唱和する。その態度にカッとなった何人かの村人が肩を怒らせて彼らに飛び掛かろうとした所を察知した慧おじさんが彼らを抑えつける。そんな様子を見てますます勝ち誇ったような表情をした男は嘲るように息を吐いた。

 

『なんだ、気に入らない事があればすぐ暴力か?全くこれだから田舎者は…そんなだからたかだか小学生の妄言に踊らされるんだよ!』

 

 妄言、の辺りをやたら強調して男は言った。流石のあたしも今度こそ堪忍袋の緒が切れて男に怒鳴り返してやろうかと思ったが『妄言じゃありません…!』そうユヅキちゃんが叫ぶ方が早かった。

 悔しそうに口元を結んで大きな瞳を濡らしながらユヅキちゃんは叫んだ。

 

『この“霧”は普通じゃないです…!普通のはこんな風に何日も出続けたりしません、そもそも電波が立たない事も“研究所”が爆発したことだって何一つ「普通」じゃないんですよ!貴方達だってそれが分かってるからすぐに出て行かないんだ!』

 

 ユヅキちゃんがここまで正面切って反論するのは初めての事であたしは呆気に取られてそれを見ていた。男が明らかに動揺して息を呑み、周りの派閥も明らかに動揺して一様に目を伏せたり、バツが悪そうに顔を明後日の方向に向けたりした。その顔には明らかに図星の色が浮かんでいるようだ。結局のところ彼らだって明らかに異常事態が起きている事くらい分かっている、でもそれを何でもない事だと決めつけて、楽観的になりたがっている。出ていくにしてもこの辺の地理に不案内な自分達だけではどうしようもないから慎重になる村の人達を嗤ってこちら側に引き込みたい、詰まる所それが彼らの本音だ。

 

 だがそんな内心を見透かされて不愉快にならない大人などいない筈がなく、男は顔を赤くさせたり青くさせたりして、『バカな事を言うな!』と怒鳴った。

 

『と、とにかくこちらはそんな御託に付き合ってる暇はないんだ。明日意地でもここを降りるぞ、そのための手段をなんとしてでも講じておけ良いなっ!?』

 

 勝手に出ていくと言っておいて手段はこっちに丸投げとはなんて勝手な言い草だ。当然村の人達から抗議の声が上がったが男達は怒鳴り声を上げてそれらを振り払った。

 

『うるさい!元はと言えばお前らの村のあの変な建物が爆発してこうなったんだ、村の事なら村人が責任を取るのが筋というモノだろう!本来なら慰謝料を請求すべき所をこうして穏当な態度で済ましているんだ、むしろありがたく思え!』

 

 言うだけ言うと男達は踵を返して図書室を後にした。後に残された村人たちは憤然としながらその背中を見送る。『()()()()()が…』誰かがそう小さい声で吐き捨てたのが聞こえてあたしはギョッとした。こっちの方言は詳しくないけど、確かその言葉は「余所者」を酷く蔑む意味で言う言葉だった筈だ。親しい人の口からそんな言葉が出るのが信じられず、あたしとユヅキちゃんはそっと肩を寄せ合った。ますます居心地が悪くなっていく空気を肌身に感じながらそのままその日は眠りについた。

 

そして翌朝――コトは起こった。

 

 

 

 何かがまた呼んでいる、その気配がしてあたしは目を覚ました。また“誰か”――否()()()がやってきたのではないか、ちょうど空が白み始めた頃。感じたのだ、あの禍々しい気配を。

 

 何かに触発されるようにあたしは毛布を跳ね除けて起き上がった。部屋の空気は冷え切っている筈なのに襟元はイヤな汗でぐっしょり濡れていた。窓の外は相変わらずだが静寂に包まれていた昨日までとは明らかに違う、何だろう…と気を凝らすと体育館の玄関の方で何かが聞こえているのだと分かった。誰かがドアを叩いている、昨日みたいに、ここに入れろと…あの亡者が…!

 

 そう思った瞬間ゾワリと肌が粟立った。『ここで待ってて』あたしはユヅキちゃんにそう言い聞かせると玄関の方まで走っていった。アレを入れてはならない、ここに近づける訳にはいかない…という思いに衝き動かされるように心臓が早鐘を打つ。

 

 玄関の方に着くとあたしより先に音を聞きつけて集まっていた慧おじさんも含め村の人達誰もが目の前の事態を前に固唾を呑んでいた。ガラス戸の向こう、そこに()()()は立っていた。姿は完全に人そのものだが、上半身には何も纏っておらず、真っ白に染まった髪、体の各所から血を纏い、半身がどす黒く染まった禍々しい姿…なまじ暗闇の中で見た昨夜よりハッキリと鮮明に捉えられた。ソイツは昨夜と同じように扉を突き破ろうとするかのように握った両拳でガラス戸を打ち付けていた。

 

『なんなんだコイツ…ホントに人間か…正気じゃあねぇど…』

『ケガしてるんだったら早く入れてやるべきじゃねぇか』

『だどもこりゃあ明らかに…』

 

 おじさんも含めその場に集った人達全員どうすべきか分からないようだった。アレが生き残りの怪我人なら迷わず助け出すべきだろう…だがアレはどう見たってマトモじゃない。狂犬のような荒い息に薄気味悪く皮膚の表面に浮き出た血管のような紋様…目の前のソレが本当に人であるのか判断が付かないようだった。

 

『なにをやっとるんだお前達は!』

 

 あたし達が玄関の前で動きあぐねていると不意に甲高い声がエントランスに響き渡った。振り返ると肩を怒らせた観光客グループのリーダー格の男が近寄ってくるのが見え、村の者は一様に顔を顰めた。男は玄関前に集まっていた村人達を押しのけながら近づくとあたしと慧おじさんを一度ずつ睨んだ。

 

『すぐそこに助けを求める者がいるというのに何故ドアを開けない!?それともこの村は余所者はどんなに助けを求めても知らんぷりすると、そういうスタンスなんだなっ!』

 

 唾を飛ばす勢いで喚き散らすと彼はどけ、と言ってドアを開けようとした。『おい待て』村の人がやんわりとその肩を掴んだ。

 

『なんか様子がおかしいべ?ひょっとすると伝染病とかの可能性だってある、大勢が集まってる所にいきなり入れるのは危険なんじゃねぇか…』

 

 ゾンビだなんだと言って納得しないならあくまで現実的な方向性で考えようとしてそう言ったのだろう、だがそんな彼の言葉を男は鼻で笑うと触るなとばかりにその手を振り払った。

 

『はっ、それなら猶更一刻も早く助けるべきじゃあないか。ここには医者もいるのにそんな事さえ思いつかないのか、どこまでおめでたいんだお前達は…どうせ…』

 

 男はあたしに視線を這わせると下卑た笑みを浮かべた。『そこのガキに何か吹き込まれたんだろう?スケベジジイ共が…』

 空気が殺気立った。全員が肩を怒らせ、拳を震わせたが男は意に介する様子もなかった。むしろ傍に立つ老人を邪魔だとばかりに突き飛ばして下がらせるとゆっくりとガラス戸の鍵を解錠した。

 

『さぁ、もう大丈夫だよ。入ってきなさい…?』

 

 男が芝居がかった柔らかい声音と共にドアを開けた。

 

 転瞬――

 

 

『ウガアァァァァァァァァァァァッッッッッッッ!!!!』

 

 

 戸という境界を失った、その時を待っていたと言わんばかりにガラス戸の向こうにいた青年は男に飛び掛かった。獣のような荒い声を上げ、口元から唾液を流しながらまるで獲物を狙う野獣のように覆いかぶさって、その喉笛を食い千切ろうとした。

 

『うわあぁあぁあああぁぁぁぁぁぁ!何をぉ…するんだっっ…!』

 

 予想外の事態に男は完全に事態の呑み込む事が出来ずに興奮して手足をバタつかせるだけだったが青年の力は完全に獣の如きで全く離れない。青年が口腔を大きく開くと明らかに異常に発達した犬歯がギラリと輝いた。まるで男の喉笛を噛み千切ろうとするかのように――。

 

 だが次の瞬間、青年の顔面に何かがクリーンヒットし、その衝撃で彼は吹き飛ばされ、ガラス戸に頭を打ち付けた。ガラスが完全に砕け散り、破片が青年の頭に突き刺さってその頭部を赤黒く染めた。まるで人血に墨適でも混ぜたかのような赤とも黒ともつかない粘度の高い血液が床に広がっていく。見ると荒い呼吸をしてモップを持った慧おじさんが立っており、彼がそれを振り抜いて男を救ったのだと分かった。

 

『大丈夫かアンタ、ケガは?どっか噛まれてねぇか…?』

 

 その隙に村の大人達が男に駆け寄って未だに荒く息をしている彼を起こした。とは言えかなり動転しているらしく、村人達が助け起こしても心ここにあらずと言った感じで『やめろ…やめてくれ…』と譫言のように呟いていた。

 

『そいつはどうだべ。生きてっか?』

『…分からん…。ひとまず動きはせんようだが…』

 

 村人達が倒れている青年に駆け寄ってあれこれ様子を見ている。男は暫し呆然とその光景を見ていたが、やがてパニックによって乱れた瞳の焦点が合うとそこで漸く目の前で起きた事態に合点が行ったらしい。頬を引き攣らせ、床に横たわる青年と慧おじさんを交互に見ながら震える声で呟いた。

 

『ひっ…人殺しぃ……!』

 

 元々甲高い声だが更なる恐慌状態に陥った事でその声は最早壊れたスピーカーのように呂律も回ってなくて裏返っていたが少なくともその言葉は明確な意志を以て放たれた事は分かった。()()()()()。その言葉にあたしは今度こそ峻烈な怒りが湧き上がってくるのを感じ、思わず未だ床に尻餅をついたまままごついている男の左頬に思いっきり平手を打ち付けていた。

 

『今なんて言ったの!?それが助けてくれた人に言う言葉なわけ?おじさんはアンタのために――』

『――うるさい…!人殺しは人殺しだろう、でなきゃなんだと言うんだ!こんな…こんな野蛮な事を……!』

 

 二回り以上も年下の小娘に引っ叩かれて、詰られて余計に頭にきたらしい、赤い顔を更に膨らませて男は喚き散らした。

 

『――そうだ…!きっとお前達が早く助けてやらないから彼だって正気を失っていたんだ…つまり全部お前達が悪い…お前達のせいだ…!』

 

 恐怖と憎悪と混乱と興奮の混じった声で男が猶も叫んだ。コイツなに言ってるの?あたしは戦慄して、肩を震わせた。男は興奮冷めやらぬ口調で『お前らの咎は絶対下に降りたら――』そう続けようとした次の瞬間、短い悲鳴が上がった。先程青年の様子を見ていた老人の声だった。あたしはそっちの方を振り返った。

 

『――――っ!?』

 

 そこで広がっていた光景にあたしは息を呑んだ。まるで糸で吊られた人形のようにヌラリと青年が起き上がった。顔の半分は血に塗れ、ぶつけた瞬間に折れたのか首はあらぬ方向に曲がっている。切れた頭頂から猶も赤黒い血を滝のように流しながら、片方の手で老人の細い体を締め上げていた。

 

『…なん……やめん…はなっ…か、はっっ……!』

 

 頸動脈を締め上げられ、老人は苦しそうに泡を噴いて口を震わせている。誰もが呆然とその光景に立ち尽くしてる中でまたも真っ先に動いたのは慧おじさんだった。先程青年を殴り倒したモップを再び振り上げて青年に殴りかかろうとした。

 

 だが次の瞬間、無表情に傾げた青年の顔面が()()()()()。よく「能面がひび割れる」とかの比喩表現があるけどそんな意味じゃない。文字通り青年の顔の中心辺りに一瞬で亀裂が入り、顔の皮がふやけた果実のようにずるり、と剥けた。

 

 代わりに中から出てきたのは8本の触手。

 

 それは耳も鼻も失くした顔の中心部に穿たれた黒い穴を中心に放射状に広がっており、それ自体が意思を持っているかのように悍ましく蠢いていた。血に染まっていた皮膚もやがて天然痘のような病的な斑紋が広がりだしており、最早その姿はどう取り繕っても到底人間とは呼べないものになっていた。

 

『きゃああぁぁあああぁぁぁぁぁあぁぁぁっっっ!!』

 

 湧き上がってくる生理的嫌悪にあたしはたまらず悲鳴を上げた。そんなあたしの声など意にも介さずかつて青年で、今は完全なバケモノ――《ヴェルノム》という名前を知ったのはもう少し後になってからだ――は抑えつけた老人の顔面にその触手を一斉に纏わりつかせた。

 




とりあえず今回はここまでです。
なんかホラー映画っぽい、と思った方。実際いろんな内外のホラー作品の小ネタが入ってます。気が向いたらあれこれ考察してみて下さいませ。

次回は久々の怪人戦です。仮面ライダーとかの超越的なツール無しで怪人との攻防を描くのはなかなか大変でしたが、これはこれで面白かったです。

それではまた次回。


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CHAPTER-3:『REjectionⅠ』- ③

 悲鳴を聞きつけて体育館に集まっていた人達が玄関前に駆け寄ってきた。

 

 来ないで、見ちゃいけない、そう叫ぼうとして果たせず、かくして集まった人々はそのバケモノの姿をその目で捉える事になった。顔面を構成するパーツが溶解し、代わりに海洋生物の如き8本の触手をうねらせている()()――《タコヴェルノム》はその特徴的な触手を以て老人の顔面を包み込んでいた。老人は暫く必死に振り払おうと手足をバタつかせていたが、やがて全身から力が抜けていくように弛緩して動きを止めた。やがてその体は壊死するかのようにどす黒く変色し、最後には細かい灰となって崩れ落ちた。

 

 空気が割れるような特大の悲鳴が狭い玄関ホール中に響いた。その場に集った人達は一斉に踵を返して我先にと逃げ出してく。最も行動の早かったのはあの観光客の男でそれこそ周りを押しのけ、突き飛ばして、一度も後ろを振り返らず逃げ出した。

 だが逃げる前に人垣から弾かれてしまった人達もいる。《タコヴェルノム》が次の獲物に定めたのがそういう人達だった。触手を不気味にくねらせ、だが覚束ない足取りでゆっくりと歩き出す。瞳がないので視界による情報は得ていないようだ、だとするならば体温か聴覚か…とにかく明らかに人とは異なる手法で獲物を捉えたのか、その動きはなにか喜悦のようなものが感じ取れた。コイツ人を人を“喰う”事に歓びを見出してる…あたしはゾクリと肌を粟立たせた。

 《タコヴェルノム》は緩慢に、だが確実に“獲物”に向かってにじり寄っていく。その先にいるのが尻餅をついて後ずさっているユヅキちゃんだと気が付いた瞬間、今度こそ理性の全てが消し飛ぶかのような恐怖心が襲い掛かってきた。

 

 バケモノはまるで舌なめずりするかのように触手をくねらせる。それを察知したのか慧おじさんを含めた村の大人達が《タコヴェルノム》に取り付いた。のっそりと歩くその細い体を左右から拘束し、おじさんが手にしたモップを再度顔面に叩きつけようとした、が――!

 瞬間《タコヴェルノム》の触手が膨張するように伸長し、モップとおじさんの手に絡みついた。締め上げようとするかのようにそこに力が籠り、おじさんも必死に振り払おうとしたが力は向こうの方が上だったようだ、怪物が小さく頭を振るだけでおじさんの大きな体が宙を舞った。おじさんはそのまま壁に叩きつけられ、床に崩れ落ちる。その動揺をついて《タコヴェルノム》は自分を抑え込む二人の拘束を振り払うと触手を振り回し、そのまま床に引き倒した。

 

『――させるかぁっ…逃げろユヅキちゃん…!キョウカちゃんも早く…』

 

 それでも彼らは《タコヴェルノム》の両脚に腕を回してそれ以上の進行を阻止しようとした。だが奴はそんな些細な抵抗を嘲うかのように二本の触手を伸ばして一人の胴体を縛るとそのまま逆さ吊りの要領で持ち上げるとそのまま引き寄せ、薄い胸板に噛みついた。短い悲鳴が上がる。もう一人の老人は立ち上がるとその気味の悪い顔面を引き剥がそうと駆け寄ったがそうなる前にその気配を察知した触手が二本伸びて老人の腹部を貫いた。赤い血が老人の腹と口から噴き出し、ゲフッ…と咳き込むような湿った咳が彼の口から洩れた。やがて怪物に噛みつかれた方の体が灰となって崩れ落ち、もう一人は触手が乱暴に払った反動で上半身と下半身を引き裂かれた。玄関ホールに黒い遺灰と夥しい鮮血が広がる。

 

 死んだ…?こんなあっさりと。自分の知る人達が。まるで路肩の虫のように。二人は遺体すら残さず、もう一人は…!

 

 下半身を引き裂かれ、人形のように横たわる老人の方を見た。既に瞳に光はなく見えているかすら定かではない、半開きになった口からゴボゴボと血を噴き出しながらもまだ僅かに動いていた。彼が今の自分の状況を――生死も含めて――把握できているのかは分からない、だがその口は逃げろ、とそう言っているような気がした。

 

『いやあぁぁぁあぁああぁぁぁぁぁあぁぁぁっっっ……!!!』

 

 あたしは叫んだ。いや吠えた。

 

 目の前の状況を明確に捉えた時湧き上がってきたのは恐怖でも悲しみでもない、怒りだ。こんな訳の分からない状況で理不尽に殺された上に、遺体すら残さないか、暴力的な力の前に冒涜的に嬲られるか、そんな惨事を引き起こしたこのバケモノに対する峻烈で激しい怒りだった。死んでたまるか、殺されてたまるか、あたしもユヅキちゃんも、慧おじさんも、誰一人…!

 《タコヴェルノム》が再びユヅキちゃんに向かって触手を発射し、あわやその小さな体を捕らえようとする前にあたしは彼女の前に飛び込んでいた。小さな体を全力で抱きしめて飛び出した勢いのまま地面を勢いよく転がる。庇った拍子に右肩を少しばかり抉られ、鋭い痛みが走ったが構わずあたしはユヅキちゃんを抱えたまま走り出したが、すぐに脚にバケモノの触手が絡みついてきてそのまま床に引き倒された。それと共に強い力で絡みついてく触手の痛みに呻きながらも、このまま喰われてやる気はない、と辺りを見渡す。ふと視界の先に壁に掛かった消火器が見えた、があと数十センチで届かない。

 

『あれ取って!』

 

 傍らのユヅキちゃんに叫んだ。彼女もその一言で全てを察してくれたのかあたしの体のしたから素早く抜け出すと躊躇わず壁に向かっていった。ケースを叩き割り、取り出した消火器の安全栓を素早く引き抜くと、躊躇うことなくバケモノに向かって中身を噴射した。猛烈な勢いで消火剤が発射され、無論それで怪物が死ぬわけではないのだが突然の事態に勢いが怯んだ。あたしは隙をついて怪物の拘束を振りほどいて立ち上がった。

 だがそうした事であたし達が逃れた事を《タコヴェルノム》は察知したらしい、怯みながらも再びあたし達に向かって触手を動かす。

 

 ――が。

 

『さぁせるかああぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!』

 

 雄叫びが狭いエントランスに木霊した。見ると気絶から目を覚ましたらしいおじさんがモップを振り上げながら突進してきたのだと分かった。叩きつけるのではなく長いリーチを活かして金具の部分を思いっきり突き刺す。それそのものに貫く力は殆どないが、勢いと力を合わせれば人の皮膚に食い込ませるくらいは出来る。怪物が僅かに怯んだ。

 それと同時に奥の方に避難していた他の村人達が玄関ホールに飛び込んできた。駐在さんを先頭にして各々学校の各所に備え付けてある()()()()を手にしている。本来なら長いリーチで近寄らずに不審者を拘束するためのヤツだ、一人で怪物を抑え込んでいるおじさんに負けじと一斉にそれを怪物に突き立てた。

 

『ギィヤァァァァァアァァァァァァッッッッ……!』

 

 村の若い衆が5,6人ばかりさすまたを叩きつけ、そのまま引きずる勢いで壁際にまで追い詰められた怪物が流石に苦悶の叫びをあげる。

 

『今だ、ドア開けろぉっ!』

『このまま追ん出せ!』

 

 その隙に他の人達が閉まっていたドアを開放した。そこからそのまま押し出す形で学校の外に放り出そうとする魂胆のようだ。猶も消火器を噴霧して相手を怯ませながら、ゆっくりと、だが確実に扉の方へと押しやっていく。

 しかし怪物もさるもの、その意図を見抜いたのかまでは分からないが、触手を大きく伸ばし反撃に出た。それ自体が単独の生き物であるかのように動き回る触手が瞬く間に村民の体に絡みつき、貫き、吹き飛ばす。あっという間に拘束から逃れた《タコヴェルノム》は脚を負傷し、倒れた村民の体に触手を這わせて持ち上げる。

 

『いい加減にしろっ、このバケモノッ……!』

 

 真っ先に動いたのはおじさんだった。さっきあたし達が消火器を取り出した辺りの蓋を更にこじ開け、消防斧を取り出して怪物に殴りかかった。捕食に気を取られていた《タコヴェルノム》は反応が遅れ、その眉間にまともに消防斧の一撃を食らった。元々は壁や窓を打ち壊して避難経路を確保するためのモノだ、そうした荒っぽい運用に耐え得る頑強さを持っている斧は怪物の頭を打ち砕き、引き裂いた。怪物が悲鳴のような咆哮を上げ、赤黒い血と紫色の脳漿が撒き散らされる。

 

『今だァッ!』

 

 頭に突き刺さった斧を素早く抜き放ったおじさんは続けて、それを振り回して村民を拘束していた触手を切り裂いた。その隙に態勢を立て直した村民達は再びさすまたを握ると一斉に怪物に向かってそれを突き出した。叩きつけられた衝撃でガラス戸が完全に砕け散り、そのまま怪物は外に放り出された。触手を二,三本切り飛ばされ、頭も半分程抉られた上に背中には無数のガラス片が突き刺さった痛々しい姿だがそれでも多少足取りが覚束なくなっただけで怪物はまだ生きていた。猶も執念深く触手を伸ばそうとする――それどころか斬られた筈の断面にもう薄い皮が張り、少しづつ再生して出しているようにさえも見えた。

 

 ――コイツ不死身なの…?あたしは戦慄した。

 

『もう良いだろうっ!地獄に帰れよ…!』

 

 おじさんがそう吠えた。次の瞬間躊躇いもせずにドアの外に飛び出すと《タコヴェルノム》の頭部に何度も斧を振り下ろした。一発二発三発――打ち付ける度に鮮血が飛び散り、白一色に振り込められた世界を染めていく。最後に斧を目一杯横薙ぎに振り抜くとそれは狙い違わず怪物の首元にめり込み、その異形の頭部を切り飛ばした。

 怪物の頭が力なく舞い、地面に落ちた。頭部も残された胴体も暫く我が身に何が起きたかを知覚出来ずにビクビクと動き続けていたが…やがてネジの切れた人形のように静かに崩れ落ち、そのまま二度と動く事はなかった。異形の頭部だけがやがて粘度の高い汚泥のような物質に変異し溶けていき、大の字に仰臥したまま動かない人体だけが後に残された。

 

 

 ・・・・・・・・・

 

 

「…《ヴェルノム》っていうのか…あの怪物は…」

 

 哲也はポツリと呟いた。かれこれ1位時間ばかり話している。少し休もうか、そう言って哲也は席を立った。備え付けてあるポットからお湯を急須に注いで、お茶を入れると梗華の所に持っていった。

 

「ほれ」

「ん、ありがと」

 

 熱いお茶で互いに喉を湿らせてホウっと一息吐いた。張り詰めっ放しだった神経に清涼な緑茶の香りが通って少しばかり落ち着けたような気分になった。梗華も同様の感想なのか、穏やかな笑みを浮かべたと思ったら、しげしげと茶葉の入っている缶を眺めていた。

 

「このお茶かなり良い品種だね、ほら?」

 

 そう言って缶に書かれているラベルを見せてきたが正直お茶の種類には明るくないし、飲んでみてもそんなに味の違いなんて分からない。それでもコンビニのペットボトルか市販品のティーバッグぐらいしか縁のない生活を送っていれば茶葉から淹れたお茶はそれはそれでありがたい、という貧乏人根性だけ発揮させてとりあえず今のうちに味わっておこうと思うのであった。

 

「お茶会ですか、随分と呑気なんですねお二人とも」

 

 不意に呆れたような声が降ってきた。振り返ると襖をあけて柚月が立っていた。相変わらず薄汚れたブルゾンにジーンズといった簡素な格好だし、耳の上あたりでバッサリ切った髪型はまるで少年のようだが、改めて立ち姿を見ると均整の取れたすらりとしたプロポーションはそれらを踏まえてもなお不思議な色香を感じさせる。子どもの頃の彼女しか知らない身としてはどことなく見てはいけないようなものを見ている気がして、哲也は僅かに視線を逸らした。

 

「ちょうど良かった、柚月ちゃんもお茶飲む?」

 

 そんなこっちの心情などお構いなしに柚月は部屋に踏み込んできた、それに対して梗華もそんな呑気な言葉を掛けている。柚月は「飲む」とシンプルに即答すると彼女の隣に勢いよく腰を下ろした。思いっきり胡坐。仮にも年頃の娘がそれで良いのかよ…。

 

「哲也は?お替りいる?」

 

 相変わらずどこか呑気な梗華だがとにかく気を落ち着けなければ話にもならない、と内心言い訳して哲也もありがたく貰う事にした。相変わらず茶葉の貴賤はよく分からないけど香りや味の良いお茶はそれだけで精神を安定させる効果はあると思う。劉備じゃないけどお茶を土産に持ち帰りたくなる心境が良く分かる、と深く息を吸いながら熱い液体をすすった。

 

「はぁ~~~~……。極、楽…!」

「まった…――って緩んでる場合ですかっ!」

 

 芳醇な香気につい気が緩んで和んでいるとつい同じ空気に当てられていた(らしい)柚月が正気を取り戻したかのように突如叫んだ。心なしか頬が赤い。

 

「まぁまぁ、気ぃ張ってると体に悪いよ、ほらお菓子も食べなって?」

「梗華は黙ってて下さい!ってかホワホワしに来たんじゃないんですわたしはっ!!」

 

 焦れたようにちゃぶ台をバンバンと叩いて柚月が吠える。しかしその声が響いたのか、傍らのベビーベッドで眠るミホがむずがるような小さい声を上げると、驚いたように肩を硬直させた。だが結局何事もなく再びスヤスヤと眠りの世界に落ちていった事に柚月はホッとして息を吐き、それから気を落ち着けようとするかのように再びお茶を口に含んだ。なんかつい揶揄いたくなる気もしたが無駄に茶々入れたら(お茶だけに)薮蛇になりそうなのでやめておこうと思った。

 

 自棄になったように柚月はがぶりとお茶を一息に飲み干すと梗華と哲也の方を交互にジロリと睨みつけた。「で?どこまで話したんですか?」

 

 

 ・・・・・・・・・

 

 

 《ヴェルノム》。

 

 梗華の話に出てきた、村の外の人間が突如変異した怪物の存在をそう称するそうだ。恐らくは健輔が目撃したとかいう蜘蛛のバケモノも病院を襲った二匹の怪物も…幹斗が変身したあのバッタみたいな怪物もそう言うのだろう。そう言えば幹斗がネット上にばらまいたビデオの中でそう名乗っていた事を思い出す。

 《スカルマン》の出現と共に各地で度々怪物の目撃証言があったが、恐らくそいつらも全員そうなのだ。つまりあの怪物達は決してある日突然自然発生的に生まれた訳ではない、ゴロウさんやあの少年がそうであったように元は人間であった者が変異する形で誕生した、つまりそういう事だ。だがという事はつまり――。

 

「そうですよ、《ヴェルノム》の正体は人間、しかもあかつき村の村民の生き残り達です」

 

 あまりに淡々と柚月はそう言い放った。覚悟していた事だが到底受け止め切れるような話ではなく、哲也は絶句した。冗談だろ、そう言いたくもなったが淡々と話す彼女の口調に嘘は感じ取れないし、無感情なように見えてその言葉に微かな怒りと悔恨が滲んでいる、それが何よりも事実を雄弁に語っていた。暗澹とした気分が全身を包み込んでいき、哲也は「なんなんだよ…」と声を漏らした。

 

「ゴジラじゃああるまいし、未知の放射能かなんかが人をあんな怪物に変えるってのかよ?それとも噂の通り、細菌兵器かなんか作っててそのせいでみんな怪物になったっていうのか!?」

「違います。そういう外部からの働きかけじゃない。あれは…もっと根源的なモノ…そう、遺伝子の覚醒とも言うべきものです」

 

 覚醒…?その発言の意味する所は分からないが、神々しいんだか禍々しいんだか分からないその語感に哲也は絶句した。柚月はそんなこちらの動揺に気付いていないのか気付いてて放置しているのか、気を取り直すように再びお茶に口をつけた。

 

「“Last Universal Common Ancestor”…所謂《最終共通祖先》。人間もそこら辺の生物も全て元を正せば一つの単細胞生物に行きつく。ならば人類の遺伝子にはそこに至る進化の系譜が記憶されている筈という理論がまずありました。そのフィータル・メモリーにアクセスし、そこに内包された情報を引き出す事が出来るとしたら…。詰まる所《ヴェルノム》とはその抽出に成功したという証――」

「待て待て待て、日本語で言ってくれるかっ!?」

 

 猛烈な早口で何か呪文をまくしたて始めた柚月を慌てて制す。出鼻を挫かれた彼女は呆れたようなジト目でこちらを睨んだ。

 

「こんな分かりやすく言ってるのに…。やっぱりバカなんですか貴方は…

「だからバカと言うなバカとっ!!」

「ごめん、その説明で分かる人なんかいないと思うよ…」

 

 小声で失礼千万な事をボソリと呟いた柚月に哲也が抗議し、梗華が溜息を吐きながら同意する。流石に梗華にまで真っ向から同意されたのは堪えたようで柚月はグッと息を詰まらせ、不満げに口を尖らせた。「どーせ説明下手ですよぅ…」。

 

「つまりね、あの“霧”を体内に取り込んじゃうと、何か遺伝子に作用する力が働いて《ヴェルノム》化する…ってそういう事。《黒禍熱》はその拒絶反応みたいなもので、今生きてる人達はそれに適合した証なんだって…」

「…でも大抵はその変異に耐えられない。よしんば生き抜いても心を蝕まれて増殖本能しかないバケモノに成り下がる…」

 

 柚月曰くその状態をフェーズ1、そこを乗り越え理性を保っていられる状態に至った者をフェーズ2と呼ぶらしい。いずれにせよ人間を人間でないモノに変えてしまう恐るべき災害――それがあかつき村事件の真相なのだという。未知のウイルスによるバイオハザードというのも大概だが更に荒唐無稽さを増した事実に哲也はただただ絶句するよりなかった。

 

 つまり《バッタヴェルノム》の状態にあっても理性を保っていた幹斗はフェーズ2、あのコブラやウニはフェーズ1に相当する状態になったという訳か。一度怪物化を抑え込んだ健輔もフェーズ2に達している可能性が高いという。そこに至る者とそうでない者の違いというのは完全に個人差らしく、その確率を操作する術は依然分かっていないのだと柚月は言った。

 

 だがそうなると柚月と梗華の二人はどうなのだろう?そんな哲也の視線から意図を察してくれたのか、梗華は得心したように「私達は何もないよ」あっさりとそう言った。なんだか罪悪感に近い感情が湧き上がってきて、哲也は顔を伏せた。

 

「個人差があるのと同じで何も起きない人もいるみたいです。わたしと梗華は吸引した“霧”の量が少なかったからなのかなんなのか…とにかくよく分からないけど特に何も起きてません」

「強いて言うなら少し健康になった、くらい?」

 

 淡々と説明する柚月と対照的にどこか悪戯っぽくはにかんだ梗華が力こぶを作るような仕草をした。確か梗華は生まれつき肺が弱くて激しい運動とかが出来なかった筈だし、中学に上がる前くらいまではよく風邪も引いていた。医者からも一生掛けて付き合っていくしかない、と言われていた疾患がほぼ完治してるのだとしたら、あまり悪い事ばかりではないのだろうか…と思いもしたが、いずれにせよ人を怪物に変えてしまう現象をあまり信用できる筈もなく、哲也は小さく息を吐いた。梗華も冗談を言ってる場合ではないと思ったのかごめん、と小さく謝った。

 

「あの“霧”がなんなのか、それは正直よく分からない。確かなのはあの日幹斗のお父さんが殺されて、研究所からアレが漏出したんだって事。私達もそれ以上はよく知らないんだ…」

「…絶対あの人何かは知ってて隠してる…。なのにわたし達には何も教えてはくれない…」

 

 あの人、というのは琥月劉生の事だろう。一応祖父と孫の関係という事にはなっているらしいが、やはりその口調からはあまり信頼を置いているようには思えず、哲也としては二人の関係性が気に掛かる所だった。

 《神樂》とかいう都市伝説の中でしかお目にかかった事のない巨大な財閥だかコングロマリットだか…とにかく巨大な組織の長にして、一連の事件を引き起こした元凶だと称する謎の老人。確かに信用して良いのかとかで言えば1000%「胡散臭い」の範疇に属する側の人間だろうが、それならば何故柚月達を保護し、村の人達を救う手立てを持ち掛けてきたのか…。そこら辺の心理は全く読めず、畢竟胡散臭い事に変わりはないにせよ敵なのか味方なのかそれすらも判然としない。少なくともそれが現状の琥月劉生とかいう男に対する印象だ。

 だが村の皆を救出したとして彼らを一時的にせよ保護しておくには個人の力ではどうにもならないのは確かで、悔しいがそこはあの男に頼らざるを得ないのも確かだった。

 そもそももっと重要な問題がある。別にそこを失念していた訳ではない。聞くのが単に、そして無性に怖かっただけだ。

 

「…村の人達は何人生き残ってるんだ…?」

 

 それが最も重要だ。あかつき村の総人口は2011年時点で428人。事件当日に村にいた県外の人達が30人前後いたから彼らもプラスしたとして一体どれほどがあの惨劇を生き延び、怪物とならずに今囚われているのか…。そこが気掛かりだったが、同時にそれは生き残れなかった人達や怪物に変わってしまった人達もいる事に向き合わなければならない、という事だった。

 

 梗華が気まずそうに眼を伏せた。柚月は怜悧な視線を哲也に向ける。それについ気圧されそうになったが負けてなるものか、と彼女を見つめ返す。柚月もそれを受けて意を決したように口を開いた。

 

「生き残りの総数は凡そ74人。うち18名は完全に《ヴェルノム》化してる。ついでに残り56人のうち31人は何かしら変異の後遺症が残ってます…命の危険がある人だっている…」

 

 たった74人…。しかもその内健康と言えるのは25人だけ…。覚悟はしていてもあまりに重たい真実に哲也は愕然とした。目を逸らすな、そう叱咤するように柚月は更に続けた。

 

「更に言うならフェーズ2に到達した3人は兄さんに同調してるし、残りは皆特殊なチップを埋め込まれて《スカルマン》の尖兵に調整されてる。救出は絶望的とと考えた方が良いです」

「…ホントはね、もっと生き残ってた。学校か役場か、旅館に逃げ込めた人達が大勢いたから…。でも漸く“霧”が晴れたと思ったら()()()()がやってきて…」

 

 “あの人達”とやらは治療を名目に村を封鎖すると生き残った村人達をどこかに連れて行ったという。梗華がサナトリウムと呼んだその施設で更に彼らはあの惨禍を生き延びた貴重なサンプルとして過酷な人体実験に晒された。結果廃棄処分を免れ、生きて《ラスプーチン》とかいう奴らに保護された時には彼らの総数は100人を割っていた…そういう事だそうだ。

 

「なんだよ…それ…」

 

 唇が戦慄く。指先が震える。心臓が早鐘を打ち、全身を焼き尽くそうとするかのような峻烈な熱が駆け巡って行っても、脳髄に達するとそれは立ち所に冷えて固まって、決して融けない硬い激情へと昇華されていく。内耳の奥に消えていった人達の怨嗟の叫びが木霊した。たぶんそれは幻聴だろうという事くらいは分かっていても、自分はそれに激しく同調しかけていた。

 気を抜くと憤怒という言葉では済まない激しい衝動が全身を焼き尽くしかねない、最後の理性でそれを感知した哲也は立ち上がると、それを吐き出すように吠えた。

 

「ふざけんなよっ…!なんなんだそりゃあ…ふざけやがって…。どこのどいつだ、そんなイカれた事目論見やがった奴はぁっ…!!」

 

 幹斗はどうやら琥月を直接の下手人として狙っているようだ。もし“研究所”の惨劇を引き起こしたのがあの爺さんだというならそれを起こしたのも奴が率いる《神樂》の仕業だと考えても不思議はないように思えた。それとも事件を隠蔽したのはやはり政府で、国ぐるみでこの惨劇を主導したという事なのだろうか…。

 

 だとしたら、いや例え相手が誰であろうとも俺はそれを許す気はない。《スカルマン》になって他人まで巻き込んだテロ行為はしないまでも、そんな事を目論んだ奴らを全員地獄に叩き落とすくらいの事はしてやりたい。そいつらにありったけの恐怖と絶望を味わわせて生まれてきた事そのものを後悔させてやるくらいでないとお釣りが来ない、本気でそう思えた。

 

「落ち着いて…!」梗華が立ち上がって哲也の肩を抑え込んだ。

「気持ちは分かりますけど、怒鳴ってもどうにもなりません。――ってか少しは冷静になって話を聞いて下さい、そんなだから貴方は単純なんです」 

 

 梗華の暖かい体温と対照的に氷水みたいな冷たい柚月の声、相反する二つの温度をぶつけられて逆にそれが平静を呼び起こした。単純と言われたのは腹が立つが今ここで怒りをぶちまけてもどうにかなるわけではない、と悟ると怒りが潮のように引いていく。とはいえそれで後に残るのは抑えようもない虚脱感で、不意に身体に何倍もの重力が掛かった気がした哲也は膝から崩れ落ちた。一緒に倒れた梗華が背中を宥めるようにそっと叩く。

 そうだ、少なくとも梗華と柚月は生きてる。失ったものはもう取り戻しようがないが少なくともまだ取り戻せるものはきっとある――。同じように生きてる村の人達、それに幹斗の心…連れ去らわれたままの健輔の事も。抱えようのない喪失感を湛えた心にそれが微かな恵みとなって全身に通っていく。

 

 不意に勉叔父さん事を思い出した。彼もまたとっくに破綻したと思った俺との関係を最期まで取り戻そうと必死になっていた。亡くした親の代わりは出来なくとも、せめてその穴を虚しいモノにはすまいと悩み続けていた。あんな風に体全部を投げ出して道を示すような事はまだ出来ないかもしれない、でも少なくとも――とりあえず動くことぐらいだったら俺にだって出来る。

 敵の正体はまだ見えないが、それは現状やらなければならない事の障壁と思えば良く、今最優先でしなければならない事柄ではない。

 

 まずは皆を助ける。その上で幹斗のバカをぶん殴ってでも止める。今はそれだけ考えて進めば良い。「悪い、つい熱くなった」一言詫びて哲也は再度ちゃぶ台の前に座り直した。

 

「今はとにかく…皆の事を第一に考えないとな…。なぁ柚月?」

「なんですか?」

 

 ひとまず気を落ち着けよう、そう思ったら梗華が二杯目のお茶をずいと寄越してきた。茶葉を追加したのかエラく苦かったがお陰で頭は少しスッキリした…と思う。哲也はお茶を口に含みながら柚月の方に向き直った。

 

「お前はその“療法所(サナトリウム)”ってトコから逃げてきたんだろ、なら今もそこに皆はいるのか?」

「……知ってたら今こうしてジッとしてると思いますか?」

 

 だろうな、哲也は独り言ちた。もし脱走した場所が分かっているなら柚月がこうしてここにいる筈がない、どんな手段を使っても今頃殴り込みを掛けるなりなんなりして皆を救い出している筈だ。という事はつまり二人が脱走した後にその隔離施設とやらを引き払って別の場所に移動しているという事になる。

 

「柚月ちゃんの脱走まではなんとか誤魔化せたんだけどね…。たぶん私が逃げた後だよ、“療法所”の場所が変わったのは。あの後私達と辰雄くんとで行ったらもう、もぬけの殻になってた…」

 

 タツオ?聞き慣れない割にどこかで聞いた事のある気がする名前が飛び出し、哲也は思わず首を傾げた。

 

「病院で会ってるでしょう?《エースゼロ》…あのアーマースーツを着てた人」

 

 話の腰を折るな、と言わんばかりに柚月がピシャリと言う。その言葉で合点が行った。あの時病院で《スカルマン》――幹斗と闘っていたアーマースーツの戦士がいたと事を思い出す。それを纏っていたのはどう見ても15~6歳くらいの少年だったものからますます面食らった、そう言えば以前健輔から聞いた話の中で柚月と行動を共にしていたとされる少年も「タツオ」と呼ばれていたのではなかったか。

 つまりあの少年もまた《神樂》の一員で、あのおかしなアーマースーツ――《エースゼロ》というのか――も組織の装備品かなんかなのだろう、と思い至った。《ヴェルノム》という未知の怪物と互角に戦い得る兵器を個人レベルで所有している辺り、やはり底が知れないな、と哲也は身震いした。

 

「前に“療法所”があったのはこの辺りです」

 

 気を取り直して柚月がパソコンのマップを開いて映った画面の情報をこちらに提示してきた。地点登録を示す星マーク。衛生写真には山中の一角にコンクリート製と思しき建物が映っているのが見えた。これは一体なんだ?

 

「なんでも大昔の感染症だか精神病だかなんだかの隔離病棟らしいですよ。病院も潰れて買い手も付かない、権利者も分からない建物を勝手に改造して使ってたんでしょうね」

 

 ああ、そう言えばまだ感染症や精神病に対する理解が不十分だった時代はこうして人里離れた場所に隔離してそこで共同生活を送らせる、なんて事をやっていたんだったか。今の感覚からすると大分乱暴な行為だが医療体制が拡充している現代と比較して一概にどうこう言える状況ではなかった事くらいは分かる。

 大抵そういう場所は病院の閉鎖などに伴って壊されたりするのだが、稀に地権者が不明になってしまった事で処分もされずにほったらかしにされている建物もあったりするのだ。ここもその手の廃墟のひとつなのだろう。

 だがただの廃墟では当然意味はない。電気もガスも水道も使えないような廃墟に人を長期間押し込めておく事など出来ない、となればそれなりに住環境が整っている必要性がある。

 

「うん、確かに“療法所”はちゃんと電気も水道も使えた。だから私達も暫くはそこが本当に治療のための施設なんだって信じてたんだよ…」

 

 梗華が補足する。つまり“敵”――正体も目的もまるで分からないので便宜的にそう呼んでおく――はそれなりのインフラの整った設備を持ち得る財力がある、という事になる。

 

 だがそう考えるとますます正体が掴めなくなる、というこのジレンマだ。それだけの組織力を持っているのは畢竟政府とか企業とかそれなりに巨大な勢力という事になるが、そういう所は必然社会的な影響力も大きい。下手すれば表面化した時のリスクの方が遥かに大きくなるため、そこまで大胆な行動に出たりはしない傾向にある、というのが例え見習いでも記者を続けてて哲也がなんとなく身に着けた陰謀論へのロジックだ。

 

「――わっっっかんねぇなあ……。一体どこを当たれば良いんだかサッパリ見当がつかねぇ…」

 

 哲也は畳に大きく身を投げ出して溜息を吐いた。もし相手の正体が分かればどうしてもそいつらの息の掛かっている可能性のある所を当たっていけば調べられる確率が少し上がるのだが、実態の分からない相手ともなれば文字通り雲を掴むような話になり兼ねない。「せめて取っ掛かりだけでも掴めればなあ…」哲也はぼやいた。

 

「白零會……」

 

 不意にそんな言葉が呟かれ、哲也は思わず身体を硬直させた。どこか硬い、畏怖を含んだような冷えた声、それの主は梗華だった。一気に部屋の温度が下がったような心地がして哲也は「なんだよ急に…?」と恐る恐る尋ねた。

 

「だから…白零會なんじゃないのかなって…。あたし達を浚った奴らって…」

 

 幾ばくかの迷いを湛えて梗華がもう一度その名をハッキリと呟いた。まるで自分で出したその名を恐れるように肩が震えているのが分かった。梗華にとってその教団の名は禁忌に近い。その存在を呼び起こす事さえ嫌悪しているようだった。

 

「な…なに言ってんだよそんな訳…」

 

 ない。努めて深刻さを感じさせないように哲也は言った。ただ別におためごかしでも何でもなく、既に白零會は教祖の逮捕と共に宗教法人人格を失っている。今は小規模の団体に分裂し、いずれも公安の監視下に置かれている事を鑑みれば、かつてほどの影響力は既になく、死に体に等しいというのが世間一般の認識だ。いくら何でも一つの研究機関を吹き飛ばす程の爆発を起こした挙句に、住民を未知の怪物へと変身させる毒ガスをバラまいて、村を丸ごと封鎖する、なんてそんな大それたことが出来る筈がなかった。「そんな事分かってるけど…!」梗華が声を荒げた。

 

「でも…聞いたの…。“スペリオル”とか“解脱”だとか…私達はあの霧を浴びたから、そこに近いトコにいるんだとか陰でコソコソ話してたのを…。これって確かさ……」

 

 哲也は唖然とした。確かに両方とも白零會が好んで使っていたフレーズだからだ。ああいったドゥームズデイ・カルトは大抵の場合、「もうすぐ世界が終わるからその前に悔い改めて神の国入る準備をしろ」とか語り掛けるモノだが、白零會のソレは「“スペリオル”という上位概念へと解脱し得た者こそが救われる」という多分にSF的なロジックも混ざったおかしな思想だった。教団最盛期にはしきりにテレビなんかでその“スペリオル”とやらの概念を布告しまくっていたようだが、如何せん話が抽象的過ぎて誰も理解出来なかったという。

 

 今の仕事に入ったばっかりの時に改めて教団の事件について調べたのだが、確かにこの奇妙なワードを使っているのは白零會とその分家団体に限られていた。もし梗華の聞いた事が本当なら何かしら教団の息の掛かった団体という線が途端に濃厚になってくるが……。やはり今の白零會にそんな力があるとは思えなかった。単純にそれだけの事が出来るなら、今も収監され死刑執行を待っている教祖を取り返すとか人口密集地で更なる大規模テロを引き起こすとか、もっとそういう大それた行為に出る筈だ。

 

 それでも梗華は納得いかない、という風に歯噛みしている。対する柚月もどこか確信が付かないような表情で哲也の方を見ていた。やがて柚月が言いづらそうに口火を切った。

 

「――実は…村の中に教団のシンパがいたって…。そう言ったら信じますか?」

 

 はぁ――!?哲也は一瞬我が耳を疑った。村の中に白零會の信者がいたとそういう事だろうか…。いささか特殊な事情を抱えていたとしても基本的に平凡そのものだと思っていた村の中にはあまりに不釣り合いな響きがして、哲也は「どういう事だよ…?」と間抜けな返ししか出来なかった。梗華が言いづらそうに頷いた。

 

「皆暫くアレがなんなのかサッパリ分からなかった…。でも…アレを見て…あの人が変な事言い始めたの…」

 




なんかまた半端な所で終わりましたがそろそろ限界近いので今日はここまで…
なんで戦闘シーンってこんなに文字数稼げないんだろう…?結構苦労したのに蓋開けてみればかなり短くて絶句してしまいました…。
とは言え、仮面ライダーなどの超人的なツールがない中でそこら辺の日用品を集めて何とか対抗する、ってのはそれはそれでシュールで面白い光景になったと思います。


後半ですが“スペリオル”って言葉が登場しました。前にも一度出てきてるんですが今回改めて。ハッタリでも何でもなく、今後の重要機ワードなので覚えておいていただけると幸いです。

それではまた次回。


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CHAPTER-3:『REjectionⅠ』- ④

『…で…?()()は一体なんだと思う?』

 

 昼下がり。とは言っても太陽の位置は依然として霧に阻まれて時計だけしかそれを示すモノはない。晴れているのか曇っているのか、はたまた雨が降っているのかすら分からない中であたし達は固唾を呑んで玄関先に打ち捨てられた“ソレ”を眺めていた。

 

 今残っているのは首を撥ねられた大の字に寝転がった人型の遺体。だがその首の断面からは赤いというよりはタールみたいな粘度の黒い血が流れ出ており、その皮膚は土気色に染まって各部から青紫色の斑紋が浮かんでいるのだ。何より――今は完全に融解してしまったが先程までこの男性の頭部は8本の触手を備えた異形へと変わり果て、まるでエイリアンが獲物に襲い掛かるようにあたし達に襲い掛かってきたのだ。

 変異する前は間違いなく少し前に校舎を出ていった観光客の青年だと分かったが、まるでその皮を破って中からナニカが生えてきたようにそれは出てきたのだ。誰もが目の前の光景を信じる事は出来ずに沈黙していたが、やがて駐在さんがそんな風に口火を切った。

 誰に向けられた言葉であった訳ではない。だが慧おじさんはそれが直接怪物に引導を渡した自分に向けられたものだと判断したようでゆっくりと首を振りながら『分からん』そう言った。

 

『だけど…人…()()()()()なんじゃあねぇのかなぁ…ありゃあ…。ついこないだ…俺が見送っちまった、よ…』

 

 どこか寂寥と悔恨と…恐怖の混じった声で慧おじさんは震える自分の右手を見つめていた。いつもは誰よりも大きく、頼もしいその背中が酷く小さくなった気がして、あたしは胸が痛んだ。

 

 例の怪物――《ヴェルノム》のもたらした被害は凄まじかった。死者は4人、骨折や裂傷などの重傷が3人と人的な被害が大きい事に加え、いきなり人智を超えた異形の怪物が襲い掛かってくるという状況がより一層皆を恐怖させた。死んだ4人については2人は遺体さえない上に、2人は損壊が凄まじい、だがこんな状況では死体を清める事もせめて弔ってやる事も出来ずに誰も使っていない空き教室の一角に包んで置かざるを得ないという無情さもそれに拍車を掛けた。

 かような状況を考えれば率先して皆を救い、怪物を見事仕留めた慧おじさんを称える声は大きかったが、おじさんにはそれが重荷なようだ。憔悴した横顔からもそれは明らかだった。

 

 事実はどうあれ、元は人だった(可能性のある)モノの命を奪った事。あまつさえそれが少し前に自分が引き止められずに行かせてしまった人間の末路であるとするなら猶更だった。直接的にも間接的にもあの青年の命を奪ったのは自分だ、おじさんはそういう自責の念に駆られていたんだ。

 

『よすんだ成澤さん、そんな言い方…貴方が悪い訳じゃない』

 

 駐在さんがおじさんにそう言い聞かせる。彼は彼でおじさんとは違った悔恨の色が濃く浮かんでいた。

 

『本来なら私がやるべきだった…。だが私は抑え込むのに精一杯で…見てるばっかりだったよ…。村民を守る事が私の仕事の筈なのになぁ…』

 

 少なくともおじさんが村民になった時から居たという老齢の駐在さん。それなりに長い警察人生を送ってきたがこんな事態には直面した事はないという。こんな時だからこそ皆を支えなくてはならないのに、状況を掴む事も出来ずにみすみす犠牲を出してしまった事に内心忸怩たる思いがあるのだろう。

 

『そうだよ…おじさんのお陰であたしもユヅキちゃんも助かったんだよ…?』

 

 あたしは少し肩にかすり傷を負ったけど大したケガじゃない。おじさんがあそこで体を張って庇ってくれなかったらもっとひどい事になっていたかも知れない。なんだか分からないけど、あのバケモノは噛みついた口から人間を黒い灰のようなモノに分解させてしまう恐ろしい“毒”を持っているのだ。一歩遅ければあたしやユヅキちゃんもそうなっていたかも知れない、と思えばこそおじさんには苦しんで欲しくなかった。

 

『ありがとうな…。そう言ってくれると少し気が楽になったわ…』

 

 おじさんは弱弱しく微笑むと優しくあたしの頭をそっと叩いた。大きな掌はいつもと変わらない筈なのにその温度はいつもより大分冷たい気がして。いつもなら遠慮も会釈もなく、髪を撫で掻きまわしたりするのにそれもなく軽く触れるように叩いただけ。でも酷く優しい声もその仕草も間違いなく、何も変わらないおじさんのモノだったからこそ…あたしの胸は余計罪悪に疼く。

 

『悪ィ…。どーも湿っぽくていけねぇや、ちょっくらシャワーでも浴びて来るわ…』

 

 でもそれも一瞬。気を取り直したように大きく破顔したおじさんは背伸びをしながら立ち上がると体育館を後にしていった。肩を怒らせて大股で歩くその後ろ姿は如何にもいつもの姿だったけど、今はそれが無理してそう振る舞っているように見えて、なんだか却って痛々しく思えた。あたしも駐在さんに一礼すると、体育館を後にした。

 

 今振り返るとこの時おじさんの精神はだいぶ限界に近かったのだと思う。経験のない異常事態に晒されながらも皆を宥めて纏めて、最悪の事態だけは阻止しなければ、という責任感とそれでいながら自分の奥さん――優実おばさんの行方は依然と不明という無情な現実。本当は今すぐにでも全てを投げ出して優実さんの無事を確かめたかったと思うのにそれは許されない。責任と一人の人間の間でおじさんはずっと悩んでいたんだ。

 それはあたしだって同じ。優実おばさんの事は心配だ。役場の方に避難しているのだろうか、それとも――間に合わずこの深い“霧”の中で家にただ一人取り残されてやしないだろうか…?お祖母ちゃんの事だって気掛かりだし、ミキトとも連絡が付かない。あたしという個人を取り巻く世界の多くがまるで実体のよく分からない、暴力的な力によって引き裂かれてしまったような気がして――それは両親を亡くした時とまるっきり同じなのだという事に気が付いて戦慄する。

 

 酷く寒い。唇が渇いて戦慄く。相も変わらず何も映さない空を見上げてあたしは身も世もなく絶叫した。

 

『テツヤぁ――――!』

 

 ここじゃない遠くの街にいる君だけは…少なくとも無事であって欲しい…!そっちは色々大変な事も多い世界だけど…少なくとも青い空の下にいて欲しい。そう切に願う気持ちに嘘はない筈なのに…。

 ここにいて欲しいと思った。そうしたら君は根拠なんかなくても『なんとかなるさ』って言って笑いかけてくれるだろうか。それとも同じようにこの痛みと恐怖を分かち合ってくれるだろうか。いや、別になんでも良い。どんな時でも一緒にいてくれる事、それが()()()()()あたしにくれる一番の宝物なんだから――。

 

『傍にいてよバカ……』

 

 その声は誰に届く事もなく、夢幻のような白亜の中に吸い込まれていた。

 

 

 ・・・・・・・・・

 

 

 体育館を後にしたあたしが向かったのは保健室。さっきの怪物との戦いでケガをした人達はひとまずここで治療を受けている…とは言っても元が学校の保健室だし、十分な備えはない。せいぜい包帯とか傷薬、避難時用の緊急キットもあるにはあるけど、あくまで軽傷の対処や搬送までの応急措置で精一杯な中でミサキ先生はよく頑張ってくれていると思う。

 

『あら、キョウカちゃん。肩の具合どう?』

 

 保健室のドアを開けると机に座っていたミサキ先生がくるりと振り返る。あたしの顔を認めると途端に相好を崩して、柔らかい笑顔を浮かべてくれた。少し腫れた目元にも気付いているのかも知れないけどそこは敢えて触れてこない。

 ミサキ先生はここの校医さん。もう既に60歳近い御年の筈だけど常に上品な笑顔を浮かべ、それでいながらキビキビとよく動くその姿は凡そ年齢を感じさせない。そうでなければヤンチャ盛りの子どもの相手など勤まらないのだろうけど。あたし達にとってはある意味どの先生よりも見慣れた顔だ。

 

『お陰様で…。それであの…』

『ユヅキちゃんね。少し前に起きたわ』

 

 ミサキ先生は部屋の片隅のベッドに顔を向けた。あたしは軽く一礼するとそこに向かってベッドのカーテンを開ける。まだ少しぼんやりした顔のユヅキちゃんが半身を起こして手に持ったココアを冷ましていた。『もう大丈夫?』あたしがそう問い掛け、ユヅキちゃんは無言で頷いた。

 

『元気そうでなによりだわ。キョウカちゃんも飲む?』

 

 満足そうに先生は微笑んであたしにもココアの入ったマグをくれる。ありがたく受け取って熱い液体を口に含んだ。少しの苦みと優しい甘さが凍えた全身に広がっていく気がして、あたしは小さく息を吐いた。

 

『ごめんなさい、こんな時に…』

『良いのよ。二人ならいつでも大歓迎なんだから――って、あら医者がこんな事言うもんじゃないわね』

 

 そう言って頭を下げたユヅキちゃん。ミサキ先生はコロコロと笑うとその小さな頭をそっと撫でた。そうされると滅多に表情を変えないユヅキちゃんがどこか照れたようにはにかんだ。なんだか心もじんわり温かくなった気がして、あたしはユヅキちゃんと共に保健室を出た。

 

『キョウカちゃん』

 

 ドアをくぐった所でそう呼び止められた。振り返ると全てを見透かすような、でも柔らかい色を纏った先生の瞳がこちらに注がれている。

 

『無理はしたらダメ。吐き出したくなったらいつでもいらっしゃい?私はここで待ってるから…』

 

 その言葉を聞いたら堪えていた何かが決壊してしまいそうな気がして、あたしは思わず顔を俯けた。その言葉は何よりも嬉しかったけど、今はその時じゃないんだ。『失礼します』あたしはそう一礼して今度こそ保健室を後にした。

 

 ――皆強いな。ユヅキちゃんの手を引きながらあたしは独り言ちた。

 

 ミサキ先生の旦那さん――夫婦で医院を営んでる――もまたここにはいない。あのサイレンがなった日、村はずれの家に往診に行っていて以来連絡がつかないのだって。なのにミサキ先生も苦渋の表情一つ見せないで気丈に振る舞ってる。今みたいにあたし達がふらっと訪ねてきてもなに一つ嫌な顔せずにいつもと変わらない笑顔をくれる。分かっててもそれについ甘えて、縋ってしまうあたしはやっぱり子どもだ。

 

 少しだけミキトの気持ちが分かった気がした。追い掛けたい、追いつきたい背中があるというのはなんて息苦しくて、切ないのだろう。改めて己の裡を覗いてみれば足りないものばっかりで本当にうんざりする。

 

 だからこそ――あたしは胸の前で拳を握った。この痛みを、苦しさを、そして誇らしさを忘れないようにしよう。きっとそれがこの先進むべき路に迷った時に確かな在り処になる筈だから。

 

 あたしは掌を硬く握る。中にある小さな温度も何かを察してくれたようにそっと同じように握り返してきた。白昼霧の中で互いの熱だけを確かな拠り所にしてあたし達は歩き出した。

 

 

 

 しかし体育館の方に近づくと次第に何か喧騒のようなものが聞こえてきた。凡そ穏やかなとは言い難く、いっそ剣呑ですらあるヒリついた空気にあたしはぎくりと肩を強張らせて、ユヅキちゃんの手を離した。

 

『ここで待ってて?』

 

 なんだか知らないが和やかな空気とは言い難い。ただでさえ怪物の一件でショックを受けているユヅキちゃんに触れさせるわけにはいかない、そう思った。離れてしまった掌から熱が奪われていくような気がして、心許なさを覚えながらも体育館の中に向かった。

 

『だ か ら !話の分からねえ奴だな、あんさんも見ただろあのバケモノを!しかもこちとら死人まで出したんだぞ!』

『成澤さんがやってくれんかったらワシら今頃全滅だ!だのになんだべその言い草は…!!』

『黙れ!私は常識の話をしているんだっ!』

 

 脚を踏み入れた瞬間、剣呑という表現すら生温い事に気が付いた、いっそ殺気立ってるとさえいって良い、迂闊に手を伸ばせば引火しそうな暴力的な空気が体育館中を覆っていた。

 

 中は大きく二つに二分されていた。村の老人達が前に出て対する方に敵意に近い感情を剥き出しにし、もう一方も負けじと顔を真っ赤にして吠えている。その先頭にいるのは観光客グループの中心になっていた男だ。察するに昨日からやたらとこちらに噛みついてくる彼が今度もまた村民に文句をつけ始めたらしい。

 いい加減にしてよ…あたしはそう吐き捨てると対立する二つの輪の中心に押し入った。ちょうど板挟みになっている駐在さんの隣に立つ。『やめてください!』男に向かってそう問い掛けた。

 

 また君か…と男もうんざりだと言わんばかりに溜息を吐く。それはこっちの台詞だと言い返してやりたいのをグッと堪えて、あたしはなるべく冷静さを保って言う。

 

『今度はなんなんですか…?皆疲れてるんです、これ以上騒ぎを起こさないで下さい…!』

『随分な言い草だな相変わらず…。その台詞、聞き分けのない後ろの田舎者共に言ってくれないかね?』

 

 男は不快そうに眉を顰めて、あたしの後ろ、即ち村の人達の事を言うように顎をしゃくった。『誰が田舎者だ、ヤシャモンが!』抗議の声が上がった。その言葉が多分に侮蔑のニュアンスを含む事も分かっているのだろう、何の事ですか?とあたしが訴えると男は鼻で嗤うように口元を歪めた。

 

『知れた事、私はただそのヒトゴロシ連中と寝食を共にする気はない、ここに寄り付かないでくれとそう言ってるだけだよ!なぁ簡単な事だろう?』

 

 まるで自分の吐いた言葉に陶酔するように男はその5文字をやけに強調した。ヒトゴロシ…ひとごろし…人殺し…?一瞬男が何を言っているのか分からず、あたしは呆然と男の視線を追った。そしてその先に――慧おじさんを含めた、何人かの村の人達がいる事に気が付き、漸く男が何を言っているのか理解した。

 

『そうだとも、彼らは助けを求める若者を“ヨソモノ”だから、という理由で集団リンチに掛けた挙句に首を撥ねて殺害したんだ!そんな奴らを庇うのか君はっ!どんな倫理観をしているのかね!?』

 

 男が声高に叫び、それに続くように後ろに控えた観光客のグループが『その通り!』と一斉に唱和する。あたしはと言えば彼らが何を言っているのかさっぱり理解出来ずに、ふと気が遠くなるような気さえした。ふらつく頭を抑えながら振り返ると村民達も一様に怒り以上に不可解だ、という表情を浮かべて男を見ていた。その沈黙を自分達が反論出来ずにいるのだとでも思いこんだのだろうか、男は更に得意げになって口角泡を飛ばした。

 

『本来なら縛り上げた上で監禁しておくべき所を非常事態である事を鑑みて、体育館(ここ)から追い出すだけの穏当な措置を求めているだけなのに、何故それすらも拒む?まさかとは思うがこの田舎ではコロシなんて日常茶飯事だとでも言いたいのか!?』

 

 明らかに嘲るような口調。要するに先程あたし達を襲い、村の人達を殺したあの怪物を仕留めた事をこの男は、慧おじさん達がよってたかって観光客の一人を殺害したのだ、とそういう筋書きに書き換えたのだという事は分かった。なんてバカな人なの、という呆れが去ってしまえば先刻以上の猛烈な怒りに駆られてあたしは思わず『バカな事言わないで!!』そう叫んでいた。

 

『アンタだって見たでしょ、あの蛸みたいなバケモノが皆を襲うのを!村の人達は皆を守るためにアイツと闘って大勢ケガしたのよ、なのにヒトゴロシって何よ!!仮にもアンタ達を守ってくれたおじさん達になんでそんな言い方するのっ……!?』

 

 バケモノはバケモノ。おじさん達は皆を守るために率先してケガしたし、死者も出た。結果的には勝ったけどそれでも失われた命は返ってこないし、おじさんは人の命を奪ったかも知れない、という罪悪感に苦しんでいた。なのにこの人達は――皆が必死に戦ってた時に安全な所に引っ込んでいただけで、何もしてない。だのに安全になれば事実を捻じ曲げて戦った人達を人殺し呼ばわりか。厚顔無恥も極まれりな恥知らずっぷりにあたしは吐き気さえ覚えた。

 だが男は前と違って怯んだりしなかった。それどころかその目と口元をハッキリと侮蔑と嘲笑の形に歪めて、あたし達の抗議を吐き捨てた。

 

『それがおめでたいと言うんだよ、お前らは…!少しは()()でモノを考えたらどうなんだ、えぇ……!』

 

 常識…?何を言ってるんだ、とあたしは絶句した。男が自分の後ろを見やると眼鏡を掛けた神経質そうな風貌の男――多分大学生くらいか――が前に出てきてた。『少し考えれば分かる事ですよ』、そう言いながら眼鏡をくいっと押し上げる。

 

『第一に、本来人間の体があれだけの変形を遂げる事などあり得ない。受精卵の時期に起こるならまだしも、後発的な突然変異なのだとしたら、その遺伝子は既存の遺伝子とは適合出来ない――即ち癌みたいなバグ細胞の増殖でも起きない限り、あんな変異は起きないという事。

第二に、癌細胞は無限に増殖する代わりにマトモに生命活動を行う機能なんか殆ど備わっちゃいない。即ち現実にアレが起こるとしたら、増殖性を保ったまま、生命活動を維持できる特殊な癌細胞が全身に発生した事になる。

第三に、仮に遺伝子に何らかの干渉が行われ、変異を促す事が可能だったとする。だがそれでもあのような人とはかけ離れた姿に変わるまでに一体どれほどの期間を必要とする?どう見積っても3日くらいじゃ全然足りないね。どういう事かと言うと、あんな事が起こるのは天文学的な確率であり得ない、という事なのさ』

 

 人に話を聞かせたり、理解させたりする気など欠片もない程の早口で大学生風の男はそう一気に捲し立てた。村の人達もあたしも話の半分も理解出来なかったが、要するに「人があんなバケモノに変異することなどあり得ない」、そう言われたのだという事だけは分かった。

 

『んな事言っても現に起きたでねぇか…!屁理屈こくんでねぇっ!』

 

 消防団の爺さんが大学生に向かって声を荒げた。大学生はそんな彼に路傍の石ころでも見るような目を向けると『学も教養も欠片もないんだな』と哄笑した。

 

『要するにキミ達はありもしない幻を見たんだ。連日の拘束生活で気が立っていたんだろうねぇ、結果彼がまるで未知の怪物のように見え、あろう事か話も聞かずに殺してしまった。それが真実だよ』

 

 半ば強引に断言するように大学生は言った。意味が分からん、何を言っとるんだ!とこれまで中立を保っていた駐在さんがそう叫んで彼らに詰め寄った。

 

『君達も見た筈だ、アレは絶対に幻なんかじゃない!仮に幻だとしたら、何故皆して同じ光景を見る?山郷さんや鈴木さんは何に殺されたと言うんだ!?常識のない事言っとるのはそっちじゃあないかっ…!』

 

 だがそんな駐在さんの抗弁すらも大学生は意にも介さず『そっちよりは余程マシだ』と意に介さない。

 

『常識で計り知れない事が起きた時、天文学的な確率に賭けるかはたまた、不条理でも既成の範疇で考えるか…。より適切なのは後者だと思いますけどねぇ…。古今東西、人が突然別の怪物に置き換わったなんて話は聞いた事もないが集団ヒステリーによる幻覚事件ならいくらでも類似例が転がっている。どっちを信じるかなんて火を見るより明らかだと思うが?』

 

 ジョーシキとか屁理屈ばっかこねてないで、だったらこの“霧”もそれとやらで解明して見なさいよ!とか問い質しくなったが、どうせ彼らは聞く耳は持たないだろう。最早呆れ果てて誰も一言も発する気力がないのを良い事に男は『よせよせ』そう言って大学生を宥めた。

 

『コイツ等にそんな高尚な話をしても分からんだろうよ、馬の耳に念仏、豚に真珠だ。ま、要するに迷信深い田舎者は大人しくこちらに従え、そういう事だよ…』

 

 その一言に触発されて村の人達に一斉に火が付いた。『んだとコラァッ…!』『言わせておけば勝手な事ばっか言いやがって…』次々に抗議の声が上がり、最早殺気という言葉しか形容出来ない程のきな臭い空気が漂い出した。向こうも向こうで引き下がる気はないようでチンピラみたいな挑発をしながら、こちらを煽る。

 

『やめねぇかっ!』

 

 いつ両者が激突してもおかしくないような状況に陥った時、不意に剣呑な空気を切り裂くように鋭い声が響いた。振り返ると依然顔を青くした慧おじさんが立っていた。とは言っても漸く体を動かす気になった、という方が正確で先刻よりも一層小さくなってしまったような姿は却って痛々しくもあった。驚いた表情の男におじさんがゆっくり歩み寄っていく。

 

『話は分かった。なら俺だけ隔離しろ、ふん縛って鍵かけても構わん。だが他の奴らには関係ない、それで手ぇ打ってくれや』

 

 館内が一斉にどよめいた。特に村の人達の動揺は大きく、あたしは思わずその背中を掴んで『ダメっ!』と絶叫していた。

 

『良いんだよキョウカちゃん。俺なら大丈夫だ…』

『それでもダメ…!こんな奴らの言う事なんか聞く必要ないよ』

 

 予想外の成り行きに唖然としている男を指差してあたしは叫んだ。冗談じゃない、と全身が絶叫していた。コイツ等の支離滅裂な要求を一度でも吞んだら次は何を言われるか分かったモンじゃない、おじさんがリスクを損を背負う必要なんかどこにもないのに――そう続けようとしたあたしの言葉をおじさんは優しく制した。

 

 良いんだよ、どの道誰かが背負わなくちゃいけない事だ。言外にそう告げたおじさんは存外サッパリした目で男の方を見る。『さぁ、どうした?俺を拘束するんだろ?』

 男はしばらくなんと言ったら良いのか分からず、語彙を喪失したように口をパクパクさせていたがやがて気を取り直したように引き攣った薄い笑みを浮かべた。

 

『は…話が早くてまことに結構だ。おい、お前らボサっと見てないでとっととコイツを――』

 

 拘束しろ、とでも村の人達に言うつもりだったのだろう、が皆まで言うより前におじさんが男に大股ににじり寄るとその胸倉を掴み上げた。男はただでさえ青い瓜実顔を更に青ざめさせ、ヒッと情けない悲鳴を上げた。

 

『勘違いすんなよ、これ以上無駄な騒ぎを起こしたかないから吞んでやるんだ。その代わりお前らも二度と村の衆にケチつけるな。今侮辱した奴ら全員にも謝罪しろ、良いなっ…!』

 

 青二才が、俺を舐めるなよ。言外にそう告げるおじさんの迫力を前に男も大学生も完全に蛇に睨まれた蛙の如し、で彼らのシンパも完全に気圧されたかのように目を白黒させていた。

 

 

 その時。なんとなく館内を覆い尽くしていた殺気が減衰されたと思ったその刹那――。

 

 

『くふふふふ……バッカみたい…ははははははは……!』

 

 男達のものでさえ生温いとさえ思える程、明確な悪意と嘲りの感情を含んだ笑い声が館内に木霊した。また村の人達の方だ、と思って振り返ると体育館の片隅で俯いて座り込んでいた一人の老婆が幽鬼のように起き上がった。

 

 みすぼらしい。誤解を恐れずに言えばそういう表現が似合う老婆だった。身長はかなり小柄な上に曲がった腰も併せて更に小さく見える。髪の毛は黄ばんだ白髪で手入れなどしていないように不揃いに生えており、その下には深く刻まれた皺によってしわくちゃに歪んだ顔がある。こんな人村にいたっけ…?長年村に住んでいるのに、こんな人は知らない。今まで気にも留めていなかったがこの人誰…?そう思った直後『母さん、ダメだよ…!』、一人の40代くらいの中年の男がそう言って老婆を抑え込もうとした。

 

 その人は知っている。消防団の一人の鴨井戸さんだ。確かおじさんと同じIターン組のグループの一人だった筈、そこまで親しい訳ではないけど普段は役場で観光課の仕事をしているとかで、何度か顔を合わせた事はある。母さん、と呼んでいる事から母親なのだろうか――母親なんていたんだろうか…?

 

『全く…おめでたいのはお互い様ねぇ…。今の状況を正しく理解していないから分からないのよ…既存の科学や常識なんて――“スペリオル”の御意思の前では何の意味も為さないと言うのに…』

 

 愚鈍な奴らよ、そう言って鴨井戸のお婆さんはあたし達全員を睨み詰めて吐き捨てた。言われた周囲は彼女の言葉の意味が分からず、呆然としていたがあたしは――彼女の放ったある単語に心臓を掻き毟られるような衝撃を感じていた。

 

 “スペリオル”――「Superior」。「高次の」とか「上位の」いう意味の英単語でそれ自体は本来何の変哲もない言葉の筈だが、あたしにとっては全く異なる意味を持つ。それは白零會が――()()()()()()()()()()()()()()()が好んで使っていたからだ。

 

 白零會の教義はとにかく凡そ常人には理解しがたい単語の数々や世界各地の宗教や伝説、果ては小説などからも着想を得たと思しきチャンポン、ごった煮の極みである事も手伝って未だに教祖・八千餐誡の思想も含め完全に理解されているとは言い難い。だが難解な用語や複雑な謳い文句を取っ払ってしまえば残るのは他の宗教と変わらない単純な思想に行きつく。要するに「もうすぐ世界が終わるから神の国に入る準備をしろ」、というドゥームズデイ・カルトの典型的なそれだ。 

 この主義は教団独自のモノとは言い難い。キリスト教だって生前のイエスが唱えていたのは畢竟そういう思想だし、大乗仏教の来世利益だってかいつまんで言えばそういう事だからだ。大なり小なり宗教とは死後の赦しを代償に信者を獲得するものなのだ。

 

 白零會はそれを八千の教えを信じる者は高次元的存在“スペリオル”に至る、そこに至った者は神の国に入る事が許され、永遠の命を約束される、という思想を語ったに過ぎない。但しそこに至るためなら如何なる犠牲を払っても構わない、という点が教団を暴走させたのだ。彼らにとって八千の教義に従う事こそが“スペリオル”に至る道、そのために犠牲になった人々もまたそこに至るための救い、そうして彼らは自らの殺人を、虐殺を正当化した。

 

 あたしの両親もその一部だ。彼らのちっぽけな来世の幸福のためにある日突然訳も分からず人生を奪われたのだ。

 

 だからあたしはその言葉を許さない。どんな事があっても絶対に――!

 

 暫し呆然としていたおじさんがあたしの様子に気が付いたらしい。すぐに止めに入ろうとこちらに駆け寄ってくるのが見えたがもう遅い。あたしは自分でも意識しない程頭に血を上らせて、老婆に歩み寄っていた。相手が貧相でみすぼらしい、小さな老人だという事実も忘れてその薄い肩を掴んだ。

 

『こんな時になに言ってるのっ!その言葉…二度と使わないでっ……!』

 

 それなりに長くこの村に住んでいるけど、こんな老婆は知らない。だが何よりもあたしにとってのもう一つの故郷で、あたしの村であの忌まわしいカルトの陰が浮かび上がってきた事が我慢ならなかった。

 そんなあたしの様子を見て老婆は何かを察したようにニヤァと下卑た笑みを浮かべた。黄ばんだ乱杭歯が顔を覗かせる。

 

『お前は知っとるよぉ……村の人みぃんなが言ってる…。お前の二親も今頃は偉大なる“スペリオル”の御前に…』

『うるさい黙って…!!』

 

 思わず老婆に手を上げそうになった所で肩を掴まれて老婆から引き剥がされた。『おちつけ』と耳元で囁くその声はおじさんのものだ。離して、て無茶苦茶に手足を動かすけどおじさんの力は物凄くてとても振り切れなかった。前を見るとあの老婆も鴨井戸さん初め数名に村人に掴まれて――というより取り押さえられていた。

 

『分からぬのか貴様らぁ…!あの御姿を怪物と罵る事なかれ…あれこそスペリオルの象徴――尊師の預言が遂に現実のモノとなる時が来たのだぁ……!』

『――誰かこのババア黙らせろ…!!』

 

 そう言って一団に老婆は連行されて行った。あたしもおじさんも、村外の人間達もその光景を唖然と見ているだけだった。意気を削がれたように男達の一団はバツが悪そうな表情を互いに見せ合っている。

 

 なんかイヤだな、あたしはそう思った。

 

 村の皆も他所の人達もなんだか得体の知れない気配に呑み込まれて行ってだんだん正気を失っていくような…そんな気がした。自分にとって何よりも良く知っている場所だと思っていた村がじわじわとよそよそしくなっていくような。そんな悍ましい感覚にあたしは肌を粟立たせた。

 

 

 だが次の瞬間――。

 

 

『皆逃げて…!またアレが来る……!』

 

 

 入口の所に残してきたユヅキちゃんが飛び込んできて叫んだ。顔中に恐怖の色を貼り付けている、こういう時は何かを“感知”した時だ――と気付いた時。あたしも同じようにゾワリ、とした感覚が肌という肌を駆け抜けた。経験した事のない感覚に戸惑うと同時に何かこの感じ、覚えがある…と思い至る。

 

 ――そう、ちょうど少し前。あの青年が怪物に変異した時の奇妙な気配。それが次第に鮮明になっていくのだ…。

 

 まさか――!あたしは何も映さない窓の外に目をやった。相変わらずの白景色。その静寂に不意に黒い影が映った、ように見えた。

 

『グギャアァァァアァァアアァァァァァッッッッ!!!!!』

 

 空気を切り裂くように直後、咆哮と共にソレは窓を突き破って飛び込んできた。人――いや違う、正確には元“人だったモノ”…!今朝現れたあのバケモノと同質の異形。

 

 ソレはまだ人の面影を留めていた。所々が破れ、血が滲んでいたが纏っているのは山に入る時に着るジャケットとコンパーチブルパンツ、更に上着にはあかつき村猟友会の支給品であるオレンジ色のベストを重ねている。だがその背中を突き破るように二対四本の翅が突き出し、不気味に蠕動している。変化が特に著しいのは頭部で、額からは不揃いな二つの触角を備えていた。顎は虫の口のような鋏状に変形し、カチカチと音を立てている。目は右側のみが複眼のような形状に変貌し、そこを中心に融解したように爛れている。擦り切れた袖口から覗く手は左手は異様に長大化した6本の指を備えており、円錐型に変形した右手は先端の鋭い針のような器官が凶暴な輝きを放っている。

 

 翡翠色に変色し、硬質化した皮膚の質感も合わせればさしずめ昆虫人間――

 ――逃げて早く……!あたしがそう叫ぶより先に昆虫人間は翅を羽ばたかせて手近な村人に襲い掛かった。本日二度目の襲来に今度こそ館内はパニックに陥った。つんざくように響き渡った悲鳴が広がっていく中であたしは体育館の中央に坐し、その闖入者を見つめ、高笑いを上げる老婆の姿を見た。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 昆虫人間――《アナバチヴェルノム》の武器は見た目通り右手に備えた“針”だ。翅をはためかせて素早く跳躍したバケモノはさしずめフェンシングのような鋭さを以てそれを一番近くにいた消防団の青年に突き立てた。突然の事態に動揺した青年は避ける事も対応する事も叶わず、怪物の右腕に刺し貫かれた。青年は鮮血を吐きながら崩れ落ち、怪物はそれ以上は興味を失くしたように青年の体から針を抜くと、すぐに次のターゲットを定めるように飛行しだした。

 

 堰を切ったように館内に悲鳴と怒号が響き渡った。『逃げろぉ!』という誰かの声に促されるように一斉に群衆が走り出したがこの建物の中に逃げ道は本校舎の方に通じる渡り廊下しかない。当然そこにパニックと化した群衆が殺到すれば漏斗に水を流し込むようなものでそこに全員が通れるようなスペースは存在しない。先細りするだけの先頭列に恐慌状態の後続が衝突し、更なる混乱を誘発する悪循環だ。

 思い切った行動に出られたのは平均年齢の若い観光客層で、体力で勝る彼らは真っ先に出入り口に飛びつくか、殺到する人垣を無理矢理蹴散らして、押しのけて我先にと本校舎の方に飛び出していった。《アナバチヴェルノム》が次に狙ったのはシェアの奪い合いに競り負けて列から弾き出された老人達や女達だった。

 《アナバチヴェルノム》は床に投げ出され、まともに動けなくなっている人々の群れに突っ込んだ。針が凶暴に閃いたと思った刹那、彼らは瞬く間に5人6人と纏めて突き殺されていた。突進の威力のままに体当たりを受けて吹き飛ばされた者、鉤爪を備えた左手で切り裂かれた者、大顎で引き千切られた者――辿った経緯は様々だが、一様に最期に止めのように右手の針を突き立てられた。

 

 入口がダメだと分かると人々は藁にもすがるように両翼の引き戸を開けて体育館の外に飛び出していった。ここ数日得体の知れない“霧”に怯えて外に出る事を忌避していた彼らだったが、こうなってはもう構ってはいられない。靴も履かずに次々と校庭に飛び出した彼らはひとまずハチのバケモノが追いかけてこない事にホッと息を吐き、安堵した。

 

 だがそれもほんの数瞬の間だけだった。何か獣の遠吠えのような声と複数の足音が聞こえた、と思った直後新たな脅威が人々を襲った。

 

 最初は犬かと思われた。というか四足歩行でこちらに駆け寄ってくる、大きなものでも人の膝丈くらいの大きさのそれは間違いなく犬のようだった。だがそれが視界の中にハッキリと入った時、人々はそれがそんな生易しいモノではないと気が付いた。

 

 姿や形、大きさは間違いなく、犬のような四つ足の獣、それが三匹。だが本来なら体毛に覆われたその表皮はまるで生皮を剥かれたかのように赤黒い皮下組織が露出していた。瞳はいずれも完全に理性を失くしたかのように欄々と光っており、その様に人々はアレはいけない、そう直感し、今しがた飛び出してきた建物の中に戻ろうとした。

 

 だが時既に遅し、既にターゲットを捉えた犬の怪物達は地面を蹴って跳躍し、人々に襲い掛かった。牙をギラリと閃かせ、口を開ける――正確には頭部全体が花弁を開くように四股に割れた形状に変形する。さながら捕食時のクリオネのような姿だが変異はそれだけに留まらない。花弁の中央に備わった空洞から這い出して来るように無数の触手――5本10本の類ではない、明らかに無数ともいえる数の――が生成され、それら全てが一気に伸長し、外の人々に襲い掛かった。

 

 彼らは知る由もなかったがこの触手には一つ一つに《ヴェルノム》の“毒針”を備えたカプセルが内包されており、それらは目標に近づくと瞬く間に発射された。毒針に貫かれた彼らは自らに何が起きたのかを悟る時間はなかった。微細な針が体に突き刺さった事を知覚した次の瞬間には全身を焼け付くような痛みに襲われ、彼らはまともに立つ事はおろか意識を保つ事さえ出来なかった。

 

 地面に崩れ落ちた人々の体は次々と塵芥と化して地面に崩れ落ちていく。この場から新たな《ヴェルノム》が生まれなかった事は幸運と言って良いものか…。とにかく目先の獲物を片付けた犬の怪物達――《イソギンチャクヴェルノム》達は次なる獲物を求めて走り出した。彼らにとって同類を増やす事、ただそれだけがこの世界に生まれ落ち、存在している事の唯一の意義だ。

 




怪人総進撃Ⅱ!

という訳でまた次々と怪人が出現します、次回はアイツも久々に帰ってきますよ。
因みに今回登場した犬の怪物ですが、一応ヴェルノムは動物がベースでも誕生します。その場合当然フェーズ1相当にしかなれませんが、人より遺伝子情報が少ないからかある程度量産できるというメリットがあるようです。

…まあ「犬の怪物」については追々別の形で登場するかも知れません。もしかしたら、でお待ちください。

それではまた次回!


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CHAPTER-3:『REjectionⅠ』- ⑤

今回ちょっと短めです。
戦闘シーンってどうしても文字数稼ぎ辛いのよ…
あとちょいグロ注意。


 館内は完全な恐慌状態になっていた。それは昨日の比ではなく、流血と異臭が広がっていく度にそれは拡大していく。あたしはと言えばどうする事も出来ず、ただ目の前の惨事を呆然と眺めていた。

 

『ボンヤリするな、死ぬぞ…!』

 

 不意に手を掴まれ、凄い力で引き寄せられた。見ると案の定声の通り、慧おじさんがユヅキちゃんを連れて、あたしを引っ張ったのだと分かった。あっちだ、その目は体育館にある用具室の方に向けられていた。あそこに逃げるんだ、そう言っているんだと分かった。

 既に本校舎への出入り口には怪物の餌食となった死体が積み重ねられており、残った数少ない生き残りは最早既に逃げ道がとっくにない事実を突きつけられ、絶望を顔に浮かべていた。防火扉が降ろされ、唯一の逃げ道が塞がれたのだ。

 ヨソモノ共がやりやがった、ふざけるなアイツ等…!憤怒と怨嗟の声を上げる消防団の人達が後続の村人達を庇いながらなんとか扉をこじ開けようとしていたが、それは迫りくる怪物に対してはあまりに悠長だ。飛んで火にいる夏の虫、とばかりに《アナバチヴェルノム》は人垣に躊躇うことなく翅を広げて、襲い掛かった。

 

 だが今度は怪物の思い通りにはいかなかった。ガァンッ!という耳を聾する爆音が響いたと思った次の瞬間、怪物の背中に飛来した金属の塊が突き刺さった。硝煙の臭い、あたしは咄嗟に音のした方を見ると、拳銃を構えた駐在さんの姿が見えた。発砲したのだと分かった。

 

 通常日本の警察において発砲はあまり推奨されず、万が一発砲した場合その使途を報告書に記載したりする必要がある。早い話撃ったら始末書だ。

 

 それだけに、とにかく銃を撃つことはリスクの大きい行為だが、躊躇っている暇はない。今自分がやらなければ目の前の無辜の市民を見殺しにする事になる、それは警察官の矜持として許される事ではなかった。職を拝命して以来訓練以外でまともに発砲した事のない拳銃を、しかし確実に積んだ訓練の手腕を以て駐在さんは目の前の怪物に二発目の銃弾を発射した。

 狙いは外れず、吐き出された弾丸は怪物の左胸に突き刺さった。本来なら心臓がある筈の箇所を射抜かれた怪物は、しかし鬱陶しそうに体を震わせただけで痛みを感じた風でもなく、今度は駐在さんに狙いを変えて跳躍した。

 その驚異的な生命力に駐在さんは驚愕に目を見開いたが、だが瞬時に状況を呑み込むと三発目の銃弾を発砲した。しかし焦りでやや手元が狂ったらしい、銃弾は怪物の頭の右側を掠めただけに留まり、その1秒の間だけでソイツは駐在さんの間合いに接近していた。ギラリ、と鋭い針が凶暴に閃く。

 

 ――やめてぇっ…!あたしの叫びも虚しく、年老いた駐在さんの体は怪物の矛に貫かれた。怪物の顔が獲物を仕留めた嗜虐心でグニャリと歪んだ笑みの形を作った――ように見えた。

 だが次の瞬間、駐在さんの目がカッと見開かれ、自分の胸を刺し貫いた怪物の腕を抑えつけた。その痩せさらばえた体のどこにそんな力があるのか、という程の凄まじい気迫で怪物の動きを封じた駐在さんはその異形の頭部にリボルバーを押し付けた。

 

 乾いた音が更に三回響く。六連装のリボルバー拳銃に残された全ての弾丸を発射したのだ。至近距離で発射された弾は怪物の頭左半分を吹き飛ばし、赤黒い血と脳漿を撒き散らして怪物はゆっくりと崩れ落ちた。だがこの場合胸に刺さった針も一緒に引き抜かれた事で駐在さんの体からも同じく滝のような鮮血が噴き出し、彼もまた全ての力を使い果たしたかのように倒れた。

 

『駐在さん…!』

 

 あたしとおじさんが素早く駆け寄ってその痩せた体を抱き起こす。彼の薄い胸板にはポッカリと大穴が穿たれ、そこから次から次へと血が溢れてくる。恐らく心臓や肺腑をやられている、さほど医療に明るくないあたしでもこれはもう助からない、残酷なまでにそれは確信出来た。

 駐在さんの胸に当てた掌から熱い血が溢れていく。それは命が漏れ出て消えていく感触だ。微かな呻き声が聞こえて、ふと駐在さんの方を見ると彼はあたしとおじさんの顔を交互に見て、咳き込みながら、『すまんな…』そう呟いた。

 

『慧…お前にばかり苦労を背負わせて私は…。頼りない駐在で…本当に……』

『――もう良い、喋らなくて…ッ!』

 

 おじさんが叫んだ。その声に涙が滲んでいる。だが駐在さんはもうその声も聞こえていないように…おじさんの肩を強く掴んで、血走った眼を精一杯見開いて、祈るように声を絞り出した。

 

『…皆を…頼む…。この先も……』

 

 しかし全てを吐き切る事は叶わず、駐在さんはそこで事切れた。全ての生命を使い果たしたように体から力が抜け落ち、物言わぬ肉塊となった駐在さんの体をあたしはそっと抱き締める。

 

 どうして――!どうして――!!悔しくて、哀しくて……でもそう問わずにはいられなくあたしは嗚咽を漏らした。

 

 どうしてこんな風に人が死ななくちゃならないんだろう。ここにいる人達だって少し前まで当たり前のように生きていて、いつもと変わらない生活をこれからも送っていく、そうなんの疑いもなく信じていた筈なのに…。こんな事態になって建物に閉じ込められて、日の光を見る事も叶わず、得体の知れない怪物の餌食となって命を奪われるなんてあまりに惨めじゃない……!なんで皆がこんな目に合わないといけないの――ッ!!

 あたしは運命を呪った。

 

 だが今はそんな感傷に浸る事すら許してはくれない。不意に背後に気配を感じ、あたしはそちらに目を向けた。その先に広がっていた信じられない光景にあたしは愕然とした。

 駐在さんに頭を吹き飛ばされ、斃れた筈の怪物――《アナバチヴェルノム》が幽鬼のように起き上がっていたのだ。依然半壊した頭部から赤黒い血を滴らせながらも一切の痛痒を感じていないように翅を震わせている。

 

『ウソでしょ…』

 

 声が震えた。駐在さんが命を賭してもなおこの怪物を仕留める事は叶わないと言うのか…。あまりの不条理な光景にふとあたしは思い出した。

 

 ああ――、世界は残酷で命は不平等なんだって。

 

 どんなに真面目に、実直に、世の中のために、家族のために生きてきたんだとしても……似非神様(スペリオル)になろうと思い上がった男の胸先三寸でいとも簡単にその人生を壊されてしまう。ある日突然災害や事件に巻き込まれ、愛する人達と引き裂かれてしまう。それがこの世界だ。

 

 誰が、何をした、とかそういう事じゃない。()()()()()()()()()なのだ。

 

 それでも…!だとしても…!

 

 何を…。そんな勝手な事を…!

 

 そう悟った瞬間、諦念でも絶望でもなく、やはり強い怒りの感情が湧き上がってきた。

 

 あの日からあたしは神様を信じていない。お父さんとお母さんがあんな死に方をしなきゃいけなかった事もあたし達が今こうして死に直面している事も…そんな事が全部運命だとか神様の思し召しなんだとしたらこっちから願い下げだ。

 

 何がなんでも――生きてやる……っ!!例え世界中があたし達を見捨てても……!

 

『走って…!』

 

 あたしは立ち上がると呆然としているおじさんの手を掴んで駆け出した。駐在さんの決死の行動だって無駄じゃない、どうやら《アナバチヴェルノム》は片目を潰された衝撃でこちらの様子を捉えあぐねているらしい。逃げるなら今しかない。

 

『皆!あっちに…!』

 

 用具室の方を指差して防火扉の前にいる生き残りの人達に向けて叫んだ。その考えを汲み取ってくれたのか皆も一斉にこっちの方に走り出した。《アナバチヴェルノム》は未だにショック状態から回復しておらず、こちらを見失ったままだ、逃れるなら今しかない…!

 

 しかしその直後――!

 

『うわぁあぁぁぁぁぁあぁぁっっっ!!』

『タスケ――イヤァァァァァァッッッッ!!』

 

 外から絶望的な悲鳴が聞こえた。そう言えばさっき外の方に逃げていく人もいた…そう思った次の瞬間、窓やドアを突き破って三匹の怪物が飛び込んできた。《アナバチヴェルノム》のような人型ではない、皮下組織が剥き出しになった犬のような姿をし、各部から無数の触手を生やした…獣――?その悍ましい姿に絶句しているあたし達を嘲うかのように犬型のバケモノ――《イソギンチャクヴェルノム》が一斉に襲い掛かってきた。

 

 奴らの動きはまさに訓練され、統率された猟犬そのものだ。先頭の一体が人の群れに襲い掛かり、逃れた残りを両翼の二匹が挟み込む形で包囲する。その間に《アナバチヴェルノム》もショックから回復し、再びあたし達の方に飛び掛かってきた。

 

『このヤロウ…!』

 

 おじさんが叫びながら今朝方怪物の首を撥ねた消防斧を振りかざすと、目の前の昆虫人間に殴り掛かった。その一撃は狙い違う事無く《アナバチヴェルノム》の首元に命中したが、エメラルド色に変色した皮膚に弾かれ、全く効果を為さなかった。怪物は全く意に介さないようにおじさんの方に向き直ると鉤爪を振るい、おじさんを吹き飛ばした。切り裂かれた肩の辺りから鮮血が飛び散る。

 その間犬のバケモノは執拗に村人に襲い掛かり、各所から生えた異形の触手を突き刺し、花弁のような口を以て彼らに噛みついた。触手が意思を持っているかのように蛇行しながら彼らに絡みつき、貫く。毒に斃れた村人の遺体を犬の怪物は互いに奪い合うように貪り、咀嚼し、引き裂く。辺り一面はあっという間に村人達の死体と鮮血で埋め尽くされ、それも束の間あっという間に黒色の灰へと分解されていった。勝ち誇ったように犬の怪物が雄叫びを上げた。

 

 おじさんを助け起こしながらその光景が目に入り、絶望的な心地がこみ上げてきた。《アナバチヴェルノム》は再びあたしを捉えてにじり寄り、目下の獲物を全て片付けた《イソギンチャクヴェルノム》もこちらを新たなターゲットに捉えて走り寄ってくる。

 嗚呼、流石にもう駄目だな…。理不尽に対する怒りも生きたいという衝動すらも掻き消す程の圧倒的な絶望を前にしてあたしはただ漠然とそう悟った。己の死が避けられないと分かった時、思ったのは死んだらあたしはどこに行くんだろう…?という事だった。

 

 神も悪魔も信じられない、信じたくもないあたしは死後の世界だってあるとは思ってない。このままアイツらに食い散らかされて黒い灰に還られるだけの最期が待っているだけの事だろう、多分。でも…それはなんとなく寂しいな…。自分が生きた事に意味があったのか、それが本当の意味では分からなくて不安だから人は神様に縋ったり、死後の世界に安寧を求めたりするんだろう…こんな時にそんな事に気付いてもなんの意味もないけど。

 

 でも、確かにそうだ。意味を見つけられなければ死んでも死にきれない。あたしはおじさんが持っていた斧を握ると背後にいるユヅキちゃんの方をそっと振り返った。『ユヅキちゃん、合図したら走って逃げて』。

 

 ユヅキちゃんがハッとしたようにこちらを振り返る。何言ってるの…?その目がそう言っているのは知ってたけどあたしは皆まで言わせず、畳みかけるように言った。

 

『ここはあたしが食い止めるから。用具室まで行ったら急いでドアを閉めてありったけの道具で扉を塞ぐの。それくらいの時間は稼から――』

『ダメ…!そんな事出来ないです…ッ!!』

 

 それはつまりあたし達を置いて逃げろ、とそういう事だ。ユヅキちゃんの体格と力では手負いのおじさんを連れて行く事も難しい。まだ奇跡的に怪物の餌食にならずに済んでいる人達は数名いるが時間の問題だ。どう楽観的に見てもユヅキちゃんしか助かる見込みはない、と判断したからこそ反駁する彼女を方を見てあたしは『行きなさい!!』と叫んだ。怪物はもう目前に来ている。

 

『イヤです…!』ユヅキちゃんが叫んだ。

『お願いだからっ!!』あたしも負けじと叫ぶ。こんなやり取りしてる場合じゃないのに…。

 

 でも無理もない話だ。ユヅキちゃんだけでも生きて欲しい、なんてのはあたしのエゴだ。この子が、感情表現が下手で人から誤解されがちだけど、誰よりも傷つきやすくてかわいい、妹も同然のこの子があの怪物に貪り食われる未来は見たくない。だからせめて――。

 

 でもあたしの身勝手な願いは届かなかった。遥かに早くこちらの懐に飛び込んだ《イソギンチャクヴェルノム》がその醜い口を広げ、内側に生えた無数の牙を閃かせる。

 

 目前に絶対的な死が迫る。その事を痛感したあたしは愚図るユヅキちゃんをせめて庇うように抱き寄せた。

 

 

 ふと…。目前に迫るソレが最早避けようのないものであると悟った時、背けるように閉じた瞼の裏に二つの顔が思い浮かんだ。

 

 テツヤ…!ミキト…!

 

 これで最期なんだ…そう思ったら無性に二人に会いたくなった。何を話したいとか何を伝えたいとかそんな具体的な事じゃない。ただ会いたい、本当にそれだけ。

 

 バカだなあたしは…。今際のきわにそんな事考えるから…思っちゃうじゃないか…。

 

 死にたくない、って。

 もっと4人で一緒にいたかったって…。

 

 あと少し時間があれば――あたし達の関係にももっとはっきりした答えが見つかったかも知れないのに…。今更こんな事考えるなんてズルいよね。でもあたし欲張りでわがままだから、こんな風にしか君達と向き合えなかった…。

 

『ゴメンね…哲也…幹斗…』

 

 掠れたように慙愧の声が漏れる。背中に回ったユヅキちゃんの手に力が籠る。心の中の二人にそっと詫びて、あたしは静かにその時を待った。

 

 

 転瞬――。

 

 

 空気を切り裂くように。“ソレ”は飛び込んできた。

 

 窓ガラスを突き破ると同時につんざくように声が体育館に木霊する。

 

 

『グアアアアァァァァァアアァァァァァッッッッッッ!!!!』

 

 

 獣の叫び?いや違うこれは“怒り”の声だ。理性無き野獣の咆哮とは違う、明確な意志を宿した人の声…。否、正しく()()()()()()()()()()()の声だ。直感的にそう感じてあたしは顔を上げた。

 

 刹那、こちらに迫っていた《イソギンチャクヴェルノム》の横合いに飛び込んできたソレ――人の形をしていた――が拳を振るい、異形の獣を殴り飛ばした。その衝撃に獣はまるで紙屑のように吹き飛び、壁にめり込むほどの勢いで叩きつけられた。その肉体は弾けた水風船の如くグシャグシャにひしゃげており、受けた一撃がどれほど重たいものであったのかが分かる。

 

 何が起きたの…?あたしは突如飛び込んできた“ソレ”に目をやり、息を呑んだ。

 

 そこにいたのはエメラルド色の昆虫人間とも触手を生やした犬のバケモノとも違う、新たなる“異形”。筋肉を鎧のように纏った黄緑色の表皮、背中から生えた一対の翼のような突起物。手足や指先には鋭く尖ったスパイクを生やし、頭頂部に長い触角を備えた怪人。昔テツヤと神社の境内で捕まえたバッタに似てる、呑気にもあたしはそんな事を考えた。

 

 一瞬は助けが現れた、と期待したがその希望は目前の怪物をハッキリと捉えた事であっさりと打ち砕かれた。何のことはない、単にこちらを脅かす怪物に別の種が加わっただけの事だ、あたしは身を竦めた。

 しかし目前の異形はこちらに一切襲い掛かる様子もなく、黙って目前の同類と対峙していた。対する三匹の怪物も相手の動きを窺うようにジッと固唾を呑んでいるようだ。不気味な沈黙が館内に広がっていく。

 不意に、バッタのような姿をした怪物がチラリとあたしの方を一瞥した。充血して赤く染まっているがどこか憂いを帯びた光…他の怪物とは違うナニかが宿っている気がしてあたしはドキリとした。何か…この色を宿した瞳を()()()()()()()()()……?

 

『――兄さん……?』

 

 ユヅキちゃんがポツリと呟いた。その言葉にあたしは何を言ってるの?と彼女と緑の怪物を交互に見た。

 

 怪物――《バッタヴェルノム》はそれに一切応える事無く、もう一度咆哮を上げると目前の三匹の怪物達に飛び掛かっていった。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 文字通り降って湧いた闖入者の登場にも三体の《ヴェルノム》は意に介す事はなかった。通常の生物であれば予想外の因子に対しては本能で危険を察知し、警戒し撤退する事もあるだろうが元より《ヴェルノム》にそのような生物的な知性は備わっていない。あるのはその増殖本能のままに“毒針”を対象に打ち込み、同類を増やすという事だけ。そういう意味では彼らは生物というよりはウイルスに近い、その結果対象が死に至ろうがどうでも良く全ては己の生息域を少しでも広げていく事、それが彼らの“全”であり、”(いち)”だ。

 怯んだように見えるのは単に“毒”が通じにくい同族相手に戦う意義を見出せないから、それだけだ。無駄な戦闘に興じるよりも《バッタヴェルノム》の背後で竦んでいる新鮮なエサを狩り取る方を優先したいという単なる食欲。

 

 睨み合いの均衡を破ったのは《バッタヴェルノム》の方だった。これ以上の対峙は時間の無駄だと言わんばかりに地面を蹴って跳躍した怪人が真っ先に狙ったのは先程仕留めた三匹の犬型の怪物の一体だった。この個体は《ヴェルノム》としては珍しく同一個体による連携を行う事がある事と四足歩行故の機動性は厄介だと判断したが故だ。

 狙われた事を察知した《イソギンチャクヴェルノム》は迎撃するように体の側面や頭部から次々と触手を伸ばして迎撃に出たが人間には感知できない程の速度で迫りくる触手も、しかし《バッタヴェルノム》の前では影絵に等しい。第六感の如く研ぎ澄まされた反射神経を以てして全ての迫りくる触腕を紙一重で回避し、逆に肘や指先に備えた突起物――スパインカッターを閃かせて次々と切り伏せていく。

 

 触手では効果がない、と判断した《イソギンチャクヴェルノム》は花弁のような醜魁な口を開いて相手に飛び掛かった。その奥にある無数の牙を研ぎ澄ませ、目前の敵の肉体を食い千切ろうとしたのだろうが、相手に近づいた所でその動きが止まった。《バッタヴェルノム》が貫手のように鋭い指先を伸ばし、その口腔を突き刺したのだ。射出される無数の触手は口腔の奥にその発生源が存在する、そこを正確に狙った《バッタヴェルノム》は次の瞬間、あらん限りの力でそれを引きずり出した。鮮血と共に無数の触手を生やしたブヨブヨの生態器官が外界に晒され、《イソギンチャクヴェルノム》は悲鳴を上げた。最後のあがきとばかりに引きずり出された器官から触手を絡みつかせて《バッタヴェルノム》に次々と毒針を突き立てるが、効果はない。本種(コイツ)の“毒針”の硬度は脆弱だ、人間ならいざ知らず、《バッタヴェルノム》の強靭な外皮に全くと言って良い程無効だった。

 鬱陶しいと言わんばかりに《バッタヴェルノム》は首の辺りを掻くともう一つの腕を更に口部に突き立て、そのまま魚の身をおろす様に顎の辺りからその体を引き裂いた。文字通り真っ二つにされた《イソギンチャクヴェルノム》の体を乱雑に投げ捨てると緑色の怪物は次の同種に狙いを定めた。

 

 しかしその隙にもう一体の昆虫人間――《アナバチヴェルノム》は半壊した頭部を付近に座り込む二人の少女と中年の男性に向けた。特に中年の方――成澤慧の方は自分の攻撃によって肩の辺りに深手を負っている。緑色の怪物が一体に気を取られている今がチャンスだとばかりにそのレイピアのような鋭い針を相手に向けた。《アナバチヴェルノム》の狙いを察知した梗華はまずい、と慧の方に駆け寄り、体を支えて逃げ出そうとしたが大の男を抱えて走れる程の膂力は少女にはない。二体纏めて狩るチャンスと言わんばかりに怪物は翅を震わせて飛翔した。

 

 ――が、しかし《アナバチヴェルノム》にとって死角になっている左方向から突如何かが投げつけられた。《バッタヴェルノム》がそうはさせないと言わんばかりに先程切り裂いた怪物の肉体の片割れを投擲したのだ。《ヴェルノム》の膂力を以て投げられた擲弾は瞬間的に秒速80メートル近くに達し、その運動エネルギーを以てして《アナバチヴェルノム》を吹き飛ばした。

 

 それを隙と見た最後の《イソギンチャクヴェルノム》はありったけの触手を伸ばして《バッタヴェルノム》の右腕を絡めとった。そのまま動きを封じつつ、一部の触手は防御の効かない目や口腔を狙って体を這いまわる。しかしそんな暇が与えられる筈もなく《バッタヴェルノム》は背部から二つの副椀を展開させると素早く腕に絡みつく触手を断ち切り、鬱陶しい拘束を逃れた。そのまま触手を引っ込める事を許さず、逆にそれを掴み直すと砲丸投げの要領で怪物の体を振り回し始めた。漸くヨロヨロと《アナバチヴェルノム》が立ち上がった事を見逃さず、そこ目掛けてまるでモーニングスターを叩きつけるように何度も怪物の体を打ち据えた。鮮血が飛び散り、肉を打つ鈍い音が体育館中に響いた。漸く音が止んだと思った時にその場にはグシャグシャに潰れて、ただの血塗れの肉塊と化した怪物の骸を引き摺った《バッタヴェルノム》が散々肉の棍棒で打ちのめされ、既に死に体となっている《アナバチヴェルノム》を見下げていた。

 

 《アナバチヴェルノム》は無惨な有様だった。エメラルド色の甲殻は血に塗れ、所々がひび割れていた。既に半壊していた頭部も完全にもう片方の複眼が潰れ、最早目前の状況を捉える事すら敵わないようだ。むしろ普通の生物であればとっくに死滅していてもおかしくない傷を負っても猶死ぬ事が敵わない、というのはいっそ哀れですらあった。脚が折れているのか碌に立ち上がる事も出来ぬまま、まさに這う這うの体といった有様で床上を蠢いている。こんな有様になっても《ヴェルノム》としての本能は獲物を見定め、彷徨っているのだ。《バッタヴェルノム》は容赦せずにその体を踏みつけた。

 一回や二回ではない、何度も何度も追い打ちを掛けるようにその体に脚を振り下ろす。鈍い音が響くたびに怪物の体から赤黒い血が飛び散り、体育館の床を汚していった。

 

 最後に《バッタヴェルノム》はしゃらくさい、とばかりにその体に馬乗りになると腕ひしぎの要領で鋭い針を備えた右腕を掴み、力を籠め始めた。骨と肉が軋むミシミシという音が響き渡り、抵抗も虚しく遂に怪物の腕は限界を迎えた。《バッタヴェルノム》が両腕を振り上げると共に《アナバチヴェルノム》の右腕が肘関節の辺りから引き千切られた。流石にこの衝撃は堪えたのか《アナバチヴェルノム》が悲鳴を上げ、組み敷かれた体をジタバタ揺すって逃れようとする。緑色の怪物は逃がさないとばかりに背中の隠し腕で更に抑えつけると、腕に握ったその針を容赦なく心臓の辺りに突き立てた。

 

『グゥギャアアアアアアァァァァァァァッ!!ア〝ア〝ア〝ア〝ァァァァァァッッッッ―――!!!』

 

 自らの最大の武器である“毒針”を突き刺され、《アナバチヴェルノム》が絶叫を上げた。人間に対しては致命的な効果を持つ《ヴェルノム》の毒は基本自分に対しては有効打にはなり辛いが、それは一突きや一刺しの話。その毒の本質はDNAに干渉する事によって、細胞に異常変異を引き起こす、そして適合しなかった場合は拒絶反応となって今度は肉体そのものを崩壊させるのだ。例えその毒から生まれた《ヴェルノム》と言えど過剰投入されれば劇薬となり得る。それを知っているからこそ《バッタヴェルノム》は執拗にもぎ取った右腕で同類の全身を滅多突きにした。

 何十回と激しい攻撃がやがて止んだ。最早全身という全身を抉られた《アナバチヴェルノム》は小刻みな痙攣を繰り返し、やがて糸の切れた人形のように動きを止めた。完全に息絶えた、と思った次の瞬間にはその硬質な肉体はゆっくりと黒い灰に分解された。

 

 再び静寂が戻った体育館の中で《バッタヴェルノム》が肩で息をするように佇んでいる。その様子を二人の少女は固唾を呑んで見守っていた。

  

 




中途半端ですが…今回はここまで。
それにしても戦闘シーンって書きづらい…ライダー同士の戦いなら違うのかも知れませんが怪物同士且つ一方が理性ぶっ飛び状態だと攻防みたいなのが成立しないのでは…?と思ったり…。

進捗次第で近いうちに投稿します。そこ終われば三分の一くらいかなぁ…


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CHAPTER-3:『REjectionⅠ』- ⑥

 何が起きたの…?

 

 凶暴に吹き荒れていた嵐が過ぎ去ってしまえば次に浮かんできたのは頭に浮かんでくるのは新たな状況への疑問。即ち館内を好き勝手に荒らし尽くし、暴虐の限りに振る舞っていた闖入者共とそれをあっという間に斃してしまった新たな異形の存在に対する疑問だ。

 少なくとも目前の“ソイツ”に対するあたしの感情は決して好意的なモノではなかった。どう見ても人間ではないのは明らかで、かと言って他のナニカと形容出来る訳でもない。確かに怪物を仕留めてあたし達を助けてくれたのは確かだけど、それは多分結果論。徹底的に獲物を仕留めるような乱暴な戦いぶりにコイツは危険だ、と直感が囁いていた。

 怪物が振り返り、あたしと目が合う。その瞳だけやけに人間らしい色を湛えているような気がしてあたしは肌を粟立たせて、咄嗟にユヅキちゃんを抱き寄せた。何があってもこの子だけは守る…そう決意して。

 

 しかし。さっきの昆虫人間がそうであったように目を合わせたらコイツは真っ先にあたし達を狙ってくる筈だと思っていたのに一向にその時は訪れなかった。それどころか《バッタヴェルノム》はどこか物憂げに佇んでこちらを見ているだけ、むしろ己の異形の姿を恥じるようにゆっくりとあたし達から距離を取り始めた。これではまるで怪物の方があたし達を恐れているようではないか…あたしは訝しんだ。

 ふと…。先程あの姿を見たユヅキちゃんが『兄さん』と呟いた事を思い出した。まさか、と思いたいけれどこういう時のユヅキちゃんの()()は基本外れないし、今朝のあのタコのような怪物だって人間が変異したものだったのだ。

 傍らのユヅキちゃんに視線を転じる。彼女は呆然としつつもどこか確信を持ったような瞳で怪物をジッと見つめていた。少なくともそこに迷いや畏れはない。まさか……?

 

『もしかして……ミキト…なの…?』

 

 掠れそうな声であたしは呟いた。目の前の相手に向けて言ったモノなのか、それが当たっていて欲しかったのか外れていて欲しかったのか…。とにかくどういう心境で放たれた言葉なのか、もう思い出せない。果たしてあたしの声が届いたのかは果たして定かではないが怪物はビクリ、と肩を震わせ、あたし達の視線から逃れようとするかのように顔を背けた。

 ねぇ…?続けて問い掛けようとした所、視界の端が何かが動くのを捉えた。思わず目の前のバッタ人間から視線を外してそちらの方を見やると…先程昆虫人間に突き殺された筈の駐在さんがヨロヨロと起き上がりだしているのが見えた。顔色は見えないがふらつきながらも両手を支えにして何とか床から起き上がろうとしていた。

 

 駐在さん…生きてた…!?

 

 あたしは立ち上がってその痩せた体に駆け寄ろうとした。奇跡的に目覚めたのかも知れないけど重症である事に変わりはないのだ、とにかくまずは止血をしないと…そこまで考えた所で不意に沈黙を保っていた怪物が動き出した。え、なに…?そう思ったのも束の間。《バッタヴェルノム》は起き上がろうとしている駐在さんに駆け寄ると――その鋭い爪先を背中に突き立てた!

 

『――ハッ!』

 

 駐在さんの体がのけ反るような態勢になって撥ねた。素早く《バッタヴェルノム》は肘部のカッターも展開すると彼の首筋に躊躇なくそれを叩きつけた。血が飛び散り、肉が裂ける音が響く。あたしが瞬きするひと刹那の間に駐在さんの首が撥ね飛ばされ、無惨に床に転がった。

 なんて事を…!!あたしが絶句した次の瞬間には怪物は本校舎に通じる通路の前で重なり合うように斃れている人垣――正確には死体の山――にも飛び掛かり、片端からその遺骸を切り裂いていく。

 

『――やめて……もぅ…っやめてぇぇぇぇ……っっ…!!!』

 

 思わずそう叫んだ。なんでこんな事をするの、なんでただ安らかに眠る事すら許してはくれないの、アンタ達は一体何者で何がしたいの…!怒り、恐怖、嘆き、困惑…ありとあらゆる感情の爆発。静かに激しくあたしの声が木霊した。

 そうして不意に。怪物の動きがピタリと止まった。明らかな動揺を湛えた視線がこちらに向けられ、あたしも思わずその瞳に魅入っていた。醜悪な見た目に似合わない酷く澄んだ色…その仕草。似てる…という感触と先程のユヅキちゃんの言葉が鎌首を擡げてきたが、あたしは冗談じゃない、と頭を振ってその考えを追い出した。

 

 アイツは――あたしの知っている彼は断じてこんな事はしない、という確信。それと――もし目の前のこの怪物が“そう”ならもう彼は既に……それだけは絶対に認めたくなかった。

 

 だが怪物――《バッタヴェルノム》はどこか寂しそうなあたしとユヅキちゃんを交互に見つめている。返り血に染まったその佇まいはどうあっても理性のない怪物のそれではない。何か昔こんな映画があったような気がするな…。とかそんな事を思っていると不意に背後からナニカが立ち上がるのが見えた。頭に被った消防団の帽子…先程昆虫人間に刺されて倒れていた筈の人…?そう認識した束の間、その人は突如《バッタヴェルノム》に襲い掛かった。

 

『危ないっ!?』ユヅキちゃんが叫んだ。

 

 消防団の男性は獣のような咆哮を上げながら怪物に掴みかかった。防衛本能が働いて理性を失くしているのか…いやそうではない。アレはどう見てもニンゲンではなくなっている、姿こそそのままだがもっと根源的な所で人ではないモノ――あの怪物達と同質の存在になりかけている。

 まるでホラー映画とかによく出てくるゾンビさながらの姿だ。まさかそれがあの昆虫人間の能力で、あの緑色の怪物はそれを知っているから敢えて倒れている遺体を損壊させたの…!?あたしは絶句した。

 後で知った事だがそれがあの《アナバチヴェルノム》の能力だ。《ヴェルノム》の“毒”には強弱と言った等級があるようにその効果も千差万別。この《アナバチヴェルノム》の持つ“毒”は脳に直接作用する事で対象を仮死状態にさせ、一定期間後にゾンビ状態にさせて蘇生させるという特性を持っている。ゾンビはその本能に従って生きている者に襲い掛かり、噛みつく事で“毒”を再注入する。この“毒”は《ヴェルノム》のそれよりもずっと弱く、噛まれたからと言って発症するとは限らないのだが少なくとも対象を死に至らしめてしまうよりかは感染を広げられる確率が高くなる…なんだって。この時あたし達が見たのはまさにそれによって村の人がゾンビ化して《バッタヴェルノム》に襲い掛かる光景だった。

 

 緑色の怪物は気を抜いていた矢先の不意打ちに流石に虚を突かれ、ゾンビに組み付かれはしたが、生憎な事に人間相手ならまだしも《ヴェルノム》相手に有効な牙も爪も怪力もゾンビ化した程度の人間は持ち合わせてはいなかった。さしたる攻防もなくゾンビ人間はあっさり拘束を振り切られ、そのまま頭部を掴まれた。次の瞬間果実が弾けるように頭部が潰れ、元人間だった体はゆっくりと崩れ落ちた。

 戦いは終わった。最早館内に蠢く異形のモノは《バッタヴェルノム》しかいない。しかしその後ろ姿に勝者の感慨はなく、ただひたすらに戸惑いと寂寥を携えているように……あたしには見えた。でもだからと言って何を掛けて良いのか、それさえも分からずあたしはただ見ているだけだった。

 

 不意に。

 

『――――ア〝ア〝ア〝ア〝ア〝ア〝ッッッ!!!』

 

 《バッタヴェルノム》が掻き毟るように体を抑え込んで絶叫した。皮膚が不気味に蠕動し、まるで内なる何かが湧き上がってくる事に必死で耐えているようだった。それと同時にその巨躯から急速に冷気のようなものが噴き出し始め、まるで空気の抜けた風船のようにその身体が縮小を始める。

 完全に蒸気が消え去った時、そこに立っていたのはもう《バッタヴェルノム》ではなく、明らかに人間の背中だった。何故か上に着るものは纏っておらず、不気味に肥大化した葉脈みたいな…緑色の斑紋が各所に広がっていたけれど。さっきまでの戦いぶりが嘘のように思える程意外と線の細い、と思ったのは一瞬の事、例え後ろだけであったとしてもあたしがその姿を見間違える筈はなかった。

 

『ミキト……!』

 

 間違いなかった。例え直前まで怪物の姿を取っていたとしてもその後ろ姿を見てしまえばもう先程の疑念は全て消え去っていた。

 驚いたように肩を震わせ、彼がこちらを振り返る。まるで高熱に浮かされたような荒い呼吸と激しい息遣い。普段なら絶対に見せないような姿だけど間違いなく、山城幹斗だった。一体何が起きたの、とかあの怪人態はなんなの、といった疑問が急速に頭に浮かび上がったけど、その顔を見た次の瞬間にあたしはもう一も二もなく彼に駆け寄ろうとしていた。

 

 だが――

 

『来るなぁっ!!』

 

 あたしの様子を見咎めたミキトが強い口調で叫んだ。明らかに拒絶の意を纏った声色に脚が竦んだ。

 

『頼む…。見るな…見ないで…僕を…』

 

 あたしの顔に恐怖が浮かんだのを敏感に感じ取ったのだろうか…。ミキトは一転して弱々しい口調で懇願するように声を吐き出した。それを聞いてあたしは確信した、嗚呼、本当に、間違いなくミキトだ…、と…。

 

 先程の荒々しい怪物の面影はもうない。ただひたすらに正体不明の力に怯えて、縮こまっている幼馴染の姿。途端に胸中を抉り取るような鋭い痛みが襲い掛かり、あたしは口を歪めた。それ以上の思考は必要なかった、あたしは一度は竦ませた足を無理矢理にでも振るい立たせて彼に駆け寄り、その背中に覆い被さる形で抱きしめた。

 熱い。剥き出しの地肌に触れて最初に感じ取ったのはまるで内部に炎でも宿したかのようなその熱さだった。恐らくミキトの体に起きている異変と何か関係があるのだろうと類推する事は出来ても今は何かを問う気にはなれず、あたしは肩に回した腕に力を籠めた。

 

『――離して…頼む…僕は…』

 

 やがてミキトが弱々しく、しかし懇願するように口を開いた。あたしはそれを最後まで言わせず『…ヤダ』とピシャリと跳ね除ける。

 

 ミキトはそれ以上は何も言わなかった。無理に振り払う事もしなかった。その代わり重ねた手を握り返してもくれないし、胸の内に抱えた痛みをあたしに明かしてくれもしない。近いようで遠い、微妙な距離。やがてミキトはただ『どうして…?』と絞り出すようにだけ言った。

 

『わざわざ聞かないでよ、仮に君だったらそうする……?』

 

 あの日。パパとママを亡くして以来初めて登校した時。優しかった先生もどこか腫れ物に触るような態度で、親しかった筈のクラスメイトもどこか遠巻きに見ているようで。無理もないと思った、こんな事態になってあたしだって自分がどんな風に接して欲しいのか分からないのに、所詮他人なんかに分かる筈がない。もし迂闊に声なんか掛けられようものなら酷い言葉をぶつけて当たり散らしちゃうかも知れない。そんなあたしがあたしは怖い、急速によそよそしくなってしまった皆も怖い。

 だから誰もあたしを見るな。話しかけるな。いないモノとして扱ってほしい。きっとそれが今の空気なんだから――それで正しいんだって。

 でも君は呆気なくそれを破ってくれた。マイペースに生きてるようでその実意外と場の空気に聡い君が、真っ先に。お陰であたしも本当の気持ちに気が付いたんだよ、本当はいつも通りに接して欲しかったし、また輪の中に入れて欲しかったんだって。

 

 だから見ないでというなら目を逸らさない。来ないでというなら抱き締めて支えたい。君自身に君を貶めさせはしないから――。少なくともあたしも――()()()も……。

 

 ユヅキちゃんもミキトの傍に駆け寄り、あたしと反対の方からそっとその体に縋りついた。感情を表現したり、口に出したりするのが苦手な彼女は何か確かな言葉こそ掛けなかったけど、その手が微かに震えていた。控えめに溢れた涙と震えている手は安堵の証だ。何があったのかとかそんな事は関係ない、今はただ再び会えた歓びを分かち合いたかった。

 

 ミキトは何も言わなかった。その代わりあたし達に身を委ねるように体の力を抜いた。やがて必死に堪えるような小さな嗚咽が漏れ始める。それに交じって微かに『良かった…生きてて…』そう呟いたのが聞こえた。あたしもだよ、そう告げてその背中に頬を寄せた。

 今度こそ嵐は去った。縋りつき合ったあたし達を中心に暖かな(フィールド)がゆっくりと広がっていった――

 

 

 ――それで終わってくれればどんなにか良かっただろうに…ね。

 

 

『――らしい…実に素晴らしいわ…!!その神々しい御姿…やはりあの御方は正しかった、のねっ……!』

 

 不意に。本当に不意に。無粋とも言える濁声と乾いた拍手が静寂を打ち破った。心酔と高揚の混ざった得意そうな声色。穏やかに凪いでいた水面に投じられた一石のように場を打ち破る。

 あたしはミキトの肩から顔を上げて振り返った。その不快な声の主は知っている。

 

『まさしく…まさしく“スぺリオル”の祝福そのものだわ…。貴方こそまさしく選ばれし者…あの御方の預言が今ここに実現する時が来たのよ…』

 

 その先にいたのはあの鴨井戸のお婆さんだった。人の死体の下にで潜んでいたのかただでさえみすぼらしいその身なりは血糊や怪物の体液に塗れて、最早サイケデリックなまだら色に染まっているが当人はそんな事気にした風もなく、陶酔したようにあたし達の方を仰いでいた。

 

 ――いや違う、その視線は明らかにあたし達の事なんか眼中になく、ただひたすらにミキトだけを見ていたんだ。年甲斐もない、己の醜さを気にも留めないような熱の籠もったその視線に不快な感情が胸中に広がっていく。

 

 なんでこんな人が生きてんのよ…!幾多もの感情と共にあたしは歯噛みした。

 

 だが…あたし達に向けられた視線はそれだけではなかった。よく見ると件の婆さんと同じように辛うじて怪物の被害から逃れた人々がちらほら顔を出し始めた。彼らは一様に目の前の惨状に表情を凍り付かせ……畏怖と恐怖が半分づつ混ざった視線をミキトに向けたのだ。

 

 振り返ると肩の傷を抑えた慧おじさんも呆気に取られたようにこっちを見ていた。でもその瞳でさえ今は信じられない、とばかりに見開かれており、決して好意的なモノとは呼べなかった。

 

 凍てつくような冷たい空気が場に広がっていく中、場違いとも言える老婆の哄笑だけが淡々と響いていた。

 

  

・・・・・・・・・

 

 

 そこまで話してふうっと梗華が息を吐く。それから話し疲れたようにそっと湯呑を取り、中身を口に含んでから顔を顰めた。

 

「――苦っ…」

 

 冷めたお茶程苦いものもない。特に目が冴えるようにと濃く淹れたから余計に。哲也は立ち上がって淹れ直すか?と問うたら梗華は小さく首を横に振った。

 

 あの日、大勢の人が死んだ、俺達にとって顔見知りの人も大勢…。辛い記憶を呼び起こしたからだろう、明らかに顔色が悪い。最も俺も似たようなモンかも…と思いながら哲也はそっと立ち上がるとそのまま梗華の傍らに腰かけた。

 そっと細い肩に手を置いた。抱き寄せるでもなく本当にただ少し互いの体温が感じ取れるくらいのソフトな接触。流石にそれ以上はいくら幼馴染でも踏み込めない領域な気がしたし、それこそ小学生の時とは違う、あの頃みたいにただ無邪気には、もういられない。梗華もそれが分かっているからかそれ以上求めては来なかった。

 そんな俺達の様子を柚月が怪訝そうな目で見ている。なんだかそれが妙に気まずくて哲也は梗華の肩から手を離す。暫し気まずい沈黙。

 

「鴨井戸の婆さんか……話は聞いてたけど…ただのタチの悪い噂だと思ってた…」

 

 確か少しだけ聞いた事がある。役場の職員で消防団にも属している鴨井戸のオッサン。父さんと同じ他所からのIターン組の人で仕事ぶりは至って真面目、古くからの住民と軋轢を起こす事も観光客と揉める事もなく、誠実かつ実直な人。まぁ消防団の人はそう言って大体彼を誉めてくれてた気がする。高齢化著しい消防団にとってはどうあれ若い(と言っても40代だけど)人の参入は嬉しいって事情もあるらしいが。

 ただ一点。彼には()()()()()()()()()()()()()。それは一部の人にとっての暗黙の了解だったらしい。それが彼の母親の事。団員と役場の人でもごく一部しか知らないらしい、とにかく一種の禁忌(タブー)だと。なので詳しい事は哲也自身も知らない。

 

 鴨井戸のオッサンは一人でこっちに来た訳じゃない。奥さんも子どももいないけど母親と同居している、という話。ところがこの母親というのは良くない病気を患っているだとか何とかで基本家の外に出てこない、住民とも接触しない。というか対外的にはいない事になってる、とかなんとかで話題に出してもならん、みたいな。大昔の村八分伝説にでも在りそうなおかしな噂。

 

 地元の悪ガキの間では彼の家の近辺に出没するみすぼらしい身なりの妖怪みたいな老婆が目撃されたら、そいつの事だなんて言われてもいたようだが、「近づいたらあかんといったろうがっ!」、と大人にドヤされるのがオチなので次第に誰も話題にしなくなったとか。嘘なんだか本当なんだかよく分からない変な話だ。

 恐らく鴨井戸のオッサンが「母さん」と呼んでいた事から察するにその老婆が恐らく件の母親なのだろう。彼女は普段は家の中に隠れていて公に――まぁ対外的には――村民がその存在を知る事はなかったが、避難に当たってはそうもいかず、彼女は初めて公共の場に出てきた、そういう事なのだろう。

 

 という事は恐らく――

 

「多分その婆さんは()()()()()()()()()んだろうな。で、教団が解散した後息子に引き取られて逃げるようにこっちに引っ越してきた…そんな所か…」

 

 白零會の件を取材しているとイヤという程似たような話をよく聞く。梗華がうん、と頷いた。

 

 梗華も後でオッサン本人から直接聞いたらしい。都会の大手商社で働いていた鴨井戸のオッサンには離れて暮らす母親がいたそうだが、その人がいつの間にか白零會の信者になっていた、という話はまさに晴天の霹靂だったらしい。長年連れ添った夫を亡くした隙間につけいるように教団は接近し、あっという間に老婆からお布施という名目で財産を巻き上げていたそうで、オッサンが気が付いた時には彼女はすっかり預金を使い潰し、教団の教義に洗脳されていたそうだ。終いには彼の奥さんやその親戚にまでお布施や入団を勧めだしたものだから、オッサンは家族と別れざるを得なかったらしい。

 

 彼女の信仰は教団の悪事が明るみに出ても変わらなかった。いやそれどころか世間が鬼の仇のように白零會を糾弾すればするほど、その信心はより一層頑迷になったそうだ。いくら違法行為に加担していなかったとしてもこんな状態の母親にまともに社会生活など送れる筈などなく、さりとて見捨てる選択肢も持てなかった鴨井戸のオッサンは職も家族も生まれ育った土地も全て(なげう)ってあかつき村に移住する事にしたらしい。親戚も知り合いも誰もいないこの村に。

 

「で、逃げ延びたその土地でまさに尊師とやらの預言の通りのような出来事に巻き込まれた、と…。皮肉な話ですね」

 

 黙って話を聞いていた柚月が吐き捨てるように言った。多分に棘のある口調だ、件の老婆について随分と恨み辛みがあるらしい。この後何があったのか聞きたくもあったが、明らかに疲弊している二人の様子を見ているとそれ以上の催促も憚られ、哲也は溜息を吐いた。不意に、気を緩めた拍子なのかなんなのか腹がきゅるる、と鳴った。思わず部屋に備えつけられた時計に目をやると現時刻19:48分。いつの間にかとっくに夕飯時すら過ぎている事に哲也は思わず面食らった。腹の虫を目敏く――いや耳敏く聞きつけたらしい、柚月が生温い視線を哲也に注いでいた。

 

「こんな時に随分と呑気なんですね?」

 

 思いっきり嫌味の籠もった口調に哲也は僅かに頬が熱くなるのを感じながらも「仕方ないだろ!」と返した。

 

「よくよく考えたら二日間点滴漬けで何も食ってないんだぞ俺!むしろ今の今までよく我慢したモンだわ」

 

 ついでに言うなら目覚めてからこっちお茶とお菓子を少し口にいれただけだ。いい加減体が食事を求めだしても可笑しくはない、いや腹が減ってはナントヤラ、という位だから来るべき戦に備えて体がエネルギー補給を要求しているのではないか…!とかなんとか訳の分からない理屈を捲し立てる。柚月が鬱陶しそうに顔を顰める。

 

「はいはい分かりましたよ、なんか食べますか……ってレーションパックしかないや…」

 

 柚月はおもむろに腰に下げていたバッグを開けると中から数点、パッケージを取り出し始めた。登山の時に持っていくようなアルファ米とかフリーズドライ食品の類。なんでそんなモン持ってんだよ、というツッコミを華麗にスルーして柚月は立ち上がった。「梗華も。なんか食べて下さいね?」そう一声かけると部屋の外に出ていく。多分お湯でも沸かしに行ったのだろう。

 

「あぁ…うん…?ありがと…」

 

 話し疲れたのか少し放心したようになっていた梗華がその言葉に反応してぎこちなく頷いた。やがてやかんに火を掛ける音が聞こえ始めたと思った時。梗華がハッと我に返った顔をして哲也の方を見て、それからまさか、というように部屋の外に目をやる。明らかに驚嘆の表情を浮かべていた。

 

 なんだ、まさか何かあったのか!?突然の事態に動揺しつつもそう問い掛けようとした刹那。弾かれたように梗華が立ち上がり、部屋を飛び出した。なんですか一体?疑問に思っているとなんだか水場の方で言い争う声が聞こえ始めた。

 

「良いから!私がやるから柚月ちゃんは座っててっ!!」

「なんでそんな必死になって止めるんですか!?レーションなんて温めさえすれば誰にだって出来ます!!」

「ソレは世間一般の常識なの!お願いだから柚月ちゃんは食料に触れないでぇぇぇぇっっっ!!」

「どういう意味ですかソレはあぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」

 

 なんだと思って廊下に顔を出すと流しの前で二人の少女がもつれ合っていた。よく見ると柚月が持っているフリーズドライ食品のパッケージを梗華が必死の形相でひったくろうとしているのだった。…なんだか知らないが柚月に調理をさせまいとしているようだ。

 

「あ、哲也!命が惜しかったら今すぐこの子止めてぇっ!!」

「失礼なっ!確かにこの間は散々でしたけど今の私はこの前とは違いますっっ!!!」

 

 ……()()()とやらに一体何があったんだよ…と哲也が密かに戦慄していると不意に後ろの引き戸が開く気配がした。掴み合ってやいのやいの騒ぐ少女たちから視線を外して振り返ると今しがた入ってきたらしい初老の男――確か楠とか呼ばれていた筈――と少しばかり小柄な少年が呆れたような表情でこちらを見ていた。

 

 哲也は息を呑んだ。この少年は知っている。確かあのパワードスーツ――《エースゼロ》を纏って怪物や《スカルマン》と闘っていた――。

 

「ナニ遊んでんだよ…」

 

 やけに湿った口調で少年――琥月辰雄が溜息を吐いた。

 




キリが良いので今回はここまで。ひとまず梗華の視点からの話はこれでしばらくの間、終いです。次回は久々にアイツが登場します、また違った視点で新しい物語が描かれると思うのでお楽しみに、です。

それではまた次回!


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CHAPTER-3:『REjectionⅠ』- ⑦

 明晰夢、というのがある。夢を見ているという自覚が存在し、その中では体を自由に動かしたり、好きなように状況を動かしたりする事が出来るのだと言う。一応科学的根拠もあるらしいが、どうにもファンタジー染みた話だ、事実24年の人生の中で一度たりともそんな体験した事がない。ままならない現実に対してせめて夢の中だけでも、と切望する事ならいくらでもあると言うのに…。

 

 なら今この状況は何と言うべきなのだろう。少なくとも今目の前で繰り広げられている光景を自分はハッキリと夢だと知覚している。その代わり――己が意志では指ひとつ動かす事もままならず、まるっきり覚えのない“誰か”によって体が衝き動かされている現況は。

 獣のような雄叫びが空気を震わせる。それが自分の口から発せられたものである事に僅かな時間を要した。到底人間が発したものとは思えないその咆哮は立ち所にアスファルトの大地を揺るがし、コンクリートのビル街を鳴動させる。まさに威嚇そのもの。だがそれに僅かに怯んだものの“敵”がそれで引いてくれることはあり得ない。途端に“敵”が手にした銃から鉛の驟雨(しゅうう)が吐き出され、襲い掛かる。

 一気に何十発と吐き出されたそれは本来なら自分の体など一瞬で粉微塵にしてしまっただろう、だがそうはならなかった。弾丸は皮膚を貫く事も出来ず、弾かれうっすらとした痣のような痕が残るだけだった。本来なら命が助かった事に安堵するのかも知れないが、自分の意識が感じ取ったのは、我が身の変異に対する暗澹たる絶望だけだった。

 

 否が応でも。ああ、俺はもう人間じゃあないんだ……そう無理矢理にでも自覚させられる。

 

 だがいくら弾丸に体を抉られる事はないとあっても痛みを感じない訳ではない。焼け火箸を音速で何度も何度も押し付けられるようなモノだ、その度に明瞭な意識はより一層痛烈に悲鳴をあげ、責め苛んでいく。

 

 痛い…!熱い…!――誰か…誰か助けて……!

 

 心が絶叫した。この体が自由に動くならせめて両膝を抱えて縮こまりたい所だが、如何せん今の自分は意識を保つこと以外は何一つとしてままならない。いっそ気絶するなり気が狂うなり出来てしまえればこの悪夢から逃れる事も出来ただろうに。

 

 そして自分の意思に反して体は勝手に動く。暫くはただ黙って銃弾を受け続けているしかなかったが、弾切れなのか豪雨の中に晴れ間が差し込む瞬間がやってくる。体感にしてほんの僅かな時間であったが弾かれたように自分の体は己が意志に反して跳躍した。狙うはただ一点、眼前に佇む“敵”の群れだ。

 

 やめろ――!やめてくれっ……!

 

 これから何が起こるのかは知っている。だからそれ以上は見せないでくれ――たまらず喉が張り裂けんばかりに声を上げたが、それは獣の唸り声として放出されただけ。呆然としている“敵”の群れの只中に自分の拳が振り下ろされた。

 

 それだけの事で地面が深く穿たれ、衝撃波が広がる。“敵”はそれを受けて木の葉のように吹き飛んで行ったがちょうど拳の下にいた奴はそうは行かない。自分の何倍もの重さを持つ拳を勢いよく叩きつけられ、“敵”の体を虫けらのように圧し潰した。まるでトマトが弾けるように“敵”の血糊がピュッと広がる…その光景に自分は絶句したが同時に得も言われぬ高揚感が湧き上がってくるのも確かに感じたのだ。

 

 悲鳴を上げる意識を他所に体はその衝動のままに拳を振るい続けた。衝撃波で吹き飛ばされ、地面に無様に転がった“敵”達を更に蠅のように叩き潰し、踏みつけ、腰から生えた長大な尻尾を薙ぎ払う。その度に鮮血の池は徐々にその面積を広げていき、気が付くと自分の周囲何百メートル四方は完全に赤一色に染まり切っていた。そこかしこには先程まで“敵”の一部だったと分かる腕や脚、臓物や骨の一部が散らばっていた。

 

 その中心にいるのが自分だ。この惨禍を引き起こしたのが間違いなく自分だと眼前の状況が残酷な程に告げていた。

 

 違う――。ふるふると首を横に振る。そんなつもりじゃない。この体が勝手に動いてやったのだ、そうしたかった訳じゃない――!掠れた吐息が漏れた。

 そもそも原因は“敵”達が撃ってきたからだ。その攻撃に過剰反応した自分の中の誰かがやった事だ…自分はそんな事望んじゃいない……!!身勝手な叫びが虚しく木霊した。

 

 ――それが誰に届く?誰が信じる?

 不意に。ゾワリとした感覚と共に酷薄な声が耳朶を打った。同時に広がる血の海から次々と何かが浮かび上がってくる。吐き出された気泡のように表面に現出したそれは次第に形を形成して行く。無数の人の顔だ――。完全なモノは一つとしてない。目を潰され、顎を引き裂かれ、半分に割れた頭部から頭蓋骨と脳漿が露出している。そんな顔が十重二十重、足元に纏わりつくように寄ってくる。声はその一つ一つから発せられているのだ……!

 

 ――お前が殺した。全てお前のした事だ。

 違う、望んでない。ただ自分の身を守るために仕方なく――!

 

 ――楽しかったか?強大な力を振るって全てを蹂躙するのは…。

 そんな事ない。もう暴力はこりごりなんだ…二度と御免だ…!

 

 ――お前は獣だ。最早人ではいられない。

 イヤだ…!俺はバケモノになんかなりたくない…!

 

 ――なれば何故高揚する?それが己が衝動ではないと何故言える?

 分からない分からない分からない…ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…!

 

 顔は最早何も問い掛けなかった。代わりに粘菌のように不気味に蠕動しながら自分の足元に張り付き、一斉に這い上がってくる。まるで毛穴という毛穴から内部に侵入し、全てを貪り尽くそうとするかのように。

 やがて全身を隈なく覆い尽くされた所で意識が遠のいていく。自分は振り払う事も声を出す事も叶わず、やがて意識が深い深淵に堕ちていくのだけを感じた。

  

 

・・・・・・・・・

 

 

 酷くしわがれた声が耳朶を打った。それが自分の口から発せられたものである事に気が付いたのは乾いた喉に痛みが走ったからだ。

 最初に視界に飛び込んだのはコンクリート造りの簡素な天井にそこに無愛想に吊るされた裸電球。やけに視界が悪いのは部屋の昏さもあるが何よりも効き目である右の視界が塞がれているせいだ。鈍く痛み続ける右目の感触に顔を顰めながら土枝健輔は起き上がった。

 

 コンクリートが剥き出しになった壁や天井。質素な寝台がぽつねんと置かれただけの部屋とも呼べないような、粗末な一角。カーテンを開けるとまだ弱い陽光が僅かに入ってきて、どうやら夜明けは近いようだという事が分かった。

 昨夜コソコソ移動して最終的に辿り着いたのがここだ。なんなのか皆目見当もつかない。一つだけ分かるのは少なくとも碌な場所じゃあないって事だ。

 

 それにしても非現実的な光景だな、いやひょっとしたら全部夢なのかも知れない。今本当の自分の体は中野のオンボロ宿舎で白河夜船と洒落込んでいるのでは…。いっそのことその方がよっぽどマシだとさえ思えてしまうが、生憎な事にこの右目の痛みは間違いなく本物だ。健輔は暗澹とした気分になって部屋の角に据え付けられた洗い場に向かった。

 やけに黴臭い水を口に含みつつ、顔を上げる。薄闇の中に幽鬼のような顔をした己が映っているだけ。恐る恐る右目を覆う眼帯を解くとそこは既に不気味な形の肉塊に覆われ、ドクドクと拍動していた。そのことがもうこの体がマトモではないという事実を何よりも雄弁に物語っていた。

 

 夢の中だけではない。俺は間違いなく現実でも得体の知れない怪物の力を手に入れ、その力のまま、暴れ狂い――多くの人を殺した。この手には今でもハッキリとその感触が残っている。この手で叩き潰した人肉の脆さ、掌に飛び散った血の熱さ全てが…。

 極めつけはこの右目だ。怪物になって暴れてる最中に銃弾で撃ち抜かれ、潰されたのだと微かに覚えている。そのまま銃弾は貫通したらしいが普通なら命に関わる傷な上に昨日からマトモな治療ひとつ施されていない。だのにこの傷は既に塞がっており、痛みも既に殆ど治まっていた。ここに連れてきた元凶曰く「再生は既に始まっている、完全に治るまで二日は掛かる」と言われたのだが…これほどの大傷がたった二日で完治するなどあり得ない。あくまで普通の人間の範疇ならば、だが。

 

 なんなんだよ……!健輔は絶叫した。確か《ヴェルノム》とか言ったか…?なんで自分がこんな呪い(モノ)を背負わなくちゃいけないんだ…。

 

「健輔さま」

 

 突然ドアが開く音と共に静かな声が入り込んできた。久しく聞いてない甘やかな声色に健輔はドキリと肩を震わせて声のした方を見る。

 

「失礼いたします…何やら大きな声が聞こえてきましたので…。お目の傷がお痛みでしょうか?」

 

 自分如きに向けられるには痛く丁寧な口調。この数年間ひたすら罵倒され、蔑まれ、疎んじられてきた身にはやけにくすぐったいと言うかこそばゆいと言うか…要するに変に居心地の良くない気分になる。健輔は声のした方に振り返った。薄明りの中に立っている声の主と目が合う。

 

 顔の左半分を覆うように整えられた長い髪。クリーム色のロング丈ワンピースのような服を着た少女――厳密には健輔と同じか少し年下くらいの女性と言った方が正確か――はつぶらな瞳を向けていた。一見すると修道女のような佇まい。昨夜辺りから自分の世話役だと言ってやってきた娘だ。健輔は何か気まずいような気分に駆られて無言で首を横に振った。

 

「そうですか…。必要ならお薬をご用意いたします、遠慮なくお申し付け下さい」

 

 そう言って少女――確かカサネとか呼ばれてた筈――は恭しく頭を下げた。先程から感じていたむず痒さがいよいよ頂点に達し、健輔は思わず「あのさ…!」と声を発していた。カサネが不思議そうな表情で振り返る。

 

「その…さま付けとか敬語とかやめてくんない…?俺はその……」

 

 人殺しのバケモノだ、そんな風に丁寧に接してもらう資格なんかない…。そう続けようとしてもその先は続かない。健輔は二の句を継げずにへどもどしているとカサネは「何を仰います?」と少しの疑問も持った風もなくそう言った。

 

「健輔さま達は“スペリオル”に祝福されし、偉大な()()()()()()でございます…私如きが畏れ多くも口を聞くだけでも烏滸がましいというもの…カサネはそのお気持ちだけで充分でございます…」

 

 嫌味でも何でもなく心からそう信じている口調。健輔は絶句した。そんなこちらの心情など知る由もなくカサネは失礼いたしました、と告げて部屋を出ていった。痛い程の静寂と共に置いてきぼりにされた心地を味わった健輔は「クソッ…!」と小さく毒づいた。

 自分にとって忌むべきこの力もあの少女にとっては敬うべきナニカらしい。何もかも正気じゃないと吐き捨てつつも、今この場においては自分の方が異常なのかも知れないという己の所在なさが消える訳でもなく、健輔は先程カサネが出ていったドアを開けた。あまり外に出るな、脱走したら容赦しないぞ?と《ナイトレイス》とかいう男に言い含められてはいたがこれくらいの自由は許して欲しい。

 

 外に出ると朽ちかけのコンクリートの欠片や木の葉が散乱した、お世辞にも綺麗とは言えない共用区画の廊下。見たまんま一昔前の、そして今は見る影もなく打ち捨てられた公営団地という趣だ。実際住民がいなくなって地権者も分からなくなった建物を勝手に使っているのであろう事は想像に難くない。やはり何から何まで普通じゃない、と健輔は溜息を吐いた。

 そのまま階段を使って屋上まで上がる。建物も大概だが屋上は更に悲惨の有様で堆積した土砂や壁を伝って上ってきた蔦に覆われ、殆ど自然に帰化していた。崩れかけた柵に近寄り、周囲を見渡すと荒涼とした緑地に同じような造りの建物が点在している。やはりだいぶ昔の集合住宅の跡地らしい。山谷の実家や昔住んでた西荻窪の街と比してもここは最底辺の世界だな、と健輔は溜息を吐いた。

 

「お目覚めかいセンパイ?」

 

 突如聞き慣れた声が頭上から降り注いだ。振り返ると案の定、屋上に据え付けられた給水塔の上に山城幹斗が腰かけていた。銀色のプロテクターに黒いレザーのスーツ、首元に巻いた白いマフラーが登りかけた陽光にやけに映える。相変わらず気障な奴だ、と健輔は吐き捨てた。

 

「この時分はまだ冷えるからな、風邪ひくなよ。アンタに何かあったらあの娘パニクるぜ?」

 

 多分に皮肉を含んだ言葉だと受け取った健輔はムッとして幹斗の方に振り返った。「一体ここはなんなんだよ?」そう問いただすと幹斗は自嘲するような笑みを浮かべた。

 

「さっき()()()()()だとか()()()()()()だとか…変な事言われたぞ?あの人達は一体何者でなんでお前達はそんなとこに身を寄せてる?」

 

 あのカサネとかいう少女以外にもここにはまだ身を寄せている人達がいる、数人レベルではない、少なくとも数十人単位。平均年齢は老人が多い気もするが中には彼女のように若い人間もいる。そんな集団が廃墟に身を寄せ合って、集団生活を送り、その中心には《スカルマン》とお仲間の怪物達。おまけに自分達怪物――《ヴェルノム》はあの集団に何故か高貴な存在であるかのように崇められてると来たもんだ。どう考えても普通じゃない。

 

「言わせておいてやれよ、あの連中にはそれしか縋るモンがないのさ…」

 

 そう問いただすと幹斗はサラッと答えた。嘲りと同情の両方が均等に混ざったような声色。何言ってるんだ?と健輔は怪訝な顔をする。

 

「アイツらの今“リヒテッド”って名乗ってるよ。まぁ最も世間一般にいやあ白零會の残党、って言った方が通りが良いけどな?」

 

 白零會――!その名を聞いた健輔は絶句した。いくら学がないと言ってもそれくらいは知っている、自分達の世代では忘れようにも忘れようがない事件を引き起こした集団だからだ。

 

「教祖が取っ掴まった後の分家団体のひとつって訳さ、ここは。最も規模も何もかも小規模過ぎて一番公安のマークも緩い。木を隠すなら森、じゃあないけど意外とうってつけの隠れ家だろう?」

 

 少なくとも尊師の次くらいに俺らを崇めてる奴らなら俺らの事を密告しないし。そう言って幹斗は嗤った。ますます訳が分からん、と健輔は憤然とした。

 

「白零會なんぞと手を組んでまでお前は一体何をしたいんだ!?」

 

 健輔は叫んだ。幹斗が寂しそうな微笑みを作った。そこに自分が知っている山下幹夫だった時代の姿がダブり、健輔はドキリとした。踏み込めば踏み込むほどこの男が何者なのか分からなくなる。徐に幹斗が口を開いた。

 

「別に手を組んでるわけじゃあないさ。ただ俺もアイツらも異形として生まれさせられて、そのようにしか生きられない連中だしな…。どの道“神樂”と闘うには相応の力がいる…闇から生まれた外法に抗し得るのは同じ闇に生きる外法のみ…まぁ必然だよな…」

 

 カグラ…?さっきから何言ってるんだよ、と言い返そうとした健輔の言葉を幹斗は遮った。

 

「折角だからアンタも知っておくと良い。俺が――《スカルマン》がどうして生まれたのか…」

 

 

   

・・・・・・・・・

 

 

 

 前にも話した通り、全てはあかつき村事件から始まった。

 

 世間一般には研究所の暴走が引き起こしたバイオハザードだなんだと言われてるが、それはあくまでネットの世界の憶測。公には「真相不明」だ。今では胡散臭すぎてテレビですら碌に正確な情報を上げられない、難儀な世の中だよな。

 ここまで話せばお察しの通り、()はこの村で育った。生まれたのは時にして1994年、南アフリカ共和国でネルソン・マンデラが初の黒人大統領に就任してから1ヶ月。白零會が最初の爆弾テロを起こしたのはそれから更に17日後の事。戸籍謄本によると都内の病院で生まれた、らしい。なんでこんな曖昧な言い方なのかというと当たり前だがその頃の記憶なんてないからだ。

 

 少なくとも僕の記憶として想起されるのはいつだって野山の合間にひっそりと植え付けられたあかつき村の風景とそれに酷く不釣り合いなあのドーム型の研究施設「プロメアセンター」の輪郭。慣れてはいても間近で見るとやはり異質というかなんというか…いっそ禍々しい、という気さえ感じる。

 

 不意にワン!という太めの声が耳朶を打ち、それ以上の感慨を遮った。視線を転じるとシベリアンハスキーのガロが早く行こう、と言わんばかりに尻尾を振っていた。分かったよ、行きゃあいんだろ、と僕は重い腰を上げて立ち上がった。

 

『ミキ坊、もう良いのか?』

『無理すんなよ、ジュニア』

 

 僕が動き出したのを見てマタギの久世さんと志村さんが揶揄うような声を投げた。ミキ坊もジュニアもやめて下さい、と抗議するのも面倒くさくて黙ってガロに引っ張られるまま、歩き出す。二人も咥えてた煙草を揉み消すと僕――正確にはガロに続くように立ち上がった。煙草のポイ捨てはやめろ。

 

 何やってるのか、というと昨日から帰ってこないバカな友人の捜索。こんな所に来る筈もない事くらい分かっているのだけれど、何しろこの村で誰か行方不明になるとしたら登山客が道を踏み外して滑落するか、山菜取りに出かけてそのまま行方不明になるかのいずれかなのでこうして山狩りが実施されるのは何らおかしい事ではない…筈。

 こういう時にガロは重宝するから、と飼い主の僕も一緒に連れ出されたわけだが…如何せんこちとら体力は人並み以下。過酷な山登りにはとてもじゃあないがついて行けず、残りの男衆は先に行ってしまい、今こうして二人のお目付け役だけ残して休憩中という訳だ。僕とガロだけだったらミイラ取りがミイラになり兼ねないからね。

 先行した衆の後追いをしても無意味なので矢頭山第二登山道を選択し、進む事そろそろ2時間半。ガロは依然として友人の足取りを掴めておらず、一緒にいる二人も「多分山には入ってないな」と確信し始めているようだ。それについては全く同意だ、アイツ――成澤哲也(テツヤ)がどこかに行くとしたら多分村の外だろう。

 

 テツヤと初めて出会ったのは小学校に上がる少し前の頃。元々滅多に家に帰ってこない父親に代わって何かと面倒を見てくれた成澤慧さんの一人息子がアイツだった。大方お節介な慧さんに「一緒に遊んでやってやれ」とでも言われたのだろう、如何にも作り物っぽい笑顔を顔面に張り付けて、やってきたのをよく覚えてる。

 今だから言うけど当時の事は本当に悪いと思ってるんだ。何しろあの当時の僕ときたら失礼千万、唯我独尊を地で行くような、可愛げなんぞとは1000%無縁な性格だったモンだから、ファーストコンタクトはかなりサイアクだったと思ってる。アイツが普通の感性を持った人間だったのなら、その態度に激怒して二度と来なかっただろう。ところがアイツはよく言えば根気強く、悪く言えばしぶとく、諦めの悪いタチだったもんだから懲りずにその後も何度も訪れては人の懐にズカズカと踏み込んでいこうとしたのだった。

 まぁそれでも流石に我慢の限界もあったようであの日がなければ今の関係もなかっただろう。いつものようにテツヤが飛び出して行った後に床に漫画を置き忘れていた事に気が付いた僕は渋々ながら届けに行くべきだろうと思い、珍しく自分から部屋を出たのだった。どうせポストにでも投函しとけば済む話だ、とか放っておいてまた来られたら面倒だから、とかグダグダ言い訳を並べ立てまくり、向かった先。ガロと話してるテツヤの姿が見えたのだ…いや多分ガロがテツヤに話しかけていたんだろう。

 

 ガロは当時の僕の唯一の友達だった。犬しか友達いないってどんだけボッチオブボッチだったんだと今だったらキョウカ辺りに盛大に笑われそうだが、本当にそうだったんだから仕方ない。他に心を開ける相手はいなかった。父親は毎日研究で忙しいとかで滅多に家に帰ってこないし、他の家庭だったら当たり前のように存在していた母親というのはウチにはいなかったから。僕の家庭事情はどうあれ、とかくガロはテツヤに心を開いたようだった。別に犬に絆された訳じゃないけど、以来テツヤとの距離は格段に近くなった――というか僕自身が無意味な意地を張るのをやめた、と言った方が正確か。

 

 そこから先はこそばゆいから長くは語らないけど、アイツと出会ったことで僕の世界は大きく広がった。こんな事真正面から言ったら絶対にからかわれるから一生言ってやらないけど。お陰でキョウカとも出会えたし、ユヅキとだって上手くやっていけなかった。狭い部屋から少し飛び出してみれば新しい景色が広がっているんだって、その事を知れた。

 それを僕に教えてくれたテツヤの事だから、多分いないんだとしたら、それこそもうここにはいないだろう。気紛れなのか確信犯なのかまでは断定できないけど、行ったとしたら村の外。ひょっとしたら県外、うんあり得る話だ。アイツはこんな閉ざされた世界で迷子になる様なタマじゃない。

 

 話が飛びすぎた。簡潔に言うとテツヤが昨日から家に帰ってないのだそう。そういう訳で現在村中挙げての大捜索中、という状況でキョウカや慧さん達は村中を探してるので、山に入って行方不明になった可能性も考慮して僕らは山を彷徨中、そして今に至る。

 とはいえ…先程から何度も思ってるように生粋の村育ちで山の怖さも良く知ってるアイツが誰にも何も知らせず、入山するとは考えづらい。確かにアイツはバカだけど流石に山を舐めて掛かるほどバカではない…筈。更に言うなら背も高く、空手をやってる大の男を浚っていく阿呆がいるとも思えないので誘拐の線もナッシング、そうなると自発的な家出という事になる。そう言えばユヅキは妙に泰然としていたし、多分あの娘は何か知っているんだろう。まぁそれを大人達に伝えてやる義理もないのでこうして不毛な捜索劇に付き合っているのだが……。本当に何かあったら流石に困るしね。

 

 ふと。最前列を歩いていた志村さんが脚を止めた。猟銃を持っていない方の左手を掲げて、「止まれ」という意のハンドサインを僕たちに送る。僕と久世さんは慌てて彼の方に駆け寄った。

 

『どうしたの?まさか熊?』

『いや…分からん。だが空気が騒がしい…』

 

 どういう意味、と尋ねようと彼の方を見やると思いのほか硬い、緊張感を纏った横顔が目に入り、僕は思わず口を噤んだ。ガロの方はというとそんな志村さんの気配を察したのか耳を伏せ、周囲を探るように低い唸り声を漏らす。僕も咄嗟に五感を研ぎ澄ませた。()()()()程正確じゃあないけれど、ないよりはマシだ。

 最初に思いついたのはやはり熊とかの野生動物が近いのか、という事だった。勿論今は三月だから本来なら熊は冬眠中の筈だが自然に絶対はない。何らかの理由で早くに起きてしまった熊が近辺をうろついている可能性もあるとは思ったのだが…“感知野”はそれは違うという警告を発している。これは生き物の気配じゃあない――!

 

 次の瞬間、耳朶を打ったのは空気を裂く、と形容出来る程の暴力的な風圧と風切り音。上からだ、と瞬時に察して上空に視線を飛ばすのと木々の間から覗く空にその威容が飛び込んできたのはほぼ同時だった。

 

『ヘリ…!?』

 

 久世さんが間の抜けた声を発した。山の中でも目立つくらいに派手なオレンジ色に塗装された機体。確か山岳救助隊が用いてるレスキュー用のヘリコプター。随分低く飛んでるな、と訝しんだ次の瞬間――

 

 ぱすん、と空気を切る様な間の抜けた小音が山中に木霊した。なんだ、と思って音のした方に視線を転じたその刹那、久世さんの体が糸の切れた人形のようにバランスを崩して倒れ込んだ。彼の表情は突如出現した不審なヘリに目を見開いた姿のまま固定され、まるで唐突に人体の動作を司る部品が焼き切られたような不自然さで崩れ落ちたのだ。

 

『おい、久世!どうしたしっかりしろ……!』

 

 志村さんが駆け寄って彼の体を抱え起こしたが、それっきり久世さんが動く事はなかった。表情も四肢も全てが弛緩し、最早そこに転がっているのは一人の男ではなくナニカが抜け落ちてしまった、ただの肉人形だ。久世さんのこめかみに辺りに目を向けるとそこには黒々とした孔が穿たれていた。

 

 僕も志村さんもゾクリと肌を粟立たせた。長年この仕事をしている彼にはその痕がなんなのか一目瞭然なのだ。――弾痕……?

 

 誰が、何処から、と互いに問い掛ける暇もなく、続けざまに再びさっきの風切り音が聞こえた、と思った次の瞬間には見つめ合った僕らの間をソレは走り抜けていき、木を撃ち抜く。間違いなく銃撃――!!そう認識した刹那、志村さんが『逃げろミキト!!』そう叫んで僕を突き飛ばすと、自分は素早く起き上がって、弾の飛んできた方角に猟銃を構えた。

 

 何せ咄嗟の事なので僕は上手く受け身が取れず、盛大に道を転がる羽目になったがそのお陰で正体の分からない襲撃者の射程から上手く逃げ出せたようだ。続けて鼓膜を打ち破るような轟音が炸裂、志村さんが撃ったんだと気付くより先に『ここは良い!お前さんは逃げろっ!!』と念押すように更なる怒号をぶつけられた。

 

『この先の沢を降っていきゃあ“研究所”に出れる!行って知らせてく――っが…!』

 

 しかしその言葉は最後まで続く事はなかった。薄闇の中から三度放たれた弾丸が彼を貫いたのだ。思わず脚を止めて振り返りそうになったが、左肩を撃ち抜かれた志村さんが『行けぇぇっっ!!』と怒号を張り上げたのと僕のすぐ脇の幹に4発目の弾丸が突き刺さったのがほぼ同時で、もうそれ以上は思考が及ばなかった。僕は追い立られるように踵を返し、脱兎の如く駆けだした。ガロが先導してくれる。

 

 俗に言う“熊の抜け道”、登山道と交差する小さな沢が掛かっている。もう迷う暇もなく僕は咄嗟に道を外れてそこ飛びこんだ。幸い水は殆ど張っていなかったが、大小の石がゴロゴロ転がっている沢路は走りにくい事この上なかった。ガロは気にせず全力で掛けていくけど、僕はそうはいかない。下手すると石に脚を取られ、盛大に転倒しかけたが構ってはいられなかった。いや最早走っているのか転がっているかも考慮せずにひたすら降りるルートを走り続けた。その間何発か猟銃の音が森に木霊し、僕を追い立てた。

 

 一体何が起きてるんだ――!生まれてこの方凡そ経験のない不可解な事態と感情に僕は盛大に戸惑った。こちらは単に幼馴染を探して山狩りしていただけだというのに突如放たれた一発の銃弾が間違いなく、人一人の命を奪った、たったそれだけが絶対の事実で後は何一つ分からない、という明らかな異常。それを目の当たりにして、今そこから懸命に逃れようと脚を動かす自分。この胸を激しく波打たたせるこの感情は恐怖だ。

 

 どれほど走ったかも分からない。そもそも人が走れるようには設計されていない生粋の獣道に何度も足を取られ、生い茂った木々や枝葉によって擦り傷だらけになりながらもひたすら沢を走り続ける事いかほどか…。漸く舗装された地面に脚裏が触れたと思った刹那、その硬い感触に体が付いていかず、バランスを崩した僕はその上に盛大に身を投げ出す羽目になった。

 

 咄嗟に衝いた掌と膝小僧の辺りがやけに熱い。ガロが慌てたように駆け寄ってくる。だが痛いという事はまだ生きてるって事だ、僕は荒い息を吐きながら顔を上げ――目の前の光景に息を呑んだ。

 眼前に広がるは“研究所”――プロメアセンターの威容とそこのかしこで上がっている黒煙だった。見ると正面玄関とそこに設えられたラウンジの大きな窓が全て割れており、煙はそこから上がっているようだった。ここも既に戦場になってる――!驚いて周囲を見渡すと先程僕らの頭上を通り過ぎて行った山岳救助ヘリが駐車場の一角に駐機している光景が目に入った。ここからだと少し遠いがその内部には明らかに銃器を持った重装備の人影。恐らくレスキューヘリに偽装してここまで接近したんだ、と気が付いた僕は咄嗟に見つからないように建物の陰にそっと隠れた。見つかったら確実に殺される――そう本能が囁いていた。

 

 この状況を見るに先程からの疑問の答えが一部分かった。即ち“襲撃者達”はどうやら研究所(ここ)を狙っているようだ…という事だ。

 だがそれでも誰が、何の為に、という疑念は依然残り続ける。確かなのはここに直接襲撃を掛けてくるという事は少なくともこの“研究所”の顔役――即ち父さんの身にも危険が及んでいるという事だ。無駄だと思うが懐にしまっていた携帯電話を取り出してみるが、案の定圏外状態で内部や警察に連絡を取るという手段には使えそうもない。かと言って今から山を下りて救助を呼ばせてくれるほど“襲撃者達”達も悠長ではない筈だ。

 

 さてどうするか…僕は歯噛みした。

 

 強行突破…はダメだ。敵の装備も数も分からないのに迂闊に突っ込んでいけばこんなインドア高校生1人なんてあっという間に蜂の巣になるのは火を見るよりも明らか。却下。

 

 適当な一味を一人ぶっ倒すなりして装備を奪い、成りすまして侵入する。前と同じく。それが出来たら苦労しない。却下。

 

 ダメだ、()()()()()()()()()()()()だと速攻で詰む未来しかない、と誰かさんが聞いたら全力でぶん殴られそうな事を考えながら僕は首を捻る。行動は慎重に、しかし悠長にはしてられない。握りしめた拳はじっとりと手汗で滲んでいた。

 

 あまりやりたくないけど…僕は建物の外壁の一角の通気ダクトをそっと見た。正面玄関がダメなら裏口を通るしかない……。一か八か腹を括るしかない、と僕はぶるりと肩を震わせて傍らの相棒の首筋をそっと撫でた。

 

 




なんかまたもアレなところで終わっちゃいましたが文字数の関係で今回はここまでです。
久し振りに幹斗と健輔の登場です。彼らの視点から語られるもう一つの事件の真実とは――?そこにご注目下さい。

それではまた次回。


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CHAPTER-3:『REjectionⅠ』- ⑧

 で結局今こうしている訳だ。

 

 狭い通気ダクトの中を這いまわりながら建物の中を進む。頼りは昔チラッと見た研究所の見取り図の記憶だけ、さしずめネズミだな、と皮肉気に思いながら僕は――正確には僕ら、か――は今こうして侵入に成功した。

 映画なんかだとよくある光景だけど実際にやると酷いモンだ。元より清掃なんかされていないダクト内は埃やら蜘蛛の巣やらが凄まじいし、なんだったらあまり考えたくもない物質と思しきモンも堆積してる始末。人間の僕でさえ咽そうなのだ、先頭を行くガロに至ってはさも不快そうに鼻をひくつかせている。

 それでも高校生の男子一人がなんとか通れるスペースがあっただけで僥倖というもの。僕は入り組んだ道を微かな記憶を辿りに進んだ。なんでそんな事が分かるのかというと昔“研究所”の図面を頭に叩き込んだ事があるからだ。特に他意はない、強いて言うなら趣味みたいなモンだ。

 

 ここだ、確か。どれほど時間が経っただろうか、とにかく息が詰まりそうなこの空間からさっさと脱出したい思いで咳き込みながら僕はダクト下部のグレーチングを跳ね上げた。一気に入り込んできた清浄な空気に少し肺が洗われるような心地を感じたが、いつまでも堪能してはいられない。携帯を素早くカメラモードも切り替えるとそれを下に繋がってる部屋に下げた。カメラに映る範囲に敵の姿は確認できない事にひとまず安心して僕はなるべく音を立てないようにゆっくりとダクトを出て、部屋に下りた。ガロは音ひとつ上げずにひらりと着地する。

 

 よぅし、ひとまず第一関門はクリア。僕は周囲を見渡した。機器に囲まれた部屋一面、金属質なデスクと応接用のテーブルにソファ以外は酷く殺風景で不愛想な部屋。テーブルの上に無造作に投げ置かれたビタミンゼリーの空容器とソファに置かれた毛布がこの部屋の主が仕事も寝食も殆どをここで済ましていた事が窺える。考えるまでもない……父さんの研究室だ。

 

 前に来たのは随分前の事だった筈だ。確か中学に上がる少し前くらいだったか。何を思ったかテツヤとキョウカ、それにユヅキと一緒に来た事がある。理由は……その日が僕の誕生日だったからだ。良いというのに余計なお節介を働かせた二人がわざわざここに行こうとか言って連れてこられたんだっけ。二人の気遣いはありがたかったのだけれど正直僕には少し気が重かった。研究の邪魔になるような事はしたくない、というのが表向きの理由だったけど…それ以上に父と向き合うのがこの時点で既に怖い事になっていたからだ。

 

 僕の父さん――山城慎吾。この村でその名前を知らない者はいない。それだけ良くも悪くもこの村は父の研究によって回っているのだと言って良い。

 

 この村の住民は大きく二つに分かれる。古くからこの村に土地と生業を持って生きてきた人達。そして“研究所”――プロメアセンターの開設に伴って新規に流入してきた人達だ。後者の人達は常駐の職員と一定期間で入れ替わる臨時職の人とに分かれるから必ずしも一定の顔ぶれはないけれど常に村の人口の半分は“研究所”の関係者という事になる。古くからの住民にとっても“研究所”の存在は切っても切り離せない関係にあるから、畢竟そこの主任である父の影響力というのは子どもの僕が思うよりも計り知れないものらしい。

 父の存在は村のどこにいても否応なしについてきた。村の大人達はこぞって自分の子ども達に「山城博士のような立派な人になるんだぞ」と言い聞かせてきたし、僕はどこに行っても「博士の子」だ、事実なのでそれに(いたずら)に反発する気も起きなかった…でも少しだけ重荷だったのは事実。

 

 僕にとって父は――山城慎吾という男は……確かにもっと幼い頃はもっと素直な憧れや尊敬の気持ちがあったのは絶対に確か。自分もいつか父のようになるんだ、と誰に強制される訳でもなくそう思えた…思っていた。自分で言うのもなんだが人より頭が良い自覚はあり、それはそのために天より与えられたギフトなんだと無邪気に思えるくらいの気持ちはあったのだ。でも次第に父に対する印象は「不可解」という言葉でしか語れなくなっていった。実は村の誰しもが山城慎吾博士という男が何者であったのかが分かっていないように――それと同じくらいには僕も言う程、父の事を知っている訳ではないのだ。

 

 幼い頃から二人きりの家庭だった。物心がついた頃より母の記憶はなく、いっそ成澤家との交流を持っていなければその不在を自覚する事もなかっただろう。ある日「僕の母さんはどこにいるの?」とそう尋ねたら父は振り返りもせずに死んだ、とただ一言……素っ気なくそう告げた。生硬いその声色に幼いながらにこの話題に踏み込んではいけないのだという事は容易に想像出来た。以降何かにつけて母の写真や思い出を探そうと試みたもののどこを探してもその痕跡は終ぞ見つからず、いつしか…ああ、本当に僕にはそんなものはいないんだって…諦めの境地みたいな気持ちが生まれた。結局僕にとって家族とは父だけの閉じた世界なのだと。

 

 そしてその世界は元より酷く寒く、寂しい世界だった。研究所にひたすら泊まり込み続け、たまに帰ってきても書斎に引きこもり続けるあの男に父親らしい事をされた事はない。特に小学校に上がる頃になるとそれはますます顕著になり、月に一度顔を合わせれば良いという状態になった。そんな様子を見兼ねて何かと気遣って面倒を見てくれたのが成澤一家だった。冗談でなく、あの人達がいなかったら僕はここにはいなかったかも知れない。

 

 話がずれた。そんな家庭事情だったから元より僕は父に多くのモノを期待したりなんかしなかった。中学生にもなるとますますその感情は強くなって遮二無二家事を覚えたり、不慣れを承知で幼馴染二人意外の人と関わってみようとしだした。父のようにはならない、そういう反発心からだったのだ。

 そんな感じだったからあの日もいつもと変わらない結果になると思ってた。友人のお節介を微かに恨みながら訪れた研究室でその日、父はソファで横になっていた。珍しく疲れた顔をしていて、いきなり訪れた僕達を見て目を白黒させていた。この男でもそんな表情するんだな、と漠然と思った事を覚えてる。

 

『今何時だ……というか何日だ?』

 

 覚醒するなりの開口一番にそれだ。キョウカが心底呆れたというような顔をして『5月17日です!』と語気強めに怒鳴った。

 そう聞いた父は今度は心底仰天したように身を竦ませて何か取り出そうと机の方に向き直りだした。明らかに不審げにごそごそ机を探っている父さんはなんだかひどくらしくなくて、明らかに動揺しているような素振り。見兼ねて『だから!今日はミキトの誕じょ――』そんな後ろ姿にキョウカが更に声を重ねようとしたが、途中で口を噤んだ。なんとか平静を取り戻したように振り返った父の手に何か小さい包み紙が握られているのに気が付いたからだ。

 

『すまん……渡すタイミングを完全に失くしていたよ…今更、とも思えてしまってな。誕生日おめでとう…それと、いつもユヅキの面倒を見てくれてありがとう…。ん、それだけ言いたかった…』

 

 それだけかなりどもりながらそう言うと父はまた気難しそうな顔をして机に向き直った。後ろの三人も虚を突かれたようにポカンとした顔をしていたが、一番驚いたのは僕自身だとこればかりは胸張って言える(キョウカが『威張って言うな!』とか叫びそうだ)。本当に今更ながらあの人がこんな事言ってくるとは思わなかったし、自分の中にもまだこんな事で胸がじんわりと暖かくなるような……そういう感情が残っているとは思わなかった。

 まぁ結論から言うと父との親子らしいやり取りはそれが最後だった。後はどんなにひっくり返しても何も思い至らないが、こればっかりは仕方ない。以降も変わらず身近な家族は6歳年の離れた“妹”とお節介な幼馴染二人に犬一匹、あとその周囲だけだった。けどそれで良かったんだ、距離とか時間とかそんなモノは結局のところ関係なくて、確かに繋がっているものはあるって――あの日確かに思えたのだから。

 

 また話が脱線した。少し前の時系列に飛び掛けた僕の意識を引き戻したのは『ウォン!』というガロの吠え声だった。僕は気を取り直して薄暗い部屋を隅々まで見渡し、無造作に投げ置かれた毛布を拾いあげるとそれをガロの鼻先に突き付けた。

 

『たぶん父さんのだ。これの匂い辿れるか?』

 

 ガロは了解した、という風に頷くとその匂いを頭に叩き込もうとするかのように毛布を嗅ぎ出した。理解の早い奴で助かるよ、と感心している間にもガロは痕跡を見つけたらしい、床に鼻を這わせて部屋の外に向かっていく。僕も続いて飛び出した。

 周囲に人影はない。少なくとも僕やガロが“検知”できる範囲には“敵”はいないと判断して良さそうだ。ガロがこっちだよ、というように走り出した。その先にあるのは確か……ここから先は流石に機密だとかなんだとかでうろ覚えなのだけれどけど…確かこの“研究所”の中枢である《コア》――そう呼ばれてる――とその制御室がある筈だった。何か猛烈に嫌な予感がするな、そんな感触を抱きながら僕はガロの後を追った。

    

 

・・・・・・・・・

 

 

「…どうでも良いけどお前やたら話が回りくどいな…」

「うるせぇ放っとけ。慣れてねんだよこちとら…」

 

 健輔がボソリ、と呟く。それに対して幹斗は心外だな、という風に口を尖らせた。そんな表情はやたらと年相応で健輔としては少し意外だった。これまではどこか厭世的で醒めたような表情か、世間を騒がす凶悪なテロリストを演じるための狂暴な一面か、とにかくそんな山城幹斗ばかり見てきたが今のコイツは下手すれば24歳という実年齢よりも幼く見えるようだった。そう言えば――と渋い顔をしている幹斗を見て漸く合点が行った事がある。

 

「……そういえばお前、てっちゃん…哲也とは同郷の幼馴染なんだよな?」

 

 そう言えば前にホテルで目覚めた時にそんな話をした気がするが、あの後すぐに乱闘劇になったせいで結局聞けず終いのまま有耶無耶になっていた。幹斗は自分と哲也が知り合いだった事を随分と驚いているようだったし、自分も自分で哲也と幹斗がよく知っている間柄なのだとしたらたぶんあの事件の関係者ではないのか……と思っていたがまさか図星だったとは…。世界って案外狭いんだな、と呆れがちにそう思った。

 

「そんなモンさ。小学校に上がる前からずっっと……な…。――まぁ、腐れ縁だよ」

 

 懐かしむように幹斗は目を閉じてそう言った。あぁ、そうか。健輔は得心が行った。コイツがやけに子どもっぽい表情をする時ってのは…哲也や他の親しい人――確かキョウカとかユヅキって名前が出てきてたな――の話をしている時だ。遥か遠くの星を覗き込むような、どこか遠い場所に想いを馳せているような……そういう表情。

 

「アイツがずっとどうやって生きてきたのか…ずっと気になってたけどまさかこんなに早く出くわすとは思ってなかったよ。全く悪いことってのはするもんじゃないよな……」

 

 酷く深い溜息。それだけで以前哲也と出くわした事が幹斗にとっても想定外の出来事だったのだと分かる。多分哲也もこんな形でかつての親友と再会するとは思っていなかっただろう。

 哲也があかつき村出身者なのは会った時から知っていた……というか学校で知らなかった者はいなかった。中途半端な時期に編入してきた事や前にどこの学校にいたのかを頑なに言わない事とか…察するには十分だった。当時はあの事件で日本中が大騒ぎになっていたというのもあってイヤでもその当事者への注目度は高かったから。……主に悪い方向で。

 

 比喩でなくあの事件を経て世界は変わってしまったように思えた。チェルノブイリ原発事故や東海村JCO臨界事故に次ぐ新エネルギー事業が引き起こした大事故。加えて何が発生したのかどうしてそうなったのか、確かな事は何一つ分からないまま、残されたのは不明瞭な疑惑と不可解な“結果”ばかり。国民は総じて疑心暗鬼に陥ったし、生活への打撃も大きかった。特に観光業は訪日外国人が大幅に減った事でかなりの損失を出したというし、特に内外を問わずあかつき村を擁するX県への風評被害は暫く続いた。同調圧力的になんとなく国全体に蔓延した自粛ムードや医療現場の混乱なんかも重なれば否が応でもストレスは溜まり、時にそれは歪な方向に発露されるものだ。

 これからはエネルギー事業でも日本は世界を牽引していける――そんな未来もあるかも知れないという漠然とした希望が文字通り丸ごと消し飛んでしまった光景を目の当たりにすれば2000年代に入ってからひたすらの先の見えない不況地獄に文字通り止めをさした格好になってしまい、期待は一瞬にして失望へと変わった。そしてその失望は――日々のストレスと併せて歪んだ方向に発露したのだ。

 

 それは哲也も同じだ、齢16かそこらで世間の掌返しと謂れのない風評に晒されれば人心も腐るというモノで健輔が初めて会った時の彼は酷く荒れて、周囲から孤立していた。決して同じとは言わないけど複雑な家庭事情やら何やらで同じように学校に居場所のなかった当時の俺達――元山や恵麻、一学年下のアニク――に気が付いたらアイツも混ざっていた。きっかけはよく覚えてない、確か元山と乱闘騒ぎ起こして、結果雨降って地固まるに至ったような…。そのくらい俺達にとってはなんて事のない日々の一部だった。

 

 心を開いてくれれば哲也とは存外すぐに仲良くなれたし、何より本来のアイツは明るくてノリの良い奴だった。色々複雑で屈折してて。ねじくれてる俺達とも上手くやれてたのはあの屈託のなさが大きいだろう。俺らと違って本質的に育ちが良いんだろうな、とそう思ったからこそ哲也の中に大きな傷としてあの事故が残っている事に胸が痛んだ。

 

 そんなアイツの心に影を落としたあの事件が……そのきっかけが事故でもなんでもない、人為的に引き起こされたものだったとしたら?

 

 前に幹斗は「あの日村は新しい世界の扉を開いてしまった」そう言っていた。そのきっかけになったのがあの謎の“霧”の正体ではないのか、と自分の体にもおかしな変異が起きた今では思う。しかも現状聞いている限りだとあの爆発が起こる直前に正体不明の武装集団がプロメアセンターを襲撃していたという。だとするならば――!?

 

「ご明察。アレを引き起こした真犯人がそいつらって訳さ。“神樂”って組織の回し者共だよ…」

 

 カグラ…?聞き慣れない単語に眉を顰める。幹斗は苦笑すると「この国の裏社会の象徴みたいなモン…そう言ったら信じるかい?」と続けた。

 

「戦後の混乱期に生まれたマネーロンダリング機関……。自らは決して出ては来ず、陰の世界から表の世界を操る“裏の帝国”――それが奴らの正体だよ……」

 

 なんだよソレ…?と一昔前のサスペンス小説みたいな話に健輔が絶句していると気付いているのかいないのか、幹斗は「おっと話の途中だったな」と気を取り直すように口を開いた。

 

「あの日親父は殺された。そして俺は人間じゃあなくなった…それが全ての始まり…」

     

・・・・・・・・・

 

 ガロが我先にと疾る。僕は息せききりながらそれを追う。

 

 “研究所”の中は静かだった。静かすぎる、と言っても良いかも知れない。危惧したようなあの謎の武装集団と鉢合わせして、なんて事態には今の所至っていない。携帯を確認すると依然としてアンテナは一本も立っていない、手近な部屋に飛び込んでそこで見つけた電話の使用を試みたが、こちらも通信不能だった。この分では緊急通報ブザーの類も無力化されているだろう。恐ろしく用意周到な犯人だ、この″研究所”のメインシステムどころか外部の人間には知り様がないバックアップシステムまで掌握されてる可能性がある。

 

 この点から推察出来るのは襲撃者達はそれなり以上に手練れたプロの武装集団だという事。もう一つは建物全機能を手中に収める程の大部隊ではなく、必要最低限度の人員で来ている、という事だ。

 

 だがそれでも何のために?という疑問は残る。テロリストが原発を狙って攻撃を仕掛けてくる、なんてシナリオだったら映画とかで腐りきってウジの一匹も湧かないレベルであるけど、ここはあくまで核融合炉の実験施設だ、仮に暴走して核爆発を起こすなんて事はない。

 そもそもあの武装集団はテロリストかなんかなのだろうか。勿論僕はミリオタじゃない、装備を見ただけでそれがどこの国のなんて武器なのか言い当てられるほど精通している訳ではない。が、それにしたってヘリ周辺で見かけたあの連中の装備は少なくともしっかりと整備がされているように見えたし、動きも統率されていた。断言は出来ないが無法者の類のような気はしない。

 だが細かい所をついていけばキリがなく、正直敵が何者であるのかはこの際後回しにせざるを得ない。重要なのはここが狙われていて、止めないといけないというその一点だ。そうしないと大変な事になる――それが具体的になんなのか、なんて分からないけれど。その思いだけに衝き動かされて僕は必死に脚を走らせた。

 ガロは探知した父の匂いを猶も辿っている。この先は《コア》が存在する場所だ、やはり父は中枢部にいるようだ、同時にガロは何か他の気配も探知しているようだ、落ち着きがなさそうに耳を伏せて、慎重に匂いを嗅ぎ取っている。

 それで僕は漠然と父はどうやら襲撃者達に連れていかれたらしいと察知した。確証がある訳ではない、ただこの施設の事を誰よりも良く知っているのが父であり、敵が目的はなんであれこの施設を手中に収めたいのならば真っ先に狙うのはあの人だろう。

 

 “研究所”の中枢は《コア》と呼ばれるエネルギー反応を生成する装置がある炉心とそれの観測や制御を行うブレインルームで構成されている――あくまで図面で見ただけ、流石にそこまでは僕も行った事はない――。何かこの研究所に“用”があって父を狙うならブレインルームの方に連れていく筈だ、と予測を立てた僕は直接部屋に殴り込みを掛けるような愚は犯さず、様子を窺うためにも再度(四苦八苦しながら)通気ダクトに潜り込んだ。図面の記憶が確かならここからブレインルームの方に繋がってる筈だ。

 

『ガロ』

 

 ダクトに体を滑り込ませるとその下で所在なさげに立っている愛犬に向かって僕は小声で言った。『様子を見てくる。何か怪しい動きがあったらすぐに吠えて知らせてくれ。見つかったらすぐに逃げろ、良いな?』

 

 流石にこれ以上はガロは連れてはいけない。最悪武装した連中と一戦を交えなければならない可能性だってあるのだ、いくら何でもこの忠実な愛犬を巻き込む事は出来なかった。ガロが不満そうに小さく吠えた。完全にこっちの事を分かっているらしい、いつもの事ながら思うが不思議な犬だよな、と思う。

 

 少し話を脱線させて欲しい。ガロは僕が物心ついた時から既にいた。以来僕のお守りみたいなものだ。犬は自分より小さな人間の赤ん坊を守ろうとするというがアレは本当だと思う、このガロがそうなんだもの。

 

 僕が16歳になったという事はコイツは既に14歳くらい。人間で換算したらとうに70歳以上のおじいちゃんなのだ。シベリアンハスキーの寿命は長くても15歳くらいだと言われているからいくら元気でも、もう長くない事は分かる。それほどの時を刻んで生きているからか、こうやって時折人の言葉を介せるのでは、と感じる時がある――というか僕は半ばそう信じていた。

 

 飼い主のエゴかも知れないがせめて危険のない所に行って欲しい。けどそんな僕の“思い遣り(大きなお世話)”なんかとっくに見透かしているんだろう、ガロは耳を伏せて低く唸った。

 

『心配するなよ、生きて帰るさ。じゃな』

 

 なんだかそれ以上はガロの顔を見るのが忍びなくて僕は逃げるように通気口の蓋を閉めると中に潜り込んだ。ガロは不服そうだったが吠えはしなかった。最後の最後までこんなバカな飼い主に忠実な愛犬にそっと心から感謝を告げると僕は相も変わらず噎せ返りそうな通気口の中を進んだ。

 

 ま、ガロのためにも無事に戻んなきゃな、そう決意すると少しだけこんな時なのに少しだけ笑えた。

 




またエラク中途半端になってしまいましたが、流石にちょっとこのパート長すぎて分割にも限度があるので中途半端は承知でここで切ります。
なるべく早く次話を投稿できるように頑張りますんでヒラにご容赦を…。

それではひとまずまた次回。

次回は少し早くします…多分。そうであって欲しい。お願い…!


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CHAPTER-3:『REjectionⅠ』- ⑨

 文字通りの這う這うの体で進む事…何分くらい経っただろうか。記憶が確かなら――業腹な事にそれについては無駄な自信がある――そろそろ制御室の上あたりに来てる筈だけどな、と僕は下に通じてそうな所を探った。

 

 音を立てるといけないな、と思いつつ慎重に手を這わせると微かに下の方から声が聞こえた。人の話し声だ、と咄嗟に理解した僕はすぐさま聴覚に全神経を注いでその声を聞き取ろうとした。

 

『Insa――ty…so―ds li―― som――ng he would th―― of...』

『No need to t―k non――se, Doctor? Co――ng wi―― us.』

『Why don't y―― at l―――t put d――n guns?』

 

 英語な上に所々歯抜けで何を言っているのかよく聞こえない。だが少なくとも穏やかな会話ではなさそうだ。声の主は間違いなく一方は父さん、もう一方は女の声だと知れたが他にももう一人の気配を感じる。圧倒的に分が悪い、それだけは確かだという事は分かるのだが、会話の流れから察するに相手は銃を持っているようだという事、そしてそれが現在父に突き付けられていている事。その二つが僕を無性に焦らせた。

 聞こえてくる父の声は落ち着いてはいたが微かに焦燥が感じられた。それに対して声の主の女はどうやら『一緒に来なければ撃つ』とそう宣言しているようだ。グズグズしている時間はない、そう判断した僕はわざと通気口の床(?)を強めに叩いた。ゴンゴンという鈍い音が反響する。

 当然それは下の階にも響いたようだ。僕には見えなかったが制御室では突如響いた音に女は警戒するように身を硬くして手に持ったハンドガンを父に向けた。その間女の背後に立っていた男が探る様な視線を天井に向ける。

 

『What did you do? I told you not to resist in vain!(何をした?無駄な抵抗を…!)』

『Huh?Maybe a rat or something passed through it?(はて…?ネズミかなんかだろう?)』

 

 女が父に向って詰問し、当の本人はどことなく惚けたような口調でそれを受け流した。その態度に腹を立てた女が『ふざけるな!』と激昂したのが分かった。というか日本語話せたのか…その語気の強さに僕は少し身を竦めた。

 

『There's someone in there. Check the vents.(何かいるわ。通気口よ)』

 

 女が後方に控える男にそう命じた。男が疑わし気な眼差しで父を見ていたが気を取り直したように背を向けるとゆっくりと通気口の方に近づいてきた。マズイな、と僕は焦る。今僕がいるのは点検口のすぐ近く、男が今その蓋を開けたら絶対に鉢合わせする。下がろうにも今更遅いし、下手に動いて音を立てたら確実に怪しまれる。文字通りどん詰まりに陥った自分の愚かしさを呪いたくなってくる。男がなんとか足場を組んで通気口の蓋に手を掛けようとする

 だがその刹那、静寂を破るように太い声が聞こえてきた。犬の声――?急に響き渡った場違いな獣の声に室内にいた一同は一瞬そっちに気が向いた。だが僕にはハッキリと分かる、多分あの勘のいい相棒がくれた援護射撃だ、なればチャンスは今しかない――!直ちにそう判断した僕は一気に通気口の蓋を開け放った。

 

 その瞬間にすぐ下にいた男と目が合う。突然現れた子どもの存在に男は面食らったようで、それを隙にして僕は一気に通気口の中から飛び出した――というか思いっきり頭突き。いきなりの反撃にバランスを崩した男の体が傾ぐのを見逃さずに僕は飛び出した勢いのまま男に全体重を掛けて圧し掛かった。そのまま均衡を完全に失った男は大きく態勢を崩したまま、受け身を取る暇もなく床に叩きつけられ、ぐったりと動かなくなった。生きているのかそれとも…気にならないでもなかったが僕の優先順位はそこじゃあない。僕は男が握っていた拳銃を抜き出すと躊躇うことなくそれを女の方に向けた。

 

『動くな!』

 

 狭い室内に酷く上ずった声が木霊する。女の表情は色の濃いサングラスに阻まれてハッキリとは分からない。だが突然の事態に明らかに動揺するように顔を青くしていた。僕と女の視線がぶつかり合うように交錯する。

 

 英語を話していたからてっきり外国人かと思ったが目の前の女は東洋人風の容貌だった。年齢は……暗がりでよく分からないが凡そ20代半ばと言った所か。女から少し視線を外して脇で倒れている男を見やるとこちらは30代くらいの白人の巨漢。如何にも軍人と言った風情の服装で二人とも同じ規格の装備品を身に着けている。テロリスト、と言った風じゃあない、ならコイツらは一体何者だ…?額をイヤな汗が伝う。

 

『幹斗……』

 

 女に拳銃を突き付けられても全く動じていなかった父さんがこの時ばかりは心底驚いた、というように呟いた。それを聞きつけた女が納得したように僕の方に向き直る。その間も銃はしっかりと父さんの方に向けられたままだ。

 

『そう…貴方が山城幹斗ね…?』

 

 得心がいった、とでも言いたげにルージュを引いた唇を艶やかに歪める。そんな場合じゃないことくらい分かっている筈なのに思わずドキリとさせられた。

 

『Fools rush in where angels fear to tread……(飛んで火にいる夏の虫…ね)』

 

 女が不敵に微笑む。なんて言ったんだか分からないが確実に良からぬ事を企んでいるのは明らかだ。僕は思わず『余計な事言うと撃つぞ、警告じゃない…!』と叫んでいた。自分でも酷く上ずった声だと思うが…。

 

『You fail at the last minute, didn't you, boy?Should have at least learned how to use a gun.(詰めが甘かったわね、ボウヤ?銃の撃ち方くらい覚えておきなさい)』

 

 酷薄な声で女は言った。言葉の意味はハッキリとは分からないが警告を意味しているという事はよく分かった。この余裕はなんだ…と僕の戸惑いを余所に女は悠然と佇んでいる。

 

 クソ、撃てないと思って舐めてるのか…!カッとした僕は迷ってる場合じゃなさそうだ、と判断して拳銃のトリガーを引き絞ろうとした――がそれはまるで万力を嵌めたようにビクともしない。

 しまった、安全装置を外すのを忘れていたのか…!漸く女の言っていた事の意味が理解でき、つくづく己の中途半端さを僕は呪った。急いでそれを外そうとして思わず女から視線を逸らしてしまったのもいけなかった。気が付いたらいつの間にか懐に飛び込んできた女の手が電撃的に動いて僕の手から銃を叩き落としていた。掌に雷が落ちたような感覚に僕は呻く。その隙に女は僕の背後に回り込み、そのまま片腕を捻り上げると側頭部に硬いもの――拳銃を押し当てた。

 

『Now, what are you going to do, Doctor? Either I leave my son to die, or calmly comes with us...Choose between the two.(どうするかしら博士?このまま息子さんを見殺しにするか大人しく私達と来るか…二つに一つよ?』

 

 僕の動きを封じつつ、女は柔らかな、しかし有無を言わさない口調で父さんにそう告げた。状況的に勝ち誇ってもおかしくはない筈なのに口調は至って冷静だ。 父さんは額に冷や汗を浮かべていたが、なるべく思考を読ませまいとしているのか努めてポーカーフェイスを装っている。

 

『Soon, a detachment unit will be heading to the village as well. With that, our mission will be accomplished. If you don't want to incur unnecessary casualties, don't resist in vain, okay?(間もなく村の方にも仲間が行くわ。それで任務は達成よ、余計な犠牲を出したくなければ無駄な抵抗はしない事ね?)』

 

 その態度を反抗の意と見做したのか女が更に畳みかけるようにそう告げた。その口調に僅かな焦りが混ざるのを僕は聞き逃さなかった。だがそれは父さんも同様でその言葉を聞いた途端に真一文字に結んでいた口元が微かに歪んだのだった。

 

『この子らは…村の人達は無関係だ…!何を勘繰っているのか知らんがそちらこそ無意味な事はやめたらどうだ!?』

『We'll decide whether it's irrelevant or not. In any case, there's not much grace, right?(それは私達が判断するわ。いずれにせよあまり猶予はなくってよ?)』

 

 父さんは英語をかなぐり捨てて女に向かって怒鳴った。女も苦虫を噛み潰したように唇を歪めてそう絞り出す。出来ればこんな事はしたくない…とそう言っているように思えた。

 この女は一体何者なんだ…?一方僕はと言えば父さんとのやり取りを聞いて今自分に銃を突きつけるこの襲撃者の正体を掴みかねていた。猶予がない、とか煽る様な事を散々言っておきながら発砲するどころか指の一本でも捻り上げる気配すらない。あくまでそれは最後の手段でまるで父さんに何かを訴えかけるような切実な雰囲気さえある。

 

 研究所を狙うテロリスト?それともどこかの外国企業の産業スパイか何か?どれもしっくり来なかった。それでも一つ会話の流れからなんとなく分かるのはコイツを放置しておくと村が襲われかねない、という事だ。

 

 そんな事はさせない…。あそこにはユヅキやキョウカが…僕の「家族たち」がいるんだ。少なくとも人の研究所で堂々と武器を振りかざし、久世さんを殺したような奴らを村にいれる訳にはいかない…!混乱する頭の中でそれだけはしっかりと判断した僕は意識して体から力を抜いた。急に弛緩した感触に女が戸惑うのを見逃さずに僕は首に下げていたペンダントの先端を口に含んで思いっきり息を吹き込んだ。が、しかし何の音もならない。

 

『なんだ!?何をしたの?』

 

 僕を拘束している女が突然の不審な行動に驚いたように僕の耳元で怒鳴り、締め上げる手に力を籠めた。更に強まった手首の痛みに流石に僕は呻いたがもう遅い。女が僕の行動に気を取られたほんの数瞬。その隙にこちらの意図を察した父さんが制御室の入り口のハッチを開ける操作をしたのを僕は見逃さなかった。

 次の瞬間、人のモノとは異なる気配が部屋に飛び込んできた。それ――ガロは直ちに目の前の状況を理解したらしい、『アタック!』という僕の叫びに呼応するように背後から女の肩に体当たりを仕掛けた。突然の衝撃に女が呻き、一瞬拘束が緩んだ。その隙に僕は遮二無二手を動かして女から拳銃を奪い取る事に成功した。

 

『ナニを…!』

 

 だが女の方も負けじと腰に下げたナイフを抜刀し、突然の襲撃者に応対しようとしたが犬の機動力は並大抵のものではない、それこそ人間の動体視力ではおいそれと捉える事は出来ないだろう。ガロはすり抜けるように女の間合いを掻い潜ると背後に回り込んで再びタックルを仕掛け、それで女の態勢が崩れたと見るやナイフを奪い取るように右手首に犬歯を立てた。

 女が小さく悲鳴を上げてナイフを取り落とす、すかさず僕がそれを部屋の隅に蹴り飛ばした。同時に先程奪い取った拳銃を父さんの方に投げ渡す。見事にキャッチした父さんがすかさず女の方に銃を向ける。

 

『今度こそ形成逆転だ…』

 

 僕の叫びに女が歯噛みしたような表情で睨みつける。当の僕はと言えばまた掴まっても困るのでガロと一緒に女から距離を取って部屋の片隅に陣取っていた。

 暫し睨み合いの硬直。やがて女がその口元をグニャリと歪めた。屈辱と賞賛が混ざり合ったような…なんとも言えない笑みだ。

 

『What you did to me caught me completely off guard... I never thought he'd been so tamed...(完全に油断していたわ…まさかここまで飼い慣らしていたとはね……)』

 

 明らかに揶揄する口調。この期に及んで何言ってるんだコイツ…と僕は身を硬くする。どう見てもこちらに圧倒的に有利な状況下であるにも関わらず、女はまだ次の手を切る事を考えてるようだ。そこにはある種の執念すら感じる。僕はゾクリと肌を粟立たせ、ガロが牽制するかのように低く唸った。

 

『Would have preferred to resolve the matter as amicably as possible. But under the circumstances, we have no choice...(なるべくなら穏便に解決したかったのだけど…この状況ならもう致し方ないわね…)』

 

 女はそう言うとジャケットの懐からナニカ…小さな筒状の物体を取り出した。一見するとボールペンのような、しかし複雑なモールドが施された奇妙な機械。なんだ、と確認する間もなく女はその上部にあるスイッチを押し込んだ。

 瞬間、ズン!という轟音とそれに一拍遅れて突き上げるような衝撃が制御室を襲った。地震みたいだと思ったのも束の間、けたたましいブザーの音が部屋中に鳴り響き、赤い警告灯が激しく明滅した。緊急事態を知らせるアラーム……!?

 

『――ッ…!なにをした……!?』

 

 父さんが銃を向けたまま、女に怒鳴った。女は口元に微苦笑を刻みながら『It's a last resort...(最後の手段よ…)』と呟く。

 

『If you insist on resisting, we don't mind destroying the entire laboratory...we have been given that authority...(貴方が抵抗を続けるのならば、破壊して構わない…私達にはその権限がある…)』

 

 言葉の細部までは正確には分からないものの端々に混ざった物騒な単語の数々からコイツ等がこの“研究所”を爆破しようとしている事が窺えた。それでこの武装集団が“研究所”を占拠するか、それが叶わないなら破壊する事を目的としているのだと分かった。だがそれでも何のために…?という懸念は消えない。何度も言うが原発と違って破壊した所で放射線物質を撒き散らすようなリスクはないのだ、女たちのやる行為にはつまり何の意味もない。

 警報音だけが鳴り響くなか、睨み合う父さんと女。やがて父さんがフッと微笑み、銃を降ろした。

 

『Hmm...I guess that's how determined he is... But I can't let him do what he wants...!(ふむ…それほどまでの覚悟か…。だが…思い通りにはさせない…!)』

 

 父さんがそう叫んだ。手にした銃を背後のコンソール群に向けたと思うと一抹の躊躇いもなく、発砲してみせた。一発では終わらない、二発三発と続けて銃弾が吐き出され、制御室のシステムを司る機器が破壊されていく。

 

『Have you gone crazy...!?(貴方…正気なの…!?)』

 

 突然父さんが取り出した不可解な行動に戸惑ったのは何も僕だけではない。女もまたただでさえ冷や汗を浮かべていた顔色が生気が失くなるほど青褪め、次の瞬間には父さんに飛び掛かっていた。女に圧し掛かられそのまま床に斃れる父さんとそのまま胸倉を掴み上げ、何か怒号を叫ぶ女。もつれ合いながらも必死の形相の女に対して父さんはどこか余裕のある表情を浮かべていた。

 なんなんだこの状況は…?だが流石に戸惑っていられたのはほんの数瞬だ。とにかく加勢しなければ、と判断しガロと共に駆け出そうとした次の刹那。劈くような乾いた音が制御室に静かに、激しく木霊した。硝煙の匂いが鼻孔を擽る。

 

 聴覚と嗅覚にやや遅れて視覚が捉えたのは口から血を吐き出した父さんの姿、そしてそれを驚愕の表情で見ている女の姿だった。『Oh my god......』呆然と女が呟く。

 

『ふふふ…もう…完全に遅いよ…。私の…勝ちだ…』

 

 拍動するように血が噴き出る腹部を抑えながら父さんが静かに呟いた。誰に聞かせるでもなく自分の心の内にそっと吐き出すような声だった。その口元から新たに血が溢れる。

 

『Don't be silly...!(ふざけるな…!)』

 

 女が口角泡を飛ばす勢いで激しく怒鳴った。最早先程の怜悧さもかなぐり捨てて倒れている父さんの体に掴みかかり、力任せに揺さぶる。

 

『Stop this stupid behavior now...! Otherwise...or else...! !(今すぐこんなバカな事止めなさい…!さもないと…さもないと…!』

 

 今にも決壊しそうな程必死の形相。だが父さんはそんな女の声など意にも介さぬように…いやもしかしたらもう聞こえてすらいないのかも知れない…。

 

『これで良い…。種は蒔かれた…後は芽吹きの日を待つだけだよ…蘭奈…?』

 

 ただでさえ血が溜まった口腔から吐き出されるせいでその言葉はどこまでも不明瞭だし、それ自体どこか譫言のような響きさえあった。だが最後に言った言葉はハッキリと聞こえた。蘭奈――こんな時になんで()()()()を出すんだよ…と僕は戸惑った。だが唯一間違いがないのは父さんの命がもう風前の灯だという事、その一点。その事実にどうしようもなく寄って立つモノが全て抜け落ちていくような感覚に捕らわれた僕は最早女の事すら目に入らなくなり、父さんに駆け寄っていた。

 

『父さんっ…!!』

 

 僕は女を突き飛ばして父さんに縋りつく。女も女で完全に僕の存在を失念していたらしい、暫し呆然自失と僕らの様子を見守っていた。腹部の傷口を手で抑えながら僕は何度も父さんを呼んだ。僅かに息はある、だが最早声すら届いていないようでその目が開く事も無造作に投げ出された掌が動く事もなかった。命が消えかけている…残酷な程ソレは明らかだった。

 

 皺がれた絶叫が響き渡る。それが僕のものだと気が付いたのはそれから数刻遅れての事だった。ガロも喉を鳴らすように小さく啼いた。その間も依然何かしらの警告音が響き渡っていたがもう僕の耳には届かなかった。

 

 ――君にもいろんな事情があるのは知ってる。だから別に無理にとは言わないよ。

 ――でもさ…話せるうちに家族とは話した方が良いよ。不満でもなんでも吐き出しちゃいなよ。良い子でいる必要なんてない。

 ――人は死んだらどこにも行かないんだよ。消えていなくなっちゃうだけ。

 ――あ、別に変な意味じゃないよ?縁起でもなかったらゴメン。でもいつまでもあると思ったら駄目。あたしから言いたいのはそれだけだよ。

 

 …あの誕生日。突然研究所に行こうとお節介な二人(キョウカとテツヤ)が言い出した時。ひたすら渋りまくる僕にキョウカが珍しく神妙な顔になってそう告げた。別にそういう日が今にも来るとか言いたい訳ではなくて、要は話せるうちに親父と少し話せ。ぶちまけられるモノはなんでもかんでもぶつけてみろ――と。彼女はそう告げた。

 

 帰り路。ドヤ顔浮かべて『ほら。あたしの言った通りだったでしょ?』とか得意げに突っかかってきたキョウカを軽く小突きながら、でも僕はちっともそんな風には考えていなかった。僕にとってはとっくに失せたと思っていた父親――肉親への情を再確認出来た事だけが全てで彼女の忠告を深く受け止めていた訳ではなかった。

 

 僕はまだ無邪気に信じていたんだ。ここから始まるんだって。終わりなんて来ないって、どこかで、なんの根拠もなく。ましてやそれが今日来るなんて想像も及ばなかった。

 

『――おい!なんでだよ…起きろよ親父っ!!お、…ゃ――父さん……!』

 

 起きてよ…。そこから先はもう言葉にならずに喉から吐き出される事もなかった。不思議と涙は溢れなかった。ただ乾ききったような、ささくれ立った感情だけが僕の全身を呑み込んでいくのが感じられた。

 

 だが不意に僕の意識はそこで現実に引き戻された。襟の辺りを急に掴まれ、座り込んでいた身体を無理矢理引き起こされる。気道が詰まる感触にウッと唸りながら、背後を振り返ると険しい表情を浮かべた女が立っていた。顔中に怒気を浮かべながらもなんとかそれを堪えるように歯を食い縛らせ、『立て!ボヤボヤするな!』そう怒鳴った。

 

『ここはもうヤバいわ、貴方も死にたくなっかたら私達と来なさい!』

 

 意外に流暢な日本語。一息に捲し立てながら無理矢理にでもそのまま僕の手を引いて走り出そうとする。だが――()()()()()()()()()()()()()()――その言葉に堪えようがない程に峻烈な怒気がこみ上げるを感じた僕はピシャリと女の手を振り払った。怯んだのを見逃さずに僕は父さんの傍らに落ちていた拳銃を拾い上げ、躊躇うことなく女に向かって発砲した。直後手に雷が落ちたような衝撃に襲われ、僕は耐え切れずに床を転がる羽目になったが、放たれた銃弾は一応女の肩に刺さった。

 

『――ナニを……!?』

 

 幸いなのかなんなのか、防弾仕様らしいジャケットを貫通する事は叶わず、弾は僅かに女に食い込んだだけだった。それでも脱臼くらいはしたのか、肩を抑えながら痛みに呻く女が信じられない者を見るような目で僕を睨みつけた。何とか態勢を立て直しながら僕は『出てけっ!!』そう怒鳴っていた。

 

『話を聞きなさい!ここはもう堕ちるわ…そうなる前に私達と――』

『話す事なんかないっ!今すぐここから出ていけぇっ!!』

 

 バカなガキだって嗤うかい?自己弁護じゃあないけれどあの時はそれくらい冷静な判断力なんてなくて、とにかく親父を殺したコイツ等に縋って、おめおめと生き残るくらいなら――とそんな感情的な思考が大半を占めていた。

 そういう訳で冷静な判断力を欠いた僕は再度銃弾を発射した。一発じゃない、二発三発と続けて、だ。生憎な事に弾は前段外れて床や天井に刺さりまくり、女には掠めもしなかったけれど、女を怯ませるには十分だった。あの女はそこでもう説得は無理と判断したのか…直前に受けた通信でもう時間がない事を察知したのか…『ええいっ!』と吐き捨てて踵を返して、制御室から飛び出していった。最後に名残惜しむかのようにこちらを振り返ったのはよく覚えてる。

 

 女が飛び出していったあと、今になって掌に強烈な痛みが襲い掛かってきて僕は呻きながら膝をついた。最早何をしようという気力もなく、ただただ――途方に暮れていた。ガロが駆け寄ってきたのは辛うじて分かったけど、それに対してなんて返したら良いかも分からず。

 

 それでもガロはしきりに僕の頬や掌を舐めたり、耳元で吠えたりして何かを訴えかけているようだったけれど、僕はそれに反応する気力もなかった。ただ僕もまたここで死ぬんだろうな…と、女の言葉を思い出してふと思った。なんでこんな事態になってしまったのか、それは分からないままだったが今となってはどうでも良い事だった。まるでナニか心を司る重要な部品が抜け落ちてしまったかのように…。

 弛緩して碌に感覚の分からない手を動かしながらガロの顎――ガロがそうされるのを好きな所だ――をそっと撫でた。行けよ…って、そう小さく声が漏れた。僕はここに残るから、お前はどこでも好きな所に行って良いよ、と伝えたつもりだったけどガロは梃子でも動かない。終いにはしっかりしろ、と言わんばかりに僕の手首の辺りに歯を立てたのだった。

 

『イテッ…!』

 

 荒療治だったけれどそれが覿面に効いた。弛緩しきった身体に走った痛みが神経を覚醒させ、僅かに流れた血の熱さがまだ生きてるんだって事を思い出させてくれた。我ながら単純だけど、何とかまだ痺れの残った肢を震わせて僕は立ち上がった。

 

 周囲の状況を確認する。何かしらの警報音が室内中に鳴り響いているのは分かったがそれが何を警告しているのかは分からなかった。この警告音は父さんがいくつかのコンソールを破壊したのと同時に始まり、女――必要となれば破壊も辞さないと言っていた――は明らかにその事態に戸惑っていたようだった。なんだか分からないが女の台詞も勘案するとこれを止めないとこの“研究所”が「堕ちる」可能性があるらしい、という事。なんとかして止めないと……と必死に頭を巡らせながら僕はコンソールに駆け寄って無我夢中でまだ生きているシステムを探った。だが結局のところ、大半の機器は既に無惨に破壊されており、何をどういじくろうとも反応すらしなかった。『クソッ!』と僕は毒づいて割れたモニターをぶん殴った。

 そもそも親父はなんだってこんな事をしでかしたんだ…?という疑問が頭を掠めた。いや厳密には親父が何をしたのかなんて良く知らない、ただこのコンソールを破壊したら 警報音が鳴り響いて女が取り乱した、ただそれだけだ。女が“研究所”各所に爆弾を取り付けてここを爆破しようとしたまでは分かるのだが、それに輪を掛けて親父の行動はワケが分からない。なんなんだよ一体……と何度目か分からない舌打ちを漏らすと…ふと背後で何かが灯るのを感じた。

 

 僕は振り返って目を見開いた。

 

『父さん……!』

 

 そう、誰あろう父さんだった。但しそれは生きている父さんではない。依然として彼の肉体は冷たい床の血溜まりの中に静かに存在していたからだ。“それ”は警告灯の光で赤く明滅する室内の中に悠然と佇んで、半透明の体をこちらに向けていた。

 

 なんだこれは…父さんの幽霊……?そんな非現実的な考えが頭を過ったのも束の間、“それ”が徐に口を開き、僕に語り掛けてきた。いや正確にはその声は目の前の父さんのようなモノからではなく、未だ機能しているコンピューターのスピーカーから発せられたものだ。

 

【幹斗。お前がこれを見ているという事は私にもしもの事があったという事だろう】

 

 つまり目の前のコイツはホログラムで僕が今聞いてるのは父さんが遺しておいたボイスメッセージという事か…?まるでベタなSF映画のようなシチュエーションに僕はシンプルに困惑した。

 

【きっと混乱している事だろう、だがお前ならきっと分かってくれると信じてここにメッセージを遺す事にする。ハッキリと言おう、今現在私は命を狙われている…】

 

 こんなにも口数多く、明瞭に話す父を見るのは初めての事だった。僕の知っている父親ってのはとにかく何を考えているのかよく分からなくて、いつも書類に目を落として小難しい理屈に頭を捻ってる人って印象だったから。そんな風に話しかけられただけでも衝撃なのに、唐突に更に突拍子もない話を突き付けられて僕はますます息を呑んだ。

 

【その者らの名は――いやここで言っても詮無い事だ――私の進めている研究は世界のルールを大きく変え得るものだ、それが気に食わない者達もこの世界には確かに存在している。最早時間がない、彼らはすぐにでも牙を剝くだろう…。だからその前に…お前に全てを託す…!】

 

 全てを…?何を言っているのか全く分からなかった。ただその声には聞いた事もない程切実な色が籠められている事に気が付かない訳にはいかなかった。

 

【きっとお前は戸惑うだろう…。だがあまり猶予はない…今はどうかこの道を選んで欲しい…。そのための正しい決断をお前が下し、我々の世界を守ってくれると…私は信じている……】

 

 それを最後に父さんのホログラムは消滅した。それっきり、もう何も映さない。またもどうしようもない喪失と焦燥に駆られて僕は部屋の周囲を見渡した。しかし警告灯の赤色と警報音のうるささのせいで碌に集中出来ない。なんなんだよ、と僕は吐き捨てた。

 父さんが何を告げたのか正直全てを理解出来たわけではない。だが託された事、それだけは理解出来た。ならば僕はそれに応えなくてはならない…だが現状父さんの遺したというモノがなんなのかソレが分からなかった。部屋中を漁りながら、もどかしさに歯噛みしていると――不意に部屋の隅の一角が鈍い音と共に開いた。

 

 隠し通路…?壁が開いて出現したそいつは陳腐な表現だが他に形容しようがなかった。なんだっけ、サンダーバードとかでありそうなヤツ。壁に掛かった肖像画がどんでん返しみたいに開いてそこからマシンの発進ゲートに繋がってる、みたいなアレだ。なんでこんなモン部屋に仕込んでるんだよ…と僕は一瞬親父の正気を疑い掛けたが、四の五の迷ってる暇はない、とばかりに僕はその隠し通路に飛び込んだ。ガロがそれに続く。

 そんでもって――僕は文字通り“転落”する羽目になった。

 

『~~~~~~~~~~~~ッッッッッッ!!!』

 

 声にならない悲鳴。ついでにガロの吠え声が対して広くもない通路内――というかなんというか――に反響した。サンダーバード2号に乗り込む時って肖像画の向こうが滑り台になっててそこからコックピットに通じてるだろ。理屈はよく分からないけどカッコいいのは絶対に確かなアレと同じで隠し扉の向こうは滑り台になっていた…それもモーレツに急峻なヤツに。脚を踏み入れたと思ったらいきなりそんなモンの洗礼を受ける羽目になった僕らはとにかく場違いな絶叫を上げながら遥か下まで滑り落ちていったのだった。出たと分かったのは漸くスロープから吐き出されて金属の床にしこたま背中を打ち付ける羽目になったからだった。

 

『なんなんだよ一体……』

 

 こんな所に問答無用で連れ込みやがって…と僕は親父に軽く呪詛を吐くと周囲を見渡した。

 

『何処だよここは……』

 

 あまりに奇妙な場所。当惑の声が漏れた。滑り台で散々振り回されて地下に落ちていったのは確かなのだがそれにしたって妙な場所だ。少なくとも秘密兵器のコックピットとかではなさそうだ。

 

 この“研究所”の最地下は核融合の実験を行うコアユニットの筈なのだが、ここはそれにしてはあまりに狭すぎる。広さは大体学校の教室程度しかなく、周囲の壁は無機質な金属が光沢を放っている。光沢…即ち光だ。碌に光源もないこの部屋は何故だか奇妙に明るい。その答えは部屋の中央にあった。

 緑色の淡い光を放つクリスタル状の立方体。まるで誇示するかのように部屋中央の仰々しい台座の上に置かれたそれが部屋全体を照らす輝きの根源だった。その輝きはLEDやアナログ電球のような人工的な光とはまた違う、まるで以前テレビで見たオーロラのような不規則に揺らめく幻想的な光だった。場違いにも綺麗だな…と思った僕はゆっくりとそれに向かって歩を進めていた。

 まるで誘蛾灯に誘われる夜光虫のように僕は気が付いたらそれに向かって手を伸ばしていた。勿論その間、理性を司る左脳が全力で警戒を呼び掛けていたいた気はする。でもこの時の僕はそれを気に留めもしなかったんだ。なんだか…その光の向こうから懐かしい声が聞こえてきたような気がするから――。

 

 そして僕の指先が僅かにその立方体に触れた瞬間。

 

 まるでその微細な刺激に反応するかのように。もしくは水面に投じられた一石の如く。元々淡い輝きを放っていたクリスタルが一際激しく発光した。ちょうど太陽が顔を出した直後のような、光量と熱量が襲い掛かり、僕の体を呑み込んでいった。

 

 

 そうして僕は……“世界”に触れた。

 

 

 

 ・・・・・・・・・

 

 

 

 その瞬間。彼は目を見開いた。察知したのだ、久しく感じていなかったあの感覚…世界と繋がる、あの強烈で甘美な感覚を。

 これで良い。種子は芽を出す準備に入った。あとは時に風に乗り、時に「虫達」が媒介する事によって我々の種はこの広大な世界に広がっていくだろう。私の、私達の勝ちだ。

 

「私の望みは叶ったよ……蘭奈…」

 

 そう呟いた瞬間、湧き上がってきた猛烈な力が彼の全身を呑み込んでいった。

 

 

 




今回はここまでです。次回は……結構驚く事になるかもですね……
それにしてもこの章長い…未だに全然終わる気配さえない…と書いててじれったくなる今日この頃です。

それではまた次回!


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CHAPTER-3:『REjectionⅠ』- ⑩

 まず初めに“無”が在った。

 

 無が在った、というのもおかしな表現だがとにかく全ての始まりは混沌でも秩序でもなく、知覚し得るもののない虚無であったのだ。

 

 そこに最初に生まれたのが“光”だった。虚無の中に生まれたソレは最初は小さな種に過ぎなかったが次の瞬間には急速に膨張し、無数の水素やヘリウムと言ったガスをバラ蒔いて炸裂した。放出されたガスはやがて一点に収束し、星を形成してはまた超新星となり、幾星霜もの刻を経て銀河が生まれた。

 その時――光と同時に“闇”が生まれた。闇は光と共に存在し、しかし決して交わる事はなく世界は陰と陽に分かたれた。そしてそれぞれの中心――特異点から《ソレら》は生まれ、あらゆる時代に存在し、全てを目撃してきた。

 

 やがてまた途方もない刻が過ぎ、宇宙の片隅に小さな惑星が形成された。それ自体はこの宇宙でありふれた光景に過ぎなかったがやがてその星に海が生まれ、更に底深くの熱水噴出孔から生命の源が生まれた。最初はただの単細胞生物やバクテリアに過ぎなかったそれらはだがしかし日光と二酸化炭素を取り込んで、地上に酸素を齎した。やがて酸素は遥か上空から降り注ぐ紫外線を遮り、彼ら生物にとって有利な環境に変質させ、この碧い星は彼らの楽園となった。かつては一つのモノだった生物達は次第に生き残りをかけてその形質を複雑化させていき、競合と淘汰を繰り返し続けた。やがて海から陸へ生存範囲を広げていく者達が現れた。

 そうして乾燥に弱い皮膚を陸地に降り注ぐ太陽光から守るために硬質な皮膚を獲得した。やがて陸上を効率的に動くために四肢が形成され、彼らは新たな新天地で生きていくための術を身に着けた。やがてその中でもとりわけ巨大で強靭な肉体を手に入れた者達が出現し、彼らは1億8千万年もの間、この世界の王者であり続けた。

 

 やがて彼らの足元をはいずり回っていただけの小さな生き物達が巨大なる者達亡き跡の世界で、空白となった王者の座を掛けて争い始めた。或る者は竜たちがそうであったように巨大な肉体を獲得した。また或る者は新天地を求めて海へと還っていった。また或る者は木々の生い茂るジャングルの中を住処とした。

 そしてその中にあって唐突にジャングルから去り行く者達が現れた。彼らは優れた身体能力や外敵を倒すための鋭い牙や爪、または膂力を備えてはいなかった。その代わり後足のみで器用に歩行する術と器用に使う事が出来る手、そして他の生物を凌駕する脳幹を持っていた。

 彼らはその優れた知性と自由に使える手を以て道具を作り出し、弱点を補いながら徐々に徐々にその生息域を広げていった。いつしか彼らはこの星のあまねく全地に広がっていき、海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物全ての支配者を気取って、君臨するようになった。

 

 だが全ての生き物がそうであるようにどんな力のある者であってもいずれは衰え、死を迎える。それと同じように地上を席巻した竜たちの時代も天から降り注いだ一つの小惑星によってあっさり終わりを迎えた。この星は幾度もなくそう言った絶滅という名の整理を繰り返してきた。時には星全体が氷に閉ざされ、ある時は海洋から酸素が消失した――。その度にこの星に反映した生物達はその大半が姿を消していったが、決して全滅ではない。どんな過酷な環境にあっても必ず生き残る者が現れ、彼らもまた死と隣合わせになりながらも、生存の道を探った。やがて数少ない生き残りの中から生存に有利な形質を持っていた者が次に地上を支配する――。破壊と再生。淘汰と繁栄。絶滅と進化。この星の生きとし生ける者達はそれを繰り返してきた。

 

 盛者必衰。それがこの世界の法則だった。事実『人間』と名付けらえたこの生き物達も時に自らの生存のため、時に我欲のために他の種を滅ぼし、遂には互いの生存を賭けて同族同士で争い合い、自らさえも滅ぼし得る“力”を生み出してしまった。何かの繁栄の影には絶対に何かの滅亡があったのだ。

 

 《ソレら》はこの宇宙そのものだったのだ。だからこそ、その開闢から今に至るまで全てを記憶していた。そんな歴史を見続ける上で進化とそれに伴って勃発する争いこそが世界の理と理解するのは必定であった。

 だからこそ《ソレら》は初めてこの地に降り立った時、それを使命とする事に何も躊躇いはしなかった――否、躊躇いなどという人間的な感傷は元より持ち合わせていない、という方が正確か――。幾度となく《ソレら》は望んだ者にそのための“力”を与え、進化という新たな路を促した。結果として適合しなかった者は死という末路が与えられたが、それは結果論に過ぎない。

 

 そうして今度は人間の少年が《ソレら》の力に触れた。彼が適合し得るかどうか…それらは《ソレら》にも与り知らぬ事だ。

 

 “さて君は我々の祝福を受けるに足るか…”《ソレら》に言語を発する事が可能であったり、もしくは知性体と対話する意図があるのであればそのような問い掛けを発する事もあったかも知れないが…生憎と《ソレら》と目の前の少年とでは間にある隔たりはかなり大きいものだった。

 

 無情に放たれた光が少年を、包んだ。

 

 

 ・・・・・・・・・

 

 

 まず初めに知覚したのは目も眩むような閃光。それがクリスタルから発せられたものだと理解するよりも前に、赤色に染まった世界の果てに一筋の流星のような、一際強い輝きが視界を掠めた。エメラルド色の燃えるような彗星――?そう感想を抱いたのも束の間、「僕」は意識ごとそれに呑まれていた。

 

 その瞬間、流れ込んでくる情報の奔流。嵐のような、濁流のような、もしくは照り付ける陽光のような、とにかく暴力的なエネルギーの渦中。その瞬間踏みしめていた床の感触も寒々とした部屋の空気も鳴りやまない喧騒も全て置き去りにして、「僕」は時間も空間も現実も喪失したような空間に放り出された――ような気がした。いや、それはひょっとしたらあの不思議なクリスタルが見せた幻だったのかも知れないが、とにかく「僕」にはそう感じられた。

 

 幻想的な光景にちょうど僕は直前まで起きていた事象を都合よく忘れた。自分の知識でも到底追い付かない光景に魅了されたと言っても良いかも知れない。

 

 まるで「僕」という個が溶けてなくなり、その細胞のひとつひとつがコアセルベートの状態に還っていくような…そんな感触。碌に光も指さず、焼け付く様な熱水が噴き出す中を「僕」はただ揺蕩っていた。やがてその世界をもっと自由に見てみたい…という衝動が頭を擡げ、「僕」は気が付いたら世界を自在に動くためのヒレを得ていた。そうして辿り着いた新天地には光が溢れ、生命が満ち満ちていた。あの薄い膜の向こうには何があるんだろうか…と、永い時を経て新たな好奇心が芽生えた。気が付くとそのヒレはその先の世界に立つための肢に変わっていく…――。

 

 ――昔読んだ本に「胎児の夢」という話が出てきた…。洋室の中にいる赤ん坊は胚から胎児に至るまでに単細胞生物から人間に至るまでの進化の道筋を経験する、だが生れ落ちたのと同時にその記憶は失われてしまう…という話――。ちょうど「僕」はあれを経験しているのだ、と悟った。白昼夢かこれは?

 

 常識的に考えれば幻に過ぎない、となんとなく頭の片隅では理解している。しかしながらまるで自らその記憶に懐かしささえ、覚えていた。今でこそ万物の霊長面してのさばっているけど、終いには我らは神に象られ、最も愛された云々とか宣っているけど、元を正せばその起源は樹上で生活する猿の亜種でしかなく、もっと辿っていけば水の中を漂うだけの単細胞生物に過ぎない。いや今だってその本質は小さな細胞の集合体でしかなく、二重螺旋に記憶された情報さえなければそんなモノはあっさりと変質してしまう。

 永き時を経て、やがて景色は僕が知り得る筈のない記憶…小さな水槽のような“海”から初めて外の世界に出たあの日に辿り着く。その日初めて僕の目は光を捉え、耳は音を感じ取り、肺は空気を取り込んだ。それはまるで燃え盛る火中にいきなり手を突っ込むような強烈な感覚で、安住の地からこの酷く不安定な世界に放り出された喪失感に「僕」は泣いた。

 

 失楽園って知っているだろう。神の言いつけに背き、知恵の身を食してしまったアダムとエヴァはエデンの園を追われ、苦しみが拡がる世界に旅立っていかなければならなくなった、って旧約聖書にある話。アレは真実だ、「僕」は“人間になる”代償を払ってこの世界に生まれてきたんだと。

 そんな「僕」の体を――まだ自分では動く術もないこの酷く矮小で不自由なそれを――抱きとめ、救い上げてくれる人がいた。「僕」と繋がっていてくれた人――「僕」はそれを理解した。まだそれを呼び示す言語能力は持ち合わせていない、だがその人が注いでくれる感情が…「僕」というこの容れ物に名前を与えてくれた。不定形なこの世界にあって、生きていくのに必要な力をくれた。

 ずっと忘れていた温もり。遠い日のことと封じ込めていた記憶。「愛」という無垢なる感情。

 

 この日――「僕」は初めて僕になった。

 

 だがこの先にもまだ道があるのだという事を光は示していた。この姿もまだ完全という訳ではない、停滞するという事は緩慢な滅びと同義であるのだと――《ソレら》は語った……ような気がした。「僕」は好奇心の赴くままに、ならこの先には何があるんだ、とそう問い掛けた。

 エメラルド色の流星はそれに応えるように再び光を発した。それと同時に「僕」は誘われるまま、新しい世界を見た。

 

 

アース1971043

 その“世界”の発端はひとつの異なる星系からやってきた《外来種》の存在であった。彼は決まった名も姿も持たぬ生命体であったが故に、この星の多様な生命とその中にあってひたすらその節理から外れ、互いに争い合うひとつの生命体とそれが生み出す科学という技術に興味を持った。彼はこの生命体を陰から煽りながら、世界規模の大戦を引き起こしながら静かに自分の組織を造り上げた。自ら選んだ配下には自分のような強靭な肉体を与えるべく、この星の様々な生命の力や技術を駆使して素晴らしい肉体を与えてやった。全てはこの世界全てを手中に収めるため――この酷く面白い世界とその中で足掻く、矮小な生命たちをもっと観察したいがためであった。

 

アース1988109

 ある“世界”は太古の世界より《彼ら》の支配下にあった。後から湧いて出てきた人間とかいう脆弱な生命を唾棄した《彼ら》は造り上げた文明を悉く打ち滅ぼし、自分達の世界を取り戻そうと考えた。しかし人間という生命体はやたらとしぶとく、諦めが悪かったため、《彼ら》は逆に人間を利用しようと考え始めた。自ら認めた者には《彼ら》の技術に由来する優れた肉体を与える事を条件に自らの懐に引き込んだ。《彼ら》の王もまた果てしない闘争の果てに人間から生まれたのであったからだ。

 

アース2001128

 その“世界”を生み出したのは人がいう所の《神》であった。《神》は天を創り、海を創り、陸を創り、そこに自らの眷属(マラーク)達を模した生命を住まわせた。最後に自らの姿を模して人間を創り出し、彼らに惜しみない愛情を注いだ。だがやがて眷属達が人間を家畜にしようと争いを始め――いやそれは争い等と呼べるものではなく、一方的な虐殺に過ぎなかった。滅びを待つしかない人間達を憐れんだ一人の眷属が降っていき、一人の人間との間に子を為した。やがて闘争の果てに世界は洗い流されたが、裏切り者の眷属の種は人間の中に残り続けた。《神》と眷属達はいつしかその種が再び芽吹いた時に、それらを確実に刈り取るために深い眠りについた。

 

アース2003816

 その“世界”には人間が死を超越した事で生まれた《異形の花々》達が存在していた。彼らは時に人間に迫害され、時に人間を狩りながら自分達だけの楽園を創り出す事を夢見ていた。そしてそれは叶い、やがて人間の方こそを圧倒的なマイノリティに追い込み、その存在を滅亡寸前にまで追い込む事に成功した。だが彼らもまた急激な肉体進化故に寿命が追い付いておらず、緩やかに滅びに向かっていく種族であるという業を背負っていた。果たしてこの小さな星はエデンに至る事が出来るのか、彼らと人は共に生きていく路を取る事は出来るのか……それは誰にも分からない。

 

アース2010096

 ある“世界”のいつかの時代、どこかの国に一人の《王》がいた。その《王》は錬金術の技術に傾倒し、錬金術師達がもたらした薬品を外交の材料にし、巧みに外交戦略を仕掛ける事で、辺境の小国に過ぎなかった自国に富と力を齎した。そんな中一人の錬金術師が偶然にも生命の力を凝縮した高エネルギー体と人工生命体を創り出した事が大きな転機となった。《王》は“欲望”によって制御されるその力を大いに活かして、大国に攻め入り、ゆくゆくは神すらも超える力を手に入れようとしたのだ。結局その《王》すらも自身の膨れ上がる欲望を制御する事は叶わず、破滅を迎える事になる。だが残された力が新たな戦いを生む事になるのは…もう少し後の時代の話だ。

 

アース2013106

 ある“世界”は密かに滅亡の危機を迎えていた。突如出現した空間の裂け目から未知の植物が浸食を始めたからだ。その植物は他の生態系を駆逐するのみならず、人を未知の怪物に変異させ、更にその生息域を広げていく性質を持っていた。極秘裏にこの事を知ったとある企業はこの事態に対処し始めたが、時すでに遅く最低でも70分の1の人命しか救えない事は明白だった。次世代に進むための淘汰……彼らはその選択をせざるを得なかった。だがこの植物が蔓延る森の奥には世界を思うがままに作り替える《知恵の実》が眠っている事を知っているのは極一部の人間だけだった。彼らが自らの望む世界を創りだすべく熾烈な争いに身を投じる運命にある事を…一人の少女と“蛇”を置いては誰も知らなかった。

 

アース2016041

 ある“世界”において一つの生態系が生まれた。とある製薬会社が生み出した人工細胞が急速に成長したモノが彼らであったのだが、彼らは新しい生命体であると同時に本能レベルでの食人衝動を備えていた。それは長らくこの星の支配者を気取ってきた人間達にとっては到底許容出来るものではなく、こうして彼らと人間の熾烈な生存競争が始まった。だが忘れてはならない、彼らを生み出したのもまた人間の飽くなき欲望であり、人が自らの都合のために他の生物の命を奪っている事もまた同義でしかない、という事を。この戦いには元より正義など存在しなかった。

 他にも幾多もの“世界”があった。そのいずれにも破壊があり、悪意があり、敵意があった。いずれの世界においても人類は欲望に任せて過ちを犯し、そこにつけいる形で敵意は入り込み、それらを何倍にも何十倍にも肥大化させた。

 

 

 やがて訪れる果て。荒涼とした大地を無数の“力”同士がぶつかり合う。異形の者達が天地を埋め尽くし、力なき者達を虐げる。その争いの中心に居座る《破壊者》と《魔王》の力が激突し、その余波が周囲に更なる破壊と惨劇を齎す。

 

 

『ここは…どこなんだ…?』

 

 目の前の悪夢に僕は絶句して呟いた。少なくとも自分のいた“世界”ではない……とは思うのだが。……というかそうであって欲しい。

 

 ――ここは未来であり、過去。そして現在だ。或いは終焉、或いは始まり――。

 

 不意に。声が響いた。男とも女とも、若者とも老人とも人とも魔とも取れないが、どれとも取れるような……。不自然な程明瞭に響くその声を、これまた何故か不自然な程に、「僕」は《ソレら》のモノだと察した。《ソレら》というモノがなんなのか……それすら分からないのに、だ。

 

 悪意。恐怖。憤怒。憎悪。絶望。闘争。殺意。破滅。絶滅。滅亡。唯一にして完全なる結論。それがこの“世界”だ…と、《ソレら》が囁いた。「僕」は目の前の光景に耳を塞いで絶叫した。

 

『もうやめてくれ!どうしてこんな事をするんだっ…!』

 

 ――我々の本意ではない。我々はただのきっかけに過ぎぬ――。《ソレら》が云った。

 

『なら何故そんなモノを齎すんだ!?こうなるって事、全部分かってたんじゃないのか?』

 

 ――破壊の後に再生は来る。淘汰の果てに進化の道は拓ける。我々はそれを委ねるために生まれた――。

 

 寝惚けたこと言うな……!!と「僕」は叫んだ。

 

『何様のつもりなんだ…お前は、お前らは一体何者だ……!!』

 

 《ソレら》はもうなにも応えなかった。徐々に目の前の世界も音も光も曖昧になっていき、「僕」の周囲から搔き消えていく。待て、と「僕」は叫んで手を伸ばした、がその指先は何も掠めることはなく虚しく空を切った。やがて立っていた足場の感触すらも曖昧になっていき、「僕」は再び虚空の中を堕ちていった。

 

 

・・・・・・・・・

 

 

 2011年3月12日午後12時46分。

 

 春先の土曜日という日和と各家庭や観光客のグループが各々昼食を取り始めようとしたちょうどその時間帯にそれは始まった。とは言え、その最初の兆候を感じ取る事が出来るものはいなかっただろう。これから如何な事態が発生するのか、正確に見極めていたのは襲撃者の長たる女――マリア・ルーデンス率いる数名の“部隊”のメンバーだけだった。

 

 最早どうしようもない、と判断したマリアはすかさず脱出を選択した。予定されていた成果が達せられない以上、ここに踏み止まるのは危険だと判断したが故の事だった。いざという時の事態に備えてヘリは常にアイドリング状態を保たせて、いつでも離脱可能なようにしていた判断が功を奏した。数名の部下と共にヘリに乗り込んだマリアは明らかな事態に戸惑っている部下に向かって叫んだ。

 

 『Escape, hurry up! (脱出しなさい、急いで!』

 

 まだ地上部隊の回避が済んでない、と部下は抗議の声を上げたがマリアはそれを制した。地上部隊には緊急避難を告げる信号弾を発射して告げろ、と手短に命令するともう有無を言わせず発着を促した。流石にこれ以上の悶着は命に関わる、と判断した部下もそれ以上は言わずにヘリを発進させた。

 ヘリが十分な高度に上がった所でマリアは地上に向けて信号弾を発射した。それは上空で炸裂し、傍目にはデタラメな符丁で明滅しているように見えたが知っている者には即時退避を意味し得る信号弾だった。激しい閃光と音響は目立ちすぎると言っても過言ではなく、隠密重視のこの作戦では極力使わない方針だったが、無線がまるで通じないこの状況下では致し方ない。森林が広がる眼下にこの手段がどこまで有効かも分からず、マリアとしては一人でも多くの部下が無事でいてくれることを祈るしかなかった。

 

 同じ光景を矢頭山の中腹付近の森林管理道路を歩いていた地元の消防団やマタギの衆が見ていた。彼らは哲也捜索のために山に入ったメンバーで幹斗や志村達と一向に合流出来ない事、無線や携帯で呼びつけても一向に応答がない事を訝しみながらも依然として山林内での捜索を続けていた。

 そんな折に突如ヘリから放たれた謎の発光体に一同は眉を顰めた。あの派手なヘリは恐らく山岳救助用の機体だと思うのだが、こちらとしてはあんなもの要請した覚えはないし、他の誰かが山林で行方不明という情報も聞いていない。その癖不自然に“研究所”の周囲を探り回るかのように飛行していた、あのヘリに彼らは不審な目を向けていた。

 それが今再び浮上し、これまたおかしな発光弾を発射したのだ。それはまるで花火のように森中を煌々と照らし、その意味を知らぬものであっても何かしらの信号弾の類ではないか、という事は容易に想像し得た。

 

 勿論それは第二登山道にある避難所に退避していたマタギの志村からもハッキリと見えていた。謎の襲撃者からどうにか幹斗を逃がし、自分もなんとかそれらから逃げ果せて、このボロ小屋で小休止を取ったのが十数分前。なんとか肩の傷を塞ぎつつ、すぐに久世の遺体を回収すべきか他の衆と合流すべきかを考えたが、これ以上襲撃者に対して備えるならば速やかに仲間に合流するのが先決と結論付けた矢先の事だった。

 思えばあのヘリが現れてから久世が突如として撃たれ、無線も携帯も通じないという異常事態が発生したのだ。これはまた何か良くない事が起こるのではないか…と戦慄した志村は謎の発光体に注いでいた視線を周囲に飛ばした。それが“研究所”――プロメアセンターに行きついたのとほぼ同時に…

 

 

 それは始まった。

 

 

 “研究所”から突如サイレンが鳴り響き出した。いや、それはまるでサイレンというより赤ん坊の泣き声を歪めて放射したような不気味な胎動のように聞こえた。マリアはその音を聞いて昔祖母から聞いた嘆きの妖精、バンシーの伝承を思い出した。ヘリに乗る部下たちにも思わず耳を塞ぐもの達も出た。それらは山間にて待機していた陸上部隊も然りで、先程の緊急避難信号と言い、これはいよいよ重大な危機が迫っている、とそう判断した彼らは速やかに撤退の道を選んだ。念のため渓流沿いに降り、そこから隣の林道に素早く抜けられるコースを選択したのだ。

 

 

 山内に入っていたあかつき村の男達もただならぬ気配を感じ取っていた。あの“研究所”が出来て既にそれなりの年月が経過しているがあんな音は聞いた事がなかったからだ。それはまるで危険を知らせる警報というよりかはまるで空気そのものが悲鳴を上げているような、酷く気味の悪い音に聞こえた。それは志村も同様でただ眼下に見える“研究所”を呆然と眺めているより他になかった。

 

 

 そうして誰もがプロメアセンターの様子に釘付けになる中で、次の瞬間その風変わりな建物が突如大爆発を起こした。それはまるで地獄の窯が開いたかのような、と形容出来るような異様な光景だった。発破解体のような周囲の被害を最小限に抑えるための爆破とは質が違う、まるで鉄筋コンクリートの建物を内側から喰い破るかのようにもう一つの太陽が顕現した。

 

 

 実際他に形容しようがない光景だった。限界まで膨張した風船が破裂するかの如く巨大な火球が建物を吹き飛ばしたと知覚出来たのは、ほんのひと刹那に満たない時間だった。次の瞬間には摂氏数十万度という凄まじい熱線が“研究所”を焼き尽くしたかと思うと、それによって周りの空気が膨張して生じた猛烈な衝撃波がそれを一遍も残す事無く吹き飛ばした。その爆風は建物そのものに阻まれて大半のパワーは減衰させられ、2㎞離れたあかつき村道の駅に付近においては屋根瓦が僅かに吹き飛ぶ程度のダメージで済んだ、遠くても100メートル少々程度しか離れていない山中及び上空の相手には十分な威力を維持したまま襲い掛かった。

 

 

 山中にいた男衆達は咄嗟に地面に伏せたり、手近な大木に掴まるなりして対応出来た者は難を逃れたが、それが遅れた者達はまるで旋毛風(つむじかぜ)に巻かれた木の葉のように吹き飛ばされた。志村が身を伏せていた東屋は元々木材が腐りかけていた事もあってあっさり倒壊し、彼は命からがらそこから飛び出したが、爆風にバランスを崩し、盛大に山道を転がる羽目になった。

 

 

 谷川に至る道を選択して、撤退路についていた地上部隊はまともにその爆風の洗礼を浴びる結果になり、咄嗟の防御態勢も虚しく、谷川に放り出された。特に“研究所”の最も付近にいたマリア達の乗るヘリはかなりまともにその爆風を食らい、その姿勢を大きく崩した。パイロットはなんとか体勢を立て直そうとしたが、ここまでの爆風は流石に予想の埒外だった事もあり、十全とは言い難かった。揚力の均衡を失い、引力という名の井戸に完全に捕らわれたヘリは糸が切れたかのように墜落の一途を辿った。

 

『Shockproof protection…! Prepare for shock!(耐衝撃防御…!総員衝撃に備えろ!)』

 

 マリアがそう叫び終わるより先か後か、とにかく刹那の間に突き上げるような衝撃がヘリ内部に襲い掛かり、一同は狭い室内をバウンドした。機体がプロメアセンターから十数メートル離れた位置にある人工林の只中に落ちたいうのが認識機能の限界だった。感じた事もない激しい痛みと小爆発の熱ときな臭さに身を包まれ、マリアはあの男のすまし顔を思い浮かべ、小さく呪詛の言葉を吐いた。

 

 

 漸く爆風が止んだと思い、顔を上げた志村が顔を上げた時にはもう見慣れた“研究所”は欠片も見えなかった。それがあった場所には燻るように波打つ黒煙が不気味に立ち上っていた。特徴的なドーム状の姿はその根元に呑み込まれてしまったかのように見る影もなかった。

 

 

 だが本当の地獄の窯はまだ序の口に過ぎなかったのだ。暗灰色の煙のその根元から這い出て来るかのようにそれとは対照的などこまでも白い“霧”が出現し、漸く爆風の衝撃から態勢を立て直した人々を呑み込んでいった。まるでそれ自体が意志を持っているかのように駆けあがってくる、という冗談染みた光景に咄嗟に対応出来るものはマタギ衆の中にはいなかった。とにかく何が起きたのかという事の確認と無事な者、ケガをした者の確認でそれどころではなかったというのもある。ともすれば幻想的な光景が気が付けば目の前に迫ってきているという事実に息を呑んだのも束の間、次の瞬間には彼らはもうそれに呑まれてその姿を見せる事はなかった。

 

 

 なんとか落下の衝撃から意識を取り戻したマリアの方は瞬時にそれがただの霧ではない事を察知した。理屈ではない、当人の経験と直感がこれはまずい、と最大限の警告を発していたのだ。瞬時に視線を走らせると、どうやらパイロットも含めて4人いた部下は一様に砕けた計器盤に顔を突っ込んだり、首があらぬ方向に曲がっていたりと動く気配はなかった。もっとよく確認すれば奇跡的に息を吹き返す可能性のあった者もいたかも知れないが、自分の生存も危うい状況下でそれを確かめている猶予はなかった。どんなに非情に思えても自分達は任務の達成如何に関わらず、情報を持って帰還する必要がある。マリアは悲鳴を上げる体を無理矢理動かすと、ヘリ内に備え付けてあったガスマスクをなんとか取り出した。まるで自分のモノでなくなってしまったかのような手でなとかそれを装着すると、いつ爆発しても不思議ではない機内から脱出した。

 まさしく這う這うの体。肩や背中に打撲のような熱い痛みが残り、呼吸をする度に肺の辺りが灼けつくような感覚が走る。これは肋骨をやられたかも知れない、と思いながらマリアは咄嗟に自分の体を探って、四肢の状態などを確かめた。

 あちこちを挫いたようで少し動かすだけで体が軋むように痛みを訴えたが、どうやら五体満足。ひたすら耐えまくれば動けないという事は全くない。自分はまだ動ける、という幸運にマリアはひとまず感謝すると、再度ヘリの方に引き返した。既に事切れている部下達から必要な装備や武器を貰う必要がある、まるで死肉喰らいのような浅ましさだがこの際気にしない事にする。

 しかしながら辺り一面を見渡してみればまるでミルクを垂らしたかのように不可思議な白い世界が広がっている有様だった。これでは脱出はおろかこの場から動く事すら敵わない…。完全にやられたを…と今更ながらの敗北感がこみ上げてきて、マリアは屈辱に形の良い唇を歪めた。

 

 

 霧に包まれたまま身動きが取れなくなったのは地上部隊も同じだった。合計5名からなる地上部隊の隊員達は突如発生した“霧”がこちらに迫ってくるのを目撃し、咄嗟に対BC(生物・化学)防御の命令を下し、携行品の中にあったガスマスクを装備した。核爆発という程の規模ではないにせよ、正体不明の爆発にそれを髣髴とさせる暗黒のキノコ雲、それに加えて不可思議な、どう考えても自然のモノとは考えられないガス状物質が迫ってくるとあってはその対処は必然だった。数秒後には彼らのいた谷川全体も白亜の“霧”に包まれ、己の掌くらいしか視認できない程の白闇に取り残される事になった。

 まずいな、と地上部隊の指揮を執っていた男はマスクの下の顔を歪めた。足元に目を落とすと自分の爪先どころか膝丈くらいしか碌に視界に映らない。なんとか足元を流れる川の水の感触くらいは伝わってくるものの、それ以外の情報は完全にこの奇怪な“霧”によってシャットアウトされてしまった。ただでさえ足元の覚束ない川の上での行軍を強いられている状況下において視界まで封じられてしまったというのは考え得る限り最悪の事態だ。

 

 ホワイトアウトという現象がある。気象学において霧や雲、雪などによって視界が白一色覆われてしまい、方向感覚や識別能力が完全に失われてしまう現象の事だ。こうなると最悪の場合自分の所在はおろか、どこに進んでいるのかという認識すら失われてしまい、組織的な行動はほぼ不可能になる。

 とにかく纏まらなければ、と判断した男は装備帯から抜き放った携帯ライトを周囲に振りながら、周囲にいる筈の部下たちに向かって叫んだ。だが分厚いガスマスクに阻まれてくぐもった声が漏れるのみ。耳に当てた筈のインカムも先程からノイズを寄越すばかりで一向に応答がない。『shit…!』男は激しく舌打ちをしながら改めて周囲を見やった――が、やはりというか相変わらずの視界は白一色で強力なライトの光すら何も映してはくれない。

 

 と思った矢先、ライトの光が何かに当たり反射するのを男は確かに見た。ほんの一瞬の事だったが確かに何かの物体――それも生物的な有機的なフォルムを持ったもの――を照らした。仲間の一人か、と思った男はその方向に向けて声を上げたが、それは不自然な所で断ち切られる結果になった。次の瞬間には白一色の視界の中から突如飛び出してきた一匹の“獣”が彼の喉笛を食い千切っていたからだ。男に自分の身に降りかかった事態を認識する時間はなく、ただ呆然と川の上に倒れ込んでいく感触が男の最期の記憶になった。

 当然男の周囲数メートル以内にいた彼の部下達もリーダーの声が不自然に途切れた事に戸惑っていた。彼らは一様にナニカ起きたのだ、という事だけを察知してすぐに手にした武器を構えたがその判断は些か遅きに失した。碌に視界も効かず、仲間の位置確認すら覚束ない今の状況では銃火器を使う事は出来ない上に“それ”はもう既に彼らの間近にまで迫っていたのだ。構えた銃口からマズルフラッシュが瞬くよりも前に彼らの体は川面から這い出てきた無数の触手によって貫かれていた。彼らは一様に防弾仕様のボディアーマーを纏っていたが装甲と装甲の継ぎ目を狙って襲い掛かってくるそれを防ぎきる事は不可能だったし、それ以前に人間の造ったモノなど“それら”の前では全くの無意味だった。彼らは突如襲い掛かってきた敵の正体はおろか己の死すらも知覚出来なかった。白一色の世界にサッと朱が差したと思った数秒後にはかつては彼らだった装備品だけが川面の取り残され、その隙間から零れ落ちた黒い灰や熔け堕ちた肉塊がやがて川に沿って流れていった。

 

 白以外何も映らない世界に犬のような奇妙な咆哮だけが響いた。

 

 




今回はここまでです。

さて…この描写かなり迷ったんですよね、果たしてやって良いものなんかと。
ただ今後マルチバース的な設定がかなり話に絡んでくるのでその描写としてこれが一番分かりやすいと思った次第です。

次回は遂に「アイツ」が出てきます。果たして彼らの運命は…?もう少しお付き合いください。

…それにしてもこの章、長いよね…


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