聖者の牢獄 (桂太郎(テムヒ))
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第1章 悪夢からの目覚め
目覚め


修道女のヤンデレを書きたかった、そうただそれだけなんだ。


 

 

 いと尊きお方。

 

 私はあなたに従います。

 

 私は罪人。

 

 どうか、私の罪をお許しください。

 

 ああ、大いなるお方。

 

 あなたは私の罪からの救い主。

 

 

 

 ――ーあなたに、全てを捧げます。

 

 

 

 

 

 

 ぼんやりとした意識が浮上する。どうやら俺は椅子に座ったまま居眠りをしてしまっていたらしい。長い間同じ体勢だったのか、少し身動きすると身体がぎしりと悲鳴を上げた。

 

(――――ここは)

 

 視線を巡らす。

 石造りの床は湿気で濡れ、なまめかしく光を反射している。壁にはゴシック調の緻密な彫刻がされ、どこか儀礼めいた重厚さを感じさせた。正面には祭壇があり、その後ろには夥しい数の蝋燭が灯されていた。

 

 なるほど。どうやら俺は礼拝堂で眠ってしまったようだ。神を前にして、全くもって不敬極まりない。

 

 無宗教であるとは言え、イタズラが露見したようなばつの悪い気持ちになる。それを誤魔化すように乱れた黒髪を乱暴に数回撫で付け立ち上がる。その動きに合わせて、木製の長椅子が軋んだ。

 

 室内に窓はなく、ゆらゆらと怪しげに揺れる蝋燭の明かりだけが頼りだ。

 

 蝋燭は床に、壁に、無造作に置かれ、数多く灯されているのに全く暖かみを感じない。むしろ、蝋燭の炎が影を濃くし、その闇におぞましい何かが蠢いているようにも思えた。

 

 意識して、靴先で床を数回踏み鳴らす。コツコツと、足踏みの音があたりに響いて消えた。

 静けさを打ち消すつもりが、逆にその静謐さを浮き彫りにさせてしまう。静寂が迫ってくる。それがひどく心細い。

 

 吐息さえもしんとした空間に反響し、独りであることを妙に実感させる。まるで異物のようだ。お前はこの場所にいるべき存在ではないと、言われている気さえした。

 

 何気なく祭壇の方へ視線がいく。先程は意識しなかったが、蝋燭に照らされた先に大理石の彫刻が安置されているのが見えた。

 

 両手を空に掲げ、フードを目深にかぶった人物の彫刻だ。

 

 祈るようにも、懇願しているようにも見える。ただの彫刻なのに、どこかおどろおどろしさを感じるのは、この場の雰囲気に呑まれてしまったのかもしれない。

 

 深呼吸して、気分を振り払う。

 

 蝋燭の溶ける匂い。椅子から漂う腐った木の匂い。埃の匂い。妙に生臭い、カビの匂い。全てが混ざり合い、鼻から肺に流れ込む。澄んだ空気ではなかったが、それでも先程より気持ちは落ち着く。

 

「――ーああ、アンディ様。良かった。ここにいらっしゃったのですね」

 

 呼ばれて、それが自分の名だったと他人事のように思った。

 

 本来の名は、アンドウ・リュウ。

 

 漢字では安藤隆と書く。

 

 しかし、この地の人間には難しい発音らしく、何度言ってもアンドリューと呼ばれるので、今はそれで通している。アンドリューの愛称がアンディなのだとか。

 まあ、ここで俺のことをアンディと呼ぶ人間は、たったひとりしかいない。一拍おいて振り向くと、声の主に向けて微笑んだ。

 

「……アマルティアか」

 

 礼拝堂の入口には、艶消しされ影に溶け込んだ黒のローブを身に纏った女性――アマルティアが佇んでいた。呼び声に答え、彼女は祈るように両手を合わせる。

 

「はい、アンディ様。アマルティアでございます。ええ、そうです。そうですが、意地悪せずいつものようにアマル、とお呼び下さいませ。そんな他人行儀なことを仰られては、(わたくし)とても寂しゅうございます」

 

「ああ、ごめんな。アマル」

 

「ふふっ、アマルは貴方様にそう呼ばれることが一番嬉しいのです。覚えておいてくださいませ」

 

 フードを目深にかぶり、その表情を窺うことはできない。しかし、その涼やかな声から、まだ少女と言っても良い年頃なのは明らかであった。

 

 アマルティアはこのストーンハースト修道院の修道女(シスター)だ。彼女は俺が初めてここで出会った人間で、その時も今回と同じようにこの礼拝堂に横たわっていた。

 

 ちょうど礼拝堂で祈りを捧げていたアマルが、倒れている俺を見つけてくれたのだ。たった半年ほど前のことなのに、ずいぶん昔のように感じる。

 

 ここに来たきっかけは分からない。

 

 勿論原因も不明。気が付けば中世ヨーロッパにタイムスリップしていました、としか言えない。

 

 世界史が得意でなかった俺には、昔のヨーロッパの地名が分かるわけもなく。ここがどの国かも見当がつかない。 

 そもそも中世ヨーロッパと大枠でいったものの、本当にそうなのかも分からないのだ。もう少し真面目に歴史を勉強しておけば良かったと常々後悔している。

 

「それで、どうしたアマル? 何かあったのか?」

 

「いいえ。……その、ただ私、アンディ様にお会いしたくて」

 

 アマルはそこまで言って、顔を伏せた。そして、しずしずと側まで歩み寄ってきた。その姿に、思わず頬が緩む。

 27歳の俺と恐らく10代後半のアマル。修道院の中では、他の修道士よりも比較的年が近いことも手伝って、すぐ打ち解け、外部から閉鎖された修道院の中で、腹を割って話せる相手となった。今では、だらしない兄に何かと世話を焼いてくれる妹といった関係である。

 

 アマルと出会ってからは、ほとんど1日彼女と共に過ごしている。一緒にいないのは、それこそアマルが礼拝に行くときと俺が寝るときぐらいである。俺の姿が見当たらないと、彼女はこうして修道院中を探して回るのだ。

 

 完全に目を離せば、何かをやらかすと思われているのか。思われてるんだろうなぁ。そこまで考えて、これ以上俺は考えることを放棄した。

 

「ああ、なるほど。悪かったな、勝手に側を離れて。それにしても、俺はどうしてここで寝てたんだろう? ……っと、これはベネディクト修道司祭には内緒だぜ。礼拝堂で勝手に居眠りとは何事だって怒られちまう」

 

 その冗談にアマルは深々と頷いた。頷いて、それが主命であると言わんばかりに両手を掲げた。これは拝礼時にもおこなわれる仕草だ。神に誓って、ということだろう。

 

 苦笑しながら頭をかく。忘れていた。アマルはとんでもなく真面目なのだ。そんなことを考えていると、彼女は控えめに言葉を発した。

 

「……その、アンディ様」

 

 一拍置いて、アマルはさらに言葉を重ねた。

 

「僭越ながら、このような寒々しい場所にいると貴方様がお風邪を引いてしまいます。お部屋にお戻り下さいませ。アマルが何か温かい飲み物をご用意致しますから」

 

 いつものような穏やかな口調だが、有無を言わせない何かがあった。よっぽどここから俺を連れ出したいのだろう。まぁ、修道司祭からも礼拝堂には近づかないように言われているので当然か。アマルは優しいから、俺に対してきっとキツいことを言えないのだ。申し訳ない。

 

「そうか。うん、アマルの作るものは何でも美味しいからな」

 

「まあ、アンディ様ったら。ふふっ、腕によりをかけて、お作りいたしますわ」

 

「なら期待しておこうかな」

 

「はい、アンディ様」

 

 アマルは上品に微笑んで頭を下げた。俺が歩き出すと、きっちり3歩下がって付いてくる。

 

 アマルが特別男性を立てているという訳ではなく、この時代の女性は皆そうなのだ。そもそも男女平等の思想は、近代に入ってからの比較的最近のもので、それまでの女性は公的な枠組みから除外され、常に男性の管理下に置かれる存在だった。

 

 「人は、権利において、自由かつ平等に生まれている」と謳った、かの有名なフランス人権宣言の中にも、女性の人権について全く言及されていない。あくまでも、自由かつ平等の権利を享受する対象は、白人の男性市民に限定されていた。自由・平等とは程遠い。何とも皮肉なことだ。

 

 つまるところ、彼女たちの命運はその男性である後見人に委ねられた。娘であれば、父。兄弟であれば、兄あるいは弟が、妻であれば夫が女性を管理する。女性たちはその範囲内で、その人生を始め、終えるのだ。それが籠であるのか、加護であるのか。何とも言えない。

 

 ただ、自分がそのあり方に馴染めないのは、生きた時代と文化の違いだろう。それを加味せず全てを悪いものだと一方的に糾弾するつもりはない。でも、どうもすんなりと受け入れることはできない。

 

 俺は振り返りアマルを見た。アマルはピタリと止まりどうしたの? と不思議そうに小さく首を傾げた。そんな彼女を尻目に手を差し出す。

 

「アマル、並んで歩こう。ほら、手を出して」

 

 アマルはびくりと肩を震わせた。信じられないように俺の顔を見上げた。

 

「アンディ様、私ごときが貴方様にそのような恐れ多いことを」

 

「あー、ごめん。もしかして、嫌だったか?」

 

「……いいえ。いいえ、アンディ様。違うのです。嫌な訳ではないのです。決して、決してそんなことがあるはずありません、そんなこと。ありえませんとも。ただ。ただ、本当に。本当にーーー」

 

 私が貴方様に触れても、良いのですか? と、彼女は消え去りそうな声で囁いた。言葉を口にしながら、自身に問いかけるような口調だった。

 

「いいよ」

 

 それだけを、答えた。それで十分だった。

 再度、手を差し出す。

 

 俺の返答に、アマルは息を呑む。目深にかぶったローブの隙間から見える彼女の抜けるほど白い肌が真っ赤に染まった。

 

 何度も俺の掌と顔に視線をさまよわせ、アマルは手を引っ込めたり出したり。数秒迷う素振りを見せながらも、壊れやすい宝物を扱うようにそっと両手で掌を包んだ。

 

「ああ……暖かい」

 

 アマルは繋いだ手を眺めて、ぽつりと呟いた。

 

 

 ***

 

 

「アンディ様、こちらをどうぞ」

 

「ありがとう、アマル」

 

 部屋に戻ると、宣言通りアマルはすぐ飲み物を用意してくれた。簡素なベッドを椅子代わりに腰掛け、アマルから木製のコップを受けとる。手にじんわりと温かさが伝わる。

 一口飲むと、蜂蜜の甘さと柑橘系の爽やかさが広がった。舌が少し痺れるのは、お酒だろうか。仄かにアルコール独特の香りがした。文句なしに美味しい。

 

「アマル、すごく美味しいよ」

 

「ふふっ、お口に合ってようございました。蜂蜜酒(ミード)とレモン、数種類のハーブを合わせ熱したものです。熱で酒精もある程度飛んでいますので、安心してお飲みください。身体が温まります」 

 

「ありがとう。俺、あんまり酒は得意じゃないけど、これはいくらでも飲める。すげー温まる」

 

 語彙力のない誉め言葉なのに、アマルは心底嬉しそうに微笑んだ。これぐらいの言葉ならいつでも言ってやろうと思った。

 

 ちびちびと杯を煽りながら、アマルを見やる。彼女は姿勢良くお上品に側に控えていた。

 

「アマル、立ちっぱなしは疲れるだろ。こっちへおいで。ほら、そのフードも脱いでさ。俺しかいないんだ。ここでぐらいゆっくり寛いでくれ」

 

「でも……私、いいえ、えっと。はい、ではお隣に失礼致します」

 

 何を言っても無駄だと思ったのだろう。アマルは躊躇いながらもフードを脱いで、隣にそっと腰を下ろした。ふわりと甘い匂いが漂う。蜂蜜酒とは違うアマルの香りに心臓がざわつく。それを誤魔化すように俺はアマルに話しかけた。

 

「相変わらず、綺麗な髪だな」

 

 腰まで伸びた絹糸のように艶のある銀髪。もみあげを一房だけ編み込み緩やかに流している。アマルは俺の熱心な視線を感じたのか、恥ずかしげに頬を染め顔にかかる髪を払った。

 

「……そうで、しょうか」

 

「そうだよ。なんだ、俺が嘘をついてると?」

 

「いいえ、そのようなことは決して……」

 

 アマルは視線を下に向けた。何かを思い出しているようだった。その姿があまりにも寂しそうで、辛そうで、見てられなかった。思わず、くしゃりとアマルの髪を撫でる。

 

「俺、初めてアマルと会ったとき、髪がキラキラ輝いて星空みたいだなって思った。瞳だってルビーみたいだし。もっと、自信持てよな。お前、俺の住んでたとこでは中々お目にかけられないぐらい美人さんなんだから」

 

「あ、う、アンディ様っ」

 

 アマルは耳まで真っ赤になった。服を控えめに引っ張り、涙目で上目遣い。狙ってやってたなら将来絶対魔性の女になる。男を手玉に取る未来を想像し、げんなりした。妹分の将来が心配だ。

 

 撫でていた手を離すと、アマルは「あっ……」と寂しげな声をあげた。もじもじと、数秒肩を揺らして視線を迷わせる。

 

 

 羞恥から慌てて、こちらの言葉を止めたのに撫でるのは止めないで欲しかったらしい。態度で分かったが可愛いので知らんぷり。

 

 アマルはこちらの様子に痺れを切らしたのか、頭をぐっと差し出し撫でろと無言の催促。この甘え下手め。

 さらさらと、全く引っ掛からない髪を何度も撫でる。アマルは気持ち良さそうに鼻を鳴らした。そして、許しを得るように、チラチラと俺の顔色を伺ってくる。 

 

 何を求められているのかは全く分からなかったが、俺は頷いて微笑んでみせた。アマルはそれを見て目を輝かせると身体を寄せてくる。恐る恐る肩に頭を預け、俺が何も言わないことに安心したのか、無防備に瞳を閉じる。

 

「今日は、ずいぶん甘えん坊だな」

 

「駄目、でしょうか?」

 

「いいや。どんとこい。いつも頑張ってる妹分を甘やかすのも兄貴の仕事だ。うんと甘えてくれ」

 

「……嬉しい」

 

 アマルはそう言い、額を肩に擦り付けた。俺の左腕に手を差し入れ、腕を組む。少しでも隙間を作りたくないとでも言うようだった。普段ローブを着ているのであまり分からないが、歳の割にかなり豊かなアマルの胸があたる。

 

 ぐっ、柔らかい。

 

 あまり意識をしないようにしているが、ふとした瞬間やはり女の子なんだと再認する。

 

「アンディ様。ああ……私、ずっとこうしていたいです」

 

「そっか。なら、しばらくこうしてゆっくりするか」 

 

 なに食わぬ顔をして、アマルとたわいもない話をしながら穏やかな時間を過ごした。

 

 

 

 

 



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パンとワイン

 

 修道院での食事は1日に2回。

 

 食事回数は季節によって変わったりもするらしく、色々と細かい規則がある。残念なことに食事量も決められており、その規定内でパンとスープ、果物、ワインや蜂蜜酒、ビールなどが出される。

 

 パンやチーズを切り分けるためのナイフはあるものの、スプーンやフォークはないので基本的に食事は手掴みだ。これも慣れるまでに時間がかかった。

 

 大皿にざっくりと料理が盛られ、皆各々取り分けて食べるのだが個別の取り分け皿はなく、平たく切られたパンを皿代わりにする。テーブルクロスがあるとは言え、直置きはやはり不衛生な気がする。しかし、そんなことをいちいち言っていたら、満足に食事もできなくなるのが現状である。

 

 ちなみに、パンは冗談抜きで岩のように固いので、スープやワインにつけてふやかしてからじゃないと食えたもんじゃない。

 

 これらの食事は、共同食堂で食べるのだが、私語厳禁、終始無言である。食事は楽しく和気藹々と食べたい派の俺にとって、もはや苦行と言っていい。 

 と、ここまで言ったものの、俺が共同食堂を利用していたのは最初の数回だけ。それ以後は、部屋でアマルと食事を共にするようになった。もしかして、度々愚痴を漏らす俺を見かねて、修道司祭にアマルが許可を取ってくれたのかもしれない。

 

 ただ、俺が料理を部屋まで運んだりと、特別何かをするということはない。なぜなら、食事の手配は全てアマルがしてくれるからだ。

 

 最初こそ、そこまでしなくても良いと口を酸っぱくして言っていたのだ。しかし、アマルは「私はアンディ様のお世話をさせて頂くことが何よりも嬉しく、楽しいのです」と言って聞かない。最近では諦めて、本人が楽しんでいるならもう良いか、と好きなようにさせている。

 

 アマルは、テーブルを布巾で丁寧に拭いていく。

 

 俺はそれをうずうずしながらも、黙って見つめる。何度か手伝うと名乗り上げたが、すげなく断られてしまった。

 

 俺がしたことと言えば、机と椅子を部屋の真ん中に移動させるという力仕事ぐらいである。生憎、椅子がひとつしかないので、食事の際はいつもアマルには椅子を使ってもらい、俺はベッドを椅子代わりにして使っている。

 

 アマルが手際良く、テーブルクロスを引いて、バスケットからチーズとパン、林檎を順に置いていく。

 

 その他にもワインが入った水差し、木製のコップ、深皿、その横にナイフがひとつ。

 

 湯気が立つ小鍋が鍋台の上に置かれ、そこから食欲がそそる匂いが漂ってくる。俺がじっと小鍋を見つめていると、アマルは幼い子どもに言い聞かせるように「すぐ準備致しますから」と微笑んだ。  

 

 程なくして、準備が整い、俺たちは食卓に着いた。

 

 アマルが食前の祈りを捧げる。俺もそれを真似て数秒黙祷した。

 

「さあ、アンディ様。お召し上がり下さい」

「ああ、ありがとう」

 

 チーズを切り分け、差し出してくれたアマルに礼を言う。平たく硬いパンの上にチーズを置く。ナイフを持ち、手こずりながらパンの端をスライスして、スープに浸した。十分スープか染み込むと口の中に放り込む。うん。美味しい。

 

 ひよこ豆のスープは、ブイヨンベースで人参や玉ねぎなどの野菜がゴロゴロと入っている。素朴な味わいで、ほっとするような気持ちになる。

 

「ん、今日も美味しい。いつも、ありがとうな」

「いいえ、もったいないお言葉です。ふふっ」

 

 アマルは照れ臭そうに顔を染めて、はにかむ。

 

 これらの料理はアマルが全て作ってくれたものだ。以前共同食堂で食べたものとは、比べ物にならないくらい美味しい。

 

 早くにスープを飲みきってしまったため、仕方なくパン単体の攻略に入る。チーズと一緒に、もそもそと、乾燥しパサついたパンを咀嚼する。このパンを食べると、口の中の水分が全て持ってかれる。

 

 そう思っていると、アマルは水差しからコップにワインを注ぎ、すっと差し出してくれた。それ受け取り、口に含む。

 アマルは気遣い上手で、こういうことをそつなくこなしてしまう娘なのだ。

 俺は、再度パンを切り分け、機械的にそれを消費していく。

 

 このパンは黒パンと呼ばれるもので、原料はライ麦。栄養価が高く、安価であるため人々に多く食されている。黒パンは保存食でもあり、まとめて大量に焼き上げて、1週間あるいは1ヶ月置いておける。そのため、古くなった黒パンはナイフも中々通らないほど硬くなってしまうのだ。 

 

 元々食べる量が少ないアマルは、俺が黒パンと格闘する間に、食事を終えてしまっていた。彼女は俺の様子を伺いながら、空になったコップにワインを継ぎ足してくれたり、チーズを切り分けてくれたりと、世話を焼いてくれる。

 

 もう少しで俺がパンを食べきるという絶妙なタイミングを見計らい、アマルは林檎を手に取り、皮を剥き始めた。鮮やかなナイフ捌きは、いつ見ても惚れ惚れしてしまう。

 

 ふと、アマルはこちらを見て、林檎を剥いていた手を止めた。

 

「アンディ様……パンくずがお口に」

 

 そう言うやいなや、細く綺麗な手を伸ばし、俺についたパンくずを取ってくれた。礼を言おうと、顔を上げる。

 

 しかし、アマルが取ったパンくずを、そのまま口にする場面を見て思わずフリーズしてしまった。

 その原因は何事もなかったように、再び林檎を剥き始めていた。

 

 なんと言って良いか分からず、アマルをただ見つめてしまう。

 

 アマルは林檎の皮を全て剥くと、直ぐ様、食べやすいサイズにカットした。その一欠片を俺に向けて、控えめに差し出してくれる。

 

 ありがとう、と礼を言い林檎を受け取る。

 しゃくりと、一口噛み込む。

 

 林檎の甘酸っぱさが、口の中一杯に広がった。

 

 

 



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そうあれかし

 聖なる読書。

 

 それは、聖書を読むことにより祈りを捧げ、神との対話を図る行い。

 

 ストーンハースト修道院では、毎朝その時間が設けられている。

 黙々と聖書を読み、なぞり、心の中で反芻する。それは、修道士にとって重要な日課のひとつなのである。

 

 修道院内には書庫があり、聖書は勿論だが祈祷書や学術書など様々な本が置かれている。また、本を読むだけではなく、修道士の仕事として写本作りも行っている。

 

 活版印刷などない時代だ。

 本は全て人の手で作られていたため、写本を作るのには、莫大な時間と労力が必要であったのだ。 

 

 修道院には、そんな写本の製造から装丁まで行うことができる専用の写本室がある。

 

 ここからも分かるように、この修道院の修道士たちは、読み書きをおこなうことができる。

 だからそれがどうしたのだ、と思われるかもしれないが、この時代の識字率を慮れば、それがいかに特別なことであるか伺い知れるだろう。

 

 この地に住む特権階級を除くほとんどの人々は、文盲であり、十分な教育を受けることができずその一生を終える。

 読み書きができない人々のために、私的文書や法的文書を作成する公証人という職業が存在すること自体が、その事実を裏付けることができる。

 そんな中、修道院は有識者の集まる場所であり、知識の宝物庫とも言えるのである。

 

 さて、そんな小難しいことを考えながら、俺は書庫の中で本を読んでいた。

 

 他の修道士たちはこの時間、ミサをしているはずなので、書庫にいるのは自分ただひとりだ。

 隠れるようにして書庫を訪れているのは、本自体が大変高価て貴重なものであるからで、よそ者である俺が書庫に入ることを、よく思わない人もいるだろうと思ってのことである。

 

 ここにもし俺の知り合いがいたならば、この違和感に気づくだろう。それは一重に、俺がここにある本を読めるということである。

 

 そう、読めている。

 

 全く知らない言語で書かれたはずの書物が、読めてしまっているのだ。

 

 確かに、大学まで修学していた俺は問題なく読み書きができる。しかしそれはあくまでも、母国語である日本語と義務教育の恩恵によって否応なしに叩き込まれた英語だけの話だ。本来なら、ここにある本を読むことすらできないはずなのだ。

 

 そもそもで言うと、言葉が通じるというのも甚だおかしい。

 

 ここにきた時から、難なく俺は言葉を話すことができた。この地の公用語が日本語ではないかと一瞬錯覚するほどすんなり頭に入ってくるのだ。

 

 今開いている本にしても、日本語でも英語でもない言語で書かれていることは明らかなのに、何が書かれているのか分かる。それがどんなに異常なことなのかも。

 修道院の人々には、俺が文字を読めることを言ってはいない。これ以上、勘繰られたくなかった。聞かれたとしても、答えることができないからだ。

 

 何もしなくても、言葉や文字が読める。

 文面だけでは、なるほど良いことずくめではないか。

 もちろん、これがなければここでの生活が成り立ないことも理解している。理解はできているが、何とも言えない気持ち悪さが残る。

 

 俺は一体どうなってしまったのだろう。

 分からないこと程、恐ろしいものはない。

 

 しかし、思いあたるのはここに喚ばれたからとしか言えない。なぜならこの地にいること自体が、超自然的現象の帰結だからだ。 

 

 言葉が分かり、文字が読めるのは、神からの祝福なのか、悪魔からの呪いなのか。それとも両方か。

 

 喚ばれてから、自身に付加された異常な能力は、今のところそれだけである。これ以上は、何もないことを願うばかりだ。

 

 何度か口にしている「喚ばれた」という表現が、正しいものなのかは分からない。たまたま、なんらかの事故で来てしまった可能性だってあり得る。ただそう思うと、どうしようもなく行き場のない怒りから吐き気を催す。

 

 俺は理由も意味もなく、無慈悲にもここに来たのだと思いたくない。何かしらの役割があって、ここにいるのだと思っていたかった。

 

 その役割を全うし、終えることができれば、元の場所に戻ることができるのではないか。   

 

 俺はそんな希望的観測を未だに捨てることができない。

 

 ――そう、礼拝堂で目覚めて半年たった今でも、俺はこの地で生きる覚悟を持てないでいた。

 

 

 



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誰がための免罪符

 

「旦那……黒の旦那、聞いてやすかい?」

 

「ああ、悪い。少しぼーっとして」

 

「そりゃいけねぇ、大丈夫ですかい」

 

「俺は大丈夫だ。話を中断してすまなかった」

 

 談話室にて、俺はとある男と話していた。彼は、フランチェスコ・ポワティエ。ストーンハーストの修道士のひとりだ。

 

 フランチェスコは、160cm程度の身長をした小太りの男だ。人当たり良さそうな容貌を持ち、尚且つ面倒見も良い。異邦人である俺にも、気さくに話しかけてくれる。

 

 元々、フランチェスコは名の知れた商家の次男坊だったらしい。家を継ぐことも出来ない上に、跡取りである実兄から煙たがられ、逃げるようにストーンハーストの修道士になったのだ、と以前笑い話として俺に話してくれた。

 

 物怖じしないで人と関わりを持つことができるのは、商家で培われた生きる術であったのだろう。

 

 異邦人である俺を、最初こそ目に見えて煙たがっていた修道士たちの中にも、フランチェスコのように親しみを感じて話しかけてくる人も増えてきた。

 

 しかし、いくら仲良くなっても、何故か多くの修道士は俺のことをアンドリューという名で呼ばず、こちらではまずお目にかからない黒髪から取って「黒のお方」であったり、「黒殿」と呼ぶのだ。 

 

 アジア人特有の彫りの浅い顔立ちの俺は、ここにいるスラブ系やゲルマン系の顔立ちの人々の中において一際異彩を放っている。彼らにとって、俺はどうあっても異邦人でしかない。それは、仕方がないことなのかもしれない。ただ悲観することはない。

 

 俺には幸運にもアマルがいる。彼女は俺を色眼鏡無しで見てくれ、慕ってくれている。それがどれだけ俺の救いになっているか。アマルには、感謝してもしたりない。

 

「では、話を続けても?」

 

「ああ、頼む」

 

 俺は頷くと、真剣に耳を傾ける。

 

 今でこそ修道院に置いて貰えているが、いつ何時出ていかねばならなくなる状況が来るかもしれない。そのために、俺はこの時代の知識を教授してもらっている。

 

 この地で生きる覚悟はできていないとはいえ、いつまでも環境がそれを待ってくれるという保証はない。で、あるならば、自身にできる行い、また知識を少しでも増やしておいて損はないだろう。幸運にもここは、教師役にことかかないのだから。

 

 元々、人々に説法を行うフランチェスコを含めた修道士たちは、何かを伝え教えるということがべらぼうに上手いのだ。

 

 身ぶり手振り、声のトーンであったり、抑揚の付け方など、文字が読めない多くの人々に、教義を理解してもらえるよう考えられているのだ。

 

「ええと、どこまで話していましたかね。うーん……ああ、そういや行商人のとこまででした。こほん。さて、行商人とは、町と町を移動しながら商品を売り歩く者たちを言います。ただ彼らの商品を買うときは、うんと目を光らせなければなりませんぜ。それは、悪質な商売をする不届きものが多くいるからです。例えば小麦粉に石灰を混ぜ、量を増し平然とした顔で売り付ける、何てことは日常的に行われています」

 

 はい、先生! と俺はぴんと手を上げて質問する。フランチェスコは何でもどうぞ、と得意気に質問を促した。

 

「フランチェスコ、でもそんなことをして信用をなくせば、商売ができなくならないか?」

 

「……そうではない、というのが何とも悲しいですがね。学のある者はまだしも、平民は自身が騙されていることを気づけない場合が多いのです。それに、都市から離れた田舎の農村では、行商人の存在が重宝されるため、ある程度の行いは目をつぶらざるを得ないという実情があります。もちろん、そうではない公正な行商人も存在しますので、一概には言えませんが」

 

「……なるほど、そんなものなのか」

 

「ええ、それに彼らは色んな場所を行き交うため、様々な情報を持っています。彼らの付き合いは、慎重に、尚且つ有効に行うべきなのです。あまり深入りしすぎると、痛い目に合いますので、程ほどの距離感を保つことが望ましいでしょう」

 

 フランチェスコはそこまで言って、談話室の入り口に視線をやった。話に夢中だった俺は気づかなかったが、鋭い眼差しでこちらを見ている修道士が立っていた。

 

「フランチェスコ、またそんな男と話しているのか」

 

「おや、サルス殿。出会い頭に、あまり穏やかでないですねぇ」 

 

 フランチェスコは、肩をすぼめて困ったようにため息をついた。

 

 くそ、嫌な男に会ってしまったと、俺は心の中で毒づく。この男はサルス・ニールセン修道士。年の頃は30歳程度。サルスは厳格な戒律主義者にして、排他主義者。簡単に言うと、とんでもなくいけすかない奴。 

 

 こいつ絶対……暇だな。

 

 さらに何が腹立つかというと、彼はイケメンなのだ。そうイケメンなのである。それも爽やかな金髪好青年風(中身がねちっこいのであくまでも風だが)の出で立ち。ほんとなんなのだろうか。殴っても良いだろうか。

 

「ふん。こいつと関わるのは止めておけ。穢らわしい異教徒だぞ」

 

「サルス殿、そんな滅多なことを口にするべきではありやせんよ」

 

 嗜めるフランチェスコの言葉を鼻で笑い、ギロリと俺を睨み付けてくる。

 

「本当のことを言ったまでだ。貴様、どうせあの売女に誘惑されているのであろう。……畜生にも劣るあの女に。何て下劣な、吐き気がする」

 

 それを聞いて、怒りで視界が真っ赤に染まる。

 

「……おい、このイケメンクソ野郎、お前今なんて言った? 俺のことをどう悪く言おうが良い。どうぞ、お好きに。ただ、アマルのことを悪く言うことは、絶対に許さないぞ! 表に出ろ、ぶん殴ってやる!」 

 

「だ、旦那! おち、落ち着いて! どうどう! サルス殿も、黒の旦那を挑発するような言葉はお控えくだせぃ!」

 

 慌てて、フランチェスコは俺を羽交い締めにしてくる。俺は何とか拘束を逃れようと踏ん張るが、中々抜け出せない。そんな俺をサルスは、冷たく見下ろした。

 

「……なんて、野蛮。なんて、無知。それが貴様の罪なのだ。恐れを知らぬか、白痴の者よ。人は斯くあるべきというのに」

 

 そう吐き捨てサルスは背を向けて、そのまま談話室を後にした。あの男が何が言いたいのか、全く理解できなかった。

 

 ただ胸に残るのは、サルスへの苛立ちと無力な自分に対しての怒りであった。

 

 

 



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聖女の抱擁

 

 「黒の旦那、サルス殿の言うことは何一つ気にするこたぁありやせん」と俺を慰めてくれるフランチェスコに礼をして、談話室を後にする。

 サルスの一件があって、俺は釈然としない思いに駆られながらも彼の言葉の意味を考えていた。

 

 アマルに対しての侮辱は許されることではない。

 

 ただこの時代の女性の地位の低さ、女性嫌悪、女性蔑視の歴史があのような発言に結び付いたのだろう。

 

 ……いつか絶対殴ってやる。

 

 彼女が不当に罵倒され、俺は暗鬱とした気持ちになった。

 

「野蛮で無知。それが俺の罪か……」

 

 何を以てアイツがそう言ったのか。俺を単に貶したかっただけなのだろうか。しかし、あの底知れぬ瞳からは、どこか暗く拘泥とする何かが隠れているような気がした。

 

 俺は足を進め、沈黙の回廊と呼ばれる場所にとたどり着く。薄暗い修道院の中で、唯一光溢れる場所、それがこの回廊なのである。

 

 回廊中庭は、芝生で覆われ綺麗に整えられている。ここは、禁欲的な生活を送る修道士たちの憩いの場であった。修道士たちは、この回廊を無言で歩く。周回しながら、神に祈りを捧げたり、考え事をしたり、時には日向ぼっこを楽しんだりもする。

 

 何はともあれ、ここは考えごとをするにぴったりの場所なのである。

 

 俺は柱に持たれかけながら、中庭をじっと見つめた。野蛮ということは、俺が異邦人であり、未開の地から来たと思われているからだと推測できるが、無知とは何を指して言ったのだろうか。

 

 ただ、知識という点に置いては、俺はかなり高度なレベルだと自負している。何せ、小中高大と16年間勉学に励んできた訳だから、逆にそうでないと悲しい。ただ、この時代の常識においては、幼い子どもにも劣ると言わざるを得ないが。それはそれである。

 

 彼が言う無知とは、無学であるということと必ずしも一致しないのではなかろうか。

 

 

 ――異教徒で、白痴にして野蛮。

 

 

 不穏な響きしかしない言葉を並べてみた。改めて、げんなりとした気分になった。

 

 まず、俺は異教徒以前に無宗教である。

 

 文化的にどうかと言われると辛いものがあるが、特別宗教を持っているわけではない。まぁ、その考えは日本が元々おおらかな宗教観を持ち、他国の宗教にも比較的寛容であることが根本にある。

 

 正月には初詣に行き、バレンタインに浮かれ、ハロウィンに踊り、クリスマスを祝う。

 初詣は言うまでもないが、バレンタインはキリストの聖人(元をたどればローマの豊穣祭が源流にある)を祀るものであるし、ハロウィンに至ってはイギリスの先住民であるケルトのお盆である。

 

 多くの日本人は、無宗教ではあると思っていても、無神論者ではないというのがミソなのである。

 

 神様は居ないより居た方が、神頼みや験担ぎできる。どんな宗教的行事であれ、騒いで笑って楽しければ良い。と、言った俗物的な考え方に言い換えても良いだろう。俺もその例に漏れないのである。

 

 そこまで、考えてふと思った。

 

 サルスはあれだけ俺のことを嫌い遠ざけているのにも関わらず、今までストーンハーストから追い出そうとしたことは一度もなかった。普通なら、どうにかして修道院から閉め出そうと躍起になるものではないだうか。

 

 俺が彼の言う、異教徒であり白痴にして、野蛮であるならば。

 

 

 ――そのことに対して、少しのひっかかりを覚えた。

 

 

 

 ****

 

 

 

 その日の夜。

 いつものようにアマルと晩餐を共にし、一息つく。

 

 俺はベッドに腰掛けながら、てきぱきと動くアマルを眺めた。アマルは黙々と、後片付けをしてくれている。その姿を見ると、脳裏にアマルを侮辱したときのサルスの顔がよぎった。思わず憮然とした表情になる。

 

 綺麗な銀髪は滑らかに腰まで広がり、その整いすぎた顏は人形のように美しかった。誰もが振り返るであろう美貌を湛えた少女は、俺に見られていることに気付き、さっと頬を染める。

 

 アマルは手を止め、俺を上目遣いで見る。それから、何かを感づいたように、目を細めた。無言で、歩み寄ってくる。目の前に立つと、アマルは俺の頬に両手を添えて軽く引き、自分の方に顔を向かせた。

 

「アンディ様……何か、あったのですね」

 

 あったのですか? ではなく、断定的な口調。見透かしたような物言いに、ひどく怯む。

 

「……いや、いつも通りだよ」

 

「それは、嘘」

 

 即答だった。

 アマルは、優しく俺の頬を撫でる。その手の冷たさに、ぞくりと身体が震えた。ふたつの深紅の瞳は、俺を通して誰かを見ているようだった。

 

「そう、あの男……」

 

「……えっ?」

 

「サルス・ニールセンですね。あの男、貴方様に何を申したのですか」

 

 怒気が混じった声音が部屋に響く。心臓がどくりと大きく跳ねた。

 

「別に、大したことは言われてない」

 

「いいえ。いいえ、アンディ様。そうであるなら、貴方様がそのような顔をなさるはずがありません。どうかこのアマルに全てを仰って下さいませ」

 

「っ、それは……」

 

 とてもじゃないが、アマルには言えなかった。自分を悪く言われたことを知り、アマルがどう思うかなんて考えなくとも分かる。

 

「アンディ様、仰って……」

 

 有無を言わせない言葉に、思わず尻込みする。アマルは更に顔を近づけて、俺の名前を再度囁いた。俺は溜め息を漏らした。降参し、目を伏せる。

 

「……あいつ、アマルを悪く言ったんだ。ぶん殴ってやろうと思ったけど、できなかった。お前を見たら、そのことを思い出して、ムカムカしてたんだ。その、ごめんな」

 

「アンディ、様……私の、ために……怒って、下さったのですか?」

 

「そんなの、当たり前だろ」

 

 震える声で尋ねるアマルに、間髪入れずに答えた。次の瞬間、身体を引っ張られたかと思うと、目の前が真っ暗になった。頬に蕩けるような柔らかいものがあたる。

 どうやら、頭に腕を回され強く抱擁されているようだった。ということは、この柔いものは……。

 

「……アンディ様」

 

「お、おう! な、なな何だ!」

 

 俺は意識を浮上させ、慌てて返事をした。アマルは俺の頭をかき抱いたまま、静かに言葉を重ねる。

 

「私が貴方様を必ずお守りします。決して、何者にも傷つけさせないと誓います。例え、どんなことをしてでも。だから――」

 

 ――だから、どうかずっと私の側に居てください。

 

 祈るようなその言葉に、俺は答えることができなかった。

 

 



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盲信の徒

 

 

 

 

 ――だから、どうかずっと私の側に居てください。

 

 あの時、何も答えられなかった俺に、アマルは静かに微笑んだ。それはどこか、寂しさと諦めをない交ぜたような笑みであった。

 

 それからもう、1週間。 

 俺たちは何ごともなかったかのように、いつも通りに日常を送っていた。

 

 朝食を取り、アマルが礼拝のために席を外した後、俺は手持ち無沙汰になり修道院の中を散策していた。

 

「黒のお方」

 

 廊下を歩いているところを呼び止められ、振り返る。くるぶし丈のゆったりしたトゥニカの上からスカプラリオを着て、修道帽を被った痩せ型の男が歩み寄ってきた。

 

「ベネディクト修道司祭、どうかされましたか?」

 

「ええ、少々お話がありまして」

 

 彼は、ベネディクト・ボノスス。このストーンハーストの修道院長であり司祭を勤めている。ベネディクト司祭は鷲鼻を撫で、落ち着かない様子だった。視線をさ迷よわせた後、意を決したように口を開いた。

 

「……彼女とは、どうですか?」

 

「それはシスター・ヨハンナのことでしょうか。それともシスター・アマルティアのことでしょうか?」

 

 ベネディクト修道司祭は、数秒沈黙しそれから「貴方といつも共にいる方ですよ」と言った。

 

「アマル、いえシスター・アマルティアですか。彼女は、優しく真面目で尊敬できる女性です。私のような異邦人にとても良くしてくれます」

 

「……そうですか。それは喜ばしいことです」

 

 ベネディクト修道司祭は、そう言うと目を伏せた。そして、モゴモゴと何かを言いかけては止めることを数度繰り返した。癖なのか鷲鼻を何度も撫でつけ、言い聞かせるように呟く。

 

「しかし、あまりに深入りしないように。いいですね」 

 

 ベネディクト修道司祭はそれだけを言い、すぐに左右に視線を這わせた。誰もいないことを確認すると、返事も待たずに足早にその場を去っていく。まるで最初から返事など、求めていないようだった。

 

「何だったんだ……?」

 

 ベネディクト修道司祭の態度は、俺を非難しているというよりも忠告をしているようであった。それに、酷く怯えていたようにも思えた。

 

 ――いったい、何に?

 

 俺は顎に手を当て、考える。

 司祭のあの言葉、忠告。怯え。

 周囲を気にする動作。

 

 まるで、ここに恐ろしい怪物が潜んでいるとでも言うような――

 

「おーい、黒の旦那!」

 

「おわっ!? ビックリしたー! なんだ、フランチェスコかー。驚かすなよな」

 

「失敬な、私は何度もお声かけをしやしたぜ。気づかない黒の旦那が悪いんですよ」

 

 いきなり目の前に、小太りの男の顔が現れて大声を上げてしまった。癖っ毛が強い茶髪を掻きながら、フランチェスコは修道士にしては乱暴な言葉使いでハキハキとしゃべった。

 

「そっか、そりゃ悪かった。そう言えば、フランチェスコ。以前に相談した件はどうだ? やっぱり難しそうか?」

 

「あー、都市に行ってみたいってやつですかい?」

 

 俺は、勢いよく頷いた。

 

「旦那の頼みなら、このフランチェスコにドンとお任せあれ! ……っと、と言えれば良いんですがねぇ。なかなかどうして、そうできない込み入った事情がございやして」

 

「……そっか。俺、ここぐらいしかあまり知らないから、後学のためにも行っておきたかったんだけどなぁ」

 

 俺はしょんぼりと、肩を下げる。フランチェスコはそれを見て、申し訳なさそうに頭を掻いた。 

 

「まぁ、そう気を落とさんで下さい。私でよければ、都市や外の世界について話しやしょう」

 

「ありがとうな。俺に外のこと色々教えてくれ」

 

「……アンディ様?」

 

 

 抑揚のない、冷気さえ感じる声音にどきりと心臓が跳ねる。振り向くと、廊下の先にフードを目深に被ったアマルがひっそりと立っていた。

 

 静寂な廊下に、足音が響く。

 

 アマルは近くまで寄ってきて、俺の耳元に唇を寄せた。

 

「アンディ様、『外』とはどういうことですか。いったい何の話をしているのです」

 

「あ、アマル……」

 

 アマルは俺の胸に手を這わせ、蠱惑的な調子で再度問いかけてくる。その色っぽい仕草に、ごくりと喉がなった。

 

「いや、まぁ、言うなれば、世間話だ。なぁ、フランチェスコ!」

 

「ええっと、あははっは……黒の旦那、私はこれにて!」

 

「あっ、こらフランチェスコ!」

 

 フランチェスコは、つんのめるように走っていく。見事な逃げっぷりだ。まるっとした体型なのに、あの俊敏さはどこから出ているのか。その後ろ姿を見送って、伸ばした手を下ろし息をつく。

 

「アンディ様……」

 

「えっと、アマル、礼拝は終わったのか?」

 

「はい、つい先ほど。……それより、本当は何を話していたのですか?」

 

「何をって、さっきも言っただろ。ただの世間話だよ」

 

 いまだ懐疑的な視線を向けるアマルを抱き寄せ、頭を撫でる。こうするとアマルが大人しくなることは、既に学習済みである。

 

 実はこのようなやり取りは、今に始まったことではない。前からアマルは、少しでも俺が修道院を出る素振りや外への興味を見せると、顔色を変えて詰め寄ってくるのだ。

 

 俺もそこまで、鈍感ではない。

 好かれているのであろう、とは思う。

 

 ただ、アマルが俺に向ける感情は、親愛や恋慕という言葉だけでは片付けられない気がする。それは、もっと深く底知れぬ沼のようなものだ。

 

「……そう、ですか」

 

 アマルは遠慮がちに俺の背中に手を回し、身を預けてくる。寂しそうな呟きに罪悪感を覚え、それを振り払うようアマルに向け意識して微笑んだ。

 

 

 

 



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誘惑の果実

 

 ここに来て、かれこれもう1年の月日が立った。

 

 季節は、冬から春へと移り変わる境目。

 相変わらず、俺はこのストーンハースト修道院に世話になり、修道士と共に生活を送っている。

 

 修道士たちの朝は早い。

 なんせ、まだ深夜と言っても良い時間に起床するのだ。

 

 外は暗闇に包まれ、蝋燭の光が頼りなさげに周囲を照らす中、彼らは祈りを捧げ、数十分黙祷する。黙祷が終わるとすぐさま、聖なる読書を始める。夜明けが訪れる頃にはミサを行い、やっと朝食にありつけるという寸法だ。 

 

 その後も、労働や読書、食事の合間に絶えず祈りを捧げるというのだから、修道士の1日も中々忙しい。

 

 俺は修道士ではないので、それに合わせることもない。しかし、一人だけ惰眠を貪るのも気が引け、俺も夜明けよりずっと早く、ベッドから起き上がるようになった。

 とは言っても、寒さからいつもアマルが起こしに来てくれるまで、布団から抜け出せない日も多い。

 

 そんな俺の姿を見てもアマルは失望するどころか、むしろ目を輝かさせ甲斐甲斐しく世話をしてくれるのだから始末に終えない。

 

 隙あらば、着替えを手伝おうとするアマルを何とか閉め出して、ほっと一息。早々と寝間着から普段着のシャツとズボンに着替。身体を伸ばし、頬を叩いてやっと眠気が飛んでいく。

 

 それを読んだかのように、アマルが再び部屋に入ってきた。すぐにフードを脱ぎ素顔を晒すと、その拍子にさらりと豊かな銀髪がこぼれ落ちた。

 

 俺の部屋にいるときに限って、アマルはその顔を見せてくれるようになった。毎朝、女神のようなスラヴ系美少女に起こされるというシチュエーションも、日本にいた頃は考えられなかったことである。

 

「……アンディ様、もう着替えてしまわれたのですね」

 

「当たり前だろ。手伝って貰わなくてもそれぐらい一人でてきるって」

 

「もう、本当にいけずなお人。あら、ふふっ、アンディ様ここに寝癖がついていらっしゃいますよ」

 

 そう言って、アマルは俺の髪を手櫛で整える。

 

 俺とのスキンシップにも幾分慣れたのか、最初は手に触れることすら俺の顔色を伺っていたのに、今では戸惑いなく触れるようになった。最近ではアマルの方が積極的にスキンシップを量り、ストレートに気持ちを伝えようとしてくる。

 

「むっ、中々手強い寝癖ですね。アンディ様、少し屈んで頂けますか?」

 

 俺の身長は186cmあり、アマルはそれより頭1個分以上低いので145cmあるかないかといった具合だろう。この時代の平均身長が低いのもあり、修道院の中でも俺はずば抜けて身長が高い。

 

 言われるまま、前のめりに屈む。アマルは俺の頭を胸に引き寄せ抱き締める。そして、俺の髪を口に含みもごもごと唾液をつけた後、再度手櫛で撫で付け整える。

 

「はい、これで大丈夫です。ああ、素敵。今日も惚れ惚れするくらい男前ですわ、アンディ様」

 

「あ、ああ、ありがとな」

 

 朝から美少女に髪を食まれるという背徳感、そして彼女の甘い匂いとその胸の柔らかさにドギマギしながら、礼を言う。

 

 アマルは身長は低いのに、胸が極めて豊かだ。まさにトランジスタグラマーである。それもあって、まだ十代半ばなのに、時折とてつもない色気を感じる。

 

 また同時に、この時代の女性の結婚適年齢が15歳前後であることも関係している。早ければ、初潮を迎えて直ぐに嫁ぐ場合も少なくないだろう。

 

 つまるところこの価値観から言うと、アマルも結婚し子どもを産んでいてもおかしくないということだ。少女ではなく、もう立派な成人女性として扱うべきなのか。

 本当に今さらなのだが、あまりくっついたり撫でたりするのは、控えた方がいいのかもしれないと思えてきた。

 

 アマルは男女のそれにあんまりにも無防備だからなぁ。隙だらけすぎて、俺じゃなかったら誘われていると勘違いするぞ。

 

 まぁ、俺は自身に向けるアマルの気持ちを知っているので、迂闊に手など出すつもりは一切ないが。

 

「アンディ様、どうかなされましたか?」

 

「いや、何でもないよ。それより、まだ挨拶してなかったな。おはよう、アマル。今日も一日、元気に頑張りますか」 

 

「はい、おはようございます。アンディ様」

 

 アマルは満面の笑みを浮かべた。俺もつられて、笑顔になる。

 朝のやり取りを終えたアマルは、礼拝に行くと言って部屋を後にした。

 

 

 俺は礼拝やミサ、聖なる読書に参加をする訳にも行かず、部屋でじっとしていることが多い。

 

 早く起きたものの完全な手持ちぶさたになる。

 勿論、1日部屋で引きこもってる訳ではない。修道士に混ざり畑を耕したり、養蜂所をから蜂蜜を取ったり、修道院が所有する醸造所でビールや蜂蜜酒を作ったりと何だかんだでスローライフを満喫している。

 

 さて、今日は何をするか。そう考えて、ふと思った。

 修道院で暮らしを始めて1年が立つが、修道院の囲われた敷地内でしか出歩いたことがない。

 

 都市には行けなかったが、修道院の周辺なら出歩くことも大丈夫なのではないか。

 

 そうだ。少しぐらい、抜け出してもバレやしないだろうし、なんなら探索して、直ぐに戻って来ればいい。

 

 一度脳裏にその事が浮かぶと、興味が自分の中でどんどん膨らんでいく。一刻立つ頃には、それは強烈な冒険心として台頭していた。

 

 とにかく、今すぐにでも外へ行いってみたい。

 焦燥感に駆られながらも夜が明けるのを待ち、俺はひっそりと修道院を抜け出したのであった。

 

 

 修道院を出ると、すぐに目の前には畑が広がる。ここで、野菜や薬草などを日々の糧を栽培している。そこから少し離れた場所には、醸造所があった。醸造所を抜けたところにある正門は固く閉じられており、勝手に出入りすることはできない。

 

 俺は迷わず、とある場所へと向かう。

 修道院の敷地を囲うよう張り巡らせた石壁に沿って歩く。

 少しすると大きな落葉樹が生える場所に辿り着く。その木の裏に隠れるように生えている茂みを掻き分けると、石壁に人が1人やっと通り抜けられるぐらいの穴がぽっかりと空いていた。

 

 以前、偶々発見した、穴。

 見つけた当初は、今の環境に慣れることに必死でここを通り抜けてみようなんて、全く考えもしなかった。

 

 

 ごくりと、唾を飲み込む。

 俺はその穴を這って、何とか通り抜けることがてきた。

 

 

 ――――キィーーンッ!

 

 

 そのとき弦が切れるような甲高い音が聞こえたような気がした。

 

 

 



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異端の怪物

 

 

 

 

 ――穴を抜けると、そこは深い森であった。

 

 

 鬱蒼と木々が連なり、それがどこまでも広がっていた。

 まだ早い時間だからか、動物たちの気配はなく、鳥の囀りすら聞こえない。あたりは、静寂に包まれていた。

 あまり修道院から離れないように、ゆっくりと周囲を散策する。

 

 季節は早春とは言っても、朝はまだ肌寒い。だが、日が完全に昇ればそれもなくなるだろう。

 さくさくと落葉を踏む音が心地よく、どこまでも歩いてしまえそうだ。 

 

 立ち止まり、目を閉じる。

 ラジオ体操でするような深呼吸をする。

 苔むした木の匂い、湿った腐植土の匂い。

 その匂いを肺一杯に息を吸い込む。

 

 それだけで、疲れが取れていくようだった。

 森林浴とは良く言ったもので、自身の身体から悪いものが抜けていくような感覚がする。

 

 暗く鬱々とした修道院とはうって変わって、解放感溢れる開けた場所の何とも気持ち良いことか。俺は側にある木の根に腰かけた。空を見上げる。

 日の出の光に照らされ透き通るような緑が、風に揺れていた。

 

 その向こうには、産声を上げたばかりのまだうっすらとした青空が広がっている。じっとその光景を見ていると、うつらうつらと眠たくなってくる。俺はその心地の良い微睡みに、身体を任せることにした。

 

 ふと何かが動く気配がして、意識が覚醒する。

 

 少しして、身体全体を地面につけズハズルと這いずるような音が聞こえてきた。蛇などではない。それよりも、ずっと大きい何か……。

 

 その音はどうやら、森の奥の方から聞こえてくるようだった。目を凝らして木々の間のずっと向こうを見てみるが、全く何も見えない。夜が明けてきたとはいえ、森の奥は依然として闇で満ちていた。

 

 本来なら修道院に引き返した方が良い場面だろう。しかし、俺は誘われるようにふらふらと、その奥へと足を進めていた。何故か、そうしないといけないような気がした。

 

 木々の影を踏みながら歩く。徐々に影ではなく、闇で地面が染まる。そして、俺の姿も闇が包み込んでいく。

 

 ――どれくらい歩いただろうか。

 

 気づけば、俺は大きな石の前に立っていた。

 ストーンサークルのように、石が円上に置かれている。

 辺りを見回しても、先ほど聞いた音の主はどうやらいないようだ。ならば、早いところ修道院に戻るべきだ。だというのに、足が全く動かない。地面に縫い付けられたように動かない。

 

 ストーンサークルからズルズルと、あの這いずる音が聞こえた。

 

 大石を見る。

 何もいない。

 俺の視覚はなにも認めない。

 

 ストーンサークルの中心部を注意深く見つめる。すると水を1週間も飲んでいないような、強烈な枯渇感に襲われた。それはもはや衝動と呼べるものだった。

 

 今すぐストーンサークルの側に駆けつけ、触れたい。いや、触れればならないのだとさえ思った。

 

 囁きが聞こえる。

 

 影が蠢く。

 

 何かが手招きする。

 

 こちらに、おいで。

 

 クスクス。

 

 嗤う。

 

 おいでおいで。

 

 先ほどまでは梃子でも動かなかった足が、勝手にストーンサークルに向けて歩き出す。

 

 もう少し、そう後少し。

 

 頭の中で、語りかけてくる。

 

 我らはひとつ。ひとつは我ら。

 

 そう、ひとつに、なるのだ。

 

 俺は、手を伸ばし石に触れようと――ー 

 

 

「――ー黒殿、それに触るなっ!」

 

 

 肩を掴まれ、俺は、はっと息を飲んだ。反射的に、石を触ろうとしていた腕を下ろす。

 

 ……俺はいったい何をしようとしていたのだろう。今までのことが、白昼夢のように思えた。怖々としながら後ろを振り向く。

 

 そこには、ストーンハーストのもう一人の修道女、ヨハンナ・スコトゥスが立っていた。濃い金色の髪と、印象的な青い瞳。凛とした雰囲気を持った美しい女性だ。年の頃は、20代前半といったところか。

 

「黒殿、探しましたよ。まったく、ひやひやと致しました。して、どうしてこのようなところにお一人で?」

 

「その、悪い。ただ修道院の外に出てみたくて……」

 

「はぁ……黒殿、いいですか。良く聞いてください。異国育ちの貴殿にはあまり馴染みがないかもしれませんが、私たちにとって謂わば森は()()なのです。その脅威を知らずたった一人で、森に入るなど自殺行為も甚だしい。餓えた獣や異形のものたちは、常に虎視眈々と人を襲う機会を伺っているのですから」

 

 ヨハンナは、溜め息をひとつ吐くと、語意を強めて嗜める。それだけ心配してくれたのだろうか。そこで、ヨハンナはちらりとストーンサークルに視線をやった。

 

「……何にここまで、(いざな)われたのかは分かりませんが、恐らく善いものではないでしょう。……ここは危険です。早く修道院へ戻りましょう」

 

 そう言われ、俺は大人しくヨハンナに着いていく。そのまま少し歩くと、生温い風が後ろから吹き頬を撫でた。思わず顔だけ振り返ると、ストーンサークルの中で、何かが蠢いたような気がした。

 

 

 

 

 



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悲嘆の祈り

 

 少し先に、修道院の建物が見えてきた頃には、もう日は昇りきっていた。俺は思いの外、遠いところまで歩いてしまっていたらしい。らしい、というのもあのストーンサークルに行くまでの記憶がひどく曖昧であるからだ。まるで夢遊病患者のように、俺はあそこまでの距離を歩いていた。

 

 それにしても、ヨハンナは俺を良く見つけてくれたものだ。広大な森の中にいるひとりの人間を探し当てるなんて、中々できる芸当ではない。追いついたタイミングを考えると、俺がこの修道院を出てからそう時間が立たないうちに、俺を探しに森へ入ったのだろう。

 

 ヨハンナの背中を見ながら歩く。修道女としては、道中も隙のない足取りで、効率的な身体の使い方を知っているように思えた。ストーンハーストに来る前、彼女は一体何をしていたのだろうか。

 

 修道院に近づくと、鋼鉄の正門の内に、フードを被った小柄な人が立っていることに気づく。彼女は祈るように胸の位置で手を重ね、顔を伏せていた。

 

 ――アマルだ。

 

 どうやら俺をわざわざ出迎えてくれたらしい。

 手を振りながら大声を上げる。

 

「おーい、アマルっ!」

 

 アマルはその声に直ぐさま反応し、ぱっと顔を上げた。

 

「アンディさまぁ!!!」

 

 彼女は扉前まで走り、鉄柵を握りしめ必死に俺の名を呼んだ。

 

 俺は早足で、正門に近づく。ヨハンナもそんな俺に溜め息をついて、後に続いた。そして、正門に着くとヨハンナは懐から鍵を出し、扉の錠前を解錠する。

 

 俺はそれを待ってから、ゆっくりと正門を押し開いた。敷地に入るとアマルがすぐさま飛び付いてきた。何とか抱き止めたものの、その勢いを殺しきれずそのまま後ろに倒れ込んでしまう。

 

「あ、アマル、こらっ、勢いつけすぎだ。いたた、尻を打ったぞ」

 

 アマルから押し倒され、抗議をしようと顔を上げた瞬間、頬に大粒の水滴が降ってきた。

 それは、涙だった。次から次へと涙がこぼれ落ち、俺の頬を伝う。

 

「あんでぃ、様。アンディ様、アンディ様っ、アンディ、さまぁ!!」

 

 アマルは、俺の名前を何度も、何度も呼びながら、悲痛な声で泣き叫ぶ。思わず、身を起こしてアマルを強く抱き締めた。アマルは俺の胸にすがり付き、身体を震わせる。

 アマルの身体は、氷のように冷たかった。勝手に修道院から抜け出した俺を心配して、ここでずっと待ってくれていたのか。俺は、胸がきゅっと切なくなった。

 

「アマル、心配かけてごめん、ごめんな」

「あ、あんでぃ様、お部屋に居なくて、修道院中を探しても見つからなくて、私、ああっ、もう帰ってこないかもしれないって……うぇ、ひっぐ、えっ、アンディ様ぁ」

 

 ヨハンナに俺を探させたのは、アマルなのかもしない。俺が居なくなったことを一番に気づく確率が最も高いのが彼女だからだ。

 

「うん。ごめんな。ちゃんと帰ってきたよ。アマルのところに帰ってきた」

「あん、でぃ様、アンディ様、ああっ、私を置いていかないで……ひとりにしないで……っ」

「大丈夫、大丈夫だ。置いていかない。アマルの側にいる」

 

 それを聞いてアマルは、肩の力を抜いた。落ち着くように背を撫でる。少しすると、小さな寝息が規則的に聞こえてきた。ずっと立ちっぱなしで疲れきってしまったのだろう。

 

 俺は呆然と、アマルの寝顔を眺める。

 

 まさか、こんなに泣かせてしまうなんて思ってもいなかった……。

 

「黒殿、とりあえず修道院の中へ入るべきかと。私は先に戻って、ベネディクト司祭に報告をしてきます」

 

 困ったように俺たちを眺めていたヨハンナは、そう言って先に修道院へ戻っていった。ああ、何だか気を使わせてしまったな。

 

 暫くしてから、俺はアマルを横抱きに持ち上げた。壊れ物を扱うように細心の注意を払い、ゆっくりと修道院に向かった。

 

 

 ***

 

 

 修道院に入り、廊下を歩いているとフランチェスコが、俺を見つけて駆け寄ってきた。

 

「黒の旦那! 良かった、戻って来たんですね。無事で何よりでぇ」

「ああ、心配かけたな。俺は大丈夫だ」

「本当ですぜ。旦那がいなくなって、色んな意味で生きた心地がしなかったでさぁ」

「なんだよ色んな意味って。でも、ありがとうな」 

 

 フランチェスコは笑うと目線を下げ、どこか冷めた目でアマルを見つめた。

 

「旦那、早く運んだ方がいいですぜ」

「ああ、そうだな。悪い、俺もう行くわ」

 

 その眼差しに違和感を覚えながらも、俺はフランチェスコに軽く頭を下げ、アマルの部屋へと足を進めた。

 

 アマルの部屋は、修道院の一番奥にある。ちょうど、俺とアマルが出会ったあの礼拝堂のすぐ側だ。男子の居住エリアと離れた位置にあるのは、何か間違いが起こらないようにということだろう。

 

 ここに来たとき、修道士と修道女が同じ修道院にいることに驚きを隠せなかった。普通は、男子修道院と女子修道院に分けられ男女が混ぜられることはないからだ。

 戒律等に詳しい訳でもないので、知らないだけでそういうこともあるのかもしれない。

 

 アマルの部屋に着くと、ベッドに寝かし布団を肩までかける。痛ましく瞼が赤く腫れ、頬には涙の後が残っていた。

 

 俺は、その頬をひと撫でし、静かに部屋から出ようとしたが、服の裾を掴まれ断念する。起きたのかと、顔を覗き込むが相変わらず彼女は深い眠りに落ちていた。どうやら無意識の行だったようだ。俺はなんとも言えない気持ちになった。

 

 服の裾を掴むアマルの手を丁寧にはがし、そのままぎゅっと手を繋いだ。アマルは安心したように、表情を和らげたように見えた。

 俺は目を瞑って、ゆっくりアマルが起きるのを待つことにした。

 

 

 



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聖痕の兆し

 

 

 

 あの日のことは、今でも鮮烈に思い出すことができる。

 

 暗闇の中、輝く銀色。

 

 感情のない宝石のような深紅の瞳。

 

 それを見上げながら、俺は――

 

 ――ただ、どうしようもなく綺麗だと思った。

 

 

 ***

 

 

 

「……アンディ、様」

 

 目を開ける。

 ぼんやりとした視界に、アマルがうつり込んだ。

 

 一拍おいて、状況を理解する。

 しまった、あのまま寝てしまったのか。

 慌てて、身を起こす。

 

「わ、悪い。勝手に部屋入って、やましいことはなにも!」

 

「ふふっ、いいのです。こちらこそ、ご迷惑をお掛け致しました。……私を運んで、ずっと一緒に居てくださったのですね」

 

 アマルは、嬉しそうに繋いだ手に視線を落とした。それを見て、申し訳なさを感じる。

 

「ああ、うん。……なあ、アマル、その……ごめんな」

 

「……いいえ、アンディ様は何も悪くありません」

 

 アマルはそう言って、微笑んだ。

 泣いているように微笑んだ。

 

 俺が目を見開くと、アマルは自分が笑っていることに気付き顔を伏せた。それは懺悔をするような仕草だった。

 

「アンディ様、私は……」

 

 伏せいだまま、アマルはそこまで言って言葉を止めた。

 

 その先の言葉は、いくら待っても紡がれることはなかった。

 

 

 

  ***

 

 

 ――ー次の日。

 

 

 俺は再び、修道院の書庫に足を踏み入れていた。

 森の中で会った、あの()()を調べようと思ってのことだ。

 

 あれは、どうも俺だけに聞こえ見えていたらしい。

 ヨハンナに何か聞こえたり、見えたりしなかったか、と聞くと「いえ、黒殿が異教の遺物に不用意に触れようとしていたので止めただけですが」と首をかしげた。

 

 勿論、俺が一時的にせん妄状態になり、幻覚を見ていた、という可能性は捨てきれない。しかし、どうしてもあの蠢く影が俺には幻覚だと思えないのだ。

 

 ヨハンナは森が「異界」であると、言った。

 この森が、という訳ではなく、森という概念そのものを指しているようだった。

 

 異界とは、世俗とは離れた人智を越えた場所。一番にイメージしやすいのは、この世とあの世といったものだろうか。

 

 おそらく、詳しくは民俗学の範疇に入るのであろうが、生憎俺はそこまでの知識はない。以前、民俗学を専攻していた大学の友人の話を少し齧った程度である。

 

 人が住む世界とは、違う場所。

 

 境界線のその向こう。

 

 この世界と外の世界を分ける、境界という考え方。異界という概念。日本でもその考え方は、古くからあった。

 

 山。海。空。地下。

 

 それを恐れ、敬う思想。

 

 空には天国、神の世界があり、地下には死の国、死者の世界が広がる。また同様のように、山や海にも、あの世を連想する文化か根付いている。和歌山の熊野信仰といった山岳信仰や、沖縄の海の底にあるとされる理想郷ニライカナイ。どれも、境界の向こう側にある異界とされる。

 

 そこに迷い込んでしまった。あるいは、人ではない異界の者に拐かされてしまった。そのことを神隠しと呼ぶ場合がある。

 

 それの実情はおそらくこういうことだろうと、友人は語った。

 

 ある人が前触れなく行方不明になったとする。数日してたら帰ってくるだろう、と誰しも考えた。しかし、待てど暮らせどその人は帰ってこぬ。

 

 恐らくどこかで何か不慮の出来事が起こり、死んでしまったのではないか、普通ならそう考えるだろう。

 

 ただ、家族、親類、友人は、その人が人知れず事故死してしまったり、のたれ死んでしまっていたと思うのではなく、きっと人智の及ばないどこかで幸せに暮らしているのだ、と思った。……そう思った方が、残された人々にとって、何より心が慰められ、救いになるからだ、と。

 

 そうかもしれない。

 そうであってほしい、という思い。

 

 死者には安寧を。

 

 罪人には鉄槌を。

 

 聖者には祝福を。

 

 異形には畏怖を。

 

 その思いの集大成こそが異界を形作る。

 なるほど、そうかもしれない。

 そういう考えもあるだろう。

 

 しかし、本当に異界が存在していたとすれば?

 ただの思想や概念ではなく、そこに()()としたら?

 

 先日の体験を経て、俺はそう思うようになった。

 ある意味、俺は神隠しに会ったようなものだ。森を通して、この世ではない異界に迷い込んでしまったのだから。

             

 ただ、と思う。

 

 そうであるなら、この世界そのものも俺にとっては異界。自身が住んでいた世界とは、全く違う世界。

 

 ――異世界に他ならないのだと。

 

 そう考えると、この場所では正しく俺は異邦人であり、まれびとであった。そのとき、ふと脳裏ある考えが浮かんだ。

 

 世俗から隔離され、境界を引かれた場所。

 それを異界と呼ぶのであれば……この修道院も、外から見ると「異界」になるのではないか。

 

 

 ―――ベネディクト修道司祭のあの()()を恐れた顔が、頭によぎって消えた。

 

 

 

 

 



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愛の囁き

 

 もう何冊目かの本を棚に戻す。

 中々目当ての内容が書かれた本を見つけることかできない。そろそろ、ミサも終わる時間帯だ。あまり長居はできないし、後一冊だけ見て戻るか。

 

 日本で、1分1秒も惜しく働いて、時間に全く余裕がなかったことと比べれば、ここは天国のようなものだ。時間だけは嫌というほどあるんだ、急ぐ必要もない。また明日、ゆっくり調べれば良い。

 

 俺は凝った首をぐるぐる回し、緊張を和らげる。そういえば、本棚の上段はまだほとんど見てなかったな。身体を伸ばすことも兼ねて、俺は本棚の最上段に辺りをつけ、限界まで背伸びをした。

 

 こういうとき、背が高いとやはり便利だ。書庫には不親切にも台座がないので、修道士たちの身長を考えると最上段には手が届かないだろう。

 

 本棚の最上段にある本を引き抜く。

 その拍子に、ひらりと何か紙のようなものが落ちてきた。

 

「……なんだ、これ?」

 

 俺は取り敢えず本を元の位置に戻し、紙を拾った。

 

 古びた、紙……いや、羊皮紙だろうか。

 

 茶色く変色し、羊皮紙の端は所々破れている。

 この羊皮紙自体は、かなり年季が入ったもののようだ。裏返して見てみると、覚え書きのような文字が乱雑に書かれていた。湿気で文字が掠れかなり読みにくい。

 

 俺は目を凝らし、文字を読む。

 

「……の誓約。ひとつ、見ては……い。ふたつ、話しかけてはならない。みつつ、触れ……ならない。……を……はならない。いつつ、ここを……はならない。むっつ、……共にしてはならない。なな……じてはならない。やっつ、あ……してはならない。ここのつ、全てを守らなければならない。とう、………」

 

 何かの戒律を走り書きしたものだろうか。

 肝心なところが霞んで読めない。

 特に関係はなさそうだが……。

 

 そのとき、聖堂の大きな扉が開く音が微かに聞こえた。

 

 聖堂は独立した建物で、ミサや聖体儀礼などはここで行われている。大きく立派な建物なのだが、扉の立て付けが悪いのだろう開閉時には、金切り声のような音が鳴るのだ。この音は良く響き書庫まで聞こえてくるため、俺はタイマー代わりにしている。

 

 どうやらミサが終わったようだ。

 

 元の位置に羊皮紙を戻す時間が惜しく、俺は羊皮紙をそのまま上着のポケットに突っ込んで、慌てて書庫を後にした。

 

 何食わぬ顔で廊下を歩く。

 

 すると、後ろからバタバタと慌ただしく廊下を走る音が聞こえた。何だ、と振り返る前に、背中に衝撃を受けた。背中に柔らかいものがあたり、透き通るほど白い手が前に回される。

 

「アマル。もう、いきなり後ろから来るからびっくりしたぞ。どうしたんだ?」

 

「……アンディ様、どこにいらっしゃったのですか? 私、また居なくなってしまったのかと」

 

 ぐりぐり、とアマルは甘えるように頭を背中に押し付けてくる。礼拝が終わって、真っ先に俺の部屋に向かったのだろう。俺が部屋にいなくて、修道院の中を探してくれていたのか。俺は笑って胸に回された手に、自身の手を重ねた。昨日の件もあり、不安になってしまったらしい。甘えん坊ぷりに拍車がかかっている。

 

「昨日の今日でいなくなったりしないよ。ほら、ちゃんと居ただろう?」

 

「……はい」

 

 俺は首だけ振り返って、微笑む。

 アマルはそれを見て、ほっとしたように肩の力を抜いた。

 

 

 ***

 

 

 アマルと一緒に、俺は部屋へ戻ってきた。

 ベッドに腰かけるとアマルはフードを脱いで、直ぐにピッタリ横に座り込み腕を組んでくる。

 

 

「アンディ様、頭を撫でて下さい」

 

 はにかんだように、上目遣いで俺を見る。

 思わず、俺は笑ってしまった。なんだこの可愛い生きものは。

 

 頭を差し出して、撫でてほしいと催促してくる。構ってほしい。甘えさせてほしいと、子犬みたいな仕草。

 

 よしよし、と、頭を撫でる。艶のある豊かな銀髪が背中まで流れ、その髪を手でとくようにする。

 

「んっ、アンディさまぁ」

 

 アマルは気持ち良さそうに、目を閉じた。

 

 ちょうど半年前は、こういう風に甘えるのも中々自分で言い出せなかったのになぁ。今ではこの通りだ。何だか感慨深いものがある。

 時を重ね、一緒にいる時間が増えるごとに、アマルと俺の距離は近づいていき、今はもうゼロ距離と言っても良いくらいだ。

 

 俺がベッドに腰かけると、横に座り腕を組んでくるのはもはやデフォルトと化していた。

 

 正直、これは妹や友人の距離感を通り越して、恋人のそれといった方がいいのかもしれない。こうやって自然に腕を組んだり、抱き締めたりと、宣言も誓いもしてないが、ほぼ事実婚ならぬ、事実恋人のようなものだ。

 

 まだ、日本に帰ることを諦めきれないので、俺はアマルの気持ちに答え、責任をとることもできない。なら、やはりあまりこういう行為はしない方がいいのだろうとは、思ってはいる。いるのだが……。

 

 ただ、アマルがいつからストーンハースト修道院にいるか分からないが、親元を離れて世俗から隔離された場所に住み、ずっと誰かに甘えることもできなかったのではないか。そう思うと、俺はついつい甘やかしてしまうのである。

 

 頭を撫でるごとに、甘く優しい芳香が広がる。

 咲きほこる花のような、熟れた果実のような自然の匂い。仄かに香るその匂いは少女特有の瑞々しさと色気を感じる。俺はアマルのほっそりとした首筋に顔を埋め、大きく息を吸い込む。本当に、いい匂いだ。ずっと嗅いでいたくなる。何か特別に香油でも使っているのだろうか。それともアマルの体臭なのだろうか。

 

「アンディ、様。んんっ、恥ずかしい、です」

 

 俺は、パッと顔を上げた。

 

 無意識の行動だった。

 未成年の少女に、いや、こちらの価値観でいうといっぱしの成人女性か。どちらにしても、本人の了解も取らず首筋に顔を埋め、あまつさえ匂いを嗅ぐ。責任を取れないと言ったそばから、何てことを。アウトだ。確実にアウトだ。

 

「すまん! いい匂いだなって思って、ほんと無意識だった!」

 

「い、いいえ。違います! 嫌ではないのです。アンディ様の望みであれば、私どんなことでも答えてみせます。ただ少し恥ずかしくて。……さぁ、もうアマルは大丈夫ですわ。ど、どうぞ、存分にお嗅ぎください!」

 

 アマルは髪を払って、首筋をさらした。その動作に妙な艶やかさを感じ、ごくりと唾を呑み込む。勿論、流石に悪いと断ろうとしたが、真っ赤に染まった首筋を見てここで断ったらアマルにいらぬ恥をかかせてしまうのではないだろうか、と考えた。うん、そう他意はない。ないったらない。

 

 俺は一大決心をして、再び首筋に顔を埋めた。アマルは俺の背中に手を回して抱きついてくる。肩に柔らかい胸が当たって、ひしゃげた。その感触にくらくらして、そのまま襲いかかりたくなるのをぐっと堪える。

 

 俺は心の中で般若心経を唱えながら、とにかく早くこの煩悩が頭から消えてくれと泣き言を漏らすこととなった。

 

 

 

 



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いつかの約束の花

すぐ殺しにかかってく暴力系ヤンデレよりも、精神的に訴えかけてくる健気ヤンデレ系が刺さる。皆はどんなヤンデレが好きですかね。


 

 

 修道院には、本格的な春が到来していた。

 

 

 午後、修道院の庭にある畑で、恒例の畑仕事に勤しむ。春の日差しがぽかぽかと暖かい。良く晴れた絶好の畑仕事日和だ。

 

「なあ、フランチェスコ、玉ねぎってこのまま抜いちゃっていいのか?」

 

 俺は横で、玉ねぎの収穫をしているフランチェスコに声をかけた。

 

「ええ、黒の旦那。こうですねぇ、スポッとお願いします。……しかし、旦那ってかなり世間知らずですねぇ。まさかどっかのお貴族様だったりしないですかい?」

 

 快活な笑みを浮かべ、フランチェスコは実際に抜くところを実演してくれる。

 

「ないない。そういうのに縁がなかっただけだ。なあ、ちなみに、この葉っぱって食べたりしないのか?」

 

「いえ、食べはしませんが」

 

「そうなのか……ネギ美味しいのにもったいない」

 

 物欲しそうにネギを見る俺を、フランチェスコは声を出して笑う。腹が立ったので、脇腹を摘まんだ。フランチェスコは、更に笑った。

 

 泥だらけになりながらも、なんとか畑仕事が一段落した。さっそく収穫した玉ねぎをフランチェスコと共に、木で組み立てた櫓に吊り下げる。

 

 こうして干すことで、およそ半年程度長期保存出来るようになるのだ。自給自足の修道院の生活はこれらの保存食に支えられていると言っても良い。

 

 これで今日の労働は終わりだ。もう空は茜色に染まっていた。俺とフランチェスコは、畑仕事で使った道具を片付け、凝った身体をゆっくり伸ばした。

 

 そんな俺たちを包むように、雲間から夕日が優しく射し込んだ。

 

 フランチェスコは額に浮かんだ汗を拭いてから、振り向きニッコリ笑う。

 

「さぁ、旦那。今日は疲れたでしょう。ゆっくりと休んでつかぁさい」

 

「ああ、フランチェスコもな」

 

「はっはっは、あっしにはまだやることが残ってますんで、大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございやす。おっと、そろそろ夕の祈りの時間だ。旦那これにて、失礼!」

 

 颯爽と去っていく丸々とした身体。なぜあんなにも早いのだろうか。あの走りを見るごとに、感心をしてしまう。

 

「……さて、俺は井戸で汗を流してから、部屋に戻るか」

 

 畑を横切って、井戸まで歩く。井戸は醸造所の側にある。大した距離ではないため、直ぐに井戸へたどり着いた。さっそく、立て掛けていた桶をとって、井戸に落とす。縄を調節して桶一杯に水を入れ、汲み上げた。

 

 まず、手を洗う。ひんやりとした井戸水が心地よい。服を脱いで上半身裸になる。その後、顔を洗ってから、一度水を捨て再度桶で水を汲んだ。身体を九の字に曲げ、下半身を濡らさないように気をつけて、頭から水を被る。ガシガシと頭を洗い、髪の毛の水を絞る。最後にもう一度水を汲み上げて、脇や首、耳の裏なども念入りに洗ってから、水をかけて流す。

 

 頭を振って水分を飛ばしたあと、髪をオールバックに撫で付け一息ついた。それから服を着て、桶を井戸に立て掛けてから、修道院に踵を返す。

 

 畑を横切った際に、夕日に照らされた小さな野花が目に入った。薄青色の上品な花だ。群で咲くわけでもなく、一輪ひっそりと佇んでいる。

 何となく、その姿がアマルを連想させた。俺はじっとその花を見つめて、しゃがみ込む。少し迷ってから、その花を摘んだ。それを丁寧に持って、ゆっくりと修道院へと向かった。

 

 

 ***

 

 

 ドアを開け自室に入ると、既にアマルがベッドにちょこんと座っているのが見えた。アマルは俺の姿を認めると、顔をほころばせた。直ぐに立ち上がって、子犬のように俺の側へ寄ってくる。

 

「まぁ、アンディ様。水浴びをなさっていたのですか?」

 

「ああ、畑仕事で汗をかいたから、井戸で流してきた」

 

「まだ濡れていらっしゃいますわ。春とはいえ、風邪を引いてしまいます。さぁ、こちらにお掛けになってくださいませ」

 

 俺はアマルに促されるままに、ベッドに腰かけた。アマルはいそいそとタンスの奥から布を取り出す。

 

 というか、そんなところに布があったのか……。

 

 アマルは俺の部屋の掃除、衣服の管理もしてくれているため、俺よりも部屋の状態を分かっているのだ。

 

 取り出した布で、アマルはそっと丁寧に俺の顔を拭いてくれる。それから、髪を拭こうとして、ほぅとため息をついた。

 

「……アマル、どうした?」

 

「い、いえ。その髪型のお陰で、アンディ様がいつも以上に男らしく素敵で、何だか崩してしまうのが勿体ないな、と……」 

 

「ははっ、そんなに気に入ったなら、こんな髪型またいつでもしてやるから。ほら、拭いてくれるんだろう?」

 

 俺は思わず、笑って頭を差し出した。

 それを見てアマルは、頬を赤らめる。おずおずと、頭を拭きながら、「……約束ですよ」と恥ずかしげに呟いた。

 

 髪を拭いてもらい、だいぶさっぱりした。

 アマルに礼を言おうとしたところで、自分の左手に持っていた花の存在を思い出した。俺は立ち上がり、布を畳んでいるアマルを呼んだ。アマルは布を机に置いて、直ぐに駆け寄ってくる。

 

 花を女性に贈る機会なんて、今までなかったので何て言ったらいいのやら。しかも贈るのはきちんとした花束ではなく、名前も知らない一輪の野花だ。流石に失礼に当たらないだろうか、今さらながら、尻込みをしてしまう。

 

 そんなに難しく考えるな、日頃の感謝を伝えるだけだ!

 ええいままよ!

 

「あーっ、こほん。アマル、いつも色々ありがとう。これをお前に……その、日頃の感謝を込めて、ちゃんとしたもんじゃなくて悪いけど」

 

 花を差し出す。

 アマルは俺の顔と花を交互に何度も見つめて、花を受けとる。紅潮させた頬を隠さず、微笑んだ。

 

「誰かに、贈り物を頂いたのは初めてです。アンディ様は、私に沢山の初めてをくれるのですね。本当に、嬉しい。言葉にできないくらい、嬉しいです。……アンディ様、私、一生大事に致します」

 

「ああ、そこまで喜んで貰えるならありがたい。でも、花は枯れちゃうからなぁ……」

 

 アマルは、ぱっと顔を上げて、うるうると瞳を潤ませた。俺は慌てて、言い募る。

 

「だ、大丈夫だ。押し花にすれば、なんとか。また、一緒に作ろう」

 

「本当ですか?」

 

 ああ、勿論これも約束だ、と俺は深く頷く。

 アマルは幼子のように笑った。

 

 それに合わせて、小さな青い花が静かに揺れた。

 

 

 



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その名に祝福を

 

 

 毎晩、夕食を終えると、俺とアマルは二人してベットに腰かけ、話をするのが日課になっている。

 

 といっても、アマルが自身のことを語ることはまずなく、ほとんど一方的に俺が話す形だ。それは俺のプライベートのことから、日本の文化や学問など多岐にわたる。アマルは、俺に関わることであればどんなことでも聞きたがった。

 

 そんな中、母国語である日本語の話題になり、口で説明することが難しかったため、百間は一見に如かずと言う訳で、机から蝋版を引っ張り出し書き出している。

 

「えっと、それでな、俺の名前は本来こう書くんだ」

 

 薄い木の蝋板に、鉄筆で安藤隆(あんどうりゅう)と自分の名前を書く。アマルはそれをマジマジと見つめている。その真剣な面持ちに思わず笑みが溢れた。やはり俺のことなら、何から何まで興味があるらしい。

 

「これが俺の名前だ」

 

「なんだか、模様のようですね」

 

 アマルは、目に焼き付けるようにじっと蝋板を凝視している。

 

「ああ。元々は絵から発展した言葉だからな。漢字って言うんだ。表意文字といって、この一文字一文字に独立した意味がある」

 

「なるほど、そうなのですね。アンディ様のお名前は、どのような意味があるのですか?」

 

「んー、別に珍しいもんでもないが、まぁ栄えるとか、下向きの力に負けず上へ上がるとかそんな感じだ」

 

「……とても、良いお名前ですね。アマルはアンディ様のお名前がこの世で一番素敵だと思います」

 

「あ、ああ、うん。ありがとな」

 

 ふわり、と優しく微笑むアマルの顔を見ていると、気恥ずかしくなる。お世辞じゃなくて、アマルは本当にそう思っているのだろう。だからこそ、始末におえない。俺は頭を軽く振って、気持ちを切り替える。

 

「そういや、アマルの名前はどういう意味なんだ?」

 

 何気ない質問だった。アマルは、ビクリと肩を震わせ下を向いた。言いにくそうに、言葉を発する。

 

「……その、私……の名前は……っ」

 

 珍しく歯切れが悪そうに言うアマルを見て、もしかしてドキュンネーム的な名前なのか、と間探りしてしまう。

 

 そういえば、アマルは俺にアマルティアという本名で呼ばれることに対して、あまり良く思っていない素振りを見せていたような……。

 

 それは、アマルティアという名前自体の意味が関係していたのではないだろうか?

 

 どちらにせよ、落ち込んでる彼女を見てられなくて、肩を抱き寄せて子どもに言い聞かせるように呟いた。

 

「なぁ、俺が呼んでるアマルってあだ名なんだけどな。えっと、確かアラビア語だったっけ。それで、希望って言う意味なんだ。お前に、ピッタリだと俺は思うけど、それが意味じゃ駄目か?」

 

「……っ、ああ、アンディ様!」

 

 ぽたり、と水滴が落ちる音がした。アマルは泣いていた。大粒の涙が次から次へと滴り、服を濡らす。

 

「貴方様は何故、こんなにも私に優しくして下さるのですか? 私はアンディ様に何もお返しできない。私には何もない。何もないのに、どうしてっ……」

 

「どうしてって、そもそも俺は見返りを求めてないしな。それに、俺がアマルに優しいのは、俺が優しくしたいと思うくらいアマルが良いこだからだ。そんなに重く考えないで俺に甘やかされてくれ。よしよし、良いこ良いこ」

 

「ひゃあっ!」

 

 わしゃわしゃもふもふ。

 

 大げさにアマルの頭を撫で回す。アマルは顔を真っ赤にして、固まった。可愛い。子犬みたい。

 

「いつもアマルは頑張ってて偉い。本当に良いこだ。可愛いし、気が利くし、最高だな。さてはお前、すごい良い女だろ。まぁ、前から知ってたけどなっ!」

 

 髪の毛がさらさらだ。撫でていて気持ちいい。もっとわしゃわしゃしよう。

 

「……みゃ、ふぇ、あ、んでぃさまぁ。そんなにほめないでぇ。あまるは、どうしていいかわからないです。あっ、なでなで、きもちい……ううっ、わたくし、もう、だめぇ」

 

 堪らないといったように、アマルは飛び付いてくる。

 ぎゅうぎゅうと強く抱擁されながら、お前、最近飛び付いてきてばっかりだなと、俺は笑った。

 

 

 ***

 

 

 アマルが落ち着きを取り戻すと、改めて蝋板に文字を書き込む。アマルは俺の腕に頭を預け、蝋板に書かれた文字を目で追っていた。

 

「俺の国の書き言葉は、三種類あってそれを場面に合わせ使い分けるんだ。さっき書いたのが、漢字。そして、ひらがな。最後にカタカナ。カタカナは主に外来語を表現するときに使うから、アマルの名前はカタカナで表記するんだ……よしっと、これがアマルの名前だ」

 

「これが……私の名前」

 

 アマルは興味深げに覗き込んだ。

 

「そうだ。それと、俺の国じゃあ、名前は名字を最初に読む。アマルで言うと……あー、ええっと、アンドウ・アマル、だな」

 

「アンドゥ、アンドゥ・アマル……!!」

 

 アマルは声を弾まして、嬉しそうに何度も繰り返した。

 

 それを見て、俺はハッとした。

 途中で、アマルが名字を持たないことに気付き、咄嗟に俺の名字を使って表現したが、良く考えるとこれってまずいのでは? 

 

 そこまで思って、俺は考えることを止めた。

 

「アンディ様! アンディ様!! アンドゥはカタカナでどう書くのですか!」

 

「アンドゥじゃなくて、アンドウな。えーと……こうだな」

 

 食い込みで聞いてくるアマルに、若干引きながら俺は蝋板に書き込む。アマルは、それを夢見るような眼差しで見つめた。蝋板に書かれた名前を上から手で何度もなぞり、反芻し、覚えようとしているようだった。

 

「アンディ様、この蝋板お借りしてもよろしいでしょうか……?」

 

「あ、ああ、まぁいいけど」

 

「ありがとうございます!」

 

 アマルは喜色満面な様子で、宝物のように蝋板を胸に抱きしめた。

 

 その顔を見て、嬉しくなる俺も相当だと思った。

 

 

 



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泪のパラノイア

 

 

 

 

 修道院には、様々な人が訪れる。

 

 巡礼者は勿論、商人や職人、平民、中には農奴もいる。

 寄付や贈呈品などを持って庇護を求める者。奉公として修道院に来る者。医療や知識を求める者。

 

 そういう人々を修道院は支え、また支えられているのだ。

 

 

  ***

 

 

 夕暮れが近づいてきた。

 

 修道士たちと畑を耕し、そろそろ終わろうかと片付け始めていたところ、正門からベルの鳴る音が聞こえた。ベルは来訪者を知らせるものだ。

 

 他の修道士が慌てて、正門に駆けて行く。

 それから、少しして正門が解錠され、ある荷馬車が敷地内に入ってきた。二頭の馬を台座に乗っている男性が器用に操り、荷馬車を修道院の端に停める。そして、手綱を下ろし、後ろの荷台に声を掛け台座から降りた。その声に促され、荷台から一人の女性が降りてきた。修道士は、二人を案内し修道院の中に入って行った。

 

 俺は修道院の方を齧りつくように見つめる。そんな俺の様子が可笑しかったのか、横でフランチェスコは笑って「ありゃ、行商人でしょうや。興味があるなら、仕事終わりに会いに行ったらどうですか? いろんな場所を旅してますからね。きっと外の世界を教えてくれるはずですぜ」と教えてくれた。

 

 

 フランチェスコが言うように俺は仕事が終わると、直ぐ様先程の行商人に会いに行くことにした。彼らがこの世界を自身の足で歩き、様々な場所で沢山の経験をしているなら、少しでもいいのでその話を聞いてみたかった。 

 

 修道士たちに聞くと、行商人の二人は父娘だそうで父親の方は今修道司祭と話しているらしい。娘さんの方は、取り敢えず談話室に通したとのこと。俺は急いで談話室に足を運んだ。

 

 談話室には、10代中頃の少女が1人腰かけていた。明るい茶髪に、碧色の瞳。美人というより、素朴で可愛らしい雰囲気の少女だった。少女は俺が談話室に入ってきたことに気付き、目を見開く。

 

「あー、すいません。何か、驚かしちゃったみたいで」

 

「いいえ、その、驚いたのは貴方がとても綺麗な黒髪だったので……」

 

 少女は控えめにそう言った。そして、こちらを伺うような視線を向けた。完全に警戒されてしまっている。俺は笑顔を意識して、無害さをアピール。

 

「はじめまして、俺はこの修道院に居候させてもらっているアンドリューって言います。えっと、君は……」

 

「行商人ジャンの娘、カタリナと申します」

 

「カタリナさん……って呼んでいいかな?」

 

 少女、カタリナは戸惑いながら頷く。俺はありがとうと礼を言って、ゆっくり彼女に近づく。カタリナはびくりと肩を震わせた。

 

「あの、大丈夫。俺、君をとって食おうなんてしない。怖がらないで」

 

 俺はその様子に、申し訳なさを感じて苦笑した。

 たしかに、修道士ではない見知らぬ異国の男が、いきなり入ってきたら女性として危機感を感じるのは当然で。それに今談話室にはカタリナと俺しかいない。それも拍車をかけているのだろう。

 

「申し訳ありません。あの、私にどのようなご用でしょうか?」

 

「ああ、もし良ければなんだけど、俺にこの国のことを教えて欲しくて。事情があって俺、この修道院をほとんど出たことがないんだ。君、色んなところに行くんだろう? 都市とか村とか、他にも沢山!」

 

 そう言う俺のことをじっと見つめて、カタリナはクスリと笑った。

 

「ふふっ、ええ私で良ければ」

 

「本当ですか!? ありがとうございます!」

 

 俺はウキウキとしながら、彼女の隣に腰かけた。それを見て、カタリナは更に笑った。

 

 

 

 ***

 

 

 

「……それで、村の祭りでは、豊穣を願って藁で大きな人形を作り、最後は燃やすのよ。その周りで、村の人たちは音楽を奏で歌って踊るの」

 

「へー、何だか楽しそうだな。俺も見てみたい」

 

 俺はしきりに相槌を打って、カタリナの話を聞く。彼女の語りは、とても楽しげで聞いている俺も何だか楽しくなってくる。

 

 

「きっとアンドリューさんも気に入ると思うわ。夜通し飲んで食べて踊ってのどんちゃん騒ぎ。息継ぎする暇もないのよ」

 

「おもしろそう。混ざってみたいなぁ」

 

「あら、アンドリューさんは踊れるのかしら?」

 

「よさこい踊り程度なら、なんとか」

 

「よさ、こい? 聞いたことない躍りね」

 

「あっ、そっか。よさこいなんて分からないよな」

 

「アンドリューさん、踊ってみせて」

 

「嫌だ。恥ずかしい」

 

「ふふっ、照れちゃって可愛い」

 

 あれから俺はカタリナと時間を忘れて話をし合っていた。元々活発な性格なのだろう彼女は俺と直ぐに打ち解け、今では砕けた口調で話してくれるようになった。

 

「うふふっ、アンドリューさんって、何だか他の男の人と違うのね。全然威張ってないし、怖くないもの」

 

「まぁ、俺威張るほど偉くないし、無意味に怖がらせる趣味もないからな。それと、俺のことはアンディでいいよ」

 

「そう言うところ、本当に素敵だと思うわ。アンディさん、じゃあ私のことケイティと呼んでね」

 

 ケイティはそういって、朗らかに微笑んだ。俺は照れ臭くなって、誤魔化すように頭を掻く。

 

「あ、ああ、ありがとう。なぁ、ケイティはいつまでここにいてくれるんだ? まだまだ話したいことが一杯あるんだけど」

 

「……分からないわ。お父さん次第だもの。私はお父さんの言う通りにするだけだわ」

 

「そっか……。でも、もししばらくここにいるんだったら、またこうやって話してもらえるか?」

 

「ええ、勿論喜んで。また、お話ししましょう」

 

 俺は嬉しくなって、彼女の手を握りしめ上下に振った。ケイティは、戸惑いながらも頬を赤らめ微笑んだ。

 

 

 

 ケイティに別れを告げ、俺は談話室の扉を閉める。

 

 部屋に戻るかと振り返った。すると、すぐ近くにローブを着てフードを深くかぶったアマルが立っていることに気が付く。気配が全くなかった。そこにいるのに、存在感が全くと言って良いほどない。俺は内心ビビりつつも、アマルに声をかける。

 

「お、おおう、アマルかびっくりした。いるなら声かけてくれよ」

 

 アマルは、俺の言葉に答えず佇んでいた。俺は不審に思いアマルに手を伸ばす。

 

 バシンッ、とその手を払われ思わず息を呑む。

 

「……アマル? 一体、どうしたんだ?」

 

 アマルは俺の問いかけにも反応を見せず、踵を返して走り去っていった。本当にどうしたんだろう。様子がおかしい。

 

 俺はアマルの走り去った廊下を見つめ、ため息をついた。

 

 

 

 



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魂の苦悩

 

 俺は部屋に戻って、あの時のアマルの様子を考えていた。あんなアマル初めて見た。やはりおかしい。

 いつもなら今頃俺の部屋に来て、夕食の準備をしてくれているのに……。俺は取り敢えず、部屋にあった林檎を噛って腹を満たした。アマルがいないと、ろくなご飯を食べられない自分に情けなさを感じる。

 

 よし。

 うだうだしててもしょうがない。

 アマルを訪ねて見るか。

 

 俺はそう思い、自室を出てアマルの部屋へと向かった。

 

 

 ***

 

 

 アマルの部屋に着くと、ドアをノックして声をかける。

 

「アマル、アンドリューだ。入って良いか?」

 

 ……反応はない。

 

 俺は少し迷ったが、そのままドアを開く。

 部屋は真っ暗で明かりは灯されていなかった。

 

 俺は一旦廊下に戻ると、壁に掛けられた燭台を取って来て再びアマルの部屋へと戻る。

 蝋燭で照らし部屋を見回すと、ベッドがこんもりと膨れていた。どうやら布団を頭まで被って寝ているみたいだった。流石に起こしたら可哀想かと思い、部屋を出ようとすると微かに嗚咽が聞こえてくる。

 

 ―――泣いて、いるのか。

 

 俺は燭台を机に置くと、ベッドに寄ってそっと布団を捲り上げた。アマルは丸くなり何かを胸に抱いて、涙を流していた。綺麗な銀髪は乱れ、ただでさえ真っ赤な瞳を涙でさらに赤くしている。

 

 俺はベッドに腰かけ、アマルっと名前を呼ぶ。頬を優しく撫で涙を拭い、それからゆっくり話しかけた。

 

「アマル……なぁ、どうしたんだ?」

 

 アマルは、唇を噛んでぐっと黙り込む。

 俺は苦笑して、頭を掻いた。

 

「……ほら、黙ってたら分からないぞ」

 

 頭をポンポンと撫でる。アマルは駄々を捏ねるように、いやいやと頭を振った。体感で10分程度、そうして話しかけてみたが効果はない。

 

 ……困った。これはお手上げだ。 

 

 アマルが落ち着くまで、少し距離を置いた方がいいのかもしれない。溜め息を吐いて、立ち上がる。

 

 机の燭台を回収し、俺は部屋を後にしようとして―ー―

 

「やだ、やだ。まって、まってよぉ、アンディさまぁ!」

 

 ―ーー悲痛な声に呼び止められた。

 

 それと同時に、後ろからどさっと落ちる音がした。慌てて振り向くと、アマルが床に倒れ伏していた。わんわんと、子供のように泣きじゃくり、もがきながら床を這ってなんとか俺に近づこうとしていた。

 

「うああっん、ひぐっ、やだぁっ。うあっ……いかないで、やだやだぁ! お、おいてかないで! みすてないでください。アンディさま、ごめんなさい、ごめんなさいっ!」

 

 錯乱し、頭を振り乱しながらアマルは俺を呼ぶ。俺は燭台を床において、アマルに駆け寄った。

 

「おい、アマル大丈夫か!」

 

「ああっ、アンディさま、アンディさま!」

 

 アマルは俺にすがりつき、強く抱きついてくる。慰めるように背中を撫でながら、どこか怪我をしていないか確認する。目立った傷は無さそうで、ほっとした。俺はアマルを横抱きにして持ち上げベッドに座らせる。

 

「いかないよ。ずっと側にいる」

 

 まだ泣き続けるアマルに、何度もそう言った。

 

 

 ***

 

 

 どれくらい時間がたっただろう。アマルはやっと泣き止んで、俺の胸に顔を埋めていた。身体を冷やさないように布団を引っ張ってアマルにかける。すると、ベッドの上にあの蝋板が置かれているのを見つけた。アマルはこれを胸に抱いていたのか。

 

 俺とアマルの名前が書かれた蝋板。それを抱きながら泣いていた。アマルの様子がおかしかったのは、やはり俺が原因なのだろう。俺は髪を優しく撫でながら、アマルに話しかける。

 

「なぁ、アマル頭とか打ったりしてないか。どこも痛いところはないか」

 

「……は、い」

 

 アマルは小さくかすれた声で答えた。答えてくれたことに安心する。

 

「……一体何があったか、俺に教えてくれるか」

 

 アマルは、数分考えるように黙ってから言葉をひとつひとつ呟いてくれた。

 

「……礼拝が終わって、アンディ様のお部屋に……。アンディ様がいないの。探し……て。それから、それから……だ、談話室で、アンディ様の声が。楽しそうな声が……」

 

 アマルはそこで一旦言葉を切った。

 俺は無言で、アマルを待つ。

 

「……他の、他の女の声も。アンディ様は、アンディ様は……他の女と、話してた。楽しそうに、話してた。私の、私のなのに。名前まで、呼ばせてた。私だけの名前! アンディ様の名前を!」

 

「……アマル」

 

「私の、私の、私だけの! 私……私は、アンディ様だけなの。あ、アンディ様しか、いないのに! アンディ様は、私のっ! 絶対に、絶対に渡さないっ! 取ろうとした、許せない、許さない、あの女、あの女っ!!!」

 

 俺は唖然として、言葉が出なかった。それは、壮絶なほどの嫉妬。執着。独占欲。それがアマルの胸中に渦巻き、激情として溢れでていた。アマルは堰を切ったように、声を荒らげる。憎しみに染まった声音で、カタリナを責めた。

 

「止めろ、アマル!」

 

 思わず、叫ぶ。

 

 カタリナは、悪くない。全て俺が悪い。アマルの気持ちに答えず。ずっと、それに甘えてた。アマルはきっと今まで不安だっただろう。いつか俺が離れるのではないか。どこかに行くのではないか。その疑心暗鬼の心が、いつも俺に引っ付いて離れない理由だったかもしれない。

 

 俺たちの間には、宣言も誓いもない。

 

 小さな約束事しか、繋ぐものはなかった。その不安が、その危うさが、アマルをずっと苛み続けていた。それがカタリナと外の世界について楽しげに話す俺を見て爆発したのだ。

 

「ひっ、あ、あんでぃさま。おこらないで。ご、ごめんなさい。ごめんなさい。あやまります。あまるは、あやまりますから。もうしわけありません。あまるがわるいの。わるいこだから、ごめんなさい。おきらいにならないで。あまるを、あまるを。みすてないで。おいていかないで。どうか。どうか、おねがいします。あ、あんでぃさまに、きらわれたら……わたくし、もう、いきて、いけない」

 

 ごめんなさい、とアマルは壊れたラジオのように繰り返す。アマルのその異常なほどの怯えように、驚いてフリーズすること数秒。彼女の身体がガタガタと震えはじめて、これは泣く一歩手前だぞと、慌てて答える。

 

「違う。違うんだ。アマルは悪くない。悪くないよ。ごめんな。嫌いになったりしない。絶対に、嫌いにならない」

 

「あんでぃさま……」

 

 アマルは、俺の名前を呼んだ。そして、深く息を吸い顔を上げて、泣き張らした瞳で俺を見つめる。

 

「アンディ様。私は、ずっとひとり、でした。暗く、冷たい牢獄のようなこの場所、ストーンハーストで。でも…貴方様が来てくれた。私に笑いかけ、誰もが恐れ忌み嫌った私を綺麗だと、そう言ってくれました。その笑みに、その言葉に、どれだけ救われたことか」

 

 アマルは、微笑んだ。夢を見るように淡く、微笑んだ。

 

「貴方様は、私の光。私の主。私の全て。どうしようもないほど、愛しい人。アンディ様がいないと、もう、どう息をしていたのか、分からない。どう生きていけばいいのかも、分からない。……ねぇ、アンディ様。いつか、貴方様がここを去る、そのときが来たら、私を――」

 

 アマルは瞳を閉じた。

 祈るように、懇願するように、懺悔するように。

 

 それは、聖句であった。

 それは、切望であった。 

 それは……

 

「――どうか、私を殺して下さい」

 

 ……それは、呪詛であった。

 

 




いつも誤字脱字の訂正ありがとうございます。

じっとりする健気系ヤンデレって、趣があるよね。あるよね!(圧力)


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最後の一欠片

 

 

 ーーー貴方は、神を信じますか?

 

 いいえ、私は信じていません。

 

 ただ……神様は、居て欲しいと思います。

 

 だって、神様が居なければ、他に誰を恨めというのですか?

 

 

 ***

 

 

 泣き疲れて、寝入るアマルの顔を見つめながらどうしようもない気持ちになる。俺はアマルの何を見ていたのだろう。

 

「……殺す、なんて、そんなことできるはずないじゃないか」

 

 俺には、覚悟がなかった。ここで生きる覚悟が。アマルを守り、一緒に生きていく覚悟が。それは、俺が異邦人だから、余所者だから、そう理由をつけていた。……そう思おうと、した。ただこの世界に一歩踏み込むことが怖かっただけなのに。俺の臆病さが、たった一人の女の子を傷付け、ここまで追い込んだのだ。

 

 この世界で、生きるつもりがないなら、ここを出るべきだった。ベネディクト修道司祭が言うように、深入りすべきではなかった。

 

 それでも、ここに残り続けたのはアマルが居たからだ。俺が彼女の孤独を救ったように、俺もアマルに救われていた。覚悟を決めなければならない時が来たのかもしれない。

 

 

 たったひとつの、その一欠片を埋めるその時が。

 

 

 

 ***

 

 

 

 俺は暫くアマルの様子を眺めてから、そっと自室へと戻ってきた。

 扉を閉めて、ずるずるとその場に座り込む。手を額に当て、深いため息をついた。臀部に、石畳の冷たさを感じながら、アマルの言葉を思い返す。

 

 ずっとひとり、でした……か。

 

 ここには、俺の他にも沢山の人がいるのに。それでもなお、アマルはそう言った。ここは牢獄のようだと、そう言った。

 

『私に笑いかけ、誰もが()()()()()()()私を綺麗だと、そう言ってくれました』

 

 誰もが()()()()()()()……?

 

 どういうことだろう。

 アマルが何故?

 分からない。

 分からないことだらけで、どうして良いのかも分からない。

 

 大声で叫んで、走り回りたくなる。不甲斐ない自分に、どうしようもなく苛立ちを覚えた。自分を落ち着かせるように、扉から立ち上がってそのままベットに倒れ伏し、目を瞑る。今は、ただ頭を冷やしたかった。

 

 それから暫く時間がたち、起き上がってベッドに腰かけ俺は改めて、記憶の糸を手繰り寄せることにした。

 

 記憶を辿り、反芻し……ある事実に気がつく。

 

 この1年修道院の中で修道士たちと暮らしているはずなのに、アマルが彼らと共に行動するところを見たことがない。それどころか、会話しているところさえ見たことがなかった。

 

 それに――ー

 

 ――ー他の修道士の口から、アマルの名前を聞いたことがあっただろうか。

 

 以前、サルスがアマルに向け言った侮辱の言葉は、女性嫌悪や女性蔑視の思想から来るものではなかったのではないか。

 

『野蛮。無知。それが貴様の罪なのだ。恐れを知らぬか、白痴の者よ。人は斯くあるべきというのに』

 

 それは、アマルが恐れ忌み嫌われる原因の()()を俺が知らなかったから。恐れるべき存在と、その野蛮故に、その無知故に、その白痴故に、共に居ようとした俺への苛立ち。

 

 追い出さなかったのではなく、アマルが側にいて俺を守り、目を光らせていたから俺に手を出せず、追い出せなかっただけなのでは?

 

 アマルに深入りするなと、忠告したベネディクト修道司祭。修道院に、まるで恐ろしい怪物が潜んでいるとでも言うようなあの瞳。ベネディクト修道司祭が怯えていたのは、アマルに対してだったのか。

 

 俺が修道院を抜け出したとき、泣いたアマルを抱き上げて修道院に入り、駆け寄ってきたフランチェスコが、アマルに向けたあの冷めた視線。

 

 彼女の部屋が修道院の一番奥にあるのは、女性であるアマルを守るためではなく、隔離するため?

 

 全てがアマルを起点として、繋がっていた。

 

 脳裏にアマルの姿が過る。

 

 「……暖かい」と、宝物のように俺の手を握ったアマル。置いていかれることを異常に嫌がり、隙あれば俺と一緒に過ごしたがったアマル。俺が修道院を抜けだしたとき、泣きながらひどく取り乱したアマル。初めて貰った贈り物だと、青い小さな花を受け取り無邪気に微笑んだアマル。

 

 そんな彼女の姿が、次々と浮かんでくる。

 俺は、強く拳を握りしめた。

 

 ここで、アマルがどういう扱いを受けているのか。どうしてそうでなければならなかったのか。俺は知るべきであろう。いや、知らなければならない。たとえ、そこにどんな答えがあったとしても、俺はアマルの側にいる。

 

 

 ――ーそれだけが、俺に言えるたったひとつ確かなもの。 

 

 

 



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乙女は夜を夢見る

 

 深夜。

 目が覚める。まだ起きる時間ではないが、何故かはっきりと覚醒した。

 

 ――それにしても、寒い。

 

 布団をかぶり直すが、底冷えして中々暖まらない。それでも目をつぶり直し寝ようと努力する。

 

 コツ、コツ。

 

 廊下から人が歩く音が聞こえた。他の修道士だろうか。

きっと、外のお手洗いにでも行くのだろう。

 

 コツ、コツ、コツ。

 

 足音は、徐々に大きくなり、真っ直ぐこちらに向かってくる。お手洗いに行くなら、角部屋であるこちらに来るはずもないのでまったく別の目的かあるのだろう。なんだか恐ろしくなってくる。

 

 コツ、コツ、コツ、コツ、タンッ。

 

 足音がピタリとちょうど俺の部屋の前で止まった。人の気配がする。俺は頭まで布団をかぶり、ぎゅっと目を閉じた。

 

 ギィ、と扉を開ける音が聞こえる。

 

 ドクドクっと、鼓動が早くなる。俺は、森であったあの這いよる影を思い出した。まさかこんなところまで、と心臓が更に大きく脈打つ。

 

 それから、数秒して布団の中に何者かが侵入してくる。嗅いだことのある咲きほこる花のような、熟れた果実のような仄かに甘い香りが布団内に充満した。柔らかく華奢な肢体が絡み付いてくる。

 

 これって、まさか――

 

「……アマル、なのか?」

 

「……ふふっ、ばれてしまいましたか」

 

 涼やかなアマルの声が聞こえた。

 

「いやいや、ばれてしまいましたか、じゃないだろ。違う意味でドキドキしたわ! はぁ……で、こんな時間に、どうしたんだ?」

 

「はい、ひとりが寂しくて来てしまいました。このまま一緒に寝てもよいですか?」

 

「ばっ!? そんなこと……!」

 

 断ろうとして、アマルの泣き顔が浮かんだ。ひとりにしないでと、泣いたアマルの顔が。ガシガシと頭を掻いて、深いため息をひとつ。

 

「あー、うー、分かった。………おいで、一緒に寝よう。ちょうど、寒くて目が覚めたところだったんだ」

 

 ほれ、自分の胸を叩く。こっちにおいでと誘う。

 

「……えっ、アンディ様、本当に良いのですか?」

 

 自分で言ったくせに、受け入れられるはずないと思っていたのだろう。アマルは、驚いたように声をあげた。

 

「おう、どんとこい。ほら、そうと決まれば、もっとくっつけ。寒いだろ」

 

「はいっ! アンディ様」

 

 俺は深く頷く。

 アマルは弾んだ声で元気良く答えると、胸に飛び込んでくる。子犬みたいなその動作に思わず笑みがこぼれた。

 ぎゅっと抱きついて、アマルは小さく息を吸った。それから少し声のトーンを落として、ごめんなさい、と呟いた。

 

「アンディ様……その、先程は申し訳ありませんでした。あの娘とアンディ様の声を聞き、私は嫉妬してどうかしていました。あのとき言った言葉は、全て忘れてください。ねぇ……怒って、いますか?」

 

 きっと、その言葉を言いにここまて来たのだろう。正気に戻ったからこそ、不安になった。

 

「謝らなくても、いいよ。怒ってなんかない。むしろお前の気持ちを考えてなかった俺が悪い。……アマル、お前が不安がることは何もないんだ。あの娘とはなんでもないから。でも、今回みたいに嫌なことがあったらちゃんと言ってくれ。俺はお前が大切だ。ひとりで抱え込まないでくれ」

 

「アンディ様……はい、はい!」

 

「あとな、今日からはちゃんとご飯を一緒に食べよう。お前がいないと、駄目なんだ。その、調子が狂う」

 

「……はい、嬉しいです」

 

「それとアマル。夜に男の部屋を訪ねるなんて、危ない真似するなよ。襲われても仕方がないぞ」

 

「大丈夫です」

 

「いや、全然大丈夫じゃないだろ」

 

「アンディ様以外の殿方など、路端の石ほど興味がありません。私には……アンディ様だけです。このように部屋を訪ねるのも、褥を共にしたいと思うのも貴方様だけ」

 

「…………スゥ」

 

 思ってもみない回答に、思わず言葉を失う。浅く息を吸って、気持ちを落ち着かせようと無駄な努力をした。

 

「アンディ様?」

 

「あ、ああ。うん、その、分かった。でも、俺だから大丈夫って過信するんじゃないぞ。お前は美人だし、俺が衝動的に襲っちゃうかも知れないだろ?」

 

「……アマルを襲って頂けるのですか? 嬉しいっ。今から身を清めて参ります!」  

 

「例え話で、襲わないからなっ! というか、アマルは修道女だろうが!」

 

「むぅ……」

 

 残念そうにしないで欲しい。ああ、これはヤバい。何だこの妙にムズムズする感じ。絶対顔が真っ赤になってる。夜でよかった。こんな情けない顔アマルには見せられない。だから、夢の中に逃避することにした。

 

「あー、もう色んな意味で疲れたから、俺はもう寝るぞ」

 

「はい、分かりました。では、ぎゅっとして下さい」

 

「はぁ、お前ってやつは……本当に甘えん坊だな」

 

 アマルは、俺の胸にグリグリと頭を擦りつけた。俺はそんなアマルの背中を撫で静かに言う。

 

「アマル、おやすみ」

 

 アマルの身体を確かめるように抱き直し、背を丸めて頬を擦り合わせる。アマルは、そっと俺の胸に顔を埋め、幸せを噛み締めるように「はい、おやすみなさい」と呟いた。俺はすぐに微睡みの中に落ちていった。

 

 

 ***

 

 

 目覚めたのは、きっちりいつもの起床時間だった。体内時計は馬鹿にならない。久しぶりに深く寝れた。

 

 欠伸を一つ。

 手探りで明かりを探そうとして何か別のものを掴んだ。ふにょん。と、突きたてのお餅みたいに柔らかい感触。なんだこれ。触り心地最高だな。

 手からこぼれ落ちるほど大きい。それを円を描くようにして揉みこむ。むにゅむにゅ、もちもち。気持ちが良い。ずっと触っていられる。

 

「んっ、あっ、アンディ……様」

 

 その声に、意識が一気に覚醒した。俺は視線を下げ、自身の掴んでいるものを見る。暗闇の中でも、どこを掴んでいるのか瞭然だった。慌てて、アマルの胸から手を離す。

 俺はもう駄目かもしれない。静かにアマルの様子を伺うと、まだ寝息が聞こえる。ほっと、一息ついた。セーフ。いや、アウトだけど。セーフだった。

 

 アマルを起こさないように、ベットから抜け出す。蝋燭に灯をともし、ぼんやりと辺りを照らした。自分の手を見る。ワキワキと、開けたり閉めたり。 

 

(にしても……すごく柔らかかったなぁ)

 

 あの感触を思い出して、顔が熱くなる。邪念を振り払うように深呼吸。もっと、触っていたかったなんて思ってない、思ってないったら!

 

 ゆっくり服を着替え、髪を整えてから、アマルを起こしにかかる。いつもは逆の立場なので、なんだか不思議な気分だ。

 

「おい、アマル。そろそろ起きろ」

 

「ん、アンディ、さま?」

 

「おう、俺だ。おはよう、アマル」

 

「ひゃい、おはようございます」

 

 ひゃい、ってなんだ。ひゃいって。いつもはクールな面持ちなのに、今はふにゃふにゃとした表情で大変可愛らしい。

 

「アマル、礼拝に遅れるぞ。ほら、部屋に戻って着替えておいで」

 

 アマルは、頷くとゆっくり起き上がり、ベッドから降りる。俺は静かに、扉を開けて廊下を見た。よし、誰もいない。出ていくなら今のうちだ。

 さすがに何も疚しいことはなかったとは言え、男女が同衾していれば問題にもなろう。俺は良いとしてもアマルは修道女だ。きっと罰せられてしまう。

 

「ほら、アマル早く、今なら廊下に誰もいないぞ」

 

「アンディ様、そのように急がなくとも大丈夫です。他の者がこれを見たとしても、私に何か言うことは決してありませんから」

 

 その力強い断定に戸惑いながらも、俺はアマルの背を押した。

 

「だとしても、だ。ほら、急いで」

 

「ふふっ、分かりました。他でもない、アンディ様の言い付けですもの。私は貴方様に従います」

 

 アマルは廊下に出て、振り返る。

 

「アンディ様、今晩もアンディ様をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

 

「……はぁ、まったくお前なぁ。分かった、分かった。負けたよ。おいで。俺もお前がいると良く眠れるみたいだ」

 

「うふふっ、嬉しい!」

 

 アマルは満面の笑みを浮かべる。そして両脇に手を回し、強く抱擁した。

 

 今日もまた1日がはじまる――

 

 




いつも誤字脱字の訂正ありがとうございます。


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絶対に追いつけないもの

 

 

 その日の午後、俺は再度談話室を訪れていた。

 

「えっ、もうここを出るのか!? 昨日来たばかりじゃないか!」

 

 思わず、大きい声が出てしまった。カタリナは、申し訳なさそうに肩を竦める。

 

「ええ。ごめんなさい、アンディさん。お父さんが今すぐに王都に行くって言うの。修道院に長居してはいけないって。私もまさかこんなに直ぐだなんて思わなかったわ」

 

 カタリナの困惑した表情を見て、勢いが萎えてしまう。カタリナはしょんぼりと肩を落とし、申し訳なさそうに目を伏せた。

 

「……そっか。しょうがないよな。これで最後の別れって訳じゃないし。また、次ここに来たときに話を聞かせてくれ」

 

「もちろん。……でも、お父さんにも困ったものね。何もこんなときに王都に行かなくてもいいのに」

 

「こんなときって?」

 

 俺は頭を捻る。ここには、王都どころか近隣の情報さえ流れてこない。興味が引かれ、カタリナに聞き返す。

 

「先日、陛下が崩御されたの。皆不安がっているわ。王権と教会の均衡が崩れてしまうって。只でさえ、混乱が続いているのに……。本当にどうしようもないわ。平和なんてどこにもない。現実はまるで悪夢みたいよ」

 

「ケイティ、そんなところに行って大丈夫なのか?」

 

「アンディさん、心配してくれてありがとう」

 

 カタリナは、微笑んだ。「秘密よ」っと、言って言葉を続ける。唇に人差し指を立て、軽く当てる仕草。どうやらそのボディランゲージは万国共通のものらしい。なんと言うか、ほっこりする。

 

「……本当を言うとね。行きたくなんてないわ。王都では、教会が幅をきかせているって噂になっているの。それに合わせて、魔女狩りや異端審問も盛んになってきたみたい。悪魔や魔女と、いつ自分が貶められるか分かったものじゃない。でも、お父さんの言うことは守らないといけないの。……本当に女って損よね。自分のことなのに、何一つ自分で決められない。男の人の言うことを聞いて、一生その通り生きていかなければいけないの」

 

「ケイティ……」

 

 俺はそれを聞いて、余計心配になった。魔女狩りや異端審問のターゲットとなった人々の多くは、当時社会的地位が低かった女性である。神の名の元に無実の人々を食い物にする。最低最悪の所業だ。

 

 そこには誠の信仰などあったのだろうか。血でその腐敗した手で汚し、貶めただけではないか。贖いなどなく、振り返ることすらない。ただ殺戮と陵辱が繰り返された。

 

「女性だからって、蔑ろにされて良いわけがない。そんなことあってはならない。俺はそう思う。それに、神様はケイティのことを、ちゃんと見てくれている。きっと、大丈夫だ」 

 

 そうであったら良い。

 そうあって、欲しい。

 

 気休め程度の言葉を白々しく紡ぐことしかできない自分の無力さに、俺はそっと目を伏せた。神様なんて信じていない癖に、何とも滑稽なことだ。

 

「……ありがとう。アンディさん、少し楽になったわ。アンディさんも気を付けてね。貴方は異国の人だから、目立ってしまう。でも、ここにいる限り大丈夫よ。神様のお膝元ですもの」

 

「ああ、そうだな。修道院で大人しく引きこもってるよ」

 

 カタリナは目を細め、微かに口を緩めた。

 

「ねぇ、私、とても楽しかった。一日しかお話しできなかったけど、貴方はちっとも高圧的ではないし、女だからって見下したりもしない。ずっとそのままの貴方でいてね。そうして、また一緒にお話ししましょう」

 

「勿論だ。俺こそ楽しかった。また絶対に会おう。それまで、どうか元気で」

 

「ええ、貴方に神のご加護がありますように」

 

「君にも神のご加護があるように」

 

 俺たちは笑顔で、握手をした。カタリナは準備があるからと談話室を後にする。

 俺はそれを見送って、椅子に座り込んだ。これでまた外の情報源がなくなってしまった。ため息をついた。

 

 この時代は酷く不安定だ。目に見えないものを守るために戦が起こる。人の命など、信仰より軽いとでも言うように。妄信的な狂気が渦巻く世界だ。だからこそ外の情報が重要なファクターになる。俺には情報が必要だ。手遅れになる、その前に。

 

 俺はもう一度、深いため息をついた。窓を見やる。その先には、憎らしいほどの青空が広がっていた。

 

 

 

 

 

 

 部屋に戻ると、アマルが俺のベッドに横になって枕に顔を埋めていた。クンクンと匂いを嗅いでいる。頭が痛い。いつから、こんな甘えん坊になったんだ。昔のクールなアマルが懐かしい。

 

「はぁ、アマル。お前は俺のベッドで何をしてるんだ」

 

「……アマルは怒っているのです」

 

 むすっとした声で、返事が返ってきた。俺はベッドに腰かけて、苦笑する。

 

「一体何を怒っているんだ?」

 

「またあの娘と二人で会っていました。昨日の今日なのに、アンディ様はひどいお方です」

 

 俺は笑った。こうやって不満をちゃんと言ってくれている。俺の言い付けを守って、律儀に努力している。その健気さ、そしてその可愛らしさが何とも微笑ましい。

 

「何もないって言っただろう。アマルは心配症だなぁ」

 

「心配にもなります! アマルはアンディ様だけですもの。でも、アンディ様はそうじゃないから……」

 

「まったく……すぐにそんなことを言う。こうやって一緒にいるのはアマルだけだよ。アマルといると一番落ち着くからな」

 

「……っ、アマルは誤魔化されません!」

 

 アマルは、ぱっと顔を上げた。嬉しそう。唇をもにょもにょさせている。笑みを殺しきれてない。誤魔化されてる。絶対に誤魔化されてるぞ。

 

 ……チョロすぎないか?

 

「どうしたら信じてくれるんだ?」

 

 笑いを堪えながら、俺はアマルを見た。俺の言葉を聞いてアマルは、無言で両手を広げる。抱きしめろ、という訳か。俺は靴を脱ぎ、ベットに上がってアマルを正面から強く抱きしめる。甘く蕩けるような良い匂いが、ふんわりと広がった。

 

 首元に顔を埋める。アマルはくすぐったそうに、身体を捩った。クスクスと笑い声が聞こえる。ソプラノの透き通る声だ。抱きしめると良く分かる細く華奢な身体。豊満な胸。そのアンバランスさが、何とも言えない色気を醸し出していた。

 

 駄目だ。ムラムラしてきた。

 

 今朝のあの柔らかい感触を思い出し、俺は心の中で般若心経を唱え始めた。煩悩退散。

 そんな俺の努力を尻目に、アマルは更に強く抱きついてくる。胸がひしゃげる。甘い香りが強くなる。

 

 ごくりと、唾を呑む。

 

 俺は我慢できなくなって、そのままアマルをベットに押し倒した。駄目だ。ほんと、駄目だ。

 アマルはきょとんとした赤い目でこちらを見詰めてくる。長い銀髪がベットに広がった。頬を撫でると、アマルは頬を上気させ愛しそうに微笑んだ。ぐっと、その唇に顔を近づけそうになるのをなんとか理性で抑え込む。

 

(いやいや、落ち着け自分。不味いだろう。さすがに、駄目だ)

 

 俺は一生懸命言い聞かせる。このまま手を出したら、終わりだ。いろんな意味で終わりだ。自分の気持ちを落ち着かせるために、俺はアマルにそっと聞いた。

 

「アマル。その、お前今何歳になるんだ」

 

「私の年齢ですか……? 数えで、15になりますが」

 

 思わず、固まる。数えってことは、いまじゅうよん、14歳かー。そっか、なるほど。詰まるところ中2か……そっかそっか。ふーん。

 

 ……現代なら即効アウト、余裕でお縄確定でした。

 大人びて見えるから、てっきり18・19歳ぐらいだと思っていた。

 

 14歳と27歳。

 まさかの13歳差。

 

 そこには、絶対に追い付けないものがあった。俺はひゅんとして、冷静になる。アマルから身を離して、ベットから降りて座り直す。考える人のようなポーズで、頭を抱えた。

 

 

 ―――これから自制しようと、強く心に決めた瞬間だった。

 

 

 




いつも誤字脱字の訂正ありがとうございます。


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信仰の果てに

 

 

 

 ハレルヤ。

 

 いと高きところに神あり。

 

 主は我らを見守り、我らを憐れむ。

 

 その甘美なまでの慈悲深さ。

 

 どうか我らを罪から救い給え。

 

 どうか我らを悪から救い給え。

 

 

 

 ***

 

 

 修道士たちは祈り、働くことに清貧、貞潔、そして神への服従を見出だした。祈りは、ミサや聖なる読書、生活のあらゆる時間、場所で行われる。そして、労働は写本造りや建築、農耕など多岐に渡る。その中でも、ワイン造りはとりわけ重要な役割を持っている。

 

 そもそもワインはキリストの血と呼ばれて、神聖視されミサや宗教儀礼には必ずと言って良いほど使われる。ワインは神の恩恵を受けるために必要な媒体、聖体なのだ。

 それもあって、多くの修道院では古くから葡萄栽培とワイン文化が引き継がれている。このストーンハースト修道院もそれに漏れず、ワイン造りを行っているのである。とは言っても季節は春。葡萄の収穫は秋頃で、今は芽が出てきたばかりだ。

 

 俺たちはその芽の手入れ、つまりは剪定をしている。良質な葡萄を作るためにはこの作業が欠かせないのだ。

 

「しっかし、こんだけ広かったら手入れも大変だな」

 

「そうですねぇ。この修道院の敷地はかなり広いですから、その分畑も広いですよ」

 

 俺は隣で芽を摘んでいるフランチェスコに話しかけた。

 フランチェスコは陽気に頷き、周りを見渡す。

 

「まぁ、ひとつの村みたいなもんですからねぇ。畑や酒醸造所、養蜂所、聖堂、巡礼者棟、墓地。まだまだ沢山あるもんで、修道院を一周するのも一苦労でさぁ」

 

「ほんと、それな!」

 

 分かる、と何度も頷く。

 そうなのだ。この修道院はかなり広い。東京ドームが1つか2つくらい余裕で入るのではないだろうか。その広大な土地をぐるっと囲むように石壁が張り巡らされている。この修道院の全貌を俺も知っている訳ではない。入っていない建物や場所がまだ沢山ある。

 

「なぁ、他の修道院もこんな感じなのか?」 

 

「いや、修道院にもよるんですがね。こんだけの規模は中々珍しいでさぁ」

 

 へぇ、そーなのか。と、頭の悪そうな返答をする。まぁ、日本でも修道院に行ったことがないので、比較しずらい。そもそも、俺の宗教観は酷く偏りが……いや、まあ、それはどうでも良いことだった。

 

「こんな辺鄙なところに、修道院を建てるなんて結構大変だっただろう?」

 

「まぁ、普通は開墾しないといけねぇですからね。でもここには随分昔に村があったと言う話でさぁ」

 

「そうなのか? 初耳だ。じゃあ、村があった場所に修道院を建てたんだな。村は他の場所に移ったってことか」

 

「……いいえ、焼いたんですよ」

 

 その言葉に目を見開く。フランチェスコは言いにくそうに言葉を続けた。

 

「ここは元々、村があってそこには住む人々は異教を信仰していたんです。だから、焼いたんでさ」

 

「異教を……信仰していたからって、それだけで焼いたのか?」

 

「ええ、それだけではなく、それだけで十分なんですよ。黒の旦那、あっし以外に異教を庇護するようなことを言うんじゃありやせんよ。言葉は人を貶める呪いにもなりやす。そんなつもりがなくとも、口から出た言葉は取り返しがつきやせん。それを見咎められ、異端認定されれば堪ったもんではないでさ」

 

 それは、確かにその通りだ。言葉は剣よりも鋭く、心に一生消えない傷を残すこともある。それは今も昔も変わらない。

 

「……フランチェスコは、俺を異端だとは思わないのか?」

 

「うーん、旦那はとても変わり者ですが、異端者ではありやせんよ。それに、異端というならむしろ……いや、まぁ、あれです」

 

 こほん、とフランチェスコは誤魔化すように咳払いをひとつついた。その仕草はどこかチグハグで、妙に違和感を覚えた。

 

「教会は基本排他的ですから、それ以外の神を許しません。それが古来からある土着の信仰であれ、なんであれ、ね」

 

「それは、なんとも血生臭い話だな」

 

「まったくその通りで」

 

 フランチェスコは神妙に頷く。それから、目を伏せた。

 

「修道士がこんなこと言ったら、いけねぇですが。あっしは教会のそういうところが心底恐ろしい。聖戦と言いますがね、それは大義名分でさぁ。蓋を開ければ、そこには征服と略奪しかない」

 

「フランチェスコ……」

 

「少し暗い話をしてしまいやしたね」

 

 気まずそうに笑って、フランチェスコは頭を掻いた。俺は首を振る。

 

「まぁ、でも全てを破壊し尽くした訳でもねぇです。ほれ、修道院を出て数時間歩くと、巨大な石が円上に置かれている場所があるんですがね。それは異教の遺物なんです。言い伝えでは、あそこで神を呼ぶ儀式を行ってたとか、化け物を封じ込めているんだとかなんとか。まぁ、本当かどうかはわかりやせんが。それだけではなく、いたるところにその足跡は残されているって話です」

 

「それって……」

 

 俺は脳裏にあの出来事がよぎった。 

 あのストーンサークルのことだ。背筋が凍る。

 ならば、やはりあれは本当に……。

 

「信仰というのは、どうにも難しいもんです。あっしのような経歴の者と、誠の聖者とでは質が違うというのもあるですしね。それに信仰は妄信と紙一重ですから、あっしも気を付けんといけねぇ」

 

「……驚いた。フランチェスコも色々考えてんだな」

 

「なんでぃ。あっしがいつも何にも考えてねぇと言わんばかりでないですかい!」

 

「バレたか」

 

「へへっ、まぁ間違ってはいやせんがね」

 

 フランチェスコは笑った。彼のように考える人がこの修道院にどれほどいるのだろうか。   

 信仰と妄信。なるほど、言い当て妙だ。誰かの血であがなう信仰、誰かの命の上で成り立つ信仰。それほど、恐ろしいものはない。

 

 

 神ははたして、それを望んだのか。

 

 神ははたして、それを喜んだのか。

 

 神ははたして、それを赦したのか。

 

 

 

 ―――俺には、何もわからない。 

 

 

 




いつも誤字脱字の訂正ありがとうございます。


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泡沫の夢

 

 

 

 修道士たちは朝早く起床し、日暮れと共に就寝する。この時期、日が完全に落ちて、外が真っ暗になる時間帯は18半~19時の間だ。蝋燭は貴重な明かりだ。節約するにこしたことはない。

 

 蝋燭で申し訳程度に照らされた室内で、俺は寝る準備を整えていた。上着を脱いで上半身裸になる。それから、下を寝ズボンに履き替える。最初は上着も着ていたが、ここでは服も貴重なので、できるだけ汚さないようにとこのようなスタイルに行き着いた。

 

 そうこうしているうちに、コンコンと控えめに扉を叩く音がした。俺はすかさず扉を開ける。そこにはローブを着てフードを目深にかぶった小柄な人物が立っていた。

 

「……あ、アンディ様」

 

「アマルか。さぁ、中に入ってくれ」

 

 アマルは俺の身体を見て、さっと顔を伏せる。きっと顔を真っ赤にさせているんだろう。

 

 ストーンハーストに来てから、毎日肉体労働をしているので、良い感じに鍛え上げられている。筋骨隆々とまではいかないが、細マッチョぐらいは名乗れるのではないだろうか。

 

(普段あれだけベタベタと引っ付いてくるのに、そういうところは初なんだよな)

 

 俺は笑って、アマルを部屋へと招き入れた。

 

 

 ***

 

 

 あの朝の宣言通り、アマルは毎晩俺の部屋を訪ねてくるようになった。

 しかし、元来未婚の男女が何もなくとも閨を共にするなんて、ふしだらだと後ろ指をさされる行為だ。

 

 比較的性に対して緩やかな農村部はまだしも、都市部では未婚の男女が閨を共にするどころか、同じ部屋に寝るだけでも姦通と見なされ、罰せられることも少なくない。しかも、ここは神のお膝元である修道院、その背徳感はかなりのものだ。

 

 アマルは見つかってもどうということはない、と言うがやはり毎回気が気でないというのが本音だ。

 俺の部屋に入ると、彼女はいそいそとローブを脱いで亜麻布の丈の長い肌着になる。所謂、シュミーズというものだろうか。

 

 いつもローブに隠された染みひとつない白い素肌をさらけ出し、アマルは恥ずかしげに身を揺らした。

 

 このシュミーズは、身体のラインがはっきりと分かるものだ。豊かな胸から、細い腰、そして安産型の臀部の流れがひどく艶めかしい。全体的には華奢なのに、何故こうも色っぽいのか。

 

 俺は頭の中で「あまるはじゅうよんさい」という魔法の言葉を言い聞かせリフレインさせる。いや、分かっている。ここでは立派な女性としての扱いをするべき年であるということは、分かってるんだ。俺は深くため息を吐いた。

 

「アマルは先にベッドに入っといてくれ」

 

「はい、アンディ様」

 

 アマルは俺の指示に嬉々として従う。ベッドに入って布団にくるまって、うっとりした表情で見詰めてくる。なんだかむず痒い。その視線から逃れるように、背を向けてゆっくり脱ぎ捨てた服を畳む。それを机の上に置いて、燭台を持ちアマルに声を掛けた。

 

「アマル、もう蝋燭消すけど大丈夫か」

 

「はい、よろしくお願いします」

 

「おう。ふっ……よしっと」

 

 蝋燭に息を吹き掛けると、辺りは真っ暗になった。俺は手探りでベッドまで辿り着き、アマルが待つ布団に身体を滑り込ませる。中はアマルの体温でもうすでに暖かい。

 

「……暖かいな」

 

「はい。アンディ様のために暖めておきました」 

 

「ぷっ、あははっ、お前秀吉かよ」

 

 ヒデヨシ、ですか? と小さな声が聞こえる。キョトンとした雰囲気が伝わってきた。  

 

「いや、なんでもないよ。暖めてくれて、ありがとな」

 

 そう言って、頭を撫でる。嬉しそうに、ふふっと笑う声が聞こえた。それから、アマルは俺の胸に頭を置いて、手で腹筋を確かめるようになぞってくる。 その手付きに、一瞬身体が強ばった。

 

「こら。くすぐったいだろ」

 

 手を取って止める。

 アマルは不満そうに、ぎゅっとその手を握った。

 

「アンディ様、駄目ですか? アマルはアンディ様に触れたい。触れていたいのです」

 

「あのなぁ、アマルにはまだ早いし、あんまりそういうことは感心しないぞ」

 

 アマルの息を呑む音が聞こえた。身体を起こして、俺に覆い被さる。アマルの吐息が俺の頬にあたる。

 

「早くなどありません。私はもう立派な女です。子どもだって孕める身体です。私はアンディ様と―――」

 

 アマルが全てを言う前に、俺は彼女の肩を掴んで身を離させる。

 

「あ、アンディ様……」

 

「そういうのは、困る」

 

 我慢できなくなるから、困る。

 こちとら、この1年ずっと禁欲生活で溜まりに溜まっているんだ。毎日こんな美少女にべったりくっ付かれ、ムラムラしない方がおかしい。更に、四六時中一緒にいるせいで録に性欲処理だってできやしない。何これ、新手の拷問か? 

 

 正直言うとアマルを襲いそうになったのも、一度や二度だけではない。しかし、アマルを大切にしたいという想いが、いつも俺を踏み止まらせてくれた。

 

「も、申し訳、ありません……。私ごときがおこがましいことを言いました。どうかアマルをお許し下さい。もう斯様なことは、申しません。これ以上望みません。ただお側に置いてください。わ、私は、わたくしはそれでッ」

 

 アマルは声を震わした。耐えるように身を強張らせた様子が肩を掴んだ手から伝わってくる。それから、少ししてポタリと水滴が俺の頬を濡らした。

 

 ああ、また泣かせてしまった。なにやってんだ俺。

 

 現代の価値観を押し付けて、大切にしたいと思った女の子を傷つけた。その上に、こんなことまで言わせてしまった。俺、ほんとうに学習しない。

 

「アマル泣くな。泣かないでくれ。困るってのは、その……嫌だとかそういうんじゃないんだ。ただ煽ることは言わんでくれ。お前は良い女すぎるんだ。その、何というか……我慢できなくなるだろ」

 

「我慢をする必要はありません。アンディ様、貴方様は、私とそうなるのが、お嫌ではないのですか」

 

「あのな。嫌じゃないから困るんだ。俺はお前にちゃんと答えてないし、そういうの抜きで手は出すのは違うだろ?」

 

「アマルはそれでも構いません」

 

「俺が構うの! 近いうちに必ず答えを出すからそれまで待ってくれ」

 

「……アンディ様がそれを望むなら」

 

 アマルは力無く答えた。

 叶わない夢だと悲観するような声音だった。その声に心がざわつき、衝動的にアマルを引き寄せ強く抱き締める。そして、顔を寄せて頬に唇を落とした。

 

「アマル、今はこれで勘弁してくれ。俺も頑張るから」

 

「はい、アンディ様。……もしアンディ様が私のことをお嫌になられたとしても、どうかそれを言わずアマルにずっと夢を見させてください。そうすれば、私は……アマルは幸せな微睡みの中で生きていけます。だから、どうかお願いします」

 

「何を言ってんだ。嫌いになんてなるもんかよ!」

 

 アマルは無言で俺の首に手を回し、ぎゅっとしがみついた。

 

 夢を永遠に見続けることは不可能だ。

 

 いつか必ず覚めの時が訪れる。

 

 夢とは元来そういうものなのだ。

 

 目覚めを理解しながらも、その泡沫のような夢にすがることしかできない少女を俺はただ強く抱き締めた。

 

 

 



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底抜けない青空に

 

 

 

「いと高きところには栄光、神にあれ。アーメン、ハレルヤ、ええっとーーそれから俺のこんちくしょうが」

 

 吐き捨てるように自身を罵倒してみる。唇を歪めて、息を吐く。苛立ちだけが先行し、俺の胸を掻き立て、頭を無遠慮に蹂躙する。それが腹立たしく、なんとも物悲しい。

 

 ――ーよく晴れた朝だった。

 

 修道院の裏手の芝生で、俺は寝転びながら空を見上げていた。雲は薄く棚引いて、陽光はキラキラと輝いている。本当に良い天気だ。嫌になるくらいに。

 

 慰めに空が見たかった訳ではない。無邪気に寝転びたかった訳でもない。ただそうしていたかった。それが全てだった。

 

 ぼんやりと、怠惰に雲の流れを目で追う。流され、薄れ、消えていく。それをただ眺める。何も得ることはできない非生産的な行いを繰り返す。それはそれで、どこか楽しい。だからこそ救いようがない。

 

 そんな中、ぬっと人の顔が俺の視界に飛び込んでくる。思わず眉を顰める。全く気配がなかった。

 

「……ヨハンナ、驚かすなよ」

 

「その割には驚いていないようですが」

 

 そんなことないさ。俺は、空々しく呟いた。彼女は目を細めて俺を見ると、小さなため息をひとつ吐き出した。

 

「……それで、何を悩んでいるのですか」

 

「別に悩んでない」

 

「良いから話しなさい」

 

 反論は無視された。

 取り敢えず、無言の抵抗を試みる。

 黙秘権を発動します。

 

「はぁ、全く強情な。……その反応から、言わなくても分かります。あの方のことでしょう?」

 

 俺はむっつり黙りこむ。答えたくなかったし、答えるつもりもなかった。これは俺の問題だ。それ以上でもそれ以下でもない。

 

「黒殿は本当に分かりやすいお方だ。それは可愛らしくもあるが……少しもどかしくもある」

 

 ヨハンナは、そっと微笑んで隣に腰かけ、空を見上げる。

 

「……夜にあの方が、黒殿の部屋を訪ねているところをお見かけしました」

 

 目を見開く。

 

 上半身を起こして、ヨハンナに顔を向けた。彼女はその動作を興味深げに眺め、ぽつりと言葉を口にする。

 

「誤解しないで頂きたい。私はそれを咎めるつもりも、咎めることもできません。そんな資格を私は有していない」

 

「言っとくけどな、俺はアマルに手を出してなんかいないぞ」

 

「ええ、そうでしょう。黒殿はそういうお方だ。何より優しく、何より残酷だ」

 

「俺が……残酷?」

 

 俺の言葉に、ヨハンナは静かに頷いた。それに責める響きはなかった。どこか憐れむような声音だった。心がざわめく。お前は何が言いたいんだ。

 

「あの方が貴殿の、殿方の部屋を訪ねることの意味を考えたことはおありか」

 

「アマルはひとりが寂しいからって」

 

「……女性は何よりも貞節が尊ばれます。どんな理由があれ、婚姻関係でない殿方と同室で寝ることは許されません。例え何もなくても、まわりはそう思わない。故に、女性は男性と同じ寝床を使う際、覚悟をする。その殿方の(モノ)になる、あるいはなるかもしれない、ということを」

 

 絶句する。

 では、アマルは最初からそのつもりで――ー

 

 ヨハンナは淡々と言葉を放つ。 

 

「何もしないということが、善良な行いであっても最善とは限らない、という話です」

 

「……お前は俺に、アマルを受け入れて抱けば良かったと言いたいのか」

 

「いいえ。黒殿はそれができないから、悩んでいるのだろう?」

 

 違うのか? とすまし顔。

 ぐぬぬ。

 違わない。違わないけど!

 

「ヨハンナって、ドSだよな」

 

「どえす? それはどういう意味ですか?」

 

「根っからのいじめっ子気質ってこと」

 

 ヨハンナは心外だと言わんばかりに顔を背け、憮然とした声で言葉を続ける。

 

「黒殿、貴殿は私に喧嘩を売ってるのですか?」 

 

「お前の方こそ」

 

 ヨハンナは濃い金髪を揺らして、すっと目を細めた。俺もぷんす、と鼻息を鳴らす。試合開始のベルが底抜けた空に響いた……気がした。

 

「私は好意で貴方の懺悔を聞いて差し上げてるのですよ」

 

「嘘つけ。楽しんでるだろこのドS」

 

「やれやれ、どっち付かずの優柔不断者が何を言うか。少しは頭を使って発言しなさい」

 

「今言ってはならぬことを言ったな! 言ってしまったな! お前の血の色は何色だ!」

 

「赤ですが、それが何か?」

 

「うるさい! そんなこととっくに知ってるわ!」

 

 何ですかそれ、とヨハンナは呆れ顔。

 お前こそなんなの? と、それに俺は嫌そうな顔で応酬する。

 

 暫く心底くだらない言葉のやり取りが続いて、結局そこから何も生まれなかった。……でも、少し気が晴れた。

 

「……さて、私はもう行きます」

 

「お前、ほんと何しに来たんだよ」

 

「しいて、なにも。ただ、貴方があまりに寂しそうだったので」

 

「……お前って、割りと優しいのな」

 

「何だ今頃気付いたのですか。恐れ入ったぞ、この間抜け」

 

「……お前って、割りと口悪いのな」

 

 ヨハンナは口だけ歪ませて笑った。意地の悪い笑みだった。俺はげんなりと肩を落とす。

 

 こいつやっぱりドSだ。

 いい加減にしろ、このサディストが。

 もっと優しく、なじってくれ。

 

「黒殿、受け入れろとは言いません。ただ、認めろと言っているのです。貴方を想うあの方の心を。何故ならそれ自体、貴方の尺度で計ることができないものだからです。いえ、計るべきではない、が正しい。万人には、ひとりひとり多種多様なしがらみがあるでしょう。だが、そんなものは路端に投げ捨てておけばよろしい。……誰にも何にも認められないというのは、存外悲しいものですから」

 

「ヨハンナ、お前……」

 

 最後の言葉は、彼女が自身に向けて言ったようにも聞こえた。誰しもしがらみを持っているのであれば、彼女のしがらみは一体なんなのだろう。きっと俺には推し量れない何かがある、そう思った。

 

 俺は立ち上がって、ヨハンナの頭をぐりぐり乱暴に撫でる。彼女は驚いて、目を見開いた。青い瞳が揺れる。

 

「……何のつもりですか」 

 

「しいて、なにも。ただ、あまりにお前が寂しそうだったから」

 

「……貴殿は、割りと優しいのですね」

 

「何だ今頃気付いたのか。恐れ入ったぞ、この間抜け」

 

「……貴殿は、割りと口が悪いのですね」

 

 ヨハンナは微笑んだ。

 とても綺麗な笑みだった。

 底抜けない青空のような、そんな笑みだった。

 

 

 

 



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素敵な何か

 

 

 

 ヨハンナのおかげで、だいぶ気が晴れた。

 いや、あいつのせいで随分疲れもしたが、そこだけは感謝してやっても良い。むしろ、そこだけしか感謝できない。神に祈る前に、そのドSっぷりを悔い改めろってんだ。

 

 本人がいない間に、心の中で毒づく俺である。面と向かって言う度胸はない。ヘタレ? いいや、これこそ平和主義の賜物だ。日本人として当然の姿勢である。……自分でも正直無理があると思ったことは秘密だ。

 

 俺は芝生から立ち上がって、身体についた草をはたき落とす。ぐっと背伸びをしてから、深呼吸。

 

 このままで修道院に戻るのは芸がないので、散歩がてらに敷地を歩くことにした。修道院の敷地は広大だ。歩きがいがある。

 

 ストーンハースト……知らない場所、知らない世界。日本ではないどこかに、修道院はひっそりと佇んでいる。

 何故俺はここにいるのか。自身が存在する意義なんて、ついぞ俺は見出すことはできなかった。それでも、尚ここに自身の存在理由を求め続ける。それは、一種の義務感に似た感情だった。

 

 ゆっくりと、足を進める。

 葡萄畑、新緑の香り、揺らめく木々。

 聖堂から聞こえる讃美歌。

 全てが心地よい。

 

 たまにはこういう日があっても良いだろう。春の陽気に包まれて、穏やかに過ごす日があって良いだろう。

 

 

 

 ***

 

 

 

 夜、自室にて。

 

 ベッドに寝転がり気を抜いてる俺の横に腰かけたアマルが、俺の顔を見てぽつりと呟いた。

 

「アンディ様、なんだか表情がお変わりになりましたね」

 

「そうか? 別にいつもと変わらないと思うけど」

 

「いいえ、お変わりになりました。私には分かります」

 

 即答だった。

 

 アマルは真剣に俺の顔を見詰める。ぐっと顔を寄せてくる。キスする一歩手前の距離。鮮紅色の瞳が、俺を離さない。視界一杯に、女神のような美貌が広がる。艶のある桃色の唇から甘い吐息が漏れ、俺の唇にあたる。息でキスしてるみたいだった。

 

 くそ、思考がそっち方面に行ってしまう。止まれ俺の桃色思考。アマルを引き離そうと伸ばした手が、彼女の柔らかすぎる胸に当たった。

 

「ひゃん、あっ、アンディ様っ」

 

 ああ、主よ、なぜ我を見捨てたもう。

 オウマイゴッド、ホーリーシットっ!

 

 思わず、祈っているようでそうでない罵倒を心の中で吐き捨てる。

 

「違う。故意ではないんだ。偶然手が胸に当たったというか。なんというか。すごく柔らかくて、大変素晴らしい……正直、すまんかった」

 

「アンディ様、その、もっと、お触りになりますか?」

 

「ーーーーすぅ」

 

 えっ、いいの? と、思わず聞き返しそうになる自分を深呼吸して必死に押し止める。危ない。マジ、危ない。引っかけ問題よりたちが悪い。

 

「近い近い」

 

 アマルの額を押す。

 心臓に悪い。美人は至近距離で見ても美人だから始末に終えない。本当にやめてほしい。アマルはむっとした表情。それすらも可愛い。美人って得だなぁ。

 

「近くないです。これが私とアンディ様の適正距離です」

 

「そんな訳あるか!」

 

「むぅ」

 

 嘘をつけ。

 

 堂々とした物言いに、一瞬納得しかけてしまったじゃないか。アマルは日々強くなっている。主に俺に対して。その成長っぷりに、末恐ろしささえ感じる今日この頃。

 

「俺なんかよりアマルの方が変わったと思うぞ」

 

「変わってません」

 

「いいや、変わった」

 

 アマルは怪訝そうに首をかしげ、眉をひそめた。俺はその様子を見て微笑む。

 

「どこが変わったと言うのですか?」

 

「んー、そうだなぁ」

 

 思い出すのは、その無機質な紅瞳。どこかを見て、どこも見ていない空虚な視線。人工物のように整いすぎた冷たい美貌。さらさらとした、銀糸の髪。

 

 ―ーそして、断続的に音を出す壊れたラジオみたいな雰囲気。いや、壊れながらそれでも……それでも必死に音を出し続けているラジオみたいな、そんな雰囲気。

 

「全部。表情とか、声音とか。態度も。会ったばっかりは、言っちゃ悪いが無表情で人形みたいな感じだった。でも今は、すぐにヤキモチ妬いて泣くし、甘えん坊、その上寂しがり屋で、……打たれ弱い」

 

「ううっ、アンディさまぁ」

 

 良いところなんて1つもないではないですかぁ。と、泣き言を漏らすアマルに、よしよしと頭を撫でる。

 

 ……ほら、やっぱり打たれ弱い。

 

「――でも、俺は今のアマルの方が好きだ。すぐにヤキモチ妬いて泣くのは、その分俺を想ってくれてのことだし。甘えん坊なところはすごく可愛い。寂しがり屋なアマルを守ってやりたいと思うし、打たれ弱いお前を俺はちゃんと慰めたいと思う。――そうか、そういう意味なら、確かに俺も変わったな」

 

 なるほど、納得である。捨てられた子犬みたいなアマルをほっとけなかった。つい構い倒して、甘やかし、それから、ずるずるとこういう関係になっていった。絆されるとは、まさにこのことか。

 

 俺は笑ってアマルを見やる。アマルは首元まで真っ赤に染めて、固まっていた。瞳を潤ませ、唇を震わせている。

 

「……アマル?」

 

「ずるい」

 

 アマルは顔を伏せ、シュミーズの裾を強く握った。

 

「ずるい、ずるいずるい! アンディ様はずるい!」

 

「おいおい、何がずるいんだよ」

 

「私ばかりずるい!」

 

「……意味分からん」

 

「もうっ、何故分からないのです!」

 

「怒るなよ」

 

「怒っていません!」

 

 ずるいずるいと、ぐずるアマルを諌めながら、ため息をつく。

 

 女の子は不思議なことに、何故か突然怒り出す。そういうときは、何も言わず話を聞いてやることが一番良い。下手に突っつくと爆発する。正に、やぶ蛇というやつだ。故に、沈黙こそ賢い男の行動なのだ。

 

 マザーグースの童謡の一説にこういうものがある。

 

 ――女の子は何でできている?

 

 ――女の子は砂糖にスパイス、それに素敵な何かでできている。

 

 俺が思うに、きっとその素敵な何かを男は一生理解できない、そういう風に神様が作ったのだろう。だから、女の子が突然怒ったり、泣き出したり、笑ったりしても動揺するな。

 

 きっとそれは、素敵な何かのせいなのだ。

 

 理解できないなら、それでもいい。分かり合うのではなく、歩調を合わせるのではなく。お互いちぐはぐでも、側にいて話を聞くよと、言えばいい。

 

 女の子が求めるのは、いつだってたったひとつ。

 

 そのたったひとつだけなのである。

 

「むぅ、ずるいっ、ずるいです!」

 

「だから、怒るなって。ちゃんとお前の話を聞くからさ」

 

「アマルは怒っていませんッ。……怒ってないですから、とりあえずぎゅっとして下さい」

 

 この応酬は、もう暫く続きそうだ。

 

 

 




誤字脱字の訂正ありがとうございます。


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神様のいるところ

誤字脱字の訂正ありがとうございます!


 

 

 

 落ち着きを取り戻したアマルは、ベッドに仰向けで寝転がる俺の上に身体を乗せて抱きついていた。俺の首元に頬をすり付けて、甘えてくる。なんだかマーキングされているような気分だ。むずむずする。

 

「アマル、くすぐったいんだが」

 

「……ずるいアンディ様が悪いのです」

 

「はいはい、悪い悪い」

 

 艶やかな銀糸の髪を子どもをなだめるように撫でる。アマルはすんっと、鼻を鳴らし顔を上げた。潤んだ瞳で俺を見詰めてくる。

 

「ん、アンディ様、あしらわないで下さい。アマルは寂しいです」

 

「あしらってないよ。まったくどうしたんだ? 今日はずいぶん甘えたじゃないか」

 

「私はいつだってアンディ様に甘えていたいんですっ!」

 

「はいはい。分かった分かった」

 

「もうっ、またそうやってあしらう……」

 

 頬を膨らますアマル。

 こりゃ、リスだな。頬にドングリでも詰め込んだか? 

 俺は笑ってその頬に、両手を添えた。軽く揉んで、柔らかさを堪能する。そうしていると、アマルの顔が紅潮し、風船の空気が抜けるように頬が萎んだ。

 

「アマル?」

 

 その様子を怪訝に思い、どうしたんだと俺は顔を近づける。アマルは恍惚とした表情を浮かべ、そんな俺を見詰めていた。至近距離まで顔を近付けてから、はっと自身の状態に気づいた。アマルを胸に抱いて、頬を掴み顔を寄せている。

 

 どう考えても、キスする10秒前でしたありがとうございます。アマルはそっと目を閉じた。完全にその気だ。とりあえず、ストップをかけなければ、そう思いアマルの顔を真っ直ぐに見詰める。

 

(くそ、無駄に顔が良いっ! アマルは自分自身が美少女である自覚がない。だからこそ、酷くたちが悪い。天然でこれだもんな。ちくしょう、俺は負けないぞ)

 

 何と勝負をしているのか、自分でも分からないまま決意を固める。負けず嫌いではないけれど、俺だって譲れないものぐらい持っている。それは大人としての矜持であり、妹と同年代の少女が相手という個人的な罪悪感である。

 

 俺はアマルの鼻をむぎゅっと、摘まんだ。アマルは驚いたように目を見張って声を出す。

 

「うひゃん、なぁみふゅんでふかぁ!」

 

「いや、つい……」

 

「ちゅい、じゃありませふっ! て、はなひてくだひゃい!」

 

「分かったよ」

 

 鼻から手を離す。

 アマルはむくれ顔で、口を尖らせた。

 

「ひどいです」

 

「いや、なんかアマルが鼻を摘まんで欲しそうな顔をしていたから」

 

「……摘まんで欲しそうな顔などしておりませんッ。アンディ様は意地悪です」

 

「そうか。俺は意地悪か」

 

「それから、ずるいです」

 

「なるほど、意地悪でずるいか」

 

 珍しく抗議してくるアマル。いつも俺に対し彼女は従順な態度を崩さないため、このような発言はとても新鮮だ。俺は、ウンウンと相槌を打ちながら話を聞く。

 

「でも―――」

 

 俺は、ふむと頷く。そして、言葉の先を視線で促す。アマルはそれを見て、俺の胸に顔を擦り付ける。

 

「――ーでも、そんなところも……アマルは」

 

 お慕い、しています……と、か細い声が耳まで届く。俺は赤くなった頬を隠すために、手で顔を覆った。

 とっくの昔に過ぎ去った青春が、一周して戻ってきた。そう錯覚する程、俺の胸は躍動していた。

 

 

 ***

 

 

「それでアンディ様、何があったのですか?」

 

「……何がって?」

 

「先ほどのお話です。表情が変わったとおっしゃっていましたでしょう?」

 

「ああ、それのことな」

 

 思い返してみたものの、今日1日何か特別なことはなかったように思う。しいて言うなら、ヨハンナと無駄口を叩き合っていたぐらいだ。

 でも、表情が変わったと言うなら、それが原因だろうか。ヨハンナと気の置けない会話を繰り広げて、少しすっきりしたから。それが顔にも出ていたのかもしれない。

 

「ああ。まぁ、そうだな。表情が変わったと言えば、ヨハンナのおかげかな。アイツと色々話をして、スッキリしたってだけだよ」

 

 おかげと言うのもしゃくだが、それは間違いない気がする。ヨハンナのにやりとした笑みが頭に浮かんだ。

 

「……ヨハンナ。ヨハンナ・スコトゥス」

 

 アマルはピクリと眉を動かした。俺はそれを不思議に思いつつも、そのまま続ける。

 

「ああ、そのヨハンナ。というか、そのヨハンナ以外俺は知らないけど」

 

 ヨハンナとのやり取りを思い出して、思わず吹き出す。そして、天井を見上げる。底抜けの青空を幻視した。

 

「そう、なのですね……あの者が、アンディ様と」

 

「あいつ喋らなかったら清楚な美人なのに、結構口悪いんだぜ。しかも、ドS。痛いとこを的確についてくる。……でも、それ以上に優しいやつだよ」

 

「……そうですか」

 

「それに、ヨハンナはお前を気遣ってたみたいだけど」

 

 発言の意図を探るように、訝しげにアマルは俺を見た。そして、深紅の瞳を細め、静かに俺の頬に手を添えた。ひどく冷たい手だった。

 

「ヨハンナ・スコトゥスが、私を……ふふっ」

 

「どうしたんだ、アマル?」

 

 いいえ、とアマルは首を振った。それから何かを思案するように彼女は目を伏せた。手を左胸に置き、ふぅ吐息を漏らす。緊張を和らげているようにも、鼓動を確かめている動作のようにも見えた。

 

「―ー―ああ、本当に困った人」

 

 それは誰に言った言葉だったのか。

 ごちゃまぜになった感情を宿した瞳からは、それを伺い知ることができなかった。

 

 アマルは伏せていた顔を上げて、視線を天井の向こう。その最果てに向けた。彼女は何をそこに幻視したのだろうか。暗く淀んだ瞳の先にあるものは少なくとも、青空ではないことは確かだ。

 

 壊れながらそれでも……それでも必死に音を出し続けているラジオ。いつから壊れているのかも分からない。この世に産まれてからなのか。この世に生まれたからなのか。

 

 不協和音でも、音を鳴らして響かせる。それに何の意味があったのか。その存在に何の意味があったのか。

 

 

 ――ーその答えを、今も探している。

 

 

 

 



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闇の足音

いつも誤字脱字の訂正ありがとうございます!


 

 

 暗い暗い闇の中。

 目的もなく、さまよい歩く。

 どこへ行くかも分からない。

 どこにいるかも分からない。

 それでも、歩みを止めないのは、

 いつか見た日溜まりを、忘れられないからだろう。

 

 

 ――忘れたくはないからだろう。

 

 

 ***

 

 

 深夜。

 

 密かな尿意から、目が覚める。まだ暗闇に包まれる静寂な部屋の中、自分以外の吐息が聞こえた。胸に暖かく華奢な身体が絡み付き、甘い香りが鼻を擽る。

 

 アマルと同じベッドで寝始め暫くたったが、目覚めた時に彼女の顔が近くにあると、未だに胸が踊る。まるで思春期真っ盛りの中学生みたいだ、と自分自身に呆れてしまう。

 

「全く童貞じゃあるまいに、いい年をした大人が情けない」

 

 そう呟いて、唇の片端を歪ませた。社会に揉まれ、俺もずいぶん汚れちまった。それでも尚、心の片隅に純情という化石が残っていたらしい。世紀の大発見かもしれないな。

 

 ……この話はもう止めよう。悲しくなってきた。

 

 少女の髪にそっと顔を寄せて、その匂いを吸い込む。果実の熟れた香り、花が虫を誘うような蠱惑的な匂い。香水の刺激臭ではなく、仄かに香る体臭が心地いい。

 満足するまで匂いを嗅いで、そっと身体を離す。起こさないように起き上がり、ベッドに腰かける。

 

 手探りで何とか上着を来て、俺は静かに自室を後にする。厠は修道院の外にある。毎回外に出るのも面倒だが、こればかりは仕方がない。

 

 視界は真っ暗闇に包まれている。恐怖はない。自身が闇に溶け同化しているからなのだろうか。そんなくだらないことを考えながら、歩きだす。

 

 夜に修道院の中を彷徨くのも怖くて、蝋燭を片手にびくびくしながら歩いていた1年前の自分が懐かしい。今では、道順を覚え暗くとも歩けるまでになった。蝋燭は貴重だ。使わないにこしたことはない。それに、今日は満月。それがあるから、光には困らないだろう。

 

 静かに廊下を歩いていると、微かに話し声が聞こえた。その声を辿るように視線を向ける。そうすると、図書室と扉の隙間から明かりがこぼれているのを見つけた。

 

 誰かが図書室の中にいるのか。起床時間でもないこの時間に何だろう。扉の前まで行き、無作法だとは思ったが好奇心に負け耳を澄ませる。

 

「どうかご決断を……いつまで放置するおつもりか!」

 

「しかし……我々には誓約がある。それを破ることはできまい」

 

「その誓約なぞ、いかほどのものか! 王が崩御された今、何の効力もないでしょう。……貴方は一体何を恐れるのです」

 

(……この声はサルスとベネディクト修道司祭か?)

 

 何の話だろうか。少なくとも不穏な話題であろうことは分かるが。重々しい雰囲気が伝わってくる。

 

「だが、秘密は隠さねばなるまい。それを分かって言っているのか」

 

「もちろんですとも。確かに、秘密は甘美なものだ。……でも、お気づきでしょう? その甘美さは人を惑わし滅びへと誘う悪腫でもある。だからこそ、暴き鉄槌を下さねばならぬ。恐ろしい、死を植え付けねばならぬ」

 

 誓約に、秘密。それと、王の崩御がどのような関係あるのだろうか。

 

「王の庇護を失った今でないとなし得ないことだ。カエサルのものはカエサルに、神のものは神に。我々は、ただそう動けばよいのです」

 

 ベネディクト修道司祭は、それを聞いて黙り込んだ。サルスはそのまま言葉を続ける。

 

「好奇は、自身を傷つけるやもしれません。それが、どうというのです。秘密を白日の元にさらすことができれば、教会の威信を強めることにも繋がります。主もそれを望んでいらっしゃる。これは、正しい行いなのです」

 

「……少し、考えさせてくれぬか」

 

 いいでしょうと、憎たらしいサルスの声が聞こえた。ならば、またお答えを聞かせもらいます。それと同時にこちらに向かう足音が響いた。

 

 ――まずい、こっちに来る。

 

 慌てて、俺は音を立てないように廊下を移動した。廊下の角に身体を潜め、図書室の扉を伺う。ぎぃ、と悲鳴のような音が鳴って、扉が開けられた。サルスは燭台を持って、ゆっくりと自室の方に向かって歩いていった。

 

「それでも、原初にして白痴の悪夢は終わらぬよ。だからこそ、我らは役目を果たさねばならぬ。……ああ、ニールセン。君はそれさえも忘れたか。残念だ。誠に残念だよ、ニールセン」

 

 ベネディクト修道司祭の悲痛な声が、暗闇の中に消えていった。

 

 

 ***

 

 

 トイレを済ませて、俺は自室に戻ってきた。

 

 先程のサルスとベネディクト修道司祭のやり取りを思い出して、背筋がぞくりとする。あのサルスの言葉。まさか、アマルに関係があることなのだろうか。

 

 俺は布団に入り、冷めた身体を暖める。するりと、細い腕が首に回された。

 

「あんでぃさまぁ、どこにいっていたのですか。わたくしをひとりにしないでぇ。あまるは、あまるはとてもさびしいです」

 

「アマル、起こしたか。悪かった。ちゃんと戻ってきたから」

 

「はい、でももうどこにもいかないで。わたくしといっしょ。ずっといっしょ。あまるはあんでぃさまと、いっしょがいい」

 

 寝ぼけているのか、呂律が回らない口調で話しかけられる。可愛い。ほっとする。

 

「アマル、お前こそ俺の側にいろ。離れるなよ」

 

 頭を撫でて、細い腰に手を回す。アマルの存在を確かめるように、引き寄せた。

 

 俺が守ってやらないと。

 この嫉妬深く甘えん坊で、寂しがり屋な上打たれ弱い……ただひとりの女の子を、俺は守ってやらないと。アマルを強く抱きしめて、頭に顔を埋める。甘い匂いに誘われて、俺は瞼をゆっくりと閉じた。 

 

 

 



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主よ、何故我を見捨て給う

誤字脱字の訂正ありがとうございます!めちゃ、助かってます。


 

 

 

 体内時計は正確に、覚醒の時を告げる。

 目は覚めるのに、脳はまだ寝ているような気分。瞼を開けるのも億劫だ。もう少しくらいなら寝ていても良いだろう。   

 

 もぞりと、布団の中で体勢を変える。

 少女に背を向け、瞳を瞑る。

 それに合わせて、後ろからむずかる声が聞こえた。  

 

 背中にピタリとアマルは身体を寄せてくる。柔らかい胸と二つの突起が擦れる感触。薄いシュミーズ越しでも分かる豊胸。極上の女の身体。それを思い浮かべて、思わず喉がなった。

 

 いつもなら意識しないようにし、我慢できていたのに、今日は何故かそれができなかった。衝動にも似た肉欲が思考を鈍らせる。目の前がチカチカと光り、頭がぼーっとする。自分が自分でないような感覚。

 

 俺は蜂が花に誘われるように、体位を戻し少女に向き合う。そして、躊躇いもなくアマルのいたいけな身体をまさぐった。ああ、どこもかしこも柔らかい。

 

「あっ、んうっ……アンディさまぁ、素敵。もっともっと、してください」

 

 艶やかな声音が響く。そして、頭を抱きしめられ強く胸を押し付けられた。むせかえるような甘い女の匂いが、鼻腔に広がる。……なんて、美味しそう。ごくりと唾を飲み込む。

 

「この卑しいアマルめに、哀れみを。ねぇ……」

 

 堪らなくなり、腹を撫でてから彼女のシュミーズをたくし上げようとして――

 

「……どうか私を散らし、狂わせて」

 

 囁やかれるその言葉に思わず手を止めた。

 

 ――脳が覚醒する。

 

 俺は即座に身体を離して、ベットから転がり落ち、顔面から床に突っ込んだ。

 

「あ、アンディ様!? 」

 

 慌ててベットから降り、俺を助け起こそうとするアマルに大丈夫だと、制止をかける。

 

 顔を右手で押さえて、身体を丸めうずくまった。

 

「アンディ様、大丈夫ですか。起き上がれますか?」

 

「ああ、大丈夫だから。少ししたら落ち着く。しばらくこのままで」

 

 勘弁してくれ。

 今起き上がったら、いろんな意味で終わる。これほど、自分を卑しいと思ったことはない。くそ、何てやつだ。不届き者め。お前はアマルにナニをしようとした。

 

 エリ・エリ・レマ・サバクタニ。

 

 ああ、主よ、何故我を見捨て給う!

 

 鼻からポタリと流れ落ちた血が床を濡らした。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 ミサが終わった後の空き時間を狙って、俺はヨハンナの部屋を訪ねていた。

 

「……で、朝から押し掛けてきて、一体どういう要件ですか?」

 

「いや、ヨハンナに罵って貰おうと思って」

 

 冷たい目で見られた。

 ゴミを見るような目だった。

 普通に視線が痛い。心も痛い。

 

「……帰って頂いて宜しいでしょうか」 

 

「だが、断る」

 

 即答した。それを聞いて、ヨハンナは微笑む。微笑んでいるのに、目は笑ってなかった。

 

「いや、罵って欲しいというか、叱って欲しいというか……」

 

 しどろもどろに、伝える。ヨハンナは、瞳を閉じてゆっくりため息を吐いた。

 

「はぁ、まあいいでしょう。一応話は聞いて差し上げます。貴殿、泣いて喜べ」

 

「お、おう。ありがとな」

 

 眉をひそめながら、ヨハンナは言葉を促した。

 本当に話を聞いてくれるらしい。律儀なやつだ。根は真面目なくせに、ドSとはこれいかに。

 

夢現(ゆめうつつ)、揉みまくったよ、胸と尻」

 

 話せば長いため、五・七・五の俳句調にして表現してみた。倒置法まで使いこなす、自分の才能が怖い。

 

 ヨハンナは頭痛を我慢するかのように、頭を押さえた。それから、一拍置いて頭を振りかぶった。何とか持ち直した様子。彼女は吐き捨てるように呟く。

 

「黒殿は馬鹿なのだろうか?」

 

 ……言うと思った。

 

「状況は大体分かった。淫行に走ったから懺悔したいということでしょうか?」

 

「いや、ひとつだけ言わせてくれ。最後まではしていないぞ」

 

「そこで胸を張るな。愚か者」

 

 頭をペシリと叩かれた。素っ気ない口調なのに、優しさを感じるのは何故だろうか。

 

「貴殿は全く本当にどうしようもないな」

 

「仰る通りで」

 

「いや、どうしようもないのはあの方も一緒か」

 

「ヨハンナ……?」

 

 ヨハンナは俺の頬をそっと撫でた。暖かい手の感触、優しい手つき。慰めるかのように、赦しを与えるかのように。

 

 すると、頭の中で錠前が外れた音が響いた……気がした。気がしただけだったが、妙に頭がすっきりする。霧が晴れたみたいな気分だ。

 

「―――そして、私も。相当なものだな」

 

 頬を、頭を、耳元を順に撫でるヨハンナ。目を見開いた俺に、ヨハンナは怪訝そうに首を傾げた。

 

「どうしよう。ヨハンナが無闇やたらに優しい」 

 

「言い残すことは、それだけでしょうか」

 

 耳元を撫でていたヨハンナの手が、耳たぶを遠慮なく摘まんで引っ張った。痛い痛い。伸びる。伸びる!

 ヨハンナをそれを見て、ニヤリと意地悪く笑った。

 

「前言撤回! このドS!」

 

「黒殿は本当に墓穴を掘るのが得意ですね」

 

「掘っているのは、お前の墓穴だ!」

 

「ほう、良く言った。ならその穴に蹴り落して差し上げよう。この意気地無しのろくでなしめっ!」 

 

「言ったな! ちょっと、いや、かなり、ええっと……すごく美人だからって調子に乗るなよ!」

 

 それは罵倒のつもりなのですか? と、頬を染めたヨハンナに毒気を抜かれた。振り上げた手を誤魔化すように、頭を掻く。 

 

「あの方の気持ちが、少し分かったように思います。やきもきして、どうしようもなく焦っているのですね。このような下法を使ってまで強引に貴殿を欲している。いや、それほど手段を選んでいられないということか。それほど……」

 

 ヨハンナは思案顔で、目を伏せた。

 

 ……時間がないということか。

 

 

 細く呟かれた言葉は、壁に反響する前に薄れて消えた。

 

 

 

 

 



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修道女の懺悔

いつも誤字脱字の訂正ありがとうございます!


 

 

 意外と思われるかもしれないが、修道院で生活する修道士たちには、一人一人個室が与えられている。これは、沈黙尊ぶ修道院ならではの考えからきている。

 

 神の声を正しく聞くためには、沈黙を守らなければならない。沈黙こそ、神の思いで満たされる唯一の道である。

 

 それには共同寝室では得られない、孤独が必要だ。それ故の個室である。プライバシーを守るためと言うよりもむしろ、戒律に則り沈黙のうちにあることを遵守するためなのである。

 

 このストーンハースト修道院にも、沈黙の戒律が存在する。終日沈黙を保つというほど厳しいものではなく、祈りや聖なる読書、また食事等ある一定の時間のみ沈黙を守る。

 

 集団生活の中に居ながらにして、孤独。沈黙。そして、清貧。それこそ、修道院で生きていく上で最も必要な要素なのだ。

 

 つまり、そんな孤独と沈黙のための個室(しかも女性の)に問答無用で押し掛ける俺は、とんだ不埒ものという訳である。

 

 ……うん、知ってた。

 

 ヨハンナの部屋は質素な内装で、ベッドや机、椅子、タンスしか家具がなのは、俺の自室と同じだ。椅子に腰掛けながら、話をする。

 

 帰れと言った割に、何だかんだ付き合いが良いのは彼女が元来真面目な性格だからなのだろう。ドSだが、根が真面目。まぁ、気遣いもそれなりにしてくれるし、優しいところもある。あと、口が悪い。

 

 容姿はシニヨンに編み込んだ濃い金髪に、透き通るような青い瞳。堀が深く、鼻筋が通ったゲルマン系のはっきりとした顔立ち。可愛げのない冷やかな面持ちだが、はっとするほどの美人である。

 

 すらりとした無駄のない体格で、姿勢も良い。凛とした雰囲気から、隙のなさを伺い知ることができる。常に冷静で淡々とし、機械的な印象を受けるが、たまに見せる微笑みは女性らしく柔らかい。自身の感情を押さえて、努めて無機質に振る舞おうとしているようにも見えた。

 

「なんですか、人をジロジロと見て。顔に何かついいますか?」

 

「目と鼻と口」

 

「……はぁ、黒殿は本当に私を苛立たせるのがお上手だ」

 

「いやあ、それほどでも」

 

 わざとらしく照れて見せると、呆れたようにため息をつかれた。

 

「全く貴殿は……ふざけすぎるというのも考えものだぞ」

 

「―――でも、お前はそんな俺を許してくれるだろう?」 

 

「っ、その自信が一体どこから湧いてくるのか知りたいものだが、まあいいでしょう」

 

 決まり悪そうに、ヨハンナは顔背けた。攻めるのは得意だが、攻められることには耐性があまりないらしい。何だ、可愛いところもあるじゃないか。

 

「さて、罵って欲しいなどという無駄話はもう良いだろう? 本当の要件をそろそろ言って頂けるか」

 

「……良く分かったな」

 

「当然だ。言ったでしょう? 黒殿はとても分かりやすい。素直で、飾り気がない殿方だ。まぁ、単純で馬鹿正直とも言えるが」

 

「お前も俺を苛立たせるのが上手いのな」

 

「それほどでも」

 

 言葉の応酬をしながら、覚悟を決める。俺はヨハンナの瞳をじっと見詰めた。意を決して言葉を発する。

 

「単刀直入に言う。お前とアマルの関係を知りたい」

 

「……それを聞いてどうするおつもりか」

 

「分からん。聞いてから考える」

 

「黒殿は本当に正直なお方だ」

 

 ヨハンナは困ったように眉を下げると、目を伏せる。数分そうしてから、静かに顔を上げた。

 

「ひとつだけいいだろうか。何故、私にそれを聞こうと?」

 

「その、お前だけアマルを見る目が違うような気がするんだ。他の修道士は、アマルに対して良い感情を持ってないようだし、そもそも存在を認知すらしていないように思う。でも、ヨハンナはそれに当てはまらない、と感じる」

 

 なるほど、とヨハンナは頷く。

 

「……良く見ていらっしゃる。確かに、私はあの方に対してそのような思いを抱いていません。あえて言うなら、それは憐憫の情でしょう」

 

「憐憫の……情?」

 

「ええ、あの方の生まれに。あの方の運命に、どうしようもなく哀れみを感じている。それは、間違いありません。また、それを否定するつもりもありません」

 

「だったら、ちゃんと話しかけてそう言えばいい! アマルはずっと孤独だった。きっと、誰かに目を見て話しかけてもらうことを待っていたはずだ!」

 

 ヨハンナは寂しげに首を振り、驚くほど穏やかな口調で答えた。

 

「それは、できません。私たちには誓約がある。それに縛られる限り、あの方に干渉することは許されない」

 

「……教えてくれ、その誓約ってなんだ?」

 

「この修道院に入るものは、すべからくこの誓約を守らねばなりません。そして、その内容を外に漏らすことは決して許されない」

 

 だから、これはあくまでも独り言だ、とヨハンナは微笑んだ。柔らかい笑みだった。それは諦めた何かを、遠くから見るような憧憬の眼差しだった。

 

「誓約とは秘密を隠すためのもの。いいですか、この修道院の成り立ちを調べることです。決して他の修道院の者に知られないように、内密にことを運びなさい」

 

 ありがとう、言おうとして人差し指を唇に当てられた。スッと顔を近づけ、耳元で囁かれる。

 

「礼は不要です。ただの独り言ですから。……黒殿、ひとつだけ言っておきます。私はあの方に哀れみを感じていますが、必ずしも味方という訳ではありません。なぜなら―――」

 

 ***

 

 気付けば自室に戻って来ていた。

 ベッドに腰掛け、深いため息をつく。どっと、疲れた。肉体的ではなく、精神的に。でも、ここで休んでられない。合間を見計らって、図書室に行こう。手がかりがきっとあるはずだ。腰を上げようとしたところで、扉が叩かれた。

 

 扉に向かって、どうぞと動揺を隠し声をかける。

 

 ぎぃっと、頼りない音を立てて扉が開かれた。

 そこには、小柄な艶消しされた黒いローブを羽織った少女、アマルが立っていた。

 アマルは部屋に入り、直ぐに扉を閉めるとフードを脱ぐ。銀糸の髪をかきあげると、艶のあるしなやかな髪が腰まで広がった。

 

 彼女は部屋を見渡して、俺の姿を認めると幼さを残した美しい容貌を輝かせた。子犬のように嬉々として、こちらに駆け寄ってくる。ブンブンと限界まで振られる尻尾を幻視した。目の前まで来て、アマルは正面から俺に抱きつき、寂しかったと呟いた。

 

 朝まで一緒にいただろう、と笑って返す。

 

 朝までしか一緒にいていません、と拗ねられた。

 

 この甘えん坊め。

 日に日に、アマルの甘えっぷりに拍車がかかっているように思う。それだけ、信頼されているということだろう。

 アマルは俺に対してのみ、その貪欲さを発揮する。俺にだけ、ありとあらゆる感情を向ける。それは、依存といって差し支えない。アマルにとって、俺が唯一の味方なのだ。唯一の人間なのだ。

 

 俺はアマルを抱きしめ頭を撫でると、ヨハンナから囁かれた言葉の続きを思い返した。

 

「―――私は、あの方を殺すためにここにいるのですから」

 

 ……その言葉は懺悔にも似て。

 

 



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心の闇

いつも誤字脱字の訂正ありがとうございます!


 

 

 膝に乗って、正面から抱きつくアマル。

 簡単に言うと、対面座位の格好だ。イヤらしい意味ではなく。言葉のまま受け止めて欲しい。イヤらしい意味ではなく。

 

 ……大切なことだから二回言いました。

 

 彼女は首筋に顔を埋め、すんすんと匂いを嗅ぐ。

 

「あの、もしかして臭うか?」

 

「いいえ。ただ違う臭いが混ざって……私の……れ…てる」

 

 最後まで聞き取れず、思わず首をかしげる。数秒鼻を鳴らしてから、アマルはパっと顔を上げ、苛立った瞳を隠さず俺を見た。尖った声で、詰め寄ってくる。

 

「アンディ様、私以外の女人の香りがします」

 

「はぁ? 何言ってるんだ」

 

「……香りが、付いています。私以外の臭いがべったりと付いているのです。まさか、その腕で抱いたのですか。抱き締めて、愛を囁いたのですか!」

 

「どうしてそうなるんだ! そんな覚えなんて……あっ」

 

 先程、ヨハンナの部屋での会話を思い出す。最後の場面で、ヨハンナは俺に近づき耳元で囁いた。その時に香りが移ったのだろうか。いや、まさか本当にそれだけで? 

 

 俺の反応を見て、アマルは目を見開き唇を強く噛んだ。

 

「アンディ様には、私がいるのに。……私には、手を出してくれなかったのに。許してくれなかったのに。その女よりも絶対に、アマルの方がアンディ様をお慕いしています。一体私に、何が足りないというのですかっ!」

 

「あの、いや、ち、違う。俺とヨハンナは話していただけだ!」

 

 その言葉を聞いて、アマルはゆっくりと顔を伏せた。陽炎が揺らめくように、何かが蠢く。チリチリと、首の後ろがむず痒い。危険を知らせるように、心臓が早打った。

 

「ーー話していただけで、香りが移るものですかっ」

 

 アマルは吐き捨てるよう呟いた。それを見て俺は何も言えなくなった。ヨハンナとの会話の内容についてなど、話せる訳もない。咄嗟に嘘をつけるほど、器用じゃない自分がこの時ばかりは恨めしい。

 

「ヨハンナ……ヨハンナ・スコトゥスっ! 修道会の犬、略奪者であり征服者の系譜に連なるもの。よくも、よくも、アンディ様を誑かして……!」

  

 血のような深紅の瞳に暗い影を落とし、アマルは唸った。

 

「……あ、アマル?」

 

「アンディ様、貴方様は以前、嫌なことがあれば言うようにと仰いましたね。……アマルは他の女人にアンディ様を取られるのが嫌です。触るのも話しかけるのも、笑い合うのも嫌です。誰にも渡したくない。貴方様が私以外を望もうと、絶対に。絶対にっ!」

 

 俺は呆然とアマルの苛烈な変貌を眺める。

 狂信的なほどの慕情、執着、それがアマルを突き動かしている。心をくべて、情念を燃やし、その後にいったい何が残る。灰か、塵か。

 

 

 

 ――それとも炭のように硬く凝縮された、憎悪か。

 

 

 ***

 

 

 いつにも増して静謐な夜だった。

 あの後、俺はアマルと会話をすることなく寝る準備に取りかかった。

 

 彼女は俺の顔色を伺うように、チラチラと何度も俺を見てきたが、あえて気づかない振りをした。アマルはそれを繰り返して、その都度泣きそうに視線を落す。

 勿論、アマルを嫌いになった訳ではない。ただ、今彼女にどう接して良いのか分からなかった。

 

 アマルはローブを脱いで、シュミーズになった。俺も上を脱いで上半身裸になり、ズボンを履き替える。その時に、

 

 ……アンディ様と、震えたか細い声で名前を呼ばれた。

 

 透き通った声音に、心臓が跳ねる。そんな俺を尻目に、アマルは手を迷わせ、何度も躊躇するように引っ込めたり伸ばしたり。一拍置いてから、意を決し伸ばされたその手を、俺は反射的に払ってしまった。それは、どこか自己防衛の動作にも似ていた。アマルに何かされる訳でもないのに、俺は何故彼女の手を払ったのだろうか?

 

「えっ、あ……んでぃ、さま?」

 

 アマルは呆然と振り払われた自身の手と俺の顔を交互に見て、固まった。息を止めたように、微動だにしない。

 数十秒たちやっと状況が飲み込めたのか、顔を真っ青にしてこの世の終わりのような表情を浮かべた。

 

「ご、ごめんなさい、アンディ様。アマルが何か粗相をしたなら謝ります。許して、許してください」

 

 ずるすると冷たい石床に座り込んだアマルは、平伏して祈るように何度も許しを懇願する。

 

「よせ、そんなことしなくて良い!」

 

「いや、いやぁ! 離して! 離してよぉ! ごめんなさいしないと、アンディ様が遠くに行っちゃう。あの女(ヨハンナ)のところに行っちゃう。忌み子の私なんてきっと忘れてしまう! お嫌いにならないで。いや、いや。どうか、どうか、許してください。アンディ様、アンディ様っ、行かないで。置いて、行かないで……っ!」

 

 以前カタリナの件でも、精神的に不安定になり錯乱した。しかし今回は、それよりももっと根が深いように思えた。目の前にいる俺のことも見えてないようだった。

 

「アマルっ! 俺を見ろ! 俺を見るんだ!」

 

 暴れるアマルを何とか抱き寄せる。頬を挟み俺の顔に向き合わさせる。彼女はボロボロと大粒の涙を流しながら、嗚咽を漏らし続けている。アマルと、何度も名前を呼ぶ。

 少しして平常心を失い虚ろだった瞳に光が戻り、俺の存在を認ると安心したように抵抗を止めた。

 

「……ああ、アンディ様、ごめんなさいっ」

 

「謝らなくても良いよ。お前は悪いことなんてしてないだろ。手を払って悪かった。びっくりしただけなんだ。アマル、俺を許してくれるか?」

 

「は、はい! 許します! だから、だからっ! どこにも行かないで!」

 

「ああ、分かった。分かったから、ほら立って。寝巻きに埃が付いちゃったな。ああ、顔にも付いてるぞ」

 

 アマルを引っ張って立たせると、シュミーズに付いた埃を払ってやる。それから、頬や額に付いた汚れを優しく拭った。

 

 彼女は俺が手を払った理由も分からないようだったのに、自分が悪いのだ許してほしいと顔を床に擦り付けた。俺に拒絶されたのがショックで、悲しくて、それでも行かないでと泣いたのだ。たったひとつの糸を繋ぎ止めるために、戸惑いなく土下座をした。そうさせてしまった自身に、強い憤りを感じる。

 

 俺はいつだってそうだった。大切な人を思う気持ちが空回る。そう、あの時だってーーー

 

 

 ーーーノイズが走る。

 

 

 蠢く影。 

 あの場所。

 俺を、呼ぶ声。

 

(違う。俺は、あの時とは違う。止めろ。止めてくれ。俺は置いて行ったりしない。俺は、もう二度と……)

 

 深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。どくり、と騒がしく躍動する心臓に、くそったれ静かにしろっ、と心の中で毒づいた。

 

「置いていかないよ」

 

「はいっ、っはい、アンディ様」

 

 喘ぐような頼りない声。アマルは俺の背中に手を回し、身体を寄せる。離さない、離れない。そんな気持ちが伝わってきた。

 

 俺の行動ひとつで、ジェンガのように崩れ落ちる。アマルはそれほど俺に依存している。彼女は俺との繋がりを命綱に、毎日を過ごしていたのだろうか。

 

 ……そこに、アマルの心の闇を垣間見た気がした。

 

 

 

 



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異教の烙印

いつも誤字脱字の訂正ありがとうございます!


 

 

 

 曇天の空。

 昼間でも薄暗く、重苦しい雰囲気である。修道院の中の明るさは、夜とそう変わらない。光を求めて、沈黙の回廊に足を運ぶ。

 

 回廊の円柱に、身体を預け座り込む。そして、空を見上げ、灰色の分厚い雲を恨めしく眺めた。暫くそうして、気持ちを落ち着かせたところで、おもむろに脇に抱えていた蝋板を取り出す。よしっ、と頬を叩いて気合いを入れてから、鉄筆を握った。

 

 ここに来たのも、蝋板に文字を書くための明かりを求めてのことだった。それに何かを考えるときは、この世の沈黙の回廊が環境的に一番良い。

 

『誓約とは秘密を隠すためのもの。いいですか、この修道院の成り立ちを調べることです。決して他の修道院の者に知られないように、内密にことを運びなさい』

 

 ヨハンナの言葉を思い出す。

 彼女は修道院の成り立ちを調べろと言った。最初は図書室に行って調べてみようと考えていたが、図書室に立ち入れる時間はミサで他の修道士たちがいない時間のみ。限られた時間を有効に使わないといけない。

 

 先に自身の考えをまとめておいた方が都合が良いだろう、という帰結に至ったのだ。

 

 とりあえず今まで感じたこと、見聞きした断片的な情報、それをひとつひとつ書き出していくことからはじめることにする。多くの情報の中から必要なものを取り出し整理する。また、その情報を統合し、着想を得るのだ。

 

(……本当は付箋とボードや大きな模造紙あれば一番良いんだが、そう贅沢は言ってられないな)

 

 蝋板の右側に単語を書き込む。これに関しては、質より量だ。多ければ多いほど良い。

 

 異教。ストーンサークル。這いよる何か。誓約。秘密。焼かれた村。修道院。王の崩御。アマルティア。忌み子。呼ばれない名前。教会と王権。異端審問。魔女狩り。沈黙。異界。異端と正統。信仰。盲信。神。迫害。征服と侵略。白痴で野蛮。戒律。外部から閉ざされた場所。王の庇護。カエサルのものはカエサルに。神のものは神に。土着の信仰。

 

(……うん、こんなもんか)

 

 文字の羅列をなぞって、満足げに頷く。

 

 次の段階に移る。関係がありそうなものや言葉が近いものを重ねる。グルーピングをするのだ。俺は左の板に整理して書き連ねて行く。

 

 まずは、異教から始めるか。

 

「……ストーンサークル。這いよる何か。異界。異端と正統性。異端審問。魔女狩り。迫害。焼かれた村。土着の信仰」

 

 ぐるっと、線で囲う。なんと言うか、禍々しい言葉が見事に集まったな。思わず苦笑する。

 

「次は、修道院についてだな。……戒律。誓約。信仰。盲信。神。外部から閉ざされた場所。秘密。征服と侵略。沈黙。神のものは神に」

 

 読み上げた文字をまた線で囲う。両極端なワードもあるが、今は取り敢えずそれで良いだろう。

 

「えっと、それから王に関わること、か。……王の庇護。王権と教会。王の崩御。カエサルのものはカエサルに」

    

 王について、俺が知っていることはほとんどない。いや、王の名前自体は何回か耳にしているはずなのだが、不思議と頭に残らないのだ。暗記は得意だったのに、これが年というものか。普通にヘコむ。

 

(いやいや、ヘコんでる場合じゃないだろっ!)

 

 息を深く吸って、気持ちを切り替える。鉄筆を握り直して、グループを丸で囲う。

 

 さて、最後に残ったのはアマルについてだ。

 

「忌み子。呼ばれない名前」

 

 そこまで、書いてひと息つく。眉間を揉みほぐしてから、蝋板をじっくりと見た。

 

 ーーー異教。

 

 俺には歴史の授業で習った程度の知識しかないので、学術的なことは分からない。ここでは、とりあえずキリスト教以外の信仰を指すという理解で話を進める。

 

 まず同じ排他的という点ににおいては、ユダヤ教を思い浮かべる。しかし、ユダヤ教があくまでも自民族の救いを目的としている点に置いては、特定の民族等に関わらず万人の救いを与えることを目的としているキリスト教とは対照的である。

 

 逆に、キリスト教信者たちは、万人に救いを与えることができる唯一正当な教えであるキリスト教を全ての人間は信仰すべきだと考えていた。彼らにとって、それ以外の宗教は邪悪であった。故に、その信仰は正され、改宗することを望んだ。それが唯一の救いだと言うように。

 

 布教活動に始まり、従わない異教徒、あるいは反論する人々に対しては、時に恐るべき「死」が与えられた。まさしく排他的で不寛容、そう表現されるべき宗教であったのだ。

 

 それを前提として考える。

 元々このストーンハーストには村があり、その村が異教、おそらくは土着の宗教を信仰していてたことは、フランチェスコが言っていた話だ。

 

 それが悲劇の始まりとなった。正しき宗教と相反すると一方的にそう思われていた邪悪な異教を、排他的宗教観を持つキリスト教は許さなかった。

 

 ーー―故に迫害し、焼き討ちして、恐るべき死を与えた。

 

 その跡地に、()()()このストーンハースト修道院は建てられることになる。殺戮し蹂躙した異教徒の魂を慰めるためではなく、見せしめにするためでもなく、何らかの理由がそこにあったのでは?

 

 異教のシンボルであるストーンサークルを破壊しなかったこともその何かに繋がっていた……と、考えるのは乱暴だろうか。

 

 俺はそこまで思考して、あの這いよる何かを頭に浮かべた。やはりあれは、村の人々が信仰していた異教に関わる存在であったと、考えることが自然のように思う。もちろん、そうでない可能性も十分あるが。

 

 あれは俺の幻覚なのか。

 異教とは関係ない別の存在なのか。

 それとも、信仰する人々を失い、土地まで奪われた「まつろわぬ神」なのだろうか。

 

 

 



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矢印の先に

いつも誤字脱字の訂正ありがとうございます!


 

 

 

 異教について自身の力量では、これ以上話を広げられないため次のグループ、修道院に移るか。

 

 修道院。

 神への信仰、祈り、働き、清貧、貞潔、そして戒律を中心に生活が営われる場所。その戒律とは別に、誓約がこのストーンハースト修道院には存在する。

 

 そのとき、ふと頭を掠めたのは、以前夜に書庫でのベネディクト修道司祭とサルスの会話を盗み聞きした内容だ。

 

『……我々には誓約がある。それを破ることはできまい』

 

『その誓約なぞ、いかほどのものか!』

 

 恐らく、我々……つまりは修道院に住む修道士たちは、皆誓約を守って生活している。それはキリスト教に関わるものではなく、おそらく全く別のものなのだろう。

 

 そうでなければ、キリスト教戒律主義者であるサルスが誓約を軽んじ、破るべきだとベネディクトに進言するはずがない。

 

 そもそも、である。

 キリスト教に関わるものでないなら、何故ストーンハースト修道院はその誓約を守らなければならなかったのか。排他的で不寛容なキリスト教は、その以外を認めない。

 

 異端には、侵略と征服をもって鉄槌を下してきた。そのことを彼らも十分理解していたはずである。

 

 俺は右側の蝋を鉄筆の腹で削り、新たに文字を書き込んでいく。

 

 誓約は、守るべきもの。

 誓約は、破るべきもの。

 誓約は、キリスト教の戒律とは無関係。

 誓約は、秘密を守るためのもの。

 

 頭を捻る。

 分からん。

 修道院は何を隠しているんだ。

 秘密とはなんだ。

 考えれば考えるほど、頭がこんがらがっていく。

 この外部から閉ざされた場所で、いったい何が起こっているんだ。

 

(うーん。外部から、閉ざされた場所か……)

 

 修道院は、世俗から隔離された場所である。広い敷地を石壁で囲い境界を作っている。認められた者しか入れぬ、そんな小さな世界で俺たちは生きている。

 

 そういや、アマルが以前、この修道院を牢獄のようなと表現したことがあった。牢獄とは、修道院と同じように世俗から離れた場所であるが、本来はその中の者を出さないためのものだ。

 

「外に出さないための、牢獄……外に出さないための修道院」

 

 そして、牢獄には罪人が必要だ。その、罪人こそベネディクト修道司祭が恐れていたもの? 誓約によって守られている秘密の源なのか。

 

(……まぁ、これに関しては、さすがに突拍子が無さすぎるな)

 

 さて、気を取り直して、王に関わることについて考えていこう。

 これに関しては、カタリナが王が崩御され、王政と教会のパワーバランスが偏ってしまうことを話してくれた。それと、サルスは王についてこうも言っていた。

 

『誓約などいかほどのものか! 王が崩御された今、何の効力もないでしょう』

 

『王の庇護を失った今でないとなし得ないことだ。カエサルのものはカエサルに、神のものは神に。我々は、ただそう動けばよいのです』

 

 これから分かるのは、王と誓約は深く関わりがあること。そして、この修道院には王からなんらかの庇護を受けていた者あるいは物がいると言うことだ。そして、王が亡くなりその庇護を受けれなくなった。

 

 俺は蝋板に王と誓約を書いて、相互に矢印を足した。そして、王の下に、アマルの名前を綴る。そのアマルを囲うように大きな円を書いて、修道院と書いた。その丸の外側にそって、丸を書き、異界と書き込む。

 

 最後に、アマルティア。

 決して、名前を呼ばれない少女。それほどまで存在を認知されない存在が、修道院から追い出されない理由。

 

 そこに王の庇護があったから、と仮定するなら、彼女と王の関係は? 

 

 何故、王はアマルを庇護する必要があるのだろうか。庇護と言うなら、もっと丁寧にアマルを扱うべきだ。閉じ込めて、人と関わらせない理由はない。

 

 アマルが自分自身を忌み人と称した訳を密かに俺は彼女がアルビノだからだ思っていた。彼女がアルビノではないかということは、初めて会ったときからずっと思っていた。フードを常に被っているのは、日光を避けるためなのだ、と。そして、そのアルビノ故に、迫害を受け修道院の奥に隔離されていたのではないか。  

 

 それはあり得る話しだ。だが、おそらくそれだけでもないだろう。

 

 異教、修道院、王、そしてアマル。

 ひとつひとつ独立したものではなく、全ては繋がり相互に関係し合っている。その背景には修道院の過去があると、ヨハンナは言いたかったのだろうか。

 

 考えは整理できたものの、結局確信には至らない。ぼんやりと思考が淀む。頭が働かない。疲れているのだろうか。溜め息をひとつ吐く。

 

 俺は再び空を見上げた。

 

 灰色の分厚い雲が依然として、空を覆っている。それは、まるで俺の心内を表しているようだった。

 

 

 



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最後の欠片を君へ

いつも誤字脱字の訂正ありがとうございます!


 

 

 

 種を植えれば、芽吹きを迎え。

 

 いつしか大きく、大きくなって。

 

 きっと花も咲くだろう。

 

 それを私は待っている。

 

 ここで、ずっと待っている。

 

 

 

 ***

 

 

 気付けばかなりの時間、ここで考えていた。

 立ち上がり、首を回すと骨が鳴る。

 

(考えすぎて疲れたし、一旦部屋に戻るか……)

 

 蝋板を閉じて、紐で結ぶ。それを脇に抱えて廊下を歩く。石床を踏み鳴らす軽快な音が、静寂を打ち破る。自身の足音を聞きながら、足を進めた。

 

 部屋の扉を開けて中に入り、蝋板を机の引き出しにしまう。部屋は殺風景で机とタンス、ベッドぐらいしか家具がない。壁は石壁で底冷えするし、ベッドはリネンのシーツをひいて、毛織りの掛け布団が1枚あるだけだ。夜はまだ少し寒いので、正直アマルが一緒に寝るようになって助かっている。

 

 俺はベッドに腰かけ靴を脱ぐと、そのまま横たわった。身体の力を抜いて、大きく息を吐く。

 日頃使わない頭を使ったので、運動するよりも強い疲労を感じる。暫くすると、うとうとと、眠気が襲ってくる。

 

 俺はそれに抵抗せず、そっと目を閉じた。

 

 

 ***

 

 

 ぎしり、とベッドが軋む音に起こされる。

 

 目を開くと、アマルがベッドに座って俺の顔を覗き込んでいた。その動きに合わせて、長い銀髪が俺の頬を擽った。髪から花のような甘い香り、アマルの匂いがする。

 

「……ふぁ、なんだアマル、来ていたのか。早く起こしてくれれば良かったのに」

 

「アンディ様が気持ち良さそうに眠っていらっしゃいましたので、こうして寝顔を拝見していました」

 

「……あのな。男の寝顔なんて見ても面白くないだろ」 

 

「いいえ、アンディ様。お慕いしている殿方のご尊顔ですもの。私、このままずっと見ていたいです」

 

「あー、そうか。そりゃよかった。もう、好きにしてくれ」

 

「ふふっ、ありがとうございます」

 

 俺は身体を起き起こして、ぽりぽりと頭を掻いた。あまりにも堂々と惚気を吐くアマルに、こちらが恥ずかしくなってくる。そのことを苦笑して誤魔化すと、アマルは顔を赤く染め潤んだ瞳でこちらを見詰める。

 

 それから彼女は俺に手を伸ばし、途中で固まる。手が、身体が小刻みに震えている。数秒置いて手をそっと降し、アマルは顔を伏せた。

 

 いつもなら、すぐに腕を組んで引っ付いてくるか、抱きついてくるのに……。

 

(……もしかして、俺があのとき手を払ってしまったから。また払われるんじゃないかって、思ってるのか?)

 

 申し訳ない気持ちになる。あの時、俺も過敏になっていたんだ。時間を戻せるようなら戻したい。

 

(いつも俺はアマルに頼ってばっかりで、与えることはほとんどなかった。きっと不安にさせていたんだろうな)

 

 今思えば、何か行動に移すのはいつだってアマルであった。俺はそれをただ享受するだけ。食事も掃除も、身の回りの様々なことを全てやってもらっている。27歳にもなって、何をするのも一回り年下の女の子に任せっきりだった。

 

 ーーー向けられる一途な好意に、何も返せていない癖に。

 

 俺はアマルに微笑みかけて、手を繋ぐ。それからその手を引っ張って、自分の胸に引き寄せた。左手で優しく、ぎゅっと抱き締める。

 

「もう、お前の手を払ったりしないよ。だから、そんな顔しないでくれ」

 

「あ、んでぃさま……アンディ様っ!!!」

 

 俺が彼女の名前を呼ぶと、アマルは大粒の涙を流した。それから、俺の手をギュッと握りしめて嗚咽混じりに声を絞り出す。

 

「私……わたくし! 見捨てられたと思った。アンディ様に嫌われたって、頭が真っ白になって。……辛くて、寂しかった。寂しかったの! あんでぃさま、アンディ様、アンディ様っ! ふっ、ぐ、うえええっ」 

 

「……辛い思いさせちまってごめんな。寂しい思いもさせてごめん。ごめんな、アマル。今日はうんと甘えてくれ。うんと甘やかしてやるから。だから、泣かないくれ。俺はお前にはずっと笑っていて欲しいんだ」

 

「っ、あんでぃ、さまぁ。側に居てください。アマルの、アマルの側にずっと、ずっと。置いていかないで、私をひとりにしないでくださいっ!」 

 

「よしよし、ひとりになんかしない。俺はここにいるよ。アマルの側にいる」

 

 すがり付いてくる少女の背中を撫でる。泣きながらアマルは、俺の名前を何度もいじらしく呼んだ。

 

 アマルの背中を優しく撫でながら、彼女には俺がいないと駄目なんだと改めて思った。それは前から感じてはいたことだが、今回のことで身に染みた。思い出すのは、彼女が俺に見せた強い執着、独占欲、依存心だ。

 

 置いていくなら、殺して欲しいと言ったアマル。

 

 嫌いになっても、それを言わず夢を見させ続けて欲しいと懇願したアマル。

 

 俺をヨハンナに取られてしまうと怒り、嫉妬で狂ったアマル。

 

 俺に嫌われたと思い、許しを得るために土下座までしたアマル。

 

 俺は、瞳を閉じた。

 

 「……暖かい」と、宝物に触れるように俺の手を握ったアマル。

 

 青い小さな花を受け取って、無邪気に笑ったアマル。

 

 その姿が脳裏に清明に浮かんでくる。 

 俺が現代の日本に帰れたとして、アマルはその後どうなるなんて、考えなくても分かる。だからこそ、この少女をひとりになんてできない。

 

 答えなんて、とっくに出ていた。なかったのは、ここでアマルと生きていく俺の覚悟だけ。俺は手の中にある、目に見えないその欠片を胸に押し込む。

 

 

 ――ーカチリ、と最後のひと欠片がはめ込まれる音がした。

 

 

 



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幸福の讃歌

いつも誤字脱字の訂正ありがとうございます!



 

 

 喉がカラカラに乾いている。息を吸って、気持ちを落ち着かせてから、拳を握ってアマルを見据えた。

 

「アマル」

 

「……はい、アンディ様」

 

 名前を呼ぶと、赤く充血した目がこちらを向いた。少女は忠犬のように、じっと俺の言葉を待っている。

 

「アマル、もう泣くな」

 

 深紅の瞳、透き通った肌、桃色の唇。

 

 どの角度から見ても、綺麗なアマル。数年したら、絶世の美女になることが約束された完璧な美貌。こんな女の子が俺を慕ってくれていること自体、もはや奇跡ではないだろうか。

 

 アマルの目元の涙を指で優しく拭う。俺は彼女の頬を優しく撫で、微笑んだ。

 

 ちゃんと言おう。

 ちゃんと言葉にしよう。

 

 救われていたのは、俺の方なんだって。

 ここに来て、多くの人が俺を異邦人とハレ物のように扱った。でも、アマルはそんな俺になついてくれて、いつも一緒に居てくれた。それがどんなにありがたかったか。きっとアマルは知らないだろう。

 

 アマルに笑顔を向けられ、腕を組んで、抱きつかれるたび俺の気持ちは彼女に傾いていった。

 アマルを甘やかしてやりたい。慰めてやりたい。守ってやりたい。そして……愛してやりたい。

 

 そもそもこんなにも一途に、俺なんかを慕ってくれる女の子を好きにならない訳がない。とっくの昔に、一人の女として、彼女を見ていた癖に、心の中ではうだうだと覚悟ができていないでいた。日本に帰りたいから、アマルが一回り年下でまだ子どもだからと、ずっと誤魔化していた。そして、何よりアマルを守ろうとしていることが、俺がついぞ守れなかった彼女に対しての代償行為である、と後ろめたさを感じていたからだ。

 

 しかし、今回のこともあって、やっと腹が決まった。

 とても遅くなったけど。待たして、散々泣かしてしまったけど、今こそお前へ。

 

「……アマル」

 

「……はい」

 

 もう一度名前を呼んで、静かに顔を近づける。

 アマルは息を呑んだ。

 

「一度しか言わないからよく聞けよ。アマル……俺はお前のことが好きだ。だから、ずっと一緒に居よう」

 

 その言葉を聞いて、目を見開く少女の唇に、俺はそっと口付けを落とした。

 

 

 ぽろり、と鮮紅の瞳から最後の涙が流れ落ちた。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

『……俺はお前のことが好きだ』

 

 と、告白した後、アマルはフリーズしてから、ふらりと気を失った。いや、冗談じゃなく本当に。

 

 とりあえず、ベッドに寝かす。こいつ、散々煽って、迫って来るくせに、受け入れてもらうことを諦めていた節があったみたいだし。まあ、それに関しては、煮えたぎらなかった俺にそもそも原因があるんだが。どちらにせよ、脳内の情報処理が追い付かなかったのだろう。

 

 寝顔を見る。

 幸せそうに、微笑んでいる。

 

(……睫毛長いな。見れば見るほど、ほんと美人)

 

 無邪気に寝る姿を見て、暖かい気分になった。

 ぷにぷにと、頬を人差し指でつついてみる。

 眉を潜めてむずかるように、口をもごもごとさせた。

 

(あー、駄目だくそ可愛い)

 

 顔を押さえて、その可愛さに耐える。何度か大きく息を吸って、気を取り直す。それからアマルを見やって、微笑んだ。

 

 俺も一緒に寝ちゃうか。

 上着を脱いで、ズボンを着替える。脱いだ服は椅子に立て掛けておく。俺は音をたてないように、ベッドに上がってアマルの隣に寝転がった。かけ布団を引っ張って、風邪を引かないよう肩までかけ俺もその中に一緒に入る。

 

 それから、瞳を閉じてアマルの体温を感じながら、ゆっくりと眠りについた。

 

 

「アンディ、様」

 

「ん、あふ、ふぁあ……あまるか?」

 

 呼び掛けに、目が覚める。辺りは真っ暗で、どうやらもう夜らしい。かなりの時間眠ってしまっていたようだ。

 

「はい、アマルです。アンディ様、おはようございます」

 

 優しく髪を撫でられる。アマルは上半身を起き上がらせ、俺の上に覆い被さっているようだった。  

 

「アンディ様、私とても幸せな夢を見ました」

 

「ふぁあ……どんな夢なんだ?」

 

 欠伸をして、聞き返す。

 アマルはそのまま俺の胸に身体預けると、首元に顔を埋めた。すんすん、と匂いを嗅いで頬を擦りつける。

 

「アンディ様が……その、私を……す、すき……ううっ」

 

 頭を撫でて、モゴモゴと言い淀むアマルの耳元で囁く。

 

「……それ、夢じゃないから」 

 

「――――――っ!?」

 

 アマルの息を呑んだ音が聞こえた。

 

「……嘘です。こんな幸せなこと、夢でないとおかしいもの」

 

「はぁ、アマル顔を上げろ」

 

 おずおずと、アマルは首元から顔を上げた。俺はアマルの頭を撫でて、輪郭を探る。頭、頬の順で擦って、顎で手を止めた。そして、そのままクイっと顔をこちらに向けさせる。

 

 少し強引に、唇を重ねる。

 アマルは驚いたように肩を震わせた。

 

「んっ、アン、ディさまぁっ、ちゅっ、んん」

 

 彼女は戸惑いながらも、嫌がるどころか俺の首に手を回し、強く抱き付いてくる。矢継ぎ早に、唇を合わせる。角度を変え、吸い付く。唇を噛み、舐めて、擦り合わせる。アマルの唇は柔らかく、何より甘い。ずっとこうしてられる。

 

 何度もキスを繰り返していたが、アマルが息ができず苦しそうに吐息を漏らすのを感じて、っぷはぁ、と一度唇を離した。それから耳元で掠れ気味に「夢じゃないって、分かったか?」と囁く。

 

「ん、ふぁ……ん、はい……アンディ様、私嬉しくて。どうにかなってしまいそう。ああ、ああ。とても幸せです。口付けとは、こんなにも満たされるものだったのですね」

 

 アマルはうっとりとした声で答えた。俺は、笑ってアマルを抱き締める。

 

「アマル、これからもずっと一緒だ」

 

「はい、アンディ様っ。ずっと、ずっと一緒です」

 

 暗闇の中で嬉しくて嬉しくて仕方がないというような、弾んだ声が聞こえる。

 

「もう二度と置いていかないで下さい。あの時のように、貴方様を見送るのは嫌なのです。……ねぇ、アンディ様。私はもう独りでは、生きていけません。貴方様だけが私の縁なのです。アンディ様が側で笑って下さるなら、私はそれだけで幸せ」

 

 アマルは俺の頬を細く柔らかい両手で掴んだ。少しして、鼻先にしっとりとした唇の感触が伝わった。

 ふにゃりと恥ずかしそうに微笑んだアマルの顔が目に浮かぶ。 

 

「……ああっ、アンディ様、私の愛しいお方。私の主。私の光。この先何が起きようとも、永遠の愛を誓って、貴方様に従い、貴方様を守ります」

 

 俺の胸に頬を寄せて、アマルは祈るように呟いた。

 

 

 

 




舞台が現代ならヒロインの年齢的にアウトだけど、ファンタジーや中世が舞台なら赦される気がする。……赦されたい。


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這いずる音

 

 

 

 

 ―――ズルズル。

 

 闇から、這いずる音が聞こえる。

 冒涜的で穢らわしい獣。

 恐ろしくも憐れな空身よ。

 濁った血に呪われるがいい。

 堕ちた赤子の声を聞くがいい。

 殺戮の報いを受けるがいい。

 

 ずっと、ずっと終わりなく。

 

 その罪を贖うその日まで、覚めぬ悪夢を見るがよい。

 

 

 

 ***

 

 

 目が覚めた。

 恐ろしい夢を見ていた。恐ろしい夢を見ていたことは理解しているが、内容は何故か思い出せない。

 

 冷や汗が頬を伝う。胸が痛いくらい鼓動していた。思わず胸を押さえる。静まれ。騒ぐな。深呼吸して、気持ちを落ち着かせる。心が平静を取り戻すと、感覚を取り戻すことができた。

 

「……っはぁ、悪夢を見ていたことは覚えているのに、その中身は空っぽだ。そういうのが一番、モヤモヤする。……って」

 

 左肩に程よい重さを感じる。身動ぐとそれに合わせて、鼻にかかった可愛らしい声が漏れた。

 

「……アマル」

 

「ふにゅ、えへへ」

 

 緩みきった寝顔だった。良い夢を見ているのだろうか。是非ともあやかりたいものである。

 そっと、アマルの髪に顔を埋める。安心する匂い。

 

(……似ている)

 

 ああ、とても懐かしい匂いだ。全く違う人間なのに、アマルはアイツと雰囲気が似ている。

 

 目を閉じ、意識して息を吸う。

 そして、何故だろう、と思った。こんなにも胸が切なくなるのは、何故だろう。そう疑問を投じてはみたが、別段その答えなんて持ち合わせてないし、求めてもいなかった。 

 

 そもそも、自分が今どんな感情を抱いているのさえ、水溶性の絵の具みたいにあやふやだ。嬉しいのか。悲しいのか。苦しいのか。俺は他人以上に自分のことが分からない。ツンっと、鼻の奥が傷んだ。

 

「んっ、あんでぃ……さま?」

 

「……ああ、悪い。起こしちゃったな」 

 

「ふふっ、良いのですよ。アンディ様、おはようございます」

 

「おう、おはよう」

 

 俺は頭をひと撫でしてから起き上がり、ベッドを降りて手探りで燭台に明かりを灯す。室内が蝋燭の暖かい光で包まれた。

 

 後ろを振り返るとアマルは身を起こして、髪を手櫛で整えていた。とはいっても、艶やかな腰まである髪に、寝癖がついているところなんて、今まで一度だって見たことがない。俺の視線に気がついたのか、恥ずかしげに目を伏せ、頬に朱を差した。それがひどく可愛らしかった。

 

 俺が着替えようとするのを見ると、アマルはベッドから降りて足早に駆け寄ってくる。そしてタンスから服を取り出し、そっと差し出てくれた。

 

 礼を言って、上着を着る。更にズボンを履き替えると、アマルは甲斐甲斐しく脱いだズボンを回収し、それを畳んでから机の上に置いた。

 

「悪いな、アマル」

 

「いいえ。アンディ様のお世話をすることが、何より私の喜びなのです」

 

 胸に寄り添い、上目遣い。いじらしく、潤んだ瞳。控えめに服を引っ張られる。その静かな主張に思わず苦笑して、身を屈ませアマルの瑞々しい唇に合わせるだけのキスをした。

 

 

 

 ***

 

 

 

 ミサの時間を狙って、書庫に入る。

 

 埃とカビの臭いが漂う。それを大きく肺に吸い込んで、思わず咳込んでしまった。咳が落ち着いてから、気を取り直し俺は本の背表紙をひとつひとつ確認していく。

 

 修道院の歴史が分かる類の書籍。

 

「んー、ないなぁ」

 

 書庫内の本棚を何周かしてみたが、それらしき本は見当たらない。上の棚も調べたが何もない。無駄足だったか。困ったな。八方塞がりだ。こめかみを揉んで、小さくため息を吐いた。あてが外れて、がっくりとする。

 

 そういや以前異教のことを調べたときも、今回のように何も出てこなかった。そう古びた羊皮紙ぐらいで……あれ、羊皮紙? 

 

 そう言えば、途切れ途切れの書きなぐりの羊皮紙に、誓約という言葉がはいっていなかったか?

 

 俺は記憶の糸を手繰り寄せる。

 

 何かの戒律と思って、そのとき気にしていなかったのがだが、あれこそ秘密を守るための誓約なのではないだろうか。

 

(あの後、俺は羊皮紙をどうしてんだっけ……)

 

 確かミサの終わりを告げる聖堂の扉が開く音が聞こえて、羊皮紙を元の場所に戻すことももどかしく、そのまま服のポケットに突っ込んだ。それから、それから……。

 

 思い出せない。

 とりあえず、部屋に戻ろう。

 書庫に戻した記憶がないということは、部屋にまだあるということだ。まだ希望はある。

 

 はやる気持ちを押さえ、書庫を出る。澄まし顔で廊下を歩く。頭の中はあの羊皮紙で一杯だ。だって、羊皮紙が見つかれば、真実に一歩近づく……かもしれない。もちろん、無関係の可能性もあるが。

 

 くそ、駄目だ。考えが纏まらない。俺はこんなにもできない男だったのか。思考が濃霧にのまれたようだ。方向性を失った人は、足を容易に踏み外す。慎重にならないと、そう自分に言い聞かせる。大丈夫。濃霧はいつか必ず晴れるものだ。

 

 俺は回廊を進む。そして、廊下を曲がろうとしたところで嫌な奴と出会った。

 

「……ふんっ、朝から嫌な顔を見たものだ」 

 

「それはこちらの台詞だ」

 

 出会い頭に、嫌味を言うサルスにいらっとしながら、憮然として答える。性格が悪いくせに、イケメンだから余計腹が立つ。ハゲてしまえ。

 

「そう言ってられるのも今のうちだぞ、この異教徒め」

 

「異教徒って、サルス……いや、めんどくさいな。はぁ、言いたいことがそれだけなら、俺はもう行くぞ」

 

「……あの女も終わりだ。穢れた獣。異教の胎児。それに魅入られた貴様も同じこと。それが運のつきだったな」

 

「サルス、お前何を言ってるんだ……」

 

「もうすぐだ。もうすぐ。貴様らに神の鉄槌が下されるだろう。それまで泡沫の夢を見るがいい。―――それが悪夢に変わるまで」

 

「…………っ、お前」 

 

「くは、ふはは」

 

 淀んだ目で、サルスは俺を眺めて嗤った。

 茫然と固まる俺を置いて、高笑いしながら回廊を後にした。それがひどく腹立たしかった。

 

 

 

 



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守りの言葉

いつも誤字脱字の訂正ありがとうございます!


 

 

 

 ―――この世界は冷たく、残酷だ。

 

 死が身近にあり、常に生きることと隣り合わせだった。医療も衛生の概念も俺が生きていた世界とは比べ物にならないくらい低い。ほんの少しの切っ掛けで容易く命は散っていく。

 

 だからこそ、皆一様に救いを求める。

 

 自身が生きているこの冷たく残酷な世界でも、死後天国という暖かくなにも不自由ない場所に行けるのだと。

 

 宗教は常に社会背景と連動している。それに求められることは、その場所、時代、社会によって様々で変化するものなのである。

 

 昔、この地で信仰されていた土着の宗教は、どういう背景があったのだろうか。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

「まぁ、アンディ様。どうなさったのですか?」

 

 肩を怒らせて部屋に入ると、アマルは驚いて目を丸くした。俺は無言で彼女の隣に腰かける。アマルは困ったように眉を下げて、俺の様子を伺っている。

 

「アンディ様、私はアンディ様のためなら、何でも致します。だから、そのようなお辛い顔をなさらないでください。アマルは胸が張り裂けそうです」

 

「張り裂けそうって……大袈裟すぎないか? でも、ありがとう。お前は本当に優しいな」

 

 俺はアマルに手を伸ばして、華奢な肩を抱く。ぐっと身体を寄せて、その小ささを実感する。アマルは俺より頭1個分以上低い。並んで立つとまさに子どもと大人といった風になる。

 

 ……まさに、というか現代の尺度で考えるなら、実際大人と子どもだ。まぁ、ここは中世ヨーロッパ的な世界観だから、セーフだろう。セーフ、だといいなぁ。俺は自分自身に愛想がつきそうになった。

 

「アンディ様」

 

 アマルは俺の胸に顔を埋める。柔らかい。改めてアマルの身体に視線を向ける。

 安産型のお尻に、細い腰、大きく盛り上がった胸部。14歳にしてはかなり良いスタイルで、正直むらむらとしていけない気持ちになる。俺はアマルの太股を撫で擦る。張があり、むっちりした素晴らしい感触。……うん、完全にセクハラだな。

 

「んっ、あ、アンディ様……?」

 

「おう、お前の太股は柔らかいな。というか全身柔らかい。癒されるわ」

 

「ふふっ、それはようございました。アマルはアンディ様の(もの)です。だから、どうか私を好きにお使いくださいませ。心と身体、私の全てを貴方様に捧げます」

 

「……っ」

 

 穏やかに微笑むアマルに、俺は急に照れ臭くなった。頭を掻いて明後日の方向に顔を向ける。少女は俺の様子をきょとんとした目で見てくる。

 

(どうしよう。俺の彼女、くそ可愛いんだけど……)

 

 アマルは、俺のみに無邪気に無遠慮に好意を伝えてくる。簡単に言うと、常に好き好き大好きオーラが全開なのである。それがとても嬉しく、可愛らしい。

 

 俺に執着し、独占欲を持って依存しているアマルの様子を何度も見てきた。そして更に彼女の修道院の立場を知るごとに、アマルを決してひとりにできないと痛感した。アマルには、俺が必要なんだっと思った。それに何より今の俺にも彼女が必要だった。

 

 アマルを受け入れてから、自身の中で何かが吹っ切れた。彼女の身体を触ることも、キスすることにさえ罪悪感を感じず忌諱することは無くなった。そんな俺にはもはや怖いものなどない。

 

「アマルはほんと可愛いな。俺にはもったいない」

 

「……ふふっ、アンディ様ったら」

 

 アマルは顔を上げると、お上品に口元に手を当て笑った。そして、俺の腕に頭を預け、うっとりとした表情を浮かべる。

 

「アンディ様、私とても幸せです。このまま時が止まればいいのに」

 

「大げさだな。時が止まれば、こんなこともできないぞ」

 

 アマルの顎に手を添えて、顔を上に向かせる。そうするだけで、彼女は頬を上気させて瞳を閉じた。堪らなくなって噛みつくように口付けを落とした。

 

「ん……っは、ちゅ、アンディ様、素敵です」

 

 夢中でキスし続けて、やっと唇を離す。くたりと、腰砕けた様子でアマルはしなだれかかってくる。細い腰に腕を回して、抱き締める。

 少しそのままの体勢で、アマルの息が整うのを待つ。少女は嬉しそうに何度も自身の唇を指でなぞっていた。悩ましげに、はぁと彼女はため息を着いてから、顔を上げた。

 

「そう言えば、アンディ様、先ほどはどうしなされたのですか?」

 

 アマルは鮮紅の瞳を心配そうに瞬かせた。

 

「いや……何でもないよ」

 

 俺はサルスの傲慢にこちらを見下す顔を思い出して、思わず口を尖らせる。でも、アマルに余計な心配をかけたくなかったので、それ以上は口をつぐむ。

 

 サルスの言葉がの脳裏に浮かぶ。

 

(ーーー悪夢が覚めるまで、か)

 

 サルスが言うように、俺は悪夢を見ているのだろうか。そうであるなら、何ともくそったれな話だ。ああ、全く救いようがない。

 

「アンディ様……」

 

 思わず遠い目をしながら虚空を見つめている俺に、アマルは小首を傾げ、不安そうな表情を浮かべている。

 

「ああ、いや、大丈夫。何でもないよ」

 

「――っ、そうですか。アンディ様がそうおっしゃるなら、そうなのでしょう」

 

 アマルは微笑んだ。しかし、目が笑っていなかった。俺の言葉に表面上同意しているが、内心は全く別なのだろう。アマルは勘が鋭い。特に俺のことに関しては、些細な変化にも気が付く。心を読んでいるのかと思う程だ。それでも、俺が正しいという姿勢を決して崩そうとはしない。どこか歪で、盲目的な在り方をしている。

 

「俺が言うのもなんだが、無理に同調しなくても良いんだぞ。俺が間違うこともあるだろう?」

 

「アンディ様がおっしゃることに、間違いがあるはずありません」

 

「……お前は俺の全肯定ウーマンか」

 

「はい、アマルはアンディ様の全てを肯定します」

 

「そうかぁ」

 

 そうです、とアマルは俺の頬を撫で微笑んだ。

 

「大丈夫です。アンディ様は何も心配することなどございません。アマルがお守り致します。……どんなモノからも絶対に」

 

 その言葉に気圧され、俺は思わず頷く。

 

 

 

 

「ふふっ……あの男、相変わらず余計なことしかしないのだな。私の愛しきアンディ様を惑わすなど。ああ、全く心底不快だ」

 

 アマルの聞こえるはずのないほど小さな呟きが、何故か耳に入り消えた。

 

 

 



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秘密と羊皮紙

いつも誤字脱字の訂正ありがとうございます!


 

 

 

 修道士たちの祈祷は、朝課・讃課・一時課・三時課・晩課・終時課と1日6回に分けて行われる。修道院の時間割り……所謂、聖務日課に沿った時間帯に、修道士たちは祈りを捧げる。

 

 勿論、現代とは違い精密に時間が計れる訳ではないため、日没時間に差がある夏至や冬至によって時間のズレは出てしまっているだろう。

 

 俺はこの聖務日課に全て沿り、生活している訳ではない。特に朝課・讃課は、午前2時、3時頃に行われる祈祷だ。そんな時間、普通に寝てるわ。爆睡だわ。

 

 ……まあ、俺は元々キリスト教徒ではないので、他の修道士たちの付き合い上、必要に迫られない限り祈りは捧げない。そもそも、俺は祈るという行為があまり好きではないのだ。

 

 俺が聖務日課に則って動いているのは、農耕や放牧などの労働をする三時課と六時課ぐらいだろう。現代時間で言うと、午前9時から午後6時の間といったところか。

 

 ああ、それとアマルも朝課・讃課を行っていない。その理由は「朝課や讃課を致しますと、アンディ様の大切な眠りを妨げてしまいます。そのようなことは私にできるはずもありません」とのことらしい。

 それで良いのか修道女(シスター)。いや、良くないに決まっている。役目より恋人を優先しているのだから、破戒僧と言われても仕方ない。

 

 更にアマルは俺の前で祈らない。それはキリスト教を信仰していない俺を気遣ってのことなのか、もっと別の理由があるのかは分からないが、アマルは俺の部屋ではなく、必ず礼拝堂で祈祷を行う。

 

 つまり、この時間であれば、安全に羊皮紙を探すことができるという訳だ。

 

 アマルが挽課の礼拝に行った隙に、俺は部屋をあら探しすることにした。

 

 取り敢えず、目につくもの全てに探りをいれる。アマルの服のポケット、机、タンスの中、果てはベットの下まで見た。しかし、古ぼけた茶色い羊皮紙は一向に見つからない。頭をガリガリと掻く。

 

「あー、もう、見つからないな。くそ、マジで困った」

 

 考えられるところは全て探した。何故見つからない。間違いなく俺は、図書室から羊皮紙を持って帰ってきたはずなのだ。それなのに見つからない。まるで誰かに隠されたように。あるいは、故意に引き抜かれたように。

 

(もし、そうだとしたら……)

 

 あの羊皮紙を書庫から持ち帰ったことを知る人間は俺しかいない。書庫に入ったことすら、他の者は知らないはずだ。細心の注意を払っていたので、間違いないだろう。

 

 あの羊皮紙を誰かが引き抜いたと仮定しよう。そうなると、正直言って一番可能性が高いのは……アマルだ。

 彼女は俺の身の回りの世話を全てしてくれている。食事や掃除、洗濯など全てだ。その際に、偶然羊皮紙を見つけ、それを引き抜いた……そう考えるのが一番自然だ。

 

 俺は脳内で蝋板に書いた文章を反芻する。

 

 誓約は、守るべきもの。

 誓約は、破るべきもの。

 誓約は、キリスト教の戒律とは無関係。

 

 そして―――

 

(―――誓約は、秘密を守るもの)

 

 だというなら、アマルがその羊皮紙を引き抜いた理由はそこにあるのだろうか。

 ただ、今の時点で言える確実なことは、彼女が()()を俺に知られたくないということだ。

 

 アマルは驚くほど俺に従順だ。召し使いのように博き、ときには神と同列に語ることさえある。そんな彼女が、俺の持ち物を勝手に引き抜く。それは余程のことでないとあり得ない。そう断言できる。

 

 勿論、これらの考察はアマルが羊皮紙を抜き取った前提の話である。仮定の話であって、確定ではない。

 

 そんなにうだうだ悩むなら、アマルに直接聞けばいいだろう。……と、自分でも思うが、どうしてもそれができないでいた。

 

 それはヨハンナが俺に言った「決して他の修道院の者に知られぬようにことを運べ」という言葉があったからだ。その中には、当然アマルも入っている。

 アマルを信用していない訳ではない。ただ俺は真実を知りたかった。これからアマルと共に生きるために。これから彼女を守るために。

 

(羊皮紙について、他に思い出せるのは……)

 

 俺は羊皮紙の内容を脳裏に思い浮かべる。詳細はやはり思い出せない。なんせ流し読みをしただけなのだ。ただ、何一つ頭の中に残るものがない訳ではないだろう。

 

 俺は椅子に腰かけ、深く考える。瞳を瞑って、炙り出すようにゆっくりとイメージする。羊皮紙の質感、状態、文字の特徴そしてその内容。

 

(そう言えば、どれも……してはいけない、という文末ではなかっただろうか?)

 

 そうだ。文末は全てそのような終わり方をしていた。だからこそ、何かの戒律ではないか、と俺は羊皮紙を見た時に思ったのだ。改めて考えるとこれは禁忌、所謂タブーというものではないだろうか。

 

 タブーとは、忌避されるべき行動を抑制するためのものだ。そこには科学的に立証できるものは、ほとんどと言っていいほどない。

 この場所でタブーを侵犯すると、どのようなことが起こると考えられているのか。それが一番重要なファクターだ。修道院創立の根拠や秘密とタブーの遵守の関係を突き止めることができるはずだ……おそらく、だが。

 

 ファクターを調べるためには、誓約を解き明かさないといけない。であるならば、必ずあの羊皮紙は必要だ。アマルがそれを引き抜いたとするであるなら、どこに隠しているのか。一番可能性が高い場所は、彼女の部屋だろう。

 

 アマルの部屋は、この修道院の一番奥。礼拝堂のすぐ側にある。彼女は今礼拝に行っているので、気付かれず部屋に入ることは難しい。それ以外の時間、アマルは基本俺と一緒に居たがる。

 

(そうなると、夜中にこっそり起きて抜け出すしかないな)

 

 それが確実な方法であろう。方針が決まると、後は行動するのみ。俺はアマルに対して、後ろめたさを感じながらもそう決意した。

 

 

 

 

 




修道士の1日って案外大変。


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隠されたもの

 

 暗闇の中、目を開けた。

 

 静かに身を起こして、隣で眠るアマルを確認する。穏やかな吐息が聞こえてくる。ほっと、胸を撫で下ろして、音を立てないよう息を潜めてベットから抜け出した。  

 

 部屋から出て、歩く。

 

 廊下は、春先にも関わらずどこか冷たい。ゴシック調の荘厳できめ細かい彫刻は闇に溶け、今は形すら分からない。壁に手を当てて、ゆっくりと目的の場所に向かう。

 

 回廊に出ると、月明かりが射し込む。

 空を見上げると淀んだ赤い月が雲間から顔を出していた。その月の美しさと不気味さに、狂気めいた何かを感じてすぐ視線を戻す。

 

 何も考えずに、ひたすら足を進める。

 足音を極力出さないために、裸足でここまで歩いてきた。が、それでもひたひたと石床を踏む音が聞こえるほど、辺りは静寂に包まれていた。

 

 礼拝堂に繋がる重たい扉を開け、身体を滑り込ませる。振り向いた先、その一番奥にはアマルの部屋がある。ここからは、一本道だ。

 

 俺は懐から、ライターを出した。 

 これはストーンハーストに来る前に、携帯していたものだ。

 別段普段から煙草を吸うわけではなく、盆の季節だったためお線香をあげに墓参りへ行っていたのだ。その帰りの電車の中でうたた寝し、気づけば礼拝堂で倒れていた、という顛末である。

 

 持参していた鞄やポケットに入れていた物は、一纏めにしてタンスの奥深くに隠している。俺の鞄には財布やバッテリーがなくなったスマホや手帳等々、この時代にそぐわない物が余りにも多すぎるからだ。

 

 俺の持ち物は、冗談抜きで時代錯誤遺物、所謂オーパーツになってしまっていた。俺の鞄には、アマルにさえ不用意に触らないようにと言付けている。

 

 ライターを使い壁に取り付けられている燭台に灯をともす。それを持って、長い廊下を一歩一歩確かめるように歩く。それに合わせて蝋燭の火がはためいた。

 

 頼りない蝋燭の灯りが、アーチ状の高い天井を照らし、柱に彫刻された人体像がその陰影を深めていた。

 

 

 しばらく歩くと、右手に礼拝堂の大きな扉が見えた。固く鍵がしまっていて、入ることはできない。それを流し見て、通りすぎる。

 

 それから程なくして、アマルの部屋の扉前まで辿り着くことができた。そんなに距離はないはずなのに、かなり歩いたような感覚がする。

 

 そっとドアノブを握る。何度か躊躇しながらもゆっくりと扉を引いた。

 

 ぎいぃぃ、っと死んだ音が鼓膜を震わす。

 

 唾を飲み込んで、足を踏み入れた。

 燭台をかざして、ぼんやりと照らされた室内を見回る。間取りは俺の部屋と変わらない。ベットに机とタンスという質素な内装だ。ふんわりと、部屋に漂う仄かに甘い香りが鼻を擽る。嗅ぎ慣れた少女の香り。それに少し安心した。

 

 まずタンスから調べる。

 上段は艶消しされた黒いローブにリネン製のシュミーズが数着。中段にはコートハーディが並んでいた。下段を開けると、純白の下着とタイツが沢山。羊皮紙が入っていないか確認するとは言え、何だか妙な気分だ。

 

 タンスには何も見つからなかったため、ベットをくまなく探る。枕の下やマットレスの裏、ベットの下。しかし、目ぼしいものは何もなかった。

 

 最後に机を調べにかかる。机の上には、特に何も置かれていない。二つある引き出しを順に開ける。片方には、聖書、ロザリオ、ナイフに石筆と石盤が無造作に押し込まれていた。

 

 聖書を持ってパラパラと捲くる。それと同時に、埃が舞った。小さく数度咳き込み、聖書を閉じて元の場所に戻す。

 石板を手に取り、裏を見てみるが何もない。それを確認し、同じように元に戻した。

 

 もう片方の引き出しには、蝋板と繊細な細工がされた鉄筆、布が綺麗に整列していた。

 布を捲る。可愛らしい小さな青が見えた。

 

(これ……以前アマルにあげた野花だ。一緒に押し花にしたのを大切に取ってくれているんだな)

 

 頬が緩む。押し花に布を優しくかけてやる。

 

 次に蝋板を取り出し、紐を解いて二つ合わせを開く。蝋板には所狭しと「アンドウ・アマル」の文字が書かれていた。どうやら、日本語の練習をしていたらしい。練習していた文字がこれなんて、少し気恥ずかしさを感じる。

 

 俺は顔が熱くなるのを自覚しながら、蝋板を紐で縛り引き出しに入れようとして、あることに気付いた。

 

(縦の長さに反して、引き出しが短くないか?)

 

 引き出しを全て取り出し机の上に置いて、机の奥を覗き込む。さらに手の甲で数回板を叩く。コンコンと、高い音が響く。中は間違いなく空洞になっている。これは仕掛け机というやつではなかろうか。

 

 手で押したり叩いたりしてみるが、うんともすんとも言わない。板を手探りでなぞる。すると、小さな窪みがあることに気づく。

 蝋燭を机の近くまで寄せて、目を凝らす。窪みは、菱形をしている。鍵穴のようにも見える。

 

 何か突っ込むものはないだろうか……。

 

 俺はそこまで考えて、緻密に細工された鉄筆の存在を思い出した。身体を起こして、机の上に置いた引き出しから鉄筆を取る。そのまますぐに、それを菱形の窪みに当て嵌めた。

 

 カチリと音が鳴る。次の瞬間、木が擦れる音が聞こえた。

 頭を上げると、机の側面から引き出しが飛び出していた。これが隠された引き出しだろう。蝋燭で照らす。

 

 そこには、指輪と小さな箱。

 

 それから……探していた羊皮紙が入っていた。

 

 

 

 

 

 

 



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蠢く影

いつも誤字脱字の訂正ありがとうございます!


 

 

 羊皮紙を引き出しから取り出す。

 その時くらくらと目眩がして、思わずよろめいた。短く息を吸い、額に手を当て気持ちを落ち着かせる。

 

(この羊皮紙を抜き取った可能性が一番高いのはアマルだ。と、自分で言っておきながら、まさかショックを受けているのか……?)

 

 頭を振って、その考えを吹き飛ばす。

 今はそんなことを気にしている場合ではない。

 取り敢えず考えをまとめよう。

 

 ストーンハースト修道院に入る者は、すべからくこの誓約を守らなければならない。そして、その内容を外に漏らすことは決して許されない。

 

 ヨハンナはそう言っていた。ならば、アマルが俺からこの羊皮紙を隠すのは当然の帰結と言える。

 

 しかし、同時にこうも語った。

 

 誓約に縛られる限り、あの方(アマル)に干渉することは許されない。

 

 誓約はアマルへの接触を禁じる、という内容が含まれているのは間違いない。それはアマル以外の修道院の者に適用される。逆に言うと、アマル自身はその誓約に影響を受けないと捉えて良いだろう。

 

 誓約に縛られないアマルが俺からこの羊皮紙を隠したのは何か別の理由があり、それを俺に知られたくはなかった。やはりそう取るべきなのだろう。

 

 もし誓約が「修道院の者はアマルと接触してはならない/アマルは修道院の者と接触してはならない」というものであったとする。

 アマルがそれを遵守するのであれば、初めから俺に近づき言葉を交わすことすらできないでいただろう。それが何よりの証拠だ。

 

 そこまで考えて、ひとつの疑問が生じる。

 

 修道院に入るすべての者が誓約を守らなければならなければ、何故俺はその「すべて」に含まれなかったのだろうか。

 

 それは誓約をかせられる者には、ある程度の幅があるということに他ならない。

 

 ベネディクト修道司祭が以前、アマルと深く関わらないように、と俺に言葉を放ったことがあった。

 

 今思えば、あれは誓約を守る上においてかなりのグレーゾーンな言だったのではないか。ベネディクト修道司祭もそれを分かっていたからこそ、怯えた様子で辺りを窺っていたのかもしれない。

 

 それでもベネディクト修道司祭が忠告を残したのは、俺を巻き込むまいとした最後の良心もしくは慈悲の心だったのだろうか。

 

 俺はポケットから手帳を取り出して、羊皮紙の文字を写していく。羊皮紙をそのまま盗ってしまうのは、余りにリスクがありすぎる。

 

 全ての文章を写し終える。

 羊皮紙を元の場所に戻そうとして何気なく、裏を向けると小さな文字が書かれていた。

 

(……秘密とは業である。だからこそ、隠さなければならない)

 

 秘密は業? 

 修道院が守っている秘密とは、報いを受けるべき罪の跡というのか。その業がアマルとどう繋がっているというのだ。

 

 その文も、手帳に書き込んでおく。

 書き終えると羊皮紙を元の場所に戻した。

 

 これで目的は達した。

 俺は、羊皮紙と一緒に入れられた指輪と小箱に視線を向けた。悪いとは思ったが、手に取って確認することにする。

 

 指輪を蝋燭に照らす。

 鈍く輝く黄金。平たく丸い装飾部分には、彫刻がされている。

 

 ……これは、印章だろうか。

 

 印影には、中央に盾、その上には王冠。それに寄りかかるように大きく羽ばたく鷲と獅子が彫られていた。

 

 指輪を戻し、今度は小箱を手に取る。

 そっと箱を開けると、綿の上に黄色みがかった短小の欠片が入れられていた。

 

 どこか既視感を覚える。

 この欠片は子供の頃、母親から見せてもらったへその緒に似ている。いや、似ているのではなく実際へその緒なのだろう。 

 

 なんとも言えない申し訳なさが募り、蓋を閉めて引き出しに戻した。それから隠し引き出しを入れ直して、机の上に置いたもうひとつの引き出しを入れ直す。

 

 形跡を残していないかよく確認してから、俺はアマルの部屋を後にした。

 

 

 ***

 

 

 もと来た道を歩く。

 

 不意に、蝋燭が風で大きく揺れた。 

 窓のない廊下で風が通るはずがない。不思議に思って、辺りに視線を走らせる。   

 

 そして、目を見張った。

 

(……礼拝堂の扉が開いている。誰かいるのか?)

 

 誰かが開けたのだろうか。

 こんな夜更けに?

 

 俺は礼拝堂の中を覗き込む。

 蝋燭の灯りが照らす先に、人影は見えなかった。

  

 何だか恐ろしくなって、俺はそこから去ろうと足を一歩踏み出した。その時、弦を引いたような甲高い音が脳に響いた。

 

 自身の意思とは反して、足が動く。

 ひたりひたりと、礼拝堂の中に入っていく。

 意識はあるのに、身体が言うことを聞かない。

 

 この感覚、俺は知っている。

 ストーンサークルに引き寄せられたあの時と一緒だ。

 ぞわりと、鳥肌が立った。

 目に見えない何かが俺を誘っている。

 俺を呼んでいる。

 

 正面の祭壇に近付くと、その後ろにある夥しい数の蝋燭に人知れず火が灯った。揺れる蝋燭の明かりが室内を照らす。

 

 そして祭壇に安置された大理石彫刻が、その姿を現した。

 

 両手を空に掲げ、フードを目深にかぶった人体彫刻。それは祈るようにも、懇願しているようにも見えた。

 

 俺はその彫刻に近づき、手を伸ばす。

 

 

 

 ―――彫刻の影が蠢いた気がした。

 

 

 

 



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赤黒い泥の中

 

 

 人体彫刻に手が触れた瞬間、頭の中に直接何かが大量に流れ込んできた。

 

 真っ白なキャンパスに、絵の具をぐちゃぐちゃと塗りたくられる感覚。頭が割れるように痛い。

 

 熱い。

 苦しい。

 血が沸騰する。

 どうにかなってしまいそうだ。

 

 テレビの砂嵐の音に似たノイズが断続的に聞こえる。

 

 数秒かあるいは数分して、脳のキャパシティが臨界点に達したのか、一気に意識が遠退いていった。

 

 

 ***

 

 

 その日までは、平穏な日々であった。

 

 麦穂の海。その海原に吹き渡る風の音。楽しげな娘たちの歌声。透き通る歌声に励まされ、男たちは畑を耕し、狩に勤しむ。それを尻目に、元気に走り回る子どもたち。その様子を微笑ましく見つめる老人たち。

 

 ずっと続くと思っていた。

 日溜まりで、誰もが笑っていた。

 刺激はないが、柔らかい幸せの中で私たちは生きていた。

 

 その微睡みの日々を切り裂き、お前たちはやって来た。剣を携え、鎧を身に纏った無慈悲なる征服者。

 

 ―――悲鳴が聞こえる。

 

 炎に包まれた視界。喉が焼けるほど燃え上がった空気。焦げた死の臭い。

 

 そこに家屋、動物、人、境界線などない。生きているのも死んでいるのも等しく同じだ。概念的な話ではない。遅いか早いかの違いである。

 

 死んでるもの。いまから死ぬもの。

 ただそれだけの違いだ。

 

 埋め尽くさんばかりの死。

 黒焦げ砕け散らばる死。

 無惨にも切り捨てられた死。

 

 死んでいる死ぬ死死死死死死死――死ね。

 

 嘆きも恐怖も恨みも、全てを内包した泥がこの世界を侵食する。器から死が溢れ、我らを侵蝕する。ズルズルと、死が這いずる音がする。

 

 ああ、ほらまた死んだ。 

 炎で、その剣で、その憎悪で。

 

 お前たちの信じる神は死んだのだ、と征服者の声が聞こえた。

 

 違う、死んだのはお前たちの神だ。その冒涜的な傲慢の果てに、地へと堕ちたのだ。

 

 お前たちも同じこと。名誉も栄光も虚構。暴虐と殺戮、獣のような貪欲さ。

 

 人でありながら、人を見失った者たちよ。

 お前たちは死ぬ。ここで死ぬ。我らの神が殺す。

 お前たちは、もう終わりだ。

 

 ああ。

 しかし、良いだろう。

 空虚なお前たちの主に従い、今は奪うが良い。犯すが良い。殺すが良い。

 

 だが、いつか贖いたまえよ。

 

 その血をもって。

 ずっとずっと先の先、この汚泥が洗い流されるそのときまで。

 

 征服者よ。

 赤い十字に誓い、捧げよ。

 その胎を、その赤子を、その血を捧げよ。

 

 我らの神は、ここにいる。

 見つかる。

 見ている。

 目が合う。

 合ってしまう……あの―――

 

 

 

 

「……ディっ……まっ! アン……ディさま! アンディ様!」

 

 俺を呼ぶ声が聞こえる。

 

「このお方は、汝らが望む赤子ではない。穢れた血を継ぐ者などでは決してないっ!」

 

 影がざわめく。

 赤黒い泥が、欲しがっている。

 手まねいている。

 俺を見つめている。

 

「下がれ! たとえ汝らでも、冒してはならないものがあろうっ! このお方に手を出すことは妾が許さぬ。泥の中に戻るがよい。妾の愛しきお方に、これ以上近付くなっ!」

 

 強く抱き締められる。

 落ち着く匂いが鼻腔に広がった。

 咲きほこる花のような、熟れた果実のような。

 

 何故かとても安心して、意識が再び落ちていった。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 目が覚めると、そこはもう礼拝堂ではなかった。

 

(ここは……俺の部屋、か?)

 

 むくりと、身体を起こす。詰めていた息を吐いて、深く空気を吸い込む。もう沢山だ、と心の中で毒づいた。ストーンハーストに来てから、現実と夢の境界があやふやになる。考えも纏まらない。頭が空っぽになり、自分が自分でなくなってしまう感覚に苛まれる。

 

 まだ、夢を……悪夢を見ている気分だ。

 

(俺は……どうなっていくんだろう。どうなってしまうんだろう)

 

 ぼんやりと、俺は答えのない問いを虚空に投げ掛けた。安藤隆という存在は、ストーンハーストにおいて異物でしかない。そして、俺はそれを自覚しながら、異物である事実にどこか安堵を覚えていたのかもしれない。

 

 修道士たちから腫れ物のように扱われることに、居心地の悪さを感じながらも、俺はまだこちらの世界の住人ではないと思っていたかったのか。何とも格好が悪い。

 

 顔を上げ、部屋を見渡す。夜が明け、朝日が窓から差し込んでいる。脳が覚醒するまで、窓から差し込む陽光を眺める。暫くそうしていると、隣で呻き声が聞こえた。

 

 視線を隣に向ける。

 川のように広がる銀糸の髪。透き通るほど白い肌。幼さを残した完璧な美貌。

 

「……アマル?」

 

 魘されているようだった。苦しそうな声を何度も漏らして、眉をひそめている。悪夢でも見ているのだろうか。

 

 アマルの身体を揺すり、声をかける。

 

「アマル、アマル起きろ。大丈夫か?」

 

「……んっ、はぁっ、あ、アンディ、さまぁ」

 

 うっすら目を開けて、アマルは小さく俺の名を呼んだ。焦点の合わない瞳が、俺の姿を認めると急激に視線が定まる。

 彼女は直ぐに身を起こすと、強く抱きついてきた。

 

「アンディさまっ! ああっ、ようございました。アンディ様は礼拝堂で倒れていたのですよ。私生きた心地がしませんでした」

 

「……ごめん。心配かけちゃったな」

 

「どこか……どこか痛いところやおかしいところはございませんか?」

 

 身体をペタペタと触られる。

 くすぐったい。

 その必死な表情に、思わず顔が緩む。

 

「大丈夫だよ」

 

 短くそう答えて、アマルの細い手を優しく絡めとり、自身の頬に当てた。アマルは俺の顔を穴が空くほど見詰めて、安心したように息をついた。

 

「貴方様が無事で本当に良かった。アンディ様……愛しています。だから、どうかどこにも行かないで」

 

「ああ、俺はどこにも行かないよ」

 

 俺がそう言うと、アマルは瞳を潤ませた。

 上目遣いで俺を見てから、服を引っ張り屈むようにおねだり。俺が屈むと顔を寄せ、祈るように唇を重ねた。何度も触れるだけの甘く蕩ける口づけを繰り返す。しっとりと柔らかい唇が追い縋り、求めてくる。

 

 思えば、アマルからキスをしてきたのは初めてかもしれない。催促されたことはあれど、自分からというのはなかった。俺は嬉しくなって、少女の背中に手を回す。

 

 折れてしまうぐらい華奢で小さな身体をそっと抱き締めた。

 

 

 

 



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黄昏の讃美歌

いつも誤字脱字の訂正ありがとうございます!


 

 

 

 いつものように畑仕事を一通り終わらせ、礼拝のため先に戻るフランチェスコを見送った。

 俺は、ひとり井戸で汗を流す。冷たい井戸水が今は心地良い。

 

「Amazing grace!  How sweet the sound! That saved a wretch like me! I once was lost, but now I am found Was blind, but now I see――」

 

 歌う。

 鼻歌混じりに。何とはなしに。

 低い声で旋律をなぞる。

 

 特に理由はなかったけど、歌いたい気分だった。

 その時、頭に浮かんだのがこの曲で。

 

 目を閉じる。

 

 柔らかい夕日が、瞼を通してぼんやりと射し込んだ。

 

「――Twas grace that taught my heart to fear, and grace my fears relieved. How precious did that grace appear. The hour I first believed」

 

 そこまで歌うと一息ついて、水に濡れる髪を後ろに撫で付ける。

 

 パチパチと、後ろから手を叩く音がした。

 恐る恐る振り返る。

 

 そこには赤みがかった陽光に照らされたヨハンナが佇んでいた。

 

 歌を聞かれていたことに、恥ずかしさを覚える。決まりが悪くてそっぽを向いた。

 

「な、なんだよ。聞いてたのかよ」

 

「ええ、とても……素晴らしい歌でした」

 

「ぐっ、うるさい。……でも、そのありがと」

 

 恥ずかしいのに誉められて、嬉しくなる。我ながら単純だな、と思う。

 

 ヨハンナは、目を細めて優しげに微笑んだ。

 

 それから、俺の側まで近付いて、懐からハンカチを取り出した。濡れた頬を、そっと拭いてくれる。その女性らしい仕草に、不本意ながら胸が踊った。ハンカチから、良い香りがする。柑橘系の爽やかな匂いだ。

 

「そのハンカチ、だいぶ濡れちゃったな……」

 

「ああ、気にして頂かなくて結構です。好きでしたことですから」

 

 俺はハンカチを持つヨハンナの手を握った。それから、ハンカチを引っ張って奪い取る。

 

「馬鹿、気にする。これちゃんと洗って返すから」 

 

「……っ」

 

 言葉を発しても返事がなく、不思議に思ってヨハンナを見る。只でさえ夕日に照らされているのに、さらにその顔を真っ赤にさせて固まっていた。

 

「おーい。ヨハンナ? ヨハンナさん? 大丈夫? 聞いてるかー?」

 

 顔の前で手を上下に振ってみる。

 ぺたり、と力なく手を叩かれて止められた。

 

 ヨハンナはぐっと唇を噛み、こちらを睨み付けてくる。それに合わせて長い睫毛が震えた。威嚇してるようだけど逆効果で、むしろ――。

 

「―――可愛い」

 

 ヨハンナの息を呑む音を聞いて、俺は正気に返った。自分の言葉を反芻して、今度はこっちが真っ赤になる。

 

「あああっ! 今の、今のなし! 違うから、そんなんじゃないから! 俺にはアマルがいるから!」

 

「む、無論だ」

 

 ヨハンナはこくこくと何度も頷く。

 俺は赤くなった顔を隠すため、片手で顔を覆った。

 

 暫く気まずい沈黙が続く。

 

 それを破ったのは、ヨハンナの方だった。

 

「……そのような讃美歌、初めて聞きました」

 

「えっ? ああ、『Amazing Grace』のことか。この歌は元々船乗りが作った歌なんだよ」

 

「船乗り……ですか?」

 

「うん。でもただの船乗りじゃない。奴隷貿易に関わる奴隷船の船長だったんだ。横柄な人柄で、強引に連れてきた奴隷を家畜以下に扱っていた。でもある日の航海で大嵐に遭遇し、船は難破しかける。その時、彼は初めて心から神に祈った。その祈りが届いたのか沈没は免れ、命は救われた」

 

 空を仰ぐ。

 黄昏の空が柔らかくこの世界を包んでいる。

 

「きっとその時思ったんだ。船乗りは自分の手が、どんなに汚れていたのか。自身が死にそうになってはじめて、その痛みを苦しみを、そして死を奴隷たちに与えてたことに気づいた。……自身の罪深さに気づいたんだよ」

 

 脳裏に礼拝堂で見たあの光景が浮かんだ。きっとあれはここで実際に起こった過去なのだろう。

 

「そうか……ならば、その船乗りは正しく幸福だ」 

 

「……ヨハンナ?」

 

「自身でその罪深さに気付けたのだから」

 

 ヨハンナは修道院に視線をやった。

 

「……私たちはいつになったら、それに気付けると言うのだろうな」

 

 その姿はとても不安定で、消え去りそうだった。

 止めろ。お前にそんな顔似合わない。ふんぞり反って、意地悪く笑えよ。

 

 ヨハンナは俺の顔を見て驚いたように、目を見開いた。

 

「そんな悲しい顔されては、困ります……」

 

「それは俺の台詞だ! ああもうっ、調子狂うな!」 

 

「私、そんな顔をしていましたか?」

 

「ああ、してた。……お前さ。真面目なのは良いけど、あんまり抱え込み過ぎんなよ。辛いなら、俺に言ってくれ。何もできなくても、一緒に悩んでやることはできるから」

 

 ヨハンナの手を握った。

 指は細いのに、掌は硬かった。野球好きの叔父が、このような掌をしていたのを思い出した。何かを長い間振るっていた者の手だ。

 

「黒殿は本当に……間抜けだな」

 

「なんだと!? 俺がせっかく心配してるのにだな」

 

 耳元で囁かれた。

 

「忘れたのですか? 私はあの方を殺すためにここにいるのですよ」

 

「……忘れてない。でも、お前はそんなことしない。1年間一緒に生活をおくってるんだ。それぐらい分かる。俺はお前を信じてる。ヨハンナだからこそ、信じてる」

 

「黒殿は本当に、ずるいお方だ。だからこそ私は……」

 

 日溜まりのように微笑んだヨハンナは、とても綺麗だった。

 

「歌って、頂けるでしょうか。その歌の続きを――ー」

 

 そっと繋いだ手を握り返してくる。柔らかい口調で発せられた言葉に答え、歌を紡いだ。

 

 

「Amazing grace. How sweet the soundーーー」

 

 

 ―――それは、なんて素晴らしき神の恩寵。

 

 

 

 



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疑心と口付け

いつも誤字脱字の訂正ありがとうございます!


 

 

 ヨハンナと分かれ、低く抜けるような陽気さで鼻歌を歌いながら修道院に入る。廊下を暫く歩き、自室にたどり着いた。部屋の扉を開こうとして気付く。

 

(あれ……これってヤバくないか?)

 

 ヨハンナに耳元で囁かれただけで、香りがべったりついていると以前アマルは怒り狂ったことがある。

 

 今回、ヨハンナの香りが移ったハンカチで顔や髪を拭かれ、手を握ったし、耳元で囁かれた。アマルで言うと、これってどうなのだろう。香水をそのまま被ったぐらい濃く匂うのだろうか。

 

(いや、でも待ってくれ。俺は疚しいことは何もしていないぞ!) 

 

 俺は自分にそう言い聞かせた。ヨハンナのことは親しい友人だと思っている。だが、それはあくまでも俺の認識であって、アマルの認識ではない。あっ、駄目な気がしてきた。

 

 長身を屈め、頭を抱える。

 アマルよりもずっと大きく、柔らかさも優しさもない自身の掌で、乱雑に頭をかき回した。

 

「ひとまわり年下の女の子に、尻にしかれている気がする……。うわ、俺情けなさすぎでは?」

 

 アマルはこの掌が大好きだと笑っていたが、プルプル震えている手を見てもそう言えるのだろうか。いや、絶対に好きだって言う気がする。アマルは駄目男製造機(俺専用)だし。

 まぁ、それはそれとして、ちゃんと説明したら分かってくれるはずだ。たぶん。……分かってくれたら良いなぁ。

 

(……うん、やっぱもう一回水を浴びてこよう)

 

 危ない橋は渡らない。

 慎重さが必要となる場合もある。

 踵を返そうとしてーー

 

「アンディさま? お帰りになられたのですか?」

 

 ーー部屋の中にいるアマルに呼び止められた。

 

 汗が頬を伝う。喉はカラカラに渇いている。何か声を発する前に扉が開いた。

 

 銀髪の髪がふわりと舞い、現実離れした妖精のような美貌が顔を覗かせる。俺の姿を認めると、少女は嬉しくて堪らないという笑顔を浮かべた。

 

「アンディ様、おかえりなさいませっ!」

「あ、ああ、ただいま」

「はい。ずっと、お待ちしておりました。ふふっ、アンディ様、ぎゅっとしてください」

 

 そう言って、抱きついてくる。10代の少女特有の柔らかさを感じる。アマルは俺の胸にぐりぐりと顔を押し付け、匂いを嗅いでピタリと身体の動きを止めた。

 

(あっ、終わった)

 

 いや、まだ諦めるには早すぎる。頑張れ俺! 

 意を決して、弁明を試みる。

 

「あの、違うからな!」

「……私まだ何も申し上げておりませんが?」

 

 出鼻を挫かれた。

 感情の籠っていない声に思わず怯んでしまう。一回り年下の女の子に尻に敷かれている気がする、というか実際に敷かれている自分が情けなくて、俺はがっくりと肩を落とした。

 

「アンディ様、またヨハンナ・スコトゥスと……」

 

 何も言わずして、相手がヨハンナであることを当ててきたのはそこまで驚いていない。前回の匂いを覚えていたのだろう。

 

 アマルは顔を伏せて、声を震わした。聞き取ることも難しい声音で呟く。聞こえて欲しくないとでも言うようだった。

 

「アンディ様は、ヨハンナ・スコトゥスを……す、好いていらっしゃるのですか?」

「俺がヨハンナを?」

「はい」

「それはまさか、恋愛対象としてってことか?」

「……は、い」

 

 ヨハンナに対して嫉妬するなら分かる。

 でもこの問いは、俺の気持ち自体を疑っている、という風に捉えられる。というか、疑ってるんだろうなぁ。正直、面白くない。

 

「なぁ、仮に俺がヨハンナのことを女として好きだと言ったら、どうするんだ?」

 

 そう言った瞬間、アマルの瞳からぼろぼろと水滴が落ちてきた。上手く呼吸ができないのか喘鳴が聞こえる。顔は真っ青になって、今にも倒れそうだった。

 

「……し、死にますっ! あの女とアンディ様が一緒になるなんて絶対に耐えられません。私、死にますからっ!」

 

 ……極端すぎるだろ。

 

 俺はアマルを抱きしめた。

 背中を撫でて、落ち着かせる。

 

「こら、簡単に死ぬとか言うなよ。仮にって言ったろう。あのなぁ、ヨハンナとはただの友達だ。なんでそこを疑うんだよ」

「でも、でもっ! アンディ様……」

 

 でも、と言いながらすがり付いてくる。べそをかき不安でしようがない、と言った様子。捨てられた子犬がふるふる震えてるような感じだ。そこに可愛さを見い出す俺も、相当この少女にやられていると思った。

 

「お前は俺の歴とした彼女なんだから、自信持ってくれよ」

「彼女……?」

「恋人ってこと。……俺はお前のこと、ちゃんと、その……愛して、いますので」

 

 面と向かって、愛を囁くのが苦手なのは俺が日本人だからだろうと、心の中で言い訳する。自身の下手くそな告白に辟易としているが、後悔はない。ただ羞恥は捨てきれず、自分でも顔が赤くなってることを自覚している。

 

 俺の言葉を聞いて、アマルは後光が差すような眩しい笑顔を浮かべた。先程までべそをかいていたのに、この変わり身の早さ。まさに今泣いた烏がもう笑った状態である。

 

「私も! 私も、アンディ様を愛していますっ!」

「うん、知ってる。ありがとな」

 

 ぎゅうぎゅうと、強く抱きついてくる子犬を横抱きに抱き上げる。アマルは短く悲鳴をあげで、俺の首に手を回した。

 

 少女は華奢で、とても軽い。

 楽しくなって、部屋の中をくるくる回わる。銀髪が天の川みたいに広がった。アマルは目を白黒させ、必死に体を寄せてくる。俺は笑って、彼女を抱き上げたままベットに腰かけた。

 

「もうっ、アンディ様たら!」

「あはは、悪い悪い。嫌だったか?」

「……アンディ様は意地悪です。アマルがどう思っているか分かってるくせに」

 

 頬を膨らませ、拗ねるアマル。

 バレたか、と微笑んで、その膨らんだ頬を両手で挟んで揉む。瑞々しい肌が手に吸い付いてくる。

 

 そういや、前もこうやって頬を挟んだことがあったっけ。その時は、まだ覚悟もなくてアマルの鼻を摘まんで誤魔化したんだ。でも今は違う。堂々とアマルを受け止めることができる。

 

 俺はそのまま顔を寄せて、少女に唇を落とした。何度かバードキスを繰り返す。可憐な唇を舌で濡らして、軽く噛みつく。そして、恥ずかしそうに開いた唇の隙間に、すかさず舌を滑り込ませた。控えに縮こまった舌を探り当て、絡め取る。緊張を解すように優しく舌を吸って、歯茎をなぞる。

 

 アマルも俺の求めについてこようと必死に、だが不器用に舌を這わせた。その不馴れでたどたどしい様が愛しくて、角度を変えて更に深く唇を合わせた。

 

 暫くそうして舌を絡ませ合い、これ以上は理性が保てなくなる、というタイミングで唇を離す。それに合わせ、つぅーと唾液が糸を引いた。

 

 アマルは恍惚とした表情を浮かべ、それから俺の胸に体を預けて、そっと呟く。

 

「アンディ様は……私を恋人にして下さるのですか?」

「何を今さら。俺はお前を受け入れてからずっとお前を彼女だって思ってたんだが」

「嬉しいっ! 私、アンディ様の恋人なのですね!」

 

 アマルは俺の身体をベットに押し倒すやいなや、顔中にキスの雨を降らした。くすぐったい、と言いながらも満更じゃない俺である。

 

 ただ、今までアマルが俺との関係をどう思っていたのか。ここまで不安がった理由を察して、少しげんなりした。

 

 こいつは間違いなく俺が初恋なのだろう。

 だからこそ勝手が分からないのは至極当然で。きっと恋のいろはを、教えてくれる存在すらこの少女にはいなかったのだろう。

 

 それに教会は女性を子どもを産むための存在として捉え、それ以外なんのために存在しているのだというスタンスであったし、恋愛は結婚を前提にしたもので、その結婚すら親同士のやり取りの中でのみ交わされた。そういう背景も手伝って、アマルの恋愛観に影を落としているのだろう。

 

 だから、年上として俺がちゃんとリードしてやらねばならないのだ。その責任重大さに、思わずため息が漏れた。

 

 

 

 

 



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修道騎士の剣

 

 

 

 夕暮れ、影が伸び手招く。

 宵闇、悪夢が静かに這い寄る。

 朝焼け、全ての罪を抱いて眠り。

 

 青空、見上げることさえ叶わない。

 

 

 ***

 

 

 アマルと想いを確め合った翌日。俺は羊皮紙の内容を書き写した手帳を懐に入れ部屋を後にした。

 

 さて、と俺は廊下を歩きながら顎に手を当てる。

 

(……問題は独りになれる時間の少なさだな)

 

 手帳を開いて考え事をしたくても、自室では常にアマルが側に居る。かといって、外にいたとしても人目に付く。

 俺は修道院にただ一人のアジア人だ。この地では珍しい黒髪は、遠目で見ても特定されてしまうのだ。と、なれば今まで通り場所ではなく時間帯を選ぶほかない。

 

 目的地の書庫に辿り着き、扉を少し開けて、誰も居ないことを確認する。そして、素早く中に入る。最後に音を立てないように扉を閉めた。

 

 俺は机に向かって、椅子に腰かける。小さく軋む音が、静寂に反響した。懐からペンと手帳を取り出し、机に広げる。そこまでして、やっとひと息ついた。

 今はミサの時間で、修道士たちは皆聖堂に篭っている。恐らく、1時間程度は猶予があるだろう。

 

 これだけ慎重にことを運んでいるのも、勿論ヨハンナが言った修道院の者に知られぬようにという言葉を遵守するためだ。

 

(修道会の犬、略奪者であり征服者の系譜に連なるもの……か)

 

 以前、アマルがヨハンナを示す際に放った言葉だ。ヨハンナは修道院の人間なのだから修道院の犬という表現(決して良い言葉ではないが)は理解できる。問題は略奪者であり征服者の系譜に連なるもの、という言葉だ。

 

 思い出すのは、先日礼拝堂で見た映像。

 あれこそ修道院の過去の惨劇。

 俺は何故だかそう確信を持っていた。

 

 揺らめく炎。焦げた臭い。黒い何か。そして鎧を纏い剣を携えた征服者の姿を俺は見た。

 あれは、間違いなく騎士だった。騎士たちが村を焼き、人々を殺し、略奪と暴虐の限りを尽くしていた。彼らは一体何者なのか。

 

 手帳を開き、書き込む。

 

 修道院。

 征服し略奪した者。

 騎士。

 

 並べた文字を見て、パッと思い浮かぶものは十字軍だろうか。俺は眉間を揉んで、世界史の知識を絞り出してみる。あやふやな知識なので、間違いも多いだろうがこの際目を瞑ろう。大切なのは、気付きと連想なのだ。

 

 聖地奪還のために派遣された十字軍。

 

 軍と言ったものの、その中には熱心な民間人の信仰者が多く参加していた。勿論、十字軍の主体は諸侯や騎士達であったが、金品や土地などを求め、私利私欲で行動する者が多くいたのが実際のところらしい。貴族の子弟のうち領地を継がない二男・三男や庶子が一旗揚げようと参加することも珍しくなかったと言う。

 

 また、平均年齢12歳の少年少女からなる少年十字軍というもの存在したと聞いたことがある。しかし、十分な遠征費もなく、子ども達は飢餓に苦しみ、最後には聖地に向かう船を斡旋した悪徳商人によって、奴隷として売り飛ばされてしまう悲惨な末路を辿った。救いなどどこにもない。彼らの信仰心は打ち捨てられ、奪われ、瀆された。あまりにもやるせない。

 

 一番始末に終えないのは、教皇が神の意思だと聖戦を保証し、免償を許可したことだ。

 それは今までの罪を精算でき、尚且つこれから起こすであろう異教徒に対する侵略、略奪、強盗、強姦ありとあらゆる蛮行が暗に神によって許されたことに他ならない。

 

 最初の十字軍遠征が行われた後に生まれた騎士修道会。キリスト教の勢力を拡大し、聖地を防衛、そして巡礼者を保護や支援を目的として誕生した。この中でも一際有名な騎士修道会は、映画や小説などで良く名前が出てくるテンプル騎士団だろうか。構成員は修道士たちであったが、同時に戦士でもあった。

 

 俺が見た騎士たちが、それらに関わる者たちだったのかどうかは分からない。しかし、修道騎士だった可能性は充分あり得る。

 修道会の犬、略奪者であり征服者の系譜、というのは修道騎士の末裔であるという意味だとすると腑に落ちる。

 

 ヨハンナはこの過去の惨劇を引き起こした修道騎士の末裔。そして、彼女自身も修道騎士であったとしたら?

 森に迷った俺を追いかけた体力。隙のない身のこなし。何かを振るい続けた硬い掌。全ての要素が、重なり合う。

 

 ヨハンナの笑顔が脳裏を掠めた。

 

 アマルを殺すためにこのストーンハーストにいるのだ、と語ったヨハンナ。もし、ヨハンナが修道騎士であるのならば、独り言であろうがなかろうが、尚更言うべき言葉ではなかったはずだ。

 それでもなお俺にそのことを伝えたのは、あの言葉こそ彼女の懺悔だったのではないか。俺にはそう思えてならない。

 

 俺は改めて、羊皮紙の内容を書き写した部分を目で追った。

 

 ……の誓約。

 ひとつ、見ては……い。

 ふたつ、話しかけてはならない。

 みつつ、触れ……ならない。

 ……を……はならない。

 いつつ、ここを……はならない。

 むっつ、……共にしてはならない。

 なな……じてはならない。

 やっつ、あ……してはならない。

 ここのつ、全てを守らなければならない。

 とう、………。

 

 擦れて読めなかった部分も多いがこれが全てだ。誓約は十あり、ほとんどの文末は「~してはならない」で終わっている。やはり、誓約とはタブーを記したものなのだろう。

 

 神のために異教徒と戦う修道騎士(ヨハンナ)が、アマルを監視し鉄槌を下す役割を担っている。その理由が羊皮紙に隠されているのだ。

 

 ぞわりと、一瞬首筋に走る寒気を感じ振り向く。

 見渡すばかりの本棚。本本本本本―――

 

 それ以外何もなかった。

 それが何よりも、恐ろしかった。

 

 

 

 



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征服者の末裔

 

 

 誰かに見られているような不快感を感じながら、俺は手帳に向き合う。時間がない。ひとつひとつ整理していこう。

 

 俺は手帳の文字に目を走らせる。

 

(~の誓約、という部分は象徴を意味しているのか? もしくは、人名、いや地名という線もある)

 

 誓約を結ぶ限りは、取り決める者の存在がいるはずだ。また、それを遵守する対象も。それに習った名前がつけられているはずである。

 

 俺は1節目を指先でなぞる。

 

『ひとつ、見ては……い』

『ふたつ、話しかけてはならない』

『みつつ、触れ……ならない。』

 

 これら文章に関しては、視覚、聴覚、触覚。人間が司る感覚を一様に制限している。

 修道院の者たちが、アマルという人間が存在しないとでも言うように振る舞うのは、この3節から来ているのだろう。つまり、少女の存在を感じること自体をタブーとしている、ということだ。

 

『……を……はならない』

『いつつ、ここを……はならない』

『むっつ、……共にしてはならない』

『なな……じてはならない』

『やっつ、あ……してはならない』

 

 これらの文は、滲みが酷すぎてほとんど読むことができなかった。唯一文として成り立っているものは、5節目の『ここを……はならない』、そして6節目の『共にしてはならない』という一節だろうか。

 

 ()()を、と指示する言葉が入っている五つ目。こことは、場所を指しているのだと思われ、おそらくは修道院のことを言っているのではないだろか。文脈を考えると『修道院から出てはならない』と続くとスッキリする。

 

 思い返せば、俺が都市に行きたいとフランチェスコに相談した際、彼は都市に連れていけない理由をこう語った。

 

『なかなかどうして、そうできない込み入った事情がございやして』

 

 込み入った事情というのは、誓約が根本にあり、修道院から出ることができないということではないだろうか。

 

 6節目の、共にしてはならないという一文。これは、何らかの行動を共にしてはならないと続くのだろう。しかし、最初の1~3までの節はアマルの存在を感じること自体をタブーとしていたことを鑑みると、そもそもアマルと共に行動することができないはずだ。それなのに何故あえてこのような文を入れなければならなかったのか。共にというのは、アマルではない誰か/ナニか……。ぶるり、と寒くないのに身体が震えた。

 

「……誓約はアマルだけをタブー視するものでは、ないということなのか?」

 

 そうだ。

 この誓約は、アマルだけを禁忌としたものではない。むしろ、それ以上のナニかをベールに包み込むためのもの……。

 

 誓約は修道院の者たちにかせられた枷で、その対象はアマルであったと考えていた。だが、誓約を紐解くとアマルを対象にしつつ、その先のナニかに焦点が当てられているように思えてきたのである。

 

『ここのつ、全てを守らなければならない』

 

 これらを守ることで、修道院は秘密を守っている。そして、その誓約には王家が深く関わっている。聖と俗がアマルの先にあるものを隠している。

 

 俺はそっと目を瞑った。

 

「ストーンハースト修道院。這いずるもの。修道騎士。過去の惨劇。異教。迫害。王権。隠された秘密。ベネディクト修道司祭。異端。異界。誓約。神。指輪。臍の緒。……アマル」

 

 

 記憶を手繰り寄せる。色々な言葉が脳裏を駆け巡り浮かんで消えていく。

 

「あの、赤黒いーーー」

 

 その瞬間、礼拝堂で見た光景がフラッシュバックした。

 

 燃える村。 

 悲鳴と怒号、そして呪詛の言葉。

 

 

『征服者よ。赤い十字に誓い、捧げよ。その胎を、その赤子を、その血を捧げよ』

 

 征服者は修道騎士。そして、赤い十字はキリスト。

 征服者の赤子の血を捧げよ。それは修道騎士の子孫を生贄に捧げよという言葉に取れる。

 

 ……いや、待て待て。そうなると、その対象は修道騎士の末裔であるヨハンナでないといけないはずだ。しかし、現実はヨハンナがアマルに剣の切っ先を向ける立場にいる。これはどういうことだ。

 

 俺はそこで、再び十字軍の内容を思い返してみる。

 十字軍は個々の諸侯が手勢を引き連れて聖地に遠征する小規模なものも存在したが、大元は教皇や王を指導者に遠征するものであった。勿論、それは聖地奪還が目的であったがそれ以外にも、異教徒への布教・征服、異端への討伐も含まれている。

 

 アマルも修道騎士の末裔、あるいはそれを先導した者の末裔……例えば王家やそれに連なる者の血縁者であるとか。

 

 それならば、王がアマルを庇護する理由も分かる。異端への討伐、異教徒への布教・征服を先導した王の血縁者だからこそ、生贄に相応しいとされたということも理解できる。そして、それを煽動した教会に監視させた。

 

 ただこの考察には、多くの矛盾や相違点があるだろう。俺も歴史家や探偵等ではないので、真実にたどり着くのは険しい山を上るようなものだ。

 

 それでも……ひとつひとつあり得ないことを除外して、真実に少しでも近づくよう行動しなければならない。それが、アマルを守ることに繋がる気がした。

 

 

 

 



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欲張りな少女

 

 

 

「アンディ様……どこかお加減でも悪いのですか?」

 

 アマルの声かけに、思考が引き戻される。羊皮紙のことを考えすぎて、どうやら手が止まっていたみたいだ。

 

「……えっ? あ、ああ、いや、すまん。ちょっとボーッとしてた。大丈夫だよ」

 

 俺は誤魔化すように肩すくめ、テーブルに視線を落とした。そこには夕食である冗談みたいに硬い黒パン、チーズ、そしてアマル特製のシチューが並んでいる。

 脇に置かれた蜂蜜酒で喉を潤わしてから、今日書庫を出てからずっと考えていた誓約の内容にそっと蓋をした。

 

 アマルは俺の顔をじっと見つめて、心配そうに眉を下げている。決まりが悪くなり、俺は再度大丈夫だよっと声を掛けた。

 

「アンディ様……」

 

 少女は印象的な紅眼を細めた。立ち上がって俺の側まで歩いてくると、そっと額に手を当てる。

 俺は密かに、ひんやりとした柔らかいアマルの手の感触に驚く。暖めるようにして、自身の手を重ねた。

 

「本当に本当に、本当に大丈夫なのですか?」

 

「だから、大丈夫だって。アマルは心配しすぎだ」

 

「アンディ様が無頓着すぎるのです!」

 

 うーっ、とムキになったアマルが唸り俺の様子を伺ってる。子犬みたい。その姿すら可愛いと思う自分がいた。それがどこか酸っぱくて、切なくて、愛おしい。初めて彼女ができた純情な中学生でもあるまいに、と心の中で自分自身にツッコむ。

 

「あー、うん。分かった分かった。ちゃんとするから、席に戻ってくれ」 

 

 両手を上げて降参のポーズ。

 アマルは口をもごもごさせながら不服そう。それでも俺の言葉に大人しく従って席に戻った。

 俺はそれを確認してから、ナイフで黒パンを切り取る。シチューに浸してから口に放り込んだ。

 

 素朴な味がする。

 現代のように添加物まみれの濃い味ではなく、きちんと素材本来の風味が生きている。美味しくて、頬が緩んだ。

 きっともう寿司やハンバーガーなんて食べれることは一生ないと思うが、不思議と悲しくはなかった。1年間このストーンハーストで暮らし、俺の味覚が変化したのだろうか。

 

「アンディ様はいつも美味しいそうに召し上がって下さいますね」

 

「あむ、んぐっ……まぁ、実際うまいからな。アマルが料理上手で助かる」

 

「ふふっ、お代わりもございますから、沢山召し上がってくださいませ」

 

 アマルはふんわり微笑むと、俺の金属製のグラスに蜂蜜酒を注いだ。本当にさりげなく気遣いができる娘だ。どこに出しても恥ずかしくない。こんな娘を彼女にできる男はまさしく幸せだ。……まぁ、俺のことなんですが。

 

 心中で茶番を繰り広げながら、黒パンを噛み千切る。それを蜂蜜酒で流し込んだ。

 

 ちらりと視線を向けると、アマルは背筋を伸ばして椅子に座り、お上品にパンを口に運んでいる。いつも思うが食べ方が綺麗だ。というか、それ以外でもひとつひとつの動作が優美で淑女然としているのだ。

 

 腰まである長い銀糸の髪。透き通るほど白い肌。紅玉の瞳。スラヴ系の女神のように完成された美貌。藍色のコートハーディを身に纏う凛としたその姿は、正しくお姫様のようだった。

 

 アマルは俺の視線に気付いて、どうしたの? とでも言うように首を傾げた。

 

「いや、アマルってつくづく美人だなぁ、と思ってさ」

 

「……っ、アンディ様。もう、アンディ様ったら。いけません。そのような恥ずかしいことをおっしゃらないで下さい」

 

「別に恥ずかしいことじゃないだろ。事実を言ったまでだ」

 

「ううっ、そのような真っ直ぐな眼で見つめないで。アマルはどんな顔をすれば良いのか分かりません」

 

 笑えば良い、と言いかけて止めた。そうしないといけない気がした。

 

「嘘は言ってないから、言葉をそのまま受け取ってくれ」

 

 無難な言葉をかけると、アマルはさっと頬を染めた。そして潤んだ瞳で、すがるように見つめてくる。

 

「わ、私などアンディ様の足元にも及びません。アンディ様はこんなにも男前なのですから」

 

「あー、そこで俺を引き合いにだすなよ。自分で言うのもなんだけど、俺性格はヘタレだし容姿だってごく普通だぞ」

 

 頭上まで手を上げてヒラヒラ振る。アマルのは完全に痘痕も靨というやつだ。惚れた欲目とも言う。

 アマルはそれを見て、ぐっと前のめりになり目を見開いた。

 

「そんなことありませんっ! アンディ様は優しくて、男らしくいつもアマルを守ってくれます。お顔だって、異国情緒溢れて魅力的です。濡羽のお髪は艶やかで、とても素敵ですわ。お身体だって、逞しくて見惚れてしまうほど素晴らしいです。それに……それにっ、アンディ様の腕で抱き締められ、笑顔を見るだけで、アマルは胸が高鳴って息が止まりそうになります。アンディ様は私にとって世界一の殿方なのですっ!」

 

 口をあんぐり開けた俺に向かって、アマルはひどく真摯な表情をして矢継ぎ早に言葉を発した。拳を握りしめ力説している。本気も本気といった風であった。

 

 ――何だそれ、そんなの……反則だろ。

 

「アンディ様の素敵なところなら、私無限に言えますっ! むしろ、言い足りません。アンディ様、もっと言ってもよろしいでしょうか?」

 

「……いや、もうお願いだから許してください」

 

 真っ赤になった頬を何とか手で覆い隠して、絞り足すようにか細い声を上げた。

 一回り年下の女の子に翻弄されている自分が情けない。でも、不思議と嫌でもなかった。

 落ち着かず身動ぎをすると、椅子代わりに使っているベッドが悲鳴を上げた。俺は頭を掻いて、小さくため息をつく。

 

「……ほんとお前みたいな彼女今までの中で初めてだよ」

 

 俺の呟きを聞いて、アマルは小さく肩を揺らした。勢いよく立ち上がる。椅子が音を立てて倒れた。

 おぼつかない足取りで、無言で俺の横に立つと幽鬼のような瞳で俺を見詰めた。

 

「アンディ様は、私の他にも恋人がいらっしゃったことがあるのですか……?」

 

 これ下手に答えると、まずいような気がする。ただ嘘を付くのも違うように思えた。元カノたちと過ごした時間は無かったことにはできないし、それを否定したくもない。辛いこともあったが、それを含めても良い思い出として俺の中に残っている。だが、それはあくまでも過去の話だ。今の俺にはアマルだけだ。

 

 蜂蜜酒を一気に飲み干して、覚悟を決めた。

 

「……そりゃあ俺も27歳だから、な。今まで恋だって人並みにしてきたし、酸いも甘いも経験して……うおっ!」

 

 全て言い終わる前に、勢いよく抱きつかれてベッドに押し倒される。

 

 身を起こそうとすると、アマルに肩を押されて、噛みつくように唇を奪われた。驚いて口を開けた瞬間、ぬるりと舌が入ってくる。しつこく口内をなぶり、唾液を啜られる。舌は無遠慮に、暴れまわる。相手のことを考えない一方的なキスだった。

 

「っは、ン、アンディ様……んっ、んん……っちゅる、れろ、あんで、ひゃまぁ、もっと、もっと」

 

「むぐっ、こら……んんっ、ん……おい、や、止めろってっ!」

 

 俺はアマルの肩を掴んで、強引に引き離す。

 少女は荒く息を吐きながら、いやいやと首を振った。

 

「やっ、止めないで、離れないでくださいっ!」

 

「お、おい、アマル?」

 

「アンディ様は私の恋人です! 私の、私だけの愛しい人なの!」

 

 再度顔を近づけキスしようとするアマルの頬を両手で包んで押し止める。

 

 私の私のと、壊れたラジオみたいに繰り返すアマル。俺は苦笑して、宥めるように少女の額に唇を落とした。

 

「あのな、全部昔の話だぞ」

 

「……ううっ、知っています。知っていても、許容できないのです。アンディ様の恋人は今も昔もこれからも私だけで良い。私だけが良い」

 

「……はぁ、過去はどうしようもないだろう? お前は神様じゃないんだから、過去は変えられない」

 

「アンディ様、でも、私はーーー」

 

 男は最初の男になりたがり、女は最後の女になりたがるというが、アマルは過去未来現在の全てが欲しいと言う。少し呆れながら、欲張りな少女の頭を撫でて慰める。

 

「そんな悲しい顔をするな。今はお前だけだよ」

 

「……全てを捧げます。私の心も身体もアンディ様が望むもの全てを。だから、ずっと一緒にいてください」

 

「ああ、分かったよ」

 

「アンディ様。私は貴方様を愛しています」

 

 燃えたぎる炎の如く揺らめく瞳が、俺を射抜く。その言葉は何よりも熱くーーー何より重かった。

 

 

 

 



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最後の女

 

 

 ぐずるアマルをなんとか宥めて、食事を再開するのにかなりの時間を費やした。

 なんとか食事を終えたものの、どっと疲れが襲う。俺はベッドに座って、ぼんやりとアマルを眺めていた。

 

 アマルは黙々と、夕食の片付けをしている。

 小鍋を片して、テーブルクロスを畳み、ふきんで机を拭く。執拗なまで丁寧に。そこに一切の妥協はない。何故なら、それが俺に関わることだから。

 

 彼女が俺の身の回りの世話をしようと躍起になるのは、他人に指一本でも触れさせたくないからだ。どこまでも純粋な独占欲がそこにはあった。

 

 修道士が祈りを捧げることに余念がないように、彼女は一心不乱に俺だけに心を砕き、捧げている。

 

 アマルを見ながら、少し目を細める。

 少女は純心なのだ。孤独故に、今まで何かに染まることがなかった。誰もいなかったからこそ、正気でいられた。それだけが、救いだった。

 

 だが、俺が少女を変えたのだ。

 純白を塗りつぶして、彼女のたったひとつの色になった。アマルは生まれて初めて自身を認めてくれた俺を愛し、依存している。そうだ。俺はアマルの孤独を癒した代わりに、暴力的なまでの執着を植え付けたのだ。

 

 アマルが片付けを終えたところで、机を元の位置に戻す。それから一息ついて、少女の名前を呼んだ。

 

 アマルはびくりと身体を固まらせたかと思うと、顔を伏せた。それも数秒のことで、すぐに俺の元に駆け寄ってくる。俺は両手を広げて、そのままアマルを抱き止めた。

 俺の胸に顔を埋めて、アマルは匂いを擦りつけるように頬ずりをする。いや、実際にマーキングしているのだろう。身体全体で、「これは私の男だ」とアピールしているのだ。

 

「……まだ怒ってるのか?」

 

 静かに問いかけると、アマルは面白く無さそうに顔を背けた。従順な少女にしては珍しい動作に、少し驚く。

 

「怒っていません」

 

「本当に?」

 

「……アンディ様には、怒ってなどいません。ただ、貴方様に愛された女人がどうしても許せないだけです」

 

「あのな、それはどうしようもないってさっきも言っただろ。過去が変えられる訳でもないんだから」

 

 頭をひと撫でして、身体を離す。それを阻止しようとアマルは必死ですがり付いてきた。

 

「私がどんな気持ちなのか、アンディ様には分かりませんっ! だって、アンディ様は私だけじゃないもの。どんなに私がお慕いしても、アンディ様の心の中には今までの(ひと)がいる。それが嫌なの! どうしても嫌なの!」

 

「……アマル」

 

 服が熱く、じんわり濡れている。泣いてるんだろう。何かを言おうとして口を開くが、結局かける言葉が見つからなくて押し黙る。言葉の代わりに、少女の頬に両手を添えて顔を上げさせ触れるだけの口づけを落とした。それから涙を舌で舐め取り、不器用に抱き締める。

 

 アンディ様、アンディ様と俺の名前を何度も呼ぶアマル。俺はアマルに聞こえぬように浅く息を吐いた。

 アマルには自信がない。今まで愛されたことがなかったからこそ、自信がない。だから病的なまでも俺に執着し、自身から離れないように独占しようとする。与えられることも、与えることもなかった人生だったのだろう。だからこそ、そんな愛し方しか知らないのだ。それが酷く悲しい。

 

 神様の救いも無償の愛も、少女には届かなかった。

 

 俺はアマルを横抱きして、ベッドに腰かけた。触れると壊れるんじゃないかと思うくらい、柔らかく華奢な身体。頼り無さげな、細い肩をぐっと引き寄せて、存在を確かめるように頬を撫でる。それから、一方的に甘くも優しくもない声音で、話しかけた。

 

「初めての彼女は、中学生の頃だった。お互い友達の延長線で、いつの間にか自然消滅していた。高校でできた彼女が、身体を繋げた俺の初めての相手だった。でもそんな彼女とも大学に進学する時に別れた」

 

 聞きたくないと、耳を塞ごうとするアマルの手を力付くで押さえつけて話を続ける。

 

「大学でも何人かの女性と付き合った。この中で最後に付き合った彼女とは、それなりに長く続いた。一時期は、結婚も考えていた。でも、色々とすれ違いがあって結局そこまでいかなかった」

 

 ぼろぼろと号泣しながら、今にも死にそうな顔しているアマルの顔を静かに見つめる。

 

「なあ、これが全部だ。俺の全部だよ。確かに俺は、付き合うのもお前が初めてじゃない。でも、どれも最後にはならなかった」

 

 涙を優しく拭いて、笑いかける。

 

「……だから、お前が俺の最後になってくれ」

 

「アン、ディさまぁっ……」

 

 最後にアマルの頬を伝った涙は、不思議と暖かった。震える彼女をベッドにそっと寝かして、その上に覆い被さる。

 

 それから水に沈むように少女へと身体を押し付ける。何度も唇を合わせながら、無垢な身体を紐解きその中に深く入り込む。震えるいたいけな両手を励ますように握り、指を絡めた。

 

 

 ―――このまま二人、溶けてしまえばいいのに。

 

 

 祈るような呟きが、耳元を掠めた。

 

 

 

 



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人物紹介

シリアスになりきれない人物紹介。本編の雰囲気大切にしたいなら……分かるな。


 

 ▪️安藤隆(あんどうりゅう) 主人公

 27歳。黒髪短髪黒目。186cm。

 こちらでは、安藤隆という名前の発音が難しいらしく、どう頑張ってもアンドリューと言われてしまう。訂正することも面倒くさいため、もう開き直って自分からアンドリューと名乗っている。

 無自覚年下キラー。庇護欲が強く、年下をこれでもかと甘やかし勘違いさせるタイプ。恋愛感情抜きで甘やかすので余計たちが悪い。

 恋人のアマルとは13歳差。うん、よし、アウト!お巡りさんこっちです!

 

「女性の好みは包容力がある年上の女性であり、自分は決してロリコンではない」

 

 と、心の中で主張している。正直、説得力が皆無。

 

 

 ▪️アマルティア

 14歳。銀髪長髪紅眼。145㎝。

 女神のような絶世の美貌を持つ少女。背が低く胸が大きい、所謂ロリ巨にゅ……いや、トランジスターグラマーな体型。

 修道士達からまるで存在していないかのように扱われていた。そのため初めて会ったときから、自身を認めてくれた主人公に強烈な執着心を抱き依存している。また、嫉妬深く独占欲も強い。主人公以外の人間は死のうが生きようが心底どうでも良い。主人公に出会うまで心を殺して生きてきたため、主人公を通さないと心が動かない。人として歪な思考回路をしている。

 冷涼とした見た目に反して、甘えん坊で泣き虫。主人公ガチ恋勢。(主人公限定)駄目男製造機。主人公に対して超絶構ってちゃん。主人公全肯定ウーマン、と残念要素が度々垣間見える。

 

 ▪️ベネディクト・ボノスス

 ストーンハースト修道院の修道司祭。60過ぎぐらいの痩せ型。大きな鷲鼻が特徴。常に疲れた顔をしている。

 

 ▪️ヨハンナ・スコトゥス

 17歳。長髪金髪青瞳。163㎝。

 凛とした雰囲気の美人。スレンダーに見えて、かなり着痩せするタイプ。どこか浮き世離れした危なっかしい主人公を影で常にフォローしている。修道院の良心。主人公と一番波長が合うのは間違いなくヨハンナだ。 

 実は特にSっ気がある訳ではない。そういう風に接すると、少しは主人公の気が紛れるだろうと思っての行動だったりする。

 

 ▪️サルス・ニールセン

 30歳。修道士。

 真面目で、排他的な戒律主義者。修道院の中では若手。イケメン。アマルティアを蛇蠍のごとく嫌っている。

 

 ▪️フランチェスコ・ポワティエ

 32歳。修道士。

 お調子者。主人公と仲が良いので、良くアマルティアに睨まれている。鈍感なので気付いてない。ある意味強い。アンディにとって、気を使わないで話せる貴重なポジションの人間。主人公曰く、フランチェスコのでっぷりとしたお腹の触り心地は最高らしい。

 

 ▪️カタリナ

 行商人の娘。15歳。

くりくりとした碧眼が可愛らしい女の子。 背中まである明るい茶髪を緩くおさげにして、肩から前に垂らしており、素朴な村娘といった雰囲気を醸し出している。性格は活発で気遣い上手。良いお嫁さんになるタイプ。

 ちなみに、アマルと関係があまり進んでなければ、カタリナの父親に行商人見習いとして弟子入りし、ストーンハーストを出るルートもあったかもしれない。その場合、主人公の年下キラーっぷりが遺憾無く発揮され、紆余曲折あったもののカタリナに押しきられる形で恋人になり、気が付けば夫婦になっていたりする。

 

 

 

 



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第2章 プロメテウスの火焔
プロメテウスの火焔


いつも誤字脱字の訂正ありがとうございます!




 

 

 

 人を哀れみ、神の火焔を与えたプロメテウス(先見の明を持つ者)

 

 それ故、気が遠くなるほど長い長い間。

 

 たった独りで罰を受けた。

 

 けれど、けれどね。    

 

 誰も彼も見向きもしない。

 

 思い出すことすら、忘れはて。

 

 彼は正しく人を愛したが

 

 ―――人は彼を愛しただろうか? 

 

 

 

 ***

 

 

 

 早朝。

 

 窓に差し込む朝日が、目覚めを誘った。

 季節は巡り、もうすぐ夏が来る。

 日が昇る時間もそれにつれて早くなった。灯りをつける手間が省けるから良い。

 

 屈伸をして、隣に眠る少女の頭に顔を埋めた。

 

 花のような、果実のような甘い香り。

 嗅ぎ慣れたアマルの体臭が鼻腔を擽る。

 

 俺はアマルを後ろから抱きしめるように眠っていたらしい。アマルのお腹に手を回して、撫でる。しっとりと吸い付くような肌が心地良い。お互いに一糸纏わぬ姿で身を寄せ合い、ぴったりとくっ付いている。

 

「んっ……アンディさまぁ?」

 

「おう、おはよ。アマル」

 

「はふぅ……ひゃい、おはよーございます」

 

 寝ぼけて、舌足らずな口調で返事をするアマル。寝起きの子犬みたい。可愛い。頭を撫でておく。

 

「んふふっ、アンディさまぁ。もっと、もっと撫でてください」

 

 アマルはくるりと身体を入れ換え、正面から抱きついてくる。それを優しく抱き止めて、背中を宥めるようにぽんぽんと軽く叩いた。ふにゃりと幸せそうに微笑んで、胸板に頬擦りをされた。

 

 可愛い。要望通り、ぐりぐりと頭を撫でおく。雑な撫で方をしているのに、アマルはえへへ、と嬉しそうに頬を緩めた。

 

 こんなことで喜ぶのは、アマルぐらいだ。……いや、もうひとり居たな。ギシリ、と軋む心に気付かない振りをして、俺はアマルに笑いかけた。

 

「ははっ、そろそろ満足したか?」

 

「むぅ、満足してません。まだ、撫で撫でを所望します」

 

 ぷんす、とアマルは無駄に胸を張った。さては、まだ寝惚けているな。

 

 後、胸が当たってるんだよ。大きくて、柔らかい胸が俺の胸板でひしゃげてんだよ。わざとか。わざと、当ててるのか。

 

(いや、こいつそこまで器用じゃないか……。意外と恋愛に対しては、直感で動くタイプっぽいだからな。クールな見た目とはかけ離れた動きをするから、見てて飽きない)

 

 ぽやぽや、とした表情で頬をほんのり染めているアマルを見て、溜め息をひとつ。

 

「アンディ様、撫で撫ではまだですかぁ?」

 

「おいおい、朝から甘えん坊だな」

 

 とりあえず、再度頭を撫でる。今度はもっと優しく宝物を触るような手付きで、ゆっくり頭を撫で回す。

 

「ふふっ……朝だけでは足りません。昼も夜も、アマルはアンディ様に甘えていたいです」

 

「1日ずっとか」

 

「いいえ、死ぬまでずっと」

 

 食い気味で言うアマル。

 俺は少し引きながらも、なんとか笑った。

 

「そりゃあ、頑張んないとな」

 

「はい!」

 

 元気良く返事が帰ってくる。右手で無遠慮にアマルの頭を撫で回した。

 

「アンディ様」

 

 ぽつり、とアマルは名前を呼んで、俺の左手に指を絡めた。何だ? と、聞き返した俺の言葉に答えず、彼女はどこか曖昧な表情を浮かべた。

 

 数秒、沈黙が辺りを満たした。

 アマルは何かを考えているようだった。絡め合った手をじっと見つめて、ぽつりと呟く。返事を期待していないような、そんな小さく頼りない声音だった。

 

「……アンディ様、どうか私より長生きして下さい。アンディ様が先に逝ってしまったら、もう私は生きていけませんから。その時が来たら、ちゃんと私を見送って下さいね」

 

「アマルお前、ほんと気が早すぎ」

 

「……そう、でしょうか?」

 

「ああ、そうだ。ずっと先のことを今悩んでもしょうがないだろ? 明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である、ってキリストも言ってたしな」

 

「はい、アンディ様がそう仰るなら……」

 

 キリストが言うなら、ではなく、俺がそう言うのならと頷くアマルは相変わらず俺しか見ていない。これが通常運転である。

 

 アマルが何を考えていたのかは分からないが、その寂しげな様子をどうにかしてやりたいと思う。

 

 アマルと出会ってもう一年半立つ。最初はまさかこんな関係になるとは思ってもなかった。

 

 初めて出会ったのは、あの礼拝堂で目覚めた時だった。座り込んだ俺を見下ろすように立っていた少女。薄暗い室内が夥しい数の蝋燭に照らされ、幻想的に佇むあの姿は今でも忘れられない。

 

 妖精のように現実離れした容貌。感情が抜け落ちた表情、機械のような変化のない平らな声音。腰まである銀糸の髪と印象的な鮮紅の両眼。完成され、しかしどこか寂寥とした美がそこにはあった。

 

 「綺麗だ」と、思わず呟いた言葉に少女は目を見開いた。

 

 戸惑いながらも、初めて色を持った瞳が食い入るように俺を見つめた。思えば、あの一言がアマルを変えたのだろう。

 

 それから何故か、俺がストーンハーストで世話になることがトントン拍子で決まった。

 

 そしてアマルは、常に俺の側に控えるようになった。

 共に過ごすうちに、どんどん表情が明るくなり、笑顔を見せてくれるようになった。

 恐る恐る握った手を境に、愛情を求めるように引っ付いて甘えてくるようにもなった。それが嬉しくて、俺は更に甘やかした。

 

 そうして気がつけば、アマルから一途な思慕を向けられていたのである。

 

 最初は、勿論受け入れることはできなかった。日本へ帰還することを諦められなかったし、アマルはまだ幼かった。日本では義務教育を終えてすらいない年頃の少女である。現代で培われた倫理観が俺を諌めた。

 

 しかし、アマルの修道院での扱い、その孤独を知るうちに俺は覚悟を決めた。いたいけな少女の想いを受け入れたのだ。

 

 今みたいに身体の関係を持つようになったのは、つい三ヶ月ほど前のことだ。それはアマルが昔の彼女に嫉妬し、泣いたあの日である。

 

 アマルは少女から女へとなった。

 

 溜まりに溜まっていた情欲が溢れ、俺はアマルを押し倒し最後まで致してしまったのだ。しかもアマルが初めてだったのにも関わらず何度も何度も。翌朝、腰が抜け立てなくなってしまったアマルに平謝りしたのは良い思い出だ。

 やり過ぎたことに関しては反省しているが、アマルを抱いたことは後悔をしていない。

 

 人生何が起こるか分からない。日本で暮らしていたときの俺が知れば、間違いなく殴ってでも止めていただろう。俺も変わったものだ。

 

「あ、アンディ様……」

 

 アマルは俺の足に自身の足を絡ませる。そして、俺の顔を上目遣いで見上げて、頬を染めた。

 

「アンディ様が、お元気に。……そ、その、このまま、致しますか?」

 

 その言葉に、目を剥いた。

 下半身に意識を持っていく。朝から節操がなくて、すいません。誰にともなく謝ってみる。

 

「あー、これは朝の生理現象だから、気にするな」

 

「……でも、とても苦しそう」

 

「大丈夫だ。それに……したら、昼まで止まらなくなるだろ?」

 

 耳元で囁くと、アマルは艶っぽいため息を漏らした。強く抱きついてくる少女を落ち着かせるように、そっと唇を合わせる。

 

 

 唇を合わせた瞬間、何故か脳裏に村を焼いたあの業火がちらついた。

 

 

 



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巡礼者と煤

 

 

「アンディ様、今日のご予定は?」

 

 アマルは俺にそっと服を差し出して、控えめに言葉を発した。服を受け取って、着る。それから今日の予定を頭に思い浮かべてみる。

 

「えっと、午前はフランチェスコと一緒に巡礼棟に行って。午後は畑仕事だな」

 

「……そう、ですか」

 

 不安げに俺を見上げるアマル。

 彼女は俺が巡礼棟に行くことを嫌がる。

 

 巡礼棟とは、ストーンハーストにおいて、聖地を目指して旅をする巡礼者たちを宿泊させ歓待する場所だ。

 貧しく徒歩でしか巡礼できぬ者は無料。馬などに乗る財力がある者には料金をお布施という形でもらい宿を提供する。

 また長く過酷な旅では、怪我や病にかかる巡礼者も多く、巡礼棟で治療や見取りも行うのだ。それ故、巡礼棟を常に清潔に保つことは修道院にとって重要な責務と言える。

 

 今回は定期の掃除ではなく、数日前に久しぶりに訪れた巡礼者の世話をしに行くのと言うわけだ。

 

「何もアンディ様が、そのようなことをなさらなくとも……」

 

「いや、良いんだよ。俺は外の人と話せて楽しいし、気分転換になる」

 

「……アンディ様がそう仰るなら」

 

 あからさまに、肩を落とすアマル。

 彼女は外から来る巡礼者と俺をできるだけ会わせたくはないのだろう。俺が修道院の外に興味を持ち、ここを出て行ってしまう可能性を少しでも除外したい、そんな理由からだと思う。

 

 健気と言うか、不安症と言うか。あれだけ身体を重ね、愛を交わしてるのにまだ足りないのか。

 へちょりと、眉を下げ落ち込むアマルの額に軽くデコピン。

 

「ううっ、アンディ様ぁ」

 

 額を押さえて、泣き言を言うアマルに苦笑する。

 

「心配しなくても、巡礼者について外に出て行ったりしないよ」

 

「……本当ですか? 絶対、絶対ですよ?」

 

「本当で絶対だ。俺はお前を置いて行かない。何度だって神様に誓うさ」

 

 アマルはそれを聞いて安心したように微笑んだ。そして子犬が尻尾を振って飛びかかってくる、そんな勢いで抱きついてくる。きっちり受け止めて、抱き締め返す。

 

「……というか、毎回このやりとりしてるだろ。いい加減、自信持てよ」

 

「アンディ様……でも、私どうしても不安で」

 

「……はぁ、仕方ないなぁ」

 

 ぐりぐりと子犬を可愛がるが如く頭を撫でる。アマルは心地良さげに鼻を鳴らした。それから俺の服を控えめに引っ張って、キスのおねだり。俺は要望通り、顎に手を添えて上を向かせ、薄桃色の唇に軽くキスを落とした。

 

 静かな室内に、艶かしいリップ音が響く。それに酷く興奮を覚えるが、下っ腹に力を入れて我慢する。

 

「んっ、アンディ様もっとして欲しい、です」

 

「……駄目だ、まて、おあずけ」

 

 もっと、とねだるアマルを引き離す。

 アマルは頬を膨らませて上目遣い。そんな顔をしても駄目なものは駄目だ。

 

「夜に嫌と言うほどしてやるから我慢しろ」

 

「……約束して頂けますか?」

 

「ああ、約束する」

 

「なら、我慢致します。……アンディ様、私の愛しいお方、アマルはずっとここでお待ちしていますから」

 

「分かった。できるだけ早く帰る」

 

「ええ、お待ちしております」

 

 今度は少し強めに抱き締める。アマルは俺に身体を預け、顔を胸板に擦り付けた。

 

 

 ***

 

 

 巡礼棟は、ゴシック調の修道院とは違いシンプルな作りだ。

 石造りであることは変わらないが、二階建て民家のような暖かみがある印象。俺とフランチェスコは巡礼棟に入り、巡礼者の元を尋ねた。

 

 吹き抜けの居間に俺と同じ歳ぐらいの女性が、長机に両手を置いて祈りを捧げていた。彼女は俺たちの姿を認めると、立ち上がって礼をした。俺も小さく頭を下げる。

 

「こんにちは、ソフィアさん」

 

「……ああ、修道士様。わざわざ、足をお運び頂き感謝致します」

 

「そんなに畏まらなくて良いですよ。……えっと、その後体調はどうですか?」

 

「ええ、おかげさまでもうすっかり良くなりました」

 

 女性の名前は、ソフィア・ロメさん。

 数日前、息も絶え絶えにストーンハーストを訪れた巡礼者だ。長い旅で、体力が削られかなり衰弱していたが看病の末、なんとけ歩けるまでに回復したのだ。

 

「病み上がりだから、あんまり無理してはいけませんぜ」

 

「フランチェスコの言う通りだ。ベッドに寝て安静して下さい」

 

「……はい、ご面倒をお掛けいたします」

 

 恐縮しきりで頭を下げるソフィアさんに、意識して笑う。

 

「面倒なんて思ってないですよ。俺は貴女が心配なだけです。いまは気にせず、ゆっくりと休んでください」

 

「はい、感謝申し上げます」

 

 柔らかく瞳を細めて、ソフィアさんは十字を切った。それから、今一度深く頭を下げて、二階にある寝室へと上がっていった。

 

「にしても、ソフィアさん元気になって良かったな」

 

「ええ、そうですね。女の一人旅だ、苦労も多かったでしょうし。今はたんと休ましてやりやしょう」

 

 フランチェスコはそう言って、にかりと笑った。俺もそうだな、と頷く。

 

 二人して掃除に取りかかる。

 箒で床を掃き、布巾で机や家具を拭いていく。暖炉の炭を回収し、畑に撒く。それを数回繰り返す。顔も手も真っ黒だ。

 

 フランチェスコは天井のクモの巣を箒で取り払いながら、俺の姿を見て笑った。腹が立ったので、フランチェスコの額に煤にまみれた手で肉と書く。困ったように眉を潜めるフランチェスコを見て、俺は満足げに鼻を鳴らした。

 

 

 



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二者択一

 

 

 一通りの掃除を終えて、俺は息を吐いた。

 

 巡礼棟がなまじ広い分、掃除もなかなかどうして大変だ。元々、掃除が苦手な性分の俺にはちと辛い。 

 

「お疲れですかい? 相変わらず、ひょろっこいですねぇ」

 

「……お前から見たら、ほとんどの人間がひょろっこいだろが」

 

 横に立つフランチェスコの丸々とした腹を軽く小突く。

 

「はっはっは、ちげぇねぇ!」

 

 フランチェスコはお腹をぷるぷると震わせて笑った。プリンみたい。いや、それはプリンに失礼か。

 テーブルの前に無造作に置かれた椅子に腰かける。椅子は固く座り込み心地が良いとはお世辞にも言えないが、立ちっぱなしよりよっぽどマシだ。

 

「フランチェスコも座れよ。なにちょっとくらい休憩しても、慈悲深い我らの神様なら許してくれるさ。アーメン」

 

「ならば主に感謝して、あっしも一休みさせて頂きやしょう」

 

 二人して椅子に座り、深いため息をつく。身体を弛緩させて、瞼を閉じた。俺は二階の寝室で休んでいるであろうソフィアさんのことを思い浮かべていた。

 

 金色に近い茶髪のしっとりとした雰囲気。痩せぎみだが、それを差し置いてもかなりの美人だ。そんな女性が聖地まで一人で旅するなんて、並大抵のことではない。

 

「なぁ、フランチェスコ。ソフィアさんみたいな女性の巡礼者って結構多いのか?」

 

「いや、いない訳ではないんですがね。大抵、夫や家族、あるいは侍従と共で、女一人旅ってのはかなり珍しいですねぇ。なにかと、道中は危険がつきものですから」

 

「……やっぱりか」

 

「ええ。獣や盗賊は勿論ですが、事故や病気、そして食料がなく、途中でのたれ死ぬ者なんてごまんといますよ」

 

 思わず眉をひそめる。

 この世界は旅と安全は決して対になるものではなかった。

 

 そもそも、道が整備され、道中の安全が約束されたのも近代になってから。それまでは、旅というものは常に死と隣り合わせだった。危険な道程だからこそ、巡礼者たちはその旅に意味を見出だしたのかもしれない。

 

 フランチェスコは、それにと言葉続ける。

 

「―――それに、一晩の宿を求めて訪ねた村だって、絶対に信用できると言えば決してそうではありません。……嫌な話ですがね。村人が金目の物目当てで、巡礼者の身ぐるみ剥いたあげく、凌辱し殺すなんて話、どこでも転がっていやすから」

 

「そりゃ……酷いな」

 

 いや、日本でも似たような話があったような。

 ……たしか「六部殺し」といったっけ。

 

 六部とは、お経を納めに諸国霊場を巡礼する行脚僧のことだ。そして、それに関わる日本の昔ばなしが「六部殺し」である。

 

 その内容は、こうだ。

 旅の六部に一晩の宿を貸した百姓は、彼が金品を多く所持していることを知ってしまう。百姓は金品を欲しさに六部を殺し、身ぐるみを奪い、それを元手にして財を成した。しかし、後に百姓の家に生まれた子供が、ある晩こう言った。

 

「ーーーお前に殺されたのもこんな晩だったな」

 

 ……なんと、子供は殺した六部の生まれ変わりだったのだ。物語はある意味衝撃的な幕引きを迎える。

 

 これも民俗学を専攻していた友人から教わったことなのだが、村という閉ざされた社会の中で「あいつの家だけ、儲かるとはおかしい。きっと悪いことをして、金を手に入れたに違いない」といった周囲からの妬みが、六部殺しの逸話に、色濃く反映されたのだ、という説があるらしい。これは西洋の魔女狩りにもみられるものだ。

 

 ……話がずれてしまったな。

 

 つまるところ、そういう話は日本固有のものではなく昔からヨーロッパでもあったのだ。人というのは、場所や人種は違えど本質は変わらないということかもしれない。

 

「まぁ、でも。ソフィア殿は初めての巡礼ではなさそうなので、危機管理に関しては大丈夫でしょうや」

 

「……なんだ、本人に聞いたのか?」

 

「いいえ。でも彼女は、ソフィア・()()と名乗ったでしょう?」

 

「ああ、そうだが、それがどうしたんだ?」

 

「ロメ、というのはですね。通称で『ローマを巡礼した者』という意味なんですよ。どうやら、ソフィア殿は相当敬虔な信者らしい」

 

 顎に手を添えて、ふむふむと頷くフランチェスコを尻目に首を捻る。

 

「あれ、ロメって名字じゃなかったのか?」

 

「はぁ、黒殿は本当に世間知らずですねぇ。名字なんて貴族じゃあるまいし、ただの平民が持っている訳ないでしょうが。たいてい、生まれ育った場所や職業、通称などを名乗っているだけですよ。あっしのポワティエは生まれ育った場所ですし」

 

 フランチェスコは呆れ顔。

 あー、レオナルド・ダ・ヴィンチみたいなやつか。ヴィンチ村のレオナルドさん的な。

 

 俺は頭を掻いて、誤魔化し笑いをする。この地の文化をほとんど知らないので、俺は良く頓珍漢なことを言ってしまうらしい。しかし、それは仕方がない。俺は彼らと、国も違えば人種も違うし、何よりずっと未来の人間だ。いや、もしかしたら世界すら違うかもしれない。

 

 過去にタイムスリップしたのではなく、全く別の次元、別の世界へと迷い混んでしまったのかもしれない。

 小説であるようなファンタジーな異世界のイメージではなく、平行世界。オルタナティブの先、あり得たかもしれない数多の世界のひとつ。それが俺の今いる世界。

 

 超自然的な事象が起こりうる世界線。似ているようで、非なる世界。そういう意味での異世界。

 

(まあ、これは考えすぎか……)

 

 俺は考えを振りきるように、椅子から立ち上がって、ぐっと背伸びをした。

 

 

 



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清潔を得よ

 

 

 思いの外、早くに畑仕事が一段落した。

 いつものように、汗を井戸で流す。井戸水を頭から被って、火照った身体を冷やす。身体を念入りに洗ってから、滴り落ちる水滴を身を震わせ払い落とした。

 現代の衛生の知識を持っている身としては、清潔に人一倍気を使う。

 

(病気になると、まともな治療が受けられないから気を付けないといけないな。現代なら問題ないちょっとした風邪や伝染病でもここでは命取りになる)

 

 公衆衛生が発展したのは、産業革命以降のことだと記憶している。それは鉄道などの交通機関の発展や工場を中心とした都市の発展。さらにその都市に働き口を求め、農村部の人口が流れることにより、感染症が流行したためであった。

 

 逆に、中世ヨーロッパではキリスト教的思想から、疫病はあくまでも神の意思であり、懲罰であると考えられていた。つまるところ、信じる者は救われる。救われないのは、神への愛が足りないからだ……と言う訳である。

 

 なぜ疫病が起こるのか、というそもそもの原因に目を向けることはなく、予防という概念すら存在しなかった。医療はキリスト教思想の支配下に置かれ、停滞していたと言える。

 

 その停滞が疫病による多くの死者を生んだのは、ある意味当然の帰結であろう。それどころか、疫病自体を神の懲罰としながらも、目には見えない恐怖を消化するため人々がとった行動は、他者への攻撃であったのだから全く始末に終えない。

 

 不幸なことに、金貸しなどが多く富裕であったユダヤ人は、その差別の矛先に立たされることになる。

 また、宗教的狂気は黒死病を恐れる民衆によって、魔女狩りという形で大量虐殺を招いたのだから、公衆衛生の概念が如何に大切か伺い知れることができる。

 

 宗教に基づく正義は正統であるが、異端にもなり得る。つまるところ、何を善とするか悪とするかはその時の時世や社会背景、各々の文化によって変動する。正義とは、そんな二律背反で不確かなものなのだ。

 

 そこまで考えて、俺は思わず身震いをした。

 宗教というものは、考え方によって人を救うこともあれば、人を殺すこともある。信仰そのものは悪ではない。問題は、信仰が盲信や狂気にすり変わることなのだ。

 

(……取り扱いには、十分注意ってことだな。でも、こんなこと考えてること自体アウトなんだろうけど)

 

 公衆衛生もそうだが、科学的思考を持つ者は弾圧された時代だ。地動説を唱えたガリレオも、聖書の教義に反するとされ異端審問を受け有罪となった。なんにせよ、中世ヨーロッパは知識人にとって、生き辛い世の中だったのは間違いない。

 

 特に、キリスト教は排他的な思想だ。現代の価値観を持つ俺は弾圧の対象になるだろう。だからこそ、息を潜めじっと隠れていなければならない。下手なことを言って、罰せられるのは勘弁願いたい。

 禁固刑ならまだしも……いや、禁固刑も本当に嫌だが、それ以上に処刑なんてされたら目にも当てられない。

 

 現代でさえ、LGBTQであると言うだけで、異端とされ犯罪として刑罰の対象になり、最悪死刑が規定されている国もあるのだ。その根本には宗教が関わっているのは公然の事実だ。それが中世ともなれば、もっと根深いだろう。

 

 触らぬ神に祟りなし、とはまさにこの事である。

 

 

「――ーそこで間抜けに立ち呆けていると、風邪を引きますよ」 

 

 

 涼やかな声音。

 冷たいながらも、どこか柔らかい口調。

 

「……誰が間抜けに突っ立ってるって?」

 

 振り返る。

 濃い金髪、蒼穹の瞳。

 辛辣な物言いに相反して、優しげな表情。

 俺の顔を見て、ヨハンナは微かに唇を緩めた。

 

 こいつ、俺が井戸で水浴びしているときに高確率で出現するな。そんなに見たいのか。

 

 ……嘘です、すいません。

 

「誰もなにも、それはご自身が一番分かっていらっしゃるでしょう?」

 

 そんなことも分からないのですが? と、首を傾げて、こちらを見つめてくる。可愛らしい動作なのに、可愛くない。何なら、口元が蠢いてる。どう見ても、俺の反応を見て楽しんでるぞちくしょうめ。

 

「……うっせ、このドSが」

 

 ボソリと呟いた俺の言葉を聞いて、ヨハンナは悪戯をした子どもを嗜めるような顔をした。怒っているふりをしながらも、瞳は微睡みの中にいるように穏やかだった。止めろ。そんな優しい顔をするな。ときめいちゃうだろうが。

 

「そんな乱暴な言葉を使うなんて、あまり感心しないな」

 

 そっぽを向く。

 無言の抵抗である。

 

「ふふっ、黒殿は本当に意地っ張りな殿方だ……」

 

 笑い声が聞こえた。

 頬に手を添えられ、顔を正面に向かされる。子ども扱いか。ヨハンナは微笑んでいた。水滴を拭うように、頬を何度も撫でられる。恥ずかしくなって、両手で彼女の手を掴んだ。

 

「馬鹿、止めろ。……その、恥ずかしいだろ。というか距離が近い」

 

「恥ずかしがることは何もありません。風邪を引かれたら困りますから、こうしているだけです。黒殿は基本だらしないですから」

 

「お前は俺のオカンか!」

 

 ヨハンナは俺の両手を優しくほどいて、ぺちりと頬を叩いた。

 

「誰が貴方の母親か。私はまだ18です。こんな大きな子を持った覚えはありません」

 

「……えっ、ヨハンナって、18歳なのか? サバ読んでない?」

 

「喧嘩を売っているなら買うが?」

 

 いらっとした口調。怒ってらっしゃる。女性に年齢の話しは禁句だったか。僅かに細められた瞳が、嘘ではないことを物語っていた。

 

「本当なのか。本当に18歳? 本当に本当?」

 

「ええ、本当ですが何か問題でも?」

 

 ヨハンナはそう言って、両手を軽く握り前に出す。その構えは、まごうことなきファイティングポーズ。す、隙がない。というか、何故修道女が迷いなくファイティングポーズを構えられるの? 末恐ろしいわ。勝てる気がしない。勝とうとも思わない。

 

 俺は両手を上げて、直ぐに降参した。

 だから、武装解除をお願いします。

 

「スゥーーーいえ、問題ありません。ごめんなさい。謝るから拳下げて、その厳つい構えを解いてくださいお願いします」

 

「……はぁ、全く貴殿は」

 

 何が厳つい構えだ、とヨハンナは苦笑して、拳をさげた。許してくれたらしい。そもそも本気ではなかったのだろう。このお茶目さんが! 

 

 しかし、まさかヨハンナが未成年だったとは。いや、まあ、ここでの価値観でいうともう大人なんだろうが、俺的にはアウトだ。

 

 数え年で18歳ならまだ17歳ってことだろう?

 若っ、若すぎる。

 

 アマルもそうだが、ヨハンナも大人びていて20代前半ぐらいだと思ってた。西洋人だから余計そう見える。逆に俺は若く見られているのかもしれないな。嫌な予感がするが、一応聞いとくか。本当に嫌な予感がするが。

 

「なぁ、ヨハンナ。ちなみに俺って何歳ぐらいに見える?」

 

「何ですか、突然。……そうですね。私と同じぐらいの歳、でしょうか?」

 

 思わずしゃがみこんで、ため息を吐く。嘘だろ。思ったより、ずっと若く見られてた。

 

 上目遣いでヨハンナ見上げ、唸るように呟いた。

 

「俺、今28歳だから。数えでいうと、29歳か。お前より10歳は年上だ」

 

「……それは、誠ですか?」

 

「おう、本当も本当だ。アジア人は若く見られるから、しょうがないけど」

 

「その……も、申し訳ありません。私、てっきり同じぐらいか年下だと思って、失礼なことを……」

 

 目に見えて、狼狽えるヨハンナ。わたわたと、腕を行ったり来たりさせている。慌てすぎ。

 あー、同じか年下だと思ってたから、今までこうやって絡んできてくれたのか。

 

「確かにお前より年上だけど、気にするな」

 

「しかし、私は貴殿に対して礼に欠けた行いをしていたのですよ……?」

 

「俺はお前とこうやって、気安く話すのが嫌いじゃない。……だから良いんだよ。そのままのヨハンナでいてくれ」

 

「ーーー分かりました。寛大な貴殿に感謝を」

 

「そんなことで感謝しなくても良いよ。ヨハンナは真面目だな。……でも、まぁ、それが本当にお前らしい」

 

「黒殿……」

 

 ヨハンナはしゃがみこむ俺の顔を、まじまじと見つめて頬を染めた。潤んだ瞳で、すがるように瞬かせた。

 

 彼女のその表情を見て、やましいことは何もないのに、妙な罪悪感に見舞われた。それはヨハンナの女性らしい表情に、不覚にもときめいてしまったからだろうか。

 

 俺はそっと目を伏せ、アマルを心に思い浮かべて耐えるように目を瞑った。

 

 

 

 

 




誤字脱字の訂正ありがとうございます(五体投地)


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白昼夢

 

 

 

「……いつまで、そうしているおつもりですか?」

 

 そのヨハンナの声に、伏せた顔を上げる。それから直ぐに、目の前に手が差し出された。

 ぼんやりその手を眺めていたら、急かすように更に手を伸ばしてくる。掴まれということだろう。しゃがみ込んでいる俺を引き上げようとしてくれているのか。俺は手を握った。思いの外、強い力で引っ張りあげられる。

 

「……うわっ!」

 

 その力強さに驚き足を取られ、バランスを崩してしまった。しかし、即座に転けそうになる身体を細い腕が抱き止めた。ふんわりと、爽やかな柑橘類の匂いが鼻を掠める。ヨハンナが抱き止めてくれたらしい。何とも頼りになる女だ。俺は彼女にお礼を言おうと、口を開きそのまま固まった。

 

 視界がぼやけ、世界が歪む。

 

 ―――どくり

 

 胸が大きく鼓動する。

 頭が沸騰する。

 ノイズが走る。

 

 空。

 空だ。

 真っ赤な空。

 汚泥にまみれた、空。

 

 見えない。

 聞こえない。

 触れられない。

 

 ……ああ、でも、そこに()()のだろう?

 

 だからこそ、見てはならぬ。聞いてはならぬ。触れてはならぬのだ。

 

 どくり。

 どくり。

 どくり。

 

 胸が、蠢く。

 血液が、洪水のように身体を循環する。

 呼吸はしているのに、息ができない。

 瞳を閉じているのに、空が落ちてくる。

 

 

 

 あの、黒い―――

 

 

 

「く……くろ、ど……黒殿、大丈夫ですか?」

 

 ヨハンナは俺を抱えて、心配そうに顔を覗き込んでくる。

 

「すいません、勢いをつけすぎてしまいました」

 

「えっ……ああ、うん。大丈夫だ」

 

 俺は体勢を立て直して、不器用に微笑んだ。いつの間にか、心臓を握るように押さえていた手を離す。吐息を漏らし、片手を上げた。

 

「……悪い。足を踏み外した。ヨハンナも大丈夫か? 俺、結構重かっただろう?」

 

 ヨハンナは無言で首を振ると、背伸びをして静かに両手を俺のこめかみに添えた。

 

「お、おい、ヨハンナ?」

 

 驚いて手を払おうとした俺を視線で制して、優しく揉み解す。俺は身体を屈ませる。じんわりと暖かい。緊張した身体が緩む。 

 

「……こうすると落ち着くでしょう? 黒殿、少しは楽になりましたか?」

 

「ああ、気持ちいい。すごく落ち着くな、これ」

 

「ふふっ、それは良かった。……貴殿には、無闇やたらと幸せそうで間抜けな表情が良く似合う。だから、そのような顔をしないように」

 

 透き通った蒼い眼。その眼は、凪いだ水面のように穏やかだった。

 

 困ったな、と心の中で呟く。ヨハンナは俺に対して辛辣な言葉遣いをするが、いつだって俺を慮ってくれている。それを自覚すると、少し気恥ずかしい気持ちになる。

 

「一言余計だが……えっと、んん、まぁ、なんだ。その、あり、がと、な」

 

「……はぁ、流石にぎこちなさすぎでは?」

 

「うるさい。これが俺の精一杯だ。文句を言わずに、俺のお礼の言葉を受け取りやがれ」

 

 貴殿も大概素直じゃないな、とヨハンナは苦笑した。それはお互い様だろう、と憮然とした口調で言葉を返す。ああ、と彼女は頷いた。確かにそうかもしれない。そう言って、今度は綺麗な笑みを浮かべた。

 

「何はともあれ、貴殿の気がまぎれたなら重畳です。黒殿、良いですか。どうしようもなく、辛いことがあるなら私に言うのだぞ。私にできることがあるなら、遠慮する必要はない」

 

 その言葉を聞いて、俺は無性に泣きそうになった。

 

「なら、もう少しこうしてもらって良いか?」

 

「ええ、貴殿がそれを望むなら」

 

 瞳を閉じて、ヨハンナの両手に集中する。

 

 先程のような白昼夢を最近よく見るようになった。大体、三ヶ月前ぐらいからだろうか。

 

 白昼夢は時が経つにつれ、どんどんスパンが短く、内容が長くなってきている。まるでこちらを追いかけてくるかのようだ。

 

 白昼夢を見る条件や時間帯は、統一性はなくランダムだ。だからこそ、無防備になる。

 

 白昼夢の先に、何がいるのだろうか。正体が分からないからこそ、恐ろしい。いや、正体が分からないからこそ、正気でいられるのかもしれない。

 

 そう考えを巡らさせていると、何故だか分からないが、思考が水彩のようにぼんやりしていく。まるで、自分が自分じゃなくなっていくような感覚だ。これは喪失感だろうか? それとも、溶けて消えてしまうような寂寥感。ひとつに混ざり合う……あれ?

 

(……今、俺は一体何を考えていたんだろう?)

 

 ああ、別にそんなことどうでも良い。どうでも良い。何も考えなくて良い。そうだ。ずっと、いつまでも、そうしていれば良い。……君は、それで、良いのだ。

 

 心が蠢き、囁く。

 

 ああ、ここは――ひどく寒い。

 

 俺は無意識に暖を求めて、すがるように目の前のものをかき抱く。「ひぁっ」っと、短く悲鳴が聞こえた。でも、そんなこと構いやしない。更に力を込める。柔らかい何かを逃がさないように、覆い被さる。

 

 腕に抱いたものは少し身動ぎをしたが、それだけだった。そっと背中に手を回され、優しく撫でられる。

 

 それに、少し安心した。

 

 

 ***

 

 

 気が付くと、見慣れた天井だった。

 

 起き上がろうとすると、胸に乗った何かが邪魔をした。視線を走らせると、銀色の豊かな長い髪が俺の胸板に流れている。アマルは俺の胸に顔を寄せて眠っていた。俺はアマルの身体を抱き止めて、ゆっくり身体を起こす。

 

「んにゅ……ふぁ、んでぃさまぁ」

 

 アマルは薄く瞳を開ける。むにゃむにゃと弛緩した口調で俺の名前を呼んだ。俺は思わず笑って、頬にかかった髪を指で払ってやる。

 

 暫くそうして抱き合って、やっと覚醒したらしい。アマルは俺の首に腕を回し屈まさせると、キスを降らせる。

 

「んっ、アンディ様……ヨハンナ・スコトゥスから、貴方様が倒れたと聞いて心配でっ」

 

 矢継ぎ早に、キスをされて目を白黒してしまう。

 俺はアマルの肩を叩いて、引き離す。

 

「こら、キスするか喋るかどっちかにしろ」

 

「なら、口付けを致します。んっ」

 

 即答して、追いすがってくるアマルの額を押さえストップをかける。こいつ最近、見境ないな。

 

「おい、待て!」

 

 手を掲げて、待てのハンドサインを送る。

 

 きゅぅん、と甘えるように鼻を鳴らし、お行儀良く止まったアマル。身体を離すようにアイコンタクト。アマルは眉を下げ、しょんぼりと身を離した。最近ますます、犬染みてきたな。

 

 そわそわと肩を揺らしながら、アマルは上目遣いで俺を見る。唇が先程の行為で、濡れ艶やかに光っている。思わず喉が唾を飲み込んだ。努めて目を反らし、俺はアマルに問いかけた。

 

「なあ、俺はどうなってたんだ?」

 

「……ヨハンナ・スコトゥスは、アンディ様が話している最中に倒れられたと言っていました。おそらく畑仕事の後、日に当てられたのだろうと。彼女がアンディ様をここまで背負って連れてきたのです」

 

「まさか、ヨハンナと話したのか?」

 

「いいえ……扉の向こうで、そう言っていただけです」

 

 やはり直接、話していないのか。独り言なら会話にならない。ヨハンナはそうしたのだろう。

 

「あの、アンディ様、もう……よろしいですか?」

 

「えっ? おう、そうだな」

 

「その、アマルはちゃんと待ちましたので、ご褒美が欲しいです」

 

 子犬のように勢い良く飛び付いてくるアマルを受け止めて、落ち着けと背中を軽く叩く。アマルが身体を擦り付け執拗にマーキングしているのは、俺を背負って運んでくれたヨハンナの匂いが付いているからだろう。

 

 気づけば、アマルは俺の顔をじっと見詰めていた。その期待を帯びた眼差しに、根気負けして心の中で白旗を上げた。

 

「分かった分かった……で、ご褒美に何が欲しいんだ?」

 

「口付けを……それから、その」

 

「……お気の召すままに」

 

 全てを言う前に、察してアマルの華奢な身体を抱き寄せる。それから深いキスを交わし、俺はふと思う。

 

 そういえば、白昼夢を頻繁に見だしたのは、3ヶ月前。ちょうど、初めてアマルを抱いた頃じゃないか。

 

 何故かそれが無関係だと、俺にはどうしても思えなかった。

 

 

 



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死んでもいいわ

 

 

 

 

 この地上で争いが絶えないのは、神への祈りが足りないからだ、と誰かが言った。

 

 ――いいえ、それは違う。

 

 たとえ私たちが何百何千の蟻を踏み潰しても、それを悲しむことはないでしょう。気付くことさえないでしょう。

 

 そう……神にとっての蟻は人なのです。

 故に争うが争いまいが、生きようが生きまいが、そこに何の意味もない。何の価値もないのです。

 

 祈りが足りないのではない。

 ただ、届かないだけなのです。

 

 私たちが人である限り、決して届くことはないのです。

 

 ああ、だからこそ高みを求めなさい。

 

 救いとはそこにたどり着けて初めて、得られるものなのですから――― 

 

 

 ***

 

           

 アマルの頭を撫でながら、俺は行為の余韻に浸っていた。華奢で小さな身体なのに、驚くほど良いプロポーションの身体。それを押し付けるように抱き付いてくるアマル。張りのある滑らかなアマルの肌がぴたりとくっつく。

 

「……アンディ様」

 

「ん、なんだ?」

 

 首を傾げる。アマルはそんな俺を見て、愛しくて堪らないと言うように瞳を細めた。

 

「アンディ様、アマルは今とても幸せです」

 

「……そっか。それはなによりだ」

 

「はい。私、こんな幸せになれるなんて、以前は思ってすらいませんでした。……アンディ様が隣にいてくれるなら、他に何もいらない。他の誰もいらない。アンディ様だけで良い。貴方様が私に微笑みかけ、優しく抱き締めてくださるなら、もういつ死んでもいいの」

 

 アマルは静かにそう言った。優しく穏やかな世界を彼女は、俺を通して見出だしたのだろう。それはどこか歪で、どこまでも純粋な想いだった。

 

「――お前、まるで二葉亭四迷みたいなこと言うんだな」

 

「フタバテイ、シメイ……ですか?」

 

「ああ。俺の国の文豪だよ。彼は外国の書物の一節に出てくる『私はあなたのものよ』という言葉を『死んでもいいわ』と訳したんだ。それは『愛してる』を『月が綺麗ですね』と訳した別の文豪の言葉の返しとして有名なんだけどな」

 

「ああ、それはとても素敵ですね……」

 

 アマルはうっとりと頬を緩めた。女子はこういう話題好きだよな。それは時代も国も変わらずというやつだ。

 

「そうか? まあ、日本人はそんなストレートに好意を伝えることはあまりしないからって、あえてそう訳したんだろうけどさ。正直、回りくどくないか?」

 

「そう、でしょうか……」

 

 アマルは何かを思案したように目を閉じた。それから数秒して、開眼すると真っ直ぐに俺の瞳を見詰めた。その真剣な表情に思わず背筋伸ばす。

 

「アンディ様、月が綺麗ですね」

 

「……もう死んでもいいよ」

 

「ーーーーッ!」

 

 アマルは身体を震わせ、軽く足を踏み鳴らした。どうやら、嬉しすぎて悶絶しているらしい。アマルにしっぽがあったら、全力でバタバタ振っている。

 

(何が『死んでも良いわ』、だ。正しい翻訳は『あなたのものよ』だろうが。……いや、まぁ、それも相当甘い言葉だけど。何にせよ、恨むぞ二葉亭四迷。このロマンチストの文豪家め)

 

 即座に反応できた自分を褒めてやりたい。普通に告白するより、こっぱずかしい。顔が熱くなる。この時ばかりはにっこりと嬉しそうに笑うアマルが恨めしかった。

 

「……アンディ様と一緒なら、こんな汚泥にまみれた世界でも美しく見えるのです。だから最後の瞬間でも、私はきっと笑って終われるでしょう」 

 

「あんまり縁起悪いことばかり言うもんじゃないぞ」 

 

 諌める俺の顔を見て、アマルは微笑んだ。それから、俺の胸板を指先でなぞりあげる。

 

「ふふっ、すいません。……でも、本当のことだもの」

 

 お淑やかな声音なのに、俺の胸を撫でる仕草は娼婦のように色っぽい。十代中頃の娘とは思えない色気だ。俺を撫でる手を取って、指を絡ませる。

 

「……まったく、そんなこと言うならアマルを最後の女になんてしてやらないからな。お前が死んだら、すっかり忘れて、別の女と付き合って結婚する。それでも良いのか?」 

 

 冗談めかして言った俺の言葉を聞いて、アマルは目を見開き、数秒フリーズした。それから、すぐに大きく肩を震わし、涙を流した。嗚咽しながら、すがり付いてくる。

 

「い、いや! いやです! そのようなことおっしゃらないで、お願い、お願い……うっ、ひっく、私、わたくしの、わたしくだけのアンディ様なの。アンディ様、アンディ様っ」

 

「あー、冗談に決まってるだろ? 泣くな泣くな。悪かった。……でも、それが嫌ならちゃんと長生きしてくれよ?」

 

 背中を撫でて落ち着かせる。抱き締めて、涙を拭いてやる。強く抱き締め返された。

 

「します。しますから、約束。約束してください。他の女のところになど行かないと……っ。アマルだけだって!」

 

「あ、ああ、分かった。……約束だ」

 

 蒼白な顔を上げて、アマルは俺を見た。涙で晴れた瞼が痛々しい。俺のちょっとした一言で、ここまで情緒不安定になるのだから発言には気を付けないといけないな。自身を戒める。

 

 錆び付いた声が聞こえた。

 

「アンディ様……ごめんなさい。でも、止められない。どうしようもないの。愛しています。ずっと、ずっと。だから……愛して」

 

 どんなに愛を交わしても、どんなに愛を誓ってもアマルは常に恐れているのだ。幸せの真ん中で、いつかかならず終わりが来るのだと膝を抱えて震えてる。

 だから、俺が側にいるうちに、死んでしまいたいと言うのだろう。死んでしまいさえすれば、少女の中で俺は永遠になるからだ。

 

 置いていくくせに、俺に対して「アマルだけだ」と約束を求めることに罪悪感を覚えている。それでも尚、言わずにいられない。

 

 そんなアマルを、俺は絶対に幸せにしてやりたい、と思った。もう怯えないように、震えないように、泣かないように。不器用でも、ぎこちなくても、情けなくても、手を握って彼女の悪夢が覚めるまで。

 

 いや、覚めてからもずっと一緒にいると笑うんだ。

 

 

 

 



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閑話 アマルティア

 

 

 

 ―――祈りを捧げる。

 

 

 礼拝堂の石床に躓く。無機質な冷さに一瞬目を細め、息を吐くことでそれを誤魔化した。

 

 空々しくも敬虔さを装って、両手を掲げる。神を仰ぎ、拝領を受け、恭順を示す。毎日繰り返されるその動作を機械的に行う。そこに私の意思も感情も入ることはない。

 

 目には見えない何かを、魔として人は恐れる。

 目には見えない何かを、神として人は信仰する。

 

 その違いは、一体どこにあるのだろう。

 

 自問自答を繰り返す。

 いや……私は答えなど最初から求めていない。それが、魔であれ神であれ、私の唯一になることはないのだから。

 

 私が本当に敬い、慕い、祈りを捧げるのは、あのお方ただひとり。

 

 私の唯一。

 私の光。

 私の主。

 私の……愛するアンディ様。

 

 頼りなく揺れる蝋燭の光は、むしろこの場所をよりいっそう暗澹とさせていた。闇が蠢き、私を見詰める。闇と同化し、溶けていく。

 

 

 瞳を閉じ、心の中でアンディ様の名前を呼んだ。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 礼拝を終えると、私はすぐさまアンディ様のお部屋へと向かった。この先にあのお方がいると思うと、泥にまみれ灰色だった世界が、鮮やかに色づきキラキラと輝いて見える。

 

 長い通路をただひたすら歩く。

 

 この修道院は、修道士が出入りする場所以外、迷路のように入り組んでいる。行き止まりの通路、開かない扉、入り口がない部屋。……迷路のように、ではなく実際迷路なのだろう。

 

 

 ―――ああ、心底くだらない。

 

 

 私は心の中で吐き捨てた。

 だから、お前たちは間違えたのだ。

 

 廊下を早足で通り抜け、アンディ様の部屋へとたどり着く。胸が高鳴る。はやる気持ちで扉を2度叩き、許しを待った。

 

 どうぞ、という声が扉の向こうから聞こえてくる。

 アンディ様のお声だ。低く掠れる蕩けてしまうようなお声。好き、大好き。気持ちが溢れ、私はほぅっとため息を吐いた。

 

 聖遺物を触れるような心持ちで、扉へと手かけ開く。

 

 窓から差す光に、思わず目を細める。一拍置いて、それに慣れると部屋の中を見渡す。

 すぐにベッドに腰かけ、穏やかに微笑むアンディ様を見つけた。アマル、と名前を呼ばれる。それだけでお腹が、きゅんと疼いた。

 

 本来、私の名前は名前ですらなかった。

 アマルティア……それは「罪」を表す言葉。

 

 そう、あえて言うなら記号のようなものなのだ。まるで家畜に番号を振り分けるように、私たちはそう呼ばれてきた。だから、これは本来名前などではない。

 

 元より、アマルティアには個がない。いや、ある意味、それが唯一の個なのかもしれない。がらんどうの精神は、どこまでも純粋に受容の時を待っている。それこそ、忌まわしき罪の証左に他ならない。

 

 アンディ様は、そんな私に「アマル(希望)」という名前を下さった。私を()として認めてくれた。それがどんなに嬉しかったか。どんなに救われたか。アンディ様はきっと知らない。でも、それでも良い。それで良いの。私だけが、その事実を知っていれば良い。それは、誰にも渡さない私だけの甘美な秘密なのだから。

 

 私は飛び付くように、アンディ様に抱き付いた。

 アンディ様は笑って、抱き止めて下さる。逞しい胸板に抱かれ、私は恍惚とした笑みを浮かべる。胸が鼓動を早め、破裂してしまいそう。

 

「アマルはほんと子犬みたいだな」

 

「はい。アンディ様の前だけ、アマルは犬になります。何でも仰って下さい。何でも致しますから。でも、それができたら目一杯褒めてくださいね?」

 

「ははっ、ますます子犬だなぁ」

 

 アンディ様は、私の頭を優しく撫でた。

 嬉しい、嬉しい。好き、大好き。何だってします。だから、ずっとそうしてください。

 

 アンディ様の顔を見上げる。

 こちらではまず見かけない彫りの浅い面持ち。象牙色の肌。濡羽のお髪。異国の容貌。それに、優しく澄んだ黒い瞳。全て、素敵。アンディ様は、何故こんなにも魅力的なのだろう。見惚れてしまう。

 

「アンディ様……」

 

 名前を呼ぶ。

 

 アンディ様の服を控えめに引っ張る。頬を撫でられ、額に唇を落とされた。足りない。アンディ様は意地悪だ。分かっているはずなのに。むっと、頬を膨らませる。先程より強く服を引っ張る。

 

 笑う声が聞こえた。

 

 それから顎に手を添えられ、くいっと顔を上に向かされた。男らしい動作に、もう昇天してしまいそうになる。どうしよう。アンディ様が素敵すぎて辛い。

 

 アンディ様は焦らすようにゆっくりとした動作で、私の額、頬、耳朶、鼻と軽く唇を押し付けた。

 

(……早く私の唇に口付けして欲しい。しかし、そんなことをお願いしたら、アンディ様にはしたない女だと思われないだろうか?)

 

 むぅ、と思わず唇を尖らせる。

 やきもきする私の表情を見て、アンディ様はにやりと微笑んだ。意地悪。アンディ様は、とても意地悪だ。何よりも悪質なのは、そんな意地悪なアンディ様も好き、と心がときめいてしまう自分自身だ。何て救いようがない。救われたいとも思わない。私はアンディ様に堕ちていたい。

 

「そんなエサの前で『待て』を命じられた子犬みたいな顔をするなよ」

 

 アンディ様は、そう言って私の髪をわしゃわしゃと雑に撫で付けた。もう少し優しく撫でて欲しい。そう文句を言うよりと先に「えへへ」とだらしない笑みを溢してしまった。アンディ様に構ってもらえて、嬉しい気持ちが先行した。

 

「アンディ様、んん」

 

 我慢できず、アンディ様の服を強く引っ張る。アンディ様は、仕方ない子犬だな、と目を細めた。

 

「アマル」

 

 そっと触れるだけの口付け。直ぐに離れていこうとするアンディ様にしがみつき、舌をすぼめて深く唇を交わした。

 

「むぐっ、んん」

 

「あんで、ひゃまぁ……っ、は。ん、しゅき、だいひゅき。あい……ひてまふ、ちゅ、む」

 

 先程から、お腹がきゅうきゅうと躍動している。身体がアンディ様を求めているのだ。

 

 抱いてほしい。

 ずっと繋がっていたい。

 アンディ様。アンディ様。アンディ様。

 

 ややこができれば、アンディ様をここに繋ぎ止めることができるだろうか。ああ、ならば出来るだけ早く(ややこ)が欲しい。

 

 毎晩、抱いて頂いているのだもの。

 もしかして、もう孕んでいるかもしれない。

 

 ……そうだと、良い。

 

 ややこをアンディ様を縛る鎖として扱うことに、一抹の後ろめたさを感じる。しかしそれ以上に、私はアンディ様を愛している。

 

 アンディ様と共にいられるなら、私は何だってしてみせる。そう、我が子すら利用する。そんな自身を穢らわしく、辟易としながらも止めることはできない。

 

 ……ごめんなさい。

 

 小さく呟いたその言葉は、アンディ様への贖罪だったのか。これから生まれてくるであろう、まだ見ぬ我が子に向けた懺悔だったのか。それとも、()()()に対する決別の言葉だったのか。

 

 

 

 ――その答えの在処を、私はまだ知らない。

 

 

 

 



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月明かりの王冠

 

 

  

「……ねぇ、安藤君。忙しいところ申し訳ないけど、一件患者さんの転送お願いしてもいい?」

 

 後ろから声をかけられ、俺はパソコンを打つ手を止め振り返った。長い黒髪をきっちりアップし、パンツスーツを着こなした女性が申し訳なさそうにこちらを見ている。

 

「ええ、渋谷さん大丈夫ですよ」

 

 俺はそれに鷹揚に頷く。 

 同僚の女性、渋谷さんはほっとしたように顔を輝かせた。元々とても美人な女性なので、その表情だけで場が華やかになる。

 

「ありがとう! 本当に助かるわ。今、丁度急ぎの転院調整をしていて、手が離せないの」

 

「開業医訪問の報告書作成が終わって、ちょうど手が空いたところなんで気にしないで下さい」

 

 俺の職場は病院の地域連携室。地域連携室はざっくり言うと営業部のような部署である。……とは言っても、仕事は多岐に渡る。他病院への入院調整や予約調整、開業医訪問等々。忙しいがやりがいがある仕事だ。

 

「はい、これが診療情報よ」

 

「了解です」

 

 渋谷さんから診療情報を受け取りざっと流し読む。急性期適応外のため療養型病院へ転送。腰痛……安静にして経過観察で大丈夫な患者さんか。なるほど、高齢で独居だから家には帰れない、と。

 

「仕事を頼んだ私が言うのも何だけど、安藤君きちんと休めているの? 最近、夜も遅いでしょう?」

 

「いや、お盆に墓参りも行きたくて、その前に色々終わらせておきたいんですよ」

 

「そっか。……でも、ちゃんと休んで息抜きもしないとダメよ? え、えっと。その、もし良かったら、なのだけど。気分転換に食事でも、どう? む、無理なら、良いのよ全然っ! 予定が空いていたらで良いから!」

 

 渋谷さんは顔を真っ赤にして、すがるような眼差しを向けてくる。必死な姿が、失礼かもしれないけど可愛かった。思わず笑う。

 

「食事、良いですね。美味しいとこ探しときます」

 

「ほんと!?」

 

「ははっ、嘘言ってどうするんですか?」

 

「そうよね……」

 

 頬を押さえて、彼女は微笑んだ。それから約束よ、っと念を押される。俺はそれに深くて頷いて見せた。

 前から渋谷さんが好意を向けてくれていたのは、気付いていた。俺ももう27歳だし、良い機会だ。

 

 お盆明けに食事の約束をして、俺は仕事に戻った。お盆明けが、少し楽しみになった。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 意識が浮上する。

 辺りはまだ薄暗い。夜はまだ明けていないようだった。

 それにしても懐かしい夢を見ていた。

 

 もう一年半以上前の出来事だ。

 俺はお盆の墓参りの帰りに、このストーンハースト修道院に迷い混んでしまった。だから、ついぞお盆明けに食事に行くという、渋谷さんとの約束を守れなかった。それに対して、申し訳なく思う。

 

 そもそも向こうでは、俺の扱いはどうなっているんだろう。行方不明とかか。時間だってさだかではない。もしかして、俺が消えてから、時間がそれほどたっていないかもしれない。勿論、何十年もたっている可能性だってある。

 俺はげんなりして、ため息を吐いた。

 

(日本の皆に心配……かけているんだろうな)

 

 それを差し置いて、俺は何してんだろ。一回りも年下で未成年の女の子と懇ろな関係になって。あっちなら即逮捕ものだ。後悔はしていないが……。

 

 隣に寝ている少女の甘い匂いを感じながら、ちょっとした自己嫌悪。

 

(……少し頭冷やすか)

 

 俺はアマルを起こさないように気を付けて、ベッドから這い出る。手探りで服を着て、そっとアマルの様子を伺う。

 すぅすぅ、と可愛らしい寝息が聞こえ頬が緩んだ。今晩もずいぶん激しく何度も身体を合わせたので、疲れから眠りが深いのだろう。それを確認してから、部屋を抜け出す。

 

 真っ暗闇に包まれた廊下を歩く。

 コツコツと、自身の足音が反響する。静寂故に、その音が妙に耳に残った。暫く歩くと、沈黙の回廊に出た。柱を背に、座り込む。

 

 空を見上げると、丸々とした大きな月が優しい光を振り撒いていた。今日は見事な満月だ。

 

 ―――どれくらいそれに見いっていただろうか。

 

 急に何かの気配がして、俺は視線を空から外した。

 回廊のちょうど真ん中に、誰かが立っていた。

 どくり、と心臓が跳ねる。

 全く気が付かなかった。

 廊下を歩く音も聞こえなかったし、気配も先程まで全く感じなかった。まるで、急にそこに現れたような……。

 

 満月の光が、その人物を照らす。

 光に縁取られ、王冠のように輝く銀色の長髪。透き通るほど真っ白な肌。そして、印象的な紅眼。この世のものとは思えない、幻想的な美貌。

 

「……アマル、どうしたんだ?」

 

 俺の呼び掛けに少女は答えない。

 ゆっくり、近づいてくる。

 不協和音が聞こえる。

 近づいてくるほど、その音は大きくなっていく。

 

「あ、まる……?」

 

「ええ、アンディ様」

 

 小さく掠れる声が聞こえた。

 それは間違いなくアマルの声だった。

 

 

 ―――でも、本当に?

 

 

「君は、いったい……」

 

 アマルは、そこで初めて微笑んだ。泣いているように、微笑んだ。

 

「アンディ様、私はアマルティアですよ。……それ以外の何者でもありません」

 

「そうか、そうだよな……」

 

 俺は自分に言い聞かせるように、呟く。

 どこか漠然とした違和感を覚えながらも、少女の手を引っ張って、存在を確かめるよう抱き締めた。

 

 

 

 

 



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重なる声

いつも誤字脱字のご指摘にありがとうございます!


 

 

 アマルの身体を抱き締める。

 彼女は俺の胸板に顔を擦り付け、背中に手を回した。

 

「……アンディ様」

 

「ん、何だ?」

 

「私は、貴方様だけをお慕いしております」

 

 そう言ってアマルは微笑んだ。その笑みは、己自身を哀憐するような笑みだった。きっとアマルは自分が笑っていることに、気付いていないのだ。しかし、彼女にとってその方が良い。俺は何故かそう思った。

 

「許されるのなら……いいえ、許されなくとも」

 

 冷たい身体。

 それを暖めるように、隙間なく身体をくっつける。

 

「どうか貴方様の側に……」

 

 声が重なって聞こえた。

 アマルはひとりしかいないのに。重なって、という表現はおかしな表現だと自分でも思う。疲れているのだろうか。

 

 俺はアマルを見つめた。何故違和感を感じるのだろう。彼女の容姿はどこからどう見てもアマルだ。咲きほこる花のような、熟れた果実のような匂い。アマルの香り。安心する嗅ぎ慣れた体臭。

 

 漠然とした違和感。アマルなのに、アマルではない。しかし、どうしてそう思ったのか。分からない。分からないからこそ、ただ焦燥感が募る。

 

「アマル、お前は……」

 

 その先に続く言葉を紡ごうとして―――

 

 くらり、と急に眩暈が襲った。

 視界が歪む。

 チカチカと点滅を繰り返す。

 寒気が止まらない。

 意識がどんどん薄れてくる。

 ああ、これは気を失うやつだ、と他人事のように思った。

 

 立っていられなくなり、アマルに寄りかかる。

 何が嬉しいのか、アマルの笑い声が闇に溶けた。

 

「……永遠の愛を誓って、貴方様に従い、貴方様を守ります」

 

 

 暗闇の中、その声だけがはっきりと聞こえた。  

 

 

 

 ***

 

 

 

 「ここは……」

 

 意識が覚醒する。

 あたりを見渡すと、見慣れた部屋にいた。俺の自室だ。隣にはアマルが俺の腕を抱くように眠っている。

 

 ……あれは夢だったのだろうか。

 

 アマルの手を優しくほどいて、ゆっくり起き上がる。ため息を吐いて、自分を落ち着かせた。

 

 頬を伝う汗を服で拭う。拭ってから、あれ? と疑問に思った。

 

(……俺、服着てる?)

 

 そうだ。

 あれが夢なら、俺は裸のはずだ。昨晩アマルを抱いて、俺は裸のまま寝入った。であるならば、服を着ている時点で矛盾が生じる。やはり俺はここを抜け出す際、服を着た。そう考える他ない。

 

(……じゃあ、あれは現実に起こったことなのか?)

 

 アマルを見る。

 彼女は気持ち良さそうに寝息を漏らして眠っている。回廊で感じた違和感は感じない。いつものアマルだ。

 かけ布団を捲ると、透き通る白い裸体が姿を現した。豊かな乳房がまず目に入る。引き締まったウェストがそれをより強調していた。

 

 アマルは気を失った俺を背負ってここまで連れてきた? でも、こんな細腕でそれができるとは到底思えない。

 人を呼んで運んで貰った。普通に考えるとそうなるだろうが、誓約によって修道院の者はアマルと会話することができない。

 

(なら、どうやって……)

 

 暫くアマルの様子を眺めていた。それから、少ししてアマルは目を覚ました。

 

「ん、ふわぁ……あん、でぃさま」

 

「ああ、おはよう」

 

「ひゃん、おはよーございます」

 

 もぞもぞと、身動ぐ。

 それに合わせて、胸がたわんだ。二つの桃色がはっきりと目にはいる。勿論、上と下も何も身に付けていない。

 

 ……エロっ!

 

 考えていたことが、一気に飛んだ。自分でも単純だと思う。しかし、こんな美少女が隣に裸で眠っていたら、誰もがそういう方面に思考がシフトするたろう。というか、シフトしろ。

 

「ふふっ、あんでぃさま」

 

「ん、どうした?」

 

「まいあさ……はじめにみるおかたがあんでぃさまで、あまるはしあわせです」

  

 ふにゃりと微笑む。朝から、好き好きオーラ全開だ。俺は頬を掻いて、なんとも言えない顔をしてしまう。

 

「あー、そうか。うん、ありがとな」

 

「はい、すき。だいすき。おしたいしています。あんでぃさまぁ、んっ」

 

 目を瞑って、唇を差し出してくる。キスしろと、無言の催促。顎に手を添えて上向きにすると、そっと唇を重ねた。そうするとアマルは嬉しそうに、唇を擦り付け食んでくる。

 

 あー、ダメだ。可愛い。

 

 俺はちらりと窓を見た。まだ薄暗く本格的な夜明けは訪れていない。時間は充分ある。俺は即座に欲望に負けることにした。そう決めると、身体もその気になる。もどかしく急いで服を脱いでいく。それから、アマルの頬を撫でて懇願する。

 

「……なあ、いいか? 朝から悪いが、もう我慢できそうにない」

 

 それを聞いて、アマルはしっとりと微笑んだ。

 俺の首に手を回して、鼻に軽く唇を落とした。ちゅっ、とリップ音が聞こえる。それから、全てを受け入れる笑みを浮かべた。

 

「ええ、どうぞ。私は貴方様の(もの)ですから。いつでも、どこでも満足行くまで、ご賞味ください」

 

 堪らず、勢いを付けて覆い被さる。昨晩のアマルを振りきるように、ただ今のアマルを焼き付ける。現実逃避も甚だしい。それを理解しながら、俺はこの少女にどうしようもなく溺れている。水面に浮き上がることはできるのか。そのまま溺死してしまうのか。もう、俺には分からない。

 

 

 少女の艶やかな声が、部屋に響いた。

 

 

 



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だから少女は涙を流す

 

 

 

「退廃的だなぁ……」

 

「いきなりどうしたんですかい。黒の旦那?」

 

「いや、退廃的な生活をしているなぁと」

 

 畑を耕しながら、ぽつりと呟く。隣で作業するフランチェスコは、怪訝そうな顔で俺を見詰めた。

 

「あの、言っちゃなんですが、あっしは清貧を第一とする修道士なんですがね。黒の旦那、そこんとこ分かってていってますかい?」

 

 ぽん、と手を叩いて頷いた。

 おお、そう言えばそうだった。フランチェスコは、修道士感が全くないからな。そんな俺の姿を見ると、フランチェスコはげんなりとした表情でため息をついた。

 

「あっしが修道士だって、すっかりさっぱり忘れてやしたね。はぁ、黒の旦那、本当に勘弁してつかぁさいよ」

 

「あー、悪い悪い」

 

「ふぐぐ、全く悪いと思ってない顔ですねぇ!」

 

 むぅ、と眉をひそめて困った顔のフランチェスコ。

 まるまるとした身体を持っているのに、清貧とはこれいかに。いったいこの肉はどこで付けてきたんだ。

 俺の考えが分かったのか、強い癖毛の茶髪を撫で付けいじけた様子。俺は思わず吹き出して、たぷたぷとしたお腹を突っついた。

 

「全くもって、黒の旦那は……しょうがない人ですねぇ」

 

「ははっ、でも嫌じゃないだろう?」

 

「返答に困る質問は止めて欲しいですよ」

 

 にやついた頬を手で押さえて、口を尖らせる。

 

 ……分かりやす!

 

 フランチェスコとは男子中学生のような関係だ。つまるところ何も考えていない。お互い薄っぺらい会話をしながら、それでも心を通じ合う。そんな感じ。

 

「で、何が退廃的なんですかい?」

 

「あー……まぁ、その、なんだ。ここでは言えない、あれこれだ」

 

 さすがにおおっぴらに、アマルとの身体の関係を言い触らすことはできない。キリスト教、特に修道士は性的な行いを罪深いこととしているから、というのもある。いや、そもそもそんな修道院で、淫行を重ねる俺たちは普通なら厳罰ものである。

 フランチェスコは背筋を伸ばし、察したように目を細めた。

 

「……はぁ、あまり強くは言えませんがね。入れ込み過ぎるのも良くないですよ。黒の旦那、得てして堕落こそもっとも恐ろしい行いだ」

 

 畑を耕す手を止めて、フランチェスコは諭すような口調で言葉を発した。

 

「ああ、うん。まぁ、そうだよなぁ……」

 

「ええ、いいですか、あれと繋がることは……いや、ああ、そうですね。そうだった。……なんでもねぇです。さっ、畑仕事をとっとと終わらせちまいましょうや!」

 

 誤魔化すように、ぎこちなく笑うフランチェスコ。それを見て、大仰に首を振る。

 口ごもった言葉の先は分からないが、秘密に関わる類のものだったのだろう。これ以上は口を出せない。フランチェスコに迷惑をかけることだけは避けたかった。

 

「……そうだな。早く終わらせよう」

 

 同意する俺の言葉に、フランチェスコは心底ホッとした顔をした。

 

 

 

 ***

 

 

 

 例のごとく、水浴びをした後に自室へ向かう。

 滴る滴が、頬を伝う。それを拭いもせず、黙々と廊下を歩く。

 そう言えば、アマルを抱くようになってから秘密や制約に関して考えることが減った。早く真実を見つけないといけない事柄なのに、それに対して思考が抜け落ちてしまっているようだった。

 

 考えようとしても、ぼんやりと靄を被ったように頭が鈍くなる。まるで何かにその考え自体を阻害されてるような。言い訳甚だしいが、本当にそう思うくらい頭が回らないのだ。

 

 そこまで考えて首筋がぞわっとした。

 その感触を振り払うように、自室へと駆け足で足を進めた。

 

 

 

 

 扉を開けると、いつものようにアマルがベッドに腰かけていた。俺に気付くと、満面の笑みを浮かべる。

 

「アンディ様、お帰りなさいませ!」

 

 立ち上がると、飛び付くように抱きついてくる。ぼふっと、身体に衝撃的を受ける。それと同時に柔らかな胸が押し付けられた。

 

「ああ、ただいま」

 

「アンディ様。私、とても寂しゅうございました」

 

「ちょっと離れていただけだろ? アマルは本当に大袈裟だなぁ」

 

「もう、つれないことをおっしゃらないでください。アマルはいつだってアンディ様の側に居たいのです!」

 

「分かった分かった」

 

「ううっ、またそうやってすぐあしらう」

 

 むぅむぅと頬を膨らませる子どもっぽい仕草。会ったばかりの時は、冷涼で表情も固く大人びて見えたが、今はもう見る影もない。俺の目の前では、常にふにゃりとした笑顔で子どものように甘えて来る。

 

「ったく、ほらこれでいいか?」

 

 頭を撫で、優しく髪をとく。アマルは気持ち良さそうに目を細めて、それから慌てて拗ねていたことを思いだしたようにさらに強く抱きついてくる。

 

「誤魔化さないで下さい。アマルはこんなにもお慕いしているのに、アンディ様は分かって下さらないのですか? 私はアンディ様がいないと、駄目なのです。寂しくて寂しくて愛しくて愛しくて、毎日気が狂いそう」

 

「はぁ……お前ってつくづく重い女だなぁ」

 

 苦笑する。

 何気なく呟いた言葉に、アマルは大きく肩を震わせた。

 

「あ、あの、重い女で申し訳ありません。だから、愛想をつかさないで下さい。えっと、えっと……」

 

 愛想をつかされない方法を必死に考えていたのだろう、アマルは目をさ迷わす。それからぱっと頭を上げ、息継ぎしないで、一気に捲し立てる。

 

「ご、ごめんなさい、アンディ様。でも、どうにもならないの。どうか、どうかお嫌いにならないで! なんでも致しますから。そのアンディ様、よ、よろしければすぐ身体をお慰めします。アマルを好きなように、扱って下さい。どんなに乱暴にしても良いですから」

 

 咄嗟に思い付いたことが自身の身体を使って、繋ぎ止めることだったのだろう。

 

 しまった、と後悔する。

 何気ない言葉でも、それが俺から発せられものであればアマルにとって重い意味を持つ。それは嫌というほど分かっていたはずなのに、どうして俺はいつもいつも!

 

「そういうつもりじゃないんだ!」

 

「ひうっ、ごめんなさい……許して、お願いします。す、捨てないで下さい。本当に、アマルにはアンディ様だけなの。愛してる、だから、何をしたら許して下さいますか? どうしたら、いいですか? 分からない、どうしたらどうしたら……ごめんなさい、ごめんなさい、ふっ、ひっぐ、うええぇ!」

 

 混乱して、咽び泣くアマル。

 俺は堪らなくなって、強くアマルを抱き締める。アマルも必死にしがみついてくる。

 

「違う、違うんだ。泣くな、泣かないでくれ。ごめんな。俺が悪かった。そういうつもりじゃなかったんだ」

 

「うっ、ひっぐ……アンディ様、許してくれるの? わ、私を捨てないでいてくれますか?」

 

「捨てる訳ないだろ。俺にはお前だけだ。ああ、傷つけてごめんな」

 

「……本当、に?」

 

「ああ、もちろんだ」

 

「……よかった。ひううっ、よかったよぅ」

 

 今度は安堵の泪をぽろぽろと流した。

 それが申し訳なくて、背中を撫でる。

 

 どうしたら、安心させてやれるだろう。俺の言葉に左右されないように、確固たるものを構築してやれるだろうか。俺はその答えを、必死に模索した。

 

 

 

 



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空に溶ける

  

 

 

 

 夢は見るものでも、叶えるものではない。

 

 

 ……覚めるものなのだ。

 

 

 そうさ、悪夢にも必ず終わりが訪れる。

 

 

 ああ、でも君。

 

 

 目覚めた世界は、悪夢よりも恐ろしい。

 

 

 かねてからそう言うものだ。

 

 

 でもね、嘆くことはない。

 

 

 悪夢もこの世界も、曖昧で混沌とした虚構にすぎない。

 

 

 いづれその境界も無くなるだろう。

 

 

 

 いづれ―――ひとつになるだろう。

 

 

 

 

 

 

 ベットがぎしりと嘶く。

 石壁の冷たさを背中で感じながら、胸に抱く少女に意識を持っていく。腕の中にすっぽりと入ってしまうくらいの存在。小さくて華奢で、寂しがり屋な女の子。

 

「アマル……」

 

 名前を呼ぶと、アマルは俺の背中に手回し、強く抱きついてくる。更に胸板に顔を押し付け、こすり付ける。すんすん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。

 俺は頭を撫でて、慰める。

 

「……落ち着いたか?」

 

「うーっ」

 

 唸り声。

 アマルはふるふると顔を振った。大人びた容姿に反して、その仕草はとても幼い。いつもの理知的な雰囲気はなりを潜め、だだっ子のように身体を震わせた。それに合わせて、腰まである銀糸の髪が揺れる。その拍子に、花のような果実のような甘い香りが鼻を擽った。

 

「よしよし」

 

 とりあえず背中を軽く叩いて、抱き締め返しておく。アマルの華奢な肩の力が抜けた。

 

「あんでぃ、さま」 

 

「おう」

 

「あんでぃさま、あんでぃ、さま」

 

「ああ、なんだ?」

 

「どうか罪深き私にお赦しを。アンディ様がいないと、駄目なの。重くて、すいません。でも、でもっ」

 

 必死にすがり付いてくる少女。 

 身体全体で、離れたくないと訴えてくる。

 

「馬鹿、そんなこと言うなよ。……いや、馬鹿は俺か。そんなこと言わして、ごめんな」

 

「……アンディ様」

 

「なぁ、どうしたら安心できる?」

 

「それは……」

 

 すっと、顔を上げたアマル。

 赤く純血した瞳。

 痛々しく、腫れた瞼。

 桃色の唇を戦慄かして、紡ぐ言葉を探している。

 

「困らせたい訳じゃないんだ。無理に答えなくてもいいよ。お前のペースで良いんだ」

 

「……その」

 

 肩を落として、しょげる。

 きゅんきゅん、鼻を鳴らして尻尾を垂らす子犬みたいな動作。何か言おうと口を開き、閉じてを繰り返す。俺はじっと、アマルの言葉を待つことにした。

 

「アン、ディ様の、ややこ……」

 

「やや、こ?」

 

 ややこって、なんだ?

 思わず、思案顔で首を傾けた。

 それを見て、アマルは目を瞑る。

 

「……いいえ、なんでもありません」

 

「そう、か? まぁ、何かあれば言うんだぞ」

 

 はい、と控えめに頷きアマルは淡い笑みを浮かべた。

 吹けば飛んでいってしまうそんな笑みだった。不安になって、俺はアマルの瞳を覗き込む。紅鮮の瞳がすがるように瞬いた。

 

「ちゃんと捕まえといてやるから。お前が不安にならないように、こうやってずっと」

 

 笑いかけ、だから安心しろよ、と続ける。

 アマルは目を細め頬を染めた。それから噛み締めるように、ゆっくりと言葉を発した。

 

「はい、アンディ様。捕まえて下さい。ずっとずっと―――」

 

「ああ、まかせろ」

 

「……嬉しい」

 

 アマルはへちょりと顔をほころばせた。

 幸せそうに、白く細い指で俺の頬を撫でる。

 

「アンディ様、アマルは貴方様をお慕いしています。たとえ、これからどんな運命が待ち構えていたとしても、ずっと、ずっと終わりなく、貴方様だけを」

 

 

 ―――その手は驚くほど、冷たかった。

 

 

 

 

 ***

 

 

 翌日。

 

 午前の仕事を一通り終わらせ、俺は迷わず修道院の裏手へと足を進めた。

 

 何か考えるとき俺はここに来て、草むらに寝っ転がりながら空を見上げる。そうすると、悩みが解決するわけではないが心が落ち着くのだ。

 

 遥か彼方まで遠い空。

 

 人も景色も時代すら違っても、空だけは悠然と変わらずに広がっている。空は、俺がいた場所の残り香を感じられる数少ないもののひとつだ。

 

 瞼を閉じる。

 空の青が瞼に焼き付いている。

 飲み込まれそうな、青。

 どこまでも純粋で、どこまでも澄んでいる。

 果てしないその先に、一体何があるのだろうか。

 

「また、そんなところにいるのですね」

 

 涼やかな声が聞こえた。

 

「なんだよ、ヨハンナ。居ちゃ、悪いか?」

 

「いいえ」

 

 ヨハンナは短く答えて、俺の横に腰を落とした。

 俺もヨハンナもそれ以上に言葉を発することはない。静寂が満ちる。しかし、その沈黙は気まずさとは程遠い、心地良いものだった。薄々思っていたが、ヨハンナと俺はかなり相性が良いのだろう。アマルがいなければ、もしかしてこいつのこと好きになってたのかもしれないな。そんなことを他人事のように思った。

 

 風が前髪を靡かせる。

 それを直しもせず、空を見上げる。

 そこには空以外何もないのに、ただひたすらに。

 

 俺の手にヨハンナの手が重なった。視線で何のつもりだと、ヨハンナに訴えかける。

 

 ヨハンナはその訴えの視線を感じとり、初めて自身が俺の手を握っていたことに気付いたようだった。たが、その手を離すでもなく、むしろぎゅっと確かめるように握った。

 

「――貴殿が、空に溶けてしまうような気がして……」

 

 ポツリと呟かれたその言葉を、何故か俺は一笑することができなかった。

 

 

 

 



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貴方は神を信じますか?

 

 

 

「ばーか。そんなことあるわけないだろ」

 

 苦し紛れに呟く自身の言葉に呆れる。それでも、俺は空を見上げることは止めなかった。いや、止められなかった。

 

 白昼夢。

 何かに侵食されているような感覚。

 溶けてしまうような……とは、言い当て妙だ。最近どうも、現実と夢の境界線が曖昧になってきている。

 

「貴殿は……」

 

 そこまで言って、ヨハンナは言葉を詰まらせた。目を伏せ、ぐっと唇を噛む。

 

「ヨハンナ?」

 

「……言うべきではなかった」

 

「えっ?」

 

 それは形容しがたい声音だった。後悔。悲哀。憤怒。全てのマイナスの感情が込められているかのような、闇に吐き捨てられた言葉だった。

 

「なぁ、それってどういう―――」

 

「……失礼する」

 

 聞き返す前に、ヨハンナは立ち上がった。

 俺の顔を一度だけ見て、無言で十字を切る。それは首を掻き切る仕草のようにも見えた。

 

 ヨハンナはそれ以上何も語らず、踵を返して足早に歩き去って行った。

 

「一体、なんなんだよ……」

 

 ヨハンナの後ろ姿を見送りながら、漠然とした不安が胸に溢れた。俺にヨハンナは何を感じ取ったのか。そして、俺は一体何に溶けようとしている?

 

 修道院の秘密を探ろうとすると、それを邪魔するかのようにぼやける思考。間隔がどんどん狭くなる白昼夢。

 

 水溶性のようにあやふやで輪郭がないその恐ろしさに、ひどく陰惨なため息が漏れた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 廊下を歩く。

 

 湿った風が頬を撫で、通り抜けていく。

 薄暗さと相まって、どこかおどろおどろしい雰囲気。

 自身の足音が時を刻むようにコツコツと響く。それを聞きながら、どこに向かうとも考えず足を進めた。

 

「―――黒のお方」

 

 呼ばれて、首だけ振り返る。

 トゥニカの上からスカプリラオを着て、修道帽を被った男が静かに佇んでいた。特徴的な鷲鼻を撫で擦り、微笑んでいる。

 

「……ベネディクト修道司祭」

 

「黒のお方、ご機嫌は如何かな」

 

「ええ、ぼちぼちです」 

 

「そうですが、それは良かった」

 

 ベネディクト修道司祭は、そう言って小さく頷く。そして、複雑な感情を乗せた瞳で俺を静かに見つめた。

 

「ときに……貴方は神を信じますか?」

 

 脈絡もないその問い掛けに、どきりと心臓が踊る。何故なら本当の意味で、俺は神様を信じていない。見咎めまれたような気持ちになり、思わず唾を飲み込んだ。

 浅く呼吸をしてから、俺は肯定の言葉を口にした。思ってもいないことを、口にした。

 

「……はい。それは当然のことでしょう?」

 

「ええ、そうでしょう。そうでしょうとも。しかして黒のお方、そうであるなら決して祈りを止めないことです。それが、唯一我らにできることなのですから。ああ、どうか貴方に神のご加護があるように。アーメン」 

 

「……修道司祭様にも。アーメン」

 

 十字切る。

 

 数秒、黙祷を捧げる。

 

 それから、ベネディクト修道司祭は俺の顔を見て深く頷いた。彼は確かめるように、鷲鼻を撫で目だけで礼をする。

 

「……結構。では、私は礼拝がある故これで」

 

 そう言って、修道司祭は俺を追い越して行った。

 その後ろ姿を見ながら、俺は彼に問われた言葉を胸の内で問いかけた。

 

 

 ―――貴方は、神を信じますか?

 

 

「……居てほしいとは、思うよ」

 

 俺にとって、神様はその程度の存在だ。脇目もふらず、信じてはいない。ただ、居てほしいとは思う。

 

 正月には、一年の無病息災を祈る。神社へ七五三に詣でる。受験の際に、合格祈願をする。

 それは年中行事や自身の願いを叶えるためのもので、信仰とは言えない。そうやって、育ってきたのだ。俺と彼らでは祈りの質が違う。

 

「……それでも、信じろというのか」

 

 頭を振って、自身の呟きを打ち払った。くだらないことだ。信じるものを信じれば良い。そう心の中で何度も復唱した。

 

 瞳を閉じる。

 

 脳裏で、どろりとした闇を幻視した。

 

 

 

 ***

 

 

 

 気が付けば自室の扉の前にいた。

 俺の一番落ち着ける場所。

 俺はひどくゆっくりと怠慢な動きで扉を開ける。

 

「アンディ様っ!」

 

 部屋に足を踏み入れたと同時に名前を呼ばれる。それからすぐに、ぱふんと胸に衝撃を受けた。目線を下げるとキラキラと輝く銀色の髪が目に入る。

 ふりふりと全力で尻尾を振る子犬みたいな雰囲気で、アマルは俺に抱き付く。相変わらず、押しが強い。この甘えん坊の子犬め。意識して、少し雑に頭を撫でてやる。むふー、と満足げな声が聞こえた。嬉しそうで何より。

 

「こら、アマル。いきなり抱きついてくると、びっくりするっていつも言ってるだろ」

 

「ふふっ、申し訳ありません」

 

 アマルはそう言って、悪戯が成功した子どものように笑った。1ミリも申し訳ないとは思っていない顔だった。あざとい。そして、可愛い。俺の彼女は世界一可愛い。顔が自然と緩む。

  

 そんな俺を尻目に、アマルは俺の手を取ると、すんと匂いを嗅いで眉をひそめた。それから、すぐに甲に口付けを落とした。何度もそれを繰り返してから、アマルは戸惑いなく俺の指を咥えた。舌が執拗に指をなぶる。ちゅぷちゅぷっ、と唾液の音が響いた。指の一本一体、丁寧に舌で舐められる。それから掌も。ねっとりとした唾液に濡れた俺の手は、どこか淫靡な雰囲気を醸し出していた。

 

 14歳、いやもう15歳か、そんな少女に手を舐められる28歳の図。

 

 ……何この、羞恥プレイ。

 

「……おい、アマル何してんだ」 

 

「んっ、消毒……ですっ」

 

「消毒……?」

 

「ん、ヨハンナ・スコトゥスの……臭いがしました」

 

 ああ、なるほど。マーキングと言う訳か。

 なら納得だなって、いやいや!?

 

「だからって、お前なぁ!」

 

「……大事なことです。アンディ様は、私の恋人なのですから、私の匂いだけを身に纏うべきなのです。それ以外は許しませんから」 

 

「あの、もう手、べとべとなんだけど……」

 

「我慢してください」

 

 アマルは俺の言葉を一瞥もなく切り捨てた。

 

 

 

 

 




いつも誤字脱字の訂正ありがとうございます!


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キツネの幸せ

 

 

 

 

「なぁ、もうさすがに良いんじゃないか?」

 

「っぱぁ、れろ……ちゅう、まだふぇふ」

 

「こらこら、咥えながら喋るな。はしたないぞ」

 

 指を吸いながら、アマルは上目遣いに俺を見る。

 

 駄目だぞ、そんな顔しても。

 というか、変な気分になるから止めて欲しい。昼間から我慢できなくなるだろうが。

 

 指を引き抜く。

 俺の指とアマルの唇が唾液の糸で繋がった。

 

「ほら、やりすぎだぞ。指、ふやけてるだろうが」

 

「…………」

 

 アマルの目の前にふやけた手をかざす。

 つーん、と顔を背けるアマル。こりゃ拗ねたな。分かりやすくて大変良い。 

 

「アマル」

 

「……むぅ」

 

 頬が栗鼠のように膨らんでいる。

 どれだけ頬っぺたにドングリを詰め込んでるんだ?

 

 その可愛らしい行動に、思わず笑みが漏れる。

 

「アンディ様、何がそんなに可笑しいのですか」

 

 俺の笑い声に反応して、アマルは眉を怒らせた。しかし、迫力は皆無だった。ぷんすか、と覇気のない効果音を入れたいぐらい。

 

「ごめんごめん。ただ、可愛いなと思って」

 

「か、かわっ! もう、そうやって誤魔化しても駄目なんですからねっ」

 

「そんなつもりじゃないよ。だから、怒るなよ」

 

「アマルは怒ってなどいませんっ!」

 

「いや、怒ってるじゃん……」

 

 なんだかこのやり取りデジャブを感じる。そういや……前にもこんな会話をしたことがあったっけ。

 

 改めてアマルを見やる。

 

 高く整った鼻筋、透きとおる程白い頬は薔薇色に染まり、鮮紅の両眼は長い睫毛に縁とられている。夜空に輝く天の川のようにな銀糸の髪は、優美に腰まで流れていた。

 

 どの角度から見ても全く欠点がない美少女。そのあまりの人離れした美しさに、もはや神々しささえ感じる。

 

(……何度も思うけど、普通ならアマルみたいな美少女が、俺なんかと付き合ってくれるなんて絶対あり得ないことだよな)

 

 きっと修道院という閉ざされた場所で、尚且つアマルの境遇がなければ、俺とこのような関係になることはなかっただろう。

 

 いや、そもそもアマルは今15歳で13歳も年下。俺はそんな齢の少女に手を出し、あまつさえ毎晩のように身体を繋げているのだ。そのことに後悔はない。しかし、自己嫌悪はあるのだから始末に終えない。そんな考えを打ち払うように、俺はアマルに微笑みかけた。

 

「……怒ってないなら、仲直りのキスも必要ないな」

 

 それに反応して、ぱっと顔をこちらに向けるアマル。わたわたと焦った様子で、俺にしがみつく。

 

「あ、アンディ様? 私、やっぱり怒っています! だから、仲直りしたいですっ!」

 

「えー、さっき怒ってないって言ってただろ?」

 

「たった今、怒りたくなりました!」

 

 必死に食い下がってくる。めちゃくちゃなことを言って、そんなにキスがしたいのか。それが可笑しくて、吹き出してしまう。

 

「ぷっ、あはは、冗談だよ。ほんとアマルは可愛いなぁ」

 

「っ、アンディ様ったら!」

 

 もう、またからかって、と不貞腐れるアマルを宥める。

 先ほどの行為で、唾液に濡れた桃色の唇を指で拭き取る。柔らかいゼリーみたいな感触。それを堪能してから、触れるだけのキスをした。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 食後。

 

 二人してベットに腰かけ、話をする。

 アマルは俺の腕を抱き締めて、身を預けリラックスしている。

 

 いつもこうやって寝るまでの時間、ゆっくり話すことが日課になっている。今日あった出来事や俺の故郷である日本の話。内容は様々だ。今日は日本の童話についてアマルに言い聞かせている。

 

「――それで、ごんぎつねは兵十の手で打たれて倒れ落ちる。兵十は側に固められて置かれている栗を見て、いつもこれを持ってきているのはごんぎつねだと気付く。でも、その時には全て遅かったんだ……」

 

 小学生の頃に国語の授業で習ったごんぎつね。

 両親を亡くし、孤独な一匹の子狐のごん。悪戯ばかりして、村人を困らせていた。ある日、村人の兵十が川で魚やうなぎを捕まえているのを見て、悪戯心でそれを逃がしてしまう。

 

 しかし、後日それらが病に臥せった兵十の母に食べさせるものであったことを、母親の葬式を見て知る。

 

 それに後悔し、償いのつもりで毎日栗や山の幸を持っていくが、兵十はまたごんぎつねが悪戯に来たのだと思い撃ち殺してしまう。

 

 大雑把に言うとそういうストーリーだ。

 この話はとても印象的で、卒業して10年以上たっても未だに覚えている。

 

 アマルは俺の話を興味深げに聞き入っていた。

 

「こう改めて話すと、ごんぎつねって浮かばれないよな」

 

「……そうでしょうか」

 

 アマルは静かにそう言った。

 

「ゴンギツネは、きっと寂しかったんです。今まで両親を亡くし、たった独りで生きてきた。それを紛らわらすために悪戯ばかりしていたのでしょう。誰にも気付かれず、寄り添われず、そして……愛されずにずっと、ずっと。だから、最後の時ヒョウジュウに気づいてもらって、ゴンギツネは嬉しかったのだと思います」

 

「でも、報われず殺されてたんだぞ?」

 

「……いいえ、そのようなことはありません。最後に気付いてもらえて、独りではなかったではありませんか」

 

 アマルは俺の顔を見上げ、そっと頬を撫でる。

 

「――だから、ゴンギツネは幸せだったでしょう」

 

 囁くように呟かれた言葉。

 

 アマルはゴンギツネと自身を重ねているようだった。アマルもゴンギツネと同じように、誰にも気付かれず、寄り添われずそして愛されず、俺がここに来るまでずっと独りで生きてきた。だからこそ、ゴンギツネに強い共感を抱いているのだろう。

 

 それを感じて、とても悲しくなる。

 

 隣に座るアマルの背中と膝裏に手を入れて、横抱きにする。膝に乗せ、ぐっと強く肩を抱き寄せた。

 

「そっか。お前がそう言うなら、きっとそうなんだろうな」

 

「……はい」

 

 こくり。

 アマルは小さく頷いた。

 

「ゴンギツネは死んじゃったけど、俺はお前と一緒に居る。ずっと居る」

 

「アンディ様……」

 

「ん、お前は俺の(おんな)だ。絶対に守るから安心しろ」

 

「はい、アマルはアンディ様だけの(もの)です。貴方様に身も心も全て捧げます。一生可愛がって下さい。ずっと、ずっと、お側に置いてください」

 

「ああ、約束だ」

 

「約束……」

 

 約束、約束と何度も言葉に出して、アマルは身体を震わせた。

 

「――約束。アンディ様、どうか私たちを置いて行かないで下さいね」

 

 

 

 




小学生の皆のトラウマ、ゴンギツネ。主人公死亡オチ。


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ヨスガの残影

 

 

 

 正当と異端。

 

 中世ヨーロッパにおいて、それは決して避けることができない問題である。

 

 例えば、正当たるキリスト教以外の宗教は異端とされた。

 

 例えば、聖書の編纂において、正当なる福音書、それ以外の外典福音書は排除された。

 

 例えば、男性は整然とし正当な存在だが、女性は異端であり混沌な存在というキリスト教的女性蔑視の思想があった。

 

 「例えば」を探せば、際限なく涌き出てくる。その例えばの中でも取り分け興味深いものは、言語の正当と異端だ。

 

 今でこそ音声言語と書記言語は統一されているが、中世ヨーロッパでは明確に分離されていた。

 

 ラテン語と俗語。

 

 聖なるものと、俗なるもの。

 

 キリスト教の権威が猛威を振るった時代、公的な文章は全てラテン語で書かれていた。これに関しては、日本でも近世まで、漢文が公用語であったことと通じる。

 

 つまるところ、ラテン語であれ、漢文であれ、上流階級や知識人としてのステータスシンボルの役割を担っていたのである。

 

 中世ヨーロッパの識字率の低さの要因のひとつは、上層階級と下層階級との隔たりが生んだと言っても良いだろう。

 

 書記言語、ここではラテン語を指し、音声言語は俗語を指す。

 

 俗語は、ラテン語以外の人々が日常的に使っていた口語のことだ。今では公用語として使われるフランス語やドイツ語も、中世ヨーロッパでは俗語としての立ち位置だった。

 

 それが明確に分かる事柄は、ジャンヌ・ダルクの処刑裁判だ。ジャンヌ・ダルク……言わずもがな、フランスの偉人としてもっとも有名な女性のひとりである。

 

 ジャンヌが処刑裁判にかけられた際、勿論のこと証言は記録された。ジャンヌが話した内容は、まず俗語であるフランス語で書き留められる。

 

 しかし、教会はその俗語の文章を改めてラテン語に翻訳し直す。これは特別なことではなく、普遍的に行われていたことだ。ラテン語にすることによって初めて、公的な文章として成り立ったのである。

 

 問題なのは、その翻訳がどこまで正しいものなのか、ということだ。事実、裁判の記録はフランス語で書かれた原文書と差異があった。それも教会の都合の良いように、である。

 

 結果的に、ジャンヌが処刑されたことが何よりの証拠だ。得てして、聖なるとされた教会は、堕落し腐臭に満々ていたのだ。

 

 

 ――正当と異端、はたしてどちらが真に聖なるものであったのだろうか。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

「大分遅れちまったな……」

 

 廊下を歩きながら毒付く。

 

 葡萄畑の手入れに夢中になり、気付けば夕暮れ時だった。最近、遅くなるとアマルがくっついて離れなくなる。いや、ずっと前からそんな感じだが、それよりも強くだ。

 

 何度も舌を交わす深いキスを求め、長時間離してくれないのは序の口で、晩飯も食べずに抱いて欲しいと誘惑してきたり、トイレまで一緒に付いて来ようとしたり。依存度がどんどん高まっている気がする。

 

 

 ――というか、高まっている。

 

 

 回廊に出る。

 

 微かに夕色が差し込んだ。

 

 日没が近い。

 

 黄昏時だ。

 

 そう思うと、忘れていた記憶が甦った。

 今みたいな夕暮れ、民俗学を専攻していた大学の友人と帰路についていた時のことだ。

 

 

「今日は綺麗な夕暮れだな……」

 

 空を見上げる。

 

 夕色と藍色が混合し、夜がすぐ側まで迫っていた。

 

「ああ、確かにもう黄昏時だな。まぁ、正しくはたそかれ時なんだが」

 

 隣を歩く友人が、空を見上げて呟いた。いきなりなんだ、と俺は首を傾げる。

 

「たそ、かれ? 何だそれ?」

 

「うん、たそかれ。()(かれ)時だ。夕日が差し、逆光で隣の人の顔さえ見えなくなる時間帯。貴方は本当に自身が知る人なのか。それとも、もっと別の()()なのか。だから、誰そ彼(貴方は誰)時」

 

「へぇ、黄昏ってそういう謂れがあるんだな」

 

「ああ、それに黄昏時は『逢魔時』とも言ってな、人ならざる魔の者たちに逢いやすいとも言われているんだ。つまり、あの世とこの世の境界があやふやになる時間帯と言う訳だ」

 

 どこか不気味なトーンで彼は言葉を続けた。

 

「そう……だから、気を付けたまえよ。あちら側の住人は、いつだって君のすぐ側にいる」

 

 友人は嗤った。

 

『さてさて、俺は本当に君が知る俺なのかな――?』

 

 逆光で彼の顔が見えない。

 

 真っ黒い顔がこちらを見つめている。

 

 心臓が早打つ。

 喉が乾く。

 

 俺が答えずにいると、彼は冗談だと言って、息を吐くようにふっと笑った。

 

 

 

 ――ちりん

 

 

 

 鈴が鳴る音で、はっと我に返る。

 音の鳴った方向を見ると、そこにはアマルの部屋とあの礼拝堂に続く扉があった。

 

 自身を落ち着かせようと、瞳を閉じため息をつく。それから、目を開き扉に視線を戻すと、どくりと心臓が悲鳴を上げた。胸を抑える。暴れるな。落ち着け、何をそんなに色めきたっている。そう自身に言い聞かせながら、目の前の光景から目を離せない。

 

「ーーー嘘、だろ」

 

 長い黒髪の女性が、扉の前に立っていた。先程は居なかった女性が、立っていたのだ。俺はたった数秒目を瞑っただけだ。一体これはどういうことだ。俺はまた白昼夢を見ているのか。

 

 女性はこちらに背を向け、顔は伺うことができない。

 

 でも、俺は彼女を()()()()()――

 

「……まさか、そんなはずない。あり得ない。絶対に。だって――」 

 

 

 ……お前は――死んだはずじゃないか。

 

 

 




いつも誤字脱字の訂正ありがとうございます!


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黄昏のアムネジア

 

 

 

 

 唸るように音を立てて、扉が開いた。

 

 彼女はこちらに振り返りもせず、静かにその奥へと消えて行く。

 

「――待って、待ってくれっ!」

 

 慌てて追いかける。

 

 そんな訳がない。アイツは死んだはずだ。これは絶対に白昼夢で、幻想なんだ。それなのに……それなのにどうして俺は彼女のあとを追っているんだ。 

 

 脇目も振らずに走った。

 がむしゃらに、走った。

 

 走りながら、俺は彼女の存在を否定したいのか、その存在を肯定したいのかどちらなのだろうと、考えた。考えて、考えて、結局答えは出なかった。ああ、混沌としたこの思いをどう表せばいいのだろう。

 

 重い扉を力任せで押し開き、廊下の先に視線を走らせた。

 

 奥まで規則的に取り付けられた燭台の蝋燭が揺らぐ。ぼんやりと照らされた通路。灯りがあるのに、真っ暗だと思った。

 

 意識して息を吸う。そのまま酸素を飲み込んで、一歩踏み出す。

 

 踏み出してしまえば、抵抗もなく闇に溶けることができた。

 

 走り出す。

 慌ただしい足音が反響する。

 

 こんなにも全力で走っているのに、すぐに追い付けないのは何故だろう。でも、そんなことどうでも良い。もう一度、ただもう一度、俺はそれだけで、それだけを――。

 

 黒い髪がふわりと舞う。

 礼拝堂に入っていく女性の姿が見えた。

 

 ――ああ、良かった。追い付けた。今度は間に合った。

 

 俺も続くように礼拝堂に足を踏み入れる。

 

 機械的に並べられた長椅子。湿った生暖かい空気。埃と腐った木の臭い。夥しい蝋燭。写し出される影。

 

 石像の前に立つ腰まで延びた黒髪の女性。俺はゆっくりと歩き、彼女に近づく。声をかける。自身の震えた消え去りそうな音が遅れて耳に入った。

 

「――静代。静代、なのか?」

 

 女性は答えない。

 答えを待つ、数秒が長く感じる。

 しんと静まり返った場所で、俺だけの吐息が妙に生々しく聞こえる。

 

 さらりと、ゆっくり髪が靡く。その動作を見て初めて彼女が振り返ったのだと分かった。恐る恐る顔を見つめる。

 

 冷涼で、つり目がちな黒い瞳。整った鼻筋にほっそりとした輪郭。青白い頬。それに比べて、赤い唇。まさしく和風美人と言った容貌。慣れ親しんだ、顔。

 

 その女性……安藤静代は無表情なのに、笑っているように見えた。俺はただその顔をじっと見詰めた。見詰めることしかできなかった。喉が乾く。頭がパンクしそうだ。

 

「――兄さん」

 

 ソプラノの落ち着いた声が届いた。ああ、静代。俺の妹。お前なんだな。良かった。ずっと、会いたかったんだ。俺は、お前に。

 

「静代、静代っ!」

 

 叫ぶ。

 

 静代の存在を確かめるように、何度も何度も。声がかれるくらい。いや、枯れても良い。

 

 静代は目を細めた。そこにどんな感情が込められているのかは分からない。喜んでいるのか、悲しんでいるのか……恨んでいるのか。

 

「兄さん……私の、兄さん」

 

「ああ、お前の兄ちゃんだ。安藤隆だ。……静代、会いたかった。ただ、俺はもう一度お前に……っ!」

 

「兄さん……私も会いたかったです。兄さん、貴方だけに、会いたかった」

 

「静代、俺もお前にっ!」

 

「……隆兄さん」

 

 俺の名前を呼ぶ優しい声。

 苦しい。辛い。悲しい。思考が乱れ、揺さぶられる。

 

 ああ、分かってる。分かっているさ。

 

 俺はそっと瞳を閉じた。

 

 ……静代は、死んだんだ。

 

 ほんとうは、分かっている。だって俺は彼女の死体を見た。冷たくなった遺体も、火葬場で焼かれ、細い崩れた骨も。

 

 静代が亡くなってから毎年、墓参りに訪れている。ストーンハーストに来る前も俺は冷たい墓石に手を合わせていた。

 

 だから、これはきっと――。

 

 瞳を開けると、そこには誰も居なかった。最初から、誰も居なかった。

 

 分かっていたのに。

 なぜ俺はこんなにも、悲しいんだ。

 床に水滴が落ちる音が聞こえた。

 

「静代っ……」

 

 ああ、俺は泣いていたのか。

 

 頬を触ると、滴る雫が指を濡らした。そこで初めて自身が涙を流していることに気づいた。

 

「静代、お前が幽霊でも幻想でも良いんだ。お前は俺に、会いに来てくれたんだな。そう思っても良いか。いや、そう思っていたいんだ」

 

 窓がなく空気が通る道などないのに、風が頬を撫でた。

 慰めるように、いたわるように。 

 まるで静代が側に居るように感じた。

 頬に手を当てる。

 

「静代……」

 

 兄さん、と俺を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 

「――お前が、俺をこの場所(ストーンハースト)に連れてきたのか」

 

 答えはいくら待っても返ってこなかった。

 

 

 

 



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こぼれ落ちたたったひとつ

 

 

 

 

 

 ―――俺には妹がいる。

 

 

 いや……いた、というのが正しいか。

 何故なら妹の安藤静代は13年前に亡くなったからだ。

 

 享年15歳、若すぎる死であった。

 

 俺と静代は双子だったが、二卵性のため容姿は全く似ていなかった。綺麗な長い濡羽の髪に、夜空のように澄んだ漆黒のつり目がちな瞳。大和撫子を地で行くおしとやかな性格。生まれるのが偶々先だっただけの俺を、「兄さん」と呼んで常に立ててくれていた。

 

 本当に血が繋がっているのか、と疑問に思うほどできた妹だった。

 

 俺たちが生まれ育ったのは、甲信越地方の深い山々に隠された地図にも載らないような両胡村という寒村だ。

 

 平家の落人が源氏の手の者から逃れるために、この山に隠れ住み村を作ったという眉唾の伝説が残る村。

 

 時代に取り残され、ガスも電気も通っておらず、村人たちは昔ながらの生活を送っていた。

 

 学校は山を越えた町にしかなく、俺たちは夜明けよりも早く起きて、山を下り、日に二本しかないバスに乗って、数時間かけて通った。それほど、絶望的なまでに田舎だった。

 

 そんな自然の中に閉ざされた村社会では、有力者である家を頂点に厳然とした秩序を保っていた。何を隠そう、その有力者の家が俺の生家である安藤家だ。

 

 幼い頃から安藤家の跡継ぎとしての振る舞いを求められ、息苦しい生活を強いられた。誰しも俺の顔色を伺い、媚びへつらった。それが嫌で嫌で仕方がなかった。

 

 静代はそんな俺の話をいつも嫌な顔ひとつもせずに聞いてくれた。そして、決まってこう言うのだ。

 

「何があっても、静代だけは兄さんの味方ですから」

 

 静代と一緒にいるときだけ、柵を忘れ唯一安らげた。俺は妹が何より大切だった。いや、静代より大切なものなどなかった。

 

 だからこそ、俺はあの家を出たのだ。それが静代の兄でいられるただひとつの道だった。

 

 

 ――それなのに、俺は何一つ守ってやれなかった。

 

 

 その過ちに気づいたのは、静代が亡くなってしまった後。

 

 全て終わってしまった後だった。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

「……静代」

 

「シズ、ヨ?」

 

 ぽつりと呟いた言葉に、寝る前に櫛で髪をといていたアマルは首を傾げた。俺はそんなアマルの頬を撫でて、小さく息を吐く。

 

「……ああ、なんでもないよ」

 

 アマルは不安そうに眉を下げて、俺の顔色を伺った。そんないじらしい少女に思わず苦笑する。

 

「そう、ですか……」

 

 そう言いながらも、納得していない顔だった。俺はアマルの鮮紅の瞳を見詰め笑って見せた。

 

「本当に大丈夫だよ。心配してくれて、ありがとな」

 

「いいえ」

  

 アマルは短く答えてから、俺に向けて両手を差しのべた。その姿は、さながら愛で全てを包み込む聖母のようだった。ふらりふらりと、ベッドに座るアマルに近づく。少女は淡く微笑むと、俺の頭を優しくかき抱いた。柔らかい胸の感触。良い匂いがする。

 

「アンディ様、アマルに何でもおっしゃって。私アンディ様のお言葉ならいくらでも聞きますから」

 

 優しく頭を撫でられる。耳元で聞こえる甘い吐息。身体の力が抜ける。

 

「……あんまり俺を甘やかさんでくれ」

 

「あら、何故ですか?」

 

「なんか駄目になっちまうから」

 

 口を尖らせて、言いにくそうにしていると、アマルは愛しそうに俺の旋毛にキスを何度も降らせた。

 

「ふふっ、アンディ様ったら可愛い」

 

「男に可愛いはないだろ。可愛いのはお前の方だ」

 

「……もうっ、どれだけ私を夢中にさせたら気がすむのですか」

 

 ぎゅむぎゅむ、と頭を強く抱き締められる。たわわな果実が俺の頬を挟む。むぐぅ、息ができない。胸の中で溺れ死ぬ!

 

 背中を軽くタップして、腕を緩めるように懇願する。アマルはそれに気付き慌てて手を離した。

 

「っはぁ、ふっ、胸で窒息するかと思った!」

 

「も、申し訳ありません。つい……」

 

 気まずそうに肩を落とすアマル。

 

「いや、良いんだ。慰めてくれたんだろ?」

 

「……はい。アンディ様が悲しそうにしていましたから。私にはそれが一番辛いのです」

 

「アマル……」

 

「私はアンディ様をどんなものからも守ります。苦しさ痛みや悲しみからも。だから、どうかそんなお顔なさらないで」

 

「俺、お前より年上なのに情けないな」

 

 思わず眉をひそめる。そんな俺をアマルは穏やかに見つめた。なんだか恥ずかしい。

 

「いいえ、情けなくなどありません。それに、アマルは嬉しいのです」

 

「……嬉しい?」

 

「はい。そんな姿を私に見せて頂けるようになったから嬉しいの。どうか、もっとアマルに寄りかかって下さい」

 

「……お前は絶対男を駄目にするタイプだ」

 

「心外です。他の殿方なんてどうでも良いの。私はアンディ様だけです!」

 

 ぷんすか! と頬を膨らませるアマル。

 

 ……怒るところはそこじゃないと思うんだが。

 

「撤回する。お前は俺を駄目にする女だ」

 

「ふふっ、嬉しいです」

 

 頬を染めて、照れ笑い。

 

 そこは喜ぶのか。分からんやつだ。……でも、ありがとな。アマルがいてくれて良かった。心からそう思う。俺は幸福だ。こんな少女を恋人にできたのだから。

 

 

 ちくりとした胸の痛みに気付かない振りをして、俺はそっとアマルを抱き締めた。

 

 

 

 

 



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閑話 ヨハンナ

健気系ヒロインって応援したくならない?


 

 

 

 

 寝床から起き上がり、頬にかかった髪を手で払う。思考がぼんやりとはっきりしない。部屋は暗く、まだ夜明けはずっと先だろう。

 

 机の上に置かれた燭台に火をつける。部屋の中が淡く夕日色に染まった。その様子を数分眺め、溜め息をひとつ。

 

(……はぁ、朝が弱いというのも考えものだな)

 

 他人には見せられない情けない姿だと自嘲する。しかし、どうにもならない。こればかりは、体質なのだから矯正しようもない。

 

 机に置かれた水をはったボールで顔を洗って、眠気を取る。寝巻きを脱ぎ修道女服に着替え、引き出しから櫛を取り出して髪を結い上げた。

 

 身を整えてから、机に向かう。聖書を開いて、文字の羅列を目で追いながら、神の声に耳を傾ける。それが終わると、床に膝をつけて祈りを捧げる。

 

「天にまします我らの父よ、ねがわくは御名をあがめさせ給え、御国を来らせ給え、御心の天になるごとく地にもなさせ給え、我らの日用の糧を今日も与え給え」

 

 そこまで一息に言って、私はロザリオを握る。

 

 穏やかな日々も、優しい日溜まりも、きっと私、ヨハンナ・スコトゥスには似合わない。

 

 

 ――ー強く、握る。

 

 

 ぎしり、聖なる象徴が悲鳴を上げた。

 

「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるし給え、我らを試みにあわせず悪より救い出し給え、国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」

 

 

 赦されるだろうか。

 

 この罪を。

 

 赦せるだろうか。

 

 この血を。

 

 

「……アーメン」

 

 

 十字を切る。

 それは、首を掻き切る仕草にも似ていた。いや、と思わず口元を歪めた。似ているのではない。実際にそういうジェスチャーなのだ。

 

 かねてから、我らはただそのために存在している。そういうものなのだから。

 

 

 

 ***

 

 

 毎朝、ミサを行うため聖堂に向う。

 

 聖堂は修道院の外にある。足早に修道院を出て、葡萄畑を横切る。流れてきた青々とした葉の香りを吸う。空気は澄み、風は心地よい。

 

 視線を上に上げると、朝が足並みを揃えてやって来たのが分かった。東の空は明るく、その光が棚引く雲間を照らしている。きっと今日は気持ちの良い晴れになるだろう。そう思うと、思わず笑みが漏れた。

 

 

 

 

 

「――スコトゥス嬢」

 

 ミサが終わり、修道院へ戻る道中声をかけられた。気づかれないように小さく息を吐いて、振り向く。

 

「私に何用か、ニールセン修道士」

 

 色素の薄い金髪の青年、サルス・ニールセンは目を細めてこちらを見つめていた。

 

「いや、その、昨日貴女があの男と親しげに話しているところを見て」

 

「……あの男?」

 

「ええ、あの黒髪の男です」

 

「黒殿のことか。それがどうしたというのだ」

 

「あの男と親しくなさるのは、どうかと……」

 

 彼はこちらの顔色を伺いながら、言葉を発した。全く面倒な男だ。彼が私に対してどのような感情を抱いているのか。それを考えるのも億劫だ。私は意識して顔をひそめ、ニールセンに言い放った。

 

「何故貴殿に、そのような指図を受けねばならぬ。誰と親しくしようと私の勝手だ」

 

「いえ、その、貴女のような女性が、下卑な異郷の者などと……」

 

「それ以上は止めて頂きたい。極めて不愉快だ」

 

 全てを言わせない。いや、言わせたくない。歯を噛み締めて、睨み付ける。ニールセンは目に見えて狼狽えた。私はそれを見ながら、感情の籠らない口調で吐き捨てた。

 

「用件はそれだけだろうか? ならば、私はこれで失礼する」

 

 それだけを言って、踵を返す。

 

「スコトゥス嬢、あの男はアレに魅入られているのですよ! 何故それが分からないのです!」

 

 焦ったニールセンの声が響く。

 振り返りもせず、私はそれに答えた。

 

「……聞こえなかったか? 私は、止めろと申し伝えたはずだ」

 

「スコトゥス嬢っ!」

 

 歩みは止めない。

 これ以上、話す価値はないからだ。私にとっても、この男にとっても。どちらも主張を曲げるつもりはないなら、無意味なことだ。

 

(それに……逆だよ、ニールセン)

 

 アンドリュー殿が魅入られているのではない。アンドリュー殿に、あの方が魅入られているのだ。あの方は、彼のためなら何でもするだろう。だが、同時に恐れてもいる。勿論、私たちにではなくアンドリュー殿に捨てられしまうことを、である。

 

 あの方は彼のためなら何でもするが、嫌われることを恐れ()()()()()()()()()だけなのだ。

 

 だが、アンドリュー殿が危険に晒されるとなると話は別だ。全力で、こちらを討ちに来る。それこそどんな手を使っても。あの方にはそれができる。容易に我らを蹂躙できるのだ。それが、どうして分からない。

 

「……全く、ままならないものだな」

 

 私も。

 

 あのお方も。

 

 この世界(ストーンハースト)全て、ままならぬものだ。

 

 

 ***

 

 

 

「おーい、ヨハンナ!」

 

 修道院へと続く葡萄畑を歩いていると、気の抜けたビールのような声が聞こえた。ふっと、肩が軽くなる。

 

「ヨハンナ、ヨハンナ! こら、無視するなよ」

 

「……人聞きの悪いことを言わないで下さい。私はあえて、見向きもしなかっただけです」

 

「いや、それもう無視だからな。堂々と言うから、思わず謝りかけたわ」

 

 情けなく眉を下げる、アンドリュー殿。その可愛らしい動作に、思わず笑みが漏れる。

 

 彼は不思議な殿方だ。綺麗な黒髪に、茶色みがかった黒い瞳。顔の彫りは浅く、異国の容貌。男性なのに、女性に対して威張りも見下しもしない。人当たりも良く、こうして私のような不躾者に接してくれる。

 

「なぁ、ヨハンナ。何かあったのか?」 

 

「いいえ。どうしてですか?」

 

「ん、辛そうな顔をしてたから。お前、いつも溜め込みすぎなんだよ。もっと発散しろ、発散!」

 

 ああ、敵わない。アンドリュー殿は、どうしてこうも気づいてしまうのか。気づいて、くれるのか。大丈夫。私は大丈夫だよアンドリュー殿。貴方のその優しさに、私はいつだって救われているのだから。

 

「なら、そうするとしよう。この、たわけがっ!」

 

「突然の罵倒!? ……発散しろと言ったけど、俺で発散して良いとは言ってないぞ!」

 

「つい」

 

「何がついだ。このこの!」

 

 頬を指で優しくつつかれる。くすぐったい。私の無遠慮な言葉に、怒る訳でもなくこうして構ってくれる。それが、とても嬉しくて幸せだ。

 

 駄目だな。もっとと、ねだりたくなる。彼は、あの方の想い人なのに。そうだ……もう、終わりにしないと。

 

「アン、いや……黒殿、いい加減つつくのを止めないか!」

 

 語気を強めて、力が入らないように気を付けて手を叩き落とす。ぺちりと情けない音が聞こえた。アンドリュー殿は、それを見て嬉しそうに笑った。

 

「悪い悪い。でも、ちょっとは元気でたか?」

 

 息が止まる。

 

 ああ、名前で、呼びたい。貴殿の名前を。

 でも、できない。できないのだ。貴殿の名前を呼べるのは、あの方だけ。私には、私たちには許されない。

 

「っ……はい、黒殿」

 

 その声は自身で驚くほど、震えていた。

 

 私は心の中で反芻する。

 

 夢とは、叶うものでも、願うものでもない。いつか覚めるものなのだ。

 

 

 

 ー――だからこそ、何よりも尊く、何よりも残酷だ。

 

 

 

 



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輝くこの先へ

 

 

 

 私は何も求めない。 

 

 神にも、悪魔にも。

 祝福。救済。無償の愛さえ。

 堕落。誘惑。罪の果実さえ。

 

 赦しなんて、いらない。

 救いなんて、まやかしだ。

 

 何ひとつ求めない私は、いつだって空っぽで。

 

 だからこそ、私は生きながら死んでいる。

 

 

 

 ***

 

 

 

 蝋燭が揺らめく。

 

 いつも以上に早く起きてしまった俺は、椅子に腰かけながら、窓の外を眺めていた。朝の訪れはまだ先で、外の世界は依然闇に包まれている。風景など見えるはずもないが、何か特別することもないので、こうしてぼんやり過ごしている。

 

 暫くすると、うとうとと眠気が襲う。脳が覚醒しているのか、していないのか曖昧だ。意識が徐々に薄れて――

 

 

 ―――私はだぁれ?

 

 

 声が、聞こえた。

 

 立ち上がり、辺りを見渡す。椅子が勢いに負け、派手な音を立て倒れた。

 

 誰もいない。空耳だったのか。

 ため息を吐いて、倒れた椅子を元に戻す。

 

「んっ、あん、でぃさまぁ……?」

 

 ぽむぽむと布団の中を叩いて俺を探す仕草。俺がいないと分かると、がばりと身を起こした。

 

「アマル、悪い。起こしちまったな」

 

「ああ、よかったぁ。そばにいて、くださったのですね」

 

 アマルは心底安心したように笑った。

 布団から抜け出し俺を熱心に見つめ、一糸纏わぬ姿を恥ずかしげもなく晒している。

 

 アマルの裸体は見慣れているのに、何度見ても飽きない。日焼けを知らない雪のように白い肌。小柄なのに、豊満で、いかにも柔らかそうな乳房。驚くほど細い腰に、安産型の臀部。そして全てを兼ね合わせた美しすぎる容貌。本当に同じ人間なのかと、疑問さえ感じる。

 

「そんな格好でずっといると、風邪引くぞ」

 

「でしたら、風邪を引かぬようアンディ様が暖めてくださいませ」

 

 抱きつかれたので、抱き締め返す。

 嬉そうに身体を揺らすアマル。身体全体を擦り付け、マーキングされる。毎朝行われる動作だ。この子犬め。腰まで伸びた銀髪を解くようにして撫でる。

 

「よしよし。……おはよう、アマル」

 

「んふーっ。おはようございます、アンディ様」

 

 満足げに息を漏らすアマル。幸せそうでなにより。俺はアマルの肩を押して身を離し、腰を抱いてベッドまで誘う。そのままベットに座らせ、掛け布団で包んでやる。

 

「むぅ、アンディ様が良かったのに……」

 

「馬鹿言うな。風邪引かれたら困るだろ。心配させるな」

 

「……心配、してくださるのですか?」

 

「あたりまえだろ」

 

「でしたら、私風邪を引いても良いです。そうしたら看病をして頂けますか?」

 

「……あのなぁ、怒るぞ。看病されたくて風邪を引く奴がいるか」

 

「ううっ、ごめんなさい。……でも、今まで看病されたことなどなかったですもの。苦しくて、辛くて、それでも独りぼっちで。だから―――」

 

 しょぼんと、肩を落とすアマル。居ても立ってもいられなくかる。

 

「分かったよ。もし風邪を引いても看病してやる。側にいてやるから、そんな顔するな」

 

「アンディ様。嬉しい。貴方様をお慕いしています。側に置いてください。側に居てください。それだけで、それだけを私は……」

 

 少女は、泣くように、請うように愛を告げた。 

 

 ***

 

 

 アマルは身体にぴったりとフィットした藍色のコードハーティを身に纏い、朝食の準備を始めた。その間俺は、ベットに腰かけ、じっとしている。手伝うと何度も言ってるが、「これは女の仕事です」と譲らない。

 

 この時代は、性的役割分担が強固に根付いてきる。男は公的存在で外に出て家族を養い、女は家庭を守り夫に尽くす。それが社会規範となっている。ジェンダーフリーは、近代になってから生まれる思想だ。この時代女性は、キリスト教的考えによって常に落としめされていた。

 

 てきぱきと動くアマルの背中を見ると、いつも感心してしまう。アマルは驚くほど良く働くのだ。

 

 朝起きると、俺の着替えを甲斐甲斐しく手伝う。朝食を作り、食べ終わると直ぐに片付けて、礼拝に向かう。お昼になると、俺の部屋を掃除し、洗濯し服と布団を干す。再び礼拝に出向く。夜になる前に洗濯物を取り込んで、外から帰ってくる俺を出迎える。夕飯を用意して、俺の世話を幸せそうにするのだ。そして、夜に俺の相手をして、やっと就寝する。

 

 現代の15歳といったら、高校に上がるかどうかと言った年齢だ。その年齢の子どもは普通アマルのように家事をしたりしない。将来のために勉強したり、友達と遊んだり、自身のしたいことを目一杯楽しむ。

 

「アマルはもっと自分のしたいことをしても良いんじゃないか?」

 

 俺の言葉に、手を止めてアマルは笑った。

 

「ふふっ、もうしております」

 

「いや、俺の世話ばっかりだろ」

 

「いいえ。私はアンディ様のお世話をするのが生き甲斐なのです」

 

 不意打ちの惚けにたじろぐ。全く心臓に悪い。

 

「っ、いや、そうじゃなくて、将来何をしたいとかさ。そういうのだよ」

 

 アマルは少しの間、黙り込んでおずおずと呟いた。

 

「……その、今まで考えたことが無かったので」

 

「そっか。じゃあ、これから考えよう。きっと、楽しいぞ」

 

「っ、はい。アンディ様」

 

 アマルは祈るように両手を合わせて、嬉しそうに身体を揺らした。

 

 

 



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悪魔の化身

 

 

 

 今日は久しぶりに、巡礼棟の掃除の仕事が回ってきた。いつもはフランチェスコと二人であたることが多かったのだが、今回は別の仕事があるとのことだ。

 

 巡礼棟は意外と広いため、ひとりで掃除をするのは中々骨が折れる。まあ、そんな弱音を吐いてもどうにもならないのでこれくらいにしておくか。俺はため息を浅く吐いて、箒を手に巡礼棟に向かった。

 

 巡礼棟はゴシック調の格式高い修道院と比べるとかなりシンプルな作りをしている。素朴な村の教会と言った雰囲気で、おそらく修道院より前に建てられたものなのだろう。

 

 巡礼棟の扉を押し開き、ドアストッパー代わりに水を入れたバケツを脇に置く。窓を開放し、空気の入れ替えを行う。こうしないと埃が舞って、くしゃみが止まらなくなるのだ。

 

 

「修道士様、おはようございます」

 

「……ん? ああ、ソフィアさん。おはようございます」

 

 

 掃除をはじめて少しすると、ソフィアさんが2階から降りてきた。麦の穂のような金色に近い茶髪。それを緩く編み込んで背中に流している。母性を感じさせる優しげなたれ目に、赤い唇がなんとも言えない艶やかな雰囲気を醸し出していた。

 

「あの、ずっと言おうとしていたんですが、俺修道士じゃないんです。居候みたいな立場でして」

 

「まぁ、そうなのですか?」

 

「ええ、なんか騙すようですいません」

 

「いいえ、とんでもありません。修道士様でなくとも、こうして私を助けて下さっているではありませんか。その慈悲深さに至上の感謝を」

 

 ソフィアさんは真っ直ぐ俺を見つめて、やんわりと微笑んだ。恥ずかしくなって、それを誤魔化すように頭をかく。

 

「あはは、大げさですよ。でも、どういたしまして」

 

「ふふっ、はい。……ところで、私こんなにもお世話になっているのにも関わらず、貴方様のお名前をきちんとお伺いできていませんでした」

 

「そう言えば、そうでしたね。俺はアンドリューです。よろしく、ソフィアさん」

 

 手を差し出す。ソフィアさんは、一瞬驚いたような顔をしたが、俺の手をそっと握った。よろしくお願い致しますと、優しく上下に振る上品な握手。ソフィアさんらしい。

 

「アンドリュー様ですか。とても良いお名前ですね」

 

「そうですか? 俺は見ての通り異邦人でして、因みにここではどういう意味があるんですか?」

 

「アンドリューは、十二使徒の聖アンドレ様からきたお名前です。元の意味は、そうですね。……勇ましい者、と言ったところでしょうか」

 

 なるほど、聖人の名前だったのか。あえて日本名に直すとしたら、勇夫(いさお)とかだろうか。一気に安っぽくなった上に、あまりしっくりこない。

 

「……完全に名前負けしてますね、俺」

 

「そんなことございませんよ。勇ましいというのは単に武力があるということではありません。蛮勇ではなく、信念を持ってそれを通すことができる者という意味だと、私は思っております」

 

「ソフィアさんは優しいなぁ」

 

 しみじみとそう言うと、ソフィアさんはいじらしく頬を染めた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 掃除が一段落すると、俺は椅子に腰かけて一息付いていた。長机に置かれた蜂蜜酒を飲みながら、対面に座っているソフィアさんに問いかける。

 

「ソフィアさんってさ、最終目的ってやっぱりエルサレムなんですか?」

 

「ええ、そうですね」

 

「じゃあ、これからまた長い道程だ」

 

「はい。しかし、信仰のためですから苦ではありません」

 

 強く言い切るソフィアさんは、とても頼もしく見えた。こんな細身なのに、心は鋼のように固くしなやかだ。

 

「それに色々な場所を巡り、知見を広めたいという思いもあるのです。例えば、このストーンハーストは竜殺しの伝説があると聞いたことがあります。その地でしか聞けない話というのも多いですから」

 

「……竜殺しですか?」

 

「ええ、私も詳しくは存じ上げないですが、その昔この地には人々を喰らい毒を振り撒く巨大な悪竜がおり、それを聖者が討ち滅ぼしたとか」

 

「悪竜………………」

 

「ふふっ、ご興味がおありですか?」

 

「えっ? ああ、ここに住んでいるのにそんな話があることを知らなかったもので」

 

「そうですか? まことしやかに聞いたお話をなので、あまり当てにはならないのかもしれませんね」

 

 ソフィアさんの話を聞きつつ、意識は竜殺しの伝説に向けられていた。妙な引っ掛かりを覚える。

 

 

 ――――竜、ドラゴン。

 

 

 その概念は西洋と東洋では全く別の者だ。

 

 東洋では、神の使いであり神聖な存在だが、西洋では悪の化身だと言われている。その証拠に、旧約聖書でイヴを唆し失楽園に追い込んだのも、蛇あるいはドラゴンとされている。

 

 これはあやふやな知識だが、吸血鬼ドラキュラはドラゴンの息子という意味だと聞いたことがある。つまるところ、キリスト教において竜とは悪魔に他ならない。

 

 ストーンハーストに竜殺しの伝説が存在した。ならば、その伝説が生まれたのはいつの話だ。

 

 このストーンハースト修道院が建てられてからか。

 

 ――それともそれ以前、滅ぼされた村があったときなのか。

 

 

 



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甘い密

 

 

 

 ストーンハーストでは、養蜂が行われている。

 養蜂によって取れる蜂蜜は、発酵させ蜂蜜酒にしたり、宗教儀礼に必要な蜜蝋に加工したり、はたまた医薬品としての役割を担ったりと様々な用途で使われていた。

 

 キリスト教において、蜂蜜はそれほど重要なものとして位置付けられていたのだ。

 

 その証拠に、蜂蜜は聖書にも繰り返し記載されている。更には、ミツバチ、養蜂家の守護聖人として聖アンブロジウスという聖人が存在することもその証左に他ならない。

 

 俺はフランチェスコと数人の修道士と共に、そんな蜂蜜を朝から採取していた。蜂は俺たちをどうにか離そうと死にもの狂いに飛び回る。

 

「っ痛!」

 

「黒の旦那、大丈夫ですかい?」

 

「うぅ、フランチェスコ。最悪だ。蜂に刺されちまった。じんじんする」

 

「あーあ、これはやられちまいましたねぇ。取り敢えず、刺されたところを絞り出してくだせぇ。何、そこまで強い毒でもないので、冷やして大事にしておけば大丈夫ですよ」

 

 フランチェスコに言われた通り、刺された右手の甲を指で強く摘まんで毒を絞り出す。じんわりと痛みはするが、我慢できないほどではない。

 

 俺は断りを入れて、井戸まで赴く。

 懐に入れていたハンカチを汲んだ井戸水に浸し右手に巻いた。局部が冷やされ、少し痛みが鈍る。それを確認してから、再び養蜂所に戻った。

 

「フランチェスコ、悪いな。今戻った」

 

「ああ、旦那。今しがた巣を取り出し終えた所でさあ。半分は蜜蝋、もう半分は蜂蜜酒に使います。今日は蜜蝋を作って終わりにしやしょうか」

 

「そっか、分かったよ」

 

 俺たちは巣を養蜂所から離れた釜戸まで運び込む。

 まずゴミを良く取り除く。それが終わると、釜戸に火を起こして、大きな鍋に水を注ぎ沸騰させる。その鍋に巣ごとどぼんと投入。巣がどろどろに溶けるまで根気よくかき混ぜる。

 

 溶けたきった蜂の巣を冷ますと、蜜蝋の層と不純物の層、水の三層に分かれる。そこから蜜蝋だけを取り出して、再度それを溶かすのだ。

 

 そして、溶けた蜜蝋に繰り返し糸を浸し、蝋燭を作り上げる。これが一番時間がかかり、単純作業故に疲れが大きい。だが、その分達成感がある。

 

 俺は夢中で、作業に明け暮れた。

 

 

 ***

 

 

 全ての蝋燭が完成する頃には、もう夕方になっていた。

 俺たちは後片付けをして、修道院に戻る。フランチェスコと修道士たちは、ミサに行くので修道院の入り口近くで別れた。

 

 俺はそのまま自室へと足を進めた。

 自室にたどり着き、その扉を開けるとアマルが椅子に腰かけ裁縫をしているのが見えた。

 

 中世ヨーロッパにおいて、裁縫は良家の女性のすべき仕事とされていた。しかし、修道女も礼儀作法と共に糸紡ぎ・裁縫を習うようで一概にそう言えない。

 

「アマル、ただいま」

 

「アンディ様、お帰りなさいませ!」

 

 俺の顔を見詰め、ぱぁっと顔を輝かせるアマル。それを見ると疲れが飛んで行ってしまう。俺はアマルの側まで歩み寄って、どれどれと縫いかけの刺繍を覗き込んだ。

 

「はぁー、上手いもんだな」

 

 縫われていたのは、青い花で一目見てもその完成度の高さが伺える。俺はいたく感心して、思わず目を丸くしてしまった。

 

 アマルは恥ずかしそうに微笑んで、噛み締めるように言葉を発する。

 

「その、ありがとうございます。とても嬉しい、です」

 

「なぁ……これってもしかして以前、お前に贈った花なのか?」

 

「……はい。お守り代わりに、アンディ様に差し上げようと思って」

 

「ああ、そっか。うん、ありがとうな。完成するの楽しみにしてるよ」

 

「ふふっ、頑張ります」

 

 刺されていない左手でアマルの頭を撫でる。アマルは気持ち良さそうに目を細め、すっと顔を近づけてきた。いつもの無言の口付けの催促。俺は笑って、その可憐な唇に触れるだけのキスを落とした。

 

 それを受け、アマルは恍惚の表情を浮かべた。我慢できない様子で、もっとと俺の唇に指を這わせて、何かに気付いたようにピクリと身体を震わせた。

 

「アンディ様、その右手はどうなさったのですか?」

 

「……右手? ああ、これか。ちょっと蜂蜜を取る時に蜂に刺されちまっただけだよ」

 

「アンディ様、何ておいたわしい。代われるものなら、アマルが代わって差し上げたいです。誰が……誰がそのような危険なことをアンディ様にさせたのですか?」

 

 アマルは腹の底からゾッとするほど低い声を出した。怒りを隠しきれない、と言ったような声音だった。落ち着かせるために、刺繍と針を机に置かせて、空いたアマルの手を取った。

 

「アマルは本当に大袈裟だな。俺は大丈夫だ。大したことはないから心配するな」

 

「でも、でもっ! ……アンディ様っ!」

 

「アマル、俺は本当に大丈夫だよ。それに、異邦人の俺をここに住まわせて貰っている恩がある。少しでも修道院のために働きたいんだ。分かってくれ」

 

 アマル肩を落として、へちょりと悲しそうな顔をした。彼女の心の中で、俺の気持ちを無下にできないという思いと、俺が傷つくことが嫌だという思いの攻防が繰り広げられているのだろう。沈黙が数分続いた後、アマルは顔を上げて、分かりましたと弱々しく呟いた。

 

「……それがアンディ様のお望みなら。ただ、アンディ様、何かあれば真っ先にアマルにお申し付けてください。私はアンディ様を失うことが何よりも恐ろしい。アンディ様を守るためなら、何でも致しますから」

 

「……ありがたいけど、少し過保護すぎないか?」

 

「そんなことはありません。私にとってアンディ様は唯一のお方。どこまでも愛しい人。私はアンディ様がいないと、もう生きていけない。だから、これは自分のためでもあるのです」

 

「……そっか。でも、無茶するなよ」

 

「ええ、おまかせ下さい」

 

 アマルは深く頷く。

 本当に分かっているだろうか。

 一抹の不安を抱くが、その思いを非難することもできなかった。

 

 

 

 



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まつろわぬ神

 

 

 

 ミサの合間、書庫に忍び込んで俺は本を探していた。ソフィアさんが言っていたストーンハーストに残る竜殺しの伝説を探るためである。

 

「聖ゲオルギオスに聖マルタ、聖マルガリタか……」

 

 書庫の中で見つけた『レゲンダ・サンクトルム』というキリスト教の聖人伝集を読むと竜殺し、あるいは竜の恭順をなし得た聖人たちを見つけることができた。しかし、どちらもストーンハーストに関わりがなく、ここで信仰されている訳でもなさそうだ。

 

 ただ気になる点はいくつかある。

 竜殺しに際して、明らかに布教や改宗と言った要素が含まれていることだ。

 

 聖ゲオルギオスは竜退治の条件に、民衆に洗礼を受けること、つまりは改宗することを求めた。

 

 布教のためにフランスに訪れた聖マルタは、信仰心によって悪竜タラスクを調服した。

 

 聖マルガリタも幾度となく棄教を迫られ、竜の姿をした悪魔に飲み込まれながらも、神への信仰から腹を引き裂いて生還を果たした。

 

 こういった伝説は、キリスト教布教の一種のプロパガンダとしての役割を担っていると言えるのではないだろうか。民衆に分かりやすく、またストーリー立てて語ることで、信仰心をかきたてた。

 

 キリスト教において、竜は悪魔の化身だ。また、その竜を退治あるいは調服し、布教や異教徒に対して改宗を行う。では、竜は反キリストの象徴? 

 

 これはこじつけになるが、竜、引いては悪魔とされるものたちは元々異教徒の信仰する神々やそれに準ずる存在、あるいはそれを信仰する人々であった。そう考えてみればどうか。

 

 つまり、竜殺しは宗教に対する征服。

 

 古来からある信仰を淘汰し、犯すための逸話。ストーンハーストに竜殺しの伝説が残るのは、そこに背景に土着信仰……異教の存在があったからではないか。

 

 ならば、竜殺しの伝説自体は、騎士たちによって村が焼かれた後に作られたと考えるのが妥当だろう。それ自体の行いを正当化するために、信仰で信仰を征服するために物語は作られた。

 

 異教の象徴としての竜。

 土着信仰の神々を辱しめ、貶め、淘汰した物語。

 

 竜殺しとは、つまるところ神殺しに他ならない。

 

 全ての信仰がそうされた訳ではないと思う。征服されキリスト教に取り込まれた信仰もあるはずだ。ただ、征服された神は、人々は、それをどう思うのだろうか。

 

 まつろわぬ神。

 

 まつろわぬ民。

 

 行き場を失い、さ迷うこととなったものたち。

 

 そして、あの時に見た異教の遺物であるストーンサークル。世俗から切り離された異界とされる森。その中で活動する這いずるもの。そこでしか存在できないもの。あれは、以前考えたようにそういう類のものだったのだ。

 

 我らはひとつ。ひとつは我ら。

 

 そう、ひとつに、なるのだ。

 

 まつろわぬものは、俺に対してそう言った。

 俺がそれに()()()()のは、俺自身が異邦人であったから。そう、まつろわぬ者であったからだ。それ故、彼らとひとつになるべき存在だと思われてしまっていたのか。

 

 そこまで考えてふと思った。

 

 羊皮紙を探すためにアマルの部屋へと赴いた帰り、俺は何かに操られるように礼拝堂へと誘われた。それはまるでストーンサークルに喚ばれた時と同じように、である。

 

 まさか、あの礼拝堂は――キリストを奉る場所ではないとでも言うのか?

 

 まつろわぬ神、あるいは者が干渉できる。そんな場所がこの修道院の奥底に眠っている。

 ……いや、違う。むしろ、それらの本体を外に出さないようにしていると考えるべきなのだ。そうであるならば、正しくこの修道院は牢獄。

 

 そう、聖なる者たちによって守られ、常に監視されている世俗から切り離されたこのストーンハースト修道院は、まさに「聖者の牢獄」と言うに相応しい。

 

 異教を信仰していたことにより、征服され焼かれた村の跡地にあえてこの修道院を建てられたのは、そういうことなのではないのだろうか。

 

 その礼拝堂に毎日祈りを捧げるアマルは――

 

 ぞわりと、うなじに冷たいものが走った。

 それと同時に、もやがかかったように思考が鈍る。

 誰かに見られてるような、不快感が頭を埋め尽くす。

 

 見られている。

 

 ……ああ、一体何に?

 

 まつろわぬ神に、まつろわぬ者に――

 

 それ以上、考えることができなかった。

 兎に角、この場所から離れたかった。 

 

 俺は足早に、書庫を出る。

 身体の震えが止まらない。

 

 間隔が短くなってきた白昼夢。

 何かに同化するように、溶けてしまう感覚。

 俺はどうしてもしまったのか。

 

 

 ……俺は何になろうとしているのか。   

 

 

 

 

 



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何のために十字を切るか

 

 

 

 聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。

 

 ああ、主よ。

 

 暗闇が貴方を隠し、妨げようとも。

 

 その姿が見えなくとも。

 

 過去、現在、そして後に来る、永遠のお方よ。

 

 

 ――貴方だけが、聖なるお方。

 

 

 

 ***

 

 

「黒殿……大丈夫ですか? 顔が真っ青ですが」

 

 書庫を抜け出し、廊下を歩いているとヨハンナに声をかけられた。どうやら、ミサが終わったらしい。考えるのに夢中で、聖堂の扉の音が聞こえていなかったのだろう。俺は極力目を合わないようにして答える。正直、まともに話せる精神状態じゃない。

 

「あ、ああ、俺は大丈夫だよ」

 

 ヨハンナはそんな俺の顔をじっと観察して、そっと目を伏せた。それはまるで痛々しいものを見たかのような仕草だった。指先が震える。止めてくれ。そんな顔をしないでくれ。きしりと、錆びた心が悲鳴をあげた。

 

「……貴殿は、嘘が下手だな」

 

 見透かされた、と思った。不安や恐怖を抱えながら震えている情けない俺の心を。だからこそ、俺は笑った。それはせめてもの抵抗だった。

 

 

「…………うな」

 

「えっ?」

 

「そんな泣きそうな顔で笑うな」

 

 ぐっと、手を掴まれた。

 

「黒殿、こちらへ」

 

「ーーえっ? ちょっ、ヨハンナ!?」

 

 強い力で押さえ込まれ、抵抗ができない。情けなく、されるがままに連行される。

 

 ヨハンナは足早に廊下を通り抜け、俺を彼女の自室へと引き込んだ。扉を固く閉め、中から鍵をかける。驚くまもなく、背中を押されベットに座るよう促された。

 

「おい、ヨハンナっ!」

 

「しっ、静かに。じっとして下さい」

 

 ヨハンナは俺の言葉を制すると、こめかみに手を押し当て、ゆっくりマッサージした。彼女の両手の暖かさがじんわりと伝わり、ほっと肩の力が抜けた。ヨハンナの柑橘系の体臭が、更に気分を落ち着かせる。

 

「少しは……落ち着きましたか?」

 

「ああ、ありがとう。ヨハンナ」

 

 ヨハンナは俺の様子を見て、優しく微笑む。暖かい日溜まりのような瞳だった。それを見て、俺は無性に泣きたくなった。

 

「……暫くこうしていましょう」

 

「ーーうん。頼む」

 

 ヨハンナの柔らかい言葉に頷く。

 アマルが知ったら、間違いなく激怒するだろう。しかし、今はこの温もりにすがっていたかった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「実は言うと、後悔しているのです」

 

 俺のこめかみに手を当てながら、ヨハンナはポツリと囁くように呟いた。俺は分からず首を傾げる。

 

「……後悔って、何に?」

 

「貴殿に……お伝えしたことを、です」

 

「……もしかして、修道院の過去を探るようにってやつか?」

 

 ヨハンナは答える代わりに、目を細めた。

 

「貴殿のことを思うなら、決して言うべきではなかった。私の考えが甘かったのだ」

 

「……ヨハンナ?」

 

「黒殿、どうかこれ以上はお止めください。近付いてはいけない。見てはいけない。話してもならない。それに気づいてしまったら……いいえ、気づかれてしまったらもう遅いのです」

 

「ヨハンナ、お前は何を言ってる。何のことを言ってるんだ」

 

「……すまない」

 

 分かってくれと、ヨハンナは懇願した。辛くて堪らないという表情。

 

「そんな顔するなよ」

 

「すまない」

 

「謝るな。ヨハンナは俺のことを想って言ってくれたんだろ? お前は本当に優しいやつだ。禁を犯しても、俺に助言をくれたり、こうやって守ろうとしてくれてる」

 

「黒、殿……」

 

「それより、ヨハンナの方こそ大丈夫なのか? 俺を助けることで、危ない目にあったりしてないよな!」

 

 はっ、とする。

 そこまで考えがいってなかった。

 そうだ。ヨハンナは禁忌とされる情報を俺に伝えてくれた。危険な目にあっていないのだろうか。そんなことになれば、償っても償いきれない。

 

「心配せずとも、私は大丈夫だ」

 

「本当だろうな? 無理してないか?」

 

「していない。私だけは本当に大丈夫なのだ」

 

「そっか。良かった。でも、無理するな。危険なことは絶対しないでくれ。俺のことは気にしないで、助けなくても良いから自分のことを大切にしろ」

 

 俺の言葉を聞いて、ヨハンナは眉を下げた。もごもごと、何かを口にしようとしたが、諦めるように顔を振った。

 

「私は……罪深い。こんな想いは、決して許されないことだ」

 

 その言葉を口にして、自身を戒めているヨハンナを見て俺は何とも言えない気持ちになった。彼女の中で、どのような感情が渦巻いているのだろうか。

 

 ヨハンナは俺の頭から手を離なす。

 

「……顔色、良くなりましたね。さあ、お部屋に戻って、今日はもうゆっくり休んでください」

 

 俺は言葉を発しようとして、止めた。何故なら、反論すること自体、ヨハンナの眼差しが拒絶していたからだ。

 

「分かった。今日はもう休むよ」

 

「それが良いでしょう」

 

 ヨハンナは優しげに微笑んだ。それから、静かに天井を見上げて十字を切る。それは神に祈るようにも、首を差し出しかき切る動作のようにも見えた。

 

 その瞬間、血に濡れるヨハンナの姿を幻視した。

 

 止めろ。

 

 心臓が、うるさい。

 

 何かに飢えるように、鼓動する。

 

 どくり。

 どくり。

 どくり。

 

 それを押さえ込むように、左胸を握る。

 

 俺は目を瞑った。

 そして、天井に阻まれ見えない空を仰ぐ。

  

 ……見えないはずの空を仰ぐ。

 

 

 ――咎人よ。

 

 ――目覚めよ、夜はまだ明けぬ。

 

 

 そんな声が脳裏に響いた。

 

 

 

 



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第3章 救いは蠢く闇に
聖なる者の声


 

 

 

 

 巡礼の旅は長く、過酷だ。

 

 だからこそ、神への信仰を深めることができる。苦しみ、痛み、悲しみ、その中にこそ真の救いはあるのだ。

 

 そのためには、旅を続けなければならない。しかし、所詮女ひとりの旅路だ。外は危険に溢れ、常に死がこちらを見詰めている。

 

 私はどこまでこの道を歩んで行けるのだろうか……。

 

 

 

 

 ある村に訪れた際に村人から、森の奥深くにある修道院の話を聞いた。

 

 曰く、祖父の祖父、そのまた祖父が子どもだった頃、その森には悪竜が住みついていた。その竜は地を這い、毒を吐き、森に入る人々を悉く闇へと引きずり込んだという。

 これに困り果てた人々は、竜に許しを求めると竜はこう言ったそうだ。

 

「命が欲しくば、穢れなきものを我に捧げよ」

 

 それを聞き人々は、清らかな乙女を竜の巫女として差し出した。

 ある聖人がその話を聞いて、竜を退治しようとこの地にやって来た。聖人は神に祈りを捧げ、天の助けを借りて竜を討ち滅ぼした。

 

 私はその話を聞き、好奇心からストーンハースト修道院を訪れることにした。

 

 

 

 

 ストーンハーストへと鬱蒼と繁る木々にうんざりしながら、私は浅くため息をつく。頬に伝う汗を軽く拭い、気を取り直して前へと進む。

 

 昼でも暗く淀んだ森へと足を踏み入れたのはいいが、直ぐに道を見失ってしまった。

 

 どれくらいの時間を歩いたのか分からない。数時間なのか、あるいは数日なのか。疲労と空腹で意識が混濁しながらも、私はひたすら森の中をさ迷い歩いた。

 

 幸い道中で力尽きる前に、私はこのストーンハースト修道院にたどり着くことができた。

 

 

 これも神が与えた試練なのだろう。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 ふと、気づけばストーンハースト修道院で暮らし始め、数週間が過ぎていた。

 それは本当にあっという間のことで、自身の記憶が断続的に抜け落ちてしまっているのではないかと錯覚してしまう。そんな馬鹿なことありはしないのに、と私は誰でもなく自分自身を嘲笑した。

 

(……でも、何故かしら)

 

 この修道院は、今まで見てきた修道院とどこか違うように思えた。

 

 何故だかは、分からない。

 ただ、言うなれば違和感……そう、漠然とした違和感を感じるのだ。

 

 ここは本当に聖人が悪竜を神の威光により滅ぼした地なのだろうか。そこまで考えて、私は頭を振る。そんなことを考えて何になる。

 

 水溶性じみた曖昧な答えしか、私は言葉にできない。何とも無知蒙昧であろうか。

 

 やはり人とは生まれながら、罪深く愚かなのだ。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 夜。

 

 微かな音がして、目が覚めた。

 巡礼棟には、私しか居ないため背筋が凍る。もしかして、慮外者が忍んで来たのかもしれない。このようなことは、何度も経験している。枕元に置いた護身用の短刀を掴む。

 

 息を止めて、じっと扉を睨み付けた。

 

 一瞬、強い風が吹き思わず目を瞑る。

 再び目を開けると、何かがそこにいた。

 

 クスクス。

 

「……えっ?」

 

 笑い声が聞こえる。

 

 軽やかな、そして透き通るような声音。

 その声は、男の声ではない。むしろ、少女のそれだった。何故こんなところに少女が、と思うよりも先に名状しがたき恐怖が頭を埋めつくす。息が詰まり、言葉を発することさえままならない。

 

 ソレを前にして、私は自身の虚弱さを呪った。

 

「はっ、ふっ……はぁ、ああ、あっ、あああ、いや」

 

 クスクス。

 笑う声。嗤う声。

 囁くように、叫ぶように。

 

 ズルズルと、引きずる音がする。

 いや、これは這いずる音だ。

 

 こちらにゆっくりと、向かってくる。

 

「こ、来ないで、ああ、いや、いやいや、近づかないでっ!」

 

 止まらない。

 

 ゆらゆらと、曖昧な影。

 

 ズルズルと、生々しい音。

 

 甲高い耳鳴りがしたかと思うと、影はピタリと止まった。

 

 

 ――貴方は、神を信じますか?

 

 

 何を聞かれたのか分からなかった。頭が真っ白になる。 

 

 

 ーー貴方は神を信じますか?

 

 

 もう一度、ソレは同じ言葉を繰り返した。先ほどまで、感じた威圧感は消えた。しかし、心臓を掌握されているような不快感は残っている。

 

 一拍おいて、私はすがり付くように祈りを捧げた。

 

「ああ、主よ。どうか我らを罪から救い給え。どうか我らを悪から救い給え!」

 

 

 ――そう、でも神は貴方を信じているでしょうか?

 

 

 何故か、私はそれにすぐ答えることができなかった。

 

 意識が遠くなる。

 

 床に崩れ落ち、動けない。

 ソレは直ぐ側までやって来て、私を見下ろしているようだった。視界がぼやける。

 

 私という存在が溶けていく。自分が矮小な存在であることを突きつけられる。叶わない。敵わない。

 

 

 クスクス。

 

 笑う。

 

 何がそんなに楽しいのだろうか。

 

 クスクス。

 

 嗤う。

 

 何がそんなに嬉しいのだろうか。

 

 クスクス。

 

 笑わないで。嗤わないで。

 

 クスクス。

 

 私を見て笑うなっ! 嗤うなっ!

 

 クスクス

 

 笑うな嗤うな笑嗤笑笑笑嗤嗤……笑え、嗤えっ!

 

 

 ――最後に見た記憶は、深紅に輝く瞳だった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 目が覚める。

 

 全身ぐっしょりと寝汗で濡れている。

 あれは夢だったのだろうか。

 

 私はベッドから抜け出して、深いため息をつく。

 顔を洗って、気持ちを切り替えよう。

 そう思って、一歩踏み出す。そこで、私は目を見開いた。何故なら、床に這いずった跡がくっきりと残されていたからだ。

 

「ああ、あ、ああああああーーーーッ!!!!」

 

 私は甲高い悲鳴を上げ、その場にへたり込んでしまった。何故、何故、何故。どうして、あれは夢ではなかったの。何故、私がこのような目にあわないといけないの?

 

 

 主よ。

 

 これはいと貴きあなたのからの試練か。

 

 それとも悪魔からの誘惑か。

 

 

 私は、ソフィア・ロメは一体なにを見たのだろうか。

 

 

 エリ・エリ・レマ・サバクタニ。

 

 神よ、何ゆえに我を見捨てたもう。

 

 

 

 




不幸属性って何か良い。


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夢の跡

 

 

 

 

 今日の俺とフランチェスコの担当は、巡礼棟の掃除であった。箒や布巾を持って、巡礼棟に入る。

 

 居間には誰も居ない。ソフィアさんは、まだ眠っているのだろうか。もう昼間なのに、しっかり者のソフィアさんにしては珍しいことだ。

 居間の掃除をフランチェスコに任せ、俺は2階の共同寝室に向かった。扉を叩いて、声をかける。

 

「ソフィアさん? いらっしゃいますか? アンドリューです」

 

 返事はない。

 ただ、微かに声が聞こえる。

 中にいるのは間違いないようだ。

 

「ソフィアさん、聞こえていますか? 掃除をしに来たました。開けても大丈夫ですか?」

 

 また、返事がない。

 これは本格的におかしい。

 

「すいません。ソフィアさん、入りますよ!」 

 

 寝室の扉を開くと、部屋の奥でソフィアさんが踞っているが見えた。慌てて駆け寄る。

 

「ソフィアさん、大丈夫ですか!」

 

 肩を揺すって、声をかけるが反応はない。ただ、じんわりと手に体温が伝わり少しほっとする。しかし、正常な状態ではないのは確かだ。

 

「ソフィアさん……?」

 

 ソフィアさんは、一心不乱に何かを呟いているようだ。耳をすませる。

 

「エ……レ、タニ……。リ……マ、サ……。ああ、エリ……ク……!」

 

 これは、座り込んでいるのではなく、祈りを捧げているのだろうか? ただ内容は切れと切れで、意味までは分からない。

 

「ソフィアさん、俺だ。アンドリューだ。大丈夫だから、こっちを見て」

 

 ソフィアさんは、身体を震わした。

 

「見る……見る? ああああっ、いや、いやっ、離して、来ないで!!!」

 

 ソフィアさんはいきなり叫び出す。慌てて身体を抑える。完全に錯乱状態に陥っている。

 

「ソフィアさんっ、おち、落ち着いて! フランチェスコーっ! フランチェスコ、来てくれっ! ソフィアさんが、ソフィアさんが!」

 

 大声でフランチェスコを呼ぶ。

 少しして、ドタバタと階段を上がる音が聞こえ、フランチェスコが部屋に飛び込んできた。

 

「黒の旦那っ! これは一体どうしたんですかい!?」

 

「分からない! ソフィアさんが、突然こうなったんだ。さっきから様子がおかしくて……」

 

「いや、いやっ!! 止めて、笑わないで、嗤わないで、笑わないで、嗤わないでっ!!!」

 

 

 髪を振り乱し、暴れるソフィアさんを抱き締める。俺は背中を撫でながら、声をかける。

 

「大丈夫……大丈夫だから。ソフィアさん、落ち着いて。ゆっくり、息を吸って」

 

 何度も背中を撫でていると、次第に呼吸も落ち着いくる。ソフィアさんは身体を震わせて、温もりを求めるように俺に必死にすがり付いきた。

 

「ああ、っ、ふぅ……見て、近づいて……うっ、跡が、床に跡が……跡が跡が!!」

 

「床に跡?」

 

 ソフィアさんの言葉を聞き、床に目を向けるが特に何か変わった様子はない。一体何の跡のことを言っているのだろう?

 

「まさか……そんな、ありえない」

 

「……フランチェスコ?」

 

 ひきつったフランチェスコの声に思わず振り向く。フランチェスコは顔を真っ青にして、目を見開いていた。

 

「ソフィアさん、アンタ……まさか。……でも、そんなことはあるはずない。そうでさぁ、今まで一度だってそんなことはなかった。なかったんだ」

 

 フランチェスコは、小刻みに震える自身の指を隠すように胸の前で両手を重ね合わせた。それは祈りの動作に似ていた。

 

「もう決まっている。決まっているんでさ。それ以上を求めるのは、道理から外れてるってもんじゃねぇかい」

 

「フランチェスコ、お前まで一体どうしたんだ?」

 

「旦那、ソフィアさんは……」

 

 いや、とフランチェスコは頭を振った。ひんやりとした空気が場を満たす。

 

「……旦那、今日のお勤めはこれて終わりにしやしょう。それと、ソフィアさんはあっしが預かります。きっと夢見が悪かったのでしょう。ええ、そうに違いありやせん。旦那にも、そういう日もありますでしょう? ここは……そう、少し息が詰まりますから」

 

 フランチェスコは早口で俺にそう言い聞かせた。反論を許さないような口調だった。

 

「さぁ、今日のところは大丈夫ですので、お部屋に戻ってゆっくりして下せぃ」

 

「でも……いや、分かったよ。ここはフランチェスコに任せる」

 

 強く促され、ソフィアさんをフランチェスコに託す。俺は立ち上がって扉へと歩いて行く。

 

「ーーー黒の旦那」

 

 フランチェスコに呼び止められ、顔だけ後ろを振り返った。

 

「……どうか、お気をつけてつかぁさい」

 

「修道院に戻るだけだぞ。大袈裟だな」

 

「……だからこそ、ですよ。黒の旦那は抜けていますからね。帰る途中で転ばないように気をつけてつかぁさい」

 

「あのな、俺は子どもか!」

 

 すいやせん、とフランチェスコは困ったように笑った。それはあまりにも不格好で歪な笑みだった。

 

 

 

 



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故郷の歌

 

 

 

 巡礼棟を出て、後ろを振り返る。

 

 先程のソフィアさんの反応は一体何だったのだろう。そして、それに対するフランチェスコの言動も。

 

 ソフィアさんは、「見る」という単語に反応した。それから、俺には「見えない」床の跡を恐れた。彼女は一体なにを見たのだろうか。

  

 そして、フランチェスコがソフィアさんの反応に、あそこまで驚愕していた理由はなんだ。ソフィアさんが見たものが、修道院の秘密に関わるものだったから?

 

 俺はそこまで考えて、誓約の内容を思い返してみた。

 

 誓約は視覚、聴覚、触覚。人間が司る感覚を一様に制限していた。ソフィアさんはそれに影響されたのだろうか。いや、しかしソフィアさんは外から来た来訪者だ。そもそも誓約とはどの範囲で適応されているのか。

 

 ヨハンナは俺に、これ以上修道院の秘密に手を出すのは止めろと忠告した。見てしまったら、()()()()()()()()()らもう遅いのだと。

 

 誓約は秘密を守るものだが、それ以上に修道院に関わる者を守るために作られたのかもしれない。

 

 ―――決して、見るな。聞くな。話すな。

 

 これが、所謂このストーンハーストでのタブーだ。ヨハンナが言うように、それを犯してしまうと何らかの災難が降りかかるのだとしたら、その前提には、災難を降りかける何かの存在が必要だ。 

 

 ソフィアさんは、タブーを犯した。だから、正気を失うほど恐ろしい何かを見たんだ。俺には、見えなかった何かを。

 

 だが、それならソフィアさんはどのタイミングでタブーを犯したのだろう。

 

 俺が彼女と最近話したことは、そう……竜殺しの伝説だ。まさか、あれが関係しているのか。それを話してしまったから、何かがソフィアさんを襲った?

 

 なら、その話を()()()俺にも同じようなことが起こるのか。

 

 葡萄畑から、生ぬるい風が吹いてきた。それにあてられるように、俺は前を向いて歩き始めた。

 

 

 

 ***

 

 

 部屋に戻るとアマルは目を瞑り、ベットに腰掛けながら歌を歌っていた。高く透き通る声だ。心安らぎ、優しく包み込まれているような気持ちにさせる。

 

 静かに聞きいる。

 

 数分して、アマルは歌い終えるとゆっくり瞼を開けた。そして、直ぐに俺の存在に気付き、顔を紅潮させる。

 

「アンディ様っ、いつからそこに居らっしゃったのですか!?」

 

「途中からだけど。……驚いた。アマル、お前歌が上手いな。思わず聞き入ってしまったぞ」 

 

「……恥ずかしいです。お声をかけて下さったら良かったのに」

 

「そんなもったいないことできるか。もっと聞きたいぐらいだ」

 

 俺はアマルの隣に腰掛ける。

 

「それって何の歌なんだ?」

 

「これは……子守唄です」

 

「……なるほど。だからこんなにも心安らいだんだな。他にも歌える歌はあるのか?」

 

 アマルは何とも言えない顔をして、俺を見上げた。

 

「その、申し訳ありません。私はこの歌しか知らないのです」

 

「そうなのか。なら、俺が他の歌を教えてやろうか?」

 

「本当ですか!」

 

「ああ、勿論。でも、期待するなよ。俺あまり上手くはないからな」

 

「いいえ! アンディ様は、とても色気がある低いお声をお持ちですもの。歌声を聞くだけで、きっとアマルは気をやってしまいます」

 

 それって、つまりそういう意味だよな。俺は思わず、眉間を押さえた。

 

「気をやるって、お前なぁ……」

 

「仕方がないではありませんか。アンディ様が素敵すぎるのが悪いのですっ!」

 

「開き直るなよ……やっぱり、歌を教えるのやめとくか」

 

「……ううっ、アンディ様のいけずぅ」

 

 アマルはリスみたいに頬を膨らませた。

 

「うそうそ。どんな歌がいいかな。そうだな……『故郷』とか」

 

「ふる、さと?」

 

「ああ、俺の国では誰もが知っている歌だな」

 

 俺はゆっくりと、歌い始めた。懐かしい旋律。

 初めてこの歌を習ったのは小学生の頃だったか。日本での思い出が次々と脳裏に浮かんだ。

 

「これが故郷って曲で……って、アマル?」

 

 アマルは顔を伏せ、肩を震わせていた。まさか本当に気をやったのではあるまいな。心配になって肩に手を置く。

 

「アンディ様は……故郷にお帰りなられたいのですか?」

 

 母を探す迷子の子どものような声音。アマルの言葉に思わず目を見開いた。

 

「……そりゃ、まぁ帰りたい気持ちがあるさ」

 

 アマルはびくりと、身体を揺らした。きっと、俺がこのストーンハーストをで出で行く未来を想像したのだろう。

 

「でも、帰るとしたらアマルも一緒だな」

 

「……えっ?」

 

「いや、俺がお前を置いて行く訳ないだろ。アマルは俺の女だからな。いいか、覚悟しろ。お前が嫌だって言っても連れていくからな」

 

「……あ、ア゛ンディざまぁ」

 

 俺の言葉を聞いて、アマルは涙を溢れさせた。手で拭いても拭いても止まらない。雨のような大粒の涙は、彼女の膝へと落ちていく。

 

「こら、そんなに拭くと目が傷ついちゃうだろ」

 

 目元を拭うアマルの手を諭しながら優しく掴む。アマルはそれを聞いてしきりに頷く。

 

「……アンディさまぁ、連れていってください。わたくしも連れていってくださいっ!」

 

「ああ、勿論だ」

 

「ううっ、アンディさま、すぎぃ、あ゛いじてますぅーーっ!」

 

 ぎゅーっと、強く抱き締められる。頭を胸に擦りつけられた。離れまいと必死なアマル。俺もそれに答えるよう強く抱きしめ返した。

 

 

 




いつも誤字、脱字の修正ありがとうございます!


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満点の星空の下で

 

 

 

 意識して目を瞑って、もうどれくらい時間が流れただろうか。身体は疲れているのに、全く寝つけない。寝ないとと思うと、余計気が高ぶってしまう悪循環。

 

 いつもならアマルを抱いて、その疲れから直ぐに眠りに落ちるのだが、今晩はソフィアさんのことも相まって気分が乗らずそういった行為もしなかった。眠るのに時間がかかっているのは、そんなどうしようもない理由からだった。

 

 浅く息を吐いて、気持ちを落ち着かせる。数分程、吸って吐いてを繰り返してみたが、どうにもならない。気分を変えて、外の空気でも吸いにいくか。

 

 身動ぎすると、ぎしりとベッドが軋んだ。

 それに合わせて、隣に寝ているアマルの鼻にかかった声が聞こえた。

 

 ベットに負担をかけないように、ゆっくりとした動作で降りる。その時だ。手を強く引っ張られ、ベットに引き戻された。

 

「―――アンディ様、どこに行かれるのですか」

 

 声が聞こえた。

 憮然とした口調。珍しく怒ったような声音に、驚く。

 

「いや、ちょっと眠れなくて。気分転換に、外の空気を吸ってくるよ」

 

「駄目です」

 

「いや、駄目って。別に少しぐらいいいだろ?」

 

「……そう言って、他の女のところに行くつもりなのでしょう」

 

 その言葉を理解するのに、数秒かかった。いや、突然何言ってるんだ。どうしてそんな話しになる。

 

「……はぁ!? な、何でそんな話になるんだよ!」

 

「今日、アマルを抱いて頂けませんでした。いつもは、何度もして頂けるのに。ずっと待っていたのに。……もう、私には飽きてしまわれましたか? だから、他の女のところに行くのですか?」

 

「あのな。今日は気分が乗らなかっただけでそんなつもりはない。たまにはそういう日もある。アマルだってそうだろう?」

 

「いいえ。私はいつでも、どこにいてもアンディ様と触れあっていたい。だから、ここに居てください。一緒に居てください」

 

「……なぁ、アマル。息抜きぐらい自由にさせてくれよ。毎回、そんなんじゃ俺も疲れちまう。でもまぁ―――」

 

 柔らかく嗜める。

 アマルの身体がびくりと、暗闇の中でも分かるくらい大きく震えた。俺はため息をついて、優しく手を握る。

 

「―――そんなに心配なら、お前も一緒に外の空気吸いにいくか?」

 

「……はい、アンディ様」

 

 ほっとしたような声音。アマルは俺の手を握り返す。俺もそれに答えるように、少女の手を引いてベットから立ち上がらせた。

 

 手探りで蝋燭に火を着けて、上着を着る。

 

 振り替えると、淡い蝋燭の光に照らされたアマルがこちらをじっと見つめていた。

 

「……何だアマル。俺に何かついてるか?」

 

「いいえ。……ふふっ、ただアンディ様は本当に素敵だなぁと思って」

 

 蕩けるような、うっとりとした表情をこちらに向けるアマル。こいつはこういう不意打ちをしてくるから困る。

 

「そんなこと言ってないで、お前も早く着替えろよ」

 

「アンディ様私はこのままで大丈夫です。夜なら私の姿も闇に溶けますから」

 

 アマルが着るシュミーズはリネン製で、生地自体もかなり薄い。そのため身体のシルエットもはっきりと分かる。でも、アマルが言うように、この暗闇の中でそれらも見ることは叶わないだろう。

 

「……まぁ、お前がそう言うなら良いけど」

 

「はい。では参りましょう」

 

 アマルはそう言って俺の腕を組んでピッタリと身を寄せた。むにっ、っと柔らかい胸の感触を腕に感じる。分かってやってるなら、とんだ魔性の女だな。そんなくだらないことを考えながら、一歩足を踏み出した。

 

 

 

 ***

 

 

 修道院の外を出て、ふたりしてゆっくりと足取りで歩く。

 

 風が葡萄畑を通り抜ける音が心地よい。空を見上げると、宝石箱をぶちまけたような満天の星空が光輝いていた。

 

「夜空が綺麗だな……」

 

「そうですね。私もこんなにも煌めいている空を見たのは初めてです。きっと、アンディ様がお側に居てくださるからですね。ふふっ、アンディ様はやはり世界で一番素敵な殿方です。アンディ様の側に侍れる私は本当に幸せ者ですね」

 

 一等星の如くキラキラと輝くアマルの笑顔。俺はその眩しさにやられて、思わず視線を反らした。

 

「うっ、だから流れるようにそういうこと言わないでくれよ。心臓に悪い」

 

「そう言われましても……本当のことを申しただけです」

 

 しょんぼりと肩を落とすアマル。その動作は、子犬が尻尾をだらりと下げる姿に似ていた。俺は猫より断然犬派だ。

 

 よしよし。頭を撫でる。

 

「毎回思うけどさ。お前、ちょっと心配になるくらい、俺のこと好きすぎないか?」

 

「……はい。アマルはアンディ様が好きで好きで好きで、もうどうしようもないくらい愛しています。何よりも誰よりも……貴方様だけをお慕いしています」

 

 熱っぽいアマルの吐息を感じる。

 

「だから、他の人には絶対に渡さない。私の愛しい人。アマルだけのアンディ様」

 

 ぎゅっと抱きつかれる。そして、グリグリと身体を擦り付けるように、マーキングされた。この甘えん坊の子犬め。俺も抱きしめ返す。

 

 ああ、でも重いなぁ。いや、体重とかじゃなくてアマルの俺に対する想いが。だが、そんな重りがあるからこそ、俺はこの世界に立っていられるのだ。これぐらいがちょうど良い。最近そう思うようになった。

 

「アマル。ありがとな。俺なんかを好きになってくれて」

 

「アンディ様っ。……んっ」

 

 首に手を回されて、引き寄せられる。唇に柔らかい感触が伝わる。ああ、俺はキスをされているのかと、他人事のように思った。

 

 ――どれくらいキスしていただろうか。

 

 どちらともなく口を離す。

 

「んっ、アンディさまぁ」

 

 とろんとした声で、俺の名前を呼ぶアマル。俺は答えるように、細い腰に手を回す。少女は嬉しそうに、身体をグリグリと擦り付けてマーキングする。

 

「アンディ様。夜眠れない時は、ひとりでお外に出ないで、こうやって私を連れていって下さいね」

 

「んー、お前がその時起きてたら考えるよ」

 

「つれないことをおっしゃらないで。私が起きてなければ、起こしてください。そうでないと、貴方様を守れません」

 

 アマルはそう言って、修道院を見つめた。

 

「……このお方は、私だけの愛しい人。絶対に手を出させるものですか」

 

 ぽつりと吐き捨てられた言葉は、一体誰に向けてのものだったのか。俺には分からなかった。

 

 

 



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呼ばれない名前

 

 

 

 息を吸って、吐く。

 食事をする。

 睡眠を取る。

 

 毎日、その繰り返し。

 

 色のない世界。

 冷たく閉ざされた扉。

 抜け出せない闇。

 

 私には生きる意味などなかった。

 それなのに、生かされ続けている。

 

 感情など邪魔なだけだ。

 何も考えなければ強くなれる。

 孤独だからこそ失うものもない。

 

 瞳を閉じて、時が過ぎ去るのをじっと待つ。

 

 そうすれば、いつかきっと終わりが来るだろう。

 

 

 

 ***

 

 

 

 一心不乱に鍬を振るう。

 土を掻出す度に舞う土埃が身体にまとわりつく。それを気にせず、また鍬を振り下ろす。

 

 この作業が修道院への恩返しに繋がる。

 そう思うと、重労働も苦ではなかった。それどころか、喜びさえ感じていた。

 

 日本での仕事は、デスクワーク中心でこうして身体を使って働くことはまずはなかった。ここに来た当初は苦労の連続で、今思い出しても苦笑いしか出てこない。それでも、俺は何とかここまでやってこれたのはアマルは勿論のこと、フランチェスコやヨハンナをはじめとする修道士たちのお陰だ。

 

 汗が顔を伝う。

 どうせこれが終われば、水浴びをする。ならば、拭いても同じことだ。汗で視界がぼやけるが、気にするほどでもない。

 

「……黒君、そろそろ休憩しないかい? 熱心なのは良いことだけど、何事もほどほどが大切だよ」

 

 手を止め、顔を上げる。

 目線の先には、ひとりの修道士が立っていた。赤みがかった茶髪に、思慮深く優しげな眼差し。年の頃は、30代前半だろう。

 

 彼はシメオン・ガラティア。

 

 このストーンハーストで俺に良くしてくれている修道士のひとりだ。

 

「シメオンさん」

 

 名前を呼ぶと、シメオンさんは静かに微笑んだ。それから、手に持っている蓋付のビアマグに似た木製のコップを掲げた。

 

「ほら、井戸水で冷やしたピケットを持ってきたんだ。日陰で飲んで一息つこう」

 

「……ありがとうございます。頂きます」

 

 そこまで疲れてはいなかったが、せっかくの好意を無駄にしたくなかった。言われるままに俺は畑から離れ、近くの広葉樹の下に腰を下ろす。シメオンさんは俺の隣に座るとコップを渡してくれた。

 

 コップの蓋を開けて、一口飲む。冷やされたピケットが口に広がる。ほっと息を吐く。それから、一気にピケットを飲み干した。

 

「美味しいかい?」

 

「ええ、とても」

 

「そっか。それは良かった」

 

 シメオンさんは笑った。人好きのする笑顔。それを見るだけで優しい人柄が分かる。気遣いができる人で、俺が働いているとこうやって差し入れを入れてくれたりする。

 

「……何か貰ってばっかりで悪いですね」

 

「良いんだよ。君は良く働いてくれるからねぇ」

 

「いや、そんなことは……シメオンさんたちの方がすごいですよ」

 

「ははは、謙遜することはない。もっと威張っても良いぐらいさ」

 

「日本人なので、あまり威張るのはちょっと……」

 

 俺は口をもごもごさせながら呟く。褒められることにあまり慣れていないので、恥ずかしさが先行する。

 

「……ニホン人? そう言えば、君はどこの生まれなんだい? あまり見たことのない容姿だし」

 

「ああ、えっと……」

 

 口籠る。

 未来の日本から来ました、なんて言えるわけがない。

 そもそも日本はこの時代のヨーロッパの人々に認知すらされていないだろう。

 

「……ここから遠く、ずっとずっと遠く。東の最果て。日本という島国から来ました」

 

「島国……?」

 

「ええ。良いところですよ。四季があって、季節ごとの美しさが自慢で。俺はその中でも春が好きなんです。春には桜って言う木が満開の花を咲かすんですよ。桜が嫌いな日本人はいません。それぐらい綺麗なんです。シメオンさんにも見せてあげたかったなぁ」

 

「そっか。とても良いところなんだね。僕もいつか行ってみたいよ」

 

 その時は案内します、そんな言葉を口にする。決して来ることがない未来の話だ。

 

 俺はその考えを振り払うように、別の話題を振る。

 

「そう言えば、シメオンさん。ずっと聞きたかったんですけど、何でみんな俺の事を「黒」って呼ぶんですか? 普通に名前を呼んでくれれば良いのに。安藤でも隆でも、アンドリューでも良いですから」

 

「それは……」

 

 シメオンさんは、さっと目を伏せた。錆びた機械のように、ぎこちなく固い動きだった。どこか昏く淀むような雰囲気。先程までの穏やかな空気が消えた。しかし、それも一瞬のことで、シメオンさんはすぐに顔を上げた。微笑みながら、宥めるような口調で俺に話しかける。

 

「……そうだね。所謂、あだ名みたいなものさ。そちらの方が親しみやすいだろう?」

 

 有無を言わせないような声音。暗く底なし沼のような瞳。

 

 ああ、この瞳を俺は知っている。

 

 フランチェスコや修道司祭が浮かべた何かを恐れた瞳だ。俺の名前を呼ばないことは、何も異邦人だからではなかった?

 

 もっと別の理由……例えばこのストーンハーストの秘密に関わることであるとか。

 

「さぁ、そろそろ仕事に戻ろうか。充分休みは取れただろう?」

 

「……そう、ですね」

 

 その言葉に頷いて立ち上がる。隣に置いた鍬を握り、畑に向かう。

 

 

「――――貴方は、私だけのものよ」

 

 

 後ろから囁くような声が聞こえた。

 俺は振り返らなかった。振り返ってはいけない気がした。

 

 ―――何故ならそれは、シメオンさんの声ではなくもっと幼い……少女の声だったからだ。

 

 それが幻聴なのか。

 後ろに誰かがいるのか。

 俺にはそれを確かめる勇気はなかった。

 

 

 

 

 



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合わせた掌

 

 

 

 畑仕事が終わり、無言で井戸に向かう。

 

 先程の声は何だったのだろうか。どこかで聞いたことのあるような、それでいて聞いたことのないような声。その相反する音が耳に残る。澄んだソプラノの声から推測しただけだが、声の主はおそらく少女だろう。

 

「……普通に考えると幻聴だよな」

 

 シメオンさんと話していたとき、周囲に該当するような女性はいなかった。

 

(そういえば、前もこんなことがあったような……)

 

 あれは確か部屋で座りながら、うたた寝をしていた時だ。

 

『―――私はだぁれ?』

 

 あの時も同じように幻聴だと思った。覚醒しきれない脳が、勘違いしただけなのだと。しかし、もしそれが幻聴ではないとしたら? 声の持ち主は、一体俺に何を伝えようとしたのだろうか。

 

 ……いや、違うな。俺に何かを伝えようとした意図は感じられなった。どちらかと言うと、俺に何かを求めているようだった。

 

(……まさか俺に気付いて欲しかった、のか?)

 

 敢えて正体を口にせず、試すような口振り。俺に存在を知って欲しい。あるいは、認知をして欲しい。今思えば、そんなニュアンスを含んでいたようにも感じる。

 

 仮にその少女が本当に存在したとする。ともすれば、彼女は何らかの方法で直接頭に話しかけてきたとでも言うのか。

 

 そんなことはありえない。そんな超自然的なことは……。

 

 でも、と固くなった眉間を指で揉み込む。俺だって超自然的な現象によってこの世界に迷い込んだではないか。一概に、ありえないと言えないのではないか。

 

 ゾクリと、首筋が疼く。それを押さえるように掌で首を撫でた。今日の彼女の言葉を振り返る。

 

『貴方は私だけのものよ』

 

 俺に対する執着。独占欲。それらを感じさせる言葉。少女は何故俺にそのような感情を抱くのだろうか。

 

 あの甘ったるい恋人に向けるような口調で、俺に囁いた少女。

 

 ……彼女は一体何者なんだ。

 

 思考が纏まらない。

 俺は頭を乱暴に掻き回して深いため息をついた。

 

 とりあえず、汗を流そう。

 上着を脱いで半裸になる。それから井戸に桶を投げ入れ、水を汲み上げる。桶を持ち上げて、顔を洗った。冷たい。気持ちが良い。

 

 残りの水を頭にぶちまける。水に濡れた髪を絞って、もう一度桶を井戸に投げ入れる。それを数回繰り返してやっと一息ついた。

 

「……黒殿」

 

 呼ばれて振り向く。

 凛とした雰囲気。美人と形容するしかない容貌の女性、ヨハンナがそこに立っていた。濃い金髪は珍しく解かれて、風に靡いている。その美しい髪は背中まで伸びていた。こんなに長かったのか。普段はアップしているから分からなかった。

 

「おう、ヨハンナ」

 

「また、水浴びをしているのですね」

 

「畑仕事で汗をかいたからな」

 

「ふふっ、そうでなくても、毎日水浴びをしているでしょう?」

 

「まあな。日本人は綺麗好きなんだ。それはさておき……俺が水浴びをしていたら、高確率でヨハンナに話し掛けられる気がするんだが、まさか毎回覗き見してんのか? うわ、やらしー」

 

「っ!? たわけ! そ、そんなことをするわけないであろう!」

 

 からかう俺の言葉に、顔を真っ赤にして抗議するヨハンナ。わたわたと手を振り、身体全体で反論する。

 なるほど、こういう話題には耐性ないんだ。まぁ、そりゃそうか。ヨハンナは修道女だもんな。思わず笑みが漏れる。

 

「ははっ、冗談だ。ヨハンナってば狼狽えすぎ」 

 

「き、貴殿がおかしなことを言うからだっ!」

 

「分かったから、落ち着け。どうどう」

 

「私は馬ではないっ!」

 

 ぐむむ、と唸るヨハンナ。大人びて見えるから忘れがちだが、彼女はまだ17歳だ。こういう姿を見ると、それを実感する。宥めるように手を上げて、話しかける。

 

「悪かった。機嫌直せよ」

 

「……むっ、本当に黒殿は人が悪い」

 

「でも、そんな俺をお前はいつも許してくれるだろう?」

 

 俺の言葉に、ヨハンナは一瞬目を見開いた。それから悔しそうに唇を尖らせ、小さく馬鹿と呟く。

 

 表面上ヨハンナはクールに振る舞うが、心根は優しく女性的な柔らかさを持っている。彼女はそれを隠すように、意識的に行動しているように感じる。そこには、そうせざるを得ない理由があるのだろう。

 

「で、ヨハンナは俺に何か用があったのか?」

 

「……ただ様子を見に来ただけで、用と言う用はありません」

 

 ヨハンナは憮然と答える。あー、これは拗ねてるな。

 

「……そっか」

 

「ええ、そうです」

 

 ヨハンナなりに俺を心配してくれてるんだな。水浴びの時にあえて話し掛けられるのは、おそらく周囲に人がいないからだろう。

 

 何故なら井戸は醸造所の側にあり、その醸造所が壁となって畑や修道院から井戸を隠しているからだ。

 

 ストーンハーストには、異邦人の俺に優しくしてくれる者もいるが、修道院の中にはサルスを筆頭に俺のことをよく思っていない者もいる。彼らは修道院の者と俺が関わることを良しとしていない。

 

 ヨハンナはそれを知っているため、あえてこの時を狙って様子を見に来てくれているんだ。

 

「ヨハンナ、ありがとな」

 

 心が温かくなって、笑みがこぼれ出た。

 ヨハンナは俺の顔を見て、何故か唇を震わせた。

 

「あっ、……いいえ、何でもないことです。そう、何でも」

  

 何かを言いかけて、彼女は弱々しく首を振る。そして、戒めるように両手を胸の前で組んだ。

 

 いつもと違うヨハンナの様子に違和感を感じながらも、俺はそれにそっと蓋をした。そうしなければいけない、と思った。

 

 



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足跡を追って

 

 

 ―――耳鳴りがする。

 

 

 細い腕がすがり付くように首へ回される。

 自身から滴り落ちた汗が、アマルの張りのある滑らかな肌を伝い流れる。それを見ながら、柔らかい身体を上から押し潰すように体重をかける。二つの豊かな果実が淫らにひしゃげ、形を変えた。 

 

 

 ―――耳鳴りがする。

 

 

 甘い吐息が部屋に響き渡る。

 高く、しかし不快ではない透き通った声音。

 その声に促されるままに、唇を重ねる。熱く蕩ける舌を交わしながら、華奢なアマルの身体を強く抱き締める。身体は彼女を求め激しく突き上げているのにも関わらず、何故か思考はぼんやりとしていた。

 

 

 ―――耳鳴りがする。

 

 

 どこかで聞いたような耳鳴り。脳を震わし、耳を犯す。何も考えられない。ただ目の前の少女を貪り、味わい尽くす。暴力的な衝動にかられ、快楽の中に思考が堕ちていく。

 

 目の前がチカチカと光る。

 

 限界が近い。

 

 肩で息をしながら、最後の力を振り絞る。

 

 そして……その瞬間、世界が止まった。

 

 気づけば、アマルの嬌声も荒い自身の吐息さえ聞こえない。身体は死んでいるように、動かない。いや、動けない。瞬きも自由にできず、目を見開いたまま固まる。状況が把握できず恐怖が喉からせり上がる。

 

 

 ……クスクス。 

 

 

 笑い声が聞こえた。

 

 心底楽しくて、楽しくて楽しくて堪らないという声だった。愉悦に満ちた笑い声が空間に響き渡る。

 

 

 ―――耳鳴りが、する

 

 

 ぐっと身体を強い力で引かれる。

 鈍く光る紅眼。完成され人工物めいた美しすぎる容貌が目の前に広がった。

 

 アマル、いや、彼女は……。

 

 その考えを喜ぶように、少女は俺を優しく抱き止めた。

 

 そして、耳元で囁く。

 

 

 

「――――私を見付けて」

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

「っ、はぁ……はあっ!」

 

 目が覚める。

 

 身体中が汗でびしょ濡れだ。喘ぐように呼吸をする。気持ち悪い。ぐしゃりと頭を撫で付ける。気持ちを落ち着かせてから起き上がる。

 

「夢か……」

 

 妙に生々しい夢だった。

 早打つ心臓を宥めるように、胸を押さえる。それから、深く息を吐いて呼吸を整えた。

 

「んっ……あんでぃさま?」

 

「……アマル、悪い起こしちゃったか」

 

「あんでぃさまぁ」

 

 もぞりと身体を動かし、俺の名前を呼ぶアマル。俺に抱き付こうとする少女の肩を押さえてとどめさせる。

 

「今、汗かいてるから駄目だ」

 

「むうぅ、やー」

 

「やー、じゃない」

 

 それでもくっつこうとするアマルから逃げるように、ベッドから抜け出した。手探りで蝋燭に灯をともす。タンスから布を取り出して、机上にある水の張った陶器に浸す。その布で顔、首、両腕、胸から腹を順に拭いていく。

 ひんやりとした感触に、ほっと息を吐く。心が落ち着き、穏やかな鼓動を取り戻した。

 

 もう一度布をボールに浸して、絞る。布を広げ背中を拭こうとすると、それを遮るように白く細い手が重ねられた。

 

「……アンディ様、背中は私がお拭き致します」

 

「アマル……そうか、じゃあ頼む」

 

 アマルは布を受けとると、優しく丁寧に背中を拭いてくれる。気持ち良い。さっぱりする。

 全て拭き終わるとアマルは「はふぅ」と熱いため息をついた。

 

「……アンディ様」

 

「ん、どうした?」

 

「えへへ、アンディ様ぁ」

 

 アマルはふにゃりと、はにかんだ。背中から包むように抱き付き、俺に身体を押し付けてくる。柔らかい胸の感触が心地良い。少女の甘い体臭が鼻腔を擽った。

 

「アンディ様の背中は広くて、逞しくて、とても安心します」

 

「ん、そうか?」

 

「……はい」

 

 アマルは噛み締めるように頷いた。それから、俺の耳たぶに口付けを落す。

 

「貴方様の腕に抱かれているときだけ、私は全てを忘れられる」

 

「……アマル」

 

 俺は回されたアマルの手を優しくほどき、振り返る。アマルに向き合って、改めて抱き締めた。

 

「アンディ様、お慕いしています。どうか、アマルをずっと側に置いて下さい」

 

「当たり前だ。むしろ、お前が嫌だって言っても離してやらないから」

 

 あえて、冗談めかして言う。

 アマルは、笑った。

 

「ふふっ、嫌なんて決して思うはずありません。アンディ様に与えられるなら、苦痛や悲哀さえも愛しい。私は貴方様の虜。貴方様だけに従い、尽くし、全てを捧げます」

 

 狂信的なまでの恋情。その祈りに似た言葉に圧倒される。アマルの居場所は本当に俺だけなのだ。だから、必死になって俺の側に居ようとする。……それが、酷く悲しい。

 

 お前はここに居て良いんだ。そんな悲しい顔をして笑わないでくれ。俺は何故かそれを言葉にすることができなかった。だから、強くアマルを抱擁する。それは代償行為に似ていた。

 

 

 

 暫くそうしていたが、アマルの肩が震えていることに気付きベットに戻る。ここは夏でも日本のように湿度が高くないため、夜は肌寒い。汗でじっとりとしている布団に思わず眉をひそめる。だが、それも我慢できないほどではない。

 

 ぎゅっと抱きついてくるアマルの頭を撫でながら、ふと思った。

 

「……なぁ、アマル」

 

 アマルは何でしょう? と首を傾げる。小動物のような仕草に笑みが漏れた。

 

「お前に家族、その……姉妹とかいないよな?」

 

「……何故、そのようなことをお聞きになるのですか?」

 

 感情の乗らない声。初めて出会ったときと同じ、機械じみた声音。その声音に、深淵から這い出るようなイメージを抱く。ごくりと、喉がが鳴った。

 

「い、いや。ほら、その挨拶をしないとさ。付き合って同棲もしてるし、きちんとしないと、あれだろ? 今後のことも考えてさ」

 

 自分でも苦し紛れの言い訳だと思う。そもそも、何故誤魔化したのだろうか。分からないが、そうしないといけない気がした。

 

 アマルは俺の顔を見て、悲しげに目を伏せた。きっと彼女は分かっているのだ。俺に別の意図があるということを。

 

 

「……そう、ですか。ならば嬉しい、です。先のことを、考えて……下さっている、のですね」

 

 途切れ途切れの声。言葉にしながら、自身に言い聞かせているようだった。

 

「ああ、勿論だ」

 

 暗闇の中、アマルの表情は窺えなかった。数分の沈黙後、アマルはぽつりと呟いた。

 

 

「…………同胞の姉がいます」

 

 

 その言葉に心臓が震えた。思わず、手で胸を押さえる。落ち着け。何をそんなに物欲しそうに踊っているんだ。お前が得られるものなんてこの世に何一つない。意識して、息を深く吸う。

 

 アマルに、姉がいた。

 

 では、あの少女は……。

 

「でも、姉は―――」

 

 そこで、一拍間を置いて、言葉を続ける。

 

「―――産まれて直ぐに、亡くなりました」

 

 だから挨拶は不要です、とアマルは呟いた。

 

 

 どくり、と心臓が躍動した。

 

 



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反芻される言葉

 

 

 

 ずっと、会いたかった。

 

 振り向いて、笑いかけて欲しかった。

 

 それだけで良かった。

 それだけを求めていた。

 

 でも、貴方は前に進んだ。

 私を置いて、一歩を踏み出した。

 

 それがとても悲しくて、辛くて、痛くて、苦しくて苦しくて苦しくて―――何よりも憎かった(愛しかった)

 

 気付いて。

 私はここに居る。 

 ここで独り、貴方を待っている。

 だから、どうか私を見付けてください。

 

 

 ………それが叶わぬ望みなら、貴方を想い貴方の夢を見続けたい。幸せな微睡みに包まれて、永久(とこしえ)の眠りにつきたい。だから、私は祈るのです。

 

 

 

 ―――決して明けない夜が来るように。

 

 

 

 ***

 

 

 

 昨晩のことを思い出す。

 アマルの言葉が繰り返し脳に浮かぶ。

 

 『同胞(はらから)の姉がいます』

 

 アマルには姉がいたのだ。

 

 1年半共にいたが、そんなことは一度だって口にしたことはなかった。それ自体は不思議なことではない。俺だって静代……妹の存在を彼女に一切話していない。勿論、亡くなったことも、だ。

 

 それなのにこうも何故引っ掛かりを覚えるのだろうか。分からない。分からないが、それが重要な情報であるように思えた。

 

「……アンディ様。先程から黙りこんでどうかなさいましたか? まさか、その、スープがお口に合わなかったでしょうか?」

 

 アマルの言葉に思考が浮上する。

 机に並べられた食事が目に飛び込んでくる。しまった。食事中だった。慌てて視線をアマルに向けた。

 

 彼女は上目遣いで俺を見つめていた。不安げに揺れる瞳が何とも哀愁漂う。俺は慰めるように笑って、アマルに声をかけた。

 

「いや、いつも通りとても美味しいよ」

 

「……良かった」

 

 心底ほっとした様子のアマル。彼女は祈るように胸の前で手を組み、ふわりと頬を緩めた。

 

「……あら、アンディ様、杯が空になっていますね。……エールをお注ぎいたします」

 

 しっとりと微笑み、エールをコップに注いでくれる。アマルに礼を言って、俺はそれを一気に飲み干した。生温いエールが、喉に絡み付く。苦味が口一杯に広がり、思わず顔をしかめた。

 

 

 

 朝食を食べ終え、後片付けをするアマルを目で追う。綺麗な銀髪が蝋燭の仄かな明かりに照らされて橙色に染まっていた。

 

 アマルは俺の視線に気が付くと恥ずかしげに目を伏せ、それを誤魔化すように髪を耳にかけた。その仕草が妙に色っぽい。

 

 立ち上がり、腕を広げる。

 

「アマル、おいで」

 

「……はいっ」

 

 嬉しそうに顔を輝かせ、手を止めると直ぐに駆け寄って来る。その姿はさながら飼い主に呼ばれ喜ぶ子犬だった。

 

 ぎゅっと抱き締める。髪に顔を埋め、彼女の香りを嗅いだ。咲き誇る花のような、熟れた果実のような香り。嗅ぎ慣れた匂いに心が癒される。

 

 満足するまでそれを堪能すると、身体を離す。鮮紅の瞳が切な気に揺れた。

 

「……アマル。その……」

 

「アンディ様……?」

 

 その後に続く言葉を探す。言いたいことは沢山あった。何かを祀る礼拝堂。修道士が守る秘密。そして……アマルの姉のこと。でも言葉が出てこない。もごもごと言い淀み、結局は何も伝えられなかった。俺の不自然な様子にアマルは怪訝そうに眉をひそめた。

 

「どうかなさいましたか?」

 

「……ああ、いや、何でもないよ」

 

「そう、ですか」

 

 アマルは従順に頷いた。しかし、内心は納得できないのだろう。不満がありありと顔に浮かんでいた。

 

(……ほんと愛されているな、俺)

 

 アマルは俺に対して驚くほど過保護だ。全力で甘やかし、誰にも傷付けまいと守る。さらには、自分から離れないよう何から何まで世話をして、俺の自立を妨げようとする。病的と言っても良いほど、彼女は俺に執着している。だからこそ、俺の微かな感情の変化にも、機敏に反応するのだ。

 

 アマルの意識をそらすため、桃色の唇に口付けを落とした。アマルは一瞬目を見開いたが、直ぐにうっとりと顔を蕩けさせた。頬を上気させ、もっととすがり付いてくる。

 

 色を知らない少女だったアマル。今や純心な姿はどこにもない。淫靡さえ感じるその表情は、紛うごとく「女」のそれだった。アマルを変えたのは間違いなく俺だ。それに対して後悔はない。罪悪感も。だが、時々思うのだ。

 

(アマルにとって俺は……麻薬なのではないか)

 

 それは時によって救いにもなり得るが、それ以上に恐るべき結末が鎌首をもたげて待っている。そんな考えを振り切るように、俺はそっと目を伏せた。

 

 

 ***

 

 

 午後、フランチェスコと共に葡萄畑の手入れを行う。

 どんよりとした厚い雲が太陽の光をさえぎり、辺りは昼間なのに色褪せ灰色がかっていた。それが今の自分の心を写しているようで、うんざりとする。

 

「どうしたんです? 何やら沈痛な表情ですが、腹でも下しましたか?」

 

 フランチェスコは手を止めて、心配そうに顔を覗き込んでくる。

 

「いや、違う。別にそんなんじゃないよ」

 

「なら、他に何か心配ごとでもあるんですかい?」

 

 フランチェスコの優しい声に思わず全てを話したくなる。しかし、そんなことができるはずもない。だから、日本を想い郷愁の念にかられていたかのように振る舞った。

 

「ああ、少し故郷の家族を思い出してた」

 

「そうですかい……そりゃ野暮なことを聞きましたね」

 

 へちょりと眉を下げるフランチェスコ。こういうところを見ると、ああこいつ本当に良いやつなんだな、と改めて思う。

 

「いいや、大丈夫だ」

 

 俺はフランチェスコに微笑んだ。それを見たフランチェスコはほっとした顔をした。分かりやすい。

 

「……そう言えば、旦那からご家族の話をあまり聞いたことがなかったですねぇ」

 

「まぁ、話したことがなかったからな。家族とはもう長らく会っていない。遠い遠いところに行ってしまったからな」

 

「旦那の故郷は東の最果ての島国でしたっけ。そりゃ、中々帰れませんね」

 

「ああ、そうだな。でも、必ず会えるさ。何十年も待たせることなると思うけど、きっと」

 

「ええ、あっしもそう願っておきます」

 

 フランチェスコは十字を切って、祈りを捧げてくれた。軽く頭を下げて礼を言う。ぽっちゃりとした頬を震わせて、フランチェスコは笑った。

 

「……フランチェスコの家は商家なんだったけ」

 

「ええ、そうですね。あっしには兄がいるので、家業は兄が継いでいますよ。まぁ、肝心の兄とはあまり仲が良いと言えませんがね」

 

 どくり。

 

 フランチェスコの言葉に、何故か胸が大きく鼓動を打った。落ち着け。俺は胸に手を当て鼓動を押さえ込む。浅く息を吸ってから、フランチェスコに対して言葉を発した。

 

「なぁ、もう一回言ってくれないか?」

 

「えっ? 家業は兄が継いでいますよ。兄とはあまり仲が良いとは言えませんがね」

 

「いや、それよりも前だ」

 

「ええと、あっしには兄がいるので……ですかい?」

 

 頭の中で、フランチェスコの言葉とアマルの言葉がリフレインする。

 

『あっしには兄がいるので』

 

『同胞の姉がいます』

 

 どちらも兄姉がいるというだけの言葉だ。だが、それでいて決定的に違う。それが俺の感じた違和感の正体だったんだ。

 

 どくり、と胸が鳴る。

 

 心臓を押さえ込むのではなく、今度は心音を確かめるように、俺は胸に手を置いた。

 

 

 どくり、と何かが脈動した。

 

 

 



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ふたつの魂

 

 

 

 

 葡萄畑の手入れが終わり、俺は自室へと戻って来ていた。アマルはまだ礼拝から戻ってきていないようだ。 

 

 ベットに腰かけ、先程の違和感について考える。

 

『あっしには兄がいるので』

 

『同胞の姉がいます』

 

 アマルとフランチェスコの表現の決定的な違い。

 それは、「同胞(はらから)」という言葉が入っているか否か、である。

 

 そもそも同胞とは、同じ母から産まれた兄弟姉妹を指す言葉だ。しかし、そう説明するだけならわざわざ同胞なんて言葉を使う必要はない。何故なら、兄弟姉妹と言えば(勿論例外はあるが)、大抵の人々は同じ母から産まれた血の繋がりがある人間のことを想像するからだ。

 

 そしてもうひとつ、白昼夢の少女がアマルの姉であったとしても、あまりにも似ているのだ。いや、似すぎていると言って良い。

 

(そう、まるで同一の存在であるかのように……)

 

 俺はそこまで考えて、脳に衝撃が走った。

 

 待て。

 ああ、そうだ。

 こんな簡単なこと、何故今まで気付かなかったのだろう。

 

 顔や姿、形。雰囲気や匂い。

 同一の存在かと思うほど、似ている少女たち。

 

「……双子」

 

 双子。

 

 そうならば、説明がつく。似ているのは当然だ。おそらく、一卵性の双子だったのだろう。

 それに同胞というのは、同じ母から産まれた意味以外にも、双子として同じお腹で育ったという意味があるのではないか。

 

 以前、アマルは自身のこと「忌み子」と称したことがあった。もしかして、それはアマルが双子として産まれたことに起因しているのではないだろうか。

 

 昔の日本でもそうだったが、双子は不吉であると考えられてきた。一産一子が普通とされた時代の中で、人々には双子が異質の存在として映っていたのだろう。双子を産む者は、1度に複数の子を孕む動物に準え畜生腹と蔑まれていた事実がその証左に他ならない。

 更には、双子は忌み子あるいは、鬼子と称され、殺されることさえあったという。

 

 そこまで考えて、首筋に寒気が走る。

 

(もしかしてアマルの姉は死んだのではなく、人の手で()()()()()()()()()())

 

 双子の片割れを忌み子として殺した。もしそうだとしたら、なんと残酷な話だ。反吐が出る。俺からしたら、双子を忌み子と扱うこと自体、迷信であり非科学的な考え方である。

 

 俺は以前羊皮紙を探すために、アマルの部屋に訪れたときのことを思い出した。仕掛け机に隠された臍の緒が脳裏に浮かぶ。

 

「アマルの部屋で見つけたあの臍の緒は、もしかしてアマルのお姉さんのもの?」

 

 形見として持っていたのだろうか。

 床に視線を落とす。

 

 今までの考えが合っているのであれば、沈黙の廻廊であの夜会ったアマルはアマルの姉だったのか? だから、その時漠然とした違和感を感じたのだろうか。

 

 だが、待てよ。

 アマルは同時にこうも言っていた。

 

『―――産まれて直ぐに、亡くなりました』

 

 そうアマルの姉は()()()()()()()()()()()()

 

 で、あるならば彼女が何故赤子ではなく少女の姿で現れたのか。そもそも、彼女は本当にアマルの姉なのか。それとももっと別の()()なのか。

 

 ただどちらにせよ、彼女が今も本当にこのストーンハーストに存在するとすれば……超自然的な力が働いていると考えざるを得ない。

 

「……双子、か」

 

 呟きが漏れる。

 それに気付いて、苦笑する。

 そっと瞳を閉じて、静代のことを思い出す。俺の双子の妹。何より大切な存在。一卵性ではないので、双子とは言え俺たちは全く似ていない兄妹だったが、それでも両親や他の親族よりもずっと強い絆で結ばれていた。

 

(静代……)

 

 ああ、妹の美しい出で立ち、女性らしく柔らかな微笑みが脳裏に甦る。静代、と心の中で何度も名前を呼ぶ。応えてくれるはずもないのに、と自身に向け嘲笑しながらも止めることはできなかった。

 

 優しく頬を撫でられたような感覚に思わず瞼を開く。

 

 視線の先には、誰もいない。代わり映えしない年季の感じさせる木製の机があるだけだった。

 

 ため息を吐いて、改めて考える。

 

 今思えば、アマルと俺には共通点がある。

 それは双子として産まれ、その片割れを亡くしているという点だ。

 

 双子は元々1人の存在が、別れて産まれてしまったと考えられていた。言うなれば、二人でやっと一人前。だから、双子は魂が繋がっている。アマルたちが一卵性の双子だとすれば、心身共により強い結び付きを持っていてもおかしくない。

 

 そう、魂が強く結び付いているからこそ、片割れが死んでも真の意味での完全な死は訪れない。

 

 生きている俺とアマル。死んでいる静代と少女。そう分けるのではなく、繋がっていると考えなければならない。

 

 生きながら死んでいる、アマルと俺。

 

 死にながら生きている、静代と少女。

 

 現世と常世。

 

 その境界線上に俺たちは立っているのだ。

 

  

 



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神のみぞ知る

 

 

 

 ぎしり、とベッドの軋む音が聞こえた。

 浅い眠りから意識が浮上する。ぼんやりとした視界に、鮮紅の瞳が怪しく瞬いた。

 

「……アマル?」

 

「はい、アンディ様」

 

 アマルは優しい手付きで、俺の頬を撫でる。それから、俺の額にキスを落とした。少女の煌めく銀河のような髪がさらりと流れ、首筋をくすぐった。すごく良い匂いがする。俺は深く息を吸って、アマルの甘い体臭を堪能してから上半身を起こす。

 

 窓を見ると、陽光が差し込み室内を照らしていた。太陽は東の空にあり、まだ正午にも満たない時間帯だろう。それほど、長い時間寝ていた訳でも無さそうだ。

 

「もう礼拝終わったのか?」

 

「ええ。アンディ様に会いたくて、すぐに終わらせてきました」

 

「おいおい、シスターがそんなことを言ってても良いのか?」

 

「良いのです。私にとって何より優先すべきはアンディ様ですから」

 

「全くそんなことばっかりしてると、神様が泣くぞ。この不良シスターめ」

 

 苦笑しながら、アマルのおでこを軽くつつく。

 額を押さえて、幼い子どものようにアマルは笑った。

 

「うふふ、怒られちゃいました」

 

「全く反省していない顔だな。……まぁ、可愛いから良いけどさ」

 

「ああ、嬉しい、アンディ様」

 

 そっと、身を寄せてくるアマルを抱きとめる。アマルは身体を揺らして、いつものようすりすりと俺の胸板にマーキング。

 

 それに満足いくと、俺の首に手を回し唇を奪う。

 

「ん……アンディ様、お慕いしております」

 

 言い回しは古風なのに、行動は積極的だ。アマルは唾液で濡れた桃色の唇を見せつけるように指でなぞる。15歳とは思えない淫らな仕草に胸がざわめいた。それを落ち着かせるように、深呼吸。アマルはそんな俺を見て、小さく首を傾げた。

 

「……アンディ様?」

 

「ああ。いや、なんでもない」

 

 首に回された手を優しくほどいて、立ち上がる。身体を軽く伸ばして、気持ちを切り替えた。

 

 寝てしまう前に考えていたアマルの姉の謎。いかんせん情報が少なすぎる。これ以上思考を巡らしても答えは出てこないだろう。

 

 むしろ、違う視点で物事を見るのも良いかもしれない。全く別の事象だと思われていたことが、実は大きな輪で繋がっていたりすることもある。

 

(そういや、ソフィアさんの様子を見に行っていなかったな)

 

 三日前のことを思い出す。

 何かを見たと錯乱したソフィアさん。あのときは、フランチェスコに任せて場を離れてしまったが、その後どうなったのかを確かめていなかった。ああ、自分の不誠実さに嫌気がさす。

 

「俺、ちょっと出てくるよ」

 

「えっ……どちらへですか?」

 

「巡礼棟。ちょっと、ソフィアさんの見舞いに」

 

「……あの巡礼者なら心配しなくても大丈夫です。単に疲れて幻覚でも見たのでしょう。後、数日安静にしていれば、良くなります。アンディ様が、そこまで心配する必要はないかと」

 

「いや、いいんだ。直接お見舞いに行くよ」

 

 ぎりっ、強く歯をくいしばる音が聞こえた。

 

 それから、そうですか、とアマルは頷いた。頷いて、笑った。人工物めいた綺麗な笑みに、どこか薄ら寒いものを感じる。その笑顔の裏には、一体何が渦巻いているのか。考えるのも恐ろしい。

 

「そんな顔するな。少しの間だけだ。寂しくても泣かないように」

 

「……アンディ様が必ずアマルの元に帰って来ると、そう約束してくださるなら泣きません」

 

 祈るように胸の前で手を組んだ少女を抱き寄せる。

 

「分かった。約束するから」

 

「はい。でしたら、待っています。いつまでも、ずっとずっと、ここでアンディ様を」

 

「少しの間って言っただろ? 全くお前は何でも重く考えすぎだ」

 

 頭を撫でて、安心しろと微笑んだ。アマルの身体を離し、行ってくるよと声をかけ部屋を出る。

 

 

 ***

 

 

 巡礼棟へと足を進めながら考える。

 

 アマルは何故あそこまで俺を止めようとしたのか。勿論、恋人が他の女に会いに行くことを嫌がった。巡礼者であるソフィアさんの話を聞き、ストーンハーストの外へ俺の意識が向くことを良しとしなかった。それも十分ありえる。

 

(……だが、本当にそれだけか?)

 

 アマルのあの表情。人工物めいた笑顔を思い出す。あれは強い感情を胸の内に仕舞こみ、押さえつけているからこそ、でたものではないだろうか。

 

(そもそも、何故アマルがソフィアさんの状態を知っているんだ。俺はあの出来事のことを、アマルに一言も話していなかったはずだ)

 

 アマルはどこで知った。

 あの出来事のことを誰から聞いたんだ。

 

 修道院の者と関わることができないアマルが、まるで見てきたかのような口振りでどうしてそんなことを言える。

 

(アマル……お前は一体何者なんだ)

 

 心の中で、呟く。

 そう呟いて反芻しても、答えは出ない。

 いや、俺はその答えを知りたくないのかもしれない。

 

 それを知ってしまえば……それを知ってしまえば、俺はどうなるのだろうか? 

 

「……それこそ、神のみぞ知るってやつか」

 

 思わず口から出た言葉に苦笑する。

 

 そうだ。

 神のみぞ知る。

 当たり前だが、俺は神様じゃない。

 知っていることしか、知らない。ちっぽけな人間だ。

 

 だから、今精一杯できることをするしかない。 

 答えを得る前から尻込みしてどうする。

 

 アマルが何者であれ、ずっと一緒にいると誓ったじゃないか。 

 

 頬を両手で叩いて、気合いを入れ直す。

 俺は意識して、一歩前に足を踏み出した。

 

 

 



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救いは蠢く闇の中に

 

 

 

 巡礼棟に入る。

 

 窓から日が射し、その光に照らされるいつもと変わらない巡礼棟。修道院と同じ石造りだが、こちらの方がどこか暖かみがある印象を受ける。

 

 長方形の年期が入った机。乱雑に置かれた椅子。薪が燃え尽き、煤をまき散らした暖炉。一通り視線を巡らせて、俺は2階へと足を進める。

 

 静寂。

 

 正にその例えが相応しい。足音さえ吸い込まれるこの場所は、書いた字の如くとても静かで、ただ寂しい。

 

 おかしいな、と俺は小声で吐き捨てた。どこか昏く淀む空気が妙に鼻につく。まるで異物が混入したような不快感。

 

(……気持ち悪い)

 

 右手を心臓の上に置いて、浅く息を吸う。それを繰り返して、気持ちを落ち着かせた。何故俺はそのように感じるのだろうか。不快感に満ちる胸を撫でて誤魔化し、黙々と階段を登った。

 

 目の前に、ソフィアさんがいる部屋の扉がある。何の変哲もない扉だ。俺はそっとドアノブを握る。ゆっくり確かめるように、ドアノブを引く。ぎぃ、と不協和音が扉から響いた。

 

 どこか薄暗く、淀んだ室内。

 首筋がざわめく。

 焦燥感。

 

 足を踏み入れ、小さくソフィアさんの名前を呼ぶ。

 

「……ソフィアさん?」

 

 応える声はない。

 その代わりに、一番奥のベッドからぎしりと軋む音がした。寝ているのだろうか。ゆっくり近寄る。

 

「……ソフィアさん、アンドリューです。お邪魔して良いですか?」

 

 無言。

 

「ソフィアさん……?」

 

 俺はリネンの布団を頭から被って、ソフィアさんの顔は伺えない。ベットの脇に立ち、俺は努めて優しく話しかける。

 

「いきなり入ってすいません。ソフィアさんのことが心配で、様子を見に来たんです」

 

 ううっ、という呻き声が小さく聞こえた。嗄れたその声に驚く。ソフィアさんの声は、聞こえの良い優しげな声音だ。余計心配になって、失礼かとは思ったがそっと布団を捲る。捲ろうとして、ぐっと強い力手首を掴まれた。

 

「……うわっ!?」

 

 布団から伸びる青白い手。こんな細腕で、どうやってこんな力を出しているのだろうか。

 

「……そ、ソフィアさん?」

 

「聞こえるの……ズルズルと這い寄る音が。嗤い声が。ずっとずっと。耳を塞いでも、神様に祈っても聞こえる。止まない、止まない。どうして、どうして。私が何をしたの。何をしたっていうのっ!」

 

 錯乱した声。強く握られる手首。

 激しく身動ぎしたために、布団が落ちた。ギラギラと狂気を孕んだ瞳。濃い目のくま。乱れた髪。以前の穏やかな美しいソフィアさんとは似ても似つかない姿が現れた。明らかに正気じゃない。

 

「どうして、笑うの。笑わないで。止めて。私を、嗤うの。嗤う笑う……」

 

「ソフィアさん、大丈夫。大丈夫だよ。ソフィアさんを傷つけるものは何もない。大丈夫。俺がいるから」

 

 だから、安心して、と何度も言う。

 幻聴に妄想……医者ではないので確かなことは分からないが、統合失調症のような症状だ。できるだけ、ソフィアさんの言葉を否定しないようにする。

 

「アンドリュー様。助けて、どうか。どうか。怖い。私、どうかしてる。分かってるの。でも、どうしたら、どうしたら良いのですか!」

 

 俺はベットに腰かけて、意識してソフィアさんに笑いかける。

 

「ソフィアさん、じゃあ俺がおまじないをして上げる。効果は俺も体験してるから折り紙付きだ。……目を閉じて。大丈夫。そう、こっちに顔を向けて」

 

 以前ヨハンナがしてくれたように手を擦り合わせ、掌を暖めてからソフィアのこめかみに当てる。じんわりと俺の手の熱がソフィアさんに伝わるのを感じる。優しくゆっくりとこめかみを揉む。

 

「こうすると、安心するだろう? 意識を俺の手に向けて下さい。ほら、大丈夫。怖くないだろ?」

 

 俺の言葉にソフィアさんは、何度も頷いた。

 

「ええ、ええ。暖かい。とても、暖かい、です」

 

「うん。ソフィアさんは大丈夫だよ。怖かったね。辛かったね。でも、今側に俺が居る。ここに、俺が居る。だから、大丈夫」

 

「はい。はい、アンドリュー様。ありがとう、ございます。……ああっ、ああ、い、いくら祈っても、駄目だったのに、聞こえない。今は、何も聞こえません。ああ、どうか、離れないで。側に居てください」

 

「勿論。さあ、このまま休んで下さい。ここで、ずっと見ててあげるから。ソフィアさんは決して一人じゃないよ」

 

 はい、とソフィアさんは頷いた。頷いて、安心したように微かに笑った。

 

 それから少しして、ソフィアさんから穏やかな寝息が聞こえてきた。目の下のくまを見ると、ほとんど眠れてなかったのだろう。落ちた布団を拾って、ソフィアさんにかけてやる。

 

(……這い寄る音、か)

 

 心当たりは嫌と言うほどある。

 まつろわぬ者。先ほど、ソフィアさんについて統合失調症に似た症状と言ったが、それは俺にも該当する。聞こえるはずがない音や声それに幻覚。

 

 俺が狂っているのか。この世界が狂っているのか。それとも両方か。

 

 ああ、嫌な予感がする。

 

 それを誤魔化すように、ソフィアさんの手を握る。そして、瞳を閉じて祈る。

 

 

 

 ―――どうか、この悪夢(セカイ)に安寧を。

 

 

 

 



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第4章 罪深い愛の歌
悪夢の始まり




死穢を纏い、彼女は待っている。

……ずっとずっと、待っていた。

だから、これは前日譚。
全てはここから始まった。




 

 

 

 

 

 恋とは無邪気で清らか、そして何より尊いもの。

 

  

 愛とは孤独で狂おしく、そして何より罪深いもの。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 空が茜色に染まっていた。

 

 西の空から夕日が消えれば、薄暗い闇が静かに這いよる禍時が始まる。俺は空を見上げながら、参道を歩く足の速度を早めた。

 

 石段をかけ上がる。

 自身の荒い息音が辺りに響く。背負ってた重いリュックサックが肩に食い込む。じっとりと汗ばむ肌に不快感を覚えるが、それでも足の速度を緩めることはしなかった。

 

 必死の思いで石段を踏破し、息を整えながら前を向く。

 目の前には、幼い頃二人で良く遊んだ御柱神社がひっそりと佇んでいる。華美な装飾は一切ない古ぼけた社。律儀にも一礼してから石鳥居の脇を通り抜ける。

 

 周囲に人がいないかを入念に確認してから、俺は社の中に入った。社内は薄暗く、埃と腐った木の臭いに包まれている。思わず、顔をしかめる。

 

「――――兄、さん」

 

 湧水のような綺麗な声が聞こえた。その声を聞いて、喜びで胸が高鳴る。

 

「静代……良かった。ちゃんと来てくれたんだな」

 

 声の先には、俺の双子の妹、安藤静代が姿勢良く正座をしていた。

 

 長い黒髪が赤紫の着物に流れ、肉親の俺でさえどこか艶やかさを感じる。全く同じ血を継いだとは思えない程、美しい少女だった。静代は俺にとって何より大切な存在だ。だからこそ、幸せになって欲しい。

 

「さぁ、時間がない。静代、行こう!」

 

 手を差し伸べる。

 静代は俺の手をじっと見詰めて、小さく首を振った。

 

「し、静代? どうしたんだ? ほら、一刻も早くこの村から出ないと」

 

「……いいえ、兄さん。私には、ここを出て行く理由がありません」

 

 静代は、落ち着いた声でそう告げた。そこに迷いは一切ない。曇りない眼差しで、真っ直ぐ俺を見る。

 

「何を……何を言ってるんだ。理由なんてハッキリしているだろう。こんなことが許されるはずがない。許されてはいけないんだ。だから、1秒でも早くここを出る。その後のことが心配なら、俺が絶対何とかする。だから、だから……!」

 

「兄さんは……」

 

 俺の声に被せるように、静代は言葉を発した。

 

「……兄さんは、そんなにお嫌ですか」

 

「嫌って。そういうことじゃないだろ。こんなことおかしい。古くさい因習に縛られて、このまま生きていくのか? ……そんなこと、許されない。許されないことだ」

 

「兄さん、私は許されなくても良い。むしろ、ずっと望んでいました」

 

「お前は……何を、言って」

 

 声が震えた。

 思考が追い付かない。

 ああ、目の前にいる相手は、本当に妹なのだろうか。

 

 

 

「兄さん、私は――――」

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 職場に出勤してきた渋谷さんが、デスクに座る俺の表情を見て、一言。

 

「――――酷い顔ね」

 

 そりゃとんだ挨拶ですね、と思わず苦笑する。

 だが、明け透けなその物言いが渋谷さんらしい。几帳面にアップされた黒髪、パリッと着こなしたパンツスーツ。その凛とした姿は惚れ惚れするほど格好いい。女性に対して格好いいと言うのはいかがなものかと自分でも思うが、渋谷さんに対してはその言葉が一番ぴったりなのだから仕方ない。心の中でそんな言い訳をしてみる。

 

「まあ、宿直明けですから」

 

 勤め先の病院では、夜勤中の不測の事態に対処するために、男性の事務職員が持ち回りで当直を勤めている。仮眠室で寝ていても、それが深夜であれ何かあればPHSが鳴り響き、問答無用で叩き起こされてしまうのだ。今日は特に呼び出されることもなく、一日を終えたのだが……。

 

 渋谷さんは少し考えるように、顎に手を当てた。美人は何をしていても絵になる。

 

「本当のところは?」

 

「少し……夢見が悪くて」

 

 そう、と渋谷さんは頷いた。

 

「安藤君、これあげる」

 

 そう言われ、慌てて手を広げる。

 掌にポトリと、アメが数個落とされた。

 

「そう言う時には、甘いものが良いのよ。舐め終わる頃には、悪い夢のことなんて忘れているわ」

 

「そう言うもんですかね」

 

「ええ、そう言うものよ」

 

 思わず、俺が情けない顔をした。

 渋谷さんは、それを見て小さく笑う。

 

「何を見たのか知らないけれど、仕方ないことだってあるの。夢は結局のところ夢でしかないもの。どうすることもできないのなら、思い悩むだけ無駄というものよ」

 

「……そう、ですよね」

 

「安藤君は働きすぎ。きっと、ストレスが夢にも出たのよ。だから、きちんとリフレッシュすること!」

 

「はい」

 

 素直に頷く。

 本当のところは、明日から妹の墓参りに行く、ということが大きいだろう。だから、きっと10年以上前の夢を見てしまったのだ。

 

「その、安藤君。……約束、忘れてないわよね」

 

 渋谷さんには珍しく歯切れが悪い。頬を染めて、上目使い。

 

「ああ、食事を一緒食べに行く件ですよね。ちゃんと覚えてますよ」

 

「そう、なら良かったわ」

 

 ほっとしたように渋谷さんは、淡く微笑んだ。その可愛らしい姿に、胸が高鳴る。流石の俺でも、渋谷さんから好意を向けられていることは分かっている。とても、ありがたいことだ。

 

「戻って来たら、必ず行きましょう」

 

「ええ、楽しみにしてるわね」

 

「はい。俺も」

 

 俺は笑ってみせた。上手く笑えていたら、良いなと思った。渋谷さんは満足げに頷くと、自身の席に戻って行った。俺はその後ろ姿を見ながら、目を伏せる。

 

(でもね、渋谷さん……この夢を忘れることは、きっとできない。もう、一度だけ。もう一度だけ、会いたい。俺が、そう思っている限り。ずっと、ずっと、終わりなく)

 

 逃げて、置いて来てしまったもの。

 何より大切だったもの。

 それが今でも俺を苛む。

 

 あの時の判断が間違っていたとは、思えない。因習に従うことは、どうしてもできなかった。でも、もっとやりようがあったはずだ。だから、俺は後悔し続けている。

 

 静代は、俺を恨んでいるだろうか。

 

 そこまで考えて、俺はため息を吐いた。

 そんなこと今となってはどう足掻いても知りようもないことだ。

 

 渋谷さんから貰った飴の袋を破いて、口の中に放り込む。柑橘系の甘酸っぱい味が口一杯に広がった。

 

 

 



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呼び止める声

 

 

 

 ただひたすら、登る。

 

 甲信越地方の深い山々に存在する俺の故郷、両胡村。その村へと続く、道無き山道。

 

 誰も立ち入らなくなったために草木が生い茂り、残り香さえ隠されてしまっている。密かな記憶を辿り、鬱蒼としたの木々の間を潜り抜ける。毎年、墓参りに両胡村へと足を運んでいるのにも関わらず、まるで知らない場所を歩いてるかのような錯覚を覚える。

 

 長時間歩いて、やっとせせらぎの音が聞こえてきた。

 

 川というほどの規模はないが、山水が流れ落ちている場所。その奥に一際大きな木が立っている。俺は流れる水を跨いで、その木にそっと近づく。

 

「……あった」

 

 木の裏にひっそりと佇む小さな二体の地蔵。長い年月、雨風に晒されていたためかその表情は伺い知れることができない。これが両胡村へと続く目印。村の道祖神である。

 

「ここから先は、村の領域……」

 

 俺は大きく息を吸って、足を踏み出した。

 

 

 

 ***

 

 

 

 落ち葉を踏み鳴らす音。

 静寂の中で、そんな些細な音さえも反響する。

 

 俺は墓参りのために、故郷へと戻ってきた。

 

 両胡村。

 いや、正しくは両胡村があった場所と言うべきか。

 

 今から13年前、この村で大きな火災があった。その火災により、村は焼け落ちてしまったのだ。この村の住人は、全てその火災によって身罷れてしまった。

 

 ―――その時、村を離れていた、たったひとりを残して。

 

 俺は実家である安藤家に足を進めた。

 

 周囲の家々は黒焦げ、崩れ落ち原型を留めていない。火災があったのは、もう10年以上前にも関わらず焼け焦げた臭いが鼻についた。

 

 

 

 村の一番奥、安藤家にたどり着く。

 

 大きな屋敷だ。

 今はもう廃墟と化しているが、それでも昔と変わらずどこか荘厳とした雰囲気を感じる。

 

 妹―――安藤静代は最後までここにいた。

 

 静代の亡骸は、安藤家の地下室で見つかったのだ。きっと火の手から逃れようとしたのだろう。しかし、その甲斐無く煙にまかれ命を落とした。たったひとり、暗闇の中でその生を終えたのだ。

 

 どんなに苦しかっただろう。どんなに辛かっただろう。どんなに寂しかっただろう。

 

 あのとき、無理矢理にでも静代を連れ出していれば……。

 

 悔やんでも悔やみ切れない。

 俺は静代を残し、生き残った。生き残ってしまった。

 

 安藤家の前で、手を合わせ黙祷する。

 炎の中で、消えていった多くの命に祈った。

 

 

 ***

 

 

 俺は村の脇道を通り御柱神社に向かう。息を切らしながら、長い階段を登る。

 

 やっとの思いで、境内に着き階段に座り込む。息を整え、階段から景色を眺めると、山々が連なり日は丁度空の真ん中で輝いていた。

 

 暫くそうして、俺は立ち上がりズボンについた砂を払う。

 後ろを振り向いて、神社を眺めた。

 

 幼い頃、静代と良く遊んだ場所。

 村から離れた場所にあったことが幸いし、ここだけは当時の姿を残している。

 

「……ここでよく、二人で鬼ごっこやかくれんぼをしたな。静代は走ることが苦手で、隠れるのも下手だった。それでも……それでも、嫌な顔なんて一度も見せずに付き合ってくれた」

 

 優しい娘だった。

 俺を気遣い、自分のことは常に二の次にして「兄さんが嬉しいなら静代も嬉しい」といつも微笑んでいた。本当に、どっちが上なんだか。笑みが漏れる。

 

 神社の横に伸びる石畳を歩くと、村の墓場が見えてくる。ここに、静代を含めた住人全てを弔ったのだ。

 

 墓場の入り口には鳥居があり、入る前に一礼してから脇を通る。井戸で水を汲んでから、安藤家の墓石に向かう。周囲の墓とは違い立派で大きい墓だ。

 

 それに水をかけ、丁寧に掃除をする。満足行くまで墓石を磨きあげ、持ってきていた仏花を供える。蝋燭を立てて、ライターで火を灯し、線香の束に火をつけ線香立てに置いた。

 

 両手を合わせ、静代に対して祈りを捧げる。

 

(……どうか天国の静代が安らかに過ごせますように。もし静代が悪夢の中にいるなら、そこに安寧が訪れますように。その悪夢から目覚めますように)

 

 何度も祈る。

 静代が亡くなってから、同じことを繰り返し祈っている。

 

 自然と泪が頬を伝った。それを拭うこともせず、俺は目を開けた。駄目だな。俺がこんなんじゃ、静代が心配しちまう。ふぅ、と息を吐いて気持ちを落ちつかせる。

 

「なぁ、静代。今、俺は病院で働いているんだ。毎日忙しいけど、とてもやりがいがある仕事だ。それでな、最近同じ職場の人に食事に誘われたんだ。その人がかなりの美人さんでさ。ビックリだろ?」

 

 明るい口調を意識する。

 

「お盆が終わったら、一緒に食事をしに行くことになってるんだ。静代も応援しといてくれよな。上手くいったら、お前に姉ちゃんができるかもしれないぞ」

 

 冗談めかしてそう言ってから、墓に向かって笑ってみせる。上手く笑えてたら良いな、と思う。

 

「……お前が見ていて、安心できるように俺、頑張るから。ゆっくりでも、不格好でも真っ直ぐ前を向いて、歩いて行くよ」

 

 それだけ言って立ち上がる。

 じゃあ、行ってくると、短く別れを告げてリュックを背負う。俺は確かな足取りで、墓地を後にした。

 

 

 ***

 

 

 村の入り口に出た頃には、日差しが傾き始めていた。早く山を降りないと日がくれてしまう。俺は足早に来た道を辿る。

 

 道祖神がある場所に着く。

 その脇を通ろうとして、キィーーン、と弦を引いたような甲高い音が聞こえた。

 

 ただの耳鳴りだろう。

 俺は再び歩き出そうと足を踏み出した。

 

 

 

 ――――置いて、行かないで。

 

 

 

 囁くような声が、後ろから聞こえた。

 耳を押さえて、振り向く。

 

 誰もいない。

 目の前には、風に揺れる木々だけが写っていた。

 

 恐ろしくなり、俺は駆けるように足を動かす。空耳だ。そうに決まってる。自分にそう言い聞かせた。

 

 

 

 山をやっとの思いで下り、バスを乗り継いで、何とか電車に乗ることができた。

 

 電車に揺られながら、外の景色を見る。

 今思い返すと、あの空耳はきっと墓参りをして静代のことを思っていたからだろう。何故なら、あのとき聞こえた声は、間違いなく亡くなった静代の声だったからだ。

 

 

 そう考えていると、疲れからか急に眠たくなってきた。心地よい微睡みが、俺を包み込む。

 

 ああ、もうこのまま眠ってしまおう。

 

 意識が遠くなる。

 

 意識がなくなる瞬間、誘うような甲高い弦のなるような音が頭に響いた。

 

 

 

 



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全てはここから

 

 

 一緒にいたかった。

 

 一緒になりたかった。

 

 いつかきっと分かってくれる。

 

 そう自身に言い聞かせて、今日もここから外を眺める。あの人が帰って来たら、誰よりも先に会いたいから。

                          

 

 ――――あの人は必ず戻って来てくれる。

 

 

 だから、あの人の居ない昨日を悲しみ、あの人が居ない今日を憂い、あの人が居ない明日を迎えても。

 

 

 ……私は、まだ私でいられる。

 

 

 

 

 

 ***

  

 

 

 

 凍えるような冷たさを背中に感じて、意識が覚醒した。

 

 目を開けると、俺は仰向けになって倒れていた。床に手をつき、身体を支えるようにして、起き上がる。掌に固くざらりとした感触が伝わった。視線だけ床に向けると、湿った石畳が見えた。

 

 長時間、石畳みの上で寝ていたからだろう。首を捻るだけで、身体が軋む音が聞こえる。

 

(……ここは、どこだ?)

 

 俺は墓参りに行き、それが終わって電車に乗った。電車の中で眠気に襲われて、そのまま意識がなくなった。ここまでは覚えている。

 

(……まさか、誘拐されたとかではないだろうな?)

 

 それはあまりにも非現実すぎる。日本は世界一・二を争う安全性の高い国だ。まして、電車という公共機関の中で居眠りをしている間に、誘拐される可能性はゼロとはいえないが限りなく低い。そこまで考えて、頭を振る。いや、今はまず状況を把握することが先だ。

 

 辺りを見回す。

 

 ぼんやりとおびただしい数の蝋燭で照らされた室内。右に目を向ければ、長椅子が整然と並べられている。木の腐った臭いが鼻につく。かなり年期の入った椅子だ。座ったら壊れてしまうのではないだろうか。

 

 左に目を向けると、大きな大理石の石像が見える。

 両手を空に掲げ、フードを深く被った人物の大理石彫刻。蝋燭の光が彫刻の陰影を深め、言葉にできぬ恐ろしさを感じる。

 

 視線を外し、立ち上がろうとして、8メートルほど離れたところに、人が立っていることに気づいた。

 

 

 

 ――――息を呑む。

 

 

 

 それは、驚きや恐怖からではない。

 目の前に立つ人物が……あまりにも、そうあまりにも美しかったからだ。

 

 一番始めに目に入ったのは、蝋燭の灯に照らされ浮き出るように煌めく銀色の長髪。

 

 印象的な鮮紅の瞳。

 透き通る雪のような肌。

 高く整った鼻筋に、桃色の瑞々しい唇。

 

 女神だと言われても迷いなく頷いてしまう程の美女がそこに佇んでいた。ロシアやウクライナなどに住むスラヴ人をイメージさせる顔立ちだ。

 

 感情のない無機質な彼女の視線が、俺を射抜く。

 

 何か言わないと。

 気持ちが焦る。

 もごもごと口を動かし、何とか言葉を発した。

 

「……すごく、綺麗だ」

 

 思わず出た言葉が、それだった。

 いや、初対面の女性に何言っているんだ俺は!

 顔が真っ赤に上気する。

 

「…………ッ」

 

 女性は、瞳を揺らした。

 俺に向けられた眼差しが、色を持ったように感じる。

 

「……いや、その、何か突然すいません」

 

 とりあえず謝ってみる。

 まあ、悪いことは言っていないはずなので、大丈夫だと思うが。というか、そもそも日本語が通じるのだろうか? 

 

「えっと、俺の言ってること分かりますか?」

 

 女性は何かを考えるように目を伏せた。

 やっぱり、通じてないぽい。そりゃ、見た目ガッツり外国人だもんなぁ。困った。心底困った。小さくため息を吐いて、乱雑に頭を掻く。

 

 それから数分、お互い動かず沈黙が場を満たした。それを破ったのは、俺ではなく女性の方からだった。

 

「……私が話しかけても、良いのか。本当に良いの、だろうか? そんなこと……私は……」

 

 小さく呟かれた言葉。

 それは、俺に言っているようにも、自身に問いかけているようにも聞こえた。

 

 ……というか、話してること分かるのかよ! 

 

 テンションが一気に上がる。

 

「あの、警戒されるのは当然だと思います。でも、俺もなんと言っていいやら。えっと、まず、ここどこか教えて貰えますか? 日本語が通じるってことは日本なんですか?あ、すいません。畳み掛けるように聞いちゃって。俺も混乱してるんです。何故か気付いたらここで寝ていて、俺も状況が何やらさっぱりなんです!」

 

「…………あぅ」

 

 矢継ぎ早に、話しかける。

 女性は俺の勢いに戸惑い、目を白黒させた。

 

「う…………ぁ……」

 

 彼女は数分、口を開けては閉じてを繰り返した。そし

て、祈るように両手を胸の前で組み、たどたどしい言葉を発した。

 

「その……ニ、ニホンというのは、知らない。わ、分からない。あ、えっと、その、ここは、ストーンハースト。……ストーンハースト修道院」

 

「ストーンハースト、修道院?」

 

 こくり、と女性は頷いた。

 混乱する。何故俺は修道院なんかに居るんだ。訳が分からない。

 

「あー、くそ。ほんと、どうなってるんだ」

 

 俺の苛ついたら声を聞いて、女性は怖々と肩を震わせた。そして小動物のように、小さくなる。

 

 その姿を見て、悪態をついてしまったことを後悔した。息を大きく吸って、気持ちを落ち着かせる。

 

「怖がらせて、すいません。気にしないでください」

 

 そう言って、優しく笑いかける。そういや、自己紹介もしてなかった。そりゃ、戸惑うよな。挨拶はコミュニケーションの第一歩。すっ飛ばしてはいけなかった。

 

「あの俺、安藤隆(あんどうりゅう)って言います」

 

「あん、どりゅー」

 

「いや、あんどりゅーじゃなくて、安藤隆です」

 

「あんどりゅー……アンドリュー、さま?」

 

「いや……違う。俺は、安藤隆で。……まあ、もうアンドリューでいいです」

 

 外国人には発音が難しいのだろう。無理に言わすのも申し訳ない。アンドリューで妥協しよう。

 

「アンドリュー様」と、女性は何度も俺の名を口ずさんでいる。

 

「それで、君の名前は?」

 

(わたくし)の、名前?」

 

「そうです」

 

「名前、名前……私の、名前は、私の名前は」

 

 答えを探しているような口調。

 

 自身の名前なのに、探しているという表現もおかしいが、俺は何故かそう思ってしまった。

 

 

 

 



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君の名前は

 

 

 

 

「……アマルティア」

 

 彼女はそう呟いた。静寂に吸い込まれ、かき消されてしまいそうな弱々しい声だった。

 

「……私はそのように呼称されている。それ以外、私を指す言葉はない。それが名前というものならば、私は正しくアマルティアなのだろう」

 

 そう言って、空を見上げるように、彼女……アマルティアは視線を天井に向けた。遠い、遠いどこかを見ているようで、どこも見ていないような淀んだ瞳。その瞳には一体何が写っているのだろうか。

 

 儚げなその姿を見て、俺はまるで壊れたラジオみたいな雰囲気だな、と思った。いや、正しくは壊れながら、それでも必死に音を出すラジオみたいな、そんな雰囲気。自分でも良く分からない例えだ。思わず苦笑する。

 

(……それにしても、不思議な言い回しをする人だな)

 

 どこか漠然とした違和感を感じるが、初めて会ったばかりの人に違和感も何もないだろうと思い直す。

 しかし、それなのに何故か俺は彼女に親しみすら覚えていた。感覚としては、久しぶりに会った大切な人を想うような気持ち。嬉しくもあり、戸惑いもあるそんな感情だ。

 

 息を浅く吐いて、頭を落ち着かせる。

 

 ひっそりと佇むアマルティアさんを見つめ直す。近くにいるのに、存在感をあまり感じさせない。いや、存在感が無さすぎるのだ。極限まで自我をそぎ落とし、空気に同化しているような印象を受ける。

 

「……じゃあ、アマルティアさん」

 

 意を決して、名前を呼んでみる。

 アマルティアさんは何故か唇を浅く噛み、痛みに耐えるような仕草をした。子犬が震える姿を幻視しまう。

 

「……私は、敬わられるべき……存在では、ない」

 

 途切れ途切れの素っ気ない口調。

 敬う……もしかして、さん付けと敬語が気に触ったのだろうか?

 

「あー、えっと、じゃあ、アマルティア?」

 

「……はい」  

 

 暗い表情で、小さく頷いた。

 言う通りにしたのに浮かない顔。困った。俺はどうしたら良いのだろう。思わず頭を捻る。

 

 それ以上言葉が思い付かなくて、視線をさ迷わせてしまう。

 

 埃っぽい淀んだ空気が吹き抜け、蝋燭の灯が揺らしている。周囲を軽く見渡したが、窓など無さそうだ。外へと繋がっているであろう扉は、固く閉じられている。息を吐く音さえ響き渡る空間。痛いほどの静けさが辺りを満たしていた。

 

(敬わなくても良い……もっと気軽に呼べということか? あだ名を付けてみるとか。あー、流石に初対面で失礼か。でも、これ以上、この雰囲気に耐えれそうにないし、何より現状俺には彼女しか情報源がないんだ。できるだけスムーズにコミュニケーションを取りたい)

 

 彼女の完成された美貌を改めて眺める。喜怒哀楽が抜け落ち、能面のように無表情。まるで、生きているのに死んでしまっているような錯覚を覚える。

 

 そんな考えを頭を振ることで追い払う。

 

(にしても、あだ名か……)

 

 アマルティア。

 

 アル……は男の子って感じだな。じゃあ、ティア、とか。綺麗な響きだが……しっくりこない。そうだな、後は―――

 

「―――アマル」

 

 小さく呟いてみる。

 カチリと、胸に嵌まった感覚。

 

 大学生の頃、イスラエル人と交流する機会があり、言葉を少し教えて貰ったことがあった。確か、アラビア語でアマルは希望という意味だった気がする。

 

「名前……あだ名で呼んで良い、かな? 会ったばっかりで、その、嫌だったら良いんだけど。そっちの方が、君を敬う感じがなくて親しみやすいと思う。だから、君のことアマルって呼んで良いかな?」

 

「私が、アマル……?」

 

 俺は改めて、アマルティアを見つめる。

 感情が読み取れない表情。しかし、虚ろな鮮紅色の瞳からは微かに光が見えたような気がした。

 

「ああ、どうだろう?」

 

「アマル……私の、私の……私だけの名前」

 

 彼女は胸元で手を合わせ、瞳を伏せた。それは祈るような動作だった。まずい。選択肢間違ったか? 

 

「あー、ごめん。嫌だったよな?」

 

「……いいえ」

 

 彼女は、初めて真っ直ぐ俺に視線を向けた。

 

「嫌では、ない。ただ……ただ、胸が震えて」

 

 彼女は自身の胸を押さえた。鼓動を確かめているのか。鼓動を止めようとしているのか。それとも、両方なのか。

 

「赦されるなら……」

 

「えっ?」

 

「そう、呼んで欲しい」

 

 彼女のたどたどしい言葉を聞いて俺は念を押す。

 

「本当に良いのか?」

 

「はい」

 

 アマルティア……アマルは小さく、しかし確かに頷く。そして、ぽつりと呟いた。

 

 

「……貴方は、どうして私を見てくれるのですか?」

 

 

 普通だったら聞こえない音量の声だったが、何故か俺の耳に入った。これは独り言なのだろう。返事など最初から求めていないことは分かっていた。分かっていながら、返事をした。何故だか、俺はそうしないといけない気がした。

 

「……だって、君は今ここに居るじゃないか」

 

 ひゅっ、と息を漏らす音が聞こえた。息ができないのか。息をしたいのか。判断は付かなかったが、そんなことどうだって良かった。いや、正しくはどうでも良くなった。

 

 何故なら、彼女が微笑んでいたからだ。

 

 それは……迷子の子どもが親に再会できたような顔だった。

 

 

 

 



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祈りの言葉

 

 

 

 鮮紅の瞳が俺を捕らえて離さない。さっきから、無言で俺を見詰めてくる少女、アマル。流石に見られすぎて、居心地が悪い。誤魔化すように、うなじを手で押さえた。

 

「……なぁ、アマル」

 

 沈黙に耐えられなくなり、名前を呼ぶ。アマルは数秒間固まった。まだあだ名で呼ばれることに慣れていないのだろう。視線をさ迷わせてから、おずおずと頷く。

 

「ここストーンハースト修道院って言ったよな」

 

「……は、はい」

 

「それって、どこら辺にあるんだ?」

 

「トートヴァルト、です」

 

 聞きなれない言葉に、思わず聞き直す。

 

「トート……何だって?」

 

「トートヴァルト……です」

 

 聞き直してみたが、そこがどこにあるのか分からなかった。少なくとも日本の地名ではなさそうだ。外国、なのだろうか? 

 

 眉間を揉んでから、問いかける。

 

「あー、まさかここってヨーロッパなのか?」

 

「ヨー、ロッパ?」

 

 アマルは目を瞬かせた。こてん、と首を傾げる。小動物のような仕草。冷涼とした面持ちの女性が、可愛らしい動作をするというギャップに心が癒される。

 

 ふっ、と浅く息を吐き気持ちを落ち浮かせてから、俺はアマルに話しかけた。

 

「ヨーロッパって知らない? ほら、イギリスやフランス、ドイツとかさ」

 

「……そのような国は知らない。私は、何も知らない、です」

 

「じ、じゃあ、日本って聞いたことないか? ジャパン、ええっと、他にはヤーパンやジャポネとか」

 

 アマルは弱々しく首を振った。

 思わず頭を抱える。世間知らずにもほどがある。いや、これは世間知らずで片付けて良いようなもんじゃない。ヨーロッパを知らないって、どんだけなんだ。

 

 そもそも日本を知らないなら、なぜ彼女は日本語を話せる? おかしなことばかりで頭がくらくらしてきた。

 

(でも……嘘をついてるような感じじゃないんだよなぁ)

 

 トートヴァルトという場所にあるストーンハースト修道院。ただ電車に乗り眠っていただけの俺が、なぜこんな場所にいるのだろう。本格的に分からなくなってきた。

 

「アマル、この修道院に他の人っているのか? いたら話してみたいんだけど案内して貰っていいかな?」

 

「…………っ」

 

 アマルは顔を伏せた。肩を震わし、手を強く握り締める。様子がおかしい。体調が悪いのだろうか。そこまで考えて、ここが妙に寒いことに気が付いた。真冬という程ではないが、半袖の俺にはかなり堪える。

 

 俺は気を取り直して、アマルに声をかける。

 

「……アマル、大丈夫か?」

 

「……はい」

 

「あの、調子が悪いなら、道を教えてくれるだけで良いよ。後は自分で行くからさ。この修道院で一番偉い人に会いたいんだけど」

 

「偉い、人?」

 

「ああ、ここが修道院なら司祭様? 牧師様か? 取りあえずここの責任者に会いたい」

 

「……ベネディクト司祭なら司祭室に居ます。礼拝堂を出て、右手に歩き、扉を開け回廊を左手に曲がった先の扉を抜ける。そこから歩いて直ぐにある道を曲がって、突き当たりの部屋に彼はいるはずです」

 

「右手、左手、突き当たりで曲がる……だな。オッケーだ」

 

 アマルの言葉を繰り返して、自身に落とし込む。それこら、俺はアマルに向け笑ってお礼を言う。

 

 

「よし、行ってみるよ。アマル、ありがとう」

 

「………………っ」

 

 アマルはびくりと身体を震わせ、静かに俺を見詰めた。それから、鼓動を確かめるように胸を押さえる。

 

(ーー何故だろう)

 

 目の前にいるのに、彼女は存在感が薄い。自己を確立できていない赤子みたいだ。

 

「はい。アンドリュー様」

 

 今更なんだが、アンドリューって姓名を同時に言ってることになるんだよな。違和感がかなりある。

 

「安藤隆……あー、アンドリューってさ、俺呼ばれなれてないんだ。できたら、俺にもあだ名につけてくれないか?」

 

「……アンドリュー様のあだ名を私、が?」

 

「ああ、うん。嫌か? できたらアマルに付けて欲しいんだけど」

 

 アマルは数秒沈黙した。それが、妙に長く感じた。

 

「……では、アンディ様と」

 

 それは囁くような声だった。

 自信なさげに上目遣いに俺を見るアマル。そんな顔しなくても良いのに。にしても、アンドリューの愛称がアンディになるのか。

 

「アンディか。……うん、良いあだ名だ。アマル、改めてよろしくな」

 

「……はい、アンディ様」

 

 アマルは安心したように目を細めた。

 

「じゃあ、アマル。俺、その司祭様に会ってくるよ」

 

 断りを入れて、俺は扉へと向かった。とても大きな木製の扉だ。俺はそれを押し開こうと、取っ手に手をかける。

 

 

「ーーアンディ様」

 

 

 静かで綺麗な声音に呼び止められ、俺は顔だけ振り向いた。

 

 銀糸の髪が揺らめく。完成されたすぎた美貌が蝋燭の灯火に照らされる。鮮紅の瞳が俺を見据えた。

 

「……また、お会いして頂けますか。私に、それをお赦し頂けますか」

 

「そんなの当たり前だろ」

 

 間髪いれず応える。

 というか、なんだその質問は? 意図が良く分からん。心の中で、首を捻る。

 

 

「ああ……。嘘でも嬉しい」

 

 

 アマルは、淡く微笑んだ。風が吹けば飛んでいきそうな儚げな笑みだ。彼女が何故そんな笑い方をするのか不思議だったが、それよりも安心させてやりたいという気持ちが勝った。

 

「……あのな、そんな嘘つく訳ないだろ? 司祭様に会ってきたら、また戻ってくるよ」

 

 

「……はい、ずっと待っています。私は……いえ、アマルは待ってます。ここで、アンディ様を」

 

 

 アマルは胸の前で手を合わせ、俺に向けて祈るような動作をした。

 

 

 



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沈黙の回廊

 

 

 

 アマルに言われた通りに礼拝堂を出て、右手に足を進める。廊下は窓もなく、暗澹としている。壁に等間隔で設置された燭台、その蝋燭の頼りない灯火が辛うじて視界を広げてくれた。

 

 特徴的なアーチ状の高い天井。壁や柱には彫刻された人体像に見つめられているような錯覚に陥る。何だか見張られてるみたいだ。兎に角、居心地が悪い。

 

(……詳しくは分からないけど、これゴシック調建築ってやつだよな。おどろおどろしいっていうか、何というか。下手なお化け屋敷より怖いな)

 

 早くここから抜け出したくて、足を早める。しかし、出口はまだ見えない。この修道院はかなり大きな建物なのだろう。

 

(……ほんと、どうして俺はこんなところに居るんだろうか?)

 

 コツコツと、自身の足音を聞きながら、答えがでない何度目かの問答を繰り返す。なにも生まれやしない非生産的思考。それでも、何故と思わずにはいられない。その考え振り切るように、眉間を揉む。

 

 暫く歩くと大きな門が見えてきた。

 

 俺にはそれが地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸のように思えた。

 

 駆け出す。

 

 ここは息ができない。早く出たい。その気持ちだけが頭を支配する。

 

 門にぶつかる勢いでしがみつく。手探りで取手を持って、無我夢中で引く。重たい。開け放たれることを拒むように、重厚な扉。俺は体重をかけ、更に力を入れて引っ張る。

 

 ぎいいぃぃ、と唸るような音を立てゆっくりと開かれていく。そうすると、隙間から甲高い風の音が聞こえた。

 

 扉の音、そして風の音。その不協和音が耳をなぞる。ゾクゾクする吐き気を覚えながら、俺やっとの思いで身体を外へと滑り込ました。

 

 

 始めに目に入ったのは、光。

 外は眩しいくらいの光に満ち溢れていた。暗い場所に居たからだろう。目が慣れるまで少し時間がかかった。

 

 辺りを見回す。

 

「……ここが回廊、か?」

 

 視線の先には大きな中庭があった。地面を覆う芝生は几帳面に整えられ、それとは対照的に青々と繁る木々。ひどく穏やかな場所。木の隙間から木漏れ日が淡く輝く。空を見上げると、太陽が柔らかい光を放っていた。

 

 先程までの重々しさとはうって変わった雰囲気。ほっと、胸を撫で下ろした。大きく息を吸ってから、一歩踏み出す。何故だかその一歩が、自分にとって大きな意味を持つように思えた。

 

「えっと……次は左手に曲がる、だったよな」

 

 アマルの言葉を思い出しながら歩く。

 木々がざわめく音が心地よい。その穏やかな微睡みを忘れないように、目に焼き付ける。優しい日だまりの中に足音が響き渡る。それが何より心を慰め落ち着かせた。

 

「……この扉だな」

 

 目の前に木製の古びた扉がそびえ立っていた。取り敢えず取手を握って押してみる。驚くほど簡単に開けた。さっきの扉は開けるのにも一苦労だったため拍子抜けしてしまう。

 

 中を伺う。

 

 礼拝堂の道とは違い小さい窓がある。薄暗さはあるものの気にする程ではない。安堵の気持ちを隠さずにため息をひとつ。

 

 扉をゆっくりと閉めて歩き出す。

 数分歩くと交差部が見えてきた。ここを右に曲がるのだろう。そして、黙々と足を進める。目指す司祭室は、突き当たりにあるはずだ。途中に分かれ道や多くの扉があった。この修道院はまるで迷宮のように入りくんでいる。

 

(……アマルに道を聞かなかったら絶対に迷ってたぞ、これ。本当にアマルに感謝だ)

 

 アマルの幻想的な姿を思い出す。

 

(……にしても、ほんと綺麗だったな。静代も美人だったが、まだ人間らしさがあった。でも、彼女は違う。そう……例えるなら人離れした女神様みたいな美しさだ)

 

 暖かみを感じさせない冷涼とした美貌。だからこそ、そう思った。

 

(……でも、笑うとすごく可愛かった。もっと笑えば良いのに、もったいない。まぁ、初対面の男に対して警戒していたんだろなぁ。うん、当然だ。だって俺、どこをどう見ても不審者だもの)

 

 そうこう考えていると、突き当たりの部屋に到着した。

 荘厳に細工された扉。脈打つ心臓を手で押さえつける。落ち着け。息を吸って吐く。それを数回繰り返す。そして、覚悟を決めた。

 

 扉をノックする。

 

 待つこと数秒。遅れて、「どうぞ」と男性の声が聞こえた。俺は数回深呼吸し、ドアノブに手を掛けた。

 

 

 

 



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迷える子羊

 

 

 

 

「……その、失礼します」

 

 ゆっくり扉を開いて、視線を巡らせる。

 室内は驚くほど簡素だった。壁を覆うような本棚。そして、年期がいった机。部屋にあるものはそれだけだった。司祭室はもっとこう凄い内装だと思っていたので少し拍子抜けする。

 

 机から顔を上げた壮年、いや老年に差し掛かった男性がこちらを見詰める。明らかに日本人ではない。顔の彫りが深く、穏やかな緑の瞳、西洋人であることは間違いない。俺はそれに落胆する。そんな俺の様子に、司祭様は特徴的な鷲鼻を撫で付け、訝しげに目を細めた。

 

「……私に何ようかな」

 

 そう問われて、俺は慌てて頭を下げた。

 

「あの、突然すいません。俺、いや、私は安藤隆と申します」

 

「……これはご丁寧に、異国のお方。私はベネディクト・ボノスス。このストーンハーストの修道院長であり司祭を勤めています」

 

 厳つい顔とは反対に声はとても優しい。それに安心して、言葉を続ける。

 

「自分で言うのも何ですが、怪しい者ではありません。そして、質問に質問で返すことは不躾だということも理解しています。しかし、お許しください。自分でも何がなんやら分からなくて」

 

 俺の言葉を黙って聞いてくれるベネディクト修道司祭。視線で言葉の続きを促される。

 

「司祭様。ここはどこなのでしょうか。日本……えっと、ジャパンやジャポネ、ヤーパンではない、ですよね? アメリカ、イギリス、ドイツ、それともフランス、なのでしょうか?」

 

「ふむ。確かにここは『ニホン』という地ではありません。更に、そのような国々の名前も聞いたことがありません。……私たちが住まうこの地はザクセン」

 

「……ザク、セン?」

 

「ええ、そのザクセンの北方。谷や丘を越えた先、深い深い森の中。ここは、トートヴァルトのストーンハースト修道院。それこそが、異国のお方、貴方が今いる場所です。よく参られました。道中危険な旅だったでしょう」

 

 ザクセン。

 全く聞きなれない地名だ。

 

 混乱してきた。日本ではないのは、理解したくはないが分かった。だが、大国のアメリカやイギリスやドイツ、フランスを知らないってどういうことだ。アマルが世間知らずな訳ではなく、ここは俺が知っているところじゃない。まるで、世界が違うみたいだ。

 

「いいえ。いいえ、ベネディクト司祭様。私は、旅なんてしていません。自分でもどうやってここに来たのか全く分からないのです。気が付いたら、礼拝堂で倒れていて」

 

「……礼拝堂?」

 

 ベネディクト司祭は、息を呑んだ。目をさ迷わせ、先程までの落ち着いた雰囲気が消えた。しきりに鷲鼻を撫で付けている。

 

「それは、修道院の奥にある礼拝堂ですか? まさか入ったのですか、あそこに?」

 

「あの、入ったというか。意識が覚めたらそこに居たというか。その何というか、すいません。本当に不可抗力なんです」

 

 司祭様は、目を伏せた。それは何かを恐れるような動作だった。

 

「……見ましたか」

 

「見た、って。その、普通に礼拝堂の内装は見ましたけど」

 

「そうではありません。そう、ではないのです」

 

 彼は何を言いたいのだろうか。

 俺は少し考える。

 

 夥しい蝋燭。古びて腐った長椅子。冷たく湿った床。天井が高く、窓のないどんよりと暗い場所に、浮き出るように立つ両手を空に掲げた石像。

 

 ―――そして、美しい少女、アマルティア。

 

「後は、女の子。えっと、アマル。ええっと、修道女(シスター)? のアマルティアさんには会って、この場所を教えてもらいました。本当にそれぐらいです」

 

 それを聞いて、司祭様は肩を大きく震わせた。

 

 机に積まれた本が落ちる。端から見ても、かなり動揺しているのが見て取れた。動揺されるようなこと、してないと思うけど。知らないうちに、失礼なことをしてしまったのか。というか、もう不法侵入してしまっているので失礼通り越して、犯罪ではないだろうか。うわ、マジか。衝撃を受ける。通報だけは勘弁して欲しい。

 

「見て、話したのですか……」

 

「えっ? ええ、まあ。目が覚めたら、彼女が居たので。駄目だったでしょうか」

 

 そういや、修道院の中には戒律によって沈黙を守ることを第一とするところがあると聞いたことがある。ここって、そういう修道院だったのか。まずったな。

 

「……いいえ。ただ貴方は、大丈夫なのですか?」

 

「はい、倒れてたと言っても寝てただけなので。痛いところもないですし、いたって健康体です」

 

 そうですか、とベネディクト司祭は頷いた。頷いて、瞳を閉じた。

 

「……ペレグリヌス。ああ、貴方がそうなのですね。分かりました。分かりましたとも」

 

「……あの、司祭様?」

 

 しきりに頷く司祭様を見て、少し不安になる。ゆっくりとした口調だが有無を言わさない雰囲気がそこにあったからだ。

 

「異国のお方。落ち着くまで、このストーンハーストに留まることを許しましょう。元々我らに迷える子羊へ閉ざす門はないのですから」

 

 何か分からんが、滞在を許してくれたらしい。右も左も分からない状況だから、好意はありがたく受け取っておこう。取り敢えず頭を下げる。

 

「ありがとうございます」

 

「……では、部屋の準備をさせましょう。必要なものはこちらで全て用意します。それには少し時間がかかるので、修道院を散策してみてはどうでしょうか。……ただ、あの礼拝堂には近寄らないように」

 

 ベネディクト司祭はそう言って、床に落ちた本を拾い机の上に置いた。そして、再び視線を落として、本を読み出す。もうこれ以上話すことはない、ということだろうか。俺は、再度頭を下げてから、部屋を後にしようと、扉に手をかける。

 

 

 

「―――ああ、ようこそ、我らがストーンハーストへ。原初の夢にして、白痴の悪夢に誘われ、どうか自身を見失わないよう貴方に神の祝福があらんことを」

 

 後ろから、そんな声が聞こえた。

 

 

 




誤字、脱字の訂正いつもありがとうございます!



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初めて知ったもの

 

 

 

 祈りは、赦しを求める。

 

 しかして、赦しは祈りを求めない。

 

 ただ、償いを求めるのみ。

 

 

 

 ***

 

 

 

 司祭室を出て、歩く。

 

 先程のベネディクト司祭の言葉は何だったのだろう。あの表情と行動にどこかうすら寒いものを感じるのは、俺の考えすぎだろうか。更に言うと、経歴や状況の詳細を十分に伝えていないのにも関わらず、早々と滞在することを許可してくれたことも気になる。

 

 あれだけの会話で、良くこんな身元も分からない人間を受け入れようと思ったものだ。

 

 数分、頭を捻る。

 しかし、何一つ思い付かなかった。そもそも情報量が少なすぎる。確固たる判断材料もない。

 

(……これ以上、考えてもどうしようもないな)

 

 自身をはぐらかすように心の中で吐き捨てる。答えがないなら、悩むこと自体無駄なことだ。それに、何より人の好意は疑いたくない。頭を振って気持ちを切り替える。

 

(散策して時間を潰せ、か…)

 

 礼拝堂に近づくなと釘を刺されてしまったから、それ以外の場所を見てみよう。そう呟いてみた。でも、心に引っ掛かりを覚える。……理由なんて分かりきっている。

 

 俺はアマルに約束したのだ。

 司祭様と話したら、また会いに行くって。

 

 でも、この修道院の責任者であるベネディクト司祭に、「礼拝堂には近寄らないように」そう言われてしまった。だから、しょうがないじゃないか。そう自分に言い聞かせる。アマルには、後で会いに行けなくなった理由を説明すれば良い。

 

(……本当にそれで良いのか)

 

 何となく。

 本当に何となく、そう思ってしまった。

 

 アマルの微笑んだ顔が脳裏に浮かんだ。祈るように合わされて両手。俺に赦しを願った声。

 

 頭を乱暴にかく。

 決まっていた。最初から、自分の中でどうしたいかなんて、決まっていたのだ。その気持ちは、誰にも変えられない。ならば、それに従うべきなのだ。

 

 何より、ここでアマルに会いに行かなければいけない気がした。そうしないと大切な何かを取り零してしまう、そんな気がしたのだ。

 

「……少し声をかけに行くだけだ。だから、大丈夫」

 

 言い訳がましく、呟く。

 誰も聞いてはいない。俺の行動は、俺しか知らない。だからこそ、弾劾されることもない。それを良いことに、俺は礼拝堂へと足を進めた。

 

 

 ***

 

 

 礼拝堂の扉を開けると、石床に膝をつき祈りを捧げているアマルの姿が目に入った。声をかけて良いものか分からず、俺はただその姿を眺めていた。

 

 暫くして、彼女は俺の気配を感じたのか、首だけ後ろに振り返った。そして、俺と目が合うとうろたえるように瞳を揺らした。

 

 アマルは何か言葉を紡ぎだそうと口を開いて閉じてを繰り返す。その必死な様子を見て、俺は思わず目を和らげた。

 

 アマルは不安げに身体を縮ましている。その姿は、ひとりぼっちでプルプル震えている子犬みたいだった。だから、俺は静かに彼女の言葉を待つことにした。

 

 数十秒時間を置いて、アマルは恐る恐るといった風に言葉を発した。

 

「……ほ、本当に」

 

「ん、なんだ?」

 

 首を傾げる。

 彼女は、それを見て目を細めた。

 

「本当に、来て下さったのですね」

 

「言っただろ。司祭様に会いに行ったら、また戻って来るって。……それに、アマルに司祭室までの順路を教えてもらわなかったら、絶対迷ってた。……だから、ありがとう。それも言いたかったんだ」

 

 駄目だったか? 柔くそう言って、微笑む。

 

「……アンディ様」

 

 アマルは俺の名前を呼んだ。それから、左胸を押さえる……強く押さえつける仕草。心臓を宥めるような姿に、ささやかな違和感を感じながらも、彼女の言葉を邪魔しないよう続きを待った。

 

「アンディ、様」

 

「おう、アマル。どうした?」

 

「……苦しい」

 

 空気を求めて、浅い呼吸を繰り返す。これは尋常じゃない。俺は慌てて、アマルに駆け寄る。

 

「アマル、だ、大丈夫か!?」

 

「っ、違う……のです」

 

 アマルは弱々しく頚を振った。何が違うんだ。意識して、優しく声をかける。

 

「こんなの知らない。胸が震えて、痛い。こんなにも苦しいのに、不思議と嫌じゃない」

 

 自身に問いかけるように呟くアマル。心配になって彼女の顔を覗き込み、驚いて思わず目を見開く。

 

 アマルは、笑っていた。

 花が咲くと表現するぐらいの満面の笑みだった。あまりにも綺麗で無垢な笑み。どうしようもなく、見惚れてしまう。

 

 これは物理的な胸痛というより、むしろ心の問題。そして、それは苦しみや悲しみから来るものではなく、もっと別の要因なのではないか。

 

「なぁ、アマル。違ったら言ってくれ。もしかしてお前……嬉しいのか?」

 

「……嬉しい? 私は、嬉しいのか? ……ああ。ああ、そうか。そう、そうだったのか。ふふっ。私たちは……いいえ、(アマル)は嬉しい。とても、とてもとてもとても嬉しい。だから、痛い。だから、こんなにも苦しい」

 

「……アマル?」

 

「きっと、ああ、これが――ー」

 

 

 ――ー幸せと、言うものなのですね。

 

 

 初めてそれを知った、そんな口調。

 その言葉があまりにも悲しくて、俺はただアマルを見詰めることしかてきなかった。

 

 俺のちょっとした言葉に何故アマルが幸せを感じたのか。今までどういう生き方をしていたのか。

 

 俺はアマルという人間をほとんど知らない。なんせ今日初めて彼女に会ったんだから、仕方ない。

 

 それなのに、いや、それだからこそ、彼女を放って置けなかった。守ってやりたいとさえ思っている自分が、そこにはいた。

 

 

 



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想いの果て

 

 

 

 まだ、出会って1時間もたっていないはずなのに、何故だか俺はこの少女に入れ込み始めている。

 

 一目惚れなどではない、と思う。

 

 確かに絶世と言っても過言ではない美貌を持つアマルだが、それだけでは片付けられない感情を俺は彼女に抱いている。

 

 そこにあるのは、ただの恋慕や憧憬の念ではなく、長く会えなかった人に突然会ったような懐かしさとでも表現するべき感情だろうか。何故、俺はそのような思いを彼女に抱いているのだろうか。分からない。分からないからこそ、底知れぬナニカがそこにあるような気がした。

 

「……アンディ、様?」

 

 名前を呼ばれ、慌てて顔を上げる。

 

「ああ、ごめん。考え事をしていた」

 

「いえ……」

 

 アマルは小さく首を振って目を伏せた。先程までの笑みは消え、人形のような無表情。どこか冷涼とした雰囲気に押されてしまう。

 

 どうしていいか分からず、俺は思わず頭をかいた。

 

「その、悪い。戻ってくるって約束とはいえ、祈りの邪魔しちゃったよな」

 

「いいえ」

 

 また、簡素な返事。

 

「……そっか」

 

 会話が続かない。

 

 とても気まずい。沈黙が痛い。

 今までのやりとりで、少しは気を許してくれたと思ったんだけど勘違いだったのだろうか。でも……俺の言葉が彼女の琴線に触れたのは間違いないと思う。ただその根本的な理由が分からない。

 

 アマルはふと視線を外した。石像の前に置かれた長椅子を見ているようだった。数秒して、再び俺に視線を戻す。

 

「……お荷物」

 

「え?」

 

「アンディ様の、お荷物が……そこに」

 

 アマルはそう言って、祭壇近くの長椅子に置かれた俺のリュックサックを持ち上げた。

 

「ん、ん……っ」

 

 ぐっと歯を食い縛って、フラフラしながら俺のリュックを運ぼうとしている。小刻みに震える手。明らかに無理している。

 

 リュックには山奥にある両胡村に向かうため、念には念を入れて水や携帯食等々をこれでもかというくらい詰め込んでいる。つまり、かなり重い。

 

 アマルのような小柄な少女には、持つのも精一杯だろう。すぐアマルの側に駆け寄り、リュックサックを受け取った。

 

「アマル、ありがとう。はぁ……良かった。リュックは無事だったんだな」

 

 ほっと安心して笑みが漏れた。正直突然よく分からない場所に放り投げられて、不安だった。これだけでも、心強くなる。アマルはそんな俺の姿を静かに見詰めていた。

 

「アマル、リュックを取って置いてくれてありがとう。ほんと助かった。でも、あんまり長居しちゃ悪いよな。……俺そろそろ行くよ」

 

「あっ……」

 

 俺がそう断りを入れると、彼女は乞うように右手を差し伸べた。それも一瞬のことで、すぐにだらりと手を落とす。アマルの不自然な行為に思わず頭を傾ける。

 

「……アマル、どうかしたのか?」

 

 俺の言葉に反応せず、彼女は自身の手を呆然と眺めていた。それから、自らの行動を咎めるように右腕を強く押さえつけた。

 

「……なんでも、ありません。そう、なんでも」

 

「そうか?」

 

「はい」

 

 彼女は小さく頷く。

 何かありそうな様子だが、あまり突っ込んで聞くことも憚られた。

 

「じゃあ」

 

 手を振る。

 アマルは肩を震わせて、そっと目を伏せた。

 

「また後で」

 

「……えっ?」

 

 彼女は、ぱっと顔を上げ、信じられないと言った顔で俺を見詰める。

 

「ごめん、言ってなかったな。ベネディクト修道司祭と話して、帰る方法が分かるまで、ここに滞在させて貰えるようになったんだ。だから、ここに居る間仲良くしてくれると嬉しい」

 

「……はい。はいっ」

 

 アマルは食い気味に何度も頷いた。ここまで、心配してくれてるなんて思ってなかったので嬉しい。思わず笑みが漏れる。

 

「ありがとう。何分、いきなりこんなところに来て右も左も分からない状態だからな。本当にアマルが居てくれて良かった」

 

「……居て、良かった。私が、居て、良かった?」

 

 そっと俺の言葉をなぞる。そして、眩しげに鮮やかな紅の瞳を瞬かせた。

 

「ああ、とても心強いよ」

 

「私たち……アマルにアンディ様はそう言ってくださるのですね。居て良かった、と」

 

「えっ、当たり前だろ。改めて、よろしく頼むよ」

 

「はい。アンディ様。また、アマルに会いに来て下さい。どうか、どうかお願い致します」

 

「勿論だ。むしろ、俺の方からお願いする。これから色々教えてくれ」

 

「ーーアマルにできることなら、何でもお申し付け下さい。全てお望み通りに致しますっ」

 

 アマルは前のめりになりながら、胸の前で手を握り合わせた。俺に対して祈りを捧げるような動作。彼女のリアクションの大きさにたじろぐ。

 

「あ、ありがとう」

 

「はい!」

 

 俺を見詰めて、力強く頷いてくれた。困っている人を見捨てない修道女の鏡だな。たいへん頼もしい。

 

「アマルは本当に良い子だなぁ。迷惑かけると思うけど、よろしく頼む。アマルこそ俺にできることがあれば言ってくれよ」

 

 鮮紅の瞳を輝かせ、アマルは深々と頭を下げた。俺も頭を下げておく。数秒そうして、俺は踵を返し扉まで歩く。そして、背中にアマルの強い視線を感じながら、薄暗い廊下へと足を踏み出した。

 

 

 

 



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忘れられた夢

 

 

 

 

 修道院の中をぶらぶらと歩いてみて分かったことは、やはりこの修道院はかなり大きいということだ。

 アマルと別れた後、色々と巡ってみると写本室や書庫、談話室や食堂など他にも様々な部屋があった。修道院がどのような造りになっているのか、今まで知る機会も無かったので新鮮だ。

 

 ……とは言っても、礼拝堂に続く通路程ではないが薄暗い廊下はあまり気分の良いものではない。独特の重々しい雰囲気を終始感じるのだ。それに、時折すれ違う修道士が怪訝そうにこちらを見詰めてくることが何より気まずい。

 

 視線を落とし、自身の服を改めて見る。

 

 俺の服装は登山に合わせて、速乾性の黒いTシャツにストームクルーザーを羽織り、バーブサマールパンツを履いている。

 

(場違い感がすごいな)

 

 修道士たちは皆、質素な茶色のローブのようなものを着ている。そのため、俺はかなり悪目立ちしてしまっているのだ。

 

「……はぁ、やりずらい」

 

 小さく悪態をついて、俺は修道士たちの視線から逃れるため、回廊へと戻ってきた。

 

 キラキラと輝く陽光が目蓋を刺激した。手で日差しを遮し、俺は空を見上げた。

 

 透き通った青、深淵の如く底がない空。

 ほっとして、ため息が漏れる。

 

「……流石に、疲れたな。色んなことがありすぎて、頭が全くついていかない」

 

 中庭に入って、手頃な木を背にして座り込む。木漏れ日が優しく降り注ぎ、風で枝が揺れる音がする。頭が段々ぼやけてきた。心地よい微睡みに包まれ俺はゆっくり意識を手放した。

 

 

 

 ***

 

 

 

 青いドレスを着た女性が俺に背を向けて、空を見上げている。顔は見えないのに、何故かその人が言葉で言い表せないほど美しいことは分かった。腰まで伸びた銀髪がふわりと靡く。その幻想的な姿に見惚れる。

 

 

 ……これは夢なのだろう。

 

 

 夢を見ながら、それが夢だと俺は理解していた。明晰夢、というやつだろうか。

 

「――――ああ、其方(あなた)

 

 恋人に向けるような優しい声音。どくり、心臓が強く脈打つ。

 

「……良く参られました。(わたくし)は其方をお待ち申し上げていました。それこそ気の遠くなるほど長い長い間。もう少しで、自分が自分であることすら忘れはててしまうところでした」

 

 そう言いながらも彼女は一向に振り向かない。不思議に思い、思わず眉をひそめる。

 

「ふふっ。……ああ、そう構えることはありません。どうせ、起きる頃にはここで見聞きしたことは覚えていないでしょう。それはある意味幸運なこと」

 

 その言葉に違和感を覚える。そんなことを何故言いきれるのだろうか。

 

「……何故そのようなことが分かるか? 簡単なことです。其方は知っているでしょう? これが夢であるということを。まあ、夢は夢でも悪夢ではありますが、現実も夢もそう違いはありません。だからこそ、何一つ心配することはないのです。これは其方を守るため。本当の妾に相まみえることは其方にはまだ()()()()()()でしょう。人であるならば、それは当然のことでございます」

 

 寂しげに宥められる。彼女は俺をひどく心配してくれているようだった。

 

「原初の夢はその白痴故に其方を欲するでしょう。良いですか。目覚めは、かならずしも救いとなり得ない。だからこそ、用心することです」

 

 視界が歪む。空が落ちてくる。境界線が曖昧だ。目覚めの時が近い。

 

 ふふっ、と彼女は笑った。それは悲しみを孕んだ笑みだった。

 

 

「―――さようなら、愛しい其方」

 

 

 どうか良い夢(現実)をーーー

 

 

 

 ***

 

 

 

「―――ああ、お目覚めですか?」

 

 その言葉に俺は慌てて意識を覚醒させた。寝ぼけ眼で、声がした方向を見る。

 

 質素な黒いドレスに、ベールを被った女性が静かにこちらを眺めていた。修道女だろうか。思わずまじまじと彼女を見詰めてしまう。

 

 金色の長い睫毛に縁取られた蒼い瞳。堀が深く、高く整った鼻筋。そして、凛とした立ち姿。ハリウッド女優が霞むくらい美しい女性だった。年の頃は、20代前半といったところだろうか。

 

 俺は立ち上がって、頭を下げる。

 

「……ええっと、こんなところで寝てしまってすいません」

 

 彼女は目を細め、緩やかに首を振った。

 

「いえ。こちらこそ、お待たせしてしまいました。ベネディクト司祭からお伺いしております。お部屋の用意ができましたので呼びに参りました」

 

「ああ、ありがとうございます。俺は、安藤隆と言います。よろしくお願いします」

 

「私はヨハンナ。ヨハンナ・スコトゥス。ヨハンナとお呼びください。……黒殿」

 

「はい、ヨハンナさん。……えっ、黒、殿?」

 

「お髪が黒いので、そう呼ばせて頂きます。意見は聞きますが、反論は受け付けません」

 

「ええー」

 

「特に意見や反論も無いようですね。さぁ、早く参りましょう。付いてきなさい」

 

 何て強引な人なんだ。反論は認められないとのことなので、黙って後ろについて行く。初見から妙に不安になってきた。

 

 そんなことを考えながら、黙々とヨハンナさんに付いて行く。歩きながら、俺はふと思った。

 

(……そういや、何か夢を見ていた気がしたけど。どんな内容だっただろうか)

 

 いくら思い出そうとしても、何一つ浮かんでこなかった。

 

 

 

 



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聞こえるはずのない囁き

 

 

 

「ここが黒殿のお部屋です」

 

 ヨハンナさんはそう言って、静かに扉を開いた。俺はヨハンナさん越しに部屋の中を覗き込む。

 

「ヨハンナさん、入っても良いですか?」

 

「……どうぞ、お好きに」

 

 了解を得て、室内に入る。

 質素な内装だ。机にタンス、そしてベッド。その華のない室内に安らぎさえ感じる。

 

 部屋の広さは四畳半といったところだろうか。そこまで広くはないが、1人で暮らすならこれぐらいが丁度良い。

 

 こんな個室を借りてしまって良いのだろうか。気を使わせたのなら申し訳ないな。

 

「本当にここに住んでも大丈夫なんですか?」

 

「ええ。……何かご不満でも?」

 

  ヨハンナさんは、訝しげに首を傾げた。

 

「いや、むしろシンプルで気に入りました」

 

  笑顔で答える。

  華美すぎる内装は逆に落ち着かない。日本人の感性を持つ俺としては、これで十分なのである。

 

 ヨハンナさんは、俺の顔を暫く見つめた。そして、そうですか、と小さく頷いた。瞳を微かに細め、確かめるように再度頷く。

 

「……この部屋にあるものは自由にお使い下さい。それと、その装いは少し目立ちすぎます。タンスに入っている衣服を着用するように」

 

「分かりました。とても助かります」

 

「結構」

 

  短く答えが帰ってきた。簡潔さを好むクールな性格なんだろう。素っ気ない受け答えに思わず苦笑した。中々お目にかかれない程の美人、ということもあり気遅れするというのが本音だ。

 

「きちんとした寝床もあります故、ごゆるりとお休みください。……ああ、流石に木の幹は固くて寝心地がよろしくなかったでしょう?」

 

 彼女は僅かに……本当に僅かに口角を上げた。

 

(からかわれている……のだろうか? )

 

 それに対して悪感情は湧かなかったものの、どう答えて良いものか分からず、うなじに手を当てて情けなく眉を下げた。この人、割かしSっ気があるのかもしれないな。

 

「えっと、まあ……そうですね。お気遣い、ありがとうございます?」

 

 思わず疑問系になってしまった言葉に、ヨハンナさんは目を伏せて返礼した。それから、思い出したように、俺の顔を見詰めた。

 

「……ああ、では私はこれで。食事の際はまたお呼びに伺います」

 

 淡々とした口調。平坦に変わらない表情。何を考えているのか全く分からない。アマルやベネディクト修道司祭もそうだが、このストーンハースト修道院では、こういう感情の起伏が少ない人が多いのだろうか。

 

  ……まぁ、どちらにせよ、そんなことは些細なことだ。だって、彼らはこんな見ず知らずな上、怪しい男を受け入れてくれたのだから。

 

 

 だからこそ、俺は―――

 

 

「……ヨハンナさん、ありがとう」

 

 

 ―――彼らに、感謝せずにはいられない。

 

 

 俺、安藤隆はこのストーンハーストにとって突然現れた身元不明な外国人だ。幸い……なのかどうかはこの際置いておくとして、言葉は通じる。だが、それだけだ。

 

 異質な存在を受け入れるというのは、独立した共同体に所属する人間にとって存外難しいことだ。何故なら、彼らにとって異質な存在は薬にもなり得るが、毒にもなり得るからだ。そして、厄介なことにそれは蓋を開けてみなければ分からない。

 

 薬か毒か、その二者択一に共同体の命運を預ける……そんなリスクを誰が好んで背負う?

 

 ならば、答えなど決まっている。最初から蓋を開けなければいいだけの話だ。

 

 だが、ベネディクト司祭はそうしなかった。その根本に、何があるのかは分からない。慈悲の心か、聖職者としての義務感か、そしてそれ以外の何かか。そこにどんな意図があれど、俺は確かに救われた。それが全てだ。

 

「ああ……貴殿が」

 

  ヨハンナさんは、そこまで言って言葉を止めた。

 

「ヨハンナさん?」

 

「いや……何でもありません」

 

  頭を振って、彼女は浅く息を吐いた。狼狽えている心を落ち着かせている動作。呑まれかけている気持ちを、掬いだすよう右胸を押さえる。その行動の理由を話すわけでもなく、背を向けたヨハンナさんの姿を目で追う。

 

 古びた木製の取手に手をかけて、彼女は扉に額を押し付けた。たった数秒の出来事であったが、俺にはその時間が妙に長く感じた。俺は彼女に声をかけることができなかった。彼女の背中は、全て拒絶するように頑だったのだ。

 

 ヨハンナさんは、そっと扉を開いた。そして、振り返ることもなく部屋を後にした。

 

  少しして、扉の向こうで囁く声が聞こえた。本来は扉に遮られ、聞こえる筈もないその微かな呟きをどうしてか俺の耳は拾い上げた。

 

 

「――貴殿が、真に悪人であったなら、どれ程幸いだっただろう」

 

 

 俺は、最後まで彼女が呟いた言葉の意味を理解することはできなかった。

 

 

 

 



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得難い友

 

 

 

 ―――針のむしろ。

 

 今の状況を説明するには、その言葉が一番的を射ている。品定めするような視線が刺さる。居心地が悪い。浅くため息を吐いて、視線から逃れるために顔を伏せた。

 

(……めちゃくちゃ、気まずい)

 

 ヨハンナに呼ばれ、晩餐の席についた俺は早くも白旗を上げそうなっていた。

 

 気を紛らわせるために、目だけ動かし食事内容を見る。長机には黒パンに林檎などの果物、野菜と豆が入ったスープ、つんとした独特の臭いがするチーズが並べられている。黒パンとチーズは皿の上ではなく、何故かテーブルクロスの上に直接置かれていた。

 

 更に言うと、スプーンやフォークは見当たらない。まさか手掴みで食べると言うのだろうか。そんなことを考えていると、こほんと重々しい咳が辺りに響いた。

 

「さて……皆、疑問に思っていることだろう。それは、何もおかしいことではない」

 

  上座に座っていたベネディクト司祭は立ち上がって修道士たちを見渡した。

 

「簡潔に言おうではないか。そこにおわす異国のお方……黒のお方は、迷える子羊。しかして、我らを導くペレグリヌス」

 

 そこまで言って、ベネディクト修道司祭は天井を……いや、その先にある空を見上げた。

 

「ーーーああ、幸いなことに、あるいは不幸なことに、我らの役目は正しく果たされるだろう」

 

 その言葉に、修道士たちはざわめいた。そして形容しがたい表情で俺を見詰めてくる。何が何だか分からない。俺は少しでもその眼差しを反らすために肩を丸めた。

 

「では、祈りを捧げよう。神よ、我らを祝福し、貴方への奉仕を続けるために、この食事に祝福を与えたまえ。我らの主によって、アーメン」

 

 アーメン、と復唱する声が食堂に響いた。

 

 

 

  ***

 

 

 

「一種の拷問だったな……」

 

 トボトボと廊下を歩きながら、俺は肩を下げた。あれがこれから続くと思うと今から気が重い。まあ、元からこの修道院の全員に受け入れてもらおうなんて思ってはいなかったが、流石にあの視線は堪える。

 

 急に現れた外国人に対して、排他的な感情を持つ。勿論それは仕方ないことだと理解できる。特に閉鎖的な場所であるならば、余計その思いは大きいだろう。俺を受け入れてくれたアマルやベネディクト修道司祭の寛大さを思い知ることができた。

 

「あっ―――あの、黒の旦那っ!」

 

「うえぃっ!」

 

 後ろから急に声をかけられて、変な声が出てしまった。誤魔化すようにうなじに手を当てて、振り返る。

 

 そこには丸々とした体型の男性が立っていた。身長はそこまで高くない。ざっと見て、160㎝前後だろうか。好奇心に満ちた瞳がキラキラと輝いている。

 

「驚かしてすいやせん」

 

「いや、大丈夫です。……えっと、貴方は?」

 

「こりゃ、失礼しやした。あっしはフランチェスコ。フランチェスコ・ポワティエという者でさぁ。よろしくお願いいたしやすっ!」

 

  勢いに負けて思わず後退る。

  フランチェスコさんは、お構い無し俺の手を取ってぶんぶんと上下に振った。

 

「あ、ああ、どうも。俺は、安藤隆……アンドリューです」

 

「へい、黒の旦那!」

 

 俺の自己紹介は見事にスルーされた。解せぬ。

 ベネディクト修道司祭やヨハンナさんもそうだが、何故頑なに名前で呼んでくれないんだろう。そういう掟でもあるのだろうか。

 

……というか、フランチェスコさん修道士なのに気安いな。俺の中の修道士像からかなりかけ離れすぎて調子が狂う。

 

「あー、フランチェスコさん、俺に何か用ですか?」

 

「用があった訳じゃないんですが、ちょいっと気になって。それと旦那、あっしのことは気軽にフランチェスコとお呼び下せい。敬語もいりません。何分、あっしはかたっくるしいことは苦手な性分なもんで」

 

「マジか」

 

「……マジ? どういう意味ですかい?」

 

  フランチェスコは首を傾げた。ぽにゅん、とその動きに合わせて二重顎が揺れる。それが妙に面白くて、笑ってしまった。

 

「あははっ、本気とか本当って意味だよ」

 

「へえ、なるほど。異国の言葉ですかい」

 

  深く頷くフランチェスコ。それから、にかっと口角を上げ目を細めた。

 

「まあ、そんなとこだ」

 

「うむうむ。これからあっしも使わせて頂きやしょう」

 

「マジか」

 

「マジです」

 

  即座に返答された。フランチェスコ……コミュ力半端ない。緊張してた自分が馬鹿らしくなってきた。肩の力を抜く。

 

「……フランチェスコは修道士、何だよな?」

 

「そうですが、それがどうしたんですかい?」

 

「いや、こんなこと言うとあれだけど、修道士ぽくないなって思って」

 

「ああ、あっしはまだ修道士としては若輩者ですからね」

 

「そうなのか? まあ、俺としては話しやすくてありがたいけどな」

 

「そりゃ、重畳。まあ、外から来たもん同士、仲良くやりやしょうや。よろしくでさぁ」

 

「こちらこそ、よろしく頼む」

 

  フランチェスコは俺の答えに、深く頷いた。満足げに、笑って軽快に走り去って行った。

 

「……あんな丸々しているのに、走るのはすごく早いのな」

 

  後ろ姿を見送りながら、俺は思わず苦笑した。

 

 

 

 



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善良なる心

 

 

 

 

 空の器を手にし、母なるカエルラへの恭順を示せ。

 

 ああ、ペレグリヌス、外から(きた)る者。

 

 その血をもって器を満たすのだ。

 

 

 

 ――さあ、新たなる血を捧げよ。

 

 

 

 

  ***

 

 

 

 穴だ。

 

 ぽっかりと空いた穴。

 

 それを見つけたのは、本当に偶然だった。

 

 

 

 

 俺がこのストーンハーストに来て、早1ヶ月がたっていた。まさに光陰矢の如しである。

 

 ……とは言ったものの、正直まだまだ慣れないことばかりで不安が隠せない。俺はそんな憂鬱な気分をまぎらすために、俺は青空の元ゆっくり修道院の敷地内を散策をしていた。

 

 修道院の敷地を囲うよう張り巡らせた石壁を沿って歩いていると、大きな落葉樹が生える場所があった。

 何故だか妙にその場所が気になる。蜜蜂が花に惹かれる気持ちというのは、このような感じなのだろうか。そんなくだらないことを考えながら、木の裏に生えている茂みを掻き分けて進んでみる。

 

「……あっ」

 

 口から間抜けな声がこぼれ落ちた。何故なら、俺の視界の先には、人がやっと通り抜けられるサイズの穴が石壁に空いていたからだ。

 

「驚いた。まさかこんなところに、穴があいてるなんてな」

 

 大発見をしたような気分だった。無意味に誇らしい。誰も見ていないことを良いことに、ふふんと得意気に笑ってみた。

 

 ひとりで笑っていると無性に虚しくなってきた。頭を乱暴にかいて溜め息をひとつ漏らす。

 

(んで、この向こうはどうなってんだろう。修道院の石壁は高くて、外が見えないんだよな)

 

  そんなことを考えながら、俺は膝を落として穴を覗き込んだ。しかし、穴の向こうは薄暗くあまり良く見えない。日差しの向きを考えると、逆光で見えないだけだろう。ただ、穴から風が唸る恐ろしく低い音だけが耳に入った。

 

 数秒そうして穴の奥に目を凝らしていたものの、俺はそこを通り抜けようとは到底思えなかった。ただでさえ、修道院の中の生活さえ馴染んでいないのに、無謀にも外に出ようと思えなかったのだ。

 

 そっと立ち上がって、茂みを掻き分け元いた道に戻る。そして、振り返らずに足を踏み出し散策を再開した。

 

 唸り声にも聞こえる低い風の音が、暫く耳にこびりついていた。

 

 

 

 ***

 

 

 

  散策を終え、修道院に戻り自室に繋がる廊下を歩いていたところだった。曲がり角の先から話し合う声が聞こえてきた。そっと身を隠し、覗き見る。いや、別に隠れる必要はなかったのでは? と、隠れてから思ったが、考えるよりも身体が動いてしまった。

 

「――ベネディクト修道司祭。今ならまだ間に合います。どうか、救いをお与え下さい。元より我らと何ら関係もない」

 

(あれは……ヨハンナとベネディクト修道司祭か?)

 

 顔を伏せ、沈黙を守るベネディクト修道司祭へヨハンナは鋭い眼差しを向けさらに語気を強めた。

 

「――優しく慈悲深く、何より善良なお方です。巻き込むべきではない」

 

「それでは、今までの者たちはどうなる。彼らも我らと全く関わりのない者たちだった。悪人だから、血を流しても良いと、救われなくても良いと、君はそう言うのだな」

 

「それは……」

 

  ヨハンナは唇を強く噛んだ。眉間にしわを寄せ、沈痛な表情を浮かべる。それを見たベネディクト修道司祭は、浅く溜め息を吐いて首を振った。

 

 とてもじゃないが、出ていけるような雰囲気じゃなかった。隠れたのは正解だったな。それにしても、一体何の話をしているのだろう。とりあえず、息を潜めて、聞き耳を立てる。

 

「ああ――いや、許してくれたまえ。君を責めるつもりは毛頭ない。そして、私にその資格もないだろう。それは自分が一番分かっている」

 

「っ……では、何故!」

 

「それが、我らに残された唯一の道だからだ」

 

「――修道司祭、貴殿はそれを良しとするのか」

 

 ヨハンナは静かに言葉を発した。激情を押さえ込んだざらつく低い声。鋭く尖った空気が場を満たした。

 はっ、とベネディクト修道司祭は諦めと嘆きがない交ぜになった笑みを漏らした。それから、表情を隠すよう天井を見上げる。

 

「迷いがないと、そう言い切れるのであればどんなに良かったか。私は常に罪にまみれている。だからこそ、神にすがり生きていく道しか知らない」

 

「ベネディクト修道司祭……しかし、私は」

 

「分かっている。分かっているよ。君にも曲げられない矜持があるのだろう。忠告はしよう。そして、その上でここを出ていったとしても決して追うことはしまい。それで良いだろう?」

「……貴殿に感謝を」

 

 目を瞑ってヨハンナは十字を切った。ベネディクト修道司祭もそれに続き十字を切る。

 

 もう話すことはないと言うように、ヨハンナは会釈をしてから彼の脇を通り抜けた。

 

「ああ、君……」

 

 ぼそりと、ベネディクト修道司祭は独り言を呟くように言葉を発した。

 

「……ヨハンナ・スコトゥス。君こそあまり深入りせぬようにしたまえ。もしこの地に留まることになれば、後が辛くなるぞ。その慈悲の心は君を苛み、焼き付くすことになろう」

 

  ヨハンナは立ち止まり肩を震わせた。ただ、それだけだった。その言葉に応えることはせず、後ろを振り返ることもなく、彼女は薄暗い廊下の先へと消えていった。

 

 ベネディクト修道司祭は暫くその場に立ち止まり、彼女が消えていった廊下を見詰め続けた。

 

 

 

 



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罪深い愛の歌

 

 

 

 

 君は神様を見たことがあるかい?

 

 

 ――いいや。

 

 

 なら、目には見えない神様を何故君は信じていられるの?

 

 

 ――決まってる。目に見えないからこそ信じていられるんだ。

 

 

 

 

 

  ***

 

 

 

 

 

 俺は礼拝堂の長椅子に腰掛けていた。

 

 いつここに来たのか、何故ここにいるのか、記憶が曖昧だ。頬を掌で撫でて意識を集中してみた。しかし、粉雪のようにぼんやりと思考が溶けていく。きっと疲れているんだろう。

 

 億劫な心に飽き飽きして、長椅子の背もたれに体重をかけ身を任す。ぎしり、と断末魔に似た軋みが礼拝堂に響き渡った。その音が余計に礼拝堂の静寂を浮き出させた。

 

 この数ヶ月、色々なことがあった。

 

 妹の墓参りの帰路の途中、訳も分からず俺はストーンハースト修道院に迷い混んでいた。修道士たちの暮らしや外の話を聞き鑑みると……おそらく俺は中世ヨーロッパにタイムスリップしてしまったのだろう。

 

 詳しい時代分析は歴史家でもないので分からない。ただ、アマルやベネディクト修道司祭が、アメリカ、フランスやイギリスと言った国々の名前を知らないということは、それらの国々がまだ成立していない、あるいは別の名前で呼ばれていた時代である可能性が高い。

 

 更に言うと、彼らはヨーロッパという言葉も知らなかった。それはヨーロッパというある種の共通概念が生まれていない時代であるということだ。

 

 間違いなく近世や近代ではないだろうし、暮らしていて古代と言うほど文化や生活が整っていない訳でもなさそうだった。後は、地球に似た異世界に転移したとか。もしくは、オルタナティブの世界、平行世界とやらに迷い混んだとか……。

 

 そこまで考えて、思わず失笑してしまう。

 自分でも正気を疑うが、それ以上の考えは浮かんでこないのだ。ひょっとして、これは夢なのかもしれない。長い夢を見続けているだけかもしれない。そう思うと、外国であるはずなのに通じる言葉も説明がつく気がした。

 

(……馬鹿馬鹿しいことだ。ああ、ほんと夢なら早く覚めて欲しい)

 

 視線を礼拝堂の奥、大理石の石像に向ける。

 両手を空に掲げ、深くフードを被った人物。

 

 キリスト教のことを俺はあまり知らないので、彼が誰なのかは分からない。聖人なのか、殉教者なのか。キリスト教徒ではないのに、すがりつき祈りたくなる。

 

(……神様なんて信じていない。でも、こういうときにだけどしようもなく頼りたくなる。救いを与えることはできないくせに、救いを与えて欲しいと祈ってる)

 

 もともこもないことだ。

 弱気になっているから、ネガティブなことばかり頭に浮かぶ。こんな自分にも嫌気がさす。毎日うじうじ悩んでばかりだ。このヘタレめ。心で自身に喝をいれる。

 

 その時だ。

 ひんやりと冷たい風が後ろから吹き抜けた。

 俺は怠惰に首だけ、後ろに振り向く。

 

「――ああ、アマルか」

 

「……アンディ様」

 

 礼拝堂の大きな扉の前に、独り佇む女性。

 ひっそりと、という表現がぴったりだ。すぐ側に居るはずなのに、存在感が希薄で揺らめく蝋燭の光のように弱々しい。彼女は俺の元へと歩みより、顔を覗き込んできた。

 

「顔色が悪い。大丈夫、ですか?」

 

「うん、大丈夫だ。すこしぼんやりしてただけだから」

 

 そうですか、とアマルは小さく頷いた。それから、遠く彼方を見るように目を細める。

 

「……貴方様にはこの空気は酷でしょう。ここは、あまりにも淀んでいる」

 

 そう言って、アマルはぎこちなく笑う。どこか歪な笑顔をどうしてこの少女が浮かべたのか。俺には分からなかった。そして、それを問おうとも思わない。むしろ、そうしてはいけないとさえ思った。

 

「アンディ様。ここから出て、光を浴びていらしてください。貴方様はそこに行くべきです。光輝く場所こそアンディ様に相応しい」

 

 アマルは遠慮がちに呟く。そして、乞うように右手を差し出した。しかし、それも長くは続かない。

 手を差し出したのは、無意識の行動だったのだろう。アマルは自身の差し出した右手を視界に入れ、びくりと身を震わせた。はっ、と浅く息を吐き出し、直ぐに右手を下ろす。そして、咎めるように左手で強く押さえ付けた。

 

「アマル」

 

「は、はい」

 

 視線を泳がせ、おどおどとした様子のアマルを安心させるために微笑む。

 

「心配してくれてありがとう。うん、そうだな。そうするよ」

 

 俺は立ち上げって、肩を鳴らす。ぐっと屈伸をしてから、息を吐く。

 

「そういや。アマル」

 

「はい。なんでしょう?」

 

「ずっと気になってたんだけど、あれって誰の石像なんだ?」

 

 

 ――――沈黙。

 

 

「アマル……?」

 

 不思議に思い、アマルの名前を呼んだ。アマルは石像を見詰めながら、唇を震わした。

 

「ストーンハースト」

 

「えっ?」

 

「この石像はストーンハースト。カエルム・ストーンハースト。このストーンハーストを造りし者」

 

 俺は改めて石像を眺めた。

 

「……神からの天啓を求めトートヴァルトにやって来た異邦人(ペレグリヌス)。彼はこの地に神を見、囁きを聞き、交信を得た原初の夢、あるいは白痴の悪夢」

 

 アマルの言葉にとりあえず頷く。

 正直後半の意味は全く分からなかったが、この修道院を建てた人物ということだけ理解した。

 

「すごい人なんだな」

 

 アマルは何も答えず、曖昧に微笑んだ。

 

「さて、じゃあ外の空気を吸いに行くとするか」

 

「……はい」

 

 扉に向かって歩き出す。

 数歩足を動かして、俺は振り向いた。

 

「アマルも付き合ってくれ。一緒に日向ぼっこしよう」

 

「……えっ?」

 

 アマルはポカンと口を開けて俺を見た。こいつはなに言ってるんだという表情。

 

「いや、だから一緒に外に行こうって言ってるんだ。独りより二人の方が楽しいだろ? ……嫌か?」

 

「嫌なんて、そんな。でも、私」

 

  顔を伏せて、ぎゅっと拳を握るアマル。それに合わせて、銀髪がさらりと流れた。

 

(アマル、どうしたんだろう?  そんなに外に出るのがいやなのか。日差しに当てると日焼けするから、とか。まあ、アマルの肌すごく白いし……ん、白い?)

 

 そこまで考えて、はっとする。

 透き通る程白い肌、銀色の髪、鮮紅の瞳。

 それって、アルビノの特徴なんじゃ。あっ、だから日光に当たっちゃ駄目なんだ。日焼けすると火傷みたいになるって聞いたことある。

 

(でも……アルビノだからって、気を使いすぎると悪いし、そんなこと言ってたら何もできなくなる)

 

 何より俺は、アマルを独りここに置いて行きたくなかった。我が儘だと自覚しているが、どうしようもない。それに今アマルはローブ着てるし、フードを深く被ってたら大丈夫……なはずだ。

 

「嫌じゃないなら問題ないな。行こう、アマル」

 

「……アンディ様」

 

「そんで、一緒に空を見ような。ぽかぽかして、気持ちいぞ」

 

 彼女は眩しげに目を細めた。

 そして、小さく頷く。

 

「貴方様と見上げる空なら、例え嵐を孕む空も、血潮を溶かした黄昏、蠢くように底知れぬ闇夜さえも、きっと何より尊く……美しく見えるのでしょう」

 

 鈴の音のような凛とした声で、アマルは朗々と語る。その姿があまりにも綺麗で、数秒固まってしまう。

 

「――お前って、詩人みたいなことを言うんだな」

 

 きょとんとした顔。

 アマルは困ったように眉を落として、上目遣いで俺を見る。

 

「……そのようなこと、初めて言われました」

 

「そうか? でも、アマルの言葉が綺麗だからそう思うのかもしれないな」

 

「ひぅ……あ、アンディ様ぁ!」

 

 いきなり大声を出されて、ビックリした。

 えっ、何、どうしたんだ?

 

「ずるい……」

 

「えー、何でだよ?」

 

「ずるい、ずるいっ!」

 

 駄々っ子か。

 

 地団駄を踏むアマルに呆れる。

 いつもはクールであまり表情を変えないから、子どもみたいな行動が余計に微笑ましく感じる。最近は気を許してくれたのか、そんな姿を見せてくれるようになった。それがとても嬉しい。

 

「分かった。俺が悪かった」

 

  両手を上げて降参のポーズ。まさに無血開城である。

 

「……全然分かっていませんねっ」

 

 アマルは頬を限界まで膨らませた。

 どうしよう可愛い。ここに栗鼠がいるぞ。

 ニヤニヤして見ていると、アマルは拗ねてツーンと顔を反らした。

 

「いや、ほんとごめんって。なあ、機嫌直してくれよ」

 

「……ちゃんとエスコートして下さるなら、アンディ様と一緒に参ります」

 

「あはは、任せろ」

 

「はい、任せました」

 

 頬を染めて、アマルは噛み締めるよう呟いた。

 

「――ーー貴方様は私たちの光」

 

 讃美歌を歌うような荘厳とした表情を浮かべ、手を胸の前で組むアマル。

 

「ん? それってどういう意味だ?」

 

「ふふっ、そのままの意味です」

 

 アマルは笑った。

 

 その純真な笑みに、俺は安らぎを覚えていた。顔は全く似ていないのに、その笑い方はどこか静代に似ているような気がした。

 

 

 

 



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赦されない願い
待ち人きたり


 

 

 

 

 

 黄昏空で影おくり。

 

 くるくるくるくる踊り出す。

 

 夜の帳は下りきった。

 

 君の影はいずこやら。

 

 答えは真っ暗闇の中。

 

 その先に一体何がある?

 

 

 

 

 

 

  ***

 

 

 

 緑葉の薫りが鼻を擽った。意識がそれにつられて覚醒する。

 

 目を数回擦って、頭を上げる。

 

 辺りは薄暗く、窓から夕日が差し込んでいる。立ち上がろうとして、俺は誰かの手を握っていることに気が付いた。

 

 さらりと流れる明るい茶髪。長い睫毛にすっと通った鼻筋。スレンダーな身体付きだが、どこか色気を感じさせる容貌の女性。

 

「……ソフィアさん」

 

 彼女は身動ぎさえせずに、安心しきった表情を浮かべ深い眠りに落ちているようだった。

 

「―――そうか。俺、ソフィアさんに付き添って、そのまま寝てしまったんだな」

 

 繋いだ手を見る。ソフィアさんは何かを見て、強く怯えていた。せん妄状態に陥ってひどく取り乱し、俺は彼女を落ち着かせるために手を握ってあげていたんだ。

 

 彼女の手を優しくほどいて、俺は小さく溜め息を吐いた。

 

 長い夢を見ていた。

 それは俺がストーンハーストに来た時の夢だ。懐かしく、どこかもの悲しい夢を見ていた。

 

 そのお陰で、甦った記憶がある。

 

「……ペレグリヌス。それに、カエルム・ストーンハースト」

 

 ストーンハーストに来たばかりのとき、自分のことで精一杯だった。それ故、記憶の彼方に追いやり、いつしか忘れてしまった言葉。

 

 ―――ペレグリヌス。

 

 そう俺はベネディクト修道司祭に当初そう呼ばれていた。そして、アマルはその言葉を「異邦人」と表現していた。

 

 更にこのストーンハーストの創設者であるカエルム・ストーンハーストという人物。ストーンハースト修道院の名前は、彼から取られたものなのだろう。そして、彼もまたペレグリヌス……異邦人であった。

 

 カエルムがこのストーンハースト修道院の秘密に深く関わっていることは間違いないだろう。

 

 そして、彼と同じくペレグリヌスと称された俺も、このストーンハーストにおいて何らかの役割を担わされている、そう考えるべきだったのだ。

 

 ペレグリヌスという言葉が純粋に異邦人という意味で使われているのであれば、ソフィアさんのような巡礼者も該当するはずだ。

 

 しかし、ソフィアさんがペレグリヌスと呼ばれている事実はなく、俺とは違い修道士からも本名で呼ばれている。そう、俺と彼女では明確な差があった。

 

 それはつまるところ、ペレグリヌス足り得るには何かしらの条件があるということを示唆している。

 

 何より一番重要なことは、ペレグリヌスという存在がこのストーンハーストにとってどのような意味があるのか、ということである。それこそ俺が禁忌の存在であるアマルと話し、触れて、愛し合うことができ、それを黙認されている理由なのかもしれない。

 

(……くそっ、俺は最初から間違っていたんだ)

 

 今まで俺は、無意識に自身を蚊帳の外に置いてしまっていた。一番始めに、修道院での一連の出来事はあくまで彼らのものである、という先入観を捨てなければならなかったのだ。

 

 ここを訪れたときから、俺はストーンハーストの深淵に触れていたのである。

 

 ああ、そうだ。

 

 何故、俺はそれを忘れていたのだろう。

 

 ……忘れてしまって、いたのだろう?

 

 

  ***

 

 

 

 ソフィアさんの様子を暫く見てから、俺は修道院の自室へと戻ってきていた。

 

 扉を開き中に入ると、夕日が部屋に差し込み壁が黄昏色に染まっていた。そして、立ち尽くし窓の外をじっと眺めているアマルが目に入る。

 

「アマル……ただいま」

 

 俺は少し声を落としてアマルに声をかける。彼女は髪を舞わせ、ゆっくりと振り向いた。逆光で黒塗りしたような顔が俺を見詰める。表情が見えない。

 

「アンディ様、おかえりなさい」

 

 どこか機械的な声音で、彼女は俺を迎え入れた。

 

「……ずいぶんと遅かったですね」

 

「ごめん。ちょっと、色々あって」

 

「そうですか」

 

 アマルは小さく頷いた。それから、俺に歩み寄りそっと抱きついてきた。

 

「こんなに、他の女の臭いを纏わせて……一体何をしていたのですか?」

 

 きつく締め上げられる。どうやったら、少女の細腕でこんな力が出せるのか。火事場の馬鹿力というやつなのだろうか。いや、こんなところでそれを発揮されても困るのだが。……アマルからすれば、俺が他の女と居ること自体、きっと自身の命を揺るがす状況と等しいということなのだろう。

 

 だから、これは決して逃がさないという意思表示だ。苦しくて、ふっと息を浅く吸う。

 

「あのな、勘違いするな。誓ってお前が思うようなことはしていない。ソフィアさんを看病してただけだ」

 

 それだけ言って、俺はアマルの背中を優しく擦ってやる。彼女は小さく肩を震わせた。何度も詰まらせながら、必死に言葉を紡ごうとしている。

 

「う、っ、あ、アンディ様は、すぐ、戻る、と言いましたっ。そう言ったのに、言ってたのにっ!」

 

「……それは、ごめん。でも、ソフィアさんとは何もない」

 

「本当、ですか……?」

 

「ああ、本当だ。俺を信じてくれ」

 

 肯定する。

 

 信じて欲しいと甘く囁き、俺にはお前だけだと、行動で示めす。アマルは常に飢えている。アマルは常に不安を抱えている。

 

 

 ―――アマルには俺しかいないから。

 

 

 アマルは俺に泣いてすがり付くことはあっても、膝まずいて俺に愛を乞うことはあっても、俺の生き方を決して否定しない。それは、きっと何より俺が離れていくことを恐れているからだ。

 

「信じます。……だって、今度はちゃんと戻って来てくれたから」

 

 背中に回した腕をほどいて、俺の服を下に強く引っ張る。いつもの無言の催促。

 

 俺は急いで屈み、アマルに顔を寄せる。そうすると、すぐさま噛みつくようにキスをされた。

 

 それは俺の愛を渇望するアマルの心を写しているように思えた。

 

 

 

 



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薔薇の香り

 

 

 

 ――ここでの暮らしで一番辛いことは?

 

 

 そう聞かれて、真っ先に思い浮かべるのは、やはりお風呂である。

 このストーンハーストでは、蒸し風呂や沐浴はあるものの日本のお風呂のように、がっつり湯船をはって毎日肩まで浸かるという習慣がない。……想像すると、余計に入りたくなる。

 

「ああ、日本の風呂が懐かしい……」

 

「えっと、あの、アンディ様?」

 

 食事の片付けをしていたアマルは、俺の呟きにきょとんと瞳を瞬かせた。ブーツを脱ぎ、だらしなくベット上にあぐらをかいている俺をアマルは咎めることもせず、心配そうに見詰める。

 

「いや、ちゃんとした風呂に入りたいなって」

 

「……お風呂、ですか?」

 

「ああ。俺の故郷では、毎日風呂に入って、肩まで湯に浸かるんだよ。それで一日の疲れを落とすんだ。やっぱり日本人として、お風呂は毎日入りたいよな」

 

「アンディ様、なんておいたわしい。アンディ様がお望みになることは、アマルが全て叶えて差し上げたいです」

 

 俺の言葉を聞いたアマルは、へちょりと悲しげに眉を下げた。1拍おいて、彼女は上目遣いで俺の顔を見ながら、遠慮がちに言葉を続ける。

 

「しかし、アンディ様の故郷とは違い、ここでは長時間水に浸かると髪や肌が傷んでしまうのです。どうかご自愛くださいませ」

 

「……そうなのか」

 

 確かに髪を洗うといつも髪がごわごわになる。シャンプーやリンスがないから、と特に気に止めていなかった。

 

 だが、今考えるとヨーロッパの水は軟水である日本の水と違って硬水だ。硬水に含まれるミネラル分が皮膚を乾燥させるという話を聞いたことがある。おそらく、それが関係しているのだろう。西洋人がシャワーだけであまり風呂に入らないのは、その水質のせいであることが理由の一つなのかもしれない。

 

(……まぁ、それだけじゃないのは知ってるけど)

 

 フランチェスコに外の暮らしについて聞いたとき、浴場に関するこんな話があった。

 

 フランチェスコ曰く、以前都市にはきちんと公衆浴場があったという。公衆浴場は人々の交流の場所、社交場としての役割を担っていた。

 

 しかし、公衆浴場が混浴であったこともあり、次第に娼婦の斡旋等も行うようになった。

 

 勿論、キリスト教としてそれは許しがたいことであったが、公衆浴場を撤廃するまでに至らなかった。

 

 公衆浴場が廃れたのは、黒死病や梅毒が広まり、公衆浴場が病原の温床として考えられるようになってからであるらしい。そこから急速に衰退の一途を辿ったのだとか。

 

「……はぁ、残念だけどしかたないか」

 

「アンディ様、申し訳ございません」

 

 自身が致命的なミスを犯したとでも言うようにアマルは肩を落とした。思わず苦笑する。

 

「何でお前が謝るんだよ。アマルはなんも悪くないだろ?」

 

 言い聞かせながら、頭を撫でてやる。アマルはきゅうんと甘えるように鼻を鳴らした。俺の腕にすりすりと頭を擦り付ける子犬みたいな動作。うん、可愛い。

 

「んっ、えへへ、アンディさまぁ」

 

 アマルは目を細めて嬉しそう。冷涼とした美貌は、春の日差しのように柔らかく蕩けている。ぎゅっと、正面から甘えるように抱きついてくるアマルの背中を優しく叩き、髪に顔を埋めてみる。甘い体臭が鼻孔に広がった。

 

「……ん、アマルの香りがする」

 

「えっ、私、その……臭いますか? 申し訳ありません。直ぐに身体を清めて参りますっ!」

 

 慌てて離れようとするアマルを押し止める。

 

「いや、臭いとかじゃない。とても良い香りだ。こう、甘い香り」

 

「ああ、良かったです。身の汚れから、貴方様に愛して頂けなくなれば、私は気が狂ってしまいます」

 

「アマルは、いつも綺麗だよ」

 

「……アンディ様」

 

 俺の言葉を聞いて、アマルは恥ずかしげに頬を染めた。

 

「なあ、ずっと気になっていたんだけど、アマルって髪や身体に何かつけているのか?」

 

「ええ、薔薇水を髪と肌に」

 

「薔薇水? そっか、これ薔薇の香りなんだな」

 

 なるほど、薔薇水か。そういや、修道院の薬草畑にも薔薇が栽培されていたな。

 

 薔薇水は、キリスト教の儀礼に使用されている。俺は基本的に儀礼には参加しないし香水もつけないので、この香りを嗅いでもあまりピンとこなかった。

 そもそも、薔薇水は元々東の方から伝来したと聞く。異国の文化というものは、人々の暮らしを香りから変えていくものなのだろう。

 

「はい。……あの、お嫌でしたか?」

 

「良い香りだって言っただろ?  俺は好きだよ。何というか……甘くて、すごく、そそる」

 

 言ってから後悔した。そそるってなんだ、そそるって。口説き文句としては最低の分類だ。流石のアマルも良い顔をしないだろう。

 

「ふふっ、嬉しいっ!」

 

 満面の笑み。

 

 嫌がるどころか、すごく喜んでた。

 なんなら、もっと嗅いでと頭を押し付けてくる。飼い主に構ってもらい嬉しくてじゃれる子犬か。尻尾があったら、限界までぶんぶんと振ってるなこりゃ。とりあえず、頭を撫でておく。

 

「そっか。……それなら、良かった」

 

「はいっ!」

 

 元気の良い返事。思わずじろぎそうになる身体を押さえ込む。アマルはいつだって俺に対して正直だ。その真っ直ぐさがむず痒い。俺はそれを誤魔化すように、言葉を紡いだ。

 

「俺の部屋で薔薇水を使ってるところを見たことないけど、いつも浴室で塗ってるのか?」

 

「ええ、沐浴をする際に使用しています」

 

「浴室って俺らが使ってるとこだろ。今さらなんだけど、大丈夫なのか?」

 

 他の人間に鉢合わせることはないのだろうか?

 

 時間をずらして入っているのか、使用中の看板をぶら下げて入られないようにしているのか。いつもどうしているんだろう?

 

「えっ? ……は、はい。アマルは別の浴室を使用していますので、誰かに会うことはありません」

 

 俺の発言の意図があまり分からないようで、アマルは小さく首を傾げていた。その素直な表情に苦笑する。

 

「なら、良いんだ。ほら、他の修道士と鉢合わせたら嫌だろ? それに俺もお前の裸を他の男に見られたくない。……何せ、お前は俺の女だからな」

 

 最後の言葉は冗談めかしに伝える。

 

 数秒、アマルは固まった。

 俺の言葉を噛み砕いて、脳に発信しているようだ。彼女は浅く息を吸って、毅然とした表情を浮かべた。何かに挑む勇者のような雰囲気に圧倒される。これ、どういうシチュエーションなんだ。

 

「……今思うと、浴室で他の殿方に鉢合わせするかもしれません。それに、私はアンディ様の女です。アマルの身体はアンディ様のものです。私に話かけ、見て、触れて良いのもアンディ様だけです。ーーねぇ、次から一緒に浴室へ入ってアマルを守って頂けますか?」

 

「いや、さっき俺たちとは別の浴室を使ってるって言ってたじゃん」

 

「そんなこと忘れました」

 

 言葉を失った。

 無茶苦茶である。

 頭が痛くなり額を押さえた。

 

 ――その後もすったもんだやり取りをして、最終的に翌日から俺はアマルと同じ浴室を使用することとなったのであった。

 

 

 

 

 



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閑話 アマルティア 祝福の朝

 

 

 

 

(……もう、朝か)

 

 ぼんやり世界をうつす視界。ふわふわと曖昧な思考。ふぁ、っと小さく欠伸が出る。

 

 元々、私は寝起きが悪い方ではなかった。それは、常に気を張って生きていたから……なのかもしれない。昔のことは、あまり覚えていない。覚える価値もないからだ。

 

 夢に癒しはなく、また現実もしかり。故に、私は本当の意味で安眠を得たことなど一度もない。

 

(でも、今は違うーー)

 

 アンディ様が側に居てくださる。柔らかい日溜まりのように安らげる場所がある。寝起きが悪くなったというよりも、安心して微睡みに身を任せることができるようになった、と言うべきなのだろう。

 

 闇が後退し、室内はぼやけたような薄青色に染まっていた。朝日はまだ暫く顔を出さないだろうが、それでも十分部屋の中を見渡すことができる明るさだ。

 

(そろそろ、起きないといけないな。水浴びをして、身を整えないと。……あっ、ん、アンディ様の、ぬるぬる、する)

 

 胸を手でなぞると、粘液が指に絡み付いた。独特の匂いを発する白濁したそれを見て頬が緩む。

 

(はぁ、昨晩もアンディ様は、とても素敵だった。逞しくて、激しくて、あんなにも強く私を求めてくださった)

 

 私の身体は、抱き心地が良いらしい。

 アンディ様が以前そうおっしゃっていた。私は、私の身体が良いと思ったことは一度もないけれど、アンディ様がおっしゃるなら、そうなのだ。アンディ様が間違ったことを言うはずがない。

 

 この身体がアンディ様の役に立てるなら、いかようでも好きにして欲しい。アンディ様に与えられるものであれば、痛みさえも愛おしい。乱暴に扱われても、良い。

 

 隣で眠るアンディ様に抱きつこうとして、何とか踏み留まる。アンディ様のこれは、決して汚いものでも穢らわしいものでもない。むしろ、神聖なものだ。しかし、アンディ様にとって、そうではないらしい。残念だが、身綺麗にするしかない。枕元に置いている布巾で丁寧に拭う。

 

 胸やお腹に張り付いたそれを拭き、起き上がろうとして……布団の中に入り、アンディ様の胸に身を寄せた。起きないと、そう頭では分かってはいるが、離れがたい。

 

 私は未練がましく、アンディ様の厚い胸板に頬を擦り付ける。こうすることで私の匂いが一生アンディ様の身に纏わり付けば良いのにと思った。そうすれば、この浅ましい独占欲も満たされるだろうか。

 

 そこまで考えて、思わず失笑してしまった。この強烈な独占欲は決して無くなることはない。私が私であるかぎり、その炎は胸を焦がし、心を燻る。

 

 それほどまで、私はアンディ様をお慕いしている。

 好きで好きで好きで好きで好きで、自分でもどうしようもないくらい。

 

 ――アンディ様と出会って、私は愛を知った。

 

 それはどうしようもなく甘美な想い。

 愛とはきっとこの想いを抱き続けることを言うのだろう。

 

 布団から顔を出す。

 アンディ様はまだ目覚めていなかった。

 起こさないように細心の注意を払って、彼の少し荒れ乾いた唇を吸う。舌を這わせて、その唇を潤してみる。

 

 アンディ様はむずかるように小さく唸って、眉をひそめた。

 

(……アンディ様は見ていて飽きない)

 

 なんて、素敵な表情なのだろう。いつも凛々しいのに、寝顔はどこか幼い。頬が緩むのを自覚した。

 

 枕に頭を預け、私はじっとアンディ様の顔を見詰める。彫りの浅いこちらでは見かけない顔立ち。男らしい眉に、真っ直ぐ伸びた鼻筋。象牙色の肌はエキゾチックで艶やか。相変わらず男前な顔立ちだ。アンディ様以上の男などこの世界に存在しないと確信する。

 

 まだ身支度をしていないため、少し伸びたお髭が目に入る。アンディ様は人一倍清潔に気を遣う。毎日きちんとお髭を剃るのでこのような姿が見れるのは早朝だけ。後で頬を擦り付けて、思う存分じょりじょりを味わおうと心に決めた。

 

 安心しきった無防備な表情。

 それだけ私に気を許してくれているのだ。誇らしい気持ちになる。

 

(……早起きした甲斐があった)

 

 この表情を見るために、最近毎日早起きをしている。アンディ様の胸に顔を埋めるのも好きだが、寝顔を眺めるのも捨てがたい。

 

(アンディ様。アマルは貴方様を愛しています)

 

 目が覚めて一番最初に目に入るお方がアンディ様であり、眠りにつく時、私を優しく抱いて包んで下さるのもアンディ様だ。それがどんなに尊いことか、それはきっと私にしか分からない。

 

 それで良い。

 

 それが良い。

 

 だって、この立場を私以外の何者にも譲るつもりはないのだから。……決して、誰にも。アンディ様は永遠に私だけの光だ。

 

 私はもう一度アンディ様の唇に自身の唇を重ねた。そうすると、身体が暖かくなる。

 アンディ様の唇を吸って、そのまま舌を割り入れる。歯茎を舐め、唾液を啜る。寝ていらっしゃるからか、アンディ様の口内は少し苦い味がした。

 

「んんっ……むっ、むぐ、あ、あふぁる?」

 

「あ、んで、ひゃま、ん、ちゅっ……れろ、じゅる」

 

 流石に起こしてしまった。

 少し反省するものの、口吸いをそのまま強行。驚いて縮こまった舌を絡め取り、引っ張り出す。

 

 アンディ様は諦めたとでも言うように、私の好きにさせて下さった。嬉しい。更に激しく舌を絡め、アンディ様の唾液を吸う。

 

 数十秒して唇を離すと、アンディ様にコツンと優しく頭を小突かれた。  

 

「っはぁ、全く……アマルは、吃驚する起こし方をしてくるな」

 

「はい。ごめんなさい」

 

「そんな満面の笑みで、謝られても。というか、そもそも悪いって思ってないだろう」

 

「はい。ごめんなさい」

 

「こら、アマルのおバカ。……全く、言ったそばからこれだもんな」

 

 困ったように眉を下げて、苦笑するアンディ様。

 アンディ様は体勢を横向きに変えて、肘枕をつく。その動きで布団がずり下がり、逞しい胸筋と腹筋が露になった。無駄なく鍛えられ、しなやかで美しいお身体。なんて男らしい。素敵すぎて、目が釘付けになる。

 

「じろじろ見すぎ」

 

 そう言われて、頬が熱くなった。舐め回すように見てしまっていた。あまりにも不躾すぎたと自戒する。

 

「……アマルは変なところで初だよな。俺の裸なんて毎晩見てるのに、まだ慣れないのか?」

 

「ううっ、アンディ様が素敵すぎるのがいけないのですっ!」

 

「はぁ、俺のせいかよ……」

 

 呆れた声。アマルはしょうがない娘だな、という眼差しを向けてくる。しょうがなくありません。むうっ、と頬を膨らませる。

 

「おお、アマル栗鼠がお出ましだ」

 

 両手で膨らませた頬をむにむにと揉まれた。

 

「あ、アマルは栗鼠では、ありません!」

 

「そうか? 良いじゃないか、栗鼠。可愛いと思うぞ」

 

「……なら、栗鼠で良いです」

 

 アンディ様はずるいと思う。簡単に私の心を虜にする。……私以外の女人には絶対にして欲しくない。そんなことをしたらどうしてやろうか、アンディ様の虜となった他の女人を。

 

 惨たらしくーー

 

(いけない。それ以上、越えてはいけない)

 

 アンディ様は誰よりも優しいお方だ。近しい者がいなくなると、嘆くだろう。そんなこと、あってはならない。私は決してアンディ様を傷つけたくない。悲しませることもしたくない。そんなことになれば、私は私を許せない。

 

「アマル」

 

 闇に沈みかけた思考を払うように、アンディ様は頭を撫でてくれた。ふふっ、気持ちいい。ずっとそうして欲しい。

 

「ああ、そういや言い忘れてたな」

 

 一拍置いて、ぐっと手を引かれ抱き締められる。お互いの肌が直接触れあう。身体も心も暖かい。

 

 アンディ様は私の頬に手を当て、日溜まりのように笑った。

 

「――おはよう、アマル」

 

 ああ。

 

 アンディ様。

 

 貴方様がその笑顔を私に向ける度に、私は心から幸せだと実感するのです。貴方様の側では、世界が素晴らしく見える。過ぎ去った日々に愛しさすら覚えるのです。それは貴方様が私に与えてくれた祝福。

 

 私は貴方様のために祈り、希望を歌いましょう。

 

 貴方様は私の喜び、私の愛、私の幸福……私の全て。

 

 

  ――私の心には、今もあの青い花が咲いています。

 

 

 

 



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白詰草の指輪

 

 

 

 ストーンハーストの広大な敷地には様々な施設が存在する。

 

 養蜂所や醸造所、チーズ生産・保管所、巡礼棟、診療所、大聖堂、大工所、農牧用施設、養鶏所、菜園、薬草園等々。

 

 修道士は自給自足の生活を行っているため、修道院の敷地には生活する上で、またミサや聖体祭儀を営む上で必要な物を全てを生産している。この修道院という独自の共同体は、その領内で需要と配給を完結させているのである。

 

 そのサイクルを円滑に回すためには、当たり前だが毎日労働をしなければならない。修道院は、「全ての労働は祈りに繋がる」という考えが根本にある。それ故、1日の大半は労働と礼拝をして過ごすのだ。

 

 そんなこんなで、今日のお仕事は放牧である。

 牛舎から牛を出して、餌を食べさせる。農作物を食べられてしまわないように、また草を食べ尽くさないように見張り、移動をさせる。これが結構な重労働で、全てを終わらせた後は疲労を強く感じる。

 

 放牧が終わり休憩する。脇にある広葉樹にもたれかけ、木陰で涼む。農牧地一面には白詰草が生えており、これを牛たちが餌として食べている。俺はおもむろに白詰草を摘んだ。

 

「おや、黒の旦那。クレーを摘んでどうしたんですかい?」

 

「クレー?」

 

「ほら、その花の名前ですよ」

 

「ああ、白詰草のことか。ここではクレーって言うんだな」

 

 ひょっこりと顔を出したフランチェスコの言葉を受け、俺は白詰草を掲げくるくると回した。

 

「ええ、そうでさぁ。旦那の所では、シロツメグサって呼ぶんですね」

 

「うん。昔外国から輸入されたガラス製品の緩和材にこの花が入れられていたんで、『白詰草』って名前になったらしい」

 

「へぇ、なるほどでさぁ。面白いいわれなもんですね」

 

 フランチェスコは感心したように頷く。その少年のような表情がなんだか微笑ましい。

 

「俺もここにきて、言葉の違いで驚くことがあるな。人の名前とかもそうだ。場所によって呼び方が変わるだろ?」

 

「そうですね。あっしの名前もフランツやフランソワと呼ばれることもありますし」

 

「フランチェスコはフランソワって感じがしないな。フランソワとか優美なイメージだし」

 

「ええー、そりゃ、どういう意味でさぁ」

 

「……悪い、本音が出てしまった」

 

「えー、旦那、マジで謝る気全くないですよねぇ」

 

 肩を落とし、情けない顔をするフランチェスコ。面白い。俺は肩を軽く叩いて励ます。

 

「フランチェスコは、やっぱりフランチェスコって名前が似合っていて良いってことだよ」

 

「何か丸め込まれている気もしますが、そう言われりゃ嬉しいもんですねぇ」

 

 彼はニコっと愛嬌ある笑みを浮かべた。人好きするフランチェスコの性格を表した笑顔だ。

 

「ちなみに、ヨハンナはどう呼ばれるんだ?」

 

 ふと、ヨハンナの顔を思い出してフランチェスコに問いかける。フランチェスコは顎に手当て、唸る。

 

「むむっ、そうですな。ヨハンナ殿は、ジョアンナ、ジェーン。ええっと、後はジャンヌとかですかねぇ」

 

「………ジャンヌか」

 

 ジャンヌという名前で思い浮かぶのは、やはりオルレアンの乙女、聖女ジャンヌ・ダルクだ。

 

 神の声を聞いたと救国の英雄として祭り上げられた少女は、弱冠19歳で異端者として弾劾され、火刑に処された。牢獄に入れられていた期間に19歳になったので、年齢に関して諸説はあるだろうが、戦場に立ったのは17歳から18歳の間。実際の活動期間は1年程度なのだそうだ。

 

 そんな短い期間であれだけのことをやってのけたのだから、その勇気、行動力、何よりも信仰心は目に見張るものがある。

 

 今で言うと高校生という若さで、屈強で荒々しい男性たちに混ざり血と死が蔓延する戦場に旗を持って立ち向かったのだ。現代の価値観では考えられない。

 

(……ヨハンナとは全く関係のない人物なのに、不思議とイメージが重なるんだよな)

 

「黒の旦那? いきなり、ぼーっとしてどうしたんですかい?」

 

「ーーいや、何でもない。そういや、フランチェスコ。そろそろ礼拝の時間じゃないのか?」

 

「おっと、マジですねぇ。さてさて、旦那。あっしはお先に失礼しやす」

 

「ああ、じゃあまたな」

 

 軽快な足取りで、大聖堂に走り去るフランチェスコを見送る。相変わらず、丸々としている癖に足の早いこと。思わず笑みが溢れた。

 

 俺は手元にある白詰草に視線を向ける。

 

(久しぶりにアレをやってみるか……)

 

 再び白詰草をくるくる回して、足元に生える花々を見下ろした。

 

 

 

  ***

 

 

 

「ただいま」

 

 そう言って、部屋に入る。

 

「アンディ様、おかえりなさいっ!」

 

 アマルが嬉々として俺を出迎えてくれる。

 満面の笑みを浮かべ、勢い良く抱きつかれた。そして、くいくいと服を下に引っ張られる。

 

 分かった分かった。

 苦笑しながら、少女の希望通りに身体を屈ませた。アマルは待ってました、とばかり俺の首に手を回して唇を差し出す。俺はそっと触れるだけのキスをした。

 

 もはや日課になっている、いってきますとおかえりなさいのキス。まさか自分がそんなバカップルみたいな行為を毎日するなんて思ってもみなかった。……いや、みたいなじゃない。今の俺たちはどうみてもバカップルだ。

 

 幸せそうに頬を染めるアマルを見ると、もうバカップル良いやと思う。俺も相当である。

 

「アマル、これやるよ」

 

「これは……クレー、ですか?」

 

「ああ、クレーの花冠だよ。お前に似合うと思って。久しぶりに作ってみた」

 

 そう言って、頭にそっと花冠をかける。

 アマルの銀髪に、白い花が良く映えて見えた。その美貌と相まって、本物のお姫様みたい。

 

「うん、思った通り似合う。とても可愛いよ」

 

「……アンディさまぁ」

 

 アマルは瞳を潤ませ、肩を震わせた。

 

「それと、まだあるんだ。ほら、左手」

 

 手を差し出すと、すぐその上に手を置いてくれた。白く細い薬指に白詰草で作った指輪を通す。すこし大きかったので、調整を加える。

 

「よしっ、と。どうだ? 結構様になってるだろ?」 

 

「はいっ。嬉しい。嬉しいですっ! アンディ様、ありがとうございますっ!」

 

「喜んで貰えて良かった」

 

「大切にします。一生、大事に致します」

 

「ありがたいけど、花だから一生は難しいかな。まぁ、ドライフラワーにしたら半年くらいは持つかもしれないけど」

 

「……うう、半年、だけですか」

 

 しょんぼりと肩を落とすアマル。青い花を贈った時もこんな感じだった。俺は少女の頬を撫でて、慰める。

 

「そんな顔するな。お前が16歳になったら、ちゃんとした指輪を渡してやる。その、アマルとなら、幸せな家庭を築けると思うから……あっ」

 

 言葉を発してから、プロポーズのような言葉を口にしていたことに気が付き思わず赤面する。強烈な羞恥心が襲ってくるが、自身の言葉を訂正しようとは思わなかった。

 

 前々から、俺はアマルとの関係について考えていた。

 

 俺はアマルが好きだ。

 

 彼女との関係は日溜まりのように穏やかで心地が良い。だが、本当にアマルのことを想うなら、きちんと今後について考えていかなければならない。

 

 修道女は生涯婚姻をしない。 

 ならば、正式でなくても良い。事実婚という形式でも、アマルと一緒になってあげたい。そうすれば、きっと彼女の不安や孤独も癒してあげられるだろう。

 

 家族を亡くした俺と、家族の温もりさえ知らないアマル。どこか歪で不完全な俺たちだからこそ、お互い足りないものを補い合い、ひとつの家族になれる。たどたどしい足取りでも、一緒に生きていける。俺はそう思うのだ。

 

「あ、アンディ様、それって……っ!」

 

 アマルは目を見開き、俺を見つめた。俺はアマルの両肩に手を置いて、笑いかける。

 

「ああ、うん。そうだな。あー、それまで待って、くれるか?」

 

「……はいっ、待っています。ずっと、ここで。この場所で、待っています。何があっても、待っていますっ!」

 

「そっか。ありがとな」

 

「ああ、アマルの愛しい人。アンディ様がずっと側に居てくださるなら、もう何もいらない。それだけで、幸せ。本当に幸せなの。ーー身も心も、そして貴方様が望むならこの世界(ストーンハースト)さえ捧げましょう。だから、一緒に生きて、もう二度と置いていかないで」

 

 アマルは、泣きながら笑った。

 

 その姿はどこか儚げで、今にも消えてしまいそうだった。俺は確かめるように彼女を抱き締めた。

 

 ……そうしないといけないと思った。

 

 

 

 



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側にいて暖めて

 

 

 

 ―――私は神を信じない。

 

 

 しかし、私は神の存在を肯定する。

 

 そうしたいからではない。そうでなければならない。そうでないと許せない。許せない。絶対に、許せない。

 

 

 ―――私は神を愛さない。

 

 

 憎悪、苦痛、悲壮、私の中に潜むありとあらゆる負の感情は、神へこそ向けられる。

 

 神の信仰を否定しながら、神の存在を願う。

 

 私たちが、私である限り。

 

 私が、私たちである限り。

 

 そんな矛盾を抱いて、今日も私は祈りを捧げる。

 

 

 

  ***

 

 

 

 

 湿気が纏わりついた埃とカビの生臭さが混ざった空気。天井は驚ほど高く、無造作に置かれた夥しい数の蝋燭の灯りでも、室内の全てを照らしきることはできない。ただひたすらに、暗澹とした闇がこの礼拝堂を包んでいた。

 

 ―――ここは、あまりにも寒い。

 

 体感温度はそこまで低くないはずなのに、どうしようもなく寒かった。これ以上熱を逃がさないように、自身の身体をかき抱く。そうして、不安定な自己を繋ぎ止める。確かに俺はここに存在しているのだ、と。

 

 数度深呼吸をしてから、顔を上げる。

 

 目の前には、空を仰ぐように両手を掲げた男性……カエルム・ストーンハーストの彫刻が静かに佇んでいる。

 彼は、神に祈っているのだろうか。それとも神へ懺悔をしているのだろうか。

 

「……杯を掲げているのです」

 

 背後から声が聞こえた。

 それは若い女の声だった。澄んだ湧水を連想させる声音。俺はこの声を知っている。俺は確かに知っている。

 

「――――静代?」

 

 声に誘われるように、振り向く。

 

 闇と同化する黒髪。生気の抜けた青白い頬、つり目勝ちな瞳、艶やかな赤い唇。

 

 それは、どこか退廃的な美しさであった。

 

 蝋燭の炎が揺れ、静代が身に纏う赤い着物の陰影を深めている。妹は清楚可憐な出で立ちに反して、蠱惑的な雰囲気を醸し出していた。

 

 はっ、と俺はえずくように息を吸う。意識して呼吸をしないと、心臓がとまりそうだった。

 

(落ち着け、落ち着けっ!)

 

 心の中で何度も言い聞かせ、心臓を掴むように右手で胸を押さえる。

 

「兄さん、会いたかった」

 

 静代は優しく微笑んだ。

 

「静代……どうして、ここに? なぁ、俺はまた夢を見ているのか?」

 

「ええ、夢です。兄さんが望むなら、これはきっと夢なのです」

 

「……俺が、望むなら?」

 

 

 ―――カラン。

 

 

 乾いた音が天井に反響する。

 

 コロン、カラン、コロン。

 

 下駄の音だ。

 

 カラン、コロン、カラン、コロン。

 

 静代が近付いてきているのだ。

 

 思わず後退る。

 

「私は……兄さんを待っていました。ずっと、ずっと待っていました。兄さんのいない昨日、兄さんのいない今日、兄さんがいない明日を何度も繰り返して、嘆きを愁い、でもいつか必ず帰ってきてくれる。そう、まだ見ぬ希望を夢見ていました。……ふふっ、滑稽でしょう?」

 

「…………ッ」

 

 何も言えなかった。いや、俺には何かを言う資格がなかった。どんな理由があるにせよ、俺は妹を置いて行ってしまった。その事実はどうやってもなくならない。なくせない。なくしてはいけないのだ。

 

 唇を噛み締めて、押し黙る。

 

「兄さん」

 

 静代は俺の頬を優しく撫でた。驚くぐらい冷たい手だった。まるで死人のような血の気のなさだ。今にも消えてしまいそう。そう思うと同時に、俺は左手を妹の手に重ねた。ああ、これで少しは温かくなるだろうか。静代は肩を震わせ、俺に身体を寄せた。

 

(俺は、どうして―――)

 

 夢だと断じておきながら、(静代)を確かめようとしている。二律背反な思考。そこに得られるものなんてないはずなのに。だって、俺はもうそれを亡くしてしまったから。

 

「恨んで、いるのか? お前を置いて逃げた俺を」

 

「……いいえ。私は兄さんを恨んでいません。憎んでもいません。ただ、夢の続きを見たいだけ」

 

 そう言って、静代は俺の瞳を覗き込み、穏やかに目を細めた。

 

 赤い唇が迫ってくる。

 抱き締められ、身動きがとれない。

 

「兄さん、次は私を置いていかないで」

 

 柔らかい感触を唇に感じて、俺の意識は光に呑まれた。

 

 

 

  ***

 

 

 

 ぴちゃぴちゃ、と湿った音が聞こえた。

 

 唇を這う生暖かい感触。乾いた皮を潤すように、執拗に柔らかい舌でねぶられる。粘りけのある甘い唾液が口内に流込んだ。貪欲に俺を求めるその動きは、激しく何より優しい。

 

 ぼんやりと、その視界が広がる。

 

 艶々しく美しい銀色の長髪。

 女神のような人離れした美貌。

 そして、何もかも見通す鮮紅の瞳。

 

「……はっ、むぐっ、んん、あ、まるっ?」

 

「っちゅ、じゅる、ん、っは、おはようございます。アンディ様」

 

 そう言ってアマルは、ゆっくりと唇を離した。ツゥ、っと俺とアマルの間に唾液の橋がかかり、ぷっんと切れた。

 

 こいつまた寝てる俺にキスしてたな。気に入ったのか、最近は専らこの起こし方をしてくる。

 

「ああ、おはよう。ところで、アマル。アマルさんや。朝から情熱的なキスも悪くないが、もっと普通に起こせないのか?」

 

「ええと……だって、その」

 

 視線を泳がせ、アマルは悪戯が見つかった子どものような表情を浮かべた。

 

「……あ、アンディ様。これが私の普通なのです」

 

「お前の中の普通はどうなってるんだ。このむっつりスケベの色ボケめ。お兄さん許しません」

 

「アンディ様はお兄様ではありません。私の、アマルの恋人ですっ!」

 

 むぅ、と頬を膨らませる少女。

 

 呆れた。怒るポイントはそこなんだ。取り敢えず、頬を突っつく。

 

 ぷくぅ。

 

 更に頬が膨らんだ。アマル栗鼠の登場だ。アマル栗鼠とは、もちもち甘えん坊タイプのアマル目アマル科の動物の総称である。

 

「恋人且つ年上のお兄さんだ」

 

「でも、だって、アンディ様」

 

「でもでもだっては、聞きません。それに、俺はお前より一回りも年上なんだから、お兄さんなのは間違ってないだろ」

 

「ううっ、いじわる。いじわる。アンディ様のいじわるっ!」

 

「いじわるじゃない。事実を言ったまでだ」

 

「もう、アンディさまぁ!」

 

 勢い良く抱きつかれた。

 これ以上言うと、拗ね拗ねアマル栗鼠に進化するので止めておく。拗ねたアマルは、控えめに言ってもめんどくさい。半日は拘束される。

 

 俺は小さくため息を吐き、ご機嫌を取るためにアマルの髪を撫でた。

 

「そう、拗ねるな。俺もちょっと言いすぎた。……ほんのちょっとだけな」

 

 腹筋に力を入れて、アマルを抱えたまま起き上がる。アマルはびっくりして、俺の胸にしがみつく。

 

「きゃあ、アンディ様」

 

 可愛い悲鳴をあげる少女の腰に手を回し、滑らかできめ細かい肌を撫でた。腰から臀部にかけてのなめかしい曲線。若々しさと艶美さが混じりあったそのひとつひとつを確かめるように擦る。

 

「ん、アンディ様」

 

 大きく盛り上がった乳房が、俺の胸板に押し付けられた。アマルのとくりとくりと脈打つ心音が伝わる。

 

 生きている人間の温もりを感じた。

 

「ああ、アマルは温かいな」

 

「ふふっ、アンディ様が側に居てくださるからです」

 

「あのな、俺にヒート機能なんてないぞ?」

 

「そう思っているのは、アンディ様だけですよ。だって貴方様は、こんなにも暖かい」

 

 断言された。

 思わずたじろぐ。

 

「それに、アンディ様は勘違いされています。元々、私には暖かさも何もない。だからこそ、私の身体、私の心がアンディ様の温もりを求めているのです」

 

 夢で感じた静代の冷えた手が脳裏に過った。

 静代もそうだったのだろうか。

 

 俺はアマルを強く抱き締めた。

 静代に与えることができなかったぬくもりが、アマルに伝われば良いと思った。

 

 ……ああ、分かっている。分かっている。これがどこまでも愚かな代償行為だと、分かっているさ。

 

「なら、側にいて温めてやらないとな」

 

「ずっと?」

 

「まあ、できる限り」

 

「ずっと」

 

「ええっと、頑張ってみる」

 

「ずっとっ!」

 

「……ああ、ずっとだ」

 

 両手を上げて、降参する。

 

「ふふっ、とても嬉しいです。お慕いしています。私の愛しいアンディ様」

 

 アマルは嬉しそうに肩を揺らし、顔を上げ目を閉じる。俺は無言のキスの催促に従って、触れるだけの口づけを落とした。

 

 

 ーーその瞬間、静代の寂しげな微笑みが頭に浮かんで、消えた。

 

 

 



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無意識と杯

 

 

 

 沈黙の回廊を歩き、昨夜見た夢の内容を思い返す。

 

 礼拝堂の中で静代と会った夢。彼女と交わした言葉。彼女の冷たい手。感じたもの全て。

 

 回廊を歩く。

 

 もう今が何周目なのかも、自分では把握していなかった。ただ、ぼんやり立っているより、身体を動かした方が心が落ち付く気がした。

 

 俺はここに来てから、何故静代の夢を見るようになったのだろうか。

 

(……なぁ、静代。何故今になってお前は俺の夢に現れたんだ。俺はどうすれば良かったんだ?)

 

 拳が震えた。

 

 いっそ俺を恨んでくれたら良かった。憎んでくれたら良かった。そう思うと同時に、嫌悪感が心を支配する。

 

 俺はーー

 

(ーーなんて、度しがたい)

 

 静代はいつだって、俺の味方だった。どんなに周りが俺を否定しようとも、あいつは俺という存在を過剰なほど肯定した。 

 

 俺はそこまで大層な人間ではない。

 

 静代が俺自身に向けた深い敬愛の念が、いつもひどく重く感じていた。何度も、押し潰されそうになった。しかし、それ以上に俺は静代が誇れる兄でありたいと思った。だから、何でもないように振る舞ったのだ。

 

 今思えば、それだけが俺の矜持だったのだろう。

 

 ……ちっぽけな矜持だったのだろう。

 

(お前が見たい夢の続きって一体なんなんだ。それに、何故、俺にあんなことを)

 

 答えが分からない。そもそも、答えがあるのかさえ分からない。偶然なのかもしれない。意味なんて、ないのかもしれない。だって、あれはただの夢なのだから。

 

「……黒殿?」

 

「あ、はい」

 

 名前を呼ばれて、俺はゆっくりと振り向く。

 

 声の主は、俺の漫然とした動作に片眉を上げて、小さく苦笑した。俺の行動を咎めるというより、不器用な子どもを見守るような暖かみのある表情だった。

 

「ヨハンナ?」

 

 彼女、ヨハンナ・スコトゥスは視線だけで返礼した。

 黒いベールからこぼれ落ちた金髪が、そよそよと風になびき、ヨハンナの透き通る青い瞳が星のように瞬く。凛とした美しさという言葉が、ヨハンナには良く似合う。

 

「こんにちは、黒殿。本日のご機嫌は如何か?」

 

「悪くはないが、良くもないな。ヨハンナは?」

 

「私も可もなく不可もなくだ」

 

「そりゃ、重畳」

 

 世はこともなし。それが一番だ。

 

「それで、黒殿。回廊を何度も巡って、どうかされたのですか?」

 

「あ、ああ、その、ちょっと考えたいことがあって」 

 

 ヨハンナは小さく頷いた。そして、腕を組み、目を細める。

 

「……確かに、思案することにおいて、この沈黙の回廊程適切な場所はないでしょう。ただ――」

 

 ーーらしくないですね、と彼女は遠慮がちに呟く。そして、本当にらしくないと、今度は自身へ確認するように頷いた。

 

「それで、貴殿は一体何を悩んでいたのだ?」

 

「いや、大したことじゃないんだ。ちょっと、夢見が悪くてさ」

 

「……そう、夢見が悪かったのか」

 

 俺の返答を聞き、ヨハンナは何故か目を伏せた。それから、ぎこちなく笑った。それは様々な感情が入り混じり、無理やり抑制したような笑みだった。

 

「その……もし良ければ、どのような夢を見たのか聞いても良いだろうか?」

 

 一瞬、迷ったがヨハンナなら話しても良いかと思った。このストーンハーストにおいて、俺が最も信頼を置いている人物がヨハンナだからだ。

 

 勿論、アマルやフランチェスコも信じている。ただ、ベクトルの問題なのだ。アマルには愛情、フランチェスコには友情。そして、ヨハンナには信頼を強く感じている。

 

「……亡くなった人の夢を見たんだ」

 

「故人の夢、ですか?」

 

「うん。亡くなったのは10年以上前なのに、最近になって良く見るようになったんだよ」

 

「……なるほど。何か心当たりはあるのですか?」

 

「いいや」

 

 頭を軽く振って、短く答える。

 ヨハンナは再度、そうかと小さく頷いた。一拍置いて、彼女は視線を真っ直ぐ俺には向ける。

 

「――会いたいと、願っているからでしょう」

 

「俺が、会いたいと願ったから……?」

 

 確かに、そう思っていた。

 もう一度、もう一度だけ会いたいと。でもそれは、()()()()()()()()()()()思っていたことだ。それまでは、会いたくても会えなかったというのに。

 

「……いいえ、逆だ。故人が貴殿に会いたいと願っているのだ」

 

「えっ?」

 

 その言葉を受け、何とも言えない奇妙な顔をしてしまった。たとえそうだとしても、何故このタイミングで静代が夢に出てきたのか、という根本的な答えにはなっていないからだ。頬に手を当てて、意識して顔を引き締める。

 

「でも、相手は亡くなってるんたぞ。それに、今までそんな夢は見なかった。ここに来てからなんだ」 

 

「だからこそ、だ。……良いですか、黒殿。私たちが住むストーンハーストはある意味、生と死が交わる場所だ。何故なら、ここは人が生活を営む世界でもあると同時に、森と同様に世俗から隔離された異界でもあるからだ」

 

「……えっと、つまり、このストーンハーストにはどちら片方だけではなく、現世(この世)常世(あの世)が同時に存在しているってことか? だから、その曖昧な境界を越えて死者が生者に接触できると?」

 

「ええ。しかし、あくまでも捉え方のひとつであって正解ではない。もしかして、貴殿の意識していない願望や抑圧されていた無意識が、夢という形で現れたのかもしれない」

 

 言い聞かせるような口調に、どこか違和感を感じだが、それも長くは続かない。俺の興味は直ぐにヨハンナの言葉に吸い寄せられた。

 

「無意識……か」

 

 無意識の欲求や願望が夢に現れる。

 

 ヨハンナの言葉を聞いて、俺は精神分析家のフロイトを思い浮かべた。

 

 彼は人間は心の内を意識できるのは氷山の一角、ごく一部だけであり、その意識できない部分を無意識と定義付け、分析しようとした。

 

 病院の医療事務として働いたため、医療知識を増やそうと精神科領域のことも勉強しようとしたのだが、正直全く理解できなくて断念した。

 

 フロイトの夢分析は、難解な上かなり性的な傾きがあったからというのも理由のひとつだった。

 

 フロイト曰く、夢に出る尖っているもの、棒状のもの、突き出ているものは男性器を表し、中に物が入れれる袋上のものは女性器、部屋は子宮を象徴しているという。

 

 中々どうして、ぶっ飛んだ考え方だろう?

 

(……フロイト先生的に考えると、礼拝堂は子宮、無数の蝋燭は男性器あるいは精子になっちまうぞ。想像しても、笑えないな)

 

 そこまで、考えてハッとする。

 

 ――杯を掲げているのです。

 

 両手を空に掲げているストーンハーストの像に対して静代は、「杯」を掲げている、と言った。像の両手には杯らしき物はなかった。では、杯はどこにある。

 

(……両手を掲げる。いや……違う。そうじゃない。両手を掲げているということ自体に意味がある。その構図こそ杯を表しているのではないか。そうだ。両手を空に突き出すしていることによって生まれるVラインこそ杯なんだ)

 

 礼拝堂、杯、それは子宮を表し、無数の蝋燭は男性器を表す。その両方が揃うことによって生まれるものは――。

 

 かちり、とパズルのピースが埋まった感覚。異邦人(ペレグリヌス)である俺の存在義、アマルの役割、静代が望んだ夢の続き。

 

「……黒殿、急に黙り込んで、大丈夫ですか?」

 

 心配そうに目を瞬かせて、俺の顔を覗き込むヨハンナを強く抱き締める。そして、高揚感に任せそのままぐるぐる回した。

 

「ちょ、きゃあっ、アンドリっ……く、くろ、黒殿、やー、くろぅどの、やだ、ひゃう、もう、どうした、の、きゃあああぅっ!」

 

「あははっ、ヨハンナ、お前は最高だ! 本当にありがとうっ!!!」

 

「や、止めなさい。ばかものぉ、ひゃ、やめ、こら、止めろ、止めろったら、ひんっ、この、たわけがぁーーっ!」

 

 力の限り回る。

 

 ヨハンナは可愛らしい悲鳴をあげ、俺は大きな笑い声を上げた。

 

 数分後、風圧で髪が乱れたヨハンナにこってり説教をくらったのであった。

 

 

 

 



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石鹸とレモン

 

 

 

 早朝。

 

 起床して直ぐに、俺は沐浴所を訪れていた。

 

 ここでは夜に水浴びをする習慣はない。身支度をする朝に身体を洗うのだ。そもそも、照明が現代のように発達していない時代だ。蝋燭の頼りない灯りだけでは、とてもじゃないが夜に風呂に入ることなどできるはずもない。

 

 それから、ストーンハーストには沐浴所以外にも蒸し風呂が2つ存在する。

 

 どちらもそこまで規模は大きいものではない。

 

 1つは小屋の中に石の炉を築き、そこへ水を掛けて蒸気を充満させる蒸し風呂。

 

 もう1つは、修道院の製パン所の2階にある蒸し風呂だ。製パン所に蒸し風呂なんて、と俺も初めて見た時は、ずいぶん驚いたものだ。製パン所の蒸し風呂の造りは、パン焼き釜戸の熱を利用したもので、とても効率的な仕様をしている。

 

 ちなみに、製パン所は修道院から独立した建物だ。パン焼き釜戸も修道院の厨房とは別けて造られている。

 パン作りは、修道士たちが日替わりで担当する。勿論、俺も日によってライ麦パン、所謂黒パンを作りに勤しんだりする。

 

 ……はぁ、現実逃避はこれぐらいにするか。

 

 俺は桶の水を手ですくい、ぴちゃりと顔にかける。冷たい。心が少し落ち着いた。

 

「ん、ふぅ……アンディ様、おかゆいところはございませんか?」

 

 鈴のような声が、鼓膜を甘く震わせる。それは15歳の少女のものだとは、到底思えない艶やかな声音だった。

 

 俺は浅く息を吐いて、返事をする。

 

「……っ、ああ、大丈夫だ。とても気持ち良いよ」

 

「ふふっ、良かった。何かあれば、遠慮なさらずおっしゃって下さいませ」

 

 アマルは嬉しそうに笑って、再び俺の背中を優しく洗ってくれる。

 

 アマルは、嫌になるくらいご機嫌だな。浮かれていると言っても良い。何とも分かりやすい女だ。

 

 お風呂に関してのやり取りがあってから、俺は彼女と一緒の浴室を使用するようになった。

 

 最初こそ抵抗したが、アマルはどうしてもと引き下がらなかった。日頃、俺の意向には基本的に絶対服従という姿勢なのに、彼女は妙なところで反抗する。

 礼儀正しく従順だが、甘えることは我慢しないということだろうか。クールで大人びて見える容貌から、この甘えん坊な性格は想像できない。

 

「アンディ様、次はお髪を洗いますね」

 

「ああ、まかせた」

 

「はい、まかされました」

 

 石鹸を泡立て、今度は頭をマッサージしながら洗ってくれる。

 

 このストーンハーストで使われている石鹸は、現代ではマルセイユ石鹸と呼ばれるものだ。植物性オイルを使用した石鹸なので、肌に優しい。 

 

 この時代に石鹸があったのは知らなかった。まぁ、でも日本人である俺としては、身体をきちんと綺麗にできるというのは純粋に嬉しい。

 

 中世ヨーロッパは身体を洗わない不潔なイメージがあったのだが、こればっかりは嬉しい誤算だった。まぁ、風呂事情に関して、ただストーンハーストが恵まれているだけの可能性もある。

 フランチェスコ曰く、修道士というものは、清貧こそ誉れとしており、本来は身なりに頓着しないのだそうだ。……それはそれとして、清潔にするに越したことはないと俺は思う。

 

「アンディ様、痛くはありませんか?」

 

「おう、大丈夫だ。むしろ、めちゃ気持ちー」

 

 程よい力強加減で、身体が弛緩する。極楽すぎて、声が間延びしてしまう。

 

「嬉しいっ。アマルは、もっと頑張りますっ!」

 

 意気込んだ声が後ろから聞こえた。それに合わせて、背中にふにょりと柔らかい感触が伝わる。

 

 いや、……うむ、まあ、恋人だし、むしろ存分に堪能しようではないか。

 

 そこまで考えて、自分のオヤジ臭さに白目を向いてしまいそうになる。

 

「水をかけますので、目を閉じてください」

 

 アマルは浴室に置いてある大きな樽から水を汲んで、ゆっくりと背中を流してくれる。当然お湯ではないので冷たい。煩悩も一緒に流せるので、今はこれぐらいが丁度良い。

 

 それを何度か繰り返して、丁寧に髪を濯いでくれる。キシキシとキューティクルが悲鳴を上げる音がした。

 

「アンディ様、失礼します」

 

 アマルは俺の髪に何かを滴し、馴染ませるように頭皮を揉む。少し遅れて、柑橘系の爽やかな香りが鼻孔を擽る。

 

「アマル、これは……?」

 

「レモン果汁を水で薄めたものです。これで洗うと髪に艶が出るのですよ」

 

「へー、なるほど。リンス代わりってことか」

 

 石鹸はアルカリ性、レモンは酸性。それを中和することによって、リンス代わりになるのだろうか。水だけでは落ちない石鹸カスや皮脂汚れなども取れる。……ほら、あれだ。きっと水回りの汚れにクエン酸が有効なのと同じ原理。

 

 そこで、ふと思い至る。

 

(……ああ、だからヨハンナから柑橘系の香りがしたのか)

 

 ヨハンナの体臭を思い出して、納得する。あの香りの正体はレモン果汁だったのだ。ヨハンナもきっとこうして、髪を手入れしているのだろう。

 

(あいつ、甘い香りより、爽やかな香りの方が似合うよな。凛々しい美人だから余計だな)

 

「……アンディ様。今何をお考えになったのですか?」

 

 アマルの冷ややかな声が聞こえた。

 

 はっと、我にかえる。

 

 考えていたことは単なる感想だし、決して疚しいことはない。……ないが、どこか気まずくなり、振り向いて弁明する。

 

「いや、その、えっと……れ、レモンは本当に良い香りだなって、考えてただけだぞ」

 

「……ふぅん、そうですか。であれば、良いのです。でも、ねぇ、アンディ様。そんなにぼんやりなさっていますと、アマルはアンディ様が別の女人のことを考えてるのではないか、と勘違いしてしまいます」

 

 ……なんて鋭い。

 

 これが女の勘というやつなのだろうか。俺の思考を読んだかのような言葉に、思わず頬がひきつる。アマルは俺の動揺を感じ取ったのか、妖しい笑みを浮かべた。

 

「ふふっ……では、次は前を洗って差し上げますね」

 

「いや、前は自分でするからっ!」

 

「却下します」

 

 ―――即答。

 

 アマルは俺の制止を無視して、石鹸でぬかるんだ手を胸板に這わせる。俺は慌てて、アマルの手を掴んで止める。

 

「いやいや。駄目だって!」

 

「やだ!」

 

「やだって、お前な……」

 

 頬を限界まで膨らまして、駄々を捏ねるアマル。まるでブレーキが壊れた機関車だ。しかも、嫉妬という炎で限界までスピードを出している。

 

「ここでそんなことしたら、身体を洗った意味ないだろ?  それに、風邪引いたらどうするんだ」

 

「でも!」

 

「我慢しろ」

 

「だって!」

 

「でもでもだってはなしだって、いつも言っているだろ。……なぁ、代わりに背中を流してやるから勘弁してくれ」

 

 最近、でもでもだって攻撃が多すぎる。

 

(……それだけアマルの感情が育ってきた、ということなんだよなぁ)

 

 出会った当初感情の起伏がなかったのは、話しかける相手も感情をぶつける相手も居なかったのだから当然の帰結だ。

 

 感情に左右されないからこそ、孤独でも耐えていける。それは少女の悲しい自己防衛だった。俺という甘えられる相手ができたことにより、年相応の感情が育ち始めた。甘えん坊なところは、今までの反動だと思うと何とも言えない。

 

「それだけ、ですか?」

 

「あー、髪も洗ってやる」

 

 アマルは口をへの字に曲げた。そのいかにも私は不満ですというアピールに苦笑する。

 

「……はぁ、夜の方も頑張る」

 

「ーーーッ!」

 

 にへら、と満面の笑み。

 

 どうやら、この返答が正解だったらしい。

 ドスケベにも程がある。毎晩、良く飽きないな。まぁ、あれやこれやアマルに色々仕込んだのは俺なんだが。

 

 ……だからこそ、救いようがない。

 

 誰か俺を殴って、蹴っ飛ばしてくれ。

 

 アマルはそんな俺を尻目に、砂糖菓子のように甘く微笑み、俺の耳朶に口付けを落とした。

 

「アンディ様、愛しています。今晩もアマルを沢山可愛がってくださいませ」

 

「了解した」

 

 上手く丸め込まれたような気がするが、この笑顔を見ると何も言えなくなる。

 

 機嫌を良くしたアマルは俺の髪を水で流してくれた。

 水を浴びたせいで視界がぼやける。俺は手で顔の水気を払い、髪を後ろに撫で付けオールバックにする。

 

 アマルは俺の顔を見詰めて、ほぅとため息をつく。それから、首に手を回して、頬を擦り寄せてくる。

 

「んー、アンディ様、ジョリジョリします」

 

「そりゃ、まだ髭を剃ってないからな」

 

「男らしくてアマルは好きです。んふふ、毎日お髭を剃る前にこうさせてください」

 

「アマルは本当に物好きな奴だな。でも、痛いだろ?  あんまり擦りつけるなよ」

 

「嫌です。離れませんし、アンディ様だけですから問題ありません」

 

「はははっ、言うようになったなこやつめっ!」

 

「ひゃん、わふ、いきなり水をかけないで下さい!」

 

 そんなバカなやり取りにをして、今日も1日が始まろうとしていた。

 

 

 

 



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彼方からの来訪神

活動報告にキャラのイメージにイラスト載せてます。興味がある方は覗いてみてくださいー。


 

 

 

 マレビト。

 

 あるいは、まろうど。

 

 それは古来からある信仰概念。

 

 共同体に訪れた外部の人間。

 

 客人、稀人、異人、異邦人、それらを指す言葉だ。そして、同時に異界から来た神……来訪神を指す言葉でもある。

 

 隔離された共同体の外部から訪れた異界の住人は、幸福をもたらすとされていた。それ故、古の人々は彼らを歓待し奉るのだ。そう定義付けると、マレビトである来訪神は身近に存在する。

 

 思えば、「六部殺し」もマレビト信仰の体系をもった昔話であると言えるのではないだろうか。 

 

 一晩の宿を貸した旅の六部から、百姓は結果的に金品という福をもたらされた。マレビトである六部は来訪神としての一面があるととらえることができる。

 

 もっと身近に考えてみよう。

 

 例えば、お盆は異界から戻り、守護を与えてくれる祖先の霊……来訪神を迎え歓待する行事である。家々を訪れ厄を払い怠け者を戒め、福をもたらす男鹿のナマハゲもしかり。また、西洋のサンタクロースも一種の来訪神だとも考えられる。

 

 

 ――マレビトは、異邦人でありまた神でもある。

 

 

  俺はそこまで考えを纏めて、軽く屈伸をする。ぐっと、唸ってから目を閉じる。

 

 アマルと水浴びをした後、彼女はいつものように礼拝に行き、俺は書庫を訪れていた。今まで情報や経験を改めて整理し、関連付け紐解くためには、やはりここがちょうど良いと思ったからだった。

 

「うーん。アイツの話をもっとちゃんと聞いていたら良かった。まさかこんなところで、その弊害が出るとは思わなかったな」

 

 当時、民俗学にあまり興味がなく、熱心に話してきた友人に辟易すらしていた。そのつけが今になって跳ね返ってきたのだ。

 

 友人から与えられたうろ覚えの知識を繋ぎ合わせて、並べていく。その並びが正しいのか分からないし、今論じるべきではない。この時点で考え得ること、できることを全力でする。結果論というより方法論の問題だ。

 

「マレビト信仰の定義に当てはめるなら、このストーンハーストにおいて、俺の立ち位置は異邦人(ペレグリヌス)、つまり来訪神というわけか」

 

 はっ、と乾いた笑みが零れた。それは誰でもなく自身に向けた嘲笑だった。

 

「俺が神様なんて、悲劇を通り越して喜劇だ。くそ、くそったれ。そもそも、俺は神様なんて信じていない。それ以上に、俺はーーーー」

 

 そこまで言いかけ、俺は掌で口を覆った。

 

 ああ、畜生。

 まったく、嫌になる。俺はいつもこうだ。攻撃的なネガティブさなんて、録な感情じゃない。そうだ。怒りにまみれた昏く汚泥のようなこの思考は、あまりにも醜い。ぐしゃり、と髪をかき上げ深く息を吐いた。

 

 落ち着け。まずは、落ち着け。

 

 どくりどくり、と大きく脈打つ心臓を押さえるように、左胸に手を置く。暫くそうして、心を落ち着かせてから俺は再度考えを巡らせた。

 

 俺が人ではなく、来訪神であることを望まれているとしよう。ならば、どのような幸福をもたらすことを期待されているのだろうか。

 

「……間違いなくアマルとの関係について、だよな」

 

 俺だけがアマルと話すこと、見ること、触ること、話しかけることができる。いや、暗黙の了解として許されている、と言うべきか。それは俺がマレビト……神であり、現世の者ではないから。人でなければ、アマルと触れ合うというタブーにも抵触しない。そう考えられているのではないだろうか。

 

 逆に言うと、アマルと接触できるのはマレビトでなくてはならないということだ。ぞくり、と寒気がする。

 

「……だから、ベネディクト修道司祭はなんの抵抗もなく俺をストーンハーストに招き入れた?」

 

 それならば、辻褄が合う……気がする。あくまでも、気がするだけなのだが、ソフィアさんが()()を見てしまったのも、彼女が外から来た人だったマレビトであったことに起因するのではないだろうか?

 

 そして、俺たちがアマルや超自然的な存在と接触できるということは、アマルやその()()も同様に俺たちへ接触できると言うことだ。

 

 ヨハンナが言うように、この地は常世と現世が交わる場所だ。白昼夢、這いずるまつろわぬ者、静代、全てが繋がる。

 

 眉間を揉んでから、頭を掻く。髪から漂うレモンの香りが仄かに鼻を擽った。それを嗅いで、気持ちが少し落ち着く。

 

 ならば、ソフィアさんと俺の違いは何だ。ソフィアさんは巡礼者として一時的に滞在しているだけ、回復すればここを出て行くだろう。片や俺にはそういった期限は存在しない。

 

 後は―――

 

「―――男女の違い」

 

 そうだ。

 俺は男で、ソフィアさんは女。

 そこが一番大きな違い。

 

「夢分析。礼拝堂、杯は子宮。蝋燭は男性器の象徴。静代の夢の続き。男女の違い。アマルと俺。接触を許される理由。ヨハンナが俺とアマルの肉体関係を咎めなかった理由。ヨハンナに話した静代の夢の話から思っていたが……やっぱり、そういうことなのだろうか」

 

 ストーンハーストが俺に期待した幸福とは、俺とアマルの子ども。アマル……アマルティアの血脈を受け継ぐ存在。

 

 それこそ、俺の存在意義。

 

 落ち着け。

 

 再度、深呼吸をひとつ。

 

 アマルはそのことを知っていたのだろうか。知っていて、俺に何度も何度も抱かれていたのだろうか。だったとしたら、あまりにもやるせない。

 

「……いや、アマルはそんな器用な奴じゃない。例えそれを知っていたとしても、あいつは俺をどうしようもなく愛している。ただ一途に、狂おしい程俺を。それは決して勘違いなんかじゃない」

 

 ただ何故だ、と思う。

 

 忌み子として迫害されているはずのアマルの血をわざわざ残す意味が分からない。そして、ここには居ないアマルの両親、亡くなった双子の姉の存在は一体。

 

 

 

「……そこに秘密の答えがある、という訳か」

 

 

 

 



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過去が追い付く

 

 

 

 

 自室へ戻る。

 

 部屋にアマルの姿はない。

 おそらく礼拝に行っているのだろう。彼女がいないことに、ほっとする自分に気づき、咎めるように溜め息を吐く。

 

 椅子に腰かける。

 目を閉じて考える。異邦人……ペレグリヌスとしての存在意義。アマルとの関係。静代が求める夢の続き。全てが繋がっていた。

 

 そうであるならば、俺がいた場所とこのストーンハーストも繋がっていたのだ。だから、俺はここに来ることができた。

 

(……でも、関係ないかもしれない。俺がここに来た理由も偶々で、ペレグリヌスという言葉もそのまま異邦人という意味しかないかもしれない。そこに特別な意図なんて、ないかもしれない)

 

 ……ヨハンナが言ったようにこれはあくまでも捉え方のひとつでしかない。それが事実とは限らない。そもそも、夢分析など酷く曖昧で、根拠として乏しい。そんなこと理解している。

 

(―――それでも尚、俺がそう思わざる得ないのは)

 

 俺の双子の妹、静代の存在が居たからだ。

 

 そこまで考えて、髪を乱暴に撫で付ける。そのまま手を顔に伸ばして、目を覆う。視界が真っ暗闇に包まれた。

 

 あえて、今まで踏み込まなかった俺の、安藤隆としての過去、静代との関係を振りかえなければならなかったからだ。

 

 もう、置いてきたと思っていた。   

 

 村を出て、静代を亡くし、たった独りになったときから、故郷の両胡村に全て置いてきたと、そう思い込んでいた。ーーいや、正しくはそう思っていたかった。

 

 ……だが、違った。

 

 置いて行ってなどいなかった。

 そうだ。付いてきている。

 それどころか、すぐ後ろに迫っていた。

 ひたりひたりと、過去が今の自分を静かに追いかけてきていたのだ。だから、遠ざかることはない……決して。

 

 ただ、俺はそれに気付かない振りをしていた。

 

 ソレが俺のすぐ後ろに這い寄っていると知りながら……。

 

 

 

  ***

 

 

 

 ……両胡村。

 

 甲信越地方の深い山々に隠された地図にも載らないような場所。俺の生まれ育った故郷。

 

 静代と俺の関係を語るには、両胡村での俺たちの立ち位置を説明しなければならない。そして、それには俺の生家である「安藤家」が深く関わってくる。

 

 両胡村において最も大きな力を持つ安藤家。その理由は、安藤家が代々村の祭事を取り仕切る神官としての役割を担っていたからに他ならない。

 

 安藤という苗字は、元々「安堂」と漢字があてがわれていた。どういう経緯かは知らないが、安堂は後々に安藤と書かれるようになった。

 

  「堂」という言葉は神仏などを祀るための建物のこと、そして「安」は、やすらかという意味を持っている。安堂は「神を祀る場所をやすらかに鎮める者」、詰まるところ神官の家系であることを指しているのだ。

 

 そんな安堂……いや、安藤家の次期当主が俺、安藤隆だった。

 

 ああ、それこそ俺が故郷を出た理由でもあった。

 

 俺は次期当主という立場が我慢ならなかった。……いや、正しくは次期当主として()()()()()()()()()()()()あることがどうしても我慢ならなかったのだ。

 

 何故ならそれは現代において、決して許されることではない社会通念に反した行いだったからだ。

 

 俺と静代がいてはじめて完成される行い。その根本は俺たちの名前からも分かる。

 

 村を「隆」盛させるために、神を「静め/鎮め」、次「代」に繋げる。生まれた時から、俺たちはそうすることを求められていたのだ。

 

 それを俺は拒み、村を捨てることを選んだ。

 でも、静代は違った。

 受け入れ、それどころか望んでさえいた。

 

 そして、俺がいつか必ず帰ってくると信じ、俺を夢見ながら最後まで待っていたのだ。あの真っ暗な場所で命を終えるまで……終えてからもずっと。

 

 そう考えると、ストーンハーストに来る切っ掛けは、間違いなくあの時の声なのだろう。

 

 

 ―――置いて、いかないで。

 

 

 村を出る時に聞こえた俺を引き留める静代の声。

 あれは彼女を置いて村を去った過去の俺に、そして亡くなった彼女を置いて前を向き歩いて生きていく、そう告げた今の俺に向けられた言葉だったのだ。

 

「夢の続きを見たい」と白昼夢の中の静代は俺にそう言った。続きとは、おそらく俺と静代が行うはずだったことに対してなのだろう。そして、その夢の続きは、ストーンハーストでペレグリヌスたる俺が求められている役割に通じる。

 

 そう……両胡村で俺たちが行うはずだった役割に。胸を押さえる。どくりと、心臓が騒いだ。死にたくなるほど痛みに悶絶する。

 

 耐えるために唇を強く噛む。

 

 生暖かいドロリとした血が滴る。

 

 錆びた鉄の味が口に広がった。

 

 記憶を濁して、必要とされた行いを忘れようと、忘れたいと願った。それ故、安藤家に関わる歴史とその役割を切り離し、ただの妹としての静代の姿だけを残した。

 

 その役割の内容を口にすると、胸に鋭い痛みが走る。

 

 願ってはいけない。

 叶ってはいけない。

 許されてはいけない。

 

 だって、俺たちは、俺たちは兄妹なんだ。静代、それでも尚、お前は夢の続きを望んでいるのか。

 

「静代、それほどまでお前は俺を……ッ!」

 

 俺はその先の言葉を紡ぐことができなかった。言葉を出してしまえば、彼女の想い(重い)に押し潰されてしまうような気がした。

 

 ああ、と息を吐き出す。

 吐き出した息をもう一度吸って、そうか、と納得した。

 

 このストーンハーストは、「聖者の牢獄」であると同時に、「生者の牢獄」でもあったのだ、と。

 

 もう二度と逃げないように、もう二度と置いていかせないように、閉じ込め鎖で繋ぐ牢獄、それがこのストーンハーストなのだ。

 

「だから、お前は俺をここに喚んだな。静代……なあ、そうなんだろう?」

 

 静寂。

 

 答えは返って来なかった。

 

 瞳を閉じる。

 

 そして、空を仰いだ。

 

 壁に阻まれ、見ることはできない空を仰いだ。

 

 

  ―――主よ、主よ、何故(エリエリレマ)我を見捨てたもう。(サバクタニ)

 

 

 

 



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花言葉を教えて

 

 

 

 

 真っ白な花が視界一杯に広がる。

 

 くるりくるり。

 

 風が吹き、花が踊った。

 

 空は高く、どこまでも澄んだ青。

 

 降り注ぐ柔らかな日溜まりの中に幼い俺たちはいた。

 

「兄さん、兄さんっ。まだですか? もうできますか?」

 

「……ん、あともうちょっと」

 

 そわそわと身体を揺らして、静代は俺の手元を覗き込む。その仕草は子犬じみていて、とても可愛らしい。思わず笑みが溢れた。

 

 視線を戻す。

 

 2本の白詰草を交差して巻き付ける。その作業を幾度も続ける。余った茎は隙間に詰めて、形を整えていく。丁度良い長さになったところで円を作って、1本の白詰草で結ぶ。

 

「静代。ほら、できたぞ」

 

「わぁ、兄さん、ありがとうございますっ!」

 

 白詰草の冠を掲げると、静代は手を叩いて、興奮ぎみに頬を染めた。そこまで喜んで貰えると、途方もない偉業をなし遂げたような誇らしい気分になる。照れ臭さを誤魔化すように、俺はそっと静代の頭に冠を被せた。

 

「……兄さん、似合いますか?」

 

「うん。似合うよ」

 

「本当ですか?」

 

「もちろん」

 

「ふふっ、嬉しいですっ!」

 

 そう言って、少女は立ち上がった。そして、大胆にくるりくるりと舞う。

 

 

 ーーー純白の世界。

 

 

 それは優しいお伽噺のような光景だった。暖かい空気も、境界線がない空の彼方も、眩しい笑顔を浮かべる少女も、全てが夢かとみまう程美しい。

 

 ああ、と頷く。

 

 そうだ。これは、夢なのだ。

 それでも。それだからこそ、泣きたくなるぐらい綺麗なこの世界をずっと見続けていたい、そう心の底から願った。

 

 覚醒/暗転。

 

 落ちる。

 

 落ちている。

 

 地面を、空を。ずっと、ずっと。どこまでも。

 

 音も聞こえず、ただ何もない真っ暗闇の中を落ち続けている。終わりがあるのか。それとも、これが始まりなのか。意識が薄れていく。(安藤隆)という存在が呑まれていく。

 

 

「……ねぇ、兄さん。白詰草の花言葉を知っていますか?」

 

 

 静寂が少女の声に打ち破られた。救いを与えるように優しく手を引かれる。驚く暇もなく、抱き締められる。強い抱擁に、息ができなくなる。自身の苦し気な浅い呼吸音が耳に入った。

 

 

「幸運。信仰。約束。それから――ーー」

 

 

 くるりくるり。

 

 

 白い花が視界を舞う姿を幻視して、俺はそっと瞼を閉じた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 ――目を覚ました。

 

 

 起き上がって、胸に手を当てる。

 

 一定のリズムを刻む鼓動。呼吸に会わせて上下する肺。生きている。俺はここにいる。そう他人事のように心内で呟き、苦笑する。なんて、馬鹿らしい。起き抜けにそんなことを確かめずにはいられない自分が、何とも滑稽で救いようもない。

 

 頭を振って、無駄な意識を取り払う。ベットから出ようとして、机に飾られた白詰草の冠が目に入った。

 

「…………白詰草」

 

 ぽつりと、声を漏らす。

 

 静代は白詰草が好きだった。

 

 春が訪れると決まって、畦道に咲く白詰草をつみに行った。村の皆が桜の開花を喜ぶ中、静代は小さな白詰草の開花を何よりも喜んだ。

 

 俺も静代に付き合って、毎年白詰草を見に行った。その度、静代は俺に白詰草の冠や指輪が欲しいと強くねだったっけ。いつも控えめで大人しい性格のあの静代が、である。そんな妹のささやかな願いを叶えるために、俺は必死に編み方を覚えることになったのだ。

 

 そう言えば、一度静代にどうしてそんなに白詰草が好きなのだと聞いたことがあった。

 

 その時、静代は何と言っただろうか。

 

 確か……花言葉が好きだから、と答えていたように思う。可愛いや綺麗といった返事を想像していたので、少し驚いたことを覚えている。

 

 外見よりもそこに込められた想いを大切にする。静代はそんな少女だったのだ。

 

「……んっ、あんでぃさま?」

 

 名前を呼ばれて、白詰草の冠をから目を離す。

 

「アマル、起きたか」

 

「うーっ、えへへ、あんでぃさまだぁ」

 

 ふみゃふみゃと覚束ない口調で、俺の名前を呼ぶアマル。いつもの凛とした面持ちは姿形もなかった。安心しきって、仰向けで日向ぼっこをする子犬みたい。アマルは朝に弱い。弛緩した身体を労るように撫でて、頬にかかった銀髪を優しく払ってやる。

 

「おぁーようっ、ございましゅ」

 

「……しゅ? ああ、うん。おはよう」

 

「んー、んふふ、んんっ」

 

 腕を引っ張られ、布団に寝かせられる。待ってましたとばかり、首元にこれでもかと頬づり。アマルの毎朝のルーチンであるマーキング。とりあえず、アマルの気が済むまで抵抗せずそれを甘受する。

 

「アマルは、白詰草(クレー)の花言葉を知ってるか?」

 

「……えっと、ハナコトバ、ですか?」

 

 きょとん、とした表情。

 ああ、そうか。この時代にはまだ花言葉という概念がないのか。

 

「……いや、何でもない。そう、何でもないことだ。忘れてくれ」

 

「うー、あんでぃ、さまぁ」

 

 不安そうに眉を下げるアマルの頭に掌を置いて、ゆっくり撫でる。大丈夫だ、とアマルへ呟く。そして今度は、大丈夫だ、と自分自身に呟いた。

 

(―――私のものになって、か)

 

 それが白詰草の花言葉。

 

 静代が俺に白詰草の冠や指輪をねだった理由。

 静代が俺に向けた精一杯のメッセージ。

 

 俺はアマルに向けて、泣きたいと思いながら笑った。

 

 

 

 



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青空にハレルヤ

 

 

 

 

 

 キラキラと朝日が輝き、木々は風で揺れている。優しい木漏れ日。澄んだ空気。なんて気持ちの良い朝なのだろう。

 

 心うかれて、スキップしたくなる。……しないけれども。そんなことを考えながら歩いていると、前方に人影が見えた。その人物は黒いベールを目深に被り、大きめのロザリオを首からかけている。

 

「おはよう、ヨハンナっ!」

 

 俺のかけ声に彼女、ヨハンナ・スコトゥスは微かに首を傾けた。

 

「ああ、黒殿か。相変わらず、朝から無闇やたらと元気ですね。おはようございます」

 

「……あのな、お前もっと素直に挨拶できないのかよ」

 

「私はいつも素直ですが?」

 

「ちょっと何を言ってるのか分からないですね」

 

 ヨハンナは苦笑した。

 それから、細まる両眼。

 ふっ、と息を吐く音が聞こえたかと思うと、一瞬で間合いを詰められていた。

 

「……なら、分からせて差し上げるとしよう」

 

 躊躇せず、軽やかな動きで―――俺の耳を引っ張った。

 

「あだ、あだだ、ちょ、ヨハンナ、耳を引っ張るな!悪かった! ヨハンナは素直、間違いなく素直、とんでもなく素直っ!」

 

「っ……ふふっ、あはは……ん、んん、こほん。なら、良いのです」

 

 笑いをこらえようと、取り繕うように咳をひとつつくヨハンナ。俺はどこか幼げな笑い声に、ただただ驚いていた。

 

(ヨハンナ、こういう顔をできたんだな)

 

「……黒殿」

 

 そんな俺の様子に気付いていない彼女は、直ぐに耳から手を放してくれた。そして、労るように耳朶を優しく擦る。

 

「強くしすぎましたか?」

 

「あ、うん。大丈夫」

 

「そうか」

 

 ヨハンナは頷いて微笑む。その表情はひどく柔らかい。まるで口の中ですぐ溶けてしまう砂糖菓子のような面持ちだった。

 

「いつもそういう顔をしてたら良いのに」

 

「……そういう顔とは?」

 

 きょとん、とヨハンナは瞳を瞬かせた。

 

「ーーーーっ」

 

 俺は思わず自分の口を手で塞ぐ。かあぁ、と頬が熱くなる。言葉にするつもりなんてなかった。心の中だけで呟かれるはずだったそれは、容易く口からこぼれ落ちていた。

 

「な、何でもない」

 

「むっ、何でもなくはないだろう。……何か困り事ですか?」

 

「いや、全然。これっぽっちも困っていない。大丈夫、マジ大丈夫!」

 

「マジ……? また良く分からない言葉を使って、誤魔化すのは止めて頂きたい。さあ、怒らないから白状しなさい」

 

「いや、それ絶対怒るやつじゃん」

 

「それは、まぁ内容にもよるが……」

 

「なら、言わない」

 

「……何故、怒られる前提なのだ。たわけ」

 

 眉をひそめて、本当に困ったお方だと呟かれた。そんなかわいそうな人を見る目は止めろ。心が死ぬ。

 

「全く強情だな貴殿は……いや、良いでしょう。別段私もそこまでして貴殿を問い詰めたい訳ではない。だが、ひとつだけ言わせてもらおう。どうか、私に遠慮してくれるな。私は貴殿が心配なのです」

 

「ヨハンナ……?」

 

「どんなに辛くて、苦しくて、悲しくても貴殿は……貴方は平気だと笑う」

 

 そこまで言って、ヨハンナは手を伸ばした。

 

「――そうして、誰も居ない場所に身を潜め、声を殺して泣くのでしょう?」

 

 頬に彼女の手が触れた。掌は少し固いが、とても温かい。じんわりと、ヨハンナの体温が俺の肌に溶けていく。その温かさは彼女の人柄を表しているようだった。

 

「……それはこっちの台詞だっての」

 

 ヨハンナに聞こえない程の声音で呟いて、彼女に聞こえていたら良いのに、と相反することを思った。

 

 その手で終わらせる役目を担っていると理解しながら、救いたいと心の底では思っている。消えぬ罪悪感に苛まれ、たった独りで苦しんでいる癖に、それでも尚俺を助けようとしてくれている。それはどこまでも献身的な自己犠牲だ。

 

 頬から手が離れていく。温もりという残り香だけがそこに残った。それを何故か、寂しいと感じた。手を伸ばして彼女の手を取る。

 

「ヨハンナ」

 

「はい」

 

 ヨハンナは頷いた。だから、俺は言葉を続けた。

 

「お前も俺に遠慮するなよ」

 

 俺はいつも彼女の温かさに、不器用な優しさに救われている。だから、俺も彼女にとってそうありたいと思うんだ。

 

「……はい」

 

「なら、良い」

 

 お互い言葉足らず。でも、それで十分だった。

 

「なぁ、ヨハンナ。良い朝だな」

 

「ええ、そうですね。青空が綺麗です」

 

「今日は1日ずっと晴れるかな?」

 

「貴殿が望むなら、きっと晴れが続くでしょう」

 

 ヨハンナは空を仰いだ。

 

「……私もそう願っています」

 

 ハレルヤ。

 彼女はそう言って十字を切った。

 俺も十字を切り返して、空を見上げた。

 

 数分そうして、ヨハンナと名前を呼んだ。真剣な俺の様子を感じ取って、彼女も真顔で俺を見詰めてくる。

 

「――それはそうとして、晴れるとハレルヤを掛けて言ってるのか? ちょっと、センス的にどうかと思うぞ」

 

 無言で耳を強く引っ張られた。

 

 でも表情は怒るどころか、笑っていた。それがあまりにも無邪気な笑みだったから、もう一度いつもそういう顔をしていたら良いのにと思った。

 

 

 ……そうさせてあげたいと思った。

 

 

 

 



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頼ること頼られること

 

 

 貴方が私に微笑むたびに、私の心は祝福に満ちていました。日の光は優しく微睡み、空はどこまでも澄んでいた。私は白い花々に包まれ、約束された未来を夢見たのです。

 

 いつしか花は散り、貴方はここを去った。

 

 絶望は暗闇を呼び、もうなにも見えない。

 

 貴方がいない悪夢がやってきた。

 

 私は悲嘆の歌を口ずさみ、春の訪れを願う。

 

 枯れた花冠と胸に抱いて、在りし日の残影を夢見ているのです。

 

 貴方が再び戻ってくるまで。

 

 貴方が微笑んでくれるまで。

 

 ……私はずっと、ずっと貴方を待っています。

 

 

 

 ***

 

 

 

「なあ、ヨハンナ。お前、最近どんな夢を見た?」

 

 修道院へと続く畦道を一緒に歩きながら、何とはなしにヨハンナへ問いかけた。彼女は立ち止まり、怪訝そうに俺を見詰める。

 

「……どうしたのですか。突然そのようなことを言って」

 

「いや、何となく」

 

 そうですか、とヨハンナは顎に手を添えて瞳を細めた。

 それはどこか迷うような仕草だった。幾ばくか沈黙を重ね、小さく溜め息を吐く音が聞こえた。

 

「……悪夢を見ました」

 

「悪夢?」

 

「燃え盛る炎。視界を塞ぐ煙。助けを求める人々の声。そして――ーー」

 

 そこまで話して、ヨハンナは口をつぐんだ。一拍置いて曖昧に微笑む。あまりにも不自然な笑みであったが、俺はそれを指摘する余裕はなかった。何故なら、その夢は俺が以前見た悪夢に相違なかったからだ。ぞわりと総毛立った。

 

 どくり。

 

 どくり。

 

 どくり。

 

 何かを求めるように脈動する心臓を右手で抑え鎮める。いきなり何を昂っているんだ。

 

「悪夢とは言っても、ただの夢ですから何も問題はありません」

 

「うん、そうか。ならいいんだけど……」

 

「黒殿、案ずるな。私は大丈夫だ。悪夢を見ても、それが私を侵すことはない……決してな」

 

 ヨハンナは事も無げに答えた。その声音に後ろめたさを感じない。おそらく、真実なのだろう。しかし、彼女の言葉は、まるで悪夢が自身を害さないと確信しているような口振りだった。かねてから、そういうものなのだ、と。

 

「黒殿、そのような顔をするな」

 

 余程情けない顔をしていたのだろう。彼女は俺を見て苦笑し、大丈夫です、またそう繰り返した。

 

(……情けないな、俺)

 

 俺はヨハンナに心配され、慰められていてばかりだ。

 

 彼女の助けになりたい、ただそれだけなのに。それだけのことができないでいる。自分の不甲斐なさに吐き気がした。

 

「……ふふっ。ああ、誠に貴殿らしい」

 

 ヨハンナは噛み締めるように呟いた。そして、頷いて微笑む。

 

「な、何がだよ」

 

「貴殿は自身のことは省みず、誰かのために悩み、誰かのために苦しみ、誰かのために足掻くのだな。それは笑ってしまうほど不恰好で、不器用な生き方だ。……だが、誠に貴殿らしい」

 

「それって、褒めてるのか?」

 

 無言で頭を撫でられた。

 よしよし、と子どもに触れるような優しい手つき。

 

「ヨハンナ、お前絶対俺のこと子ども扱いしてるだろ。俺、一応お前より一回り年上なんだぞ」

 

「ええ、勿論存じ上げていますとも。だからこそ、こうしているのです。大人は甘えたくても、素直に甘えられないでしょう?」

 

 その言葉を聞いて、何故か俺は無性に泣きたくなった。

 

「……今日は、何だか優しいな」

 

「そういう日もあって然るべきです」

 

「毎日そうだったら、文句ないぞ」

 

「神の愛とは違い、私の優しさは有限ですので」

 

「ヨハンナの優しさは有限だったのか……」

 

「ええ、人はどうあがいても無限にはなり得ません。有限だからこそ、人は人となり得るのです」

 

「じゃあ、できるだけ温存しておいてくれ」

 

「ああ、勿論。貴殿がそう望むなら」

 

 ヨハンナの優しさは有限かもしれない。だが、誰よりも深いのだ。ああ、不恰好で不器用なのはお互い様だ。思わず笑みが溢れた。

 

(いや、笑っている場合じゃないな。もっと年上らしく、ドンと構えないと。ヨハンナもアマルも、ベクトルは違うけど、俺を甘やかそうとしてくるから)

 

 軽く頬を叩いて、腑抜けた心を正す。

 

 キリッと真面目な表情を作る。年上として威厳を持って接することも大切だ。

 

「ヨハンナは俺にもっと頼ってくれて良いぞ。というか、頼ってくれ」

 

「十分頼っていると思うのですが……」

 

「嘘だろ、これで十分なのか? お前、さては人に頼られることに慣れているのに、頼ることには慣れてないんだろ」

 

 ヨハンナは驚いたように目を見開き、数秒間動きを止めた。それこら、ふっと軽く息を吐き出し、上目遣いで俺を見詰める。こんな自信なさげな彼女の姿を俺は初めて見た気がする。

 

「……そう、かもしれません。だって……ここまで私に踏み込んで来た人は貴殿が初めてだったから、なのでしょうか?」

 

「いや、何で疑問系なんだよ。それは俺に聞かれても分からんぞ。……まぁ、でもそうだったら嬉しいな、とは思うけどさ」

 

 力が抜けたような表情を浮かべ、ヨハンナは立ち止まった。

 

「ヨハンナ?」

 

「貴殿は……ずるい、ですね」

 

「いやいや、今の会話にずるい要素なんて全くなかっただろ!」

 

「むっ、そういうところだぞ。この愚か者のたわけ!」

 

「いきなりの罵倒!? 理不尽すぎるだろうが!」

 

 俺の悲痛な叫びが青空に吸い込まれ、消えた。

 

 

 



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見送った背中

 

 

 

 

「おい、おーい。アマル、アマルさんや。いつになったら俺はこの状態から解放されるんですかね?」

 

「……知りません」

 

 ベットに組み敷かれ、抱きつかれること1時間。まぁ、詳しい時間経過は分からないので、体感的にということになるが、それぐらいの時間はたっていると思う。ずっとこの体勢は流石に辛くなってきた。

 

「……なぁ、アマル。俺が悪かったから、そう拗ねんでくれ」

 

「アマルは拗ねてなどいません」

 

 ―――完全に拗ねている。

 

 その理由は、間違いなくヨハンナの匂いがついていたからだろう。

 

 言うまでもないが、アマルはとても嫉妬深い。

 

 恋人同士になって肉体関係を結んでからは、我を失うほど激しい怒りで錯乱することはほぼなくなったものの、その嫉妬心は止まることを知らない。特にヨハンナには強い対抗意識を持っているようなのだ。ヨハンナが唯一同年代の女の子ということも理由のひとつかもしれない。

 

 そもそも、である。

 

 アマルの嫉妬が度が過ぎていると言うだけで、普通に考えれば恋人が別の女の匂いを纏わりつかせていたら、そりゃ不機嫌にもなるというもの。

 

 これでも一応、気を付けようとは思っている。……思ってはいるのだが、俺としてはフランチェスコやヨハンナ、シメオンさんと言ったアマル以外の人間関係も大切にしていきたいのだ。そこが一番悩ましい。

 

(……まぁ、俺のことを抜きにしても、元々ヨハンナに対して何か含む所があったようだしな)

 

 アマルとヨハンナ。

 

 一言では片付けられない()()がそこにあるのだろう。

 

 いつから始まり、いつまで続くのか。

 

 どこを目指し、どこへ向かうのか。

 

 時間でも距離でも速さでも計れない、その「何か」に彼女たちは縛られ、繋がれている。

 

 ぐりぐりと、無言でマーキングし続けるアマルの頭を撫でる。こうなったら気が済むまで、全力で甘えさしてやろう。

 

「アンディ様」

 

「おう」

 

「……アンディ様」

 

「うん、どうした?」

 

「ずっと側にいて下さい」

 

「勿論、側に居るよ」

 

 アマルは顔を上げ、寂しげに微笑んだ。

 

「ああ、私は弱くなりました」

 

「……アマル?」

 

「あの頃の私は、がらんどう」

 

 それは過去を懐かしむと言うよりも、過去の残滓を振り払うような呟きだった。

 

「こんな風に笑って、泣き喚いて、愛しさに胸が震えることなどなかった」

 

 アマルは乾燥し荒れた俺の唇に口づけを落とした。そうしないと、耐えれないとでも言うように何度も何度も。儚さを孕んだ言葉に、胸が引き締められる。

 

「過去も今も未来も必要ない。私たちは曖昧な境界線の上に立っている。いつか混ざり合い、溶けて、消えるだけのものなら、生きることに何の意味があるのか。そう思っていました。だから、幸せを願うことはありませんでした。最初から得られないものに、手を伸ばすほど愚かではない。ただ早く終わってしまいたい」

 

 頬を撫でられる。

 

「世界は灰色と闇色だけ。ただ、影が蠢いている。ここで悪夢のために歌い、彼女の目覚めを待っている。それが私の居場所。私たちの世界。……でも、貴方様が、アンディ様が私の手を握ってくださいました。そう、貴方様が与えてくださったの。優しい日だまり、煌めく夜空、花を美しいと思う心、世界の色彩、叶わないと諦めたもの全て」

 

 眩しそうに目を細めて、祝詞を唱えるよう空気を震わす。甘い息遣い。さらりと流れる銀髪、蕩けるような美貌。

 

「アマルティア……アマルはここにいると、手を差しのべてくれたのは、貴方様だけ。感情も幸せも……愛してるを教えてくれたのも貴方様だけ。アマルにとってアンディ様は光なのです。世界を照らすたったひとつの光」

 

「俺は……俺は、そこまでたいした人間じゃないよ」

 

 アマルの想いに押し潰され、左胸を押さえて、喘ぐように息を吸った。彼女はそんな俺を静かに見詰めた。その瞳に呑まれそうになり、視線を反らす。

 

 ―――赤、朱、紅。

 

 滴り落ちた、赤。

 

 燃える上がる、朱。

 

 全てを見通す、紅。

 

 鮮紅の残影が目の奥に焼き付いて離れない。

 

「アンディ様は、アマルにとって唯一のお方。貴方様がご自身をいくら否定しようとも、私は肯定します。だって、私は愛しているのです。アンディ様の全てを、愛しているのです」

 

 アマルは俺の胸に顔を埋めた。大きく息を吸って、頭を擦り付ける。自身の存在を少しでも残したい、そんな仕草。

 

「貴方様は、いつだって真っ直ぐ前を向いて進んで行くのですね。それまでいた場所から離れ、たったひとりで。アンディ様は、それができる人だから。私は何よりも、その背中を見送ることが恐ろしい」 

 

「俺はお前を置いて行ったりしないよ」

 

「はい。……そう、願っています」

 

 顔を隠したまま、少女は消え去りそうな声でそう言った。それは、今まで何度も何度も、繰り返したやり取りだった。

 

 アマルは俺がここから居なくなることを恐れている。いや、俺がひとりでここを去るのだと、思っている。そう、信じている。だから、いくら言っても不安が拭えない。

 

 俺に出会うまで、何かに執着したことがなかった少女は、俺をどう繋ぎ止めれば良いのか分からないのだ。

 

 アマルをそっと抱き締める。

 

 肩を震わせるアマルに、置いていかないよ、と再度呟いた。

 

 俺は間違いたくないんだ。……もう二度と、決して。

 

 カラン、と床を鳴らす音が脳裏に響いた。

 それは下駄の音のようにも、蹄の音のようにも聞こえた。

 

 

 



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赦されない願い

 

 

 

 

 「神」は人々に無償の愛を授けると言う。

 

 しかし、無償の愛は愛される者にしか与えられない。愛されるべき者にしか受け取れない。かねてから、そういうものなのだ。

 

 愛は汚泥だ。

 

 拭えぬ穢れこそ本質。

 打算的で、悪逆に満ちている。

 

 愛は祝福だ。

 

 魂の浄化と救済。

 純粋で、聖なる休息を授ける。

 

 人は愛のために生き、愛のために死ぬ。

 

 人は愛のために癒し、愛のために殺す。

 

 人は愛のために与え、愛のために奪う。

 

 人は愛のために祈り、愛のために呪う。

 

 その矛盾こそ、愛を愛足らしめる。

 

 

 ――ああ、だからこそ愛は斯くも美しい。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 暗く寒い空間。

 

 ぽとりぽとり、と水滴の落ちる音が聞こえる。

 

 見上げると氷柱状に垂れ下がる鍾乳石が見えた。辺りには石筍が並び立ち、息詰まるような雰囲気を醸し出している。

 

 俺はいつの間にか鍾乳洞の中に立っていた。

 

 どうしてここにいるのか。いつここに来たのか。何一つ分からない。ただ、フィルターがかかったような不快感が胸に残った。俺はその思いに蓋をして、深呼吸をひとつ。そうして、気持ちを切り替える。

 

 大丈夫。少し驚いたが、それだけだ。何故なら、俺は()()()()()()()()。だから、恐怖を感じることはない。

 

 歩き出す。

 

 出口なら既に分かっている。何度も通った道だ。その足取りに迷いなどなかった。地面が濡れ、滑りやすくなっている。強く踏み締めながら確実に一歩一歩前に進む。

 

 ――カラン。

 

 後ろから、乾いた音がした。その音は洞窟に反響して、ゆっくり消えていく。

 

 ――カラン

 

 ああ、これは蹄……いや、下駄の音だ。

 

 そう思った瞬間、俺は振り向いていた。

 

 腰まで伸びた黒髪が揺れる。着物姿の退廃的な美しさを持つ少女、安藤静代……俺の妹がそこに佇んでいた。

 

「兄さん」

 

 呼ばれて、俺はこれが夢なのだと理解した。

 

「ふふっ、ああ、おかしい」

 

 静代は俺の顔を見て、目を細めた。笑っているくせに、楽しそうには見えなかった。くすくすと声を漏らし続ける静代の表情をただ見続ける。妹の考えが全く読み取れない。

 

「静代はどうして――ーー」

 

 そこまで言ってて、口を閉じる。

 どうして俺の夢に出てくるのか。何故夢の続きを望んでいるのか。お前はここに、ストーンハーストに存在しているのか。

 

 いや、そんなことを聞いてどうする。答えを聞いても何もできない。俺は、何もしてやれない。

 

「……どうして、私が今更兄さんの夢に現れるのか。何故私が夢の続きを見たがっているのか。私が現実に存在しているのか。兄さんは、そう言いたいのでしょう?」

 

「―――ッ」

 

「兄さん、そんなこと決まっています。私がそうしたかったから。そう願ったから。兄さんの側に居たかったから。たったそれだけのことなのですよ。ふふっ、ねぇ兄さん、そのような声を出して、驚いてしまいましたか? いいえ……驚いてなどいない、ですよね?」

 

「そんなことない。十分、驚いてるさ」

 

「兄さんの嘘つき。……本当は前から分かっていた癖に。私、兄さんのことずっと見ていましたから、知っています」

 

 静代は真っ直ぐ俺を見詰める。その視線に耐えきれなくて、目を伏せ後退った。ずっと見ていたなんて、不可能だ。だって――ーー

 

「静代、お前はもう――ーー」

 

「「死んでいるのに」」

 

 声が重なった。

 

 俺は顔を上げて、静代を見た。静代はほんの一瞬だけ、身体を強張らせた。しかし、直ぐに力を抜き、何でもないとでも言うように頬にかかる髪を払った。

 

「私、止めたのです」

 

「止め、た?」

 

「はい。止めました。……待つことを、止めました」

 

「……えっ?」

 

「兄さんは、歩みを止めない人だから。私を置いていってしまう人だから。あの時、私は兄さんに嫌われたくなくて、ただ待つことしかできなかった。だから、ずっと待って、待って待って待って待って……そうして、全てを失った。だから、もう止めたの」

 

 静代は言葉を続ける。今まで我慢してきたもの全てをぶちまけるかのよう、ただひたすらに。

 

「だから、ここに居る。夢の続きを見るために。兄さんと、一緒になるために」

 

「なぁ、静代。そんなこと間違ってる。許されちゃ駄目なことなんだ。お前が望んでも、そうなってしまえば不幸になる。兄貴として、俺はお前に普通の幸せを手に入れてほしい。村のために縛られないで、もっと自由に生きてほしい。それだけを思って俺はっ!」

 

 俺の叫びを聞いて、静代は嗤った。

 

 

「……兄さんは、いつも勝手に私の幸せを決めるのですね」

 

 

 その言葉に、絶句する。

 

 

 そんなこと、ない。俺は―――ー

 

 

「でも、私はそれで良いと思っていました。兄さんが死んだ私を想い、生きてくださるなら。ずっと一緒にいてくださるなら、それでも良いと。そう、思っていたのにっ」

 

「し、ずよ……」

 

「兄さんは私を置いていこうとした。私の想いさえ、両胡村に置いていこうとした。……だから、先程申しましたでしょう? 私は、待つことを止めたと」

 

 胸が疼く。

 息が苦しい。

 血液が沸騰する。

 

 意識が遠くなる。

 視界が光に包まれる。

 目覚めが近い。

 

「ふふ、ふふふっ、兄さん、もう少しです。あと、もう少しですから、今度は兄さんが私を待っていてくださいね」

 

 

 静代の声が耳を抜けて消えた。

 

 

 



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途絶えた足跡

 

 

 

 

「――――っ!?」

 

 声にもならない悲鳴を上げ、反射的にベットから起き上がる。遅れて、自身が夢から覚めたことに気が付いた。額に伝う汗拭いもせずに、呆然する。まだ夜が明けていない。視界は闇で包まれていた。

 

 悪夢だった。

 

 そう……あれは悪夢だ。

 

 それ以外の何ものではない。いや、そうでなければならない。

 

 ストーンハーストに来てからというもの、夢ばかり見る。それだけならまだしも、その間隔がどんどん狭くなっているのだ。夢が現実を侵食している。それとも、現実自体が夢なのか。混乱する脳が悲鳴を上げた。

 

 ノイズが走りざらつく思考。不快なほど乾ききった口内。寒くないはずなのに、心底寒いと感じる身体。それを自覚して、小さくため息を吐き目を瞑る。

 

 

 ――ーー俺は正気だ。

 

 

 それは自身に言い聞かせる言葉であり、嗜める言葉でもあった。

 

「……あんでぃ、さま?」

 

 俺の名前を呼ぶ少女のあどけない声。強張った身体が急激に弛緩する。

 

「アマル……」

 

「あんでぃさま、どうされました?」

 

「ああ、ちょっと夢見が悪かっただけだよ。起こしちゃってごめんな」

 

「……そう、また悪夢を見たのですね」

 

 アマルは俺の言葉を聞いて、上半身を起こした。そして、俺のことを抱き締めてくれた。暗闇の中で彼女の表情は伺い知れない。それでもその優しい包容に心が温かくなる。

 

「大丈夫です。アンディ様のお側にはこのアマルが居ます」

 

「アマル」

 

「だから、どうか安心して下さい」

 

「ああ、ありがとう」

 

 アマルの柔らかい身体を抱き締め返す。そして、アマルの首元に顔を埋める。仄かな薔薇の香りが鼻腔を擽った。安心する薫りだ。

 

 少女は俺の背中を数回撫でて、軽く肩を押し寝かそうとする。俺はそれに逆らないで、ベットに身体を預けた。

 

「アンディ様。アンディ様。誰よりも尊き、私のアンディ様」

 

 俺の名前をアマルは何度も口ずさむ。

 

「……悪夢が貴方様を苛み傷付け犯すなら、私が癒し守り抱きましょう。私の前では生者も死者も等しく裁かれる。罪なき者には油を注ぎ、害ある者には鉄槌を下す。何人もそれから逃れられぬ。故に、私は願い、私は祈る。私は尊び、私は歌う。地を這うものに赦しあれ、空を見上げるものに救いあれ。ーーああ、貴方様こそ聖なるお方。その魂に祝福を」

 

 聖歌を歌うよう厳かな口調。感情など一切込められていない。虚無にして、無機質。何より、朗々と唱えられたものは初めて耳にする言葉だった。

 

「アマル、なんだそれ?」

 

「悪夢を破るおまじないです。……それとも、もっと違う方法をご希望でしたか?」

 

「違う方法?」

 

「ふふっ、こうするのです」

 

 アマルは俺に覆い被さり、ぺろりと俺の唇を舐めた。それから彼女は確かめるようにバードキスを繰り返す。数分して、ぬるりと舌を入ってくる。歯茎を丁寧に舐め尽くし、舌を絡め、ずるずると唾液を吸われる。15歳の少女だと思えないその手練は、あまりにも淫らだった。

 

「ふうっ、はっ、ああ、アンディ様」

 

 興奮気味に何度も浅く息を吐いて、アマルはその細く小さな手で俺の胸元を愛撫する。そして、その手は徐々に下半身へと向かっていく。

 

「はぁ、違う方法ってこれかよ。このどスケベいやら修道女(しスター)め」

 

「そのようなご無体なことをおっしゃらないでください。そもそも、アンディ様が私をそのように育てたのではありませんか。だって、褥のことは貴方様が全て私に教えてくださったでしょう? ……それこそ手取り足取りすみからすみまで。ふふっ、アマルを女にした責任、取って下さいね」

 

 俺が言葉を発する前に、口を塞がれる。否定の言葉を端から聞くつもりはないようだった。アマルの舌が傍若無人に口内をかき回した。その激しさに、息継することさえできない。

 

「ん、っは、ちゅっ、悪夢などアマルが忘れさせて差し上げます。……そう、全て」

 

 ねっとりとした甘い声が、俺の耳を擽った。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 中庭に生える木に背中を預け座り、青空を見上げていた。木漏れ日が揺れ、さらさらとした葉っぱの擦れる音がする。

 

「……やぁ、黒君」

 

 声のした方に視線を向けると、赤みがかった茶髪の男性が立っていた。彼はシメオン・ガラティア、ストーンハーストの修道士である。あい変わらず、朗らかで優しげな雰囲気を見に纏っている。図書館の司書をしてそうな感じ。

 

「こんにちは、シメオンさん」

 

「うん。こんにちは、黒君。日向ぼっこかい?」 

 

「はい。そんなところです」

 

「今日は天気が良いからね。確かに日向ぼっこ日和だ」

 

 シメオンさんは空を仰いで、眩しげに目を細めた。それから、ふわりと微笑む。

 

「隣、良いかい?」

 

「ええ、勿論です。どうぞ」

 

「ありがとう」

 

 シメオンさんはそっと俺の隣に腰かけた。ふう、溜まったものを吐くように息をついた。

 

「ああ、これは気持ち良い。心が洗われるようだ」

 

「そうですね」

 

 小さく相槌を打つ。わかりみが深い。

 

 ふたりで30分程何でもない話を続けていると、途中シメオンさんの言葉が急に止まった。俺の顔をじっと見詰めて、シメオンさんは首を微かに傾ける。

 

「……あれ、黒君。今まで気付かなかったけど、目に隈ができているね。どうしたんだい?」

 

「えっ、あ、はい。夜あまり寝れなかったし、それに疲れてちょっと腰が重いんです」

 

 咄嗟に本当のことを口にしてしまった。昨晩、アマルとのアレが激しく寝れてない上に、頑張りすぎて腰が重いなんて、シメオンさんには絶対に言えないはずなのに。

 

「労働力がひとり減った分、黒君が頑張ってくれているから、余計に負担がかかっちゃったのかもしれないね。そう言うことなら、今日はゆっくりすると良い。なに、遠慮はいらないさ。神は人に休息を与えてくれる。大手を振るって休んでくれたまえ」

 

「色々と何かもうすいません」

 

 いたたまれない。こんな気持ち良い昼間なのに、心が殺されそうだった。

 

 ――ーーそこまで考えて、ふと違和感に気付く。

 

「……ひとり減った分? シメオンさん、誰かこのストーンハーストを出ていった人がいるんですか?」

 

 俺の質問に、シメオンさんは微かに、本当に微かに瞳を揺らした。それも一瞬で、彼はにっこりと微笑む。どこか歪さを感じさせる笑みだった。

 

「ああ、ニールセン修道士がね。ちょっと前に、巡礼の旅に出たんだよ」

 

「……サルスが?」

 

「うん、そうだよ」 

 

「それはいつの話ですか?」

 

「――そうだね。大体3ヶ月ほど前かな」

 

「3ヶ月前……」

 

 確かに最近あいつの姿を見ていなかった。でも、サルスが巡礼の旅に出るためここを離れたなんて、あり得ない。

 

 何故なら、修道士たちは制約に縛られている。その制約があるかぎり、彼らはこのストーンハーストを出れないはずなのだ。

 

 サルスが制約に対して否定的であることは、あの晩盗み聞きをしたから知ってはいる。だが、ベネディクト修道司祭を差し置いて、サルスがそんな軽率な行動を取るとは思えない。

 

 

 ――ーーじゃあ、サルスはいったいどこへ消えた?

 

 

 その問いをシメオンさんに、投げ掛けることを俺はついぞすることはなかった。……することができなかった。

 

 

 



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神様の暇潰し

 

 

 

 廊下を歩く。

 

 石畳を鳴らす無機質な音が反響する。コツコツと響くその音の間隔の狭さから、自分がどれほど焦っているのかが分かる。

 

 薄暗い修道院から出て、薬草畑を抜ける。葡萄畑を横切り、醸造所をへと歩みを進めた。

 

 醸造所の側にある井戸まで来て、ほっと息を吐く。ここなら、醸造所が壁になり、人目につくことはないだろう。そう思うと一気に身体の力が抜けた。

 

 シメオンさんと別れて、逃げるように……いや、実際俺は逃げて来た。あの重苦しい場所から、シメオンさんが一瞬見せたあの薄暗い瞳から、ただ逃げて来たのだ。

 

 井戸から水を汲み出す。

 

 桶にはった水を見つめて、その水面に生気の薄い瞳をした酷薄な表情の男が映っていることに驚いた。一拍置いて、それが自分自身であることに気付き、更に動揺する。

 

「……全く酷い顔だな、お前」

 

 自身に語りかける。

 

 返答なんて求めていない。どんなに求めても返ってこない。だけど、そう話しかけずにはいられなかった。情けない。どうしようもないぐらい救いようがない。

 

 くそったれ、と悪態をつく。そして、もう一度くそったれと呟いた。一度目は自分に向けて、そして二度目はこの世界(ストーンハースト)へ向けての言葉だった。

 

 ああ、恨むぞ神様。アンタの創ったこの世界は優しさの欠片もない失敗作だ。何が楽しくてこんな世界を創造したんだ。

 

 崇高なる理想のためか、尽きぬ博愛のためか、それとも単なる暇潰しか。暇潰しだとしたら、人が争い嘆き笑って泣くのを眺めて無邪気に楽しんでいるんだろう? この悪趣味な碌でなし!

 

 修道士たちが聞いたら、卒倒してしまうほどの罵倒を頭の中で繰り返す。そして、今度は神様にまで八つ当たりをかます罰当たりな自分に舌打ちする。

 

 頭を手で乱暴にかき回す。冷静になれ。振りきるように、桶に勢い良く顔をつけこんだ。井戸水は驚くほど冷たい。だが、逆に俺の心を落ち着かせた。

 

 

 ――――逃げるな、安藤隆。

 

 

 守るって、決めたなら最後まで足掻け。お前はもう二度と後悔はしたくないんだろう? なら、誰でもなく、自身の手でその役目を果たせ。

 

「……求めよ。さらば、与えられる。探せ。さらば、見つかる。門を叩け。さらば開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者には開かれる」

 

 マタイの福音書の言葉を口ずさむ。これは自ら行動しない者には何一つ得られない、という至極当然の帰結を長ったらしく説いた言葉である。だが、そんな当たり前の言葉だからこそ、何よりも真っ直ぐ心に響く。

 

「まぁ、行動するって言っても、正直分からんことだらけでどうしたら良いやら。ああ、いや、うん。そうだな……今までのことを自分なりに整理してみるか」

 

 濡れる髪を後ろに撫でつけ、井戸の縁に腰掛けた。

 

 

 

 ***

 

 

 

(――まず、俺がこのストーンハーストに迷い込んだ原因についてだが)

 

 おそらく、何らかの形で静代が関与しているのだろう。俺が見た夢の内容を信じるならば、静代が俺と一緒になることを望んでいることがそもそもの根本にある。

 

 ずっと目を反らしていた。でも、ちゃんと向き合わなければ前に進めない。俺は押し潰されそうになる気持ちを奮い立たせる。

 

 ……はっきり言おう。

 

 静代は俺に対して強い執着を抱いている。それは親愛などの日溜まりのような暖かい想いではない。死してなお、燃え滾る底がない深淵のような…………恋情だ。

 

 俺は静代を妹として見て、静代は俺のことを男として見ていた。ただそれだけ。そう、それだけの話だった。

 

 どくり。

 

 どくり。 

 

 どくり。

 

 ぐっと、右手で脈動する心臓を押さえ付ける。

 

 大きく息を吸ってから、吐く。それを何度も繰り返す。無意識に強く握った左手を弛め、大丈夫だと自分に言い聞かせた。

 

 そもそも、死者である静代がどうやって俺に干渉できたのか。

 

 それについては、「このストーンハーストが生と死が交わる場所であるからだ」というヨハンナの考えを一旦採用するとしよう。

 

 曰く、ここが人が生活を営む世界でもあると同時に、世俗から隔離された異界である。その曖昧な境界を越えて死者が生者に接触できる。

 

 そこまで考えて、俺は妙な引っ掛かりを覚えた。

 

(……ん、あれ? 待て待て、待てよ。それで言うと、両胡村もその条件を満たしていることにならないか)

 

 深い山々に囲まれ外界から遮断された村。そして、その中で生活する人々。つまり、両胡村も生と死が交わる場所。だからこそ、静代(死者)(生者)に介入できた。

 

 ――ーーでも、と思う。

 

 俺は一度村を出たはずだ。山を降り電車に乗り、眠りについて、気が付けば礼拝堂で倒れていた。両胡村からここに来た訳じゃない。

 

(……山を降りた。それは本当に現実なのか?)

 

 山で聞いた耳鳴り。聞こえた静代の声。あの時点で、俺は異界へと誘われていたとしたら? 山を降りたこと自体が夢で、本当は山を降りてなどいなかった。知らずして俺は異界へ迷い込んだ、神隠しにあった。そう考えると、こじつけかもしれないが説明がつくような気がする。

 

 後は、静代が俺をこのストーンハーストに連れてきたのかという問題だ。もっと踏み込んで言うと、何故()()でなければならなかったのか。

 

 その理由については、正直全く検討が付かない。偶々なのか、それとも何らかの繋がりがあるのか。……分からないことをずっと悩んでも仕方ないので、これは一旦置いておくことにしよう。

 

(……全くどこからどこまで現実で、どこからどこまでが夢なのやら)

 

 現実が夢なのか。

 

 夢が現実なのか。

 

 考えれば考える程分からなくなる。たが、そんなこと些細なことだ。何より重要なのは、これが現実だろうが夢だろうが、悩み考え苦しむ俺は、確かに今ここに存在しているということだ。

 

 まさに、我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム)

 

 自分を強く持たねば、きっと負けてしまう。大切なものを取り零さないように、俺はそっと自身の震える指先を握った。

 

 

 



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残すべきもの

誤字脱字の訂正ありがとうございます!


 

 

 

 ――ストーンハースト修道院。

 

 俺が迷い込んだ場所。

 

 迷い込んだという言葉が適切なのかは分からない。喚ばれたのか、連れてこられたのか。だが、そんなことは些細なことだ。過程はどうあれ結果的に俺はここにいる。それが全てである。

 

 無駄な思考を振り払う。とりあえず、今はアマルと修道院の関係を紐解いていくことにする。

 

 アマル……アマルティア。 

 

 腰まで伸びた銀髪と鮮紅の瞳を持つ少女。

 齢15歳ながら、凛とした出で立ちで年齢よりもずっと大人びて見える。華奢で柔らかい肉体を持ち、抱き心地も最高。特にあの豊かな胸の揉み心地と言ったら……いや、何を考えるんだ俺。今はそんなこと想像している場合じゃない。アマルの身体を思い浮かべ緩んだ頬を強く叩く。

 

 ――んん、こほん。

 

 アマルはストーンハーストの修道女だ。しかし、彼女は他の修道士からは居ない者として扱われていた。

 

 そもそも、である。

 何故彼女が修道士たちからそのような扱いを受けていたのか。

 

(異教を信仰していた村を焼き払った凄惨な過去。ペレグリヌスであるカエルム・ストーンハーストがその残穢の地に建てた修道院。彼が修道院をあえてこの地に建てた理由は、秘密を外に漏らさないため、そしてアマルを閉じ込める牢獄を造るため)

 

 ……いや、アマルを閉じ込めるために、このストーンハースト修道院建てられたという表現は妥当ではないかもしれない。修道院が建築されたのは、今からずっとずっと昔の話だ。アマルはまだ産まれてさえいないだろう。

 

 そこまで考えて、突然脳の中に以前アマルが語った言葉がフラッシュバックした。

 

『過去も今も未来も必要ない。私たちは曖昧な境界線の上に立っている。いつか混ざり合い、溶けて、消えるだけのものなら、生きることに何の意味があるのか。そう思っていました。だから、幸せを願うことはありませんでした。最初から得られないものに、手を伸ばすほど愚かではない。ただ早く終わってしまいたい』

 

 この時、アマルはどのような表情を浮かべていただろうか。どこか儚げな少女の姿が脳裏にちらついた。

 

『世界は灰色と闇色だけ。ただ、影が蠢いている。ここで悪夢のために歌い、彼女の目覚めを待っている。それが私の居場所。私たちの世界』

 

 今まで気に止めてすらいなかったが、アマルは時々『私たち』という言葉を使用していた。

 

 この私たちというのは、アマル以外の誰を形容していたのだろうか。

 

(アマルは孤独の中で生き、決して修道士たちと触れ合うことはなかった。そうなると、アマルの亡くなった姉。彼女のことを言っているのかもしれないな。もしくは、それ以外の家族……)

 

 ふう、と息を吐く。

 

 無意識に握りしめた掌が、汗ばんでいることに気が付いた。緊張を和らげるために眉間を揉んでから、気持ちを再度引き締める。

 

 アマルの家族。

 

 彼女の双子の姉。

 

 それから、両親、祖父母。

 

 もっと前の祖先。

 

(……いや、待てよ)

 

 もし『私たち』がアマルの血族を指すのならば、何代にも渡って彼らはこのストーンハーストに閉じ込めれていたのか?

 

 血族を外に出すことは、秘密を守るための誓約に反する。しかし、その血は必ず残さなければならない。そうなると、ペレグリヌス(異邦人)を招く必要がある。そして、その役割を与えられたのが今代のペレグリヌスたる俺、安藤隆。

 

 アマルの姉が亡くなった理由、両親がいない本当の理由は実際のところ分からない。だが、と思う。修道院の中で、アマルティアの血を受け継ぎ、次代へ繋げるたった一人だけがいれば良い。むしろ、それ以外の血族は必要ない。そうも考えられていたとしたら?

 

 

 だから彼ら/彼女らは―――

 

 

「……黒殿」

 

「えっ、うわ――ッ!?」

 

 俺を呼ぶ声に驚き、体勢を崩してしまう。何とか留まろうと足を踏ん張るが、間に合わない。浮遊感を感じ血の気が引いた。

 

 そう言えば、今俺井戸の縁に座ってるんだった。

 

 あっ、これは落ちる。

 

 他人事のように思って、乾いた笑みが漏れた。人間って、諦める選択肢しかないとき笑ってしまう生き物なんだな、と諦観の念を抱いた。

 

「黒殿っ!」

 

 叫び声が響く。

 

 ああ、そっか。

 

 これヨハンナの声だ。

 

 そう理解すると同時に、強い力で引っ張り上げられた。その勢いのまま地面に倒れ落ち、硬い地面と激突……するどころか柔らかい何かがクッションになり大事にはいたらなかった。

 

「ッ黒殿、大丈夫ですか!?」

 

 顔を上げると、俺の身体を抱き締め心配気に見詰めているヨハンナが目に入った。ああ、あの柔らかい何かは、ヨハンナのお……いかんいかん。頭を振って、邪念を振り払う。

 

「ーーえっと、ああ、うん。大丈夫。ヨハンナ、助けてくれてありがとう」

 

「いいえ。そもそもいきなり声をかけ、貴殿を驚かしてしまった私が悪いのです。ああ、貴殿に怪我がなくて本当に良かった」

 

 ヨハンナは微笑んだ。

 俺もつられて微笑む。

 

「で、ヨハンナ。俺に何か用があったのか?」

 

「ああ、そうですね。特にこれと言って用はありません」

 

「ないのかよ!」

 

「……用がなければ、話しかけてはいけませんか?」

 

 肩を落として、寂しそうな雰囲気。ああ、止めろ俺そんな空気に弱いんだジーザス。

 

「いや、そんなことない。どんどん話しかけてこいや!」

 

「そう言われると、何故だか話しかけたくなくなりますね」

 

「……スゥーーさてはお前、俺をからかってるだろ?」

 

「何を今更」

 

 片眉を微かに上げて、嗤われた。

 

 くそ、完全に遊ばれてる。

 

「すごい美人だからって、調子にのるなよ!」

 

「それは、遠回りに褒めているのだろうか?」 

 

「ち、違う! あー、もう本当に調子狂うな。さっきまで色々考え込んでたことが、全部ふっとんだわ!」

 

「……ふふっ。そう、なら良かった」

 

 優しい声。

 

 聞くだけで泣きそうになる、そんな声。その声を聞き、ヨハンナが俺を気遣ってくれていたことに気が付いた。きっと俺の追い詰められた顔を見て、心配になり声をかけてくれたのだろう。

 

 ……それは、何とも不器用な心遣いだった。

 

 嬉しくて、気恥ずかしい。そんな複雑な心境を誤魔化すよう彼女に向け言葉を発する。

 

「ヨハンナ、お前ってさ。結構、着痩せするたちなんだな」

 

「えっ? ……着痩せ……えっ、あ、う……ひゃあああ!」

 

 数秒置いて、俺の言葉を理解したヨハンナは、素早く俺から距離をとった。うわ、瞬発力がすごい。感心する。

 

「く、くろどのの、ばかぁ、このたわけぇ!」

 

 顔を真っ赤に染めて、胸を隠すよう両手で自身をかき抱くヨハンナ。その年相応の可愛らしい表情に癒される俺は、本当にどうしようもない。

 

 ……というか、これ完全にセクハラでは?

 

 そこまで思考を巡らせて、それ以上考えることを止めた。

 

 

 

 

 

 

 

 




一番ヒロインっぽいのは、ヨハンナな気がしてきた……。


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誰がための優しさ

 

 

 

 

 

「ヨハンナ」

 

 名前を呼んでみた。

 

「……」

 

 頬とは言わず耳まで真っ赤に染めて、ヨハンナはむっつりと黙りこんでいる。呼び声にも答えてくれない。これはやり過ぎたな、と苦笑する。ああ、まったく。どうやら俺はこの少女に対して、遠慮という言葉を忘れてしまうらしい。

 

「ヨハンナさん」

 

 今度は優しく丁寧に呼んでみる。

 

 すげなく顔を反らされた。敬意が足りなかったのだろうか。

 

「ヨハンナ様」

 

「………はぁ」

 

 沈黙を守っていたヨハンナは、仕方がないなとため息を吐いた。それは不出来な弟を嗜めるような表情だった。  

 

「ヨハンナ様、正直スマンかった」

 

「それで謝っているつもりなのか、この破廉恥漢(はれんちかん)め」

 

「破廉恥漢? 初めてそんな罵倒をされたぞ。ヨハンナっ様てば、罵倒の語彙力すごいな」

 

「……様付けは止めてください。ーーーー本気で殴るぞ?」

 

「反省してます」

 

 即座に頭を下げる。

 

 ヨハンナはもう一度仕方がないな、とため息を吐いた。俺に向き直り、口元を緩ませる。

 

「まったく、貴殿はいつも私を困らさせてくれる」

 

「あー、悪い。そんなに嫌だったか?」

 

「……嫌でないから、困るのだ」

 

 ヨハンナは肩を竦めた。それは既に理解している回答を再度自身に落とし込むような仕草だった。

 

「もうこの話は良いでしょう」

 

 囁くような声音で彼女は話を打ち切る。反論は許さないと、その瞳が語っていた。気圧され、俺は小さく頷く。そして、ヨハンナの視線から逃れるため、情けないと思いながらも空を見上げた。

 

「……黒殿は良く空を見ていますね」

 

「ん? ああ、言われてみればそうだな」

 

「空が好きなのですか?」

 

 穏やかな日溜まりに包まれた青空。太陽を覆い隠す曇天。手を伸ばしてたくなる夕暮れ。月明かりに照らされ静寂が後を追う闇夜。時代や場所が違えど、空だけは決して変わらない。どこまでも広く、どこまでも自由だ。

 

 ――ーーだから、俺は空が好きなのだ。

 

「まあな。……ヨハンナこそどうなんだ?」

 

「私は……空を好きだと、そう思ったことは一度もありません」

 

「ふーん、そっか」 

 

「ええ」

 

 俺の軽い返答にヨハンナは微かに顔をしかめた。気の抜けた俺の返答が、お気に召さなかったらしい。そんな不器用な動作に、俺は思わず笑ってしまう。ヨハンナってクールに見えて意外と顔に出るタイプなんだよな。

 

「……でも、思ったことがないだけなら、これから好きになれるってことだ。だったら、いつかお前が好きだと思える空が見つかるさ」

 

「――――――っ」

 

 ヨハンナは息を呑んだ。彼女にとって俺の言葉は予想だにしないものであったらしい。

 

「……好きになれるでしょうか」

 

「きっとな。それまで、のんびり寝っ転がりながら空を見上げていたら良い。俺で良かったら付き合うよ」

 

「ふふっ。そんな上手いことを言って、貴殿はそれに託つけてただサボって寝たいだけでしょう?」

 

「バレたか」

 

 意識しておどけた話し方をする。そんな俺の態度を見て、ヨハンナは淡く微笑んだ。

 

 ――ーどうして、こいつはいつもこんな笑い方をするのだろう。

 

 その理由はいくら考えても分からない。いや、考えることすらできない。方程式を組み立てなければ答えが出ないように、ヨハンナ・スコトゥスの成り立ちを知らない俺には、その理由を紐解くことさえできない。

 

「――ー思えば、もう知り合って1年以上たっているのに、俺ヨハンナのことあんまり知らないな」

 

 ヨハンナは首を傾げた。

 その動きに合わせて、金糸の髪が揺れる。レモンの爽やかな匂いが鼻を掠めた。

 

「突然、どうしたのですか?」

 

「……いや、何となく」

 

「おかしな黒殿」

 

 脈略がないことは自分が一番わかっている。今自身がしかめっ面をしているであろうことは容易に想像がついた。

 

「悲しんだり、笑ったり、いじけたり、黒殿はまったく忙しい殿方だな」

 

「むっ、からかうなよ」

 

「ああ、すまない」

 

 恥ずかしげに咎める俺の言葉をヨハンナは軽くいなした。

 

「それで、黒殿は私の何が知りたいのですか?」

 

「何って、生い立ちとか、好きなものとか、とにかく色々だよ」

 

 彼女は唇に右手を当てて考えるよう目を伏せた。無意識なのだろう。左手でロザリオを強く握りしめている。

 

「私はこのストーンハーストで生まれ育ちました。産声を上げたときから、先祖と同じく聖職者になることが定められていたのです。それ以外の選択肢などはじめから存在していなかった。……ほら、私の生い立ちなど特に面白みもないでしょう?」

 

 淡々と語られるその言葉はひどく重い。それでも、俺は目線でその先を促した。

 

「ああ、後は好きなものでしたか。……ええっと、そうですね。優しいものでしょうか」

 

「そりゃ、ひどく漠然としてるな」

 

「優しさというものは、得てして曖昧なものだ。人によって優しさの概念は変わる。ある人にとっては優しさでも、別のある人にとっては苦痛となることもあるだろう。優しさは特有であって、共通ではないのですよ」

 

「じゃあ、ヨハンナにとって一番優しいものって何だ?」

 

「それは――ーー」

 

 ヨハンナは俺を見た。

 

「……ヨハンナ?」

 

「秘密、です」

 

「マジかよ」

 

 思わず肩を落とす。

 肝心なところを秘密にされた。

 もどかしくて、ため息が漏れた。

 

「優しいものは好きです。とても、好き。でも、手に入れようとは思いません。思ってすら、いけないのです」

 

「好きなものを好きだって思うことは、何一つ悪いことじゃないんだぞ」

 

「……本当に、困ります」

 

 ヨハンナは力を抜き、ロザリオから手を離した。

 

「黒殿、貴殿の心遣いに感謝します。でも、良いの。私は、自分にとっての『優しさ』を知ることができたわ。それだけで、もう良いのよ。……ふふっ、そんな悲しい顔しないで。私、十分幸せよ」

 

 ヨハンナはまた笑った。

 

 どうして、こいつはいつもこんな笑い方をするのだろう。

 

 

 ――ーどうして、こうも寂しそうに笑うのだろうか。

 

 

 

 



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貴方がいる空

 

 

 

 ああ、罪人よ。

 

 (こうべ)を垂れよ。

 

 例えその傷が癒えたとしても、例えその記憶が忘れ去られてたとしても、君たちの咎は、その傷跡(スティグマ)は決して消えることはない。

 

 ――恐れよ。畏れよ。虞よ。

 

 我が血脈は全てを奪い、犯し、殺すだろう。

 

 頭を垂れよ。

 

 それが唯一の贖罪であると知るが良い。

 

 故に、断頭台へ頭を垂れたまえよ。

 

 

 ……それが唯一の慈悲であると知るが良い。

 

 

 

 

 ***

 

 

 雨が降っていた。

 

 それも、どしゃ降りの大雨。なんなら、雷のおまけ付き。昼間は良く晴れていたのに、天気というものは全くもって気まぐれである。そこまで考えて、ヨハンナとの会話が脳裏に浮かんだ。

 

 俺の正面に座っているアマルを眺める。アマルはナイフを器用に使って、俺のために林檎の皮を剥いてくれていた。林檎の青く酸味のきいた香りが鼻を擽った。

 

「空、か…………」

 

「アンディ様?」

 

 呟いた言葉は、自分でも驚く程震えていた。右手に持っていた黒パンを置いて、小さくため息を吐く。

 

「アンディ様、どうされたのですか? ご体調が優れないのですか?」

 

 アマルはそんな俺の表情を見て、へちょりと心配げに眉を下げた。

 

 俺は今どんな表情を浮かべているのだろうか。きっと情けない顔をしているんだろう。

 

「アンディ様」

 

 俺の右手に、アマルは自身の手を重ねた。少女の小さく細い指が、俺の手の甲を優しく撫でる。それはどこか愛撫にも似て、ドキリと胸が高鳴った。

 

「……アンディ様」

 

 もう一度名前を呼ばれる。

 

 俺は頷いて、アマルに問いかけた。

 

「なあ、アマルは空は好きか?」

 

「……空、ですか?」

 

「ああ。で、どうなんだ?」

 

「嫌いです」

 

 短く、迷いのない返答だった。

 

 アマルは俺に対して嘘をつかない。だから、これは彼女の本当の気持ちなのだろう。

 

 アマルは静かに、視線を空に向けた。

 紅い瞳は光を失い、影を落とす。

 

「夜明け空は不透明で寒々しい。青空は深淵に似ている。夕焼けは笑って闇夜を連れてくる。夜は……夜は、何よりも騒がしいから、嫌いです」

 

 その言葉の深い意味は分からない。そして、アマルがいかなる思いを抱いているのかも。

 

 それで良いと思う自分がいる。

 

 それじゃ駄目だと思う自分もいる。

 

 どうすれば良いのだろうか、そう考えるよりも先に口から音が漏れた。

 

「――ーーなら、どうしたら空を好きになれるんだ?」

 

「どうしたら、空を……えっと、その、うぅ」

 

 アマルは不安げに瞳をさ迷わせた。

 

 アマルは「はい」か「いいえ」で答えられない質問が苦手だ。きっと今まで何かを考え選択することがなかった人生だったのだろう。

 

 彼女は自ら選択すること自体してはいけないのだ、と思ってさえいたのかもしれない。その自虐的な思考は、あまりにも寂しく悲しい。

 

 重ねられた手を離して、改めてアマルの手を握る。アマルはその繋いだ手に視線を落とし、微かに頬を緩めた。

 

「――アンディ様と共に迎える夜明け空。アンディ様と共に見上げる青空。アンディ様と共に眺める夕焼け空。アンディ様とひとつになれる夜空」

 

 アマルは噛み締めるように、言葉を続ける。

 

「私はどうしようもなく空が嫌いだけれど、私の隣でアンディ様がそれを綺麗だと笑うならば、私も空を綺麗だと思うことができるでしょう。アンディ様は私の全てです。だから、私は……アンディ様が好きなものを好きになりたいと、そう思うのです」

 

「んん、お、おう。そうか。ありがとう」

 

 予想外の回答に動揺する。いや、予想外ではあるが何度か似たようなことを言われた気がするな。「月が綺麗ですね」以上の気恥ずかしさを感じる。

 

「……なぁ、お前。それ言ってて恥ずかしくないか?」

 

「えっ、何故ですか?」

 

 きょとん。

 

 まさにそんな表情だった。俺は額に左手を当てて、ため息を漏らす。

 

「はぁ、何故ときたか。……うん、何かもう良いや。あー、そのなんだ。晩飯を再開しますか」

 

「アンディ様がそうおっしゃるならそのように」

 

 従順にアマルは微笑んだ。その癖、俺の右手から手を離さない。言葉と行動が矛盾している。

 

「アマル、手を離してくれないと飯が食えないんだが」

 

「はい」

 

 俺の言葉に頷く。頷きはするものの、依然として手を離してくれない。鮮紅の瞳はただ俺だけを写していた。

 

「アマル」

 

「はい」

 

「あの、手を離してくれ」

 

「はい、アンディ様」

 

「……アマル、だから手をだな」

 

「はい」

 

「離してくれ」

 

「はい、アンディ様」

 

 

 ……その不毛なやり取りは、アマルが満足するまで続いた。

 

 

 

 



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叡知の堕落

 

 

 

 

 

 巡礼棟の階段を昇る。

 

 石床を蹴る無機質な音が妙に耳に残る。

 はぁ、と溜め息が漏れた。そして思わず溜め息をついてしまった自身に何とも言えない気分になる。それでも、歩みを止めない。いや、そうしざるを得ないと言うべきか。

 

 足が重い。

 

 どうしようもなく、重い。

 

 一歩、また一歩と、遅緩としてた動作で足を踏み出す。これは慢性的な疲労からくる重さではなく、精神的な要因からくる重さなのだろう。

 

「……ああ、憂鬱だ」

 

 ただ、その一言につきた。

 気分を落ち着かせるため、深呼吸してみる。湿った埃っぽい空気が一気に肺へ流れ込み、むせた。

 

「こほっ、ぐふ、げほっ。……ふっ、は、く、クソっ!」

 

 反射的に浮かんだ涙を乱暴に拭いて、自分に向け罵倒する。ヒューヒュー、と弱々しい喘鳴が石壁に吸い込まれて消えていく。左胸に手を置いて、服の上から心臓を握りしめた。激しく踊る心音は、自分の間抜けさを浮き彫りにするようだった。更に惨めな気持ちになる。本当に誰も見ていなくて良かった。誰かに見られていたら羞恥心で死ぬ。

 

「…………っすぅ」

 

 今度は失敗しないように浅く息を吸って、呼吸を整えてから再び階段を昇る。階段の先を見上げると、窓から夕日が差し込んでいた。もう少しで夜が来る。

 

 

 

 ――ーー夜がやって来る。

 

 

 血をぶちまけたような赤黒い世界。

 

 どくりどくり、と心臓が嬉しげに踊った。

 

 ああ、楽しい。楽しいなぁ。

 

 おいでと、()()が手を差し出した。つられて、俺は黄昏に手を伸ばす。ただ、その先にある何かを見たいと思った。それは玩具を前にした子どものような、いっそ羨ましくなるほど無邪気な情動だった。

 

 果たして、ソレの手を取ることが、正しい行動なのか。俺にはもう分からない。分かりたいとも思わない。理解したとして、どうせろくな結果にならないことは目に見えている。全てを知ることに満足を得ることはできても、幸福を得ることはできない。

 

 知らないということは、無駄な重荷を背負わなくても良いということと同義だ。だから、俺は今も昔もそうしてきた。知りたいと願っても、実際に知ろうと努力はしてこなかった。何一つ背負わないでいたかったから、常に逃げ道を探していた。

 

 一歩足を踏み出だしても、歩みを進めない。同じ場所にずっと立っている。ストーンハーストに来てもう1年半以上経っているのに、答えにたどり着けないのは、一重に俺がそう望んだからに他ならない。

 

 

 だから、もうこんなこと終わりにしないといけない。そうだ……終わりにしなければーーーー

 

 

 ――ーーカラン。

 

 

 乾いた音が鳴った。

 

 

 君はそのまま白痴であれ、と揺らめく影が蠢き嗤った。

 

 

 

 

(……あれ、俺は今一体何を考えていたんだっけ?)

 

 

 

 

 我に帰り顔を上げると、古びた木製の扉がすぐ目の前にあった。いつの間にか、俺は目的の場所へとたどり着いていたようだ。

 

 頬を軽く叩き、気合いを入れてから数回ノックする。少しして「どうぞ」と今にも消え去りそうな弱々しい声が扉の向こうから聞こえてきた。

 

「お邪魔します」

 

 一声かけてから、扉を開け中に入る。そして、ベッドに腰かけている女性へと視線を向けた。

 

「アンドリュー様。今日も来て下さったのですね」

 

「勿論ですよ。そもそもソフィアさんは俺がいないと寝れないだろ?」

 

「そう、ですね。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 

「いや、良いんですよ。困った時はお互い様ですから」

 

「……はい、ありがとうございます」

 

 俺の言葉に、ソフィアさんは淡く微笑んだ。申し訳なさそうな彼女の表情を見て、とてつもない罪悪感を感じてしまう。

 

 違うんだソフィアさん。別に俺はソフィアさんと会うことが嫌な訳じゃない。迷惑とも思っていない。ただ、これが終わった後のアマルとのやり取りが憂鬱なだけなんだ。

 

 ソフィアさんに会った後、部屋に戻ってアマルに会うと必ず嫉妬し、アマル栗鼠状態になり拗ねる。そこから機嫌を直すのが大変なのだ。毎日こうなのだから、流石に疲れてしまう。

 

 アマルは本質的に情が深い女だ。問題なのは、その情が常に俺に対してのみ向けられているということだ。彼女の愛は深淵。底がなくどこまでもいつまでも落ちていく。

 

 頭を掻いて、思考を切り替える。

 

「ソフィアさん、身体は大丈夫?」

 

「ええ、アンドリュー様が居てくださいますから大丈夫ですわ」

 

「そっか、安心した。まぁ、でも無理は良くないよ。横になって、寝るまでいつものように側にいるから」

 

「はい……」

 

 ソフィアさんの肩を優しく押す。彼女は抵抗なくベットに横たわった。柔らかな茶髪が布団に広がる。頬にかかった髪を払って、凹凸の少ないほっそりとした身体に布団をかけてあげる。

 

「ソフィアさん、寒くない?」

 

 こくり、とソフィアさんは小さく頷く。

 

 たれ目がちな瞳は、虚ろに天井を見詰めている。早々、眠気に襲われているのだろう。

 

「アンドリュー様。ああ、手を……手を握って、下さいますか?」

 

「ああ、良いよ」

 

 差し出された細く小さい手を握る。ソフィアさんは綺麗な桃色の唇を緩めた。安心しきった無防備な表情だ。

 

「アンドリュー様」

 

「うん」

 

「ずっと、握っていてください」

 

「ああ、勿論。ソフィアさんが寝付くまで握っているから」

 

「怖いの。アンドリュー様が、いないと、怖い夢を見るから」

 

「怖い夢?」

 

「ええ、とても、とても、こわいゆめ……」

 

「ソフィアさん?」

 

「あんどう、りゅうさま。こわい」

 

 そう言って、ソフィアさんは俺の手を引いた。咄嗟のことで抵抗できず俺はソフィアさんに覆い被さるように倒れてしまった。起き上がろうとするが、強い力で抱き締められる。様子がおかしい。

 

「ソフィアさん、離してくれ。一体、どうしたんだ?」

 

「わたしは、わたしなのに。ちがう。はいってくる。みたそうとする。こわい。みられて、きかれて、はなしかけられて。わたしが、わたし、が。ああ、あなた、あなたが。わからないの。……わたし(あなた)はだぁれ?」

 

 俺の声は彼女に届いていない。

 

 ただ独り言、いや寝言なのだろう。どうにか抜け出そうと身体を捩る。だが、ソフィアさんはそれを許してはくれない。

 

「ソフィアさっ……んンッ!?」

 

 強引に顔を引き寄せられ噛みつくように、唇を奪われた。身動ぎできない。舌が口内に侵入し、蹂躙される。ぴちゃりぴちゃりと、粘りけのある淫靡な音が耳を犯した。

 

 どれだけ口付けをされていたのか、分からない。気が付けば、日は落ち室内は暗闇に包まれていた。

 

 

『Calix Dea』

 

 

 ぼんやりとした意識の中で、俺は誰かの言葉を聞いた。

 

 

 

 



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騒がしい夜

 

 

 

 

 家族の言葉である。

 

 それは、磨耗してしまった記憶の果て。

 

「――貴方たちは選ばれたのよ」

 

 そう言って、母は目を伏せた。

 

「――役目を果たしなさい」

 

 そう言って、父は目を細めた。

 

「――ひとつになり、全てを受け入れるのです」

 

 そう言って、祖母は泣いた。

 

「――それこそ我らが運命(さだめ)

 

 そう言って、祖父は嗤った。

 

 今や顔すら思い出すことも叶わない、家族の言葉である。

 

 

 

 ***

 

 

 

 ああ、頭が痛い。

 

 疼くような痛みで、意識が覚醒する。

 

 ぼんやりとした視界に不快感を覚える。辺りは闇に包まれており、日が暮れていることを否応なし気づかされた。

 

(……俺は、どうなったんだ)

 

 横になっていた身体を起き上がらせて、手探りで自分の位置を確かめる。荒いリネンの布団が地面にずれ落ちる。

 

「……えっ?」

 

 手に滑らかで生暖かい肌の感触が伝わり、思わず間抜けな声を漏らしてしまった。小さく聞こえる甘い吐息。それを感じ、息を呑む。

 

 その時、月明かりが窓から差し込んだ。

 

 光を追うように目を走らせる。そして、目を見開く。口が戦慄いた。目の前の存在に、脳内がショートする。

 

「あっーーーソフィア、さん」

 

 隣にはソフィアさんが横たわっていた。

 

 ……裸で、横たわっていた。

 

 そして、俺自身も一糸纏わぬ姿だった。

 

「俺はソフィアさんと、寝た、のか?」

 

 言葉に出して、納得した。

 

 部屋に充満する濃い女の匂い。不自然に湿った布団。ソフィアさんの白い肌を蹂躙するがごとく散りばめた赤い跡。全てが物語っていた。

 

 ああ、手込めにしたのだ。

 俺が、ソフィアさんを。

 

 どうしてそうなったのか。記憶が抜け落ちている。しかし、言い逃れできない証拠が目の前にあった。

 

「――ーーふっ、くくっ、あは、あははっ」

 

 酷く動揺している筈なのに、笑ってしまった。笑うしかなかった。楽しい訳ではない、嬉しい訳でもない。ただ、目の前の事実を受け止め切れないだけだ。

 

 ……そうでなければならない、と思った。

 

 どくり、と心臓が踊る。

 

 まだ食べたい、とでも言うように躍動する。

 なんて、貪欲なんだ。

 お前は十分器を満たしただろう? 

 これ以上何を望む。

 

 おぞましさを感じ、心臓を押さえる。これ以上、求めるな。これ以上、汚すな。これ以上、犯すな。これ以上……愛すな。

 

 そうだ。そうならないために、俺は逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて…………あれ、そして、どうなった?

 

「アマル」

 

 彼女の名前を呟く。

 

 会いたい。

 アマルに会いたい。

 

 裏切った癖に、他の女を抱いた癖に、厚顔無恥にもただただ会いたかった。

 ベットから抜け出す。ぎしり、と軋む音がした。それにうすら寒い気持ちになりつつも、脱ぎ捨てられた服を床から拾い集め、ぎこちなく着用する。

 

 それから、覚束ない足取りで歩きだす。床を蹴る音が石畳に反響する。

 

 ひたりひたり。

 

 静寂に響く。

 

 ひたりひたりひたり。

 

 静寂に、響く。

 

 ひたりひたりひたりひたりーーーカラン。

 

 ――静寂に、響く?

 

 クスクス。

 

 誰かが笑った。

 

 何かが嗤った。

 

 雑踏が聞こえる。

 

 静寂なのに騒がしい。

 

 夜はこんなにも、騒がしい。

 

「ねぇ、振り向いて」

 

 振り向けば終わりだ。それだけが分かった。それ以外分からなかった。目をぐっと閉じる。それは絶対に見ないという精一杯の意思表示。

 

「振り向いて、振り向いて、振り向いて……お願い、私は貴方が欲しい」

 

 繰り返される言葉。俺はそれに答えない。本能がそうしてはならないと警鐘を鳴らしている。

 

「わたしを見つけて。わたしの名前を呼んで。わたしを愛して……」

 

 耳元で囁かれた。

 濡れた声音。聞き慣れたようで、聞きなれない声。どこまでも餓え、昴揚する心がその声に滲み出ていた。

 

 息ができない。酸素が巡らず、血中の飽和度が著しく低下する。意識が遠退く。

 

 

 

 死ぬ死ねる死にたい死死死死死死死死――――

 

 

 

 ――――死ね。

 

 

 

「ねぇ、わたしはだぁれ?」

 

 最後に聞こえた彼女の声は、あまりにも寂しげだった。

 

 

 

 ***

 

 

「……アンディ様?」

 

 名前を呼ばれた。目を開く。窓から夕日が差し込んでいる。視界にはベットに腰掛け、俺の顔を心配げに覗き込む少女がいた。

 

 思わず息を呑む。

 驚きからではない。

 途方もない罪悪感からである。

 

「あ、まる。おれは、俺は」

 

「アンディ様、大丈夫ですか? うなされていたようですが、怖い夢でも見てしまいましたか?」

 

「ゆめ、あれは、夢か?」

 

「ええ、夢です。アンディ様、とてもお辛そうでした。だから、起こさせて頂きました」

 

 そうか。全て夢だったのか。巡礼棟に行ったのも、ソフィアさんを寝かし付けたのも、彼女を抱いたのも、全て夢だったのか。

 

 そう思うと、肩の力が抜けた。良かった。俺はアマルを裏切ってなどいなかった。

 

「そうか。アマル、ありがとう」

 

「はい、アンディ様」

 

 アマルの手を引いて、抱き寄せる。アマルは抵抗しなかった。それどころか嬉しそうに俺の胸板に顔を擦り付けた。いつものマーキング。ふんわりと、仄かな薔薇の匂いが鼻を擽る。

 

「アンディ様が私を見つけて下さったから、私の名前を呼んで下さったから、私を愛して下さったから……私は私でいられるのです」

 

「アマル?」

 

「……アンディ様は誰にも渡さぬ。渡すものか。何人たりともアンディ様に触れるなど決して許さぬ」

 

 平坦な口調でアマルは呟いた。アマルらしからぬ尊大な言葉遣いに驚く。……いや、俺だけに丁寧な言葉を遣っているだけで、これがアマル本来の口調なのかもしれない。

 

 アマルは顔を上げて、静かに微笑む。

 

「貴方様だけが、私の光。私の全て。現実も夢も等しく、アンディ様は私だけのもの。私だけの愛しい人」

 

 優しく落とされた口付けは、どこか錆びた鉄の味がした。

 

 

 



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幸せの定義

 

 

 

 

 修道士たちがミサに行っている合間に、書庫に忍び込む。

 

 ソフィアさんとの夢を見てから、更に現実と夢の境が酷く曖昧になってきている。

 

 ストーンハーストに来てから、俺はおかしい。ストレスで精神に異常をきたしているのか。それともストーンハーストの異常が精神を蝕んでいるのか。俺は机に突っ伏し、頭を乱暴に掻きむしった。

 

 修道院の秘密。

 

 不可解な幻聴。

 

 連日続く悪夢。

 

 それだけか? 

 

 それだけで俺はこんな状態になってしまっているのか?

 

 違う。

 

 そうじゃない。

 

 それだけじゃないんだ。

 

 

 ――ーー似ている。

 

 

 このストーンハーストと両胡村は似ているんだ。だから、こんなにも狂わしい。場所も外見も、全てが違う。だけど、似ている。

 

 思わず唇が弧を描いた。それから、ぼんやりと瞳を閉じた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 懐中電灯を片手に鍾乳洞を歩き続ける。

 

 この「菩提洞(ぼだいどう)」と呼ばれる鍾乳洞は、安藤家の地下から始まり村全体へとまるで人間の内臓のように広がっている。

 安藤家の人間は幼い頃から、菩提洞を何度も行き来し道程を頭に叩き込まされる。それは菩提洞を巡ること自体が、神事の一部であるからに他ならない。

 

 不快なまでに湿った空気。

 

 肌を撫でる冷たい風。

 

 静寂を浮き彫りにする足音。

 

 気にいらない。家も慣習もこの場所も全てが気にいらない。憎んでいると言っても良い。

 

(りゅう)、そのような辛気臭い顔をするな」

 

 ぴたりと立ち止まり、俺はその声の主に視線を向けた。白装束で身を身に纏った壮年の男性が無表情で俺を見詰めている。相変わらず気味が悪くなるくらい生気の薄い目だ。

 

「……父さん」

 

「ここは安藤家にとって、神聖な場所だ。そのような感情削ぎ落とせ。お前は安藤家の次期当主、この程度のことができずどうする」

 

 感情の色がない口調に辟易し、小さく舌打ちをする。感情を殺せと命じられて直ぐに、あえて苛立ちを表に出した。それはせめてもの反抗だった。

 

「隆」

 

 父は俺の名前を呼んだ。きっと嗜めようとしているのだろう。だが、そこには何も込められていない。教科書の言葉をただなぞるように、名前を呼ぶという行動をしただけだ。言葉や感情、そしてその存在すらもからんどう。だからこそ俺は父を、この男を何よりも嫌悪する。

 

「お父様、兄さんはきちんと理解なされています。どうかそれ以上責めないであげて下さい」

 

 後ろから聞こえる涼やかな声に振り返る。そこには父と同じく白装束の妹、静代が立っていた。

 

「……静代、お前は隆に甘すぎる」

 

「いいえ、私以外が兄さんに厳しすぎるのです」

 

 静代は真っ直ぐ父さんに言葉を投げ掛けた。

 

「それではこやつは育つまい。不完全では勤めを果たせぬ」

 

「不完全もなにも、元より兄さんだけでは勤めを果たせません。だから、(わたし)がいるのでしょう?」

 

 そうか、と父は頷いた。

 

「――なるほど、道理だ」

 

 それだけを言って、歩き出した。その背中を俺は無言で見送る。数秒すると、父の姿は闇に溶け消えた。

 

「兄さん、私たちも行きましょう」

 

「……そうだな」

 

 静代は控えめに微笑んで、俺の手を握った。

 

「私は何があろうと兄さんの味方です」

 

 もはや妹の口癖になったその言葉。奈落のような欠落した俺の心にひどく響く。俺にとって祖父母も父母も他人でしかない。誰かを犠牲にして得られる平穏など壊れてしまえば良い。鈍い殺意にも似た感情が俺の脳を震わす。

 

「なぁ、静代」

 

「はい、何でしょう?」

 

「俺はお前を幸せにするよ」

 

 俺の家族は静代だけだ。だからこそ、妹をこのクソッタレな家系の犠牲にはしたくない。馬鹿みたいに友達と遊んで、好きなことを勉強して、恋人を作って、そしていつか愛する人と結婚する。そんな普通の幸せを手に入れて欲しい。

 

 少なくとも兄である俺と結ばれて、禁忌を犯す行為をさせたくはない。両親が、この村が、全ての人間が、それを望んでいたとしても、絶対にさせるものか。

 

 幸せにする。

 

 幸せになるんだ。

 

 ひとつにならないために逃げる。静代と一緒に、それが無理なら俺だけでも離れる。それが最善だ。

 

「……何だかプロポーズみたいです」

 

「馬鹿言え。俺たちは兄妹だぞ」

 

「そうですね。兄さんと私は兄妹です。どんなに立場が変わっても、私たちには決して色褪せない絆がある」

 

「……前々から思ってたけど、お前って結構ブラコンだよな」

 

「それはお互い様でしょう?」

 

 違いない、と俺は苦笑した。そして、ゆっくり歩き出す。

 

 これから両胡村の信仰の源、菩提洞の最深部に向かうのだ。こんな馬鹿馬鹿しい神事など早く終わらせてしまおう。

 

「兄さん」

 

 後ろから囁くように声を掛けられた。顔だけ振り返り、静代の顔を見た。

 

「私、幸せにして貰えなくて良いの」

 

 困ったような口調。

 

 酷く曖昧な表情を浮かべた静代は、俺と繋いだ手を離して胸の前で両手を合わせる。それは祈る動作だった。

 

「――ーーだって、私はもう既に幸せなのですから」

 

 どうして、と聞く前に静代は俺を置いて奥に進んでしまった。理由を聞かれたくなかったのか、聞くまでもなく理解しているだろうと思われていたのか。

 

 結局、その答えを俺は最後まで得られることはなかった。

 

 

 

 




いつも誤字・脱字の訂正ありがとうございます!


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女神の杯

 

 

 

 ーー――菩提洞。

 

 

 それは安藤家、ひいては両胡村の最も神聖な場所である。

 

 菩提(ぼだい)と名前がついているが、土着信仰の迫害を恐れ、仏教を隠れ蓑にしただけで実際は全く別のものだった。

 

 本来の名称は、「母胎洞(ぼたいどう)」。

 

 つまるところ、両胡村で古くから信仰されていたもの正体は母胎信仰なのである。

 

 その名の由来は、洞窟内は重なりあうように入りくみ、その形態が人間の臓器や肋骨、また母胎洞の最奥にある大きな空洞がまるで女性の子宮のように見えることからきている。

 

 母胎洞へ入ることは死を象徴し、その胴内は産道に見立てられ世俗で身に受けた穢れを払い、そして母胎洞から出ることは出産、引いては生まれ変わりを象徴している。この洞窟の中で、常世と現世が繋がっていると考えられていたのだ。母胎洞の内部を歩くこと自体が神事の一部であるというのは、ここから来ている。

 

 安藤家は、元々神職を意味する安堂という表記であったが、更に過去を辿ると、安洞と称されていたのではないかと俺は考えている。両胡村の聖域である母胎洞を守り、両胡村を繁栄させる神事を担う一族、それが安藤家なのだ。故に、村の中で大きな権力を握っていた。

 

 信仰の対象である母胎洞。「母胎」と名がつくのだから、その御神体が女神であることは想像難くないだろう。

 

 母胎洞に祀られている神の名は、「オヤザ様」。

 

 母胎洞から聞こえる風鳴りが、まるで囁き声や唸り声のように聞こえることから、「闇囁(あんしょう)様」とも呼ばれていた。

 

 オヤザ様は豊穣、多産、肥沃、生死を司る地母神である。その姿は安藤家に残されている書物によって多少の相違はあるものの、共通している点は角と蹄、大きく垂れ下がる尻尾があることだ。

 角と蹄があり、豊穣を司るとなるとそのモチーフは、牛や山羊、あるいは鹿だと思われる。そして、ずるずると地を這う尻尾は、大地との繋がりを表していると推測できる。

 

「オヤザ」のオが敬称の「御」だとすれば、響き的に一番近いのは山羊だろう。とは言ったものの、ヤの一文字しかあっていない。まぁ、案外ヤギという言葉が訛ってヤザと呼ばれていることになったという単純なオチかもしれない。

 

 安藤家の跡継ぎとして、オヤザ様のことを一通り学んだがそれでも不透明なところがある。

 

 まず、安藤家に保管されている史料に、オヤザ様の名が初めて登場したのは今から500年前だ。それよりも前の古文書には、オヤザ様に関わる一切の記録はない。更に、この村付近にオヤザ様やそれに類する神は存在しなく、オヤザ様自体の系譜を辿ることができない。つまり、オヤザ様は外部から伝わったのではなく、村内部で限定的に誕生した神であると言える。

 

 そもそも、オヤザ様を村人が厚く信仰している理由は、オヤザ様が500年前に両胡村を襲った大きな飢饉から先祖を救ったとされているからだ。そこから両瑚村の守護神としてオヤザ様は確固たる地位を確立した。

 

 しかし、その存在はまるで、()()()()()()()()()()()()()ように脈略がない。あまりにも唐突に、オヤザ様という概念が両胡村で発生したのだ。

 

 不透明な部分というのは、オヤザ様の根源が不明であるということに他ならない。突如現れたという来訪神としての一面を持つにも関わらず、村外に信仰の形跡がない。また、村内部で創造された神であれば、その成り立ちが分からないということがあまりにも不自然すぎるのだ。

 

 オヤザ様はどこで生まれ、どこから来たのか。

 

 そこまで考えて、ふと思う。

 

 俺が両胡村からストーンハーストへ来訪したように、ストーンハーストから両瑚村にオヤザ様と呼ばれる超自然的存在が来訪したのではないか。

 

 その真偽は兎も角として、村人たちがオヤザ様を信仰する上でひとつ問題点があった。それはオヤザ様はあくまでも常世の存在であり、その恩恵を得たくても人に易々と干渉することはできないということだ。それを補うためどのように祖先たちが考え編み出した方法――ーー

 

 

 ―ーー―それは、神を現世に呼ぶ……神降ろし。

 

 

 神を降ろす依代は、無垢で穢れのない空虚な存在でなければならない。だから、依り代には必ず赤子が選ばれる。

 

 安藤家の跡取りとして俺に課せられた役割は、依り代を用意すること。

 

 ……即ち、実の妹と婚ぎ、赤子を作ることによって儀式を取り仕切ることであった。

 

 妹もその間にできた赤子も、踏みにじり犠牲にすることが、俺は……俺には、どうしてもできなかったのだ。だから逃げた。逃げたんだ。静代をおいて、ただひとりで。

 

 俺がこのタイミングでオザヤ様の話を思い出したのは、ソフィアさんとの夢の中で聞いた「Calix Dea」という言葉があったからだ。聞いた瞬間、俺は自然とその意味が分かった。

 

「――ーー女神の杯」

 

 杯は子宮のことを指すと同時に、神の依り代を指す言葉なのだと理解した。

 

 その言葉の意味も、アマルに静代の影を見出だしたのも、ストーンハーストと両胡村が似ていると思った理由も。

 

 

 ……俺は、理解、できてしまった。

 

 

 

 

 



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キリエ・エレイソン

 

 

 

 『女神の器』

 

 その言葉にはふたつの意味がある。

 女神の器を孕む女性、そして女神の依り代になる女性。俺達で言うと、前者が静代を指し、後者が静代が産むはずだった娘を指す。

 

 そこまで聞いて普通の人間ならば疑問に思うことだろう。どうして()静代()でなければならなかったのか。

 

 ……そう、子どもを作るだけなら、何も俺でなくても良い。むしろ、血が繋がらない男と契ぐべきなのである。しかし、両親を含めた全ての村人は、俺達兄妹が夫婦になることを望んだ。何故なら、神降ろしの儀式を行う為には、()()()()()()()()()必要があったからだ。

 

 元々、双子はひとりの人間が子宮の中で分かれてしまったのだと考えられていた。双子は魂が繋がっているのだ、と。

 

 俺たちのような男女の双子は、魂の繋がりを持つと同様に陰陽の性質を持つとされている。

 

 男が陽であり生を司り、女が陰であり死を司る。双子がひとつになることで、生と死を繋ぎ、引いては現世と常世を繋ぐのである。そうすることで、はじめてこの世のものではない存在を現実に誘い、依り代に降ろすことができる。

 

 そして都合が良いことに、あるいは不幸なことに安藤家は双子が産まれやすい家系であった。

 

 自ら望んだ訳ではない。

 

 自ら願った訳でもない。

 

 自ら祈った訳ではない。

 

 俺の意思など関係なく、誰も彼も淀む眼で「役目を果たせ」と宣う。だからこそ、俺は裏切った。村人たちはきっと嘆いたことだろう。怒ったことだろう。恨んだことだろう。

 

 

 ――ーだが お前たちが 俺に そうさせたのだ。

 

 

 村人たちの誤算は、俺が役目を絶対に投げ捨てないと思っていたことだ。その盲信が俺を救った。ああ、何とも皮肉なことか。心の奥底から、嗤いが込み上げてくる。

 

 ざまあみろ。ただ、そう思った。

 

 禁忌を犯し狂気を孕ませることに、何ら疑問を抱かないこの村人たち。自ら考えることすら忘れ、ただ神にすがり安寧を享受するだけのモノと成り下がった。

 

 カラン。

 

 乾いた音が脳裏に響く。

 

 カラン。

 

 一歩、また一歩。

 

 カラン。

 

 音が鳴る。

 

 カラン。

 

 地面を下駄で蹴る音。

 

 カラン。

 

 地面を蹄で蹴る音。

 

 忘れられた原初の記憶。

 

 蠢き這いずる影。

 

 耳元で囁く声。

 

 血のような赤い世界。

 

 あの、胎動する――――

 

 

「――――」

 

 呼ばれて、顔を上げる。

 

「――――――」

 

 呼ばれて、彼女を見る。

 

「――――――――」

 

 彼女の瞳が俺を捉えた。

 

 

「――う、ああ……ぐっ、は」

 

 

 ノイズが走る。

 

 彼女は誰だ? 

 

 顔が揺らめき、判別がつかない。静代なのか、アマルなのか、別の誰かなのか。分からない。俺には分からない。

 

 女神の器。

 

 女神を孕む子宮。

 

 女神の依り代。

 

 その器の中身は何だ。人か死者か、神なのか。

 

 

 ……君は(だあれ)

 

 

 

 ***

 

 

 

「く、ど……どのっ! くろ、どの、黒殿ッ!」

 

「あっ」

 

 気付けば、視界一杯にヨハンナの顔がうつっていた。悲鳴をあげそうになり、素早く掌で口を塞ぐ。震えが止まらない。心臓が大きく脈打つ。

 

「ふ、んん、はぁはぁっ」

 

「黒殿、大丈夫だ。落ち着いて。大丈夫、私は決して貴殿を害さない。だから、どうか泣かないで」

 

 ヨハンナの言葉で、自分が涙を流していることに初めて気が付いた。  

 

「ヨハンナ、俺……俺は」

 

「ああ、黒殿」

 

 大丈夫だ、とヨハンナは何度もそう繰り返す。少し硬いが何より温かい掌で、目元を拭ってくれた。その手を引っ張り、俺はヨハンナの肩に頭を埋めた。彼女はそんな俺の行動を一切咎めることはせず、ただ背中を優しく撫でてくれた。 

 

 暫くして、一気に年下の女の子に慰められていることを強く自覚した。大人として、恥ずかしい。慌てて離れる。頬が熱い。

 

「よ、ヨハンナ、ごめんな。俺、迷惑かけちまった」

 

「迷惑などと思っていない」

 

 ヨハンナは、短くそう答えた。そして、俺の右手を両手で包むように掴む。じんわりと、ヨハンナの手から熱が伝わる。

 

 彼女は何も聞かなかった。俺が書庫へ侵入していることも、涙を流していた理由も何ひとつ。

 

「何も聞かないのか?」

 

 俺の問いに、ヨハンナは一瞬目を細めた。それから、微かに唇を緩めた。そこには苦しみや怒りといったマイナスの感情は一切読み取れず、ただ我が子を慈しむような表情だった。

 

「……聞いて、欲しいのですか?」

 

 逆に問いかけられた。きっとこれは彼女なりの最終確認なのだろう。全てを話しても、ヨハンナは受け入れてくれる。それは、推測ではなく確信だった。しかし、そうしてはいけないのだ、と本能的が訴えかけてくる。言ってしまえば、ヨハンナはもう越えてはいけない線を越えてしまうのだ、と。

 

「いや」

 

 心臓を服の上から押し付けることで、消え去りそうな気持ちを殺した。そうしないと、何もかも懺悔したくなるからだ。

 

「そう……ならば聞きません」

 

「うん」

 

「……貴殿は強い人。だからこそ、誰より弱い人。それが私にとってどうしようもなく愛しく、どうしようもなく悲しい。そんな貴殿、いえ、貴方だからこそ私はーーー」

 

「ヨハンナ?」

 

「黒殿、これを……」

 

 ヨハンナは懐から木製の十字架を取り出した。そして、磨耗し丸みを帯びたそれを俺に差し出す。この十字架はヨハンナが常に身に付けていた物だ。何かを思案する度に、彼女はこれを触る癖があった。きっと大切なものなのだろう。

 

「私のロザリオだ。これを貴方に差し上げます」

 

「……でも、これお前にとって大切な物じゃないのか?」

 

「スコトゥスにとってはそうだろう。だが、(ヨハンナ)には必要ないものです。だから、受け取って欲しい」

 

 再びヨハンナはロザリオを差し出した。受け取ってくれるまで引かないぞ、と念を押される。そこまで言われてしまえば、どうしようもない。俺は戸惑いながら、ロザリオを受け取った。

 

 

 

「――ーーああ、安心した」

 

 

 

 俺がそのロザリオを首にかけたところを見て、ヨハンナは儚げに頬を緩めた。何故だかひどく心がざわつく。

 

 それを誤魔化すように、ロザリオを触る。そして、愚問だと思いつつも、ヨハンナに問いかけてみる。

 

「お前は神様を信じているか?」

 

 彼女は静かに微笑んだ。

 

「……はい、勿論」

 

 ヨハンナは頷いて、十字を切る。

 

 俺にはそれが、首をかき切り罰を下している仕草のように見えた。

 

 

 ――ーキリエ・エレイソン

 

 

 ああ、主よ、憐れみたまえ。

 

 

 




いつも誤字脱字の修正ありがとうございますー!

今、息抜き短編としてIFのヒロインルートを書こうかな、ふと思ったもんで。どうせならアンケート機能を使って読者さんの意見を聞いてみようか、と逃げ道を塞ぎにかかってます。

「おいおい、アマルはどうすんだ。浮気は良くないぞ。清楚系ドスケベ修道女アマルのエロイチャをもっと書くんだよ!」という読者さんは、感想の方でその熱いパトスをぶつけてください。(後から、アマルの選択肢を増やそうとしたけど、アンケート項目追加の仕方が調べても分からんかったアホがここにいる)

気が向いたら、テキトーにぽちぽち投票しておくんなまなしー。


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はじまりの朝

 

 

 黄昏空の下、貴方の背中を見送ってどれ程月日がたったでしょう。

 

 ――からん、と頭の中で音がした。

 

 悲しい。苦しい。寂しい。

 

 どうして……どうして、私を独りにしたのですか? 

 

 貴方はいつだって、勝手に私の幸せを決めてしまう。私の幸せは、貴方の思うような幸せではありません。

 

 ――からん、と音が反響する。

 

 ただ、側にいて欲しい。

 

 透き通る青空と白詰草の花畑の中で、貴方が捨て去った私の幸せを拾い集めているのです。だから、どうか早く会いに来てください。そう祈りながら、今日も空を見上げます。

 

 ――からん、と音が染み込んだ。

 

 真っ暗闇の中、もう空を見ることは叶いません。

 

 不完全と知りながら、それでも役目を果せと彼らは言うのです。このまま永遠に貴方に会えぬなら、もうこの世界に生きていても仕方がない。だから、私は二度と戻れない産道を自ら歩くことに決めました。

 

 囁き声が耳を掠め、地面が細かに揺れています。胎動しているのです。もう、逝かねばなりません。

 

 ――からん、と音が入ってくる。

 

 ああ、最後に思い出すのは貴方のことばかり。

 

 貴方は誰よりも素敵な人だから、外の世界で必ず幸せになるでしょう。……分かっています。貴方の「幸せ」に私という人間は必要ない。

 

 貴方が私を想い生きてくださるのならばそれで良い。そう言い聞かせ、自らを封じ込めていたのです。この深淵の暗闇の中で、貴方の夢を見続けながら……。

 

 けれど、貴方は私の想いを置いて前に進むと言うのです。私をまた置いていくと言うのです。

 

 その時、ぷつんと何かが切れる音が聞こえました。

 

 このまま貴方が幸せならそれで良い、そう思える女であればどんなに良かったでしょう。そんな綺麗な想いを抱いたまま終わることができればどんなに良かったでしょう。

 

 どうか卑しい女だと、笑ってください。

 

 どんな形であろうと、貴方の側にいたいのです。

 

 貴方を想う(うつわ)が満たされて満たされて満たされて満たされて満たされて―――ああ、今ひとつになった。

 

 

 ―――からん、と音が足元から鳴りました。

 

 

 からん。からん。からん。

 

 足を踊らせ、くるくる回ります。

 貴方と踊れたらどんなに楽しいことでしょう。

 しかし、貴方はここにいない。

 

 貴方が会いに来ないなら、私が迎えに行けば良いのです。足を踏み鳴らすと嬉しそうに心臓が脈打ちました。

 

 どうか、恨まないで下さい。

 

 

 

 ――だって 貴方が 私 をそうさせたのですから。

 

 

 

 ***

 

 

 

 鳥の囀ずりが、穏やかな目覚めを誘った。

 

 窓から差し込む朝日を横目に、ぐっと身体を伸ばす。何て気持ちの良い朝だ。それもこれも、毎日のように見ていた悪夢を見なくなったからだ。もしくは、その悪夢を見たということ自体を忘れているからなのかもしれない。どちらにせよ、喜ばしい。

 

 何とはなしに、首にかけたロザリオを手に取る。木でできた聖なるシンボル。ヨハンナからこれを貰った日から、不思議と俺は悪夢を見なくなった。やはり、このロザリオのおかげなのだろうか。

 

 そんなことを考えながら、ロザリオを片手に起き上がる。ベッドから抜け出そうとすると、隣で寝ていたアマルがぎゅっと抱きついてきた。起こしてしまったのかと様子を伺う。

 

「すぅ……すぅ、ん」

 

「あれ、まだ寝てるのか?」

 

 俺の声に答えず、小さく寝息を漏らすアマル。いつもの凛と大人びた雰囲気はなく、無条件に安心しきったあどけない表情を浮かべている。起こさないように優しく銀色の長髪を数回撫でる。えへへ、と緩みきった笑い声が聞こえた。

 

 ……寝たふりかこの子犬め。

 

「アマル、お前起きてるだろ」

 

 ぴくり。

 

 肩が震えた。だが、それ以上のアクションをアマルはおこさない。抱きついたまま寝たふり続行。そっちがその気なら俺にも考えがあります。

 

「……なぁ、アマル」

 

 腰を屈めて、耳元で甘く名前を呼ぶ。アマルは俺の声音が好きらしい。曰く、色気がある低音ボイスだそうだ。自分で言うのもなんだが、アマルは俺にベタ惚れなので、俺の容姿からやることなす事全て良く見えるフィルターがかかっている。だから、アマルの言葉は参考にしない方かいい。

 

「アマル、返事してくれ」

 

 何度も囁くと耳が真っ赤になってきた。うん、面白い。しかし、まだ起きない。かなり粘るな。今日はとことん構って欲しいらしい。この甘え下手め。その不器用さが愛おしい。くくっ、と思わず笑みがこぼれた。

 

「アマル……ふっ」

 

 今度は耳に息を吹き掛けてみる。

 

「ひゃんっ!」

 

 可愛らしい声を上げ、アマルは耳元を両手で押さえた。これはさすがに耐えきれなかったよう。子犬はやはり耳が弱いのだろう。上目遣いで、頬を膨らませるアマルに苦笑する。子犬から子栗鼠に進化した。とりあえず、頬っぺたを揉んでおくことにする。

 

「アマル、狸寝入りは楽しかったか?」

 

「むぅ、あ、ふ、あん、でしゃまの、いじふぁふぅ」

 

「あはは、何言っているか全然分からん」

 

「い、いじふぁるっ!」

 

 頬っぺたを揉んでいた手を払われ、首にすがりつかれた。ぐりぐりと、マーキングされる。

 

 甘えん坊の拗ね方だった。この子犬、本当に可愛いな。瑞々しい少女の裸体が押し付けられ、色んな意味で元気になってしまう。どこもかしこも柔らかい。

 

「ごめんごめん。俺のこと嫌いになったか?」

 

「……ずるいです。アンディ様は、私の答えなんて分かってらっしゃる癖に」

 

「そんなことないさ。言葉にしてもらわないと分からない」

 

 狸寝入りされた意趣返しに、そんな言葉を投げ掛ける。アマルは腕を解いて、俺の顔を覗き込んだ。

 

「……むぅ、アマルはアンディ様を愛しています」

 

 むくれた顔をしながらも、アマルははっきりと答えた。確定事項を伝えるような迷いのない言葉だった。それがどうしようもなく嬉しい。追加でもう一度アマルの頭を撫でる。

 

 えへへ、とアマルは照れたように笑った。正直、チョロいと思った。

 

「仲直りだな」

 

「はい。仲直りです」

 

「じゃあ改めて、おはようアマル。今日は良い朝だな」

 

「おはようございます。アンディ様。今日も朝一番にアンディ様のご尊顔を拝むことができ、アマルは幸せでございます。だから、とても良い朝です」

 

「お前、朝から惚気すぎ」

 

「私はまだ本気を出していません」

 

「ふっ、惚気の本気ってなんだよ」

 

「うふふっ、そのままの意味です」

 

 お互い見つめ合って破顔した。

 

 朝から気分が良い。窓から見える青空が更に気持ちを高揚させた。このまま1日晴れが続けば良い。畑仕事も捗るだろう。

 

 アンディ様、と手を小さく引かれる。

 

 いつものキスの催促。俺の顔を見てアマルは頬を染め、そわそわと身体を揺らした。それこそキスなんて何百回もしているのに、相変わらず昼は貞淑で初心。その癖、夜は娼婦のように淫らで積極的。本当に俺には勿体ない良い女だ。

 

 触れるだけのキスをして、ベットを抜け出す。

 

 今日はフランシスコと農作業だ。それが終わったら、ソフィアさんを見舞って……。

 

 そこまで考えて、自分が無意識にロザリオを触っていることに気が付いた。いつもヨハンナがそうしていたように、ロザリオを握った。神様を信じている訳でもないのに、何故だろう。そんなことを思いつつも、俺は身支度を始める。

 

 今日も1日が始まろうとしていた。

 

 

 




いつも誤字脱字の修正ありがとうございますー。




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人物紹介その2

 

 ▪️安藤隆(あんどうりゅう)

 

 28歳。黒髪短髪黒目。186cm。

 主人公。静代()の墓参りのため故郷である両胡村に戻り、気が付けばストーンハースト修道院の礼拝堂の中で倒れていた。

 ここでは、安藤隆という名前の発音が難しいらしく、どう頑張ってもアンドリューと言われてしまう。訂正することも面倒くさいため、もう開き直って自分からアンドリューと名乗っている。アマルからはアンディと呼ばれている。

 

 一癖も二癖もある女性から好かれがち。

 最近、自己嫌悪に陥るので、恋人であるアマルとの年齢差を考えないようにしている。

 妹をひとりで死なせてしまったことに対して、強い自責の念を抱き続けている。アマルに人一倍甘いのは、妹を幸せにしてやれなかったという後悔の想いが根本にあるから。庇護欲が強くアマルをことあるごとに子犬扱いしている。

 

 

 ▪️アマルティア

 

 15歳。銀髪長髪紅眼。145㎝。

 女神のような絶世の美貌を持つ少女。低身長で胸が大きく腰は細い、所謂トランジスターグラマーな体型。

 修道士達からまるで存在していないかのように扱われている。そのため初めて会ったときから、自身を認めてくれたアンディに強烈な執着を抱き依存している。また、嫉妬深く独占欲も強いため、自分以外の存在がアンディに近寄ること自体良く思っていない。そもそも、アンディ以外の人間は死のうが生きようが心底どうでも良い。アンディに出会うまで心を殺して生きてきたため、アンディを通さないと心が動かない。人として歪な思考回路をしている。 

 

 アンディの前では子犬もしくは子栗鼠がデフォだが、本来の性格は冷酷で気位が高い王女様気質。アマルが敬語を遣い礼を尽くすのはアンディだけだったりする。

 

 

 ▪️ベネディクト・ボノスス

 

 ストーンハースト修道院の修道司祭。60過ぎぐらいの痩せ型。大きな鷲鼻が特徴。常に疲れた顔をしている。

 

 

 ▪️ヨハンナ・スコトゥス

 

 18歳。長髪金髪青瞳。163㎝。

 凛とした雰囲気の美人。スレンダーに見えて、かなり着痩せするタイプ。修道女としての立場で話す時は敬語を使用し、日常的には男口調を使用している。だからと言って粗暴という訳ではなく、品があり騎士のようなイメージを抱かせる。感情が昂ると男口調になる。アンディとの会話では上手く感情がコントロールできないのか、かなりの確率で敬語と男口調が入り乱れているが、本人は全く気づいていない。アンディの前で何度か女性らしい口調で話したことがある。それがヨハンナの素なのかもしれない。

 

 どこか浮き世離れした危なっかしいアンディを影で常にフォローしている。アンディと一番波長が合うのは間違いなくヨハンナである。

 

 ▪️サルス・ニールセン

 

 30歳。修道士。

 真面目で、排他的な戒律主義者。修道院の中では若手。イケメン。アマルティアを蛇蠍のごとく嫌っている。アンディにも厳しい。巡礼の旅に出たと言われている。

 

 ▪️フランチェスコ・ポワティエ

 

 33歳。修道士。

 お調子者。アンディと仲が良いので、良くアマルティアに睨まれている。鈍感なので気付いてない。ある意味強い。アンディにとって、気を使わないで話せる貴重なポジションの人間。

 

 ▪️カタリナ

 

 行商人の娘。15歳。

 背中まである明るい茶髪。緩くおさげにして、肩から前に垂らしている。碧眼。性格は、活発で気遣い上手。良いお嫁さんになるタイプ。

 

 ▪️ソフィア・ロメ

 

 巡礼者。22歳。

 金色に近い茶髪。緩く編んで前に垂らしている。過酷な巡礼の旅で痩せぎみ。おしとやかでしっとりとした女性。人妻感があるが未婚。信仰心は人一倍強い。今は体調を崩し、精神的に不安定。

 

 ▪️シメオン・ガラティア

 

 35歳。修道士。

 赤みがかった茶髪。見るからに人が良さそうな顔立ち。アンディに好意的に接してくれる修道士の1人。

 

 ▪️安藤静代

 

 享年15。黒髪長髪黒目。145cm。

 アンディの双子の妹。二卵性の双子のため容姿は全く似ておらずかなりの美少女。常に兄を立て、その後ろに付き従っていた。思慮深く立ち振舞いは大人びており、まさに大和撫子と言った雰囲気。

 産まれた時から、兄と夫婦になり子どもをなすことが決められていた。兄をひとりの男性として愛していた故に、意見が食い違い離れ離れになってしまう。両胡村の大火災により母胎洞の入り口である安藤家の地下室で亡くなっている。

 

 



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ロザリオを手に

 

 

 

 むぐむぐ、と黒パンに食らい付き思わず眉をひそめた。相変わらずなんて硬いパンだ。口の中の水分が一気に失われ、咀嚼することさえ一苦労。何度食べても酸味があるクセの強い味に慣れない。エールで一気にパンを腹に流し込む。

 

 視線を感じ、顔を上げる。それから、うへぇと俺は情けない声を漏らしてしまった。対面に座るアマルが、ニコニコと満面の笑みを浮かべこちらをじっと見詰めていたからだ。

 

「あの、アマル。アマルさんや。そんなに見られるとすごく食べにくいんだが……」

 

「ふふっ、申し訳ありません。アンディ様があまりにも素敵すぎて見惚れていました」

 

「……あのな、アマル。俺はただパンを食べてるだけだぞ? どこに見惚れる要素があるって言うんだ?」

 

「硬いパンをちぎり、頬張るアンディ様の姿は漢らしく惚れ惚れします。ライ麦の酸味に顔をしかめるアンディ様は、艶やかでうっとりしてしまいます。エールを一気に飲み干す表情は凛々しいのに、パン屑を口元につけたアンディ様は可愛らしく、そのギャップにアマルはどうにかなってしまいそうです。それから―ーー―」

 

 やばい、これ以上はいけない。早く止めないと惚気を垂れ流し続ける永久機関になるぞ。

 

「あー、ストップっ! もう分かった。分かったから、ちょっと黙ろうな。それと、口にパン屑がついてたならもっと早く言ってくれ」

 

「だって、でも、アンディ様。私、まだ言い足りませんが」

 

「アマル、勘弁してくれ」

 

「むぅ……分かりました」

 

 ぷくぅ、と不満げに頬を膨らませるアマルを尻目に口元を拭う。

 

「ん、どうだ取れたか?」 

 

「はい。……いいえ、アンディ様」

 

 こくり、とアマルは一度頷いた。しかし、考えるように数秒沈黙した後、否定の言葉を口にした。

 

 どうしたんだろう? 

 あまりにも不自然な少女の言動に苦笑する。

 

 アマルは元々理知的で大人びているが、勢いのまま突き進む年相応な幼さを心に秘めている。そのアンバランスさがアマルの魅力であるのだが、時々歯止めがきかなくなるので要注意である。何せ被害を受けるのはいつだって俺なのだ。故に、慎重にいきたいというのが本音だ。

 

「そのまま、動かないで下さいね。私が取って差し上げますから」

 

「ん? おう、じゃあ頼む」 

 

「お任せください」

 

 アマルは椅子から立ち上がると、ベットに腰掛ける俺の隣に座り顔を寄せた。ふんわりと薔薇の香りが鼻腔を擽る。俺の女(アマル)の匂い。その甘い香りにクラクラする。

 

「……アンディ様、ん、れろ、ちゅ」

 

 ああ、もう、くそ、油断したっ。慎重にいきたいと言った側からこれだよっ!

 

 柔らかい舌で何度も口角を舐められ、思考が停止し身体が固まる。アマルは俺の首に手を回すと、身体を密着させた。

 

「ちゅ、ん、はぁ、アンディ様、まだパン屑が付いています。もっと、もっと綺麗にしますねっ」

 

 慌ててアマルを制止しようとして、思い切り舌を噛んでしまい、ああッ、と情けない呻き声が口からこぼれ落ちた。

 

 その呻き声を肯定と取ったのか、アマルは嬉しそうに微笑み唇へと舌を這わせよう……として俺のデコピンをくらい悶絶した。

 

「あぅっ!」

 

 アマルは可愛らしい声を上げて、額を押さえた。

 

「はぁ、全く。いいかアマル。今は食事中だぞ。このエロ修道女め。お前はもうちょっと自制を覚えろ」

 

 羞恥心で火照った顔を冷ますため、片手を額に当て溜め息をひとつ。首に回された手をほどいて、身体を離す。アマルはへちょりと情けなく眉を下げた。

 

「うー、でもでも、あんでぃさまぁ」

 

「でもじゃない。反省しろ反省。そもそも、ほんとは俺が口元を拭った時、パン屑とれてただろ?」

 

 うふふ、とアマルは笑った。

 それはまるで完璧な人工物のような美しい笑みだった。

 

「そのようなことはありません」

 

「……嘘だったら今晩は一緒に寝ないぞ」 

 

「取れていました」

 

 即答だった。

 

 そんなに独りで寝たくないのか。本当に頭が痛くなってきた。楚々とした見た目の癖に、色ボケとかギャップがありすぎる。誰だよ、アマルをこんな風に育てたのは!

 

「…………ちくしょう、犯人は俺か」

 

「アンディ様、アンディ様。アマルは正直に申し上げました。ですから、今晩もアンディ様と褥を共にしてもよろしいですよね? 沢山、私を可愛がって欲しいです」

 

 それ以上は止めてくれ。机の角に頭をぶつけて死にたくなる。俺は深い溜め息を吐いてから、アマルを真っ直ぐ見詰めた。

 

「てい」

 

 もう一度、デコピン。だが、今度はさっきよりも優しく。

 

「ひゃう! あ、あんでぃさま、いたいです」

 

「そう痛くはしてないだろ」 

 

「いたいです」

 

 アマルは拗ねた調子で額を俺の胸にグリグリと押しける。可愛い反抗をしよって、この子犬め。気持ちを落ち着かせるため、アマルの美しい銀糸の髪を指に巻き付け遊ぶ。何度巻き付けても癖すら付かないことに感動した。

 

「朝から甘えてばっかりだな。どうしたんだ?」 

 

「……アマルはアンディ様の(もの)です」

 

「んー、まぁ、そうだけど」

 

「だから、そんなものに負けたくありません」

 

 アマルは剣呑な眼差しで、ロザリオを見詰めた。毛を逆立ちさせた子犬が今にも噛みつきそうな雰囲気。これは、絶対めんどくさくなるやつだ。取り敢えず、ロザリオを握ってアマルの視線から外すことにした。

 

「そんなものを握らず私を抱き締めて下さい」

 

「……無機物に嫉妬するなよ」

 

「私の方がずっと役に立ちます」 

 

「……無機物に張り合うなよ。ほら、席に戻ってくれ。ちゃんとご飯を食べよう、な?」

 

 アマルは、むぅと唸った。それから、分かりましたと、渋々自席に戻り食事を再開した。

 

「はぁ」

 

 溜め息。

 

 アマルはこのロザリオが誰の物なのかきっと知っている。それなのに、彼女はロザリオを外せと言わない。他の女の香りを纏うことすら許さなかったあのアマルが、である。どういう風の吹き回しだろう。

 

『そう……自ら救いを手放すのか』

 

 俺はロザリオを初めて見たアマルが、吐き捨てるようにそう言ったことを思い出した。それは皮肉というよりも、どこか羨望に似た言葉だった。

 

 

 




明日の昼までアンケートして、それによってどのヒロイン√の短編を書くか決めます。

現段階見ると、やったねヨハンナちゃん大勝利!な感じだけどまだ巻き返せる可能性もある。

フランチェスコと謎に競り合っているソフィアさんには是非とも頑張って頂きたい。


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笑顔とお腹と神様と

 

 

 修道院から出て、畑に向かうと既に先客が居た。

 

 雲間から射す朝日が逆光になって、その人物の顔は黒く塗り潰されている。しかし、そのまるっとしたシルエットが全てを教えてくれた。なんて簡単なシルエットクイズなんだ。頬が緩むことを自覚しながら、彼の表情が見える位置に移動し声をかける。

 

「おはよう、フランチェスコ」

 

「黒の旦那、おはようごぜいやす」

 

 軽く手を上げ挨拶する俺に、フランチェスコは独特の訛りで答え、にっこりと人好きする笑みを浮かべた。

 

「調子はどうだ?」

 

「へい、ぼちぼちですかねぇ。旦那はどうですかい?」

 

「俺もぼちぼちだな。特に変わりはないよ」

 

「そりゃ、重畳でさぁ」

 

 変わりないことが一番ですからね、とフランチェスコは小さく頷く。そういうもんか、と眉をひそめる俺のことを見て彼は更に笑った。

 

 思えば、フランチェスコは兎に角良く笑う男だった。楽しいと朗らかに笑い、悲しいと静かに微笑み、苦しいとそれを笑顔で吹き飛ばした。何故そうも笑っていられるのか。以前、俺は何気なくフランチェスコに聞いたことがあった。その時、確か彼はこう言った。

 

『笑いは最良の薬、という諺がありやす。黒の旦那、あっしにとって、笑いとは薬であり、救いなんですよ。笑いは幸福を導き、奮い立たせ、癒しをもたらし、時には自己を守る盾となる。だから、あっしは笑います。今も昔もこれからも』

 

 彼はそう言って、日溜まりのように微笑んだ。

 

『……それに、それにね。旦那、人は産まれるときに必ず泣くもんでさ。なら、死ぬときぐらい笑って死ぬ。そうじゃないと、釣り合いがとれないと思いやしませんかい? そうじゃないと可笑しい、だって均衡が取れないじゃねぇですかい。ああ、そうでさぁ。黒の旦那、現世の罪枷を償い、全てを清算し最後には笑って逝く。あっしは、そのために、そのためだけに、この場所ーーストーンハーストにいるんでさぁ』

 

 どんなときでも前向きで、決して笑顔を絶やさないフランチェスコを俺は何より尊いと思った。……思ったが、それを言うと調子に乗るのが目に見えているので、絶対言わないでおこうと心に決めている。

 

 そんな思いを尻目に、フランチェスコは顎に手を当て俺を見つめてくる。まるで品定めされているようなその視線に、居心地の悪さを感じ頭を掻いて気を紛らわした。

 

「……ふむ、旦那。今日も今日とて爽やかなローブの着こなしですねぇ」

 

 予想外な一言に、一瞬思考が停止した。数秒おいて俺は視線を落とし、自身の服装を改めて確認する。リネンのチェニック、簡素な黒いズボン、茶色のローブ。殆どの修道士は同じ茶色のローブを身に纏っているので、特に代わり映えのしない格好であると思う。

 

 そもそも――

 

「――ローブに着こなしってあるのか?」

 

「あっはっは、まぁ細かいことは気にしない。ただの誉め言葉ですよ。黒の旦那は背が高いので、何着ても様になるってことでさぁ。ほら、あっしはこういう体型でしょう? 憧れを抱いても仕方ありやせん。大目に見てくだせえ。……それはそれとして、旦那の引き締まった身体、全くもって羨まけしからん。旦那、ちょっとあっしの腹の肉を取って行ってはくれやせんか。ちょっとだけ。ちょっとだけで良いですから。ほらほら!」

 

「だが断る!」

 

「ええっ、断るの早すぎやしませんか!?」

 

 おい、止めろ。止めろったら!

 

 ぐいぐい、詰め寄ってくるな。俺は嫌そうに、いや、確実に嫌な顔をして腹を押し返す。

 

 ぐいっぐいっ。

 

 ぽにょんぽにょん。

 

 ぐいっぐいっ。

 

 ぽにょんぽにょん。

 

 うわっ、この腹の感触何だか癖にな……って、たまるかってんだ!

 

「あのな! そんなことは出来ないんだから、断るに決まってんだろ!」

 

「え――」

 

 ポンポンと腹をリズミカルに叩いて、フランチェスコは小さく首を傾げた。つぶらな瞳で俺を見るな。全然可愛くないから。むしろ、殴りたくなるから。

 

「え――、じゃない。お前が努力して痩せれば済む話だ。なんなら、今日からダイエット……減量を始めたらどうだ?」

 

「こほん、――彼の者は言いました。明日のことを思い煩うな。明日のことは、明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である、と」

 

 確かその言葉は、マタイによる福音書の一節だったか。いきなり何を言い出すんだこいつは。

 

「……つまり?」

 

「今日は忙しいので、明日の自分に頑張ってもらおうと思う次第でさぁ」

 

「駄目だこいつ早くなんとかしないと」

 

 えへ、とフランチェスコはお茶目に笑った。本当に殴ってやろうか。どうせ明日また同じことを言うんだろう?

 

 そもそもその言葉は、明日の心配を今しても明日にならないとどうなるか分からない。だから、明日のことこれ以上思い悩んでも仕方ないという言葉であって、問題を明日に持ち越し、明日の自分に任せるという意味ではないんだぞ! というか、聞くからにそうだろう。どういう解釈すればそうなるんだ。

 

 心の中で悪態をつく。そもそもフランチェスコ、人はそれを問題の先送りと言うのだ。

 

「明日から食事を減量してみればいいんじゃないか?」

 

「すいやせん。そればっかりは勘弁していただきたく」

 

「降参するの早いな」

 

「死活問題ですから」

 

 ぷんす、と胸を張るフランチェスコ。

 

 あまりにも不毛すぎるやり取りに、俺は目を瞑った。そしてローブの上から、ロザリオを握る。

 

 

 ――ああ、神様。俺はアンタを信じやしない。

 

 

(……でも、アンタを信じる人を信じることはできると思うんだ)

 

「じゃあ、食事の減量以外ならやれるんだな」

 

「へい、もちのロンでさぁ。私は神様仕え、自身を決して偽らず正直に生きていやす。男に二言はありやせん!」

 

「ほう、そうか。じゃあ、明日は畑の外周を軽く20周走ろうか」

 

「――っ、旦那。……明日、懺悔を聞く準備をしといてくだせい」

 

「諦めるなよっ!」

 

 二言はありまくりだった。

 

 

 

 

 




唯一の癒しキャラ、フランチェスコさん。


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閑話 白詰草を持つ少女

 壊れながらそれでも……それでも、少女は必死に誰かを呼び続けている。

 いつから壊れているのかも分からない。

 この世に産まれてからなのか。
 この世に生まれたからなのか。


 不協和音でも、声を響かせる。それに何の意味があったのか。その存在に何の意味があったのか。


 ――その答えを、今も探している。




 

 

 

 この地のあり方は間違っている、とあの人は良く言った。

 

 それは真実なのだろう。

 

 それが正常なのだろう。

 

 しかし、それはあくまでも外の世界での話。この場所ではあの人の正常こそ異常であった。

 

 ――ーーあの人は外の世界を夢見ているのだ。

 

 だから、空を仰ぎ見る。何にも縛られない蒼穹に、あの人は憧れを抱いている。

 

 彼は空に自由を見出だした。しかし、それは虚構に過ぎない。原初、来訪者は天から舞い降りたと言う。しかし、今や御身は闇の中、脈打つ深淵に蠢くのみ。

 

 本当の自由は私たちの足元にこそある。地を這う者は、決して空に祈らない。祈りの対象はもはや空にはいない。そういうものなのだ。それを知らぬ者は、ある意味幸いである。

 

 私たちの祖先は、彼方よりの来訪者に救いを求めその恩恵を得た。だからこそ、私たちは来訪者たる神を母と崇め彼女に従う。

 例え外の世界へ出て行けど、母を求め必ずこの地に戻ってくる。それはもはや帰巣本能と言って良い。子が母の子宮から産まれ、また死して胎に帰るように、私たちの魂に刻まれている。

 

 母の血がその身に流れる限り、ずっとずっと終わりなく私たちはこの地に縛られる。しかして、それは祝福である。また、私たちが得た恩恵であり、知見であった。

 

 それを歪だと考えるのは、あの人だけ。そう、この地に生まれながら、あの人は異端だった。

 

 あの人は常に誰にも理解されず、孤独を背負っている。辛くて、苦しくて、悲しくても、平気だと、あの人は笑うのだ。そうして、誰も居ないところで泣いている……声を殺して。

 

 ああ、ああ。

 

 何故、私がそんな彼を咎めることができようか。

 

 確かにあの人の孤独を誠に理解できる者は、私を含めここにはいない。だが、その孤独に寄り添うことができる私だけが、あの人を癒すことができる。

 

 

 私だけがあの人を愛することを許されるのだ。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

「静代、大丈夫か? もしかして体調悪いのか?」

 

 手に持つ白詰草の冠を眺めていると、傍らに立っていたお兄様が私の顔を覗き込んだ。お兄様と私は30㎝以上身長差があり、お兄様が私の顔色を確かめようとすると少し腰を屈める必要がある。目線を合わすために、わざわざ腰を落としてくれる。そういうところが、とても好ましい。

 

 私とは違い、優しく朗らかなお兄様。

 

 双子の兄妹なのに、全く似ても似つかない。顔つきも性格も何もかも。正直、身長はもう少し似て欲しかった……。180cmと145cmなんて、大人と子どもの身長差ではないか。

 

 でも、背が高く逞しいお兄様を見上げるごとに、私は実感する。私にとってお兄様はどこまでも「男」なのだ、と。

 

「いいえ、少しぼんやりしていただけです。隆お兄様、ご心配をおかけし申し訳ありません」

 

 私の言葉にお兄様は眉をひそめた。気に入らない。そんな感情がありありと見て取れた。相変わらず、心を隠すことが下手な人。そんなところが、とても可愛らしい。

 

「静代、お兄様は止めろ。外じゃそんな風に兄貴を呼ぶ妹はいない。もっと普通に、せめて兄さんにしてくれ」

 

「…………はい、兄さん」

 

「良い子だ」

 

 お兄様……兄さんは、朗らかに笑って、私の頭を撫でた。力加減は優しいのに、撫で方が雑なのはいつものことだった。しかし、毎度のことながら、わしわしと女性の髪を考慮しないのはどうかと思う。犬扱いされている気分だ。

 

「兄さん、髪がぐちゃぐちゃです」

 

「ん? おお、すまんすまん」

 

 そう言いつつ、撫でることを止めない。兄さんはこういう時、私の言うことをあまり考慮してくれない。でも、構ってくれて嬉しい、と相反することを思った。掌の暖かさを感じ緩みそうになる頬を律っし、頬を膨らませわざと拗ねてみせる。

 

 自分でもらしくないと思う。この私が、頬を膨らませる幼稚な仕草をするなど、どうかしている。しかし、兄さんは私がただの少女のように振る舞うと笑って喜んでくれる。それに比べれば、私の自尊心など安いものだ。全くらしくない。……でも、それで良いのだ。

 

「さっきまで子犬だったのに、今は子栗鼠みたいだな。頬にどれくらいドングリを詰め込んだんだ?」

 

 やはり、犬扱いされていた。しかも、子犬。それから子栗鼠ときた。村人がそのような畜生と私を称したのならば、決して許さないが……兄さんは例外だ。もっと言って欲しい。

 

「兄さんっ」

 

「うん、静代は可愛いなあ」

 

「兄さん、あまり私をからかわないで下さい」

 

「からかってなんかないよ。本気でそう思ってる」

 

「……っ」

 

 一気に頬が熱くなる。何か言葉を口にしようとして、声にもならないうめき声を出した。情けない表情を兄さんに見られたくなくて、顔を下に向ける。足元には、白詰草の花畑が広がっていた。

 

 白詰草、取り立て目立つ訳でもない花。しかし、自らを差し出すことで土壌を肥やすことができる花。真っ白で汚れなく、何度踏みつけられようと、強かに根を張り必ず起き上がる。その有り様は、まるで兄さんのようだ。そして、白詰草の花言葉は私の内面をうつしだしていた。

 

 白詰草は兄さんと私の花、二人でひとつの花。だから、私は白詰草が好きなのだ。しかし、兄妹の範疇を越えた想いを兄さんは嫌う。故に、兄さんへは白詰草の花言葉が好きだから、とだけ伝えている。

 

「兄さ――――」 

 

「次代様、お勤めのお時間です」

 

 後ろから、声が聞こえた。振り返ると、白装束の男が立っていた。安藤家に代々使える家系の者。名前は知らない。知る必要がない。

 

「はぁ、そうか。もう、そんな時間か」

 

「……はい、兄さん。お役目、頑張って下さいませ」

 

「ああ、ありがとう」

 

 兄さんは憂鬱気に溜め息を吐いて、花畑を去って行く。その後ろ姿を目で追いながら、白詰草の冠を胸に抱いた。数秒して、兄さんを私から遠ざけた慮外者を見やる。

 

「……其処な者。ここは私と、次代様だけの花園。お前如きが土足で踏み入れて良い場所ではない。早々に去れ。そして――」

 

 慮外者は深々とお辞儀をして背中を向けた。その背中へ吐き捨てるように言葉を投げ放った。

 

 

「――――二度目はないと知りなさい」

 

 

 私たちは二人でひとつ。

 

 産まれる前からそうだった。

 

 私たちは二人でひとつ。

 

 死が二人を別っても、来世の先の先まで。

 

 

 ――私たちは二人でひとつ。

 

 

 

 

 



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背負ったもの

 

 

 

 畑の手入れをする。

 

 雑草を抜き、鍬を振り下ろし土をならす。

 故郷である両胡村の人々の多くは農作業を営んでいたが、特権階級であった俺はついぞそれに従事することはなかったし、村を出てからもその機会はなかった。しかし、ここではそうも言ってられない。働かない者食うべからずだ。

 

 当初の不馴れで辿々しい鍬の太刀筋も今や見る影もない。どことなく達成感を抱き、俺は顔に伝う汗を腕で拭った。

 

 顔を上げ強ばった肩の筋肉を解す。バキバキと乾いた音がなった。思いの外、身体は疲れていたらしい。朝から昼までぶっ通しで畑作業をしていたからだろう。

 

 休憩がてらに、井戸で手や顔の汚れを洗い流すか。そう思い鍬を土に刺して井戸に向かう。

 

 少し足を進めると畦道を歩くヨハンナの姿が見えた。彼女を眺めすぐ違和感を感じた。

 

「……ヨハンナ?」

 

 ふらふらと覚束ない足取り、どこかで焦燥した表情。いつもきっちり編み込まれた髪は解れ風で揺れていた。

 

「ヨハンナっ!」

 

 慌てて彼女の元に駆け寄る。名前を呼んで数秒してから、ヨハンナは茫洋とした視線を俺に向けた。その温度を感じさせない表情にどうしようもなく不安を覚える。

 

「…………あっ、くろ、どの?」

 

「ヨハンナ、大丈夫か?」

 

「ーーーー」

 

 ヨハンナは曖昧に微笑んだ。是とも否とも言わない。ただ誤魔化すように笑った。それが答えなのだろう。貴方にできることは何もないのだ、と。

 

 はっ、と短く息を吐く。

 

 

 ―――なぁ、俺はそんなに頼りないか。

 

 

 そんな女々しい言葉を飲み込んで、俺はヨハンナの額に手を置いた。熱くはない。むしろ冷たいくらいだ。

 

 額から流れるように頬を撫でる。青白い肌、少し荒れた唇。目元には薄っすらとクマが見える。もしかして、寝れてないのだろうか。確かめるように、顔を近づけて更に頬を優しく撫で擦る。

 

「ヨハンナ」

 

「あ……えっ?」

 

 虚ろだった瞳に光が戻り、頬に朱が差し込んだ。口をわなわなと震わせる。

 

「っ――わ、ちか、えっ、く、くく、黒殿!?」

 

 どもりながら、距離を取られた。毛を逆立てて威嚇する猫みたいな動き。アマルは子犬だが、ヨハンナは猫だな。しかも、ロシアンブルーあたり。そんなくだらないことを思いながら、ヨハンナに笑いかける。

 

「……とりあえず、熱をはないみたいで安心した」

 

 ヨハンナは俺の顔を伏せ目がちに見て、居心地悪そうに肩を竦めた。いつも背筋を伸ばし凛とした雰囲気を身に纏う少女には珍しい動作だった。

 

「なあ、寝れてないのか」

 

「そ、れは、その……」

 

「何かあったのか?」

 

 歯切れが悪く口ごもる。いつもなら涼しい顔をして俺の言葉をいなしてしまうのに、それすらも出来ないくらい余裕がない。

 

「なぁ、俺はお前が心配なんだ」

 

「あっ……」

 

「言いたくないなら理由なんて言わなくて良い。だけど、お願いだから、今日はもう休め。お前が辛そうにしている姿を見るのは、我慢できない」

 

「……黒殿」

 

「ほら、歩くのもしんどいだろ。おんぶしてやるから」

 

「…………ッ」

 

 そう言って屈むと、後ろから息を呑む音が聞こえた。首だけ振り返り念を押す。

 

「言っとくけど、ヨハンナには拒否権なんてないぞ。嫌だって言ってもおんぶしてお前の部屋に連れてく。絶対休ませるからな」

 

「ああ、貴殿は全くもって強引だ」

 

「おう、そうだ。でも、それで良いんだ。強引でも連れて行けば良かったって、もう二度と後悔したくない。俺は自分勝手な奴だからな。……幻滅したか?」

 

「幻滅などするものか」

 

「そっか。ありがとな」

 

 ヨハンナは俺の背中をそっと撫でた。数秒して、俺の背中に寄りかかり首に手を回す。レモンの仄かな香りが鼻孔を擽る。

 

「黒殿、どうか連れて行ってください。貴殿に我が身を預けます」

 

「うん。まかせろ」

 

 ヨハンナを抱えて立ち上がる。思ったよりずっと軽かった。

 

「黒殿、重くはないだろうか?」

 

「いいや。むしろ、軽すぎて心配になるくらいだ」

 

「そうか。なら良かった」

 

 ゆっくりと慎重に畦道を歩く。少し顔を上げると青空が見えた。

 

 

 ――――いと高きところには、栄光、神にあれ。

 

 

 心の中で聖句を呟く。

 

 

 ――――地には平和、御心に適う人にあれ。

 

 

「黒殿」

 

「ん、どうした?」

 

「貴殿は、私が守ります」

 

「……馬鹿。何言ってんだ。それは俺の台詞だ。それに守られるようなことはそうそう起こらないよ」

 

「ええ、そうですね。そうだと良い。でも、心配なの。貴方は優しい人だから、誰よりも優しい人だから…………」

 

 言葉が途切れた。10秒たっても次の言葉が紡がれることはなかった。沈黙に不安を覚え思わず声をかける。

 

「おい、ヨハンナ?」

 

「ん……すぅ……ふっ、すぅ……」 

 

 浅い呼吸が聞こえた。眠ってしまっただけか。ああ、良かった。やっぱりよほど疲れていたのだろう。早くベットに寝かしてやろう。

 

「お休み、ヨハンナ」

 

 

 ――――どうか、良い夢を。

 

 

 俺は再び足を踏み出した。

 

 

 



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跳ね返った呼び声

 

 

 

 今思えば、彼女はいつも微笑んでいた。

 

 手を繋ぎ共に歩いたあの朝も。

 

 白詰草の花冠を頭に被せたあの昼も。

 

 星空を見上げふたり身を寄せあったあの夜も。

 

 彼女は笑っていた。

 

 何故いつもそんな風に笑うのか、そう聞いたことがあった。彼女は困ったように目尻を下げ、兄さんには理解できないかもしれませんが、と。

 

 私は今、この時が何よりも幸せなのです。

 

 そう、微笑んだ。

 寂しそうに、微笑んだ。

 

 その笑みを今も覚えている。

 そして、これからも忘れることはないだろう。

 

 

 

 ――ーー忘れることはできないだろう。

 

 

 

 ***

 

 

 

 自室のドアを開けると、アマルが椅子に腰掛けながら俺の服を畳んでくれていた。

 

 視線が合う。

 

 アマルはへちょりと微笑む。彼女は手に持つチュニックを丁寧に畳み机に置くと、足早に駆け寄り勢いを付けたまま抱きついてきた。

 

「アンディ様、おかえりなさいませ!」

 

 ぐりくりぐりぐり。

 

 顔を俺の胸板に擦りつける子犬の仕草。いつものマーキング。それは、まぁ良いとして、俺の胸に顔を埋めて深呼吸するのはどうかと思うぞ。犬吸いみたいで何か複雑だ。

 

「……っと、ああ。ただいまアマル。熱烈な歓迎ありがとう。毎度のことながら、少し加減してくれると助かる」

 

「無理ですッ!」

 

「即答かよ」

 

「はいっ」

 

「はぁ、お前って色んな意味ですごいな」

 

「えへへ」

 

「誉めてないからね?」

 

 呆れて、頭を雑に撫でる。

 

「むぅ。アンディ様、髪がぐしゃぐしゃです」

 

 不満げに頬を膨らませるアマル。子犬から解脱し、アマル栗鼠が降臨した。取り敢えず、少女の頬を優しく両手で揉んで機嫌を取ってみることにした。アマル栗鼠の対応には、もう慣れたもんだ。

 

「に、にゃにふるんでふか!」

 

「……んー、機嫌直して貰おうと思ってな」

 

「ううっ、ひゃんでーしゃまのひでふぁる」 

 

 更に頬が膨らんだ。可愛い。

 

「意地悪なんてとんでもない。俺はいつだってアマルに優しいだろう?」

 

 そう言いながら頬を優しく引っ張る。俺の言葉に反論しないあたり、同意はしているのだろう。アマルは目を白黒させた。微笑ましい少女の仕草に、自然と口角が上がった。

 

「さっきまで子犬だったのに、今は子栗鼠みたいだな。頬にどれくらいドングリを詰め込んだんだ?」

 

「……むっ、むきゅ、ふゅ、んん!」

 

 お決まりの台詞を言う俺に言葉に対して、アマルは俺の胸をぽかぽかと叩いた。その弱々しさから本気で抵抗している訳ではないことが伺い知れる。

 

「あんでぃひゃま! ふきゅ。む、もうっ! ふぁんで、さま!」

 

「はっはっは」

 

「ふぁ、むきゅ、ふにゅう。ん、あんでゅさまぁ」

 

 あまりやりすぎるのも悪いか。そう判断し、アマルの頬から手を離す。誤魔化すように少し赤くなった頬を優しく撫でてみる。

 

「―ー―アマルは可愛いなぁ」

 

「んんっ、アンディ様の意地悪っ!」

 

 文句を言いながらどこか嬉しそう。俺に構ってもらえてかなりご満悦な様子。更に強く抱きついてくる。この甘えん坊め。もう一度、頭を撫でる。えへへ、とアマルの表情が緩んだ。この時点で許されることが確定した。

 

 …………チョロいな。

 

「アンディ様」

 

「ああ、何だ?」

 

「……ん、アンディ様」

 

 袖を引っ張られる。いつもの催促。その仕草に苦笑して、腰を屈め軽く唇を合わせる。

 

「っは。アマルはほんとキスが好きだな」

 

「……はい、好きです。口付けも、抱擁も、営みも、アンディ様の与えて下さるもの全て」

 

 首に手を回され、追い討ちに唇を奪われる。ちゅっ、ちゅっ、とキスの嵐が降ってくる。

 

「ん、本当に愛されてるな、俺」 

 

「っちゅ、っぷ、ん。……はい、愛してます。それこそ、狂おしい程に」

 

「あー、ありがたいけど、ほどほどに頼む」

 

「無理です」

 

 またしても即答だった。

 

「そうかぁ」  

 

「ふふっ、私の愛は洪水のように止めどなく。どうか観念下さいませ」

 

「……洪水か。そりゃ、大変だ。その波に呑み込まれないようノアの方舟を用意しないとな」

 

「ノアの方舟。――ふたりでひとつ。ふふっ、ああ、それは素敵ですね」

 

 アマルは目を細め俺の顔を見詰めた。そして、自身の唇に付着した俺の唾液を指先で拭い、更にその指を見せつけるように舐め取った。それは15歳の少女にあるまじき妖艶な仕草だった。

 

 ――ぞくりと、首の後ろが疼く。

 

 寒気を誤魔化すように首元を押さえ、無理やり笑顔を作る。

 

「っ、まあ、お遊びはこれぐらいにして。アマル、腹が減った。悪いが何か食べるもん用意してくれないか?」

 

「はい、勿論。すぐご用意致します」

 

 アマルは従順に頷くと、再度背伸びをして俺の唇を奪った。今度は舌を絡める深いキス。俺の彼女は何処までも貪欲だった。

 

「ん、ちゅっ、本当に名残惜しいですが、そろそろ行って参ります」

 

 部屋を出て行こうと踵を返した、アマルの背中に向けて、

 

「お前は何も言わないんだな……」

 

 そう投げ掛けた。

 

 ヨハンナのこと。

 俺は彼女を背負って来たんだ。匂いに敏感なアマルが気付かないはずがない。

 

「――ーはい。だって、あの人は役目を放棄したのですから。嫉妬はします。でも、それだけ。そこに、もう何もない」

 

「それは、どういう……」

 

「これ以上は意味がない話です」

 

 ぎぃ、と扉が閉ざされた。

 

「アマル……」

 

 アマルの名を呼ぶ俺の声は、閉ざされた扉に跳ね返り、転げ落ち消えた。

 

 

 

 

 



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閑話 アマルティア

 

 

 

 

 ――――夢を見ている。

 

 

 

 私ではない、誰かの記憶。

 

 ずっとずっと、私はそれを見続けている。

 

 その人にとって命よりも大切なもの。魂に刻み込まれた想い。だから、待ち続けた。

 

 けれど、けれど……あなたは私を置き去った。

 

 終わる前も、終わった後も。二度も、あなたは私に背を向けた。

 

 あなたを恨むことができれば、楽になれたかもしれない。あなたを嫌いになることができれば、救われたのかもしれない。それでも、私はあなたを愛している。愛している。愛している。この命が尽きようと、愛しているのです。

 

 

 だから、私は――――もう、待たない。

 

 

 胎動する闇。乾いた足音。あの赤黒い何か。

 

 声が聞こえる。

 

 沢山の声。頭に響く。共鳴し、カランと踊る。

 

 

 溶けて、解けて、融けて。

 

 

 錯いて、裂いて、咲いて。

 

 

 誰が? 私が? あなたが?

 

 

 私は誰?

 

 私は、誰?

 

 

 

 ――――あなたを迎えに行きます。

 

 

 

 ***

 

 

 

「っ、私は……!」

 

 息を吹き返すように、目が覚めた。視界は不安定。身体は小刻みに震えている。これは、拒否反応。私以外の誰かに対する拒否反応だ。

 

「違う。私は、私は……」

 

 この夢を見ると、とても不安になる。境界線が曖昧になる。私は、アマルティア……いいえ、アマル。私はアマルだ。

 

 アンディ様と共にあるのは、このアマルだ。その誰かなどではない。アンディ様は、私の光。私の主。私の愛するお方。

 

 私はその誰かの杯ではない。アンディ様は、その誰かのものではない。許さない。絶対に許さない。だって、がらんどうな私は、もういないのだから。

 

 ゆらり、と蜃気楼のように空間が歪む。

 

 

 ――――カラン、と石床を蹴る音がした。

 

 

 気づけば、ソレが目の前に立っていた。

 

 姿は分かるのに、顔は咲いた花のように揺らいでいる。表情は分からない。ただその者が無感情で視線をさ迷わせていることは伺い知れた。数秒して、その眼が私を捉えた瞬間、ソレは嗤ったように見えた。嗤っているのに、その姿は深淵の如く淀んでいる。

 

 私も嗤い返す。

 

 お前など必要ない、と嗤い返す。

 

「……ここに貴様の居場所などない」

 

 同情などするものか。どう否定しようが、貴様はあの方より役目を選んだ。そうして、全てを失った。今さら未練がましく何を宣う。心底吐き気がする。融けて消えてなくなりそうなこの焦燥感も全ては自らが招いたことだ。

 

「未来にして、過去の亡霊よ。お前はそこで見ているが良い。……指を咥えて」

 

 感情の色が見えない濁ったソレが揺らぐ。じわりと、何かが這い寄るような感覚。

 どうやら私はソレの機嫌を損ねてしまったらしい。当然だ。あえて、損ねるように言ったのだから。存外に私は好戦的な性格らしい。有象無象など生きようが死のうがどうでも良い。路傍の石ほど興味がない。憐憫の情など知ったことか。

 

 

 ……ああ、貴様もそうなのだろう?

 

 

 貴様も私も壊れている。

 

 人としてどうしようもなく、壊れている。

 

 

 だからこそ、あの方に救いを見出だすのだ。唯一、私の、私たちの心を震わせるアンディ様に。あの方の側にいるときだけ、私たちは人でいられる。人でなしの獣が、人として夢を見れるのだ。

 

 ああ、それは何とも甘美なことか。

 

「ん、ふぁあ、あー、アマル?」

 

 愛しいお方の声。

 

 私を呼ぶ声。

 

「……はい、アンディ様。貴方のアマルはここに居ますよ」

 

 ベットの中で身動ぎするアンディ様の頭を胸に手繰り寄せ、優しく抱き締める。

 

「おー、そうか。ん、はふぅ、相変わらずアマルはどこもかしこも柔らかいなぁ」

 

 アンディ様はまだ寝惚けているよう。私の胸に顔を擦り付け、満足げに鼻を鳴らした。間延びした声が大変可愛らしい。思わず頬が緩む。アンディ様の旋毛に口付けを落とし、私は視線をソレに戻した。

 

 そこにはもう誰も居なかった。最初から存在していなかったとでも言うように。

 

 

「――が亡霊なら、――は―――――」

 

 

 耳元で微かな囁き声が聞こえた。

 

 

「―――――悪竜だ」

 

 

 その呟きの不快感を吹き飛ばすように、アンディ様の頭を撫でる。ふっと息を吐いて、私は瞳を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 



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歪んだ既視感

 

 

 

 

 

 

 (わたくし)宇宙(そら)を見上げる。

 

 二度と戻れない場所、追憶の彼方、微睡む星雲の先の先。

 

 ああ、母よ。

 

 あるいは、我が半身よ。

 

 貴女は、まだそこにいるのだろうか。

 

 

 

 ***

 

 

 

 何処までも沈んでいく深淵。

 

 それはまさにアマルのふにふにと柔らかい胸のことである、と寝惚けた頭で俺はロクでもないことを考えていた。

 

 仕方がない。だって、目覚めるとアマルに抱き寄せられ、胸を押し付けられたのだ。つまり、俺は豊かなアマルの胸に絶賛甘やかされ中なのである。

 

(……字面を並べると何とも情けない男だな、俺)

 

 げんなりと肩を落とす。そうこうしていると、ちゅっ、とリップ音が聞こえた。旋毛にキスをされらしい。俺、お前の一回り年上なんだけど。駄目男製造機とはアマルのような女を指すのだろう。まぁ、悪い気はしないけど。

 

 仄かな薔薇の香り。ああ、落ち着く。このまま二度寝してやろうか。そこまで思って違和感を感じた。

 

 ――――どくり、どくり、どくり、どくり。

 

 アマルの心拍がかなり早い。どこか蠢くような心音が繰り返される。緊張しているのか身体も強張っている。慌てて胸から顔を上げた。

 

「……アマル?」

 

 彼女は張り詰めた表情で虚空を睨み付けていた。血が抜けたような青白い肌。それに相反して、燃え上がる鮮血色の瞳。

 

「何だか顔色が悪いぞ、アマル。大丈夫か?」

 

 ふっ、と息を浅く吐く音。優しく髪を撫でられる。

 

「――ええ、はい。勿論、大丈夫ですよ」

 

「本当か?」

 

「アンディ様、私は貴方様を謀るはずがございません」

 

 穏やかにアマルは微笑んだ。その表情に俺は奇妙なほど既視感を抱く。気に入らない。思わず、手に力が籠る。

 

「そうだな。お前は俺を絶対に偽らない。でも、自分自身のことはその限りじゃない」

 

 アマルは目を見張った。

 

「お前は俺だけじゃなくて、もっと自分のことを大切にすべきだ。アマル、お前はいつも自分のことを勘定に入れていないだろう? 自分の体調が悪くても俺ばかり優先して、甘やかして、まるで―――ー」

 

 

 ――――静代みたいだ。

 

 

「っ、あ……ッ」

 

 思わず口を押さえる。俺は何を言おうとした。

 

『兄さんが嬉しいなら、静代も嬉しいです。兄さんが喜んでくれるなら、静代は何だってします。……そう、何だって』

 

 脳裏に響いた静代の声。

 

 自分のことはいつだって後回し。小さな頃から静代はそうだった。自分がどんなに体調が悪い時でも、俺の世話を怠らない。あまつさえ自分のお菓子や玩具、お気に入りの物、全て俺に譲って穏やかに微笑むのだ。

 

 俺はそれが嫌だった。当たり前に自分を切り捨て、幸せだと笑うその姿があまりにも痛々しくて辛かったのだ。

 

 安藤家の双子の妹は、兄に仕え跡継ぎを孕み育てる。それが定めだと言う家も世間もおかしい。どうしようもなく狂っている。

 

 

 ―――そんなの本当の幸せなんかじゃない。

 

 

『……兄さんは、いつも勝手に私の幸せを決めるのですね』

 

 静代の言葉が聞こえた気がした。どろりとした粘着質の感情。それはどこまでも冒涜的な響きだった。

 

「アンディ様?」

 

 不安げなアマルの声。

 

 駄目だ。落ち着け。ロザリオを握る。そうすると、不思議と心が凪ぐ。既に癖になったロザリオを握る動作。ロザリオの感触を確かめてたから、意識して眉間を和らげた。

 

「まぁ、なんだ……」

 

 誤魔化すように今度は俺からアマルを抱き寄せる。そうすると、アマルはぐりぐりと身体を擦りつけてきた。そのすぐマーキングする癖はどうにかならないのか、と思わず苦笑する。

 

「俺はお前が心配だってこと。だから、あんまり無理してくれるなよ」

 

「ああ、アンディ様。私の主、私の光、私の全て。こんな私を案じてくださる。……なんて、お優しいお方」

 

 きゅうん。甘え息を漏らすアマル。子犬か。

 

「俺はお前の彼氏なんだから、その、あれだ。しんどくなったら言えよ。抱え込んだら許さないからな」

 

 自分で言いながら、気恥ずかしくて死んでしまいそうになった。真っ赤になった情けない顔を見せないように、更にアマルを強く抱き締めた。

 

 こんなこと言うはずじゃなかったんだが、なぜだろう。そうしないといけないと思った。アマルと一緒にいることは、間違いなんかじゃない。そう思わないと、また俺は……。

 

「分かったか、アマル」

 

「はい。はいっ! アンディ様」

 

 嬉しそうに何度も頷くアマル。本当に分かってるんだろうな? 一抹の不安を覚えながら、俺は視線を上げ、アマルが見詰めていた場所を眺めた。そこにはいつもの部屋の光景が広がっていた。

 

 アマルは一体何を見ていたのだろうか。

 

 あの鮮血色の瞳で。

 

 

 

 ーーーゆらりと、影が棚引いた。

 

 

 

 

 




誤字・脱字のご指摘いつもありがとうございます!


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友へ捧ぐ

 

 

 いっそ嫌になるくらい澄みわたった空を見上げ、俺は燦々と煌めく陽光に思わず目を細めた。

 

 修道院の薄暗さに慣れると、この日差しが眩しくて仕方がない。とは言っても、日光浴は人間にとって必要な行為だ。日に当たることで、人間にとって必須栄養素であるビタミンDが生成される。また、日光浴は鬱病にも効果があるらしい。

 

 こんな陰気な場所で暮らしていると、どうしても鬱々とした気持ちになってしまうので、俺は出来るだけ意識して日光に当たるよう心がけている。

 

「……掃除するか」

 

 今日のお仕事は墓地の掃除だ。整然と等間隔に並ぶ墓石を眺めながらため息をひとつ。

 

 ストーンハーストの墓地は広大で、掃除するのにも時間がかかる。本当はフランチェスコと掃除をする予定だったが、彼は急性腰痛症、所謂ぎっくり腰になってしまいベットの上でダウンしている。あの様子では、暫く起き上がることさえできないだろう。

 

 フランチェスコは見るからにまるまるとした体型をしている。故に、腰に負担がかかってしまうの道理だ。しかし、フランチェスコは日頃から暴飲暴食をしているわけではない。

 

 修道院での食事は1日2回、それも野菜、果物、パン、ワイン中心であり、肉や魚は大きな行事や祝い事がある時にしか出ない。それなのに何故あのように丸っこいのか。

 

 

 ―ー―まさか、また盗み食いでもしてるんじゃないだろうな。

 

 

 いつぞやの夜の話だ。

 

 尿意から目覚めてしまった俺は、アマルと一緒に修道院の外にある厠へ向かうため真っ暗闇の院内を歩いていた。

 

 ……念のために言っておくが、俺はアマルについてきてくれと頼んだことは一度だってない。むしろ、起こすのが申し訳ないのでそのまま寝ていてくれと言っても、

 

「私も一緒に行きます。やだやだ、ひとり寝なんてそんないけずなことおっしゃらないで下さい。アマルは寂しいです!」  

 

 と、駄々をこねるのだ。ひとり寝って、お手洗い行くだけだからね。すぐ戻ってくるからね。

 

 全く子どもじゃないんだから……いや、まあ現代で言うと15歳は子どもの範疇にばっちり入るな。

 

 あー、うん、これ以上はいけない。自分で自分の首絞めてる。俺がロリコンのクソ野郎になっちまう。

 

 でも、待ってほしい。

 

 アマルは全体的に華奢だが胸は大きいし、尻だって安産型をしている。身体だけ見ると大人の女だ。だから、俺はロリコンではないし、手を出したって問題ない。

 

 そこまで考え、思わず神妙な顔になる。

 

 自分で言っておいてなんだが、説得力の欠片もなかった。

 

(暫くは、自重しようかな……。いや、それはアマルが許さないか。アイツ、俺に抱かれないと拗ねるんだよなぁ)

 

 遠い目。

 ああ、畜生め。何て不毛な考えだ。

 手を出したことには後悔していない癖に、ふとした瞬間現代の倫理観が顔を出す。

 

 ぺちり、と頬を軽く叩いて思考を戻す。

 

 ……えっと、そうだ。

 

 あの夜、厨房の前を通ると何やら中から、ゴソゴソと物音が聞こえた。まさか泥棒か。そう思い恐る恐る厨房を覗くと……そこには蜂蜜壺を片手に抱え、一心不乱に蜂蜜をペロペロしているフランチェスコの姿があった。

 

 正直、空いた口が塞がらないとはまさにこの事だと思った。

 

 アマルは俺の背に隠れながら、ぼそりと「なんて浅ましい人間だ。本当に穢らわしい」と毒気づいた。不機嫌さを隠さないその口調に苦笑する。アマルは、俺以外の人間にかなり厳しい。

 

 アマルが側にいる手前フランチェスコに声をかけるわけもいかず、見なかったことにして俺はその場を去ったのだった。

 

 盗み食いをしているフランチェスコの姿を見て呆れはしたが、不思議と悪感情は湧かなかった。むしろ、フランチェスコらしくて良いとすら思った。これもフランチェスコの人徳なのだろう。

 

「後で、蜂蜜湯でも差し入れでもしてやるか」

 

 フランチェスコの喜ぶ顔が浮かび、自然と眼が和らいだ。

 

 

 

 




フランチェスコはストーンハーストのくまの◯ーさん。


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忘却すべき者たち

 

 

 黄昏時。

 

 夕日が墓地を淡く照らす頃、俺はやっと墓地全体の落ち葉を掃き終えることができた。この広さをひとりで掃除するともなるとかなりの労力が必要になる。現に俺の両腕は軋み、動かすごとに悲鳴をあげていた。

 

「修道院の規模に対して、修道士の数が圧倒的に足りていないのが問題なんだよなぁ……」

 

 人手が足りないため、ひとつの労働につき2人以上の人員を割くことはできない。故に、畑仕事や薪割り、掃除など様々な修道士の労働は基本的に1人ないし2人という少人数で行うのである。

 

 額に滲んだ汗をローブで軽く拭った。

 

 修道院へ戻ろう。そして、アマルに疲れを癒してもらうのだ。アマルは肉体労働をした際、必ず俺にマッサージを施してくれる。それを受けると不思議と身体が軽くなり、翌日筋肉痛も起こらない。

 

 仕事から帰るとマッサージに美味しい食事が待っている。更に、その夜アマルは俺に女として嫌と言う程尽くしてくれる。

 

 まぁ、夜事情に関しては、ほぼ強制に近いものがあるが……。

 

 それにしても、良く俺も毎晩アマルに付き合えるな。日本にいた頃は、ここまで性豪ではなかったはずだが。

 

「ははっ、まさかアイツ食事に精力剤を入れているってことはないよな? 流石にないよな?」

 

 …………いや、アマルならあり得る。

 

 言葉で否定したものの、心の中まで否定できなかった自分が恨めしい。

 

 誤魔化すようにあちこちに視線を飛ばしていると、偶然墓地の片隅に生える木々の間にひっそりと佇む石が目に入った。

 

「なんだ、あれ?」

 

 石がある場所は、まるで墓地という空間から隔離されているような位置だ。興味が湧き、俺はその木々を抜け石に近付く。

 

 そして、俺は目を見張った。何故なら、夥しい数の古び苔の生えた石が、無造作に突き立てられていたからだ。

 

 石の大きさはA4用紙程度だろうか。そこまで大きくはなく、石の形も不揃いで不格好だ。

 

「これは……墓石か?」

 

 どの石にも名前は彫られていないようだ。しかし、墓地にあえてたてられているのだから、この石が墓石であることは間違いないのだろう。

 

 名前もなく、放置された墓石群。

 

 所謂、無縁仏というものだろうか。であるのなら、このように合祀されている理由も分かる。しかし、何故隔離するようにこんな隅に追いやられているのか。

 

 一番手前にある墓石をもう一度注意深く見てみる。雨風に晒され、今にも割れてしまいそうな墓石。表には何も彫られていない。身を乗り出し、墓石の裏側も見てみる。

 

「……ん、あれ? だいぶ擦れているけど、何か彫られているな。文字か?」

 

 更に墓石に顔を近付け、文字を読む。

 

「……これは、警句である。先に来るものは、死の器へ。後から来るものは青き女神の器へ」

 

 耳鳴りがする。三半規管が揺れ、チカチカと視界が点滅している。立っていることさえ精一杯だ。何とも言いがたい感情が、胸の内をのたうち回る。

 

 憂惧か、恐怖か、増悪か。

 

 分からない。分からない。分からない。

 

 自身の感情さえ、ろくに理解できないことを理解し、俺は自信の虚弱を呪った。

 

「全てを終え死で満たされた器は、地を這う悪竜となる。我らカエルムに仕えし者の役目は、この地から溢れる死を押し留めることなり。悪竜は切り捨て、燃やし、打ち捨てよ。忘却は救いとならん。……ああ、カエルムの十字架を受け継ぐ者よ。十字架の下、其方は悪夢から守られるだろう。故に、役目を果たしたまえよ。悪夢を恐れるなら、役目を果たしたまえよ」

 

 どくり、と心臓が騒ぎ出す。

 

 首から下げた十字架を握った。

 

 喉が渇く。

 

 汗が吹き出る。

 

 駄目だ。理解するな。そう思いながらも、この文字から目が離せない。これが意味のない言葉であると思うほど俺は愚かではない。だからこそ、理解したくない。

 

 ぽたり、と何かが滴る音がした。視線を落とすと、十字架を強く握り締めすぎてしまったようで、掌が裂け血が流れて落ちている。ぼんやりとそれを眺めていると、幾分か気持ちが凪いだ。

 

 俺はもう一度文字を見返す。

 

 「器……」

 

 それはアマルのことなのだろう。

 アマルが双子であったことを考えると「先に来るもの」というのは、「先に産まれた者」。つまり、アマルの姉を指しているのではないか。

 

 死の器というものが、このストーンハーストから溢れる死を押し留める役割を担っている。だが、死の器の詳しい内容は全く分からない。この地に溢れる死。そして、その役目を果たした器が悪竜となる。それは一体どういうことだ?

 

 ……ストーンハーストの悪竜伝説の由来は、この死の器なのだろうか。

 

 悪竜は切り捨て、燃やし、打ち捨てられる。つまり、殺されてしまう?

 

 「後から産まれたもの」はアマルのことだ。青き女神を継ぐ器……青き女神とは何だ?

 

 そこまで考えて、目眩がした。

 

 

 ―――空を仰ぐ青いドレスの女性。

 

 

 一瞬、その姿が脳裏をよぎる。

 

 俺は、彼女を、知っている?

 

 いや、そんなはずがない。

 

 

 ――――そんなはずが、ない。

 

 

 

 

 



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All You Need Is Insanity




 ーーーー狂/愛こそ全て。


 

 

 

 空を仰ぐ青いドレスの女性。

 

 ……青き女神。

 

 その言葉が俺の脳をかき乱す。

 

「ぐっ……ああっ、はぁ、あぐぅ」

 

 息ができない。岩に鉄を叩き付けたような甲高いノイズが走る。断続的な砂嵐が視界を遮る。

 

 頭の中に、何かが入り込んでくる。

 

 俺は朦朧とする意識の中、膝をついた。木々の間に揺らめく夕日に手を伸ばす。

 

 優しく絡めとられ、ひんやりとした体温が伝わる。

 

 

 誰かが俺の手を―――

 

 

 それと同時に、視界が真っ白になった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 ――ーー私は狂っている。

 

 

 貴き我が血。

 

 この印章がその証であり、私こそ王家に連なる者。だからこそ、私は役目を果たさなければならない。聖地を奪還し、我が血族の威信を取り戻す。それこそ我が使命。

 

 

 

 ***

 

 

 

 名誉と栄光を手にするはずの旅路だった。

 

 聖戦の名の元に、多くの異教徒を凌辱し、奪略し、殺戮した。それが正しい行いだと信じていた。

 

 ぽたりぽたり、血が流れ続ける。

 

 また、仲間が死んだ。

 これで何人目だろうか。

 ああ、そうか。

 私は屍が百を越えてから、数えるのを止めたのだ。

 

 血で黄昏に染まる戦場。

 

 こびりつく臓物の臭い。

 

 投げ捨てられた屍の山。

 

 屍に集るハエを見て、私は嗤った。

 楽しくも嬉しくもない。しかし、嗤いが止まらない。

 

 気付いてしまったからだ。

 

 仲間も異教徒も屍になれば、腐り落ち何も残らない。この世界は、あまりにも残酷だ。

 

 名誉も栄光も夢と同じく、虚構に満ちている。そこに何の意味があるというのだ。

 

 ああ、誠に現実こそ悪夢に他ならない。

 

 

 ***

 

 

 戦いを終え、数少ない腹心とともに森の中をさ迷い歩く。帰る場所などありはしない。例えあったとしても、私はそこに行くことはできない。何も得ることができなかった私にはその資格はない。悪夢は現実であるからこそ、私は真の眠りにつくことができないのだ。

 

 どれほど、歩いただろう。

 

 私たちは大きな岩が環状に置かれている場所へと行き着いた。ここで終わってしまおうか。私には何もない。私は生きている意味さえ失っている。生きることに救いなどない。しかし、死が唯一の救いとなり得るのだろうか。

 

 

 カラン、と音がした。

 

 

 暗転/反転

 

 

 心臓が哭いている。

 臓物、脳、血管全てが脈動している。

 

 見てはいけない、と脳裏で警鐘が鳴り響く。

 触れてはいけない。話してはいけない。

 そうしないと、狂ってしまう。

 

 そうだ。狂気は伝染する病のようなもの。

 

 だからこそ、隠さねばならぬ。

 

 カラン、と地面を蹴る音が聞こえる。蹄の音だ。踊っている。踊っている……本当に? 

 

 カラン、ともっと近くで音がした。

 近くで、いや、あまりにも近すぎる。……まるで、耳元で囁かれているようだ。

 

 ああ、そうか。

 これは脳に直接響いているのだ。

 

 それを理解した瞬間、ザザッっと脳が焼ける音がした。良い匂いだ。脳髄が沸騰する。ああ、ああ。ひひ、ひひひっ。

 

 

 焼ける焼ける狂う狂狂狂狂狂……ザザッ、カラン。

 

 

 

 ―――ああ、肉塊(かのじょ)は一体……?

 

 

 

 ソレが視界に入った瞬間、私はその中に女神を見た。

 

 真っ白な花畑。

 

 風に舞う青い衣。

 

 銀色の髪は煌めき揺蕩う。

 

 鮮紅の瞳はただ宇宙(そら)を映している。

 

 私は、心から彼女を美しいと思った。

 

 がらんどうの心に、色彩が甦る。そして、理解した。彼女の深淵こそが私をここに導いたのだ。

 

 まさに運命。在りし日の戦場は、あの屍の山は、どこまでも響く阿鼻叫喚は、今ここで彼女と会うためにあったのだ。

 

 愛しい人よ。

 

 どうか笑って欲しい。

 

 どうか振り向いて欲しい。

 

 私は貴女の心が欲しいのだ。

 

 貴女が宇宙を夢見るなら、私は身分も名も捨てカエルム(宇宙)になろう。ああ、貴女に愛する待ち人がいたとしても、それは私にとって些細なことだ。

 

 宇宙を通して待ち人を想うならば、カエルムとなる私を愛していることと同義。あは、ひひっ、くひひひ。

 

 女神の器はもうひび割れ、死が溢れかけている。

 

 駄目だ。それでは駄目だ。

 

 新たに用意しなければならない。

 

 私は女神のために全てを犯し、全てを罰し、全てを殺す。何を犠牲にしても良い。彼女こそ我が免罪符。

 

 血をもって女神に器を捧げよう。

 この悪夢に女神を繋ぎ止める楔の器を捧げよう。

 

 そして、ここに石櫃を建てるのだ。

 彼女を守り、隠すための石櫃。

 そう、ストーンハーストを。

 

 

 ――ーーああ、故に、私は愛して(狂って)いる。

 

 

 

 故に、貴女を見ることが叶うのだ。     

 だから、聖句を唱えたまえよ。

 

 いと尊きお方。

 

 私は貴女に従います。

 

 私は罪人。

 

 どうか、私の罪をお許しください。

 

 ああ、大いなるお方。

 

 あなたは私の罪からの救い主。

 

 貴女に、全てを捧げます。

   

 

 女神に拝謁する資格を持つ者。

 

 ペレグリヌスとは、かねてからそういうものだ。

 

 

 

 ――ー―ああ、君もそうなのだろう?

 

 

 

 



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それは祝福にも似て

 

 

 暗転する。

 

 不協和音が鳴り響き、ノイズが走る。

 

 ストーンハーストから両胡村に場面が変わる。

 

 ーーーザザ、ザザザッ。

 

 視界が歪む。

 

 何かが焼ける匂い。

 

 炭化した屍。

 

 赤い世界。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 白。

 

 その時のことは、あまり覚えていない。

 正確に言うと、覚えていたくないと思い記憶に蓋をした。

 

 そうしなければ、狂っていた。胸の内を掻きむしる激情が溢れ出し、世界を呪っただろう。

 

「……木造建築ということもあり、火の回りが非常に早く……到着した頃には全焼、して。……村人は、炭化……身元不明………。唯一、綺麗な……顔を……確認、この女性の――ーー」

 

 警察官が言うには、村人は一人残らず亡くなったという。

 

 

「―ーー―身元は分かりますか?」

 

 

 俺は警察官に言われるがまま、遺体を見た。

 長い濡羽の黒髪に縁取られた白い肌。艶やかな朱色の唇は微かに笑みをたたえていた。頬に手で撫でる。肌は滑らかで、驚くほど冷たい。

 

 静代、と掠れた声が漏れた。

 

 彼女は……静代は、こんなにも綺麗なのに死んでいるのだと言う。嘘だ、と思った。眠っているだけだ。そう、言い返したかった。

 

 冷たい。

 冷たいのだ。

 生きている人の温かみを一切感じない。

 安藤静代は、間違いなく死んでいる。

 

「安藤さん、お辛いとは思いますが」

 

 問いかける声に頷く。

 ぼんやりと俺は静代を見詰めた。

 

「……妹です。この娘は俺の妹、安藤静代です」

 

「そう、ですか。……お悔やみ申し上げます。」

 

 気まずそうに目を伏せる警察官に、俺は力なく首を振った。

 

 慰めなんていらない。

 祈りなんて求めない。

 そんなことをしても、もう戻ってこない。

 

 

 空欄。

 

 

「……死因は、一酸化炭素中毒。発見場所は……地下室。火から逃れようと地下室へ……おそらく、地下室から洞窟に――しかし、不審な点が―ーーー」

 

 茫洋とした思考。

 言葉が入ってこない。

 

「……足裏に傷が多く、裸足で岩の上を歩――。倒れた身体の向きが……洞窟の入口の方ではな……地下室の扉を向いて。洞窟の奥まで煙は届かない。そのまま……助かったはず。しかし――妹さんは洞窟に逃げ、何故かもう一度戻――ーーー」

 

 

 白紙、余白、空白。

 

 ブランク。

 

 スペース。

 

 

 ーーー虚無。

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 ―ー―気がつけば、俺は静代の墓の前に立っていた。

 

 

 ぽたり、と水滴が落ちる音がした。

 

 雨だろうか。

 空を見上げる。

 おかしいな、今日はこんなにも晴れているのに。

 

 ぽたり、ぽたり。

 

「あれ、雨なんて、降って………ふっ、ぐっ」

 

 そこまで言って、俺は自分が泣いていることを知った。それを理解すると、もう駄目だった。全てが決壊した。

 

「しずよ、静代、静代っ、あああっ!」

 

 涙が止まらない。

 

「なんで、何でなんだよっ!! くそ、くそくそっ。静代は誰よりも幸せになるべき存在なのに、なのに!! そのために、俺は、俺は。どうして、どうしてっ……何もしてやれなかった。守ってあげられなかったっ!!!」

 

 空を仰ぎ慟哭する。

 

 俺は神のために祈れない。

 神の存在を信じていない故に、俺はいつだって神ではない誰かのために祈ってきた。だから、罰が当たったのだろうか。

 

 

 そうであるなら――――

 

 

「――死ね。死ね。死ね。死ね。お前が死ね。静代じゃなくて、お前が死ね!! お前だけが死ねっ!! ああ、お前が……俺、俺が死ねば良かったんだっ!!!」

 

 視界が怒りで真っ赤に染まった。

 

「死んでしまえ」

 

 どこまでも激しい感情が噴き出す。

 

「むごたらしく死ね」

 

 衝動的に落ちていた石を拾い、自身の脳天めがけ振り下ろそうとした時、カランと音が聞こえた。

 

 その音は直ぐ後ろから聞こえた。

 振り返ると、そこには誰もいない。

 

 カラン、とまた音がした。

 

 回りを見渡しても何もいない。しかし、俺はそれがただの空耳とは思えなかった。何故なら、その音は静代がいつも履いていた下駄の足音に似ていたからだ。

 

「……静代、なのか?」

 

 応えはない。

 

 当然だ、と思いながらも俺は酷く落胆していた。

 分かっていた癖に落ち込むなど、どこまでも救いようがない。

 

 ため息をついて、目を伏せる。そして、俺は地面に落ちているあるモノに気が付いた。

 

 白く、素朴な花。

 

「っああ、……ふっ、ぐ、うう」

 

 それは静代が好きだった花、白詰草。

 季節外れの白詰草が一輪、ひっそりと置かれていた。

 

 それを見て、止まりかけていた涙が溢れてくる。

 

『兄さん、どうか泣かないで下さい』

 

 そう言って、優しく微笑む静代が、涙でぼやけた視界の先に立っているような気がした。都合が良い妄想も甚だしい。それでも、そう思わずにはいられなかった。

 

 

『――――約束。私を想って、生き続けて』

 

 

 その言葉は、祝福(呪詛)にも似て。

 

 

 

 




生きて想い続けてください。私だけをずっとずっと……永遠に。


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声にならない悲鳴

 

 

 

「――――く、どの。しっかり、気を強く持ちなさいっ! ああ……と、共鳴してしまっているのか。いや、黒殿……っ、駄目だ。白痴の悪夢にのまれてはいけないっ!」

 

 声が聞こえる。

 

 ひんやりと冷たい手が、俺の頬を何度も撫でた。少し固い掌。気高く、強く、優しい彼女らしい手だった。

 

「黒殿、見てはいけない。聞いてはいけない。話してはいけない。それに隙を与えるなっ! ああ、どうか、貴殿だけは……貴方のままでいて。駄目だ。行かないで。私を置いて行かないで。お願い、だからーーー」

 

 悲痛な叫びが反響する。

 

 ぽたり、と水滴が頬に落ち流れて消えた。泣いているのか。……ああ泣いて、くれているのか。

 

 どうしてだろう、と思った。どうして、お前は俺にそこまでしてくれるんだ。

 答えなんて俺には分からない。分かったとしても、自分には返せるものはないかもしれない。

 

「黒殿……目を覚ましてくれ」

 

 彼女は俺に声をかけ続ける。最初から抗うことを選ばず、逃げることしかできなかった俺には、彼女があまりにも眩しい。

 

 お前の方が、自身のことは省みず、誰かのために悩み、誰かのために苦しみ、誰かのために足掻いているだろう。それは笑ってしまうほど不恰好で、不器用な生き方だ。

 

 また、頭を撫でられた。

 

 手が冷たい人は、心が温かいらしい。それが本当かどうか俺には分からないけれど、少なくとも彼女は俺にとって誰よりも温かった。

 

(起きないといけない。待ってくれてる。俺を望んでくれている。でも――――)

 

 目を開ける。それだけの動作が、酷く重い。目を覚ますことに、得体の知らない恐ろしさを感じる。

 

 ――――このまま寝てしまえ。

 

 心がざわめく。

 

 身を任せ、深い眠りにつくが良い。それが、救いだ。それだけが、救いだ。

 

 忘れたかったのだろう?

 

 妹を捨て、故郷を出た罪悪感を。

 

 赦されたかったのだろう?

 

 妹をひとりで死なせてしまったことを。

 

 影が囁く。 

 

 思考など不要だ。

 

 何も考えず受け入れれば良い。

 

 今までと同じく、考えないように歩めば良い。

 

 そうして、ずっと逃げれば良い。

 

 何も考えずただ逃げれば良い。

 

 何を躊躇している? 

 

 お前はいつもそうしてきただろう? 

 

 否定しようと、口を開く。しかし、言葉が紡げなかった。逃げて逃げて逃げて。そうして、俺はここにいる。それは誤魔化しきれない事実だったからだ。

 

 息ができない。いや、息をしたくない。ここで終わってしまおうか。己の存在を肯定できない時点で、俺はどうしようもない人間なのだ。俺は、もう生きる意味がない。終わるべき存在なのだ。

 

 そうだ。

 

 だから、身を任せたまえよ。

 

 ペレグリヌス、外から来る者。

 

 (から)の器。

 

 (カエルム)の器。

 

 その身を私に任せたまえよ。     

 

 頭に声が反響する。

 

 もう少し、そう後少し。

 

 我らはひとつ。ひとつは我ら。

 

 そう、ひとつに、なるのだ。

 

(ああ、そうか。俺はそのために……ここ、ストーンハーストへ)

 

 再び眠りにつくために身体の力を抜こうとして、強く引き寄せられギュっと抱き締められた。微かな檸檬の香りが鼻腔を擽る。

 

「……貴殿の(しがらみ)が何なのか、私には分からない。貴殿の苦しみも理解してあげられない。私は貴殿の悲しみに寄り添うことはできない。だって、貴殿は元より救いを求めてなどいないだろう」

 

 どくり、と心臓が跳ねる。

 

「貴殿は――ー貴方は誰よりも優しい人だから、いつまでも自分を責め続けるのね。救いなどいらない。祈りなんて求めない。そう、思って生きている。死を願いながら生きている」

 

「…………ッ」

 

「黒殿、貴方はただ裁かれたいのでしょう? 他の誰でもなく、貴方の心に楔を残したその人に、自身を裁いて欲しいのでしょう?」

 

 声にならない悲鳴が空気を震わせた。

 

 

 

 




彼女は、誰よりも不器用で。誰よりも優しい。だからこそ、誰よりも報われない。


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言うべきことは

 

 

 

 

「出会って1年以上たっているにもかかわらず、私のことを何も知らない、と以前私に貴方は言いましたね。分かる。分かるよ。確かにそうだ」

 

 彼女は静かに語りかける。

 

「しかし、それは私も同じこと。貴方は、気付いているだろうか。私は貴方のことを何も知らない。故郷や生い立ちも何もかも知らない。それは、貴方が私に何ひとつ語ってはくれないからだよ。……不平等だとは、思わないか?」

 

 その言葉に、嫌悪や怒りの感情は一切見付けられない。きっと、不平等だと言いながらも、俺を責めている訳ではないのだろう。だって、彼女の声はこんなにも柔らかく優しい。だからこそ、苦しい。

 

「そんな顔をするな。別にそれで良いんだ。不平等でも、良いんだ。得てして、この世は不平等で不条理なように創られている。だから、何も気にすることはない。貴方は何も間違ってはいないよ」

 

 言い聞かせるように彼女は呟く。それは、俺に対してなのか。自分自身に対してなのか。それとも、両方なのか。

 

 彼女は俺の頬を撫で続ける。

 

「あの方に関わらない方が身のためだ、と貴方は早い段階で気付いていはずだ。ベネディクト修道司祭も忠告しただろう。……それでも、貴方は逃げなかった」

 

 逃げなかったのではない。放っておけなかったんだ。アマルを独りにできなかった。そうしては、いけないと思った。

 

 

 ―――だって、アマルが静代に似ていたから。

 

 

 俺が置き去った妹に、どこか似ていたから。もう、見捨てることはしたくなかった。俺はアマルを救い守ることで、罪滅ぼしをしたかったのだ。それは、どこまでもひとりよがりな代償行為だった。

 

 

 ……俺は、なんて救いようがない愚か者だ。

 

 

「随分前に、貴方は故人の夢を見た、と私に話してくれたな。あのときの私は、貴方をできるだけ危険から遠ざけたくて、曖昧な言葉しか言わなかった。いや、言いたくなかったのだ。このストーンハーストでは、夢とは特別な意味を持つ……意味のない夢などあり得ない、と」

 

 そう、あり得ないんだよ、と彼女は再度呟いた。懺悔のような呟き。しかし、赦されたいとヨハンナは決して思っていないのだろう。

 

「貴方に…………」

 

 ヨハンナは俺の首にかけたロザリオを握る。

 

「貴方に故人が会いたいと願っているのだろう、と私が答えたとき自身がどういう表情を浮かべていたか、貴方は気付いていたか?」

 

 ヨハンナはそう言って、身を固くした。きっと、この後に続く言葉は、俺にとって厳しいものなのだろう。だから、彼女は俺の心を慮って躊躇しているのだ。

 

 それでも……それでも、ヨハンナは言葉を発した。

 

「……貴方は、微笑んでいたよ」

 

 その声音は、身を切るような苦しみを孕んでいた。

 

 ああ、お前が自身を犠牲にする女の子だって知っていたさ。異邦の地に馴染めない俺のために、あえて憎まれ口を叩き気を紛らわそうとしてくれた。自ら進んで損な立ち回りばかり。

 

 今だって、手の震えが隠せていない癖に。それでも、お前は前に進むんだな。傷だらけになりながら、自身を省みず。

 

 はっ、と浅く息を吸う音が短く聞こえた。

 

「直ぐに顔を引き締めたが、救われたように貴方は微笑んでいた」

 

 俺は、そんな顔をしていたのか。

 

 もう、よく、わからない。

 

「――それは残酷な拷問を受け続けた者が、死という救いを得た時の笑みに似ていた。私には、それが分かる。分かって、しまうのだ。私は、私は……スコトゥス(処刑人)家の人間だから」

 

 それは、切なくて苦しくて痛くて、悲鳴をあげそうになるのをぐっと堪えたような声だった。俺は、彼女に、辛い言葉を、言わせてしまった。

 

「貴方が自身を罪人だと思うのであれば、ストーンハーストは正しく牢獄なのだろう。どのような意図かは分からないが、故人は貴方が逃げぬようストーンハーストに閉じ込めた。そして、貴方は裁かれたいと願った。しかし、私は黒殿が罪人だと思わない。本当の罪人は自身の罪深さに気付けないからだ」

 

 ヨハンナは絞り出すように、喘ぐように、声を出した。口にすることさえ、罪であると思っているのだろうか。

 

 馬鹿だなぁ、と俺は口を動かす。しかし、その言葉が空気を震わすこともなかった。

 

 お前が罪を犯したというのなら、俺はお前の罪を赦す。誰も彼もヨハンナを信じなくても、俺はお前をずっと信じてる。

 

「……それに、それにね。貴方は私に優しくしてくれたわ。こんな血に濡れ汚れた一族の私に、微笑みかけてくれた。貴方とすごす何気ない日常が楽しかった。……それが幸せだと知った。だから、だから――――」

 

 幸せとは特異であって、共通ではないというヨハンナの言葉が脳裏に甦る。静代も、そうだったのだろうか。俺とすごす何気ない日常を幸せだと思ってくれていたのだろうか。

 

 

 

 

『――だって、私はもう既に幸せなのですから』

 

 

 

 

 だから、あの時そう言ったのだろうか。ならば、俺は最初から間違っていたのだ。静代の幸せを勝手に決めつけてしまっていたのだから。

 

 意識をゆっくりと浮上させる。

 

『何故、目覚めようとする。現実こそ悪夢だ。私に身を任せれば良い。そうすれば、何も考えず全てから解放されるのだぞ』

 

 影が囁く。

 

 ズルズルと這いずる音が聞こえる。

 

 原初の夢、あるいは白痴の者。

 

 ストーンハーストに来てから、ずっとずっと影に潜み、俺を深淵へ引きずり込もうとした存在。

 

 どくり、と心臓が躍動する。

 楽しそうに、どくり、どくり、と。

 

 断続的な光が脳の機能を著しくさせる。

 

 あやふやな境界。

 

 這いよる狂気。

 

 あの、赤いーーー

 

 

「――――私は、貴方を守りたい」

 

 その言葉を聞いて、心が暖かくなった。応えないといけない。報いなければいけない。俺はお前にいつだって、救われてきたんだ。

 

 原初の夢にして、白痴の者……カエルム・ストーンハースト。ああ、お前なのだろう。

 

(ああ、白痴の狂信者め! 俺はお前になんかならない!)

 

 心の中で悪態をつき、意識してそれをはね除ける。瞼を開くと、祈るように俺を見詰めていた彼女と目が合った。

 

「……ヨハンナ」 

 

 彼女の、ヨハンナの名前を呼ぶ。自分でも驚くほど掠れ弱々しい声だった。聞こえただろうか。聞こえていると良い。

 

「黒殿っ!」

 

「ヨハンナ」

 

 もう一度、名前を呼ぶ。頬を撫でてくれていたヨハンナの手をそっと握った。

 

「黒殿、良かった。目覚めてくれたのだな」

 

 ヨハンナには言いたいことが沢山ある。でも、まず言うべきことは―――

 

「―――ヨハンナ、ありがとう。お前が居てくれて良かった」

 

「っ、ああ、まったく、ずるいな」

 

 ヨハンナは嬉しそうに頬を緩め、静かに一筋の涙を流した。

 

 

 



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空を仰ぐもの

 

 

 ――ーー時を刻む。

 

 カラン、と刻む。

 

 たったひとりで、気の遠くなる時間、(わたくし)は空を仰ぎ続けた。もう二度と戻ることはできない同胞、あるいは母の元。星雲のずっと先の先。

 

 時が刻まれていく。

 

 時は無情で、無慈悲だが、何よりも正確だった。

 

 ふと、気が付けば彼らはそこにいた。

 ああ、沢山の声が聞こえる。

 楽しそうな笑い声。

 

 

 ……なんて、羨ましい。

 

 

 故に、妾は――――

 

 

 

 

 ***

 

 

「黒殿、気分は落ち着いたか?」

 

 はっ、と息を吐いて、俺はヨハンナを見上げる。そして、彼女の瞳の中に自分を見つけ、自分が確かに今この時この場所に存在しているのだと安堵した。我ながら単純な思考回路をしている。しかし、どこか現実味がないこのストーンハーストで、自身の存在を見失うことの方が何より恐ろしい。

 

「……黒殿、本当に大丈夫か?」

 

 俺の額に軽く手を当て、ヨハンナは眉を下げた。どうやらまだ俺を心配してくれているらしい。こいつは以前、優しさは有限だと言っていたな。きっとヨハンナの優しさは、一生使っても使いきれないものなのだ。ヨハンナは素直じゃない。でも、それが本当にヨハンナらしい。幸せな気分になって、笑った。

 

「ああ、大丈夫だよ」

 

 ヨハンナは俺を見詰め、ポカンと口を開いた。珍しく驚きが滲んだ表情に、思わず首を傾げる。

 

「ヨハンナ、どうしたんだ炭酸の抜けたコーラみたいな顔して」

 

「たんさんの抜けたこーら? 貴殿は時々分からない言葉を使うな。それと、何だか馬鹿にされている気がする。そのたんさんの抜けたこーらとはどういう意味なのだ?」

 

「……うーん。説明するのが難しいな。刺激が消えた甘ったるい間抜けな顔の比喩みたいな?」

 

「喧嘩を売っているなら買うが?」

 

「ごめんなさい」

 

 即座に謝る。悪かったから、そのファイティングポーズを解いて欲しい。お前と戦って勝てる気がしない。両手を上げて、降参のポーズ。

 

「謝るなら最初からそのような言動をしないように」

 

「でも、お前はいつもそんな俺を許してくれるだろう?」

 

「ーーーーッ」

 

 ヨハンナは無言で、僅かに頬を膨らませた。否定の言葉が出ないあたり、図星なのだろう。子どもっぽい仕草に、思わず笑みが漏れる。

 

「笑うな。貴殿のその顔を見ると無性に頬を打ちたくなる」

 

「そうか。我らが主に倣い、打ちやすいように右の頬を差し出そうか?」

 

「ならば、右を叩いた後は、左の頬を差し出すように」

 

「このドSめ」

 

「馬鹿者」

 

 ヨハンナはそう言って、クスリと笑った。あどけない笑み。それは、俺の好きな笑顔だった。

 

「それで、さっき何に驚いたんだ?」

 

「……むぅ」

 

 言いずらそうに、視線をあちこちに飛ばす。それも長くは続かなかった。消え入りそうな声で、断続的に呟く。

 

「……その、先程の笑みが、私が、好きな……貴殿の、笑みだった、ので」

 

「え」

 

 息が止まりそう。

 同じだ。同じだよ。

 俺だってお前の笑みが、好きだ。

 そう言いそうになる自分を必死に押し止めた。

 

「ち、違うぞ。好きというのは、言葉の綾だ。別にそれ以上の意味なんてない。先程も貴殿の無闇やたらに幸せそうな笑顔を久しぶりに見て、驚いただけだからっ!」

 

 酷く気恥ずかしげに、言葉を畳み掛けるヨハンナ。こいつがこんな真っ赤に染まった情けない表情を浮かべるなんて、ギャップがありすぎ。ああ、止めろ。止めてくれ。こっちまで気恥ずかしくなる。取り敢えず、息を吸って体制を整える。

 

「ふぅ、はぁ。あー、分かった。分かったから、落ち着け」

 

「……わ、私は落ち着いている」

 

 プイッ、と顔を背けるヨハンナの明らかな照れ隠しに、ときめきを感じたのは気のせいだ。……気のせいだということにした。

 

 身体を起こし、辺りを見渡す。木々から漏れるオレンジ色の日差し。どうやら、意識を失ってそれほど時間がたっていないらしい。

 

「まだ黄昏時だな」

 

「そう、だな。こんなやり取りをしている場合ではなかった。黒殿、早くここを抜けよう」

 

 さっきまでとは違うヨハンナの固い声。彼女は鋭い目付きで、夕日に照らされ長く伸びた影を見詰めていた。

 

「ヨハンナ?」

 

「黄昏時は、危険だ。貴殿も身に染みただろう?」

 

「ああ。……お前って、切り替えが早いよな」

 

「切り捨てることが早いだけだ」

 

 簡単に切り捨てられない癖に、何でもないように言う。

 

 俺は無言でヨハンナの手を握った。冷たい彼女の手が俺の熱で温められたら良い、そう思った。ヨハンナはびくりと手を震わせたが、俺の手を振り払わなかった。ギュッ、と握り返された。

 

「黒殿、行こう。きっとあの方が待っている」

 

「ああ」

 

 俺たちは足を進めた。

 木々の隙間を歩き抜ける。

 

 

 ――ーカラン、と音が聞こえた。

 

 

 思わず顔だけ後ろを振り向く。

 

 青い衣を身に纏い、佇む女性。

 夕日に照らされ、茜色に染まる銀色。

 鮮紅の瞳はただ宇宙を見上げていた。

 

「黒殿……?」

 

 呼ばれて、ヨハンナに視線を戻す。心配そうに俺を見詰める彼女に、何でもないと呟いた。

 

 再び歩き出す。

 俺はヨハンナにバレないよう、再度視線を後ろに向けた。

 

 しかし、もう青い衣の女性の姿はどこにもなかった。

 

 ―ー―ただ無数の墓石が、静かに佇んでいた。

 

 



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if~あり得たかもしれない未来

執筆を宣言していたヨハンナ√の前に、元々書いていたカタリナ√をぶちこむ勇気。


それはifの物語。

何もかも捨て、大切だった全てを置いて生きて行くことを決めた有り得たかもしれない世界線。



 

 

 

 礼拝堂にただひとり佇み、淀んだ空を見上げる。

 

 「また会いに来る」その言葉を支えに、真っ暗闇の中祈りを捧げる。

 

 

 ――ー私は、あの方を待っている。

 

 

 たった一度、言葉を交わしただけのひとを、ずっと、ずっと、私は待ち続ける。

 

(あれから、どれ程月日が流れたのだろうか……)

 

 あの方に対して、自身が執着にも似た感情を抱いている。それは、何故だろう。自分自身のことなのに……いや、自分のことだからこそ私は理解できない。

 

 それもそうだ、と諦めをないざめた思いを呟く。

 

 私は今まで何かに執着したことがなかった。自身の生死にすらどうでも良い。そこに何の感情も抱かない。何故なら、「私」という存在に「己」はないからだ。

 

 私は……私たちの存在意義は、器になり初めてうまれる。

 

(それなのに……)

 

 きしり、と胸が軋んだ。

 錆び付いた鼓動が悲鳴をあげる。しかし、がらんどうの心では、その響きすら受け止めることはできない。

 

 私は人として欠陥品なのだ。

 

 人にあるべき大切な何かが足りていない。人の皮を被った(人でなし)。それが、私たち(アマルティア)の本質。

 

 

『……君のこと、アマルって呼んで良いかな?』

 

 

 あの方の声が、心に響く。

 それはまるで深淵に差し込む光のようだった。眩しくて、でもずっと見ていたい。

 

 あの方は、私に名をくれた。

 アマルティアではなく、アマルと。

 

 浅く息を吸って吐く。

 それを何度か繰り返す。胸に手を当てると、心臓がとくり、とくりと鼓動していた。不思議な感覚だ。ただ心臓が脈を打っているだけなのに、それを暖かいと感じる。

 

 私はあの方と出会って、己に自己というものが存在することを知った。……いや、正しくはアマルという名前をあの方につけて頂いた瞬間、私という自己が生まれたのだ。だから、文字通りあの方は私の主、私の光、私の全て。

 

「――ー私たちは、誰の温もりも知り得ない。故に、この温もりを知っている私は私だけ」

 

 ふふっ、と口から声が漏れる。

 数秒置いて気が付く。嘲笑でも、失笑でも、冷笑でもなく、微睡むように私が笑っていたことを。

 頬に手を当て確かめる。口角が上がり、頬が温かい。こんなこと、初めてだ。

 

「ああ、アマル()は、笑うことができたのか。ふふっ、ふふふ」

 

 更に笑みが溢れた。

 

 こんな穢れた獣にも、人間性の欠片が魂の奥底に眠っていたのだろうか。一拍置いて、ゆっくり視線を上げた。いや、と(かぶり)を振る。そもそも、人間性がどんなものなのか、私にはよく分からない。

 

「獣が人の夢を見るなど、不遜だろうか?」

 

 問いかける。

 

 しかし、その問いに答える者は誰もいない。それで良いのだ。それで、良い。元より最初から答えを求めている訳ではない。これはただの確認作業であり、形だけの問いかけなのだから。

 

「……あのお方が、私をアマルと呼んでくださるなら、どんなに空っぽで不完全な私でも、人として夢を見ることができる。それは、なんと甘美なことか。――ああ、貴女もそうだったのでしょう?」

 

 私は虚空に手を伸ばす。

 

 もう一度、貴方様に会いたい。

 

 それが私の望み。

 

 それが、私の、夢。

 

 

 

 ――ーアンディ様、貴方様は私の罪からの救い主。

 

 

 

 

  ***

 

 

 

「――――ん?」

 

 

 

 誰かに名前を呼ばれた気がした。

 顔だけ振り返り、声の主を探す。視界にはなだらかな草原が広がるばかりで、どこにも人影は見つからない。ガタガタと小刻みに揺れる荷台に乗りながら、俺は頭を捻った。

 

「どうしたの、アンディさん?」

 

「……ああ、カタリナ。誰かに名前を呼ばれた気がしたんだ」

 

「名前?」

 

 きょとん、とした顔でカタリナは俺を見詰めた。明るい茶髪がさらりと風に靡く。

 

「私はアンディさんの名前を呼んでいないし、貴方を呼ぶ声も、私には聞こえなかったわ。きっと移動続きだから、疲れているのよ」

 

 くりくりとしたカタリナの碧色の瞳が不安げに揺れた。俺は思わず苦笑する。この娘は世話焼きで肝が据わっている癖に、少し心配症の気がある。

 

「そうかな」

 

「ええ、そうよ。もう少しで、ドレスディンに着くわ。宿を取ってゆっくり休みましょう。そうしたら、直ぐに元気になるはずよ」

 

 ドレスディンとは、この土地の中では比較的発展している街の一つである。発音は違うが、ここは現代で言うところのドレスデンだと俺は考えている。

 

 ドレスデンは東ドイツにある街だと記憶している。美しい古都として有名なドレスデンのことは、昔テレビで見たことがある。

 

 つまるところ、この土地は中世のドイツなのだ。あくまでも、おそらく……であり確証はない。間違ってたら、かなり恥ずかしいな。

 

 こほん、とわざとらしく咳払いをひとつ。気を紛らわせてから、思考を少し前に巻き戻す。

 

 ストーンハーストが建てられている場所、トートヴァルト。その名の意味は「死の森」だそうだ。死の森の奥深くにあるストーンハースト修道院。

 

 そこに戻ろうとは、思えない。いや、戻ってはいけない、と心が叫んでいる気がする。だから、もう二度と俺はあの地に足を踏み入れることはないだろう。

 

「ん、ありがとな。いつも心配をかけるな」

 

「そんなこと、気にしなくても良いのよ。だって、アンディさんは私の旦那様ですもの」

 

「……あのな、俺たちまだ正式な夫婦じゃないだろう?」

 

「近いうちに必ずそうなるわ。それと、カタリナじゃなくて、ケイティって呼んで下さい。カタリナなんて、他人行儀だわ」

 

「分かったよ。ケイティ、これで良いだろ?」

 

「ええ、アンディさん。私、素直な人はとても好きよ」  

 

 カタリナは俺の頬を優しく撫でから、軽く唇を落とした。

 

「そうか。それは何よりだ」

 

 相変わらず押しが強い。そして、俺はどうも年下に弱いらしい。小さくため息を吐いた。

 

 ストーンハーストを訪ねてきた遍歴商人であるケイティの親父さんに頼み込み、ストーンハーストを出てはや数年。今は親父さんの元で、遍歴商人見習いとして働いている。

 

 ケイティとは、その、まぁ、本当に、すったもんだ色々あって、今や恋人同士の関係だ。一回り年が離れているのに、俺のどこがそんなに良いのやら。

 

 

 ……正直、押しきられたところがあるよね。

 

 

「良く俺みたいな異邦人と一緒になろうと思ったな」

 

「好きになった人が、たまたま異国の方だっただけよ。それ以上でも、それ以下でもないわ」 

 

「お前は本当に物好きだなぁ」  

 

「そんなことはないわよ。私が好きになった人は、背が高く逞しくて、頭が良くて、面倒見も良い、誰よりも優しい人だわ。むしろ、男の趣味が良すぎるくらい」

 

「っ……あのな、俺相手に惚気るのは勘弁してくれ」

 

「私の勝ちね」

 

「いや、それどういうルール?」

 

「乙女ルールよ」

 

 ふふん、とケイティは得意げに胸を張った。それに合わせ、豊かな胸が弾んだ。くそ、何が乙女だ。もう乙女じゃなくなっているくせに。ああ、本当に目に毒だ。止めて欲しい。

 

 俺は気まずくなって、チラリと馬車を運転している親父さんに視線をやった。親父さんは、一瞬振り返って肩をすくめた。会話は案の定丸聞えだった。ちくしょう! ここにプライバシーもクソもない。

 

 数回深呼吸をし、気持ちを落ち着かせてから言葉をかける。

 

「過大評価も甚だしいが、ありがとな」

 

 ケイティの髪をくしゃりと撫で、頬に優しくてキスをする。こうすると、ケイティの機嫌は限界突破。一日中幸せそうにしている。機嫌が良いことにこしたことはない。

 

「アンディさん。私、とっても幸せよ。早く夫婦になって、ずっと一緒にいましょうね。ふふっ、愛してるわ」

 

 ケイティはふわりと、微笑んだ。

 

「――――ああ、俺もだよ」

 

 俺もそう応えて、笑った。

 

 ……笑えていたら良いなと思った。

 

 ザザ、と視界が霞む。

 

 鈍く輝く銀色、鮮紅の瞳が脳裏を掠めた。

 

 やはり疲れているんだろう。

 

 俺は、空を見上げる。

 

 そこには、果てがない深淵のような青空が広がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カラン。

 

 

 カラン、カラン。

 

 

 カラン、カラン、カラン。

 

 

 また、貴方は、私を、置いて、行くのですね。

 

 

 

 




何気に主人公にとって、たぶん一番幸せな√であるが、彼女たちにとっては究極のBADENDである。儘ならないね、まったく。


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未来にして過去のあなたへ
秘めた想い


 

 

 

 もし、自身がただの女であったのなら、どんな人生を歩んでいたのだろうか。

 

 そんなことを考える。

  

 私が剣など一度も握ったことがない村娘であったら、と。

 

 きっと、家族を支えるために家事を行い、空いた時間に糸を紡ぐ、そんな刺激のない毎日を過ごしていることだろう。そうして、年頃になると村の祭りに参加し、そこで共に踊った男性と結婚する。

 いつしか、その人との間に子どもが生まれ、眠れない夜が続いても、自身の腹を痛めて生んだ我が子を愛しく思うことだろう。夫に寄り添い、子どもの成長を見守るのだ。そして、いつしか月日が経ち、最期は家族に囲まれひっそり旅立つ。

 

 どこにでも転がっているような女の人生。

 

 面白みはないかもしれない。

 貧しく辛い日々を送るかもしれない。

 

 だが、それで良い。それで良いのだ。幸せはそんな日々の中から生まれるのだから。

 

「……平凡な人生、か」

 

 掌を開く。

 

 幼少期から剣を振り、固くなった私の掌が視界にうつる。女らしさの欠片もない無骨な手。ああ、これが現実だ。私は間違いなく、平凡から程遠い人生を歩んでいる。

 

 (つい)の刻も、静かには迎えられまい。

 

「だが、夢を見ることぐらい許されるだろう? それが、唯一の慰めになるなら尚の事」

 

 もし、自身がただの女であったのなら―――

 

 

「―――恋を、したい」

 

 

 叶うはずもない夢。

 

「無邪気に、純粋に、脇目も振らず、ただの村娘のように」

 

 叶えるつもりもない夢。

 

 だからこそ、私は夢見ることを赦されるのだ。

 

 「私は、それで十分だ。そう……これで十分」

 

 私はそのたったひとつの(エゴ)を胸にしまい込む。

 

 

 ―――全てが終わるその時まで。

 

 

 

 ***

 

 

 修道院に入り、ほっと息を吐く。一拍おいてから、隣に立つヨハンナに視線を送った。ヨハンナは俺の視線に気が付き、柔らかく微笑んだ。

 

「黒殿、疲れただろう? 今日は、早く自室に戻ると良い」

 

 穏やかな声。その声は、正気を失いかけた俺の心にじんわりと響いた。ヨハンナはいつも俺を助けてくれる。だからこそ、疑問に思うのだ。

 

「ヨハンナはさ。どうしていつも俺を助けてくれるんだ?」

 

「――――――――」

 

 固まった。

 

「よ、ヨハンナ?」

 

 彗星のような彼女の瞳は、今にも大気圏に突入して消えそう。呼吸しているのか、心配になってきた。ヨハンナの顔を覗き込み、目の前でヒラヒラと手を振ってみる。

 

「おーい、ヨハンナ。大丈夫? 生きているか?」

 

 そう言った瞬間、手を掴まれた。怖っ!? 

 

「生存確認せずとも生きているから安心しろというか何故いきなりそんなことを聞くのだ脈略が無さすぎて意味が分からないのだが?」

 

「ちょ、早口すぎて怖いっ! 頼むから、落ち着いてくれ」

 

「私は落ち着いている」

 

 落ち着いてない奴は皆そう言うんだ。その言葉を飲み込んで、なら良かったと片手を軽く上げた。  

 

 数分の沈黙の後、ヨハンナは小さく呟く。

 

「……理由は、必要だろうか?」

 

「そんなことないけど。何でか気になってさ。俺、お前に助けられてばっかだから」

 

「そんなこと、別に気にしなくても良い!」

 

「えっ、その、ごめん」

 

 にべもなくそう告げられ、俺はしゅんと思わず顔を俯けた。

 

「あっ、ええと、その……違うんだ。怒っているとかそういうわけでは、なくて」

 

 語気を強くしすぎて、俺が落ち込んでしまったと勘違いしたのか、ヨハンナはしどろもどろになった。

 

「本当に貴殿が気にする必要がない、と思ったから……私は」

 

 彼女の震える指先から、心の中で葛藤し続けていることが伺い知れた。

 

「黒殿を助けたいと思ったのは、きっと私の浅ましくも愚かな夢の残滓なのだ。だから、貴殿は何も気にする必要はないんだよ」

 

「……ヨハンナの夢?」

 

 ヨハンナはこくりと頷いた。そして、もう一度、私の夢だ、と呟く。それは自身に言い聞かせているような口調だった。

 

「さて、貴殿はもう自室へ戻ると良い。私は少し用があるので、ここで別れよう」

 

「あ、ああ」

 

 穏やかに、哀しげに、ヨハンナは微笑む。その笑顔にどうしようもない不安を覚える。止めてくれ。そんな顔で笑うな。泣きそうな顔で笑うなよ。

 

「ヨハンナ……っ、お前」

 

「黒殿」

 

 言葉を遮り、ヨハンナは俺の首から下げたロザリオをそっと撫でた。

 

「黒殿、このロザリオを決して肌身外さないように。これは、貴殿を守る砦だ。貴殿にはあの方がついている。しかし、それも絶対ではない。先程のようなことは、これからも起こり得るだろう。だからこそ、このロザリオを大切にして欲しい。……どうか忘れないで」

 

 ヨハンナが呟いた言葉。それはロザリオを決して手放さないように、という警句の言葉なのだろうか。それとも、自身の存在を忘れないで、という彼女の願いなのだろうか。

 

 ギシリ、と心が軋む。それを押さえ込むように、唇を噛む。

 

「砦って。なぁ、ヨハンナ、待ってくれ!」

 

「――ー黒殿、私はもう行くよ」

 

「ヨハンナっ!」

 

 伸ばした手は、ヨハンナに届かない。俺は呆然と彼女の背中を見送った。

 

 

 ……見送ることしかできなかった。

 

 

 

 



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共鳴するもの

 

 

 Dies iræ Dies iræ, solvet sæclum in favilla:

 

 

 怒りの日なる彼の日は、世界を灰に帰すべし、

 

 

 teste David cum Sibylla Quantus tremor est futurus,

 

 

 ダヴィドとシビルとの告げし如く、人々の震慴驚怖は幾何ぞや。

 

 

 quando judex est venturus,cuncta stricte discussurus.

 

 

 何事をも厳しく糺し給はむとて、判官の来り給う時。

 

 

 

 

  ***

 

 

 

 ぼんやりと蝋燭で照らされた薄暗い廊下を歩く。

 こつりこつり、と石床を蹴る乾いた音を聞きながら、俺は視線を上げた。

 

 尖頭アーチが特徴的な高い天井。

 

 交差リブ・ヴォールト。

 

 フライング・バットレス。

 

 このストーンハースト修道院は、典型的なゴシック様式の建築物だ。神《ひかり》に最も近い場所とされている教会や修道院、特にゴシック様式の建築おいて、光を取り入れることを何より重視する……はずなのだが、ストーンハースト修道院はその限りではなかった。

 

 光が届かない通路。

 

 ステンドグラスさえない礼拝堂。

 

 陰気でどこか不気味な雰囲気。

 

 フランチェスコから聞いた話では、ゴシック建築様式であるにも関わらず、ここまで光を取り入れない修道院は珍しい部類に入るらしい。それが陰気でどこか不気味な雰囲気を助長させているのは間違いない。修道院は外部から閉ざされた場所だから、余計に暗く感じる。

 

 修道院は修道士たちが規律に従い共同生活をする修練の場であり、そこには認められた者でなければ生活する事はできない。世俗から隔離された場所である故に、どこか現実離れした独特の雰囲気がある。

 

 それに比べ、教会は人々が礼拝や儀礼、あるいは公的な手続きを行う場でもあった。故に、教会はキリスト教信者たちの集会場というイメージが一番しっくりくる。

 

 日本人の教会と修道院についての認識はかなり曖昧で、それらを同一視する人々も少なくない。しかし、修道院と教会を同じ括りにすること自体、間違っていると言わざるを得ない。

 

「……はぁ、くそったれ」

 

 俺は吐き捨てるように溜め息をついた。客観的に見ても、俺は酷くナーバスになっていた。

 

 今度は先程よりも大きな溜め息を吐いて、俺は右手を左胸に重ねた。鼓動を確かめるというより、押さえ付けるようにぎゅっと力を込める。

 

「ーーぐっ」

 

 息が詰まりそうなこの痛みこそ、俺がここにいるという存在証明だ。

 

 笑ってしまう。

 そんな自傷行為じみた存在証明が、俺を俺たらしめているなんて、本当に嗤ってしまう。

 

 目を瞑って、俺は深呼吸をする。

 

 蝋燭の溶けた匂い。カビた埃の匂い。流込む冷たい空気の匂い。それを鼻から肺に流し込み、気持ちを落ち着かせた。そして、意識を先程の出来事に集中させる。

 

 俺が墓場で見た悪夢。

 

 あれは原初の夢、あるいは白痴の悪夢と呼ばれる存在……カエルム・ストーンハーストのものだったのだろう。

 

 あの悪夢の中で、彼は自身を王家に連なる者であると言っていた。更に、それを証明するものが印章なのだ、と。

 

 印章……それについて俺には覚えがあった。

 

 アマルの机の隠し引き出しに印章が入っていたのだ。そうなると、カエルムの言い分が正しければ、アマルは王家に連なる者……つまり、王族の末裔ということになる。

 

 ーーー血をもって女神に器を捧げよう。

 

 悪夢でカエルムはそう言っていた。

 ここで言う『血』は、ただ血液を指している訳ではなく、おそらく『カエルムの血族』のことを指すのではないか。 

 

 要するに、自身の子孫を女神の器として提供すると彼は言ったのだ。何とも身勝手で、救いようがない。吐き気がする程おぞましい。

 

 それもこれも、カエルムがあの青き衣の女性に執着していたからだ。いや、正しくは恋という狂気に陥ったのだ。

 

 恋をしたから狂ったのか。狂ったからこそ恋をしたのか。そんなことは、きっと彼にとって些細なことだったのだろう。

 

 俺はヨハンナの言葉を思い出す。あの時、微睡みの中にいた俺に向けて彼女が発した言葉だ。

 

『――く、どの。しっかり、気を強く持ちなさいっ! ああ、――と、共鳴してしまっているのか。いや、黒殿……っ、駄目だ。白痴の悪夢にのまれてはいけないっ!』

 

 (共鳴……俺が、一体誰と?)

 

 そこまで考えて、いや、と頭を振った。

 

 答えは分かっている。ただ、認めたくなかっただけだ。

 

 ああ、そうだ。

 

 俺は誰でもなく、カエルム・ストーンハーストと共鳴していたのだ。

 

 

「……だから、俺はここの言葉や文字が理解できたんだな。ストーンハーストに来た時から、ずっと間抜けにもカエルムに影響を受けていたんだ」

 

 左手でロザリオを強く握る。

 

「修道院やアマルについて考えた時、意識が飛んだり、思考が曖昧になったりしたのは、カエルムが俺の考えを妨害していたからか。……自身の秘密の核心に触れぬように」

 

 糞食らえ。

 

 俺は心の中でカエルムに中指を立てる。

 

「空の器、か。……カエルム、お前は俺の弱さにつけこんで、俺の身体を奪うつもりだったんだな。お前のお想い人(青い衣の女性)と共にある、それだけを願って。本当に、糞くらえだっ!」

 

 ぎりっと、唇を噛みしめる。強く噛みしめたせいで、唇が裂けどろりとした血が口に流込み、錆びた鉄の味が口内に広がった。

 

 

 

 



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御心のままに

耳にした言葉は信じるな。目にしたものは幻想だ。言葉にしない言葉こそ、神秘である。かねてから、智慧とはそうして得るものなのだ。


 

 

 黄昏。

 

 ざらつく風に蠕動する木々。

 

 その先に、ひっそりと佇む夥しい墓石。

 

 蠢くあの黒い影、原初の夢、あるいは白痴の悪夢。

 

 そして、彼が恋い焦がれる青い衣の女性。

 

 彼女は一体、誰なのか。

 

 そう思いつつ、俺はどこかで彼女と会ったような既視感を覚えていた。曇ガラスの向こう側に、その人が立っているような、何とも言えないもどかしさを感じる。

 

 

 

 俺は一体どこで――――

 

 

 

「……アンディ様?」

 

 呼ばれて、顔を上げると息がかかりそうな距離に、冷涼とした美貌が視界に広がった。

 

「えっ? あ、うわあぁっ!」

 

 反射的に身体を後ろに下げようとして……自身が部屋の椅子に腰かけていることに気が付いた。勿論、気が付いた時には既に遅く、俺は椅子ごと後ろにひっくり返ってしまった。

 

 どたん! と、大きな音が室内に鈍く響く。それと同時に、アマルの酷く焦った声が耳に入った。

 

「かはっ……っ!」

 

「きゃあ、アンディ様っ!?」

 

 背中を強く打ち、一瞬息ができなかった。無理に息をしようとすると、激しい咳が出た。駄目だ馬鹿野郎。落ち着け。軋む肺を宥めるように、何度か深呼吸を繰り返し、やっと意識がクリアになる。

 

「っは、大丈夫だ。畜生。クソ食らえ。ああ、やっちまった」

 

 心配するな、と言いながら、お世辞にも上品と言い難い言葉を吐き捨てる。その時、頭の片隅で大学の友人から「立ち振舞いは洗礼しているし、君はかなり育ちが良いんだろう。でも、口はとっても悪いよね。どこかちぐはぐだ」と言われたことを思い出した。

 

 ……ああ、そうだ。

 

 嫌々ながら、育ちは良いとも。

 だからこそ、敢えて乱雑な言葉遣いをしているんだ。それは昔からの癖だった。安藤家に対する子ども染みた反抗が、俺にぶっきらぼうな態度を取らせたのだ。

 

 しかし、そんな俺とは違い、静代は常に礼儀正しく、綺麗な言葉遣いをしていた。

 役目を受け入れられなかった俺、受け入れることを望んだ静代。きっと綻びは、些細なことから始まっていた。俺が気付く、ずっと、ずっと前から。

 

 先程から、統一されず取り留めない思考が、頭をぐちゃぐちゃに掻き回す。深い溜め息をひとつついて、俺は天井を仰いだ。

 

 主よ、どうかこの迷える子羊を導いてください、と他力本願な言葉を心の中で呟く。

 

 それを声に出さなかったのは、男としての意地だった。なけなしの意地だった。何にも役に立たない意地ならば、ここで使いきってしまって良いだろう?

 

 身を起こし、転がった椅子を元の位置に戻す。

 

 幸い頭は打っていない。万が一、頭部打撲で脳に損傷でも受けてしまえば、ストーンハーストで治療することは不可能だ。それだけは避けたい。

 

「アンディ様、大丈夫ですか?」

 

 アマルは顔を真っ青にしながら、俺の背中を優しく擦る。その指は小刻みに震えていた。

 

「ああ、アンディ様、まだお背中が痛みますか?」

 

 倒れた俺よりずっと悲痛な顔をして、彼女は俺の心配をする。長い睫に縁取られた鮮紅の瞳には、うっすら涙が滲んでいた。弱々しく瞬く瞳を見て、俺は曖昧な笑みを浮かべた。それ以外の表情をどう浮かべて良いのか分からなかった。

 

 痛いのは、背中だけじゃない。

 

 どうしようもなく、心が痛い。俺が俺じゃなくなりそうな、この焦燥感は俺の胸を燻り続ける。

 

 ロザリオの上から左胸を押さえ、俺は意識して明るく言葉を発した。

 

「ちょっとだけな。でも、直ぐ良くなるさ」

 

「……そう、でも本当に?」

 

 アマルは、首を小さく傾げた。

 

「ああ、勿論」

 

「――――本当、に?」

 

 それだけですか? と、アマルは言葉を続けた。どこか昏く淀むような眼。血のように鮮やかな紅瞳が、怪しく光る。

 

 心がざわつく。

 

 心臓が馬鹿みたいに大きく脈打った。

 

 

 止まれ。止まれ。止まれ。

 

 騒ぐな、蠢くな。疼くな。

 

 

「アンディ様、あの場所はいけません」

 

「えっ」

 

「いけません」

 

「あ、アマル?」

 

「あの場所は切り離されているから、いけません」

 

 それは俺を嗜む「いけません」なのか。アマルがあの場所に「行けません」なのか。それとも両方なのか。俺には分からない。そもそも、何故アマルは俺があの場所に居たことを知っているんだ。

 

「今回、()()(よすが)に、あの人は入り込めましたが」

 

 そう言って、アマルは俺が握るロザリオを、トンと指先で突いた。

 

「――――次は、ありません」

 

 アマルはほとんど指に力を込めていなかった。それなのに、俺はふらりと、大きくよろめいた。頭の中が真っ白になる。

 

「あの人はそれを手放したから、もうこれ以上耐えられない。ねぇ、アンディ様。例え、あの人が居なくなっても、私には何の不都合もないのですよ。……でも、アンディ様は違うでしょう?」

 

 アマルは胸の前で両手を合わせた。それは、神でも、悪魔でもなく、俺という存在に祈りを捧げるような仕草だった。

 

「貴方様が、あの人に赦しを、救いを与えたいと願うならば、私はそれに従います。だから、二度、私の目の届かないところに行かないでください。そうすれば、あの人の器が溢れてしまわないよう守りましょう」

 

 目を見張る。どうして、と俺自身の掠れた声が耳を震わした。震える拳を隠すように、強くロザリオを握る。

 

「……アンディ様、私はあの人に対して、慈悲も憐憫の心さえ持ち合わせてはいないけれど、貴方様を救ったその一点だけは、少なからず感謝をしているのです」

 

「アマル、お前は……」

 

「――アンディ様、全ては、貴方様の御心のままに」

 

 

 アマルは、ただ微笑んだ。

 

 

 女神のように、微笑んだ。

 

 



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いつかに、想いを馳せる

 

 

 それはいつのことだったか。

 

 遠い、遠い記憶に想いを馳せる。

 

 ああ、確か……雪が舞い散る季節だった。

 

 

 ***

 

 

 

 凍てついた空気が肺に入り込み、吐いた息が視界に切り取られた世界を白く染めていた。視線を上げると、灰色の分厚い雲が空を隠し、まるで閉じ籠られるような感覚がした。

 

 空は自由であるべきだ、と思う。

 

 そうあって欲しい、と思う。

 

「――――隆兄さん」

 

 後ろから声が聞こえた。静寂を裂くというより、静寂に染み渡るような声。俺は首だけ振り返り、声の主を見詰める。

 

「静代か……」

 

「はい、兄さん」

 

 静代は嬉しそうに目を細め頷いた。それに合わせて濡羽の長い黒髪が揺れる。いつもながら、静代は清楚で美しい出で立ちをしていた。きめ細やかな透き通る肌、朱をさした瑞々しい唇、冷たさをたたえた瞳。どこを切り取っても美しい。この村で俺は妹よりも美しいものを見たことがない。

 

 真っ白な世界の中、鮮紅の着物は酷く目立つ。まるで世界から切り離されたようなその姿に、漠然とした不安を感じる。それを誤魔化すため、俺は静代に言葉を投げ掛けた。

 

「まだお勤めの時間ではないと思うが、何かあったのか?」

 

「いいえ。……何か用がなければ、会いに来てはいけませんか?」

 

 静代はどこか寂しそうに微笑んだ。慌てて直ぐに、俺は首を左右に大きく振った。

 

「そんなことないよ。静代ならいつでも大歓迎だ」

 

「……良かった。ありがとうございます」

 

 頬を仄かに染め、ふわりと静代は笑った。そして、両手を胸の前で合わせ、恥ずかしげに瞳を伏せた。

 

 想い人を目の前にした乙女のような仕草。そこまで考えて、馬鹿馬鹿しいことだ、と心の中で毒づく。何が恋する乙女だ。言うにもかけて、妹にそんな表現を使うなんて度しがたい。ああ、罪深いにも程がある。

 

 俺は静代から敢えて視線を外し、再び空を見上げた。

 

「兄さんは――――」

 

「ん?」

 

「良く空を見上げていますね」

 

「そうか?」

 

「はい。兄さんは、空が好きなのですか?」

 

「好き、とはちょっと違う。何というか、空って広いだろ? この閉鎖的な村とは違って、どこまでも続いている。そうだな。憧れに近いかもしれない。だって、空は――――」

 

「――――自由だから、ですか?」

 

「えっ?」

 

 バサバサ、と鳥が羽ばたく音が聞こえ。真っ黒な羽が空から蛇行しながら落ちてくる。 

 

 静代は笑っていた。

 先程も笑みを浮かべていたが、この笑みはもっと寒ざむしい。いや、禍々しいと言っても良い。

 

「空はどこまでも続いています。だからこそ、果てがない。……ねぇ、兄さん。空と同じく、深淵にも果てはないのですよ? そこでは、いけませんか?」

 

「静代?」

 

「……いいえ。すいません。詮無きことを申し上げました。兄に対して妹が意見をするなど、あってはならないことです。お許しください」

 

 弱々しく、静代は呟く。

 

 止めてくれ。気に入らない。何もかも気に入らない。空が色褪せていく。静代はこの村の古臭い価値観よって、雁字搦めにされているのだ。

 

 静代こそ、誰よりも自由になるべきだ。

 

「妹が兄に意見してはいけないなんて、いったい誰が決めたんだ? お前はもっと俺に色々忖度なく言えよ。良いことも悪いことも、怒りだってぶつけるべきだ。誰にも文句は言わせない!」

 

「兄さん。それでも、私は……」

 

 静代の言葉がそこで途切れる。少し間をおいて、静代は俺を見詰めた。

 

「兄さんは、神様を……オヤザ様を信じていますか?」

 

 脈略のない問いに、思わず眉をひそめる。しかし、静代の真剣な眼差しを受け、俺は自身の考えを整理しながら途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

 

「信じて、なんて、いないさ。でも……居て、欲しい、とは思う」

 

「それは、どうしてですか?」

 

「500年。……500年もの間、俺達はオヤザ様に祈りを捧げてきた。母胎洞をひたすら練り歩く。それに全く意味がなく、ただの徒労だったなんて思いたくはないだろう? 信じてはいないけど、居て欲しい。いや、居ないと許せない。絶対に許せない。……それに、神様がいなければ、いったい他の誰を恨めって言うんだ」

 

「そう、ですか」

 

「静代こそどうなんだ?」

 

 静代は俺の問いに僅かに身動ぎをした。そして、視線を地面に落とした。深淵を覗き込むように、ただひたすらに地面を……いや、その奥深くにある母胎洞を眺めている。

 

「私は……信じています。その存在も、そのあり方も。それにオヤザ様がいなければ、私の望みは叶わない。決して、叶わない」

 

「静代の望み?」

 

 俺の呟きに答えることもなく、静代はポツリポツリと囁く。その囁きは、静代の影に呑まれていく。

 

「オヤザ様は、兄さんをずっと待っています。私がそう望んだから、オヤザ様もそう望んでいるのです。だから、どうか―――」

 

 その先の言葉は、影の中の闇に沈みかき消えた。

 

 

 



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母なる湖

 

 

 俺とフランチェスコは、修道院から少し離れたまだ手入れがされていない土地を耕していた。 

 

 鍬で土をならし、石を取り除くという単純作業を何度も繰り返す。一振、一振、鍬を地面に突き立てるごとに土埃が舞った。

 

「っと、だいぶ汚れちまったな」

 

 服に纏わりついた土埃を軽く叩き落としてから、俺はぐっと背筋を反らしてから、身体を弛緩させた。そうすると急激に眠気が襲ってくる。

 

「…………はふ、ふあぁっ」

 

「旦那、ずいぶんと眠そうですねぇ」

 

 気の抜けた欠伸をつく俺を見て、フランチェスコは鍬を振る手を止め苦笑した。

 

「……ん? ああ、ちょっと夢見が悪くてな」

 

「そりゃあーーーー」

 

 フランチェスコは眉を下げ、何故か戸惑った表情を浮かべた。数秒の沈黙の後、雰囲気を紛らわすように彼は、こほんっと空咳をついた。

 

「黒の旦那も疲れてたんでしょうや。たまには、ゆっくり身体を休めた方が良いでさぁ」

 

「身体はそんなに、疲れてないんだけどな」

 

 どちらかというと、精神が磨耗しているんだ。その言葉は決して口に出さない。これ以上、フランチェスコを巻き込みたくなかった。

 

「……そうですかい。でも、でもね、旦那。身体は癒えますが、ここはそうもいかねぇです」

 

 親指で心臓をトントンと叩いた。

 

「旦那。無理しちゃいけねぇ。人ってのは、思っているよりもずっと弱いもんだ。それが悪いってことじゃないでさぁ。大切なのは、弱さを自覚することだ。だから、黒の旦那……無茶はお止めくだせえ」

 

「……検討することを検討します」

 

「何ですかい。そりゃ、遠巻きに無茶するってことですかい? はぁ、旦那はまっこと頑固者ですねぇ」

 

「そんなに褒めるなよ」

 

「マジで褒めてねぇです」

 

 呆れた、とフランチェスコは肩を竦めた。失礼な奴め、と俺はフランチェスコのお腹をつつく。   

 

 つん、ぽよん

 

 つんつん、ぽよんぽよん。

 

「へへっ」

 

「ははっ」

 

 お互い気の抜けた笑みが漏れた。先程までのシリアスな雰囲気は立ち消え、男子高校生のようなじゃれあいが始まる。

 

 こんなやりとりができるのは、フランチェスコだけだ。

 

 もう一度、フランチェスコの腹をつつくこうと、足を一歩前に踏み出した。すると、足元でぱきりと何かが割れる音が聞こえた。

 

「なんだ?」

 

 足を引いて地面を見ると、そこには砕けた貝殻が転がっていた。

 

「…………こんなところに貝殻?」

 

 俺の知る限り、修道院の食事に貝が出されたことは今まで一度もなかった。だから、畑の中に貝殻が埋まっていたことに酷く違和感を覚える。

 

「ああ、もしかして貝殻肥料ってやつか?」

 

 そういえば、貝殻はカルシウムを豊富に含んでおり、土壌の酸性度を中和する効果があると聞いたことがある。

 

「違いますぜ。貝殻が埋まっているのは、昔ここいらにふたつの湖があった名残でしょうや」

 

「ーーーーふたつの、湖?」

 

 息が乱れ、上手く言葉を出せない。

 

(ふたつの湖……同じだ。両胡村と同じ)

 

 どくり、どくり、と心臓が騒ぎだす。

 

 吐き気がする。

 

「ええ、この修道院ができるより、焼いた村があった時よりもずっと前、ふたつの湖があったと言います。まぁ、その湖も村がつくられた時には既に枯れちまっていて、今に到る訳ですがね。…………黒の旦那? 顔色が悪いですが大丈夫ですかい?」

 

「……あ、ああ、大丈夫。俺は、大丈夫だ」

 

 大きく脈打つ心臓をロザリオ越しに押さえ込み、俺はフランチェスコに向けて微笑んだ。きちんと笑えているだろうか。そんな弱気を吐くことしかできない自分自身が、どうしようもなく矮小な存在に思えた。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 昔、両胡(ふたご)村の土地にはふたつの湖があった。

 

 元々、土地の名は両湖だったが、水が干上がってしまったため、「氵」を取って、両胡と名前が改められという話が村に伝わっている。

 

 実はこのふたつの湖は地下の鍾乳洞、母胎洞で繋がっていた。

 

 両胡村で双子が神聖視され、神事を司る安藤家の双子が交わることが赦されていたことの根本には、おそらくこのことがあったからだろう、と俺は考えている。

 

 両胡(ふたご)という読み方には、双子(ふたご)と言う意味合いも含まれていたのかもしれない。

 

 また胡は異民族あるいは異邦人を意味する言葉でもある。平家の落人がこの地に居着いたという伝説から、両胡村と名が付けられたという説もあるらしい。正直、何が本当か分からない。それを調べる術も火災と共に失われてしまったのだから……。

 

 何にせよ、母胎洞は元々湖の地下にある水中鍾乳洞だったということは間違いない。そして、湖跡地を埋め立てつくられた村が両胡村なのだ。

 

 今では、母胎洞の最深部に残っている小さな泉……母之泉だけが、水中鍾乳洞であった名残を感じさせる。

 

 両胡村の人々はこの母胎洞の最深部の空間を子之宮(しのみや)と呼び神域としていた。

 

 安藤家の当主は代々、子之宮に入る死宮(しみや)之儀、母之泉で御祓を行い、子之宮から出る新宮(にいみや)之儀を取り仕切る。

 

 人は死ぬと母胎に戻り、羊水を浴びることで、新たな生を得え、産道を通り外に出る。

 

 それをなぞり、双子の間に生まれた赤子は、母胎洞の入り口……産道から子之宮に入り死を纏う。そして、羊水の役割を持つ母之泉で御祓を行い、穢れを取り払われた無垢な身体に神を降ろす。そして、また産道を通り母胎洞を出ることで、神は新たな生を得るのだ。

 

 つまり、この一連の儀式は、神降ろし……いや、もっと正確に言うと、生まれ変わりの儀式なのだ。

 

(あれ、そういえば、静代の最期はーーーー)

 

 カラン、と乾いた音が脳裏に響いた。

 

 

 



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産巣日の日

俺はいつから道を間違えたのだろう。

この世に産まれてからなのか。
この世に生まれたからなのか。

二度と戻れないその道をいつから見失ったのか。






 

 

 静代の遺体と対面したあの日、警察官は何と言っていた。記憶の空白(ブランク)を埋めろ。

 思い出せないのではない。思い出したくないだけだ。感情に蓋をして、何もかも忘れた振りをした。でも、違う。違うだろう。忘れられるはずもない。俺にとって静代はそんな軽い存在ではなかった。

 

 静代を置いて逃げ出した罪悪感を抱え、耳を塞いで膝を抱えている。心の中に、あの時のまま時が止まった幼い自分がいる。

 拳を強く握りしめ胸に置いた。それは、もう逃げないという意思表示。ありし日の自身に対しての決別だった。

 

 空白。

 

『……死因は、一酸化炭素中毒。発見場所は……地下室。火から逃れようと地下室へ……おそらく、地下室から洞窟に――しかし、不振な点が――』

 

 逃げるな。

 

 頭の中で、警察官の言葉を反芻する。

 

 空白を埋めろ。

 

『死因は、一酸化炭素中毒でした。発見場所はご自宅の地下室です。妹さんは、火から逃れようと地下室へ向かわれたのでしょう。おそらく、地下室から洞窟に逃げ込もうとしたと考えられます。しかし、そこに不振な点があります』

 

 そうだ。

 

 静代は火災から逃れるために、地下室へ向かった。地下室は母胎洞に直接繋がっている。俺たちは神事を行う際、いつもそこから出入りをしていたのだ。

 

 母胎洞は内臓のように地下を張り巡り、様々な場所に繋がっていた。空気を逃がす穴など沢山存在するはずだ。逃げ込むには、絶好の場所だろう。静代の判断は間違っていない。

 

 まだ、足りない。

 思い出せ。

 警察官は何と言っていた。

 

『……足裏に傷が多く、裸足で岩の上を歩――。倒れた身体の向きが……洞窟の入口の方ではな……地下室の扉を向いて。洞窟の奥まで煙は届かない。そのまま……助かったはず。しかし――妹さんは洞窟に逃げ、何故かもう一度戻――』

 

 空白を埋め、埋葬していた記憶を掘り起こす。そんな相反する行為を何度も行う。

 

『妹さんの足裏に傷が多く見受けられました。裸足で岩の上を歩いたのでしょう。それに倒れた身体の向きが、洞窟の入口の方ではなく、地下室の扉を向いていました。洞窟の奥まで煙は届かない。地下室から洞窟に逃げれば、おそらくそのまま助かったはずです。しかし、そうはならなかった。それに、妹さんは全身水で濡れていました。洞窟の中で身を浸す程の水があるのは、最深部の泉くらいだ。安藤さん、良いですか。つまり、妹さんは洞窟の最深部まで逃げ込み……何故か、もう一度地下室に戻ってきたんですよーーー』

 

 これは、最後の一欠片だ。

 

『ーーーご遺族の前で、こんなことを言いたくはないですがね。火に包まれて、黒煙が広がる場所に敢えて戻るなんて、それは自ら死に行ったようなものですよ』

 

「静代が死に行った?」

 

 違う。

 それは、違う。

 逆だ。逆なんだ。

 

 人は死ぬと母胎に戻り、羊水を浴びることで、新たな生を得え、産道を通り外に出る。

 

 それこそ安藤家が取り仕切る儀式。

 

 母胎洞の入り口である地下室、産道から子之宮に入り死を纏う『死宮之儀』。

 

 そして、羊水の役割を持つ母之泉で御祓を行い、穢れを取り払われた無垢な身体に神を降ろす『新宮之儀』。

 

 産道を通り母胎洞を出ることで、神は新たな生を得る。

 

 静代。

 お前は、その儀式を行ったのか。 

 たったひとりで。

 

「産まれ直し、生まれ変わった」

 

 しかし、本来儀式は3人で行うもの。俺と静代、そして無垢なる赤子の3人で。だからこそ、致命的なほど不完全だ。最初から失敗することが分かっていただろう。

 

「それでも、儀式を執り行った。……もしかして、俺が戻って来ないことに痺れを切らして、親父や村人が強引に押し進めたのか」

 

 嫌悪感が胸からせり上がり、胃液が逆流する。それを吐き出しそうになり、手で口を押さえた。寸前のとところで飲み込む。狼狽えてどうする。

 

「……ちくしょうめっ」

 

 悲鳴にも似た呻き声を上げ、俺は目を閉じる。

 

「失敗したんだ」

 

 安藤家の次期当主として、儀式は失敗に終わった際何が起こるとされているのか俺は知っていた。

 

 それは、流産になぞらえてこう呼ばれていた。

 

 

「ーーーー黄泉流レ」

 

 

 黄泉が流れる。

 

 死が現世に洪水の如く流れる(わざわい)

 

 それがどんな形のものなのか分からない。神は神秘そのもの。人の理解を越えた存在だ。何が起きてもおかしくない。それに、古文書にも黄泉が流れるとしか書かれていなかった。しかし、もし『黄泉流レ』が原因となり村が火災に襲われたとしたら?

 

 偶然でもなく、村はなるべくして滅んだんだ。

 

 

 

 ……静代の命を引き金に。

 

 

 

 

 






一度誤ったら戻れない。元より、その道しか彼女にはなかった。だからこそ、歩むと決めた。二度と戻れない産道を叶わなかった夢と共に、歩むと決めた。




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君は誰

 

 

 

 

 見よ。

 

 私は、世界の終わりまで、いつもあなたの隣にいる。

 

 

 

 ***

 

 

 黄泉流(よみなが)レ。

 

 それは両胡村で最も恐れられていた事象である。儀式が失敗に終わり、ケガレを封じ止めることができず母胎洞から黄泉が流れることを流産になぞらえ黄泉流レと称した。

 

 黄泉とは常世あるいは彼岸、死の世界を指す言葉だ。人の手から離れ、危険に満ちた無秩序の世界、それらは総じて「異界」と呼ぶ。

 

 異界は広域な概念だ。未知な部分が多い山や森、水界も異界であり、人類史で言えば宇宙や人類誕生前、あるいはそれら滅亡後の世界も異界であると言える。

 

 その異界……黄泉が現世に流れるということは、一体どのような意味を持つのだろうか。

 

 黄泉が死という固定概念ではなく、もっと空間的で身近な解釈に身を任せるならば、両胡村の領域が異界に飲み込まれたということになるかもしれない。

 

 そもそも、両胡村は世俗から遠く離れ孤立した集落だった。そのような意味では、両胡村という土地自体既に異界であり、より強固な「黄泉」という異界を受け入れやすい土壌があったと言えるのではなかろうか。

 

 もっと分かりやすく例えるのならば、両胡村は異界の器としての役目を果たし、その器により濃い異界である黄泉が注がれたのだ。

 

 器は両胡村であるが、中身は違う世界。そんなチグハグな領域が生まれた。黄泉流レという言葉が安藤家の古文書に記されたということは、過去にも黄泉流レが起こったことがあるのだろう。

 

「器、か」

 

 器に満たされた水に顔をつけて息ができないように、静代も黄泉に溺れてしまったのだろうか。それとも異界に適応できるもっと別の()()()になってしまったのか。

 

 器。

 静代。

 アマル。

 オヤザ様 

 アマルの姉。 

 生まれ変わり

 

 そこまで考えて、俺は宙を見上げた。

 

 グッと、ロザリオを強く握る。

 

 

 ああ、器の中身が、ひとりだけだと一体誰が決めた?

 

 

「―――わたしはだれ? 君はそう言っていたな」

 

 

 ストーンハーストに来てから、何度か囁かれた言葉。あれは、見つけて欲しいというよりも、選んで欲しいというニュアンスの言葉だったのではないか。

 

 もっと言うと、名前をつけて自身を個として認めて欲しい、そういうことではないか。

 

 俺は以前アマルが呟いた言葉を頭の中で反芻する。

 

『過去も今も未来も必要ない。私たちは曖昧な境界線の上に立っている。いつか混ざり合い、溶けて、消えるだけのものなら、生きることに何の意味があるのか』

 

 混ざり合い、溶けて、消える。

 

 何故もっと早く気が付かなかった。いや、違和感は確かに感じていた。アマルは良く言っていたじゃないか、『私たち』と。思い到れたはずだ。

 

 喉の奥から、ぐもった音が鳴る。ギリっ、と歯を食い縛り、血の騒ぎを抑え込む。

 

「カエルム、お前だな。お前が俺の頭に入り込み、全てを隠した。そうやって、何度も何度も俺の心を謀った。馬鹿にしやがって、くそ、畜生めッ!」

  

 胸の奥に燻る激情。理性が音をたて、崩れていく。

 

 ああ……駄目だ。

 

 落ち着け、落ち着け、落ち着くんだ。

 

 もう一度、ロザリオを握り直す。どくりどくり、と蠢いていた心臓を押さえるように、聖なる象徴を左胸にあてがった。

 

 息を吸って吐く。それを何回か繰り返し、やっと落ち着きを取り戻す。

 

「はぁ、駄目だな。感情をコントロールしないと、持っていかれそうだ」

 

 俺は(かぶり)を振って、気合いを入れ直した。さて、続きを考えよう。

 

 混ざり合う……つまり、アマルの中に混ざり合えるそのような対象がいる。

 

 まず思い浮かべるのは、解離性同一症だろう。所謂、多重人格障害というやつだ。

 

 それは幼少期に激しい苦痛や衝撃的な体験によるトラウマなどから、一人の人間の中に全く別の人格が複数存在するようになる神経症。アマルの過去を思えば、極度のストレスから解離性同一障害を発症していても何もおかしい話ではない。

 

 アマルの別の自我。

 

 そう言って思い付くのは、いつかの夜、俺が眠れず寝床を抜け出した時、沈黙の回廊で会ったアマル。

 あの時、俺は漠然と彼女をアマルなのに、アマルではないと感じていた。それに彼女は―――

 

「―――自分のことを()()()()()()と名乗っていた」

 

 アマルは自身の名前を何故か嫌っている。だから、いつも自分のことを「アマル」と呼ぶ。俺がアマルティアと言うと、眉をひそめた。私はアマルティアではなく、アマルなのだ、と。

 

「君は、誰なんだ」

 

 虚空に投げ掛けるように、俺は呟いた。返事など期待していない。それでも、それだからこそ俺は。

 

「……君たちは、一体誰なんだ」

 

 そう問わずにはいられない。

 

 

 




更新遅なってすいませぬ。許されたい……。


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