鉄獣戦線がまだなかった頃の話【完結】 (유리가)
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Episodeシュライグ

 

 

 

 ──母とはぐれた日のことを、よく覚えている

 

 羽なしと蔑まれ、友達も作れず一人寂しそうに空を見上げる我が子を不憫に思ったのだろう。母はその日、シュライグを集落の外へと連れ出した。

 赴いた先は、多種多様の部族が共生する山の麓にある街。共生──といっても、互いに手を取り合って生きているとか、そういうのではない。住み心地の良い場所を求めて、各々の部族が勝手に集まって勝手に住み出した。種族も違えば、何が正義で何が悪かの概念も違うし、信念だって違う。共生と一触即発が隣合った、綱渡りみたいな治安の街だ。

 ここなら同じ種族はいない。羽なしと蔑まれることもないし、そもそも羽を持たない種族ばかりだ。きっと母は、我が子を少しでも差別という環境から遠ざけてあげたかったのだと思う。

 

「シュライグ、もうお金は数えられるね」

「うん」

 

 母は硬貨の詰まった銭袋を手渡した。手にずっしりと収まるそれは、中身を見なくても重さで分かる。とてつもない大金だ。

 

「お母さん、お店を見てくるわ。ここで待っててくれる?」

「……いつ帰ってくる?」

 

 知らぬ土地に置いていかれる不安──シュライグは母の服を引っ張り、置いていかないでと縋る。母はその手をやんわりと解き、「すぐに帰ってくるから」と、微笑み雑踏に溶け込んだ。

 あの時、何故母に行かないでと言わなかったのだろうか──

 

 

 

 母とはぐれて、三ヶ月──

 

 

 ──腐った林檎を齧り、芯ごと噛み砕いた。

 

 母の手料理が食べたいと、何度切望し残飯を無心で飲み込んだことか。

 冷たい地べたで夜を明かす度、温かい布団が恋しくなる。盗みに失敗して殴られる度、虐められた帰りに母に慰められた思い出が蘇る。

 母とはぐれて幾許かの孤独な夜を過ごし──街の喧騒から追いやられるようにシュライグが行き着いたのは、場末の貧困街だった。

 昼間から歯の無い売春婦が歩き、それを紹介するのは制服を着た自警団だ。その隣でリンチに遭う老人を見捨て、日銭を奪われた子供が大声を上げて泣く。そんな腐った街の一角で、シュライグもまた生きると腐るを履き違えるように過ごした。

 泣くことは止めた──誰も助けてくれないからだ。

 泣くことを止めて学んだのは、食べ物の調達の仕方。金品の盗み方。

 

(アイツ……)

 

 路上に座り込み、林檎片手に道行く人を観察する。

 歩き方を見て、隙を伺う。見るべきは金品を持っているか否か。隙があるかどうか。太った財布は報復されるから狙わない。浮浪者と分かる身なりの奴も無駄だ。金を持ってて油断してるプチブルに狙いを定める。

 そして目を付けたのは──狼の少年だ。デカい図体で悠々と闊歩するその姿は、まさしく隙だらけ。子どもは金品を殆ど持ち歩かないが、大人を狙うより遥かに安全であった。

 通り過ぎるのを待つ。そして雑踏に紛れ、その背を追った。ポケットの膨らみに手を伸ばし、走る。脚力には自信があった。狼に追われたって、逃げ切れる自信がある。

 細い路地に飛び込んで──足を止めた。

 

「ほら、そこのキミ。見てたよ」

 

 反対側から歩いてきたのは、桃色の猫。彼女はシュライグよりも少し年が上にも見えたが、子どもであることに違いはない。そんな彼女と手を繋ぐのは、ようやく歩き出したばかりであろう赤子で、指をしゃぶっている。

 一歩一歩と歩みを進める彼女。それに合わせ、一歩一歩と下がるシュライグ。しかし、それもすぐに終わりを迎えた。背中越しに誰かとぶつかったと気付いたからだ。

 

「ルガル、アンタそんな隙見せてどうすんのよ。舐められてるじゃない」

「うー」

 

 おそらく姉妹であろう二人は、シュライグに──正しくは、その背後に立つ人物に向けて不満げな表情を浮かべる。

 

「いいんだよ、別に。狙われてんのは分かってたし」

 

 「それに、俺は鼻が利くしな」と、背後に立つ男が言う。

 シュライグはチラリと背後に立つ男を見て──目を見開いた。何故なら、先程財布を盗んだあの少年が立っていたからだ。

 

「ほら捕まえた。これでいいだろ?」

 

 少年はシュライグの片手を取りそのまま持ち上げた。一瞬何をされたのか分からなかったが、地面から離れた足に、捕まったのだと気付く。

 この少年と少女は仲間だ。種族は違うようだが──そこまで考え、今度は己の行く末を思い浮かべる。半殺しならまだ温情。奴隷商人に売られるか、それとも殺して食われるか。

 

「あーっ!!」

 

 上空を指差し、大きな声を出した。「その手には乗らねぇぞ」と、少年は喉を鳴らして笑う。それこそが、シュライグが狙った隙だとも知らずに。

 

「おうふっ!?」

 

 百八十度、大きく足を振り上げる。そして勢いのまま振り下ろし、踵をめり込ませた先は──男の矜恃そのものだ。

 堪らず少年はシュライグを離し、その場に蹲って股間を押さえた。暴漢に襲われた際に狙うは、鍛えることのできない部位。これが試合なら反則だが、この街で少年がやってきたのは喧嘩だ。ストリートファイトにルールもクソもない。

 

「ルガル、何やって──ぎにゃっ!?」

 

 猫の女には、砂利を投げ付けた。突然の目潰しに蹌踉めいたのを確認し、距離を詰め胸倉を掴む。そのまま腹に数度膝蹴りを叩き込めば、吐瀉物をぶちまけ頽れる。

 

「テメェ……!」

 

 少年が立ち上がろうとしたから、もう一度蹴り上げた。今度こそ少年は地を這いつくばって動かなくなる。身体はデカくとも、腕っ節ではシュライグに劣るようだった。

 

「捕まえれるもんなら捕まえてみろ!」

 

 置き土産にあっかんべーと舌を出して挑発し、立ち去る。後で見た財布の中に大して金は入ってなかったが、不思議と気分は今の天気のように晴れやかだった。

 次に会ったのは、一週間後のことだった。残飯を漁っていたところ、あの狼男にばっちり見られたのである。

 

「言っただろ? 俺は鼻が利くんだ」

 

 得意げに己の鼻を指差す彼に「あっそ」と、答えて魚の骨を吐き出した。

 

「ここは俺の縄張りだ。お前には分けてやらない」

 

 屑箱の縁に手を置いて中を覗き込む。腐敗が進んでるものばかりだが、それでも僅かな食料を求めて手を突っ込んでは口に入れる。食べられるか食べられないかは、口に入れてから判断していた。

 財布の報復に来たのだろうが、どうせ手は出してこないとシュライグは分かって残飯漁りを続けた。誰だって、野菜屑を被り異臭を放つ奴に近付くのはゴメンだろ? つまり、そういうことだ。

 鼻が利くなら、さっさと何処かへ行ってしまえ。そう思いながら、排水溝から出てきた溝鼠を狩る。久々の新鮮な獲物に貪りつこうとしたその時、それを横から奪われる。

 

「何すんだよ!」

 

 「返せよ、俺のだぞ!」眉尻を吊り上げて怒ったが、彼は歯牙にもかけず。溝鼠の匂いを嗅ぎ、顔を顰めた後シュライグに見せつけるように食らった。

 

「不味い不味い。宿舎で出される飯も不味かったが、これは食えたもんじゃねぇ」

 

 ぺっ、と尻尾の部分だけ吐き出し、口元を拭う。「口直しが必要だな」と、懐から小瓶を取り出す。シュライグの目が捉えたのは、カラフルな小石──否、ドロップだ。甘い匂いがする。

 ごくりと、喉が鳴った。母がご褒美にくれた味を思い出し、目の奥がツンとする。忘れていた母の味に、もう一度触れたくなった。

 

「お前も食うか?」

 

 シュライグの眼差しがドロップに釘付けであることを分かってか、こっちに来いと手招きする。

 近付いた瞬間に殴られるかもしれない──だとしても、母との思い出が背中を押す。

 

「喉詰まらせんなよ」

 

 口を開けば、まるで雛鳥に餌をやるようにドロップを入れられる。舌の上で転がる甘味は、懐かしくも切ない思い出のそれだ。泣き出しそうになるのを堪え、呟いていた。

 

「母さん……いつ、迎えに来るかな」

 

 独り言のつもりだった。懐かしい味に気が緩んで、つい弱音が口を衝いたのだ。

 その呟きを拾った少年は──禁句とも知らず地雷を踏んだ。

 

「お前、捨てられたのか?」

「…………えっ?」

 

 きょとんと目を丸くさせる。その瞳が潤んだのを見て、少年はしまったと言わんばかりの顔だ。

 

「悪い、今のは──って、おい!!」

 

 小瓶をひったくって逃げた。少年が追ってくる気配はない。

 

「嘘だ、嘘だ、嘘だ!!」

 

 呪詛のように同じ言葉を吐き連ね、雑踏の中を走る。道行く人は、ゴミだらけで異臭を放つ少年を煩わしそうに避けるため誰ともぶつからない。

 捨てられた? ──すぐに帰ってくる。母さんは確かにそう言った。捨てられたはずない。

 否定しながら、でも信じたいという思いを踏み躙るように嘲笑が蘇る。

 

 ──羽なしが!

 

 シュライグを追い詰めてやまない、呪いだった。

 

 

 母とはぐれて、四ヶ月──

 

 

「返してくんない?」

 

 猫の少女と再開したのは、三週間後のことだった。今日は妹を連れていない。彼女はシュライグを見るやいなや路地裏に連れ込み、手のひらを差し出すだけ。

 

「言わなきゃ分かんない? ドロップよ、ド・ロッ・プ!!」

 

 ふん、と鼻を鳴らしてそっぽ向く。彼女はそれだけで腹を立てたらしく、眉尻を上げ声を張り上げた。

 

「あれはキットのおやつなの! ルガルが勝手に持ち出した所為で……もう、だからアタシは反対だったの」

 

 ぷりぷりと怒る猫の少女を前に、シュライグは心ここに在らずといった様子で「ふーん」と、下を向いて答えた。

 

「……気味悪いわね。あの生意気さはどこいったの? それとも、なんか企んでる?」

 

 言い返してこないシュライグを怪訝そうに覗き込む。目を合わせようとする彼女と、その度目を逸らすシュライグ。物言わぬ沈黙の攻防が繰り広げられた。

 

「なんか……アタシが悪いことしたみたいじゃない」

 

 大きなため息を吐いて、彼女は顔を離した。

 

「もういい、ドロップはあげるわ。一応確認なんだけど、アンタ一人なんでしょ? ドロップ盗んだんだし、アタシ達の言うことを聞いて──」

「いらない」

 

 食い気味に返され、少女は息を呑む。

 

「あれ、不味い。捨てた。もう来んな」

「ちょっと、何よそれ! 一方的に……盗んだことへの謝罪ってやつはないわけ! ほんっと、これだから鳥型の獣人は恩知らず!」

「そっちこそ! 猫はばっちいからこっち来んな!」

「はぁっ!?」

 

 喧嘩を売られカッとなったのだろう。胸倉を掴まれ、そのまま殴られた。起き上がろうともしないシュライグを見て「しまった……」と、彼女は呟くが謝ろうともしなければ手を差し伸べることもしない。

 

「これは……こないだアンタに蹴られた分よ。自業自得なんだから」

 

 殴ってしまったことの免罪符に都合よく自業自得とくっ付ける。己の拳とシュライグとを見比べ怯えたような顔をする。そんな彼女には目もくれず、シュライグは青い空を茫洋と見上げるばかりだ。

 

「……アタシ達、あと一週間でこの街を出るから。反省して謝りに来るんだったら、広場のモーテルを訪ねて。この街で、一番ボロい安宿よ」

 

 それだけ告げて、彼女は立ち去った。一応殴ってしまったことへの罪悪感があるのだろう。一切れのパンと僅かな干し肉を置いて。

 

 

 母とはぐれて──

 

 

「生きてるか?」

 

 頬を叩かれて目を開ける。狼の少年がいた。彼はシュライグを見下ろし「手酷くやられてんな」と、自分の手が汚れるのも構わず鼻血を指で拭う。

 

「今日は誰に喧嘩を売ったんだよ?」

 

 呆れ顔で訊いてくる彼に、弱々しく伝える。

 

「俺……今日は何も盗んでない」

「……何の事だ?」

 

 と、狼の少年は首を傾げるが、シュライグはもう語ることなど何もないと口を閉ざす。

 

「そいつ、今日おまわりに追い掛けられてたわ」

 

 狼の少年だけでなく、今日は猫の少女もいるらしい。彼女は寝息を立てる妹を抱え直し、さらに言葉を続ける。

 

「そいつの言葉を信じるなら、無実の罪で半殺しにされたってことよ」

「そりゃ……災難だったな」

 

 後頭部を掻きながら「参ったな」と少年は呟き、水筒を開ける。その水を一口飲み、残りはシュライグの口元にやる。

 

「飲め。毒は無い」

 

 それを証明するための、先の一口だ。

 喉は乾いていたが、ガチガチと歯が震えて開かない。乾燥地帯の夜は冷えるとはいえ、異常な震えであった。それでもどうにか喉に流れたのを飲み──吐いた。消化しきらなかった残飯が胃液と共にぶちまけられる。

 

「あー……流行り病か? だとしたらやべーな」

 

 胃液の掛かった水筒を投げ捨て、少年は顎に手をやり悩む仕草を見せる。

 

「はぁっ!? そいつ、病気持ちなの! やだ、キットに変なの移される前に行きましょ」

 

 猫の少女は狼の少年の手を引くが、少年は難しい顔をしてシュライグを見下ろすばかりだ。

 

「……お金」

 

 意識朦朧と弱々しく呟かれた言葉に、二人は首を傾げる。

 

「母さんから預かったお金……取られてない?」

 

 懐に手を伸ばそうとするが、傷が痛むのだろう。顔を顰めるシュライグに代わり、少年がシュライグの服をまさぐった。

 

「……これか?」

 

 見慣れた銭入れに安堵する。この街では金品など奪われるために存在するようなものだ。幼いシュライグがここまで財産を守れたのは、奇跡に近いだろう。

 

「よかった……」

 

 

 母と──

 

 

 焚き火の爆ぜる音に目を覚ます。煌々と燃える炎を茫洋と見つめ、手を伸ばす。温かい──寒いから、触れたい。

 

「何やってんの、アンタ」

 

 「触んな」木の棒で手を弾かれる。弾いたのは、猫の少女だ。彼女は行儀悪く立膝を着いてシュライグを見下ろす。

 

「なんだ、起きたのか」

 

 「鳥は早起きだと聞いたが、そうでもないんだな」揶揄うように狼少年が喉を鳴らして笑う。

 少年はひょいっとシュライグを持ち上げると、胡座をかきその上に座らせた。彼は罅の入った椀にスープをよそい、それをシュライグの口元にやった。

 

「食うか?」

 

 湯気の登る熱々のスープ。しかし、シュライグは空腹でありながらそれを欲しいとは思えなかった。もっと、美味しいものが食べたい──悲鳴を上げる胃を押さえながら「ドロップ」と、呟いた。

 

「ほら」

 

 小瓶を開け、一つ口に入れてやる。隣のフェリジットが何か言いたげに睨むが、それもお構い無しに懐かしい味に浸る。

 

「医者に連れて行ったが、流行り病じゃなくて変なもの食って腹を壊しただけだったらしい」

 

 「ろくなものを食ってなかったもんな」と、ドロップをせがむシュライグに二つ目三つ目を入れる。一つドロップが小瓶から消える度、少女の視線が痛いがお構い無しに舐め続けた。

 

「……それと、悪いと思ったがお前の金は使わせてもらった」

 

 「医者に診せるに必要だったんだ」と、すっからかんになった銭入れを見せる。

 硬貨一枚さえ残らず薄っぺらくなった袋に、無表情だったシュライグが、目を潤ませて鼻を啜る。「あっ……」と、思った時にはもう遅い。

 

「わ、悪かった! 今度返すから……なっ?」

 

 と、慰めようとするが、シュライグが泣き止む様子は無い。それに苛立ったのか、猫の少女が声を荒らげた。

 

「その程度のことでめそめそすんな、鬱陶しい!」

「でも……母さんのお金」

「お金お金って……あの中には──」

「フェリジット」

 

 戒めるように一言少年が名前を呼べば、彼女は舌打ちをし渋々と閉口する。

 

「こっそり使ったってことで、後で返しときゃバレない」

「ほんとか?」

「ホントだよ」

 

 「じゃあ、そうしよ」途端泣き止んでスープの椀を受け取り、グイッと飲み干した。その横、冷ましながらちびちびと少女が妹にスープを飲ませる。

 

「お前、名前は? 俺はルガル。猫がフェリジットで、小さいのがキットだ」

「……シュライグ」

 

 餌付けされて警戒心も解けたのか、シュライグは名乗った。「シュライグか」ルガルという少年に呼ばれ、擽ったいような気持ちを抱く。母とはぐれてから、もう呼ばれることのない名前。久しぶりに呼ばれた名前、少し嬉しくなる。

 

「よし、シュライグ! お前、今日から俺達の仲間な」

「仲間……?」

 

 それは、虐げられる側だったシュライグからすると、馴染みの無い言葉であった。

 

「俺……羽なしだよ」

「へー、だからなんだよ。アイツは泥棒猫で、俺なんか同胞殺しだぜ。なっ?」

 

 同胞殺し──仲間を殺した。

 それを自慢げに言うルガルに、シュライグは「えっ?」と、聞き返していた。磊落と笑う彼はそうは見えない。種族も違う他人でしかないシュライグを助けた彼は、殺しなんかとは無縁そうなお人好しという言葉がしっくりくる。

 

「アンタと同列の括りにしないでよ。アタシはしこたま盗んだけど、殺しはやってない」

 

 フェリジットは舌打ちと共にそっぽを向く。そんな彼女を面白可笑しいとルガルは揶揄うばかりだ。

 

 狼──シュライグが母から教わったのは、獰猛で野蛮で見つかったら食い殺される。

 

 猫──シュライグが母から教わったのは、誰にでも愛想を振りまくから、病気だらけ。

 

 ルガルは同胞殺しだと自嘲するが、獰猛にも野蛮にも見えなかった。それにシュライグを取って食う気もない。

 フェリジットは素っ気ない。愛想の欠片も無ければ、身綺麗でシュライグの方がよっぽど汚くて病気を持ってそうだ。

 

「今日から俺達部族の嫌われ者は、協力して生きてくぞ!」

「協力ってどうやって?」

「そりゃ飢え死にしないように金稼いで、困った時は助け合って。ゴミ漁りよりかはマシだぜ」

 

 それもそうか。残飯よりももっと美味しくて栄養のあるスープをおかわりしながら思う。シュライグはすっかりルガルのことを信用していた。胃袋を掴まれて、警戒なんてもの忘れている。

 

「お金は盗むのか? それならできる」

「そんなことしたら後が怖いぜ。なあ、盗みの先輩」

「……アンタ下手なんだから、向いてないよ」

 

 泥棒猫にまでやめとけと言われ、「そうか……」と、俯く。なら、自分にできることはなんだろうか。何も無いと、目に見えて落ち込んだ彼の肩を、ルガルが叩いた。

 

「シュライグ、お前は俺と用心棒な。喧嘩の仕方教えてやるよ」

「でもお前、喧嘩弱い」

「あの時は油断しただけだ!」

 

 強烈な蹴りを思い出したらしく、股間を押さえて唸る。

 

「いいか! 俺は昔、兵士をやってた! 狼軍のだぜ! 軍人仕込みの本場の格闘技ってやつを今度教えてやる!」

「ふーん」

 

 少年兵──なら、歳の割に体格ができているのも納得だ。というつもりで返事したのだが、どうやら誤解を招く反応だったらしい。彼は「後で覚えてろよ」と、拳を鳴らす。

 

「組手ならアタシもやるよ! あの時の仕返しさせな!」

 

 フェリジットは毛を逆立てて威嚇するが、もうシュライグの興味は話題から逸れていた。「このスープ美味しい」と、おかわりを繰り返す。

 

「お前、結構マイペースだな……」

 

 

 仲間と出会って──年

 

 

 その日ナーベルは、幸せそうな顔でドロップを口の中で転がしていた。気紛れにルガルから貰ったのだが、如何せん甘味など食べ慣れていない所為で、すっかり虜になっている。

 

「ドロップか」

 

 突然後ろから小瓶を取られて「何するんだ!」と、肩を震わせて怒る。しかし、振り向いてそこに立っていた人物が鉄獣戦線のリーダーだと分かり、「やっべ……」と、後退りする。

 

「美味かった」

 

 断りも入れずに一粒取られ、さすがのリーダーとはいえナーベルも黙ってられない。ドロップ一粒をどれほど楽しみに生きてきたことか。一言申してやろうと距離を詰めたその時だった──

 

「なになに? あっ、ドロップじゃん」

 

 「アタシにも頂戴」と、通りすがりのフェリジットにもう一粒奪われ、ナーベルは言い返す気力も失った。

 

「ルガルから貰ったのか?」

「そっすよ」

 

 食べ物の恨みか素っ気なく返すナーベル。そんな彼に、シュライグは気でも損ねたか? と、無自覚に首を傾げる。

 

「懐かしい。俺もルガルからよく貰った」

「えっ? リーダーが?」

 

 意外だと言わんばかりに見つめるナーベルを、フェリジットが揶揄うように小突いた。

 

「初めて出来た弟分だからね。ルガルの奴も可愛がってたのよ」

「ええっ、そんな関係だったんだ」

 

 ナーベルが知っているシュライグは、既に体も出来上がっており、逞しく鉄獣戦線を率いる姿しか知らない。そんな過去があるとは思ってもみなかったと、目を見開く。

 

「何の話をしてるんだ?」

 

 ここで話題に上がっていたご本人が登場する。いい機会だと、ナーベルは踏み込んでみた。

 

「リーダーがどんな子どもだったかって話ですよ」

「ああ、とにかく生意気だった」

「ええっ!?」

 

 あの寡黙なリーダーが、嘘だ。と言わんばかりに胡乱げな眼差しをシュライグに向ける。当の本人はナーベルの疑念を孕んだ視線に、困ったように真顔で後頭部を掻く。

 

「一言目にはルガルって。二言目にはドロップって。ちょろちょろ鬱陶しかったの覚えてる」

「あの頃のフェリジットは冷たかった」

「それぐらいアンタもやんちゃしてたのよ」

 

 鉄獣戦線の兄貴分と姉貴分、そしてリーダー。今は寡黙で頼れるリーダーも子供らしい過去があり、優しい姉貴分は尖っていた。兄貴分のルガルは──多分、面倒見の良さは変わっていない。

 

「三人はどうやって出会ったんですか?」

 

 さらに踏み込んだ質問に、三人はどうだったけなと、暫し悩む。

 

「俺は軍にいたんだが、色々あって出て行った。そこで偶然フェリジットに会った」

「アタシとキットは戦災孤児だったんだ。盗みやってたのがルガルに見つかったのがきっかけね」

「親とはぐれたら拾われた」

「へー」

 

 おそらく鉄獣戦線の誰も聞いたことないような出会い話を、ナーベルは興味津々に聞く。ドロップ二個はこの話でチャラにしてやるかと、ぐいぐい掘り込む。

 

「あれ? でも、リーダーは羽なしっすよね? はぐれたというか、それって──」

 

 置き去りじゃ──と、続く言葉は幹部格二人の鋭い視線が刺さり飲み込んだ。ここから先は踏み込んではならない領域だと察する。

 

「ああ、母さんは迎えに来なかったんじゃなくて、来れなかったんだ。他部族の抗争に巻き込まれて亡くなったらしい。財布を子どもに預けたまま、さすがに遠くには行かないさ」

 

 やんわりと否定するシュライグの言葉に「そっかー」と、ナーベルも納得して頷いた。

 

「思い出したぞ。ルガル、あの時のお金はいつ返してくれるんだ」

「おっと、野暮用」

「待て!」

 

 不穏な空気にルガルは逃げ出し、シュライグはそれを追った。話はここまでかと、興味を失ったナーベルも自室へ向かう。

 

「お金……ね」

 

 一人残されたフェリジットは、過去のことを振り返りため息を一つ。

 シュライグはお金など最初から持っていなかった。彼がお金だと言い張り大事にしていた銭入れに詰められていたのは、小石だ。医者に連れて行く時、フェリジットは反対したがルガルは泣け無しの貯金を切り崩したのだ。

 部族の抗争に巻き込まれたのは本当だとしても、母親の迎えに来るという約束は嘘だったのが、銭入れの小石が語っている。家計が苦しくなったか、部族からの圧力か。売るのではなく捨てたのは、障害児は買い手がいないから。小石はせめてものお守り代わりだったのだろう。

 

「あー、やだやだ。平和がいーねー」

 

 シュライグは知らなくていい真実だ。未だ母親を疑いもしない彼の思いを今更踏み躙ったところで得は無い。

 鉄獣戦線は、訳ありの寄せ集めなのだから。誰しも言いたくない過去と知らなくていい過去がある。そんな組織だ──



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Episodeケラス 前編

 

 

 

 ──四人で行動するようになって、分かったことがある

 

 

 狼は野蛮で獰猛。目に付いた者を一口で喰らい尽くす──なんてことない。

 猫は誰にでも愛想を振りまいて病気だらけ──なんてことない。

 

 ルガルは、喧嘩は強いがやたらむやみに暴力を振るわない。あと、グルメだ。

 フェリジットは、口も悪いしにこりともせずつっけんどん。あと、綺麗好きで一日に三回は水浴びする。

 

 これを伝えたら、二人は顔を見合せてこう言うのだ。

 ──鳥は没義道。恩知らずの癖に臆病で嘘吐きだ。シュライグは口下手で命知らずだけど。

 

 鳥の獣人がそんな風に悪く言われてたなんて知らなかった。

 会話を思い出し、改めて自分のことを知るのは面白いと認識する。今シュライグは、枯れた大木を櫓代わりに見張りをしているが、こういう所にも習性が出てるんじゃないかとルガルは言う。彼の言う通り、飛べないくせに高いところは好きだった。反対にルガルは、木に登るのが下手だし高いところは苦手らしい。

 地上は遥か下だ。ルガルは換金のため行商人と交渉中。フェリジットは魚を捕るのを建前に水浴びに行った。必然的にキットの子守り兼留守番はシュライグの役目となる。それを分かった上で、こっそりドロップを舐める。フェリジットに頼んでもくれないから、彼女のいない隙を狙っていたのだ。

 

「あっ……」

 

 木に登ると、視野が広くなる。広大なサバンナ、大河を黒牛の群れが渡るのが見える。遠目でも分かる迫力だ。

 

「牛の獣人だ……」

 

 牛──母が言っていた。牛は力が強く、襲われたらひとたまりもないと。その癖、力加減なんて知らずに突っ込んでくるから、見つけたらすぐに逃げろと。

 

「ううん……そんなはずない」

 

 母の教えが間違っているとは思わない。けれど、ルガルもフェリジットも母が語ってくれたよりもずっと良い奴だ。同じ種族から排斥されたシュライグを、種族が違うにも関わらず受け入れてくれた。

 きっと牛の獣人も、悪い奴なはずがない──

 

「やっぱりアンタが犯人ね、シュライグ!」

 

 声を掛けられ、咄嗟にドロップの小瓶をポケットに隠した。

 見下ろせば、一本下の太い枝に彼女はいた。腕を組み、仁王立ちでシュライグを睨んでいる。ドロップを持ってるのは分かっているんだぞと言わんばかりに強気な態度だ。

 

「し、知らない!」

「アンタ嘘吐くの下手なんだから、そんなこと言っても無駄よ」

「うっ……」

 

 少し言い返されただけで、すぐこれだ。「アンタって、口下手よね」張り合いが無さ過ぎて、怒りを通り越して呆れたらしい。彼女は大きなため息を吐く。

 

「と、とにかくドロップなんか知らない!」

「……アタシ、ドロップなんて一言も言ってないけど」

 

 怒られるのは勘弁で、知らないと言い張る。けれど、シュライグがムキになればムキになるほど墓穴で、彼の発言は嘘という名の自白に等しい。

 

「あっ……!」

 

 脆い足場で動いたのが悪かったのだろう。足元で、嫌な音がした。刹那、体が宙に浮いた。空が、フェリジットが、遠い。そう、落ちているのだ。

 なら、飛べば済む話──けれど、それができたらシュライグは迫害なんてされてない。

 

「あの馬鹿!」

 

 ここは渓谷だ。見晴らしがいいからと、切り立った岩山の上をベースキャンプにしたのが間違いであった。

 フェリジットも木を降りるが、それよりも落ちる方が早い。谷底へ吸い込まれるように、シュライグは落ちて行った。

 

 

 ──話は変わるが、バッファローは群れを形成し、東西南北季節により住処を変える部族である。そしてこの季節は、冬に備え南下を決行する時期でもあった。

 

 

「急げ! ちんたらしてると流されるぞ!」

 

 できるだけ流れが穏やかな下流を選んだとはいえ、それでも足を滑らせて流されてしまう仲間も多い。そんな時は泳ぎに慣れた雄が回収をしに行くのだが、それでも助からない者も多く、まさに命懸けの川渡りだ。

 

「おい、子どもが流されてるぞ!」

 

 怒号のように流れる水音に紛れ、切羽詰まった声が男の耳についた。

 男の名はケラス。屈強な肉体を持つバッファローの中でも、とりわけ巨体で怪力の男だ。その並外れた巨体もあり同族からも恐れられているのだが、勇敢で弱者には優しい心の持ち主であった。

 ケラスは一人群れから外れ、中洲の木に引っ掛かっている子供の元へと向かう。

 

「……ん?」

 

 片手でひょいっと担ぎあげたそれは、同族にしては華奢だ。部族に子どもはいるが、皆川渡りに耐えられる程度には成長している。個体差と呼ぶには体格差が開き過ぎていた。

 

「これは、鳥か……」

 

 片翼のためすぐに気付けなかったが、少年は鳥の獣人であった。空が飛べるはずなのに、なぜ泳げもしないのに川にいたんだか。

 

「うわっ、鳥の獣人──捨て置け捨て置け」

 

 「何の病気を持ってるか分かったもんじゃない」と、仲間は汚いものでも見たと白い目を向け川を渡る。

 置き去りにするのは簡単だ。種族も違うし、助ける義理もない。しかし、ケラスは一つ引っ掛かりを覚えた。

 

(鳥は見なかったな……)

 

 サバンナを何万キロと歩いたが、鳥の部族はその間見ることがなかった。空を見上げても、雲一つない蒼穹に鳥の影は無い。はぐれたのであれば、親も気付いて迎えに来るはずだ。片翼など稀で目立つだろうに。

 

「おい、ケラス。まさかそいつを連れて行くわけじゃないだろうな」

「そのまさかだが?」

 

 徐に肩に担げば、仲間の一人が信じられないものでも見たと言わんばかりの眼差しを向ける。

 

「いくらお前がチビに優しいからとはいえ、さすがに限度がある。長に言いつけるぞ」

 

 彼は脅してくるが、それを制したのはもう一人別の仲間だ。

 

「待て。先導していた群れが蛇に襲われたと聞いた。蛇毒は俺達だけじゃどうにもならんが、こいつがいればもしかすると──」

「決まりだな」

 

 男の言わんとすることを汲んだケラスは、言い終わるのも待たず鳥の獣人を連れて川を渡る。

 

 

 この出会いこそが、鉄獣戦線を結成するに至る足掛かりとなるのは、また別の話──

 

 

「ぺっ、うわ……口の中ザラザラする」

 

 気絶から目覚めたシュライグが真っ先に感じたのは、口の中の砂の感触。唾とともに砂利を吐き、手の甲で乱暴に拭う。砂の感触は服の下からもした。髪に触れれば、フケのように砂がパラパラと落ちる。フェリジットに見つかれば、一発殴られそうなくらい、全身泥だらけであった。

 

「ここ、何処だ」

 

 木から落ちて川に流されたのは覚えてる。流れはとても速かった──というのは、泳げないことへの言い訳だ。

 

「なんだこれ」

 

 片足に引っ掛けられた縄は、建物の柱に繋げられていた。ルガルやフェリジットと出会う前に見たことがある。奴隷市場──踏み入ったことないが、商品がこんな風に縄で縛られて繋がれていたのを遠目に見た。近いうちに来るかもしれない自分の未来を見せられているような気がして、商品達から目を逸らし足早に立ち去ったのを覚えてる。

 

「大丈夫、ルガルが助けに来てくれる」

 

 未知の土地であろうと、怖さは無い。はぐれてもルガルなら見つけてくれるという信頼があったからだ。そして助けに来て開口一番にこう言うに違いない。「俺は鼻が利くからな」と。

 

「なんだ、起きてたのか」

 

 入口の布を捲りゲル*1 に入ってきたのは、昼間遠目に見た牛の獣人であった。遠くから見ても凄まじい迫力だと分かったが、間近で見ると何倍にも開いた体格差に圧倒され、言葉を失う。気丈に振舞おうとする気概も削がれ、部屋の隅に逃げて毛布を被った。

 

「まだ何もしてないぞ……」

 

 近付いてすらいないのに、まるで虎を前にした兎のように震える姿に、牛の獣人は反応に困っている様子。

 近付いて来るのが足音で分かる。巨体が一歩進む度に床が震えるのだ。そしてそいつは、たった数歩でシュライグとの距離を詰め、毛布を剥ぎ取ったのである。

 

「うわっ!?」

 

 引っ張られた勢いに驚き、毛布の端を踏んでそのまま後ろに転んだ。運悪く後ろにはゲルの支柱があって、頭をぶつけて蹲る。

 

「わ、悪かった!」

 

 ぎゅっと下唇を噛んで涙目になる。それを目の当たりに、牛の獣人は慌てて傷の具合を診る。

 

「盛大に打ったな。砂糖水を持ってくるから──」

「砂糖!?」

 

 腫れ上がったタンコブを見ての呟きだったが、砂糖と聞いてシュライグの目から涙が引く。期待するように目を輝かせる姿に、牛の獣人は訊かなくても察しが着いた。

 

「何これ美味しい!」

 

 パンの耳に砂糖を振って焼いただけの粗末な食事を気に入り、シュライグは次々と頬に詰め込んだ。「肝が据わってるな」牛の獣人は捕まえておきながら、旺盛な食欲に呆れを通り越して感心すら抱く。食べ過ぎで太って飛べなくなったらどうしようかと、同族でもないのに要らぬ心配をする。

 

「母さんが言ってた! 牛は馬鹿で単細胞だって!」

「ほう……」

 

 それは聞き捨てならないと、牛の獣人が指の間接を鳴らす。一発分からせてやるかと構えるが、シュライグはそんなことも知らず与えられたパンを齧る。

 

「でも、お菓子くれたから良い奴な!」

 

 すっかり餌付けされた姿に、構ってやる方が馬鹿だなとやる気も削がれ、牛の獣人はため息を一つ。こいつは果たして野生で生きていけるのか? と、他部族ながらも心配ばかりが増す。自分で獲物を取るよりも物乞いの方が向いてそうな。鳥は臆病と聞いたが、目の前の鳥の獣人は警戒心の欠片も無かった。

 

「お前、幾つだ?」

「えっ?」

「歳だ。分かるか? 何歳かって訊いてるんだ」

 

 いくら何でも警戒心が無さ過ぎて、つい年齢を聞いた。同族の子どもなら見た目で推測できるが、他部族ともなるとそうはいかない。成長速度が異なるからだ。

 シュライグは、一つ二つ三つと指を折って数え、十も数え終わらないうちに手を止めた。ふと、フェリジットの言葉を思い出したからだ。

 

 ──アンタ嘘吐くの下手なんだから

 

 ちょっとした反抗だった。下手と言われて悔しいから、見返してやりたい。いつか彼女も見抜けないような嘘をついてやる。

 だからこれは、そのためのちょっとした練習だと、溌剌とサバを読んで答えた。

 

「じゅうはっさい!」

「嘘つけ!」

 

 コンマ一秒で否定され、シュライグはむくれっ面になる。だが、ここで黙っては、嘘を見破られたことを受け入れたような気がして──それじゃフェリジットに口で勝てない。だから、シュライグはさらに反抗を重ねた。

 

「ホントだってば!」

 

 齢十八──それは、年長のルガルよりも上だとは露知らず。シュライグはひたすら見た目も言動も伴わない十八歳を主張し続けた。

 

「ほう……なら訊くが、2+5は?」

「7!」

「20-14は?」

「えっと……6!」

 

 ここでもう既に指を折って数え始めてる時点で、暗算ができていない。つまり、計算に慣れていない。計算に慣れていないということは、歳に見合った学力も追いついていないということ。

 

「なら0×7は?」

「た、たくさん……?」

 

 その答えを聞き、大人気ないと分かってながら子どもを揶揄うのは楽しいと、牛の獣人ことケラスは笑いを必死で堪えた。

 どれだけサバを読んでも、精々十歳が限界だろう。ただまあ、ここで嘘を見破ったことを伝えても少年が不機嫌になることは目に見えてる。だから花を持たせるつもりで、信じてやった体にして頷いた。

 

「そうか十八か。立派な大人だな」

「だろ!」

 

 自分が捕まっている立場というのも忘れ、元気良く答える。改めて子どもの順応力というのは高いと認識する。

 

「なあ、訊くんだがお前は何で川なんかに入った?」

 

 「鳥だろ?」と、ここでやっと真面目な話に移る。シュライグは「えっとね」と、前置きをし、訥々と答えた。

 

「木に登ってドロップ食べてたら、フェリジットが来て、そしたら木から落ちて、木から落ちたら川があって、起きたらここにいた」

「う、うん……?」

 

 ここでフェリジットも呆れる口下手を発動し、説明を求めたケラスも、何の話だと首を傾げた。これは本人ではなく親に聞いた方が正確だと判断し、話題を変える。

 

「親はどうした?」

「母さんのこと? 母さんは後で迎えに来るって言ったから、待ってる。で、そしたらルガルとフェリジットに会って、色んなことしてる」

「そうか……」

 

 なんてことなしにシュライグは答えたが、これは親について詮索することはできないとケラスは察した。後で迎えに来る──この言葉の意味が捨て子を表すことを知らない彼でもない。そしてシュライグは片翼だ。どの部族が見ても一目で障害児だと分かる。どの部族でも珍しくない、分かりやすい口減らしだ。

 僥倖なのは、拾われたことか。おそらく、ルガルとフェリジットというのが、彼の今の親代わりなのだろう。子宝に恵まれなかった同じ部族の夫婦に引き取られたと考えるのが自然だ。

 

「ルガル、早く迎えに来ないかなー」

「迎え?」

「うん。ルガルは鼻が良いんだ。俺がゴミだらけになっても見つけられるくらい」

 

 鳥はそこまで嗅覚が発達していなかったような──と、ケラスは益々分からなくなる。情報量が多いのもそうだが、シュライグの話す内容は欠落部分も多ければ、時系列もめちゃくちゃだ。同年代の子どもよりも遥かに口下手なのは明らかだろう。

 

「ケラス、来てくれ。集落の前に狼が来てる」

 

 ゲルの布を捲り、牛の獣人の男が入ってくる。彼はシュライグを意味ありげに一瞥し、ケラスに視線を戻した。

 

「狼……まさか、群れか?」

「それが妙なんだ。群れも作ってなければ一匹狼でもない。連れは猫二匹。鳥の獣人がここにいるはずだって」

「鳥……」

 

 この集落に存在する鳥の獣人は一人だけ──シュライグ見て、得心を得る。

 狼は嗅覚が発達した獣人だ。そして、シュライグがやたら口にする「ルガル」という男の特徴も、狼と合致する。

 

「そいつは多分、こいつの仲間だ。迎えに来たんだろ」

「仲間? 種族も違うのにか?」

「世の中酔狂なことをする連中もいるってことだ」

 

 柱に括っていた縄を解き、その端を持った。反対側はシュライグの足に繋がっており、リードのようになっている。仲間の元に返してやりたいのは山々だが、今彼に逃げられてはわざわざ助けてやった意味が無いというもの。

 夜だというのに、集落は騒がしかった。それもそうか。天敵が外にいるというだけで、彼らも気が気でないのだ。下手に刺激してはならないと分かりつつ、動向を探ろうと皆集まっているのだ。

 ケラスが鳥の獣人を連れて来たことに気付き、同胞達が道を開けた。その中心にいたのは銀狼と猫。彼らを一目入れ、シュライグが駆け出した。

 

「ルガル!」

 

 ちょこまか走り出すが、足に括られた縄がピンと張られ、盛大に転んだ。泣き出すかと思ったがそうでもなく。擦りむいた傷の土を払い、また走り出した。そしてまた転んだ。なるほど、これが所謂鳥頭というやつか。変なところでケラスは鳥の生態について学習する。

 

「なにやってんのよ、アイツは」

 

 猫の少女は呆れ返っている。その隣、狼の少年も難しい顔をしていた。

 仲間の元に辿り着いた頃には、鳥らしくもなく泥んこになって──川に落ちたとはいえ動き回れるくらいに目立った怪我も無くて、狼の方も安心したらしい。警戒を解いた。

 

「仲間が世話になったな」

 

 狼、猫、鳥──何の冗談かと思ったが、本当に彼らは仲間だったらしい。食物連鎖を真っ向から無視していく奴を見たのはケラスもこれまで生きてきて初めてだ。

 狼の少年は縄を解こうとするが、シュライグの足に巻きついたそれは爪を立てようと一向に結び目が緩まない。何のつもりだ? そう言いたげに、狼が睨んだ。

 

「悪いがこちらも助けた以上、見返りが必要でな」

 

 狼の──圧倒的捕食者の威嚇に、牛の獣人達は震え上がる。恐れを露わにする群衆の中、一人勇敢にも踏み出す者がいた。集落の長たる老いた雌牛だ。

 

「金なら無い。見ての通り、俺達は孤児の寄せ集めだ。浮浪者なのは一目瞭然だろ」

 

 毛を逆立てて狼が告げる。その様子に臆することなく、長はさらに歩みを進めて狼少年の前に立つ。

 

「その傷、道中蛇の部族に襲われたな」

 

 狼と猫──まだ幼い方の猫は姉と思わしき少女が守ったのだろう無傷だ。しかし、二人の足には歯型が残されていた。爬虫類の鋭く長い牙によって付けられた傷跡だ。

 

「だから?」

 

 ここで食って掛かったのが、猫の少女だ。どうやら狼の少年よりもこちらの方が好戦的らしく、いつでも攻撃が出せるように爪を出している。

 

「その毒は遅効性だが確実に死に追いやる。血を吐き皮膚は腐り、幻覚で同士討ちが始まる。行き着く先は我らと同じよ」

 

 長が止血の布を取り払えば、彼女の腕にも赤い斑点のような傷跡が残されていた。その傷跡の近くは黒く変色し、壊死している。

 

「それとシュライグがどう繋がる。蛇と交渉でもして、こいつを差し出し毒消しでも貰うか? そりゃ蛇にしたら美味い話だ。アイツらの好物は雛鳥だからな」

 

 鳥一羽で部族が助かるのであれば、この上ない好条件だろう。差し出される身となったシュライグは、残忍な蛇に翼をもがれ、四肢を折られ、腹をかっ切られ、存分にいたぶられながら食われるだろうが。

 

「蛇が約束を守るとは思えん。それよりも確実な手段が一つある。それは──」

「長っ!?」

 

 言いかけた所で、長が血を吐き頽れた。遅効性の毒が本性を表したのだ。近い将来、貴様もこうなるのだと目の前のルガルに見せつけるように、長は苦しみもがく。

 

「ケラス、交渉はお前に任せていいか」

 

 部族の一人が長を介抱しつつ確認を取った。この場で最も交渉を成功させる可能性があるとしたら、シュライグの面倒を見ていた彼だ。

 

「分かった」

 

 交渉を引き継ぎ、ケラスが前に出る。しかし、それを止めたのは猫の少女だ。牛の部族を恐れて泣く妹をあやしている。

 

「待って、妹が怖がってる。場所を変えて。じゃないと応じない」

「お前──!」

 

 強気な態度に部族の一人が声を荒らげようとするも、それを止めたのは長であった。

 

「いい……それくらいの条件は譲歩しろ。だが見張りを数人立てる。こればかりは譲れん」

 

 分かりやすく苛立ちを示すよう彼女は舌打ちをするが、かなりの譲歩であると分かって文句は言わない。

 

「決まりだな」

 

 着いてこいと顎をしゃくる。他部族の侵入をよく思わない連中が警戒を顕にしつつ、渋々と道を開ける。

 案内したのは集落の端にあるゲルだ。ケラスを含め、牛の獣人は三人。一人は外で見張り、もう一人は会話に立ち会うつもりかゲルに入ってきた。

 

「お前らの言う見返りは何だ」

 

 開口一番に尋ねるのはルガルだ。縄で繋がれたままのシュライグを一瞥し、ケラスを睨む。

 しかし、それを良しとしないのは助けられたシュライグであった。彼はおやつの袋を大事そうに抱え、ケラスを守るように立つ。

 

「ルガル、こいつ牛だけど良い奴。馬鹿で単細胞って言われてるけど、話通じるよ」

「…………悪いシュライグ。ちょっと黙っててくれ」

 

 敵を作ると言っても過言ではない不遜な言い回しは、子供だからとて許されるようなものでない。交渉の場で邪魔になるからと、さり気なくパンを食べるように促し、話し合いの場から遠ざけた。

 

「ミストバレーは聞いたことあるか?」

 

 時間も惜しいと本題に入った。壁掛けの地図を持ち出し、それを床に広げる。ケラスが指差したのは、険峻な山々と谷が描かれた場所だ。

 

「ミストバレーって、霊峰のこと?」

 

 黙っとけと言われた矢先だというのに、落ち着きなくシュライグは口を挟む。パンをモソモソ齧りながら、まるでルガルの言葉など耳に入っていなかったかのように自由に語り出す。

 

「一年に一度、成人の儀ってお祭りするんだ。霊峰を自由に飛べたら一人前ってお祭り」

 

 「あそこは神聖な場所で、俺は羽なしだから入れなかったけど」と、肩を竦めて語る。

 

「鳥の獣人にとって聖域とも言える場所が、どう繋がるわけ?」

 

 「まさかお祈りで毒が治ると信じてるわけじゃないわよね」と、挑発的な表情で尋ねるのはフェリジットだ。

 

「山と谷が入り交じるあの土地には、ゴブリンの秘薬と呼ばれる薬草が群生する。健康な獣人が食せば猛毒だが、同時に毒を中和する作用も持つ」

「文字通り、毒を以て毒を制すってやつか」

 

 己の赤黒く変色した傷跡を一瞥し、ルガルはため息を一つ。「解毒のためとはいえ毒を飲めとは、酷なこと言うじゃねぇか」と、小さく嘆いた。

 

「お前らが言いたいことが見えてきた。つまりシュライグを通訳に、原住民に取り合って秘薬を分けてもらおうってことか」

「理解が早くて助かる」

 

 牛が鳥達の聖域に踏み入れようものなら、交渉の前に攻撃されるのが目に見えている。しかし、シュライグを緩衝材にすれば、同族の好で話を取り合ってもらえるかもしれない。

 

「だが、行くなら俺もだ。こいつ一人に任せられるもんじゃねぇ」

 

 霊峰──実際に赴いたことはないが、地図を見るに山岳地帯だ。山には竜が住み着くから近付くな。とは部族を超えて広まる伝承で、当然ルガルも親に言い聞かされて育った。そんな過酷な環境で、鳥でありながら飛べないシュライグを一人行かせるのは、死ねと言っているようなもの。

 

「それは止めておけ。毒の回りが早くなる」

 

 言外に無謀だと、ケラスは告げた。しかし、言われた本人はというと、牙を剥きシュライグを背に庇う。

 

「ほぅ……なら、こいつ一人で行かせて竜の餌にするか?」

「元より俺が護衛として付き添うつもりだ」

「へぇ……部族も違うのにか? 物好きなこった」

「それはこちらの台詞だ。俺達には協力する上で利点がある。だが、お前達が共に行動する理由はなんだ? 一人でも生きていける狼が、戦えもしない雛鳥を連れて何を企んでいる」

 

 鋭い指摘であった──真っ向から自然の摂理に反して生きる意味はなんだ。獣としての生き様から何故自ら道を外す。生きる価値などないと、親からも見捨てられた口減らしを飼うことへの目的は何だ。

 言外に告げられた内容に、ルガルはハッとなり顔を伏せた。血の昇った頭に正論という名の冷水を直接叩き込まれたような感覚。己の発言が矛盾していたことに、ようやく気付いたのだ。

 

「すまねぇ……俺もだいぶ参ってるようだ。どの道頼れるのはお前しかいない。シュライグを……仲間を頼む」

 

 見送ることしかできない自分への不甲斐なさ──彼が冷静さを失い不必要に噛み付いた原因の大元は、幼稚な八つ当たり。

 事の重大さが分かっていないシュライグは、二人の剣呑とした空気に首を傾げた。そんな彼の首根っこ掴んで引き寄せたのはフェリジットだ。

 

「シュライグ、これはアンタが撒いた種よ。無能なアンタが川に落ちた所為でアタシらは蛇に襲われた。自分のケツは自分で拭きなさい、足でまとい」

「……ごめん」

 

 優しいルガルは決して言葉にしない手厳しいセリフを、彼に代わりフェリジットが伝える。否、これでも優しい方なのだろう。特別ルガルが甘いだけで、食物連鎖を踏まえるなら、食われていてもおかしくないのに見逃されている。

 

「ルガルは……どうなるの?」

 

 ルガルとケラス──二人の話す内容は、幼いシュライグが理解するには難しい。教えてとせがんだところで、弟分を溺愛しているルガルは適当に暈して伝えるだろう。

 ルガルが特別シュライグを贔屓にするのが、彼女はとにかく気に入らなかった。半ば飼い殺しのようにぬくぬく育てられるのを見て、嫉妬にも近い黒いモヤが胸を占めるのだ。

 

「死ぬよ、アタシ達は。アンタの所為で」

「えっ……」

 

 言葉が目に見えるものなら、彼女が言ったセリフは鋭利な刃物。非情な現実を突き付けられたシュライグは、返答に困る。幼いながら、死が何者かというのは本能的に理解していた。生きている限り常に付きまとう、終わり。その終わりが、ルガルとフェリジットに近付いている。招いたのは自分だと、今ようやっと理解した。

 

「死ぬ気で立ち向かうか、チキってアタシ達を見殺しにするか。好きなの選んで」

 

 ルガルが──いなくなる。

 シュライグの脳裏に浮かぶのは、母とはぐれた日のことだ。母は迎えに来ると約束してくれた。けれど、ルガルは死ぬからそんな約束できない。ルガルは母と違って、帰って来ない。

 弾かれたようにゲルを出た。松明が煌々と照らすため集落は明るいが、空は真っ暗で辛うじて月が朧げな輪郭を浮かべている。夜目の利かない鳥は、星明かりはおろか月すらもはっきりと認識することができない。

 

「何やってんだ!」

 

 突然出て行ったシュライグに追い付き、ルガルが肩を後ろから掴んで引き寄せる。勢い余って尻餅ついたが、そんなこと関係無いとルガルは捲し立てた。

 

「一人で勝手に動くな! ただでさえお前は──」

「でも、何もしなかったらルガルはいなくなる。母さんと違ってもう会えない!」

 

 ルガルがシュライグに対して怒鳴るのは初めてであったが、その剣幕に押されることなくシュライグも食い気味に言い返した。まさか反論されるなんて思っても見なかったルガルは、面食らい言葉を失う。

 

「ルガル、死ぬんだろ!」

「……フェリジット、お前」

 

 彼を無謀とも言えよう行動にけしかけた元凶を睨めつける。しかし、彼女は狼の睨みなど何も怖くないと言わんばかりに強気な態度を崩さず、鼻を鳴らしシュライグに向けて放った。

 

「アンタは獣人だ。獣なら自分で狩りをして生き延びるのよ。ガキを理由に言い訳するなら死ね。甘ったれんな」

 

 厳しくもそれは正論。生存競争から敗れた獣から現実は牙を剥く。現にシュライグは、現実に殺されかけた側だ。

 

「ルガル、俺足でまといじゃないから行かせて!」

 

 返事を先延ばしにするように、ルガルは口を噤み目を逸らす。送り出してやるべきだと分かっているのに、どうしても喉につっかえて言葉が出ないのだ。

 

「揉めているところ悪いが、出立は夜明けまで待つ」

 

 騒ぎを聞き付けた野次馬達が集まってきたところ、仲裁に入ったのはケラスだ。

 

「そ、そうか……そういやお前らは俺達と違うんだったな」

 

 よく考えなくとも、牛の獣人は夜行性ではない。いくら逞しい体を持っていたとしても、夜間帯に出歩く程命知らずでない。狼との習性の差異を見落としていたと、ルガルは先走ったことを気恥しげに顔を伏せる。

 

「恩に着る」

 

 理由が何であれ、話し合う時間をくれた事への感謝を告げる。ケラスはゲルの中に入るよう促した後、見張りにも席を外すように指示した。監視が無くとも問題無いと掛け合ってくれたのだ。

 

「ルガル」

 

 三人──キットも含めると四人。改めて身内だけになれた空間で、最初に口を開いたのはフェリジットだ。

 

「なんだ、フェリ──」

 

 一瞬の出来事だった──

 ルガルが振り向いた瞬間、彼女はタックルを仕掛けたのだ。彼女の肩口が体重を掛けた分の重みを伴って鳩尾に落ちる。

 

「ルガル? ……ルガル!」

 

 ルガルが倒れたのを見るのは、二回目だ。一回目は初めて会った時にシュライグが叩き伏せた。それから何度も組手をしたけれど、元少年兵であった彼の実力に押されて一度も勝てていない。

 そんなルガルが、あっさりと倒れた。泡吹いて倒れた彼の傍に駆け寄れば、倒した張本人が悪びれもなくこう言った。

 

「邪魔だから黙らせた」

「邪魔って──」

「どうせあーだこーだ、アンタを引き止めたいのか送り出したいのかうじうじ煩いのよ」

「だからって──」

「文句があるのなら、今のうちにサヨナラでも言っとく?」

 

 反論は全て前倒しに潰された。口では勝てない──フェリジットは口達者で気が強くて、シュライグよりもずっと度胸のある女だ。そんな彼女に勝てると思うのがそもそも愚かな間違い。

 

「センチメンタルになったアンタが、行かないだなんて駄々こねるのは勘弁よ。アタシは蛇毒で近いうちにおじゃん。そしたらキットは誰が面倒見るの!」

 

 キット──シュライグよりもずっと幼い赤子だ。物心さえまだ着いていないだろう彼女は、毛布を玩具に遊んでいる。

 フェリジットの苛立ちは、未だ独り立ちできないシュライグに対しての焦りも孕んでいた。狩りもできない戦えない──彼と同族の子達は、既に狩りの仕方を覚え自分で餌を捕まえる。けれど、シュライグは未だ巣立ちに至らない甘ったれた雛鳥だ。

 

「行く──帰ってくる!」

 

 怖気付いた様子もなく強く言い切ったシュライグに、彼女は満足気に頷いた。

 

「いい? しくじったらアンタの大好きなルガルは死ぬ。運良く拾われるなんてこともうない。残飯漁りの物乞いに戻りたくないなら、死ぬ気で帰ってきな足でまとい!」

 

 そう言って彼女が投げ渡したのは、石を研いで造ったナイフだ。石と言っても特殊な鉱石で造られたようで、刀身が鈍く銀に輝く。シュライグが使いこなせるなんて期待していないだろうが、せめてものお守り代わりだ。

 

 フェリジットに発破を掛けられたこともあり、臆病風に吹かれることなく夜明けを迎えた。まだ殆どの生物が眠り、夜行性の部族は巣穴へと戻る東雲。ケラスは既に起きており、ゲルから出てきたシュライグを出迎えた。

 

「腹括ったな」

 

 出会った頃の呑気な雰囲気はもう無い。幼いながら、闘争を恐れない戦士の面構えを彼はしていた。

 

「一つ、お願いがある」

 

 行こうと踏み出したケラスを引き止める。怪訝そうな顔で振り向く彼にナイフの切っ先を向け、お願いと言っておきながら脅迫のように頼み事を一つした。

 

「少しでも、戦えるようになりたい。だから、強くなれる方法を教えて欲しい」

 

 彼は含みのある笑みを浮かべ、指の間接を鳴らす。言葉は要らない──構えを取り、手招きした。

 

*1
遊牧民が使用する移動式住居



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Episodeケラス 後編

 

 霧の谷ミストバレー──

 

 立ち込めた霧は臆病者を拒み、勇気ある者には道を示す。

 切り立った崖は風を侮った愚者をその罪の数だけ谷底に落とし、渓谷を流れる川は死人の血で創られた。暴風の打ち付ける音は、この地に屠られた者の怨嗟の声。

 かの伝承、鳥の民は畏怖を込めこう呼ぶ。

 

 "霊峰"──と

 

 

「寒い……」

 

 岩をも削る強風は、吹雪でもないのに生物を拒むように寒気を齎す。悴んだ手に息を吹きかけるも、その呼気さえ攫うように風は容赦無い。

 

 霊峰──ここに生者は要らない。そう告げるかのように、険しい山と深い谷が続く。

 

「大丈夫か?」

 

 寒さに震えるシュライグを心配するのは、牛の獣人であるケラスだ。寒さには慣れているのか、それとも体毛のおかげか。シュライグ程寒さに弱い印象は見られない。

 

「平気」

 

 刃のような冷気を孕む向かい風に立ち向かい、歩みを進める。濃霧をものともせず、見えるはずの無い道を堂々と歩む。風に削られ消えた足場も多く、一歩間違えれば麓どころか谷底まで真っ逆さまという過酷な山登り。なのに、先を行くシュライグはまるで恐れることを知らない。死と隣り合わせの現状を受け入れ、命知らずと勇敢を履き違えたように止まることない。

 

「焦る気持ちも分かるが、この視界の悪さだ。慎重に進め」

 

 太陽が出ているはずの時間でありながら、目に映る景色は一面の白。辛うじて、前行くシュライグの影が薄ら目に映る程度だ。

 

「……? おじさん、変なこと言うね」

 

 ここでやっと、シュライグが立ち止まりケラスを振り返った。

 

「見えなくても、道分かるじゃん」

「…………どういうことだ?」

「だから、よく聞いてみてよ」

 

 深呼吸──目を閉じ、耳を澄ませ、全身で風を感じる。

 そうすることで、シュライグは霊峰を見通すことができた。何も考えなくていい。ただ、風を肌で感じるだけで、大気と一体化したように霊峰を俯瞰できる。

 風同士がぶつかる音、岩肌に遮られ風向きが変わる感覚、天候を告げる風の匂い──

 

 

 霊峰は、勇気ある者に道を示す──

 

 

 霊峰に踏み入る資格無き臆病者は、風を恐れる。

 霊峰に受け入れられた勇敢なる者は、風を友に歩む。

 

 同族でさえも恐れる霊峰の風を、まるで体の一部のように感覚を掴む。ありふれた言い方をすれば、才能──羽なしという烙印を押された少年は、皮肉にも風に愛されて産まれた。翼無き少年にとって何の役にも立たない、鳥達が喉から手が出る程に羨む稀有な天稟。皮肉が過ぎたギフテッド。

 

「風が教えてくれるだろ。右に三歩、行き止まり。正面の洞窟は竜の巣で、左に行けば道はあるけど、半歩違えばそこは空」

 

 道を示す風が指揮者であるなら、それをなぞる少年は踊り子の様。

 当の本人はこれを才能とは露知らず、そしてケラスもまたこれが才能であるとは気付くこともできず。ああ、これが本来鳥のあるべき姿なのか。と、間違った知識を学習する。

 そして二人は、鳥の獣人達が半日は掛けてやっと辿り着くはずの頂上に、一刻もせぬうちに辿り着いた。雲を突き君臨する頂は霧などなく晴れ渡り、雲海がただひたすらに彼方まで広がる。空を見上げれば、太陽が白く手を差し伸べるかのように照らしている。

 

「ここが……頂上なのか」

 

 平地でしか生きたことの無いケラスにとって、雲の上とはまるで天国に来たかのように目に映る。

 

「おじさん! 探してたのは、あれ?」

 

 溌剌とした声に、見蕩れていたケラスは弾かれたように我に返った。

 シュライグが指差すのは、草木すらも生えぬこの厳しい環境下で、ひっそりと寄り添い合うように根付いた花。ゴブリンの秘薬──この世界で最も毒性が強く、最も強力な薬。まさにそれであった。

 

「でかしたぞ、坊主!」

 

 長くも風に愛された旅路の終わり。ケラスは駆け出そうとするも、その手を引いて止めたのはシュライグであった。

 ケラスは怪訝そうに振り返る。シュライグはそれを分かっていながら目も合わせず、ただひたすらに雲を睨む。

 

「おじさん、知ってる? 鳥ってね──」

 

 たっぷりと沈黙を挟み、ようやく切り出したのは──

 

「──死んだら、風に溶けるんだよ」

 

 突風が吹き荒んだ。巨体のケラスさえも踏ん張っていなければ、飛ばされてしまいそうな勢い。小柄で軽いシュライグが飛ばされぬよう、地に押さえつけて共にやり過ごすのが精一杯だ。

 

「──来る!」

 

 牙を剥く風が止んだ。否、死んだ。風をも殺す存在があるとすればそれは──そこから先は本能が知っていた。この世に存在する全ての捕食者。その正体は、かつてホールから現れた異界の生物にして食物連鎖ピラミッドの頂に立つ、ありとあらゆる生命を食らう悪食。

 

「竜!?」

 

 雲海突き破り現れ立ち塞がるは、手負いの竜。裂けた翼、槍の突き刺さる心臓、剥がれ落ちた鱗──たった今、何者かに攻撃され辛くも逃げて来たのか。それとも凱旋したのか。

 

「まさか──」

 

 なぜ、気付かなかった──原住民と鉢合わせなかったことに。

 彼らは二人が訪れるよりも先に、竜の襲撃に遭ったのだ。そしてシュライグがそれに気付けたのは、風に孕む死の臭いを敏感に嗅ぎ取ったから。

 

「一旦引くぞ!」

「駄目だよそれは!」

 

 竜を相手にたかが獣人二匹、何ができる──何もできることなどない。逃げる以外の選択肢があるというのなら、それは喰われるのを待つだ。

 けれどシュライグは、無謀にも立ち向かおうとナイフを出す。巨大な竜からしたら、己の爪先にも届かぬ小石程度の武器だ。命知らずな彼は、彼我の差すら分からず突っ込んだ。

 

「うわっ!?」

 

 尾を払っただけで、身が弾かれた。もんどり打って地に倒れる。突立つ岩肌は、容赦無く皮膚を穿つ。

 

「言っただろ! どの道逃げるしか──」

「おじさんは、ルガルを見殺しにするの!」

 

 彼の放った科白は、反論さえも押し退け黙らせる。

 ここでゴブリンの秘薬を諦めて逃げ帰った結末──牛の部族は長を含め決して少なくない数を失う。シュライグは、赤子の猫を残し仲間を失う。そしたら、幼いシュライグと赤子はどう生きたらいい? ──路頭に迷った二人を待ち構えるのは、餓死という非情な現実だ。

 これはシュライグにとって、仲間を守るためであり同時に生き延びるための戦いだ。臆病に逃げ出すなどという選択肢は残されていない。

 後の無い追い詰められた獣程、怖いものは無い──

 

 頬の切り傷を押さえ、シュライグは冷徹にも竜を見据えた。

 思い出せ、戦い方を──

 深く息を吸い、神経を研ぎ澄ませる。

 

「──急所を狙え」

 

 ルガルから教わったのは、狼の戦い方。近接戦闘で、いかに素早く相手を仕留めるか。生物は個々の種族に応じて体の大きさも筋肉の発達具合も違うが、心臓の位置は変わらない。鍛えてもどうにもならない弱点が必ずある。

 竜は既に心臓に槍を刺されていた。しかし、それでいてまだ動けるのであれば、心核に達しなかったのだろう。あれよりも深い傷を与えるのは、ナイフでは難しい。鎧のような鱗も剥げぬだろう。だとすれば、弱点は何処にある。

 

「坊主!?」

 

 シュライグよりも先に竜が動いた。爪を立て、それを彼に向かい振り下ろす。しかし、それは読んでいた。横に飛び退き、岩を抉る一撃を難なく避ける。

 

「──攻撃を受けるな」

 

 フェリジットから教わったのは、猫の戦い方。いかに傷を負わずに戦いを済ませるか。観察しろ。生物は攻撃する時に最大の隙を見せる。その隙から攻撃を予測し、回避して反撃を待て。

 しかし予想外であったのは、削られた岩が飛来してきたことだ。大人の拳を優に超える飛び石が頭を殴る。衝撃に脳が揺れ、視界が回る。堪らずその場に膝を着いた。

 それを好機と捉えた竜が、再び爪を振るった。触れれば忽ち骨ごと肉を裂かれると分かっていながらも、迫り来る爪から逃げることができない。

 

「子供が戦っているのに、格好悪いところ見せられるか!」

 

 衝撃は無い──ケラスが竜とシュライグの間に挟まり、攻撃を受け止めているのだ。

 腕ごと抱えられ、竜は堪らず暴れた。しかし、牛の怪力はそれさえも抑え込むほど。

 

「坊主、俺が教えたことは覚えているか」

「うん!」

 

 目眩を(かぶり)を振って払い、立ち上がる。

 ケラスから教わったのは、牛の戦い方。牛は部族間で雌を奪い合い決闘する。決闘の際、牛は避けることをしない。攻撃を避けるというのは、敵前逃亡にも匹敵する部族の恥だから。求めるのは純粋な膂力のぶつかり合い──だからこそ、攻撃を受けることを前提とし、いかに早く体制を立て直し臨戦態勢を取れるかが勝負の行方を左右する。

 呼吸を整える。牛の部族が損傷を受けた際に回復を早める呼吸だ。痛みが引き、引き攣る手足に感覚が戻る。

 

(弱点……見つけた!)

 

 先のケラスが攻撃を受け止めた際に、見えた。

──この竜は、左からの攻撃に弱い。よく観察すれば、左目に鏃が突き刺さっている。

 ならば、唯一残った視覚も奪ってやればいい。ケラスが動きを止めている今この瞬間こそが最大の好機だ。

 突立った岩を足場に、竜の体に飛び乗った。竜は翼を激しく動かし抵抗するも、身をかがめながら頭を目指す。そしてナイフを逆手に持ち替え──(まなこ)を貫いた。

 

「グルアァァァァァァァァッ!!」

 

 悲鳴を上げると同時に振り落とされた。視界を奪われた竜は飛び立ち、そのまま反撃さえもせず雲海の中へと逃げる。

 

「勝った……!」

 

 全ての捕食者、食物連鎖の頂上に存在する獰猛なる肉食。

 それを羽なしの子どもが、致命的なまでの一撃を与えて退けたのだ。

 

「よくやった、坊主!」

 

 脅威が去り、祝福のように穏やかな風を吹かす霊峰にて──ケラスは勝者である少年の頭をわしゃわしゃと撫でた。擽ったそうに抵抗するが、それでも手を止めない。

 

「へへ、帰ったら自慢できる?」

「ああ、十分だ」

 

 ルガルにもフェリジットにも──なんて言われるか想像し、照れ臭そうに笑った。自然と口元が緩んでしまう。

 

「早く帰ろ!」

 

 薬草をこれでもかというくらいに抱え、子供らしく無邪気に笑う。

 先の竜から報復に遭うのでは? という心配は杞憂に終わり、下山は楽に終わった。途中、原住民達が生活していたと思われる集落も見かけた。生き残りは誰もおらず、手向ける物も何も無かったためそのまま通り過ぎた。隣でケラスが「今年は冷夏だったから、竜も生き延びるために必死だったんだ」と、呟いたのを覚えている。

 

 翌日──

 

「おじさん、助けて!」

 

 慣れない登山に疲れ、泥のように眠っていたケラスだが、まだ朝日が昇ってすぐといった時間帯に叩き起された。叩き起したのはシュライグで、未だ寝惚けるケラスを必死の形相で叩いている。

 

「どうした、坊主……」

 

 寝惚け目をこすり、時間をかけてようやっと起き上がる。朝から元気なことに、シュライグは急かすようにずっと飛び跳ねていた。

 

「とにかく来てほしいんだって!」

 

 と、有無も言わせぬまま手を引いた。

 連れて来られたのは、シュライグらに貸していたゲルだ。ルガルもフェリジットも早起きなことで、シュライグが帰ってくるのを外で待っていた。

 

「シュライグのことといい、色々ありがとな」

 

 呼んだのは挨拶の為か──こんな早朝に呼び出すくらいだ。きっともう出立するつもりで準備を進めていたのだとケラスは推測する。忙しい連中だ。

 

「いや、礼はいい。むしろ、助けられたのはこっちだ」

 

 今回の件は、ほぼ全てシュライグの頑張りによる功績と言っても過言ではない。彼が霊峰を案内し竜を討伐していなければ、牛の部族は殆どが毒で死んでいた。それを思えば、感謝するのはむしろこちらだとケラスは考える。

 

「んで、これは少し話が変わるんだが……」

 

 言いにくそうに、ルガルはケラスの後ろに隠れるシュライグに目を向けた。視線を向けられた本人はというと、何か期待するようにケラスの尻尾を掴んでいる。

 

「さっきからコイツが、竜を倒したって煩いんだ。どうせ作り話なんだろうが、一応確認くらいはしてやろうと思ってな」

「嘘じゃない! ホントなんだってば!」

 

 語気を荒らげて主張するシュライグに苦笑しつつ「はいはい」と、真面目に取り合う気もない返事をする。

 ああ、なるほど。シュライグが必死になってケラスを連れて来たのはこれか。兄貴分と姉貴分に冒険の内容を語っていたところ、竜を倒したという事実が信じてもらえなくて悔しかったのだ。

 シュライグが竜を倒したのは本当だ。信じてもらいたいという子供心も分かる。これは一つ、助け舟を出してやろうとニヤリと笑った。

 

「ああ、本当だ。なんたってこいつは、十八歳になったんだ。それくらい朝飯前だ」

 

 十八歳──それを聞いたルガルは思わず吹き出した。その隣でフェリジットが呆れたと眉間を摘む。

 

「十八歳かー。シュライグ、もうそんな歳になったんだな。なら、竜なんか余裕だな」

「そ、そう! 俺、もう十八歳!」

「ははっ──いつの間にか追い抜かされてたな」

 

 後出しに年齢を公開され、一杯食わされていたとシュライグはようやく気付き、目を泳がせる。助けを求めるようにケラスを見るが、彼は何処吹く風。別にケラスは嘘など言わずちゃんと真実を伝えた──そう、シュライグの年齢のことも含め、竜を倒したのは本当なのだから。

 

「ホントなのに……」

 

 と、しょんぼり肩を落とす彼に、ルガルはこれでもかと言わんばかりに腹を抱えて笑い転げた。

 ツボにハマったルガルがようやっと落ち着いた頃には、シュライグはすっかり臍を曲げていた。「ルガルなんかもう知らない」と、ケラスにべったりである。

 

「……お前達は、これからどうするんだ?」

 

 引っ付いたままのシュライグはさておき、ケラスは尋ねた。

 昼間はそうでもないが、早朝の冷たい空気は冬の気配を感じさせる。年々強まる寒気が近いうち牙を剥くだろう。

 種族も違う、孤児の寄せ集めで、住処も無く──越冬は厳しいのではないかと、彼は心配しているのだ。

 

「さてな……居場所が見つかるまで、流浪の旅を続けるさ」

「……そうか、見つかるといいな」

 

 助けになってやりたいという気持ちは山々だが、ケラスとて部族に所属する身だ。深入り出来ない故、歯痒いが無事を祈って送り出すことしかできない。

 

「ほら、置いてくぞ」

 

 ケラスに引っ付いたままのシュライグを呼べば、彼は不貞腐れた顔のまま渋々とケラスから離れる。

 

「じゃあな、坊主」

「おじさんもバイバイ!」

 

 この時は互いに、もう会うことはないだろうと思っていた。そのつもりでケラスは見送り、シュライグも別れを告げた。

 そして思わぬ形で再会していたと気付いたのは、鉄獣戦線結成から月日が経った頃──

 

 

「ふんふふんふふーん♪」

 

 鼻歌交じりに窯を開け、こんがり焼き上がったラスクを取り出す。パンの耳に砂糖振って焼いたものがこんなにも美味しいだなんて──ナーベルはレシピを教えてくれたケラスに感謝しつつ、「いただきます」と、手を合わせた。

 

「丁度小腹が空いてたんだ」

 

 「一本貰うぞ」と、作った本人の了承も得ずに後ろから奪われ「何をするんだ!」と、声を荒らげ振り向いた。するとそこに立っていたのは──

 

「げっ!? リーダー!!」

 

 食べ物の恨みはなんとやら──とはいえ、さすがに不満をぶつけていい相手ではなく、またお前かと言わんばかりの恨めしげな眼差しを向けるので精一杯。シュライグはというと、砂糖の絶妙な塩梅と焼き加減が気に入ったらしく、断りも入れずもう一本攫った。

 

「ケラスから教えてもらったのか?」

「そうっすよ……えっ、なんで分かったんすか?」

「子供の頃、アイツが食べさせてくれたんだ」

 

 昔を懐かしむように、さり気なくもう一本。止まらぬ食指に危機感を抱いたナーベルは、しれっとラスクを瓶に詰め込む。

 

「珍しい組み合わせだな」

 

 噂をすれば何とやら。ルガルとフェリジットに加え、話に上がっていたケラスまでもが食堂に集まった。

 

「何の話をしてるんだ?」

 

 鉄獣戦線随一寡黙な男ことシュライグが会話をするなんて。と、ルガルが揶揄うように肘で小突いた。

 

「昔、ケラスがラスクを食べさせてくれた話だ」

「ん? 俺がか?」

 

 名指しされるとは思ってもいなかったようで、彼は「記憶に無いな」と、困った様子で首を傾げる。

 

「悪い、いつの話だ?」

「子供の頃」

「んん?」

 

 会ったのは最近だよな? と、彼はルガルとフェリジットにも確認している。二人も特に心当たり無いようで、分からないと首を横に振った。

 

「本当に覚えてないのか? 霊峰で竜を倒した日のこと」

「霊峰で竜? …………お前、あの時の坊主か!?」

 

 二人を差し置いて、ケラスはようやっと思い出したらしい。知己と分かるやいなや「大きくなりやがって」と、馴れ馴れしくシュライグの頭を撫でた。

 

「そういや昔、牛の部族に世話になったな」

「えっ? じゃあ、ケラスってあの時の?」

 

 一つピースが嵌れば、後は芋づる式だ。ルガルもフェリジットも、そういえばあの時に。と、思い出す。

 

「ルガルは変わらんな。フェリジットはお淑やかになった。でも、一番変わったのはお前だな、シュライグ」

「そう……だろうか?」

「ああ。あの生意気で腕白だったお前が、今じゃ鉄獣戦線を引っ張るリーダーだ」

「そんなに……変わってない気がするが」

「何言ってんだ。あの時のお前、俺に歳を訊かれてなんて言ったと思う? 十八歳なんて嘘つきやがって。あの凶鳥のシュライグがだぞ」

 

 思い出したらツボにハマったらしく、困惑するシュライグを目の前に腹を抱えて笑い出した。その横で、ルガルも「そんなことあったな」と、喉を鳴らして笑う。

 

「凶鳥のシュライグ十八歳」

 

 声に出してみると、なんと面白い響きか。居合わせたナーベルまでも笑い転げてしまい、余計収拾つかなくなる。

 

「これはアンタの自業自得ね」

 

 肩を叩かれ振り向けば、フェリジットまでもニヤニヤしている。

 さて、言われっ放しのシュライグはというと、表情には出さずとも、子供の頃の小っ恥ずかしい出来事を蒸し返されて、ちょっと腹が立っていた。

 だからつい、こんな爆弾を落としたのである。

 

「フェリジットだって、昔と違う。ルガルも言っていた。そこらの狼よりもずっと狂犬で、猫の皮を被ったゴリラの獣人だと」

「ふーん」

 

 石を投げ入れられた水面のように、彼の爆弾発言は波紋が広がるが如く沈黙を呼んだ。話題の的となる人物に、シュライグは上手くフェリジットを身代わりに立てたのである。

 

「ルガル、話があるの」

「おっと、退散だなこりゃ」

「逃げんな!!」

 

 狼が猫に追われて逃げるという、食物連鎖に反した現場であった。そして火種となったシュライグはというと、自分には関係無いと余裕に構えていたが、ルガルに首根っこ掴まれて巻き添えに連れて行かれる。

 残された二人はというと──

 

「なるほど、狂犬だな」

「むしろ、ゴリラも逃げ出す程の迫力っすね」

 

 狂犬の片鱗を見てしまい、彼女の怒りだけは買わないようにしようと心に誓う。

 

「でも、いいこと聞いた。リーダーにあんな恥ずかし過去があったなんて」

 

 おやつを取られた恨みは、これでチャラにしてやるか。と、ナーベルは上機嫌な様子。

 

「年齢もっすけど、リーダーって下手な嘘つきますね。霊峰に登ったとか、竜を倒したとか。羽なしの癖に、できるわけないじゃないっすか」

 

 ナーベルの小馬鹿にした呟きを拾い、ケラスはつい彼の肩を叩いていた。

 

「俺の名誉の為言っとくが、霊峰も竜も事実だぞ」

「ええっ!?」

 

 ケラスの言葉に目を瞠りつつ、けれど「まあ、ケラスさんなら……」と、何処か納得したような様子で頷く。それでも、幼少期のシュライグの功績については疑っているようでもあった。

 

「ナーベル、一つだけ忠告しとく。発言には気をつけろ。じゃないとお前、いつかルガルに殺されるぞ」

「ええっ!? 怖いこと言わないでくださいよ!」

 

 ナーベルの知るルガルは、厳つい見た目に反してとにかく優しく、何でもかんでも笑って許してくれるような心の広い鉄獣戦線の兄貴だ。そんな彼が怒るなんて見たこともなければ想像もつかない。

 

「一応伝えたからな。どうするかはお前次第だ」

 

 と、この場にいない兄貴分に代わって灸を据え、食堂を出て行った。

 残されたナーベルはというと、瓶に詰めたラスクを一つ齧り、ため息を一つ。

 

「そうは言われたって、嫌なもんは嫌なんだから仕方ないじゃん」

 

 羽なし──鳥の獣人にとって、死刑宣告にも等しいものだ。

 産むこと自体が家の恥で、産まれた瞬間にどの家庭も〆るのが常識だ。現にナーベルも、産まれた弟妹を羽が無いという理由で首を絞めたこと一度や二度でない。

 ナーベルはシュライグと生まれ故郷が同じだ。だからこそ、羽なしへの差別意識も強い。鉄獣戦線のリーダーとしての手腕は認めるが、彼が羽なしという事実を受け入れるのが嫌だった。アジトにいる間、皆非武装だ。平然と片翼で歩く姿を見掛ける度、よくそんな恥ずかしいことできるなと内心見下してすらいる。羽なしは部族の生き恥だと言われて育ったが故、矯正しようもない認知の歪みであった。

 

「あんな羽なしなんかじゃなくて、ルガルさんがリーダーだったらよかったのにな」

 

 それは、小さな軋轢──

 志が同じだからとて、仲がいいわけではない。種族も違えば文化も違う。

 鉄獣戦線も所詮は訳ありの寄せ集め。帰る場所が、部族から鉄の国に変わっただけ。誰かがここを居場所に幸せを感じる一方、きっと誰かが何かを我慢している──



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Episode フラクトール

 

 ──今思えば、俺達は自然というものを舐めていたのかもしれない。親の庇護下を抜けて、子供だけで生き延びる。これがどれほど大変だったか、まだこの時は知らなかった。

 

 

「それ!」

 

 一面の銀世界──初めて見る、冬の光景であった。絵本でしか見た事ない、雪。歩けば轍を残し、手で掬えば水になる。山岳の乾いた風が吹き付ける冬しか知らないシュライグにとって、全てが真新しくて嬉しくて、目一杯遊んだ。

 

「やったな!」

「うわっ!?」

 

 「俺はここの出身なんだ」と、ルガルが得意気になって案内する。そんな彼の背中に雪玉を投げれば足を止め、彼はシュライグが作ったものよりも一回り大きな雪玉を作って仕返しに投げた。柔らかいのに冷たいから触れると痛い。けれど不思議と夢中になれる。銀世界全てが玩具になった瞬間であった。

 

「キット、雪はばっちいから食べちゃダメよ」

「あい」

 

 まだ今晩の宿すら決まっていないのに遊び出した二人を尻目に、フェリジットはやれやれとため息を吐く。「あんなの真似たら駄目だからね」と、二人を反面教師に妹のキットに言い聞かせた。

 

「調子に乗んなよ!」

 

 雪を被ったルガルが、頭一個分の特大雪玉を見せつけた。アレに当たったらなんだかやばい気がする。と、シュライグは雪玉を作る手を止めて身構えた。

 大きく振りかぶり、特大の雪玉を投げ付けた。大きいだけあって球速も乗らず、これなら躱せると身をかがめたその時だった。

 

「ふぎゃっ!?」

 

 あっ! と、思った頃にはもう遅い。後ろにいたフェリジットの顔面に、雪玉が直撃したのである。

 

「おいおい、シュライグ。お前が逃げたから」

「違う、俺じゃない。投げたルガルの所為」

 

 彼女に怒られたくないがための、見苦しい責任の擦り付け合いが始まった。

 どっちの責任かなんて、フェリジットには正直どうでもいいものだった。ただ、やられたからにはやり返すのが彼女の主義。売られた喧嘩とあらば、喜んで買ってやろうじゃないかと小石を雪で包んだ。

 

「覚悟しなさい、野郎共!」

 

 本気を出した猫の──ルガルの言葉を借りれば、猫の皮を被った狂犬の狩りが始まった。

 けれど、これは冬という名の凶器が見せるほんの僅かな側面だ。決して楽しいだけではなかった。子供だけの旅路であろうと、季節は容赦無く牙を剥く。年々強まる寒気は、食料を奪い、生活を奪い、そして時には生命さえも攫いにやってくる死神の足音。

 これは予兆だった。四人での旅を続けるか、終えるか──

 あれだけ元気にはしゃいでおきながら、その翌日──突然のことだった。シュライグとキットが倒れたのは。

 

「入院だね、これは」

「マジか」

 

 町医者に言い渡された言葉に、ルガルは頭を抱えた。冬になれば物価が高騰する。底を尽きかけた旅の資金に、さらなる追い打ちをかける宣告であった。

 

「絶対、シュライグが移したに違いないわ!」

「卵が先か鶏が先か……キットが先に貰った可能性もあるぞ」

 

 ルガルの言葉は都合良くフェリジットの耳には入らず「可哀想なキット」と、彼女は赤い顔をした妹の頭を撫で、頬に口付けた。その隣、ルガルの膝の上でぐったりするシュライグには、ゴミでも見るかのような視線を投げつけて。

 

「言っておくけど、これは風邪じゃない。ここら一帯の風土病。抗体が無ければ必ず掛かるし、キミも発症していないだけで病原体を持っているよ」

「嘘でしょ」

 

 「嘘じゃないさ」と、欠伸交じりに医者に即答され、フェリジットはわなわなと元気を無くして俯いた。

 

「悪かったな、こんな遅くに押し掛けて」

「全く、いい迷惑さ」

 

 深夜に叩き起されて医者はうんざりと言わんばかりの様子で頷いた。そんな彼は馬の獣人で、夜行性でない分夜の活動は酷だろうに。本当に申し訳ないことをしたと、ルガルは思っている。

 

「行くぞ、フェリジット」

「そんな……アタシが病気持ちって」

「心配すんな。三人仲良く俺が面倒見てやるって」

「それが嫌って言ってんのよ、馬鹿!」

 

 強気に食ってかかる彼女に、ルガルはため息を一つ。いっそ二人みたいに症状が出てくれた方が、少しは大人しくなっていいんじゃないか。なんて、不謹慎なことを考えるくらいにはルガルも参っていた。

 

「キミ達、私の言葉を聞いていたか? 入院だと言ったはずだが」

 

 出て行こうとした面々に、医者は嘆息を吐く。呆れ返った彼の様子に、ルガルは言いにくそうに目を逸らしながら告げた。

 

「その……なんだ。正直、治療費出せるだけの手持ちがねぇんだ」

 

 ただでさえ切り詰めながら旅をしていたところ、三人分の治療費を捻出ともなると、金額を言われなくとも足りないというのはルガルにも予想が着く。

 ただ、医者の方はそんな言葉を聞きたかったわけではないらしく、「そこに座りなさい」と、椅子に座り直すよう告げた。

 

「薄々気付いていたけれど、キミ達孤児だね」

「まあ……な」

 

 部族間の抗争が続くご時世、みなしごも珍しくない。引き取り手のいない子どもが犯罪に手を染めることも、今じゃ集落を超えて問題になる社会現象だ。

 

「……言い忘れていたが、うちの診療所には子供料金というものがあってだね」

「厚意は嬉しいが、だとしても三人分を払える余裕はねぇよ」

「最後まで話は聞きなさい。払えないならそれ相応の働きをしろと私は言いたいだけだ」

 

 最初は、何を言われたかまるで分かっていない様子でルガルが目を剥いた。不自然な沈黙に、医者はやれやれとため息を吐き、言葉を続けた。

 

「お金は要らない。その代わり、キミには馬車馬の如く働いてもらうからね」

「マジか……アンタ、何がなんでもお人好し過ぎねぇか?」

 

 いくら相手が子どもとはいえ、見ず知らずの他人を──それこそ同族ですらないのに。

 手癖が悪いかもしれない。犯罪を侵しているかもしれない。手に負えない感染症を持っているかもしれない。

 それらを引っ括めて、この馬の獣人は受け入れると言っている。聖職者だって嫌な顔をするだろうに。けれど彼は照れ臭そうに笑い、机の写真立てをそっと伏せた。

 

「無論、信用できないと言うなら無理には引き止めないよ」

 

 何か裏があってもおかしくない──

 抱えているシュライグに視線を落とした。高熱に喘ぐ彼は、朝から食べ物はおろか水さえも飲めていない。このまま弱ってしまうのは目に見えており、それはキットも同じであった。

 もし、医者の誘いを断ったとしてだ。時間の経過で症状が軽くなるにしても、宿代食事代で所持金は払底する。日銭を稼ごうにも、今の二人を残して出掛けるわけにもいかない。フェリジットもいつ症状が出てもおかしくない以上、単独行動は望ましくない選択であった。

 

「……こいつらを頼んだ」

 

 罠を承知で条件を呑む──危険な賭けであったが、今一番生存率が高いと思われる唯一の選択肢だった。

 医者はフラクトールと名乗った。真面目で誠実で──警戒していたのが馬鹿らしくなる程に、人の良すぎる獣人でもあった。

 馬車馬の如く働いてもらう──なんて言っておきながら、彼がルガルに命じるのは、集落近辺の哨戒という名目の薬草採集に、薪割りと料理の下拵えくらいだ。熊の討伐か暗殺か、それとも命懸けの用心棒か。それらを予想していたルガルからすると、ぬる過ぎる仕事内容であった。

 

(……おかしい)

 

 薪に手頃な木の枝を集めながら、ルガルは疑念を抱く。胸騒ぎ──というものだろうか。不吉な予感が脳裏を掠めるのだ。

 フラクトールは善人だ。しかし、善人の匂いに紛れ、ふとした時に血腥い。怪我の処置で移った臭いなのかもしれないが、何故か捕食者を彷彿させるのだ。

 

(待てよ……)

 

 一つ疑念を抱けば、そういえばあれもと引っ掛かりが増えていく。

 馬は草食だ──当然肉など食べないし、寒さの厳しい地区に旅行者なんて滅多に訪れることもない。

 だと言うのに、買い出しに着いて行った際に陳列棚に加工された肉が並んでいた。いったい、何処の消費者に向けてだ。

 

「──っ!?」

 

 殺気──咄嗟に飛び退いた瞬間、立っていた場所に矢が突き刺さる。あとほんの少し判断が遅れていたら、矢はルガルを射抜いていたであろう。

 嗅ぎ慣れた嫌な臭い──そう、これはルガルと同じ狼の臭いだ。

 臭いを辿り、木々の間を縫うように接近する。反撃の隙も与えず頭を掴み、木の幹に叩き付けた。

 

「きゃっ!?」

 

 相手は女狼であった。弓を持っている──恐らく、食料を求め狩りをしていたのだろう。そしてその途中、ルガルを見つけて攻撃した。

 狼は仲間意識が強い──故に、よっぽどの理由が無ければ同族を攻撃するなど有り得ない。ましてや殺すなど、極刑を免れぬほどの重罪だ。

 しかし、その刑罰さえも恐れずに襲いに掛かったということはつまり──

 

「あの人と同じように、私も食らうか? 同胞殺しのルガル!!」

 

 動揺──僅かに見せた隙を突いて、女はルガルの手から離れナイフを構えた。

 間違いない──この女は、ルガルと同郷だ。ルガルは彼女のことなどまるで知らぬが、恨まれる理由については心当たりあり過ぎる。

 

「禁忌は嘸かし美味だったでしょうね。おかげで私は許嫁を失ったわ。彼はアンタの血となり肉となった!」

 

 肉薄する刃──それを危なげもなく避け、勢いを利用して足払い。立て直す暇も与えず地面に叩き伏せた。

 

「言え──不可侵条約はどうなった。何故、馬の縄張りに狼がいる?」

「誰がアンタなんかに──っ!?」

 

 前触れも無く、腕を折った。悲鳴は雪に顔を沈めて黙らせる。それは、戦い慣れた戦士の動き。純粋な膂力では、この狼は退役軍人のルガルに勝てない。

 

「言え!!」

 

 同胞殺し──大罪を侵した者の実力との差に、女は恐怖し戦意など消え失せた。選択を間違えれば、殺される──本能が反抗という名の選択を忌避する。

 日が暮れる頃、ようやっとルガルは女を解放した。冬眠できなかった熊に襲われ命からがら逃げたと報告するように脅して。女に拒否権は無かった。顔を半分失い、泣きながら許しを乞い帰って行った。

 

「嫌なことを思い出させる……」

 

 舌にこびり付いた血の味を上書きするように、小瓶のドロップを噛み砕いた。それでも消えない。忘れるな──怨念のように罪の味が舌に刻まれている。

 

「遅かったね。お帰り──」

 

 出迎えたフラクトールは、帰って来たルガルの姿を目に入れ、息を飲んだ。

 血の臭い──本能が泣訴する。あれは捕食者だ。殺す者が放つ臭いだ。

 表に出さず恐怖心を抑え込む。上手く笑えているだろうか。フラクトールは引き攣る口元をどうにか持ち上げて微笑んだ。「寒かったろう。湯浴みしておいで」と、詮索することなく肩に積もった雪を払う。

 

「……世話になった」

 

 何も語らず、銭袋を差し出した。治療費として足りないこと百も承知だ。だが、今のルガルに払える対価はこれだけだ。

 

「……行くのかい?」

「もう……ここにはいられないんだ」

「シュライグ君は、キミの帰りをずっと待ってたよ」

 

 引き止めたところで己の言葉が届かないことをフラクトールは分かっていた。故に、聡明な彼は敢えてシュライグの名前を出した。ルガルにとって一番の心残りと見抜いていたからだ。

 

「おいで。数日は吹雪で誰も外には出られない。その間、ゆっくり考えたらいい」

 

 きっと、フラクトールは全てを理解した上で手を差し伸べてくれている。彼がどれほど善人かなんて、この数日尽くしてくれた出来事で十分過ぎるほど理解していた。

 その優しさに触れたら駄目だと分かっているのに──

 

「恩に着る……」

 

 目元を拭う──これが最後でいいから、仲間の元に帰りたかった。

 染み付いた血の臭い──洗っても落ちないそれは、お前は罪人だと告げる。ルガルが食った同胞達が残した呪いだ。

 フラクトールの厚意に甘え、湯殿から出たルガルは真っ先にシュライグの部屋に向かった。待ちくたびれたのだろう。一言声を掛けたかったが、ぐっすり寝ていたため諦めた。最後に顔が見れただけで十分だった。

 

「……じゃあな」

 

 着の身着のまま、荷物なんて殆ど持たず。別れの挨拶代わりに髪を撫で、部屋を出た。

 フラクトールは吹雪が止むまで待てと言ったが、待つわけにはいかなかった。待てば、決心が鈍る──己の我儘で、大切な仲間を危険に晒すことなどできなかったのだ。

 

「……あのさ、アタシには挨拶ないわけ?」

 

 先に説明しておくが、ルガルがキットに挨拶しないのにはある理由があった。

 その理由というのが──今、裏口の前で腕組みして立ち塞がるフェリジットだ。

 キットに会うということは即ちフェリジットに会うことに同義。彼女は察しがいい──ルガルの考えなど筒抜けで、夜逃げ同然に姿を消す前に殴ってでも引き止めるだろう。ただ予想外であったのは、彼女はルガルが思う以上に勘のいい女であったこと。裏を読んだつもりが、彼女はさらにその裏を読んで先回りしていたのである。

 

「フェリジット、これにはちょっとばかし理由があってな」

「へぇ……アタシを納得させられる理由なら、いくらでも付き合うよ」

 

 大股でずかずかと足音立てて近付く。あっ、これは──やばい。本能が警鐘を鳴らす。目の前にいるのは、猫ではない。豹、虎、獅子──とんでもない獣を飼っている化け猫だ。治療が早かったこともあり、症状が出なかったのが悔やまれる。

 彼女の気迫につい後退りし──背中に何かぶつかった。えっ? と、思った頃にはもう遅い。恐る恐ると振り返れば、満面の笑みを浮かべたフラクトールが立っていた。

 

「ルガル君」

「はい」

 

 名前を呼ばれ、咄嗟に畏まった返事をしてしまう。いっそ不気味なほどの笑顔に逃げたくなるが、後ろでは拳を打ち鳴らすフェリジットが待ち構えている。狭い廊下、のっぴきならない状況に冷たい汗が背中を流れた。

 乾いた音がした──一瞬何が起こったのか分からないまま蹌踉めく。熱を持つ頬に触れ、叩かれたのだとようやく気付く。

 

「これはシュライグ君の分だ」

「えっ……?」

 

 何のことか分からず、憮然と立ち尽くす。

 

「彼は賢いね。街に滞在を余儀なくされてる理由が自分だってことに気付いていたよ。嫌われたらどうしようかって悩んでた。しんどいだろうに、我慢してキミを待っていたんだ。そこにキミが出て行ったなんて言えば、彼はどう思うだろうね」

 

 シュライグの顔が浮かび、思わず俯いた。

 置き去り──今、ルガルは彼の母親と同じことをしようとしていた。母親に続き、自分までいなくなったと聞き、彼はどう思うだろう。母親と同じく、帰ってくるのを信じて待ち続けるのだろうか。

 

「アタシは嫌よ。キットのことで手一杯なの。だから、シュライグは拾ったアンタが面倒見なさい」

「フェリジット……」

 

 手厳しいことを言うが、これは彼女なりの優しさだ。棘のある言い方をする一方で、情けないルガルの尻を叩いてるのだ。

 

「話をしよう、ルガル君」

 

 おいでと、顎をしゃくる。ルガルに拒否権も無ければ、夜逃げの意欲も無くなっていた。

 

「キミを一目見てすぐに分かった……訳あり狼だってね」

 

 「正直、厄介事が舞い込んで来たと思ったよ」と、今でこそ笑い話に診察室の暖炉に火を灯す。猫と鳥と狼──奇妙な組み合わせに、彼は顔には出さずとも顰蹙していたに違いない。

 

「左腕、怪我しているのだろう? 診せてごらん」

 

 椅子に座るよう促した彼は、薬品棚からアルコールを取り出す。ここで前もって、お手柔らかにお願いします。とでも言っておけばよかったものを。処置と呼ぶには手荒にアルコールをぶっ掛けた。

 

「…………わざと痛くしてんだろ」

「はは、バレたかい?」

 

 これは相当怒らせている──なるほど、この男はこういう怒り方をするのか。表立って感情を露わにするフェリジットの方がまだ可愛いとさえ思えてしまう。

 

「正直、狼にはいい思い出なんて無くてね……追い出そうとも思った。けれど、妻子のことを思い出してしまってね」

 

 机の上の写真立て──言葉にしなくとも察しがついた。事故か病か抗争か。先立たれる理由なんて腐るほどあるご時世だ。

 

「なあ……それは、不可侵条約と関係するのか」

「……そうか。キミは、何も知らないまま部族を出たんだね」

 

 不可侵条約──馬と狼の部族間で結んだ条約だ。

 馬は賢い。報復を恐れた狼は、互いに領土に入ることを禁じて条約を持ち掛けた。馬も脅威が一つ減るのはメリットで、その条約を受け入れたのだ。

 だが、住民はルガルが街中を歩くことを疑問にも思っていない様子であった。馬の縄張りに狼がいること、それが当たり前に受け入れられていたのだ。

 

「不可侵条約は撤廃され、我々は同盟を結んだ。狼は我々の部族を守る代わりに、我々は知恵と物資を差し出す。ただ、力関係では狼の方が上である以上、随分足元を見られた条件でね。お陰様で私は軍医として連れて行かれ、妻子はその間に流行病に掛かって呆気なくだ」

 

 排斥された頃と変わらず、狼は絶えず何処かしらの部族と争っているようであった。闘争本能とでも言うのだろうか──自分も同じ血を流す者だ。争いを求めてしまう気は分からなくもない。けれど、それを仕方ないの一言で済ませるほどルガルは薄情でもなかった。

 

「さて、ルガル君。狼は仲間意識の強い獣人だが、キミは群れていない。かといって一匹狼を貫いてるわけでもない。となると、残るは自分から部族を出たか追い出されたかだが──」

「どっちも間違ってない」

 

 被せるように食い気味に答えた。それはどういうことだ? と、言わんばかりに鋭い眼差しを投げるフラクトールに、ルガルは意を決して口を開いた。きっと伝えたら最後、彼の優しさは敵に回るかもしれない。それならそれで良かった。追い出される方が、心残りも少なくて済む。

 

「ちょっとした昔話だ。狼の歴史上、類を見ない大悪党。またの名を共食い狼──」

 

 今も昔も、狼は誰もが恐れる戦闘民族だ。闘争本能に駆られる彼らの価値は、強さのみで決まる。弱い者、戦えない者は冷遇されて当たり前の価値観が根付いていたのだ。

 そんな閉鎖的弱肉強食の集落で、悪党は生まれた。雄が四匹、雌が七匹──貧乏子沢山家庭の長男であった。

 狼は、常に何処かの部族と争っていた。けれど、兵力は無限ではない。そこで軍は人手不足を解消するため、子供を買って軍人として教育したのだ。表向きは徴兵という名の子供の身売り。悪党も、軍に二束三文で売られた少年兵であった。

 

「なぁ……もし、軍が攻めてきたなら、アンタはどうする?」

 

 昔語りを中断し、問い掛けた。フラクトールは顎に手を当てながら、壁掛けの地図を取りその上に小瓶を置いた。

 

「真っ向から戦うのは分が悪いね。私が指揮官であるなら、部隊を分断させ兵站線を崩すかな」

 

 小瓶を駒代わりに、彼は兵を動かして見せる。その駒の配置に、ルガルは思わず目を剥いた。彼は軍医と言ったが、そこらの将校よりは用兵に長けているのではないかと思う。地図上の布陣は、まさにルガルが期待していた通りのものだったからだ。

 

「お前、参謀に向いてるな」

「……あんまり嬉しくない褒め言葉だね」

 

 咄嗟に口を衝いた褒め言葉を不服そうに受け取った。

 

「機嫌を損ねるつもりじゃなかったんだ。ただ、苦い思い出でな……それでつい、変なこと言っちまった」

「なるほど……なんだか結末が見えてきたよ」

 

 聡明な彼は、ルガルの発言を拾い眉間を押さえる。同情でもしてくれているのだろうが、それはルガルが願っていた反応ではない。さっさと結末を話して終わらせてしまおう。その結果通報されようが、もう話し出してしまった以上引くに引けない。

 

「ある抗争で、地の利を逆手に取られ部隊を分断された。供給ラインを絶たれた隊はあっという間に物資が払底。こういう時、真っ先に切り捨てられるのは──」

 

 兵糧を失った狼の部隊が切り捨てたのは、肉壁代わりの少年兵達だった。

 飢えた狼──極限の空腹が見せる幻覚に、石を齧り、泥水を啜る者さえもいた。誰もが生にしがみつこうと必死にもがいた。

 だが、飢餓は容赦無く少年達を壊しに牙を剥いた。きっと誰もが考えないようにしていたと思う。狼にとっての最大の禁忌を──けれど、悪魔が耳元で囁くのだ。同族の肉は嘸かし美味だろう。と……

 飲まず食わずの五日目──とうとう禁忌が破られた。誰もその行いを責めること無く、もはや善悪の区別さえも、極限の精神状態では判断つかなかったのだ。

 血で渇いた喉を潤わす。舌の上で転がる肉の味、音を立てて味わう。

 一人、また一人──禁忌に触れ、舌鼓を打つ。仲間が捕食対象へと切り替わった瞬間であった──

 

「──最後に立っていたのは、俺だった」

 

 かつて仲間だった者の舌を千切り黙らせ、生きたまま皮を剥ぐ。鬼畜の所業であったと気付いたのは、全てが終わり死を待つ罪人として牢獄へぶち込まれた後のことだった。

 

「死んで償うべきだとは分かっていた……でも、死ぬのは怖かった。日を追う毎に、俺が食った仲間達の声が耳元で鮮明に聞こえるんだ。アイツらの味が、舌にこびり付いて離れないんだ!」

 

 この上なく美味でこの上なく悪い後味。ルガルが懲りずキットのドロップを頂戴するのは、ふとした瞬間口に広がる罪の味を誤魔化すためだ。貰っておきながら、本音は甘い物が嫌いだ。純粋にそれを美味しいと味わうことさえもできないから。

 俯いたルガルの頬に、ひやりと何か触れた。「驚いたかい?」微笑むフラクトールの手にあるのは、果肉の浮いたシロップのグラスであった。

 

「フルーツのシロップ漬け。薬嫌いの子どもも、これがあれば嫌がらず飲んでくれるんだ」

 

 彼の厚意を突き返すのも違う気がして、躊躇いながらも口付ける。

 酸味と甘味が絶妙な塩梅に溶け合ったシロップであった。気付けば飲み干しており、空になったグラスにフラクトールはもう一杯と注ぎ足していく。甘味は嫌いだが、不思議と病みつきになる味だった。

 

「同胞殺しのルガル──極刑の大罪人を匿うことがどれほど危険か、お前なら分かるだろ」

「大罪人? ……さぁ、知らないね。私が知っているルガル君は、弱者のために手を差し伸べ居場所になれる。そんな優しい子だよ」

 

 フラクトールの優しい言葉が向けられる度、忘れるなと口の中に血の味が広がる。逃げるように何度も何度もシロップで上書きする。そして瓶が空になる頃には、頭の中がふわふわしていた。ガンジャ中毒にでもなったような気味の悪い高揚感に酔っていた。

 

「違うんだ……これは全部エゴなんだ。ただ、許されたかっただけなんだ」

 

 フェリジットに、キットに、シュライグに──秘めたる思いを赤裸々に語った。ルガルは、行き場の無い者の居場所になった覚えはない。種族を超えて手を差し伸べたのは、ルガルもまた帰る場所が無い寂しさを埋めるため。ルガルが彼らに見出す価値は、贖罪──ただそれだけだった。

 

「ルガル君……今までの行いにどのような価値をつけようとも、それはキミの自由だ」

 

 エゴ、偽善、罪滅ぼし──綺麗事の裏に潜む、生物の薄汚い感情。善意の皮を被った自己満足。これらを美しいと見るか、穢らわしいと見るか。そんなの個人の尺度だ。だが、一つ許せないことがあるとすれば、それは──

 

「でもね、キミのエゴで救われた者がいるのも事実だ。キミ自身が今までの行動を否定することは即ち、キミが手を差し伸べてきた全てを否定することに同義だとは思わないかね」

 

 一匹の泥棒猫がいた──同胞殺しの狼が見つけなければ、スリを続けいつか妹共々報復を受けていたかもしれない。

 一羽の羽なしがいた──共食い狼が拾わなければ、迎えに来るはずもない母親を待ち続け無辜の屍となっていたかもしれない。

 

「何度だって言うよ。ルガル君、キミはとても優しい子だ」

 

 嗚咽が漏れた──今までエゴや罪滅ぼしなんて言葉で片付けていた行いに、ようやく意味のある価値をつけることができたような気がした。

 年長者であるが故に吐き出せなかった本音を打ち明け、泣き疲れたのか半ば気絶のように寝入り突っ伏した。そんな彼の背にブランケットを掛け、フラクトールは写真立てを取る。

 

「それっぽいことを言って慰めてしまったが、私もキミと同じだよ」

 

 フラクトールは子どもに弱い──それは他ならぬ、失った我が子の影をルガル達に重ねているからだ。優しい町医者の裏の顔は、後悔で溢れている。

 

「お水……」

 

 ノックも無しに診察室の扉が開けられる。誰かと思えば、シュライグが目を擦り立ったまま船を漕いでいる。寝惚けてキッチンと間違えて入ってしまったようで、苦笑いする。

 

「それ、じゅーす?」

 

 呂律も回らないまま、彼が指差したのはテーブルの上の空瓶だ。彼は期待の眼差しを投げるが、肝心の中身はルガルが全て飲み干してしまった。申し訳ないが我慢してもらおうと思ったその時であった──

 

「おや……?」

 

 ふと、棚を見ればそこにもう一本瓶が立っている。それは先程、ルガルにやったはずのフルーツシロップの瓶だ。

 フラクトールも成人済の男性だ。付き合いもあれば、嗜む程度に酒は飲む。いや、嗜みでは収まらぬ蟒蛇だ。それこそ、果実を漬けて酒造さえするほど。

 診察室に置いていたのはフルーツシロップと果実酒の二本だ。残っているのはフルーツシロップの瓶。冷たい汗が背を伝う──空瓶のメモ書きには度数○○と記載されている。

 

「……やってしまった」

 

 泥のように眠るルガルの顔は、よく見れば赤い。それになんだか酒臭い気もする。

 未成年に馬鹿ほど酒を飲ませてしまうという失態にようやく気付き、頭を抱えた。

 その翌日、馬鹿ほど飲んだ酒の分だけルガルが二日酔いに苦しんだ。というのはさておき。

 吹雪が止んだのはさらに二日後。シュライグの背丈を優に超える積雪のため、雪掻きするべく数日の滞在期間を経て、ようやく一行は出立準備が整った。

 

「行くのかい?」

 

 見送りに出たフラクトールが一言「寂しくなるね」と、残念そうに告げる。

 

「事情が事情なだけにな」

 

 フラクトールとの生活は、親も居場所も無い彼らにとって夢のような時間だった。

 ずっと彼の厚意に甘えていたいという純粋な子供心と、同胞殺しを匿うことで彼に及ぶ弊害という葛藤。旅立つというよりは、出て行かざる得ないと言うのが正しいか。

 

「今更こんなことを言うのは狡いかもしれないけれど、言わせてくれ。ルガル君も、フェリジットちゃんも皆──私の子どもにならないかい?」

 

 ルガルが四人での旅を続けるか悩むのと同じく、フラクトールもまた悩んでいたのだ。

 同胞殺し、泥棒猫、羽なし──各々が排斥された理由を全て知った上で、フラクトールは彼らに強く惹かれていた。善意とは別に、過酷な運命に立たされた子どもを一人でも多く救うことで、自分もまた救われたいという気持ちが強くあったのだ。

 

「誘いは嬉しいけれど、それはできない」

 

 真っ先に断りを入れたのは、意外にもシュライグであった。空になった母の銭袋を握り締め、毅然と告げる。

 

「俺、母さんの子どもだから」

 

 残酷なまでに純粋に母を信じ続けているからこそ出てくる言葉であった。

 

「悪いな、フラクトールさん。こいつがこう言い出したからには、俺も拾い主として最後まで面倒見る義務がある」

 

 シュライグの覚悟を上手く言い訳にし、ルガルもまた断った。

 残るはフェリジットだ──彼女はキットを撫で、悩んでいるのか僅かに俯く。

 

「魅力的なんだけど……もう少し考えたい。保留にしていい?」

 

 彼女が悩んだのは他でもなく、キットのことを考えてだ。

 養子の話を受け入れることで根無し草の生活は終わるが、同時にそれは二人との別れを意味していた。

 何だかんだフェリジットは文句を言いつつも、妹のキットは二人によく懐いていた。そんな彼女から、親しい人を奪うのは酷ではないか。突然会えなくなった二人に、寂しさで妹の夜泣きが酷くなりはしないだろうか。それが気掛かりだったのだ。

 

「ははっ……全員に断られると、さすがにヘコむよ」

 

 せめて一人くらいは──なんて見込みは甘かった。

 けれど、フラクトールは諦めの悪い男でもあった。せめてこれだけはと、祈るような気持ちで言葉を続ける。

 

「これだけは約束してくれないかい? 何かあった時は、私を頼ること。断られてしまったけれど、キミ達が我が子同然に可愛いのは変わらない。頼ってもらえるだけでも嬉しいさ」

 

 そしてあわよくば──なんて邪な気持ちがあることはさておきだ。

 目を輝かせたのはシュライグで「またジュース飲んでいいの!?」と、食べ物に釣られている。「遠慮無く来たまえ!」フラクトールも満更でもなく豪快に笑った。

 

「これからだけど、目的地は決めているのかい?」

「いいや全くこれっぽっちも」

 

 馬の集落を訪れたのも成り行きだ。できるなら南に向かいたいものだが、部族間の抗争に巻き込まれたくないがために北で燻っているというのが正直な所。

 

「極北の地、教導国家ドラグマを目指してみてはどうだろうか?」

「ドラグマ?」

 

 馴染みの無い言葉に、シュライグが首を傾げる。

 

「長きに渡り国交が無かったから、知らないのも無理ないよね。ドラグマというのは──」

 

 無知なシュライグ達に向け、噛み砕いて彼は説明する。

 教導国家ドラグマ──民は獣人のように鋭敏な感覚を持たぬ非力な種だ。しかし、聖痕と呼ばれる力により、何も無いところから炎や水を生成する奇跡を授かっているという。

 ドラグマとは、お告げと共に聖痕を授ける教導枢機テトラドラグマを神と崇め、宗教国家を築き閉鎖的な生活を送る者達の総称。

 

「長く鎖国を貫いていたドラグマだが、猿の部族と交渉の末、外交を始めたんだ。友好の証とし集落に教会を築き、部族の長に聖痕を授け、猿達に名誉ドラグマの民を名乗ることを許したという」

「そりゃ面白い話だが、生憎俺らは宗教なんざ欠片も興味無い。惹かれる物がねぇな」

 

 獣は神など信じない──

 目先の自然や部族との抗争で手一杯なところ、神のつけ入る隙などないのだ。歴史上、宗教という文化さえも生まれなかったところを見るに、偶像崇拝は彼らの肌に合わなかったと見える。

 

「まあ待ちなさい。信仰心を持てとは言わないから」

 

 聖痕も奇跡も神さえもどうでもいいと言う彼らを引き止め、フラクトールは言葉を続けた。

 

「猿の部族が治める西方教会は、総本山から派生した一つだ。そこの教主が授かった奇跡は、手を翳すだけで病気も怪我も治してしまうものだとか」

 

 「医者の商売も上がったりだ」なんて冗談仄めかしつつ、彼の眼差しはシュライグに向いていた。

 

「もしかしたら、シュライグ君の翼をどうにかできるかもしれない」

「本当か!?」

 

 言われた本人よりもルガルの方が嬉しそうに答える。シュライグはというと、話の流れがよく分かっていないのか首を傾げるばかりだが。

 

「でも、所詮噂でしょ? 眉唾が過ぎるわ」

 

 フェリジットの鋭い指摘に、フラクトールは苦笑する。痛いところを突かれて返答に困っているといったところか。

 

「ま、まあ……でも、教会は非営利の慈善団体だからね。孤児の保護も積極的に行っているし、何かあったら駆け込んでみたらいいさ」

「まあ、それなら……」

 

 言いくるめられる形でフェリジットも頷いた。

 

「決まったみたいだね。それじゃあ四人とも、気を付けてね」

 

 見送ってくれたフラクトールに手を振って別れを告げ、北の最果てを目指す。

 北は寒い──寒気はより鋭さを増すだろう。

 もしかしたら、この厳しい寒気は──シュライグ達に来るなと告げていたのかもしれない。

 

「なあ、シュライグ。お前、飛べるようになったら何がしたい?」

「んーっと……ルガルと空飛びたい!」

「やめてくれ」

 

 尋ねたことを後悔するように、彼は顔を伏せた。シュライグは何が何だか分からないという様子で首を傾げ、その隣でフェリジットが声を押し殺して笑う。

 

「そうだ……お家、帰りたい」

 

 ふと、立ち止まり空を見上げて呟いた。

 空は、今までの悪天候が嘘のように晴れ渡っていた。

 故郷にいた頃──ずっと、こうして空ばかり見上げていた。自由に飛び回る同族達に憧れていた。ルガル達と行動を共にするようになってから忘れていたけれど──シュライグの帰るべき場所は、空高くだ。

 はぐれた母は、どうしてるのだろうか──

 

「帰りたいなら、帰ればいいじゃない?」

「フェリジット、お前なぁ……」

 

 それができたら苦労しない──現に、本人は知らないとはいえ、彼は捨てられたのだ。故郷を親を恋しがる気持ちは、痛いほど分かる。彼の境遇を知っていながら突き放す彼女に、ルガルはため息を一つ。

 

「俺の住んでた村、ずっと高い場所にある。だから、今の俺じゃ帰れない」

 

 険峻な山々と、切り立った崖──外敵から身を守るために、あえて厳しい環境の中作られた隠れ里。そこが、シュライグの故郷だ。

 

「友達ができたこと、沢山冒険したこと──いっぱい、母さんに伝えたいことがある」

 

 「お金を勝手に使ったことは、黙ってるつもり」と、舌を出して彼は笑う。

 

「シュライグ……」

 

 ドラグマを──正しくは、ドラグマと交流を行う猿の集落を目指して、仮に翼を得ることができたとしてだ。

 それは、本当に──シュライグの為になることだったのだろうか?

 羽なしを理由に虐げられてきた過去と、知らなければよかった真実。もしかしたら、シュライグに──飛べない方が幸せだったと後悔する時が、いつか来るかもしれない。

 

「ドラグマ、楽しみだね!」

 

 「早く行こうよ!」と、彼はルガルの手を引っ張っては頻りに急かす。

 

「そう……だな」

 

 目を逸らしてはいけないとは分かりつつ、決断を先延ばしにするように葛藤を胸の奥底に仕舞った。

 この時の俺達はまだ、世界には自然よりも手に負えなくて邪悪なものが世に蔓延っているなんて、知らなかった。

 今思えば──これから先起こる一連の出来事が、鉄獣戦線が生まれる全ての火種となった悲劇だったのかもしれない──

 

 

「人使い荒いっすよ、フェリジットさん……」

 

 半端ない気疲れに、ナーベルは肩を落とす。鉄獣戦線の数少ない女性にして高嶺の花、フェリジットにショッピングに誘われて浮かれてしまった過去の自分を殴りたい。

 だいたい、荷物持ちなら他に適した人材がいるだろうに。と、ぷりぷり怒りながら食堂を目指す。こうなればヤケ食いだと、夜食のおやつを求めにやって来たのだ。

 

「やぁ、ナーベル。こんな夜遅くに珍しいね」

「フラクトールさん? ルガルさんに、リーダーまで」

 

 ルガルが夜中まで起きているのはともかく、他二人がそれに付き合って夜更かししているのは滅多に見ない光景で、思わず首を傾げる。

 

「本当はもっと早くに切り上げるつもりだったんだが、予想外に盛り上がってしまってね」

「盛り上がる?」

 

 寡黙なシュライグと、紳士のフラクトール、頼れる兄貴分のルガル──この面子で盛り上がるって、どういうことだろうと益々ナーベルは訳が分からなくなる。

 

「もうルガルの酒に付き合わされるのは勘弁だ」

 

 常真顔で感情の起伏が読み取れないシュライグだが、この時ばかりは顔にうんざりと書いてあった。気の抜けた大欠伸をし、眠たそうに目を擦る。

 

「ああ……ルガルさん、酔っ払ってんすね」

 

 テーブルに突っ伏しうんともすんともな彼の近くには、空の酒瓶が何本も散らかっている。シュライグの草臥れ方を見るに、よっぽど酷い飲み方をしたのだろう。鉢合わせなくてよかったと、内心ほっとする。

 

「フェリジットも誘えばよかったかい?」

「本当にやめてくれ……アンタは楽しいだろうが、止める俺の身にもなってくれ」

 

 「何軒謝りに行ったと思ってるんだ」と、嘆くシュライグを見るに、どうやら酔い潰れるルガル以上に、フェリジットは酒癖が悪いらしい。高嶺の花の、知らなくていいどころか知りたくもなかった話である。

 

「飲むか、ナーベル」

 

 食堂に来たからには喉でも乾いたのだろうと予測し、シュライグがグラスを用意した。厚意は有難いが、ナーベルは未成年である。故に、飲むわけにはいかないと優等生らしく断りを入れた。

 

「いいっす。オレ、まだ成人してないんで」

「……? もしかして、シロップは嫌いだったか?」

「えっ? それ、お酒じゃないんすか?」

 

 酒盛りしていたと聞いたからてっきり。なら、貰おうかな。と、果肉のたっぷり浮いたグラスを受け取る。

 

「フルーツシロップ……昔から、フラクトールがよく作ってくれてたんだ」

 

 グラスに浮かぶオレンジを口に含み、昔を懐かしむ。

 ちょうど甘味が欲しかったところでもあり、ナーベルもシュライグに続き、グラスに口付けた。フルーツの酸味と甘みが溶け合ったシロップだった。露店で売っているものよりも甘さは控えめだが、むしろそれが飲みやすくて病みつきになる塩梅でもあった。

 

「私としては、そろそろカクテルくらいは飲んでくれてもいいんじゃないかと思うんだが」

「俺は下戸だ」

「飲めないんじゃなくて、飲みたくないんだろう? 勿体無い。ルガルとフェリジットの酒癖が悪いばかりに、反面教師になってしまったね」

 

 にべも無く返されてしまい、フラクトールは心底残念そうな顔をする。

 

「しかし、子どもの成長とは本当に早いものだ。ついこの間まで、ルガルに抱っこされてたかと思えば」

 

 情けない兄貴分の為に水を用意したりと、なんだかんだ言いつつ世話を焼くシュライグに向け、彼が一言。それに引っ掛かりを覚え、ナーベルは踏み込んでみた。

 

「フラクトールさんも、昔リーダーに会ったことあるんですか?」

「会ったことあるどころか、我が子同然だよ。シュライグ、今からでも遅くないからうちの子にならないかい?」

「いい加減しつこいぞ」

「聞いたかい? しつこいだって。彼、反抗期なんだよ」

「ええ……」

 

 なるほど、これが親馬鹿というものか──冷たく当たられていながらも、フラクトールの口元は緩んでいる。これは散々揶揄われたに違いない。うんざりするシュライグの気持ちがよく分かった。

 

「ルガル、行くぞ」

 

 思い出話に勝手に花を咲かせるフラクトールに、とうとうシュライグも付き合いきれなくなったらしい。微睡んでいるルガルを起こそうと、尻を蹴った。

 

「シュライグ〜、いつも俺のこと追いかけて、あんなに可愛かったのに……」

 

 フラクトールがタチの悪い酒豪なら、ルガルは泣き上戸といったところか。この酒の席で、本当によく彼は耐えたと思う。この時ばかりは、ナーベルも同情した。

 

「……もういい。行くぞ、ナーベル」

 

 駄目な大人達に毒されるのを心配してか。それとも、過去の恥ずかしい思い出話を聞かれるのが嫌だったのか。有無を言わせず、シュライグはナーベルの手を引き、食堂から出て行った。

 残されたフラクトールはというと、ルガルが飲み残した酒を煽り、息を吐く。

 

「……こうでもしないと、ルガル君は背負い過ぎてしまうからね」

 

 面倒を見てきたプライドからか、ルガルは弱音を吐かない。

 それを分かっているからこそ、フラクトールは折を見て酒の席を設ける。そして馬鹿ほど酒を飲ませる。翌日の二日酔いで彼は「もう二度と酒は飲まない」と誓い、晴れて禁酒に成功した数は二桁にも及ぶ。要するに禁酒は全くと言っていいほどできていないのだが、それはさておき。

 

「同胞殺しなんて名は、キミには勿体無いよ」

 

 鉄獣戦線には、仲間を手にかける者などいない。鉄獣戦線は、傷付いた弱者が身を寄せあっているだけの小さな群れだ。もし、ここにいるとすればそれは、心に傷を負った誰かの居場所になれる優しい人だ──



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Episodeフルルドリス 前編

 

 

 ドラグマと同盟を結んだ猿の部族──彼らが治める西方教会という場所を目指す道中のことだ。

 

「毎度上がり」

 

 ドラグマとの国交に伴い、人の往来も増えたらしい。雪道の街道に沿って歩けば、キャラバンとよく出くわした。その都度、換金や物資の補給のためルガルが交渉をし、シュライグもそれによく着いて行った。

 

(……まただ)

 

 視線──羽なしに向ける奇異の眼差しではない。かといって敵視しているわけでも、軽蔑しているわけでもない。

 舐め回すような、面白がるような──きっと適した表現があるのだろうが、幼いシュライグにはなんと言葉にすればいいのか分からなかった。唯一分かるとすれば、この上なく不快であることくらいか。

 

「ガキはいいのか?」

 

 行商人はシュライグを見下し、はっきりとそう言った。先の言葉の意味が分からず──けれど、何となく嫌なニュアンスを含んでいたことを感じ取り、得体の知れない怖さからルガルの背に隠れる。

 

「……何のことだ?」

 

 名前も知らぬ行商人に仲間をガキ呼ばわりされ、ルガルは苛立ちを隠しきれない声音で聞き返す。すると行商人は意外と言わんばかりに目を瞠り、こう言葉を続けたのだ。

 

「そいつは買い取らなくていいのかって聞いてんだよ」

 

 買い取る──一瞬、何を言われたか分からず目を見開く。ふと、脳裏に値札を首から提げた獣人の姿がチラついた。女児は肥えた中年男性に手を引かれ、男児は見るからにカタギでない獣人の馬車に乗せられる。彼らの行き着く先をシュライグは知らないが、きっと幸せとは無縁なことは分かる。

 行商人がシュライグの傍まで寄ったかと思うと、髪を掴んで持ち上げた。驚いて暴れるシュライグを彼は「活きがいい」と言って黄ばんだ歯を見せて笑う。

 

「今、奴隷市場じゃ奇形がブームでよ。特に子どものうちは買い手が──」

 

 言葉を遮るように、ルガルが男の手を払った。牙を見せて唸り、食い殺してやろうかと言わんばかりの殺気。彼がここまで怒るのを見るのは初めてであった。

 

「わ、悪かったって……そいつは、お前の取り分なんだな」

 

 ここでようやくルガルが怒っていることに気付いたようで、行商人はそそくさと荷物を畳み、逃げるように立ち去った。シュライグには詫びの言葉一つ掛けずだ。

 

「大丈夫か?」

 

 行商人の姿が見えなくなったところで、いつもの優しいルガルへと戻る。「フェリジットが待ってる」彼はそう言って手を差し伸べるが、シュライグはその手を取ることなく俯いた。

 

「ルガル、奇形ってなに?」

「……なんでもない、気にすんな」

「でも……俺が、何か変ってことだろ? 羽なしだから? ルガル、売ったりしない?」

 

 何と伝えたらいいのか分からず、シュライグは連想した言葉を訥々と声にした。今の気持ちが、この感情が何なのか、シュライグは上手く言葉にできなかった。

 

「心配すんな。ほら、馬鹿なこと考えてないで行くぞ」

 

 不安げな面持ちのシュライグを励まそうと、口にドロップを入れた。口の中で溶ける甘さとは別に、シュライグが抱く不穏な感情は全く溶けることなく胸の内に滞った。上手く誤魔化された──この事実が余計にシュライグを不安に陥れる。

 

(怖い──)

 

 羽なし──蔑まれた記憶が蘇る。憫笑、嘲弄、軽蔑──自身に突き刺さる悪意の数々に気付かない程鈍感でもなかった。恥ずかしいから外に出すな。隣人に詰られ謝る母の背は震えていた。

 ルガルの手を払い、先々と雪道を歩く。飛べるようになったら、この正体不明の胸の燻りも消えるに違いない。一刻でも早く、普通の枠に収まりたくなった。

 

「気にしてんだな……」

 

 小走りになるシュライグを見て、ルガルは顎に手を当てる。

 彼のことだ。期待するなら、分かりやすく感情表現するだろう。けれど、先々行く彼の様子は期待というよりも焦燥に突き動かされているという表現が的確に見えた。先のやり取り、上手く誤魔化したつもりが実はそうでもなかったらしい。

 

「どうするべきなんだろうな……」

 

 奇跡により翼を得れば、彼は鳥としての矜恃をようやく持てるようになる。しかし、胸を躍らせて帰郷したとして、その先待ち受けるのは捨てられたという事実だ。

 飛べるようになるのが幸せか。それとも、母を信じ続ける方が幸せなのか──

 街に着いた一行は、教会へと赴いた。しかし、タイミング悪く面会の時間は過ぎていた。猿部族の長──正しくは、西方教会の神父。名誉ドラグマの民として、教えに則り礼拝の途中だと断られたのだ。

 

「そんな……」

 

 それを聞き、目に見えてシュライグは落ち込んだ。肩を落とす彼に「明日行けばいいさ」とルガルは肩に手を置き告げる。しかし、その普段と変わらぬ言動が、どういうわけか彼の地雷を踏み抜いた。

 

「ルガルはいいじゃん! 俺と違って変じゃないから!」

 

 励ましたつもりが強く言い返され、ルガルは目を見開いた。いつも通り接したはずが、まさか怒られるなんて思ってもみなかったから。

 

「あー……その、なんだ。昼間のことは気にすんな。それとも、翼のことか。悪い、それならもっと他に言い方が──」

「そうじゃない!! 俺が気にしてんのは、そんなんじゃなくて……もう、何で分かってくれないんだよ! ルガルの馬鹿嫌い大っ嫌い!!」

 

 言葉足らずとは分かっていながら、それでもルガルは何だかんだシュライグの意図を汲んでくれていた。だからこそ、今この瞬間上手く伝わらないのがもどかしくて、また誤魔化されてるような気もして、それが嫌で悔しくて、シュライグは逃げるように教会の前から立ち去った。

 さて、シュライグの少ないボキャブラリーでボロくそに言われた彼は、魂が抜けたような落ち込み様であった。「嫌いって言われた……それも二回も」と、この世の終わりみたいな面で呟く。

 

「なぁ、フェリジット……俺、シュライグに嫌われるようなことしたか」

「……アタシに聞かないでよ」

 

 投げやりに吐き捨てる彼女の顔には、でかでかとうんざりと書いてあった。

 夕暮れにはまだ少し余裕のある時間帯、街は活気づいていた。露店の商人は手を叩き客寄せし、踊り子が大道芸を披露する。客が犇めく大通りの喧騒の中、まるで切り取られたようにシュライグの耳には街の騒々しさなど入らず、彼は隅で茫洋と冬空を見上げた。遥か遠い故郷、手の届かぬ場所を想って。

 

「母さん……」

 

 母とはぐれた日のことをふと思い出し、無意識に呟いた。はぐれたのはちょうどこのくらいの時間で、街は賑わっていて──

 

「母さんも、俺が変だから迎えに来てくれないの?」

 

 ルガル達と過ごす日々が楽しくて、つい忘れていた。いざ一人になってみれば、無性に寂しく不安になり俯く。母は、突然いなくなった息子をどう思っているのだろうか──

 

「お前達は、謝ることもできないのか!!」

 

 怒鳴り声──考えるのをやめ、顔を上げる。飛んでくる牛の巨体に、慌ててその場を離れた。下敷きになった露店商が一件潰れ、先の判断は間違ってなかったと、冷たい汗が背を伝う。

 熱に浮かされた声──この盛り上がりは、シュライグにも覚えがある。ストリートファイト、大通りが即席のリングへと変わったのだ。

 熱狂的な雑踏の隙間を縫って最前列へ出る。

 柄の悪そうな牛の獣人が数人。対峙するのは、まだ少女と言っても過言ではない甲冑を着た女で、座り込んだ鳥の獣人を庇うように立っている。

 

「あの人、耳も尻尾も無いや」

 

 女には獣人特有の耳も無ければ尾も無く翼も無い。鋭い牙も無ければ爪も無い。何も武器を持たない非力な女。構えを取る彼女の手の甲には、煌々と燃える痣が浮いていた。

 

「相手は一人だ、やれ!」

 

 ただでさえ巨体で怪力な牛が、女一人に寄って集って襲いかかった。牛のタックルがどれほど危険か──それを知っていたなら、喧嘩など買わなかっただろうに。

 勝負は一瞬で方が付いた。予想もしなかった女の圧勝である。

 猪突猛進に突っ込んできた相手の勢いを利用していなし、膝蹴りを叩き込み一人撃破。続くもう一人には顔面に拳を喰らわせ、怯んだところ体格差も無視して投げ飛ばす。そして最後の一人は──

 

「ぎゃああああああっ!?!!」

 

 倒れた仲間達を見て立ち尽くす。そんな彼の手を取った瞬間、雷鳴を聞いた。

 女の手を伝い、電撃が牛の男を駆け抜けたのだ。肉の焦げる音──ギャラリー達は蜘蛛の子散らすように逃げ出した。本能が泣訴する火の気配に、恐怖を抱かずにいられなかったのだ。

 

「しまった、加減するつもりが忘れてた」

 

 泡吹いて倒れた獣人に、女はついうっかりといった様子で目を丸くさせる。

 非力そうな外見に反し、女は強かった。おそらく、この場に居合わせた全ての獣人が数に物言わせて襲いかかったとしても、一騎当千文字通りに返り討ちにするだろう。竜をも超える化け物が、少女の皮被って立っている。

 

「大丈夫か?」

 

 腰抜かした鳥の獣人に手を差し伸べる。しかし、彼はその手を取ろうともせず──手を取った瞬間、先の男のように電撃で焼かれてしまう想像が脳裏を過ったのだ。

 

「クソ女が……」

 

 電撃に焼かれた男が起き上がる。元が強靭な肉体を持つ獣人の中でも、とりわけ頑丈な牛だ。見た目の割に致命傷には程遠く、「こんなのかすり傷だ」と鼻血を拭う。

 牛の獣人が取り出したのはナイフであった。少女の方は牛の獣人に背を向け、鳥の獣人に語り掛けている。おそらく気付いていない。

 

「危ない!」

 

 咄嗟に駆け出していた。筋骨隆々の牛の獣人を相手に非力な鳥が勝てるはずもないのに、その彼我の差さえも見誤りシュライグは体当たりしたのだ。

 捨て身の攻撃をした結果は、僅かに相手の注意を逸らすくらいで終わった。しかし、牛の獣人が接近していることを知らせるには十分な空白で、女が振り向いたのである。

 

「武器を持ったということは、私も丸腰で相手するのは失礼に値するな」

 

 ここでようやく、女が本気を出した。鞘から剣を抜き、切っ先を向ける。

 不思議な力を帯びているのが分かった──ドラグマに代々伝わりし、神器。今はまだ騎士見習いの立場でしかないが、女は強力な奇跡を扱うことができるため特例で所持を許されているのだ。尤も、無闇にその力を使うのは禁じられているが。

 勇猛果敢と無謀を履き違えて挑んだ牛の獣人であったが、ようやく武器を抜いたという事実に今まで手心を加えられていたと気付いた。戦意喪失──部族の恥を承知で尻尾を巻いて逃げだした。

 

「なんだ、気骨の無い奴だったな」

 

 物足りないと不満げに女は呟いた。女は獣人よりも非力な見た目をしているくせに、中身は野蛮で好戦的な戦闘狂であった。

 

「おじさん、大丈夫?」

 

 未だ地べたに座り込んだままの鳥の獣人に話しかけた。よく見れば、彼は片腕が無かった。事故か病気か──おそらく、それを理由に先のガラの悪い連中に絡まれたのだろう。そして、通りがかった正義の味方気取りの女が代わりに喧嘩を買ったのだ。

 

「羽なしの分際が、気安く話しかけるな」

 

 辛辣な科白と共に唾を吐き捨て、胸糞悪いと彼は立ち去った。片腕が無いという事実だけ見れば、シュライグと彼は体の一部が欠けているという共通点がある。しかし、それを踏まえて先のセリフが出てくるのだとすれば、彼はまだ片腕を無くしたという事実を受け入れることができていない。根付いた差別意識に従い、圧倒的にシュライグを下と見たのだ。

 

「失礼な男だな、彼は」

 

 何も言わぬシュライグに代わり、女が憎々しげに「恩知らずめ」と、呟いた。

 

「慣れてるから平気」

「慣れてる?」

「うん」

 

 嘲笑も侮蔑も、とうに慣れた。今となっては泣くことにも飽きて、ああまたか。と、受け流すことだけは得意になった。言い返したところで余計に傷つくのだと子供なりに学んだ結果だった。

 

「でも、それを理由に母さんが謝らなきゃいけないのは嫌い」

 

 不愉快だから外に出すなと、同族達は後ろ指を差す。羽がないのは自分なのに、母を巻き添えにするのは卑怯だと、幼いながら何度も憤りを感じたのを覚えている。

 

「……怪我してる。これは私の所為だな」

 

 気不味く思ったのか、女は話題を変えた。シュライグの頬に真一文字に走る切り傷があることに気付いたのだ。彼は全く気付いていないのか痛がる素振りもないが、相当深く切っているようで血が止まらない。

 牛の獣人に立ち向かった時にできた傷だ。しかし、その傷を作った原因に女も関わっている。放っておくこともできないと、シュライグの手を取った。

 

「おいで。アディン様が治してくださる」

 

 手を引かれて歩く。女が案内したのは教会であった。先程嫌な顔で門前払いしてきたくせに、女の顔を見た途端衛兵は態度を変えてすぐに門を開ける。あれほど苦戦したというのに、拍子抜けするくらいあっさりと中に入れてしまった。

 

「よう、フルルドリス! おっと、なんだそのちっこいのは」

 

 静まり返った教会の廊下を歩く途中、引き締まった体付きの男が馴れ馴れしく話しかけてくる。彼はシュライグを見て訝しげに首を傾げた。

 

「テオ殿、アディン様を見かけになられませんでしたか?」

「アディンか? アイツなら、今頃礼拝を終えて自室に控えてんじゃねぇか」

「感謝します」

 

 女は一礼し、また歩き出す。そんな道中の沈黙にも飽き、シュライグは意を決して尋ねてみた。

 

「お姉さん、俺シュライグ。ねぇ、なんて呼んだらいい?」

「フルルドリス。それが私の名前だ」

「ふーん……フルルドリスもだけど、なんでさっきの人には耳も尻尾も無いの?」

 

 シュライグの生きてきた世界は、ルガル達と旅をすることで広がった。しかし、それでも世界は彼が思うよりずっと広く、彼が見てきた世界はほんの一部でしかない。今まで獣人にしか会ったことないのがいい例だ。現にフルルドリスには獣人にあるはずのものが見当たらず、彼女の存在こそがシュライグが今まで見てきた世界や常識を否定する要素となっている。

 

「それは私達は獣人ではなく、ドラグマの民だからだ」

「ドラグマの人は、皆フルルドリスみたいなの? 変なの」

「ドラグマを代表して言わせてもらうが、獣人の方がよっぽど奇天烈な見た目だと思う。もちろんキミも例外ではないよ」

 

 獣人が獣人同士でしか今までコミュニケーションを取ってきていなかったのと同じく、ドラグマもまた同士としかコミュニケーションを取ってきていなかったこともあり、互いに未知の存在という認識がよく現れたやり取りであった。

 

「アディン様、フルルドリスです。入室の許可を頂いても?」

 

 一室の前で立ち止まり、フルルドリスは戸を叩いた。遅れて、嗄れた男の声が「どうぞ」と告げる。

 中で待っていたのは初老の男であった。ちょうど本を読んでいた最中だったらしく、栞を挟む。シュライグを一目入れ目を丸くするも、すぐに微笑み浮かべて招いた。

 

「キミはフルルドリスのご友人かい?」

 

 アディンと呼ばれた男は、シュライグに椅子に座るように促しそう尋ねた。シュライグは目をぱちくりさせながらも従った。

 

「いえ、アディン様。彼は偶然会った現地の子どもで──」

「そうだよ!」

 

 否定しようとしたフルルドリスの言葉を遮り、溌剌と頷いた。

 

「フルルドリス凄いんだよ! 牛をね、ギッタンバッタンにしてね、ちぎって投げてね、丸焼きにしてね、それで今度は三枚に下ろそうと──」

 

 ストリートファイトの一部始終を語るシュライグであったが、誤解を招く説明に慌ててフルルドリスが彼の口を塞ぐ。

 

「ち、違うんですアディン様! 少し灸を据えただけで、ちぎってませんし、三枚にもおろしてません!」

 

 投げて殴って蹴り上げた事実はさておきだ。アディンは特に詮索することもなく「お二人とも仲が良いのですね」と、相好を崩す。

 

「シュライグ君、少し眩しいかもしれませんが我慢してくださいね。いきますよ」

 

 皺だらけの手が頬を撫でる。燦然と輝く光の粒子が舞った。眩しさに目を細めるも、すぐに光は収まる。「終わりましたよ」その一言に恐る恐ると頬に触れれば、傷の感触はどこにもない。

 

「凄い! 今の何!?」

 

 本来なら止血、消毒をし傷の治りを待つところを、彼は手を添えただけで完治させた。まるで手品みたいだと、シュライグは大盛り上がりである。

 

「これが私が授かった奇跡です。傷や病気を治すことができます」

「それって……俺の羽も治せる?」

 

 アディンの奇跡を目の当たりに、期待するように片翼を動かす。欠けたもう片方の翼があれば、対称に動いていたことだろうに。

 

「奇跡は万能ではありません」

 

 やんわりと話していたアディンの雰囲気が一変した。厳しくも、シュライグの期待を裏切り淡々と真実を告げる。

 

「奇跡と言えども、摂理に反した行いは不可能です。失ったものは元には戻らない。それはキミの翼もですし、生命を操るなど以ての外。どれほど強力な奇跡を持とうとも、そこから先は神の領域です」

「で、でも……この街の猿の長ならできるって!」

「どなたが喧伝したかは存じ上げませんが、それこそ噂に尾鰭が付いただけでしょう。扱う側だからこそ分かる。物事には限界が付き纏います」

「そんな……」

 

 悄然と肩を落とした彼に、なんと言葉をかけるべきなのだろうか。フルルドリスがかける言葉を決め倦ねている間に、顧慮したアディンが彼女に指示する。

 

「フルルドリス、彼を送ってあげなさい」

「御意」

 

 奇跡が当てにならないと知り余程ショックだったらしく、シュライグは無言のまま俯いた。こういう時、どう励ましたらいいのだろうか──フルルドリスは腐心する。友人にかける言葉を彼女は知らない。並外れた才覚故に彼女は民にとって生きた憧憬。慕う者はいても、今まで友という存在はできたことなかったのだ。

 斜陽の差す大通りは、夜市に向け露店が並んでいた。これからこの通りは娼婦と酔っ払っいが闊歩する飲み屋街へと変わるだろう。

 ふと、フルルドリスは飲み屋の露店の中に一つ毛色の違うものが紛れていると気付く。

 

「甘い物は好きか?」

 

 唐突に尋ねられ、シュライグは戸惑いながらも頷いた。すると彼女は、シュライグを連れて露店に立ち寄った。昼間を稼ぎ時にしていた甘味処で、もう店仕舞いの準備をしていた。しかし、気さくな店主は突然の来客に嫌な顔せず、注文を受ける。

 

「はい」

 

 差し出されたのは、生地に果物を包んだお菓子であった。「クレープは食べたことないか?」彼女の問いに頷く。見たことも聞いたこともない未知の食べ物に首を傾げつつ、一口味をみる。

 

「美味しい」

 

 初めて食べるクレープの味に、少し元気が出たらしい。口の周りを汚しながらかぶりつく姿に、フルルドリスは胸を撫で下ろした。

 

「フルルドリスも食べよ」

「いや、私は──」

 

 断ろうとするも、グイッと口元に近付けられ、フルルドリスが折れた。「一口貰うよ」と、苺を貰う。美味しい物を共有したいという子ども心を汲んでの行動だった。

 

「ねぇ、フルルドリス……変なこと聞いていい?」

 

 食べるのをやめ、シュライグは不安げな面持ちでフルルドリスを見上げた。

 

「奇形って……なに?」

「それは──」

 

 答えにくい質問であった。今目の前にいるシュライグが片翼でなかったなら、きっと迷うことなく即答できただろうに。キミのような人物を表す蔑称だよ。なんて直球に告げる勇気、彼女は持ち合わせていなかった。

 

「あのね、この街に来るまでね──」

 

 訥々ながらもシュライグは言葉にして伝えた。道中のキャラバンに、手荒に扱われたこと。人身売買に関わる話を持ち込まれたこと。キャラバンは皆、値踏みするような眼差しであったこと。

 

「ルガルに聞いても教えてくれない。気にすんなって」

 

 きっと、シュライグのことを考えての発言だったのだろう。もし、フルルドリスもそのルガルという人物の立場であったなら濁していた。告げてしまえば傷付けてしまうと思ったのだ。

 ただ、その気遣いは裏目に出た。傷付けないつもりで誤魔化したが、シュライグにとってはそれが不満だったらしい。疎外感、不信感──積もりに積もって、爆発した結果が喧嘩に繋がった。

 逡巡の末、フルルドリスは意を決して口を開く。遅かれ早かれ何れ知ることになるはずだった意味だ。知りたいと言うなら、今教えてあげる方がまだ受け入れられるかもしれないと思ったからだ。

 

「予め言っておく。ルガルという人物が伝えなかったのは、キミのことを思ってだろう。だから、決して責めてはいけないよ」

「うん、約束する」

「いい子だ。奇形というのはね──」

 

 大通りの喧騒から切り取られたように、二人の耳には互いの声しか届かなかった。できるだけ言葉を選びながらフルルドリスは語り、シュライグはそれを真っ直ぐ受け止める。傷付けてしまうのでは──そんな気遣いは無用だったと、話し終えて気付く。彼はフルルドリスが思うよりもずっと強い子だった。ルガルとて予想していなかっただろう。

 

「なんだ……じゃあ、奇形って羽なしを言い換えただけの意味じゃん」

 

 「気にして損した」と、あっさり受け止める。

 

「意外だな。結構引き摺ると思った」

「羽なしなんて言われるの、今更だから……てことはもしかして俺、ルガルに気を遣われたってこと!?」

 

 フルルドリスの説明を受けて、やっとシュライグもルガルの意図を汲んだらしい。「酷いこと言っちゃった」と、奇形よりもこちらの方がダメージが大きかったらしく、肩を落とす。

 

「後で謝れば許してくれるさ」

「ほんと? 嫌いにならない?」

「逆に言うが、その程度のことで険悪になるような仲だったのかいキミ達は?」

「それもそっか」

 

 と、途端悩むのをやめ、食べかけのクレープにかぶりつく。友人の悩みが解消されたならそれはよかったと、フルルドリスは息を吐く。

 

「シュライグ!」

 

 タイミングを見計らったように、迎えが来た。人集りの中、よっぽど探し回ったのだろう。汗だくになりながら、人混み掻き分けてルガルが駆け寄る。

 蟠りはこれで溶けただろう。再会を喜ぶ二人に水を差すのも悪いと、フルルドリスはさり気なく場を離れた。

 教会に戻り、報告書のことを考える。騎士見習いの立場とはいえ、首都を出て遊びに来たわけではない。視察という任務である以上、報告しなければならない。

 

(おや……)

 

 蝋燭が頼りなく照らす渡り廊下。ふと中庭の方を見れば、晦冥の中、二人の人影を捉えた。侵入者か。と、不届き者の行動を監視するが、よく見れば法衣を纏っている。どうやら聖職者が話し合っているようだ。雪の降る寒い夜で、人目を気にするようにコソコソと話し合う必要なんてないだろうに。

 

(枢機卿と……猿の獣人。そうか、あれが例の西方教会を治める神父か)

 

 一人は初老の女で、もう一人は猿の獣人であった。そう、ドラグマと獣人との橋渡しとなった枢機卿と猿の神父だ。歴史に残る程の偉業を成したのだ。人目を気にせず、水入らずで話したいことでもあったのだろうと推測する。

 

「お疲れ様です、フルルドリス。例のご友人は?」

 

 声を掛けられ振り返る。アディンがいた。急患でも来たのだろう、余所行きの法衣を着ている。付き添いかテオも隣に立っていた。

 

「彼は仲間の元へ返しました」

 

 と、報告し、そういえばと引っ掛かりを覚える。

 鳥の獣人でありながら、迎えに来たのは狼だったと。親にしては若過ぎるし、友達にしてはかなり年が離れており、兄弟と呼ぶのがしっくりくる。そんな関係であった。

 

「それではフルルドリス。今日一日の報告を聞きましょうか」

 

 プライベートの会話はここまでだと、彼は言外に告げる。今この瞬間、彼はフルルドリスの上官としての命令を下した。

 

「国交が影響し、経済効果が生まれているのか人の往来が獣人ドラグマ問わず増えている模様。ただその影響に伴い、治安の悪化が懸念されます」

 

 昼間のトラブルがいい例だ。獣人に根付いた弱肉強食の差別意識が呼んだ出来事だろう。人の往来が増えるとは即ち、部族間での衝突も増えるということ。ドラグマと違い、獣人は種によって生体も違えば文化も価値観も違う。異文化同士の交流は良い刺激にも悪い刺激にもなる。治安維持と仲裁を目的とした専属部隊の配属も念頭に入れなければ、せっかくの国交も悪い方向へと進みかねない。

 

「そういえば……」

 

 脳裏にシュライグの姿が過ぎる。街で起こる様々なトラブルの殆どは、障害を負った獣人が関わっていたと思い出す。

 羽なしの彼を筆頭に、片腕の無い鳥、一つ目の猫、白い鴉、牙無し狼、這って歩く兎──いくら何でも、自然界で生きていくことが困難な獣人がこの街には多過ぎる。

 

「偶然……なのでしょうか。羽なしのシュライグもですが、この街、何かしら身体に欠損を抱えた者が多い。獣人は群れる傾向にあると言いますが、仲間と思わしき同族の姿が殆ど見えない」

「ほう……それは興味深い話ですね」

 

 どうやらアディンも、この街の様子に違和感を覚えていたらしい。隣に立つテオに意見を述べるよう促した。

 

「いい着眼点だ、フルルドリス。俺も少し聞き込みに回ったんだが、どうやら巡礼者が姿を消しているらしい。共通点は獣人で、その殆どがアンタが述べた障害者ときた」

 

 情報共有で思わぬ収穫と同時に、不穏な気配を察する。

 障害者の獣人が挙って西方教会を訪ねる理由。シュライグは確か、なんと言っていたか──

 

「もしかして彼らは……奇跡による治療を当てにして」

 

 排斥される理由など明確だ。分かりやすい口減らし──帰る場所も居場所もなくなった彼らは、藁にもすがる思いで西方教会を訪れた。そこに示し合わせたように行方不明者の話とくれば、あとはいくらでも推測できる。

 

「行き場の無い者を食い物にしてる連中が、この街にいるのか」

 

 秩序を重んじるドラグマの膝元であろうと、悪は蔓延る。友の期待を踏み躙る悪人が、この街で私腹を肥やしている。憶測に過ぎぬとはいえ、判断材料には十分な証拠が集まった。

 

「ただの視察で終わると思いましたが、この街で何かが動いています。フルルドリス、どうかご友人から目を離さぬよう」

 

 本来なら、任務に私情を持ち込むことは許されない。しかし、フルルドリスはまだ騎士見習いの立場だ。正式な入隊を済ませていない彼女を騎士同様の扱いで働かせるのは酷と判断し、アディンは告げる。

 

「ご厚意感謝致します、アディン様」

 

 秩序を重んじるドラグマの膝元で、不穏な影──まだ幼く何も知らない友にはどうか手を出してくれるなと、祈るような気持ちであった。

 しかし、この一連の事件は騎士として長い経歴を持つアディンさえも欺くほど、残忍で狡猾な悪が裏で手を引いていた。

 

「なるほど、羽なしの子どもですか」

 

 獣人の感覚は非常に鋭敏だ。例えドラグマの民が聖痕により身体強化を行おうと、埋められない差が存在する。その一つが五感である。

 

「どうかされましたか、神父殿」

「ええ、枢機卿。とてもよいことを聞いてしまいましてね」

 

 討つべき敵がすぐそこにいることなど、誰も気付くことない。馬鹿な連中だと、悪党共は喉を鳴らして嗤うだけ。

 



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Episodeフルルドリス 中編①

 

 翌日、シュライグ達は再度教会を訪れた。アディンには遠回しに意味などないと言われたが、それでもシュライグは諦めきれなかったのである。それとは別に、旅の資金が心許ないため教会での援助を当てにしていたという理由もあるが。

 

「相変わらず、すげー人だな」

 

 面会の時間はまだ先だが、教会の入口は既に人で溢れていた。寒空の下、順番待ちの時間を考えると憂鬱になる。

 ふと、シュライグは雑踏に紛れる紫の髪を見つけた。繋いだルガルの手を払い、人混み掻き分けて近付く。

 

「フルルドリス!」

 

 彼女が振り向くよりも先に飛び付いた。突然のことで身構えた彼女であったが、シュライグと分かるやいなや警戒を解いて相好を崩した。

 

「シュライグか。ちょうど、キミ達を探していた」

「なんで?」

「話したいことがあってね」

 

 なんだろうと首を傾げるシュライグの髪を撫でつつ、狼が追ってくるのを捉える。シュライグ達が教会を訪れるかは賭けであったが、張っていた甲斐があったと内心ほっとする。

 

「シュライグ、急に飛び出すなって」

「ごめん、ルガル。フルルドリスがいたからつい」

 

 狼に叱られる鳥──奇妙な光景であった。フルルドリスとて食物連鎖については学んでいるが、それを真っ向から無視した関係性に興味が湧く。

 

「驚いた。狼と鳥は仲が良いんだな」

「仲が良いというか、俺達は例外中の例外だな」

 

 気不味そうに目線を泳がせながら答える彼に、詮索は嫌われそうだなと考え、話題を変えた。

 

「初めまして、私はフルルドリス。シュライグから聞いたよ、キミがルガルだね」

「ああ、昨日シュライグが世話になった」

 

 互いに手短な挨拶で済ませ、早速本題に入ろうとフルルドリスは告げた。

 

「会って早々悪いが、キミと話したいことがある。今、二人きりになっても問題無いだろうか?」

「へぇ……ドラグマの騎士が、しがない孤児でしかない俺と密会希望か。何企んでる」

「疚しいことは何も無いが、少々物騒な話になりそうでね。彼に聞かせるのは酷だと思っただけさ」

 

 興味津々に教会を見上げるシュライグを尻目に、フルルドリスは耳打ちする。

 物騒な話ともなると、初対面とはいえさすがにルガルも無視できない。仲間が世話になったことも含め、信用はしないが話を聞くくらいならと頷いた。

 

「シュライグ、フェリジットとお利口に並んどけよ」

「それはいいけど、ルガルは?」

「ちょっと野暮用」

 

 何か言いたげなシュライグから、逃げるように雑踏に紛れて隠れる。彼女は人気の無い裏門まで案内し、そこで足を止めた。

 

「単刀直入に言う。キミ達が求めるものはこの街に無い。早々に立ち去れ」

 

 回りくどい言い方は無しだと、彼女は端的に告げた。物騒とは予め言われていたが、さすがに出て行くよう告げられるとは思っておらず、ルガルは目を見張る。

 

「奇跡のことか? なら、最初から胡乱な点があると疑っていたから問題無い。でもよ、立ち去れってのはどういうことだ」

 

 訳を説明しろ、でないと従わない。彼の鋭い眼差しはそう訴えており、フルルドリスは仕方ないとため息を吐く。

 

「本当なら伏せておきたかった情報なんだが──」

 

 疑わしい点は多くあれど、憶測で話すことを彼女は好んでいない。しかし、そうとも言っていられない窮状だからこそ内密に伝える。

 西方教会を訪れる獣人の多くが障害者であること。そして、示し合わせたように行方不明者が出ていること。行方不明となった獣人は、誰一人として帰って来ていないこと。

 最初は警戒していたルガルも、話を聞くにつれて眉間に皺を寄せた。悩ましげなため息を一つ吐き、たっぷり間を開けて口を開く。

 

「……正直、お前の話をどこまで信じたらいいか分からない。だがまあ、ただの偶然にしちゃできすぎだよな」

 

 街に入ってからの違和感は、ルガルも覚えていた。獣人の多くが障害者でどう見ても群れから弾き出された者ばかりだと、同じ鼻つまみ者としての勘が告げるのだ。そして、道中のキャラバン達の不審な言動──ここまでの判断材料が揃っておきながら、疑わない選択肢は無い。

 

「俺達は目的を持ってここに来たように見せかけて、実はただ集められていただけってことか」

 

 よくできたシナリオだ。障害を理由に排斥された部族を効率良く集めるため、街も奇跡も首魁に上手く使われたのだ。

 

「実に業腹だ。何処の誰かは知らねぇが、よくもそんな悪どい真似ができるもんだ」

 

 道中のキャラバン隊と言い、全て繋がっていた。回りくどい手でシュライグの期待を裏切った連中への恨みもあるが、それ以上に気付けなかった自分自身に一番腹が立つ。

 

「忠言、感謝するぜ。お前の言う通り、さっさとおさらばさせてもらう」

 

 わざわざ身の危険を冒してまでこの街に残る意味は無いと、彼女の忠告に従いルガルは出立を考える。さて、シュライグとフェリジットをどう説得するべきか。

 一方フェリジット達は、ルガルに言われた通り利口に列に並んで──は、おらず。

 

「あの変態が先にキットに触ったのよ。これは正当防衛よ」

「どう見ても過剰防衛だって……」

 

 ため息を吐くのは、ドラグマの騎士団に所属する青年テオであった。教会の空き部屋で尋問する彼の顔には赤いバッテン傷がついており──痴漢騒ぎの仲裁に入った結果、フェリジットにやられた勲章だ。

 

「たくよー、フルルドリスのダチじゃなけりゃ独房にぶち込んでやったってのに」

「ご、ごめん……」

「いや、お前が悪いわけじゃねぇんだ」

 

 未だ腹の虫が収まらぬフェリジットに代わり、シュライグが頭を下げる。別に謝罪を求めていたわけではないため、テオは尚更気まずくなる。

 

「こっちも一応仕事だから確認するが、発端は妹に手が当たったってことでいいよな」

「当たったんじゃない。あれは確実に掴もうとしてた。人混みを利用してキットを狙ったのよ。間違いないわ」

「じゃあ訂正な。お前が妹を抱っこしていたにも関わらず、変態が寄ってきて触ってきた。だから抵抗した」

「あ、抱っこしてたのは俺! フェリジットはトイレ行ってたから、代わりに抱っこしてて、そしたら知らない人が来て、フェリジットが怒って飛び蹴りした!」

「だあああぁぁぁ!! また一からやり直しじゃねぇか!」

 

 尋問する相手は不機嫌なフェリジットと口下手なシュライグ。話を進める度情報が小出しされていき、早くも三回は同じ質問を繰り返している。

 

「じゃあ、少年が赤ん坊抱っこしてたら変態が寄ってきて──」

 

 要約の途中で息を呑む。テオの眼差しは標的となったキットからシュライグへと移る。

 これは本当に、キットを狙った犯行であったのだろうか。そもそも痴漢であったのだろうか。

 時計を振り返る──まだ昼時にも差し掛かっていない。神父との面会希望者が教会に殺到し、ごった返す時間だ。

 ある程度人目がある状態では犯罪は起きにくい。しかし、人が密集した場所ともなると、むしろ人混みを利用した犯行が増える。スリ、痴漢、たとえば──誘拐

 

「お前ら、今日は教会に泊まれ」

 

 こんなのただの憶測だ。杞憂で終わればいい。だが、偶然と片付けるには寒気がするほど辻褄が合いすぎている。

 

「なんでよ」

 

 真っ先に食ってかかったのはフェリジットだ。爪を出し警戒を露わにするが、彼女の威嚇にテオは怯むことなく。淡々と事実を述べる。

 

「正直伏せておきたかったが、そうとも言ってられないから言う。この街じゃ人攫いが横行している。子どもは気をつけるに越したことはない」

「最低な街ね! アンタ達も仕事しなさいよ!」

「ぐっ……」

 

 標的は無辜の獣人だ。故に彼女の怒りも尤で、痛いところ突かれた正論にテオは言葉を呑み込む。

 

「とにかく! お前ら、外では絶対単独行動するな! 特にシュライグ!!」

「えっ、俺!?」

 

 なんで俺が? みたいな顔で自身を指差し彼は首を傾げる。その隣でフェリジットが「アンタが一番何やらかすか分かんないからよ」と、補足する。

 

「俺はちょっと野暮用で出掛ける。いいか、教会から出るなよ。絶対だからな!」

 

 と、念入りに釘を刺して彼は出て行き──否、出て行こうとして引き返し、シュライグの手を取った。

 

「やっぱお前も来い!」

「ええっ!?」

 

 だから、なんで俺だけ!? と、頓狂な声を上げるシュライグを彼は問答無用で連れて行く。

 早いとこフルルドリスと合流して、護衛に付かせる。今テオが考えられる一番の安全策がそれであった。テオ自身護衛に着きたいのは山々だが、それでは立場上自由が効かない。となると、まだ正式な入隊を済ませていないフルルドリスを動かす方が縛りが少ないと判断したのだ。シュライグを連れて来たのは、目の届く範囲に置いた方が待たせるよりも安全だと思ったから。

 

「おや、そんなに急いでどちらへ行かれますかな」

 

 引き止められ、足を止めて振り返る。すれ違ったのは猿の獣人で──西方教会の神父が柔和な表情を浮かべ立っている。

 

「いえ、神父殿。部下を探していただけです」

 

 手短に告げ立ち去ろうとするも、シュライグがテオの手を振り払った。

 

「何でも治せるってほんと?」

 

 恐れ多い人物とも知らず、止める間もなく神父に詰め寄って尋ねた。神父の方はというと、不躾な態度に気を悪くすることなく磊落に笑う。

 

「悩みでもあるのですか?」

「悩みというか、その……」

 

 言い淀む彼に、神父も何か察したらしい。肩に手を置き、こう告げた。

 

「誰しも立ち止まる時はあります。悩める時は礼拝堂へ行きなさい。我らの主たるテトラドラグマがお導きになります」

 

 助言を残し、彼は立ち去った。その背をじっと見つめていたシュライグであったが、テオに髪を捕まれ無理矢理頭を下げさせられる。「お前は礼儀ってやつを知れ!」と、頭ごなしの叱責付きでだ。

 

「ほら、行くぞ」

 

 神父の姿が見えなくなり、ようやく頭を上げることを許された。なんで俺が? と、ドラグマの礼儀作法などちっとも知らないシュライグはむくれっ面のままテオに手を引かれる。

 フルルドリスとはすぐに再会できた。ルガルも共にいて、二人とも人混みから外れていたため見つけるのが容易であったのだ。深刻そうな顔で話し合う二人に、けれどそれをさほど気にすることもなくシュライグは水を差すように間に割って入った。

 

「さっきから何の話してんだよ」

 

 仲間外れにされたような気がして、むくれっ面のまま詰め寄った。すると二人は困ったように互いの顔を見合せる。

 

「あー……これから、どこ行くかって話だよ」

「えっ、もう出発するの!?」

 

 まだ全然観光もできてないのに。と、不満気な彼に、ルガルは何と伝えるべきかと悩む。出立の理由が今目の前にいるシュライグ自身が関わっている──なんて、それを直接伝えてしまえば彼が気に病みそうで憚られたのだ。

 

「シュライグ、ドラグマに興味は無いか?」

 

 腐心するルガルに代わって、フルルドリスが尋ねた。「ドラグマ?」と、オウム返しに不思議そうな顔をする彼に向け、さらに言葉を続ける。

 

「私の故郷なんだ。都会だから来たら驚いてしまうかもしれない」

「クレープある?」

「もちろんだ」

「なら行く!」

 

 不自然無く誤魔化してくれたフルルドリスに感謝し、ルガルはほっと胸を撫で下ろす。食べ物にすぐ釣られてしまうシュライグには何かと思うところあったが、今回ばかりはそれが幸をなした。

 

「そういうことなら、俺は旅券の手配をしてくる」

 

 行先が決まったのならと、テオが気を配り準備に取り掛かろうと動く。立ち去る直前、すれ違いにフルルドリスに小声で伝言を残した。

 

「例の少年だが目を付けられている。片時も離れるな」

 

 彼の伝言にやはりかと、フルルドリスは眉間に皺を刻む。嫌な予感とはどうしてこうも的中してしまうものか。だが、まだ取り返しのつかない事態に陥っていないだけ不幸中の幸いか。

 

「フルルドリス、怖い顔してるけどどうしたの?」

 

 考え込んでいたところ、シュライグに声を掛けられ我に返る。不安気な面持ちで見上げる彼の頭を撫で、微笑んだ。

 

「少し、考え事をしていただけさ」

「ほんとにそれだけ?」

 

 勘が鋭いことに、シュライグは引き下がらない。ボロが出ないうちに話題を変えようと、彼女は振り返りルガルを見た。

 

「せっかくだ。教会の中を見て回ってはどうだろうか。今なら案内役を買って出る」

「そりゃいい話だ。アンタ達の言う神様ってのがどんなのか、気になってたんだ」

 

 フルルドリスの意味ありげな視線に、意図を汲んだルガルが話を合わせた。不安そうにしていたシュライグも、ルガルが行くならと勇気づけられたのか「俺も行きたい!」と、溌剌と頷いた。

 「興味無い」の一言で一蹴したフェリジットをどうにか説得し、半ば無理矢理連れて教会を見て回る。礼拝堂、懺悔室──関係無いはずの倉庫や食堂まで案内したのは、恐らくいざという時の避難経路を教えるためだろう。頭の回転が早い用意周到な女だと、ルガルはフルルドリスのことを一目置く。

 

「ねぇ、フルルドリス。あれは?」

 

 渡り廊下を歩く途中、シュライグは立ち止まり中庭を──否、正しくは中庭に置きっ放しの木刀を指差す。

 

「駐屯している騎士が、修練場代わりにここで訓練するんだ。席を外してるということは、休憩にでも行ってるのだろう」

 

 荷物が置きっ放しという現状に苦笑いしつつ彼女は答えた。しかし、それはシュライグが期待していた返事ではなく──教会を見て回るのにも飽きた彼は、ルガルが止めるのも聞かず中庭に出て木刀を拾う。

 

「フルルドリス、これ使い方教えて!」

 

 声に期待を孕ませフルルドリスを呼んだ。「危ないからやめとけ」と、ルガルの忠告も無意味で、初めて持った剣を興味津々に見つめる。

 シュライグにとってフルルドリスは友であった。しかし、強さを併せ持つ彼女に対して友情とは別に憧憬も抱いていた。フルルドリスは強い──ルガルよりもずっとだ。そんな彼女にもっと近付きたくて、彼女と同じ武器が使えるようになったら対等になれるだろうかと、希望さえも見出していた。

 

「いんじゃない? どうせ痛い目見ないとアイツ分かんないでしょ」

 

 ルガルと違いフェリジットは止める気はさらさらないといった様子。「キットはあんなの持ったらダメよ」と、妹には厳しく言い聞かせておきながら。

 

「……分かった。少しだけな」

「やった!」

 

 シュライグの無邪気さにすっかり彼女も絆され、やれやれといった様子で中庭に出る。

 結局、シュライグにとっては教会案内よりも体を動かす方が楽しいらしく、それはフルルドリスも同様であったのか日が暮れるまで中庭で稽古に明け暮れた。教え方が上手いのか、それともシュライグが意外にも器用であったのか──最初は構えすらも覚束無かった彼が、今フルルドリスと互角に打ち合っている。

 

「案外様になってるな」

 

 いい加減飽きたと言わんばかりに欠伸をするフェリジットの隣、思わずといった様子で見物していたルガルは呟いた。獣人がドラグマの武器を持つなんて──という思いは消え、弟分の成長に感動さえ抱く。

 

「驚いた。獣人も我々のように武器を持つのか?」

「持つわけないじゃん」

 

 手心を加えているとはいえ、フルルドリスの一撃を弾きカウンターを狙う。数時間前までは持ち方すら分かっていなかったのが嘘のように筋が良い。部族から排斥されたとはいえ、シュライグとて戦いの才能が無かったわけではない。むしろ、ルガルやフェリジットに鍛えられて強くならないはずがなかった。

 

「あっ……」

 

 油断があったのか、それともシュライグの成長が早すぎたのか。とにかく、彼女が打ち合いの末に武器を落としたというのは事実であった。

 

「やった、勝った!」

 

 剣術を教わって初めて掴んだ勝利に、飛び跳ねんばかりの喜びを顕にする。これには思わずルガルも立ち上がり、嬉しそうに拳を握り締める。

 

「もう一回! ねぇ、もう一回しよ、フルルドリス!」

「元気だな、キミは」

 

 呆れながらも構えを取るあたり、動き足りないのは彼女も同じか。今度は先程と違い左手ではなく右手で剣を持つあたり、ようやっと本気で掛かる気になったのが見て取れる。利き手じゃなくてもあそこまで動けるのかよ。と、ルガルが恐怖したのはまた別の話だ。

 

「精が出ますね、フルルドリス」

 

 夢中になっていたところ、声を掛けられ振り返る。獣人でない初老の女が立っており、フルルドリスは彼女を目にした途端頭を下げた。

 

「ご無沙汰しています、枢機卿」

「この地位に就いて長いですが、貴女にそう呼ばれるのは未だに慣れませんね」

 

 枢機卿と呼ばれた女性は相好を崩す。シュライグはフルルドリスに小声で「知り合い?」と、尋ねた。

 

「ドラグマの前代の聖女だよ。今は枢機卿としてマクシムス様の補佐をしている」

「マクシムス様の補佐だなんて大仰な。枢機卿とはいえ元聖女の肩書きしかない私よりも、貴女の方がよっぽど優秀ではありませんか、フルルドリス」

「またご謙遜を」

 

 言葉を交わし合う二人をつまらなそうにシュライグは見つめる。完全に除け者で、フルルドリスが構ってくれないならと剣術の興も醒めて不貞腐れる。

 

「アディンから聞きましたよ。彼、貴女のご友人でしょう?」

 

 蚊帳の外であったシュライグだが、突然枢機卿の眼差しが彼に向いた。まさか声を掛けられるなんて思ってもおらず──振り返り、息を呑んだ。

 

 怖い──

 

 柔和な笑みを浮かべている。けれど、それは上辺の顔だと根拠も無いのに確信した。覚えのある眼差し──そう、キャラバン達が向けていたあの値踏みするような眼差しだ。彼女は、シュライグをフルルドリスの友人としてではなく、奇形児の一人として見ている。

 剣を放り出してルガルに抱き着いた。突然のことで彼は驚くも、シュライグの背が震えていることに気付き、何も言わず抱え上げた。

 

「悪い、フルルドリス。湯浴みさせてくる」

 

 さも、冬場の寒気に当てられて身体が冷えてしまったかを装い、彼は自身の上着をシュライグに掛けて湯殿に向かう。湯浴みをしたいのはフェリジットも同じらしく、ルガルの後を追った。

 

「あら、残念。少しお話してみたかったのに」

 

 「それでは私もこれで」と、彼女は会話を切り上げて立ち去った。

 置き去りにされた木刀を拾えば、僅かに積もっていた雪が落ちる。そこでフルルドリスは、いつの間にか雪が降っていたことに気付く。吐き出された白い呼気に、身体が冷え切る前に切り上げてやればよかったと、ルガルに抱えられたシュライグの姿を思い出し罪悪感を抱く。

 シュライグと枢機卿──一連の出来事での不審な点に気付くことなく、フルルドリスも中庭を立ち去った。

 シュライグが何を思ってフルルドリスとの稽古を切り上げたのか──ルガルは気になっていたが、昨日の軋轢もあり無理に踏み込めないまま。フルルドリス達の厚意に甘え教会に泊まることとなったのだが、風呂場でも食堂でも聞き出せず、そのままずるずると就寝の時間を迎え──後でさりげなく聞いてみようと思っていたが、その頃には猛烈な眠気に襲われ、布団に入った瞬間気を失うように深い眠りについた。故に、彼は気付くことができなかった。

 シュライグが寝付けていなかったことに──

 

(……眠れない)

 

 布団を剥ぐ。寒さに身を震わせながらも、シュライグは部屋から出た。同室のルガルを起こさないよう細心の注意を払いながら。

 蝋燭が頼りなく照らす薄暗い廊下を歩く。窓越しに外を見れば、ぼんやり白が舞っていることに気付く。きっと吹雪いているのだろう。夜目の効かないシュライグは適当に当たりをつけて、ため息を吐いた。

 キャラバン隊のこと、奇形のこと、枢機卿のこと──言葉に表せない不安が渦巻く。街に来る前から抱いていたこの胸の引っ掛かりが、どうやったら取れるのか分からなくて──

 

(……そうだ)

 

 頼りない足取りをふと止める。礼拝堂、テトラドラグマ──蝋燭の火をぼんやりと見つめていると、一つ二つと紐を手繰るように昼間の出来事が思い出されていく。

 徐に走り出した。彼の向かう先は、礼拝堂。そこに、きっと不安の答えがあるのだと確信めいた予感が生まれたのだ。

 

「お待ちしていましたよ」

 

 天窓から差し込む僅かな光が幻想的に照らし出す礼拝堂にて、神父はシュライグを出迎えた。まるで未来でも見透かしていたかのように、彼はシュライグがここに来ることを確信し待っていたのである。

 

「どうしたら、俺は普通になれる? 羽なしでも、奇形でも、何でもない──皆と同じところに立ちたい」

 

 それは、シュライグがこの街に来てから抱いていた悩みの正体。

 羽なしで、虐げられてきたから──それが悲しいのではない。羽がないことで失ってきたものは数多くあれど、それでも受け入れてくれる人がいることを知った。

 けれど、だからとて彼らと同じ場所に立つことができるかというと、それは違う。

 常に自分は、一線引いた位置にいたのだと気付いた。ルガルが、シュライグにとって不都合になる事実を暈したのがいい例だ。対等の立場にいるように見えて、その実シュライグの居場所と彼らの居場所には目に見えない仕切りが存在する。その仕切りの正体が、生物として欠陥品か否か。羽なしという欠陥を抱えている限り、自分はルガルともフェリジットとも同じ土俵に立てない。そう、気付いてしまった。

 この悩みをルガルに打ち明けたところで、解決などしない。だからシュライグは、自分で解決策を見つけようと足掻き、ここに辿り着いた。

 

「全ては、テトラドラグマ様がお導きになります」

 

 光に惑わされ火の中に飛び込む虫を見て、誰もが愚かだと嘲笑うだろう──

 けれど虫の視点に立ち物事を見てみれば、狭い視野の中でようやく見つけた、一縷の希望なのだ。

 傍から見れば胡散臭いことが見え透いているのに。上手い話の裏を読んで警戒するだろうに。

 飛べず泥濘の上をもがいてきた彼は、知らず生きることに疲れきっていた。差し伸べられた手を取ることで、この身を泥に縛り付ける鎖から解放されると信じたかった。

 誰にも相談できない窮状が、彼の心を弱くした。苦しみも、悲しみも──誰にも理解してもらえない。吐き出す場所も無い。ルガルもフェリジットもいて、仲間に恵まれたはずなのに、目に見えない壁の向こうに彼らがいるような気がして、目を背けていた孤独が胸を締め付けるのだ。

 

 ──きっとこの出来事が、深淵と呼ばれしこの世界を狂わせた。

 

 後に獣人達が邪教徒と呼ばれるようになったのも、ドラグマとの全面戦争が勃発したのも──引き金を引いたのは、忌み子の切ない思いだ。

 

 ──この夜を境に、シュライグが姿を消した。

 



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Episodeフルルドリス 中編②

 

 ──置かれた場所で咲きなさい

 

 教鞭を執る牧師が放った言葉だ。自ら咲く努力を忘れる勿れ。まだ咲くことができないのなら、次に咲く花が大きく美しくなるように、根を下へ下へと伸ばしましょう。

 フルルドリスはこう解釈した。努力の分だけ結果が追い付くと。今はまだ無力な種だとしても、いつか花開く時がある。その花が大輪であるように、咲き乱れるように──そう願い、生物は皆努力を惜しまず生きるのだ。

 

 ──なら、元から花の咲かない芽は一体何の為に生きるのだろうか

 

 角の無い牛が戦えないように、牙の無い狼が狩りができないように、羽の無い鳥が飛べないように──

 

 ──努力で埋められない彼らに、何処で咲けと言うのだろうか

 

 

「私の……所為だ」

 

 ──シュライグが、姿を消した。

 

 警戒すべきだと分かっていたのに。狙われていたと気付いていたのに。一人にしてはいけないと自分に言い聞かせていたのに。

 一番安全であったはずの教会で、何の痕跡も残さず──彼は消えたのだ。

 

「お前だけの責任じゃない」

 

 テオの励ましさえも彼女の耳には届かず、椅子に座り込んだまま俯く。

 三日だ──何の進展も無いまま、三日も過ぎたのだ。

 気丈なフルルドリスさえも、尻尾すら掴めぬ状況に疲弊しきっていた。聖痕を四つも宿した聖女の肩書きで救えるものなど一つもない。ただの飾りじゃないか。自惚れていた自分が情けなくて、らしくもなく自嘲する。

 

「フルルドリス」

「アディン様……」

 

 悄然と項垂れる彼女に声を掛けるアディンの表情は、こんな時でも変わらず優しげだ。

 

「貴女に任務を言い渡します」

「任務……ですか?」

 

 今、そんなことをしている場合では。と、言いたくなる気持ちを堪え、飲み込んだ。続く言葉を昏い表情で待つ。

 

「西方教会の近郊、古の森より竜の目撃情報が相次いでいます」

「竜……? こんな、街の近くでですか」

 

 竜──屈強な肉体を持つ獣人さえも食らう悪食。

 住民は気が気でないはずだ。いつ、竜の牙が街に剥くか──故に、人里近くに竜が出現したならば、至急討伐部隊を編成するのがドラグマの規定である。

 それを知った上で、けれどフルルドリスは(かぶり)を振った。

 

「できません」

 

 騎士としての役回りを捨て、フルルドリスは友としての立場で断った。そう、今の彼女に民の安寧などどうでもよかった。騎士道精神とたった一人の友人とを天秤に賭け、彼女は迷わず友人を選んだのだ。

 やり取りを見ていたテオは、フルルドリスの選択に意外とばかりに目を見開く。逆にアディンはというと、想定済みとばかりに眉一つ動かしはしない。

 

「ご友人が心配なのは分かります。ですが、騎士としての責務を忘れてはなりませんよ」

「友人一人守れやしない私に、騎士を名乗る資格などありません」

「では、聖女である貴女に願い奉ります。どうか、民の平穏を脅かす竜を打ち倒してはいただけないでしょうか」

 

 上官であるはずの彼は、徐に片膝を着き(こうべ)を垂れた。アディンの意図を組んだテオも、彼の隣に並び同様に跪く。

 騎士として上官である二人に。けれど、今は民として聖女を慕う二人に──フルルドリスは昏い笑みを浮かべた。

 

「狡いですよ、アディン様。その言い方は」

 

 騎士としての彼女を動かせないなら、聖女の立場を利用して進言すればいい。フルルドリスは、聖女として頼まれてしまえば断ることができない。知将のアディンは、彼女の慈悲深さを利用して上官としての立場を捨てたのだ。

 

「民曰く、その竜は奇怪な姿で人語を解すると。聖女フルルドリス、どうか貴女の奇跡を以て我らをお救い下さい」

「……分かりました。ですから、顔を上げてください。お二人にそんな態度を取られては、居心地が悪いです」

 

 強硬策にとうとうフルルドリスが折れた。

 

「感謝します、フルルドリス。では、早速事の仔細を述べましょう──」

 

 曰くその竜は、狩人の命乞いを受け入れ見逃したらしい

 曰くその竜は、迷い訪れた母子に帰りの道を示したらしい

 曰くその竜は、死に訪れた青年の境遇に同情し、涙しながらも食らったらしい

 曰くその竜は、キャラバンを襲い見せつけるように商人ギルドの流通路に死体を並べたらしい

 

「これはまた、面妖な……」

 

 アディンから聞いた竜の話を思い返し、思わずといった様子で独白する。

 竜とて生物だ──知能が高いとはいえ、人語を解した前例など存在しない。食物連鎖の摂理に従い、捕食を繰り返すだけの獰猛な生き物。

 だが、受け取った資料を読むに件の竜は殺す者と生かす者を選別している。意志を持って行動している。おとぎ話だってこんなこと語りはしない。まるで子どもの空想から出てきたかのように、信憑性の薄い話であった。

 

「フルルドリス」

「ルガルか」

 

 資料に目を通しながら廊下を歩いていたところ、通りがかるのを待っていたらしい。壁にもたれて立つルガルが声を掛けた。

 

「シュライグは生きていると思うか?」

 

 前触れもなく出された思い切った質問だが、フルルドリスは動じず淡々と答えた。

 

「絶望的と断定するには早いが、希望的観測は無意味だ」

「……そうか」

 

 それはつまり、死んでいる可能性もあるし生きている可能性もあるというどっちつかずな返答。

 拐ったということは後者にも思えるが、拐った後に生かしておく価値があるかというと、無い可能性も十分にある。現に、拐われた獣人は一人として帰ってきていない。五体満足の希望を抱くのは無意味だ。

 何も言わず彼はフルルドリスの傍に寄り──頬を殴った。

 

「ぐっ……」

 

 睨み上げる。けれど、やり返しはしない。ルガルの眼差しは冷たい。まるで抜き身の刃の様だ。けれどそれに怖気ることなく、フルルドリスは気が済むまで殴ればいいとばかりに立ち尽くす。もし、彼女が彼の立場であったなら、きっと同じことをしたからだ。寧ろ、三日もよく我慢したほうだと感心する。

 

「なあ、お前の言葉にどれほどの価値がある?」

 

 「あるはずないか」尋ねておきながら、彼はフルルドリスが答えるよりも先に自分で答えを出す。

 

「俺がお前のことを信用したのは、シュライグのダチだからだ。その結果がこれとは、俺も勘が鈍ったか。なあ、ダチを裏切るってのはどういう心地だ」

 

 胸倉を掴まれる──けれど、フルルドリスは動じない。それがまたルガルの怒りに触れるらしく、彼は憎々しいと舌打ちを一つ。怯えて許しを乞いでもしてくれれば、多少は腹癒せになるかと思いきやだ。

 

「やめろ。俺達は本当に何も知らない」

 

 仲裁に入ったのはテオだ。余程慌てていたのか、彼は息を切らせている。その隣に立つのはフェリジットで──ここで騒ぎを起こすのは得策でないと冷静に判断した彼女がテオを呼んだのだ。彼は胸倉を掴むルガルの手を払い、フルルドリスを庇うように立った。

 

「どういうつもりだ、フェリジット!」

 

 止めに入ったテオではなく、ルガルの怒りの矛先は旅仲間のフェリジットへと向く。牙を剥き出しに唸る彼を相手に、フェリジットは距離を取りつつ妹を抱え直す。

 

「どうもこうも、ここでトラブル起こされたらキットにも火種が飛ぶと思ったからよ。シュライグがいなくなったアンタの気持ちも分かるけど、キットに危害が及ぶならアタシは下りるよ」

「お前……! シュライグのことを見捨てる気か!」

「見捨てるも何も、アタシは最初からキット以外どうでもいいわ」

 

 仲間割れの不穏な兆しが見えた。止めに入ろうにも、その発端となったのはフルルドリス自身で──火種が仲裁に入ったところで火に油。どうすることもできない状況に、奥歯を噛み締める。

 

(そうだ……)

 

 口先だけで信用など得られない──フルルドリスは徐に剣を抜いた。テオの不安気な眼差しには気付きつつも無視を貫き、切っ先を己の首に向ける。

 

「ルガルと言ったな。この一件、私が預かる。シュライグの捜索には尽力しよう。その上でキミの願う結果に辿り着けなかったなら、私の首を切れ」

 

 いくら無関係を主張したところで、口先の言葉だけで信用は買えない──とはいえ、信用の裏付けに聖女の首を差し出せば話は変わるはずだ。

 フルルドリスは一介の騎士ではない。その正体はマクシムスが認めた過去に類を見ない程に力を持った聖女だ。彼女の首に、ドラグマの未来が掛かっていると言っても過言ではなく──それさえも差し出す覚悟。下手をすれば、ドラグマと獣人の全面戦争さえも引き起こしかねない危険な取引だ。

 

「フルルドリスお前、何勝手に──」

「黙っててくれ、テオ!!」

 

 己の命とドラグマの未来を躊躇うことなく天秤に賭けた聖女の独断に、ルガルもフェリジットも思わず目を剥いた。

 

「お前……自分が、何言ってるのか分かってるのか」

 

 国さえも切り捨てる思い切った発言に、けれどその言葉に嘘が無いことを裏付けるかのように当てられた刃。僅かに切れた首の皮、血の筋が伝う。一寸でも手元が狂えば、忽ち彼女の首は胴体と別れを告げるはずだ。

 頭に血が上っていたルガルであったが、彼女の言動がとち狂っているのは明らかで──冷水を叩き込まれたかのように怒りが退いて、冷静さが戻ってくる。この女は正気か。と、我が身を投げ打った奇行に思わず後退る。

 

「今、私が友の為に差し出せるものがあるとすれば、それは私の首だ。シュライグの無事を祈る気持ちに、ドラグマも獣人も関係無い。どうか私を信じてほしい。私とて、友を失いたくないんだ」

 

 この女は本気だ──研ぎ澄まされた刃のように鋭い眼光は、追い詰められた獣が見せるそれに近い。

 

「くそっ……無事じゃなかったら、ただじゃおかねぇ!」

「……感謝するよ、ルガル」

 

 忽ち、失っていた信用が戻ったことにほっと胸を撫で下ろす。この状況下で仲間割れなどしている暇も無い。

 

「尽力するって言ったからには、探す宛てがあんだろ」

「いや、それが……」

 

 言い淀む彼女に、焦れったいとルガルは資料を奪い取った。だが、そこに書かれていた内容はシュライグの行方とは何ら関係無いもので──怒る気力も失せたのか、彼は呆れたとばかりの大きなため息を吐く。

 

「そうがっかりすんな。捜索は俺とアディンが進めておく。焦り過ぎると視野も狭くなって見えるもんも見えなくなるぜ」

 

 「それに、手掛かりってのは、思わぬところにあったりするもんだぜ」と、あからさまに落ち込んだルガルを励ますようにテオが助言する。

 

「フルルドリスと狼少年は忽ち件の竜討伐だな。で、そこの猫姉妹だが──」

「悪いけど、アタシはアンタ達を信用したわけじゃない。ルガルと行動させてもらうよ」

 

 一先ず誤解が解けたとはいえ、それはフルルドリス達に対してだ。教会そのものを信用していないフェリジットは、留まるのは逆に妹を危険に晒すと判断し、竜の討伐に加わる。

 

「進展があったにしろ無かったにしろ、日没にまた落ち合おう」

 

 手短に要件を伝え、テオは立ち去った。

 シュライグのことは心配だが、今は切り替えよう。と、気を持ち直しフルルドリスはルガル達を連れ古の森を訪れる。冬だと言うのに、森は春のように暖かく、雪解けに新芽が芽吹いていた。妖精の住まう聖地とも呼ばれる由縁にも納得しつつ、件の竜を探す。

 フェリジットが切り出したのは、小川の傍で休息を取っている時だった。

 

「ねぇ、おかしくない?」

「何がだ?」

 

 妹の食事の世話をしながら告げた彼女に、すかさずルガルが聞き返す。「だって……」彼女は言いにくそうにしながらも、ルガルを振り返り答えた。

 

「ルガル、アンタはシュライグと同室だったよね。いくら寝ていたにしても、元軍人のアンタならシュライグが出て行ったにしろ誰か部屋に来たにしろ、起きないなんて有り得る?」

「それは……」

 

 フェリジットの指摘を受け、ルガルが面食らう。彼女の言う通り、いくら少年兵とはいえ軍人として鍛えられた彼の眠りは浅い。それこそ、野宿の際に些細な物音で目を覚ますくらいにはだ。

 

「一服盛られた。じゃなきゃ、アンタが起きないなんて相当よ」

「おいおい……その言い方じゃまるで、黒幕は教会だったってことになるよな」

 

 二人の視線はフルルドリスへと向いた。しかし、明らかな敵意は無い。疑っているのは彼女──ではなく、教会の方。あくまでもフルルドリス達は視察で訪れたという立場であり、無関係である可能性を考慮したのだ。

 二人分の視線を受ける彼女は、何処か嘆くようにため息を吐き眉間に手をやる。

 

「正直、疑いたくない……けれど、私も同じことを考えた。今回の一連の騒動、裏で教会が糸を引いている。決定打は、シュライグが消えてからだな」

 

 最初は、街を拠点にする裏ギルドの仕業とも考えたが、だとすればあまりに証拠が無さすぎる。だが、教会が裏で動いているのであれば証拠隠滅を図る術などあり過ぎる。そして何より、シュライグが姿を消したのは、この街で最も安全であったはずの教会だ。

 

「……アディン様に訊こう。あのお方なら、きっと何か手掛かりを──」

 

 言いかけて、ハッと顔を上げる。

 木々が擦れる音でも、小鳥の囀りでも、ましてや風の吹き付ける音でもない──あれは、この平穏な聖地にあってはならない者の叫び。そう、竜の咆哮。

 微かに耳に届いたそれは、聞き間違いや空耳の類であったかもしれない──だが、フェリジットとルガルも同様に訝しんでいる。五感が優れた獣人達が気付いているということは、これは何ら気の所為でもなんでもない。

 

「血の臭いだ」

 

 先に駆け出したのはルガルだ。フェリジットもキットを抱え彼に続く。殿を務めるのはフルルドリスで、いつでも剣が抜けるように手を添えながらも二人を追う。

 竜は確かにいた──けれど、あれを果たして竜と呼んでいいのか分からなかった。

 竜の頭を持ち、けれど体を覆うのは固い鱗ではなく毛皮であった。翼は鳥のように羽根を持ち、尾は蛇のように光沢がある。

 竜でもあり獣でもあり鳥でもあり蛇でもあるそれは、ありとあらゆる生物の生き様を糾い愚弄するかの様にそこにいた。

 

「あれは……密猟者か」

 

 竜にやられたのだろう。倒れ伏す獣人達の傍に転がるのは、所謂聖獣としてドラグマの規定に則り保護対象に指定された動物達。それを捕らえた籠だ。聖地を冒涜する行いが竜の逆鱗に触れ襲われた。犯罪者に相応しい自業自得な末路であった。

 

「逃がすか!」

 

 飛び立とうと翼を広げた竜に向け、咄嗟にルガルはナイフを投げ付けた。刃が羽を穿つ。一撃を受け地に落ちた竜は確かにこう叫んだ。

 ──痛い。と……

 

「人語を話す竜……眉唾かと思いきや、本当だったとはな」

 

 絵空事でも妄想でもましてやおとぎ話でもなく、目の前の竜は人の言葉を発した。人語を解するという前情報があったにせよ、いざ対面してみると動揺から言葉に詰まる。

 

「どうする? 話が通じるなら、交渉してみるか」

 

 立ち尽くすフルルドリスに向け、ルガルが一つ提案する。獰猛な竜を相手に話など──とはいえ、竜の方に敵意は無いらしい。降参だと言わんばかりに身を伏せ、フルルドリス達をじっと見つめる。その眼差しは知性を感じさせると同時に、下等生物を見下すかのように軽蔑を孕んでいた。

 

「私はドラグマの聖女フルルドリス。この森に住む竜の討伐を依頼されて来た。単刀直入に訊く。キミは何者だ」

 

 こちらも敵意が無いことを示すように、剣を地面に置いて前に出る。竜は頭を擡げ、口を開いた。

 

「何者……? 何者でもない。我々は、行き場の無い獣の成れ果てよ」

 

 竜──もとい、成れ果て。そいつはフルルドリスの質問に気を悪くすることなく頷いた。人語を解するとは聞いたが、会話が問題無く成立していることから知能の高さが伺える。

 

「成れ果て……? それは、いったい?」

「そのままの意味。誰にも受け入れられず、ただ死を待つだけの生き様から抗う為に奇跡を赴き造られた。そう、私は子を成せぬ蛇にして、醜い白鳥にして、四肢無き犬よ」

「その言い方……まるで、複数の獣人から成るかのように言うな」

「全くの事実だ。我々は猿の叡智とドラグマの奇跡を糾い生まれた。欠陥品の烙印を押されし我らは、異形となり初めて至高の獣と生まれ変わったのだ」

 

 恍惚と告げる竜に、言葉を失う。

 まるで、化け物と成り下がった今の姿を後悔どころか誇りにすらしているかのように──この竜は、欠陥を抱えた獣達を繋ぎ合わせて生まれた。足りない者達の寄せ集めでありながら、皮肉にも至高と謳ったのだ。

 

「こんな生を冒涜する行いが至高だと? ふざけんな!! 俺達は、シュライグをお前らみたいな化け物にするために教会に来たわけじゃない!」

 

 これが、人を癒す奇跡の正体であるなら──冗談じゃないと、ルガルは叫ぶ。摂理への背反の末に怪物へと変えられてしまうなど、シュライグが望むはずないと声を荒らげた。

 

「例え化け物と罵られようとも、我らはどんな形であれ生き長らえたかった。五体満足の貴様らには到底分かるまい、我らの苦しみなど。立ち去れ、ここは我ら虐げられし獣達の平穏。それを脅かすとあれば、我らの血肉となれ」

 

 翼の傷は既に癒えていた。なんという生命力──化け物でありながら、その身に癒しの奇跡を宿しているのであろう。真っ向から戦うのは分が悪い。

 

「待ってくれ……キミ達のことは決して否定しない。だが、これだけ教えてくれ。誰が、キミ達をそんな姿に変えた」

「知りたいのであれば、奈落の落とし穴へ赴くがいい。そして己が目で真実を見よ」

 

 竜は飛び去った。きっとこれから先、あれは古の森に住み続け平穏を望むのだろう。人畜無害とは言いきれないが、あれほどまでの知性を備えておきながら無意味な殺生をするとも思えない。そして、戦ったところであれには勝てないと本能が泣訴していた。

 

「いいの? 討伐する予定だったのに逃がして」

 

 虚空へと消えた竜を見送り、フェリジットが怪訝そうに尋ねる。

 

「いいんだ。あれを討伐することは……シュライグのことを否定する。そんな気がするんだ」

 

 今でこそ至高を謳う怪物とはいえ、元はシュライグと同じ障害を抱えた獣人だ。それを殺すことは即ち、障害を抱える全ての獣人の存在を否定するのと同じように思えた。

 

「……彼らに、討つべき罪は無い」

 

 これから先、あの竜が聖地の守護者として人々に受け入れられたらいい。獣人であった頃に手に入れられなかった居場所を見つけてほしいと切実に願う。

 日没を迎える前に、一行は教会へと戻った。竜の討伐は達成できなかったものの、それ以上の収穫があった。偶然とはいえ、依頼を斡旋してくれたアディンの采配を心より有難く思う。

 

「アディン様、フルルドリスです。今戻りました」

 

 教会の一室を訪れ戸を叩けば、「どうぞ」と声が掛けられる。入室すれば既にテオも共にいて──どうやら、彼の報告を先に受けていたらしい。アディンは報告書に目を通す最中であった。

 

「おや、フルルドリス。何か進展があったようですね」

 

 憑き物が落ちたように覇気のある顔付きに、アディンは相好を崩した。

 

「調子が戻り何よりです。では、報告を」

 

 促され──フルルドリスは徐に頭を下げた。報告のはずが何故頭を下げる必要が? と、アディンとテオが目を剥き驚くなか、彼女は今日一連の出来事を述べた。

 竜の討伐には失敗したこと。否、あえて手を下さなかったこと。勝手ながら命令に背き見逃したことへの謝罪を告げる。

 

「──なるほど。古の森にいたのは竜ではなく、獣人達の成れの果て。彼らの逆鱗に触れなければ、害は無いと」

「誠に勝手ながら、あれを討伐することは無辜の民に手を掛けるも同義と判断しました」

 

 姿形は異形なれど、あれは確かに理性を持つ獣であった。そう、本来なら騎士が守るべきであった力も無ければ罪も無い者達だ。故に、フルルドリスは手を下すことができなかったと告白する。

 

「頭を上げなさい、フルルドリス。貴女の行いは間違っていません。よくぞ罪無き民をお救いになった」

 

 命令に背いたフルルドリスを糾弾するでもなく、アディンは笑みを深めた。騎士としては、上官命令に背くなど罰に値する。しかし、彼はこの時ばかりはフルルドリスを一介の騎士としてではなく聖女として扱い、彼女の行いを肯定したのだ。

 

「その様子ですと、他にも得るものがあったと見受けられます」

「実は──」

 

 竜は──獣達は、先も述べたように欠陥品の獣人が合わさって造られた成れ果てと呼ばれる存在だと。それは、街から忽然と姿を消した、障害を負った獣人達の行方を示す有意義な手掛かりであった。そんな彼らを異形へと変えたのは、猿の叡智とドラグマの奇跡。今日知ることができたのは、ここまでだ。ここから先全てを知るには、奈落の落とし穴と呼ばれる地を赴く必要があると報告する。

 

「奈落の落とし穴……か。これも因果かねぇ、あの大穴にそんな秘密があるなんて」

「大穴……ですか?」

 

 テオの呟きに、すかさずフルルドリスが聞き返した。

 

「知らなくても無理ないな。あそこは、お前が生まれるよりも前に封鎖された炭鉱跡地だよ。鉱石を狩り尽くしたあの地に価値などなく、今じゃ姥捨山代わりに口減らしを落とすようになった地さ。奈落の落とし穴なんて世間で呼ばれるようになった由縁はそこから来てる」

「奈落の落とし穴……そこに捨てられた者達が、至高の獣へと生まれ変わるのか」

 

 至高の獣──何処までも皮肉が過ぎた出自だ。

 悪いのは、廃棄する側なのか。それとも、廃棄せざるを得ない風潮を作り出す世界なのか。

 

「焦る気持ちも分かりますが、今日は日が暮れている。調査は明日行いましょう」

 

 本日はこれにて解散だと、彼はフルルドリスに休息を取るように命令し退室を促す。

 彼の私室を出ると、ルガルとフェリジットが廊下にいた。壁に耳を付けていなかったにせよ、獣人の聴覚を踏まえ内容は聞かれていたと察する。

 

「行くのか?」

「ああ……悪いが、これ以上は待てないんだ」

 

 予想通りの返事であった。

 ふと、窓を見る。吹雪いてはいないが、雪がちらついている。視界は決してよくはないだろうが、それでも強行するつもりなのだ。

 

 

「アタシは止めたのよ。でも、こいつ言うこと聞かないのよね。かといって教会に残ったところで安全でもない」

 

 

 フェリジットは妹に防寒着を着せながら答えた。彼女もルガルに着いてシュライグを探しに行くつもりだ。

 彼らは覚悟を決めた──私は、明日にでも行こうなんて呑気なこと言っていいのだろうか。否、いいはずがない。

 

「シュライグが心配なのは私も同じだ。それに、この一件は私の首も掛かってる。おちおち休める状況ではないな」

 

 「それに、戦力は多いに越したことないだろ?」と、剣に手をかけ挑発的な笑みをつくれば、ルガルが「重畳だ」と気を良くしたのか喉を鳴らして笑う。

 

(すみません、アディン様)

 

 またしても騎士として上官の命令に背くことを胸中詫び、けれどそこに後悔は無い。上官命令に背いておきながら、罪悪感など毛ほどにもない。

 ドラグマの騎士フルルドリス──彼女は、一介の騎士としての殻を破ろうとしている。友という存在が、彼女を強くした。規則などに収まるような脆弱な意志を捨てさせた。

 たとえ、この先の未来が友との決別であろうと──遥か未来のことなど知らぬ彼女は、己の意思を貫きそう遠くない未来で敵対する獣人と手を組み出立する。

 

 ──目指すは、奈落の落とし穴

 

 生と奇跡を糾い、虐げられた者達が転生する冒涜の地。



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Episodeフルルドリス 後編①

 ──懐かしい夢を見た。

 

 夕暮れに、母と手を繋ぎ家に帰る思い出だ。

 この思い出を誰かに語ろうにも、隣にいる蛇の兄弟は捨てた母親を嫌悪している。目の前の兎の母子は奇形を生み、旦那家族から縁を切られた。

 この空間を共に過ごす誰もが、シュライグと同じ──もしくは、それ以上に酷い目に遭い親を同族を恨んでいる。

 故に、この話を誰にするでもなく──この場にルガルがいたのであれば話していたであろうが、彼を置いて来てしまったしそのことにちょっとばかしの罪悪感はあれど後悔は無い。

 ドラグマの奇跡──アディンは、ここから先の領域は神にしか手に負えないと言った。その言葉を疑っていたわけではないが、だとしても藁にも縋る思いで神父に相談を持ち掛けた。そしてやっと辿り着いた。

 

「あの……お食事を」

 

 説明もなくただ一言、奇跡を受けるための修行だと言われ詰め込まれた狭い一室。四方を土壁に覆われ陽の差さないこの空間で、唯一昼夜を把握する方法。それが、猿の子どもが定期的に持ってくる食事である。

 子どもと言ったが、体は出来上がっており成人男性のそれだ。けれど、シュライグが彼を大人としてではなく子どもとして見るのはその幼い言動に依るものだ。白痴めいた笑みを浮かべ食事を配る彼に、猿の部族が本来持つ悟性を感じられない。

 彼もまた、シュライグ達と同じく──持たざるが故にこの場にいる。

 唯一違うとすれば、彼は給仕としての立場であることくらいか。否、給仕というよりもお手伝いという表現がしっくりくる。とにかく、彼はこの場に集められた獣人達とは違う目的を持っているのだ。

 

「それと、キミ……パパの友達が呼んでる」

 

 固いパンとクズ野菜のスープという粗末な食事を配り終えた彼は、シュライグを指差しそう告げた。

 やっとか。という思いと同時に、何が待っているのか分からないという不安を抱く。奇跡を望んでこの場に来たというのに、恐怖という感情が出てくるのが何故か自分にもよく分からなかった。

 警鐘を鳴らす本能から目を背けつつ、猿に手を引かれながら恐る恐ると立ち上がった──

 

 ──彼が消えたのも、今日みたいに雪の降る夜であったな。

 

 手のひらに雪が落ちては溶けて消える。吐き出す呼気は白く、一段と冷え込む夜であった。

 松明の明かりがあるとはいえ、一寸先は闇。方位磁針は最早何の役にも立たない。だというのに、先導するルガルとフェリジットは何の迷いも無く夜の雪道を突き進んだ。夜目の効く獣人達が辿り着くための頼みの綱であった。

 

「ここだな……」

 

 先導していた二人が足を止める。丁度見計らったかのように雲が晴れ、隠れていた満月が夜を照らす。

 銀世界の中、切り取られたように目の前に立ちはだかる大穴。まさに奈落の落とし穴の異名を名乗るに相応しいまでに、底知れぬ晦冥が待ち構えている。

 フルルドリスは徐に荷袋を開け、酒瓶を取り出し口づけた。暖を取る目的でテオの私物から勝手に拝借した年代物のそれを毛ほども味わうことなく一気に飲み干す。忽ち空になったそれを大きく振りかぶり、大穴目掛けて投げ入れた。

 吸い込まれたように音は返ってこない。反響が無いということは、それだけこの穴が深いということに他ならない。

 

「どうするの? 壁伝いに降りれるような高さじゃないわ」

 

 穴を覗き込もうとしたキットを引き留め、フェリジットが尋ねる。

 

「ここを人為的に利用しているなら、昇降口があるはずだ。それを探そう」

「探すって、この穴を一周するってこと?」

「いや、その必要はない」

 

 先に付近を哨戒していたらしいルガルが、三人の元に戻り告げる。

 

「ここから少し東へ歩いたところ、出入りの痕跡がある引き込み線を見つけた」

 

 こっちに来いと言わんばかりに彼は顎をしゃくる。

 ルガルの案内の元、例の引き込み線に向かう。彼の言う通り、その付近に轍が残されていた。そして、出入り口としての使用を続けていることを裏付けるように、天井に吊るされたランタンに火が灯っている。

 付近に敵がいないのは確認済みか、ルガルが先導し手招きをする。

 手作業とはいえ、長い年月を掛け大穴を掘り進めていたのが入り組んだ坑道から分かる。鉄錆と埃っぽさに鼻がやられたのか、頻りにルガルが鼻先を手の甲で拭う。この空間では、彼の嗅覚に頼るのは難しいであろう。

 

「ねぇ、何か聴こえる」

 

 ふと、フェリジットが三叉に分かれた道の前で立ち止まり耳を立てた。聴覚に最も優れた猫だからこそ拾える些細な物音。それは妹のキットも同様らしく、道の一つを指差した。

 

「こっち」

 

 と、フェリジットと手を繋いだ彼女は行きたそうにフルルドリスを振り向いた。闇雲に探すよりかは、罠を承知で少しでも手がかりのありそうな方へ行くべきか。そう考え、彼女の示す方向に足を進める。

 辿り着いたのは、資料を集めた小部屋であった。濃いインクの臭いと虫食いの無い紙面から記録が新しいのが分かる。

 

「おい! こっちだ! お前ら助けてくれよ!」

 

 資料に目を通そうとしたその時、声を掛けられ振り返る。しかし、室内を見渡しても誰の姿も見えない。蝋燭が頼りなく部屋を照らしているばかり。

 

「キット!」

 

 徐にキットがフェリジットの手を払い、本棚に寄った。本棚といっても肝心の書物は棚から全て落ち、床に無造作に本が散らかっている状態だ。そんな本の山を掻き分け彼女が見つけたのは、小瓶──その中では黒い何かが浮いていた。

 

「ばっちいからこんなの触っちゃだめよ!」

 

 虫かと思ったのかフェリジットが悲鳴のような声を上げ、それを取り上げ放り投げた。

 

「いてっ」

 

 床を小瓶が跳ねたその時、声がした。そう、小瓶が喋ったのである。

 

「ひっでーな! オレ様を誰だと思ってやがる! キャプテンサルガスになんて仕打ちだ!」

 

 小瓶が──否、その中に浮いている煤はサルガスと名乗り、瓶の中で跳ねた。ただの煤かと思いきや、そいつは手もあり足もある。獣人でもドラグマの民でもない、見たこともない生き物を前に全員が驚き言葉を失った。

 

「なんだこいつ……」

 

「妖精……? あるいはそれに近い類か」

 

 

 そういえば、教会で研究を専門にしてる修道女が語ってくれた。この世に存在する妖精という種のこと。大砂海を越えたさらに向こう、鉄の国と呼ばれし地に住む財宝の守護者。名は確か──

 

「スプリガンズ」

「なんだよ姉ちゃん、オレ様のこと知ってんのかよ」

 

 「一躍有名になっちまったぜ」と、すっかり機嫌を取り戻したのか、そいつは小瓶の中で磊落に笑う。

 

「目撃情報が少ないため空想上の生物とまで言われていたが、実在していたとは」

 

 まさかこんなところで会えるとは。という驚きもそこそこに、ここに来た目的を思い出しフルルドリスは小瓶を拾った。

 

「キャプテンサルガスと言ったな。獣人の子どもを見なかったか? 片翼の鳥の獣人だ」

「さぁねぇ……悪いが、俺から見りゃお前らの区別もよく分からねえし、どいつのことか分かんねぇよ」

「そうか……」

 

 悄然と肩を落とす。そこに追い打ちをかけるようにルガルの怒号が耳に入る。

 

「ふざけんな!」

 

 デスクを殴る。何事かと振り向けば、彼は肩を震わせながら資料を手にフルルドリスを見る。

 

「フルルドリス……こいつを見ろ」

「あ、ああ……」

 

 渡された書類に目を通す。最初こそ表情は困惑に満ちていたが、字を追うごとに険しさを増し、読み終える前に手を下ろした。

 

「ねぇ、それ何なの?」

 

 唯一内容を知らないフェリジットが尋ねる。身を切られるような思いで、フルルドリスは声にした。

 

「顧客リストだ……ドラグマの富裕層が纏められている」

「えっ、待って。なんでそんなもの。まさか、その商品って……」

 

 答えなんて明確だ。獣人のみを集めた奈落の落とし穴、そこに纏められた資料は莫大で、ここを流通拠点にしているのは明らかである。

 シュライグは教会を訪れる前、キャラバン達に手酷く扱われたと言った──

 バラバラだったパズルが繋がるような──否、繋がってほしくもないピースだ。できれば嘘であってほしいと願うが、全ての事象が噛み合いすぎている。

 

「牙の抜けた獣は、飼い殺すのに手頃というわけか……」

 

 障害を持った獣人に労働力を求めるのは効率が悪い。所謂、愛玩用。それでさえもまだ耳当たりの良い表現。あるいは見世物、あるいは性的消費──糞を煮つめたような下衆共の欲求の捌け口。たった数枚の紙切れが語る、胸糞悪い一連の事件の結末だ。

 

「それだけじゃない……なぁ、成れ果ては本当に救いだったのかよ」

 

 探れば探るだけ、答え合わせのように全ての情報がこの部屋に集結している。ルガルが頭を抱えながらも渡したのは、顧客リストとは別の資料。それは、事細かに獣人の──否、獣人だけでない。竜やホールから現れたその他異界の生物を纏めた生態情報。習性、知能指数、寿命──そこから先は読むのを止めた。普通に観察しているだけでは、分かるはずもない情報。そう、非合法の手段で現れた情報が羅列してあった。

 

「人体実験に、その資金調達も兼ねた人身売買……ありえない。この同盟は、最初から仕組まれていたのか?」

「知るかよ。結局、俺らは最初から手のひらで踊らされてたってことか」

 

 証拠としては十分過ぎる程に集まった。自身に喝を入れるようにルガルが拳を打ち鳴らす。

 

「行くぞ。手遅れになる前にシュライグを連れ戻す」

 

 異論は無い。フルルドリスも資料の一部を証拠として集め、捜索を再開すべく荷を整理する。

 

「おい、オレ様のことは置いてくのかよ!」

 

 床に置かれたままの小瓶が跳ねて主張する。そこでようやく、今の今までキャプテンサルガスのことを忘れていたと思い出し、慌てて蓋を開けた。

 

「久々のシャバの空気は美味いぜ」

「それはよかった。次は捕まるなよ」

「おう!」

 

 彼は全身で嬉しさを表すかのように跳ねながら立ち去り──否、立ち去ろうとしたところ道の途中立ち止まり、引き返す。そしてルガルの肩に飛び移った。

 

「助けてもらったのに、礼もしねぇほどオレ様も恩知らずじゃねぇよ」

「別に、見返りを求めていたわけじゃねぇからいい」

「まあそう言うなって。オマエらの言う仲間のことはちっとも分からねぇが、道案内くらいはできる。この入り組んだ坑道で、ガイドも無しに進むってのは無謀ってもんよ」

 

 と、胸を張って答えたキャプテンサルガスに、ルガルは暫し悩む。罠の可能性は低いだろうが、だとしてもこの妖精の言うことを信じていいものか。

 

「スプリガンズは、元々岩場に囲まれた鉄の国に住む妖精だ。彼らの慧眼は崩落の危険性がある場所を見逃さない。連れて行って損は無いはずだ」

「そうそう! 捕まったとはいえ、オレ様はお宝求めてここを探検してたんだ。道なら分かるぜ」

 

 フルルドリスの助言に背中を押されてか、ルガルも「それなら」と頷いた。今は少しでも手がかりが欲しいところ。

 

「この坑道で、人の出入りが盛んな部屋。もしくは、人が多く集められた部屋はあるか」

「分かるぜ。オレ様の言う通りに進んでみな」

 

 キャプテンサルガスの案内に従う一向だが、進展があったのは何もフルルドリス達だけではない。別行動しているシュライグも同様である。

 

「おえっ」

 

 吐いた──それを見た瞬間、理解を先駆けて本能が泣訴する。あれは理を超えた存在。禁忌に触れている。

 幼いシュライグに、目の前のそれはあまりに刺激が強く受け入れ難いものであった。

 

「どうかされましたか? これは貴方が望んだ結末だというのに」

 

 這い蹲りえずく。滲む視界に靴先が映り、息を呑んだその須臾、前髪を掴まれ無理矢理顔を上げさせられる。

 

「お前、フルルドリスの……」

 

 枢機卿──元聖女の肩書に似合わず、冷めきった表情でシュライグを見下ろす。彼女は何も言わず、けれどその冷たい眼差しは目を逸らすなと語り、まるで物でも扱うかのようにシュライグを引き摺った。

 

「私、フルルドリスのこと嫌いなんです。聖痕を四つも宿し、騎士を名乗るなんて……強欲も甚だしいと思いません?」

 

 独り言のように告げられた質問と共に、シュライグを檻の前に突き出した。

 

「私、彼女に勝ちたかったんです」

 

 近付いた檻から犬と蛇と山羊の三つ首が出てきて、シュライグの顔を覗き込む。そいつはシュライグを見て垂涎するでもなく──これは、憐みや同情。直感的にこの化け物は自身と同じだと理解した。理解できてしまったのは、きっと同じ境遇であったが故の感情の機微に触れたから。彼らは、シュライグがこれから選択するであろう未来の一つを映し出した姿だ。

 

「どうすれば、私は表舞台に返り咲ける? どうすれば、またマクシムス様の寵愛を受けられる? 考えて考えて出した答えが、これだったんです」

 

 薄暗い部屋で、その神々しい光は嫌に目を突いた。

 聖痕──フルルドリスやアディンのとは違い、それは禍々しく網膜に焼き付く。

 

「どうせなら廃棄処分された獣畜生を有意義に使い、彼女に勝る武器を造ってしまえばいい」

 

 この奇跡に触れてはいけない──本能が警鐘をけたたましく鳴らす。分かっていても、腰が砕けて立ち上がれない。

 

「貴方を一目見て、これは価値があると思いました。化け物と化した友人を見て、彼女はどれほど絶望することでしょう。実際、貴方が消えてからのフルルドリスは見るに堪えなくて滑稽でしたよ」

「フルルドリスが……?」

 

 友人であり、憧れである彼女が──気丈な彼女が弱るところが想像つかなくて、「嘘だ」と、震える声で呟いた。

 

「こんな欠陥品の獣人相手に入れ込む理由は分かりませんが、彼女を壊すにあなたは適役。さあ、お話はここまでです。あなたが望んだ奇跡、身を以て知るがいい」

 

 聖痕の光が迫る──逃げられない。逃げようにも抵抗しようにも、体が言うことを聞かない。異形になろうとも無意識下で奇跡に執着しているというのか。

 異形へ変わってしまうことへの恐怖と、求めていたものに辿り着けるかもしれないというほんの少しの期待。どう転がるか分からぬ結末に、ぎゅっと瞼を伏せたその時──雷鳴を聞いた。

 

「話は全て聞かせてもらったぞ、枢機卿!」

 

 雷撃の余韻に手に纏う火花を払い、剣を抜いた──

 

 時は少し遡る。廃坑を進むうち、キャプテンサルガスが示した部屋は二つ。固まって動くより、二手に分かれた方が手間が省けると判断し、フルルドリスはキャプテンサルガスと共に。ルガルはフェリジットとキットを連れて捜索を続けていた。

 猿の獣人こと神父を見つけたのは、その途中のこと。

 

「逃がすか!」

 

 神父は、ルガル達を一目入れ背を向けて走り出した。連れていた猿の青年の手を引いてだ。

 逃げ出した──つまり、それだけの後ろめたい事情を抱えていることに他ならない。

 猿とて運動神経が悪い動物ではない。それこそ、木々のある場所では有利に立てたであろう。しかし、ここは狭い坑道で逃げ道も無い。瞬発力で狼に勝てるはずもなく、後ろから押し倒されて呆気なく逃げ場を失った。

 

「シュライグは何処だ!」

 

 牙を見せ唸りを上げる。狼の威嚇に神父は僅かに怯むも、すぐさまその口元は弧を描く。

 

「さぁな……あの羽なしに枢機卿は大そう入れ込んでいた。今頃、彼女の奇跡により成れ果てにでも変えられているかもしれないな」

「てめぇ……!」

 

 噛みつきたくなる衝動を堪え、頬を殴りつける。殺すな──そう分かっていても、振り下ろす手は止まらない。シュライグの無邪気な笑みと、昼間見た成れ果てが脳裏に浮かぶ──差別が生んだ生命の掃き溜めに弟分が突き落とされたと思うと、怒りに拳が止まらない。

 

「パパに酷いことしないで!」

 

 止めたのは──猿の青年であった。成人をとうに迎えているのが誰の目から見ても明らかでありながら、その言動は非常に幼い。まるで、中身が子供のまま体だけ大きくなったかのように。

 ルガルとて元軍人とはいえまだ子どもだ。子どもと大人とでは体格が違うのだ。不意打ちに押し倒される。そのまま、仲間がやられた分をやり返すように──否、倍以上に。中身が子どものこの青年に手加減というものは存在せず、ただひたすらに殴り、蹴り、踏みつけ、暴行の限りを尽くした。

 

「お止めなさい! どうか、これ以上はもう……」

 

 フェリジットでさえ、巻き添えを恐れて手が出せないほどの暴力の限りに、妹に惨劇を見せぬよう抱えるのが精一杯であった。しかし、青年の怒りの矛先が自身に向くかもしれないにも関わらず──神父は、青年を止めようと羽交い絞めにした。その行動は決して、ルガルを助けるためではなく──癇癪を起した青年に落ち着くよう優しい言葉を掛け続ける。

 

「ルガル、生きてる?」

「……なんとかな」

 

 目の周りを青く腫らし、顔は腫れ倍以上に膨れ上がり──見るも無残な姿に変えられ、弱弱しく彼は返事をした。「死ぬかと思った……」長く忘れていた死の恐怖に走馬灯が走ったほど。

 神父への怒りは冷めていた。ルガルは痛む体を無理矢理に起こし、未だ青年を抱きしめる神父を怪訝そうに見つめる。あの白痴めいた顔立ちの青年は、神父の様子を見るにどうやら息子であるようだった。

 

「彼……普通の猿の獣人と、違う」

 

 真っ先に違和感に気付いたのはフェリジットだ。幼い言動、衝動的な暴力行為──知性を持つ猿の獣人とはかけ離れていると、たった数分間の出来事で理解できた。

 

「ふん……違って当然だ。私の息子は、子どもの頃から今のまま変わらない。教養どころか字さえも書けぬ」

 

 神父の告白に、ルガルとフェリジットは目を見開く──未就学児の頃と変わらぬまま、あの年まで生き抜いてきたのかという驚きの表れだ。

 

「一家迫害の末、妻は首を吊った。私が教会で勤めていられるのは、息子を〆たていに日向を歩かせないが故よ」

 

 緊張に固唾を飲んだ──嫌でも理解できてしまうのは、彼らの傍にシュライグが常にいたからだ。

 

「待って……それって、つまり──」

「貴様らの思う通り。私の息子も、西方教会を訪れる哀れな鼻つまみ者共と同じだ」

 

 フェリジットの呟きに食い気味で答え、青年の頭を撫でる神父は──子を愛する親の顔をしていた。

 

「なら、なんで同じだと分かっていながらシュライグを──行き場の無い奴らを食い物にした! てめぇも、迫害した部族の連中と同じことしてんじぇねぇか!」

 

 まるで悲劇とは繰り返されるために存在するかのように──落ちぶれた彼らが、弱者を言葉巧みに騙し私腹を肥やしたのも、運命とでも言うのか。部族からの迫害に苦しんだ過去を持ちながら、そんな彼らが行うのは救済に見せかけた残忍な犯罪行為だ。

 

「仕方がなかったのだ! 息子を他の子達と同じにするためには、私達も奇跡に縋る他なかった。成れ果ては、これから先も生まれ続ける弱者達に希望を示すための尊い犠牲。持たざる者が持つ者と同じ土俵に立つために、私達は研究していく必要があったのだ」

 

「だからって──」

 

 反論の言葉は、睨まれたことにより思わず飲み込んだ。

 

「親は先に死ぬ! これが自然の摂理であるなら、息子はこの先どう生きたらいい! 痴呆と罵られながら惨めに物乞いでもするか? 我が子に惨めな思いをさせる親がどこにいる! 子であるが故に親の気持ちなど知らぬ貴様らには到底理解できまい!」

 

 子のために迫害されてきたから出せる、親の主張にして子への愛。

 例え悪事に手を染めようとも、ルガルには彼を責める権利など無かった。なぜなら彼は、シュライグを捨てた母親よりもずっと──親の務めを果たしてきたのだから。

 一発、シュライグの分を分からせてやろうと握りしめた拳を解く。憤りは未だ治まらぬが、だとしてもルガルがここで彼を殴ることは、父親として我が子を愛する彼の気持ちを蔑ろにすることに他ならぬと思ったからだ。

 

「アンタは、人として最低だ。でも、どんな理由があっても子どもを見捨てず父親を貫く姿勢は凄いと思うぜ」

 

 戸惑うフェリジットに、来いと顎をしゃくる。泣き崩れる父子の横を通り過ぎ坑道を進む。この先にシュライグはいないが、教会の陰謀に巻き込まれた無辜の民が収容されている。

 ルガル達が神父との決着をつけた同時期、成れ果てを産む実験場では雷撃と氷撃がぶつかり合う戦場と化していた。

 フルルドリスは自らの奇跡で雷を剣に纏い、枢機卿は霹靂の猛攻を氷を盾とし防いだ。

 まさに、生きた天災同士が剣という名の武器を手に惨劇の花咲かす。天災にして天才の現聖女と元聖女が剣を撃ち合い吠える。戦乙女なんて表現は儚く可憐。あれは鬼人や武人といった、まさに戦う為に生まれたが如くの暴挙。闘志に血と肉を湧かす死闘に鬨の声を轟かせる。

 

「フルル……ドリス」

 

 戦いを見届けるシュライグは、目の前で繰り広げられる残忍な命の削り合いに恐怖し震えることしかできなかった。友であり憧憬たる彼女が、本気で命を奪い合う。彼女の強さを前に、そして引退した身でありながら食らいつく元聖女の矜持。獣人同士の野性味の溢れるものとは違う、静謐な激闘。

 押しているのはフルルドリスだ。年を重ね体力も聖女としての力も衰えた枢機卿に勝ち目など最初からなかった。だとしてもフルルドリスの優勢を素直に喜べないのは、火種となったのが自身であるという負い目があるから。

 

「かくなるうえは……」

 

 フルルドリスには勝てない。そう察した枢機卿は、成れ果ての檻に行き錠を壊した。

 獣人と奇跡を糾い生まれたそれは、檻から出られた歓喜に咆哮を上げる。そんな成れ果てが真っ先に牙を剥いたのは、自身を化け物と変えた枢機卿──ではなく、その敵であるフルルドリスでもなく。そう、それはこの場で戦う力を持たぬシュライグを餌と定め向かったのだ。

 

「シュライグ!?」

 

 雷撃を放つが、成れ果ては一瞥もくれることなくシュライグへと一直線に駆け出す。同じ、欠陥品であったが故の同情──ではなく、成れ果てが牙を剥く理由は単純明快。そう、シュライグは彼らにとって虐げられてきた過去そのもの。誰だって消し去りたい忌々しい記憶というものが存在する。成れ果てにとって、捨てたはずの過去が目の前でこうして生き延びているという事実が受け入れられないのだ。

 逃げられない──へっぴり腰は立つことさえもできないまま、襲い来る成れ果ての怒りに無防備を晒し、訪れる死の足音に恐怖しながらもぎゅっと瞼を閉じた。

 けれど、いつまで待とうとも痛みはない。その理由は、目の前に立ち塞がる背中を見て知った。

 

「ぐっ……げほっ」

 

 血を吐き膝を着く。じわじわと蝕むように白い法衣に赤が広がり、色濃くなった死を彷彿させる臭いに思わず口元を覆った。

 声は出なかった──友に庇われたという事実に、喉が潰れたのだ。

 

「無事か……シュライグ」

 

 血を吐き脂汗を滲ませ、爪で腹を貫かれて尚彼女は自身のことを顧みず、シュライグに微笑みかけ倒れた。

 友を守るという強い意志がそうさせたのか──刺し違えても、討つ。そう、神器は無辜の民を。身を挺して成れ果ての喉元を貫いていた。

 

「ふふ……勝てたわ! これで、歴代聖女の中での最強は私よ! 貴女の時代はもう終わった!」

 

 倒れたフルルドリスを見届け、枢機卿は笑いを堪えきれないと顔を覆い肩を震わせる。

 勝利の余韻に酔いしれる彼女を見て、シュライグの心にある感情が芽生えた。

 

(お前の所為で、フルルドリスは──)

 

 そう、この胸に広がる黒く淀んだ感情は明確な殺意。生まれてこのかた、母を馬鹿にされようともここまでの激情を抱いたことはない。枢機卿は、シュライグの──眠ったままであった獣の本能を、目覚めさせてしまった。

 血に塗れた剣を抜く。重い──これが、奇跡を持たぬが故の制約なのか。それとも、シュライグの心に芽生えた負の感情を良しとしないのか。けれど、その重みさえ彼を踏み留まらせるだけの抑止力にはなれず。

 

「がぁっ!?」

 

 貫いた──彼女の邪なる計画は、腹の肉を穿ち終止符を打つ。

 返り血に、目が覚めるように冷静さが返ってくる。

 力を失い頽れる枢機卿。息絶えた成れ果て。地に伏す友の姿。己の罪を刻むように降りかかった返り血。

 全てを理解した瞬間、声を上げずに茫洋と天井を見上げ静かに涙を流す。怖いのか、悲しいのか、それとも許せないのか──名前の分からぬ感情に胸を締め付けられ喘ぐ。嗚咽を上げようにも、声は出ない。

 この日、シュライグは声と共に何かが壊れた。まだ幼い彼に、この一連の出来事はあまりに惨過ぎたのだ。

 

 障害者の獣人を狙った事件は、一人の少年の心を砕き幕を下ろした──

 



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Episodeフルルドリス 後編②

 

 ──三日が過ぎた。

 

 三日前に、全てが終わった。神父は自首し、枢機卿の魂胆も暴かれた。無辜の民がこれから先、犠牲になることもないだろう。

 文字通りの一件落着だ。けれど、解決したはずなのに教会の空気は重く、誰一人それを手放しに喜ぶ者はいない──

 

「……会わないのか?」

 

 テオの問いに、シュライグは力無く(かぶり)を振る。扉の前に立ち、けれど伸ばした手は震え、取っ手を掴むことはない。死にそうな顔色で悔しげに唇を真一文字に結び、部屋の前で立ち尽くしている。

 

「アディンが言ってたろ? フルルドリスは無事だって」

 

 「それに、アイツはこの程度でくたばるような奴じゃないさ」と、磊落に笑うがそれでもシュライグの表情は晴れない。それもそっか、フルルドリスは強いから。なんて、溌剌とした返事はもう返ってこないのだ。

 励まそうにも、なんと声を掛けるのが正解かテオには分からなかった。差別の垣根を越えたいと願うのは罪であったのだろうか。母親と故郷を想うのは悪いことなのだろうか。そんな子どもの純粋な思いを踏み躙るように、翼を求めたシュライグに訪れた運命は、成れ果てという奇跡の結末と人を手に掛けたという事実、そして友を失いかけた後悔。

 一人の子どもが背負うに、それはあまりに重過ぎた。シュライグはもう笑わない。廃人同然で、まるで死んだように表情が消えている。罪悪感に喉を潰され声も出せなくなった。無口で無表情で、生きた物言わぬ屍。それが今のシュライグだ。

 

「……フルルドリスの顔が見たくなったら、教えてくれ」

 

 立ち直るには時間が掛かるだろう。彼の心情を推し量り、テオはひっそりとため息を吐いた。事は裏で手を引いていたのが教会であっただけに、尚更彼との距離感が掴めずにいる。笑いもしなければ文句を言うでもなく──三日も経つのに、未だシュライグとどう向き合うのが正解なのか、テオには答えが出せなかった。

 

「やっぱお前も来い!」

 

 悩みに悩み抜いて──こういうのは性にあわない。前言撤回、テオは直感で結論を出しシュライグの手を引く。驚き逃げ出そうとした彼を無理矢理に部屋に連れ込んだ。

 

「峠はもう超えたんだ。顔見ねぇと安心できねぇだろ」

 

 頑なに目を合わせようとしないシュライグを寝台の傍に立たせる。彼は恐る恐ると顔を上げ、フルルドリスを目に入れ息を呑んだ。

 ただ、眠っているだけのように見える。それもそうだ。アディンが施した奇跡により、軽い傷はもう完治している。成れ果てに抉られた腹の傷も服に隠れて見えない。

 フルルドリスを見つめるシュライグの表情はまるで動かない。彼がいったい何を思い考えているのかも分からない。泣き出してしまうのではという心配は杞憂に終わったものの、だとしても何も表情が変わらないというのが、彼の変化というものを見せつけてくるようで──以前の子どもらしい言動を知っているが故に、今回の件で負った傷の深さが浮き彫りになって見えた。

 

「フルルドリスの看病、頼んだ」

 

 「俺はこういうの性にあわないんだ」と、ろくでもない言い訳で仕事を押し付けてテオは部屋を出た。

 勢いのまま行動してしまった──強引過ぎただろうか。という反省もそこそこ、かといってあのまま時間が解決するのを待っているだけだと腐ってしまいそうで。答えの出ない葛藤に嘆息を吐き、一先ずアディンに話でも聞いてもらうかと、彼の私室を目指し踏み出す。

 

(しかし、枢機卿が……な)

 

 考えながら廊下を歩く。三日と経つのに、テオは未だこの事件の首魁が枢機卿であったことに驚いている。

 疑っていない──と、言えば嘘になる。事は全てフルルドリス達の独断で解決し、言い逃れできぬ程に証拠も集まった。枢機卿を刺したのはシュライグとはいえ、それが正当防衛であることを顛末を見守っていたスプリガンズの妖精が証言し、彼に罪は無い。だというのに、未だそれを亡霊のように信じられずいるのは、根付いたドラグマの思想を無意識に盲信しているからなのだろうか。誰だって身内を疑うなど心苦しく、罪を擦り付ける先を無意識にも探してしまう。

 

「治せないってどういうことだよ!!」

 

 思考に耽っていたが、響いた怒号にハッとなる。廊下の角を曲がって先にあるのはアディンの私室だ。

 急いで駆け付けた。そこではルガルが目を剥いてアディンの胸倉を掴んでいる。今にも殴りかからんばかりの勢いだが、フェリジットが宥めどうにか事を大事にしないよう引き止めている。

 

「言ったでしょう、奇跡は万能ではない。怪我を治すことはできても、限界があります。ましてや心の傷ともなれば、尚更私達は無力です」

「そんな言葉じゃない! 俺が聞きたいのは……そんな、言葉じゃねぇんだよ」

 

 毅然と言い放つアディンに、ルガルは力無く手を下ろした。目元を拭い、今度は泣き縋るような情けない声を出して尋ねる。

 

「頼むよ……シュライグが、何も返事しなくて。いつもだったら、名前を呼んでくれて、笑って。アイツ、口下手だけど分かりやすい奴なんだよ」

 

 嗚咽を混じえながら訥々と言葉を並べるルガルの姿に身を切られる。事件が解決して三日──変わったのは、シュライグだけではない。彼に関わる者達もだ。ルガルに至っては強い仲間意識が仇となり、現状を受け入れられず追い詰められているのが傍から見ても分かった。

 

(……どうするべきなんだろうな)

 

 励ましの言葉を送ったところで、慰めどころか傷口に塩を塗りかねない。かといって、何もしないのも居心地悪い。枢機卿の残した爪痕をどう埋めていくのが正しいのか、己の残念な頭では答えを出しようがない。こんな時フルルドリスがいてくれれば。なんて、弱音が脳裏を過ぎる程に今回の件は根が深かった。

 腐心し、頭を抱える。その時であった。

 

 ──落とし仔達よ

 

 聖痕が天啓を授ける──ドラグマの指導者たるマクシムスからの御声だ。耳で聞くのではなく、聖痕を通じ直接心に語り掛けている。

 

 ──聖女の魂はテトラドラグマの元へ還った。安らかなる眠りを祈り給え

 

 眼前に浮かぶのは、枢機卿から解き放たれた聖痕がテトラドラグマへと還る光景。

 奈落の落とし穴では一命を取り留めた彼女であったが、軽快には至らなかったと知る。悪事を働いたという事実があるものの、それでも彼女も元は聖女。ドラグマの生ける象徴の死に、聖痕を持つ全てのドラグマの民が嘆き悲しみ、彼らの感情が聖痕を介して伝わり、知らず涙が頬を伝った。

 元とはいえ聖女の死は民の心に訴えた。ある者は動揺し、ある者は嘆き悲しみ、そして──ある者は聖女を死に追いやった事実に怨みの声を上げる。強い想いは水面に投げ入れられた石と同じで、時に大きな波をも引き起こす。ある者の激情に引き寄せられるように民の心が重なり合い奮い立つ。

 

 ──聖女の死を無駄にするな。罪人には当然の報いを

 

 聖痕を通じ伝播する強い想い──テオの意思もまた、傍受した民心に溶け合い怒りと悲しみとありとあらゆる感情が心を揺るがす。

 

 ──落とし仔達よ、聖女の痛ましい死から目を逸らすな。この惨劇を二度と繰り返してはならぬ

 

 鉄槌を構える。迷いは無い。指導者マクシムスの命は絶対だ。

 

 ──邪教徒達に正義を示せ。大神祇官(マクシムス)の名の下に命ずる。落とし仔達よ、粛清を決行せよ

 

 

 時は少し遡る──

 

「獣畜生めが!!」

 

 絶対安静を言い渡された身でありながらも寝台を叩き、独房にて怨嗟の声を上げる。悪事を暴かれ敗れた枢機卿に待ち受けたのは、教会の地下牢への投獄。ほんの数日前までここは、目を付けた獣人の一時保管場所であったのだが、今ここに囚われているのは枢機卿のみ。自業自得だと言わんばかりに、死の淵に瀕したはずでありながら、彼女は冷遇された。元聖女の肩書きも待遇を変えるに役立たない。

 フルルドリスを堕とす──その野望も、あと一歩のところ。最後の最後で打ち砕いたのは、欠陥品の獣人という事実が尚更業腹であった。

 

「私は、決して堕ちない……そうよ、ドラグマの聖女は私よ!」

 

 聖女であるが故の矜恃は、罪を受け入れることを許しはしない。それもそうだ。彼女は今までの行いを何ら悪いことだと思っていない。捨てられたゴミをただ再利用した。彼女にとって欠陥品の獣人など、人権など存在しない廃棄物であったのだから。口だけ達者に権利を主張するただのゴミを、好きに使って何が悪い。

 故に、枢機卿は己に罪人の烙印を押される意味が理解できなかったのだ。

 

「これはこれは枢機卿。重症を負ったとお聞きしましたが、壮健で何より」

 

 怒りに爪を立て、髪を振り乱し──淑女の面影も無く怨嗟の唸りを上げる彼女だが、矢庭に声を掛けられ顔を上げる。

 マクシムスの近衛兵にして暗殺者──ハッシャーシーン。それがいつの間にか、気配も悟らせずに格子を挟み立っている。かつての品格を失い山姥の様に荒れる彼女を見て、無様だと言わんばかりに鼻を鳴らした。

 枢機卿はなりふり構わずと猪のように距離を詰め、鉄格子を揺らした。

 

「ハッシャーシーン、ここを開けなさい! 私は、ドラグマの聖女ですよ!」

 

 だが、枢機卿のプライドを捨てての叫びは彼を動かすことなく。もはや彼女に命令を下すような地位は無いとばかりに、ハッシャーシーンは聞き入れず暗器の爪を鳴らす。

 

「マクシムス様からの伝言です。"枢機卿よ……貴女は素晴らしい聖女であった。そしてこれからもその名は語り継がれるであろう。ドラグマの悲劇として"」

「なっ……!?」

 

 それはどういうことだ。そう紡ぐはずであったが、口から言葉は出ずに血を吐き出す。ハッシャーシーンの爪が喉を貫いたのだ。

 

「落ちぶれましたね、枢機卿。例え極刑を免れたとしても、貴女に残るのは聖女ではなく罪人としての肩書きだ。国家の名に泥を塗る前に、聖女として貴女をテトラドラグマの元へ還すマクシムス様のお気遣いに感謝しなさい」

 

 辛うじて息のある枢機卿に、餞別とばかりにハッシャーシーンは嘲笑を交えつつ告げる。

 

「さようなら、枢機卿。貴女の死は無駄ではない。邪教徒との聖戦の狼煙となれ」

 

 この日、歴史書にある一つの悲劇が刻まれた。

 

 ドラグマのかつての聖女、邪教徒の手により堕ちる。聖女に訪れた悲劇を民は嘆き、かの邪教徒を決して赦してはならぬと結託する。これ即ち、穢れし血を洗う粛清の儀なり。聖戦は(きた)る福音の日まで続くであろう──

 

 枢機卿の罪は成れ果てと共に歴史の闇へと屠り去られ、残されたのは野蛮な獣に惨殺されたという脚色の事実のみ。

 マクシムスの決定の前に、真実などもはや何ら意味を持たない。悪事を証明する証拠は全て紙屑となる。そう、マクシムスの決定こそがドラグマの総意。そこに個人の意思は存在せず、それは事実を目の当たりにしたテオとアディンも同様であった。

 

「キット!!」

 

 放たれた光の矢は、力無き子猫を狙う。咄嗟にフェリジットが庇うもそれは肩を射抜き、鮮血が散り戦いの幕上げを告げる。

 開戦の狼煙は、前触れも無く上げられた。仕留め損なった獲物をアディンは冷徹に見つめ、追撃の詠唱を開始する。

 

「なんだよ……これ……」

 

 静かなる殺意──躊躇いも容赦も無く、ただ淡々と作業を進めるようにいとも容易く行われる蹂躙。

 窓の外を見る。教会から俯瞰できる街並みは、活気づいているはずだった。だが、眼下に広がる光景はまさに地獄の所業か。ある者は奇跡にて生きたまま業火の檻へと誘い、またある者は風を刃に獣人達の四肢を落とす。

 戦場なんて表現は生ぬるい──これは虐殺だ。敵意の無い獣人達を、ドラグマの民が一方的に死出の行列へと並べている。

 

「悪いな、ルガル。事情が変わった!」

 

 振り下ろされる槌を視界の隅に捉え、咄嗟に横に飛び退いた。

 床を穿ち大地震を呼び起こす鉄槌──あと一瞬でも判断が遅れていれば、ルガルは全身をかち割られていたところ。床を砕いたテオは、仕留め損なったルガルを見遣り舌打ちを一つ。

 

(こいつら……本気で、俺達を殺す気だ)

 

 味方だと思っていた人の、あまりにも早過ぎる変わり身についていけない。そして何より、彼らには人を殺すことに対しての罪悪感や躊躇いなどが全く無い。例えどんな理由があろうとも、誰かに手をかけるということは相応の覚悟を抱くに他ならぬというのに。

 殺される──兎が虎を前にしたとか、そんなものではない。自分達に今向けられているのは、得体の知れない殺意。意味の無い殺戮という、経験の無い事象がより一層恐怖を煽った。

 

「逃げるぞ、フェリジット!!」

 

 狼としての矜恃など、もはやどうでもいい。恥を承知で尻尾巻いて逃げようが、今は命が惜しいと生存本能が叫ぶ。

 フェリジットを助け起こしたのは、僅かに残った理性が仲間を失いたくないと声を上げたからだ。妹を抱える彼女の手を引きながら、致命傷になり得る攻撃を辛うじて避けながら廊下を走り抜ける。

 

「嫌だ、死にたくない死にたくない死にたくない!!」

 

 食らった同胞達が早くこっちへ来いと耳元で囁く。煩わしいと、消えてくれと、ルガルはひたすらに死への恐怖を叫び、生にしがみつこうと藻掻く。

 同時刻、血で血を洗う粛清の刃はシュライグにも振り下ろされる──はずだった。

 

「ぐっ……ぅぅ…………」

 

 フルルドリスが、目を覚ました。三日ぶりの覚醒を喜ぶ暇も無く、彼女は果物ナイフを手にシュライグに向け下ろした。そう、彼女にもマクシムスからの命令とドラグマの民の総意が届いたのだ。

 だが、喉を貫くはずであった刃は何の手違いか──左手の聖痕を貫く。殺すために振り下ろされた右手と、抗うように庇う左手。何度も右手はシュライグを刺そうと振り下ろされ、その度左手は傷一つ許しはしないと触れる直前で邪魔をする。

 

「マクシムス様、お許しください! 貴女の命に従えぬ、愚かな私を!!」

 

 許しを乞い、左手を穿つ。その都度血が溢れ、聖痕の輝きを覆う。マクシムスの命を遂行しなければならぬ義務、友を守りたいという己の意思──二つの葛藤が、目に見える形で戦っているのだ。

 自傷行為を繰り返す彼女であったが、左手に触れた温もりにすんでのところで右手を止める。心を痛め涙する彼女を見つめ、静かに首を横に振った。

 

「……シュライグ」

 

 これ以上は駄目だ。声無き気遣いがフルルドリスに届く。左手に重ねられた温もりは、心を砕かれた少年に唯一残された優しさそのものであった。

 

「逃げてくれ……枢機卿を殺したキミを許せないんだ。ドラグマの総意がキミの死を望んでいる」

 

 泣きながらの訴えは、けれどシュライグには何ら届かず。口を真一文字に結び、この状況を悲しむでもなく恐れるでもなく無表情を貫き──声も失い心を砕かれ、ほんの僅かに残った優しさという感情はフルルドリスが傷付くのを良しとせず、手に包帯を巻いていく。

 

「何をやっているんだろうな、私は……」

 

 血に塗れた手に触れ傷の処置をする献身的な姿に、やっと目が覚めナイフを落とす。シュライグを抱き締める彼女にはもう、マクシムスの命令も民の声も届いていなかった。

 

「シュライグ……共に、逃げよう」

 

 聖女という責任も地位も捨て──普段のフルルドリスであれば絶対に口にしない、無責任な言葉が口を衝いた。騎士であろうと聖女であろうと、その前に彼女が一人の少女であるという事実は覆らない。一欠片残った彼女の幼さが、現状を嘆き弱音という形で発露したのだ。

 

「争いとは無縁で、誰も傷つかない場所」

 

 それは何処にあるの? そう言わんばかりに虚ろな顔で首を傾げる。そんなシュライグの頭を撫で「一緒に、見つけるんだ」と、夢見がちな言葉を吐く。

 

「ドラグマも獣人も関係無い。聖女も羽なしも意味の無い。誰もが対等でいられる場所を、探しに行こう」

 

 手を繋ぐ──寝台の傍に置かれた神器も持たず、鎧も着ず。そう、騎士と聖女としての象徴を捨てる。これが、彼女にとっての決別の証であった。

 部屋を出れば、廊下は死屍累々の血の海と化していた。その全ての死体は獣人で、文字通り粛清という名の塵殺が行われている惨憺たる現場だ。

 

「惨い……」

 

 思わず口元を押えた。隣でシュライグが繋いだ手を強く握り返す。大声を上げて泣きはしないが、残った僅かな心を痛ませているのが分かった。

 

「見つけたぞ! 枢機卿を殺した穢れた血め!」

 

 血を被った聖職者が目を剥きながら、剣を手に向かってくる。フルルドリスの姿など全く目に入れず、激情に振り回されるまま切っ先をシュライグに向けた。

 

「触るな」

 

 聖痕の力さえも使わず、フルルドリスは聖職者の手を掴み折った。悲鳴は腹を蹴り上げ黙らせ、剣を奪う。命まで奪わないのは躊躇ったからではなく、シュライグにこれ以上命を奪う瞬間を見せてはいけないという使命感によるものであった。

 

(なまく)らだな。丸腰よりはマシか」

 

 と、剣を抜き身のまま持ち、反対の手でシュライグを抱え上げた。

 フルルドリスが目指したのは礼拝堂であった。逃げるのに何故外に出ず礼拝堂に向かったのかというと、今街に出れば、住民達の数の暴力に遭うと見越してだ。フルルドリスとていくら強くとも、手負いの体で一騎当千なんて無茶はできない。故に、遠回りだが生存率の高いと思われる隠し通路の一つを使うべきだと考えたのである。

 礼拝堂に並んだ長椅子の一つを横にずらす。すると、下に隠されていた地下に続く階段が現れる。隠し通路とはいえ、その仕組みは極めて単純なものだ。

 教会の地下にあるのは、今は放棄された下水道だ。かつて上層部が総本山である大聖堂から大陸全土に繋がる地下通路を計画したらしいが、それが頓挫した成れの果て。今となっては形だけの避難経路として使われている。

 長らく放置されていただけあってか、ヘドロがこびり付いた不衛生な環境であった。松明で見通せる範囲に敵はいない。早いところ出口を探すかと入り組んだ道の一つ一つに目を向けたその時であった。

 

「シュライグ!」

 

 手を振り払い、徐に走り出した。見失う前にとフルルドリスもその後を追う。

 結論を言うと、シュライグにはすぐに追いついた。手前の道を曲がってすぐに足を止めたからだ。彼の突然の行動にヒヤッとさせられるも、そこに座り込んでいた人物を目に入れ、納得する。

 

「ルガル、フェリジット……キミ達も無事だったか」

 

 無事を知りほっと胸を撫で下ろす──粛清の儀に巻き込まれ命を落とした最悪の可能性が何度も脳裏を過ったからだ。それが杞憂に終わり、心から安堵する。

 

「死ぬかと思った……」

 

 「アンタが避難経路教えてくれて助かった」そう告げた彼は満身創痍で、まさに命からがら逃げ延びたというのを全身で語っている。

 

「傷を診せてくれ。少しなら手当てできる」

 

 荷袋を広げ、持ってきた傷薬と包帯を手に取る。今の手持ちでできることなど精々止血くらいで、気休め程度だ。

 フェリジットの身体は奇跡の矢で射抜かれ、ルガルは顔の半分を潰されていた。二人は何も語りはしなかったが、アディンとテオにやられたのだと察するに十分な傷であった。

 

「フルルドリス……正直、アンタが敵に回らなくて本当に良かった」

 

 「一番敵に回したくないからな」傷の痛みに呻きながらも、らしくもない弱気な笑みを見せる。

 

「だからさ……いざという時は、俺らを見捨ててキットとシュライグだけでも連れて逃げてくれ」

「馬鹿なことを言うな」

 

 受けた傷の深さがそうさせるのか──とにかく、ルガルは精神的にかなり参っている様子であった。そんな彼の無責任にも暗い発言を一蹴し、傷薬を塗り込む。

 

「見りゃ分かんだろ。俺らはもう戦えない……フェリジットとも話し合って決めたんだ。もし、また襲われたらガキだけでも逃がすって」

「悪いがそれはできない。全員で生き延びる。キミ達全員私が守ればいいだけだろう?」

「アンタ、やっぱ強いな……そんなこと言われたら、本当にどうにかなりそうな気になる」

 

 フルルドリスの強気な態度に励まされたのか、ルガルの気も変わったらしい。情けない自分を叱咤するように両頬を叩いて立ち上がる。抜きん出た実力を持つ聖女が味方に着いたのだ。これほどまでに心強いことはない。

 

「立てるか、フェリジット」

「立てるに決まってるでしょ」

 

 差し伸べられた手を払い、気丈にも彼女は自力で立ち上がる。それが所謂空元気の類とは分かっていたが、プライドの高い彼女が人に頼るなんてこと良しとするはずもなく、ある意味これも調子が戻ってきた証拠だ。

 

「道は複雑に見えるが、どれも辿り着くのは街外れの河川だ。追っ手が来る前に行くぞ」

 

 いつまでもこんな薄暗いところにいては腐ってしまう。そう危惧したフルルドリスは、ルガルとフェリジットが気を持ち直した今のうちだと声を張る。

 幸いにも追っ手が来る気配は無かった。ほんの僅かな平穏の間に、アディンやテオ──ドラグマの民に何が起こったのかと説明を求められ、フルルドリスは分かる範囲で答えた。

 ドラグマの最高指導者であるマクシムスが、聖痕を通じ民に呼びかけたこと。正義の鉄槌と称し、獣人達への虐殺を正当化したこと。マクシムスの命令に従うのは義務であり、逆らうという考えすら浮かばぬほどにドラグマの民に根付いた深い信仰であること。アディンとテオが敵に回ったのはドラグマの民として当然の行いであり、寧ろ命令に従わないフルルドリスこそが異端であること。

 

「正義って……なんだよ。俺達、何も悪いことしてないだろ!」

 

 全てを聞いた上で、それでも納得できないとルガルが声を押えながらも怒りを露わにする。一方的に狩られる側となった獣人としては、当然の主張だ。

 

「そうだな、キミ達は何も悪くない。けれど、枢機卿が亡くなったのは事実だ。そしてドラグマにとって不都合になるであろう彼女の悪事から目を背け、残る真実はただ一つ」

 

 続く言葉はあえて声にせず、彼女の眼差しは手を繋ぐシュライグの方へと向いた。

 枢機卿は殺された。獣人の手によって──そこまでに至る過程を隠蔽して事実を伝えた結果、ドラグマの民は清濁をどう判断するか。

 考えるまでもなく、その答えは身を以って知った。障害者の獣人に対しての仕打ちを抜きに彼女がどんな人物かと見れば、ドラグマを導いた元聖女にしてマクシムスの側近。何も知らぬドラグマの民は、国のために尽くしてきた彼女を想い胸を痛めその死を嘆くであろう。そして死に追いやった邪教徒には制裁を望む。ドラグマの最高指導者マクシムスは、言葉巧みに民心を都合よく動かしたのだ。

 

「シュライグ一人に、枢機卿を殺した罪を擦り付けた……か」

 

 普段シュライグに対して厳しい言葉しか掛けてこなかったフェリジットも、今回ばかりは同情すると言わんばかりに嘆息を吐く。

 どんな理由があれ、枢機卿を刺したのがシュライグという事実を覆すことなどできない。あとは枢機卿の悪事を隠して檄を飛ばせば、忽ちシュライグはドラグマの重鎮を殺した犯罪者だ。

 

「ねぇ……アタシ達、どこに逃げたらいいの?」

「……フェリジット?」

 

 突然足を止めた彼女に、ルガルも釣られて立ち止まる。

 

「ルガル、アンタだって分かってんでしょ。ドラグマがアタシ達獣人を攻撃しているのは事実。どんな理由があれ、その火種はシュライグよ」

 

 一方的に攻撃された獣人達は、ドラグマのことをどう思うだろうか──当然、敵視するであろう。そして、反目し合う理由を生む元凶となった存在に対してなんと思うか。そんなの、明白だ──

 

「迫害してくる連中が、部族から獣人全てに変わる。もうこの世界に、シュライグの居場所なんてどこにもない。逃げたところで、どうにもなんないのよ!」

 

 これから先の未来を憂い声を荒げる彼女に──けれど、ルガルの表情は変わらない。彼女の言う通り、ルガルとてシュライグがこれから先全ての獣人の恨みを買うことに気付いていた。だが、気付いた上であえて目を逸らした。そんな救いの無い未来のことを考えたくないという思いも少なからずあった。だが、それ以上に──

 

「世界が敵に回ろうとも、俺は立ち向かう。シュライグに居場所が無いなら、俺がなる」

 

 どんな事情を抱えていたとしても、決して仲間を見捨てない──同胞殺しの罪を背負う彼は、情に厚い奴だった。

 

「私もその仲間に入れてくれ。獣人じゃないからダメだなんて、寂しいことは言わないでくれよ」

「何言ってんだ。当然、アンタはもう俺らの仲間だろう?」

 

 例えドラグマが敵に回ろうとも、ルガルにはそれを理由にフルルドリスを追い出す気などなかった。彼女から受けた恩はあまりに多く、国をも捨てる覚悟を蔑ろにするほどルガルも薄情ではない。

 これは、一つの在り得たかもしれない未来──獣人とドラグマが手を取り合い、共に生きるという選択だ。

 けれど、現実というものは時に残酷な決断を強いる──違う種族同士が手を取り合う未来なんて存在してはならないとばかりに、彼らは待ち受けていた。

 

「出口だ……」

 

 暗く長い地下通路を歩き、疲労困憊の全員の目に飛び込んできたのは外の明かりだ。風の気配を感じ安堵する。地下通路の淀んだ空気の終わりが見えたのだ。

 真っ先に駆け出したのはフェリジットだ。待ち望んでいた外はすっかり日が落ち月明りが頼りなく照らしていたが、そんなの関係ないと妹と共に歓喜の声を上げる。

 

「──! 行くな、フェリジット!!」

 

 ルガルが忠告するが、もう遅い。

 光の矢が驟雨の如く襲い掛かった。咄嗟にキットを雪に投げ出して、フェリジット一人がその猛攻を身に受ける。

 

「馬鹿なことはお止めなさい、フルルドリス」

「アディン様……」

 

 先回りしていたのか、雪原の中待ち受けていたのはアディンとテオの二人。見えてきた活路を潰しにそれぞれ武器を構える──万全の装備で待ち伏せしていた二人に対し、こちらは手負いの集まりだ。戦えるのは、自分一人だけ──フルルドリスは重く息を吐き、かつての仲間に向け鈍らを向けた。

 

「マクシムス様の命令に背くのですか?」

「申し訳ありません、アディン様。例えマクシムス様の命であっても、友を手に掛けるなど私にはできない」

「そうですか……仕方ありませんね。貴女にできぬなら、私達が代わりに手を下しましょう」

 

 手始めにと、彼が真っ先に狙ったのはフルルドリスの最初の友人であるシュライグ。強情な彼女への見せしめに、この上なく適した獲物であったのだ。

 

「シュライグ!」

 

 逃げもしなければ、恐れもしない──立ち尽くすばかりの彼に放たれた矢。咄嗟にルガルが身を挺して守ったが故に無傷だが、矢は容赦無くルガルの手を貫き喉を裂くような悲鳴が迸る。

 

「アンタ達を少しでも信用した俺が馬鹿だった。言いなりの傀儡共が!!」

「ははっ。追い詰められた獣って、ホントに無駄吠えしかしないんだな!」

 

 罵倒さえももはや届かず──槌を振るうテオは狂信者の笑みを浮かべて襲い掛かる。ルガルを狙ったその一撃はフルルドリスがいなすも、鈍らで相手できるものではないと、一撃の重さに下唇を噛み締める。

 

(このままだったら、全滅する……!)

 

 聖女であるフルルドリスを彼らが手に掛けることはないだろうが、それ以外の四人に待ち受ける運命は死だ。

 腹を括れ──息も絶え絶えなフェリジット、泣きわめくキット、いつ倒れてもおかしくないルガル、そして戦う意思も逃げる意思も無いシュライグ。

 今のフルルドリスに、騎士団で指折りの実力を持つ二人を相手にできるだけの体力など残されていなかった。全員がどうにか生き延びることのできる可能性──選択を間違えれば、全てを失う。

 

「行け、ルガル! 全員を連れて逃げろ!」

 

 光の矢が手を貫くが、剣は落とさない。鉄槌が地を揺るがそうとも歯を食いしばり踏みしめる。

 

「馬鹿言うな! いくらお前が強くても、一対二は不利だ!」

「だとしても、二人は私を殺せない! 逃げるだけの時間は稼ぐ。だから、全員生き延びる未来だけ考えろ!」

 

 戦えない者のために立ち上がり剣を振るう彼女は、まさに騎士道精神そのものを体現した聖女の姿であった。

 逡巡の末、キットを抱えフェリジットを背負いシュライグを呼ぶ。仲間を置き去りにするという事実が容赦無く身を切るも、彼女の覚悟を無碍に全滅する未来など選べない。

 

「恩に着るぜ」

 

 ルガルとて、でき得るなら彼女と共に旅をしたかった。だが、それさえも叶わないのだと非情な現実が牙を剥く。どう足掻いても埋められない、獣人とドラグマの間に生まれた軋轢が運命に逆らうなと憫笑するのだ。

 

「シュライグ……共に行けなくてすまない。だが、離れていてもキミが私の友であるという事実は変えられない」

 

 もしかすると、これは今生の別れになるかもしれない。例えフルルドリスがこの場で死ぬことはなくとも、マクシムスの命令に背いた事実は変えられず、聖女として国に軟禁されてしまう未来だって十分にあり得る。だからこそ、今この場で伝えるべきだと鍔迫り合いの傍らで言葉を贈る。

 

「これから先、辛く惨めで苦しい日々が待ち受けているかもしれない。死んだ方がマシと思うことだってあるかもしれない。だけども、どうか生きることから逃げないでくれ。翼が無くても、キミには受け入れてくれる仲間がいる。自分の足で立ち上がり、前に進むんだ!」

 

 この言葉が、今のシュライグの心に響いたのかは分からない。どれだけ声にして叫ぼうとも、フルルドリスの身勝手な願望だ。

 けれどもし、奇跡というものが本当にあるとすれば──まさにこの瞬間ではないだろうか。

 

「フルル……ドリス」

 

 潰れていた喉が、ほんの僅かに開いたのだ。弱弱しく名前を呼び、たった一言で喉は再び声を閉ざした。

 虚ろであった瞳に、微かに灯った意思の炎。そう、彼女の叫びは壊れていたシュライグの心を動かしたのだ。

 これから先、立ち直るには長い道のりであるだろうが、止まっていたシュライグの心が一歩前に踏み出したのは紛れもない奇跡。

 

「ドラグマは、私が内側から変える! 争いとは無縁で誰も傷つかない世界を必ず実現する!」

 

 その誓いは、これから先この閉ざされた深淵の世界を動かす一つの奇跡の幕開けだ。

 今はまだ芽吹かぬ種だけれども、そう遠くない未来、虐げられた少年は獣達の生ける希望として戦場に返り咲く。

 鉄獣戦線は、一人の聖女が傷ついた少年の背中を押したがために生まれた。

 この一歩は、閉ざされし世界が開かれるための未来への系譜──

 

 あの後、フルルドリスがどうなったのかをシュライグは知らない。

 命からがら逃げ延びて、気付いた時にはフラクトールに抱き締められていた。「よく、頑張ったね」彼は何も詮索することなく、泣くことのできないシュライグに代わり涙を流していたことを覚えている。

 フェリジットは暫く起き上がることさえできないだろう。ルガルも顔の傷は一生残ると言われた。シュライグはこの先話せるようになるかも分からない。

 けれど、生きている──フルルドリスが願った通り、誰一人欠けることなく逃げ延びた。

 一か月と経たずに西方教会の話は馬の集落にも届いた。元凶がはっきりとシュライグであることが伝わらなかったのは不幸中の幸いか。だが、障害者の獣人であることまでは隠せず、集落で肩身の狭い思いを強いられるのにそう時間はかからなかった。

 転機が訪れたのは、西方教会の事件から三ヶ月後のことだった──

 

「行きたいところ?」

 

 肯定の意を込め小さく頷いた。思えば、これがあの一件が終わって以来初めて見せた、シュライグの我儘だったかもしれない。

 フルルドリスの願い通り、少しずつだがシュライグは立ち直ろうと前に進んでいた。自分の意思を少しずつ出せるようになった。

 フラクトールの手のひらを取り、指で文字を書く。

 

「鉄の……国?」

 

 突拍子も無い主張に呆れそうになるもどうにか顔には出さず。「どうしてそこに行きたいんだい?」彼の意見を尊重しつつ、引き出そうと質問を続けた。

 あまり声を大にして言えないが、この時フラクトールは彼の主張に対して嫌な予感を抱いていた。というのも、鉄の国は大砂海ゴールド・ゴルゴンダを超えた遥か向こう。道中の砂漠にはホールから現れた未知の生物が生息しており、何より食料どころか水さえも手に入らぬ寒暖差の厳しい死の大地。

 もしかしてシュライグは──死にに行こうとしていたのではないだろうか。

 

「争いとは無縁で、誰も傷つかない場所……?」

 

 だが、彼の心配は杞憂に終わり──シュライグが鉄の国を目指す理由の背景には、切ない願いがあった。

 仲間を傷つけたくない。争いの無い場所で待っていたら、フルルドリスともまた会えるかもしれない──

 

「詳しくは、オレ様の口から説明する!」

 

 シュライグの服から顔を出し口を挟んだのは、キャプテンサルガスであった。西方教会から脱出を図る際に実は荷袋に紛れ込んでいたのだが、その縁が今も続き、シュライグ達と共にフラクトールの世話になっていたのだ。

 

「鉄の国は、オレ様の……スプリガンズの故郷なんだ! そこにはドラグマも獣人もいない! 争いは……セリオンズの連中が煩いけど、でも闘技場だけでの話なんだ!」

 

 部族の据もなければ、ドラグマのように恨まれる理由もない──そもそも、誰も訪れない遥か遠くの平穏。

 シュライグは──あまりに、多くのものを背負い過ぎた。このまま馬の集落に留まっていたとしても、きっといつかは安寧を壊しに誰かがやってくる。フラクトールもだが、ルガルもフェリジットもいつか訪れる最悪を心のどこかで恐れていた。

 

「けれど、砂漠はどう超えるんだい?」

「道はオレ様が知ってる! そこを通れば安全で、最短距離で行ける! 頼むよ、オレ様にはこいつらに助けられた恩があるんだ!」

 

 キャプテンサルガスは必死に訴えるが、だとしてもフラクトールの首を縦に振らせるにはもう一押し足りなかった。

 できるなら、背中を押してあげたい──けれど、シュライグはまだ子どもだ。未知の土地で生活していくことは勿論、砂漠超えに耐えられるだけの体力だってまだ無い。

 

「シュライグ……キミの意思は尊重してあげたいよ。けれど、わざわざ危険を犯すことないじゃないか。だから──」

 

 言いかけて、そこで部屋の扉が開けられた。振り向けばそこにはルガルとフェリジットが立っていて──扉越しに話を聞いていたのだろう。

 

「フラクトール……行かせてくれ」

 

 開口一番に告げられた内容に、フラクトールは呆れのため息を一つ。諭すように表情を険しくさせ、一言「駄目だ」と言い放った。

 

「砂漠を超えることができたキャラバンは、千組に一つ。どれほど生存率が低いか、これが分からないキミ達でもないはずだ」

「分かってる……けど、シュライグにはもうこの土地での居場所は無い。俺だって部族を追い出された身である以上、ここにいつまでも残り続けることできない。いつかは出ていく必要がある」

 

 今や全ての獣人から恨まれることとなったシュライグは勿論、ルガルとて馬の集落に居場所は無い。狼の部族に嗅ぎつけられたら最後、フラクトールを巻き添えに襲われる危険性が付きまとう。それを分かっているからこそ、ルガルは顔の傷もまだ癒えないというのに無理を押し通して主張する。

 しかし、強情なのはフラクトールも同じで──頑なに首を横に振る。

 

「焦る気持ちも分かるが、それは今である必要は無い。ルガル……もう少し冷静に考えてくれ」

「考えて出した答えがこれなんだよ」

 

 徐に彼は頭を下げた。突然のことに目を見開くフラクトールを他所に、ルガルはさらに言葉を続けた。

 

「俺たちはもう、誰も欠けちゃいけないんだ……少しでも平和に生きられる場所で暮らしたい。これは、俺だけじゃなくてフェリジットやシュライグだって同じだ。頼む、行かせてくれ」

 

 言い終わるのも待たず、彼に倣いフェリジットまでもが頭を下げた。

 三人──キャプテンサルガスも含め四人か。ここで頷かなければ、まるでこちらが悪者じゃないかとフラクトールの強情な意思がぽっきり折れた。あと、ここで首を縦に振らなくともこの三人なら家出という形で勝手に出ていく可能性も十分に有り得る──我が子同然の彼らを砂漠の地に送り出すのは胸が痛いが、勝手に出て行かれるよりかはマシかと消去法で考え、渋々と頷いた。

 

「……仕方ないね」

 

 大人を困らせた罰だと、言い出しっぺのシュライグのおでこを指で軽く弾く。僅かに顔を顰める仕草に成長を感じながらも、これだけは譲れないといくつかの条件を付け加える。

 

「でも、今すぐにとは行かないよ。砂漠超えには私も付き添うし、相応の準備も必要だ。無理だと思ったら、すぐに引き返す。これだけは譲れない」

「それって、つまり──」

 

 深く考えなくとも分かる──彼なりの最大限の譲歩だ。裏を返せばフラクトールの引率、それに加えて砂漠超えに必要な物資を集め、体力を付けさえすれば行けるということに他ならない。

 

「砂漠を超えるに何が必要かは、キミ達で知恵を出し合うんだ。いいね?」

「ありがとな、フラクトールさん!」

 

 善は急げと、二人はシュライグの手を引き部屋を出る。

 一人残されたフラクトールはというと、目頭を押さえやれやれと独白する。

 

「正直、シュライグ君が最初に言い出さなければ断っていたさ」

 

 最初に言い出したのがルガルやフェリジットであったなら、一蹴していただろう。けれど、それがシュライグだったから──意思疎通さえもままならない彼が、やっと見せた主張だったから。フラクトールもつい、浮かれてしまった。あのシュライグが、はっきりとやりたいことを言葉にしたという事実が、あまりに嬉しかったのだ。

 

 ──今となっては、それももう懐かしい思い出話だ。

 

 あれからもう十年は過ぎたと、酒のグラスを煽る。何度目かの失敗を乗り越え辿り着いた鉄の国は、最初こそ獣人には厳しい環境ではあったが、原住民のスプリガンズの手を借り、今こうして鉄獣戦線の拠点として使えるほどになった。住めば都とはまさにこのことで、岩場ばかりの乾燥した土地だろうと案外どうにでもなるもんだなと、フラクトールはしみじみ思う。

 

「あれ、フラクトールさん。今日も飲んでんすか?」

 

 「流石に飲みすぎじゃ……」テーブルに並んだ空瓶の数々に、ナーベルは「ひえっ」と短い悲鳴を上げる。まだ酒の飲めぬ年齢とはいえ、蟒蛇の範疇を超えていることは分かった。

 

「やぁ、ナーベル。また夜更かしかい?」

 

 いつもより上機嫌なフラクトールに、苦笑いしつつも頷いた。酒豪もここまでの量を飲めば酔っぱらって──とも思ったが、どうやら違うらしい。彼の機嫌がいい理由は、一緒に飲んでいるのがシュライグだからと気付く。

 

「シュライグがね、とうとうお酒を飲んでくれたんだ! どうだい、大人の階段を上った感想は?」

「……めがまわる」

「なに、そのうち慣れるさ!」

 

 と、空になったグラスになみなみと果実酒を注ぐフラクトールの顔はまさに悪人のそれであった。シュライグはというと、顔を真っ赤にして遠慮するがフラクトールの圧には勝てず「いっぱいだけなら」と、渋々口に運ぶ。酒豪は限界を知らぬが故に質が悪い。付き合わされるシュライグにひっそりと同情を抱く。きっと明日は二日酔いに苦しむことだろう。

 

「なーべる、たすけてくれ……」

 

 相当飲まされたのかそれとも弱いだけなのか。あのシュライグが、助けを求めてるという事実を意外に思いつつ、水を用意した。コップ一杯飲むだけが、零すわ服は汚すわ謝罪は舌が回らないわと情けなさ極まっていっそ可哀想に思えてくる。酒に酔うと手元が不器用になるなんて、特に知りたくもなかったリーダーの意外な一面だ。

 

「よう、フラクトール。いい酒が手に入ったんだ、混ぜてくれよ」

 

 タイミングが良いのか悪いのか、酒癖の悪さじゃ右に出る者無しのルガルとフェリジットまで加わってしまい──フラクトールからすれば嬉しいだろうが、シュライグからすれば最悪の面子が揃ってしまった。これから散々揶揄われてしまう未来が見える。

 

「なに、シュライグ。アンタ酔ってんの?」

 

 崩れるように突っ伏した彼を、早速フェリジットが揶揄いつついた。「情けないわね」横着にも瓶ごと酒を煽り一気飲みする。酒を飲んだフェリジットは凄いと小耳に挟んだが、明日を迎える頃には壁に穴が何個空くことか。かといって止めに入れば巻き添えくらうと判断し、ナーベルは知らんぷりして夜食を求め棚を物色する。

 

「ない!!」

 

 棚を空け、絶望した。何故なら、隠していた瓶詰めのラスクが姿を消していたから。風呂上がりの楽しみに取っておいたはずなのに。

 

「あれ、なーべるのだったのか」

 

 犯人はあっさりと自首した。またお前か。三度にも渡り菓子を横取りされた恨み、今日という今日は許さないと眉尻を吊り上げる。

 

「リーダー、いい加減怒りますよ!」

 

 食べ物の恨みは怖い──その言葉を体現するかのような剣幕に、シュライグは言葉に詰まる。

 

「アンタ、ほんっと昔から変わらないわよね! 子どもの頃、ドロップ盗む度にキツく締め上げてやったってのに!」

 

 三つ子の魂なんとやら。シュライグの手癖の悪さは折り紙付きだったらしく、フェリジットが手を叩いて大笑いしてる。その隣、ルガルまで「そんなことあったな」と、笑いを堪えている。

 

「ああもう、うるさいなばか!」

「聞いたかい、ナーベル。シュライグが馬鹿だってさ。酔った勢いでとんでもない言動が見れそうだ」

「もういいかえる!」

 

 過去を蒸し返されすっかり臍を曲げて椅子から立ち上がった矢先、よろめいてすっ転んだ。相当酔いが回ってるのか、今日の彼は表情豊かだ。涙目になって睨みつける姿なんて一度だって見たことない。その子供っぽい反抗がろくでもない酒飲みの加虐心を擽るとも知らずに。

 

「リーダーってお酒飲むと印象変わるっすね。普段無口で無表情で何考えてるか分かんないのに」

「意外かもしれないけど、昔のシュライグはあんな感じだったんだよ。よく喋るしよく笑う、普通の子どもだったさ」

「何がどうなってあそこまで無口になったんすか」

 

 と、何気なく深掘りした瞬間、楽しい酒の場の雰囲気が一瞬にして凍り付いた。

 

「えっ……なんか、俺もしかして失礼なこと訊きました?」

 

 不自然な沈黙に不安になりつつも、頻りに首を傾げる。すると、気を使ったのかそれとも沈黙に耐えかねたのか。最初に切り出したのはルガルであった。

 

「ドラグマとドンパチやり合うようになったきっかけの事件、知ってるか?」

「えっと……確か、ドラグマの聖女が殺されたんっすよね。それが火種になって、暴徒と化した民衆が見せしめに獣人を虐殺したってやつっすか?」

 

 当時ナーベルは片手で数えられる程の歳であったため仔細は知らぬが、抵抗組織が立ち上がるきっかけとなった事件とだけは把握していた。今も続くドラグマとの全面戦争──鉄獣戦線もそれに立ち向かうがために結成された。今までの抵抗組織との違いは、部族を超えているところか。

 

「俺ら、巻き込まれたんだよ……それに」

「……えっ?」

 

 結び目を解く──アジトにいる間も、頑なに外すことのなかった仮面。後にも先にも──ルガルの素顔を見たのはこの一夜限りだ。

 左から半分──骨ごと抉り取られている。ドラグマの騎士にやられた逃げ傷だと苦い顔で語る。

 

「フェリジットに至っては死にかけたしな。逃がしてくれた奴がいたんだが、アイツには一生の借りができちまった」

 

 「今頃、どうしてんだろうな」と、仮面を置き過去を懐かしむようにグラスを見つめ息を吐く。

 

「ルガル、フェリジット……あの時は、すまなかった」

 

 過去の──それも、トラウマになっても仕方ないような暗い話だ。興も酔いも冷めたのか、少し呂律が回り出したシュライグが申し訳なさそうに床に座り込んだまま俯いた。

 

「全部……俺の所為なんだ。俺が、あの時──」

 

 そこから先は、声にならなかった。「誰の所為でもない」と、ルガルが励まし手を引いて立ち上がらせたからだ。

 

「あの件で傷付いたのはキミも同じだ。ショックで三年は声が出なかったよね」

 

 三年──長い月日だ。もしや、シュライグが無口なのはそういった経験があったからなのだろうか。表情に乏しいのも、幼い頃のそれが尾を引いているのではと、ナーベルが推測したその時であった。

 

「三年? いくらなんでも、それは誇張し過ぎだ」

 

 当の本人が心当たりないときょとんと首を傾げたのだ。「えっ?」と、戸惑うナーベルを他所に、ルガル達が大袈裟にため息を吐いた。

 

「いーや、シュライグ。そんくらいお前は喋らなかった。お陰様で、言われなくてもお前が何を伝えたいかってのが分かるぜ」

「そうそう。ルガルなんて、声を聞いたその夜にガチ泣きしたんだから」

 

 呆れながら打ち明けられた内容に、ああなるほど。と、今まで抱いていた疑問の一つが解消される。

 シュライグは普段から無口なのだが、ルガルとフェリジットの前ではとりわけ口数が少なくなる。かといって、二人はシュライグの意図を苦もなく汲んでおり、なんで言いたいことが分かるのかナーベルは密かに疑問に思っていたのだ。答えは所謂、慣れというやつだ。

 そんな彼らの苦労など他所に、シュライグは「ああそういえば」と、一つ大きな爆弾を落とした。

 

「実は、声自体は一年もせず出せるようになったんだ。だが、わざわざ言わなくても二人は分かってくれるし、俺も話すのが面倒くさくて──」

 

 不自然に言葉を詰まらせた。何故なら、ルガルとフェリジットは勿論。フラクトールまで険しい顔で酒を飲む手をピタリと止めたからだ。

 

「お前、俺達の気も知らずになんてことを……」

「アンタ、表出なさい」

「シュライグ、少し話そうか」

 

 ルガルには泣かれ、フェリジットは気合いに拳を打ち鳴らし、フラクトールは目が笑っていない。事を招いた本人はというと、目を丸くさせ三人を交互に見ては頻りに首を傾げる。

 

「俺……何かしたか?」

 

 波乱の予感に、しれっとナーベルは席を外す。こればかりは自業自得で助け舟を出すようなものでもない。菓子を横取りされた恨みはこれでチャラにしてやるかと、しこたま怒られる姿を想像し鼻を鳴らした。

 



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Episodeアルベル 前編

 

 誰かが言った──お前の所為だと。

 誰かが言った──お前だけ逃げるのかと。

 誰かが言った──生んだのが間違いだったと。

 

 最近、夢を見る──形無き深淵に追いかけ回される夢だ。

 深淵から数多の腕が、引き摺り込もうと伸びる。昨日もそうだった。一昨日もそうだ──追いかけ回されてどうなったのか。それがどうしても思い出せない。ただひたすらに、今は帰れぬ変わり果てた故郷の地を踏み、血の泥濘と堆く積まれた骸に足を取られながら死に物狂いで逃げる。そんな悪夢をずっと見続けていた。

 

「どうして逃げるの?」

 

 どうして?──そんなの決まっている。怖いからだ。向き合いたくないからだ。

 

「キミは、いつまで自分の罪から逃げるつもり?」

 

 耳元で囁く深淵に、凍り付いたように足を止めた。

 手のひらを見れば、その手は血に塗れている。枢機卿を殺し、獣人の虐殺を招き、開戦を呼んだ人殺しの手。罪悪感に押しつぶされるように膝が砕け、罪の泥濘に沈んだ。

 一度は心を閉ざし、目を背けた──ようやく立ち直った矢先、二度目は無いぞと言わんばかりに今更になって夢に見る。

 

「違う、俺は……俺は!」

 

 何も違わないと分かっているのに、受け入れるのは──罪人になるのは怖かった。戦争を引き起こした人殺しの罪を背負う覚悟──荷が重くて、背負いきれなかった。

 

「おいで、シュライグ。許されたいんだよね」

 

 深淵より訪れし少年は仮面の下で不敵に笑い、シュライグの頬に手を添える。

 

「大丈夫だよ、シュライグ。キミが世界から許されるためのシナリオをちゃんと用意したんだ」

 

 「気に入ってくれるかな?」そう言って仮面を剥ぐ──隠された素顔は、贖罪の未来を見せた。

 

 徒花、銀弾、凶鳥──鉄獣戦線

 

 怒涛のように流れ込む莫大な情報の嵐は身を絡める操り糸。舞台に無理矢理に立たされ踊らされる。足が砕けようが心が折れようが、観衆はその様を見て喜び手を叩いて嗤う。

 マリオネットに命があるというならば、それは紛れもなく──

 

「はっ──」

 

 飛び起きた。全身が汗ばんでいる。破れそうなほどに脈打つ心臓、肩で息をする。

 ここはどこだ? 見渡した部屋は暗く、広ささえ分からない。唯一の光源である窓の方を見れば、煌々と輝くアルギロ・システムを見つけほっと胸を撫で下ろした。

 ここは鉄の国──七年も過ごした第二の故郷だ。

 

「シュライグ、大丈夫?」

「……キット」

 

 飛び起きたシュライグを心配そうに覗き込むのは、フェリジットの妹であるキットだ。七年の歳月を経て、彼女は大きくなった。無論、成長したのは彼女だけでなくシュライグも同じだが。

 

「今朝ね、急に倒れて……悪い病気じゃないかって、ルガルがフラクトールさんを呼びに行ったの」

 

 「ワタシはお留守番」と、溌剌と答え見舞いの林檎に齧り付く。

 ふと、ノックも無しに扉が開けられた。「なんだ、起きたんだ」姿は見えぬが、声でフェリジットだと判断する。

 

「意外に元気そうね。ルガルは一々大袈裟なのよ」

 

 と、暗がりからようやく姿を見せた彼女はベッドの縁に座りキットを抱える。昔の尖った言動は丸くなり、落ち着きのある女性へと彼女も成長した。

 

「どうしたの? 浮かない顔して」

 

 心配そうに覗き込む彼女に、恐る恐ると口を開く。小馬鹿にされそうとは思いつつ、さりとてこの不安を胸に抱えたままというのも気持ちが悪くて我慢ならなかったのだ。

 

「なんか……変な夢見て」

「なに、添い寝でもしてほしいの? そういうのはルガルに頼みな」

 

 シュライグが予想した通り、彼女は鼻を鳴らすだけだ。言わなきゃよかった。そんな後悔、今更遅い。

 

「だいたいどういう夢なのよ」

「どういうって──」

 

 言えるはずなどない──俯き、口を閉ざす。

 

「……アンタって、いつも肝心なこと言えないわよね」

 

 黙り込んだシュライグに対し、それが昔と変わらぬ口下手によるものだと判断し、フェリジットは呆れるやら感心するやら。「アンタは体だけでかくなって、人付き合いは下手なままね」と、額を小突いた。

 

「なあ、フェリジット。砂漠の向こうは……今、どうなってるんだ?」

 

 それは、鉄の国の外──故郷の話だ。

 その質問に、彼女は目の色を変えた。「どうもこうも、目立ったことは何も無いわよ」と、適当に答えこの話は終わりだと言わんばかりにキットを連れて立ち上がる。

 

「そういう変なこと考えるからアンタはダメなのよ。どうせ、倒れたのも寝不足でしょ? 馬鹿なことで悩んでないで、さっさと寝なさい」

「でも、ルガルとフェリジットはよく鉄の国を出てるから……知ってるんだろ。なぁ、俺は知りたい」

「じゃあ、また今度。キットを寝かしつけなきゃいけないの。分かってちょうだい」

 

 はぐらかされた──部屋から出ていく二人の背中を見送り、寝台に倒れ込む。

 所詮夢だ──天井の暗がりを茫洋と見つめ、ため息を吐く。夢と分かっていながら、不穏な胸騒ぎに落ち着いていられない。寝不足だとフェリジットは決めつけたが、目は嫌に冴えている。

 

(また、俺だけ仲間外れ……)

 

 二人は、外の話を振ると決まっていい顔をしない。「また今度」そう言って、守るつもりのない約束を交わしてはぐらかす。それが不満だった。けれど、二人がそうやって頑なに口を閉ざす理由については己が一番よく知っている。

 人を刺したあの感触は、未だ手にこびりついている──

 

「仲間外れは嫌だよね、シュライグ」

 

 名前を呼ばれ、ハッと飛び起きる。暗がりに目を懲らす。姿の見えない声の持ち主に警戒を強めたその時、ここだよ。と、知らせるように窓を叩かれた。

 

「お前は、夢の……?」

 

 仮面の少年。獣人でもないがドラグマの民でもない。天幕の翼を背に、竜を彷彿させる二本角。仮面越しの緋色の眼差しに引き込まれるように、窓を開けた。

 

「初めまして、僕はアルベル。突然だけど、願いを三つ叶えてあげるよ」

 

 上機嫌に鼻歌交じりに告げる少年ことアルベル──胡散臭いな。窓を開けたことを後悔し、けれど閉めようにも彼は窓枠に座り込んで足をつっかえに邪魔をする。

 

「願いなんてない。強いて言えば、話すのは面倒臭い」

「おかしいな。昔のキミはよく話す子だったよ、シュライグ」

 

 名乗ってもいないのに名前を知られている。加えて過去までも──お前はいったい何者だ。不審者と決めつけ、突き落とそうとしたその時だった。

 

「お母さんは、いつ迎えに来てくれるのかな?」

 

 ──仮面を外す

 違う、そんなはずない──頭では分かっているのに、堰を切ったように涙が溢れた。時の流れに色褪せて顔さえもよく思い出せなくなったはずなのに。

 少年の仮面の下は、忘れていた母の笑顔そのものであった──

 

「母さん!!」

 

 ずっと──会いたかった。

 胸の奥底に仕舞い込んでいた、強い願い。どれだけ時を重ね成長しても、母の愛を失った心はいつまで経っても飢えたままだった。

 

「お母さんに会いたいよね。叶えてあげよっか?」

 

 「おいで」と手を広げる。彼は母の顔をした全くの他人だ。声も違えば性別だって違う。そうと分かっていながらも、愛情に飢えた心を少しでも満たそうと手を伸ばした──

 

「シュライグ?」

 

 名前を呼ばれ振り返る。部屋の暗がりから出てきたのはルガルであった。

 

「誰と話してたんだ?」

「えっ……?」

 

 窓を見る──誰もいない。

 波のように不安が押し寄せた。思わず窓から身を乗り出し、下を見る。底知れぬ晦冥が大口を開けて待ち構えているだけ。

 

「馬鹿、落ちるぞ!!」

 

 体が傾いたのを見て、慌ててルガルは首根っこ掴み引き寄せる。シュライグはというと、自分が落ちかけたことすらも分からず、窓の方へ向かおうとひたすらもがくばかり。

 

「ルガル、母さんが……!」

「何言ってんだ! いるわけねぇだろこんな時間に!」

 

 鳥の獣人は夜に活動しない。そもそも、ここは砂漠を超えた向こうの鉄の国。獣人はおろか限られた生物のみが住む街で、過酷な砂漠越えをしてまで訪れる酔狂な者は極わずか。

 

「母さんが、でも会いに来てくれた! 迎えに来てくれたんだ!」

「シュライグ、お前……」

 

 頑なに主張を曲げぬ彼に、ルガルは嫌な汗が背を伝うのを感じた。

 寝惚けているならまだいい。幻覚? 悪い病気か? 現にシュライグは朝に倒れている。気が触れて妄言を垂れ流している異常者のようにルガルの目に映った。

 その日の夜にフラクトールに診てもらったが、何も異常は見つからなかった。翌朝再度診察するが結果は同様。気休めに睡眠薬を処方してもらっただけで終わった。

 本当に何も異常が無いなら、むしろそれは喜ばしいことではないか。何度だってルガルはそう思い込もうとしたが、駄目だった。フェリジットどころかフラクトールにさえも大袈裟だと言われたが、心配は尽きない。夜に飲む酒の量が増えるばかりだ。

 

「なぁ、ルガル。お前さすがに飲み過ぎじゃねぇか?」

 

 三本目の瓶を開けようとしたところ、待ったを掛けたのはサルガスであった。用意したツマミを勝手に食べながら、「その辺にしとけって、アル中」と、歯に衣着せず告げた。

 

「シュライグと喧嘩して三日も口利いてないんだっけ? 気持ちは分かるが、それでお前が体壊しちゃ元も子もないぜ」

「うるせぇ……」

 

 サルガスの気遣いさえも煩わしいと、ルガルは忠告を無視して瓶の蓋を外した。そのままグラスに移すことなく飲もうとしたところ横からかっさらわれる。不機嫌丸出しに文句でも言ってやろうと舌打ちし、振り向いて満面の笑みを見つけ、反論の言葉を飲み込んだ。

 

「やぁ、ルガル。随分楽しそうに飲んでるじゃないかい」

「フラクトール……」

 

 笑っているが、目が笑っていない。向けられた冷ややかな眼差しに、背筋が凍る。酔いはとうに覚めた。

 忽ち牙抜かれて黙り込んだ彼に、フラクトールはため息を一つ。テーブル挟んで向いの席に座った。

 

「喧嘩したんだって? 話なら聞いてあげるよ」

「だっせぇ……皆にバレてんじゃねぇか」

 

 弟と喧嘩したぐらいで酒に溺れて──なんとも不名誉な理由で荒れていたなと、フラクトールに指摘されやっと自覚する。隠していたつもりだが、バレたなら意味もないか。と、開き直って相談を持ち掛けた。

 

「シュライグが倒れた日があっただろ? あれ以来、アイツがおかしいんだ」

「おかしい……? どう、おかしいんだい?」

「それが──」

 

 本人不在のところ打ち明けるのは悪いとは思ったが、一人で抱えるには荷が重く、ルガルは罪悪感に苛まれながらも訥々と語った。

 何度も砂漠の向こうを気にしていたこと。倒れたその日、誰もいないところに話し掛けていたこと。母親に会ったと、ありえるはずもないのに必死に訴えたこと──

 

「母親に捨てられてんだ。でも、アイツその自覚無くて……今更、なんで迎えなんか!」

 

 気味が悪いと、ルガルは耳を塞いだ──殺した同胞の幻覚に悩まされてきたからこそ、尚更ルガルはシュライグの妄言に付き合うのが苦痛であった。

 例え追い詰められていたとしても、こんなこと言ってはいけないと分かっていたのに──

 

「言っちまった……とっくの昔に、お前は捨てられちまったんだよ。って」

 

 「馬鹿だよな、俺……」と、衝動的に告げた真実を余程後悔しているらしく、ルガルが酒を浴びるように飲むのは喧嘩した事実に加え、罪悪感が背中を押しているのだとフラクトールは察する。

 

「私の前では変わらないから気付けなかったけど……そうか、シュライグがキミを避けていたのは、そういう事情があってか」

 

 フラクトールとて、シュライグが母親に対して異常に執着していたのは知っていた。幼少期に捨てられたのだ──愛情に飢えてしまうのも無理はない。平気そうに振る舞っているその裏で、密かに寂しがっていることを誰もが知っていた。

 それを、ルガルが否定したから──彼には悪いが、この失言に関しては擁護できないとフラクトールは人知れずため息を吐く。実の兄のように可愛がってくれていたルガルからそんなことを言われるとは、シュライグも余程ショックだっただろう。

 

「一先ず、これに関してはデリケートな問題だからね。時間を置いたほうがいいかもしれない。問題は寧ろ、鉄の国の外に行きたがっている方かな」

「そう……なのか?」

 

 鉄の国の外を気にするのは、何も今更ではない。元からシュライグは気にしていた──それは故郷のこともあるのだろうが、ドラグマとの関係悪化に伴い、他の獣人達がどうなったのか、彼なりに罪悪感を抱いてだろう。

 

「切っ掛けはなんであれ、母親と会った。たったそれだけかもしれないけど、探しに行く。なんて、言い出しかねないよ」

「それは……」

 

 言われてみればと、ルガルは息を呑む。母親に対して盲信していたシュライグが、どのような行動を起こすかなんて、正直予想できない。

 

「シュライグは人を頼るのが苦手だ。最悪、誰にも言わず一人で出ていくなんてこと、十分にありえる」

 

 ゾッとしない話だ。また、シュライグがいなくなる──七年も前に過ぎた西方教会のことを思い出し、(かぶり)を振って思考を追い出す。思い出したくない──顔の古傷が、今更のように痛んだ。

 

「行けるわけねぇだろ……今だって、ドラグマとの戦争が続いてるってのに」

「障害者の獣人に対する風当たりも益々強まっているからね。心配なのは分かるよ」

 

 七年の時を超え、ドラグマと獣人との戦乱は続き終わりは見えない。確かなことがあるとすればそれは、戦争の引金を引いたのは障害者の獣人だ。以前にも増して障害者に対しての風当たりは強まり、同族他部族問わず見かけ次第殺され懸賞金でさえ掛けられるほど。

 ルガルとフェリジットが頑なにシュライグを鉄の国から出さないようにしたのは、彼を守るため。そして理由を告げないのは、彼がまた背負うことの無いようにという願いを込めてだ。例えそれが鳥籠の中のような生活を強いることになろうとも、戦争が終わるまで二人はシュライグを鉄の国に閉じ込めるつもりであった。

 

「サルガス、これも居合わせた縁だ。しばらくシュライグと一緒にいてくれないかい?」

「おうよ! オレ様に任せときなって」

 

 ドンッと胸張って応える彼に「心強いよ」と、フラクトールは微笑む。

 

「心配だろうけど、ルガルはほとぼりが冷めるまで待った方がいいかもしれないね。その時になって、ちゃんと謝る準備はしておくんだよ」

「情けねぇ……アンタには世話になりっぱなしだな」

「本当だよ! 自立はまだまだだね!」

 

 と、満更でもない様子で豪快に笑った彼に、ルガルはひっそりと安堵の息を吐く。

 一方シュライグは、日々をぼんやりと過ごしていた。ルガルに心無い言葉を言われて憤ったのは本当だが、正直に言うともう引き摺っていない。ただ、意地を張って変に彼と距離を取っていたこともあり、今更面と向かって何と話せばいいのか分からず、結局尾を引いて理由も無く避けてしまっているのが現状だ。

 寧ろ、彼の関心はルガルには無い。どちらかと言えば、母親のことで頭がいっぱいであった。

 

(母さん……)

 

 あの時会った母は、実際の母ではない。夢の少年アルベルが見せた白昼夢。母が鉄の国にいるはずないと、分かっていたのに──心の隅で、やはり自分は母の迎えを期待していたのかもしれない。

 

「シュライグ?」

「ああ、ごめん。キット……」

 

 布団の中から顔を出すキットを尻目に、慌てて絵本のページを捲った。フェリジットにキットの寝かしつけを頼まれたはいいが、どうにも自分にこういうのは向かないな。と、内心苦笑いする。異国の勇者の話なんて彼女は興味無いのか、つまらなそうにシュライグを見上げている。

 

(母さん……俺はちゃんと、愛されてた?)

 

 分からない──今更母を疑って何になる。そうと分かっていても、無意識に考えはそっちに向くのだ。

 

「気になるなら、願ってごらん?」

 

 聞き覚えのある声に、弾かれたように立ち上がる。合図のように、窓を叩かれた。いつかの夜、悪夢の後に現れた夢の少年が手を振った。

 

「お客さん?」

 

 驚き立ち尽くすシュライグに代わり、キットが布団から出て窓に近付いた。悪い人だろうかなんて、純粋な彼女が考えるはずもなく「ようこそワタシ達のお家へ!」と、上機嫌に迎え入れた。

 

「アルベル……お前、何しに来た?」

 

 顔は仮面で隠したまま、キットと戯れる彼にようやっとシュライグが動揺から立ち直り尋ねる。

 

「必要とされている気がしてね。キミに会いに来たんだよ、シュライグ」

 

 母に会いたい──そう、願ったのは本当だ。だからって、こんなにタイミング良く現れるものなのか? 心を見透かされている現状を気味悪く思い、身震いする。

 

「私、知ってるよ! こういうのを……逢瀬って言うんでしょ?」

「キットは難しい言葉を知ってるんだね。でも、ちょっと違うかな」

「じゃあ、夜伽!」

「ブー」

「夜這いでしょ」

「……ねぇ、知識偏り過ぎじゃない? 」

 

 「夜這いってなんだ?」夜伽も夜這いも意味を知らぬシュライグは首を傾げる。「キミは知らなくていいこと!」ちょっとムキになった様子でアルベルは言い放つ。そんなことよりもと、彼は手を差し出した。

 

「さぁ、シュライグ。キミを迎えに来た。何を願うつもりか、もう決めているはずだよ」

「願いなんてない」

「嘘ばっかり。お母さんのこと、知りたいんじゃなかったの?」

 

 「嘘つきは泥棒の始まりだよ」と、小さな子供に言い聞かせるようにふざけたことを抜かす。

 

「お母さんのことだけじゃない。故郷も、フルルドリスだってキミの心残り。違わないよね?」

「お前っ……!!」

 

 フルルドリス──今となっては連絡を取ることさえも叶わない、友にして憧れ。誰も傷つかない未来という理想を抱き、ドラグマに残った彼女はいったいどうしているのか──ルガルやフェリジットに尋ねても得られぬ答えだ。

 それを彼は握っている──全てを知っている。

 

「おいで、シュライグ。その目で確かめるんだ」

 

 手を差し伸べる──悪魔の契約だ。乗っかってはいけない。

 アルベルの仮面の下の素顔を警戒し、本能は忌避する。だが、本能からの忠告さえも跳ね除けシュライグは欲望に抗えなかった。たとえそれが夢や幻であったとしても、ほんの一縷の希望に縋りたかった。

 

「シュライグ、今晩はオレ様と寝ようぜ」

 

 その時、ちょうどサルガスが部屋を訪れた。ルガルやフラクトールからの頼みとあらば、聞いてやらないわけにもいかないと、添い寝という名目でシュライグの行動を見守るためだ。

 のほほんとだべってりゃ勝手に眠くなって寝るだろう。今晩はとことん話し相手になってやるぜ。と、意気込んで部屋に来て、思わず目を剥いた。

 

「だ、誰だお前!?」

 

 見知らぬ少年──歳の頃はシュライグと同じくらいか。中性的で何処か儚げな印象だ。

 そんな訳の分からない少年の手を取り、シュライグは窓枠に手を掛けた。窓と言ってもその向こうは外ではない。渦を巻く紫の空間が口を開けて待ち構えている。

 

「行くな、シュライグ! 待て!」

 

 引き止めようと声を掛けるが意味は無い。こうなれば仕方ないと、サルガスはシュライグの服の裾にしがみついた。

 

「待って、シュライグ! ワタシも行くよ!」

 

 続いてキットさえも──アルベルは拒まなかった。「いいよ、キミ達にも見届ける権利はある」そう言って手招きし、ホールの向こうへと誘った。

 その夜、鉄の国から三人が消えた──攫われたにしては静かで何の痕跡も無く。ただ、開けっ放しの窓と放り出された絵本。日常の一欠片を残して──

 懐かしい風土の匂いに目を開ける。眩しい──太陽が近く、棘が刺すように鋭い風が頬撫でる。否、懐かしいなんてものじゃない。翼で受ける風の感覚は、朧気だった記憶を呼び覚ます。

 

「嘘だ……本当に、帰ってきた」

 

 切り立った崖、剥き出しの岩肌、余所者を拒むように止まぬ強風──故郷は変わること無く、シュライグを迎え入れた。

 

「凄い風だね。吹き飛ばされそう」

 

 「でも、僕は嫌いじゃないよ」と、アルベルはクスリと笑う。そんな彼に、キットとサルガスが飛ばされぬようにしがみついていた。

 

「ねぇっ! 鉄の国にいたよね、どうなったの?」

 

 気候の違いに戸惑いながら、キットが問い掛けた。聡明な彼女のことだ。この地が鉄の国の領土どころか近隣国でさえ無いことは既に気付いているだろう。

 

「ちょっとした魔法で瞬間移動したんだよ」

「瞬間移動!? ねぇ、私にもできる?」

「うーん……頑張ったらできるんじゃない?」

 

 と、子ども相手だからと適当なこと言って夢を見させる。そんな彼にサルガスが冷ややかな眼差しを向けているが、何処吹く風だ。

 

「シュライグ、道は分かるかい?」

「あ、ああ……」

 

 まだ夢なんじゃないかと実感が湧かぬまま、シュライグは一つ一つの思い出を噛み締めながら、険しい山道を歩く。山道を超えると頂上付近の開けた場所に出る。そこが集落だ。

 

「──っ!!」

 

 思わず言葉に詰まった。変わらない──あまりにも変わりなさすぎる故郷に、過去に戻ってきたのかとさえ疑い、目元を拭う。

 誤って落ちた古井戸、よく登っては怒られた大木、洗濯に使った小川──全てが、思い出のまま変わりなかった。

 

「ここが、シュライグの故郷?」

 

 アルベルにしがみついたまま、キットが不安そうな面持ちで呟いた。

 分かっていたが、歓迎はされなかった。住民達の冷たい視線が突き刺さる。動向を探るような、あるいは余所者に対しての興味、敵意を剥き出しにしたような──好意的と捉えるには無理がある。

 懐かしさに泣き出しそうになるのを堪え、足早に家へと向かった──母に会いたい一心で、村人達とは目も合わせず。「羽なしが」「猫がどうして」「獣人じゃない……ドラグマか?」住民達の声も聞こえないふりした。

 

「素敵な場所だね」

 

 アルベルの皮肉が胸を抉る。敵意だろうがなんだろうが、彼は注目を浴びること自体を楽しんでいるように見えた。わざと立ち止まり、住民に手を振って挨拶する。そんな彼を放って立ち去ろうとすると、「待ってくれてもいいじゃんか」と、不満そうに頬膨らませる。

 集落から少し離れた──羽なしの子を産んだが故に追いやられたのだと、成長した今なら分かる。そこが、シュライグの育った家だった。

 

「そんな……」

 

 辿り着いた家には、誰もいなかった──否、誰も住める環境ではなかったと言うべきか。

 柱は腐り屋根は崩れ庭は荒れ、長らく放置されていたという事実を暗に訴える惨状に、言葉を失う。

 

「願いが叶ってよかったね」

 

 放心状態の彼の肩を叩き、アルベルが満面の笑みを浮かべた。故郷には帰れたが、帰る家の無いシュライグに向ける言葉としてはあまりに不謹慎で心無い。

 

「お前、さっきから見てりゃ……それがシュライグに掛ける言葉かよ!」

 

 もう我慢ならないと、サルガスが声を荒らげた。煤でしかない彼がアルベルをどうこうできるわけではないが、だとしても言いたい放題の彼に思うところがあったのだ。

 

「やめろ……」

 

 しかし、口論に発展する前に止めたのは火種となったシュライグ本人であった。彼は廃屋の傍に立てられた墓石の苔を払う。

 

「アルベルは……俺の願いを叶えてくれた。彼がいなかったら、俺はここに来ることもできなかった」

 

 切り立った崖と深い渓谷が続く険峻──飛ぶことのできないシュライグは、自力でこの地を訪れることができなかった。たとえ母との再会が同時に別れとなろうとも、再会のきっかけをくれたのはアルベルだ。

 

「ありがとう、アルベル……でも、暫く一人にしてくれ」

「いいよ。キミの望む通りに」

 

 足音が遠ざかる──風の音しか届かぬ静寂に、堰を切ったように涙が溢れ墓石に落ちた。子どもの頃必死に追いかけた母は、今はこんなにも小さくなってしまった。

 

「……母さん!」

 

 はぐれた日を思い出す──空の銭袋を握り締め、鼻を啜る。今となっては母の真意など分からぬが、だとしても母が自分を置いていったなどと疑う気持ちは無い。母は迎えに来ると言って、お金だって預けたのだ。

 誰も参りに来る人などいなかったのだろう──花はおろか、手入れさえろくにされていない。もう遅いと分かっていたが、せめてもの親孝行だと砂埃を払い枯れ草を除け、少しばかり見栄えを整えて己の羽根を抜いた。

 手向けるものなど何も無くて申し訳ない。けれど、己の成長だけは知ってほしい。貴女の子はちゃんと生きているという証明に、墓石の上に羽根を置いた。

 

「うわっ!?」

 

 頭にぶつけられた衝撃によろめいた。不意打ちに熱を持つ後頭部に触れれば、ぬるりと嫌な感触を拾う。血が出ている──振り向けば、まだ子どもの獣人と目が合った。

 

「出て行け、羽なし!!」

 

 怒りや悔しさや悲しさに先駆けて、懐かしいとさえ思えた。そうだ、忘れていた──本来なら、自分は迫害されるべき対象。ルガルやフェリジットが異端で、これが自分のあるべき姿なのだと痛みが思い出させる。

 

「止めろ、ナーベル!」

 

 遅れて、彼の兄と思わしき青年が声を荒らげた。青年は弟を戒めるように頭を叩き、謝ろうとシュライグに向き直り──息を呑んだ。

 

「お前──」

 

 青年と目が合い、朧気だった記憶の一部が蘇る。

 彼は、シュライグのことを虐めてきた幼馴染だ。羽を折られ、顔を殴られ、唾を吐きかけられた嫌な記憶が蘇り、思わず後退る。

 

「兄ちゃん、こいつは羽なしだ! 父ちゃんが戦争で死んだのも、こいつの所為だ!」

 

 叱られておきながらも、少年──ナーベルにとってシュライグは許せぬ相手らしく、石を拾い何度もそれを投げ付けた。シュライグはというと、その場に立ち尽くし、どれだけぶつけられようが何も言わず何もせずされるがままだった。無抵抗な相手を差別意識に従い排斥しようとする──兄弟揃ってよく似ている。

 

「ナーベル、こいつは俺がどうにかする……お前は先に家に帰ってろ」

「でも──」

「いいから帰れ!」

 

 有無を言わせぬ剣幕に、ナーベルはビクリと体を跳ねさせ慌てて逃げ出した。先の威勢など忘れみっともなく転びながら。

 

「シュライグ……お前、今更何しに帰った」

 

 報復じゃないだろうな──一定の距離を保ちながら睨む彼の眼差しは、そう語っていた。

 シュライグはというと、頭から流れる血を拭うこともなく墓石を一瞥し──意を決して口を開く。

 

「母さんに……会いに来たんだ」

 

 結末としては、会えたとも言えるし会えなかったとも言えるが。

 青年はシュライグの返答に虚をつかれたのか、張り詰めていた緊張の糸を意図せずといった様子で緩める。

 

「お前の母親は、七年前に亡くなったよ。部族間の抗争に巻き込まれてな」

 

 「俺も居合わせたから、死に目の瞬間が見れたよ」と、思い出したくもない記憶なのか、彼は露骨に嫌そうな態度を取り告げる。

 

「聞けば、お前と同じ羽なしがドラグマの聖女を殺したらしいな。争いが争いを呼んだ」

「……なんのことだ?」

「知らねぇのかよ! 忌み子だろうがなんだろうが、鳥の獣人が殺した。それを理由に、鳥の部族が次々と襲撃されてる! ここだって、いつ襲われるか分かんねぇんだよ!」

 

 弾かれたように、初めて人を刺した感触が蘇る。

 成れ果ても枢機卿も──仕方なかった。なんて言い訳はもう手遅れだ。結果的に、それでドラグマとの全面戦争が勃発し、怨嗟から鳥の獣人が巻き添えを食らった。

 

「ち、違う……俺は、そんなつもりじゃ──」

 

 なんと言葉にすればいいのかが分からない──

 明らかな動揺を見せたシュライグに、彼は「まさか……」と、声を震わせた。

 

「お前が……お前が全部やったんだな!」

 

 明確な自白が得られたわけではないが、彼は確信した。枢機卿を殺し、ドラグマとの戦争を勃発させ、鳥の部族が恨まれるように仕組んだのは。死んで償わせるに十分な罪だと、私怨に我を忘れ殴り掛かった。

 

「うぐっ!?」

 

 地に着いたのは、シュライグ──ではなく、青年の方だった。

 ルガルやフェリジットに鍛えられていたから為せる、護身術が役に立った。殺気を向けられ、咄嗟に行動していなければ、忽ちシュライグは彼に殴り殺されていたであろう。

 反撃されるとは思っていなかった様子で、青年は目を見開いた。しかし、取り押さえられたからとて素直に負けを認める気もない。にやりと口元を歪め、確実に傷を与える言葉を選び告げた。

 

「へっ……分かるぜ。墓参りなんて理由付けて、本当は報復に来たってな」

「違う……本当に、そんなつもりは──」

「いいこと教えてやるぜ。お前の母親はな、あの時お前を──」

 

 気付けば、顔面を岩に叩きつけていた──

 そこから先は、聞きたくない──耳にしてしまえば最後、母への思いが瓦解してしまうのではと怖かったから。

 

「母さんは、優しい人だった。迎えに来てくれるって……約束したんだ」

「けっ……分かれよ。んなのお前を都合良く──」

 

 言葉にする前に、青年が口を閉ざした──シュライグの眼差しが、恐怖心を射抜いたからだ。

 地に叩きつけられ睨まれ、青年はようやく理解した。幼い頃、無力で虐められていた彼はもういない。と──その気になれば、狼のように容赦無く力で嬲り、猫のように痛ぶりながら弱らせる。今のシュライグは、殺すことはおろかその殺し方さえも自由に選べるほどに強くなってしまった。

 お前は捨てられたんだ──そう言うのは簡単だ。けれど、膂力では青年はシュライグに勝てない──うっかり彼の逆鱗に触れ殺されてしまう未来が見え、保身から咄嗟にこんな嘘を吐いた。

 

「最後まで、お前のことを想っていた! 抗争に巻き込まれたのもな、お前を探しに街へ降りたからなんだよ!」

 

 愛されていたと、大切にされていたと──捻じ曲げた事実を元に吐いた嘘は、咄嗟とはいえ息をするように次々と口を衝いた。

 青年の必死の叫びは、例え全て虚構であろうとシュライグの心を動かした。成長しておきながら情緒だけは置いて行かれたように育たなかった彼は、疑うことを知らない。見え透いた嘘であるのが傍から見れば分かりきっているのに、あろうことかシュライグは常の真顔を崩し、幼い笑みを浮かべたのである。

 

「やっぱり、母さんは俺のこと捨ててないじゃないか」

 

 頭から血を流しながら、けれどそれさえも気にせず否気付くことなく──七年前に置いて行かれたままの幼い心が、今更ながら人格を持って表に出てくる。母の死を受け入れながら、けれど母の本心から目を逸らして都合のいい解釈をする。

 どれだけ仲間に恵まれようとも、どれだけ平和な月日を過ごそうとも──心はどこか壊れたままであることを裏付けるように、変わり果てた母を抱き締めた。

 日が暮れて、迎えに来たサルガスに連れられようやくシュライグは集落から出た。二人が向かったのは、集落を出て少し下ったところの納屋だ。状態も良くて川の傍という立地が決め手となったのか、そこを仮宿に煌々と篝火が焚かれている。

 

「何かいい事があった?」

 

 二人が帰ってきたのに気付き、アルベルが篝火をつつく手を止めた。そんな彼は、夜風が冷たいにも関わらず上着も靴も脱いでズボンは捲りあげていた。「寒くないのか?」そう尋ねると、くしゃみで返事をした。

 

「シュライグ、ご飯! アルベルがね、魚を捕ってきたの!」

 

 串に刺して焼いた魚を頬張りながら、キットが上機嫌に告げる。

 

「ありがとう、アルベル」

「どういたしまして」

 

 川に入って冷えたのだろう。なまっ白い足を火に近づける彼は、何処か機嫌が悪そうだ。何か気に触ることでも言っただろうかと首を傾げた矢先、肩に乗ったサルガスがこっそり耳打ちした。

 

「キットにじゃれつかれて川に落ちたんだよ。魚は服に引っ掛かって着いてきた」

「そうか」

「頭から水草被って、髪にはザリガニ引っ付けてよ。シュライグにも見せてやりゃよかった」

 

 思い出したらまた笑いが込み上げてきたらしく、サルガスは転げ落ちそうになりながらも腹を抱えて笑った。

 

「あのさ、全部聞こえてるんだけど」

 

 機嫌が悪いことを隠しもしない低い声で告げた。凄まれ、サルガスは慌ててシュライグの服に隠れる。シュライグはというと、川に落ちたのは災難だと思いつつそのついでに食料確保までできるなんて凄いじゃないかと、悪気無くこう告げた。

 

「アルベルは凄いな。俺なら溺れてるのに、魚まで捕れて」

「それは嫌味かい?」

「……? 気を悪くしたなら謝る」

 

 首を傾げるのを見て、本格的に臍曲げたらしい。「もういい」そう言って、ツンと顔を背けた。

 

「ねぇ、アルベル! 次は何処に行くの?」

「さぁ、何処だろうね。シュライグに聞いてみたら?」

 

 前触れもなく話題を振られ、シュライグは思わず目を見開いた。キットの期待するような眼差しに肩を竦めつつ、恐る恐ると口を開く。

 

「その……何も言わず出てきてしまったから、ルガルもフェリジットも心配していると思う。だから……帰りたい」

 

 鉄の国を出たのは夜だった。そして、集落に辿り着いた頃にはすでに陽は昇っていた。単純に計算すれば、丸一日抜け出していたことになる。

 だがしかし、心配を掛けたのではと悩む一方でキットは不満そうに頬を膨らませた。「まだお家に帰りたくない!」と、声を大きくさせる彼女は、今日の出来事をちょっとした旅行と思っているらしい。そして、好奇心に溢れる彼女は貪欲にも冒険の続きを求めている。

 

「そうだね……シュライグ、キミの本当の願いは帰ることじゃないよね。鉄の国の外、知りたかったんでしょ?」

 

 「これはチャンスじゃないかな?」と、アルベルが試すような眼差しを投擲する。

 彼の言う通り、これは好機だ──この期を逃せばきっと、また鉄の国で穏やかと閉鎖的を履き違えた生活を送ることになる。ルガルとフェリジットに、過剰なまでに外の情報を遮断された生活だ。

 

(二人とも……ごめん)

 

 声には出さず、謝った。二人がどんな思いで七年を過ごしてきたか──それが分からないほど、シュライグも鈍感ではない。二人にどれほどの迷惑と心配を掛けてきたか、それは己が一番良く知ってる。

 なのに、シュライグはこの冒険に終止符を打ちたくないと思った。「帰ろうぜ」と、サルガスが不安そうな面持ちで告げるがそれも無視し、真っ直ぐアルベルを見据える。

 

「二つ目の願いを言ってごらん」

 

 願い──きっと、どんな無理難題だろうとアルベルは叶えてくれるだろう。現に、母親に会いたいという願いは既に叶えられた。

 とはいえ、いざ願いと言われてもパッと出てこない。あれがしたいこれがしたい──そういう欲求が元から薄いシュライグが、願い事を求められて即座に答えられるはずなかった。

 

「ねぇ! そのお願い、ワタシも使っちゃダメ?」

「キット……」

 

 「シュライグだけズルいよ!」と、頬を膨らませる彼女に、思わず苦笑いが漏れる。確認を取るようにアルベルに目線を投げれば、シュライグの意図を汲んだのだろう。彼は「キミらしいね」と、微笑み頷いた。

 

「いいよ。なんでも叶えてあげる」

「本当!? じゃあ、ワタシのお願いはね──」



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Episodeアルベル 中編

 

「わぁっ、すっごーい!!」

 

 目を輝かせながら、キットは身を乗り出す。地上は遥か下──落ちれば忽ち即死の高さを恐れるでもなく、好奇心を抑えられないまま俯瞰する。その隣「落ちるって!」と、身を震わせながらサルガスが告げるが、彼女は全く気付いていない。

 

「どう、気に入った?」

「うん!」

 

 天幕の翼を広げる仮面の竜──アルベルだ。獣人でもドラグマでもない彼は、どういうわけか竜になれるらしい。キットが「なんで?」と、問い詰めていたが「世の中には色んな種族がいるんだよ」と、適当に返されていたのは記憶に新しい。

 

「お前ら、怖くねぇのかよ……」

 

 サルガスは風に吹き飛ばされそうになりながらも、キットの服にしがみついて耐える。

 怖い──そういうこと、考えたことなかったな。空に近付くという懐かしい感覚に浸りながら、シュライグはアルベルの背に寝そべった。ここは雲よりも高く太陽が近い。降り注ぐ陽気が心地良くて、つい欠伸が出る。

 

 ──キットの願い事は、空を飛びたい。であった。

 

 「いいよ」てっきり断られるかと思いきや、二つ返事で了承されたのが昨日の夜。また無茶なことを願ったな。と、サルガスと揃って呆れたものだが、本音は楽しみで眠れなかったというのは、夜通し火の番をしてくれていたアルベルだけが知っている、二人っきりの秘密だ。

 

「アルベル、どこに連れて行ってくれるの?」

「思い出の場所だよ」

 

 はっきりと行き先は告げず、悠々と蒼穹を駆け抜ける。遠いところだといいな──そう思うのは、もう少し空を飛ぶ感覚に浸りたいから。乗せてもらっている立場だが、思い切り風を切って空を飛ぶのがこんなにも快いとは知らなかった。

 

「ねぇ、あれ……」

 

 ふと、キットが下を覗き込んで不安そうに呟いた。彼女の視線を追った先を見て、シュライグは息を飲んだ。

 戦争だ──ドラグマの騎士と獣人が争っている。小競り合いなんてレベルではなく、遥か下の地上での争いながら、耳を澄ませば鬨の声が聞こえる。戦火が空まで及ぶことないと分かっていながらも、戦場の気に当てられてか手が震えた。

 

「ドラグマと獣人との戦争は続いてるよ。七年も、よく飽きないものだよね」

 

 七年──決して短い年月ではない。青々とした平野にどれほどの血が流れ、骸が沈んだか。

 

「それを引き起こしたのは、いったい誰なのでしょうね」

 

 耳元で囁く声に、全身が粟立つ。

 ありえない──咄嗟に耳を塞いだ。悲鳴を無理矢理飲み込むように、下唇を噛む。張り裂けそうな動悸に喘ぐ。

 

「シュライグ……?」

 

 様子がおかしいと真っ先に気付いたのは、サルガスだ。血の気の引いた顔に「下を見るな」と、忠言する。戦場なんて好奇心で見るものでもないと、気を使ったのだ。

 だが、シュライグにその気遣いは届いていなかった。彼の耳に届くのは、七年前大罪人に仕立て上げた亡霊の声。

 

「アナタの母親が亡くなったのは、部族間の抗争によるものでしたね」

「やめろ……」

 

 声を振り払おうと(かぶり)を振る。しかし、亡霊は付き纏い離れない。

 

「争いはなぜ生まれたのでしょうか?」

「やめてくれ……」

 

 耳を塞ぐ手に力が篭もる。爪が食い込み耳朶の皮膚が剥がれた。熱を持つ鼓膜に、冷水を叩き込むように亡霊の声は止まない。

 

「報復を受けるに当然の報いを鳥の部族は背負ったからです」

「俺が悪かった。だから、もう……」

 

 続く言葉が容易に想像ついた。嫌だ、聞きたくない──分かっているからこそ、その先を拒む。けれど亡霊は、シュライグの罪を知ってなお彼を追い詰めようと言葉を紡いだ。

 

「アナタが殺したのですよ、シュライグ」

 

 目を見開く──血塗れの手が、己が罪を物語っていた。

 

「うっ──お"え"っ!!」

 

 ぬるりと血の伝う生々しい感触に、迫り上がってくる不快感を吐き出した。枢機卿が、戦乱によって散っていた者達が、後ろ指を刺し糾弾する。やめろと訴える前に口から出るのは、言葉ではなく吐瀉物だ。

 

「ちょっと!! 僕の上で吐かないでよ!!」

 

 悲鳴のような叫びを聞いた。サルガスが背を摩り心配の言葉を掛けてくれるが、それに答えている余裕もない。吐瀉物を受けた手のひらは、赤いままだった。

 気付けば河畔で休んでいた。鳥の囀り、擦れ合う木々、小川の流れ──木陰で横たわるシュライグの耳に届くのは、平穏な自然の音。恨み言も断末魔も、嘘のように消えた。

 起き上がり、手のひらを翳す。赤切れだらけのいつもの手だ。ベッタリと着いた血の感触も残っていない。

 

「恩を仇で返された気分だよ」

 

 起きて一番に嫌味を向けられ振り返る。切り株の上でアルベルが胡座をかき、恨めしそうにシュライグを睨む。そんな彼はシャツ一枚で、昨晩と同じく上着は洗って木に干してあった。

 

「すまない、アルベル……」

 

 咄嗟に謝れば「全くだよ」と、うんざりとばかりに溜息を一つ。「キミ、神経細いよね」背中で吐かれたことを相当根に持っているらしく、チクチクと言葉のナイフを突き立てる。

 

「日頃の行いだろ」

 

 喧嘩を売るような一言を発したのはサルガスで、上着の薄ら染みになっている部分を指差しにやけている。そんな彼に向けアルベルは「うざっ」と、吐き捨てる。

 

「つーか、シュライグ。お前、もしかして何処か調子が悪いのか?」

 

 アルベルを揶揄うことにも飽き、サルガスが話を変えた。前触れも無く話を振られ、シュライグは「えっ?」と、戸惑い返答に困る。

 

「それは…………」

 

 なんと答えたらいいのか──向けられる視線に気まずさから目を逸らす。下手な嘘はつけないし、そもそもそういうのは苦手だ。かといって本当のことを告げて要らぬ心配をかけさせるのも気の毒で──口下手な彼は、どう誤魔化すのが正解か分からず言葉を詰まらせた。

 

「どうせ酔ったんでしょ」

 

 助け舟を出したのは意外にもアルベルであった。もしかしたら本人は助けたつもりはないのかもしれないが、納得するサルガスを尻目に人知れず安堵の息を吐く。

 

「彼もこんな調子だし、上着も乾かないしもうここで野宿にしよ」

「えー! 空飛ばないの?」

「誰かさんがゲロ吐いた所為で、そんな気失せたよ」

 

 明確に名前を告げはしないが、その誰かさんが誰のことかなんてこの場にいる全員が知っている。キットの恨めしげな視線に内心苦笑いしつつ、「薪を拾ってくる」と、逃げるように立ち上がった。

 小川の音が遠のく──道を見失わないよう、林の木々に傷を入れながら離れ、その場にしゃがみ込んだ。

 

「しんどいな、ほんと……」

 

 自分の意思でアルベルに着いて行き、願った通り故郷にも帰れたし母にも会えた──ただ、そこで恨みをぶつけられるだなんて思ってもいなかったし、母は既に帰らぬ人。気持ちの整理もつかぬまま、戦争を目の当たりに──

 今更になって、七年前に犯した罪の重さを突き付けられているかのような。当時は子どもだったとはいえ、けれど子どもであることを免罪符に逃げられる現実でもない。だからとて、どうしたらいいのかの答えも出せず──胸に滞った感情をどう片したらいいのか、シュライグには分からなかった。

 

「シュライグ」

「アルベル、いたのか……」

 

 彼の神出鬼没は今更とはいえ慣れないな。驚きつつもそれを顔に出さず振り向けば、彼は隣に腰を下ろし「悩みがあるんでしょ」と、シュライグの今の心情を的確に突いた。

 無い──と言えば、嘘になる。けれど、この悩みを打ち明ける勇気は無かった。きっと隣にいるのがアルベルではなくルガルだったとしても、告げはしないだろう。一人で抱えるには重く辛いものだが、誰かに共有して背負ってもらおうだなんて甘えは見せてはいけない。七年前の罪は全て自分が背負う──それが、責任というやつであろう。

 

「ありがとう、アルベル。気持ちだけで十分だ」

 

 薪を集めようと立ち上がろうとするも、手を引かれ動きを止める。

 

「ねぇ、シュライグ……誰にも見せたことない、僕の秘密を見せてあげるよ」

 

 そう言って彼は、仮面に手を伸ばす。

 赫灼の瞳が目を惹いた──獣人に美醜の概念など存在しないが、美人なのだと思う。怜悧な顔立ちに、急にアルベルが大人びて見えた。

 

「僕の素顔、誰にも見せたことないんだ。そう、知っているのはキミだけなんだよ、シュライグ」

 

 「誰にも言わないでね」人差し指をシュライグの唇に当て微笑んだ。二人っきりの秘密──思えば、誰かと秘密を共有したことなんて今までなかった。

 

「ねぇ、僕がなんで仮面をしているのか、当ててみて」

 

 突然だな。とは思いつつ、アルベルの突飛な行動は今に始まったことでもないかと、考えてみる。

 自分が知らないだけで、有名人なのか。それとも、顔立ちを理由に嫌な目に遭ったのか。指名手配犯──まさか、罪人は己だけで十分だ。

 そこまで考え、ふとルガルの顔が浮かんだ──彼はどんな顔だったか。今となっては、もう怪我をする前の顔が朧気にしか思い出せない。そう、七年前あんな悲劇を招いたばかりに。

 

「キミと僕は似ているんだ、シュライグ」

「俺とアルベルが? ……まさか、何もかも違う」

「そっくりだよ」

 

 顔も名前も種族だって違うのに──声にはせず呆れて見せたら「外見の話じゃない」と、否定される。

 

「誰にも言えない秘密があること。表立って外を歩けないこと。後ろめたい事情を抱えてること──ほら、沢山の共通点が見つかった」

 

 ──はっきりとは告げなかったが、もしかしてアルベルは自分と同じく過去に過ちを?

 (かぶり)を振って思考を追い出す。無粋な詮索は無しにしよう。本当に彼が自分と同じなら、それだけの傷が彼にもあるのだ。

 

「話してごらん、シュライグ。誰にも言わない。僕の顔もキミの悩みも、二人だけの秘密にしよう」

 

 「一人で背負うことなんてないんだよ」と、昏い微笑みに、シュライグは固唾を飲んだ。暫しの躊躇いの後、結んでいた口を開く。

 

「ルガル……って言うんだ。アイツも、お前と同じように仮面が外せなくて……俺の所為なんだ、全部──」

 

 訥々と言葉を紡ぐ──彼は何も言わなかった。打ち明けられた言葉の一つ一つを噛み締めるように相槌を打ち、時に心を痛め表情を険しくさせる。

 全てを語り終える頃には、木々から覗く空はすっかり茜色になっていた。足元に至っては暗闇に覆われて見えない。そんな長い長い昔話に付き合ってくれた彼は、静かにこう告げた。

 

「キミは何も悪くない……そんな言葉は贈らないよ」

 

 「だって、キミが欲しいのは慰めじゃないもんね」と、シュライグのことをよく知っているが故に出てくる言葉を続け、手を取った。

 

「全てを話してくれてありがとう。これはほんの気持ちなんだけどね、キミが少しでも背負う罪が軽くなる。そんな方法に心当たりがあるよ」

「ははっ……どうやってだ」

 

 あまり期待していない──そう言わんばかりにぎこちなく笑みを貼り付け、首を傾げる。

 

「──償ったらいいんだよ」

 

 思ってもいなかった言葉に、思わず目を見開いた。

 償う──過去の罪を今更全て無かったことにできるなんて思ってもいない。だが、そうか……自首をし、その結果が極刑であったとしても、罪人の死を望む者の心は晴れるであろう。枢機卿の死を皮切りに生まれた全ての不幸と共に地獄に落ちれば、七年にも及ぶ戦争の終止符を打てるかもしれない。

 

「今、自首しようなんて思ったでしょ」

 

 ただ、それは彼の望む結末ではなかったらしく頬を膨らました。「そんなの、僕が許さないよ」むにっと両頬を摘まれ、横に引っ張られる。

 

「罪に向き合うんだ。そして立ち向かうんだ」

「立ち向かう……?」

 

 それはどういう意味だと首を傾げれば、彼はようやく頬から手を離す。そして、徐に己の仮面をシュライグの顔に被せた。

 

「この戦争を終わらせる、この世界の為に戦う──それが、キミが許されるためのシナリオさ」

「でも……俺に、戦争を終わらせるための力なんて無い」

「何のために僕がいるのか、忘れた?」

 

 やれやれとため息を吐き、アルベルは自身を指差した。ああそういえば。と、シュライグも思い出す。

 

「三つ目の願いを叶えてあげるよ──」

 

 その日の夜、アルベルが夢を見せてくれた。

 

 徒花、銀弾、凶鳥──

 

 ルガルとフェリジットと──二人と肩を並べて立つのは、機械の翼を携える青年。

 青年は紛れもなく未来の自分自身であった。舞台は戦場、鬨の声を上げる。火薬と硝煙の臭い、誰かの断末魔──残酷な命の奪い合いを見せられ、一方で不思議なことに安心を抱いた。

 まるで最初から居場所はここにあったかのように、戦場に立つことを恐れずにいられる。足でまといでもなければ無力でもない。ルガルともフェリジットとも、同じ目線で語り合うことができる──

 

「はっ……!?」

 

 ふと、夢も途中だというのに目が覚めて現実に連れ戻される。日の出はまだ遠く、薄ら月の輪郭が地上を見下ろす夜。珍しく悪夢以外のまともな夢を見たはずなのに、頭の中がすっきりしない。

 

「眠れない?」

 

 話し掛けられ、起き上がらず目線だけ向ける。シュライグと目が合い一言「僕もなんだ」と、アルベルは欠伸を噛み殺しながら篝火に薪をくべる。

 今の時間は、サルガスが見張りでは? と、彼の方を見れば、キットと仲良く寝息を立てていた。あんまりにもその寝顔が幸せそうで、起こすのが気の毒で──昨日に引き続きアルベルに任せっきりだと痛感し、見張りを代わろうと立ち上がる。

 

「ねぇ、シュライグ。夢を見て、どう思った?」

 

 隣に腰を下ろしたシュライグを一瞥し、彼は仮面を取る。

 

「もし、強くなれたら……俺は、ルガルやフェリジットと対等になれるだろうか」

 

 質問に質問で返すシュライグに、けれど彼は特に機嫌を損ねることなく「どうだろうね」と、どっちつかずな言葉を返す。

 

「キミは、僕に何と願ったか覚えてる?」

 

 覚えているとも──昼間のことだ、忘れるはずない。

 痩せぎすの手のひらを見つめ、ひっそりため息を吐く。ルガルのように力があるわけでもない。フェリジットのような身のこなしがあるわけでもない──強くなりたいという三つ目の願いの裏側、本当に強くなれるのだろうかと自分を疑う気持ちも大きい。

 

「アルベル……強くなりたいと願っておきながら、俺は本当の願いが分からない」

「本当の願い?」

「強くなるための……理由と言うんだろうか」

 

 回りっくどい言い方しかできない自分に、うんざりとため息を吐く。口下手は何年経とうと治らない。

 しかし、本人も意図がよく分かっていないような曖昧な質問に対し、アルベルは暫し悩む時間を挟み「なるほどね」と、頷いた。

 

「シュライグ……人は、何故戦うのだと思う?」

「…………生きるため、だろうか」

 

 たっぷりと間を空けてようやく出したのは、そんな単純な答え。獣人は強くなければ冷遇される。弱ければ狩りもできない。そしてシュライグは、弱肉強食の社会から弾き出された弱者だからこそ、それを痛感している。

 

「なら、獣人とドラグマとの戦争は生きるためにしているの?」

「それは……」

 

 難しい問いであった。開戦のきっかけは枢機卿の死で、たった一人の死が虐殺を招き、今となっては大陸を巻き込んだ戦争だ。憎悪と怨恨と──生きるための戦いなら、そんな感情は不要だ。

 

「領土か、資源か、労働力か……人は、奪うために戦争をするんだ」

「奪うため……でも、最初はそうじゃなかった! 俺が、俺が枢機卿を──」

「シュライグ、七年も経てば何もかもが変わるんだよ」

 

 七年──決して短くない時の流れの中に、置いていかれたような。

 目まぐるしく変わる歴史の中、シュライグの時は七年前からずっと止まっている。そう突き付けるかのような一言に、胸を締め付けられる。

 

「ドラグマは獣人を──いや、聖痕を持たない全てを滅ぼすために戦っている」

 

 抵抗もできぬまま聖痕によって殺される獣人達の姿を思い出し、思わず口元に手をやった。七年前、砕けた心に焼き付いた忌々しい記憶だ。今でも亡霊がしつこく纏わりつき、耳元で恨み言を吐いていく。

 

「でも、フルルドリスは……フルルドリスは、必ず変えて──」

「たかが一人の聖女に、国を動かす力があると思っているのかい?」

 

 ドラグマの象徴でさえも、この戦いは止められない。それほどまでの罪を自分は犯した──

 

「俺の、所為だ……全部、俺がやって──」

「──いたぞ!!」

 

 鋭い声に、弾かれたように顔を上げる。殺気に振り向くよりも早く、アルベルにのしかかられ背中から倒れる。その須臾、放たれた矢は間一髪シュライグに当たることなく木の幹を穿つ。

 

「起きろ!!」

 

 敵襲に真っ先に気付いた彼は、仮面を着けながら警告する。切羽詰まった声にキットが飛び起きた。遅れてサルガスも目を擦りながら起き上がり──武器を持つ兵に目を剥き、慌ててキットの服に隠れた。

 

「やめろ!! 争う気は無い!」

 

 思い返せば、ここは戦地の近くだった。恐らく哨戒していたのであろう兵士達に、攻撃をやめてくれと訴えるがその願いは届かず──雑木林の向こう、暗闇から再度放たれた矢は、獲物をキットに定めた。咄嗟にシュライグが手を伸ばしたことで彼女に怪我は無かったものの、手の甲を射抜かれ、声にならぬ悲鳴を上げる。

 

「ご、ごめんシュライグ……ワタシを庇って──」

「いい、かすり傷だ」

 

 矢を引き抜き、平気だと手を振って血を払う。サルガスと共に隠れるよう伝えれば、彼女は涙目になりながらも言う通りにした。

 絶えず襲い掛かる矢をどうにか避けつつ、敵の姿を捉える。前衛は剣士と槍兵が二人ずつ、暗闇から襲ってくる矢の数から弓兵が一人。耳も尾も無くなおかつ鎧を着ているということは、敵は獣人ではない。

 シュライグの脳裏に、二つの考えが過ぎった。一つは戦う選択。もう一つは逃げるという選択。

 前者は、こちらが丸腰の上に相手は防具で身を固めているときた。いくらシュライグがルガルやフェリジットに鍛えられたとはいえ、武装した相手と素手でやり合えるほど強くはない。後者は、相手の数が多い上に加えて夜という時間帯がいけなかった。夜目の効かないシュライグでは、逃げることはおろか足でまといになりかねない。

 こんな時、アルベルならどんな手を打つのだろうか──そう思った矢先、衝撃音を聞いた。

 低く短い乾いた音──遅れて、くぐもった悲鳴が上がり、本能が忌避する火薬と硝煙の臭いに身震いする。

 

「そっちがその気なら、僕らも相応の対応を取らせてもらうよ」

 

 両手に握られているのは、武器と思われる黒い筒。火薬の臭いはそこから出ており、筒の先端から焦げた白い煙が上がる。

 ただ、威嚇としては意味を成さなかったらしく、兵士が剣と槍をそれぞれ持ち突進する。交渉決裂──アルベルが指を引けば、再度乾いた衝撃音が放たれ、被弾した一人が剣を落とした。

 

「アルベル、それは……?」

「ああ、これ? ホールで拾ったんだ。銃って呼ぶらしいよ」

 

 ホールから送り込まれた物──つまり、この世界には無い技術の産物。

 仕組みは分からぬが、指一つで離れたところにいる相手を撃ち抜けることは理解できた。パチンコよりも殺傷力が高く、弓のように追撃に手間取らない。この世界よりも高度な文明によって造られたのだと分かる。

 

「シュライグ、さすがに僕一人じゃ手が足りない。手伝ってくれる?」

 

 絶えず発砲を繰り返すが、いくら武器が良くとも多勢に無勢。ジリジリと距離を詰める兵士達に、アルベルが舌打ちをする。

 苦しい状況だと分かっていながら、頷くことができなかった──手伝うとは即ち戦う。それも喧嘩とはわけの違う、殺し合う方の戦いだ。

 

(嫌だ……また、俺は繰り返すのか)

 

 分かった──そう答えたいのに、声が出ない。七年前、枢機卿を刺した時もそうだった。命を奪い合うのだと理解した瞬間、凍りついたように体が動かなくなる。

 

「ぐっ……」

 

 硬直したシュライグをいい的と定めたのか、矢が頬を掠めた。あとほんの少しズレていたら、眉間を貫かれ帰らぬ結末を迎えたことだろう。だとしても、やはり体は言うことを聞かず指一本さえも動かせない。

 

「このままじゃ、誰かが犠牲になる。それでもいいの!」

「──っ!?」

 

 声を荒らげたその一言に、突き動かされるように目が覚めた。

 本能が目覚しく警鐘を鳴らす。とうの昔に忘れ去ったはずの闘争心に火がつき、気付けば剣を拾っていた。痛いのは嫌だ。殺されるのも嫌だ──けれどそれ以上に、仲間が犠牲になる結末の方が怖かったのだ。

 

「うわあああああ!!」

 

 恐怖心を抱えながらも、震える足を叱咤し槍兵の懐に飛び込んだ。闘志を失っていたはずのシュライグがまさか反撃に移るとは思ってもいなかったらしく、不意打ちに構えることもできぬまま腹を貫かれ、シュライグ諸共土の上に倒れた。

 それからのことを、よく覚えていない──気付けば頭から返り血を浴び、足元にはもはや原型も分からぬほどに滅多刺しにされた兵士が恐怖に目を剥いたまま死んでいた。

 

「終わったよ、シュライグ」

「終わった……?」

「全員殺した。キミが殺してくれたんだよ」

「──えっ?」

 

 殺した──誰が? 俺が?

 突き立てた剣を支えに震える足に力を込める。

 腥風に目眩がしてよろめいた。すると今度は、飛び散った肉塊に足を取られて尻餅を着く。地面に触れた瞬間、まだ温もりのある血溜まりに服を湿らせる。

 

「う、嘘だ……俺、また人を……殺して……」

 

 殺した瞬間の記憶は無い──けれど、感触はしっかり手に残っていた。

 

「そ、そうだ……キット! キットは……キットは無事か!!」

 

 血溜まりの中から逃げるように立ち上がり、草むらを掻き分ける。彼女はすぐに見つかった。サルガスを抱え、木の洞に入り息を潜めていた。

 

「キット……よかった」

 

 生きているし、怪我も無い──その事実に一先ず安心し、手を差し伸べる。しかし、彼女は一向に出ようとしないどころか、シュライグを見つめたまま肩を震わせ、声の限り叫んだ。

 

「来ないで!!」

 

 それは、明らかな拒絶──

 毛を逆立て威嚇する姿に、シュライグは知らず後退る。そして己の手を見て──手だけではない。全身から手に掛けた者達の血を被り赤く染っていた。月明かりが青白く照らす中、鮮血は尚更目を引く。全身に浴びた返り血が、人殺しであることを物語っていた。

 

「アナタが殺したのですよ、シュライグ」

 

 ──追い打ちとばかり、亡霊が耳元で囁いた。

 

 

 



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Episodeアルベル 後編

 

 ──死の直前、彼らは何を思ったのだろうか?

 

 死人となってしまった今、確認しようもない。あの兵士達がどんな思いで戦場に出ていたのかもだ。

 人を殺めた罪悪感に苛まれていたのだろうか。それとも、正義を盾に自分の心を守っていたのだろうか──

 

「ただいま、シュライグ」

 

 戸が開けられた瞬間、凄まじい勢いで風が吹き込んだ。雨が入らぬよう慌てて閉じるアルベルの背中は、頭からつま先までぐっしょり濡れていた。尤も、濡れているのはシュライグも同じだが。

 

「二人は鉄の国に帰したよ」

「助かる……」

 

 暖炉の前で膝を抱えて座っていたが、それに並ぶようアルベルも腰を下ろし靴を脱いだ。靴の中まで濡らした彼は「また上着を干さなきゃ」と、舌打ちをし、つま先を暖炉に近付ける。

 二人が身を寄せているのは、廃村に打ち捨てられたあばら家。軍の哨戒範囲から抜けるため夜通し移動して見つけたのだ。ちょうどその時、運のいいことに嵐も来て──悪天候が移動の痕跡を消してくれる。軍も嵐の中行軍するとも思えず、戦火に巻き込まれることも無いだろう。暫しの平穏が約束された。

 

「本当に良かったの? 何も言わず帰しちゃって」

「……いいんだ。キットもサルガスも、元はと言えば俺のわがままに付き合わせただけだから」

 

 抱えた膝に顔を埋めた所為で、濃い陰に隠れて表情が曖昧になる。わざわざ確認しなくとも、彼が今どんな顔をしているのか予想が着き、アルベルはため息を一つ。まともな感性を持っていたなら励ますなりしていただろうが、生憎とアルベルはそんな優しさを持ち合わせていない。「キミ、前から思ってたけど卑屈だよね」と、毒を吐き捨てる。文句を言うサルガスがいない今、彼も言いたい放題だ。

 ほんの数時間前、シュライグは人を殺した──

 殺さなければ殺される。そんな言い訳で逃げられるものでないと、瞼の裏に焼き付いたキットの怯えた眼差しに目を伏せた。あの後、彼女はショックから気を失った──何も言わず悪いとは思ったが、目が覚めた彼女とどんな顔をして向き合えばいいのかも分からなくて、関わることから逃げてアルベルに鉄の国へと帰してもらった。サルガスも共に帰したのは、彼は旅をすること自体に乗り気でなかったからだ。

 

「なんだか、お前と二人ってのは不思議な気分だ」

「嫌かい?」

「いいや……むしろ、居てくれてよかった」

 

 キットとサルガスが居れば気まずかった。かといって一人は不安だった。他人でもないけれど友達でもない──深入りの無い微妙な距離感に心を許してしまう甘ったれた自分がいる。心身共に相当参っているのだと、顔に出さず自嘲した。

 

「なぁ……アルベル。俺は、大勢の人を殺した。今だって、直接手を下さずにこの世界のどこかで誰かが死んでいる。俺は、本当に……生きてていいんだろうか」

 

 身の内から焦がすような不安に、縋るようアルベルを一瞥する。鳴り止まぬ雷と打ち付ける嵐の雫に、けれど夜の沈黙に溶けることなくその呟きはアルベルの耳へと届いた。 「いい加減、しつこいよ」彼は質問の内容に気を損ねたらしい。うんざりとにべも無く一蹴する。

 

「シュライグ、口開けて」

 

 脈絡も無く告げられ、シュライグはキョトンと目を丸くさせながらも言う通りに唇の結びを解いた。すると、口に水っぽくてエグ味のある何かが入った。吐き出したくなるのをぐっと堪え咀嚼すれば、もそもそとした食感と強い塩気に、辛うじて食べ物であると判断し、味わうこともなく喉に通した。

 

「うん、食べれそうだね」

 

 悪戯が成功したような無邪気な笑みに、先のが毒味であったと知る。シュライグが飲み込んだのを確認し、彼は缶詰の中身をスプーンで掬う。そして何の躊躇いもなく上機嫌に口に運んだ。

 

「まずっ!?」

 

 不味い癖にシュライグが顔に出さない所為で完全に油断していたらしく、予想を大きく裏切るなんとも形容し難い食感にうへぇと、緑に染まった舌を出す。何かと思えば、あのなんとも言えぬ味と食感はほうれん草のソテーらしく──廃屋を漁って見つけた非常食だったのだろう。食えなくはないが、好んで食べたいと思える味でもない。非常食に美味さを求めるのも間違いかもしれないが。

 

「ほら、キミも食べなよ。不味いから要らないなんて言わないでよ」

 

 「僕だって我慢して食べてるんだから」と、床に並べたのは乾パンに干し肉と先のほうれん草のソテー。

 彼なりに気を回し、悪天候の中見つけてきてくれたものだ。遠慮するのも違うと思い、この中で一番マシそうな干し肉に手を伸ばし、けれど硬くて全くと歯の立たない厚さに、渋面で咀嚼する。粗食には慣れていたが、これはもう食べ物と呼びたくない程。幼少期の飢餓を乗り越えたシュライグでさえ、そう思うほどに酷いものだった。

 乾パンに口の中の水分を取られ、干し肉に顎を痛めつつ、ほうれん草のエグさに呻きながら──完食する頃には、二度と食べたくないと二人揃って嫌な顔していた。

 

「ねぇ、シュライグ」

 

 しつこく舌に纏わりつくほうれん草の味に顔を顰めていたところ、アルベルが唐突に名前を呼んだ。

 

「キミは、何を思ってさっき戦った? どうして人を殺した?」

「それは──」

 

 あれ?──いざ、言葉にしようとしても頭の中が真っ白になり、思わず首を傾げた。何を思って戦ったのか──あれほど人を殺すことを恐れていたのに、何故俺は惨たらしく殺したのだろうか。

 

「……分からない」

 

 たっぷり時間を空けておきながら、結局答えなんて出ないまま呟いた。思い出そうとすると、頭が痛くなる。靄が掛かったように考えが纏まらない。

 

「なら、キットに被害が及んだ時どう思った?」

 

 キットが──死ぬ。

 思い出したように手の甲に鈍い痛みが走り、奥歯を噛み締める。触れて、そこで初めて熱を持ち腫れていることに気付いた。痛みを感じている暇も無く忘れている間に化膿していたようだ。今更になって、暴れるような熱に脂汗が滲む。

 アルベルもシュライグの怪我に気付き、表情を固くさせた。徐にナイフを出し、表面を火で炙る。

 

「キットは、俺が守らないといけない。そう思った」

「キミらしい答えだね」

 

 「大丈夫、ちゃんと言葉にできてるよ」口下手なシュライグの言葉を上手く引き出し、顔を綻ばせる。「続けてごらん」ナイフをひっくり返し、裏面も火に当てながら続く言葉を促した。

 

「アルベルが、このままだと誰かが犠牲になる。そう言ってくれた。その言葉に、目が覚めたというか、ハッとなったというか──」

 

 そこまで告げ、ストンと何かが胸に落ちた。

 生きるため? ──違う。

 死にたくないから? ──違う。

 あの時感じたのは、獣の本能で片付けられるような単純なものでもない。もっと明確な理由があって、淀んだ欲に満ちたものだ。

 

「──俺のせいで、誰かが傷付くのはもう嫌なんだ」

 

 自覚した瞬間、背後から見下ろしていた亡霊の影が消えた。風と雨が屋根を殴る音、轟く雷鳴、火の中で爆ぜる薪の音──ありとあらゆる音の中に紛れた悲鳴も恨みも、全てが気配を消した。久しぶりに、ありのままの世界を見たような気がする。かといって、それに感動できる余裕も無いが。

 

「アルベル、一思いに頼む」

「いいの? 結構痛いと思うけど」

「構わない」

 

 今更痛いのがなんだと、くすんだ刃を睨む。誰かが傷付く痛みか自分が傷付く痛みか──両者を天秤に掛けたなら、シュライグは迷わず後者を選ぶ。でなければこの痛みは、キットが背負うことになっていただろうから。己の罪で無実の誰かが犠牲になるところはもう見たくない。

 彼は言われた通り躊躇いも無く傷を開いた。口元を覆い、悲鳴を飲み込む。切れ味は最悪で、まだ路地裏に打ち捨てられた酒瓶の欠片の方がパックリと引き裂いてくれただろう。刃こぼれした熱い刃は、まるで拷問器具のようだった。

 

「終わったよ」

 

 開いた傷から膿を出し、止血の布を巻き終えた。「僕、グロいの苦手なんだよね」応急処置を終えた一言目がそれで、ならなんで先に言わなかったと、痛みに顔を顰める傍ら呆れのため息を吐いた。

 

「すまない、気を遣わせた」

 

 止血用に使った布は、彼の私物であるバンダナだ。青いバンダナ──意外だった。アルベルは緋の映える少年で、そんな彼の私物に青色があるとは思ってもいなかったから。布と彼の赫灼の眼差しを交互に見遣り、やはり違和感のある色合いだった。

 

「キミには青が似合うと思ったんだ」

 

 「鳥だからかな?」こじつけのように理由をくっ付けて、微かな笑みを浮かべた。

 

「そのバンダナは、また返しに来てよ」

 

 この時はなんら不思議に思わなかったが、後で思い返せば変な言い回しだったと思う。返しに来て。確かに彼はそう言った。まるで、これから起こる出来事と別れを予言していたかのようにも聞こえる。そんな科白だ。

 ただ、この時はシュライグも特に疑問に思うことなく「新しいのを用意する」と、頷いた。すると彼は「そのバンダナがいいんだ」と、頬膨らまして告げる。

 

「ねぇ、シュライグ。キミは本当の願いが分からないといったね。でも、今なら答えが出せるはずだ」

 

 徐に、彼はシュライグの手を取った。赫灼の眼差しに剣呑な光を見る。天使のように整った(かんばせ)をしておきながら、彼はたまに悪魔でも宿しているかのような光を目に宿す。その危なげな雰囲気に、けれどそれももうこの数日で慣れてしまった。

 強くなりたい──そう願い、けれどなぜそう思ったのかの理由まで答えることができなかったが、今なら言葉にできる。

 

「──誰かを守れる強さが欲しい」

 

 罪と向き合う力。同時に、大事な誰かを守れる力──今のシュライグに足りないものは、それだったのだ。

 彼は、シュライグが出した答えを聞いて満足そうに頷いた──かと思えば、小さい顔にいっぱいの笑みを浮かべた。

 

「もっと欲を持ちなよ。僕みたいにさ」

 

 「でも、キミらしくて好きだよ」文句を言いたいのか褒めたいのか。どっちつかずな返答でおどけて見せる彼に、シュライグまで「お前らしいな」と、釣られて微かに口角を上げる。

 

「やることは決まったね」

「やること?」

「キミが強くなるためにしなきゃいけないことだよ」

 

 「まさか、何もしなくても強くなれるだなんて、思ってたわけじゃないよね」と、疑いの眼差しを向けられて言葉に詰まる。図星だった──今まですぐに願いを叶えてくれたものだから、今回もそうなのだろうと彼に甘えきっていたのだ。

 

「キミの強さはそんな都合のいいものなんだね」

 

 純然たる悪意ではないけれど好意的でもない──彼の皮肉は今に始まったことではないけれど、何故だかこの時ばかりは胸にグサリと来た。彼の冷ややかな眼差しから目を背け、暖炉の火を見つめる。

 

「なら、何をしたら強くなれるんだ」

「今の世界を見て回ること。キミは罪と向き合うんだ。そこで初めて、キミの願うものが手に入る」

 

 そこまで言い切って、彼は気の抜けた大きな欠伸をした。かと思えば、一番暖かい暖炉の前を陣取って寝そべる。

 

「今日は色々あって疲れた。具体的なことは明日決めよう。おやすみ」

 

 一方的に話を進めたかと思えば、寝息が聞こえるまでそう時間は掛からなかった。余程疲れていたのであろう。そういえば、彼は火の番を昨日からしてくれていた。昼はキットの願いを叶え、数時間前までは嵐の中夜道を走っていたのだ。疲れないはずがないのだ。

 

「明日……か」

 

 窓を見る──激しく打ち付ける雨雫も風も、明日には過ぎ去るだろうか。

 そんな心配は杞憂に終わり、一眠りして起きる頃には嵐は過ぎて霧雨が音も無く朝を告げる。大の字で爆睡しているアルベルを起こさぬように立ち上がり、あばら家を出た。

 昨晩の非常食のように、何か残されていないだろうか──シュライグが外に出たのは、これから先のことを考え、物資を調達するためであった。備えあれば憂いなしとはよく言うが、今の手持ちは備えどころか着の身着のまま。せめて食料と飲み水の確保ができればいいのだがと思うも、見渡せど家屋は殆どが原型を留めていなかった。

 夜に見た時は分からなかったが、この荒れ方は災害や飢饉によるものではないと焦げ付いた外壁が告げる。泥濘の中に沈むぬいぐるみ、割れた写真立て──思い出の品を持ち出す暇も無かったのか、それとも思い出ごと埋められたのか。今となってはそれも分からない。唯一分かるとすれば、この村の日常を奪ったのは紛れもなくシュライグ自身だ。

 泥に塗れた首飾りを拾った。この品も誰かの思い入れがあったのだろう。命を奪いそのうえで形見までも奪う己の所業を悪魔だと呪いつつ、けれど金目の物を拾う手は止まらない。昔から手癖は悪かったし、それこそルガルやフェリジットと出会う前は盗みで日銭を稼いでいたのだ。大切な人を守るために強くなりたいと願いながらこうして奪うのは、皮肉が過ぎているなと顔に出さず自嘲する。

 

「おはよう、シュライグ」

 

 気配も無く背後に立たれ、思わず硬直した。恐る恐ると振り返れば、悪戯が成功した子どものように破顔するアルベルを見つけ、安堵の息を吐く。神出鬼没は今に始まったことではないが、いくらなんでも心臓に悪いとどっと嫌な汗が流れる。

 

「換金するの?」

 

 手のひらに集まった装飾品の数々を一瞥し、肯定の意味を込めて頷く。戦時下の今、装飾品の価値が下がっていることなど容易く想像が付く。もしかしたら頭陀袋の方が高くつくかもしれない。だとしても、持ち運べてかつ状態の良いものなどこの地にはもう何も残っていないだろうが。

 

「アルベル、今日は何処に向かう?」

 

 拾い集めた装飾品をポケットに詰め、尋ねる。換金するなら街とも考えたが、よく考えなくとも交渉なんて務まるのかと口下手な自分を疑う。そもそも戦時下の今、どの集落も戒厳令が出されていてもおかしくなく、立ち入ることすら困難な可能性が見えてきた。

 

「最初は南を目指そう」

 

 北は敵国のドラグマがある。中核都市があるということはつまり、それだけ交戦も激化しているに他ならない。何も準備の無い状態で目指しても戦火に巻き込まれてしまうのが目に見えての発言だろうと推測し、頷いた。

 

「何をするかは、歩きながら考えたらいいさ」

 

 思い返せば、不思議な旅だったと思う──

 誰にも告げず半年も続けた家出とアルベルとの二人旅。着の身着のまま戦地をあてもなく彷徨うだけの旅路は過酷であったけれど、願った通りの強さに近付くことができたのは確かだ。

 アルベルはその間、色々なことを教えてくれた。死体の隠し方、殺した痕跡の消し方、騒がれずに殺す方法──所謂それが暗殺技術の応用であることを知ることないまま。「奪われないための選択として、殺さなければならない時もあるんだよ」事を穏便に済ませたことで、近隣の村が焼き払われたのを見るのも一度や二度ではなく、その都度彼は戒めとばかりに火柱を睨み呟いていた。

 

「また、人を殺すのが上手くなったね。シュライグ」

 

 秋も終わりが近付き、研ぎ澄まされた刃のように鋭い寒気が目立つようになった頃。ナイフの血濡れを払ったところ、アルベルに声を掛けられ振り向いた。

 

「人を殺すのは、まだ怖い?」

 

 苦しむ間もなく血の泥濘に沈む兵士を一瞥し、弱々しく頷く。けれど、逃げ出そうという臆病な態度は見せず、立ち向かう心意気を示すかのように瞳には剣呑とした光が宿る。

 

「俺だけじゃない……皆、戦っている。尚更、逃げるわけにはいかないんだ」

 

 ルガルとフェリジット──二人はよく鉄の国から出て、長ければ数ヶ月は戻らないことが度々あった。その理由を知ったのは偶然で、たまたま馬の集落を通りがかった時に耳にした。

 

 ──戦況が追い詰められた時、猫と狼の義勇兵が現れ加勢してくれる。

 

 住民は誰がと名前を口にはしないが、それが二人であるとシュライグには理解できてしまった。二人がわざわざ安寧を捨ててまで戦争に参加する理由は、フラクトールへの恩あってだろう。そして、シュライグに伝えようとしない理由にも察しが付いた。隠し通す二人の気持ちは分かるけれど、罪を擦り付けたような気がして自己嫌悪に陥ったのは記憶に新しい。

 

「強くなったね、シュライグ。今のキミは、最初に会った時よりもずっと魅力的だよ」

「なら、それはアルベルのおかげだ」

 

 心身共に成長したのであれば、それはアルベルの働きかけあってのことだ。

 ふと、シュライグは今更ながら疑問を抱く。何故、アルベルは他人でしかない自分にこうも良くしてくれるのか。彼は自分のことを欲深い存在だと言うが、シュライグの目には無欲に映る。シュライグの願いを聞いてくれる一方で、シュライグは彼の願いをまるで知らない。

 

「アルベルには、願い事は無いのか?」

 

 死屍累々の戦争跡地で、死体から奪った兵糧を昼食にシュライグは前置きも無く尋ねた。唐突に話を変えたが、質問内容に気を良くしてか無邪気な笑みを満面に答えた。

 

「願いも夢もないけど、野望はあるよ」

「それは願い事と違うのか?」

「全然違うよ! もっと欲に満ちていて、誰にも理解できないものさ!」

 

 語気を荒らげる姿を珍しいなと思いつつ頷く。彼の熱弁っぷりにシュライグも顔に出さずとも楽しくなる。

 

「誰が考えたでもない、僕だけのシナリオ──それを完成させる。全てを演じ終えたその時、僕の目に何が映る? 湧き上がる拍手か! それとも無人の客席か!」

 

 昼食も途中ながら、死体踏みつけ踊り歌う姿は役者というよりもガンジャ中毒のように目に映る。

 

「キミにも見えるだろう? この大舞台を観に訪れる者の姿が。興味津々の彼も、つらまなそうに欠伸をする彼女も、行儀の悪い子どもも皆等しく僕達を値踏みしているんだ!」

 

 見えない客席に語り掛ける道化の姿は正気とは掛け離れつつも、けれどそんな彼の世界を否定する気は無かった。シュライグには歌劇も芸術も何も分からぬが、熱く語る姿に初めて彼の本性を見た気がして惹かれたのは確かだ。

 

「お前の言う通り、俺はお前に見える世界を理解できない。けど、それを信じるお前の姿は嫌いではない」

「嬉しいな。僕の世界を肯定してくれて」

 

 目に見えぬ観客の視線に酔いしれ屍の舞台に立つ彼はまさしく精神異常者の振る舞いであったが、それを見て気味悪いとも思えぬシュライグも傍から見れば彼と同類だ。そもそも、まともな感性を残していたなら骸漁りをして戦場跡地でランチタイムなどしない。

 旅を通してシュライグは変わった。否、元々おかしかった部分が旅を通して発露したと言うべきか。それだけの刺激をアルベルが齎したとも言えるが。

 

「キミを役者に仕立ててよかったよ」

 

 ふと彼が漏らしたその呟きに「それはどういう意味だ?」と、首を捻れば、彼は人差し指を己の口元にやり不敵に笑う。

 

「ヒ・ミ・ツ」

 

 「そんなことよりさ!」唐突に話を変えて、右足を軸にくるりと回る。正面に向き直った時には、彼の手には二丁拳銃が握られていた。

 

「これの使い方を教えてあげる。大丈夫、今のキミなら扱える」

 

 二丁拳銃のうち片方をシュライグに渡した。手のひらに乗るほどに小さいそれは、けれど数え切れぬほどの人を殺した武器だ。誤って見張りの兵士に見つかった時、ならず者と化した軍人の暴行から逃げる時──シュライグとて大勢の者を殺したが、いつも使うナイフよりもこれはずっと重く感じた。

 本当に、使えるのだろうか──

 

「僕を信じて」

 

 自分を疑ったその時、アルベルが心を読んだかのようなタイミングで微笑みかけた。シュライグの背後に回ったかと思うと、体をぴったりと背に張り付け、耳に吐息が掛かる。

 

「力を抜いて……そう、上手だよ」

 

 言われた通り体から余計な力を抜いて身を任せれば、白く華奢な指がシュライグの手を包む。銃を構える姿勢へと導いた。

 火薬と硝煙と死臭渦巻く淀んだ空気を引き裂いて、重い衝撃が骨に走る。まだ辛うじて息をしていた誰かの悲鳴と破裂音を聞いた。

 

「時に大きすぎる力は守るべきものさえも奪い去ってしまうけれど、今のキミなら大丈夫」

 

 瞬きほどの刹那の空白で、彼は銃口の先に心臓が来る位置に立っていた。何かの手違いで指が滑った瞬間、鮮血が華を咲かせたことだろう。

 

「行こう、シュライグ。キミの願いはもうすぐ叶う」

 

 ほら、早く。そう急かすように彼は手を伸ばす。

 もしもだ──ここで、アルベルの胸を撃ち抜いていたなら、これから先の悲劇も混沌も開幕しなかったのかもしれない──

 冬はあっという間に訪れた。けれど、戦場に季節は無い。雪の降る戦場に耐えず血は流れ、骸は腐ることなく氷の棺に閉ざされる。血も涙も凍てついた命の奪い合いをシュライグは目に焼き付け己の罪として胸に刻む。亡霊の声は聞こえなくなったが、代わりに生きた誰かの断末魔が鼓膜に染み付いた。

 旅路の果て、最後に辿り着いたのは──奈落の落とし穴であった。そう、ここから全てが始まった。

 懐かしさよりも、悲しみや嘆きや怒り。そんな感情が先駆けて生まれ、両手を握り締め下唇を噛む。少しでも気を落ち着けようと深呼吸すれば、真冬の寒気が肺をいっぱいに満たし、胸を痛める。

 

「シュライグ、立ち止まっては駄目なんだ」

 

 目の前で口を開ける奈落の大穴に、今更のように恐れをなして足を止める。「外は寒いでしょ」髪に積もる雪を払い、アルベルが手を引いた。

 今となっては誰も使わぬ引き込み線から廃坑に入る。雪と風に体温を奪われる心配が無いとはいえ、寒い事に変わりは無い。悴んだ指先に息を吹きかければ、白い呼気が登る。

 

「アルベル」

 

 入ってすぐ違和感に気付いた。先導するアルベルの名前を呼べば、彼は口元に人差し指をやり岩肌を背に、曲がり角の奥を見る。誰もいないことを確認し、手招きした。

 廃坑になってから長いはずが、明らかに人の手が入っていた。天井を支える柱の腐敗は少ない。梁に括り付けられたランプからは新しい油の臭いがする。

 廃坑を進み、違和感は確信へと変わる。誰かがここに住んでいる。それも、一人二人ではないと地面に残った種族の異なる足音が物語る。

 ああ、そうか──シュライグは、この先に何があるのか直感的に理解した。銃を下ろし、アルベルに代わり先を歩く。そして辿り着いた、開けた採掘地点の一つで告げた。

 

「俺はお前達と同じだ。敵ではない」

 

 片翼を広げる──身を潜めていた者達が、恐る恐ると暗がりから現れシュライグを見つめる。角無しの牛、毛の無い猫、三つ首の狼──怯える彼らの眼差しに、けれど敵意は何ら含まれていなかった。

 

「迫害された障害者は、ここで身を寄せあっていたわけか……」

 

 かつて障害者の獣人を捨てた大穴が、怪物を産む実験場へと代わり、今では差別から身を守る要塞。運命的なまでに皮肉な歴史を辿ったものだ。

 

「アナタも私と同じだね」

 

 代表して前に出たのは、羽なしの白鳥であった。白鳥といっても種族本来の美しさは残されておらず、風切り羽は落とされ光沢の無い痩せた羽が飾りのように残っている。それが所謂部族内での差別による傷跡と理解できたのは、シュライグも同じ境遇であったからだ。

 聞けば彼女は、家出同然に部族を出て偶然にも同じく行き場の無い今の仲間と出会い、気付けばここに住み着いていたのだと言う。我ながら思い切った決断をしたと、今となっては笑い話だそうだ。

 

「ねぇ、彼は?」

 

 会話に入れなくて暇そうに立っているアルベルを彼女は一瞥する。

 

「アイツはアルベル。訳あって一緒に行動してる」

「へー……」

 

 獣人ですらないから興味も無いのか。彼女はつまらなそうな態度を隠しもせず適当に頷いた。

 

「ねぇ、僕探してるものがあるんだ。本の多い部屋を知らない?」

 

 あれだけ興味無さそうにしていたアルベルが、今更になって会話の腰を折るように声を掛けた。煩わしそうな少女の眼差しを無視し割り込む。彼女は一つため息を吐いて、着いてこいと顎をしゃくる。

 

「シュライグ、キミはここで待ってて」

 

 「すぐに戻るよ」彼はそう告げて、少女の案内について行った。遅れて、他の獣人達も二人の後を追う。恐らく、あの少女がここにいる獣人達を率いているのだろう。話し相手もいなくなり、そもそも誰かいたとてまともに会話できるのかも怪しいが、シュライグは暇を持て余しその場に腰を下ろした。

 

「本はここに集められてるよ」

 

 彼女が案内したのは、資料を集めた──そう、かつて枢機卿が実験記録を纏めるために使っていた小部屋だ。今となっては、歴史の闇に屠り去られたそれらに目を通す者などおらず、虫食いの酷い紙面がそこかしこに散らばっている。

 埃を被った資料の一枚を拾い、土を払う。そのたった一枚で、枢機卿の血の滲むような努力が伝わった。聖女の立場に固執しなくとも、彼女は良い駒だったとマクシムスは語っていた。だとしても、過去に生まれた六百人以上の聖女全体で見れば、容易く埋もれる才能ではあったが。

 彼女は成れ果て以外にも研究をしていた。といっても、彼女の専門は生物関連であったため実験体に獣人を用意することに代わりない。その研究成果のうちの一つを見つけ、仮面の下で邪悪な笑みを浮かべる。

 そう、これこそが──シュライグをシナリオに組み込むための最後のピースだ。

 

「見つかった?」

「うん、ありがとう」

 

 礼を告げたはずが、少女の表情は固い──それもそうか、この部屋にある資料の意味が分からないはずもない。そして、アルベルはそれを持ち出そうと懐に仕舞った。その行動が何を意味するか、分からぬ者はこの場にはいない。

 

「……それをどうするつもり?」

「わざわざ訊くまでもないと思うけど」

「そう……残念だわ」

 

 静謐な怒りを孕んだ声を皮切りに、獣人達がアルベルを囲む。ある者は牙を見せて唸り、ある者は毛を逆立て爪を出す──明らかな威嚇を前に、アルベルは「怖い怖い」と、言葉とは逆にまるで怯えた様子もなくおどけて見せた。

 

「そんなに嫌うなら、焼き払ってしまえばよかったのに」

 

 飛び掛かろうと身を低くさせる獣人達を前に、けれどアルベルは欠片も恐れることなく──指を弾いた。

 放物線を描きながら飛んだのは、煙草の吸殻であった。たかが煙草、されど戦争により嗜好品の類が世に出回らなくなってどれほどの時が過ぎた。民は粗悪なカストリ焼酎を密造して闇市に流し、裏路地ではガンジャ中毒が売人を殴る。シケモク拾いに銅貨一枚握らせて得たそれは、嗜好品に飢えた困窮者の目にどれほどの価値を伴って映ったか。

 張り詰めた緊張が、糸を切るよう解けた。宙に舞うそれを誰もが目で追い、そして床に落ちたと同時に、彼らは蟻のように這い蹲った。

 

「うそ……」

 

 獣どころか虫けらへと成り下がった彼らは、路上に打ち捨てられたゴミ同然の吸い殻を求め群がり奪い合う。寝食共にした仲間との絆を一瞬にして砕かれた少女は、掛ける言葉も見つからず力無く頽れた。そんな彼女の隣に立ち、アルベルは腹を抱えて大声で嗤う。

 

「アッハハハハハハ! 仲間? 同士? 笑わせるね! たかがシケモク一つで崩れ去るほどに脆い友情に縋って、ばっかじゃないの!」

 

 家畜とてまだ知能が高いだろう。だが現実はどうだ? 進化の果てに知能を手に入れたはずの獣人は、仲間意識など捨て去り血眼になってシケモクを奪い合う。結局彼らの言う友情なんて哀れなほどに薄っぺらく軽い。同士討ちをする彼らの耳にアルベルの嘲笑は届かず、またその光景に放心する羽なしの少女は、悲劇のヒロインのつもりか嗚咽を漏らすばかり。なんて救いのない結末なんだ。実にアルベル好みの、欲に満ちたシナリオに舌鼓を打つ。

 最後の一匹を見届けるまでもないと鼻を鳴らし、部屋を出る。誰も追っては来ないどころか、アルベルが立ち去ったことさえ気付いていないであろう。

 

「おまたせ、シュライグ」

 

 蟲毒にも似た同士討ちが行われていることなど露知らず。シュライグは戻って来たのがアルベル一人であることに首を傾げつつも、立ち上がる。

 

「……他の皆は?」

「ふふ、彼らって仲がとっても良くてね。水を差すのも悪いと思って、置いてきちゃった」

 

 それが痛烈な皮肉であることも気付けぬまま、シュライグは僅かに顔を綻ばせた。ルガルやフェリジット、そしてキットと旅をしていた頃を思い返しているのだろう。過ぎ去ったかけがえのない思い出とは逆に、現実に起きているのは低俗な欲をぶつけ合う奪い合いとも知らず。

 

「シュライグ、これを受け取ってほしい」

「アルベル、これは……?」

「キミの願いを叶える物だ」

 

 そう言ってアルベルは、先ほど拾った枢機卿の研究資料を差し出した。中身をわざわざ読まなくとも、何が書かれているのか──それを悟った彼は、息を呑み躊躇うように伸ばしかけた手を止めた。

 

「ありがとう、アルベル。気持ちは嬉しい……でも、これだけは受け取れない」

 

 この紙束は、無辜の屍を素材に作られた忌々しい研究記録だ。躊躇うのも無理はない。これを受け取ることは暗に、願いという名の身綺麗な言葉で飾った欲望のために屍の上を歩くことと同義である。

 己の罪と向き合うための旅は、確かにシュライグの心を強くした。けれど、彼がこの旅で得たのはあくまで自分の罪を背負う覚悟であり、他人の罪まで背負う余裕は無い。今更のようにシュライグが研究資料を拒んだのは、これを受け取ることは枢機卿が犯した罪も背負うことに同じだからだ。

 

「そっか……でも、難しいなら仕方ないよね」

 

 「これはもう、この世に必要無いものだ。燃やしてしまおう」続けて出されたアルベルの提案に、シュライグは人知れず安堵する。獣人達の生き様を愚弄する忌々しい研究が、闇に葬られることを意味するからだ。

 だが、安心するシュライグを尻目にアルベルは確信していた。時間は必要だが、必ずシュライグは受け取ると。それだけの布石を打ってきたからこそ、アルベルも今すぐにと無理強いはしない。シュライグの葛藤も覚悟も何もかもが、もはや彼の掌の上であった。

 

「シュライグ……あともう一つ、行かなきゃいけない場所がある。分かるよね?」

 

 まるで今晩の献立でも告げるかのような軽い口調で、アルベルは揺さぶりを掛けた。すると、安心も束の間、シュライグは肩を跳ねさせあからさまに動揺を見せる。

 嫌だ、行きたくない──今更のように、七年前に置いてきた心が叫びを上げた。行かなければという使命感に乖離して、足が震えて前に進まない。姿を消したはずの亡霊が再び現れ、怨嗟の声を漏らす。地獄に堕ちろと七年もシュライグを苦しませてきた呪いだ。

 

「──シュライグ」

 

 途端、顔色を悪くさせ苦しげに喘ぐシュライグであったが、ふと、バンダナを巻いた手に温もりが重なり、過去へ飛んだ意識が現実に連れ戻される。

 

「大丈夫、僕がいるよ」

「…………アルベル」

 

 一人では、重くて背負いきれなかった。けれど二人なら、少しでも心は軽くなるであろうか。

 

「犠牲になった彼らを故郷へ返してあげたいんだ」

 

 もう、遺体どころか髪の毛一本とて残されていない獣人達の、そんな彼らの生きた証がこの紙に記されている。だからこそ、枢機卿の残した罪も犠牲になった彼らの証明も、全て西方教会で始末を付けねばならないのだと彼は言う。

 

「……そうだな。こんな暗い穴の中じゃなくて、彼らの帰りたかった場所で見送ってあげよう」

 

 深く息を吐き、瞼を下ろす。そして再び開けた時、瞳に恐れの色は映っていなかった。

 奈落の落とし穴を出て西方教会へと向かう道中、シュライグの足取りはしっかりしていた。立ち止まることも、歩みを遅めてしまうこともない。ただひたすら、教会の象徴である高い塔を目印に雪を踏む。

 辿り着いたそこは、七年という長い年月の中で切り取られたように形を残していた。戦火に巻き込まれるでもなく、かといって時の流れに荒れ果てるでもなく──血の染み付いた白亜の外壁も、屹立する教会も、かつて賑わいを見せた大通りさえも何も変わらず当時のまま残っていた。唯一変わり果てたとすれば、もうこの街は血と死人の臭いがこびり付き、浮浪者どころか賊さえも住み着かない虚ろの街と化していたことか。

 二人は教会を目指した。鎮魂歌を奏でるどころか死者への手向けも位牌を用意することさえもできぬが、犠牲となった者達を空へ返すことはできる。

 

「ここにしよう」

 

 門の前で立ち止まり、アルベルは石畳に積もった雪を払う。わざわざ中にまで入ろうと言わなかったのは、教会の中は外以上に当時の凄惨な場を残しているからと知ってだ。シュライグへの気遣いもあっただろうし、何よりそこを火葬場とするにはあまりに品が無いと判断したから。

 組んだ薪に火を灯す──本当に小さな火葬式だ。参列者も誰もいない、シュライグとアルベルのたった二人による見送りは、何十何百という犠牲を見送るに実に質素で寂しいものだ。

 

「これで、枢機卿の生きた痕跡は全て無くなる。誰にも悪用されない。彼らの死を愚弄されることもない」

 

 煌々と燃える篝火に資料を近付けた──その時。

 

「シュライグ!」

 

 懐かしい声に、弾かれたように振り返る。半年ぶりに、二人の姿を見た。

 

「ルガル、フェリジット……なんで、ここが?」

「迎えに来たんだよ! 俺達が、どれだけ心配したかも知らずにお前は!」

 

 息を切らせながらも荒らげる声に、思わず「ごめん」と、呟いた。何も言わず鉄の国を出て、それから連絡も寄越さず、生死さえも分からぬまま──彼らが世界中をどんな思いで探し回ったか、想像つかぬ程にシュライグも愚かではない。

 

「ルガル、あれがサルガスが言ってた例の……」

「ああ、アルベルとかいう奴だ」

 

 剣呑とした光を目に宿し睥睨する二人に、アルベルは仮面の下で不敵に笑うばかりでそこに動揺も恐れも何も無い。

 

「待ってくれ、二人とも! アルベルは何も悪くない! 全部……全部俺が願ったことなんだ!」

 

 身を低くさせ毛を逆立て唸る二人に、けれどそれを遮るようにシュライグが前に立ち、両手を広げてアルベルを庇う。その行動に二人は一瞬躊躇うも、すぐに眼差しが鋭さを増す。

 

「退きな、シュライグ。アンタはそのペテン野郎に騙されてるだけよ」

「訂正してくれ、フェリジット! アルベルは俺の、かけがえのない大切な仲間だ!」

「仲間? ……なら、アンタはアタシ達を裏切ってまでそいつの肩を持つって言うわけ?」

「そうじゃない! 話せば分かる、だから──」

「黙れ!」

 

 続く言葉を遮り吠えられ、怯んで言葉を失う。だからとて、そこを退くことはできないとアルベルを背に庇い続ける。ここで自分が味方しなければ、どうなる? ルガルとフェリジットは優しいが、それはあくまでシュライグのみにであり、敵と判断した者には容赦無い。間違いなく、アルベルは二人の制裁を受ける。

 そんなこと駄目だと、首を横に振る。アルベルも、ルガルもフェリジットも誰も犠牲にならない方法。それはどこにある。

 

「ありがとう、シュライグ。キミとの冒険は楽しかったよ」

 

 腐心するシュライグに向け、アルベルが彼にしか聞こえないほどの小声で礼を告げた。

 

「大丈夫だ、アルベル。お前は絶対俺が守る」

「ふふ、嬉しいな。守るための強さを願ったキミが、一番最初に守ってくれるのが僕だなんて」

 

 そう言って彼は、シュライグの手に握られたままの資料を一瞥し、さらに言葉を続けた。

 

「シュライグ、ごめんね。その資料はキミの願いを叶えるのに絶対に必要なものなんだ。だから、強くなって。キミが強くなることが、僕の野望の実現に繋がる──」

 

 冷たい金属音を耳に拾う。背中に、硬い何かが当てられた。彼の行動の意図が分からず、首を傾げたその時、乾いた発砲音と共に鉛が熱を伴い背中を貫いた。

 

「アル……べ……」

 

 名前を呼んだはずが、声にならず血を吐いた。

 何が起きた──分からない。雪の上に沈み、血を吐き続ける。痛い、息ができない。

 

「「シュライグ!?」」

 

 霞む視界の中、外套を翻し背を向けるアルベルを捉えた。待ってくれと手を伸ばすも、持ち上がらず雪の上を這うだけ。

 

「あの野郎、待ちやがれ!」

「ルガル、今はシュライグを!」

 

 二人の声が遠い──誤解を解かないと、アルベルは何も悪くないんだと言わなければ。なのに、口を開けど声は出ず、か細い呼気に紛れ血の塊が溢れる。どうしてか、酷く……眠い。

 沈むように長い眠りについて、ようやく目を覚ましたその日に旅の終わりを知った。とても長い夢を見ていたような気がする。瞼を震わせ懐かしい自室の天井を見て、現実に連れ戻されたような感覚に陥る。

 

「やっと目を覚ましたね、寝坊助」

 

 声の方に視線をやれば、呆れ顔のフェリジットと目が合う。「十日も寝てたんだから」だから体にまるで力が入らないのか。自覚した途端、目が覚めたように空腹と喉の乾きが同時に襲いかかってくる。

 

「ルガル、起きたよ」

 

 その一言に「本当か!?」と、椅子で仮眠を取っていた彼が弾かれたように椅子を倒して飛び起きた。嬉しそうに尻尾を振るも、すぐに纏う雰囲気が鋭くなる。そして大股で距離を詰めたかと思うと、最初に放った一言に空気が震えた。

 

「どれだけ心配したと思ってんだ、お前は!」

 

 思いもよらぬ大声に、顔を顰め耳鳴りに耐える。耳を塞ぎたいのに、寝惚けた体が言うことを聞かない。渇きに張り付いた喉をどうにか動かし「ごめん」と、か細い声で謝った。

 

「アルベルは?」

「お前、この期に及んで──」

「アルベルは、本当に何も悪くないんだ」

 

 きっと、仮面の下ルガルの表情は怒りに満ちていることだろう。けれど、この誤解だけはなんとしてでも解いておかなければいけない。幸か不幸か今のシュライグは怪我人だ。手が出せない立場を盾に本音をぶつけられる。アルベルとの旅を通じて、何も言い返せず黙っていた弱い自分はもういない。それだけの度胸が着いたとも言える。

 

「……アイツは、怪我させたお前を囮に逃げた」

「そうか」

 

 卑怯だとルガルは憤っている。まともな感性を持っていたなら、シュライグも怒るべきであったのだろうが、彼の行動を咎める気は全くと湧かなかった。むしろ彼らしいと感心さえ抱くほどに、清々しい悪役を演じてくれたことだと、僅かに顔を綻ばせた。

 

「ねぇ、シュライグ。憎くないの? だってアンタ、こんな大怪我してさ」

「憎い……? その逆だ、俺は知る機会をくれたアルベルにむしろ感謝している」

 

 二人には到底理解できぬだろうが、シュライグはこの身に受けた銃弾にありがたみさえ感じていた。というのも、彼はシュライグの願いを三つも叶えてくれたのだ。故に、相応の対価は必要だと考えていた。二人には悪いが、この痛みさえ安い対価を要求したものだと、シュライグは呆れてさえいた。「もっと欲を持ちなよ」なんてシュライグに言っておきながら、やはり彼は無欲な人物だ。

 毅然とアルベルを庇い続けるシュライグに、二人は怒りも通り越して寧ろ呆れてしまったらしい。これ以上は何言っても疲れるだけだと、諦めモードに入りベッドの縁に腰を下ろす。

 

「なぁ……馬の部族に協力する義勇兵は二人のことなんだろ?」

「……それを知ってどうする?」

「俺も加えてほしい」

 

 駄目に決まってんだろ! てっきりそう怒鳴られると思いきや、意外にも叱責は無かった。その代わりとばかりに二人は揃って困ったようにため息を吐く。

 

「この半年で色々なものを見た。俺の所為で戦争が今も続いてることも、戦争で何もかもを奪われてしまう人がいることも、全部目に焼き付けた」

「それをお前が背負う必要は無い。全部忘れろ……お前はまだ、ガキなんだよ」

「子どもだって戦場に出てる。ルガルだって、子どもの癖に軍に入ってた」

 

 痛いところを突かれ、ルガルが押し黙る。口下手だと何度だって馬鹿にされたが、今なら口喧嘩でも勝てる気がしてきた。口先ばかり上手いアルベルと一緒にいた時間が長すぎて、感化されたのだろう。

 

「俺には戦争を起こしてしまった罪がある。償う方法があるなら、それは戦争を終わらせることだ」

「……お前なぁ、んな大層なことホントにできると思ってんのか?」

「できるじゃなくて、俺がしなきゃいけないことだと思うんだ」

 

 らしくもない大見得を切る彼に、二人はどうしたものかと顔を見合せ眉を下げた。

 

「そうだ二人とも、喧嘩しよう」

「はあっ!?」

 

 これは名案だとばかりに唐突に申し込まれた決闘に、思わずとルガルは頓狂な声を出す。その隣、フェリジットまでも目を見開いてシュライグを見下ろした。

 

「二対一でいい。俺が勝ったら、二人は俺のすることに文句を言うな」

「んな無茶苦茶な……」

「無茶でもいい。そうでもしないと、二人は俺の言うことに耳なんて貸してくれない」

 

 断るべきかとも二人は互いの視線を送り合う。だが、今のシュライグなら断ったら寧ろ何やらかすか分からない。変に行動力だけはある所為で、誘拐に続き家出なんてされでもしたら、それこそ目も当てられない。また鉄の国を出て戦地を大捜索なんて命が幾つあっても足りない。

 

「ふん。アタシに喧嘩売ったこと、後悔させてやるから」

 

 「だから、さっさと治しな」と、先に折れたのはフェリジットであった。腕っ節に自信のある彼女は、どうせシュライグが勝てるはずないと決め込んであえて条件を飲み込んだ。生意気な口も、拳で塞いでやれば当分は大人しくなるだろう。そう予想して。

 

「だな。そこまで言うなら手加減は無しだ」

 

 どれだけ強くなったと声を大にしたところで、所詮は大人と子ども。義勇兵とはいえ戦地に赴く戦士二人を相手に、為す術なく地面に伏せるシュライグの姿が目に浮かび、鼻を鳴らした。

 実はこの約束を取り付けた時点で、もう既に勝負は始まっていた。この時予め"正々堂々"と、条件を付けておけばいいものを。どうせシュライグは勝てやしない。ましてや二対一だ。なんて、油断があったばかりに──そもそも誰だ、あんな悪知恵を吹き込んだ奴は。そんな後悔が生まれるのは、また別の話。

 あまり長く話せば傷に障るからと、二人は気を使って部屋を出た。「お前も早く寝て治せよ」と、置き土産の言葉を残して。

 一人残されたシュライグは、起き上がることも億劫で寝転んだままテーブルに目線をやる。すると、あの旅は夢でも幻でも無い証明に、荷物が纏めて置かれていた。銃も枢機卿の資料も捨てられていない。

 

(アルベル、俺は必ず強くなる。お前の野望も、潰えさせない──)

 

 あの資料に何が書かれているのかは知らない。だが、燃やそうだなんてもう思わない。例え願った強さを得ることが同時に枢機卿の罪までも背負うこととなろうとも、それがアルベルの野望を叶えるに役立てるなら、罪の重さに潰れぬよう踏ん張ってみせる。

 

 世界の為を思うなら、むしろここで潰えておくべき野望であった──

 

 そんなことは未だ知らず、あれから数年が経った。別れて以来、アルベルとは一度も会えてない。いつか、また会える日があればいいな──シュライグはそう願いながらも窯を開けた。こんがりと焼き目の着いた表面と香ばしさに、思わず顔が僅かに綻ぶ。

 

「いただきっす!」

 

 調理台に天板を置いたタイミングで、狙ったかのように横から手が伸びてきて焼きたてのクッキーを攫う。「まだ熱いぞ」そんな忠告聞いてもおらず、ナーベルは一口で口に詰め、粗熱に舌を焼かれ飛び上がった。

 

「だから言っただろ」

 

 コップに冷たい水を入れて差し出せば、彼は礼も言う余裕も無くそれを奪い喉に流した。

 

「今日という今日は仕返ししてやるつもりだったんっす!」

 

 食べ物の恨みはなんとやら。三度にも渡る強奪の末に決行した作戦は、けれどシュライグは盗られたことに何ら機嫌を損ねることなく「言ってくれたら残したぞ」と、困ったように後頭部を掻く。

 

「でも、珍しいっすね……ていうかリーダー、料理できたんだ」

「得意ではないが、一応な」

 

 厨房に立つのは、ルガルやフラクトールばかりなのもあり、家事は全くと思い込んでいた様子。といっても、それもあながち間違ってはいないので、わざわざ訂正する気も無いが。

 断りも無く二個目のクッキーに手を伸ばし、今度こそ息を吹きかけ冷ましてから口に入れる。「美味しい」と、二個目三個目食指の止まらぬ彼に、だからてシュライグも咎める気は無い。

 

「美味しいならよかった。全部食べてくれても構わない」

「ええっ!? いいんすか!?」

 

 なら遠慮無く。と、食べきれない分は瓶に詰める。その様子を尻目に、シュライグも一つクッキーを取り咀嚼する。

 確かに、味は悪くない──彼の言う通り美味しいし、小腹が空いた時に摘みたくなる。だが、何か違う──こんな味ではなかった。

 

「なぁ、ナーベル……お前は、母親が作ってくれる料理の味を覚えているか?」

「おふくろの味ってやつっすか? 当然っすよ!」

 

 「母ちゃん、まだ生きてるし!」と、胸張って答える彼に、シュライグは声に出さず羨ましいと呟いた。

 影の差した表情と質問に、ナーベルはようやくシュライグの母が既に他界していることを思い出し、息を呑んだ。

 

「もしかしてリーダー。このクッキー──」

 

 わざわざ言葉にしなくとも分かった。彼が得意でもない料理を誰にも手伝ってもらうことなくしていた理由。

 恋しいのだ、母親の味が──クッキーは、母親がよく焼いてくれたものなのだろう。その味をもう一度彼は食べたくて、だから──

 

「この話は秘密だ」

「えっ、でも……」

「何か言われたら、美味い非常食を開発していたとでも誤魔化してくれ」

 

 なんて無理のある言い訳だ。と、ナーベルは呆れて物も言えなくなる。なんでこの人、戦場じゃあんなに頼りになるのに私生活はこんなに抜けてるのだか。

 

「よう、シュライグ。ナーベルもいたのか……つうか、なんだこの惨状は!?」

 

 タイミングがいいのか悪いのか──厨房に入ったルガルが一言、光景を目の当たりに大声を上げた。

 それもそのはず──床には小麦粉がぶちまけられ、壁には牛乳が飛び散り、果てには薄ら焦げ臭い。

 誰が掃除すると思ってんだ。と、ルガルの眼差しが鋭さを増したその時だった。

 

「ナーベルがぶちまけた」

「えっ!?」

 

 何の前触れも無く、シュライグが全ての責任をナーベルに押し付けたのである。これにはナーベルも驚き、言い返すべきと分かっていながら言葉に詰まる。

 

「俺は止めたが、絶対に美味い非常食を作ると」

「ええっ!?」

「草でも食ってるようなほうれん草のソテーも石のように硬すぎる干し肉も土みたいにパサついた乾パンも、もう二度と食べたくないと聞かなくてな」

「えええっ!?」

 

 いつもの口下手は何処へやら。早速と、先の打ち合わせどころか要らぬ尾鰭を付けてスラスラと。まるで元から用意されていたシナリオを読み上げるかの如く淀みなく、反論の言葉さえ圧倒される。

 

「応援しているぞ、ナーベル」

 

 果てにはルガルを連れ、しれっと後片付けも押し付け出て行った。

 残されたナーベルは、呆然と暫くその場に立ち尽くしていた。ようやく立ち直った頃には、焼きたてだったクッキーも冷めており──いい加減嵌められたことを認めろ。そう言わんばかりに、厨房の惨状が告げる。

 

「……次は無いと思えっすよ、リーダー」

 



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Episodeキット

 

 ──ちゃんと、謝ろうと思ってた。

 

 酷いことを言ってしまったことも、助けてもらったのにお礼も言えなかったことも。

 なのに、起きたらいつの間にか部屋にいて、窓を見ればアルギロ・システムと火山がそこにあって──見慣れたはずの日常が、この上なく疎ましく思えた。夢から覚めたというよりも、追い出された心地だった。アルベルも、シュライグの故郷も、空を飛んだことも──全てが空想だったのかとさえ疑ったのを覚えてる。

 その出来事が夢でないと知ったのは、リズねえに泣きながら抱き締められてからだ。「お腹が空いたでしょ? ルガルが朝ごはんを作ってくれてるから」連れられたいつもの食卓に、いつもと違ってシュライグだけがいなくて、ルガにいの表情は暗くて──

 

 ──ワタシ、置いていかれたんだ。

 

 ワタシだけじゃない、サルガスも。鉄の国にシュライグだけがいない意味を幼いながらも理解した。なぜ置いていかれたのかも心当たりがあった。

 ──嫌われちゃったんだ。

 

「仲直りの仕方が分からない?」

 

 オウム返しに聞き返した姉の言葉に、小さく頷く。

 

「誰と喧嘩したのよ」

「シュライグ」

 

 正直に答えたはずが、彼女は困ったように眉尻を下げる。それもそうか──半年も行方不明だったシュライグが鉄の国に帰り数日。その間、彼は一度として目を覚まさない。ルガルやフェリジット、それにフラクトールの三人が交代で看病しているが、傷の深さも影響してか昏昏と眠り続けて全くと目を開けないことを日に日に窶れていく三人の姿が語る。

 意識も無いのにどう喧嘩するんだと、彼女は妹を疑いたくない気持ちを抱きつつ、胡乱な眼差しを投擲する。

 

「ワタシもサルガスと同じなの!一緒にアルベルと冒険して……空も飛んだんだよ! でも、夜になって怖い人達に襲われて、それでシュライグが守ってくれたのにでも怖くて……だから──」

「キット」

 

 言い終わるのも待たずして、フェリジットはここから先は駄目だと首を横に振る。

 

「外のことは忘れなさい」

「でも──」

「いいから、忘れるのよ!」

 

 滅多に怒らぬ姉が語気を荒らげる姿に、圧倒される形で閉口した。ルガルもだが、どういうわけか二人はアルベルの名前を出すといい顔をしなかった。友達を否定されたような気がして、かといって言い返す度胸もキットには無く、歯痒い気持ちを嫌々と飲み込む。

 

「起きたら、一緒に謝ってあげるから」

 

 俯く妹の姿に、さすがに言い過ぎたと頭を撫で彼女は立ち去った。

 どう言葉にしたら、ちゃんと伝わるのだろうか──姉に相談して厳しく言われるなら、ルガルに相談したところで結果は変わらない。フラクトールなら優しく教えてくれるだろうが、治療に追われ忙しい彼が相談に乗ってくれるとは思えなかった。

 答えが出ないまま、その日は夜を迎えた。シュライグと仲直りできるのか、そもそも彼は無事なのか。帰って来たのに顔さえ見に行けない現状に、布団の中で悶々とする。

 謝ることもできないまま、彼が遠くに行ってしまったらどうしようか。二度と目覚めないなんて最悪の想像ばかりが浮かんでしまい、だから夜になると怖くて堪らない。

 

(こんな時、アルベルがいてくれたら……)

 

 ──仲直りの願いを叶えてくれるのに。

 

 一縷の希望を求めたその時、外で物音がした。風の音かとも疑ったが、音は一定の感覚で耳に届き──風ではない。誰かが窓を叩いている。そして、その行いに一人だけ心当たりがあり、考えるより先に飛び起きた。

 

「アルベル!」

 

 参った精神が見せる都合のいい夢じゃないかと疑った窓の向こう、手を振る仮面越しの笑顔に躊躇わず迎え入れた。「久しぶりだね、キット」久方ぶりの挨拶も程々に、彼は窓枠に腰を下ろす。平和なのに生半可な日常の繰り返しに、ようやく色が戻ったような感動を抱く。

 

「元気にしてた? あの時はごめんね、何も言わずに家に帰しちゃって」

「ワタシこそ、ごめんなさい。アルベルのこと、悪くないってリズねえにもルガにいにも伝えたいのに、でも上手く伝わらないの」

 

 「なんで分かってくれないのかな?」と、俯く彼女に「キミは何も悪くないんだよ」と、気遣い耳元で囁いた。

 

「二人とは喧嘩をしちゃってね。だから、仲直りするまで僕が来たことは内緒だよ」

「アルベルもなの? ワタシと一緒だ!」

 

 悩んでいるのが一人だけでないと知り、キットは安心から尻尾を激しく横に振る。分かりやすく感情を露わにする彼女に、アルベルは柔和な笑みを浮かべ言葉を続けた。

 

「キットは誰と喧嘩したんだい?」

「……シュライグ」

「シュライグと?」

 

 意外だと言わんばかりに首を傾げて見せる彼に、訥々と今まで誰にも吐き出せなかった気持ちを声にした。

 

「あの時ワタシ、酷いこと言っちゃって……でも、どう謝ったらいいか分かんなくて……ねぇ、アルベルはお友達と喧嘩したらどうするの?」

 

 鉄の国にはスプリガンズやセリオンズも住んでいるが、子どもはキットとシュライグのたった二人。遊びに付き合ってくれる大人はいても、同じ目線で語り合える友達はいない。故に、キットは今の今まで喧嘩がどういうものか分からないまま、絵本の中にしか存在しないものとさえ思い込んでいた。

 

「喧嘩かぁ……」

 

 らしくもなくハッキリと答えぬ彼に、聡明な彼女は察した。余計なお世話とも知らず、キットは幼いなりに気を回して徐に頭を下げる。

 

「ごめんね、アルベル。アルベルに友達がいるはずないよね」

「あのさぁ、それ喧嘩売ってるよね」

 

 事実だけども! と、心の中で叫びつつ笑みを引き攣らせる。アルベルとて別にシュライグほど口下手ではないのだが、どういうわけかキット相手だと言い返す言葉が出て来ない。図星もあるが、相手が子ども故にムキになるのも大人気ないと一線引く気持ちが前に出て、結局言葉を飲み込むのだ。断じて、言い負かされたわけではない。

 

「とにかく、キットは仲直りの方法が知りたいんだね」

 

 仕切り直しだと一つ咳払いをし、指を鳴らした。すると、窓の向こう、渦を巻くホールが出現する。

 

「おいで、キット。こっちで話そう」

 

 ホールの向こうに何が待ち受けているのかは全くと見えない。不穏な輝きを放つ空間の歪みに、けれどアルベルに手招きされたからという単純な理由で疑いもせず潜った。

 ホールを超えた向こう側は、シュライグの部屋に繋がっていた。昼間に部屋の前を通り過ぎる度、気になっては必ず足を止めていた。入ろうとしても、「また今度ね」と、姉に止められてしまうため、結局シュライグの顔は全くと見れていないが。

 部屋にはシュライグと他にフラクトールもいたが、彼はテーブルに突っ伏するよう居眠りしていた。蝋燭の頼りない灯りの中、くすんだ顔色と色濃い隈からちょっとやそっとの物音では起きそうにない。看病に疲れて眠りこけているところ悪いが、シュライグと会うに好機であった。

 こっちへおいでと手招きしたアルベルは、寝台の縁に腰を下ろした。キットも彼に倣い、隣に腰を下ろす。余程傷が深いのか、こんなにも近いのにシュライグは目を開けることなく、うぅ、うぅ、と喉を絞るような唸り声を上げるばかりだ。

 

「シュライグは、治るの?」

 

 魘される姿を尻目に、キットはアルベルに尋ねる。寝込むほどの怪我なんてしたことのない彼女に、今のシュライグがどんな状態なのかも分からなかった。明日には死ぬかもしれない命の危機に瀕しているのか、それとも峠は超え目覚めを待つばかりなのか。

 

「治るよ。だって、シュライグは強くなったから」

 

 何の根拠も無いけれど力強く頷いた彼に、キットは顔に影を落としながらも胸を撫で下ろした。アルベルが断言するなら、大丈夫な気がする。願いをなんでも叶えてくれるアルベルは、絵本の魔法使いよりずっと頼りになるし、信頼できる。

 

「……アルベル?」

 

 ふと、シュライグの睫毛が震えた。頑なに閉ざされていた瞼が僅かに持ち上がり、熱に潤んだ眼差しが朧気に二人の姿を捉え、安心したとばかりに深く息を吐いた。

 

「おはよう、シュライグ。調子はどうだい?」

「…………調子?」

 

 まだ夢の中にいる心地なのか、理解も曖昧に言葉尻を聞き返す。暫しの沈黙の末「よく分からない」と、意識朦朧と呟く彼は虚ろに天井を見上げるばかり。まるで自分達が、彼の見る夢の住民になってしまったかのような錯覚に陥る。

 

「傷病みの熱が引いたら、そのうち良くなるさ」

 

 大して心配の言葉をかけるでもなく軽い調子で返され、けれどそれこそがいつも通りのアルベルだとばかりにシュライグが気の抜けた笑みを微かに浮かべる。普段の凍り付いた無表情も、高い熱がそうさせるのか僅かばかり今日は溶けている。

 

「アルベル……」

 

 指一本動かすことも億劫だろうに、寝惚けた体を叱咤し腕を持ち上げた。そんな彼の手に握られているのは、青いバンダナで──二人旅の間、返すと約束したものであった。意識が無い間もその約束を守り続けてか、ずっと彼は握り締めていたのだ。

 だが、アルベルはそれを受け取ることはせず、布団を掛け直した。

 

「それはまた会えた時に返して」

「でも──」

「シュライグ、キミは夢を見ている。今目の前にいる僕は、本物じゃない。だから、おやすみ」

 

 明かりを遮るように両の瞼に手を重ねれば、子ども騙しのはずなのに、苦痛に魘される様子も無く穏やかな寝息がすぐに聞こえた。

 刹那の目覚めだが、シュライグにしてみれば記憶にも残らないような儚い夢だ。

 

「キット、仲直りの方法が知りたいんだよね?」

「う、うん……」

 

 あれだけルガルやフェリジットが待ち望んでいたシュライグの目覚めをまさか最初に見るのが自分だなんて──そんな彼女の動揺は、けれどアルベルに声にまるで冷水でも掛けられたように我に返る。躊躇いながらも頷いた彼女に気を良くしてか、アルベルはおとぎ話の魔女のように喉を鳴らして笑う。

 

「気持ちを伝えるにはね、贈り物が一番だよ」

「贈り物?」

 

 言葉尻を繰り返し首を傾げた。彼女の脳内に真っ先に思い浮かんだ贈り物は花だった。当然だが、鉄の国に花は咲かない。そもそもシュライグは花で喜ぶような人物でもない。現実は絵本のように綺麗に纏まることないとキットだって幼いなりに理解している。だからこそ、そんなファンタジーな発言をするアルベルにはがっかりだった。

 

「シュライグに送るに、ピッタリの物があるんだ」

 

 つまらなそうな顔をするキットに向け、見せつけるようにテーブルの上に置きっぱなしの書類を取った。奈落の落とし穴から持ち帰った、枢機卿の研究資料──子どもに見せるようなものでもなければ、そもそも理解もできないだろうそれを躊躇いも無く差し出した。

 

「これ──」

 

 この世に天才と呼ばれる人種が存在するなら、それは間違いなく彼女だ──

 

 枢機卿の血の滲むような非人道的努力は、教養のある大人でさえ理解が難しいほどに専門用語が並ぶ。それを齢たった一桁の少女が見たところで、理解はおろか読むことさえも難しい。

 ただ、それは普通の子どもが見ればの話だ──

 

「体に備わった運動器官は脊髄を介し、送られた電気信号によって随意運動となり表出する。手あるいは足、身体の欠損部分に代替する運動器官を人為的に補い、運動及び深部感覚の伝導路を繋ぐことで運動機能を再獲得する」

 

 子どもの舌っ足らずな発音と小難しい単語の羅列は酷くアンバランスだ。淡々と迷い無く読み上げる彼女の姿に、アルベルは満足と言わんばかりに舌鼓を打つ。思った通り──否、それ以上の結果を彼女は叩き出した。

 

「凄いよキット! 書いてる内容が分かるんだね!」

「……ちょっとだけ」

 

 自信なさげに頷いた彼女だが、アルベルにこれでもかと手を叩いて褒められ、照れ臭そうに俯く。

 

「凄く面白いね、これ」

 

 書物は沢山見てきたが、地中界の冒険録もお空に絵を描く天使の絵本も究極のハンバーガーのレシピさえも、彼女にとってはつまらぬ文字の羅列であった。

 だが、目の前に差し出されたこの書物は彼女の飢えた好奇心を刺激し、剰才能を芽吹かせた。そう、彼女は業の深い研究の世界へと幼いながら引き摺り込まれたのである。

 

「これを作ってシュライグに贈ったら、仲直りできるの?」

「もちろんだよ」

 

 アルベルは狡猾な男だ──だからこそ、戦争を生んだ罪そのものと告げることなく、不都合な真実を隠し頷いた。

 

「でも……ワタシにできるかな?」

 

 幼いなりに内容を理解したうえで、彼女は自信なさげに尋ねた。自分の手で作るに技術も設備も材料さえも足りないと既に気付いての発言だ。子ども特有の根拠の無い自信さえも差し置いて、己の力量を分かったうえでの先のセリフから、非凡な知性が垣間見える。

 

「時間は掛かるけど、キットなら完成させられる。いいや、寧ろキミじゃなければ完成させられない」

 

 愉悦の色を滲ませた声色は、まるで悪魔の囁きか。親切の仮面の裏、彼の野望を露とて知らないキットは、聡明な頭脳を持ちながら疑うことさえせず、アルベルの発言に安心し顔いっぱいに満面の笑みを浮かべる。

 

「キット、今から大事なことを言うからよく聞いて」

 

 ふと、彼の纏う和らいだ雰囲気に鋭さが増す。緊張に思わずと姿勢を正して固唾を飲んだ。

 

「さっきも言ったように、僕はルガルともフェリジットとも喧嘩したんだ。本当は来たらダメだったんだけど、今日どうしても会いたくなってね……キット、暫く僕は会いに来れない」

「ええっ!? そんなぁ……」

 

 うっかり大声を出してしまい、慌てて口に手を当てる。幸いフラクトールの鼾は止まない。部屋を訪れる気配も無い。ホッと胸を撫で下ろし、小声で話すアルベルの口元に耳を寄せた。

 

「永遠の別れじゃない。また、会える日が来る……その間、キミにお願いしたいことがあるんだ」

「お願い?」

「そう……キミにしか頼めないんだ」

 

 「任せて!」と、キットは内容も聞かずに胸を張って頷いた。たった数日とはいえ安全と刺激の無いを履き違えた、つまらない日々の反芻を打ち破ってくれたことへの感謝あってだ。「心強いよ」と、アルベルは相好を崩し言葉を続けた。

 

「これから先、シュライグには沢山のしなくてはいけないことが訪れる。でもね、たった一人じゃ限界がある……だからキットには、彼の支えになってほしいんだ」

「支え?」

 

 具体的に何をしたらいいの? そう言わんばかりに頭上に疑問符を浮かべた。

 

「ルガルやフェリジット……二人だけじゃない。沢山の人に厳しいことを言われてしまうだろう。シュライグは弱音を吐くことも誰かを頼ることも苦手だ。でもね、顔に出さなくても傷付いてる、泣いている」

 

 彼が紡ぐ言葉の一つ一つに心当たりがあり、キットは憂うように目を伏せた。

 ルガルもフェリジットも──時にシュライグに対して冷酷に当たることがある。それが所謂、優しさ故の厳しさであることを理解できるほどに、キットの精神は成熟していない。例えどれだけ冷たく突き放されようとも、確かにシュライグは泣くこともしなければ悲しげな表情を浮かべることもない。でも、確かに傷付いているんだなと、幼いなりに感情の動きを読み取れた。

 

「キット……何があっても、キミだけはシュライグのことを肯定して、協力して──唯一の味方になってあげるんだ!」

 

 静かに言葉を紡いでいたはずのアルベルが、矢庭にキットの両肩を掴み唾が散らんほどに顔を近付け告げた。そのあまりの剣幕に仰け反りそうになりながらも、逃げては駄目だと奥歯を噛み締め耐える。

 

「いいよ。ワタシ、シュライグの味方になる……アルベルはワタシの願いを叶えてくれて、シュライグはワタシのことを守ってくれた。だから、今度はワタシがアルベルの願いを叶えて、シュライグのことを守る番!」

 

 溌剌とした返事に、アルベルは「ありがとう」と、小さく頷いた。

 

「ワタシ、これを作ってちゃんとシュライグと仲直りする!シュライグの支えになって、アルベルの願いも叶えてあげる! ……だから約束して、アルベル。アルベルもルガにいやリズねえと仲直りして、ワタシ達三人一緒にいよう」

 

 アルベルの迫力に負けじと言い張り、小指を突き出した。

 彼女の突然の行動に、仮面の下で目を剥いて硬直するアルベルだが、それが所謂指切りというおまじないだとようやく気付き、同じく小指を出した。

 

「ワタシとシュライグとアルベル──三人一緒、約束破ったら針千本だよ!」

「ふふ、怖いな。キットなら本当にしそう」

「ちゃんと用意するもん!」

 

 「指切った!」と、絡めた小指を満足そうに見つめ、心底嬉しそうに破顔する。

 

「ワタシ達三人で、また一緒に色んなとこ見るの!」

「サルガスは?」

「サルガスは煩いからいいや」

 

 全くと悩むことなくサルガスを仲間外れにする様子に、けれど彼女の言い分も分からなくないなと思わず苦い笑みが零れる。

 そんな秘密の約束を取り付けた一方、騒がしさに居眠りしていたフラクトールが身じろぐのをアルベルは視界の隅に捉え、口元に指先を当てる。

 

「キット、僕はもう行かなきゃいけないみたいだ」

「ちゃんと約束守ってね。絶対だよ」

「いいよ、僕達三人……また、旅ができたらいいね」

 

 徐に立ち上がり、窓の方へ向かい歩いた。窓の向こうは移動のためのホールではなく、いつも通りアルギロ・システムに照らされ常に明るい夜空が無限に広がる。

 

「──またね」

 

 行かないで──そう引き止めたい気持ちをぐっと飲み込み、窓枠を蹴って飛び立つ天幕の翼を見送った。

 そう遠くない未来、この約束が残酷な形となって破られるとも知らずに──

 開けっ放しの窓、冷たい夜風が吹き込むにも関わらずキットは空を見上げ立ち尽くしていた。別れたばかりだというのに、忘れ物でもしたとひょっこり戻ってきてはくれぬかと僅かばかりの期待をして。

 

「ふあっ……」

 

 肌寒さに身を震わせ、フラクトールが気の抜けた大きな欠伸をし、目を擦りながら起きる。そこでようやくキットは諦めをつけ、窓を閉めた。鍵まで掛けなかったのは、ほんの欠片ほどに小さな希望を抱いてだ。

 

「なんだ、キット……いたのかい」

 

 相当寝惚けているらしく、彼はキットが部屋にいることを大して気にもせず「明日起きれないよ」と、微睡みやんわり告げた。

 言外に早く寝ろと忠告されながらも、キットは無視して資料を手に詰め寄った。

 

「ねぇ、フラクトールさん! ワタシ、これが作りたいの! 手伝って!」

「ルガルかフェリジットに頼みなさい」

 

 相当眠いのか適当にあしらう彼に、キットは不満げに頬を膨らませながら声を大きくさせる。

 

「フラクトールさんじゃないとダメ! これがないと、シュライグと仲直りできないの!」

 

 耳鳴りがするほどの大声に、とうとうフラクトールが折れた。声の圧によろめきながらも「分かった分かった」と、読みもせず二つ返事。

 というのもこの時フラクトールは、寝惚けていたこともあり、キットの言う作りたいものが玩具だと思い込んでいた。泥団子か紙飛行機か──いつものおままごとだろう。大人の手を借りてシュライグに自慢でもする気だと、それが悪魔の研究だと欠片も疑わず勝手な推測をする。

 

「ありがと、フラクトールさん!」

 

 言質を取った彼女は、資料をテーブルの上に戻して部屋を出た。一刻も早く解読したい気持ちは山々だが、それよりもシュライグと一緒に確認したい気持ちが勝ったからだ。シュライグは明日目を覚ます──そんな謎めいた確信を抱き、尚更今日読むわけにはいかなかった。

 実際、彼女の予想は的中した。翌日、シュライグが目を覚ましたと姉を介して知り、やっぱりと驚きもしなかった。同時に、ルガルとフェリジット二人に喧嘩を売ったとも知り、何をやっているのだと呆れたのは内緒だ。とはいえ、普段から考えが全く読めぬ実に彼らしい行動だと、妙に納得できてしまう。

 

「シュライグ」

 

 扉を勢いよく開けてビックリさせてやりたい悪戯心を押さえつけ、行儀良くノックをした。返事は無かったが、ちゃんと合図したからいいだろうと勝手に部屋に入った。

 

「キット……」

 

 彼は寝台に座ったまま、声色に困惑を孕ませ名前を呼ぶ。いつもの真顔に見えたが、その顔色は血の気が無く、今にもふらりと崩れてしまいそうな儚さを訴える。昨晩は分からなかったが、南向きの窓が導く陽光が、病人らしい顔色をしていたのだと今更ながら教えてくれる。

 一歩近付くごとに、彼は僅かに身を捻った。距離を取ろうとしているのだろう──らしくもなく弱気な、けれど彼がそんな怯えた態度を取る理由は己が一番よく知っている。知っているからこそ、躊躇いもなく距離を詰めた。

 

「シュライグ、ワタシ仲直りしたいの」

「な、仲直り……?」

 

 泣き出すでもなく怪我の心配でもなく──開口一番、毅然と告げられた内容に、シュライグが珍しく動揺を顕に言葉尻を繰り返す。常の真顔にほんの少し困惑の色を浮かべる彼に、テーブルの上の資料を突き付けた。

 

「これを作ったら受け取って! それが仲直りの条件だよ!」

 

 この資料がどのような経緯で作成されたか──内容を詳しく知らなくとも、シュライグはこの資料が糞を煮詰めた外道の行いと理解していた。だからこそ眼差しに剣呑とした光が宿し、首を横に振る。

 

「駄目だ」

 

 その一言に、キットの眉尻がつり上がった。

 

「シュライグは、ワタシと仲直りするのが嫌なんだ!」

「そうじゃない! そうじゃないけど──」

「リズねえに言いつけてやる!」

 

 ここでフェリジットの名前を出すのは卑怯と分かっての脅しだ。ただ、シュライグとてすぐには折れない。「今更フェリジットに怒られるのは怖くない」と、本音は怖いくせに強がりを顕に目を逸らしながら告げる。フェリジットが、シュライグは嘘が下手だと呆れてしまう理由が垣間見える返事だった。

 

「ワタシね、アルベルとも約束したんだ。シュライグと仲直りするためにこれを作るって」

「アルベルと……?」

 

 アルベルの名前を出せば、途端彼は目の色を変えた。思わずと身を乗り出す様子に、キットは期待に目を輝かせここぞとばかりに昨夜の出来事を告げた。

 アルベルと会い、仲直りの相談を持ち掛けたこと。彼は暫く会いに来れないが、いつかまた三人で一緒に旅をしようと約束したこと。その約束の為に、シュライグの強くなりたいという願いを自分が助けること。

 

「ワタシはリズねえやルガにいと違って、何があってもシュライグの味方だよ。シュライグのやりたいことを否定しない、全部ワタシが支えてあげるんだ」

 

 味方だと言い切った彼女の瞳に、いつかの夜に見せた怯えも恐怖も何も映っていない。返り血に塗れたシュライグの姿を思い出そうとも、拒みはしない。頼りなくて言葉足らずで不器用だけど──優しい。そんな彼が大好きなのだと、今更自覚したからだ。

 そんな彼女の覚悟に触れたからか──固く結んでいた唇を解き、シュライグは意を決した様子で告げた。

 

「キット……相談があるんだ」

「相談?」

 

 ルガルやフェリジットのように強くて頼りになるわけではないけれど、たった今できた小さな味方の覚悟に絆されてか──シュライグは、早速とばかりに悩みがあるのだと打ち明ける。

 

「その……二人と、喧嘩するんだ。俺は勝てるだろうか?」

「えぇ……」

 

 無理でしょ。そう言いたくなる気持ちをぐっと堪えたワタシは偉い──

 聞けば彼は、鉄の国を出てどうしてもやりたいことがあるらしい。詳しくは言わなかったが、それにアルベルが関わっているのだと聡明な彼女は察した。そのうえで、二人を納得させる手段として思いついたのが、喧嘩とは名ばかりの決闘らしい。

 

「うーん……」

 

 正直、呆れた──というのが本音だが、キットは知恵を巡らせる。顔に出さず不安気な様子の彼だが、キットなりに助けになりたいと思って。だが、どうしても殴り合い蹴り合いでシュライグが勝てる未来が見えないどころか瞬殺される想像はいくらでもつく。

 当たり前だ──二人は既に大人になった。対してシュライグは、声変わりさえまだ迎えていない。成長が遅れているのも相まって、フェリジットの方がよっぽど背が高くて体格が良い。組手で叩き伏せられて、ルガルがやり過ぎだと止めに入る格好悪いところは数え切れないほどに見た。

 

「すまない……こんなことを言われても、困るよな」

 

 悄然とため息を吐く姿に、キットは「誰も無理だなんて言ってないじゃん!」と、つい声を荒らげてしまう。

 

「そもそもこの喧嘩に、シュライグは"正々堂々"って言った?」

「……言ってない」

「なら、勝てるよ!」

 

 と、思ってもいなかった溌剌とした返事に、シュライグは目を丸くさせキットを見つめる。「もう一回言ってくれ」と、頼む彼に、仕方ないなとため息を一つ。

 

「この喧嘩、勝てるよ! だって、正々堂々じゃないなら何してもいいじゃん!」

「いや……でも……」

「何もできずにけちょんけちょんがいいの?」

 

 誰もが認める口下手だが、齢一桁の少女に言い負かされ、彼は返す言葉に詰まる。こうなればもうこちらの土俵だとキットは確信し、耳元に顔を寄せた。

 

「あのね、喧嘩する前に──」

 

 秘密裏にと言い渡された戦略に、躊躇いながらも興味を隠しきれていないシュライグだったが、聞き終わる頃には顔色を悪くさせ「大丈夫なのか?」と、不安気に返す。この質問の意図が、勝てるのか? ではなく、そんなことをしていいのか? という迷いであることを承知の上、力強く頷いた。

 

「最初から二対一のハンデを背負ってるんだから、戦略を練るのは基本なの」

「まあ……確かに」

 

 簡単に言いくるめられるシュライグを見つめ、キットは口喧嘩での勝利を確信する。さすがは、口論では負けなしのフェリジットの妹といったところか。

 

「でも……いや、やっぱりそんな汚い手なんて」

 

 いつもの決断の速さは何処へやら。踏ん切りつかず、でもでもだってのシュライグに──キットもとうとう付き合いきれなくなった。資料の両端を持ち曲げる。

 

「シュライグの強くなりたいって気持ちは、そんなもんなんだ!」

 

 紙の裂ける音に、弾かれたように手を伸ばす。しかし、傷が痛むのか伸ばした手は資料を奪う前に寝台から落ち床に叩きつけられる。無様にも崩れ落ちた彼を心配するでもなく、キットは冷たく言い放ちながら引き裂く手を止めない。

 

「結局アルベルのこともどうでもいいんだ」

「そうじゃない……そうじゃない、けど」

 

 本当に言いたいことが喉につっかえて出てこない。その間にもキットの手は止まない。わざわざ見なくても分かる。資料は既に無惨なことになっている。動かない体を情けなく思い歯を食いしばるが、腹の中で鉛が擦れ合うような鈍い痛みが響くだけ。

 

「──キット……もう、止めてくれ」

 

 なんでもするから──浅く呼吸を繰り返すのは、傷が痛むからだけではない。弱々しく、吐息のように呟かれた声に僅かな嗚咽を孕ませる。

 罪悪感──より先駆けて、勝った! とさえ、優越感。

 泣かせてしまったことなどどうでもよくて、キットは交渉に勝った高揚感に場違いにも酔う。

 

「じゃあ、シュライグはワタシの言う通りちゃんと喧嘩に勝ってね」

 

 はいこれ! 無邪気な笑みで差し出された資料には、握り締めた後の皺が残っているものの、破れてはいない。「えっ?」と、硬直する彼の視界に入るよう、キットはビリビリに破いた表紙を見せつけた。

 

「だって、ワタシも気になるんだもん!」

 

 そう、つまりこれは──シュライグに言うことを聞かせるだけの芝居。見事彼の覚悟も思いも上手く手のひらで転がされたのだ。

 

「アルベルならきっとこうする」

 

 実に狡猾な──アルベルに影響されたと言われてストンと納得できてしまうのは、彼と一番長く時間を共にしていたから。確かに、アルベルなら上手いこと悪役を演じてシュライグの感情を揺さぶってくる。まさかキットにまで上手く使われてしまうとは、己の騙されやすさに落ち込んだ。

 

「シュライグ、一緒に読もう」

 

 今度は計算ではなく、純粋無垢な笑みを浮かべて隣に腰を下ろす。まるで絵本でも開くかのように、堆く積まれた屍を捲った。

 少しずつ、喧嘩の日は迫っていた。一日の大半を寝て過ごしていたシュライグも、約束の一週間前には手を借りなくとも身の回りのことはできるくらいに回復した。フラクトールのドクターストップを無視して、キットと共に裏工作のため夜な夜な出掛けていたのは内緒だが。

 そして当日──今日に至るまであっという間だったと、決闘を控えておきながら気の抜けた欠伸をし、隈の残る目元を擦る。一睡もできなかった──楽しみだとか不安だとかそういうのとは別に、例の作戦の仕上げのため追い込んだからだ。だってそうだろう──鳥は穴を掘るのが苦手なんだから。

 

「準備はいいか?」

 

 真昼の陽光とその照り返しで灼熱と化した丘──いつも組手で使う場所。決闘するに相応しくなく今日は一段と暑い日で、蜃気楼さえ見えるほど。滝のように流れる汗を拭い、ルガルは牙を見せて唸る。その隣、フェリジットが汗ばんだ拳を打ち鳴らした。

 

「大丈夫だろうか……」

「瞬殺だろ」

 

 立ち会いに訪れたフラクトールとサルガスが、前者は不安気な面持ちで、後者はつまらなそうに欠伸を混じえ、向かい合う三人を見つめる。

 

「大丈夫だよ」

 

 怪我だけはしてくれるなと、祈るように拳を握り締めるフラクトールの隣、キットが淡々と呟いた。「だって、シュライグだから」それはどういう意味だ? と、首を傾げる二人を他所に、戦いの火蓋が切って落とされる。

 

「悪いね、シュライグ! アタシらに喧嘩売ったのがそもそも間違いだったね!」

 

 これは組手とはわけが違う。二対一、卑怯も同意の上で決闘を言い渡したのはシュライグだ。その生意気な口が大人しくなるなら、大人気なくとも叩き伏せる。一気に駆け出したフェリジットに出遅れることなく、ルガルも地を蹴った。

 この時点で勝敗は決まった──シュライグが知恵を回せるはずないという油断さえ無ければ、結末は変わっていただろうに。

 

「ぎにゃっ!?」

「うおっ!?」

 

 迫り来る二人の拳が、突如沈んだ。立ち会っていた二人は突然の出来事に目を見開き、思わずと丘に生まれた穴に駆け寄る。

 

「……やられたね、二人とも」

 

 フラクトールが穴を覗き、咳き込み鼻をつまんで一言。これは酷いと、気が遠くなる悪臭に口元を引き攣らせた。

 

「サルガス、アンタさてはシュライグに手を貸したわね!」

「し、してねぇよ!」

「しらばっくれんな! アンタがシュライグに頼まれて粘土用意してたのは知ってんだから!」

「だから、ホントに知らねぇってば!」

 

 サルガスが粘土を用意したのは本当だ。シュライグに頼まれたのもそう。だが、まさか落とし穴に使われるとは彼も予想外で──今まで通り、キットと遊ぶ為に使うのだろうと決めつけていたのが、思わぬ形で飛び火しようとは。

 

「でも、これはまた見事な策だね」

 

 二人が出られないように水を含んだ粘土で足止めしつつ、堆肥用の生ゴミも加えて精神的に追い詰める──仕組みは単純だが、よく考えられている。二人が油断することも計算に入れて仕組んだ巧妙な罠だと、フラクトールは感心する。

 

「退いてくれフェリジット……重いし臭い」

 

 穴に充満する腐臭と汗臭いフェリジットの下敷きになり──「吐きそうだ」と、嘔吐くルガルにフェリジットが(まなじり)を上げた。

 

「誰が重くて臭いって? もう一回言ってみなさいよ!」

「やめろ、マジで吐きそうなんだって!」

 

 女性に重いも臭いも禁句である──口を滑らせたのは、相手が気心知れた人物だからかはたまたそこまで考える余裕がルガルに無かったからか。胸ぐらを掴んで揺さぶる姿に、ああ可哀想にとフラクトールは哀れみの眼差しを投げつつ手を差し伸べることない。そろそろ助けてあげたら? と、言わんばかりの視線を元凶に投げた。

 

「二人が負けを認めたら助けてやる」

「ふざけんじゃないわよ! こんなの無効試合よ!」

「でも、落とし穴を使っては駄目なんてルールは無い」

 

 痛む良心を上回り、二人を相手に勝てたことがよほど嬉しいのか──シュライグは顔に出さずとも楽しそうな様子で、揶揄うように告げる。

 フェリジットは額に青筋を浮かべながらも、爆発しそうな怒りをすんでのところ飲み込み、僅かに残った冷静さをフル活動させる。

 サルガスとキットは体格的に助け出せない。フラクトールは同情するだけで、行動する気も無さそうだ。助けてくれと頼んだところで、のらりくらりと躱しそうではある。ルガルを踏み台にすることも考えたが、今の彼はフェリジットが乗った衝撃でゲロ吐くだろう。

 灼熱と腐臭の蜃気楼に、さすがの彼女も我慢の限界であった。待っていたところで強情なシュライグが考えを曲げぬのは、長い付き合いで嫌というほどに分からされた。

 

「負けたわ」

 

 組手じゃ一度として負けたこと無かったが、まさかこんな狡賢い策に落とされるなんて──彼我の差を見極めて、無い知恵を振り絞ったのだろう。そこを認めてやらないのは可哀想だと、容赦無い堆肥入り落とし穴が妹の入れ知恵とは露知らず敗北を受け入れた。

 この時、ほんの微かに彼が笑ったのを刹那の視界に掠めた──

 

 ──強く、なりたいんだ。

 

 確固たる信念の光を宿し力強く告げられた告白に、ルガルとフェリジットは約束通り物申したいことは沢山あれど受け入れた。その為に必要なものがあるんだと、先ず鉄を集め始めた。それをキットが生命を吹き込むように新しい形へと変える。目標を見つけた二人は、ルガルとフェリジットの目にはまるで幼い頃の言動を思い出す程に輝いて見えた──

 けれど、決して忘れてはならない。それらは全て枢機卿が積み上げた屍の山に手を出す禁忌。強さへの切望は義翼に、それは翼の形をした死者への冒涜。生者が背負うに枢機卿の罪はあまりに重く、幾度と血を吐き地に叩き付けられ苦しみのあまり喉が切れるまで叫んだ末に自分の物とした。

 誰かを守れる強さが欲しい──その切ない願いを踏み躙るかのように身を蝕む亡霊達の呪いは、季節の巡りを幾度迎えようが、決して解き放たれることはない。戦乱が終わるまでか、あるいは一生、その身を執念が焼き続けるだろう。終わり無き苦痛は、見る者によっては極刑よりも惨い──

 

 この生き地獄に終わりは見えねども、逃げてはいけない──

 

 ガリッ、奥歯の上で甘味と苦味が歪に溶け合い口の中に広がる。

 早く楽にしてくれと祈るような気持ちで喉を鳴らして飲み込んだ。悲鳴を上げる心臓に合わせ嫌に早く血が巡る。痛覚を直接炙られるようなはたまたは凍らされてしまうような──相反する二つの暴れるような熱の正体は、義翼だ。中途半端に身体が丈夫なのも考えものだと、いっそ気でも失いたい。強靱な精神力を以てしても耐え難い激痛が、亡霊の叫びを伴い気を狂わせる。

 

「もっと効き目のあるのを出そうかい?」

 

 全くの無表情でドロップと鎮痛剤を噛み砕くシュライグを一瞥し、フラクトールは薬品棚から瓶を取る。ポンっと、場違いにも軽快な音を立てて開いたそれに、けれどシュライグは首を横に振った。

 

「俺よりも必要としている仲間がいる」

 

 毅然と言い放つ彼 に「そうかい」と、フラクトールも深追いせず蓋を閉めた。明日の進軍に悪影響を及ぼすと思ったら、また医務室の扉を叩くだろう。もしくは、見兼ねたルガルがこっそり気を回すか。どちらであっても大差は無い。

 たまに、よく、頻回に──なんでもないような顔でシュライグはふらっと医務室に立ち寄る。義翼が痛むからだ。人の身に余るものだと言わんばかりに、怪我をしたわけでもないのに耐え難い痛みを常に科す。「罪人の俺に相応しい拷問だな」いつだったか、平気を装う苦し気な表情に脂汗を滲ませ弱音を吐いた姿が、フラクトールの瞼の裏に焼き付いている。キットとシュライグの頼みだからと義翼の処置を施したが──その選択は間違いだったのだろうかと、今なお苦しまされる姿を見て後悔に駆られるのは、彼には秘密だ。

 

「フラクトールさん!」

 

 慌ただしく扉が開け放たれた。急患かと、二人が身構えた。椅子を倒さんばかりに立ち上がり、息を切らせるキットを穴が開かんばかりに凝視する。

 

「ナーベルが……ナーベルが!」

 

 煤だらけの顔を拭うことなく、彼女は目に涙を浮かべて振り向いた。彼女と手を繋いだ──というよりは、掴まれたという表現が的確か。少し気恥しそうにナーベルが顔を伏せ「キットは一々大袈裟なんすよ」と、呆れをため息に乗せる。目立った外傷は無さそうだった。

 聞けば始まりはベアブルムの補修だという。一人で作業をするには難しいからと、ナーベルを誘ってもとい巻き込んで。その際脚立が倒れキットが落ちたのだが、ナーベルを下敷きに本人は無事と。だが、ナーベルの方はそれで翼を痛めたのだという。

 

「別に痛くないし、平気っす」

 

 だから泣くなと、この時ばかりはナーベルも少し大人びた態度でキットを慰める。怪我をしたというわりにケロッとしているので、痛くないのは本当なのだろう。尤も、後になって泣きを見る可能性も無きにしも非ずだが。

 

「唾付けてりゃ治るんすよ」

 

 軽い調子で告げる彼に、フラクトールは「侮ったらいけないよ」と、戒めるように表情を険しくさせる。いつになくおっかない表情のフラクトールを前に肩を竦めるナーベル。そんな彼の背後を取り、シュライグが翼に手を掛けた。

 

「いだだだだだだっ!?」

 

 突然、矢庭に、前触れも無く──シュライグが付け根をぐりっと押したのである。

 

「痛覚は無事のようだ」

「そりゃ無理に動かされたら痛いに決まってるでしょうが!」

 

 いつまで押してるんだと、手を払い除け威嚇する。ナーベルに睨まれたところでと、シュライグは特に恐れるでもなく一言「すまなかった」と、本当に悪気を感じているのか分からない無表情で謝った。

 

「付け根が腫れている。固定した方がいい」

 

 不幸中の幸いか、折れてはいない。淡々とフラクトールの名前を呼べば、彼は意図を汲み包帯を投げ渡した。

 

「奥の処置室を使いなさい」

 

 言われるがまま、機嫌を損ねたままのナーベルの手を引いた。

 処置室に入るのは初であったと、ナーベルは濃い血と消毒液の臭いに身震いする。戦場に出て怪我をすることはあれど、思えば全て診察ついでの処置で済むほどの軽いものだったと気付く。ああ、この臭いは生死を彷徨った者が嗅ぐもので、自分にはまだ早い場所なんだと本能が忌避する。

 ナーベルは言われるがまま丸椅子に座り、服を脱いだ。室温は医務室と同じなはずなのに、不思議なことにひんやりと空気が冷たく感じられ、身震いする。処置室というよりは、遺体安置所に来てしまった気分だ。

 処置はさほど時間も掛けずに終わった。患部が動かないように固定するだけとはいえ、その手際の良さにナーベルは驚く。この人不器用じゃなかったっけ? と、首を傾げれば、言葉にしなくとも言いたいことが伝わったらしい。シュライグは気恥しそうに告げた。

 

「あまり知られたくなかったんだが、ルガルが中々前線に出してくれなくてな……衛生兵の真似事ばかりしていた」

 

 ああ、なるどね。つっかえも無く納得できてしまえたのは、シュライグに接するルガルの態度に思うところがあったからだ。その正体は、垣間見える過保護。鬱陶しがられているくせに懲りないなと、傍から見てちょっとばかし失望したのは内緒だ。

 道具を片付ける傍ら、ふとナーベルの視界を義翼が掠めた。思えば、あれの仕組みはどうなっているのだろうか。別に羽なしに憧れているわけではないのだが、鉄の翼はナーベルの目には楽そうに映った。

 それが翼の形をしただけの死者への冒涜だとは露知らず、無知ゆえにこんな酷い言葉が口を衝いた。

 

「リーダーはいいっすよね。その羽なら怪我しても痛くないし、すぐに直せるんすから」

 

 血が巡っているわけでも、神経があるわけでもない。壊れたらキットに頼んで直してもらえばいい。リハビリだって必要ない。なんて便利で都合のいいものなんだろう。だからとて、羽なしになるのは御免だが。

 

「…………そうだな」

 

 きっとこの場に、ルガルやフェリジットがいたなら、シュライグが泣いたことに気付いただろう。彼は感情が顔に出ない代わりに、息継ぎ、声色、視線──所作に現れる。流せる涙はとうの昔に枯れ果てたけど、心が嗚咽を漏らした。

 

「……俺は、お前が羨ましいよ」

 

 言葉を飾ればそれは憧憬。飾らなければ嫉妬とも言う。

 不自由の無い翼。後ろめたさも無く帰ることのできる故郷。出迎えてくれる母──

 対して自分にあるものはなんだ? 頑丈だが、時に気を失うほどの痛みと足が潰れそうになるほどに重い、罪の翼。差別と憫笑の故郷。生き別れたまま死んでしまった母──

 シュライグがどれだけ望んでも手に入れられないものを当たり前のように、持っている──

 暗く低い声で、何かを罵るような羨望の呟きは、けれど幸か不幸かナーベルの耳に入ることなく、死に近い部屋の沈黙に溶け合う。

 

「ナーベル、手を出してくれ」

 

 一呼吸で胸の奥底に真っ黒な感情を仕舞った。駄々を捏ねても叶えてくれる仮面の少年はもういない。凪のように心を落ち着け、否殺して──怪訝そうに振り向いた彼の手に、彩りを載せた。

 

「痛いのを我慢したご褒美だ」

 

 ドロップを数個、大小様々な傷の残る手のひらを華やかに見せる甘い砂糖菓子。

 大好物だった──大好物だけども!

 

「アンタは、オレを何歳だと思ってんすか!」

 

 予想外に子ども扱いされてしまい、すっかり臍を曲げてしまったらしい。そのつっけんどんな言動がなおのこと幼さを強調しているとは自覚せず、ぷりぷりと怒りながら処置室を出て行った。

 まるで嵐だ──ナーベルが出て行き、また沈黙が戻る。死神でも居座っているんじゃないかという気味の悪い淀んだ空気に、身も心も鬱屈と潰れるように床に座り込んだ。

 

「こんなものを背負うのは、俺だけでいい……」

 

 今日はあまりに多くの仲間を失い過ぎた──過去の亡霊に混ざり、戦場で散った仲間の慟哭が聞こえる。こんなもの、罪悪感が見せる虚構だ。義翼の痛みと同じ、幻覚。耳を塞いでも意味は無く、存在しない者の声が鼓膜に張り付く。いつにも増して義翼が痛い、重い──

 

「シュライグ?」

 

 死人の濁声に、鈴が転がるような可愛らしい声が耳に混ざる。閉じていた瞼を薄ら開け、視界の隅に小さな靴を捉えた。

 

「……キット」

 

 いつまで経っても出て来ないシュライグを心配して迎えに来てくれたのだ。

 今は一人にしてくれないか。そう伝えるよりも早く、彼女は何も言わずシュライグの隣に腰を下ろした。

 

「何があっても、ワタシはシュライグの味方だよ」

 

 「仲直りの時に、そう約束したでしょ?」鬱屈とした空気を吹き飛ばすような、そんな無邪気な笑みで小指を立てる。色褪せた思い出の一つが、鮮明に目の前に浮かび上がった。

 

「一人じゃ重くても、二人なら軽くなるよ。アルベルもいたら三人で、無敵だね」

 

 ──手に入らないものも沢山あるけれど、守りたい大切な仲間は傍にいる。

 

「ありがとう……キット」

 

 差し出された小指に己の指を絡めた瞬間、温もりが折れかけた心に火が灯す。

 仲間を守れるなら、俺はまだ戦える。痛みも重みもまだ踏ん張れそうだ──

 

 

 

 



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Episodeナーベル 前編

 

 ──やっと、ここまで辿り着けたと誰かが泣いた。

 

 背教者を拒む冷酷無慈悲の外壁は、閉ざされた北の最果て。薄ら雲が霞み、陽光に照らされる雪が照り返し、一層白い壁が際立った。清廉と荘厳を糾うかの教義に則りこの地に穢れは無く、思想の自由も無く、聖痕を持たぬ者への慈悲も無く──邪教徒はこの穢れなき地を踏むなと、凍てつかせた風の波乱が身を刺した。

 

 教導国家ドラグマ──

 

 同士はあの者達を悪魔だと恐れ、同士は指導者を独裁者と罵り、同士はこの地を死と悲しみを呼ぶ終焉と嘆く。

 

「行こう」

 

 決戦の地は目と鼻の先だと、恐れも怒りも悲しみさえも追いやった玲瓏にして冷淡な声が、厳かな寒気に負けず前へ出た。

 鉄獣戦線(トライブリゲード)を率いる鉄の翼、羽なしの事実さえも覆す統率のカリスマにして厄災の武人、誰が呼んだかその名は凶鳥──

 

「この戦いの目的はあくまで捕虜の奪還。一般市民を巻き込むな。俺達の戦いは、侵略のためではないことを決して忘れるな!」

 

 これは奪うための戦いではない。戦場で生まれる全ての悲劇に幕を下ろすための、終戦へ導くため戦い。

 何も奪うな、無辜の民を殺すな──シュライグの掲げた思想は、己が虐げられた弱者であったからこそ出せる、せめてもの情けと優しさだ。力無き者に敵も味方もない、あるのは平等に平和を望む切ない願いではなかろうか。

 

「撃鉄を起こせ! 同士達よ、奪われた仲間を取り戻せ!」

 

 これは開幕の序章──閉ざされし大地の歴史に名を刻む、烙印の揺籃。

 鉄獣戦線の始まりは、たった三人の獣人だった。無知だった少年は精悍な青年へと成長し、贖罪のため、悲劇を終わらせるため、大切なものを守るため──抗争を続ける部族に檄を飛ばし、種族を超えドラグマの抵抗組織として義勇兵を募り、占領された地を解放していった。

 ただ、今回は今までの戦いとはわけが違う──ドラグマの首都を叩く。敵の牙城故に、戦いは苛烈を極めるだろう。だからとて、それを理由に逃げる者は組織にいない──見せしめに処刑される仲間を見るのは、もう沢山だ。

 

「牛の部隊は北へ迎え! 物流拠点を叩き、兵站線を断て! 狼の部隊は馬の部隊が砲台を制圧次第、騎士団本部に掛かれ!」

 

 通信機を介して一通りの指示を出し終え、シュライグは街全体を俯瞰する。

 ここまでの戦況は、読み通り──否、それ以上の成果か。壊滅した部隊どころか被害は最小限に抑え、敵の援軍をありとあらゆる形で妨害する策も打った。消耗戦に持ち込めば、自ずと勝機が見えてくるだろう。

 

「順調っすね、リーダー!」

 

 「案外楽勝じゃないっすか!」と、ご機嫌に告げたのは、補佐官として連れているナーベルだ。彼は時針に座り、戦場に立つ自覚も欠けつまらなそうに欠伸をした。

 この街で一番高い建築物が教会だとすれば、二番目は時計塔。そこを物見櫓代わりに、シュライグは市街全土を把握し、指示を出す。空を飛べるという鳥故の利点に加え、戦況を見通す慧眼は敵味方問わず犠牲を最小限に抑える策を齎す。用兵、戦術眼──そのどちらにも長けているシュライグだからこそ為せる作戦であった。

 

「気を抜くな、ナーベル。いつでも応戦できる準備をしておけ」

「はいはい、心配性っすよね。リーダーは」

 

 もう既に作戦が成功した気でいるのか、彼は渋々と愛銃を出す。どうせ用意したところで出番なんて無いのにと、隠しもせずため息を吐いた。

 今作戦は今までとは違い、シュライグは最前線に出ない。というのも、首都ではどう足掻いても敵陣営の方が上手。地の利の無さをカバーするため、街全土を見渡せる位置で司令塔として指揮を出すのが犠牲を最小限に抑えられるという結論に至ったからだ。逆を言えば、指揮官が潰れればこの作戦は忽ち崩壊する。シュライグは将でありながら隠密行動のため部隊は連れず、補佐としてナーベルただ一人を傍に置くというリスクの高い行動を取ったのだ。

 僥倖なことに、戦況は鉄獣戦線が押している。奇襲が幸をなしたのか、はたまたはシュライグの綿密な策が嵌ったのか。雪がちらちらと降り見える景色に霞を掛けるものの、行軍に支障をきたす猛吹雪ではない。

 その須臾、空気が震撼した──風も無く気流の穏やかな空模様で、瞬きほどの短い時の流れで雪が散ったのだ。

 陽光の霞む曇り空、切り裂く閃光を捉えた。

 本能が叫ぶ、逃げろ! と。だが、撤退の指示を出す間も与えぬ刹那の閃光が時計塔を駆け抜けた。

 

「ナーベル!」

 

 咄嗟に脇に抱え時針を蹴る。休む間もなく時計塔が下から崩れ、ドラグマの芸術的街並みに一つ瓦礫の山を築く。今更のように雷鳴が轟いた。

 

「えっ? ……えっ!?」

『シュライグ、無事か!』

 

 ナーベルの戸惑いと、通信機を介したルガルの声と、崩れる轟音。大小様々な声が雑音を伴い鼓膜を叩く。一つ確かなことがあるとすれば、それはシュライグの策を見破り奇襲を仕掛けた"敵"がいること──

 

「すまない、皆! 気付かれた!」

 

 敵戦力の殲滅の為ならば芸術さえも武器に倒壊する時計塔、降り注ぐ瓦礫は殺意の雨、動揺に動けぬナーベルを庇い、容赦無くシュライグの身を穿つ。

 作戦は失敗か──捕虜を見捨て撤退する? 戦場の同士を選ぶか奪われた仲間を選ぶか、究極の選択を短い時間の中迫られる。

 そんなシュライグの刹那の迷いさえ隙とばかり、重力に逆らい駆け上がる雷光を見つける。文字通り光の速さ、崩れる瓦礫を足場にしているのだ。

 なんだあれは!? シュライグは目を剥いた。あれが、翼を持たぬましてや獣人でもない者の動きか? まだ戦争のために開発された生物兵器とでも言われた方が信じられる。それほどまでに、あの白銀の鎧を纏う雷光は常軌を逸した身体能力であった。

 

「ぐっ!?」

 

 咄嗟にナーベルを落とし、空中での回し蹴りを腕を盾に身を守る。その一撃は、まるで戦車を相手にするかのように重く、シュライグの屈強な肉体にさえミシリと嫌な悲鳴を骨に与える。たった一撃で収まるものでもなく、もはや瞬きさえも命取り取りだとばかり襟首を捕まれ、鳩尾に膝蹴りを叩き込まれた。

 

「リーダー!」

 

 咳き込む音に我に返ったナーベルが、ようやく銃を構えた。殺気も隠せていない、そもそも人に向けて撃つにまだ迷いさえある弾丸は、精々威嚇程度に騎士を剥がす。

 瓦礫を足場にする身体能力はあれど、さすがに空を飛ぶまではできない。常人なら足を砕かれるだろう高さに怯むことなく、騎士は建物の外壁に剣を突き立てることで落下の勢いを殺し、地に降りた。

 

「や、やばいっす……」

 

 戦場に出たことは数あれど、あれは別格だとナーベルにも理解できた。

 シュライグが弱いわけではない、あの騎士が強過ぎる。いくら鉄獣戦線が束になって掛かろうと、あれに挑むこと自体が赤子と竜が戦うに同義。

 ならば撤退一択だが、竜に目を付けられた赤子が果たして逃げられるか? 火を見るより明らかだ。狩られる一択である。

 空中を制する鳥の部族が唯一勝てないもの──それは天候だ。いくら身体を鍛えようとも、嵐の中飛ぶことはできない。何よりも、恐れるのが──

 

「ひいいいいいっ!?」

 

 ──雷だ。

 地上から天に向かい放たれた雷撃は幾重にも先が枝分かれし、檻となり二人の逃げ場を奪う。忽ち彼らは、退路を断たれ援軍も期待できない、加えて相手は竜をも超える武人──否、武神。最悪の形で孤立したと言ってもいい。

 

「ぎゃっ!?」

「ナーベル!」

 

 刹那の油断が死を招く──窮地は幾度となく経験した。瀕死に陥ったこともある。だが、二人の経験を嘲笑うように罵るように、目の前の敵はあまりに強過ぎた。

 雷撃がナーベルの羽を掠めた──致命傷には至らなかったものの、焼け焦げた羽は風を受け止めることなく、いくら羽ばたけど無情にも落ちていく。

 

「全軍に告ぐ、撤退しろ! 誰一人として死ぬな!」

 

 重力に従い落ちるナーベルを追い、加速する。その傍らで通信機に向け最後になるかもしれない下知を飛ばす。すかさずフェリジットやルガルの怒号が返ってくるも、ここからは話しながら戦う余裕は無い。生きるか死ぬか──奇跡でも起きない限り、勝てる見込みなど存在しない。もはや立ち向かうこと自体が、仲間を逃がす為の囮として死を選ぶ選択。

 間一髪叩きつけられる直前でナーベルの手を取った。その間撃ち落とすことなど容易いだろうに、騎士はあえてそうせず──まるで、一騎打ちを待ち望んでいたかのように、シュライグが降りるのを見届け剣を構えた。

 

「地の利が無い獣人が、迷うことなく目標地点に辿り着く方法は限られる」

 

 緩やかに真剣味を帯びた声は、どことなく懐かしさを感じさせる。低く、高潔な女の声だ。餞別のつもりか、答え合わせのように彼女は言葉を続けた──

 

「工作員を送り込んでいたのだろうが、それにしてはあまりに淀みが無さ過ぎた。それこそ、未来でも見通すかあるいは街全土を監視するか。獣人なら、後者は苦でもない。身を隠せる高い場所、それは時計塔か教会か」

 

 灯台もと暗しなんて言葉はあれど、総本山である教会に単身乗り込むのはあまりにリスクが高過ぎる。であれば、選択肢は一つ。

 

「下手を打ったな。私が指揮官であったなら、陽動部隊に住民街を襲うよう指示する!」

 

 漲る闘志に突き動かされるように駆け出した。前触れの無い突進に、けれどいつ攻撃されてもおかしくないと警戒していたシュライグは、振り下ろされた剣を愛銃を盾に防ぐ。武器の擦れ合う瞬間に散る火花、切り結ぶ二つの視線に研ぎ澄まされた刃の光が宿る。凍てついた冬の戦場さえ塗り替えるほどに熱い激闘。

 

「一つ、訊きたい」

 

 白熱を裂いて、抑揚の無い声がシュライグの耳に届いた。冬の鋭い風に溶けてしまいそうな、氷のように冷たい声。

 

「陽動部隊を用意しなかったのはわざとだな。迷ったからか? 人を殺すのは恐ろしいか?」

 

 剣戟が止む──戦場に一時の空白を作るべく、彼女は距離を取る。この猶予はほんの気まぐれか。彼我の差を見せつけるように、女は息一つ乱すことない。対してシュライグは、息急きながら額の汗を拭う。口からは絶えず白い呼気が細く吐き出されるばかり。

 

「──無辜の民を戦争に巻き込まないためだ」

 

 迷わずと出された言葉、彼女は興味深そうに纏う雰囲気を和らげた──とはいえ、ここは戦場。決して気を緩めたわけではなく、シュライグの意見に耳を傾けつつ返答によっては首を落とすことも辞さないと、穏やかな雰囲気の中に明確な殺意を溶け込ませる。

 

「人が死ねば、復讐が生まれる──戦争が生むのは悲しみと憎しみだ! 俺達の戦いは、大切な誰かを守るため、奪われないため、悲劇を終わらせるためにある!」

「それが例え敵であろうとも、市民を殺していい理由にならないと?」

「大切なものを守りたい心に、敵も味方も無い。アンタにもあるはずだ、守りたいものが!」

 

 守りたいもの──その一言に、沁みるような沈黙の中、深く深く震えるような吐息を漏らす。

 

「──それで同情を買ったつもりか?」

 

 刹那にして研ぎ澄まされる気──ほんの僅かに見せた動揺さえもはや罠と言わんばかりに、彼女はたった一歩で距離を詰めた。

 

「理想は何も生まない──誰も傷つかない世界など、所詮まやかしだ!」

 

 目を覚ますように繰り出された女の拳は、仮面を掴み歪な音を立て砕いた。顕になった素顔、仮面が無ければ潰されていたのは己の頭であった。

 さりとて、シュライグもやられてばかりでは凶鳥の名が廃る。鉄獣戦線を率いる頭目であるが故のプライドか、反撃とばかり彼は愛銃を振り上げそれを鈍器にヘルムを殴った。

 氷が砕け散るように、頭を覆う甲冑は青白い光を伴って雪に落ちる。

 

「──っ!」

 

 ここが戦場であることも忘れ、時を止めた。雪の白さに映える紫は、懐かしい記憶を掘り起こす。砕け散った心に染み渡る優しさと、切ない願いと──別離の悲しみを乗り越え、長い長い時の流れに置いていかれた、憧憬。手から力が抜ける。武器を落としたことさえも気付けぬまま、幼いままの心が叫んだ。

 

「フルルドリス!」

 

 決して色褪せぬ思い出──記憶の中の少女は、今や戦場に立つ騎士。無意識だった──優しさを求めたのは。また、あの時のように笑って、同じ時を過ごして──"友"として、彼女の隣に立ちたかった。

 

「──リーダーっ!?」

 

 ──所詮、過去など歴史の通過点に過ぎぬのだと、戦場で武器を捨てた愚か者に向け身と心を切り裂いた。

 

「フルル……ドリ、ス……?」

 

 どうっ、と重いものが落ちた。真っ白な雪に埋もれ、命の雫が赤く滲み出る。戦場で嗅ぎ慣れた死に近い臭いに、ナーベルは己の心が急激に冷えていく嫌な感覚を抱いた。武器を構えることも忘れ──否、そんなことをすれば殺されてしまう。ただ立ち尽くし、何もせず、潜めるように息をすることだけが、唯一彼に許された行為。

 

「もう……あの頃には戻れないんだ、シュライグ」

 

 別離は、彼女から幼さを奪い優しさを奪い──そして残ったのは、凍てついたドラグマの教示。

 約束を交わしたかつての聖女は、今となっては過去を切り捨てる無慈悲な騎士として成長した。

 傍観者ナーベルは、以降のことを朧気にしか記憶していない。囲まれ、武器を取られ、連行され──冷たい地下牢にぶち込まれてやっと、捕虜になったと実感する。ああ、捕まるって思ったより不安で居心地の悪いものなんだな。石畳の上でペタンと腰を下ろし、淀んだ空気に引き摺り込まれるようにどんよりと身も心も重くなる。

 

「……リーダー」

 

 うぅ、うぅ、と繰り返される濁声。治療さえされず石畳に投げ捨てられた体は、辛うじて目を開けてはいるが茫洋と部屋の暗がりを映すだけだ。

 

「あ、あの! せめて応急処置だけでもさせてくださいっす!」

 

 ただ死を待つだけの時間──手が届くのに、何もできないのがもどかしい。包帯なんて贅沢は言わない。止血さえできるなら、汚れていようが布が手に入ればいい。

 だが、鉄格子の向こう看守は凪いだ瞳で檻の中を一瞥した。獣人の命に重きを置かない、もはや苦しみもがいて尽きる命の瞬間を今か今かと待つような。何も手を下さず、残酷な方法で死ねと言う。

 

「そんな……」

 

 無力だ──あの時、言われた通り警戒を怠らなければ結果は変わったかもしれないが、それももう後の祭り。このままでは、シュライグの命は精々一刻だ。

 

「ナーベル……無事か?」

 

 己の身も顧みれぬ、もはや病的なまでの他人への配慮。今にも死にそうな白い顔をして、そのくせ全くと弱音を吐かぬ姿に、ナーベルはついと声を荒らげた。

 

「喋らないでください! アンタ、死にたいんですか!」

「…………死か」

 

 「死ぬのは、怖いな……」当たり前のことを今更自覚したかのような、気の抜けた独白。いつからだろうか──己の死から目を背け、誰かの死を異様に恐れるようになったのは。

 

「思い出した……ナーベル、俺はお前と会ったことがある」

「ふへ?」

 

 何のことっすか? と、今このタイミングで場違いな告白を受け、つい間抜けな面を晒し首を傾げる。彼は息も絶え絶えに独り言のように続けた。

 

「そうか……お前の戦う理由は、母親を守るためか」

「ち、違うっすよ! いや、違わないっすけど……でも、オレは父ちゃんが死んで悲しくて、許せなくてそれで──」

「なら……恨むべき敵はドラグマではない」

 

 言葉も途中に遮り、ナーベルの覚悟を否定する。敵はドラグマではないと、別にいるのだと彼は深い意味を込めて、重々しく言葉を続けた──それが、ナーベルの覚悟を嘲笑い矜恃を傷付ける告白になろうと、この罪は己が背負うべきものととうの昔に覚悟していたからか、今更恨みを買うことに何の躊躇いもない。

 

「お前の父を殺したのは──俺だ」

 

 打ち明けられた真実に、沁みるよう沈黙が落ちる。隙間風の音さえどこか遠い。

 ああ、打ち震えるように息を吐いてナーベルは俯いた。シュライグが日頃から冗談を言うような人物であったなら、彼も適当に濁して、はいはい。と、真面目に受け取ることなく軽く流していただろう。

 シュライグとて、この件に関しては墓場まで持っていくつもりはなかった──いつか、戦いの終わりに目処が着いたら告白しようとずっとずっと、胸に抱えていた秘密にして歴史の隠された真実。打ち明けたのは、己の死期というものを察したから──ナーベルは、知らなければよかったと後悔するだろう。だが、このまま真実が闇の中に屠り去られ、鉄獣戦線の頭目はドラグマの支配に抗い続けた英雄と脚色されてしまう方が、罪を背負うシュライグにとって何よりも怖く許せないことだった。

 

「十年をも超える戦争も、鳥の部族が恨まれるのも、全ては俺が齎した」

「こんな時に冗談キツいっす! ふざけるのもいい加減に──」

「事実だ」

 

 カツンと、地下牢に鈍く響く靴音。玲瓏たる女の声が、ナーベルの主張を否定する。声の方を振り返れば、二人を牢へぶち込んだ元凶たる紫の騎士が立っていた。

 彼女は看守に席を外すよう命令し、檻の前に立った。雪解けを知らぬ氷のような眼差し──呼吸さえ凍てついてしまいそうな、生物として最も当たり前な現象さえも許さぬ厳格な佇まい。

 

「久しぶりだな、シュライグ」

 

 と、彼女は震え上がるナーベルを全くと眼中に入れず、死にかけのシュライグに向け語りかける。知己に会ったにしては、酷く冷淡な態度だ。

 

(ドラグマの騎士と、リーダーは……知り合い?)

 

 口振りを見るに、その繋がりは昔からのようで──敵対戦力との面識に、不信感を抱く。

 堂々と鍵を開け、牢に入る。不用心にも鍵どころか扉も閉めず、かといって逃げようと考えないのは、動いたら最後、ナーベルの生涯はここで閉じると本能的に理解してだ。

 

「酷い有様だな」

 

 袈裟懸けに斬りつけられた傷から、全くと血が止まる様子はない。当たり前か、この傷はドラグマに代々伝わる神器が齎したもの。確実な死に追いやらんと傷の治りが遅くなるのも当然である。

 徐に服を引き千切った。顕になった傷を指先でなぞり、そっと羽のように軽く手のひらを押し付けた。

 

「う、ぐっああああっ!」

 

 柔い手つきとは逆に、放たれた電流が容赦無く傷口を焼いた。息を吹き返すどころか死にかけのところ追い討ちを掛けるような──か細い呼吸を繰り返していたはずの唇から、咆哮のような悲鳴が迸る。

 やめてくれ、そんなことをすれば本当に死んでしまう──訴えることさえ臆病者のナーベルは声にできず、目を背けることも忘れ悶え苦しむ姿を見つめるしかできなかった。

 

「これで明日までは持つだろう」

 

 時間としては数秒にも満たないはずが、まるで永遠のようだったとナーベルは口元を覆った。知らず目に涙を貯めていたのだと頬伝う一雫で自覚する。

 血は止まっていた──否、傷口を焼き強引に止血したのだと、巨大ミミズが這ったような水膨れが語る。

 一刻と思われた猶予が伸びた──ほんの束の間の安堵であったが、彼女は先程何と言った?

 

「明日……?」

 

 何故、寿命を伸ばす必要があった? 何故、強引とはいえ治療した?

 その答えは、辛うじて意識を保っていたシュライグの、途切れそうな問い掛けで明かされる。

 

「──処刑は、いつだ?」

 

 処刑──首を絞められ、涎と糞を垂れ流す醜い死体を思い出した。あるいは剣で首を落とされる死体。またあるいは、張り付けにされ餓死するまで住民に石を投げつけられた同士。

 見せしめだ──ほんの僅かな猶予の意味をようやく理解した。

 

「明日、日の出が貴様らの命だ」

「なんだ、意外と……待ってくれるものだな」

 

 薄ら口元に浮かべるか細い笑みに、なんでそんなに余裕に構えていられるんだと憤りさえナーベルは覚え、奥歯が割れんばかりに噛み締める。なんでそんなあっさり死を受け入れているんだ。鉄獣戦線の頭目なんて立場も捨て、みっともなく命乞いをしてくれた方がよっぽど好感が持てるというのに。

 

「フルルドリス……最後の頼みがある。聞いてくれないか?」

「命乞いなら聞かない」

「そんな馬鹿なことは言わない」

 

 生き延びるための足掻きを"馬鹿なこと"の一言で済ませ、フルルドリスの眉間に皺が寄る。彼女の顰蹙を買ったなど露知らず、シュライグは様々な感情に見切りをつけ瞼を下ろした。

 

「枢機卿を殺したのは俺だと、大々的に伝えてくれ」

 

 それは──歴史の始まり。

 ドラグマの聖女の死が、開戦の狼煙を上げた。獣人は聖女を殺した邪教徒として駆逐され、ドラグマの民は侵略者として獣人の怒りを買った。

 それら全て、裏で手を引いていたのが──シュライグだと?

 

「最低だ……最低だよ、アンタ!」

 

 パズルがカチリと音を立てて嵌るような──告白の意味を理解した瞬間、フルルドリスを押しのけ、馬乗りに透かした面を殴りつける。ナーベルの激昂を頬に受けながらも、彼は凪いだ瞳で見上げるばかりだ。何も感じていないような──どうでもいいと思われているような、最悪な気分で拳を振り下ろす。

 父の死も、他部族からの冷遇も──ナーベルの戦場に出る覚悟さえも、この男は弄んだ。今更になって真実を打ち明けるなんて卑怯だ。何度も何度も拳を打ち付け、けれど彼は細い声で「すまなかった」と言うだけで、許してくれと乞うこともしない。一方的に吐き捨てるしかできない怒りに、虚しささえ湧き上がる。

 

「ナーベル……お前の覚悟も、怒りも、悲しみも──全て俺が背負う」

「そうやって悲劇の英雄を気取って、オレを皆を騙してきたのはアンタだ!」

「そうだな……俺は本当に許されないことをしたと思っている。もし、今償える方法があるとしたらそれは、世界の敵として死に、この戦争を終わらせることだ」

 

 今、すぐにとは戦争は終わらない──けれど、火種は消える。自らの死で、戦争で生まれた恨みも悲しみも何もかもを昇華させる。己の死で救われる苦しみは少なからず存在する。

 

「なるほど……戦争を生んだ罪人の死、心が晴れる者もいるだろう」

 

 これ以上は殴り殺してしまうと判断したフルルドリスが、一睨でナーベルを退かす。倒れたまま起き上がることさえできぬシュライグの胸ぐらを掴み、罵るように憎しみを込め吐き捨てる。

 

「お前は馬鹿か……そうやって、思い出さえも踏み躙ってくれるとは」

 

 かつて、生かすために西方教会から逃がした友が、死にに戻ってきた──

 遠い昔の覚悟に泥を塗られた気分だと、知らず舌打ちをこぼす。思い出なら思い出らしく、綺麗なままでいてほしかった。そんな願いも全て砕きに、友は帰って来た。

 

「馬鹿でいい……それで、誰も傷つかない世界が実現できるなら」

「……お前が己の死を美談に仕立てるロマンチストだったなんて、残念でならない」

 

 この上ない失望を声に乗せ手を離せば、力無く背を打ち付ける──何処かで彼女は、かつての友に期待していたのかもしれない。生きたいと望む声を──遠い昔の誓いさえ、長い年月のうちに凍てついてしまった。それを溶かしてくれる一言があれば、運命が変わったかもしれないのに。

 淡い期待に縋るものでもないなと自嘲を込め鼻を鳴らし、扉を閉める。次に会うのは未明──彼が死ぬ時だ。

 

「さようなら、シュライグ。思い出らしく、キミは綺麗でいてほしかったよ」

 

 押し付けがましい言葉を贈り、彼女は牢を出た。明日までの命、もしかしたら別れの挨拶のつもりだったか。

 

「ちくしょう……!」

 

 沁みるような沈黙を嫌い、石畳を殴りつける──八つ当たりにもなりやしないと、手の甲から血を滲ませながらやるせない怒りをぶつけた。

 

「意味わかんないっすよ……何なんっすか、アンタ! なんで最後の最後でこんな、最低なこと知らなきゃなんないんすか!」

 

 力尽きたようにシュライグは何も答えない。今拳を振るえば簡単に殺せてしまうだろうが、死さえ生ぬるいほど憎くて堪らない。

 父の仇にして鳥の部族の生き恥にして全ての獣人の敵──とんだ救いようの無い大罪人だ。地獄で述べる罪状は真っ黒になっていることだろう。

 

「オレも……明日、死ぬんだ」

 

 鉄獣戦線の頭目の公開処刑は、見せしめとしてさぞ効果的だろう。革命の象徴の死と裏切りは抵抗組織の勢いを削ぎ、降伏を受け入れる獣人も現れるはずだ。そのおまけとばかりに殺されるナーベルは、何者にもなれぬまま誰かの記憶に残ることもないまま、生を閉じる。なんだか寂しくて屈辱的な最後だなと、悲しみや恐れに先駆けて悔しさのあまり涙が滲む。死んだ父も、自分と同じく誰かを恨み悔しんだのだろうか。

 そんな彼の涙が届いたのか──救いの手が、差し伸べられた。

 

「──あの」

 

 金糸雀のような、凛と透ける声。暗くじめっと陰湿な地下牢に、その声は一縷の希望を示すように耳に届いた。

 

「……誰?」

 

 陽の光を内に秘めたかの如く眩しい金糸の髪。瞳は青、強い志を秘めた慈愛の光を灯す。額に宿る聖痕──少女はドラグマの民だった。

 ああ、またシュライグの知り合いか──知りたくもない繋がり。顔が広いどころかドラグマのスパイだったんじゃないかなとさえ思える。本当にそうなら、事実は小説よりも奇なりってやつだ。

 

「シュライグさん……ですよね! フルルドリスお姉様の、ご友人の!」

 

 少女の声は緊張からか震えていた。地下牢に閉じ込められるような悪党を前に語り掛けているのだ。いかにも箱入り世間知らずといった雰囲気を言動の節々から感じさせる彼女にとって、未知で怖いものに違いない。歳の頃はナーベルと変わらずで、獣人は邪教徒であると刷り込みさえされているだろうに、よく一人で来れたものと場違いな感心さえ抱く。

 尋ねられた本人は、起き上がろうと腕に力を込めるが全くと体は持ち上がらない。見兼ねたナーベルが、ため息を隠しもせずシュライグを支えた。

 

「アンタ……誰なんすか?」

 

 凭れて座ることさえ精一杯な彼に代わり、ナーベルが戸惑いながらも聞き返す。本音はドラグマとなんて口も利きたくないが、幼い言動がキットを思い出させる。だからだろう、少しくらいは──なんて、気紛れが表に出たのは。

 

「す、すみません! 失礼でしたよね、名乗りもせず!」

 

 酔狂なことに、彼女は獣人と知りながら膝を着き(こうべ)を垂れた。いったいどういう腹積もりだと胡乱な眼差しを投げたその時、彼女はこの不穏な空気を緩慢と引き裂くように形のいい唇を上げた。

 

「私は、教導(ドラグマ)の聖女エクレシア。フルルドリスお姉様の──妹です」



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Episodeナーベル 後編

 

「クソが!」

 

 腹の底から煮え滾るようなそんなやるせない憤りに、壁を殴りつける。はらはらと木屑の落ちる柱──そんなことしても手を痛めるだけだぞ。そう忠告してくれるはずの存在がいない。

 

 ──戦場で生き別れ、それっきりだ。

 

 怪我をして動けないのか、撤退はできたが連絡できない事情があるのか、敵に捕まってしまったのか、それとも──悪い予感ばかりが脳裏を掠め、先の見えぬ不安と己の不甲斐なさに割れんばかりに奥歯を噛み締める。いつも隣に立っていたはずの彼がいない──その事実が、より一層己の無力感を突きつけてくる。

 

「その辺にしときなさい」

 

 うっかり話しかけようものなら、八つ当たりの巻き添えをくらい噛み殺されてしまいそうな。そんな危なげな緊張感と殺気を放つルガルに、けれどフェリジットは臆することなく「ここ、壁脆いんだから」と、淡々と忠告した。

 今二人がいるのは、ドラグマ近郊に残された廃村。そこを仮拠点に、団員は各自荒屋で休息を取っている。

 

「シュライグがいない今、指揮官はアタシ達よ」

 

 隙間だらけの壁を撫でながら冷静に──否、冷静を取り繕った様子で冴え冴えと言い放つ。

 ドラグマへの奇襲作戦は失敗に終わった。作戦の要となる指揮官シュライグが討たれたからだ。撤退指示を最後に、彼は消息を絶ったのである。

 

「アンタの不安が組織に広がる。士気が下がれば、それこそ望みは無くなるわよ」

 

 戦略的撤退と言えば聞こえはいいが、潰走であることに変わりはなく、既に士気は下がっている。そこに指揮官の不安が伝播すれば、統率が崩れ内輪揉めを招くのも時間の問題か。フェリジットはそれを見越し、だからこそ指揮官の自覚を持てと慰めではなく厳しい言葉を投げた。

 

「分かってる……分かってるけどよ」

 

 傷心に瞳が翳りを帯びた。打ち震えるような声に舌打ちを一つ、視線に軽蔑を乗せルガルを睨む。情けない、一発殴って目を覚まさせるか。と、拳を握り締め振り上げたその時だ──

 

「おい! ナーベルが帰って──」

 

 立て付けの悪い扉が慌ただしく開けられた瞬間、バキッ、と痛々しい衝撃音にケラスは思わず顔を背けた。

 なんとも間の悪いタイミングを選んでしまったものである。とはいえ、フェリジットが一方的に殴り合いの喧嘩をふっかけようが、そんなことは今どうでもいいと、ケラスは咳払い一つで動揺を落ち着けた。

 

「ナーベルが帰ってきやがった!」

 

 と、声を荒げればすかさず「本当なの!?」掴んだ胸ぐらを離し、彼女は嵐のような慌ただしさで飛び出した。

 崩れた広場の中央、彼は大の字で転がっていた。冷たい雪が容赦無く彼の体温を奪うが、息急く体にその冷たささえ、火照りを鎮める快いものだった。

 

「し、死ぬかと思った……」

 

 爪痕のように深く夜空に刻まれた三日月を睨み、生の感覚を噛み締めるように乱れた呼吸を繰り返す。そんな彼の手にはメルクーリエが握られており、夜目の利かない暗闇で、メルクーリエの案内だけが頼りの心細い帰還だった。

 

「よく帰ってきた」

「……フラクトールさん」

 

 差し伸べられた手を取りようやっとナーベルは体を起こす。雪明かりが頼りの暗闇では、視界には全くと何も映らない。けれど、彼の帰還を喜ぶように団員が囲っているのを大小様々な息遣いを頼りに感じ取る。まるで英雄の凱旋を祝うかのようだった。

 

「助けてくれた人がいたんっすよ……信じられないかもしれないっすけど、ドラグマの聖女が捕虜だったオレを解放してくれたんっす」

 

 俄に信じ難い話だが、嘘を吐けるほどの余裕など今は無い。一先ずとフラクトールは柔らかく頷いて返し、衛生兵に担架の準備をするよう指示を出した。

 

「ねぇ……シュライグは?」

 

 仲間の帰還を喜ぶ幸福の中、石を投げ入れるように翳りを帯びた声をフェリジットが掛ける。ほんの小さな独り言のようなものだった。けれど昂る歓声の中、その呟きは切り取られたように耳に残り、不自然な沈黙を呼ぶ。

 

「そうだ……リーダーは?」

 

 誰かの呟きを皮切りに、各々が配慮の無い言葉を紡ぐ。「お前一人だけか?」「見捨てたのか?」帰還を祝福していた仲間達の瞳に軽蔑と疑念が含まれ、居心地悪そうにナーベルは舌打ちを一つ。

 いい機会だ──ナーベルは、己の心が厳しい冬の如く凍てつき、氷刃のように鋭さを増すのを自覚する。ありったけの憎しみを言葉に封じ、嘲笑うように罵るように声を震わせた。

 

「裏切り者は明日死ぬ! 馬鹿なお前達は騙されてたんだ!」

 

 シン──と、静まり返った。耳が痛くなるほどの沈黙、己の息遣いさえ煩く思えるほどに沁みる。

 言ってしまった──突き刺さる仲間達の鋭い眼差しに、けれど不思議とそれを恐れる気持ちは湧いて来ない。むしろ、己は正しいことをしたのだと正義に胸の高鳴りさえ覚え酔い痴れるほど。

 「馬鹿なことを言うな!」ナーベルの主張をシュライグへの侮辱と捉え、罵倒の数々が飛んでくる。雪玉を投げる者さえいた。

 その身に数多の悪意を投げ付けられ、そんな仲間達を冷めた目で見渡す。彼らは鬼のような形相で睨んでいることだろう。と、夜目の利かぬ暗闇の中、ナーベルは推測する。騙されていることにも気付かず、可哀想な奴らだ。と、頭から雪を被り勝ち誇った笑みを薄ら浮かべた。

 

「枢機卿を殺したのは誰か、知らないからそう言えるんっすよ」

 

 枢機卿──またの名を、邪教徒の手に堕ちたかつての聖女。

 開戦の狼煙となった彼女がなぜ今更関係する? 雪玉を投げる手を止め、戸惑いが伝播するのを肌で感じた。突然始まった謎解き、誰が最初に答えに辿り着くか、ナーベルは愉悦の色を滲ませ喉を鳴らす。

 

「やめろ……やめてくれ、ナーベル」

 

 問い掛けの意味を真っ先に理解したのはルガルで、懇願するように切ない声を上げるが、もう手遅れだ。石は投げ入れられた──同じ志を持つ固い絆は、実は薄氷の如く儚いことを同志達は知るだろう。そして残るのは、鉄獣戦線という組織に対しての忠誠か、はたまたは底知れぬ恨みか。ナーベルの目には、これからの未来など全てお見通しであった。

 恐れていた事態は、すぐに訪れた──

 

「聖女を殺したのは、障害者の……羽なしの子どもだったよな?」

 

 それはもう、答えを言っているようなものだった。

 罅が入る──「嘘だ!」と、上がる声は少なく、不信感を孕む息遣いばかりが耳につく。そうだ、その調子だ──不和を後押しするかのようにナーベルは嘲笑を交え見守った。鉄獣戦線という一つの組織が自滅に追いやられる瞬間を今か今かと待ち望む。引き金を引いた今、もう引き返せない──後がないと思うと、尚のこと壊れる瞬間というのが待ち遠しくてならない。

 

「違う……違うんだ、アイツは何も悪くない…………頼むから、疑わないでくれ」

 

 僅かに嗚咽を滲ませ訴えるルガルの声さえも誰の耳に届くことなく、ナーベルが狙った通りの結末を迎えようと、薄氷の絆が音を立てて崩壊を歩む──

 

「聖女を殺したのは、シュライグだ」

 

 謎解きも途中に、唐突に完全回答が疑念と戸惑いの中放り込まれた。

 隣で頽れるルガルとは対照的に、毅然と言い放つ女傑の姿に、思わず「はっ?」と、火種を撒いたナーベルでさえ間抜けな声を出す。

 

「フェリジット、お前何考えて──」

「何れ、アイツも打ち明けるつもりだった。それが少し早まっただけよ」

「だからって、今言うべきことか!」

「この状況で後回しにする方が馬鹿だと思うけどね」

 

 遅かれ早かれ誰かが答えを出す──なら開き直った方がいっそ印象が保てるだろう。

 向けられる視線の中に刺すような敵意と悪意が含まれていることに気付きながら、けれど彼女は恐れない。信念を曲げぬ強い光を瞳に宿し、裂帛の気合を声に乗せる。

 

「アイツが聖女を殺したのは事実だ! それを踏まえ、アンタ達は今までの恩讐にどう応える! そこのナーベル(馬鹿)と同じく恨みたいなら好きにしたらいい。助けられた恩に報いたい命知らずだけが、ここに残りな!」

 

 染み渡る冬の静寂を切り裂いて、檄が木霊する。

 立ち去る者はいない。恨み言を吐く者もだ──前触れも無く切り裂かれた混乱に、誰もが戸惑い同志の様子を伺っているのだ。

 そんな淀んだ沈黙を裂いて切り出したのは──ケラスであった。

 

「聖女殺しの罪なんざどうでもいい。俺はアイツに二度も助けられた」

 

 一度目は蛇毒に苦しむ仲間を、二度目は捕虜として捕まり死を待つだけだったところを──その身に受けた恩がどれほどのものだったかを、彼は努めて冷静に語る。

 

「──確かに、アイツは戦争を招いた大罪人かもしれない。けれど、俺はアイツに助けられちまった。全ての獣人のために己の身も顧みず戦う背中を知ってしまった以上、今更見捨てられねぇよ」

 

 家族を、友を、恋人を──

 身に受けた恩の重みを語るケラスに続き、一人また一人と立ち上がる。全員がそうではない。ナーベルと同じくいい顔をしない者も少なからずいたが、だとしても立ち上がる同志の方が圧倒的に多かった。

 なんだこれは──ナーベルは、己の思い描いた結末と大きく逸れ始めた現実に、信じられないと激しく首を横に振る。真実を知った同志達は、鉄獣戦線を見限り立ち去るはずだった。怒りをぶつけ、仲間割れで争い合うはずだった。

 だが実際はどうだ──罅割れたはずの薄氷は、より強固な絆となって固く結ばれる。弾き出されたように、ナーベルただ一人だけが崩壊を望んでいる結末だ。

 

「ありがとう……ありがとな、お前ら」

 

 仲間を見捨てぬ同志達の姿に胸を打たれ、ルガルが鼻をすすり目元を拭う。その姿を尻目に、ナーベルは己の選択は間違いだったのかとさえ疑念を抱く。だが、今更引くわけにはいかないと半ば意地になって声を張り上げた。

 

「正気っすか! だって、アイツは戦争を起こしたんすよ! その上で鉄獣戦線なんて抵抗組織を作り、オレ達の覚悟を嘲笑ったのに!」

「それは違うよ、ナーベル」

 

 諭すようにフラクトールが告げた。名を呼ぶ声に透けて見える感情は様々なものが入り交じるも、それら全てに一呼吸で見切りをつけ、酷く凪いだ穏やかな声質で言葉を紡ぐ。

 

「シュライグが鉄獣戦線を作ったのはね、一人でも多くの獣人を救うためだ。それが、戦争を招いたせめてもの罪滅ぼしだから、救える者全てに手を差し伸べ戦うんだ」

 

 静かに、けれど芯に力強さを込めて断言する。そんな彼の手には、決意の証とばかり青いバンダナが握られていた。

 

「聞け、命知らず共! ウチのリーダーはまだ生きている! 救出劇の英雄になりたい奴は、出撃準備にかかれ!」

 

 決起を促すには今しかないと、群衆を押しのけフェリジットが広場に立つ。シュライグ不在の今、指揮官はルガルとフェリジット二人の役目だが、異論を唱える者はいない。否、この逆境を覆して見せようと士気はかつてないほどに高まり、命知らずと勇士を履き違えた獣人達が我こそはと雄叫びを上げる。重畳だと、フェリジットは鼻を鳴らした。

 

「そ、そんな……」

 

 不吉な夜の静けさも、冬の凍てつく寒気さえ押しやり熱狂を呼んだ──かつてないほどに奮い立つ同志達の姿に、ナーベルは一人孤独へと放り込まれる。しつこくシュライグの罪状を吐き続けても、迸る闘志に闘争本能を燃やす同志達の耳には何一つ入りやしないだろう。むしろ、逆徒扱いされ後ろ指を差される結末さえ容易く想像ついた。

 

「なんで……なんで、そんなあっさり許せるんだよ」

 

 戦争を呼んだのは誰か。父を殺したのは誰か──その恨みをぶつける相手は最初から違っていたとでもいうのか。

 鉄獣戦線は崩壊する──そんなシナリオは最初から用意すらされていなかった。ナーベルがずっと薄氷と思い込んでいた絆は、打たれたばかりの鉄のように固く熱いのだと見せつけられ口を挟める余地すらない。熱狂の渦、一人置いて行かれて自嘲気味に口角を上げる。

 そんな彼を見捨てるのは簡単だろうに、あえてそうしない奴がいた。そう、情に厚いルガルである。シュライグに対しての罵倒も嘲笑も、それら全てを許すといわんばかりにナーベルの肩に手を置いた。

 

「すまなかったな、ナーベル。お前の気持ちに気付いてやれなくて」

 

 何があっても仲間を見捨てない彼の優しさが、余計に己の器の小ささというものを突きつけてくる。同情をこの上なく憎たらしく思えたのは、後にも先にもこの瞬間だけだろうと、反射的に手を払う。

 

「そしてありがとう。シュライグが生きていることを教えてくれて」

 

 やめてくれ──そんな優しい声で感謝を口にしないでくれ。

 気遣いの一つ一つが、罵倒よりも一層鋭い刃となってプライドを切りつけていく。こんな惨めな気持ちになるくらいなら、いっそ帰らなければよかったとさえ思えてしまう。それほどまでに、鉄獣戦線の絆は熱く、固く、優しく、眩し過ぎる。

 だからだろう──最後の最後に蟠りが雪解けを迎えるように、己の心が突き動かされたのは。

 

「未明っす……リーダーの処刑は」

 

 降参だとばかりにナーベルはその場に腰を下ろして、深く覚えるように吐息を漏らした。

 

「場所は、教会前の広場。民衆を集め、目の前で火炙りっす」

 

 地下牢で聞いた言葉の一つ一つを噛み締めながら告げる。あれだけシュライグを陥れる暴言を吐き捨てておきながら、今更のように手がかりを伝えたところで贖罪にもなりやしないのに、一旦絆された口は、己の捻くれた心根とは真逆にも助け船ばかりを出す。意地を張ったプライドに向け、いい加減もう諦めろと言われているような心地だった。

 そんな葛藤を勝手に抱きながら、ナーベルは不敵に笑った。この救出劇が難攻不落と見込んでだ。

 

「助けに行ったところで無駄っすよ。だって死刑執行人は、フルルドリスとかいう化け物みたいにおっかない雷女っすから」

 

 あれにはきっと誰も勝てない──もし勝てる存在があるとすれば、それは神かあるいはそれ以上の存在か。ホールからとんでもない化け物でも呼ばぬ限り、あの女に勝てる生物なんていないだろう。そう、鉄獣戦線は仲間を団長を失い、雷光に潰える。

 しかし、ナーベルの予想を裏切りルガルは目を剥いて両肩を掴んだ。そして、鼻息が掛からんばかりの至近距離で声を上げたのだ。

 

「フルルドリスに会ったのか!?」

 

 心なしか嬉しそうに──ルガルの悲鳴のような叫びを聞きつけ、フェリジットまで彼に倣いナーベルに詰め寄った。「フルルドリスに会ったって本当!?」と、ルガル押しのけナーベルの肩を揺さぶった。

 

「アンタ、ドラグマの聖女に助けられたって言ったわよね? それってもしかしてフルルドリスじゃないわよね!」

「ち、違うっす! その女は牢屋にぶち込んだ方っす! 助けてくれたのは、その妹の方っす!」

「妹……?」

 

 顔を見合わせて揃って首を傾げるものだから、どうやら妹の方とは面識が無いのだとナーベルは察する。

 

「全部話しますよ……地下牢からどうやって逃げたのかって──」

 

 鉄獣戦線の絆に観念し、ナーベルは雪を握りしめ訥々と語る。数刻前の出来事を──

 

「……妹?」

 

 繰り返した言葉尻に疑念の色を含ませながらシュライグが呟いた。少女は少し自信なさげに曖昧に頷き、沈黙を重く引き裂いて言葉を続けた。

 

「血の繋がりはありません。ただ、聖女という同じ境遇で紡がれた絆です」

 

 明確な血の繋がりは無いものの、家族と称するのが相応しい関係──

 ああ、打ち震えるように吐息を漏らす。彼女は、種族も性別も何もかもが違うように見えて、自分と同じだとシュライグは感じ取った。血の繋がりが無くともルガルにとってシュライグが弟であるのと同じように、彼女もまたフルルドリスにとって妹に等しい存在なのだと。

 エクレシアは己に喝を入れるように両頬を叩き、恐る恐ると錠を外した。臆病を声に滲ませながら、けれど意を決した様子で扉を開け、手を差し伸べる。

 

「お姉様がよく語ってくれました。弱いけれど、優しくて勇気ある友人がいたと。ずっとそれが誰なのか分からなかったですけど、今やっと分かりました。誰も殺さない殺させない、時に敵国の市民さえも庇う獣人……貴方ですよね、シュライグさん」

 

 不殺の信念を掲げる獣人達の生ける希望。支配からの解放を謳う救世の鉄翼──たったそれだけの、信憑性さえ乏しい噂を頼りに、彼女はシュライグという一つの解に辿り着き、確信を原動力に力強く告げる。

 

「私、お姉様が大事な人に手を掛けてしまうのを見るのは、嫌なんです! だからお願いします、逃げてください!」

 

 鍵は無い。見張りだって、聖女の権限を濫用して遠ざけた。もし、逃亡のチャンスがあるとすればこの瞬間だけだと、手を差し伸べる。

 だが、それを拒むように──己の生に見切りをつけるように。静かに瞼を下ろし、やんわりと首を横に振った。

 

「誰も傷つかない世界を実現したい……その夢が叶えられるなら、この命惜しくもない」

「……そんな」

 

 打ち震える声に様々な感情を乗せ、少女は俯き下唇を噛む。生半可な覚悟で訪れたわけではないことは、シュライグとて理解できる。だが、手遅れだった。シュライグは戦争を終わらせるための決意を固めた。そして何より、ここを生きて脱出するだけの体力も気力も残されていないことは、誰よりも理解している。

 

「優しくて誰も傷つかない世界を築きたい……お姉様が諦めてしまった夢を実現できる人が残されているとしたら、それはきっと貴方です!」

「そうだな……俺の死が、平和への礎になれるなら嬉しい」

「違う、そうじゃないんです! 誰かの犠牲で成り立つ世界なんて、誰も救われない! そうやって貴方は優しい世界を語る一方で、貴方が死んで悲しむ人のことなんて何にも考えてない!」

「俺が死んで……悲しむ?」

 

 冷水を頭から被せられたような──自己犠牲は美徳ではない。己の命の価値すら測れぬシュライグの目を覚まさせるように、出会ったばかりの聖女は涙ぐみながら声を荒らげた。

 

「貴方の死を望む声よりも、生きていてほしいと望む声が沢山あるのに、どうして目を背けてしまうのですか!」

「──っ!」

 

 聖女の訴えが、暗く澱んでいたシュライグの心を照らした。

 今、彼の耳に届くのは死を望む亡霊の声か? ──違う。

 罪状を耳元で読み上げる枢機卿の影か? ──違う。

 戦争を起こしたという大罪を償うため、戦乱を終わらせるため、奪われるだけの獣人を救うため、鉄獣戦線という組織を率いここまで歩いてきたのだ。

 ルガルが、フェリジットが、キットが、フラクトールが、ケラスが──記憶の中の仲間達が、己の名前を呼ぶ。過去に縛られたままの心に様々な感情がなだれ込んでくる──そのどれもが温かく、優しく、かけがえのない、大切なもの。シュライグが守りたいと望み、同時に己の心を守ってきたもの。

 

「ルガル、フェリジット……俺は、皆のところに帰りたい」

 

 己の本当の望みを口にした瞬間、罪という呪縛が音を立てて砕けた。亡霊の声は聞こえない。死人に口は無い。何故、それを分かっていながら今まで共に過した仲間達の心と向き合わなかった。

 

「ありがとう、エクレシア。俺は──必ず生き延びる」

 

 死ぬことで世界に齎される価値よりも、生きていることで誰かに齎す心の価値の方が、重いと知ってしまった──バンダナを握り締める。これを贈ってくれたかの少年は、立ち向かえと背を押した。まだ返す約束すら果たせていない。

 

「ナーベル、助けを呼んで来てくれないか」

「ふへっ!?」

 

 蚊帳の外だったはずが突然話を振られ、ナーベルはつい間抜けな声を上げる。戸惑う彼を他所に、シュライグは生への強い執着を瞳に宿し、毅然と告げた。

 

「父の仇である俺が頼むのも違うかもしれない。だが、決してお前の覚悟を嘲笑うために鉄獣戦線は存在するんじゃない。お前みたいに、戦争で多くのものを失ってしまう獣人を一人でも救うために、俺は鉄獣戦線という組織の中で希望を示し続ける!」

 

 今更命が惜しいから出てくる出まかせの決意──そんなものを咄嗟に言えるほど、シュライグの口は器用でないことをナーベルは知っていた。

 それを分かったうえで、彼は首を横に振る。父の仇であるお前の言うことなんざ今更聞いてやるものかと、意固地になった幼いプライドが叫ぶのだ。

 

「なんで、父ちゃんの仇の言葉を聞き入れなきゃなんないんすか、この羽なし!」

 

 勝手にくたばっちまえ。そしたらこの恨みが──本当に晴れるのだろうか?

 晴れるはずなどない。怒りが行き場を失ってしまうだけだ。そうと分かっていながらも、ナーベルはシュライグの言うことなんざ聞いてやるかと、半ば自棄になって異議を唱える。ただ、そんな彼の幼稚な意地さえもお見通しか、シュライグはほんの微かに口元に笑みを浮かべ、声に優しいものを乗せて告げるのだ。

 

「お前のその想いも、全て俺が受け止める。だから、必ず──生きて仲間の元に戻るんだ、ナーベル」

 

 この期に及んで、なぜそんなに心を広く持てるのだ、彼は──

 

「ふん!」

 

 もはや何を言ったところで、彼の心に嫌味一つ届かないだろう。素直に負けを認めたくないナーベルは、捻くれ者の捨て台詞とばかり鼻を鳴らし、牢屋を出た。この男の望む形でこの地に帰ってきてやるものか。歪みきった決意を胸に、ならば彼の帰りたかった鉄獣戦線(居場所)を叩いて砕いて絶望させてやろうじゃないか。そう思い、帰還した──はずだった。

 

「──降参っす」

 

 悔しいなぁ──背中から雪の中に沈み、手の甲で滲む涙を拭う。これまでにないほどに高まった士気、置いて行かれるのはこんなにも惨めで悔しいものだと、シュライグという一羽の羽なしが築き上げた絆が語る。邪な思いを抱えて帰還したナーベルに対して、この上ない罰とばかり場違いにも居場所が無い。仲間と自分との間に、見えない壁が築き上げられたかのような疎外感に知らずため息が漏れた。

 

「ナーベル、担架が来た。乗れるかい?」

「……必要ないっすよ」

 

 フラクトールが気を回し駆け付けてくれた衛生兵には悪いが、戦線離脱するような怪我は無いと、軽やかに立ち上がり、手足をなんでもないように振る。見目はボロボロだが、誰かさんが庇ってくれたおかげで致命傷になる傷は一つと無い。

 

「治療受ける前に、文句を言いたい人がいるんで」

 

 それが誰かは名前を口にしなかったが、察しのいいルガルは「なるほどな」と、親しみやすい笑みを浮かべ頷いた。どうやら自分が出るまでもなく、彼らの軋轢は溶けそうだと安心から息を吐く。

 

「ルガル、トリはアンタが飾って」

 

 少しは指揮官らしいところを見せろと言わんばかりに、フェリジットが顎をしゃくる。団員達の轟く猛り、漲る闘志──それに応えるのはアンタが相応しいと声無くして告げる。

 

「──同志達よ!」

 

 声に覇気を乗せ、空気を切り裂かんばかりに熱く吠える。情に厚い狼の裂帛は、あらゆる者に力を刻み希望を示す。

 

「撃鉄を起こせ! 侵略の徒に、鉄獣の爪痕を刻め!」

 

 出撃を告げる──! 鉄獣戦線の存続を賭けた救出劇の、幕開けであった。

 



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Episode鉄獣

 

 ──死を待つ罪人がいた。聖女を殺し、戦争を招いた獣人だ。

 

 己の死を望む息遣いを、朦朧とした意識の中感じ取る。容赦の無い寒気に混じり、明確な殺意と敵意を孕んだ眼差しが直接肌を刺す。雪を投げ、石を投げ、あらん限りの罵詈雑言を浴びせる者さえもいた。

 怨み、怒り、哀しみ──ありとあらゆる負の感情を全身に受け、けれど不思議と己の心は死を前に凪いでいた。十字架に杭で張り付けられ、厳かな冷気に肌を傷を晒し、血の気の無い割れた唇から、途切れそうな白い息を細く吐き出す。

 今にも事切れそうな弱った身体。眠りに落ちれば二度と目覚めぬだろう死の気配を隣に感じつつ、凍りついた睫毛が目元に影を落としながらも辛うじて瞼を持ち上げ、寒さに張り付く喉を鳴らし呟いた。

 

 ──ナーベルは、無事に帰れただろうか……

 

 メルクーリエを託したとはいえ、夜闇の中ただ一人──心細かっただろう、不安だっただろう。けれど彼は強い子だ──きっと仲間の元に帰っているはずだと、根拠の無い自信を胸に微かに口元に笑みを浮かべる。

 

「この期に及んで仲間の心配とは、実にキミらしいですね」

 

 雪を踏む音──暗闇ばかりの視界でほんの僅かに見えた光、懐かしいと安堵の息を吐く。体力が尽きかけたところ、命を吹き込むように温もりが止まりかけの胸を打つ。

 

「久しぶりだな……アディン」

「貴方の声を聞くのは、実に何年ぶりでしょうか」

 

 再会の喜びとこれから招かれる死別への悲しみ──様々な感情を声に滲ませ、初老の男はせめてもの手向けとばかり細かな傷を癒した。

 

「俺のことも忘れたわけじゃあないよな、シュライグ」

「忘れるはずない。その声はテオだろ」

 

 死を待つばかりの処刑場で、生き別れた知己の声はどれほど切なく心に焼き付いたことか。まるで童心に帰ったようだと、走馬灯のようにドラグマと獣人との間に確執の無かった記憶が蘇る。あの頃は貧しかったけれど、まだ平和と呼べる時代だった──

 

「口は慎め、二人とも」

 

 思い出の中に浸る心を現実に連れ戻すように、厳粛な女の声が耳に届いた。死刑囚と交わす言葉など無いとばかり、女は研ぎ澄まされた刃のような雰囲気を纏い十字架の下に立つ。

 

「フルルドリス──」

 

 覚悟したように喉を蠢かせて、名前を呼んだ。彼女は何も答えず、冴え冴えとした氷の眼差しが向けられるのを肌で感じる。寂寞を切り裂いて、シュライグは死にかけの喉で声を絞り出した。

 

「俺は──生きる」

 

 今更のように見せる生への執着──それももう遅過ぎたのだと言わんばかりに、処刑を待つ緊迫した沈黙は微かな吐息さえ反響させる。牢獄でその言葉を聞けたのなら、道は違ったのかもしれない──今となっては、全てが手遅れとなってしまったのだと、虚しい感想を瞳に浮かべ彼女は瞼を下ろす。

 

「アイツらは何があっても誰も見捨てない。そんな奴らの集まりなんだ」

 

 そのお仲間に裏切り者扱いされ、罵られ、殴られて──よくもそんな戯言を口にできるものだな。フルルドリスは閉じた瞼の裏、ナーベルにこれでもかと詰られるシュライグの姿を思い出し、緩やかに軽蔑の息を吐く。

 

「エクレシアに何を言われたかは知らないが、お前は──人を率いて上に立つ器ではない」

 

 本当にそれだけの人望があったなら、この場を取り囲むのは公開処刑を娯楽にする民衆ではない。彼の言う情に厚い仲間とやらは、どうやら死に目にすら立ち会う気も無いようだとフルルドリスは雪の霞む視界を見渡し、ため息を一つ。

 鉄獣戦線を率いる団長に最後待ち受けていたのは、どうしようもない孤独であることを明るみ始めた東の空が残酷にも告げる──刻限だ。手に白い呼気を吹きかければ、忽ちそれはか細い火となり指先に灯る。

 ──さようなら、最初で最後の我が友よ。

 胸の内で別れを告げ、十字架に火を放つ。

 大罪人の死を見送るように、民衆はあれだけ騒ぎ罵っていたというのに、火が付けられた途端言葉と共に息を呑み込む。果たしてそれは大罪人に齎される死への悦びか、それとも種族は違えど一人の死を悲しんでか。

 静かに雪が降り続ける広場、突如鳴り響く轟音と地鳴りは不吉の静寂を引き裂いて地盤を切り落とす。そう、それはまるで獣の唸りのように──

 

「──待ちくたびれたな」

 

 遅いぞ。と、微かに言葉に嬉嬉とした感情を乗せ、崩れる足元に見た仲間の姿に、安心の頬笑みを浮かべる。

 彼らが迎えに来てくれることを信じていた──けれど、心の奥底でもうだめかと諦める気持ちを抱いたのは内緒だ。だからこそ、危険を顧みず敵地へと救出に訪れた同志達の姿を見て、込み上げてくる想いが鼻の奥で沁みる。

 同志達の咆哮が、黎明を告げる──!

 

「ウチのリーダーが随分世話になったみたいだね、侵略者共!」

 

 見限ったのではない──気配を殺し忍び寄っていたことを崩れた地盤の下、上がる黒煙が語る。鼻を刺す火薬と硝煙の臭いは、鉄獣戦線が最も得意とする戦法で──ドラグマの領土に残る地下通路を使われたのだと、フルルドリスは察する。もう何年も前に、地下通路の存在を教えたのは他でもなく彼女で、それを今更利用されるのは計算外であったと吃驚の声が上がる。

 

「シュライグ!」

 

 (はりつけ)にされたまま瓦礫と共に落ちる体をケラスがその巨躯で危なげなく受け止めた。仲間が来てくれると確信しながら、けれど今になって助けられた実感も湧かず目を丸くさせるばかりのシュライグに「なんて顔してんだよ」と、呆れを一言申して手のひらの杭を抜く。

 

「また随分派手な怪我をしたね」

 

 大小様々な傷跡を残す体に、やれやれと深く息を吐くのはフラクトールだ。強引な焼灼で止血された裂傷をなぞり「痛かっただろう」と、涙混じりに労る言葉を掛け乾いた血を拭う。

 二人の声を聞き、支えてくれる温もりを感じ、ようやくシュライグは助けられたのだと──鉄獣戦線に戻ってこれたのだと現実を受け止め、同時に、堰を切ったように筆舌に尽くしがたい感情が胸を打つ。震えるような吐息をゆっくりと隠し、絞るように声を出す。

 

「そうか……ナーベルは無事に帰れたんだな」

 

 あの時自分を見限ったはずの彼は、仲間の元へ無事帰還した。その上で、鉄獣戦線に発破を掛け助けに来てくれたのだと、今の結末が語る。口ではなんと言おうと、心根に熱い志を宿す同志であることに変わりないのだと改めて心に刻む。

 

「またキミはそうやって他人の心配ばかり。少しは自分の身を顧みることを覚えたらどうだい」

 

 戦場に出て怪我をする度厳しく言い聞かせたが、全くと反省の見えぬ態度にフラクトールは眉間に手をやった。「全くだ」その隣、ケラスまでもが呆れたと言わんばかりの眼差しを投げる。思いの外厳しい言葉を投げられ、シュライグは居心地悪そうに目を逸らし、言い訳を一つ呟いた。

 

「心配するに決まっている。ナーベルは、大切な仲間だ」

「「だから、その仲間にお前(アンタ)も入ってんだよ!」」

 

 空からの叱責に首を傾げた瞬間、地下通路に飛び降りる姿を見た。

 ああ、と堪えていたものがとめどなく流れていくのを頬伝う一雫に自覚する。時間にしてみればたった一日にも満たない別離で、けれど鉄獣戦線の誰よりも共に過ごした家族の姿に、やっと帰って来れたのだと知る。辛うじて堪えていた想いが爆発する。両隣に立ち支えてくれる腕を払い、よろける馬鹿になった足を叱咤する。

 

「──ルガル! フェリジット!」

 

 都合のいい妄想でも夢でもない──抱き着いた温もりに生きていることへの実感を噛み締め、嗚咽する。

 人目も気にせず今まで誰にも見せてこなかった涙を向けられ、二人は毒気を抜かれ文句を飲み込んだ。子どもの頃に置いていかれた幼い心が、やっと追いついたように声を上げて泣く。鉄獣戦線を率いる団長ではなく、今だけは一緒に旅をしていた頃を思い出させる幼い弟分として、プライドも立場も何もかもかなぐり捨てて縋り着く彼に、強く言えるはずもない。

 だが、ここは戦場──再会の感動さえ命取りとばかり、殺気の矢が放たれる。迫る危機を真っ先に感じ取ったフェリジットが二人を突き飛ばし、自らは地面に突立った瓦礫を盾に攻撃を凌ぐ。

 

「西方教会の時はどうも。あの時の傷、倍にして返すから覚悟しなさい!」

 

 放たれた殺意の光の矢──たったそれだけの情報を元に、敵の正体を突き止めた彼女がリロードと同時に瓦礫蹴り上げ飛び出した。

 敵の姿は見えねども、両者の闘志が静かにぶつかり合う静謐な激闘。ほんの僅か二人を振り返り、けれど戦場を駆ける足は止めることなく。刹那の視線の交わりが何を意味するか汲み、ルガルはフラクトールとケラスにシュライグの身を預ける。

 

「目的は達成した! 二人はシュライグを連れて先行しろ。殿(しんがり)は俺とフェリジットが務める」

 

 それは実質──囮と同義ではないか。

 

「待ってくれ、ルガル! フェリジットも……全員で帰るんだ」

 

 そんなシュライグの切ない願いにさえ応える余裕は無いと、最前線に単身乗り込むことへの躊躇いすらもなくホルスターから銃を抜いた。

 やっと仲間の元に帰れたのに、大切な家族が行ってしまう──なら、自分も共に戦うと、武器も無いのに無謀と勇敢を履き違えシュライグは手を伸ばす。そんな彼の覚悟に触れ、様々な想いに見切りをつけるよう、ルガルは上着を脱ぎ押し付けた。

 

「そいつは気に入ってんだ。後で返せよ」

 

 「リーダーが上裸なんて、示しがつかないだろ?」拷問と凍傷で痛々しい程に赤くなった肌を隠すように、大き過ぎる上着が掛けられる。

 ああ、と震える吐息に温もりを得たことへの安堵と、仲間を死地に送る不安の二つの感情を孕ませ、膝から崩れる。ただのジャケット一枚に込められた想いがあまりに重過ぎて立ち上がれない。

 

「なに、いつだったかの礼を返してくるだけだ」

 

 仮面の結び目を解き、地面に投げ捨てる。顔の半分が潰れ剥き出しとなった牙を見せ唸り、銀世界と化した戦場の静寂を切り裂いて遠吠えを上げる。振り返ることもなく最前線へと出る背中は、残酷なまでに鮮烈に目に焼き付いた。

 

「行くよ、シュライグ」

 

 傷を労るというよりも、今のキミでは足でまといだと非情な現実を突きつけるような声色で、押し殺すようにフラクトールが告げた。

 

「嫌だ……俺も、戦う」

 

 今にも死にそうなか細い声で叫び、しがみつくように土を握りしめるが、その小さな抵抗さえ二人には届かず。駄々を捏ねる子どもとなった彼をケラスが腕に抱える。

 地上での激戦を伝えるように地下通路の空気が唸り、はらはらと土屑が落ちる。放置されて長く、ただでさえ強引に爆破したのだ。崩れるのも時間の問題かもしれないと危惧し、フラクトールが早く行こうと顎をしゃくって合図する。傷に障ると歩みを遅めていたが、悠長に撤退する余裕は残されていないことを罅の入る土壁が語る。

 

「待て」

 

 ランタンを持ったまま先を行くフラクトールを引き止めた。怪訝そうに振り返った彼の眼差しに僅かな苛立ちが見えるも、今更その程度で臆病になるケラスでもない。静かにしろとばかり、口元に人差し指を当てた。

 衝撃に通路が軋む音、痛みに喘ぐシュライグの息遣い──それらに紛れ、遠くからゆっくりゆっくり軽い足音と何か大きな物を引き摺る土の擦れる音。暗がりから接近してくる誰かの気配に、フラクトールがランタンを置きボウガンを構えた。

 一拍深く呼吸を落とし、息を潜め晦冥を睨む。ケラスも応戦したいのは山々だが、自衛さえできぬほどに弱ったシュライグを置いて加勢するわけにもいかないと、戦闘に巻き込まれない位置まで下がり身を低くさせる。

 

「……フラクトールさん?」

 

 襲撃への警戒は杞憂に終わったことを、気の抜けた声が告げる。暗がりからひょっこり現れた細っこい身なりに、張り詰めた緊張を一気に解き大きな息と共に肩を下ろした。

 

「ナーベル、無事で何よりだ」

 

 悪運の強さか目立った怪我も無くけろっとした様子に──けれど安心も束の間、何故ここに彼がいるのかとふと冷静を取り戻し、背筋に嫌な汗が流れる。

 

「ナーベル……キミは、後方支援部隊にいたよね」

 

 後方で援助に回っていた隊員が何故ここにいる? まさか、前線より先に後方部隊が制圧されたか。それならば、退路は断たれたも同義で鉄獣戦線は決して少なくない数の犠牲を余儀なくされる。

 ただ、彼の纏う雰囲気はどこか緊張感が抜けていて、壊滅に陥ったようには見えぬお気楽な調子で述べる。

 

「いや、ちょっと野暮用で部隊からこっそり抜けてきたんすよ」

 

 職務放棄という事実にどこか居心地悪そうに目を逸らしながら。フラクトールは胸を撫で下ろし「そうか」と短く頷いた。持ち場を離れた理由はどうあれ、隊が無事であることに安心し咎める言葉は吞み込んだ。

 「それよりも」と、ナーベルは気を引き締め背筋を正す。彼の眼差しはケラスに抱えられたシュライグに向く。

 

「なんてザマっすか」

 

 それが死にかけるリーダーに向ける言葉かと、小生意気な態度に二人の視線が鋭さを増す。二人の顰蹙を買ったことは自覚しつつも、声にしたからには後には引けないと臆病を引っ込め嫌味を吐いた。「死体と間違えるとこだったっす」と、最高の皮肉を一言ぶつけて鼻を鳴らす。

 

「戦争を終わらせるなんて大見得切ってこのザマっすか! この程度でくたばっちまう覚悟で償う? 笑わせんなっす……ルガルさんもフェリジットさんも置いて、アンタは結局逃げるんだ!」

 

 声にあらん限りの軽蔑を乗せ、これでもかと侮辱の限りを吐き捨てる。傲慢? 無礼? そんなの今更を承知で、息をするように罵詈雑言が絶えず出ていく。

 

「ナーベル」

 

 フラクトールが諭すように静かに名前を呼んだ。それを舌打ち一つで一蹴し、彼の眼差しはひたすらシュライグにのみ向く。

 

「本気でオレの気持ちと向き合うって言うなら、死んでも戦い続ける覚悟くらい見せろっす!」

 

 喉が裂けんばかりの叫びが薄く消えて、刹那の沈黙。乱れた息を繰り返し、けれど腹の内で抱えていたこと全てをぶちまけてどこか誇らしげに口角を上げて睥睨する。

 シュライグは──ぶつけられた想いに廉直に向き合い、震える足を叱咤する。今にも倒れそうな体を気力だけで持ち上げ、一歩ずつ倒れぬようにゆっくりと、力強く踏みしめ前に出る。ケラスが支えようと手を添えるが、それさえ払い、ナーベルと向き合った。

 

「ありがとう、ナーベル」

 

 罵られたことへの反論ではなく、その逆──心からの感謝を述べる。

 

「勘違いすんなっす。これはオレのケジメのつもりで来ただけっすから、己惚れんなっす羽なし!」

 

 引き摺って歩いていた荷物の布を払い、中身が露になる──それは戦場で手放したシュライグの愛銃で、捕虜になった際ドラグマの連中に押収されたものだ。

 そう、彼が単独行動している理由──それは、処刑で警備が手薄になるのを見越して盗みに入るためだ。「誰かさんの手癖の悪さが移っちまったっすよ」何でもないように告げるが、小さい体にどれほどの危険を承知で潜入したのか、それが想像できぬほどにシュライグは鈍感ではない。

 

「精々暴れて来いっすよ」

 

 餞別とばかり、革袋を投げ渡した。中身は強心剤と鎮痛剤、そして一粒のドロップ。戦場に送り出すにあまりに心許ない手持ちだが、発破を掛けるに十分過ぎるほどの気遣いだ。それを無碍にする気も無いと、躊躇いもなくドロップごと薬を噛み砕く。

 

「二人とも。悪いけど、戦場に出ると言うなら見過ごせないね」

 

 黙って送り出すわけにはいかないと、フラクトールとケラスがそれぞれ立ち塞がった。最悪力ずくで止める覚悟で、手のひらに拳を打ち付ける。それもそうだ──ルガルとフェリジットに託され、ましてやシュライグは怪我人だ。かすり傷すら命取りで、今でこそ己の足で立っているが、瀕死の体を気力だけで動かしているのが現状だ。

 ケラスとフラクトールが視線を送り合う。多少手荒になろうと四肢を折ってでも無理矢理連れ帰るしかないと、言葉も必要とせず語るその須臾、乾いた衝撃音──

 

「──ッ!?」

 

 手を掠めた鋭い熱に、堪らずフラクトールは武器を落とした。見れば、刹那のやり取りさえ隙とばかりナーベルが銃口をこちらに向け睨んでいる。邪魔をするな──剣呑とした光を宿す両眼がそう語る。

 時間にして数秒──互いの凝視が空間を切り取り、気が逸れたのを好機にシュライグは二人の間をすり抜けて駆け出した。

 やられた! 追いかけようと振り返るが、再度発砲音が二人の意識を縫い付ける。威嚇とはいえ、その命中精度ははらりと落ちる焼き切れた髪の毛が証明する。頭が切れるわけでもなければ腕っ節が強いわけでもない。けれど、射撃の精度で言えば、ナーベルはシュライグにも並ぶほどの腕前を持っている。その気になれば、眉間を撃ち抜くことさえ容易だ。

 動けば忽ち鉛が風穴を空けると脅す、緊迫感──その緊張をすっと溶かすようにナーベルは一言発した。

 

「──樹液っす」

 

 この場にいる誰もが、なんの事だ? と、内心首を傾げただろう。それでいい、今から告げる言葉はただの独り言だと、誰の返事も受け取らず続けた。

 

「オレの故郷じゃ、どの家庭にもお菓子には林檎の樹の樹液を入れるんっすよね……クッキーも例外じゃないっすよ」

 

 元が痩せて貧しい土地だった──木の皮さえ剥がして食わねば飢え死にすると、生き延びるための足掻きとして根付いた味だった。他の集落じゃあ、馴染みの無い文化だろう。

 おふくろの味が恋しいなら、悔い無く戦い帰ってくることだな。これ以上は何も語る気は無いと、振り返ることなく通路を駆け抜ける背中を見送った。

 一方地上では、惨憺たる激戦が繰り広げられていた。ある者は無数の風穴を空けられ、ある者は骨をもすり潰すほどに身を砕かれ、ある者は雷撃に炭と変えられ──あまりに一方的な、蹂躙にも等しい白兵戦。戦況は圧倒的鉄獣戦線の不利であった。

 天啓と呼ばれる知将アディン。鉄槌と恐れられる武人テオ。ドラグマが誇る将を相手に、ルガルとフェリジットは真綿で首を絞められるようにじわじわと押されていた。

 

「大人しく投降するか、二人とも」

 

 戦場に似つかわしくなく軽薄な笑みを浮かべ、テオの挑発が鼓膜を叩く。冗談じゃないとフェリジットは鼻で笑って一蹴し、弾薬を充填する。押し迫る脅威を相手に、虎視眈々と隙を狙うような好戦的な光を瞳に宿し、銃口を向ける。重畳だと、向けられる敵意に廉直に応え槌を構え直す。

 

「あの頃とは変わりましたね。尻尾を巻いて我々から逃げたはずが、今こうして戦っているのが未だ信じ難いことです」

「俺だって信じたくねぇよ。あの頃助けてくれたお前らが、今こうして敵として戦わなきゃいけねぇだなんてよ」

 

 テオとフェリジットの戦いが滾るような熱戦である一方、努めて冷静にルガルはアディンと対峙する。荒々しさを鎮め、雪に融けるように気配を殺し隙を伺う静謐な命の奪い合い。同じ戦場を共にしながら、まるで異なる空間にいるかの如く切り取られた激戦。

 そして、それを凪いだ目で監視する者がいる。吹雪いてきた雪の向こう、日の出に薄らと明らむ東の空を背に立つ影。フルルドリスだ──彼女はルガルとフェリジットの相手をテオ達に一任する一方で、一騎当千鉄獣戦線の隊を叩く。それだけでなく、こちらの動向を探り必要とあれば援護に回れるよう目を光らせている。一騎打ちに見せ掛け、その実テオとアディンの背後にはフルルドリスがいるのだ。寧ろ、彼女こそがこの戦場で一番厄介な死神にも同義である。

 

「テオ、アディン……潮時だ」

 

 聖痕を介し伝わった声の意味に、二人は短く頷いた。

 それは撤退の指示ではなく、殲滅を意味する。先の言葉、フルルドリスは時間のかけ過ぎだと二人を咎めたのだ。

 無情にも雷鳴が轟き、黎明を引き裂いて霹靂が駆け抜ける。電光石火の生きた雷撃が二人の首を斬り落とそうと肉薄したその時だった──

 

 ──咆哮!

 

 風が追いやられ空気が震撼するほどの圧に、戦場の時が止まった。そう、その獣の叫びはこの場にいる全員の闘志さえ鎮め恐怖を植え付ける覇気を纏っていた。

 気迫──否、鬼迫。空間がしなるほどの峻烈な闘気が迫る。風を切り裂き、冬の寒ささえ押し退ける。まるで放たれた矢のようにそれは止まることを知らない。

 ああ、と沁みるように吐息を漏らしたのは誰だったか──一方は本能的な恐怖を抱いて後退り、一方は希望を見出し固唾を飲んだ。

 凍り付いたように誰もが時を止めて立ち尽くすなか、一人迫る覇気に立ち向かう者がいた。風と一体となった翼に、霹靂の女が盾を向ける。ぶつかり合う闘志が爆発を呼ぶ!

 

「ぐあっ!?」

 

 神器の最強の守りを以ってしても防ぎきれぬ衝撃が骨に伝わる。堪らずよろめいたところを好機と捉え、鎧に爪を食い込ませる。

 

「うがあああああっ!」

 

 猛りの咆哮に紛れみしりと嫌な悲鳴を拾い、咄嗟にフルルドリスはつなぎ目を解き鎧を捨てた。次の瞬間、足の爪は容赦無く鋼鉄を踏み砕きそれはまるで割れた氷のように輝く破片が雪に落ちた。

 強襲──否、凶襲。凶鳥の名に恥じぬ獣の一撃が歴代最強と謳われた聖女を初めて追い込んだ。フーッと、肩を震わせて息を吐き目を剥く姿は、まさに手負いの獣そのもの。痛みを訴え拍を速める心臓さえ、もはや生への執着を加速させ内なる野生を覚醒させる。

 

「シュライグ……」

 

 ぐるると喉を蠢かせ唸りを上げ、二人を背に歯茎を剥き出しにする。一番の手負いに庇われたという事実がルガルとフェリジットに様々な感情を植え付けるも、情けなささえ覚える暇も与えずシュライグはフルルドリスに襲いかかった。窮鼠猫を噛み殺さんばかりの殺気を放ち、圧倒的強者に戦いを挑む。

 

「くそっ!」

 

 雷光が如き瞬速の剣さばきさえ抑え込む猛攻。フルルドリスの剣筋など全てが止まって見えると言わんばかりに──否、それもあながち間違いではなく、今のシュライグはフルルドリスの一挙手一投足全てに反射で食らいつく。

 誰も助太刀に入れない、二人の闘志に支配された空間。下手に横槍を入れようものなら、忽ち気迫だけで気絶してしまう危うい気配を感じさせる。

 濃い血の臭いが鼻腔を刺す。消耗が激しいものの押しているのはシュライグであった。我を忘れたかのように鬼気迫る連撃を繰り返す。爪で装甲を砕き、顕になった肌を翼で殴り付ける。距離を取れば反動で骨が砕けることも構わず銃を乱射する。全身を諸刃の剣に捨て身の特攻を仕掛ける彼を、誰が止めることができようか。もし、止められるとすれば、どちらかが死ぬ時だろう。

 だが、猛獣に成り下がろうと体力は何れ尽きる。着地した足元が僅かにふらついたのをフルルドリスは見逃さず、たった一歩で距離を詰め後頭部を掴み、膝蹴りを顔面に叩きつけた。

 

「「シュライグ!?」」

 

 雌雄は決した──否、まだだ。致命的な一撃に僅かに安堵した彼女に向け隙だらけだと罵るように、シュライグの両腕が伸びる。一見、戦場であることも忘れる熱き抱擁──

 

「うぶっ!?」

 

 ──に、見せかけた頭突き。

 背中に手を回したのは抱き締めるため? まさか──逃げ場を殺し、やられた分を倍以上にして返すため。打ち付けた額に鼻の骨を潰される。

 互いに鼻の骨を折られた衝撃に脳を揺さぶられよろめいた。回る視界によたよたと後退り、そこでようやく満たされていた殺気が霧散する。

 最悪にして最凶の敵に与えた討ち取る好機──だが、誰も武器を構えることはない。二人の激闘の余韻に当てられ、この空間で唯一許されるとすればそれは心拍を刻むこと。

 

「──フルルドリス」

 

 口火を切ったのはシュライグであった──流した血の分だけ頭に昇っていた熱が冷め、ようやく理性が戻ってきたというところか。瀕死のまま崩れるように膝を着き、潰れた鼻からとめどなく血を垂らす。

 

「お前が理想を諦めたのは、妹を……エクレシアを守るためだろう」

 

 地下牢に訪れ敵と知りながらも慈愛の心を向ける優しき聖女。フルルドリスのように強力な奇跡は無いけれど、確かに彼女は聖女を名乗るに相応しい強い心を持った少女であった。

 約束を違えたのは、シュライグ達のことを裏切ったからではない──真実は彼女のみ知るが、とはいえシュライグはエクレシアに会い言葉を交わした瞬間、確信を抱いた。彼とエクレシアは種族も境遇も異なるけれど、同じ真っ直ぐな心根を持つ。今でこそシュライグは戦場に立つが、昔は彼女と同じくフルルドリスに守られ助けられた立場だ。だからこそ、別離を経てフルルドリスが多くの苦悩を抱き葛藤したのだと分かる。彼女は信念を曲げたのではなく、血の繋がらぬ妹のため、敵対せざるを得ない事情を受け入れるしかなかったのだ。

 

「だが、俺にも守らなければならない仲間がいる。だから──」

 

 鼻血を拭い僅かに下を向いていた顔を上げる。翳り無い瞳が強い意志の炎を抱き、曇りなくフルルドリスの眼差しを捉えた。視線は外さないまま、何か覚悟したように喉を蠢かせて深く息を吐く。

 

「お前が諦めてしまった、争いとは無縁で誰も傷つかない世界。それは俺が引き継ぐ。その理想が実現するまで、俺達は敵同士だ」

 

 懐かしむように目を細め、そんな彼が言葉を発する度雪の積もる戦場に何か暖かいものが突き抜けていく。

 あの時逃がした心を砕かれ声を失った少年が、大人になり少女が諦めてしまった理想を繋ぎに帰ってきた──

 

「──そうか」

 

 たった一言の呟きが何を意味するのか──ただ、思い出に易易とは触れさせない鋭い雰囲気が僅かに緩んだことをシュライグは感じ取り、銃を握り直した。ここは戦場──今のシュライグとフルルドリスは敵同士だ。互いに守らねばならぬものを背負いこの場に立つ。思い出をなぞるような素朴でほっとする時間など、本来あってはならない。

 緩やかに真剣みを帯びた目が空気を舐める──互いに潰された顔を晒し、遠ざけていた戦場の空気が戻ってくるのを感じ雪を踏み締める。

 最初に地を蹴ったのはどちらだったか──そして戦いの再開を切り裂くように、空が空気が真っ二つに割れた。

 

「嘘……このタイミングで、ホールの出現だなんて」

 

 それも歴史上類を見ないほどに巨大なもの。そこから産み落とされるのは、雪どころか建物ひいては大地さえも灰燼に変えんと迫る高温の竜。まさに生きた厄災。

 

「──エクレシア!」

 

 戦いさえも捨て、好敵手を前にフルルドリスは背を向けて走り出した。向かうはホールの落下地点。そこは今は使われていない旧聖堂の位置する場所で、市民の一時避難場所となっている。避難誘導の指揮を取っているのは聖女エクレシアだ。

 遅れてテオとアディンもフルルドリスに続いた。シュライグ達が不意を突く卑怯な連中でないことを理解した上での敵前逃亡だ。

 そして嵐の去った戦場に、残された三人は暫くぼうっとしていた。フルルドリス達どころか、その指揮下にあった兵も撤退したことを肌で感じる。

 

「俺達……生き残れたってことだよな」

 

 生への有難みを噛み締めるように深く深く息を吐き、ルガルが崩れるようその場に座り込んだ。激戦は止んだのに、未だ情けなく膝が震えていることに自嘲の笑みを浮かべ、古傷に触れる。

 

「死ぬかと思った……」

 

 本気で死の危機を感じたのは二度目だ。一度目は西方教会を脱出する時。そして二度目は今日──こんなこと二度とごめんだと忌々しく吐き捨て、フェリジットが愛銃を支えに安堵の息を吐く。

 張り詰めていた緊張の糸がぷっつりと切れ、今更のように腰を抜かす。そんな二人に労る言葉も掛けず、シュライグは──裂けた空を睨んで立ち上がる。

 

「──行こう、二人とも」

 

 休む間もなく唐突に落とされた呟きに、二人は「えっ?」と、間抜けな声を上げた。この場で一番の重症が、僅かな休息さえ拒み歩み出す。ふらりと今にも倒れそうな体に、銃さえ投げ捨てるほどにルガルは慌て、シュライグの砕けた手を取った。

 

「馬鹿言うな! 撤退の好機をみすみす逃す気か? 本気で死ぬぞ!」

 

 ただでさえ瀕死のところ、無理矢理に戦場に帰ってきたのだ。これ以上の戦闘は命に関わるどころか、もうすでに命の前借りは限界まで来ている。ポックリ倒れて心臓を止めてもおかしくないほどに彼は弱っている。

 だが、ルガルの泣きそうなほどに切実な訴えさえも届かず、彼の眼差しはホールただ一点に向けられていた。己の身を顧みることさえ知らず、気遣いさえ無碍に弱々しく手を払う。

 

「あそこには、聖女がいる。俺とナーベルを助けてくれた」

 

 聖女エクレシア──今、こうしてシュライグが戦場に立っていられるのは、彼女の助力あってだ。この大きな借りを返さないまま撤退するわけにはいかないと、命知らずにも義理堅さを見せて雪を踏み締める。

 

「んなもん、ドラグマの連中に押し付ければいいだろ!」

「なら、ルガルは残った団員を連れ撤退の指揮を取ってくれ」

 

 違う、そうじゃないだろ……悲しむよりも先に、ルガルは呆れて眉間に手をやった。どうやったら、このわからず屋を止められる? どうやったら、この無鉄砲を説得できる。藁にもすがる気持ちでフェリジットに目を向けたその時だった──

 

「シュライグ」

 

 凪いだ声で名を呼んだ。怪訝そうに振り返る彼に、フェリジットは燃えたぎるとも冷えきったともどちらにも受け取れるそんな怒りに満ちた眼差しを向け、舌打ちを一つ。

 

「うっ!?」

 

 胸倉を掴み、容赦無く膝蹴りを鳩尾に叩き込んだ。咳き込み唾を吐いて喘ぐところ一撃では足らず、数度膝をめり込ませる。血と胃液をこれでもかと吐かせ、意識を失った体を雪に沈めた。

 

「行くよ、ルガル」

「はっ……いや、置いてくのか!?」

「信号弾は撃った。そのうち迎えが来る」

 

 それよりもと彼女は空を睨み、苛烈な戦いに割れたゴーグルを掛け直す。息抜きは終わりだと、一息で戦士の面構えに戻り愛銃のスコープを拭う。

 

「行って手を貸す必要が無ければ帰ればいい。アイツが入れ込む聖女様の面くらい拝ませてよ」

 

 その気がないなら別に来る必要も無いと、彼女はルガルの返事も待たず歩き出す。ルガルは倒れたシュライグと振り返りもしないフェリジットを交互に見て、そして西の空を見た。日の出の明るみに追いやられるように夜が地平線まで落ちている。信号弾を確認し、待機していた鳥の部隊がこちらに向かって来るのを捉え、仕方ないと銃を拾う。

 

「野暮用片付けたら、すぐ戻る」

 

 聞こえてはいないだろう。だが何も言わず立ち去るのも決まりが悪いと、申し訳ないという気持ちを声に含ませ告げた。

 後に、この選択が閉ざされし世界に一つの混沌を芽吹かせる。否、キセキのタネは既に撒かれていた。描いた通りの物語に進んでくれると、少年は全てが終わった戦場に降り立ち、倒れたままの役者に向け労いと賞賛の拍手を送る。

 

「鉄獣戦線……素晴らしい仲間を持ったね、シュライグ」

 

 声に愉悦の色を滲ませながら、道化は隣に腰を下ろす。ああ、酷い姿だと死体と紛う罪人(英雄)の頬に触れ、死化粧でも施すかのような柔い手つきで鼻血を拭う。口元に触れ呼気を感じ首筋の脈と体温を確かめねば生が分からぬ有様に、精一杯の感謝と侮辱を込め「お疲れ様」と髪に掛かる雪を払った。



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外伝
Episode フェリジット


イベント頒布用のため、印刷会社のフォーマットに合わせています。そのため改行が少なくルビが正しく表記されていませんが、ご了承ください


 ──これは、かなり堪えるな……

 野営地から外れた小川、ランタンを置き川べりに膝を着く。指先に触れる水の冷たさが、身にも心にも沁みるような──戦場の気に当てられ昂ったままの心身には心地よいと、安堵の息を吐き手のひらで水を掬った。

 ばしゃっ、叩きつけるように顔を濡らす。しとしとと前髪から垂れる雫とそれを攫う夜風の冷たさ──春先なのに爪痕のように冬を残す自然、何度も水を顔に叩きつける。腫れあがった目元を引き締めるように、涙を流した痕跡を水の冷たさで上書きするように。

 反対を押し切り、戦場に出て早一か月。仲間を故郷を俺だって守りたいんだ──そんな覚悟を嘲笑うかのように、身も心も限界であった。

「俺はまだ戦える……」

 砕いた頭の感覚、心臓を撃ち抜く引き金の重さ、鼓膜に張り付いたままの断末魔、頭から被る返り血──逆に躊躇ったことで殺されてしまった仲間もいた。子供なんだ、見逃してあげてくれ──その甘ったれた一言と共に、ドラグマの少女は自らの聖痕を爆薬に拠点を吹き飛ばした。誰も口にしないが、生き残った仲間達の眼差しは、お前の所為だと追い詰める。

「俺は……まだ戦える」

 自己暗示否自己欺瞞。声に出して情けない己に発破をかけて、戦場で味わった苦い光景に見切りをつけるように瞼を落とす。ここは戦場でないのだと、一時の安息の地にいるのだと──木々の擦れる音、奏でる虫の声、小川のせせらぎ、あらゆる自然に耳を傾け努めて心を落ち着ける。休める時に休むのも、戦士にとって大切なことだぞ。山積みにやることがあるはずなのに、記憶の中のルガルは口癖のようにシュライグを気にかけてくれる。

「いっ……」

 何度目かの強がりを声に出し、様々な感情に見切りをつけれたところ、思い出したように右手が痛んだ。鋭いとも言える、鈍いとも言える。暴れるような熱が手首に集まり、堪らず水の中に突っ込んだ。

 息は鼻から吸って口から吐くようにしろ、そうしたら痛みがマシになる。食いしばりを解き、痛みから目を逸らし平静を保つように深く呼吸を繰り返す。これで本当に痛みをやり過ごせるのか益々不安は強まるも、排斥される前軍属にあったルガルがそう言うのだ。信じるしかないだろと、肩を震わせながら息を吐く。

 どれほどそうしてやり過ごしたか──永遠のような気もするし、案外とても短い時間だったような気もする。冷やしているうちに、感覚が麻痺したのか痛みが遠ざかっていくような気がしてほっと胸を撫で下ろす。

 痛みをやり過ごすことに集中していたからだろう──シュライグは、背後から息を殺して近付いてくる人物に全くと気付けなかった。

「──隙だらけよ」

 首の皮一枚、赤い筋が走る──爪だ。鋭利な爪が喉仏に触れ、その気になれば貫くことさえ容易な位置で月明かりを反射する。

「フェリ……ジット?」

 恐る恐ると目だけを動かし後ろを見れば、見慣れた桃色の毛並みが視界を掠める。

「単独行動は命取りよ。ルガルから教えられなかった?」

 淡々とけれど怒りを滲ませた声で告げられ、シュライグは目を泳がせた。指摘され、そこで初めて教えられたことを思い出したからだ。

 弁明の余地もなければ口下手がいくら取り繕っても無駄だろう。シュライグは早々に諦め「次からは気をつける」と、努めて冷静に動揺を仕舞い告げた。少し遅れて、ため息とともに爪が引っ込むのを確認してようやくまともに息が吸える。

「アンタ川辺で何してたのよ?」

「顔を洗ってただけだ」

「ふぅん……こんな時間に?」

 疑念を孕んだ鋭い眼差しに、シュライグは居心地悪そうに目を逸らす。嘘は言ってない──ただ、泣いていたことは隠し通したく、赤くなった目に瞼を下ろす。

 とはいえ、フェリジットは昔から感の鋭い女だ。そして義勇兵として、シュライグよりも早くに戦場に出ていた。数年の経験の差が物語り、言われなくともと察しは着いていた。

(まぁ、一ヶ月頑張った方よね……)

 むしろ、まだ潰れていないだけマシか。弱音一つ上げぬ姿に、感心さえ抱く。早い奴は一週間と経たず去るか死ぬか。それを思えば、彼は根気強く立ち向かった方と言える。

 むしろ問題は別にある。徐にフェリジットはシュライグの手を取った。触れてほしくなさそうに後ろ手にしていたが、こればかりは指摘しないわけにもいかない。今後のことを思えば尚更だ。

「痛っ!?」

 油断していたところ患部に力を加えられ、思わずと声が出た。しまった──そう言わんばかりに珍しく動揺を顔に出し、彼は下唇を噛んで強情に口を閉ざす。

 心当たりなどいくらでもある──戦場に出れば傷の一つ二つ、手足の一本二本、命さえ残れば贅沢な環境で、ちぎれていないならまだこれは軽傷な方だろうとフェリジットは即座に傷の具合を分析する。

「フェリジット、これは──」

 何か言いたげなシュライグであったが、腫れ上がった右手を捻り無理矢理黙らせる。痛いでしょ? 泣き叫びそうでしょ? いくら鈍感とはいえ、これだけされれば事の大きさが分かるはずだとようやく手を離した。

「いい、シュライグ。アンタはこの程度って思って我慢したけど、これだけ腫れてたら骨が折れてる。利き手が使い物にならなくなるのが致命的なこと、理解できないはずないわよね」

 骨が折れれば武器が握れない。武器が握れないということは戦えない──

 そこまで考え、シュライグは目を背けていた恐怖が胸の内から牙を剥くのを感じ取る。

 足でまとい、お前が仲間を殺した、役立たず──陰ながら団員達から向けられた言葉のナイフだ。抵抗組織を立ち上げ、今はルガルを中心に統率体制が敷かれている。同胞殺しの汚名を背負いながらも彼の人柄に惹かれる者が多くいる一方、後から加わったくせに贔屓されるシュライグを見て、古参の連中がよく思わないのは当然とも言えた。

「ルガルには……黙っててくれないか」

 いつだったかの喧嘩で勝利を収めたとはいえ、彼はシュライグが戦場に出ることを最後まで反対していた。戦えなくなったなどと知られてみろ──鉄の国に強制送還なんて、大袈裟でもなく有り得る未来だ。

「無理に決まってるでしょ」

 治療が遅れたせいで、明日は匙さえ握れぬだろうこれは。

 とはいえ、フェリジットも強く責める気は無かった。それは他でもなく、シュライグが何を思って怪我を隠そうとしたのか心当たりあってだ。怪我のことを早く報告しなかったことは褒められたことではないが、はなからそれについてはルガルに濁して伝える気でもあった。

 シュライグは、ドラグマとの戦争に責任を感じているからこそ、戦えなくなることを恐れている──

「ルガルには上手く言っとくから、とにかく来なさい」

 戸惑う彼の手を引き、野営地に向かう。

 甘くなったものだな、自分も──昔なら引っ叩いて怒鳴りつけていただろうが、歳を取ったことで尖った物言いも丸くなった。といっても、周りから見れば気の強いおっかない女であることに変わりはないのだが。

 「そこに座って」負傷兵の治療もとうに終わったのか、誰もいなくなった医療用の天幕を潜り、彼女は丸椅子に座るように促した。彼は居心地悪そうに体を丸めて言われた通りにする。

 冷水を含んだ布で粗方患部の熱を取り、包帯を巻いていく。それもあっという間で、慣れたものだとガサツな彼女らしくなく几帳面に巻かれた手首を見て、怪訝そうな顔をする。

「戦場じゃね、怪我なんて当たり前なの。アンタもそのうち、嫌でも慣れるよ」

 うんざりと言わんばかりのものを乗せ、ため息を一つ。それでも言葉尻に柔らかいものを孕めながら、さらに告げた。

「だから、怪我をしたらちゃんと言いなさい。戦っているのだから、それがむしろ普通なの」

「フェリジットでも……怪我をするのか?」

「当たり前でしょ」

 アタシをなんだと思ってるのよ、こいつは。と、言いたくなる気持ちをぐっと堪え、救急箱を閉じる。少しでも、耳馴染みのいい言葉を──シュライグの傷心を汲んで、彼女なりにこれでも気を使っているのだ。

「アンタはもう寝なさい。休める時に休めない奴から死んでいく。ここはそういう場所なの」

 少し強めに背中を叩いた。彼女としては、うじうじ悩んでばかりの弟分に喝を入れるつもりで。

「ぐっ……」

 ただ、どういうわけかシュライグは眉を顰め、声を押し殺すように奥歯を噛み締める。確かに強めに叩いたが、鍛えていればどうってことない力加減のはず。それを痛がるということは──

「シュライグ、アンタまだ隠してるわね」

 脱ぎなさい。その一言に、シュライグは困ったように眉尻を下げ「嫌だ」と、聞き分け悪く首を横に振る。怪我をしたなら自己申告しろと口を酸っぱくさせた手前これだ──フェリジットは心底呆れたとばかり眦を吊り上げる。

「今更裸見せ合うことくらい慣れたもんでしょ? ほら」

 世話がかかると服に手を掛けるが、その手をシュライグは払った。予想外に強く叩かれ手の甲が赤くなる──怪しい。いくらシュライグが頑固な性格とはいえ、ここまで頑なに傷を見せぬのは何故だ。

「アンタ……何隠してんの? 言いなさい……言え!」

 昔のような命令口調で、語気を荒らげて、眼差しに怒りを滾らせ──

 だが、シュライグはフェリジットの剣幕に怯みつつも、頑なに首を横に振る。強情な奴め。と、彼女が舌打ちを一つ。いっそ折れた手をもう一度捻ってやろうかと手を伸ばしたその時だ。

「ほっといてくれ!」

 珍しく感情を顕に、シュライグは背を向け全身で拒絶する。

「治療、助かった……けど、今は一人にしてくれ」

 肩を震わせて、絞り出すように喉を蠢かせて──迂闊に触れては壊れてしまいそうな危うげな雰囲気に、フェリジットはかける言葉を見つけられないまま出て行くのを見送る。

「……行っちゃった」

 泣いていた──背を向けたのは、顔を隠すためだ。お節介が過ぎたのだと、今更になって後悔に震える吐息を漏らす。誰もいない、何処か色濃い死の気配を感じさせる天幕の中で、息遣いさえ煩いほどに反響する。

「ねぇ……アタシじゃ、そんなに頼りないの?」

 アンタはいつになっても口下手なままね──昔に告げた言葉を思い出し、行き場の無くなった手を下ろす。

 アタシは、アイツを励ますための言葉を知らない──

 翌日、フェリジットは昨晩の出来事をルガルに報告した。利き手を怪我して暫くは前線に出られないこと。それを隠そうとしたことと、精神的に潰れかけていることは適当に暈して。

「やっぱり、アイツにはまだ早かったか……」

 彼の返事は、なるほどやっぱり思った通りのものだった。最早口癖じゃないかとばかり、同じセリフをここ一ヶ月毎日数時間置きくらいに呟いている気がするが、大袈裟ではないだろう。

「連れて帰るつもり?」

「利き手潰したなら、ほっとけないだろ」

「アイツは残る気だよ」

 すると予想していた通りに、彼は尻尾を膨らませ難しい顔をした。気持ちは分からないでもないが、この場にシュライグがいたなら傷付いた顔をして席を外したことだろう。行き過ぎた過保護は結局誰の為にもならない。

「ねぇ、ルガル。シュライグが家出した時のこと、覚えてる?」

 質問に機嫌を損ねてか、彼の眼差しに鋭いものが宿る。覚えているも何も、墓場まで忘れず連れて行くだろう苦い記憶だ。半年も家出され真っ先に取り乱したのは彼だった。

「一人にしたほうがヤバいと思うけどね、アタシは」

 言葉巧みな誘導だ、これは。目の届かない場所に置いて、勝手に安全地帯を出て行かれるか。それとも、危険が付き纏うがいつでも見張っていられる場所に縛り付けておくか。前者は前例が既に存在する以上、選択肢などもはや飾りだ。

「忠告はしたよ。よく話し合って、面倒事はごめんよ」

 半ば強引に会話を切り上げ、フェリジットは立ち去る。ルガルの気持ちもわからなくはないが、シュライグの意思を尊重したい気持ちもある。つっけんどんな態度を取っておきながら、答えを出し渋っているのは彼女とて同じだった。

 一方その頃シュライグは、医療用の天幕を訪れていた。傷の具合を改めてフラクトールに診てもらい、やはりフェリジットの言った通り骨は折れていた。

「最低一ヶ月は大人しくね」

 包帯を巻き直された手は、鉄心でも入っているかのように全くと緩む気配を感じさせない。どれほど口を酸っぱくさせて言ったところで、どうせ守らないだろうキミは。言外にそう言われているような気がした。

「それと、義翼の方はいつもの痛み止めでいいかい?」

 薬品棚の鍵を開ける片手間に確認を取られ、シュライグは気まずそうに瞼を下ろし頷いた。怪我をして一ヶ月の戦力外通告を受けた手前、元気を出せという方が無理か。とはいえ、フラクトールの目には違和感を伴って彼が映る。具体的な言葉にしようものなら難しいが──思い詰めたように漏らした吐息に、お節介とは分かりながらも踏み込んだ。

「何かあったのかい?」

 するとシュライグは、珍しく分かりやすいまでの動揺を見せてハッと顔を上げた。「顔に出ていただろうか?」と、肩を竦める彼にフラクトールも苦笑いで頷いた。

「フラクトール……俺は、いったいどれほどの仲間を殺したのだろうか」

 怯えと焦燥、そして罪悪感を隠しきれないとばかり声を肩を震わせて──

 何のことだとフラクトールは首を傾げるものの、ふといつだったか拠点で騒ぎが起きたのを思い出す。ルガルが火の不始末による武器の暴発と処理したが、それは表向きのものとばかり影でこのような噂が広まった。

 ──ドラグマを庇って同志を討った忌み子がいる。

 ああ、そうか。そういうことだったのか──全てを理解し、フラクトールは震える吐息を唾を飲んで隠した。

 シュライグは、敵だろうと味方だろうと誰かの死と廉直に向き合う子だ。だからこそ、ドラグマを恨む者達が多数を占める抵抗組織の中、彼の甘ったれた正義は何処にも居場所が無い。

「…………なんでもない、忘れてくれ」

 ぽそぽそと、思い詰めたようにか細い声だった。ああ、これは相当参ってるな。付き合いももう何年になるか、いい加減口数の少ない彼の思考が読めるようになってきた。

「シュライグ……仲間が死んでいくのを見るのは、怖いかい?」

 答えなど分かりきっていたが、あえて言葉にして尋ねた。声に出して、初めて伝わるものがこの世には沢山ある。いくらシュライグが口下手であまり話したがらないとはいえ、思いを声にするだけで気が安らぐ。それが会話、広義のスキンシップ。

 ただでも、いきなり喋れと言われてすぐ声にできるような器用な子でないことは、長年の付き合いで知っていた。だからとてコミュニケーションを疎かにするのも違い、首振り一つで答える彼を特別責めることはせず。

「なら、一人でも多く救うんだ。知識があれば助けられる命がある。手が治るまで、キミは私の助手だよ」

 「ちょうど猫の手も借りたかったんだ」それが傷心に寄り添うべく出された言葉とは思わせないように、ただ人手が欲しかっただけと付け加えて。きっと正直に伝えてしまっては、慣れもしないのに変に気を遣うだろう彼は。シュライグのことをよく知っているフラクトールだからこそできる、目に見えない配慮だった。

 それでも、この判断がいい方向に働いたのは事実だ。前線に出られなくなった彼に最初に教えたのは応急処置。心停止は?頭部外傷は?教えた処置の飲み込みは乾いた土が水を吸うように早く、仲間をどれほど大切に思っているのかが透けて見えた。ただでも、トリアージだけはどうしても苦手で、最後まで黒いトリアージタグを巻けなかったのは、彼の優しさかそれとも弱さか。

 臆病風にやられた心がすぐに治ることはないけれど、それでもいつかはシュライグも戦場に戻るうえ彼自身もそれを望んでいる。親のような立場から言えば、フラクトールとしてはシュライグは勿論ルガルにもフェリジットにも戦場には出てほしくないが、それが身勝手なエゴであることを分かってはいる。

「何事も……無ければいいんだけどね」

 そんな願いも虚しく、事件は起きた。それはシュライグが処置にも慣れ、衛生兵の業務を一人で任せられるようになった頃のことか。

「退いてくれ。怪我人が後ろにいる」

「いいや、退かねぇな」

 衛生兵としてベースキャンプを駆け回るシュライグ。そんな彼の邪魔をするように、熊の獣人が立ち塞がった。彼の後ろには、足を負傷し立ち上がれない兎の獣人が。命に関わるものではないとはいえ、放置すれば戦線復帰ができるかどうか怪しいだろう。

「お前……ルガルさんの弟なんだっけか?」

「……そうだ。ルガルは俺の家族だ」

 けれど、それは今関係無いだろう。顔には出さずとも苛立ちを隠すことなく翼を広げ威嚇する。「おお、怖い怖い」シュライグの倍ほどはある肩を竦め、熊の獣人は思ってもいないようなことを呟いた。

「調子に乗るなよ、百舌鳥の分際が」

 何が彼の神経に触れたのか──それさえも分からず振り下ろされる拳。怒りに任せているわけでもなく、それはどちらかというと猫が鼠を虐めるものに近かっただろう。所謂遊び、戯れ──それに付き合わされる鼠にとっては脅威であっても、猫に鼠の気持ちが分かるはずもない。

 今の状況を一言で表すのなら──運が悪かった。彼の腹癒せに、たまたまシュライグが標的になっただけ。それだけだ。

「ぐっ……」

 だがしかし、振り下ろされた拳を受けたのは彼ではなく──二人の間に割り込んだフェリジットであった。力加減をしているとはいえ、元が身体能力の高い熊だ。殴られた衝撃によろめき後退る。そんな彼女を咄嗟にシュライグが受け止めた。

「フェリジット──」

 ──大丈夫か?

 そう尋ねるよりも早く、彼女はシュライグの手を振り払い鼻血を拭う。殴られた衝撃の目眩を(かぶり)を振って追いやり、止める間も無く掴みかかった。

「ざっ……けんじゃないわよ!!」

 バキッ──貰った一撃よりも何倍も重い衝撃音。掴んだ胸倉を引き寄せ、鼻を殴り潰したのである。

 爪を出さなかったのは温情か──手加減は、一応しているつもりなのだろう。引っ掻き傷は付けないものの、彼女の怒りに触れた拳は容赦無く顔面を叩き、耳を引っ張り、睾丸を蹴り飛ばす。彼女が窮鼠であったなら、猫はもう噛み跡だらけだろう。正当防衛と呼ぶにはあまりに可愛げがあり過ぎる。過剰防衛の範疇だろうと、目の前の騒動にすっかりシュライグは掛ける言葉を失い立ち尽くす。

「こ、降参だ! 俺の負けでいい!」

 潰された睾丸を手で覆いながら、プライドなんぞかなぐり捨てて熊の獣人は平伏した。未だ牙を剥き出しに尻尾を膨らませるフェリジット──巻き添えを恐れ、誰も声を掛けられず集まった野次馬はヒソヒソと。

「やめろ、フェリジット!」

「止めんじゃないわよ!」

 まだ足りないと暴れる彼女を羽交い締めにシュライグは後退る。一度激昂した彼女を止めるのは骨が折れるが、それでもシュライグとて成長し彼女よりは背も高く肉も着いたのだ。純粋な膂力で何とか押さえつけ、宥める言葉を訥々と述べる。

「向こうに戦う意思は無い。これ以上はやり過ぎだ」

「灸を据えただけよ!」

「だからって、加減がある。相手は仲間だろう!」

「その仲間相手に先に手を出したのは、どこのどいつよ!」

「ぐっ──」

 そこらの狼の獣人よりよっぽど狂犬だと密かに仲間内から恐れられているフェリジットが、手を挙げた──否、振りほどこうとした手がたまたまシュライグの右手を強く払ったと言うべきか。とにかく、包帯を巻いていた患部に力が加わったのは確かである。

「ご、ごめんシュライグ……痛かった?」

 咄嗟とはいえ手を出してしまった──それも怪我人に。

 その事実に、頭まで登っていた血が落ちるように急激に冷めていくのを感じ、無意識に唾を飲む。緊張から口の中は渇き、唾液さえ苦い。背筋に嫌な汗が伝うのを感じるのは、それだけシュライグに対しての愛情深さがあるから──彼女が今胸に感じる痛みは、大切な人を傷つけてしまったもの。

 騒動に、人が集まりだした──それは好奇心を抑えられない野次馬が多数、騒動を収めようと慌てる善人が少数。どちらにしろ、今集まった彼らの目に映る光景は、蹲り頭を抱えて怯える熊の獣人と怪我をした手を押さえるシュライグ。そして──返り血を頭から被ったフェリジット。

 顛末のたった一部分だけ切り取られた現場を前に、彼らは清濁をどう判断するか──向けられる冷ややかな眼差しは、当然の如くフェリジットに集まる。それにいち早く気付いたのは彼女本人ではなく、シュライグであった。

「平気だ……それよりも、フェリジットは兎の彼女に手を貸してあげてほしい。足を負傷している」

「え、ええ……」

 患部の痛みも呼吸一つで追いやり表情は淡々と──それでも、言葉尻に僅かながら柔らかなものを隠しきれないまま告げて。それは最初に虐げられた兎の獣人に向けて、罪悪感に押し潰されそうなフェリジットに向けて──二人だけにではない。一見何の感情も込められていないような眼差しの奥には、仲間思いが透けて映る。それは等しく、仲間であるならと発端となった熊の獣人に向けてもだ。

「キミも……そのままでは痛いだろう」

 蹲ったままの彼に、来いとばかり顎をしゃくる。すっかり戦意を失った熊の獣人は、従わなければまた殴られるとでも思ったのだろう──染み付いた弱肉強食、彼が大人しく尻尾を振るべき相手が誰かは明らかだ。

「──なんでキミ達は問題ばかりを起こすのだい?」

 医療用の天幕に入って開口一番、フラクトールに告げられた台詞はそれだった。まだシュライグ達は一言と発していないのに察しの良過ぎる彼は、すぐに喧嘩だと気付く。戦場でもないのにフェリジットが返り血塗れというのは、つまりそういうこと。

「シュライグ、奥の天幕で二人を診てあげてほしい」

「分かった」

 二言返事で頷いて、彼は兎の獣人に肩を貸し熊の獣人に着いてこいと顎をしゃくって無愛想な合図を。

「にしても、熊の獣人が仲間に手を上げるなんて……」

 奥の暗がりに三人が消えたのを見届けてから、嘆息と共にそんなぼやきがフラクトールの口から漏れた。「これで何件目だ……」と、ため息混じりの呟きに、フェリジットは目を見開く。

「待って……その口ぶりだと、前もあったの?」

「あっ、いや……今のは──」

 フラクトールとしては独り言のつもりであったが、壁に耳を当てずとも隣の部屋の会話を拾える猫の聴覚だ。例えそれが囁き声程の呟きだろうと、彼女の耳にははっきりと届く。

「……いや、遅かれ早かれ誰かしら気付く。キミも知るべきだね」

 覚悟を決めたように瞬き一つで迷いを払い、彼女に診察用の丸椅子に腰掛けるように促した。つまり、それだけ話が長くなるということだ。

「元々抵抗組織は各部族ごとに存在した。他部族同士で協力し合うよう働きかけたのは、ルガルとフェリジット……キミ達二人だ」

「それは……そうね」

 義勇兵となった二人が起こした行動は、檄を飛ばすことだった。それは他でもなく、戦力の限界を痛感してだ。フラクトールの計らいで馬の部族に所属することとなった二人だが、小部族が集まったところでドラグマからすればなんら脅威ではない。元々統率の取れた大軍を相手に、部族が個々で挑んだところで勝敗は明らかだ。

「最初に比べると随分な大世帯となったよ。今じゃ抱えていないのは鳥の部族くらいかな……まあ、こればかりは仕方ないね」

 長い年月を掛けて鳥の部族は絶滅の一途を辿っていた。それは他でもなく、ドラグマとの戦争の起爆剤となったのがシュライグだからだ。言いがかり一つで滅んだ集落はどれほどあるか。

「本題に戻ろう。端的に言うと、組織内で格差が生まれている」

 格差──その一言に息を呑むも、心当たり無いと言えば嘘になる。

 今日の騒動は彼の提示した問題が浮き彫りとなった一つだろう。熊の獣人が兎や百舌鳥という遺伝子的に弱い境遇の獣人を虐げる──捕食者と被捕食者、弱肉強食、食物連鎖。説明できる言葉は沢山ある、あり過ぎる。

 ──ほっといてくれ!

 ふと、シュライグが前線から降りるきっかけとなった日のことが思い出された。あの時、彼は何かを怪我と共に隠している様子だった。結局有耶無耶になり、怪我の正体は突き止められずに終わった。

 彼は……知っていたのではないか。今の現状を──

「相談……くらい、してよ」

 いくら口下手だからって、どうして何も言ってくれないの。アンタ嘘吐くの下手なんだから──過去、彼に告げた嫌味を思い出して、口の中で張り付いた唾を飲む。

「……シュライグは昔から、何でも抱え込む子だからね」

 もう慣れた──そう言わんばかりのものを態度に滲ませて、詰めた息をゆっくりと吐く。

「ルガル、フェリジット、そしてシュライグ……キミ達は例外だ。例外が、過ぎていたんだ」

 種族を超えた絆──言葉にするのは簡単だ。けれどそれを築くのがどれほど困難な道程か。身寄りもなく、雨風凌げる場所も明日食べる物さえも。誰も腐らず誰も見捨てず──偏見など無しに、対等でいること。これができたのは他でもなく、一人一人の心の強さによるものだ。

「この件はキミ達が思っている以上に複雑だ。下手に動けば内部分裂が加速し、組織は空中分解だろうね」

 それだけ告げて、彼は徐に煙草の包みを開けた。昔は「煙草なんて、ヤブのやることだよ」と、笑い飛ばしていたのに。そんな彼を変えたのは、戦争か、あるいは組織の現状か。

「……明日から、キミを取り巻く環境は一変する。覚悟することだね」

「忠告されなくったって……分かってるわよ」

 報復──は、されないだろう。今まで鼻についていた連中が尻尾を振って(こうべ)を垂れるだけ。なるほど、想像するだけで胸糞悪い。

「水浴びのついでに頭冷やしてくるわ」

 血の臭いは臭い──髪に服に着いた返り血の臭いを嗅いで、ため息を。騒動は収まったというのに、それでも冷静になりきれない部分を自覚しながら丸椅子から腰を持ち上げる。

「──フェリジット」

 これ以上血の臭いを振りまくのも迷惑だろう。そそくさと立ち去ろうと入口の布を掴んだあたりで、名前を呼ばれて振り返る。

「今回は……まあ、やり過ぎなところはあったけど。それでも、キミは仲間の為に戦える。見て見ぬふりをせず、虐げられる誰かに手を差し伸べられる。それはキミの──キミ達の強さだと、私は誇りに思うよ」

「……ありがと」

 彼女が天幕を出て暫くの空白を設けてから、緊張を全て振りほどくように肩を落としてため息を。先程告げた言葉がせめてもの励ましになればいい。厳しい言葉も含め、ありのままの気持ちを伝えてそれからどうするかは彼女次第だ。

(──でも、問題は何一つとして解決していない)

 抵抗組織内での格差──知らなかったわけではない。それこそ、フラクトールとて嫌味の一つ二つは既に貰っている。問題は、それが徐々にエスカレートし表面化しつつあることだ。

(ルガルに伝える……いや、聡い彼のことだ。既に知っているはず。知っていて現状を変えられないのか)

 トップに立ち組織を牽引しているのはルガルだ。部族間での抗争を止めるよう働きかけ纏めたその手腕から、リーダーとして文句無い器と言えよう。そんな彼でも、難しい問題に今直面している──

「──フラクトール」

「わっ!?」

 背後から呼ばれると同時に肩を叩かれ、頓狂な声が煙草と共に口から飛び出た。

「すまない、驚かせた」

「な、なんだ……シュライグか」

 フラクトールが考え過ぎていたのか、それともシュライグの息遣いが静か過ぎたのか──戦場だったら死んでいたな。と、己の不注意に内心苦笑いしながら落とした煙草を踏み消し振り向いた。

「処置は終わった。彼女を送り届けてくる、後は頼めるか?」

 肩を貸す兎の獣人を尻目に告げられ、予想外の処置の速さに驚きつつも頷いた。シュライグなら大丈夫だろう。騒動があってすぐだ、先のように絡まれることはきっと無い。

「送り届けたらキミも早く休みなさい。疲れただろう?」

「それは申し訳ない」

 間髪入れずに首を横に振る彼の反応は思った通りで、その真面目っぷりに呆れるやら感心するやら。強情なのは褒められたことでもないが。

「子どもが遠慮するものでもないよ」

「……もうそんな年じゃない」

 ただ、扱いとしてはフラクトールの方が一枚上手だった。シュライグになんて言葉を送れば頷くか──ちょっと子ども扱いして揶揄ってやれば、拗ねて不服そうに従う。長年共に過ごしていればこの程度、考えなくても分かる。

 真一文字だった口をへの字に曲げ(それでも殆どの人は真顔と区別がつかない)彼は天幕を出ていく。その背中を見送る際、ふと脳裏に過ぎるものがあった。

(もし、シュライグがリーダーだったなら──)

 今抱える組織内の格差はどうなっていただろうか──もしかすると、生まれてすらなかったかもしれない。

 強いものが頂点に立つ──これは自然の摂理だ。弱肉強食社会の常識だ。故に、ルガルがリーダーに立つことを誰も疑問にも思わず受け入れた。そしてルガルもまた、その期待に応えられるだけの力があった。

 でも、もし上に立つのが──シュライグであったなら? 獣人社会に根付いた常識を覆し、新しい風を吹かせていたかもしれない。羽なして虐げられてきたが故に、彼は誰よりも虐げられることの苦しみも寂しさも知っている、そして寄り添える。

 一番目立つところに彼が立つ──彼という存在が、強い意味を持った主張となる。

(……いや、馬鹿なことを考えてしまったな)

 シュライグを相手にリーダーと呼ぶと考え、嗚呼──しっくりくるようなこないような。曖昧で答えの見えない感覚につい笑みが零れた。

 人前に立つだなんて、それこそシュライグは苦手だろう。寡黙で、相手がルガルだろうがフェリジットだろうが元より口数の少ないような子だ。そんな彼に慣れないことをさせたところで、心労を抱えさせるだけだろう。

(現状、やれるだけのことはするさ……)

 しがない軍医でしかないが、フラクトールとて故郷を守りたい意志を持ってここにいる。種族は違えど故郷を想う気持ちに差が無いから成り立っているような組織だ。このまま内部分裂だなんてくだらない理由で故郷諸共滅ぶのはごめんである。

 しかし、そんな彼の決意を嘲笑うかのように現実は何も変わらないどころか問題ばかりが浮き彫りになっていく。戦場以外の場所で怪我を負う者が絶えない。戦いで受けたストレスの捌け口に、犠牲になる者が後を絶たない。

 問題が起きたのは、怪我人を多く抱える医療用天幕でのことだった。

「下手くそ」

 ガシャン──床に落ちた瓶の砕ける音。すると、天幕の中を満たす消毒液の臭いが一層濃くなり誰もが音の発生源に目を向ける。

 シュライグがいた──消毒液を頭から被り、髪から滴らせる。そんな彼は処置の途中であり、包帯を巻くのも半ばのまま。

「戦力にもならねぇんだから、とっとと消えろよ羽なし」

 言葉が目に見える形であったなら、それは刃物として深々と胸を抉っていたことだろう。止める者は誰もいない、誰もが巻き込まれないことを祈り固唾を飲む。それもそうか、唾棄せんばかりの嘲笑を混じえ告げるのは、獅子の獣人だからだ。

 いや、正しくは一人だけ動く者がいた。フェリジットだ──真新しい包帯を巻いたばかりの拳を握り締め、今にも噛み付かんばかりに牙を剥き出しに尻尾を膨らませている。

「フェリジット」

「……分かってるわよ」

 フラクトールが心配そうに名前を呼ぶ。明確に言葉にはしないが、事を荒立てるなとの忠告が含まれていることに気付けない彼女でもなく。穏便に、あくまで膂力で解決せず──聞くだけなら簡単そうだが、彼女の沸点の低さを思えば難題だろう。

「ねぇ、アンタ。治療を受ける気が無いなら出て行って。後がつかえてんのよ」

 今すぐにでも殴り掛かりに行きたいほどの怒りを努めて内側に鎮めながら、あくまで淡々と。それでも視線は抜き身の刃のように鋭く、嘘も言い訳も真っ向から叩き潰すような強さを滲ませている。

「いや、これは……」

 フェリジットがいるとは思ってもいなかったのか──獅子は、先の威勢も忘れ情けなく耳も尻尾も垂らして肩を小さくさせる。その反応は、彼女の後ろにはルガルがいることを分かってか、それとも彼女自身を恐れてか。しがない猫の獣人でありながらその本性が獅子よりよっぽど獰猛であることを彼らは戦場で嫌と見てきたのだから、萎縮も当然か。

「アタシの目の届くところだろうと届かないところだろうと、こういう差別みたいなことされるのが一番腹立つのよ」

 すっかり言い返す気力も落ち込んで──張り合いの無さに肩透かしでも食らった気分だとため息一つ。黙ったままなのをいいことに、頭ごなしに本音をぶつけて見下ろした。

 ただ、予想外であったのは──この一言が、彼の地雷を踏み抜く合図であったことか。

「差別?……なら、こいつはどうなるんだよ! 戦えもしない羽なしのくせに、贔屓されているのはこいつだろうが!」

 罵声と共に獅子の鋭い爪が向けられたのは、治療を施しているシュライグにであった。

「それは──」

 言い返そうとして、けれど途中で言葉を呑み込んだ。言葉を発するとは即ち彼の言う贔屓に当たると感じ取ってだ。

 大切な家族だ──庇うのは当然と思う一方で、獣人社会は恐ろしく排他的なのだ。同族だろうと障害一つで村八分。種族を超えた絆──そんなもの、彼らの常識にあるはずがない。ルガル、シュライグ、フェリジット──三人の絆は打たれた鉄のように固く熱くとも、傍から見れば飾りと映る。いつだったかフラクトールが告げた過ぎた例外とは、まさにこのことかと痛感する。

 気の強い彼女が黙ったっきり──口喧嘩に勝ったとでも思ったのだろう。獅子の獣人は得意気に鼻を鳴らし、臆病を矜恃で黙らせ勢いのまま語気を荒らげた。

「聞いたぜ、お前泥棒猫なんだってな。それに羽なしはドラグマ兵にも情けをかける売国奴。リーダーのルガルに至っては同胞──」

 不自然に──あまりに、不自然な形で続く言葉が途切れた。

 言葉を紡ぐ唇は薄く開かれたまま閉じることさえもなく固唾を飲む。声を発することなど造作もないだろう──けれど、獅子の獣人は己の喉が意思に反して動かぬことを知る。喉を潰されたのだ。

 奥まった眼窩と形の良い鼻梁との間で、剣呑な光を宿し青い眼差しがこちらを睨む。

 思えば──彼が殺気を顕にしたのは初めてではなかろうか。

 温厚とはまた違うが、常に心が凪いだような。そんな静謐さを常に纏うシュライグが──初めて、戦場以外の場所で敵意を剥き出しにした。

 羽毛を膨らませ、猛禽類が如く細められた眼光は目の前の獅子とて狩らんとする。行動を間違えれば、今まで処置を施してくれていたその手は忽ち首を掴むだろう。今、獅子は──生死を賭けた選択を強いられている。

 シュライグは──強い。それこそ、目の前にいる獅子とてその気になれば捩じ伏せるだろう。ただ、強さと同時に併せ持った優しさがそれを許さないだけで。

「うっ……ぐっ……」

 視線だけで人を殺せるなら、獅子はもう地に伏せていた。それほどまでの彼我の差が目の前にある──下等生物と見下していたはずの百舌鳥は、まるで鷹が爪を隠すように戦の天稟を滲ませていた。

「俺のことは好きなだけ言えばいい。けれど、フェリジットやルガル──仲間を侮辱する発言だけは、絶対に許さない」

 どこまでも──どこまでも、自分の為ではなく誰かの為に戦える芯の強さ、優しさ。嗚呼、同時にそれはとても危ういなぁ──事の顛末を見守るフラクトールの胸に芽生えたのは、底知れぬ不安だった。

 事態はシュライグの殺気一つであっさりと収束した。獅子の獣人は謝罪し、シュライグもまた衛生兵としての務めに戻る。一連の出来事から、彼が無力な衛生兵でないことは瞬く間に広がり、部族内での格差はなりを潜めた。

 一件落着──表向きは、そうだった。

「組織を抜けるって?」

 数日は、トラブルの無い交戦地帯にしては穏やかな日々だった。裏を返せば、数日しか平穏は続かなかったとも言える。

 シュライグが──抵抗組織を抜ける。その話を聞いたのは、たまたまルガルの天幕を訪れた時のことだった。

「──そうか」

 引き止めるでもなく、ルガルは淡々とした返事をした。嬉々とした──と、言うには不謹慎だが、それでも確かな安堵が僅かに声に孕むのを猫の聴覚は聞き漏らさなかった。

 ルガルに用はあったが、今はそれどころではない。必要物資の申告も、作戦の立案も、そんなもの後だ。瞬き一つで優先順位を見極めて、天幕から出てきた彼の手を掴んだ。

「来て」

 それこそシュライグは、まさか聞かれているとは思ってもいなかったのだろう。鳩が豆鉄砲でも食らったように目を大きくしながら(傍から見れば表情は変わって見えない)けれど、言われるがまま大人しく手を引かれる。

「鉄の国に帰るつもりなの?」

 先ず誰も訪れることないだろう武器庫の天幕に入って一番、フェリジットの問いかけはそれだった。単刀直入の質問にシュライグは僅かに息を呑み、泳ぐ視線を隠すように瞼を下ろし「そうだ」と、頷いた。

「嘘ね」

 やっぱり──アンタは嘘が下手なままね。

 糸が張ったような緊張も忘れて、ついと小さく笑みが零れて口元を覆う。双肩を震わせる彼女に、何故笑われているのかも分からないままシュライグは僅かに目を見開いて頭上に疑問符を浮かべた。

「どうせアンタのことよ。ここを出て、一人で戦うつもりなんでしょ」

「それは──」

 言い訳を探すように眼差しがまた揺れた。けれど、この動揺さえ見え透いた判断材料だとすぐに諦め、またシュライグは頷いて応える。そうそう、下手な嘘より素直な方が印象はいいんだから。すっかり毒気も抜かれて、咎める意欲は無くなっていた。

「……一人だったら、仲間を危険に晒すことはない。けど、ここは組織だから訳が違う。采配を間違えれば、俺の所為で皆が死ぬ。それだけは、耐えられない」

 ドラグマ兵への情けを罠に、火矢を放たれたこともあった。指揮が乱れ、混乱を招き犠牲者を多く出したこともだ。誰も口にはしない、否できない。それでも生き残った仲間が向ける眼差しの冷たさが胸に焼き付いて、お前の所為だと事実を突き付けてくる。

 シュライグは──強い。けれど、その強さはアルベルとの旅で身に付けたものだ。アルベルはシュライグよりも強く、守られる必要も無い。故に、一人や少人数で戦う方法は知っていても、仲間を守りつつ下知を飛ばす戦い方は彼にとってあまり経験の無いものだった。

「それに……格差が生まれている理由は、俺の所為じゃないかって薄々気付いていた」

「それは──」

 違う──と、言ってしまえばきっと彼は傷付くだろう。事実、無関係ではないのだから。

 戦場に出て僅か一ヶ月──その間に、失敗は沢山あった。それでも、アタシもルガルもシュライグのことは見捨てず特別気にかけていた。傍から見ていれば、言葉にできない淀んだ思いが湧いて出たことだろう。アタシもルガルも──仲間をちゃんと見ているようで、見れていなかった。

「組織で生まれていた格差を誰にも相談しなかった理由って、もしかして──」

「俺が作ってしまったものだ。言えば、黙っていられないだろう? 二人が積み上げてきたものを壊したくなかったんだ」

「アンタのことだから、そうよね……」

 なによそれ──心配していたはずが、逆にこっちが心配されていたなんて。

「ホント……情けないな、アタシ」

 嗚呼──打ち震えるように吐息を漏らす。戦場に出れなくても、ちゃんと強くなってるじゃない。それに気付けなかったのが、恥ずかしいような悔しいような。アンタはいつまで経っても──なんて嫌味、もう言えない。

「そういうことだ。俺はもう行く」

 強くなった彼に、なんて言葉を送ってあげるのが正解なんだろうか──なんて悩んでいた矢先のこと、突然話を切り上げて踵を返すものだから「えっ?」と、思わず間抜けな声が出た。

「ちょ、ちょっと待って! もう出立するの!?」

「……? そうだが」

「いくら何でも、決断が早すぎるのよ!」

 出て行こうと布を捲る手を掴んで。すると彼は、なんで止められたのか全くもって分からないと言わんばかりの顔でこちらを見つめる。

「そりゃ、アンタの意思も尊重してあげたいけど、アタシにだって色々と覚悟ってもんがあって」

「フェリジットは出て行かないだろ?」

「そうなんだけど……そうなんだけど! だからって、アタシにも考える時間が欲しいの!」

「……? そうか」

 何故そんなに必死なんだ? と、こっちの気も知らずの態度に、握り締めた拳を慌てて解く。わからず屋、鈍感──この場で言ってやりたい文句は沢山あるが、それはまた今度と堪えて呑み込んだ。

「次の作戦が終わるまで……絶対答えを出すから、それまでは待っててほしいの」

「……分かった」

 ここで頷かないという選択肢もシュライグには勿論あった。けれど、あえてそれをしないのは、偏に彼女の想いを蔑ろにしたくない気持ちが勝ってだ。それを家族思いと捉えるか、それとも覚悟が甘ったれていると捉えるか──いや、言葉で語れるそんな安っぽいものではない。

 これから先、シュライグはどうするつもりなのか。そして、そんなシュライグに向けてフェリジットはどのような選択をするのか。

 けれど、現実とは常に非情でましてやそれが戦争ともなれば約束など破られるために存在するようなものである。

 作戦を決行し前線に向かった部隊。フェリジットが、ルガルが──帰ってくることはなかった。



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Episode ルガル

「部隊が……壊滅した?」

 壊滅の知らせを受けたのは、前線部隊との連絡が途絶えて二日後のことだった。

「壊滅……と、言いきるには誤謬があるね。偵察隊の話によれば、何人かは捕虜になっている。その中にルガルとフェリジットもいたらしいよ」

 一番知りたかったであろう人物の安否が確認でき、強ばっていた表情が幾分か和らぐのを尻目に、フラクトールは悟られぬようひっそりとため息を吐く。

 生きてはいる──が、ドラグマ側が捕虜を交渉材料に使うことは無いだろう。生かした目的も見せしめの処刑であることは容易く想像ついた。

 あえてシュライグにそのことを隠したのは他でもなく配慮だ。ルガルとフェリジット──二人がいなくなって一番動揺しているのは彼に他ならないからだ。

(とはいえ、救出は絶望的か……)

 指揮官二人が不在の今、用兵に長けた団員はいない。それでなくとも士気はこの上なく下がっている。しがない軍医でしかないが、先の見通しが悪いことは痛感できる。

「少し……時間をくれ」

 決して状況は良くはない。それこそ、前線に出ないはずのフラクトールが策を考えているほどなのだから。それを分かったうえで気を使ったのか、それとも他に意図があるのか。柱に凭れかかっていたシュライグが、徐に腕組みを解いた。

「……くれぐれも、一人で突っ走ってはいけないよ」

「耳が痛いな」

「何年の付き合いだと思っているんだい」

 またキミはそうやって無茶を。思わずと眉間に手が伸びため息一つ。シュライグは大人しいが、たまに突拍子も無い行動力を発揮する。故に先の忠告は、釘を刺すためのものだ。

 だが、シュライグとて忠告一つで立ち止まる聞き分けのいい子かと問われるとそうでもなく──天幕を出て、嘆くように吐息を漏らす。見上げれば空は星一つなく、一面の暗闇が不穏の兆しか。果たして今日は新月なのか、それとも曇り空なのか。頼りにならぬ目を地上に下ろし、肩を落としてため息を。それこそ、胸に溜まった鬱屈な気分を全て追い出すように。

(俺に……力があればな)

 ルガルとフェリジット──二人と並んで戦えるだけの力があったなら、窮地になんぞ陥っていなかった──かもしれない。たらればの仮定の話など無意味とは分かっていたが、その無意味なことに思考を割いてしまうほどに彼も追い詰められていた。

 もしこのまま、助けに行くこともできず、二人を見殺しにするくらいなら──

「──シュライグ」

 気配も無く忍び寄った声に弾かれたように振り向いた。耳に馴染んだ声のはずが、反射的に敵襲かとも警戒したのは偏に気が立っていたからか。話しかけた人物は「驚いたでしょ?」と、揶揄うように得意げに笑うのだ。

「キット……か」

 足音がしなかったのは、猫の獣人特有のものか。あえて気配を殺していたのは、びっくりさせるつもりだったからだろう。戦場で気の抜けた悪戯好きに、咎めるべきか呆れるべきか。いや、むしろそれを言い訳に気付かなかった己の鈍感さを猛省するのが第一か。

「お前……鉄の国にいたはずだろ」

「うん。でも、会いに来ちゃいけないって言われてないもん」

 鉄の国にいろ──とは言われたが、来ては行けないとは言われていない。彼女一人であることを見るに。お目付け役のサルガスは置いてきたのだろう。きっとゴールド・ゴルゴンダは今頃大騒ぎに違いない。

「物は言いようだな」

 フェリジットの心配も他所に、けれどそれが実に彼女らしいと言えばそう。

「そう言えば、リズねぇは?」

 野営地は粗方見て回ったのだろう。そのうえで姉の姿が見当たらず、彼女は首を傾げて「偵察に行ってるの?」と。

「それなんだが……」

 説明する──にしても、なんと言葉にするべきか。

 今が最悪の状況であることは、伝えた方がいいだろう。否、嘘を吐いたところでそのうち耳に入る。いや、嘘が下手だと呆れられてしまうのが先か。仮に真実を伝えるにしても、どんな言葉を選んだ方が腑に落ちるのか。そもそも口下手の俺に説明なんて務まるのか。

「──私からするよ」

 徐に肩を叩かれ振り返る。見ればフラクトールが苦笑いを浮かべて「キミは苦手だろう?」と、考えを見透かしたようにそう告げるのだ。

「けど、その前に──」

 一息で、鋭く息を吐き捨てて。緩やかに握られていた拳に力が入るのを捉え、次の瞬間訪れる衝撃に思わずと耳を塞いだ。

「いっ……たぁぁぁぁぁいっ!?」

 目の前で星が散るのをしかとこの目に焼き付けた。

「来るなら一報寄越しなさい!」

「だって、連絡したら来たら駄目って言うでしょ?」

「当たり前だ!」

 拳骨貰った手前、涙目ながらも威勢良く──その肝の座り方は感嘆すべきか呆れるべきか。シュライグは二人のやり取りに、けれど今のキットに自分を重ねて、耳が痛い話だと顔に出さず冷や汗が流れる。

「戦争は遊びじゃないんだから!」

「そんなの分かってる! だから、ワタシが来たの!」

 負けじと言い返す彼女は得意げに鼻を鳴らしてズボンのポケットに手を入れた。すると布越しにチチチッと、くぐもった高い声が。それは動物と言い切るにはあまりに機械的で、機械と言い切るにはあまりに動物的な。境目の曖昧な鳴き声だった。

「偵察兼記録兼通信システムを備えた百舌鳥型メカ。通称メカモズ! 」

「ピッ!」

「わっ!? ちょっと、髪引っ張らないでよ!」

 自信満々に紹介すると同時に、ポケットから飛び出したメカモズが徐に髪を咥えて引っ張った。機械だから分からぬが、これが本物の百舌鳥であったなら羽毛を膨らませて全身で怒りを顕にしていたことだろう。

「ちょっとこの子グレ気味で言うこと聞いてくれないのよ。でも、さっき言ったみたいに機能は凄くてね」

 褒められて機嫌が良くなったのか、メカモズが得意げに鳴く。足場にちょうどいいと思われたのか、肩に乗られたシュライグは、けれどその程度で不機嫌になる器の狭い男でもなく、指の腹で軽く頭を撫でた。

「器用なんだな」

「ピィ」

 小生意気に製作者には噛み付く一方、外面が良いのかそれともシュライグなら文句も何も言わず甘やかしてくれると舐めているのか。どちらにしろ、それを気にして咎める彼でもない。

「シュライグに懐いてるみたいだから、連れて行ってあげてよ」

「それは……」

 言えない──俺は、戦場に出て戦えるほど強くないだなんて。

 期待に輝く眼差しが、眩し過ぎるほどに胸を打つ。直視することさえ罪とばかり目を逸らし、逸らした先でフラクトールも察したのか、切れ長の窶れた眼差しが細められた。

「外じゃ寒いだろう。中で話そう」

「それもそうだね」

 思い出したようにキットがくしゃみを一つ、手のひらを擦り合わせて。季節はもう春なのに、寒いのは夜だからか。それとも、積雪の残る山岳地帯の近くだからか。

 春なのに未だ片付けられずにいる薪ストーブの上で、ケトルが笛を吹く。マグカップが二つ──香りだけで眠気も吹き飛ぶような濃い珈琲。そこに角砂糖が数個、フラクトールがティースプーンで砕いていく。

「あっ、ワタシ無糖がいい」

「えっ、あ、そう……」

 既に砂糖を入れた後だと知ってか知らずか、今更のようにキットが声を掛けた。「ちょっと待ってね」そう苦笑いしながら彼はマグカップをもう一つ追加し、インスタントの瓶を開ける。

 キットも、砂糖の無いものが飲めるならもう少し早く言えばいいのにな──

 二度手間で用意するフラクトールに同情しつつ、シュライグは手のひらのメカモズに目をやった。なんだかんだ製作者のキットを差し置いて気に入られてしまったのか、メカモズは青いバンダナで遊んでいる。毛布浴びみたいだな──なんて微笑ましく見守るが、この仕草そのものが幼少期のシュライグの行動を元に組み込まれたプログラムであることを彼は知らない。ルガルの長毛で寛ぐ彼のことをキットがどういう目で見ていたのか──メカモズの一挙一動がまさに答えだ。

「ピッ」

 飽きたのか、徐にメカモズが遊ぶのをやめた。バンダナを咥えたままシュライグの肩に止まり、嘴で頬を小突く。

「……着けないのかって?」

 相手は機械のはずが、どうしてかシュライグには何となくメカモズの言わんとすることが分かった。故に、確認のため問いかければ、メカモズは短い首を縦に振って頷いて。

「……俺には、着ける資格なんてないんだ」

 抵抗組織の一員であることを表す印に、けれどシュライグはそれを着けることへの抵抗があった。それは他でもなく、戦場に出て仲間を危険に晒した経験が響いてだ。

「ピイっ!」

「こらやめろ、地味に痛い」

 けれど、それはメカモズの望んでいた返事ではないらしい。小さな嘴で、牙が無いはずなのに鋭く耳朶を啄んで嫌がらせ。何がこの機械鳥の機嫌を損ねたことなのやら。

「いーなー、シュライグは。なんで私は嫌われちゃってるの」

「……好かれてるのか?」

「とてもね」

 寝台を借りて設計図と睨めっこしていたキットが、徐に寝っ転がっていた姿勢から起き上がり、羨ましそうに指を咥えた。

「気難しい子だけど、お願いね。あっ、メンテナンスはまた教えるから」

「そうか……」

 もうすっかりシュライグの所持品扱いで、どうするべきかと憂うようなため息一つ。

「二人とも、珈琲淹れたよ」

「ああ、すまない」

「ありがとう、フラクトールさん!」

 珈琲ができたと分かると、広げた工具もそのままでキットが寝台を下り、シュライグの隣の席に座る。床に届かないため、椅子に座って足を遊ばせながら。

 フラクトールは──どう伝えるつもりなのだろう。

 ルガルとフェリジット──二人がドラグマの捕虜になったことを。

 ショックは受けないだろうか──いや、受けるに違いない。前線に出ていなかったとはいえ、彼女は聡い。戦争が遊びではなくましてや狩りなど生温い。そんな生々しくも残虐な命の奪い合いで──血の繋がった姉が、繋がらぬ兄が、窮地にいる。

 二人の前の席に座ったフラクトールは、一息で態度を改めた。我が子同然の子どもに珈琲を淹れる優しい馬の獣人。その顔を取っ払い、瞬き一つで切り替えた眼差しは、まさに戦士の慧眼であった。

「単刀直入に言うよ。ルガルとフェリジットがドラグマに捕まった」

 包み隠さぬ物言いに、顔に出さずシュライグは驚いた。抱いた動揺を呼吸一つで落ち着け、隣に座るキットを一瞥。

 戸惑ってはいないだろうか。きっと冷静ではいられないはず。そんな彼女になんて言葉をかけるべきか決めあぐねていたその時、俯いていた顔が上がった。

「そっか。じゃあ、助けに行かないとね」

 その返事は、その顔付きは──シュライグの予想とは全く違うものであった。

 覚悟を決めた面構え。やるべき事を理解している者特有の雰囲気を滲ませ、彼女が手に取ったのは鞄の中の地図だった。

「ドラグマの拠点は山脈の中腹だったよね。ただ、険峻な山道と積雪に進路を阻まれて、敵側からは弓や奇跡を中心に一方的な攻撃ができる。こっちが不利なのは分かるよ」

 実際に戦場を見てきたわけでもないのに、地図一枚で戦況を読み解いて。元から才女ではあったが──なるほど、機械に対して費やした知識を戦に回せばこうなるのか。技術者のみならず軍師としての天稟を見せつけられ、フラクトールは末恐ろしいと内心息を飲む。

「そうだね……その通りだ。それを踏まえたうえでキット……キミならどう攻め入る?」

 彼女は正式な団員ではないどころか従軍経験さえもない子どもだ。けれど、それを分かったうえでフラクトールはあえて問いかけた。それは他でもなく、現状が猫の手も借りたいほどに切羽詰まっているから。そして、打開できるのであれば手掛かりなどなんだろうと構わないという考えあってだ。

「やり方は色々あるけど……戦況をひっくり返すなら、爆破するかな」

「「爆破?」」

 予想だにしなかった物騒な返答をけろっと出されて、シュライグとフラクトールどちらも揃って思わず首を傾げる。

「それは……あまり得策ではない気がするね。 先も言ったようにそこは山岳地帯だ。最悪、衝撃で雪崩が起きる可能性がある」

 山間部の雪解けは遅い。既に季節は春だが、それこそドラグマの拠点のある山脈は遠目から見ても山の先端は白く、夏を迎える頃にようやく土が見えてくるだろう有様だ。

 爆撃を行えば、条件次第では雪崩に巻き込むこともできるだろう。そうなれば一網打尽も理論上は可能だが、問題はそこではない。

「そして何より、それでは捕虜を巻き込む」

 地形を変えてしまえば、敵の牙城を巻き込みこちらに有利な局面へと変えてしまえるだろう。ただし、その策は諸刃の剣。こちらも無傷ではいられない。

「うん、分かってるよそれは。だから爆破は直接被害を与えるところじゃなくて、別のところでやるの。例えば──反対側の斜面とか」

「反対側の斜面? ……というと、そこはドラグマの兵站線だね」

 それこそ現実的ではない──そう言わんばかりにフラクトールは眉間をつまみ、地図を睨んだ。山脈の反対側に回るのは、理論上は可能だ。とはいえ、それは積雪を無いものと扱った場合の話。雪に足を取られながら、いつ変わるかも分からぬ天候に左右されながら進軍する──命が幾つあっても足りない。そもそも、回り込むには早くとも数日は要するだろう。

(兵站線さえ崩すことができれば、退路も援軍も断つことができる。とはいえ、最短で向かうには敵陣のど真ん中を通る必要がある……現実的ではないね)

 仮にこの場にフェリジットがいたとしても、その裏工作に行き着くまでは至らないだろう。抵抗組織で隠密行動に長けた彼女でさえ、見つからずに敵陣を潜り抜けていくことは不可能だ。必ず何処かで交戦になる──単身で乗り込んで裏工作まで行き着ける技量があるなら、元より一騎当千で捕まってなどいない。

 ──それは難しいから、別の策を考えよう。

 案を出してくれた彼女には申し訳ないが、そう断ろうと唇を持ち上げたその時だ──

「──シュライグなら、できるよね」

 それは──確固たる信頼の上で出された提案だった。

 失敗を恐れないどころかそもそも計算にすら入れていない。聡明な彼女は憶測で事を言わないが、逆を言えば確証さえあれば幾らでも口にする。

 シュライグならできる──そう信じて疑わない眼差しが、真摯に彼を捉えた。

「それは──」

「できないよ」

 シュライグが断るよりも先に、フラクトールが言葉を紡いでいた。

「確かに、シュライグならわざわざ山道を経由しなくても反対斜面に行ける。けど、裏工作するとなれば話は別。夜目の利かない彼が、爆弾を設置するどころか目的地に辿り着ける保証もない」

 抵抗組織の幹部を押さえ浮かれているとはいえ、ドラグマも容易く侵入を許すほど警備をザルにしているとは思えない。確かに、シュライグであれば向かうことは可能だ。長らく戦場に出ていなかったため、飛行手段があることさえ敵は知らぬ可能性が高い。だが、それを理由に事を上手く運べるかと問われると答えは否。

「勝算の無い賭けは愚かだ」

 フラクトールの慧眼には、失敗の未来が映っていた。

「……キット」

 こういう時は、どう励ましたらいいのだろうか──

 策を真っ向から否定された彼女に掛ける言葉をシュライグは知らない。下手な慰めは傷心を加速させることを知っているから尚更言葉を選べない。

「──あるよ、勝算」

 ただ、彼女はシュライグが心配するほど打たれ弱くはない。フラクトールの否定を真っ向から言い返し、落ち着き払って珈琲を一口。そして眼差しは地図をメカモズをシュライグを──それぞれに向けてから、マグカップを置いた。

「捕虜奪還の要は、初動である爆撃を成功させることにある。夜の飛行は危険なのは分かってるけど、そのためのこの子だよ」

 「ねっ?」そう語り掛けた先のメカモズは、そっぽを向くように首を回して目を逸らした。

「……えっと、こんな調子だけどね。この子には暗視機能があるの。この子が見た視覚情報をマスクと連動させることで、シュライグも擬似的に夜でも見えるようになるよ」

「キット、それは──」

 わざわざ言葉にしなくとも分かる──シュライグが戦うために用意された機能であることが。

「…………フラクトール、戦闘準備だ」

 危険を承知で一人砂漠を超えてきた彼女の想いを無碍にするつもりか? ──自問自答のその答え合わせに、バンダナを腕に巻く。

「いいのかい?」

「キットが切り開いてくれたチャンスだ。無碍にはしない」

 時間が解決してくれるものでもなければ、時間が経てば経つほど状況は悪くなる。それを分かっているからこそ、動かなければいけない。立ち上がるチャンスがあるとすれば、後にも先にも今だけだ。

「仲間を助けたいのは、皆同じなんだ」

 一人で戦う? ──その選択が、最初から間違いであったことに気付かされる。人は、仲間がいるから立ち上がれる。仲間がいるから前に進める。そして大切な仲間に危険が迫った時、残った仲間で手を取り合って助けに行く。

 それが絆──種族も、血の繋がりさえも型には嵌らない。目に見えない形の、けれど鉄のように熱く固い心の繋がり。

「最初の道は俺が切り開く。合図があったら、フラクトールは突撃の指示を」

 その指揮は、確固たる信頼──爆撃の準備を整えてから出撃の構えをしては遅い。合図をしたらすぐに部隊を進めてくれ──急な構えだが、即席で隊列を組み指揮系統を整えるだけの技量がフラクトールにあることを理解しているからこそ出せる、思い切った指示。

 爆撃があったらすぐに来てくれ──長らく戦場から離れていたくせに、復帰して早々無茶苦茶なことを言う。

(決断したら早いね、シュライグは……)

 一見無謀にも見えるが、その実勝算に基づいた戦略は──彼の隠された軍師としての才が垣間見えた瞬間でもあった。

 進軍の準備はフラクトールに一任し、作戦が決まるとほぼ同時にシュライグは野営地を発った。彼のことだ、きっと上手くやってくれるだろう──しがない軍医でしかない彼に無茶を強いたことを内心猛省するように、鋭く吐息を。呼吸一つ、肺を凍てつかせるほどに寒気は容赦無く身を刺した。雪は降っていないが、夜の飛行が危険であることを警告するかのように、瞬き一つまつ毛にさえ霜が落ちるほど。

「ピイっ」

「ああ、悪い。少し考え事をしていた」

 僅かに高度を落としたのを察知してか、メカモズが羽ばたきを止めることなく振り返る。機械ながらこちらを気遣っての行動であると汲んだシュライグは、寒さに震える声を張り上げて返事をする。

「ありがとう、メルクーリエ。この作戦は、キミがいなければ成り立たなかった」

「ピッ?」

「キミの名前だ」

 メカモズではただの識別番号と変わりないだろう。名前が無いというのは、なんだか寂しいものだ──先程言った考え事とは、この機械鳥をなんて呼ぶかについてだ。

「嫌だったか?」

「ピッ」

「そうか……気に入ってくれたのなら、嬉しい」

 メルクーリエ──意味は、運び屋。

 キットの手によって作られたこの機械鳥は、きっと勝利を運んでくれることだろう。そんな切ない願いを込めた命名。

「メルクーリエ、座標はここで合ってるな? 手短に設置を済ませる。手伝ってくれ!」

 予めメカモズ──メルクーリエだけ先行させたが、付近にはドラグマ兵はいなかった。とはいえ、哨戒のタイミングまでは図れない。

 迅速に、けれど努めて冷静に──

 はやる気持ちを胸に留め、未だ高い積雪の地に足を着けた。

 彼の背負う荷袋の中身は、キットが即席で作り上げた時限爆弾。そしてもう一つ──

 ◆

 一方砦では、組織が動き出していることなど知らぬどころか思ってもおらず──石造りの地下牢にて、捕虜となった獣人達が手足を縛られ幽閉されていた。

 たった二日──否、日の出も無くましてや食事が運ばれてくるでもなく。時間の感覚さえ切り取られ、今が果たして昼なのか夜なのさえも分からない。ただ、刻一刻と呼吸を繰り返す度、牢獄の中で緩やかに絶望が加速する。それは他でもなく、近いうちに訪れる死の気配を色濃く感じてだ。

(死臭が……濃くなってきやがった)

 狭い牢屋内に詰め込まれた獣人は多くいる。それこそ、身動ぎ一つ隣前後で誰かに体をぶつけてしまうほど。抗争で負った傷もそのまま、重症軽症問わず一部屋に詰め込まれ、誰が生きて死んでいてもおかしくはない。それこそ、既に蛆が湧き始めている者とているほどに。

 家畜小屋とて、まだ人権が得られるだろう──仲間の死と苦しみを肌で感じながら、けれどどうすることもできない──ルガルは今ほど、己の無力を痛感したことはない。

「ねぇ、ルガル……聞こえる?」

 絶望に渦巻く濁声の中、己の耳にふと呼び掛ける声を拾った。それは真後ろから──己の背中にふと、凭れ掛かる温もりを感じる。

「……フェリジットか?」

「正解」

 声と気配を感じなければ誰かも分からないとは──己の鼻も鈍ったものだ。いや、死臭の坩堝と化したこの場で五感など狂うために存在しているようなものだ。

「アタシ達、これから……どうなると思う?」

「…………わざわざ口にするものでもないだろ」

 これからのことを話したところで、閉鎖的なものを感じて口を閉ざす。やめよう、話すのは。暗い想像を一言声に出すだけで、気持ちだけが身体に先駆け死んでしまう。

「ちょっとくらい思い出話に付き合ってよ。例えば……初めて出会った頃の話とかさ」

「……走馬灯にしては気が早いな」

「だから違うってば」

 手が塞がっていなければ、頬を抓られていたことだろう。それができないから代わりにと、尻尾で背中を叩かれる。

「アタシさ、戦災孤児でさ……キットと二人残されて親が死んだ時、これからどうしたらいいんだろうかって悩んでた。いっそ、早いとこ楽になって親のところに行ってやろうか。とかね」

 今となってはそれも笑い話にせねばやってられないと、空元気の明るい声。

「そこにアンタがやってきて、三人になった。そのすぐ後にシュライグがやってきて、四人になった」

 脱走した少年兵、戦災孤児、捨て子──思い返せば、大人の庇護も無しによく生き残れたものだ。

「アタシ達さ、不幸で運は悪いんだろうけど……でも、この出会いのために全部の運を使い切ったって思えば、全然ありかなって思えちゃう」

 「あっ、これはあくまでアタシの意見でしかないからね!」と、今のは失言だったと反省してか慌てて訂正する。あたふたとする彼女の様子を背中越しに想像して、きっと、間抜けそうな面をしてるに違いないな。と、勝手な想像を膨らませて、僅かに失笑。

「今、笑ったでしょ」

「……笑ってない」

「嘘、絶対笑った」

 「アンタまで下手な嘘吐く気?」呆れ半分怒り半分、尻尾がペシペシと背中を叩く。

「全くもう、シュライグみたいなことやめてよね」

 下手な嘘吐きの代名詞として定着しつつあることを面白おかしく思いながら、吐息を。犇めき合っているというのに、吐き出す息が薄ら白いのは、やはりここが積雪の残る山岳部だからか。他の獣人の毛皮で暖が取れることだけは僥倖で、すし詰め状態に図らずしも助けられている。

「シュライグって不思議よね。最初会った時、あんな弱っちくて。なのに自分のことなんて二の次で、他人のことで頭いっぱいでさ。生きてるのが変って思えるくらいだったよ」

 口にはしないうえできもしないが、フェリジットはシュライグに対してどうせすぐ死ぬ──と、諦めていた。幼少期、彼への接し方に棘があったのは元の性格も含めて、そんな諦念も無意識に抱いていたからか。今も昔も夭逝なんて珍しくない──優しくするだけ無駄。否、優しくしてそれで思い入れができてから死なれるのは辛い。が、正しいか。

 全員で越冬できただけでも奇跡──その奇跡、また起きないかな。思い出という名の一縷の希望にさえ縋りたくなるほど、気丈な彼女もさすがに参っていた。

「シュライグは、弱っちいけど諦めは悪い。だから、絶対来るよ」

 作戦開始まで、あと──

 ◆

 轟──それは、吹雪の強風が吹き付ける音ではなく、ましてや何処か遠い山の雷鳴でもなく。

 切り崩された積雪が斜面を滑るように否、滑るなんて言い方は生ぬるい。奇襲、襲撃、あるいは──凶襲。

 夜闇の静寂を切り裂く悲鳴と怒号──あらゆる喧騒の中で、地上が混乱の坩堝と化したのを見届けることなくシュライグは肩で羽を休めるメルクーリエの頭を撫でる。

「助かったぞ」

「ピィ」

 兵站線を潰され指揮系統の崩壊は免れない。そこに立て続けの白兵戦を挑まれ──なるほど、想像したくはないな。辛勝できたとしても、損失は大きく指揮官の更迭は避けられないだろう。

『──シュライグ、聞こえるかい?』

「フラクトールか?」

 メルクーリエから聞こえるノイズ混じりながらも覚えのある声に、気が緩みそうになるのを堪え努めて冷静に淡々とした返事を。

『よくやってくれた。後はこっちで上手くやるから、気を付けて帰って来るんだよ』

 震える吐息をゆっくり隠し瞼を下ろす。すると閉じた瞼の裏側に、なんてことない平穏だった温かな光景が浮かんでは胸に熱を残して去って行く。

 帰って来いと待ってくれている誰かがいる。帰ることのできる家がある──それは何気無いはずが尊くて、同時に故郷の為に争う現実の痛烈な皮肉となって胸の奥底に淀むのだ。

 だからこそ──甘えそうになった弱い己を叱咤して、高度を上げる。これ以上の上昇は電波障害により通信が途絶えるだろう。

 それでいい──覚悟を鈍らせては、大切なものは何一つとして守れない。それを嫌という程に分からされた過去がある。

「いや──俺はこのまま砦に奇襲を仕掛ける。そっちは頼んだ、フラクトール!」

『そんな勝手は……シュライグ!何か言いなさい、シュラ──』

 ノイズに掻き消される形で通信は終わった。フラクトールには迷惑を掛けることになるだろうが──後で謝ろう。キットに続いて、帰ったら拳骨は避けられないと内心苦笑い。

「話は聞いていたな? 砦までの案内、頼んだぞメルクーリエ」

 返事をするように「チチチッ」と嘴を擦り合わせて先行する。見失うなよ? そんな挑発的なものが見え隠れする速度に──無茶をする子だ。自分の行動は棚に上げ、シュライグも並ぶように続く。

 作戦に無い単騎での奇襲──援護も無く敵の牙城を叩くことが無謀であることなど分かっている。それでも、仕掛ける好機があるとすれば今しかない。

 爆撃によって、敵は待機させていた兵を裏手に回さなければならない。そして表からは、獣人達が隊列を組んで押し寄せ──戦力を分散せざるを得ない窮状。砦が手薄になるのは必然とも言えた。

(……いや、これは言い訳だな)

 奇襲を仕掛ける好機だから? 隠密行動のため単身で乗り込む方が警戒を潜り抜けやすいから? どれもそれらしい理由を自分の中で見つけているようで、結局仲間を連れて危険地帯に乗り込むことを俺は恐れている。

(俺の決断で……誰かが犠牲になるだなんて、あってはいけないんだ)

 自己犠牲が美徳でないことは分かっている。それでも、俺は──

「──っ!? 敵襲!」

 硝子を踏み砕く衝撃音。窓側に立っていたドラグマ兵の頭を足で鷲掴みに床に縫い付ける。

「捕虜は何処だ!」

 その気になれば鷲掴みのまま頭蓋骨を踏み砕くこととて容易いだろう。爪の間から覗く眼差しに反抗的な色が滲むのを見逃さず、破片の落ちる床に頭を擦り付ける。

 どちらが強者か──喰らい付かんばかりに歯茎を剥き出しにした唸り、マスク越しの開いた瞳孔、無駄無く鍛えられた巨体とそれをさらに大きく見せんと膨らんだ翼──獣かそれ以外か、圧倒的な彼我の差を全身から滲ませた威嚇、一兵卒に選択の余地など無かった。

「ち、地下だ……邪教徒は地下牢に──」

 全てを言い終わらぬうちに、兵は恐怖のあまり失神した。前線に出たことがなかったのか、それとも命の危機に瀕した戦を経験したことがなかったのか──情けなく尿を垂れ流してだ。

「いたぞ、侵入者だ!」

 あっさりと捕虜の居場所が分かったのは僥倖だが、予想外であったのは内部の兵が招集される速さか。右を見て、階段を駆け登る槍兵が数人。左を見て、階段を駆け下りてくる剣士が数人。挟撃の形に、いくら混乱に乗じた奇襲とはいえ派手に忍び込み過ぎたかと、顔に出さず己の行動が迂闊であったと猛省する。

(──いや、寧ろ試すに良い機会だ)

 接近戦に備え構えていた姿勢を崩し、シュライグが取ったのは──腰のベルトに差した二丁拳銃。それも普通の二丁拳銃ではなく、近接戦に備えトマホーク状の刃を銃身に埋め込んだものだ。

 左右に腕を伸ばすと同時に撃鉄を起こす。人差し指に受ける重みと、間髪入れずの発砲音。爪や牙を武器にするため、獣人は近付かなければ攻撃できない──その常識を覆して上がる血飛沫、断末魔。

(──違うな)

 応戦はできる──できるが、違う。これではない。数度の発砲の後、薬莢が落ちるよりも早くにそれをベルトに差し直し、欄干を蹴る。一人一人を相手にする時間も惜しいと、階段を経由せずに螺旋階段を飛び降りる。

(俺の──獲物は)

 背負った硝子櫃の一つ、細長いほうを開き中身だけ取り出し外側は捨てる。槍──否、銃身を極端に伸ばした長銃。離れていても火力を殺さずに放つ射撃性能と、接近戦に備え先端に括り付けられた矛──またの名をライフル。

 スコープを覗く──足が着く最下層はまだ遠く、けれどその遠く離れた深淵さえ全てを見通して、昂った闘争心は急所を逃さない。

(──これでもない!)

 使い方は分かる──分かっていても、これではないと手に残る違和感。一矢報いる暇さえもなく倒れ伏した血溜まりに着地して。見渡して、そして待機していた兵が蜘蛛の子を散らすが如く逃げ出すのを見届けて、マスクを外す。

「作ってくれたキットには悪いが……どうにも使い難い」

 単に俺が不器用なだけなのか、それとも鉄を用いた武器という初の試み故に、まだ試作段階なのか。鼻にこびり付く火薬と硝煙──懐かしい臭いではある。

 撃った反動に骨にまで伝わる痺れも、誰かを手にかける覚悟の重さも──嗚呼、懐かしくも慣れないなぁ。出そうになった憶病を唾と共に飲み込んで、血溜まりに足を進める。殺さなければ殺される──そんな残忍だけど単純で淀んだ世界が、変わってくれたらと望むのは愚かなことなのか。

 残酷な世界の中で、けれど彼のその優しくも儚い願いが届いたのかは分からぬが、牢獄の中でフェリジットは砦内の空気が変わったことを機敏に感じ取る。きっと他の獣人達の耳には、天気が荒れたことで齎される自然の音と届いただろう。それでも、猫の優れた聴覚は聞き逃さない──悲鳴と怒号、あるいは誰かの許しを乞う嘆き。

「──シュライグだ」

 助けが来た──ではなく、シュライグがこの場にいるとの確信。いくら彼女の耳が優れていようと、さすがに鳥の獣人の早い心音を拾えるほどの力は無い。けれど、彼女はどうしてか──今、耳に入る喧騒の全てがシュライグが齎したものだという確信を抱くことができた。

「フェリジット、お前……」

 背中で拾った呟きに、ルガルは──とうとう、か。と、諦めにも似た思いで瞼を下ろす。

 時間感覚を奪われて、食事はおろか水さえも人権さえも無く、ただいつ訪れるかも分からぬが避けられぬ死を目前に、気など狂うためにあるものだ。

 だから──いくら気丈な彼女とて、気が触れるのも仕方がないのだという諦めだ。いや、寧ろ早めに狂ってくれたおかげで、最後に幸せな夢が見れたと安堵するべきなのか。

 なまじ心身ともに頑丈が故に、未だ気を保っていられる己を恨めしく思ったことは、後にも先にもこの瞬間だけかもしれない。

 ただ、でも──もし、奇跡というものが存在するのであれば、今まさにこの瞬間ではなかろうか。

 ゆっくり、ゆっくり──"誰か"が地下牢に続く階段を降りている。一段、一段、もどかしいほど時間を掛けて。

 警戒している──とも思えるし、足元が暗いから踏み外さないように──と、気を付けているとも受け取れる。息を完全に殺しているわけではないが、相手がドラグマ兵であれば聞き取れないような。そんな静かで凪いだ息遣いは、獣人の鋭い五感を誤魔化せない。

 ルガルが、降りてくる人物をドラグマ兵でもなくましてや新たに捕まった同胞でもないと判断し"誰か"と称したのは──確かに覚えのある気配であるのに、心の奥底でまさか有り得ないと疑う気持ちも強くあってだ。

 ただでも、そんな彼の期待を裏切って──否、期待に応えてとも言えるだろうか。相反する二つの感情に折り合いをつけられないまま、その人物は階段を降り終える。蝋燭一本火をつけただけのランタンに、赤く顔を照らされた、返り血だらけの──

「皆……無事でよかった」

 ──シュライグが。

「シュライグ、お前──」

 どうしてここに? 言いかけて、都合のいい幻覚を見たのかとも見切りをつける前に、納得する。思えば、彼がここに来ること自体何もおかしなことではない。だってそうだろう、彼はとても──仲間思いなのだから。

 鉄格子越しの再会に、張り詰めていた息を吐き出したのはお互いにであった。けれどその喜びを分かち合う時間は無いのだと、戦士としての勘が警鐘を鳴らす。

 ここは、すぐに──否既に、戦場と変わり果てている。

「今、助ける」

 牢屋に入ろうにも、扉は南京錠が重なり合い太い鎖が何重にも巻かれていた。鍵は無い──あったとしても、獣人の爪の長い手が器用に鍵を回せるはずもない。

 だがしかし例え手先が器用でなくとも、獣人にはドラグマの民とは違い高い身体能力が保証されていた。

 鍵が無いなら壊せばいい──鉄格子を二本、両手で掴みそれぞれを左右の方向に押し広げる。すると向けられた力の方向に、まるで熱されたばかりの鉄棒を折り曲げるかのように。大柄な獣人が通るに十分な空白が、扉の真横に開くのだ。

「なんか……現実のことなのに、実感湧かないな」

 純粋な膂力で引きちぎり──外れた拘束に赤くなった手首を撫でながら、それでも何処か現実とは思えない感覚を拭いきれず、フェリジットが一つため息を。それが安堵なのか憂いを帯びたものなのか──気の参った精神が、都合のいいものを見せつけてくるだけなのでは? そんな疑念を払拭しきれず、緩やかに唇だけで名前を呼ぶのだ。

 ──シュライグ、と……

「フェリジット?」

 すると、声に出したつもりなど無いのにシュライグは振り向いて首を傾げる。他の獣人達の拘束を解きながら見つめ返す。

 嗚呼、今目の前にある現実は──決して夢でない。

「アンタって……ホント、無茶する」

 その無茶に救われちゃってるアタシ達が言えることでもないんだろうけど──

「別働隊が動いているが、戦場になったら巻き込まれる可能性が高い。動ける者から順に脱出を。動けない者がいれば、手を貸してやってほしい」

 再会の喜びを分かち合いたい気持ちはあれど、ここは戦場だと早々に見切りをつけ玲瓏たる声で指示を出す。

 亡くなった者もいる。動けない者もだ。だが同時に、軽傷者や元から身体が丈夫な獣人も同じだけの数が。混乱に乗じて脱出を図れるだけの余裕はあるだろうと判断しての決断だ。

「シュライグ、お前はどうするつもりだ?」

 冷静な状況判断のもと下される指示に、ふとルガルは一つ違和感を覚えた。

 指揮官としてであれば、今下した指示は何も間違ってはいない。捕虜の安全を確保しつつ、迅速な撤退──けれど、その撤退する団員の中に、果たして彼は含まれているのだろうか。

 きっと、含まれていない──彼の仲間の為の行き過ぎた自己犠牲と、彼一人が先行して捕虜の奪還に来ている。この事実を鑑みれば、自ずと答えなど出る。

「お前達が脱出するだけの時間は稼ぐ。殿は任せろ」

 それはつまり──たった一人で陽動を引き受けることと同義ではなかろうか。

「待て、シュライグ。その作戦は──」

 ルガルが言いかけて、けれど続く言葉は無理矢理飲み込まされた。そう、彼の下からフェリジットが顎を持ち上げ無理矢理口を塞いだのだ。

「ようは暴れたらいいってことよね。やられっぱなしは性にあわない。窮鼠にだって、猫を噛む権利はあるわ」

 「まっ、アタシは鼠じゃなくて猫だけどね」と、好戦的に犬歯を覗かせ笑う彼女に、シュライグは僅かに目を見開いて。

「無茶は──いや、フェリジットは元々そういう性格だったな」

 無茶はしないでくれ──そう言いかけて、けれど単身で乗り込んできた自分が咎める立場でもないな。とでも思ったのだろう。心強いと頷き、ライフルを渡す。

「キットが開発した武器だ。実戦で試してほしいと」

「キットが?」

 思わぬ所で妹の名前を聞くことになり、彼女の纏う雰囲気にほんの僅か剣呑としたものが混ざるのを肌で感じた。

「……もうフラクトールからこっ酷く叱られてる。あまり厳しく言わないでやってくれ」

 いくらフェリジットが妹に甘いとはいえ、それも限度がある。二個目三個目の拳骨が待っているかもしれないキットのことを想い、シュライグは一言庇う言葉を。現に、メルクーリエも含め彼女の発明に助けられたことは事実なのだから。

「だから──ルガルも、今回だけは見逃してやってくれ」

 振り向いて、腰に差していた二丁拳銃を差し出しながら。これもキットが二人のために開発した武器なのだと、言葉無くして語るのだ。

「──シュライグ」

 言葉にはしない──否、口下手な彼はあえて言葉ではなく別の方法で伝えてくる。その答えが、差し出された武器に宿っている。

 共に戦ってくれ──仲間を犠牲にするくらいなら、自分が全て背負う。そんな魂にまで染み付いた自己犠牲の塊であった彼が、今ようやっと、その殻を破ろうとしている。

「──敵は俺達で抑えよう。三人なら、きっとできる」

 一人ではなく三人で──臆病風に吹かれたいつかの彼はもういない。いつの間にか、それこそ己の目が届かぬところで、ちゃんと前に進んでいる。

「……そうだな」

 彼の成長が嬉しい一方、一抹の寂しさを覚えながらも、ルガルは鉄の牙を手に頷いた。

 予め記載しておくが、彼らの目的は制圧ではなく捕虜奪還である。

 しかし、この日上がったのは虐げられてきた雌伏の獣達の反撃の狼煙であり、革命の足掛かりであったと、本国に壊走したドラグマの将はマクシムスの御前で語る。今まで狩りと興じてきた邪教徒への侵略が、たった一夜にして覆ったのだと。そして、砦の制圧はたった三匹の獣によって行われたのだと血と涙を滲ませ報告するのだ。

 曰く、その獣は標的を食らいついた牙が如く逃がさぬ。獰猛なる(あぎと)により豪快に狩り尽くす様はまさに銀弾。

 曰く、その獣は標的を研ぎ澄まされた爪が如く確実に仕留める。抵抗すら実を結ばず、無慈悲にも血の花を咲かせる様はまさに徒花。

 そして──それらの厄災を引き連れて、鉛の雨降らす鉄翼はまさに凶鳥。

 反撃の咆哮を前に命からがら逃亡した愚かな将は、悪夢にでも取り憑かれたように彼らを称した。

 鉄の獣──と……

 それが、首を飛ばす彼の最後の言葉であった。

 ◆

 この一夜の攻防戦は、ドラグマにとっては一国の矜恃に泥を塗られた厄日となったが、同時に邪教徒と狩られる側であった獣人達からすれば、一矢を報いた歴史的快挙とも言える出来事であった。

 誰もが敗北を危惧したであろう。そして、抵抗組織の幕を下ろすと覚悟していたであろう。それが覆った奇跡の瞬間。そして何より、その奇跡を実現したのは──

「──シュライグ」

 今宵は宴だと勝利の酒に陶酔する団員達が多く占めるなか、例に漏れずルガルもフラクトールから預かった果実酒──ではなく、フルーツシロップの瓶を片手に功労者の天幕を訪れた。すると中には先客がいたらしく、入口の布を捲るやいなや甲高い声が響く。

「もー、そうじゃないってば!だから、こことここを先に分解して埃を取るの」

「このパーツは違うのか?」

「全然違うってば!」

 作業台の上に置かれているのは、前線に彼が持ってきた鉄の武器の一つであった。巨大なリボルバー型のそれは「これが一番手に馴染む」と、シュライグ自身が好んだものだ。状況から推測するに、開発者のキットから手入れの仕方を教わっているのだろう。

(シュライグもだが、キットにも助けられちまったな)

 後に聞いた話だが、捕虜奪還作戦の皮切りとなった雪崩。あれはキットが即席で組んだ爆弾によるものだという。そしてそれを単身設置しに先行したのはシュライグで──守るべきだと思っていた妹も弟も、いつの間にかこちらが助けられる側になるまでに強くなっていた。喜ばしい──同時に、寂しい。子を見送る親にでもなった気分だった。

「ちょっといいか」

 仲睦まじくしているところ水を差すのは申し訳ないが、この二人のことだ。誰かが割って入らねばいつまでも続けかねないと、会話が途切れたタイミングを図って声を掛ける。

「話がある」

 と、掲げたのはフルーツシロップの瓶。ルガルの眼差しは、同時に振り返った二人のうちシュライグにのみ注がれていた。

 「まあ、座れよ」キットには悪いがシュライグを連れて訪れたのはルガルが使っている天幕であった。彼にしては珍しく片付いていないが、片付ける暇さえもないほどに課題が山積みだったのだろうと結論付け、シュライグは椅子に腰掛ける。最初からシュライグが来ることを想定していたかのように、椅子の高さは彼の身長に合わせ調整されていた。

「ルガル、酒は飲めないのだが……」

「心配すんな。ジュースみたいなもんだから」

 ジュースみたいな。とは言ったものだが、実際これは果実酒ではなくフルーツのシロップ漬けなのだから紛うことなきジュースであると、グラスに注ぎながら告げる。すると表情こそ変わらぬものの胸を撫で下ろす手に、嗚呼──確かに強くなった。けれど、変わらないところもちゃんとあるんだ。その事実を嬉しく受け止めながら、果肉の浮かぶシロップを差し出して。

「今日の作戦……あれはお前が考えたのか?」

 テーブル挟んで向かい合うように座って開口一番、ルガルはそう尋ねた。するとシュライグは間を挟むことなく首を横に振って、胸ポケットに入ったまま眠るメカモズの頭を撫でる。

「俺じゃない。キットが考えて、準備もしてくれた。俺はただ、言われた通りに動いただけだ」

「そうか」

 行き過ぎた謙遜も、実にこいつらしいな──思った通りの返答に笑みがこぼれそうになるのをシロップを喉に流して飲み込み、吐息一つ甘ったるさを帯びる。

「──強くなったな、シュライグ」

 飾る言葉は必要無い。ただ淡々と、事実だけを口にして。

 すると彼は──一口だけシロップの甘味を味わい、動揺に思わずと手を落とすようにグラスを置いた。衝撃に僅かに表面が跳ね、水滴が散る。送られた褒め言葉に、けれど彼は嬉しそうとは言えず、どう受け止めたらいいのか分からないと言わんばかりに視線が戸惑い揺れるのだ。

 今更そう自信なさげにするものでもないのにな──素直に見えてその実全くそうとは言い難い頑固な彼の矜恃を前に、俺はまた苦笑いを押し戻すようにシロップを一口。別に甘いものは好きでもないのに、気まずさを誤魔化す度に煽るものだから減りも早かった。

「覚えてるか? 最初に前線を退いた時のこと。俺はもう、お前に戦争は向いてないって諦めてすらいたぞ」

「……耳に痛いな」

 己の弱さは言われなくとも自分が一番よく知っている。そう言わんばかりに瞼を伏せ、ため息一つ翳りを帯びる。ルガルという人物が、軽々しく冗談を言う性格でないこともよく分かっているからこその猛省とも言えた。

「そう後ろ向きに考えるな。今日を迎えるまでは。の、話だよ」

 ふぅ、と双肩を落として深く息を吐きながら。どう伝えるべきか──所作一つ一つに、そんな悩みと気遣いが透けて伝わる。

「今のお前になら、背中を任せられる。仲間を──頼んだぞ」

 多くは語らない──否、二人の間にわざわざ言葉というものは必要も無い。が、正しいか。

 それでも、シュライグは──先の言葉を重く受け止め、そのうえで僅かに首を横に振る。俺にはできない──言葉の無い否定であった。

「俺は──お前が思うほど強くない。ルガルは俺のことを買い被り過ぎているんだ」

 背中を押されてそのうえで、彼の中でその結論が出てしまうのは、偏に前線離脱する際の数多くの失敗を引き摺ってであろう。獣人もドラクマも──どちらも選べず掬おうと手を伸ばし、けれど欲張ってどちらも失ってしまう。

「ここまでの勝利を齎しておいて、今更向いていないだなんて言うなよ。じゃないと、誰がこいつらを導く」

 そう言ってルガルは徐にシュライグから視線を外し、天幕の入口の方を見た。仕切りの布の向こうからは、勝利の酒に酔った連中が騒いでいるのか呂律の回らない笑い声が。布で遮られているとはいえ、彼の目には仲間達の喧騒がまるで目の前のことかのように映っていた。

「シュライグ……お前は強くなったんだ。今のお前なら、夢物語でもなく獣人とドラグマとの争いの無い世界を叶えられる。俺はその可能性に賭けたいんだよ」

 逸らされていた視線がまた向き直る。一言一言に込められた声の温かさ、あるいはそそがれる視線の柔らかさ、息遣いの一つとて緩やかにささくれだった心を癒してくれる──それらの態度が、先の言葉が嘘偽りでもなく本心であることを裏付けながら、寄り添うように続きを紡ぐ。

「皆に勝利の希望を見させてくれたお前は、間違いなく俺にとって……いや、俺らにとっての──英雄だ」

 この勝利を境に、虐げられてきた獣達は新たな一歩を踏み出した。

 自らの爪を牙を信念さえも鉄を武器に撃鉄を起こす。そこに種族はなく、性差もなく、あるとすれば故郷を仲間を守りたい──その一心で、雄飛の咆哮を上げる。

 侵略の徒は忌々しいと吐き捨てながら、虐げられし同胞達は一縷の希望と縋りながら、彼らを呼ぶのだ──

 ── 鉄獣戦線(トライブリゲード)と……



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Epilogue これから旅立つ二人へ

 ──私、これからどうしたらいいのでしょうか……

 ホールから炎を纏いながら現れた竜を見た瞬間、彼の元に行かなければいけない。と、自分の中で理由さえ確かでない使命感に駆られ駆け出していた。

 そこで出会った男の子を見て、私の心に言葉に言い表せない感情が芽生えたのだ。

 みんなを喜ばせるのが、聖女である私の使命──なら、彼に手を差し伸べるのは? それはみんなの喜ばない選択だと、頭の冷静な部分では分かっていた。分かっていてそのうえで私は彼を──悪い人と思えなかった。

 そして、聖痕の無い彼の手を掴んだことが弾劾の始まりだった──

「──全く、アンタって奴は! こんな体で戦おうだなんて信じられない!」

 戦いなんて、戦争なんて、きっと最初から無かったんだ──そんな無意味な現実逃避から連れ戻したのは、一時の平穏の中で響き渡る怒号。弾かれたように顔を上げ、そして目に飛び込んできたのは──満身創痍のシュライグさん。そして、それを叱る猫の獣人であった。

「……悪かった。反省はしている」

「そうやってアンタはいつもそう! その反省を次に活かせたことなんて一度とないでしょうが!」

 今にも噛み付かんばかりの剣幕で捲し立てながらも、折れた腕に包帯を巻く手つきと注がれる視線は思いやりで温かい。邪教徒──と、マクシムス様の教えでは呼ばれる彼らも、ちゃんと心があって家族もいて、戦争という酷く残酷な世界の中でそれでも一時の安らぎに身を置けば、武器を離し素朴でほっとする時を過ごすのだ。

 あの男の子は、いいや男の子も含め彼らは──悪い人ではない。そう信じたいのは、もう私に帰る場所も地位も家族も残されていないからなのか。

(──分からない)

 彼らが善人なのか悪人なのか、聖痕を持たぬ彼らの優しさに縋りたいだけなのか、そもそも私は──みんなを喜ばせる使命を失った私は、これから先どうしたらいいのでしょうか。

「──ちょっといいか?」

 戦場からは離れたのに──いや、離れたからこそ現実を受け止める時間ができたと言うべきか。冷静に、これからのことを考えると大きな不安が渦を巻く。鼻の奥でツンとした感覚がチクチクと刺さるのは、抱いた不安が今更牙を剥いたから。

 だから──後ろから徐に肩を叩かれて、勢い良く振り向いたことで涙が散るところを見られてしまった。

 私を呼んだのはそれはそれは大きな狼の獣人で、それこそ一口で私の事など飲み込んでしまえそうなほど。だが取って食うつもりは欠片と無いのか、彼は目に浮かぶ涙を一瞥し、何も言わずハンカチを差し出した。

「悪い……驚かせるつもりは無かったんだ」

 泣いていたのは怖くて驚いたから──ではないことを彼も分かっていただろうが、あえて自分を悪者に頭を下げた。触れてやらないことも優しさだ──下手な慰めは傷心を抉る。それを分かったうえでの配慮だった。

「髪が解けてる……結び直していいか?」

 僅かに視線を落とした先、そこに目を向ければ彼の手には──頭一つ鷲掴みにできそうな大きな手。その中で玩具のように小さく目に映るブラシがあった。

 狼の獣人はルガルと名乗った。「怖がらせて悪かったな」と、己の風貌がドラグマと大きくかけ離れていることを理解したうえで、それでも放っておけなかったのだと髪を梳く手つきは見た目よりも優しい。姉に髪を触られている時も温かな気持ちでいっぱいだったが、今もそれに近いものを感じてしまうのは、極限の不安の中で誰かの温もりに飢えていたからなのだろうか。

「角飾り、取れちまったな」

 折れた髪留めを渡されて、もう使えない──そう分かっているのに、私はそれを捨てようだなんて思えなかった。たとえ壊れてしまっても、思い出までは壊れない──きっと。だからこの角飾りに沢山詰まった姉──フルルドリスとの思い出を手放せずに、両手で握り締め呟いた。

「どうして……こんなことをするのですか?」

 ドラグマが今まで邪教徒に──聖痕を持たない者達にどのような仕打ちを行ってきたか。それが理解できないほど無知でもなく、私は怖いもの知らずにも尋ねていた。いっそ聖痕を剥奪した母国のように、彼らにも強く当たられたほうが辛いけれど納得はできただろう。

 酷くされる理由はあったとしても、優しくされる理由は無い。だから、今無条件に与えられるこの感情が何なのか分からなくて、どう応えたらいいのか──聖女として育てられたがゆえの弊害なのか、私には今抱くこの感情を正しく伝える術どころかその正体さえも分からなかった。

「例え争い合っていたとしても、いつかは分かり合える──そんな夢を見させてくれた奴がいるんだよ」

 「ほら、できたぞ」大き過ぎる手からは想像もつかないぐらい繊細に結い上げられた髪。右へ揺らして左へ揺らして、それが初めてのポニーテールだった。

「ここはドラグマと違って暑いからな。毛の量が多いと煩わしいだろ」

 そんな彼も長い毛を鬱陶しそうに払いながら、うんざりとした態度を隠しもしない。

「……あの、なんで私達のこと助けてくれたのですか?」

 あの乱戦では自軍のことで手一杯だっただろう。それでも、見ず知らずどころか敵国の聖女を──助ける利点など、何も無い。聖女の立場とて飾りになった私に、人質の価値すらも無いのだと、触れた額の聖痕に熱は灯っていなかった。

「たとえ種族が違ったとしても、手を差し伸べ共存の可能性を示してくれた──夢を見させてくれた奴とそっくりだった。それだけだ」

 ふと、彼の眼差しが私から逸れた。逸れた先──嗚呼、そういうことか。すぐに私は納得した。ルガルさんに、否彼だけではなく鉄獣戦線に所属する誰もに夢を見させた存在。それは、厄災を運ぶ凶鳥とも恐れられながらもその実、強くて誰よりも優しい──

「見ず知らずのホールから現れた少年を庇う──ドラグマの教えに逆らう背信行為だったかもしれねぇ。だが、それに救われた奴もいる」

 また彼の目は他に移った。視線を追って私も目を向ければ、一人木陰でぼんやりと空を見上げる少年が。姉に潰された左目が痛むのだろう、包帯越しに何度も触れては爪の先で引っ掻いている。

「生きていたら辛いことはある。でも最後に、あの少年を助けてよかった……そう思える日がいつか来るさ」

 その言葉は、これから先の未来に悩むエクレシアに向けた助言──ではなく、振り返った思い出に触れるもの。

 まだ、ドラグマとの戦争なんて無かった時代に手を差し伸べたことがある。自分のことで精一杯だった過去は、けれど今となってはかけがえの無い仲間として共に肩を並べて戦場に立つ。あの日あの時、出会って掬い上げた命が繋いできた絆が、鉄獣戦線──

「包帯、新しいのに巻き直してやれ」

「でも……」

「あの少年は悪い奴じゃない。そう思ったから、助けたんだろ?」

「……お見通し、なんですね」

 「ありがとうございます」背中を押してもらったことに、礼儀正しく頭を下げてから少年の元へ。その後姿を見守りながら、ルガルは一つため息を。

(──懐かしいな)

 昔、シュライグも──あんな風に誰かの傷に包帯を巻いていた時期があった。今とて応急処置はするが、それでも包帯を巻くことよりも巻かれることの方が増えたのは、嬉しくない事実ではあるが。

 彼が──鉄獣戦線の将になってから、差別は無くなった。

 口下手だ。人付き合いも苦手だ。けれど──優しくも強い。そんな彼の生き様に、胸を打たれる者が多くいた。それだけだ。

 彼にリーダーという立場を譲ってからの後悔は無い。解決できずにずっと悩まされていた差別問題を解決するのが己ではなかったことを悔しくは思うが。

「──ルガル」

 ふと、声を掛けられて閉じていた瞼を開ける。声のした方を見下ろせば、そこには杖を付き折れた腕を肩から吊ったシュライグが。治療の間こってりとフェリジットに絞られてか、表情は心なしかくたびれていた。

「ドラグマの聖女は?」

「ああ、あそこの木陰で少年の傷を診てる」

「そうか」

 尋ねるほどの距離でもないが、わざわざ声を掛けたのは──怪我の後遺症で一時的に視力が落ちてだろう。

「肩、貸すぞ」

「いや、いい……そんな重症でもないさ」

 いやいや、十分重症だ──あのフルルドリスとの一騎打ちで五体満足と思えば確かに命があるだけ軽症かと錯覚もするが。

「……転ぶようだったら手を貸す」

「ありがとう」

 杖を頼りに脚を引き摺るようして歩きながら──恐らくだがシュライグは、二人に気を使わせないためにもあえて肩を借りることを断った。それもそうか──怪我の殆どは、エクレシアの血の繋がらぬ姉、フルルドリスにつけられたもの。手を借りねばならぬほど、そんな姿を見せればきっと、あの心優しい聖女は重く受け止めてしまう。

「……飯、用意してくるか」

 ふと空を見上げれば、太陽は南の空よりやや西に傾いていた。やること考えることが多くて、昼食の用意を忘れていたと思い出す。

 俺とシュライグとフェリジット。そして少年少女の分を合わせて五人分──少女の方は、思い詰めて食事が喉を通らぬかもしれないな。

 そんな予想を裏切って、エクレシアの健啖ぶりに驚くのは──もう少し、後のこと……




ご愛読ありがとうございました


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