士道くんは中二病をこじらせたようです (potato-47)
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第一部 八舞ハーレムエンド
序章 同類


2014/09/07:加筆訂正


 ――血潮が沸き立つ。

 それは、幾星霜の時の中で待ち望んだ光景だった。

 暴風に曝されて蹂躙し尽くされた街並み。

 生きた風は今も尚、ビル街の中心で破壊の権化が如く、人類の文明を嘲笑う。

 

 空を舞うのは憐れな街路樹。剥き出しになった樹の根が地上を名残惜しむように土を落とす。更には外壁の破片までも風に誘われて踊り狂う。遂に果たされた自然と人工物の共演は、文明崩壊が背景とあっては、実に皮肉が利いていた。

 士道はそんな惨状にはすぐに興味を失った。彼が望んだものは目の前にあったのだから。

 

 台風の目に座すのは、二人の少女だった。

 拘束服を纏った瓜二つの少女が、それぞれ槍とペンデュラムを構えてぶつかり合う。

 それはまさしく死闘。人知を超越した力と力が拮抗して、更なる風を呼び起こした。

 

「ああ……」

 

 激風に晒されながら、士道は感慨深く溜め息をついた。

 この時を――同類との出逢いを、どれだけ待ち望んだことか。世界より排斥されし咎人は、歓喜に胸を昂ぶらせる。己の異常性と内に宿る力を従えたことで常人の枠を超えたあの日から、この力は果たしてなんのために在るのか、その理由を求め続けていた。

 その答えが今、目の前にある。

 

「く、くくく、やはりそう簡単には行かぬか。流石は我が半身と言うべきかな、夕弦。しかしこの勝負、結末は既に我が勝利と決まっている。無駄な抵抗は止めたらどうだ?」

 

 橙色の髪、水銀色の瞳。この世のものとは思えないまさしく暴力的な美しさを持つ少女たち。

 

「否定。この戦いを制するのは、耶倶矢ではなく夕弦です」

 

 口端を嘲笑に歪めるのが耶倶矢、気怠けな半眼を向けるのが夕弦。

 お互いしか目に入っていないことに、士道は苦笑を漏らす。今すぐに知らしめてみせよう。無視どころか忘却することすら叶わぬ我が存在を、彼女たちの網膜と魂に刻みつけようではないか。

 

 士道は息を大きく吸い込んで、心のどこかで常識と恐怖を訴える『普通の感性』を捩じ伏せた。

 そして高らかに宣言をする。

 

「永久の沈黙を破り、俺は帰ってきた! この腐食した世界に捧ぐエチュード……さあ、舞台上で存分に踊り狂おうではないか!」

 

 士道の声に、二人はお互いに突撃の姿勢を維持したまま、幻聴ではないかと周囲に視線を走らせた。そして士道の姿を発見して目を見開く。あらゆるものを退ける戦場に自分達以外の存在が居る。しかも、それは――

 

「人間だと……?」

 

 耶倶矢は声を震わせる。

 

「驚愕。何者ですか?」

 

 夕弦も同様だった。

 二人の視線を受け止めて、士道は目に掛かった前髪を格好つけて払った。

 

「ふっ、俺が人間に見えるのか?」

 

 大胆不敵なその態度。羽虫のように群がる有象無象とは別次元の存在――耶倶矢は己の魔眼をもって確信した。こいつはまさしく同類だ。

 

「なるほど、この八舞の戦場に立つだけの力を秘めているという訳か。だが、我らが神聖なる勝負を穢したその狼藉、いかにして償うつもりだ?」

 

「この身は既に罪に塗れている。真っ黒なキャンバスに新たに色を加えたところで無意味だろう」

 

 二人の緊迫した睨み合いに、夕弦は一歩後退る。別の意味合いで、こいつらはまさしく同類だと思った。

 

 

 その時、三人の目は交わり――五河士道の妄想は現実に変わる。

 中二病をこじらせた少年と精霊の姉妹、誰もが知らない場所で、戦争(デート)は始まってしまった。

 



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1.中二病の少年

2014/09/07:加筆訂正


 五河士道という少年について話をしよう。

 彼はある日までは平凡な少年だった。ただ幼い頃に厄介な病を発症をしたが、それは数年後にただの黒歴史となるぐらいのありふれたもので、彼以外にも患う人間は数多く存在していた。

 

 だから、彼を監視する者達(・・・・・・・)も面白がったり、未来の説得材料として記録するだけに留めていた。

 しかし、皮肉なことに、その病――『中二病』からすべては歪んでしまった。

 女性関係には恵まれないが、平穏無事に生きていける筈だった少年の運命は、些細な人助けを起点にズレが生じた。

 

 その日も士道は彼の脳内にしか存在しない『機関』との戦いに明け暮れていた。いついかなる時も警戒を怠る訳にはいかない。奴らは日常に忍び込み、気付いた時には大切な者を奪ってしまうのだから。泣き虫な義妹や自分を育ててくれた義理の両親を守るために、彼は戦い続ける。

 そんな自分に浸っていた士道だったが、夜道で幼い少女に出会った。彼女は今にも泣きそうな顔で走っていた。士道の灰色の脳細胞は瞬時に答えを弾き出す。

 

「彼女は機関に追われた能力者か!」

 

 真実は、塾帰りの道中で変質者に追われた可哀想な少女――というものだが、既に設定を構築済みの士道にとっては、『自分の物語』に組み込まれた妄想を突っ走るだけである。

 無駄にスタイリッシュな跳び込みで、少女と変質者のおっさんの間に割って入る。

 

「き、機関のエージェントだな。この少女には指一本触れさせる訳にはいかない!」

 

 顔を手の平で覆い隠し、自慢のロングマントを翻した。内心は恐怖でおかしくなっていたし、実際に声は震えたが、闇に生きる能力者の矜持をもって抑え込む。

 士道の中では既におっさんを組み伏せるまでのビジョンが完成していた。それを信じて逃げ腰を叱咤する。本当の自分は平凡な中学生だということを忘れようと必死になる。

 往々にして妄想と現実は折り合いをつけてくれない。士道もそれを経験していたが、強固な妄想力はすぐさまカバーストーリーを構築して、妄想を破綻させることはなかった。

 

 ――その迷いの無い妄想に、現実が牙を剥いた。

 

 格好良い前口上を決めようとした時だった。おっさんの手に握られたナイフが、士道の胸に突き立てられた。

 異物が肉体を侵蝕する。不思議と痛みは感じなかったが、胸から生えた刃を見下ろして悲鳴を上げていた。じわじわと熱が広がっていき、全身が死の恐怖に震える。

 士道の痛苦に歪んだ形相から、自分の過ちを自覚したおっさんが、勢い任せにナイフを引き抜いた。そこでようやく痛覚が機能し始めた。激痛が傷口から走り脳天を穿つ。思考はまとまらずただ痛みに喘ぐことしかできなかった。

 

 おっさんは一歩、二歩と後退り、後は狂ったように笑いながら走り去っていった。

 一部始終を目撃する羽目になった少女は、腰が砕けて地面に座り込んでいた。喉は潰れたように一言も声を発することができない。どうしていいのか分からず、悶え苦しむ士道を見詰めるだけで無為に時は過ぎていく。

 やがて絶叫と共に士道は倒れ伏す。ぼやける視界に少女の姿を見付けると手を伸ばして助けを求めた。

 少女の恐怖は遂に許容限界を超えて、訳の分からぬまま駆け出していた。

 

 遠ざかっていく悲鳴、街路灯の接触不良で明滅する視界、冷たい地面の感触――それらすべてがまるで夢のように虚ろになっていき、やがて士道の意識は途絶えた。

 彼の死に際は妄想していた格好良いものではなかった。辞世の句を詠んだり、仲間を守るために笑顔のまま散っていったり、世界を救う代わりに犠牲になったり、そんなドラマ性は欠片も存在せず、ただ「死にたくない」という生命への執着が支配する無様で普通で人間らしい最後だった。

 

 士道を監視する者達は、この日、この瞬間を、見逃していた。四六時中監視する体制が整っておらず、何よりも鍛えられた士道の隠密行動は監視を掻い潜ることが稀にあったのだ。

 消えかけた街路灯の瞬きに瀕死の肉体が照らされる。突如、炎が揺らめいた。炎は仰向けに倒れた士道の胸の傷から吹き出していた。傷口を焼き尽くし、自慢のロングマントを焦がして――

 

「ぐあっ……!? な、なんだ、この火は!?」

 

 士道を再生した。燃え盛る服を慌てて叩いて消火する。ふと胸に触れて、傷口が消失していることに気付いた。

 

 ――これは、この力は……!

 

 死への恐怖など一瞬で吹き飛んだ。死にたくないではなく、生きていたいと思えた。

 脳内で構築された設定が、周囲に馬鹿にされ続けた妄想が、冷たい常識を超越して、新たな真理となり現実を塗り潰す。

 ――そして、五河士道は中二病をこじらせた。

 

 

    *

 

 

 四月十日。今日から再び世を忍ぶ仮の姿である学生として、都立来禅高校に通わなくてはならない。中二病をこじらせた士道は、高校二年生になっても、未だに現役の中二病だった。この世界には『機関』や『能力者』は存在しない。しかし自分の体に宿った特殊能力が、妄想を肯定してしまったことで、彼の人生を大きく変えたのだ。

 

 布団から顔を出して時刻を確認。

 五時十分。健康的というよりは老人的な起床時間だった。

 

「しかし、日中も外に出るとなると、『奴ら』への対策をしなくてはならないな」

 

 寝起きの頭に設定を思い起こして、士道は色々と準備を進める。通学鞄に詰められた荷物の大半は、学業とは関係のないものだ。

 新年度ということもあり、念には念を入れて準備を行う。

 気付くと時刻は六時を回っていた。

 ノックもせずに扉が開かれる。ぴょこりと突き出されたのは、白いリボンで括られたツインテールだった。

 

「おおー、おにーちゃんはもう起きてたか!」

 

 妹の琴里が無邪気な笑顔を覗かせる。

 

「当然だ。今日は念入りに仕込んでおかなくてはならないからな」

「奴らがまた動き出すのか!?」

「ああ、その可能性は大いに有り得る」

 

 士道は『自分にとっての現実(他人にとっての妄想)』に付き合ってくれる琴里に真顔で応える。信じてくれている訳ではないが、拒絶を示さない優しさは、孤独に生きる士道にはそれだけでも救いだった。それだけでなく、絶望のどん底に沈んでいた時に琴里は家族として一緒にいてくれた大切な存在だ。

 

「くっ……まさか、既に妨害は始まって……ぐぅ、琴里! 逃げろ、このままじゃ俺の魔眼が暴走してしまう!」

 

 疼いた右目を押さえ込んで、士道は蹲った。ただ右目にゴミが入っただけだが、脳内変換されて能力の暴走だと判断していた。

 

「そんな! おにーちゃんを置いていくなんて!」

 

 琴里の涙声に胸が痛む。だが、心を鬼にして拒絶しなくてはならない。

 

「いいんだ、これが咎人の宿命……家族であっても、傷付けてしまう俺の業だ。俺はお前が生きてくれさえいれば……それで!」

「うぅぅ……おにーちゃん、すぐに目薬を持ってくるから、それまで耐えるんだぞ!」

「ああ……頼む、『世界樹の雫』があれば、一時的にだが抑え込むことができそうだ」

 

 琴里は中学校のスカートを翻して、部屋から出て行く。

 二人はこのように現実と妄想に折り合いをつけて、良好な兄妹関係を保っていた。しかし齟齬が少ないからこそ、士道は見たくもない現実を意識してしまう。そして『常識』が長年築き上げた『妄想』にいとも容易くヒビを入れてしまう。

 士道は心のどこかで気付いていた。自分は確かに特殊な力を持っているが、だからといってそれで世界を救える訳でもなく――ただの人間と余り変わりないのだと。

 

 

 

 出張中の両親に代わって台所に立つ。

 琴里が退屈そうに眺めているニュースをBGMに、朝食の準備を始めた。表側の情報しか語らないニュースとはいえ、その裏にどんな陰謀が隠されているか分からない。奴らの動きを察知するためには、社会の動きから推測することも大切だ。

 

「この近くで空間震があったのか……?」

 

 ニュースキャスターが伝えた情報を咀嚼して、士道は眉を寄せる。

 士道の住む天宮市周辺で発生する空間震は去年から急増している。それに疑問を抱いた士道は、すぐに奴らの動きと結びつけた。この世界で発生する原因不明の現象はすべて『機関』が関わっていると考えていい。

 

「いよいよ俺の潜伏場所もバレたかもしれないな」

 

 ただの一軒家の自宅に特に隠れることもなく暮らしているが、士道の脳内では完璧な偽装を施したセーフハウスに一時的に滞在しているという認識だ。

 それから、始業式で半日で終わることを思い出した士道は、琴里に昼食は家で用意すると伝えた後、早目に家を出た。

 

 

 

 二年四組。士道はこれから一年間通うことになる教室の扉を開いた。

 機関の人間が忍び込んでいないか確認して一息付く。どうやらここまで奴らの魔の手は迫っていないようだ。学生という身分を嫌ってはいるが、それは縛りの多い生活に対してであって、学校という場所は寧ろ好きだった。

 座席表を確認して席に着こうとすると、

 

「――五河士道」

 

 抑揚のない声に呼び掛けられて緊張が走る。

 背後に人の気配があった。ここまで接近されて気付くことができなかったのは完全なる失態だ。

 振り返った先にあった顔は、かつて苦汁をなめさせられた女子生徒だった。

 

「……<完璧主義者(ミス・パーフェクト)>、何故、貴様が俺の名前を知っている?」

「覚えていないの?」

「あの日の屈辱なら一日たりとも忘れたことはない」

「屈辱……?」

「よもや、貴様も忘れたとは言わせんぞ。我ら四天王をくだして……悠々と購買部を支配したあの後ろ姿!」

 

 無表情で氷の瞳が向けられる。<完璧主義者>の瞳には純粋な疑問が浮かんでいた。本当に彼女はあの死闘を――いや、彼女からすれば児戯とでも言うのだろう――完全に忘れてしまっている。

 

 士道はそれ以上は屈辱に耐えられず背を向けて教室を後にした。友人の殿町が追い掛けて来て「いつの間に鳶一と仲良くなったんだよ!?」などと喚くが、そんな名前の人間は知らない。士道にとってあいつは<完璧主義者>。軽やかな足音を響かせて、戦場の混乱を物ともせずに歩き抜けて、勝利(パン)をその手に収める正真正銘の化け物だ。

 

「そして……俺は、その戦場から自ら立ち去った臆病者でしかない」

 

 戦友と袂を分かち、購買士(バイインガー)の誇りを捨てた。今はただの蒙昧なる弁当派(ランチパッカー)でしかない。金欠で仕方なかった、と言い訳もできる。だが、本当は分かっていた。たった一度の敗北が、士道の胸に刻んだ傷は余りにも深過ぎたのだ。

 

 

 それから何事も無く始業式は進んだ。敢えて問題があったとすれば、左隣の席に座る<完璧主義者>の視線が、ずっと横顔に突き刺さっていたことだろう。

 そのまま一日目は終わろうかという時だった。

 

 ――空間震を伝えるサイレンが喧しく響き渡る。

 

 士道はどよめく生徒たちの中で冷静だった。

 

「機関が動き出したか、まずは身を隠さねばならないな」

 

 避難する生徒に紛れるのが一番簡単で機関の目を誤魔化せる筈だ。一般市民を装うのは慣れている。そのために学生の身分に甘んじているのだから。

 

 ――この日『名無しの精霊』と五河士道が出逢うことは無かった。

 



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2.八舞姉妹

 予想に反して平穏な日々が続いていた。

 かといって、士道の警戒心が緩むことは無い。これは機関が展開する油断を誘うための作戦に違いなく、元より心を常に戦場に置く彼にとっては問題なかった。

 

「ふむ……最近は妙に雨が多い」

 

 士道は雨空を仰ぎ見る。

 

「それに、なんだこの風は?」

 

 台風が接近しているなんて話は天気予報では一言も言っていなかったが――いや、これはやっぱり、機関の仕業かもしれない。彼らならば自然を支配下に置くこともやってのけることだろう。

 

「遂に始まったか」

 

 隠れんぼは終わりだ。

 行かねばならない。どこへか? そんなものは決まっている。潜伏場所がバレたとならば、機関の陰謀を阻止するために戦わねばならない。世界各地で身を隠している仲間たちのためにも、未来を勝ち取るためにも。

 それが闇に生きる士道の逃れられぬ宿命だった。

 ポケットに入れたケータイが着信に震える。誰からの連絡か確認すると、妹の琴里からだった。

 

「すまんな、妹よ。兄はこれから戦場に行かねばならない」

 

 士道は嵐の中心部を目指して駆けて行く。現実的な思考が、早くどこかに避難しろと言っている。しかしすぐにそれを捻じ伏せて、心が命じるままに足を動かし続けた。

 

 

    *

 

 

「まさか<ベルセルク>が天宮市に現れてくれるなんてね」

 

 真紅の軍服に身を包んだ五河琴里は、空中艦<フラクシナス>の艦長席に座って足を組んだ。いつもの白いリボンではなく、黒のリボンで括ったツインテール。口にはお気に入りのチュッパチャップスを咥えていた。

 

「まったく肝心の秘密兵器はどこに行ったのかしら?」

 

 司令官モードになった琴里は、兄が電話に出ないことに歯軋りする。

 意思ある台風とまで呼ばれた<ベルセルク>と接触できる千載一遇のチャンスだというのに、まったくあの中二病兄貴は役に立たない。<プリンセス>出現時もシェルターに逃げ込んだかと思ったら「ここに居ては皆を巻き込む危険性がある!」とか訳の分からない理由でどこかに行ってしまったし、今日だって監視員を振り切って、嵐の中を「戦場が俺を呼んでいる!」などと叫んで行方を眩ませてしまった。

 

 巨大スクリーンには荒廃した天宮市が映し出されていた。それはいつも彼らが目にする空間震による被害ではない。<ベルセルク>が巻き起こす暴風によって破壊された跡だ。

 

「士道を見付け出してすぐに回収しなさい! 円卓会議(ラウンズ)からは既に許可が下りている

わ。回収次第すぐに作戦を実行するわよ」

 

 ようやくここまでやってきた。対精霊部隊(アンチ・スピリット・チーム)――ASTが精霊と戦うのを指をくわえて見ていることしかできなかった今までとは違う。

 

「精霊への対処法、一つは武力を以ってこれを殲滅する。そして、もう一つは」

 

 ――デートして、デレさせる。

 

 そのための<ラタトスク>。

 そのための五河士道。

 

「司令、やはり<フラクシナス>のシステムでも、あの二人は追い切れないようです」

 

 副司令の神無月恭平からの報告を受けて、琴里は口の中でチュッパチャップスを噛み砕いた。

 

「そう簡単には行かないって訳ね。でも、私たちが動きを取れないとなれば、ASTも同様でしょう。なんとしても<ベルセルク>を見付け出しなさい! 平行して士道を探すのも忘れずにね!」

 

 この嵐の中を生き抜くには、ただの人間では厳しい。幸いにも兄はただの人間ではない。一回ぐらい死に掛けてもリトライ可能だ。

 新しいチュッパチャップスの包装を解いて口に咥え込む。

 

「さあ、士道……早く始めましょう、私たちの戦争(デート)を」

 

 

    *

 

 

 雨は止んだが、未だに風が吹き荒れていた。

 士道は空から降り注ぐ瓦礫を回避して、内心ではびくびくしながらも中二心を大いに盛り上げていた。こんな危機は未だかつて無い。命の危機は心が躍る。そう人間が絶叫マシンに恐怖しながらも求めるように、士道は危機を欲する。

 

 命の危機。根源的な恐怖。人間性を剥き出しにし、真実を曝け出す瞬間。そこには嘘偽りが存在しない。

 士道はその極限状態を楽しむ余裕を持っている。

 何故ならば、死ぬことはないから。彼に宿った力は人間離れした再生能力。既に何度か死を疑似体験した彼にとって、死ぬかもしれない程度の恐怖は、消すことはできなくても耐えることはできた。

 

 破壊されていく天宮市。

 士道はその光景に、悲しみと怒りを抱いた。

 

「たった一人、俺を始末するためにそこまでやるのか!」

 

 機関はやるとなれば手加減しないし、周囲の被害状況など瑣末な問題として片付ける。彼らは執拗に能力者を追って、それを殲滅する。慈悲は一片たりとも期待してはならない。

 もう嵐の中心部は目前に迫っていた。

 

「俺はここに居るぞ、俺を狙っているんだろう……!」

 

 妄想の世界に入り込んで、力の限り叫ぶ。

 

「さあ、姿を――なんだ、あれは……!?」

 

 士道は予想外の光景に目を見開いた。

 ドクンと心臓が跳ねる。全身が震える。思考が停止する。

 ただただその光景が、嘘ではないと確かめるために、士道は自分の頬をつねった。

 

「はは、はははっ……ようやく、出逢えた、出逢えたんだっ!」

 

 ――血潮が沸き立つ。

 それは、幾星霜の時の中で待ち望んだ光景だった。

 暴風に曝されて蹂躙し尽くされた街並み。

 人類の文明を嘲笑うかの如く、生きた風は今も尚、ビル街の中心で破壊を続ける。

 空を舞うのは、憐れな街路樹。更には外壁の破片までも風に誘われて踊っていた。

 

 それらすべてが、台風の中心で戦う二人の少女を捉えた瞬間から、士道の意識の中から消え去った。

 

「ああ……」

 

 士道は脳内設定がまた再び世界に肯定されたことに、感慨深い溜め息をついた。

 やはり、この世界に『能力者』は実在したのだ。それも自分だけでなく他に二人も居た。今日は記念すべき日だ。弱っていた妄想が息を吹き返す。

 

 機関に追われる能力者は、それぞれに身を隠しており例え能力者同士であっても顔を合わせることはない。徹底的に素性を隠し通さなければ、どこから機関に嗅ぎつけられるか分かったものではない。その用心こそが能力者を孤立させる理由にもなっているが、自分の命には変えられない。

 同類の登場は、彼の世界観を脳内だけに留めることなく、世界に羽ばたかせた。

 

 ――こうして士道は中二病を悪化させた。

 

 しかし、誰が彼の勘違いと妄想を否定できようか。既にそれは世界の隠された真実に触れてしまったのだ。例え彼の妄想した『機関』や『能力者』は存在しなくとも、似たようなものは存在するのだから。

 そして、嵐の中で同類は邂逅する。

 

「永久の沈黙を破り、俺は帰ってきた! この腐食した世界に捧ぐエチュード……さあ、舞台上で存分に踊り狂おうではないか!」

 

 士道の呼び掛けに、耶倶矢と夕弦が振り向いた。

 

「人間だと……?」

「驚愕。何者ですか?」

 

 二人の視線を受け止めて、士道は目に掛かった前髪を格好つけて払った。

 

「ふっ、俺が人間に見えるのか?」

 

 お前たちと同じ人の形をしているだけであって、本質はまったくの別物だ。

 耶倶矢は自分と対峙して尚も動じないその姿に、そして勿体振ったような言い回しに『同類』の匂いを感じ取る。すぐさま排除するのもいいが、試してみる価値がある、そう思った。

 

「なるほど、この八舞の戦場に立つだけの力を秘めているという訳か。だが、我らが神聖なる勝負を穢したその狼藉、いかにして償うつもりだ?」

 

 さあ、果たしてどう応える?

 期待を込めた眼差しを受けて、士道は不敵に笑った。

 

「この身は既に罪に塗れている。真っ黒なキャンバスに新たに色を加えたところで無意味だろう」

 

 その回答は、耶倶矢を満足させるには充分だった。反省や償いを口にする訳でもなく、ただただ己の在り方を貫き通すその強烈なまでの意志。

 

 颶風の御子として、威厳を保とうと振る舞う仮初の自分とは違う。

 

 ――こいつは本物だ!

 

 だが、彼女のプライドは素直に士道が自分よりも上を行くことを認めない。八舞の名は自分だけでなく、大切な夕弦のものでもあるのだから。

 士道と耶倶矢の視線がぶつかり合う。もはやお互いに言葉は不要だった。厳しい表情は徐々に笑みに変わりつつある。

 

 二人のなんだか「お前のことは分かってるぜ」的な空気についていけない夕弦は、別の意味合いで理解を示した。

 

 ――同類。夕弦の付いていけない領域に居ます。

 

 ただほんの少し、たまに理解できない耶倶矢の感性に付いていける士道の存在を羨ましいと思ってしまった自分に、絶望に似た何かを抱いてしまった。

 少数の意見や意志は殺される。それが世界の在り方であり、この戦場を支配するのは圧倒的な中二力であった。

 

「ほう、やはりただ者ではないようだな。名乗ることを許そう」

 

 耶倶矢の傲慢な態度に、士道は腹を立てることはない。能力者たるもの簡単に心を許すことはあってはならないし、何よりも自分を相手よりも下に置くことはあってはならない。

 満を持して名乗る時が来た。

 士道は何度も練習した口上の出番に歓喜する。前髪を右手でくしゃりと掴み、左手を相手に突き出す。この時に左足を少し引くのがポイントだ。鏡の前で完璧に磨き上げたポーズが披露された。

 

「俺は<業炎の咎人(アポルトロシス)>、この世界の欺瞞を暴き、真なる世界を解放する者だ」

 

 完全に自分の世界に入った士道に、耶倶矢は格の差を見せ付けられ動揺する。夕弦は表現できないなんだかこう見ているだけで胸がむずむずする嫌悪感……というよりは羞恥を孕んだ同情というか、具体的に言うと「提案。十年後にもう一度同じことをやってみてください」と言いたくなる衝動に駆られた。

 耶倶矢は気を取り直して、自分の中で一番格好いいポーズを決める。

 

「アポルトロシス、その名、覚えたぞ。では今度は礼儀として名乗り返そう」

 

 すーっと深呼吸。かっと目を見開く。

 

「我が名は、八舞耶倶矢! 颶風の御子が一人にして、颶風を司りし漆黒の魔槍(シュトウルム・ランチェ)の担い手になり!」

 

 名乗りを終えた耶倶矢が、夕弦に我に続けと目で促す。耶倶矢ではないが夕弦も慌てて「いや、無理だし! 付いて行けないし!」とか言いたくなる無茶ぶりだった。

 夕弦は二人のプレッシャーを浴びて、眠たげな目は変わらぬまま冷や汗をだらだらと流す。

 

「拒否。夕弦は名乗りません」

 

 既に名乗っているような気もするが、どうやら苦し紛れの拒否が強気の態度と思われたらしく、中二病患者たちは各々に「なるほど、それもありだな」と頷いた。訳が分からないよ。

 

「さて、お互いに名乗り終えた訳だが……」

 

 分かっているな? と目が訴えてくる。

 士道はもちろん理解できた。能力者同士が協力して身を隠さない理由、それはお互いに信用していないから。例え仲間であっても情報漏洩の糸口になりかねない。

 ならば、始末するしか無いだろう。

 ようやく出逢えた同類だが、士道は悲愴な決意を抱く。

 

「ん……? ふんっ、どうやら勝負はお預けか。無粋な邪魔者のお出ましだ」

 

 耶倶矢は空からやってきたASTの姿を見付けて眉をひそめた。

 

「あいつらは……まさか、いや、そうだ、そうに違いない」

 

 士道は拳を固く握り締める。彼の中で高速で設定が組み上がった。飛来する軍勢、あれこそが機関が誇る『対能力者部隊(アンチ・スキル・チーム)』――略してASTだ!

 奇妙な偶然により、士道はまたもや世界の真実と重なり合う誤解を構築してしまった。

 

「ASTのお出ましとは、一先ずは退散しなくてはならないか。決着はいずれ……いや、俺はこの天宮市で待っているぞ」

 

 士道は心の中に揺らめいた孤独感から、愚かとは分かっているが拠点の場所を口にしていた。

 それ以上、言葉は不要。

 士道と耶倶矢は背を向け合う。遅れて夕弦も耶倶矢と同じ方向を向いた。

 二人の少女は天空を翔けて行き、少年は大地を駆けて行く。

 

 <ラタトスク>もASTも関知しない場所で、静かに物語は回り出す。

 こうして運命の出逢いは果たされた。果たされてしまった。




 デート・ア・ライブのwikiに耶倶矢の紹介で『重度の中二病患者であり痛々しい性格の持ち主』と書いてあって、世間の認識はやはり冷たいものだな、と思いました。
 耶倶矢かわいいよ耶倶矢。


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3.秘密の戦争-1-

 <ベルセルク>の勝負の余波で、甚大な被害を受けた天宮市で、復興部隊が修復活動に従事していた。既に<ベルセルク>はASTの追跡を嘲笑う速度で空を飛んでいき、先程消失(ロスト)が確認されている。

 空間震による直接的な被害ではなかったため、警報が鳴らずにシェルターへの避難が行われず、多くの怪我人を出してしまった。幸いにも嵐の接近と勘違いして自主的な避難は進んでいたため、死人が出ることはなかった。

 空間震警報が鳴らない。そういう意味では、本当に突発的で避難不可能な<ベルセルク>の襲来は、『最悪の精霊』である<ナイトメア>と並ぶ『災厄の精霊』と呼べるかもしれない。

 

 

 天宮市上空一万五千メートル、空中艦<フラクシナス>の艦橋は慌ただしい様相を呈していた。精霊が去ったからといって、彼らの仕事は終わらない。事後処理など面倒な仕事が残っている。

 

「琴里、報告させてもらっていいかな?」

 

 村雨令音解析官の声に、艦長席に腰掛けていた琴里は、僅かに顔を上げる。咥えたままのチュッパチャップスを口の中で転がした。

 一通り報告を聞くと、琴里は幼い容姿には似合わない重い溜め息をついた。

 

「<ベルセルク>の被害で人不足ってことね」

 

 避難できなかったのは、<ラタトスク>の人員も同じだ。特に士道の監視を行っていた者達は、監視対象本人が嵐の中に突撃していったのでかなりの被害が出ている。

 現場指揮を神無月恭平に任せて、琴里は令音と今後の作戦行動について話し合った。

 

「『天宮の休日』のための仕込みはほぼ破壊されている。各地に忍ばせた屋台なども同様だ。自衛隊の復興部隊に任せる訳にはいかないし、我々の存在を気付かせないためにも、情報操作、隠蔽は必須だろうね」

「……そうね、仕方ないわ。監視員をそっちに回しましょう」

「いいのかい?」

 

 もしも士道の身に何かあれば、それを琴里は自分の判断ミスとして、自身を責め抜くことだろう。

 

「構わないわ。しぶといのが士道の取り柄だもの」

「……分かった。調整は私がやっておこう」

 

 そのまま令音が立ち去らないことに琴里は首を傾げる。

 

「どうしたの?」

「少し疑問を解消しておきたいと思ってね。この様子ならば、聞き耳を立てられる心配も要らなそうだ」

「ふーん、内容にもよるけど、何を訊きたいの?」

「どうして彼が精霊との交渉役に選ばれたのか、まだその理由を聞いていなかったことを思い出したのさ」

 

 令音はスクリーンに映る廃墟と化した街から、平然とした顔で姿を現す士道を示した。色々な意味で非凡なのは分かるが、あくまで一般人である彼がどうして交渉役という大役を任されたのか、データ上のプロフィールでしか士道を知らない令音には分からなかった。

 

「まぁ確かに気になるわよね」

 

 琴里は他人には秘密にするよう念を押してから、士道の過去を語った。

 士道と琴里は血が繋がっていない。それは士道が幼い頃に実母に捨てられて五河家で引き取ることになったからだ。まだ琴里の物心がつく前だったために詳しくは知らないが、当初は士道の状態は最悪と言っても過言ではなかった。

 

「士道は実の母親から捨てられたことで、自分の存在そのものを否定された――そんな風に思ったんでしょうね。だから、士道はその絶望に抗うために……『中二病』になった」

 

 世界から拒絶された『能力者』。謎の『機関』に追われて、平穏を手にすることのできない存在。母親からの拒絶を設定に置き換えて、自分の心が壊れないように殻で覆ったのだ。

 それは間違った強さだ。

 

「だけどね、おにーちゃんは本当に強いんだ」

 

 司令官モードでありながら、琴里は士道を『おにーちゃん』と呼んだ。それだけ感情を抑え切れていない証拠である。

 琴里は自分の失言に気付いて咳払いする。

 

「設定が矛盾しないように、士道は自分を鍛え上げた。監視員を欺く隠密行動もその一つ。どこまでも逃げているのに、どこまでも真っ直ぐで……そんな士道だから、自分と同じく世界から否定された精霊は放っておけないと思ったのよ」

 

 中二病に染まりながらも、根に宿った優しさは変わらない。

 だから、琴里は司令官モードの時は罵ることがあっても、本当におにーちゃんが大好きだった。

 

「心情的な理由は理解できたが、それだけかね?」

「流石は令音ね。いいわ、いずれみんなも知ることだと思うしね」

 

 琴里は語る。

 <ラタトスク>があるから五河士道が必要になったのではなく、五河士道をサポートするために今の<ラタトスク>が誕生したことを。

 

 ただ、琴里は勘違いしていた。

 士道は中二病を自覚して空々しい妄想と現実の狭間で苦しんでいると思っているが、今では違う。彼の妄想は精霊――同類の能力者と出逢うことで肯定され、本当に自分が『世界に拒絶された能力者』だと思い込んでいるのだ。

 そしてミスを犯した。

 監視員を外したことで、士道は再び『自由』を手に入れてしまった。それはかつて士道が中二病をこじらせてしまった時と同じ、決定的な失策だった。

 

 

    *

 

 

 同類との出逢いを果たした翌日。

 士道は機関を欺くために、今日も来禅高校に登校していた。平穏無事に日程を消化していき、昼食の時間がやってきた。

 しかし、士道は苦渋に満ちた顔で机に両肘を突いた。

 無い。弁当が無い。忘れた訳ではない。寝坊して作る時間が無かった訳でもない。単純に、昨日の台風騒ぎで商店街がシャッター街に早変わりしてしまい、食料を調達できなかったのだ。

 

「あの場所に行くしかないのか」

 

 かつて、幾度も死闘を交えた来禅高校最悪の激戦区――購買部に赴く以外に昼食を得る術はない。

 いや、昼休みという限られた時間で取れる手段はもう一つあったが、士道は額を机に打ち付けて、その邪念を振り払った。

 

購買士(バイインガー)の誇りは失ってしまったが、俺は堕落せしコンビニ派(コンビニアン)にまで落ちぶれるつもりはない」

 

 士道は立ち上がる。この時間では、既に戦場は混乱していることだろう。新兵など一分も持たずに下敷きにされる。ブランクのある自分が生き残ることができるのか、不安が無いと言えば嘘だった。

 

「だが、やらねばならんのだ」

 

 そして、かつて四天王の一人として購買部にその名を轟かせた男は、戦場へと舞い戻ろうと――

 

 

「ふんっ、ようやく見付けたぞ、<業炎の咎人(アポルトロシス)>」

「発見。雪辱を果たしに来ました」

 

 

 八舞姉妹が背中合わせで教室の扉の前に立っていた。二人共、霊装である拘束服は身に付けておらず、来禅高校の女子制服を纏っている。どこか裏ルートから入手したのだろう。

 実際は精霊の力で形作ったのだが、士道はその手の店が天宮市にあるのは熟知していたので特に疑問に思わなかった。彼も変装道具を入手するためにお世話になっている常連だ。

 耶倶矢は預けた決着をつけるため、夕弦は耶倶矢を独り占めにされた腹いせのため、士道を見付け出した。

 

「さあ、血で血を洗う闘争を、一心不乱の闘争を、我は血に飢えて――」

 

 ぐぎゅるぅ……と耶倶矢の腹が鳴った。

 

「嘲笑。流石は耶倶矢です。血を求めてお腹が悲鳴を上げています」

 

「ち、違うし! 私じゃないし!」

「否定。夕弦の耳は耶倶矢の――」

 

 ぐぎゅるぅ……とまた腹が鳴った。今度は夕弦だった。

 

「ほ、ほら! やっぱり夕弦だった……お、おほん、ふんっ、他人に己の失態を押し付けるとは、堕ちるところまで堕ちたな」

 

 ギリギリと歯ぎしりの音を立てて、バチバチと火花を散らす勢いで睨み合う。

 二人の腹が同時に鳴った。

 

「…………」

 

 気まずい沈黙が包み込む。

 ただでさえ目立つ容姿の二人だ。学校内で中二病患者として有名な士道にちょっかいを掛けに来たとなれば、その注目度は他クラスからも人を呼び寄せる程だった。

 更にそこへ士道の鋭い視線が突き刺さる。まさしく絶体絶命。

 

 耶倶矢は考えた。この絶望的な状況は果たして偶然によって構築されたのだろうか? 余りにも出来過ぎているように思える。まるで予告なく仕掛けた八舞姉妹の襲撃を予期して用意された罠のようではないか。

 

 ――耶倶矢に電流走る!

 

 そう、考えてみれば奇妙だった。

 再会を約束しておきながら、士道は「天宮市で待っている」としか言わなかった。現界して天宮市の場所を探すのは簡単だったが、それだけの情報で士道に辿り着くのは至難である。そこで八舞姉妹は考えた。きっと他にもヒントが隠されている筈だと。

 

 それこそが士道の制服。邂逅した時の服装こそがヒントだと気付いた二人は、学校を中心に調べ回り、この来禅高校を見付け出した。後は簡単だ。精霊の力で変装して、士道の姿を探すだけである。

 これまでの過程で、八舞姉妹はASTなどの妨害を受けないために人間に扮して行動していた。当然、風を操り空を移動するような目立つ行動は取れない。自然と時間は掛かり、二人のお腹は空いていく。

 

 そして、ご覧の通りだ。

 士道を見付け出した二人は、疲労困憊であり空腹状態に陥っていた。

 

「腹を減っては戦もできぬ、謀られたということだな!」

 

 耶倶矢は神算鬼謀に戦慄する。ちょうど空腹に襲われるタイミングで自分の元へ現れるように調整する。こちらの実力を完全に読み切っていなければできない芸当だ。

 

「不覚。すべて計算尽くでしたか」

 

 夕弦も同じ結論に至ったのか驚愕に打ち震えていた。

 士道はただ格好付けて詳しく自分の居場所を説明しなかっただけで、もちろん深い意味などない。つまり八舞姉妹の勘違いである。しかし、こんな美味しいシチュエーションで士道が自重する筈がない。

 現状に適した顔を浮かべるように、表情筋へ命令を下す。

 

「ふっ……」

 

 それは即ち黒幕の笑み。目元を手の平で覆い隠して、口元を強調するのがポイントだ。

 

 ――この世界の理は我が手中にあり!

 

 ただ鼻で笑うだけで、勝負は決した。

 士道は敗者への施しをよく理解している。空腹の彼女たちと戦ったところで得られるものはない。全力を出し切ってこそ意味がある。

 

 夕弦は士道の視線に、ぞくりと背筋に氷柱を突き立てられたような緊張が走る。士道の瞳が血のように真っ赤な色に変化していた。あんな禍々しい紅の瞳の人間が存在するとは思えなかった。本当は気分の乗ってきた士道が、赤色のカラコンを付けただけである。

 

「驚嘆。耶倶矢とは違って、本物の魔眼を持っているようです」

「はっ!? ほ、本物だし! 偽物じゃないし!」

 

 まだ騒ぐ元気は残っているらしい二人に、士道は柔らかい笑みを浮かべる。

 

「耶倶矢、夕弦、お前達は未熟だが俺と同じ能力者だ。まだ成長の可能性は大いにある。付いて来い、本物の戦場を教えてやる」

 

 返事を待たずに歩き出す。

 士道もまたいい加減空腹だった。




 なんだか毒電波を受信して、『王の中の王(キング・オブ・キングス)』をやる風景が浮かんだんだが、参加メンバーが異様だった。

 見る者を寧ろ羞恥に誘う中二病――<業炎の咎人>五河士道
 我々の業界ではご褒美です――<オクトーバー恭平>神無月恭平
 その口から放たれるは暴虐の弾丸――<無茶ぶりトビー>鳶一折紙
 完全なる命令遂行能力、完璧なる命令選択――<人類最強>エレン・M・メイザース
 物量作戦で王者を獲得、無傷の絶対王政――<愉悦クラブ>時崎狂三

 うん、収拾なんてつかない以前に、このメンバーが顔を揃える状況が想像できない。


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4.秘密の戦争-2-

 ちょっと話の展開が進まないので、退屈を紛らわせるためにギャグ成分多めでお送り致します。



 士道が耶倶矢と夕弦を連れてやってきたのは、もちろん購買部である。

 

「この異様な熱気と突き刺すような剣呑な空気……人間共め、人畜無害の振りをしてその闘争本能を隠していたと見える。気に入ったぞ、<業炎の咎人(アポルトロシス)>。これこそが八舞に相応しい戦場ぞ」

「興奮。申し分ありません。やはり夕弦も平穏より戦場を求めていました」

 

 満足そうに頷く二人。士道から手渡された小銭を握り締めて、今にも突撃しそうな勢いだった。

 

「落ち着け、ここは所詮、人間の戦場に過ぎない。俺も訓練としてよく利用していた。だからここでは『能力』は使用禁止だ」

「ほう、人間の身まで力を抑えて戦うか……なるほど、今までにない戦いやもしれん。どうする、夕弦?」

「思案。面白いかもしれません」

「かかっ、ではそれで行くとしよう。突破口は我が開こう!」

 

 耶倶矢は体勢を低く前屈みに構えて、勇ましく特攻を仕掛けた。力を抑えながらも、その姿はまさに風の化身。雑兵など物ともしない生きた台風と化す。

 夕弦も続き、二人の姿は戦場に消えていた。

 

「BLTサンドを所望致す!」「妾の口に合うのは揚げパンのみぞ、平伏すがいい愚民共!」「俺、クリームパンを手に入れたら結婚――ぎゃぁぁぁ!」「メディック! 早くこいつに治療――ではなく止めを刺せ! 人生勝ち組(リア充)に未来は不要!」「ふひひ、牛乳、白くて濃厚な牛乳! 白濁色に染めてやんよ!」「某の瞬閃一刀、視認を望むことすら傲慢と知れ」「パンよ……おお、パンよ、我らに御慈悲を!」「出てこなければ、踏まれなかったのに!」「きひ、ひひひひひ、あなたにはパンの耳がお似合いでしてよ、ラスクを手にするなんて絶ェェェェッ対にできませんわ!」「時よ止まれ、パンは美しい」

 

 なんだか好意的に表現して個性が輝く生徒が多い気もするが、それは仕方ないことだ。購買部を統べる四天王がそういうキャラだったために、矮小な自我を捨てて一人の戦士の心を手にしなければ生き残れない過酷な戦場へと悪化してしまったのだから。大体は士道が原因である。

 なんだか最悪の精霊(きょうぞうさん)が混じっていたような気もするが、きっと学生生活エンジョイ願望が高過ぎる時代の再現体でもいたのだろう。気にしたら負けだ。(本体は再現体を)このあと滅茶苦茶フルボッコした。

 

 そんな過酷な戦場に八舞姉妹は挑んでいった。確かに彼女たちは士道と同じ能力者である。しかしこの戦場では所詮、新兵でしかない。すぐに身を持って知ることになるだろう。

 八舞姉妹の帰還は予想通り早かった。購買部の最奥にまで辿り着くこともできず、逃げ帰ってきたのだ。

 

「な、なんなのよ……こんな手も足も出ないなんてありえない……」

「放心。世界は広いです」

 

 ペタリと廊下に座り込んで固まってしまった。

 士道は慰めの言葉とアドバイスを送ろうと思ったが、視線を感じて別の言葉を口にした。

 

「二人共、下がっていろ……巻き込まれれば死ぬぞ」

 

 八舞姉妹は士道の横顔を見て、それが嘘ではないと本能で悟る。敗北の悔しさを噛み締めながら素直に購買部から離れた。

 

 

 

 一瞬の油断が命取りになる。戦場とは元来そういう場所だ。

 しかし、士道は彼らを前にすれば、危険と知りながら足を止めて、周囲への警戒が疎かになると分かっていながらも目を確りと合わせた。

 

「ふっ……あの日以来か、おめおめとよく顔を出せたものだな、<無反応(ディスペル)>!」

 

 トサカ頭の男――<吹けば飛ぶ(エアリアル)>が士道に焼きそばパンを突き付けてくる。

 

「くきき、愚かな敗残者が今更ここに何しに来た?」

 

 白衣の男――<異臭騒ぎ(プロフェッサー)>がハムたまサンドを掲げた。

 

「きゃはは、臆病者の居場所はここには無いわよぉ」

 

 小柄の女――<おっとごめんよ(ピックポケット)>が盗んだパンを詰め込んだビニール袋を抱き締めた。

 それぞれが手にしていたのは、至高の逸品(フェイバリット・ワン)。それは購買部を統べる強者の証だった。

 嘲るような口調だが、士道は気付くことができた。彼らとはかつて魂の領域で結びついた戦友なのだ。本音を見抜くことなどそれこそ昼飯前だった。

 

 ――彼らは本気で怒っている。本気で悲しんでいる。

 

 ああ、どれだけ冷たく当たろうとも、彼らはまだ俺のことを戦友だと信じているのだ。

 だから、至高の逸品を振るい、士道の中に眠る一欠片の購買士としてのプライドを呼び覚まそうとしている。

 

 入学当初、気楽な気持ちでこの場所を訪れた。まさしく戦場を知らぬ新兵そのものだった。そして並み居る強者たちに屈してパンの耳を涙を隠して齧り付くことになったのだ。あの日、士道は彼らと出逢わなければ機関への対応で忙しいことを理由に、この場所を無様に去ったことだろう。

 結果的には、敗北を切っ掛けに蒙昧なる弁当派(ランチパッカー)に堕ちてしまったが、今でも鮮明に思い出せる数々の記憶が無駄ではなかったと教えてくれる。

 

 士道はようやく理解した。この日、再びこの戦場を訪れたの必然である。

 三人の戦友に向けて、謝罪を口にしようとしていた自分を罵る。そんな言葉で彼らを納得させることはできない。

 

 告げるべき言葉は決まった。

 そうだ、俺はこの場所に、

 

「――忘れものを取りに来た」

 

 この瞬間、再び四天王が集った。

 

「ふっ、待っていたぞ」

「貴様にも購買士の誇りが残っていたか」

「きゃは、きゃはは……うくっ、ぐす……」

 

 三人の喜ぶ姿に士道の頬が緩む。

 

「おいおい、泣くことは――」

 

 

 ――階段を下りるその足音は嫌によく響いた。

 

 

「まさか……!」

「こんなタイミングで――」

「来てしまったの!?」

 

 三人の驚く声を引き継いで、士道はその名を呼んだ。

 

「――<完璧主義者(ミス・パーフェクト)>!」

 

 姿を現したのは、士道の心を折った少女だった。またの名を鳶一折紙。士道のクラスメイトで隣の席に座る、来禅高校が、日本が誇る秀才。文武両道の隙のない佇まいからは、穏やかだが強者のオーラが迸っていた。

 圧倒的な存在感が、四天王の視線を引き寄せて離さない。八舞姉妹もまた同じものを<完璧主義者>に感じていた。

 

 まさしく運命は皮肉なものだ。

 復活したその日に、再び宿命の好敵手と戦わねばならないとは。

 

「だが、それでこそと言うべきか」

 

 士道は既に闇に堕ちた咎人。あらゆる災厄が襲おうとも否定する権利を持たない。ただ抗うことでしか生き残れないのだ。

 

「我らが四天王の力、見せ付けてやるぞ!」

 

 <完璧主義者>は八つの眼光を物ともせずに進む。まるでこちらに気付いていないようだ。いや、意識する価値すらもないと無言の表情が雄弁に物語っている。

 

「舐めるなぁぁ――っ!」

 

 四天王の誇りを掛けて、<吹けば飛ぶ>が身動きを取ることのできない空中戦を挑む。しかし<完璧主義者>はまるで羽根があるかのように、空中で姿勢を変えて回避した。

 

「くきき、この芳香剤からは何人たりとも逃れられない!」

 

 <異臭騒ぎ>の散布した調合薬が、目を、鼻を、内蔵を侵していく。

 だが、<完璧主義者>の行動は素早かった。士道を目の端に捉えると、まるで自然な動作で転んだ振りをして士道の胸元に寄り掛かった。

 

 クンカクンカスーハースーハー。

 

 一体こいつは何をやっているんだ!?

 あの<無反応>の士道すらも驚愕させる<完璧主義者>の行動に、誰もが凍り付いていた。

 調合薬が薄れると、<完璧主義者>はすぐに行動を再開する。停滞した戦場が動き出したのは、彼女よりも一歩遅れていた。まるでモーセの奇跡の再現だ。左右に別れて道を譲る人々を尻目に、<完璧主義者>は悠々と購買部の限定パンをその手に収めた。

 

「きゃはは、戦場帰りのその油断は命取りだよぉ」

 

 パンを買ってからが<おっとごめんよ>の真骨頂。

 行き違う<完璧主義者>の手からさり気なく、限定パンを奪い取ろうとして――その前に、腕を掴まれた。

 

「これは私のパン」

「えぇぇ、なんの話ぃ? 変な言いがかりはよしてよぉ」

 

 作戦失敗を受け入れてすぐさま逃げの一手を打つが、<完璧主義者>がただで見逃す筈がなかった。

 

「そう」

 

 たった一言。

 それだけで、終わらせた。

 

 ――言葉を交わす価値も無い。

 

 言外に伝えられた蔑みに、<おっとごめんよ>は崩れ落ちた。

 まさに圧倒的。十歳で少年少女を旅立たせる世界だったならば、まさしく四天王の上に君臨するチャンピオンと呼ばれていたことだろう。

 

「待てよ」

 

 しかし、戦いはまだ終わっていなかった。

 最後の四天王――<無反応>五河士道は<完璧主義者>と対峙した。

 

「なに」

 

 振り返った<完璧主義者>の表情は心成し嬉しそうに見えた。

 

「お前のその手にあるパン、渡してもらうぞ」

 

 士道は実戦で鍛え抜いた末に確立した格好良いポーズを取る。

 <完璧主義者>は無表情のまま応えた。

 

「今朝、材料が無く弁当を用意できなかったのは知っている。だからこのパンを譲るのは構わない。ただし条件がある」

 

 どうしてそれを知っているのか疑問に思ったが、触れれば更なる深淵の闇に呑み込まれると判断してスルーした。

 

「条件……?」

「そう」

「言ってみろ」

「あなたが欲しい」

「は……?」

「訂正する。あなたの弁当が欲しい」

「つまり明日にでも作って持ってくればいいということか?」

 

 コクリと無言で頷いた。

 そんな簡単なことでいいのなら、喜んで弁当を渡そう。

 

「いいだろう、その条件を呑もう」

「はい」

 

 言い終わるか否かという早さで、<完璧主義者>は士道に限定パンを手渡した。

 <完璧主義者>はすぐにその場を去っていく。いつになく上機嫌なスキップをしながら。ただし無表情のままで。

 

「勝ったのか……?」

 

 勝利を収めた喜びに身体が震える。

 

 ――いや、違う。

 

 これは戦術的勝利とも言えない、圧倒的な敗北だった。

 身体を震えさせるのは、奥底より沸き上がる純然たる怒り。

 要するに慈悲なのだ。なんちゃって主夫である士道の弁当は琴里が舌鼓を打つ逸品ではあるが、限定パンに勝る価値があるとは思えない。

 遂に決壊した怒りの感情が放出される。

 

「くそ、くそ、くっそぉぉぉぉ――っ!」

 

 士道はその場で限定パンの包装を破って、一気に口に押し込んだ。味なんて分からない。あったとしても、それは敗北の味でしかない。

 これほどの屈辱は未だかつて味わったことがない。

 二度目の敗北を経験した士道は、尻込みせず逆に燃え上がった。

 やられたらやり返す、オーバーキルだ!

 

 

 

 その後、八舞姉妹は姿を消していた。消失(ロスト)によるものだが、士道の認識からは余りにも高度な戦いを目の前で繰り広げられたために怖気付いたのだろうと思っていた。

 家路の途中で、士道は商店街に寄る。今日の夕食のための食材すら冷蔵庫には残っていない。それに<完璧主義者>に渡す弁当は、一矢報いるためにも良いものを用意したかった。

 

「さて、帰るとするか」

 

 帰宅した士道を、愛しい妹の琴里が笑顔で出迎える。

 

「おー! おひーしゃん、ほはえり」

 

 飴を口に咥えたままなので、うまく発音ができていなかった。

 

「夕餉が近い、魔力を回復するとはいえ腹にも溜まるマジックキャンディは控え目にしておけよ」

 

 琴里は棒付き飴を口から出して指で掴んだ。

 

「あはは! だいじょーぶ! お腹に穴を開けてでもおにーちゃんの用意するご飯なら完食するぞ!」

 

 それはただの垂れ流しである。

 

「いい心掛けだが、その覚悟を決めるぐらいなら最初から魔力の無駄遣いをやめて、食事前の摂取は控えておけ」

「はいはーい!」

 

 元気よく返事をして、琴里は買い物袋で塞がった士道の片手から重い方を受け取ろうとするが、士道は軽い方を手渡した。

 琴里は中を覗き込んで喜色満面になる。

 

「今日はハンバーグか!?」

「弁当用のそぼろだったが、それもいいだろう」

「おおー、愛してるぞ、おにーちゃん!」

 

 身体全体を使って素直な喜びを表す琴里に、士道の頬が緩んだ。心の中で誓う。この愛らしい義妹だけは、機関との戦いに巻き込む訳にはいかない。

 なんだか熱っぽい視線にあてられて、琴里の様子がおかしくなる。顔を髪色のように赤くして、そわそわ落ち着きを失った。

 

「お、おにーちゃん?」

「なんでもない。俺も愛しているぞ、琴里」

 

 にっこりと笑い、なんの恥ずかしげもなく、真っ直ぐに、好意を示す。

 琴里の頭からぼんっとドーナツ型の煙が噴出した。

 更に追加攻撃。去り際に士道の手の平がぽんぽんと頭を撫でていく。

 

 ――中二病天然二連撃(ニコポナデポ)

 

 完全に決まった。恐るべしは中二病か。彼らには羞恥という概念が存在しない。それ故に口説き文句や変態的行動もまた通常営業内に含まれる。まったく、中二病は最強だぜ!

 

 

 

 一人で玄関に残ったままの琴里は、士道の温もりが残っている頭に手を載せた。

 

「もしかしたら、おにーちゃんに訓練は必要ないかも」

 

 その日、<フラクシナス>に待機していた令音は琴里の好感度メーターが限界突破するのを確認した。本当にこの兄妹は兄妹で終われるのか、精霊の力の封印方法を考えると一抹の不安を拭えない令音だった。



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5.秘密の戦争-3-

「――この世界は、欺瞞に満ちている。人間たちは腐敗しきっている。俺たちは、そうなっちゃいけない。示せパワー、漲るワンダー。未来に向かう足を止めちゃいけない。我々を守ってくれるのは我々自身だけなのだ。

 孤独を友に、絶対の意志を胸に抱き、戦え、戦え、戦え!

 我らが進むのは正道に非ず、我らの行いは正義に値せず――されど、世界の欺瞞を暴き、世界に真実を敷く、唯一絶対の抵抗である!」

 

 渾身の演説は、士道以外にたった二人しか居ない寂れた公園に轟いた。数少ない観客も、一人は聞き入っているが、もう一人は今にも夢の世界に落ちそうな状態だった。

 要するに、士道の妄言をまともに聞いていたのは耶倶矢一人だけだったということだ。

 

「なるほど、この世界は既に修正するには手遅れ、ならばいっそ破壊し尽くした後に再生を齎すべきだと考えているのか」

「そういうことだ」

 

 一体どういうことだろうか。

 

「沈黙。もはや何も言えません」

 

 夕弦は二人で勝手に話を進められてしまい付いていけない。付いて行きたくないともいう。

 さて、琴里たち<ラタトスク>や折紙の所属するASTが見れば目を剥く奇妙な光景が、夕暮れの公園で展開されていた。どうしてこんなことになったのか、それを知るためには少し時間を巻き戻す必要がある。

 

 

    *

 

 

 士道と八舞姉妹が友好を深めるよりも数週間前。

 再戦の時は意外にも早く訪れた。購買部の出来事から数日後、休日を満喫する筈もなく今日も今日とて機関との戦いに備えるべく、逃走ルートの把握のために街の散策に出ていた。こうした日頃の積み重ねが、いざという時に助けになるのだ。

 

「あっ、ようやく見付けたわよ! じゃなくて……ん、んん、運命神はかくも気紛れよのう。こうして貴様との縁を結ぶとは。息災か、<業炎の咎人(アポルトロシス)>よ」

「偶然。ばったりです」

 

 何やら白々しい態度だったが、数少ない同類を無碍に扱うことはしない。寧ろ内心では、購買部の戦闘でPTSDを患うことなくこうして再び相見えたことが嬉しくってテンション急上昇中である。

 

 二人は以前と同様に来禅高校の制服姿だった。

 士道は近接戦闘用の構えを取る。もちろん実用的ではない。格好良さメインだ。当然である。

 耶倶矢は呆れ顔になった。

 

「まあ待て、直接戦えば世界が危うい。だからこれを使おうではないか」

「まさか、それは……」

「ふふっ、流石の貴様もこればかりは恐ろしいと見える。当然であろうな、何せこの『四宝紋章の刻まれし魔符』はかつて世界を四つに割り争わせた――」

 

 耶倶矢の言葉を士道は引き継いだ。

 

「しかしたった二人の死神によって、その戦いは終息させられ、世界に暗黒時代を齎した忌むべき呪具」

「翻訳。つまりトランプで決着つけましょう、ということです」

「ちょ、夕弦! 空気読みなさいよ!」

「拒否。二人はいちいちまどろっこしいです」

 

 ぐだぐだ極まりないが、出逢ってしまったならば戦うしかない。それが咎人たちの定めなのだ。

 

 

    *

 

 

 マズルフラッシュの如く光が乱舞し、耳を劈く激音が轟く――そう、ここはまさしく戦場ではなく、カラオケだった。初めてらしい八舞姉妹がはしゃいで、色々と装置をいじった結果、大変なことになった。

 

 能力者三人が集うとなれば、まさか自分の拠点に招く訳に行かない。琴里を戦いに巻き込まないと誓ったばかりだ。

 さあ、勝負(デュエル)を始めよう――と士道がトランプをシャッフルし終えると、歌えるのならばまずはカラオケ勝負をしようではないかという話になった。

 

 八舞姉妹はデュエットに絶対の自信があった。士道も耳にして、他の曲も聴きたいと思えるクオリティだった。しかし、勝負の世界は非情。例え美しい歌声を披露されたからといって、手を抜く訳にはいかない。

 

 士道の喉から奏でられるのは、選ばれし者のみが紡ぐことが許されたヒュムノス語。歌唱力は八舞姉妹に劣るかもしれないが、圧倒的な中二力を秘めた独自体系の言語の存在は、八舞姉妹を屈服させるには充分だった。どうして士道がそんな言語を使えるのかなんて理由は至極単純である。格好良いから必死で練習したのだ。

 

「くっ、やりおるな、だがまだ勝負は終わっておらぬぞ」

 

 耶倶矢はテーブルに並べたトランプを手にとって三つに配り分ける。

 

「四方の女神が終焉の刻を超えし七天を再生し、選ばれし民が大地と宇宙を創造する――我らに相応しき壮大な遊戯だとは思わんかね?」

「なるほど、七並べ(セブンス・ワールド)か」

 

 夕弦コンパイラを必要とせずに、士道は即座に理解した。

 そして、仁義無き戦いが始まった。

 

 

 

「来たれ天地開闢! かかっ、我が力により世界の始まりと終わりを繋げてやったわ!」

「感謝。これでダイヤのキングが出せます」

「えっ……!?」

「浅慮。耶倶矢のミスのお陰で活路ができました」

「み、ミスじゃないし! 慈悲だし!」

 

「ふんっ、どこを見ている? これでもう俺が幸運を告げる葉(クローバー)を手中に収めたも同然だな」

「油断。ぐぬぬ」

「はんっ、元より幸運に頼るものなど軟弱よ、我の手札には存在せぬ」

「随分と低く見られたものだな」

「唖然。開いた口が塞がりません」

「えっ? え? あっ……ち、違うし! 手札を教えたのはハンデだし!」

 

「宣言。次のターンで夕弦の勝利です」

「その傲慢、俺が崩してやろう。俺がダイヤの十を出すと思っただろう? 残念だったな、パスだ!」

「動揺。その手がありましたか」

「怖気づきおって、戦いから目を背けた者に勝利は………………あ、出せない」

「指摘。耶倶矢は既にパスを二回使っているので、次はありません」

「……う、うぅぅ」

「催促。どうしましたか? 早く出してください」

「うぐ、ぐぐぐ……」

「愉悦。にやにや」

「う、うう、うがぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 

 その日、数十回とゲームは繰り返された。

 状況は理解できたかと思うが、最下位は耶倶矢になった。

 そして最多勝利者は士道だ。彼は本人が名乗る<業炎の咎人(アポルトロシス)>以外にも、購買部の仲間が呼ぶようにもう一つ二つ名を持っている。

 それが<無反応(ディスペル)>。士道は完璧なポーカーフェイスで相手に先読みさせない。寧ろ相手に疑念を呼び起こし、自分の望む展開に誘い込むのだ。

 

 

 

 

 それから数日後、八舞姉妹は再び士道の前に現れた。安売りのチラシを片手にショッピングモールを回り、その帰り道だった。

 

「真の強者たるもの内蔵まで鍛えるのは当然、だから今度は早食い対決だ!」

「再戦。今度は負けません」

「俺はいかなる挑戦も逃げずに受けよう。それで、品目(オーダー)はなんだ?」

「――たこ焼き(デビルフィッシュ・バースト)だ!」

 

 耶倶矢は天宮市ではそれなりに有名なたこ焼き屋台を指差して、ふふんと胸を張った。物凄くいい笑顔だ。どうやら単純に食べたかったらしい。すぐ隣で夕弦も胸を張るのを見ると、なんだか格差社会を目の当たりにして視界が滲んだ。

 

 早速三人分のたこ焼きを注文して、勝負は始まった。ちなみに代金は士道持ちである。二人は食い逃げする気満々だったので、士道が久し振りに常識を発揮して止めた――かと思ったが、機関に自分達の存在が露見しないように気を使っただけだ。

 

「咀嚼。美味しいです」

 

 熱々のたこ焼きを頬張りながら、夕弦は露とも表情を変えない。

 その隣で耶倶矢は悶えていた。

 

「はふはふ……じ、地獄の業火が内側から我が身を蝕んでおる……! ふ、ふんっ、こ、この程度で……!」

 

 士道も平然とした顔で食べてはいるが、それは<無反応>を発揮しているだけで、本当は物凄く辛い。ぶっ飛んだ行動力と思考で忘れられがちだが、一応は彼も人間である。

 

 

 ――それからも、士道と八舞姉妹は何度も顔を合わせて戦いを繰り広げた。

 どうして八舞姉妹が士道に執着するのか。その理由は、二人がかりで勝てなかった存在は初めてであり、二人の間で新しい対戦方法が浮かばなかったため、ある約束がされたからだ。

 

『<業炎の咎人(アポルトロシス)>に勝利した者が、真の八舞となる』

 

 避けられない未来のために、定められた悲愴の決意。

 生き残ることができるのは、どちらか一人だけ。

 士道はまだ、彼女たちの悲しい宿命を知らない。

 

 

    *

 

 

 陸上自衛隊・天宮駐屯地。

 <完璧主義者>改め鳶一折紙は、精霊のデータベースにアクセスできる端末の前で固まっていた。常の無表情が険しく歪められている。

 

「五河士道、どうしてあなたが」

 

 あの日、来禅高校で出会った二人の少女に折紙は見覚えがあった。どこかで会ったことが、いや見たことがある。そして今日、その答えに辿り着いた。

 

「<ベルセルク>」

 

 ASTすらまともに接触できていないというのに、あんなに仲睦まじく……最初は単なる嫉妬だったが、今は危機感に変化していた。

 

「あなたは、私が守る」

 

 忌むべき精霊を討つために、かつて出逢った少年を救うために、折紙は行動を開始した。




 これは戦争ですか? いいえ、デートです。
 じっちゃんがルビを増やすと中二度が上がるって言ってた。


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6.精霊アポルトロシス

 その日も士道と八舞姉妹は天宮市で熾烈な戦いを繰り広げていた。とはいえ平和的に、静かに、目立たぬように、最新の注意を払っている。どこに機関の目があるか分かったものではないのだから。

 

「妙だな」

 

 士道はドリンクバーでミックスジュースを配合しながら、険しい表情を浮かべた。コーラがなくペプシしかなかったからでも、配合の分量を間違えたのでもない。気になることがあったのだ。

 現在、士道たちは昼休憩のために天宮クインテット内のファミレスに入っていた。

 ボックス席の対面で、八舞姉妹が士道の表情に気付いて緊張が走る。

 

「どうしたのだ?」

「質問。何か気になることでもありましたか」

 

 士道は手を組んで両肘をテーブルに突く。俗にいうゲンドウポーズである。どうしてそんな姿勢になったのか? 愚問だな、格好良いからだ。

 

「先程から視線を感じる」

「疑問。それはどういう意味ですか?」

「分からないか? 『機関』のお出ましだ」

 

 士道の類稀なる警戒心が、何者かの尾行を察知した。常日頃から機関への対応を怠らなかったことが功を奏したことで、士道はより妄想を確かなものとして実感する。

 

「偶然ではないのか、我らは完全に溶け込んでいた筈だ」

 

 耶倶矢の疑問に、士道は首を横に振る。

 

「だからこそかもしれない。俺たちはうまくやり過ぎたんだ。余りに自然過ぎるが故に目立つ……一般人の眼なら誤魔化せたかもしれんが、相手は機関だ」

 

 士道は伝票とボストンバッグを手にとってレジに向かった。

 

「相手の反応を誘う。もしも手応えがあれば、その場で散開。追跡を振り切った後に再びこの天宮クインテット内で合流」

「くくっ、成る程、相手の盲点を突くのか」

「了解。作戦は把握しました」

 

 三人で一度回った場所をぐるぐると何度も回る。あくまで自然に、尾行なんて気付いていませんよ、という態度を取る。しかし、この同じ場所を回るという行動に、相手はばれたかもしれないという危機感を抱く筈だ。例え尻尾を見せなくても、相手から何かしらの情報を引き出せる。

 スパイ映画、推理小説、怪しい雑学本――あらゆる媒体から知識を得た士道に死角は無い。

 

「巧妙に気配を殺しているが、それ故に分かりやすい」

 

 よくやっている。しかし、機関よ。お前達こそ素人ではないが故に、その剣呑な雰囲気を隠し切れていないぞ!

 確信に至った士道は、付き添う八舞姉妹とアイコンタクトを交わす。

 

「よし、それでは散開っ!」

 

 三人は同時に走り出す。それぞれにばらばらの方向へ。

 士道は背後に追跡する足音を捉えた。それを気にせず、真っ直ぐに男子トイレへと駆け込んだ。すぐに入ってこないところからして、どうやら相手は女のようだ。これで少しは時間を稼げる。

 

 個室に入ると鍵を掛けて、ボストンバッグから変装道具を取り出した。目をつぶってできるぐらいまでに鍛えた変装は、まさに早業だった。ボストンバッグを空っぽにすると、もう一つ別に持っていたナップザックに元々着ていた服やボストンバッグを押し込んだ。

 息を潜めて、トイレ内の気配を確認する。

 

「よし、誰も居ないな。……機関の犬よ、袋小路だと思ったか?」

 

 士道は個室から出て窓を開けると、窓枠に足を掛けて跳び出した。

 このトイレの窓から非常階段に跳び移れるのは既に調査済みだ。戦場となるかもしれない場所のマッピングをするのは、逃亡者であるならば当然である。

 階段を駆け下りる士道は、手でスカート(・・・・)がめくれ上がるのを押さえ込む。

 

 ――変装したその姿は、五河士道ではなく、言うなれば五河士織だった。

 

 士道の隠密スキルは確かに優れている。しかし、それだけでプロの監視員を幾度も撒けるものだろうか? その疑問に対する答えこそがこの『変装技術』にあった。

 

「我ながら、惚れ惚れする変装だ」

 

 窓に映り込んだ自分の顔を見て呟く。

 声もまた変わっている。中性的なハスキーボイスは、女性の声に聞こえなくもない。この声は、ヒュムノス語を覚えるのに無駄に積んだボイトレの副産物である。

 

「さて、ゆったりと時間を潰すとするか」

 

 まったくの別人となった士道を見抜くのは難しい。

 彼は絶対の自信をもって、優雅な散歩を開始した。

 

 

    *

 

 

 <フラクシナス>艦橋に転移装置を使ってやってきた琴里は、モニターに映された<ベルセルク>の姿に眉を寄せた。

 

「どういうこと……空間震の発生の予兆なんて無かった筈よ。まさか空間震を発生させずに現界する方法があるっていうの? まったく次から次へと問題を起こしてくれるわね!」

 

 表裏共に久々に休暇を得た琴里は、久々に士道に甘えてどこか遊びに連れて行ってもらおうと思っていたのに、肝心の中二病兄貴は「この怖気が走る感覚は!? ……すまんな、琴里。やはり俺に平穏を享受する資格はないようだ」とか意味不明なことを言いながらどこかに出掛けて行ってしまったし、更にそこへ突然の呼び出しを受けたとなれば機嫌が悪くなるのも無理はない。彼女は幼くも司令官を務める逸材とはいえ、やはり幼さを拭い切れている訳でないのだから。

 

 琴里はチュッパチャップスで意識の切り替えを行う。黒いリボンの私は強い私。白いリボンの私とは違う。

 艦長席に着いた琴里に、<藁人形(ネイルノッカー)>椎崎雛子から報告が行われる。

 

「<ベルセルク>の霊力反応は天宮クインテット付近に突如出現しました。司令、どうされますか?」

「ふぅ……そうね、とりあえずは現状維持よ。毎度のことながら、肝心の秘密兵器は行方もつかめていないしね」

 

 以前にセンサを付けて常に居場所を把握しようとも試みたのだが、士道の機関対策は馬鹿にできないレベルで、すぐに発見されてしまった。

 隣に立った令音が首を傾げるのを見て、琴里は視線で理由を話すことを促す。

 

「ああ、彼女たちは一体何が目的で天宮市に再び現れたのだろうかと思ってね」

「確かにその方向性から詰めてみるのも悪くないかもしれないわね。もしかしたら、天宮市に執着する何かがあるのかもしれないし。それが掴めれば、攻略の突破口だって開ける筈だわ」

「――司令! 現場にASTが到着しました。まだ避難が完了していないため攻撃許可は出ていないようですが……」

 

 雛子の報告に琴里は頷く。

 

「まさか一般市民の前でどんぱちはしないでしょ。実害も出ていないんだし」

「霊力反応増大、<ベルセルク>が高速で離脱していきます」

「すぐに追ってちょうだい!」

「待ってください、何故かASTの一部がその場から動きが見られません」

「……どういうこと?」

 

 琴里は考え込む。今日は奇妙なことの連続だ。

 嫌な予感がする。

 これから一体何が起こるというのだろうか?

 

 

    *

 

 

 <ベルセルク>の後ろ姿が見る見る内に小さくなっていく。先行してそれを追う数名の部下も徐々に距離を離されていた。

 日下部燎子一尉は精霊に血走った目を向ける鳶一折紙一曹の肩を叩いた。

 

「<ベルセルク>が動き出したとはいえ……上からの攻撃許可はまだだから、突出しないように。特に折紙、<ベルセルク>を見付けた功績は大きいし、歯痒いかもしれないけど我慢しなさい」

「……了解」

 

 追跡に移ろうとした折紙だったが、天宮クインテットから出てきた、ナップザックを背負った少女を見て目を見開いた。

 

「隊長、別行動の許可を。<ベルセルク>が戻るポイントを掴めた」

「どういうこと?」

 

 

    *

 

 

 士道は天宮クインテットを人目を憚ることなく堂々と歩いていた。尾行の気配は既に無い。やはりバレていないようだ。服装を変えて戻ってきた八舞姉妹に後ろから声を掛けた。

 

「耶倶矢、夕弦、そちらも無事に撒いたようだな」

 

 八舞姉妹は素早い身のこなしで、士道から距離を取って、鋭い視線を向けてきた。

 

「あ、あんた誰よ!?」

「困惑。どうして夕弦の名前を知っているのですか」

 

 二人の反応に、士道は声を戻していないことを思い出した。

 

「目に映る姿形に惑わされるな、千の顔を持つ俺にとっては視覚情報に意味は無い」

「その声は、<業炎の咎人(アポルトロシス)>か。なんだ貴様にはそのような趣味があったとは、意外だな」

「これは特技だ」

 

 女装などというものは、機関の目から逃れるための手段の一つでしかない。それを趣味と言われるのは心外だった。

 

「安堵。邪魔者は居なくなったので勝負を再開しましょう」

 

 夕弦の言葉に、士道は頷こうとした時だった。

 空間震警報が鳴り響く。

 

「諦めの悪さに関しては一級品だな」

 

 士道は逃げ惑う人々の波に飲み込まれる前に、耶倶矢と夕弦の手を掴む。このまま真っ直ぐに避難すれば、それこそ機関の思う壺だ。避難経路から離れた士道は、すぐに自分の行動が浅はかだということを知った。

 

「そこの三人も避難してください。こちらのシェルターへ、早く!」

 

 女性の呼び声には切迫した様子がある。この緊急事態なのだから慌てるのも仕方ないだろう。しかし、天宮クインテットの構造を完全に把握している士道にとっては、彼女が敵だというのはすぐに見抜くことができた。

 

「そちらにシェルターは無い。逃げるぞ、夕弦、耶倶矢っ!」

 

 すぐさま女に背を向けて駆け出す。

 

「早く追いなさい! 彼女たちはまだ霊装を展開していないわ!」

 

 天宮クインテット内を走り抜けて外へ出る。太陽の輝きを浴びて、幾つもの影が空を飛んでいた。

 

「甘く見ていたつもりはなかったが、こうまで先回りされるとはな」

 

 一般市民が避難を完了したことで、戦闘態勢を整えた彼女たちは機密情報に溢れた真の姿を遂に現した。

 機関の尖兵『対能力者部隊(アンチ・スキル・チーム)』――AST。

 

「その少女を、民間人を解放しなさい!」

 

 ASTが自分を指差して言った言葉に、士道は手の平で顔を覆い隠してくぐもった笑い声を漏らした。あくまで士道を『不思議な人間』としか思っていない八舞姉妹は、これ以上戦いに巻き込まないために素直にその勧告に従おうとしていたが、士道によって制止を掛けられる。

 

「無用だ」

 

 ハスキーボイスに切り替える。

 

「俺は民間人ではない。貴様らが打倒すべき『能力者』だ」

「能力者……? 何を言っているの?」

 

 ASTの隊長である燎子は視線で部下に確認を取る。

 

「霊力反応はありません。顕現装置(リアライザ)を持っているようにも見えませんし、随意領域(テリトリー)の発生も確認できません」

「どういうこと? 精霊でも魔術師(ウィザード)でもない少女が言う能力者は一体何を意味してるの……?」

 

 本当は絶体絶命のピンチに、ハイテンションになった士道が恐怖を押し隠すために必死で妄想逞しくしているだけだが、まさか精霊と行動を共にする人間がただの中二病などとは思えないASTの面々は色々と深読みする。

 士道は燎子の言葉から耳聡く『格好良い設定』を拾った。

 

「……『魔術師(ウィザード)』と言ったか?」

 

 はは、ははは、と士道の笑い声が響き渡った。

 世界が士道の妄想を歓迎する。今日はなんて嬉しい日なんだ。死ぬかもしれないのに、こんなにも世界に認められた感覚を味わうことができたのは、八舞姉妹との出逢い以来だ。

 

「何がおかしいの?」

 

 もちろん士道を只者ではないと思っているASTは、警戒を強くする。

 

「これがおかしくない筈がないだろう? ミイラ取りがミイラになったのだ、滑稽ではないか。あれだけ『能力者』を嫌っていた、『機関』が人工能力者……『魔術師(ウィザード)』を生み出したのだから」

 

 燎子は士道を睨み付ける。

 

「あんたが言っている能力者は、精霊のことだっていうの?」

「呼び方など瑣末な問題だ」

「『魔術師』が『精霊』を模した存在……笑えない冗談ね」

 

 だが、その指摘は強ち否定できない。顕現装置(リアライザ)の技術が生み出されたのは三十年前――つまり精霊が初めて現界したのと同時期だ。

 

「お前達、機関の人間であるASTもまた同様か。組織という括りに縛られた人間がお得意の思考停止。どうして普段は嫌う上司が言う言葉を無条件に信用するんだ?」

 

 まるで遅効性の毒のように、士道の『妄想』はASTの脳に染み渡っていく。疑念が疑念を呼んだ。

 士道は機関の犬共に真実を知らしめるべく、両腕を大きく広げて、名乗りを上げた。

 

「俺は<業炎の咎人(アポルトロシス)>、この世界の欺瞞を暴き、真なる世界を解放する者だ」

 

 己の中で眠る力を引き出す。

 来たれ、原初の火よ、世界を焼き尽くせ。

 

 ――士道の全身から火が吹き上がった。

 

 霊力反応を確認していたASTの一人が慌てふためいた。

 

「これは霊力反応!? どうやら、何らかの隠蔽能力を持っていると思われます!」

 

 その事実に一番驚いたのは、後方で狙撃手として待機していた折紙だった。

 

「どうして……そんな」

 

 スコープ越しに覗いた恋慕の対象が、憎悪の対象と一致する。

 かつて、街を焼き、両親を殺した――炎の精霊。

 その正体が五河士道だった。

 引き金に掛かった指が震える。今すぐにでも殺してやりたいのに、それができない。

 

「戦闘準備!」

 

 霊力反応を受けて燎子は部下に指示を飛ばす。

 士道の独壇場に控えていた八舞姉妹は、銃口を向けられたことで拘束具に似た霊装を纏った。士道に対して訊きたいことはたくさんあったが、今は目の前の敵を排除することが重要だ。

 

「<颶風騎士(ラファエル)>――【穿つ者(エル・レエム)】!」

「呼応。<颶風騎士(ラファエル)>――【縛める者(エル・ナハシュ)】」

 

 天使が顕現した。

 耶倶矢は身の丈を超える豪槍を構えて、夕弦は漆黒の鎖に繋がれたペンデュラムを振るう。

 燎子は不敵に笑う謎の精霊(・・・・)を睨みつけた。

 

「青髪の精霊は、これより暫定識別名<アポルトロシス>と呼称する! 総員、戦闘開始!」

 

 ――こうして、遂に『能力者』と『機関』の戦いの火蓋が切られた。

 ――こうして、誤解はこじれたままASTと精霊、そして中二病の戦いが始まった。




 補足として、時系列的にまだ静粛現界の存在が確認されていません。

 そろそろ「勘違い」タグを付けてもいいような気がしてきました。
 あと、感想欄で色々と期待されてしまっているのですが、この作品は八舞姉妹の攻略完了で完結です。それ以降の話を書く予定は今のところありません。申し訳ございません。


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7.叫びを上げるのは誰

「新たな霊力反応……これは、<イフリート>です!」

「そんなどうしてっ!?」

 

 琴里はモニターにズームアップで映し出された、謎の少女が自分の体から吹き上げた火に、服を焼かれて慌てる様子を呆然と見詰めていた。どうやら考え無しにやったらしい。少女の正体に気付いてしまった琴里は、その行動の理由を正確に理解していた。

 

 ――あのタイミングでいかにもなことをすれば格好良いから。

 

 きっとその程度の理由に違いない。

 

「でも、どうして、士道が精霊の力をコントロールしているのよ……!?」

 

 本来の<イフリート>の力に比べれば、ライターのようなものだが、使えるのと使えないのでは話が変わる。

 

「<ベルセルク>と行動を共にしている時点で理解できないし、何故かASTの存在を知っているし……」

 

 愛しのおにーちゃんの笑顔が霞んでいく。

 すべて知っているつもりでいたのに、戦場に立つ姿が、どこまでも遠い。

 中二病は世間の目を欺くための仮面だったのか?

 精霊の力を従えて、世界の真実すらも知る存在。ずっと監視を続けていたのに我々は何を見ていたというのだろう。

 

「私たちは……ずっと欺かれていた?」

 

 そんなこと信じたくない。まるで楽しく幸せな兄妹の日常すらも否定された気分になった。

 強い筈の黒いリボンの琴里でも、動揺を隠せない。

 

「琴里、落ち着くんだ」

 

 令音に両肩を揺すられて、ようやく現実と焦点が合う。

 

「ごめんない、私としたことが混乱してたみたい」

「無理もない。これはまったく予想外の事態だろう」

 

 琴里は黒いリボンをきつく締め直して、両頬に手の平を打ち付けた。いつの間にか口から零れ落ちたらしいチュッパチャップスを拾い上げる。何か期待の眼差しを向けてくる神無月を無視して、包装に包み直してポケットに押し込んでおく。

 

 新しいチュッパチャップスを口に咥えて、今度こそはモニターに映った士道の姿から目を逸らさない。

 自己嫌悪や疑問は後回しだ。今は目の前の問題を解決しないと。士道の存在がASTにバレるのは得策ではない。今はまだ、義妹の琴里すらも欺く変装をしており、素性がばれることは無いはずだ。ご丁寧に声まで変えているし。

 

「回収のタイミングをなんとか見付け出すわよ」

 

 少なくとも表面上は、いつもの司令官モードである琴里に戻っていた。

 

 

    *

 

 

 五河士道はあの日、能力を自覚した時から過酷な修行を行ってきた。炎による再生能力は致命的なダメージを負わなければ発動しない、というのも知ったのは、そんな時だった。

 拠点作りという名の秘密基地作りに勤しんでいた中二病真っ盛りの少年は、大樹の上を建築予定地に定めた。作業中、手を滑らせた士道は地面まで真っ逆様、運が悪いことに、炎槍ってなんか格好良くねという理由で作っていた木の槍を立て掛けた場所に落ちて串刺しになった。

 

 普通だったならば死ぬ。しかし、士道は再生された。傷口に突き刺さった木の槍を燃やし尽くして、再び命を取り戻した。

 士道は再生能力は実在することを確信し、まずは指先をカッターナイフで切り裂いた。じんじんと熱のような痛みが走り、それだけだった。

 

 そこでどうやら条件があると気付いた。

 人並みに恐怖を感じる当時の士道は、怯えてそれ以上の検証を続けなかったが、運悪く彼はそれ以降も死にそうな目に遭った。ほとんどは自業自得だったが。

 

 再生能力を手にした後は、物理的にも燃やすことができる火ならば、自由に操ることができれば便利ではないかと考えた。

 それ以降はひたすらに妄想力を磨き続けることになる。

 

 ――そして、遂にそれを役立てる時が来た。

 

 八舞姉妹が空を自在に移動し、ASTを蹂躙する。

 その光景を見上げて、士道もまた己も戦えるのだと信じ込む。

 

「来たれ、我が業火よ!」

 

 袖をまくって、両手に炎を呼び出す。

 さあ、機関を倒すために磨き上げた力を今こそ見せてやる。

 

 ――現実は、妄想を嘲笑う。

 

 超高速で接近するASTを迎え撃とうとして――当然、ただの人間並みの身体能力しか持たない士道が、着用型接続装置(ワイヤリングスーツ)を纏った魔術師に勝てる道理など無い。

 随意領域により突き出した腕が動かせなくなる。

 自由を封じられた身体に、近接戦用高出力レイザーブレイド<ノーペイン>が、精霊だと誤認されているため容赦無く振るわれた。

 士道の左肩から腹部まで斬撃が刻まれる。鮮血が噴出して、悲鳴を上げる痛覚に視界が真っ赤に染まった。

 

「ぐぅ……っ!」

 

 肉体的なダメージよりも、精神的なショックが大きかった。

 能力者である自分がたった一人の模造品の魔術師に手も足も出ずに負けるなんてことは、『設定上あってはならない』ことだ。

 

 士道はふらりとバランスを崩して後退る。

 何故かどこか遠くで<完璧主義者>の悲鳴が聞こえた気がする。

 

「あっ……」

 

 倒れていく身体に、弾丸が更に撃ち込まれる。文字通りの蜂の巣になっていく肉体。再生の炎が間に合わない。

 無敵の存在という妄想にヒビが入る。死という現実が押し寄せてくる。

 仰向けに倒れて見上げた空は、酷く綺麗な青色だった。

 八舞姉妹が戦闘を止めて、舞い降りてくるのが見える。彼女たちも悲鳴を上げている。涙を流していた。ああ、そうか、能力者同士で冷めた関係かと思ったが、そんなに大切に思われていたのか。

 

 ――いや、本当は分かっていたことだろう?

 

 何度も彼女たちと顔を合わせてはいがみ合ってきたと妄想しているが、あれはどう見てもただの戦争(デート)だった。

 

「――俺は闇に生きる『能力者』。この程度で屈する訳にはいかない」

 

 現実よ、妄想を舐めるなっ!

 全身が一気に燃え上がった。その姿はまるで不死鳥の如く。

 その異様な現象に呆然としていたASTが、警戒して距離を置いた。

 完全に再生された士道は、涙目で何か捲し立てる八舞姉妹の頭に手を置いた。

 

「問題無い。この身は既に死を超越している」

 

 士道は自分の力で立ち上がった。

 

「だ、大丈夫!? 怪我とか無い……というか怪我が無いし!? え、ええ? ちょっとどういうこと!?」

「打撃。ていっ」

「いたっ! な、なにすんのよ夕弦!?」

「応答。頭を叩きました」

「そういう返答を期待したんじゃないわよ!?」

「辟易。落ち着いてください。酷い顔ですよ」

「あ、あんたも涙でくしゃくしゃじゃない!」

「否定。これは汗です」

 

 二人で漫才を始めてしまうのを見て、士道はここが『妄想』すらも通じない本当の戦場だと理解しながら笑った。長年、追い求めてきたものが見つかったような気がした。

 

 安堵を覚えるのも束の間――背筋が凍るような寒気がした。

 奇妙な感覚に突き動かされて、士道は八舞姉妹を突き飛ばしていた。

 風を蹂躙する魔弾が、狙撃手と弾道の二重の悲鳴を木霊させながら、士道の身を貫く。あらゆる痛苦を物ともしない<無反応>の表情が苦痛に歪む。

 

 腹に大穴が穿たれた。内蔵は化け物じみた威力で消し飛んでいた。

 八舞姉妹の呆然とした表情がまた、悲痛なものに歪もうとするのを止めるために笑顔を浮かべようとするが、うまく笑えた自信がない。

 大丈夫だ。再生はまた始まる。だというのに、この冷たい感覚はなんだろうか。まるで永い永い眠りに誘われているような――そこで士道の意識は途絶えた。

 

 

    *

 

 

 命懸けで精霊をかばった姿に、琴里は唖然とする。変わらない根の優しさは嬉しいが、それでも不安感は拭えない。士道は自分の命を勘定に入れないで行動する。きっと再生能力が無かったとしても。

 

「ああ、私は馬鹿ね。それでも、やっぱり、士道は私のおにーちゃんで……そんなおにーちゃんだから、私は交渉役になれると思ったんだから」

 

 五河士道を全力でサポートすること。それが<ラタトスク>の存在意義。

 琴里は自分の中に残る不安感を押し殺して、すぐに部下に指示を飛ばそうとして固まった。

 士道の肉体が一向に治らない。小さな火が灯るだけで流れ落ちる血が止まらない。

 

「えっ……まさか、そんな……回復現界……」

 

 まだ大丈夫な筈なのに。まさか火を操ることで精霊の力が消費されていたせいで、計算を誤った?

 モニターに泣き叫ぶ<ベルセルク>の姿が映った。今は<ラタトスク>のサポートがなくても士道が精霊をデレさせたことを喜ぶこともできない。

 だめだと分かっているのに、不安で心が塗り潰されていく。

 

 <ベルセルク>が士道の体を壊れ物を扱うように抱き締めて、戦場から離脱していった。

 霊力反応を追っていた雛子が俯く。

 

「<ベルセルク>の霊力反応と共にあった<イフリート>の霊力反応が……消失しました」

 

 精霊の消失(ロスト)とは違う。

 それはつまり、士道の肉体は修復されることなく、精霊の力が尽きたということだ。

 

「やだ、おにーちゃん……死んじゃ――!」

 

 悲痛な慟哭が<フラクシナス>の艦橋に響き渡る。泣き虫な義妹を笑顔に変えてくれるおにーちゃんはもう居ない。

 

 

    *

 

 

 折紙は手が震えるのを止められなかった。

 自分がどうしたいのか分からない。

 

 不調を理由に代えられて別の狙撃手が、誤射とはいえ見事に<アポルトロシス>を撃ち抜いてくれた。そして先程、<アポルトロシス>の霊力は消失が確認された。肉体は<ベルセルク>に抱え込まれたままになっているのを仲間が確認したので、それはつまり霊力反応だけが完全に消えたということ。精霊が死んだということ。

 

 死んだのだ。

 長年追い続けた復讐相手は完全に死んだのだ。

 

「あっ、ああっ……」

 

 なのに、どうして涙が溢れてくるのだろう。

 分かっている。本当は分かっている。

 だって、それはつまり五河士道が死んだという意味でもあるのだから。鳶一折紙の一生とは一体なんだったのだろうか? 唯一の拠り所だと思っていた存在が復讐相手で――狂ってしまいそうだった。いや、狂ってしまいたかった。

 

 

 <CCC(クライ・クライ・クライ)>の弾丸は、<ベルセルク>と五河琴里と鳶一折紙の悲鳴を呑み込んで、いつまでも響かせ続けた。ASTは敵である精霊をようやく殺せたというのに遣る瀬無さを感じ、<ラタトスク>は絶望に沈み込む。勝者なき戦場がそこにはあった。




 上げたら落とす、これが基本(ゲス顔)。でも落としたら上げましょう。
 今までが1、2巻の雰囲気だったならば、この話はきょうぞうさん登場の3巻的な雰囲気。
 ただ、忘れてはいけません。なんだか物凄くシリアスな空気になってきましたが、この小説はあくまでギャグ、ネタ系です。


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8.王の簒奪

 燃えている。世界が地獄の劫火に包み込まれている。

 士道はその中を懸命に走っていた。状況はまったく分からない。ただ一つだけ確かなことがある。

 

 ――琴里を救わなければならない。

 

 それだけで、士道は燃え盛る炎の中に躊躇いもなく飛び込むことができた。

 五年前、南甲町を襲った大火災。

 その中を、士道は走っていた。

 何を犠牲にしてでも琴里を救う。それがかつて世界から否定され、抵抗を続けてきた士道にできる精一杯の恩返しであり、妄想も現実も関係無い本心だった。

 

 

    *

 

 

 身体が冷たい地面に横たえられている。靴下とスカートの間の絶対領域が、草葉にくすぐられむずむずした。徐々に浮上する意識が、頭部だけは柔らかい感触に支えられていることに気付いた。

 ぼやけた視界に、揺らめく炎が見える。やがて炎が収まると、その先に、涙で腫れた目をする八舞姉妹の顔を見付けた。耶倶矢の顔だけが妙に近い。

 

「良かった、もう死んだかと思ったじゃない」

 

 耶倶矢が身動ぎするのに合わせて、士道の視界が揺れた。どうやら膝枕をされているらしい。

 

「安堵。無事で何よりです」

 

 二人の声を聞いて、ようやく状況を思い出すことができた。

 士道はASTとの戦闘で重症を負い、再生能力が間に合わず意識を失っていたのだ。

 

「心配を掛けた……もう大丈夫だ」

 

 まだ痛みの残る身体で立ち上がろうとして、夕弦に頭を押さえ付けられる。

 

「否定。まるで大丈夫ではありません。もう少し身体を休めていてください。……耶倶矢も同様です」

「ふんっ、我の心配こそ不要。この身は無敵であり不死なのだから――イタッ!? ちょ、傷口を触らないでよ!?」

「感嘆。流石は無敵(笑)で不死(笑)」

「もう無駄だし! そんな挑発に乗らないし!」

 

 夕弦は無言の圧力を伴って、耶倶矢の切り裂かれた肩口に指を近付ける。

 

「わ、分かったわよ。私も大人しくしてる。それでいいんでしょ?」

「肯定。夕弦は周囲の警戒に行ってきます」

 

 足音が遠ざかっていくのを確認して、耶倶矢は溜息をついた。

 

「まったく、夕弦は心配症なのよ。この程度、本当にかすり傷なんだからさ。あんたもそう思う……ん、んんっ! 貴様もそうは思わぬか、<業炎の咎人(アポルトロシス)>よ」

「こんな時ぐらいは無理をせず、楽に話せばいい」

「……よもや、貴様の口からそんな言葉を聞くとはな。随分と疲弊していると見える。まあ仕方あるまいか、あれだけの猛攻を受ければ死なずとも精神には深い傷が残る」

 

 士道は首を横に振った。しかし、それ以上は語らない。確かに疲れているのかもしれない。完膚無きまでに妄想を切り捨てられたダメージは深刻だった。

 

「なあ、<業炎の咎人>よ、貴様も楽になっていいのではないか? 貴様がただの人間ではないことは、先の戦いで重々承知している。しかし、だからといってそれが平穏を遠ざける理由にはなるまい?」

「だったら、お前たちはどうなる? 俺が日常に戻れたとして、お前たちはASTと戦い続けるというのか?」

「――もちろんだ。夕弦と話してそう決めた。もう貴様をこれ以上、巻き込むわけにはいかない」

 

 ようやく手に入れた大切なものが、手の平から零れ落ちるのを感じた。

 息が詰まって、返答を言葉にできない。

 

 力が欲しい。あらゆる障害を打ち払う圧倒的な力が。どうして俺はこんなにも中途半端なのだろうか。異常なまでの再生能力、キャンプに役立つ程度のちんけな炎――このアンバランスな攻守の偏りは、いっそ笑えてしまう。

 

 初めて出逢った時、ASTの戦闘で見た時――八舞姉妹は絶対的な力を従えていた。士道には存在しない、『天使』と呼ばれる強力無比の矛と『霊装』と呼ばれる堅牢な盾。

 

「……俺は役立たずだということか」

 

 何度も躊躇ってから、ようやくその言葉が口に出た。

 それと同時に妄想に大きなヒビが入る。

 

「ああ、その通りだ」

 

 自分で言っておいて、どうしてそんな傷付いた顔をするのか。耶倶矢の不器用な優しさに、士道は歪な苦笑を形作る。

 

「だから最後に一ついいだろうか」

「なんでも言ってくれ」

「――貴様の真名を教えてはくれぬか?」

 

 ますます士道の苦笑が歪んだ。

 妄想に楔が穿たれた。耶倶矢の口から現実を要求されることが、思ったよりもショックではなかった。なんとなく温かな感情が芽生えて、だからこそ士道は混乱する。

 

「詰まらないことを訊いたな。貴様は<業炎の咎人>であり、それ以上でもそれ以下でもない」

 

 寂しそうに笑った耶倶矢が、士道の頭を下ろしてゆっくりと立ち上がる。

 妄想と現実が脳内でぐるぐると回った。何が正しくて、何が間違っていて、自分がどうすれば『設定』に忠実でいられるのか――いや、そんなことすべて無意味だ。嘘か本当かなんてどうでもいい。例え間違っていても、貫き通せば、それは絶対の真実となる。そして、士道にとっての真実は『誰かを悲しませる』ものであってはならない。

 去っていく背中に向けて、士道は言葉を送った。

 

「五河士道」

「え……?」

「それが俺の真名だ」

 

 振り返った耶倶矢の呆然とした顔が、魅力的な笑みに変わった。

 ドクンと心臓が跳ねる。

 

「ふむ、士道か。我が盟友に相応しき名よ」

 

 ぱたぱたと耶倶矢が走り寄ってきて――気付いたら、唇を重ねられていた。刹那に永遠が宿る。瞼を閉じた耶倶矢の顔を見詰めたまま、その行動の意味を理解するよりも早く、名残惜しそうに耶倶矢の唇は離れていった。

 

「――さらばだ」

 

 別れの言葉が遠い。

 それは、精神的なものがもたらすのではなく、士道の内側に流れ込む何かがそうさせていた。温かいものが流れ込んでくる感覚に戸惑う。

 

「なっ……!?」

 

 耶倶矢の拘束衣や鎖が光の粒子となって消えていく。一糸纏わぬ姿になって、ぺたんとその場に座り込んだ。

 

「こ、これは、まさか」

 

 新たなる妄想が脳内で弾けた。

 だって仕方ないだろう。もう士道は妄想と共に永く生き過ぎた。つい面白い展開になれば無意識の内に設定を構築してしまう。

 

「俺の隠された力――<王の簒奪(スキル・ドレイン)>!?」

 

 まったく関係ない右目を押さえ込んで、動揺と歓喜が入り混じった叫びを上げる。

 光の粒子に気付いたのか、空から周囲を警戒していた夕弦が慌てて戻ってきた。そして目にした光景は、全裸で涙目の耶倶矢となんだかハイになっている士道の姿。

 

「詰問。これはどういうことですか」

 

 鋭い視線が、二人に向けられる。誤解するなというのが無理な光景である。

 夕弦の瞳には冷え冷えとした怒りが渦巻いていた。

 耶倶矢は夕弦の誤解を正確に理解して、慌てた様子で弁明する。

 

「これは、違うの! ええっと、いや違わないけど、なんというか、夕弦の心配するようなことじゃないから!」

「憤慨。言い訳無用です。つまり耶倶矢は――」

 

 最後まで夕弦の言葉は続かなかった。

 最悪のタイミングで、夕弦はこの世界から消失(ロスト)してしまったのだ。

 

「えっ……どうして、私は残ったままなの?」

 

 耶倶矢は悲鳴に似た戸惑いの声を漏らす。縋るように士道を見上げるが、説明をほしいのは彼も同様だった。

 

 

    *

 

 

 <フラクシナス>の医務室。ベッドの上に琴里は上半身だけ起こして、令音からの報告を聞いていた。あの後、艦橋で錯乱しているのをクルー総員で取り押さえられ、令音から鎮静剤を打たれて今まで眠っていた。

 

「天宮市郊外で<イフリート>の霊力反応が再び感知された」

 

 琴里は令音の言葉に頷いて、深い溜息をついた。

 

「完全に迂闊だったわ。士道が目の前でミンチになろうが、挽き肉になろうが、ハンバーグになろうが耐えられるだけの訓練は受けてきたっていうのに……まさか、『士道との思い出が嘘かもしれない』というだけで、精霊の力が逆流するなんてね」

 

 令音が無言で琴里のモニタリングしたデータを見せてくる。

 

「好感度に変化無し。不安のパラメータだけが急激に上昇している」

「はぁ……どんだけ、士道のことが好きだっていうのよ、私は……。その装置、壊れてるんじゃないの?」

「自分の胸に訊いてみるといい」

 

 琴里は唇をへの字に曲げる。何も反論の言葉は浮かんでこなかった。

 

「それよりも、士道を見付けられたの?」

「残念ながら発見は難しい。既に<ベルセルク>が消失(ロスト)してしまったからね、探すにも目印がない。今までの監視結果から彼がその場で大人しくしているとは思えないが、琴里はどう思う?」

「同意見ね。また……待つしかないってことか」

 

 なんのための<ラタトスク>なのか。なんのための自分なのだろうか。

 

「一人にさせてちょうだい。少し経ったら艦橋に戻るから」

 

 令音は無言で頷いて席を立ったが、去り際に琴里の頭を撫でていった。

 見上げた配管の通った物々しい天井が徐々にぼやけていく。

 

「うぅあっ……よかった、おにーちゃん、生きてた……」

 

 静まり返った医務室に押し殺した嗚咽だけが響いた。



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9.三番目の選択肢

 そいつは実に珍妙な人間だった。

 何人たりとも犯せぬ八舞の戦場に突如として姿を現し、次から次へと度肝を抜く言動を以ってこちらの予想など容易く斜め上に超えていった。

 最初はただの興味、それは徐々により親しみのある感情に変わっていき、最終的には恋心へと辿り着いた。

 

「<業炎の咎人(アポルトロシス)>に勝利した者が、真の八舞となる」

 

 そんな約束は実のところ、彼と会うための口実に過ぎない。

 でも、失念していたのだ。

 耶倶矢が好きになるものは夕弦もまた好きになるし、夕弦が嫌うものは耶倶矢も嫌う。

 

 一人の少年と二人の少女。

 始めから席の足りないボーイ・ミーツ・ガール。

 

 だったら、たった一つの残された未来を生きるべきは、耶倶矢ではなく夕弦であるべきだ。そう思っていたのに、その想いは永遠に変わらないものだと思っていたのに、精霊である自分もまた恋に恋するただの乙女だったらしい。

 

 目の前で<業炎の咎人>――五河士道が死に瀕した時、思ってしまったのだ。

 

 ――まだ一緒に居たい。

 

 果たしてその『まだ』とは一体いつまでのことだろうか?

 もう目を逸らすことはできない。どれだけ苦しくても認めよう。一瞬でも夕弦が生きる未来よりも、自分が生きる未来を望んだことを。真の八舞はどちらかを決める戦いなんてものは、あの一瞬の想いの中には介在する余地はなかったのだと。

 

 だから、夕弦には秘密にして独断で士道と別れを告げることを決めた。自分の醜い部分を直視できなかったから、夕弦との関係を壊したくなかったから、生きていたいとこれ以上強く思いたくなかったから。

 

 悪趣味な脚本を呪い、思い通りにならない現実を恨んで――ただ夕弦に生きてほしいという純粋な想いだけを胸に、結末の決まった悲劇を演じ切ろう。

 

 ――真の八舞には夕弦こそが相応しい。

 

 それが八舞耶倶矢の決意だった。

 しかし、その選択は五河士道の力によって無意味となる。

 笑うべきかどうなのか、悲劇はどうやらいつの間にかに喜劇に変わりつつあるらしい。

 

 

    *

 

 

 耶倶矢から八舞の真実を包み隠さず伝えられた士道は、怒りと悲しみの入り混じった感情に表情を上手く作ることができなかった。

 機関の考えそうなことだ。少女たちが悲劇に悶える姿をどこかで高みの見物をして、愉悦に浸る姿が容易に想像できた。

 

 その強大なる力故に実の母親から拒絶をされた士道にとっては、同じ能力者の苦しむ姿を無視できない。いや、彼に根差した優しさは、あらゆる存在の救済を望んでいる。それ故に『誰か』という悪を作らず、徹底的に秘密主義な『機関』という『何か』を憎むべき敵に設定したのだ。

 

 ――精霊。

 

 どうやら裏社会での能力者の呼称らしい。呼び名など瑣末な問題だが、言葉とは相手に伝わって初めて意味を成す。これからの会話には精霊という呼び方を使うことに決めた。それに精霊の方が能力者よりもなんだか特別感があって格好良い。

 

 元は一人だった者が、ある日を境に二人に別れて――そして真の精霊を決めるために争い合う。なんて心躍る展開だろうか。設定だったならば(・・・・・・・・)

 士道は拳を壁に叩き付けた。壁の向こう側からすぐに壁ドンを返される。どうやら隣の部屋にも客が入っていたらしい。

 

 現在、士道と耶倶矢はとあるカラオケ店に身を隠していた。フリードリンクで喉を潤し、気晴らしに叫ぶこともできて、一晩を格安で過ごせるため、士道は隠れ家として重宝している。

 耶倶矢には激しい戦闘を生き延びたナップザックの中にあった、別の変装用の服を渡してある。例によって女物だが、もしも夕弦だったら着ることができなかっただろう。主に胸部装甲の問題で。

 

 士道は切り裂かれた服を修繕してそのまま着ている。衣装を作るために磨いた裁縫の腕はこんな時に役立つ。生活能力と中二的能力が密接に結び付くことを知る者は少ない。中二病にうつつを抜かしていながら、主夫の在り方も両立させられる理由である。

 気不味い沈黙を破ったのは、耶倶矢だった。

 

「もうこれ以上は士道がその手を煩わせることはない。我と夕弦、八舞の問題よ。これまでの日々、実に心が躍った。楽しませてもらったぞ。だから――」

 

 別れの言葉を再び告げようとするのを、士道は手で制した。顔は横に向けて手だけを正面に突き出すのがポイントだ。更に余った手で顔を覆うと尚良い。

 

「俺の<王の簒奪(スキル・ドレイン)>によって、力を失ったお前に何ができる?」

 

 敢えて冷たい現実を突き付けた。

 

「それでもだ。我は行かねばならぬ、例えこの身に一切の力が無くとも、我は颶風の御子にして、八舞の半身。一人で精霊として世界から敵視される夕弦の傍こそが、我の居場所だ」

 

 耶倶矢の声は力強かった。絶望的な状況にありながら輝いている。隣界に戻れない今、耶倶矢はいつどこに現界するかも分からない夕弦を探し続けるしかない。例え出会うことができても、力を持たない耶倶矢はASTに襲われればすぐに殺されてしまうだろう。

 

 どうしてそこまで優しく強い人間に、過酷な試練を与えるのだろうか。

 そんな人間が救われないなんて嘘だ。苦難を乗り越えたならば、そこに幸福が待っていなければならない。そうでなければ意志は折れて、未来への歩みを止めてしまう。

 

 士道は考えた。彼女たちを救う手段はないのか? 俺は最強の能力者なのだから、ご都合主義と罵られるような力があっていいではないか。

 顔を伏せたままで引き留めようとしない士道に、耶倶矢は寂しさと安堵をごちゃまぜにした笑みを残して部屋を出ていこうとする。

 

 彼女を引き止める言葉は無い。

 もう手の届かない場所にまで行ってしまった。

 まるで士道を責めるように時間の流れが遅くなる。

 

 なんの根拠もないのに救済の手を差し伸べる。それは愚かな行為である。だからここで沈黙を選ぶのは賢く合理的な判断だ。闇に生きる咎人として、この過酷な世界を生き抜くためには無力を嘆くことはよくあること――無力? ああ、そうだ、無力だよ。無力になればいい。

 士道の視界が一気に明るくなる。

 

 ――あるじゃないか。二人を救う方法ではなく、二人を苦しめる幸せな選択肢が!

 

 届かないと知りながら、士道は耶倶矢に向けて手を伸ばした

 

「①! 耶倶矢が夕弦を見捨てて一人で生きる」

 

 突然の言葉に耶倶矢が目を白黒させたが、すぐに内容を理解すると柳眉を逆立てた。

 

「貴様、幾ら士道とはいえ無視できぬぞ!」

 

 怒りを宿した鋭い眼光が刺し貫く。だが覚悟を決めた士道には痛くも痒くもない。

 

「②! 耶倶矢は夕弦の足を引っ張り、目の前で無様に殺される!」

「ふざけんじゃないわよ――っ!」

 

 

「③! 夕弦の力も<王の簒奪>により奪い、無力を嘆き苦しみながら二人で生きるっ!」

 

 

「……ッ!?」

 

 耶倶矢は震える手を握り締める。

 

「でも、そんなことしても、私たちには……この世界に居場所なんてない」

「俺が居るだろう」

「えっ……?」

 

 士道は笑った。世界が八舞姉妹を否定するならば、それ以上に肯定しよう。この身もまた世界に拒絶されながらも無様に生き残っている。それが二人増えるだけのことだ。

 

「俺が居場所になってやるって言ったんだ」

 

 士道が伸ばしただけでは手は届かない。

 しかし、耶倶矢からも伸ばせば、その手は結ばれる。

 

「細かいことは後から考えればいい、俺と耶倶矢と夕弦が居てできないことなんてありはしないさ! ……だから、頼む! 俺にお前たちを救わせてくれっ!」

 

 逡巡は一瞬で過ぎ去っていく。

 士道と耶倶矢と夕弦――三人で生きる未来。

 ああ、それはきっと、想像できないぐらい幸せな生活が待っているに違いない。

 

「お願い……! 夕弦を、助けてっ!」

 

 二人の手が固く繋がれる。

 

「違うだろう? 俺が救うのは、耶倶矢と夕弦――二人共だ!」

 

 

    *

 

 

 闇に満ちた世界に光が広がる。

 地平線の向こう側から朝日がやってきた。

 天宮市上空に待機した<フラクシナス>の艦橋で、琴里は士道発見の報告を寝ずに待ち続けていた。眠気覚まし用のチュッパチャップスは今ので五本目だ。どれだけ大人びた性格でもあくまで肉体は子どもであり、立て続けの衝撃で心労も溜まっている。クルーは何度も琴里を医務室に連れて行こうとしたが、最終的に令音が常に傍に付くことで、無理があればすぐに休ませるということで落ち着いた。

 

「琴里、見付かったよ。彼は天宮市に戻ってきている」

「そう」

 

 返答は素っ気ない呟き。しかし琴里の状態をモニタリングしている令音には、彼女の中でどれだけの感情が溢れているか把握できていた。

 

「さあ、すぐに回収して……たっぷりお仕置きしてやるわ! 可愛い妹を悲しませた罪は重いわよ!」

「ああ、司令のお仕置き! なんて甘美な響き――」

 

 何やら騒ぎ出す神無月を蹴り飛ばして、艦長席から立ち上がる。

 朝焼けに目を細めた時だった。

 

「――空間震の予兆を確認……えっ、そんな!?」

 

 <藁人形(ネイルノッカー)>雛子が悲鳴を上げる。

 

「天宮市上空……規模はAランクです!」

 

 琴里はすぐに頭を切り替えた。

 

「全速力で退避しなさい! このままじゃ巻き込まれるわ!」

「だめです、間に合いません――!」

 

 まるでそれは世界に響き渡る慟哭。

 たった独りになった<ベルセルク>八舞夕弦が現界した。

 

 

    *

 

 

 来禅高校屋上。雲の消し飛んだ空を見上げて、士道は目を細める。拠点(じたく)に寄る時間がなかったために未だに女装のままだ。隣に立つ耶倶矢は緊張した面持ちで、同じく空を見詰めていた。

 

 空間震警報が鳴り響く街が、静寂に包み込まれていく。

 屋上から眺める人間の消え去った天宮市はどこか不気味だった。

 

「来たれ、混沌! 世界を焼き尽くす業火よ、世界を舞い踊る疾風よ――我が導きにより顕現せよ!」

 

 士道の服を捲った右腕が炎と風に包み込まれた。

 届け、この想い。

 

「――終焉を齎す焔獄(インフェルノ・ディザスター)!!」

 

 ライターに等しい威力だった炎が、風の力に乗せられてガスバーナー程度には強化される。そして何よりも射程が数十メートルまで伸びた。

 

 炎の柱が空を駆け上がる。

 届け、届け――夕弦のもとまで届け。

 俺はここに居るぞ。耶倶矢はここに居るぞ。

 だから、早くここにやってこい。

 

「そして、俺たちの戦争(デート)に決着をつけようじゃないかっ!」




 ひゃっはー汚物は消毒だー! なお精霊や魔術師は無傷の模様。
 <ラタトスク>、AST、<ベルセルク>――そして中二病が織り成す物語もいよいよクライマックス。エンディングまでノンストップで突き進みます。
 沈んだあの子が復活したり、勘違いが突っ走ったりするので、もう少々お付き合いくださいませ。


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10.復讐鬼

 鳶一折紙はもはや日々のルーチンワークを消化する屍となっていた。

 あれだけ必死に取り組んだ訓練にも心が揺れ動かない。

 

 それも当然のことかもしれない。復讐を果たし、生きる意味であった大切な存在を失ったことで、折紙の人生は終わってしまっている。自分と同じような人間を出さない、という思いも確かにあったが、そんなものは綺麗事で、欠片も戦意は湧いてこなかった。

 

「聞いてるの、折紙? 幾ら訓練とはいえ、余所見をすれば死ぬことだってあるのよ」

「はい」

 

 折紙は燎子の叱責に、反射的に口を開いた。

 

「返事しろって言ったんじゃないの、ちゃんと聞きなさいって言ったのよ」

 

 燎子は反応がないことに溜息をついた。

 お互いに疲れているのは当然だろう。

 戦術顕現装置搭載(コンバット・リアライザ)ユニット――通称CR-ユニットから解放がされた身体が重苦しい。重力や疲労などの身体的な負担以外にも、兵士としての柵もまた、矮小な肉体にのしかかる。

 

 しかし、折紙が沈み込んでいるのは、明らかにそれとは別の理由だ。

 燎子は昨日の戦闘からずっとこの調子の折紙を心配していた。折紙はまだ学生であり、他の隊員に比べて若い。精霊<アポルトロシス>が口にした衝撃的な内容は、上司に確認したところ否定されたが、それこそ奴の言う通り上層部の言うことを鵜呑みにして信頼することもできない。隊員も不安を感じているだろう。

 

 そして、もっと大きな問題は別にある。

 

 ――人間のように泣いて、人間のように怒る。

 

 感情を剥き出しにした精霊の姿は、燎子にとっても辛い光景だった。

 折紙が精霊への復讐に燃えることを知らない燎子は、そのため折紙が精霊との戦いに疑問を抱いてしまっていると勘違いしていた。

 

「どうして精霊が人間と同じ姿形をしているのか、あの日ほど、恨んだことはないわ」

 

 その言葉に、折紙が少しだけ顔を上げる。

 

「……例え、精霊が天使の姿でも、私は躊躇わない」

 

 あの日、天使と見間違えたことを記憶から消し去りたい。目玉も抉り出してやりたいが、脳裏に焼き付いた光景は決して消えてはくれないだろう。後悔と共に刻み付けられた永遠の傷だ。復讐を果たした今もなお、色褪せること無く残っているのだから。

 

「その気概でいなさい。私たちは兵士で、精霊は人類のために倒すべき存在よ」

 

 燎子は折紙の返答に不安を感じたが、不用意に踏み込まずに叱咤した。

 ASTのサポートに付くオペレーターが、ぱたぱたと慌ただしい様子で駆け寄ってくる。

 

「日下部一尉、昨日の報告で奇妙な点が見付かったのですが、よろしいでしょうか」

「ん……? 別に構わないわ」

「目撃された新たな精霊<アポルトロシス>の霊力反応を登録しようとデータベースにアクセスしたのですが、何故か該当データがあったのです」

「以前に遭遇した話なんて聞いたこと無いけど」

 

 ASTの隊長として現在までに人類が遭遇した精霊については記憶している。

 個性的な精霊の中でも特に不可思議な<アポルトロシス>の存在を、忘れられるとは思えない。

 

「該当したデータは<イフリート>という炎の精霊なのですが……一体どういうことだと思いますか?」

 

 無意識の内に耳を傾けていた折紙は、しかしすぐに興味を失った。

 

 もうどうでもいいこと。

 五年前に現れた<イフリート>と<アポルトロシス>が同一の存在だと、客観的に証明されただけのことだ。

 <アポルトロシス>は死んだ。五河士道は死んだ。

 

 折紙は重力の違和感が抜け切ったのを確認して、着替えを済ませてしまおうと立ち上がる。

 訓練を終えて誰もが一息をつく中で、空間震警報が鳴り響いた。

 いつもなら一番に装備を整える折紙だが、その動きは酷く緩慢だった。

 

「はぁ……またおいでなすったわね。総員、戦闘準備!」

 

 燎子は連日の出撃を前に部下の疲労を見抜いたが、それが出撃を拒否する理由にはならない。これが我々の仕事であり、戦場に立つまでにはコンディションを整えるのが兵士の義務だ。

 すぐその場でブリーフィングが開始された。

 

「反応は<ベルセルク>か……仇討ちのつもりかしらね。まあいいわ」

 

 暗くなる部下の顔を見て、すぐに話を切り替えようとするが、

 

「日下部一尉! 先程、新たな報告が上がりました。霊力反応がもう一つ発見されました」

「まったく兵士がワーカーホリックになる世界なんて碌なもんじゃないわ。……はぁ、私としては<ハーミット>にしてほしいけど、最近はご無沙汰だった<プリンセス>でも現れたの?」

「違います」

 

 オペレーターの否定する声は震えていた。

 そして、まるで亡霊の名を口にするように言った、

 

「反応は<イフリート>……いえ、映像で確認されました。来禅高校の屋上に<アポルトロシス>が出現しました」

「…………っ!」

 

 折紙は立ち上がり、すぐに駈け出した。

 思い出した。<アポルトロシス>には、霊力反応を完全に隠す隠蔽能力があったではないか。つまり、五河士道はまだ生きている。

 

「折紙、どこにいくの!?」

 

 制止の声を振り切って、格納庫の専用ドックからCR-ユニットを起動する。

 どんな結末が待っていようと構わない。

 折紙は復讐を自分の手で果たすために、天宮駐屯地から飛び立った。

 

 

    *

 

 

 来禅高校の屋上に立つ士道と耶倶矢。

 空を舞う夕弦は、二人を冷めた顔で見下ろしていた。

 

「夕弦、聞いてくれ。俺はお前たちの宿命を知った。でも、二人共救える解決方法が見付かったんだ」

「疑問。そんな方法があるのなら、夕弦と耶倶矢は見付けていた筈です」

 

 どれだけ二人で生きる未来を想像したことか。それをこの男は知ったような口で簡単に言ってくれる。

 愚か者は一人ではなかった。

 

「本当なのよ! 私と夕弦、どちらかが犠牲になる必要がないの。ほら、この世界から戻る時、私だけこっちの世界に残ったままだったでしょう!?」

「疑念。耶倶矢まで妄言を口にしますか。その男に誑かされたようですね」

「違うわよ! 士道がそんな奴じゃないってあんたもよく分かってるでしょ!?」

「理解。士道、ですか。……よく分かりました」

 

 そもそも真の八舞を決める戦いに、他人を巻き込んだことが間違いだった。

 <業炎の咎人(アポルトロシス)>――どうやら本名は士道というらしいが――と会うたびに、耶倶矢が遠ざかっていくように感じられた。それでもお互いのことは完璧に理解できることが、なんだか空々しく、息苦しかった。

 

 一人の少年と二人の少女。選ばれるのはどちらかだけ。それならば、耶倶矢が選ばれるべきで、祝福しようと思っていた。

 でも分かっていた。分かり切っていた。

 耶倶矢が好きになったものを、夕弦が好きにならない筈がない。耶倶矢が嫌えないものを、夕弦が嫌える筈がない。

 

 重度の中二病だというのに、ふとした拍子に顔を出す優しさが温かくて胸が苦しくなる。命懸けで守ってくれた背中を今でも鮮明に思い出すことができる。それはもう紛れも無い恋心だった。

 夕弦は耶倶矢と居る未来よりも、一瞬とはいえ士道と生きる未来を想像してしまった。

 

 許してはならない。断じてそんなことを考えてはならなかった。

 だから、決めたのだ。どれだけ苦しくても、辛くても、自分の望む未来を潰えさせるために――

 

「排除。八舞にとって、あなたの存在は害悪です」

 

 夕弦の天使【縛める者(エル・ナハシュ)】が顕現する。

 

「違うでしょ……そんなの私とあんたの、勝手な都合じゃないっ!」

 

 耶倶矢の言葉はもう届かない。

 夕弦自身が理解していた。これは愚かな嫉妬で、ただ感情が暴走した末に出した結論なのだ。だけど止められないのだから仕方ないではないか。ずっと悩み抜いて救われないと絶望していたのに、今更手を差し伸べられて素直に手を取れる訳がないではないか。

 

「こんの分からず屋がっ!」

 

 耶倶矢が叫んだ時だった。全身を光が包み込み、霊装と着ていた服が合わさった奇妙な状態になった。

 

「え……? 力が戻った……? まぁいいわ、理屈なんてどうでも」

 

 止めよう。最初からただの姉妹喧嘩なのだから、最後は姉妹喧嘩で終わらせる。

 仮面を被ろう。颶風の御子たる自分に、弱さは不要。

 

「くくっ、言葉が届かぬのならば、力尽く理解させてやろう。夕弦、這いつくばり、涙を流して、許しを請う準備はできているか?」

「不要。それは耶倶矢にこそ必要なものです」

 

 耶倶矢は天使を顕現しようとするが、それはできないので、完全には力が戻っていないことを理解する。天使があっても互角、これは圧倒的に不利な状況だ。それでもいつも迷いながら戦っていたのとは違う。二人で救われれるために戦う。そこには一切の迷いが存在しない。

 だから、負ける気がしなかった。

 

「はっ、安い挑発をしおって。我は既に迷いを捨てた。貴様の中に宿る疑念を貫き、どれだけ拒絶しようと、生きてもらうぞ!」

「拒否。その男を殺して夕弦も死にます」

「ちょっ!? いつからそんな病んじゃったのよ!? ってもう、ペースを崩してくれるわね。んんっ、仕切り直しだ。ゆくぞ、夕弦! 真の八舞など不要、貴様も我と同じく力を捨てて、羽のもがれた囚われの鳥になってもらうぞ!」

「憤慨。つまりへちょ耶倶矢と同じく、そこのへっこぽぴーの性奴隷となれということですか。堕ちるところまで堕ちましたか」

「ち、違うし! そういう意味じゃないし! というか、あんた微妙に馬鹿にしたでしょ!?」

 

 どうしてだろうか――疑問を抱いたのは八舞姉妹のどちらかだけでなく二人同時だった。本気で戦おうとしていたのに、気付けばいつも通りの言い争いをしている。

 耶倶矢は夕弦の冷たく固めた表情にヒビが入るのが見えた。

 そうか、間違っていない。これでいいのだ。

 

「嘲笑。べちょ耶倶矢」

「悪化させてんじゃないわよっ!?」

「無視。ペタ耶倶矢」

 

「…………どうやら、本気で死にたいようだな、駄肉夕弦」

「激怒。どうやら本気で死にたいようですね、俎板耶倶矢」

 

 二人は空に浮き上がり、一触即発の空気を醸し出す。

 瞬きすら躊躇う戦場。

 八舞姉妹はお互いだけを真っ直ぐに見詰めて微動だにしない。

 士道はこれ以上、不毛な争いを止めるために、声を張り上げた。

 

「俺の話を聞いてくれ! もう戦う必要なんてないんだ。俺に二人を救う力がある。妄想なんかじゃない、本当の力だ。信じてくれ! もしだめだったら俺を殺してくれたって構わない。だから、お願いだ……お前たちを俺に救わせてくれっ!」

 

 果たして必死の説得は届いたのか。

 その答えは、夕弦がペンデュラムを下げることで伝わってきた。

 八舞姉妹は士道にちらりと視線を向けて、肩を竦め合うと声を出して笑った。

 

「ねえ、あんな馬鹿が私たちを騙してると思う?」

「応答。本当は最初から分かっていました。耶倶矢が信じたものを夕弦が信じない訳がないのです」

 

 夕弦は戸惑う士道に向けて、柔らかい笑みを浮かべる。

 

「請願。二人で生きる方法があるのなら、是非お願いします」

 

 士道は心の底から安堵する。

 良かった。これで二人を救える。文句無しのハッピーエンド。見たか、機関の連中よ。お前たちの目論見など俺たちの前では無意味に等しい。

 士道は空に――夕弦と耶倶矢に向けて手を伸ばした。

 

 ――銃声が、終わった筈の戦場に冷たく響く。

 

 夕弦は目を見開いた。目の前で耶倶矢の腹が撃ち抜かれ、ゆらりと空中で体勢を崩した。

 <CCC>ではなかったが、霊装を完全な状態で纏っていなかったために、精霊用に調整された強力な弾丸から身を守ることができなかった。

 

「夕弦、士道……っ」

 

 耶倶矢の口から悲痛な呼び声と真っ赤な血が同時に吐き出される。宙をもがいた手が力無く垂れ下がり、その身を支える風が失われ重力に囚われて落ちていく。

 すぐに助けようと夕弦が手を伸ばそうとして、光の剣がそれを遮った。超高速で接近した影が、容赦無く夕弦に襲い掛かる。

 ペンデュラムの先に突いた刃で応戦しながら耶倶矢が落ちた先を見て、士道が受け止めたのを確認する。

 

「……五河士道」

 

 突然、姿を現した魔術師――折紙が、士道と耶倶矢に鋭い視線を向ける。目の前の夕弦を無視して、背部に装着したスラスターに全速力を要求する。

 夕弦はすぐさま、折紙の前に回り込んで立ちはだかった。

 

「制止。二人のところへは行かせません」

 

 涙を拭った夕弦は、士道に耶倶矢を託して折紙と対峙する。

 復讐鬼と大切な半身を傷付けられた精霊が、お互いに向かいたい場所が同じであるからこそ、それを阻むためにぶつかり合った。

 

 

 憎しみが憎しみを呼ぶ。

 生々しい戦場の現実が、少女たちの心を蝕んでいく。

 悲劇はまだ終わらない。




 おりりんインしたお!

Q.耶倶矢好きなのになんで撃ってしまうん?
A.折紙さんだから仕方ない


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11.救済無き現実

 治療には慣れている。何度も怪我をして、何度も死に掛けてきたのだから。ここでその力を発揮しないでどうする。

 

「大丈夫だ、お前は死なない、俺が救ってみせる」

 

 士道は激痛に喘ぐ耶倶矢を必死で元気付ける。

 ナップザックから救急箱を取り出して応急処置を始めた。止血を行い、傷口を消毒する。弾丸が貫通していたのは不幸中の幸いだった。

 

 天井が戦闘の余波に揺れた。校舎内に避難したとはいえ、ASTと精霊の戦闘となれば、ここも完全に安全とは言えない。

 包帯をきつ目に巻き付ける。それから膝枕をして楽な姿勢を取らせた。奇しくも昨日とは立場を交代した状態だった。

 耶倶矢の朦朧としていた意識がようやく回復する。

 

「う、うぅ……ここは」

「校舎の中だ。俺の教室……前にも来たことがあるだろう?」

「ああ、懐かしいな」

 

 ただ出逢ってすぐの頃を思い出すだけなのに、どうしてこんなにも不吉な予感が込み上げてくるのだろう。そうか、まるで最後の別れを前に思い出を語り合うように感じられるからだ。

 

「あの日の衝撃は未だに覚えている。購買部……恐ろしい戦場であった」

「お前たちならすぐに慣れるさ。次に行く時は、俺が戦い方を教えてやる」

 

 耶倶矢は士道の肩を掴んで、立ち上がろうとする。

 

「……手間を掛けたな。さあ、戦場へ戻ろう。外が騒がしいのは、夕弦が一人で戦っているからであろう?」

 

 士道が阻むまでもなく、耶倶矢はすぐに傷口を押さえ込んで蹲った。

 

「無茶をするな。今は安静にしていろ。お前にもしものことがあれば夕弦が悲しむぞ」

「…………」

 

 何か物言いたげな視線を受けて、士道はくしゃりと頭を掻いた。

 

「俺も悲しむ」

「そうか、なら無理はよそう……と言いたいところだが、我は行かねばならんのだ。以前に士道を撃ち抜いた装備を使われれば、我が半身たる夕弦でも無傷とは行かんからな」

 

 士道は首を横に振った。

 

「ただ足を引っ張ってどうする? 無理をするなと言った手前、悪いがこの場から脱出するのが先決だ。ここに残り続ければいずれはASTの増援に追い詰められる。だから、夕弦が敵を引き受けてくれている内に移動するぞ。それが、今は二人で助かる最良の選択肢だ」

 

 ナップザックを身体の前に回して、士道は耶倶矢に背を向けてしゃがみこんだ。

 

「ん……?」

「呆けてないで、早く乗れって。おんぶだよ、おんぶ」

「あ、ああ……背中を借りるぞ。ふふっ、光栄に思えよ。颶風の御子である我をその背に預かる歓喜に噎ぶがいい」

「……お、おう」

「なんだ、本当に緊張しているのか? 意外に初心な奴よのう」

「黙って乗れって」

 

 少なからず想っている相手を背負うなんて、手を繋ぐのと同じかそれ以上に気恥ずかしい。例えこんな命懸けの状況であったとしてもだ。いつもなら、恥ずかしがることなく平然と返せるが、士道の『仮面』は取れかけていた。

 

 士道は耶倶矢を背負って見慣れた校舎内を進む。

 学生の身分によって偽りの日常を過ごした場所。士道は来禅高校が戦場に変わることで胸に痛みを覚えた。

 機関の残虐性ならば、民間人を巻き込むことも躊躇うまい。平日の日中に空間震警報が鳴らなければ、この場所は惨劇の舞台となりえた。現にASTは精霊の排除を優先して破壊を躊躇う様子を見せない。

 

「ねえ、士道。……前に夕弦と話をしたの」

「何をだ?」

「士道と一緒に学校に通えたら、楽しいだろうなって」

「…………」

 

「そうしたら、そうね……まずは手始めに購買部の四天王を夕弦と倒して、新たに襲名してやるわ」

「あいつらは手強いぞ?」

「夕弦と二人だったら、不可能なんてないわ」

「そう言いながら、前に負けていたと思うんだけど」

「ち、違うし……あれは手加減しただけだし……!」

 

 いつもの動揺した時に出る口癖は、耳元で響いたのに弱々しかった。

 

「なんだか……頭がぼーっとしてだめね。それに、校舎内ってこんなに暗かったっけ?」

「みんな避難して電気が消されているからだと思うぞ」

 

 士道は<無反応(ディスペル)>の矜持を以って平然と言葉を返す。しかし内心では涙を堪えるのに必死だった。

 

 背中にじんわりと広がっていく熱の正体は、考えなくてもすぐに分かった。血が止まらない。現状で出来る最高の治療を施しても、対精霊用の弾丸は内側から耶倶矢を蝕んでいく。<王の簒奪(スキル・ドレイン)>によって力を失った耶倶矢に、それを耐え抜く強さは残されていなかった。

 力を奪ったのは士道だ。それを考えるだけで悔恨に胸が引き裂かれそうになる。

 

「もう少しで一階だ。耐えてくれ、あと少しなんだ」

 

 言葉にしても空々しい。例えここを切り抜けても逃げ切れると考えるのは、今の状態ではそれこそ妄想の類だ。それに耶倶矢がちゃんとした医療機関で治療を受けられる筈がない。すぐにASTに発見されて、彼らは弱った耶倶矢に嬉々として弾丸を撃ち込むことだろう。

 耶倶矢から返事がなくなり、荒い呼吸が士道を急き立てる。

 

「くそッ、ふざけんな!」

 

 夕弦の風に吹き飛ばされた魔術師が、窓を突き破り進行方向に転がり落ちた。夕弦の助けを期待したが、他のASTと戦闘に入り身動きを封じられているのが、窓の外に見えた。

 魔術師はすぐに立ち上がり、そしてこちらに気付く。

 

「五河士道……!」

「<完璧主義者(ミス・パーフェクト)>……!?」

 

 購買部で死闘を繰り広げた宿命のライバルが、どうしてASTに居るのか。機関の潜入工作員に気付けなかったことに歯噛みする。とっくに士道の日常なんてものは存在しなかったのだ。

 

 変装を即座に見破られたことなど気にしている場合ではない。ただでさえ上を行く存在が魔術師として立ちはだかる――鬼に金棒もいいところだ。

 折紙は士道の困惑など無視して、憎悪に満ちた声と共に光の剣を突き付けた。

 

「見付けた。<アポルトロシス>、炎の精霊、五河士道――両親の仇!」

「何を、言っている?」

「忘れたとは言わせない。あなたは、五年前に天宮市南甲町で大火災を起こし、目の前で、私の両親を灼き殺した……ッ! 私は忘れない。絶対に忘れない!」

 

 すぐに否定の言葉を返そうとして口を閉ざした。

 五年前。大火災。記憶にある。つい最近、そう死に掛けた時に見た夢――否、蘇った記憶だ。

 

「どうして、あなたなの……どうして、どうしてっ」

 

 折紙の声が涙に濡れる。憎悪とは違う別の感情が、折紙に復讐を躊躇わせていた。士道が両親の仇だと誰よりも信じたくないのは、憐れなことに折紙本人だった。

 

 ――救わなければならないものは、ここにも居た。

 

 絶望に苦しむ誰かを、五河士道は放っておけない。

 過去の因縁が士道に絡み付く。身に覚えはないが、あの<完璧主義者>がただの誤解をしているとは思えない。

 

 全力で思い出せ、徹底的に記憶を洗い出せ。

 正直に言えば、あの時、夢で視るまで五年前の記憶は曖昧だった。だけど、どうやら士道は、五年前に折紙から両親を奪った『炎の精霊』と誤解される何かをしてしまったらしい。

 

 記憶に無いプロローグ。士道に宿った炎と再生能力の正体が、予想外の形で明かされた。

 自身の持つ<王の簒奪(スキル・ドレイン)>を考慮すれば、自ずと一つの結論が導き出せる。再生能力は恐らく、その炎の精霊から奪い取ったものなのだろう。

 

 ――夢で見た光景が脳裏に蘇った。

 

 炎の中で見付けた琴里は無事だった。炎に包まれながら無傷だった。そう、耶倶矢や夕弦のように、琴里は『普通の人間』だったらしないような格好だった。

 

 つまり、五年前に士道が力を奪い取った精霊は――五河琴里、愛すべき妹だったのだ。

 琴里が自ら望んで、街を焼いたとは思えない。そう、よくある設定ではないか。能力の暴走か、誰かに強制されたに違いない。そして琴里が折紙の両親を殺したとは思えない。あんな弱虫で優しい妹が、誰かを殺せる筈がないのだ。

 

 ――だって、琴里は泣いていた。おにーちゃんと呼んで泣いていた。

 

 

 現実は情け容赦無く悲劇を呼び寄せる。

 <完璧主義者>は敵か……?

 耶倶矢と夕弦は殺されなくてはならない程の悪か……?

 琴里は人を傷付けて悦に浸るような鬼か……?

 

「違う、何一つとして間違っている」

 

 誰かが傷付かなきゃならない現実になんの価値があるっていうんだ。こんな状況を認めていい筈がない。

 

「<完璧主義者>よ、俺を殺すのは構わない。だが少し待ってくれ」

 

 士道のことを誰もが、妄想に囚われた憐れで恥ずかしい中二病だと嗤った。数年後には悶え苦しんで、黒歴史としてすべての過去を焼き払うだろう、と預言者でもないのに偉そうに語った。

 

 はっ、今更、まともに戻って現実を受け入れるなんて馬鹿馬鹿しい。そこに救いなんてありはしない。

 誰かが絶望に染まるのを許容するぐらいだったら、

 

 ――俺は生涯、中二病(のうりょくしゃ)でいい。

 

 士道は外しかけた『仮面』で、再び心を覆い隠す。

 耶倶矢を優しく床に寝かせてから、士道は折紙と向き合った。

 

「俺は<業炎の咎人(アポルトロシス)>、この世界の欺瞞を暴き、真なる世界を解放する者だ」

 

 前髪を右手でくしゃりと掴み、左手を相手に突き出す。この時に左足を少し引くのがポイントだ。更にそこへ腰を反らすことで威圧感が増してパーフェクトだ。

 無駄に格好良い名乗りとポーズに呆ける折紙に、士道は不敵に笑った。

 

 結論は最初から出ていた。

 妄想よ、立ち上がれ。

 

 ――ここから先は、俺の世界だ。

 

「<完璧主義者(ミス・パーフェクト)>、精霊をこの世界から消すために、俺と共闘しないか?」

 

 突然の提案に、折紙は動揺を隠せない。

 一体彼は何を言っているのだろうか……?

 得体の知れないものを見る目で、中二病患者を睨み付ける。

 鍛え抜かれた<無反応>の表情からは、その真意を読み取ることはできなかった。

 

 

 現実はいつだってままならない。

 だったら、そんな現実なんて捨てちまえ。

 そして、妄想を貫き通して真実へと変えれば、そこには理想の世界が待っている。

 

 さあ、宿命のライバルの復讐を終わらせて、琴里を巻き込まず、耶倶矢と夕弦を救う――最高に格好良い真実を紡ごう。




 士道くんはの明日はどっちだ? あっちじゃないですかね(適当)

Q.やっぱり耶倶矢のこと嫌いなんじゃないですかね!?
A.違うし! 好きな子をいじめちゃう残念仕様なだけだし!

 連載一週間なのに月間ランキングに出ていて吹いた。
 お気に入り登録数三桁とか初めてですよ、奥さん。これは『機関』の陰謀ではなかろうか。
 兎にも角にも、こんな拙作を気に入っていただきありがとうございます。感想をくださる方もウェヒヒと狂喜乱舞しながら読んでいます。何やら黒い光的なイメージの過去を彷彿させられた被害者の方も多くいらっしゃるようですが、強く生きてください。


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12.真実の救済者

 折紙の口から出た言葉は、彼女の動揺をそのまま示していた。

 

「意図が分からない」

 

 当然だろう。精霊だと思い込んでいる相手から、精霊を世界から消すと言われれば混乱する。余りの非現実的な展開だからこそ、折紙の復讐を止められたとも言える。

 少なくとも、話を聞いてくれる状況までは持ち込めた。

 士道は腹を括る。ここから先は、爆弾を抱えたままの綱渡り。一歩踏み外せば、死ぬのは自分だけでなく多くの者を傷付けて不幸にする。

 

「まず始めに辛い妄想(げんじつ)を突き付けなくてはならない」

「辛い、現実?」

 

 馬鹿にするなと言いたげだ。それもそうだろう。既に両親を炎の精霊に殺され、大切な人が敵になった彼女にこれ以上の辛い現実は想像できなかった。

 

「どんなことを言われても、私があなたを殺さなくてならないことに変わりはない。両親の仇を討つ、それが、私の存在理由」

「その存在理由を奪うと言っているんだ」

「何を、言っているの……?」

 

 動揺する折紙に畳み掛ける。

 

「簡単な話だ。お前が言った炎の精霊は、既にこの世界に存在しないということだよ」

「……ッ!? これ以上、戯言を――」

 

 士道は絶妙なタイミングで左腕を大きく広げた。特に意味はないが、相手の台詞に割り込むためには重宝するスキルだ。

 

「――死んだのさ。いや、俺がこの手で殺した」

 

 怒りに震える折紙が、今にも切り掛かってきそうだが、士道は焦りや恐怖を<無反応>で完全に殺す。ここからが正念場だ。

 

「一つ訂正しておこう。俺は精霊ではなく人間だ。ただ精霊から力を奪い取る特殊能力、その名も<王の簒奪(スキル・ドレイン)>の使い手というだけだ」

 

 更なる急展開に折紙が目を白黒させるが、すぐに憎しみと怒りが濁流となって戸惑いや困惑を押し流した。冷え冷えとした殺意が光の刃へと宿る。

 恐怖に舌が乾く。言葉が空回りしそうになる。

 耐えろ、耐え抜け、ここで真実を貫き通さなければ誰も助けられない。

 

「炎の精霊は俺に力を奪われることで自らが生み出した炎の中に消えていった。だからお前の復讐は既に終わっているんだ。ただの戯言だと思うだろう? だが、これはすべて事実だ」

 

 もうこの世界に炎の精霊は存在しない。居るのは、五河琴里という愛おしい義妹だけだ。

 虚構と現実の境界線上――そこに真実を構築する。

 過去を欺き、復讐鬼を騙し、本来の鳶一折紙を解放しろ!

 

「……そんな話は、幾らあなたでも信じられない。命乞いのつもりなら、無駄。これ以上、無意味に言葉を重ねないで」

 

 だったら、なんでお前はそんな辛そうな顔をするんだ。どんな理由があるのかは分からないが、お前は俺を殺したくないんだろう?

 士道は喉から這い出そうとする言葉をなんとか呑み込む。

 安易な同情や諭すような言葉では復讐鬼を止められない。彼女を止めるために必要なのは、完膚無きまでに冷たく優しい真実だけだ。だから、言葉を重ねて、設定を重ねて、誰もが信じられる真実を作り出してみせる。

 

「この耶倶矢もまた、俺が力を奪い取った精霊だ。力を奪われた精霊は、空間震を起こす力をなくし、ただの人間に戻る(・・・・・・・・)

「精霊が、人間?」

 

 また別の動揺が折紙を襲う。次から次へと驚愕の真実が明かされていくことに殺意が鈍る。以前にも<アポルトロシス>は、精霊と魔術師の関連性を指摘した。真実味を帯びた語り口は、詐欺師かそれとも救済者か。

 

「そうだ、所詮は特殊な力を得てしまった憐れな被害者でしかない。かつて居た世界から拒絶され、戻るだけで被害をもたらして、ASTに襲われる。対話を持たないお前たちには辿り着けない真実だ」

 

 折紙の中に迷いが生まれた。それは精霊に対しての同情ではない。五年間縛り付けてきた憎しみはその程度で和らいだりはしない。しかし、士道を殺す必要がない可能性には縋り付きたかった。

 

「そうだとしても、それを証明されなければ……例え私が信じたとしても、ASTや他の人間は信じない」

 

 そういう本人もまだ半信半疑だろう。大切な存在である士道でなければ、聞く耳すら持たなかった筈だ。

 

「だからその一歩目として、まずはお前に信じてもらいたい」

 

 士道が手を差し伸べた先で、折紙は迷いを抱えたまま剣を降ろさない。

 精霊と人間が手を取り合う理想郷。その礎になると思うと薄ら寒さを感じる。だけど、士道と手を取り合い生きる未来は、甘美な響きを持っていた。

 

 見詰め合う瞳に無数の想いが交錯する。

 そのすべてを吹き飛ばすように、暴風が巻き起こった。ガラスの破片から顔を覆い隠す。目を開けるとそこには、

 

「確認。耶倶矢、士道、無事ですか」

 

 ASTを撤退に追い込んだ夕弦が、士道をかばうように二人の間に降り立った。寝かされた耶倶矢を見付けると、すぐに駆け寄って状態を確認した。意識は朦朧で夕弦の声も届かないが、握った手は確りと握り返された。

 夕弦の視線が折紙に向けられた。怒りに目を細める。そして、攻撃を仕掛けようとして、士道によって腕を掴まれた。

 

「――ちょうどいい、これから証明しようじゃないか」

 

 今度は士道が針の筵を味わう番だった。折紙と夕弦を制して、舞台の主役を気取る。まだだ、まだ終わらせてはいけない。

 

「警告。どいてください」

「それはできない」

「疑念。何故ですか、その女は耶倶矢を傷付けました」

「ああ、確かにそうだ。だけど、だからといって夕弦が仕返しをすれば、それは憎しみの連鎖を生む。お前たちが平穏を生きるためには、これ以上誰かを傷付けてはいけない」

 

 夕弦の視線が鋭くなる。すぐに動き出さないところを見るに、士道への信頼と耶倶矢への心配が縛り付けているのだろう。

 

「<完璧主義者>よ、俺の力を証明しよう。そうすれば、耶倶矢と夕弦に手を出さずにいてくれるか」

「精霊として認識されないのであれば、ASTに攻撃許可が下りるとは思えない」

「充分だ。お前個人としては?」

「納得は、できない。でも戦うための手段が……CR-ユニットが無ければ、無意味」

「つまり、証明されれば二人の平穏は守られるんだな」

「……あなたが本当に、そんな能力を持っているのであれば」

 

 縋るような視線を受けて、士道は力強く頷いた。

 

「もちろんだ」

 

 士道は夕弦を見詰める。肝心の本人に説得を終えなければなならない。

 

「今から精霊の力を<王の簒奪(スキル・ドレイン)>によって奪い取る」

 

 夕弦にはよく分からなかったが、要するに耶倶矢のように無力になるということだろう。きっと士道が言うからには、夕弦や耶倶矢を傷付けるためではないのは分かる。

 だけど、それでも、士道と夕弦では考え方が根本的に異なっていた。

 

「拒否。精霊の力を失うことは許容できません。現状では自殺行為です」

「それでも頼む」

「拒絶。夕弦は耶倶矢と士道が守れれば、それでいいです」

 

 士道は理解した。当然だ。大切な人さえ守れればいい。それが普通だ。夕弦にとって折紙の存在は、耶倶矢を傷付けた憎きASTというだけで、助けてやる義理なんてある筈もない。

 だが、士道はそれでは納得できない。絶望する者が居るのならば、誰であろうと救いたい。見てしまったからには放っておけない。

 既に出された結論に向けて駆け抜けるために、どんな手段だって厭わないと決めた士道は、新たな手を打った。

 

「<完璧主義者>、異例なのは分かっている。だが、手を貸してほしい」

「もし、証明できなかった時は」

「俺を殺してくれたって構わない」

 

 今日で二度目の宣言だった。つまり、約束は絶対に守らなければならない。幾ら再生できる士道であっても、命は一つしか持っていないのだから、二人に殺されてあげることはできない。

 

 逡巡は永かった。

 士道と折紙と夕弦、三人の視線が忙しなく行き交う。

 ようやく折紙が頷いた時には、永遠の時を過ごした後のような気分だった。

 

「分かった……証明してほしい、私はあなたを殺したくない」

 

 両親の仇ではなく、仇を討ってくれたヒーローだと信じさせてほしい。それは折紙の紛れも無い本心だった。

 

「危惧。士道は優し過ぎます」

 

 夕弦は敵対の意志を示す。どんな理由があるのかは分からないが、今ここで精霊の力を失えば耶倶矢は助けられず、自分もまた殺される。そんな危険を冒すつもりはなかった。

 

 

 ここに奇妙な共闘が実現した。

 ASTの<完璧主義者(ミス・パーフェクト)>と、精霊の力を統べる<業炎の咎人(アポルトロシス)>。

 誰かが絶望する現実をぶちこわすために、士道は宿敵と共に大切な精霊と対峙する。

 信じられないから協力する、信じられるから敵対する――優しさと優しさがぶつかり合い、皮肉な戦いが幕を開けた。

 

 

    *

 

 

 日下部燎子は校庭の隅に身を隠して、傷付いた部下の状態を確認していた。<ベルセルク>がこちらを殺す気だったならば全滅していただろう。彼女はどうやら別の目的があったらしく、群がるASTを手早く排除すると校舎内に消えていった。

 静まった来禅高校を、破砕音が再び混沌に落とす。校舎の壁が砕かれて、中から<ベルセルク>の片割れが姿を現した。最初からずっと一人だが、もう一人はどこへいったのだろうか。常に二人一組で行動するのに奇妙だった。

 

「折紙……?」

 

 <ベルセルク>を追って、校舎内から飛び出したのは、独断専行した折紙だった。校舎の壁を這うように上空を目指して、空を駆け抜けていく。

 

「どういうことよ、これって?」

 

 奇妙な現実はもう一つあった。何故か、折紙が<アポルトロシス>を抱え込んでいるのだ。

 やはりあの奇妙な精霊<アポルトロシス>が出現すると、状況が混乱する。以前に遭遇した時もASTに精神的な動揺を誘ったが、今度のはとびっきりだ。

 燎子は通信に耳を澄ませる。聞いている内に表情が険しくなっていった。

 

「撤退命令? ふざけんじゃないわよ、部下がまだ一人戦ってるのよ!? はあ? 装備はただじゃない!? だったら、あんたらが丸腰で戦場に来なさい!」

 

 上層部からの意向をついオペレーターに向けて感情的に怒鳴り散らしてしまった。すぐに反省して謝罪すると、苦笑が返ってきた。納得していないのはオペレーターも同様だった。

 

『精霊との戦場は何が起こるか分かりません』

 

 オペレーターの伝えたいニュアンスに、燎子は頬を緩める。

 

「そうね、その通りだわ。通信障害が起こっても仕方ないわね」

 

 命令違反どんと来いだ。今この場で撤退すれば、きっと取り返しの付かないことになる、そんな予感がした。

 

「折紙……応えなさい! ったく、もうどいつもこいつも好き勝手して、こっちの身にもなりなさい! 総員、戦闘準備。負傷の重いものはB分隊と共に後方で待機、他の者は全員、私に続きなさい!」

 

 

    *

 

 

 来禅高校上空。二つの影が行き交う。

 士道を抱えた折紙と、士道が居るせいで反撃に出られない夕弦。膠着状態の追走劇が演じられた。

 折紙が上を取った時に肩を叩いた。予め知らせておいた合図だ。

 躊躇いを見せた折紙だが、すぐに指示を受けていた通り、士道の身を空中で手放した。

 

 ――勝負は一瞬だ。

 

 士道は失敗して、地面に叩き付けられた時のことを想像して身震いした。再生能力で死なないとは思うが、銃で撃たれたり剣で切られたりするよりも、グロテスクな光景になるだろう。

 

「いや、失敗しなければいいだけのことだ。夕弦、悪いがお前の好意に付け込ませてもらうぞ!」

 

 夕弦が士道を助けるかどうか逡巡を見せたが、迎え撃つ構えを取った。

 士道は不利になると分かっていながら、少しの間だけ瞼を閉じた。

 

『空中は地面が無いことで、より広く空間を活用できる! 人間はただそれを使いこなせていないに過ぎない!』

『くきき、腕や足は鍛えられても鼻はそう簡単には鍛えられない。そこを攻めるのだよ』

『きゃはは、余所見や油断は命取り、その一瞬で勝負は決まるのよぉ』

 

 戦友の声が過去から助言をくれる。

 士道は例え一人であっても、決して独りではない。今は<完璧主義者>が力を貸してくれている。これで成功しなければ、購買部四天王の名折れだ。

 

「行くぞ、奥義・天空転落(エアロダイヴ)!」

 

 巧みな空中機動。まさにそれは空を翔ぶが如く。ただ格好付けて落ちているだけとは、どこの玩具の言葉だったか。

 

「――夕弦っ!」

 

 迎え撃とうとするところへ、隠し持っていた試験管のフタを開けて放り投げる。どす黒い煙が溢れ出した。

 

常闇の誘い(デッドバースデイ)!」

 

 異臭を放つ黒煙が夕弦の視界を覆う。

 目に染みる煙を思わず風で払う。しかし、それにより、士道の接近を阻む攻撃のタイミングを外され、接近を許してしまった。

 

「応戦。その程度では夕弦には勝てません」

 

 だが、夕弦の身体能力は人間と比べれるのがおこがましいものだ。すぐに回避行動を取ろうとして、背後から接近した折紙が羽交い締めにした。

 

「あなたには、証明になってもらう」

「焦燥。そんなことは――ッ!?」

 

 夕弦のもとに辿り着いた士道が、遂に絶対の機会を得た。

 

「その隙を突く――ちょっと失礼(ピックウインド)!」

 

 夕弦にしがみつくようにして唇を重ねた。こんな戦場で、敵対した相手にキスをするのに作法やムードを気にしていられない。勢いが付き過ぎて、前歯がぶつかり唇が切れて血が流れる。

 

「んんっ――!?」

 

 驚愕する夕弦。まさか<王の簒奪(スキル・ドレイン)>がキスだとは思わなかっただろう。

 耶倶矢の時と同じく温かい力が流れ込んでくる。

 光に包まれた夕弦に、折紙が警戒して距離を置いた。力が吸収されていき、高度を下げていく。士道は申し訳無さといざとなれば、自分がクッションになるために夕弦をきつく抱き締めた

 

 幸いにも完全に力が失われるまでに、屋上に着地することができた。

 抱き寄せた夕弦は霊装を失い全裸になっている。密着した柔肌にどぎまぎしていると、顔を赤くした夕弦が胸元で呟いた。

 

「狼狽。驚きの早業です」

 

 士道は激戦の連続にすっかりぼろぼろになったナップザックから服を取り出して、夕弦の肩に掛けた。

 

「説明不足で悪かった。でも、俺は夕弦も耶倶矢も絶対に救ってみせる。だから、俺を――」

「肯定。信じます」

 

 例え死なないと分かっていても、空を飛ぶ翼や力も無いのにあの高さから自ら落とされるなんて、そんな馬鹿な人間を信頼しない筈はなかった。それに精霊の力を奪われた今は、士道を信じるしかない。なんとしても、耶倶矢を救ってもらわなければならなかった。

 夕弦は着替えを終えると、士道にぐっと顔を寄せる。

 

「脅迫。そして責任を取ってください」

 

 本気と冗談が込められた言葉に、士道は真剣に頷いた。すべての責任を背負う覚悟はできている。そのためにはまだ一仕事残されていた。

 耶倶矢が治療を受けるためには、彼女を人間に戻さなければならなかった(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 士道は肩を竦めて、晴れ渡った空を見上げる。

 <吹けば飛ぶ(エアリアル)>、<異臭騒ぎ(プロフェッサー)>、<おっとごめんよ(ピックポケット)>――購買部四天王の顔を思い浮かべる。聞こえているか戦友よ、俺はお前たちの技で『本物の戦場』すらも勝ち抜いたぞ。そしてお前たちのお陰で、俺はすべてを救う道を作り出せた。

 

 それから空で呆然と見守っていた折紙に視線を向けた。

 

「これで証明完了だ」

 

 

    *

 

 

 折紙は震えて何も言えなかった。

 

『折紙!? 聞こえてる? 一体何があったの? さっきまで確認されていた、<ベルセルク>の反応も消えたわ……。折紙! 消失(ロスト)したの?』

 

 燎子からの通信が、士道の言葉をすべて肯定していた。

 涙が零れ落ちる。今度は悲しみではない、温かさを帯びたもっと複雑で狂おしい感情だった。

 

「……違う。もう――<ベルセルク>はこの世に存在しない」

『あんた一人で、やったってこと? それとも精霊同士の仲間割れ?』

「……どれも違う。<ベルセルク>も……<イフリート>も、この世には……存在しない」

 

 最初から<アポルトロシス>という精霊もまた存在しない。

 終わった。今度こそすべて終わった。

 復讐は五年前に果たされていて、今までの折紙のすべてが否定されたが――そんなものは、これから生きる士道との未来に比べればどうということはない。

 

「ああ……」

 

 万感の想いを込めて、溜め息を落とす。

 こうして鳶一折紙にとって最上の結末が訪れたのであった。




 宿命のライバルと利害の一致で協力する。
 精霊を憎む折紙と精霊を愛する士道の一瞬の共闘。書きたかったシーンの一つがようやく書けました。

Q.中二病はやっぱり格好良いですよね
A.落ち着いて、自分の過去を振り返りましょう

 うわぁぁぁぁっ! やめて、やめてやめてやめてぇぇっ!
 思い出させないでぇぇぇぇぇぇっ!


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13.腐食した世界に捧ぐエチュード

 燎子は期待を込めた折紙の視線に首を横に振った。

 

「だめね……攻撃命令は撤回されない。<アポルトロシス>を危険視する声は上層部で特に強いわ。私個人としても、到底信じられるものじゃない。精霊の力を封じる力なんて、そんなものがあるなら私たちはなんだって話だもの」

「私はこの目で確認した。現に<ベルセルク>の霊力反応は、この世界に現界したまま消失している」

「折紙、事実はどうだったとしても、それをどう判断するのかは兵士の役目じゃないわ。説得は続けてみるから、あなたは祈ってなさい」

「…………」

 

 折紙は一人で屋上に残った士道を見下ろす。固く瞼を閉ざして、何かを必死に考えているようだ。打開策があると信じたい。復讐が果たされても士道が居なければ、折紙の未来は途端に色褪せてしまう。

 

 

    *

 

 

 ASTは霊力反応のない<アポルトロシス>を取り囲んで警戒を緩めない。士道は彼女たちの顔を一人ずつ確認した。折紙からの報告で戸惑いを隠し切れていない。すぐに攻撃されないのが何よりもの証拠だった。

 

 既に夕弦は耶倶矢の元へ向かうように屋上から避難させている。霊力の隠蔽能力は既に把握されているため、士道だけはこの場を逃れる術を持たなかった。都合の良い消失(ロスト)もすることはできない。

 

 この状況をどう切り抜けるのか、折紙は無言で見守っていた。いざとなれば士道を助けるために背部のスラスターをすぐ動かせるように待機させている。

 

 妄想から創り出された真実と、常識に凝り固まった現実。

 どちらが勝利を収めるか、戦場から離れた机上で『機関』の連中に語られている。現場の奮闘を書類や数字の羅列でしか見られない彼らが、果たして正常な判断を下せるのか。士道はもとより誰も信じられなかった。

 ASTが動き出す。隊長の指示に従って、一部の隊員が士道に向けて銃口を定めた。

 

 ――やはり現実は手強かった。

 

 真実の敗北に歯軋りする。

 

「やはり、最後まで立ちはだかるか『機関』の奴らは」

 

 攻撃命令は発せられないが、それも時間の問題だ。あくまで現場判断によって待たせているだけで、それは結末の変わらない時間稼ぎでしかない。

 士道は悠長に判断が変わるのを待っていられない。耶倶矢には時間がないのだ。すぐにでもちゃんとした治療を受けなければ死んでしまう。

 

 本当は実行を避けたかった、最後の大仕事をしなければならないようだ。

 すべてを救うために真実を完成させる。

 

 ――耶倶矢と夕弦、そして琴里を救うために、彼女たちを人間にしなければならない(・・・・・・・・・・・・)

 

 それも圧倒的な被害者。すべての罪が許されるような、余りに憐れで同情を誘う存在になってもらわなければならない。

 

 さあ、準備は整った。

 始めようか、腐食した世界に捧ぐ即興劇(エチュード)を!

 演目は『ご都合主義の魔神(デウス・エクス・マキナ)』。

 世界から否定され、その存在を隠蔽され続けた精霊を救うために、人類を脅かす魔神をここに誕生させる。

 

「世界が否定するならば、俺はそれ以上に彼女たちを全妄想(ぜんそんざい)を懸けて肯定する」

 

 己の中で叫びを上げる妄想(しんじつ)に従って、世界を塗り替えろ。

 常識を覆せ。固定概念をぶち壊せ。

 

 ――ここから先は俺の世界、いや、俺だけの世界だ!

 

 力強く一歩前に踏み出す。両足を肩幅に広げて、両腕を小さく開く。顎を引いて、視線は虚空に定める。これぞ数年間温め続けた『虚無の現身(ゲシュペンスト)』。静謐を湛えながら己の存在を確固として世界に刻みつける最凶のポーズだ。

 

「俺は<業炎の咎人(アポルトロシス)>――この世界の欺瞞を暴き、真なる世界を開放する者だ」

 

 空を囲むASTに向けて、その後ろに潜むたくさんの人間たちに向けて――五河士道は最後の名乗りを上げた(・・・・・・・・・・)

 

「聞いているか機関の者よ、目を背けるなよ人類。刮目せよ、これは能力者たる俺からの最後通告である!」

 

 語れ、語れ、語り尽くせ。

 嘘と偽りに塗れていようと、絶対の自信と自惚れで真実に変えろ。

 

「お前達が精霊と呼ぶ存在は、俺が力を与えた『ただの人間』に過ぎない」

「何を馬鹿なことを!? あんたは精霊の力を奪う――」

 

 ASTの一人が口を挟むのを、士道は冷めた顔で遮った。

 

「奪えるのならば、与えることも可能だとは思わないのかね? 己の浅慮をヒステリックに主張しないでもらいたい」

 

 士道は己の中に封じられた二つの力を呼び覚ます。空に掲げた右腕に炎と風が絡み合った。

 

「隊長、<アポルトロシス>から複数の霊力反応が……<ベルセルク>と<イフリート>のものですっ!」

 

 やはり、精霊の力を奪い取るというのは事実らしい。だとすれば、与えることもできるというのはどういうことだろう?

 

「分からないか? お前たちは俺に力を与えられて、無様に操られた『同族』と戦っていたということだ」

 

 五河士道――<業炎の咎人(アポルトロシス)>は嘲笑う。

 お前たちは所詮、同族で争い合う醜い生物だ。精霊は人間で、しかも好き好んで破壊を撒き散らしていたのではない。

 

「理解しろ、精霊などこの世界には存在しない。お前たちが勝手に作り出した幻想で、俺が作り出した憐れな人形だ」

 

 これが士道の考えたすべてを救う方法。

 

 ――たったひとつの冴えたやりかた。

 

 そう、すべては<業炎の咎人(アポルトロシス)>の手の平の上で踊らされていただけ。この世界は裏からすべて操る残虐非道の能力者にとって、ただの愉快なゲームを行う舞台でしかないのだ。

 疑念が疑念を呼び起こし、中二病の妄言が真実を帯びる。

 無知蒙昧になれ。目の前の現実を疑う心を捨て去れ。

 

「すべて……仕組まれていたことだって言うの?」

 

 動揺するASTは、<無反応(ディスペル)>の表情から本音を見抜けなどしない。

 士道は頭の中で構築した真実を改めて思い返す。

 

 <王の簒奪(スキル・ドレイン)>によって力を奪うと、どうして耶倶矢は人間並みの能力(・・・・・・)になったんだ?

 まるで、それは……人間がベースになっているようではないか。

 これこそが活路だ。耶倶矢の命を救うための、今にも切れそうな命綱。それを一縷の望みという糸で結んで維持させる。

 

「所詮、精霊など俺の玩具に過ぎない。お前たちも俺をよく楽しませてくれた」

 

 彼女たちの罪すらも奪い取るために、最高に卑劣な悪役が必要だ。例え悪意がなくても、彼女たちが幾つもの被害を起こしたのは容易に想像できた。初めて出逢った時の街の荒廃、空間震による損害。それを『やむを得ないこと』にして、『被害者』に仕立て上げるのだ。

 

 

    *

 

 

「総員、構え。<アポルトロシス>に狙いを定めなさい」

 

 燎子の指示に今度は全員が従った。憎悪を込めて<アポルトロシス>を睨み付ける。昨日の戦闘で<ベルセルク>が見せた涙はなんだったのか。彼女たちは一体なんのために泣いたのか。私たちは一体何に同情を覚えたのか。そのすべてを嘘だと嘲笑されて、我慢などできなかった。

 

「どうして、こんな」

 

 動揺する折紙と士道は目が合った。一瞬、口元を緩める。それだけで折紙は士道の言動が演技だと見抜いた。彼は自分を犠牲にしてでも、<ベルセルク>を救おうとしている。

 折紙は背部のスラスターに命令を送ろうとして、

 

「ふんっ、気を付けた方がいいぞ。鳶一折紙は俺の洗脳能力によって、意志を操られている」

 

 <アポルトロシス>の嘲笑によって、折紙の行動は燎子に阻まれた。判断をつけられないが、折紙を拘束して身動きを封じる。

 

「私は、洗脳されていない」

「だったらどうして、<アポルトロシス>のところへ行こうとしたの?」

「…………」

 

 守るためだった。操られている訳ではないが、今まさに人類に宣戦布告する存在を助けようとしていたのは事実だ。

 

「本当はどうだか分からないけど、さっき<アポルトロシス>を抱えて飛ぶのも見た……少なくとも今、あんたはASTとしては動けないわ」

 

 無理矢理に行こうとするが、それを燎子の指示で他の隊員が取り押さえる。

 

「正気に戻ってください、鳶一一曹!」

 

 確かに正気に戻るべきなのだろう。しかし、この舞台を支配しているのは狂気だ。正気の人間では真実に辿り着けない。仮面の下に隠された優しさに気付くことはできない。

 

「お願い、放して!」

 

 このままでは、死んでしまう。

 また、五河士道が目の前で殺されてしまう。

 そんなことをされたら、今度こそ鳶一折紙は耐えられない。

 

 

    *

 

 

 <完璧主義者>には悪いが、このままでは幸せな結末は訪れない。許してくれとは言わない。ただ耐えてほしい。

 士道は自分の命よりも大切なものが多過ぎた。

 さあ、黒幕らしく、悪役らしく、厭味ったらしく語ろうではないか。

 

「お前たちも中々に楽しめたのではないかな? 俺が死んだ振りをするだけで、慌てふためく二人の精霊の姿は滑稽だったろう? なあ、それを見てどんな気分だった教えてもらえないかな、ASTの諸君」

 

 反感を煽れ、憎しみを引き起こせ、殺意を抱かせろ。

 それが強ければ強いほど、精霊の存在は彼女たちの中で救われる。

 

「なんだね、怖い顔をして。感想を訊いているんだ。答えてくれないかな、俺の手の平で踊る低能なきみたちでも、自分の気持ちぐらいは分かるだろう?」

 

 士道は口端を釣り上げる。

 

「俺は楽しかったがね。涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔なんて、あれはもう傑作だった。同じ顔が同じ表情を浮かべて……くくっ、はははっ! ああ、それにきみたちの戦いも愉快だったよ? 真に迫る名演技だった……いや、そうか、きみたちにとっては『現実』だったね、失礼した……くくくっ」

 

 まさしく外道。人類史に残る最低最悪の存在。三十年前より続く精霊と人間の因縁を生み出す諸悪の根源。こんな悪の化身を生かしておくべきではない。すぐに殺すべきだ。

 

 ――そう思ってくれ。頼むから、お願いだから、信じてくれ。

 

 軽薄な仮面と、真摯な想いが目指す先を一致させて、虚言は確かな質感をもってASTに届いた。

 

「総員、攻撃開始! <アポルトロシス>の排除が確認された後に、<ベルセルク>を保護せよ!」

 

 燎子の口から出された命令は即座に実行された。

 銃弾が胸を撃ち抜いた瞬間、士道は嘲笑を安堵の笑みに変えた。

 

 ――完全勝利だ。

 

 ASTは保護と言った。これで耶倶矢は治療を受けられる。この先、どのような扱いを受けるかは分からないが、少なくとも今すぐに死ぬよりは救われると信じたい。

 

 士道に向けて雨あられと銃弾が降り注ぐ。

 後は諸悪の根源である、<業炎の咎人(アポルトロシス)>が死ぬだけで、物語は完結する。悲しいことに、士道の救うべき『すべて』に『自分自身』は含まれていなかったのだ。

 

 弾丸が肉体を撃ち抜くたびに、血をまき散らしながらくるりくるりと身体が舞う。致命傷を受ければ即座に再生が始まり、永遠の責め苦は<無反応(ディスペル)>の表情を歪めた。

 

 意識が霞んでいく。

 膝を突きそうになっても、気力で立ち上がった。

 笑え、笑え、笑ってみせろ。

 人類を蔑んで、黒幕らしく最後まで君臨しろ。

 それが、士道の成すべき最後の役目だ。

 

 もはや痛覚は機能しない。ただの熱となって全身を包み込む。再生能力を凌駕して、遂に破壊が急速に早まった。もうすぐで死ねる。

 しかし、銃撃の嵐が止んだ。

 

「何故だ……」

 

 士道は我が目を疑った。

 顔を上げた先に耶倶矢と夕弦が士道をかばって立つ姿があった。顔面蒼白の耶倶矢を夕弦が支えている。

 馬鹿だな、お前たちは黒幕に操られていた憐れな被害者なのに――どうして、来てしまうんだ。すべて台無しじゃないか。

 

 でも、どうしてこんなにも俺は嬉しいんだ?

 ああ、そんなの簡単なことだ。考えるまでもないじゃないか。

 

 ――俺だって、お前たちと未来を生きたい。

 

 死にたくない、という単純明快の理由。

 燎子は八舞姉妹にいたわりと同情の視線を向けた。

 

「あなた達は、そいつに騙されていたのよ? かばう価値なんてないわ……それとも、洗脳能力で操られているっていうの」

「否定。士道は嘘が得意ですが不器用です」

「くくっ、人間共よ、その曇った目では真実を見抜けぬか」

 

 何が正しくて、何が間違っているのか。

 再び状況は混乱に陥る。

 士道は涙を堪えることはできたが、声が震えるのは抑えられなかった。

 

「お前ら……」

 

 夕弦と耶倶矢が振り返る。夕弦はいつも通り眠たげな感情の乏しい表情。耶倶矢はいつも通り勝ち気で快活な表情。

 

「請願。士道が居なければ、夕弦が生きる意味はありません」

「そうよ、勝手に死なせてなんてあげないわよ」

 

 士道が犯した間違いは、誰もが幸福な世界に自分の存在を考慮しなかったこと。そして、失念していたのは、自分が命を投げ出してまで誰かを救うように、八舞姉妹が士道を命懸けで助けようとすること。

 士道は呆れ顔を込み上げる感情に笑顔へと変えた。

 

「本当に、馬鹿だな」

「そうね、馬鹿ばっかりだわ」

「肯定。三馬鹿です」

 

 三人で笑い合う。

 設定の作り直しだ。さっきまでの真実なんて投げ捨てて、今度は『自分自身』さえも救う真実を構築しよう。自己犠牲で得られるのは自己満足だけだ。そんなことを今更になって教えられた。

 生きることを諦めるな。誰も悲しませない真実を求めるならば、己を蔑ろにすることも許されない。

 

 

    *

 

 

 膠着状態を破ったのは、燎子に送られてきた通信だった。

 

『防衛大臣、佐伯だ』

「……ッ!?」

『異例な事態ではあるが、私から直接指令を出す。聞いているのかね、日下部一尉』

「――はっ! 失礼致しました。ですが、質問をよろしいでしょうか」

『許可できない。きみは私の指示する通りに命令を遂行すればいいのだ』

 

 上の立場の者からそう言われてしまえば、逆らうことはできない。

 それが厳然たる兵士の在り方だ。

 

「失礼ですが、それは佐伯防衛大臣が現場の状況を理解した上での発言でしょうか」

 

 皮肉を込めた言葉に、通信先で鼻で笑うのが聞こえた。

 

『状況を理解できていないのはきみたちだ。昨日、報告に上がった新たな精霊<アポルトロシス>についてだが、先程までの戦闘経過の報告を映像と共に受けて、つい先程結論が出た』

 

 上層部で<アポルトロシス>を危惧する話は聞いていたが、まさかこんな大物が出てきて即座に対応できる緊急対策本部が作られているとは思わなかった。

 

「その結論とはなんでしょうか」

『すべて排除したまえ』

「は……?」

『<ベルセルク>及び<アポルトロシス>を完全に排除したまえ』

「ですがっ!」

『……これは政府の決定だ』

「っ!? どういう、ことですか?」

 

 溜め息をつくのが聞こえた。

 そして、佐伯防衛大臣は物分りの悪い子どもを諭すように言った。

 

『もしも<アポルトロシス>の言うことが真実だったとすればどうなる? 一般には非公開とはいえASTの存在意義が揺らぐことになる。精霊への強行的な対策を取っていたことも非難を免れないだろう。そうなれば国家が混乱に陥る。それはなんとしても回避しなければならない』

 

 燎子は開いた口が塞がらない。

 それはつまり、ただの保身ではないか! 何が国家だ。責任を取らされる立場にあるから、いつもは重い腰をこんなにも俊敏に動かしたのだろう。

 

「……この事実を隠蔽すると?」

『その表現は不適当だ。これは国家と国民の安全のためだよ。分かってもらえないかね』

 

 分かる筈がないだろう。

 屋上に立ち尽くして、こちらの様子を窺っている<アポルトロシス>と<ベルセルク>を見下ろす。今彼女たちの命は燎子の手に握られていた。

 

 果たして、<アポルトロシス>が本人の口にする通り悪なのか。今はそう思えなかった。あれほどまでに健気な<ベルセルク>と命令違反を犯してまで折紙が救おうとした存在が、ただの悪であるとは思えない。

 

「彼女たちから話を聞くべきです。そうすれば精霊問題が解決するのかもしれないのですよ!?」

『……きみたちも今後のことを考えた方が良いのではないだろうか』

「なっ……!?」

 

 脅し文句だった。先程までの隊長の命令違反で全責任を取るのとは違う。部下全員の未来が燎子に重く伸し掛かった。

 来月には結婚すると報告してくれた部下が居る。次の休暇は温泉でのんびりしようと誘ってくれた部下が居る。彼女たちには未来がある。それを路頭に迷わせていいのか。

 

 ASTの隊長として、一人の人間として、自分はどうするべきなのか。

 精霊を殺して部下の未来を守る。

 部下を見捨てて精霊の真実を明らかにする。

 

「まったく、私もすっかり汚れた大人の一人ってことかしらね」

 

 苦渋の末に、燎子は結論を出した。

 

「総員、攻撃開始……」

「えっ?」

 

 戸惑う部下に、燎子は感情を殺した声で命令を与える。

 

「攻撃再開! 全兵装使用許可! <アポルトロシス>及び<ベルセルク>を完全に排除しなさい!」

 

 恨んでくれたって構わない。

 だから、せめて、苦しまないように最大限の火力を以って殺し切る。

 銃口が再び精霊たちに向けられた。

 

「なるほど、機関は、俺の排除を優先したかっ!」

 

 <アポルトロシス>の悲痛な叫び声に耳を塞ぎたくなったが、聞かなければならない。この場に居る者しか知ることを許されない真実なのだから。

 

 再び銃撃の嵐が巻き起こった。

 <アポルトロシス>は<ベルセルク>を引き寄せて背中にかばう。

 血華を咲かせながら<アポルトロシス>は必死に叫んでいた。

 

「精霊がどれだけ虐げられようと、無様だとしても生きて生きて生き抜いてみせる! そしてこの世界に刻み付けるのだ! お前達が秘匿し続けた我らの存在を知らしめる!」

 

 折紙と<ベルセルク>の悲鳴が木霊する。

 そんな悲劇を背景に、<アポルトロシス>は命懸けの演説を続けた。

 右手を大きく広げる。

 

「さぁ、人類よ、贖いの時だ」

 

 左手を大きく広げる。

 

「さぁ、精霊よ、祝福の時だ」

 

 両の拳を握り締めて世界に向けて叫んだ。

 

「大空に、大海に、大地に、己が存在を刻み付けろ! 立ち上がれ、立ち上がれ、立ち上がれ!」

 

 血塗れの肉体を再生で維持して、力の限り叫び続けた。それは精霊と人類に送られる決意表明であり、明るい未来を夢見た宣言だった。

 

「きみは独りではない、きみは弱くはない、きみは嫌われてなどいない」

 

 何度も喉を詰まらせて、何度も倒れそうになっては立ち上がる。

 お願いだ、もういいんだ。どれだけ抗おうと無意味なんだ。だから楽に殺させてくれ。ASTの誰もがそう願い、涙を流しながら引き金を引いた。

 

「世界はきみを受け入れる、きみは誰よりも強い、きみは愛されている」

 

 結末が変わらないことを悟ったASTは、次から次へと強力な兵装へと切り替えた。もう<アポルトロシス>の再生速度は間に合わない。かばわれた<ベルセルク>は助からない。

 

「だから、生きろ、生きて生きて生き続けろ! ――そして、いつか、いつかきっと、精霊と人類が手を取り合う理想郷を創ってくれ――ッ!!」

 

 

    *

 

 

 折紙が見詰める先で、士道が銃弾の嵐に晒される。再生をされては穿たれて、その身は徐々に蝕まれていった。

 

「あ、ああっ……」

 

 言葉にならない絶望が、折紙の口から零れ落ちる。

 遂に一斉攻撃の爆炎に包まれて――晴れた先には、原型すら留めることなく肉片だけが散らばっていた。

 

『……目標、完全に消滅。任務完了です。帰投してください』

 

 オペレーターの押し殺した声に、燎子は拳を握り締めた。

 

「了解。これより帰投する」

 

 燎子は<アポルトロシス>と<ベルセルク>の最後の場所を見詰めたまま固まる折紙に気付いた。その目は虚ろで、今にも命を絶ちそうだった

 

「折紙……」

 

 呼び掛けたことが、感情を動き出す切っ掛けになったのか、折紙は頭を抱え込んで震え出した。

 

「あ、あ、あ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 

 痛々しい悲鳴が戦場に響き渡る。

 ASTの心に重く伸し掛かった感情は、果たしてなんと呼ぶのだろうか。少なくともその感情を好む者は、彼女たちの中には居なかった。

 

 

 

 <アポルトロシス>が命を賭してまで、伝えたかった想いとはなんだったのか。すべての真実は闇の中に消えた。いや、政治家の保身と形もあやふやな人類の混乱を防ぐことを名目に、この世界から消された。

 ただ言えることは、この腐食に満ちた世界には、<アポルトロシス>の語る真実は、余りに鋭利で強力過ぎたのだろう。この過ちはいつか人類に再び突き付けられる。その時こそは、真実に耐えられるぐらいに成長していることを祈らずにはいられない。

 

 こうして、謎の精霊<アポルトロシス>との戦いは、何も明かされること無く、世界の欺瞞に呑まれて終結を迎えるのであった。

 




中二病「俺がすべての黒幕だったんだ!」

DEM業務執行取締役「ちょっと何を言っているか分からない」
<ファントム>「訳が分からないよ」


 上げたら落とすって言ったじゃないですか! やだー!
 伝わり方が変われば救われる者が居る。伝わり方が変われば牙を剥く者が居る。
 そんな皮肉を込めて、最後の敵はやっぱり人間だったぜ!
 さて、次回で終章です。もう少々お付き合いくださいませ。


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終章 中二病のいる風景

 そこは仁義無き戦場だった。一瞬の油断が昼食を奪い、例え日常の友でも敵となり、誰もが至高の逸品(フェイバリット・ワン)を手にするためにあらゆる手段を許容する。

 

 ――四天王が今日も購買部で争いを繰り広げていた。

 

 空を支配する者――<吹けば飛ぶ(エアリアル)>。

 嗅覚を翻弄する者――<異臭騒ぎ(プロフェッサー)>。

 空隙を突く者――<おっとごめんよ(ピックポケット)>。

 

 絶対的な力を以って、愚かな新兵を保健室送りにする。それは彼らの慈悲でもあった。不用意に踏み込もうものなら空腹程度では済まされない。覚悟を定めた者のみが戦うことを許されるのだ。

 

「忘れはしない、俺はツナサンド(お前)に逢うために……生まれてきたんだっ!」「なるほど、この世界線……そう簡単には真実(パン)に辿り着かせないか」「あらあら、駄ァ目ですわ、そのフルーツサンドはわたくしのでしてよ」「くひ、くひひ、違いますわよ、わたくし。だってそれはわたくしのものですもの!」「パンは命より重い……!」「あなたは買えないわ……私が買うもの」「ちまちま買うなんて面倒臭えな。大人買いでもしてやるか」「だったらまずは、その幻想(パン)を買い占める!」「私ね……購買士(バイインガー)で、幸せだったよ」「目に焼き付けなさい、これが購買士になるってことよ」「くそっ、生きてるなら返事をしやがれ、揚げパン野郎!」「俺は、俺たちは平和(パン)を求めているだけなのにっ!」

 

 なんかメンバーの濃度がヤバいことになっている。何が言いたいかというと、方向性はどうあれ人は常に成長を続ける生物だということだ。

 なんだか最悪の精霊(きょうぞうさん)が増えてねーですか。きっとスパルタな本体に嫌気が差して気分転換にでも来たのだろう。気にしたら負けだ。(士道の実妹が)このあと滅茶苦茶フルボッコした。

 

 どこまでも騒がしく、激しくなる戦場。

 しかし、次の瞬間、まるで時が止まったように静まった。

 

 ――<完璧主義者(ミス・パーフェクト)>鳶一折紙の登場である。

 

 常の無表情は精彩を欠いていた。足取りも危うく力無い。この戦場では致命的な状態だったが、誰も彼女の進む道を阻まない。何故ならばその姿は幽鬼のそれだったから。

 <アポルトロシス>と<ベルセルク>がこの世界から消え去ってから――彼女の心はもう死んでいた。それでもまるであの日の戦いが無かったように、世界は変わらず回っている。

 

 折紙は独断専行、そして利敵行為を働いたというのに燎子から「トイレ掃除でもしてなさい」と罰でもない罰を与えられただけだった。一体裏でどんな陰謀が渦巻いているのかは知らないが、もはやどうでもいいことだった。

 

 復讐は果たされた。

 

「…………っ」

 

 そして、五河士道は死んだ。

 

 折紙が生きているのは惰性に過ぎない。ただ死なないために食事を取り睡眠を取る。それの繰り返し。

 本当は死ぬつもりだった。だけど、士道が最後の最後まで叫び続けた言葉が心の奥底に残り続けているのだ。それが折紙にぎりぎりで未練を残させていた。

 

 ――この世界の欺瞞を暴いて、世界に真実を広めろ。

 

 精霊自体をまだ許すことのできない折紙にとっては、精霊と人類の共存に余り魅力を感じない。ただASTのように武力を以って殲滅するのではなく、士道が行ったように平和的な解決方法があるのならそちらを選んでもいいかもしれない、と思うぐらいにはなれた。

 

「え……?」

 

 静まり返った戦場に賑やかな声が聞こえた。

 その内の一つは、折紙が聞き間違える筈がない。

 

「ほう、遅れて来てみれば、随分と有象無象共が居るな。我らに蹂躙されるために集まるとは、酔狂な奴らだ」

「宣言。パンはすべて夕弦たちのものです」

「ああ、それじゃあ、久し振りだが遠慮無く行かせてもらうとしようか」

 

 振り返った先には<ベルセルク>の二人――そして五河士道の姿があった。

 士道と目が合う。彼はゆっくりと近付いてきて微笑んだ。

 

「悪いな、お前には知らせようと思ったんだけど、ちょっと色々とあって」

「う、あ……」

 

 折紙の視界が涙でぼやける。

 士道の胸元を掴んで、声を押し殺して泣いた。

 どうして生きているのか、そんな疑問はどうでもいい。生きていてくれるのならそれだけでいい。

 士道は黙って折紙を受け入れてくれた。耶倶矢と夕弦も文句は言わなかった。彼女もまたあの日、二人を救うために奮闘したのは知っている。最初は複雑な思いもしたが、事情を知れば受け入れられた。

 

「話したいことも、聞きたいことも一杯ある。でも今は……行こうぜ、戦場(こうばいぶ)が俺たちを待っている」

 

 折紙は涙を拭い頷いた。

 さあ、始めよう――私たちの戦争(デート)を。

 

 今は細かいことは忘れて日常を演じよう。この精霊のいる風景を当然のものとして受け入れて、悪意も善意も無いただ食欲を満たすためだけの平和で過激な戦場へ足を進めた。

 

 ――折角の日常に空間震警報が横槍を入れる。

 

 折紙は習慣から反射的に走り出して、すぐに足を止めて士道を振り返った。

 

「大丈夫だよ、俺はもう消えたりしない。だからお前はお前の戦いをすればいい。でも後で落ち着いたら話をしよう」

「分かった、待ってる」

 

 折紙はこくりと頷いた。そして足取り軽く駆けて行った。

 

「士道、我らの同胞が待っている。急ぐぞ」

「同意。急ぎましょう」

「ああ、俺たちも俺たちの戦いをしよう」

 

 士道、夕弦、耶倶矢もまた日常に背を向けて駆けて行った。

 

 

    *

 

 

 <フラクシナス>の艦橋に士道、耶倶矢、夕弦は勢揃いしていた。

 

「ターゲットの識別名は<プリンセス>。状態は正直かなり悪いわ」

 

 モニターに映し出された少女を示して、司令官モードの琴里が説明する。

 

「士道、任せたわよ」

「誰に言っている?」

 

 士道は無駄に格好つけたポーズを決めた。

 

「俺は闇に生きる咎人、この程度の任務、造作も無い」

 

 相変わらずの中二病に琴里は、はいはいと手の平を揺らすだけで対応した。もうすっかり司令官モードでの接し方も慣れたものである。

 

「現場までは送り届けるけど、直接の交渉役はあんたの役目だから。絶対にヘマをしないように。まぁ私たち<ラタトスク>が全力でサポートするから安心してちょうだい」

 

 士道は出撃のための準備を整えながら、あの日――<アポルトロシス>と<ベルセルク>がこの世界から消えた時のことを思い出していた。

 

 雨霰と降り注ぐ銃弾。近付いてくる死の気配。

 それでも、士道は力強く叫びながら耶倶矢と夕弦と共に生き残る手段を模索していた。しかし再生能力が追い付かず、意識が途絶える方が早かった。

 

 ――そして、士道が次に目覚めると、泣き顔の八舞姉妹と黒いリボンの琴里がしがみついてわんわんと泣き出す光景に遭遇した。

 

 ここは天国か地獄か、可愛らしい少女たちに囲まれるのは天国だが、泣いている状況は地獄だった。

 落ち着いた琴里は、醜態を誤魔化すように、芝居がかった口調と仕草で言った。

 

「ようこそ、空中艦<フラクシナス>へ。<ラタトスク>はあなたを歓迎するわ」

 

 目を白黒させる士道に、琴里は悲しみを払うように、怒りを発散するように、次から次へと情報を語った。

 ASTの猛攻に晒され危機に瀕していた時、空間震の損傷から回復した<フラクシナス>で現場に急行して、士道と八舞姉妹を転移装置で救出したのだという。それからすぐに治療用の顕現装置(リアライザ)に放り込まれて、全員奇跡の生還。つまり肉片以外が消し飛んだのではなく、それ以外は無事だったという訳だ。

 それから八舞姉妹には戸籍が用意され、名実ともにこの世界に居場所を手に入れた。

 

 <ラタトスク>から士道に対する誤解が解消され、すべてを理解した時、士道は複雑な気分になった。守り抜けると思っていた琴里は、既に自分以上に巻き込まれていたのだ。

 

「まあ、琴里を堅苦しい立場からさっさと解放してやるためにも、まずは<プリンセス>を救ってやらないとな」

 

 士道の<王の簒奪(スキル・ドレイン)>によって、精霊の呪縛から解放する。そのためには好感度を上げる必要もあるのだという。

 女の子に好かれる方法なんてものは知らないけど、絶望する人間の心理なら少しぐらいは分かる。そして<プリンセス>は絶望に囚われている。映像越しではあるが、すぐに分かった。

 

「準備はいい? ASTが来たら厄介だから、出現地点上空まで移動後、転移装置を使うわ」

「それよりも早い方法があるさ」

 

 士道は琴里にハッチを開けてもらうように頼んだ。

 

「一体何をするつもり?」

 

 その質問には答えず、士道は苦笑を浮かべる。

 

「流石は兄妹と言うべきかな」

「何が?」

「お前にとってのその黒いリボンと、俺にとっての中二病は同じってことさ」

 

 呆けた顔をしたが、琴里はすぐに不敵な笑みを浮かべた。

 

「一本取られたわね。流石はおにーちゃん」

 

 さて、愛しい義妹の笑顔で和んだことだし、ちょっとそこまで世界を救ってこようか。

 

「応援。無理はしないように……と言っても無駄ですね。死ぬ前に彼女を救ってきてください」

「そうさな、キスまでの浮気を許可してやるのだ、下手をうつでないぞ。士道は我ら八舞を救い、あの復讐鬼を解放したのだ、<プリンセス>も救ってみせろ」

 

「疑問。耶倶矢は恋人でもなんでもないので、士道が何をしようと浮気と非難する権利はない筈です」

「ん……? 何を言っておる、我が士道と先にキスをしたのだぞ」

「肯定。そうかもしれませんが、先に士道からキスをしてもらったのは夕弦です」

「な、何言ってんのよ! どっちにしろ士道のファーストキスは私のものだし!」

「否定。そういう意味であれば<イフリート>である琴里が勝者になってしまいます」

「……は? え、ちょ、そこで私を痴話喧嘩に巻き込まないでくれる!? べ、別に私は士道なんてどうでもいいわ」

 

「ほら、こう言ってるし、士道は私のものってことで解決でしょ!」

「嘲笑。これだから耶倶矢は。胸だけでなく頭も空っぽですね」

「……ふんっ、頭まで脂肪の詰まったあんたには分かんないわよね、ぽよっ腹夕弦」

「激昂。かちんです。すか胸耶倶矢」

 

 なんだか姉妹喧嘩を始めた二人を放って、士道は開かれたハッチに向けて歩き出す。慌てた琴里が士道の袖を掴んで止めた。

 

「どうでもいいって言っても……その、別に嫌いとか、そういうことじゃなくて」

「ああ、分かってるよ。愛してるぞ、琴里」

 

 冗談めかして返すと、琴里は顔を真っ赤に染めてそっぽを向いてしまった。

 その隙に、好きにやらせてもらおう。

 転移装置を使うよりもこっちの方が早く現場に向かえる。あの日から訓練は充分に積んだことだし、是非とも実戦に使いたい。

 

 士道は琴里の指を振り払い、いつの間にか仲直りしていちゃつきだした八舞姉妹の声援を受けて、ハッチから外に飛び出した。八舞の霊力を引き出して風を操る。落下速度を制御して、<プリンセス>のもとへ目指した。

 

 なぜ安全性を無視して僅かな時間短縮でしかないのに、転移装置を使わずにこんなことをするのか?

 

「決まっているだろう?」

 

 それはもちろんこっちの方が、

 

 

 ――格好良いからだっ!!

 




 これにて短くも濃かった『士道くんは中二病をこじらせたようです』は完結です。サブタイトルは『八舞ハーレムエンド』だったりしました。実際にハーレムになるというよりは、二人共救うという意味合いが強いです。
 以下、長いですが特に中身も無いあとがきなので、読まなくても問題ありません。

 さて、この二次創作を書こうと思った理由は至極単純で、私が八舞姉妹が好きだからです。そして原作では十香がメインヒロインに据えられたことで、どうしても他ヒロインが不遇に思えてしまい、士道くんに最初に攻略されるのがそもそも双子で二人共救わなくてはならない状況ならば、ハーレムルートへの敷居も低くなるだろう、と思ってのことでした。後は折紙の救済をもっと早い内にできたらな、と考えたのですが……結局は、また絶望させられることが決定事項で涙目。

 本当は士道くんの過去改変+性格改変もするつもりはなかったのですが……ただ、どうしたことか、士道くんはそういえば過去に中二病を患ってたよな、と思い出してしまったことで、この物語の方向性は決定付けられてしまいました。
 最初は着地点だけを決めて猛ダッシュです。書くと決めていたシーンは、『折紙との共闘』と『黒幕宣言』だけというね。最終的には重要な意味を持った<業炎の咎人(アポルトロシス)>も書いている時のハイテンションにその場で決めただなんて秘密です。5話ぐらいまでプロットすら作ってな(ry
 本来はもっと丁寧に描写を行い、展開も一つずつ大切にするべきなのですが、冗長になると思ってずばずばと行っています。物語に深みを持たせたい良い子は真似してはいけません。

 話の展開的に何度も読者の方を不安にさせましたが、私はハッピーエンドが好きです。ただそこに至るまでを厳しくしたいのです。最初から幸せになれる道が決まっている物語は読む分にはもやもやしないですが、緊張感がありません(それが悪いという訳ではないのであしからず)。だから全員が救われる、と確信させないような書き方には少し気を使いました。
 不幸があるから幸せになってほしい、救われてほしい、と思うものですから、もしそんな風にはらはらして頂けたなら幸いです。
 反省点はたくさんありますが、息抜きで勢い任せに書いたにしては、そこそこにまとまったかなと思います。


 さて、今後も士道くんは己の信念に従ってたくさんの精霊を救っていくことでしょう。まずはちょっと放置されて闇堕ち気味の<プリンセス>を救い、我らが心のオアシスである<ハーミット>を助け出し、最悪の精霊とまで呼ばれた<ナイトメア>すらもデレさせる。……あれ、ふと思ったんですけど、折紙を過去で救ったのは今よりも未来の士道くんな訳で、その頃には『中二病』はどうなっているんでしょうね?

 ちょっと妄想が色々とうずきますが、これにて失礼致します。
 最後まで読んで頂きありがとうございました。
 では、またいつかのどこかで!


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番外編 騒乱マイホーム

 完結と言ったな、あれは嘘だ。
 本編がギャグ&ネタ系にも関わらず割と殺伐としてしまったので、いちゃいちゃ成分を補給したい方はどうぞ。一番それを求めていたのは私だけどなっ!
 ほのぼのと初期の中二病テンションでお送りいたします。
 なんだか本編よりも文字数が多い? 知らんな。


「――ここから先は俺の世界だ」

 

 ある日の晩。五河家にて士道は宣言した。

 自室の扉を背に死守する。対するは、血に飢えた乙女(けもの)が三人。

 

「我が足を運んでやったのだぞ? 最大限の出迎えを用意するのが当然であろうに。それを阻むとは、幾ら盟友たる士道であろうとも、許されざる狼藉よ」

「同調。男子の部屋に行ってきゃっきゃうふふするのが、淑女の嗜みだと聞きました。これに間違いはありませんね、マスター折紙」

「もちろん、それは士道も承知している筈」

 

 そんな修学旅行のノリを自宅に持ち込まれても困る。

 いつの間にそんな友好を深めたのか、敵同士だった彼女たちもある程度は心を許し合っているようだ。それは喜ばしいことなのだが、どうして素直に喜べないのだろうか。

 

「ほれ、道を開けるのだ。そして孤独の夜を過ごす士道に、我が慈愛と抱擁の揺り籠(添い寝)をしてやろうぞ!」

 

 耶倶矢の言葉は、火薬庫に火を放ってしまった。

 

「訂正。士道に添い寝をするのは夕弦です」

「間違っている。したいかどうかではなく、士道との添い寝に一番適しているのは私。つまり、私が添い寝をするべき」

「何を根拠に言っておる? 夕弦に師と仰がれるその実力は疑うべくもないが、説明もなく納得はできんぞ?」

 

「単純なこと。士道の腕の太さは、私の谷間にフィットする。つまり、私が腕に抱き着いても彼の眠りを妨げることはない」

「驚愕。流石はマスター折紙。そこまで計算尽くですか。ですが、それだけで引くほど、夕弦は諦めがよくありません」

「当然だな、我も引きはせぬぞ!」

 

 三人は火花を散らし合った。その勢いに圧倒された士道は、どうにか解決できないかと考えて――「お茶を入れてくるから、部屋で待っていてくれ」と言葉を残して問題を先送りにした。本編の修羅場を乗り切ったからといって、ヘタレやがりましたか兄様。

 しかし、そうではない。士道は生粋の中二病。ただのヘタレと侮る事なかれ!

 

「これは戦術的撤退、一度体勢を立て直して状況を把握した後に対策案を用意する」

 

 お前はどこの政治家なのか。やっぱり士道くんはヘタレていた。

 それも仕方あるまい。これも激戦を潜り抜けてきた反動だ。少しは心を休めなくては、彼とて壊れてしまう。というより、戦闘中は勢い任せで突き進んでいたせいで、『責任』という言葉の重さを忘れていた。

 そもそも彼は、『仮面』を被ったところで色恋沙汰は根本的に苦手なのだ。

 

 ――そんな士道が、どうしてこんな危機に瀕しているのか、それを知るには時計の針を少し戻さなければならない。きょうぞうさーん、ちょっと回想入るんで【一〇の弾(ユッド)】お願いします! え、ちょ、それ、実弾、やめ――

 

 

    *

 

 

 五河士道の朝は一杯のブラックコーヒーから始まる。本当は砂糖とミルクの欲しいお年頃だが、だってブラックってワイルドだったりクールな感じがして、気難しい顔をして飲んでいるだけで、陰謀を巡らせているっぽい。つまり格好良い。

 鳥の囀りに耳を澄ませて、優雅に足まで組んじゃったりする。今日は調子が良い、色々と隠しパラメータまで鰻登りだ。

 

「ああ、士道、言い忘れてたけど今日は八舞姉妹が追加の検査を終えて<フラクシナス>から戻ってくるから、確りと相手をしてあげるのよ」

 

 黒いリボンの五河琴里が、食後のチュッパチャップスを咥えながら言った。

 二人分の夕食メニューを考えていたが、即座に変更を書き加えた。

 

「任せておけ。貯蔵は充分、盛大に持て成してやるさ。常に戦場を生き抜いてきたこの身に不可能はない」

「……このタイミングだと、キャバクラに明け暮れた<社長(シャチョサン)>みたいだから、格好悪いわよ」

「ぐはっ……!」

 

 格好悪い。愛しの琴里から告げられた言葉は、士道の胸に深く突き刺さった。キモいと言われるのは慣れている。あいつらは見る目がないだけだ。ただ冷静な顔で丁寧に『格好悪い』と言われるのは中々に堪えた。流石は妹。兄の弱点などお見通しだ。

 

 転移装置に拾われて仕事に向かった琴里を見送って、士道は家中の掃除を始めた。あの日、<アポルトロシス>が死を迎えた後に、八舞姉妹は仮の住まいとして五河家で世話をすることになっていた。こういう時にギャルゲ設定(両親不在)は便利だ。

 

 それが今日からということで、折角の新しい家族なのだから綺麗な状態で出迎えたい。こんな時に顔を出す主夫精神が、士道の人気の秘訣だったりするが、現実的にそれが表に出されても気付ける者は少ない。普段が圧倒的に濃すぎるのが原因だ。誰だって、高笑いして不規則言動と無駄にアグレッシブなポージングをする奴が家庭的な男だと信じられる訳がない。現実は非情である。

 

「掃除はこんなものかな。後は物資の調達、周辺の警戒をした後にトラップの設置をすれば一先ずの平穏は得られるだろう」

 

 お前は一体何と戦っているのか。そんなの決まっているだろう?

 この世界を裏から支配する『機関』である。元とはいえ精霊が二人この拠点にやってくるのだ、どれだけ警戒を強めてもやり過ぎということはない。

 

 ――このまま平穏が続くと思っていた。

 

 しかし、事態が急速に動き出したのは、買い物に出ようと玄関で靴を履いている時だった。リビングの電話が着信音を鳴らした。タイミングの悪さに機関の差し金かと警戒心を忘れずに、士道は受話器を取った。

 

『今日の予定は?』

 

 端的に用件を口にするのは、<完璧主義者(ミス・パーフェクト)>鳶一折紙だった。

 

「ちょっと色々と立て込んでいるだが、大事な用か?」

『話をしようと、と考えていた。今日は私の訓練も無く、あなたも予定が無かったはず』

 

 どうして予定が無かったことを把握しているのか。確かに琴里に言われるまでは、新しい技を習得するための修行にあてるつもりだった。

 

「急用が入ってしまってな」

『そう。それならば仕方ない』

 

 寂しそうな声音に胸がざわついた。二人で話をする機会を今日まで引き延ばしていたのは、お互いの予定が合わなかったのもあるが、士道自身にも問題があった。もしもぼろが出てしまえば、折紙は再び復讐鬼になる。それが怖かった。

 

 ――平穏で腑抜けていたのか。誰かを傷付ける現実を否定したのは誰だったか思い出せ。

 

 士道は受話器を握り締める。

 

「いや、時間なら作る。だから話をしよう。俺たちの今までと今後について」

『私とあなたの今後について』

 

 どうして言葉を繰り返されただけなのに寒気が走るのか。まさかこの会話は機関に盗聴されているのではあるまいな。

 

「ああ、そうだ」

『では今すぐ私の家に来てほしい』

 

 何故か電話越しに凄まじいプレッシャーを感じる。まるで蟻地獄に引き込まれているような錯覚に囚われた。流石は<完璧主義者>、直接相対せずともここまでの畏れを相手に抱かせるとは。しかしここで引いては、<業炎の咎人(アポルトロシス)>の名が傷付く。

 

「……それはできない。家でやらなくてはならないことが色々とあってな、お前には<ベルセルク>と言えばいいか? 二人が家に来るんだ」

『……っ』

「――だから、お前もうちに来ないか?」

『それは、是非。でも、問題が起きないとは限らない』

「俺はお前にこそあいつらと仲良くなってもらいたい。少しずつでもいいからさ」

『…………善処する』

「今はそれで十分だよ。ああ、そうだ、晩飯も食べていけよ」

『それも、是非。でも、あなたの家では精霊の話をするのは難しい。妹が居たはず』

 

 <ラタトスク>と話し合った結果、現段階では琴里が関わっていることを秘密にすることになっている。士道も琴里も記憶が曖昧なので、いずれ五年前のすべてが明かされた時に、すべて話すことになったのだ。その結果、精霊に対して平和的なアプローチを行う組織があり、士道はその外部協力者である――という形で伝えることになっていた。

 

『ということは、本格的な話は夕食を終えた後になる』

「まあそうなるな」

『つまり帰宅時間は深夜近い。これは高校生である私では補導の恐れがある』

「…………」

 

 なんとなく展開は読めた。別にそれぐらいならば構わない。

 

「別に泊まっていっても問題ないぞ」

 

 とんっと何かが床で弾む音が聞こえた。なんとなく無表情で折紙が飛び跳ねる姿を想像できた。

 

『それと、お願いがある』

「なんだ? <完璧主義者>からのお願いなら、大抵のことは叶えるつもりだが」

『その<完璧主義者>というのをやめてほしい』

「誇るべき二つ名を捨てるだと……!?」

『<ベルセルク>は名前で呼ばれている、しかし私は本名で呼ばれてもフルネーム。これは非常に不公平』

 

 考えてみるとそうだったが、特に深い意味はなかった。<ベルセルク>という呼ばれ方を知ったのは最近であり、苗字が同じだから単純に名前を呼んでいただけだ。とはいえ<完璧主義者>の提案を断る理由もない。

 

「了解した、ではこれからは折紙と呼ばせてもらおう」

 

 また電話越しに弾む音が聞こえた。

 

『ありがとう、士道』

 

 名前だけを呼ばれたのは初めてではないだろうか。

 なんだろう、物凄くこそばゆい。こうして平穏の中で日常会話ができることを改めて琴里に感謝を捧げたい。折紙や八舞姉妹からすれば、その感謝は士道にこそ向けられるものだった。

 

 ――何はともあれ、こうして折紙が招かれることが決定された。

 

 

    *

 

 

 そして、物語は冒頭に戻る。

 

「今宵の供物は、貴様だ士道。喜ぶがいい、我に添い寝をすることを許そう」

「指摘。士道は耶倶矢の鶏ガラボディよりも、夕弦の肉感的な身体を求めています」

「……はんっ、そのぽよぽよの腹で大きく出たものだな。そんな奴にまとわりつかれても暑苦しいだけであろうに」

 

 夕弦は自分の胸を持ち上げる。

 

「溜息。重いです」

 

 耶倶矢は眉を釣り上げた。

 

「いいだろう……命が惜しくないようだな、丸々夕弦」

「応戦。命が惜しくないようですね、平々耶倶矢」

 

 二人に士道は顔を伏せながら、手の平を突き出す。格好良い制止ポーズ集第三番『そこまでだ』である。熟練の中二病にのみ許された秘技であり、一般人だったら余りの威力に恥ずかし悶えて使い熟せない。

 

「待て、そもそもどうして俺が添い寝されることを前提に話が進んでいるんだ」

「愚問。夕弦がしたいからです」「愚かな問いよ、我がしたいからだ」

 

 愛されるって苦しいね……士道は世界から拒絶されている設定を思い返して、なんだかそっちのほうが一瞬でも居心地が良かったのでは思ってしまうのだから、愛憎劇とは怖いものである。

 大人しくなった折紙に助けを求めれば、何故か彼女は普段とは変わらぬ無表情を緩めて、どこか感無量という感じで深呼吸をしていた。

 

「士道の匂い」

「…………」

 

 やはり折紙は格が違う。彼女に対する評価を改めて付け直した。

 どうしたものかと考えていると、ばんっと勢い良く部屋の扉が開かれた。

 

「話は聞かせてもらった!」

 

 琴里だった。黒いリボンになっていることから、<ラタトスク>として動いているのが分かる。

 

「なんで、ここで<ラタトスク>が出てくるんだ」

 

 士道が耳打ちすると、琴里はしかめっ面になった。

 

「八舞姉妹のストレスゲージが溜まってるのよ。だから、ちょうど賞品も用意されたし、それを賭けて戦わせてストレス解消してあげるの」

「……そういう事情ならば止むを得ないか」

 

 不満がたまって、精霊の力が逆流すれば折角の平穏も失われる恐れがある。しかも折紙の目の前では目も当てられない。それにしてもどんだけバトルジャンキーなんだろうか。識別名<ベルセルク>と呼ばれるだけはある闘争本能だ。

 

「――おにーちゃんとの添い寝権を賭けて勝負をしましょう!」

 

 しかし、この提案は琴里が墓穴を掘る結果となる。今の彼女に気付く術はない。

 

「ほう、面白い。それで勝負といっても、何をするのだ?」

「賛成。士道との熱い夜は勝者にこそ相応しいです」

「どさぐさに紛れて、何をしようと考えているんだ、夕弦!」

「八舞夕弦の発言は不適切。あくまで添い寝であることを忘れてはならない」

「反省。欲望が先走りました」

「しかし、添い寝の範囲であれば何をしても許されるとも言える」

 

 ん? なんか雲行きが怪しいぞ。士道は琴里と目を合わせる。琴里は「諦めろ」と口を動かした。馬鹿な、この程度の逆境を乗り越えずとして何が能力者か。闇に生きる咎人として、現実に屈するつもりはない。

 

「質問。それはどういう意味ですか、マスター折紙」

「そもそも添い寝は相手との身体の接触が求められる。その際にどこに触れようと、それは不可抗力」

 

 さあ、創造しろ、襲い掛かる現実を迎え撃つ、真実の刃を!

 かつて世界すらも騙した男に不可能なんて存在しない。

 

「他にも胸部を押し付けることになっても仕方ないこと」

 

 さあ、創造……するんだ……現実になんて……負けない――

 

「逆に士道が私たちのどこに触れようともそれは不可抗力」

 

 ――なあ、これは現実か? それとも妄想か? いいや、煩悩さ。

 落ちるのか? 屈するのか? たかが添い寝に、<業炎の咎人(アポルトロシス)>と畏れられ、<無反応(ディスペル)>とまで称された最強の能力者が敗北を認めるのか?

 

 毒を食らわば皿まで? 馬鹿な、料理人まで食っちまうぜ! ひゃっはー美少女は完食だぁっ! 頭の中が世紀末。倫理観なんて投げ捨てた脳内ワールドに、士道は徐々にその強固な理性を削られていた。

 

 英雄を殺すのは、いつだって手の平を返した大衆である。しかし、英雄を堕落させるのはいつだって魔性の女たちである。

 

「――俺は、俺は……俺は! 二度と負けはしないっ!」

 

 それでも士道は耐え抜いた。そして悟りの境地に至る。愛しい美少女たちの添い寝天国にすら背を向ける強靭なる意志。彼でなければ間違いなく堕ちていた。

 

 ――しかし士道に拒否する権利は最初から存在しないという罠。

 

 彼女たちがそれで喜ぶなら、幾らだって我慢しよう。これはあの時の自己犠牲とは違う。ただ紳士としての節度を持つだけのことだ。銃弾の雨に曝されるよりも――やっぱり辛い気がする。据え膳生殺し、まさしく鬼畜の所業。

 

 興奮と期待に目をギラギラと輝かせる乙女に囲まれて、士道はかつてない恐怖を感じていた。彼女たちの目は言っている。

 

 ――ニガサナイ。

 

 さて、肝心の勝負内容だが、そう簡単には決まらなかった。既に大抵の勝負は、耶倶矢と夕弦の間で行われており決着がついているのだ。<ラタトスク>がサポートで動きやすい提案をするが、すべて却下されてしまい、最終的には士道に一任することになった。

 

「そろそろ夏も近いことだし、百物語対決なんてどうだ?」

 

 軽い気持ちで言ったのだが、隣で琴里が凍り付いた。そういえばホラー映画などが苦手だったが、やっぱり司令官モードでも耐えられないらしい。本物の戦場を経験しているのに、そっちの方がよっぽど怖いと思うのだが。まあ三次元よりも二次元の方が良いとかいう友人も居るし、そういうものなのだろう。殿町と同列に考えられる琴里、憐れである。

 

「ほう、言霊だけを頼りに恐怖心を仰ぐ、まさしく強者に相応しき勝負だ」

「同意。それならばまだ経験がありません」

 

 琴里が口を挟む間もなく話はトントン拍子に進んでしまう。

 

「勝者が士道と……くくっ、血が沸いておる。胸が熱くなるな!」

「疑問。耶倶矢は薄いですが」

「ちょ、夕弦! あんた分かってて言ったでしょう!?」

「要求。分かっていませんので、耶倶矢の口から是非とも説明がほしいです」

「嫌だし! 言えるわけないし!」

 

「辟易。説明もできないのに言い掛かりをつけるとは、同じ八舞として恥ずかしいです。説明がなければ納得できないと言っていたのは耶倶矢ですよ。それともわざと答えないことで、詰問を受けたいのですか? 耶倶矢の変態性もここに極まれりですね」

「そ、そんな、訳ないでしょっ! ふざ……ひゃうっ!」

 

 反論する耶倶矢の言葉が途中で遮られる。

 夕弦の指先が耶倶矢の胸を突いていた。

 

「ちょ、どこ触って、夕弦……!」

 

 悶える耶倶矢に、夕弦は攻撃の手を緩めない。両手を使って乳房の柔らかさを堪能していた。

 

「指示。さあ、説明するのです。何が分かっているのか、きちんと明確に、誰にでも分かるように教えてください」

「やっ、そんな、だ、だめだってばっ……ふぁっ、夕弦ぅ……!」

「催促。このままだと士道に耶倶矢の弱いところがすべて知られてしまいますよ? だから、言うのです。耶倶矢の胸は慎ましくて可愛らしく感度も抜群で堪らないと」

「もうやめ…………ってやっぱり分かってるじゃない!?」

「反省。我慢できずしくじりました」

 

 はぁはぁと淫靡な息遣いと胸元が乱れた服装に、士道の<鏖殺公(サンダルフォン)>が天元突破まっしぐらである。危ないところだった。前屈みで戦場を離脱せねばならないところだった。

 ふと、また静かになっていた折紙の視線に気付く。

 

「士道、どれがいい」

「どれとは?」

 

 折紙の視線が、巨乳、普乳、微乳、貧乳と順番に向けられる。どれが誰とはプライバシーが関わるので言わない。一体どれが誰なんだかさっぱりだぜ。

 回答をはぐらかそうにも、折紙はじーっと見てくる。一切の妥協と言い訳を許さぬ『真実を射貫く魔眼(トゥルー・アンサラー)』が発動していた。

 

「…………」

 

 え、それ、答えたら、ハルマゲドンとかティタノマキアとかラグナロクとか起きちゃうよ? 機関の陰謀とかもう比べ物にならないぐらいの混沌が世界に起きちゃうぜ?

 

 どのぐらいヤバいかっていうと、最悪の精霊(きょうぞうさん)が転校初日に「わたくし、世界に選ばれた救済の使徒ですのよ。この世界は今、機関の陰謀に蝕まれてますの。だから、それを阻止するために日々の鍛錬を欠かすこと無く、決戦の時に備えていますわ。皆様も些細なことでもよろしいですから、世界の異変を察知したら教えてくださいまし」とか中二病全開の自己紹介するぐらいですよ。高校デビューってレベルじゃねぇぞ。

 

 色々と暴走する空気を振り払ったのは、我らが司令官である琴里だった。

 

「ああもう、いいわよ! さっさと勝負を始めなさい! おにーちゃんを一番怖がらせた人が優勝ね!」

 

 兄を救うために、自ら死地(ホラー)に踏み込むその姿――まさに妹の鏡。

 そして、百物語勝負は始まってしまった。

 

 

    *

 

 

 <フラクシナス>艦橋。

 

「副司令、その機材はなんですか?」

 

 <藁人形(ネイルノッカー)>の問い掛けに、神無月恭平は良い笑顔で応えた。

 

「もちろん、司令の勇姿を見守るためのものですよ」

「盗撮でもする気ですか!?」

「素人考えですね。私は音だけの方が興奮するんですよ!」

 

 誰だよこいつをこんな地位に置いた奴……<フラクシナス>クルーの思いが完全に一致した。

 

「では、私はすぐに現場へ向かわねばならないので」

 

 琴里から命令を受けた令音の指示により、<フラクシナス>のクルーは神無月を捕獲。その後、穴を掘るだけの簡単なお仕事に送られた。

 今日も<ラタトスク>は平和です。

 

 

    *

 

 

 世界を照らすのは頼りない蝋燭の火だけ。不規則に揺れる火に、影の差した表情はそれだけで不気味だった。

 士道のおどろおどろしい口調で語られる物語に、琴里は誰にもばれないようにぷろぷると震えて、夕弦は表情を強張らせ、耶倶矢は固唾を呑む。折紙に関しては普段とまったく変わらなかった。

 

「……そして、闇の中に蠢いた『そいつ』は何も知らない少女に声を掛けた。『ようやく見付けたぞ!』」

 

 夕弦の話はその独特な口調からどうしても恐怖を感じてもらえず、耶倶矢の話に関してもクリーチャーが出現した辺りからリアリティを失って怖くなくなってしまった。

 しかし、士道の語る物語は真に迫っており、妙な現実感を秘めていた。

 

「少女は突然の声に、悲鳴を上げながら駆け出した。だが、逃げられない。すぐに『そいつ』は追い掛けてくる。それでも必死で走った。走り続けた。しかし――足元に転がっていた石を見逃した彼女は、躓いてしまい……遂に追い付かれてしまった」

 

 恐怖に全身が強張る。だが、少女の好奇心は振り返ることを強要した。

 そして、見てしまった。

 自分を追い掛けていたのは、数日前、変質者に襲われた自分を助けてくれた少年。命の恩人。だが、違う。彼は居ない。この世界には居ない。だって、目の前で殺されてしまったのだから! そして、私はまだ息がある彼を見捨てて逃げたのだ!

 

「これは復讐だ。少年は自分を見捨てた恩知らずを殺しに来たのだ! ああ、ごめんなさい許してください……お母さん、お父さん! 幾ら声を上げても誰も助けには来ない。逃げている内に誰も寄り付かないような路地裏まで入ってしまったのだから」

 

 恐怖に錯乱した少女の肩に、少年の手が触れる。

 

 ――お前をこの世界から解放する。

 

 解放……それは死ぬってこと? 少女の思考はそこで停止した。後はただ呻き声が零れ落ちるだけ。もはや意味を持つ言葉を話す余裕はなかった。

 そして少女は、闇に引きずり込まれ――二度と戻ってくることはなかった。

 

「これで俺の話は終わりだ」

 

 士道は手に持っていた蝋燭の火を吹き消す。

 八舞姉妹は強張った身体を弛緩させほっと息をつく。琴里はもう涙目だった。折紙にはやはり変化がない。

 

「これぞまさしく怪談、恐怖を煽りおる。流石は士道だな」

「感心。まるで本当にあったように感じられました」

 

 士道は夕弦の言葉に肩を竦めた。

 

「当然さ。これは実際にあった話だ」

「えっ……?」

 

 琴里の震えが更なる恐怖に固まった。

 

「後日談がある。聞きたいか?」

 

 こくこくと頷く者が三名。一名は全力で首を横に振った。

 

「――そう、闇に呑まれた彼女は、もう人間ではなくなった。そして少年と少女は、今ではすっかりメル友(せんゆう)である」

 

 士道が突き出したケータイの画面にはアドレス帳が表示されていた。

 上から五番目に刻まれた一際目立つ名前。

 

 ――『闇月*詩浄』。

 

 話の中心になっていたその少女、士道が中二病をこじらせる原因になった憐れな被害者のことである。精霊の力で再生したところを血糊の悪戯に改竄して、士道が恐怖体験に仕立てあげたのだ。

 

 真実は、自分が死んだのを見てショックを受けただろう少女を慰めるために会いに行ったら物凄く怖がられてしまった、というだけの話である。

 琴里は放心状態から回復すると、即座にツッコミを入れた。

 

「染めたわねっ!?」

「ちなみにこれで『闇月*詩浄(エトワール)』と読む」

「読めないわよっ!?」

「今では『機関』と共に戦う立派な戦友さ」

「うちのおにーちゃんが本当にごめんなさいっ!」

「……なあ、琴里、さっきから叫んで疲れないか?」

「先程から息を荒らげて、少し落ち着くといい」

 

 中二病患者二人からの憐れむような視線に、琴里の眉が吊り上がる。

 

「はぁはぁ……あ、あなたらねぇ」

 

 琴里の肩にぽむと夕弦の手が置かれた。

 

「同情。強く生きてください」

 

 黙り込んだ折紙は世にも恐ろしいことを考えていた。自分もそういう『キャラ』になれば、もっと士道と距離を詰められるのだろうか。やはり恋は盲目である。

 ちなみに折紙の語る物語は、オーソドックスな怪談だった。こういうところでは杓子定規なところもある折紙は、ずば抜けた個性を発揮しなかった。

 

 

    *

 

 

「これで全員か。後は俺が……勝者を選ぶ訳だな」

 

 士道の言葉に乙女は再び獰猛な獣へと変化した。

 

「もちろん、我だろうな?」

「主張。夕弦です」

「勝者は、私に決まっている」

 

 それぞれに己の勝利を疑わない。

 

「さあ、おにーちゃん、じっくり悩んで決めてね」

 

 琴里が意地悪く催促してくる。

 士道は悩んだ。果たして、誰を選べば一番、自分にも相手にも被害が少ないだろうか。三人は理解している。これはただの勝者を選択するものではない。もっと重い意味がある。

 

 ――そして、迷った末に結論が出された。

 

「俺が選ぶのは……」

 

 全員の視線が集まる。

 果たして、この結論でいいのか一瞬悩んだ。

 だが、今更引き返せない。さあ、五河士道――突き進め!

 

「俺が選ぶのは、琴里だ!」

 

 遂に言った。言い切った。

 

「どういうこと?」

 

 折紙の動揺は、耶倶矢と夕弦も同じだった。琴里はそもそも百物語勝負に参加すらしていなかったではないか。

 

「いいや、俺を一番怖がらせた者が優勝なのだから、それは間違いなく琴里だ」

 

 何が一番怖かったって、それは恐怖を押し殺して必死に笑顔で取り繕おうと完成した――不自然に歪んだ琴里の表情だった。だから決して嘘ではない。納得できるかどうかは別だが。

 

「お、おお、おにーちゃんっ!?」

 

 琴里は慌て出す。棚から牡丹餅に内心では狂喜乱舞していたが、ここで素直に受け入れてしまったら司令官モードとしてそれはどうなのか。色々と煩悶していた。彼女が士道の本音を知れば悲しみと怒りを覚えるだろう

 

 ――三人の中から選ぶことは俺にはまだできない。

 

 琴里とはもうお互いにいい歳だし嫌がるかもしれないな。ごめんな、こんな優柔不断に巻き込んでしまって――内心で告げられる謝罪も空虚なものだった。

 

 

 こうしてこの晩の勝負は締め括られた。

 ただ士道には誤算があった。妹の添い寝によって、知ってしまったのだ。いつまでも琴里は子どもではない。昔とは違う女に成長しつつある身体に触れて、士道の中で無意識の領域ではあるが『妹』という枠組みから外れようとしていた。

 

 ――これは恋の成就に可能性が芽生えた五河琴里への救済。

 

 神算鬼謀では無いけれど、誰も悲しませないために悩んで悩んで悩んだ末に士道が出した、きっと幸せな選択肢。

 

 もちろん、この選択は後々の士道を苦しめることになるが、それはまた別のお話。

 だから、今はただ幸せな寝顔を見せる琴里に祝福を送ることでこの物語に幕を閉じよう。

 

 

 恋に恋せよ乙女たち。

 そして、中二病に幸あれ!

 

 

 




 これが本当のコメディですね、分かります。
 平和っていいですね。窓際に立っても狙撃に怯えなくていいとか幸せ過ぎる。
 1話で精神に傷を負った名無しの少女すらも救っていた。これが士道くんクオリティ。

 悪には勝てても恋には勝てない、これが五河士道という男なのさ!
 ハーレムルートを推進していながら、作者が安易なハーレム否定派という異常事態であるからして仕方ない。ただ突き詰めれば、ハーレムだって可能性もあると信じているから、八舞姉妹の攻略からこの物語はスタートしたのです。
 全員と相思相愛のハーレム。そんな理想郷を夢見て戦い続ける。例え誰かが否定しても、誰もが幸せになる可能性があるのならば、その真実を貫き通せ!
 とか格好良いこと言ってみるけど、まだその理想郷はどこまでも遠いです。

Q.何度かきょうぞうさんをネタにしてるけどなんで?
A.ほら、分身体なら幾ら汚してもきっと許されるって……(これ以上は血で汚れて読めない)

Q.すごく中二病に憧れているんです! どうすれば中二病になれますか?
A.中二病はなるものではありません。覚醒するものです。


 続編の要望もありましたが、現時点では未定です。
 そのため一先ずは完結を付けさせて頂きます。
 それでは、今度こそお別れです。最後まで読んで頂きありがとうございました!








 ――第二部予告。

 中二病と名無しの精霊は、ようやく出逢いを果たす。

「お前も私を殺しに来たんだろう?」
「いいや、俺はただお前に会いに来ただけだ」
「信じられんな」
 ――救われることなどとっくに諦めてしまったよ。
 孤独と絶望に塗れた瞳が、空を見上げた。
「一ついいだろうか。俺を殺すのは、お前が俺を殺したいからか? それとも殺さなければ自分が殺されるからか?」
「どちらにしろ結果は同じだ。くだらん言葉遊びが何になる」
「――違うな。お前の心が傷付く。だから俺はお前に殺されたりなんてしてやらない。そしてお前にこれ以上、誰かを殺させてたまるものか!」

 放置されたきなこパン愛好家が牙を剥く。
 『機関』の陰謀渦巻く戦場で、中二病は吼えた。

 誰かが悲しむ現実を否定し、誰もが幸せな妄想を肯定する。
「――お前の名は十香。俺の大切な存在だ」
 例え、それが嘘であっても――貫き通せば真実へと至るのだから。

(ころ)して(ころ)して(ころ)し尽くす。()んで()んで()に尽くせ」
(なお)して(なお)して(なお)し尽くす。()きて()きて()き尽くせ」

 五河士道は<アポルトロシス>として、再び舞台に上がる。
「此処に<王国>は成った。さあ、控えろ人類」
 欺瞞に満ちた世界を解放し、精霊と人間が共存するために真実を刻もう
「――世界の、再生だ」

 中二世代ボーイ・ミーツ・ガール第二部『十香キングダム』!!
 きみは刻まれた黒歴史に耐え抜くことができるか?


 ――余り期待しないでお待ちください!
(投稿されたらラッキーぐらいに考えておくといいと思います。あとこの予告はでっちあげなので、実際にこんな展開になるとは限りません)


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番外編 言語ブレイク

 前回で終わりだと言ったな。あれも嘘だ。
 という訳で短めですが、番外編第二弾です。
 あとがきがある意味で今回のメインなのでお許しください。


●喧嘩するほど仲が良い

「学校に通うからには最低限の知識を収めておくべきよね」

 

 五河琴里は、八舞姉妹が来禅高校に通いたいと言ってきたので、その望みを叶えるためには何をするべきか考えていた。問題になったのは、人間社会においての常識はもちろんだが、ある程度は勉強もできなくては誤魔化すのが面倒だということだ。

 もしも通うことになれば、令音辺りにフォローしてもらう必要はあるだろう。裏工作は同時並行で進めておかなくては。

 

 ――裏側が慌ただしく動き始めた頃、表側も賑やかになっていた。

 

 リビングのテーブルで肩を並べて勉強する八舞姉妹。その教師役として士道は反対側の椅子に座り見守っていた。

 

「なんだこの『喧嘩するほど仲が良い』とは……?」

「仮説。夕弦たちのことでは」

「ほう、愚民共の知恵にしては目の付け所が良いではないか」

 

 士道は二人の会話に沈黙する。違うけど、違うとは言えないこの感じ。もどかしい。言葉って難しいね。

 夕弦と耶倶矢はこの世界に何度も現界して、様々な勝負を繰り広げてきただけはあり、知識はそれなりに修めていた。耶倶矢に関しては無駄に言語知識もあったが、流石に慣用句やことわざまではカバーし切れていないようだ。

 

「思案。つまり士道と喧嘩をした夕弦は特に仲が良いと」

「ふんっ、それならば我も士道とは幾度も激闘を演じてきた。夕弦などには遠く及ばぬ深い絆で結ばれているということであろうな」

「否定。耶倶矢と士道の激闘(笑)はカウント対象外です」

「ちょっと、夕弦! そのカッコワライって付けるのやめなさいよ!」

「無視。あの時に、命懸けの喧嘩をした夕弦の方が士道と仲良しということです」

 

 士道は学校の上空で戦ったことを思い出した。確かにあれは喧嘩と呼べるかもしれない。お互いに譲れないものがあり、それ故にぶつかり合ったのだから。

 

「うぐぐ……だ、だったら、士道! 我と尋常に喧嘩をしようではないか!」

「しないぞ」

「なっ……!?」

 

 にべもない返答に、耶倶矢は崩れ落ちた。挫けそうになった心を叱咤してなんとか立ち上がる。

 

「だったら、どうすれば士道は我と喧嘩をしてくれるのだ?」

「俺は耶倶矢とは喧嘩したくない」

「あっ……」

 

 耶倶矢は絶望に染まった顔で再び崩れ落ちた。

 走り寄った夕弦が、耶倶矢の頭を抱き締める。

 

「激励。耶倶矢、諦めないでください」

 

 それから、士道を睨みつけた。

 

「激憤。どうしてですか。士道は耶倶矢のことが……」

「これは誤解が生じて――」

「――もういい。夕弦には勝てないわね……うん、夕弦だったら仕方ないもん」

 

 夕弦の制止を振り切って、耶倶矢はリビングから出ていこうとする。

 例え誤解とはいえ、耶倶矢が傷付いたことに変わりない。

 士道は己の両頬を叩いて、日常に緩んでいた心を完全に目覚めさせる。今は言い訳のような言葉は安易な同情に取られかねない。だから、誤解を押し通して、そのまま突き進んで一周させる。

 

「耶倶矢! どうして諦めるんだ。耶倶矢は夕弦と同じぐらい魅力的だ。何も卑下にすることはない。喧嘩というのは、両者の合意のもとで行われるのではない。二人の意見が対立した時に生まれる神聖なる戦いだ」

 

 耶倶矢の震えていた足が立ち止まった。

 

「……そうか、では我の挑戦を受けると言うのだな? かかっ、流石は我が盟友! 期待を裏切らぬ強者ぞ!」

 

 振り返った耶倶矢には、もう笑顔が咲いていた。

 そして身構えた士道に――視認すら許さぬ速度で内蔵を抉るような強力一撃が突き込まれた。絶望に沈んだことで精霊の力が少しだけ逆流していたらしい。タイル貼りと見紛う鍛え抜かれた士道のボディでも、そのダメージは計り知れなかった。

 

 世界を狙える一撃。素直な称賛を訳の分からぬままサムズアップで送り――士道の意識は途絶えた。最後に見えたのが、耶倶矢の満面の笑みだったので、これでいいと納得した。

 

 

 

 次の日。

 

「しかし、思ったのだが、一方的に攻撃を加えただけでは蹂躙ではなかろうか? やはり、これから再戦して仕切り直すとしよう」

「待て、落ち着け」

 

 士道は必死で耶倶矢に本来の意味を教え込んだ。

 

 

 

 

●吊り橋効果

 ある日の<フラクシナス>にて、八舞姉妹は琴里と一緒に片付けを手伝っていた。

 

「琴里、これはなんだ?」

 

 山積みになったガラクタの中から、耶倶矢が見付けたのは『恋してマイ・リトル・シドー』とポップなフォントでタイトルが描かれたディスクケースだった。

 

「ああ、それはね、士道の訓練用に用意したゲームよ。まあ結局は必要なくなりそうだけどね」

 

 <ラタトスク>のフォローがなくても、現に<ベルセルク>――八舞姉妹の攻略を成功させている。

 

「請願。やってみたいです」

「確かにあの士道が訓練に使うとなると、きっと恐るべきものに違いない」

 

 目をキラキラと輝かせる八舞姉妹に、琴里は肩を竦めた。

 

「んー……たぶん期待しているのと違うと思うけど、このまま捨てちゃうのも勿体無いし、休憩がてらプレイしてみる?」

「首肯。うずうず」

「全身の血がざわついておる。実に楽しみだ」

 

 

 

 五河家に戻ってきた三人は、早速リビングでゲームを開始した。三人で肩を寄せ合って画面を覗き込む。

 

「次から次に現れる女を士道に惚れさせればいいのだな? ふんっ、なんだ簡単ではないか」

「理解。少し複雑な気分ではありますが、既にクリアしたのも同然ですね」

「ふふっ、二人共自信満々ね。まあ元から女心の分からない士道用に設定してあるから簡単かもしれないわ……と言いたいけど、腐っても<ラタトスク>製だから、舐めていると痛い目に遭うわよ」

 

 琴里の脅し文句にも八舞姉妹は動じない。

 

「それでは夕弦、選択肢は順番に選ぶとしよう。間違った回数が多ければ負けだ」

「了解。きっと今回は引き分けですね」

 

 こうして精霊攻略のために用意された恋愛シミュレーションゲームを、精霊がプレイするという奇妙な状況ができあがった。

 

「おはよう、お兄ちゃん! 今日もいい天気だね!」

 

 画面暗転後、美麗な一枚画が表示された。

 士道(主人公)を踏み付ける妹キャラを見て、八舞姉妹は琴里をじーっと見詰めた。

 

「な、なによ……」

 

 ゲーム開始前に現実的なシチュエーションを考慮したと言っていた。これもつまり、士道の朝なのだろう。

「早速選択肢が出てきたか! くくっ、運命神よ、我を試すとは……その傲慢、いかに愚かであるかを知れ!」

 

 画面上に表示された三つの選択肢を確認して、耶倶矢は眉を寄せた。

 

「琴里、これは士道の選ぶ行動ということだな?」

「ええ、そうよ。制限時間もあるから早く選んだ方がいいわよ」

「……ふんっ、不要だ」

「え?」

 

「この中に正答などありはしない。そうだな、夕弦?」

「同意。士道であれば、例え妹であろうとも踏まれるような失敗はしません」

「その通りだ。つまり、布団の中で眠っている士道は変わり身。言葉を話すことなどありえない」

「結論。沈黙こそが答えです」

 

 琴里は戦慄する。なんでどこまでも狂った過程を経て正解に辿り着けるのか。まるで士道が中二病で突っ走る時のようである。

 

「交代。次は夕弦の選ぶ番です」

 

 耶倶矢から夕弦にコントローラーが移り、ゲームは再開される。

 女教師が何もないところで転んで、士道の顔に胸を押し付ける形で倒れ込んできた。そしてどう対応すべきが選択肢が表示――

 

「嘲笑。その程度で士道に勝てると思いましたか」

「くくっ、当然だな」

「え? え? ええ?」

 

 画面内では、士道が女子教師に「隙ありぃぃッ!」と叫んで腕ひしぎ十字固めを決めていた。

 琴里には付いていけない。どうして選択肢がすべて表示されるかどうかという早さで正解を選び出せるのか。

 

「ちょ、ちょっと訊くけど、どうしてそれが正解だって分かったの?」

「琴里ともあろうものが、理解できぬのか?」

「え、ええ、私にはもちろん理解できるけど、一応ね、一応確認しようと思って」

 

 夕弦の操作でバックログが表示される。

 

「提示。何もないところで転ぶところが既に罠です」

「機関の尖兵と考えるのが自然であろう。士道が一瞬の判断を間違う筈もない」

「解説。先手を取らせて相手の動きを制限、その後に相手の得意な寝技へと持ち込むことで無意識の余裕を誘います」

「後は簡単だ。動きを予測され、一欠片とて余裕を抱いた愚か者に、勝利の女神は微笑まない」

 

 琴里は再び戦慄した。八舞姉妹の中で士道はもはやパーフェクトソルジャーにでもなっているのだろうか。まるで現実と真実が重なり合って共存するような感覚だ。

 

「やはり簡単過ぎる。この程度で我らを惑わす? 笑止千万! 四つの未来から最適解を見抜くなど容易い。現実は無限の中から常に最適解を追うのだ。いや、それすらも超越する真実を構築してみせる。それが、士道という我が盟友の真髄だ」

「…………そう、ね」

 

 なんだか納得できないが、その通りだ。

 士道は自分で未来を切り開いて、八舞姉妹を救ってみせた。

 

「吊り橋効果だとしても……いえ、だからこそ、平穏を取り戻した後も続く信頼を築いたのよね」

 

 夕弦はきょとんと首を傾げた。

 

「質問。その『吊り橋効果』とはなんですか?」

「まあ簡単にだけど説明するわ」

 

 琴里の説明を聞いて、夕弦は頷いた。

 

「要約。つまり危機的状況に共に追い込まれれば急激に仲が深められるということですね」

「ええ、大体はそんな感じだと思う」

 

 

 

 次の日。

 夕弦は電話を借りて、士道の連絡網から折紙の自宅に掛けた

 

「質問。マスター折紙、日常に於いて男女が共に行動している時に危機に陥るにはどうすればいいでしょうか」

『……何をするつもり?』

「応答。リベンジです」

『つまり……復讐。何も満たされないけど、私は否定する権利を持たない。ただ躊躇があるのなら、すぐにやめるべき』

「感謝。肝に銘じます」

『それで、社会的に? それとも、生命的に?』

 

 危機的状況ならばなんでもいいのだと思うが、命の危機よりは、その社会的という方のがきっと安全だろう。

 

『往来で服を脱げばいい』

「懊悩。肌を晒す相手は最小限に留めたいです」

『では、部屋に連れ込んで服を脱ぐ。それから悲鳴を上げればいい。近隣住民が通報してくれる。そうすれば社会的に危機に陥る』

「多謝。流石はマスターです」

 

 

 

 その日の夜。

 

「悲鳴。きゃああああ」

 

 士道の部屋から響き渡った悲鳴に、琴里が駆けつける。

 ベッドの上で半裸になった夕弦。それを押さえ付ける士道。

 

「……おにーちゃん、妹が居る家で随分とお盛んね?」

 

 ニコニコ激怒。器用な表情だ。

 

「深刻な誤解が生じているぞ。落ち着け、これは機関の罠だ!」

「問答無用!」

 

 士道の顔面に琴里の飛び蹴りが減り込んだ。

 最後に見た景色は、白とピンクの縞々だった。

 




 お久しぶりですというのにはちょっと早いですけど、またお会いしましたね、potato_47です。

Q.どうして士道くんの扱いが酷いの?
A.士道くんを「もっといじめろ」ってガイヤが囁くんだ

 皆様におだてられて、第二部のプロットを作った単純な子は私です。
 用意しただけで、本編を書くとは言ってませんけどね!
 ふはは、存分に妄想だけを楽しむといい!







 ひぃ、すみません、石投げないで……!
 と、投稿しますから許してくださいぃぃ!

 ……まぁそれなので、完結は取らせて頂きます。
 では、第二部『十香キングダム』でまたお会いしましょう!


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第二部 十香キングダム
序章 宣言


「待たせたな」
 早速ですが難易度をお選びください。

 VeryHard:十香が反転した状態でスタートします。
→Hard   :十香が病んでおり、敵対的です。
 Normal :原作と同様の難易度です。
 Easy   :十香が対話の可能性を信じています。
 VeryEasy:十香が何故かデレデレです。隙を見てキスをしましょう。

 選んだものになるとは言ってないですけどね。
 そんな感じで第二部『十香キングダム』開始です!


-追記-
 難易度選択はただのネタです。勘違いさせて申し訳ございません。
 本編はプロット通りHardで進みますので、ご了承ください。



 ――荒れ果てたビルの中で、少年と少女が向き合っていた。

 

 少年の姿はいたって平凡。ただ全身から滲み出る『凄み』から一般人ではないことが見て取れる。それは両手を顔の前で交差させた、奇妙なポーズによって発生していた。

 彼の名前は五河士道。世界を裏側から支配する『機関』の陰謀を阻むために戦い続ける『能力者』――という妄想を貫き通すただの中二病患者である。

 

 対する少女は、この世のものとは思えない美しさを世界に刻み付けていた。砕けた窓から吹き込む風に闇色の髪は棚引いて、まるで版図を誇示するように大きく広がる。鎧とドレスを組み合わせた不思議な装いは、彼女の気品を際立たせながら、戦場を駆け抜ける獰猛な気配を放っていた。

 彼女に名前は無い。敢えて呼ぶならば<プリンセス>。圧倒的な美貌と力を持つ彼女に相応しい呼び名であるが、その王者たる者に相応しき輝きには陰りが生じていた。

 

「それで、おまえは一体何を企んでいるのだ?」

 

 <プリンセス>が猜疑に満ちた視線と共に巨大な剣を突き出した。

 ただ腕を前に進めれば切っ先が喉元を貫くことだろう。しかし、士道の表情には一切の変化が起こらない。

 命の危機など瑣末な問題だった。

 それよりも、見逃してはならない絶望がある。

 

「やはり……おまえも私を殺しに来たんだろう?」

 

 続けられた言葉に、士道の表情が始めて動いた。眉を寄せて、怒りに唇を噛み締める。

 目の前で今にも泣きそうな少女が居る現実に耐えられない。今すぐにでもそんな腐った現実をぶち壊したい。

 だが、<プリンセス>の絶望は深いのだ。迂闊に踏み込めば、最後の引き金を引いてしまうことになりかねない。彼女はずっと独りだった。そして周囲には敵ばかりだった。

 そんな環境で健全な心が育つ筈もない。

 

「黙っていては分からん。いや、おまえの返答など求める意味が無かったな。今すぐに私が殺してやる」

 

 だったら声を震えさせるな、刃に迷いを持たせるな。

 本当に怖がっているのは<プリンセス>だ。

 例え世界のすべてが否定しようとも、士道だけは現実を受け入れない。もっと幸せで愉快な真実を構築してみせる。

 

 世界から拒絶される痛みがどれほどのものか。士道はよく知っている。

 だから、肯定してみせる。

 世界のすべてよりも強く優しく精一杯に、<プリンセス>の存在を肯定してみせる!

 

「――俺はただお前に会いに来ただけだ」

 

 士道から返された真っ直ぐな意志に、<プリセンス>は自嘲した。

 

「信じられんな」

 

 孤独と絶望に塗れた瞳が、外に広がる蒼空を見上げた。

 ずっと対話を、救いを、温かい感情を待っていたのに、それを素直に受け取ることすらできない自分自身を憐れんだ。

 

「この世界に受け入れられることなどとっくに諦めてしまったよ」

 

 暗く淀んだ声。期待を抱くことすら許されなかった憐れな少女は、悲痛に歪めた表情の奥で、静かな慟哭を上げていた。例え涙は零れ落ちなくても、心が泣いている。

 士道は構えられた剣など気にせず、一歩前に足を進めた。

 首筋の薄皮が裂かれて、真紅の血が剣身を伝って流れ落ちた。

 

「一ついいだろうか。俺を殺すのは、お前が俺を殺したいからか? それとも自分の身を守るために仕方なくか?」

「どちらにしろ結果は同じだ。くだらん言葉遊びが何になる」

「違うな。断じて同じではない」

「何が違うと言える」

「――お前の心が傷付く」

「なんだと……?」

 

 士道は首筋に当てられた刃を手の平で押し退ける。

 抵抗なく剣身は離れていた。

 動揺する<プリンセス>に向けて宣言する。

 

「だから俺はお前に殺されたりなんてしてやらない。そしてお前にこれ以上、誰かを殺させてたまるものか!」

 

 ――そして、二人の視線はぶつかり合い、五河士道の物語は再び幕を開けた。




 ヤンデレ十香って可愛いと思いませんか?
 思わないですか。そうですか。そうですね。


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1.手に入れた日常

 該当部分に追記しましたが、こちらのが目を通す方も多いと思いますので、改めて記載致します。

 前回のまえがきの難易度選択はネタなので、感想で選んで頂いて恐縮なのですが、本編はプロット通りHardでお送り致します。誤解させてしまい申し訳ございませんでした。

 それにしても一ヶ月遅れのつけを士道くんに払わせるとは、世の中にはとんでもない外道も居たものですね(ゲス顔)


 心地の良い目覚めというのは幸福感に満ちている。睡眠はほとんどの人間が一日に一回は取るものだ。しかし多くの者が軽視しがちであり、寝ることをただの習慣にしてしまっている。

 

 カーテンの隙間から差し込む朝日に瞼をくすぐられて、ぼんやりと意識が覚醒する。見慣れた天井を見上げて思考が回り出す。そして目覚めを自覚した時、昨日の疲れは精神的にも肉体的にもすっかり解消されていることに気付く。

 五河士道はその感覚を大切にしていた。どれだけ人間が夜行性だと嘯こうと、たった一代で人間の機能は変化するものではない。機関との戦いのために、万全のコンディションを整えるのは闇に生きる咎人に与えられた義務といっても過言ではない。

 

「……暑い」

 

 だが、今日の士道は寝苦しさから目覚めた。

 身体を起こそうとして、両腕に掛かった重みと感触に気付く。

 右腕に耶倶矢、左腕に夕弦が抱き着いていた。どうして八舞姉妹が士道の布団に潜り込んで幸せそうな寝顔を浮かべているのか――考えるまでもなかった。

 

 『機関』の――いや、<ラタトスク>の陰謀である。

 

 右腕を耶倶矢の絡み付く腕から引っ張り出して、左腕も同じく夕弦から抜こうとしたが、柔らかく密着した何かが抵抗になって動かせない。耶倶矢の方は簡単にいったのにこれはどういうことだろうか。

 

 本来は同一人物ということもあり、二人は瓜二つの容姿である。そんな二人が同じ行動に出れば、同じ結果になる筈なのだが――とそこまで考えて悲しい現実に気付いてしまった。

 士道の左腕はすっぽりと夕弦の豊満な胸に埋もれていた。無理矢理に抜こうと左右に振りながら引っ張ると、はだけたパジャマの胸元から覗く乳房がたゆんたゆんと波打った。

 

 落ち着け、冷静になれ。俺の二つ名<無反応(ディスペル)>は伊達ではない。この程度で動じてどうするのか。琴里との添い寝も無事に乗り切ったではないか。

 

 夕弦が寝返りを打つ。そうなれば、腕を掴まれた士道も自然と引っ張られる訳で、奇しくも夕弦に覆い被さる体勢になった。耶倶矢とはチェックの色違いのパジャマは、確りと身体のラインを強調して、膨らんだ胸元のボタンが弾け飛びそうになっている。

 

 汗ばんだ肌は、士道の腕を包み込んで離さない。動かそうとするたびに「んっ、あっ」と艶かしい嬌声が零れ落ちる。

 ぱちりと夕弦の瞼が開いた。士道は言い訳の言葉も浮かばずに凍り付く。

 

「許可。好きにしてください」

「………………」

 

「誘惑。この体は士道と耶倶矢だけのものです。でも、今は――士道だけのものです」

「……………………」

 

「興奮。耶倶矢の目の前でというのも背徳的なスパイスがあって良いかもしれません」

「…………………………」

 

 士道の理性が最終防衛ラインを死守している。夕弦の猛攻にそれが崩壊するのも時間の問題だ。

 もはやこれまでかと思われた時だった。

 隣で眠る耶倶矢の手が、士道の腕を求めてさまよい出す。ただ空を掻くだけで触れるものはなく、遂に違和感が許容限界を超えて、意識を強制的に覚醒させた。

 

「んっ……ん? んん?」

 

 耶倶矢の寝惚け眼が、ベッドシーン真っ最中の士道と夕弦を捉えて、一気に見開かれる。

 中二病の仮面を付ける余裕など無く、素の口調で捲し立てた。

 

「こ、これはどういうことよ!? 夕弦! 私が寝ていることをいいことに勝手に抜け駆けしようとしたわね!」

「反論。これは事故です。士道も夕弦も寝惚けていて、偶然この体勢になってしまっただけです」

「そんな見え透いた嘘を信じるわけないでしょ! あんた、最近やることが容赦無さすぎるわよ! 一体誰に影響を受けてんのよ!」

 

 それはたぶんマスターこと、鳶一折紙ではないだろうか。たまに電話する姿を見ることがある。変な知識を植え付けるのは勘弁してもらいたいが、彼女ほど遠慮や自重が似合わない人間は見たことがない。

 

「苦笑。お子様耶倶矢には真似できないからといって、非難されるいわれはないです」

「ふ、ふんっ、士道の眠りを邪魔してるだけじゃない!」

 

 夕弦は両胸を左右から手で押して、間に挟んだ士道の腕を呑み込んだ。

 

「溜息。邪魔でしょうがないです」

「ふ、ふざけんじゃないわよぉぉぉぉぉぉっ!」

 

 遂にブチ切れた耶倶矢が夕弦から力尽くで士道を引き剥がした。士道のベッドをリングに、二人は揉みくちゃになりながら相手をベッドから突き落とそうとしていた。

 騒がしい朝。理性に優しくない刺激的な誘惑が襲い掛かってきて、静かな目覚めすら迎えられない。しかし否定する権利もするつもりも無かった。これは現実を超越した、妄想で固めた真実の先に辿り着いた世界なのだから。

 

「ふっ、これが日常か」

 

 喧嘩をしているのかイチャついているのか、どちらか分からない八舞姉妹を眺めて頬を緩める。

 ――士道は今、幸せだった。

 

 

    *

 

 

 五河家上空一万五千メートル。

 空中艦<フラクシナス>艦橋にて、五河琴里は足を組んだ膝の上で頬杖を突いて、思案顔になっていた。

 念の為に女慣れさせる訓練だったが、結果は予想外の形となった。

 食事に無味無臭の睡眠薬を仕込んで士道の眠りを深いものにして、八舞姉妹をけしかけたのは、士道の予想通り<ラタトスク>だった。彼はそうでもしないと、部屋に誰かが入っただけで目覚める驚異的な感覚を持っている。長年の機関対策の賜物なのだが、本当に無駄ハイスペックである。

 

「ねえ士道って不能じゃないよね? 正直、私との添い寝に無反応なのは分かるのよ。でも……あの二人に挟まれても無反応って異常だと思うんだけど」

「私でよければ司令の添いネゲバブっ!」

 

 何か碌でもないこと口にしようとした副司令の神無月恭平を肘打ちで沈めて、琴里は口の中でチュッパチャップスを転がした。

 理性の勝利だというのに酷い言い草ではあるが、手を出したところで誰も責めることはないので(修羅場の形成については別問題として)、普通だったら美味しく頂く。まさか兄は特殊な性癖を持っているのだろうか。

 

「彼が今だけでなく未来まで考えて、理性で雁字搦めにしているのは、琴里が一番理解していると思うのだが」

 

 解析官の村雨令音は八舞姉妹の状態をチェックしながら言った。

 

「……そうね。中二病のヘタレでハーレム構築中って、一体どこまで自分のハードル上げるつもりよ」

「少し下げてみてはどうかな……?」

「どういう意味?」

 

 令音は肩を竦めた。

 琴里にならハーレム要員を一人減らせることもできるだろう、と言いたいのだろう。なんとも反応し難い。というより返答してしまえば士道への兄妹を超えた好意を認めるようなものではないか。

 

「そろそろ朝食のようだ。琴里は行かないのかね?」

「分かったわよ、まったく……令音には勝てないわね」

 

 琴里はクルーに今後の指示を簡単に出して、ついでに倒れたままの神無月を踏み付けてから、転移装置を使って五河家へと戻った。

 

 

    *

 

 

 朝のニュースを確認することで、士道は念入りに機関の動きを予測する。現在の情報社会では、世界の裏側で蠢く陰謀を完全に隠すのは容易ではない。

 ネットを使って調べてみたところ、<ベルセルク>を捉えた画像や動画が見付かった。流石の機関とはいえ、広大なネット空間を完全に掌握するのは不可能らしい。

 つまり、どこかに機関の尻尾を掴む情報が隠されている可能性は大いに有り得る。

 今朝のニュースは空間震について伝えていた。

 

「…………」

 

 その一回ごとに精霊がこの世界に現界し、甚大な被害をもたらしている。そしてASTの襲撃を受けているのだ。

 

「どうしたのだ、士道? 我の顔を見詰めて……くっ!? まさか遂に心すらも見通す魔眼を身に付けたというのか! 貴様が食後に血肉と変えるつもりだった、大いなる白の口溶け(ヨーグルト)を狙っていることに気付くとは」

 

 耶倶矢は何か勘違いをして慌て出す。

 

「戦慄。まさか夕弦を見詰めるのは、マスターから譲り受けた秘薬を士道のお弁当にだけ仕込んだのがバレたということですか」

 

 よく分からないが、夕弦は恐ろしい企みを白状してくれた。学校で一体何をさせるつもりだったのか。きっとよく分からずにやったのだとは思うが自重と常識を覚えてもらいたい。

 

「士道、どうしたの?」

「いや、なんでもない」

 

 普通の反応を返したのは黒リボン琴里だけだった。

 鏡を見れば、そこに非常識の塊が映るのは間違いないが、それに関しては棚上げさせてもらう。

 

「今日は妙に空間震について長く話してるな」

 

 士道はまたニュースに意識を傾けると、画面には防衛大臣を名乗る男が小難しい話を、更に婉曲させて語っていた。政治家の悪い癖だが、本音だけのやり取りに人間は耐えられても、社会が許容しない。

 それに士道は嘘や誤解を招く表現を否定するつもりはない。寧ろそれが彼の得意とする武器でもあるからだ。

 

 絶望から解放させることができるのならどんな手段も厭わない。

 救われない現実だったら、笑顔になれる真実を構築する。

 それが、五河士道の戦いだ。

 

 

    *

 

 

 八舞姉妹は<ラタトスク>の取り計らいによって、士道と同じクラスに配属された。転校初日は折紙を交えて熾烈な席争奪戦を繰り広げられたが、士道を囲むトライアングルを完成させることで、一先ずの平穏が訪れた。士道の心の平穏に関しては考慮されていないのはお約束である。

 

 教室に入った士道と八舞姉妹はそれぞれの席に着く。

 士道を中心にして右隣には夕弦が、左隣には折紙、そして真後ろに耶倶矢である。非情なる勝負の末に決められた席順は、勝者と敗者の立ち位置を明確にしていた。

 

「くっ、あの日は、月が欠けていた……満月であれば、我も万全の態勢で臨めたというのに」

「指摘。太陽神の力を奪い取ることで万全、と言っていたのは嘘ですか」

「嘘じゃないし! 相性が悪くて全力で出せなかっただけだし! またやったら私が勝てるんだからね!」

 

 静かに読書をしていた折紙が顔を上げた。

 

「戦場にやり直しは存在しない」

「同意。マスターの言う通りです」

 

 二対一になり、耶倶矢は不利を悟った。流石に学生の身でありながらASTに所属する精鋭ということもあり、折紙はあらゆる面で優れた能力を発揮する。あの購買部ですら常勝を続ける猛者なのだから、未だに苦戦を強いられる耶倶矢には認め難いが格上であるのは確かだった。

 士道に加勢を求めようと探したが、類稀なる危機感知で既に教室から姿を消していた。

 

「くっ……我はこのままでは終わらぬぞ。夢々忘れるな、深淵の闇(クリフォト)に眠りし我が眷属が目を覚ませば、貴様らに敗北するなどありえない。いや、勝負にすらならず、ただの蹂躙劇となることだろう」

 

 耶倶矢は胸を張って魔王的なくぐもった笑い声を漏らした。

 二人にはただの負け惜しみだと分かった。折紙は「そう」とだけ返して読書に戻り、夕弦は餌をぶらさげられては我慢できず、涙目の耶倶矢をひたすら弄んだ。

 すっかり日常風景に溶け込んだ三人のやり取りに、クラスメイトも特にリアクションを示さない。ただ士道に対する嫉妬と殺意をより深めるだけのことである。

 

 都立来禅高校二年四組――精霊と精霊嫌いが共存する不可思議な空間。五河士道が作り出した虚構の平和がそこにはあった。

 

 

    *

 

 

 士道は屋上で背中を防護柵に預けて、青空を見上げていた。昼休みに入り、今頃は購買部では激闘が繰り広げられていることだろう。蒙昧たる弁当派(ランチパッカー)に堕ちた士道には関係無いことだが、ズキリと胸が痛んだ。

 

「顔色が悪いぞ、やはり闇に生きる咎人として、灼熱の刻()に近付く太陽神の猛射は厳しいのではないか?」

「提案。日陰で休んだ方がいいのでは」

 

 胸を押さえた士道に耶倶矢と夕弦が心配する。

 

「案ずるな、これも訓練の内だ。敵は戦場を選ばせてくれるほど生温い存在ではない」

「そうさな、克服せねばなるまいか。だが、無理はするでないぞ」

「念押。無理は禁物です」

「限界は把握している。心配を掛けて悪いな」

 

 士道が微笑みかけると、安心したのか二人はレジャーシートに座って昼食を再開した。

 誤魔化せたことに安堵の溜息を落とす。

 購買部四天王の一人として幾つもの戦場で勝利を収めてきた。パン一つに命を懸けてきたと言っても過言ではない。

 

「だが、俺は……あの地にはやはり戻れない」

 

 士道はポケットに仕舞った財布を、制服越しに撫でた。余りにも薄い。驚くべきぐらいに軽い。揺らしてみても残酷なまでの無音。

 

「…………」

 

 美味しそうにサンドイッチを頬張る八舞姉妹を眺めた。それは微笑ましい光景だ。いつまで見ていても飽きることはないだろう。しかし、その幸せはただではない。ただではないのだ。

 

「幸せへの投資を惜しむのは、悲しいことだ」

 

 それでも限度はある。二人分の食費が増えて、士道のお財布はもう風と親友同士で手を繋いでランランルーだ。全財産はハンバーガー四個分ぐらいかな。

 <ラタトスク>からの資金提供を受けなければ餓死してしまう。<ラタトスク>の上層部が渋っているようなので、<フラクシナス>のクルーによる慈悲で士道の家計は成り立っていた。

 

 <ラタトスク>の上層部――円卓会議では、何かごたごたしているらしい。色々と事情はあるのかもしれないが、精霊の幸せを願っているのなら、気前良く食費ぐらい出してもらいたい。

 八舞姉妹の服や、学業に必要な道具を揃えて、後は強請られるがままに色々な場所に連れて行ったのが主な金欠の原因ではある。しかし彼女たちの心を平穏に保つためなら金なんて惜しむ価値はない。

 まるで士道に嫌がらせをするような、あるいは餌で釣ろうとするような――ただの勘ではあるが、機関の影がちらついてしょうがない。

 

「今は<プリンセス>……いや――」

 

 士道が与えた名前を喜んでくれた精霊を思う。彼女を絶望から引っ張りあげて、この世界にもたくさんの優しさがあることを知ってもらいたい。こんな重要な時に問題を増やされるのは御免だ。

 

「現実はくだらないけど、この世界はまだ捨てたものじゃない。だから、もう一度……俺はお前に逢いたい」

 

 士道はまた空を仰ぎ見た。雲一つ無いどこまでも続く青色だ。

 そういえば、と思い出す。

 

 ――彼女と出逢った時も、今のように抜けるような青空だった。




 時系列に混乱があると思うので補足を少々。
 以下の順番になっております。

最終章 中二病のいる風景
序章 宣言
(番外編 騒乱マイホーム)
(番外編 言語ブレイク)
1.手に入れた日常

 そして、次の2話から序章部分の回想に入りますので、また時系列が前後します。


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2.俺の名は

 士道が屋上で思い返した記憶――それは数日前の出来事だった。

 

 

    *

 

 

 青々とした空を風に乗って滑空する。翼はなくとも、羽ばたく力はある。

 空中艦<フラクシナス>のハッチから飛び降りた士道は、<プリンセス>のもとを目指して格好付けながら落ちていった。

 

『このまま直進すれば、空間震の発生地点に辿り着けるわ。まだ<プリンセス>に動きはない……でも、そのまま空から行けば、刺激すると思うから、手前で着地してちょうだい』

「了解だ」

 

 士道は琴里からの指示に頷く。

 前方に空間ごと抉り取られたクレーターを発見した。周囲には瓦礫の山を積み上げて、否が応でも精霊現界の危険性を思い知らされる。

 

 だが、士道は知ったのだ。

 精霊すべてが悪意を持っている訳ではない。ましてや人間を害するために、破壊を伴った出現をしているのではない。人類が余りにも未知の脅威に臆病だからこそ、今日まで精霊への理解は深められなかった。

 

 風に運ばれて、士道の身体はぐんぐんと目標に近付いていく。

 遂にクレーターの中心に、荒れ果てた街並みには場違いな少女の姿を見付けた。モニター越しに確認した<プリンセス>で間違いない。

 

『まだASTは天宮駐屯地から出撃していないようね。士道、そのまま交渉に入っても問題ないわ。できるなら会話で建物内に誘導してみて』

「なるほど、高速機動と射撃主体のASTには、屋内戦闘は鬼門というわけか」

『……無駄に早い理解で助かるわ』

 

 琴里の後ろから、八舞姉妹の誇らしげな声が聞こえてきた。二人は対精霊特別アドバイザーとして艦橋への立ち入りを許可されていた。

 

『機関との戦いを凌いできたのだ、この程度の推測は当然であろう。もちろん士道が優れた資質を持っているからこそではあるがな』

『称賛。流石は士道です』

『今は作戦行動中よ、私語は謹んでちょうだい』

 

 平坦になった琴里の声音に、八舞姉妹が黙り込む。改めて今が大事な時だと思い出した。

 同胞である<プリンセス>を救えるかどうかの瀬戸際に立たされている。令音がスクリーンに表示した各種パラメーターは最低値に近い。彼女の絶望は余りにも深かった。

 

 ――けたたましいアラート音が鳴り響く。

 

 士道は耳に取り付けたインカムの音声出力を下げた。

 

「この音は……?」

『士道! 今すぐに退避! もう捕捉されているわ!』

 

 空と地上を隔てて士道と<プリンセス>の目が合った。地上に縛り付けられた人間と自由に空を駆ける精霊――その立場を変えて、二人のファーストコンタクトは始まった。

 

『機嫌パラメーター、尚も急速に低下中!』

 

 イヤホン越しに艦橋のやり取りが聞こえてきた。

 

『どういうこと? まさか、士道の顔は見るだけで嫌悪感を引き起こすっていうのかしら』

「色々と言いたいことはあるが、それは間違っている」

 

 士道は<プリンセス>が虚空から光を呼び起こし、手の平の上で光球を形作るのが見えて、背筋に寒気を覚えた。本能が危険信号を発している。

 

「俺は空から現れた。つまり、ASTと誤解されたということだ……ッ!」

 

 無造作に放たれた光球を絶妙な風力操作で回避する。空中を数回転して、天地が幾度も逆転した。<吹けば飛ぶ(エアリアル)>から基礎を学び、独自の改良を加えた奥義・天空転落(エアロ・ダイヴ)だ。

 

「舐めるなよ、無駄に修羅場を潜ってきてはいない!」」

 

 大枚を叩いてまでオーシャンパークに通い詰めて、絶叫マシンで鍛え抜いた三半規管と精神力は伊達ではない。金欠の日も、近所の公園で日が暮れるまでブランコに君臨し続けた。いつしか近隣住民から畏怖を込めて<揺れる冷笑(ステイクール)>と呼ばれるまでに至ったのだ。

 

 今度は続け様に二発の光球が放たれた。

 

「甘いな、弾道が透けて見えるぞ」

 

 光球を掻い潜り<プリンセス>に急速接近。

 <プリンセス>の両手の指先に、全部で十の光球が出現する。

 

「それは……不味いなっ」

 

 まるで機関銃のように、隙間無く士道に襲い掛かった。

 

 

    *

 

 

「撃ち落としたか……いつも群れているメカメカ団にしては、単独行動とは珍しい」

 

 <プリンセス>は周囲の警戒を終えると踵を地面に突き立てた。

 突如、巨大な剣を収めた玉座がせり上がるように出現した。泰然と腰掛けて、肘掛けに突いた腕で頭を支えると、物憂げに世界を見渡した。

 

 世界は相変わらず破壊と静寂に満ちている。

 

 自分とメカメカ団だけが存在するこの殺伐とした世界に、どれほどの価値があるのか。そして、その希薄な世界にすら拒絶される己に、果たして存在意義などあるのだろうか。

 領地を持たぬ孤独の玉座。そこに座るのは民を持たぬ裸の女王だ。

 

「――私は一体なんだ?」

 

 何度目の問い掛けだろう。己の中に答えなどある筈もなく、誰かが代わりに答えを教えてくれることも――

 

「――お前はお前だ」

 

 つい先程、光球を操って撃墜した筈の男が姿を現した。服には穴が開いてところどころ擦り切れている。しかし身体は無傷だった。

 

「……しぶといな」

 

 <プリンセス>は玉座から剣を引き抜いて、怠惰な仕草で地面に突き立てた。

 

「態々殺されに来るとは、奇矯な奴だ」

「殺される? ほう、この俺を殺し尽くすと……玉座にふんぞり返る割には小粋な冗談を口にする」

 

 挑発に眉をひそめる。特に無駄なポージングが気になった。果たして、言葉を区切るたびに左右の手を構え直すことにどんな意味があるのだろうか。

 興味が湧かなかったと言えば嘘になる。

 もしも、危険だと判断できれば殺せばいい。それだけの力は持っている。

 

「試してみるか?」

「試さねば分からぬとは、実力が知れているな。それに問答無用で殺しに来ないところを見るに、お前はまだ対話の可能性を信じているということだろう」

「……暇潰しだ。殺せばそれで終わる。だが、沈黙は退屈だ。おまえは差し詰め、王の退屈凌ぎを仰せつかった道化に過ぎない」

「だったら、お前も道化になったらどうだ? その方が楽しいぞ」

「何を言っている?」

「それが知りたかったら、俺と話をしよう」

 

 謎の男が手を差し出してきた。

 <プリンセス>は立ち上がり、男の手を取ると、そのまま組み伏せた。地面に腹這いで叩き付けて、背中を踏み付ける。目元まで掛かった長い前髪を掴み上げた。

 

「――名乗れ、おまえは何者だ? どうして私の前に現れた?」

「……っ! 随分と手荒いな」

「おまえに選択肢は無い。さっさと質問に答えろ」

 

 

    *

 

 

「残念ながら、選択肢は存在するのよね」

 

 <フラクシナス>艦橋で琴里は不敵に笑った。一先ずは交渉のテーブルに付くことはできた。叩き付けられているが、たったの二文字違いだ問題無い。

 

「士道、少し待ちなさい」

 

 スクリーンに三つの選択肢が表示されていた。精霊の精神状態が不安定になった時のために、<フラクシナス>のAIが顕現装置(リアライザ)によって収集したあらゆる情報から瞬時に弾き出した対応パターンである。

 

 正念場だ。ここで間違えば士道は更なる危機に陥る。しかし、正答を導くことができれば<プリンセス>の心に歩み寄ることができる。

 

「総員! これだと思うものを選びなさい、五秒以内!」

 

 

①「そんなことよりも、俺をもっと強く踏み付けてくれ!」

②「ふっ、お前が呼んだ名が俺の名だ」

③「見ろよ、朝日があんなにも眩しい。まるで俺とお前の出逢いを祝福しているようではないか」

 

 

 どうして素直に名乗るという選択肢がないのか。

 いや、最新鋭のAIだ。人間如きがその思考を読めれば、そもそも頼る必要がない。

 クルーの選択結果が、琴里の手元にあるディスプレイに表示された。

 

「②と③が半分ずつで……①が一票。一応だけど、神無月、理由を聞かせてくれる?」

「寧ろ私にはそれ以外の選択肢が見えませんでした」

「そう、ちょっとこっちに来なさい」

 

 近付いてきた神無月の腰を折らせると、その目に向けて食べ終えたチュッパチャプスの棒を口から吹き出した。

 

「ふぁォうッ!」

 

 奇声を上げて倒れ込んだ副司令のもとへ、誰も駆け寄る者は居なかった。ある意味では信頼のなせる技である。

 

「さて、それじゃあ……正直、どうなるかは未知数だけど――」

 

 

    *

 

 

『見ろよ、朝日があんなにも眩しい。まるで俺とお前の出逢いを祝福しているようではないか』

 

 士道は這い蹲りながら琴里からの指示を受けて、どのタイミングで切り出すべきか悩んでいた。いや、そもそもこの台詞でどう会話が繋がるのか推測できない。

 <ラタトスク>の総意ならば悪いことにはならないと思うが――

 言われた通りに台詞を口にすると、首元に剣を突き付けられた。

 

「くだらん言葉にはよく回る口だな」

 

 明らかな苛立ちが、声を聞くだけで伝わってきた。

 

『やっぱりだめだったわね』

「……分かっていてやらせたのか!?」

「何を言っている?」

「こっちの話だ!」

「……死ぬか?」

 

 剣が首元に宛てがわれた。少し上下に動かすだけで、愉快な血祭りの始まりだ。果たしてデュラハン状態になっても生き残れるのか、不安は拭えない。機関との戦いで幾度も死に瀕したが、胴体とお別れするような怪我を負ったことはなかった。

 

『ちょっと待って、また選択肢が出たわ』

「……一度、すべて読み上げてくれ」

 

 

①「僕は死にましぇん! あなたが好きだから」

②「ふはははっ! 死ぬのはお前だ!」

③「死は終わりではない始まりだ。流転輪廻の果てに、俺はお前と再び出逢うだろう」

 

 

 士道は悩んだ。この三つの中に答えがあるだと?

 これは機関の陰謀に違いない。<フラクシナス>のAIを乗っ取って、俺を傀儡にしようとしているのだ。やはり恐ろしい。あの手この手で攻めてくる奴らから身を守るためには、単純な強さだけでは足りない。

 

「どうした? 得意の口も回らなくなったか?」

 

 <プリンセス>の声は、もはやツンドラ気候並みに冷え冷えとしている。萌え属性的にツンツンドライって、それはただの拷問ではなかろうか。

 士道は悩んだ。どう対応すれば<プリンセス>だけでなく、<ラタトスク>も敵に回さずに済むのか(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 組織の鎖が行動を縛り付ける。無限に広がる未来を制限する。

 世界は、こんなにも狭かっただろうか?

 更に力を加えられた踏み付けに表情が歪む。エビ反りになった胴体がみしみしと悲鳴を上げた。このままでは逆パカされてしまう。

 

『もし我らに遠慮しているのならば、それは無用だぞ』

『請願。士道のやりたいようにやってください』

 

 苦渋の表情で選択肢の集計結果が出るのを待っていると、温かい声が耳元で聞こえた。インカムの向こう側で八舞姉妹が微笑む姿が、脳裏に浮かび上がった。

 

『我ら颶風の御子を救ったのは、<ラタトスク>の者達ではない。機械が合理的に弾き出した言葉でもない』

『同意。夕弦と耶倶矢を救ったのは、士道です。夕弦たちの心を動かしたのは士道の言葉です』

 

 <ラタトスク>、精霊、AST――世界の裏側で実際に繰り広げられていた戦争に、士道は知らぬ間に踏み込んでいた。戦場は今でも怖い。でも、あの日の綱渡りが続いた死闘に比べれればどうということはない。

 

「ああ……二人に隠し事はできないか」

 

 大切なものが増えた。守ることを覚えた人間はいつしか戦うことを忘れていく。手に入れるのは難しいのに、奪われるのは簡単だから。

 そして、問題は組織に組み込まれたことだ。

 <ラタトスク>ほどの秘密組織がただの慈善集団である筈がない。幾つもの思惑が蠢いていることだろう。士道や八舞姉妹はもはや自由ではない。彼らに命を握られたような状態だ。

 

「本当にいいんだな?」

 

 士道は自分の死には鈍感だが、それが他者に適用されることはない。もしも士道が<ラタトスク>の命令を尽く無視すれば、きっと強硬手段を取られるだろう。例え八舞姉妹を利用してでも、力尽くで従えようとする筈だ。

 

『うん、やっちゃいなさい』

『呼応。やっちゃってください』

 

 二人の覚悟に悩みは吹き飛んだ。

 胸が熱くなる。急速に思考が回り出した。

 

「ああ、二人の命は預かった。これより先は遠慮を捨てた――俺の世界だ」

 

 未来に怯えている余裕はない。今を生き抜くので精一杯だ。

 <ラタトスク>が敵に回るのならば――相手をしてやる。俺を、俺たちを舐めるな。俺と夕弦と耶倶矢が居れば世界が相手でも笑って戦える。

 

 士道が伝えたい言葉はもっと別にあった。

 示された三つの未来よりも、その先へ。理想の世界を迎えるために、士道は己を信じて、信じ切って、信じ込んで――貫き通す。

 

「――いいだろう、俺の名前を教えてやる」

 

 首元の剣を、心臓を射貫く視線を、背骨を砕く足を――すべての重圧を押し退けて、士道は無理矢理に立ち上がる。

 

『士道、待ちなさい! こちらの指示通りに――』

 

 琴里には悪いが、煩わしいインカムは投げ捨てさせてもらう。

 

「借り物の言葉は不要だ」

 

 先程までとは比べ物にならないプレッシャーを放つ士道に、<プリンセス>は間合いを取った。

 

「おまえ……本当にさっきまでのおまえか?」

 

 士道は前髪を優雅に払う。隠されていた右目が露わになった。

 

「その目……!?」

 

 更に<プリンセス>は後退る。

 真紅に燃える瞳が<プリンセス>のすべてを見通す。あらゆる嘘偽りを滅ぼし、真実のみを曝け出す魔眼。世界に数人しか使い手の居ない『真実を射貫く魔眼(トゥルー・アンサラー)』が発動した。

 もちろんただのカラコンである。重要なのは気分だ。

 

「俺は――」

 

 勢い任せでいつものように<業炎の咎人(アポルトロシス)>と名乗ろうとして口ごもった。

 彼女(・・)はあの日、士道と八舞姉妹の平穏のために表舞台から立ち去ったのだ。折角の眠りを妨げてしまうのは悪い。

 だから、敢えてこう名乗ろうじゃないか。

 

「――俺の名は五河士道。精霊と人類の架け橋となる者だ」

 




 本編中の三つの選択肢は、一応は正解があります。
 といっても、原作でも士道くんが琴里の制止を押し切って口にした言葉の方が、十香の心に届いたように、よりよい選択肢は無限に存在するものです。


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3.君の名は

 <プリンセス>は動揺をすぐに押し隠した。変化の乏しい世界に、突如として出現した奇妙な人間は、こちらの予想を尽く覆していく。まるで運命すらも嘲笑うようで――停滞していた時間が、再び流れるのを感じた。

 だが、その程度の変化で<プリンセス>の絶望は取り払えない。

 動揺は嫌悪に置き換えられ、すぐさま殺意へと転じた。

 

「馬鹿なことを訊いたな……これから死ぬ人間の情報など、なんの価値もない。動くな、そうすれば、楽に殺してやる」

 

 謎の男は振り上げられる刃を見上げて、再び理解を超えた行動に出た。彼女はその名称を知らないが、それは真剣白刃取りの構えだった。

 <プリンセス>は警戒心の訴えに従って、刃を下段に構え直した。

 

「お前はお約束を……破るのか?」

 

 酷く狼狽した顔をされたが意味不明だ。

 

「おまえは私の混乱を誘おうとしているのか? だとしたら無駄だ。既に私の間合いの内に居る。少しでも敵対的行動に出れば切り捨てる」

「今すぐに切られることが無くなったのだな」

「おまえは危険だ。だが、私の警戒心がおまえを生き長らえさせているのを忘れるな」

 

 膠着状態に歯軋りする。

 なんなんだこいつは? そもそも何が目的だ? どうして私の前に現れた? メカメカ団の新たな作戦なのか? というかさっきからなんで微妙にリズムを刻んでいるんだ?

 頭の中を疑問がぐるぐると回る。

 

 考えて、考えて、諦めて――そして結論は出た。

 

 殺してしまえばいい。例えどんな罠があろうと食い破る自信はある。油断や傲慢だと罵られても大いに結構。どうでもいい相手からの言葉など心に響きはしない。

 <プリンセス>は無造作に大剣を振るい、謎の男を切り飛ばした。苦痛の声と共に無様に吹っ飛んでいく。噴出した鮮血が空を一瞬だけ赤く染め上げた。

 

「これで終わったな」

 

 玉座のもとへ戻ろうとして、背後で物音が聞こえた。

 

「不意打ちとはやってくれる」

 

 傷口から炎を吹き上げて、謎の男が再び立ち上がった。

 

「俺は既に死を克服した存在だ。その程度の斬撃、微風と変わりない」

 

 <プリンセス>は目を細める。見たことの無い能力だ。メカメカ団は丈夫だが、あのように瞬時の再生能力は持っていなかった。敵の進化なのか、それとも目の前の男が秘めた特別な力なのか。

 もしも、メカメカ団全員があの能力を手に入れれば面倒だ。少し探りを入れるべきかもしれない。生き残るために情報は重要だ。

 

「おまえのその力、それはメカメカ団が得た新たな力か?」

「メカメカ団……?」

「とぼけるつもりか。空から現れて、私に攻撃を仕掛ける鬱陶しい連中のことだ。お前もその一員なのだろう?」

「なるほど、機関のASTか。いいや、俺は奴らとは敵対……というより、中立の立場にある」

 

 中立とはどういう意味だろうか。いや、名乗りの時に人類と精霊の架け橋になると言っていた。

 メカメカ団は戦う度に、憎しみをぶつけてきた。

 

「死んでしまえ」「お前は害悪だ」「精霊はこの世界から消えろ」

 

 精霊とはつまり――私のことなのだろう。

 ますます分からなくなる。殺し合う者同士を和解させて、果たして目の前の男にどんなメリットがあるのだろうか。

 

「少しは話をする気になってくれたか?」

「…………」

 

 やはり信用ならない。

 何を持ち掛けるつもりだこの男は……?

 だが、殺してしまえばそれも見極められない。

 

「いいだろう、話は聞いてやる」

「なら付いて来い。機関の邪魔を受けたくない」

 

 謎の男は近くの荒れ果てたビルに向かって歩いて行った。屋内に誘い込んで袋叩きにするつもりなのかもしれない。

 <プリンセス>は念入りに敵の気配を探る。結果は、拍子抜けするぐらいの静寂だった。鼠一匹すら存在しない。

 

 

 ――そして、少年と少女は荒れ果てたビルの中で対峙した。

 

 

「それで、おまえは一体何を企んでいるのだ?」

 

 <プリンセス>は猜疑に満ちた視線と共に巨大な剣を突き出した。

 謎の男は反応を見せない。まったくの無反応だった。

 ただ真っ直ぐに見詰めてくる。その視線に心がざわついた。

 心の奥底から響く悲鳴に耳を塞ぐ。ありえない。信じられない。今更、負の感情以外の温かい想いを届けてくれる者が現れるなんて。

 

「やはり……おまえも私を殺しに来たんだろう?」

 

 謎の男の表情が始めて動いた。眉を寄せて、怒りと悲しみに唇を噛み締めている。

 なんなんだその反応は? 私に同情しているのか?

 そんな感情、そんな感情は――寧ろ憎らしい! この世界に優しさが存在するのならば、どうして今まで孤独を強いられてきたのだ!

 

 <プリンセス>は耐え忍んだ日々を嘲笑われているように感じた。

 謎の男は言葉を発しない。

 そうか、これは時間稼ぎに違いない。意味深な言葉や沈黙は、すべて仲間の到着を待つためだ。袋小路に追い詰めて、一斉攻撃を仕掛けるつもりだろう。

 そうと分かれば、もうこの男との会話は無意味だ。

 

「黙っていては分からん。いや、おまえの返答など求める意味が無かったな。今すぐに私が殺してやる」

 

 <プリンセス>は自分の声が震えていることに気付いた。刃にも迷いが見える。

 

 ――ここまで絶望しておきながら、まだ希望に縋るのか?

 

 そんなものは、切り捨てろ。この世界に救いなんてありはしない。目の前の男だって、隙を見せればすぐに正体を露わにして襲い掛かってくるぞ。

 再び切り捨てる覚悟を決めた時、男は口を開いた。

 

「――俺はただお前に会いに来ただけだ」

 

 <プリンセス>は凍り付いた。謎の男が真っ直ぐに向けてくる意志に、圧倒されてしまった。

 しかし、それも一瞬のことだった。

 

「信じられんな」

 

 本当に信じられないのは、世界でも、目の前の男でもない――自分自身だ。

 孤独と絶望に塗れた瞳で、外に広がる蒼空を見上げた。

 ずっと対話を、救いを、温かい感情を待っていたのに、それを素直に受け取ることすらできない歪んだ心を憐れんだ。

 

「この世界に受け入れられることなどとっくに諦めてしまったよ」

 

 暗く淀んだ声。期待を抱くことすら許されなかった憐れな少女は、悲痛に歪めた表情の奥で、静かな慟哭を上げた。

 謎の男が構えられた剣など気にせず、一歩前に足を進めてきた。首筋の薄皮が裂かれて、真紅の血が剣身を伝って流れ落ちる。

 

「一ついいだろうか。俺を殺すのは、お前が俺を殺したいからか? それとも自分の身を守るために仕方なくか?」

「どちらにしろ結果は同じだ。くだらん言葉遊びが何になる」

「違うな。断じて同じではない」

「何が違うと言える」

 

 詭弁や同情なんて必要ない。

 これ以上、くだらない言葉を並び立てないでくれ。

 ただ苛立ちが増すだけだ。

 

「――お前の心が傷付く」

 

 <プリンセス>の心に楔が打ち込まれた。

 

「なんだと……?」

 

 謎の男は首筋に当てられた刃を手の平で押し退ける。それに抵抗する力は既に存在しなかった。

 動揺を隠せない<プリンセス>に止めを刺すように、謎の男が宣言した。

 

「だから俺はお前に殺されたりなんてしてやらない。そしてお前にこれ以上、誰かを殺させてたまるものか!」

 

 

    *

 

 

「祝福。お帰りなさい」

「くくっ、ようやく帰ってきたか、士道。我も夕弦も<プリンセス>も……皆、待ち侘びておったぞ」

 

 あの日、現実を打ち砕いた五河士道が戻ってきた。

 あれからまだ一週間しか経っていないが、士道はずっとらしくなかった。頭の中で展開される陰謀論に取り憑かれて、大事なことを見失っていたのだ。

 スクリーンに映された士道と<プリンセス>のやり取りに、八舞姉妹は満足そうに頷いた。

 

「<プリンセス>の各種パラメータの減少が止まり、寧ろ僅かに上昇しているようだ」

 

 令音の報告に、琴里は肩を竦めた。

 

「……結果論だけど、流石は士道ってことね」

 

 単独で<ベルセルク>を攻略した功績はただの偶然ではなかった。

 

「でも、折角の<ラタトスク>がまた蚊帳の外じゃ面白くないわね。士道に対するサポートの方法を新しく模索した方がいいかしら」

「――司令! ASTが出現、ビルを包囲しています!」

 

 琴里はチュッパチャプスを口から出して、棒先をスクリーンに向けた。

 

「士道には精霊に集中してもらうわ。<フラクシナス>をビル上空に移動。いつでも転移装置で回収する準備を整えなさい!」

 

 士道に理解させてやる。<ラタトスク>は足手まといでも、無能でもない。勝手に独りで戦わせるものか。

 

 ――もう二度と、独りで傷付くおにーちゃんなんて見たくない。

 

 琴里の決意を感じ取ったクルーが一斉に頷いた。

 

「さあ、今度こそ私たちの戦争(デート)を始めましょう!」

 

 

    *

 

 

 心を覆い尽くしていた暗闇を、真実の刃で振り払う。孤独に震えるただの少女の顔(・・・・・・・)が一瞬だけ垣間見えた。

 士道はようやく得た手応えに拳をきつく握り締める。

 

「空気がざわついている……奴らか」

「外の奴は放っておけ。それよりも話をしよう」

 

 <プリンセス>が振り返ろうとしたのを、手を差し出すことで制止する。

 

「…………」

 

 目まぐるしい逡巡が<プリンセス>を苛んでいた。救済を肯定するならば、今までの苦難はなんだったのか。なんのために孤独に耐えていたというのだ。

 士道には<プリンセス>の迷いが理解できた。どうして世界から拒絶された人間が、今更になって受け入れられ始めたのだろう。最初から幸福に満ちた人生を送らせてくれてもいいではないか。

 

 ――でも、今ならば分かる。あらゆる苦難は無駄ではなかった。

 

 孤独があるから愛情を欲する。

 弱さがあるから強さを求める。

 そして、士道が拒絶に抗うために得た力は、絶望に染まった者を救うためにある。

 

「お願いだ。手遅れにさせないでくれ」

「何を、言っている?」

「俺は認めたくないんだ。絶望が絶望で終わるなんて……そんな、現実はあっちゃいけない。世界がお前を否定するなら、俺がそれ以上にお前を肯定する。だから――お願いだ、俺にお前を救わせてくれ!」

 

 恥も外聞も投げ捨てて、ただの我侭を押し付ける。

 <プリンセス>が俯いた。前髪の間から覗く瞳が微かに揺れたのが分かった。

 沈黙が場を支配する。

 士道の額から汗が吹き出して、頬を伝って顎先から落ちていった。

 こちらから手を伸ばしただけでは届かない。相手からも手を伸ばしてようやく繋がれる。

 

 士道は視線の先、窓の外に銃を構えるASTの姿を発見した。

 

「……まさか、撃つ気か!?」

 

 慌てて駆け出そうとして、<プリンセス>の手の平がそれを制止した。

 

「無駄だ」

 

 不可視の障壁が弾丸を防ぐ。霊装は絶対の盾と呼ばれる英名を以って、人類最新鋭の兵器を凌駕した。

 

「学習しない連中だな」

 

 <プリンセス>は外の敵を無視して、士道の横を通り抜けていく。

 そして、交渉失敗を告げるように足音は遠ざかっていった。

 

 

    *

 

 

 折紙は射撃を行った隊員のバックアップに付いていた。そこで、ビル内に<プリンセス>以外の人影を見付けた。

 

「……士道」

 

 どうやって接触を図ったのかは分からないが、やはり彼はやってきた。精霊を平和的な手段を用いて無力化できる<王の簒奪(スキル・ドレイン)>ならば、ASTの顔は潰れるが、上のことなど折紙にとってはどうでも良かった。

 

 できるのならば、この手で精霊を葬り去りたいが、現実的には不可能に近い。覚悟や意志の強さで殺せるほど精霊は弱くはないのだ。

 だから、士道に頼ることに異論はなかった。

 精霊をこの世から消して、自分と同じように理不尽で圧倒的な力の前に悲しみを背負う人間が減るのならば、それでいい。

 

 もう鳶一折紙にとっての戦いは終わったのだから。

 随分と回り道をしたけれど、そろそろ元の人生に戻る時が来たのだ。

 

「隊長、<プリンセス>はこの位置からでは、目視で確認できない」

『了解したわ、今回は随分と大人しいけど……何を企んでいるのやら』

 

 紛れ込んだ民間人(・・・・・・・・)についての情報は伏せて報告を行った。

 

 ――お前はお前の戦いをすればいい。

 

 購買部で士道と交わした言葉を思い出す

 自分の立場を失わないように注意を払いつつ、最大限に士道をサポートする。それが折紙の選んだ戦いだった。

 折紙は覚悟を新たに歩み出す。まだ躊躇いや拭い切れない憎しみはあるけれど、それらを振り切って、

 

「私の、戦争を始める」

 

 

    *

 

 

 諦めて溜まるものか。生憎と諦めの悪さは人一倍だ。

 士道は遠ざかっていく背中を呼び止めようとして、

 

「……話をするのではなかったのか?」

 

 逆にまるで縋るような問い掛けを受けて頬を緩めた。

 

「ああ、話をしよう」

「イツカ、シドーだったか?」

「士道でいい」

「なら、シドー。勘違いするなよ。私はおまえを信用したのではない。ただ貴重な情報源であると認めただけだ」

「それでも今は充分だ。お前と言葉を交わせるだけで、俺は嬉しいよ」

 

 <プリンセス>は眉を寄せて腕を組んだ。

 

「…………まあいい、もう少し静かな場所へ移動するぞ」

 

 ASTの攻撃が始まったのか、ビル全体を爆音と震動が襲う。

 二人は奥まった通路に入り、外からは見えない位置で座り込んで向かい合った。

 呼び掛けようと思い、士道は今更ながら<プリンセス>から真名を聞いていないことを思い出した。

 

「なあ、お前の名前を教えてくれないか」

「名、か……そんなものはない」

 

 士道は感情が暴れようとするのを抑え付ける

 名前が無い。名前を必要とする状況にならなかった。それはつまり、誰からも存在を認められなかったということだ。改めて突き付けられた<プリンセス>の絶望的な孤独に、悲劇に満ちた現実を呪った。

 

「ますます奇妙な人間だ。どうして、おまえが辛そうな顔をする?」

「だからだよ」

「だから、なんだ?」

「だからなんだよ。我慢をしていると泣き方も忘れる。強ければ強いほど、そうやって捻れていくんだ。お前が本当に冷酷無比な精霊なら、とっくにASTは全滅してる。そうだろう?」

「…………」

 

 <プリンセス>は無言になり目線を逸らした。

 

「名を」

「ん……?」

「名をくれないか」

 

 士道は目を白黒させる。

 

「おまえが呼んだ名が、私の名だ。このまま名無しでは会話に不便だろう?」

 

 <フラクシナス>艦橋では、そっちが正解だったのかと騒ぎ立てる中で、士道は沸々と込み上げてくる中二魂を震えさせていた。名付け親だと? いいだろう、俺が最高に格好良い真名を授けようじゃないか!

 士道は立ち上がると、前髪をくしゃりと掴んで<プリンセス>を逆の手で指差した。この時に微妙な腰の反り具合でクオリティが左右される。手首を若干だが捻っておくと更に良い。

 

「いいだろう、お前の名は――」

 

 気高く荒々しく、されど王者の風格を失わない黒の旋風。並み居る敵を蹴散らして駆け抜ける姿はまさに戦場の支配者。そこから導き出される真名はこれしかない。

 

「――<漆黒の王獣(アルコーン)>!」

 

 士道の横髪の一部が閃光の迸りと共に消え去った。

 <プリンセス>が不機嫌顔で、光球を浮かせた指先を向けてきていた。次は外さないと目が言っている。

 

「メカメカ団の呼ぶ名前と似たようなものを感じて、なんだか不愉快だ。他の名前を考えろ」

「くっ……俺の類稀なるセンスが奴らと同等だと……!?」

 

 心が折れそうになるぐらいの大ダメージだった。

 

「この場に居るのは二人だけだ。多少は不便かもしれんが、名無しのままでも問題ないか」

「いや、これはそういう問題じゃない。俺の魂が懸かっている」

「……また、訳の分からないことを」

 

 考えろ、考え抜くんだ。ネーミングセンスで屈するというのは、今まで生み出してきた数々の技や二つ名の否定に繋がる。それは由々しき事態だ。

 

 ふと、ブリーフィングでの会話を思い出した。

 本来であれば、四月一〇日に<フラクシナス>へ招待され、最初に出逢う精霊は<プリンセス>だった。しかし、機関の陰謀に一般人を巻き込むまいとシェルターから姿をくらませたことで、<ラタトスク>の計画はご破産になる。

 

 その後<ベルセルク>の襲来によって状況は大きく変わった。

 そして、今日――五月一〇日。五河士道は一ヶ月遅れで遂に<プリンセス>と出逢った。

 二つの日付が同一なのは、きっと意味がある。

 

「トウカ……」

「ん?」

「お前の名は、トウカ……十に導く芳香――絶対的な出会いの運命」

「トーカ?」

 

 士道は手帳に『十香』と書いて見せた。

 

「これで「トーカ」と読むのか」

「ああ、そうだ。気に入ってもらえたか?」

 

 <プリンセス>は無言で大剣を構えた。身構える士道を無視して、背を向ける。壁に対して高速の斬撃を放った。

 壁にはでかでかと下手くそな『十香』の二文字が刻まれた。

 

「これが私の名か……いや、私の名だ」

 

 両腕を広げて壁に刻まれた文字を示した。

 

「感謝するぞ、シドー」

「どう致しまして、十香」

 

 まるで舞台劇のように大袈裟なお辞儀で応える。

 <プリンセス>――十香は満足そうに頷いた。

 

 それからまた二人は座り込んで、この世界について語り合った。

 外で必死にいぶり出そうと攻撃を続けるASTを無視して、十香が消失(ロスト)するまで言葉と想いを交わした。

 ただ、士道には一つだけ懸念が残された。

 

 ――最後まで十香は一度たりとも笑ってはくれなかったのだ。

 




 回想終了。次回から、また時系列は1話後の話に戻ります。
 毎日更新を維持したいのですが、明日の更新は怪しいかもしれません。


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4.変わりゆく世界

 精霊<プリンセス>の初交渉から数日後。それ以降は<プリンセス>だけでなく他の精霊の現界も確認されず、表向きは静かな日々が続いていた。

 

 琴里は<フラクシナス>の普段は利用されない区画に向かっていた。

 <フラクシナス>は機密の塊だが、その中でも司令官である琴里のみが立ち入ることが許される場所がある。その名も特別通信室。<ラタトスク>の最高幹部連である円卓会議と、機密情報を交わすために用意された部屋だ。

 

 琴里は薄暗い部屋の中心に設えた円卓に着くと、並べられた四つの人形を一つずつ確認した。

 人形の前に置かれたスピーカーから息遣いが聞こえる。どうやら全員出席しているようだ。

 

『<ベルセルク>に関しての報告を受けて、彼の能力が実際に有用だというのは把握している。しかし、以前も言ったが、我らの懸念は今回の<プリンセス>との一件で危惧に変わったと言ってもいい』

 

 泣きネズミの発言に、琴里は眉を顰めた。幸いにもこちらの映像は相手に確認されないので、声に出さない限りは悪態をつける。

 更にバカ犬が追随した。

 

『その通りだ。<ラタトスク>は本当に彼を制御できるのかね?』

 

 琴里は更に奥歯を噛み締めて苛立ちを堪えた。言いたいことは分かる。確かに<ラタトスク>で制御できるかと言われれば、難しいと言わざるを得ない。

 だが、ここで彼らが問題にしているのは、そういうことではない。

 ブサ猫のくぐもった声が得意気に言った。

 

『彼の能力は、<イフリート>と<ベルセルク>で完全に証明されたという訳だ。ならばこれ以上、交渉役を無理に続けさせる必要は無いと思わないだろうか』

「それは、どういう意味でしょうか?」

『つまりだ、あくまで民間人である彼に任せるより、専門の交渉人を育成して、交渉と封印を分担させるべきだと考えているのだ。彼の自己蘇生能力は確かに驚嘆に値する。だが……死なない訳ではない。私は五河司令の兄でもある彼を危険に晒すのは忍びないと思っているのだよ』

 

 琴里は円卓に拳を叩き付けた。スピーカーから戸惑いの声が上がる。

 

「失礼、艦が揺れました」

 

 怒りを押し殺した声で即座に誤魔化した。

 今回の呼び出しの理由が掴めた。独断専行ばかりの士道を交渉役から外して、子飼いの交渉人を当てたいのだろう。現在、<ベルセルク>は<ラタトスク>に感謝はしているが、士道個人に向けられるものに比べれば微々たるものである。

 

 要するに馬鹿共は士道の裏切り、あるいは精霊の力の独占を危惧しているのだ。彼らとて精霊に安全な暮らしを提供するためだけに<ラタトスク>を築いた訳ではない。協力した分、その見返りを求めるのは当然の権利だろう。だが、建前と本音を両立できないどころか、隠し切ることすらできない下衆に精霊の力を与えるなど怖気が走る。それこそ人類の危機だ。

 琴里は黒のリボンを締め直して、改めて心を引き締めた。

 

「自分達の無能を棚に上げるようで申し訳ないですが、士道でなければ精霊の説得は難しいと考えます」

 

 ブサ猫は声のトーンを落とした。

 

『それは何故かね? ああ、決して現場の考えを蔑ろにするつもりはない。私は所詮、安全な場所で見守るだけの立場だ。とてもじゃないが偉そうなことなど言えんよ。だから、忌憚なき意見をお聞かせ願おうか』

「では、はっきりと申し上げます。精霊との交渉は理屈ではありません。当然、今までに対話の記録はありませんから、ノウハウに頼ることも不可能です。ならば、誰が適任であるか、それは考えなくてもお分かりになられると思いますが」

 

 沈黙を貫いていたクルミリスが、静かにしかし重々しく口を開いた。

 

『成果は上げられている。それを非難する権利はないのは当然だ。しかし安全性と確実性を高めるために、あらゆる方法を模索することもまた当然である』

 

 ブサ猫がクルミリスが肯定的な反応をしたことに色めき立つ。

 

『議長の仰る通りだ』

 

 続け様に自分の考えを押し通そうとして、クルミリスがそれを遮った。

 

『とはいえ、私は精霊のために悲しむことを、怒ることを、笑うことを……あれだけ真っ直ぐに感情を表すことができる者を、彼以外には知らない。そうは思わないだろうか』

 

 円卓に沈黙が舞い降りた。

 多くの者にとって精霊は恐ろしい存在である。それに恐怖せず、正面から堂々と立ち向かえる士道が異常なのだ。最初に出逢ったのが<ベルセルク>であったからこそ、精霊に対する偏見が薄いとも言えるが、結局は彼が精霊のために奮闘するのは時間の問題だったとも思える。

 クルミリスは穏やかな声で続けた。

 

『どうやら反対意見は出ないようだね。では、機会を改めてより良い方法を模索していこうか。五河司令、忙しいところ失礼したね。これからも期待しているよ』

「はっ」

 琴里は例え相手から見えなくとも、姿勢を正して最敬礼を以って応えた。

 

 

 

 会議を終えた琴里は、その足で士道の待っているブリーフィングルームへと向かった。

 

「待たせたわね」

 

 琴里が入室すると、コンソールを操作する神無月が振り返った。

 

「司令、ちょうど本部のデータベースにアクセスしたところです」

「それじゃあ流してちょうだい。士道は説明を聞いたわね?」

 

 円卓に腰掛ける士道が無言で頷いた。いつもの中二テンションに比べて反応は薄いが、きっとこれから確認する映像に思うところがあるせいだろう。

 

「では、再生を始めます」

 

 円卓の中央に設置されたモニタが赤色に染め上がった。一瞬、エラー画面かと勘違いしそうになるが、すぐにそれが、懐かしの故郷を大火事が襲う映像だと気付く。

 五年前の天宮市南甲町。琴里にとってはすべてが始まった日の記録だった。

 

 士道と一緒に五年前の真実を調べていたところ、<ラタトスク>本部のデータベースに当時の映像が残されているのを見付けたのだ。

 テレビ局から押収したものらしく、レポーターの男が町の惨状を必死で訴えている。

 

「あっ……」

 

 琴里はほとんどモザイクのように荒い映像の中に、霊装を纏った自分の姿を発見した。その足元に倒れているのは士道だ。

 

「お前は何者だ……?」

 

 士道の視線が琴里や自分でなく、その間を凝視していた。

 次の瞬間、士道は頭を押さえ込んで表情を歪めた。

 

「……ッ! 恐らくは機関の秘密工作員だ。これだけの光学迷彩技術を持っているのは奴らしか考えられない」

 

 戯言を聞き流しつつ、琴里は士道の指差す位置に目を向けた。

 それは最初ただのノイズかと思えた。だが、違う。掠れた記憶が『何か』が存在したことを訴えている。

 

「何か……違う、『誰か』が居る」

 

 琴里は脳の内側から掻き毟られるような痛みに襲われて、士道と同じように頭を押さえ込んだ。中二病の演技かと思っていたが、これは士道も感じている痛みなのだろう。

 

「司令!? 士道くん!?」

 

 神無月の悲鳴に似た呼び掛けが遠のいていく。

 これがきっと、五年前の真実に近付く鍵だ――確かな手応えは激痛に変化して、琴里の意識を刈り取った。

 

 

    *

 

 

 天宮駐屯地のAST隊長室で、日下部燎子は執務机に深く腰掛けると、頭の後ろで腕を組んで溜息をついた。

 

「どうしたものかね、まったく」

 

 背もたれから身体を起こすと、机の上に並べられた辞表を手に取った。

 少し前にASTは謎の精霊<アポルトロシス>と遭遇した。

 精霊の力を司る能力を持ち、世界を裏側から動かしていたと嘯く姿と、<ベルセルク>を命懸けで守ろうとした姿が同時に浮かび上がり、すぐに悪役面の姿が掻き消される。

 

 思えば、折紙を洗脳したのも嘘だったのだろう。彼女の立場を守り、巻き込まないために配慮したのだ。

 自分一人で罪を背負い、それ以外のすべてを救うために<アポルトロシス>は死んだ。いや、ASTの手で殺した。精霊の力を失ったと考えられる<ベルセルク>もまた、政治家の保身と人間の勝手な都合によって殺された。

 

 まだ年若い隊員には耐えられない現実だったのも頷ける。ただ精霊を殺すだけならば、厳しい訓練を乗り越えてきたASTは問題なくこなした。

 だが、殺さないでくれと必死で訴える<ベルセルク>や折紙の悲鳴を聞きながら、引き金を引くのは――余りにも苦しかった。大義名分があれば正当化して心を守れたものを、実際は上層部の椅子取りゲームに利用されただけなのだ。

 

 ――なんのために彼女たちは犠牲になったのだ?

 

 そう疑問せずにはいられなかった。折り合いを付けられなかった部下の一部は、こうして辞表を出していった。まだ燎子が手元に預かっているだけだが、今のところは引き止める有効な言葉は浮かばなかった。

 コンコンと軽いノックの音が聞こえた。

 

「どうぞ」

 

 返事をすると、折紙が入室してくる。

 <アポルトロシス>の一件以降、彼女は一時的に死んだような顔をしていたが、なんとか立ち直ることができたようだ。いや、寧ろ張り詰めた雰囲気が薄くなり、余裕さえも感じられた。

 以前に理由を尋ねたが、ただ「私の戦いは終わった」と応えるのみだった。

 

「来たわね、折紙。少し話をしようと思ってね」

 

 燎子は辞表を引き出しに仕舞うと立ち上がった。

 

「話とは」

「今後の……いえ、寧ろ今までのことかしらね」

 

 精霊は世界に混乱と破壊をもたらすことから特殊災害指定生命体と定められた。それに関して疑いを持たず信じ込んでいたのは確かだ。しかし、今はその事実も揺らごうとしている。

 折紙は言った。

 

「精霊は人間だった……そして、本来は人類に対して悪意を持っていない。<アポルトロシス>ならば精霊の力を安全に封じることができた」

 

 明らかになった事実を言葉にして改めて整理すると、ASTとして精霊と戦ってきた過去を全否定されたような気持ちになった。その程度で仕事を辞するほど燎子は若くないが、納得できるかどうかは別だ。

 

 果たして、真実はどこにあるのだろう?

 政府の選択は人類の未来にとって正しかったのだろうか。それとも<アポルトロシス>が求めた人類と精霊の共存こそが目指すべき未来なのだろうか。

 

「折紙はどう考えているの?」

「より効率的に精霊を排除できる手段があるのならば、それを模索するべき」

「あんたらしいわね……ASTが精霊を殺すのは、あくまで手段で結果じゃない。もしも殺さずに精霊を無力化する方法があるっていうんなら、私も縋りたくもなるわ」

「話はそれだけ?」

 

 折紙の問い掛けに、燎子は首を横に振った。

 

「本題はこれからよ。それを踏まえて、ASTは今後どうあるべきなのか、あんたの意見が聞きたいわ。自衛隊内部も一枚岩ではない。今後の方針次第では、ASTは縮小……最終的には解体も考えられる。だから、私たちも『精霊』と真摯に向き合うならば、身の振り方を考えなさいってことね。精霊との対話を優先させるならば、その交渉役を任せられるのは、あんたが選ばれる可能性だってあるんだから」

「なぜ」

「実績があるでしょう? 真実はどうあれ<アポルトロシス>と最も言葉を交わしたのはあんたなんだから」

「…………」

 

「ただ問題があるのよね。長らくエース様が不在だったけど、どうやら近い内に補充要員が送られてくるらしいわ。それも天下のDEM社から生え抜きの魔術師がね。DEM社は精霊に対して、ASTよりも苛烈に対応しているのは知っているわよね? 果たして、その魔術師がASTの甘さに納得するのか疑問ね」

「なぜ、そんな魔術師が?」

「なんでも世界中に出没する特定の精霊を追っていて、その反応が天宮市付近で確認されたらしいわ。精霊を殺した魔術師、今となって頼もしいのかそれとも疫病神なのか、わからないわね」

 

 折紙もまた複雑な胸中なのか言葉を返すことはなかった。

 <アポルトロシス>によって変えられたのは、折紙だけではない。多くの人間の心に彼女の言葉が息づいている。世界の在り方がどうなるのかは、<アポルトロシス>の行動で決まるのではない。その行動を受けた人類の選択によって定められるのだ。

 

 

    *

 

 

 気絶から目覚めた士道は、<フラクシナス>で近所の商店街まで運んでもらった。今日は安売りのチラシが入っていて、なんとしてでも夕方のタイムセールには参戦しなければならなかった。

 

 歴戦の強者である主婦たちは、商店街に於ける限定戦闘能力だけを考慮すればかなりの強敵だ。特に主婦の中でも一目置かれる<聳え立つ愛(マッドマザー)>や、一日三食を夢見る薄幸少女の<黒字家計簿(ティアクロー)>は、士道とて簡単に勝つことはできない。

 特に実家を飛び出して、一人暮らしで仕送りもなく必死に家計をやり繰りする<黒字家計簿>は、心情的にも強敵だった。

 

 なんとか激闘を制して、無事に目的の品を手に入れた士道は、買い物袋を両手に夕暮れの帰路へ付いた。そこで同じく買い物帰りらしい折紙の姿を見掛けた。何故か物陰に潜んで、士道を尾行していたようにも見えたが、きっと気のせいだろう。

 

「折紙もタイムセール狙いだったのか?」

 

 無言で頷く姿は、慣れると寧ろ安堵感を覚える。

 戦利品はなんだろうか、と折紙の買い物袋をちらりと覗き込むと、士道は一瞬だけ固まった。

 栄養ドリンクは、確か安売りしてたな。だけど他の高級精力剤は商店街のラインナップに存在しない。物資調達は潜伏生活では危険を伴う外出行為。完璧に販売商品を把握している士道に死角は無かった。

 

「それは折紙が使うのか?」

「私の目的のために使う」

「そうか、達成できるといいな」

「既成事実さえあれば、押し切れる」

「…………」

 

 うん、下手に踏み込むのは危険だろう。別に毒薬でもないのだから、非難する理由はない。

 士道は空気を変えるためにも、周囲に人影がないのを確認してから切り出した。

 

「数日前の空間震では折紙も出撃したのか?」

 

 折紙は士道の顔を見て頷いた。

 

「あなたを見た」

「ああ、俺も戦場に居たよ。もしかして、あの時に攻撃位置が俺たちのいる階よりも離れた場所が攻撃されていたのは、折紙がやってくれたのか?」

「誘導した。あなたが精霊をこの世から消してくれるのならそれでいい」

「そうか、なんか悪いな。裏切らせるようなまねをさせて」

「構わない。これが私の……戦いだから」

 

 沈み行く夕日を映し込んで、折紙の透き通った瞳が血のように赤く染まった。

 

「でも、気をつけて。あなたの存在に気付けば、ASTだけじゃない……多くの人があなたを狙う」

「充分に注意する。それに俺は隠れるのは得意だ」

 

 世界から拒絶され追われるのはもはや日常に等しい。

 守りたいものがあって、そのために戦えるのだから孤独じゃない。寧ろ幸福だ。

 

「これからも、協力する。だから、気付かれないように注意を」

「任せておけ。まずは<プリンセス>なんていう呪縛は、この世界から消して、我が力の前で従えてみせる」

 

 孤独の王座から解放し、他人を信じることすらできない臆病な少女になってようやく手は繋がれる。

 <プリンセス>ではなく十香へ。世界から拒絶されるだけの精霊を、平凡な幸せを享受できる少女に変えるのだ。

 

「ん……?」

 

 士道は足音が聞こえて周囲を探る。だが、どこにも人の気配は感じられない。周囲にはビルが立ち並んでおり、ビルを一足で飛び越えられない限りは身を隠す場所は無い。

 

「何か問題が?」

「いや、ただ……気のせいだと思うが、何か嫌な予感がする」

 

 士道はその予感が外れることを祈った。

 

 

    *

 

 

 空間震を発生させず現界した十香は、士道の背中を見付けて声を掛けようとした。

 隣界の微睡の中で、ずっと考え続けてきた。

 そして、あと一度だけは人間を信じようと決めた。だから、あの男が誘ってくれたデェトとやらをしようと思ったのだ。言われた通りに、目立たないように霊力で人間の服を再現して、遭遇した人間共には攻撃を加えなかった。

 

 だが、待っていたのは裏切りだった。

 幾度も刃を交えたメカメカ団の女と、士道は行動を共にしていたのだ。しかも<プリンセス>を消すと言っていた。

 敵だ。あの男は敵だった。

 

「やはり……この世界に信じられる者など居ないか」

 

 ああ、知っていたとも。舞い上がっていたのが馬鹿みたいだ。

 路地裏からビルの屋上に飛び移り、十香は乾いた笑い声を上げた。

 

「はは、はははっ、ははははははっ」

 

 一瞬でも信じた私が馬鹿だった。

 殺してしまおう、と思ったのにそれに反して涙が込み上げてくる。

 

 ――信じたかった。信じさせてほしかった。

 

 十香はがむしゃらに駆け出して絶望を振り切ろうとする。

 だが、内側から蝕む感情からは、決して逃げることはできなかった。

 

 




 ひゃっはー本番はこれからだぜー!
 Hardがただ十香の病み病みで終わると思うたか!


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5.精霊同盟

「疑問。本当にこちらで大丈夫でしょうか」

「くくっ、我が魔眼の示す道を疑うか?」

「即答。はい」

「前に近道で通ったことあるし! 大丈夫だし!」

 

 八舞姉妹は、戯れながら学校帰りの退屈な道も楽しんでいた。士道を通して<ラタトスク>から提供されるお小遣いで、二人はよく寄り道をする。今日はゲームセンターの戦利品を手に下げていた。お揃いのパンダローネ(イエローカラー)である。

 

 勝負が白熱し過ぎたせいで、空が暗くなり始めていた。

 そのため、路地裏を抜けて行こうと耶倶矢が提案し、絶賛迷子中である。似たような道が入り組んでおり、天宮市で暮らし始めたばかりの八舞姉妹にとっては迷路も同然だった。

 

「ん……? 禍々しい魔力を感じるぞ」

 

 耶倶矢は路地裏で蹲る少女を発見した。

 ただの中二的台詞であったが、言い得て妙だった。少女が醸し出す雰囲気は、魔に魅入られたように暗く淀んでいたのだ。

 

「確認。体調不良ですか」

 

 夕弦の声掛けに少女の指先がビクリと震える。しかし膝の間に顔を埋めたままで上げようとはしなかった。

 

「なんだ? 肉体に魔源素を取り込み過ぎたか? 自力で動かないのであれば、我が貴様を家まで送り届けてやっても構わんぞ」

 

 少女の全身が震え出した。くぐもった笑い声が聞こえる。それは余りにも悲痛で聞く者の胸を締め付けた。

 

「帰る場所? ははっ、この世界に居場所などありはしない……それとも、今度こそはおまえたちが私を殺してくれるのか?」

「ふんっ、人生の幕引きすら己で行えぬか、脆弱だな。だが、そこまで貴様が堕ちた理由、話してみろ」

 

 耶倶矢の突き放すような優しさに、少女は笑うのをやめた。

 

「私にはさっぱりだ……おまえたち人間は何を考えている? 片手は握手を交わしながら、もう片方の手にはナイフを隠し持つことを平然とやってのける」

 

 やっぱり耶倶矢や士道と同じ人種だろうか、と夕弦は一瞬思い悩むものの、ネタとして笑い飛ばすには余りにも重苦しい。

 

「……あの男は、裏切ったのだ。信じて欲しい、と言ったのに……信じてやったのに」

「ふんっ、世の中には我が盟友とは違い腐った人間も居るようだな。そいつの名前を教えてみろ、我が代わりに引導を渡してくれる」

「……シドー」

「要求。もう一度お願いします」

「……イツカシドーと名乗っていた」

 

 八舞姉妹は困惑顔を見合わせる。

 反応が途切れたことを訝しみ、少女はようやく顔を上げた。

 まるで時間が止まってしまったかのように、八舞姉妹は固まっていた。

 

 ――少女の正体は<プリンセス>だった。

 

 霊装を纏わず、天使を携えず、災厄たる精霊は――士道の望んだように孤独に震える臆病な少女になっていた。

 だが、こんな絶望に染まった顔をさせたかったのではない。

 

 どうしてこんなことになっている?

 士道と<プリンセス>――いや、十香との交渉は順調とは言えないまでも、成果を上げていた筈だ。彼は八舞姉妹にやったように嘘なのか本当なのかよく分からない妄想を並び立てて、再会を約束させたのだ。

 

 八舞姉妹は即座のアイコンタクトで、士道の関係者ではない振りをする口裏合わせを行った。

 

「ほ、ほう、その士道という男は本当に酷い奴だな」

「同意。ヘタレ野郎です」

「へたれ……?」

「あ、ああ、こっちの話だ。夕弦!」

「謝罪。つい本音が」

 

 少女は疑うことすらどうでもよくなったのか、深く追及することはなかった。瞳には光がなく、生きる意志を感じられない。通り魔や交通事故で理不尽な死を迎えようとも、未練を持たないであろう諦め切った顔だった。

 

 きっと何か誤解がある。あの士道が誰かを傷付けるとは思えない。

 このまま放置すれば士道とて苦戦を強いられる。いつでも隙がなくあらゆる事柄に精通する士道を手助けできることなど、そうそうあるものではない。

 ようやく恩返しのチャンスが巡ってきたのだ。

 夕弦と耶倶矢は笑顔で頷き合った。

 

「さあ、我と夕弦の戦争を始めよう」

「宣言。夕弦と耶倶矢の戦争を始めます」

 

 心の中で決意を言葉にする。

 そして、耶倶矢と夕弦は士道の立つ戦場へと自ら踏み込んだ。 

 

「請願。ここで出会ったのも何かの縁です。名前を教えて頂けませんか」

「……とう……いや、名前など無い」

「そうか、ならば、我が代わりに付けてやろう。しかし、真名を与えるということは、それ即ち我が眷属となること、それでも構わぬか?」

「どうでもいい。名前などに、どれほどの価値があるのか」

 

 名前の価値は無限大だ。

 それを今から、思い出させてやる(・・・・・・・・)

 

「提案。これからあなたの名前は『十香』です」

「えっ……?」

「ん? 聞こえなかったか?」

「どうして、同じ名前を……」

 

 一か八かの懸けであることは承知している。

 それでも、モニター越しとはいえ、あの時に目にした少女の顔はとても満たされていた。

 

「何が同じ名前なのかは分からぬが、もしも以前にそう呼ばれていたのならば……この偶然、いや、必然と呼ぶべきか。それが貴様の真名だということだろう」

「再考。もし嫌であれば別の名前を考えます。決めるのは、あなたです」

 

 

    *

 

 

 名無しの少女は八舞姉妹の顔を交互に確認して戸惑いを隠せない。この女たちもやはりメカメカ団の仲間なのか? でも空から現れなかった。それに嫌な感じがしない。とはいえ、それはあの裏切り者も同じだった。

 

 何を信じればいい? いや、まだ性懲りもなく何かを信じるのか?

 分からない。何も分からない。

 どれだけ考えても答えは出なかった。

 

「…………」

 

 そうか、分からないのならば、分からなければいい。

 少女は手の平で顔を覆い隠した。

 

 ――何も信じなければいいのだ。

 

 そうすれば心は傷付かない。裏切りも怖くない。心の平穏は保たれる。恒久的平和の実現だ。

 喜びを感じた一瞬の過去だけを切り取って胸に仕舞い込む。

 

「……それでいい。私の名前は十香だ」

 

 名無しの少女――十香は思う。あの時、初めて名前を呼んでくれた時の喜びは、それだけは嘘ではないから。

 それ以外は不要だ。メカメカ団からの憎しみや、現界するたびに感じていた漠然とした孤独感、それに伴う言葉にならない怒りや悲しみも必要ない。

 

 一瞬の思い出だけを胸に抱いて、心の時間を止める。

 光を失ったままの瞳で、十香は初めて笑顔を浮かべた。それは余りにも退廃的で、壊れ切っていた。

 

 襲ってくるものは残らず殺して、優しさを与えてくれる者だけを残す。そうすれば世界はいつか、十香を受け入れる理想郷になっていることだろう。その時になって、ようやく十香の時間は再び動き出せるのだ。

 

 ああ、なんだ、簡単じゃないか。悩む必要なんてなかった。

 だって、それを実現するだけ力は持っているのだから。

 

「はは、はははっ」

 

 八舞姉妹は十香の絶望に動じない。この世界に手遅れなんてあってたまるものか。そんな現実は絶対に否定してみせる。

 

「八舞耶倶矢、貴様の主となる我が名をありがたく刻むといい」

「追随。八舞夕弦です」

 

 二人から差し出された手を、十香は触れることもなく自力で立ち上がった。

 

「慣れ合うつもりはない」

「くくっ、我が眷属に相応しき反骨心だな。調教の楽しみがあるというものよ。では、早速行くとしようか」

「どこへ向かうつもりだ?」

「返答。来れば分かります。とても良い場所です」

「良い場所……?」

「ああ、光と音が意志を持って踊り狂う、宴の場よ!」

 

 十香は幸せそうに笑う八舞姉妹を目にして、時間を止めた筈の心が軋むのに気付いた。

 無視しろ。何も期待していない。だから傷付かない。絶望しない。心は常に喜びに満たされている。だから私は大丈夫だ。

 

 

    *

 

 

 士道は冷蔵庫の中身と相談して、できる限り量を水増しできるメニューを考えていた。やはり腹に溜まる汁物がいいだろうか。

 

「それにしても遅いな」

 

 夕食の直前に炊けるように炊飯器をセットしようと掛け時計を見上げて、士道は八舞姉妹が帰宅していないことに不安を抱いた。嫌な予感がしたのは、もしかして二人のことだったのか。

 

「……探しに行こう」

 

 ガスの元栓、窓の鍵閉めを瞬時に確認して、すぐに家を飛び出した。

 人生とは往々にして儘ならない。より良い未来を求めて懸命に戦い続けてようやく荒波を乗り切ることができる。しかし、乗り越えた先には更なる困難が待ち受けているものだ。

 

「――裏切り者が、よく顔を出せたものだな。メカメカ団の女と内通しているのは知っているのだぞ」

 

 街で遭遇した十香から、レイプ目で睨まれれば、流石の士道とて混乱する。<無表情(ディスペル)>の二つ名に相応しく、すぐに動揺を収まったものの、十香の隣に八舞姉妹の姿を見付けて更なる混乱が襲い掛かる。

 

「これもまた、逃れられぬ道か」

 

 士道は中二病モードに移行して、戸惑いを投げ捨てた。

 闇に生きる咎人に一切の油断はない。昨日の友とて、今日の敵になりえる。というか、そういうシチュエーションは燃えるし格好良い。だから、是非ともやってみたかった。

 

 だが、あんな顔をする十香を見るぐらいだったら、そんな願いは叶わなくてよかった。どうして現実はこうも容赦無く苦しむ者に更なる試練を与えるのか。

 

 ――世界から拒絶されるのは俺だけで充分だ。

 

 既に士道は十香の言動と嫌な予感を結び付けて、大体の状況は把握していた。

 

「ふんっ、確かに何か企んでいるような顔をしておる」

「同意。陰謀を企む顔付きです」

 

 耶倶矢と夕弦は士道に敵意を込めた演技をする。

 実際、士道は完全に入り込んでいるので、本当に何か企んでいそうな顔だった。

 

 冷静になれと己に言い聞かせる。最初の言葉で道筋は定まる。方針が定まらない限りは口裏合わせもできない。これはまたとない挽回のチャンスだ。これを逃せば、十香の心は完全に閉ざされる。

 奇妙な運命が絡み合い、士道と八舞姉妹と十香の戦いが始まろうとして、

 

「士道……この状況は?」

 

 更なる状況悪化が発生した。

 折紙の登場に、十香は殺意を振り撒く。 

 何の変哲もない陸橋を舞台に、敵も味方もあべこべで数秒先の未来も読めない混沌空間が形成された。

 

 やはり機関は俺を休ませてはくれないらしい。

 自嘲の笑みを浮かべて、士道は両腕を大きく広げた。それから前髪をくしゃりと握り潰し、その腕を逆の手で掴んで横向きに腰を突き出す。

 完璧に決まった。追い詰められながらも決して余裕を失わない黒幕スタイルである。

 

「こうなってしまったのならば仕方ない。すべての妄想(しんじつ)を話そう」

 

 誰かが傷付く現実で満足か?

 みんなで笑える未来は欲しくないか?

 諦めない。諦めてなるものか。この場に悪人なんて存在しない。

 それなのに争い合うなんて馬鹿みたいだろう。

 

 だから、現実を打ち砕き、妄想を貫き通して、理想の世界を手に入れる。

 さあ、心を凍らせた十香の信用を勝ち取り、八舞姉妹との敵対を解消し、折紙を守り切る――そんな非現実的な真実を構築してみせろ!

 

 




 忘れた頃にもう一度。
 この作品はギャグ&コメディですから、鬱展開は長続きしないのです。
 そろそろ、この言い訳が通じなくなって……え? 最初から通じてないって? 聞こえないなー。

Q.でも士道くんのハードルだけは上がってるよね?
A.ハーレム野郎はぜってぇ許さねえ!(主人公は苦労するべきだと思います)


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6.真実の陰謀論

 裏切った人間を裏切っていないことにするのは困難だ。例え切り抜けて納得はさせられても、疑心暗鬼を拭うのは更に難しい。

 

 ――だから、これから十香を本当に裏切る(・・・・・・・・・)

 

 脳内設定は既に構築できた。だが、この真実(もうそう)は士道一人では完成させることはできない。

 

 士道は十香に気取られないように、八舞姉妹、そして折紙に目配せする。これまでに何度も士道の妄言を聞いてきた彼女たちならば、きっと理解して気付いてくれる筈だ。

 これから行うのは折紙にやったように、士道の勝手な都合を押し付けるだけの我侭だ。口が裂けても十香のためだなんて言えない。

 

 それでも、救える心があるのなら――押し通す。

 正義なんて名乗るつもりはない。何故ならば、俺は闇に生きる咎人。光に導くことなどできはしない。より深い闇で世界を覆い、微かな光さえも希望の道に変えるだけだ。

 

 語ろうか、誰も犠牲にならない陰謀渦巻く世界の物語を!

 

「十香、俺は――」

「おまえがその名を呼ぶな!」

 

 十香の否定の言葉と同時に、八舞姉妹は士道を組み伏せた。

 即効で出鼻を挫かれた士道は実に無様だった。

 格好良いままで始めたかった。く、悔しくなんかない。いや、寧ろ予定通りだ! 流石は耶倶矢と夕弦、言葉を交わさずともこちらの意図に気付いてくれたか!

 

 開き直った中二病は強かった。不都合な展開や要素は忘却し、都合の良い妄想だけに目を向ける。日常においては傍迷惑な奴だが、非常事態ともなれば、あらゆる事態に動じることのない鋼の精神に映る。

 

「警告。妙な動きを見せればすぐに関節を外します」

「我が眷属を弄んだ罪は重いぞ?」

 

 迫真の演技で迫る夕弦と耶倶矢に対して、士道は抵抗する振りで話し声を隠す。

 

「……俺が合図を送るまで、二人はできる限り意味のある言葉は喋らないでくれ」

 

 地面に叩き付けられた士道は、十香の顔を見上げた。どのような経緯で八舞姉妹と知り合ったのかは分からないが、少なくとも今の士道よりは信頼されている筈だ。それを利用させてもらう。

 折紙は様子見に徹してくれている。今はそのままでいい。彼女も既にこちらの意図は汲んでいることだろう。

 これから口にするのは事実と嘘を重ね合わせた境界線上の真実。心が読むことができなければ、決して辿り着くことのできない答えだ。

 

「俺は、お前を最初から裏切っていた」

「今更命乞いでもするつもりか?」

 

 十香は歩み寄ってきて、士道をすぐ側から見下ろした。

 

「そう取ってもらっても構わない。俺は……精霊によって、人生を歪められた」

 

 琴里と共に確認した五年前の記録。そこに映された正体不明の精霊。あの精霊が士道と琴里の人生を大きく歪めたのだ。

 

「それがお前に会いに行った理由だ」

 

 わざと勘違いさせるように言う。悪意などないのに、悪意があったように感じさせる。

 

「……ッ!」

 

 十香は怒りよりも悲しみを露わにした。どこまでも優しい少女だ。だからこそ、ここまで歪ませてしまった。

 

「折紙も同じだ」

 

 名前の呼び掛けを合図に、折紙は舞台に上がる。

 

「私は、精霊に両親を殺された」

 

 ここに二人の復讐者が誕生する。一人は復讐する気がなく、もう一人は既に復讐を終えている。嘘だけど本当。十香にそれを調べる術はないけれど、できる限り嘘の割合を少なくする。それがせめてもの誠意だった。

 

「ふふ、ふふふっ……要するに、おまえたちは、自らの手で私を殺すために懐柔しようとしていた訳だな」

「それは違う!」

 

 このタイミングで反論すればどうなるのか。

 答えは至極単純だ。

 

「何が違う!? おまえは何度、私を虚仮にすれば気が済む?」

 

 激昂する。これで思考を更に乱すことができた。

 その殺気だけで人を殺せるような鋭い視線が、士道の心臓を鷲掴みにした。呼吸が乱れそうになる。動揺が表情に表れようとする。

 

 耐えろ。耐えて、耐え抜いて、演じ切ってみせろ。

 今度は失敗しない。自分のせいで絶望する誰かが居るんだ。救わせてくれ。お願いだ、彼女に笑顔を取り戻させてくれ。

 

「さあ、本当のことを答えろ!」

「違うと言っている!」

 

 ここで屈してたまるものか。

 真実はまだこの先にある。ここで、物語を完結させれば勘違いと擦れ違いのまま、現実如きに敗北してしまう。

 

「俺はお前を傷付けるつもりも、ましてや殺すつもりなんて無かった!」

「私も同じく、彼に賛同している。今の私は、あなたに害意を持たない」

 

 ただの外道に光が宿った。ここからだ。どんでん返しで巻き返してみせる。

 十香の士道を踏み付けようとした足が空中で止まり、地面に下ろされた。

 

「それなら、私に近付いて何が目的だった!?」

 

 正念場の連続だ。これ程までに<無反応(ディスペル)>をありがたく感じたことはない。

 折紙との会話がどこからどこまで聞かれたのかは分からない。しかし、すべて聞かれたことを想定して動くことが無難だろう。設定の整合性を失わないように、細心の注意を払い突き進むんだ。

 

「最初は精霊に対する復讐だった」

「だった……だと?」

「でもこの世界の黒幕に気付いた。俺は、俺たちの復讐心は利用されていたんだ」

 

 悔しそうに拳を打ち付ける。何度も血が滲むぐらいに繰り返した。込める意味はまったく別物だけど、宿した想いは同一だ。

 十香を孤独にさせてしまったことが悔しい。もっと注意深く行動するべきだったのに、それを怠った。この危機を招いたのは自分自身だ。

 

「そして……俺もまた、お前を復讐に利用しようとしていた! 奴らに一矢報いるためだけに、お前を傷付けた」

 

 士道が項垂れることで、耶倶矢と夕弦にバトンタッチする。

 妄想を舐めるなよ。たかが全人類に共有された認識(げんじつ)がなんだというのだ。

 俺の、俺たちの真実で、そんなものはぶち壊してやる!

 

「まさか、貴様らも騙されていたというのか? あの悪名高き『機関』の連中に!」

「驚愕。二人も機関の被害者だったのですね」

 

 現状で最も信頼している相手の口から出た、新たなる敵の存在。それは十香にとっては予想以上の衝撃となるだろう。

 

「機関だと? なんだ、そいつは? あの空を飛び回るメカメカ団とは違うのか?」

 

 戸惑う十香に折紙が答えた。

 

「所詮は末端。何も情報を与えられず、ただ精霊を戦わされているだけ。でも、私は士道のお陰で気付くことができた。私の両親を殺したのは精霊。でも、それはあなたではない」

 

 士道がそれを引き継いで語る。

 

「機関は復讐心を利用して、精霊をこの世界から駆逐しようとしている。なんの罪もない精霊を! 俺は……その真実に気付いて、機関に逆らおうと思った。だが、所詮は個人の力では機関に捻り潰される」

 

 そう、すべて裏で画策していたのは機関だったのだ。なんて卑劣な組織なのだろうか。無垢なる少女を世界から排除しようと企み、そのためならばあらゆる外道な方法を躊躇いなく実行する。

 これより語るのは事実だが偽りの計画。

 

 ――機関の目を欺き精霊を手に入れる。

 

 その強大なる力を所有するために、士道と折紙は協力していた。

 

「では、精霊を消すと言っていたのは……なんだったのだ!? おまえ達は確かに口にしていたぞ!」

「……俺には、精霊の力を奪い取る能力――<王の簒奪(スキル・ドレイン)>がある」

「力を奪うだと? それは結局、私を殺すのと変わりないではないか!」

 

 次の正念場だ。頼む、夕弦、耶倶矢……気付いてくれ!

 士道はポケットから赤色のカラコンを取り出して素早く取り付ける。

 

「そ、その魔眼はっ!?」

 

 耶倶矢が意味を明確にしないリアクションでフォローしてくれた。これで、士道は会話の主導権を握ったまま進行できる。

 

「……そうだ、あの時とは雰囲気が変わっていたから気付かなかっただろう。お前達の力を奪い取ったのは俺だ」

「動揺。夕弦と耶倶矢を救ってくれたのはあなただったのですね」

「俺は救ってなどいない」

「否定。あなたが救ってくれたのです」

 

 十香は八舞姉妹の反応に戸惑う。

 

「ど、どういうことなのだ?」

 

 八舞姉妹は士道の拘束を解くと、十香に改めて自己紹介を行った。

 

「我は颶風の御子――天空の支配者とまで謳われた精霊、そして今は人間の八舞耶倶矢だ」

「追随。夕弦も精霊であり、今は人間の八舞夕弦です」

 

 後退る十香に、士道は止めの一言を口にした。

 

「俺が力を奪い取った精霊は人間になる。そうすれば、もう機関に追われることなく、平穏に暮らすことができるんだ。でも……お前を騙していた事実は変わらない。お前が力を奪うことに同意しないことを考えて、わざと近付いた目的を話さなかった。信頼させ、そして……お前から力を盗み取ろうとしていたんだ。どれだけ詫びようとも罪は消えない……だが、謝らせてくれ。本当にすまない」

 

 ようやく繋がった。ただ胡散臭い裏切り者だった存在が、十香の中で姿を変える。

 信じてもらえるラインを見極めて、徐々に詰めていく。完全に詐欺師の手口だった。それでも救われる心があるのならば――幾らでも汚名は背負うし、罵られても構わない。

 こうなれば、悪意を隠さなかったのが、まるで誠意的に映る。終わり良ければすべて良しと言うように、最後の印象で人は認識を大きく左右されるのだ。

 

「う、あ、ああっ」

 

 混乱が極まって、十香は頭を押さえ込んで震えていた。早口に動かして何か呟いているが聞き取ることはできなかった。

 

 

    *

 

 

 十香は混乱の中にあった。裏切りを指摘すれば、無様に命乞いをするかと思ったが事態は予想外の方向に動いて、振り回されて、そして正反対の位置に着地した。

 言い争った時の怒りに触発されて、凍り付いていた他の感情が目覚めていた。

 涙が零れそうになっているのが、果たしてどの感情によるものなのか分からない。

 

 ふと、八舞姉妹に連れられて入ったカラオケの記憶を思い出す。警戒するのが馬鹿らしくなるぐらい、二人は無警戒で決して敵意を向けてくることはなかった。

 愉快な音楽が鳴り響き、色取り取りの光が乱舞した。

 

「……宴か」

 

 歌って踊って笑い合う。一歩踏み出せば、混ざることができる。

 時を止めた心は、再び針を前に進めることを求めた。しかし、それを許さなかった。もう裏切られるのが嫌だったから。

 でも、もしもの話だ。もしも、本当は裏切られていなかったのならば――私はどうしたいだろうか?

 

「もう一度、名前を呼ばせてほしい」

 

 士道が真っ直ぐに手を差し伸べてくる。

 初めて出逢った時、取ることのできなかった手が再び目の前に現れた。

 

「私は、シドー……おまえを信じていいんだな」

 

 士道は首を横に振った。

 

「決めるのは俺じゃない」

「そうか、そうだな。私は――おまえを……やっぱり、信じることができないようだ」

 

 壊れ掛けの街灯が瞬いた。光と闇が交互に顔を出し、まるで十香の迷いを表しているようだった。

 肩を落とす士道に、今度は十香から手を差し伸べた。

 

「だから、信じさせてほしい。この世界のことをもっと教えてほしい。色々な場所へ連れて行ってほしい。私とたくさん話をしてほしい」

 

 十香は涙を流していることに気付いた。今ならば分かる。この涙は砂埃が入ったからでも、絶望に沈んでいるからでもない。希望を見付けて縋ろうとする――迷子の懇願だ。

 

「やりたいことが、見たいものが、知りたいことが、いっぱいいっぱいあるんだ。それを全部、私に教えてほしい」

 

 メカメカ団と私だけの戦場ではなく、カラオケのように楽しい場所を知りたい。この世界の魅力をこの目で確かめたい。そして、できるのなら、この世界で一人の人間としてただ平穏を過ごしたい。

 

 ――壊れ掛けの街灯が点灯する。その光が揺らぐことはなかった。

 

 光が見守る下で、十香の手に、士道の手が繋がれる。

 二人の結び目に八舞姉妹が加わって、まるで円陣のようになった。

 士道、夕弦、耶倶矢の三人で期待の眼差しを向けると、折紙が渋々といった様子で手を重ねた。

 

 十香と折紙が睨み合うが、やがて二人は視線を逸らして落ち着いた。

 夜闇に街が沈んでいく。しかしお姫様のご要望だ。

 

「もう遅い時間だが、寧ろこれからが本番だろう?」

 

 この世界を思う存分、味わってもらおう。

 

「さあ、俺たちの」「我らの」「夕弦たちの」「…………」「わ、私たちの?」

 

 ――戦争(デート)を――

 

「始めよう」「始めるぞ」「始めます」「…………」「は、始める?」

 

 状況を理解できていなかったり、無言のままだったり、てんでバラバラの掛け声を上げたり――どこまでもズレたままの一同は、ようやく繋がり合った。

 

 よく分からないし、受け入れられるかと訊かれれば頷くのは難しい。

 それでも、零れ落ちる涙が温かいものに変わったことが、十香の抑え込もうとする想いを表していた。

 

 ――この瞬間を十香は忘れないことを誓う。

 

 例え未来に、どんな困難が待っていようと、きっとこの瞬間だけは。

 十香は光を取り戻した瞳で、繋がり合った手を見詰めた。

 口端を緩めて目を細める。

 それが、この世界で見せた、十香の初めての笑顔だった。

 

 




 間を開けないことが秘訣。絶望の対策はお早めに。
 絶望さん、さようなら。私、本当はイチャコラさんが好きなの!

<今すぐ実践!? 士道くんの中二病テクテック講座『交渉編』>
①嘘は最小限に留める
②安易に『味方』であることを強調しない
③信頼は他人の口に語らせる
④段階的にゆっくりと相手の認識を誘導する

 どう見ても、ただの詐欺師です。本当ありがとうございました。


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7.思い出を君に

「これはなんだシドー?」

「ああ、それは己の拳に宿った力を数値化する装置だ」

「ほう……では、試してみよう」

 

 十香は誰かが止める間もなく、全力の拳をミットに突き出した。音すらも置き去りにする神速の一撃は、パンチングマシンを粉々に砕いて、拳圧によって壁まで打ち抜いた。

 唖然とする一同の混乱を余所に、<ラタトスク>の工作員がすぐに片付けに参上し、その一角を立入禁止の看板で塞いだ。外から見えないようにブルーシートで覆われて、内側で顕現装置(リアライザ)による修復が始まった。

 

『この建物を貸し切りにしておいて良かったわね』

 

 インカムから琴里の呆れ声が聞こえる。

 士道は頬を引き攣らせて頷いた。下手をすれば死人が出ていた。

 

「私の結果はどうなったのだ?」

 

 不満気な十香の肩を、耶倶矢が叩いた。

 

「クックック、数値化不可能。我が眷属として申し分のない拳だ。誇るがいい、枠組みに収まるのは弱者、貴様は強者と証明された」

「おおー、そうだったのか! 相手を沈黙させることが真なる勝利……ん? まさか、ここはメカメカ団の訓練施設!?」

「否定。ここはゲームセンターです」

「ゲェムセンター?」

「解説。金銭と引き換えにあらゆる物が手に入る遊戯場です。勝利も食料も快感も得られる文明の天国とも呼ばれています」

 

 夕弦の説明は正しいような間違っているような、微妙なラインだった。というか天国という表現からするにゲームセンターが好きらしい。耶倶矢との勝負で通い詰める姿が容易に想像できた。

 

「…………」

 

 十香が瞳をキラキラと輝かせているので、真面目に言い直すのも無粋だと思い黙っておく。

 

「士道、あれを」

 

 折紙が士道の袖を引いて、プリクラのエリアを指差した。

 

「そうか、形に残るものもいいかもしれないな」

「まずは私と、二人だけで」

 

 無言の圧力が迫ってくる。

 更に背後から伏兵が現れた。

 

「待ってもらおうか、士道とのツーショットを最初に撮るのは、我こそが相応しい」

「挙手。マスターといえども譲れません。夕弦が立候補します」

 

 あっれー? おかしいぞー。これは十香をデレさせるためのデートじゃなかったかな? みんなもさっきまで協力的じゃなかったかな?

 十香のために協力はするが、別側面の乙女心としては素直に手を貸してはくれないらしい。

 

『モテる男は辛いわね、士道。鳶一折紙に関しては、まあそこそこに相手をしてあげればいいけど、くれぐれも八舞姉妹の機嫌は損ねないように気をつけなさい』

「簡単に言ってくれる」

 

 士道は肩を竦めた。しかし、先程までの危機に比べればどうということはない。

 

『サポートは全力でするわ。だから<プリンセス>……いえ、十香にこの世界を楽しませてあげなさい』

「任せておけ。俺の我侭のために、救わせてもらうさ」

 

 そして、ゲームセンターを舞台に士道の戦いは始まった。

 

 

    *

 

 

 時は少し遡る。陸橋での危機を乗り越えた一同は、そのまま夜の街へと繰り出した。

 なんとか無事に十香の信頼を取り戻せたとはいえ、奇跡に等しい成功だった。もう一度やれと言われても不可能だ。

 

 折紙は精霊の神経を逆撫でして、士道や街に被害が出ないようにするため協力してくれた。心中ではまだ消化できない思いがあったことだろう。

 

 あの場で一番の問題は八舞姉妹だった。十香とどの程度の友好を築いているのか、こちらの情報はどのように流れているのか把握できていなかった。だから、最初に敵対の立ち位置を明確にしてくれたのは助かった。

 士道とは初対面である(・・・・・・・・・・)。あのやり取りだけで、多くの情報を得ることができた。

 

 無事に綱を渡り切れたのは、士道を信頼して、こちらから求めない限りは口を閉ざしてくれたことにある。

 最後の瞬間まで、誰一人として士道とゴール地点を共有できていなかった。『機関』という敵と、立場は現実と変わらない――嘘を必要としない『設定』であることを、士道の戦い方を知る八舞姉妹が理解してくれたことが突破口になったのだ。

 

 士道は両隣を八舞姉妹に挟まれた十香の背中を見詰めて、ようやく一息をついた。ちなみに折紙は士道の隣をちゃっかり確保している。

 インカムを指先で叩いて、<フラクシナス>に状況終了を伝える。

 

『一先ずはお疲れ様』

「ふっ、俺に不可能はないのさ」

『はいはい、そうね、流石は最強の能力者は違うわ』

 

 士道は自宅を出る前に、琴里に連絡を入れていた。もしも失敗に終われば、<ラタトスク>の協力は必須だ。機関との戦いを続ける士道は、最悪の事態に備えるのを決して忘れない。

 

『このまま封印と行きたいところだけど、残念ながら十香の心は安定していないわ。だから、私たちがデートをサポートをしてあげる。そのために私も、その戦争にそろそろ混ぜなさい』

 

 このやり取りの後に、ゲームセンターの独特な外観に目を引かれた十香が入ってみたい、と言い出したことで初デートの場所は決まった。

 

 

    *

 

 

 パンチングマシンに続いて腕相撲マシンにも完全勝利を収めた十香は、心の底から楽しんでいるようだった。<フラクシナス>でパラメータを確認する令音もそれを保証している。

 

「誰も傷付けず力を振るえる……いい場所だな、ゲェムセンターとやらは」

 

 たぶん……いや、絶対に本来の楽しみ方とは違う。

 

「こんな時はどうすればいいと思う?」

『笑えばいいと思うわよ』

「ナイスアドバイス」

「ん? どうしたのだ、シドー?」

「……ナイスファイト!」

 

 士道は無駄に決め顔でサムズアップした。

 

「うむ、先程の力士とやらは手強かったぞ!」

 

 たぶん手強いのとは違う。最初に怪力で腕をへし折って、そのせいで筐体がいかれてしまい火花を散らし出した。スピーカーから発せられる声は禍々しいものとなり、まさしく闇堕ちしたRIKISHIとなっていた。土俵だけでなく腕相撲にまで駆り出されて散々である。

 

 流石の十香も迫力に後退り、一瞬で決まる勝負は膠着状態に陥るが、結局は中距離からの光弾で腕相撲マシンはこの世から消えた。呆気無い最後である。

 いや、まあ……彼も、十香の笑顔を咲かせられたのだから本望だろう。うん、そういうことにしておく。合掌。

 

「ところで、折紙」

「なに」

「どうして俺との距離がこんなに近いんだ?」

「暑い?」

「冷房が効いてるから問題ないが」

「そう」

「……そうじゃなくてね」

「どう?」

「どうでもなくてだな」

「いや?」

「……そんなことはないけど」

「そう」

「…………」

「…………」

「なあ、折紙」

「なに」

「どうして更に近付いたんだ?」

「いや?」

「…………」

 

 以下無限ループ。

 助けを求めようにも、十香は次なる獲物――ワニワニパニックを見付けて喜色満面で駆け出して行ってしまったし、八舞姉妹は別行動から戻ってくる気配がない。

 

「シドー! 見ろ、私の完全勝利だ!」

 

 LEDのスコアボードに『999』とカンストした得点が点滅していた。制限時間内のワニの出現数的に取ることができない領域だった。

 それもその筈、筐体から黒い煙が上がっており、完全に故障しているのだ。

 

 十香は硬貨を入れることを覚えたのはいいが、結局は力加減の失敗で穴ぐらに逃げ込むワニさんを筐体ごと圧殺していた。これじゃあデートじゃなくて戦争――いやただの蹂躙になっている。

 

『……ゲームセンターは失敗だったかしら』

「笑えばいいと思うぞ」

『はは、ははは、はは……はぁぁ。また上に無駄遣いするなと怒られそうだわ』

 

 <ラタトスク>も金には煩いらしい。

 士道は憐れなワニと可哀想な義妹に合掌した。

 

 そろそろ折紙の接近が危険域に達しようとした時、別行動中の八舞姉妹が戻ってきてくれた。

 耶倶矢が精一杯に寂しい胸を張ったポーズを決める。隣で夕弦が同じポーズを取るので、ますます侘しい気持ちになる。

 

「五人で対戦できる遊戯を見付けたぞ!」

「案内。付いて来てください」

 

 二人の案内で辿り着いたのは、本物の運転席を模した筐体のカーレースゲームだった。十香に力加減を気を付けるよう念を押して、ゲームをスタートする。

 流石にゲーム慣れしている八舞姉妹は、スタートダッシュを決めて一気に一位と二位に踊り出た。

 

「この程度の暴れ馬、手懐ける前に跪いておる」

「反省。耶倶矢の加速性能を侮っていました」

 

 三位には折紙が続いており、二人の爆走を阻むために無茶なショートカットを押し通して一位に浮上する。そのまま独走状態を保つと思ったが、折紙はスピードを緩めて二位の耶倶矢の前に張り付いた。

 見事なハンドル捌きで、耶倶矢を道の端まで追い詰めていく。

 

「くっ、貴様、この程度で我を倒せると――!」

「思っていない。だから、徹底的に潰す」

 

 曲がり角を利用して、斜めになった耶倶矢の車体にブレーキを踏み込んで突撃した。耶倶矢の車はコントロールを失ってスリップする。そのまま場外に吹っ飛んでいった。

 

「これは過酷な生存競争。最後まで士道と生き残った一人が勝者となる」

「そうなのか? 走り抜けるだけのものだと思っていたが、遠慮無くやらせてもらうぞ!」

「感服。流石はマスター、レースゲームを既存の枠に収めないプレイスタイルです」

 

 折紙の言葉を真に受けた十香や夕弦の瞳に凶暴な光が宿った。

 そんなレースゲームは聞いたことがない。髭面の配管工だって、甲羅やバナナの皮を使うのはレースに勝利するための手段であり目的ではなかった。

 

「ん……?」

 

 士道は液晶画面を囲うカバーに張り紙があるのを見付けた。

 

 ――男女二人が同着になったら幸せなカップルになっちゃうかも!?

 

 かも、じゃねーよ! 肉食系にこんなものを見せたらヤる気になるに決まってるじゃないですか、やだー!

 

「突撃。アクセル全開です」

「その攻撃は読んでいた」

「なっ!? 鳶一折紙、図ったなぁぁっ!」

 

 殺伐としたレースが繰り広げられる中で、脱落した耶倶矢が泣くのを必死で堪えようとするのを見付けて、士道は溜息をつく。

 

「終わらせよう」

 

 士道は壁に向かって突撃し車を炎上させた。

 こうして不毛な戦いは幕を閉じた。

 

 

    *

 

 

 レースゲームを終えた一同は、またゲームセンター内をぶらつき出した。

 十香がUFOキャッチャーのエリアに入ると首を傾げて、そのままべったりと張り付いて中を覗き出した。

 

「この箱に囚われているのは、耶倶矢と夕弦が持っているものと同じではないか?」

 

 山積みになっている景品は、夢パンダのパンダローネたちだった。パンダカラー、レッドカラー、白黒逆転のネガカラーが初期の三色で、景品一覧に新シリーズでイエローカラーやブルーカラーなどが追加されていた。

 

「肯定。耶倶矢が救出してくれました」

「あれは夕弦の的確な指示があってこそだ」

「否定。耶倶矢の操作が完璧だったからです」

「謙遜しおって、夕弦がいかに優れているか我は幾らでも語ることができるぞ」

「反撃。夕弦は耶倶矢がどれだけ優れているか世界が終わるまで語れます」

 

「な、なんだ……今日はからかわんのか?」

「疑問。いつも可愛がっているだけですが」

「……それは弄んでいるということだろう!」

「撤退。きゃー」

「この、逃しはせんぞ!」

 

 夕弦は走ってどこかに行ってしまう。更にそれを追って耶倶矢も居なくなった。

 

「シドー、これはどうするゲェムなのだ?」

「あの天井からぶら下がっているアームを操作して、景品を掴んで、あっちの穴に落とせば、手に入れられるってことだ。やる時は別の位置からアームの位置を確認する人が居たほうがやりやすい」

「ふむ、やってみてもいいか?」

 

 士道は財布を開けて小銭を確認する。

 

「もう一〇〇円しかないな。ちょっと両替してくるから、これだけ先にやっててもいいぞ」

『ちょっと、士道! この場を離れたら!』

 

 琴里からの警告に笑って首を振る。十香も折紙も愚かじゃない。士道は二人を信じていた。

 その場に残ったのは十香と折紙の二人だけになった。

 気不味い沈黙が二人の距離感を如実に表していた。

 十香は士道から渡された一〇〇円玉を握り締める。

 

「鳶一折紙、おまえは私が憎いか」

「…………」

「私はおまえが憎いぞ」

「そう」

 

「いや、おまえだけじゃない。耶倶矢も夕弦もシドーも……私は私が分からない」

「……あなた個人に特別な感情を持たない。精霊に対する憎しみがあるだけ」

「…………」

「でも、今は分からない」

「そうか」

 

 十香は説明書きを読むと一〇〇円を投入した。UFOキャッチャーがBGMを流して挑戦者を歓迎する。

 

「シドーが言っていた。これは二人でやった方がいいのだろう? 手伝え、鳶一折紙」

 

 

 

 士道がUFOキャッチャーのところへ戻ると、十香と折紙が協力してパンダローネを取ろうとしていた。

 

『驚きね。ASTと精霊の共同作業なんて、明日は月でも降ってくるかしら』

「違うぞ、琴里」

『どういう意味?』

「あれは……十香と折紙の共同作業だ」

 

 組織とか種族とか、そんな枠組みは関係無い。

 十香と折紙が自分の感情と向き合い、そして乗り越えたのだ。

 

『でも喧嘩を始めてるわよ』

「あっ」

 

 二人の言い争う声を聞こえてくる。

 

「こ、この! おまえの指示が遅かったからだぞ!」

「それは間違い。あなたのボタンを離す速度が遅かった」

 

 どうやら失敗の理由を押し付け合っているようだ。

 

「さて、それじゃあ行きますか」

 

 士道は喧嘩を仲裁するためにゆっくりと二人のもとへ向かった。

 それから、八舞姉妹も戻ってきて無事にパンダローネは人数分取ることができた。

 

 

 

 午後一〇時を過ぎて、ゲームセンターから出た一同は、耶倶矢の提案で星空の下でそれぞれ手にしたパンダローネを掲げた。まるでこの日を忘れないように、何かを誓うように。

 

 八舞姉妹のイエローカラー。

 折紙のノーマルカラー。

 十香のネガカラー。

 士道のレッドカラー。

 

「ん? シドー、一つ余っているぞ」

「ああ、それは余りじゃないんだ」

 

 士道はもう片方の手でブルーカラーのパンダローネを掲げる。

 

「そうだろう?」

 

 インカムをコツコツと叩くと、不機嫌な声が返ってきた。

 

『一応、お礼はいっておくわ。ありがとう、おにーちゃん』

 

 



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8.不器用精霊

 ゲームセンターの記憶を胸に、パンダローネの思い出を手に、十香は消失(ロスト)していった。

 次に現界した際には、個別で話をすることを約束している。

 令音の分析によると、どうやら十香の中にはまだ素直に幸福を享受できない捻くれ者が隠れており、八舞姉妹から士道の情報を引き出そうと考えているらしい。

 

 念の為に『設定』のすり合わせを済ませておき、十香に不信感を抱かせないように対策を行った。

 数日後、まるで準備が整うのを待っていたかのように、十香は現界した。

 

 

    *

 

 

 士道は朝食を終えると、折角の休日を有効活用するために、街へと繰り出した。街は常に変化を続ける複雑怪奇な迷路だ。例えすべての道を歩き地図を頭の中に叩き込んでも、次の日には工事や災害で通行止めになっている恐れがある。確実な逃走経路選択には、リアルタイムの情報こそが求められるのだ。

 

「やはり通れないか」

 

 士道は支柱にヒビが入った陸橋の前に佇む。老朽化していたため、数日前の十香の踏み付けが止めになったようだ。説得を失敗すれば、その足が士道の頭をスイカのように潰しているところだった。

 

「新しいルートを作っておかなければな」

 

 脳内マップに変更を書き加えておく。

 この陸橋が通れないとなると、他の交通網にも大きな影響を及ぼす。まだまだ調査は必要だ。

 

「シドー、橋など眺めて何をしているのだ?」

「世界の変化を刻み付けているのさ」

 

 士道は気配もなく突如として出現した十香に、戸惑うことなく対応していた。

 前回の十香は空間震の発生しない現界を行った。確認を取ってみたところ八舞姉妹も何度か経験していることが分かり、<ラタトスク>では静粛現界と呼んで区別するようになったのだ。

 

「それで、今日は本当のデェトとやらをするのだろう?」

「その通りだ」

 

 来禅高校の制服姿の十香に、士道は手を差し出した。

 

「握手をするのか?」

「合っているけど、ちょっと違うな」

 

 十香はよく分からないまま、士道の手を取った。

 

「繋いだぞ」

「では、行くとしようか」

「ま、待て、どうして手を離さんのだ!?」

「これがデートの定番なのさ」

「そうなのか? デェトとやらは奇っ怪だな。未だに正体を掴めぬぞ」

 

 十香の頭にハテナマークが次々と浮かぶ。上手く説明してやりたいが、実のところ交際経験のない士道にもよく分かっていない。着々とハーレムを築いていながら、彼女いない歴イコール年齢なのだ。

 

「……だが、こうして手を繋いでいるだけなのに……うむ、悪くない」

 

 十香の笑顔につられて、士道も笑った。

 

『上々の滑り出しね。そのまま商店街に向かいなさい。昨日の様子からすると、どうやら食に関しては並々ならぬ興味があるみたいだし』

「物凄く複雑な気分だけどな」

 

 ゲームセンターの中で、十香が一番良い反応を示したのが、クレーンマシンの景品であるお菓子だった。

 

「シドー、あれは何をやっているのだ?」

 

 士道は琴里との会話を打ち切って、十香の対応に戻る。

 見覚えのある女子が声を張り上げて、ティッシュ配りをしている。

 

「あれは、一言で言えば宣伝行為だな」

 

 向こうも士道に気付いたらしく、ディッシュを詰め込んだカゴを揺らして走り寄って来る。

 

「敵襲かっ!?」

「落ち着け、十香。あれは味方だ」

「きゃはは、<無反応(ディスペル)>も隅に置けないわねぇ。でも、そんな浮かれてると、戦場で生き残れなくなるわよーん?」

 

 あざといポーズを決めるのは、購買部四天王の<おっとごめんよ(ピックポケット)>だった。

 

「心配不要だ。俺は二度と購買士(バイインガー)の誇りを捨てるつもりはない」

「……嘘じゃなさそうねぇ」

 

 <おっとごめんよ>は士道の瞳に宿った力強い炎を見抜いた。腑抜けてはいない。思わず頬が釣り上がる。それでこそ四天王だ。

 

「それで、あなたは何者なのよー?」

「私の名前か? ふふっ、十香だ。良い名前だろう?」

 

 嬉しそうに名乗られると、命名した士道としてはこそばゆくなる。

 

「そういうことじゃないのよねぇ。<無反応>と一緒に居るぐらいだから、まさかただの蒙昧なる弁当派(ランチパッカー)だなんて返事は期待してないわよー」

 

 どうやら<おっとごめんよ>は、十香が制服姿であるため来禅高校の生徒だと勘違いしてしまったようだ。

 

「ぬ? おまえは何を言って――」

「十香は未来の戦友だ」

 

 士道が代わりに答えると、<おっとごめんよ>の顔から笑みが消える。

 

「へぇ……あの双子に続いて新たな購買士を見付けたって訳ねぇ。きゃはは、それじゃあ至高の逸品(フェイバリット・ワン)を教えてもらおうじゃなーい!」

 

 返答に戸惑う十香に、好きなパンを答えればいいと耳打ちする。

 

「おおっ、そういうことか。私が好きなのは、きなこパンだぞ!」

「良いセンスねぇ、いいわ、あなたが戦場(こうばいぶ)に来たら盛大に歓迎してあげるわよー!」

 

 <おっとごめんよ>は素早い身のこなしで、二人の間を走り抜けると、そのまま立ち去っていった。

 士道は空っぽだったポケットに手を入れて、ティッシュを取り出した。

 

「また腕を上げたようだな、<おっとごめんよ>」

 

 隙を突くだけでなく、相手の視界を自分の身体で塞ぐ新技。それだけでなく、動きから無駄が省かれて更に素早くなっている。次に相見える時は簡単には行かないだろう。

 

「なんだったんだ、あの女は?」

「大切な戦友だ。そして、きっと……きなこパンを求めるのならば、十香もいずれ顔を合わせることになる」

「……なるほど、あの女もきなこの魅力に取り憑かれているのだな」

 

 ズレているが、十香は何やら対抗心をメラメラと燃やし出した。近い未来、新たに強力な購買士が誕生するかもしれない。

 

『それにしても、精霊の好物がきなことはね』

 

 景品の中で最初に食べたきなこ味のチョコレートを気に入り、<ラタトスク>の手配で夕食には、きなこパンを用意した。すると予想以上の食い付きを見せたのだ。あの時の十香は天宮市の在庫を食い尽くす勢いだった。

 

『さて、気を取り直して商店街に向かってちょうだい』

 

 士道は<ラタトスク>の誘導に従って、買食いしながら商店街を歩いて行く。新しい味に出会うたびに、十香は幸せそうに笑う。デートというかグルメツアーになっていた。

 

「見ろ、シドー! きなこの専門店があるぞ!」

 

 そんな馬鹿な、と十香の指差す先を見ると、でかでかと『きなこ』の看板を掲げた屋台があった。店員の顔を確認すると、<フラクシナス>のクルーが変装しているのが分かった。

 

『これが<ラタトスク>の力よ』

 

 琴里が艦長席で胸を張り、不敵に笑う姿が想像できる。ゲームセンターに続いて、十香のためにどれだけの金が注ぎ込まれているのだろう。家計簿を預かる者としては、どこか薄ら寒さを感じた。

 

「何をボーっとしているのだ! 急ぐぞ、他の者にきなこをすべて持って行かれてしまう」

「そんなに慌てなくても無くなったりはしないから安心しろ」

「何を悠長なことを言っている? あの強烈な習慣性、脳まで染み渡る幸福感に満ちた甘み、あれだけの魔性を秘めた粉だ……下手をすれば、この土地が戦乱の渦に巻き込まれてもおかしくはないぞ」

 

 士道は十香に手を引かれて、きなこ専門店目掛けて全力疾走することになった。十香の印象だけを聞くと、きなこが禁止薬物か何かに思えてくる。きなこは精霊を救う――なんだろう、この居た堪れない敗北感。すべての苦労がきなこの山に押し潰される光景を幻視した。

 

 

    *

 

 

 商店街の上空に<フラクシナス>は待機していた。

 

「どうやら順調のようだね。十香の機嫌パラメータは高い状態で維持されているよ。ただ最大の問題は残ったままだ」

 

 令音の報告に、琴里は神妙に頷いた。

 

「そうね……十香はまだ完全に心を開いていないわ」

 

 機嫌は良くても、士道に対する好感度が高くても――肝心の十香が自分自身を信じることができていない。ASTの一方的な襲撃や、勘違いとはいえ信頼する人間の裏切り行為。彼女の心はすっかり疑心暗鬼になってしまっている。

 

「司令、ここはもう一歩踏み込んで親交を深めるべきではないでしょうか」

 

 神無月がまともな意見に、琴里は考え込む。確かにもうちょっと強引な方法で攻めて行っても問題ないかもしれない。

 

「私にいい考えがあります」

「言ってみなさい」

「きなこプレイです」

「は……?」

 

 思わずチュッパチャプスを口から落としそうになる。

 

「士道くんの全身にきなこを塗りたくってもらい、それを舐めさせるのです。分かりますか? 好物との一体化。捕食行為と性行為の壁を曖昧にして、二人の距離を一気に詰めることができるだけでなく――あ、司令! まだここからが重要で! ああ、御慈悲を! どうか御慈悲をぉぉぉぉっ!」

 

 琴里がパチンと指を弾くと、艦橋に屈強な男が入ってきて、神無月を連行していった。彼の悲鳴に耳を貸す者は居なかった。

 

 

    *

 

 

 商店街を抜けるまで、十香の手が空くことはなかった。もはやブラックホールと呼ぶべき胃袋だ。

 途中で腹休めに公園に寄ると、遊び回る小学生に混じって、ジャングルジムの頂上に四天王の<吹けば飛ぶ(エアリアル)>の姿を見付けた。

 

「ここは良い風が吹いている。空が誰の戦場か、今度こそはあの双子に思い知らせてくれる」

「シドー、なんだか、小さい中に大きいのが居るぞ」

「あれもきなこパンを目指すならば、避けては通れない相手だ」

「やはり、この世界はきなこを中心に動いているのだな」

 

 士道が十香の勘違いを訂正しようとすると、公園に気味の悪い笑みと共に白衣の男がやってきた。四天王の一人<異臭騒ぎ(プロフェッサー)>、何やらぶつぶつと呟きながら歩いている。

 

「くきき、例の調合を試すためには、室内では危険。風がなく人気のない場所を探さなくては」

「な、なんだ? 大きいのがまた増えたぞ!」

「……あれも、きなこパンの前に立ちはだかる存在だ」

「ぬぬっ、きなこパンに至るには修羅の道を踏破しなければならないのだな」

「そこまでする必要はないが、もしも至高のきなこパンを求めるならば、覚悟をしておけ。あの戦場には死がなくとも、それ以外のすべてがある」

 

 予想外の遭遇を幾つも乗り越えた先は、ファミレスだった。あれだけ食べたというのに、十香は昼食を要求したのだ。

 メニューを興味津々に眺める十香は微笑ましいが、その正体は注文を取りに来たウェイトレスに「ここに書いてあるものを全部だ」と戦慄を与えるハングリーモンスターである。

 しがないアルバイターである少女が、彼氏と思われる学生にしか見えない士道に視線を向けて、

 

「お支払いは……」

 

 と言葉尻を曖昧に確認を取ったのも仕方ないことだろう。

 士道は士道で、<ラタトスク>から全額支給されるのをいいことに余裕の笑みで、

 

「問題無い」

 

 と答えたので、更に少女を驚愕させた。それ以降、少女が学生の身でありながら玉の輿を狙うようになったのは、仕方のないことなのかもしれない。

 次々とテーブルに料理が運ばれてくるが、十香の消化スピードは尋常ではなかった。

 

「美味い、どれも美味いぞ!」

「あ、ああ……それは何よりだ」

「シドーは食べないのか?」

「俺は十香が美味しそうに食べるのを見るだけで幸せだよ」

「な、何を言っている!? へ、変なことを口にするな!」

 

 嘘ではない。大食いキャラに転向した十香は、とても明るく本当に見ているだけで幸せになれる。自費でなければ大歓迎だ。

 士道は注文したブラックコーヒーに口をつけた。経費で落ちるって素晴らしい。こういう時の士道は随分と所帯染みた感覚が顔を出す。

 絶妙な苦味に思考をすっきりさせた士道は、躊躇いを捨てて切り出した。

 

「十香、少し訊いていいか」

「なんだ?」

「十香にとって、この世界はまだ息苦しいか?」

「私は……今、幸せだぞ。だが、どうだろうな、私はまだ息苦しいと思っている」

 

 十香はテーブルの料理を片付けると、メニューには手を伸ばさずに会話を続けた。

 

「シドーのせいではないぞ。私の弱さだ」

 

 純粋無垢な心は絶望を知ってしまった。未だに底無し沼にはまって出てくることができずにいる。

 

「どうすれば十香は、もっと笑ってくれる? 俺はそのためならばどんな協力も惜しまない」

「……結局は、私がこの世界に受け入れられても、私がこの世界を受け入れられない。何をしても無駄だ」

 

 笑うことはできても、幸せだと感じても、どれだけ本物の幸せを与えられようとも――決して受け入れることができない。それは不幸というよりは、不器用に近い。自分で自分の感情を処理できないのだ。

 士道にも経験がある。あらゆる感情が空々しく感じて、何の価値も見い出せなかった。

 

 ――そんな時に、士道は中二病を覚醒させた。

 

 思わず声を出して笑ってしまう。

 なんだ、答えはこんなに近くにあったじゃないか。

 

「創ればいいのさ」

「なに……?」

「自分を受け入れて、自分が受け入れられる王国を」

「シドー、何を言っているのかよく分からないのだが」

 

「これから教えてやるさ。強い自分の創り方を。この世界のすべてが否定するのなら、まずは自分の望む理想の国を築けばいい。そしていずれは、世界すらも塗り替える」

「私の国など、王座と霊装の守るちっぽけな領土だぞ」

「広さなんて飾りだ」

 

 士道は立ち上がって熱弁を始めた。

 

「十香、お前は強い。だからこそもっと傲慢になればいい。例え相手が剣を突き付けてこようと、銃口を向けてこようと――対話を求めればいい。それが強者に許された余裕という奴さ。自分のことだけで精一杯の者は暴れ回り、当たり散らす。諦めるのは十香じゃない、相手の方だ。そして認めさせてやれ、十香の国を、十香の世界を」

 

 小さな体躯で精一杯に、ここは私の国だと叫び続けろ。

 幾度と無く侵略を受けようと、笑って相手にするな。

 ただテーブルに料理を並べて歓迎してやればいい。相手が食べないのなら一人で平らげて、目の前で舌鼓を打ってやれ。

 周りがどれだけ馬鹿にしようと――己の中に宿した真実は歪まない。

 

「自分の思い通りになった時、お前はきっとお前を信じられる」

 

 これがきっと、十香を救う鍵だ。十香に好きになってもらう必要があるのは士道ではなく、寧ろ十香自身だ。

 十香は眩しそうに士道を見詰めた。表現する語彙は浮かばないが、なんだか心が熱くなるのが分かる。思えば、士道が叫ぶ言葉は最初から不思議と魂を震えさせた。

 

「私が私を信じられる……シドー、お願いだ。私は、自分に似合う私になりたい」

「任せておけ、俺がお前に真実の力を授けよう!」

 

 

 

 

 上空一万五千メートルで、義妹が叫びを上げた。

 

『士道、あんた精霊まで染めるつもりね!?』

 

 艦長席で琴里は、ただ十香の無事を祈る。止めないところを見るに、やはり彼女の中では中二病はただ嫌悪や羞恥の対象ではないようだ。

 交渉を士道主導に変更した<ラタトスク>の選択は、果たして吉と出るのか凶と出るのか、無限の可能性に満ちた未来を見通せる者は誰も居なかった。




「僕と契約して、中二病になってよ!」

 合法的に勧誘を始めた士道くん。
 果たして、十香は中二病の毒牙から逃れられるのか。


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9.二つのデート

 十香が八舞姉妹と合流するのを見送って、士道はマッピング作業に戻った。短い時間とはいえ、純粋な十香はまるで真っ白なキャンバスに墨汁を垂らしたように中二病知識を吸収してくれた。

 

「十香は将来有望だな」

 

 満足そうに頷くこの男、後悔や反省の色は欠片も見当たらない。まさに外道である。

 

「ん……?」

 

 携帯電話がポケットの中で着信に震える。非常事態に備えてインカムは付けたままなので、琴里からの連絡であればそちらを使う筈だ。

 相手は折紙だった。

 

『これから会いたい』

「予定は空いているが」

『知っている』

「……そうか」

『そう』

 

「それで?」

『今後も、精霊を前に共闘することもありえる。そのために、予め協力態勢を整えておきたい』

「なるほど、確かに。こちらも情報共有をしておきたかった。どこで待ち合わせる?」

『そこから一番近い喫茶店』

「…………」

 

 そこから?

 

『北に向かって二〇メートルの交差点を左折。その後、三〇メートル直進すれば左手に見える』

「…………」

『士道?』

「いや、すぐに行くよ」

 

 このタイミングの連絡、それにこちらの位置情報を正確に把握しているということは、八舞姉妹との勝負の時みたく尾行していたようだ。十香への対応で精一杯だったため、まったく気付くことができなかった。

 

 琴里に折紙と会うことを報告してから、指示通りに移動すると、喫茶店の前で折紙が待っていた。

 淡色の爽やかなブラウスにフレアスカート、首元には小さなネックレス。完全に決めてきている。普段の実際的な折紙からは想像できない、やる気満々のデートスタイルだった。

 

「よかった」

 

 なんとなく安堵しているように見えるが、その理由はまるで見えてこない。

 いや、琴里への報告と相談で、連絡を受けてから時間が経っている。それで心配していたのかもしれない。やはり、こういう姿を見ると、折紙もまた普通の少女――

 

「何かあったのかと思った。あなたの通常時の歩行速度では、ここに辿り着くまでに一分も掛からない」

 

 やっぱり普通じゃなかった。しかし何故か安堵を覚えてしまうのが折紙クオリティ。

 

「心配させてすまない。少し考え事をしながら歩いていただけだ」

 

 士道は喫茶店のドアを開いて、折紙に入るように促す。レディーファーストの精神を発揮――ではなく、単にクリアリングをしただけである。

 

「そうだ、言い忘れていた」

「なに?」

「今日の服、良く似合っているぞ」

 

 折紙は無言のままぐっと拳を握り締めた。

 こういうところでちゃっかりポイントを稼ぐ、侮れない男である。

 

 

    *

 

 

 その頃、十香と八舞姉妹の姿はカラオケにあった。前回は八舞姉妹が歌うのを見ていただけだったので、十香がまた行ってみたいと要望したのだ。

 

「称賛。初めてとは思えない歌唱力です」

「当然であろう、我が眷属は完璧にして無敵。娯楽といえど、あらゆるものに精通せねばなるまいて」

 

 熱唱を終えた十香は、マイクを握るのとは逆の手で額の汗を拭う。

 

「うむ、カラオケとは良いものだな」

「提案。次は耶倶矢とデュエットで歌うのはどうでしょうか」

「そうさな、主従の重唱、この世界に響き渡らせようではないか!」

 

 耶倶矢がマイクを取って十香と並んで立つ。その間に、夕弦は初心者向けのデュエット曲を電子目次本(デンモク)でリクエストした。

 

「おお! 今度は耶倶矢と二人で歌うのか?」

「くくっ、我が美声に酔い痴れて余所見をするでないぞ?」

 

 イントロが流れ出し、画面に歌詞が表示される。耶倶矢のリードに十香の拙い音程が整えられる。一級品の声で紡がれる歌は、彼女たちの正体を覗かせるように、まさしくこの世のものとは思えぬ異界の情緒があった。

 

 歌声を絶やすことなく一時間。

 小休憩に入った三人は、ソフトドリンクで喉を潤した。

 十香が本題を切り出したのはそんな時だった。

 

「この世界は楽しいな。だが、私は……未だにおまえ達に、心のどこかで疑いを抱いている」

 

 まるで懺悔を捧げるように零れ落ちた言葉は、一瞬で世界の色を塗り替えた。

 宴の場に厳格な緊張感が漂う。

 そんな状況でも、夕弦と耶倶矢は笑顔を絶やさなかった。

 

「疑問。それは悪いことでしょうか」

「悪いことだろう? おまえ達は、こんなにも良くしてくれるというのに……私はそれに猜疑の目を向けているのだぞ」

「貴様は眷属としての自覚が足りぬようだな。勘違いするなよ? 主を疑うのは別に構わんのだ。唯々諾々と従う眷属に価値はない。だが、己を信じられぬ者に、意見を口にする権利など無いのだ。言い方は悪いがな、自信をもって我を疑うといい! そして、己の判断に疑問がある限り結論を出すな」

 

 この世界で生きていくならば、疑いの心を忘れてはならない。重要なのは、常に自分の判断に責任と自信をもつことだけだ。

 

「おまえたちも、シドーと同じことを言うのだな」

 

 十香の言葉に、何故か耶倶矢と夕弦は喜んでおり、緩み切った顔になっている。そんなに染まるのが嬉しいのだろうか。彼女たちは既に手遅れかもしれなかった。

 

「シドーに助けられたと言っていたが、あれはどういう意味なのだ?」

 

 何気ない疑問を口にする。

 すると、耶倶矢の笑みがもっとだらしなくなる。

 

「知りたいか? くくっ、知りたいであろうな。いいぞ、士道と紡いだ物語(サーガ)を語ってやろうではないか!」

「制止。耶倶矢は士道を好き過ぎるので客観性に欠けます。語り手に相応しいのは夕弦です」

 

 それを止める夕弦も、寝惚け眼をそのままに怪しい光を宿していた。

 

「何を言っておる!? 貴様こそ過去を改竄して外堀から埋めるつもりであろう!」

「驚愕。その手がありましたか。夕弦としたことが、耶倶矢に遅れを取りました」

「ってあんた、マジでやるつもりじゃないでしょうね!?」

「肯定。夕弦はいつでも本気です」

 

 白熱する二人に、十香は割って入れずおろおろしていた。

 ただ士道について情報収集したかっただけなのに、これはどういうことだろう。どうにか折衷案はないかと考えて、

 

「ぬう……よく分からぬが、それなら二人で語れば良いのではないか?」

「その手があったか、言った者勝ち……実に良い勝負だ!」

「同意。士道との過去は夕弦が独り占めです」

 

 十香は安易に踏み込んだことを後悔する。

 それは永遠に終わることのない惚気話の幕開けだった。

 それと同時に、八舞姉妹は士道と相談して構築した過去の真実を十香に聞かせる。初対面であることを維持するために、士道は最初から女装をしていたことにして、更にあの夜まで<業炎の咎人(アポルトロシス)>以外の呼び名を知らなかったことに設定した。

 

 以前に何度も顔を合わせながら初対面を実現する。

 妄想を組み合わせて、ほとんど事実通りの真実の完成だ。

 

 

    *

 

 

 喫茶店のボックス席で向かい合うように座ると、士道はメニューの中から一番格好良い名前のコーヒーを選んで、折紙も同じものを注文した。

 八舞姉妹と構築した真実を折紙と共有し、細部を詰めている間に時間は経過していた。

 その後、十香とのデートで交わした会話や、今は八舞姉妹とデート中であることを伝える。

 

「俺が協力している組織が、人払いを済ませてちゃんと見張りに付いているから、問題が起きればすぐに対応できると思うが」

「まだ、<プリンセス>の力は封印できない?」

「完全に信頼されていないみたいだからな。今の状態では難しい」

 

 折紙は携帯電話の着信に気付いて手に取った。画面に表示された相手の名前に眉を寄せる。

 

『折紙、緊急事態よ。<プリンセス>が現界しているわ」

 

 燎子の言葉に、折紙の無表情は凍り付いた。

 

「……<プリンセス>が現界している?」

 

 違和感がないように言葉を繰り返して、士道にASTが十香を捕捉していることを伝える。士道の表情もまた凍り付いた。

 

『それと、あんたは幽霊とか信じる? 私の目が確かなら、<プリンセス>と一緒に行動しているのは……<ベルセルク>よ』

「……っ!? <ベルセルク>は死んだはず」

『そうよね……霊波反応は確認できないし……まったく、馬鹿げた妄想だわ』

「攻撃命令は?」

『まだよ。避難も済んでいないし、異例だらけの事態だからね。あんたもすぐに来なさい。座標は今から送るわ』

 

 折紙は通話を終えた携帯電話を耳に当てたまま震えていた。

 最悪の事態に陥ろうとしている。これから、精霊との新しい戦い方が始められると思っていたのに――どうしてこんなタイミングで見付かってしまったのだ。

 

「折紙、状況は?」

「ASTが<プリンセス>の霊波反応を捕捉。共に行動中の<ベルセルク>も確認。攻撃許可は出ていない。<プリンセス>は別として、ASTとしては霊波反応の無い<ベルセルク>に攻撃を加えるつもりはない……だけど、上層部の考えは分からない」

 

 士道は頭を掻く仕草に紛れ込ませて、インカムを叩いた。

 折紙と共に喫茶店を出て、現場に向かいながら対策を練る。

 

『耶倶矢と夕弦にもインカムを付けさせているから、もう伝えてあるわ。どうにか八舞姉妹だけでも回収のタイミングを見付けて、<フラクシナス>で拾いたいけど……十香は霊波反応でASTに追跡されれば、この空中艦の存在が露見する恐れがある』

 

 つまり<ラタトスク>としては、消失(ロスト)を待つしかない。

 士道にも現状を打破する解決手段が浮かばなかった。

 

 

    *

 

 

 天宮駅前のビル群の窓ガラスが、夕暮れを反射して赤く染め上がる。夕日が沈むのではなく、まるで街が夕日に沈んでいくようだった。

 山林にキラリと輝くものがある。それは、三人の少女を捉える、ASTの狙撃手のスコープだった。

 

「何が何やら、精霊は未だに謎だらけね」

 

 燎子は双眼鏡で確認した三人の姿に溜息をつく。

 前震が確認されない現界を果たした<プリンセス>。そして精霊と行動を共にする<ベルセルク>と瓜二つの少女たち。亡霊と言われた方がすっきりできるというものだ。

 

 <プリンセス>の現界を知ることができたのは偶然だった。謎の精霊<アポルトロシス>の出現以降、人間社会に精霊が潜んでいないか調査するため、定期的に観測器を街中で動かしていた。奇しくも、それがASTの把握していない静粛現界対策になったのだ。

 

「喜ぶべきか、悲しむべきか」

 

 隊員達も動揺を隠せずにいる。殺した筈の精霊が生きていたのか、それともただの他人の空似なのか。

 霊波反応は人間だと主張し、精霊と相対して鍛えられた勘は精霊だと判断している。

 

「もう一度殺せ……なんてことにならなければいいけど」

 

 現場などお構いなしに椅子取りゲームに夢中なお偉方が、この状況をどう判断するのか。

 燎子の耳をノイズ混じりの声がくすぐる。

 

「――了解」

 

 与えられた命令に、燎子は感情を押し殺して応答する。

 結局、精霊と人間が共存するのは夢なのだろうか。今の<プリンセス>は、友人と過ごす時間を楽しむ普通の少女にしか見えなかった。

 

 僅かに頬を歪めて、狙撃手に命令を伝える。

 狙うのは――<プリンセス>。

 そして、かつて悲劇を引き起こした<クライ・クライ・クライ>が、再び放たれた。

 




AST「待たせたな」
ラタトスク「帰って、どうぞ」

Q.もう絶望さんは夏バテの筈ですよね?
A.親戚のシリアスさんだと名乗っています


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10.十香の王国

 空間震を伝えるサイレンが鳴り響く。商店街に広がっていた休日の賑やかな様子は、シャッター街を思わせる閑散とした空気に一変した。

 民間人の避難が完了したことで、折紙は機密情報の漏洩を気にせずASTとして動けるようになった。

 静まり返った街中に、折紙のまるで呪文のような言葉が響く。

 

基礎顕現装置(ベーシックリアライザ)、起動承認――ワイヤリングスーツ展開」

 

 ただの人間の身から、超常の力を発揮する魔術師(ウィザード)へと姿を変えた。

 士道の中二心が変身シーンに大いに沸き立つ。色々と妄想を逞しくさせたいところだったが、既に状況は切迫している。冗談を口にしている場合ではなかった。

 

「状況を確認する」

 

 折紙はワイヤリングスーツに搭載されたヘッドセットのインカムのチャンネルを合わせると、戦場で交わされるリアルタイムの会話が流れ込んできた。

 

『狙撃成功。ただし目標の生存を確認』

『それじゃあプランD-2で作戦続行。A分隊は私とこのままポイント(アルファ)に待機。B分隊は民間人の少女を救出、C分隊はB分隊の離脱を確認後、即座に攻撃開始!』

『日下部一尉、霊波反応が……確認されました』

 

 現場のやり取りに、指揮所からサポートするオペレーターの声が割り込む。

 

『<プリンセス>の生存なら、こっちでも確認できているわよ?』

『いえ、違います。新たな霊波反応です』

『まさか……』

 

 折紙は戦場をこの目で見ることはできなくても、燎子と同じ――いや、それ以上に現実を認めたくない思いに囚われた。

 

『確認されたのは――』

 

 

    *

 

 

 化け物を殺すためには自らも化け物になるか、あるいは知恵を振り絞ることで化け物を殺せるだけの兵器を生み出すしかない。

 対精霊ライフル<CCC>とは、つまり精霊殺しを果たすために作られた、対物ライフルにすら唾を吐く悪魔の兵器であった。

 

「十香っ! ふざけんじゃないわよ、あんたは私の眷属なんだから、勝手に死ぬことは許さないわ!」

「処置。すぐに治療をします。死なせはしません」

 

 八舞姉妹は、血を撒き散らして倒れた十香を抱き起こした。かばおうとしたのを十香は本能的に察知したのか、走り寄る二人を突き飛ばして、ASTの狙った通り、叫喚の魔弾をその身に受けたのだ。

 

 不幸中の幸いか、その動きで着弾点がズレたことで、脇腹を擦るように弾丸は通り抜けていった。重傷ではあるが、治療用の顕現装置を用いればすぐに完治できる。

 十香は撃たれた衝撃で倒れた際に頭を打ち付けたのか、意識を失っていた。

 

 ASTが空からこちらに近付いてくる。武器を構えて警戒はしているが、それはすべて十香にのみ向けられていた。

 人間である八舞姉妹は、ASTの敵ではないのだ。

 

「……ねぇ、夕弦。学校生活って楽しかったわね」

「同意。士道やマスターと過ごす時間はとても充実していました」

「他にもやりたいこと一杯あるけどさ、やっぱり戦場が私たちを呼んでるっていうかさ、そんな感じ?」

「否定。そんな痛々しい感覚は夕弦にありません」

「否定するなし! ここは合わせてとく場面でしょ!」

「嘆息。そうですね」

 

「あんたねぇ……。まあいいわ、ここには士道も折紙も居ないし、それってつまり、十香を守れるのは私たちだけってことよね」

「復唱。夕弦たちだけです」

「それじゃあ、こうなっちゃうのもしょうがないと思うのよ」

「応答。仕方ないです」

 

 八舞姉妹は優しく横たえた十香を背にかばうように立ち上がる。

 

『まさか戦うつもり!? 馬鹿なことはやめて、大人しく人間として保護されなさい! あんた達が精霊だって気付かれれば、失うのは日常そのものなのよ!』

 

 二人の様子に何をするのか気付いた琴里が、必死で説得をしてくれる。その優しさには感謝するが、受け入れる訳にはいかなかった。

 

「久し振りだからって、しくじるんじゃないわよ?」

「反撃。寧ろ耶倶矢が失敗しないか心配です」

 

 苦笑を交わし合い、幸せに満ちた未来が黒く塗り潰させるのを想像する。この一瞬のために、きっと多くのものが失われるだろう。それは苦しいし、辛いし、本当は今すぐに逃げ出してやりたい。

 

 ――だから、その最悪の気分を力に変えてやる。

 

 精霊の力が逆流を始めた。失われた本来の力が全身に満ちていく。

 普段着と合わさった中途半端な霊装を身に纏うと、シンメトリーになるように、格好いいポーズを決めた。

 

「覚悟はいいか、傲慢なる人間よ。我が眷属を傷付けた罪は重いぞ?」

「宣言。十香にはこれ以上、指一本触れさせません」

 

 この世界に再び<ベルセルク>が現界した。

 ASTは否定したかった現実を目にして、構えた武器を震えさせる。殺した筈の精霊が姿を現してしまった。血塗れになった顔は今でも生々しい記憶として残っている。

 

 また繰り返すのか。また殺さなければならないのか。

 ASTは皮肉な巡り合わせを呪う。先に引き金を引いたのは自分たちであり、この状況を作り出してしまったのも自分たちだ。例え上司の命令だと責任は逃れられても、その罪を誰かに押し付けることはできない。

 

 ――そして、誰も望まぬ戦いが幕を開けるのであった。

 

 

    *

 

 

 血の気が引いていく。拳を作ろうとしても力が入らない。視界がぐらぐらと揺らぐ。両耳に流れ込んでくる情報は、もう脳までは届くことはなかった。

 随意領域(テリトリー)が展開されている筈なのに、身体が妙に重く感じられた。それなのにどこか、現実感の無いふわふわとした感覚が包み込んでいる。

 

「……士道」

 

 大切な人を呼び掛ける声は、嗄れており発音も怪しかった。

 

「<ベルセルク>が現界した」

 

 ただ事実だけを伝えるように言った筈なのに、そこには隠しようのない詰問の意図が宿っていた。

 

「折紙……」

 

 士道の返す言葉は震えていた。

 これからの展開を予期しているのだろう。彼はこれを知っていて黙っていたのだ。

 

「あの夜、<プリンセス>にやったことを、あなたは私にもしていた」

「…………」

「……私に、情報を隠していた」

 

 精霊は封じたとしても、士道の意志に関係なく再び力を取り戻す可能性がある。それはいつどこに現界するのか分からない本来の精霊と変わらない――突発的で理不尽な災厄を意味していた。

 

「私は、あなたの力を使えば、精霊を完全に消すことができると……勝手に判断していた。でも、あなたはそれが間違いだと知りながら、訂正しなかった」

 

 嘘は言っていないが、すべてを話した訳ではない。

 表面上の事実を話してはいるが、その結果に至る感情はまったくの別物。

 それは誰にとっても優しい真実。無知な赤子を包み込む揺り籠だ。

 

「折紙、俺はお前を――」

「分かっている。あなたが、私にその情報を隠していたのは、悪意からではない。精霊への憎しみを和らげるため、私の心を救うためにやったこと」

 

 折紙は士道の言おうとしていることを先回りした。

 

「でも、それはあなたの都合(・・・・・・)でしかない」

 

 五河士道という人間は優しい。絶望する者が居れば放っておけず、自己犠牲を厭わずに救おうとする。それは病的なものであり、異常とも言える。どうして彼がそんな人間になってしまったのかは分からないが、今の折紙にとって、その優しさは嫌悪すら催すものとなっていた。

 

「あなたが救いたいから、あなたが理想とする状態に持ち込もうとする。その行為は否定しない。でも、私はもう、あなたが口にする真実を鵜呑みにすることはできない」

 

 鳴りを潜めていた復讐者としての、凍えるような殺意が全身から放たれる。

 精霊の完全封印ができないことを黙っていたのであれば、もっと折紙にとって致命的な秘密が存在することも考えられる。

 それはつまり、<イフリート>の生存を隠している可能性だってあるのだ。

 

「私にとって、精霊への復讐がすべて。それなのに……別の可能性に縋ろうとして、この憎しみを忘れようとしていた」

 

 もう二度と迷わない。都合の良い幻想に騙されない。

 自分の手で、確実に精霊を殺し切るのだ。

 

「折紙、なんでお前は復讐がすべてなんて悲しいことを言っちまうんだ。……どうして自分から不幸になろうとするんだっ!」

 

 折紙はスラスターを起動して浮遊した。

 

「それが私の生きてきた理由。偽りの幸せよりも、価値がある本物」

 

 地上で立ち尽くす士道は、虚を突かれて目を見開いた。

 折紙の言葉は、士道の在り方への否定だった。妄想を武器に現実を否定し、真実によって理想郷を形作る。現実は余りにも非情で救いの手が足りない。だから全員が幸せになるのは難しい。

 

 それでも、折紙は真実を否定して、現実を求めた。

 結局は妄想で誰かを救うことなんてできないのか? いずれは破綻して、より大きな悲しみや苦しみとなって襲い掛かってしまうのか?

 

 ――違う。間違っている。

 

 そんなのが正しかったら、現実で救われない人間は不幸のまま生きるしかないではないか。

 

「……俺は、意地でもお前に幸せになってもらう。そのためにも復讐しかないなんて現実は、全力で否定する!」

 

 士道は精霊の力を引き出して、周囲に旋風が巻き起こった。

 争うことを求めていないのに、それでも分かり合えないから、最後は戦うことになる。どれだけ相手を大切に思っていても、譲れないものがある限りそれは変わらない。

 折紙は首を横に振って、対精霊レイザー・ブレイドを引き抜いた。

 

「あなたは、分かってない」

 

 士道は風によって浮力を得ると、その身を弾丸に変えて特攻を仕掛けてきた。折紙は随意領域で強制的に制止を掛けるが、その中でも士道の動きは止まらなかった。

 随意領域――自分の思い通りになる空間。それを突破するということは、折紙にとって士道が思い通りにならない脅威であることを意味していた。

 

「分かっているさ、現実がどこまでも救いがないってことは! お前をまた精霊と戦わせれば、もっと不幸になる! お前だけじゃない、耶倶矢も夕弦も十香だって!」

 

 至近距離で睨み合う。瞳に込められた意志と意志が衝突し、互いに正しさを押し通そうとしていた。

 

「分かっていない。不幸だとしても私は、現実(ここ)で生きている。あなたは、妄想(そこ)に逃げただけ」

 

 どこまでも真っ直ぐで強いのに、本当は臆病で弱さだらけの人間。そんな士道を、折紙は愛さずにはいられない。弱さを悪ではない。そして、弱さに屈しない人間こそが、一番輝いて見える。それが羨ましくて堪らなかった。

 だが、今の士道には、その輝きが見えない。駄々をこねる赤子だ。

 折紙は憮然として、士道を随意領域で弾き飛ばす。まさに赤子の手を捻るようであった。

 

 

    *

 

 

 地面に仰向けで倒れた士道は、両頬を強く叩いた。

 焦っているのは分かっている。折紙が再び精霊と敵対したことを恐れているのも分かっている。

 <無反応(ディスペル)>の仮面の下で、士道はいつだって追い詰められていた。大切なものを守ってこれたからこそ、格好付けられるのだ。

 

 自分の構築してきた真実によって、救ってきたすべてが失われようとして――それは、ちっぽけな中二病患者には余りにも重過ぎた。

 それでも、認めなければならない。今の事態は、士道が招いたものなのだから。

 

「逃げている、か。折紙、お前は正しいよ」

 

 自分のやり方を押し付けて、たまたま今まではうまくいってきただけだ。それを自覚しているから、「救ってやる」と宣言するのではなく「救わせてくれ」と懇願してきた。

 

「だけど、俺は何度も間違えてきたが、諦めたことはない」

 

 やり方が間違っているのなら正せばいい。より良い未来を目指して、もっと適したやり方を見付ければいい。

 不屈の精神で士道は再び立ち上がった。

 精霊の力を操るとはいえ、相手は圧倒的強者である折紙だ。全力で挑んでも勝てるかどうかは分からない。

 

「私が手を抜くのを期待しているのなら、止めた方がいい」

 

 右手に炎を呼び起こして戦闘態勢を取った士道に、折紙はいつもの平坦な声で告げた。

 

「生身の人間では、CR-ユニットに太刀打ちできない」

「勝利宣言か。中々に心得ているじゃないか。でもな、勝利の女神は強ければ微笑むほど素直じゃないぞ」

 

 士道は踏み込むのと同時に足元に風を巻き起こし、折紙のところまで一瞬で飛び上がった。しかし随意領域がまるで粘体で包み込むように、士道の動きを阻害する。

 

「この程度で、俺が、止められると思うな!」

 

 炎の拳を背部のスラスターに叩き込む。移動手段を奪えば、折紙をあの戦場から間接的に遠ざけることができる。

 しかし、スラスターユニットはビクともしなかった。逆に士道が拳を痛めるだけの結果となる。

 

「…………」

 

 折紙はやはり銃火器を使おうしない。光剣も構えただけで、斬り掛かってくることはなかった。

 

「あなたの優しさは、私を傷付けることすら許さない」

「それはお互い様だ」

「……私は、あなたを守るためなら、躊躇わない」

 

 折紙はスラスターを吹かして、空中で士道を振り回す。士道は抵抗せずに自ら離れた。ホバリングは既に修行で身に付けている。空中戦闘だって今ならばこなせるのだ。

 

「あなたはASTと敵対してでも、精霊を救おうとする。そんなことをすれば、今度こそ……だから、行かせない」

 

 一体これは誰の筋書きだろうか。ここまで致命的に信頼を裏切ったというのに、それでも折紙は士道を守ろうとしている。その優しさを、精霊にも与えることができたなら――そう思わずにはいられなかった。

 

「再生能力は厄介。でも、弱点は既に見抜いている。これ以上の戦闘は無意味。投降してほしい。できるのなら、私はあなたに攻撃を加えたくない」

「やってみなきゃ分からないだろう。お前を止めて、みんなを助けに行く。まだ俺は何も諦めちゃいないっ!」

 

 折紙と士道は、合図もなく同時に相手に向かって突っ込んでいった。

 敵対の意志を持たないままに、ただ自分の想いと在り方を押し付け合う――優しさと皮肉に満ちた戦いだった。

 

 

    *

 

 

 精霊の力を完全に引き出せていない八舞姉妹では、ASTとの戦闘は過酷を極めた。対精霊の弾丸を撃ち込まれれば、中途半端な霊装では紙も同然である。

 

「そう簡単には行かぬか」

「同調。中々の強敵です」

 

 二人がここまで生き残ることができていたのは、精霊中最速の機動力があり、またASTの攻撃に躊躇があったからだ。それでも全身傷だらけで、力尽きるのは時間の問題だった。

 上層部が痺れを切らしたのか、ASTの兵装は凶悪なものに変わりつつある。

 ASTの隊員が、空から八舞姉妹と倒れた十香を取り囲む。両手には対精霊ガトリング<オールディスト>が装備されていた。

 

「危惧。あれは不味いです」

 

 夕弦の言葉に耶倶矢は頷くが、何か対処が浮かんだ訳でもなかった。

 十香だけは守り切ろうと、二人は両腕を大きく広げて盾となる。

 

「我は永久不滅、貴様らの弾丸如き微風と変わらぬわ!」

 

 精一杯に強がって恐怖を押し殺す。

 幾つもの銃身が鈍い輝きをもって睨み付けて来て――遂に回転を始めた。銃弾を撒き散らして、無数の閃光が二人に向けて降り注ぐ。

 

「……夕弦っ」

「呼応。耶倶矢っ」

 

 二人は手を伸ばして繋ぎ合い目を瞑った。

 

 ――しかし、いつまで経っても最期が訪れることはなかった。

 

 恐る恐る目を開けば、目の前に大きな壁がせり上がっていた。いや、違う。これはモニタ越しではあるが、見たことがあった。

 

 

    *

 

 

「我が領土で好き勝手な真似はさせん」

 

 十香は呆ける八舞姉妹よりも前に出て、盾となった玉座から<鏖殺公(サンダルフォン)>を引き抜いた。

 

「安堵。目覚めて良かったです」

「くくっ、良き働きだぞ、十香」

 

 十香はぼろぼろになった八舞姉妹を見詰めて、力強く頷いた。

 

「うむ、もう問題無い。夕弦と耶倶矢は休んでいてくれ。後は私が引き受けよう」

 

 傷口に触れると、べっとりと血が付いたが、八舞姉妹には見えないように霊装で覆い隠す。この痛みのお陰ですぐに目を覚ますことができたのだから、複雑な気分だ。

 

 警戒から攻撃を中断したメカメカ団を見上げて、十香は士道との出逢いから始まった賑やかな日々を思い返した。時間にすれば、それまでに過ごした孤独よりも短いのに、一つ一つの出来事を鮮明に思い出すことができる。

 

「シドー……私が認められる国を作ればいいと言ったな。だったら、私を認めてくれたのは、おまえと耶倶矢と夕弦……後は鳶一折紙の四人だけだ。おまえたちだけが、我が国民だ」

 

 剣を地面に突き立てる。

 さあ、堂々と建国を宣言しようではないか。

 

「――私が居る、この場所が我が王国! 何人たりとも不当に力を振るうことを禁ずる」

 

 士道から学んだ『能力者(ちゅうにびょう)』の極意を紐解いて、無駄に身振り手振りを交えながら続けた。

 大事なのは手の角度と、腰の反り具合。

 

「此処に<王国>は成った。さあ、控えろ人類」

 

 欺瞞に満ちた世界を解放し、精霊と人間が共存するために真実を刻もう。

 これより、この地、この王国から始まるのは、

 

「――世界の、再生だ」

 




 一体いつから味方だと錯覚していた?
 折紙さんは『精霊』を完全に殺せると思っていたから協力していたのです。
 一言でまとめれば「隠し事いくない」という単純な結論。

 さて、第二部も終盤。退屈な伏線ペタペタも終わったことだし、一気にフィナーレまでまっしぐら。
 ラタトスク、AST、八舞姉妹、十香、折紙、そして中二病と『機関』――すべてを巻き込んだ最終決戦の幕開けです。


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11.其の名は

2014/08/16:加筆訂正


 戦況が混迷する中で、琴里の姿は<フラクシナス>の特別通信室にあった。現場は副司令の神無月に任せて、彼女は円卓会議を相手に交渉を行っていた。

 

「この状況を<フラクシナス>の存在を隠蔽したままで打破するのは困難です。許可を頂けないでしょうか」

『それは不可能だよ、五河司令』

「ですが……!」

『非常に惜しいとは思う。しかし世界中で確認されている精霊は、彼女たちだけではない。こうなってしまうこともあるだろう』

「……代わりが、居ると仰るのですか」

『勘違いしないでくれたまえ。危険を冒すべきではないと言っているのだ』

「議長も同じ考えなのですか?」

『残念ながら議長は席を外している』

 

 ブサ猫が、いけしゃあしゃあと好き勝手に言えるのはそういうことか。他の二人――泣きネズミとバカ犬は口を開こうとしない。こいつらはこいつらで、どっちに傾いても問題ないように保身を優先しているのだろう。

 

「……<ラタトスク>が求めるのは、精霊の力ですか、それとも精霊が幸せに生きる未来ですか」

『有効活用できるならば、それに越したことはあるまい』

 

 流石に円卓の地位を得ただけはある。決定的な失言は漏らさない。私欲を優先しているのは丸分かりだというのに、厄介なことこの上ない。

 

『そもそもこの事態を招いた理由は、五河士道が精霊と誤認されたことが始まりのようではないか。ASTが精霊の探知に力を入れるようになったのは、間違いなく彼に責任がある』

 

 今度は士道の否定を始めた。結局のところ行き着く先は、<ラタトスク>の協力を積極的に受け入れない士道にあるのだ。彼らにとって士道はただの中二病には思えないのだろう。頭でっかちな奴ほど士道を誤解する。

 

『だから、私は再三申し上げて来たのだ。彼のやり方は強引過ぎるし、危険性が高い。交渉役は別に立てて、精霊を説得後、彼に引き合わせて、信頼を得た後に封印させればいい』

 

 まだ机上の空論を語るのか。

 精霊は無知ではあるかもしれない。しかし、その存在故に敵意や拒絶ばかり受けてきたからこそ、感情には敏感なのだ。

 

 琴里は交渉を諦めた。彼らには彼らなりの思惑があって<ラタトスク>に協力している。そこに情はない。精霊の生き死にが関わっていようがビジネスなのだ。

 これ以上の無理を通せば、琴里も立場を失いかねない。それこそ、より多くの精霊を犠牲にすることになるだろう。

 

「私が間違っていました。無理を申し上げて、手を煩わせたこと謝罪致します」

 

 歯を食い縛り頭を下げた。

 

『そうかね、分かって頂けて何よりだよ』

 

 優越感に満ちた声が頭上に降り注いだ。まるで勝ち誇るように、社会的地位がもたらす権力が、絶対的な力だと信じ切った声だった。

 

 頭を下げたまま、琴里の中で逡巡が繰り返される。何が正しくて、どうすれば良いのか。まだ見えてこない。

 それでも一つだけ、余りにも分かり切っていることがあった。

 きっと士道ならば――どんな過酷な状況であっても絶対に自分の意志を貫き通す。

 

 琴里の頭が上げられる。ブサ猫の先に繋がる相手を睨み付けた。

 目の前に救える命がありながら、大局的な視点でそれを見捨てる――司令官であれば求められる選択だ。訓練を受けた琴里はそんなことは百も承知である。

 

「私は間違っていたのです。そもそも、あなた達のテーブルについて、許可を取ろうとしたことが誤りでした」

 

 琴里は胸を張って、自分の判断を押し通す。

 

「戦場は会議場ではございません。ここから先は現場の仕事、観客席など不要。私は士道を信じます! そして、私の意志で全力のサポートをします!」

 

 

    *

 

 

 精霊の力を発揮した<プリンセス>は、もはやASTの敵う相手ではなかった。剣圧だけで随意領域(テリトリー)ごと魔術師を吹き飛ばし、前進する度に版図が広げられる。刻まれた一歩はどれだけ小さくても、まさしく世界地図を書き換える強大な一歩だった。

 

「他愛もない。その程度の力で、我が領土に攻め入ったのか」

 

 圧倒的な力を前に、押し切られる。

 だが、今まで<プリンセス>と幾度も戦闘を繰り広げてきたASTには分かった。彼女は手加減をしている。目には光が宿っており、冷え冷えとするような殺意が感じられない。

 <プリンセス>は玉座まで引き返すと、優雅に腰掛けた。

 

「ここは王の間だ。礼儀を知らぬ侵略者よ……喜べ、私は寛大だぞ。今からでも遅くはない。精霊と人類の未来を、存分に語り合おうではないか」

 

 今までの<プリンセス>とは思えない対応に、ASTは戸惑った。どうして今になって対話を要求するのだろう。霊装があれば、例え銃口を向けられても笑っていられる余裕があるのは理解できる。だが、この変わり様はなんだ。たった一週間かそこらで何があったのか。

 

「……まさかね」

 

 燎子だけでなく、あの作戦に関わったASTの隊員は同じ結論に至った。

 

「隊長、どうされますか」

「流石に精霊との交渉なんて、現場指揮官がするもんじゃないわ。相手はあの時とは違う、極めて戦闘能力が高い<プリンセス>よ? 上の判断を仰ぐしかないわね」

「もしも同じ結果になれば?」

 

 狙撃手を務めた隊員が、かつての悲劇を思い返して声を震えさせた。彼女は二度も<CCC>の射手を務めてきた。その度に精霊との戦いに疑問を抱いて迷い続けてきたのだ。

 

「精霊をこの世界から排除するのが私たちの仕事。それは変わらないわ」

 

 燎子の苦悩を見抜いたのか、狙撃手は何も言わなかった。

 上層部の結論が出たのと、折紙が現場に到着するのはほぼ同時であった。

 

「折紙、あんた今まで何をしてたの?」

「……避難する民間人の人混みに巻き込まれた」

「まったくこんな時に運がないわね。でも、ちょうどいいタイミングかしら。無線のやり取りは聞いていたわね?」

 

 折紙は無言で頷いた。

 

「――交渉は決裂。精霊は断固排除とのお達しよ」

「…………」

「あんたは動じないのね」

「精霊を倒すのがASTの役目」

「まあ建前上はね」

「違う。精霊はこの手で、完全に殺し切る」

 

 折紙の瞳は暗く淀んでいた。かつての折紙とも、あの事件の後の死んだ目とも違う。復讐に囚われながら、その心にはまだ迷いが渦巻いていた。

 

「あんたに何があったのかは知らないけど、無茶と無謀は禁止よ。あと命令違反ね」

 

 最大戦力である折紙が加わり、ASTの戦闘態勢は整った。

 敵は<プリンセス>及び<ベルセルク>。上層部の優先目標は<ベルセルク>だが、戦力として計上できないほど疲弊した相手は、現場判断で無視させてもらう。まずは脅威となる<プリンセス>の排除が最優先だ。

 

「思うところがあるかもしれないけど、今は仕舞いこんで任務に徹しなさい。あんた達は冷酷でも残酷でもない。心を壊すぐらいだったら、私みたいな碌でもない上官を恨みなさい」

 

 果たして一体何と戦っているのか、分からなくなることがある。

 それでも、せめて自分たちだけは真実を胸に、犠牲となる精霊を忘れてはいけないのは確かだ。柵や世間体を考えて格好付けてばかりはいられないけれど、心だけは歪めたくなかった。

 

 

    *

 

 

 十香の横顔が沈み行く夕日を浴びて、不敵な笑みに影が差す。王者の気風や貫禄が宿っていた。ただ士道から教えられた通りにしているだけだが、実戦を経験した中二病からの指導は、もはや実用的な交渉術になっていたのだ。

 

 肘掛けにもたれた十香は、呼吸が乱れそうになるのを抑える。脇腹からの出血が止まらなかった。<CCC>の弾丸は、生き延びた獲物を執拗に追い詰める。元々は再生能力を封じるために開発された、対精霊特殊弾を装填していたのだ。

 

「静まったか……ようやく刃を収めるつもりになったようだな」

 

 十香は安堵の表情を浮かべる。八舞姉妹は力尽きて玉座の陰で眠っており、十香自身もこれ以上の戦闘継続は命懸けだった。

 

「ん……?」

 

 風切り音が聞こえてくる。

 そちらに目を向けると、夕日が目眩ましになりよく見えない。だが、殺気だけは隠し切れていなかった。

 日差しに紛れて振り抜かれた刃を、十香は<鏖殺公(サンダルフォン)>で受け止める。

 

「何故だ……。どうしておまえが、私に刃を向ける!?」

 

 鍔迫り合いに持ち込んだ相手――それは鳶一折紙だった。

 

「私はAST、精霊の敵」

 

 動揺を抑え込んで、十香はゲームセンターでの誓いを思い出す。

 

「そ、そうか……これはシドーの作戦なのだな! おまえが敵の振りをして、この場を切り抜けるのだろう?」

「違う。私はあなたを殺しに来た」

「……おまえと私が協力して取った、この思い出まで嘘だというのか」

 

 十香は胸元を見下ろす。折紙の視線は十香の後を追っていき、紛失しないようにチェーンを通して首から下げられたネガカラーのパンダローネに辿り着いた。

 

「嘘ではない」

 

 折紙の返答に、十香は不安が吹き飛んで喜色満面になる。

 

「そうか! では、これには事情があるのだな! おまえは、『機関』とかいう連中に従って仕方なく――」

「違う。嘘ではないから、思い出ごと断ち切る」

 

 折紙は十香が縋り付いた希望を容赦無く断ち切った。それは肉を抉る光剣よりも、十香の胸を深く貫いた。

 

「私にとって、精霊と馴れ合った記憶は人生の汚点」

 

 刃に込めた力が弱まった隙に十香は突き飛ばされて、玉座に背中から叩き付けられた。

 思い出が色褪せていく。まやかしだったのか。あの日々はすべて偽物――心が凍えそうになる。だが、命懸けで守ろうとしてくれた八舞姉妹の存在が踏み止まらせた。

 

「私は……思っていた以上に、おまえを信じていたのだな」

 

 信頼があるからこそ、裏切りは重くなる。

 十香にとって、折紙は数少ない大切な『国民』だった。

 

「だが、私にはまだ、耶倶矢が、夕弦が、シドーが居てくれる。孤独などではない。鳶一折紙、おまえは今……幸せか?」

「<ベルセルク>――八舞夕弦と八舞耶倶矢も殺す。それに士道はここには来ない」

「どういう意味だ? 貴様……まさか、シドーにまで手を出したのか!」

「精霊であるあなた達に、彼が命を懸けてまで守る価値は無い」

 

 十香は乾いた笑いを漏らす。国民にまで裏切られて、この世界は何を信じればいいのだ。

 

「――<プリンセス>を殺して、私は私を取り戻す」

 

 折紙はずっと大切に持っていたノーマルカラーのパンダローネを取り出して、十香に見せ付けるように投げ捨てた。それは誓いの崩壊――信頼や友情が完全に断ち切られた瞬間だった。

 

 

    *

 

 

 士道がダクトの通った天井を見上げて最初に抱いたのは違和感だった。

 

「目覚めたね。痛むところはないかな?」

 

 頭を横に倒せば、丸椅子に腰掛ける令音の姿が見えた。

 落ち着いて来ると、ようやく状況を理解できた。ここは<フラクシナス>の医務室だ。どうしてこんなところで寝ているのか。考えるまでもなかった。違和感を抱いたのは、意識が戻った時に見えるのは冷たい地面か空だと思っていたからだ。

 

「……俺は止められなかったのか」

 

 顔を両手で覆い隠す。涙が出たのではない。ただ敗者の顔を誰にも見られたくなかった。

 折紙との戦闘の最後の瞬間を思い出す。

 空中戦には折紙に一日の長があった。折紙は小回りを利かせた機動で振り回し、体勢を崩したところで背中から士道の首に左腕を回して、頸動脈を絞め上げた。

 

「ぐぅっ……!」

 

 随意領域で身動きを封じられた士道は、まともな抵抗をできなかった。

 視界が暗闇に塗り潰されていき、最後に捉えたのは、眉を寄せて心の痛みに堪える折紙の顔だった。

 士道は何かを告げようとしても喘ぐことしかできず、そのまま意識を失った。

 

「商店街のベンチで気絶しているのを監視員が回収したんだ」

 

 令音の説明に士道は思わず笑ってしまった。気絶した後、折紙は士道をベンチまで運んでくれたということになる。

 現状を要約して説明されて、自分の予想通り――いや、それ以上に危機的状況になっていることを知った。

 

「琴里の指示は?」

「彼女は艦橋を離れている。シンの言う、いわゆる『機関』と戦っているところだ」

「……そうか、そのせいで<フラクシナス>は俺を回収する余裕ができてしまったんだな。琴里は大丈夫なのか?」

「きみの妹だ。信じるといい」

「ふっ、それもそうだな」

 

 士道はベッドから起き上がり、脇に揃えてあった靴に足を通して――途中で止めた。

 

「令音解析官……あの時の服は、<フラクシナス>に残したままだったな」

「修繕はしてあるが、残っているね」

「それを出してほしい」

「ふむ、君は状況を理解した上でそれを口にしている、と判断していいのかな」

「もちろんだ」

 

 令音はそれ以上は何も言わず、医務室から出て行き、すぐに士道の頼んだ服を持って戻ってきた。

 改めて手に持つと、それは余りにも重かった。かつては機関を欺くための変装道具でしかなかったのに、随分と重要なものになったものだ。

 

「止めないのか」

「琴里なら、止めなかった。いや、言い方が悪かったね。みんな君を信じて待っているんじゃあないかな」

 

 士道はその言葉に力強く頷いた。

 クリーム色のブラウス。胸元には赤色のリボン。膝上の青いフレアスカート。黒のオーバーニーソックスで絶対領域を完備。四つ葉の髪留めで腰上まで伸びた髪をまとめて、茶色のローファーに足を通せば変身完了だ。

 

 ――それは士道にとっての『霊装』だった。

 

 姿見で最終チェックを行い、久し振りのポーズを練習しておく。

 

「ここで訊くのも無粋だが、勝算はあるのかな?」

 

 中二病らしく根拠不明の自信で切り返そうとしたが、士道は敢えて現実に足をつけたまま答えた。

 

「俺は一番大切なことを忘れていたんだ。精霊を救うとか、戦いを止めるとか……そういうことで頭が一杯になっていた」

 

 この霊装を纏うまで忘れていた。こんなぎりぎりになって、ようやく大切なことを思い出せたのだ。

 

「そうじゃないんだ。そんなことじゃ……誰も救わせてもらえない。救いたいと思っているだけの奴に、誰かを救える訳がない。だから、俺は『攻略』じゃなくて『好き』になってくる」

 

 相手は感情で応えてくれているのに、こちらからは理性で迫っているのだから、そんな薄情なことはない。誰かを好きになるっていうのは、誰かの心を救うっていうのは、もっと狂おしい想いが必要だ。

 

 理路整然とした口説き文句に酔い痴れる馬鹿がどこに居るだろうか。

 情熱的で真っ直ぐな――例え拙くても本当の想いを寄せるから、心と心は惹かれ合う。

 

「格好付けておきながら、ただのだらしない男だよ。ははっ、こっちのが不誠実だと思われるだろうな……だけど、俺は、それでも見てみたいんだ」

 

 妄想ではなく、現実のその先で、ずっと待ち続けている人跡未踏の領域。

 泡のように儚くて、霧のように曖昧で、それでもきっとそこにあるもの。

 

「――誰もが救われる真実ってやつを」

 

 

    *

 

 

 空中をくるくると回るノーマルカラーのパンダローネ。

 夕日を遮る影が、それを掴み取った。

 

『そんな、どこから!? 霊波反応が突如、上空に出現しました!』

 

 オペレーターの慌てる声は、現場に居た者達にはほとんど耳に入らなかった。

 誰もが圧倒的な存在感に、視線を引き寄せられた。

 燎子は<ベルセルク>の生存に予想していたとはいえ唖然としてしまう。

 

「あんたは――」

 

 折紙は様々な感情が入り混じった目で見上げた。

 十香は既視感を覚える姿に首をひねり、八舞姉妹から以前に聞いた話からその正体に気付いた。

 八舞姉妹は微睡の中で、その姿を幻視して微笑んだ。

 

 さあ、満を持して名乗りを上げろ。

 苦しみと憎しみが蔓延る現実を乗り越え、心の奥底に封じられた優しさを引き出して――誰もが救われる真実へと至れ。

 

 前髪を右手でくしゃりと掴み、パンダローネを握った左手を十香と折紙に突き付ける。この時に左足を少し引くのがポイントだ。空中だからこそできる、全身を斜めに傾けるという荒業。まさに再誕に相応しい最強のポーズである。

 

「俺は<業炎の咎人(アポルトロシス)>。この世界の欺瞞を暴き、真なる世界を解放する者だ」

 

 戦場に静寂をもたらし、一瞬にして支配する。

 謎の精霊<アポルトロシス>が再び表舞台へと姿を現した瞬間だった。

 



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12.優しさを信じて

「どうして、ここに」

 

 折紙は<アポルトロシス>として姿を現してしまった士道を見上げて声を震えさせる。

 気絶から目覚めれば、躊躇いもなく飛び込んで来るのは予想できていた。しかし、来てはいけなかった。来てほしくなかった。

 

 日本政府は<アポルトロシス>を、どんな精霊よりも警戒し恐れている。それは死後も同様だった。どれだけの攻撃を加えても蘇る再生能力から、実は消失(ロスト)しただけでまだ生存しているのではないか、と考えられているのだ。

 

 ――最悪のシナリオが現実になってしまった。

 

 混乱した頭では幾ら考えてもまとまらず、士道を生存させる方法が浮かばない。

 士道がウィッグの長髪を翻し、折紙に背を向けて着地した。

 

 彼は果たして、この状況をどうやって乗り越えるつもりなのだろう。

 そもそも勝算があってこの場に現れたのだろうか?

 行動を起こせないまま、折紙はただ士道と十香が視線を交わすのを見守ることしかできない。燎子からの通信が入ったのはそんな時だった。

 

『折紙、聞こえてるわね? 作戦は変更。距離を置いて総員待機よ』

「理由が分からない」

『精霊同士が潰し合うのなら、それに越したことはないってところかしらね。<アポルトロシス>が<プリンセス>の力を奪ってしまえば、私たちが相手をするのは、戦闘能力が低い<アポルトロシス>だけになる』

 

「それがASTとしての判断?」

『察しなさい。<ベルセルク>の復活で、上はもう慌ただしくなってる。もう現場主義なんて建前を謳っている余裕はないってことよ』

「また、繰り返す」

『そうなる可能性は高いわ。何も分からないままにしたいのが、保守派を気取ってる今の政府の意向だからね』

 

 折紙は暴れ狂う感情を抑え込む。今は冷静を保つ時だ。

 逆に時間を稼げたと考えよう。精霊がどうなろうと構わないが、士道だけはなんとしても助け出す方法を見付けるのだ。

 

 そのために現状では、命令に従っておくべきだろう。行動の制限を受けて折角の機会を見逃すことになれば目も当てられない。

 撤退しようとした折紙に向けて、閃光が襲い掛かった。それは十香の剣から放たれた、世界そのものを喰らい尽くす破壊の力だった。

 

「くっ……!」

 

 随意領域の出力を最大にして耐えようとする。

 しかし、破壊の力は狙いを逸らして、折紙の横を駆け抜けていった。

 

「どうして」

 

 折紙が命懸けで士道を守るのは、もはや義務といっても差し支えないほどに当然のものとなっている。だからといって、その逆が同様になる訳ではない。

 

「決まってるだろう、俺は欲張りなんだ」

 

 傷付けて、否定して、裏切って――それなのに士道は折紙を守るために命を懸けていた。霊力の風で防ぎ切れなかった斬撃を、己の肉体を盾にしてまで受け止めたのだ。

 

「世界が否定しようとも、全人類が諦めようとも、俺だけは見失わない。誰もが救われる真実を」

 

 夕暮れの冷たい風に、長い髪が棚引く。

 額から滴る血を舐め取ると、笑ってみせた。

 たった一人のちっぽけな背中なのに、どこまでも雄大で縋りたくなる慈愛に満ちていた。

 どんなピンチにも駆け付ける、その姿はまるで――勝利を約束された正義の味方のようであった。

 ASTの誰かが呟いた声を士道は風で聞き取ったのか、不敵に笑って首を横に振った。

 

「正義は勝つ? 違うさ、俺が勝つんだ。そして、全員で勝利を収める。俺の戦場に敗者は不要だ」

 

 どこでもないどこか――空の暗がりに指を差して宣戦布告した。

 

「聞いているか、『機関』よ! 今度こそはお前らの好きにはさせんぞ? 俺はお前たちの野望を打ち砕くまで戦い続ける。例え世界を支配しようとも、俺だけは決して支配されない。今からそれを、証明しようではないか!」

 

 

    *

 

 

 もう誰かを信じるのには疲れた。裏切られて、信じて、また裏切られて、世界は何度も拒絶を繰り返した。やはり、この世界に自分の居場所なんて存在しないのだ。

 十香は折紙を背に庇う士道に、<鏖殺公(サンダルフォン)>の切っ先を向けた。間合いの外であるが、その気になれば斬撃はすべてを破壊し尽くす。

 

「そこをどけ、シドー! 鳶一折紙は、この手で滅ぼすのだ」

「だったら、ここを退く訳にはいかない。最初に会った時に言った筈だ。お前にこれ以上、誰かを殺させてたまるかと」

「鳶一折紙は裏切ったのだ……私を、耶倶矢を、夕弦を、シドーを!」

「例え何をされても、殺していい理由になりはしない」

「……そうか、シドーは私を信じていないのだな?」

 

 たった数日、時間にすれば一日にも見たない短い付き合いの十香よりも、折紙との付き合いは長いだろう。どちらを信用するのか、士道が折紙を選んでも不思議ではない。

 

「いいや、俺はお前を信じている」

「だったら、何故だ。鳶一折紙が武器を向けて来ていたのが証拠ではないか! あの女は、最初から最後までメカメカ団の人間だった!」

「それでも十香に折紙は殺させない」

 

 十香は目を見開いて肩を落とす。手の平で顔を覆い隠し、くぐもった自嘲を漏らした。

 士道もまた敵であったと考えるべきなのかもしれない。十香の持っている精霊の力を狙っていた、と言っていたではないか。悪意は無くともやはり近付くべきではなかった

 

「つまり……おまえも、私を騙していたのか?」

 

 すぐに返答はされなかった。士道は瞼を閉じて考え込んでいる。また丸め込む算段でも立てているのかもしれない。

 

「俺はお前を騙していた。それは事実だ」

 

 ようやく出た答えに、十香は顔を伏せた。

 

「そう、か……」

 

 騙されていたかった。疑念を捨て去るぐらい洗脳してくれれば良かった。そうすれば、大切な思い出はすべて嘘にはならなかったのに。

 

「私は命を懸けてくれた、夕弦と耶倶矢……二人以外は信じない。私はもう孤独の王でいい」

 

 十香は士道と折紙に背を向けると、玉座に向けて<鏖殺公>を振り下ろした。

 

「<鏖殺公(サンダルフォン)>――【最後の剣(ハルヴァンヘレヴ)】!!」

 

 粉々に砕け散った玉座の破片が、王の勅命に従い十香の剣に集まっていく。

 やがて、<鏖殺公>はその姿を、十香の絶望の大きさを示すかのように、余りにも長大な剣へと姿を変えた。その長さは一〇メートル以上はあり、遠巻きに様子を見るASTにもはっきりと視認できた。

 ただ二人の国民を背に守り、十香は瞳を黒く淀ませて、自分と、自分の国の敵を睨み付ける。

 

「シドー、最後の情けだ……死にたくなければ、そこを退け!」

 

 【最後の剣】が宿した破壊の力が、大きく振り被るのと同時に放たれた。もはや<鏖殺公>とは次元が違う。随意領域(テリトリー)で防ごうなどと悠長なことは考えられない。

 

 生存本能が逃げろ逃げろと喚き立てる。

 現代社会では忘れられた、絶対的な捕食者に遭遇した時の感覚と似ていた。

 すべてを呑み込む破壊の光を前にして、士道は穏やかに笑っていた。

 

 

    *

 

 

「耶倶矢と夕弦と同じく、命ぐらい懸けないと始まらないだろう」

 

 迫り来る光の渦に、両手を前に向けた。ありったけの霊力で士道を覆う鋭角的な風の流れを作り出す。

 遂に直撃した【最後の剣】の一撃が、狙いを逸らされ士道の横を走る。高台の公園に破壊の嵐が巻き起こった。しかし、士道もただでは済まない。力の差は歴然であり、十香の一撃を防ぎ切るのは不可能だった。

 

「一撃でこれか……流石は十香だな」

 

 血塗れの肉体に炎が走る。すぐに再生が始まった。

 

「だけど、俺を殺し切るのは、骨が折れるぞ?」

 

 士道は折紙を振り返ると、安心させるように微笑んだ。

 

「折紙、下がっていろ。これは俺がやるべきことだ」

「……お願い、逃げて」

「俺は生きるよ。お前も、十香も、独りぼっちにはさせないから」

 

 折紙は士道の足を引っ張るだけだと理解して、その場に残りたい衝動を堪えて撤退していく。簡単に死んでしまう人間に居場所を残すほど、この戦場は甘くない。

 士道は地上に降り立つと、十香に歩み寄っていく。

 

「シドー……私と戦うつもりか?」

「いいや、違うさ」

 

 士道は<フラクシナス>の仮想訓練室を借りて鍛えたことで、更に霊力への理解を深めていた。とはいえ、霊装や随意領域を正面から抜けるほどの威力は無いので、まだまだ実用的とは言えない。

 しかし、防御や移動という点であれば実戦に耐え得る力を身に着けていた。

 本当の直撃を受ければ、一瞬で消し飛ぶところだが、攻撃を逸らして余波だけを受け止めるなら再生の力で耐えられる。

 

「だったら、何を企んでいる!? 言え、次はさっきの刃とは違う、全力で殺すぞ」

「――俺はただお前に会いに来ただけだ」

「……ッ! ふざけるな!」

 

 初めて出逢った時も同じことを言った記憶がある。殺し合う血みどろの戦場で、我ながら抜けた奴だと思うが、どうやら覚悟を決めたところで馬鹿は直らないらしい。

 あの時から、ちっとも変わっていない。それは十香も同じだ。大切な思い出を得ようと、結局は疑心暗鬼の昔に戻ってしまった。

 

 その責任は、救うことばかりに囚われた士道にある。

 今後こそは十香に、信じられるのではなく――好きになってもらう。

 

「ふざけてなどいないさ。俺が生きているのも、世界が無事なのも、それはすべてお前の優しさによるものだ。お前は最後まで、自分以外に責任を押し付けなかったんだよ」

「群がる羽虫を全力で振り払う者がどこに居る」

「例えそうだったとしても、お前が全力を出していれば、こんな街……容易く破壊できたはずだ」

「その優しさに期待して、命乞いをしているのか? 愚弄するなよ!」

 

 再び襲い掛かる破壊の奔流。士道は全力で迎え打ち狙いを逸らした。右腕が千切れそうになる激痛を<無反応(ディスペル)>の矜持を以って耐え切った。

 

「俺は、死なない、死んでたまるか!」

 

 痛みへの恐怖が足に躊躇を与える。逃げ出したいと心が叫ぶ。妄想に頼って説得すれば良かったのだと後悔が押し寄せる。

 それらすべてを、<業炎の咎人(アポルトロシス)>の仮面は鼻で笑った。

 

「違うだろ、そうじゃない……俺の力は、そんなご都合主義のための道具じゃないんだ」

 

 八舞姉妹を救えたのはお互いに大切な存在だと心の底から思えていたからである。

 逆に十香や折紙を傷付けてしまったのは、独りよがりの理想を掲げて、それを押し付けてしまったからだ。もっと二人のことを知って、分かり合って、そこからようやく真実への道が開かれる。

 

 こんな中二病の男を本気で好きになってくれた耶倶矢と夕弦に胸を張るために、どうしようもない兄を慕ってくれた琴里から馬鹿にされないために、そして何よりも、十香と折紙が好きだから――恐れずに前へ進もう。

 

「何故だ、なんのために……私に近付こうとする!?」

「野暮なことを訊くなよ。俺は口がよく回る男だが、本当に大切なことは態度で示すんだ」

 

 疑心暗鬼に陥った十香の心を救う方法。そんなものはこの現実に存在しない。だから、心の奥底に隠された優しさを引っ張り出して理解させる。追い詰められた心を最後に救えるのは自分自身だけだ。

 

「訳の分からぬことをベチャクチャと、口にするな!」

 

 両手に集められた霊力の風が、破壊の破壊の光と衝突した。今度は風の制御を誤って、心臓を貫かれた。士道の身体は前屈みに倒れようとして膝を突いた。即座の再生で士道は歩みを止めない。

 前へ前へ、孤独の玉座と、独りぼっちの女王を目指して突き進んだ。

 

 

    *

 

 

「要らない、もうこんな世界は要らない……だって悲しいことばかりじゃないか」

 

 十香は世界を否定する。信じたかと思ったら手の平を返して襲い掛かり、平穏を愛せるかと思ったらすぐに争いがやってくる。こんな不安定で、不完全で、曖昧で、残酷で、何一つ心の底から信じることのできない世界に一体なんの価値があるのだろう?

 そんな疑問の中に、十香は答えを見つけ出した。

 

 ――ああ、そうか。この力はそのためのものなのか。

 

 自分が生まれてきた理由をようやく理解できた。

 余りにも圧倒的で、何一つとして抗うことのできぬ滅びの力。

 

「私は、世界を破壊するために生まれてきたのだな」

 

 ならばその使命を果たそうではないか。

 だからまずは、こんな世界は、

 

(ころ)して(ころ)して(ころ)し尽くす。()んで()んで()に尽くせ」

 

 そして、邪魔者の存在しない世界を再生に導こう。

 十香の冷たい殺意を伴って、【最後の剣】が士道に向けて何度も襲い掛かった。

 死の斬撃が四方八方に放たれる。逃げ場のない殺戮の意志が容赦無く、士道の肉体を蝕んだ。

 

 しかし、士道の前進は止まらない。幾度と無く切り裂かれても、風で刃を反らして、再生能力で強引に傷を捻じ伏せる。全身を血に塗れさせながら、新たな一歩を刻み続けた。

 十香の宣告に反駁するように、士道は血反吐を交えた宣告を行った。

 

(なお)して(なお)して(なお)し尽くす。()きて()きて()き尽くせ」

 

 殺されないという決意。それは生き抜く意志よりも、殺されることで誰かを悲しませることを恐れた――臆病なまでの生命への渇望だった。

 続け様の斬撃に、遂に士道は倒れ伏す。全身を炎が焼き尽くし必死に蘇ろうとしていた。

 

「あ、ああ……」

 

 気付けば、十香は振り被る両腕を止めていた。

 

「やめろ、やめてくれ、もう……立たないでくれ、シドー!」

 

 涙でぼやけた視界に、ぼろぼろになった士道が再び立ち上がるのを見た。

 

「立つさ。俺はだって……お前に会いに来たんだ」

 

 十香は死に掛けの士道に圧倒された。脅威は感じられないのに、恐ろしくてたまらない。

 

「ああ、ああああああ、ああああああああああああ――――ッ!」

 

 追い詰められた十香は絶叫を上げる。獲物ではなく天敵を滅ぼすために、【最後の剣】を天高く掲げた。

 

「どうして、どうしてだ、シドー……! お前は私にそこまでしてくれるのに、どうして私はお前を信じられない!」

「信じるとか信じないとか……そんなこと、どうでもいいじゃないか」

 

 でも、あれは、流石にやばいかもしれない。

 逸らすことすら許さぬ絶対の刃。慈悲無き破壊。救済を嘲笑う絶望。

 まさしく、絶体絶命の危機だ。

 膝が恐怖で笑っている。だったら、一緒に顔も笑ってやろう。

 

「ああ、何を恐れる必要があるんだ。だってそうだろう?」

 

 更に刻まれた一歩に、十香は怯んだ。

 ただ士道は会いに来た。臆病で、頑固者で、不器用で、優しくて、どこか抜けていて、メカメカ団とかネーミングセンスが無いくせに最高に格好良い真名を否定してきた――そんな女の子。

 

「――お前の名は十香。俺の大切な存在だ」

 

 十香はまた更に後退る。すぐ後ろには八舞姉妹が眠っている。それ以上、逃げ場は無かった。

 近付いてくる士道を見詰めて、今にも泣きそうな顔で言った。

 

「私は、お前を信じることができない」

 

 張り詰めた表情が和らぐ。

 

「もう……誰も傷付けたくなんてない……」

 

 殺意の刃を構えたまま少女の懺悔は行われた。

 きっと次に裏切られた時はもう耐えられない。狂い果ててしまうだろう。そんな絶望の未来が訪れるとは限らない。でも、もしも――と考えれば、ここで終わらせた方が誰にとっても幸せだ。

 幕引きをしよう。ここで物語は悪い女王が居なくなって――めでたしめでたし。

 

「だから、お願いだ、シドー……私を殺してくれ」

 

 

    *

 

 

 どうして、そんな結論を出すんだ。なんでお前はそんなに優しいんだ。結局は裏切り者の俺ですら殺し切れない。

 

「この世界を殺すには、私はこの世界を知り過ぎた。私を終わらせてくれ……もう疲れたんだ」

 

 士道は再生能力の効果が薄れてきたことで足元が覚束ない。歩くだけで全身の痛覚が悲鳴を上げた。

 

 お願いだ、辿り着かせてくれ。

 もう少しで届くんだ。

 こんな悲劇のままで、終わるなんて許せないんだよ。

 

 しかし、士道は力尽きてその場に倒れ込んだ。地面が妙に温かい。霞んだ目でよく分からないが、真っ赤だった。

 

「これは……全部、俺の血か……」

 

 力を振り絞ってようやく動いた右腕で地面を這って進んだ。意識が暗闇に侵食されていく。

 

「私が間違っていたな。他人に自分の最後を委ねるなど……甘えていた」

 

 十香が【最後の剣】の光を凝縮し狙いを自分に定めた。

 止めようにも、十香のもとまでは余りにも遠かった。

 

「さらばだ、シドー。この世界に来れて……幸せだったぞ」

 

 首を傾けて、十香は笑った。それは死にゆく者とは思えない、見惚れるぐらい綺麗な笑顔だった。

 誰も巻き込まないために空高く駆け上る。そして、【最後の剣】は自らの主をその手で滅ぼすために振り下ろされた。

 



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13.終わりなき戦い

 精霊の力によって巻き起こる暴風が、山林に身を隠すASTのもとまで襲い掛かる。鼻の奥を突くような鉄の臭いによって、<プリンセス>と<アポルトロシス>の戦闘の激しさが、外野である彼女たちにも伝わってきた。

 惨劇を物語る血風と呼ぶに相応しく、折紙は何度も飛び出そうとしては制止を掛けられ、最終的には拘束されてしまった。

 

「邪魔を、しないで」

 

 まるであの時と同じだ。士道の傍から、どれだけ危険でも離れるべきではなかった。

 破壊の権化となった<プリンセス>の刃は、ASTの装備とは比べ物にならない程に強力だ。再生能力の速度を上回り、士道を苦しめていることだろう。

 必死で藻掻く折紙を、隊員たちの随意領域(テリトリー)が押さえ付ける。

 

「私を、行かせて、このままでは……またっ」

 

 手足の自由を奪われて地面に叩き付けられる。ワイヤリングスーツの腕部に、無力を嘆く自分の顔が歪んで映った。

 

「…………」

 

 折紙は後のことを考えるのはやめた。

 突然、折紙が抵抗を止めたことに怪訝な顔をする。

 

「――ッ!」

 

 刹那、随意領域で自分を押さえ付ける隊員を弾き飛ばした。

 脳への負担が大きく、眉間に皺を寄せて頭痛を堪える。

 

「折紙! 馬鹿な真似は――」

 

 燎子の声が掻き消えるぐらいにスラスターを全力稼働。周囲の者からは掻き消えたように見えるほどの高速で上空に移動した。

 そのまま破壊の嵐の中を突き進む。不規則に荒れ狂う漆黒の稲光に、折紙は何度も襲われた。その度に脳への負担を無視して、防性随意領域を展開して強引に突破した。

 

 長大な剣が天を穿つ。雷鳴を轟かせるように光が迸り、夜闇の輝きが夕日を塗り潰して、暗黒時代が到来する。

 <プリンセス>が空に舞い上がるのを見て、折紙は止めを刺すつもりなのだと恐怖した。

 

 上空から士道の姿を発見して目を見開く。士道は血塗れで這い蹲り、<プリンセス>に向けて手を伸ばしていた。

 折紙は瀕死の士道のもとへ急降下する。入れ替わるように二つの影が上空へ駆けていくが、それを無視して士道の救出を最優先に行動した。

 

「ここから離脱する」

 

 士道の身体を抱え上げて、そのまま高台から離れようとすると、士道の手が弱々しく折紙の腕を掴んだ。

 

「折紙……頼む、十香のところへ運んでくれ」

 

 上空の<プリンセス>を見上げると、<ベルセルク>の二人に羽交い締めにされていた。入れ違いになった人影はどうやら、気絶から目覚めた二人だったようだ。

 

「俺たちなら、きっと……あの時みたく、上手く行く筈だ」

 

 士道の言葉に、来禅高校の上空で繰り広げた一瞬の共闘を思い出す。運命の皮肉なのだろうか。あの時とは別の形で、折紙の心は試されていた。

 

 

    *

 

 

「我が眷属に、生殺与奪の権利を与えた覚えはないぞ」

「阻止。それ以上の攻撃は夕弦たちを倒してからです」

 

 十香の自決を止めたのは、夕弦と耶倶矢だった。朦朧とする意識の中で、二人は士道のもとへ駆け付ける折紙を目にして、自分たちの為すべきことに気付いたのだ。

 精霊中最速の機動力を以って悲劇を回避する。誰もが幸せになれる真実を求めるのは、士道だけではない、八舞姉妹も同様だった。

 

「夕弦、耶倶矢……何故だ……」

 

 十香は止めどなく涙を流す。

 

「くくっ、あれだけ耳元で騒がれたのだ。おちおちと寝てはおられんよ」

 

 耶倶矢の軽口に、しかし十香は応じる余裕はなかった。一瞬でも遅ければ己をすべてを終わらせていたことを悔いているのではない。更なる悲劇を恐れていたのだ。

 

「違う! 【最後の剣(ハルヴァンヘレヴ)】の制御を誤ったのだ! このままでは周囲のものすべてを破壊し尽くすぞ!」

「はあっ!? は、早くどうにかしなさいよ!?」

「焦燥。解決方法はないのですか」

 

 八舞姉妹の拘束を解かれた十香は、【最後の剣】を解除しようとするが、精霊すらも殺し切るために注ぎ込んだ霊力は、主である十香ですら制御できなかった。

 

「普通であればどこかに放てば良かったが、これは力を凝縮して、その場で展開されるようになっているのだ。……既に臨界状態、早く、シドーを連れて逃げろ。それまでは、なんとか持たせる!」

 

 既に死を覚悟していた十香は、必死で力の放出を押さえ込みながら、耶倶矢と夕弦に笑顔を送った。

 

「最後に話せて良かった。二人にも感謝する。カラオケにゲェムセンター……どれも楽しかったぞ」

「ふざけんじゃないわよ! そのぐらい、気合でどうにかしなさい! あんたは私の眷属なんだから!」

「請願。諦めないで解決手段を考えましょう」

「無理だと言っているだろう! 逃げてくれ……二人をこの手で殺させないでくれ!」

 

 十香の死を回避する未来はないのか。一人を犠牲にして他のすべてが救われれば本当にハッピーエンドなのか。

 

 ――違う、断じて間違っている。

 

 士道だったら、きっとそう言ってくれる。そして絶対に諦めない。勧善懲悪の脚本だって、全員救済の物語に書き換えようとするぐらいの我侭なのだから。

 ほら、噂をすればなんとやら、お姫様抱っこされたヒロインにしか見えないヒーローの登場だ。

 

「十香には誰も殺させない、俺はそう言った筈だ」

 

 折紙の腕から下ろされて、十香の首に両腕を回して抱き着いた。

 

「シドー! こんな時に何を――んんっ!?」

 

 悲鳴を上げる十香の口を、士道は口で強引に塞いだ。キスをする時はいつだって突然だった。耶倶矢には不意を突かれて、逆に夕弦と十香には不意を突いた。もっとロマンチックなものを想像していたが、これはこれで、ドラマチックでいいのかもしれない。

 そんなくだらないことを考えていたが、十香の唇に触れた瞬間、余計な思考は消し飛んだ。

 

 ――<王の簒奪(スキル・ドレイン)>が発動する。

 

 十香とのキスは、涙と血でしょっぱくてほろ苦くて――最後にきなこの甘みが広がったのが、なんだか泣きたくなるほど嬉しかった。

 悲劇だけじゃない。きちんと十香の中で思い出は生きている。そう思えたから。

 

 いつまでも堪能したい柔らかな感触が離れて、十香と見詰め合った。涙でくしゃくしゃになった酷い顔だ。士道の顔も血で真っ赤になっており、折角の霊装はボロ布になって、着るというよりは付けていると言った方が正しい状態だった。

 

 ――荒れ狂う闇色の輝きが収束していく。光を失った大剣がぼろぼろに崩れ去り、きらきらと夕暮れを彩りながら霧散した。

 

「な、何をしたのだ?」

 

 制御を失った【最後の剣】は消え去り、十香の顔に安堵と戸惑いが広がる。それは霊装のドレスが消失していくことで羞恥に変わった。

 士道は真っ赤に染まった顔の十香を抱き竦める。身体を密着しているお陰で裸体を見られないで済んだ。

 

「こうすれば問題無いだろう?」

「う、うむ……感謝するぞ、シドー」

 

 夕弦の時の経験が生きており、すぐに庇えるように抱き締めただけなのだが、二人の間では認識の齟齬があった。

 八舞姉妹の複雑な心境を隠した笑顔と、折紙の突き刺すような視線に見守れながら、ゆっくりと落下していく。

 

「もう何も怖がることはない。俺は生きている、十香も生きている。みんな生きている。世界は、十香を歓迎するよ」

「……本当に私は生きていてもいいのか?」

「もちろんだ」

「そうか、私は……生きてていいのだな」

「ああ、一緒に生きよう。……そうだな、まずは一緒にきなこパンを食べよう。それから、もっと世界を見て回ろうか。この世界にはまだまだ、楽しいことが、美味しいものがたくさんあるぞ」

 

 十香の唇が柔らかな弧を描く。幸せそうな笑顔を間近で目にして、士道の心臓がドクンと跳ねた。

 

「デェトか、また行きたいな」

「いつだって何度だって行ってやる」

「そうだな……シドーとまた、デェトに行けたら……きっと、楽しいな」

「十香……?」

 

 目の前に咲いていた笑顔が苦痛に歪んで、呼吸が乱れていく。

 不吉な生温かい感触が腹部を浸した。それは十香の脇腹を抉った<CCC>の置き土産だった。精霊の肉体を蝕んで再生を阻害する。特殊な治療を受けない限り、止め処なく血が流れ続けるのだ。

 

 士道は着地すると、八舞姉妹から服を借りて十香に被せる。地面に横たえた十香の傷口を確認するが、自分の手では治療は不可能である現実を改めて突き付けられるだけだった。

 

「俺にできないからといって、誰にもできない訳ではない」

 

 以前に治療を受けたことのある<フラクシナス>の設備を使えばいいと気付く。

 

「琴里、聞こえているか?」

 

 いつものように叩こうとして、インカムが無くなっていることに気付く。戦闘中にどこかへ行ってしまったようだ。

 

「譲渡。夕弦のを使ってください」

 

 幸いにも<ラタトスク>のサポートを受けていた八舞姉妹もインカムを身に着けていた。

 改めてこちらの状況を伝えようとするが、ノイズ音しか聞こえない。こんなタイミングでトラブルとは、何か嫌な予感がした。

 

「……折紙」

 

 背後から聞こえたスラスターの稼動音で、士道はまだ何も終わっていないことを改めて理解する。

 

「二人は十香を頼んだ」

 

 八舞姉妹に十香を任せて、士道は滞空したままの折紙を見上げた。

 

「折紙、三人をまだ狙うのなら、俺はそれを止めるぞ」

「私が<プリンセス>の封印に協力したのは、あなたを助けるため」

 

 折紙は銃口を十香たちへと向けた。

 

「例え精霊の力を失っても、取り戻す可能性があるのなら――私は、完全に精霊を殺し切る」

 

 復讐に取り憑かれた折紙を救う方法。現実から乖離した真実では、その心を動かすのは不可能だ。例え成功したとしても、今度こそは完全に信頼を失うことになる。

 だから、隠された優しさに気付かせて、その先で待っている真実まで導くのだ。

 現実のその先へ、絶望を越えた未来を掴み取る。

 

「折紙、お前は復讐鬼に堕ちるには優し過ぎる。だから、お前は俺の<王の簒奪>に縋った。そうだろう? <完璧主義者(ミス・パーフェクト)>のお前が、他人の裏付けさえない力に頼ったのは、復讐をやり遂げる意志が無かったからだ」

「違う。私にとって復讐がすべて。もう、あなたの言葉に騙されない」

「そうか……だったら、証明してみせろ! この俺を殺して!」

 

 あと少しだけいい、力を貸してくれ<業炎の咎人(アポルトロシス)>!

 士道は風と炎と光を纏う。それは今までに封印してきたすべての精霊の力だった。

 

「お前は精霊を殺すと言った。だったら、俺を殺してみせろ。<ベルセルク>であり、<イフリート>であり、<プリンセス>であるこの俺を!」

「……ッ!」

「俺を殺せば、簡単に復讐を終えられるぞ」

 

 折紙の手が震える。銃口は狙いを定められない。彼女は無表情の奥で怯えていた。

 最初から折紙は、その優しさ故に矛盾していた。この躊躇いこそが、復讐がすべてではない証明。彼女にとって復讐よりも士道と生きる未来のが大切ということだ。

 

「本当に殺したいのは精霊じゃない。精霊に心を許そうとしていた自分自身だろう」

「う、あっ……」

「お前は強い人間だ。だから、間違っていても、どんなに困難でも、突き進める力がある。でも……そんな生き方で何が得られる? お前は何が欲しい? 答えろ、鳶一折紙!」

 

 折紙の震えが止まる。復讐鬼の暗い瞳を覗かせて、レイザーブレイドを引き抜いた。

 

「あなたの『仮面』は弱さ。勝手な都合を押し付けているのは、あなたも同じ」

 

 ああ、いつだって、お前は正しいよ。中二病や妄想は紛れも無く弱さだ。余りに強大な現実に弱さを押し付けて、強い自分でいようとする。それこそが何よりも弱さの証明であり、強くあろうとし続けた折紙とは正反対の境地。

 

「だがな、弱さが強さに勝てないって誰が決めた」

 

 士道は右手を胸の前で構えて、左手を折紙に向けて突き出す。腰を半身になるように逸らして、両足を肩幅に開く。これぞあらゆる攻撃をカウンターで沈めた『供喰みの陣』である。もちろんただの妄想だ。

 

「絶対に、この手で……迷いも、甘えも、すべて断ち切って、精霊を殺す」

 

 折紙の振るう光剣が士道に襲い掛かった。

 光で迎え打つことも、風で逸らすことも、炎で再生することも――何の抵抗も示さない。

 その必要がなかった。

 刃は士道が避けずとも空を切ったのだ。

 

「あ、ぐ……ッ!」

 

 折紙は悲鳴を上げて崩れ落ちるのを士道は抱き留めた。

 短時間とはいえ士道、十香との連戦、無茶な随意領域展開の連続――類稀な才能を持とうとも人体には限界が存在する。随意領域が完全に消失することで活動限界を示していた。

 重さを取り戻した身体が士道により掛かる。

 折紙の身体は震えていた。

 

「私は、精霊を……!」

 

 士道に縋り付かなければ立っていることすらできない姿は、もはや復讐鬼ではない。孤独に怯えるただの少女だった。

 

「復讐を諦めても、誰もお前を責めたりしない。それでも、折紙は自分を責めるんだろう」

 

 こんな小さな身体に、どれだけの悲しみを背負っているのか。どれだけ自分自身の優しさを蔑ろにして、復讐に捧げてきたのか。折紙は中二病に逃げた士道には想像できない、苦難に満ちた日々を独り生きてきたのだ。

 

「隠し事をしていてごめんな。傷付けてごめんな……。いや、正直に言うよ。俺はお前にまだたくさん隠し事をしている」

 

 信じてくれなんて、許してくれなんて、言える筈もなかった。

 士道は未だに折紙を騙しているのだ。

 

「精霊の封印は不完全だ。精霊の感情が乱れれば、精霊の力は俺から逆流する。だけど、それはつまり、彼女たちを苦しませたり、悲しませたり、怒らせなければ――力を取り戻すことがないってことなんだ」

 

 沈み行く夕日を眺めて、士道は目を細める。

 

「それってさ、人間と何が違うんだろうな」

「…………」

「人間も怒ったり、悲しんだりすれば、普通では考えられない力を発揮するし、常軌を逸した行動を取ることがある。……詭弁かもしれないけど、俺は精霊が特別な存在だなんて思わない」

「…………」

「違うな……もう言い訳はやめるよ。折紙に誰かを傷付けてほしくない。だって、俺は折紙のことが好き――」

「好き?」

 

 え? そこで急に反応を示すの?

 やっぱり馬鹿みたいに小難しい説得の言葉なんて考えるものじゃない。

 

「ああ、折紙も十香も、耶倶矢も夕弦もみんな好きだ。傷付け合うのなんて見たくない」

「…………」

 

 折紙はよろめきながら、なんとか自力で立ち上がった。こちらに向けた背中は肩を落としており、士道は何か期待を裏切ってしまったようだ。

 

「士道のように考えることは……できない」

 

 空を見上げた折紙の瞳には、復讐心が息を潜めて、代わりに決意の輝きを宿していた。

 

「でも、私には、それよりも優先するべきことがある」

 

 暗闇に紛れて、ASTの部隊が展開されている。既に全方位から取り囲まれていた。ずらりと並ぶ銃口は、躊躇いから放たれることはないが、逃れられぬ死を暗示しているようであった。

 折紙のインカムに燎子の冷たい声が吹き込まれた。

 

『<プリンセス>の消失を確認。総員、配置についたら攻撃命令があるまで警戒態勢を維持』

 

 個別チャンネルに切り替えて、燎子は折紙にのみ通信を送った。

 

『今すぐに退きなさい……上は、前回の洗脳の件もあるからね、あんたごと始末するつもりよ』

「それはできない。やるべきことが残っている」

 

 折紙はもはや魔術師として機能しない状態でありながら、士道を守り通すことを選んだ。

 その先に惨たらしい死が待っていたとしても構わない。元より五年前に終わった命。士道のために使えるのならば本望だった。

 オペレーターから、ASTに上層部の最終決定が下される。

 

『――ターゲットは、霊波反応の有無を問わず殲滅との命令です』

 

 

    *

 

 

 円卓会議に啖呵を切った琴里は、特別通信室を立ち去る前に皮肉を込めて最敬礼を送った。

 

「では、失礼します」

 

 立ち去ろうとする琴里に、ブサ猫が溜息をついた。

 

『……仕方ない、きみの要望を受け入れようではないか。封印を施した三体の精霊を回収後、現場を離れてもらおう』

 

 ブサ猫の声に、今までは違う陰湿な響きがあった。

 

「士道を見殺しにしろ、と?」

 

 そもそも、どうやって、リアルタイムで情報を得ている? 十香の封印はインカムで令音から聞いたばかりだというのに。他にも気になる点がある。令音から続報が来ていないのだ。

 

『立て続けの精霊出現に、<フラクシナス>の追加人員の確認を怠っていたようだな。<ベルセルク>の空間震に巻き込まれた際に、今後はすぐに復旧できるように、私が手塩を掛けて育てたエンジニアを送らせてもらったよ』

「まさか……!」

『通信機器と転移装置の調子はどうかね?』

 

 最初から仕込みを終えていたからこその余裕だったのだ。

 琴里は奥歯を噛み締めて怒りを堪えた。

 

「……精霊の力を抜き出した彼女たちを回収しても無駄では?」

『都合良く<ベルセルク>が制御下に置かれる程度の力を持っているではないか』

 

 精一杯の反論も、男は一蹴する。

 

「こんなことをすれば……どうなるのか、分かっているのですか」

『必要なものが手に入れば、私は大人しく隠居させてもらうよ。すべては我が社の発展のために』

 

 この男は確かCR-ユニットの開発に関わる企業の役員だった。私欲にしては、自己犠牲が過ぎると思ったが、なるほど、こいつにも自分より大切なものがあったようだ。見上げた忠誠心である。

 ブサ猫の高笑いが響き渡る特別通信室から、琴里は足早に立ち去る。

 最初から自分の保身など考えていない男が相手だったとは、交渉の余地がないのも同然だ。奴はずっと機会を伺って待っていたのだ。

 

 政治的なやり取りや、精霊の移動手段など、すべての算段が整えられていると考えるべきだろう。混乱を利用して<ラタトスク>を出し抜くつもりなのだ。

 計画を挫くタイミングは今しかない。

 

「これ以上、好き勝手にさせたりはしないわ」

 

 琴里は黒のリボンで結んだツインテールを揺らして、艦橋に駆けて行った。

 

 

 誰もが幸せになれる真実は遥か遠く。

 想いと想いがぶつかり合う戦場を、貪欲な私欲と穢れた保身が覆い尽くす。

 かつて、士道が敗北した『機関』がより強大な力をもって立ちはだかった。 

 




機関「真打ち登場」
AST「帰って、どうぞ」
ラタトスク「帰って、どうぞ」

<第一部からの難易度上昇例>
①士道くんの体力赤ゲージ
②折紙さんのMP枯渇
③八舞姉妹の疲労度限界
④十香の寿命がマッハ
⑤転移装置使用不可
⑥『機関』の殺る気MAX


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14.欺瞞に満ちた世界を欺くカプリース

 夕日が山陰に沈む。頼りない街灯だけが視界を照らす。文明の輝きで満ちたパノラマは、世界が闇で満たされるのを恐れる余りに、月や星々から見放されているように見えた。

 燎子は上層部の決定を部下には伝えずにいられた。

 

「繰り返しか。本当に嫌になるわ」

 

 出撃した隊員の顔触れは、あの時――<アポルトロシス>と<ベルセルク>に銃弾の雨を浴びせた者達とほとんど変わりない。

 多くの部下が緊張と恐怖に表情を強張らせている。不安を取り除くことができず、任務に疑問すら与えるのは、上官としては失格だ。

 

「…………」

 

 だからといって、一部隊の隊長でしかない自分に何ができるのか。免職覚悟で目の前に居る上司を殴るだけならば、やりたくはないが実現可能だ。しかし、<アポルトロシス>に対する一方的な敵意は政府が抱くものであり、それを取り除くとなれば国の在り方そのものを変えねばならない。

 

 思い悩む燎子に、佐伯防衛大臣から通信が入った。緊急事態を理由に命令系統を無視するのは、まさしく傲慢の表れである。もはや呆れて咎める気にもなれない。

 

『異例なのは承知している。しかし、<アポルトロシス>の件は、防衛大臣マターであり、大きな政治判断を伴う問題だ。分かってくれたまえ』

 

 そんなに防衛大臣の椅子が大事か。勝手に座っていても構わないから、現場に口出するな。そう言ってやりたいが、相手には強大な権力があり、自分だけでなく部下の人事権まで振りかざされれば、黙るしかないのだ。

 

「殲滅との命令ですが、よろしいのですか? <ベルセルク>に関しては、戸籍まで確認されたと聞いています」

 

 燎子は命令の変更は不可能だと理解しながら、意見せずにはいられなかった。

 正義感からではない。ただ自分の良心を満足させるためのくだらない自尊心から出た言葉だ。

 

『通常時であれば面倒な処理が必要だが、既に民間人の避難は済んでいる。幾らでもカバーストーリーは構築可能だよ』

「つまり、霊波反応のない国民を殺しても問題ないと?」

『言葉を慎みたまえ。殺すなどと言っては、自衛隊の責任問題になるではないか。これは不幸な事故だよ(・・・・・・・・・・)。ああ、空間震が頻発するこの国で、徹底した対策を取りながらも尊い犠牲が出るとは、誠に遺憾だ。防衛大臣として慙愧に堪えない』

 

 国民であろうと不穏分子は排除する。表立っての言論弾圧をしないことで、事なかれ主義などと揶揄される現政府だが、保身のためならばどんな過激な手段も取るのだから、これほどに恐ろしいことはない。

 

『きみたちにとっても、悪いことではないだろう。ただでさえ自衛隊は国民から金食い虫などと非難され、その中でもASTは自衛隊の穀潰しなどと言われているのだ。汚名返上の絶好の機会ではないか』

 

 どんなに言葉を飾ろうと、すべて言っていることは同じだ。

 

 ――精霊を殺せ。

 

 人類に仇なす精霊ならば喜んで殺そう。だが、今更になって言えた義理ではないが、この選択を正しいとは思えない。

 精霊との対話は可能なのではないか?

 もしかしたら、共存の道もあるのではないか?

 

 <アポルトロシス>が示した未来は、今ならば妄想ではないと信じられる。

 しかし、そんな理想を掲げたところで現実は変えられない。

 

『早く攻撃を開始したまえ。人類の未来のために。我々ときみの未来のためにもね』

 

 佐伯防衛大臣が催促する言葉に、脅し文句を付け加えた。

 

「――了解しました」

 

 燎子は部下に命令を出そうとして、足裏に奇妙な感触を得た。

 

「インカム?」

 

 小型のインカムが落ちている。ASTの装備ではない。かといって、確りとした作りをしており玩具には見えなかった。

 拾い上げて耳に当てると、女性の呼び掛ける声が聞こえてきた。

 

『聞こえているかね。シン、返事をしたまえ』

 

 

    *

 

 

 暗闇に潜むASTの包囲網。スラスターの稼動音と、鈍く輝くCR-ユニットが、彼らの配置を教えてくれる。

 しかし、強引に突破するのは難しい。八舞姉妹は既に力尽きており、単独での移動ならまだしも、誰かを抱えた状態ではASTを振り切れない。

 

 士道に残された霊力は、十香のものを除けば八舞姉妹に逆流していたのが戻ってきた分だけだ。再生限界は近く小さな擦り傷などは残ったままであり、銃弾を浴びれば、普通の人間と変わらず簡単に死んでしまう。

 

 十香の霊力で反撃に出たとしても、一人を倒している内に背後を突かれてお陀仏である。

 折紙も疲労が現界に来ており、随意領域を展開できない状態だ。便りにある装備やスラスターも、こうなってはただの荷物でしかない。

 

 ――戦わずして、ASTをやり過ごす方法。

 

 最後に出された難題は、余りにも過酷な条件が積み重なって、もはや不可能の領域だった。

 

『夕弦、聞こえてる?』

 

 解決策はないのかと必死で考える士道の耳に、たった数時間振りだというのに、琴里の声が酷く懐かしいものに聞こえた。

 

「通信設備は復旧できたようだな」

『士道……? なるほど、そういうことね。そっちの状況は大体把握してるわ。今から<フラクシナス>の状況を説明するから……絶対に無茶しちゃだめよ』

 

 いざとなれば自己犠牲で乗り切ろうとすることを危惧しているのだ。

 しかし、琴里自身も気休めだと理解しているだろう。もしも士道一人が死ぬだけで、この状況を切り抜けられるのなら、迷った末にやはり選んでしまうのだ。

 

『まずは最悪のお知らせ(・・・・・・・)だけど、転移装置、他多くの装置が使えないわ。来禅高校の時のように、一瞬で姿を消して撤退という訳にはいかないってこと』

 

 士道は傷の痛みに苦しむ十香の顔を見詰めた。八舞姉妹の呼び掛けに、もう応える余力すら無くなっている。折紙は士道を庇うために、ぼろぼろの身体に鞭を打って身構えていた。

 どんな覚悟があっても、ASTの攻撃が始まれば即全滅だ。

 

「……良い知らせは?」

『残念だけど、もう一つは悪いお知らせ(・・・・・・)よ。士道の紛失したインカムがASTの隊長に拾われたわ』

 

 その割には、琴里の声は沈んでいない。

 

『だけど、これは活路になる。それも士道らしい、とびっきりの方法でね。士道にお願いしたいのは時間稼ぎよ。お得意の中二病トークで、ASTを翻弄してちょうだい。転移装置の復旧は急ピッチで進めてるから、それまで――』

「だめだ。十香がもたない」

 

 士道は琴里の口振りから時間稼ぎでは、十香を確実に助けられないことを察した。

 

『……それを言われると痛いわね。十香の治療が間に合う確率は五分五分ってところかしら。これでも現状を考えれば奇跡的と言ってもいいわ』

 

 司令官として訓練を積んだ琴里の言葉だ。時間制限の中で精一杯に考えて出した方法なのだろう。それもASTの隊長すらも欺けると士道を信頼した上での作戦だ。

 現実はいつだって儘ならない。十香はこの世界で生きることを選んでくれたのに、折紙は復讐よりも士道を守ることを選んでくれたのに――それでもまだ試練を与える。

 

『AST側の無線を傍受できるか試してみるわ。情報が多ければ、もしかしたら……別の可能性も見付かるかもしれない』

「頼む。俺も時間稼ぎと並行して方法を考える。それで、時間稼ぎといっても、具体的な内容はどうするんだ?」

『<フラクシナス>や<ラタトスク>そのものは隠したまま、その理念と存在を示唆する。秘密組織といっても、政治的な柵はあるのも確かだからね、大事なのは嘘を吐かずに――相手を信じさせること。士道なら得意でしょ?』

 

 士道は危機的状況でありながら、思わず口端を釣り上げた。

 『機関』の尖兵たるASTを相手に、妄想と現実を組み合わせた設定を以って戦う。

 暴力を振るわずに勝利する。嘘を吐かずに騙し切る。

 相手が機関であれば遠慮は不要だ。失敗したとしても精霊である<アポルトロシス>に責任を押し付ければいいという寸法だ。

 

「我が妹ながら黒いな」

『当然でしょ、だって今の私は『黒』だもの』

 

 通信越しに五河兄妹はニヤリと笑う。

 

 ――遂に士道と琴里の足並みが揃った。

 

 やられっぱなしはもう飽きた。そろそろ反撃に移ろうじゃないか。

 

『エスコートはよろしくね、士道』

「フォローは頼むぞ、琴里」

 

 絶望や危機など恐るるに足りず。あらゆる妨害を打ち砕き、現実のその先へ、誰もが幸せになれる真実に至れ。

 

「さあ、俺たちの戦争(デート)を始めよう」『さあ、私たちの戦争(デート)を始めましょう』

 

 

    *

 

 

 燎子はヘッドセットを片耳外して、代わりに謎の人物と繋がるインカムを取り付けた。会話内容が伝わらないようにASTの無線を切っておき、周囲の部下に待機を命じると距離を置いた。

 謎の女性から言われていたように、インカムを小突くと無線が繋がった。

 

『こうして一対一で会話を交わすのは初めてかな、日下部燎子一尉』

「あんた……まさかっ!?」

 

 聞こえてきたのは先程までの女性ではなく、聞き覚えのあるハスキーボイス。

 そう、間違いない謎の精霊<アポルトロシス>のものだ。

 なんとか動揺を押し隠すと、燎子は冷静に会話を再開させた。

 

「私の情報は筒抜けのようね。まあ御託はいいわ。それで、あんたの目的を教えてもらおうじゃない」

『精霊の保護、そして人類と精霊の共存だ』

「……ッ!?」

 

 以前に遭遇した時、精霊と人類の共存を謳っていた。

 しかし、ずっと疑問を抱いていた。こんなチャンスは無い。頼られているのはこちらなのだから、堂々と追及させてもらおう。

 

「そんなこと個人ではできるとは思えないわ」

『さて、お前がそう思うのなら『組織』とやらが存在するのかもしれないな』

 

 暗に肯定をしながら、相手の判断に委ねる。小賢しい言い回しをしてくれる。

 どうやら<アポルトロシス>は、こちらが想像する以上に人間社会へと溶け込んでいるようだ。精霊が国籍を持っていることや、生活を送るための補助などを、その胡散臭い『組織』がやっているのだろう。

 

『だが、ご覧の通りだ。現在、俺は危機的状況にある』

「皮肉を言ってくれるわね」

『見解の相違さ。そんな意図はなかったが、人間とはそういうものだったな』

「それこそ皮肉よ」

 

 こいつに心を許す訳にはいかない。精霊の保護を目的しているのは嘘ではなくとも、お互いに立場があり個人として言葉を交わしているのではないのだから。

 

「それで、その怪しい組織が一体なんの用かしら?」

『共同戦線のお誘いさ』

 

 精霊を殺すためのASTに、精霊を生かす協力をさせる。そんなことは不可能だというのは理解できる筈だ。それでも持ち掛けてくるのだから、何か策がある。あるいは罠だ。

 それでも、このまま精霊を殺すよりは――何か見えてくる未来があるのかもしれない。

 

「私一人では判断できないわ」

『当然だな。幾らでも待とう――すべてを救うより良い未来のために』

 

 通信が切れると、燎子は一気に肩が重くなるのを感じた。随意領域の制御を誤ったのかと勘違いしそうになったが、それは心に掛かる重圧から感じる錯覚だった。

 耳元で急かし続ける防衛大臣の戯言を無視して、ハンドサインで部下を呼び集める。それから一切の無線会話を禁じた。

 

「改めて訊くわ。あんた達は、この作戦に思うところがあるのなら正直に言いなさい。何を言っても処分するつもりはないわよ」

 

 気不味い空気の中で最初に発現したのは、狙撃手を務める女性隊員だった。

 

「霊波反応はもう確認されていません。笑ってくださって結構ですが……私には、『人間』を撃つことはできません」

 

 辞表を出していた部下からも、ぽつりぽつりと作戦に反対する声が上がった。

 最終的には半数以上が、作戦に対して不満を口にした。それでも従うのが兵士であり、現に全員が敵前逃亡という愚かな真似を犯さなかった。

 

「あんた達、再就職先なんて斡旋できないわよ?」

 

 未来のことまで考えなさい、と諭すが――逆に力強い頷きが返ってきた。

 狙撃手は真剣な表情で理由を話す。

 

「誰よりも精霊を憎んでいた鳶一一曹が精霊の味方をしているんです。私は理屈よりも、その感情を信じます。……笑っても構いません」

 

 燎子は頭を掻いて苦笑を浮かべた。どうやら<アポルトロシス>が残した爪痕は予想以上に大きかったようだ。

 

「はぁ……あんたたち、馬鹿ばっかりね。精霊が憎くないの? そのためにASTで戦っているのも多いでしょうに」

「隊長、だからですよ。その憎しみを他人に利用されるのが、何よりも許せません」

 

 部下に恵まれたことを喜ぶべきか、上司の暴挙を止めようともしない部下を怒るべきか、まったくもって可愛い部下達だ。

 

「いいわ、長らく休暇なんて取ってなかったものね。失敗したら、のんびり温泉でも行きましょうか」

「了解!!」

 

 きっちりと揃った敬礼を、ここまで滑稽に思えたのは初めてだろう。

 燎子は免職覚悟で<アポルトロシス>に連絡を取ると、まるでASTの熱苦しいドラマを否定するような言葉を返された。

 

『そのままASTとして行動してくれ。既に真実への道は見えた』

 

 

    *

 

 

 時計の針を数分だけ巻き戻す。

 士道はASTからの返答に関しては、特に期待はしていなかった。折紙から隊員の情報や、精霊に対する考え方を聞いて脈はあるだろうとは思っていたが、寧ろ精霊に対して想いがある知って彼らの生活を奪う気にはなれなくなったのだ。

 

『傍受できたわ。ちょっと音が荒いけど我慢してちょうだい』

「いや、大体の単語が拾えれば充分だ」

 

 琴里からの連絡を受けて、インカムで受信する音声がASTの無線に切り替わった。

 

『無作為でやり取りを引き出しているから、気になる通信があれば、インカムを叩いて合図をすれば対応するわ』

 

 士道は耳を澄ませる。隊員同士の無線はどうやら止まっているようだ。上空を見上げれば、ASTの隊長である燎子を中心に集まって直接話し合っている。

 幾つか切り替わり、気になる音声があった。

 士道はインカムを叩いてその周波数で固定してもらう。

 

「この声、どこかで聞いたことがある」

 

 男の声だ。日常の中で聞いた筈だ。それも最近である。

 瞬間記憶術でスナップ写真のように切り取られた記憶を振り返っていく。朝から晩までの間、何気ない日常の一コマにこの声は潜んでいる。

 

 学生であり、著しく交友関係の限られた士道は、大人で関わる相手といえば、教師や商店街の店主、<ラタトスク>の関係者、そして直接は接点のない画面の向こう側の人間。

 

 ――分かったぞ。

 

 この状況で関係する誰か。この口調。確かに聞いたことがある。

 士道はその男の名前も立場も知っていた。

 答えに辿り着いた士道は、何か利用できない考え込んでいると、折紙から声を掛けられた。

 

「士道、あなた一人なら、この場から離脱できるはず」

 

 どうやら精霊の力を使えば、ASTを振り切れることに気付いたようだ。

 

「見捨てると思ったのか?」

「…………」

「俺がそれをやらないと分かっていて――いや、待てよ」

 

 折紙の言葉への返答で、士道は真実へと至る道順が完全に見通せた。

 ばらばらに崩れていた道が、パズルのピースがはまるように繋がり合う。

 

「折紙、合図をしたらASTに戻るために、俺に攻撃しろ」

「…………」

 

 折紙が非難がましく目を細める。この期に及んで、折紙だけでも助けようとしているのかと思われたのだろう。

 

「いいや、今度こそはやり抜く。そのためには折紙がASTに戻らなくてはならない」

 

 誰一人として裏切り者が居てはならない。ここは正直者達だけの戦場だ。

 

「分かった。あなたを信じる」

 

 折紙からの許可を得て、続くようにASTからも了承の返事をもらった。

 後は出たとこ勝負になるだろう。

 だが、正義の優しさを信じるように、機関の傲慢を信じるとしようか。

 八舞姉妹に十香を託して、大舞台へと上がる。

 

 さあ、準備は整った。

 始めようか、欺瞞に満ちた世界を欺く茶番劇(カプリース)を!

 敵は敵同士に、恨みは恨みのままに、恐怖は恐怖のままに――真実をもって機関を打ち倒す。

 今度こそは誰もが救われて、幸せになれる喜劇に仕立て上げてみせろ!

 

 ――ここから先は、俺の、俺たちの世界だ!

 

 

    *

 

 

 始まりは鳶一折紙のASTの帰還から始まる。

 ASTに見守られる中で、合図を受けた折紙は<アポルトロシス>に向けて、左足のホルスターから抜いた9mm拳銃を撃ち放った。

 <アポルトロシス>は弾丸の掠めた右肩の傷を撫でて、邪悪な笑みを浮かべた。

 

「……くくっ、なるほど、以前に一度洗脳能力を使ったが、二度目で効果が薄れていたか。流石は鳶一折紙」

「通用しない」

 

 折紙は回復した僅かな力で随意領域(テリトリー)を展開し、レイザーブレイドで斬り掛かった。

 <アポルトロシス>は破壊の光で、それを弾き返すと、ふわりと空に舞い上がった。

 

「俺は精霊を追い求める同士仲良くやれたらと思ったのだが、今度も拒絶するとは。本当に残念だよ」

 

 勿体振るような態度で、注目を集めると凄惨な笑みに切り替える。

 

「――なあ、佐伯防衛大臣(・・・・・・)?」

 

 インカムに息を呑むのが聞こえる。

 戦場に見物席などないのに、ふんぞり返るお偉いさんは勘違いしてるようだ。どんな形であれ戦場に身をおくならば、流れ弾が来るぐらい覚悟するべきだろう?

 

『何故だ。どうして私を……まさか、精霊が盗聴してるとでも!?』

「おやおや、そんなに慌てなくてもいいではないかな。本当にこの戦場に居る訳ではないのだから」

 

 やはりASTが撮影する映像か何かで状況を把握していたようだ。

 

「しかし、こうして顔を合わせずに会話をするのは何かと面倒だ。そうは思わないかな?」

 

 お前達の中で<アポルトロシス>への恐怖は勝手に増幅される。精霊が文明の利器を用いることは脅威だろう? 人間社会に紛れているのは恐ろしいだろう?

 殺意はなくとも、悪意がなくとも、勝手に妄想して怯える。

 偽りの恐怖に跪くがいい、機関の者達よ!

 <アポルトロシス>は残り少ない、霊力をすべて注ぎ込んだ。

 

「では、こちらから伺うとしよう。待っているといい――それとも俺と鬼ごっこでもしたいのなら、試してみても構わないぞ」

 

 精霊中最速の<ベルセルク>を己に顕現しろ。

 <アポルトロシス>は一瞬にして、ASTの包囲網を突破する。一度足を止めて、念を押すように、すべてを手の平で転がすような黒幕の高笑いをした。

 

「その場から逃げるなら、他の者が犠牲になるだけだ。首相官邸を破壊すればいいかな? 国会議事堂を襲撃しようか? さあ、この俺と戦う意味、その心に刻め付けるがいい、機関の者達よ!」

 

 <アポルトロシス>はまるでおちょくるように、その場からゆっくりと離れていく。

 

『なんとしても、<アポルトロシス>の接近を阻止しろ!』

 

 佐伯防衛大臣は泡を食ってASTに命令をした。

 

「ですが、他の精霊は――」

『そんなものは後回しだ。今は目の前の脅威を退くことが懸命ではないかね!?』

 

 燎子は笑いを堪えた。それを言うのなら、目の前の無力になっている精霊を始末する絶好の機会ではないのか。

 

「私よりも遥かに上からの命令よ、まさか逆らう者は居ないわよね?」

 

 ニヤリと笑う燎子に、隊員は力強く頷いた。

 

「では、全速力で<アポルトロシス>を追跡する!」

 

 ASTは精霊を残して戦場を離脱していく。

 後は<アポルトロシス>が逃げ切るだけだ。

 

 ――力を貸してくれ、耶倶矢、夕弦……お前達の颶風の御子の力を!

 

 地上から見上げる八舞姉妹が微笑んだ。

 

「くくっ、さあ、真実を掴み取るがいい<業炎の咎人(アポルトロシス)>よ! ありったけの力を貸してやろうではないか!」

「声援。<業炎の咎人>に相応しい真実を見せてください」

 

 ――十香。見ていてくれ、お前が好きになってくれた世界を!

 

 まるで心が通じ合ったように、十香はたくさんの想いを詰め込んで「シドー」とただ一言名前を呼んだ。

 最後尾を追ってくる折紙が、様々な感情を込めて地上を何度も振り返る。今の折紙でも、ただの拳銃で始末できる精霊たち。

 

「…………」

 

 やがて自分の中で決着をつけられたのか、迷いのない瞳で<アポルトロシス>の背中を追った。

 士道はASTが追ってきているのを確認すると加速した。

 

「もう迷いはない……このまま先へ、まだ誰も見たことのない領域へ!」

 

 想いに応えて霊力が膨れ上がる。ASTが見失わないように、かといって置き去りにしないように、夜空を疾走した。

 こんなに気分のいい空の旅があっただろうか? まさしく茶番劇。誰一人として本来の役柄から逸脱していないというのに、誰も傷付かない真実への道程を突き進んでいた。

 

 

 機関の保身が自らの首を絞める。

 精霊を見逃すのは、自分自身の選択だ。

 監視の目がなくなった戦場では、<ラタトスク>によって密かに十香と八舞姉妹が回収されて、すぐさま医療用顕現装置(リアライザ)へと運び込まれた。

 

 <ラタトスク>から救出の報告を聞いて、<アポルトロシス>は急加速。すべてを置き去りにしていく。

 そして世界から消失(ロスト)した。

 これは今までの逃避とは違う。

 

「――真実への旅立ちだ!」

 

 

 こうして、敵同士で築き上げた茶番劇は幕を閉じる。

 そして、改めて登録された要警戒精霊<アポルトロシス>に、すべての責任は押し付けられた。

 だが、今度こそは機関の陰謀すらも乗り越えて、現実のその先へ、誰もが幸せになれる真実へと辿り着いたのだった。

 




中二病「それも私だ」

 やっぱり黒幕を倒すのは、真なる黒幕。
 古来より、先に正体を現すのは負けフラグって決まっているのさ。
 『機関』に対抗する『組織』ですってよ。また妄想が広がるね!

 時間がなくて雑になっているので、この話も加筆訂正……というか、書き終わったら第一部からすべて修正するとは思いますが。
 さてはて、何はともあれ、第二部も次回で終章。もう少々お付き合いくださいませ。


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終章 矛盾の誓い

「――喜べ、諸君。この地は今日より我が領土だ」

「ええと、夜刀神さん? きちんと自己紹介をお願いします」

「ん、そうだったな。名乗り遅れた、私は夜刀神十香だ。皆よろしく頼む」

 

 二年四組に新たな転校生がやってきたのは、機関との戦いから数日後、士道たちが再び日常を取り戻して間もない頃だった。

 精霊として、かつて<プリンセス>と恐れられた少女は、精霊の力を失う代わりに平穏を手に入れた。

 

「遂に深淵の闇(クリフォト)より、我が眷属が召喚されたか。待っていたぞ、世界が誕生してから幾星霜、悠久の涯より貴様が戻ってくるのをな。ああ、だが再会すれば……それも須臾の泡沫も同然だ」

「翻訳。長いようで短い別れでした。また会えて嬉しいです」

「ちょっと、夕弦……その、英文の直訳みたいなのマジでやめて」

 

 夕弦と耶倶矢が拍手で出迎える。クラスメイトは慌てて追随した。折紙だけは拍手を送らずに沈黙を保っていた。

 

「うむ、我が王国の新たな門出に相応しき日だな」

 

 十香は士道の姿を見付けると、満足そうに頷いた。

 中二病患者は何も言葉を交わさずとも理解し合う。その代わり、他のクラスメイトや担任教師である岡峰珠恵は置いてけぼりだ。いや、彼らは内心では別の理解を示していた。

 

 ――また中二病が増えやがったぞ!?

 

 どうなってるんだこのクラスは? カオス空間に於ける学業効率とか、教育委員会に謎の実験で調べられていたりするのだろうか。しかし、その筆頭である士道が成績優秀というのが、なんだか認めたくない現実だった。ちゃっかり料理もできるし、清掃は誰よりも丁寧で素早く、体育では常に活躍し、滅多にないが頼み事をすれば即座に解決してくれる――あれ? こいつ本当はすごい奴じゃ――謎のポージングを決める士道を見て、クラスメイトは首を横に振った。

 

「えっと、夜刀神さんの席は、窓際の一番後ろです」

「私は士道の隣を所望する」

 

 珠恵の発言を即座に一蹴すると、十香は『二年四組の火薬庫』と呼ばれる一帯を指差した。激しい席争奪戦が繰り広げられたのはまだ記憶に新しい。忘れようにも戦慄となってクラスメイトの脳裏に焼き付いてしまっていた。

 

「くくっ、良い機会だ。再戦と行こうではないか。士道の隣が誰に相応しいのか、今一度見定める時が来たのだ。よもや逃げるなどと興醒めなことは言うまい?」

 

 過去の戦いで敗北した耶倶矢が、ここぞとばかりに再戦を煽る。半分は自分のためだが、眷属である十香の主ということもあり、もう半分は彼女にチャンスを与えるつもりであった。

 その不器用な面倒見の良さにほだされたのか、夕弦はいつもの寝惚け眼を僅かに開いて首肯した。

 

「参戦。ここで退いては女が廃れます」

 

 

 乙女の闘志に怖気付いた珠恵は、火薬庫に火が点く前に降伏した。

 

「そ、それじゃあ、席替えをしましょうか?」

 

 これまで乗る気を見せなかった折紙が、読み進めていた分厚い本に栞を挟むと立ち上がった。珠恵の選択は逆に、眠れる肉食獣を目覚めさせてしまったのだ。

 

「再戦は無意味。メリットが無い」

 

 折紙にとっては席を守るだけの戦いだ。勝っても現状維持になるだけで、参戦する意義など無かった。

 だが、士道から引き離そうとするならば、容赦はしない。

 

「返り討ちにする」

 

 十香は折紙をビシリと指差す。

 

「よく言ったぞ、鳶一折紙……私はおまえから士道を取り戻す!」

 

 女王として堂々となる宣戦布告を行った。

 対する折紙は欠片も怯んだ様子を見せず、いつも通り無表情に、静かな声で否定を口にする。

 

「あなたでは無理」

 

 ただの睨み合いだというのに、周囲の空間が歪むような錯覚を覚える。そこへ八舞姉妹まで加わって、もはや常人では立ち入ることすら許されぬ過酷な戦場が完成した。

 その中心には、一言も発言をしていない士道が座っている。勝手に話を進められているが、彼は争いの中心でもあった。

 

「平和ってなんだろうな」

 

 哲学的な疑問を抱いて現実逃避をする。

 どうしてこんなことになれたのか(・・・・・・・・・・・)、振り返るのは、あの日――十香を封印し、茶番劇をもって機関を出し抜いた後の出来事だった。

 

 

    *

 

 

 夜空に浮かぶ月の前を人影が駆け抜けていく。

 士道は背後に迫るASTを振り返り、攻撃を受けずにかといって相手が見失わない距離を保っていた。どこまでも相容れることはなく、敵同士でありながら同じ場所を目指す。この空の旅は逃走劇でも追走劇でもない。ただの茶番劇だ。

 

『士道、ご苦労様。こっちは救出完了よ』

「了解した」

『<アポルトロシス>の消失(ロスト)で幕は閉じるわ……最後の最後で、しくじらないようにね』

「ふっ、誰に言っているんだ? 俺は闇に生きる咎人、不可能を可能にするなど造作も無い」

 

 もう遠慮は要らない。誰もが傷付かず、幸せになれる真実を目指して、士道は最後の力を振り絞った。霊力の風を制御して超加速。高速で空気の膜を切り裂いて、音すらも置き去りに飛翔した。

 

「おおおおおおぉぉぉぉ――ッ!!」

 

 残り少ない霊力が尽きていく。

 ASTを完全に振り切って、自由になった士道は、初めて眼下に広がる景色を眺める余裕を得た。

 

「ああ、世界はこんなにも、綺麗だったのか」

 

 <業炎の咎人(アポルトロシス)>の仮面を外して、<無反応(ディスペル)>を解除すると純粋な笑みが浮かんだ。

 人間に翼は存在しない。士道は地上に向けて落ちていく。士道を受け止めたのは、固い地面ではなく、水面に映る巨大な月だった。

 湖に落ちた士道は、ぼろぼろの身体で浮かび上がって、星空を仰ぎ見た。

 

『はぁ……肝を冷やしたわ。もしも地面だったら死んでたわよ。すぐに回収に向かうから、そこで大人しくしてなさい。あんたも重傷なんだからね』

 

 琴里の説教を大人しく聞いてやりたいところだが、それよりも心残りがあった。

 

「なあ、琴里、精霊の平穏を守ってやれないのか……? 耶倶矢と夕弦はもう気付かれてしまったんだろう」

『なんだ、そんなこと心配してたの?』

「そんなことって……あいつら、学校を本当に楽しんでいるんだぞ」

『違うわ。そういうことじゃなくて、心配無用ってことよ』

 

 精霊だと気付かれた八舞姉妹は、もう二度と日の当たる場所に出られないものだと想像していた。しかし、琴里はそれをあっけらかんと否定する。

 

『士道が保身を利用したように、私も彼らの保身を利用させてもらうわ。精霊を殺すのと、国民を殺すのでは、まるで別問題なのよ。八舞姉妹は既に日本国民。例え精霊であったとしてもそれは変わらない。寧ろ、精霊であるからこそ、それを隠そうとするでしょうね』

 

 防衛大臣の独断専行として蜥蜴の尻尾切りを行う。精霊に戸籍を与えてしまった失敗を表に出すよりは、精霊の国民を許容する。それが今の政府の在り方であり、そのように<ラタトスク>で工作を進めているところだ。

 

『あの防衛大臣も今回の件で追い詰めてやるわ。もちろん後釜の人材は、こっちで用意してやるわよ。……皮肉だけどね、精霊の日常は彼らの保身で守られているの』

「今より悪くなる可能性があるのなら、見て見ぬ振りをするか……」

『多くの人が問題が起きなければいいって、そう思っているのよ。とはいえ、私たちが幸せを我慢する必要はないわ。馬鹿と鋏は使いようってね。だから、士道はASTだろうが、<ラタトスク>だろうが、なんでも存分に利用して、世界をもっと面白可笑しくしてやりなさい』

 

 言われなくてもそうしてやるさ。

 いつかきっと、真実へと至るその日まで。

 

 

    *

 

 

 翌日になって、表側にとっては騒動も収まった。裏側では未だに激しい政治的な駆け引きが繰り広げられているが、士道や精霊たちにとっては、見えない世界のことだった。

 治療用顕現装置(リアライザ)によって一命を取り留めた十香に、令音経由で呼び出された士道は<フラクシナス>の医務室へとやってきていた。

 十香は薄桃色の患者衣に身を包んでベッドに横たわり、士道がリンゴの皮剥きをするのを興奮した様子で見詰める

 

「おお! シドー、早く、早く食べたいぞ!」

「食べてさせてやるから、じっとしてろって」

 

 上半身を起こした十香に、一口大に切ったリンゴをフォークで刺して口まで持っていく。

 

「ほら」

 

 十香は少し躊躇したが、食欲には勝てないのかパクリと豪快に食い付いた。

 

「うむ、美味いぞ、シドー。だが、これはなんだかこそばゆいな」

 

 頬をほんのりと赤らめて微笑む姿は、寧ろこっちがこそばゆくなる。

 沈黙を誤魔化すために、士道は二つ目のリンゴを十香の口に運んだ。

 

 そのまま不器用な看病を続けていると、比較的軽傷だった八舞姉妹がお見舞いにやってきた。

 ちょうど「あーん」の現場を目撃した二人は、瞬間的に同様の行動に出た。手を上げて挨拶をする士道を無視して、今にも倒れそうな千鳥足でそれぞれ別のベッドに倒れ込んだ。

 

「うぐっ、我が肉体に封印された大いなる力が暴走しているっ! これでは一人で食事も取れんぞ!」

「失調。ごほごほ……夕弦にも士道の看病が必要です」

 

 ここまで分かりやすい仮病があっただろうか。

 士道は呆れて目を眇めるが、純粋な十香は簡単に騙された。

 

「し、シドー! 耶倶矢と夕弦が! 私のことは構わない、二人にリンゴを食べさせてやってくれ!」

 

 その慌てように八舞姉妹は罪悪感に苛まれる。欲望に塗れた心に聖剣がグサリと突き刺さり、心の闇を捨てない限りいつまでも贖罪の光で焼き続けた。

 

「この程度の力! 本気を出せば簡単に御し切れるわ!」

「完治。心配不要です」

 

 ここまで治るのが早い仮病があっただろうか。

 ベッドの上で腰に手を当てて高笑いする二人に、十香は涙ぐんで復活を喜んでいた。慈愛の刃が、更に二人の傷口を抉る。純粋無垢の魂は、まさしく中二病の卵であり、それと同時に中二病に対する最強兵器でもあった。

 八舞姉妹が逆に医務室で重傷を負って去って行くと、落ち着いた空気が戻ってきた。

 

「なあ、シドー。私はおまえに伝えなくてはならないことがあるんだ」

「改まってどうした?」

「おまえの妹だったか? 琴里からは許可が出ているのだが、シドーが許すのなら、と条件を付けたのだ」

「……それで?」

「ああ、私はシドーと一緒に学校に行ってみたい」

「…………」

「だ、だめか?」

 

 沈黙を拒絶と取ったのか、十香は今にも泣きそうな顔になってしまった。

 士道は慌てて手を振った。

 

「いや、大歓迎だよ。寧ろこっちからお願いすることになると思っていたからな」

「それは何故だ?」

「折紙が居るからだよ」

 

 十香は虚を衝かれてたのか返答に詰まったようだ。少しの間、二人は言葉を交わさずにお互いの心の中で折紙に対する感情を整理していた。

 

「――私は鳶一折紙が大嫌いだ」

 

 嫌いから大嫌いに好感度が下がっていた。それも仕方のないことだ。殺し合った相手と仲良くできるのは、士道のように底抜けのお人好しや、感情を無視してでも利益を優先できるような人間など――いずれにしろまともな感性では難しい。

 

「だが、歩み寄りたいと思っている」

「そうか……十香は、強いな」

「シドーが教えてくれたではないか。相手がどれだけ武器を取ろうと、対話を求めてやれと」

 

 士道が教えたのはあくまで考え方であり、強者の在り方だ。心を強く保つ方法は教えていないし、教えようがない。折紙と歩み寄ることを選べたのは、間違いなく十香の強さであり優しさがあってこそなのだ。

 

「それにな、私は鳶一折紙が大嫌いだが……好ましいとも思っている。あの女はシドーを大切に思っているのだろう? それなのに、自分の在り方を貫くためにシドーとも戦ってみせたのだ。臆病で癇癪からシドーを傷付けてしまった私とは違う」

 

 十香は穏やかに笑っていた。

 

「まったく似ていないのだが、シドーと同じものを感じられた。それがどんな色であれ、私にはとても眩しく見える。そういう人間は、例え敵であったとしても、信頼できると思うのだ」

 

 矛盾を抱えた想いは、自分だけの答えを出した。

 十香はこの世界について無知であっても、多くの者が死んでも理解できない境地に至っていた。

 

 あの戦いは、多くの悲劇が重なり始まってしまった。しかし、あの戦いを生き抜いた者達はそれまでの自分と変われたのではないだろうか。

 誰もが幸せになれる真実は独りよがりではなかったのだ。

 

「どうしたのだ、シドー? 泣いているのか?」

 

 士道はゆっくりと首を横に振った。

 

「いいや、笑っているんだ」

 

 

    *

 

 

 一ヶ月の謹慎。それが折紙にくだされた処分だった。

 様々な疑惑を持たれたが、最終的に上層部の混乱と政治的な絡みに救われて、命令違反や敵対行為を犯しながら、異例の甘い処分が与えられたのだ。ただ手の届かないところで、自分の立場が言い争われるのを考えると、どこか釈然としなかった。

 折紙は飾り気のない自宅で、壁に留めたカレンダーを見詰める。

 

「…………」

 

 訓練に捧げてきた時間が、ぽっかりと空いてしまった。

 治療を受けている間は、身動きを取ることもできなかったので、ずっと考えていた。

 今までの自分と、これからの自分。果たしてどうあるべきなのか、堂々巡りを繰り返した。復讐を捨てることも、士道と共に歩む未来も捨てられない。

 

 歩み寄ろうとする十香。自分を妙に慕う夕弦。何かと絡んでくる耶倶矢。

 精霊と過ごした日常は、折紙の中に確りと刻まれていた。

 

「私は、精霊を……」

 

 そして、折紙は結論を出した。

 携帯電話で士道に連絡を取ると、士道もあの戦い以来顔を合わせていなかったためか、心配してすぐに会うことになった。

 

 着替えを終えると、待ち合わせた近所の喫茶店へと向かう。

 二人が到着したのはほとんど同時だった。

 

「元気そうで良かった。AST内での処分はどうなった?」

「一ヶ月の謹慎処分。他の隊員に処分はなかった」

 

 折紙は注文が来たので、続けようとした言葉を噤む。

 店員が立ち去ると、折紙は士道を呼んだ今日の本題へと入った。

 

「私の精霊に対する立場を伝えておく」

 

 士道はゴクリと唾を飲み込んだ。

 

「――私は、あなたとあなたの周りに集まった精霊を守り切る」

 

 折紙の出した答えに、士道は目を見開いた。それはつまり士道の言ったことを信じてくれたということだ。感情を乱すことがなければ、精霊の力を取り戻すことはない。そのために、折紙は精霊の平穏を守ると言ってくれた。

 

「でも、忘れないでほしい。私は精霊を許した訳ではない。もしも再び精霊として現れるのならば、容赦をするつもりはない」

 

 過去を裏切らず、未来を夢見るために、悩みに悩んで出した答え。

 

「――そして、これからもASTとして、精霊と戦い続ける」

 

 士道は悲壮の決意を受け取って、何も言葉を返すことができなかった。十香と同じだ。こんなに崇高で眩しい――どこまでも矛盾した誓いに報いる言葉など存在しない。

 だからその代わりに、士道はあの日の誓いを差し出した。

 

「これは」

 

 折紙は何度も躊躇ってから、ようやく手に取る。震える手で包み込んだ。

 断ち切られた絆が再び結び付く。

 士道は、折紙の手の中で、ノーマルカラーのパンダローネが微笑んだような気がした。

 

 

    *

 

 

 現実逃避から戻ってきた士道は、教室が静まり返っていることに気付いた。どうやら言い争いの時間が終わって、睨み合いと探り合いが始まったようだ。

 そんな空気の中で、十香が手の平とぽんと打った。まるで天啓を得た様子だ。嫌な予感がしてならない。

 

「気付いたのだ、そもそも士道の意志を無視していいのかと」

「…………」

 

 うん、気付くの遅いと思うんだ。俺に免じて争うのはやめよう。完全にくじで席替えしようじゃないか。

 十香は満面の笑みで言った。

 

「だから、誰の隣に座りたいか、士道が選んでくれ」

「………………」

 

 冷や汗が洪水のように流れ出した。

 これは死を覚悟する時が来たのかもしれない。

 

「ほう、良い考えだな。士道の隣は勝者が得るべきだが、士道が選んだ者にこそ真に相応しいということか。もちろん、士道は我を選ぶのであろう?」

「賛成。これで白黒はっきり付けられます。士道は夕弦との隣同士の日々を手放せない筈です」

「あなたを、信じている」

「シドー、私と一緒に座りたいと言うのだ!」

 

 精霊たちや折紙だけでなく、クラスメイト全員の視線が士道に集まっていた。

 

「…………」

 

 ほ、ほら、やっぱり学校で困ったことがあったら先生に相談するよね。

 

「先生、HRを進めま――」

「五河くん、結婚できない女性の気持ちは分かりますか?」

 

 え、なに、そのハイライトの消えた瞳。

 よく分からないけど、先生は助けてくれない。こういう時はやっぱり頼れるクラスメイトの出番だよね。

 

「なあ、殿町――」

「五河、おまえに校内ランキング358位の気持ちが分かるのか?」

 

 いや、何を言っているんだ我が友よ。

 とりあえず、こいつもだめとなると、後は誰に頼ればいい!?

 その時だった。他のクラスのHRが終わって、戦友の危機を察知した彼らがやってきてくれたのだ!

 魂の絆で結ばれた購買部四天王。お前達が来てくれたのならば、何も怖いものなどありはしない。

 

「きゃはは、<無反応(ディスペル)>の隣は私のものって決まってるのよー」

「<おっとごめんよ(ピックポケット)>、謀ったな!?」

「空で弾けて懺悔するがいい」

「<吹けば飛ぶ(エアリアル)>……おまえが敵に回るとは」

「くきき、ロッカーと下駄箱を二度と使えると思うなよ」

「<異臭騒ぎ(プロフェッサー)>まで裏切るというのか!」

 

 クラスメイトから向けられるのは、殺意やら嫉妬やら拒絶やら――負の感情ばかりだ。

 まさしく絶体絶命の危機。しかし、士道は笑みを浮かべていた。

 

 ――最後に自分を救えるのは自分だけだ。

 

 五河士道は立ち上がる。顔を左の手の平で覆い隠し、指の間から世界を見据える。上半身だけに捻りを入れて、身体を斜め後ろに逸らした。そして右腕で自分の身体を抱き締めるように絡み付けながら足を交差させる。数ある迎撃の構えの内でも一際凶悪な一つに数えられる『捻れ狂う運命(フェアドレーエン)』の完成だ。

 

「いいだろう、それほどに望むのならば――覚悟はいいか?」

 

 覚悟を決めて頷く、耶倶矢、夕弦、十香、折紙の顔を順番に確認した。

 

「俺が選ぶのは――」

 

 告げられた答えに、運命は動き出した。

 そして、呆然とする一同を置いて、士道は教室から飛び出した。

 

「待て、士道! 貴様は今度こそはその優柔不断を許さぬぞ!」

「激昂。夕弦がその腑抜けた考えを矯正してあげます」

「男らしさはどうした! 納得する答えを寄越すのだ!」

「士道には私だけが居ればいい、それを理解させる」

 

 四人の追跡者に追われながら、士道は窓の外の朝日に目をやった。

 

「遠いか。やっぱりこうなるよな」

 

 

 現実はいつだって儘ならない。所詮は継ぎ接ぎだらけの真実では剥がされてしまう。

 だが、現実が顔を出した時、それでもかつて打ちのめされた時より誰もが成長している。世界は決して円環となって回らない。ゆっくりと確実に螺旋を描いていくのだ。

 

 ――俺が選ぶのは、全員だ。

 

 ヘタレ男の精一杯の想いを受け入れる真実は、果たして現実のその先へ存在するのか。

 それはまだ分からないが、分からないからこそ、追い求められる。

 

 

 だから、五河士道の戦いはまだまだ終わらない。

 ――誰もが幸せになれる真実を求めて、中二病と共に在らんことを。

 

 




 第二部完結です。お疲れ様でした。ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
 本編途中で挟んだ番外編を移動したり、結合したり、加筆訂正したりと……まだ色々とやることは残っていますけどね。
 以下、また特に内容の無いあとがきが書いてあるだけなので、スルーしても問題無いです。


 長く苦しい戦いだった。
 第二部は後付で続けた結果なので、最初は第一部ほどのクオリティは提供できないし蛇足になるだろうな、と思っていました。
 また、展開的に現状で出せる登場人物の制限のせいでストーリーの幅が狭く、第一部の焼き直しのような物語になっています。これはオリキャラやオリ設定はできるだけ出さない、という方針のために発生した問題です。
 それでもできる限り盛り上げようと思った結果が、この第二部『十香キングダム』でした。
 味方がたくさん居ても、敵が居ないので盛り上がらない……これが、この作品の問題点でもあります。ASTはちょっと控え目になっていますし、折紙はほぼ味方ですしね。そこで苦肉の策として、<アポルトロシス>という原作からの乖離点を活用して、政府や円卓会議の一部を悪役に仕立てあげました。案外忘れがちですが、佐伯防衛大臣って原作キャラなんですよね。台詞すら無いですけど。
 精霊と敵対するのも、言ってしまえば悪役が足りない代わりです。
 DEMの人たちが出せればなぁ……って本当に思います。ただ、序盤で彼らを出すともう収拾なんてつかないどころか、一気にバッドエンディングまっしぐらですからねぇ。

 でも、やっぱり、一番の問題を上げるのなら、多くの方に「先は読めなくても、やっぱり士道くんなら救えちゃうんでしょ?」みたいな空気が蔓延してることですよ!

 十香の扱いが悪いというか、鬱展開が多過ぎると思った方は多くいらっしゃると思います。これは正直、書き終わった後に自覚したのですが、私にとって十香はヒロインではなく、もう一人の主人公という感覚が強かったのです。
 だから、士道くんに対してと同じく、十香には幾つもの困難を与えてしまいました。十香好きの方には申し訳なく思います。

 第一部で作り出した真実は、現実を前に脆くも崩れ去ります。士道くんは妄想で固めた設定によって、折紙や十香を傷付けたことを後悔して、心の奥底に隠された優しさを引き出すことで、今度は偽りのない真実を構築しました。しかし、それは『真実に耐えるだけの強さを得ること』をASTが願ったように、以前の<アポルトロシス>出現時にはできなかった解決方法です。
 成長するのは、士道くんだけではなく他のみんなも一緒です。
 だからこそ、今度は『機関』に対してみんなで勝利しました。
 士道くんだけで行われた即興劇から、今度はASTも参加する茶番劇に――そして、悲劇は喜劇に変わる。つまり第二部をもって、第一部は真のエンディングを迎えたとも言えます。

 長々と裏話というかメタ話というか、作者視点からの事情などを書きましたが、続編を書いて私自身もすっきりできました。皆様の応援がなければ、この第二部は存在しなかった物語です。ありがとうございました。

 第二部はこれにて完結ですが、また後日談の番外編を書く予定なので、もう少々お付き合いくださいませ。
 第三部に関してはまだ未定ですので、余り期待しないでお待ちください。

 さて、改めまして第二部も最後まで読んで頂きありがとうございました。
 それではまた、いつかのどこかで。


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番外編 もしも耶倶矢が目覚めなかったら

 『第二部 1.手に入れた日常』のIF展開です。

 疲れていると下ネタに走るらしいので、私がこの番外編を書くのはきっと疲れているから。
 よし、言い訳完了!

 まあ作者の都合を言うと、毎日更新を諦められず、かといって本編を書き切る時間がなかったので短めの番外編に逃げやがったのです。
 あ、明日はちゃんと本編更新しますから!


 早朝。五河家の士道の部屋にて、静かにその戦いは幕を開けた。

 五河士道は試されていた。それは理性の限界への挑戦であり、未来までも左右する究極の選択だった。

 八舞夕弦の視線が士道を完全に捕らえていた。眠たげな目にはどこか期待をにじませている。大胆な攻めを展開して、士道の常人を遥かに超えた理性ですら一瞬で蜂の巣に変えられていた。

 

 

 ベッドの上で士道が夕弦に覆い被さっていた。夕弦の腕が士道の腕をがっしりとホールドしている。

 二人は見詰め合った。その距離は僅か二○センチメートル。お互いの吐息が頬を撫でてくすぐったい。

 

「期待。どきどき」

 

 羞恥心が湧いてきたのか、頬を赤らめて視線を逸らしてちらちらと士道の表情を窺ってくる。

 このままでは不味い。<無反応>なんて二つ名を投げ捨てて、エロゲー主人公に転向してしまう。伏せ字、ピー音、モザイク――ギャルゲーには無い素敵で愉快な世界が俺を待っている!

 

 救いはないのか。助けを求めようと、隣で眠る耶倶矢に目を向ければ、枕を抱き締めてだらしない顔になっていた。「我が盟友は甘えん坊だったのだな」とか寝言を言っている。幸せそうだ。一体どんな夢を見ているのか、考えない方がきっと士道は幸せでいられる気がする。

 

 現実逃避をしている隙を突かれて、夕弦の攻撃が再開された。両腕を背中に回されて抱き締められる。

 

「抱擁。ぎゅっです」

 

 更に近付く距離。少しでも顔を下げれば唇が重なる。睫毛の本数が数えられそうだ。

 しかし、それ以上の問題が別にあった。身体が密着したことで、士道の鍛え抜かれた胸板に夕弦の巨乳が押し潰される。柔らかな感触と熱がパジャマの薄布一枚越しに伝わってきた。

 

(っておい、ブラしてないのか!?)

 

 制限を受けない形の良い双球は自由奔放だった。力が加われば加わるだけ、逃げ場を求めて広がっていく。その変化がすべて士道には夕弦の鼓動と共に柔らかな感触となって伝わってくる。

 あっ、なんかもうドラマCD、漫画、ゲーム、アニメ、映画――網羅したから、後はエロゲー化しても良いと思うんだ。時代はエロだよ! やったね、士道くん、家族が増えるよ!

 

 ――おい、やめろ。

 

 危うく本能の誘いに屈するとこだった。

 一瞬の安堵は再び致命的な隙となる。

 目を逸らした間に、視界一杯に夕弦の顔が広がっていた。瞼を閉じて近付いてきている。士道の視線は唇に釘付けになった。

 

「くっ……」

 

 士道は顔を横に向けて回避した。それでも夕弦は追い縋る。体勢が崩れて、二人の身体はひっくり返った。今度は立場を変えて、夕弦がマウンドポジションを取った。

 

「ゆ、夕弦……もう、冗談はこのぐらいにして」

 

 ヘタレた士道は逃げの一手を打つが、それは寧ろ逆効果だった。

 夕弦の瞳に嗜虐を求める怪しい輝きが差した。

 

「訂正。冗談で迫るほど夕弦は自分を安売りしません」

 

 夕弦の手が士道のパジャマに伸びる。抵抗しようにも腰に馬乗りされ、身動きを取れない。瞬く間にボタンを外されて、士道の上半身が晒された。

 驚くべき早技だった。一体どこでそんな――鳶一折紙の無表情がすぐに浮かぶ。流石は『機関』の精鋭だ。ハニートラップだってお手のものという訳か。

 

「お、おい、まさか……」

「首肯。士道一人を脱がせるつもりはありません」

 

 夕弦は自分のパジャマに手を掛けた。まるで焦らすようにパチリ、パチリと一つずつゆっくりとボタンを外していく。しかも下からで、胸元に到達するまでじっくりと時間を掛けてだ。

 まず可愛らしい臍が覗いて、徐々に芸術品と見紛うシミ一つ無い白肌が顕になった。女神の水浴びを覗いてしまったような罪悪感を抱くが、もはやそれは興奮を高めるエッセンス程度の存在でしか無かった。

 

 遂に最後のボタンが外されて、窮屈なパジャマから両胸が解放される。士道の呼吸で腹が上下するのに合わせて、風と戯れるようにたゆんたゆんと波打った。

 

 ――士道の理性はその瞬間、神の領域に至った。

 

 なんと頭を横に倒して瞼を閉じたのだ。闇の中で衣擦れの音が聞こえようと決して目を向けなかった。

 もぞもぞと夕弦が動く。ぺたりと汗ばんだ肌が密着した。耳元で息遣いが聞こえた。

 

「吐息。士道が欲しいです」

「……っ!」

 

 パジャマを取り払われ、乳房とは違う僅かに硬さをもった別の感触が士道の胸板を転がる。

 

「懇願。もう我慢できません」

「…………うっ!」

 

 汗を拭おうと、夕弦の舌が士道の首筋を舐め上げた。その動作で自然と豊かに実った胸が擦り付けられて、士道をくすぐった。

 

「快感。……士道、士道っ」

 

 

 俺の戦いもここまでか。

 神は神でも、日本神話とかギリシャ神話とか乱痴気騒ぎが大好きな神々が手招きしている。もうそっちへ行くよ。やっぱり童貞が許されるのは小学生までだよね。

 

 捨てようぜ、理性。

 解き放とうぜ、本能。

 すべてが性欲に呑み込まれようとして――突如、士道の部屋の扉が開かれた。

 

「えっ……?」

 

 黒服サングラスの巨漢が二人入ってきて、夕弦に布団を被せると、押し倒された士道を引っ張り上げる。そのまま両脇を支えられて部屋から連行された。

 

 

    *

 

 

「…………な、なによ」

「いや、正直なのはいいことだと思ってね」

「ふんっ、あの程度の誘惑で負けちゃう士道が悪いのよ」

「…………」

「わ、私はただ、あのまま布団を汚されたりしたら、洗濯が大変だと思って。それにあくまで寝起きの対応を訓練するのが目的だから、それ以上の行為は不要だわ」

「…………」

「『ラ・ピュセル』の限定ミルクシュークリーム一〇個!」

「……琴里の指示はいつも正しいね」

 

 こうして、義妹の愛によって今日も士道の童貞は無事に守られるのであった。

 今日も五河家と<フラクシナス>は平和です。

 




 この番外編のためだけにR15を付けることになったぜ!
 ただ朝起きて寝惚けた二人が、寝相の悪さで服が脱げちゃって、重なり合ってもぞもぞしてるだけだから、まったく健全そのものですね。


Q.琴里の妨害も無いVerはまだですか?
A.R18とかマジ勘弁


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番外編 士道サドンデス

 ちょっと本編を書いている余裕がなかったので、番外編を使ってお茶を濁す作者である。

 時系列は『騒乱マイホーム』で書かれなかった、昼過ぎから夜までの間です。
 ……なんだかとっても眠いんだ(意訳:疲れてるからこんな内容になったのは仕方ない)。
 物語性の薄い小ネタ集なので、ご了承ください。


「琴里、本当にやるのかい?」

「ええ、もちろんよ。士道には女慣れしてもらわないと、これからの精霊攻略できっと苦戦することになるわ」

「そうかな? やり方はどうあれ、シンは女性への対応に手慣れていると思うがね」

「そのやり方がだめなのよ。ほら、チャンスが来たわ。早速、始めるわよ!」

 

 

 

●夕弦の脱衣教室

 買い物から戻ってきた士道の「ただいま」の一言が、返事を受け取る前に消えていった。琴里と八舞姉妹は<フラクシナス>に行っているし、両親は相変わらず家に戻ってこない。

 アイスを溶けない内に冷凍室へと放り込む。下拵えに使う食材は台所に並べておき、それ以外の食料品を冷蔵室に入れた。

 

 これから同居人が増えるのもあり、まとめ買いしてきた洗剤類を仕舞おうと、風呂場へと足を向ける。誰も居ないので特にノックもせずに、脱衣所の扉を開いた。

 思えば、その先入観が命取りだった。

 

「……っ!?」

 

 士道は予想外の事態に凍り付く。

 

「困惑。どうして士道が居るのですか」

 

 太陽のように明るい橙色の髪は、普段の三つ編みから解放され月のような静寂を湛えている。しっとりと濡れそぼつ髪に纏わり付かれた肢体は、絶妙なプロポーションを誇っていた。

 

 ここには居ない筈の少女――八舞夕弦は水銀色の瞳を困惑に揺らす。

 

 反射的に局部を覆い隠すが、それまでの一瞬で士道の鍛え抜かれた眼力は、魅惑的な肉体を余すところ無く写し取っていた。機関との戦いで鍛えた、瞬間記憶術が暴走してしまったのだ。

 

「すまない。俺としたことが、気配を探ることすら怠っていた」

 

 瞼を閉じて頭を下げる。

 しかし、網膜に焼き付いた眩しい肢体の記憶は、士道の本能を刺激してくる。

 

 手の平から溢れ返る乳房、それに反して抱き締めるだけで折れてしまいそうな腰回り、思わず頬擦りしたくなる肉付きの良い太腿、艶かしい曲線を描く臀部。どれ一つとっても芸術的であり、それが完璧に組み合わさることで、更なる魅力を引き出し、まるで神性を帯びているようであった。

 

 頭を下げたままの士道の両頬を、まだ熱を持った夕弦の手の平が包み込む。

 

「撤回。士道になら見られても構いません」

 

 その程度の誘惑で屈する士道ではない。彼の鋼の理性は、例え裸の女性に迫られても――ん? 頭の上に乗っている柔らかい感触はなんだろうか。ぽよぽよと頭の揺れに合わせて形を変える。

 

「……………………」

 

 いやいやいや、まさかそんな、夕弦の胸が乗っているなんて、そんな馬鹿なことがありえる筈がない。あはは、両手は頬に当てられて、胸が頭の上にあったら、それはつまり目を開けたら――やめろ、想像するな。自殺行為になるぞ。それに落ち着け、これは機関の罠だ。

 

「請願。目を開けてください」

「…………」

 

 ああ、そうだ。こんな目があるからいけないんだ。

 潰してしまおう。大丈夫大丈夫、心眼があるから問題無い。辛いのは最初だけだから。

 士道は右手で目潰しの構えを取った。

 

「本能如きに負けてたまるものかぁぁぁぁっ!」

 

 

    *

 

 

「緊急出動! あの馬鹿の自殺行為をすぐに止めなさい!」

 

 メインモニタに映った士道の暴挙を、屋内で気配を殺して待機していた特殊工作員が慌てて止めに入った。

 

「はぁはぁ……な、なんでそうなるのよ!? 普通は欲望に負けて目を開けるか、走ってその場から逃げたりするでしょ! やっぱり中二病は問題よ。いっそ、快楽漬けにして矯正してやるわ!」

「……まだ続けるつもりなのかな?」

「もちろんよ!」

 

 

 

 

 

●耶倶矢とお約束

 夕弦が戻って来ていることを今更ながら報告を受けた士道は、夕弦に土下座で謝った後、耶倶矢はまだ検査が長引いて戻って来ていないことを聞いて、それならまだ時間があるだろうと、二人が使う予定の二階の客間の最終チェックに向かった。

 一通り掃除をしたとはいえ、出掛けている間に機関のトラップが仕掛けられている可能性がある。

 

 ――確かにトラップは存在した。ただ、それは士道がターゲットだった。

 

 トラブルを乗り越えた気の緩みのせいだろうか、士道はまたノックをしなかった。

 

「えっ……?」

「ん? 夕弦か? もう身を清め終わるとは――なっ!?」

 

 耶倶矢が部屋に居た。しかも着替え中で、ちょうどシャツを脱ごうと腕を抜こうとするところで、慎まやかな胸を妙にアダルティなレースのブラジャーが包み込んでいるのが見えた。

 

「貴様、許可無く我が領域に立ち入るとは、例え盟友といえども許さぬぞ!」

 

 士道に気付いた耶倶矢が、手近のクッションを投げてきた。呆けていたところへ、顔面に直撃を受けた士道は受け身も取れずに仰向けに倒れ込んだ。

 何故だろうか、痛いのに、夕弦の対応に比べたらとても健全で安心感を覚えてしまう。

 

「士道っ!? だ、大丈夫――わわっ!」

 

 穿き掛けだったキュロットがずり下がり、駆け寄ろうとした耶倶矢がずっこける。そして、士道に覆い被さるように倒れ込んだ。

 士道は怒涛の展開に付いて行けず、気付いた時には、何か柔らかい感触に顔面を包み込まれていた。

 

「いっつぅ……士道、怪我とかない?」

 

 上半身を起こした耶倶矢が、馬乗りになったまま心配してくるが、士道はそれどころではない。転んだ勢いでブラジャーがズレているし、布面積が最低限のサイドを紐で結んだショーツが丸見えだ。

 

「あっ……!」

 

 ようやく自分の格好に気付いた耶倶矢が、両腕で胸元を覆い隠した。その仕草が、普段の中二病的な振る舞いからは考えられない純粋なもので、士道の胸がドクンと大きく動揺を示した。

 奇妙な膠着状態に陥る。

 二人は視線を逸らして、むずむずの青春空間が形成された。

 

「あ、あのさ」「な、なあ」

「あっ、士道から言って」「耶倶矢から先に」

「…………」「…………」

「そ、その」「ええとさ」

「…………」「…………」

「とりあえず、上からどくわね」「そうだな」

 

 耶倶矢が立ち上がろうとして、ショーツの紐が士道のズボンのチャックに引っ掛かる。それに気付かず立ち上がり――

 

「え、ちょっ!」

「どうした……ぐほっ!」

 

 立ち上がる間は視線を逸らしていた士道が、耶倶矢の戸惑いの声につい目を向けようとして、慌てた耶倶矢がバランスを崩して、見事な踵落としが士道の土手っ腹にクリティカルヒットした。

 

 

    *

 

 

「女の子へのフォローを鍛えるためなのに、その前にどうして意識を刈り取られちゃってるのよ!?」

「事故だから仕方ないのではないかな?」

「はぁはぁ……まあ、今回は仕方ないわね。でもこうなったら、意地でも士道のフォロースキルを確認するために続行するわよ!」

「……碌なことにならないと思うがね」

 

 

 

 

 

●折紙は自重しない

 一つ屋根の下に精霊とASTが居るのは、奇妙な状態だった。とはいえ、折紙は士道の説得によって精霊に対する認識が今までとは変わろうとしている。このまま良い方向に進むことを願わずにはいられなかった。

 

 三人のガールズトークを<ラタトスク>の監視に任せて、士道は一人で自室に戻る。部屋で機関対策の作戦を練っていると、琴里がノックをして入ってきた。

 

「士道、ちょっとトイレの電球を替えてもらえないかしら」

「分かった、すぐに行く」

 

 士道はノートを机の引き出しに仕舞ってから、替えの電球と作業用の丸椅子を持ってトイレに向かった。

 トイレの前で琴里が待っていた。別に一人で手は足りるので監視に戻ってもらうように頼むと、「それもそうね」と特に不自然な様子もなく去っていった。

 

「……っ!?」

 

 トイレにはまさかの先客が居た。

 スカートとパンツを下げた折紙が、無感情の眼をぱちくりさせる。

 

「お、折紙……!」

 

 混乱する士道を余所に折紙の思考は高速で回転していた。

 鍵を閉めていたのだから、誰かが入っていると考える。その鍵をこじ開けてまで、トイレに押し入ろうとする考えとは……?

 

 ――結論は出た。

 

 これは新しい形の夜這いだ。

 

「来て」

「えっ」

「来ないの?」

「えっ」

「ここでしないの?」

「ええっ」

「私は、いつでも大丈夫」

「え、ちょ、待て――」

 

 折紙の手が士道の腕を掴む。女とは思えない怪力で振り払うこともできない。そして、士道はトイレへと引きずり込まれて、扉は閉ざされた。ガチャリと鍵が閉まる。

 もう邪魔者は現れない。

 折紙と士道の二人っきりの世界の完成だった。

 

 

    *

 

 

「誰か止めなさいっ! 今すぐトイレをぶち開けて、あの肉食獣をどうにかするのよっ!」

「………………」

 

 メインモニタにトイレの閉ざされた扉が映されていた。士道の必死で抵抗する様子が音声だけで伝わってくる。

 半狂乱の琴里の指示で、特殊工作員が突入するが、何故かトイレの扉は鍵を破壊しても開かない。爆発物でも突破しようにも、中に居る人間まで巻き込んでしまう。

 

 それから数十秒後――士道は工作員のサポートを受けて窓から脱出を果たした。その姿はまるで爆発に巻き込まれたようにぼろぼろだった。彼は欲望を耐え抜いて、折紙の魔の手から逃れたのである。

 

 ――こうして、今日もまた、士道の童貞は守られるのであった。

 

 




 明日も本編の更新はできそうにないので、予めここで報告致します。
 番外編のネタは、大体はその日の内に考えているので、クオリティを気にしたら負けだよ!

Q.今回書いていて一番驚いたことは?
A.「濡れそぼる」は誤りで本当は「濡れそぼつ」と書くこと


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番外編 折紙さんは平常運転です

 『8.不器用精霊』の折紙視点です。
 書き始めたのが、22時過ぎなので、クオリティと長さは察してください。


 鳶一折紙が二人の姿を発見したのは偶然だった。

 学校とASTの仕事、表裏の休暇が重なって、来たるべき士道とのデートに備えて、デートコースを練っていたところ、士道と十香が商店街に向かって行く姿を見付けたのだ。

 

「…………」

 

 物陰に身を隠し、心を落ち着ける。

 手を繋いでいたが、あれは子どもが迷子になるのを防ぐため――いや、ペットが逃げ出さないようにするための首輪に結んだリールと同じに違いない。

 

 購買部でやたらと突っかかってくる女子生徒が、士道に話し掛けていた。あの女も要注意人物の一人だ。一年の頃から士道に馴れ馴れしく接しており、あまつさえ過剰なスキンシップを図り誘惑しようとする。

 

 色仕掛けなど言語道断。士道の意志を無視する行為だ。安っぽいハニートラップに引っ掛かると思う時点で、士道に対する冒涜とも言える。

 折紙ならば、真っ直ぐに堂々とあの手この手を使って、士道が自らの意志で折紙を選んでもらえるように仕向け……げふんげふん、誘導す……ごほごほ――努力する。

 

 折紙は二人の尾行を開始した。これは精霊攻略に協力している身としては当然の行為である。なんら疚しい思いなどない。当然だ。そもそも精霊の力を失っていない状態の十香は、世界を殺す災厄であることに変わりない。それを警戒するのは人として寧ろ当然で、別に自分よりも早く士道とデートをしているから恨んでいたりだとか、妬ましいだとか、そういう感情を持つ筈もなく、ただ純粋に士道が心配であり、命を懸けてでも守ると誓っているからには陰日向となって常に士道の傍に居るのは自然であり逆に傍を離れることは裏切り行為であるからして現状で二人に気取られないように行動するのはあくまで万が一の不意打ちを想定した選択であり決して士道のデートに於ける趣向を予め把握することで今後のデートに活かすためだとかこれっぽちも考えていなくて、とにかく尾行の必要があるから尾行しているのだ。

 

 一瞬で言い訳を自己完結させた折紙は、表情を露とも変えずに歩き出す。以前に尾行がバレた経験もあるため、より細心の注意を払っていた。

 

「…………きなこ?」

 

 十香が騒いでいるのが聞こえる。そういえば、ゲームセンターの時も、何やらこだわりがあるようだった。

 

 二人がきなこを堪能している間、折紙は士道がきなこに塗れた姿を想像して暇を潰す。砂糖を混ぜ合わせた甘いきなこを舐め回す。士道の汗と混ざり合い、官能な味わいが堪らない。羞恥に歪む士道。細かな粒がざらざらと肌をくすぐり、何度も繰り返している内に、皮が剥けて肌が傷付く。士道の血が零れ落ちた。もちろん折紙は、その貴重な血をみすみす見逃す筈もない。ペロリと舐めとった。

 

「…………」

 

 折紙は口元を拭った。少々トリップしていたようだ。士道と十香は移動を始めていたので、慌てて尾行に戻る。

 食い倒れツアーでもやっているのだろうか。商店街にあるすべての食料を食い尽くす勢いで、十香の蹂躙は続いていた。

 

「…………」

 

 自分と士道であれば、あんな野蛮なデートになったりはしない。もっとおしゃれで静かな、そう二人に相応しい大人のデートになる筈だ。

 二人は公園で小休憩を挟むようである。折紙は一息ついて、小さな子どもたちがはしゃぐ様子を眺めていた。士道との家庭を想像して幸せに酔いしれる。結婚したら士道のことをなんと呼ぶのだろうか。子どもは何人がいいだろうか。

 

 休憩を終えた二人が、ファミレスへと入っていった。

 まだ食べるつもりらしい。

 

 折紙は二人に気付かれないように近くの席に座り、会話を盗み聞きした。最初は何の変哲もない会話だったが、士道の問い掛けにガラリと空気が変わる。

 

「…………」

 

 士道の力強い言葉が胸に染み渡る。

 復讐が終わった瞬間を思い出した。彼は一度ならず二度も自分を救ってくれた。精霊によってすべてを失った折紙にとっては、もはや士道が生きるためのすべてだった。

 ファミレスを出て行く士道と十香の背を見送り、折紙は改めて決意を固める。

 

 ――彼のためにこれからも生きていこう。

 

 既に終わっていた命。すべてを捧げても惜しくはない。

 士道と共にこの世界から精霊を完全に排除し、平和な世界を取り戻そう。彼の周りに女が増えるのは正直に言えば不満ではあるが、負けるつもりはない。

 

 そのために、まずはこれから予定の空いているらしい士道をデートに誘わなければ。

 幸せな記憶を胸に抱いて、折紙は携帯電話で士道に掛ける。

 たくさんの感情を詰め込んで、それでもいつも通りに、直球勝負の誘い文句。

 

「――これから会いたい」

 




 前半は突っ走りながら、後半で乙女アピを欠かさない折紙さん。
 ジェバンニがプロット無しで一時間で書いてくれました。

 明日には本編を更新いたしますので、もう少々お待ちくださいませ。


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番外編 耶倶矢が至る真実

『9.二つのデート』のカラオケでの出来事。
マッハで書いたので、本当に雑です。後で加筆訂正します。


 天宮市某所のカラオケ店。

 リクエストされた曲をBGM代わりにして、八舞姉妹の過去話は始まった。

 

「回想。あれは四月の中旬でした。夕弦たちは士道に会ったのです」

「ふむ、いつものように二人で勝負をしていたのだが、そこに士道が……いや、<業炎の咎人(アポルトロシス)>が現れた」

 

 最初は真面目な雰囲気だった。

 十香も静かに聞いていられた。

 どのぐらいからだったろうか。徐々に八舞姉妹の語り口は熱を持ち始めて、発言が食い違うようになった。

 

「ん? 待て、夕弦……その話は我の記憶と矛盾しておるぞ。破壊と再生を司る十柱は、我が手で完全に滅ぼしたあの日、士道の缶ジュースで間接とはいえ、契約を交わしたのは我が先だった!」

「訂正。ボーリング対決をした日、夕弦が先に士道のジュースで間接キスをしました」

「馬鹿な、あの時に貴様は別の場所で休憩していたであろう」

「辟易。逆です。あの時、耶倶矢は一人でボーリングを続けていました」

 

 耶倶矢が犬だったならば、グルルと聞こえそうな唸りっぷりであった。夕弦も夕弦で表情は変わらないが、内側から溢れ出る威圧感が半端ではない。

 十香はうんうんと唸って、物凄く単純な結論に至った。

 

「二人が話しているのは、別のことではないのか?」

「疑問。どういうことでしょう」

「ん? だから、同じ日でも別の時間の話をしていると思ったのだ」

「あっ」

「唖然。盲点でした」

 

 八舞姉妹はぼそぼそと二人だけで話し合う。

 

「結論。士道が誤解を招いたのです」

「我が盟友は、迫られれば断れぬからな」

「んむ? よく分からないが、士道が悪いのだな」

「違うぞ」「否定。違います」

 

 即座の反論に十香は戸惑う。

 

「夕弦が目の程を弁えずに迫ったのが悪いのだ。士道も士道で、此奴を甘やかすから付け上がる」

「反論。士道の優しさに甘えているのは耶倶矢です」

「ほう、大きく出たな。貴様には士道の何が分かるというのだ?」

「冷笑。お子ちゃま耶倶矢には分からない、士道の秘密をたくさん知っています」

「……秘密だと? なんだ、言ってみるがいい。大したことではないのだろう?」

 

 今度は喧嘩を始めてしまい、十香はおろおろし始めた。話の内容について行けてないので、止めようにも止められなかった。

 夕弦は立ち上がって胸の下で腕を組んだ。まるで耶倶矢に見せ付けているようであった。果たしてそのポーズにどれだけの効果があるのか――耶倶矢がその場に崩れ落ちている。

 

「くっ……貴様、またその駄肉で誘惑したかっ!」

「愉悦。持たざる者からの僻みは気持ちいです」

「ぐぬぬ」

 

 耶倶矢は眷属である十香に助けを求めてきた。

 十香は一方的に負けている耶倶矢を助けようと、立ち上がって傍に行こうとして足を止めた。

 耶倶矢の目が十香の立ち上がった仕草の時に胸元に集中し、そして絶望に染まったのだ。

 

「揺れた、だと」

 

 この世界についてまだまだ無知である十香は、目立たないように表面上は服を生成しているが、下着を着ていなかった。中々に豊かなものをお待ちなので、拘束さえなければ、それはそれは元気な姿を見せてくれる。

 耶倶矢は視界が真っ暗に染まる。眷属に負けている主なんて、憐れ過ぎる。なんて無様なのだろうか。

 

 いや、待て……本当に胸が大きいことは救いなのか?

 例え世界の価値観が、巨乳万歳と叫ぼうと、士道一人がちっぱい万歳! と叫べばそれでいいじゃないか。

 

「くく、くははははっ! 危うく術中に嵌るところだったぞ。だがな、我が魔眼の前ではいかなる神算鬼謀も透けて見える!」

「憐憫。遂に胸だけでなく脳にも栄養が行かなくなりましたか」

「ふんっ、いつまでも調子に乗っておるなよ。すぐに貴様の妄想を打ち砕く、絶対の真実を披露してやろうか!」

 

 耶倶矢は個室から出ると、<ラタトスク>のサポートを受けるためにつけていたインカムで、琴里に連絡を取る。

 

『こっちでは特に異常は確認されてないけど、何か問題でもあったの?』

「琴里、士道は胸にこだわりはあるか?」

『……は? な、なんでそんなことを訊くのよ』

「これは重大な問題だ。同じ家で過ごしてきた貴様には分かっている筈だ。まさか士道は、巨乳信者ではあるまい? あんな脂肪の塊は戦闘行為には邪魔になり、日常でもただの荷物であろう?」

『…………』

「なあ、そうだと言ってくれ……琴里!」

 

 

    *

 

 

 <フラクシナス>の艦橋にて、琴里は眉を寄せていた。未だかつて無いほどの苦悩を抱えて、耶倶矢への返答を考える。

 令音が耶倶矢の感情の乱れを報告してきたことが、琴里に決断の勇気を与えた。

 

「――ええ、士道は根っからの貧乳主義者よ。寝言でちっぱいちっぱい叫んで、今でも私と一緒に風呂に入りたいなんて言っちゃうほど見境がない薄胸派で、まな板を見るだけで興奮しちゃうぐらいの微乳好きなのよ!」

『やはりか! くくっ、夕弦に目に物を見せてくれる。感謝するぞ、琴里』

 

 通信が切れて、艦橋に沈黙が広がった。

 

「…………これは、苦渋の決断よ」

 

 うん、そうそう、これは耶倶矢のためだもの。ええ、私の願望なんてこれっぽちも入ってないわ。当然よね。<ラタトスク>の司令官が、私情に流されるなんてことがある筈が無いのよ。

 

 でもなんでだろう、涙が止まらない。

 ああ、そうか、間接的に自分の胸が小さいって……考えるのは止めましょう。今は十香の攻略が最優先なのよ。

 

 

 ――こうして士道の性癖は、愛すべき義妹によって決め付けられるのであった。

 




 本当は本編を更新するつもりだったんだ。
 でもだめだったよ……。


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番外編 購買部ビギナー

 第二部の後日談です。
 本編中では書き切れなかった、八舞姉妹や士道の心情とか、関係性の変化とか、購買部のその後とか……色々と詰め込んだ結果、文字数が膨れ上がったけど、多い分には問題ないよね!



 とある平日の朝。士道は機嫌が良かった。

 洗濯物を取り入れるのにベランダへと出た際に、預金通帳を太陽に掲げる。桁が二つも増えた預金額を確認して、ニヤニヤと笑った。遂に滞っていた<ラタトスク>からの支給が再開されたのだ。

 

「潤沢な活動資金……これで『組織』を名乗れるというものだ」

 

 ASTに対してのハッタリで使ったシンプルな名称を、士道は気に入っていた。

 『機関』に対して『組織』。世界の裏側で戦い続けた能力者達が、遂に疑心暗鬼を乗り越えて、手を取り合い協力を始める。それが組織の誕生であった。

 過酷な戦いが続いていたため、妄想を楽しむ余裕もなかった。久し振りに脳内設定を更新できたことにご満悦である。中二病を自覚したとはいえ、彼の妄想好きが直る訳ではないのだ。

 

「シドー……? あ、朝餉はまだか?」

 

 朝食の催促に来た十香が、士道の暗い微笑を見て躊躇いがちに声を掛けてくる。

 

「ああ、すまない。機関の野望を打ち砕く力が強化されるかと思うと、嬉しくてな」

「おお! 流石はシドーだな! 機関など、こてんぽんにしてしまおうではないか!」

「……任せておけ」

 

 十香は完全に士道の妄想を信じて、機関が実在すると思っていた。王者としての振る舞いは、中二病よりも素の要素が大きいようで、未だに士道のズレた言動に対して素直な反応を示すのだ。時に罪悪感を抉る純真の刃は、彼女の主である耶倶矢が最も被害を受けていた。

 

「そういえば、今朝の献立はなんだ? 炊飯器の米はいつもより少なかったが……まさか、兵糧が尽きたのか?」

「朝はトーストにするつもりだったからな」

「トォストとはなんだ?」

「パンのことだよ」

「きなこパンか!?」

「残念ながら、違う」

「むう……違うのか。あっ、いや、シドーの作る食事はいつも美味しいぞ!」

 

 士道は十香を伴ってリビングに向かうと、既に八舞姉妹も起床しており、アニメを見て何やら新技の相談をしていた。

「提案。以前は耶倶矢が飛び跳ねるだけでしたが、このように錐揉み回転を加えるのはどうですか」

 

「なるほど、それならば迂闊に踏み込む愚者共を、容赦無く逆風で弄んでやれるな。颶風の御子に相応しき技よのう」

「思案。最初の踏み込みが肝心です。今まで以上に連携が重要になります」

「くく、案ずるな、我と夕弦に不可能だと存在するものか」

「同意。夕弦と耶倶矢に不可能はないです」

「まあこれも、夕弦の力があってこそだがな」

「訂正。耶倶矢の力があってこそです」

「称賛ぐらい素直に受け取るがいい。夕弦は完璧だぞ。それ以上の存在だと居るまい」

「肯定。夕弦は完璧ですが、耶倶矢はそれ以上にパーフェクトです」

「いゃふふ、なんだ、褒めても何も出ないぞー、このこのー」

「反撃。つんつん」

 

 八舞姉妹はソファでつつき合い始めた。以前から仲は良かったが、最近は更に深めてはいけない領域まで踏み込んできている気がする。

 相変わらず喧嘩をしたり、夕弦が一方的に耶倶矢をいじったりはするが、十香との一件から、士道から見た二人は少し様子が変わったように思えた。余裕ができたというか、素直になったというか、何か心境の変化になることがあったのかもしれない。

 いちゃつきがエスカレートする二人に、士道は無言で十香の視界を手の平で覆い隠した。

 

「な、なんだ、シドー!?」

「穢れ無き眼は世界の宝だ。大事にするといい」

「ん、うむ……? よく分からんぞ」

「分からないことが価値になることもある」

「難しいのだな、この世界は」

 

 思い悩む十香に食器の用意を手伝ってもらい、士道は朝食の準備に取り掛かる。八舞姉妹もアニメが終わると手伝いに加わって、夜の内にある程度の仕込みをしているとはいえ、人数が増えた割には、士道の負担は抑えられていた。そもそも二人前を作るのも五人前を作るのも、量が増えるだけで、作業の種類が増える訳ではない。

 

「琴里を見ないが、どうしたのだ?」

 

 サラダの盛り付けに挑戦していた十香が、ふと疑問を口にした。

 

「確か精霊用のマンションを用意するために色々とやることがあると言ってたな」

「なっ!? この家から、我らを追い出す……というのか? 琴里は正気を失っているのではあるまいな?」

「追い出すって……近所の土地を借りると言ってたから、別にそこまで生活が変わるとは思わないぞ」

「戦慄。士道も賛成しているのですか」

「このまま精霊が増えたら部屋が足りないだろう?」

 

 十香と八舞姉妹が揃って絶望に沈んでいた。彼女たちをそこまで追い詰める理由がよく分からない。組織の新たな活動拠点が増えるのだ、寧ろ喜ぶべきではないだろうか。

 

「妙案。士道と一緒の部屋でも問題無いです」

「ちょ、夕弦! なに一人で抜け駆けしてんのよ!」

「寝床がないのだ……私もシドーと同室で構わん!」

「十香まで!? そ、それなら、私も士道の部屋に行くし!」

「追撃。夕弦は同衾も大歓迎です」

「ふ、ふんっ、添い寝なら私のが適任よ!」

「苦笑。添い寝で満足ですか」

「えっ」「えっ」「ん……? それ以上に何をするのだ?」

 

 ……早く、精霊マンションできないだろうか。このままでは、近い内にストレスで死ぬかもしれない。ただでさえ<ラタトスク>の訓練によって、女子耐性を付けるためだとかでギャルゲ展開に遭遇させられているというのに、そこに本人たちの積極性が加わったら――ああ、想像したくもない。

 それでも想像力豊かな士道には、恐るべき未来が見えてしまう。脳裏で夕弦の背後に、折紙が無表情で佇む姿を幻視する。

 

『私が、育てた』

「なんてことを!」

 

 想像の中の夕弦が眠たげな顔でサムズアップする。

 

『歓喜。ヤりました、家族が増えますよ』

「おい、やめろ」

 

 士道は頭を抱え込んで蹲る。幻影にツッコミを入れるとは、相当に追い詰められていたようだ。

 

「あんたたち、朝っぱらからお盛んね?」

 

 <フラクシナス>から戻ってきた琴里が、呆れ顔を浮かべていた。今の士道にとっては、その姿はもはや女神といっても過言ではなかった。床を這いつくばって、恥も外聞もなく義妹へとしがみつく。

 

「な、なに? どうしたのよ、士道?」

「俺を匿ってくれ!」

「はぁっ……?」

 

 未だに激闘を繰り広げる精霊たちの会話から、優秀な司令官様は色々と察してくれた。

 

「ああ、そういうこと。もうすぐでマンションは完成すると思うけど、間に合わないなら、士道と同室になるのは私でしょ」

 

 たった一言で、琴里はすべての争いに終焉をもたらす。

 

「だって、ほら、私は士道の妹だし、<ラタトスク>の司令官なのよ」

 

 こいつ立場と権力でゴリ押ししてきやがった!

 恋に恋する精霊たちの前に立ちはだかるラスボス、それは琴里だった。

 

「まあ安心しなさい、別にこの家に来るのを禁止するつもりはないから。食事は一緒に取ってもいいし、行動の制限も加えない。別荘ができるぐらいの気持ちでいればいいわ」

 

 寝泊まりについて有耶無耶のまま、説得によって騒動は終息し、一同は朝食の準備に戻った。

 琴里の顔を見て、ふと士道は預金額のことを思い出した。折角なのだから十香の歓迎会でもしよう。まだ忙しい毎日が続いており、琴里の予定が合わずに先延ばしにしていたのだ。

 

「今日の帰りに、みんなでカラオケにでも行くか? 十香が家に来てから、まだ何もお祝いもしてやれなかっただろう?」

 

 士道は変装用の女声を手に入れるために、カラオケに通い詰めていた時期があった。やはり声のモデルはあった方がいいだろうと、同年代だったアイドル歌手の『宵待月乃』を参考にしていた。

 八舞姉妹や十香もカラオケを気に入っているようだし、久し振りに歌うのもいいかもしれない。それから夕食をみんなの好物で揃えれば、食欲旺盛な彼女たちは喜んでくれることだろう。

 十香はカラオケと聞いて瞳を輝かせた。しかし、すぐに光は消えてしまう。

 

「だが、シドー……カラオケにはきなこパンがないぞ?」

「……それがお祝いの基準になるとは予想外だったよ」

 

 弁当箱にご飯を詰めようとしていた耶倶矢が、その手を止めた。

 

「金があるのならば、あの場所に案内してやれば良いのではないか? 血潮が沸き立ち、本能を呼び覚ます、かの戦場ならば十香を満足させる至高の逸品(フェイバリット・ワン)を手に入れられることであろう」

「勧誘。十香は至高のきなこパンを食べたいですか」

「至高の……きなこパン。それは、どこにあるのだ?」

 

 想像したのか十香が鼻息を荒くして八舞姉妹に迫った。

 八舞姉妹から促すように視線を向けられて、士道は代表して答えた。

 

「――来禅高校購買部だ」

 

 

    *

 

 

 来禅高校に昼休みがやってきた。授業から解放された生徒たちの笑顔があちこちで花開く。だが、すべての生徒が気を緩める訳ではない。

 本来は休息を得る時間に命を懸ける者達が居た。彼らは授業終了と同時に、教室を飛び出していく。

 

 校舎内で最も素早く動けるように綿密に計算されたウォーキングフォーム。廊下は走らず、慌てず、最速に。

 ルート選択も重要だ。校舎は変形したり、歪曲空間で繋がり合ったりはしないが、決して昨日の近道が今日の近道とは限らない。すべてのクラスの時間割を脳内にインプットし、朝の内に授業変更の情報を収集、不測の事態に備えて各クラスに密偵を配置するのも良い作戦である。

 

 コンマ以下の速さを争う彼らが嫌うのは人混みだ。対策案は存在する。木を見て森を見ずと言うように、個人の動きを予想するのは難しいが、クラスという集団となれば予測も容易い。とはいえ、最短ルートを目指す上ではできるかぎり回避すべきリスクである。

 

 これらはすべて戦場に辿り着くための前哨戦に過ぎない。

 そこは殺し合いの場には非ず。されど世界で最も過酷な戦場と知れ。

 人々はそこで生き抜く精鋭たちを、畏怖を込めてこう呼んだ。

 

 ――購買士(バイインガー)

 

 己の命よりも一途に至高の逸品を求め、購買部で彼らは今日も死闘を繰り広げていた。

 

 

 

 十香は初めて購買部を目にして興奮を隠せずにいた

 

「なんだ、この熱気は!? こんな場所が学校にあったのか……!」

 

 悲鳴や怒号は絶えず繰り返されているというのに、寧ろ温かい。ここには真っ直ぐな愛が溢れている。

 

 ――誰よりも至高の逸品を強く追い求めるのならば、まずは他者を蹴落とす非情を身に付けろ。躊躇は油断よりも危険だ。

 

 購買士が初期に教えられる――否、自ら悟る教訓だが、それは虐げる意志を持つのではなく、スポーツマンシップに近いものがある。負の感情で張り合うようでは、いずれこの戦場から拒絶を受けることだろう。ただ至高の逸品へと向ける、絶対的な想いを競い合うのだ。

 

「ほう、久しいな、<無邪気な風遊び(シュトゥルム)>。そして<無反応(ディスペル)>よ!」

「くきき、惨めにパンの耳を齧る用意はできているのかね」

「きゃはは、あの時の言葉、嘘ではなくて安心したわよ。でもぉー、そんな腑抜けた顔をしてるようじゃ、ここに来るのはまだまだ早いんじゃなーい?」

 

 購買四天王――<吹けば飛ぶ(エアリアル)>、<異臭騒ぎ(プロフェッサー)>、<おっとごめんよ(ピックポケット)>が士道たちの前に現れた。既にそれぞれ勝ち取った至高の逸品を手にしている。やはり、四天王の名は伊達ではない。

 

「我々は如何なる者も歓迎する。ようこそ、新兵。我らが戦場へ」

 

 <吹けば飛ぶ>が両腕を翼に見立てるように大きく広げて、混沌に満ちた購買部を示した。

 

「シドー……この先にきなこパンがあるのか?」

 

 十香の突き出した指先は微かに震えていた。

 

「購買部よ、私は帰ってきた!」「大人しくコッペパンを出せ! さもなくば――射殺する!」「狂気の沙汰(パン)ほど美味しい」「俺が、俺たちが、購買士だ!」「至高の(パン)はここにあり!」「時間を稼ぐのはいいが、別にパンを食ってしまっても構わんのだろう?」「ええ、遠慮は……って食うんじゃないわよ!」「購買王に、俺はなる!」「365日24時間死ぬまで食え」「ブラック・ブレットが黒パンじゃないって何度言えば分かるんですかー!」「ひひひ、ひひ、随分と調子に乗っておりますのね、わたくし!」「それは私の台詞でしてよ、わたくし?」「きひ、ひひひひ、まとめて相手をしてあげますわ、わたくしたち。そのメロンパンを一瞬で喰らい尽くして――差し上げましてよォッ!」「さあ、おまえの(パン)を教えろ!」「本当は……分かっていたんだ、今更だけど俺は全身全霊、チョココロネが欲しい!」

 

 お前ら出てくる世界違うだろう。隣界ってレベルじゃねーぞ。

 士道には馴染みの空気だが、十香にとっては、ただ近くに居るだけで圧倒された。同時に世界にはきなこパンだけではないのだと理解させられる。命を懸けるべきパンはまだまだあるのだ。

 なんだか最悪の精霊(きょうぞうさん)が更に増えてねーですか。きっと彼女たちの心にも購買士の魂が宿っているのだろう。気にしたら負けだ。(士道の実妹と本体が)このあと滅茶苦茶フルボッコした。

 

「きなこパンがお前を待っているぞ」

 

 士道は代金を十香に手渡す。

 

「うむ」

 

 十香は小銭を握り締めて駆け出した。

 恐れるのならば突き進め。迷うのは後悔に変わってからにしろ。前に進まぬ者に至高の逸品は微笑みはしないのだから。

 

「私は行くぞ、だから、待っていろ――きなこパン!」

 

 戦場に踏み込んだ瞬間、十香は揉みくちゃになれた。視界を人混みが覆い隠し、一歩を刻むことすら儘ならない。

 

「ぐっ、やめろ、私は進まねばッ!」

 

 引き返す人の波に呑み込まれて、十香はすぐに戦場から追い出されてしまった。

 

「流れを読め。人の塊と考えているようでは決して辿り着けない。全体を俯瞰し流動的な戦場を把握しろ」

 

 無秩序に見えて人の流れには必ず法則性がある。それを掴むことが購買士として戦う上での必須スキルだ。もちろん自らが流れを作る猛者や、人混みなど意に介さず飛び越える者、あるいは僅かな隙間を縫って軽やかに抜ける者も居る。だがそれは、基本があってこそ成せる技だ。

 

 士道の言葉を胸に刻み、十香は再び挑んだ。しかし新兵を嘲笑うように戦場は荒れ狂う。一瞬たりとも集中を途切らせることはできない。隙を見せれば瞬く間に、引き返す激流に押し戻されてしまう。

 

「はぁはぁ……何故だ、私には何が足りない!?」

 

 やがて、目ぼしいパンが消え去ると激戦区は消失した。陳列棚に並ぶのは、パンの耳だけだった。

 十香はパンの耳が詰まった袋を抱き締めて、すべてが終わった後の戦場で膝を突いた。空腹と敗北の悔しさから涙に暮れる。

 

「それだけじゃ足りないだろう、俺のパンも食べるか?」

 

 肩を叩かれて顔を上げると、士道がカツサンドを差し出してきた。目と目が合い、それが敗者への施しではないことを理解する。挑発だ。自分では至高の逸品を手に入れることもできず、他人のパンで飢えを凌ぐ浅ましい姿を晒すのか?

 

「王とは崇め奉られ献上品を受け取る者だ。国民に甘えることなど許されない」

「覚悟は受け取った。そんな十香にこそ、俺の至高の逸品は相応しい」

「どういう意味だ?」

「腹が減っては戦はできぬ。……次は絶対に勝て」

 

 無駄に格好付けて立ち去る士道の背を見送る。

 静まり返る購買部で、パンの耳とカツサンドを口に押し込んだ。もう無力は嘆かない。弱い自分は過去の自分だ。敗北を知った十香に慢心は存在しない。

 

「シドー、私は勝つぞ。勝って、おまえの選択が正しかったことを証明する!」

 

 そこに居たのは、ただ至高の逸品(きなこパン)を渇望する飢えた一匹の獣だった。

 

 

    *

 

 

 夕暮れ空を悠々と漂う空中艦<フラクシナス>。その仮想訓練室に、十香と八舞姉妹、そして士道の姿はあった。

 仮想訓練室では顕現装置と艦内設備によって様々な想定訓練が積むことができる。十香の燃え上がる闘志を感じ取った士道が、琴里に頼んで貸し出してもらったのだ。

 

「準備は良いか? これより始める訓練は生半可な覚悟で挑めば黄泉に引き摺り込まれる恐れもある。我らはそうなっても助けてはやらんぞ?」

「…………」

「くくっ、これ以上の言葉は不要か」

 

 耶倶矢は額に鉢巻をして更に竹刀を片手に握っていた。

 

「了承。では訓練を始めます」

 

 お揃いの鉢巻と竹刀を装備した夕弦の言葉に、十香は力強く頷いた。

 何故だか三人共ブルマ姿であり、士道としては目のやり場に困った。一体誰の入れ知恵だろうか、と考えてすぐに黒リボンの義妹の企み顔が浮かび上がった。

 

「それにしても……この空気、懐かしいな」

 

 士道は昭和のスポ根を感じさせる三人の訓練風景を眺めて、ふと自分の修行時代を思い出していた。何度も死に掛ける――普通の人間であれば死んでいた危険なものを幾つも乗り越えてきた。

 

「しかし、俺もうかうかしていられないな」

 

 四天王の一人として、簡単に負けることは許されない。四天王敗北それは即ち、あの愉快な購買士たちの統制が失われているということだ。そんなことになれば、来禅高校の秩序そのものが崩壊してしまう。

 

 士道は八舞姉妹が用意した訓練プログラムを手に取る。

 『熱血! 購買士へと至る道【初級編】』と表紙にでかでかと書かれたホチキス止めの資料は、見た目こそ安っぽいが士道監修のもと作成されており、中二病要素満載なのは確かで購買部で生き抜くために必要な多くのスキルを身に付けられるようになっている。

 

「これをやり抜けば、必ずや購買部で戦い抜く力を得られる筈だ」

 

 人混みを擬似的に作り出して、十香が何度も突撃を繰り返している。

 短い期間で技術を得るのは難しい。これはあくまで実践的な訓練を通して十香に購買部の空気を馴染ませることを目的としていた。

 

 通常時でも精霊の身体能力は非常に高い。それさえ発揮できれば、手も足も出ないことにはならないのである。

 パンへの執着。その執念を前に臆してしまった。

 殺気で相手を怯えさせるのに似ている。購買士は気迫でぶつかり合っているのだ。

 

「士道は訓練に参加せんのか?」

 

 十香の監督を夕弦に任せて、耶倶矢が壁際で見守る士道のもとへとやってきた。

 

「人前で訓練をすれば手の内を晒すことになる」

「ほう、やはり<無反応>は一筋縄ではいかんな。それでこそと言うべきか。いずれ夕弦と共に辿り着いてみせるぞ、貴様の境地に」

 

 耶倶矢は壁を背もたれにして座り込んだ。十香を見守る姿は主としてなのか、慈愛を感じる穏やかなものだった。普段の子どもっぽさが鳴りを潜めて母性が顔を出す。その横顔を見詰めて、士道は立っているのが落ち着かず耶倶矢の隣に座った。

 

「士道は変わったな」

「ん? 藪から棒にどうした?」

「いつも追い詰められているような……そうさな、使命感、いや……もっと根源的で暗い、贖罪に囚われているようだった。それが今は薄くなっている」

 

 落ち着いて耶倶矢と話すのは、<王の簒奪(スキル・ドレイン)>を初めて発動――記憶も曖昧な五年前を除けばだが――した時以来かもしれない。あの時は妄想と現実を行ったり来たりと、訳が分からなくなっていた。

 精霊を巡る戦いは過酷で、士道は臆病のままではいられなかった。成長したなどと口が裂けても言えない。成長させてもらったのだ。

 

「俺は小さい頃から、この世界に生まれたことが罪だと思っていた」

「そうか、それは……悲しいな」

「死ぬ勇気も現実を生きる強さも無くて、それで妄想に縋った。でも、お前たちに逢えて……ようやく変われ始めたんだ」

 

 士道は臭いセリフを言うのを躊躇しない中二病に染まった心に感謝を捧げると共に、耶倶矢と夕弦に言葉を送った。

 

「――俺と出逢ってくれて、ありがとう」

「こちらの台詞だ。我ら颶風の御子は貴様との出逢いに感謝している」

 

 台詞自体には羞恥を覚えなくても、立ち込めたもどかしい雰囲気に、二人は耐え切れなかった。お互いに顔を反対に向けた。

 耶倶矢とは恥ずかしい言葉も交わし合えるものだから、ついついやり過ぎて青春空間を構築してしまう。むず痒いが居心地は悪くなかった。

 

「耶倶矢と夕弦も変わったな」

「気付いておったか。我ながら愚かだとは思うが、眷属から学ばされたのだ」

 

 耶倶矢は咳払いすると口調を変えた。

 

「私たちの想いは、よく理解してるでしょ?」

「ああ……」

「十香も折紙も、自分の答えのためなら誰とだって戦えるし、誰とだって手を取り合える……それが、眩しかったから」

 

 彼女たちの強さに魅せられたのは、士道だけではなかった。なんだかそれが自分のことのように嬉しい。

 

「色々とごちゃごちゃになって、私も夕弦もお互いに素直になれなかったのよ。だけど、士道への想いと夕弦への想いは別物だって……今更になって、心の整理ができたってわけ」

 

 八舞姉妹はお互いの距離が近過ぎたからこそ、思うように行かなかったのだろう。

 振り回している張本人が自分だと思うと、とても遣る瀬無くなる。

 

「愚痴みたくなっちゃったわね。別に士道を責めるつもりはないから、変なふうに気負うんじゃないわよ」

 

 ビシリと眼前に指を突き付けられて、士道は苦笑を浮かべた。どうやらお見通しのようだ。

 耶倶矢が去って行くと、入れ替わりに夕弦が休憩でやってきた。ハンドタオルで汗を拭う姿はブルマ姿で露出部が多いこともあり、爽やかな色気があった。

 

「提案。舐めますか」

「……何を?」

「回答。汗です」

「……遠慮するよ」

「動揺。マスター折紙、話が違います」

 

 なんだか折紙と会話しているような気分になっていたら、やっぱり犯人は折紙だった。一体何をどうすれば汗が舐め取ってもらうものになるのか。

 

「冗談。流石に運動後の肌を舐めさせるのは衛生上の問題があります。夕弦もマスターに付いていけない時があるのです」

 

 俺は夕弦にも付いていけないよ、と言える空気ではなかった。

 

「疑問。それよりも士道は耶倶矢と何を話していたのですか」

「ええと、みんな強いなって話だよ」

「称賛。士道も強いです」

「俺はまだまだだよ。いつだって弱さで戦ってる」

「溜息。自覚がないのは恐ろしいです。士道は必死になると、強さが自然と出てきます」

「いつでも俺は必死だぞ」

「微笑。女心は機関とは比べ物にならないほど強敵ということです」

 

 未だに首を傾げる士道を見て、夕弦は口元を緩めたまま答えない。

 士道は本当に自覚がないようだ。機関と戦う時は、どれだけ追い詰められても意識をしているのかもしれないが素を出さない。しかし八舞姉妹を救ってくれた時から、誰かを絶望から解放するのは、本当の想いと真っ直ぐな言葉だった。

 

「分からん……どういう意味だ?」

 

 夕弦は唇に人差し指をあてて首を傾けた。

 

「黙秘。士道には教えてあげません」

 

 

    *

 

 

 十香は厳しい訓練を乗り越えた。

 そして八舞姉妹と士道によって、購買士として足りなかったものが浮き彫りになった。余りに自然で当然のものであったので、逆に気付きにくくなっていたのだ。

 

「結論。十香に足りないものは――」

 

 

    *

 

 

 十香が欠けていた力を得て、再び購買部に挑む日の朝、鳶一折紙はテレビを付けると、ちょうどやっていた番組によく当たると評判の占い師が出てきて、今日の運勢について語っていた。

 

『イニシャルがO・Tの方は、ラッキーアイテムのきなこパンがあれば、運命の人と距離を縮められることでしょう』

 

 折紙は画面の切り替わったテレビを、ぼんやりと見詰め続ける。

 

「折紙、鳶一……」

 

 自分のイニシャルはO・T。

 

「……きなこぱん」

 

 登校する時間には、まだパン屋は開店していない。かといって放課後まで待っていては、士道の予定も見えない現状では不確定要素が多過ぎる。

 けりを付けるのならば学校内。

 

「…………」

 

 運命の人と距離を縮めるために、折紙は久し振りに昼食は購買部で買うことに決めた。

 

 

    *

 

 

 再戦の時がやってきた。

 授業終了と同時に、二年四組の教室から、黒い影が誰よりも早く飛び出していく。

 

「訓練の成果、発揮してみせる!」

 

 十香は逸る気持ちを抑え付けて、徒歩で廊下を進んだ。走った瞬間、本当の勝利を味わうことはできなくなる。ルールを破って得たパンに価値などない。

 今日の時間割では、購買部付近から休み時間を迎えるクラスが多くて、圧倒的に不利なスタートを切ることになった。

 

 人混みの事前回避は不可能。ならば、最速で突破するしかない。

 前方から体育帰りの集団が接近。別のルートを通れば15秒のロスが生じる。

 

「――行くぞ!」

 

 決断は一瞬。十香の闇色の髪が宙を踊った。

 床だけが道ではない。ロッカーの上に飛び移り、その上を歩き抜けた。

 冷静に周囲の状況を把握すれば、自ずと道は見える。過去の猪突猛進だった彼女とは大違いだった。

 

 購買部前に到達した十香を待ち受けていたのは、前回と同じく購買士同士がぶつかり合う戦場だった。

 

「ふっ……」

 

 十香は不敵に笑った。

 訓練によって得た新たな力を発揮する時が来たようだ。

 

「私は<漆黒の王獣(アルコーン)>。我が道は王道、何人たりとも阻むことは許されんぞ!」

 

 圧倒的な気迫によって、購買士たちは根源的恐怖を感じた。本能でぶつかり合うからこそ分かる。アレは格が違う。四天王を超える才気を感じ取った。

 怯んだところへ十香は突撃した。

 

「悪いが、私のきなこパンへの想いは誰にも負けんぞ!」

 

 鯉の滝登りが如く、無力だった新兵が今まさにその姿を購買士のものとへと変えようとしていた。道を阻む勇士の目前で跳躍する。跳び箱の要領で相手の肩に手を付いて、上から追い抜いた。

 その時だった。

 

「空が誰のものか、その身体に教えてやろう!」

 

 <吹けば飛ぶ>が容赦なく十香に襲い掛かる。両手を肩に付いた状態で反撃の術はなかった。このままでは、空中で弾き飛ばされてしまう。

 

「私が授かった力は一つだけではないぞ!」

 

 十香に足りなかったもの。それは二つ名。かつて士道から与えられ、否定してしまった真名を改めて受け取った。

 初めての名前。その響きだけで十香の力を飛躍的に引き出した。

 そしてもう一つの力が発動する。

 

「まさか、それを武器にするとは……!」

 

 十香は首を振って、ポニーテールを鞭のように扱い、<吹けば飛ぶ>を打ち落とした。視界を闇に覆われて攻撃が逸れる。その間に十香は更に前へと進んでいた。

 

 ――奥義『王獣憤激(グノフォス)』。

 

 闇色の長髪を自在に操ることで、多彩な攻撃と防御を展開できる千変万化の技である。

 

「くきき、臭いは阻めるものか!」

 

 <異臭騒ぎ>の攻撃にも、十香は動じない。

 

「無駄だ!」

 

 予め分かっているのならば、数十秒の間を無呼吸でやり過ごすことは容易い。

 

「きゃはは、舐めてもらっちゃ困るわよぉ?」

 

 最後に立ちはだかるのは<おっとごめんよ>だった。パンを奪い取る身のこなしは、ディフェンスにも応用できる。

 

「舐めているのはおまえだ!」

 

 十香は髪をまとめていたリボンを解いた。闇が溢れ返り十香の身体を覆い隠す。それにより次の行動を相手に悟らせない。身体能力の差、そしてきなこパンへの想いが十香に勝利をもたらした。

 もう十香を阻む者は――白い影が並走していることに気付く。

 

「お前は……鳶一折紙!」

「きなこパンは、誰にも渡さない」

 

 <完璧主義者(ミス・パーフェクト)>は十香など意に介さず、己の目的を果たすために誰よりも速く人混みを突破する。驚愕から立ち直った十香は、すぐに折紙を追った。

 

「きなこぱんは私のものだ! おまえにだけは、絶対に渡さんぞ!」

「それは無理」

「くっ、まだだ、まだ諦める訳には行かないのだ! 士道のためにも、絶対に!」

「他人に戦う理由を預けた者に勝利は無い」

 

 十香は自分の意志を貫き通す折紙に、一瞬だけ士道の姿を重ねてみた。

 

「ふんっ……やはり、おまえは強敵だが、それでこそだ!」

 

 もはや二人のデッドヒートを阻める者は存在しなかった。

 購買士としての矜持。士道への想い。きなこパンへの渇望。

 あらゆる感情が未来に突き進む力に変換される。

 

 購買のおばちゃんは慣れ切ったもので、鬼気迫る顔で迫り来る二人に動じない。ただ残り少ない商品を並べて、穏やかな笑みで待っていた。

 

 折紙が一歩前へと出る。十香は追い縋るが更に突き放された。

 敗北の足音が近付いてくる。時間が止まった世界で、歯車が噛み合わないような奇妙な感覚に囚われた。何かが違う。きなこパンを求める気持ちに迷いなど無いのに。

 

「あっ……」

 

 十香の研ぎ澄まされた第六感が、背後からの視線に気付いた。士道が八舞姉妹が四天王たちが見守っている。

 

「そうだな、私が本当に欲しいものは――!」

 

 想いを力に、一瞬で折紙に追い付いた。

 陳列棚へと十香と折紙の手が伸びていく。残されたきなこパンはたった一つ。手にできるのは一人だけ。

 

 ――そして、二人の手は心から望んだパンを同時に掴み取った。

 

 

    *

 

 

 決着を見届けた士道は共に激戦を見守っていた戦友を振り返る。

 

「お前たち、手加減していただろう?」

「新兵に本気を出すほど、落ちぶれてはいない」

「くきき、強者は大歓迎を阻む理由はないからね。これからも購買部を大いに盛り上げてもらうよ」

「きゃはは、飴と鞭は使い分けが肝心よー」

 

 購買四天王。それは自らの勝利だけでなく購買部の平和を守り発展を促す者達に与えられる究極の称号。士道がこうして八舞姉妹や十香を誘うのは、何も彼女たちのためだけではない。彼もまた購買部を愛しているのだ。

 

「やはり<完璧主義者>は強かったか」

 

 十香と折紙の戦いの勝者は折紙だった。遠くからでは最後の状況は二人が陰になってよく分からなかったが、きなこパンを手に引き返してきたのは折紙だったことから分かったのだ。

 

「十香、見事だった。何も悔いることはないぞ」

 

 俯いたままの十香を元気付けようとした士道だが、予想に反して十香は晴れやかな笑顔を浮かべていた。

 

「このパンはシドーのものだ。受け取ってくれ」

「え……?」

 

 士道は手渡されたパンを見下ろす。それはカツサンドだった。

 

「何故だ?」

「最後の気付いたのだ。本当に欲しいパンはなんなのか。そうしたら、自然とそっちに手が伸びていた」

 

 敗者など居なかった。二人の戦いは二人の望んだものを与えたのだ。こんなに嬉しいことはない。

 

「……ありがとう」

 

 お礼の言葉に、十香は満面の笑みを浮かべた。

 

「うむ、どう致しましてだ」

 

 

    *

 

 

 教室に戻った士道たちは、戦利品であるパンの味を噛み締めた。十香はそんな中で、空腹に苦しんでいた。ちなみに席の配置は第二次席替え戦争の結果、右隣に耶倶矢、左隣には十香、前に夕弦、後ろに折紙という形に落ち着いた。士道は時折、授業中に背筋に寒気を覚えるが、決して振り返らないようにしている。

 

「食い掛けだけど、十香が良ければ残りは食っていいぞ」

「要らん。私はパンの耳で十分だ」

 

 十香は頑なに受け取ろうとしなかった。

 一口食べただけで、士道は罪悪感からそれ以上は口に運べなくなる。

 

「士道」

 

 後ろの席から呼び掛けられて、振り返ると、折紙がきなこパンを差し出してきた。

 

「これ」

「ん……?」

「あげる」

「それは折紙の戦利品だろう?」

「あげる」

「悪いって」

「あげる」

「……ああ、だったら、食い掛けだけど、このカツサンドと交換でいいか?」

 

 凄まじい勢いで何度も頷いた。

 そんなにカツサンドが好きなのだろうか?

 無事にトレードが終わると、折紙はカツサンドの欠けた部分を見詰めて、恍惚の表情を浮かべた。ほとんどの者からは無表情に見えるが、士道を含めた一部の者には微細な表情変化が読み取れた。

 

「家宝にする」

「ちゃんと食べてやってくれ」

「食べるだけでは勿体無い」

「……食べ物だぞ?」

「これで、三日は堪能できる」

「消費期限は明日までだからな」

「問題無い」

「な、何をするつもりなんだよ?」

「それはもちろん――」

「いや、説明はしなくていい」

「そう」

 

 士道は考えるのを止めた。どんな事情があるのかは分からないが、きなこパンを貰えるのならそれでいい。

 隣で空腹に堪える十香にきなこパンを差し出す。

 

「ほら、十香、きなこパンだぞ」

「んっ!? だ、だめだぞ、シドー……例えきなこパンであろうとも、私は屈しない!」

「これは俺からのお礼だ。まさか断ったりはしないだろう?」

「ぬう……それならば仕方、ないのか?」

「ああ、仕方ない」

 

 十香の手がおずおずときなこパンに伸びた。そしてようやく受け取ってくれた。

 

「……きなこパン」

 

 潤んだ目で見詰めている。丁寧に包装を開けると、士道を何度もチラ見してきた。手の平を表に向けてどうぞとジェスチャーすると、十香はようやく頷いた。

 

「うむ、いただきます」

 

 豪快に齧り付いた。

 

「おおっ! こんなに美味しいきなこパンは初めて食べるぞ!」

 

 見る見るうちに笑顔に変わっていく。

 折紙は折紙でまだ恍惚の表情のままカツサンドを見詰めていた。

 細かいことを除けば、みんなが幸せそうで何よりだ。

 

「…………」

 

 士道はお腹を押さえる。他人の幸福は眼福であっても、腹を満たしてはくれない。

 

「くくっ、士道よ、貴様が笑わずしてどうする?」

「招待。夕弦たちと一緒に食べましょう」

 

 教卓を占領した八舞姉妹が手招きして誘ってくる。

 

「こんな贅沢は世界中探しても見つかりはせんぞ」

「同調。耶倶矢の言うとおり士道は幸せ者です」

「その通りだな」

 

 士道は教卓に並べられた三人分のパンの耳を見下ろす。十香のサポートに回っていた士道と八舞姉妹は、当然の如く至高の逸品を手に入れることはできなかった。

 別売りのジャムを付けたパンの耳を、まるで乾杯するように打ち合わせる。

 幸福に満ちた十香と折紙を眺めながらパンの耳を口に運んだ。

 

「――ああ、こんなにも美味しいパンの耳を食べたのは初めてだ」

 




 敗者の存在しない戦場、それが購買部。
 十香まで参戦して、大変なことになってますけど、きなこパンの設定がある時点で番外編で放り込むことは決めていました。
 まったくもう購買部は賑やかだなー(白目)


 突然ですが、スピンオフ作品のデート・ア・ストライクってあるじゃないですか。すごく面白いですよ。折紙さん好きの方は全四巻ですし、おすすめです。なんといっても、尻がいいです。あと、尻とか尻とか尻です。
 なんでこんな宣伝したかって? それはまあ、ちゃんと意味がありますよ? 










 ――第三部予告。

 その日、ASTに二人の隊員が新たに加わった。
「本日付で自衛隊天宮駐屯地に配属になりました。岡峰美紀恵二等陸士です! ヨロシクお願いします」
「――崇宮真那三尉であります。以後、お見知り置きを」
 それぞれ、士道と深い繋がりを持った彼女たちにより、物語は再び幕を開ける。

 士道は曇天を見上げて呟いた。
「この雨……ふっ、なるほど。遂にその時が来たようだな」
 もちろん、その台詞に意味など存在しない。敢えて言えば、無意味であるからこそ格好良い。彼の中二病は相変わらずであった。
『ぁははははっ! おにーさん、一人でポーズなんて決めちゃって、ぁっはっは、もー、お腹が捩れちゃうよー!』
 そして中二病は、雨の中で新たな精霊と出逢いを果たす。

 世界の裏側では既にもう一つの戦いが始まっていた。
「新型顕現装置(リアライザ)<アシュクロフト>を手に入れる。そのために、搬入日に合わせてASTの戦力を削るわよ」
「こっちは三人しか居ないのに……本当に大丈夫かな?」
「あ? 大丈夫かどうかじゃねーだろ、やんなきゃならねーんだよ!」

 偶然と必然、絡み合う運命に二つの戦いは結び付いた。
「――アルテミシアの笑顔を取り戻す!」
「――よしのんを……取り戻し、ます」
 交わる筈のなかった者達が交差し、物語は加速する。

 悲劇は積み重なり、誰もが不幸になっていく。
 ただ大切なものを取り戻したいだけなのに――現実はそれを嘲笑った。
「招待状もなく厚かましいが、生憎とそれが性分だ」
 悲劇を喜劇に変えるために、<業炎の咎人(アポルトロシス)>は戦場へと姿を現す。
「――不幸になりたければ、俺を倒してからにしろ!」
 己の意志を貫き通して、誰もが幸せになれる真実へと導け。

 中二世代ボーイ・ミーツ・ガール第三部『四糸乃ストライク』!!
 きみは深淵より招かれし黒歴史に打ち勝つことができるか?


(更新まで間が開くとは思いますので、のんびりお待ちくださいませ。あと毎日更新なんて無茶はやめて、第三部は不定期更新になるかと思います。ご了承ください)


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第三部 四糸乃ストライク
序章 交差


 11巻が出た歓喜に乗せられて、第二部までの修正も終わっていないのに続きを書きたい衝動を抑えられませんでした。
 あと、今更というか普通というか、この作品は原作既読者向けですので「わけがわからないよ」となる恐れがあるかもしれませんが、ご了承ください。
 まあストライクの部分に関しては説明を増やすつもりではありますが、余り期待しないでください。

 それでは、第三部『四糸乃ストライク』開幕!


 天気予報は文句無しの晴天を伝えていた。降水確率はほぼ〇パーセント、洗濯物はよく乾きます、まだまだ夏本番は遠いとはいえお出掛けの際には熱中症にご注意ください――と笑顔で解説するお天気キャスターの言葉を信じたのだが、

 

「雨降ってきてるじゃねーか」

 

 アシュリー・シンクレアは重苦しい曇天を見上げて溜息をついた。

 突風で乱れた緑掛かった髪を手櫛で直して、カチューシャの位置を整える。通り雨であることを祈って雨宿りするべきか考えて、すぐにその案を却下した。

 

「急がねーと間に合わないよな」

 

 手に広げたのは、商店街のタイムセールを知らせるチラシだった。

 アシュリーはその名の通り日本人ではない。ある目的を果たすために、イギリスから遥々と天宮市にやって来ていた。

 その目的は表沙汰にできるようなものではなく、また彼女と二人の仲間は逃亡者であった。できるだけ痕跡を残す訳には行かず、そのため金の調達にも難儀していた。だからといって、何も食べないようでは生きていけない。そこで節約生活を強いられることになったのである。

 タイムセールは午後五時からだ。ただでさえ主婦の時間であるため、惨憺たる激戦が繰り広げられることは容易に想像できた。

 

「ん……?」

 

 羽織っていたパーカーをせめてもの傘代わりにして、横断歩道を駆け足で渡ろうとした時、木陰にぽつんと立つ少女が目に入った。

 どうして目を引かれたのだろうか、と考えてすぐにその理由に気付いた。

 

 少女が纏う緑色の外套はレインコートに見える。それから足には長靴だ。突然の雨だというのに、随分と準備がいい。周囲には、アシュリーを含めて雨に悲鳴を上げたり文句を呟きながら走り抜けていくため、雨天に相応しい格好をした彼女が逆に異質に映ったのだ。

 

「でも、なんてあんなところに突っ立ってんだ?」

 

 疑問を口にして、少女の視線の先を追った。

 

「ああ、なるほど、そういうことか」

 

 街路樹の枝先に、ウサギのパペットが引っ掛かっていた。少女はそれをじっと見詰めている。先ほどの突風で飛ばされてしまったのかもしれない。

 

「この状況じゃ仕方ないかもしれねーけど、日本人ってのは、どうにも他人に無関心だな」

 

 アシュリーは少女のもとまで駆け寄って、勢いをそのままに樹の幹を蹴りつけた。壁蹴りの要領でもう一度跳躍し、パペットに向けて手を伸ばす。

 

「おらよっと」

 

 パペットを枝先から引き抜いて、膝の屈伸で衝撃を和らげて着地した。厳しい訓練で鍛え抜いた彼女にとっては造作も無いことだった。

 

「ほれ、これが取り戻したかったんだろ?」

「……っ!」

 

 少女はアシュリーが差し出したパペットに、手を伸ばしては引いてを繰り返す。うさ耳の大きなフードから僅かに顔を覗かせて、アシュリーの顔色を窺っていた。

 アシュリーは少女から怖がられていることに気付いて頭を掻く。

 

「それじゃあ、ここに置いておくからな。忘れないように持って行けよ」

 

 苦肉の策として樹の根を背もたれにパペットを置いた。

 アシュリーが離れると、少女はちらちらと横目で見てきたが、やがて覚悟ができたのか弾かれたようにパペットに駆け寄り、拾い上げるとすぐに左手に装着した。

 

『やっはー、たすかったよー、おねーさん』

 

 パペットの口をぱくぱくと動かして、腹話術でお礼を伝えられた。服装もそうだが、中身もどうやら不思議ちゃんらしい。

 

『いやー、眺めはいいけど、背中がつんつんしちゃってさ、もうよしのんのセクシーバディに傷付いちゃうところだったよー』

「お、おう、無事で何よりだ――ってやべぇ、時間が!」

 

 アシュリーはタイムセールのことを思い出して顔を青くする。ただでさえ買い食いなどをして無駄遣いしているのに、安売りに乗り遅れたとなれば、これから自分だけもやし生活を強要されかねない。

 

「風に飛ばされないように気をつけろよ、んじゃな!」

『ばいばーい! どこかで会ったらさ、今度はもっとお喋りしよーねー!』

 

 賑やかな見送りの言葉を背に聞きながら、アシュリーは商店街に向けて駆けて行った。

 

 

 とある雨の日、静かに二つの物語は交差する――狩る者と狩られる者、お互いの正体に気付かないまま、皮肉と優しさに満ちた日常の中での出逢いだった。

 



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1.繋がる絆

「本日付で自衛隊天宮駐屯地に配属になりました。岡峰美紀恵二等陸士です! よろしくお願いします」

 

 陸上自衛隊天宮駐屯地のAST隊長室に、よく通る明るい声が響いた。

 美紀恵は、小さな体躯を大きく見せようと精一杯に胸を張り、幼顔を引き締めて不器用な敬礼を行う。この日のために何度も練習してきたが、新品の来禅高校の制服に着られているのと同じく、まだまだ階級に支えられている状態だ。

 

「AST内ではそんなに硬くならなくてもいいわよ。階級意識は戦場にだけ持って来てくれればいいから」

「は、はい!」

 

 AST隊長の日下部燎子は、返事はしても肩の力が抜けない美紀恵に苦笑した。

 

顕現装置(リアライザ)の適応テストでは、凄い数値を叩き出したそうね。期待しているわよ」

「ご期待に添えるよう頑張ります!」

 

 威勢良く返事をするものの、美紀恵は内心の不安を抑え切れない。入隊テストで優れた結果を残せたのは確かだ。それに見合う努力をしてきた自負もある。しかし、頑張るとは言えても結果を残すと約束できなかった。

 

「ウチは実戦部隊だし、ちょうど演習中だからその力を見せてもらおうかしら」

 

 燎子の案内で天宮駐屯地に近接する特別演習場に辿り着いた。特別演習場は、顕現装置を用いた演習に使用するために魔力処理が施されている。魔力を用いた戦いには予想外の事態が付きものであり、精霊を相手にするASTの兵器は強力なものにならざるを得ないことから、通常の演習場と違い様々な対策が取られているのだ。

 

「これが岡峰さんのCR-ユニットだから、準備しておいてちょうだい」

 

 女子更衣室へ入ったところで燎子は内線で呼び出されて、隊長室へと戻っていってしまった。

 美紀恵は一人になったことで、今更ながら自分が緊張していることに気付いた。

 

「し、確り気を締めないと! 演習で皆様に迷惑を掛けてしまいます!」

 

 両頬をバシンと手の平で叩いて、強張った身体に活を入れる。

 燎子から手渡された待機状態のCR-ユニットは、所属と名前が書かれた小型のデバイスで、ポケットに収まるサイズだった。

 

基礎顕現装置(ベーシックリアライザ)、起動承認!」

 

 額にデバイスを押し当てて、ワイヤリングスーツをその身に纏う。それと同時に魔術師(ウィザード)を魔術師たらしめる随意領域(テリトリー)が展開された。過去のトラウマから心のどこかで無力感を抱える美紀恵であっても、全身に行き渡る全能感に高揚した。

 

 目を閉じて体を大きく伸ばしながら深呼吸。

 瞼の裏には、あの日――暗闇に囚われた美紀恵が見上げた、天高く舞う魔術師の眩しい姿が映っていた。

 

「今度は私の番です」

 

 胸に手を押し当てて、覚悟を新たに瞼を開くと――目の前に上目遣いに覗き込む少女の顔があった。左目下の泣き黒子が特徴的で、あどけなさの中に隠し切れない利発を感じさせた。

 

「う、わ、わわわわわわ――っ!?」

 

 美紀恵は勢い良く飛び退る。更衣室に自分以外に二つの人影があった。呆れ顔の燎子と先ほどの自分と同年代か少し上ぐらいの少女だ。

 

「これは申し訳ねーです。そんなに驚きやがるとは思いませんでした」

「声を掛けても反応しないから、顕現装置の不調でもあったかと思ったじゃない」

「ご心配お掛けしました……! 集中すると周りが見えなくなっちゃって」

 

 美紀恵はぺこぺこと頭を下げた。入隊して早々に失敗してしまった。些細なミスだが戦場で同じことをすればただでは済まない。犠牲になるのは自分ばかりではなく、仲間も巻き込む恐れもある。

 気を取り直した美紀恵は、正体不明の少女に目を向ける。自衛隊常装を纏っていることから、関係者であるのは間違いない。

 

「他の隊員には話は通してあるし、ここで顔合わせを済ませてもいいわね」

「了解です、隊長殿」

 

 燎子に促され、少女がコクリと頷いた。

 

「――崇宮真那三尉であります。以後、お見知り置きを」

「は、はい! 岡峰美紀恵二等陸士です! よろしくお願いします!」

 

 同年代と思ったが、まさかの尉官であることに驚きつつも、慌てて敬礼する。

 

「ああ、別に畏まらねーで結構です。この隊の方針に意義はねーですから」

「精霊を単独で殺したトップエース様は、やっぱり余裕があるわね」

「別に自慢になりはしやがりませんよ。アレは他の精霊と同列に語れねーですから」

 

 精霊を殺したという事実に瞠目するが、真那の奇妙な言い回しに美紀恵は首を傾げた。詳しく訊こうとしたが、燎子が先に口を開いて遮られてしまった。

 

「そうそう、二人には伝えておかなくちゃならないことがあったわね」

 

 変わらずくだけた口調だが、声音のトーンに真剣さが感じられて、美紀恵は自然と畏まった態度で耳を澄ませていた。

 

「通達はされているかもしれないけど、ここ天宮駐屯地は精霊に対して今までとは異なるアプローチを模索しているわ」

 

 精霊の対処法1――武力を以てこれを殲滅する。それは人類から精霊に対する唯一の対処法だった。

 そう、だった。過去形だ。

 ASTの隊員は打倒精霊に燃えて訓練を積み重ねてきたが、<アポルトロシス>との遭遇から、殲滅ありきの在り方を徐々に変えつつあった。

 

 その結果が、精霊の対処法2――対話を試みてこれを説得する。

 AST隊が歩んできた四月からの短くも劇的な戦いの記録を聴いて、美紀恵と真那はどう反応したものかと首を捻る。

 真那は最悪の精霊との戦闘から、説得は殲滅以上に難しいと判断していた。そもそも<アポルトロシス>が実在するのか怪しいとさえ思えてしまった。

 

「その<アポルトロシス>という精霊……聞いたことねーですね」

「上層部の判断で秘匿されていたから仕方ないわ。天宮駐屯地に所属する人間以外はほとんど知らないと思うわよ」

 

 成る程、と真那は独り言ちに納得する。本来であれば天宮駐屯地への配属はもっと早い時期に行われる予定だった。それが極秘事項を理由に遅らされていたが、恐らくはその謎の精霊が原因だ。

 

「……あの、精霊って人類に敵対する存在ではないのですか?」

 

 美紀恵の疑問に、今度は燎子がどう答えたものかと悩んでしまう。

 

「そうね、命令に従うのは絶対だけど、精霊に対してどう思うのかは自由よ。実際に対峙して……それから、自分で判断しなさい」

 

 精霊は人類に仇なす悪魔なのか、それとも世界から拒絶された憐れな存在なのか。

 AST内でも結論は出されていない。精霊は徹底的に殲滅するべきだと主張する者は少なくないのだ。復讐に取り憑かれた者、今更になって精霊との関わり方を変えられない者、万が一にも危険性があるのなら確実に処理するべきだと判断する者――考え方は人それぞれで、誰が間違っているとも言えない。

 

 そもそも精霊への対処を上から目線で考えること自体が、人類の傲慢であるとも言えるのではないだろうか。

 たった一人の精霊によって、世界は変えられつつある。

 もしかしたら、人類は既にその変化に取り残されているのかもしれない。

 

 

    *

 

 

 燎子の合図を受けて演習を中断して集まった一同は本日付で入隊した二人の少女に驚きを隠せなかった。

 生真面目な隊長がこんな手の込んだ冗談を口にするとは思えないので、正式な入隊の筈だ。とはいえ、目をこすったり隣の隊員の頬をつねってしまうのは、仕方のないことだろう。ちなみにつねられた隊員は、つねった隊員を張り倒して、お互いに現実だと認識することになった。

 

「何を呆けていやがりますか?」

 

 コスプレと疑いたくなる自衛隊常装を纏った真那が、隊員たちの様子に首を傾げる。

 

「あの、ええと、その……何か失敗してしまいましたか!?」

 

 美紀恵が慌て出す。敬礼の角度をやり直したり、海自式でやってみたり、挨拶の言葉を復唱し出したり――実に子どもらしい反応だった。

 美紀恵の制服姿と慌てっぷりから、余計に真那の服装がコスプレに見えてしまう。

 

「ほらほら、ぼーっとしてないで、敬礼ぐらい返してやりなさい。別に折紙っていう前例があるんだから、そんな珍しくもないでしょ」

 

 燎子の説明を受けても、特に美紀恵の容姿は年齢よりも幼く見えるので呑み込むのには時間が掛かった。世界の真実について知っているからこそ、ここに居るのだろう。精霊との戦いがどれだけ過酷なのかも理解できている筈だ。

 真那は隊員の情報は頭に入れているので、折紙の名前が出たことで反応の意味を察する。

 

「年齢のことを問題にしていやがるのなら、心配要らねーです」

 

 馬鹿馬鹿しいと言いたげに肩を竦めた。彼女からすれば、寧ろASTの練度が心配だった。

 

「わ、私も大丈夫です! 頑張りますから!」

 

 美紀恵も言い募るが、逆にその必死さが不安を感じさせた。

 彼女たちにどれだけの覚悟があろうとなかろうと、戦場に幼い少女を引き入れるのには遣る瀬無さが込み上げてくる。大人としてのプライドであったり、今日まで生き抜いた兵士としての矜持がそう思わせていた。

 

 例に出された折紙にしても、非常に優れた能力を持つが<ベルセルク>や<プリンセス>との一件で、精神的な脆さや未成熟の危うさを見せている。現に折紙は一ヶ月の謹慎処分を言い渡されて、この場には居ないのだ。

 

 燎子が面倒を見てきた部下の感情を読み取るのは難しいことではなかった。表面上は取り繕ってはいても、やはり納得はいっていない。

 どうやって二人を受け入れさせるか思案する。妙案はすぐに浮かんだ。そもそも自分が立っているのは演習場で、最初からそのために連れてきたのだ。

 

「手っ取り早い方法があったわね。もう二人は準備万端なんだし、今から演習に参加してもらうわ」

 

 燎子の提案に、真那がこくりと頷いた。

 

「それで、一対何でやりやがりますか?」

「えっ……?」

「どうかしやがりましたか? 正しく力量を理解してもらうには、手っ取り早い方法(・・・・・・・・)じゃねーですか」

 

 真那は挑発や嘲りの意図を持たず、ただ事実を告げるように言った。

 精鋭を自負するAST隊員からすれば、傲慢な態度に映るのは至極の当然の結果である。冷静に事実を受け入れることができたのは、以前に世界最高峰の魔術師を目にしたことのある燎子と、無知故に感心するばかりの美紀恵だけだった。

 

 

    *

 

 

 実際の戦場となる空間震後の廃墟を模した演習場で、激しい戦闘が繰り広げられていた。

 真那一人に対して、美紀恵を含めて十人で演習は開始されたが、無線で行き交う状況から、生存しているのは残り三人だ。

 

「ど、どうすれば……良いでしょうか?」

 

 美紀恵は廃墟に身を隠して呼吸を整える。彼女がここまで生き延びることができたのは、連携を乱すことを言い訳に前線から逃げていたのと、随意領域をまともに展開できない弱さから真那に戦力外として扱われていたのが大きな理由だ。

 

 ヘッドセットの通信機から悲鳴が聞こえてきた。

 生き残りが二人になった。

 

「私も戦わないと……でも、どうやって戦えば……」

 

 誰も指示を出してくれない。最初は援護射撃を受け持っていたが、無駄撃ちで早々に弾切れしている。残る武装は近接戦闘用のレーザーブレイドのみだ。

 美紀恵は入隊テストの顕現装置適性で好成績を収めていた。だが、実戦となれば上がり症が邪魔をして、本来の実力を発揮できていなかった。

 彼女にとって挽回の存在しない戦場は、何よりも恐ろしい場所だった。否定、失望、拒絶――どれも美紀恵にとってトラウマだ。

 

 悲鳴がまた一つ響き渡った。

 

「……ッ!」

 

 生き残りはもう美紀恵だけだ。

 戦場に静寂が舞い降りる。美紀恵は平常心を取り戻そうにも、心臓は逆に激しく暴れ狂い、呼吸は増々乱れていった。

 近付く足音が警告するように耳朶を打つ。

 

「岡峰美紀恵二士、そのまま時間切れまで隠れていやがるつもりですか? ……余り期待していやがりませんが、私に届く可能性があるのは鳶一折紙一曹ぐらいしか居ねーみたいですね」

 

 真那の言葉に、美紀恵の魂が力強く鼓動した。

 

 ――鳶一折紙。

 

 この世界に美紀恵が足を踏み入れた理由そのものだった。命の恩人であり、遥か高みに君臨する目標。

 真那は折紙より自分が上に居るのだと遠回しに言った。

 それは馬鹿にしたようには聞こえない。この演習を始める切っ掛けとなった言葉と同じく、事実を口にしただけなのだろう。

 だが、美紀恵を奮起させるには十分だった。彼女に立ち向かえないようでは、決して折紙の領域には至れない。誰もが許しても、自分だけは許せない。

 

 美紀恵は背部から<ノーペイン>の柄を引き抜いて、廃墟から飛び出した。

 

「――どうやら、やる気になったみてーですね」

 

 真那は肩のユニットを可変させ両の腕に装着する。

 

「<ムラクモ>――双刃形態(ソードスタイル)

 

 盾に見えたが、それは長大な光の刃を迸らせる柄だった。

 

「行きますっ!」

 

 美紀恵は<ノーペイン>の刃を出現させないまま、真那に突っ込んでいく。

 実力差は歴然。熟練の隊員たちが一太刀入れることすら敗北しているのだから、美紀恵に勝てる道理などある筈もない。

 それでも勝ちに行く。奇策を用いてでも、己の全力を尽くして届かせる。

 

「何か考えがありやがるようですね」

 

 迎え打つ真那に隙は無い。光の刃を携えて万全の姿勢を整えている。

 集中しろ。一瞬でいい、その一瞬で勝負は決まるのだから。

 

「はぁぁっ!」

 

 間合いぎりぎりで<ノーペイン>の刃を出現させた。刺突の構えであり、<ムラクモ>のリーチに届かせる。

 

「そんな仕込み、意味ねーです!」

 

 しかし、真那は多くの戦場を経験し、武器の特性を把握している。<ノーペイン>の刃渡りなど当然の如く目算で対応できた。

 たった一合。真那の斬撃によって、美紀恵は唯一の武器を失った。

 

「手応えねーですね……まさかっ!?」

 

 真那を襲った違和感は、更なる脅威によって完全に答えを導いた。美紀恵は最初から<ノーペイン>を捨てる気で突っ込んできたのだ。その推測を裏付けるように、美紀恵は刃の陰に隠れて真那の懐に潜り込んでいた。

 刃による決着を想像していた真那は反応が遅れる。<ムラクモ>を振り被った勢いを、スラスターで強制的に戻そうとしているが、もはや手遅れだ。

 

「このまま打ち抜きますッ!」

 

 美紀恵は魔力を収束集中させた右腕を真那の胸部に突き込む。解放すれば本来は拡散する魔力を随意領域によって指向性を持たせていた。それはもはやただの拳ではない。杭打ち(パイルバンカー)の一撃だ。

 

「――あめーですよ」

 

 渾身の杭打ちを向けられて尚も、真那の余裕は崩れなかった。

 魔術師同士の接近戦は、言うなれば随意領域のぶつかり合いだ。

 

「う、腕が……っ!」

 

 美紀恵の身体は真那の随意領域に囚われていた。それこそまさしくテリトリーたる所以。余所者の自由など存在しない。生存権すらも剥奪され、愚かな侵入者(えもの)は捕食を待つばかりである。

 

「ん……?」

 

 ふと、奇妙な感覚に囚われた。この状況、日常でよく味わっているような気がする。

 四方八方からぎゅうぎゅうと押し込まれて、小さな手は何も得ることなく戦場から排除される。安売りのお肉、二割引のお米、驚愕の半額お刺身――どれもこれも目の前で取られていき、最後に残るのは萎びた訳あり品だけ。

 もやし炒めを食べては涙して、大盛りもやし丼を眺めては涙して、もやしご飯ともやしの味噌汁にもやしフライを並べて涙して、あの悔しさは決して忘れられない。

 そんな絶望に打ち拉がれる美紀恵を、手を差し伸べて導いてくれた人が居た。

 

 ――涙を断ち切り貪欲に掴み取る爪、それこそが<黒字家計簿(ティアクロー)>の真なる力だ。

 

 ああ、思い出しました。

 私にはもう、戦う力があったではないですか!

 動いて、動いてください、私はまだ諦めてなんかいません!

 

 無力感を振り払い、指先がピクリと震えた。

 あと少し、あと少しだけ私に力を――!

 

「冷やっとしましたが、これで終わりです」

 

 光の刃の直撃を横腹に受けて、美紀恵は文字通り吹っ飛ばされた。演習用に威力は抑えられているとはいえ、余りの痛苦に悲鳴一つ上げられない。着地姿勢を整えることもできず、腹這いに地面へと転がった。

 咳き込むながら、頭上から鳴り響くブザーが演習終了を伝えるのを聞いた。

 

「まだ、です。私は……戦えます」

 

 肉体はもう無理だと訴えている。

 だが、意志は立ち上がることを求めていた。

 真那は光の刃を消失させて、元通り肩ユニットに復元した。これ以上の戦闘は無意味だ。それに美紀恵の実力は十分に把握できた。

 

「残念でいやがりますが、詰み(チェック)です」

 

 真那は倒れたままの美紀恵に歩み寄って、首筋に手刀を宛てがった。

 

「ですが、届かせやがりましたね……」

 

 胸部装甲に手を当てると、僅かに削り取られていた。それは美紀恵の随意領域が一瞬でも真那を超えた紛れも無い証だった。

 

 

    *

 

 

 演習が終わり特別演習場の休憩室で、美紀恵と真那はくつろいでいた。隊長が話があるからと二人だけ残されていたのだ。その時に無線越しとはいえ、凄まじいプレッシャーが襲ってきたので、悪い話であることは容易に想像できた。

 

「いやー充実した演習で満足です。岡峰二士があそこまで食い下がってくるとは良い意味で予想外でした」

「でも、私……何もできませんでした」

「何言ってやがりますか。私に攻撃を当てやがった人は久し振りですよ」

「そ、そうなんですか?」

 

 真那はニコりと笑った。

 

「適応テストの結果は嘘じゃねーみたいですね」

 

 励まそうとする深い意味は無かっただろう。しかし、テストと同じだけの実力を発揮できた、という事実は美紀恵にとっては何よりも嬉しい言葉だった。

 和やかな空気を、風を鋭く切る音が霧散させた。

 

「あうっ!」

「あたっ!」

 

 振り返れば、肩を怒らせて燎子の姿があった。その手には二人の頭を叩くのに使った丸めた冊子が握られていた。

 

「あんたらねえ、何を呑気に言ってんのかしら。演習で装備潰す馬鹿がどこに居るってのよ!?」

「ひぃう、す、すみません!」

 

 素直に謝る美紀恵に対して真那は、

 

「本気でやらねーと意味ねーですよ。岡峰二士の気迫に応えるには――」

 

 スパン! と真那の頭に二度目が振り下ろされた。

 

「CR-ユニットの値段を調べてからもういっぺん同じこと言ってみなさい、死なない程度に扱くわよ」

「りょ、了解です!」

「善処するです」

 

 燎子は明らかに反省の色が見えない真那を睨みつけたが、やがて無駄だと悟ったのか肩を竦めて溜息をついた。幸いにも美紀恵のレーザーブレイドが故障しただけで、そこまで実害は出ていない。

 

「このためだけに私たちを残したわけじゃねーですよね?」

 

 真那は気配で気付いていたのか、上半身を傾けて燎子の陰になって見えなかった人物に視線を向ける。その動作で美紀恵も気付いて、同じように燎子の背後を覗き込んだ。

 

「十分に重要だけど、もちろん違うわよ。本題はこっち」

 

 美紀恵はその人物に見覚えがあったどころではない。ずっと会いたいと思っていた命の恩人だ。

 

「――折紙さん!」

 

 涙ぐんだ美紀恵の呼び掛けに、折紙は無表情を崩すことなく僅かに首を傾げた。

 

「……誰?」

「え、ええぇぇぇぇぇぇっ!?」

 

 かなり温度差のある再会だった。

 

 

    *

 

 

 美紀恵が必死で説明すると、折紙は瞬きを二度繰り返してからようやく頷いた。

 

「あの時に、保護された民間人は覚えている」

 

 しかし、わざわざ名前や顔まで覚えてはいなかった。言われなければ思い出すこともなかっただろう。

 

「そうです! 折紙さんに助けられて、それで私もASTに入りたいと思ったんです!」

「…………」

「あっ、そういえば今日はどうして演習に参加されていなかったんですか?」

「一ヶ月の謹慎処分」

「えっ……?」

 

 美紀恵は絶句する。自衛隊内で折紙についての話は聞き回ったのだ。誰もが優秀で頼り甲斐があると言っていた。一部に特殊な意見もあったが、美紀恵フィルターはそれを遮断していた。

 

「機密事項に含まれていたものね、知らなくて当然だわ。まあ今はそれよりも、自己紹介を済ませなさい。謹慎処分から復帰すれば、すぐに行動を共にすることになるからお互いに顔と名前ぐらい覚えておいた方がいいでしょう」

 

 簡単に自己紹介を終えると、美紀恵は折紙に密着するような距離であれやこれやと質問を始めた。折紙は主にスルーでそれを躱しながら、真那に目を向ける。

 初めて目にした時から引き寄せられる何かがあった。

 

 ――単独で精霊を殺した魔術師。

 

 少し前までならば大歓迎だった。現状では複雑な思いがある。頼もしいのは確かだが、<アポルトロシス>と対峙した時を想像して心に冷たいが風が吹く。いざとなれば盾になるつもりだが、CR-ユニットを取り上げられた今の折紙は限りなく無力だった。

 しかし、折紙が感じた『何か』は魔術師としての強さではない。真那の顔に見覚えがあったのだ。

 

「歳も近いし、折紙は美紀恵の面倒を見てやってちょうだい。一人暮らしを始めたばかりで苦労しているみたいだから、折紙ならアドバイスできるでしょ」

「了解」

 

 燎子の言葉に生返事をして、真那を見詰め続ける。

 真那は戦闘で乱れた髪を整えようと、後頭部で一つに結わえた髪を解いた。

 

「あっ……」

 

 バサリと広がった髪が肩に掛かる。癖のないストレート。その髪色、瞳に宿る力強さ。

 記憶の姿と重なり合う。

 五河士道――もっと正確に言うならば、女装した時の彼である<アポルトロシス>によく似ていた。

 

「どうかしやがりましたか?」

 

 ずっと見詰められていることに疑問を抱いていた真那が、折紙の視線にますます力が入り遂に無視できなくなったようだ。

 折紙は混乱に陥って返答できなかった。

 士道の妹は一人だ。姉が居るという話は聞いたことがない。まさか母親な訳もないだろう。ここまでよく似た人間がまったくの赤の他人というのも考え難い。士道について自分が知らないことがあるのは痛恨の極みである。

 

「あなたは、何者?」

「ええと、鳶一一曹……それはどういう意味でしょうか?」

「士道の妹は一人の筈」

「……士道とは誰でいやがりますか?」

「…………」

 

 本当に無関係なのだろうか。

 いや、もう少し探りを入れるべきだ。

 

「あなたに兄は居る?」

「兄様ですか? 居るには居ますが……それがどうかしやがりましたか?」

 

 真那は言い難そうに眉を伏せた。普通ならばその反応で遠慮するべきだろう。だが、士道のことならば折紙はブレーキを踏まない。寧ろアクセルしかない。

 

「その兄は、あなたとよく似ている?」

「兄妹なりには似てやがると思いますが」

「女装趣味がある?」

「えっ」

「人を本名で呼ばずに二つ名で呼んだりする?」

「えっ」

「会話中の身振り手振りが多い?」

「ええっ」

「寝込みではなくトイレ中に夜這いを掛けたり、シスコンでハーレム願望があり、最近のマイブームは声の切り替えによる一人十役のバトルロワイヤル――」

「え、ちょ、待ってくれねーですか!」

 

 真那が焦った様子で制止を掛けてきたので、折紙は仕方なく口を噤む。とりあえず、動揺している時の反応が士道とよく似ていることは分かった。

 

「兄様はそんな変態じゃねーですよ!? ……たぶん」

「たぶん?」

「……覚えてねーのです」

「覚えてない?」

「実は私、昔の記憶がねーのですよ」

 

 真那はそう言って、首から下げていた銀色のロケットを開いて折紙に見せてきた。

 

「だから、これが生き別れた兄様との唯一の絆です」

 

 中には幼い少年と少女が並んで映る写真が収められていた。

 折紙が見間違える筈がない。例え幼くても、例え変装していても、それが五河士道だと一瞬にして見抜くことができる。

 

「鳶一一曹は、兄様を知っていやがるんですか?」

 

 縋るような問い掛けに、折紙はゆっくりと頷いた。

 それは、折紙を通して崇宮真那と五河士道の絆が繋がれた瞬間だった。

 




 予めお伝えしまうが、ストライクを絡める関係で、士道くんの出番や活躍は少なめです。
 その代わりに、美紀恵と四糸乃の二人に頑張ってもらいます。
 しかし、直接の登場がなくてもここまで存在感がある士道くんは流石だと思う。

Q.不定期更新じゃないの?
A.流石に1話ぐらいはすぐに投稿しようと思って

 11巻はまだ発売しても間もないですから、読んでない方もいらっしゃるかと思いますので、感想欄でのネタバレにはご注意を!


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2.表側の邂逅

『士道、ちょっと<フラクシナス>に来てもらえないかしら』

 

 朝食の準備をしていた五河士道は、右耳に装着したインカムから聞こえた声に包丁の構えを解いて、空中に放り投げたキャベツを片手でキャッチした。今日の調子ならば『秘技・天影連斬(エア・ストリーム)』もできそうだったが、愛すべき義妹からの招待は何よりも優先される。

 

「分かった、すぐに向かう」

 

 士道は鍋に掛けていた火を止めて調理中の食材を冷蔵庫に戻すと、手早く身支度を整えて玄関に向かった。

 外へ踏み出すと不思議な浮遊感に包まれた。眩い光が視界を覆い尽くし、一瞬で景色が変わる。転移装置により、士道は上空一万五千メートルに滞空する空中艦<フラクシナス>へと回収されたのだ。

 黒いリボンで髪を括った五河琴里が、不敵な笑みで士道を出迎えた。

 

「待っていたわよ。別にリビングで話しても良かったんだけど、内容が内容だから念の為に<フラクシナス>に来てもらったわ」

 

 盗聴対策ならば五河家でも万全だ。そうなると聞かせたくない相手は、精霊マンションに移り住んだ、士道が封印してきた精霊に限られる。別居を始めたとはいえ、彼女たちは食事を一緒に取るので五河家に毎朝やってくるのだ。

 

「士道はもう、巻き込みたくないんでしょう?」

「琴里は反対か?」

「<ラタトスク>の方針としては、その方が嬉しいわ。私個人としても精霊が平穏を享受できるのは好ましいと思うわね」

「引っ掛かる言い回しだな」

「だって、本人たちの意志は無視してるじゃない」

「……そうだな、ああ、分かってるよ」

 

 士道は理解している。八舞姉妹も十香もそんなことは望んでいない。

 考えていることは同じだ。誰だって大切な者が傷付くのを見たくない。

 それでも士道は、彼女たちを戦場から遠ざけたかった。

 

 目の前で撃ち落とされた耶倶矢の姿。見る見る内に血の気が失せていく十香の顔。

 過去の敗北が脳裏に浮かび上がり、士道は己の無力を嘆いて奥歯を噛み締めた。もっと力があれば、機転を利かせることができれば、誰も傷付けずに勝利を収められた。

 

 理想主義に終わりはない。

 貪欲により良い未来を追い求める。

 それがどれだけの傲慢で、過去への否定なのか自覚しながら――士道は止まることができない。

 夜空を駆け抜けたあの一瞬で魅入られてしまったのだ。

 

 ――この世界はきっと理想郷へと至れる。

 

 例え巨悪が立ちはだかろうと、心が折れない限り可能性は潰えない。

 

「本当に最低のわがままね」

 

 琴里は義兄の歪みに気付いており、迂闊に肯定するような言葉を口にしない。

 精霊が傷付く以上に士道は血塗れになって、何度も立ち上がって、無様で凄惨な姿を晒している。琴里にとってはそちらの方がトラウマものだ。

 だからこれからも支えていこうと覚悟を決める。

 

「あんたがどれだけ私を除け者にしようとしても、意地でも手伝わせてもらうからね」

 

 士道は苦笑を浮かべる。

 欲を言うのならば琴里だって巻き込みたくない。

 しかし、所詮は個人でしかない士道に<ラタトスク>を拒む力はなかった。彼らの協力がなければ精霊が日常を手にするなど夢物語に成り果てる。

 

 二人の会話が途切れる。気付けば目的地であるブリーフィングルームに辿り着いていた。士道は部屋に入ると、円卓を挟んで琴里と向かい合う位置に座った。

 

「これから話す内容には機密事項が多く含まれているわ。他言無用にしてちょうだい。……まあ、誰かに話したところで無意味だとは思うけど」

「それを俺に話していいのか?」

 

 琴里は足を組んで背もたれに深く腰掛ける。

 

「不都合な部分は隠させてもらうわよ。情に流されて身内に話す訳じゃないんだから、心配は要らないわ」

 

 最近は更に司令官モードが板に付いてきた気がする。その成長を喜ぶべきなのかどうなのか、士道の胸中は複雑だった。

 

「十香攻略中に<フラクシナス>でトラブルがあったでしょ? それで士道に迷惑かけちゃったし、説明ぐらいするべきだと思ってね」

 

 思い当たるのは高台公園の戦いで、無線が途切れたのと転移装置が一時的に使えなくなったことだ。確かにあれのせいで何度も死線を潜ることになったが、逆に追い詰められたからこそ機関へ大打撃を与えられた。

 

「それは結果論よね。あんな絶体絶命的な状況は金輪際お断りよ」

「……それで、あれは単なる機器の故障じゃなかったのか?」

「最新鋭の空中艦を舐めないでもらえないかしら。士道のエラー吐きまくりの脳味噌と違って、<フラクシナス>のシステムは優秀よ」

「エラーって……」

 

 地味に凹む士道を無視して琴里は話を続ける。

 

「最高幹部連である円卓会議に裏切り者が出たのよ。……いえ、正確には最初からそれが目的だったのかもしれないけど」

 

 <ベルセルク>の空間震に巻き込まれた損傷で一時的にシステムがダウンすることがあった。その反省から現場で素早い復旧をするためにエンジニアの追加要員が<フラクシナス>に乗り込むことになったのだが、精霊を手にしようと画策する幹部の一人が、その中に手駒を紛れ込ませていた。

 そして絶好の機会を得た彼は動き出した。送り込んだエンジニアに、システムのコントロールを奪わせて、琴里を脅迫したのだ。

 

「結果から言えば士道のお陰で失敗に終わって、幹部は入れ替えになったわ。今度はまともな人間よ。ちょっと癖が強いところが難だけど」

 

 士道は琴里の顔を覗き込んだ。そもそも<ラタトスク>にまともな人間は居るのだろうか。自分のことを棚に上げて言えば、個性的な者ばかりだったように思える。

 

「何よ、その目は?」

「……いや、なんでもない」

「まあいいわ。次の話に移りましょう」

 

 琴里は端末を操作して円卓中央のモニタを起動する。五年前に発生した大火事の映像が再生された。幼い頃の士道と琴里の姿が映ったところで停止させる。二人の視線は自然とモザイクを纏った謎の人物に吸い寄せられた。

 

「ここに居た何者かを、今後は<ファントム>と呼称することになったわ」

「亡霊ということか。良いセンスだ」

「ネーミングセンスで士道に褒められると身投げしたくなるわね」

 

 士道は膝から崩れ落ちて、床に拳を叩き込む。自分を理解してくれる親しい者からの否定に対しては豆腐メンタルである。それを分かって実行するのだから、司令官モードの琴里は容赦がない。

 耐えろ、耐え抜け! 寧ろ妹が中二病への一歩を刻んだことを祝福しようではないか!

 

「俺の魂はこの程度で砕けはしない」

 

 脆い代わりに復活も早い。不死鳥(フェニックス)もびっくりな再生速度であった。

 

「話を続けよう」

「それなら遠慮無く続けるわよ。士道のネーミングセンスがいかに残念なのか――」

 

 琴里は士道が心臓に手を当てて頭が垂れ下がっていくのを目にして、追い打ちを掛けるのを中断した。

 

「真面目な話に戻るけど、識別名<ファントム>は姿形も曖昧だし、その能力にも謎が多いわ。精霊化の力を私にだけ使ったとは考え難い。この意味は分かるわよね?」

「精霊化した人間が他にも居る。そこに正体を探る糸口があるということだろう」

「理解が早くて助かるわ」

 

 鋭い勘や優れた洞察力、中二病をこじらせたことで得た能力だ。漫然と日常を過ごす上では無駄なハイスペックだが、既に半分以上を非日常に身を置いた士道には、もはや生き延びるために必須のスキルだった。

 

「だが、日常に溶け込む精霊を警戒する必要があるとも言えるな」

「そうね。十香のように無知ならば目立つし、八舞姉妹のように派手ならば寧ろ無視するのも難しいけど……人間としての生活基盤を持っているとなると、非常に厄介よ」

「能力者として過ごしてきた俺にはよく理解できる。己の特異性を隠す筈だ。さもなければ異端として排斥されるのは目に見えているからな」

「表側の対応はそうでしょうね。裏側としても正体がばれるのは危険だから、尻尾を掴むのは容易ではないわ」

 

 士道は妄想と現実が重なり合う感覚を久々に味わえて、事態の深刻さとは裏腹に中二心が癒やされる。

 正体を隠して日常を演じる能力者たち。そこへ謎の人物が現れる。彼は『組織』のエージェントを名乗り、能力者の生存権を懸けた戦いへと導いていく。王道であるからこそ実に心が踊る展開ではないか。

 

「相手も表立って行動はしないと思うけど、一応は頭の片隅にでも置いてちょうだい」

「ふっ、任せておけ、いついかなる時も俺の心に油断などありはしない。不意打ちなどこの身に通用しないさ」

「はいはい、期待してるわよ」

 

 琴里はモニタ端に表示された時刻を確認して、画面を切り替えた。映されたのは何の変哲もない報道番組だった。

 この状況で占いが見たかった、などというオチはないだろう。

 ちょうど天気予報がやっていたので確認しておく。どうやら今日は晴天が続くようだ。降水確率はほぼ〇パーセントらしいので、洗濯物は外に干して行こう。

 

 天気予報が終わりニュースが流れる。特に気になる内容はなかったが、画面がスタジオからリポーターに切り替わったところで、琴里が見せたかったものを理解した。

 記者会見場に問題の人物が姿を現すとフラッシュの嵐が巻き起こった。いかにも即席といった会場で、フラッシュを浴びる男が腰掛けたのはその地位に見合わぬパイプ椅子だった。

 

「佐伯防衛大臣か」

「ええ、元防衛大臣だけどね」

 

 それならば彼にはパイプ椅子こそが相応しいのかもしれない。

 画面端のテロップには『突然の辞任、その理由は?』と煽り文が書かれていた。本人にとっては政治家人生の終わりでも、マスコミにとっては垂涎のネタであり、多くの一般市民にとっては画面の向こう側の出来事である。

 

「政治献金で豪遊してたとか、それも事実らしいけど、実際は士道の知っての通り裏側の事情で首を切られたわ。尻尾と言った方が正確かしらね」

「……これで、ASTの方針が変わればいいが」

「後任には味方とは言えないけど、穏健派が着くことが決まっているわ」

「そうか。未来に期待するとしよう」

 

 琴里は映像を切ると長く息を吐き出した。一先ずは肩の荷が下りたようだ。

 

「これでようやく表裏含めて一段落だわ」

 

 士道は立場や役職などを取り払い、一人の兄として必死で戦ってくれた妹の頭を優しく撫でた。

 

「良く頑張ったな、琴里」

「……ありがとう、おにーちゃん」

 

 

    *

 

 

「…………なあ、琴里」

『今頃になって怖気づいたなんて言うつもりかしら、この中二病兄は?』

「俺を<フラクシナス>に呼んだのは、これをやらせたかっただけじゃないのか」

『疑い過ぎよ。そうに決まってるじゃない』

 

 最初と最後が繋がってないぞ、我が妹よ。さっきの心温まる兄妹の一幕を返せ。和んだ心が一気に荒んでしまったではないか。

 

『不満そうね。いいわよ、もっと寝顔を堪能したいなら鳶一折紙の家にも行かせてあげるわ』

「任せておけ、俺に不可能はない」

 

 士道は即座に覚悟を決めた。少し折紙に悪いとは思ったが、誰だって無意味に死にたくない。肉食獣の巣に不用意に踏み込むだなんて、自殺志願者だってもっと楽な死に方を選ぶだろう。

 ブリーフィングルームでの話を終えた士道は、五河家へと戻ろうとしたところで、琴里からまだ眠ったままの精霊を起こしに行くように頼まれた。

 精霊マンションならインターフォンを鳴らすだけで気付くだろう、と考えていた士道に対して、琴里はニヤリと笑った。

 

『どこへ行くつもりよ、士道? みんなこの<フラクシナス>に居るわよ』

 

 定期検査が長引いたせいで、十香が途中で疲れて寝てしまい、八舞姉妹もそれに付き合って泊まっていくことにしたらしい。

 

 ――そして、現在に至る訳である。

 

 士道は誰から起こしに行こうかと悩んだ。

 

「ん? いや、耶倶矢と夕弦なら同じ部屋か」

 

 五河家に居候していた時は、クイーンサイズのベッドで一緒に寝ていた。

 

『言い忘れていたけど、八舞姉妹なら別々の部屋で寝てるわよ。折角のシチュエーションだもの、存分に楽しまないとね、士道』

「…………」

 

 死亡チャンスが増えただけじゃあないかな。

 琴里の口振りからするに、八舞姉妹には今回の計画は伝わっているのかもしれない。

 

「やっぱり最初は十香かな」

 

 理由は単純に一番安全だからだ。子どもっぽいところが多い十香のことだから、いきなり服を脱ぎ出したり、布団に引きずり込もうとしたりはしないだろう。

 

「……俺は一体、何と戦っているんだ?」

 

 日常に潜むトラップが怖過ぎる。強大な敵よりも、女の子の誘惑の方が怖いって難易度調整を間違っている。

 琴里の案内で十香が泊まる部屋の前までやってきた。まずはノックをする。返事はない。何度か呼び掛けとノックを繰り返したが一向に反応は返ってこなかった。

 

「なあ琴里、まさかお前……」

『これに関しては信じられないと思うけど、本当にただの事故よ』

「事故で深い眠りって……それは意識不明とか気絶じゃないのか?」

『そういうことではないわ。ほら、令音が睡眠導入剤を大量に飲んでるでしょ? しかも甘くて美味しいとか言ってて、どうも十香が興味を持っちゃったみたいで』

 

 令音解析官、あんたって人は余計なことをしてくれたな。

 

「分かった、それじゃあ夕弦と耶倶矢は普通に寝ているだけなんだな」

『素直に起きてくれるかは別問題だけどね。夕弦は少女漫画で予習するとか言ってたわよ』

 

 うん、とりあえず折紙の愛弟子である夕弦は最後に回そう。折紙と少女漫画の化学反応で捕食されかねない。

 

「これ以上うだうだしていても仕方ない。行くか」

 

 気を取り直した士道は、もう一度ノックをして反応がないことを確認してから扉を開いた。

 十香はベッドの上でぐっすり眠っていた。寝相が悪く手足を布団の外に投げ出しており、寝間着も捲れ上がってヘソがちょこりと顔を覗かせていた。

 

「十香、朝だぞ」

 

 近付いて呼び掛けてみるが、むにゃむにゃと夢世界の言語を返されてしまった。

 

「起きろ、さもなければ朝飯は無しだ」

 

 肩を軽く揺すると、十香の瞼が震えてパチパチと瞬きを繰り返す。

 

「おはよう、十香」

「おはようだ、シドー……シドー?」

「それ以外の誰かに見えるのか」

 

 十香の寝ぼけ眼がクワッと見開かれた。

 

「な、なな、なぜ私の部屋に居るのだ!?」

「正確に言えばここは十香の部屋じゃないと思うが」

 

 十香は昨日の記憶を思い出したのか頷きを見せた。それから何か不安を得たのか顔を青くして口端で輝く涎を袖で拭い取り、布団を頭まで被って丸くなった。

 

「み、見たのか?」

「主語をくれ」

「…………」

 

 やはり、寝相の悪さで服を乱れていたのを気にしているのだろうか。だとしたら悪いことをした。十香が寝坊しても起こしに行くのは夕弦か耶倶矢だったので、異性に見られる心配はしていなかった筈だ。

 

「ちょっと服は乱れていたけど、別に下着とかは見えていなかったから安心しろ」

「そうではない! いや、それもあるが……やっぱり見たのだろう? 寝顔を……!」

 

 そっちだったか。士道は余り気にしないが、女の子としては重要らしい。中二濃度が薄い十香はクラスメイトとの交流も多く、色々と教わっているのを良く目にする。寝顔に関しても何か言われたのかもしれない。

 

 気にするな、と言って納得するならこんなに取り乱したりはしないだろうし、どうすれば十香を納得させられるだろうか。

 士道は少し考えてから、あれこれ悩むのをやめた。

 こんな時は誤魔化したりせずに、真っ直ぐに行こう。攻略なんて言葉で本音を隠して、上辺だけの態度で好感度を得ても本当の価値は得られない。

 

「俺は十香の寝顔、好きだぞ」

「えっ……?」

「幸せそうで、見ているだけでこっちまで幸せを分けてもらえる」

「そうなのか? シドーはだらしないとか、はしたないとか思わないのか?」

「思わないさ」

 

 十香は布団から顔を出した。安心したのか微笑みを浮かべていた。

 

「そうか……うむ、ならば良いのだ!」

 

 すっかり元気になった十香を琴里に任せて、士道は耶倶矢が眠る部屋へと向かった。

 手順は十香の時と同じくノックと呼び掛け。しかし反応は無かった。

 

「接近戦あるのみか」

 

 士道が部屋に入っても、耶倶矢はまだ狸寝入りを決め込んでいた。布団を頭まで被って頑なに目覚めようとしない。実力行使に出ろということなのか。

 

「颶風の御子たる者が、だらしがないぞ」

 

 一気に布団を引き剥がそうと力を入れる。予想に反して簡単に布団は持ち上がる。

 しかし、布団の中には枕が積み上げられているだけで、耶倶矢の姿はなかった。

 

「後ろかっ!?」

 

 背後に人の気配を感じ取った時には手遅れだった。

 両腕を拘束され、羽交い締めを完全に極められていた。

 

「くくっ、腑抜けていたようだな、士道」

 

 耶倶矢が耳元で囁いた声に士道は凍り付いた。あれだけ琴里に豪語しておいてこの様である。相手が味方であるからこそ言い訳にならない。もしも日常の中に敵が溶け込んでいたならば、抵抗もできず敗北することを意味していた。

 

「我がヒュプノスの呪縛如きで屈すると思うたか?」

 

 どうにか抜け出そうと抵抗するが、耶倶矢は身体を密着させて自由を極限まで奪ってくる。

 

「……ッ!?」

 

 これは不味い。

 

「耶倶矢、離れた方が身のためだぞ」

「ほう、何を企んでいる? まあいい、どんな逆転の一手を披露するのか、期待させてもらうぞ」

「違う。今の体勢を考えろ」

「言の葉で油断を誘うつもりか?」

「俺は耶倶矢のために言っているだけだ」

「…………あっ、へ、変なこと考えるんじゃないわよ! こ、こここれはワザとなんかじゃないんだから!」

 

 何が不味いって、それは士道と耶倶矢の身体が密着しているのだ。羽交い締めの体勢からして、背中に耶倶矢の小さな……げふんげふん、慎ましく美しい胸が押し当てられていた。

 慌てた耶倶矢に突き飛ばされて、士道は受け身を取ろうとベッドに身を投げ出す。それが失敗だった。布団の中に詰められていた大量の枕が腰裏にあたり、海老反りの体勢を強要される。

 

「こ、腰がっ!」

「今助けるから、じっとして――きゃああっ!」

 

 床に落ちた布団に躓いて、耶倶矢が士道の上に覆い被さった。

 ベッドの上で絡み合う士道と耶倶矢。士道の腰に掛かる負担。呼吸を荒らげる耶倶矢――これだけ聞けば淫靡な響きだが、実際は士道の腰が逆パカされるバイオレンスなプレイも真っ青な危機的状況である。

 

「し、死ぬ……!」

「士道っ!?」

 

 耶倶矢が立ち上がり、すぐに助け起こしてくれたお陰で、士道は再生能力に頼ることなく一命を取り留めた。

 

「……わ、悪かったわよ。日常を取り戻してまた腑抜けているかと思って、こんなことしちゃって」

「心配するな。無意識の内に気が抜けていた部分があったのは否めない。寧ろ感謝している」

 

 士道の意図を理解して、耶倶矢は腕を組んで片頬を吊り上げた。

 

「くくっ、それでこそ我が盟友に相応しい」

 

 中二病同士らしく特に意味のない微笑みを交わして、去り際潔く二人は部屋から出た通路で背を向け合い歩いて行った。耶倶矢が荷物を取りに引き返し、士道が夕弦の部屋は逆方向だと言われて引き返す――十秒前の出来事であった。

 

 格好良い去り際を最悪の再会で台無しにした士道は、気を取り直して夕弦(ラスボス)の部屋へ向かう。果たしてどんな困難が待ち受けているのか、想像するだけでも恐ろしい。まだ折紙レベルに覚醒してないとはいえ、夕弦が着実に教えを身に付けていけば遠くない将来、あの境地へと至る可能性もあるのだ。

 サバンナも戦々恐々せざるを得ない肉食系が跋扈する日本の未来――ああ、第三次ベビーブームも夢じゃない、少子化問題なんてすぐに解決だ。

 

 念の為にノックを試す。反応無し。

 呼び掛けも試すが、同じく反応無し。

 

「――行くぞ」

 

 なんで戦場に赴く覚悟を決めているのか、やっぱり日常がベリーハード過ぎる。

 夕弦は大人しくベッドで眠っていた。耶倶矢のように身代わりを使ってないことは、布団から顔が出ているので簡単に確認できた。

 

 肩を軽く揺すって声を掛ける。

 夕弦は布団の中に逃げ込むように丸くなった。腕を掴まれて引きずり込まれるかと警戒したが、そんなことにはならなかった。

 

「寝言。あと五分」

「いや、寝言って言ったらアウトだろ」

 

 ぷいっと顔を背けられた。

 難儀な口調である。

 

「ほら、起きろって」

「睡眠。…………」

「…………」

 

 難儀な口調である。

 

「そろそろ本当に起きてくれ」

「拒否。おはようのキスはまだですか」

「まだも何もない」

 

 そんな布団から目元だけ出して、萌え袖のように指先だけ出すように布団を掴んで、期待の眼差しでチラ見されても――というか狙い過ぎだろう。これが少女漫画で学んだ技術なのか。

 

「一つ疑問がある。折紙要素が足りない気がするんだが?」

 

 士道は自分から地雷を踏みに行ってしまった。思わぬ防戦態勢を取られて戸惑っていたのだ。

 

「回答。マスター折紙からは、押し倒してだめなら引き倒せと学びました」

「……どっちもやること変わってないぞ」

 

 いや、折紙の教えならそれで正しいのか。そろそろ夕弦を折紙から引き離すべきか真剣に検討した方がいい気もするが、折紙の歩み寄りを否定するようで今日まで実現できていない。

 

「訂正。押してダメなら引いてみろです」

「ああ、うん、安心した」

 

 夕弦は上半身を起こして、士道を無言で見詰めてくる。

 

「どうした?」

「質問。士道は下も見たいですか」

「見たいかどうかはともかく、布団からは出てもらいたい」

「動揺。士道は大胆ですね」

「どうしてそうなる?」

「告白。夕弦は現在、はいてません」

「…………」

 

 予想外の告白だった。

 

「理解。士道は下半身露出系女子が好みなのですね」

「そんなジャンルが存在することにビックリだよ」

「疑問。『はいてない』は、流行している筈ですが」

 

 どこでだろうか。たぶん漫画やアニメなのだろうけど、二次元は殿町が担当なので、士道はそれほど詳しくない。

 もう終わりかと思ったら、夕弦は更に攻めの一手を打ってきた。

 

「質問。あざとい女の子は好きですか」

 

 夕弦は足先を布団から出して床に下ろす。膝下まで隠されているとはいえ際どい状態だ。ゆっくりと布団が捲られていく。膝小僧に続いて眩しい太腿が露わになる。

 士道は瞼を閉じるだけでなく顔を横に向けた。

 両頬をひんやりした手の平が包み込む。

 

「請願。目を開けてください」

 

 耳元で誘惑する囁きに、士道の鼓動が早くなる。しかしそう簡単に理性の壁が崩れたりはしない。幾度も襲われた彼はもはや鋼やダイヤモンドを越えて、ミスリルやオリハルコンの領域に至っている。

 

「脅迫。目を開けなければマスター直伝のテクニックが火を吹きます」

 

 士道は恐る恐る瞼を押し上げて薄目で確認する。

 腰に布団を巻いた夕弦が悪戯な笑みを浮かべていた。絶妙な影を作って、股の間がどうなっているのか見えなくなっている。

 

「解説。はいてないとは、確定してはいけないものだそうです」

「良く分からないが、心臓に悪いのでやめてくれ」

 

 

 

 無事に任務を果たして五河家に戻った士道は、八舞姉妹と十香に手伝ってもらい残りの調理を片付けた。それから琴里を呼んで一緒に朝食を取る。大飯食らいの十香によって家計が逼迫するのも、食事中の幸せな笑顔を見ると瑣末な問題に思えた。

 学校の用意をするため皆が精霊マンションに戻っている間に、戸締まりを念入りに確認していると、玄関先から呼び掛ける声が聞こえてきた。

 

「シドー! 急がねば遅刻してしまうぞ!」

「くくっ、まあ岡峰教諭の点呼は遅いからな、「や」で始まる我らには余裕がある」

「同調。困るのは士道だけですね」

 

 勝手なことを言ってくれる。

 思わず士道は柔らかな表情を浮かべていた。

 

「分かったよ、すぐに行く」

 

 誰かを待たせるというのは、誰かが待っていてくれるということ。それはきっと幸せなことだ。

 

 

    *

 

 

 来禅高校の一日が終わる。元気良く部活へ繰り出す者、無言のまま一人で帰路に着く者、教室に残って駄弁っていく者、成績不良のため補習を受ける者――自由を与えられた生徒たちは、それぞれの選択と過去の柵を抱えて未来へと進む。

 無数に広がる確率時空の中で、士道はババを引いていた。

 具体的に何があったかというと、修羅場である。

 

「鳶一折紙、貴様の思う通りにはいかぬぞ。シドーは私とこれからデェトなのだ!」

 

 確かに、今日の買い物は荷物が多くなりそうなので、十香に手伝ってもらうように予め約束していた。だが、タイムセールへの殴り込みは断じてデートとは呼ばない。

 

「意味が分からない。あなたは一度、病院に行くべき」

 

 対する折紙は、悪意を露とも隠さずに応じる。

 

「なんだとっ!? 私を愚弄するのか!」

「そう聞こえなかったのなら、正気を疑う」

「ぐぬぬ、それ以上の狼藉を働くならば、もはや捨て置けぬぞ!」

 

 人類と精霊の仁義無き戦いが始まりそうだったので、士道は無駄に決め顔で両者の間に割って入った。

 

「落ち着け、十香は何か誤解をしている」

「士道の言うとおり。夜刀神十香、あなたは落ち着くべき」

「ぬっ……確かに、冷静を見失っていたようだ」

 

 修羅場が収束して落ち着いたところで、士道は改めて十香に事情を訊いた。士道は折紙から内密の話があると呼ばれて、人気のないところへ移動していただけなのだ。何をどう勘違いしたのか、そこへ十香が突っ掛かってきたのである。

 

「ハァレムは攻めた者勝ちだと――」

「いや、もういい」

 

 説明しようとする十香に制止を掛ける。誰かに邪なことを吹き込まれたようだ。十香は人間社会に不慣れである。そのせいで時折、小動物的な反応を見せては母性を刺激させる。中二濃度が薄いこともあってか、クラスメイトの一部が何かと十香の面倒を見るようになり、特に亜衣麻衣美衣(アイマイミー)三人娘(トリオ)が様々な影響を与えていた。

 

「耶倶矢、夕弦、ちょっと十香を頼めるか」

 

 廊下の角に向けて呼び掛けると、八舞姉妹が橙色の髪を棚引かせて飛び出してきた。それから背を預け合うようにポーズを取った。

 

「くくっ、気配を読まれたか。どうやら勘が戻ってきているようだな」

「驚嘆。流石は士道です」

「お陰様でな」

 

 士道が折紙に呼ばれた時点では、まだ八舞姉妹も教室に残っていたので、恐らくは付いて来ているだろうと予想してのことだ。気配を読むなんてどこぞの格闘家や工作員のような高等技術を用いた訳ではない。

 八舞姉妹に連れられて十香が立ち去り、折紙と二人っきりになると、早速本題を切り出した。

 

「それで、折紙、話したいことっていうのは?」

「あなたに会いたいと言っている人が居る」

「俺に……?」

「そう」

「それは表裏どっちだ?」

「対応次第で変わる」

 

 裏に関わっている人間で、士道に会いたい人物。折紙が<アポルトロシス>の正体を明かすとは思えないので、五河士道に会いたい(・・・・・・・・・)ということでいいのだろう。

 

「何者だ?」

「それを決めてほしい」

 

 折紙の表情は些細な変化だが、困惑しているように見えた。

 まるで謎掛けだ。危険はないと思うが念の為に<ラタトスク>に報告しておいた方がいいかもしれない。

 

「これから買い物に行くが、その後だったら大丈夫だ」

「では、士道の家で待っている」

「了解した。六時……一八時には帰宅できると思うから、それぐらいに来てくれ」

 

 折紙はコクリと頷いた。

 無表情の奥に不安を見付けて、士道は立ち去ろうとした足を止めた。

 

「どうした?」

「精霊が出現しても……無茶を、しないでほしい。今の私は無力。何も、士道の助けにはなれない」

 

 一ヶ月の謹慎処分を言い渡された折紙は顕現装置(リアライザ)を備えた端末を取り上げられている。彼女は精霊の戦場に於いては無力だった。満足に盾になることもできない。

 

「――違うよ、折紙。こうして協力しようしてくれるだけで、今を生きてくれているだけで、それだけで救いなんだ。十分に助けになっているよ」

「…………」

「それに俺はもう自分自身を蔑ろにはしない」

「嘘を吐いている。士道はいざとなれば、自分を犠牲にする」

「ああ、折紙はいつだって正しいよ」

 

 言い訳はしない。誰にも譲れない士道の在り方なのだから。折紙が復讐のために感情の一部を捧げたように、士道は中二病をこじらせて本来の自己を見失った。

 このまま会話を続けても、互いに譲れないものがある以上は平行線だ。

 理解できるからこそ分かり合えない。

 <ラタトスク>とAST、所属と組織の在り方が示すように――二人の手は完全に繋がれない。少なくとも今はまだ。

 

 

    *

 

 

 士道は一人、雨の中を強行軍で突き進む。せめてもの抵抗に、通学鞄を濡れないように胸に抱え込んだ。天気予報などという曖昧な情報を信じたが故に、彼は雨から身を守る術を持ち合わせていなかった。

 

「やはり機関の陰謀か。だが、屈しはせんぞ!」

 

 本来の予定ならば、雨宿りしながらゆっくりと歩いても間に合う筈だったが、十香と折紙の修羅場や折紙との会話で予想以上に時間を食ってしまった。

 十香も連れて行く予定だったが、流石に雨の中を走らせるのは悪いので、八舞姉妹と一緒に学校に残ってもらっている。

 

「今日のタイムセール、逃す訳には行かんのだ!」

 

 家庭を預かる身として、士道は節約の二文字から逃れられない。<ラタトスク>からの援助があるとはいえ、無限の資金がある訳ではないのだ。

 商店街は緊迫した空気に覆われていた。歩道を擦れ違う主婦の顔は既に戦いに備えて引き締まっている。

 士道は鞄からタオルを取り出して濡れた頭を拭いた。制服もびしょ濡れになっているので、店のトイレを借りて男性物の変装に手早く着替えた。

 

「よし、準備完了だ」

 

 ――午後五時を回った。

 

 戦いの幕開けだ。

 準備のために一時的に閉鎖されていた一角が、店員の振るうハンドベルの祝福の音と同時に解放される。そこへ主婦の群れが雪崩れ込んだ。鬼気迫る形相は日常の皮を剥いで現れた戦人(スパルタン)。ご近所さんへの遠慮は不要。あらあらまあまあおほほほほ、なんて愛想を振り撒く必要はない。

 

 運動不足で培った脂肪はなんのためにある?

 ――前に出る不届き者を弾き飛ばすためだ!

 

 馬鹿息子や娘、役立たずの夫を怒鳴り散らした声はなんのためにある?

 ――並み居る小者を恐れ慄かせるためだ!

 

 親戚一同の愚痴で溜め込んだ鬱憤はなんのためにある?

 ――戦場で溜まりに溜まった力を解放するためだ!

 

 専業主婦は伊達や酔狂じゃ務まらないんだよ! こちとらたった一円の節約のために鎬を削ってんだ。死ぬ覚悟もできてない臆病者はお呼びじゃない! そんな奴は10%引きとか書いてんのにちゃっかり元値を上げて割高の商品でも買っていやがれ!

 

 まさに激流の如し。滝登りなど生易しい。川の流れを逆向きにさせる超常すら成し遂げるこの力――牙を剥いた主婦は、ヒエラルキーの頂点へと至る。

 怪しい通販番組で購入した筋トレマシーンで手に入れた――と思いきや三日で飽きたため、ただの脂肪の塊パワーで、一気呵成に攻め立てる。

 その戦場に士道の姿はあった。主夫歴も長い彼は、もはやこの戦場でも馴染みの顔になっていた。

 

「あら、五河さん家の士道くんじゃない」

 

 なんて呼び掛けてくれる顔見知りが居るぐらいだ。

 もちろんお互いに手加減をするつもりは微塵もない。大切な家族のために知り合いとも争う。それが特売日の宿命。タイムセールという名の呪縛。

 

「今夜はハンバーグ、半額の挽き肉は俺のものだ!」

 

 脂肪の壁を分け入り、熱気で汗たっぷりの二の腕を掻い潜り、確実に前へ前へと突き進む。気付けば先頭集団に躍り出ていた。

 

「挽き肉は渡しませんよ!」

 

 聞き覚えのある声に振り返ると、そこには見慣れぬしかし毎日のように目にする格好をした少女の姿があった。

 本名は知らない。ただ呼び名はある。

 愚直で傷付くことすら厭わずに突き進む妥協なき姿に、士道は二つ名を与えていた。

 

 ――<黒字家計簿(ティアクロー)>。

 

 彼女はいつもセーラー服を着ていた気がするが、今日は来禅高校のブレザーを纏っていた。転校してきたのだろうか。

 

「気付けば、そこそこの付き合いになっているな」

 

 公園で偶然の出逢いを果たして、格好付けてアドバイスしたところ、彼女の人生に少なからず影響を与えてしまったので、商店街における戦い方など色々と教えていた。

 最初は泣いてばかりの少女だったが、こうしてタイムセールの中でも生き残る姿を見ると感慨深いものがある。これが弟子の成長を喜ぶ師匠の気持ちなのかもしれない。

 

「とはいえ、手加減はしないがな」

「あっ……<無反応(ディスペル)>さんもまさか挽き肉狙いですか!?」

「だとしたら、どうする?」

「それでも勝ち取ります! 今月はピンチですから!」

 

 士道は頬を釣り上げた。このノリは購買部に近いものがある。もしも転校してきたのなら、彼女にも購買士(バイインガー)への道を示してみよう。

 

 

    *

 

 

 アシュリー・シンクレアは、日本での生活にすっかり馴染んだと思っていた。だが、どうやら自分はまだ日本についてまだまだ無知だったようだ。

 

「なんだこの戦場は……本当にこいつら一般人なのか?」

 

 午後五時、商店街のタイムセール。

 彼女もまたその戦場に居た。

 

「まさかセシルの奴、これを知っていて、気晴らしのために買い物を頼んだのか?」

 

 作戦は順調とは言い難い。そのせいでアシュリーは待機を命じられてフラストレーションが溜まりっぱなしだった。本来であれば相手の戦力を削る段階に入っているのに未だに情報を掴めないでいる。こうして節約を強要されるのも、情報収集に使う資金が増えているのが大きな理由だった。

 

「まあいいか、あたしのやることは変わらねーし」

 

 アシュリーは口端を引き裂くように笑う。上等だ。商店街の連中に本当の戦いってのを教えてやる。

 前傾姿勢から一気に加速。目にも留まらぬ速さで人混みに突貫する。小さな身体を活かして、縦横無尽に駆け巡る。無理に最短ルートを押し通る必要はない。道があればただそこを抜けていく。

 無駄が多いように見えて、彼女の選択は一つの正解だった。

 

「こんなものレオの狙撃とか、セシルの目から逃れるのに比べたら、ただの遊びだぜ」

 

 目的の品は挽き肉。どうやら半額になっており、相当にお買い得らしい。金銭感覚の乱れたアシュリーには良く分からないが、セシルに怖い顔でこれだけは手に入れなさいと念押しされたので、相当にお買い得のようだ。

 

「よし、あそこの棚だな!」

 

 跳躍で視界を確保し、挽き肉を積まれた棚を発見した。

 同じく挽き肉に向かう集団の中に、少年と少女の姿を見付ける。

 

「なんだ、てめーらも狙いは同じか?」

 

 少年は<無反応>と名乗り、隣を走る少女を<黒字家計簿>と紹介した。明らかに本名じゃないが、こんな戦場があることを知らなかったアシュリーは、もしかしたらここでの流儀なのかもしれないと納得した。

 

「新人か……それにしては、良い動きをしている」

 

 自分と同じぐらいの身長の<黒字家計簿>は余裕がないらしく話し掛けても顔を向けてくるだけだったが、<無反応>はまだまだ余裕があるようだ。

 

「はっ、この程度の戦場じゃ、まだまだ生温いね」

 

 アシュリーは最初こそは物珍しさから楽しめたが、慣れてくると歯応えを感じられず退屈していた。

 

「――分かっていないな、本当の戦いはこれからだ」

 

 アシュリーは後方から迫り来る巨大な気配に気付いた。<無反応>の警告通り、どうやらまだまだこの戦場は楽しませてくれるようだ。

 

 ――<聳え立つ愛(マッドマザー)>。

 

 それが巨躯の呼び名だ。本名は知れ渡っているが、この戦場においては誰も彼女をそんな生易しい名前で呼んだりはしない。

 <聳え立つ愛>は四つ子の母である。いよいよ中学進学した子どもたちに、出費はかさむばかり。子どもたちの笑顔のためにヘルパーを始めて、それでも生活は苦しい。追い詰められた彼女は節約の修羅と化した。

 

 棚の前に辿り着いたアシュリーだが、その後ろからまるで鞭のように手が伸びてくる。圧倒的な身長差は手の長さにも影響する。アシュリーにとっての一歩を、<聳え立つ愛>は腕を伸ばすだけで届かせる。

 <無反応>は自分の体を盾にして、巧みに腕の進行を阻んでいた。アシュリーには体格的に真似できない芸当だ。

 

「あなたにもやし生活の苦しみが分かりますかっ!」

 

 <黒字家計簿>は謎の叫びを上げて泣きながら必死で手を伸ばしているが、<聳え立つ愛>に掠め取られていた。

 

「ああ……っ! 私の一週間分のおかずが!」

 

 は? 一週間分? どう考えても一日分しかねーぞ。

 アシュリーはなんだか貰い泣きしそうになって堪える。まずは自分の挽き肉を確保しなくてならない。戦場では他人を頼った奴と、他人を優先した奴から死んでいくのだ。

 

「ちっ……弾かれたかっ!」

 

 ようやく掴んだかと思ったが、腕の鞭によって空中へと放り出されてしまった。その数は二つ。

 アシュリーは反射的に跳び上がった。

 それと同時に三つの動きがあった。

 

 一つは、<黒字家計簿>が同じく跳び上がったこと。

 一つは、<無反応>が低く身構えて溜めに入ったこと。

 一つは、<聳え立つ愛>が標的を空中の挽き肉に切り替えたこと。

 

「私の一週間を掴み取ります!」

「それはあたしのものだっ!」

 

 二人の少女の叫びがぶつかり合う。

 刹那、風を切る音が聞こえた。

 

「そこはまだ間合いに入っている!」

 

 誰もまだ名を知らぬ新技がお披露目となる。

 

 ――『秘技・天影連斬(エア・ストリーム)』。

 

 <無反応>の手にした濡れタオルが凄まじい速度で放たれた。まさに一瞬、空中に浮かぶ挽き肉を絡め取り回収した。本来は空中に居る対象を高速で捌く技だが、鞭の腕からヒントを得て始めから応用に至ったのだ。

 

 残すは一パック。

 <聳え立つ愛>が迫る恐怖をひりひりと感じながら、アシュリーは全神経を指先に注ぐ。手の平で掴み取ることを考えるな。まずは触れろ――そして、

 

「弾くっ!」

「私の一週間がもっとお空に!?」

 

 跳躍の勢いはまだ生きている。対して、最初から到達点を計算して跳んだ<黒字家計簿>は失速し後は落ちていくだけだ。<聳え立つ愛>の腕もまた届かない高度にまで達した。

 

「貰ったぜ!」

 

 アシュリーは余裕の笑みで挽き肉を掴み取る。胸に抱え込んで横から奪われないように警戒を忘れない。着地と同時に駆け出す。レジまで直行だ。

 

「ううっ……負けました、強くなったはずなのに、また私は」

「強者が勝ち、弱者が負ける……それが戦場だ」

 

 <無反応>の達観した言葉を、アシュリーは冷めた顔で聞いていた。

 その通りだぜ、弱い奴が負ける……だから、あたしは強くなきゃだめなんだ、絶対に。

 

「――だが、勝ち負けは別にセットじゃない」

 

 アシュリーは続く言葉に足を止めていた。何を馬鹿なことを言っているのだろうか。勝者が居れば敗者は必ず存在する。それは必然だ。

 

「誰かを負けさせなくても勝つことはできる」

 

 <無反応>はどこか遠くを見詰めた。

 

「これが俺の答えだ」

 

 そして<黒字家計簿>に挽き肉を差し出していた。

 

お一人様二パックまでだ(・・・・・・・・・・・)

 

 手渡しても一パックは残る。最初からどちらかが負けても問題はなかったということだろう。アシュリーには詭弁に聞こえた。それ以外の誰かが割りを食って負けるだけではないか。

 綻びを抱えた慈悲。帳尻合わせの予定調和。

 そのわがままの矛盾にいつまで耐えられるのか。ミクロの視点では破綻しながら、もしかしたらマクロの視点では成立するのかもしれないが、そう考えているのならば――結局は幸福の最大公約数を求めるだけの偽善に成り下がる。

 もしも、<無反応>と名乗った少年にとって救いたいと思う存在が天秤の両側にあったとしたら――果たして、どうやって勝者だけで場を収めるというのだろうか。

 

「別に日常の中で理想論を語るのは自由だな。あたしが気にすることじゃねーか」

 

 馬鹿らしい、何を真剣になって考えているのだろうか。

 生活苦ぐらいが精々の不幸である一般人に、自分たちの気持ちなんて分かる筈がないのだ。

 

 

    *

 

 

 雨が降り続けていた。

 士道は商店街で傘を購入したので、もう濡れる心配はない。自分はどれだけ濡れても構わないが、食材を駄目にする訳にはいかないため、血涙を流す思いで出費を許容したのだ。

 

「それにしても、こいつはどうしたものか」

 

 買い物袋の中から取り出したのは、売れ残り臭が漂うパペットだった。

 商店街では、天宮クインテットに流れる客を繋ぎ止めるために様々なイベントを催している。その内の一つに抽選会がある。

 

 全店舗共通のスタンプカードがあり、購入金額千円ごとに一つ押してもらえる。それが十個たまると挑戦できるのだが、商店街専用の金券などもらって嬉しいものもあれば、在庫処分に売れ残りを押し付けられることもある。

 士道は運悪くその『魔の四等』を引き当てて、死んだ目をしたブサ可愛い白熊のパペットを手にすることになったのだ。

 

「プレゼントしたら誰か喜ぶかな」

 

 このパペットにだって、相応しい居場所がある筈だ。自分が手にしたのも何かの縁だと考えて、少しぐらい居場所を探してやろう。

 士道は買い忘れがないか確認しながらのんびり歩く。

 

「洗濯物の取り込みは琴里に頼んであるし、折紙が来るまでには余裕があるな」

 

 足元の警戒は忘れていない。無駄にスタイリッシュに水たまりを飛び越えた。

 雨は嫌いではない。音を消し、臭いを断ち、気配まで殺してくれる。隠密行動には最適だ。雪と違って痕跡を残し難いのも良い。

 

「しかし、通り雨だと思ったが随分と長い」

 

 不自然な雨――どこか作為めいた魅力的な響きがある。

 士道は曇天を見上げて呟いた。

 

「この雨……ふっ、なるほど。遂にその時が来たようだな」

 

 もちろん、その台詞に意味など存在しない。敢えて言えば、無意味であるからこそ格好良い。

 興に乗ってしまい、天に向けて手の平をかざすようにポーズを決めていた。

 

『ぁははははっ! おにーさん、一人でポーズなんて決めちゃって、ぁっはっは、もー、お腹が捩れちゃうよー!』

 

 誰も居ないと思ったが、甲高い笑い声が聞こえてきた。

 雨の中にぽつんと佇む少女が一人。ウサ耳フードのレインコートに似た外套。左手の眼帯を装備したウサギのパペットが元気良く口を動かしている。

 

 ――まさか、人形遣いの能力者なのか。

 

 思わぬ登場人物に瞠目する。

 外見だけで判断すれば、琴里と同じぐらいの年齢に見える。

 それはつまり、士道の全盛期――中学二年を意味していた。

 

 彼女もまたその道へ踏み込んだ強者ということか。パペットを自由自在に操りながら表情を一切変えない徹底振り、雨は浴びるものだと体現する在り方。現実を超越した領域に彼女は存在していた。

 

「これが導きの雨(レーゲンルーフ)の示す運命か」

 

 士道は未だかつてない強敵の登場に、日常の脆さを儚んだ。

 

 ――雨の中、中二病は新たな精霊と出逢いを果たす。

 ――雨の中、闇に生きる咎人は謎の人形遣いと対峙する。

 

 現実と妄想が重なり合う非日常の中で、五河士道は知らぬ間に次なる戦場へと導かれていた。

 




 次回! 最強の能力者――<人間遣い/人形遣い(バシレイア)>との戦いの火蓋が切られる。果たして<業炎の咎人(アポルトロシス)>に勝機はあるのか……!?(大嘘)
 なんか、久し振りに士道くんが勘違いしている気がする。

『俺の青春ラブコメは選択肢が全力で邪魔して問題児たちが異世界から来るそうですけど愛さえあれば関係ないよねっ』
 ラノベタイトルを繋げただけで、デート・ア・ライブの内容が説明できてしまったけど、これって中々にすごい発見ではないですかね。
 いや、まあどうでもいいことですけど。

Q.折紙さんを起こしに行くシチュは?
A.やめてくださいたべられてしまいます

 次回の更新はもっと間が空くと思いますので、気長にお待ちくださいませ。


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3.妹記念日

 中二病の闘争。それは即ち、設定と設定、世界観と世界観、ご都合主義とご都合主義――相食む能力をぶつけて説得力(ゴリ押し)をもって潰し合うこと。

 士道は中二病を自覚することで現実と折り合いを付けているが、現役バリバリの中二病は圧倒的な妄想力を以って現実を超越する。

 

 そもそも生きている世界が違うのだ。例えどれだけ否定されようとも、真正面からそれを受け止めることはない。勝手に解釈され設定との辻褄合わせを即座に行われることで世界観を完全に守り切る。

 

 精神が折れない限りは中二病は死なない。つまり無敵に等しいことを意味する。

 かつてはそれが強さだと思っていた。

 だが、自覚した今ならば分かる。

 

 それは所詮、独り善がりの理想に縋り付く弱さでしか無いのだ。理想とは押し付けるものでも個人のものでもない。誰かと共有することで始めて価値を持つ。

 それを知らないからこそ中二病は最強なのだろう。恥も外聞もなく妄想を垂れ流せば世界が理想郷に変わるのだから。

 

『おんや―? よしのんの美しさに臆しちゃったかなぁ?』

 

 ウサギのパペットが紅の隻眼で見詰めてくる。

 

「くっ……!」

 

 なんてプレッシャーだろうか。

 士道は人形遣いの顔を確認するが、小揺らぎもせずに無反応を貫き通していた。まるで人形に魂を預けてしまったかのようだ。己の設定を現実に再現するために、ここまで徹底しているのならば、それはあらゆる状況を冷静な顔で切り抜ける<無反応(ディスペル)>の境地に近いものがある。

 

 畏怖と同時に親近感を抱いた。

 <無反応>の二つ名は、臆病だった士道が現実逃避の末に得たものである。妄想の中でしか生きるのことのできなかった士道は、現実への反応を止めてそれが気付けば特技にまで至っていた。

 

 もしかしたら彼女もまた、現実に絶望しているのではないだろうか?

 弱く幼い心は現実の重さに耐えられず、こうして魂を人形に預けてしまったのかもしれない。

 

「やはり、能力者は孤独を抱えるものか」

 

 士道は少女への対応を冷静に考える。下手に設定を壊すのは不味い。あれほどにパペットに執着した世界観を崩せば、彼女自身の人格に影響を与えかねない。

 無言のまま待たせるのは悪いので、とりあえず適当に謎の呪文でも唱えながら少女の周りを歩き回る。彼女も中二病もならばきっとこの意味不明な行動を勝手に『設定』として解釈してくれる筈だ。

 

『ん……? んん……?』

 

 人形遣いは士道の行動に反応を示さない。リアクションを取るのは相変わらず人形の方だった。パペットが首を傾げて、少女と一緒に回りながら士道の動きを追った。

 やがて良い方法を考えついたところで足を止めると、少女が座り込んで口元をパペットをはめていない右手で押さえていた。どうやらパペットに成り切る余りに、自分の肉体へのダメージを考慮していなかったようだ。

 士道が近付くと、少女の肩がビクリと跳ねた。小刻みに震えているところを見るにどうやら怯えているらしい。足を止めて手だけを伸ばした。

 

『そのままじっとしているのよ。動くと余計に気持ち悪くなってしまうわ』

 

 自慢の鍛え上げた喉から紡がれるのは艶のある女性の声。<業炎の咎人(アポルトロシス)>の時に使うハスキーボイスとはまた別の声である。

 士道の手には、ブサ可愛い白熊のパペットがはめられていた。商店街の抽選で手に入れたのを思い出して、目には目をパペットにはパペットだと思い付いたのだ。まさかここでパペットの出番が来るとは、これぞ虚空に座す輪廻の因果律(アカシックレコード)すらも意のままに操る運命力のお陰であろう。

 

「えっ……?」

 

 パペットではなく、少女自身から反応が返ってきた。目眩のせいで意識が肉体に戻っていた。

 すぐに少女は自分の失言に気付いて、顔から表情が消える。

 

『へえ、おにーさんにもよしのんみたいな、お友達が居たんだねー』

『ふふっ、初めまして。私の名前はしおりんよ』

『ああっ! よしのんともあろう者が、すっかり名乗るのを忘れたねぇ! よしのんの名前はよしのん、可愛いっしょ? 可愛いっしょ?』

『とっても素敵なお名前ね』

『ぅうん、もー、しおりんったらお上手なんだからー』

 

 士道は空いた右手をぐっと握り締めた。ファーストコンタクトは無事に乗り越えたと考えていいだろう。予想通り『よしのん』が名前のようだったので、それに合わせて『しおりん』と名乗って良かった。本当は格好良い響きの名前を付けたかったのだが、万が一にも彼女の世界観を破壊しては目も当てられない。

 それからくだらないことを話して友好を深めたところで、危険を伴う賭けに出た。

 

「名乗り遅れたが、俺の名前は五河士道だ。きみの真名を教えてほしい」

 

 よしのんではなく、少女に向けて名乗った。

 

『…………』

「…………」

 

 不気味な沈黙が返ってきた。

 よしのんが葛藤を表すように、両手で頭を抱えて首をぐるぐると回す。少女は瞼を震えさせて後退った。

 やはり踏み込むのは失敗だったか――そう後悔した時だった。

 

「私の……名前は……四糸乃、です」

「そうか、それじゃあよろしくな、四糸乃」

『よろしくね、四糸乃』

 

 士道はよしのんの存在を尊重する意味で、しおりんとしても自己紹介を行った。

 

「は、い……よろしく、お願いします」

『ふふっ、よくできたねー! 偉い偉いっ!』

 

 四糸乃をよしのんが頭を撫でて褒めた。

 その様子に士道は目を細めて微笑んだ。傍から見れば、痛々しい自作自演かもしれない。でも士道には分かる。彼女にとって『よしのん』は実在するのだ。かつて士道にとって『機関』が存在したのと同じように。

 士道は近付いても怯えないのを確認して、四糸乃とよしのんを傘に入れた。

 

「これなら濡れないだろう」

 

 四糸乃は傘で水が弾かれるのを見上げて目を丸くした。

 

「あ……り、がとう、ございます」

『おおっと、これはかたじけないねぇ! 今日は優しい人ばっかりで、よしのんの日頃の行いが効いてきたかなー?』

 

 よしのんが濡れた耳を絞るように握った。

 

「ご、ごめんね……よしのん」

『四糸乃は悪くないよー。士道くんが、濡れてるレディを放っておいてぐるぐる回ったり、変なことしてるのが悪いんだから』

「うぐっ」

 

 そう言われると、自分の行いが割と鬼畜の所業に思えた。相手が怯えていたのを考慮しても、濡れている女の子を放置したのは事実なのだから言い返すこともできない。

 

「よ、よしのん……!」

『もう、冗談だよー。ふふっ、それよりもさー、士道くん、雨宿りさせるのを良いことに、四糸乃たちに密着しちゃってるけど、狙ったのかなー?』

 

 更にキラーパスが来た。

 パペットで攻めるならばパペットでガードしてしまおう。

 

『士道ったら、だめよ、女の子に許可無く触れたりしたら』

 

 しおりんを間に挟んで、物理的にも会話的にもクッションにする。

 相手の設定の隙を突くようで我ながら卑怯臭い。世界の共有は理想郷に至るために必要なこととはいえ、パペットに人格を持たせる世界は多くの人に受け入れてもらうのは難しいだろう。

 

 目の前で、親しい友人のように会話を交わす四糸乃とよしのんを見詰めて、士道は二人の関係がどのような結末を辿るのか想像して表情を曇らせた。

 中二病はその名の通り多くの者が中学二年生という多感な時期に発症するものだ。良くも悪くも成長すればいずれ勝手に卒業する。そして多くの者が黒歴史として封印してしまう。

 

 ――四糸乃にとって、よしのんは永遠であるべきなのだろうか?

 

 士道は首を横に振って思考を払った。

 答えの出ない疑問を投げ捨てて、自分のように上手く中二病と付き合えていければいいな、と願望を抱いた。

 

 

    *

 

 

 士道は一人、先程までの雨が嘘のように晴れ渡った空を見上げながら歩く。

 

「何か地雷に触れてしまっただろうか?」

 

 不安気に呟いて、白熊のしおりんに目を落とした。本来は四糸乃とよしのんを家まで送るつもりでいたのだが、目を離した隙に二人共居なくなってしまったのだ。

 自分と同じ中二病患者。それも空想の友達を生み出してしまうほどの重症である。絶望が見え隠れする四糸乃を放ってはおけなかった。

 

「ん? こんな時間か……。そろそろ折紙たちも家に来てしまうな」

 

 士道は荷物を抱え込んで小走りで自宅に向かう。

 玄関先に折紙の後ろ姿を見付けた。その隣にはポニーテールの少女が立っている。恐らくは彼女が士道に会いたいと言ってきた件の人物なのだろう。

 鍵が開いていないところを見るに琴里は洗濯物を回収した後、<フラクシナス>へ戻ったようだ。時刻はまだ一八時を回っていないが、折紙の性格を考えれば早目にやってくることは考慮するべきだった。

 

「折紙、待たせて悪かったな」

「問題無い」

 

 折紙は表情一つ変えない。

 

「にっ……」

「に……?」

 

 もう一人の少女は目を見開いて固まっていた。視線は真っ直ぐに士道へと向けられている。

 何か気になることでもあるのだろうか、と首を傾げて、すぐに原因に思い当たった。まだ手にしおりんを付けたままだ。高校生にもなって日常的にこんなものを付けていれば、それは反応に困るだろう。中二病患者は珍しく常識的な結論を出した。

 

 まるでその常識の隙を突くように、ポニーテールが宙を舞った。少女が白いスニーカーで地面を蹴りつけて、勢い良く士道の胸に飛び込んできたのだ。

 

「まさか機関の刺客かっ!?」

 

 懐に潜り込んだ少女を即座に迎撃しようと、捻りを加えた拳が放たれた。今朝、耶倶矢と一戦交えたことで既に実戦感覚を取り戻していた士道に隙はない。

 しかし、対する少女――崇宮真那もまた数々の激戦を生き抜いてきた猛者である。引き締まった小さな身体で鍛え抜かれた筋肉が躍動する。

 

「……ッ!」

 

 拳を横から叩き落として、すぐさまバックステップ。

 二人は距離を置いて構え直すと――ふっ、と笑った。

 この時、士道の妹である真那は思った。妹である自分がこんなに強いのだから、その兄はもっと最強に違いない。失われた記憶が全否定している気もするが、一瞬の攻防に確かな兄妹の絆を感じ取った。酷い勘違いである。

 なんだか良く分からないが心の奥底で通じ合った二人は、拳を打ち合わせた。

 

「流石は兄様でいやがりますねっ!」

「…………えっ?」

 

 固まった士道に、真那が今度こそは抱き着いた。

 これが人類最高峰の魔術師()と、人類最低辺の中二病()の再会だった。

 

    *

 

 士道から真那について報告され、<フラクシナス>から戻ってきた琴里を交えて話を聞くことになった。学校に残っていた十香や八舞姉妹はどうやら<フラクシナス>に拾ってもらっていたらしく、琴里と一緒に五河家へとやってきた。

 

「ちょっと込み入った話になりそうだからな、折紙はみんなと一緒に夕弦と耶倶矢の部屋に――」

「士道の部屋で待っている」

「そ、そうか」

 

 折紙は食い気味に言った。こういう時に積極性は大切だ。断られれば引き下がるつもりだったが、士道は悟った顔で了承してくれた。

 士道がリビングに入っていくのを無言で見送り、リビングのドアへとそっと耳を当てた。

 どう見ても古式床しい盗み聞きスタイルである。

 

 士道の部屋でクンカクンカスーハースーハーペロペロハァハァジュルリするのも充分に魅力的なプランだが、目先の欲望に囚われず士道と真那の関係を正確に把握することを選択した。

 

「…………」

 

 もしも士道に害を成す存在ならばあらゆる手段を以って排除する。

 静かな決意を胸に聴覚に意識を集中しようとして、

 

「理解。やはりマスター折紙も同じお考えでしたか」

 

 夕弦を先頭に耶倶矢と十香が足音を殺してやってきた。言動からするにどうやら目的は同じらしい。

 ドアの大きさからして盗み聞きできるのは二人が限度だ。

 

「くくっ、ならば戦って勝者を決めるしかあるまい。さあ拳を天高く掲げよ。我らを導くは三竦みの絶対運命、変幻自在に惑う事象をこの拳に――」

「省略。ジャンケンで決めましょう」

「ちょ、夕弦っ! ここからが良いところだったのに!」

 

 十香は首を傾げた。

 

「ジャンケンとはなんだ?」

 

 八舞姉妹は乳繰り合っているので、代わりに折紙が応えた。

 

「私が説明する」

「むう、鳶一折紙には訊いてないぞ」

「夜刀神十香、士道は私とあなたが友好を深めることを望んでいる」

「そ、それは……そうだが」

「私から歩み寄ることを拒否するのであれば仕方ない」

 

 折紙は俯いた。さも落ち込んだように見せると、純粋な十香はころりと騙されてしまう。

 

「か、勝手に決めるな! いいだろう、ジャンケンとやらを説明してくれ」

「実践で理解する方が分かりやすい。今から握手するように手を出して」

「こ、こうか?」

 

 折紙はパーを出した十香に対してチョキを出した。

 

「あなたの負け。つまりドアの前に立つ権利はなくなった」

「なっ!? 謀ったな鳶一折紙!?」

「既に勝負は始まっていた。油断したあなたが悪い」

 

 こちらは八舞姉妹とは違い、悪意が見え隠れする喧嘩だった。

 折紙にとって精霊は未だに凝りの残る存在である。八舞姉妹とはそれなりに友好を深めているが、どうにも十香とは衝突することが多い。とはいえ言い争うことはあっても、お互いに本気で殺し合おうとは考えていなかった。十香にとって折紙は複雑でありながら尊敬に値する存在であり、折紙にとって十香は士道のために守ると決めた存在なのだから。

 

 その後、厳正なる勝負の結果、顔に出やすい主従コンビは無表情がデフォの師弟コンビの前に敗北を喫した。

 折紙と夕弦は恨めしげに睨み付けてくる耶倶矢と十香を無視して、リビングの会話を聞き逃すまいと集中する。

 

「兄様は実妹派でいやがりますよね!?」

「おにーちゃんは義妹派よね!?」

 

 果たしてどういう会話の流れで、こんなことになったのだろうか。聞こえてきた第一声のレベルが高過ぎる。再会したばかりの実妹によってラブコメ空間を構築してしまうとは、流石は士道である。

 それから間を置いて開き直ったらしい士道が、高らかに宣言した。

 

「――俺はすべての妹を愛すると決めている!」

 

 優柔不断の返答は受け入れてもらえず、実妹と義妹から舌鋒鋭く責め立てられる。

 

「推測。もしかしたら士道は『妹属性』を持っているのかもしれません」

「妹属性?」

 

 折紙は士道のためならばコスプレなどもするが、サブカルチャー的な知識は乏しい。復讐に生きることを決めた彼女には、これまで日常を楽しむ余裕などなかった。

 

「解説。最近読んだ漫画で学びました。士道のように妹をこよなく愛する人間を、シスコンや妹属性持ちなどと呼称するようです」

 

 夕弦は士道の予想から外れて折紙とは別の進化を辿っていた。漫画やアニメによって余計な知識を身に着けることで、三次元的なエロスよりも二次元的な萌えを追求していたのだ。

 

「補足。『妹』とは血縁上や法律上の括りよりも関係性を重視するとも書かれていました」

 

 実妹しか認めない義妹は甘えだと口にする者が居れば、甲斐甲斐しく世話をしてくれる年下の幼馴染から「お兄ちゃん」と呼ばれていればそれも『妹』であると判断する者も居る。

 

 折紙は妹という概念を即物的に把握した。重要なのは自分にとってそれがどのような価値があるかだ。

 そして思い付いた。

 士道が求めるのならば、それに全力で応えるのが折紙である。彼が望むなら犬耳尻尾スクール水着でデートだってしてみせよう。彼が望むのなら何にだってなってみせる。

 そう、それが妹であったとしても――

 

 

    *

 

 

 士道は実妹と義妹に回答を迫られてたじろいでいた。相変わらず日常ハードモードである。

 やはり、こういう時は専門家に頼るべきだ。

 

「殿町、どう思う?」

『爆発しろよ!』

 

 ツーツーと不通音。

 

「何故だ」

 

 士道は諦めて携帯電話を仕舞った。どうしたものだろうか。実妹とか義妹とかよりも考えるべき問題があるような気もするが、回答を求める二人の表情は至極真剣だった。

 追い詰められる士道に救済のチャンスが訪れた。ピリピリした空気を引き裂くようにドアが勢い良く開かれる。誰だかは分からないが、これで返答を有耶無耶にできる。

 

「挨拶。初めまして兄上の妹の夕弦です」

「お兄の妹の十香だ。よろしく頼むぞ」

「兄さんの義妹(・・)、折紙」

「くくっ、兄者の妹である耶倶矢だ!」

 

 振り返った士道は彼女たちの呼び掛けに固まった。こいつらは一体何を言っているのだろうか。まったくもって訳が分からない。誰か状況を説明してほしい。

 妹が四人追加で現れて、真那の方も驚愕を通り越して戸惑っていた。鳶一一曹まで義妹とか名乗り出してこれはどういうことなのだろう。

 真那は混沌の中で思考が空転させてズレた回答を導き出した。

 

「はっ!? 幼い頃に真那と生き別れたショックで……兄様は、常に妹の痕跡を追い求めるように! 周囲に居る女性をすべて妹としてしか認識できなくなりやがったんですね!? その心の傷を癒やすため、不肖、この実妹である真那が兄様のために一肌脱ぎ――」

「脱がんでいい!」

 

 琴里が真那の暴走を止める。

 

「こ、琴里さんも実は兄様のために妹を強要されて!?」

「私はちゃんと士道の妹よ!」

「それじゃあこの方たちは?」

「ん? 確か亜衣たちが私たちのことを士道……お兄のハァレムだと言っていたな」

 

 十香が最悪のタイミングで発言する。

 

「ハーレム!? に、兄様……四股ですか!? 日本はいつから一夫多妻になりやがりましたか!?」

「落ち着け、色々と誤解がある」

「例え一夫多妻でも士道は義妹である私としか結婚できない」

「折紙、ちょっと黙っていてくれ」

 

 ちゃっかり折紙は義妹を強調していたが、どうやらそんな策略があったらしい。八舞姉妹は騙されないにしても、十香辺りは丸め込まれてしまいそうだ。

 

「それなら私だって士道と結婚できるわよ!」

「えっ……?」

「あっ……い、今のは言葉の綾よ! け、結婚したいって意味じゃないわ。私も結婚をすることができると事実を言っただけよ」

「そ、そうか……」

 

 とりあえず琴里の発言は聞かなかったことにしよう。

 士道は相変わらずヘタレ選択肢で問題を先送りにした。

 

「訂正。例え実妹だとしても事実婚は可能です。兄さんは夕弦のものです」

「ふっ、血の楔如きで我ら八舞が屈するとでも? 片腹痛いとはまさにこのことよ。兄者よ、さあ我と永久の契りを交わそうぞ」

「夕弦と耶倶矢も実妹設定で張り合うな」

 

 折紙に対抗して乗ってきた八舞姉妹の口を押さえ込む。

 冷静さを取り戻した琴里は、先程の失言を誤魔化すように話を折紙たちが盗み聞きするよりも前の『本題』に戻した。

 

「というかそもそもね、あなたが士道の実妹だっていう証拠がどこにあるのよ?」

「兄妹の絆ですよ! 見た瞬間にビビッときたのです!」

「一目惚れじゃないんだから、そんなんで分かる筈がないでしょ」

「はっ、これは一目惚れでしたか。斯くなる上は恥を忍んで、真那も兄様のハーレムに――」

「あなたまで空気に流されてるんじゃないわよ!?」

 

 騒がしい空気は落ち着くこともなく、それからも続いた。当事者の筈なのに蚊帳の外に追い出されていた士道は下手に突っ込んでも地雷を踏むだけなので、キッチンで夕食の準備を始めた。

 

「落ち着くな」

 

 相当に追い詰められていたようで、油が跳ねる音がまるで小川のせせらぎにように聞こえた。

 

 

    *

 

 

 天宮駐屯地のブリーフィングルーム。

 真那は五河家での騒がしい一時を思い出してくすりと笑った。兄のハーレム疑惑は最後まで解消されなかったのが心残りではあるが、あの時間は幸福に満ちていた。

 

 最悪の精霊(ナイトメア)を追って世界中を駆け回る日々は殺伐としている。同年代の者と気兼ねなく会話するのは、仕事柄ほとんどないことだ。

 今回ばかりは、天宮市付近で活動している<ナイトメア>に感謝を――いや、この偶然に感謝をしておこう。あの女にくれてやるのは鉛弾か刃で充分だ。

 

「崇宮三尉、聞いてるかしら?」

「ああ、これは失礼しました隊長殿」

 

 燎子から注意を受けて、真那は意識を切り替える。

 天井から下りたスクリーンに天宮市でここ最近に出現した精霊がスライドで表示されていく。

 

「<プリンセス>、<ベルセルク>……最近は余り見ないけど、<ハーミット>」

 

 真那はスライドが切り替わるごとに目を見開く。隣に座る折紙は真那に横目で鋭い視線を送った。二人の様子に美紀恵はどんな意味が含まれているのか分からず呆けた顔を浮かべる。

 

「そして、<アポルトロシス>」

「えっ……?」

 

 真那は思わず音を立てて席から立ち上がっていた。兄妹の絆がビビッと反応を示している。<アポルトロシス>の姿は自分が髪を伸ばしたのとよく似ていた。

 

「何か気になることでも……ああ、そういうこと。精霊に似ているなんて縁起でもないわね」

 

 燎子自身もその事実に気付いて勝手に納得する。内心では様々な思考を巡らせてはいたが、それがいかに危険な可能性を秘めているのか理解しているため表には出さなかった。

 

 真那が反応したのは自分に似ているからではない。どう見ても兄が女装した姿にしか見えないことに驚愕していた。

 折紙は僅かに腰を浮かせる。もしも士道のことを話すようであれば、例え士道の実妹といえども躊躇わない。彼とその周囲の日常を守り抜くと誓ったのだ。

 証明の落ちた薄暗いブリーフィングルームで、一触即発の空気が充満する。

 

「崇宮三尉、まだ何かあるの?」

「…………いえ、なんでもねーです」

 

 真那が座ったのを確認して、折紙も臨戦態勢を解いた。

 ASTの面々は息苦しさが消えたことに気付く。

 何かが起きていた。

 それを理解しながら誰も触れようとはしない。踏み込めばそこに地獄が待っていることを分かっているからだった。

 

 <アポルトロシス>と折紙の間には何かがある。

 そして、恐らくは崇宮真那と<アポルトロシス>の間にも何かがある。

 

 ――精霊は人間である。

 

 かつて<アポルトロシス>はそう言っていた。ただの戯言なのか、翻弄するための虚言なのか、本当にこの世界の真実なのか――それは分からない。だが、その言葉に答えが潜んでいるような気がした。

 

「折紙さん……」

 

 美紀恵は入隊も間もなく何も事情を知らないが、本能的に恐ろしい未来を幻視して、折紙の袖をぎゅっと掴んでいた。そうしなければ折紙がどこか遠くに行ってしまうような気がした。

 歯車が噛み合わずに異音を奏で始める。

 目には見えない不和がAST内に広がっていた。

 

 

    *

 

 

 アシュリーは日が暮れた頃になってようやくアジトに辿り着いた。アジトと言ってもそんな上等なものではない。ただのボロアパートだ。

 

「セシル、ちゃんと挽き肉取ってきてやったぜ!」

 

 買い物から帰宅したアシュリーを出迎えたのは、目的を同じくイギリスからやってきた仲間たちだった。

 

「あっ……お、おかえり、アシュリー……」

 

 レオノーラ・シアーズは仲間内の会話も覚束無い気弱な性格だが、態度とは裏腹に視線だけで人が殺せそうなほど目付きが悪く、不安気に丸まった腰は真っ直ぐに伸ばせばかなりの長身だと分かる。

 

「おかえりなさい……それは良かったわ。でも、随分と遅い帰宅ね?」

 

 セシル・オブライエンは瞼を閉じたまま穏やかに微笑む。怒気がビシビシと伝わってきて、アシュリーは思わず頬を引きつらせた。

 

「ちょっと見回りを……」

「あら、感心ね」

 

 ふふふと笑っているが、やっぱりかなり怒っている。

 アシュリーはどうにかご機嫌取りのため、セシルの車椅子を押してやる。彼女は過去に空間震によって視力と足に障害を負っていた。

 

「それじゃあすぐに夕食にしましょうか」

 

 レオノーラが台所に立って調理を始めた。

 その間、セシルとアシュリーはダイニングのテーブルに着いて今後の作戦について話し合っていた。

 

「息苦しい潜伏生活もそろそろ終わりよ」

 

 <アポルトロシス>の出現によって情報規制が厳重になっていた天宮駐屯地から、ようやく機密情報を手に入れることができた。例えどれだけ強固なセキュリティを築いたとしても、そこに人間が関わる限りは完璧なシステムには成り得ない。

 拷問でも誘惑でもなんでもいい――知っている者から訊き出してしまえばい。人間の口は死なない限り完全に閉ざすのは不可能だ。足が付きやすいので控えていたが、状況は逼迫しており手段を選ばせてはくれなかった。

 

「つーことは、搬入日は近いんだな?」

 

 アシュリーは逸る思いを抑え切れず声が上擦っていた。

 

「ええ、その通りよ」

 

 セシルもまた日本に来てからずっと歯痒い状況が続いていたので、状況の進展に声を弾ませた。

 

「――新型顕現装置(リアライザ)<アシュクロフト>を手に入れる。そのために、搬入日に合わせて戦力を削るわよ」

 

 セシルは入手したAST隊員の写真をテーブルに並べた。

 

「こっちは三人しか居ないのに……本当に大丈夫かな?」

「あ? 大丈夫かどうかじゃねーだろ、やんなきゃならねーんだよ!」

 

 料理を運んできたレオノーラの呟きに、アシュリーは眉を吊り上げる。

 アシュリーは写真の中から見覚えのある姿を見付けて手に取った。

 

「相手が誰であっても関係ねーよ」

 

 優先目標と定められたのは、日下部燎子、鳶一折紙、崇宮真那、そしてスーパーで顔を合わせた<黒字家計簿(ティアクロー)>――岡峰美紀恵の四人だった。

 




 こんなに間が空くとは誰も思わなかったでしょう。
 私も思いませんでした。
 次回はもう少し早く投稿できると……いいなぁ。

 それにしても、第三部は全体的にほのぼのするつもりだったのですが、書いてみると日常シーンがどう見ても絶望へのカウントダウンにしか見えなくて涙目。

Q.四糸乃の攻略は順調じゃない?
A.っ【十香編の展開】


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番外編 五河シークレット

 諸君、万由里ジャッジメントのペア前売り券を買ったかね?
 諸君、凛緒リンカーネイションの予約は完了したかね?
 諸君、その手にはデート・ア・ライブの12巻が握られているかね?

 ――よろしい、ならば戦争(デート)だ!



 その夜の出来事は、<フラクシナス>に保管された監視映像からも副司令の魔の手から逃れて削除されていた。あらゆる記録にも記されず、当事者以外の誰の記憶にも残っていない。

 これは世界に存在しなかった筈のトップシークレット。

 

 

    *

 

 

 五河琴里は両手に握ったリボンを見下ろした。

 右手には黒リボン、左手には白リボン。これから就寝だというのに彼女は髪留めの選択に悩んでいた。

 

『折角の機会なのだから、休暇だと思えばいいんじゃないかな』

「……簡単に言ってくれるわね」

 

 令音からの通信に、琴里は溜め息をついた。

 琴里が悩む理由は一時間前の勝負が原因だった。士道との添い寝権を賭けて百物語勝負をすることになったのだが、琴里は<ラタトスク>の立場としてあくまで士道のサポートに回っていた。八舞姉妹や鳶一折紙が嬉々として語る怪談への恐怖を笑顔で取り繕い耐えていたら、見事な顔芸により優勝してしまったのだ。

 

 つまり、これから兄である士道との添い寝が待っている。

 精霊の精神状態を考えれば、自分が選ばれるべきではない。それはよく分かっていた。中二病極まるアレな兄でも、流石にそれは分かっている筈なのだが、まさかの指名に実のところ琴里は内心、喜びを隠せなかった。

 

 ――あらゆるリスクを考えて、それでも士道は自分を選んでくれたのだ。

 

 琴里は左手の白リボンをギュッと握り締めた。

 

「…………」

 

 司令官という組織の立場。義妹という家族の立場。

 世間の柵が琴里を非難する。

 それでも、たった一人の少女として、好きな人に選ばれたということが――堪らなく嬉しいのだ。そこにどんな理由があろうとも、選んでくれた事実に嘘はないのだから。

 

「行ってくるわ。少しの間、<フラクシナス>をよろしくね」

『了解したよ。楽しんできたまえ』

 

 琴里は通信端末を机に置いて自室を後にする。

 その手には白リボンが握られていた。

 

 

 

 

「よし、寝たわね」

 

 琴里は士道が寝入ったのを確認すると、黒リボンを解いて白リボンでツインテールを結い直した。素直になれない自分のために、普段とは逆に妹モードの暗示を借りると思うと少し複雑な気分だった。

 

「……おにーちゃん」

 

 こちらに背を向ける士道にたどたどしく手を伸ばす。布団の中で士道のシャツを摘んで、くいくいと力無く引っ張る。反応はない。ちゃんと眠っているようだ。

 この部屋には、もちろん琴里と士道しか居ない。士道は常に監視をされてはいるが、令音に頼んでこの時間の記録映像は削除する手筈になっている。八舞姉妹や折紙には士道の『過去の栄光(笑)』をまとめた資料を渡して一晩は大人しくなるように手懐けてある。だから眠りについた士道に何をしても、それを知れるのは琴里本人のみである。

 自分がやったとはいえ完璧に整えられた状況だ。

 

「んー……?」

 

 妹モードに切り替わり可愛らしくコテンと首を傾げる。

 兄妹仲を知る八舞姉妹、妙に五河家に詳しい折紙、子どものせいか世話をしたがる<フラクシナス>のクルーたち――琴里を知る者にとっては、これまでの行動は遠回しとはいえ士道に対する甘えたい願望が駄々漏れではないだろうか?

 

「――ッ!!」

 

 琴里は自分の行動の意味に遅れて気付いて一気に赤面する。

 まるで外堀を埋めていく計算高い女というか、静かに邪魔になる相手を排除する嫉妬深い女というか――やり方はどうあれ完全に恋する乙女ではないか。

 

 暴走する感情を抑えるために、額を士道の背に押し付けた。

 士道の匂いだ、なんて一瞬でも考えたせいで余計に緊張が増した。心臓は早鐘を打ち、全身から汗が吹き出す。

 

「ち、小さい頃は一緒に寝るなんて普通だったんだから、こ、こここれぐらいっ」

 

 妹モードの暗示のおかけで、あれこれと考え過ぎる頭が別の方向に思考を動かし始めた。

 甘えたい。あらゆる柵を捨てて、ただ甘えたい。

 それが妹としてあったのならば、きっと今の胸の痛みはなかった。

 

 だから誤魔化せばいい。士道への想いはそのままに妹らしく甘える。素直に甘えさせることができないならば、甘えていい状態を作り上げる。甘えていい立場になる。

 奇しくも、士道と似た方法で、琴里は自分の想いに折り合いをつけた。

 

「おにーちゃんっ」

 

 琴里は起き上がり士道の横顔を見詰める。自分が顔を赤くして呼吸も覚束無いというのに、士道は涼しい顔で規則正しい呼吸を繰り返している。独り相撲している自分に実は気付いていて嘲笑っているようだ。

 琴里は士道の頬を指先で突いた。

 

「あはは、おにーちゃんの癖に生意気だー……なんて」

 

 本当に嘲笑っているのは自分自身だ。

 妹モードと司令官モードを行ったり来たり、本当の自分はどこに居るのか自分でも分からなくなってしまった。

 でも、それでもやっぱり、この胸にある想いだけは本物だ。

 琴里は士道の唇を見る。これから精霊が現れる度に重ねられていくことであろう。

 

「大切な初めては私なんだぞ」

 

 頬にそっと触れるだけのキスをする。

 

「……愛してるぞおにーちゃん」

 

 いつか日常の中で口にした言葉をできるだけ感情を込めずに呟いた。

 起きても困るが、何も反応しない士道に苦笑する。

 琴里は士道の背中に抱き着いた。その際にわざと胸を押し付ける。どれだけ慎ましくてもこれぐらい密着させれば理解させられるだろう。自分はどこまでいっても妹かもしれない。それでも成長をしない訳ではない。

 

 もしかしたら、士道の中での琴里は妹ではない何かなれると信じて――精一杯の主張をする。

 まるで琴里の主張に気付いたように、士道は寝返りを打った。

 固唾を呑んで待つが、聞こえてくるのは寝息ばかり。

 何かあるごとにビクビクして、寝たままの相手に弄ばれてるようで物凄く悔しい。その悔しさを拳に込めて、無駄に鍛え抜かれた胸板を小突いた。

 

「あはは……んっしょ」

 

 琴里は士道の腕の中にすっぽりと収まるように丸くなる。先程とは逆に、士道が琴里を背中から抱き締めるような体勢になった。

 士道の鼓動が力強く背中に響く。

 それが子守唄代わりだった。

 

 一時間後、緊張が解れてやってきた眠気の中で、琴里は記憶のゆりかごに揺られる。まだ精霊の存在を知らない幼い頃――士道の背負う宿命も、自分が背負うことになる運命も知らないあの時代。

 

 無知は罪ではない。無恥こそが罪である。

 世界の真実を知った琴里は、もう厚顔無恥に知らない振りはできない。

 しかし、幼い子どもに大人を求めるこどほど無恥な行為はない。

 

 現実と夢の境界線で、無知の子どもに戻った琴里は、ようやく自分に甘えることを許す――いや、そもそも甘えることに許可なんて必要ない当たり前の状態に帰った。

 

「おにーちゃん」

 

 今までとは違う、温かさと安らぎのある呼び掛けだった。

 最後の最後で、ようやく琴里は士道に甘えることができたのだ。

 琴里を抱き締める腕に僅かに力が入る。

 誰よりも幸福に包まれた寝顔が、士道の腕の中にはあった。

 

 

    *

 

 

 無機質に記される記録でも流れるように蓄積される記憶でもない過去――それを人々は『思い出』と呼んだ。

 そう、この夜の出来事は二人の思い出(・・・・・・)としてのみ残っている。

 

 




 砂糖まみれの話を書こうとしていたのに、ミルクしか入らなかったよ。
 士道くん視点がないと、五河兄妹の関係って基本的にシリアスなるよなーと改めて思いました。

 ちなみに時系列は『騒乱マイホーム』の夜の話です。
 いつかのどこかの未来で、きょうぞうさんの魔の手(ユッド)によって掘り返されたりしたら面白いなとか考えたり。


 半年以上、多忙とスランプのダブルパンチで更新できませんでした。
 この番外編を投稿して、またこの作品は長らく放置されますのでご了承ください。



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