時過ぎて(大人悪魔ほむら×大人さやか短編集) (さんかく@)
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時過ぎて
「ねえ」
美樹さやかは口にくわえていたストローを離し、隣の女性に声をかけた。
「・・・・何?」
ゆっくりと、瞳だけ動かし女性はさやかを見つめる。その紫の瞳に見つめられてさやかは一瞬体をこわばらせる。恐怖で身がすくんだわけではない。「恐怖」とか「憎悪」とかそう言った感情をもうこの黒髪の女性に対して美樹さやかは抱いていなかった。代わりにその妖艶な流し目が異性に対してどれだけ有効的かつ効果的かを何回彼女に進言したかわからない。・・だがいつも彼女はその話を聞くとただ虚ろに微笑むだけだった。
「・・・・何よ」
じっと見つめるばかりで何も語らない青い髪の友人をじれったく思ったのか、黒髪の女性は眉をひそめる。
そして、なにか合点がいったのかふと口元をほころばせた。
「また・・・記憶の錯乱?」
フフフと、彼女は笑いだした。美しい口元からさも嬉しそうな笑い声が漏れる。くっ、くっ、と体を震わせながらなんとか笑いをこらえている姿は、その美貌に似つかわしくない子供っぽい動作と相まって微笑ましいものだった。それに対し、青い髪の女性は心外だとばかり腕を組み抗議する。
「あーもう、ひどいよ・・・ほむら」
黒髪の女性・・・暁美ほむらが宇宙を改変してから10年が経った。周囲の状況も変化し続けさやかとほむらも人間社会での適応をはかるため生物的ルールに従い、成長し、そして社会人となっていた。
まるで「演技している」かのような気分で、時には「達観して面白がっている」気分で二人はこの世界を生き、そして戦い、傷つき、歳月を重ねてきたのだ。
二人の関係の軋轢も、互いの成長のおかげでようやく歩み寄りを見せ、収束しつつある・・・はずである。
「あら、ごめんなさい。つい」
フフフと笑いながら横目でさやかを見つめる。その視線にどことなく色香があるのは気のせいか。
ファサ、と黒髪を優雅に右手で流すと「あなたのしぶとさにはびっくりだわ」と呟いた。
「まあ、いいか、てかさ周りを見てごらんよほむら」
「え?」
目を子供のように輝かせるさやかに合わせ、周囲を見回してみると数名のカップルや男性がこちらを見ている。いや、正確にはほむらを見ているのだが。ここは映画館のロビー、かなり客が増えてきた様子だが、まるで映画挨拶にきた芸能人を見てるかのように、暁美ほむらを好奇の目で見ている。
「みんなあんたを見てるんだよ」
自分のことのようにドヤ顔で微笑むさやかを何故か落胆したように見つめ、ほむらはため息をついた。
暁美ほむらは恐ろしいほど美しく成長していた。
艶のある黒髪、白磁のような肌。そして相手をすくませるほどの眼力を持った紫の瞳。どれもが完成されすぎて、まるで人外のようだと大学では揶揄された。だがそれは実際には揶揄ではなかった。彼女はそもそも人外なのだから。タートルネック、ロングスカート上下共黒でまとめたその姿は美しくも禍々しい「人外の者」を体現しているかのようだった。
「・・・別に見られたいと思っているわけじゃないわ、それに美樹さやか」
「え?」
「あなただってそう悪くはないわよ・・」
ほむらの言うとおり、美樹さやかも美しく成長していた。青い髪は出会った当初から変らない髪形のままだが、少し大人っぽくなった表情と、そしてあの独特の誰の心もさわやかな気分にさせてくれる笑顔はかなり魅力的だ。そう、魅力的・・しかしその有効範囲が幅広すぎて今だにさやかには女子校的なノリの取り巻きが数名いる。え~そうかな、と頭を掻いて大げさに照れる友人を見て、またほむらは軽くため息をつく。言うんじゃなかった、とでもいうように。
「映画・・・早く始まらないかしら・・って、あなた何まだ喜んでいるの」
「え~やっぱり嬉しいじゃないですか」
「何がそんなに」
「うちの嫁が綺麗って言われているみたいでさ」
暁美ほむらは固まって動かない。まるで彼女が保有している能力「時間停止」のように。
「・・・ほむら?」
半分冗談、半分本気で言った台詞に返答がないことに美樹さやかは内心あせる。黙り込んだ暁美ほむらの美しい横顔に見惚れながら、ほむらの気持ちを確かめてみたいとさやかは思った。
ほむらの左耳のイヤリングが一瞬キラリと光る。
「違うの?」
「・・・・・・」
「ねえほむ・・わっ!冷たいっ!」
いきなりさやかの眼前に赤のコカコーラの紙コップが現れ、頬にあたる。
コップを持っているほむらの表情は見えない。
「・・・・違わないから飲みなさい」
「へ?」
「いいから!」
そう言って顔を見られないようにそっぽを向く。その頬に少し赤みがさしているのをさやかは見逃さなかった。
「ありがとうほむら」
「・・・・・」
しばし、心地よい沈黙が二人を包む。劇場案内のアナウンスが流れた時、ようやく口を開いたのは暁美ほむらの方だった。
「ねえ美樹さやか」
「ん、何?」
「私はまどかを愛している」
「うん、知ってる」
「まどか以外の人類なんてどうでもいい」
「うわ、怖、それはまあ・・・うん、あんたらしいわ」
「特に美樹さやか、あなたなんてどうでもいいし、愛してもいない」
「・・・・」
「好きでもないし、なんでもない・・・でも」
さやかの手に暁美ほむらの白い手が重なる
「傍にいて」
押し殺した声で
「ずっと」
縋るような想いを押し隠すように表情を見せないほむらにさやかは困ったように、しかし嬉しそうに微笑む。
「しっかたないなあー」
そうしてほむらの手を握り、立ちあがる。
「じゃあ、つきあいますよ、地獄の果てまで一緒にね、お嬢さま」
と、可愛くウインクするさやかに、ほむらはただ「馬鹿」と嬉しそうにつぶやいた。
END
余談
数時間後、映画が終わりぞろぞろと観客が入り口から出てくる。
その中でひときわ目を惹く人物が怒りの表情を隠すことなく出てきた。あまりの美貌のため怒りの表情さえ美しいが。
「ねえ、ほむら、何怒っているのさ?」
「・・・・別に、ただあなたが愚かなことにあきれているだけよ」
「え、何何?私何かしたっけ」
そして、あ、とさやかが何かを思いついたかのように、手を叩く。
「もしかして、あれ、?私いびきかいてたとか?うわ、恥ずかしいなあもう」
「なあもうじゃなくて!あなた、いったいどれだけ寝てたと思ってるの、全然映画観てないじゃない!」
「え、いや~ほむらは観てたんでしょ?ならいいじゃん、あとでストーリー教えてよ」
「・・・・嫌よ、絶対嫌」
「え~なんで?」
「ちっ」
ほむらは赤い紙コップを持った右手をさやかに向かって高々とあげる。
うわ、と言いながら頭をガードするさやか。しかし、彼女が公共の場でさやかを殴るという愚行はしない。それだけの社会性は十分身に付けていた。はああ、と長いため息をついてほむらは右手を下げる。
「愚か者には答える義務はないわね・・じゃあ、私タクシーで帰るから」
「ええ、ちょ、帰るとこ一緒じゃん、ちょっと待ってよ」
「嫌よ、どっかの路上でのたれ死んでればいいわ」
「悪魔~!」
映画もせめて一緒に情報を共有したい・・感動を共有したい・・そう思うのは人外の者も例外ではないようだ。
おわり
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美樹さやかは夢を見る
<あれ・・・ここは・・?>
しばらくして、ああ、私は夢を見ているんだ、と美樹さやかは気付いた。
夢の中での自覚は結構やっかいなもので、わかっててはいても目覚めることができない。そしてまたまどろみながら夢の世界へと落ちて行く。その波のような繰り返しの中人は真実をかい間見るのだというが・・・。今、どこにいるかもわからずただ蒼い空間にただずむ少女もそうだった。
<誰、あんた・・・?>
そう呟いてさやかはぼんやりと映った目の前の影に目を凝らす。影は・・・美樹さやか自身だった。魔法少女の姿の。右手の剣を振りかざし、口を大きくあけ、さやかに向かって必死に何か叫んでいる雨でも降っているのだろうか、叫んでいるさやかはびしょ濡れだ。濡れた前髪で表情は見えない。自分の姿に一瞬ぎょっとしたような表情をさやかは浮かべるが、すぐに険しい表情に変わった。
<何?・・・なんて言ってるの?>
その必死な様子が気にかかり、さやかは自分自身に近づく。彼女は元々正義感の強い少女だ。憶することなく近づくと、顔を自分自身に寄せる。と、ガシ、といきなり肩を掴まれた。必死の形相がさやかの視界いっぱいに広がる。
『タタカウンダ、サヤカ、ホムラト!』
いきなりの大音響で言葉が脳に流れ込んだ。ぐわん、と何か固いもので殴られたような衝撃がさやかの頭を襲う。顔をしかめながらも、さやかは必死に言葉を聞き続ける。
「・・・え・・何・・なんて」
『オモイダシテ!!』
『オモイダシテ!!』
『サヤカ!』
「・・・・・・さやか」
「わッ!」
さやかの視界いっぱいにピンクの色彩が広がる。焦点が定まると、そこには薄い桃色の唇が映し出されていた。誰だろうと訝しげな顔をさやかは浮かべるが、彼女の顔には相手の長い黒髪が幾房もかかり誰だか認識できない。しばらくして、相手が誰か認識できたのか、怯えていた美樹さやかの表情が安堵に変わる。
「あ、ほむら・・・」
ほむらと呼ばれた少女は口元を少しだけ歪め、うっすらと笑った。
長い黒髪、紫の瞳の美少女だ。
「あなた、うなされてたわよ」
「へ?あ・・・」
気付くとさやかはベンチに横たわっていた。
頭はほむらに膝枕されている。
「あーあ、見てられないっつうの」
あっちいあっちいとからかうような、あるいは拗ねているような仕草で両手をひらひらと動かしながら、佐倉杏子がベンチから立ち上がる。ベンチにはペットボトル、弁当箱が無造作に置かれていた。そしてようやくさやかはここが学校で、昼休みであることを思い出した。
「え、えへへ・・ごめんほむら、なーんかいつの間にか眠ってたみたい」
照れ笑いをしながら身体を起こそうとするさやかの頭を白い手が押さえた。
「え?」
意外と強い力で押さえつけられているのに驚いたのか、さやかはきょとんと黒髪の美少女を見上げる。表情は見えない。彼女の唇が艶めかしく開いた。
「大丈夫?」
「へ、ああ、うん、あははなんていうか変な夢見てさ」
「・・・そう、どんな夢だったのさやか・・」
「え・・と・・それは」
すう、とほむらはさやかの額を優しく撫で始めた。そして
今まで聞いたことのない艶のある声でほむらはさやかに囁く。
「忘れなさい・・・美樹さやか」
「ほむ・・ら?」
一瞬さやかは顔を赤らめる。黒髪の友人に色香を感じたからか、それとも
今、自分が置かれている状況に恥じらいを感じているのかそのどちらもなのか。
「あー、もう、なんだよおまえら!付き合ってんのかよ!」
やってらんねーとばかりに杏子が腰に手をあてながら叫ぶ。
「ちょ、こら、きょーこ!」
顔を真っ赤にさせて美樹さやかはガバ、と勢いよく飛び起きた。
思わずほむらも体勢を崩し、一瞬きょとんとした顔になる。
「うるせーさやかのバーカ!」
べえと可愛く舌を出して杏子は屋上の階段を駆け下りていく。
「こら待て、きょーこ!」
右手を振りあげながらさやかも後を追いかける。まるで台風が去った後のように
取り残された暁美ほむらの空間を静寂が包んだ。
「・・・・・・」
ふ、と笑い声が漏れ、暁美ほむらの唇がわずかに吊りあがる。
「変わらないわね・・・あなた」
美樹さやか・・と呟きながら、黒髪の美少女は目を細めた。
禍々しい光を宿したまま。
******
ここは「魔なる者」である暁美ほむらが改変した新しい世界。
彼女が唯一愛する少女鹿目まどかのいるこの世界で、人外の者に成り果てた彼女は、ただまどかだけを想い続け、いつの日か自ら滅び消失するのを待つ虚ろな生き方を選択した。だが、暁美ほむらは以前のように普通に学校に通い、人間の少女として生活している。それは愛する少女がその生を終えるまで傍で見届けたいという想いと、そしてまた人間としての生活に対する彼女の「執着」からくるものであるが、おそらく後者の自覚は少女にはない。時を何度も逆行しているとはいえ、齢十四かそこらの少女が客観的に自らを分析できるはずもなく、ましてや社会性などを全く身につけてもいない彼女だ。少女の激しい自己愛ともとれる「鹿目まどか」への圧倒的情念の熱量は魔法少女の能力を遥かに凌ぎ、とうとう人外の者である「悪魔」と成り果てたが、未発達な少女である「暁美ほむら」もまた同時に存在している。ほむらは「まどか」という少女のためだけに悪魔となり、世界を書き換えたはずだが実はそうではないことにほむらは後に気付くことになる。ただし、それはほむらが精神的に成熟する頃の話だが。
「あ、あのっ、暁美・・さん」
気弱そうなみつ編みの少女が暁美ほむらの元へ駆け寄ってくる。
ファサ、と黒髪を流しながらほむらは少女に「何?」と囁いた。その美しさに憧れを抱いているのか少女は「あ・・」と顔を赤くし、しばらく俯いた。そのおどおどとした姿に特になんの感情も抱くことなく、ほむらは冷酷な眼差しで少女を見下ろしていた。みつ編みの少女はおそらくほむらのクラスメイトだが、ほむら自身に認識はない。人外の者となった暁美ほむらにとって「鹿目まどか」という存在以外の者はどうでもいい彼女いわく「ゴミ同然」のものだった。
「あ、あの先生が職員室にって・・」
「そう、わかったわ・・ありがとう」
黒髪がたなびく。廊下にいた生徒達は皆、その優雅な立ち居振る舞いに見惚れる。
もともと美しかったほむらは、「魔の者」として人外と成り果てた途端、その魔なる者の持つ背徳的な色気を醸し出すようになった。艶のある黒髪、透けるような白い肌に紫の瞳、少女特有の儚さを体現しているその美しさと、その得もいわれぬ内面からにじみ出る年不相応な色香は生徒のみならず教師の心さえ奪っていった。今では学校で最も注目される人物となっていたが、その「尋常じゃない」近寄りがたい雰囲気のため周囲から孤立していた。ただ一人の「稀有」な存在を除いて。
「おう!ほむらー、一緒帰ろう」
「・・・・・」
その能天気ともいえる元気な声の主を認識した途端、ほむらの美しい唇からそっとため息が漏れる。
そう、暁美ほむらにとって、最も想定外だったのは「美樹さやか」だった。
記憶が薄れかけていくちょうどその時、正義感の強い蒼い髪の少女は黒髪の人外に対し怒りに満ちた感情をぶつけていた。だが、記憶が無くなった途端、彼女はほむらを親友として認識・接触してきたのだ。いくら暁美ほむらとはいえ、記憶に干渉はできても個人の人格にまで干渉はできない。ただのクラスメイトとしての記憶を植え付けたはずだったのに。ほむら自身気付かない深層心理が記憶操作に影響したのか、それとも美樹さやかの深層心理が表面化したのか。そのどちらもなのかはわからない。
「・・・・・・杏子と・・帰らないの?」
ようやくほむらの口から言葉が紡ぎ出された。そっけない友人の態度をまるで気にすることもなく、さやかは手を頭の後ろに組んでにっこりと微笑んだ。さわやかな笑顔だ。顔を背けるほむら。
「いやーちょっと喧嘩しちゃってさ、あれ、そっちこそ転校生は?」
「・・・・・・・まどかは今日は用事があるから早退したわ」
ほむらが一瞬固まる。「転校生」という言葉にほむらが反応したことをさやかが知る由もない。
「それより喧嘩って、あの時の?」
「えへへ、ま、あんたのせいじゃないからね、気にしなさんな」
さやかはさわやかに笑顔を浮かべると、よしよしと優しくほむらの頭を撫でる。
以前の、世界がほむらによって改変される更にその前の世界を知っている者がいるならば、この光景は奇跡だと驚嘆するだろう。だが、それを知る者も今はもう暁美ほむらしかいない。
ほむらの唇が固く結ばれる。
「・・・・ほむら?」
俯いた友人の表情を覗き込もうとするさやか。
空のような蒼い瞳と、アメジストのような紫の瞳。
互いの瞳を覗き込むように2人の視線が絡み合った。
「・・・あなた・・もう完全に忘れてしまったの・・・?」
「・・・・え?」
「・・・美樹・・さやか」
苦しそうに暁美ほむらは囁く。だが、二人とも瞳を逸らさない。まるでお互いに見惚れているように互いの瞳に映る自分自身の姿を見つめる。
「転・・・校・・生・・?」
アメジストの瞳を覗き込みながら、さやかの口から言葉が漏れる。だがさやか自身もなぜそんな言葉が出たのかまだ認識できていない。そっと、白い手が美樹さやかの頬を撫でる。
ほむらの手だ。
蒼い瞳に映し出された暁美ほむらは笑っていた。その笑みは人外の者としての冷酷な笑みではなく、嬉しい時に人が泣きながら笑うような、そういう笑みだった。
「ほむら・・、あんた・・・」
色々な感情が湧きあがり、うまく言葉にできない、そして言葉にできないまま美樹さやかの意識は途切れた。
美樹さやかは夢を見た。
それはひどく遠い昔の夢で、桃色の髪をした少女と時間を気にすることなく子犬のように転げ回って遊んでいた頃の夢だ。胸がしめつけられるような切なさでさやかは泣いた。
「まどか・・・」
だが、まどかの名前を呼んだのはさやかだけでなかった。
気がつくと、さやかの傍に美しい黒髪の少女が立っていた。暁美ほむらだ。
「ほむら・・あんた」
ほむらは人間の姿をしていなかった。
黒い翼をした悪魔の姿だ。悪魔は声を殺して泣いていた。
「あんたって・・・あんたって奴は・・・」
ぎり、と歯をくいしばりさやかは悪魔に飛びかかる。
さやかがほむらに触れた途端、ほむらの姿は制服姿に戻る。右手を振りあげさやかはほむらを殴ろうとするが、押し留まる。代わりに握っていた拳を開き、ほむらの胸ぐらを掴み激しくゆすぶる。
「なんでだよ!なんであんなこと・・・みんなだいなしにして・・」
ほむらは何も語らない。表情さえ読み取れない。
「なんで・・」
それでもさやかは縋るようにほむらを激しくゆすぶり続け、叫ぶ。
「悪魔なんかになっちゃったんだよ!」
涙がさやかの目からあふれ出た。
アンタトトモダチニナリタカッタノニ・・・・・
「・・・・・・さやか」
「・・・・え?」
さやかの視界いっぱいにピンクの色彩が広がる。焦点が定まると、そこには薄い桃色の唇が映し出されていた。誰だろうと訝しげな顔をさやかは浮かべるが、彼女の顔には相手の長い黒髪が幾房もかかり誰だか認識できない。
しばらくして、相手が誰か認識できたのか、怯えていた美樹さやかの表情が安堵に変わる。
「あ、ほむら・・・」
ほむらと呼ばれた少女は口元を少しだけ緩め微笑んだ。
長い黒髪、紫の瞳の美少女だ。
「あなた、泣いてたわよ・・」
「へ?あ・・・」
「怖い夢でも見た?」
優しく額を撫でられる。何故かさやかは気恥ずかしくなり視線を逸らす。
気付くとさやかはベンチに横たわっていて、頭はほむらに膝枕されていた。
「あーあ、見てられないっつうの」
あっちいあっちいとからかうような、あるいは拗ねているような仕草で両手をひらひらと動かしながら、佐倉杏子がベンチから立ち上がる。ベンチにはペットボトル、弁当箱が無造作に置かれていた。既視感を覚えながらも、ようやくさやかはここが学校で、昼休みであることを思い出した。
「え、えへへ・・ごめんほむら、なーんかいつの間にか眠ってたみたい」
手で涙の跡をぬぐいながら、さやかは身体を起こそうとした。と白い手がさやかの頭を押さえた。
「え?」
意外と強い力で押さえつけられているのに驚いたのか、さやかはきょとんと黒髪の美少女を見上げる。表情は見えない。彼女の唇が艶めかしく開いた。
「大丈夫?」
「へ、ああ、うん、あははなんていうか変な夢でさ」
「・・・そう、どんな夢だったのさやか・・」
「え・・と・・それは」
ほむらはさやかの頬を優しく撫でる。そして
今まで聞いたことのない艶のある声でほむらはさやかに囁いた。
「もう忘れていいのよ・・・美樹さやか」
「ほむ・・ら?」
一瞬さやかは顔を赤らめる。黒髪の友人に色香を感じたからか、それとも
今、自分が置かれている状況に恥じらいを感じているのかそのどちらもなのか。
「あー、もう、なんだよおまえら!付き合ってんのかよ!」
やってらんねーとばかりに杏子が腰に手をあてながら叫ぶ。
「ちょ、こら、きょーこ!」
顔を真っ赤にさせて美樹さやかはガバ、と勢いよく飛び起きた。
思わずほむらも体勢を崩し、一瞬きょとんとした顔になる。
「うるせーさやかのバーカ!」
べえと可愛く舌を出して杏子は屋上の階段を駆け下りていく。
「こら待て、きょーこ!」
右手を振りあげながらさやかも後を追いかける。まるで台風が去った後のように
取り残された暁美ほむらの空間を静寂が包んだ。
「・・・・・・」
ふ、と笑い声が漏れ、暁美ほむらの唇がほころんだ。それは禍々しいものではなく
とても嬉しくてたまらないとでもいうようなもので。
「・・・仲良くしましょうね・・美樹さやか」
暁美ほむらはゆっくりと顔をあげ空を見上げる。
その色と同じ色の瞳をした友人を思い浮かべながら。
************
「さやか・・・さやか」
聞きなれた友人の声で美樹さやかは眠りから覚めた。
「あ、ほむら・・」
目の前で心配そうに自分を見つめる恐ろしいほど美しい黒髪の友人に、さやかは無意識に微笑む。と、いきなり額を平手で叩かれた。あいた、と声をあげるさやか。
「ちょっと痛いじゃない!もう!」
「へらへらしてるからよ、心配して損したわ」
まったく・・と呟きながら暁美ほむらはベッドから下りる。長めのキャミソール以外に何も身に纏っていない彼女の肢体は眩しいくらいに美しい。透けるような白い肌に長い艶のある黒髪が幾筋かかかっている様子は恐ろしいほど妖艶だ。鏡台に座ると髪を梳き始める。その美しい後ろ姿を見ながら、さやかは複雑な表情を浮かべる。
「あんたさあ・・・ほんと青春無駄遣いしてるよね」
「青春って、私もあなたももういい大人よ・・・それに美樹さやか、あなたに言われたくないわ」
「それってどう・・わ!」
鏡台に座ったほむらがパン、と手を叩くと同時にベッドに置かれていた枕が美樹さやかの顔に当たる。
「ちょっと、今のせこ!」
タンクトップの肩のずれを直しながら、さやかが反撃する。思いっきり枕をほむらに投げつけると、ほむらの後頭部に枕が当たった。思わず前のめりになるほむらを見てさやかが吹き出した。黒髪を乱したほむらが流し目でさやかを睨みつける。
「こんの・・・」
「わっ」
さやかに向かって、ほむらは人さし指を突きつける。さやかの身体が硬直し、そのままベッドに押し付けられる。いつの間にかほむらはさやかの傍のベッドのふちに腰かけていた。
「この横暴悪魔女・・・」
「あなたがこの私に喧嘩を売るからでしょう?」
フフフ、と勝ち誇ったようにほむらは微笑みながらウインクする。10年も経てばこのような仕草もできるようになるのだ。人さし指をクイと動かし、さやかの上体を起こすと硬直を解いた。
微笑んでいた唇を元に戻し、ほむらは少し表情を険しくしてさやかに囁く。
「・・・それで、美樹さやか、さっきあなたはどんな夢を見て、どんな悲しい想いをしたの」
「・・・・」
「泣いてたわよ、また・・・」
さやかはただ、にこりと微笑み、えへへと笑った。
「あんたのさ、夢を見てたんだ・・」
どんな辛い時でも笑うことのできる彼女の性質をほむらはあまりよく思っていなかった。裏を返せば、それは辛い時に自分を頼ってほしいという気持ちの表れなのだが、成人しても自己分析の足りないほむらにはまだそれがよく理解できていない。
代わりにはあ、とため息をついて、友人の腕を掴む。
「それで・・・「今」はどこまで思い出しているの?」
世界を書き換えてまもなく、彼女の気持ちを知った時、正直なところもうさやかには記憶を取り戻さないで欲しいとほむらは願うようになっていた。普通に生きていくにはこの記憶は重すぎる・・だが、美樹さやかは今でも記憶を取り戻すことがある。
取り戻さないで欲しいという気持ちと、記憶を共有したいという気持ち、その二つの相反した気持ちが人外であるほむらの心の中でせめぎ合う。
「んっとね・・・・」
明るく美樹さやかは答える。ああこの子はどこまでも不器用だ、とほむらは思った。どうしてこう無駄なことばかりに努力するのか。腹ただしい。
「あんたが悪魔だってことと・・」
そしてさやかは自分を掴んでいるほむらの手を優しく包む。
「あんたがさびしがり屋ってことかな?」
えへ、とさわやかに微笑む。・・たぶんもっと思い出しているのだろうとほむらは感じた。さやかの澄んだ蒼い瞳がどこか憂いを帯びているのをほむらは見逃さなかった。見逃すも何ももう10年も連れ添っているのだから。
「ああ、もう」
ほむらは思わず声をあげて、そしてさやかを押し倒す。
「ほむら?」
「あなたを見てると・・・無性に殺したくなるわ」
「ちょ、怖!なんでよ」
「どうしてでしょうね?」
「知らないわそんなの!」
そう言いながら、ほむらは顔を猫のようにさやかの首に押し付けてくる。
「・・・ほむら今日はダメとか言ってなかったっけ?」
「・・・・気が変わったのよ」
上体を起こし、黒髪をファサと流すと、再びほむらはさやかの上に優しく包むように覆いかぶさった。
END
ほむらが少しだけ時間逆行しているのは、さやかと交流するのが癖になったからです(何…)
あと大人ほむらさんは怒らせると怖いということで笑
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トライアングル
淡い桜色の髪をした少女が暁美ほむらのところへ駆け寄ってくる。
「ほむらちゃん」
いや、もう少女ではない、彼女ももう立派な大人だった。目を細め微笑むほむら。
「久しぶりね、まどか」
<トライアングル>
コーヒーカップを両手で持ちながら、鹿目まどかはそわそわと周囲を見ている。
その様子は庇護欲をそそるものであり、ほむらもまた例外ではなかった。
「どうしたの?」
「え、あ、う、うん・・・」
ニコ、とまるで子供のように微笑むと、こくりとコーヒーを一口飲み。まどかはふう、とため息をつく。
昼下がりの喫茶店は、人も少なく、ほむらとまどか以外はほんの数人しかいない。
静寂な空気と穏やかな明かりは人外であるほむらの心にも安寧を与えてくれる。
・・・ここまで穏やかになれたのは久しぶりだ・・とほむらは思った。
きっと、これも目の前にいる愛しい子のせいなのだろう、そっと目を伏せる。
「綺麗だね」
「え?」
「ほむらちゃん」
長い睫毛の下の憂いを帯びた紫の瞳が、愛しい子に向けられる。桃色の髪をしたおどけない女性は少し顔を赤め微笑む。
「そんなことないわ」
・・・綺麗なのは貴女
「ううん、とっても綺麗だよ、それにみんなも見てる」
まどかは窓へ顔を向ける。無邪気な横顔にほむらは微笑むが、まどかに合わせて視線を窓の外に向けると、小さくため息をついた。往来する人々が時折こちらを見ているのだ。好奇な目でほむらの美貌に見惚れている。艶のある黒髪、白磁のような肌、そして憂いのある紫の瞳、恐ろしく彼女は美しかった。
「みんな・・目が曇っているのよ」
そう言って、テーブルで頬杖をついたまま、ほむらは身体を前のめりにして、まどかに近づく。長い黒髪がテーブルに垂れ、華奢なボディラインのシルエットが「く」の字に曲がる。
「ひゃ」
顔と顔がかなり接近した状態でほむらは囁く
「貴女の方が綺麗よまどか」
ほむらが世界を改変してから10年、皆それぞれに成長し、思い思いの人生を歩んでいる。不安定なまま・・・
「それでね、タツヤが・・・」
とても楽しそうに笑いながら、彼女は自分の周囲に起きた出来事を事細かにほむらに語りかける。目を細めるほむら。温かい日が射す公園で、二人はどこに行くともなく散策している。夢だとも思える時間、ほむらの目の前に成長した愛しい子がいる。薄いピンク色のワンピースが木漏れ日を浴びて、伸びた桜色の髪は風にそよぎ・・・・
「・・・・ねえ、ほむらちゃん」
白いベンチに腰掛けて、彼女は言った。
「さやかちゃんは・・・元気?」
『ねえ、あんたはまどかのために世界を変えたんだよね』
蒼い髪の少女は黒髪の少女に話しかける。
返事をする黒髪の少女。
重なる空のような瞳とアメジストのような瞳。
『じゃあ、あたしもまどかを守る。だから・・・・』
手を差し出す蒼い髪の少女、そして・・・
「・・・ええ、元気よ」
絞り出すような声。まどかの穏やかな目がほむらを捉える。そっか、と小声で囁いて。
「ほむらちゃんなら・・いいと思ったんだ」
「まどか、あなた・・やっぱり」
えへへ、と笑って俯く。そんなまどかが愛おしくてほむらは抱きしめた。
「違うのよ、まどか・・・私は・・あなたが」
「さやかちゃんってさ、いつも頑張り屋で無理してて、でもとても優しくて・・・」
「まどか・・・」
「私、好きなの・・・」
零れる涙、それはきっと友情を超えた想いが溢れさせたもので。
「まどか」
ほむらの細い腕の中で嗚咽するまどか。
「ごめんなさい・・・まどか・・わかって」
わからない、とでも言う様にかぶりを振るまどか。
ほむらはただ、その身体を強く抱きしめることしかできなかった。その艶のある唇から零れる想い。
「愛してるわ、まどか」
言葉を紡ぐ
「私は貴女を愛しているの・・・」
まどかは涙で濡れた目を優しく髪を撫でてくれる黒髪の友人に向ける。
「じゃあ、ほむらちゃんは・・さやかちゃんのことは好きじゃない・・の?」
一瞬、ほむらの身体が強張る。そうして、しばらく沈黙が続いた後、ようやく「あのひとは・・」と口を開いた。
「あのひとは・・・そういうのじゃないの」
*****
帰宅した美樹さやかが見たのは、テーブルで酔いつぶれている悪魔だった。
「うわ、どうしちゃったのあんた・・・」
疲れた顔をしながらさやかは、テーブルで突っ伏している黒髪の美女に近づく。
艶のある黒い髪を乱して、むっくりと起き上がるほむらを、さやかは昔どこかで見たホラー映画の主人公と重ねた。
「・・・遅かったじゃない・・今まで何してたのよ」
しゃがれた声で詰問するほむら。空になったグラスと半分に減った琥珀色の液体のボトル。まるで帰りの遅い主人の浮気を勘ぐっているキッチンドランカーの妻のような設定だ。
「仕事でちょっとね」
さやかは苦笑いして、肩をすくめた。でもたいしたことない、と虚勢を張るように。
それを見咎めたのか、ほむらは険しそうに目を細める。
「嫌な事件?」
「そ」
ガチャ、とさやかは冷蔵庫を開ける。その背中を見ながらため息をつくほむら。
頬杖をついて、仕事やめたらいいのにと呟いた。
「あはは、それはダメだよ、この年で無職って、私が嫌になる」
カラン、カランとさやかはほむらのグラスに氷を入れる。適度な量の水を注ぐと、琥珀色の液体をかき混ぜてほむらに差し出した。
さやかの家庭的な気配りに気をよくしたのか、ほむらの口元が緩む。
「・・・あなた一人くらい養えるわよ」
「うわ、でたこの高給取りめ~!私そうなったらヒモみたいじゃん、お・こ・と・わ・り」
そう言って、ほむらの頭を乱暴に撫でた。美しい悪魔の頭をこんなに乱暴に扱える人間もまた珍しい。色気もへったくれもない撫でられ方をされてまた不機嫌になるほむら。着替えるために立ち上がるさやかの背中に向かって、つい声を荒げて本音を言う。
「まどかに会ったの」
ぴた、とさやかの動きが止まる。
「あなたのことが好きだって」
さやかが振り返る、その表情はさっきまでのどこか飄々としたそれではなく、どこかさびしげな昔見た少女の頃の面影を残していた。
「そっか・・・」
「私はまどかのことが好き、愛しているの」
「・・・・・」
「でもまどかは苦しんでいる」
いつの間にか、さやかはほむらの隣に座っていた。優しくほむらの肩に手を置く。
「・・・あんたはどうしたいの?」
「わからない・・・」
わからないのよ・・と手で顔を塞ぐ。
「ほむら・・・」
まどかに対する絶対的なほむらの愛情をさやかは知っている。
「あなたは・・」
「え?」
おもむろにほむらは顔をあげてさやかの顔を覗き込む。かなり接近していたため、
思わずさやかは顔を赤らめた。ほむらも酔いのためかかなり顔が紅潮していた。
「あなたは」
「何?」
「誰が・・・好きなの?」
見つめあったまま、沈黙が訪れる。
正直、さやかは驚いていた。ほむらから、まさかまどかとほむらの二者択一の問いがされるとは夢にも思っていなかったから。だからこそ、さやかは瞬時に答えられなかった。
必死に考えてそうして言葉を紡ごうとした時、ほむらの指で唇を押さえられた。
「嘘よ」
「え」
「答えないで」
潤んだ瞳とうっすらと微笑んだ唇は何を物語っているのか。ほむらはさやかの襟首を掴むと乱暴に引き寄せ、
私は三角形は嫌いなの・・・・
と囁き、唇を重ねた。
了
ある少女の思い出
タツヤは将来警察官になりたいんだって、しょっちゅう私に熱く語りかけてくる。
この時期の男の子ってやっぱりカッコいいものに憧れるんだろうな、あとは消防士とかパイロットとか・・でもさやかちゃんがタツヤの憧れている仕事に就いた時はびっくりした。
「あ~、そりゃまあね、私は正義の味方に憧れてるからね」
そう言って、さやかちゃんは明るく微笑んで、ウインクした。
・・・ずるい。
「ん~まどか顔が赤いよ?」
さやかちゃんはずるい。
ぎゅっ、と私はさやかちゃんの手を握ってその綺麗な顔を覗きこむ。前よりももっとすらっとして背が伸びたさやかちゃんの。
「・・・・・・好き」
声に出して言った。私の想い。今までずうっと、ずうっとちっちゃい頃から胸に秘めていた想い。・・・あれ、でも私さやかちゃんとちっちゃい頃から一緒にいたっけ?
「私も好きだよ~、まどかのことが、この可愛い奴め~」
そうして、またいつものようにさやかちゃんが明るく笑いながら私を抱きしめてくれる。違う、そんなんじゃない・・そんなんじゃないのに。
「違うの!」
「まどか?」
私はさやかちゃんの腕の中で叫んでた。
「私、さやかちゃんのこと・・好き、大好き」
ぎゅううって、さやかちゃんの身体を思いっきり強く抱きしめた。
そして、いっぱいいっぱいドキドキしながら、それでも伝えた。
「愛してる」
びくっ、と反応するさやかちゃんの身体。
「さやかちゃんのこと愛してる」
まどか・・ってさやかちゃんは優しく囁いて、そうして今度は優しく髪を撫でてくれた。
「・・・知ってる・・知ってるよまどか」
でもごめんって、泣きそうな声でさやかちゃんは謝った。
なんで?なんで謝るの。
「だめなんだよ、まどか・・だめなんだ」
「なんで?私さやかちゃんのためだったら・・・」
さびしそうな蒼い瞳、私の大好きな瞳。そこに映っているのは私じゃないようで、そして私は思わず、黒い髪のお友達を思い出して
「もしかして・・・ほむら・・ちゃん?」
「ごめんねまどか」
高校を出てから、さやかちゃんはほむらちゃんと一緒に暮らしているって杏子ちゃんから聞いた。なんで?って杏子ちゃんに聞いたけど、杏子ちゃんはただ悔しそうに俯いて。それからさやかちゃんとはあまり会えなくて、さびしくて。
「なんで・・・?ねえなんで?」
「・・・・・・」
「なんで、ほむらちゃんのことが好きなの?」
さやかちゃんは答えてくれた、その答えは・・・。
おわり
昼ドラ風味ほむさや…
妄想上ですが、それでも大人になった二人の関係性を描くにはまどかの存在が不可欠でした。三角形は嫌いといったほむらの真意やいかに。
(そしてまどかも後に三角形について言及しますが、ほむらとは対照的な答えです。)
ほむらとまどかとさやか…この三人の関係、ベクトルの向きが自由自在に動くようなイメージがあります。怖いくらい均衡的。ただそれぞれのもつ「好き」という感情が違っているため、ほむらもまた迷うんですよね。大人になった故にその表現方法はアダルトですが、彼女の本心はまだまだ言葉で表現するには整理がついていないようです。
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映画好きな悪魔
「ねえ、あんたどれ観たいの」
「ちょっと、待ちなさい気が散るから」
暁美ほむらは腕を組んで目の前の映画上映の掲示板を必死に見つめていた。
ため息が出るほどの美貌の持ち主なのに、上映時刻の重なりと作品の品薄さを口汚く罵っている様はまるで子供のようで、美樹さやかはついつい吹き出してしまった。
それを見咎めるように黒髪の美女は横目で睨みつける。
「何よ・・あなたちゃんと選んでいるの?美樹さやか」
「って、え、待ちなさいって言ってたじゃん」
「選ぶなとは言ってないわ」
フンとそっぽを向く友人に「悪魔」と囁いて悔しそうにするさやか。しかし、思いなおして暁美ほむらと同じ方向へ向き掲示板を見直した。
暁美ほむらは映画好きである。
これは美樹さやかが暁美ほむらと共闘し、交流を深めてから気付いたことだ。
世界が再度改変されてから10年、二人は関係の軋轢を解消しつつ、今も共闘を続けている。その間、様々な事・・・本当に様々な事が起こり、美樹さやかは身も心もずたずたになったこともあったが、何度かこの敵とも言えず、友人と呼ぶにも小難しい感情が働く黒髪の女性に何度も助けられていた。その年月の中で時折発生する囁かな日常において、ほむらは彼女をよく映画に誘った。多感な少女期に軋轢を発生させたこの二人の交流は、学び舎で昼食を共にするところからようやくここまで辿り着いていたのだ。
「う~ん、あんたが面白いって思う映画がどれかわかんないわ」
「私の気持ちが読めないなんて、ほんと、愚鈍で馬鹿ね」
「言ってろ」
漫才のように掛け合いながら美女二人が映画館で必死に物色している姿は物珍しいというか、なんとなく微笑ましいもので。通りすがりの客もちらちらと興味深く二人を見る。特に目を惹くのはほむらの方なのだろう、時折ほむらに見惚れている客同士が衝突するという冗談のような事態も発生していた。
「わかったわ」
と言って、嬉しそうにパンと手を叩くほむら。さやかは思わず慌てて周囲を見渡すが、何も異常は起きていない。
「今日はあなたが決めたのを見るわ、さやか」
「ええっ、なんか解決したような感じしないけど」
さあ、早く、と黒髪の友人に急かされてさやかが指差したのは、古代に存在したと言われる生物・・恐竜映画だった。きょとんと無邪気に見開かれるほむらの目。
「・・・・・・・・・」
「どお?普段あんたこういうの見ないから、たまには新鮮で」
「却下、子供なのあなた、なんなの」
「ひっど、じゃあこれは?」
今度は隣のホラー映画を指差す。悪魔を題材にしたものらしい。
「なんで私が悪魔ものを見なきゃならないのよ、くだらなすぎてしょうがないわ」
「ええ、じゃあもうわかんないわよ」
頭を抱えあきらめる友人を見てはあ、とため息をつくほむら。
「ほんっとに頼りにならないわね」
「ひど!」
だがしかし、どうやら暁美ほむらははしゃいでいるようだ。さやかを横目にじゃあ・・と消去法で選んだのか、ある作品を指差した。
「え・・・あんたこれ観る気?」
「いけない?」
呆然とするさやかに不敵に微笑むほむら。彼女が選んだのは年齢制限がついているバイオレンス映画だった。R-15とはいえ結構激しい性的描写で有名な映画だ。
「まあ、年齢は余裕でクリアしているしね、てか意外、あんたがこういうの観るって」
「悪魔だもの、こういうのは興味あるわ」
口元を愉快そうに歪ませながらとんでもないことを言い出す悪魔をさやかは「天然め」と睨む。
「全く、こういうのに興味あるんだったらさっさと実践しなさいよ、私にだけじゃなくてほかに・・あいたっ!」
最後まで言い終わることができずにさやかは頭を抱えた。ほむらが右手で勢いよくさやかの頭を叩いたからだ。抗議の声をあげようにも、ほむらはすでに館内の奥まで早足で進んでいた。
「ちょっとお、痛いじゃない!」
涙目でほむらの後ろ姿を追いかける。再び抗議をしようとさやかが口を開きかけた時、紙コップが渡された。
「・・・一応、私が誘ったからおごりよ」
ほむらの顔は紅潮していた。思わず吹き出すさやか。
「なんだ、そんな照れなくてもいいじゃ・・あん、もうごめんなさいってば!」
再び手を振りあげて殴りかかろうとするほむらを避けるように、さやかが逃げまどう。
ほむらは怒りをどうにか堪えて、はあとため息をつくと、今度は腰に手をあて女王様とでもいわんばかりの命令口調で言いきった。
「それから・・・いい?今日こそは絶対に映画館で寝ないで頂戴・・・!」
「・・・・わかったわよ」
さやかは、つい眠りこけてしまい、ほむらに置いてけぼりにされた日のことを思い出しながら、しょんぼりと返事した。
* * * * *
「いや~面白かったね、さすがに激しいシーンは恥ずかしかったけど」
「・・・・・」
「何、どうしたの?私が起きてたのが意外?」
おとなしい黒髪の友人を不審げに見つめ、さやかは問う。
「ええ、まさかほんとに起きてたなんて」
「うわ、心外!これでもあんたの言いつけどおりに頑張ったんだからね」
頑張ったも何も、映画を見るには当然のことというのにさやかは得意げに自慢する。そんなさやかを見咎めることなく、ただ見つめ返すほむら。
「?あんたどうしちゃったのよ、ぼうっとして変よ」
「・・・・・・」
何も言わずに、いきなりほむらはさやかの腕に自分の腕を絡めた。
「ちょっと・・・」
「・・・・・」
紅潮した頬に、伏しがちな目、黒髪の美女を見つめながら、さやかはもしかして興奮したの?と聞いた。コク、と頷くほむら。
「あいたた・・・だから、ちゃんと相手を見つけなさいって」
「あなたでいいわ」
ええ?と困惑した表情でほむらを見下ろすさやか。伏し目がちだったほむらが上目づかいでさやかに囁く。
「この際仕方ないから手を打つわ、妥協よ・・感謝しなさい」
「何よそれ・・ひっど・・まあ仕方ないかなあ」
ほむらの物言いが憎めなくて、さやかは笑う。そしてほむらに「いいよ」と言って、手を握り返した。嬉しそうに口元を緩めるほむら。
「あ、それと」
「・・何?」
「あんた「羽根」は気をつけてよね」
「・・・・・?」
「興奮するとあんた背中の羽根が出てくるから、今日は少しは気を使っ・・・」
激しい乾いた音が映画館内に響き渡る。
涙目で頬を押さえるさやかと、顔をものすごく紅潮させて右手を押さえるほむら。痛いというさやかの抗議に対して、悪魔はただ「馬鹿」と囁く。
どうやら悪魔はかなり純情であるようだった。
END
つぶやき
ほむらさんはさやかさんと一緒に眠っている時、寝ぼけてたり、興奮すると背中から羽根が生えてくるという設定妄想。時折、猫の尻尾のように、さやかさんをからかってバサバサ撫でつけるとよいなと。
あと、最後の乾いた音は「バッチーーーン」くらいの大きな平手打ち音でしょう。
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悪魔と私の休日
『私、明日暇なのだけど』
ものすごい気だるげで、でもすごく艶っぽい声でこいつは仕事中の私に電話を掛けてきた。
しかも今は午後10時、TPOってのをあんた全く心得てないじゃない!って文句の一つもいいたいけれど、なんだかこいつのことになるとついつい甘くなり私は仕事中にも関わらず返事をしてしまった。
「そう?じゃどっか行く…あ」
あ~私ってほんとバカ。ちら、と恐る恐る助手席に目をやると、隣で強面の私の上司が腕を組んで睨んでる。すみません、というジェスチャーをしたけれど、全然怖い顔を崩してくれない。ヤバイ、殺されるわこれ。
『…もしかして仕事中?』
「…うん」
『あら、悪かったわね、美樹さやか』
クスクスと笑う声が聞こえる、悪かったって絶対思ってないくせに!この悪魔!
『じゃあ、映画にしましょ、明日迎えに来て』
「うん、わかった」
ほむらはすごい映画が好き。私に電話する前から決めてんじゃんこいつ、私はついつい口を緩めてしまった。
『あとそれと』
「へ?何」
『がんばってね、お・ま・わ・りさん』
「な」
ほむらがクスクスと笑いながら電話を切った。
あんにゃろ、人をからかうにもほどがある。てか、その無駄な色気なんとか有効活用しろっての!
スマホを睨んでたら、頭を叩かれた。痛いけど、それよりとっさに謝罪の言葉が口から出る。
「すみません!」
「すみませんじゃねえぞ、馬鹿野郎!仕事中になに恋人といちゃこらしてやがる!」
まくしたてるように上司が怒る。そりゃそうだ。私が悪い。恋人うんぬんはちょっと違うけど、言い訳できるレベルじゃない。官用車のハンドルを握りながら私はまた謝った。今はこの白髪のベテラン刑事と張り込み中なのだ。
「ったくよお、女じゃなければブッ飛ばされてるぞおめえ」
浅黒い顔にすごみを効かせながらドスの聞いた声で怒鳴られる。さすが「昭和の名物刑事」と言われた男だ。私は神妙な(たぶん)顔で頷いた。ふん、と上司は鼻を鳴らし、また前方のアパートへ視線を移す。
ふええ、と私は心でため息を漏らす。
たぶんこの上司は私が今まで会った男性の中では一番怖い人物だ。でもまあ…
私が世の中で一番怖いのはあいつなんだけどね。
「動きませんね」
「ああ、全然動かねえ…」
クソッ、と呟きながら、上司がドアの縁を叩く、私はハンドルにもたれて上司と同じく安アパートの真っ暗な窓を見る。ドラマと同じで、どうしてこう参考人は似たようなアパートに住むんだろう?
まあ、時計の針が明日になる頃には交代要員も来てくれて、きっと明け方近くには帰れる、うん、そう信じよう。
寝不足で映画館で眠ったらほむらに怒られるかな。
「おい、てめえ、何にやにや笑ってやがる!」
「わあっ!すみません」
私ってほんと感情が顔に出やすいらしい。
ほむらが世界を改変してから、もう10年経っている。それ自体ほんと信じられないもので、こんな不安定な状態で、よくここまで来たものだと私はしみじみ思う。
私とほむらはこの社会のルールに沿って生きるためにあえて人として成長していた。ほんとは年を取らないんだけど、できるだけ長くまどかと一緒にいるために、そして魔獣を狩るためにうまく人間社会に溶け込むためにもう少し大人になっておく必要があったから。まあ…ある程度年を取ったら、成長を止めて、世間から姿を隠すつもりでいるけど、それはまだ先のことだ。
*****
「遅かったじゃないの」
翌朝、私がほむらの元へ向かうと、ほむらは腕を組んでマンションの下で待っていた。まるで遠足が楽しみで眠れない子供のような行動が珍しくて微笑ましくて、ついつい笑ってしまった。どんだけ映画好きなのよあんた…。
「や、ごめんごめん、なんか久々に家で泊ってたからさ~いろいろ」
私は手を振りながら、ほむらの元へ駆け寄る。
遠目からもほむらは美しかった。長い黒髪に、黒のタートルネックにスカート、いつもの黒ずくめの格好。透けるような白い肌。美しすぎてなんだかそこに立っているのも幻のよう。
…振り返ればこの10年はあっという間のようで、それでもいろいろあったと思う。
でもその中でも私が一番驚いたのは、ほむらの成長だ。元々こいつは美少女だったというのに、私の想像の斜め上を行く勢いでさらに美しくなってしまった。もはや「恐ろしい」という形容詞が当てはまるくらい。実際、大学では「人外」だのと揶揄されていた。
まあ、だからこそ私はその美しさを有効活用して欲しいんだけど。
「……」
近づいて行くと、その恐ろしいほどの美貌の眉間に皺が寄っているのが見える。あれ…私何かしたっけ。
「どしたの、ほむら?」
「そのへらへらした笑いが…気持ち悪いわ」
「わ、ひっど!」
そうだ、こいつはこんな奴だったわ。
眉間に指を当てて、ふう、とため息をつく仕草は、まるで芝居がかっていて私はついつい見惚れてしまう。しばらくすると悪戯っぽくアメジストの瞳を輝かせてほむらがこちらを見上げた。綺麗な目。
「冗談よ」
ほむらはクスクス笑って囁いた。
「行きましょう、さやか」
そうして私達は手を繋ぐ。
すごいよね、これって。確か私達はものすごく…そう、昔、この世界の前の世界でものすごく仲が悪かったと思う。
たぶん、私のせいで。でも、いつの間にか、こういうことが当たり前にできて、私はそれが心地よく感じてしまっている。
…ああ、困ったなこれじゃあ…
「ねえほむら」
ついつい私はほむらを呼んでしまう。言いたい事なんて全く考えてないのに。
「なあに?」
優しく返事してくれる悪魔。その長い黒髪と華奢な後ろ姿が儚げで、私はつい後ろから甘えるように抱きついた。柔らかい黒髪とシャンプーの香り。
一瞬、ほむらはビクッと身体を硬直させたけど、すぐにその抵抗はなくなって。代わりにフフフと楽しげに笑った。
「あら、なんなの悪魔の私に甘えようなんて、ものすごく高くつくわよ…?」
「うん、わかってるわよ、そんなこと…でも魂はもうあげちゃってるし」
「そうね…」
しばらく心地よい沈黙が続く。往来だけどきっとほむらが時を止めてくれるだろうと私は楽観視してて。
「さやか」
「ん?」
「映画…楽しみね」
「そうだね」
たぶんほむらは微笑んでくれているんだと思う。
私も、きっと、あんたと見るから楽しいんだよ…そう言いたかったけど、なんだか恥ずかしくなって、代わりに私はほむらの肩に甘えるように顔を押し付けた。
END
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時過ぎた後の聖夜にて
「こういうのはね、きちんとしないと」
美樹さやかはそう言いながら、よくわからない掛け声をあげてツリ―の飾り付けをしている。仕事帰りなのだろうか、白いブラウス姿のまま、必死でクリスマスツリーと格闘している様をこの家の主である悪魔は面白そうに見ていた。
「ねえ、毎年聞くようだけど…」
「『何がそんなに楽しいの』でしょ?」
そう言ってさやかはへらへらと悪魔に向かって笑う。
悪魔はそんなしたり顔の蒼い髪の友人を憎たらしいとでも思ったのか、フン、とそっぽを向いてワインを飲みほした。無造作にその手を傍の空間へ向けると、ボトルを持った小さい影が現われ空になったグラスにワインが注がれていく。
長い黒髪に白い肌の悪魔――暁美ほむらは、赤い液体が満たされるのを目を細めて満足気に見つめる。
妖艶な笑みで小さな影である使い魔に礼を言うと、再びさやかに顔を向け。
「答えを聞いてないわ…」
と囁いた。
テーブルで頬杖をつき、気だるげに友人を見つめる様はそれだけでも色香溢れ何故この魅力を有効活用しないのかと、しみじみ悪魔を見つめさやかは思った。
実はさやかもその美しさに見惚れているのだが、本人は自覚していない。
「まあね…なんというか回数ってあるのかなあって」
「回数?」
訝しがるほむらに、さやかは照れたように笑う。
「うん、人ってさ、実はどんなことでも釣り合いが取れてるんだと思う…」
「…」
美樹さやかとの会話はいつも突拍子もない切り口から始まる。これが彼女の持ち味なのかわからないが、ほむらはこの10年で辛抱強く彼女の話を聞く習慣が身についていた。
「私は、小さい頃からずっとクリスマスを家でやっててさ、ツリ―も飾って、プレゼントももらって…」
「私はそういうことしてないから、してあげるとでも?」
ほむらがワインを飲みながら切り返す。さやかは困ったように笑う、落ち着いているのは、悪魔の質問が想定内だったのだろう。
ほむらは彼女の困った顔が気にいっている、眉を下げ、たれ気味な目が細められるところが意外と可愛いと、だが口が裂けてもそういうことを本人に伝える気はなかった。永遠に。
「うん、そう、これは私のエゴ。でもね、あとひとつあるんだよ」
そう言って、さやかは悪魔にウインクする。訝しげに、しかし口元を歪め微笑む悪魔。明らかにこのやり取りを面白がっている。
「なあに?それは…教えてくれる?美樹さやか」
「好きだから」
ぐふ、と変な声をあげて悪魔がむせた。美貌がかたなしの仕草に思わず吹き出すさやか。
「あはは、ごめんごめん、そんなに嬉しかったかな?」
「そんな訳ないでしょ、何言ってるの、貴方正気?」
え、ときょとんとしている蒼い髪の友人を、ほむらは憎々しげに睨んだ。
またいつかみたいに使い魔でこいつをいじめてやろうかと、頭の中で算段を始める。
「え、正気も正気よ?だって好きな人と喜びは分かち合いたいものじゃない」
無邪気な笑顔、中性的な美貌とあいまっての天然な台詞。ほむらは彼女がなぜ異性同性問わずに人気があるのかしみじみ納得した。
「…よくわかったわ」
「ほんと、わかってくれた?うわ、珍しい…」
「貴方が天然ってことよ」
「?」
そこからまたほむらはワインを口にする。この話題は終わりとでもいうように。
「でも…まあ、こんなに毎年懲りずにしてくれてるのだから、ある程度は感謝するわ」
「うわ、可愛くないわねえ、もっと素直に『さやか、クリスマスプレゼント頂戴』ってねだってもいいのに」
「ちょっと…ふざけるのもいいかげんにしなさい、殺されたいの」
さすがに悪魔が不機嫌になった瞬間、さやかがどこから出したのかおもむろに縦長の箱をほむらに差し出す。にこやかなさやかとそしてぽかんとしている悪魔。
「ほむらにあげる」
「……こんな時はやはりお礼が必要?」
いらないよ、とさやかは囁いて、ほむらの頭をぐしゃぐしゃと撫でる。面倒見のいい彼女の前では、恐ろしいほどの美貌の持ち主である悪魔もこうやってたまに子供扱いされる。そしてさすがにこの時ばかりは悪魔も、「暁美ほむら」としての顔を一瞬会間見せる。それはとても照れたような、嬉しいような可愛らしい表情であった。
…だがそれも一瞬だ、すぐに悪魔は不敵な笑みを浮かべ、友人の襟首を掴むと囁いた。
「それじゃあ、私もお返しするわ」
そうして、訝しがる友人の顔を引き寄せ、聖なる夜の定例挨拶を囁きながら唇を塞いだ。
…それから後は悪魔のお相手で、天使はツリーの飾り付けどころでは無かったという。
END
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笑う絵画
「ねえ、今日暇かしら」
朝、何気なく窓を見ながら暁美ほむらは、相方を見ることもなしに囁いた。
そのアメジストの目は考え深げに街を見下ろしている。長い黒髪が朝日に優しく照らされ、艶やかに輝いていた。
恐ろしいほどの美貌は珍しく朝の光で白日の元に晒されている。
「へ?ああ暇だけど、どうしたの?何、映画?」
コーヒーを飲みながら蒼い髪の女性が聞き返す。仕事明けの彼女は反動で家ではだらしない。跳ねた髪と、タンクトップのままの格好を見て、ほむらは口元を緩める。そういうほむらも白い肌の上にはキャミソール一枚を身につけているというだらしない格好であるが、お互いにもう相手に対して気兼ねはない。
「…違うわよ、それも魅力的なのだけど、一緒についてきてほしいところがあるの」
「へえ、珍しい、いいよもちろん行く」
はぐ、と行儀悪くパンを咥えもぐもぐと咀嚼する友人の傍に座ると、ほむらもコーヒーを飲み始めた。10年も経過すると互いの嗜好も知れてきて、影響しあい、もはや自分が元々それが好きだったのかも忘れてしまう程。以前はブラックで飲んでいたはずのコーヒーを今彼女は砂糖を入れて飲んでいる。そして蒼い髪の友人はブラックで飲んでいる。フフ、とアメジストの瞳を面白そうに揺らしながら、ほむらは友人を見つめる。
「ねえ、貴方は聞かないのね、さやか」
「何を?」
「私がこれからどこへ行こうとしているのか、貴方をどこへ連れて行くのか」
蒼い、どことなく海を思わせるようなゆったりとした瞳がほむらを捉える。一瞬何か言いたげな表情を浮かべたが、すぐに笑顔に変わる。
…ああ、まただ、とほむらは少しだけ不機嫌になる。さやかのこういう相手を心配させまいとする無駄なサービス精神が彼女は嫌いだった。それが自分には甘えて欲しいという感情の裏返しとは知らずに。
だが次のさやかの言葉でほむらの不機嫌は抹消された。
「だってさ、聞く必要ないじゃん」
「え?」
「どこだろうとさ、私はあんたについてくよ、そう言ったじゃん」
「……」
あまり人の好意を受けることに慣れていないほむらは、しばらく固まって、「そう」と呟くと押し黙った。それを見て、面白そうにからかうさやか。
「あれ?もしかして、ほむら照れてる?」
「…死にたいの」
カタカタとテーブルが揺れ、フォークがひとりでに動き出した。さやかの眼前でそれが止まる。思わず両手をあげてフリーズするさやか。
「…ごめんなさい」
「よろしい」
美貌の悪魔はにっこりと微笑むと、友人の跳ねた髪をくしゃくしゃと愛おしげに撫でた。
暁美ほむらは博学な人間だと、常に美樹さやかは思い知らされる。
もともとは病弱で病院にこもりがちだったせいか、本質は「純粋」でかつ「感受性が豊か」なのである。また常に孤独だったせいか、内向的でかつ、情報収集能力が高い。
ただ、自己分析が足りないというのが難点だが…しかしそれを差し引いてもあまりあるほどの知性の持ち主だ。
「久しぶりに、大学時代の恩師に会うの半年ぶりかしら」
「ああ、確か佐藤教授…化学の」
言葉を発する度に白い息が出る。思わず身を縮めるさやか。二人は外出用にと、さやかはダウンジャケット、ほむらはカジュアルなトレンチコートを着こなしているが、さすがにそれでも寒い。
意外にも…いや必然か、暁美ほむらは理系を専攻している。
彼女の人間性を進化させるには、文系でも良かったのではとさやかは思ったが、それは自分のフィルターだろうと考え直した。人間性の幅を広げるのに理系も文系も無い。しかも、なぜか化学は彼女にあっているとさやかは思った。
悪魔と化学というのは何やら親和性を感じる、これもゲーテあたりのせいだろうか。
「でも珍しい、あんたが人と会うのって…何か違和感」
「ひどい言いようね、でもまあ、貴方といる時よりも疲れないわ」
「わ、何それ!」
「ごめんなさい、冗談よ」
怒った?と上目遣いで体を寄せてくるほむらをさやかは睨む。たまに猫のように甘えてくるものだから、この黒髪の友人はやっかいだ。ため息をついて肩をすくめると、ほむらは一瞬さやかの腕をさすって、また体を離した。
…そもそもほむらが半年ぶりでもなんでも人と会うのが珍しいのだ、とさやかは思う。しかも相手が化学の教授なんてものだから、きっと分子の結合とかそういうことを話すのだろうか?…さやかが訝しがるとほむらは察知したよう「安心して」と囁いた。
「特に専攻のことを話すことなんてないの、彼女と話したのはマチスのことよ」
「マチス?うへえ、原色鮮やかな作品ですね、とかそんなもの?」
それはまったく専攻外の芸術系の話題であり、さやかは驚いた。
黒髪の友人は何故か美術史にも強かったのを思い出す。
「あんたって、ほんと幅広いわ…」
「…あら、貴方もよく知っているじゃない偉いわ」
いい子いい子とふざけて頭を撫でる動作をする。成長した悪魔は結構ユーモア精神に溢れていた。
「うわ、何よ、その高層ビルから見下ろしてる感じは!」
クスクスとほむらが笑う。更にさやかは何かを言おうとしたがやめた、
ほむらの恩師の邸宅に着いたからだ。
「久しぶりね暁美さん、それに美樹さんだったかしら?」
佐藤清子教授はあと少しで退官を迎える白髪の初老の女性だった。
小柄で温和な表情のこの女性を見ていると、さやかはとても化学という硬派な学問と結び付けて考えられない。そういうと、ほむらにまたジェンダーがなんたらと怒られるだろうが。
「お久しぶりです、教授…お変わりありませんか?」
「ええ、変わらないわ、貴女はまた更に美しくなっちゃって」
ほむらが余所行きの顔で対応するのを、さやかは横目で見ている、と、急に顔をしかめた。
ほむらの靴のかかとで足を踏まれたからだ。よく見ると、ほむらが横目でさやかを睨んでいた。
<――貴方もきちんと挨拶しなさい>
<わかってるわよ――>
意外と…と言っては変だが、暁美ほむらは人間生活になじんでいた。この10年で人間らしい振る舞いをすることが気に入ったのか、「演技」するように、相手に対し慇懃無礼に接することができる。内心では面白がって。もちろん、蒼い髪の友人に対しては演技も何もなく毒舌なままなのだが…。
ふと、さやかは大学時代、彼女に慇懃無礼に告白を断られ振られまくった数多くの男性を思い出した。
「あ、ああどうも、お久しぶりです、美樹です。アハハ、大学ではあまりお世話になってませんが、一般教養ではお世話になりました!」
かなりちぐはぐな挨拶である。はあ、とため息をつくほむらと、あらあらと初老の女性が笑い出すタイミングは同じだった。
「フフフ、相変わらず元気さんね、覚えているわよ、今は警察官でしたっけ、暁美さんがいつもしゃべってくれてるわよ」
「へえ、珍しい…」
「教授…」
顔を紅潮させてほむらが初老の女性に抗議する。珍しいとさやかは思った。こんな素直な人間暁美ほむらは見たことがない。少し気持ち悪いとは思ったがさすがに心を読まれるとやっかいなので、すぐに打ち消す。いや…もしかしたらこの初老の教授に黒髪の友人は、最愛の女性を重ねているのかもしれない。とさやかは思い直した。
「とりあえず、あがって頂戴なお茶でもしましょう?」
邸宅の居間へと続く廊下に明け放たれた扉があり、そこをさやかはつい覗いてしまい、感嘆の声をあげた。窓から柔らかい陽光を浴びて、無数の白いキャンバスが立てかけられていたからだ。
「うわ、すごいアトリエですね…」
「ええ、私のライフワークでもありますからね」
「へえ…すごいや」
* * * * *
「…あの絵を見せてくれませんか?」
お茶を飲み、ひとしきり会話が弾んだ後、ほむらは本題に移った。
絵…?なんのことだろうとさやかは訝しがるが、当事者の間にむやみに入り込むこともできず黙り込む。
「ああ、やはりそうなのね…」
清子はため息をつく、堪忍したように。
カチャンと、カップを置く音がひとしきり大きく聞こえる。
「私はまだあの絵と向きあう勇気が無いのよ…」
「一年前、教授は私にあの絵を見せてくれました…どことなく私に似ていると」
「ええ」
一体なんのことだろう?とさやかの頭はフル回転する。
佐藤…佐藤…ああ、確かちょうど一年前に教授の夫は亡くなったはずだ、あれは事故死と認定されたはず。
「…すみません、もしかして、旦那さまの事故死と関係していることですか」
さやかは職業的に聞いたつもりはなかった。だが取り調べが自然と身についていたからか、丁寧に聞いたのが逆効果で詰問めいたことになった。初老の女性の瞳が動揺で揺れる。
不思議とほむらに責められはしなかった。
観念したように清子は項垂れた。そして二人に囁いた。
アトリエに行きましょう…と。
ひときわ大きな布の掛けられたキャンバスの前で三人は立っている。
「ほんとにあんたにそっくりなの…」
「…見たらわかるわ」
清子がおずおずと布をめくると、そこには黒い服の女性の肖像画があった。
「うわ」
ゾッとした。そこには黒々とした混沌とした背景の中に一人の女性の上半身が描かれている。構図はかの有名なモナリザと同様だが、その中の女性は口をきっと引き締めて、こちらを睨んでいる。長い黒髪と白い肌は確かに友人に似ている…と思った。
「…まあ、あんたほど綺麗ではないけど…似ているといわれれば少し…ね」
ビビったのを隠すためのアドリブで、さやかは軽口を叩く。軽口の内容で、ほむらが微かに頬を染めたのは奇跡的に誰も気付かない。
不自然だ…とさやかは思った。それは絵の中心にある傷だった。抉られたような傷がある。
「…なんの傷かしら」
「やっぱり」
さやかの疑問とほむらの納得が同時に起こる。ほむらは清子に向き直った。
「…教授、教授の夫が事故で亡くなったのはこの絵が原因ですね」
* * * *
はじめは夫との口論から始まった。清子が…数年前に亡くなった親友の悲しみから立ち直れずに起きたすれ違いの積み重ねから起きた口論だった。
「…お前は、俺のことなんて何も見ていない、ずうっと、ずうっとその女のことばかりだ!」
夫は叫んだ。第三者から見ればくだらないと思われたかもしれない、しかし…清子とその親友はあまりにも密接に繋がり過ぎていた。
「お前は、魂のレベルまであの女と繋がっている、繋がりすぎているんだよ!」
狂ったように叫んで夫はナイフを持ってあのアトリエへ走る。そして――
* * * *
「こんな風に、この絵を切ろうとしたんですね」
さやかがナイフを持ってその動きを模倣する。
黒い肖像画にナイフをかざす。
眼が、さやかを睨んだ。
「ッ…!」
背中に悪寒が走り、さやかはナイフを下ろす。
「そして、そのナイフがこの傷口通りの軌跡を描いて…自らの腹部に刺さった…というわけですか」
悪寒がまだ取れないまま、さやかが呟く。なるほど事故だ。だがしかし…
と、女の悲鳴が聞こえた。清子の声だ。
「あ!」
火の元はどこからか、絵画が発火していた。超常現象とも思えるほどの突飛さに誰も瞬時に判断できない。アトリエを燃やしつくす勢いのその火をさやかが鎮火したのは10分後だった。
* * *
「…大丈夫かなあ、教授」
「大丈夫よ…すぐに立ち直るわ」
夜も更けた冷たい丘の上、二人はなんとはなしに月を見上げていた。
あれから…動揺した教授を宥め、隣人が通報した消防車に対応し、ようやく二人は自由の身に慣れたのだ。
「まあ、あんたのおかげでだいぶ教授も落ちついてたね」
「そうね」
アトリエは無事だが、あの絵は燃え尽きてしまった。
「…ねえ、最初からそのつもりで私を連れてったの?」
「……」
「一年前の事故死とあの絵の関係を確かめるために」
「…それだけじゃないわ」
美しい横顔に陰りを浮かべてほむらはぽつぽつと語りだした。
「あの絵は教授の親友だったのよ…もう何十年の付き合いのね」
「……」
「あの絵には教授の情念が籠っていたわ」
だから…と話しを続ける。
「…事故の話を聞いた時、きっとあの絵が関係していると…そう思ったの」
「あの絵を焼いたのもあんたね?」
「……」
「ま、私の管轄じゃないから、いーけど」
「さやか…」
さやかはほむらに微笑み、そして呟く。
「生きていたよ、あの絵…」
「ええ」
「睨んでた、私実は結構怖かったなあ」
まるでまどかとこの黒髪の友人のようだとさやかは思った。
ほむらの悲しみよりも深いこの愛情をまどかが受け入れたとしたら、あのような他者が入り込めない絶対的な空間が出来上がるのだろうか?私もあの夫のような目にあうのだろうか?それだとしたら少し寂しいとさやかは思った。
「私も…怖かった」
「え?」
意外…と呟いて、すぐにさやかは謝る。友人がすごく悲しそうな眼をしていたから。
「ねえ、私もあんな風になるのかしら?さやか」
「…」
「あんな風に、愛する人の周囲を傷つける存在になるのかしら?」
進化だった。
彼女は人間としても成長していた。
だからこそ、教授の悲しみの根源であるあの絵を焼いたのだろうか。自分と絵画を重ね、あんな風に思いつめてまで、大晦日に。
さやかの脳裏に、さきほど焼き尽くされる寸前の絵画の女性が浮かび上がる。
燃え尽きる瞬間、確かにあの肖像の女性は笑っていたのだ。解放される喜びで。
「あの絵の人ね、笑ってたよ、やっと解放されるって」
「さやか…」
「だから、あんたのやったことは正しいんだと思う」
そうして、縋るように見上げてくる黒髪の友人を優しく見下ろす。そっと、さやかはほむらの手を握って囁いた。吐く息が白い。
「大丈夫だよ…あんたはそうならない」
「どうしてそう言えるの?」
ん~と…と困ったように空を見上げて、そしてニコと笑う。
「まどかはあんな絵描かないでしょ?」
「…馬鹿」
ほむらも笑って手を握り返す。そして今度は夜景を見下ろした。
「もうすぐ新年だよ」
「そうね…」
自分達はこれから何回この節目を迎えるのだろう?永遠とも近い時をこれから過ごすのだ、しかし、一人じゃない。傍らにはこんな面白い悪魔もいる。
「ねえほむら」
「何?」
おめでとう、とさやかはにこやかに囁いた。
悪魔はただ、微笑んで、目を瞑り、友人にもたれかかった。
END
余談的なあとがき…
元ネタはオーソンウエルズの「グレートミステリー」です。
その中の肖像画の話。
たまに短編で怖い話がありますが、古典や海外の話はすごく面白いし、興味が尽きません。
ifですが、大人になったさやかとほむらの世界観はかなり違うものになると思います。
さやかが警察官で法執行の公安系の世界を生きるなら、ほむらは絵画をはじめとする古典的な人間が本来持っている芸術や超常現象の世界を生きるのかもしれません。この二人が生活を共にし、魔獣という敵と共闘しているのですから、
世界は広く万華鏡のように面白いものなのです。(もちろん時には残酷で悲惨ですが)
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悪魔は時々素直になる
「私はね、美樹さやか…」
「うん?」
アメジストの瞳を妖しげに揺らめかせて、暁美ほむらは美樹さやかを挑発的に見つめる。
白い頬にかかった黒髪と、濡れた唇が艶めかしい。
何回も大学時代にその美しさは異性に有効と進言したはずなのに、結局暁美ほむらは異性と付き合うことはしなかった。
「ちょっと…貴方人の話聞いているの?」
「あ、ごめん、聞いてる、聞いてるわよ」
ったく…とテーブルに肘をついて顎をのせたまま、ほむらはため息をついた。当たり前の仕草でさえ美しい。キャミソール一枚で包まれている細い身体の白磁のような肌、艶のある長い黒髪。さやかも続いてため息をつく、別の意味で。
「あんたって…ほんと綺麗だわ」
見惚れたままさやかは呟く。美樹さやか自身も美しく成長はしているが、さすがに黒髪の友人には及ばないと思っている。彼女はあまりにも美しすぎる。どう転んだらこうなるのだろう?
「あら…人の話を聞いてないと思ったら何?今度は私をくどく気?」
「んなっ…もう、ちょっとからかわないでよ!」
アーモンド形の目を細め、からかうようにほむらが囁く。動揺してグラスからウイスキーを零しそうになる友人を見て、クスクスとさも可笑しそうに笑った。
「顔が赤いわよ、さやか」
そうして自身もさも美味しそうにグラスに入った琥珀色の液体を飲む。
空になったのを見ると、行儀悪くそのままグラスを持ち上げ、舌を伸ばして水滴まで飲み干す。
赤い舌がどうにも煽情的で、さやかは額に手をあてて目を瞑る。
「あんたのソレ、厄介、エロすぎるわ」
「あら、貴方にも「効果的」なのコレ?」
そう言って、子供があかんべえとするように、舌をさやかの眼前に付き出す。
わああ、もうと言って、さやかが意味もなく両手をじたばたさせる。珍しく歯を見せて笑うほむら。
……二人は要するに酔っていた。
『たまには一緒に飲みなさいよ馬鹿』
そう言われてから数日後、さやかが早めに帰宅してほむらと一緒に酒を飲み始めた。
二人は意外にも、酒が入ると話しが弾むのか、もう時計の針は深夜を回っていた。
「ん…ほむら、ほら飲みなよ」
トロトロと眠そうな目でさやかはほむらのグラスにウイスキーを注ぐ。
焦点が定まってないのだろう、カタカタとグラスとボトルが音を立てる。
「フフフ、ちょっと…貴方…アル中?」
そういうほむらも顔を紅潮させて、さやかを面白そうに見つめている。
不思議だ…とほむらは酔った時独特の浮遊感の中思う。
何故こんなにも目の前の蒼い髪の友人といると時が経つのが早いのかと。
かつて遠い昔の世界であんなに彼女と確執があったのが夢のようだった。
…もしかしたら私は、こういう風にずっとこの人とこうして語りたかったのかもしれない
「ねえさやか」
「ん~なあに?」
うとうとと、前のめりになりかけるさやかにほむらは囁く。
「どうして貴方は私と一緒にいてくれるのかしら?」
ずっと聞きたかった事。今、この状況なら素直に聞ける奇跡的な瞬間。
「……たいから」
「え?」
うまく聞き取れなかった。
「ほむらを感じたいから」
「……」
思わず沈黙する。
「なんか、ほむらがいないと…私一人だけがこの世界にいる感じで…」
「……」
「寂しいから」
ダメ?とさやかは上目づかいで聞いてきた。新鮮だった。ほむらは自分の動悸が少しだけ早くなるのを自覚した。
自分だけでなかったという安心感でほむらの心が満たされていく。
だが、素直になれたのはここまで、潤んだ目でほむらは「しょうがない人」と囁いて、その友人の頭を軽く叩く。
「安心なさいな、貴方は悪魔の私と契約したわ」
桜舞い散る中、悪魔と天使が「契約」を取り交わした日をほむらは思い出す。
「貴方は私と一緒にいるのよ、ずっと」
ずっとね、と友人の蒼い髪を撫ぜた。
その手を握り返され、ほむらは一瞬、怪訝そうな表情をする。
友人は眠たそうに、でも嬉しそうに微笑んで
「一緒に…眠ろう?」
少し熱を帯びた蒼い空のような海のような瞳がアメジストの瞳を捉える。
悪魔の頬が更に紅潮したのは酔いからか、それとも別の何かか。
しばらくして、悪魔は潤んだ瞳で熱い眼差しを蒼い髪の友人に送りながら、
ただこくり…と頷いた。
END
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悪魔は恋を語る
ことの始まりは、黒髪の彼女のなにげない一言から。
「ねえ、恋って何かしら」
蒼い髪の友人はそれはもう驚いた表情で彼女を見て、うわ、天然だ…と一言呟いて、それでも面白そうに黒髪の友人を見下ろした。
「…どうしたのあんた急に?まさか誰か好きになっちゃったとか?」
じろ、と横から上目遣いで黒髪の美女は蒼い髪の友人を見上げる。
ちょうど寒空の下、二人はもたれるように寄り添って立っていたので、言葉を発する度に互いの白い息がかかる。ぐい、と答えを催促しているかのように、黒髪の美女は友人に体を更に押し付けもたれかかった。
「………ねえ、一応哲学者としてはどうなの?何か定義はないの?」
「え、そう言われると、何か答えなきゃいけないじゃない…え~と…」
いいようにはぐらかされたのに、学生時代の専攻を持ち上げられて悪い気はしないのだろう、必死に思考をめぐらす蒼い髪の友人を目を細めて暁美ほむらは見上げた。
彼女のお人よしで意外と単純な所は(自分が)操縦しやすいという点で、ほむらは嫌いではなかった。
笑う絵画から解放されて小一時間、二人はまだ寒い丘の上で夜の街を見下ろしていた。特段語ることもなくしばらく寄り添ったままそうしていたのだが、おもむろに暁美ほむらがあのような事を聞くものだから、正直美樹さやかも面喰っている。
…コイツがこんな事聞くなんてねえ…?
記憶にある限り、中学、高校、大学、そして現在、この黒髪の友人がこういう類の話をしてくるなんてことはなかったはずだ。おそらく先ほどの事件の影響なのだろうか?
「ねえ…ちゃんと考えてるの貴方?」
「あ、ごめんごめん、考えてるわよ…え~と、あ!」
閃いた、と得意顔で呟いて、満面の笑みでほむらを見下ろす。それに対してほむらは何故か仏頂面で。
「へらへらして、気持ち悪いわ…貴方」
「あ~もう、悪かったわね!い~い?ちゃんと聞きなさいよ」
こほん、とお約束な咳払いなどして、人さし指を空に向けて。
「愛は真心、恋は下心なのよ」
「は?」
日本語でしか通じないけどね、と美樹さやかはニヤリと笑い、それぞれの漢字のどの位置に
「心」があるのかを説明した。
「………それって、教授か何かの講義であったの?」
「いいえ、同じゼミの仲間の受け売りよ、でもいいと思わない?偶然にしては愛と恋の違い
をうまく言い…ちょっと、ちょっと!何帰りはじめてるのあんた!」
はあ、とため息をつきながら、ほむらは歩きはじめていた。カサ、カサ、とブーツで踏んだ草が音を立てる。ファサと優雅に指で黒髪を流し、カジュアルなトレンチコートに身を包んで軽やかに歩き始めている彼女の姿は美しかった。だが、置いてけぼりをくらいそうになった友人からしたらそれどころではない。
「あんたねえ…人がせっかく」
「…そろそろ寒いから帰りましょ、ほら」
「へ?」
しれっとした顔でほむらが右手をさやかに差し出す。黒のバッグが握られていた。首をかしげながら友人の所持品を手にするさやか。両手を空にしたほむらは今度はボタンを外し、トレンチコートを脱ぎ出した。
「え、ちょっと寒くな…」
「ほら、これも」
「あ、はい」
今度はトレンチコート、さやかの手がまるで参考人が手錠を隠すために布が被されているような姿になる。それが可笑しいと思ったのか、ふ、とほむらは口元を緩める。そして両手をタートルネックのセーターの裾に伸ばすと、そのまま持ち上げた。
「わ、ちょここで…?」
「馬鹿ね…違うわよ」
バサッと音を立てて、豪快にセーターを脱ぐと、背中の開いた黒のレイヤードトップが現われた。黒髪を揺らし、ふう、とほむらはため息をつく。彼女の白い肌が夜景に曝され、さすがに蒼い髪の友人も顔を赤くする。
「な、何?ちょっとあんた人がいないからってこんなと…むぐっ!」
さやかが言葉を詰まらせた、視界が真っ暗になり、薔薇の香りに包まれる。黒髪の友人が投げつけてきたセーターが顔面に当たったのだ。
「こら!ほむら…」
抗議の声をあげようとして、今度は言葉を失う。
友人の背中に、黒い羽根が生えていたからだ。悪魔の羽根が。
思わず、さやかの口から、感嘆のため息が漏れる。それほどまでに美しかった。
殺風景な冬の丘の上で、羽根を生やした美貌の悪魔の姿は、幻想的で恐ろしいほど美しかった。長い黒髪を手で掻きあげると、ニヤリとさやかを見て挑発的に微笑む。アメジストの瞳が輝く。
「あら?そんなに私に見惚れてどうするの?」
「ばっ、見惚れてなんか…」
つい、カッとなって大きな声をあげるが、すぐに口を閉ざす、見惚れたのは一目了然なのだ、きっと顔も赤いだろう、認めたようにさやかがため息を漏らすと、くすくすと悪魔は嬉しそうに笑った。
「あら、今夜は素直じゃない…さあ、帰りましょう」
「へ?」
「こんな時間よ、電車もないし、タクシーもここじゃあ拾えないわ。飛んで帰った方が楽でしょ?それとも貴方は歩いて帰る?」
「わ!嫌よ、嫌に決まってるじゃない、まさか私を置いて行くつもりだったとか…」
彼女ならやりかねない…と過去の数々の出来事を思い出してさやかは青ざめた。が、悪魔は意外にも真面目な顔で囁く。
「もう…新年早々、そんな無粋なことはしないわ…ほら、おいで」
まるで犬か何かを呼ぶかのように、手まねきする悪魔を見て、一瞬さやかが何か言いたそうな顔になるが、すぐにため息をついて悪魔の言う通り歩み寄る。それを見て
「いい子ね、抱っこしてあげるわ」
と悪魔は妖艶な笑みを浮かべた。
*********
半分に欠けた月の下、羽根を羽ばたかせ悪魔は飛翔する。
「わ~、わわ!」
「もう少し静かにできないの?貴方」
「いや、だって…」
必死にしがみついてくる蒼い髪の友人を、悪魔は面白そうに目を細めて見つめる。
目を白黒させて、眼下の風景を必死で見ている友人の表情が可笑しくて、とうとうほむらは笑ってしまった。
二人は身体を密着させて飛んでいる。ほむらの側面にさやかが密着し、腕をほむらの首に巻き付け、ほむらがさやかの腰を抱きしめる格好だ。
まだ、高校時代まで…さやかとほむらの体格差がさほど大きくなかった時は共闘中、彼女の背後からほむらが抱きかかえる格好で飛ぶことも可能だったが、頭1個分さやかが大きくなったことでそれは無理な話となった。そこで試行錯誤の上、今の体勢となったわけだが。少し大柄なさやかが華奢なほむらに必死で縋りついている様はどこかお間抜けで微笑ましかった。
「ねえ、もし私のバッグと服を落したら…分かってるわね?」
「私も落すんでしょ!わかってるわよ…わっわっ…ひゃあ…」
さやかは悪魔の細い首に必死にしがみつく。
この高さで落ちた場合の地面と激突する時間と、変身に要する時間…どう考えても間に合わない、さやかはゾッとした。どんなに遠くて、たとえ家に辿りつくのが朝になったとしても、彼女の荷物を担いで私は歩いて帰れば良かったのだろうか…とさやかが後悔し始めた頃、急に悪魔が妖艶な声で耳元に囁いた。
「ねえ、さやか」
「なに…?」
「貴方、私に恋してるの?」
思わず、さやかは手を離してしまった。
「ああ、ごめっ!ほむらっ、コート!」
「何やってんのよ!馬鹿…」
宙にほむらのコートが舞う、そのままほむらは急降下して、素早くキャッチする。さすがに私物となると執着するのか、動きが段違いに早かった。おかげで悲鳴をあげた友人はすでに涙目であったが。
「ごめんほむら…」
殺される…とさやかは真剣に思ったが、しかし、意外にも悪魔は妖艶な笑みを浮かべたままさやかを見つめていた。
「…ちょっと、貴方もしかして動揺しているの?今の質問で」
「へ…あ、そ、そりゃそうよ!なんで私が…」
さやか自身、動揺している自分が不思議であった。
「下心」
「へ?」
ほむらが目を細めてさやかを見つめる。
「貴方が言ったじゃない、恋は下心って」
「そりゃあ…」
「貴方いつも私を下心で見ているようだけど?」
「ちょ!…人聞きの悪い…そりゃ、あんたは綺麗だし、時々見惚れているけど」
「時々?」
面白そうに悪魔が聞き返す。
誘導尋問のようだ…とさやかは思った。だが、嘘をつける訳もなく。
「いいや、ごめんほぼ毎日だわ」
と正直に答える、クスクスと笑う悪魔。
「それじゃあ、貴方は下心ありね、決まりだわ」
「え、ちょ決まりって…!」
「貴方は私に恋してるのよ、美樹さやか」
そう、恋しているんだわ、と囁いて嬉しそうにまた笑った。
一体、何が楽しくてこんな質問をして嬉しそうに笑っているのかさやかにはわからなかった。自己分析は徹底的にできるさやかだが、実は他者の繊細な心の動きを追うのは苦手だった。特にこの黒髪の美しい友人の心を読み取ることは。
はあ、と思わずため息をつく。
「…もう、まあその理屈じゃそうなるわね、そうよ、それでいいわ…」
「まあ、その回答でよしとしましょうか…いつかきちんと明言してもらうけど?」
「わかったわよ!ったく…じゃああんたはどうなのよ?誰かに恋してるの?」
しばし沈黙が訪れる。
「…私はまどかを「愛」してるわ」
「答えてないじゃん、「恋」の方よ」
「…そうね」
アメジストの瞳がさやかに真っ直ぐに向けられる。どことなく熱を帯びて。
その艶のある唇から、さやかには聞きなれない言葉が紡ぎ出された。
「グリル・パルツァ―」
「へ?」
「「サロメ」、そして「苦い味」、これがヒントよ…」
「ヒントって…ちょ」
悪魔がさやかの首元に顔を押し付けた。
「痛…っちょっとお」
さやかが顔をしかめる。ほむらが歯で首を軽く噛んだのだ、数回捕食するように甘噛みすると、今度は赤い舌でぺろぺろと猫のように舐めはじめた。痛さとくすぐったさで顔を赤くするさやかを上目遣いで見上げながら、なおも続け、そして囁く。
「貴方って苦い味ね…それもヒントよ…忘れないで」
「…わかったわよ、ちょっと…くすぐったいからやめ…」
悪魔の首に回した手を思わず離しそうで、さやかは必死に縋るようにほむらに抱きつく。
ダメよ…と悪魔は優しく囁いて、もう少しだけと懇願する。
「貴方ってほんと苦いわ…」
そう言って、悪魔はしばらくの間、赤い舌を友人の首へ這わしていた。気持ち良さそうに目を瞑りながら。
END
<余談>
悪魔ほむらさんのヒント
手の上なら尊敬のキス
額の上なら友情のキス
頬の上なら厚情のキス
唇の上なら愛情のキス
閉じた目の上なら憧憬のキス
掌の上なら懇願のキス
腕と首なら欲望のキス
さてそのほかはみな狂気の沙汰
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Dreieck Amethyst~悪魔は少し安堵した~
冬の澄んだ空気を噛みしめながら、美樹さやかは両手を伸ばし気持ち良さそうに声をあげた。背延びまでされて相方が更に大きくなったのがご不満なのか、黒髪の女性は上目遣いで、ちらりと蒼い髪の友人を睨む。
「ずいぶんご機嫌ね」
軽やかに嫌みが出るのは、彼女も少し浮ついているから。その証拠に、恐ろしいほどの美貌の持ち主である彼女の白磁の肌はほんのりと頬の部分だけ紅潮していた。
「まあ、そりゃあね、こんないい天気だし」
それに…と言って、黒髪の美女を見て笑顔を浮かべる。
「あんたとこんな風に街を歩くなんて久しぶりじゃん?」
「…そうね、そう言われれば確かにそうだわ」
いつもはどちらか一方が真夜中に日常とかけ離れた状態でどこかの路地裏を歩き回ったり、また、あるいはこの手のかかる蒼い髪の友人を自分が「抱っこ」して空を翔んでいるのだと黒髪の女性は考えた。
そうして彼女はアーモンド形の目を細め、小首をかしげる。長い睫毛がアメジストの瞳をうっすらと隠す。そうして、何か思い出したのか、それとも忘れたのか。ふう、とため息ひとつついた。と、急にひゅう、と冷たい風が、彼女の艶のある黒髪を揺らす。右手で髪を押さえながら、彼女はさやかを見上げた。
「最後、貴方と出かけたのはいつだったかしらね?」
「え、ちょっとちょっと!ほむら、嘘でしょ、思い出せないほど?」
いくらなんでもひどすぎるわ、とさやかが友人に抗議した途端、彼女は吹き出した。クスクスとさも楽しそうに笑う。
「もう…馬鹿ね、冗談よ」
アメジストの瞳を面白そうに輝かせながら、口元をほころばせる。
随分と彼女は表情が豊かになったものだ、と美樹さやかは見惚れながらに思った。
――ねえ、ねえ、あんたもうちょっと笑った方がいいって!
――どうして?なんのメリットがあるの、それ?
――――え、
あれは確か大学に入学した頃、ゼミの勧誘やら、オリエンテーションで学生達がこぞって集まった時だ。あまりの美貌に、あの場所にいた者達すべてが暁美ほむらに注目していた。好奇、羨望、欲望、あらゆる感情を込めた視線が彼女に注がれ、実際に行動に出た学生も数え切れないほど。それを彼女は100人斬りと言わんばかりの勢いで「無表情」「無関心」「歯に衣きせぬ辛辣な言動」で斬って捨てて行った。
さすがに「これはいけない」と心配した蒼い髪の友人は先ほどのアドバイスばりな発言をした訳だが…
――メリットねえ…あ!
その時さやかは自分が何故そう思ったのか答えた。
――私が嬉しいからよ、だって…
あんた笑うと可愛いしね
――――気持ち悪いわ、絶対に笑わないから一生――
――ちょっと、ちょっと待ってよ!ほむら!
その時の黒髪の友人は、足早に講堂へと向かって行った。頬を紅潮させながら…
まあ確かに私も一言多すぎた(少なすぎた?)が…思えばあの時彼女は照れていたのだろう。
でも、そう言えば、彼女がこんな風に笑うようになったのはいつからだっただろう?
「どうしたの?」
「え、あ…」
過去に思いを馳せ、思わず口元を綻ばせてしまったのだろう、黒髪の友人が眉をひそめて、さやかを上目遣いに見ていた。思わず口元を押さえるさやかを凝視しながら、はあ、と美貌の友人はため息をついて。
「…もう、気持ち悪いわ…貴方」
と、丁重にでも辛辣な昔から変わらない言葉を相方に浴びせかけた。
殺風景になりがちな冬の景色も、この人の溢れた賑やかな街では色とりどりな鮮やかな色に染めあげられていた。そんな人混みの中に群衆の一人として、暁美ほむらと美樹さやかも加わっている。
茶色のハーフコートのほむらと、紺のダッフルコートを着たさやかは、白い息を吐きながら、足早に歩き出す。待ち合わせの時間が迫っていることと、目的地にすでに約束の人物が到着しているのを視認したからだ。
その人物はさやかとほむらの名前を呼びながら、嬉しそうに手を振る。
可愛らしいニットのセーターにマフラーを羽織った桃色の髪の女性、鹿目まどかだ。
そして傍らにちょうど同じくらいの背丈のセーターを着た少年がいる。
「お~タッくんでかくなってるわ」
それを見て、美樹さやかは笑みを浮かべながら一人呟く。傍でため息をつく黒髪の友人。
「…あんまり、まどかの前ではへらへらしないで欲しいのだけど」
「わかってるわよ、あんたこそ、もうちょっと喜びを表現しなさいって」
そう言って、さやかは軽く相方の背中を叩く。
虚をつかれて珍しく悪魔が小さく悲鳴をあげた。
* * * * *
「ごめんね、ほむらちゃん…急に場所変更して」
「別に構わないわよ、あなたと会えるなら場所なんて関係ないわ」
「へへへ」
鹿目まどかは柔らかく、無邪気に笑う。少しほっそりした、大人びた笑顔。
あれから10年。桃色の髪は伸び、もうあのリボンは付けていない。
冬の公園のベンチで二人は腰かけていた。
「タツヤがね、私がほむらちゃんと会うって言ったら、『俺はさやかに会いたい~』って」
「…珍しいわね、あの人に会いたがる人がいるなんて」
「もう、ほむらちゃんてば、さやかちゃんは結構…人気あるんだよ?」
少しだけ、子供のように頬を膨らませて、まどかはほむらに抗議する。
その表情に見惚れながら、そうね、とほむらは呟いた。まどかもさやかに対して「友」に対するそれよりも強い想いを抱いているのをほむらは知っている。それは遠い昔、彼女とほむらがそれぞれ世界を改変した前からの変わらない想い。
そして、美樹さやかが大いなる概念としての彼女の一部であったという事実。
不思議な三角形…
均衡が崩れたらどうなるのだろう?
アメジストの瞳を揺らせながら、ほむらはため息をつく。
おそらく今均衡を保っていられるのは、三人の中で本来人間に最も近い蒼い髪の相方のおかげだ。彼女の独特のバランス感覚と、認めたくはないが、彼女の二人を思う気遣い。人外の力を保有している自分と、大いなる概念であったまどかよりもだいぶ力の差で劣る彼女がこの関係の鍵を握っていることを認識し、癪に障ったのか、ほむらは眉をひそめた。
「あ、もう…あの二人」
まどかの呟きで、ほむらは顔をあげる。まどかの視線の先には、公園の野原を走り回っている二人の姿があった。奇声をあげながら、短距離競走をしたかと思えば、決着がつきそうになった頃、どちらからともなくぶつかり合い、笑いながら転げ回る。
「あはは…なんか姉弟みたいだね」
「姉弟というより…犬だわ」
まどかは顔を赤くさせている、弟の行動が恥ずかしいのか、照れているのか、おそらく私もそうだろうと思いながら、ほむらはじゃれ合っている犬と子犬を見つめながら呟いた。
「…今度はちゃんとしつけてくるわ」
久しぶりだ、とさやかは思った。
「どうだ!今度はブランコ飛び!」
「あ、ずりー!さやか!」
笑いながら、ブランコに飛び乗ると、二人で精いっぱい漕ぎ出す。
楽しい…と純粋に思える。
元々、身体を動かすのが好きな彼女は、おとなしくお話だけというのが苦手なのだ。
こういう風に遊んだのはいつだっただろう?高校時代までは赤毛の友人とこのように男の子みたいに駆けまわって遊んでいたものだが、ついぞ最近はこんな風に笑って遊んだことはない。まあ、あの悪魔がこんな遊びに付き合ってくれるとは思えないが。
ブランコから飛び降り、砂に着地するという遊びを数回繰り返して、ようやく落ち着いたのか、二人はブランコに座り、息を整えていた。
「しっかし、タっくんも大きくなったね、まどかの身長超えたんじゃない?」
「うん!成長期だしね、もうすぐさやかも超えるよ?」
「おお、それはまだまだ早いぞ~」
にやり、とさやかが不敵に笑うと、少年も嬉しそうに笑う。
「俺さ、早く警察官になりたいんだ!早く大きくなって、もっと強くなりたい!」
爽やかな笑顔を向けて、さやかに自分の夢をかたる少年。
思わずさやかも笑みを浮かべる。嬉しいなとでも言う様に。
「楽しみだね」
真っ直ぐな視線、真っ直ぐな心、姉に似ている…とさやかは思った。
「あ、さやか、姉ちゃん達が手ぇ振ってる」
「へ?あ、ほんとだ」
前を見ると、ちょうど、公園のベンチが見える。そこで仲良くちょこんと座っている二人が手を振っていた。桃色の髪の女性は無邪気に大きく、そして黒髪の美しい女性はやんごとなき方が申し訳ない程度に手を振るレベルで。ふふ、と思わずさやかが吹き出す。
本来、こういう場面では決して手を振らない彼女なのだ。今、誰よりも愛しい人物の横だからなのだろう、あれでも必死なのだと思うと、微笑ましくて笑ってしまう。
さやかとタツヤも手を振る。
「ねえ、さやか」
「ん?何」
タツヤが二人を見ながら、呟いた。
「ほむらさんってどんな人?」
「ほむら?」
少年の顔は何か畏れているような、それでいて興味深い目で黒髪の女性を見ていた。
ああ、とさやかは合点して、ニヤリと笑う。
「おお、タッくんもお年頃だな~ほむらに見惚れてたな?」
この年頃なら仕方ないのだ。
まだ、異性よりも自分の夢に興味を持つ時期ではあるが、次第に異性へと興味もシフト(個人差はあるが)していく。そんな時にあんな人外な美貌の異性を見てしまったら心揺らしても仕方がない。にしても、あの美貌はかなり罪つくりだわ、とさやかは前方の黒髪の友人を見て思う。あいつは今までに何人の異性を泣かせてきたのだろう?
実質、そっち方面の悪魔ではないかとつくづくさやかは思った。
「ち、ちがうよ!いつも姉ちゃんが二人のこと喋るから気になってさ、さやかはどんな人か
知ってるけど、ほむらさんってどんなかな~って」
「へえ、まああいつはどうだろうねえ、私もよくわかんない」
「一緒に住んでるんでしょ?優しい?」
「まさか!」
門限にめちゃくちゃ厳しい、飲みに行ったら文句を言う、怒ったら怖い…とさやかは素直に語る。
「それにあいつはああ見えて、喧嘩最強よ」
「へえ…」
タツヤは恐ろしそうに黒髪の女性を見つめる。
ヤバイ、言いすぎたとさやかは思った。これは後で口止めしなければ。
「…でさあ、なんでそんな怖いのに一緒に住んでるの?」
「へ?ああそれは…」
そのあたりはわりかし素直にさやかは答えた。
* * * *
「さやか、まどかが貴方ともお話したいって」
結構長い時間遊んでいたタツヤとさやかがベンチに戻って来た頃、まどかとほむらも話が尽きたのか、静かに佇んでいた。ただ幸せそうに。
「へ、いいの?」
優雅にベンチから立ち上がってこちらに近寄って来た黒髪の美貌の友人に、思わずさやかは尋ねた。
「いいも何も、まどかが貴方としゃべりたいって言ってるの」
目を細めにっこりと微笑むほむらをさやかはめったに見たことがない。
…怒っている?と思ったら、今度はお腹を抓られた。
「あいた!」
「あんまりまどかの前でへらへらしないでね、気持ち悪いから」
「怖…わかったわよ、もう、あんたから取ったりする気ないから怒んないでよ」
「………馬鹿」
「はあ?」
なんなの…と少し不機嫌になったが、さやかはすぐに気を取り直して、タツヤの方へ笑顔を向ける。
「それじゃあ、タッくん、また後で!ほむらと仲良くしてやって」
「あ、うん」
かなり困った表情の少年をからかうような仕草をする。
怒った少年を見て、さやかが笑う、黒髪の友人と少年がどんな会話をするのか楽しみだと思った。
姉とさやかの姿を複雑そうな表情で見つめている美貌の女性に、少年はどう声をかけていいのかわからない。さやかと同い年なはずなのに、目の前の女性はどうにも近寄りがたい雰囲気を放っていた。
しばらく彼女を見上げてタツヤは黙り込む。確か姉のことをとても大事に思っていてくれる人なはずだ。…だが、どうしてそんなにも楽しそうに語る二人を寂しそうに見つめているのだろう。
数分ほどその状態だったのか、あら、と我に帰ったほむらは、タツヤを見下ろして囁いた。
「ごめんなさいね、ぼうっとしていて、あなた…大きくなったわね」
その美貌で微笑まれると、どうにも緊張して声が出なくなるが、少年は、さきほどの気さくな蒼い髪の女性との会話で話題を決めていた。
「あの…ほむらさんって、喧嘩最強なんですか?」
「え?」
「あ、だって、さやかが…」
「「さん」よ」
「?」
「あの人はあなたより年上よ」
「…はい」
「それで…」
にこりと微笑んで、ほむらがタツヤに囁いた。
「喧嘩最強ってどういうことかしら?」
やはり私は彼女の一部だったのだと、さやかはつくづく思う。
「…さやかちゃん?どうしたのぼうっとして」
「あ~あはは、なんかまどかといると落ち着くなあって」
「もう…」
照れたように、でも爽やかな笑顔。すごく心地が良い。
おそらく彼女もそうなのだろう、まどかもただ、さやかを見て、目を細めてそれだけで満足している。元々、ひとつであったのだ、ただ傍にいるだけで心地がよいのも当然だろう。
…だが、だからこそ危険なのだ。とさやかは思う。自分が近寄ることで彼女は大いなる概念としての記憶を呼び戻す可能性もある。高校時代まではそれが著しく、さやかはあえて彼女と距離を置いた。ほむらとの共闘で約束したことでもあった。
まだ油断はできないと思う。
「ねえ、さやかちゃん…」
「ん?」
「私ね…」
* * *
そろそろ日も傾きかけた頃、二人は別れを告げ、帰路に立つ。
ほむらもさやかも無言だった。
お互い語りたいことはたくさんあるが、語れない、そんな風情で。
「ねえ…」
「何?」
珍しく先に口を開いたのはほむらだった。夕焼けの色に照らされた美貌には陰りがあった。
「まどかと何を話したの?」
「ああ…そのこと」
さやかも珍しく言葉を濁す。
そうして、ゆっくりと、彼女に「想いを告げられた」とだけ答えた。
そう…と答えたあと、ゆっくりとほむらはさやかに問う。思いつめた感じで。
「…貴方もまどかのことが好きなの?」
「…あんたほどじゃないわ、まどかのことは好きだけどね」
たぶん、愛…ではないと思う。と付け加えて。
「そう…で、OKしたの?」
「はあ?何でよ、そんなことしたらあんたに即効、殺されるじゃない!『気持ちは嬉しい』ってただそれだけの返事しかしてないわよ」
「へえ、意外だわ」
だが、ほむらの口調はさきほどの思いつめたようなそれはなくなり、からかう様ないつもの調子が戻っていた。心なしか嬉しそうだった。
「てっきり、老若男女構わず尻尾を振る貴方のことだから、好きと言われてその気になると思ってたわ」
「うわ、人をなんだと思ってるのよ、犬かなんか?私もさすがにそこまでじゃないわ」
「そうね…」
クスクスと笑って、いつものように相方にすり寄ってくる。猫のようだ。
「それにまどかを守るために私はあんたと契約してる、一緒に戦ってくれるんでしょ?」
「ええ」
「だから私は誰とも付き合う気は無いわ、まどかでもね…何よ、その小馬鹿にしたような笑い?」
「あら、ごめんなさい、そう言えば貴方は私と契約した従者だったなあって…」
「ひど!下僕扱いじゃない」
違うの?と上目遣いで囁いて、ほむらはさやかの手を握る。
そうして、強く引っ張ると歩を早める。
「ちょ、どうしたの?ほむら」
「楽しみができたわ、早く家に帰って手のかかる従者をしつけないと」
「はあ、いつから私が」
「喧嘩最強」
「え」
アメジストの瞳が妖しく光る、口元はにこりと微笑んで。
彼女が怒っている時の表情だ。
「タツヤ君に、よくも言いたい放題言ってくれたわね」
「…あ」
口止めを忘れてたことをさやかは心底悔んだ。
満面の笑みの悪魔。
「覚悟してなさい…たっぷり可愛がってあげるわ」
さやかは心底観念したように目を瞑る。
とても嬉しそうな彼女の笑い声を聞きながら。
END
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時は流れて
「はあ、こりゃ大変だわ」
美樹さやかはため息をついた。
「どうしたの?」
ため息の原因である傍らの友人がこちらを見上げたものだから、さやかは身を固める。別に怖がっているという訳ではなく、単に彼女のアメジストの瞳に見惚れているようだ。
「あ、ああ、えへへ」
さやかは眉毛を「へ」の字に下げ、困ったように苦笑いした。肩まで伸びた蒼い髪を右手で乱暴に掻く。妙齢の女性らしからぬ仕草。それを怪訝に見つめる恐ろしいほど美しい黒髪の女性。
「いや、あんたみたいな美人と歩くとこんなに大変なんだなあって…」
「はあ?」
黒髪の女性は一瞬きょとんとしたような、そんな顔をしてそれからふう、と大げさにため息をついた。切れ長の目が一瞬閉じられ、そしてほんの少しだけ開くと長い睫毛の下のアメジストの瞳をじろりと蒼い髪の女性に向ける。
「うわ」
今度こそ、さやかは怖がった。美しい黒髪の友人は、あまりの美貌故に怒ると凄惨美とでもいうのか、かなり怖い。彼女はそれを十分過ぎるほどこの10年で知っていた。大人らしからぬ動きで数歩あとずさる。
「…そんなこと言っても何も出ないわよ、貴方、何か企んでるの?」
「いやいや、そんなつもりじゃないわよ、ほんとな…」
フフッと黒髪の友人が笑いだしたおかげで、さやかのジェスチャー付きの言い訳まがいの言葉が中断された。
「馬鹿ね…冗談よ」
切れ長の目が細められ、口元は笑みで緩んでいた。美しい横顔。
「な」
「ほら、まどかが待ってるわ」
そう言って、ポン、と軽くさやかの腕を叩くと、先に歩き出す。長い黒髪がファサと風に靡いた。
10年も経つと、彼女もこういう仕草ができるようになるのだ。なんとなく、感慨深げにさやかは少し先を歩き出した黒髪の友人…暁美ほむらの後ろ姿を見つめた。
暁美ほむらが世界を改変してから10年。
まだ世界は不安定なままそれでも維持されていた。
美樹さやかはしばらく記憶が錯綜していたのと、魔獣と人が巻き起こす陰惨な事件をきっかけにほむらと共闘することとなり、色々あったが、結果的に共に時を過ごしてきた。互いに思惑はあるが、「鹿目まどかを守る」という共通の目的が二人を結びつけている。
それにしても彼女は一途過ぎる――とさやかは思う。ああも美しく成長してもなお、彼女は鹿目まどか一人にしか愛情を注いでいないのだ。
――私はまどかを愛している
――ほかの人は?
――どうでもいいわ
その時確か、うわ、とかひゃあさすが、とか間の抜けた声をあげて話を終えたのをさやかは憶えている。どんなにさやかが彼女の美貌が異性にとてつもなく「有効」なのか主張しても、彼女は全く取り合わなかった。そうして、さやかの知る限り誰ひとりとも交際していない。わかっちゃいるけど、もったいない…それがさやかの正直な気持ちだった。
「あ~もったいない…」
「何?また「有効活用」の話?それなら聞かないわよ」
「へいへい」
肩をすくめ、さやかはほむらの横に並んだ。さやかが頭半分ほど大きい。
ほむらは半ば恨めしそうに蒼い髪の友人を見上げた。
「…なんだか貴方と並ぶと無性に腹が立つわ」
「え、仕方ないじゃん、勝手に伸びたんだもの」
「…殺したくなるわ」
「怖!」
さらりと毒を吐かれても、気にも留めないのか、それとも慣れきったのかさやかは笑顔を浮かべる。ほむらはそんな「へらへら」笑う友人を見て、複雑そうな表情をした。
「…貴方も全然「有効活用」してないようだけど、どうでもよさそうね」
「え、ちょっと、そこは引っ張らないの?解決?」
どうしてここまで道化並みに彼女が明るいのか、ほむらには理解できなかった。だが、彼女のおかげで自分がまどかと接触できたことには感謝していた。一応。しかし…はあ、とため息をついてほむらは囁いた。この10年で覚えた冗談の仕草なのだろうか、目を瞑って大げさに首を振りながら。
「貴方は老若男女構わず誰にでも尻尾振りそうだものね、私が迷惑だわ」
「犬か!私は」
絶妙なタイミングで蒼い髪の友人が合わせてきた。
夜の帳の下りてきた街は行き交う人々も増え賑やかになっている。
そんな中、暁美ほむらと美樹さやかはまどかに会うために目的地へと向かっているのだが。
相変わらず、好奇な目でほむらを見てくる者が多く、さやかは半ば辟易していた。
艶のある黒髪に白磁の肌、人外のような(人外だが)恐ろしいほどの美貌。黒一色の服に身を包んだ彼女を道行く人はすべて見惚れ、羨望、嫉妬、欲望、色々な想いの視線が注がれている。大学時代から、彼女はこんな風に大勢の注目を浴びていた。
で、そんな傍で同じく黒色だが、野暮ったいリクルートスーツを着て、彼女にのこのこ付いてきているさやかは逆に「こいつは一体なんなんだ」という目で見られるので、げんなりするのも当然である。
――仕事帰りだから仕方ないじゃない、社会人を馬鹿にするな!と心で文句を言いながら、別の事を考えようとさやかは思いなおす。
「さやか」
「へ、何?」
意外にも、ほむらの方から話しかけてきた。
「まどかと会うのは久しぶりね」
「そうだねえ、半年ぶり・・かな?」
あれから、中学、高校時代、さやかはまどかに近づきすぎることを極力避けた。彼女が「円環の理」を思い出すのを避けるためだ。ほむらよりもさやかに接触することでその可能性が高い。だがしかし…遠い昔からの絆というか縁は切れないものだったらしい。
「まどかは貴方のことが好きよね」
「たぶんね」
「貴方は?」
「…う~ん…」
そうして、さやかは困ったように笑ってそして、ほむらを見る。
「内緒、だって何言ったってあんたに殺されそうだし…どう?気になる?」
「全然…私はまどかを愛しているわ、他のことなんてどうでもいい、特に貴方はね」
「うわ、ひど」
言葉のわりにはそう思ってないのか、さやかは目を細めて聞いた。
「ねえ、でもほんとに?」
「え?」
いや、だってそうじゃん、と言いながら、さやかは両手を肩まであげて「フリーズ」の動作をする。意味のない仕草に眉をひそめるほむら。
「こんな長い年月一緒に戦ってきたんだからさ?私に対してなんかこう他の人よりも親し
みやすいとかそんなのないの?あんた」
「…気持ち悪いわ」
「ちょっと!」
でもまあそうね、と何か思いついたのかクスクス笑う。
「ずっと傍で懐かれたら、もしかしたら情が湧くかもね」
「それってやっぱ犬とかそっち系じゃない?人以下なの私?」
「そうよ」
そう言って、悪魔は非常に愉快だと言わんばかりに笑った。
意外と…彼女の10年はそこまで孤独ではなかったようだ。
鹿目まどかと待ち合わせている喫茶店に着いた途端、ほむらの足取りが重くなる。
「どうしたの?」
「…なんだか怖いわ」
「へえ?」
あまりにまどかが愛しすぎて、ほむらは彼女の前ではあまり感情を出すことができない。これは10年前からあまり変化のない事象である。むしろ感情というか、毒舌を吐きだせるのは蒼い髪の友人に対してだけであるのだが。
世界を改変してから、ほむらは愛すべき存在の傍にいながらも見つめるだけで、近寄ろうとはしなかった。だが、それをさやかがおせっかいの極みとでもいうのだろうか、何かと二人の間に入り、仲を取り持って行った。当のほむらには罵られながら。
「ちょっと、あんた今更何よ、もういい大人なんだから、そろそろ私無しでもまどかと話しできるようにしないと…」
「一応、それくらいはできるわ、馬鹿にしないで頂戴…馬鹿」
「はあ?2回も何それひど…」
と、さやかの表情が険しくなった。顔をしかめ、項のあたりを手で押さえる。魔獣が近づいた時の全身を襲う悪寒と、ちりちりと痺れるような感覚が彼女の表情を歪めていた。
「…ほむら」
さっきまでの浮ついた雰囲気は一瞬で消え去り、美樹さやかの蒼い目は怒りで深い闇のような色になる。相方の様子を見て、ほむらは表情をほんの少しだけ曇らせた。まるで彼女のそういう顔は見たくないとでも言う様に。
「ある事件」をきっかけに美樹さやかの魔獣に対する怒りは、(正確には魔獣と人間共に)尋常じゃないものとなっていた。ほむらはふう、とため息をついてドアを見ながら呟いた。
「…こんな時に」
だが、ほむらが世界を改変する前から、世の常とでもいうのか、こんな時に限ってそれが起きるのだ。
「好事魔多しっていうからね」
明るい口調で、さやかが言う。暗い目つきは変わらないが、表情はいつもの通りだ。
どうやら、怒りを沈めるのに成功したらしい。彼女もだいぶ10年で成長した…とほむらは思った。と、ほむらの身体が少し前のめりになる、蒼い髪の友人に背中を軽く叩かれたのだ。ちょっと…とほむらが睨むと、相方は優しく微笑んでいた。
「魔獣は私にまかせなって、行ってきなよ」
「…本気?」
「本気も本気、だって、まどか一人ぼっちってのも可哀相じゃん?魔獣は私一人で十分よ」
「自惚れないでね…貴方ごとき一人で何ができるの?のたれ死ぬのがオチよ」
「うわ、ひど!大丈夫だって、なんかあったらすぐ呼ぶからさ、ね?」
「……」
それとも、とさやかはからかうように、険しい表情の友人に囁いた。
「まどかと二人で会うのが怖い?」
「…そんなことないわ」
じゃあ、決まりとさやかは笑って、踵を返した。
「待って」
ほむらはさやかに向かって左手を出す。細い白い指が宙を掴むように広げられていた。
ありがたいとでも言う様に、さやかが口元を緩め、右手を出す。
ほむらの手とさやかの手が重なり、指を絡めた。さやかの腕から蒼い光が浮き上がる、その色が次第に紫色に変化した。
「サンキュ」
手を離し、スーツの袖にまとわりついている紫の光を眺めながら、さやかは礼を言う。
「勝手に死んだら許さないわよ」
「うん」
へへ、と無邪気に微笑むと、今度こそさやかは踵を返し駆けだした、そして2、3回けんけん飛びの要領で片足でステップを踏むと、右手で指を鳴らした。音と同時に美樹さやかは消失した。ほむらからもらった力を瞬間移動へ変移させたのだ。
「力の無駄遣いは相変わらずね…」
ふう、とため息をついて、そしてほむらは思いなおしたように、喫茶店のドアを開けた。
「久しぶりだね、ほむらちゃん」
「ええ…ほんとうに」
眩しそうにほむらはまどかを見つめる。10年経っても彼女は変わらないと思った。桃色の髪にはもうあの頃の赤いリボンはつけられていない。背中まで伸びた髪の毛のせいで、彼女はかなり大人びて見えたが、それでも美貌の悪魔に取ってはあの頃のまどかのままなのだ。
「でも残念だな…さやかちゃんもここまで来てたんでしょ?」
「ええ…あの人もなかなか大変なのよ」
「そっかあ…急に呼出って警察官も大変だねえ」
美樹さやかの職業は体のいい隠れ蓑にもなるので、非常に便利であると、ほむらは思っている。
「まどか…寂しいの?」
「え、う、うん」
恥じらうように赤くなるまどかを見て、ああやっぱりとほむらは思う。
まどかはさやかが好きなのだと。
せつなさと何か得体の知れない感情で、ほむらは胸が苦しくなる。この感情が何なのか、ほむらは深く考えないようにしている。あえて。
「私がいても?」
「へ?」
きょとんとするまどかに対し、意味深げな視線を送るほむら。
「私がいても、まどかは寂しいの?」
「ほむらちゃん?」
私はあなたがいればそれだけで
世界を改変した頃は、ただ目の前の女性を見守れればいいとほむらは思っていた。
だが、違うのだ、ほんとは想いを伝えたい…そう思っている自分がいる。
この10年で、いかに自分が子供であったかをまざまざと知ることができた。だが、もはや彼女は悪魔という人外になっている。
「ほむらちゃん、あのね」
まどかはふわっと微笑んで、そして優しく喋りはじめる。10年経っても変わらない、彼女の微笑み、そして柔らかい声。
「ほむらちゃんはほむらちゃんだよ…私はほむらちゃんがいなくても寂しいよ?」
「まどか…」
胸の奥にあった焦りが少しだけ落ち着く。今はまだ、愛していると想いを伝えるのはやめよう…そうほむらは思った。ここまで彼女と話ができただけでも上出来だ、あの人はどんな顔をするのだろう。蒼い髪の友人がさも驚いた表情を浮かべるのを想像して、ほむらは口元を緩める。遠い昔、あんなに確執のあった友人を今は思い浮かべても何とも気にならない、むしろ…。
時の流れの力をほむらは感じた、人外でありながら。
「あ、あのねえほむらちゃん」
そう言って、まどかは何事か思い出したかのように鞄に手を入れる。
「二人に渡したいものがあったの」
* * * * *
冬の殺風景な丘の上、美樹さやかは一人佇んでいる。
魔獣退治を終え、思索にふけっているのか、半分に欠けた月を見上げたまま、何か言いたそうなそんな表情を月に向かって浮かべていた。
「…随分とおとなしいのね」
いきなり傍から艶のある声が聞こえる。一瞬さやかは身体を固めるが、慣れているのかすぐに、フフと笑みを浮かべた。傍に美貌の悪魔がいつのまにか立っていた。しれっと長い黒髪を手で掻きわけながら。
「おつかれ、どうだったの?まどかとの対面は?」
「…なんてことないわ、貴方がいなくて盛り上がったわよ」
「うひゃあ、そりゃせつないわ」
肩をすくめて、さやかが笑う。その飄々とした雰囲気を彼女はいつの間に身に付けたのだろう?とほむらは思う。だいぶ…そうだいぶ遠い昔の彼女と今、ほむらの傍にいる美樹さやかは身に纏う雰囲気が違う。
「貴方も、意外と戦い方がうまくなったのね、てっきり苦戦してると思ったわ」
「今日は人と「混ざって」なかったからね…うまくやれたわ」
「そう」
そうしてしばらく互いにかける言葉もなく、寄り添いながら月を見上げていた。
ふと、ほむらが何かを思い出したのか、傍の友人を見上げた。
「そういえば、まどかから預かっているものがあるわ」
「え、何?」
青い包装紙で包まれた掌サイズの箱がほむら手に現れる。
「これ、貴方にって」
不思議そうに箱を見つめ、あ、とさやかが思い出す。
「ああ、これってバレンタインの…」
「そうみたい」
「あらら、私達ってほんと青春無駄遣いしてたわね」
さやかの言う通りで、二人ともこの手のイベントにあまり縁がなかった。なかったと言っても、その周辺の騒ぎ様は尋常ではないのだが…。
さやかは申し訳なさそうな顔をしてほむらを見ると、気にしないでとでもいうように、不敵に笑い、紫の箱を友人に見せびらかした。
「あちゃあ…まどかやるなあ」
「でしょ?私の方が箱も大きいわ」
「可愛くない悪魔だわ…」
ひとしきり笑い合うと、ほむらは「ほら」とまたひとつさやかに何か差しだした。
不思議そうに掌を見ると、一口サイズのチョコレートが1個。「?」と不思議そうな顔をするさやか。
「お礼よ、魔獣と戦ってくれた」
「…へえ、珍しいわ」
それでも不思議そうな表情を変えないさやかに何故か腹がたったのか
「ご不満?普通何かもらったら礼くらい言わないの?」
とほむらがまくしたてる。心なしか顔が赤いのは怒りからかなんなのか。だが、さやかはこの不思議な現象に気を取られて気付かない。
慌てて首を振り、友人に言った。
「いや!全然、嬉しいわ、ありがとほむら」
そう言って紙を破ってすぐに口に放り込む。「甘い!」と喜んで咀嚼する友人の横で、何か企んでいるのだろう、悪魔はニヤリと笑い囁いた。
「あら、どういたしまして、お返しはもちろん倍返しよね」
「はあ?」
「まどかから聞いたのよ、3月にはお返し、しかも倍返しだって」
「……いや、それはまどかのでしょ、あんたのはこんな小…」
「私のあげたものに不満なの?一応、心はちゃんと込めたつもりよ」
「え…あ、はい」
こんなちっちゃい体積のチョコに心なんて、絶対嘘だこの悪魔…と思いながらも、さやかは素直に返事する。その時点である意味「飼いならされている」状態なのだが。有無を言わせぬあたりは、さすが悪魔というべきか。
「じゃあ、まどかのチョコのお返しの時に私のも頼むわよ、おまわりさん?」
「わかったわよ…もう」
ため息をついて、返事する。
フフフ、と嬉しそうな黒髪の友人の笑顔を見て、まどかも結構悪魔だとさやかは思った。
「3月ねえ…あっという間にくるんだろうね」
「そうね…早いわねきっと」
時の流れの早さを感じながら、二人はまた申し合わせるわけでもなく、一緒に月を見上げた。
END
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ほむらお腹がすく
「ん…いったあ」
頭を抑えながら、美樹さやかは身体を起こした。
床の固い感触に顔をしかめながら周囲を見渡すと、傍のベッドがある。どうやらベッドから落ちたらしい。蒼い目をぱちぱちと数回まばたきさせて、彼女はようやく状況に気付く。
「なんなのよ…まったく」
タンクトップ一枚で寒いのか、う~と唸りながら自分を抱きしめ腕をさする。
そうして立ち上がると、ふと、ベッドの中央ですこやかに眠っている恐ろしいほど美しい黒髪の友人が目にとまる。この家の主である彼女は規則的な寝息を立てていて。
「う~一人だけ気持ちよさそうに…」
そう呟くと、またベッドに這い上がり、友人の元へすり寄った。友人の艶のある黒い髪がシーツに広がっているので、気をつけているのか、さやかはゆっくりと近づき、よいしょ、と友人に巻きついているシーツの片方を奪い取ると自分の身体に巻き付けて、
器用に潜り込むように寄り添う。
「つめた…」
そう呟きながら、さやかは気持ち良さそうに目を瞑る。友人の身体は人外であるためか、それとも元々体温が低いからか、ひんやりとして冷たい。時折は、温かくなることもあるが、そんな時は大抵、彼女を怒らせた時かそのあげくに「お仕置き」されている時だ。
「ん…」
さやかの気配で目が覚めたのか、黒髪の女性の目がうっすらと開く。長い睫毛の下のアメジストの瞳がしばらくゆらゆらと所在なげに揺れ、そうして、背後のさやかへ向けられる。
「…何…もう朝…?」
「あ、ほむらごめん起こしちゃった?」
ん…と大きくため息をつきながら、ほむらはゆっくりと身じろぎして、さやかの方へ振り向いてしなだれかかってきた。体温の低い彼女はむしろ蒼い髪の友人の体温の高さが心地よいのか、まるでこたつにいる猫のように目を細めて囁いた。
「気にしてないわ」
「そう…」
さやかも囁くとそのまま眠りにつく。
と、数秒ほどしてほむらがまた口を開いた。
「さやか」
「…何?」
「お腹がすいたわ」
一瞬、きょとんとさやかが不思議そうな表情を浮かべた。そうして、破顔した。
「ふふふ、あんたでも子供みたいな事言うんだ」
「…」
「でもさあ、夜中に食べるのはあんましおすすめしないよ?だって太…あいたっ」
ぱちん、と軽やかな音が立った。
さやかの額をほむらが叩いたのだ。
「あきれ果てるくらい馬鹿ね貴方」
「はあ?…なんでって、ちょ…」
そう言いながら、ほむらはまたしなだれかかり、目を瞑る。少し不機嫌なようだが、眠りについた。
なんなのよ…そう思いながらもさやかもまた眠りについた。
* * * *
「あいったあ…」
「またベッドから落ちたの貴方?」
「うん、そうなのよ、どうしてこう寝相が悪いんだか…」
朝、テーブルを囲んで食事しながら、さやかは痛そうに顔をしかめながら言う。蒼い髪には寝ぐせ、タンクトップ1枚に、口にはパンを咥えたままと、大人の女性にしては行儀が悪い。そんな様子をあきれ果てたように見つめるほむらもまたキャミソール一枚というあられもない姿なのだが、こちらは優雅にコーヒーを飲んでいるせいかあまり行儀悪く見えない。陽光に照らされて心地よいのか、二人は比較的穏やかに会話を進めていた。
「でもほんとう、貴方って落ち着きがないわね、ほんとに大人かしら?」
フフフと笑いながら頬杖をつくと、面白そうに目を細め相方を見つめてほむらは言った。
「うわ、何気にひどい物言いね、まあいいわ…」
そう言うと、さやかもコーヒーを口に運ぶ。そうして何か気付いたのか。
「あれ、ほむら、あんまり食べて無いじゃん」
「え?」
「あんなに夜中にお腹すいたって言ってたのに、どうしちゃったの?」
はあ…とほむらはため息をつく。
そうしてさも嘆かわしいとでもいうように首を数回振ると、呟いた。
「馬鹿にはきちんと口で言わないとわからないのよね」
「はあ?あんた朝っぱらから…ん?」
黒髪の友人が人さし指を掻きあげるような動作で手招きする。素直につられるさやか。
顔を寄せると、ほむらは妖艶に微笑み囁いた。
「私は貴方が食べたいの」
そしてほむらはしっかりと朝食を摂ることに成功した。
END
肉食系ほむら…(なんと…)
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ほむら犬を飼う
最近のペットショップ事情はなかなか厳しい。
生体を販売すること自体反対する人々が多い中、村岡は必死に頑張ってきた。
元々動物好きなこともあったが、脱サラして借金してまで興したこの店をむざむざ潰すわけにはいくまいと血の滲むような思いで経営の傍らブリーダーの元で修業し、トリミングも覚え、動物達の体調管理にも気を配り、ここまで続けてきたのだ。
…だが、ここまでか?
見滝原の中では比較的大きいこのショッピングモールで、なんとか軌道に乗っているとはいえ、月の店舗代やら、人件費を差し引きしてもあまり売上はよろしくない。借金は返済し、赤字では無いが、そろそろこのあたりで店を売り払い、地道にビルの管理人あたりにでもなろうかと村岡が考えたその時、バイトの大学生が慌てた様子でこちらに来た。
「て、店長…あの…」
「ん?どうした慌てて…」
今時にしては硬派な雰囲気(柔道部だったと村岡は思い出す)の黒髪の青年が、なんだか挙動不審で落ち着かない様子だ。訝しげに村岡は銀縁の眼鏡をかけ直し、その手でぽん、と青年の腕を叩く。
「どうした?クレーマーでも来てるのか?」
「いえ…あのお、お客様が」
「客?」
客なんて店だから当たり前だろうに…そう思い、青年の背後に視線を向けると、今度は村岡が挙動不審になった。口をあんぐり開け、左手に持っていた管理帳を床に落した。
* * * *
「ほむらちゃん、私ね犬を飼っているんだ」
幼稚園の広場の隅にあるベンチで、鹿目まどかは黒髪の美しい女性に微笑みながら言った。
背中まで伸びた桃色の髪を束ね、ジーンズに長袖のトレーナーといういたってシンプルないでたち。そこにひよこの絵柄がプリントアウトされているエプロンを着ているものだから、元々幼い顔立ちが更に若返ってみえる。ふんわりと優しく笑うその顔は、成長して一段と美しくなったものの、中学時代から雰囲気は変わっていない。
「そうなの…」
黒髪の女性、暁美ほむらは目を細めて微笑む。まるで目に入れても痛くないとでも言うような、母親が子供を見つめるような眼差し。そうして白い指をまどかの髪へと這わすと優しく撫でる。
「あなたに飼われている犬は世界一幸せだわ」
「えへへ、でも「お手」とか「伏せ」はできても「待て」がなかなかできなくて…」
ちょっとお馬鹿さんなんだよ、とまどかが照れくさそうに言うと、黒髪の美女は何か考えてるようにちょっと上目で空を見上げ、そうして視線を戻した。
「大丈夫よ、うちのよりお利口さんだわ」
「?ほむらちゃん犬飼ってるの?」
「まあ、似たようなものを」
「?」
不思議そうな顔をするまどかをよそに、ほむらはいい風ねと黒髪を抑え、目を細める。
ほむらが世界を変えてから10年、悪魔とはいえほむらも成長し、ようやくまどかとも対等に話ができるようになった。互いに成長し、外見は随分とあの頃に比べて大人びていたが気持ちは変わらないものなのか、こうして語り合うだけでほむらは幸せを感じる。ちょっと前までは蒼い髪の友人を連れ添ってでなければ、こうしてまどかとまともに話をするのも困難だったというのに。
「まどか先生――!」
中年のふくよかで人の良さそうな女性が園舎の前で手を振っている。まどかと同じくシンプルな格好でこちらはパンダのエプロンをしていた。
「はーい!」
元気良く返事をすると、よいしょ、とまどかは軽い身のこなしで立ち上がる。
鹿目まどかは短大を出て幼稚園の先生になっていた。彼女らしい…とほむらは思った。誰にでも優しく愛情を注げるまどかにはぴったりな職業だ。
「それじゃあ、ほむらちゃん私そろそろ行くね」
「ええ」
ほむらもゆっくりと立ち上がる。
「まどか…この間のチョコレートありがとう美味しかったわ」
「あ、ほんと?よかった、フフフ、久しぶりに手作りしたから心配で」
照れたように頭を掻くまどかを愛おしそうにほむらは見つめて、さやかも美味しかったって言ってたわよ…と囁いた。
「あ、ほんと?さやかちゃんあんまりそういうの気にしなさそうで不安だったんだ…よかった」
「まあ、あの人なんでも食べるから…そんなに気を使わないであの人には一口サイズの既成のチョコでもよかったのに」
実際に自分が行ったことをさらりと悪魔は人ごとのように言ってのけた。まどかはフフフと笑った。
「仲いいなあ、二人とも」
「そんなことはないわ」
それじゃ、と言ってまどかは駆けだした。そしてあ、と呟いて振り向く。
「ほむらちゃん!今度公園で一緒に犬のお散歩しようよ!さやかちゃんも一緒に!」
「ええいいわ」
そうしてまどかは園舎の中に入っていった。
微笑みながらしばらくまどかの後ろ姿を見つめているほむらだが、ふと何か思いついたように踵を返し、足早にその場を去った。
********
――まどかのお返しどうしようか?
こないだ蒼い髪の友人とまどかへのお返しを話し合ったが、まったく思いつかなかった。
互いに、貴方本当に幼馴染だったの、だの、あんた本当にまどかのこと超愛してんの、だの口論になったが。
――とりあえず、それは私が考えるわ、貴方だと変なことになりそうだから
――うわ、ひど
――それより貴方は私のお返しを考えなさい
――はあ?あんたあのチロルチョコでマジ…
――いやなら私がリクエストするわよ
――考えるわ、まかせて
ふふ、とほむらに笑みが浮かぶ。さやかが素直なのは理由があった。社会人になった時にはじめての給料で舞い上がったさやかは、無謀にもほむらになんでも奢ると言ってしまったのだ。結果…給料の半分がその日で無くなってしまった。
ないわーと軽く呟き、しかし非常に悲しそうな顔をしたさやかを何故かほむらは鮮明に覚えている。
「…ここね」
足を止め、ほむらが見上げた先には見滝原でも有名なペットショップだった。
彼女はまどかへのお返しで飼い犬のペット用品を候補にあげたらしい。
…だが、そんな事情を全く知る由のない村岡達はそれどころではなかった。
「て…店長?…店長ってば」
自分よりも遥かに大柄な青年に肩を揺さぶられ、村岡は我に帰る。
そして目の前の人物が幻ではないと確認するように、目をごしごしとこすった。
しかし…彼女は存在している。
「な…なにかテレビの取材とか撮影ですかね?」
「いや…俺はそんな話聞いていない、どっきりにしてもあれは…違うだろ」
「まあ、はい」
二人の視線の先には長い黒髪の女性がいた。遠目からでも「かなりの美人」とわかる恐ろしいほどの美貌だ。この世のものだろうか?と村岡が訝しがるが、まさか真昼間から幽霊が出るわけもなく、悪魔でもないだろう…と思い直す。実際村岡は正解を引き当てていたわけだが、それは永遠に知る由もない。二人が固唾をのんで見守る中、女性は口に指をあてながら何かを物色しているようだ。と、じろ、と女性がこちらを向いた。アメジストの瞳を見た二人は見惚れたようにぽかん、と口を開ける。
「ちょっと…」
は、はい、と二人同時に声をあげ女性に向かって歩き出すが、カウンターと商品棚の間で挟まり変な声をあげた。ぶつくさ言いながら、ようやく脱出すると青年がリードして先にほむらの元へ着いた。深々と頭を下げると口を開く。
「は、はじめまして!」
村岡がこめかみを抑えた。
「いらっしゃいませ」以外の声掛けを俺は教えた覚えはないぞ、とでも言う様に。
「犬の餌ってどこにあるの?」
「は、はい!こちらです」
大げさ極まりない動作で青年は美しい客を案内する。目の前のドライフードの袋を見てほむらはふうん、と呟く。
「美味しくなさそうね」
「は、はあ、でもドライフードの方が常食には向いていますよ、栄養価もありますし、保存もいいし…」
慌てた様子で身ぶり手ぶりで説明する青年の横から、村岡が出てきて補足する。
「まあ、ワンちゃんのご褒美ならこのウェットタイプの缶詰はいかがですか?」
「あら」
目を細め、手を差し出す美女に、村岡は恭しく缶詰を渡す。優雅にそれを受取りうっとりと見ている彼女を見ていると、缶詰がまるで違うものに見え、村岡は自分が貴金属店にでも勤めている錯覚を覚えた。
「これは…ご褒美用なの?」
「ええ、常用にしているところもありますが、普段はドライフード、ご褒美でこちらを使用
している方が多いです。ワンちゃんもこちらが美味しいようで」
「ふうん…面白いわ、ご褒美ね…」
そうして、また黒髪の女性は興味深げに缶詰を見つめ、何か思いついたように口元を緩ませて村岡に視線を向けた。見惚れて固まる村岡。
「ねえ、これって人でも食べれるの?」
「は?」
******
「…てか、それ犬のでしょ!犬の!」
「あら、でも毒じゃないから大丈夫って店長さんが言ってたわよ」
「却下よ!」
軽くテーブルを叩くと、まるで威嚇するかのように美樹さやかが、ほむらに顔を近づける。
面白そうに頬杖をついて、上目遣いで見上げるほむら。その笑みが妖艶なものだから、さやかは自分が怒りのために身体が熱いのか、それとも見惚れて熱いのかわからなくなった。
「…たくこの悪魔は」
そっぽを向いて蒼い髪をがしがしと乱暴に掻く。
――ほんと気を抜くとろくでもないことするんだから
はあ、とさやかがため息をつく。
そもそもついさっき、ほむらが鼻歌交じりで家に戻って来た時点でおかしかったのだ。
非番明けで朝早くに戻って来たさやかは一人のんびりコーヒーを飲んでいたものだから、玄関が開いて歌が聞こえた時には驚いた。目を見開き友人の姿を見れば、珍しくセータースカート共に白尽くし。しかも手にしているのは買い物用のビニール袋。見慣れない友人の姿にさやかは驚愕を隠せなかった。しかも追い打ちをかけるように
「フフフ、さやか、見て…いっぱい買い物しちゃったわ」
笑顔で買い物袋の中身をみせようとする彼女。
がたん、とさやかは思わずコーヒーを零した。
「熱っ、熱い!」
慌てて立ち上がってタンクトップを叩く。
「あら、どうしたの相変わらず愚図ねえ」
「う、うるさいわねっ、あ、あんたが別人モードだからでしょ!びっくりするわ」
そう、あまりにも見慣れない友人の挙動に、さやかは驚いたのだ。どこか知らない女の家に自分は迷い込んだのかと思わず立ち上がりかけ、コーヒーを零すという失態を起こしてしまった。
「ねえ、大丈夫?あんた…なんか悪いものでも食べたの?」
「貴方にお土産を買ってきたわ、ご褒美よ」
訝しがるさやかに気にすることなく微笑みながら友人が見せたのは缶詰だった。これみよがしにさやかの前で缶詰を振って「ご褒美」とか言うものだから、てっきり好物の缶詰なのかと思い「さば?」と聞いてしまったが、友人は「違うわよ」とニヤリと笑った。
なんなのよ…とさやかが思って缶詰をよく見ると、まず目についたのは犬の顔だった。
なんだか庇護欲をそそるような瞳の犬が数匹さやかを見ている。傍に「愛犬のご褒美に」というフレーズがあって。
「犬の餌じゃない!」
数秒後にさやかは大声をあげたのだ。
そうして時は戻る。
「まったく…まどかの犬のために下見に行くのは感動ものだけど…」
さやかはテーブルにピラミッドのように積まれた缶詰を指差し。
「これはいただけないわ!」
「なんで?さばより高いわよ」
「だーかーらー、買いすぎなのよっ!…て、違う、違うわええっと、対象がおかしいのよ、わかる?」
だめだ…とさやかは思った、相方が本気なのか冗談なのか全くわからない。
「…せっかく楽しかったから買ってきたのだけど」
「あ、まあそれはあんまり買い物につきあえない私も悪いけどさ…」
痛いところを突かれてさやかがおとなしくなる。そうなのだ、ここ最近同居しているとはいえ一緒に買い物に出かけたことはない。人外である彼女は、普通の人間の頃からこのように買い物など人らしいことをする機会が無かった。もしかしたら彼女は純粋に買い物が楽しくて、ついお土産を買いたかったかも知れない。同居人のために。
――言い過ぎたかな、とさやかは心を痛める。
「ねえ、ほむら気持ちはすごい嬉しいけどさ、これ…まどかの犬にあげた方がいいんじゃない?ね?その方がまたまどかとも会えるしさ、電話してみなよ、喜ぶって」
「まどかに?そうね…」
まんざらでもない表情を浮かべる美貌の友人を見て、さやかはほっとする。まどかをだしに使った感もあるが、相方を悲しませるわけにもいかず、だからといって、さやかがドッグフードを食べるわけにもいかず、彼女なりのベストな折衷案だ。
「あ、そうだわ、それと…」
思いだしたように、ほむらが袋に手を入れる。不安げにそれを見つめるさやか。だが、彼女が手にしていたのはピンク色の柔らかそうなゴムボールだ。へえ、何これ?と興味深げなさやか。
「ふふふ、面白いのよこれ」
ほむらがボールを握ると実際柔らかいのだろう、見る間に潰れ、同時に「キュウ、キュウ」と小動物が鳴いているような音が出る。動物のおもちゃだ。目を輝かせるさやか。
「わ、面白そう、触りたい、貸して貸して!」
嬉々として手を伸ばす蒼い髪の友人に微笑みながら、ほむらはゆっくりと右手をあげ、オーバースローでボールを台所へ向けて投げた。
「あ!もう、ちょっとお!」
怒りながらも、さやかは軽い身のこなしで台所へ向かっていく。背をかがめてボールを取ると「キュウ、キュウ」鳴らしながらほむらの元に戻って来た。
「ったくう…人が触ろうとしたらすぐそんな風に、あんたってほんと意地…どったの?」
さやかが気付けば、ほむらはテーブルに突っ伏して小刻みに震えていた。
「ほむら?」
「て…店長の言ってたとおりだわ…く、くるし…」
ほむらは苦しそうに右手でお腹を抱え…笑っていた。
「な…」
「貴方ってほんと…忠犬ね」
「この!ほむらー!」
とうとうさやかは二回目の大声をあげた。
*********
――え、でもほんとにいいの?ほむらちゃん、そんなにもらって
「ええ、いいわよ、あなたの犬のためよ」
――ありがとう、ほむらちゃん
結局あのドッグフードはまどかの犬にあげることにした。ほむらはそれはもう嬉しそうに彼女に電話をかけている。細めた目はベッドの上で行儀悪くあぐらを掻きながらボールに戯れている蒼い髪の忠犬に注がれていて。ソファに座っているほむらは黒髪をいじりながら、それを面白そうに見ている。忠犬はタンクトップ一枚、その飼い主はキャミソール。二人はさっきまで激しく「じゃれあって」いて。ほむらはゆっくりと立ち上がった。
――ねえ、ほむらちゃん、じゃあ今度の土曜日、その時に私の犬と一緒にお散歩にでかけない?
「あら、素敵ね…いいわ」
――ほむらちゃんも気にいるといいな、私の飼っている犬
蒼い髪の忠犬に近寄ると、ほむらは白い手を伸ばす。
「それじゃあ、私も連れてきていいかしら?」
――え、ほむらちゃんもほんとに犬飼ってるの?
「ええ、ちょっとお馬鹿さんだけど忠犬をね」
それから軽く二言、三言話してからほむらは電話を切った。
「…まどかなんて?」
頭を撫でられながら、気持良さそうに忠犬は飼い主を見上げた。
何も答えず、黒髪の主人は携帯をサイドテーブルに置いてその蒼い瞳を見つめる。
そうして、ベッドに上がると蒼い犬を抱きしめた。
「今度の土曜日、お散歩に連れてってあげるわ…」
へ?と何か言いたげな犬の口を塞ぐように、黒髪の主人は大きく口を開きゆっくりと重ねて黙らせた。そうして静かにするようにしつけると、今度は優しく命令する。
「さっきの続きをしましょう?」
忠犬は吠えないものらしい。ただ素直に頷く、飼い主はそれはそれは満足そうに微笑んだ。
END
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さやか嫉妬する
微かな物音で美樹さやかは目を覚ました。
「…ん」
寝ぼけた目で隣を見ると、いつも傍らにいる相方がいない。シーツに手を這わせ、ゆっくりと気だるげに上体を起こす。
「あら、お目覚め?」
艶のある声が前方から聞えた。さやかが目をやると、鏡台で髪を梳かしている相方と鏡越しに目が合った。
「おはよ…あんた珍しく早いじゃん…」
蒼い髪を掻きながら、照れくさそうにさやかは微笑む。
「あら、貴方が遅いのよ」
そう言って、鏡に向かいながらほむらは蒼い髪の女性に目配せする。
へ、とさやかがサイドテーブルのほむらの携帯で時間を確認する。もう昼に近い。
「うわ、ほんとだ全然気付かなかったわ」
「貴方って、ほんとお間抜けな顔して眠るのね」
「はあ?人の寝顔見てそんな…趣味悪いわね」
黒髪の相方は振り返ってにやりと笑う。恐ろしいほどの美貌だ。
「あら、気持ちよさそうに眠っているから起こさなかったのよ、むしろその優しさに感謝すべきじゃないの?」
そう言って腕を組んで、ん?と返事を促すように小首をかしげる。長い黒髪がさらりと揺れ、相方の口元がゆっくりとつり上がる。相変わらずの美しさに、さやかは眩しそうに目を細めた。心なしか顔が赤い。
「そりゃあ、そうだけど…うん、ありがと」
「聞き分けがいいわね」
ほむらは満足そうに目を瞑り、そうして再び目を開くとブラシを持って立ちあがった。
ベッドに上がり、さやかの元へ近づく。
「ほら、おいで」
「へ?」
「ブラッシングしてあげるわ」
ベッドの上に膝立ちのまま、ほむらはさやかの背後に密着する。そうして寝ぐせのある相方の蒼い髪をブラシで梳きはじめた。その意外と優しい手つきに驚くさやか。
「貴方の寝ぐせひどいわね」
「ねえ…あんた、最近妙に優しくない?」
「別に普通よ?」
そう言って、相方の寝ぐせと格闘を始める。楽しいのか鼻歌までうたいだした。
さやかは落ち着かない。なんだか妙に優しい気がするのだ、相方が。
…困ったなあ
さやかは目を伏せる。
いつもは冗談と嫌みが飛び交いお気楽に会話が進むのだが、こんな風に素直に優しくされると、なんだか気恥ずかしくてさやかは何も言えなくなる。この性質は、遠い昔幼馴染の少年に淡い想いを抱いていた頃から変わらないようだ。
――あの頃の私と今の私は違う
とさやかは思う。
ほむらが改変した世界で生活している内に、さやかは自分が昔の自分と少し乖離していることに気付いた。希薄なのだ、他人に対する想いが。恐ろしいほど美樹さやかは他人に淡白だった。
それが円環の理という完成された世界で全ての事象を知り、受け入れた影響なのかわからないが、この10年、さやかは他人に対して劣情を抱いたことがない。相方にはどうこう言っているが。ただ楽しく過ごせればいいと、軽いノリで誰とでも仲好くなるものだから、たまに異性にも同性にも言いよられることもあった。だが、特に関係を持ったこともない。まともに付き合ってきたのは、今傍にいる相方だけだ。
こんな風に優しくされると…ねえ?
なんだか妙に意識してしまう。頭に相方の指が這うのを心地よく感じながら、さやかは困ったように目を瞑った。
「2時には公園に着くようにするから、貴方もこれが終わったら着替えてね」
「へ、公園?」
背後からほむらが器用に、ぱちん、と軽くさやかの額を叩いた。
「もの覚えが悪い人ね…お散歩に連れて行ってあげるっていったでしょ」
「あ」
『今度の土曜日お散歩に連れて行ってあげる』
確かにほむらはそう言っていた。
「そうだったわ」
「ほんとお馬鹿さんねえ、もう少しお利口さんになれればいいけど…私のしつけが足りないのかしら」
「犬じゃないって!」
ふう、とわざと大げさに首を振るほむらに、さやかは突っ込みを入れる、いつもの調子に戻れたからか、さやかは心なしか安堵した表情を浮かべていた。
「ほら動かないの」
「げしょ」
さやかが変な声をあげる。ほむらがさやかの頭をがっちりとホールドして、ブラシと髪の格闘を再開したからだ。
「せっかく公園に行くんだから、毛並みはきちんとしないと…」
「だから犬じゃないってば!」
相方が本気なのか冗談なのか、さやかには全く見当もつかなかった。
*****
「あれ、さやかちゃんも来てくれたの?」
嬉しそうに笑顔を浮かべるまどかを見て、自然とさやかも笑みを浮かべる。その横で、相方を睨むほむら。小声でさやかにしか聞こえないように囁く。
「…へらへらして気持ち悪いわよ」
「うるさいわね、わかったわよ…」
そう言って、さやかが口を閉じると、よろしいと満足そうにほむらは頷く。
「あれ、ほむらちゃん犬は?」
「ええ、これよ」
そう言って、さやかの背中を軽く叩く。
「お馬鹿さんだけど、それなりに役に立つわ」
「へ、なんの話?」
きょとんとするさやかに、にんまりと微笑むほむら。そして戸惑うまどか。
「あ、あはは…ほむらちゃん、冗談言う様になったんだねえ」
「あら、冗談じゃないのだけど?」
なんのことだろう?とさやかが訝しげに二人の様子を見ていると、いきなりまどかの背後から茶色い物体が出てきた。思わず驚きの声をあげるさやか。
「うわ、でか!」
まどかの背後から出てきたのはゴールデンレトリバーだった。
ハッ、ハッ、と舌を出し、愛想よく尻尾をぶんぶんと振っている。黒々とした目はほむらとさやかを興味深げに見ていた。反射的にさやかが目を輝かせて犬の目線に合わせて屈む。
ワン、ワンと楽しげに吠えて、犬はさやかにじゃれついた。声をあげながらさやかが犬を抱きしめじゃれあい始めた。かなり楽しそうだ。
「わあ、さやかちゃんにすぐ懐いちゃったね」
「ほんと、犬同士ってすぐに仲良くなるものねえ」
ほむらの台詞に、もう、と困ったように苦笑いしながら、まどかは「二匹」に視線を戻す。
「ほら、モカ!こっちきなさい」
「ほら、さやかこっちきなさい」
二匹はそれぞれ飼い主の元に戻ったわけであるが、
「えへへ、ほむらちゃん、さやかちゃん、これが家の犬で「モカ」って言うのよろしくね」
「へえ、可愛い名前だね、よろしく、モカ!」
「まどかより大きい感じがするわね、この犬…あら」
いきなりモカがほむらにすり寄ってきた、くうん、くうん、と甘えた声をあげながら。
「あら、私にすり寄ってくる動物なんて、珍しいわね」
まんざらでもないように、ほむらは少しかがみ、頭を撫でる。尻尾がぶんぶんとはちきれんばかりに振られた。そうして犬は前足をあげ、ほむらによりかかる。きゃ、と小さい悲鳴をあげ、ほむらが犬を抱きかかえた。
「うわ、なんか、馴れ馴れしいわね…この犬」
横で面白くなさそうに、蒼い髪の女性が呟く。そのぼやきに何故か、黒髪の友人は嬉しそうに反応して。犬の頭を撫でながら、さやかを上目遣いで見る。
「フフフ…どうしたの?お友達を取られてご不満?」
「なっ、ち、違うわよ!そうじゃなくて…」
「そうじゃなくて、何?」
「うっ!…し…知らないわ」
さやかがそっぽを向いた。ククッとほむらが面白そうに笑いを堪える。
「ねえ、まどか、ちょっとモカちゃん借りていいかしら?」
「え、いいよ?ほむらちゃんもモカちゃん気に入ったみたいだね」
「ええ、今後のために練習を」
「?」
そう言うと、ほむらはモカのリードを掴み、「それじゃあ行きましょう」と優雅にお散歩をはじめた。
美しい女性と大型犬の姿は不思議と絵になるもので、さやかはついつい、ほむらに見惚れながら歩きはじめる。
「ねえ、さやかちゃん…さやかちゃんってば」
「わ、あ、ごめんまどか、ボーッとしちゃって」
「もう…さやかちゃんは、ほむらちゃんばかり見て」
「へ、違うよ、そんなことないって」
慌てるさやかを、まどかは目を細め、見上げる。
「そうなのよ、この人私の背中を凝視する趣味があって…」
「どんな趣味よ!」
フフフとまどかとほむらが同時に笑いだし、ようやくさやかはからかわれたことを知る。
「もう…なんなのよ」
ついついため息が出た。せっかくの休みだと言うのに、二人にからかわれる運命なのか。
「あ、それとね、まどか」
「なに?ほむらちゃん」
「この人、リードなくても大丈夫だから」
「だから人ですから!」
さやかが大声をあげた。
* * * *
緑豊かな公園の中、温かな日射しの元で三人と一匹は散歩を続ける。
他愛のない話を気を使うこともなくおしゃべりし、笑いながら歩く。それはとても贅沢な時間で、三人はそれぞれ幸せを噛みしめる。
…幸せだ、にしても
と、さやかは前方の犬を睨む。気のせいか、モカは黒髪の友人に異常にすり寄ってくる。
尻尾を振り振り、クンクンと媚びを売ると、相方は優しくその頭を撫でる。気にくわない。
この犬もしかして、発情期かなんかだろうか?
妙にモカに優しい相方にいきなりまた飛びかかってきたら、ひっぺがしてやろうとさやかは思った。
「さやか」
くる、とほむらが振り向く、ちょうどタイミングが良すぎたので心でも読まれたかとさやかが身構える。
「私は疲れたから交代よ、モカちゃんと遊んでやって」
そう言って、ほむらはリードをさやかに差し出した、どうやら違ったようだ、と安堵するさやか。と、ほむらがリードをぱ、と離した。いきおいよく、ワンワンと明後日の方向へ駆けだすモカ。
「あ、ちょ、ちょっと待てこら!モカ!」
100メートル走のスタートのごとくさやかも勢いよく駆けだす。
それを見て、お腹を抱えて笑うほむらと、困った顔のまどか。ひとしきり笑い終えると、ほむらはまどかにベンチで休みましょ?と囁いた。
「すっごい元気だねえ、さやかちゃん…」
「そうね…体力だけがとりえだから」
ベンチに座った二人の視線の先には、「二匹」の飼い犬の姿があった。
猛スピードで茶色い方が走りだすと、蒼い方も必死に追いかけタックルする。草むらでじゃれあって、今度は蒼い方が駆けだすと、茶色い方が覆いかぶさりと、まるで仲のいいきょうだいのようだ。
「もう、ほむらちゃんてば、さやかちゃんには厳しいんだね」
「そうかしら?随分優しい方よ、それに…私はあなた以外に優しくするつもりはないわ?」
「ほむらちゃん…」
複雑そうな表情を浮かべ、まどかはほむらを見る。まるで彼女の真意を計りかねているように。そうして、言おうか言うまいか悩んでいたのか、胸に手をあて、ようやく口にする。
「あのね…ほむらちゃん」
「なあに?」
「私…こないだ杏子ちゃんと会ったの」
佐倉杏子…久しぶりにその名前を聞いたのか、ほむらは一瞬表情を曇らせる。
「そう…元気そうだった?」
「うん…それでね、ほむらちゃんに会いたいって」
「私に?」
意外だった。彼女が会いたがるならむしろさやかの方だ、それなのに…
ああそういうことか。
ほむらはため息をついた。
高校時代に、さやかは初めて人と融合した魔獣と戦っている。かなり精神的なダメージを負い、苦しんでいるさやかをほむらは家に泊め受け入れた。その時、心配して杏子がさやかにかけた電話をほむらが取り、杏子は困惑し、聞いた。
――ほむら…あんたはさやかのなんなんだ?
あの時なんて答えただろう?ほむらは思い出せない。それほどまでにあの時はさやかに気を取られていたのだ。記憶を取り戻したさやかに夢中だった…。
はあ、と再びため息をつく。その日を境に、さやかはほむらの家に入り浸るようになり、大学生になってからは同棲するようになった。杏子からしたら、自分が親友の力になれない苛立ちと、「何があったのか」という不安でやってられなかっただろう。
おそらくその時の気持ちの整理をつけるために、そして真実を知るために語り合いたいに違いない…。
「そう、一度は会わないといけないわね」
自分自身が改変した世界ではあっても全てが思い通りに行くわけではない。
目の前のじゃれあっている自分の「飼い犬」を見ながらほむらは呟いた。
* * * *
「それじゃあ、またね、ほむらちゃん、さやかちゃん。ドッグフードありがと!」
夕暮れ近くになり、三人は別れをつげた。まどかの手にはビニール袋がある。中味はほむらが大量に買ったドッグフードだ。ほっ、と安堵の表情を浮かべるさやか。ご満悦なほむら。
「ええ、元気でね、まどか…それにモカちゃんも」
ワン、と元気よくモカは吠え、ほむらにすり寄る。
「あ、こら、モカ、あんたすり寄り過ぎ!」
何故か慌てるさやか。ワン、とモカは楽しそうに吠えた。まるでさやかをからかっているように。
「ふわ~…楽しかったけど、疲れたわ」
ん~と背伸びする相方を眺めながら、ほむらはあきれたように近寄った。
そうしてさやかの胸元にばふ、と顔を押し付ける。
「ちょ、いきなりどうしたのよ!」
「貴方、汗の匂いがするわ、それに草の匂いも」
「うわ、そ、そんなの嗅がないでよ!」
恥ずかしそうに身体を離すさやかの腕を掴んで、ほむらは笑った。
そうしてひとしきり笑うと、さやかの前を歩き出す。
「家に帰ったらきちんとお風呂に入るのよ?」
「わ、わかってるわよ、あんたに言われなくともっ」
「それとも、一緒に入る?嫉妬深い飼い犬さん?」
「んなっ…」
見る見る間に、さやかの顔が真っ赤になる。
黒髪の相方の台詞が図星だったからか、それともシャワーの方か、くすくす笑う相方を睨むと、さやかは駆けだした。楽しそうに逃げるほむら。
「こら、この馬鹿ほむら!」
すぐにほむらは掴まった。力を使わなければ、基礎体力は段違いにさやかが上だ。
息を切らしながら、ほむらは上目遣いでさやかを見る。アメジストの瞳を輝かせ、挑発するように笑う。
「…図星だった?」
「…う」
しばらく忌々しいとでも言う様な表情を浮かべていたさやかだが、ああもう、と呟いた。
「そうよ、なんか…なんていうか、嫌だったわよ、あんたが犬と仲良くするの」
そうして照れ隠しなのか頭を掻く。
「ほんと、犬相手に何嫉妬してんだか私…」
「あら、貴方も犬じゃない?」
「こ…!」
今度こそ、怒りで大声を出そうとしたさやかの口をほむらの口が塞いだ。
「…一緒に入りましょ?」
ゆっくりと顔を離すと、飼い主が囁いた。余裕の表情とは裏腹に、その目は潤んでいて。
忠犬は吠えることもできず、顔を赤くしたまま、ただ、こくりと頷いた。
その夜、ほむらはお風呂の中で忠犬とじっくりと「じゃれ合う」ことに成功したという…。
END
…そして
「…ええ、そうね色々と話す必要があるようね」
細々と囁くようにほむらは携帯の相手と会話する。
そうして、ちらりと横目で傍らで気持ちよさそうに寝ついている相方を見つめた。
白い手を伸ばし、そうっと起こさないように蒼い髪を優しく撫でる。先ほどまでお風呂で
「じゃれ合って」疲れたのだろう、相方は起きる気配が無い。
「そう…それじゃその時にまた…杏子」
携帯をゆっくりとサイドテーブルに置く。はあ、とため息をついて、ほむらはベッドのヘッドボードにもたれながら月を見上げた。
――いずれは彼女とも決着をつけなければならないのだ。
彼女自身が改変した世界とはいえ、思い通りにならないこともある。
月の蒼白い光に照らされ、シーツ以外に身に纏っていないほむらの肌が妖しく光る。
と、寝ついていたはずの相方がもぞもぞと動き始めた。
「…ん…ほむら、どうしたの?」
「あら…ごめんなさい、起こしちゃったわね」
眠そうに目を擦りながら、こちらへ身体を向ける相方に、ほむらは艶のある声で囁き、頭を撫でる。嬉しそうに目を瞑る相方を見て、ほむらは満足気に目を細める。そうして、ねえ…とねっとりと絡みつくように囁いた。
「ん…?」
「ちょうど良かったわ…貴方が起きてくれて」
そう言いながら、ほむらはシーツを引きあげ、テントのようにする。
そうしてシーツを背中からかぶり、さやかの上に覆いかぶさった。
「もう1回しましょう?」
ゆっくりと頬を擦り寄せながら、ほむらはさやかに跨った。
続く
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ほむら挑発する
昼ドラ、火サス的。嫌な方は回避。ばっちこいな方は是非。
ほむらの朝は早い。
…と言っても今日だけだが。
「ん…」
蒼白い闇の中、白いベッドの上でほむらは身じろぎする。うっすらと目を開ける。
長い睫毛の下のアメジストの瞳がゆらゆら揺れて、しばらくして意識がはっきりしてきたのか、きょろきょろとあたりを見回した。
身体を側転させたのは、相方を探しているからか。だが、彼女といつも一緒に寄り添う様にして眠っている蒼い髪の相方は見当たらず。
「……もう」
はあ…と不機嫌そうにため息を漏らしながら、彼女はゆっくりと上体を起こすと四つん這いになりベッドの縁まで進む。キャミソール一枚を身に纏った彼女の肢体は月で蒼白く輝いて。縁までくると、下を覗き込むようにして相方の名前を囁いた。長い黒髪が下に垂れる。
「…さやか?」
案の定、ほむらの予想通り、相方はそこにいた。
寝相が悪く、時折ベッドから落下する蒼い髪の相方は、今晩も変わらず落下したようだ。
一瞬、ほむらの口元がつり上がる。彼女の視界には、ベッド縁の床下で気持良さそうに眠る相方の姿があった。タンクトップ一枚の姿で、身体を少し丸めてすやすやと気持良さそうに眠っている。そんな相方をほむらはあきれたようにしばらく見つめ、ぼそりと呟いた。
「……お間抜けな顔ね」
そうしてゆっくりとベッドから降りた。
* * *
さやかは不思議そうに目をぱちぱちとまばたきする。
「あれ?」
全体的に周囲が白っぽく、もやがかかっている感じがするのだ。さやかは窓際に置かれたいつもの白いテーブルに座っていた。いつもの彼女の家の中。だが…どうにも雰囲気が違う。そうしてきょろきょろとあたりを見回して、さやかはああ、と気付く。
初めてほむらの家に泊まった時の朝の雰囲気に酷似していた。生活感のまるでない殺風景な白い彼女の家。
「貴方、コーヒー飲むんでしょ」
「わ!」
いきなり、傍から声がした。聞きなれない少女の声。
だが、よく見ると、そこにはいつもの見知った相方の…少女時代の姿があった。
「ほむら?」
ええそうよ、当たり前でしょと言わんばかりのツン、とした表情で美少女はさやかを見返す。ゴスロリの黒い服を着て、顔は相変わらず美しく、でも態度はでかい。手には白いコーヒーカップを持っていた。どうやら、さやかにコーヒーを淹れてくれたらしい。よく見ると、カップには世界的にヒットしている赤いリボンの猫のキャラクターが小さく描かれていた。あれ、これはほむらの趣味だったっけ?とさやかは訝しんだ。
「飲むの?飲まないの?どっちなの?」
「あ、飲みます、ありがとう」
思わず礼を言ってカップを受け取る。こんな小さい子相手になんで敬語…と自分自身を責めながらカップに口をつける。
「グぇ…辛!」
コーヒーで辛いとかマジで?とさやかは思いながら、我慢できず口からコーヒーを零す。
フフフとさも可笑しそうにほむら(少女時代)が笑う。手には「Salt」と書かれた瓶を持っていて。
「塩ってやっぱりコーヒーには合わないのね」
「うん、そりゃあそう…てかっ、なんでそんなの入れるのあんた!」
だが、ほむらは取り合わず、微笑みながら、ダン、とテーブルに何かを置いた。その力強さに思わず驚くさやか。見上げると、ほむらはいつの間にか20代の彼女に戻っていた。腰に手をあて、微笑んでいる。それは魅力的なのだが、なんだか見慣れないエプロンを着ていて薄気味悪い。エプロンにはさっきと同じ世界的に有名なキャラクターが、今度は水玉模様並みにたくさん描かれていて…あれ、ほむらって、こんなもの好んだっけ?とまたさやかは訝しんだ。
「はい、これは朝ごはん、貴方のために作ったのよ」
「へ?」
そこには、犬の缶詰が置かれていた。
缶詰に書かれていたフレーズは――
「美樹さやか犬になるまであと4日」
* * *
「……なんでよっ!?」
さやかは飛び起きた。
「あら、お目覚め?」
気付くと、テーブルの傍に黒髪の相方が立っていた。珍しく既に私服に着替えている。
「なんだか面白い寝言してたようだけど?」
クスクスと面白そうに笑ってほむらが尋ねる。あたりにコーヒーの香りがして、さやかはようやく自分が夢を見ていたことに気付いた。
「あ、うん…夢を見てたみたい…痛た…」
今度は身体が痛いことに気付き、さやかは肩を揉む。そうして、今度は自分が床で眠っていたことに気付く。
「へ?また、私落ちたんだ…へ…」
へっくしっ、と大きなくしゃみをするさやかを見て、ほむらはまた笑った。そんな相方を見て、口を尖らすさやか。
「ちょっとお…起こしてくれたっていいじゃない」
「あら、気持ちよさそうに眠ってたからそっとしてたのよ、貴方を抱っこするのも面倒だし?」
「せめてシーツくらいかけてくれても」
「床で汚れるわ」
「ひど!」
ほむらは小首をかしげ、さやかに向けて、ちょいちょい、と指をつつくような動作をする。
からかうような表情で、さやかに囁いた。
「あら、心外ね、もっといいもの掛けてあげているじゃない」
「?」
さやかは不思議そうにほむらの顔を見て、それから視線を自分のお腹に移した。
「ちょ…」
さやかが固まる。
そこにあったのは、ほむらのキャミソールで。
「あんたのっ…キャ…キャミソールじゃないの!」
「あら、見て分からないの?」
「わかるわよ、なんか妙に温かいし…そうじゃなくて!」
左手でさやかは相方のキャミソールを白旗のように振った。
「なんで、こんなもの私に掛けるのよ!」
「風邪を引かないようにお腹にかけたのよ」
「そう…なんだ…ってかそうなんだけどさあ!」
「なんなのもう…?」
相方の騒ぎっぷりに手がつけられないとでも言う様に、はあ、とため息をついてほむらは腕を組んだ。そうして大げさに首を振る。
「おかしいわねえ…普通、主人の匂いがするものがあれば落ち着くと聞いたけど…」
「犬かっ」
「あら自覚はあるのね」
「え」
にやりとほむらは笑う。その笑い方が妙にいやらしくて、さやかは嫌な予感がして黙り込んだ。
「寝ている時の貴方、傑作だったわよ」
「な…何がよ」
「私のキャミソールを抱きしめて、とても気持ち良さそうな顔で眠ってたわよ、しかも顔をそれに擦り寄」
「わあっ、嘘っ!やめて!聞きたくない!聞きたくないわ!」
慌てて耳を抑えて、さやかは騒ぐ、もはや顔は羞恥で真っ赤だ。お腹を抱えて笑うほむら。
どうやら、彼女はさやかが起きるまで、一部始終を観察していたらしい。あまりの悪趣味さに、さやかは恨みがましくほむらを睨む。あまりの羞恥で涙目になりながら。しかし、それ以上に自分が無意識化で行った変態まがいな行動に打ちひしがれたのか、しばらくして力なく手を下ろすと、はあ、とため息をついた。それに合わせ、ほむらも笑うのをやめ、神妙な顔つきでさやかを見下ろすと囁いた。
「さやか」
「はい」
「風邪をひかなかったのは誰のおかげ?」
「ほむら…です」
「それじゃあ?何か言うことは?」
「ありがとう」
「よろしい」
そう言うと、堪え切れずに相方はまた笑いだした。
…なんか、もう永遠に勝てる気がしないわ…
愉快そうに笑う相方を見上げながら、さやかは、試合と勝負両方で負けた気分を味わった。
「とにかく変な夢でさあ…」
「あらそう…」
ほむらが用意してくれたパンを食べながら、さやかは先ほどまでの夢の話をする。…が、
「くっ…ふふっ…」
目の前の相方が、口元を緩め肩を震わすのを見て、もうう…と口を尖らせた。
さっきからこうなのだ。目を合わすと、急に何かを思いだしたかのように吹き出して、笑いを堪える。
「また、あんた思い出して…」
「あら、だって仕方ないじゃない、貴方が…私の」
「わあ、やめて!」
ガタンと勢いよく立ちあがってさやかは手を伸ばす、ほむらの口を塞ごうとでもいうように。もちろんそれはほむらの手でガードされる。
「面白いわね…貴方」
「ったくやめてよ」
ひとしきり笑った後、ほむらはふと携帯を見て、立ちあがった。
「あら…こんな時間ね、もっと遊んであげたいけど、私はちょっと出かけてくるわ」
「へ?」
そういえば、相方が珍しく私服なのをさやかは思い出した。
「どこ行くの?」
「あら、珍しい。貴方でも気になるの?」
「…っ、わ、悪い?」
思わず、ほむらの口元が緩む。
…いつの間に、この人はここまで素直になったのだろう?
もちろん、悪魔である彼女がこういう面白い状況を見逃す訳もなく、顔を赤くしながら縋るように見上げる相方の顔に自分の顔を近づけながら囁いた。
「デートよ」
「嘘?!」
そこからの彼女の顔は見ものだった。顔を赤くしたかと思うと、見る間に今度は血の気が無くなったように青ざめていく。そんな感情の起伏の激しい相方の表情をご堪能した後、ほむらはまた囁いた。
「嘘よ」
「な…」
フフフと笑ってほむらは身体を離す。
そうして軽やかにドアまで歩いて行くと、振り返った。
「貴方って、誰かと付き合えとか言う割には、結構嫉妬深いのね?」
「そ、そんなこと!」
図星である。さやかは二の句を継げない。
「…安心してそんなんじゃないわ」
「そう…うん」
「それじゃ、行くわ…すぐ帰ってくるから」
と、思い出したように、またほむらは振り返る。
「こんな嫉妬深い犬飼ってたら、そんなこともできないし?」
「ちょっと!」
相方の怒声を聞きながら、ほむらは笑って外へ出た。
* * * *
午前中に街を歩くのは、ほむらも久方ぶりである。元々生活感の希薄な彼女であるが、表向き人として暮らしていく以上、ある程度周囲との交流が必然的に生まれてしまう。声をかけるのもはばかれるほどの美貌の持ち主であるが、そんな彼女にも、商店街のような、地域密着型の街で暮らしている住民は声をかけてくれる。大抵、店を経営する老夫婦など、年配の者が多いが。それと…
ワン、ワン、と元気よく吠える雑種犬。軒並みで繋がれているため、ほむらにすり寄ることはないが、尻尾を絶え間なく振るその姿がいじらしく、つい悪魔でも口元を緩めてしまう。と、いつもはそこまでなのだが、今日の彼女は違っていた。フフ…と何かを思いだしたように笑いだす。もし誰か目撃したものがいれば、その意外さに驚くかもしれないが、あいにくそんな姿を見ているのは、目の前のつぶらな瞳の雑種犬だけだった。
「?」とでも言う様に、首をかしげ、じい、とほむらを見上げる犬。
「あら、ごめんなさい、あなたを笑ったわけじゃないのよ?」
…あなたじゃなく、あの人を思いだしたのだけどね?
まるで人に言い聞かせるように囁くと、ほむらはそれじゃ、と犬に言って再び歩き出す。
いつもの、あの喫茶店に向かって。
ほむらが喫茶店に入ると、中には数人ほどの客しかいなかった。その中で人目を引く女性が一人、仏頂面で足を組んで座っていた。燃えるような赤毛のロングヘア、身体のラインを強調するようなぴっちりとした黒のタンクトップにショートパンツ、そして無骨なライダースジャケット。彼女の方からはほむらは見えないらしく、窓の外を何か考え深げに見つめていた。ほむらは黒髪を掻きあげると、彼女の元へと歩み寄った。
店内のジャズに聞き入りながら、佐倉杏子は窓の外を眺めていた。
――静かでとても雰囲気のいいところだよ?
――へえ…あんたもよくそこに行くのかい?まどか?
――うん、時々ほむらちゃんと会う時にね…
――さやかとは会わないのか?
――…う~ん…二人で会ったりはしないかな…
…ったく、あいつも素直じゃねえな
杏子は桃色の髪の友人の事を考える。
さやかに会いたいなら会いたいって、本人に言やあいいのに…
そういう自分も、無駄に気を使って、さやかにはここ数年会ったことはない。
…ったくあたしもまどかも揃いも揃って大馬鹿だ
そう、杏子もまどかも二人とも、美樹さやかの身をかなり案じている。それに起因する感情がどのような種類かは別として。あれから…さやかがほむらの元で暮らすようになってから、杏子はほかの誰よりもまどかと接する機会が多くなった。
――私は、さやかちゃんも、杏子ちゃんもみんな好きだよ?
嘘だ。と杏子は思った。いや、みんな好きなのは本当だろう、鹿目まどかはそういう人間なのだ。まるで太陽のように自然に他者を包みこむ優しさを持っている。看護師をしている杏子は今まで、死にゆく人を数多く見てきた。だが、ほとんどはどんな人生を歩んだにせよ、後悔はしない、むしろ悟ったような神々しさをたたえたまま、旅立っていく。…例えは悪いが、まどかはそんな感じなのだ。誰かのために自分の命を捧げる悟りきったような殉教者。だからこそ、まどかを愛する者、好意を持っている者は気が気でない。
そして、まどかはさやかに特別な感情を持っている。
これは確信に近かった。なぜなら杏子自身がそうだから。シンパシーとでも言うのだろうか?
と、脳裏に黒髪の少女が浮かび上がる。
――それに…ほむらちゃんも
暁美ほむら
彼女もまた、杏子とまどかにとって、かなり不可解で、重要な人物だ。
いつかどこかで会ったような、既視感。そして…あの日の不可解な行動と、さやかとの関係。
知らなければならない…。
はあ、と大きなため息を杏子がついた、と眼前のソファの縁に女の手が置かれた。
とても白い綺麗な手で、思わず杏子が見惚れていると頭上から艶のある声が聞こえる。
「久しぶりね杏子」
見上げると、そこには恐ろしいほど美しい黒髪の女性がいた。
少し身を屈めて、こちらを覗き見るようにして微笑んでいる。長い黒髪がソファの縁にかかるようにして垂れる。杏子は足を組んだまま、ぽかん、と数秒女性を見つめていたが、しばらくして口を開いた。
「………ほむらか?」
「ええ、高校の時以来ね」
そう言って、ほむらは優雅に杏子の対面に座る。黒づくめの服装が、かえって彼女の白い肌を際立たせ、より美しさを強調する。白磁のような肌に整った顔立ち。艶のある黒髪。長い睫毛の下のアメジストの瞳。
まるでこの世のものではないようだ。いきなり杏子の世界が非日常へ変わった気がした。
喫茶店が異世界と化したかのようだ。
「…こりゃあ、たまげた。まどかから聞いてたけど、ここまで綺麗だとはね」
「あら、あなたもたいしたものよ」
そう、ほむらの言う通り、佐倉杏子も美しく成長していた。
燃えるような赤毛は昔と変わらず背中まで伸びているが、あの頃のようにリボンでは止めていない。健康的な肌の色に、髪の毛と同じような色を宿したややつり気味の目、しなやかな動物のような豊満な肢体…そして笑うと出てくる八重歯。彼女は野性的な魅力に満ち溢れていた。美樹さやかがどことなく浮世離れした中性的な美しさなら、こちらは現実世界の生命力溢れる美しさと言ったところだろうか。
杏子はテーブルの隅に置かれた冊子をほむらに差し出す。
「何か飲むか?」
「コーヒーを」
窓から陽光が射し込んで、向きあう二人のシルエットを浮き彫りにした。
――ほむら、あんたさあ…
――なあに?
――いや、なんでもない
さやかと彼女(ほむら)の間には「何か」がある…
杏子は高校時代にそれを感じ始めた。だが…一度も面と向かってそれを聞くことはできなかった。どちらにも。
…自分は何を恐れていたのだろう?
そう、このような質問に躊躇する性格ではないはずだ。しかし、「何か」を知ることを杏子は恐れていた。そして「あの時」彼女は後悔することになるのだ。
あの、魔獣が二手に分かれ、さやかと別行動をしたあの日。さやかは帰ってこなかった。
心配してさやかに電話を掛けた時、電話を取ったのはほむらだった。
あの瞬間、杏子は何故かひどく後悔した。大事なものを失ったような、そんな喪失感。
――今日はもう遅いから、明日迎えにきて
ほむらはさやかの携帯でそう杏子に言った。そして、あれ以来さやかはほむらの家に入り浸るようになり、とうとう高校を卒業した頃には一緒に暮らすようになった。
――あの時がターニングポイントで決定打だったのだ。
杏子は頼んだアイスティーのコップを手にしながら、ほむらを見つめた。
ちょうどコーヒーを飲んでいるところで目は伏せられている。
「……さやかは元気か?」
ほむらの長い睫毛が開き、アーモンド型の目が杏子に向けられる。
「あの人は元気よ」
「そうか……」
カチャ…とほむらがコーヒーカップを置く。
「杏子」
ほむらはテーブルに組んだ腕をもたれさせ、少しだけ前のめりになると囁いた。
「らしくないわね」
「何?」
ほむらの口元がつり上がる。まるで嘲笑しているかのように。
「何を怯えてるの?「昔」のあなたなら、躊躇なく聞けるはずよ?」
「昔…?」
「時間の無駄ね…私は別にあなたに聞きたいことがあるわけでもないし、あなたが聞きたいことがないなら帰るわ」
「面白ぇ」
杏子はニヤリと笑った。
獲物を狙う動物のように口元から八重歯が出てくる。目を細めるほむら。
「ほむら…あんたが本気であたしに喧嘩売ってるのか、それともあいつのためにわざと悪役(ヒール)を買ってるのか知らねえが、今日はあたしの質問に答えてもらう」
「あら…」
意外だ…とでも言わんばかりに、ほむらはまた目を細める。
彼女…佐倉杏子は成長してから、以前の彼女に戻っている。そうほむらは確信した。彼女が改変する前のあの野性味溢れる勘の鋭い佐倉杏子に。
――あの人が愚かなほど単純で、忠実な犬だとしたら、目の前のこの子は私と同じネコ科の動物だ。疑り深く、そして鋭い。
ほむらはニヤリと口元を歪めた。
「質問は何?」
「…あの時何があった?」
「あの時って…?」
ほむらは小首をかしげる。わざとだ。
杏子がちっ、と舌打ちした。
「さやかがあんたの家に初めて泊った日だよ…」
「ああ、さやかの携帯を私が使った時ね」
「お前」
「冗談よ」
フフフとほむらは笑う。このやりとりを明らかに面白がっている。
そうして、しばらく沈黙した後、ほむらは杏子に告げた。
「その質問には答えられないわ」
「おい…」
「それより杏子、あなたはどうしたいの?」
「どうしたいのって…どういう意味さ」
「あの人は自分の意思で私の元に来た、そしてこれからもずっと一緒にいる」
「……」
「あの時何が起きたか知ったとしても、その事実は変わらないわ」
「そうだとしても…あたしは真実が知りたい。真実を知ってあんたとあいつの間にあるもんが何なのかを知りたいんだ」
「その真実が、あなたの人としての幸せを壊すものでも?」
「ああ、あいつがいなくてあたしの幸せはないよ」
「…ストレートね」
正直、杏子のさやかに対する想いがここまで深くなるとは、ほむらも予想していなかった。
世界を改変した時、確かに以前の人間関係や、環境を考慮して二人を同居させたわけだが。友情の逸脱か…いや、だとしたら私も…
ほむらはカップを口に運ぶ。杏子もそれに合わせてコップを口に運んだ。
静かに時は過ぎ
人の心も変わる
悪魔はいかに?
カチャ…とカップを置いた。
「…あの人を手放す気は無いわ」
例えあなたの頼みでもね、いいえ誰の頼みでも
「へえ、あんたもあいつが…?」
「いいえ」
そうしてほむらは目を瞑り、そしてまた杏子を見る。
「私はあの人を「愛」してもいなし、「好き」でもない」
「…おい」
そう、あの人は「愛」でも「好き」でもなんでもない。名前の無いこの「手札」は切ってはいけないのだ。ましてやその存在を明示してはいけない…誰かに知られてはいけないのだ。決して。
「それでも、あの人は私と一緒にいなければならないの、ずっとね」
「…なんだか込み入ってるんだか、訳わかんないんだけどさ…でも」
ニイ、と杏子は笑う、八重歯を見せたまま、ほむらへ顔を近づけた。かなりの至近距離だ。
「あたしが簡単に引き下がるわけないって、知ってるだろ?」
「ええ、そうね」
ニヤリとほむらも笑う。面白い。目の前の赤毛の女性は、遠い昔、かつて戦友だった頃の雰囲気を身に纏っていて。だが、あの頃のように私は人間ではない。悪魔なのだとほむらは思う。もう…変わったのだ。
「ほむら、あんたからあいつを取り戻すよ、いつか」
ゲームに乗れということか…人間のこの三文芝居のようなメロドラマに。
そうして、ほむらは乗っかることにした。決着をつけるのではなく、「所有物」の奪い合いに。面白い…とでも言う様に、ほむらは目を細め、艶のある唇を開き宣戦布告した。
「あの人は渡さないわよ、杏子」
*******
「あ、お帰り、なんだほんとに早いじゃん」
「……随分暇だったみたいね」
ほむらがあきれたように相方を見つめる。
蒼い髪の相方はベッドの上で暇を潰していたのだろう、雑誌やほむらの本が散乱している。
「いや、全然、あっという間に時間が過ぎたって感じだよ?」
「嘘おっしゃいな」
そう言って、ほむらはため息をつきながら、さやかが後ろ手に隠したものを取り上げる。
「キュウ、キュウ」と鳴くピンク色のボール…犬のおもちゃだ。あちゃあ…と苦笑するさやか。そんな情けない表情を見て、ほむらは、フ…と一瞬、泣き笑いのような表情を浮かべて。
「しつけが足りないのかしらね…お手は大丈夫よね?」
「はあ、いやしつけとか関係ないから」
「待て」
いきなり、ほむらがさやかの眼前に手を突きだす。
「はい?」
さやかが思わずフリーズする。よろしいとでも言う様に、ほむらが頷く。
「動いちゃだめよ」
そう言って、主人は犬の前で服を脱ぐ。忠犬はただ戸惑ったようにそれを見ているだけで。
主人はキャミソール一枚になると、よし、と一言呟いて、忠犬に向かって、人さし指を掻きあげる仕草をする。
「おいで」
だが忠犬は困ったように動かない。
照れているのか、なんなのか、尻尾は振っているのだが。
主人はああもう、と呟いた。
「まだまだしつけが足りないわ、この馬鹿犬!」
そう言って、自分から犬の方に近寄ると、強引に抱きしめた。
それから主人は犬をじっくりしつけたという。
END
困った犬だ…そう思いつつも飼い主(ほむら)がその馬鹿犬(さやか)を撫でる手つきはとても優しくて…
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ほむら鍵をかける
『さやか、貴方何してるの?』
「…え、えへへちょっと街をふらつこうかと…」
はあ…と電話越しに相方のため息が聞こえる。美樹さやかは困ったような表情を浮かべた。今日は仕事が比較的早く終わり、ちょっと街でもふらつこうか…そう思った矢先の家の主からの電話だった。
――ありゃ、心、読まれちゃったわ
「…ごめん、ちょっと寄り道していい?」
『……仕事は終わったんでしょ?』
「うん」
『じゃあ、帰ってきなさいな、30分後に完全施錠するから』
「え!ちょ、ちょっと30分って…ほ」
ガチャ…
ツ――、ツ――
「ちょっとお!」
怒り心頭、さやかは携帯に向かって「馬鹿ッ」と叫んだ。道行く往来の人々が数人、怒りで顔を真っ赤にしている蒼い髪の女性を見やる。無理もない、若く美しい女性が奇声をあげながら携帯に向かってなにやら文句を呟いているのだ。そんな奇行を見て見ぬふりすることはなかなか困難だろう。だが、当の本人は全く気にせず、携帯を振りあげ、道路に叩きつけようとする。しかし、なんとか思いとどまり、ふう、とため息をついた後、携帯をコートのポケットに収めた。そうして、まるで刑事ドラマで容疑者を追いかける主人公ばりにいきなり走り始めた。肩まで伸びた蒼い髪が、風に靡く。
――いっつも、いっつもこうだ!たまには遊んでいいじゃない!まったくもう!
――門限は9時よ、過ぎたら施錠するから。
いっしょに暮らすようになってから、数日後、黒髪の美女はさやかに告げた。
――へ?合鍵とか…くれないの?
――そんなもの必要ないわ
そう、ほむらの家(正確にはマンションの一角)には結界が張られており、通常、人間は
入ってこれない、さやか以外は。そのため玄関の鍵も掛ける必要がないため、合鍵は必要
ないのだ。…この家の主の言う門限を破らない限りは。
「…はあ、はあ…ったく、家に…ついたら…見てなさ…」
文句を言いながらも、さやかは走る。口がだんだん開いてきて、涎が垂れそうになり、慌てて口を乱暴に腕で拭いた。何か思い出したのか、彼女はいきなり神妙な顔つきになる。
「…やっぱ…あやまろ…」
そう、門限を破った場合、主の機嫌は損なわれ、玄関は施錠され、美樹さやかは一人外を彷徨うはめになる。これはもう一緒に暮らしはじめてから6年で十分にわかったことだ。
「閉め出し」がどんなに心にこたえるか、たぶん経験したことのない人にはわからない。さやかは思わず、走りながら身ぶるいした。
――はあ?コンパ?そんなもの私は知らないわ、あと20分で帰ってこないと閉めるわよ。
――職場の飲み会?そんなこと聞いてないわ、あと20分で…ええ、そう、そうよ3日前に
事前連絡しなさいそういうことは。
…今思い返せば理不尽極まりない。
とにもかくにも、どうして彼女はこんなにも門限にうるさいのだろう?とさやかは思った。
しかし…理由が思い浮かばない。
ようやくいつものマンションが見えてきて、さやかは安堵のため息を漏らした。…口を大きく開きながら。
「へへっ、どうよ、この私にかかれば、こんな距離…ごほごほ!げほっ」
独り言が過ぎて、咳が出るが、彼女はどことなく嬉しそう。それは門限に間に合った安堵のためか、それとも主人に会えるためか。
「まったく…ふふふ」
嬉しそうに「忠犬」は階段を駆け上がった。
* * *
白いテーブルに座りながら、ほむらは窓の外を見ていた。蒼い月に照らされたその横顔は美しく、その口元は何故か嬉しそうに緩んでいて。静謐な蒼白い空間の中で、彼女は一人たゆたっていた。
ガチャ、ガタ、ガタ
無粋な野暮ったい音が、人外の彼女の美しい静謐な世界を壊す。
だが、壊された当の本人は、嬉しそうに微笑んで。とうとうクッ、クッ、と声を殺して笑いだした。
彼女が振り返るのと、無粋な音の張本人が声を発するのは同時だった。
「ただいま」
相方に知られないように、人外の彼女はさっきまでの嬉しそうな表情を全て消す。そうして、いつもの冷静な彼女に戻り、囁いた。
「あら、おかえりなさい、意外と早かったのね?」
まあね、と嬉しそうに近寄ってくる蒼い髪の忠犬を優しく撫でる。
そう、いつになってもやめられない。
悪魔はこの瞬間がたまらなく好きなのだ。
飼い主は、ご満悦な表情で蒼い犬を抱きしめた。
END
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悪魔談義
「漠然としているからなあ…かなりそれは難しいよ美樹」
「え、やっぱそうなの?」
ああ、と返事して煙草を吸い始めるメガネの男は、このゼミでは独自の哲学理論を展開していて皆に一目置かれていた。ほお、と変な声をあげて天井に煙を吐く。昔見た怪獣映画の怪獣みたいに口から輪っかをだした。ぼさぼさの黒髪を乱暴に掻いて、煙草を灰皿に押し付ける。さやかは男のぼさぼさの黒髪を見て、複雑な表情を浮かべる、おそらくいつも見ている美しい相方の黒髪と比較しているのだろう。
「しっかし、美樹が悪魔に興味を持つとはねえ、今更ゲーテとか?」
「違うわよ」
隣の太り気味の男の言葉にさやかは口を尖らせる。
美樹さやかは某国立大学の三回生になっていた。専攻は哲学。
今時この学問を専攻するのは、かなりの変人か、直球で教授狙いの者だけだ。
――私はあんたが知りたいの
彼女は、「悪魔」と自称する女の事を知りたいと思う様になっていた。そのためにこの学問を専攻したのだが、なかなか目的は達成できそうもない。
「やっぱ、抽象的なのかなあ、「悪魔」って」
「サンタクロース並みにな、見ている人の世界で定義が変わる」
メガネの男の台詞にさやかと太り気味の男は笑った。
「お、美樹、かつ丼食わないなら俺が食おうか?」
「私が食べるの!」
二人のやり取りに今度はメガネの男が笑う。
ここは大学の学食だった。喫煙可能なブースで三人は遅めの昼食を取っていた。かなり広いスペースで、数十人は収納できるだろう。全体的に白を基調とした食堂は傾きかけの陽光に照らされ明るかった。白いテーブルに三人は何故か仲良く並んでいた。向き合うことで議論を誘発するのを避け、食事中はどうでもいい話をしようという趣旨だが…おそらくそんな理由を聞いたところで他学部の連中は、「やっぱ哲学はイカれてる」と言うにきまっているだろう。真ん中に座っているさやかはジーンズにパーカーというラフなスタイルで、両脇の同胞の男達もまた似たような格好だった。
楽だなあ…とさやかは思う。
蒼い髪に蒼い瞳、そしてどこか浮世離れした美貌の持ち主であるさやかは、年相応の女性の行うおしゃれにあまり興味を持っていなかった。とはいっても最低限のおしゃれと身だしなみはもちろん気を使うが。他学部の特にいい女が多いと評されているとある文系の学部は、もはや雑誌のモデルレベルの女性が数多くいた。学生生活を送る上で、結構面倒くさそうだし、それに彼女にはもうひとつ、特殊な「生業」もある。
哲学でよかった…とさやかは両脇の男達を見てつくづく思った。
『お、新入生か…そうか、君は実存主義?それとも主観と客観の対峙型?』
『いやいや、まてよ佐々木、彼女のこの容貌、この中性的で少年めいた美しさ、これはやはりあれだな、美学を根幹としたギリシア哲学を…』
『????』
ゼミの先輩であるこの二人に会った時の会話は鮮明に覚えている。その時さやかの頭には、はてなマークが無数に浮かんだ。この人達から見た私は一体なんに見えるのだろう?そう思うと同時に自然にこの二人に興味を持った。彼らは「美樹さやか」という人物を本人が全く知り得ぬ世界から見ているのだ。面白い。純粋に視野を広げたいとさやかは思った。
美樹さやかとて年頃の女性である。大学ではその美貌で数名の男性に声を掛けられたりもする、だが、面倒くさいのだ。誰とでも浅く広く付き合う性質を持つ彼女からして、特定の人物と濃い付き合いをするのはごめんだった。その点、この同じゼミの先輩はさやかをそのような目で見ない上、ある意味特殊な価値観で見てくるので楽だった。
「美樹さん」
と、女性の声でさやかの思考は途切れた。ついでにかつ丼を食べている口も止まる。しばらくもごもご口を動かして、水を飲むと、さやかは女性の方を振り向いた。
あの「とある学部」の女子学生だ。
「今週の土曜日飲み会があるんだけど…」
「あ、ごめん、ごめん私、コンパとかあんま興味無いんだわ、なんというかお笑い要員?って感じでさ、えへへ」
さやかは笑ってごまかすが、女子学生は笑顔で「違うのよ」と囁いた。
「コンパじゃなくて、「少人数」の女子会なの?是非来て、ね?」
「あ、そ、そう…うん、わかった、あはは」
しまった…と思ったが、もう遅い、調子のいいさやかはまたしても相手に合わせ、いかなくてもいい飲み会に出席することとなった。心なしか嬉しそうに去っていく女子学生の後ろ姿をさやかは複雑そうに見つめていた。
「…また、怒られるわ」
その呟きの意味を知るものは誰もいない。
と、さやかの肩に乱暴に手がおかれる。メガネの男だ。口元をにやにやさせながら、蒼い髪の友人を凝視する。
「な、なんですかいきなり…」
「いやあ、お前はほんっとモテルなあって」
「やめてください!」
びくっと身体を強張らせ、さやかは先輩を怒鳴る。
二人の男がどっ、と笑いだした。
「いやいや、だってさ、お前がこのゼミに来てからもう何回目なん?いやーすごいな、こう男女構わずタラシ込んでいく君の内なるエロス」
「ひ、人を色魔みたいに言わないでっ、なんなんですか!」
「まあ、まあ、色魔ちゃん」
「もう!」
彼女はどうあってもからかわれる性質であるらしい。数年後、刑事となってまでもからかわれている彼女に相方は「同情するわ」と優しく(面白そうに)囁くのだが、それはまた別の話である。
「ところで、君の主人たる傾国美人な彼女は今日はこないのかね?」
年寄りくさい口調で、メガネの男がさやかに言った。
「ああ、ほむらのことですか?今日は講義が午後からなんで、まだ…てか、主人ってなんですか主人って!」
「君従者だからそうだろ?」
「ちょっと!」
また二人の先輩にからかわれる。
「でもなあ、「あの時」の君はまさしく付き人だったよ」
「……言わないでくださいよ」
顔を真っ赤にして、さやかは顔を伏せた。
暁美ほむら
さやかの中学からのクラスメートであり、そして他の人間からは想像を絶する特殊な事情で二人は生活を共にしている。大学ももちろん一緒だ。
「いやあ、しかし彼女は美しすぎるね、天香国色、沈魚落雁…どの言葉もうまくあてはまらない」
「……そこは「すっげー美人」とかでいいんじゃないですか?」
「美樹い、そこは男ならもうちょっとロマンが必要だぜ」
「男じゃありませんからっ、全然!」
かつ丼をようやくさやかが食べ終えた頃には、だいぶ日が落ちてきていた。
「おっと、美樹がメシを食い終わったところだし、次の講義まであと20分、どうする?」
「どうって、それじゃあ、あと10分は「悪魔談義」の続きに決まってるっしょ?」
太った方の男は結構なオカルト好きだった。
「俺のいろんな解釈を聞いてくれよ?」
そう言って、男は二人に語りだした。
* * * *
「悪魔はね、スーパーナチュラルなんだよ」
はあ?とさやかとメガネの男は同時に声をあげた。
どうやら彼の中での定義によれば、超自然的現象だという。
「そのうちで、人間に災いをもたらす一切の現象を擬人化したものなんだ」
「なるほど…その定義も面白いかもね、なんか東洋の「竜」の定義と似ているわね」
さやかが同意すると、男はにやけた顔をした。
「俺は「悪魔」自体が存在しないものだと思っている」
メガネの男がいきなり語りだした。さすがにその展開はないだろうと二人はあきれたように男を見た。
「そもそも、悪魔という言葉自体、僕らが把握しているのは日本語としてだろ?他国によってはそんな言葉無いかもしれないし、そんな概念もないかもしれない。同じ言葉でも意味は無数にあるからね、他の言葉に置き換えられるってことさ。俺と美樹が「悪魔」と口から発しても、その意味するところは違うってこともあるだろ?」
「まあ、それは確かに」
「さっきのサンタと同じさ、俺は小さい頃から、サンタは遠い昔どこかの国の牧師やらなんやらがモデルって知っていた。昔の偉人を称えて、現代人がその季節に模写すると認識していた」
「ませてんなあ、お前」
「いや、ただそう知っていただけなんだよ、だから小学校の時、友達がサンタが「いる」「いない」で騒いでいる意味がよくわからなかった。父親がサンタと知って落ち込む友達や、空飛ぶトナカイを見たという奴、全く意味がわからなかったよ。俺と彼らでは捉え方が違ったんだ」
「それは…先輩が、実在した人間のモデルとして把握していたサンタが、他の子にとってはUFOのような扱いってことですか?見解の違い?」
「そうだ、悪魔もそうなんじゃないかと思う。可愛い子が彼氏を振り回しても「悪魔」だし、抜き打ちテストをする教授も「悪魔」だ」
思わずさやかは吹き出した。
「そして、大量虐殺を行った独裁者もな」
黙りこむ二人。さすがに独自の展開と、論客と言われるだけの論理力を持つだけはある。発想も突飛だが、理屈でなく引き込まれる。
「そして、さっき佐々木が言った超自然現象もまた悪魔かもしれない」
そうして、メガネの男は目を閉じる。ふう、とため息をついた後、また口を開く。
「これは言いたくないんだが、俺達も含めて、世界中になんらかの影響を与えている西洋の宗教に出てくる悪魔がもっとも定番な「悪魔」かもしれんな」
「ああ…」
二人同時に声をあげる。
そうなのだ、どうしても「悪魔」といえばそこに考えがいたってしまう。
世界中の誰もが読んでいると言われるバイブル。
神に叛逆した者。
林檎を勧めた者。
「俺達はすでに思考もレールに敷かれているのさ、どんなに自由に発想したと言ってもすべての古典的バイブル、なんらかの書物、なんらかの思想で凝り固まっている」
「洗脳ってこと?」
「まあそうも言えるな。世界の起源も、天国も地獄もすべてなんらかの書物に記されている。悪魔もそうさ、もし名前が無かったら?美樹さやかという人間に名前がつけられないとしたら、お前は自分をどうやって定義する?」
「難しいわ…」
「そういうこと、まずは言葉ありきだよ。悪魔がどんなものなんて定義も糞も本当はないんだ、悪魔なんてどこにも存在しないんだよ、あるのは悪魔的所業の人間だけだ」
まあ、そういいつつ「悪魔的」という言葉を使っているあたり俺も言葉に縛られているがな…そう言ってメガネの男は笑った。
午後の最後の講義は一般教養だった。
三回生のさやかは既に必要な単位数の一般教養は履修済みなのであるが、事情があってこの講義は受けている。
大講堂の後ろの隅っこにさやかは座る。
「化学」という文系の学生ならダッシュで逃げそうな科目だというのに、この講義は人気があった。壇上に年配の女性があがってきた。とても穏やかな顔で、彼女は講義を始めた。
「あら、今日は眠ってないのね」
真面目にノートを取っているさやかの耳元で、いきなり艶のある声が聞えた。
手を休め、さやかは声の主を睨む。
「もう…ほむら、びっくりしたじゃない…」
「あら、貴方でも驚くのね」
クスクスと黒髪の友人は笑った。
そう、さやかは友人である暁美ほむらと一緒に時を過ごすためにこの講義を受けていた。
専攻が、哲学と化学と全く異質なため、三回生になってからは、大学内で会う機会がかなり減っていたからだ。そう言っても家では常に一緒ではあるのだが。
「まあ、貴方がいつもいい席を取っていてくれて助かるわ」
そう言って、黒髪を掻きあげて、鞄からバインダーを取り出す。さやかは友人の美しい横顔に見惚れた。白い肌に長い睫毛の下のアメジストの瞳、そして艶のある黒髪、あまりにも整い過ぎていた。
「あら…見惚れてるの?」
「ちっ違!……ぅわ」
大きな声をあげようとして、思わず自分の口を抑えて前かがみになる。
そう言えば講義中だった。そんな友人の姿を見て、ほむらは口元を一瞬引きあげた。そうして前を向くと、真面目に講義を受け始める。
…ほんと、こいつ変わったわ
と、さやかがちらりとまたほむらの方を見る。
チェック柄のスカートに白のセーター、一般的な女子大生の格好。
こいつが悪魔なんて誰が思うだろう?
と、さやかは脇に痛みを感じた。ほむらが肘で小突いたのだ。
「…集中しなさいな?」
気付けば、頬杖をついて、さやかを見ている。その目は面白そうに細められていて。
「それとも、ずっと私を見てる気?」
「そんな…事」
「じゃあ、前見なさい」
うん、と素直に頷いて、さやかは前を向く。ほむらはその様子を面白そうに眺め、そうしてまた顔を前へ向け、講義に没頭した。
――あんた…笑うのね
――あら、失礼ね、悪魔でも笑うわ
今でこそ、ほむらは普通に笑うが、一回生の頃は常に無表情で、周囲に冷淡な印象を与えていた。さやかに対しても滅多に笑うことがなかったのだが、ある日を境に、彼女は変化していた。いや、進化というべきか。
私…何かしたっけ、それともほむら自身が変化したのかしら?うん、そうね、そうだわ
「さやか」
「え?」
前を向きながら、ほむらは呟く。おそるおそる伺い見るさやか。
「だだ漏れよ、貴方の思考」
「わ…ごめ」
はあ、とほむらはため息をついた。
「…変態ね」
「なんで!」
小声でさやかは抗議する。だが、涼しい顔をして、ほむらは講義を聞いていた。
「ったく…」
* * *
「ねえ、あんたなんでいつもぎりぎりで出席するの?」
講義が終わった後、二人はその場で雑談を始めていた。
しかしその間に何人のいや、何十人の学生がほむらに話しかけただろうか。
それをほとんどさやかが「取り込み中で」とか「今込み入っていて」とかいろいろ理由をあげて流していた。
「…あんまり人のいるところにいたくないの」
「まあ…確かに」
「貴方がいると、だいぶ助かるわ」
「あんたも大変よね…」
とにかく彼女の元には人が群がる。はあ、とさやかはため息をついた。そうして、多数の学生を流しまくっている自分はかなりの確率で恨まれているのだろうなと思った。
「でも、私もきっと恨まれているわ、あんたのファンに」
「あら、私を独占できていいんじゃない?」
「よくもまあ、ぬけぬけと」
そう言って二人は笑う。
いつの頃か二人の間にはわだかまりが無くなって、その代わり名前のつかない「何か」が生まれていて。
「ねえ、さやか」
「ん?」
「貴方さっき先輩方と何を話してたの?」
「ああ…『悪魔談義』をね」
そうして、さやかは黒髪の友人に悪魔についての定義を話した。
あきれたようにため息をつくほむら。
「貴方…まだそんなこと考えているの?」
「だって知りたいじゃん、ほむらのこと」
「……馬鹿」
「ひど!」
ほむらは「くだらないわ」と呟いてまたため息をついた。
そうして机のものを鞄に収め始める。さやかもそれ以上は語らず帰り支度を始めた。
「それで?」
「え?」
ほむらはこちらを見ないで言葉を発する。
不思議そうにそれを見るさやか。
「貴方はどう思っているの?さやか…」
「私?」
「ええ、私の…悪魔の定義を聞きたいわ」
そう言えば、自分の定義を話してなかった…さやかは目を輝かせた。
「聞いてくれる?」
「ええ、一応は」
そうしてさやかは嬉しそうに友人に語った。
「すっげー美人」
「え?」
こちらを振り向き、眉をひそめるほむら、だがそんなことを気にすることもなく、さやかは続ける。
「悪魔って、とても美しい女性のことだと思うんだ、私はね!」
「………先に帰るわ」
「え、なんで?」
慌ててガタンと立ち上がるさやかだが、ほむらは更に上回る。スタスタと講堂から出て行ってしまった。当惑するさやかは慌てて声をかける。
「ねえ、待ってよほむら!」
だがほむらは歩みを止めない。
だから、さやかはほむらの顔を見ることができなかった。
「馬鹿…」
と呟きながら、悪魔は顔を紅潮させていた。
その表情はとても…
END
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白い日の悪魔
「さやか、私決めたわ」
「へ?何を」
ぱちん、と軽やかな音が立つ。軽く額をほむらに叩かれたのだ。
はあ…とため息をつきながら、ほむらはさやかに顔を近づけた。長い睫毛でアメジストの瞳は半ば隠されて。思わずさやかは体を後ろに逸らしてしまう。恐怖ではなく、彼女の妖艶な魅力で。
――いつになっても慣れないわ。
さやかは内心動揺していた。
この10年、彼女とは共に暮らしているというのに、まださやかはほむらの美貌や、彼女の放つ、尋常でない魅力に慣れていない。白磁のような肌に整った容貌を見ていると、どうにも落ち付かなく、視線を逸らしてしまう。それを面白そうに目を細め見つめるほむら。
「…あら、顔赤いわよ?発情でもした?」
「ちっ、違うわよ!…な、なによその憐れむような目!」
「お預けさせすぎたのかしら」
「犬じゃないってば!」
さやかの叫びでほむらはさも楽しそうに笑う。
窓辺でじゃれあう大人二人。久しぶりの平和な休日になりそうだ。
「…ところで、なんなのよ決めたって」
「あら、貴方まだわからないの?『お返し』よ」
「お返し…ああ、そっか!」
はっ、と何かに気付いたさやか。ほむらの顔をしばらく見つめ、思わず呟いた。
「やば…」
口を抑えて、さやかは慌てて回れ右をする。
「まったく…」
あきれたようにそれを見つめるほむら。そうして、さやかが2、3歩離れたところで、ほむらは腰に手をあてたまま、もう片方の手でくいと人さし指を曲げる。まるで見えない手で掴まれたように、さやかのすらりとした肢体がそのままほむらの元へと引っ張られる。ほむらの白い細い腕が背中からさやかを抱きしめた。情けない悲鳴をあげる蒼い髪の女性をよそに、その背中に顔を押し付け黒髪の美女は笑う。相方が顔を覗けない時はこのように彼女は笑うのだ、――幸せそうに。
「その様子じゃ、貴方は何も決めてないわね?」
「うう…ご、ごめんなさい、て、てか仕事忙しくてついうっかり、なんというか・・」
長くなりそうな相方の言い訳をため息で遮り、腕に力を込める。
「さやか」
「はい」
「殺されたい?」
ひい、とさやかの口から洩れる悲鳴。
背後で声を殺して笑うほむら。
「ご、ごめんなさい!約束守ります!」
ほむらに抱きしめられたまま、直立不動の姿勢になるさやか。
「あら、じゃあ貴方なんでも言うこと聞くのね?」
「う、うん、あ、はい」
「それじゃあ…ひとまずは許してあげましょうか」
ほっ、とため息をつくさやかの後ろで、くすくすと笑うほむら。
まるで単純な馬鹿犬をからかって楽しむご主人のように、彼女は背の高い忠犬の頭を撫でて。
「楽しみだわ、明日のホワイトデー」
嬉しそうな悪魔。世界の終わりのような表情の天使。
――やってしまったわ
さやかはものすごく後悔した。
『まどかのお返しは私が考えるわ』
そうあの日悪魔は言ったのだ。
『だから、貴方は私のお返しを考えて』
と。
まどかからバレンタインのチョコをもらった二人は、お返しを必死に考えた。思いつかないので結局ほむらが考えることになったのだが、予想外だったのは、ほむらからお返しを催促されたことだった。
その時には手のひらサイズのチョコしか「頂かなかった」のだが、その後、更に濃厚で煽情的な方法で彼女はほむらからチョコを貰っていた。
――な、何を要求されるかわかったもんじゃないわ!
(比喩でなく)ガタガタ震えるさやか。コーヒーを淹れながら、過去に思いを馳せた。
確か社会人になって、初任給をもらって舞い上がった時もひどい目にあったのだ。
『よおし、今日はさやかちゃんがなんでも奢っちゃいますよぉ!』
『あら、言ったわよ、さやか?』
あの時の大盤振舞いは二度とできないと思う。
ほむらが微笑んで、数時間後に、さやかの初任給は半分になっていた。
――こ、今度は何をされるのかしら…
思わずコーヒーがカップから溢れそうになって、さやかは我に帰る。
「おおっと」
伸びた蒼い髪を揺らして、カップを持ち上げる。8年間、悪魔にコーヒーを淹れ続けた彼女の腕前はなかなかのものになっていた。カップを手に持ち、振り返るさやか。
視線の先には、白いテーブルでくつろいで座る彼女がいて。
白いテーブルに白のワンピース、白い肌、そして長い黒髪。白と黒のコントラストはそれだけで眩しく、美しく。もの憂げに外を見つめている恐ろしいほど美しい横顔。
――ああ、でもどうでもいいかも。
さやかはふと、口元を緩める。その大人びた顔に浮かぶ無邪気な笑顔。
そう、こうやってこいつと過ごせるだけで私は幸せなんだ。
「ほむら、コーヒー淹れたよ」
そう言って彼女は、黒髪の美女にカップを差し出した。
嬉しそうに、アメジストの瞳はさやかとカップを映し出していて…。
了
*********
<余談、あるいはホワイトデーの事初め>
夜の帳も更けた頃、二人は眠りにつく前に軽くブランデーを傾けていた。
「ところでさ、まどかへのお返しってなんなの?」
「あら、言ってなかったかしら?」
グラスを手に、ほむらはさやかを見つめて囁いた。
「お出かけするの、郊外にとてもいい森があって」
「へえ、旅行ねえ、いいわねえ、あんたにしてはかなりロマンチックね」
「あら、ひどいわね」
「えへへ、ごめんごめん、いいじゃん楽しんできなよ」
ほむらが眉をひそめる。
それに気付くさやか。
「え、な、何?私変なこと言った」
「…貴方も行くのよ?」
「嘘!」
さやかは驚いた。そんなさやかに驚くほむら。こういうところは似ているらしい。
「嘘って、貴方…どういうつもりよ?」
「いや、どうって、こういうもんって二人で行くもんじゃないの?いいの?あんた」
お金の事なら、二人のお返しとしてさやかも払うつもりだが、旅行自体にさやかは行く気はなかった。だって、ほむらのまどかへの想いを知っているから。
「いいも何も…貴方が行かないと始まらないわ…」
「ほむら…」
じんときた。酒のせいか、思わず泣きそうになる。
「だって、「人数」合わせないと…」
「へ?」
「まどかに連れがいるのよ」
「ええ?」
さやかは初めて心で幼馴染を批判した。まどかってば、あの子だってほむらの想いには気づいているはずなのに…なんで?
「連れって、誰よ?タツヤ君?それとも…」
もし新手の存在(特に男)だったら追い出してやろうとさやかは決心した。
「モカちゃんよ」
「モカ?………」
モカ…モカ?公園でまどかと会った時にそんな名前聞いたような…しばらくさやかの頭は考える。そして数秒後。
「犬じゃないの!!」
叫んで、椅子から立ち上がった。さやかのグラスが揺れる。
きょとんとする悪魔。優雅に黒髪を手で梳いて。
「ええ、そうよ、まどかが郊外でお散歩させたいって言うから…」
「別にいいじゃない、二人と一匹で!」
口を尖らせる悪魔。一瞬それが可愛いと思ったのだろう、さやかがはっ、と見惚れる。
「だって私もお揃いがしたいもの」
「お揃い?」
「まどかと一緒に、私も犬を連れてお散歩がしたいわ」
「マジ?てか、なんで私?犬役?」
「貴方しか私に懐いてないし」
「マジだ!あ、あんたじゃあ、あの棚にある袋…」
わなわなとさやかの手が震えながら、台所の棚を差す。にっこりと微笑むほむら。
「ええ、お店で買ってきたの、新作だって」
「………」
呆然とするさやか。あの袋は見覚えがあった、ほむらがさやかに「犬のおもちゃ」を買ってきた時の袋だ。さやかが深呼吸した。彼女が本気か冗談か見極められないのはいつものことだ。落ち着こうと。
「もしかして…リード?」
「あら、よくわかったわね」
ジーザス!
頭を抱えるさやか。大人の女性らしからぬコミカルな動きで唸ると、さやかはほむらを見つめた。
「お願い!ほむら!リードだけはやめて」
「なんで?新作よ?結構長さもあるし問題ないわ」
「あるわ!大ありよ!」
大の大人が、それもいい年の女性が、首輪をつけられリードに繋がれているのだ。しかもそれを握っているのは、更に恐ろしいほど美しい女性。いかがわしいにもほどがある。
「リードをしなくていいなら、私も行くから!」
「あらそう?…仕方ないわねえ、じゃあリードは我慢してあげるわ」
ほっとするさやかに、微笑むほむら。
もしかしたら、彼女はもうすでにいいように操られているかもしれない。気を取り直して飲み直す二人。
酔いもまわってきていい頃合いに、さやかはほむらに尋ねた。
「まあ、でも楽しみね、いつ行くの?」
「まどかの休みに合わせて明後日から行くわ」
「そっか…」
そうしてさやかは時計に目をやる。まもなく深夜だ。
楽しみだね、と言ってたちあがるのをほむらが手で止めた。
「?何」
「もうすぐ14日よ?」
ぎくっ、とするさやかを目を細めて見つめるほむら。酒の所為か、ほむらの目は潤んでいて。そしてさやかも少し酔いが回って来たのか、ノリがいい。
「うう、まだちょっと覚悟はできてないけど、何?なんだって聞くわよ?」
「…そうねえ、今日一日は何百回と言うこと聞いてもらうけど、最初は…」
そうしてさやかの手を引っ張ると、顔を近づけて。
「キスして」
手と手が絡み合って
「うん」
そうして二人の顔は角度を変えて重なった。
まだこれが一回目。
「ん…」
何回まで続くかは悪魔次第。
ゆっくりと互いの腕が体にまわされて、強く強く抱きしめ合う。
二人は立ち上がり、そのままベッドへと連れ添った。
ホワイトデーはまだ始まったばかり…。
END
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悪魔は動揺する
「ちょっと、あんた飲みすぎだって…」
「…うるさいわね」
蒼い髪の女性は目を丸くして驚いていた。それもそのはず、普段は出歩かない黒髪の相方がさやかの職場の近くのバーで酔いつぶれていたのだ。
『近くのいつものバ―で飲んでるわ、迎えに来て』
と仕事を終えたばかりのさやかに電話が入ったのは30分前のこと。まだ社会人になり立てのさやかは色々と気を使いつつ残務処理を終えて駆けつけた。
――うわあ、どうしちゃったの?
バーのレトロな雰囲気のある扉を開いた瞬間、さやかはそう心で呟いた。カウンターに…まるでこの世のものではないような、恐ろしいほど美しい女性が突っ伏していた。手にはまだなみなみと琥珀色の液体が注がれたグラスを持って。
「いらっしゃいませ」
年配の品のある紳士がさやかに会釈する。ここのマスターだ。英国風なウエストコートの下に皺ひとつないワイシャツ、蝶ネクタイ。どれをとっても完璧だ。白髪を撫でつけオールバックにしているが、それもまた日本人離れした風貌には似合っている。老舗のバーのマスターでもある彼はまた腕のいいバーテンでもあった。
「どうも…」
と愛想のいい苦笑いをして、さやかが仕草で黒髪の相方の泥酔っぷりの謝罪を表す。と、マスターは優雅に肩をすくめ微笑んだ。特段気にしてないようだ。
ここは警察官がよく利用するバーだった。御用達というわけではないが、元々品のいい紳士の利用するバーだったためか、客質も「紳士」が多く静かに飲むにはもってこいだ。普段外で飲めない(その美貌のためにどうしてもひと悶着起きる)相方のためにさやかがこのバーを紹介したのだが、どうやら気に入ったらしく、たまに二人で飲みに来ることがあるのだ。が、今回のように彼女一人で飲みに来ているというのは初めてだった。
「ったくもう…」
さやかはため息をつく。「うるさいわね…」とぼやきながら、また相方が眠りについたからだ。
柔らかい光でセピア色に包まれた店内は、5~6人座れる程度のカウンターと、テーブルが3つ。木の素材を中心とした店は、マスターと同じく古き良き時代の英国を再現しているかのようだ。マスターの背後にずらりと並んだスコッチの圧倒的な数には思わず驚かされる。
黒髪の相方もスコッチを飲んでいるのだろうか?さやかはグラスを覗き込むが色だけではさすがに分からない。
「…う…ん」
カウンターに突っ伏して寝込んでいる相方は、その艶のある黒髪を乱しながら、身じろぎした。白磁のような肌が黒髪の間から顔を出す。紅潮した肌に、閉じた目を覆う長い睫毛。
見惚れながらも、さやかは隣に座る。手を伸ばし相方の細い指を一本一本解きながらグラスを奪った。そうしてグラスを口にする。――ブランデーだった。
「…ねえ、どうしちゃったのよあんた」
「……」
ゆっくりと相方の目が開く、長い睫毛の下に隠されたアメジストの瞳がぎろりとさやかの方に向いた。アーモンド型のその美しい目は酔いのせいか涙目になっており、その何かを訴えかけているような艶のある眼差しに不覚にもさやかはどきりとした。
はあ…と妙に色香のあるため息をつくと、黒髪の美女はまた、ふてくされたように目を瞑る。
「あ、なんなのこらっ、まったく…」
さやかはグラスのブランデーを一気に飲み干した。彼女は酒に強いのだ。そうして立ち上がるとマスターに支払いを済ませ、相方の肩を乱暴に揺すり名前を呼ぶ。
「ほむら、帰るよ…ほむら!」
「…ほっといてよ」
「な…呼びつけておいてなんなのさ!」
さやかは「こうなったら」と呟くと、ほむらの足元にしゃがみ、そうして彼女の右腕を掴むと、腕と脇の間に頭をスポンと入れた。まるで犬が飼い主の腕の間に頭を入れるように。その仕草が可笑しかったのか、瞑った目を開けながら「飼い主」はクスクスと笑った。
「ほむら…いい?ほら、いち、にい…」
さやかはほむらの腕を肩に乗せると、左手を細い腰に回しそのまま立ち上がった。
「さん!」
寄りかかるようにして一緒にほむらも立ち上がる。
「犬みたい…」
クスクス…としなだれかかる黒髪の美女。どうやらさきほどまでの不機嫌さは消えたようだ。艶のある唇から歯が覗く。「ワン」とふざけてさやかが吠えると、ほむらは笑った。この10年で確執の取れた(はずの)二人はこのようにじゃれ合うことが多くなっていた。そんな様子を微笑ましく見守るマスター。気恥ずかしそうにさやかは礼を言って店を出た。
* * * * * *
「うわ…寒いわ」
温かくなりかけたとはいえ、まだ夜の街は寒かった。
家まではさすがに距離はある。寄りかかるほむらを見つめ、さやかは囁いた。
「ほむら、おんぶするからちょっと立ってて」
「え…?」
そう言って、眼前で背中を見せてしゃがむ相方をほむらは呆然と見つめる。
「どうしたの?」
「…私、おんぶされるなんて初めてだわ」
「いいじゃん、今日が初めてで」
にっこりと微笑むさやか。その表情はさわやかで酔っ払った悪魔はさすがに何も言えない。
はあ、とため息をつくと、ほむらは蒼い髪の女性の背中に身体を預けた。手を肩に回す。よいしょ、とさやかはほむらの腰に手を回すと立ち上がった。
「悪魔って軽いのね」
「…うるさいわね、殺すわよ」
気恥ずかしげにほむらはさやかの背中に顔を隠す。その細い腕は落下を恐れてか、しっかりとさやかの肩を抱きしめていた。にしても、とほむらは軽々と大人の女性をおんぶして長距離を歩き続ける相方の基礎体力の高さに驚いた。「力」では圧倒的にレベルの低い彼女だが、「力」無しでのスタンダードな状態ではおそらく彼女がダントツで強いのだろう。
「ねえ…」
「何?」
「貴方もおんぶされたことあるの?」
「う~んと、ずうっと昔、小さい頃に一度だけあるかなあ、お父さんに」
「そう…」
二人は互いの背景をあまり語らない。二回も世界が改変された事実を唯一知る者同士という強い繋がりからか必要性を感じないということなのか。
ぎゅっ、と何故かほむらはさやかの肩を強く抱いた。
「じゃあ、貴方が私のお父さんになるのかしら?」
「なんでよ!てか、なんで父親っ?」
クスクスと笑うほむらと、動揺するさやか。自己完結性が強いためか、ほむらの言葉はたまに端的で、冗談か本気なのかさやかにはわからなくなる時がある。
「冗談よ…」
「そうでしょうよっ!ああ、もうびっくりした」
クスクスとさやかの背中で笑うほむら。しばらくして笑い声がやむと、さやかの背中に熱が伝わる。どうやら背中に顔を押し付けているらしい。寒い街の中を歩いているさやかにとってそれは不快ではなかった。しばらく心地よい沈黙が続く。
「まどかがね…」
「?……うん」
いきなり黒髪の相方が喋り出したことにさやかは驚いたが、それを押し隠し相槌を打つ。相方が語りたくなったときには、余計な茶々は入れずに聞くのが一番いいのだと、この10年の経験で彼女は知っていた。
「男の人と話してたの」
「…そう」
鹿目まどかが異性と付き合う、これは避けて通れない事だ。高校時代からずっと彼女を見守ってきた二人は内心穏やかでない状態で、常にそういった「イベント」を遠くからやきもきしながら見ていた。だが、幸運(というのであろうか)にも、まどかはまだ特定の異性とは付き合っていない。
「どういう状況だったのよ」
「…街で、二人で歩いてたわ」
「……確証はないんでしょ?勘違いじゃないの?あんたの…単に知り合いとか、別に異性と二人で歩いてたからって恋人とは限らないわ」
さやかも一抹の不安を感じたが、あえて客観的に刑事っぽく語る。彼女を悲しませたくなかったのだ。相方が、鹿目まどかの想いを募りに募らせ、とうとう人外と化し、世界を改変させたことは、美樹さやかしか知らない。彼女がどんな辛い思いをしてきたか知ってしまったさやかにとって、まどかを守ることの理由には、実は彼女を悲しませたくないという理由が付加されている。
「そう…そうよね」
「ええ、そうよ、だから元気出しなって」
うん…と子供のように頷くと、ほむらは甘えるようにさやかにもたれる。彼女は酔うと色っぽくもなり、また子供っぽくもなる。子供の頃に子供らしくふるまっていなかったからだろうか。
「見守るって決めてたのに…」
「………」
「あの子が人として幸せになるのを見届ければいいって…そう思ってたのに」
「………」
「いざとなると、寂しくて…辛いわ」
――私が幸せにしてあげられたらいいのに
「大丈夫よ」
――あんたを
「え?」
「それはあんたの超勘違い、私が保証する」
「さやか…」
「明日、それとなくまどかに聞いてみるわ、笑う準備でもしておきなさいよ?」
「馬鹿ね…」
二人で笑った。どうやらほむらの酔いも醒めてきたらしい。二人の住むマンションが近づいてきた。
「ねえ、さやか」
「何?」
さっきよりも肩を強く抱きしめられ、艶のある声で耳元に囁かれた。
「ずっと一緒にいて」
蒼い髪の女性は嬉しそうに口元を綻ばせ
「もちろんよ」
と囁いた。
背中から嬉しそうな笑い声。悪魔の白い手が伸びて、くしゃくしゃと乱暴に蒼い髪を撫でたのはきっとその回答で…。
了
そして――
白いベッドの上で蒼い髪の女性と黒髪の美女は眠りについている。かたやタンクトップ、かたやキャミソール。いつも寄り添うように眠っている彼女達は今晩も変わらずそうしている。違うのは黒髪の美女の方が普段よりも甘えてくることだ。
「…なんか、あんた今日は特別くっついてきてない?」
「あら、主人が犬を抱きしめるのに特別なんてあるのかしら?」
「だから犬じゃないって…」
「貴方の身体温かくて気持ちいいわ…」
相方の言葉に聞く耳もたず、気持ちよさそうに目を瞑ると黒髪の美女は細い白い腕を相方に艶めかしく絡めてきた。ひい、と蒼い髪の女性が情けない声をあげた。下半身を覆ったシーツが山を作る、足も絡めてきているのだ。蒼白い月の光の下、白いシーツの上で二人の美しい女性が絡み合う姿は煽情的だった。
「ちょ、ちょ、ちょっと…わ、わ、わたしが眠れないわっ!」
「あら、発情した?」
「この…!」
くすくすと目を細めて笑う黒髪の美女、さきほどまでのしおらしさはどこへやら。いつもの主人らしさを取り戻した相方に、蒼い髪の女性はいいように振り回されて。
「抱っこして…さやか」
至近距離で囁くと、彼女は絡めた腕を解き、誘うように両手を広げた。
蒼い髪の相方はとうとうその胸に飛び込んで、細い身体を強く抱きしめた。気持ちよさそうに悪魔は目を瞑る。
その後、激しく「じゃれ合った」かは二人の秘密である。
END
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ほむら風邪を引く
白い手が伸びて、私の手を掴むのだ。
――さやか
と呼ぼうとしているのだろう、しかし私には聞えない。彼女の口からは泡沫が溢れてきて声にはならなかったのだ。
ここは蒼い水の中だった。
何故、彼女が私のテリトリーにいるのかは思い出せない。ただ、私は水の中でも相変わらず美しい彼女に見惚れて言葉を失ってしまうのだ。
――ほむら
ようやく、私も彼女の名を呼ぼうとしたのだが、もちろん声にならない。
彼女はとてもおだやかに私を見つめている。
長い黒髪が水中に舞い、白磁のような肌が水の中で蒼白く輝いて、そうしてやけに生気溢れる唇が優しく微笑みを浮かべていた。
私はもう片方の手で彼女の腰を抱くと、水面を見上げる。
視線を交わすと、ほむらは私の肩へ手をまわして身体を密着させてきた。
私達は両脚を動かして、少しずつ上昇する。光溢れる水面を目指して。
光にもう少しで――
* * *
「……ん」
身じろぎしながら、美樹さやかは目を開いた。
ゆっくりと上体を起こすと、乱れた蒼い髪を乱暴に掻く。
「…また夢かぁ」
う~…と犬のように唸りながら両手を上にあげ、伸びをする。しばらくその状態が続いた。
ふう、と息を吐きながら伸びを解くと、タンクトップの紐がずれた。紐を直しながら、さやかは呟く。
「ったく…」
サイドテーブルに置いた携帯を見ると、もう昼に近い。陽光が優しくベッドの中のさやかを照らしている。はあ、とため息をついて、さやかは天井に視線を向ける。
――最近ははっきりしない夢が多い。
さやかは額に手をあてながら、物憂げに目を細めた。普段騒がしい彼女も、黙りこくってしまえば結構な美人であるが、残念ながらそれを指摘する者はいない。
ぱん
そうして、本人自身も、思慮深い時間というのをあまり持続できないのだろう、自らの頬を数回掌で叩くと「よし」と呟いた。
そうして、シーツの白が映えるダブルベッドから降りようと上体を捻ってぎょっとしたように動きを止めた。同じように額に手をあて、物憂げに顔をうなだれている相方がすぐ横にいたからだ。
「ほむら…」
さやかの蒼い瞳が共に夜を過ごした相方を映し出す。
長い黒髪に、透き通った白磁のような肌。キャミソール一枚を身に纏う彼女の体温がさやかの腕に伝わってくる。汗をかいたのだろう、キャミソールは湿気を含み彼女の身体にぴったりと貼りついて。
「……っ」
さやかは思わず息を飲む。そうして慌てたように視線を逸らした。
相方の身体のラインが汗で浮き彫りになっていたからだ。彼女の頬がほんの少しだけ紅潮する。相方を見て興奮している己を戒めているのか、彼女は自分の頬を軽く叩いた。
「ど、どうしたのさ…?」
ぎこちなく、また視線を黒髪の相方にみやる。相方はといえば、右手で額をおさえたまま上体をやや前かがみにして身じろぎひとつしない。長い艶のある黒髪がかかり、その美しい横顔は隠されていた。
……気分でも悪いのかしら?
困惑気味の表情を浮かべていたさやかが心配そうに眉を潜める。おそるおそるその美しい髪へ手を伸ばそうとしたその時、
「……痛い」
「へ?」
ゆっくりとほむらがさやかの方へ顔を向けた。長い黒髪が頬と艶のある唇にかかり、アーモンド型の切れ長の目は熱を帯びたように潤んでいる。
――は、反則よ、あんたっ!
さやかは心で叫ぶ。
至近距離で大人の色香を発揮されれば誰でも(同性でも)動揺するだろう、それが「恐ろしいほど」美しい黒髪の相方ならなおさらだ。10年経っても、まったく彼女の美しさに馴れない自分をさやかは嫌と言うほど痛感する。
「頭が…痛いのよ…」
はあ、とため息をついて、ほむらは目を瞑る。長い睫毛にアメジストの瞳は閉じられて。
「え、だ、大丈夫?」
さすがに見惚れていたさやかも、相方の様子が尋常じゃないのに気付き慌てはじめる。
「水取ってくる?」
ベッドから降りようとするさやかの肩にほむらが手を置く。そうして2、3回軽く叩くと首を振って囁いた。目は瞑ったままだ。
「…いいわ、貴方も夜勤明けでしょ、自分で取ってくるわ…」
額をおさえたまま、ほむらはベッドから降り、ゆらりと立ち上がった。ふらふらと所在なげに彼女の頭が左右に揺れる。
「ちょっと、あんた…」
ガシャン
大きな音を立てて、窓辺の白いテーブルに置かれたカップが転がった。立ち上がったほむらが前のめりになり、テーブルに両手をついたのだ。昨夜のコーヒーがテーブルから床へと零れおちる。
「ほむらっ」
はじかれたように、さやかはベッドから降りると、すぐさま彼女を後ろから抱きしめた。
そうして、前のめりな彼女の上体を起こす。抵抗はまったくなく、そのままほむらはさやかにもたれる。
「あんた…」
くにゃりと、軟体動物のように力の抵抗無くしなだれかかるほむらの額にさやかの手が触れる。
――すごく熱い
「熱あるじゃないの!」
さやかはほむらをベッドへ引き戻す。ほむらは苦しそうな表情を浮かべながらも、くすくすと笑った。
「強引な犬ね…」
「笑ってる場合じゃないでしょ!」
ほむらを仰向けにすると、さやかは慌ただしげに彼女の額やうなじに手を回し、熱を確認する。くすくすと笑い続けるほむら。
「大げさね…」
「大げさじゃないわ」
こういう風にほむらが高熱を出すことが過去にも一度あった。
『大丈夫よ』
『大丈夫じゃないってば』
確か20歳の頃だったと思う。あの時も似たようなやりとりをした。
初めて二人が身体を重ねた翌日だった。馴れない行為にほむらの身体が衰弱したのだろう。それで風邪を引いてしまい高熱を出したのだ。その時はさやかは自分の所為でほむらがこうなったのだと激しく後悔したのを覚えている。
元々彼女は身体が弱かった。
これは相当後になってさやかは知ったことだが、幼い頃からずっと病院の入退院を繰り返していたのだという。そんなか弱い身体で魔法少女になっちゃってさ…とさやかがぼやくと、ほむらは涼しい顔で応えたものだ。
『今は違うもの』
そうして寂しそうに笑い付けくわえる。
『私は悪魔なのよ』
だからといっても、元は人間なのだ。時折このように先祖がえりではないが、悪魔でも人間だった頃のように風邪を引くのではないかとさやかは思った。
とりあえず、通常の人間と同じように、体温を測り、薬を飲ませようとさやかは思ったが、はっ、と我に帰る。
ここには救急箱はおろか体温計すらない。
ったく、と舌打ちするさやか。お互い、傷や病気とは無縁の身体なのだと思いこみ、そういった医療品を購入しなかったのをひどく後悔した。腰に手をあて、はあ、とため息をつく。
「薬を買ってくるわ…すぐ戻るから」
苦しそうに目を瞑るほむらを心配そうにしばらく覗き込んだ後、さやかは外へ出た。
* * * * *
買い物を済ませ、家へと戻ったさやかはまずほむらの身体を拭いた。くすぐったそうに笑い、からかうほむらに顔を赤くしながらもさやかは事を終えると、今度は風邪薬を飲ませ、体温計を脇に差す。
「…子供になった気分だわ」
「たまにはいいんじゃない?」
相方が心配なのだろう、さやかの表情は普段よりいささか固い。そんな表情を面白そうに見つめる風邪を引いた悪魔。
「…貴方って、たまには真面目な顔になるのね」
「たまにって、私はいつも真面目よ」
口を尖らせて抗議するさやかを見て、とうとう悪魔はくすくすと笑いだした。熱のため頬は紅潮し、目は潤んでいるため、その笑顔はとても艶めかしく見える。笑い過ぎたのか、こほ、こほと咳込む。
「あーもう、笑うから…」
「フフフ、そうね…」
相方に背中をさすられ、気持良さそうにほむらは目を瞑った。
どうやら薬が効いてきたらしい。おとなしくベッドに収まっているほむらを見ていると、まるで普通の一般女性のように見えて、さやかは不思議な気持ちになった。
「ねえ」
「……何?」
「……あんたって、ちっちゃい頃からこうやって病院のベッドにいたの?」
「………ええ」
「そう…」
何か言いたげなさやかの顔を、面白そうに目を細め見上げるほむら。
「なあに?何か言いたいことでもある?」
「…うん、いや…あんたが…」
ピピピ…と電子音が軽やかになる。体温計の計測が終わったのだ。さやかがほむらの脇に手を入れ体温計を抜きだすと、すかさず表示画面を見る。
38.8度
「……高いわ」
さやかがため息をついているのを、ほむらはただ面白そうに見ているだけで。
そうして、その唇がゆっくりと動いた。
「さやか」
「何?」
白い手がさやかの手を掴むのだ。
「抱っこして…」
* * *
はあ、とため息をつきながら、心地よさそうにほむらは目を瞑る。
「大丈夫?」
さやかがほむらの額に手を添える。くすくすと笑うほむら。
「あんなに激しくされて、大丈夫って聞かれても…困るわ」
「え、ちょ、だってあんたが…」
ほむらをさやかが背後から抱きしめる形で、二人はベッドの中に収まっていた。
おそらく顔を紅潮させているであろう背後の相方を宥めるため、ほむらは手を伸ばしその蒼い髪を撫でる。顔を向けると、確かに相方は顔を赤くしており、ほむらは相好を崩した。
「冗談よ」
そうして、相方の髪をひっぱると、申し合せたようにさやかが顔をほむらに近づけ、二人の唇が触れる。しばらく互いの唇の感触を楽しんでいるのかそのままの状態が続いた。
音を立てて、唇を離すと、さやかがふてくされたように、ほむらを抱きしめている腕に更に力を込めた。さも可笑しいと言わんばかりに、身体を震わせて笑うほむら。
「病人に甘えてくるなんて、手のかかる人…」
「だって…」
「だって…なあに?」
優しくほむらは聞いた。さきほどから何か言いたげな相方を楽にしてやりたいとでもいうように。それでも言葉を紡がないさやかに促すようにほむらは囁いた。
「さっき…貴方は何を言おうとしていたの」
しばらく沈黙が続いて、ようやくさやかが口を開いた。
「あんたが…普通の人に見えて…怖くなったの」
「………」
「本当は、悪魔でもなんでもなくて、ただの病弱な女の人で…もしかしたら、病気で」
「病気で?」
「し…死んじゃうんじゃないかって」
絞り出すように、さやかは声を出した。震える手。
――そうなのだ
「私、嫌よ」
震える声。ほむらは彼女の手に包むように自分の手を添えた。
「あんたがいなくなったら…どうしていいのか…わからない」
――恐れているのは悪魔だけではなかった
さやかは怖いのだ、彼女を失うことが。
『ごめんねほむら…私が昨日あんなことしたから』
『馬鹿ね…私もしたわ』
あの時も、気にすることはないとでいうように、ほむらはただ笑ってさやかを許してくれた。だが、悪魔でもこのように熱を出すことがあるのだ、もし、病気で死に至ることがあれば…?そう思うと、さやかはぞっとする。
もし彼女がいなくなれば、私は誰とこの日々を分かち合えばいいのだろう?
魔獣と戦って疲労困憊した時に、疲れを分かち合う時は?
人と融合した魔獣を手に掛けた時の苦しみを分かち合う時は?
時折訪れる平穏な日の喜びを誰と共有すればいい?
ほむらしかいない。遠い昔…世界の改変の記憶を共有している彼女しか。
「……一人にしないで」
「馬鹿ね」
さやかの声を遮るようにほむらは囁く。
「悪いけど、私は死なないわ…決して…自惚れないで…美樹さやか」
辛辣な台詞を悪魔は優しく、とても優しく囁く。そうしてさやかの手を解くと、身体をゆっくりとさやかの方へ向けた。泣きそうな顔をしている「犬」の顔を見て、「飼い主」は苦笑した。
「それとも、私がそんなに力が無いように見える?」
ん?と小首をかしげながら、指で相方の唇を抑えながらほむらは囁く。声の出ないさやかはただ首を振るばかりで。そんな相方の頬をほむらは両手で包んだ。
「私は死なないわ…貴方がのたれ死んでも」
「本当…?」
「本当よ」
唇を近づける。
「本当に本当?」
思わず吹き出し、ほむらは顔を背けて笑う。元々大人らしくない所が多い相方だが、ここまで子供のようになられると悪魔も手がつけられない。歯をみせて笑いながら、ほむらは相方の額を叩く。
ぱちん
「あいたっ」
「くどいわね…殺すわよ?」
しゅんとなった相方の唇をほむらは塞ぐ。軽くついばむように何度も唇を塞ぎ、そうしてゆっくりと顔を離すと囁いた。
「もう一度抱っこしてくれる?」
こくり、と頷くさやかを見て、満足そうにほむらは身体をさやかに預けた。
「あんたの身体…熱いわ」
「…中はもっと熱いわよ?」
そう言って、ほむらは目を瞑った。さやかの手が腰に回されるのを感じながら。
* * * * *
翌日、悪魔の熱は無事下がり、さやかの心配も解消された。しかし。
ピピピ…
軽快な電子音がして、ほむらはさやかの脇から体温計を取り出す。
「38.5度…熱ね」
キャミソール姿のまま、腰に手をあててほむらが呟いた。
「いや、ただの微熱よ、大丈夫だから」
潤んだ目で蒼い髪の相方はほむらに訴える。元々彼女は体温が高いので、これくらいならなんとかなる、仕事も行けるという自信があった。しかし、悪魔の方は目を尖らせて。
「…貴方何言ってるの?これで仕事とか馬鹿としかいいようがないわ」
はあ、とため息をつき首を振る。普段のほむらだ。
「いや、で、でも今日は出勤しなきゃいけないのよ!じょ、上司に殺されるわ!」
「私に殺されるのとどっちがいいの?」
う、と言葉に詰まるさやか。そんなさやかを横目に、にやりとほむらが笑った。さやかはいやな予感がした。軽やかに悪魔はサイドテーブルに近づくと、蒼の携帯を手に取る。
「あ、ちょ、ちょっと!」
弱って身体がよく動かないさやかの静止を難なく振り切り、ほむらは電話をかける。
――まさか、まさか…!
ほむらには、さやかの直属の上司の名前を教えてある。
「あ、もしもし、岡山さんですか?私、美樹の友人の暁美です」
――ジーザス!
さやかは頭を抱え、ベッドの中で悶えた。あまりの羞恥でおかしくなりそうだ。
ほむらはよそ行きの声で楽しそうに喋っている。
――な、何を喋ってるのよ!
あまつさえ笑い声まで聞こえて、さやかは恐ろしくなった。主任と相方が会話するなんて状況想像すらしていなかったのだ。
――なんだか恥ずかしいわっ…
そうしてしばらくしてから会話が途切れた。
「……な、何をしゃべってたのよ?」
シーツからゆっくりと顔を出し、さやかが囁くと、ほむらは満面の笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「あら、いろいろよ」
「いろいろって…!」
「…とりあえず貴方の上司からはお休みの許可をもらったから、今日は休みなさい」
「うひゃあ、もう…は、恥ずかしいわっなんだか!」
「いろいろ」がどんな内容かは答えず、ほむらはただ休みの許可をもらったことだけを告げた。その回答に恥ずかしそうに悶えるさやか。それはそうだろう、職場の上司と、長年同居している相方が会話したのだ。オンとオフの世界がリンクした時ほど照れくさいものはない。そんなさやかの様子を見て、クスクス笑いながら、ほむらはベッドの端に座る。そうして、さやかの頭をぐい、と手で強引に引き寄せると、華奢な肩にその頭をのせた。
「休みなさい」
「へ?」
真剣なほむらの声に、思わず変な声をあげるさやか。
「だいぶ貴方も疲労しているわ…」
「……」
「私も貴方がいないと困るのよ」
そうなのだ。ほむらも…相方を失うことを恐れていた。うん、と相方の華奢な肩に顔を埋めながらさやかは囁いた。気持ちよさそうに目を瞑る。
「でもその前に」
「へ?」
不思議そうに顔をあげるさやか、そこには何か面白いものを見つけたように輝いているアメジストの瞳があって。
「貴方、昨日の抱っこ途中で終わってたわね?」
「え、あ、あれは…」
そうなのだ、結局あれから数回「抱っこ」が行われたが途中でさやかは眠りに落ちてしまった。
「昨日の続き…やるわよ?」
「いや、ちょ、ちょっと、私今身体がだるくて」
「あら、私も昨日身体がだるかったわよ?おわかり?」
そう囁くと、ほむらはさやかに覆いかぶさる。
ニヤア、とほむらの口元があがった。悪魔の笑みだ。
――し、心配なんてするんじゃなかったわ!
ほむらの体温を感じながら、さやかは目を瞑った。
それからさやかの熱が下がったのは、二日後だったという…。
END
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さやか心配する
何故そうなのかは作中に説明がありますが、更に気になる方は、同R18短編集を参照ください。
そういう内容が不快、嫌な方は回避ください。
ばっちこいな方はよろしくお願いします。
「気持ちが悪いわ」
「え?」
さやかは不思議そうに目の前の黒髪の友人を見つめた。アメジストの瞳に吸い込まれるように見惚れてしまう。しかし、すぐにその瞳は長い睫毛で閉ざされて。
「…っ」
一瞬、眉をひそめ、形のいい唇を歪ませると、黒髪の女性は手に持っていたパンをゆっくりと皿に戻した。
「ほむら?」
白いテーブルを囲んで朝食を摂っている二人の女性。彼女達にとってはいつもの日常であり、魔獣との戦いを忘れさせてくれる貴重なひとときであった。しかし、今日は少しだけ様子が違う。黒髪の美女――暁美ほむらの様子が少しだけ変なのだ。黒のキャミソールを身につけ、優雅にくつろいでいた様子だった彼女が、急に目を瞑り黙り込みはじめたのだ。
「大丈夫なのあんた…」
蒼い髪の女性――美樹さやかは心配そうに表情を曇らせる。こちらはこれから仕事なのだろう、ワイシャツに黒のパンツという地味な格好だ。さやかは蒼い瞳を心配そうに曇らせて、前かがみになる。ゆっくりと手を伸ばし、相方の前髪を掻きわけながら額に押しあてた。額はひんやりとしていて熱は無い。ほう、と安堵のため息をさやかが漏らした。軽やかな笑い声がほむらの唇から洩れる。
「過保護ね、貴方」
そう囁くと、ほむらはさやかの手に頭を預けるようにして、気持よさそうに目を瞑った。長い黒髪がさらりと流れ、さやかの手をくすぐる。
「だって心配よ」
真剣な面持ちで、さやかは囁いた。
つい最近まで、ほむらは風邪を引いていた。人外とはいえ、時折こうして体調を崩すことがあるのだ。だとしたら、もしや悪魔にも死に至る病なるものが存在するのではないか?さやかはその疑問を未だ払拭できずに不安のままでいる。
「大丈夫よ…」
ほむらの一言で、ようやくさやかが手を離す。目を開けたほむらは微笑みながら頬杖をついて、猫のように目を細めた。何気ない仕草でも彼女がやると優雅に見える。
「でも、あんた何も手をつけてないわ…」
そう、テーブルには色彩豊かな食材の朝食が並んでいるのだが、ほむらは何ひとつ手をつけていない。否、パンを手にはしているのだが、さきほどから細い指でちぎっては皿に置きという体で、一口、二口ほどしか食していなかった。
さやかの指摘にほむらは口元をあげ、肩をすくめた。
「今から食べるわ…」
そう言って、パンをちぎると口元へ運ぶ。しかし、やはり口に入れることができなかった。
ため息と共に皿に置く。
「だめだわ、食欲が無いの」
「どうしちゃったの…吐き気でもするの?」
「ええ」
こくりとほむらは頷いた。
自分でも不思議なのだろう、妙齢の美女がまるで子供のような仕草で、ちぎったパンと友人を見比べて、解せないという風に首をかしげた。そうして、視線を皿に移して呟く。
「食べようとすると気持ち悪くて吐きそうなのよ」
「え…」
さやかは言葉をつまらせる。そうして、数秒ほどたってから、声をあげて立ち上がった。ガシャン、とテーブルの皿が音を立てる。その大人らしからぬ動作に眉をひそめるほむら。
「あ…あんた…まさか」
相方は驚きに満ちた顔をしていた。不思議そうに見上げるほむら。共闘して10年経つが、このように激しく動揺して、青ざめた相方の顔を見るのはほむらでも初めてだった。
「どうしたの?」
小首をかしげながらほむらが囁く。そうしてしばらく二人は見つめあう。面白いほど時間が経過していくが、互いに何も語らず、お互いの瞳を覗き込み合うだけ。
「あら…」
ようやく、ほむらは相方の心が読めた。
こちらはさも嬉しそうに微笑んだ。
「できちゃったのかしら」
* * *
岡山の携帯が鳴った。
「ったく…なんだこんな時間に…っておいどうした美樹っ!」
着信表示を見て、初老の男が勢いよく携帯に向かって吠える。蒼い髪の部下を彼は気に入っているのだが、気に入りすぎてなのか、対応はかなり容赦がない。署内で周囲の刑事が皆見つめているのを気にも止めず、岡山はがなり立てる。
「おめえ、今日は朝一で俺と事務処理する約束だろう、何やってん…え?何?」
渋い顔を更にしかめ、岡山は呟く。
「妊娠しただあ?お前がか?笑わすな、ぶっ殺…何?」
どうも、蒼い髪の部下は動揺が激しいらしい、うまく聞き取れないのか、岡山は白髪を掻きながら部下の言葉を反復する。
「はあ…?親戚の遠縁の友人の女の子ぉ?…何言ってんだ、休みたい?ふざけんな!おめえに関係ないだろボケ!」
それでも部下は食いさがっているらしい、とうとう岡山はため息をついて一時間の時休を認めた。「遅れたらブッ殺す」という物騒な条件つきで。
* * * * *
「ああ、もう主任の馬鹿!」
泣きそうな顔で携帯を切ると、慌ててさやかはベッドへ戻る。
「大げさねぇ」
くすくすとさも可笑しそうに笑いながら、ほむらはベッドに収まっていた。蒼い髪の相方がやや強引に寝かしつけたのだ。ベッドの端に座った相方に手を伸ばすと、その携帯を取ろうとする。
「え、な、何?」
「私が岡山さんに電話する?」
「わあ、やめて!」
驚いたように携帯を抱きしめ立ち上がる相方を見て、とうとうほむらは吹き出した。つい数日前にほむらは相方の上司と直接話をしたのだ、熱を出した彼女を休ませるために。その時、ほむらと上司は結構長い時間「いろいろ」話し合ったのだが、さやかに問い詰められてもただ笑うだけで答えなかった。
「それにしても…貴方」
笑いが収まると、ほむらは目を細め、さやかを見つめた。
「何?」
「あまり嬉しそうじゃないわね、嫌なの?」
「嫌じゃないわよ…ただ…」
「ただ?」
しばらくして、ああ、と呟き、ほむらは相方を睨んだ。口元は笑いを堪えているかのように緩んだまま。
「もしかして、貴方…身に覚えがないとでも?」
二人は何度も身体を重ねていた。常人の想像を超える世界で共闘する内、互いに安らぎの場を見出すようになってからは、身も心も寄り添い合うようになり、20歳の頃からは擬似的な生殖行為にまで及んでいる。擬似的とはいえ、ほむらの人外の力で互いの身体の一部を改変して行うものだから、子を成すことは可能だった。
「そんなことない…身に覚えならたくさんあるわ」
覚悟しきった顔でさやかは囁く。そうなのだ、身に覚えなら、たくさんある…。昨夜もその行為に及んでいたのだから。さやかの顔をほむらはただ睨み続ける。美女はどんな表情も美しいものなのか。
「じゃあ……どうしてそんなに浮かない顔をしているのかしら…もしかして」
ゆっくりとほむらの唇が動く。
「私を疑ってる?」
「え?」
挑発するような視線のほむらと、きょとんとするさやか。
「貴方以外の子だとでも?」
「まさか!」
驚いてさやかはほむらを見る。
相方の美貌がどれだけ異性に有効かさやかは何度進言したかわからない。
だが、その度に彼女は薄く笑って答えなかったではないか。
それに…彼女に対してそのような「行為」に及ぼうとする男性がいたならば、文字通り「八つ裂き」にされるのは間違いない。自分以外の誰かなんて、そんなことは考えられない。
――考えたくもない!
「そんなことないわっ!わ、わ、私の子に間違いないわよっ!」
握りこぶしを作りながら、さやかは大声で叫んだ。まるで青年の主張のように。
途端、ほむらがもう耐えられないとでもいうように吹き出した。
「な、何…」
苦しそうにお腹を抱え笑い続ける黒髪の相方を見て、ようやくさやかはからかわれていたことに気付いた。次第に顔が真っ赤になる。
「あ、あんたっ、人をからかって、私は真面目に…」
「ああ、もう…苦しい」
くっ、くっ、と笑いを必死に堪えながら、ほむらはさやかを見つめる。その目は笑いすぎて涙目だ。
「でも、頼もしいわ、認知もしてもらえたし」
「認知って…!」
「ほら、仕事遅刻するわよ?」
怒っていいのか、安堵していいのかわからないとでもいうような動揺したさやかを横目に、ほむらが時計を見て呟く。つられてさやかも時計を見て、あ、と声をあげた。
慌てて二言、三言ほむらに声をかけると、相方は玄関へと慌ただしく向かう。いつもよりも浮足立った感のある相方の後ろ姿を見て、ほむらはくすくすと笑い続けた。
* * *
「おい、美樹、何浮かない顔しているんだ」
初老の男に声を掛けられ、はっと我にかえるさやか。きょときょとと慌ててあたりを見回す仕草に、男――岡山はため息をついた。
「おめえ、まだ風邪ひいてんじゃねえか、心ここにあらずって顔すんじゃねえ!馬鹿が!」
ぱしん、と軽く頭をはたかれ、さやかは顔をしかめた。
「ったく、遅れた癖によう」
結局さやかは一時間に間に合わなかった。岡山にしこたま怒鳴られ、はたかれ、ようやく落ち着いた頃だ。今日はたまたま外回りの事案は無い。生活安全課から参考に借りた押収ビデオテープを返却する前に、必要な個所をリストアップしている。黙々と二人はパソコンの前で作業をしていた。
「そういや、おめえよお」
「はい?」
小一時間くらいたっただろうか、何か思いついたように岡山は喋り出した。
「いい友達持ってんな、暁美さんだったっけか?」
「ええ?」
思わず大声をあげる部下を驚いて岡山は睨む。
「馬鹿野郎!何大声出して…」
「あ、すみません、つい」
頭を掻いてあやまる部下をちっ、と舌打ちして睨みながら岡山はパソコンに視線を戻した。
「今時、あんなに礼儀正しいお嬢ちゃんもいるんだな」
――お嬢ちゃんって…!
さやかは心で叫ぶ。思わず首を振っているのに、さやか自身気付いていない。
「あ、あの主任」
「なんだ」
――主任なら教えてくれるかもしれない
「あの時、なんて言ってました?ほむ…あ、暁美さんは?」
「…いろいろだ」
「いろいろって…!」
どうしてもその内容を聞きだしたかったのだろう、さやかは思わず上司に詰め寄るが、また頭をはたかれる。
「うっせえ、さっさと仕事しろ」
「ひ、ひど!」
涙目で抗議するも、上司には届かず、さやかはため息ひとつついて作業に戻る。
――いろいろってなんなのよ!
だが、結局その日はさやかは何も聞き出すことはできなかった。
* * * * *
「あ、あんた大丈夫なの?」
家に帰った途端、さやかは叫んだ。黒髪の相方がテーブルでたそがれていたからだ。
「あら、お帰りなさい早かったわね」
ほむらは椅子に座りながら玄関先へ声をかける。朝と同じくキャミソールのままだ、どうやらどこにも出かけなかったらしい。紙袋を抱えて近寄ってくる相方を不審げに見上げながら、ほむらは囁いた。
「いつもは犬みたいにあちらこちら歩きまわるのに…」
「ひど!まあ、ちょっとは立ち寄ったけどね」
えへへ、と機嫌良く笑う相方をほむらは訝しげに睨む。気にせずさやかは得意げに紙袋をテーブルに置いた。
「何その袋」
「これからに備えて買っちゃった」
すごくにこやかに蒼い髪の相方が微笑むものだから、珍しく悪魔の方が戸惑った顔をした。
紙袋の中は、数冊の育児書だった。はあ、と悪魔はため息をついて。
「馬鹿ねえ……」
「へ?」
「違ってたわ」
「え?」
「できてなかったのよ」
「ええ!」
どうやら周期のものが順調にきたらしい。さやかはそこまで考えが至らなかった自分を悔いた。一気に力が抜けて椅子に座りこむ。長いため息をついた。
「また暴走しちゃったのね、私…」
「貴方らしいけどね」
ほむらも残念そうだ。
「でも…じゃあどうして今朝あんなに吐き気があったの?」
「ああ、あれは」
どうやら、ほむらは昨夜さやかが帰ってくるまで、深酒をしたらしい。そのため目が覚めたら吐き気を催したというところだろう。
「もう~なんなのよ…」
さやかはテーブルに突っ伏した。それを見つめるほむら。
「悪かったわね」
そう呟くと、ほむらはそっと白い手をさやかの頭に乗せた。ほむらの手の感触を味わいながら、さやかは目を瞑る。
「あんたのせいじゃないわ、私もちゃんと確認しなかったし…でも…」
目を開けると傍に買ってきた育児書があって。
「なんだか寂しいわ」
「そうね」
ゆっくりとほむらはさやかの頭に自分の顔を寄せた。蒼い髪の上に重なる黒い髪。
「ねえ」
ほむらは白い手をさやかの手に重ねる。
「今から作りましょう?」
「……うん」
さやかはしっかりとほむらの手を握り返した。
育児書はほむらの本棚にきちんと飾られるようになったという…。
END
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悪魔の悪戯
「コンパ?」
美樹さやかは素っ頓狂な声をあげた。
「お願い、さやか!人が足りなくて、ねっ…この通り!」
茶髪で、雑誌のモデルのような女性が両手を合わせて、さやかを上目遣いで見上げる。さやかと同じK大学で、「イイ女」が多いと評されるとある学部の学生だ。困ったように、さやかが眉を下げる。美樹さやかという人物は、困っている者に頼られると断ることができないようにできているのだ。う~ん、と唸って、さやかは空を見上げた。もうすぐほむらが講義を終え、待ち合わせ場所のここに来る。
大学の中央にある噴水のある広場で、美樹さやかは友人である暁美ほむらを待っていた。さやかの記憶の錯綜から紆余曲折を経て、共闘を始めて数年、互いの軋轢も薄まりかけたこの頃、さやかはふと思うのだ。
――今までが夢みたいだ
そう、こうやって、ほむらと一緒に過ごすようになってからの世界が現実で、それまでの時間は(改変前の世界も込めて)今、ここに至るまでの通過儀礼だったのではないか。予定調和のような。
それにしても、と、ふとさやかは何を思ったのか、微笑みを浮かべる。青い空に白い雲、緑が映える噴水の広場。
――ああ、幸せだ
…と。
だが、その幸福感も、「コンパ要員」を求めてきたひとりの女性の襲来で打ち消されたのだった……。
「ごめん、由美ちゃん、私やっぱり無理だわ…」
頭を掻いてさやかは謝る。どうやら、名前を呼ぶあたり、さやかと彼女は知り合いらしい。
「ええ~なんで?」
さやかの言葉に、困惑したように声をあげる女性。自分の可愛らしさを知っているのか、身体をさやかにすり寄せてくる、どうやらさやかにも有効らしい。顔が紅潮していた。
「ええ、だって、こんな格好だし、メンバーって由美ちゃんみたいな可愛い子達ばっかりなんでしょ?私無理だって…」
黒髪の友人に怒られるから怖いとはさすがに言えず、さやかは適当な言い訳を探し探し、呟いた。
「全然大丈夫!さやかは十分可愛いから」
「う~ん……」
同性の「可愛い」がどこまで有効かさやかは知らないが、彼女が可愛いのは確かだ。一人くらいメンバーが足りなくても、男性陣は満足するのではないか?とさやかは思った。
「ね、今度なんか奢るから、大学の近くで美味しいとこ知ってるの、二人で行こう?」
「ええ、う、うん…」
もしやこれが目的だったのではないかというほど、由美と呼ばれた女は執拗にさやかに迫る。とうとう根負けしてさやかが頷こうとした瞬間。
「待たせたわね」
艶のある声。
ぎょっとしたようにさやかの身体が強張る。振り返ると、そこに恐ろしいほど美しい黒髪の女性がいた。暁美ほむらだ。
「ほむら」
「誰、この人」
冷たい口調で言い放つ。そのアメジストの瞳はさやかを捉えていて、女を見ようとはしていない。まるで眼中にないようだ。
「ああ…由美ちゃんって言って…」
「経済学部の小田由美っていいます、あの、今日のコンパで人が足りなくってさやかお借りしていいですか?」
キャンパス内で、ほむらは同性からは畏怖の念を持たれていた。そのあまりにも並はずれた美貌と、浮世離れした雰囲気のため。由美もさきほどのさやかに対する態度とはうって変って、まるで先輩に対する態度のようにへりくだっている。
「嫌よ」
ほむらの美しい唇が動いた。と、同時にほむらの手が伸びてさやかの腕を掴む。ぐい、と引っ張られ、さやかはほむらにもたれる形となった。
ほむらが言い出しづらい自分の代わりに、断ってくれたのだと思うと、さやかは胸が熱くなった。が…
「私も行くわ」
驚いて、さやかは声をあげた。由美も言葉の意味を咀嚼できずに、あっけに取られている。
「え、ちょ、ほむら…あんたコンパ…あたたたた!痛い、痛い!」
さやかが今度は変な声をあげる。ほむらがさやかの腕を締め付けたのだ。まるで万力のようだ。人外の力で締め付けているのだろう。だがほむらはいたって涼しげに微笑んで。
「人数が多い分には問題ないのでしょう?」
* * *
「はい、今回の司会、進行をつとめます、K大学、文学部の美樹です!」
おお~と、場が盛り上がる。さやかの目の前には、5名の男女が向かい合って座っていた。
――どうしてこうなったのよ!
さやかは心で叫ぶ。
大学近くの居酒屋で、K大学の女子と国立大の男子のコンパが始まった。
『ごめん、さやか、人数が余っちゃったから、今日は…』
由美が手を合わせて、さやかにお願いする。つまりは、人数が余ったため、司会・進行をして欲しいということなのだ。
――こんなパターンもアリなの?
一人余った人間が、長方形のテーブルの上座に座り、司会をするなんて…さやかは頭を抱えた。確かに人数は揃えた方がいいし、ほむらを司会にするわけにはいかないし…仕方ない。そう思い直し、さやかは突貫工事に出た。その場の勢いにまかせた盛り上げは得意な方だ。
「いやあ、司会の子も可愛いし、女性陣レベル高いねえ」
いかにも茶髪で軽そうな男が上機嫌で喋る。そりゃそうだろう、雑誌のモデル並みのイイ女が多いと称される学部の女の子と、大学内を騒がせる絶世の美女が目の前にいれば。だが、実際は、男性陣の視線はすべて暁美ほむらに向けられていた。艶のある長い黒髪、白磁のような肌にぞっとするような美貌。本人はいたって涼しい顔で、伏し目がちにテーブルを見つめている。
――そりゃあ、比較にもならないわ
さやか自身もまた、ほむらの横顔に見惚れていた。友人の圧倒的な美貌を誇らしく感じると共に、未だ馴れずに見惚れてしまう自分に戸惑いながら。
おそらく連絡先ゲットなどという作戦も吹っ飛んだのだろう、骨抜きになった体の男性陣は未だほむらに見惚れたままだ。もし、視線を矢印で表現することができたならば、5つの線は全てほむらに真っ直ぐに注がれている。さやかは小さい頃に見た、バラエティ番組をふと思い出した。
「ちょっと…司会、早く進めてくれない?」
黒髪の美女が不機嫌な様子で蒼い髪の司会を睨む。
「は、はいっすみません…」
――なんで睨まれないといけないのよ!
さやかはこのコンパが最後までうまく機能するのか甚だ不安になってきた。
「そ、それじゃあ、とりあえず自己紹介から――」
* * *
なんとか、コンパは順調に進んでいた、といってもまだ30分しか経過していないのだが。
――つ、疲れるわっ!
さやかは心で悲鳴をあげる。黒髪の友人がとんちんかんな発言をしないか、とか変に絡まれないかと気を使いながら進行していくのだから、無理もない。
「ねえ、ねえ、さやかそろそろアレしようよ?」
「へ?ああ、アレね、うんわかった」
アレとは定番の王様ゲームのことである。さやかは、由美があらかじめ作ってあったくじを手に持ち、「王様ゲーム!」と両手をあげて叫んだ、もはやヤケである。酒がいい具合に回って来たのか皆も気にすることなく、歓声をあげ、拍手が起こった。
「俺が王様だ、それじゃあ、1番が4番に…」
王様ゲームの面白いところは、まったく予想外の組み合わせが生まれることである。誰かの酒を誰かが一気飲みするとか、デコピンするとかまでなら普通だが、抱き合うとか、キスとかに限って同性同士になったりもする。このコンパも例外でなく、笑いあり、驚きありで大いに盛り上がる。不思議と、ほむらはまだ何も当たっていない。残念がる男性陣と、何故か安堵する司会。
「あ、今度は私が王様ね」
由美が喜んだ。どうやら、温めていた命令があったのだろう。嬉しそうに微笑むと、さやかを見つめた。
さやかは嫌な予感がした。
「5番は、司会とキスをする!」
おお~っと歓声があがった。
「ええ?ちょ、ちょっと!」
慌てるさやか。てへ、と笑って舌を出す由美。
――何がてへペロよっ!
だが、盛り上がっている以上、場をしらけさせる訳にもいかない。ひきつった笑顔を浮かべて、さやかはくじを皆に差し出す。
――じょ、冗談じゃないわ!
キスと言われても、どこまでなのかわかったものじゃない。さやかは何度目かの心の悲鳴をあげた。
「私、5番ね」
「へ?」
ざわ…と周囲がざわつき、そうしてしん…と静まりかえる。黒髪の美女がひらひらとくじを振っていた。
「ほむら?」
まじかよ…と残念そうな男性陣のため息と、うわあ…と期待に満ちた女性陣の声が重なった。ゆっくりと席から立ち上がり、司会に歩みよってくるほむら。思わず上体を後ろに逸らすさやか。
「立ちなさい」
腰に手をあて、司会に命令するその姿はさながら女王で。さやかは恐る恐る立ち上がる。ほむらの顔が少しだけ低い位置にあった。ふと、さやかが周囲を見渡すと、皆、期待に満ちた目で二人を見ていて。興奮を伴った沈黙に、さやかは心で叫ぶ。
――何でこんなに静かなのよっ!
先ほどまでとうって変って周囲は静まりかえっている。すべては「5番が司会にキスをする」のを見届けるために。ほむらとさやかはもう少しで顔がくっつくほど接近していた。
「ちょ、ほむら…」
「あら、王様の命令は絶対でしょう?」
ニヤリとほむらは笑った。瞬間、さやかは悟った。彼女が「力」を使ったことを。
「あんた…っ」
ほむらの両手で頬を抑えられると、次の瞬間には、二人の唇は重なっていた。
…ちゅう、と音を立ててほむらがさやかの唇を吸い始める。うっとりと目を瞑ったほむらは顔の角度を変えながら、さやかの唇を味わうように吸い続ける。
「…ちょ、…んっんんっ…」
さやかの顔が紅潮し、目が潤み始めた。濃厚なキスだ。羞恥とほむらの唇で、さやかはどうにかなりそうになる。ほむらがさやかの首に腕を回した。
…それから数秒後、さやかの身体から力が抜けた。抱きしめるほむら。
「あら、やりすぎたのかしら」
くすくすとさも愉快そうに笑うほむら。司会を抱えながら、惚けたようにこちらを見る集団に微笑みかける。
「悪いけど、私と司会はもうあがるわ…後はよろしくね?」
* * * * *
「うう…まだ力が入らないわ」
「あら、私のキスがそんなによかったの?」
「そ、そんなことっ…おっとと」
ふらふらとまた、ほむらの肩に寄りかかるさやか。ほむらはさやかの腰を抱きながら笑う。
二人は薄暗くなった街の中、寄り添いながら、家路についていた。
「ねえ」
鼻歌まで歌いはじめた上機嫌な悪魔を、不思議そうにさやかは見つめる。
「なあに?」
「どうして、あんなことしたの?」
「キスのこと?」
フフ、と笑って、ほむらはさやかを見つめる。
「うん、それもあるけど…コンパってあんた参加したことないじゃない」
「………癪だったのよ」
「へ?」
ほむらが前を向きながら、唇を動かした。
「あんな頭の軽そうな女にいいように振り回されている貴方が」
「ほむら…」
「貴方を振り回していいのは私だけよ、美樹さやか」
腰にまわされたほむらの腕に力が入る。
「ありがとう…ほむら」
「言葉だけ?」
ん?と澄ました表情で、ツン、と顔を近づける。そんなほむらに照れたように微笑みながら、さやかはキスをした。顔を離すと、なぜかほむらは不機嫌そうな顔で。
「下手くそ…赤点ね」
「え、ひど…」
「だから…再試よ」
そうして、また5番は司会にキスをする。
ゆっくりと音を何度も何度も鳴らして、美味しそうに…。
了
……
<余談>
あれからコンパは順調に進み、二組のカップルが誕生したという。
ちなみに、二人のキスの後に大歓声が巻き起こり、しばらくは興奮冷めやらぬ状態で、怪しげなファンクラブが出来上がったとか…。
「あ、さやか、いたいた!」
噴水広場でほむらを待っているさやかの元に、由美が勢いよくかけてきて抱きついてきた。
「もう、聞いて聞いて!またコンパでね、友達に彼氏が出来たのよ」
「へえ、そりゃあよかったじゃん、てか、あんたはまた出来なかったの?」
「まあねえ」
てへ、と笑い舌を出す。これが癖なのだろうか?とさやかは思った。だが、友達思いのいい子なのだろうとは思う。さやかは満面の笑みを浮かべた。
「あんたってイイ奴ねえ」
「でしょ?」
へへん、としたり顔を浮かべると、さやかに顔を近づけて。
「ね、それでさ、今日、行く?」
「へ、何を?」
「もう、奢るって約束したじゃない!」
「ああ、そう言えば…」
食事を奢ると、彼女が約束していたことをさやかはようやく思い出した。何かを言おうと、さやかが顔を近づけて由美を見つめた時。
「待たせたわね」
わあ、と声をあげて、さやかは半ば由美を突き飛ばすようにして身体を離した。いつの間にか悪魔がさやかの背後に立っていた。
「あ、暁美さん、こないだはありがとうございます!」
「……ごきげんよう」
にっこりと、ほむらは由美に微笑んで。それからきっ、とさやかを睨む。
ひい、とさやかは心で叫ぶ。
「由美さんだったわね?…悪いけど、約束はキャンセルよ」
「え?」
「今後もね…ほら、行くわよついてきなさい」
「痛い!」
悪魔に腕を掴まれ、さやかは悲鳴をあげる、すごい力だ。あっけにとられる由美を余所に、ほむらはさやかを引っ張っていった。由美の視界からすごいスピードで遠ざかっていく二人。
「痛い、痛いっ!ごめんなさいってば、ほむら!」
「まったく、手のかかる人だわ、貴方って人は…」
ぎゃあぎゃあと叫ぶさやかと、その腕を掴みすたすたと歩き続けるほむらの後ろ姿を不思議そうに見守る、キャンパス内の学生達。
友を思う悪魔の気苦労もまた、絶えないものらしい。
END
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ほむら日本酒を飲む
平和な日常回です。
大学の一般教養ほど眠気を誘うものはない。
「ふああ…」
さやかは口を抑えるが、あくびを噛みころすことができなかった。涙目で必死にノートを取る。こんなに眠いのに眠れないなんて、なんだか理不尽だ…とさやかはずれたことを考えた。ノートにはびっしりと化学式。相方がいれば優しく(頭をはたきながら)解説をしてくれただろうが、今日はあいにくその美しい相方は不在らしい。彼女の横にいつも座っている黒髪の美女はなく、代わりに空席のイスにさやかの青色のリュックがちょこんと置いてある。
「どこいってんだか…」
さやかは一人呟いた。広い大学の講堂は7割ほど人が埋まっていた。理系の一般科目にしては人気の講義だ。相方の担当教授でもある初老の女性が教鞭をとっていた。その講堂の隅っこに美樹さやかは座っている。
あまり大学では喋り合う機会がない二人が、せめてひとつの講義くらいは一緒に受けようと選んだのがこの週末の一般教養「化学」。常に人の注目を浴びる相方が、人目を避けて講義開始時刻ぎりぎりにさやかの隣に座るというのが日課だったのだが。
つ、とさやかの背中に白い手が置かれる。一瞬びくりとさやかは身体を強張らせ、そっと振り返ると恐ろしいほど美しい相方の顔が目の前にあった。
「ほむら…どこいってたのさ」
小声でさやかは相方に問う。黒髪の美女――暁美ほむらはさやかの問いには答えず、ただ、人さし指を立てて前後に動かした。「おいで」のジェスチャーだ。
「?」
さやかはきょときょとと周囲を見渡して、青色のリュックを持つと、ほむらと連れだって、こっそり講堂から出た。
* * *
「どうしたのさ、いったい?」
暖かい日射しに、晴れた空。屋外に出ると気持ちがいいのだろう、いきなり外へ連れ出されたというのに、機嫌よくさやかは相方に尋ねた。
「大変なのよ…」
ほむらはやや暗い面持ちで呟く。こんなにいい天気なのに、沈んだ様子の相方が不憫に思ったのだろう、さやかは心配そうな表情を浮かべる。
「大丈夫?」
こくり、とほむらは頷いた。白のワンピースに青のカーディガンを羽織った彼女は、とても「悪魔」などというシロモノには思えない。思わずさやかは見惚れてしまう。こうして見ていると、理系の知的な美女だ。しかも絶世の。
「…これ見て」
ほむらが紫色の携帯をさやかに差し出す。
「え、見ていいの?」
さやかは恐る恐るほむらの携帯を手に取ると、画面に見入る。
「これって…」
さやかは驚いてほむらを見つめる。ほむらはただ悲しそうに頷いて。
「今日、まどかはコンパに行くらしいわ」
ほむらの口から「コンパ」という単語が出てくると、何やら不自然な感じがするのは、彼女が美しすぎるからか。どうにもこの黒髪の美女には世俗的な用語が似つかわしくない…とさやかは思う。画面に映っていたのは、まどかからのメールだった。週末だから、三人で飲みに行こうとさやかが提案し、ほむらがまどかにメールを送った結果がこれだ。
「そっかあ、まどかも短大生だしね…仕方ないか」
「……大丈夫かしら、変な男が絡んできたら…」
ほむらが眉を潜めて呟く。どうやら愛おしい友人の身が心配なのだろう。普通なら、笑い飛ばせる話だが、この三人の間では事情が違う。さやかは心配そうにほむらを見つめる。黒髪の美女――暁美ほむらは、鹿目まどかを想うがために、人外となり、世界を変えた。さやかはほむらと協定を結び、こうして生活を共にしているわけだが、彼女のまどかを想う気持ちの強さは痛いほど知っていた。思えば中学の時からずっと、まどかに異性の友人ができるたびに二人でハラハラしたものだが。
「大丈夫だって!あんた考えすぎよ、コンパだからってそんな簡単に…」
「いいえ、わからないわ、貴方みたいにホイホイ可愛らしい子についていく人もいるのだし…」
「ちょ、人聞きの悪いこと言わないで!」
どうやら、この前の、さやかが司会をしたコンパのことを言っているのだろう。女友達に誘われ、さやかがコンパに参加しそうになるところにほむらも乱入し、王様ゲームでは二人で濃厚なキスをやらかすというとんだ珍事をやらかしたのだ。顔を赤くして抗議する友人をしり目に、はあ、とほむらはわざとらしくため息をついて首を振った。
「心配だわ…貴方みたいに見境なく迫る人がいるから、まどかは可愛いし、優しいし…」
「何それ!男か!」
黒髪の友人が冗談を言っているのか、本気なのか、もはやさやかにはわからなかった。と、ふと周囲がざわついているのにさやかは気付く。キャンパス内を行き交う学生達が皆こちらを見ているのだ。くすくすと笑いながら見ている者。妙に顔を赤くして見ている者など、いろいろな想いをのせた視線を感じる。さやかは頭を掻きながら、ほむらに言った。
「とりあえず…どうするの?」
「どうって…」
「心配だったらさ、見張ればいいじゃん!」
「え?」
「大丈夫、このさやかちゃんにまかせなって!」
にっこりと得意げにさやかは微笑んで、そうして相方の肩をバン、バン、と強く叩く。顔をしかめるほむら。悪魔相手にこういうことができる相手は、美樹さやかしかいない。悪魔は小さくため息をついて、そうしてほんの少しだけ顔を赤らめた。
* * *
ほむらとさやかはもう二十歳を過ぎている。
「なんだかあっという間に大人になったねえ、私達…」
「何を今更…」
さやかが「お酒は20歳から」と書かれたポスターを見ながら、しみじみ呟く。そうして、豪快にビールの入ったジョッキを飲み干した。あきれた様子でそれを見守るほむら。
「お、嬢ちゃん豪快だねえ、どうだい、もう一杯?」
「あ、はい、お願いします」
にこやかにカウンターの板前にさやかは笑いかける。「おう」と威勢よく答えてから、がっしりとした体躯の板前はさやかからジョッキを受け取って、下がっていった。
「ちょっと…本当にここなの?」
ほむらが眉を顰めながらさやかに囁く。ここは大学近くにある居酒屋のカウンター、割烹料理を売りにした、どちらかといえば、中年の男受けしそうな硬派な店である。店のBGMは昭和の演歌、ほむらが手に持っている茶碗は無骨に大きくて、魚の名前がびっしりと漢字で埋まっていた。
「大丈夫って…コンパ会場の名前はこの居酒屋だったわ」
「…信用できないわね」
フン、と言いながら、ほむらは大きな茶碗を手に取り、数回息を吹きかけてお茶を啜った。彼女は猫舌だ。
「はい、ビールお待ちどう!そっちの美人ちゃんもどうだい?」
輝きそうな白い歯を見せながら、板前が微笑む。刈り上げた短い髪に鉢巻き、がっしりした体躯に腕にびっしりと生えた体毛。どうみても一昔前の海の男だ。
「いえ…結構です、どうも」
気押されて、遠慮がちな声になる黒髪の相方を横目で見て、さやかはニヤニヤと笑う。こんな悪魔を見るのは初めてだ。
「……面白がらないでよ」
さやかの視線に気づき、きっ、とほむらが睨む。肩をすくめるさやか。
「ごめん、なんだか新鮮でさ…あれ?」
さやかが目線をあげる。その視線に合わせるほむら。大学生らしき若者が数名ぞろぞろと店内に入って来た。
「まどかだ」
「そうね…」
可愛らしいワンピースを着て、にこやかに笑うまどかが店内の奥へ入っていく。友人らしき女性と少し派手な軽薄そうな男性が数名見えた。ちらりとすぐ横にいるほむらの顔をさやかが覗き見る。この世の終わりのような表情を黒髪の美女は浮かべていた。
「ちょ、ちょっと…何そこまで辛そうな顔してんのよ!」
「だって…あんな軽薄そうな男と…まどかが…個室で」
「いやいやいや、あんた何言ってんの!ただのコンパだし、考えすぎよ!…あいたぁっ!」
思わず大きな声をあげて飛び上がるさやか。ほむらがさやかの足を踏んだのだ。パンプスのかかとがさやかのスニーカーに刺さる。
「ん?」
「どうしたのまどか?」
桃色の髪の女性――まどかがカウンターの方へ顔を向ける。
――誰もいない。
「ううん、なんでもない、なんか友達の声が聞えたような気がして」
「そうなの?もしかしたら飲みに来ているのかもね」
「うん、それだったらいいのにね…えへへ」
そうしてまどかと友人は、奥の個室へと入っていった。
「……行った?」
「行ったわ」
カウンターで上体を限界まで屈め、ほむらとさやかは身を潜めていた。涙目でさやかがほむらを睨みながら身体を起こす。
「ちょっと…なんで人の足を踏むのよ!」
「貴方が悪いのよ…ただのコンパだなんて、私は真剣なのに…」
口を尖らせて拗ねるほむら。う、とさやかは口ごもる。どうにもさやかはこの美貌の友人に弱い。どうしても見惚れてしまって反論ができないのだ。
「う…わ、悪かったわよ…ほら、あんたも飲みなって、すみません、日本酒お願いします!」
はあ、とため息をついて、ほむらは姿勢を正す、どうやら気を取り直したようだ。黒髪を梳いて、そうして、蒼い髪の友人に囁いた。
「…ねえ、ここってワインはないの?」
* * *
冷えた日本酒が喉を通るのは格別に気持がいい。さやかは「美味い」と唸りながら、コップの酒を飲みほした。まるで中年男性のような飲みっぷりだ。その横で、ちびちびと同じく日本酒を味わう黒髪の美女。二人とも顔が赤い。すでに店に入ってから一時間は経過している。
「どう?日本酒もなかなかいいでしょ?ほんとはバーボンが好きなんだけどね」
えへへとさやかは笑う。
「そうね…私もワインが好きなんだけど、これもなかなか…いけるわ」
コップの先を持ち、くるくると回すほむら。そうして頬にあて目を瞑る。酔いが回ってきたのだろう、なんだか艶っぽくなった友人に見惚れてさやかは視線を外せなくなってしまった。
「あら?何見ているの、美樹さやか?」
とろんとした目で見つめられ、囁かれる。
「え…いや、あんたなんだか色っぽいわ」
「あら…何、いつもはそうでもないってこと?」
「いや、違うわ、あんたは…いつも綺麗よ」
顔を赤らめて、さやかは囁く。そうなのだ、彼女はいつも綺麗なのだ。夜、寄り添いあって眠る時の彼女の顔を思い出して、さやかは目を伏せる。
「……変な人」
くすくすとほむらは目を細め、笑いだした。そうして、ことん、と頭をさやかの肩に乗せ、もたれかかる。驚くさやか。
「…一緒に住んでるくせに、くどいてどうするの?」
「え、いや、それは…」
上目使いでさやかを見上げるほむら。それはあまりにも妖艶で、美し過ぎて、さすがに同性のさやかでもどうにかなりそうだ。ごくりと喉を鳴らした後、さやかは視線を反らし、わざと大きな声で話題を変えた。
「まどか達、遅いなあ…そろそろ終了してもいいんじゃ」
「そうね…貴方見に行ってきてよ」
「無理でしょ!」
* * *
「お疲れ様でしたー」
「お疲れ様、また飲みましょう」
個室から、数名の若者が出てきた。特にカップルが成立したわけでもなさそうで、皆それぞれに帰路につく。
「…?まどかどうしたの?」
短大の友人が、不思議そうにまどかに声をかけた。桃色の女性が、何かを見つけたように声をあげ、カウンターの方を見つめているからだ。
「うん、私、もう少し残ってから帰るね」
「え?誰か知り合いが店にいるの?」
「うん、二人もね」
てへへとまどかは笑った。
* * *
「まったく、しょうがないなあ…」
困ったような、嬉しいような複雑な表情を浮かべてまどかは「二人」を見ていた。
「ん…まだ飲め…」
「う…ん…」
身じろぎしながらカウンターで突っ伏して眠りにつくさやかと、その背中に顔を寄せて、もたれるように眠る黒髪の女性。まどかを見張っているつもりが、二人とも酔いが回って潰れてしまったのだ。
「嬢ちゃん、この子達の友達かい?」
板前が笑顔を浮かべながら声をかけた。まどかが頷くと、そうかい、と板前が笑った。
「気持ちよさそうに寝てるもんだからさあ、もう少ししたら嬢ちゃん起こしてくれないかな?」
「はい」
まどかは微笑みながら二人を見つめる。
二人を起こしたら、三人で飲もうと思いながら。
END
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ほむら酩酊する
大学生ほむら、さやか、まどかがほろ酔いになりながら飲み続ける話です。
心に響く歌というのは、時代を超えて、世界も越えて万人に通ずるものである。特に演歌はそうだと、美樹さやかはすぐ隣に座っている幼馴染に告げられた。
「ほんとうにね…演歌って人の心を掴むんだよ、あ、この曲もとてもよくって…」
両手を合わせながら、桃色の髪の女性はにこやかに微笑む。その横で「そう?」と呟きながらさやかと更にその隣に座っている黒髪の美女は店内の曲に聞き入った。
「……うん、まあ心に響くわね」
そう言って、さやかは日本酒の入ったグラスを口につけた。さきほどまで彼女は酔いつぶれていたのだが、少し眠ったからか回復しているようだ。そうしてさやかはちらりと隣でおとなしく座っている黒髪の友人を覗き見る。大学で「人外」と揶揄されるくらいの美貌の持ち主が、グラスの日本酒をちびちびと飲んでいる。顔は赤い、すでに彼女自身の飲酒の「致死量」は超えているはずだ。彼女が泥酔したらどうなるのだろう?とさやかは密かに戦慄した。
「フフフ…」
妙に艶っぽくなってしまった黒髪の美女が、グラスを持ちながら微笑んだ――焦点が定まらないのかカウンターの前に置かれている新鮮な魚介類に視線を向けながら。そうして、ゆっくりと、桃色の髪の女性へ顔を向ける。
「まどかの好きな曲なら私も好きよ…」
「わあ!」
そう呟きながら黒髪の美女はすぐ隣のさやかに倒れるようにもたれかかってきた。その勢いで、さやかは桃色の髪の女性――まどかにもたれかかる。まどかが悲鳴をあげながら笑った。
「ちょ、ちょっと、あんた、喋るかもたれるかどっちかにしなよ!」
さやかにもたれかかった黒髪の女性は、猫のように目を細めながらその腕にしがみついている。だいぶ酔いが回っているようだ。普段の彼女なら人前で蒼い髪の友人に対し例え事故でもこのようなことはしない。
さやかの言葉に数テンポ遅れて、黒髪の女性は目を開けた。
「あら…私とまどかの間に入るなんて…貴方何様?」
「さやかよ!てか、あんたがこの席でいいっていったんでしょうに!」
まどかが思わず吹き出した。
「もう、二人ともさっきまで酔いつぶれてたなんて思えないね」
にこやかにまどかが微笑むと、さやかと黒髪の女性は同時に照れくさそうに微笑んだ。
そう、二人はついさきほどまでは酔いが回って、このカウンターで潰れていたのだ。
* * *
美樹さやかと暁美ほむらは、鹿目まどかが短大の友人達とコンパに行くと聞いて、そのコンパ会場であるこの居酒屋で張り込んでいた。張りこみといっても、カウンターで日本酒を味わいながらのものだが。
『……コンパなかなか終わらないわねえ』
いい加減酒豪のさやかでもだいぶ酔いが回ってきたのか、顔はほんのり紅潮している。
その横でさやかにもたれるようにして、不安げに奥の個室へ視線を向けるほむら。こちらは顔がだいぶ赤い。それなのに、まだ飲む気なのかグラスは持ったままだ。
『…大丈夫かしら…中で何か…』
悲壮な表情でほむらが呟くと、さやかが苦笑した。
『大丈夫よ、そんなことないって、みんないい大人よ?』
『……いいえ、わからないわ…まどかはあんなに…可愛いし…優しいし、きっと…貴方みたいな見境ない人にも優しくて…断れなくて、それで…きっと』
『いやいや!失礼な!てか何また変なこと言ってんの!大丈夫に決まって…あいたあ!』
さやかが悲鳴をあげた。ほむらがさやかの腕に顔を押し付けて、噛みついたのだ。
『いった…、あんた何すんのよ!』
相方の奇行に驚きながらも、涙目のさやかが抗議するが、顔を離したほむらが口を尖らせて応戦する。
『貴方が人の気も知らない鈍感だからよ…』
『そんなこと言われても…ちょ、ちょっと?』
ほむらが急に、さやかの背中に両手を置いて、力を入れる。不思議そうにしながらも力に抵抗せず、さやかはカウンターに前のめりになった。さやかの背中に温かいものがあたる。
『気持いい…』
ほむらがさやかの背中に顔を押し付けて目を瞑る。
『枕か!』
酔いが回ってやりたい放題な相方に辟易しながらも、それでも彼女に頭があがらないさやかは文字通り、そのまま前のめりになって、両手を枕にした。ちょうど、学校の休み時間に机で眠る体勢だ。しばらくすると規則的な相方の寝息が聞こえきた。
『まったくもう…』
相方の温かい息を背中に感じながら、さやかは苦笑する。どうにもさやかは彼女に弱く強く出ることができない。それには色々理由があるが、とにもかくにもいつも自分を押し殺しているこの黒髪の友人が、素直になることはさやかにとっても嬉しいことであった。そのままさやかも目を瞑ってしまう。
――さやかちゃん、ほむらちゃん?
それからまどかに声をかけられるまで、二人はカウンターで寝入ってしまったのだ。
* * *
「いやあ…さっきはびっくりしたわ…」
照れたようにさやかは頭を掻きながら苦笑いする。そんなさやかにまどかも笑って。
「私も驚いたよ?だって二人ともカウンターで酔いつぶれているんだもの」
「いや、面目ない」
右手を前にかざし、おじぎをするさやか。まるでお侍のようだ。思わずまどかはまた笑ってしまった。二人がこの居酒屋にいた理由は既にさやかからまどかは聞いている。その時もまどかはただ優しく笑って、「しょうがないなあ」とさも嬉しそうに目を細めたのだ。
「でもほむらちゃんは大丈夫?顔、真っ赤だよ?」
まどかがさやかにもたれかかっている黒髪の女性を覗き込む。何故か黒髪の女性――ほむらは照れたように、さやかの身体に隠れ、そうして顔だけまどかに向けて囁いた。
「…大丈夫よ、私は…まどかが無事なら全然平気よ」
「もう、過保護だなあ、ほむらちゃんは」
いひひ、と子供のように無邪気に笑うまどかに、ほむらは熱い視線を送る。
そんなに熱い視線を送るくらいなら隣に座ればいいのに、とさやかはそう思うのだが、さきほどから当の本人は照れてしまって、一番端の席に座っている。まどかのことになると彼女は、まるで思春期の純情な少女のようになるのだ。
「本当、こいつまどかのことになるとめちゃくちゃ甘くてさあ…あいたっ!」
ほむらに脇をつねられ、さやかは声をあげる。顔をしかめながら、さやかがほむらを睨みつけると、逆に睨み返された。射るような視線のアメジストの瞳。さやかにしか聞こえないような小さな声でほむらが囁く。
「余計なこと言ったら殺すわよ…」
――何よ、この違い!
さやかは思わず心で叫んだ。
「あ、すみません、おかわりお願いします」
「はいよ!いやあ、嬢ちゃんなかなか強いねえ」
その横で、まどかがグラスを手に持ち、板前さんに声をかけている。並々とグラスに日本酒が注がれていくのを嬉しそうに眺めるまどかを見て、さやかが驚いたように声をあげた。
「まどか…あんたってお酒強いわねえ、それ、四杯目じゃない?」
「そうだっけ、えへへ、日本酒好きだから…美味しくて特に気にしてなかったかなあ」
のんびりと微笑んで、まどかはグラスを口にする。顔色も変わっていない。確か彼女はコンパでも飲んでいたはずだ。ふと、さやかは気になってまどかに質問する。
「ねえ、まどか…コンパの時はどれくらい飲んだの?」
「う~んと、覚えてないなあ、確かN大の男の子にいろいろ勧められたんだけど」
「…許せないわ、まどかにお酒を勧めるなんて…人間共」
「ちょ、あんたの怒りは広すぎよ!」
まどかは笑いながら答える。
「あはは、でも結局全部飲んじゃって、逆に男の子達が酔っぱらっちゃったみたいだけどね、えへへ」
まるで天使のように微笑む幼馴染を見つめながら、さやかはこの子は「ザル」なんだとようやく理解した。かなりの量の酒を摂取しているにも関わらず、顔色も変わっていない。しかも酔った時の浮遊感はあるのだろうが、意識もしっかりしている。かたや…右にいる悪魔はほんの2、3杯で顔を赤くし、自分の身を支えられないのか、さやかにもたれかかってきては、時折フフフ、と妙に艶のある笑い声を洩らしたりしている。酒に強い女神と壊滅的に酒に弱い悪魔。そして中庸の鞄持ちである天使。
「なんだか、対照的だわ…」
「え?」
「あ、いやなんでもない。それより、この店って、まどかのチョイス?」
「あ、わかった?えへへ」
さも嬉しそうに微笑むと、まどかはこの、昭和の香り漂う渋い居酒屋の良さについて語りだした。店内の徹底した昭和の「和」の雰囲気と、演歌のBGMしか流れない店内、そして茶碗が渋くて素敵なこと…とても楽しそうに喋る彼女を見るのは、さやかにとっても、もちろんほむらにとっても幸せなもので、三人は夢心地なこの幸せな時間を談笑で過ごしはじめた。
* * *
「…私はね、アクチニウムが好きなのよ」
うっとりとした表情で、グラスを持ちながら、ほむらが気持良さそうに喋る。その目は伏し目がちで、目の前に置かれた刺し身を見つめていた。彼女はもう…随分と酔っていた。
「何よ、それ…食べ物?」
さやかも随分といい感じで酔いが回っているが、まだ朦朧としている訳でもなく、ほどよく上機嫌になって、へらへらと周囲に笑みを振りまいている。その軽薄さ加減が気にくわなかったのか、それとも質問が気に入らなかったのか、ほむらはじろりとさやかを睨むと、左手を挙げた。ふらふらと危い軌道でその白い手が孤を描く。
ぱちん
おそらくいつもの通り、さやかの額を叩こうとしたのだろうが、狙いを外して顔面にヒットした。顔を抑えるさやか。
「いったあ…あんたスナップ効きすぎよ!花火が散ったわ」
「あら…珍しく外れたわね、フフフ」
「フフフって!」
その横でまどかも笑う。
「さやかちゃん、それ言うなら火花だよ」
「あっ、そうか…」
「フフフ…ほんと馬鹿ねえ」
そうして三人は笑いだす。今のこの上機嫌な状態なら、彼女達は箸が転げても笑うようだ。
「あ、ねえ、ほむらちゃん、アクチニウムってなあに?」
「元素記号よ、番号89で…」
まるで人のように、ほむらは元素記号を嬉しそうに語る。彼女は化学を専攻していた。
意外と学問に打ち込んでいるのだと、さやかは内心驚くと同時に、黒髪の女性は酔うとマニアックな性質が出てくるのだと気付いた。
「へえ、ほむらちゃんって…意外とマニアックなんだね」
天然なまどかが無邪気に微妙なことを口にする。するとほむらは嬉しそうに微笑んだ。照れているのだろう、黒髪を梳きながら、伏し目がちになりながら囁く。
「フフフ…まどかにそう言われると照れるわね」
「いや、あんたそれ褒めてないからさ…」
「黙りなさい」
今度はほむらの左手がさやかの頭にヒットした。笑いだすほむらとまどか。と、まどかがほむらのグラスが空なことに気付く。
「あ、ほむらちゃん、グラス空だよ、もっと飲む?」
「あ、まどか、ほむらもうやばそうだから水で…」
「大丈夫よ…まだまだいけるわ」
真剣な表情でまどかを見つめるほむら。心配そうなさやか。
「ちょっと、あんた酒弱いのに…」
「だめよ、まどかが日本酒を飲むなら、私も飲み続けるわ…」
「いやいや、そんな使命みたいに!」
まるで重要な使命のように、悲壮な表情でグラスを持つ黒髪の美女を見て、なんだか滑稽なような切ないような複雑な気分になるさやか。
「無理しちゃだめだよ、ほむらちゃん?…あ」
と、まどかが何かに気付いたように天井の方を見上げる。不思議そうに見つめるさやか。
「どしたのまどか?」
「うん…あ、これ、この曲…うわあ懐かしい」
目を輝かせるまどかに気付いたのか、板前が嬉しそうに声をかけた。
「お、嬢ちゃんもしかしてこの曲知ってるのかい?嬉しいねえ」
「はい!この曲大好きなんです!」
どんなジャンルであれ、人は思い出深い曲と思わぬところで再会できると嬉しいものらしい。まるで人と人との出会いのように。まどかはまるで懐かしい人に再会できたように、うっとりと目を瞑り曲に聞き入った。さやかとほむらもつられて一緒に聞き入る。女性が愛しい男と、貧困を乗り越え、夫婦(めおと)になって共に生きていこうとする力強い歌だ。途中、極寒の地の表現が入ってくる。昭和のコテコテだがストレートな表現の盛り上がりを見せるメロディと、拳の聞いた女性の声がこれまたそこらへんのロックよりも力強く逞しいとさやかは思った。ほむらはこくこくと頭を動かしている、聞いているのかそれとも眠たいのかわからないような相槌だ。
「しっかし、まどかも渋いわねえ…」
人間の趣向というのは不思議なものだ、とさやかは思った。
「えへへ…あ、ここ、このフレーズがいいんだよ」
そう言って、まどかが左手をおろしながら、ぐっと力を入れた。演歌歌手がよくやるいわゆる「拳を効かせる」という奴だ。さやかは幼馴染の無邪気さに微笑んだ。そして、ふと、おとなしい隣が気になり、黒髪の女性を見やると、何やら右手を上下に動かしていた。「じゃんけん」でもするのだろうかとさやかは思い、つい咄嗟にチョキを出すとあきれたように彼女は囁いた。
「…何しているの美樹さやか?」
「へ、何ってあんたじゃんけんしようとしてたんじゃないの?」
「違うわよ…まどかの真似をしようとしていただけよ」
「嘘!」
どうやら彼女なりの「拳の効かせ方」らしい。
「ふふふ、さやかちゃん、拳の効かせ方は人それぞれだからいいんだよ」
「そう?そうだろうけど」
まあ、楽しそうだしいいか、とさやかは未だに「じゃんけん」をしているかのような動きをしている相方を見つめた。
* *
それから三人は結局店の閉店時間まで飲み続けた。
「いやあ、もう随分遅くなったねえ、まどか大丈夫?ここで?」
「うん、大丈夫、ほら家は目の前だから」
タクシーから降りながら、まどがが家を指差して微笑む。まったく酔っていない(ように見える)彼女を見てさやかは内心驚いていた。別の意味でかつて大いなる概念だった彼女に対し畏怖の念を覚える。
「ねえ、まどかあんたいつの間にあんなにお酒強くなったの?」
「へ?ふふふ、変なさやかちゃん、私はそんなに強くないよ?」
「またまた、あんなにまどかがザル…あいた」
ぱちん、とさやかは額を叩かれた。驚いた顔で見上げるさやか。黒髪の相方以外にこんな風に叩かれたことはないのだ。そこにはとても大人びた表情で微笑んでいる幼馴染がいた。
「だめだよさやかちゃん、女の子に「ザル」って言っちゃ?」
「ああ、ごめんつい…」
しどろもどろになるさやかにまた微笑むと、まどかは隣で寝込んでしまっているほむらを優しく見つめる。
「ほむらちゃん、飲みすぎちゃったから起きないね…また一緒に飲もうって伝えててくれる?」
「もちろん、伝えておくわ」
「うん、それじゃあまたね」
そうして二人はまどかと別れ帰路についた。
* * *
「ほら、ほむら家に着いたよ…」
「ん…」
飲みすぎたからか、ほむらは一向に起きようとしない。さやかは自分の首に腕を絡めて目を瞑ったままの相方を見て口元を緩めた。タクシーから降りて、さやかはほむらをおぶって部屋まで辿りついたのだ。ゆっくりと相方の身体をずらし、ベッドへと下ろす。もうそのまま眠らせた方がいいだろうと、さやかは判断したのか、そのままほむらにシーツを掛けようとした。と、ほむらがうっすらと目を開ける。
「…ここどこ?」
「家よ、あんたの」
「そう…」
しばらく二人は見つめ合う。そうして、ほむらは白い手を伸ばす。さやかの首に腕を絡めると、そのまま引き寄せた。
「違うわ…」
「へ?」
「私と貴方の家よ」
「ああ…」
嬉しそうにさやかは微笑むと、そのままほむらの胸に顔を押し付けた。ほむらは目を瞑り、囁く。
「楽しかったわ…とても」
「そうだね…」
そうしてさやかも目を瞑る。ほむらの腰に手を回しながら。
「ねえ…」
ほむらが甘えるように囁いた。
「何?」
「……続き…しましょう?」
「……うん」
それが「何」の続きで、いつの「続き」なのかはお互いに言わなくてもわかっていた。二人は申し合せたように片方の手を絡め合い、強く握る。そうして、ゆっくりと身体を重ねていった――
* * * * * * *
さやかが目を覚ました時はすでに日は高く昇っていた。窓から差し込む陽光がまぶしい。
「ん…」
さやかがベッドの中で身じろぎすると、すぐ横でほむらが携帯をいじっていた。キャミソール姿のままでベッドにもたれて体育座りをしている。白い肌が眩しい。目を細めながら、さやかはほむらの腰のあたりを軽く叩く。ようやく気付いたのか、ほむらがイヤホンを耳から外しながら囁いた。
「あら、お目覚め…?」
「うん…」
だが、まだ起きる気はないらしい、そのままほむらの横で寝転んだまま、さやかはまた目を瞑る。白い手が伸びて、さやかの蒼い髪を撫でる。その指の動きは彼女の髪の感触を楽しんでいるかのようだ。手の主は何やら真剣な表情で携帯の音楽に聞き入っている。気持良さそうに目を細めながら、さやかは呟いた。
「…何聴いてるの?」
「聴きたい?」
そう言うと、微笑みながら黒髪の美女は片方のイヤホンを外し、蒼い髪の女性の耳へと入れた。その行為に既視感を覚えながら、さやかも音楽に聞き入る。
力強い拳のはいった女性の声、盛り上がる音楽。
「……これって昨日の?」
「ええそうよ」
嬉しそうにほむらは微笑んだ。よほど楽しかったのだろう、昨日あんなに飲んだというのに、ダメージは残っていないようだ。むしろ生き生きとしているといっていいくらいの相方に、さやかも笑顔を浮かべる。
こういう日がこれからもたくさんあって欲しい――
美貌の相方は無邪気に手を上下させていた。
まるでじゃんけんをするかのように――。
END
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さやかの災難
彼女が人ならざる者だからこそ生まれるギャグ時空…(なんと)
人生は、ほんのちょっとした手違いで大きく変わるものだ。喜劇にも悲劇にも。その転換点を人は運命の分かれ道と呼ぶ。
今ここに、その運命の分かれ道で極道に身をやつし、激しい後悔に襲われている男がいた。無機質な部屋のベッドの傍らに座り込み、すこやかに眠りに落ちている女を見つめている。男は上半身裸で、その半分以上は刺身が彫られていた。男はもうすぐ30歳になろうとしていた、そしてベッドで眠りこんでいる女性は20歳。憐れにも悪い男に騙され、多額の借金を背負いこの極道が通う裏風俗に身を堕としてしまった不幸な女だ。男は目を細めて女を見つめる。男は女に恋をした。今までの自らの悪事を後悔するくらい純粋でそして激しい恋を。
――なあ、俺がヤクザをやめたら、お前、一緒にくるか?
――でも私、いっぱい借金があるわ、ほんとにいっぱいよ?
――俺がなんとかしてやるよ
そう言って、二人は抱き合った。
――二人で逃げよう
そう誓い合い、先ほどまで男のこの無機質な部屋で愛し合った。男は…初めてヤクザとしての自らの所業を激しく後悔していた。真実の恋をすることで男の心は冗談のように改心していたのだ。
男は唸りながら頭を抱える。
借金はどうにかなるにしても、問題は足を洗うことだった。この世知辛い時代に、親指一本だけでヤクザをやめることができるかどうか、男にはまったく見当がつかない。しばらくほとぼりが冷めるまでどこか遠くで隠れることができれば、あるいは…。
そうして男は思いつく、今日、男の所属している組と新しく立った組との抗争がある。その時のどさくさに紛れて逃げてしまえばなんとかなる…と。
それもまた、後にして思えば大きな「運命の分かれ道」だったのだ――。
* * *
「え…うん、今日は大丈夫よ、定時に帰れるから」
美樹さやかはそう言って、時計を見る。午後2時30分。特に事件は起きていない。
『…大丈夫よね?今日で最後なんだから…あの映画』
さやかの携帯から艶のある声が聞こえる。映画好きな美しい悪魔…彼女の相方だ。さやかの口元が緩んだ。
「大丈夫って、それじゃ6時30分までには帰ってくるから」
『……本当に?』
思わず吹き出したくなるのを抑え、さやかは目を細める。きっと窓で外を眺めながら、腰に手をあて口を尖らせているんだろうな、と想像する。
「……本当よ」
『……遅れたら許さないわよ、おまわりさん?それと…』
「何?」
『……一応、がんばって』
照れくさそうな声を最後に、返事を待たずに電話は切れた。思わず苦笑いを浮かべるさやか。彼女のこんなわがままで、それでいて可愛らしい部分を知ると何故か無性に嬉しくなる。一人、へらへら笑いながら身を翻すと、すぐ近くに白髪の男が立っていた。
「うわっ、主任…」
「主任じゃねえ、馬鹿野郎、何仕事中にいちゃこら電話してんだコラ!」
「わあ、す、すみません!」
どっ、と周囲に笑いが起こった。
ここはさやかの所属するマル暴の刑事の詰め所だ。地味なスーツを着こなす者もいれば、派手なヤクザ紛いの身なりのものもいた。全て刑事である。
「主任、いいんじゃないですか?ようやく美樹にも男ができそうだし…」
「お、男じゃありません!」
「美樹に男は100年早いよ」
「死んじゃってるじゃないですか!」
腹を抱えて笑う刑事達。ひどいようだが、これくらいのからかいはこの世界では当たり前なのだ。これで動揺するくらいなら刑事の資格は無い…が、美樹さやかにおいては全く問題ないようだ。白髪の初老の男は頭を掻いて、何か言おうとしたが、ちょうどその時、電話の内線が鳴った。静まりかえる詰め所。こういうタイミングの電話がどんなものか経験上、皆知っている。さやかも観念したように目を瞑った。
「はい…はい、わかりました」
電話を取った刑事が淡々と返事をする。受話器を置いて、ぼそりと呟いた。
「抗争です」
唸り声、気合い、それぞれ思い思いの声をあげながら、ガタン、ガタンと席を立つ。ヤクザ同士の抗争、マル暴の出番だ。
「残念だったな美樹」
ニヤリ、と笑いながら、刑事がさやかの肩に手を置く。つまりは超勤確定ということだ。
長いため息をついて、さやかも詰め所を出た。
* * *
男の所属する組は、雑居ビルの裏路地に事務所を構えていた。黒のスーツに身を包んだ男達が、違法銃を点検している。組には腕に覚えのある者も多いが、ハジキまで出てくるなら、間違いなく死人が出るだろう。男は周囲に合わせて自らも違法の銃を点検し、そしてスーツの内側のホルスターに収めた。ビュン、ビュン、と風の音が聞えたと思って横を見ると、日本刀で素振りをしている大男がいた。
「おまえら…舐められんなよ」
ヘイッ、と威勢のいい返事が響き渡る。組長の側近の男が腕を組み、睨みを利かせていた。ドスの効いた声でハッパを掛ける。
「いいか、出会い頭で一発かましてこいや、アア?」
オオオ、と応援団のように声が鳴り響いた。男は厳しい表情でそれを見つめていた。
――今日絶対に、俺はここから抜け出してやる
* * *
女は繁華街のビルの一角で立ちすくんでいた。
――一緒に逃げよう、待っていてくれよ?
そう、男と約束していたのだ。ここは今日抗争が起こる場所だ、危険ではあるが、その一角で男と待ち合わせ、そして…おそらく来るであろうサツの覆面パトカーを奪って逃げるのだ。
「ここにいると危ないですよ?」
女は小さく悲鳴をあげて、振り向いた。そこには黒いスーツを着た蒼い髪の女性がいた。思わず女は見惚れてしまう。蒼い髪の女性が美しかったから。年は自分より少し上なのだろうと、しばらく魅入ってしまうと、蒼い髪の女性は笑顔を浮かべた、人懐っこい笑みだ。
「あ…私こういうもんで」
スーツの内側に手を入れて黒の財布のようなものを出してきた。開くとバッジと彼女の写真…警察官だ。女は思わず口を抑える。不審げに思ったのか、蒼い髪の女性は一瞬笑みを消し、真顔になった。
「おい、どうした…」
女性の背後からもう一人…白髪の男が近づいてくる。おそらく刑事だ、と女は後ずさる。
「ああ、主任、このひとが」
女性が振り返った途端、女は逃げた。
「おい、美樹、追いかけろ!」
「はい!」
男の怒声と、女性の凛とした返事。蒼い髪の女性は颯爽と駆けだす。だが意外と女も逃げ足が早い。二人はビルの隙間の路地裏に消えていく。初老の男は足を止め、車の窓に手を入れ、無線を取った。がなり立てて応援を呼ぶ。かなりの焦りは仕方のないことだった、二人が消えていった路地裏の先がまさに抗争の場所だったから。
* * *
「ちょっと、危ないから止まりなさい!」
蒼い髪の女性が叫ぶ、だが女は止まらなかった。暗い路地裏から光が漏れ、大通りに出たと思ったその瞬間、銃声が鳴り響いた。耳を抑え立ち止まる女を、蒼い髪の女性は後ろから抱きしめ取り押さえる。そうして周囲を見渡して表情を強張らせた。黒服の集団がまるで格闘技のジムで組手をしているかのように、闘争していた。
――抗争がはじまっている
蒼い髪の女性は女を抱きしめたまま、顔を寄せ囁いた。
「動いたらダメ、危ないわ」
だが、女はその声が聞えないのか、その手を振りほどくと一目散に抗争の中へと駆けだした。
「ちょっと!」
数名の男達が女に気付くと、鬼のような形相で睨み、怒声を浴びせる。
「女ぁ、何、神聖な場所に顔出しとんじゃ、ぶち殺すぞコラア!」
「邪魔だアマぁ、どけやオラぁ!」
男が女に向かって、右手を放つ、顔面を殴られる――女がそう思った瞬間、男の悲鳴があがった。
「あたたたたた、痛ェ、痛ェよぉ!」
「女の子殴るってどういう了見よ…え?」
いつの間にか、まるでコマ送りのように蒼い髪の女性が、ぴったりと女の背後に立っていた。そして右手を伸ばし、女の肩越しから男の拳を握っている。ミシミシと軋む音がする、骨の軋む音だ。
「あがががが、があ…っ」
男が白目になった、骨が折れたのだろうか、ようやく女性が手を離すと、男は地面に倒れ込んだ。周囲にいた黒服の男達は見た事のない状態に唖然とし、しばし体の動きを止める。
「なんだ、おめえはあ!」
ようやく我に帰った一人が声を張り上げ、蒼い髪の女性に襲いかかる、そしてもう一人、もう一人と次々と飛びかかる。女性は一人目の男の一撃を器用に避けると、そのまましゃがみこみ、右足でコンパスのように円を描きながら、男の足を払い、立ち上がりながら体ごと次の男にぶつかった、漫画のように万歳をして吹っ飛ぶ男性。そしてその反動で体を反転し、長い左脚を相手の首にひっかけるようにして蹴りあげる。三名の男がほぼ同時に蹴散らされた。素晴らしい体術だ。
「すごい…」
思わず女が声をあげる。蒼い髪の女性は何やら浮かない表情を浮かべ抗争の集団を見つめる。ほとんどの男達が、抗争をやめ、こちらを見ていた。
「…やっちゃったわ」
蒼い髪の女性はぼそりと呟いた。
* * *
警察の比例の法則は警察学校で嫌というほど教えられた。
警察に先手は無いのだ、あるのは後手だけ。そして必要最小限の防衛手段のみで相手を取り押さえるのが重要で、相手を傷つけるなどしてはならない。
―――だけど無理かもしれない
と、さやかは思った。つい本気になって3名倒したばかりに、あろうことか、抗争の集団のほとんどがさやかを見ている。ヤクザに女性はいない(妻は別)、むしろこの世界では敵視される。そんな中、抗争という場にイレギュラーで入り、構成員を倒したのだとしたら、もはや美樹さやかは組を超えての共通の敵になってしまったのだ。
「ああ、もうなんてことよっ!」
思わず叫ぶ。そして地面に座り込んでいる、自分よりも年若い女性を見つめた。彼女がどういうつもりで逃げ出したのかはわからないが、とにかく、彼女は守らなければならないとさやかは認識した。
「逃げるわよ」
そう言って手を伸ばそうとした瞬間、必死に叫ぶ男の声が聞えた。
「小夜子っ!」
* * *
女は声の主を見て、涙を浮かべた。遠くに愛しい男が見えたのだ。女は一瞬、申し訳なさそうな顔で蒼い髪の女性を見て、そうしてまた駆けだした。
「ヒロシさん!」
その声を合図に抗争が始まった。あの蒼い髪の女性を中心に、ヤクザ達が群がってくる。蹴散らす女性。女と男は熱い抱擁を交わす。
「ヒロシさん!会いたかった」
「逃げよう、小夜子」
ちょうどあの女性が注意を引きつけてくれている。抱き合っている男と女は、そっと心の内で蒼い髪の女性に礼を述べ、そうして一目散に駆けていった。
* * *
――なんなのよあれはっ!
さやかは心で叫ぶ。つまりは駆け落ちとでもいうところだろうか。だが追いかけようにも、今は全く無理な状態だった。
「死ねやあ、女ぁ!」
日本刀で切りかかってくる男を器用に避け、素早く直線を描き、数発拳を鳩尾へと叩きこんで体当たりすると、さやかはそのまま、あの二人と同じ方向へ一目散に駆けだす。違うのは目指す先が橋の上ということ。怒声、罵声、銃声が飛び交う中、さやかは橋に辿り着いた。そうして縁へ足を掛けると川へと向けて一直線に飛び降りた。
* * *
サラリーマンである河合は、たまに、そうたまにこの風俗店へ来ることがある。
「今日はゆっくりしていってね?」
店の人気№1の女性にそう言われ、河合は有頂天になった。わくわくしながらガウン一枚で女を待つ。目の前にはベッドと風呂。女が入って来た、とりあえずワインを飲んで、二人はいい雰囲気になる。
ブクブクブク…
風呂から泡の吹き出る音がする。…?何かスイッチを入れたのだろうかと不審な表情を浮かべる№1。二人は肩を寄せ合いながら、風呂に近づいた。
派手な水音を立てて、勢いよく中から何か飛び出した。
悲鳴をあげて河合に抱きつく№1、ワインを零しそうになる河合。中から出てきたのはスーツを着たびしょ濡れの女性だった。ぶるぶると犬のように頭を振る、飛び散る水と、乱れる蒼い髪。
「…ひどい目にあった…」
ぼそりと呟いて、風呂からあがる。びしゃり、と革靴から音が鳴る。
口をぱくぱくと動かしても言葉が出ない河合、そして同様の№1。ようやく二人に気付いたのか、蒼い髪の女性は気恥ずかしそうに力なく笑う。
「あ…すみません、ごゆっくり…」
そうしてぴしゃぴしゃと音を立てながら、ゆっくりとドアを開けて風俗店を出ていった。
* * *
すべてが落ち着いて、さやかが家に着いたのは午後8時だった。トボトボと肩を落としながら家までたどり着くと、玄関の前で立ち止まる。ここは美しい家主が結界を張っているため、一般の人間は近寄ることすらできない。はあ、と浮かない顔でため息をつく。無理もない、6時30分には帰ると約束して、連絡すらしてないのだ。さやかの携帯には家主である美貌の悪魔から着信が5回も入っていた。意を決したようにドアノブを握ると、ガチリと音がする。鍵を掛けられていた。
「嘘…」
さやかの顔が青ざめる。さやかは家の鍵を持っていない。普段は結界でさやか以外の人間は入れないようになっているため、家には鍵を掛けていないのだ。だからこそ、こんな風に閉め出しを喰らうと精神的ダメージは大きいわけで…。
「ほむら!」
ドンドン、とドアをさやかは叩く。
「ごめん、ちょっと急に仕事が入って…ねえ、開けてよ!ごめんなさい!」
太鼓のように両手でドアを叩き、何度も謝罪の言葉をかけるが、ドアは一向に開く気配もない。眉を下げ、困り果てた表情のさやか。そうして何か思いついたのか、目を輝かせる。
「レイトショー!ねえ、ほむらまだ間に合うから行こう!なんでも奢るから!」
だが、返事は無い。
「もう…」
がっくりと肩を落とし、さやかがドアへもたれようとした瞬間、ドアが内側から開かれた。
ぱああ、と表情を輝かせるさやか。
「ほむ…」
白い手が伸びてきて、乱暴にさやかの胸倉を掴む。わあ、と間の抜けた声をあげ、さやかはすごい勢いでドアの中へ引き込まれた。
ガチャガチャと激しい鍵の音。
さやかがその後、どのようなお仕置きを受けたのかは悪魔しか知らない。
了
<余談>
夜の映画館は意外と込み合うものだった。映画券売り場でバイトしている女性は少し疲れたのかため息をついて、肩に手を置いた。その横で、同じくバイトの女性が頭を揉んでいるのを見て、つい笑いが漏れた。
「まだだいぶいるわね」
「そうね…あ、ほら見て絵美!」
「え?」
絵美と呼ばれた女性は、バイト生の指差す方向へ視線を向ける。彼女の顔が明るくなる、無理もない、この映画館では有名な美しい客が来たからだ。長い黒髪の女性と、蒼い髪の女性。二人とも美人で映画館のスタッフには隠れファンも多い、特に黒髪の女性は恐ろしいほどの美貌で、男性スタッフに圧倒的な人気があった。なにやら蒼い髪の女性は疲れた様子で、黒髪の女性の方が嬉々としてチケット売り場へ近づいてきた。黒髪の女性は今日までの上映のSF映画を選んだ。
「はい、それでは10時30分上映のこの映画ですね、何枚…」
絵美が言い終わる前に、黒髪の美女が答えた。
「大人2枚よ」
そう言って、手を突き出した、まるで子供が自慢げにピースサインをしているようだ。
あまりに可愛らしすぎたので、絵美は幻覚でも見たのかと思った。
* * *
「ポップコーン2つに、ホットドッグ2つに…」
「ちょ、あ、あんたそんなに食べれるの?」
思わず美樹さやかは囁いた。店員に注文をしているほむらがじろりとさやかを睨む。
「知らないわ…でも貴方が奢るのよ」
フン、とまたそっぽを向く。
――ま、まだ怒ってるじゃない!
さやかは心で叫んだ。
「ほら、持ってなさいよ」
「うわ」
大量のポップコーンやらホットドッグを持たされ、心もとない歩き方をするさやか。
その様子を見て、ほむらはため息をつく。
「まったく、情けないひとね…」
「だって…」
しょぼくれた相方を見て、憐れと思ったのか、とうとうほむらは口元を緩め、吹き出した。
「…しょうのない人」
そう言って、ほむらは歯を見せて笑った、そうしてその腕をさやかの腕に絡める。
「仕事…忙しかったようね」
「とても…」
「そう…」
しばらくして、ほむらの美しい顔が、さやかの耳元へあてられた。
「おつかれさま」
小さいとても小さい声でほむらは囁いた。そうして唇で軽く頬をついばんだ。
顔を赤くするさやか。
目を細めるほむら。
いつもは映画がはじまってからすぐに眠りにつくさやかが、この日はまったく眠らなかったという…。
END
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ほむら旅行する
ほのぼの、エロ(匂わせ)、ちょっとした伏線(シリアス路線の)あり、「ほむら買い物に行く」(R18)の続きでもあります。
ガタン、と大きな音を立てて車体が揺れる。ワインレッドに塗装された車体に、森の影が映し出され、モザイクのような模様が浮かんだ。
ここは○市の郊外。すでに道は舗装されてなく、青い空と緑生える林道を、4WDのワインレッドの無骨な車が颯爽と走っていた。
「いや~いい天気になったわねえ」
運転席でハンドルを握っている蒼い髪の女性が、陽気な声で後部席にいる友人達に話しかけた。デニムに白のパーカーとスポーティなファッションに身を包んだ彼女は、手慣れた動作でハンドル横にあるシフトレバーをチェンジする。
「ちょっと、貴方」
「へ?」
パチン
乾いた音が響いた。
後部座席から運転席へ身を乗り出した黒髪の女性が、後ろから運転手の額を器用に叩いたのだ。
「あいたっ…ちょっとお」
「運転手は前を見て、黙りなさいな」
「はあ?私ちゃんと…」
白い手が伸びた。後ろから黒髪の女性が運転席ごと運転手を抱きしめる。ぎゃあ、と変な悲鳴があがった。
「今、こっち向いたわ…」
「今でしょ!てか、やめて、首が苦しい!あ、危ないわ!」
必死に抗議する運転手、それでも視線はしっかりと前方に向けられて。
「ほむら!降参!」
運転手が叫んだ。後ろから運転席ごと抱きしめている女性は、その美しい容貌をとうとう耐えられないという様に緩ませて吹き出した――彼女は運転手をからかっていた。
「もうほむらちゃん、危ないよ?」
同じく後部座席に座っている、桃色の髪の女性が、黒髪の女性の奇行をたしなめる。あら、と黒髪の美しい女性――暁美ほむらは振り向くと、髪を右手で梳きながらおとなしく座席に座りなおした。
「まどかがそう言うならやめるわ」
「ひど!ひいき!」
運転席の蒼い髪の女性が抗議の意を表して、頭を揺らす。そのユーモラスな動きに今度はまどかが吹き出した。中学時代から周囲を明るく盛り上げてきた蒼い髪の女性は、10年経って成長した今でも変わらずそうらしい。まどかは頬に手をあてながら、笑顔で囁いた。
「もう、さやかちゃんは相変わらずだね」
「ほんと相変わらず馬鹿ね」
そして黒髪の美女も合わせたように囁く。息ぴったりだ。
――何これ、なんかの罰ゲーム?
思わず美樹さやかは心の中で呟いた。そうしてバックミラーに映った後部座席の二人の女性を見る。
ミント色のショートパンツに白の可愛らしいブラウスを着た幼馴染と、淡い水色のロングワンピースに白のカーディガンを羽織った相方。二人は似ていない姉妹のように仲睦まじく笑っていた。いつも何かに追われているように緊張している表情の相方が、こんな風にリラックスしているのをさやかはあまり見たことがない。
――よかった
ふ、と口元を緩め、さやかは運転に集中する。と、頬に柔らかいものが触れた。
「ワン、ワン!」
「わあっ、モ、モカ!」
へっ、へっ、へっ、と口元をだらしなく開けながら、つぶらな瞳でさやかを凝視している大型犬――モカは、さっきまで、窓の外に身を乗り出していたというのに、いつの間にか助手席に収まりさやかにじゃれはじめていた。モカは「おいでおいで」をしているかのように、右脚をちょい、ちょいとさやかにあててくる。それがちょうどさやかの頬に当たったのだ。犬の柔らかい肉球の感触を味わいながら、さやかは叫ぶ。
「ちょ、モカやめなって、遊ぶのはペンションに着いてから、こらっ」
「ワン!」
「わかってないじゃん!」
その様子を見て、後部座席からひと際大きく笑い声があがった。
* * *
まどかの手作りチョコレートのお礼にと、ほむらが郊外の旅行を提案したのは二週間前の事。まどかは驚いたが、喜んでそれを享受することにした。ほむらも大層喜んで、二人の旅行計画の話ははずんだ。
『郊外なら…モカも連れて行きたいなあ、いつも公園でしかお散歩できないから』
『それはいいわね、郊外にいいペンションがあるのよ、ペットも同伴可能よ』
『うわあ、嬉しいなあ、広いところでモカとお散歩したかったの…でもどうやって行くの?』
ほむらが車(しかも4WDの大型車)で出かけるのを提案した時には、まどかも驚いた。だって、提案した友人は車の免許を取得していなかったから。
『家に優秀な運転手がいるのよ』
運転手…?首をかしげるまどかにまた、黒髪の友人が追い打ちをかけるように囁いた。
それはもう嬉しそうに微笑みながら。
『それにモカのお相手に私も犬を連れて行くわ』
* * *
「…運転手で犬かあ」
フフ、とまどかの口元が緩む。
「どうしたの?まどか…」
急に何かを思い出したように微笑んだまどかをほむらは優しく見つめた。
「うん…ほむらちゃん家のワンちゃんはおりこうだなあって…」
ティヒ、と子供っぽく笑うと、まどかは視線をほむらから前方の運転席へと移した。つられてほむらも視線を映す。
蒼い髪の運転手がカーオーディオに触れようとする大型犬をたしなめていた。
ほむらの形のいい口元が一瞬緩む。
「まあ、そうね…車の運転も出来るから上出来かしら」
「もう…ほむらちゃん、ちゃんと褒めてあげないと、犬は意外と寂しがり屋だよ?」
「あら、そうなの?」
二人、一瞬見つめ合うと、同時に笑った。
話題になっているとは夢にも思わず、モカとじゃれている運転手。
「…いいなあ」
「え?」
まどかの呟きに、不思議そうに反応するほむら。
車窓の風景に視線を映してまどかが呟く。
「こんな時間がずっと続けばいいのに…」
「まどか………」
ほむらはそっと、目を伏せて、……そうね、と小さく囁いた。
「ほむら!」
名前を呼ばれ、彼女は顔をあげる。
運転席の彼女の「忠犬」が、したり顔で前方を指差していた。何やら林の中に建物らしきものが見える。目的地のつもりだろうが、それはただの廃屋だった。はあ…とため息をつくと、黒髪の飼い主は運転席に身を寄せた。
ぱちん
いつものとおり、飼い犬の額を叩く。
「あいた!」
「馬鹿ね、あんなにちっちゃな建物な訳ないでしょ?」
「だって…わっ苦し!」
そうしてまた運転席ごと飼い犬を抱きしめた。
「ほんと馬鹿ね…」
悪魔の表情はとても…。
* * * * * * *
目的地に着いたのはそれからほどなくして。
広大な敷地を有し、犬同伴可能なそのペンションは、緑豊かな静かな林の中に佇んでいた。ほむらの大学時代のツテで予約が取れたのだが、予約待ちで一年以上はかかるほど人気があるクチコミの店だ。
「うわあ…綺麗」
車から降りたまどかが感嘆のため息を漏らす。
白を基調とした美しい二階建ての木造洋風建物。周囲には青々とした木が茂っていて、
鮮やかな緑映える洋芝に、レンガの歩道が敷かれている。それが駐車場から本館の玄関まで孤を描くようにして続いていた。
「ほんとうねえ」
まどかの傍でさやかもその風景に見惚れながら囁く。
「さやか」
ほむらが車のトランクの傍で手招きしながら相方を呼んだ。
「あ、ごめん」
反応よくさやかは駆け寄ってきた。満足気に頷く黒髪の相方。さやかが中の荷物を取り出しはじめると、二人で手分けして荷物を車から降ろす。
「ありがとう、さやかちゃん」
まどかが普段持ち歩いているバックを受け取る。そしてほむらも。さやかもリュックを取ると、今度は大きめなピンク色のスポーツバッグを持った。
「あれ?さやかちゃんそれ私の…」
「いいのいいの、私が持つって、それよりさ、モカちゃんよろしく」
「ワン!」
助手席の窓から顔を出し、主人を見つめているモカ。まどかは破顔して、モカの元へ駆け寄っていく。
「あら、優しいのね」
さやかの傍にほむらが寄り添うように立つ。ほむらが目を細めてさやかを見上げると、さやかは得意げにえへへと笑った。が、次の瞬間顔をしかめる。ほむらが脇を小突いたのだ。
「いたた…っ、な、何よっ」
「へらへらしてるからよ…ほら」
「へ?」
ほむらの白い手がさやかの足元を差す。白の上質な革製のトランクケース。一泊にしてはかなり大きい。
「私のケースに貴方の着替えも入っているのよ?」
「そうだったわ…」
「寝坊した誰かさんの代わりに、服も下着も身の周りのモノも準備してあげたのは?」
「ほむら…」
よろしいとでも言う様に頷くと、美貌の主人は上目遣いで飼い犬に次の台詞を求める。
そのアメジストの瞳にはどこか殺気があって、さやかは心底怯えてしまった。
「ほむら、私が持つわ…てか持たせて!」
右手をお願いしますと言わんばかりにさやかはほむらの前に差し出す。
にっこりとほむらは微笑み、その手を握ると、さやかに顔を近づけた。まるでキスでもするかのような至近距離で囁いた。
「お利口さんね」
甘い声。そうして、ほんの一瞬だけ柔らかい唇が音を立てて触れる。
はっ、と驚くさやかをよそにくすくす笑いながらほむらはまどかの元へと去っていった。華奢な黒髪の相方と、小柄な桃色の髪の幼馴染の後ろ姿が仲睦まじく並ぶ。
「もう…なんなのよ」
ほんの少し顔を赤らめ、相方の後ろ姿に見惚れながら、さやかはため息をついた。そうして、さやかはまどかとほむらの荷物を運び始める――遠い昔に「鞄持ち」と己を称したことを思い出しながら。
――もしかして、私って、将来二人の鞄持ちになるんじゃ…?
「二大概念」の背中を眺めながら、ふと、さやかは逸脱した想像をした。
「ワン、ワン!」
モカが楽しそうに洋芝の上を駆けまわっている。我に帰ったさやかは何故か安堵した。
このペンションは犬のリードは不要らしい。
「さやか?何してるの置いてくわよ」
「大丈夫?さやかちゃん…」
気付けば二人がこちらを見ていて、さやかは驚くが、すぐに笑顔を浮かべる。
「大丈夫、今行くわ」
――まあ、それでもいいか。楽しそうだし…ね?
三人と一匹はレンガの歩道を歩きだした。
* * *
玄関をくぐると、ペンションの中は、明るい陽光が射し込んでいていた。
「いらっしゃいませ」
受付のカウンターに品のいい壮年の男性が佇んでいる。銀髪に、ギンガムチェックのシャツにオーバーオール。ほむらがカウンターで手続きを済ませると、男性もついてきた。どうやらペンション内の案内と説明をしてくれるらしい。
受付のある本館には、一階に広々としたダイニングルームとテラス、バー、そして二階にはゲストルームがあった。三人が泊る部屋は別棟の平屋で、広大な敷地の中に7棟あるらしい。説明が済んで、興味深げにきょろきょろと周囲を見渡すさやかの足元に小型犬が寄って来た。プードルだ。尻尾をパタパタ振って「撫でて」と言わんばかりにこちらを見上げている。
「うひゃあ、可愛い…」
相好を崩して、さやかはしゃがんで犬と戯れる。気付けば、傍にもう一匹足の短い可愛らしい犬――コーギーもいる。わあ、とさやかは声をあげて二匹と戯れ始めた。まるで孫を前にした祖父母のようだ。
「まったく、でれでれして見てられないわ」
「だって、可愛いもの、ほら、見て見て!」
さやかは笑顔のままほむらにプードルを抱き上げながら自慢する。無邪気な犬の目にはさすがの悪魔も弱いのか、口元を緩め「そうね」と囁いた。
「でも貴方って、小型犬にモテるのね…飼い主としては複雑だけど」
「はあ、だから犬じゃないって…」
「冗談よ」
フフ、と笑ってほむらは目を細めた。
「ほむらちゃん、さやかちゃん」
まどかが二人を呼ぶ。声の方に視線を向けると、モカの傍にもう一匹同じレトリバーが尻尾を振りながらこちらを見ている。
「わ、モカの仲間まで!」
さやかのリアクションに微笑むまどか、その後ろでにこやかに佇んでいる老夫婦がいる。どうやら飼い主なのだろう。さやかとほむらは軽く会釈する。
「ペンションデビューも果たしたようだし、そろそろ行きましょうか?」
「そうね、無事モカもデビューしたし…なんだかわくわくしてきたわ」
ほむらの提案に、笑顔で応えるさやか。それに対しやや不可解な表情をして、ほむらが囁いた。
「…あら、貴方のペンションデビューも…でしょ?」
「もう!」
口を尖らせるさやかを見て、ほむらは吹き出した。彼女は相方をからかっていた。不思議と、彼女は相方をからかう時は無邪気な笑顔を見せるのだ。
…それにしても、とさやかは休憩室を兼ねたフロアを見て思う。老夫婦に品のいい中年の男女と、落ち付いた雰囲気の客層だ。さすがだ、とさやかは相方を内心賞賛する。若い浮ついた客層の中に入り込むと、ほむらやまどかは格好の注目の的になる。特にほむらは。さやかは大学時代にほむらを取り巻く騒ぎに何度も巻き込まれたことを思い出す。
…まあ、こいつのことだから、自分のことよりも、まどかの事を考えてのことだろうけど。
さやかはちらり、と黒髪の相方の後ろ姿を見て口元を緩めた。そうしてまた休憩室の客をチェックするかのように周囲を見渡す。一種の職業病だ。
『一見平和な所こそ、いざとなると危ないんだ、油断するな』
上司の言葉を思い出しながら、客の一人一人の顔を覚えるように眺める。犬を同伴させる客に悪い人はいないとは思うが…と、さやかの蒼い瞳が一人の男を捉えた。ワイシャツに黒のズボン、とこの場には相応しくない格好の中年の男が、一人離れた場所のソファに座っている。両手を組んで、その上にあごをのせて目だけできょろきょろと周囲を見ていた。傍に彼の犬らしきものは…いない。
要注意人物としておこう…何もなかったら失礼だけど。
そう思いながら、さやかは休憩室を後にした。
* * * * * *
「ひゃあ、雰囲気あるわ…」
本館から10mほど離れた三人の泊る平屋は、ログコテージ風の建物だった。でしょ?といわんばかりの得意げな表情を浮かべ、ほむらは「中も結構なものよ」とさやかに囁いた。
中はロフトと天窓付きの部屋になっており、洒落た作りになっていた。カップル用としてなら雰囲気満点だろう。窓の外はウッドデッキになっており、そのまま緑豊かなドッグランへ犬は駆けまわることができるようになっている。犬ではないさやかも思わず窓から飛び出して駆けまわりたくなる衝動にかられた。
「ねえ、ほむらちゃん、私ここ使っていい?」
「ええ、いいわよ、私はこちらを使うわ」
窓の外に見惚れていたさやかは、二人の楽しげな会話を聞いて振り返る。二人はベッドの上で荷物を広げていた。と、さやかが怪訝な表情を浮かべる。
「ねえ、ほむら」
「何?」
暑いのだろう、白のカーディガンを脱ぎながら、ほむらがさやかの方を振り向く。露わになった華奢な肩が眩しいが、動揺しているさやかはそれどころではない。
「ベッドが二つしかないわ…」
「それがどうかしたの?」
呆然としているさやかに、不思議そうに小首をかしげるほむら。驚きで叫びたくなる衝動を抑えながら、さやかは相方に恐る恐る尋ねる。
「…私はどこで寝ればいいの?」
「どこでって…モカちゃんを見習いなさいな」
ワン、と元気良く吠えるレトリバーは、まどかのベッド下の床で行儀よくお座りしている。
…まさか…!
口をぱくぱくさせて、しばらく言葉が出ないさやかを面白そうに眺めるほむらと、困ったような顔をしているまどか。ようやく、さやかに声が戻る。
「私はあんたのベッド下の床で…寝ろと?」
「あら、飼い犬なら主人の傍で寝るのが当然でしょう?」
恐ろしいほど美しい顔で、ねえ、ワンちゃん?と囁かれ、さやかは固まった。
そうして、泣きそうな顔でとうとう叫ぶ。
「人権っ!私の人権は!?」
我慢できないとでもいうように、ほむらが吹き出した。そうしてお腹を抱えながらベッドに倒れこむ。まどかが困ったように、さやかに言った。
「ごめんねさやかちゃん、驚かせちゃって、違うのよ」
「へ?違うって…」
苦しそうにお腹を抱えているほむらが、右手を上へ向ける。
「…ロフト」
「へ?」
さやかが上を見上げる。二つのベッドの傍に階段があり、ちょうど吹き抜けを利用した感じで四畳半程度のロフトがあった。軽い身のこなしでさやかが階段を上がる。
そこは畳が敷かれており、布団が二組置かれていた。さやかが安堵で長いため息を漏らす。
「なあんだ…早く言ってよ、もう!」
ロフトの柵から身を乗り出して、さやかがまだ苦しそうにお腹を抱えている黒髪の相方に抗議する。3メートル程度の高さのため、三人の距離は意外と近い。
「あら…別に私のベッドの傍でおとなしく寝てもいいのよ?」
涙目でほむらがさやかの方を見上げる。これでも必死に笑いを堪えた方なのだろう。さやかは舌を出して、「床でなんてお断りよ!」と叫んだ。
…いつもお間抜けな顔で床で寝てるくせに
ほむらは、普段、ベッドから落下して眠りこけている相方の寝顔を思い出して、ひとりほくそ笑んだ。
* *
荷物の整理を済ませ、三人(と一匹)は外へ出た。
このペンションの売りである広大なドッグランと、美しい並木道を散策するためだ。
「ワン、ワン!」
モカが元気よく吠えながら、まどかの周囲を駆けまわる。
「フフフ、モカ嬉しいんだね…よかった」
時折前脚をまどかの腰にあてて、モカは愛想よく尻尾を振る。よっぽど嬉しいらしい。確かにリード無しで走り回れることは犬にとって最大の喜びには違いない。すごい勢いで前方に走っていったかと思うと、Uターンしてこれまたすごい勢いでまどかの元へと戻ってくる。
「こりゃまた、モカちゃんも激しいねえ」
「あら、貴方は走らないの?」
「ええ?」
相方の言葉にさやかは驚く。
『私もまどかとお揃いがしたいわ』
そう言って、口を尖らせた相方の表情をさやかは思い出した。確かあの時、まどかと一緒に犬を連れてお散歩したいと言っていたような…。
「まさか、私もあんな風に…?」
「ええ、そうしてくれたら私も嬉しいのだけど…」
「そんな!」
さやかは自分がモカと同じようにドッグランを走り回り、Uターンしてほむらの元へ一直線に駆け寄る姿を想像した。そこには笑顔で迎える飼い主(ほむら)がいて…。
――い、いかがわしいわ!てか、なんか恥ずかしい!
首をぶんぶんと振って、拒否の意を伝えるさやかを見て、ほむらは風でそよぐ髪をおさえながら微笑む。
「馬鹿ねえ、あんな風に速く走ろとは言ってないわよ?」
「いや、それでもできないわ!」
ワン、ワンとモカは嬉しそうに何度も飼い主の周囲を駆けまわり続けた。
* *
「いやあ…結構歩いたわね」
「えへへ、さやかちゃん、歩いたっていうよりも走ったって感じだけどね」
まどかが疲れた様子のさやかを見て笑う。結局あれからほむらのリクエスト通りに、さやかはドッグランを走り回ったのだ。頼まれると嫌とは言えないお人好しな幼馴染をまどかは微笑みながら見つめた。
「ん?何、まどか…」
「ううん…なんだか、さっきのさやかちゃん楽しそうだったなあって…」
さっきの、とは飼い主に一直線に向かっていくモカの模倣のことである。さやかの顔が赤くなる。
「え、い、いや楽しそうとかでなくてあれはっ…」
「もう照れなくていいよ、さやかちゃん…?」
「そうよ、別に照れる必要はないわ」
わ、とさやかが驚いて振り返る。
濡れた髪をバスタオルで拭きながら、黒髪の相方がさやかを見下ろしていた。
「あ、ほむらちゃん、お風呂もういいの?」
「ええ、まどか、次どうぞ」
うん、と頷くとまどかはすでに準備を整えていたのか、素早くお風呂に入っていった。ほむらとさやかの間に久しぶりに沈黙が訪れる。いつも家では二人だというのに、何故だかさやかは気まずくなり、ほむらから視線を逸らした。ほむらの口の端が微かに上がる。
「変な人」
そう言うと、ほむらは気にするそぶりも見せず、ベッドに腰かけてるさやかの傍に座って
バスタオルで髪を拭き始めた。さやかはちらりとそんなほむらを見つめる。いつもの風呂上がりとは違う相方の薄手のワンピース姿に、何故か動悸が早くなり、さやかは呻いた。
――ど、どうしちゃったのよ私!
そんなさやかの姿を見て、ほむらはさも可笑しそうに目を細める。
「ねえ、さやか…」
そうして白い手を伸ばし、ほむらは相方に触れた。
* *
「さやかちゃん、お待たせ、お風呂空いたよ…って、どうしたの?」
「い、いや、なんでもないわ!」
妙に顔を赤くして、逃げるように浴室へと駆けこむ幼馴染と、すっきりした様子でベッドでくつろいでいる黒髪の友人を見比べて、まどかは首をかしげる。
「ねえ、ほむらちゃん、さやかちゃんどうしたの?」
「そうね…小型犬に発情でもしたみたいね」
「?」
くすくすとさも嬉しそうに笑うほむらをまどかは不思議そうに眺めた。
* * * * * * *
本館のダイニングルームの夕食は豪勢なもので、地元の旬な素材を厳選した料理はどれも素晴らしいものだった。三人は食事に集中してしまい、会話は少なめになってしまったがむしろ食後のワインで酔いが回り、多いに語ることとなった。終始おとなしかったのは、三人の食卓の下で食事を摂っているモカだけだった。
「…フフフ、楽しかったぁ、いっぱい喋っちゃったね」
「そうね」
ベッドのヘッドボードにもたれながら、まどかはほむらに微笑む。まだ酔いが醒めていないからか、顔はほのかに紅潮していた。ほむらもまどかを見つめ微笑む。そうして、ふとほむらは天井――正確にはロフトを見上げた。食事を終えて、部屋に戻ってからも長い間三人で語り合ったが、つい先ほど蒼い髪の相方は根をあげて床についていた。時計の針ももう深夜に近い。
「さやかちゃん、今日は一番働いたから…疲れたんだよ、きっと」
「そうね…」
「私達もそろそろ寝よっか?ほむらちゃん」
「ええ…」
そうして誰からともなく、二人はベッドのシーツに潜り込んだ。
二つのベッドはほぼくっついているといっていいほど近いため、二人は横になりながらも互いの顔を見つめることができた。
「なんだか不思議…こうして三人で過ごせるなんて」
まどかが嬉しそうに微笑む。それを何故かほむらは寂しげに見つめて。
「またこうして旅行したいな、三人で…」
そう言って、まどかはほむらへ手を差し伸べる。戸惑いながらもほむらはその手をしっかりと握る。最愛の人の手の感触を忘れないようにと。
――私は今死んでも構わない。
目の前に最愛の人がいて、見つめていてくれる。そうして、相方が――最大の理解者が傍にいる。二人と共に同じ空間で眠りにつくことができることにほむらは喜びを感じていた。このまま、眠りについて二度と目覚めなくてもいい…そう思うくらいに。
「ありがとう、まどか」
「え?やだなあ、ほむらちゃん、お礼を言うのは私だよ?こんな楽しい旅行に誘ってくれて…ありがとう」
「ううん…礼を言うのは私よ、あなたのおかげで私は…」
うまく言葉にならない。しばらく沈黙した後、ほむらは掠れた声で「また、旅行に行きましょう」と囁いた。
「おかしなほむらちゃん」
まどかはにこりと微笑んで、目を瞑った。二人はしばらく手をつないだままでいた。
* *
オオ――ン…
オオ――ン…
「ん?」
犬の遠吠えでさやかは目が覚めた。
寝ぼけながらも目をこすり携帯を確認すると、まだ午前5時。薄暗い室内で、「なんなのよ、もう…」とひとり呟きながら上体を起こした。そうして、ゆっくりと足音を立てないように階段を降りる。案の定、ベッドの二人は気持良さそうに寝息を立てていた。
オオ――ン…
「あれ…モカ…」
さやかは目を丸くする。
モカが窓の外で遠吠えしていたからだ。
――いつの間に外に?
不思議に思いながらも、さやかは手早く着替えを済ませ、玄関から靴を取り出し、窓へと向かう。ウッドデッキから外に出るつもりだ。ゆっくりと窓を開けると、まだ暗い朝の冷気で身体が震えた。
「寒…」
そうしてさやかは外へ出る。待ってましたと言わんばかりにモカがさやかを見て、ワン、と吠えた。
「こら、モカ!あんた朝っぱらから何遠吠えしてんのよ!」
さやかが叱ると同時にモカは林の奥へと駆けだした。
「あっ、こら!モカ、待ちなさい!」
さやかは駆け出した。薄暗い上に、霧がかかって前が見えないが、何故かモカの姿だけははっきりと見える。
――もう!昨日も散々走り回ったのに、なんなのよ!
木々の間を抜け、ようやくモカに追いつこうとした頃、目の前に黒い人影が見えた。思わずさやかはぎょっとして立ちすくむ。
「ワン!ワン!」
モカは何故か人影に向かって尻尾を振った。どうやら知り合いらしい。
……一体誰?
人影は黒衣を纏っていた。まるでおとぎ話の魔女のようにすっぽりと頭からフードを被っており顔は見えない。黒衣から白い手が伸びて、モカの頭を撫でた。
「あなたが連れてきてくれたのね?」
くうん、とモカが嬉しそうに黒衣の人物に甘えた声をあげる。さやかは驚いた、その声は彼女が知っている者の声だったから。いや、知っているというレベルではなく、彼女にとっては…
「ほむら…あんたそんな格好してどうしちゃったのよ?」
さやかは戸惑ったように黒衣の人物に声をかける。
…一体どういうことだろう?さっきまで彼女はベッドで眠っていたはずだ。
ゆっくりと、白い手がフードを下ろす。長い艶のある黒髪が現れる。長い睫毛で伏せられたアメジストの瞳、恐ろしいほどの美貌。
「さやか…」
ほむらはゆっくりとさやかに近寄ると、その頬に白い手を這わせた。そのアメジストの瞳には疲労の色が滲んでいた。
「人間の姿の貴方に会うのは久しぶりだわ」
「は?何言ってんの?私、い、犬じゃないわよっ!」
思わず、動揺する相方を見て、ほむらはくすくすと笑う。
「そうね…貴方はまだ知らないのよね、にしても…相変わらずね」
さも可笑しいといわんばかりに目を細めると、ほむらはさやかに口づけをした。何度もついばむように唇を重ねてくる。
「…ん…ちょ、ちょっと…ンっ、ま、まどかに見られたらどうするの!」
「見られないわ…もう誰もここにはいない…」
「へ…?」
艶やかな唇をさやかの顔に近づけ、ほむらは囁く。
「この世界には貴方と私しかいないのよ…」
そうしてほむらは強く、さやかを掻き抱いた。
* * * * *
――ぱちん、
「あいた!?」
目が覚めると、目の前に恐ろしいまでの美貌があって、さやかは驚いた。
「ほむら…」
相方が心配そうにこちらを見ているのを見て、さやかが微笑むと、黒髪の美女は、はあ、とため息をついて、また手を動かした。
ぱちん、
「痛っ、ちょっと、2回も叩かないでよ!」
「…しーっ、まどかが起きるわ」
人さし指を唇にあてて、ほむらがさやかが起きようとするのを制止する。
「…うなされていると思ってわざわざ上がってきてみれば、貴方ってほんと変態ね」
「へ?な、なんでよ?」
…そういえば夢を見ていたんだっけ
だが、不思議と夢の内容がさやかには思いだせなかった。
「「まどかに見られたらどうするの?」って貴方呟いてたけど、どういうこと?」
「へ?何それ、私知らないわ」
ちっ、とほむらは舌打ちをすると、「変態」とまた囁いた。どうやらもっと致命的な寝言を呟いたらしい、身に覚えのないさやかは焦る。
「ほんと…知らないわ、私」
「誰と夢の中でしたかは知らないけど…昨日の「アレ」じゃ足りないみたいね?」
ニイ、とほむらが笑う。さやかはゾッ、としたこの笑みは「お仕置き」の笑みだ。逃げようとしたが、もう遅い。ほむらはさやかの上に覆いかぶさる。
「途中までしてあげるから、せいぜい悶々しなさいな?」
「ご…ごめんほむら…待っ」
妖艶な笑みを浮かべ、ほむらはさやかの頭を抑えると口づけを交わしはじめた。
やけに元気のない幼馴染を見て、まどかが不思議そうに首をかしげるのはそれからちょうど二時間後の朝食の時だった…。
* *
「ありがとうございました、またのお越しをお待ちしております」
「こちらこそ、いい旅行が出来たわ、また利用させてもらうわね」
慇懃無礼に頭を下げる受付の男性に、ほむらは上機嫌に微笑みかける。傍には対照的に疲れ果てたような相方。少し遠目にまどかとモカが老夫婦に別れの挨拶を交わしている。さやかの足元には別れを惜しんでか、プードルとコーギーが尻尾を振って座り込んでいた。思わず口元を緩めるさやかを見て、ほむらがじろりと睨む。
「…ほら、行くわよ…まったく尻尾ばかり振って」
…な、なんでこんなに怒られなきゃいけないのよ!
身に覚えのないさやかからしたらたまったものではない。と、さやかの前に男が立ちふさがる。昨日、さやかが「要注意人物」と認識した男だ。訝し気な表情を浮かべ、さやかが男を見つめると、男は相好を崩して、名刺を差し出した。○○県警と名刺にはあった。刑事だ。
「あっ…あなたは」
「どうやら同業者らしいですな、いや、すみません、昨日貴方が私を睨みつけるもんですから、どういう人物かオーナーに尋ねたんです」
さすがは刑事といったところか、結構細心の注意を払って客を観察していたはずだが、「睨んでいる」と認識するなんて…さやかは内心驚いた。
「いえ、そんなこちらこそすみません…ところでここへは?」
さやかの質問を遮るように、男は掌をあげる。
「それは野暮なので聞かない方がいいですよ、そういうものでしょ?」
事件には立ち入るな…と言ったところか、さやかは微笑んで「そうですね」と答えた。確かに、こちらも旅行を楽しんできたのだ、首を突っ込むほど馬鹿じゃない。
「さやか」
待ちくたびれたかのように、ほむらが声をかける。おやおや、と言う様に男が苦笑した。
「結構な美人さんですね、怒ったら怖いでしょう?」
危く、「はい」と言いそうになり、さやかは堪える。代わりに苦笑して刑事と別れた。
* *
行く時は、楽しいものだったが、帰りはなんとなくもの寂しいのはそれほどこの旅が楽しかったからだろう。ラジオから流れる洋楽を聴きながら、さやかはハンドルを握っていた。
「…楽しかったね」
「そうね…」
バックミラーを覗くと、まどかがほむらに膝枕されて眠りについていた。気持ちよさそうに寝息を立てている。ほむらはさも愛しそうにその桃色の髪を撫でていて、まるで母親のようだった。思わずさやかはその光景を見て目を細めた。
――こんな風にずっと三人で過ごすことができればいいのに。
「さやか」
後部座席から、ほむらがまどかを見つめながらさやかを呼んだ。
「何?」
長い沈黙の後、ほむらは囁いた。さやかに笑みが浮かぶ。
――ありがとう
と彼女はさやかに礼を述べたのだ。
照れ隠しに、さやかはラジオのボリュームを上げた。
* * * * *
二人が家についたのは、夕刻近くになってからだった。
荷物を解き、片付けを済ませたほむらとさやかは白いテーブルに腰かけ、コーヒーを飲んでいた。時折窓の外を眺めては、今回の旅行のことを、ぽつり、ぽつりと会話する。
「ねえ、今度はどこへ行くつもり?」
さやかがコーヒーを飲み干すと、ほむらに尋ねた。まどかが帰り際、また三人で一緒に旅行しようと約束を取り付けたのだ。
「そうね…」
窓の外を眺めながら、ほむらは囁く。
「別にどこでもいいわ、まどかと貴方と一緒なら…」
そうして、さやかを見て微笑んだ。
「ほむら…」
「私…昨日眠る時、このまま死んでもいいって思ったの」
「え…」
さやかは驚くが、その真意を知るために敢えて口を挟まない。ほむらは目を瞑りながら、言葉を紡ぐ。
「貴方がいて…まどかがいる…それだけで幸せだった」
「……」
「幸せだったのよ…」
うっとりと目を瞑るほむらは美しく、さやかは見惚れていた。そして同時に切なさで胸が痛くなる。彼女の、まどかを想い続けてここまできた彼女の生きざまをさやかは全て知っているから。彼女は大きな代償の元、これからも生き続ける、そんな人にどんな言葉も軽すぎて、さやかはかけることができない。
沈黙するさやかを見て、目を開けたほむらはくすくすと笑う。
「何も喋らないだけ、貴方もお利口さんになったのかしらね?」
「まあね…」
相方の軽口に、さやかは安堵する。そうして囁いた。
「…あんたとまどかが一緒に暮らせたらいいのに…ね」
ほむらの目が見開かれた。
しまった…とさやかは自分の失言を恥じた。そうだ…それができれば元々彼女はこんなに苦労はしていない。近づけば、まどかが記憶を取り戻し、今の生活を失う。最愛の人を守りたいために、自らの愛を封じ込め、見守り続ける。そう決意した彼女にこの言葉は、あまりにも愚かで…残酷だった。
ガタン、とほむらはテーブルから立ち上がると、台所へ向かった。
――傷つけた。
さやかは動揺する。
「待って、ほむら、ごめん!」
慌てて台所まで追いかける。ほむらの後ろ姿を見つめながら、さやかは詫びを何度も入れる。だが…なぜか触れることができない。彼女が壊れそうだったから。
「ごめんほむら…私、ひどいこと言った」
意を決して、さやかは左手をほむらの肩に伸ばす、触れようとした瞬間…ほむらが振り向いて手を伸ばしてきた。
――がちゃ
「え?」
気がつけば、さやかの首に何か巻かれている。にやりと笑うほむら。
どこかで見たような…蒼色の、ベルトのようなものに、肉球のデザインのマークがついていて…さやかは青ざめる。
「こ、これって…く…首輪じゃないのっ!」
吹き出すほむら、笑いながら、さやかにしなだれてきて、いつの間に持っていたのか、リードまで取り付けはじめた。大の大人の女性同士が必死に首輪の取りつけで攻防を始める。必死にほむらから逃れようとするさやかと、必死にさやかの首に腕を回すほむら。台所が妙に騒がしくなった。
「ちょ、ちょっと、やめ…やめてってば!」
「あら、だめよ、せっかく買ってきたもの、おとなしく…しなさい」
ぎゃあぎゃあと騒ぎながら、しばらくして、がちゃん、とひと際大きい音を立てて、リードも装着された。観念したのか、さやかは情けない声をあげておとなしくなった。嬉しそうに笑うほむら。腰に手をあて、主人然として右手のリードをくい、と引っ張る。
「さあ…観念なさいな、ワンちゃん?」
「うう…」
…な、なんなのよこれはっ!なんの罰ゲームよっ!
と、ぐい、と強くリードを引っ張られ、さやかは前のめりになり、ほむらの胸に顔を激突させる。笑顔のご主人に抱きしめられ、複雑な表情の蒼い犬。
「さあ…ベッドに戻るわよ?」
こくん、とおとなしく犬は頷くしかない。そのままリードで引っ張られ、ベッドへと押し倒される。リードを掴んだまま、飼い犬に跨ったご主人はさもご満悦な表情で。
「朝の続きをしましょう…?」
そう囁いて、犬と熱い口づけを交わす。
満足気に朝を迎えた主人の手にはずっとリードが握られたままだったという…。
END
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ほむら自己紹介する
拙作「夜歩く」R18に登場するさやかの上司岡山さん(オリキャラ)が出てきます。
「ふう」
温かいシャワーの飛沫を浴びながら、さやかは気持ちよさそうにため息をついた。
――仕事明けのシャワーは格別だわ、疲れが一気に取れるし
頭を犬のように振り、水しぶきを飛ばして、顔を両手でパン、と叩く。かなり気持がいい。
「えへへ…」
第三者が見たら若干引くだろうが、美樹さやかは一人でにやにやと口元を緩めた。彼女は20歳もとっくに過ぎた大人だというのに、まるで子供のように無邪気に笑う。
と、さやかが急に怪訝な表情を浮かべる。シャワーの水音の間に聞きなれない声が聞えたからだ。栓に手を伸ばし、シャワーを止める。
アハハ…
女の笑い声。ここでさやかの以外の女性といえばもう一人しかいない。しかし、あのような声をあげるというのは、なかなか…いや、滅多にない。珍しいを通り越して恐怖でも覚えたのか、さやかは身体をぶるっ、と震わせた。そうしてとてつもない事件に向き合うような、しごく真剣な表情でシャワー室を出る。
バスタオルを取って、手早く身体を拭くと、タンクトップとショートパンツを急いで着る。濡れた髪をタオルで拭きながら、さやかはリビングルームに入った。大きな窓のある非常に広いリビングには、白いテーブルとソファが置いてあり、その奥には大きなダブルベッドがある。家主であり、さやかの「飼い主」である長い黒髪の女性はベッドの端に座り、華奢な後ろ姿を震わせて笑っていた。その右手には携帯電話。
――誰?
一瞬、迷子になった犬のような、途方に暮れた表情を浮かべて、さやかは黒髪の女性の後ろ姿を見つめる。彼女があんなに楽しそうに笑うなど滅多にない――まどかだろうか?そう思ったが、唯一愛する存在、鹿目まどかに対してこの黒髪の友人はまるで思春期の少女のような恥じらいを見せる。したがってこのような態度は取らない(取れない)はずだ。説明のできない焦燥感をさやかは覚えた。それは自分に対してだけ見せている表情が、実はそうではなかったのだという寂寥感からくるものだが、さやかは自覚していなかった。気配を隠すことなく、とぼとぼとさやかは黒髪の友人に近づいていく。
「あら、出てきました」
気配に気づいた黒髪の美女が、楽しそうに携帯を耳にあてながらこちらを見る。美しい切れ長の目を細めながら、艶のある唇の端をあげた。まるで初めて出会った時のようにさやかは顔を赤らめた。それほど目の前の女性の表情が新鮮で、そして美しかったから。
――あれ?
見惚れたばかりに認識が遅れたが、ようやくさやかは黒髪の美女の持っている携帯の「色」に気付く。それはさやかの髪の色と同じ「蒼」で。
「ちょっ、ほむら、それ私の携帯……」
しっ、とほむらは自分の口に人さし指をあてた。反射的に黙りこむさやか。まるでパブロフの犬のようだ。そうして、とても小さな声でさやかは「誰?」と囁く。ほむらは携帯の送話口を押さえながら、形のいい唇を音無しで動かした。いわゆる口パクだ。
オ、カ、ヤ、マ
ひい、とさやかは変な悲鳴をあげたあと、もぎ取るようにほむらから携帯を奪った。吹き出すほむら。口を抑えて笑いを堪えながら、さやかに大仰にもたれてくる。友人の質量と引力に逆らいながら、必死に体勢を保つさやか。
「おっ、お疲れ様です!主任どうしたん…」
『馬鹿野郎、電話出るの遅えぞボケ!』
顔をしかめながら、携帯を遠ざけるさやか。その傍でほむらはクッ、クッ、と身体を震わせる。
「すっ、すみません!」
『おめえ財布忘れてんぞ!とっとと取りに来い!』
「え!あ…」
返事をしようとする間に無常にも携帯は切れた。呆然とするさやかにもたれているほむらがくすくすと笑う。
「まったくお間抜けねえ…」
「ほんとにねえ、まさか財布を忘れてたなんて…てかっ、なんであんた私の携帯取ってんのよ!」
「あら、つい画面を見たら岡山さんだったから取ったのよ、悪かった?」
「悪かったって…」
実は、ほむらが携帯を勝手に使ったことについてはさやかは特に気分を害していなかった。それは互いの性質の所為か、それとも長年連れ添ってきた間柄だからかはよくわからないが。不思議とさやかは相方の行動に寛容であった。もちろん相方の方もまた然りだが。
「いや、あんたが私の携帯を取ったのは、実はあんまり気にしてないのだけど……」
今までも熟睡しているさやかの代わりにほむらが事件召集の電話を取ったり(その後、文字通り叩き起こされるが)、風邪を引いたさやかの代わりにさやかの携帯で職場に連絡したりとまるで熟年の夫婦まがいのことを行っているのだ。今更特に気にすることは無い、それより気になるのは――
「気にしてないけど…なあに?」
甘えるような声で黒髪の友人はさやかに尋ねてくる。身体はもたれたまま、顔をさやかの耳元に近づけた。
「ねえ…それより気になることってどんなこと?」
至近距離で甘く、妖艶に囁いてくる。まだ昼前だというのにこの声は反則だ、とさやかは思った。顔をしかめて内心の動揺を知られないように口を開く。だが悪魔は見抜いているらしい。クスクスとさも楽しげに笑い続ける。
「主任と…何話してたの?」
あんな風に楽しそうに笑うなんて、彼女と上司は何を話してたのだろう?
「気になる?」
無言でこくり、とさやかが素直に頷くと、ほむらは破顔した。そうしてさも満足そうに息を吐くと、細い白い腕をさやかの首に絡める。
「馬鹿ねえ」
ちゅ、と軽く音を立てて、黒髪の女性は蒼い髪の女性の唇をついばむように奪う。
「心配しなくても、私は貴方の上司を取ったりしないわよ?」
「…違うわ、そうじゃなくて…」
ちゅ、とまた唇を軽く塞がれて、さやかは言葉を遮られる。
目と目が絡み合う。黒髪の友人の目はさも嬉しそうに細められ、その中のアメジストの瞳は悪戯っ子のようにきらきらと揺らめいていた。
――もう、知っているくせに…
そう、この悪魔は知っているのだ。さやかが――上司に対して嫉妬していることを。ほむらが、自分にしか見せないような笑いを他人に対して見せたことでさやかが寂しがっていることを。
「あんたやっぱり悪魔だわ…」
「あら、今更?」
白い歯を見せて悪魔は笑う。そうして全体重をかけてさやかに覆いかぶさってきた。
今度はさやかは相方の質量に逆らわなかった――。
* * *
「そろそろ行かなきゃ」
ベッドの上、行為を終えて、二人はしばらく密着したまま余韻を味わっていたが、さやかがもぞもぞと動きだした。
「あら、もう?」
覆いかぶさっていたほむらが、身体を離しながら不満そうに口を尖らせる。上体を起こすと、何も纏っていないほむらの白い裸体に長い黒髪がまとわりついた。少し汗ばんで火照った肢体に潤んだ瞳の悪魔は煽情的だ。さやかは下から手を伸ばし、悪魔の胸元に纏わりついた黒髪を指で丁寧に払っていく。
「だって早く財布取りに行かないと…出かけられなくなっちゃうわ」
「…そうね、確かに」
悪魔は目を細めながら、さやかの蒼い髪を弄る。まるでつがいのように互いの髪に触れ合いながら、二人は器用にベッドから降りた。
そう、明日から美樹さやかは夏季休暇に入るのだ。そして珍しく二人きりで旅行する。
「そういえば、貴方の荷物もまとめておいたわ…一緒のトランクケースでいいでしょ?」
外に出るために着替えはじめたさやかの背中にほむらは声をかける。
「あ、ありがとう、気がきくじゃない」
素直に礼を述べるさやかの横に、悪魔は笑いながら身を寄せてきた。
「明日から楽しみね」
「そうね」
行き先は二人で決めた。一緒に暮らすようになってから8年経つがこんな風に計画を立てて二人きりで出かけるというのは初めてだった。なんだか嬉しくてへらへら笑うさやかの額を軽く叩きながら、ほむらが囁く。
「まあね、その代わり旅先では色々お世話になるわよ、おまわりさん?」
「え、な、なによ怖いわそれ!」
さやかの言葉を受け、フフフと楽しげに笑いながら、ほむらもクローゼットから服を取り出し着替え始めた。小首をかしげるさやか。
「?あんたも今日どっか出かけるの?」
「一緒に行くわ」
「ええっ?」
上着の中から頭を出しながら、ほむらが「馬鹿ね」と囁いた。
「どうせお昼は外で食べる予定だったのだから、その方が効率いいでしょ?」
「そりゃそうだけど…」
「安心なさいな、貴方の職場に顔なんて出さないわよ、外で「待機」してるわ」
警官であるさやかの影響か、悪魔も時折お固い言葉を使う。
「うん…それなら別にいいけど」
「なあに?ご不満?」
「いや、そんなことはないわ」
それなら問題ないわね、と言ってさも嬉しそうに悪魔は微笑んだ。
* *
いつもの通勤路を相方と歩くのは不思議な気分だった。
「なんだか変な気分だわ」
美樹さやかは思わず呟く。横にいるのは白いワンピースを着た美貌の悪魔。いつもの相方だ。
「変…ってどんな風に?」
風にそよぐ黒髪を抑えながらほむらは微笑んだ。今日はご機嫌のようだ、とさやかは思った。
「どんな風にって、そうねえ…」
街並みを眺めながら、さやかは呟いた。このどうにも居たたまれない、けどくすぐったい気持を何で表現したものか。
「授業参観日に保護者と一緒に登校する…みたいな?」
「何それ」
フ、とほむらは失笑する。彼女自身は授業参観の経験は無い。
「もう少し気の効いた例えはないのかしらねえ」
「言ったわね」
さやかはそう言って、人さし指を口にあて空を見上げた。彼女が何か考え事をする時の癖だ。だが数秒経っても答えはでない、
「あら、浮かばないの?」
ほむらはからかうように笑みを浮かべる。
「う~ん…ちょっと待って」
「5」
「へ?」
いきなり黒髪の美女が数字を唱えたのでさやかは驚いた。口元を緩ませてほむらはさやかを見つめている。
「あと5秒で答えなければ、突入するわ」
そう言って腕を伸ばし、何かを指差す。不思議そうにほむらの指先を目で追う。20メートル先にさやかの職場である警察署が見えた。目を見開くさやか。
「え、ちょ、あんた…」
「突入した上に、自己紹介しちゃおうかしら」
「はあ?」
「4」
「ちょ、ちょっと!」
この悪魔は本気だ――きっと、警察署まで乗り込んでいって、からかうに違いない!
「3」
「そんな急に言われたら」
次第に早足になるさやかとほむら。
「2」
「浮かぶのも浮かばないわ!」
「1」
「ああ、もう!」
とうとうさやかは走り出す。「0」と小さく囁いてほむらも駆けだした。いい大人の女性が二人もいきなり走りだしたものだから、道往く人々は物珍しく凝視する。
「わ、あ、あんた足早!」
走りに自信のあるさやかだが、ぴったりとくっついてくるほむらを見て驚く。さやかはデニムのパンツだが、ほむらはワンピースだ。なのに優雅さを維持したまま追いついている。
「悪魔の力を舐めないでよね?」
「せこ!」
笑いながら、ほむらはさやかの傍にぴったりとくっついてくる。数秒後、同時に警察署の前にゴールしたが、息を切らしたのはさやかだった。膝に両手をつき、肩を揺らす。はあ、はあ、と息が荒く悪魔に話しかけるのもようやくなくらいだ。その横で楽しそうに笑い続ける悪魔。
「な……い……こ…が」
「フフフ、もう…何言っているの?」
「中…には…いかせないわよ、こ、心の準備が…で」
「おい美樹、何やってんだ?」
――ジーザス!
さやかは心で叫んだ。息を切らしながら顔をあげると、署の門の前に初老の男が一人。なんたる偶然、それともなんたる必然か。
「主任…どうも、財布を取りに」
「はあ?何息切らして――」
低い階段を降りながら、男は美樹に吠えたが途中でやめた。傍にいる恐ろしいほど美しい女性に気付いたからだ。ぽかん、と口を開けている。
さやかとほむらは互いを見つめ合い、目で会話する。そうして、ポンポン、とほむらが軽くさやかの肩を叩くと、観念したようにさやかは頷いた。どうやら悪魔は自己紹介するつもりらしい。
「初めまして、暁美ほむらです」
ふわり、とまるで天使のように悪魔は微笑んで、優雅な仕草で一礼する。まるで深窓の令嬢のような優美さに、さやかはただ見惚れて。
「ああ、あんた、いや…あなたが」
見惚れたのはさやかだけではなかったらしい。初老の男も普段の言葉を敬語に変える。
「はい」
そう言って悪魔はさやかの手を握る。数秒間を置いてから、ゆっくりと悪魔は初老の男に言った。
「私は美樹さやかの――」
さやかは顔を赤くした。悪魔の言葉はとてもくすぐったくて、そして嬉しいものだったから。
その証拠にさやかは強く――とても強く黒髪の相方の手を握り返した。
END
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幸せの定義
同短編集内「悪魔は動揺する」の後日談になります。
「姉ちゃん、彼氏いるの?」
タツヤは意を決して、少しくぐもった声で姉に聞いた。
「へ?」
桃色の髪の女性は不思議そうに隣に座っている少年を見つめる。天然の茶髪のこの少年は、やや頬を赤らめて上目遣いでこちらを見ているではないか。女性の認識では、10歳年下の少年――弟はこの手の話には興味のない「お子様」だったはずなのだが…。
「どうしたのタツヤ?お姉ちゃんと恋話でもしたい?」
「ちっ、違うよ!」
シャープペンのキャップを唇にあてて、桃色の髪の女性はクスクスと笑った。彼女は弟をからかっているのだ。顔を更に赤くして睨む弟の額をシャープペンで軽く叩いて「冗談だよ」と囁いた。
「ほら、タツヤそんなことより、早くこの宿題終わらせないと、遊びに行けなくなるよ?」
「あ、やば!」
タツヤは慌てて小難しい計算を再開する。その様子を目を細めて見守る女性。
「もう、タツヤは慌てんぼだなあ…」
「う、うるさいなあ」
タツヤは姉の顔を見ないようにしながら宿題に取り掛かる。どうにもこの10歳年上の浮世離れした姉には頭があがらない。
――困ったなあ、聞き出せないや
タツヤは心で呟く。実は先ほどの姉に投げかけた質問は、少年が敬愛する蒼い髪の女性に頼まれたものだったのだ。
* * *
『姉ちゃんに恋人?』
『うん、あ、まだ不確定だけどね』
『なんでさやかが気にするのさ?』
タツヤは姉と同じく10歳離れた蒼い髪の女性のことを呼び捨てにする。これは「無礼」というよりも、少年なりのさやかに対する親愛の情なのだ。以前黒髪の美しい女性に「さん」をつけるよう注意されたが、やはり直す気はなかった。タツヤにとって警官であるさやかは憧れであり、年齢を超えた「友人」でもあったから。
少年は携帯を耳にあてながら怪訝な表情を浮かべる。蒼い髪の女性がこんな話題を持ち出すのははじめてだったからだ。時折こうして電話で少年の憧れの職業について話しあうことはあっても、このような「恋」に関する話はしたことがない。14歳になったタツヤとて恋に興味が無いということはないが、それよりも心奪われる事項はたくさんあった。「色恋」については、この少年の中では一番最下位のものなのだ。
『いや~やっぱうちの嫁が浮気しているか気になってねぇ、タツヤ君それとなく聞いてくれない?』
『え、さやかってもしかしてホモ?』
『違うわよ!てかっ、この場合レズでしょ!いやいやそれも違うし!』
女性の絶妙な一人突っ込みに少年は吹き出す。しばらく苦しそうにお腹を抱えながら笑う。
『さやかって、警官よりお笑いの方が向いているんじゃない?』
『うっさいわねえ…』
『アハハ、じゃあさ、聞いておく代わりに夏休みの宿題手伝ってよ』
『……いいよ、それくらいなら』
『あと牛丼大盛り』
『……いいわよ』
相手の短い沈黙に再び吹き出しそうになるのを堪えて、タツヤは白い歯をみせて笑った。
* * *
――牛丼奢ってもらえないなあ、これじゃあ
タツヤはまた心で呟いた。そうして隣に座っている姉を見つめる。狭い学習机に並んで座り姉は弟の宿題を手伝ってくれている。昔から姉はとても面倒見がよかった。ふと、姉の髪からいい香りがして、雑念を払うようにタツヤは頭を振った。
「?どうしたのタツヤ、わからないところでもある?」
「ん、あ、いや大丈夫」
白い長そでのシャツにデニムのパンツとラフな格好をしている姉は今日は髪をおろしていた。背中まで伸びている桃色の髪、そして20代半ばとは思えない若々しいあどけない顔。ひいきではなく、姉はとても可愛らしい部類に入るとタツヤは思っている。タツヤの友人にも姉のファンがいるくらいなのだ。
「ねえ、タツヤ」
しばらくして、まどかは何か考え込むようにしながら弟に囁く
「何?」
「さっきの質問って、もしかしてさやかちゃんに聞かれた?」
「え…なんで…」
タツヤは驚いた、心を読まれたようだ。
「図星?」
「………うん」
姉には敵わない。素直にタツヤは頷いた。
「まったく、タツヤも…さやかちゃんも、しょうがないなあ」
そう言って伏し目がちに、はにかむように笑う姉を見て、タツヤは一瞬見惚れた。その表情がいつもの姉とは違う大人の女性のものだったから。
「でもさ、姉ちゃんほんとに彼氏とかいないの?こんなに…」
「こんなに?」
「……い、いやなんでもない」
――こんなに可愛いのに
「変なタツヤ」
くすりと笑って、まどかは目を細めた。
「お姉ちゃんはそんな人いないよ」
「ほんと?」
「ほんとだよ」
いひひ、と子供っぽく笑って、まどかは身体を弟に軽くぶつけた。
「だって、タツヤの面倒見るのに手いっぱいだもの」
「ひっど!俺、自分のことは自分できるよ!」
「またまた、お姉ちゃんがいないと何もできないくせに?」
「違うってば!」
冗談を真に受けて、顔を真っ赤にして怒る弟が可愛くて仕方ないらしく、まどかは手を伸ばし、柔らかい少年の頭を撫でた。もお、と怒ってタツヤは姉の手を払う。笑いながら手を納めた後、まどかも少しだけ真顔に戻った。
「…でもね、お姉ちゃん好きな人はいるよ?」
「え」
それはいきなりな姉の告白で、タツヤは驚いた。
「マジで?姉ちゃん好きな人いるの?」
「うん」
シャーペンを指でぶらぶらさせながら、まどかは照れたように微笑む。嬉しいような寂しいような複雑な気持ちのままタツヤは尋ねた。
「誰?俺の知ってる人?」
「内緒」
いひひ、とまた子供のように笑って、でもそうだねえと呟く。
「…でもその人は、私のお友達が好きで、そのお友達は私のことをすごく大事に思っていてくれているの」
「何それ、変じゃん、三角関係って奴?」
思春期の少年の素直な感想に苦笑しながらまどかは続ける。
「う~ん、そういうことになるのかな?でもお姉ちゃんは二人とも好き」
「二人とも?」
「うん」
姉の言葉に頭を捻るタツヤ。ふと、数学の教科書にある三角形の図形が目に入る。
「こんな感じだよ」
そう言ってまどかは指で三角形をなぞった。
「三人で安定しているの…ずっとこのままでいいと思えるくらい」
「ふうん…」
納得がいかない様子のタツヤ。だが少年はこのことについてそれ以上何も言わなかった。なぜなら、姉がとても――とても幸せそうに微笑んでいたから。だからつい、こう聞いてしまった。
「お姉ちゃん、それで幸せ?」
姉はふわりと微笑んで
「うん、もちろんよ」
そう、それならそのままでいいやとタツヤはなんとなくそう思った。
* * * * * *
「へ、今が幸せ?」
携帯で話し中の蒼い髪の友人がいきなり素っ頓狂な声をあげたので、ほむらは長い黒髪を梳きながら、気だるげにベッドから身体を起こした。ベッドの端に座っている蒼い髪の友人は何やら話しこんでいるらしく、ほむらが起きたことに気付かない。何か思いついたのか、ほむらは口元を緩めいきなり背中から友人に抱きついた。
「うわっ…あ、ううん、なんでもない、それで?」
驚いた表情でほむらを見つめながら、蒼い髪の女性は話しを続ける。くすくすとほむらはさも楽しげに笑う。いやがらせのごとく、白い手を伸ばし友人の身体に絡めた。友人のワイシャツがしわくちゃになる。顔を赤くし抗議するかのような表情の友人に、何やら囁くほむら。
――ダレナノ?
「タツヤ君よ」
ほむらの耳元に顔を近づけて、蒼い髪の友人は囁いた。ふうん、と呟くと、そのまま友人の背中に顔を押し付けて目を瞑った。
「へえ、そうなんだ…うん、ありがとう」
友人の背中に顔を押し付けたほむらは、背中から伝わってくる声の振動が心地よいらしく、
目を瞑ったまま、気持良さそうな表情を浮かべている。まるで猫のようだ。それから二言、三言喋ると、友人は携帯を切った。
「ねえほむら、まどかはまだ彼氏とかいないってさ」
「そう…」
素っ気ない言葉だが、それとは裏腹のほむらの嬉しそうな表情に蒼い髪の友人は微笑んだ。
「よかったじゃん、それにさ、タツヤ君が言ってたんだけど、今が幸せなんだってさ」
「幸せ…?…そう、それなら私も嬉しいわ」
まどかの幸せは、ほむらが何よりも望んでいたものだ。当の本人がそう言ってくれるのならば、これ以上のものはない。
「でも幸せかあ…」
「なあに?」
「いや、幸せってなんなんだろうってね」
ふと、らしくない言葉を友人が呟くものだから、ほむらはつい微笑んだ。この美貌の悪魔は友人に顔を見られていない時は、とても幸せそうに笑うのだ。そうして艶のある唇を開いて囁く。
「馬鹿ね…幸せの定義も知らないの?」
「定義?」
不思議そうに見つめてくる蒼い髪の友人を艶めかしい表情で見つめ返し、悪魔は囁いた。
「幸せはね…」
携帯の着信が鳴った。二人で携帯の画面に視線を移す。
鹿目まどか
そこには、ちょうど話題となっていた、二人のとても大切な女性の名前があって。黒髪の女性はせかすように蒼い髪の友人の背中を叩いた。
「あ、もしもしまどか?…うん、うん…あっちゃあ、ばれてた?」
苦笑する蒼い髪の友人に密着し、一緒に電話を聞く悪魔。ふと、何を思ったのか再び白い手を伸ばし、蒼い髪の友人の身体に絡みつく。
「うっひゃ!え?ああ、なんでもない…」
睨む友人。だが蒼い髪の女性が怒りの表情を浮かべると、ほむらは愉快になるようで。
――イイカラツヅケテ?
そう艶めかしく友人の耳元で囁いた。
まどかと会話を再開する蒼い髪の友人、その友人に抱きつき、悪戯を続ける悪魔。
白い歯を見せて笑う彼女は正に幸せそのものであった。
END
うちのタツヤくん(14)はめっちゃお姉ちゃん大スキーなのだが、実際大きくなったらそうなりそう…と思っております(何)
そしてほむらの幸せの定義とは…
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ムーンウォーク
その日は月が丸かった。
ほむらは白く細い指を己の額にあて、形のいいアーモンド型の目を細めた。
――あり得ないわ
狂おしいほどの愛の力でこの世界を捻じ曲げ改変したその時から、月は半分に欠けたはずなのだ。月下の美少女はアメジストの瞳を月へと向ける。なのに――
――今夜の月は丸い。
「…どういうこと」
少し涼しい夏の夜、街を一望できる誰もいない丘で、黒髪の少女は空を見上げながら呟く。ひゅう、と通り過ぎる風が彼女の長い黒髪を揺らす。そのアメジストの瞳はほんの少しばかりの動揺で揺らめいて。その瞳に映し出された月はいつもの半分とは違い丸い。世界を改変してからちょうど一年、こんな現象は初めてだった。
――改変したこの世界に誰かの力が干渉している?
だとしたら何者?
少女が悪魔と化したそもそもの大元の原因である地球外生命体、またあるいは女神…それとも全く別の「新たな存在」か。一気にほむらの脳内にありとあらゆる仮定や憶測が溢れていく。元々一人で黙考する性質の彼女にとってそれは苦痛ではなかった。
ガサ、ガサ
草を踏み分ける音がして、ほむらの思考は中断された。振り返り、誰何しようと思わず口を開いたが閉じる。音の主は中学のクラスメイトのものだった。
「……ほむら?」
「あら、美樹さんごきげんよう」
ほむらは形のいい唇を緩め、蒼い髪のクラスメイト美樹さやかに向かって微笑んだ。制服のままこの場所に現れるということは、おそらく魔獣を倒した後だろうとほむらは考えた。この場所は「磁場」と思えるくらいに魔獣共が集まってくる。美樹さやかはしばらくぽかんとした表情を浮かべていたが、眉を顰めほむらに話しかけた。
「あんた、こんな時間までここで何してたのさ?」
「…ただの「散歩」よ、それより貴方こそここで何をしているの?美樹さんって意外と不良?」
「ああ…まあ、確かにそう言われたらそうだね…」
ほむらの巻き返しの問いにさやかは力なく微笑んだ。変わったなとほむらは思う。改変前の何度も繰り返し巡った世界では、彼女がこんな風に相手の(ほむらの)言葉を受け入れてくれることは皆無に近かった。成長したからか、あるいはまだ円環の理の記憶が断片で残っていて無意識下でそれが働いているのか。まあ、どちらにせよ今のところ彼女に用は無い、そう思いほむらはその場を去ろうとした。
「私も「散歩」だよ」
ほむらの背中に声が掛けられる。振り返りもせず、ほむらは囁いた。
「……そう」
「あれ?」
だが、さやかのあげた素っ頓狂な声に思わず振り向いてしまう。ほむらが振り向くと、さやかが空を見上げて驚きの表情を浮かべていた。一瞬でほむらはさやかが何で驚いているか理解した。だが、あえて尋ねてみる。
「どうしたの?」
「…ねえ、ほむら月って丸かったっけ?」
ほむらは吹き出した。やはりこの子は「お間抜け」だと思う。
「美樹さん、一体どうしちゃったのかしら?月は元々丸いわよ?」
そう、元々月は「丸い」のだ。そして太陽との関係上、従来の世界と同じく人類から見た月はいつものように満欠を繰り返す。半月に見えるのは改変の主である、「魔なる者」だけなのだ。だが、どうやら美樹さやかも月は常に「半分」に見えるらしい。そのことに、ほむら自身は認めたくなかったが、ほんの少しだけ心が躍った。
「あ、そ、そりゃあわかってるわよ!でもさ…」
「でも?」
「私、ずっと月が半分に見えてたから…こんな丸い月って初めてで」
「そう…」
動揺を隠しもしないさやかに、くすくす笑いながら悪魔は近づいた。悪魔になってから皮肉にもほむらは対人の許容範囲が広くなったらしい。まだ記憶を断片的に保有しているとはいえ、いつかは完全に消えるシロモノだ。すでにさやかは敵ではない。
「ねえ、美樹さん少しお話しない?」
「へ?…うんまあいいけど」
そう言って、二人は丘の斜面に座りこむ、あいだに一人分の間を設けて。そうして二人はぽつぽつと会話を始めた。どんな会話なのかは、二人とそして見下ろす満月しか知らない。
* * *
「ねえ、ほむら」
名前を呼ばれてほむらは振り返る。そこには月光に照らされた蒼い髪の友人が立っていた。彼女の姿を見る度にお互い大人になってしまったなと思う。世界を改変してからもう10年だ、当然と言えば当然だが。
「なあに?」
自分の口から優しい声が出てしまうのも、もう慣れた。最初は戸惑ったが、彼女を受け入れた時からそうなってしまうことが定められていたのだろうと今では思っている。
「月が綺麗ね」
「そうね」
友人の言葉でほむらは月を見上げる。半分に欠けた月。ふと、ほむらはあの満月の日を思い出した。あの頃と同じく、二人は少し涼しい夏の夜、街を一望できる丘に来ていた。
ガサ、ガサ、
蒼い髪の友人は草の上を数回ジャンピングして楽しんでいる。その意味の無い行動にほむらは口元を緩めた。いい大人だというのに、彼女のその行動はまるで犬のように無邪気で可愛らしい(本人には決して言わないが)ものだった。恐らく無意味な行動も可愛らしいと感じるのも彼女を受け入れた所為だとほむらは自覚している。ふう、とほむらはため息をついて友人を見つめる。時折首輪を掛けてしまいたくなるのは、やはり危険な衝動なのだろうか?
「さやか」
ほむらは友人の名前を呼んだ。嬉しそうな表情を浮かべてこちらを見る友人にほむらは苦笑する。成長した蒼い髪の友人は、色素の薄いまるで異国の人のようで。以前と違いその蒼い瞳には思慮深い光が宿っていて、ほむらはそこが大層気に入っていた。白い手を伸ばして、ほむらは自分が座っているすぐ横の草むらをぽん、ぽんと叩く。さやかは軽やかな足取りで素早くほむらの隣に座り込んだ。ぴったりと寄り添うように座り、何も語らず月を見上げる。しばらくしてことん、とさやかの肩にほむらが頭をもたれさせた。
「あれから…満月を見ることは無くなったわね」
さやかがふと呟いた。中学の「あの時」に見た満月のことだ。同じことを考えていたのでほむらは何故か「以心伝心」という言葉を思い浮かべた。
「そうね」
結局翌日から月はまた「半月」見えるようになっていた。特段、周囲に(特にまどかに)異変は無く、魔獣退治に忙しかったため「満月」についてはあれから特に追求することなく終わっていた。いつか何か問題は起こるだろうが、その時はその時だ。「ねえ」とほむらは友人に囁いた。その自分の発する声がひどく甘いことにも、ほむらは慣れ切っていた。
「何?」
「…今夜の月はなんに見える?」
ほむらは形のいい唇を微かに開いて囁く。
「……「三日月」かなぁ」
さやかの言葉にほむらは吹き出した。くすくすとしばらく友人の肩の上で頭を揺らして笑う。
「嘘おっしゃいな」
「ばれた?」
「ばればれよ…」
そうして、ほむらは身体を伸ばし、さやかの唇に自分の唇を重ねた。
「ん…」
声を漏らすさやかの頬を押さえながら、ほむらは顔の角度を変えて数回唇を吸う様にして味わう。
「…半月よ」
吐息を漏らしながら唇を離すとほむらは囁いた。
「私と貴方だけは半月に見えるのよ…」
「そうね」
今度はさやかがほむらを抱きしめて、キスをした。白い手を絡めるほむら。そのアメジストの瞳は熱く潤んで。
「私と貴方だけなのよ――」
半月の下、二人は長い――長い間抱きしめ合ったままでいた。
END
コーネリアスのムーンウォークを聴きながら読むと意外と合ってる…(知っている方いるだろうか…)
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二人の食卓
「あれ?」
美樹さやかは素っ頓狂な声をあげる。
「何よ」
むすっと睨む黒髪の美少女。
「いや、あんたなんでちっちゃくなってんの?」
さやかの目の前には、黒いゴスロリなドレスを着た美少女。相方の暁美ほむらだ。
だがしかし、ちっちゃい。さやかは手を伸ばし少女の頭上を撫でるような仕草をする。
「確か、今のあんたは24歳で、身長も少しは伸びてひゃく…あいたっ!」
いきなり少女がジャンピングして器用にさやかの額を叩いた。艶のある黒髪が一瞬ふわりと舞い上がる。額をおさえ、顔をしかめるさやか。
「痛い!何するのよ!」
「レディの年齢や身長をいきなり明かすのは失礼よ」
「レディって…!」
ふん、と腰に手をあてそっぽを向く黒髪の少女。不覚にもさやかは可愛いと思ってしまった。
――大人になってみると、あの頃のほむらの態度も可愛いものだわ
そう、当時は時間を何度も渡り歩いた上に、人外となってしまったほむらに対し、贖罪とほんの数ミリグラム程度ではあるが畏怖の念も抱いていたのだ。一緒に住み始めた頃はなかなか会話も弾まず、些細なことでギクシャクして、家の中は冷え切り、クーラーいらずな雰囲気に陥ったことも何度かあった。
――今の私なら、たくさん甘えさせることもできるのに
少女が何か嫌なものでも見たような表情を浮かべる。その視線の先にはへらへらと笑みを浮かべる蒼い髪の女性の顔。
「…………気持ち悪い笑い方ね」
「ひど!」
「本当のことでしょ?」
そう言って、少女はさやかに背中を向け台所へ向かおうとする。そこでようやくさやかは部屋の中が異様に白いことに気付いた。軽い既視感。
「あ、ちょ、どこ行くの?」
「見てわからない?台所よ」
そう言うと、少女はどこから取り出したのか、エプロンを器用に付け始めた。可愛らしい犬のキャラクターがこれでもかというばかりにちりばめられている。ほむらこういうの趣味だったっけ?とさやかはふと思った。
「今日は私が食事当番だから…」
そう言うと、ほむら(少女)は台所に向かい、何やら作り始めた。ふと、一緒に住み始めの頃は、彼女は料理を作るのが初めてで、よくさやかが傍についていてあげたことを思い出した。
『うまく皮が剥けないわ』
『かして、こうするんだよ』
器用にじゃがいもの皮を剥くさやかを見て、少女は初めて彼女を見たとでもいうような驚きの表情を浮かべた。
『美樹さやか…貴方でもできることはあるのね』
『ひど!』
そうして数日後、ほむらは一人で皮を剥けるようになっていた。手を絆創膏だらけにして。
あの時のことを思い出してせつない気持ちになったのだろう、さやかは悲しそうな表情を浮かべた。そうして、華奢な少女の背中を後ろから抱きしめた。
「ほむら」
「…っ」
いきなり抱きついてきたさやかに驚きながらも、少女は悲鳴を押し殺した。
「………何しているの美樹さやか?」
「……ううん、なんとなく」
なんとなくという訳はないだろうが、照れ隠しにさやかはそう答え、己よりも10歳下の相方の肩に顔を埋め目を瞑る。
「そう…」
少女は身体を強張らせながらも、そのままさやかに身体を預けている。目を細め、ほんの少しだけ口元を緩ませて。しばらく二人はそのままでいた。
「今日はさ、私が作るよ、何がいい?」
さやかの提案に、少女は顔をあげた。
「…いいの?」
「うん」
「それじゃあ豆腐のお味噌汁がいいわ」
「豆腐?」
うん、と再び頷いて少女はさやかを見上げる。
「だって、貴方が最初に作ってくれたものだもの」
ああ、そうだったとさやかは思いだした。
「美味しかったわ、あのお味噌汁」
不覚にもさやかは泣きそうになる。
「ま、まかせて!たくさん作るわよ!あんたのためなら」
美樹さやかは一度熱くなると止まらないらしい。おたまを握った腕に力を込め、叫んだ。
* * *
「ほむら」
明け方近く、いきなり名前を呼ばれて、家の主は目を覚ました。
「……なあに?もう起きたの……」
大きな白いベッドの中央を陣取るようにして眠っていた家主――暁美ほむらは、寝がえりをうつと、傍で寄り添って眠っている蒼い髪の女性の肩へ頭をのせた。気持ちよさそうに目を瞑り相方の返事を待つ。
「……………」
返事が無い。
訝しげにほむらは上体を起こすと、キャミソールの肩紐を直しながら、蒼い髪の女性の顔を凝視した。白い細い腕で身体を支えて、恐ろしいほどの美貌を女性の顔に近づける。長い黒髪が彼女の顔に垂れた。
「……………」
しばらくほむらはそのままの状態で動かなかった。その姿はまるで猫が獲物を狙うようで。
「……………」
ゆっくりとほむらは左手をあげた。そうして無造作におろす。
ぱちん
音を立てて、その手は相方の額にヒットした。それでも気持良さそうに眠っている相方。どうやら寝言だったらしい。
「…お間抜けね」
自分に向けての台詞なのか、それとも相方に向けてなのか。はあ、とため息をついて、ほむらは相方の蒼い髪を優しく撫で始めた。その姿は悪女ならぬ悪魔の深情けのようで。
「えへへ…」
と、相方が笑みを浮かべた。いつもの「へらへら」した笑みを。ほむらは驚いて手を休め、嫌なものを見たかのような表情を浮かべながら相方の顔を凝視する。そうして何を思ったのか、はあ、と再びため息をつきながら、その白い指で相方の頬を軽くつねった。意外と柔らかくて感触がよいのか、口元を緩めながらほむらは相方の頬でしばらく戯れた。
「…が…」
「え?」
と、いきなり相方が何事か呟いた。
「豆腐はね…ほむら」
「豆腐?」
そうしてまた沈黙が訪れる。規則的な相方の寝息。相方を凝視して、微動だにしないほむらがようやく動きだし、そして小首をかしげた。
「………………豆腐…?」
猫のように軽やかに、ほむらは四つん這いのままベッドの端まで行くと、ふわりと降りた。そしてそのまま台所へ向かう。薄暗い中、冷蔵庫のドアを開く音。
二人とも食の好みは似ていた――というより元々食事にこだわらなかったほむらが、8年間の共同生活でさやかから影響を受けたためなのだが。だからなのか、冷蔵庫の中味は二人の嗜好品で詰まっていて。
「……………」
ほむらは目を細めながら中を物色し始めた。
飲料水と牛乳、さりげなく合間にビールやワインボトルが置かれている。奥には生ハムとチーズがあって。小首をかしげながら、ほむらは中段の収納スペースをスライドさせて覗き込む。数種類の野菜があるがどうやら目当てのものは無いらしい、ふう、と息を吐くとほむらは冷蔵庫のドアを閉めた。
* * *
豆腐屋の朝は早い。
見滝原の街に朝が再び訪れるその前には仕込みに入っている。三代目の豆腐屋の主人は、いつものように豆腐を作り終え、一息ついた。
「ふう」
これからが本番だと主人が気を引き締めた瞬間、何やらガシャ、ガシャと音がした。店の前のシャッターを誰かが揺らしているのだ。まだ開店時間ではないが、客商売である以上仕方がない。店の主人は疲れ切った表情のままシャッターをあげた。それから数秒後に起きた出来事を後に彼は一生ものの自慢話として語り継ぐことになるのだが――。
「はいはい、いらっしゃ…」
豆腐屋の主人は、そのまま口をあんぐりと開け、二の句が継げない。その目は驚愕で見開かれて目の前の女性の顔を凝視していた。
美しい女性が豆腐屋の主人を見つめていた。白磁のような白い肌に艶のある長い黒髪。そして切れ長の美しい双眸に吸い込まれるようなアメジストの瞳。黒いワンピースを着た彼女はまるでこの世のものではないようだ。
「………え…あ」
本当に目の前の女性は生きているのだろうか?まるで幻のようだと主人は思った。だがどうやら目の前の女性は人間らしい、何故ならその手には家から持ってきたのであろうボウルが抱えられていたからだ。
「おじさん、お豆腐頂戴」
口を開いた彼女はまるで子供のように無邪気にボウルを主人へ差しだした。そのギャップに主人は吹き出しそうになる。
「あいよ」
主人はにっこりと買い換えたばかりのいれ歯を見せながら笑った。
* * *
「ごちそうさま」
少女はお椀の前で両手を合わせる。
「え、もういいの?」
そうさやかが聞くと、黒髪の少女は苦笑して。
「おかわりもしたわ、お腹いっぱいよ」
「そっか」
そういえば、食の細い彼女にしては珍しくお味噌汁をおかわりしている。自分が作った料理を美味しそうに食べてくれるのはすごくありがたくて、さやかはついつい口元が緩む。
「ねえ、美樹さやか」
「何?」
伏し目がちで何か考え込んでいるようなほむら(少女)がさやかに囁いた。
「……ずっとこんな風に一緒に食事ができたらいいわね」
「もちろんよ、私はずっと一緒にいるわ」
「本当?」
そう、あの時確かさやかはこう答えたはずだ。
「本当に本当、一人くらいあんたの傍にいないとね」
「そう、それじゃあいつもこうやって私のために食事を作ってくれる?」
――あれ?この台詞はあの時聞いたことないぞ
それにこれではなにやらプロポーズの言葉みたいではないか。
だが、恥ずかしかろうがなかろうが、さやかの答えは決まっていて。
「もちろん、あんたのためにずっと作るわよ」
「そう…」
そっけない返事。そっけない表情。だがさやかは知っていた。彼女がとても嬉しい時「こうする」ことを。つい、へらへら笑ってしまうさやか。
「じゃあ、私も――」
少女は心なしか頬を染めながらさやかに囁いた。だが、最後の言葉がうまく聞き取れない。
「え、何?ほむら」
「貴方のために―――――わ」
「え?」
* * *
「――なに、なんて、ほむら……あれ?」
目を覚ますと、そこはいつもの白いベッドの中で、さやかは思わず目をぱちくりさせる。
「うわあ…夢オチか」
がしがしと乱暴に頭を掻きながら上体を起こす。傍に寝ていたはずの家主はいない。普段は遅く起きる彼女がどうしたのだろう?と訝しがると、背後から声がした。
「お寝坊さんね、やっとお目覚め?」
「ほむら」
ほっと安堵の息を吐くさやか。そこには見慣れた大人の女性がいて。
「えへへ、なんか面白い夢見てさ…つい」
「そうみたいね」
腕を組んであきれたようにさやかを見下ろす黒髪の女性。その表情はどことなく優しげで。
と、彼女が私服だということにさやかはようやく気付く。
「…あんたどっか出かけたの?」
「ええ、ちょっとね」
そう言って、ほむらはさやかに背を向けてテーブルへ歩いていく。と、歩を止めさやかの方へ顔だけ向けるとにやりと不敵に笑う。
「気になる?」
「とっても」
さやかの返事に嬉しそうに目を細めると、ほむらは「おいで」と言わんばかりに左手で手招きする。不思議そうにさやかがベッドから降りてテーブルに近づくと「わあ」と感嘆の声をあげた。
「…何かいい匂いがすると思ったら…このために?」
さやかの問いにほむらはただ頷く。
「ありがとう」
さやかは礼を言いながら、テーブルを見る。
そこには朝食が用意されていた。しかも豆腐の味噌汁もある。
「「私のために」ずっと作ってくれるんでしょ?」
「うわ、全部寝言で喋ってたのね私」
さやかは苦笑する。この黒髪の友人には到底かなわない。
おそらくさやかの寝言をきっかけに豆腐の味噌汁まで作ってくれたのだろう。
「あんたにはかなわないわ」
そう言って、さやかは苦笑しながら椅子に座る。
「あら、今更?」
ほむらも微笑みながら対面に座り頬杖をついた。互いにしばらく見つめ合い、ほむらはゆっくりと視線を外す。
「でもね、さやか」
ほむらは小さな声で囁いた。
「貴方がずっと私のために料理を作ってくれるなら、私も――」
「……うん」
あまりに嬉しい時に言葉が出ないのは本当らしい。さやかはただ頬を染め、こくりと頷いた。
――貴方のために料理を作るわ
そうほむらが囁いた時、さやかには少女時代のほむらの声も聞えたような気がした。
END
余談
その後、わざわざ遠出(飛んで)してほむらが豆腐を買いにいったことを知り、さやかちゃんは感謝感激して
その後滅茶苦茶○○しております。
何かは想像におまかせですです(何)
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愛の定義
嫌な方は回避。
改変される前の前の世界の夢を見て、おそらく彼女はうなされているのだろう。
「ん…」
そっと手を伸ばし、彼女の額に触れると苦しそうに呻く。蒼い髪はしっとりと湿り気を帯びていた。美樹さやかは時折こうして眠りについている間に「記憶」を取り戻す。私は無意識にため息をついていた。
「ほむら…?」
ゆっくりと彼女が目を開けて私の名前を呼んだ。薄暗い闇の中で、揺ら揺らと所在無げな蒼い瞳が、私を捉える。実はこの瞬間が私はそんなに嫌いではない。彼女が――美樹さやかがもしかしたら記憶を取り戻しているのではないか、そうして私を断罪するのではないか――そんな思いに捉われるからだ。だが、今夜も違った。彼女は口元を緩め安心しきった笑みを浮かべて私の肩にもたれてきた。そうして気持良さそうに目を瞑る。私は彼女の頭を抱えながらなるべく優しく囁いた。
「眠って…」
「ん…」と頭を少しだけ動かし彼女は再び眠りについた。しばらくして聞える規則的な寝息。私は安堵のため息を漏らし、彼女の頭を抱えたまま目を瞑る。彼女に断罪されたい自分、記憶を失った彼女と共に過ごして行きたい私、二律背反。私は心の底で誰かに罰してもらいたいのだろう、「悪魔」と罵られながら。そしてまた誰かに――。
* * *
世界を改変してから、10年、私達は大人になった。
記憶をあっさりと失った美樹さやかは、何故か私を「親友」と認識して歩み寄って来た。無邪気に近寄ってくるものに対して、私は抗うことができない性質らしい、いわゆる押しに弱い性格とでもいうのだろうか。彼女とは高校、大学を共にし、今では私のアパートで一緒に暮らす仲になった。
「ん…」
さやかが私の腕の中で身じろぎした。
私は再び目を開け、薄暗い闇の中、シーツを彼女に掛け直す。腕が壁にあたり、シングルベッドは買い換えた方がいいか?とふと思ったがやめた。特にこのサイズのベッドで不便を感じたことはない。10年間私はこの狭いアパートに変わらずに住んでいるが、二人で住むようになってから、むしろ居心地は良くなっていた。
――皮肉なものだ
悪魔と化した後、巴マミ、佐倉杏子、かつての仲間との決別を決めこんだというのに、彼女とだけは逆にこんなに近しい関係を築くようになるだなんて。何か私すら感知し得ない「因果」でも作用しているのだろうか。それとも私自身が心の奥で望んでいたことなのだろうか。
「…ほむら」
彼女が呟く。寝言だった。ふ、と思わず私は息を漏らし彼女を強く抱きしめた。ああ、そうなのだ私はもう彼女を手放せない。
――まどかは半年前に結婚した。
まどかが幸せになってくれればそれでいいと思っていたのに、実際はそうではなかった。身を引き裂かれるような苦しみ…悲しみ、式場で私は立つことすらできなくなっていた。私は縋るようにさやかにもたれ、そしてその夜、彼女を求めたのだ。
「ずっといて…」
私は彼女の耳元でそっと囁く。
この世界の魔獣も全て私が駆逐していこう、誰にも知られないまま。だから貴方は傍にいて。
* * *
「おめでた?まどかが?」
翌朝、さやかは言いづらそうに私にまどかの妊娠を告げた。
「昨日メールが着てたの、あんたにも言わなきゃと思ったんだけど…」
行儀悪く箸を口につけたまま、さやかは私を上目遣いで見た。彼女は私がまどかを「愛して」いることを知っている。
「そう…」
私は平静だった。自分でも驚くくらいに。休めていた手を動かし、食事を再開する。咀嚼しながら、割りと上手にできるようになったものだと、自分の料理を心で褒めた。と、気付けばさやかはまだ私を見つめていた。怪訝そうに小首をかしげると、彼女は、あ、ごめんと呟き下を向いた。その挙動が私の加虐心を軽くくすぐった。
「なあに?何か言いたいことでもあるの?」
「いや…あんた大丈夫かなって、ごめん…」
まどかの話題になると、彼女は決まって何度も「ごめん」と言う。私を気遣ってのことだろうが、何故か私にはそれが癪に障る。
「謝らないで…私がみじめじゃない」
「あ…うん」
少しきつめに言ったからか、さやかは黙り込んだ。私はため息をつきながら彼女の空になったお椀を取り中味を補充した。お椀を彼女に差し出しながら、言葉を紡ぐ。
「別に…私は気にしてないわ、私はまどかを愛しているし、彼女が幸せならそれでいい」
半分真実、半分嘘。それでも安心したようにさやかは表情を和らげた。
「そっか…よかった。あんた、ほんとにまどかのこと愛しているんだね」
そうしてさやかは「愛かあ」と呟く。
「あら、貴方も愛していた人がいるんじゃないの?」
「いないわよ、そんなの」
即答。逆に私は聞き返す。
「上条君は?」
「うわ、懐かしい」
さやかは苦笑いする。彼女が恋焦がれていたバイオリニストの卵は私達と同じく成長し、今や国内では有名な音楽家となっている。そして志筑仁美と結婚した。あの頃――私達が魔法少女として苛酷な運命を戦っていた頃、彼女の少年に対する「恋慕」の情は、魔女化という結末を生み出し絶望の道へと一直線へ繋がっていた。それが今や、「懐かしい」と過去のことになり一掃されるのだ。時の流れの力のすごさに私はただ驚嘆する。時間に抗い常に遡ってきた私には膿のように因果が積り積っているというのに。おそらく彼女は今ではあの幼馴染のことはどうとも思っていないのだろう。
「今はいないの?愛している人」
「愛しているって…」
私の質問に彼女は困ったように口ごもる。そういえば、あまり気にしてなかったが、彼女も私と同様、学生時代、異性との色恋沙汰は皆無だった。円環の理という壮大な「理」の一部として機能していた所為だろうか、どことなく浮世離れした彼女はおそらく誰とも関係はもっていないのだろう。
「…私、「愛」ってよくわかんないのよ」
とうとう彼女は顔を赤くして告白した。そうして箸を置いて頭を乱暴に掻いた。
「す…好きな人はいるんだけど…」
「あら、貴方にもそういう人いるんじゃない」
「あんたよ」
一瞬、家の中の空気が無くなったかと思った。しばらくして呼吸ができるようになると、ようやく彼女の真っ赤になった顔が確認できる。ああ、そうなのか――。
「そうなの」
「そうよ」
そうしてしばらく黙りこむ。最初に口を開いたのは彼女だった。
「……あんたがまどかを愛しているのはわかってる。けど、好きなのよ」
「そう…」
私も箸を置いた。そうして食卓に両手をついて、彼女に顔を寄せる。ゆっくりと唇を近づけてキスをした。彼女の潤んだ目。私はその耳元に唇を寄せ囁く。
「ねえ…貴方、「愛」はよくわからないって言ったわよね?」
「うん」
「それじゃあ…私が「愛」の定義を教えてあげるわ」
「定義?」
私は身体を移動させ、不思議そうに聞き返すさやかを抱き寄せた。そうして倒れこむようにして、畳に二人横になる。
「そう…だから」
私は彼女の肩に手を回し、その胸元に顔を埋めた。そうして小さく囁く。
「私を愛して美樹さやか」
そう、二律背反、私は彼女に「悪魔」として断罪されたいのと同時に、彼女に愛されたいのだ。
彼女の腕がしっかりと私の腰を抱き寄せる。
私はそっと息を吐いて目を閉じた。
END
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悪魔は抱き枕がお好き
これは美樹さやかと暁美ほむらが一緒に暮らすようになり、数年時を経たある日のこと。
「私、謝らないからね」
「別に、気にしないわ」
黒髪の友人がしれっと髪を掻きあげ、蒼い髪の女性を見上げる。アメジストの瞳が挑発的に輝いている。思わずさやかは腹が立ったのか、べえと舌を黒髪の友人に向ける。「あら」と友人は優雅に手を口にあて、それからさも面白そうにクスクスと笑い始めた。
「貴方ってほんと…子供ね美樹さやか」
「うるさい、ほむらのアホ!」
やけに子供じみた罵声を受けて、さも面白そうに暁美ほむらは笑った。珍しく歯を見せて。
事の起こりはこうだった。紆余曲折を経て、二人は一緒に暮らすことになったのだが、実質的には、暁美ほむらのマンションに美樹さやかが転がり込むというだけで、共同で事を起こすというわけではなかった。
つまりは家の主はほむらなので、彼女の生活ペースに美樹さやかが合わせて暮らしているのだが、どうも就寝のスタイルでさやかはまだ慣れないのか、こうして朝、軽く相方とよくいざこざを起こしていた。
「あ、あんたが夜ひっついてくるのが悪いのよ」
「あら、傍にあるものを抱き枕代わりにするのが悪いことなの?」
唇に指をあて挑発するように笑う。あまりに煽情的なものだから、さやかはとうとう顔を紅潮させた。
無理もない、これから数年先のさやかは毎晩相方と寄りそうように眠ることになるが、当時の一緒に暮らし始めの頃の彼女はまだそういうことに慣れていなかったのだ。
何か言いたそうに右手をあげて、そして金魚のように口をぱくぱくさせて黙り込む。
その様子に大笑いするほむら。あーもう、と言ってさやかは窓の外を見るふりをしてほむらに背を向けた。
恥ずかしい…さやかは先ほどのことを思い出していた。
明け方、身体を締め付ける圧迫感で、さやかが目を覚ますと、自分をまるで抱き枕のようにして眠っているほむらに気づいた。それもただ抱きしめているだけでなく、行儀悪く足まで絡めてだ。こんな綺麗な悪魔が無防備で身体を預けてくること自体びっくりしたが、それよりもさやか自身が恥ずかしさでどうにかなりそうだった。つい、彼女は慌てて黒髪の友人の身体をほどこうと暴れてしまい、振り向いた途端彼女と顔を接触させてしまった…つまりはキスしてしまったのだ。
それからの騒ぎはもう想像通りで、寝ぼけたほむらはただ、その事実にニヤニヤと笑い、さやかは顔を真っ赤にさせ、今に至っている。
「…まだ怒ってるの?」
「わ!あんたいつの間に?」
いつの間にかさやかの背後にほむらが立っている。
そしてぴったりとまた背中にくっつくと、小声で囁いた。
「くっつかれるの嫌い?」
その声がとても寂しそうだったので、さやかは戸惑う。
そして思い出す。彼女が誰よりも孤独で苦しんでいることを。
「ううん…嫌いじゃないわ」
そう言うと、ほむらの手に自分の手を添えた。
「ごめん…ほむら、あんたん家なのに文句ばっか言ってさ…」
「そう、じゃあ振り向いてもらえるかしら」
「?」
不思議そうにさやかが振り向くと、今度はほむらが顔を寄せ、唇を押しつけてきた。
チュッ、と可愛らしい音を立てて、二人の唇が重なる。
「ちょ!」
クスクスと笑い、悪魔は素早く身体を離した、そうして横になりながら頬づえをついてさやかを見つめる。
三日月型に細められた目。
「私はもうひと眠りするわ、貴方はどうするの?お散歩?」
「何よ、犬じゃないんだから!…私もひと眠りするわ」
そういいながら、おとなしくベッドに潜り込むさやかを悪魔はさも嬉しそうに見ていた。
「あら、それじゃあさっきの続きでもする?」
「し…知らない、勝手にすれば?」
「じゃあ、勝手にするわ…」
フフフと笑いながら、悪魔はぴったりと「抱き枕」に寄り添った。
END
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抱擁リレー
「ほむらちゃんって優しいね」
「私が?」
まどかの言葉にほむらが驚く。
「…私はそんな人間じゃないわ」
「ううん、優しいよ」
そう言って、まどかが優しく微笑むものだから、黒髪の女性は堪えられなくなったのだろう、白い腕を伸ばし抱き寄せた。
「わあ?ほ、ほむらちゃん?」
「優しいのはあなたよまどか」
そうして、まどかの頭を胸に寄せて、愛おしげに撫でる。最初驚いていたが、ほむらに他意が無いことに気付き安心したのか、まどかは気持良さそうに目を瞑った。
ここは公園のベンチ。緑豊かな木々の下、大人の女性二人が仲睦まじく寄り添っている。
――もう、あれから10年も経ったのだ
ほむらは自分の腕の中に収まっているまどかを愛おしげに見つめながら、過去へと思いを馳せる。この不安定な世界がよくここまで持ったものだ。まどかが人としてその生をまっとうできれば自分は思い残すことはない。ほむらのアーモンド型の目が細められ、アメジストの瞳がゆらゆらと揺れる。
――本当にそうだろうか?
悪魔という人外ではあるが、ほむらも成長するにつれて、自身の心を冷静に分析できるようになっていた。まどかを誰よりも愛し、その幸せのためなら自身は忘れられても構わない。そう思っていたのだが、今では――
――耐えられるだろうか?生をまっとうしたまどかがこの世界からいなくなって?
悪魔と化しながらも自身の弱さに気づいてしまった彼女は、もう何度もこの問いを己の中で繰り返している。
「さやかちゃんはね」
「え?」
いきなりまどかが悪魔の相方の名を呟いた。さきほどの自問の解答に繋がりかねない名を。
「ほむらちゃんみたいにこんな風に優しくしてくれないよ」
「どういうこと?」
えへへと笑い、まどかはゆっくりと身体を離す。悪戯っ子のようにまどかは目を輝かせて、ほむらを見つめると囁いた。
「こないだね、会った途端にいきなり抱きしめられちゃって、『まどかは私の嫁になるのだー』って、ほんと大人になってもセクハラ魔王なんだから…」
「な…」
ほむらが口を開けて呆然とする。そうして、しばらくすると頬を少しだけ紅潮させ、眉を潜めた。怒りの表情だ。黒髪の絶世の美女は、普段このような表情を決して浮かべない。まどかは自分の軽い気持ちで出した話題のせいで、深刻な状況になったことに気付き、あせった。
「あ、ほむらちゃん、でもそれは軽い感じで言っただけだから…」
「こないだって、いつなの?」
「え…3日前だけど」
「あの人…なんてことを許せないわ」
――ヤバイことになっちゃった…
まどかは心で呟いた。ほむらがまどかを大切にしてくれているのは十分わかっている。だがたまにそれが行き過ぎるのだ。おそらく、まどかにいきなり触れたさやかに対し怒りを覚えているのだろうが。
「ほ、ほむらちゃん、でもそんなに長くギュッてされた訳でもないし、ね?さやかちゃん女の子だし…」
「関係ないわ…まどかに勝手に、いきなり触れるなんて失礼極まりないわ」
「大げさだよ…」
「ごめんなさいね、まどか、ちゃんと躾ておくから」
「え、いや、別に…ほむらちゃん?」
ほむらはベンチから立ち上がると、まどかに微笑んだ。
「私、そろそろ行くわね…まどかも仕事がんばってね」
相方には決して言わない優しい言葉をかけ、ほむらは優雅に公園から立ち去っていく。黒髪の美女の華奢な後ろ姿を呆然と見送るまどか。「大丈夫かなあ…さやかちゃん」と呟きながら。
* * *
さやかの勤務しているK署は、ほむらの家から徒歩30分ほどの場所にある。
「何か御用ですか?」
聞きこみを終え、署に戻ってきた刑事が、署の入り口で腕を組み何か考え事をしている女性に声をかける。長い黒髪の女性だ。声に反応して女性が振り向く。刑事の目が見開かれた。
――とてつもない美人だ。見惚れる刑事。
「呼び出してくれないかしら?」
「へ、あ、あ、あのどなたを?」
見惚れたため、ワンテンポ遅れる刑事。
「美樹さやかよ。確か刑事課にいるわ」
聞きなれた名前を聞いて刑事は更に驚いた。
* * *
「おい美樹!」
バタンとドアが派手に開き、若い男が同僚の名前を呼ぶ。
「へ?何?」
呑気な返事をする蒼い髪の女性。どうやら帰り支度をしているところだろう、パソコンを閉じた所だ。若い男は苛ただしげにさやかに近寄る。
「何?じゃねえよ、お前を訪ねてすっげー美人が玄関で待ってるぞ!誰だよおい?」
ざわ、と室内がざわめく、硬派な課だが「美人」には弱いらしい。数人の若い男がさやかに近寄り、紹介しろなどと言い始めた。だが、周囲の声がまったく聞えないのかさやかの顔は血の気がひいた状態だ。
――い、いったい何があったのよ!
さやかが心で叫ぶ。相方が職場を訪ねてくるなんて、まずあり得ない。何故なら、緊急時には携帯もあるし、状況によっては念話も可能だからだ。なのにあえてここまでやってくるということは、何か「怒らせてしまった」のである。
――や、やばい、やばいわ!
周囲の声はまったく聞かずに、さやかは執務室から飛び出した。慌てて階段も二段越しで降りて行く。玄関まで駆けていくと、ちょうど入り口の外で黒髪の美女が腕を組んで待ち構えてた。一度立ち止まり、さやかは今度はおそるおそる距離を測るようにほむらに近寄った。二人の間はおよそ1m。ほむらは眉をひそめ、さやかを睨んでいる。美貌の女性が怒りの表情を浮かべると美しいが故に、更に迫力があるのだろう。美樹さやかは震えた。
――こ、怖い…!
「ど、どうしたのさ?職場まで来て?」
「……貴方、あんなにひどいことしてどうして黙ってたの?」
「へ?」
きょとんと目を見開くさやか。そんな様子を見て、ため息をつくほむら。
「…ほんと、愚かだわ。貴方、まどかにセクハラしたくせに覚えてないの?」
「ええ?セクハラって、そんなことしないわ」
「嘘おっしゃい、3日前に抱きつかれたって、まどか言ってたわ」
「ああ…え、でもあれは別に…痛い!」
ばちん、とほむらがさやかの額を叩く。今回は強めだったらしい。さやかが涙目になる。
「別にって…貴方、まどかに抱きついておいて「別に」なの?それに…」
「わあ?」
ぐい、とほむらに襟元を掴まれ、さやかが声をあげる。すごい力だ。
「3日前にまどかと会ったなんて、私聞いてないわよ…」
「わ、だって、たまたま会ったから…く、苦し、ほむら、苦しいわ!」
「たまたまだったらいいわけ?」
「ご、ごめん!ごめんって、もうあんたの許可無しに勝手に抱きつかないし、まどかと会ったらちゃんとあんたに申告するわ!」
ぱ、と手が離され、解放されたさやかは咳き込む。
「はあ、苦しかった…これで許してくれるでしょ?」
「だめよ」
そう呟くと、ほむらはさやかの身体にぴったりと身を寄せて。
「ほむら?」
「許さないわ」
さやかの腰に絡みつく、細い白い腕。
「じゃあどうすんのよ…」
困惑した蒼い髪の相方に、悪魔は囁く。頬をやや紅潮させて。
「私にも…抱きついて…」
そうして、彼女は絡めた腕に更に力を込めたのだ。
END
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犬
「おじさん、この犬の名前なんて言うの?」
魚屋の主人は驚いた。いきなり店先で声をかけられたからではなく、声を発した女性があまりにも美しかったからだ。
「ああ…その犬は」
男は右手に鮮魚を持ち、呆然としたまま女性を見つめる。夕暮れ時の下町の市場にはまったくそぐわない、黒づくめの服が似合う長い黒髪の美しい女性。その整った容貌にどれくらい見惚れていたのか。怪訝そうな表情をして女性がこちらを見たので、慌てて男は首を振る。そのアメジストの瞳に魅入られないように。
「…ポチっていうんだ」
しょぼくれた、雑種犬。どこからやってきたのかわからないが、店先でくうん、と鳴かれて情にほだされた男が餌をやったのだ。それから犬は居つき始めてもう何年になるだろう。
「ふうん…」
女性はその場にしゃがみ込み、犬の頭を撫でた。犬はくうん、くうん、と情けない声をあげて後ずさる。それが面白いのか、女性はくすくすと笑いだした。妙齢の女性だというのに仕草も行動もあどけなく、つい男は微笑んで尋ねた。
「その犬、気にいったのかい?」
「ええ、うちの人に似てるわ」
「へえ…」
――「うちの人」…旦那のことだろうか?
男は首をかしげる。確かにもう結婚してもいい年頃だろうが、どうにもこの浮世離れした美人には所帯が似合わない。何故か気になってしまい、男はつい聞いてしまう。
「どういうところが?」
女性は質問されると思わなかったのだろう、一瞬きょとんと男を見て、そうして、また「ポチ」を見つめた。口元は僅かばかり緩んでいて。そうね、と目を細めて犬を見つめたままま囁いた。
「情けなくて、しょぼくれたところね」
そりゃひどい、と男がつい呟くと、女性はフフフと笑って立ちあがった。
「でも本当のことよ?」
そう言うと、女性は犬に「じゃあね」と言って去っていった。
* * *
「おい、ポチ、今日もあの女の人こねえなあ」
男は店を閉めながら、犬に話しかける。あれからもう一ヵ月ほど経っただろうか。あまりに美しかったため、忘れようにも忘れることもできない。
――ポチをいたく気に入ってたから、また来ると思っていたのだが…
と、女性の騒がしい声が聞えてくる。
「…なんで、もうしまってるじゃない…」
「別にお魚を買う訳じゃないわ」
「じゃあなんで…」
声の主は女性二人。
一人はあの美しい女性だった。そうして、もう一人手を引かれて困った顔でひょこひょこついてくる女性。
ああ、なるほど、と男は納得する。そうして笑いながら、女性に声をかけた。
「よお、嬢ちゃん、その人がポチに似ている人かい?」
「ええそうよ」
ええ?と後ろで変な声をあげる女性と、にこやかな黒髪の女性を交互に見て、魚屋の男は笑う。「情けなくて、しょぼくれた」雰囲気は男はその女性からは感じ取れなかったが、ポチと彼女の髪の色は全く同じ蒼色だったのだ。
黒髪の女性はさも自慢げに蒼色の髪の女性に囁いた。
「ほら、さやか貴方に似てるでしょ?」
END
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ほむら計画する
「夏季休暇?」
美しい眉を少しあげながら、黒髪の女性が不思議そうに目の前の蒼い髪の女性を見つめる。
「うん、それでどこか行こうかなって…」
「ちょっと、どうして社会人なのに夏季休暇があるの?」
パンを咀嚼しながらもごもごと話していた蒼い髪の女性が、ぐ、と喉を詰まらせコーヒーカップを慌てて口に運んだ。
「………しゃ、社会人でもあるのよ!ないところもあるけど、とりあえず公務員にはあるわ」
「…納得できないわ」
黒髪の女性は首をかしげながら、学生でもないのに…と呟く。彼女は大学卒業後、特に定職に就く訳でもなく、それでいて蒼い髪の女性よりも「稼いで」いる。伏し目がちに、色鮮やかな料理をナイフで優雅に切り崩しながら「それで?」と黒髪の女性は相方に続きを促した。だが蒼い髪の女性は返答しない。フォークを口元に運び、口を半開きにしながら、不思議そうに黒髪の女性は顔をあげた。
「さやか?」
「へ、ああ、ごめん」
蒼い髪の女性――美樹さやかは頭を掻きながらへらへらと笑った。頬が微かに紅潮している。
「それで、二人でどこか旅行しない?」
意を決した割りには、言いにくそうに、語尾が小さくなっているのを当人が気付いているかどうか。既に彼女達は8年も生活を共にしているにも関わらず、未だ美樹さやかの方は「相方」に対して思春期めいた「照れ」を見せるのだ。長い黒髪の女性はそれを知ってか知らずか、ふ、と一瞬口元を緩め、料理を口にした。しばらく味わうように咀嚼する。家での遅めの朝食は、ゆったりとして快適らしい。さやかはタンクトップ、黒髪の女性はキャミソールというくだけた格好のまま、リラックスして食事を行っていた。咀嚼を終えた後も黒髪の女性は返事をせず、ゆっくりとコーヒーを飲む。これにはさすがにさやかも落ち着かないのか、名前を呼んで返事を促した。
「ほむら」
カップをテーブルに置いてから、黒髪の女性――暁美ほむらは優雅に微笑んだ。世界を改変してから10年も経つと彼女もこのように笑えるのだ。
「いいわ…どうせやることもないしね?」
「やった!」
嬉しそうに右手でガッツポーズを取る相方を面白そうに眺めながら、ほむらは目を細めた。
「ところで行き先は決まっているの?」
「え…えへへ、どっかアトラクションとか行きたいなあって」
「アトラクション?」
批判するような目付でほむらはさやかを見つめた。だが、テーブルの向こう側の相方はお構い無しに、派手なジェスチャーと擬音でアトラクションを再現するので、ほむらは、はあ、とため息をついた。
「嫌よ」
「ええ?なん…」
細いほむらの人さし指がさやかの唇を抑える。二の句が継げず、身を固めるさやか。ほむらは妖しく微笑んで。
「…私が騒がしい所苦手なの知ってるでしょ?」
甘く囁きながらゆっくりと人さし指を離すと、ワンテンポ遅れてさやかが声も無く、こくりと頷いた。その仕草が可笑しかったのか、しばらくほむらはくすくすと笑う。ばつが悪そうに眉を困ったように下げながらさやかは言った。
「―――そ、それじゃあ、何処に行きたいのさ?」
「そうね――」
ガタ――
相方の質問には答えずに、ほむらは椅子から立ち上がった。上体を屈め向かい側の相方へ顔を近づける。
「ほむら?」
顔があと数センチほどで接触する。顔を赤くするさやか。互いの息が感じ取られる距離でほむらは一瞬動きを止めた後、さやかの耳元へ顔を寄せ甘い声で囁いた。
「内緒」
「へ?」
そうしてほむらはいきなりさやかの耳を噛んだ。小さく悲鳴をあげ、耳を抑えるさやか。
「あいた!あんた何すん…」
「私が計画を立てるわ」
「え?」
きょとんと目を見開くさやかと細めるほむら。
「ねえ…いいでしょ?」
そう囁かれて小首をかしげられるものだから、さやかは頷くしかなかった。にっこりと微笑む悪魔。
「楽しみだわ」
そう言って、ほむらは軽やかに台所へ向かっていった。何か懐かしい歌を口ずさみながら。
どうやら悪魔ははしゃいでいるらしい――
* * *
「行き先がわかんねえだと?」
初老の男にどやされ、さやかは身をすくめた。休暇届の申請書を思わず握り潰してしまい、くしゃくしゃになる。
「はあ、まだ決めて無くて…」
「決めて無いだと?」
それでもへらへらと頭を掻きながら答える部下に業をにやしたのか、白髪の上司は馬鹿野郎、と怒鳴った。
「お前な、警官だろうが!誰と行くかはどうでもいいが、場所くらい決めておけ、ボケ!」
他の公安職でもそうだが、警察官の場合、休みでも、管轄区外に遠出する場合は遠出の届出をしないといけない。それを怠った場合、長期休暇でも遠出は一切できなくなる。
「わかりました…」
ニヤニヤと周囲の刑事が笑みを浮かべている中、美樹さやかだけは青ざめて。
――マズイ、マズイわ!
さやかは心で叫ぶ、このままだと旅行がパーになる。執務室を出て、慌てて携帯を取り出すと相方を呼びだす。
『……おはよう、おまわりさん』
ようやく相方が取ったと思ったら、かなり不機嫌な声が聞え、さやかはまた身をすくめる。
悪魔は朝に弱かった。
「あ、ご、ごめんほむら寝てた?」
『…私の声聞いたらわかるでしょ?…それじゃ、お休み…』
「ちょっと!ちょっと待って、きらないで、ほむらっ、まずいのよ!」
支離滅裂ながら、さやかは必死に事情を説明する。ようやく受話器の向こうの相方が理解したのだろう、いつもの人をからかうような笑い声が聞える。
『あら、じゃあ、私が岡山さんに話すわ、変わって頂戴』
「な、そ、そんなことできるわけないでしょ!」
顔を赤らめてさやかが叫ぶ。公務上の上司に部下の相方が休暇の説明をするなんてあり得ない。もし仮にその様な状況になったとしたら、恥ずかしさと気まずさで自分はどうなってしまうだろう、とさやかは思った。
『どうして?』
彼女が冗談なのか本気なのか、さやかにはさっぱりわからない。だからさやかは普通に答えた。同僚の刑事を例えて。
「どうしてって…嫁が旦那の職場の上司に気軽に話しなんてしないでしょう?」
『………』
「それと一緒…て、ちょ、ほむら?ほむらってば!」
携帯が切れた。
「もう、人の話しも聞かないで!」
さやかが腹ただしげに携帯を振る。そうして壁にもたれるとため息をついた。
「どうしよう…」
と、しばらくして携帯が軽く振動する。メールだ。送り主は黒髪の相方。タイトルは「旅行先」
「まったく…口で言えばいいのに」
呟きながら、さやかは本文を読む。
え、と驚きの声をあげながら、さやかの目が見開かれた。旅行先をたった今知ったのだから仕方ない。
だが、その旅行先に文句のつけどころなどないのだろう、さやかは笑みを浮かべ、目を輝かせていた。
それからすぐにさやかの「遠出の申請」は受理された――。
* * *
「なんだか、悪いわね」
その夜、さやかは申し訳なさそうに囁いた。不思議そうに首をかしげ、ほむらは相方を見下ろした。
「どうして?」
「あんたにばっかり準備押し付けてさ」
さやかの手がほむらの頬に触れる。ほむらは猫のように目を細めて。
「あら、貴方にしては珍しくしおらしいわね?」
「だって…」
馬鹿ねと囁いて、ゆっくりとほむらが体を沈めた。密着する二人の身体。月の光が彼女達の白い肌とベッドのシーツを照らす。二人は「行為」をたった今終えて余韻に浸っていた。腕を互いの身体に絡め、抱きしめ合う。心地よさで、どちらからともなく漏れる吐息。
「たまにはいいと思ったのよ」
「え?」
さやかの上でもたれたまま、ほむらは囁いた。
「私が見たい景色を貴方にも見せたいと思ったの、だから…別に気にしないでいいわ」
「ほむら…」
彼女はいつからこんなに優しくなったのだろう?思わずさやかは口に出して聞いた。はあ、とため息をつく黒髪の美女。抱きしめ合っているため、表情は見えない。
「貴方はまだ私をわかっていないのね」
「え?」
ほむらが顔をさやかに向けた。至近距離で、目と目が合う。アメジストの瞳と蒼い瞳。ほむらは唇をさやかの頬にあてると、そのまま耳元までスライドして囁いた。
「……もう10年も経つのよ?」
さやかは困ったように、ほむらの艶のある黒髪を撫でながら言葉を探す。口を開くが言葉が出てこないのか、また閉じた。さやかの肩口に顔を密着させながら、ほむらはくっ、くっ、と喉を鳴らす。
「しょうのない人…」
そう囁いて、ほむらは上体を起こした。微かに呻いた後、身体を少し前に屈める。そうして潤んだ目で相方を見下ろして、小さく、とても小さく囁いた。
「……嫁ってそういうものなんでしょ?」
「ほむら」
そうしてさやかも、ようやくほんの僅かだが理解した。この10年で起きた互いの「変化」。
「続きをしましょう」
恥ずかしさを隠すように、ほむらはほんの少しだけ乱暴な口調で囁くと、再びさやかに覆いかぶさる。今度は腕を強く肩に回して。二人は行為の「再開」を選択する。今度はゆっくりと体を反転させて、「飼い犬」が「悪魔」の上に覆いかぶさった。
「ほむら」
「……なあに?」
ほんの少しだけ、吐息の交じった二人の声。
「旅行…楽しみね」
なんの捻りもない無邪気な台詞に何を思ったのか、ほむらは目を細め微笑んだ。
「そうね…」
楽しみね…と言おうとしたが、声にならず喘ぎ声が出る。
ほむらはため息を漏らしながら、抱きしめる指に力を入れた。
それから数日後、ほむらの計画した旅行に二人は出かけることになるが、それは後のお話。
END
二人はいったいどこへ旅行に行ったのでしょう…
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ほむら留守番する
少女の頃は適当に学校に行って、魔獣退治にだけ専念すればよかったのに、大人になると結構面倒なものだ、とほむらは相方を見てつくづく思う。
「人間ってやっかいなものね」
「はあ?なにさ、やぶからぼうに」
不思議そうにスーツに着替えながらこちらを見下ろす相方に、ほむらはベッドで仰向けに寝転びながら返事の代わりに微笑んだ。衣擦れの音とともに彼女の白く細い腕がシーツから出てきて、蒼い髪の相方の胸元を指差した。
「…ボタンずれてるわよ」
「わ、恥ずかしい、ありがと」
どういたしまして、と囁くと、ほむらは寝返りをうって蒼い髪の友人の方へ体を向ける。シーツから彼女の胸元が露わになり、そこに長い黒髪が幾筋かかかる。うわ、と変な声をあげ背を向ける相方の仕草を見て、ほむらは口元を緩めた。
「あら、何を今更照れているの?」
横向きでほおづえをつきながら、ほむらは「昨晩もさんざん見たのに?」と更に付け足した。蒼い髪の相方は肩をぴくりと動かして、ほむらの方を見ずに返事をする。
「照れてないわよ…ただ」
「ただ?」
「…ごめん、やっぱ照れてるわ」
とうとうほむらは吹き出した。苦しそうに肩を震わせながら、白い歯を見せる。
「…ほんとしょうのない人…」
「う、わ、悪かったわね、捻りがなくて!じゃ、じゃあ私行くわ」
「さやか」
小さめのトランクケースを持って玄関へ向かう相方――美樹さやかをほむらは呼びとめる。ようやくさやかはほむらの方へ顔を向けた。頬がかなり紅潮していた。にんまり、と微笑むほむら。空いている手を動かして、「おいで」と相方を手招きする。さやかは困ったような顔をして。
「え、だ、だめよ、私もう行かないと…」
「ほっときなさいな、「出張」なんてシステムを作った社会が悪いのよ」
「はあ?何よそのわがまま大王的な発想っ…わあ!」
パン、と乾いた音と同時に、さやかが悲鳴をあげてほむらの元へ勢いよく飛び込んできた。まるで何かに突き飛ばされたかのようだ。慌てて立ち上がろうとするさやかを、笑いながらほむらが羽交い締めにする。唸り声と笑い声をあげながら二人はしばし(片方は必死だが)ベッドの上で戯れた。傍目からだと、大の大人の女性二人が寝技で格闘しているようにも見えるのだが。
「横暴!横暴よ!」
背中から抱きつかれ、スーツとシャツをしわくちゃにされながらさやかは必死に叫ぶ。その背後でくすくすと笑い続ける美しい悪魔。
「遅刻しちゃうじゃない!しゅ、主任に殺されるわ!」
「あら、大丈夫よ、私の保有能力忘れたの?」
「保有…え?」
何かに気付いたのか、さやかが左手を見る。腕時計のデジタル表示が停止していた。わああ、嘘、と絶望の声をあげたさやかの頬に数回ついばむようにほむらが唇をあてて囁いた。
「楽しみましょう?」
ほむらの手がさやかの下腹部をゆっくりと撫ではじめる。体を「改変」する気だ。呻き声をあげながらさやかは固く目を瞑った。
* * *
美樹さやかが大学卒業後警察官になってからというもの、ほむらは時折「留守番」をするようになっていた。
『いない方がたまにはせいせいするわね』
そう言って悪魔はさやかに背を向けて、手をひらひらと振って送り出していたのだが、最近はそうもいかなくなった。
『また出張?』
最近、さやかの出張の回数が異様に増えているのだ。今日も二泊三日であるが、本庁へ各都道府県の刑事が赴き特殊な事件の事例研修を行う。一般人なら、刑事としての将来性を見込まれたものであると素直に喜べるが、「特殊な事情」を抱えている二人に取ってはそうも言ってられない。ため息をついて、ほむらは呟いた。
「……出張なんてこりごりだわ」
当の本人ではなく、悪魔がこのような台詞を呟いたものだから、さやかは不思議そうに肢体を曝している彼女を見上げ尋ねた。
「へ?なんであんたが?」
ぱちん
惰性のように、ほむらが組み敷いているさやかの額を叩く。
「あいた、ちょっと!」
睨む相方をよそに、はあ、とまたため息をつくとほむらはさやかの上から降り、その傍で寄り添うように寝転んだ。その視線は天井へ向けられて。気持が沈んでいる様子の相方に気付くとさやかは心配そうに尋ねる。
「…どうしたのさ、あんた」
「なんでもないわ」
「………」
さやかは黙ってほむらの手を握った。そうして二人しばらくそのままで天井を見上げている。
「……困るのよ」
「え?」
天井を見上げたまま、ほむらが呟いた。
「魔獣退治が面倒くさいのよ、貴方がいないと……」
「ああ…それは」
申し訳なさそうな表情をするさやか。膨大な力を持ってして、改変した世界を維持し続けているほむらに取っては、魔獣など雑魚同然だろうが煩わしいことこの上ない。そして、そんな雑魚を駆除するのは「自分」の仕事だとさやかは思っている。
「……出張、なるべく減らせるように努力してみるわ」
「できるの?」
「う~ん…」
「ちょっと待って」
何かに気付いたようにほむらが天井を見上げながら呟く。不思議そうにその美しい横顔をみつめるさやか。ゆっくりとその美貌がこちらへと向けられて。魅惑的なアメジストの瞳。
「……テレビで観たことあるわ」
「へ?」
一体、なんの話だろう?
「出張と称して浮気を繰り返す外道な夫の話…」
「な、なによそれ、外道って…」
「そうして確か嫉妬に狂った妻に惨殺された…」
「こ、怖いわ、いつのサスペンスよ!昭和!?」
「貴方もそうなの?」
「ち、違うわ!」
相方の美貌故か、一層凄味を感じ、さやかは身の危険を覚え起き上がる。そこに白い手が伸びて。ひゃあ、とさやかは悲鳴をあげてベッドから転落した。吹き出すほむら。枕に顔を押し付けくっ、くっ、と苦しそうに笑う。頭を抑えながらさやかは叫んだ。
「ちょっと、からかったわね!」
「あら、怖かったの?おまわりさん?」
むかつくわ、と叫びながらさやかは立ち上がったが、しわくちゃのワイシャツにぼさぼさの髪とまったくしまらない。その姿にほむらは目を細め微笑む。枕からちらりと顔を覗かせながら。唇から白い歯を覗かせて、彼女は歌うように囁いた。
「そろそろ時間よ?」
「へ、あ?」
さやかは左手を見て、再び絶望の声をあげた。時計のデジタル表示が動いている。
「あ、あんた、ちょっと待ってくれてもいいじゃない!」
「時は金なりでしょ?」
「こんの悪魔!」
悪態をつきながら、しまらない刑事はよれよれのワイシャツの上からスーツを着た。そうして慌ててトランクケースを引っ張り玄関へ行こうとして、やけに足が涼しいことにさやかは気付く。
悲鳴をあげ、さやかは顔を真っ赤にしてベッドへと戻る。苦しそうに笑う悪魔の手からズボンをひったくるために。
――イッテラッシャイ、キヲツケテネ?
そんな彼女に悪魔は小さくとても小さく囁いた。
* *
「どうした美樹、浮かない顔して」
「へ、ああ、なんでもありません」
初日の研修を終えて、執務室の外で携帯を持ったまま、さやかはため息をついていた。
ほむらが電話に出ないのだ。
到着してから1回、昼に1回電話を掛けているが取らず、メールも数回送っている。
時刻は1800、普通なら家にいる頃だ。
――何かあったのだろうか?
彼女が電話に出ないというのはあり得ない。魔獣と戦っているのか、それとも…
さやかは急にはっ、と表情を強張らせる。横でニヤニヤとそれを見ている同僚。
『出張と称して浮気を繰り返す外道な夫の話』
――それって逆もありなのではないか?
出張の多い夫が留守の間、何故かいきなり妻好みのどストライクの男がどこからともなく現れ、そうしていつの間にか関係を持ってしまった――
「ああ、無い、絶対に無いわ!」
さやかがいきなり叫び出したので、ニヤニヤ笑っていた同僚が、ギョッと身を強張らせた。
――そう、そうなのだ、彼女がそんなことするなんてあり得ない。
ほむらが誰か他の男と関係を持つなんてあり得ない。彼女は鹿目まどか一筋なのだ。そう思うこと自体、彼女に対する冒涜だとさやかはすごい勢いで猛反省する。拳を作ってさやかは己の頭を数回叩いた。その奇行に同僚はただただあっけに取られて見つめるだけで。
やはり、魔獣絡みだろう、とさやかは思いなおした。だとしたら、今、無事だろうか?彼女のことだから余裕で一掃するだろうが、人と融合していたら苦戦しないだろうか?はあ、とさやかはため息をつく。
「おいおい美樹~、マジで辛気臭いぞ、男が電話に出ないくらい気にすんなって」
「お、男じゃありません!」
ころころ変わる表情を見て、同僚は笑った。
「お前って、お笑い芸人の方が向いてんじゃねえの?」
美樹の傍らで同僚は腕を組みながら顔を近づけニヤリと不敵に笑う。顔だけ見ればどこぞのチンピラ風の強面だ。一瞬さやかの表情が曇った。
彼は「高崎」の後任だ――。
と、さやかは唸り声をあげた、同僚に思いっきり腕を叩かれたかのだ。
「まあ、そんな考えすぎんなって、ほら」
ぐい、と問答無用といわんばかりに腕を捕まえられ動揺するさやか。
「なんなんですか?」
「飲みに決まってんだろ、ほら行くぞ」
「わあ、ちょ、ちょ」
半ば強引に引きずられるようにして、さやかは廊下を歩きだす。その先に数名のスーツ姿の男が立っていた。さやかの職場からは5名この出張に参加している。おそらく今日は夜通し飲むことになるのだろう。
「おや、久しぶりですね」
いきなり声をかけられて、さやかは慌てて振り返る。同僚の男は軽く声の主に会釈すると先に集団の元へ歩いていった。
グレーのスーツを身に纏った、中肉中背の男――顔には全く特徴が無い――がさやかの目の目に立っていた。ようやく思い出したのか、さやかはあっ、と声をあげた。柔和に微笑む中年男性。
「ようやく思い出しましたか、○市のペンション以来ですね」
「はい、お久しぶりです」
彼は立夏にほむらとまどかと共に旅行に出かけた際、旅行先のペンションで偶然出会った刑事だ。確か○県警だったはずだ…とさやかはその時手渡された名刺を思い出す。
「ほんと、すごい偶然ですね、今日は?」
「ああ、私も研修ですよ、この年でね」
さやかの問いに刑事は肩をすくめ、口元を緩める。そうして、それより、と彼は言葉を紡いだ。
「お連れさんもお元気ですか?」
「ええ、元気です」
そうですか、と呟くと、刑事はまた柔和に微笑んで。
「お会いできて嬉しいですね、それではまた明日」
「はい」
さやかは軽く頭を下げ、それから同僚の元へと駆けだした。迎えた同僚はかなり険しい表情を浮かべていた。
「おい、美樹、あの刑事と知り合いか?」
「へ?はあ、偶然旅行先で会って…」
「あいつは「ゼロ」だぞ」
――公安
さやかの表情も強張る。かつて「サクラ」とも呼ばれていた組織。国家の体制を脅かす事案に対応し、同じ警察であっても他部門に対し情報共有はしない。その捜査対象は国内外の各種集団、極左からカルト集団にまで及ぶ――。
「でも、前に会った時は○県警の刑事と…」
「今はその県に出張中なんだ、「刑事」としての覆面を被っているのさ…とにかくあいつには近寄らない方がいい」
「わかった」
さやかは同僚のアドバイスに同意した。確かに得体の知れないものには近づかない方がいい。
先輩格の刑事が大声をあげていきなり「よし行くぞ、俺の奢りだ」と叫んだ。周囲に歓声が沸く。さやかも気を取り直して、集団に溶け込む。ぞろぞろ歩きだした。「あ」と声をあげ、さやかがポケットに手を入れる。その手に握られているのは携帯。素早い動作でさやかは携帯を耳にあてた。
「ほむら?」
『………』
「どうしたのさ?心配したのよ、何かあったの?」
『……貴方が』
「え?」
『貴方がそろそろ寂しがっているかと思って――』
ふ、とさやかは嬉しそうに口元を緩めた。相変わらずの素直じゃない悪魔。そう、でもだからこそ――
「寂しかったわよ、とっても」
『そう…』
素っ気ない声、だけどそれは感情を押し殺した結果だと、さやかは知っている。
「ねえほむら、私さ――」
さやかは嬉しそうに今の気持ちを相方に伝える、ありのままに。電話の向こうできっと悪魔は顔を赤くしているだろうなと思いながら。
しばらくの沈黙の後、悪魔もさやかに素直に気持を伝えることとなるが、それはまた後の話――。
END
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さやか真っ赤になる
「うわ、出た」
白い空間の中、美樹さやかは驚きの声をあげて少女を見下ろしていた。
「なによ、いきなり失礼ね」
「失礼って…どうせこれ私の夢なんでしょう?」
「変なこと言う人ね」
馬鹿じゃないの、と辛辣な言葉を付け足して黒髪の少女はさやかを見上げた。美しいアメジストの瞳、まだあどけないが見惚れてしまう美貌。美樹さやかの相方、暁美ほむらだ。
だが、いつもより「幼い」。さやかはしばらく少女に見惚れた後、はっ、と我にかえり両手を大きく広げてぼやいた。
「だって、こんな真っ白な空間、夢以外のなんだっていうのよ?」
だだっぴろい距離感すら失われる白い空間で、さやかとほむらは立っていた。さやかは白のワイシャツとデニム、ほむらは黒のゴスロリのドレス、二人とも裸足だ。
「それに…あんただってまたちっちゃいし…いくつ?」
少女の頭の上の空間を撫でるような仕草をしながらさやかは尋ねた。
「24」
「嘘!」
ぱちん
「いったあ!」
さやかが額を抑える。少女が軽やかにジャンピングして額を叩いたのだ。「またやられたわ」と叫びながら、さやかがしばらく身を捩じらせ呻いた。
「まったく…「ちっちゃくて」悪かったわね、貴方の願望でしょ?」
「へ?ま、まさか」
外見はゴスロリのあどけない少女で、中味は24歳の大人のほむらだなんて――
「まさかいくらなんでも、私はそこまで――」
変態じゃないわ、と言おうとしたと同時にほむら(少女)が囁いた。
「変態ね」
「ひどいわ!」
少女は吹き出した、しばらくお腹を抱えて苦しそうに笑う。苦々しげにそんな少女を見つめるさやか。ようやく笑いが収まった頃には少女の目じりに涙が浮かんでいた。笑いすぎだ。
「…フフ、違わないわ、これが貴方の「夢」だっていうのなら、今登場している私は貴方の願望よ、外見も何もかもね」
「それじゃあ、この空間も?」
「そうよ、何もないこの空間も貴方の願望」
少女の言葉を受けて、さやかが周囲を改めて見渡す。
真っ白な何もない空間、そこに「在る」のは目の前の暁美ほむらだけ。
「それじゃあ、私ってさ」
「なあに?」
「あんた以外は何もいらないとか思ってるのかな…?」
沈黙が起きた。無表情な美少女と、次第に顔が真っ赤になっていく蒼い髪の大人の女性。しばらくしておそるおそる口を開いたのは大人の女性――さやかだった。
「え…へへ、なんか、私今すごいこと言ったような……」
「知らない」
「え?ちょっと、あんたどこ行くの?」
ほむらはぷい、とそっぽを向くと、いきなり駆けだした。思わず追いかけるさやか。小学生の運動会に一緒に出場している親子のような、スローペースともハイペースともいえない不思議な速度で二人は空間の中を走り始めた。
「ねえ、ちょっとってば!」
少女の横に並んださやかが叫ぶ。少女はさやかの方を見向きもしない。その頬はほんのり微かに紅潮していて。
「帰るわ」
「帰るってどこへ?」
「知らない、さよなら」
「ええ、や、やめて、お、置いていかないでよ!」
さやかは少女を抱きしめた、思わず少女は悲鳴をあげるが気にせず抱き上げる。
「ちょっと、離しなさい、この変態!けだもの!」
「けだものって…!私そんなんじゃないわ!あんたの同居人よ!」
さやかは少女を抱きかかえたまま、まるで借り物競走のように走り続ける。
大人の女性と、抱きかかえられているあどけない少女はまるで親子のようで。(少女の方はかなり暴れているが)
「いい?あんたがどんなに暴れて、私から逃げようとしても」
真っ白な空間が次第に色を帯びてゆく。七色の虹色に。
「私はあんたを」
地平線が生まれた。
「あきらめない」
まばゆい光が二人を包む。
「絶対に」
さやかと少女の目があった。少女は微かに、ほんの微かに口元を緩めて囁いた。
「さやか――」
* * *
「――さやか」
艶のある声がさやかの耳元で聞えた。
「…………」
ゆっくりと目を開き、さやかは呻いた。その視界に広がるのは真っ白な細い首筋に、幾筋かの黒い髪。
「あ…」
さやかは黒髪の友人に密着して眠りについていたらしい。いや、密着というレベルではなく、「抱き枕」代わりにして眠っていたようだ。顔を友人の肩にのせ、横から友人の肢体に手足を絡めていた。友人の柔らかい感触と、いい香りで思わずさやかは顔を赤くした。
「え、えへへ、ごめん寝ぼけてたみたい」
「でしょうね」
くっつきすぎて、さやかの視界からは友人の首と幾筋かの黒髪しか見えない。友人が気分を悪くしているのか、そうでないかも表情は見えないから確認できない。思わずさやかは顔をあげて友人の名を呼んだ。
「ほむら?」
ようやく、恐ろしいほど美しい友人の横顔が見えた。何を考えているのか天井を見上げている。こちらを見ようともしない。なんだか、さきほどの奇妙な夢が続いているような不思議な感覚に陥ったさやかは、つい子供のように尋ねてしまった。
「……怒ってるの?」
ふ、と息が漏れる音。黒髪の美女は口元を緩め微笑んだ。
「馬鹿ね、何を怒るの?」
「何をって」
「そうね…例えば貴方ならどうする?」
「へ?」
きょとんとほむらの横顔をみつめるさやか。彼女は未だ天井を見上げたままで、歌うように囁いた。
「『あきらめない』『絶対に』…って言われながら触れられたら」
「へ?」
ゆっくりとほむらがこちらを向いた。美しい切れ長の目はどことなく潤んでいて。
「困るでしょ?」
そうしてようやくさやかは気付いた、己の左手が何か柔らかいものを掴んでいることに。
「ん…?あれ、あ…」
さやかの身体が固まった。しばらく手を動かし、何を掴んでいるかようやく悟ったからだ。
――ほむらの胸にさやかは手をあてていた。
みるみる顔を赤くするさやかを面白そうに見つめながら、ほむらはゆっくりと体ごと向けてきた。そうして妖艶に微笑みながら囁いた。
「貴方、もしかしてたまってるの?」
言葉を失ったさやかは、ただ顔を赤くし、ぶんぶんと首を振るだけ。
「しょうのない人ね…」
ほむらはそう囁くと、「狼」になれなかった飼い犬の左手に自分の手を重ね、そうして唇をゆっくりと重ねた――。
END
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ほむら労わってみる
それはいつもの通り、美樹さやかが仕事を終えて家に着いた時の事だった。
「お疲れ様」
と、家に着いた途端、家主に温かい言葉を掛けられたので、美樹さやかはきょとんと目を見開いた。
「へ?あ、う、うん」
ただいまと言いながら、さやかは窓辺のソファにくつろいでいる家主の元へひょこひょこと近づいた。艶のある黒髪、白磁のような肌、圧倒的な美貌――いつもの相方だ。キャミソール一枚でくつろいでいる姿は美しく、煽情的で、既に8年も共に過ごしているというのに、さやかはまだその姿を直視し続けるということはできないらしい。ほんの少しだけ頬を紅潮させながら窓に映った夜景へと視線を移す。
「お仕事どうだった?」
「うん…いつもの通りよ」
肩をすくめながら、相方の問いに答えると、さやかはやや怪訝そうな表情で振り向いた。眉を困ったように下げ、やや垂れ気味な目を美しい家主に向ける。
「てか、あんたこそどうしたの?」
「どうしたのって?」
「……なんだか怖いくらい優しいわ」
答える代わりに白い歯を見せて相方は微笑んだ。ほんの少しだけ首をかしげて。そうして手を伸ばすとさやかの腕を掴み、くい、と引っ張る。その意図するところを読み取って、さやかは黒髪の美女の隣に腰を下ろした。しばらく互いに見つめ合う。
「ほらおいで」
「え」
すぐ傍で、いきなり黒髪の美女が手を広げた。さやかは動揺する。どうしていいものか、身体が動かないようだ。そんな彼女をせかすように美女は両手を動かした。
「う……うん…」
ようやくさやかはおそるおそる黒髪の美女の胸に顔を埋めた。白い腕がさやかの頭に絡まり、柔らかい感触といい香りがさやかを包んだ。
「……なんだか恥ずかしいわ」
「そう?」
いつも寄り添い合って眠りについている間柄なのだから、このような行為は初めてのことではない。だが改めて「おいで」と言われて胸に顔を埋めるのはまた少し違うわけで。
「いつもはもっと恥ずかしいことさせるくせに?」
「………悪かったわね」
黒髪の友人の言葉に顔を赤くしながらさやかは囁いた。くすくすと笑いながら美女はさやかの頭を撫でる。
「よしよし」
そう囁きながら、さやかの頭から背中までこするように撫で始めた。なんだかこそばゆくて思わずさやかの口元が緩む。気持ちよくて目を瞑った瞬間、何かがさやかの頭に当たった。
「?ちょ、ちょっと何…痛!!なんか刺さったわ!」
さやかが思わず身をよじると、黒髪の美女は不満そうに声をあげた。
「ちょっと、動かないで…ついでにブラッシングしてるのよ」
「ブラッシング?」
さやかが思わず顔をあげると、目の前に剣山のようなブラシが現れた。思わず目を見開くさやか。口元が自然にひきつる。
「ちょ…」
「いいでしょ、これ?新作よ」
ウインクなぞして、美女は微笑む。10年経つと人は変わるものだ。だがさやかはそれどころではない。目の前のブラシを凝視しながら叫んだ。
「そ、そ、それ…ペット用じゃない!」
「そうよ、今日わざわざ買って来たのよ」
「買ってきたって…」
「だってまどかが――」
* * *
『ほら、モカおいで』
ワン、ワンと大型犬が桃色の髪の女性の元へと駆けよってくる。
へっ、へっと嬉しそうに前脚を主人の膝へ載せ、尻尾をちぎれんばかりに振ると再びワンと元気よく鳴いた。
『よくなついているわね』
その横で、黒髪の美女が呟いた。桃色の髪の女性はにっこりと微笑んで。
『てへへ、私とモカは友達だから…ね?』
そう言うと、大型犬の身体を優しく撫で始めた。くん、くうん、と鳴くモカ。
『気持よさそうね』
『そうだよ、こうやって毎日撫でてあげると気持もいいし、犬は優しくすると元気が出るものなの』
『ふうん…』
『だからね、ほむらちゃん』
* * *
「私にも優しくしろって?まどかが?」
「ええ…ついでに撫でたらなお「良い」って」
「…まどかったら!」
さやかが幼馴染の名前を呼んで呻いた。
夏に三人(と一匹)で小旅行に出かけて以来、冗談なのか本気なのか、彼女もさやかのことを「ワンちゃん」扱いすることがあるのだ。
「まったく…妙に優しいと思ったら、そういうこと…」
ぶつぶつ言いながらさやかがほむらから体を離すと、「だめよ」と言って手が伸びてまた抱きしめられた。
「な、何よもういいでしょ?」
「まだ撫で終えてないわ、ほら、こうして」
そう言うと、ほむらが両手で前をひっかくような仕草をした。招き猫が両手で招いているようにも見える。「?」とさやかが首をかしげると、もう、とほむらが珍しく声をあげた。
「モカちゃんがしていたようにしなさいよ」
「しなさいよって、どんなよ!」
ほむらは自分の腿のあたりをぽんぽんと叩く。
「ここに前脚をひっかけるように載せて…尻尾を振ってたわ」
「あ、脚って!しかも尻尾って!」
「うるさい犬ねえ…ほら」
ほむらの手がさやかの後頭部にあてられ、そのまま力ずくで強引に膝へと引き寄せられる。
わあ、と声をあげてさやかはほむらの膝に顔を埋めた。いわゆるうつ伏せ状態の膝枕だ。だが素直に飼い主の言うことを聞く気は無いらしい。さやかは顔をあげようと抵抗する。その仕草が可笑しかったのか、ほむらがフフフ、と吹き出した。
「ほら、観念しなさいな…」
「い、嫌よ、は、恥ずかしすぎるわ!」
じたばたと抵抗するさやかと、笑いながらその頭を押さえつけるほむら。まるで海面に顔を押し付けて窒息死させようとする犯人と抵抗する刑事のようだ。ソファで大人の女性二人の膝枕の攻防がしばらく続けられる。根をあげたのは刑事の方だった。
「降参!降参よ!」
「よろしい」
こくりとほむらは頷くと、手の力を抜いた。ほむらの膝の上に頭を載せぐったりと横たわるさやか。はあ、と息を吐くと身を捩じらせた。
「最初からいい子にしてればいいのに」
「……だって膝枕なんて恥ずかしい…うわ!」
さやかが叫んだ。窓に映った自分の姿が恥ずかしいようで、両手で顔を抑えながら身を捩じらせた。その仕草が滑稽で、再び吹き出すほむら。
「変な人ねえ」
「どんな罰ゲームよこれ!」
意外と美樹さやかは恥ずかしがり屋であるらしい。顔を赤らめながらほむらの膝の上でのたうちまわる。
「誰も見てないわよ?」
「み、見られてたら私、死んじゃうわ!」
キャミソール姿の女性の膝の上に、同じくワイシャツ姿の大人の女性が嬉々として頭をのせて横たわっているのだ、通俗的だが、バカップルとしか言いようがない。
――こ、こんな姿、主任にでも見られたりしたら……!
あり得ないことだが、つい想像してしまうのも美樹さやかの悪い癖だった。
「写真でも撮っておく?」
「やめて!」
必死に叫ぶさやかを見て悪魔はさも嬉しそうに笑った。
* * *
夜景の見える窓の傍で、飼い主は忠犬の身体を優しく撫でていた。
「どう?ブラッシングもいいものでしょ?」
「うん…」
うとうとと、気持いいのか、蒼い犬は主人の膝の上に頭を載せ目を瞑る。もうまもなく眠りにつくだろう。
あれから抵抗をやめたさやかは、おとなしくほむらのされるがままになっていた。
「ねえほむら」
「なあに?」
「ありがとう……」
ぽつりと呟くと、恥ずかしそうにさやかは顔を埋めた。どうのこうの言っても、彼女のおかげで仕事の疲れは取れたのだ。
「……別にお礼なんていいわ、まどかに言われて「仕方なく」やってるだけだもの」
「そう?」
「そうよ」
フフフとさやかが笑う。
「仕方なくではない」ことをさやかは知っている。
「じゃあ、お礼は言わないわ、でも代わりに」
「代わりに?」
さやかがほむらを見上げた。ほんの少しだけ頬が紅潮していて。
「……もう少しこのままでいい?」
「いいわよ」
そうして白い手がさやかの頭を撫でる。ほっ、と安堵のため息を漏らして今度こそ「忠犬」は目を閉じた。しばらくして、規則的な寝息が聞えてきたが、飼い主は愛犬を優しくとても優しく撫で続けていた――。
END
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ほむらプレゼントを探す
「姉ちゃん、本当にいいの?」
「え、いいに決まってるじゃない、たくさん呼びなよ」
周囲がクリスマス一色の雰囲気になった頃、鹿目まどかとその弟のタツヤは街を散策していた。例年の「家族パーティ」で必要な飾り付けを購入するためだ。
「だって、俺のクラスメートってみんな行儀悪いしさあ」
「え?そんなことなかったよ、すごい礼儀正しかったじゃない」
「――そりゃ姉ちゃんが…」
タツヤは困ったように姉を見つめる。タツヤの背が伸びたためか、目線はあまり変わらない。タツヤは美しい姉の顔を見ながら「それは言うまい」と決心した。
「なあに?タツヤ」
「なんでもないよ」
ほんの少しだけ頬を赤らめてそっぽを向く弟に、まどかは身体ごと軽くぶつかった。
「わ、姉ちゃん!」
「ほら、ちゃんと言いなさい」
「い、言わないって」
姉弟の無邪気なじゃれあいに、街行く人々は何を思うのか。私服姿の二人はどこか年の離れた幼馴染のようでもあり…。
と、まどかが動きを止めて肩から下げているバッグを見つめた。着信音だ。中から携帯を取り出して画面を見ると彼女の大切な友人の名前が表示されていた。
――暁美ほむら――
「あ、ほむらちゃんからだ」
携帯を耳にあて、もしもし、と声をかけると艶のある声が聞えた。
『まどか?今大丈夫?』
「うん、大丈夫だよ、どうしたの?」
『今買い物をしているのだけど…何を買っていいかわからなくて』
「わからない?…何か迷っているの?」
『ええ』
不思議そうな表情をしながら、まどかは弟と目を合わせて、そうしてゆっくりと視線を緑と赤に飾り付けられた街路樹に向けて、あ、と声をあげた。
「もしかして、クリスマスプレゼント?」
* * * *
『ほむらちゃん、プレゼントどうするの?』
『え?』
『クリスマスだよ、さやかちゃんに何かあげないの?』
『考えてなかったわ』
『もう…』
数日前、まどかとほむらとさやか(とモカ)で公園で遊んだ時に、二人の間でクリスマスが話題になった。黒髪の美しい女性は、視線を犬とじゃれている蒼い髪の女性へ向けながら呟いた。
『いつもあの人が勝手に盛り上がってツリーを飾ったり、勝手に私に何かくれたりしてたから…』
『もう、だめだよ、ほむらちゃん、ちゃんとお返ししないと』
『そうね、まどかがそう言うならそうするわ』
『ほむらちゃんてば…』
苦笑するまどか。
* * *
『――実はそうなの』
「よかった、さやかちゃん喜ぶよ」
いひひ、と嬉しそうにまどかは笑った。
『――あの人はついでよ、まどかのは買ったから楽しみにしてて』
「フフ、ありがとう、ねえ、ほむらちゃん、もし困っているなら一緒に探してもいいよ?」
『大丈夫、まどかの手を煩わせるほどの事でもないわ、適当に買うわ』
適当に――と言いながら、本当はとても悩んでいるだろうに、とまどかは考えた。だって、人に縋るような事をしない彼女がまどかに電話を掛けるくらいなのだから。
「ねえ、ほむらちゃん、さやかちゃんは贈り物ならなんでも喜ぶよ。特に好きな人のくれたものなら…ね?」
『…………』
驚いているのか、それとも答えに窮しているのか、携帯の向こうの美貌の友人は沈黙した。苦笑しながらまどかは続ける。
「だから、なんでもいいんだよ?…心がこもっていれば」
『こころ…』
「うん」
『………ありがとう、まどか』
嬉しそうな友人の声に、まどかも口元が緩む。そうして、何か思い出したのか、また、あ、と呟いて友人の名前を呼んだ。
「ねえ、ほむらちゃん、やっぱりイブの日は家に来れない…?」
『ごめんなさい、その日、あの人が仕事なのよ、遅くなるかもしれないから』
「そっか、残念だね、でも別にイブじゃなくても休みの日に一緒に家に遊びにおいでよ?」
『ありがとう』
美樹さやかは警察官である。そうしてイブの日は当然のごとく仕事であった。だが、運のいいことに翌日のクリスマスは公休なので、夜通しワインを飲んで、翌日は二人でどこかへ出かけるというやや大雑把な案を黒髪の女性は立てていた。
『それじゃあ、探してみるわ、じゃあ…』
「うん、いいのがみつかるといいね」
それから二言、三言話して、まどかは携帯を切った。にこやかな表情のまどかに弟は尋ねる。
「ねえ、ほむらさん達も家に来るの?」
「ううん、今回は、来れないって…タツヤもしかしてほむらちゃんがこれなくて残念?」
「ち、違うよ!」
タツヤは慌てる、確かに姉の友人である黒髪の女性は恐ろしいほど「美人」だが、なんだか得体の知れない怖さがある。
――あいつは喧嘩最強よ
年の離れた友人、美樹さやかのこの言葉がタツヤの脳裏で反復される。警察官のさやかが最強というくらいなのだから、あの黒髪の女性は相当喧嘩が強いのではないか?パンチがすごく強くて、一撃をくらったら、気を失うとか、じゃなければ空手の黒帯とか…
「タツヤ?」
「え、あ、ち、違うよ、安心してる!」
思わず本音を漏らしてしまい、あ、と声をあげ慌てるが、そんな弟をただ姉は不思議そうに見るだけで。
「…変なタツヤ」
そうしてふわりと優しく笑うのであった。
* * *
携帯を切ると、ふう、と暁美ほむらは息を漏らした。
そのままバッグへ携帯を戻し、再び街を歩きはじめる。めっきり冷え込んできた、昼下がりの街は装飾、色、音、全てがクリスマス一色に彩られていて。街路樹は夜になれば絢爛豪華に輝くであろうイルミネーションが施されていた。行き交う人々は、夜だったら…と思いつつこの通りを歩くのだが、今回ばかりは少し違っていた。
「わあ…」
「見て…」
羨望と好奇、あらゆる感情の込められた視線がほむらに注がれる。長い艶のある黒髪、黒のタートルネックに、スカートと黒づくめの格好、白磁のような肌、そして恐ろしいほどの美貌。颯爽と軽やかに歩く彼女を、人々は見つめる。だが、当の本人は全く気づいてないようで。
「こころ…」
誰ともなしに呟いて、ほむらは空を見上げる。蒼い空。
『あの夜』を越えてから、不思議と――
「そうだわ…」
口元を緩めながら、ほむらは小さな文房具店へと入っていった。
* * *
「おかえりなさい」
ほむらが家に着くと、部屋の奥から彼女の相方の声がした。蒼い髪を掻きながらツリ―の前にあぐらをかいて飾り付けをしている。フフ、とほむらは笑った。
「ただいま…お仕事終わったの?」
「うん、事件も何にもなかったから…」
「そう…」
非番明けの彼女は、家に着くなりすぐにツリ―の飾り付けに取りかかったのだろう。ワイシャツ姿のままだった。
「ところで…どこ行ってたのさ?」
「あら、気になるの?」
「…うん」
白い歯を見せて、ほむらは笑う。あの夜以来、相方は甘えん坊になっているようだ。自然と手が伸びて、その頭を撫でた。
「ちょっとお買い物よ…」
「買い物…何を?」
「内緒よ、楽しみにしてて…」
内緒?と不思議そうに首をかしげる相方の髪を指でいじりながら、ほむらは囁いた。
「そっちは早速ツリ―の飾り付け?」
「うん…もうちょっと早くしたかったんだけど」
「私もするわ」
「え」
そう言いながら、ほむらは蒼い髪の女性が持っていた「星」を、ひょい、と奪った。
「珍しい…」
「あら、そうだったかしら?」
確かに去年まで、ほむらはクリスマスにあまり興味を示していなかった。だが今は――
ゆっくりと手を伸ばして、蒼い髪のてっぺんに「星」を置いた。
「ちょっと!」
「ぴったりね、お間抜けだけど」
くすくすと悪魔は嬉しそうに笑う。顔を赤くした相方の表情を楽しそうに覗きこみながら、手を伸ばし、首に絡めると、まるで空気を吸う様にキスをした。ゆっくりと息を吐いて、相方を見上げ、ほむらは囁いた。
「ねえ、そっちからは?」
『あの夜』を越えてから、不思議と二人の間の距離は無くなって――。
今度はほむらの細い背中に手を回し、相方からキスをする。一回目は空気を吸う様に、そして、二回目は――長く、長く。
「飾り付け…後回しにしましょう?」
ほむらの言葉に相方は答えず、代わりにその手に力を込めた。
END
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ほむらプレゼントを渡す
「おい美樹、何そわそわしてやがる」
「へ、い、いやっ、なんでもありません…」
白髪の初老の男に睨まれて、美樹さやかは慌てて首を振る。時刻は18時30分、定時はとっくに過ぎているが、マル暴には「ノー残業デー」という概念は無いらしい。無機質な執務室内には屈強な男達が肩を並べて事件の捜査資料を必死に作成していた。その凶暴な顔つきから、刑事の詰め所というより、暴力団事務所のようだ。
――わかってはいたけどさあ…
垂れ気味の目を再びパソコンの画面へ向けながら、さやかは心でぼやく。よりによってこういう時に限って事案は起きるのだ。ヤクザも厳かにクリスマスイブは過ごすべきなのに…。
「そういや、主任、近々異動があるんすか?」
さやかと同じ年代の若い男が突然顔をあげ、初老の男に声をかけた。ああ?と主任と呼ばれた白髪の男――岡山は若い男を睨んだ。荒くれた漁師のような、浅黒い肌に彫りの深い
顔。
「そんなこと上から一つも聞いてねえよ…何かあったのか?」
「はい、昼に本部の人事課長が執務室を訪ねてきてまして」
「人事課長が?」
周囲がざわめく。本部の人事課長がわざわざ部署のマル暴を訪ねてくるなんて、なかなか、いや、滅多に無い。どう考えても「引き抜き」かあるいは悪ければ「懲戒」の類だ。
「馬鹿野郎、そんな重要な事はさっさと言いやがれ、で…なんて言ってた?」
「すんません、人事課長は特に何も」
ちょうど朝から昼にかけて、執務室には若い男一人しかいなかった。事件対応で皆外勤だったのだ。
「逆に怪しくないっすか、主任?」
中堅の刑事が岡山に声をかける。ああ、と岡山は頷いて足元を見つめる。睫毛の下の灰色の瞳が一瞬揺らめいた。腕組みしながら何事か考えているようだ。
「また、美樹の引き抜き話じゃないんですか?」
どっ、と周囲が湧き上がる。彼女はどうも、この課でのいじられキャラらしい。「愛されている」と言われれば聞えは良いが。そこでようやくさやかも顔をあげ、自分を話題にあげた同僚の男を睨んだ。彼は高崎の後任だ。数カ月前の出張も一緒だった――。
「もう、やめてくださいよ、なんですか「また」って!」
「わかんねえよ?お前、この前の出張でも公安の男に声を掛けられてたしな」
「公安?」
岡山がニヒルな笑いを浮かべている男を睨み、そして今度はさやかを睨む。
「おめえ、公安と知り合いがいるのか?」
「へ、い、いや違います、たまたま旅行先で」
「旅行先?」
「はい、実は友人と――」
さやかが口を開いた時、電話の内線が鳴った。静まりかえる執務室内。このタイミングの内線の内容は決まっている。受話器を取った男が厳かに口を開いた。
「抗争です」
ヤクザを呪詛する声や、不満の声があがる。だが男達はそれでも素早く立ち上がりスーツを着込み、現場へ向かう仕度をする。
「美樹、話は後だ、絶対に忘れるなよ…いいな」
「はい」
主任の念押しに頷きながら、さやかは視線を壁に掛けられた時計に向ける。
せめて、イブとクリスマスの境目までには家に戻れますようにと願いながら。
* * *
『ほむらちゃん、まださやかちゃん帰ってこないの?』
「ええ」
携帯越しの「愛しい」女性の声を聞きながら、ほむらは囁くように返事をした。
『はあ…警察官は大変だね…ほむらちゃんも大丈夫?』
「私は平気よ、どうせあの人の事だからもう少ししたら慌てて帰ってくるわ」
ほむらは軽く目を瞑りながら笑みを浮かべた。
時刻は21:30分、イブとクリスマスの境目に妙にこだわっていた相方ならば、そろそろ家に駆けこんでくるだろう、蒼い髪を乱しながら。
「まどかはどう?楽しんでる?」
ほむらの右手がゆっくりと左腕をさする。
『うん、楽しんでるよ、パパもママも、タツヤもいるし、それに今日はタツヤのお友達もたくさん来てたの!』
どうやらすごく賑やかでそして楽しかったらしい、携帯越しの彼女の声は子供のようにかなり弾んでいた。優しく目を細めるほむら。
「…あなたが楽しんでいるのなら、私はそれで十分よ」
『もう、だめだよ…ほむらちゃんも楽しまなきゃ』
「そうね…」
ほむらは視線を窓の傍に飾ってあるツリ―へ向けた。薄暗い室内で、そこだけが幻想的に輝いていた。ほむらはまた左腕をさする。そこは、「あの夜」蒼い髪の友人が縋るように強く掴んだ箇所。
『ほむら、助けて…』
――もっと早くに気付いてあげたかった
あの夜、ほむらは蒼い髪の友人を受け入れ続けた。絶え間なく供給される快楽と飛びそうな意識の中、ずっと――。
『ほむらちゃん?どうしたの?』
「ああ、ごめんなさい、なんでもないわ」
『そう?…さやかちゃん、早く帰ってくるといいね』
「ありがとう、まどか、でも…あの人が帰ってきたらまた騒がしくなるもの、今が静かでいいかも…」
『フフフ、また、そんなこと言って…たまには「寂しい」って素直に言わないと』
「………」
ほむらは少しだけ頬を赤らめた。
『それじゃあ、そろそろ切るね、ほむらちゃんプレゼントは見つかったの?』
「ええ、見つけたわ」
『えへへ、さやかちゃん喜ぶよ、それじゃあ』
「ええ、またね」
それから、まどかの別れの挨拶を聞いて、ほむらは携帯を切った。ふう、と息を吐いて、ソファから立ち上がり、窓の傍へと歩み寄る。
半分に欠けた月が、黒づくめの服に身を包んだほむらを蒼白く照らした。
今夜は家の電気を消していた。クリスマスツリ―が綺麗に見えるからという相方の提案で。家主は律儀にもその提案を実行し、じっと相方を待っている。と、ほむらは口元を緩め、気持良さそうに目を瞑った。うっとりと何かに聴き入っているかのように。
しばらくして、ガチャリ、とドアの開く音がした。そうして慌ただしい足音と、犬のような唸り声。
口元に手をあて、ほむらは肩を震わせる。さも嬉しそうな表情で。
「ただいま!ほむら、遅れてごめん!」
大慌てだったのだろう、文節もなにやら危うげな順番で、相方は声をあげ駆けこんできた。
家主の予想通り、蒼い髪を乱しながら。
そうして、はあ、はあ、と肩を揺らしたしょぼくれたスーツの蒼い髪の女性は、腕を組んで窓の外を眺めている美しい女性の横顔を心配そうに見つめる。
「あら…別に待ってないから大丈夫よ?」
だが家主はそう言って、片方の眉をあげながら、口元を緩めた。あのさも嬉しそうな表情は見せる気はないらしい。その代わり、ほう、と安堵の息を漏らす蒼い髪の女性に近寄ると、「お帰りなさい」と囁いて、その肩に頭を預けた。
「……電気消しててくれたんだ」
しばらくして、蒼い髪の女性が囁いた。その視線は、窓の傍で彩り鮮やかに輝いているクリスマスツリーに向けられて。
「ええ、貴方がはしゃぎそうだから、仕方なく」
「ひど!」
くすくす笑いながら、ほむらは預けていた頭をあげて、そうして、蒼い髪の女性の視線を誘導するように、顔をくい、とテーブルへ向けた。
「わあ、ワイン…」
テーブルには家主の好む銘柄のワインと、そしてつまみ程度ではあるが、色どり豊な料理が用意されていて。嬉しそうに目を輝かせる相方に、ほむらはただ、「暇だったからよ」と囁いた。
「乾杯しましょう?さやか」
* * *
クリスマスまであと2時間、二人は無事計画通りワインを飲む事が出来たことに乾杯した。大雑把な家主の計画は、むしろ非常事態の多い二人には効を奏していて。テーブルを囲んで、二人は軽い食事と飲酒をはじめた。
「わ、美味しい」
「あら、貴方にもこのワインの良さわかるの?」
「わかるわよ」
ワイングラスを手に口を尖らせるさやか、そしてそれを目を細め、眺めながらグラスを傾けるほむら。
お酒を飲みながら語り合うことは、この二人の共通の楽しみであり、至高の一つでもある。
不思議と素直になれ、そして不思議と心が通いあっていることを実感する奇跡的な時間。
と、おもむろにさやかがもぞもぞと動きだして、腰のあたりに手をやった。
「どうしたの?」
ほむらがワイングラスを口にあてたまま、尋ねる。向かい合っている相方が、口元を緩めながら携帯を取りだした。
「えへへ、せっかくだから雰囲気を出そうと思って」
さやかは携帯をテーブルの上に置いて、なにやら操作した。と、いきなり激しいノイズと、音楽が出てきて、わ、とさやかが声をあげた。
「さやか?」
「いや、せっかくだからクリスマスらしい音楽をと思ったら…まちがえちゃったわ」
ヘビメタはなあ…と呟き、眉根を下げて情けなく笑う友人を、ほむらはあきれたように見つめた。
「情けないわねえ」
「えへへ」
この蒼い髪の友人は、「やる時」は「やる」のだが、どうにもこういう所は締まらない。肩をすくめて、ほむらはさやかから携帯を奪い取った。そうして、ごく自然にまるで自分のもののように器用に操作する。
「ほむら?」
「…ほら、これはどう?」
青い携帯から異国の子供の声が流れる。それは世界中で聞くことのできる有名なクリスマスソングで。
「わあ、さすが!いいねえ雰囲気あるわ」
「でしょ?」
再び肩をすくめ、ほむらはボトルを手にする。それをさやかが取り、ほむらのグラスに注いだ。二人なんとなしに目が合って。
そうして微笑んだ。
街の鮮やかなイルミネーションには遠く及ばないが、けれど二人で飾り付けをしたツリ―の明かりは何物にも代えがたいもので。異国の音楽と共に、二人はしばし雰囲気に浸りつつ会話をした。酔いがほどよくまわって語り合う時、二人は互いの背景は語らない。今、その場で思いついた、あるいは考えていたことを相手に問う、答える、心のキャッチボールのように。
おそらく他の誰よりも、誤解と確執のあった二人だからこそ。こうして語り合えることが無性に嬉しいのだろう。二人はただ無心に互いの事を想い、そして語り合った――。
* * *
ボトルから流れる赤い液体が途切れ、美しい黒髪の女性は口を尖らせた。
「あら、もう空だわ」
口を尖らせたまま、手でボトルをぶらぶらと揺らす様は、まるで子供のようで。思わずさやかは口元を緩めた。
「あんたって、こういう時は子供みたいで可愛いんだけどねえ」
「……そんな事言っても何も出ないわよ」
そうして、さやかを睨む。だが、焦点がうまく定まっていないため迫力がない。その白磁のような頬にはほんのりと赤みが差していて。彼女はだいぶ酔いが回っていた。フフフ、と対面で嬉しそうに笑うさやか。彼女の頬もほんのり赤く…。要は二人とも酔っていた。
「こら…貴方、何がおかしいの?」
「おかしくないわよ、可愛いなって…」
「…殺すわよ」
そう言って、テーブルに前のめりになりながら、ほむらは再び対面の相方を睨む。どうにも迫力が欠けていた。人外も、酔うと迫力は大幅に低下するようだ。
「フフフ、わかった、わかったわよ…じゃあ、何かお酒取ってくるわ」
そうしてさやかは嬉しそうにへらへら笑いながら立ちあがる。確か冷蔵庫にもう一本あったはずだ。ひょこひょこと軽やかにさやかは台所へ向かっていった。息を吐いて、前のめりになるほむら。どうやら睡魔が襲ってきたのだろう、目を瞑って顔をテーブルにつける。艶のある黒髪が白いテーブルにかかった。
「あれ?ねえ、ほむら…寝ちゃった?」
しばらくして、相方の囁きが耳元で聞え、ほむらは目をうっすらと開ける。アメジストの瞳が揺ら揺らと所在無げにしばし揺らめいて。と、ほむらの表情が訝しげなそれに変わった。視界に見慣れぬものが映っていたからだ。視界いっぱいに映っているのは赤と緑。
「……寝てないわ」
ゆっくりと、ほむらが顔をあげ、見慣れぬものを凝視する。よく見るとそれは赤と緑色の施された包装紙で。満面の笑みを浮かべた相方の両手に収まっていた。
「なあにこれ?」
「えへへ、メリークリスマス、あんたにクリスマスプレゼント」
時刻は0時を越えていた。クリスマスだ。
「ありがとう…何かしら?」
バスケットボール2個分くらいの大きさの包装紙を、不思議そうに見つめながら、ほむらは両手を伸ばし受け取った。そんなに重くは無いようだ。
「開けてみて?」
相方の催促に、こくりと頷きほむらは不思議そうな表情のまま、包装紙を開けた。ガサガサと音を立てて、現われたのは、茶色のぬいぐるみ。きょとんと目を見開き、しばしその物体を黒髪の美女は観察した。持ち上げて、あらゆる角度へ視線を向ける。
「これ、犬かしら?」
「いや、クマよ!」
ふうん…と言いながら、ほむらは白い手でぬいぐるみの頭の部分を撫でた。非常に手触りが良い。まるで子供を抱っこするように膝に載せて、ほむらはくすくす笑いながらその頭を撫で続ける。
「…触り心地がいいわ」
「でしょ?ふわふわのを探すの大変だったんだから」
得意げに歯を見せて笑うさやか。どうやら彼女も結構な少女趣味の持ち主らしい。ほむらが抱っこしているクマには可愛らしい赤いリボンが施されていて。くすくすと笑いながらほむらは立ち上がった。クマを抱っこしながら、すたすたと鏡台に向かう。
「え?どうしたの?」
何やら鏡台から道具を手にして戻って来た。ペットブラシだ。あっけにとられているさやかを余所に、椅子に座るとぬいぐるみにブラシをあてた。
「ちょ…やめなって、痛んじゃうわ!」
「毛並みをもっと良くしようかと…」
「だめだって…痛!!なにすんの!」
くすくす笑いながら、今度は止めに入ったさやかの頭にブラシをあてる。
「貴方のより柔らかいわ」
「ひど!」
歯を見せながら、ほむらはさも嬉しそうに笑う。行動はやや奇妙だが、どうやら気に入ってくれたようだ。特に答えを求めるのは野暮な気がして、さやかは何も言わず微笑んだ。
クマを撫で続けているほむらが、何かを思い出したように、手を止め、顔をあげた。
「そうだわ、私も…貴方に渡すものがあるわ」
「え?………マジで?」
ほむらの言葉の意味を咀嚼して、驚いたようにさやかは囁いた。
今までついぞ、クリスマスにほむらからプレゼントをもらったことなどない。まあ、自分が勝手に盛り上がって勝手に渡すだけだから、とさやか自身も言い聞かせていたが、さすがに一緒に暮らして8年も経つと、寂しくなるものだ。
「わあ、なんだか嬉しいわ…ありがとうほむら」
「まだ何かわからないのに?」
尻尾があれば、思いっきり振っているだろうと思えるくらいのさやかの喜びっぷりに、ほむらは少し苦笑して。そうしてクローゼットへ向かった。なにやらごそごそと取りだしたと思ったら、手のひらサイズの小さな袋を持って戻ってくる。「?」と不思議そうなさやか。
ゆっくり椅子に腰かけて、二人むかい合うと、ほむらは袋を開け手をいれた。
「はい」
ほむらがさやかに手渡したのは、赤い可愛らしいリボン、ラッピング用の花を開いたようなものだ。
「え?」
きょろきょろと周囲を見てもプレゼントらしきものはない。だが今さやかが手に持っているのは、ポンポンのような、プレゼントの箱につけるようなもので…。
「これ…って」
「もう…ほら」
ちょい、ちょい、とほむらが己の頭を指差すものだから、さやかはその頭のてっぺんにリボンを置いた。思わず吹き出すさやか。
「なによ?」
「いや…だってあんたの頭…パ、パトカーのサイレンみた…」
ばちん
「痛い!!」
顔を抑えながらさやかが悲鳴をあげる。黒髪の美女の手のひらが顔面にヒットしたのだ。
思わず涙を浮かべながら、さやかは抗議する。
「ちょ、ちょっと、あんたひどいじゃ…」
「ほんと、馬鹿には口で言わないとわからないのよね…」
「な…」
リボンを手に握ったまま、ほむらは相方を睨む。それは挑むようでもあり、またどこか――。
「――よ」
艶のある唇から洩れた言葉。蒼い髪の女性の目は驚いたように見開かれ、次第にその頬は赤くなる。それは酔いではなく、目の前の解答によって。
意味が咀嚼できないのか、それとも許容量をオーバーしたからか、その体は動かない。数秒ほどしてようやく蒼い髪の女性の口が開いた。
「……え、じゃ、じゃあ、そのプレゼント…って」
ツリ―の飾りがやけに眩しくて、いや、目の前の黒髪の相方が眩しくて、さやかは目を細め、そして更に顔を赤くした。
「…そうよ」
こくり、とほむらは頷いて、長い黒髪を梳いた。そうして、恐ろしいほどの美貌に酔いのためでは無い「赤み」をほんの少しだけ差しながら――唇を開いた。
「私よ」
END
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ほむら思い出し笑いする
「はい、美樹の携帯です」
意識は未だ朦朧としているが、暁美ほむらはとりあえずきちんと返答した。問題はそこからだ。携帯のレシーバーから男性のがなりたてる声が聞える。眉をひそめ、その圧倒的美貌に「不愉快」の表情を滲ませながら、ほむらは囁いた。
「……どなたですか?」
サイドボードに視線をやると時計の表示は「02:30」。
不機嫌そうに息を漏らし、ほむらは白いシーツの中、横にしていた身体を仰向けにした。白い細い腕を動かし、乱れた長い黒髪に手をやる。彼女はついさきほどまで安眠をむさぼっていたのだ。暗い室内に月明かりが差しこみ、キャミソール一枚を纏った彼女の美しい肢体が露わになる。
「……だから、あのひ…いえ、「彼女」は寝てます、あ、もしかして…岡山さん?」
がなりたてる声に聞き覚えがあったのか、ほむらはしかめた顔を元に戻し、ゆっくりと上体を起こした。ヘッドボードにもたれながら、ふう、と息を漏らす。次第に覚醒してきたようだ。
「はい、はい、ええそうです…フフフ」
ほむらは目を瞑りながら口元を緩めた。彼女にしては珍しいことだ。この携帯の向こう側にいる初老の男は、相方の職場の上司であった。何か二言三言会話をした後、ほむらが「え?」と呟いた。
「ええ、いつも一緒に寝てますけど何か?………もしもし、岡山さん?」
返事が無い――何かまずいことでも言っただろうか?
しばらくして、男の全ての感情を押し殺したような機械的な声がした。
「今からですか?わかりました…」
ほむらはゆっくりと視線を左側の己の腰のあたりのシーツに向ける。膨らみのあるシーツの下には熟睡しきって夢の住人となっている相方がいて。
「さやか」
ぽん、ぽんと家の主が比較的優しくその膨らみを叩く。膨らみはもぞもぞ動き、ぴょこん、と蒼い髪を覗かせた。寝ぐせのついた髪の下には、眠たそうに未だ固く目を閉じている顔があって。そっと主は口元を緩ませる。
「ん…?」
呻き声をあげながら、どうにか片目だけ開けて蒼い髪の女性――美樹さやかは、ほむらを見上げた。肩をすくめて「電話よ」とだけ囁くと、ほむらは携帯をさやかの耳元にあてた。
携帯から男のがなりたてる声が漏れた。
「――ん、何…て、しゅ、主任っ?」
寝ぼけ声から一気に覚醒した声に移行し、さやかは勢いよく起き上がった。その横でほむらが口を抑え肩を震わせる。
「あ、はい、わかりましたすぐ行きます!」
ベッドから身軽に飛び降りると、さやかはクローゼットに駆けより中からスーツを取りだした。手際が良いのは、彼女がいつもこういう緊急呼び出しに慣れているからだ。着替え始めた相方の背中を見つめながら、ほむらが「事件なの?」と気だるげに聞いた。
「うん、何か口を割ったんだって」
「貴方が行かなきゃいけないもの?」
やや不機嫌そうに髪を撫ぜながらほむらが問う。
さやかはきょとん、と垂れ気味の目を相方に向けた。
「私と主任があげたホシだもの」
「ふうん…」
警察官とは面倒なものだ。とほむらは思ったが、もちろん口にはしない。その代わり、力なく相方の寝ていた所にぽすん、と身体を倒し、再び目を瞑る。ふて寝だ。
「起こしちゃってごめん」
着替えを済ましたさやかはベッドに戻ると、その手を伸ばし相方の黒髪に触れた。さらり、と一回だけその髪を梳く。
「それだけ?」
横目でさやかを見つめ、口元を緩める。どこか挑戦的な表情の黒髪の女性。困ったように、眉を下げながら、さやかは顔を相方の頬に近づけた。軽く接触する唇の感触で、フフ、とほむらは笑う。
「へたくそね」
そう言って、ほむらは身体を仰向けにしながら手を伸ばした。相方の頭を捉えるとそのまま引き寄せる。さやかの額や首元についばむように唇をあてた後、そのまま胸元へ抱き寄せた。顔を赤くするさやか。だが、それも最初だけで。黒髪の美女の抱擁は結構長く続いた。
「……そろそろ行くわ…てか、ちょ、苦しい!ほむら!」
顔を胸元に押し付けられて息が出来ないのだろう、関節技を決められた敗者のように、さやかがほむらの腕をポンポン、と叩く。タップアウトのようだ。
「だめよ、もう少し…」
「ち、窒息するわ!」
はあ、と息を勢いよく吐きながら、さやかは相方の抱擁から抜け出した。不満気に口を尖らせるほむら。
「し、仕事行く前に死んじゃうじゃない!」
「あら、もう少し覚えてもらわないと、貴方が帰れなくなるもの」
「?」
不思議そうに見下ろすさやかを面白そうに見上げ、ほむらは囁いた。
「飼い主の匂いをきちんと覚えてないと、犬はおうちに帰れないって…」
「マーキング?てか犬じゃないわっ!」
相方の叫びと同時にほむらは吹き出す。どうにも彼女は相方を愛犬扱いすることが多いのだ。ひとしきり笑った後、ほむらは「いってらっしゃい」と小さく囁いた。
* * *
数秒後、再び夜の静謐が訪れた。先ほどと違うのは傍でいつも体温を感じさせてくれる相方がいないこと。ふう、と息を吐き、ほむらはサイドテーブルに置いてある茶色い物体をやや乱暴に抱き寄せた。それはクマのぬいぐるみだった。ベッドで仰向けになりながら、ぬいぐるみを抱き上げてほむらは囁く。
「……お前、ほんとは犬なんでしょ?」
そうしてその胸元にぬいぐるみを置くと、感触を楽しむように数回撫でた。
『てか犬じゃないわっ!』
そう叫んだ時の相方の顔を思い出して、ほむらは再びくすくすと笑う。そうして、何か思い出したように、あ、と珍しく呟いた。相方の首に痕をつけてしまっていたのだ。
――こんな時間までいつも一緒なのかい?
初老の男の心配そうな声を思い出す。あの時なんて答えただろう?職場に辿り着いた相方が上司に質問攻めになるのを想像して、ほむらは再びくすくすと笑った。
まあ、たまには相方が困る様を想像するのも楽しいものだ――そう思いながら、彼女はまた幸せな眠りについた。起きた時に、傍に蒼い髪の女性がいることを祈って。
その蒼い髪の相方が職場でひどい質問攻めにあったことと、黒髪の女性が目覚めた時にはご希望通り愛犬が戻って来たのはまた別の話――。
END
さやかの携帯に当たり前のように出るほむら、妻として板についているというか(なんと)
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スペードのJ
R18で連載中の拙作「THE LOVERS」と関連している話です。
美樹さやかは意外に策士である。
暁美ほむらが改めてそれを実感したのは、昨年のOGとして参加したゼミ旅行だ。
「……」
ふう、と息を吐いて、ほむらは手に持ったカードを見つめる。
トランプのスペードのジャック。
そのカードの端を唇にあてて、軽く目を瞑る。美しい横顔。
午後の昼下がり窓辺の白いテーブルに座り、彼女は一人トランプに興じているようだ。
「どうしたのさ、ほむら?」
コーヒーの良い香りがし、続いて相方の声が聞えた。ほむらはアーモンド型の切れ長の目を開くとポットを持って傍に立っている蒼い髪の女性を見つめた。ふ、と唇を緩ませ艶のある声で囁いた。
「そうね、どうしてると思う?」
「へ?どうって…」
そう言いながら、蒼い髪の相方は不思議そうに彼女が手にしているカードを見つめる。思慮深い光を宿した蒼い瞳。10年前には感じられなかった光。
それを宿した瞳をほむらは大層気に入っていた。もちろん本人には言ってないが。
「それスペードのジャックよね」
「ええそうよ」
なんだか大事そうに持っているので相方に不思議に思われたのだろう、ほむらは肩をすくめて囁いた。
「貴方に似ているわ」
そう言って、カードの表面に唇を軽くあてると、ちらりと目だけで相方を見る。案の定、蒼い髪の女性は頬を紅潮させていた。
「……どこが似ているのさ?」
顔を紅潮させながらも、どうにか言葉を紡ぐ蒼い髪の女性。あら、と目を細めるほむら。
「そうね、単純に貴方の保有武器と属性からよ」
「ああ、剣と騎士ね…」
呟いて、口元に手をあてる相方。小首を捻っているのは何か異論でもあるのだろうか。
「なあに、何か異論?」
「違うわ、ただそのカードのモデルは古い時代の大帝の騎士だったなあって…」
相方によると、その騎士の仕える大帝はハートのキングのモデルになっているという。
「変な話しよね、って、あんま関係ないけど」
「そうね、でも、私は貴方がそんな事を知っているのが不思議だわ」
「まあ…哲学を専攻しちゃうとそうなるのよ」
困ったように笑いながら、相方はカップにコーヒーを注ぐ。確かに大学時代哲学を専攻していた彼女は、「表象」や「記号・シンボル」を研究していたため、美術史や中世文学などの本を読み漁っていたように思う。そう、とほむらは呟いてカップに口をあてた。
「――美味しいわ」
「ありがと」
そうして自分の分にもコーヒーを注ぎ、相方はほむらの左側に椅子を寄せ座った。
「それで、あんたはトランプで一人遊び?」
相方の質問に、ほむらは、ええ、と頷いた。白い細い腕を伸ばし、テーブルに散乱したトランプをかき集める。
「ねえひと勝負しない?」
「私と?」
「他に誰がいるっていうの?」
揃えたトランプをとん、とん、と整えて、ほむらはニヤリと笑った。つられてか、蒼い髪の女性もニィ、と笑う。
「負けないわよ」
「あら、強気ね?」
ほむらは手を伸ばし、さやかにトランプを差し出す、混ぜてと囁きながら。蒼い髪の女性はそれを受け取ると、カードを二分割し、端と端を噛み合わせ軽快にシャッフルした。リフルシャッフルだ。相方の手際の良さに満足気に目を細める黒髪の女性。
「貴方って意外と策士よね」
「まさか…ねえ、何する?」
「ドローポーカー……まさかじゃないわ」
カードが配られていく。
「あの船での勝負忘れた訳じゃないでしょう?」
* * *
『フルハウスよ』
へらへらと笑う相方と、心底悔しがる中年の男性。
記憶とは不思議なもので、何か関連したものを芋づる式に思い出すことがあるが、今のほむらがそうだった。トランプに興じるうち、あのOGで参加したゼミ旅行を思い出したのだ。またどこの馬の骨とも知れぬ男に色目を使われたが、それはほむらは特に気にしていなかった。それよりも相方がその「馬の骨」にポーカーで華麗に勝利を収めたのが痛快だった。「馬の骨」はあろうことかほむらを賭けの対象にしていたのだ。美樹さやかはやる時にはやるものだ。
「あの時の貴方は素敵だったわ」
「ごほ!」
カードを配り終え、行儀悪くコーヒーを口にした相方はほむらの言葉でむせてしまった。
「…ちょっとぉ、心理戦?」
「さあ?」
頬杖をつき、目を細め、黒髪の女性ははぐらかす。そうして視線をカードに向けながら呟いた。
「翌日貴方は何かしたのよね?」
勝負の翌日、ほむら(とさやか)を見て怯える男――
「…何も」
フフ、と小さく笑うほむら。やはり美樹さやかは策士なのだ。
「昔、似たような事があったのを思い出したわ」
「え…?」
動揺する蒼い髪の女性。上目使いでそれを見つめる黒髪の女性。
「大学の2年の秋と冬、そして3年の夏――」
「……」
「だいぶしつこい集団がいたわ…でも数日後にはおとなしくなっていた…貴方がやったのね?」
「……」
相方が喋らないのを肯定と受け取ったほむらは核心を突く。
「あんなに「男と付き合ってみなさいよ」とか言っておきながら、どうして?」
しばらく見つめ合う二人。観念したのか蒼い髪の女性は、はあ、とため息をついた。一度目を瞑り、また開いてほむらを見つめる。空のような蒼い瞳。
「取られたくなかったのよ」
ほむらの目が見開かれる。
「あんたを」
しばし沈黙が訪れる。ほむらの艶のある唇は微かに震えて。
「……それも心理戦かしら?」
「違うわ、本気よ」
「いらいらするわ…」
この犬はほんとに策士だ、とほむらは憎らしく思う。どうしてくれようか。ほむらは挑むように相方を見つめ、口を開く。
「私が勝ったら…」
「え?」
「貴方を一日好きにするわよ」
動揺している相方を余所に、ほむらは配られたカードを手にした。そうして、さも嬉しそうに微笑む。
――ああ、もう手に入れているわ。
その手にはスペードのJ
その後の勝負がどうなったかは…それはまた別の話。
どちらにせよ二人はその後、長い間ベッドの中で互いを「確認」し合ったのだから。
END
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イザベル
取り調べの経験を重ねる度に思うのは、「似たような事例」はあっても、「似たような人」はいないということだ。皆、それぞれの背景を元に色々な事情を背負って犯罪に関わり、今後の人生に大なり小なり影響を及ぼす。美樹さやかは今自分が取り調べを行っている女性を複雑な気持ちで見つめながらそう思った。
「それで…あなたの彼氏はもう認めているわ、あなたは…どう?」
テーブルにはまったく悪びれてない様子の茶髪の女性。上下灰色のスウェットを着て、長い髪はぼさぼさだ。無理もない、彼女はヤクザである男のアパートから早朝任意同行でここに来ているのだ。
「どう…って言われても、アタシは知らないし、彼氏って言ってもセフレだし」
そう言って、両手を頭の後ろに組み、ニヤッ、と挑戦的に傍に立っているさやかを見上げる。あどけない顔。化粧っ気の無い顔は幼く、少女といってもおかしくないくらいだ。
「それに知ってる?アタシ、あんた達がドンドンドア叩くまでベッドで彼とハメてたんだよ?」
「……それは悪かったわね」
「興奮した?」
あどけない顔に浮かぶ女の表情。何故そんな表情を浮かべるのか。さやかは困ったように垂れ気味な目をしばたたかせて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……どうかしら」
そう呟いて、女性の横のパイプ椅子に座る。疲れた表情を隠すことなく、さやかは女性を見つめた。
――長期戦になる
そう思った矢先、さやかの目が見開かれた。その視線の先には女性の首。髪で隠れているが、その狭間から幾何学的な模様が見える。さやかの唇が震え、ようやく絞り出すように声が出た。
「…………なんで」
蒼い瞳に映し出される模様は、かつて美樹さやかが「魔女」が存在する世界で戦っていた頃、幾度となく目にしたものだった。
魔女の口づけ
「…どうしたのさ、あんた…」
茶髪の女性が不審そうにさやかを見つめた。いや、怯えるようにといった方が近いかもしれない。それほどまでに蒼い髪の女性の顔は血の気が失われたように青ざめていた。
* * *
「それで、「本物」だったの?」
艶のある唇にグラスの縁があてられた。丸みを帯びた曲線のワイングラス。グラスの中のガーネット色の液体が美しい唇へと傾いて。
「違うわ、刺青だった」
美樹さやかは、目を瞑ってワインを味わっている黒髪の女性を見つめながら囁く。この世の者とは思えない美女に向かって。
「そう…」
ふう、と満足気なため息をつき、ワイングラスを置くと、黒髪の美女はさやかを見つめた。美しいアメジストの瞳。
白磁のような肌に、艶のある長い黒髪、この世のものとは思えない美貌の女性。黒のワンピースに身を包んだ彼女は、セピア色の光に照らされ、さやかの前に座っている。さやかは思わず見惚れてしまった。
「どうお味は?」
「……へ?ああ、とても美味しいわ」
さやかは慌てて視線をテーブルに向け、フォークとナイフでまだ3分の1ほど残っている鴨肉を切り崩しはじめた。
二人はマンションの近くにあるフランス料理店に来ていた。最初にこの隠れ家的な店を見つけたのは黒髪の相方だった。セピア色を基調とした薄暗い内装、静寂に包まれた心地よい雰囲気はもちろんのこと、ワインのセレクトがいたく気に入ったらしく、仕事帰りのさやかの手を引っ張っては(時折引き摺っては)週一のペースでここで食事を済ませていた。さやかはさやかで、料理の美味しさと、ここのワインを相方がさも美味しそうに飲む表情が好きなので(本人には殺されそうなので言わないが)結構気に入っていた。
「どうやってわかったの?」
「へ?」
黒髪の女性の質問に、さやかは手を休め反応する、口に肉をほおばる寸前で静止しているのでややお間抜けだ。
「刺青よ、どうやって判別したかって聞いてるの」
「ああ…」
どうしてそんなことまで聞いてくるのかと、さやかは不思議そうな顔をして、とりあえず鴨肉をほおばる。美味しそうに咀嚼する間を邪魔する気は無いらしく、黒髪の女性は空になったさやかのグラスにワインボトルを傾けた。
「………見せてもらったのよ、観察といった方がいいかしら」
茶髪の女性の首を思い出しながら、さやかは囁いた。あの時の模様は確かに魔女の口づけに似ていた、酷似しているといっていいくらい。かなり近づいてみてようやく判別できたくらいだ。
「触ったの?」
「まさか、そんなことしたら取り調べ無効どころか、私も停職かクビよ」
「そう…」
黒髪の美女の口角があがる。どことなく嬉しそうだ。グラスに少しだけ口をつけると、すぐにさやかの方を見つめ囁いた。
「貴方ってセクハラ気味だから心配なのよ」
「なによそれ、ひど!」
肩を震わせ黒髪の女性は笑う。ツボがよくわからないというのもあるが、相方が笑うとさやかは嬉しくもある半面、「何が面白かったのか」気になって仕方がない。おそらく三杯目のワインの酔いもあるだろうが…思わずさやかは相方の名前を呼んだ。
「ちょっとぉ、ほむら」
「なあに?」
目を細めてこちらを見る相方に、さやかは何も言えなくなったのか、「なんでもない」と答えてしまった。それがまたツボなのか、くすくすと笑い続けるほむら。もう…と呟いて、さやかは視線を窓の外へ向ける。深い海のような闇に包まれた街は、小さな光の群れで彩られていて。その景色を見つめながら、さやかはほむらに尋ねた。
「でも…どうしてあんなに似ていたのかしら?」
「記憶ね」
はっ、とした表情でさやかはほむらの方へ視線を向ける。
「その刺青を彫った経緯までは知らないけれど、模様が「あれ」に似ていたのは彼女か、あるいは彫った人間がかつて「あの模様」を目にしたことがあるからよ」
「魔女の口づけを…?」
ええ、と頷きながら、ほむらも鴨肉を切り崩しはじめる。外科医のようだ、とさやかはふと思う。
「私はあの時、あの子の改変した世界をまた変えたけれど、全ての人間の頭の中まで変えたわけじゃないわ」
「まあ確かに……」
自分のような例外もいる、とさやかは思う。改変のそのまた改変によっても、あの女性(もしくは彫った者の)の記憶の断片が消えなかったということか。
「よっぽどトラウマだったのかしら…」
「大丈夫よ…覚えているにしてもそれくらい。それにこの世界には魔女はいない、害は無いわ…それより」
「何…?」
さやかの視界に鴨肉が現れた。相方がフォークをこちらに向けたのだ。さやかの口元で食い付け、と言わんばかりに肉を揺らす。まるでルアーフィッシングのようだ。躊躇するさやかを促すように、「あ」と言ってほむらが口を開ける。
「あ」
口を開いた相方を満足気に見て、ほむらは肉をさやかの口に放り込んだ。
「……食事中に他人の事を考えるのはやめてくれない?料理が美味しくなくなるわ」
「………ん」
肉を咀嚼しながら、申し訳なさそうに頷く相方。溜飲が下ったのか、ほむらは嬉しそうに再び肉を切り始め、またさやかの口の前に肉を差し出す。
「太っちゃうわ…」
「どうせこの後「運動」するんだから大丈夫でしょ?」
「………そりゃ…むぐ」
さやかが口を開いた瞬間を逃さずほむらは肉を放りこむ。驚いたままもぐもぐと口を動かすさやか。猫のように目を細めてほむらは笑った。そうして何か思い出したのか、おもむろに口を開く。
「ねえ、ひとつ面白いこと教えてあげましょうか?」
「え、何何?」
気持の分、身を乗り出すさやかに苦笑しつつ、ほむらは囁いた。
「私も昔、魔女の口づけを受けたことがあるわ」
「え、嘘!」
「あら、知らなかったの?「あっち」に行っている間に全部見た訳じゃないのね」
「そりゃ、細かい事まで私覚えてないし、「あっち」で見たって言っても、もうほとんど忘れているわ」
あっち、とはもちろん円環の理のことで。成長した二人に取っては、もはや円環の理も、思春期時代に運命を狂わされた、地球外生命体の生みだしたシステムも「あっち」とか「あれ」で会話をする際には事足りていた。
「……それで、いつ受けたのさ?」
「いつだったかしら、中学校の帰り道、気付けば結界に取りこまれていた、あの時だと思う」
「そう…」
ほむらが昔の事を自分から話すということは稀だ。ワインに含まれたアルコールの所為でもあるだろうが、嬉しい進展だとさやかは思った。
『人に迷惑ばっかりかけて、恥かいて…どうしてなの?私、これからもずっとこのままなの?』
『だったらいっそ、死んだ方がいいよね』
落ち込んでいた少女時代のほむらに、魔女はつけ込み、自殺を促した。
「……喋る魔女って珍しいわね」
「ええ、そうね、でもそれで魔法少女に変身した「あの子」に救われた」
「すべての「はじまり」って訳ね」
さやかがほむらを見つめると、軽く彼女は頷いた。そう、さやかの幼馴染が概念となり、目の前の美しい女性が10年前に悪魔と化する、気が遠くなる長い物語の。
「あれから、あの子の事だけを考えて進んで行った……ずっと長い間」
「そうだったね」
じろり、とほむらがさやかを睨む。
「事あるごとに貴方がいちゃもんつけてきたり、頼んでもないのに現われたり、いい迷惑だったけど」
「うわ、ひど!…まあ、私が悪かったわよ、でもまどかが心配だったし」
「今でも?」
「へ、今?…いいや、別に」
むしろ、あんたが心配よ、とさやかが囁くと、ほむらは目を細めて嬉しそうにグラスに口をつけた。
「私は大分変ったわ…」
「まあ、あんたも私もね」
ほむらは気の遠くなるほどの長い一人の時間の間に、そして、さやかはこの世界へ「復活」してから刑事となる間に。
「私…あの頃の病弱な自分が嫌いだったわ」
「今でも?」
「……わからない、貴方は…どうなの?」
「え、私?」
あの頃の「さやか自身」の事を尋ねているのか、それともあの頃の「病弱だったほむら」をどう想っていたのかを尋ねているのか…ニュアンスで後者だと感じ取ったさやかは素直に答えた。
「昔も今もあんたの事は好きよ…まあ、昔はあまり自覚は無かったけど、今思えば、あんたのこと誰よりも意識してたみたいだし…って…なんか恥ずかしいわね」
なんだか告白みたいだ、と思ってさやかは勝手に赤くなる。だが、素直に言っているものだから、支離滅裂でも言葉は止まらない。ええい、ままよ、とさやかは言葉を続けた。
「まあ、とにかく、私は「今のあんた」が一番好きだから、それを形作ってくれた過去もみんな好きってことよ…それで…ちょっと、聞いてる?」
「聞いてるわ…」
肩を震わせ、さも苦しそうに答える黒髪の美女。なんだか嬉しそうに笑いを堪えているものだから、なんだか素直に喋っている自分が馬鹿みたいだ、とさやかは思った。
「ひど…ひとがせっかく…」
「あら、ごめんなさい、それから?」
「……それから…その」
照れ隠しに残ったワインを口にする。行儀悪く喉を鳴らして飲み干すと、さやかは相方を見つめて囁いた。
「こうして、あんたと食事できて、夜景を見ることができて私は今幸せなのよ」
「………」
一瞬笑いが止んで、黒髪の美女は真顔でさやかを見つめる。次第に頬が紅潮してきたのは酔いのためではないらしい。
「貴方って、よくそんな恥ずかしい台詞が口から出てくるわね…結婚詐欺師かなんかの取り調べでもしたの?」
「わ、悪かったわね!これでも素よ…もう、馬鹿みたい」
グラスを取ろうとした手をほむらに掴まれる。不思議そうに顔をして、さやかは垂れ気味な目をほむらに向けた。ほむらはいたって真面目な顔で。
「……何よ?」
「家に帰りましょう」
「へ?なんで、まだデザート…」
さやかは言葉を続けられなかった、身を乗り出した相方に口を塞がれたから。しばらくして、軽く音を立てて唇を離すと、ほむらは囁いた。
「貴方を早く食べたいの」
* * *
それから食事を手早く済ませた二人は会計を済ませる。空席待ちのカップルがさも興味深げに二人を見つめていたが、そんなことは意に介さずほむらはさやかの手を強引に引っ張ると店の外に出る。
「ちょ、ちょ、今日は引き摺らないで!」
「あら、そうね…貴方あの時ずっと「背中が痛い」って言ってたものね」
そう言って、ほむらは優しくさやかの背中を撫でた。ほっ、と安堵のため息をつくさやか。そう、出張時の「お遊び」がばれて一度さやかはほむらにお仕置きをくらっていた。ホテルまでずっと引き摺られたおかげで、ベッドで一晩中悪魔が上に圧し掛かっている間、背中が痛かったのだ。
「あの時の貴方の顔は可愛かったわよ、私の中で一晩中…」
「うわ!やめてよ…」
顔を赤くして、さやかが視線を逸らす、と、店の看板が目についた。
Izabel と表記されている店の名前。ああ、それで…とさやかは合点がいった。さやかの持ち出した魔女の口づけの話題とそして店の名前…。
「さあ、行くわよさやか」
「へ?わ、わあっ!」
変な悲鳴をあげながら、さやかの身体が中に浮いた。いや、ほむらがさやかを抱きかかえたのだ。華奢な身体からは想像もつかない腕力。
「ちょ、ちょ、何すんの?」
「言ったでしょ、早く「デザート」を食べたいのよ」
ニイ、と鮫のように笑うほむら、美貌の彼女がこのように笑うと凄絶だ。――食べられる、と瞬時に判断したさやかはあきらめたのか力を抜いた。
「あら、いい子ね」
そう言ってほむらは笑うと、背中から羽根を出した、悪魔の黒い羽根。美しさにさやかはただ見惚れるばかりで。そんな相方の表情をさも嬉しそうに悪魔は見つめ、そうして今度は夜空を見上げた。
「飛ぶわよ」
そうして悪魔は「デザート」を抱えて空を飛ぶ。
家に帰って美味しく食すために。
END
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さやかTVを買う
「わあ!」
美樹さやかは素っ頓狂な声をあげて、家電製品コーナーの中を駆けだした。向かうは中央にある大型テレビ。ブルーのポロシャツを着た数名のスタッフが声に驚きさやかを見やるが、すぐに笑みを浮かべる。そう、彼女はこのコーナーの常連なのだ。いや、正確には「常連さんのお連れさん」なのだが…。
「ちょ、ちょっとやめなよ!」
さやかは顔を紅潮させ、大型テレビの前にあるソファに向かって声をあげる。テレビの前の黒いソファ―には長い黒髪の女性が優雅に脚を組んで座っていた。白磁のような白い肌に、艶のある長い黒髪、そして恐ろしいほど美しい容貌。夏に合わせてか、青い空をイメージしたライトブルーのワンピースが白い肢体にマッチし、眩しい位に美しい。女性は細い腕を伸ばし、リモコンを手にするとお気に入りの番組を見るためチャンネルを変えた。
「…あら、お帰りなさい」
ようやく相方に気付いたのか、女性は顔をあげて微笑んだ。あまりの美しさに蒼い髪の女性は一瞬惚けた表情で、「ただいま」と囁き、しばらくしてハッ、と何かに気付いたのか叫ぶ。
「てか、ここデパートよ!」
* * * *
大学を卒業して警察官になったさやかは、最初の給料をすべて相方である黒髪の女性につぎこんでしまった。
『なんでもおごるから』
意気揚々にそう宣言して、その数時間後には給料が千円札数枚になっていた。
『私ってほんとバカ』
それ以来さやかはとにかく金の管理に気をつけるようになった。(とは言っても、現在に至るまで成功した試しは無いのだが。)
『大丈夫よ、私が養ってあげるから』
黒髪の美女がさやかにそう囁いた時、なんの冗談かと思ったが、それは真実で。彼女の資産はさやかが一瞬息を止めてしまうほど、べらぼうな額だった。どもりながら黒髪の美女に出所を聞くと、「資産運用よ」と言ってウインクされてしまい、さやかは赤くなってしまった。
『…で、でも、それじゃ悪いわよ、ずっとあんたの家に住んでるし、生活費も払ってないし』
そう、実際、さやかは高校生の頃、黒髪の女性の家に転がり込んでから、大学を卒業して社会人になる今のいままで、生活費を一切払っていない。まるでヒモのようだ、と自分でも思っている。だがその言葉に不思議そうに頭をかしげる黒髪の女性。絶世の美女だというのに、その仕草はまるで幼子のようで。訝しげな表情を浮かべながら、女性は口を開いた。
『あら、飼い犬にお金を請求する飼い主なんていないわよ?』
『ひど!てかっ、ありがとう…って、ああもう!怒っていいのか、お礼言っていいのかわからないじゃない!』
『なにそれ』
さやかの訳のわからない感情の爆発に、黒髪の美女が珍しく歯を見せて笑った。高校の頃にくらべ、だいぶ大人らしく、そして柔らかくなった、とさやかはその顔を見て思う。気を取り直してさやかは囁いた。
『ねえ』
『なあに?』
『私ってさ、あんたにだいぶ世話になってて、なんにもお返ししてないのよ』
『礼には及ばないわ』
『でも、これからはちゃんとしたいのよ、働いたし、給料もちゃんと生活費として入れたい』
『なんでわざわざ』
『一緒に暮らしたいからよ』
これからもずっと、と付け加えさやかは微笑んだ。
――今考えると、なんだかプロポーズのようだわ
時折あの頃のことを思い出すと、さやかはいつもそこで赤くなる。
だがあの頃のさやかは無自覚で、きっとへらへらと笑いながら相方である黒髪の美女に囁いたのだろう。黒髪の美女――暁美ほむらは固まったまま、だいぶ長い間さやかを凝視していた。
『………わかったわ』
それから、日常生活のほとんどはさやかの収入から出費することになった。ほむらの資産は将来のための大事な「備え」として普段は使用しないことにした。二人でテーブルを囲んで話しあってそう決めたのだ。その時ほむらは何を思ったのか、フフフ、と笑い始めさやかを見つめた。何?とさやかが聞くと、ほむらは艶のある唇を開き答えた。
『まるで夫婦みたいね』
その時の二人の間に流れた甘い雰囲気をさやかは忘れることができない。いつもの殺伐とした空気から一変した、優しく心浮き立つ甘い空気。目の前の美しい相方からその様な甘い雰囲気が醸し出されるなど思ってもみなかった。その頃からさやかは――ほむらに恋をした。そうして、使命だけでなく、はじめて生活のために勤労意欲が高まったのである。二人の生活のために仕事をがんばろうと…だが――。
* * *
「この番組観たかったのよ」
「ちょ、ちょっとやめてよ!て、店員が見てるじゃない」
「どうして?貴方も座ってみたら」
「いや…でも…」
さやかは周囲をきょろきょろと見渡す。周囲には微笑んでこちらを見ている店員が数名。それもそのはず、二人はこのコーナーではちょっとした有名人なのだ。発端は数か月前、美しい女性が新製品の大型テレビの前に立ちすくんで、じっと番組に見入ってたことからはじまる。
『テレビをお探しですか?』
中年の店員の言葉に美女はきょとんとして、首を振った。そうしてまたテレビに見入った。まるで子供の様な仕草に、店員はふと笑みを浮かべてしまい、そのまま通り過ぎる。それが数回続き、黒髪の美女はコーナー内の店員の間で話題となった。その後、友人なのか同じ年頃の蒼い髪の女性が変な悲鳴をあげながら駆けこみ、黒髪の女性を引き摺るようにして連れ帰ることが数回続いて、二人は有名人になった。そうして、このコーナーの店員の意図なのか、なんなのか、テレビの前にソファが置かれることになり、今度は黒髪の美女は座りこんでテレビを見るようになった。(と言っても、すぐに蒼い髪の女性が連れ帰るので、長時間には及ばないのだが。)
「ねえ、やめてよ、テレビくらい私買えるわ!てか買うから!」
ほむらの右腕をひっぱりながら、さやかが情けない声で訴える。すると黒髪の美女はさやかを見つめ、ふい、とまた顔をテレビへ向けた。
「…いらないわ」
口を尖らせ呟く黒髪の美女。
――欲しがってるじゃない!
さやかは心で叫ぶ。
「それより、一緒に観ましょう?」
無邪気にさやかの腕を掴み、ほむらが引っ張った。常人の倍はある力で。引き摺られるようにして、さやかがほむらの隣へ座り込む。にこやかにほむらが番組の解説を始め、音声を大きくした。変な声をあげながら顔を赤くするさやか。
「ちょっと、こ、これどんな罰ゲームよ!」
「あら、罰ゲームじゃないわ、面白いのよこれ」
そうなのだ、ほむらは大の映画好きで、テレビもその延長戦上で好物なのだ。さやかは何故それに気付かなかったのか、と己を叱った。食い入るようにテレビを見つめる相方の横顔は、無邪気な子供そのもので。ふと、さやかは子供に何か買ってあげたいと思う時はこういう時だろうか?と考えた。
「ねえほむら」
「ん?」
「家にテレビ置こうか?」
「それは嫌」
「?」
なんで、と聞こうとしたが、ちょうど番組も終わったので、ほむらは立ち上がった。一緒にさやかも立ち上がる。まるで自分の家の様にふるまっていたが、ここが電化製品コーナーだと思いだし、さやかはまた顔が赤くなった。周囲にはにこにこと微笑んでいる店員がいて、周囲の優しさにまたさやかは顔が赤くなる。そうして、今度何か買わなければと決意した。
* * *
日も暮れ、夕焼けが始まり空が金と朱に染まる頃、二人は帰路についた。妙齢の女性二人は寄り添う様にして歩いていて。その手は自然と握り合っていた。二人とも心地よい沈黙に浸っていたが、しばらくしてほむらが口を開いた。
「……貴方がいるもの」
「へ?なんのこと」
ほむらがわからないの?とでも言う様な顔でさやかを見る。困ったように垂れ気味な目をしばたたかせるさやか。しばらくして、ああ、と声を漏らした。
「…テレビのこと?」
さやかの囁きに、こくり、とほむらは頷き、そうしてまた前を向いた。まさか飼い犬の世話で忙しいからテレビを見る暇は無いということだろうか?さやかは怪訝そうに相方の横顔を見つめる。だが、相方は夕焼けに視線を向けて、もう喋る気は無いらしい。さやかも相方の視線に合わせ空を見つめた。そうして、ある決心をした。
* * *
翌日の午後、ほむらは一人ソファに座り雑誌を読んでいた。雑誌の内容は証券や株の記事で。悪魔になったからか、それとも元々その資質があったからか、ほむらは「先見の明」に優れていた。(過去の経験からかもしれないが)化学だけでなく統計学にも興味のある彼女は全ての世界に影響を与え、関わっていく株の世界に興味を持ち、恐ろしいほどの勢いで財を成した。決して人外の力を使った訳ではない、彼女は常にフェアだった。しばらくして、ふう、と息を吐いて雑誌を横に置く。もうすぐ相方が帰ってくるのだ。
『家にテレビ置こうか?』
そう言った時の情けない相方の顔を思い出して、ほむらはくすくすと一人笑う。最近は蒼い髪の相方の顔を思い出すだけで口元が緩むのだ。必要無いと言った真意をあのお間抜けな相方は理解したのだろうか?
ガチャ、とドアの開く音がした。
「おかえりなさい」
ソファに座りながら、ほむらは少しくたびれた感じの蒼い髪の相方に声をかけた。
「ただいま」
くたびれながらも、へらへらと笑うさやか。なんだか嬉しそうなのがかえって不審に思ったのか、ほむらが顔をしかめる。
「…なに、気持悪いわ」
「ひど!せっかくこれ買ってきたのにさ」
「え?」
ほむらが驚いてさやかの腰のあたりを見つめる。さやかは手を後ろに組んでいた。そうして、じゃじゃん、と口で音を発して箱を差し出した。それは30㎝サイズの箱で。開けてみるとポータブルサイズのテレビが入っていた。
「……テレビ?」
「うん、あんたは家にテレビいらないっていってたけどさ…」
照れくさそうにさやかは言葉を続ける。
「たまに観たくなったら、これで…観てもいいかなって」
「………」
「あ、あんたの真意はわからないわよ、でも、きっとこういうことかなって…」
「…馬鹿ね」
ほむらの言葉にさやかはえへへと微笑んで。なぜならほむらの顔は紅潮していたから。当たらずとも遠からずなのだろう、とさやかは思った。テレビを置いて、ほむらは立ち上がる。
「外れてるけど、まあいいわ」
そう囁いて、相方にもたれた。嬉しそうにその身体に手を回すさやか。
「え、そうなの?」
「そうよ、本当に馬鹿ね」
二人の空間に余計なものをいれたくない――これがほむらの真意。だが、ポータブルなら
特に邪魔にはならないだろう、一人の時でも二人の時でも。飼い犬にしては上出来だ、とほむらは嬉しそうにその唇を塞いだ。それから二人がテレビを見るのは数時間後、ベッドから戻ってのこと。
END
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邂逅
まどかの存在を思い出してから、もうどれくらい経っただろう?
暁美ほむらは少し震える手で弓を持ち構えた、照準を魔獣に定めて。
「ほむら、来るぞ!」
赤毛の戦友の声と同時にほむらは弓を放つ。弓は桃色の光りを放ちながら放物線を描いて魔獣の顔面に命中した。響き渡る大音響、それと同時に、ビルが傾き始め、ほむらの足場が崩れた。機能的な魔法少女の衣服に身を包んだ黒髪の少女は、躊躇なくビルから飛び降り、自ら宙に身を置いた。くるり、と何度か回転し、音もなく地面に着地する。
「杏子」
そうして再び素早く弓を構えると、赤毛の戦友と格闘しているもう一体の魔獣へと向ける。が、心配は無用だったらしい、ちょうど赤毛の戦友と、そうしてもう一人、金髪の先輩が共同で魔獣を殲滅していた。ふう、とほむらは息を吐く。弓をおろし、左手をさする様な動きをして、ほむらは一人自嘲気味に口元を緩めた。
――まだ癖が抜けていない
もうあの盾は無いのだ。胸に穴が空いた様な空虚感。アイデンティティを奪われるというのはこういうものだろうか?と、ほむらは思った。彼女が年の割には大人じみた、哲学者じみた考え方をするのは、その特殊な「人生経験」のためだ。だがその思考も、彼女の向かい側から歩み寄ってくる二人の魔法少女の登場で途切れた。
「よお、おつかれ」
「暁美さんお疲れさま」
にこやかに歩み寄ってくる、赤毛の少女と金髪の少女。ほむらも穏やかな笑みで答える。だが、ほむらはこうやって自分が微笑んでいることに常に激しい違和感を覚えるのだ。
――どうして私は微笑んでいられるのだろう?
あの子がいないのに。
もうどこにもいないのに。
胸にちくりと刺すような痛みを感じながら、それでも二言三言、戦友と先輩と語り、帰路に着く。いつもの様に。もう学校にも通っていなかった。闇の中、無機質なビルをくぐると、寂れたアパートがぽつんとある。少女の住んでいるアパートだ。
ギイ、ギイ、
アパートの階段ももう軋み始めていた。ここにもう何年住んでいたのか、病院を出た後、両親はどうなったかなど、もう考えるのをやめてしまっていた。ただ、魔法少女として魔獣を倒す、あの子が守ろうとしたこの街を…私も守るのだ。
ギイ、ギイ…
と、黒髪の少女は立ち止まった。
「やあ、今日もお疲れだったね、暁美ほむら」
部屋のドアの前にちょこんと座っている「白い猫」が喋りかけてきた。日常ではあり得ない光景。だが、黒髪の少女はいたって平然とその「白い猫」に返事をした。
「インキュベーター…」
白い猫――否、地球外生命体は、尻尾を振りながらほむらの元へ近づいてきている。かつて彼女とこの赤い瞳の生命体の仲は険悪だった。だが、世界が改変された今では比較的良好だ。ほむらがほんの少しだけ前屈みになると、さも当然だという様にインキュベーターは少女の肩の上に乗った。一瞬、「彼」はまるで本物の猫の様に目を細めた。だが、少女は「彼」を愛玩動物とははなから思っておらず、ごく普通に、人間と喋る様に会話を再開する。
「あなた、最近姿を見かけなかったけど、どこに行ってたの?」
「ああ、僕のことかい?そうだねえ、君たちだけでは魔法少女の数が絶対的に足りないからね、契約を増やしてきたのさ」
「――まるで生命保険の勧誘ね」
そう言って、ほむらはため息をついた。「彼ら」の契約はろくなものではない。「ひとつの夢をかなえる」というメリットと、「魔法少女になる」というリスク。だがリスクは正確に語られていない。生命保険のコンプライアンス違反より遥かにタチが悪い。
「生命保険とは違うかな?僕らの契約は期限が無いもの」
「まあ、そうね」
感情といったものを理解できない彼らに、湿っぽい話は通用しない。ほむらは肩をすくめた。
「それより、君の話をまた聞かせてくれないかな、改変される前の「鹿目まどか」のことを」
「……まどか」
ほむらのアメジストの瞳が揺れる。彼女の大切な友人であり、存在意義でもある少女――鹿目まどか。
赤い瞳には動揺する黒髪の少女の顔を映し出されていて。少女は震える唇で答えた。
「ええ、いいわ――」
「だめよ」
いきなり、唐突にその声はした。聞きなれない大人の女性の声。おそらく今までで一番の驚きなのだろう、ほむらの身体は固まり、しばらくは何の反応もできなかった。それはインキュベーターも同様らしく、ただ、声のした方向を凝視するのみ。声は階段の方から発せられた。
ギイ、ギイ…
階段を踏む音が聞え、闇の中、人影が現れてくる。
「誰…です…か?」
ほむらの誰何の声が震え、途中で敬語になったのも、人影がスーツを着た大人の女性だったからだ。まどかの母親――詢子がこのような格好をしていたのを黒髪の少女は思いだした。だが、目の前の女性は詢子ではない。細身のパンツスーツに身を包んだ女性、スーツ下のワイシャツがいたるところ汚れている。少女はなぜか小さい頃に見た、刑事もののドラマを思い出した。
「こいつにまどかの話をしちゃダメ…」
その言葉にほむらの頭の中が白くなる。
――まどかを知っている?
――インキュベーターが見えている?
――この人は誰?
だが、何一つ少女の頭の中から回答は生まれない。
「おや、君は僕の姿が見えるのかい?珍しいね、こんなのはレアケースだ」
インキュベーターがいつもの様に淡々と喋る。正確にはテレパシーで会話を交わしているのだから、この女性にもテレパシーは通じているのだろう、とほむらは思った。案の定、女性の表情は見る見る険しくなった。
「珍しくもなんともないわよ…この子からどきなさい、この○○野郎」
女性は口汚くインキュベーターを罵ると、ゆっくりと右手をあげた。カチャリ、と無機質な音。ほむらは目を見開いた。少女に取って見慣れた武器がそこに握られていたから。スイス製の自動拳銃。ああ、この女性は刑事だ、とほむらは思った。○県警の貸与されている銃が確かこのタイプだ。肩の上でインキュベーターが身じろぎする。
「待って、貴方は誰?」
ほむらの誰何に女性は答えない。ただ、その蒼い瞳に複雑な感情を浮かべて。
「やれやれ、ややこしいことになりそうだね」
その隙をついて、インキュベーターはほむらの肩から、アパートの外廊下の柵に飛び移る。女性も銃口をそちらに移動させるが、発砲する気は無いらしい。
「君が何者か非常に興味はあるけれど、その銃で撃たれると、僕も「替え」には限りがある。もったいないから失礼するよ」
そう言って、インキュベーターは柵から飛び降り、闇に消えた。しばらく闇に向かって銃を構えていた女性は、ゆっくりと腕を下げ、スーツの中に銃を収める。
「…相変わらず腹が立つ生きものだわ」
そう一人呟くと、黒髪の少女の方へ顔を向けた。その顔は困惑した表情を浮かべていて。だがそれはほむらの方も同じだ。この女性が誰なのか、そして何故インキュベーターを可視することができるのか、何もわからない。制服の胸のリボンを抑えながら、ほむらは声を絞り出す。
「……貴方は誰?」
「驚かしてごめんね」
ゆっくりと女性は近寄ってくる。闇でよく見えなかった顔が次第にはっきり見えるようになって、ほむらは驚きの声をあげた。ほっそりとした長身の美しい女性。その髪は蒼く、少し垂れ気味な目、蒼い瞳には見覚えがある。そして、おそらく職場のものであろう、女性の胸元にあるネームプレートで、ほむらはこの女性が誰であるかを確信した。
ネームプレートには「SAYAKA.M」と記載されていた。
「…美樹さやか?」
さやかと呼ばれた蒼い髪の女性は、「そうよ」と、にこりと微笑んだ。
* * * * *
「嘘…」
本当に彼女なのだろうか?確信したにも関わらず、ほむらは信じ難いとでも言う様な表情を浮かべ、蒼い髪の女性を凝視する。20代後半だろうか、美しい顔立ちの女性には確かにほむらの知っている、美樹さやかという少女の面影が残っている。少し疲れたような表情、乱れた蒼い髪、大人らしい包容力のある微笑み。どれも魅力的で、今まで軋轢のあった同学年の美樹さやかと同一人物だとはどうしても思えない。そんなほむらの気持を読み取ったのだろう、蒼い髪の女性は苦笑しながら、中腰になって少女と視線を合わせた。
「信じられないでしょうけど、私は美樹さやかよ。それと…あんたがもう何度もまどかのために時間を越えたことも知っているわ」
「なんで…」
質問がまったく追いつかないとはこういうことを言うのだろう、ほむらの頭は未だ真っ白だ。ごめんね、とまた蒼い髪の女性は囁き、そうして少女の両肩を掴んだ。
「時間が無いの」
蒼い瞳の中に、動揺する黒髪の少女が映る。
「私の言うことを聞いてくれる?」
「……」
ほむらはただこくりと頷いた。そうして、ふと、大人になった私はどうしているのだろう、と考えた。
「私は時間を越えてきたの、別の世界から…そこで、私とあんたは一緒に住んでいるの」
「貴方と?」
驚いた。誰とも群れない私が、よりにもよって彼女と――ほむらは蒼い髪の女性を見つめた。
「私は…そこではどうなっているの?…魔獣は?…それに、まどかは?」
蒼い髪の女性はただ首を振って。
「ごめんね、言えないの、それはルール違反だわ」
女性いわく、時間を遡行する者には一定のルールがあるらしく、それは「別の世界を適用して、その世界に干渉してはいけない」というルールらしい。知らなかった、とほむらは驚いた。だからあんなに何度も遡行しても世界を変えられなかったのだろうか。そうして次の瞬間、少女は女性に核心を突いた質問をする。
「でも、そのルールは誰が作ったの?」
「………」
長い沈黙、そして視線。蒼い瞳は何か言いたげに揺れながらも、女性は何も語らなかった。困ったような、少し情けない表情の大人の美樹さやかを見て、ほむらは何故か向こうでの生活が気になり、質問を変えた。
「……答えられないなら、いいわ…じゃあ、質問を変えていいかしら?」
「?いいわよ」
「私と貴方は向こうでどういう関係?」
え、と女性が声をあげた、思いのほかの動揺にほむらも驚く。先ほどの質問よりも答えにくいのか、更に困った表情を浮かべる女性。ああ、やはり年を取っても変わらないものはあるらしい、その表情はほむらの嗜虐心をくすぐりはじめて。
「…貴方って大人になっても変わらないのね」
「……向こうでもそう言われているわよ」
はあ、とため息をつくさやかを見て、ほむらは笑みを浮かべた。久方ぶりの笑みを。
「情けない大人…」
「ひど!…と、とにかく、今、世界が大変なことになっているの、並行世界の均衡が崩れ始めているのよ」
「世界が?……それで、貴方は私に何をしろというの?」
「……まどかの事をあいつに喋らないで」
「どうして?」
何故、インキュベーターに改変前の世界の事…まどかのことを喋ってはいけないのだろうか?訝しげな表情の黒髪の少女に、さやかはただ困った様な表情を浮かべて。
「…ごめん、それは言えないわ、ただ、まどかの存在をあいつに喋るのは危険なのよ」
「どうして?それが未来に大きく関わるの?」
「………」
「ずるいわ」
ほんの少しだけ、ほむらの言葉に怒気が含まれた。だが、それは確かに仕方のないことで。
「……私は、まどかのために、まどかのために魔法少女になった、そして今、まどかのいない世界で一人戦っている…」
「ほむら…」
「なのに、貴方に「まどかの事を喋るな」なんて言われる筋合いはないわ」
ほむらの視界がぼやけた。いけない、咄嗟に目頭を抑えるがもう間に合わない。やけに物知り顔で、大人になった美樹さやかが顔を近づけてきたことに腹が立つが、もうほむらにはそれをはねのける力はなかった。
「ほむら…私はあんたが何度も時間を越えたことも知っている、あんたがどれだけまどかの事を思っているかも」
「……」
蒼い髪の女性はただ黙って腕を少女の肩に回し抱き寄せる。大人の女性の優しい抱擁に、とうとう黒髪の少女の緊張の糸は解かれた。
「嫌い…」
絞り出すようなほむらの声、だがその手はしっかりとさやかの背中に回されて。
「私は貴方が嫌いよ…美樹さやか…」
「知ってるわ…よく知ってる」
そうして、とうとうほむらは慟哭した。優しく蒼い髪の女性はほむらの頭を撫で始める。
「まどか――」
まどかに会いたい――
大切な友人の名前を呼び続けながら、少女は長い間女性の胸の中で泣き続けた。
* * * * * *
そうして目が覚めた。
「………」
柔らかい日射しが入りこむ、四畳半のアパート。小さなベッドに横たわっていたほむらは身体をゆっくりと起こした。長い黒髪はやや乱れており、少女は数回乱暴にその髪を梳く。
「夢……だったの」
変な夢だった、美樹さやかが大人になっているなんて――ため息をつきながら、ほむらはベッドから降りる、身体が重くだるい。どうやら疲れてすぐに眠りについたのだろう、制服の格好のままだ。上着だけ丁寧にたたまれて床に置かれている。と、ほむらの身体から、何かが光りを反射して落ちた。
「…何かしら」
怪訝そうな表情を浮かべて、ほむらはそれを拾った。そうして、あ、と声をあげる。そこにあるのはネームプレート。ほむらはドアを開け、外へ勢いよく飛び出した。晴れた空の下、古ぼけたアパートの外にはもう人影は無くて。しばらくほむらは呆然と外を眺めていた。そうして再び自分の掌に視線を向ける。
「さやか」
そうして、黒髪の少女は小さく、とても小さくネームプレートに刻まれた名前を呼んだ。その表情は少しだけ、ほんの少しだけ――。
END
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夢
時折、彼女は記憶を取り戻しそうになる。まどかはあれから、改変してからしばらくして落ち着いたというのに、彼女の場合は10年経った今でも記憶の錯綜を起こすのだ。
「ん…」
ベッドでうなされている彼女を私は見つめる。記憶の錯綜が起こるのは必ず眠っている時。「夢」を見ている時だ。そっと、彼女の蒼い髪を撫でる。ゆっくりと彼女の目が開いた。私は顔を近づけて囁いた。
「…お目覚め?まだ早いわよ、眠って…」
「ほむら?」
だが、彼女は上体を起こし、きょろきょろとあたりを見回して唸り声をあげた。まるで何かに怯えているように。私達の住んでいるこの古い狭いアパートには何一つ彼女を怯えさせるものなどないというのに。私は彼女の腕に自分の腕を絡めて体を預けた。彼女の顔を見上げると、ひどく険しい表情をしていた。普段の彼女からは想像もつかない。
「どうしたの?…怖い顔」
私はそう囁くと、彼女の頬に触れた。血の気が引いているのか、ひどく冷たい。
「今…何年?」
「え?」
ひどく思い詰めた表情で、彼女は私に囁いた。
「今…――年、――月よね?」
更に私に詰め寄ると、年月日をしつこく尋ねる。間違っていないので、私は肯定の意味で頷いた。彼女は額を抑え、再び呻く。一体どうしたというのだろう?私は一つの可能性を受け入れることができず、心の隅においやり、ただ不思議そうに小首をかしげる。しばらくして、彼女は顔をあげた。さきほどまで眠っていたはずなのに、疲労しきった顔。
「ねえ、ほむら…ここ、あんたの家?」
ああ、やはり―――
私は一つの可能性を受け入れた。彼女は記憶を取り戻したのだ。だとしたら――
「いいえ、「私達」の家よ、さやか…」
「そう…」
戻らなきゃ…とぼそっとこぼしたかと思うと、彼女はぶつぶつと何事が呟く。「並行世界」という彼女の呟きがやけに頭に残った。
彼女の記憶を奪わなければ――
私はそっと「力」を解放する。軋んだ音を立てながら、私はさやかをシングルベッドへ押し付け、彼女の上に跨った。
「ほむら…あんた」
「思い出さないで」
私は必死に声を絞り出した。
「お願い…さやか、思い出さないで」
そうして、彼女の上に覆いかぶさる。だめだ、だめなのだ、彼女は記憶を取り戻してはいけない。まどかが遠く離れた今、美樹さやかは私の傍にずっと――
さやかの腕が私の腰を抱きしめた。その強い力に私は声を漏らす。彼女は「魔法」を使用している。私も本気を出さなければ――
「大丈夫」
とても優しい声で彼女が囁いた。私の耳元に彼女は唇を寄せ、再び囁く。
「大丈夫だよ、ほむら…あんたは悪くない」
彼女に理解されていることを一瞬で悟った私は、「力」を抜いた。そのまま彼女の上に覆いかぶさったまま目を瞑る。全てが崩れていく予感と悲しみを抱えたまま。
「嫌よ…お願いさやか…忘れて…」
私を見上げている蒼い瞳はとても澄んでいて。私は彼女の記憶を消そうとただ必死にその頭を掻き抱き、キスをした。
* * *
目が覚めたのは、だいぶ日が昇ってからだった。肩に重みを感じてそこを見ると、さやかが気持良さそうに私にもたれ眠っていた。私はほとんど無意識に手を伸ばし、彼女の蒼い髪を撫ぜた。ん…と声を漏らしながら、彼女は更に私を強く抱きしめる。まるで彼女の抱き枕のように私はなすがままだ。肌と肌が密着して心地よい。本来ならば――私は今幸せを感じているところだが、しかし、実際は全く違っていた。
――美樹さやかは記憶を取り戻した。
その事実が私を鬱屈した気持ちにさせる。ああ、そうなのだ、もはや彼女は私と袂を分かつことになる。あれほど断罪を求めていたくせに、未来永劫一人で生きていくことに私は耐えられそうにない。
「…ほむら?」
さやかが目を覚ます。私は微笑んだ。だがそれはとても曖昧なものだったろう、これから起こるであろう悲しみを予感した、醒めた笑み。だが、その予感は簡単に崩壊した。
「わ…!私、なんで裸?」
さやかは勢いよく上体を起こし、己の身体に触れる。そうして同じく裸の私を見てひどく顔を赤くして体ごと反らした。その行動が思春期の子供みたいで、私はつい吹き出した。
「どうしたの?昨日のこと…覚えてないの?」
「へ、昨日?」
私の方を見ようともしないで、返事だけする彼女の耳は真っ赤だ。ああ、そうなのか、彼女はまた――記憶を失ったのだ。
私は笑った。体を震わせて。不思議そうに、ようやくゆっくりと振り向いたさやかを私は掻き抱いた。
「覚えてないのね…さやか?」
「へ…私っ、変な夢は見たけど、その…あんたとそんな…」
喜びが体の内から湧き上がる。ああ、こんな気持ちに私もなることができるのだ。
「いいの…覚えてなくていいのよ」
彼女はどうやらずっと私の夢を見ていたらしい。その夢で、私は資産家の娘だったとか。
「いや…そうあんたは言ってはいなかったけど、すごく広いマンションに住んでたのよ」
「そう…」
「で、私に聞いてきたの「今幸せ?」って」
「ふうん…」
私はそっと息を吐くと、さやかを強く抱きしめ、そうしてキスをした。驚く彼女の頬を挟むようにして固定して、何度も何度も。
「ねえさやか…昨日の続きをしましょう?」
不思議がる彼女を押し倒し、私が教えてあげるから…と言って私は彼女に覆いかぶさった。
夢なんて、どうでもいい、貴方が忘れてくれるなら。
私達はまた狭いベッドで一つになった。
END
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ほむらにらめっこする
「にらめっこしましょう?」
と、いきなり傍にいた黒髪の女性が囁くものだから、美樹さやかは驚いて、ええ?と聞き返した。
「ど、どうしちゃったのよ一体?」
大学の昼休み、人気の多い場所を避け、ほむらとさやかは構内の隅にある林の中にぽつんと置かれているベンチへ座っていた。その膝の上には互いの髪の色を交換したかのような色合いのお弁当箱。ちょうど食べ終えたところだ。
「どうって…ただなんとなくよ」
「なんとなくねえ…」
さやかは蒼い髪を数回ぽりぽりと掻く。数年後、目の前の女性にその仕草が「犬みたい」と言われるようになるとは、夢にも思っていない。再びさやかは尋ねた。
「なんで?」
「だからなんとなく」
「ふうん…」
やや困ったようにさやかは空を見上げた。この黒髪の相方が突拍子もないことを言うのは今に始まったことではない。大学の帰り道、公園で「ブランコに乗りたい」と呟いて、二人でブランコどころか調子に乗ってジャングルジムでも遊び、巡回の警備員に怪しまれたこともある。視線を下げて、さやかは垂れ気味な目を目の前の女性に向けた。細長いすっきりとした顔に透き通るような白い肌、形のいい鼻に切れ長の二重の双眸、アメジストの瞳。ため息が漏れるほど美しい。中学時代から「すっげー美人」だとは思っていたが、まさか成人してここまで美しくなるとは思っていなかった。よく見ると、その美人が、不思議そうにこちらを見上げている。
「……気持悪いわね、何私を凝視しているの」
「ひど!てか、あんたこそ私を見てんじゃん!」
はあ、とため息をつき、ほむらはやれやれといわんばかりに頭を振る。
「にらめっこすらまともにできない大学生なんて…」
「できる!できるわよそれくらい!むかつくわねえ、そんなに言うならやってやろうじゃないの」
疑問をすっかり忘れ、簡単に黒髪の美女の挑発に乗った蒼い髪の女性は、いそいそと弁当箱を包むと、横にちょこん、と置き、上体ごとほむらへ向けた。真剣な面持ちだが、やはりどことなくお間抜けな表情で。あわせてほむらの方もこれまた同じく、いそいそと弁当箱を包むと膝に置いたまま、無表情にさやかを見る。
「じゃあいい?にらめっこしましょう…」
さやかの掛け声で二人は見つめ(睨み)合う。
あっぷっぷ、と声をあげながら、さやかは頬をつまみ変な顔を作った。ほむらはただ無表情で。数秒ほどして
「ふっ」
さやかが大きく息を吹き出して下を向いた。その頭にほむらが手刀を叩きこむ。
「あいたっ!なんで叩くのよ!」
「貴方今笑ったでしょ」
「え、あ、あたりまえでしょ、これって笑った方が負けなのよ!」
ルールをわかっていないのだろうか、とさやかが早口で説明すると、ああ、とほむらが声を出した。
「そういうことなのね」
「あんた知らないでやってたの?」
「でもなんだか、笑われると腹が立つものね」
「いや、だからそれがゲームだって!いい?にらめっこは…」
もう1度必死に説明するさやかをじい、としばらく上目で見つめて、ほむらはくすくすと笑った。
「面白いわ」
「でしょ?じゃあもう一回やって…」
「貴方の顔が」
「ひど!」
目を細めて、さも楽しそうに黒髪の美女は笑った。その後、数回にらめっこを試みたが、さやかの全敗で。どうやら「無表情」に勝るものは無いらしい。
* * *
「え、幼稚園で?」
『そうなの、そこでほむらちゃん子供達と遊ぶことになってね…』
携帯の向こうの幼馴染の言葉でさやかはようやく、午後の「にらめっこ」が発生した理由がわかった。どうやら、先日まどかの働いている幼稚園に遊びに行ったらしい。鹿目まどかは短大を出て、今年の4月から幼稚園で働いている。時折仕事の様子を見に、二人で訪れたりもするが、最近はほむら一人でも訪れるようになっていた。悪魔いわく、「まどかがいじめられていないか」「最近の子供は大人よりも残酷で」心配だそうだ。
まどかの語るところによると、結構ほむらは子供の面倒見がいいらしい――。
『あ、まどか先生のお友達だー』
『ほむら、ほむらー!』
『さんよ、あなた達よりも年上だから「さん」をつけなさい』
『はーい!』
子供達に真面目に応えながら、ほむらは一生懸命子供の遊びに付き合う。「実直さ」というものを子供は敏感に感じ取ることができるのか、全く裏表の無い黒髪の女性に子供達は好意を持っていた。
『ねえねえ、にらめっこしよー!』
『にらめっこ?』
幼少時代から中学にあがるまで子供らしく振る舞えなかったほむらは、子供の遊びというものをよく知らない。首をかしげ困った様子の黒髪の女性を見て、まどかが慌てて助け舟を出した。
『じゃあ、みんな隣にいる友達とにらめっこしよー!さ、ほむらちゃんは私としよう?』
『え、まどかと?』
何故か頬を赤く染めた黒髪の女性を見て、まどかは不思議そうに首をかしげ、そうして微笑む。
『さ、ほら、いい?笑った方が負けだよ?』
にらめっこしましょう…とまどかが声をかけ、一斉ににらめっこが始まった。
* * *
「それで、あいつはどうしたの?」
『それがね、ほむらちゃん赤くなっちゃって…「恥ずかしい」って俯いちゃって』
――あの、乙女め!
さやかが心で叫ぶ。そうなのだ、あいつはそんな奴だった。さやかの幼馴染で元「円環の理」である鹿目まどかに対してほむらは滅法弱い。悪魔と化して、更に成人してクールビューティと評される今でも変わらずに。恐ろしいほど美しいその顔を紅潮させ、照れた様子でまどかを見上げる様子がさやかの脳裏に克明に浮かんだ。思わず額に手をあて、ため息をつく。
「まあ、あいつがやりそうだわ、まどかが相手だと永遠に勝てないわ、にらめっこ…」
『?そうなの?ほむらちゃん強そうだけどなあ』
「いやいや、まどかには敵わないわよ、私はあいつに全敗だけどさ」
『ふふふ、変なさやかちゃん、あ、それじゃあ来週のことほむらちゃんにも伝えてね?』
「わかったわ、それじゃ」
それから二言三言話して、さやかは携帯を切った。部屋の窓から外を眺めると、もうすでに日は落ちていて。
「誰から?」
「うわ!」
窓に長い黒髪の女性の姿がぼお、と浮かび、さやかがぎょっ、と驚いて振り返る。そこにはお風呂上がりの相方がいて。
「もう、びっくりしたわ!」
胸を手でおさえて息を吐くさやかを、ほむらは不思議そうに見上げる。風呂上がりでまだ少し濡れた黒髪と、上気した顔は何処となく艶やかで、いつにも増して美しかった。蒼い髪の女性が絶句し、身を固めたのも、どうやらその美しさに見惚れているかららしい。それに気付いたからか、ほむらは首をかしげ、フフ、と少し挑発的に微笑んだ。
「なに?見惚れた?」
「ば、馬鹿いわないでよ」
そう言って、勢いよく顔を背けた途端、器用に横にあったテーブルに腰をぶつけ、さやかは「あいた」と声をあげた。吹き出すほむら。
「貴方ってお笑いに向いているわよ絶対、就職それにしたら?」
「い、いやよ、私やりたい仕事は決まってるんだから」
「へえ、そうなんだ?」
挑発するような視線を向けて、ほむらはくすくす笑いながら、ベッドの横へ歩きだす。鏡台に座ると、ドライヤーで髪を乾かしはじめた。温風でキャミソールがゆらゆら揺れて。さやかも鏡台に近づき、ベッド端へ腰かける。
「まどかからよ」
「まどか?」
鏡越しで見つめ合い会話が始まる。鋭い視線がさやかに向けられた。まどかの事になると反応が早い、と相方のアメジストの瞳を見つめながら、さやかは思った。
「来週、まどかが給料日なんだって、その時飲みに行こうってさ」
「いいわね…でもまどかに奢らせる訳にはいかないわ」
「そりゃそうよ、もちろん割り勘…」
「貴方の奢りで」
「なんでよ!」
鏡の向こうで叫ぶ相方の姿が滑稽だったからか、ほむらは肩を震わせた。なんでも真剣に反応するから、この蒼い髪の相方はからかいがいがある――。
「だって、貴方最近バイト代出たって言ってたじゃない」
「そりゃ、言ったけど――」
「私がまどかの分は奢るから、私の分は貴方が奢って?」
「うん、それならまあ…」
「だから、貴方が全員分払うのと同じでしょう?」
「何よその論法!」
おかしいわと叫ぶさやかと、大笑いするほむら、どうやらからかわれているらしいと、さやかがようやく気付き不毛な会話が終結した。代わりにさやかの気になっていた話題に切り替わる。
「あ、それよりさあ、あんたまどかとにらめっこしたんだって?」
「……そうよ」
「だから私ともにらめっこしたの?」
「確かめたくてね」
「え?何を?」
ドライヤーの音が止まり、ほむらが立ち上がった。そうして、さやかの横にすとん、と腰を落とす。ほむらが人さし指をさやかの眼前に立てる。天井を見ろということではないようで。
「もう1回」
「へ?」
「にらめっこしましょう?」
そう言って、二人見つめ合う。二人とも真顔で。数秒後、「ふ」と顔を横に向けて、さやかが盛大に息を吐いた。
ぱちん
「あいた!何すんのよ!」
額を抑えながらさやかが抗議する。平手でも叩かれると痛いものだ。あきれたように囁くほむら。
「ねえ、貴方ってもしかして笑い上戸なの?」
「ち、違うわよ、でもなんか無表情で見つめられるとつい…」
「まったく、これじゃあ確かめられないわ」
「だから何を…」
「もう1回」
そうほむらが囁いて、やや強引に「にらめっこ」が再びはじまる。今度はさやかも笑わずに、二人の顔が引き寄せられるように1㎝、1㎝と近づいていって、そうして、軽く互いの唇が触れた。
「ほ…」
言葉を吐こうとしたさやかの口に、またほむらの唇があてられて、塞がれる。さやかの頬が赤くなった頃、ようやく唇と唇が離れた。真っ赤なさやかと無表情なほむら。最初に口を開いたのはほむらだった。
「やっぱりね」
「……や、やっぱりって…何よ」
「まどかとは見つめ合うだけでも恥ずかしいのに…」
そう囁きながら、ほむらはさやかの肩に手を置いて首をかしげた。
「貴方とはこうしても恥ずかしくないわ、どうしてかしら?」
「どうしてって、そんなの…」
顔を真っ赤にしながら、さやかは絶句して。そうして、しばらくして何か思いついたのか、ほむらの腰に手を回し抱き寄せた。面白そうに笑いながら、さやかにもたれるほむら。
「なに?答えがわかったの?」
「そんなの…決まってるわよ」
そう言って、顔を赤くしたまま、さやかはほむらの唇に自分の唇を押しあてた。
「……何回もこれができるためよ」
「お利口さんね」
その答えを知っていたのか、待っていたのか、とにかくほむらはさも満足気に目を細めて、そうしてその腕をさやかの首に絡めた。
その夜「にらめっこ」は何度も続いたという。
END
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ElsaMaria
犯人は犯行現場に戻るとは良く言われているものだが、これもそうだろうか、と美樹さやかはふと思った。
ヒュウ、とまるで漫画の様にいいタイミングで風が起こり、彼女の蒼い髪を揺らす。
「………」
さやかはしばし目を瞑り、そうして小さく息を漏らしてまた目を開いた。空と同じ色の蒼い瞳。その瞳に映し出されているのは、廃墟と化した雑居ビルだ。
「懐かしいわね…」
そう呟きながら、痩身で女性の中では長身の肢体を動かし、蒼い髪の女性は歩き出した。ビルの入り口に向かって。真夏だというのに、黒のスーツに身を包んでいるのは、彼女がまだ「執務中」だからだ。容疑者の供述に沿って、時系列に立ち寄ったところを辿っているが、まさか「ここ」に辿り着くとは思わなかった――。
ジャリ…
革靴が廃墟ビルの砂利を踏む。中は日光が遮断されていて、薄暗くひんやりとしている。
ピシャリ…
と、水たまりがあったのか、革靴の周りに水しぶきがあがった。目を細め、さやかが水たまりを見つめる。波紋が収まりつつあるそこに映る一人の大人の女性。肩まで伸びた蒼い髪に、引き締まった細面の顔、少女の頃の面影を僅かに残している垂れ気味な目。だいぶ大人になったものだな、とさやかはまるで人ごとの様に思う。
――あれからもう10年は経っている。
地球外生命体の仕組んだ「合理的な」魔法少女の仕組みに気付き、自暴自棄になったあの頃から。黒髪の相方が指摘するように、おそらく自分は何度もその自暴自棄のルートを歩んできたのだろう、他の記憶よりも、そこだけが、いつまでも鮮明に残っている、そしてこの雑居ビルも。甲高い少女の笑い声と迸る赤い血、そして影を思い出し、さやかは目を瞑った。そう、ここは私が一心に祈る影の女性――影の魔女を剣で滅茶苦茶に切り崩した場所だ。
携帯の着信が鳴った。
「はい、美樹です」
「美樹か?おい、早く戻ってきやがれ、そこはガセネタだ」
「え…」
「戻れ、美樹…」
携帯の向こうの上司のがなり立てる声が、急に途切れた。どうやら電波の調子が悪いらしい。困った様に首をひねって、さやかは携帯を内ポケットへ入れる。聞きこみも兼ねて、上司と別行動した訳だが、どうやら無駄骨らしい、さやかはふう、と息を漏らし、そうしてきびすを返した。
「あの…」
さやかは思わず声をあげそうになり、堪えた。目を大きく見開き、振り返る。いつの間にそこにいたのか、黒い喪服の様な服を着た、長い黒髪の女性が立っていた。前髪が長く、片方の目が覆い隠されているが、なかなかに美しかった。まあ、相方ほどではない、とさやかは心で冷酷な事を考えたが。
「………誰?」
声をなるべく低くし、さやかは尋ねる。まだ心臓の動悸はわずかに速い。女はさやかから2mほどへだてて立っている。おずおずと女が歩み寄る。さやかは何故か、少しだけ後ずさりした。しばし見つめ合い、そうしてかなり接近して、ようやく女が口を開く。
「人を…探してて」
「人?」
何故、こんなところに人を?と考えたが、そもそもこんな尋常でない状況なのだから、この女も何か隠しているに違いない。さやかはスーツの中に手を入れ、バッジを出した。
「私は警察です。何か事件ですか?それとも何かお困りなら私が家までお送りしますが」
そうして、ほんの少しだけ相手を安心させるためにさやかは微笑んだ。いつものへらへらとした様子ではなく、困ったような、はにかんだような、そんな感じで。彼女は営業スマイルだけは出来ないのだ。その微笑みに好意を寄せたのか、女の影のある表情にほんの少しだけ明るさが生まれる。まあ、と可愛らしい声が女から洩れた。
「あなただわ」
「え、何がですか?」
「私が探していた人は」
「……とりあえず外に出ましょう」
さやかは苦笑して、女の背中に手を添えて出口へ向かう。大人しく女は従うが、目を細めてさやかを見上げると囁いた。
「ねえ、手を繋いでくださらない?」
「手…?」
さやかが戸惑う間に、女は手を繋ぐ。そのひんやりとした感触にさやかは驚く。女は何故か嬉しそうにその身体にもたれて。困惑しながらもさやかは事務的口調で囁く。
「大丈夫ですか?ずいぶん冷えて…」
「死んでいたからよ」
さやかが歩を止める。そうして女を見下ろす。女の表情は潤んでおり、興奮しているような、艶のあるそれで。何故かさやかは、数日前に取り調べをした茶髪の女を思い出した、首に「魔女の口づけ」に似たタトゥーをした女を。
「ねえ、また私を殺すの?」
「何……」
「……あなただわ、私を…何度も、何度も切り刻んだ人は…」
「………まさか…そんな…」
手が更に強く握られた。
「ひどい人…」
女の長い髪が伸び、さやかの腕に絡みついた。
「ねえ、私を切り刻んだ時…」
――ドウダッタ?
* * *
気がつけば、自分の悲鳴でさやかは目を覚ましていた。
慌てて周囲を目だけで見まわす。高い天井、広い白いベッド…そうして視野の隅っこに、黒髪のとても美しい女性が映り、ようやくさやかは安心して息を吐いた。そうして黒髪の女性に向かって手を伸ばし、その長い黒髪に触れる。
「ほむら…」
「夢?」
「ん…」
黒髪の女性――暁美ほむらが安心させるように、さやかの頭を抱いた。さやかも腕を伸ばしその背中を甘える様に抱きしめる。その温もりが嬉しくて、さやかはまた目を瞑った。だが、震えが止まらない。
「……あの夢なの?」
ほむらが囁いた。
「ううん、違うわ…」
「そう…」
ほむらが身体を離し、さやかの顔を見つめる。それはとても真剣な(いつも彼女は真剣だが)表情で。
「水を取ってくるわ」
そう囁いて、ベッドから降りた。さやかも続いてベッドから降りる。シャツは汗でびっしょりと濡れていた。
* * *
冷蔵庫を開けながら、ほむらはこんな時は水よりも、彼女の好きなバーボンの方がいいのだろうか、と一瞬悩む。そうして、珍しく、両方を選んだ。相方に対してかなり甘くなった自覚はあるが、どうやら一度甘くなると悪魔は際限が無いらしい。コップ1杯の水の予定が、結局はバーボンにグラスに氷とフルセットに変身し、トレーに載せて運ぶことになった。
「……ねえ、結局水とバーボンにしたのだけど…」
いつの間にかソファに座りこんでいる相方に話しかける。と、その相方はほむらの姿を見た途端、その疲れ果てた表情に笑みを浮かべた。思わずほむらも口元を緩める。ソファの横のサイドテーブルにトレーを置くと、ほむらは相方にもたれて囁いた。
「……話してくれる?」
「あの事」について、相方は全てを語ってくれた。あの時の衝撃はまだ忘れられないが、全てを打ち明けてくれたことに価値があるのだ。だからなのか、ほむらはあれ以来、理由のわからない「苛立ち」をさやかに覚えることはなくなっていた。今夜の悪夢もまた、相方は素直に喋ってくれるだろう。
「うん…」
そうして、さやかはゆっくりと、たどたどしく、「悪夢」を語りだした――
* * *
「影の魔女ね」
さやかが喋り終えた後、ほむらが呟く。
「ええ、私が滅多斬りにした…」
はあ、とほむらがため息をついて、そうして「馬鹿なの?」と囁いて、もたれたまま、さやかの腕を叩いた。
「魔女なら私もたくさん倒しているし、貴方よりもひどい倒し方をしているわ」
「……ありがとう」
でもね、とさやかが苦しそうな声で呟く。
「彼女、私に聞いたのよ」
――ドウダッタ…って
「どうだったの?」
わざと、黒髪の女性は素っ気なく聞いて。
「私は…彼女をたくさん切ったわ、何回も…ものすごく後悔している、でもね」
「……」
「あの時、その時の私は…」
ほむらの細い手が伸びて、さやかの口を抑えた。驚くさやか。
「おしまい」
「………」
「ねえ、誰でも闇は持っているものよ?」
ほむらは身体を離し、立ち上がると、さやかの前でしゃがみ、顔を覗き込んだ。まるで飼い主が犬の顔を覗き込むように。
「そう…なの?」
「そうよ、私もそう、わかるでしょ?貴方なら尚更、だから…」
そう囁いて、ほむらは腕をさやかの肩に回した。
「そんなに自分を責めないで……」
縋る様に、さやかが強くほむらを抱きしめる。あまりの強さに苦笑するほむら。
「ねえ、忘れたい?さやか」
「うん…」
その言葉がまるで合図の様になり、二人は床に転げ落ちて。ほんの少しの間、くすくすという笑い声があったが、それもやがて静かになり、吐息へと変わる。
息を大きく吸い込むような音と、そして規則的な喘ぎ声があがる。重なる二人を見つめるのは、ただ半分に欠けた月だけ、その月が二人の固く繋がった手を照らし出していた。
ネエ、ドウダッタ?ミキサヤカ…?
END
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ペットショップ狂騒曲
「ほむら犬を飼う」https://syosetu.org/novel/302421/13.htmlで登場したペットショップとその店長達が再び…笑
見滝原のショッピングモールには、脱サラで成功したペットショップがある。
40代半ばの村岡という男が店長のこの店は、今日も盛大とは言えないが、そこそこ繁盛していた。
「ワン、ワン、……ワン!」
「ほら、もう少しでごはんだからおとなしくしてるんだ」
180㎝ほどの大柄な青年が身を屈め、店内の端に囲われている柴犬に話しかける。Tシャツの下の筋骨隆々とした体躯は体育会系を思わせるが、その上に着た黄色の店のエプロンがあまりにも可愛らしいためどこか微笑ましい。犬もそう思っているのか、へっ、へっ、と笑っている様に口を開けて尻尾を振った。犬の黒い瞳が、スポーツ刈りの男の朴訥な顔を映し出す。
「おーい、大野、ちょっと手伝ってくれ」
店の奥から中年の男の声がした。店長の村岡だ。大野と呼ばれたバイト生は立ち上がり、奥に向かった。
店内はそれほど広くないため、人の歩行するスペースが狭い。ドライフードの袋を蹴らないように注意しながらバイト生は歩く。
――どうにかスペースを確保しなきゃなあ
去年、村岡がそう言っていたのを大野は思い出した。だが、結局スペースを確保することを辞めていた。それはまた別の理由があって、スペースが狭いために望外な恩恵を受けたためだった。その恩恵とは、昨年からこの店に現れた「お得意さん」のことであるが――。
青年は脳裏にそのお得意さんの事を思い浮かべた。
『ねえ、これって人でも食べれるの?』
この世のものとは思えないほどの美貌の女性が微笑んでいる。右手に缶詰のドッグフードを持って。最初に店に現れた時の「お得意」さんの姿を大野は鮮明に憶えていた。長い黒髪で恐ろしく白い肌の美しい女性は、突然ふらりとこの店に入ってきて大量のドッグフードを購入していったのだ。最初、店長の村岡と男はあまりの美しさにその女性が幻覚か、あるいは幽霊かと思ってしまうほどで、村岡は更に悪魔か…と思っていたらしいが、それが正解だということを二人は永遠に知る由はない。
頭を振りながら奥に行くと、店長である村岡の姿が見えた。梯子に乗って、上段に積んでいるドッグフードの袋をおろしていた。大野はすぐにその下に行き、袋を受け取る。息の合った連携プレーは親子の様で。
「…店長、張り切ってますね?」
「そうか?」
そうでもないぞ…と言いながら、だが笑顔を浮かべる村岡を見て、大野は笑った。
「ねえ、店長」
「なんだ?」
「あのお得意さん、最近来ませんねぇ」
派手な音を立てて袋が2,3個落ちた。梯子の上の中年の男が急に右手を激しく振って叫ぶ。
「ど、動揺してないぞ、俺は!」
はあ、と大野は額を抑えため息をついた。そう、この梯子の上の「店長」は「お得意さん」に懸想していた。娘と言っていい年頃の女性に、村岡はまるで中学生の様な恋をしているのだ。あきれを通り越して、青年は心の底から店長が心配になった。
「店長…お得意さんに恋はまずいっすよ…それに年…」
「ば、馬鹿、俺はあくまでお得意さんとしてだなあ…」
梯子の上でいきなり偉そうに語りだす村岡を見て、再び大野はため息をついた。そうして、だめだ、この人は俺がどうにかしなきゃいけない…とでもいう様に村岡を見上げる。
「とにかく早く片付けましょう、そろそろ開店です」
「え、ああそうか」
ハッ、と我にかえった村岡は再び作業に戻る。たまに年不相応に挙動不審になるが、こういった切り替えはさすが元バリバリの営業マンというところか。
――普通にしてれば立派なのに
青年はふと、心で呟く。そうなのだ。村岡は元営業マンだけあって、その商才はかなり優れたものだ。交渉能力も高く、経営学を専攻している大野に取って、彼の能力は模範になるのものだった。だがどうにも、あの美貌のお得意さんに心奪われるとただの「情けない中年の男」になってしまう。はあ、とまた青年はため息をついた。そして脳裏に再び「お得意さん」を思い浮かべる。
――恐ろしいほど美しいという形容がぴったりとあてはまる、長い黒髪の女性。黒が好きなのだろうか、店に来る時はほとんど黒づくめの服装で。形のいい頭に背中まで伸びた黒髪。そうして透き通るような白い肌。鼻筋とおって、切れ長の二重の目には長い睫毛、その下には神秘的なアメジストの瞳――
青年は自分の頬を両手で叩いて、乱暴に頭を振った。どうにもあのお得意さんのことを思い浮かべると、何故か「畏れ」に近い感情が湧きあがる。美しすぎるのだ、まるでこの世のものではないように。まあ、最初は若さ故かミーハーな感情でテンションはあがり、ときめいたものだが、それもこれも、今では大野以上にお得意さんにのぼせまくっている村岡のおかげですっかりなりを潜めていた。人は興味の対象に己よりも没頭している人物に出会うと冷静になってしまうものらしい。青年の目下の指針は、父親といってもおかしくない年齢の村岡をまちがった道へ歩ませないことだった。
――カラン、カラン
ドアに備え付けているベルが鳴った。開店と同時に客というのも珍しい。だが、商売をしているものにとっては大歓迎のもので、村岡と大野は同時に声をあげた。
「いらっしゃいませ」
そうして二人ははっ、と一瞬身を固まらせた。ドアの方には茶色のワンピースに薄手のチェック柄のカーディガンを羽織った一人の女性。逆光のため顔はよく見えない。
「…あら、ごめんなさい少し早かったかしら?」
聞いている者がうっとりするような鈴の様な涼やかな声で、女性は二人に話しかける。慌てて二人は首を振って、村岡の方が揉手で女性に近づいた。
「いえいえ、とんでもありませんもう開店ですし、あまりにお客様が美しいもので…」
青年は店長の口のうまさに内心舌を巻く。
「あら、どうもありがとう」
ふふふ、と品良く微笑んで女性は一歩奥へと進む。青年はその姿に見惚れた。
村岡の言葉は真実だった、金髪の縦ロールの髪形をした女性は小首を少しだけ傾けながら店長に微笑む。20代半ばくらいだろうが、その微笑みはまるで無垢な少女の様に柔らかで。形の良い唇に、髪の色と同じ穏やかな瞳が印象的だ。
「今日は何をお買い求めで?」
揉手のまま、村岡が上機嫌に微笑む。女性は人さし指を口にあて、そうねえと呟いた。その優雅な仕草を見て、何故か大野はあの「お得意さん」を想起する。ああ、似ているのだ、どこか、と思った。優美な姿もそのどことなく浮世離れした雰囲気も。
「――猫」
「猫?」
「白い猫が家に転がり込んできたのよ、それで餌を買いに来たの。おすすめなのはないかしら?」
「ああ、そうなんですか!なんという幸運な猫ちゃんですかねえ!うらやましい」
そう言って、揉手のまま、腕を軽く振り回す中年の男の姿は、可愛らしいエプロンも相まってなにやら滑稽でいてどこか笑いを誘う。女性は口に手をあてクスクスと笑った。
「面白いんですね」
女性の爽やかな笑みに二人は惹きこまれる。絶世の美女(お得意さんを二人はそう認識している)とまではいかないが、この金髪の女性は非常に優雅で、そして可愛らしかった。全身から女性的な優雅さが滲み出ており、その豊かな健康的な肢体も、女性の持つ清廉さで色目で見ることが憚れるほどである。店長とバイト生はまるで漫才コンビの様に両手を大げさに振り、中へどうぞとエスコートすると、女性は目を細めながら更に店の奥へと進んで行った。
***********
「ほむらちゃん、一体どうしちゃったの?」
鹿目まどかはおもわず、目の前の黒髪の友人に囁いた。喫茶店で何か冷たいものをと入って来たのはいいが、注文した後、すぐにほむらがテーブルに突っ伏したからだ。普段の彼女ならまずこんなことはしない。
「……寝不足で」
「え?」
艶のある声で囁くと、むっくり、と黒髪の美女は身体を起こした。テーブルに波の様に広がっていた黒髪がすう、と引いていく。ノースリーブの白のワンピースから伸びる細い白い腕が眩しい。気だるげに目を瞑り、はあ、とため息ひとつ。まどかはそんな黒髪の友人に見惚れる。中学時代からの友人である暁美ほむらはその頃から美しかったが、あれから10年、今では更に大人の魅力も加わり、ほむらはすっかり絶世の美女として成長していた。
「眠れないの?何か心配事?」
右手で軽く頭を抑える友人の姿を見て、桃色の髪の女性はひどく心配そうな表情で囁いた。それも当然かもしれない。その黒髪の美女の目の下にはうっすらとくまも見えているのだ。
どこか気だるげな艶香を醸し出しながら、ほむらはぼそりと呟いた。
「……あの人が」
「え?」
そうして、何か言い淀んだのか、口を閉ざし、そして再びはあ、とため息をついた。アメジストの瞳が一瞬揺らめいて、まどかの姿を捉える。
「そうね…まどかには…正直に言うわね」
そうして、少し自嘲的に口元を緩めながら囁く。
「う、うん、なあに?」
桃色の髪の女性は、心持ち身体を前のめりにして。
「夜寝かしてくれないの」
息が詰まったような変な声をあげながら、桃色の髪の女性が身体を跳ねあげて、テーブルが揺れる。その反動でコップの中の水が少し飛び出した。
「あ、ご、ごめんなさい!」
慌ててお手拭きでテーブルの水滴をふき取る桃色の髪の女性。その顔は微かに紅潮して。
ほむらはその様子をさも不思議そうに見上げて。
「…まどか?」
「う、うん大丈夫、大丈夫」
普段のおっとりした姿からは想像もつかない慌てぶりに、ほむらは首をかしげ、しばらく怪訝そうにじい、と猫の様にまどかを見つめる。対象となるものを見つめる時の彼女の癖だ。その時はまるで彫刻の様に微動だにしない。視線に気づき、更にまどかは赤くなる。
「ひゃっ、も、もうほむらちゃん恥ずかしいよ…」
「?何が恥ずかしいの?」
「そ、それは……」
まどかとてもう妙齢の女性だ、色恋に関して無知な訳ではない。むしろ彼女には「想い人」もいる。(ただそれを話題にすると、三人の均衡の取れた関係が崩れてしまいそうで避けているのだが。)
「ごめん、ごめん二人とも――」
と、爽やかな声がして、喫茶店のドアから蒼い髪の女性が二人に近づいてくる。美樹さやかだ。ボーダーのシャツにデニムのズボンという彼女らしいいつもの格好だ。
「まどか、ほら犯人よ」
頬杖をつきながら、ほむらが反対の手でさやかを指差す。その表情は気だるげながらもどことなく嬉しそうで。まどかはことさら頬を赤くして、テーブルの端でへらへらとしまらない笑顔を浮かべて突っ立っている蒼い髪の女性を見上げた。
「いやあ、非番なのになかなか帰れなくて……って、?どうしたのさ、まどか」
きょとんとさやかが桃色の髪の女性を見つめる。珍しく、幼馴染がほんの少しだけ不機嫌そうな表情でこちらを見ているのが新鮮で、さやかは思わず見つめてしまう。20代半ばになろうとしているにもかかわらず、この桃色の髪の幼馴染は未だ10代後半にしか見えないほどあどけない顔をしている。背中まで伸びた桃色の髪、淡い色のワンピースにカーディガン。そして――なんというか…可愛らしい。
――可愛らしい?
――うん
――殺すわよ?
「うわ!」
いきなり大声をあげて、さやかがきょときょととあたりを見回す。明るい光の射し込んでいる喫茶店にはまだ客も少ない。そうして、ハッ、といきなりなにかに気付いた様に頬杖をついているほむらを見つめた。
「わあ!」
再びさやかは声をあげる、今度のそれは「怯え」の声で。
そこには目を細め、天使の様に可愛らしく微笑んでいる黒髪の美女。どこからどうみても深窓のご令嬢だ。
「貴方、いい度胸してるのね?」
――こ、怖っ!
さやかは心で叫ぶ。幼馴染に見惚れたのを読まれたらしい。一瞬念話で話しかけられたのに気付かなかった。しかもこんな天使のような表情、今まで10年一緒にいて見たことも無い。
「?どうしたの二人とも…」
不機嫌さも一瞬で消し飛んだのか、まどかは逆に不安げに二人を見る。あら、とほむらは顔をあげ、まどかの方へ視線を向けると
「なんでもないわ」
と、これまたひとしきり可愛らしく微笑むものだから、ちょっとだけさやかはむっ、として。だが、黒髪の美女が、一瞬こちらをぎろりと三白眼で睨むと、さやかはしゅん、とおとなしくなった。ふん、とほむらがそっぽを向きながら、身体をずらし一人分の空間を作ると、さも当たり前の様にポン、ポン、とソファを叩く。さやかもまた当たり前の様にそこに座る。まどかは愛犬のモカを何故か思い出し口元を緩める。
「フフフ、仲いいね、二人とも」
「全然よ」
「ひど!」
思わずまどかは吹き出した。
週末の朝早くから、三人はショッピングモールに買い物に来ていた。中学・高校時代からは考えられないことだ、とほむらは思う。
共通の秘密を共有しているほむらとさやかは、少女時代はまったく余裕がなく、秘密を保持するのに必死で、ただただ、まどかを遠ざけ続けた。だが大学生になった頃から成長して余裕が出てきたのか、交流を再開し、大人になった今では昔からそうだったかのように、このように三人一緒に行動することがあるのだ。
――大人になるということはこういうことだろうか?
注文したアイスティーのグラスを手に取りながら、ほむらは桃色の髪の女性を見つめる。美味しそうにオレンジジュースを飲んでいる。ふ、と口元を緩めるほむら。少女の頃は彼女の顔を見つめるだけでも眩しく感じたものだ。憧れ、羨望、尊敬、そして愛情――全ての感情は彼女にだけ注がれ、そして世界も彼女のためだけのものだった。しかし――
「ちょっと、さやかちゃん、まだ決めてないの?」
まどかの声で、ハッ、とほむらは自分の右隣に視線を向ける。蒼い髪の女性がメニューを必死に見つめていて。えへへ、と困ったように幼馴染に視線を向ける。はあ、とほむらはため息をついて。
「この人優柔不断なのよ」
「へ、あ、ちょっと…」
そう言って、さやかからメニューを取りあげると、ほむらは数秒ほどちらりと見やり、優雅に手をあげて店員を呼んだ。そうして店員に二つ、三つ、オーダーをかける。きょとんとその様子をお間抜けに見ている相方をじろりと睨むと、ほむらはややぶっきらぼうに囁いた。
「…貴方、食事もまだなんでしょう?適当に頼んでおいたわ」
「あ、ありがとう」
えへへ、としまらない笑いを浮かべながらお礼を言うものだから、ついほむらは相方の額を叩きたくなる衝動にかられる。まったく――
「――まったく世話の焼ける犬だわ」
「ひど!」
はいはい、と肩をすくめ、ほむらは右手を宙でひらひらと動かす。どうやらさやかの頭を撫でているのを表現しているようだ。10年も経つと悪魔もこのように感情表現が豊かになるのだ。
――世界は広がった
ほむらはそう思っている。それもこれも、「こいつ」のせいだ、と、右隣でのうのうと注文した食事を待っている蒼い髪の女性をほむらは一瞥した。なんで受け入れてしまったのか――いつも考える、答えはもうわかっているのに、それでも。こんなありふれた、でも幸せな時間の時、部屋で一緒に過ごす時、そして実際に受け入れている時にも。常に考えてしまうのだ。
守るべき対象は変わっていない、愛すべきものも。だが――
「あ、注文来た」
大人らしからぬ挙動で、食事が来たことを喜ぶさやか。
――手離したくない
そう思ってしまうのだ。
* * *
それからしばし談笑が続いた。話題はまどかの家族の事、仕事の近況などで。まどかは短大を出て幼稚園の先生になった。まどからしい、とほむらもさやかも思っている。仕事は順調らしく、同じ職場の先生とも仲良くやっているようだ。確か中年の人の良い感じの女性だった、と二人は記憶している。
「ねえ、さやかちゃんはお仕事どう?最近異動になったんだよね?」
「え、うん、なんかさりげなく異動になってねえ…」
「でも本部勤務ってすごいね、出世?」
「いやいや、違うわよ、全然。今度は交番勤務にして欲しいくらいよ」
そう言っておどけた様子でへへへ、とさやかは笑った。さすがだ、とほむらは相方の様子を見て思う。蒼い髪の相方は先月、○○署の刑事課から本部の公安へ異動した。二人の予想よりも遥かに公安は過酷なもので。人知を超越した魔法少女や魔法の世界を知っている二人でも、特に悪魔と化したほむらでも、人の作りだす組織の暗部がいかに恐ろしいものかを痛感させられている。だが、相方はそんな様子を日常ではおくびにも出さない。そこは彼女の優れたところであり、美徳であるとほむらは素直に思った。そうして、相方の苦しみを取り除けるのは自分だけなのだと微かに、ほんの微かにだが誇らしく思った。
「へえ、そうなんだ…ほむらちゃんは?お仕事…やっぱりしないの?」
「ええ、する気は無いわ、というよりもう就職しているもの」
「え?」
「わあ!」
まどかが首をかしげるのと、さやかが慌てて中腰になりほむらの口を抑えるのは同時だった。あまりの突然の行為に、口を抑えられたほむらが珍しく驚きの表情を浮かべる。
「ち、ちがうのよ、まどか、こいつは…いや、ほ、ほむらは仕事というより…その」
「?」
支離滅裂な言動のさやかをやや困惑気味に見つめるまどか。口を抑えられながら、目だけでじろりとさやかを睨むほむら。そうして右手をさやかの手に被せると、常人の数倍の力で思いっきり握った。
「あいたたた!痛い痛い!」
はじかれたようにほむらの口から手を離すさやか。眉を曲げ、目を瞑りながらほむらは自分の唇を指で数回なぞるように拭いた。
「……内緒よ」
「え?」
「今は内緒、いつかまどかには教えるわ」
「そう?ふふ、じゃあ楽しみにしてる」
そうして二人微笑み合う。その横で手を抑えながら身をよじっている蒼い髪の女性を余所に。そうして、思い出したようにまどかが両手を合わせて叩いた。
「あ、そうだ、ねえほむらちゃん、この後、ちょっとペットショップに寄らない?モカのリードがだいぶすり減ってきているから、新しいのを買いたいの」
「あら、もちろんいいわよ、そうねえ、私も――」
と、ほむらは隣の相方をちらりと見て、
「首輪を買わなきゃいけないし――」
「ちょっと、今私を見たでしょ!」
「あ、そうだね、絶対必要だよ」
「まどかまで!」
えへへ、とまどかは可愛く笑って、そうしてさやかに向かって、ぺろと舌を出す。時折この幼馴染も蒼い髪の女性をからかうのだ。仕事で留守の時に二人で協定でも結んでいるのだろうか?とさやかはふと思った。
「それじゃ、さやかも食べ終えたし、そろそろ行きましょうか?はい」
ほむらは優雅に立ち上がりながら、レシートを当たり前の様にさやかに渡す。
「へ?」
「貴方の奢り」
「そんな、いいよほむらちゃん、私ちゃんと払うから」
「いいのよ、まどかの分は私がいつでも奢るわ、そして私の分はこの人がいつも奢っているから、そうしたら結局さやかが全部払うことになるでしょ?」
ね?と、悪魔だというのに天使の様に可愛らしい笑みを浮かべながら、ほむらはさやかを見つめた。ひきつったような笑みを浮かべるさやか。
――こ、この鬼嫁!
そう心で叫んでしまう。幸い今度は心を読まれなかったようだった。
**********
「いやあ、お客様お目が高いですねえ!」
金髪の女性が手にしたキャットフードの缶詰を村岡が褒めたたえる。あら、そう?と女性は少し困ったように微笑んだ。
「皆買いそうなものだけど…」
「いやいや、なかなかこの缶詰を最初に選ばれる方はいないですよ、なあ?」
そう言って中年の店長は、バイト生に話しかける。朴訥な青年はただこくこくと頷くばかりで。フフフ、と女性は笑って。店長を見つめる。
「面白い方ね、いいわ、それを5個頂戴」
* * *
――カランカラン、と店のドアのベルが鳴った。
「あ、いらっしゃいませ」
バイト生が店に入って来た三人組の女性に声をかける。そうして数秒遅れて、わ、と驚きの声をあげて店の奥に駆けて行った。持っていたドッグフードの袋を落としたまま。不思議そうに小首をかしげるまどかと、特に何も感じてないほむら、そしてさやかは訝しげな表情を浮かべバイト生の背中を視線で追う。
――なんなのよ、ここのバイト生は!
そう、以前ほむらとこの店に来た時、さやかは散々な目にあっている。妙にガン見してくるバイト生と、揉み手で黒髪の相方に接待する、営業力の高い店長、最後はさやかをワンコ扱いして、ほむらを含め、三人で「さやか用」のペット商品を楽しげに探し出したのだ。
「おおお、暁美さま!いらっしゃいませ!」
すごい勢いで店の奥から中年の男がこちらに向かってくる。いつもの可愛らしい犬の絵のついたエプロンを着たまま。「様?」とさやかが呟く。まどかの方は驚いたのだろう、いつの間にかさやかの背後に隠れていた。
「あら、ご無沙汰してるわね」
「いやあ、お久しぶりです、相変わらず美しいですなあ!」
揉手でさも嬉しそうにスマイルを浮かべる中年男性。先ほどのバイト生はその横で頭を抑えていた。
「ああ、そこのお二人もいらっしゃいませ!」
村岡は丁寧にお辞儀をし、そしてまた語りだす。目はまるで少女マンガの様に輝いて。
「あれから新商品をたくさん仕入れてまして、是非、暁美さまにご購入を――」
「ねえ、さやかちゃん、ここの店の人って…」
さやかの背後でまどかが尋ねる。ああ、とさやかが苦笑しながら囁く。
「…そう、ほむらの大ファンみたいなのよ、ものすごいお得意さんになってるみたい」
「そう…なの?なんか、すごいね」
「ほんとに」
中年の男に接待されているほむらは、なんだか超セレブなお嬢様のようで、さやかはなぜか面白くない。と、視線を感じたのでその方向を見るとバイト生がこちらをまたガン見していた。む、と睨み返すさやか。バイト生はまた慌てて缶詰を落としながら視線を逸らした。
――何、ここのバイト生、むかつくわ!
さやかの心の叫びを余所に、大野は悩んでいた。以前、お得意さんがこの店に来たとき「蒼い犬を飼っている」といって、あの蒼い髪の女性を連れてきていたのはしっかり憶えている。
『ねえ、この缶詰、人間でも食べれるの?』
そう言って、ドッグフードを手に取る美しい黒髪の女性。
『もうちょっと、大きい服ないかしら?そう、人間が着れるような…』
そう言って、マリーン柄のドッグウェアを手に取る美しい黒髪の女性。
『もうちょっと大きなお部屋ないのかしら?そう人間が入れるような…』
そう言って、ドッグハウスの屋根に手を置く美しい黒髪の女性。
あわわ…と大野は慌てる。そうなのだ、あの美しい女性はきっと、人間を飼っているに違いない、目の前の蒼い髪の女性を。だとしたら、その後ろにいる桃色の髪の女性は…?バイト生は桃色の髪の女性のことを憶えていた。時折レトリバーを連れて買い物に来たことがある。この世のものとは思えないほどの美人というわけではないが、非常に可愛らしいのだ。まるで周りの空気すら温かくなるような、心地よい空気を持っている可愛い女性。それが大野の第一印象だった。その女性が今、お得意さんと、蒼い髪の女性と一緒に店に来ている。一体この三人の関係はなんなんだろう…?想像するだけで恐ろしいが、だが、考えずにはいられない。一人悶々としているバイト生を余所に、店の奥では村岡の接待が続いていた。
「いやあ、さすが暁美さまお目が高い!」
「それ、誰にも言っているんじゃないの?」
首輪を手にしながら、ほむらは中年の男に囁く。その魔性めいた表情に心を打ち抜かれたのか、両手で心臓を抑え、村岡はまさにそのようなリアクションをして、叫んだ。
「いやいや、そんなことはありません!決して、いや…すみません、今日実は美しい客人が参りましたので、少し…あ、いやいやいや!暁美さまよりお美しい方はいらっしゃいませんが…」
こいつ逮捕してやろうか?と、さやかは思った。
「金髪の、優雅な女性でして、ああ、どこか暁美さまに雰囲気が似てましてねえ」
一瞬、ほむらとさやかの表情が強張った。
「ついさきほどキャットフードを購入してお帰りになりましたが、ちょうど入れ違いでしたねえ、ああ、もし一同に会していたら、この店も華やいでいたでしょうなあ」
ペラペラといい気になって喋りまくる店長を余所に、ほむらとさやかは視線を交わす。さやかはまどかの肩に手をやると、「ちょっと、他の店見てくるわ」と囁き店を出た。
* * *
見滝原のショッピングモールはかなり広い、さやかは少し慌てた様子で周囲を見回すが、特に金髪の女性らしき人物は見当たらない。ふう、と息を吐く。そうしてしばらくモール内を歩き回るが、結局何も情報は得られないままペットショップへ戻っていった。
「あ、さやかちゃん、見て見て!」
店内ではほむらとまどかがさも楽しそうに、首輪とリードを持ってはしゃいでいる。まるで姉妹のようだ。さやかもつられて笑みを浮かべた。だがその足元を見て笑顔がひきつる。そこには大量の袋。そして嬉しそうに揉み手の店長。
「あら、おかえりなさい、ほら、貴方のためにいっぱい買ったわよ」
天使の様な(悪魔だが)微笑みを浮かべる黒髪の美女。そしてその横で文字通り女神の様な幼馴染の笑顔。
「さやかの奢りね?」
そうして、蒼い髪の女性に悪魔は優しく微笑みかけるのだ。
* * *
「楽しかったね」
「そうね」
嬉しそうなまどかの表情に、ほむらもつられて微笑む。午後の昼下がりようやく買い物を終えた三人は、帰途につくことにした。午後からまどかは幼稚園の先生同士で集まりがあるらしい。途中の三差路から、まどかがそれじゃあ、と別れの挨拶を交わす。
「また、遊びに行こうね、ほむらちゃん、さやかちゃん」
「ええ、そうね」
「もちろんよ」
と、まどかがさやかを見つめる。
「あのね、さやかちゃん…」
「何、まどか」
そうして意味ありげな表情で囁いた。
「ほむらちゃんをちゃんと寝かせてあげないとダメだよ?」
* * * *
「まったくう、なんてことまどかに言うのよ…」
「あら、真実だもの?悪い?」
「それは…」
まどかと別れた後、さやかが顔を真っ赤にして愚痴る、それを涼しい顔で受け流すほむら。それはどことなく痴話げんかの様で。
フフフと笑ってほむらがさやかにもたれる。もう、と言ってさやかもそれきり口を閉ざす。そのまま寄り添うようにして二人は歩き出した。
昼下がりの街並みを眺めながら、ゆっくりと歩く二人、ふと、ほむらが口を開いた。
「巴マミ…」
「…よね、きっと」
さやかが応じる。そうなのだ、おそらくあのペットショップを訪れていたのは、かつての良き先輩であり、仲間である巴マミ。接触を避けてきたため、この数年、さやかは彼女とは会っていない。ほむらにいたってはこの世界においてマミはほとんど面識がないといっていいだろう。どうなっているだろうか、彼女は、そして、かつて円環の理にいた頃常に一緒にいた少女は?さやかはふと気になった。
「…気になる?」
心を読んだのだろう、ほむらが聞いた。さやかはうん、と頷いて。
「気にならないわけがないわ、ただ、正直、今接触していいのかはわからない」
「そうね、接触は避けた方がいいわ、でも…」
ほむらが言い淀んだ、珍しいとさやかは思った。
「どうしたの?」
「彼女、猫を飼っていたかしら?」
「へ?」
意味がわからず、さやかは相方を見つめる。腕にもたれかかっている黒髪の女性は少し険しい顔をして。だがさやかがこちらを見ていることに気付くと、はあ、とため息をついた。
「…相変わらず鈍感だわ」
「へ、ひど!」
さやかの反応に、ほむらはフフフ、と笑い、話題を変えた。
「ねえ、まどかが言ってたこと今日は実行するつもり?」
「え?」
――ほむらちゃんをちゃんと寝かせてあげないとダメだよ?
あ…とさやかはお間抜けに口を開ける。
「どうするの?」
小悪魔の様に微笑むほむら。その表情にむっ、ときたのかさやかはその顔に自分の顔を押し付けて。
「―――」
「――――」
はあ、と口を離すと二人の悩ましげな声が漏れる。
「ここ路上よ?」
そう言いながら、嬉しそうに目を細める黒髪の女性と、顔を赤くする蒼い髪の女性。
「関係ないわ、それに――」
そう言って、さやかはほむらの耳元に口を寄せた。そうして何事か囁く。それはほむらの心をくすぐらせる台詞で。
「いいわよ」
そうほむらは囁いた。そう、この相方ならそう言ってくれるだろう、そう思っていた言葉を今、さやかは口にしたのだ。
――今日も眠らせないわ
翌日、またほむらは目の下にくまを作ることとなるが、それはまた別の話――。
END
だんだん甘々になってくるうちの大人ほむらさん…
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さやか大慌てする
タツヤくんとさやかは何故かすごい気が合います、まるで兄弟…(何が違う…)
「まどかに悩み事?」
夜の帳が降りた頃、少し寂れた街の界隈で、美樹さやかは携帯の向こうの相手に話しかけた。
『うん、最近様子がおかしくってさあ』
少年の心細そうな声に、さやかは困った様に眉根を下げた。無意識に黒の野暮ったいスーツの襟を正す。つい先ほどまで捜査で「荒っぽい仕事」をしていたところだった。ふと、顔をあげ、半分の月を見つめながらさやかは口元を緩めた。肩まで伸びた蒼い髪が夜風でさらさらと揺れて。
「なあに、また何かタツヤ君がまどかを困らせるようなことでもしたんじゃないの?」
『ち、ちげーよ!』
少年の声にさやかはクスクスと笑った。この幼馴染の弟とは10歳年が離れているが、波長が合うとでもいうのだろうか、話をしていると蒼い髪の女性も元気になれるのだ。そして向こうもそうなのだろう、悩み事だったり相談(主に進路が多いが)だったりと事あるごとにこの蒼い髪の女性に連絡してくる。
「じゃあ、何よ?何か心当たりでもあるの?」
『それがさあ…なんか俺のことを避けている様な感じでさ、そうかと思えば、昨日なんていきなり「隠しごとしてないよね」って聞いてくるし…』
「へえ…隠しごと…それにしても珍しいわねえ、まどかってああ見えて言いたいことははっきりいうはずなのに…」
そうなのだ、鹿目まどかは穏やかで優しく、時にはおどおどとしている様に見えるが、自分の意志を絶対に曲げたりはしない人間だ。相手に気を使って言うべきことを言わない人間ではないし、このように弟に対して歯切れの悪い言い方をするような人間ではない。
『だろ?姉ちゃんがあんな風に言うなんて、今まで無かったんだ、絶対何かあるよ!さやか何か知らない?』
少年の言い切りが何故か可笑しくて、笑いそうになるのをさやかは堪えた。腰に手をあて、考え込む。
「そうねえ…まどか自身に何かあったのか…でもタツヤ君に「隠しごとしてないよね」って聞くくらいだからなあ…う~んわからないわ…」
『ちぇっ、役に立たないなあ』
「こら!大人になんてこと!いいわ、この美樹さやかが謎を解いてみせるから…待ってなさい」
そう言って、う~んと唸りながらさやかは蒼い髪を右手で乱暴に掻く。少し寂れた街の界隈とはいえ、スーツ姿の女性がそのような仕草をしているのを数人の通行人は怪訝そうに見つめていた。だが当の本人は気にする様子もなく、しばらく犬の様に唸って、そうして、何か思いついたと言う様に笑顔を浮かべた。
「わかったわ!」
『え、マジで?』
「タツヤ君が隠してたエロ本を見つけたとか?」
『ち、ちげーよ!何言ってんだよ馬鹿!』
「馬鹿とは何よ!馬鹿とは!…ったく失礼な。例えばさあ、それをまどかが見つけて、ものすごく言いにくいとかじゃないの?弟がこんな本を読んでる、でも私に隠してるってショック受けてるとか?」
『んなっ…、お、俺そんな本もってねえし!なんで勝手に決め付けんのさ?』
「またまた~隠してんじゃないの?刑事さんはお見通しですよ?」
普段の様にへらへらとさやかが笑った。妙齢の女性にしては、さやかはその手の話にかなり許容的である。それは刑事という職業柄でもあり、普段男性陣に囲まれて仕事をしているということもあり、本人の性質でもあるのだが。そのためか、タツヤもさやかを「同類」であるかのように捉えてしまって。
『てか、さやかも隠してんだろ?エロ本!だからそう思うんだろ?身に覚えがあるから疑うんだ!』
「はあ?な、なんで私がそういう本持ってんのよ!何その新展開?」
携帯の向こう側で吹き出す声がした。さやかの切りかえしに少年はウケたらしく。
『さやかのスケベ!』
「ムカつく!」
また携帯の向こう側で吹き出す声が聞えた。すでにからかいモードだ。さやかはやれやれという様な表情を浮かべた。少年の心配はどうやら吹き飛んだらしく。
「まあ、どちらにせよ、よっぽどの悩み事があるなら、まどかは私かほむらに相談するわよ、その時はタツヤ君に教えてあげるからさ?それでいい?」
携帯の向こう側で少年の喜ぶ声。それから二言、三言話して携帯を切った。ふう、と息を吐いてさやかはまた空を見上げた。蒼い瞳に半分の月が映る。むしろ少年との会話で元気になったのは自分の方だ、とさやかは思う。時折、自分が人であるかどうか分からなくなる時があるが、こうして幼馴染やその弟と触れあうと、人としての己を保つことができる。
さやかの脳裏に黒髪の美しい女性の顔が浮かんだ。そう、そして何よりも「彼女」がいるからこそ――さやかは家にいる相方に思いを馳せた。
****************
8年前は、特に意識してなかったのに、今は帰る家があることが非常に嬉しくて。そしてその家に待っている人がいることも。マンションの玄関の前でさやかは左手を孤を描く様にして動かした。紫色の幾何学模様の結界に穴が空き、その中にさやかは腕をいれドアノブを掴む。鍵はかかっていない。ほっ、とさやかは安心して息を吐く。ガチャリと勢いよくドアを開けて「ただいま」と声を掛けた。
「ほむら?」
中に入ると、いつもこの時間はキッチンに付属しているカウンターか、リビングと一対になっている部屋のテーブルでくつろいで(たまに酒を飲んでいる)いる相方がいなかった。不思議そうに首をかしげさやかは奥に入る。相方の気配は察知しているので、家の中にいるはずなのだが…。そうしてベッドの近くに来てさやかは「え?」と素っ頓狂な声をあげた。よく見ると、ベッドの傍で黒髪の美女が四つん這いになって床を覗き込んでいる。まるで猫の様に。
「ちょ、ちょっとあんた何してんのよ?」
ドタドタと駆けよるさやかを見て、黒髪の女性――暁美ほむらは顔をあげた。美しい容貌にどことなく苛立った表情を浮かべ、長い髪を掻きあげながらさやかに囁いた。
「あら、おかえりなさい早かったのね」
そうしてまた四つん這いのまま、ベッドの下へ頭を寄せた。まるで高級な猫の様に優雅な仕草で。だが、キャミソール姿のままでその体勢なものだから、さやかとしては目のやり場に困ってしまって。顔をやや紅潮させて視線を夜景の広がる窓の外へ向けた。妙齢の女性同士ではあるが、人外の力で身体の関係を結んでしまった手前こうなることは仕方のないことなのだろう。雑念を払うためか、何かぶつぶつと呟いて、そうして、しばらくして、はっ、と我に返り、さやかは相方の傍にしゃがんだ。
「ねえ、ちょっと、あんた何してんの?・・・・何か探してるの?」
その声に反応して、ほむらが顔をあげさやかを見つめた。そのアメジストの瞳になにやら不穏な輝きを感じて、さやかは嫌な予感がした。
「エロ本」
「え」
一瞬息が止まるかと思うほどさやかは驚いた。
「何…やっぱり身に覚えでもあるの?」
「いや、ち、違うわ!あんたの口からそんな言葉が出てくるのに驚いてるのよ」
「…それくらい知ってるわよ、子供じゃあるまいし」
やれやれと首を振って、ほむらはまたベッドの下へ頭を寄せる。そう、どうしても彼女はベッドの下を確かめずにはいられなかったのだ。だがさやかはどうしてもそれを止めたいらしく、ほむらの肩を掴んで揺さぶった。
「ねえ、そんなところに何にもないってば!てか、どうしたのよあんたいきなり」
何故こうもタイムリーに、幼馴染の弟と話した内容のことが起きるのだろう、そう思った矢先、その疑問は黒髪の美女の一言で解決した。
「まどかがそう言ったの」
――まどかから「弟の事で相談がある」と電話がかかってきたのは、ほんの数分前の事だった。
『どうしたの、まどか?タツヤ君と何かあったの?』
『うんそれがね…』
「――ベッドの下に?」
「ええ、掃除をしていたら偶然見つけたんだって」
――やっぱりタツヤ君隠してたんじゃない!
さやかが心で叫ぶ。やはり刑事の勘は当たっていたのだ。
「どうしようかって、まどか悩んでいたわ」
「そりゃあ、弟がそんなもの読んでいたんじゃショックでしょうね…まあ、仕方ないことなんだけどね」
「仕方ない?」
美しい眉をややあげて、ほむらがさやかを睨む。
「へ、そ、そんな睨まないでよ!だってそうでしょ、男の子なら当然じゃないの?」
「そう…貴方は擁護する側なのね、だとしたらやはり」
ほむらは人さし指をさやかの鼻先に向けると、囁いた。
「貴方も持っているわね」
「そんな!なんでそうなるのよ?え、だからベッドの下を探してるの?私がそんな本隠…」
だが、ほむらが言葉を遮る。
「貴方ならやりかねないわ、誰かれ構わず尻尾を振るもの」
「ひど!」
「悪魔の勘よ、ほら、どいて」
「なにそれ、わけわかんない…ひゃあ、やめてやめて!」
四つん這いのほむらの上にのしかかり、さやかがほむらを制止しようとする。
「何も無いなら、なんで貴方はそんなに慌てるの?」
「いや、慌てて無いわよ、だけど別にベッドの下を覗かなくたって…」
「へえ…逆に怪しいわね」
ニヤリと不敵に笑いながら、ベッドの下をほむらが覗き込むと、何やら黒い物体が見える。
「……何か奥の方に見えるわ」
「ゴ、ゴキブリよ、ゴキブリ触らない方が、痛!いたたたた!」
さやかの右腕をほむらが掴み、人外の力で握りしめる。とうとうさやかがほむらの身体を離した。あきれたといわんばかりにため息をついて、ほむらはベッドの下に手を入れる。
「…我が家にそんなものはいないわよ、…これ何かしら?」
悪魔の勘は外れていた。
ベッドの下から引き出したほむらの手に握られていたのは、手のひらサイズに収まる可愛らしいラップが施された箱で。
「………」
「あちゃあ…バレちゃったわ…」
観念したように額をおさえるさやかと、不思議そうに見上げるほむら。それに気付いて、今度はばつが悪いのか、さやかが困った様に微笑んだ。
「いや…その、来週でちょうどあんたと一緒に暮らしはじめてから9年目でしょ?驚かそうと思ってて」
「……それでベッドの下に?」
「ええ、まさかこのタイミングでバレるとは思わなかったわ、どう?エロ本じゃないでしょ?」
さやかはそう言うと、えへへとばつが悪そうに笑った。それを見て、ああそうだ、この人は少女趣味の持ち主だった、とほむらは思いだす。
「ほんと馬鹿ね…」
だが嬉しいことには変わりはない。サイドテーブルに小箱をおいて、ベッドの端に腰かけると、誘う様にほむらは蒼い髪の女性の腕を引っ張った――。
その後、二人がどうしたか、そうして少年は姉にどう弁明したかはまた別の話――。
END
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さやか名案が浮かぶ
さやかがタツヤの良き近所のお兄さん(笑)的な存在になっています…(なんと…)
悪魔の朝は遅い
日もだいぶ高くあがった頃、マンション最上階の広いベッドで睡眠を貪っていた家主は、ようやくその中でもぞもぞと動き出した。白いシーツの膨らみから、家主の頭と細い白い腕が現れる。
「ん…」
艶のある声を漏らしながら、むくり、と上半身を起こす。顔を隠すほど乱れた長い黒髪が、胸元にかかって。不機嫌そうに息を吐きながら、家主が優雅な仕草で髪を掻きわけると、これまた恐ろしいほど美しい顔が現れた。2、3度髪を梳いてからゆっくりとベッドから降りる。薄い白のキャミソールを一枚纏った肢体が陽光に照らされ、得も言われぬ色香を醸し出している。だが、幸か不幸かそれを見て顔を赤くする相方は今は仕事で不在だった。
「……」
まだ寝ぼけが取れていないのだろう、のろのろとふらつく足取りで彼女は窓辺のテーブルへ向かう。椅子に座ると気だるげに頬杖をついた。と、その視線がテーブルに注がれ、彼女――暁美ほむらの口元が綻ぶ。
――そこには可愛らしいラッピングが施された小箱
『いや…その来週でちょうどあんたと暮らしはじめて9年目でしょ?』
ベッドの下に相方が隠してあった「記念日」用の贈り物。本当にいつまで経っても少女趣味の持主だ、とほむらは思う。そうして脳裏に蒼い髪の相方のお間抜けな顔を思い浮かべ、これまた可笑しくてたまらないという様に微笑んだ。長い間一緒に生活を共にすると、拾ってきた犬にも情が湧くのだろう、飼い主の方は、もうだいぶほだされているようだが。箱を持ち上げると、細い指で愛しげに何度も箱を撫でた。「中味」を想像して、黒髪の美女は目を瞑る。まるで触覚だけで中味を探しあてるような、そんな指先の動き――と、携帯の着信音が軽やかに鳴った。
****************
当直明けの日というのは、意味もなく気分が高揚するものらしい。美樹さやかもご多分にもれず、何やら歌を口ずさみながら警察本部を後にした。だいぶやっかいな案件もまだ残っているが、「とりあえず帰れる時は帰る」と決めていた。これは元上司の初老の男の口癖でもあるのだが。まだ太陽も真上にある、久々の明るい時間の退庁だ。
「さてと、家に帰りますか…」
そう呟いて、ひとり嬉しそうにへらへらと笑う。どうにも妙齢の女性らしからぬ仕草が彼女には多かった。だがおそらくそこが彼女の魅力なのだろう。少なくとも「二人」そう思っている者もいる。野暮ったい黒のスーツの襟を正しながら、さやかはスーツの内ポケットに手を入れ携帯を出した。特に相方からの着信は無く、その代わり見覚えのある少年の名前の着信履歴が残っていた。
――「鹿目タツヤ」
ちょうど一時間前ほどに掛けてきたらしい。どうにもここ最近は頻繁にかかってくるな、と思いながらさやかは携帯を掛け直した。すぐに相手が出てきた。相当急いでいたらしい。
「あ、タツヤ君どうし…」
『さやか!ねえ、助けて、お願いがあるんだ』
何かに追われているかのような切羽詰まった少年の声に、さやかもさすがに驚く。
「どうしたの、大丈夫?何か事件に巻き込まれたの?」
『姉ちゃんが…』
*******************
『タツヤ君の部屋を捜索する?』
「う、うん…へ、変かな?そこまでするって…」
鹿目まどかは、携帯の向こう側にいる黒髪の友人に、弱云しい声で言葉を続けた。数日前から弟の事で悩みを相談しているのだが、思い切って実力行使に出ることにしたのだ。
『そんなことないわ、まどか、あなたは正しいことをしているのよ。私は応援しているわ』
携帯の向こうから艶のある声がまどかを応援する。いつもそう、黒髪の美貌の友人はいつもまどかの味方をしてくれる。それがとても心強かった。
「ありがとう、ほむらちゃん…」
『エロ本を見つけ出して、ケダモノ達の心を正すのでしょう?素敵だわ』
「ケダモノって…」
黒髪の友人は、浮世離れしている故か、時折ずれた発言をしてくる。まどかは困った様な表情を浮かべて。
「いや、タツヤはケダモノじゃないよ?それに達…って?」
達って、誰のことを指しているのだろう…?
だが、黒髪の友人はまどかを元気づけるためだろう、まどかの質問には答えず、何やら励ましの言葉を述べた。まどかにそんな思いをさせる本はこの世から全部抹消するとか、タツヤ君は一生辞書だけ読んでいればいいとか、とにかくどれもずれまくっていて。でも、それも全て自分を元気づけるための言葉だとまどかは知っていて、再び感謝の言葉を述べ笑みを浮かべた。友人の回答がずれまくっているが故に、まどかの心はむしろ楽になったらしい。
「あのね、ほむらちゃん、前にも言ったよね、タツヤがあんな本を読んでいたのが驚いたって…」
『ええ』
「男の子があんな本を読むっていうのは、わかっているんだけど…でもまともに読むのは初めてで、それをタツヤが読んでいるっていうのがなんだか受け入れられなくて」
『よっぽどショックだったのね、まどか…可哀想に』
「うん…きっと、タツヤは私の中ではまだ小さいままのタツヤで、大きくなってないんだろうなって…」
だから向き合うために彼女は弟にきちんと話しをしたのだという。ベッドの下から本を見つけたことも、だが問題はそこからで。
「でもタツヤはそんな本持ってないって、言い張るの…」
『嘘をついているのね…見え透いていても身を守ろうとするとそういう嘘をつくものよ』
「…そうなの?」
『そういうものよ、あの人もそうだもの』
「さやかちゃんも?…ほむらちゃんに嘘をつくの?」
『しょっちゅうね、タツヤ君よりひどいわよ、多い上にバレバレで、聞いている私の方が恥ずかしくなるくらい』
その軽妙な語りにまどかは吹き出した。――さやかの事を語る時は、生き生きと楽しそうに喋っているということを、彼女は気付いているのだろうか?
「そうなんだ…そういう時って、ほむらちゃん、さやかちゃんをどうするの?」
『そうねえ…床に這つくばせるか、あるいはお風呂に沈めるわ』
「嘘!」
普段おっとりしているまどかも、さすがに目を丸くし声をあげる。
「いや…冗談だよね?ほむらちゃん…それはさすがに」
『?いいえ、私は冗談なんて言わないわよ』
「そ…そう」
――傷害罪とかにならないだろうか?
まどかは蒼い髪の友人が不憫になった。
『大丈夫よまどか、あの人はそのくらいしないと反省しないんだから…ところでまどか』
「う、うん?」
『嘘をつかれたら、それを叱るのが身内の努めだと思うわ』
「……身内」
『ええ、誰かが叱ってやらないと、その人はずっと嘘をつき続けるわよ』
「……そうだね」
そうしてまどかは口元を緩めた。気が楽になったというのもあるが、黒髪の友人の言葉であることに気付いたのだ。
「フフフ…でもそれじゃあ、さやかちゃんはほむらちゃんにとっては身内なんだね?」
『………』
おそらく無自覚だったのだろう、まどかに指摘されてから携帯の向こう側から声がしなくなった。恐ろしいほどの美貌の持ち主が頬を染めているのを想像してまどかは目を細めふんわりと笑う。
「図星?」
『………いえ……全然違うわ』
ガタリ、と携帯の向こう側で音がした。相当動揺しているらしい。素直じゃないところは中学の頃から変わらないな、と思う。もちろんあの頃のほむらはどこか近寄りがたい感じがしたもので、まどかもそこまで彼女の内面を見つめていた訳では無かったが。
――今なら解る
そう、あれから10年経って、今なら不思議となんでも理解できる気がした。彼女と、そして蒼い髪の女性が何故しばらくの間まどかと距離を置いていたか、理由はわからないが、心の奥で納得している自分がいる。それに――
『まどかは私の嫁になるのだ――!』
無邪気に笑う蒼い髪の少女。さらさらと流れる髪に、空の様な瞳。何故かずっと前から彼女を知っていた様な記憶。傍にいるのが自然でまるで元々はひとつだったかのように。まどかは彼女の事が好きなのだ。当たり前の様に。そして――
『あなたは欲望よりも秩序を大切にしている?』
美しい黒髪の少女。近寄りがたく、でもどこか惹きつけられる謎めいた子。最初は怖くてたまらなかった。そして何故いつも視線が注がれているのかわからなかった。だが、今わかるのは、彼女がまどかを「想って」いてくれていること。
蒼い髪の少女と黒髪の少女は一緒に暮らしはじめ、成長し大人になった今も生活を共にしている。二人が一緒にいることが、まどかは何故か嬉しくて――ああ、私は二人とも好きなんだ、とそう思った。
『……まどか?』
「あ、ごめんほむらちゃん、ぼーっとしちゃって」
いつの間にか思考の波を漂っていたらしい、まどかは長く伸びた桃色の髪を無意識に梳きながら言葉を続けた。
「ありがとう…ほむらちゃん、なんだか気が楽になっちゃった」
『そう、それなら良かったわ』
それから二言、三言話して、まどかは携帯を切った。そうして学習机に桃色の携帯を置くと、「よし」と元気づけるように声を出し、トレーナーの袖をまくる。
弟のエロ本を探し出すために。
**********************
美樹さやかは呆れたような表情を浮かべた。
「まったく、タツヤ君てば、やっぱエロ本持ってたんじゃん!私に言わないなんて水くさいんだから」
少し怒った様な口調だが、その表情は優しい、いつもの様にへらへらと笑みを浮かべている。どうやら携帯の向こうの少年をからかっている様だ。
『ごめん…言いにくくて』
「まあ、確かに言いにくいけどさ…それで、まどかが見せろって?」
『ううん、俺、持ってないって言った』
「なんで!ダメよそこは嘘ついちゃ」
さすがにさやかも驚く。幼馴染の弟であるこの少年は素直でいい子のはずなのだから。
『悪いってわかってる…でもさ』
「でも?」
『姉ちゃんにあんな本見て欲しくない……』
「ああ…」
それはさやかもわかる気がした。職業上、彼女は性的犯罪に関わるあらゆるものを見てきているが、時折、もしこれを純真無垢な子供(例えばまどかの様な)が目撃したら、と想像してゾッとすることがある。さやかは眉を下げてため息をついた。
「タツヤ君も大変ね…」
そうなのだ、少年にとっては自然なことなのだから、責めることはできない。しかしその所為で姉が苦しむのを想像して、己を責める少年というのはまたさやかにとっても見ていて心苦しいものだ。
「で、今はどこにいるの?エロ本持って逃走中なの?」
『うん、家にあると見つかるからさ、とりあえず持ちだしたんだ』
あてもなくエロ本を持って彷徨う少年というのは滑稽でもあり、哀しくも有り。
「あちゃあ…そっか、どうにかできないかしらね」
『ねえ、さやか』
「ん?」
『俺、姉ちゃんに謝りたいんだけどさ、本は見られたくないんだ』
「そうだよね…」
『さやかは…』
「ん、何?」
『女の人の裸とか見たらどう思う?』
ぐは、と変な声をあげながら、さやかが咳き込んだ。往来に人は少ないとはいえ、いきなり横断歩道で咳き込む女性を数人が不審げに見つめた。周囲に気付き、さやかが小声で携帯に向かって叫ぶ。
「な、な…何言ってんのよ!」
信号が青になる。歩きだす人々。さやかもそこに紛れて歩き出す。
『いや…男が女の人の裸みたら興奮するっていうじゃん?女同士だったらどうなのかなって、もし…もしあの本見たら姉ちゃんどう思うかなって』
「そ、それは…」
瞬時に脳裏に黒髪の女性が浮かんだ。心の中で悲鳴をあげながらさやかは頭を振る。
――場合、場合による!今は興奮している場合じゃない!
『さやか?』
「な、なんでもないわ…ま、まあ時と場合に寄るけど…」
深呼吸をして、また携帯の向こう側の少年に言葉を続ける。
「私は仕事でそういうものをたくさん見ているから、あまりなんとも思わないわね…」
『…うわ、かっけえ』
少年が感嘆の声をあげるのを聞いて、さやかの心が少しだけ痛む。嘘はついていないが、見て興奮する相手は存在するのだ。
「でもまどかはあんまりというか、全然そういうのに免疫無いはずだから危険だわ」
『だよなあ…』
「どっか隠せないの?」
『無理、姉ちゃん、探すって言いだしたらもう聞かないから、家の中全部探すよ…』
「そっか…」
さやかは歩を止めた。次の交差点を越えたらマンションに着く。右へ数キロメートル行けば、いつもの公園。まどかの家にも近い。さやかは肩をすくめ、少年に話しかけた。
「ねえ、タツヤ君、今どこにいるの?」
『うん、今家の近くを歩いてるけど?どうして?』
「いい考えが浮かんだのよ」
さやかは飄々とした表情で笑みを浮かべた。
*************************
――帰りが遅い
ほむらはテーブルに細い指を立てて、コツコツと音を立てる。最初はリズム良く叩いていたが、次第に激しくなる。どうやらかなり苛立っている様子で。相方のスケジュールをほむらは全て記憶している。今日は当直明けで、業務は0830まで、しかし大抵は残務処理で退庁するのは1140頃、そして家に到着するのは平均して1310頃……ギロリ、とほむらは携帯の時刻表示を睨む。
1500
約2時間帰宅時間が遅い。
ほむらの脳裏で相方は蒼い犬に変換され、街中をへっ、へっ、と愛想良く走り回る。時には優しい老人に餌を振る舞われ、時には女子高生達に頭を撫でられ。
――ギリ、
ほむらの奥歯が鳴った。
「躾なきゃね…」
ドスのある低い声で呟いた。
ほんの少しだけ、悪魔は思いこみが激しいらしい。
*******************
本が見つからない――
まどかは弟のベッドの下を覗きながらため息をついた。そうしてゆっくり体を起こす。両手を腰にあて、ほんの少し途方に暮れた様な表情をしながら。長い桃色の髪を後ろに無造作に束ね、トレーナーにジーパンのラフな格好をした彼女は実年齢よりもかなり幼く見えた。あどけないが、愛らしいその容貌は悪魔いわく、「中学の頃から全く変わっていない」。
「…タツヤったら、一体どこに隠したんだろう?」
ストライプの模様の入ったベッドの布団には、野球やサッカーなどのスポーツ雑誌と少年漫画が無造作に置かれ、壁にはロック歌手のポスター、いたって普通の男の子の部屋だ。初めてこの部屋であの本を見た時の衝撃をまどかは忘れることができない。表紙を思い出し、まどかは頬を紅潮させ、己の頬を軽く叩く。
「ああ、もう…」
自分は潔癖症なのだろうか?表紙を見ただけで怖くなり、中は見なかった。いい年をして何も知らないという野暮な事は言わないが、どうにもその手の話にまどかは疎かった。そうして、思春期時代にそのことで散々赤毛の友人にからかわれたことを思い出した。男性が苦手という訳ではないが、その様な目で見られたりするといたたまれなくなる。ましてやエロ本だなんて…だが、そうも言ってられない、黒髪の友人の言っていた通り、弟を正さなければ――と、玄関から元気のいい少年の声。弟だ。
ドタドタと廊下を走る音が聞え、すぐに部屋のドアが勢いよく開いた。
「姉ちゃん!」
「わ、タツヤ、どうしたのそんな慌てて…」
だが、姉の言葉も聞かず、少年は勢いよくその場に座ると土下座した。
動揺する姉。
「姉ちゃんごめん!俺、俺さ…」
そう言って、途中で顔をタツヤはあげる。その顔は真剣そのもので、まどかも思わず弟の顔に魅入る。
「俺――」
タツヤは迷いなく言葉を続けた。
************
――これでよかったのだ。
ビニール袋を小脇に抱え、さやかは一人心で呟く。公園を出てから10分、もうあと少しで家に着く。さやかは仕事柄あまり大きなバッグを持たない。肩にひっかけられるような小さなリュックをしょいながら、ひょこひょこと軽快に歩いているが、今日は、珍しく荷物を持っていた。それはつい先ほど会った少年のものだったのだが…
『さやかが本を預かる?』
『そうよ、いい考えでしょ?』
つい先ほど公園で交わされた、さやかとタツヤの会話。
『で、でもさやかは大丈夫なの?』
『何言ってんの、2、3日台所の下かどっかに隠してるわよ、それよりタツヤ君は、いますぐ家に帰ってまどかに謝るのよ』
『う、うん…』
『そうして、こう言いなさい「本は友達にあげた」って』
『さやか…』
『嘘は言ってないでしょ?そうしたらまどかに本を見せなくて済むし、次から気を付けたらいいじゃない?』
『それと』
さやかはタツヤの眼前に人さし指をかざす。
『今度はうまく隠すのよ』
ありがとう、そう言って少年は無邪気に笑った。
――ふ、と思いだしてさやかは笑みを浮かべる。そうしてガサガサとビニール袋から表紙をちらりと覗き見ると、また笑った。仕事柄、この手の事に対してはかなりの免疫がついてしまった彼女にとって、表紙の女性の姿はまだまだ可愛らしいレベルのものらしい。
――まだまだ可愛いものよね、中学生の子が買いそうなもんだわ
だが、その後がまずかった、さやかは興味を持ったのか、袋から本を出してぱらりと表紙をめくる。垂れ気味な目が見開かれる。
――コア!
パタ、と本を閉じて慌てて周囲を見渡す。それほど内容はすごいもので。
――タツヤ君てば!
中学生の癖にこんなコアなものを!とさやかは心で叫ぶ。確かさっき友達からもらったと言ってたが、友達の兄あたりのものなのだろう、これは中学生が見るにはマニアックすぎる、ましてやまどかが見たら失神するレベルだ。さやかはまた周囲をきょろきょろと見る。マンションに近づいたこのあたりでエロ本を見ていることに気付かれたら、自分もなんて噂されるかわかったものじゃない。よくて欲求不満か、悪くて痴女だ。
「ああ、まずいわ、早く家に帰って隠さないと…」
だが彼女はわかっていなかった、家の中にこそ恐怖が待っているということに――。
続く
まさかの続き…
本当の恐怖はこれから…笑(何)
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ほむら本を読む
題名でお察しのとおりまったくもって名案ではなかったようで…(笑)
暁美ほむらは元来というか、環境の所為か人一倍読書好きである。それは、思春期の一時期特殊な(という言葉すら軽薄に思えるほどの)経験を得たのち、人外となった今でも変わらなかった。世界改変後、人の世に紛れ大学生として勉学に励んでいた頃など、文学書と専攻の化学書を中心に読み漁り、更には恩師の影響もあって、美術書なども読んだほどだ。卒業してからは、趣向も変わり、「飼い犬」との共同生活費用の不安解消のため、主に資産運用に関わる本を読み漁っているが、実際、かなりの成功を収めていた。
――だがしかし………
そんな彼女でもまったく読んだことのない未知の本があった。今、彼女はその表紙と対峙している。アメジストの瞳がどこの誰かもわからぬ水着の女を映し出す。震える手で表紙をめくると、彼女は驚愕で目を見開いた――
****************************
「いやあ、いいことした後って気持いいわねえ」
マンションのエレベーターに乗り込みながら、美樹さやかは一人呟いた。困った人のために何かしてやりたいというのは、生まれながら持っている彼女の性分なのだ。それをお節介と捉える者もいるが、彼女を知る人間は大抵その性分を好意的に受け取っていた。
「えへへ…」
エレベーターの壁にもたれながらさやかはニイ、と一人笑みを浮かべた。相当ご満悦らしい。先ほどマンションの入り口までは血相を変えて駆けこんだというのに。
「……よし、あとはこれをどこへ隠すかよね」
抱きかかえるようにして持っているビニール袋。
――やはり台所の下かしら?
玄関から台所までの空間がエロ本を隠すにはベストだ、とさやかは確信していた。エレベーターが最上階に到着し、軽快な音が鳴ると、よし、と頷いて、さ威勢よくさやかはエレベーターから降りた。
*********************
「………」
窓辺のテーブルで、頬杖をつきながら悪魔は外を眺めていた。長い黒髪を時折もう片方の手で梳いて、眠たそうに目を瞑る。
「まったくあの犬は…」
しばらくして、一人呟くと艶のある唇を噛んだ。妙齢の美しいこの女性は、長年一緒に住んでいる蒼い髪の相方を思い浮かべては怒りに燃えているらしく。再び、トントンと指でテーブルを叩いた。時を司る能力を保有している故か、それとも元々の性質なのか、彼女は分刻みでスケジュールに拘る傾向があった。
だがそれが大抵、蒼い髪の女性のスケジュールだということには本人も無自覚で。ただただ彼女は一心に蒼い髪の女性のことを考えていた。それは10年前にはまったく予想されていなかった光景で。
ガチャ……ガチャガチャ…
ドアを開ける音がした。ほんの少しだけいつもより小さい、とほむらは思った。そして猫の様に目を細めながら優雅な仕草でテーブルから立ち上がる。
「さやか?」
腰に手をあてながら、誰何する。もちろん侵入者は相方以外ありえないのだが、彼女は相方の返答が欲しかったのだ。だがレスポンスが全く無い。眉を顰め、美しい顔に苛立ちを浮かべながら、ほむらは息を吐く。そうしてキャミソール一枚の格好のまま玄関に向かう。
「ちょっと、今まで何して…」
言葉を途切れさせて、ほむらが怪訝そうな表情を浮かべた。
玄関から入って、すぐ横が台所だが、なぜか相方がそこにしゃがんでいたのだ。
「……?」
相方は野暮ったい黒のスーツを着たまま、こそこそとキッチンのキャビネットを開けていた。こっちに背中を向けており、まったくほむらに気付いてないようだ。
――お腹でもすいたのかしら?
細身だがしっかりとした体躯の相方の後ろ姿を見つめながら、ほむらはぼんやりと母親の様に思った。そうして、何か思いついたのか、ニイ、と子供っぽい笑みを浮かべ、こそこそと相方に近づくと、その後頭部に顔を近づけて囁いた。
「……何してるの?」
「きゃあ!」
漫画の様なリアクションで、蒼い髪の女性が飛び跳ねた。慌ててほむらの方に顔をむけたと同時にキャビネットが閉まり、器用にも女性の左手を挟む。
「痛あ!」
悶えながら、美樹さやかはよろよろとスラロームして冷蔵庫にぶつかった。お腹をおさえ肩を震わせる黒髪の美女。それを見て、「ひど!」と叫ぶさやか、だがその目は涙目で。ほむらは顔をあげ、そんな情けない犬の顔を面白そうに見つめる。そうして、よほど愉快なのだろう、ほむらはくすくすと笑って。冷蔵庫にもたれているさやかに近づくと、手を伸ばし、からかうようにその肩を人さし指でちょんちょん、とつついた。
「お間抜けなワンコさん、お帰りなさい?」
「た、ただいま…って、私ワンコじゃないわよ!」
左手をおさえながら、涙目でほむらに言いかえすさやか。ほむらはニヤニヤと面白そうにそんな相方を見つめ返す。どうやら、相方に起きたアクシデントのおかげで溜飲が下がったらしい、ほむらの機嫌はすっかり良くなっていた。と、さやかの顔が急に紅潮する。不思議そうな表情を浮かべるほむら。
「?…何」
「い、いや、なんでこんな時間なのにキャミソールなのよ」
どうやらほむらの格好をようやく認識したらしい。同性同士ではあるが、既に二人は身体を重ねていた。その関係上、このようにさやかが動揺するのも無理も無いことだった。一方黒髪の美女の方はあまり気にしてないようであるが。
「あら、貴方が非番の日は私いつもこの格好で待ってるけど?」
どこか挑発するようにほむらが口元を歪めた。言外の意味に更に顔を赤らめるさやか。ほむらは更にさやかに近づくと囁いた。冷蔵庫と黒髪の美女に挟まれ身動きがとれなくなるさやか。
「ところで今まで何してたの?」
機嫌が良くなることと、詮索は別らしい。ほむらの質問に、さやかは一瞬、言葉を詰まらせて。
「こ、公園で散歩してたのよ…」
「ふうん…」
目を猫の様に細めるほむら。ほむらに詰め寄られて動揺するさやか。
「ほ、本当よ、公園に行ったのは本当だってば」
「「行ったのは」?…やっぱり貴方何か隠してるわね」
「ま、まさかそんなことな…」
「じゃあさっき何隠してたの?」
変な声をあげて、さやかが言葉を詰まらせた。ああ、なんてわかりやすい人だろうとほむらは呆れながらも思う。だってその視線はしっかりと先ほど彼女がしゃがんでいたキャビネットの方にあって。はああ、とほむらがやけに長いため息をついた。白い手をさやかの顔に伸ばし、その頬を軽くぺちぺちと叩く。
「貴方、刑事に向いてないわよ?わかりやすすぎ」
そう囁いて、さやかから身体を離すと、ほむらはキャビネットへ向かう。
「あ、ちょっと!」
さやかが慌てて相方の華奢な背中に抱きついた。か細い悲鳴をあげるほむら。
「何するのよ…」
「あそこには何も入ってないってば!」
「何も入ってないって…何よそれ」
本当にこの人は犬の様だ。必死に背後から縋りつく相方の体の質感を感じながらほむらは失笑した。力を使わなければ、到底背後の蒼い髪の女性の力強い拘束を解ける訳は無いが、面白がって、ほむらは二三度、身体をよじってみる。
それははたから見れば、大人の女性二人が台所で抱き合い、じゃれ合っているようにも見えて――。
「全く…離しなさい」
相方に羽交い締めにされながら、ほむらはパン、と両手を合わせた。わあ、と変な悲鳴をあげながらさやかが宙に浮き、冷蔵庫にまたぶつかる。その様子を見て、肩をすくめながらほむらはキャビネットを開けた――。
* * * * * *
――や、やばい!
さやかは心で叫んだ。ほむらはキャビネットを開けたまま、「?」と猫の様に不思議そうに首を傾けている。どうやら調理器具以外のものが入っていることに気付いたのだろう。手を伸ばし、ガサガサと音を立てながらその問題の「ブツ」を取りだした。
「何これ…」
ほむらは躊躇なくビニール袋から本を取りだした。そうして直立不動のまま、固まった。血の気が引くさやか。ようやくほむらが顔だけ動かして相方の方を向く。その口元がどことなくひきつっていて。
「ねえ…さやか、この本は何?」
「あ、それりょ、旅行!旅行雑誌よそれ!だから返して…」
「旅行?これが?」
アメジストの瞳が表紙を映し出す。確かに青い海と青い空、白い砂浜と南国を思わせる風景だ。だがしかし、そこに豊満な肢体の女性がやけにサイズの小さい水着を着てしかもこちらに向かって体育座りする旅行雑誌などあるだろうか?相方が必死になにやらわめいているのを無視して、ほむらは震える手で表紙をめくった。
――ジーザス!
さやかは頭をおさえた。まどかもそうだが、ほむらもこの手の本にはまったく免疫が無いはずだ。キャパだってあるかどうか…いや無いに違いない。案の定というか、ほむらは表紙をめくった後、さきほどと同じ直立不動の状態でフリーズしていた。もはや見守るしかないさやか。しばらくして身体を動かすことに成功したほむらが、パラパラ、と細い指で本をめくっていく。数分ほどして、本をめくり終えたほむらの艶のある唇からため息が漏れた。それは非常に長いため息で。黒髪をカリカリと乱暴に掻き、「情けないわ」と呟いてさやかの方へ顔を向けた。その目には殺気が含まれていて。さやかはまるで自分自身が魔獣になった気分になる。
「………」
何も言わずにほむらが人さし指をさやかに向けて、上向きに動かす。「こっちにこい」のジェスチャーだ。ひょこひょことさやかがほむらに近づくと、今度は掌を向けられた。「待て」の合図だ。今度は人さし指を床に向けて指す。ほむらがドスの効いた声で囁く。
「おすわり」
「え、なんでよ」
「お・す・わ・り」
――こ、殺される!
さやかは粛々と床に座った。反抗したって無駄だと身を持って体験していたし、何よりお仕置きが怖いというのもある。ふと、バレンタインデーに床に座らされた事があったなとさやかは思いだした。
「いい態度ね」
さやかがしょぼくれた犬さながら座りこむ姿を冷たい目で見下ろしながら、ほむらは近くにあったキッチンチェアを引き寄せ座った。足を組み、白い素足が露わになる。本を手にし、さやかに尋問を開始した。
「これはいわゆるエロ本というやつよね」
「……え、ええそうよ」
「貴方はこういう本を読んで、どんな利益を得ようとしているの?」
「へ?り、利益って私まだその本読んでな――」
「黙りなさい、このけだもの!」
バン、とキッチンのカウンターをほむらが叩く。その目は怒りに燃えていて。
――そ、相当怒ってるじゃない!てかけだものってなんなのよ!
さやかは震撼した。とにかく黒髪の相方は相当怒っている。おそらく今まで見た事の無い欲望の世界を垣間見たためだろう。そうしてその本を相方が隠れて読んでいたということに対しても怒りを感じているのだ。もちろん後者は誤解なのだが。
「本はね、必要な者が必要な情報を得るために読むのよ、貴方がこの本を買って読もうとしたのなら、貴方はこの情報を欲していたんだわ、その理由は何?」
「いや、ご、誤解よ誤解!私その本買ってないし、なんでそんな情報…」
バサ、とさやかの眼前に本がひろげられ、言葉が遮られる。
――コア!
それは本の真ん中あたりのページで。目が点になるさやか。ようやく本が離れ、黒髪の美女と目が合う。恐ろしいほど美しい容貌の頬が微かだが紅潮していて。珍しい、とさやかは思った。
「……貴方まさか、私をこんな風にしたいとでも思ってるの?」
「ば、馬鹿!何言ってるのよ、は、恥ずかしいじゃない!なんで私がこういう風にあんたを縛…」
パコン、と派手な音を立てて、さやかの頭をほむらが折りたたんだエロ本で叩く。そうして悪寒を感じたかの様にほむらは両手で己の身体を抱く。
「…気持悪い」
「ひど!てか誤解、あいた!あいた!」
ポコン、ポコン、とまたエロ本で頭を叩かれて、さやかはしゅん、とおとなしくなる。
「…教則本」
「へ?」
「これは実用本というより教則本に近いのよね」
再びほむらはエロ本をさやかに向けてひろげる。
「表紙から32ページまでが、貴方みたいなけだものの行いたい項目が写真入りで記載されているわ、…そして中盤までがその項目の体験談、あるいは説明、そうして後半がそれに必要な道――」
「きゃあ、やめてやめて!わかったわ」
「私は説明をしているだけよ」
「いや、あんたが説明すると、申し訳ない気持になるのよ、なんでか」
「申し訳ないですって?」
ほむらが再びその美貌に怒りを滲ませる。
「こんないかがわしい本を購入して、私をこんな風に弄びたいと思ってるけだものに言われたくないわ」
「ご、誤解よ!それすごい誤解!」
「いいえ、決まりよ」
呟きながら、ゆらり、とほむらは立ち上がった。その殺気にさやかは後ずさる。
「わ、ちょ、ちょっとあんたまさか」
「お仕置きよ」
白い手が台所の引き出しに伸びて、さやかはぎょっとする。そこから取りだされたのはキッチンナイフだ。
「ちょ…」
「飼い犬の不始末は飼い主が片づけるわ…」
まるで冗談の様だが、本気だ、とさやかは悟った。いつも本気か冗談かわからない相方だが、その怒りに燃えている目で本気とわかる。防御の姿勢で相手を刺激させないレベルのスピードでさやかは立ち上がった。
「ちょ、ちょっと待って、ほむら、それお仕置きじゃなくて殺人…」
「貴方なら回復魔法で大丈夫でしょ?少しくらい痛い目みなさいよ」
一見愛憎のもつれの様だが、内容はかなり過激で。台所で二人は間合いを取りながら対峙する。彼女達は二人とも未だ気付いていなかった。長い同棲生活の中で、次第に喧嘩の質が変化していることに。
「ねえ、ほむら、誤解よ、私この本読んでいないのよ」
「じゃあなんでここにあるのよ」
「と、友達。友達から貰ったのよ!」
「友達ですって?貴方友達いたの?」
「ひど!い、いるわよそれくらい!」
「誰よ?」
「言えない!」
「隠した理由は?」
「それも言えな…わあ!」
ほむらが突進してきて、さやかが声をあげた。間一髪ほむらの突進を避けて、さやかはそのまま台所から出て部屋へ駆けこむ。追いかけるほむら。さやかがベッドを飛び越えてその後ろに隠れた。
「観念なさい…このけだもの」
「けだものじゃないわ!美樹さやかよ!」
と、さやかが叫んだと同時にほむらの携帯の着信音が鳴った。
「…運がいいわね」
ちっ、と舌打ちし、ほむらが携帯を置いたテーブルに向かう。画面を見た途端、ほむらは素早く携帯を取り、耳にあてた。
「まどか?」
――まどか、サンキュー!
さやかは心で幼馴染に感謝した。今のほむらの怒りはまどかでないと収められない気がしたからだ。
* * * * *
「あ、ほむらちゃん?」
まどかはさも嬉しそうに声をあげた。
『まどか、どうしたの?』
「うん、実はね、タツヤの件解決したの、だからお礼を言おうと思って…?どうしたのほむらちゃん大丈夫?」
『え?』
「何か、息が荒いから」
『あ、ああそうね…ちょっと「運動」してたのよ』
「そうなんだ」
元々身体の弱い友人がどんな運動をしていたかまどかは少し気になった。だが、それよりも弟のエロ本の件が解決したことが何より嬉しくて。
「タツヤね、私にちゃんと謝ってくれたの。嘘をついていた事と、エロ本を持っていたこと。」
『そう、ちゃんと更生したのね、それでエロ本はどうしたの?あんなけだものが読むような本は処分した方がいいわよ』
「もう、フフフ…ほむらちゃんたら、けだものは言いすぎだよ?それにね、タツヤ、エロ本は友達にあげたんだって」
『友達?』
「うん、だからもう無いって…私、もうそれで許しちゃおうかなって…ちゃんと謝ってくれたし、男の子だからエロ本は仕方ないし」
『あなたは優しいのね、まどか…』
「ううん、ほむらちゃんが話しを聞いてくれたからだよ、私一人だったら、やっぱりずっと悶々してて許せなかったと思うし…ありがとうほむらちゃん」
**************
それから一言二言話してほむらは携帯を切った。
――本当に、うちの犬はお間抜けだわ
そう心で呟いて、ほむらは呆れたようにベッドの向こうへ視線を向けた。そこにまるで怒られた犬が主人の様子を伺う様に、さやかがベッドの縁から顔だけ出してほむらの様子を覗き見している。
ふ、とほむらは吹き出した。テーブルにキッチンナイフを置く。
「ほら、おいで、もう怒ってないわ」
「……本当に?油断させていきなり刺さないでよね」
おそるおそるさやかがベッドから立ち上がる。黒のスーツがすでによれよれで。
近づいたさやかの腕に手を添えて、呆れたようにほむらが言った。
「友達って…タツヤ君?」
「内緒よ」
とうとうほむらは笑いだす。本当に嘘のヘタな人だ――。
「まあ、いいわ、これからはもう少しましな所に隠しなさい」
「…そうするわ、てか隠している時点で見られてるんだからお間抜けよね」
「あら、自分で言うのね?」
「ひど!」
そうして、二人笑い合う。しばらくして、やや垂れ気味な目をほむらに向けてさやかは囁いた。その顔はどこか申し訳なさそうな情けない表情で。
「でも、あんな本を読ませたのは…悪かったわね、ごめん」
「15ページ」
「へ?」
ほむらがさやかに身を寄せて、その肩に顔を埋めた。
「あの内容くらいなら大丈夫…」
「そ、そう…」
さやかは顔を赤らめた。ほむらの方はさやかの肩に顔を埋めているのでわからないが、同じ様に赤いのだろう。それからしばらくして、さやかはややぎこちなく華奢なほむらの身体を抱きしめた。
それから二人ではじめた15ページの内容についてはまた別の話。
END
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さやか労わってみる
ほむらが目を覚ました時には、すでに蒼い髪の相方はベッドを抜け出していた。相方の寝ていた所に手を這わせながら、ゆっくりとほむらはシーツから頭を出した。長い黒髪が乱れ、美しい顔にまとわりついた。
「おはよう、ほむら」
「……もう起きてたの?」
眩しそうに目を細めながら、ほむらはテーブルの傍に立っている相方に声をかける。
「うん、なんだか目が覚めちゃって…」
ほむらはまだ眠たそうだ。美しい顔をしかめながら、上体を起こす。キャミソール一枚で覆われた肢体が露わになった。
「コーヒー飲む?」
蒼い髪の相方が、カップにコーヒーを注ぐと同時にいい香りが広がった。思わず、うっとりとほむらは目を瞑る。
「頂くわ…」
そうして、美しい悪魔はベッドを降りた。
* * * *
「おかわりは?」
「もういいわ」
ソファに腰掛けながら、二人はコーヒーを飲んでいた。互いに肩を並べて外の景色を眺めながら。蒼い髪の相方の気配りを不思議に思ったのか、ほむらが景色を眺めながら囁いた。
「ねえ、貴方何か優しすぎない?」
「へ?や、優しいって?別に普通よ?」
「そう?」
視線を景色から、蒼い髪の相方へ移すと、ほむらは口元を緩めた。まるで挑発するような笑顔。ワンテンポ置いて、その艶のある唇が動いた。
「浮気?」
ふご、と変な声をあげながら、蒼い髪の女性が咳き込んだ。手で口をおさえ、コーヒーをこぼすまいと必死なその様子に、ほむらは肩を震わせ笑う。ソファでしばらく咳き込む声と笑い声が続いた。ようやく静まったころ、涙目で蒼い髪の相方――美樹さやかはほむらを睨んだ。白いワイシャツにはコーヒーの染み。
「ちょっとぉ…あんたが変なこと言うから」
「あら、だってテレビで見たんだもの」
「え?」
得意げに人さし指を唇にあてて、ほむらは囁いた。
「浮気の後の夫は優しいって…」
「どんな番組よ!」
どうにも、最近悪魔は変なテレビ番組を見るようになった、これもさやかの出張が増えたからだろうか。さすがに身に覚えの無いさやかでも弁明しようという気になったらしい、こほん、と咳払いして説明をはじめた。
「いや…あんたがこの前膝枕してくれたじゃない?だから今度は…」
「貴方が膝枕してくれるの?」
「う、うん、それでもいいし、お礼をしようと思ってさ…なんでもいいわよ?」
どうやら、この前の「労わり」のお礼なのだとほむらも気付き、肩をすくめた。
「別に気にしなくてもいいのに…」
「い、いや、だって私だけ労わってもらってさ、私もあんたにしたいじゃない?」
「そうなの?」
「そうよ」
相方はそういうものなのだと、珍しく忠犬に言いくるめられて、ついつい悪魔は頷いた。
「仕方ないわねえ、それなら………何がいいかしら?」
うまく浮かばない。ほむらは唇に人さし指をあてながら、珍しく考え込んだ。
「じゃ、じゃあさ、肩でも揉もうか?」
さやかは立ち上がり、ほむらの背後に立った。
「肩?私、肩なんて凝ったことないわよ?」
「う、ま、まああんたが何か思い浮かぶまで、しておくわ」
「そう?」
華奢なほむらの肩にさやかが手を置く。そうしてゆっくりと揉み始めた。
「んっ…」
ほむらの艶のある唇から、呻き声が漏れる。さやかの手が強いのか、少しだけ上体が前のめりになる。
「え、つ、強すぎる?」
「……なんだか、痛いわ、変な感じ…あっ」
「へ、変な声あげないでよ!私も変な気分になるじゃない!」
「あら…なあに朝から?」
妖艶な笑みを浮かべながら、ほむらがさやかの方へ振り向いた。う、と言葉を詰まらせるさやかを見て、くすくすと楽しそうに笑いだす。
「そっちの方がいいかしら?」
「…う、うん…いや、だ、だめよ!」
顔を赤くして、ぶんぶんと頭を振る相方に、とうとうほむらは吹き出した。
「ほんと、しょうがない人……」
そうして背後の相方を見上げながら手を伸ばす。手はさやかの頬をゆっくりと撫でて。顔を赤くしながら見下ろすさやか。
「おいで」
飼い主がそう囁くと、忠犬はすぐさま顔を飼い主と重ねた。その激しい様は、まるで長い間お預けをくらっていた犬のようで。くすくすと、時折主人は嬉しそうに笑いを漏らす。
そうして、蒼い髪の相方が背後から華奢な悪魔を強く抱きしめた。声を漏らしながら、ほむらは目を閉じた。
それからソファの上でしばらくお互いを「労わりあう」のはまた別の話。
END
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可愛いひと
見滝原中学校の通学路を鹿目まどかは数年ぶりに歩いていた。出会ってからもう10年も経つ友人と共に。なんだか不思議なものだ、と思う、こんなに歳月が経っていることが。
「もうあれから10年経つんだね」
「そうね……」
すぐ隣から艶のある声。まどかはそっと声の主へ視線を向けた。
自分よりほんの少しだけ背の高い黒髪の女性。さらりと流れる様な艶のある長い黒髪、端麗でそれでいて儚げな横顔。物思いにふけっているのか、目を閉じている彼女はまるでこの世の者では無いかのようで。とにかく……美しかった。
‐‐どうして世の男性は彼女に言い寄らないのだろう?と秘かにまどかは思っているが、もちろん当の本人にそれを伝えたことはない。そしてその当の本人は、何を思ったのか、目を開いて、通学路の傍にある小川を見つめ、くすりと笑った。その小川は通学路と平行にまっすぐに見滝原中学校と、向かっている。黒髪の女性は小川の向こう側へ視線を向ける。
「…懐かしいわね」
「え?」
「…なんでもないわ」
黒髪の美しい女性――暁美ほむらは、まどかの方へ顔を向けて笑った。
と、学校のチャイムが鳴り響いた。二人同時に顔を校舎の方へ向ける。
「もう授業が終わるのね」
「うん、遅いなあ、さやかちゃん…」
「あの人は置いていく?」
「それはひどいよほむらちゃん」
まどかが苦笑した。この黒髪の女性は、共通の友人である蒼い髪の女性をやたらとじゃけんに扱う。もう長い間一緒に暮らしているというのに。
今日は久しぶりに三人で食事でも行こうかと待ち合わせていたのだが、相変わらずというか蒼い髪の女性が遅れていた。刑事になるとなかなか定時には帰れないものだ。
「もう少し待っていようよ?」
「そうね、まどかがそう言うなら…仕方ないわね」
そうして二人、なんとなく桜へ視線を向ける。桃色の花弁が舞い、吸い込まれていきそうなほど美しい空間が生まれていた。わあ、とまどかが感嘆の声をあげる。
「綺麗…」
「……」
黒髪の女性はただ黙ってその空間を見つめている。見惚れているのかと思ったが、どうにもその顔には何も感情が現れていないので、まどかは不思議そうに尋ねた。
「どうしたの、ほむらちゃん?綺麗に…見えない?」
幼稚園の先生になったまどかは、どうしても人の心に入りこもうとする癖がついていた。この子は今どう思っているのか、他の子と同じく楽しんでいるか、など、そしてついつい、友人にも同じように尋ねてしまった。ほむらはその言葉にワンテンポ遅れて回答する。
「……いえ、まどかが綺麗と思うなら、私もそう思うわ」
「ほむらちゃん…」
どうにも謎めいた人だ、とまどかは思う。感情はあるはずなのだが、押し殺しているような、あるいはどこかに置いて忘れていったかのような。だが、自分に好意を持っていてくれているのは高校時代から薄々わかるようになっていた。(それがどのレベルのものなのかまではわからないが)思いなおしたようにまどかは笑って、わざとおどけて喋る。
「じゃあ、私が可愛いと思ったものも、ほむらちゃんは可愛く見える?」
「ええ、そうね…あなたが可愛いと思うものならなんでも」
「モカも?」
「もちろんよ、可愛いわ」
モカとはまどかの飼っている大型犬である。それからまどかはまるで園児に語りかけるように、私の弟は?あの鳥は?と色々と質問する。それら全てにほむらは「可愛いわ」と肯定して。そう…とまどかは質問を終えようとした。その時。
「あ、いたいた!ごめ-――ん、仕事がなかなか終わらなくってさ」
ちょうど、小川の向こう側から、スーツ姿の蒼い髪の女性が現れた。とても小さな橋をひょい、と軽やかに飛び越えてこちらへ駆けてくる。美樹さやかだ。何かを思いついたように、まどかは笑顔を浮かべ、ほむらに囁いた。
「ねえ、さやかちゃんは?」
-私は可愛いと思うけど?と付け足したその質問に、ほむらはほんの一瞬だが、さも嫌そうな表情を浮かべた。それがとても人間らしくて、まどかは吹き出した。そうしてほむらは口を閉ざして、じい、と近づいてきた蒼い髪の女性を睨む。当の本人は走って来たので息が切れたようだ。
「やあ、ごめん、ごめん、まどか待った?」
「ううん、大丈夫、さやかちゃんはお仕事は無事に終わったの?」
「どうにかね?」
まどかに囁いたあと、さやかは黒髪の女性に視線を向けて、ごめんと小さく謝り、肩をすくめる。だがほむらの方は返事をせず、ただ、さやかをじい・・・と上目使いで見つめるばかり。
「な、何よ、あんたもしかして怒ってんの?」
肩をすくめ、さやかはほむらを見つめる。しばらく見つめあった後、はあ、とため息をついたのはほむらの方で。
「…不思議だわ」
「え?」
「何?」
ほむらはさやかを再び睨み、囁いた。
「…可愛くみえない」
「はあ?」
さやかの素っ頓狂な声、吹き出すまどか。
「ちょっと、あんたいきなり失…」
「いくわよ、ほら」
おいで、とまるで犬を手元に引き寄せる様に、くい、とほむらはさやかの袖を掴んで引っ張った。そうして三人は歩き出す。
ああ、やはりこの二人は可愛い、そうまどかは思うのだ。
END
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ほむら振り返ってみる
「大分昔のことだけどね」
暁美ほむらのその口癖は直る様子はなかった。またか、と美樹さやかは思う。この10年間でこの黒髪の女性は何回「大分昔」と呟いたのだろうかと。
「……1万回くらい?」
「……?なんのこと?」
「いや…別に、ところであんたのその「大分昔」って…つまりあのことでしょ?」
「あのって?」
えーと、と呟きながら、ようやく「周回」という言葉がさやかの口からでた。ああ、とほむらもほむらで肩をすくめて、そうよ、と囁く。黒髪の女性の保有能力である時間遡行は、当の本人を果てしのない因果の旅へと何度も何度も誘った訳だが、成人した今ではそれもまたたいしたことではなかったようで。「円環の理」や「魔女」などのキーワードも今では「あっち」「あれ」などの単語で事足りていた。ただ「魔女」というキーワードだけは二人共特別な思い入れはあるようだが。
「貴方にとっては――」
ほむらは細い指先をさやかの胸元へ向けながらくるくると円を描く。さやかは怪訝そうに指の主に視線を向けるが、小首をかしげ、こちらを面白そうに見ている黒髪の美女と目が合うと慌てて目を逸らした。
「一瞬でも、私にとっては………ってどうしたの?」
今度はほむらがけげんそうに蒼い髪の女性を見つめる番になった。隣で肩を並べて酒を飲んでいる「相方」が不自然なほど顔をそむけるのだから仕方がない。
「さやか?」
不思議そうにほむらは身を乗り出して、相方の顔を覗き込もうとする。互いにくつろいだ格好でソファに座って語らいでいたものだから、距離感は無いもの同然で。薄着のほむらの白い肌がさやかの肌に接触した途端、ひゃあ、とさやかが変な声をあげ、ようやくほむらは相方がどんな状況なのか理解した。
「…貴方ってほんとわかりやすいわね…」
紅潮した蒼い髪の女性の顔を見つめながら、ほむらはくすくすと肩を揺らした。そういえば昨晩から相方の身体を「改造」したまま解除していなかったことを思い出す。
「悪かったわね…てかあんたが」
「私が?何?」
ほむらは身をかがめて目の前のテーブルに置いてある自分のグラスを手に取った。琥珀色の液体が満ちたグラスからカラン、と乾いた音がした。ゆっくりと口元に運ぶとちろりと赤い舌を出して、液体を舐める。蒼い髪の女性が息を飲む音がして、ほむらは目だけそちらに向けながら液体を喉を鳴らして飲み始めた。
「……それエッロ…」
思わずさやかは呟いた。ほむらはグラスを置いてはあ、と一息ついた後、口を歪めて囁いた。
「変態」
「何よそれ!」
ほむらはさも楽しそうに笑った。珍しいことだが、酒が入ると悪魔はほんの少しだけ陽気になるのだ。さやかはその笑顔に何も言えなくなったのか、身をかがめ、ボトルに手を伸ばし、ほむらのグラスに液体を注ぐと自分のグラスにも注いだ。
20歳を超えてから、二人は酒を飲むようになった。それは大学のコンパだったり、ゼミの飲み会が発端だったりするのだが、二人にとってこの液体はおおいなる癒しとなったらしく、それから数年経った今では二人で語らう時の必需品として生活の一部となってしまっていた。こうして二人「ひとつ」になった後、眠れなくて語り合う時も同様に。
「本当にうちの犬は、困った子だわ」
「ちょっと、言うに事欠いて…」
あんた私の飼い主なの?というさやかの突っ込みと同時に、ほむらはからかうように左手をひらひらと振りながら、ちろりと舌を出す。既に妙齢の美しい女性に成長したというのに、その仕草はまるで少女の様で。
「むかつくわ!」
擬態語なのか擬音語なのか、よくわからない音を口から発しながら、さやかは立ち上がり、左手を腰にあて、右手を宙で半回転させる。どうやら悪魔相手に戦うテレビのヒーローもどきを演じているようだ。こちらはもはや子供の様で。
「あら、やる気?」
ほむらは不敵な表情を浮かべ、アイスピックを構え立ちあがった。
―――二人とも少し酔っていた。
しばし、ソファの周囲で大の大人二人がじゃれあう情景が展開される。だがそれを見ているのは、彼女達のマンションの窓にうつる蒼い半月だけで。もし桃色の髪の女性が見ていたならば、それはそれは嬉しそうに微笑んでいたかもしれないが。
「ちょっと!ちょっと待って!降参!降参よ!」
「…あら甘いわねおまわりさん、凶器を持った女性くらい捕まえられないの?」
「いや、てかっ!あんたアイスピック扱いうますぎよ、何よその俊敏さ!」
さやかのコミカルな挙動についほむらは吹き出して、アイスピックをテーブルに置くと、ふう、とソファに座った。それにつられさやかも息を吐きながら隣に座る。その肩にことん、と頭をのせ、ほむらは「疲れたわ」と囁いた。さやかはこくりと頷くと、窓の外を見る。蒼い半分の月がこちらを見下ろしていた。
「……綺麗ね」
「そうね、あの月ももう見慣れちゃったわね」
ほむらの囁きにさやかは答える。半分に欠けた月を認識できるのは、この世界でたった二人だけ。暁美ほむらと美樹さやか。ほむらが世界を変えてからもう10年になる。
「…なんだか10年ってあっという間だわ」
「そんなものよ10年なんて」
ほむらの呟きに、さやかは垂れ気味の目を向けた。恐ろしいほどの美貌にはどこか翳りが浮かんでいて。
「…どうしたのさ?浮かない顔して」
「別に」
拗ねたような口調でほむらは答える。ついでにその唇も子供の様にやや尖っていて、さやかはつい口元を緩めた。この黒髪の美女は時折こうした子供っぽい仕草を見せる。実はそれがさやかには嬉しくて。さやかはほむらの肩に手を伸ばした。
「…中学の頃のあんたみたいね、その顔」
そうして艶のあるほむらの黒髪を撫でた。元々さやかは手先が不器用なのだろう、優しく撫でているつもりだろうが、実際はほむらの髪をくしゃくしゃにしていた。思わず悪魔はお間抜けな相方を睨んで。
「ちょっと…もう少し丁寧に扱ってくれないかしら」
「ああ、ごめん私って意外と不器用なんだわ」
「意外って…自分で言うもの?」
半ばあきれたようにそして半ば可笑しそうにほむらは笑う。
「貴方って、全然変わらないわね、さやか」
「そう?結構成長したと思うけど」
蒼い髪の女性は肩をすくめて、黒髪の女性を見つめる。
「まあ…そうね」
ほむらはまだ自分の頭を撫で続けている生意気な飼い犬を見上げた。
おっとりとしたお間抜けな垂れ気味の目は10年前と変わらない。変わったのは髪の毛が少しだけ伸びたのと、成長して引き締まった顔立ち、そして背。はあ、とため息をつきながら、ほむらは手を伸ばした。
「え、何?」
きょとん、とこちらを見る蒼い瞳を無視して、ほむらはその瞳と同じ色をした頭をぽん、ぽん、と軽く叩いた。
「よしよし、おりこうさん」
「ちょっと!また犬扱いして!」
とうとうほむらは吹き出した。こうなると彼女はしばらく笑うのをやめない。さやかはもう、と呟いたまま、こちらにもたれながらころころと笑い続ける黒髪の女性を見つめた。
――まあ、でも嬉しいわ
彼女とこんな風になるなんて夢にも思ってなかったし、なによりこんな一面を見ることができるのが何よりうれしいとさやかは思った。ようやくほむらが笑い終えた頃、さやかは黒髪の女性に聞いた。
「ねえ」
「なあに?」
さやかの肩にもたれながら、ほむらは顔をそちらに向ける。その艶のある美貌は長年暮らしてもどうにも慣れないらしく、さやかはほんの少しだけ顔を紅潮させた。
「いや…あんたってさ、よく「大分昔」って言うじゃない?」
「それが?」
「それってさ、体感的には何年くらい前のことなのかなって」
「なにそれ…」
くすり、とほむらが笑う。そうしてゆっくりとさやかの肩から身体を離すと、今度はソファに身体をもたれさせながら、こちらを見る。その仕草は優雅でまるで猫の様だ。
「そうねえ…実際は一ヵ月ほどの時を遡ったのだけれど…それが何回も繰り返されると、だんだん麻痺してくるの」
「そうなの?」
「ええ、だんだん、これが夢なのか現実なのか分からなくなって、私が本当に存在しているのかさえ分からなくなる。だからもう…体感なんてないわ、ただ「大分昔」の事よ」
「ああ…」
蒼い髪の女性は苦しそうな表情を浮かべた。聞いてはいけないことを聞いてしまったかのように。
「…ごめん」
謝ることが逆に傷つけることもあると大人になってさやかも知っていた。が、しかしそれでもさやかはほむらに謝らずにはいられなかった。
「なんで?謝る必要は無いわ」
小首をかしげ、ほむらは目を細めた。彼女もだいぶ成長していた。
「うん、でも…ごめん」
「変な人」
そうして二人微笑み合って一旦会話は終了する。大人になると妥協を覚えるものだ。
「でもね」
だが珍しく、ほむらが会話を再開した。
「私が本当に存在しているかどうかも曖昧で、わからなくても、それでも私は何度も繰り返してこれたわ、何故だかわかる?」
「まどかがいたから…でしょ?」
これはもう命題と言っていいとさやかは思っていた。元々暁美ほむらという人物が、鹿目まどかという人物と出会ってなければこんな壮大な物語は生まれなかったはずだ。ほむら自身悪魔と化することもなかった。
「ええ…もちろんよ、でもねそれだけではないわ」
「え、そうなの?」
信じられない、とさやかは思った。黒髪の彼女は今まで(これからも)唯一人のためにここまでやってきたはずだ。
「皆よ」
ほむらはさやかを見つめ囁いた。成長して更に美しくなった容貌と、そしてアメジストの瞳についついさやかは見惚れる。
「今だから…わかるかもしれないけど、私は皆がいたから何度も遡れたかもしれない、そう思うのよ」
「そう…なの?」
さやかはどうにも懐疑的だ。仕方がない。さやかの場合は神と化した幼馴染の傍でほむらの「歴史」を垣間見ることができたのだ。そのどれもがほむらの話を信じずに、悲劇へと向かう結末だったものだから、「皆」と言われても信じ難かった。
「そんな無理した答えしなくていいのよ?あんたが苦労したことはもう私知ってんだし」
「無理してないわ、今となってはそう思うのよ」
「あんたも大人になったのかしらねえ」
「妥協を覚えたのかも」
さやかの言葉に冗談で返せるほどにほむらも成長していた。
「巴マミも今思えば面倒見のいい先輩だったし、佐倉杏子も…彼女はいつも協力的だったわ」
「まあ、そうだろうね…ねえ、私はどうなのさ?」
「貴方?そうねえ、貴方は…」
ほむらはなんだか嫌そうな顔をしてまた月を見上げるものだから、さやかはいささか不安になった。
「いつもいつもまどかの傍にいて、かなり目障りだったわね。それに魔法少女になった場合、必ず魔女になるものだから手もかかえるし、いつも遡る前には「美樹さやかをどうしてやろうか」と考えるようになってたわ」
「うわ、わかってたけどひど!」
くすくすとほむらは笑う。
「でも悪いことだけじゃなかったわ、一人になってる私に声をかけてくれたり、転校したばかりの私に「ノート貸して」と言ってきたり、なんて図々しい人だろうとは思ったけど」
「悪いことばかりだわ」
「そう?でもね、今思うと」
「思うと?」
「私、貴方のことばかり考えてたかもしれない」
そう呟いてほむらはさやかを見つめる。さやかは何か喉につまったかのように変な咳をして。そうして不自然な仕草で月を見上げた。その頬が微かに紅潮しているのを見てほむらは目を細めた。こちらもまた何も言わず、さやかの肩に頭をもたれさせた。
「……あのさあ」
長い沈黙を破ったのはさやかだった。
「なあに?」
「……まだ夜中だし、もう一回眠ろっか?」
「何それ、怪しいわね…なにか企んでるの?」
面白そうにほむらが囁くと、さやかはまた頬を紅潮させた。そういえば、彼女の身体の「改造」を解いてなかったとほむらは思い出す。
「違うわよ…いや、うん、たぶんそう」
蒼い髪の女性の曖昧な呟きに、ほむらは破顔した。
「仕方のない人…」
そうしてほむらは返事の代わりにその手を強く握った。
それから朝まで何が起きたのかはまた別の話。
END
お読みいただきありがとうございます。
この二人はお酒が入ると普段よりも1.5倍仲良くなります(なんと…)
そしてちょっと子供っぽくもなったり…
まどマギ本編の二人も大人になったらきっとどうのこうのいいながら、詢子さんと和子先生の様にカウンターで飲んでいそうな気がします(絶賛妄想中…)
また、妄想の糧になるのでもし感想等ありましたら気楽によろしくお願いします。
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二人の調味料
これは二人が表面上人間らしく生活していくために大学生になった頃の話――
暁美ほむらが世界を改変してからかれこれ5年が経過した。改変直後円環の理の記憶を失い、理由のない敵対心をほむらに向けていた美樹さやかは紆余曲折を経て今では記憶をわずかだが取り戻し、その悪魔と共に生活していた。
「…不思議ねえ」
「……何が?」
トントン、と包丁で野菜を切りながら黒髪の女性が隣の蒼い髪の女性に尋ねる。もちろんその視線は刃物と野菜に向けられたままで。蒼い髪の女性――美樹さやかはその横顔に見惚れながら口を開いた。
「あんたとさ、こんな風に料理するって夢みたい」
「夢だったら早く目を覚ましなさい」
ふ、とさやかが口元を緩める。黒髪の女性――暁美ほむらは時折このように冗談なのか、本気なのかわからない言葉を発する。
「あんた面白いよね」
そう言って、さやかは鍋の蓋を開けて、さいの目に切った豆腐と、小口切りにした長ネギを入れた。本日は味噌汁担当がさやか、おかず担当がほむららしい。実はこのように一緒に料理するのは今が初めてというわけではない。
――料理教えてくれる?
高校生の頃一緒に暮らし始めてからしばらくして、ほむらがさやかにそう言ったのだ。幼馴染以外には知られてないが、実は美樹さやかは料理が得意である。一緒に暮らし始めた当初は魔獣との戦いの間にさやかが料理全般を担当していたのだが、ある日何かを契機に心境の変化でも起きたのだろう、ほむらが「怖い」顔つきのままそう言うものだから、さやかはそれはもう驚いたものだった。
あれから、こうして大学生になるまでに次第に料理も家事も共同でおこなうようになって、今ではもうそれが当たり前になっていた。だが、ふと我に返ると美樹さやかはこうして彼女と当たり前のように料理をしている風景がとても不思議で、そして大切に感じてしまうのだ。
――まあ、この悪魔には伝わらないだろうけどさ…
そうしてまたさやかは隣の美しい悪魔の横顔をちらりと盗み見る。
――なんで彼氏とかできないんだろう?
元々改変前の更に幼馴染が改変する前から「美少女」だとは思っていた。だがここまで美しく成長するとは反則だとさすがに思う。今では絶世の美女だ。しばし、さやかはくつろいだ部屋着の上に色違いのエプロンを着て料理に没頭している「庶民的な悪魔」の姿を見つめた。
「何見てるの?」
「へ?あ、ごめん、ごめん…てか危ないじゃない!」
気付けば包丁の先がさやかの眼前にあって。ぎろり、とほむらはアメジストの瞳を光らせてさやかを睨む。
「……理由によっては貴方も千切りにするわよ」
「嘘!なんでよ!」
両手をあげたままさやかが叫ぶ。しばらく膠着状態が続いた後、さやかが口をもごもごと動かして。
「……あ、あんたが綺麗だから見惚れてたのよ、悪い?」
「………」
更に膠着状態が続く。そうして今度口を開いたのは悪魔の方で。
「…どうしてかしら」
「へ、何が?」
「今すぐにでも貴方を殺したくなったわ」
「やめてよ!」
さやかの慌てぶりを見てほむらは――とても珍しいことだが口元を緩めて笑った。赤くなるさやか。
「冗談よ」
そう囁いてほむらは包丁を下げると再び残りの野菜を切り始めた。再びトントン、と軽快に野菜を切る音が台所に響いて。さやかはふう、と息を吐いて「命拾いしたわ」と呟くと沸騰した鍋に味噌を溶き入れた。しばらく二人は料理に没頭して。それから数分後、二人の夕食が始まった。
「ひゃあ…美味しそうねえ」
「レシピ通りに作ったから当然よ」
はしゃぐ蒼い髪の女性といつも通り冷静な黒髪の女性。二人は食卓を囲み食事を始めた。
「あんた料理上手くなったわねえ」
「…別に当然よ」
さやかの賞賛もどこ吹く風の様子でほむらは肩をすくめた。
「料理は化学よ、必要な情報と量が把握できれば美味しくなるのは必然だわ」
「うっわ、出た化学科め、いい?料理ってのはさ…」
箸置きに箸を置いて、蒼い髪の女性は腕を組んだ。一般教養でこういう年配の准教授がいたのをほむらは思い出す。
「そういう数値的なものだけじゃなくて、見えないモノも大事なのよ」
「何、その「モノ」ってまさか「心」とか「思いやり」って言うんじゃないでしょうね?」
「う」
「図星?」
わかりやすい人だとは前から思っていたが、ここまでとは、とほむらがふう、と息を吐いた。
「…た、確かにそれがどう料理の美味しさに関わってくるかはわからないけどさ、でも」
組んでいた腕を解いて、今度は蒼い髪を掻きながら、さやかがもごもごと言葉を紡ぐ。
「私はあんたと一緒に食事するのが楽しいし、一緒に作った料理だとなおさら美味しく感じるのよ、だから料理って数値だけのものじゃないと思うのよ、ああもう…難しいわね」
それをどう表現するかさやかはうまく言葉にできない。哲学を専攻しているのに自分の内面も語れないふがいなさにさやかは落ち込む。
「…調味料」
ほむらが呟く。へ?と顔をあげるさやか。
「貴方の言う「心」とか「思いやり」って調味料のようなものじゃないかしら」
「…ああ、そうね…」
確かにとさやかは思う。料理自体に直接影響を与えるわけではなく、食べている人の味覚に影響する。絶対的な答えでないにしろ、さやかの心にはしっくりくる答えで。
「…あんたってすごいわね」
「哲学科に転科しようかしら」
さやかの賞賛に、ほむらは艶のある笑みで答える。
「とりあえず食べましょう?さやか」
「……そうね」
そうして二人は食事を再開する。今からなのか、それともほんの少し前からなのかいつの間にか二人の距離は近づいていて――。
**************
「調味料――」
「へ?どうしたの?」
黒髪の女性が調味料を入れた瓶を見ながら呟いた。それは元々星砂が入っていた瓶だが便利だからと言って、蒼い髪の女性が洗って使いだしたものだ。
「昔の事を思い出したのよ」
「昔って、前の前くらいのこと?」
警察官のさやかが久々に連日の休みをもらえたので、二人は一緒に料理をしていた。くつろいだ部屋着に色違いのエプロンは大学時代から変わらない。
「改変前のことじゃなくて、直近の昔よ。私と貴方が大学生だった頃のこと」
「ああ、あんたが名答を出した時ね、料理の心は調味料って」
「覚えてるの?」
「もちろんよ」
そう言ってやや垂れ気味な目を細めてさやかは笑った。それを見て、黒髪の美女は顔をしかめる。
「気持ち悪いわね、そんな昔の事を覚えているなんて…」
「なんでよ?!」
「貴方ストーカー?」
「違うわよ!」
さやかが叫んだ後、ほむらは肩を震わせて笑う。もちろん冗談だ。むしろ過去を一人で何度も遡り繰り返した彼女に取って、過去を共有できる者がいるのはそれはとても――。
「でもそういえばさ、あの時と同じメニューね」
テーブルを見てさやかが呟く。豆腐と長ネギの味噌汁に簡単な野菜いためのおかず。シンプルだが飽きがこないさやかの好きなメニューだった。そんなさやかの傍らにほむらが寄り添う。
「今ならわかるわ」
「何が?」
「貴方が必死に説明しようとしていた心とか思いやりのこと」
「へへ、そう?」
妙齢の女性にしては子供っぽい笑みを浮かべ、蒼い髪の女性は嬉しそうに目を細める。と、いきなりその唇に黒髪の女性の唇が軽く音を立てて接触した。
「そうよ」
と囁いて、黒髪の女性は身体を離し、鍋を洗うためにシンクの方へ身体を向けた。
あまりに一瞬のことだったので、ただただ蒼い髪の女性は呆然と頬を赤くして、黒髪の女性の華奢な背中を見つめるばかりで。
今日の夕食が至極美味しくなるのは正に「調味料」のおかげだと思ったのは、どちらの方だったのか。
END
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武器談義
「ねえ、貴方のそれって…」
頬を紅潮させながら、黒髪の女性が囁くものだから、蒼い髪の女性――美樹さやかの動悸は激しくなった。
「何よ、それって」
「それって、それはね――」
黒髪の女性――暁美ほむらはカウンターに頬杖をつきながら、細い指をタクトの様に動かして、ぶつぶつと呟く。アメジストの瞳はいつもより潤んでいて。どこか艶めかしい黒髪の美女に同性でありながら、さやかは見惚れてしまってフリーズした。と、いきなり頬杖がずれて、ほむらの頭ががくり、と傾いた。
「ちょっと!」
フリーズもつかの間、さやかが素早く手を伸ばしほむらの肩を支える。さやかの接触に気付き、ほむらがゆっくりと顔をあげて口元を緩めた。ありがとう、とほむらは小さく囁くと当たり前の様にさやかの肩に頭を乗せた。そうして、気持ち良さそうに目を瞑る。
「…まったくもう」
さやかの呟きに、フフフ、と黒髪の美女は何が面白いのか、肩を揺らし笑い始めた。揺れが伝染して、さやかも揺れる。
「もう!あんた酔うの早すぎ」
「…酔ってないわよ」
どこか虚ろな視線でさやかを見上げると、ほむらは口を尖らせた。
――酔ってるじゃない!
さやかは心で叫んだ。
********
成人したほむらとさやかは時折二人で酒を飲むようになった。きっかけは大学生として暮らし始めた頃のゼミの歓迎会やコンパ(結末はひどかったが)だが、悪魔はギリシャ神話の神さながらに葡萄酒にこだわるようになったし、概念の元鞄持ちもまた雑食(飲)ではあるが、バーボンを好むようになった。それから数年後には互いの愛飲する酒を味わう様にもなり、今夜の様に界隈の老舗のバーで酒を楽しむ様にもなったのであるが。
「美樹さやかぁ」
「うわ、何よ!」
肩にもたれたまま、ほむらが大きな声で名前を呼ぶものだから、蒼い髪の女性は怒られた犬の様にビクッ、と反応して叫んだ。カウンターのむかい側で初老のバーテンが口元を緩める。
「あ、すみません」
さやかが小声でバーテンに謝ると慌てて周囲を見渡す。セピア色で統一された店内ではジャズの調べに乗って、数名の客がテーブルで静かに会話を楽しんでいた。騒がしいのはカウンターの自分達だけだと気付くと、さやかは小声でほむらに「ちょっと、やばいわよ静かにしないと」と囁いた。
「わかったわ」
そう呟くと、ほむらはさやかの肩から離れ、長い黒髪を梳くと、直立不動で姿勢正しく座り直す。その姿はまるで授業参観日の優等生の小学生の様で。さやかは思わず口を手で抑え、黒髪の女性に尋ねる。
「それ、なんなの?」
「反省」
フ、と思い切り吹き出しそうになり、さやかは必死でこらえた。この黒髪の女性は時折本気とも冗談ともつかぬ言葉を発するが、酔いが回ると更にパワーアップするのだろう、とにかく面白いのだ。しばし肩を震わせた後、さやかが「あんた面白いわ」とほむらの頭を優しく撫でた。――美樹さやかも結構酔いが回っているらしい。
「どうもありがとう」
猫の様に目を細めながら、ほむらは礼を言う。どうもこの二人は酔いが回ると普段よりも数倍友好的になるらしい。
「あれ、あんた、今度何飲む?」
ほむらの空のグラスを持って、さやかが尋ねる。
「…貴方と同じものでいいわ」
「そう」
さやかはバーテンにいつものバーボンの銘柄をダブルで頼んだ。そうして琥珀色の液体に満ちたグラスを黒髪の女性に差し出すと、囁いた。
「ねえ、あんたがさっき話してたのはなんだったっけ?」
「ん?ああ、そうねえ、貴方のそれよ」
そう囁いて、ほむらがさやかの腰のあたりを指差すものだから、さやかは必要以上に警戒して。
「それって、何よ」
「だから、それ…剣(ソード)よ」
ああ、とさやかが理解する。
「武器のこと?」
こくり、と子供の様に頷くほむら。
「もう、何かと思ったわ、てか剣がどうしたの?」
「どうして貴方の武器が剣なのかしらって思ったのよ」
「へえ、それって…確かにそうね」
考えたこともなかったわ、とさやかが呟いて、そうして天井へ視線を向ける。確かにそうだ、とさやかはかつて仲間だった魔法少女の武器を思い出す。
「弓やら銃やらいろいろあるのにね、あんたもなんで盾なんだろうね」
「……私はなんとなくわかるわ」
「へえ、そうなの?私は…なんでかしら、まあ扱いやすいから文句は無いけどさ、でもできれば」
「できれば?」
さやかはえへへ、と妙齢の女性に似つかわしくない笑顔を浮かべて。
「杏子の武器みたいにさ、伸びたり縮んだりした方が楽だし格好いいかなと思ってたわ」
そう言って、子供の様に擬音語を発しながら、かつての赤髪の仲間の武器をジェスチャーで表現する。呆れた様な黒髪の女性。
「絶…対、貴方には無理ね」
「なんでよ」
さやかが口を尖らせて、それを面白そうに見つめるほむらは、無駄に頭を左右に振りながら歌う様に囁いた。
「貴方は不器用だもの」
「ひど!こう見えても私器用よ?」
「嘘」
「嘘じゃないわ、今なら弓とか銃とか遠距離の武器でも…」
「出せるの?その武器」
「う」
それ見たことかとほむらが頬杖をついて、くすくす笑う。
「原理は知らないけど、きっとその人に合った武器が出る様になってるのよ」
「だから私は剣だと?」
そう、と頷いて、ほむらはグラスを口にする。さやかもつられるようにグラスを口にして。はあ、とほむらは息を吐き、そうして囁いた。
「…今確信したわ」
「何を」
「美樹さやか、貴方は不器用なのよ」
「何回もひど!」
さやかの反応にほむらが笑う。それを見てさやかも肩をすくめて。
「まあ、あんたがそう言うならそんな感じがしてきたわ、遠距離攻撃って柄じゃないし私」
「でしょ、貴方はやみくもに前で戦うのが向いているわ」
「それってさあ、馬鹿ってこと?」
ほむらはちろりと赤い舌を出した。さやかは銃を模した人さし指でほむらに向かって撃つジェスチャーをする。
「見てなさいよ、馬鹿は馬鹿なりに最強なんだから」
「何それ」
「私の剣はなんでも切れるもの」
そう言って、さやかはさも得意げにほむらを見つめる。
「あら、私の盾はどんな刃も通さないわよ?」
ほむらも得意げにさやかを見つめる。二人はしばらく見つめ合うと、同時に口を開いた。
『試してみる?』
まるで小学生の様な会話。それでも二人は目を輝かせ楽しそうで。
「お客様」
バーテンの声で二人は顔をあげる。
「店内ではお試しになりませんように」
ユーモアあふれる初老のバーテンは、そう囁いて微笑んだ。
二人は再び見つめ合うと、不敵に笑い、そうして席を立った。
それから二人がどうやって「試してみた」のかはまた別の話。
END
酔っぱらうと面白くなるほむらさん…(なんと)
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確率
時代で若干の形態の変化があるとはいえ、どの時代でもバレンタインデーは心躍るイベントだった。それは見滝原市にある国立大でも同じであるようで。
「ああ畜生!」
大げさに騒ぎながら、白衣を纏った茶髪の青年が実験室のテーブルに突っ伏した。その挙動は一介の大学生というよりも、どう見ても小学生低学年あたりのそれで、それを横目で見ていた初老の女性――佐藤清子はふんわりと優しく微笑んだ。
「――石田君、嘆くくらいなら問題改善のために何らかのアクションを起こしたらどうかしら?」
「難しいっす、マジで」
「まあそうねえ…あなたの求めている「対象」からチョコレートをもらえる確率は限りなく低そうだわ…まあ人の心は私の専門分野ではないけど」
「え、でもそれだと「夢」はあるってことですよね、教授?」
「そうねえ、太平洋に一度逃がした魚がもう一度釣れるくらいの確率かしら」
「マジ無理!」
どっ、と研究室で学生の笑い声が湧きあがる。
******************
K大学の理工学部化学科生体分子化学研究室は例年人気があった。今年は更に希望者が殺到したが、運よく希望が通って晴れてゼミ生となったこの茶髪の青年――石田はどうにも毛色の変わった男だった。
「暁美さんは誰にチョコレートをあげるのかしらねえ」
清子は石田以外の運がいいゼミ生の名前をあげた。暁美ほむら――彼女こそが希望者殺到の原因でもあるのだが。
「彼女、あまりそういうの興味なさそうですよ」
四回生の女子学生が顕微鏡をのぞき込みながら呟いた。そう言う彼女も眼前の細胞以外には興味なさそうだ。
「まあそうねえ、確かに」
悪戯っ子の様に初老の教授が微笑んだ。その仕草はまるで少女の様だがそれがまた不思議とマッチしている。
――暁美ほむら
――不思議な子ではある、と清子は思う。教授会でも名前が出てくるくらい彼女は有名で、その美貌は研究室でも話題になるほどだった。(清子にとってはその美貌よりも内面に興味があるのだが。)そんな子がこの研究室を希望したものだから、抽選は大変なものだったのを思い出す。
「ああ、こりゃあきらめよう…さらば青春」
切なげな声があがる。面白い、と清子は石田を見つめながら思った。研究テーマ云々は全く興味が無く、暁美ほむらが目的でこの研究室を希望したと公言するこの青年はある意味小気味よく爽快だ。
「失礼します」
研究室のドアが音も無く開いて、そこから黒髪の女性が現れた。
「あら暁美さん」
「おはようございます教授」
黒髪の美女――暁美ほむらは初老の女性に微笑む。これはとても珍しい事であるのを清子は知らない。可愛らしい私服の上に白衣を纏った黒髪の女性はすたすたと所定の実験台に向かう。
「あ、な、なあ暁美!」
石田が慌てた様に身体を起こし、黒髪の女性の背中に声をかけた。ゆっくりとほむらが振り向くと、茶髪の青年はその美しさに息を飲んだ。
「何?石田君」
非常にぶっきらぼうなほむらの声を気にすることもなく、石田は積極的に声をかける。
「なあ、俺にあげるもの無い?」
「何を?」
顕微鏡を覗いていた四回生が肩を震わせ、書棚を整理していた研究生が失笑した。
「い、いや、チョコレートとか…」
「?売店に売ってたと思うけど」
ほむらの言葉でとうとう清子も吹き出した。茶髪の青年が彼女からチョコレートをもらえる確率は、太平洋の魚よりも低そうだ。
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夕焼けの空に
「俺、警察官になりたいんだ」
少年が目を輝かせながらはっきりとした口調で言うものだから、美樹さやかも真剣な顔つきで断言した。
「タツヤ君ならなれるよ」
――そう、そんな風に強い気持ちがあるならば、きっとなれる。
「マジで?」
やったあ、と少年はガッツポーズをしながら歯を見せて笑った。ついついさやかも口元を緩めて。
「その代わり学校の勉強頑張らないとね」
「え?さやかでも受かるのに?」
「こら!大人になんてこと!」
蒼い髪の女性が右手をあげ近寄ると、笑いながら少年は数メートル駆けだした。
「嘘だよ嘘、俺、さやかみたいな刑事になりたいんだ!」
夕暮れの街路で少年の影ははっきりと伸びて。ふと、さやかはその影を見て、何を思ったのか笑みを浮かべた。それは先ほどとは種類の違う乾いた笑みで。
――悪を撲滅したいんです。
採用試験の二次試験で回答したさやかの警察官の志望動機。その時の自分が指していた「悪」とは一体なんだったのだろう、とさやかは考える。魔獣だったのか、それとも人間だったのか。それとも――ふう、と息を吐いてさやかは少年の姿を捉える。
「タツヤ君」
「何?」
遠くから少年が声をあげる。
「私よりもイイ刑事になれるわよ、きっと」
「当たり前だろ!」
「こら!」
あはは、と少年は笑って再び駆けだす。
この無垢な少年は、数年後警察世界の深淵部を界間見てどう思うのだろうか、さやかはふと不安になる。だが、その時はその時だ、この少年なら――大事な幼馴染の弟ならきっと。
待ちなさい、と大きな声をあげて、蒼い髪の女性もまた駆けだした。
********
「ほむらちゃん、夕焼けが綺麗だね」
桃色の髪の女性が恐ろしいほど美しい黒髪の女性を見上げながら囁いた。
「ええ、そうね」
「もう、また私が綺麗と思うからそう思うんじゃないよね?」
桃色の髪の女性――鹿目まどかがからかうように微笑んで、黒髪の女性――暁美ほむらの顔を下から覗き込む。蒼い髪の女性ほどではないが、ほむらはまどかよりほんの少し背が高い。
「あら、よくわかったわね」
「もう、そんなんじゃ」
だめだよ、とまどかが言う前に、黒髪の美女は片目を瞑りながら「冗談よ」と囁いた。
「ある程度は自分の感情というものが生まれたような気がするわ」
「…そ、そう?」
この黒髪の女性は時折本気とも冗談ともつかぬ言葉を発する。まどかはほむらの言葉の真意を計りかねて、首をかしげる。だが正直なところ、まどかはほむらの言葉よりも先ほどの仕草に驚いていた。10年前ではまったく想像もつかなかった仕草。いつも無表情で、感情など持ち合せて無いと言わんばかりだった少女が、いまや絶世の美女に成長し、冗談を発するようになっている。まどかが何か言いたげにほむらを見上げた。
「おーい、姉ちゃん」
遠くから少年の声が聞こえる。二人が声の方向を見ると、まどかの弟と、その後ろから蒼い髪の女性がこちらに向かって歩み寄っていた。
「あ、タツヤ、それにさやかちゃん」
あの二人いつも一緒だね、とまどかがほむらに囁いた。ちょうど見滝原中学校からまどかの家までの経路と、さやかがいつも使用する駅から自宅(ほむら名義の)までの経路が重なるため時折さやかとタツヤはこのように一緒に帰ることがある。フフ、とまどかが口元を緩める。何故だろうか、弟と蒼い髪の女性が仲良く並んで歩くさまを見るのは心が躍るのだ。
「あの人の精神年齢って、きっとタツヤ君より幼いのよ」
ふう、と息を吐きながら、黒髪の女性が忌々しげに呟いた。あの人とはもちろん美樹さやかのことで。まどかは一瞬目を丸くして、そうして吹き出した。ほむらがまるで子供の様に拗ねた顔を浮かべているからだ。
「大丈夫だよほむらちゃん」
「え?」
何が、と聞こうとする前にまどかがにっこりと微笑んで。
「さやかちゃんが一番好きなのはほむらちゃんだよ」
「――」
一瞬時が止まったように、黒髪の美女がフリーズして。まどかは珍しいものを見たと嬉しくなった。
「……別に一番でも全然嬉しくないわ、百番でも構わないくらい」
ほむらの言葉を聞いてとうとうまどかは声を出して笑った。猫の様にびっくりするほむら。
「ほむらちゃんって、中学生みたいだね」
「まどか、それって…」
子供ってこと?とほむらが聞いたがまどかはそれには答えずに。
「行こう?ほむらちゃん」
そうして黒髪の女性の手を引っ張って、少年と蒼い髪の女性の元へと駆けだしていく。
――ずっとこのままだといいね
そう囁いたのは桃色の髪の女性だったのか、それとも悪魔の方だったのか。
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胎動
「あんたって、ほんと振り幅広いわねえ」
「あら、光栄ね」
暁美ほむらは、ぶつぶつ呟きながらも傍らに寄り添っている蒼い髪の女性を目を細めて見上げた。この世界では彼女――美樹さやかとはもう10年の付き合いになる。
「貴方も興味無いのにわざわざここまでついてこなくてよかったのよ?」
「いやよ、私はあんたについて回るって決めたんだもの」
さやかは肩をすくめてほむらを見つめる。成長して、顔つきも精悍になったが、やや垂れ気味の愛きょうのある目は変わらず、中学生時代の頃の面影が少しだけ残っていて。
「好きにしなさいな」
ほむらは口元を緩めた。その横顔は恐ろしいほど美しく、中学時代から美しかった彼女は成長と共に更に美しさを増していて。
「好きにするわよ」
さやかはそう呟いて、またほむらと同じ方向へ視線を向けてその「絵」を鑑賞した。
***************
ほむらの大学時代の恩師に勧められ、二人は見滝原市内にある美術館に来ていた。恩師の好きな画家は、まだ国内では無名だったが、どうやら市内に愛好家がいるのだろう、珍しく作品展が開かれていたのだ。
「さやか、貴方好きな画家とかいる?」
「私?いやあ、あんまり詳しくないけど…」
赤い絨毯をさくさくと踏み歩きながら、さやかが頭に手をやる。中学時代からの彼女の癖だ。
「マネとかは結構好きかしら」
「あら、意外と知っているじゃない」
「まあ、講義があったしね、でも…」
「でも?」
「深い意味が込められている作品は苦手だわ、なんだか気味が悪くて」
「弱虫ね、絵画ってほぼそういうものでしょう?」
「ひどいわね、てかあんたはどんな絵が好きなのよ」
「トリック・アート」
ぽかん、と呆けた表情のさやかを余所に、ほむらはくすくすと笑いながら足早に進んだ。
*********
その「絵」があったのは、美術館のちょうど中央を過ぎたあたりの壁であった。
「ほむら…」
さやかの囁きにほむらは視線は絵に向けたまま頷く。
異質な作品
二人の見解は一致していた。鮮やかな力強い作品の中、この作品だけは全く違う。写実主義、あるいはもはや写真の様に白い病棟の廊下が描かれたその絵には一人の少女が描かれていて。
「これ、あんたじゃないの?」
さやかはやや震えた声で囁いた。白い寝間着におさげ髪の黒髪の少女。過去幾度となく失敗を繰り返し何度も抗い続けた少女。ほむらのアメジストの瞳が輝く。
「そうね、私だわ」
「なんで…」
そう蒼い髪の女性が呟いた瞬間、美術館が闇に閉ざされた。
「結界?」
さやかが身構える。傍らでほむらがさやかの右腕を抑えた。
『貴女が新しい存在ですか』
低いバリトンの声が響き渡る。そうして闇から溶けて出てきた様にフォーマルスーツを着た男が現れた。その顔は白く能面の様で。ほむらもさやかも返事はしない。男は返事が無いことを気にすることもなく、言葉を続けた。
『私達は古来から地球に在る「魔なる者」』
さやかの右手が剣を出現させようと発光した。
<待って>
ほむらが念話でさやかを止めた。
『私達は新しい存在の貴女に注目しているのですよ「暁美ほむら」』
「目的は何?」
ほむらが口を開いた。男はさも嬉しそうに口をニイとV字形に開いた。
『今日はただの挨拶です、以後お見知りおきを』
「ちょっとそれって…」
さやかが叫ぶと同時に男は消え、あたりは闇から先ほどの通常の世界へ戻る。行きかう人々の会話と足音。二人はしばし呆然とたたずんで。
「ねえ、今のって…魔獣じゃないわよね」
「ええ、あの男が言ったとおり「魔なる者」、元々地球に在った者達よ」
「私初めて見たわ」
「そうね、魔獣より厄介よ」
「……そんな気がしてきたわ」
さやかが忌々しそうに呟きながら、壁へ目を向けた。そこには先ほどの絵とは全く違う美しい風景があって――。
END
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ほむら散歩する
魔獣を倒した後の散歩もなかなか悪くない――
ほむらは朝日を浴びながらふと思った。相方はまだ仕事だし、家に戻っても誰もいない、だとすればたまにはこんな寄り道もいいだろう。誰もいない公園の並木道の中、一人ほむらはその美しい横顔に微かに笑みを浮かべ歩き始めた。
************************
いつの頃からか、暁美ほむらは変身するのをやめてしまっていた。正確には羽根を出現させたり、より悪魔に近い姿に変貌を遂げたりすることはあるが、悪魔として生まれ変わり、世界を改変させた頃の姿になることはほぼ皆無だ。その事について、もう長い間連れ添っている相方がくだらないことを言っていたのを悪魔は思い出す。
『もったいない、あんたのあの格好、結構――』
『結構何?』
蒼い髪の女性が口元を緩め何かをいいかけるが、黒髪の美女が美しくも険しい双眸を向けたため口をつぐんだ。互いに「この世界」で出会ってからもう10年も経つのだが、この蒼い髪の女性はあまり変わってないと悪魔は思う。成長しているが、面影は残っているし、なにより愚かなのだ。…だが今目の前でよくわからないジェスチャーをしている愚か者を全て受け入れたのも自分自身なのだと思うと、さすがに悪魔も溜飲が下がった。はあ、とため息ひとつついて、言葉を促す。
『怒らないから言いなさい、さやか』
まるで母親の様な言い方だ、と自嘲気味に思いながら、ほむらは辛抱強く待つ。えへへ、と中学生の頃と変わらないお間抜けな表情でさやかが口を開いた。
『エロいからもったいな――痛っ!』
いきなりブラシが飛んできて、蒼い髪の女性の頭に音を立てて直撃する。常人なら怪我をするところだが、さすがに回復魔法の持ち主である、頭を両手で軽く抑え、怨みがましくほむらを睨みつけるだけですんだ。
『もう、何すんのよ、怒らないって言ったじゃない!』
タンクトップから伸びた腕を頭に載せながら、さやかが鏡台の前で肩を震わせているほむらに抗議した。
『あら、怒ってないわ、ブラシを投げただけよ?』
鏡台に頬杖をつきながら、ほむらがニイ、と口元を歪め残忍な笑みを浮かべた。艶のある長い黒髪が、頬にかかる。その凄惨な笑みが却ってほむらのとてつもない美貌を引き立ててしまい、さやかは一瞬見惚れてしまった。
『もう、まったく…』
照れをごまかすため、さやかがやや乱暴にベッドの端から立ち上がった。もう正午に近いというのに、寝過したためショートパンツにタンクトップ姿だ。ほむらの方も白いキャミソール姿なのは同じ理由からだった。
『あら、どうしたの?』
やや不本意の様子でほむらが顔をあげた。まるで遊びたりないといわんばかりで。
『着替えるのよ、私今から仕事…きゃあ!』
さやかが変な悲鳴をあげながら、ベッドの真ん中まで吹き飛んだ。悪魔の仕業だ。驚くさやかの上に一瞬の内にほむらがふわりと圧し掛かっていた。
『ちょっと…何すんの』
『あら、昨日の続きに決まってるわ』
『ダメよ、今から仕事』
『私は時を止められるのよ?』
う、とさやかが口をつぐむ。さも愉快だと言わんばかりな表情のほむら。
『よくも私をいやらしい目で見てくれたわね』
『はあ?何言ってんの、あんたいつもいやら…』
むぐ、とさやかの口が悪魔の口でふさがれる。口が離れたのはそれから数秒後のことで。
しばらく見つめ合ってから、ほむらは「お仕置きよ」と囁いた。
******************
「変なこと思い出したわね」
陽光溢れる公園の並木を見ながら、ほむらはさも忌々しそうに呟いた。こういう時悪魔の脳裏に浮かんでいるのは、大抵蒼い髪の相方だ。息を吐き、悪魔は歩を進める。
まだ、夜が明けたばかりだからか、公園にはほむら以外誰もいなかった。もしいたならば、黒づくめの服装に身を包んだ美しい黒髪の女性を見て、人ならざる者を見たと思うのだろう。
ガア、ガア、と烏が鳴いた。
ふと、ほむらは自分一人が世界に残されている気持ちになった。もし、まどかが成長して、人としての幸せな生を終えた後、自分はどうなるのだろうと考える。不思議だった、10年前のあの頃はそんな事考えもしなかったのに。
『あんたとずっといるわ』
蒼い髪の女性の顔を思い出す。自然に口元が緩んだ。憎たらしい、生意気で愚かで、でも――
「ほむら」
気付けば、数メートル先に蒼い髪の女性が立っていた。急いで駆け付けたのだろう、息を切らしてこちらを見ている。仕事帰りのスーツ姿に、右手には剣。普通の人から見れば明らかに不審者だ。ほむらのアメジストの瞳が微かに潤んで。
「あら、銃刀法違反じゃないかしら?おまわりさん」
「まったく、心配したのよ…魔獣は?」
ほむらは肩をすくめる。その仕草で全てを理解したのだろう、さやかは「心配して損したわ」と言って微笑んだ。手品の様に剣が消えた。
「ついでに散歩してたのよ…一緒にいかが?」
「オフコース」
おどけた様子でさやかが手をほむらの前に差し出す。その手にほむらは細い指を絡めて載せた。10年前には想像もつかない仕草。
――散歩もたまにはいいものだ、とほむらは思った。
END
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さやか学食に行く
「悪魔談義」https://syosetu.org/novel/302421/17.htmlに登場したゼミの先輩が登場します。ほのぼの回。
これは二人が大学生として表面上人間らしく生活していた頃のお話。
「美樹、頼むから俺達に奢ってくれ」
「なんですかそれ!」
メガネの男と小太りの男二人にいきなり拝まれて、ラフなパーカー姿の蒼い髪の女性は声をあげた。
「俺達今日金欠なんだよ、な、頼む後輩だろ?」
確かにこの二人はゼミの先輩ではあるが…蒼い髪の女性美樹さやかは口をへの字に曲げさも嫌そうな顔をした。小太りの男がそれを見て、「わかりやすっ」と叫ぶのと、メガネの男が蒼い髪の後輩に申し開きをするには同時だった。
「待て美樹、お前が嫌そうな顔をする気持ちはわかる、だが、考えてもみろ」
そう言った後、メガネの男は大げさに天井を仰ぐ。
「無償の愛は誰にも注がれるべき…おい、ちょっと、ちょっと待て」
学食の出口に歩き出した美樹の手をメガネの男が掴み、必死に止める。
「なんでいきなり先輩に奢らないといけないんですか、私も今月は苦しいんですよ!」
彼らに事情は話していないが、美樹さやかは学業以外に特殊な「生業」とバイトで結構忙しいのだ。
「借りるより奢りの方が後腐れないだろ、俺達の中ではそんな事言葉に出さなくても通じ合えると思ってたんだが!違うのかっ!美樹!」
「うわ、熱いし、気持ち悪っ!」
悪寒が走ったのか、さやかが片方の腕で己を抱くジェスチャーをした。そうして我に返る、どこからか笑い声が聞えたからだ、気付くと学食にいる学生の視線が全てさやか達三人に注がれていた。三人は思わずバツが悪そうに互いの顔を見つめ合った。
********************
K大学の学食は、他の大学と同じく、安価でボリュームが多いため、学生には人気があった。在学している美樹さやかももちろんお昼はよく利用しており、今日も哲学科の同じゼミの先輩と昼食込みで「哲学論議」に花を咲かせる予定だったのだが、食券を買う直前になって先輩二人に食事をねだられ、このように、学食内の学生の失笑を買うことになったのだ。はあ、とため息をついてさやかがバツが悪そうに周囲を見渡す。K大学の学食のテーブルには派閥というか、縄張りの様なものがあり、窓際は法学部や経済学部などの社会学系の学生が占めており、壁際は理系の学生、そして食券売り場や厨房の近くは哲学科や国文学などの文学部が占めていた。今日もいつも通り、食券売り場の近くのテーブルが一つだけ空いていた。それを見てさやかが観念した様に目を瞑る。
「…わかりました、奢ります」
さも嫌そうにさやかが呟いた、それと同時に歓声をあげる男二人。
「でも、私と同じ日替わり定食ですよ、いいですね!」
きっ、と男二人を睨む、蒼い髪の女性の垂れ気味な目はなんだか迫力に欠けており、先輩二人はにこやかに頷いた。数年後、刑事になってもこのように職場の先輩にたかられるはめになるのを美樹さやかはさすがに知らない。ぶつぶつ言いながら、さやかは食券の日替わり定食のボタンを押した。
************************
『あんた、お昼食べないの?』
『私はあまり食べないからいいわ…』
大学生になってから、学科の違いで美樹さやかと暁美ほむらはなかなかお昼を共にすることができなくなっていた。もちろん魔獣が現れた場合は二人とも講義どころではないのだが。普段は化学を専攻しているほむらの方がハードなスケジュールであり、朝も早くから夜は遅くまで勉強づくしという事になり、さやかが心配してとうとう弁当を作ることもあった。時には二人、校庭のベンチで昼食をともにすることもあったが、三回生になってからは月1~2回のペースに落ちてしまっていた。
――あいつ、ちゃんと食べているかしら?
さやかはふと黒髪の相方の事が心配になる。美しい悪魔は、一回生の頃は愛想笑いなど皆無で、さやか以外の人間とは口も聞かない徹底ぶりだったが、今では普通にお洒落もして、ある程度愛想笑いもできるようになっている。よくぞここまで成長してくれた、と己の事は棚にあげて美樹さやかは時々感慨深くなる。
「あれ、美樹、このフライ食わないなら俺が食う…」
「ちょっと!食べるから!」
ほむらの事を考えていて箸がおろそかになっていたさやかの定食を狙って、両脇から先輩二人が箸を繰り出してきた。たまったもんじゃない、とさやかが二人を交互に睨んだ。
このけったいな二人の先輩は、蒼い髪の後輩をいたく気に入っているらしく、いつもこの様に両脇に彼女を挟むように座り食事を共にする。
――とにかく変わっている
とさやかは思う。魔法少女や、魔獣といった特殊な事象を除いて、中学、高校までさやかはこの様な人物に会ったことはなかった。口を開けば、やれアガペーやら、概念やら、飛行機を見ればUFOやらで、通俗的なものには全く興味が無いらしく他学部では盛んなコンパにも参加しないし、異性の浮いた話ひとつも無い。二人とも素材は悪くないはずなのだが、長髪に無精ひげにメガネ、小太り、ラフな格好、そしておそらく数日は洗濯していない服なのがちと問題なのだろうとさやかは思った。そうして二人の影響を受けたのか、そもそもの性質なのか、さやかもあまりお洒落をしない。
――ああ、楽だなあ
とさやかは秘かに思う。そしてこのゼミでよかったと。ほむらほどではないが、美樹さやかも入学当時から異性に声をかけられることがあった。(数名の同性からも。)元々淡白な性質のさやかはそれが非常に面倒くさいものに感じられて、あまり通俗的な事に興味を持たないこの二人の先輩の存在に実は感謝していた。
――あいつは大丈夫かな?
そうしてまた、あの美しい黒髪の悪魔の事を思い出す。元々美少女だと思ってたが、ここまで美しく成長するなんて思ってもみなかった。大学入学時の騒動を今でもさやかは覚えている。ほむらに群がる学生を穏便に退けるのは、魔女や魔獣を駆逐するよりもかなり大変な作業だった。あれから今まで、大小様々な騒動が起こったものだが…
さやかの携帯の着信音が鳴った。ほむらからだ。
「ほむら?」
『呼んだ?』
携帯の向こうから、艶のある声が聞こえ、さやかが笑った。
「私、呼んでないわよ?」
『…もしくは私の事考えてた?』
あ、とさやかは声をあげる。
「ええ、考えていたけど…」
『変態』
「なんでよ!」
『だだ漏れよ、貴方の思考がこっちに流れてきたのよ』
「嘘」
さあ、とさやかの顔が青ざめる。テレパシーというのか、二人は互いに念話を行うことができる。だがそれはお互いが近い距離にいる場合なのだが。
「ごめん、あんたの心配してたのよ、てか…」
携帯の向こう側で笑い声が聞えたので、さやかは悟った。
「あんたはめたわね…」
黒髪の女性がカマをかけたのだ。
『ひっかかる方が悪いのよ、貴方私のストーカーなの?』
「まさか」
『変態』
「ちょっと!」
さも愉快だと言わんばかりのほむらの笑い声を聞きながら、さやかは肩をすくめる。以前では考えられないほど悪魔は鞄持ちに打ち解けていて。
「それで、どうしたのさ?」
『お腹すいたのよ』
さやかは破顔した。素直な悪魔がなんだかとてもうれしかったから。
「ねえ、学食こない?」
『ひとり?』
「いいえ、今先輩達と食事してるんだけど…」
『あの悪魔談義した先輩達と?』
「そうよ」
『別に構わないわ』
そうして携帯を切る。両脇ではほむらが学食に来ることで舞い上がる先輩達。メガネの男の方はまた天井に向かって何か叫んでいた。
「よし、美樹、暁美さんが来るなら、学食で一番いい奴を奢るんだ」
「何言ってるんですか!自分達のこと棚にあげて!」
さやかは思わず叫ぶ。そしてやはりこの二人をほむらに会わせるのは間違いかと一瞬悩むが、まあ、その時は悪魔がなんとかするだろうと楽観的に考えた。
その後、ほむらが学食を訪れて意外と和やかに話が弾んだことと、ほむらの発言でさやかが非常に恥ずかしい思いをするのはまた別の話。
END
ほむらは一体何を食べさせられるのか…笑
妄想の糧になりますので、なんでもコメントよろしくお願いします!
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願う事
7月7日七夕ネタでだいぶ甘々(当社比)です。
どの様な職場にも大抵対部外者のセクションがあり、美樹さやかが勤務している警察署でも、それは例外ではなかった。
「ほんと、総務課は大変よねえ」
そう呟きながら、笹を肩に載せながら帰宅したさやかを黒髪の女性は怪訝そうに見つめた。
「何それ?夕食にでも使うの?」
「まさか」
さやかは笑いながら、笹をテーブルに置いた。それは1.5m程度の長さのもので。黒髪の女性――暁美ほむらは読みかけの本を置いてソファから立ち上がるとテーブルに近づいた。美しい顔を近づけ、さも怪訝そうな表情を浮かべる。
「……貴方また変なことしようとしてるんじゃ」
「へ、これでどうやってよ?」
ほむらは吹き出した、この蒼い髪の女性はからかいがいがある。からかわれたことに気付いたのか、さやかはやや不機嫌そうな表情を浮かべながらスーツを脱いだ。そうして足早にクローゼットへ向かう。その背中を追うようにしてほむらが軽い足取りでついてくる。素早くさやかの手からスーツを奪うと、ほむらが慣れた手つきでハンガーに掛けクローゼットへしまった。
「冗談よ」
「…もう、いいわよ」
猫の様に目を細め、そうやって微笑まれると、さやかは何も言えなくなって。
「仲直り?」
「何それ」
とうとうさやかは笑った。この美しい悪魔は時折猫みたいに気まぐれに人懐っこくなるのだ。小首をかしげ嬉しそうに笑うほむらはただの美しい女性に見えて、さやかは見惚れてしまった。
「あんたってさあ…」
「何?」
「なんでもないわ」
――今さら綺麗って言っても…ねえ?
さやかは心で呟いた。
「あら、素直に言ってもいいのに?綺麗って」
「うわ、あんた心を読んだわね!」
「だだ漏れよ」
ほむらが赤い舌をちろりと出した。赤くなるさやか。
「てか自分で言う?…って、ちょっと、ちょっと!なにすんの」
「素直に言わないからお仕置きよ」
「なんで?」
いつの間にかほむらがさやかを軽々と抱き上げていて。華奢な女性が自分より上背のある女性を抱き上げてベッドまで運ぶ光景は異様でもあり、どこか微笑ましくもあり。
「わあ、待って!私仕事から帰ったばっかりで疲れて…」
「あら、大丈夫よ疲れさせないから私にまかせて」
「絶対、嘘!」
自分の肩の上で暴れる蒼い髪の女性を見上げ、ほむらはさも嬉しそうに笑った。そうして無造作にさやかをベッドの上へ放り投げた。きゃん、と犬の様な変な悲鳴をあげながらさやかがベッドの上でバウンドした。その上にふわりと軽やかにほむらが乗った。
「ちょっと、ちょっと!」
「あら、いつもはいきなりでも応じてくれるのに?」
「……それは、まあ」
もごもごと口を動かすさやか、それを見て笑う悪魔。
どうやら今回は悪魔の方にスイッチが入ったらしく。観念したのかおとなしくなったさやかの腕をほむらは撫でながら、ゆっくりと唇を重ねた。
***********************
カラン、と氷がグラスの中で音をたてた。そのグラスを口に運び液体を喉に流し込むと、さやかは息を吐いた。時間はもう午前零時近く、ソファにもたれ込んだ様に座っているタンクトップ姿のさやかはどこか疲れ果てた表情で。その傍でやけに生き生きとしているキャミソール姿の悪魔はさやかに囁いた。
「おかわりいる?」
「いるわ」
さやかの返事でほむらはテーブルにあるウイスキーのボトルを手に取った。己のグラスに液体を注いだ後、さやかのグラスになみなみと注ぐ。二人とも酒はかなりイケるクチだ。二人はグラスを手に取ると申し合わせた様に乾杯した。チンと涼しい音が鳴る。
「ね?疲れなかったでしょ?」
悪魔の言葉に鞄持ちがむせる。飲みかけたグラスを離し、慌てて己の鳩尾を叩いた。そうしてさやかは悪魔を睨みつけた。頬が紅潮しているのはむせたからだけではないらしく。
「…あんたねえ」
「冗談よ」
そう囁いて、笑みを浮かべながらほむらがさやかにもたれる。そうなるとまたさやかは何も言えなくなってしまい、黙ってグラスを口に運んだ。ほむらがテーブルに視線を移す。そこにはさやかが帰宅した時に持ってきた笹と短冊があって。
「…警察でもこういう事するのね」
ほむらが呟いた。今日が七夕であることと、「七夕」がどういうことをするのかは、既にベッドの上でレクチャー済みで。
「いや、普通はしないけどね、大変なのよ」
総務課が、とさやかが帰宅時と同じ事を言った。不思議そうにさやかを見上げるほむら。
「?総務課って?」
ほむらは就職していないからか、そのあたりはどうも疎かった。さやかは簡単に総務課の概略を説明して、その後私的意見を付け加えた。
「まあ「どこの課にも属さない業務を所掌する」とあるものだから、お偉方からの急な依頼からその他の些細な事でも対応するようになっているの。数秒ごとで優先順位が変わるし、更にこういう行事があると率先して実施する様になっているしでとんでもないところよ」
「役所の窓口が一元化されて、さらに対応職員が一人だけみたいなものね」
「うわ、それ怖いわね」
他愛も無い話しで盛り上がり、二人酒が進む。しばらくしてさやかが短冊を取りあげ、ほむらの前にかざす。
「それでさ、笹が余ったみたいなんで、短冊と一緒にもらってきたの、書いてみない?」
「……願いごとね」
「…もしかして、嫌だった?」
ほむらが美しい容貌を少し曇らせるものだから、さやかが心配そうに尋ねる。だが悪魔はかぶりを振って。
「いいえ、嫌ではないのだけれど、私の願いはもう叶っているから」
「ああ…」
そういえばそうだ、とさやかは思う。最愛の人――鹿目まどかを人間に戻し、人としての幸せを全うしてもらう。それがほむらの願いだった。
「だから、これ以上の願いなんてもう無いのよ」
「そう…」
一抹の寂しさを覚えながらもさやかは黒髪の女性の言葉に頷いた。しばらくさやかは窓の外の星を見つめて。
「じゃあさ、私があんたの分、別のことを願ってもいい?」
「え?」
不思議そうな悪魔に対し、フフフと悪戯っ子の様な笑みを浮かべさやかが短冊に何か書きこんだ。怪訝そうに覗きこむ悪魔の表情はとても複雑で。
――ずっと一緒にいられますように
短冊にはそう書かれていて。
「馬鹿ね」
悪魔はただそう呟いて、顔を隠すようにしてさやかの肩にもたれた。
「そうね、馬鹿だけど…」
さやかはまた星へ視線を向けて。
「でもあんたとずっと一緒にいたいわ」
そう囁いて。
「さやか…それは願いごとじゃないわ」
「え?」
さやかの肩にもたれたまま、ほむらが星を見上げて囁いた。
「貴方と私がずっと一緒にいるのは、願いからじゃない…」
さやかは黙って悪魔の言葉を待った。
「決定事項…」
さやかがほむらに視線を向ける。ほむらの方もさやかを見つめて。
「運命よ」
しばし見つめ合う二人、ようやく悪魔の気持ちをさやかが理解して。
「ああ、そうね…そうだわ」
そうしてさやかは嬉しそうに微笑んだ。
「しょうがない人ね、やっとわかったの?」
悪魔は短冊へ指を伸ばした。一瞬で短冊が燃え上がり手品の様に消えた。
二人は微笑み合うと、視線を夜空へと向ける。
満天の星の傍、蒼い半月は静かに佇む二人を照らし続けていた――。
END
私と貴方が一緒にいるのは、約束でもなんでもなく決定事項―-そうほむらが言い切れるようになったのもまた、時の流れのおかげかもしれません。
ではでは感想等ありましたら是非!
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二人のひととき
「…いろいろ変わるものね」
「へ?何が?」
憂いを帯びた表情でほむらが囁くと、その傍で間髪いれず間の抜けた表情でさやかが聞き返した。ぱちん、と乾いた音がする。
「あいた!何すんのよ」
「元凶に言われると腹が立つものよ?」
「何よそれ」
垂れ気味な目を更に大きくしながら、蒼い髪を軽くさやかは掻いた。その仕草はどこか間の抜けたような犬で。おそらく彼女の横でじい、と凝視している美しい悪魔もそう思ったのだろうか、ひときわ大きくため息をつきながらこう呟いた。
「……犬みたい」
「ひど!」
とうとう寝転んでいた蒼い髪の女性は身体を起こして抗議した。
*****************
休日の何もない日、彼女達は暖かい日差しを浴びながらソファやベッドでくつろぐことが日課になっていた。たとえばキャミソールだったり、タンクトップだったりかなりゆったりとした格好で昼近くまでのんびりと過ごすのだ。
「いやあ、でもほんとのんびりできるって幸せだわ」
ベッドのヘッドボードにもたれながら、さやかは両手を伸ばした。気持ち良さそうなその姿を見て、再びほむらの脳内で相方の姿が犬に変換されるが、今度は特に何も言葉を発さなかった。体育座りのまま、ほんのちょっとだけ肩をすくめてほむらは相方を流し目で見つめる。白磁のような肌に長い黒髪がかかった。
「………」
「……、何よ、あんた何か言いたそうね」
だが、美しい黒髪の女性は特にさやかに何かを語りかける訳でもなく、じい、としばらく相方を見つめた後、ふい、と顔をそむけ窓の外へ視線を向ける。猫みたいだ、とさやかは思った。
「変なの」
ふ、とさやかは笑った。年齢の割に彼女は子供っぽいところが多々あるためか、笑顔を浮かべるとちょうど、中学生くらいの頃の面影が浮かぶ。
「不思議だわ」
と、空を漠然と眺めていたほむらが呟いた。
「…何が?」
そう言った後、さやかがはっ、と何かに気付いたかのように己の額を両手でガードした。さきほどと似たような会話の流れから、また額を叩かれると推測したのだろう。だがさやかの予想は外れ、返って来たのは悪魔の思わぬ言葉で。
「なんだか楽しいのよ」
「………」
日射しを浴びたほむらの横顔は悲しいほど綺麗で、さやかは何故かそれを見てせつなくなって、つい彼女の黒髪に触れようと手を伸ばし、そして途中でやめた。
「まあー…それはさ、きっとあんたが、なんだろう…幸せって感じてるからじゃないの?」
「幸せ?」
「そ、さっきの続きじゃないけど、あんたも私もさ、きっと変わったのよ」
この10年で、と呟くと、さやかも窓へ視線を向けた。ほむらが悪魔と化してからもう10年経過した。その間にさやかはほむらからありとあらゆる「可能性」の話を聞いてきた。例えば、未だワルプルギスの夜で挫折している世界軸の存在、ほむらが悪魔と化していない世界、まどかがそもそも魔法少女になっていない世界…あらゆる可能性が広がる多元世界……。
「成人している私達が存在している世界なんて、ここだけじゃないの?」
さやかがほむらへ視線を向ける。気付くとほむらは猫の様にさりげなくさやかの肩に頭をもたれさせていて。
「いいえ、少なくともあと一組は確認できたわ」
「そうなの?」
「ええ、でもそこでは貴方は何も覚えていなかった」
悪魔と化したほむらは次元を超えることができる。ただあまりにも力を消耗するため、なかなか使うことはないが。
「そう、じゃあ何が起きたかを「知っている」のはこの世界の私だけ?」
「そうね、希少種だから不本意だけど一応大事にしないと…」
「ちょっとぉ…」
くすくすとほむらがさやかにもたれたまま笑う。どうやらからかっているようで。
「でも、そうね…私が変わったのは貴方のせいだわ」
「…どんな風に?」
目を細めて微笑む悪魔を眩しそうに見つめながら、さやかが聞いた。悪魔の白い腕がさやかの腕に絡まる。
「細かく教えてあげるわ」
そう囁いて、悪魔は蒼い髪の女性の顔へ自分の顔を近づけた―-。
END
「変わったのは貴方の所為よ」と囁いてさやかにそっともたれたり、キスしたりするほむら…
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ほむらカラオケに行く
これは二人が表面上大学生として人間らしく生活していた頃の話。
見滝原市の中央にあるショッピングモールは地下にカラオケ店が一軒ある。だいたい休日や平日の夕方は学生客でごった返すのだが、その日もご多分に漏れずだいぶ混雑していた。ほんの少しだけ違うとすれば、フロント前の待合い席に人目を引く二人の女性客がいることだ。年の頃は20代前半、カジュアルな服装から大学生だと想像はつくが、黒髪の女性の方は恐ろしいほどの美貌の持ち主であり、もう一人の蒼い髪の女性はとてつもなく美しいという訳ではないが整った顔つきで、どこか人目を引いていた。アイドルだろうか、と訝しがる学生客達が時折好奇の目で二人を見つめていた。
「まどか遅いわねえ」
蒼い髪の女性が入り口を見ながら呟いた。その横で黒髪の女性は涼しげな表情で目を瞑っている。
「あ、来た来た、おーいまどか」
立ち上がり蒼い髪の女性が入り口に向かって手を振った。
入り口には、二人と同じカジュアルな服装に身を包んだ女性が現れて。桃色の髪に年齢よりも幼くあどけない容貌。可愛らしいという形容詞がぴったりな女性は二人を見て嬉しそうに手を振り返した。
「さやかちゃん、ほむらちゃん!」
******************
一日前――
「カラオケ?」
美樹さやかはきょとんと目を大きくあけて、珍しく悩んだ様子の黒髪の美女を見つめた。ベッドの端にちょこんと腰掛けて、足を組んで頬杖をついているキャミソール姿の悪魔は艶めかしげで。
「・・・そうなのよ」
「あんたがカラオケに行くなんて成長したわねえ・・・」
「成長?」
ほむらのアメジストの瞳で睨まれて、タンクトップのラフな格好の蒼い髪の女性は慌てて胸の前で手のひらを振る。
「あ、いやいや、別に変な意味で言った訳じゃないわよ、昔のあんたからは想像つかなくてびっくりしたのよ、でもなんだか嬉しいわ」
「嬉しい?」
「そ、あんたいつも口を開けばまどか、まどかで、頭の中もまどかばかりだったじゃない?表面上でもこんな風に他人とカラオケに行くようになるなんて、なんだか感慨深いわ」
「何よそれ、貴方私の保護者か何か?」
ふ、とほむらは口元を緩めた。この蒼い髪の女性は元々おせっかいな性質の持ち主だが、成長してからはことさらそれが増長されてきている。
「自分のことは棚にあげて、言いたい放題ねさやか?」
「ひど!・・・まあ私も成長しているとは言い難いけどさ」
さやかがテーブルのポットを取りカップにコーヒーを注いだ。コーヒーの香りにほむらが目を細める。さやかがほむらに歩み寄りカップを手渡した。
「ところでカラオケって誰と行くの?」
「佐藤教授とゼミの先輩よ」
「ああそれで断れないわけね」
さやかが合点がいったように呟いた。佐藤教授はほむらのゼミの担当教授だ。珍しいことだがほむらはこの初老の女性をいたく敬愛していた。どうやら最愛の人である鹿目まどかとの共通点を彼女に見いだしているらしい。
「でもあんたカラオケとか行ったことないでしょう?」
「・・・そうなのよ、そこが問題よ」
ほむらが苦々しげにささやき、カップを口に運んだ。さやかはなんとはなしにそのカップを見つめて。あ、と何か思いついた様に呟いた。
「ねえ、それじゃ予行演習しかないじゃない、ね、そうしよ?」
「予行演習?」
「そ、私とまどかとあんたの三人でカラオケに行くのよ」
そうしてさも得意げにさやかは微笑んだ。
「まどかも?」
まどかという言葉はこの悪魔にかなり、というか絶対的に有効だ。先ほどまで憂いの表情を浮かべていたほむらが、あっという間に恋する乙女の様に頬を赤らめている。わかりやすいなあとさやかは心で呟いて。
「そ、私も最近カラオケ行かないからさ、歌のレパートリー少ないし、まどかがいればそこらへんいろいろ教えてくれるっしょ?」
「え、ええまあそうね」
まんざらでもないという表情でほむらが頷く。
「ところでさ、あんたって何か歌えたっけ?」
「歌?それくらい余裕よ」
「へえ、どんな歌?」
「校歌」
さやかの表情が一瞬固まる。それを見て不思議そうに首をかしげるほむら。
「どうしたの?」
「いや、なんでもないわ、てか校歌ってマジ?」
「本気よ見滝原中学の校歌なら余裕よ」
「いや、だめよ校歌ってカラオケに入ってないから」
「そうなの?」
「ほら、それ以外でさ、中学や高校生の頃はやった歌とかあったじゃない」
さやかが慌てた様子で当時の歌の曲名を何曲か挙げた。だが、どれひとつほむらはわからなくて。
「?聞いたこと無いわ」
まずいわ、とさやかが頭を抱えて呟く。その様子が可笑しかったのか、口元を緩めてほむらはさやかの背中を指でつつく。ここ数年で二人の関係は緊張をはらんだものから別のものに変化しつつあるらしい。
「ねえ、そんな風にすると急に発狂したみたいよ?それに他にも歌える曲あるから心配には及ばないわ」
「え、そうなの?他に何が・・・・まさか」
ほむらの得意げな顔を見て、さやかが不安げな表情を浮かべる。
「国歌よ」
「やっぱり!てかだめよ!」
「?どうしてよカラオケに無いの?」
「いやあるけど、それ歌っちゃ・・・」
「歌っちゃ・・・何?」
さやかはほむらが威風堂々と歌う姿を想像した。確かに美しいが、だがしかし。
「私ならともかく、聞いている人が驚くわ」
「どうして?」
「どうしてって・・・国歌なんて世界規模の競技大会でしか・・・いや、違う違う、なんていうのかしら、ほら、大昔風にいうと「意識高い系」な人に勘違いとか・・・」
「何それ?」
ほむらがふ、と笑った。話の内容というより、さやかの慌てぶりが可笑しかったのだ。
「まあいいわ、それじゃあそれ以外の曲をまどかから教えてもらうわ」
「そう、それがいいわ」
ほむらの言葉にさやかがほっとした様に囁いた。実は数年後さやかの方が警察学校で嫌と言うほど国歌を斉唱することになるのだが。
***********
現在――
「この店あんまり変わってないわねえ」
「そうだね」
まどかの言葉にさやかは頷く。このカラオケ店は中学時代から利用していたが、店内はあの頃とまったく変わっていない。3人なので少人数用のボックスだが、カラフルな幾何学模様が壁一面に描かれており、中央に大きなスクリーンが埋め込まれている。物珍しそうにきょろきょろとあたりを見回している黒髪の女性に気づいて、まどかが目を細める。
「ほむらちゃん、カラオケに来るの初めてだっけ?」
「ええ、そうよ」
ほむらがまどかの方を恥ずかしそうに見て囁く。その横で、さやかがあきれたようにまどかに言った。
「そうなのよ、そのくせ今度ゼミの人たちとカラオケに行くっていうからさあ、まどかいろいろ教えてやっ・・・痛!いたたたた!」
ほむらがさやかの手を掴み軽く捻った。だが相当痛いらしく、さやかは一人のたうち回っている。
「ほ、ほむらちゃん、さやかちゃん痛がってるよ」
「大丈夫よこれくらいで死なないわ、普段はもっとーー」
「もっと?」
もっとなんだろう?とまどかは気になったが、ほむらはさやかの手を離すとまどかに近寄り、さあ、はじめましょうと囁いたので、この話題は終了した。一人さやかだけしばらくのたうち回っていたのだが。
「それじゃ、私から歌うね」
テーブルに立てかけられている薄型のタッチパネルを取ると、まどかが操作を始めた。その横で興味深げにのぞき込むほむら。普段なら恥ずかしがってそんな風に距離をつめないのだが、今回ばかりは初めてのカラオケに夢中らしい。くすりとまどかが笑って、操作方法をほむらにレクチャーする。
ーーまどかって、ほんと天使だわ
さやかが二人のやりとりを見ながら心で呟いた。微笑ましい二人の姿に自然と口元が緩む。なんだかこんな姿を見ていると過去の出来事なんて嘘のようだと思ってしまう。なにやらほむらがおそるおそるタッチパネルに触れる様子を見て、さやかは目を細めた。
室内になにやら力強い音楽が流れた。
「あ、はじまった」
まどかがマイクを手に取る。横で何が始まるかと子供のようにわくわくしているほむらと、向かい側で何が流れるんだと不安げなさやか。画面に現れた曲名は一昔前のもので。さやかがあ、と声をあげた。
「演歌?」
「えへへ、私この曲大好きなんだ」
まどかが左手を胸の前に構えて歌い始めた。
「わあ、うまいわ・・・」
「まどか素敵だわ」
そういえばまどかは演歌が好きだったな、とさやかは思い出す。以前居酒屋でまどかが嬉しそうにほむらとさやかに演歌について語っていたのだ。その時も拳を効かせるということをほむらに一生懸命語っていた。ほむらはすっかり気に入って、何度も拳を効かせる動きをしたが、どうみてもジャンケンの前動作の様だった。
「しかし、ほんとまどか演歌うまいわねえ」
まどかはとても可愛らしい声をしているのだが、芯があるというか、さびの部分や拳を効かせる部分はすごく迫力があった。ほんとうまいわ、とさやかが感心し、ふとほむらの方を見るとこれまた両手を組んで、心酔しきった様子でまどかを見ている。
ーーデレデレか!
思わずさやかは心でつっこんだ。これではまどかの歌ばかり聴いて練習にならないかもしれない。
と、最後のサビが終わり、歌が終了した。
「まどかうまい!」
「素敵だわ」
さやかとほむらが拍手する中、まどかはえへへと子供っぽく笑いマイクをさやかに渡した。
「よーし、次は私、久々に歌っちゃおう!」
さやかは高校生の頃にはやった歌を選曲する。恋愛というよりも、明日に向かって進もうという様な前向きソングで、メロディが覚えやすく魔獣退治する時にも口ずさんだくらい気に入っている曲なのだ。打ち終えるとさやかはほむらにタッチパネルを手渡した。おそるおそる受け取るほむら。
「大丈夫だよほむらちゃん、さっき教えたとおりに操作すれば」
「そうね・・・でも歌える曲が無くて」
「そうなの?」
珍しく困った様子のほむらを見て、まどかが心配そうな表情を浮かべる。
「国歌は歌えるんだけど・・・さやかが歌わない方がいいって」
「国歌?ふふ、なんだかほむらちゃんが歌うとかっこいいかも、でもさやかちゃんの言うとおりだね。それじゃあ・・・」
まどかがいいことを思いついたというように、ほむらに微笑みかけた。
「私の好きな演歌で、ほむらちゃんもすぐ歌えるような簡単な歌があるの、それを覚えるまで一緒に歌おう?」
「まどか・・・」
感激したといわんばかりの感極まった表情でほむらはまどかを見つめる。この表情はさやかに見せたことのない顔で。まどかは無邪気にえへへと笑った。
「ちょっと、そこ、私の歌を聞いて!」
マイクでさやかが叫ぶと、二人は思い出した様に笑い出した。
****************
「いやあ、歌ったわねえ・・」
「ふふふ、そうだね、さやかちゃんもがんばったね」
「まあ、ほとんど同じ曲だったから」
さやかが苦笑いしてまどかに囁く、そうなのだ、あれからはずっと同じ曲ーーまどかの勧める演歌を三人で合唱の様に歌い続けていたのだ。
「でもあれなら、ほむらちゃんもばっちりだね」
「ありがとう、まどか」
ほむらがまどかに囁く。だいぶ歌ったからか、悪魔の顔は少し紅潮していて。
「二曲さえ歌えれば、あとはどうにかなるわよ」
「貴方っていつも適当ね」
「ひど!私にもお礼くらい言ってよ」
ほむらが白い手をひらひらと振りながら、舌をちろりと出した。
「何それ、てへぺろの変形?ひど!」
まどかが吹き出した。この黒髪の友人は、さやかに対してだけは辛辣なのだ。
「それじゃあ、そろそろ遅いから私帰るね」
「うん、ありがとまどかおかげで助かったわ」
さやかの言葉にまどかは少しだけ頬を赤らめて、えへへと笑った。
「今日はすごく楽しかった。また、さやかちゃんとほむらちゃんと歌いたいな」
「私もよまどか、また一緒に歌いましょ」
「そうそう、ほむらのカラオケの報告もあるしね」
三人は笑いながら店を出た。それから二言三言言葉を交わすと帰路に着いた。
「いやあ、よかったわね、これであんたもカラオケに安心して行けるわね」
「・・・・・・」
「ん?どうしたのさ」
二人きりになり、ほむらはさきほどよりも無口になった。いやというよりいつも通りかとさやかは思い直す。
「さやか」
「ん?」
「ありがとう」
「え?」
さやかは驚いた。まさか悪魔の口から感謝の言葉を聞こうとは。
「・・・何よその顔は」
「いや、えへへ、あんたからお礼なんて久しぶりだわ」
「・・・言わなければよかったわ」
デレデレとしたさやかの顔を見て、ほむらは心底後悔したように呟いた。
そうしてスタスタと早歩きを始める。慌てて追いかけるさやか。それを横目で睨んでため息をつきながらほむらが囁いた。
「ほら・・」
ほむらが左手を少しだけ動かす。催促だ。さやかは当たり前のようにその手を掴んで。ゆっくりと指を絡めて。
「えへへ」
「・・・これ以上デレデレしたら指を折るわよ?」
「うん・・」
「・・・もう」
あきれたような悪魔と、さも嬉しそうな鞄持ち。二人は手を握ったまま家路についた。
佐藤教授とのカラオケで、結局ほむらが国歌も歌い、さやかも乱入して大盛り上がりしたのはまた別の話。
END
ゼミのカラオケ会…ほむらが歌ったら、歌そのものよりもその顔に見惚れてしまう学生多数の予感笑
ではでは感想ありましたらよろしくお願いします!
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ほむら内緒にする
「愛ってなんだと思う?」
「へ?どうしたのさ、急に…まあそうねえ」
いきなりの悪魔の問いに驚きながら、まんざらでもないのだろう、さやかは目を閉じしばし考える、だが浮かばないのだろう、困ったようにほむらを見つめて。
「わかんないわ、あんたわかる?」
そんな情けない蒼い髪の女性を見て、枕の上で頬杖をつきながら、ほむらは口元を緩めた。
「わかるけど内緒よ」
「なによそれ」
部屋の天井へ視線を向けながら、さやかは肩をすくめた。この黒髪の女性は大抵大事なことはこうやってうまいことはぐらかす。もう何年も一緒にいるのにどうにも問い詰めることができない。原因は悪魔のその急に浮かべる微笑みだったり、面白そうにこちらを見上げる眼差しだったり、とにかくこいつの突出した美貌のせいなのだ、とさやかは思っていた。
「…ったく、あんたっていっつもそう」
ベッドのヘッドボードにもたれたまま、さやかは白いシーツから手を出して己の蒼い髪に触れた。そしてほだされる自分が一番情けないのだという結論にいたり、ため息をつく。
「あら、また独りよがり?」
貴方それ好きよね、とさやかの横でうつ伏せになりながらほむらが囁いた。シーツの下から華奢な肢体が少しずつ現れる。どうやら二人ともシーツ以外身に纏ってないようだ。と、ほむらはゆっくりと上体を起こし、さやかの指に己の指を絡ませてきた。白く細い指。
「機嫌直しなさいな」
「……」
彼女は変わった、とさやかはこういう時いつも思う。まどか以外の人間にこんな風に気に掛けることもそしてこんな風に見つめることもなかったはずだ。目の前の美しい女性を見つめながら、10年前の面影を探す。あの頃と同じくらい、いやそれ以上に美しく成長した女性。悪魔と化してから陰鬱な影を宿した双眸も今は艶めかしく輝いていて。
―どうにも慣れないわ
頬を染めて、さやかが視線を宙に彷徨わせる。ほむらはそんなさやかを見ながらさも愉快そうに笑った。
「貴方ってほんと変わらないわね」
「…悪かったわね」
そうなのだ、この10年、どうあってもこの悪魔の美貌に慣れることはついぞなかった。この新たに改変された世界で初めて対峙した時から、今まで。
「だってあんたが…」
「私が?何?」
憎たらしい、けれど――
「知ってるくせに…」
とうとう、蒼い髪の女性の方が本音を漏らす。どうにも美樹さやかという人物は根比べに弱いようだ。対して美しい悪魔の方は強いようで。くっ、くっ、と肩を震わせながら嬉しそうに笑うと、勝ち誇ったような顔でさやかに顔を近づけた。悪魔の柔らかい唇を感じながら蒼い髪の女性は目を瞑った。
*************************
この10年で変わったことは結構あるが、ここ最近の変化と言えば、悪魔のこういうところだろう、と蒼い髪の女性はほむらの背中を見つめながら思った。長い黒髪の隙間から見える白い肌を眩しそうに見つめながら、さやかはその髪に触れる。以前は――初めて身体を重ねた頃は、ほむらは行為の後拒絶するように数時間顔も合わせず、口も聞かなかった。だが今は。
「…何?」
ゆっくりとほむらはさやかの方へ振り向くと、気だるげに囁いた。それが嬉しかったのだろう、さやかの方は少し垂れ気味な目を細めて微笑んでいて。
「…気持ち悪いわ」
「ひど!」
さも嫌そうな表情のほむらを見て、さやかは口を尖らせて。だがそれも冗談だと心得ているのだろう、二人は同時に口元を緩めた。そうして、さやかは飼い主に伺いを立てる犬の様にほむらを見つめ、首をかしげながら聞いた。
「ねえほむら、さっきあんたが言ってたことってさ…」
「何?」
「ほら愛がなんなのかって」
「ええ言ったわ、何、答えでも見つかったの?」
さやかは頷いて力強く言った。
「愛は永遠なのよ」
ほむらの美しい容貌が一瞬固まって。
「…貴方よく恥ずかしいことが言えるわね、本当に哲学科卒?いいえ、哲学科卒だからかしら」
「うわ、なんだか二重にひど!なによ、そんな風に言うなら、あんたの答えを聞かせてよ」
「まどかよ」
今度はさやかの表情が固まって。
「…ベタ過ぎでしょそれ、てかだったら、私に今更聞く必要無いじゃない」
「そうね、でも聞きたかったのよ、貴方の意見が」
「どうして?」
「そうねえ…」
かなり珍しいことだが、美しい容貌に満面の笑みを浮かべて、ほむらは囁いた。
「内緒」
なによそれ、と言おうとしたが、またさやかは唇を悪魔の唇で塞がれて。
悪魔にどんな心境の変化が起きたのか、元円環の鞄持ちにはわかる術も無く、ただなすがまま。その後、再びシーツに潜った二人がどうなったかはまた別の話。
END
余談の余談
いまさらですが、元鞄持ちの愛の定義を知りたがった悪魔は、実は定義よりも己が「何故」「この人から」聞きたかったのかを理解しそれが心地よいものであったから微笑んでます。そんな二人の甘甘なお話が書きたかったという(何)
また、「愛の定義」(同じく10年後の大人ほむさやの話ですが、さやかが記憶無しという設定)でもほむらの「愛の定義とは?」という問いにさやかは答えられないのですが、きっとさやかは思春期時代の上条君へのほのかな恋の経験から恋は理解していても、愛については、まださほど答えられるほど成長しているとも言えないということでしょうか。ほむらについては、叛逆の物語で自らの変化を「愛よ」という言葉で語っているとおり身をもって愛を知っているのです。その違いがまた二人の関係に面白い影響を与えているのかなと妄想しています。
ではでは。
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棒の8
「魔獣は暗闇より」(R18)と「犬の証明」https://syosetu.org/novel/303494/1.htmlに絡む短編です。シリアスな部分や警察ものの話はそちらを読まないと「?」となると思いますが、ほむらとさやかの甘々なシーンは存分に楽しめますので、興味のある方は読んで頂ければと思います。
「ん~っ…」
美樹さやかはソファの上で寝転がったまま両手を伸ばし、気持良さそうに声をあげた。
「ふわあ」
間の抜けた声をあげて、一気に力を抜く。そうしてまた気持良さそうに目を瞑った。
休日の朝、彼女は早起きしたのはいいが、またすぐに眠くなりこうしてソファで寝転んでいた。要するに二度寝という奴だ。陽光の下、下着にワイシャツ一枚羽織って「ごろごろ」する姿は煽情的というよりも健康的で。長い手足をソファからはみ出させながら、さやかは身じろぎして仰向けになる。
「何してるの?」
「わ!」
艶のある声に驚いて、さやかは目を開けた。
「ほむら…あんた起きてたの?」
ソファの後ろに黒髪の美しい女性が腰に手をあて立っていた。白のキャミソール姿に髪に透き通るような白い肌。繊細な線で書き込んでいったような整った顔立ちと輪郭――
恐ろしいほど美しい黒髪の女性は、まるでこの世の者では無いようだ。だが今朝は珍しくその顔に「人間らしい」表情を浮かべてため息をついた。
「起きてたも何も、「飼い主」の務めだから当然でしょ」
「へ?務めって…」
「横で寝ていたはずのしょぼくれた犬がいなくなっているんですもの、探さないと…」
「ああ…ごめん、つい二度寝して…てか、犬って!あんたまだ私を犬扱いして…」
「え、違うの?」
不思議そうな表情を浮かべるほむら。
「え?…って、もう!」
一瞬戸惑って、そして数秒遅れて抗議するさやか。
ほむらは吹き出した。ソファの縁に両手をつきながら、くっ、くっ、と肩を震わせる。からかわれた怒りよりも、その嬉しそうな顔にさやかは新鮮な驚きを感じて。――こんなに人間的な表情を浮かべる彼女をさやかはあまり見た事が無かった。
「まあ、いいわ…二度寝なら許してあげる」
そう、悪魔は傍らで寄り添っていたはずの忠犬がいないことに不安を感じていたのだ。一緒に暮らすようになってから、8年。いつの間にか互いの体温を傍で感じるのが当たり前
になっていて。
「その代わり…」
そう囁くと美しい悪魔は両手を水平に広げた。Tの字に頭が飛び出た形になる。小首をかしげるさやか。
「へ…あんた何してんの?」
光合成?とさやかが呟くと、ニヤリとほむらは口元を歪めた。さやかは嫌な予感がした。と、今度は両手を下ろし、右手だけ高々とあげる。まるで手旗信号のようだ、とさやかは思った。そのシュールな相方のポーズをしばらく見つめ、さやかはハッ、と何かに気付く。
「あ、あんたまさか…」
「いくわよ」
次の瞬間、ソファの縁に手をかけたほむらの肢体がふわりと宙に舞った。
「わあ!」
さやかの視界いっぱいに相方の姿が映って。
「ぐえ!」
蛙のような声と、笑い声が同時に起きる。さやかの身体の上に悪魔がダイブしたのだ。バウンドして、ソファから転げ落ちそうになるほむらをさやかは背中から抱きしめた。ソファの上でもつれる二人。
「ちょ、ちょっとあんた!危ないじゃないの!」
アハハ、と珍しく声をあげてほむらが笑っている。
「アハハ…って、もう!」
華奢な身体を背後から抱きよせながら、さやかは顔を覗き込む、するとあちらもそうしたかったようで、上目遣いでこちらを覗き込んでいた。
――ビックリシタ?
猫のように目を細めて、ほむらは囁いた。
「びっくりしたわよ…」
そう言って、さやかはほむらを抱き寄せた。楽しげに声をあげるほむら。時折こうやって子供のように彼女達はじゃれることがある。この手の子供っぽいじゃれつきはほとんどがさやかの方から仕掛けることが多いのだが、時折美貌の悪魔から仕掛けることもあるのだ。こういう時、さやかはなんだか泣きたいような嬉しいような不思議な気持ちになる。華奢な相方の肩に顔をもたれさせて、さやかは幸せそうに目を瞑った。彼女の体温と鼓動を感じながら。
――このまま時が止まってしまえばいいのに
相方の保有能力も忘れ、さやかは思った。
…だが、そううまくはいかないらしい、それからほんの数秒後にさやかの携帯の着信音が高らかに鳴った。
* * *
人事異動の対象者に限って、なんで当日休みの場合が多いのか――岡山は心の中で愚痴をこぼす。しかもよりにもよって一番手塩にかけて育てたかった部下が異動なのだからタチが悪い。はあ、とため息ひとつついて、初老の男は携帯を切った。机の上には異動の内示の紙きれが一枚。アナログだが、連絡を取った異動対象の部下の名前を一人一人ペンでチェックを入れていた。
美樹さやかもチェック済みだった。
白髪を乱暴に掻いて、初老の男は立ち上がる。無機質なマル暴の刑事の執務室の中には、主任である岡山と若い部下一人しかいなかった。
「主任…とうとう美樹も異動ですね」
「ああ、まったく…まだ半人前のクセしてよう…」
そう言って、立ち上がる上司の背中を若い男は苦笑しながら見つめた。口は悪いが、蒼い髪の部下を誰よりも可愛がっていることは、課内の刑事は皆知っていた。と、初老の男は背中を向けたまま部下に声をかける。
「なあ、山本、ちょっと留守番しててくれないか」
「はい、わかりました…どちらへ?」
「…ちょっとな」
岡山は呟いた。険しい表情を浮かべながら。
* * *
「はい、わかりました、それじゃあ明日…」
神妙な面持ちで携帯を切る相方を、ほむらは不思議そうな表情で見つめていた。
「……どうしたの?」
つい先ほどまで身体を重ねながらじゃれ合っていた二人は、今はまるで会社の面接の様にソファの上で姿勢正しく座っていた。さやかの上司である岡山からの電話の所為だ。時折このように、さやかが休日の時、あるいは夜中、岡山から呼出の電話がかかることがある。
警察官は本当に過酷な仕事だとほむらは思う。時折仕事を辞めるようほむらは相方に進言するのだが、相方は笑って取り合わない。こういう譲らない所はお互いに似ているなとほむらはふと思った。
「うん…「異動」だって」
電話を切ると、さやかはほむらを見つめながら囁いた。イドウ?とほむらがオウム返しに呟く。相方よりも稼いではいるが、働いていないため、そっち方面にはほむらは疎かった。
「人事異動よ、マル暴から別の課に異動になったわ…ついでに職場も変わる。本部勤務よ」
「遠いの?」
「今より少し遠いわ、でも通える距離ね」
「そう…なら別に問題ないわ」
息を吐いて、黒髪の女性はさやかの肩に頭をもたれさせた。仕事の内容には興味が無いらしい。
「あ~あ…でも寂しくなっちゃうなあ」
「岡山さんのこと?」
「うん、警察の仕事でそんなことはいってられないけどさ…」
蒼い髪の女性が初老の上司を心から尊敬していることをほむらは知っていた。以前仕事中に魔獣と融合した暴力団員に襲われた時も、彼女は瀕死の重傷を負いながら彼を探し続けていたのだ。さやかの肩にもたれながら、はあ、と悪魔はため息ひとつついて。
「ねえ、貴方…もしかして好きなの?」
「は?ち、違うわよ、何言ってるの!私はただ上司として尊敬してて、後…」
「後?」
「なんだかお父さんみたいだなあ…って」
照れた顔を隠すことなくへらへらと笑う相方を、ほむらは嘆くような目で見つめた。こういう自分の感情を隠すことができず表情に出してしまう所は中学生の頃と全く変わらない。
「……呆れた、貴方ってそういう所は中学の頃と変わらないわね」
「へ?な、なにがさ?」
相方の肩から頭を離し、ほむらは顔を近づけた。
「上条君にのぼせてた頃よ、あの時と同じでデレデレして見てられないわ」
「はあ?恭介は関係ないでしょ、あいつはとっくに…それにデレデレなんて」
そう、美樹さやかが少女の頃淡い恋心を抱いていた少年は、いまや世界的な音楽家として活躍している。そして志筑仁美と婚約した。肩をすくめ悪魔はそっぽを向く。
「どうだか?貴方って誰にでも尻尾振るし」
「そんなことないわよ、私、あんたにしか尻尾振らないわ!」
しれっ、と大胆な事を口にするさやか。だが相方であるほむらももう慣れきった様子で。
「そう?」
「そうよ!」
「ほんとに私だけ?」
「当たり前でしょ!」
なんだか中学時代に戻ったような錯覚に捉われながら、さやかは相方の背中を見つめた。
まさかとは思うが……拗ねているのだろうか?
「……じゃあ、私の言うこと聞いてくれる?」
「もちろんよ、いつも聞いてるじゃない」
「ついでに首輪もつけてくれる?」
「もちろん…って、え?」
よく見ると、悪魔の肩は小刻みに揺れていて。横目でアメジストの瞳がこちらを面白そうに覗きこんでいる。ようやくからかわれていることに気付くさやか。
「あ…あんた、からかったわね!」
「ほんと、貴方ってわかりやすいわね」
くすくすと笑って、ほむらはソファから立ちあがった。軽やかに窓辺へ向かう。彼女の視野に広がるのは朝の街並み。ゆっくりと近づき、その横にそっと寄り添うさやか。大人の女性に成長した二人は、ただ黙って共に街並みを見つめている。
「ねえ……」
しばらくして、ほむらが口を開いた。形のいい唇。視線はそのままで。
「なあに?」
さやかはその横顔を見つめる。美しい、常に何かに耐えている様なほむらの横顔を。彼女は哲学的なほど自分に厳しく、そしてまた繊細であった。さやかは時折彼女の内面が知りたくてたまらない衝動にかられる時がある。
「……貴方が警察官になりたかった訳が今ならわかる気がするわ」
「………」
「性質だけじゃない、貴方にはそれなりの「過去」があった…」
「………」
「あの時」の事を言っているのだと察しがついたさやかはただ黙って聞いた。
「でも忘れないで」
ほむらがゆっくりとこちらを向いた。吸い込まれるようなアメジストの瞳。
「貴方にはもっと大事な事があるわ」
白い手が伸びて、さやかの腕を捉えた。見つめ合う二人。
「大事な事…」
さやかの瞳に真剣な表情の女性が映る。蒼とアメジストが交わって。
「私よ」
さやかの息が一瞬止まった。
「貴方は私とずっと一緒にいるの」
「……」
「ずっと一緒にいて、魔獣を倒し、まどかの生を見届ける…そして」
ほむらの手がスライドし、さやかの手に触れる。握り返すさやか。
「それから後もずっと一緒……でしょ?」
首をかしげながら、さやかは微笑む。
「ええ…わかってるじゃない…」
お利口さんね、と呟いて、ほむらはまた視線を窓の外へ移す。その頬はほんの少しだけ紅潮していて。指だけは離れることなくしっかりと絡み合って。さやかは少しだけ柔らかくなった相方の横顔を満足気に見つめると、同じように視線を窓の外へ向けた。
「だから…他の事に惑わされないで…さやか」
ほむらの柔らかい指がさやかの指に強く絡んで。
「私以外の事は皆…たいしたことはないわ」
「……ほむら」
――ああ、この女性はなんて……
さやかはその手を強く握り返す。そうして震える唇で囁いた。
「……ありがとう」
しばらく二人は無言のまま、街並みを見つめ続けていた――。
*******
○県本部の刑事課の個室にその男はいた。
実際はその部屋は刑事課長のものだったが、今はある「特命」のためこの特徴の無い男が使用している。オーク材のデスクの上に広げられた書類を揃えると立ちあがり鞄に入れる。
書類にはクリップで蒼い髪の女性の写真が数枚挟み込まれていた。
――トントン、
ノックの音がして、男の手は止まる。
「…どうぞ」
「入るぞ」
渋いバリトンの声と共にドアが開く。入って来たのは黒いスーツの長身の初老の男。
「ああ、貴方は…」
特徴の無い男は目を細める。長身の白髪の男とは面識が無かったが、その圧倒的な存在感と見る者に畏怖の念を起こさせる強い眼差しで察しはついた。
「○○署の岡山さんですね?わざわざ本部までお越しくださって…」
そう言って、友好的に手を差し出した。
岡山銀二郎、一昔前の「名刑事」の称号を持つ男だ。そして特徴の無い男と「上層部」が逸材として目をつけた蒼い髪の女性の上司でもある。岡山はポケットに両手を突っ込んだままだった。どうやら出す気は無いらしい、数秒ほどして特徴の無い男は肩をすくめ手を下ろした。デスクを挟み、二人は対峙する。
「……おめえ何を企んでいる?」
「何のことですか?」
「とぼけるのはやめろ、時間の無駄だ公安のリクルーター野郎」
「……さすがにお見通しですね」
「あたりめえだ、伊達に公安に5年もいたわけじゃねえ…美樹をどうする気だ」
デスクの上の鞄に一瞬視線を移し、そしてまた特徴の無い男を睨む。
「あそこに引き抜かれるのは、どんなに才能があったとしても「利用価値」のある者だけだ…使ったら棄てられる、あるいは消耗して疲労しきって使えなくなるまで使われる」
そうなのだ、岡山は自身の体験から知っていた。あの世界は「利用価値」が全てにおいて優先される。人格も性質も能力もその他はすべて意味も価値もなさない、「糞」の様な世界。
「言いすぎですなあ、我々が美樹さやかをただコマとして利用すると?」
特徴の無い男は肩をすくめ…そして口元を緩めた。顔が――現われた。
「…ほお、「顔」が出てきたじゃねえか」
「貴方に敬意を表して、ほんの少しだけ我々の事を喋りますよ」
冷たい、整った顔。思いつめたような目。ゼロだとて人の子だ、上下関係が絶対の警察官の世界で「名刑事」と称されている男に尊敬の念を抱かない訳が無い。一切の感情を押し殺していた「何も無い男」に感情が現れ表情が生まれる。
「…我々はあらゆる組織を追っている、国益の弊害となる組織を」
そうして手を伸ばし鞄から書類の抜きだすと、岡山の前にかざした。初老の男の目が見開かれる。それは部下の人事関係の書類一切。
「彼女の過去を全て調べさせてもらいました。私達が興味を持っているのはあの事件です」
「……」
「貴方はご存じだ、「見滝原○○ビル風俗店殺人事件」第一通報者は当時高校生だった美樹さやか」
「それがどうした」
「…悲惨極まりない事件でした、被害者もそして被害者に拉致された少女達も。だが何よりも重要なのは、死因が特定できないことだ」
「……」
「何か大きな獣に食いちぎられたかのような死体、そして雷に打たれたような死体…科捜研でも特定は不可能だった、不可思議極まりない、かつ――」
男の目が光る、まるで獲物を狙う猛禽類のように。
「暴力団の資金繰りに少女の身体が商品として使われ売られていた救いようの無い事実――…スキャンダラス極まりない最悪の事件」
「当時お前らはマスコミ操作に暗躍していたな」
岡山は頭を掻いて天井を見上げた。あの事件の事なら嫌と言うほど知っている。見滝原という平和過ぎて何も無いと言われた街が、あの事件を契機にまるっきり変わってしまった。
「で、事件の愚痴を言ってごまかすつもりか?」
「誤解しないで頂きたい、前置きが長くなったが必要なだけです」
男ははあ、と息を吐いて再び岡山を見つめた。今度は「顔」が無くなっていた、特徴の無い男に戻る。
「あの事件で拉致されていた少女の一人は地下室にいました」
「知ってるよ」
「地下で何が行われているかも?」
「…………ああ、だいたい予想は着くさ」
岡山の顔に刻まれる深い皺。苦渋の表情。
「美樹さやかはその現場を見たはずです。通報の後に」
「………何が言いたい」
「もうひとつ実は興味深い点がある、地下室には「男が二人いた」。そして二人とも瀕死の重傷を負っている。「死んではいない」というレベルで生易しいものじゃあない」
ここは私達が隠ぺいしてますが、と特徴の無い男が呟いて、そして続けた。
「……美樹がやったのか?」
「当時本人はそう証言しています。だが、証拠もなく、信憑性も無い、誰一人取り合わなかった。何故なら高校生である彼女が、素手で大の男二人に瀕死の重傷を負わせることができますか?数分間で?」
「男でも無理だ」
岡山の言葉に頷く男。
「そうです、無理がある、そしてこの事件にはあり得ない事柄が多い。人間では到底成しえない事柄が…」
何やら嫌な予感がして、岡山は顔をしかめる。
「それで…おめえらの結論は?」
「スーパーナチュラル」
「おい……正気か?」
「米国の捜査機関では当たり前に受け入れられています」
そう言って、男はいったん視線を逸らした。書類を鞄へ戻す。長いため息をつく岡山。
――なんてこった、とんでもないものにあいつは巻き込まれてやがる
まるでこの世界が本当の世界で無いような違和感。岡山は昔、誰かにこの世界について質問を受けたことがあるような気がした。思わず額をおさえる岡山。
「大丈夫ですか?」
「なんでもねえよ、それで…おめえらはあの事件を超常現象と決めつけてどうするつもしだ?」
「――裏に糸を引いているものがいるはずです。個人か、あるいは集団…」
「教団か?」
公安の調査対象は広範囲だ、カルト教団にも及ぶ。
「だが、それと美樹が何の関係がある?」
「「見ている」かもしれないからです、何かを。そして彼女自身すでに「耐性」を身につけている、「適任」なんです…おっと」
特徴の無い男は肩をすくめ、「喋りすぎましたね」と呟いた。
「…どういうことだ…あいつを「潜らせる」つもりか」
「……これ以上は言えません。わかってください、これでも大盤振る舞いなんですよ?」
確かに公安にしては喋りすぎている。岡山は唸りながら男を睨んだ。
「……覚えていろよ、あいつの適所はマル暴だ、すぐに取り返す」
「おや、まるで保護者のようですね」
「部下だよ、大事な部下だ。それにおめえらも甘く見るなよ…あいつは」
ニヤリ、と岡山は不敵にも笑った。
「今から大きく化ける逸材なんだ」
* * *
その白い「猫」は男の足元にいた。
「……お前、ピーナツ食うか?」
くたびれた作業着に野球帽をかぶった壮年の男は、橋の下に座りこみながら「猫」に話しかける。周囲には段ボールで設営されたテントが2つ3つ、ホームレスの住処だ。男もここに住んでいた。テントの入り口のドア代わりの毛布が開くと、別の髭面の男が顔を出す。
「おい、源さんよぉ、誰と話してんだ?」
「ああ…猫がいるんだよ、白いのが」
「猫?」
髭面の男が源と呼ばれた男の足元を見る。あるのは草むらだけ。
――何もいない
髭面の男は頭を振って、テントの中に戻る。とうとう、源さん頭までキテしまったのかと。あるいはヤクでもやったのかと…だがそれは全く違っていた。
そうして、いつもの穏やかな午後が過ぎ去った頃、男の姿は消えていた。
*********
蒼白い闇の中、月明かりが二人を照らす。
ベッドで一人の女性は既に眠りの世界に陥り、もう一人はまだ起きていた。
「………」
ぞっとするほど美しいその女性は、眠っている女性を見つめ続けている。長い黒髪、そして月明かりで蒼白く輝く肌、そしてアメジストの瞳。長く細い指は眠っている蒼い髪の女性の顔をなぞっていて。
『私、あんたのためならなんだってやるわ』
彼女は聞いていた、蒼い髪の女性が囁いたことを。何かに耐えるような表情を浮かべて、黒髪の女性は相方を見下ろす。そうしてゆっくりと身体を下ろした。
半分に欠けた月が重なった二人の姿を照らし出していた
END
こちらの続きはR18で展開していきますので、18歳以上で興味のある方は是非読んで頂ければありがたいです。ではでは!
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少女とクマ
少女は待っていた。素足をぶらぶらさせながら。
真っ白な何も無い空間の中で、黒いドレスの少女は何かに腰かけている。まるでそこに透明な椅子があるかのように。艶のある長い黒髪を時折気にかけてか、右手で梳いて、そうしてふう、とため息をついた。あどけない、けれどとても美しい少女の横顔。
――少女はここが「夢」の中だと知っていた。そして、己もこの「夢」の住人だと。
この「夢」の持ち主は全くそれを知らなかったのに――と、少女はくすくすとひとり笑う。
何故自分が己自身を夢の住人と自覚しているのか、そして「意思」があるのか、少女にはわからない。しかし、そう困っているわけでもなかった。とにかくこの世界ではお腹もすかないし、喉も乾かない、なにより「時間」の概念が無いのだ。永劫の時も、一瞬も全て同じもの。少女はただ、たゆたうようにこの空間でまどろんでいた。ただひとつの「楽しみ」のためだけに。
「うわ、またここ?」
いきなり素っ頓狂な声がして、少女は振り向いた。そうして、年相応の子供のような無邪気な笑みを浮かべた。少女のただひとつの「楽しみ」がやって来たのだ。ひょい、と軽く透明な椅子から降りて、少女は歩き出す。素足の蒼い髪の女性の元に。
「夢だわ…これはぜったい夢…」
ぶつぶつ言いながら、頭を掻いて歩いてくる女性を見て、少女は今度は苦笑する、大人めいた表情で。そうして、目を細めながら囁いた。
「あいかわらずお間抜けね、美樹さやか」
びっくりする蒼い髪の女性を見つめ、そうして少女はまたくすくすと笑った。もちろん先ほどの子供のような「笑み」は全く見せない。
「うわ、出た」
「失礼ね」
白いワイシャツでデニム姿の女性は、困ったように垂れ気味な目を少女に向けて言った。手をひょい、と少女の頭の上に載せながら。今回は空間にかざすのではなく、じかに触れて。
「だって…これ、私の願望なんでしょう?」
「そうよ」
頭を撫でられたからか、少女の頬はほんの少しだけ赤くなった。
「……やっぱり私変態なんだわ、見た目幼女で中味が24歳のあんたなんて…」
手を離し、己の頭を抱えて唸る女性。どうやらやっと自覚したようだ。ふう、と少女はため息をついた。
「そうよ、やっと自覚した?」
「ひど!」
人に言われると傷つくらしい、なんだかやっかいな性格だ、と少女は女性を見上げながら思う。どうにもこの蒼い髪の女性は「手がかかる」。現実において「私」は彼女に対してどのような対応をしているのだろうか?と少女はほんの少しだけ気になった。
「ところで用件はなあに?」
「へ、用件って?」
「貴方は何か理由があってこの夢を見ているはずよ」
「そうなの?……あ、それじゃきっとあれだわ」
「?」
蒼い髪の女性は、白い空間に両手をかざし、えい、と気合いを入れた。が、何も変化は無い。こりずに女性は「気合い」と時折「出てこい」と叫びながら両手をぶん、ぶん、と振り続けた。あきれたように見つめる少女。
「何してるの?」
「これが私の夢なら…出てくるはず…よっと!」
ぽん、と可愛らしい音と共に女性の両手の間に何か現われた。茶色の物体。少女は思わず目を見開く。それは大きなクマのぬいぐるみだった。とても柔らかそうだ。
「えへへ、やっと出てきたわ」
「それ…」
「うん、あんたにもあげたいなあって思ってたのよ」
――だから、夢を見ているかも、と囁いて、女性はぬいぐるみを少女の前に差し出した。
「……いいの?」
「もちろんよ」
にっこりとお間抜けに笑う女性を見て、少女は一瞬泣きそうな顔になる。そしておそるおそる手を伸ばした。小さな手に溢れるような大きな茶色の物体。
「柔らかい…」
「えへへ、でしょ?」
少女は顔をぬいぐるみに押し付け、目を瞑る。
「あ、そろそろ私行くわ…」
女性の囁きに少女は顔をあげた。女性の身体の半分が透明になっていた、夢から醒める頃合いだ。少女のアメジストの瞳がはじめて――揺らめいて。
「……もう行くの?」
初めて感情を込めて喋ったのかもしれない――。だが、それでも少女の胸の奥は何かでつかえていて。
「うん、また来るわ」
「ほんと?」
「ほんとよ」
女性は少女を抱きしめた。思わず身を竦める少女だが、すぐに力を抜いて、そして目を瞑る。
「……また来てね」
精いっぱいの本音を少女はとても小さく囁いて。二人はただ静かに抱き合った。まるで親子のように。
「また来るわ…」
女性が最後に囁いた。
そうして少女はまた一人白い空間に残される。時間の概念の無いこの世界に。ふう、とため息をついて少女が上を見上げた時、声が聞えた、あの女性の声だ。なにやら言い忘れた様子で慌てている。
『あと、メリークリスマス!』
必死な叫びに少女は吹き出した。
「しょうのない人…」
少女は苦笑して、クマのぬいぐるみを抱きしめて目を瞑る。
その表情はまるで――
END
作中に登場するクマのぬいぐるみは「ほむらプレゼントを渡す」https://syosetu.org/novel/302421/40.htmlでさやかがほむらにプレゼントしたクマのぬいぐるみです。(あちらではほむらに「イヌ?」と言われてましたが、こちらでは言われなかったようです笑)
そしてミニほむらが自分の願望だと気づいたさやか…だいぶ悩んでいましたが(何)その後だんだん吹っ切れていく予定です…(なんと)
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変身談義
魔獣が何を考え、そして何のために存在するのか、ほむらは以前地球外生命体から聞いたことがあった。
「……まあ、昔の事だしね…」
「え?何、なんだって?」
耳に手をあてながら「相方」がこちらに向かって叫ぶ。デニムのパンツに白のワイシャツを身に纏った細身の蒼い髪の女性。妙齢に成長した彼女はどこかしかめっ面でこちらを睨んでいる。仕方ない、今は戦闘中なのだ。ほむらは肩をすくめて、「なんでもない」と仕草で表現する。と、同時に吹きすさぶ風が二人の髪を乱し巻き上げた。
「おおっ…と!」
蒼い髪の女性が両手を年不相応な仕草でぶんぶんと振り回し、バランスを取る。
「あっぶな!」
靴をバン、とならし踏みとどまる。そうしなければ、何もない空中に身を置くところだったのだ。ふう、と息を吐く蒼い髪の女性の眼下に広がるのは地上25メートルからの景色。
「…貴方だったら死なないんじゃないの?美樹さやか」
くすくすと笑いながら、ほむらがさやかを横目で見つめる。そう言って笑う彼女もまたさやかと同じ場所に立っていて。
「…あんたさあ、いくら回復魔法持ってたってさすがにこれは」
ないじゃん、と言いかけ、さやかは流し目でこちらを見ている黒髪の女性に見惚れる。10年間、敵対や小競り合いを続けてきた末、この様な「関係」になった黒髪の女性をさやかは秘かに「美しい」と思い続けていて。いや、もしかしたらそれよりずっと前、「周回」と称して何度も黒髪の女性が同じ時間を繰り返すより前、一番最初の出会いからそう思っていたかもしれないが。
「…何?」
面白そうに笑う黒髪の女性は恐ろしいほど美しく。黒の喪服の様なドレスに身を包んだその姿は儚げでまるでこの世のものでは無い様だ。そんな華奢な女性が廃墟のビルの屋上の縁に立つ姿にはもう見惚れるしかないのだろう。さやかはしばらくの間呆けた表情を浮かべて。
「……なんでもないわ」
ややぶっきらぼうに視線を逸らした。
「変なひと」
そして悪魔は目を細めて。続ける。
「ねえ、そろそろ「アレ」をどうにかしないと」
「まあ、そうね…」
ほむらが子供の様に下を指さす。その先には巨大なコウモリと見紛う羽根を有する複数の魔獣。さやかが顔をしかめた。
「あいつらって変化するのね…それとも進化かしら?」
「さあ…でも深く考える必要も無いわ…まだましでしょ?」
「え…ああ、そうね」
人間と融合するよりはだいぶ、とさやかが呟くと、それに呼応してほむらが蒼い髪の女性をしばし見つめた。
「それじゃ行くわよ」
「OK」
さやかが右手をかざすと手品の様に剣が現れる。それと同時にほむらの背中から黒い羽根が現れた。ふと、さやかがそれを見て呟く。
「ねえ、あんたってさ…」
「何」
「最近変身しなくなったわね」
「…その言葉、そっくりそのままお返しするわ、貴方こそ最近どころか、ここ数年変身しないわね」
「う…」
正にミイラ取りがミイラになった状態の美樹さやかに、ほむらは冷ややかな笑みを浮かべ。
「なあに、何か特別な理由でもあるの?」
「…無いわよ、ただ…」
「ただ?」
戦闘中だというのに、二人はこれまた独特な二人だけの世界を作り上げてしまい。
「……恥ずかしいのよあの格好」
ほむらがいきなり顔を背け、肩を震わせる。
「ちょっと!あんた今笑ったわね」
どうにも悪魔にも笑いのツボはあったようで、それでもほむらは肩をしばらくの間震わせて、収まる頃には複数の魔獣が二人に襲いかかってきていた。
「こ、こら、ちょっと、間に合わなくなるわよ!」
叫びながら剣を振りかざす相方の傍にいつの間にか悪魔が居て。
「…余裕よ」
そう囁くと片手で頭上を振り払う。ビル全体を覆うシールドが一瞬にして現われ、そこに触れた魔獣が断末魔の叫びをあげる暇もなく消滅した。
「……余裕過ぎでしょ!何よこれ!」
ぽかん、と呆けた表情を瞬時に戻し、さやかが叫ぶ。
「私ってこれじゃ何の要員…ちょっと、ちょっと!」
いつの間にか悪魔の片手はさやかの腰に。そうして当の悪魔はさやかに身をもたれさせて。ゆっくりと上目遣いでさやかを見つめ囁いた。
「お笑い要員」
「ちょ…!」
さも楽しげに笑う悪魔と抗議する元鞄持ち。二人の影は次第にひとつになり、そうして、しばらくすると、月の光りを背景にして夜空の向こうへと飛び立って行った――
END
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告白
見滝原市から約100㎞離れた山村に、その男は別荘を構えていた。
空気もよく、緑豊かな場所には、数軒別荘が立ち並んでおり、時折隣人同士で話に花が咲くこともある。それで得た情報では、隣の別荘の所有者は去年事故で亡くなったということと、今は配偶者であった初老の女性が数カ月ほどここで過ごすということだ。初老の女性はどこかの国立大の教授らしい。とても知的な女性であったと、男は思い出す。
初夏になり、木々も茂り、景色が緑に覆われると、男はよく散歩に出かけるようになった。妻はあまり外に出たがらないので、「置いて」いった。
森の中はいい――と男は思う。聞えるのは鳥のさえずりだけ、人間の声なんて聞えやしない、最高だ。
カサリ、と音がした。男ははっ、と音の方向へ視線を向ける。
黒服の女がいた。一瞬喪服かと思ったが、黒のワンピースに身を包んだ、長い黒髪の女性がいる。このような森の中に妙齢の女性がいること自体、ある意味不自然なのだが、更にその女性が「恐ろしいほど美しい」となると尋常でない。
「…誰だ」
自分でも驚くほどのしゃがれた声で男は女を誰何した。
「誰でもないわ」
ぞっとするほどの艶のある声。長い黒髪から白磁のような白い肌が見え、そうして、アメジストの瞳が男を捉えた。射る様な視線に男の全身が震えた。
「あなたには特になにも興味は無いのだけれど…」
そう囁きながら、黒髪の女性は男に近づく。その左耳のイヤリングが妖しい光りを放った。
「私の恩人に危害をおよぼすのなら、「消去」するしかないわ」
「…何を言っているんだ?」
「わかるのよ」
私はね――とそう囁いて左手を男の前にかざす。
その左手に幾何学模様の光りが浮かんでくると、男の顔が歪んだ。
「…オマエ…ダレダ?」
男の唇の色は剥げ落ち、口がVの字に歪む。その口元から伸びる犬歯。
「悪魔よ」
「バカナ…オマエガアク」
次の瞬間、天から光りが落ち男に振りかかる。そして響く雷の様な轟音。一瞬にして、男は黒い炭と変わった。さらさらと風に流されていき、男の姿はもうどこにもない。
「…もう片付けたの?」
林の中から、ワイシャツにデニムの格好の蒼い髪の女性が現れる。手には西洋風の剣。おもちゃではないので警察がその場にいれば銃刀法違反になるのだが、あいにくその場には当の本人以外に警察官はいない。黒髪の女性は彼女を見つめると、「ええ」と呟いた。
「そっちはどうだったの?さやか」
「死んでたわ、女の方は…あいつの妻だったのかしら?」
「違うわ…」
そう囁いて、黒髪の女性は空を見上げる。男が風に流されていった方向。
「かつて夫だった男の皮を被っていた「人外」よ、女は夫だと信じていた者に殺された」
「…魔獣?」
「いいえ、魔獣ではない…それ以外の「魔なる者」」
「そう…あんたには見えるんだよね」
蒼い髪の女性――美樹さやかは、相方を心配そうに見つめる。悪魔と化した相方は、この世の魔なる者を全て可視することができるのだ。
「ええ、それでわかったこともあるわ」
「何?」
「この世の悪は魔獣だけではないってこと…数え切れないほどの魔なる者が存在しているわ、そして」
「そして?」
「悪魔は私だけじゃない」
「…え?」
さやかは続きを催促するように、黒髪の女性のアメジストの瞳を見つめるが、美しい女性は答えない。しばらく見つめ合う二人。ふ、と黒髪の女性が口元を緩めた。
「だめよ、そう簡単には教えないわ」
「ひど!」
くすくすと笑って、黒髪の女性はさやかに背を向ける。背を向けた瞬間、左耳のイヤリングが光る。
「それで?女の死体はどうするの?さやか」
「警察に届けるわ、それが一番いい。あの魔なる者の仕業でしょうけど、遺体の損傷が激しすぎる。私達が泊っている所にも聞き込みは来るでしょうけど、まず死因と凶器が特定されなければ、そんなに質問も受けないし問題は無いわ」
「さすがおまわりさん」
そう笑って黒髪の女性は林の中へと歩き出す。当たり前のようにその後ろについてくるさやか。そうして目の前の華奢な女性に声をかけた。
「ねえほむら」
「……何?」
「…あんた以外に悪魔がいるならさ…」
そう言って、さやかは口を閉ざす。
「…なあに、貴方またくだらないこと言いそうだわ」
ほむらはからかうように目を細め、後ろからついてくる自分よりも背の高い女性を見上げた。そうして、甘えるようにその身体に背中を預けた。さやかはその身体に手を伸ばし後ろから抱きしめる。林の中二人の女性は動きを止めて。
「……あんたを人に戻したい」
互いの息を感じるほどの距離でさやかがそう囁いた。
「……」
しばらく沈黙が続く。それは破ったのは悪魔の方。
「いやよ」
「へ?」
そうして、さやかの手を振りほどくと、身体を向かい合わせにして。
「私が人間に戻ったら、誰が貴方を飼って面倒みるの?」
「はあ?私犬じゃないって、な…」
唇が重なって、さやかは次の言葉が紡げなくなる。ほむらの柔らかい唇が、抗議しようとした「愛犬」の口をそれから長い間塞いで。
「………ん」
唇が離れた頃には、愛犬はかなりおとなしくなっていて、飼い主は満足そうに微笑む。
「私はね」
そうしてほむらは相方の口元に唇を寄せて囁いた。
「貴方を飼えるなら悪魔のままでいいわ」
愛犬はただもう何も言えず、頬を赤らめながら、乱暴に飼い主を抱きしめる。
「……乱暴ね」
そう嬉しそうに飼い主は囁いて、その身を委ねた――。
END
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二人の二回目
これは二人が表面上、大学生として暮らしていた頃の話―-
暁美ほむらは買い物が好きである。
正確には自分が必要としているものを選別して購入する行為がと表現した方がいいかもしれない。美樹さやかがそれを認識したのは大学生の頃、ちょうど大学の売店で二人で買い物をしている時だった。
「ルーズリーフ?」
「そうよ」
なにやら誇らしげに黒髪の美女が頷くので、さやかは商品名を聞き違えたのかと一瞬思った。だが黒髪の美女―-暁美ほむらが手にしているのは明らかにルーズリーフで。
「てかそれサイズ小さくない?」
「私はこれをよく使うのよ」
ほむらが手にしているのはA5サイズの行幅の広いタイプだ。確かに講義を受けている時、彼女はよく小ぶりのバインダーを使用していることをさやかは思い出す。
「これって使いやすいの?」
性質なのだろう、さやかはついつい聞いてしまう。ほむらは形のいい眉を少しだけあげて、首をかしげた。
「もちろんよ…それにね」
ほむらは返事だけでなく、何故それを使用するかさやかに説明する。持ち運びの良さと、実験の際に机に置いてもスペースを取らないこと等。さやかはその説明に納得したのだろう、こくこくと何度もうなずく。
一見どこにでもあるような大学の友人同士の会話だが、彼女達を知る者がいたら(実際はある概念を除いて存在しないのだが)その風景を見て心底驚くだろう。かたや「悪魔」と化し世界を改変した女性と、かたや概念の「鞄持ち」から蘇生した人ならざる者である女性。二人はある特殊な事象による「確執」があったのだが、数年の時を経てその確執は薄れていった。いや、正確には「変化していった」と言った方がいいのだろうが。
「私もルーズリーフ買おうかなあ」
さやかが呟くと、ほむらが横目で蒼い髪の女性をちらりと見て囁いた。
「勝手にすれば?」
その言葉に反応して蒼い髪の女性が黒髪の女性に視線を向けると、そこには目を細めて微笑む悪魔がいて。さやかはそれから数秒間動けなくなってしまった。
二人の関係が変化したのは最近だが、特に悪魔の方はだいぶ変わったと言ってよかった―-。
*******
K大学の売店は特に広いスペースというわけではないが、学生に必要な最小限の生活用具が揃っていた。特に文房具類は文理系に対応できるような豊富な品ぞろいで、その一角にあるルーズリーフコーナーも種類が充実していた。電子媒体が当たり前になると、かえって紙媒体が重宝されるようだ。ほむらとさやかはそのコーナーにまだ佇んで、商品を物色していた。ほむらの方は先ほどと同じA5サイズのルーズリーフをもう1冊手に取ると小脇に抱え、横にいるほんの少しだけ背の高い蒼い髪の女性を見上げ、「貴方はどうするの?」と囁いた。
「ん~、そうねえ…あ、私これ好きかも」
さやかが手を伸ばし、五譜線のルーズリーフを取った。ほむらが体を寄せ、覗き込んでくる。「あの日」を境に二人のパーソナルスペースはだいぶ狭くなったらしい。
「……貴方音大でも受け直す気?」
五譜線のルーズリーフを見て、ほむらが怪訝そうに蒼い髪の女性に尋ねる。
「違うわよ、なんとなくカッコいいかなって」
「………」
「な、何よ」
暗い眼差しで無言で黒髪の女性が見上げるものだから、さやかは動揺する。陰鬱な表情でも美しいからこの悪魔はやっかいだ。
「……相変わらずね」
「な、何が?」
「バイオリンの君にお熱な処」
その瞬間、わかりやすいくらいさやかは動揺して。
「え、違うわよ、私はただ…」
「自覚が無いのなら、余計にやっかいね」
動揺する蒼い髪の女性を見つめながら、ほむらが冷笑する。久しぶりに見た悪魔の「らしい」笑み。そしてほむらは体をさやかから離し、背を向けるとレジへ向かう。
「ほむら?」
「先に行くわ」
「ちょっと待ってよ、ねえどうしたのさ…」
だがほむらはそれから何も答えず、支払いを済ませる。その横で怪訝そうな表情を浮かべるさやか。
「ねえ、ほむらあんた」
一瞬、ほむらはさやかの方をちらりと流し目で見つめ、微かに口を動かした。そして、忽然と消えた。
―時間操作だ。
「…まったく、なんなのよ」
さやかは肩をすくめながら、息を吐く。ようやくわだかまりが解けたと思ったが、勘違いだったのだろうか―-。さやかはふと視線を五譜線のルーズリーフに落とした。
―-上条恭介
かつて美樹さやかが淡い恋心を抱いていた少年。とはいってもこの世界では成人して世界的なバイオリニストとして成功している。そして志筑仁美と婚約していた。
「無意識か…」
さやかは呟く。正直、美樹さやかの心には上条恭介への恋慕は既に残っていない。それは昔円環の理である幼馴染に思いを吐露し昇華した所為か、それとも蘇生した者として新たに再生した所為かよくわからない。だが、美樹さやかは以前の「美樹さやか」とは違うということだけは本人も自覚していた。そもそも人を好きになるだの、愛するだのという感情が彼女は希薄なのだ。もっぱら関心事は魔獣の事や悪魔の事だった。
だが多元世界ではだいたい、想いは全くといっていいほど成就しないのだが、さやかは未来のバイオリニストに恋かあるいはそれに近い感情を抱いた。ここまで来るとかなりの因果にもなりそうなものだが、幸運にも上条恭介は魔法少女ではない。
「まあー…確かになんらかの影響は受けているってわけね」
さやかは一人呟いた。クラシックに人一倍興味を持つのも、このように使用するわけでもないのに五譜線のルーズリーフに手を伸ばすのもおそらくかの少年の影響だ。
――自覚が無いのなら余計にやっかいね
艶のある黒髪の女性の声がさやかの脳裏で響いた。さやかからすれば、悪魔がどういう意図でそんな言葉を吐いたのかは想像もつかないが、ただ、かつての過去の恋慕に影響され続けるさやかを疎ましく思ったのは確かだと感じた。五譜紙のルーズリーフを再び見つめ、さやかは逡巡する。
――どうして受け入れているのかしら
悪魔の声がまたさやかの脳裏に響く。
それは一週間前の記憶―強く繋がれた手と手、ほむらの鋭い視線と白い肌―。
――よりにもよって今、貴方を―美樹さやか
アメジストの瞳にさやかの姿が映し出され、瞼が閉じられその姿は消える。
そして二人は更に強く手を握り合った。
微かに頬を赤らめたさやかが、売店の天井へ視線を向ける。あれから互いに「あの日」の事には全く触れず、何事も無かったように過ごしてきた。その方が都合がいいし、また深く考えたくなかったからだ。だが、どこかでやはり意識はしているのだろう、先ほどの様に不可解な行動をとられるだけで、さやかの心の中は悪魔の事でいっぱいになる。
「もう…」
そうしてふと、偶然か必然か、さやかの脳裏にさきほど姿を消した瞬間のほむらが浮かんだ。微かに口を動かしていたその美しい横顔を。
――-馬鹿
彼女は確かにそう言っていたのだ。
********
その日は特に魔獣退治もなく、二人は帰路についた。いつもの様に夕食を二人で準備し、食事をする。違うのは会話が一切無いことだけで。その気まずい(少なくともさやかは)沈黙を破ったのはさやかだった。
「あのさ、ほむら」
「………何」
ようやくぽつりとほむらが返事をする。一緒に住み始めた頃もこうだった事をさやかは思い出した。
「あのルーズリーフさ、買うのやめたわ」
「そう」
「でさ、あんたと同じのにしたわ」
「どうして?」
フォークの手を止め、ほむらは冷たくさやかを見つめる。だがその目を見てさやかはほむらが感情を押し殺していることに気づき安堵する。無関心よりその方が断然いいからだ。
「音大なんて行くわけでもないし、使用しないものを買う必要ないでしょ?それに」
「それに?」
「大昔の事にひきずられるより、あんたと同じものを使った方がいいかなって」
「どうして?」
「どうしてって…」
さやかは困ったようにほむらから視線を逸らす。まだ黒髪の女性に対する感情をさやか自身うまく纏められていないのだ。だがさやかは考える前に行動する性質で、口から出たのは今言える精一杯の言葉だった。
「あんたと一緒の方がいい、てか、あんたと同じものがいいと私が思ったのよ。ああ、もううまく言えないけど、同じ.…」
くすくすと笑い声が聞こえ、さやかが顔をあげると、そこには肩を震わせる悪魔がいて。
「ちょっとぉ…何笑っているのよ、人が真剣に」
「あら、同じ同じって語彙力の低下が著しいわよ、鞄持ちさん?」
「だってそれは…」
確かに語彙力が低下しているのはさやかも自覚していた。だがどうしようも無いのだ、この「感情」をうまく言い表せる言葉が今のさやかには浮かばない。だが悪魔の方はだいぶ機嫌が良くなったようで。
「まあ、仕方ないわね…犬にしては上出来だわ」
「犬って、こら…ちょっと!」
蒼い髪の女性の頭の上に白い手が置かれた。まるで抗議し始めた犬をいさめる飼い主の様に。
「よしよし」
「ってこら、やめてよ!」
さも楽しそうに笑う悪魔と嫌がる鞄持ち。しばらくは先ほどの事がまるで嘘のように二人はじゃれ合った。そうしてしばらくしてから食事を終え、どちらともなく立ち上がると窓辺へ歩み寄る。二言三言、どうでもいいような会話をした後、すぐに沈黙が訪れた。だがそれは先ほどとは違う心地よい沈黙で。
「ねえ」
沈黙を破ったのは今度は悪魔の方だった。
「何?」
さやかが聞き返す。お互いに目と目が合って。
「何日経ったかしら」
「何日って…あ」
さやかが口を開いたまま呆けた様な表情を浮かべる。それはきっと「あの日」から換算した日のことで。
それから二人は互いに言葉を発することができなくなる。成人して昔よりも語彙も増え、表現力も増したというのに、「あの日」の事だけはうまく言葉にならない。それはきっとあの日起きた出来事が、全く想像もつかない、説明のつかない突発的事案―交接だったからで。
二人はただ黙ったまま、どちらともなく手を伸ばした。ぎこちなく繋がる手。
今日が二回目ね―悪魔が小さくとても小さく囁くのと、鞄持ちが照れた様に目を伏せるのは同時だった。
*************************
K大学の売店は週末ということもあってか、学生が多かった。売店の入り口で途方に暮れたように立ちすくむさやかとほむら。
「あら~だいぶ多いわね、どうする?週明けにでも寄る?」
「嫌よ、絶対に今日買うわ」
まるで子供の様に意地をはり、美しい悪魔はすたすたと店内に分け入る。肩をすくめそのあとをついていくさやか。向かうのは、文房具コーナーで。
「ねえほむら、今日は何を買うのさ?」
「バインダー」
「へえ…」
そうしてほむらは目当ての品を求め、物色を始めた。その横顔を目を細めて眺めるさやか。
「…何盗み見しているのかしら」
目はバインダーに向けたまま、ほむらが囁く。
「ああ、なんだか今のあんた見てると悪魔っぽくないなあって」
「馴れなれしいわね」
「あ、ごめん」
「馬鹿ね、冗談よ」
そう言うと、ほむらはさやかの方へ顔を向けた。その顔は微笑んでいて。思わず見とれるさやか。するとほむらはからかうように囁いた。
「あら…発情した?」
「ちょ!」
さやかの顔が一気に赤くなる。と、すぐさまほむらの左手がさやかの右手を掴んで。キインと金属音と同時に周囲から音が消える。時間停止だ。
「もう…からかわないでよ!」
「あら、私は本気よ?」
さやかの抗議に対し、肩を震わせながら、ほむらが囁く。慌てたさやかの様子がよほど可笑しかったらしい。
「こうやって、慌てる貴方を見られたくないから、時間だって止めてあげてるわけだし」
「そ、それはありがとう・・・てかっ、それ嘘でしょ!あんた顔、超笑ってるわよ!」
さやかの言葉で更にほむらが肩を震わせる。こんなに悪魔が楽しげに笑うのはとても珍しいことだった。むかつくわ、と言いながらも、さやかも嬉しそうで。
二回目を迎えて、二人の関係は更にほんの少し変化して。
「ねえほむら」
「何?」
さやかがほむらの耳元に口を寄せて何か囁いた。珍しく悪魔が顔を赤らめて。
三回目の日もまた、もうすぐ来そうだね―-
そして互いにそれはもう感じていたことだった。
END
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好きとリアクション
甘々です。
「へ、まどかの好きな人?」
『うん、さやかなら知ってるかなあって』
幼馴染の弟から電話がきて、いきなり姉の好きな人の名前を教えろというものだから、美樹さやかは驚いた。
「どうしたのさ?いきなり…前タツヤ君、まどかに恋人いないっていってたじゃん」
『うん、そうだけど…実はさあ…』
携帯の向こう側からまどかには恋人はいないが、実は今好きな人がいること、そして片想いだということをタツヤから聞かされ、さやかは驚く。
「へえ…そうなの?いや全く知らなかったわ」
『姉ちゃんも内緒っていうから、俺も誰だかわかんなくて、さやかなら知っているかなあって』
「いやあ、私も知らないわよ、だって、前タツヤ君にまどかに恋人いるか調査してってお願いしたくらいだもの」
『まあ、そうだよな、でもほら、お姉ちゃんの好きになりそうな人くらいわかりそうじゃん』
「そりゃあ…」
さやかは空を見上げ考える。まどかの好きになりそうな人…好きになりそうな人…
「無理だわ、思い浮かばない。まどかってさ、博愛主義で困った人見過ごせないじゃん?」
『あ、それある』
「だから、もし好きな人がいても、みんな公平に扱いそうな気がしてさあ、特定できないわ」
中学時代のクラスメイトを思い出しても、なかなか結びつかない。中沢君が確か一度まどかにモーションかけていたような…その時の世にも恐ろしい相方の表情を思い出して、さやかは口元を緩めた。と、背中をドン、と叩かれ後ろを振り返る。
――ナニシテルノ?
うわ、と声をあげ、さやかは背後にいる黒髪の女性にジェスチャーで「ごめん」と合図する。時はクリスマスイブ、さやかと黒髪の女性は買い物で街に繰り出していた。鮮やかなイルミネーションに彩られた街路樹と、店。
「あ、ごめんタツヤ君、私ほむらと買い物していてさあ、うん、また掛け直すわ」
「何?タツヤ君と何の話をしていたの?」
「ああ、まどかに好きな人がいるって、それが誰か教えて欲しいって」
「…そう」
「あれ、あんた驚かないね、いつもならこの世が終わった~みたいな表情するのに」
さやかが不思議そうに黒髪の美女を見下ろした。二人で街を歩くのは久しぶりで、さやかの方は浮足立っていた。黒髪の美女――暁美ほむらの方はいつものとおり無表情で。
「……これくらいで驚かないわ、まどかが誰を好きだろうとも、私の愛情は変わらないもの」
「うひゃあ…ブレないわねあんた…」
「褒めてくれてありがとう」
にっこり、とほむらは微笑んだ。大人の艶のある微笑みに、蒼い髪の女性はほんの少し頬を赤くして。もう10年一緒にいるというのに、黒髪の女性の美しさに慣れるということは無いらしい。それに気付いたほむらの方は不敵な笑みを浮かべ、軽く体を相方にぶつけた。
「貴方もある意味ブレないわね」
「…そりゃどうも」
黒髪の女性はクスクスと肩を揺らして笑った。
時折、この様な穏やかな時間が二人に訪れる時がある。そんな時、悪魔は思うのだ、
ああ幸せだなと。もちろん蒼い髪の相方には言わないが。
「でもまあ、まどかが誰が好きでも、私はびっくりするなぁ」
「……」
「え、なんか言った?」
「いいえ、なんにも」
――鈍感
実はほむらはそう囁いていて。不機嫌そうに目を瞑って、再び開ける、アメジストの瞳がお間抜けにこちらを見ている蒼い髪の女性を捉える。
「……行きましょう?早くしないと部屋でのんびりできないわ」
「そうだね」
歩を早めた二人の周りに一層艶やかなイルミネーションが現れる。
「うわあ、綺麗」
蒼い髪の女性が感嘆の声をあげた。思わず自然に隣にいる黒髪の女性の手を握った。眉を顰め、その行為を咎めるように「ちょっと…」とほむらは囁いた。珍しく、周囲の人だかりを気にしていた。彼女にしては珍しいことだ。それに対し蒼い髪の女性は、にっこりと大人らしからぬほど無邪気に満面の笑みを浮かべ、「いいじゃん」と囁くと、更にその手を引いて、己のコートのポケットに入れた。
「このまま光りの先まで歩こうよ?」
「…………いいけど」
黒髪の女性の返答にやった、と嬉しそうに呟くと、蒼い髪の女性は嬉々としてイルミネーションで彩られた街路樹を歩きだす。そこにやや引き摺られるようにして歩く美貌の悪魔。白い路にコツコツ、と二人のブーツの音がして。光りと、クリスマスソングの優しい音色に二人の心は次第に華やいでいき、美貌の悪魔はほんの少し、ほんの少しだけはしゃいで蒼い髪の女性に体をもたれさせた。
「おお、飼い主が甘えてきましたよ」
「フ…何それ」
クスクスと笑って、ほむらは気持ちよさそうに目を瞑る。さやかは嬉しそうにほんの少しだけステップをトントンと軽やかに踏んだ。まるで喜んでいる忠犬の様だ。
「ほんと、貴方って…」
「わんわん」
ほむらがきょとん、と驚いた様に「忠犬」を見上げる。そこには美しい蒼い髪の女性がいて、優しい蒼い瞳でほむらを見つめていて。しばらく不思議そうにほむらが見あげていると、ふい、と蒼い髪の女性が顔を背けた。ほむらほどではないが白い肌が紅潮していた。そして何やら細々と囁いて。
「……ねえ、なんかリアクションしてよ」
「え?」
「……恥ずかしくて死にそう」
咳き込むようにして、とうとう黒髪の美女が笑いだした。珍しいことは続くものだ。
「ほむら…?」
「歩きましょう、さやか」
ほむらは、「相方」の手をコートの中で強く握り返すと歩を早めた。今度は逆に引き摺られるさやか。
それから、まるで子供の様に二人ははしゃいで、寄り添いあった。
「ねえさやか」
「何?」
「貴方は好きな人…いる?」
「……」
さやかはただ黙って右手を出すと、ほむらの前で何かを催促している様に拳を振る。ほむらはしばらく考え込んだが、ようやく合点がいったのか、左手を開いてさやかの拳の前に差し出した。ちょこん、とそこにさやかが手をおいた。「お手」だ。
「………わかるでしょ」
そうしてすぐに顔を逸らす、蒼い髪の女性は10年経っても顔が赤くなるらしく。
「そう…」
黒髪の女性は困った様に眉を顰め、そうして意を決した様にさやかの身体に再びもたれた。
艶のある唇が動いた。
「リアクションは光りを抜けてから…でいい?」
黒髪の女性の言葉に、蒼い髪の女性はさも嬉しそうに目を細めた。
END
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ほむら雨宿りする
雨の降る気配は全くなかったのに、「唐突」という言葉が似合うタイミングで透き通った空にひと固まりの黒い雲が現れた。空を見上げている美しい悪魔の頬に雨粒があたり白い頬からその唇へと水滴が滴り落ちた。
「わ、天気予報では晴れだったのに!ほら、雨宿りするわよほむら」
傍にいる蒼い髪の女性が悪魔の白い手を乱暴に掴んだ。粗雑な扱いを受容して、なすがままに元鞄持ちに店の軒先まで引きずりこまれると、悪魔は美しい容貌をわずかに曇らせ囁いた。
「雑だわ」
「へ、何が?」
「私の扱いが」
きょとんと不思議そうに蒼い髪の女性―-美樹さやかは雨で少し濡れた美しい悪魔を見下ろすと、あ、と声を出して、また一瞬呆けた様な顔をしてからごめん、と呟いた。悪魔の口元が僅かに緩んだ。優雅な仕草で肩をすくめると、右手首をさすりながら非難の眼差しを横目でさやかに向ける。
「かよわい手が折れたかも…」
「何よそれ、突っ込みどころ満載よ!」
「あらそう?」
くっくっとさも楽しそうに悪魔―-暁美ほむらは笑った。もちろん冗談だ。
長く共にいることで知ったのだが、この元鞄持ちはお笑いの適性がある。ほむらは目を細めてさやかを見上げる。あのころの面影を残したまま彼女は美しく成長していた。だがそれを口にすると、大抵「あんたはもっと綺麗よ」とぶっきらぼうに返されるのでここでは口をつぐむ。奇妙なことだが、さやかの言葉は時折ほむらを落ち着かなくさせるのだ。ほむらは視線を空へ向ける。無数の雨粒がこちらに向かっていた。さやかもつられて空を見上げる。しばらく二人とも黙ったままそうしていた。
あれから10年経った―-。ほむらは視線を雨から隣人へ移す。蒼い髪の女性はまだ空を見上げていた。
―-お間抜けね
美しいがどこか間の抜けた隣人の横顔を見つめながら悪魔は口元を緩める。まどか以外の存在を気にかけることなど以前の悪魔には考えられなかったことだ。年月がそうさせたのか、それとも相性か、それは悪魔にもわからなかった、ただ「魔がさした」のだろうと考えている。魔がさして彼女を受け入れてしまった時からこうなる運命だったのだと。
「さやか」
囁く程度の声でも名前を呼ぶとすぐに反応してこちらを向いた。髪の色と同じ蒼い瞳がこちらを捉えているのを確認すると、ほむらは目を細めた。これが「心地よい」ということなのだと認識したのはごく最近のことだ。
「どうしたの?」
そう言って覗き込んでくる瞳に己が映っていることを確認してから、なんでもないという代わりにほむらは首を振る。さやかは首をかしげ、しばらくしてから「まったくもう…」と呟いた。特に機嫌を損ねた様子はない、二人の間ではよくあることだった。
―-これから先はどうなるのだろう?
ふとほむらは思った。最近よくあるのだ、例えば魔獣を駆逐した後美しい夕焼けを目の当たりにした時―-あるいは帰り道闇の中輝く半月を見た時―-そして雨宿りしながらこうして空を見ている時―-ふとした瞬間に未来へ想いを馳せてしまうことが。そしてそんな時はいつもこうして傍には元鞄持ちがいて。
―-私はこの人とどうなっていくのだろう?
今までこれからの事に興味を持つことは全く無かった。ただまどかを幸せにすることができればそれでいいと。
「ほむら?」
だが、今は違う。蒼い瞳が再び自分を捉えていることに気づき、ほむらはアメジストの瞳で隣人を捉えた。あの日、あの瞬間から悪魔の中にいきなり居座りこんだこの間抜けな鞄持ちを。
―-どうなりたいのだろう?
気がつくと、さやかがほむらの白い手を強く握っていた。
「ずっといるわ、あんたと」
だから大丈夫、とさやかが囁いた。欲しかった言葉。ふう、とほむらの口からため息が漏れる。
―-いつの間にこの生意気な鞄持ちは悪魔の気持を読めるようになったのだろう?
ほむらは眉をしかめさやかを睨みあげる。そうして悪態をつくように言葉を紡ぐ。
「当然よ、いちいち言葉にするまでもないわ」
それは嘘だ。本当は何度でも言葉で確かめたい。
「貴方は私の傍にいるのよ美樹さやか」
そうして悪魔は顔を伏せた。その表情は先ほどとは違っていて。そして隣にいるさやかでさえ聞き取れないほどの声で囁いた。
「ずっと」
たださやかは悪魔の手を強く握る。悪魔もまた握り返してきて。
雨はまだあがりそうにもなかった―-。
END
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生存戦略
雨が止んだ。今までが嘘のように晴天が広がる。同じ色をもつさやかの瞳の中に白い雲が映し出された。きょろきょろと所在なく視線を彷徨わせるのは実は虹を探しているわけで。
「虹を探しているの?」
隣にいる悪魔がさやかに尋ねた。既に長い付き合いのためか、悪魔は鞄持ちの考えることが手に取るようにわかる。
「そうなのよ、最近見ないからたまには見たいなーって」
「気象現象のひとつなのにね」
「わあ、やめてよ、そういうと夢がないじゃない」
「夢ねえ」
何を今更と言おうとした口をつぐみ、ほむらはただ肩をすくめる。長い黒髪を左手で梳いた。右手はまださやかの左手と繋がれたままだった。
「そうよ…あ、」
ようやく、雨宿りしてから今までずっと手を握っていたことにさやかは気づく。手とほむらの顔に視線を往復させて、慌てて手を解こうとすると、逆にほむらが握り返してきた。
「今さら?中学生みたいね?」
意地悪そうにさやかの顔をのぞき込みながら悪魔が微笑む。
「何よそれ、別に私は…」
言葉が続かない、彼女は美しすぎるからどうにも困る、とさやかは心の中で愚痴をこぼした。どう困るかともし悪魔に聞かれたら、今度は顔を赤くするのだろう。もう、と呟くと、眩しそうにほむらを見つめる。悪魔の表情は、先ほどの未来へ想いを馳せた時よりかは幾分明るくなっていた。懸念事項の不安を言葉を交わすことである程度解消できたからだ。
懸念事項―-
紆余曲折を経て二人が生活を共にする頃、懸念事項はただ1つだけだった。
まどかの事。ただそれだけ。
鹿目まどかが人間として幸せに暮らし、生をまっとうすることだ。
だが、年月を経て懸念事項がもうひとつ増えた。それは、
二人のこれからのこと。
互いに相手をどう思っているかなど直接言葉にした事はない。だが、生活も戦いも共にして、そして互いを受け入れてしまった今、まどかが生をまっとうするまでと、それから先の遠い未来、互いに生き延びて共に暮らしていくことは意外にも重要な事だった。
「ほむら、あのさあ…」
「何?」
「うん」
そう言って、言葉が続かない相方を見て、ほむらが少し困ったような表情で笑みを浮かべる。10年も経てば彼女もこういった表情を浮かべる事ができるのだ。
「貴方って、本当に考えずに言葉を発するのね、さやか?」
「あはは…その通りすぎて言葉も無いわ」
困ったように頭を掻く姿は中学生の頃のままで。それを見て、どうしようもない、とでも言うように肩をすくめるほむら。だが、だいたいさやかが言いかけて言葉を濁す事は放っておくと後々厄介になるケースが多いためほむらは食い下がる。
「それで、何が言いたかったの?」
「ああ、んとね…さっき話したじゃん、ずっと一緒にいるっていう」
「それが?」
「ずっと一緒にいるとしてさ、その…どうなるんだろうって」
「なにが?」
「寿命」
さやかの言葉が予想外だったのか、つられてほむらの形のいい唇が思わず動いて「じゅ」と言いかけて止まった。珍しく陰鬱な切れ長の目が丸くなった。
「あ、いやわかってるわよ、あんたは悪魔だし、私も…人間じゃないから、どっちかってーと「あっち」側だし、でももし無傷で生きられるとしても、ほんとに永遠なのかなって…あ、もう笑わないでよ!」
しどろもどろで語り出すさやかの傍で、ほむらは密かに肩を震わせていた。しかも笑ってはいけないと悪魔なりに気を使っているのだろう、美しい顔をさやかから背けて、細い肩を震わせているのだから、余計にさやかからしたらいたたまれない。しばらくしてからほむらはようやくさやかの方を向いて苦しそうに囁いた。
「…っ、…ったく、貴方って、本当に馬鹿なのね、さやか」
「わ、苦しそうに言うから何かとおもったら!ひど!」
久しぶりに笑ったわ、と楽しげに呟くと、ほむらはさやかを見上げる。
「私は概念よ、まどかと同じ。今は人間の形状はしているけど、本質ではない。わかるでしょ?」
「ああ、まあ…」
さやかが頷く。過去に数回、ほむらが悪魔により「近い」形状に変態した事を思い出したからだ。
「私は人間ではない、だから人間としての生も死もない。ただ永遠にそこに在るだけの存在。もし「死」に近いものがあるとしたら「消滅」だけれど、誰が私を消せるの?」
「………」
「だから私に「死」は訪れないわ、よって寿命なんてものもない、Verstehst du?」
時折ほむらは流暢なドイツ語を使う。意味はわからないが、たぶん「わかった?」みたいなものだろうとさやかは考えた。
「うん、そう…だよね」
「どうしたの?難しい顔して…やっぱり成犬でも理解しづらいかしら」
「犬じゃないから!」
ほむらが爽やかに笑う。つられてさやかも苦笑いして。こんな果てしのない重い内容の話題でも二人が笑いに変えられるのは、あまりにも特殊な環境に対する慣れと成長の為で。しばらくして、さやかが意を決したようにほむら、と名前を呼んだ。
「何?」
「私……ちょ、ちょっと近い、顔近いから!」
ほむらの顔がさやかの顔にちかづいてきた。かなりの至近距離だ。
「だって、目をきちんとみないと躾けられないって…」
「犬じゃないから!」
懲りずにいちいち反応するさやかが面白いのだろう、ほむらはくすくすと笑いながら体を離した。かなり機嫌が良いらしい。後ろに手を組んで、横目でさやかを見て囁いた。
「ほんとに貴方って馬鹿ね、さやか」
「わ、二回も!」
「貴方、自分がいつまで存在できるかが気になっているんでしょう?」
「…え、なんで」
「わかるわよ、だって…」
だがその後はほむらは言葉にしない。目を細めてさやかを見つめるだけ。互いに念話で会話したのか、数秒遅れて、さやかが慌てて頷いて。
「ほむら…私、あんたとずっと一緒にいたいのよ」
「知ってるわ」
「あんたを置いて消滅したくない」
「よく知ってる、だから大丈夫よ」
「え?」
「私を信じなさい、さやか」
まるで母親が子供に言い聞かせるような口調でほむらは囁いた。
「貴方は私が消滅させない。…貴方が馬鹿なことをしでかさない限りはね」
「ほむら…」
「私だって馬鹿じゃない、貴方の事は考えていたわ。もしまどかが生を終えた後再び統合されるんじゃないかってね。」
「「あれ」と?」
ほむらは頷く。「あれ」とは円環の理の事だ、成長した二人は普段「あれ」とか「あっち」で表現している。
「貴方は未知数なのよ、さやか。ゆくゆくは「あれ」に統合されていくのか、それとも単体で独立したままこの世にとどまるのか、それとも人間として死を迎えた時に消滅していくのか」
「う~ん、さすがに人間としては無いとは思うけど…」
復活した死者―‐以前さやかを占った時のカードを思い出す。正にそれなのだ、概念の一部としてこの世に降り立った後、悪魔の世界改変のあおりをくらってそのまま留まったかつて人間だった者。
「まあね…貴方の場合、手足がもがれても生えてくる高性能なゾンビといえなくもないけど…でも可能性は否定できないでしょ?」
「言い方!」
さやかのツッコミに失笑しながら、ほむらは言葉を続けた。
「それでも、問題は貴方がいつまで持つのか、そして遠い未来に消滅しそうになったら、どう対策を講じるか…」
「対策ってあるの?」
「…知りたい?」
ニヤリ、とほむらが鮫の様に笑った。このように残忍な笑みを浮かべる時の彼女はロクな事を言わない、とさやかは内心ゾッとした。おもむろにほむらは両手を伸ばし、さやかの両肩にぽん、と手を置いた。珍しい動作だ。きょとん、とさやかは目を丸くして
「貴方の体を…」
「へ?」
「冷凍保存するのよ」
「嘘!怖い!」
うひゃあ、と変な声を出しながら、さやかが自分の体を抱きしめて小刻みに震える。ほむらの顔は至極真面目で。
「遠い未来なら可能でしょ?」
「い、いやよ、そんな保存方法!……てか、あれ、あんた笑って…」
よく見ると、微かに悪魔の口元が緩んでいて。視線もどことなくおぼつかない。さやかの顔が赤くなる。
「あ、あんた…今の冗談よね?冗談でしょ?」
「違うわ、本気よ」
「嘘、今笑ったじゃない!ほら!」
今度はさやかがほむらの肩に手を置いて体を揺らす。華奢な悪魔の体がゆらゆら揺れて。とうとうほむらはあはは、と子供の様に笑いだした。
「…っ、ごめんなさい、冗談よ」
「あんた、そんなに楽しげに笑って…むかつくわ!」
ようやく笑いも落ち着いて、ほむらは大きく息をつく。
「貴方って、ほんと馬鹿ね」
三回目、とツッこむさやかに体を寄せ、ほむらは人差し指をそのみぞおちにあてた。トントン、と軽くつつく。
「私達の存在は肉体ではなく魂が問題でしょ?考えたらわかることよ?」
「まあそう…だけど…」
赤かったさやかの顔が更に赤くなる。惚れた弱みだ。
「だからね…」
そう言って、ほむらは口を閉ざした。体はさやかに寄り添ったままだ。
――もしかしてこの話題に触れたくなかったのかしら?
さやかはふと思った。こういう風に何度も冗談で話の焦点をずらすことなんて彼女はしないはずだ。いつでも彼女は哲学的なほどストイックで、そして実直だから。だがここまできたら彼女の対策とやらを聞きたい、とさやかは思った。
「だから…?ねえ、驚かないから教えてよほむら」
「…そうね、実は私もまだうまく説明できないのだけど」
意を決したように、ほむらが顔をあげた。今度は本気だ、とさやかは思った。
「取り込むのよ」
「何を?」
「貴方を私の中に」
「あんたの中に?」
素っ頓狂な声をあげたまま、さやかの口が英語のOの形で止まった。普段から悪魔に事あるごとに「お間抜け」と言われているが、今もまさにその表情で。ややたれ気味な蒼い目がほむらの顔を捉え、次第にその視線が下降する。顎から胸、そして下腹部あたりにさやかの視線が降りた途端、ほむらがさやかの額を平手で叩く。見た目は軽いが悪魔の力は強く、ばちん、と大きな音がした。
「痛い、何すんのよ!」
「変な事考えるからよ!」
「私そんな事……いや、ちょっと考えたかも」
「でしょ?だから教えたくなかったのよ…この変態」
「ひど!だってあんたが中に取り込むっていうから…痛い!」
「黙りなさい」
また叩かれる。悪魔は心が読めるのだ。
額を抑えたままさやかが怯えたようにほむらを見つめた。やや頬を赤らめながらほむらは両手を腰にあて、さやかを睨んでいて。そういえばほむらはこの手の話に免疫がなかったとさやかは思い出した。以前いろいろあって預かった鹿目タツヤのエロ本が見つかった時の剣幕はそれはもうすごいものだった。
「まったく…」
しばらくして、はあ、と大きなため息をついてほむらは言葉を続ける。
「貴方はかつてまどかの一部だったわよね、鞄持ちとして」
「うん、そうよ…もしかして」
「ええ、そう、私も概念なのだから、まどかの様に貴方を取り込む事ができる。ただまどかの様に貴方を独立させた一個の個体として存在させることができるのか、それとも取り込んだままになるのか、そこがわからないのよ」
「形状がわからないってことね、まあ…私も鞄持ちになる直前までの記憶が曖昧なんだけど…」
取り込む原理はさやかにもよくわからない。ただ魂がまどか(円環の理)と交合して一部になった瞬間例えようのない安心感に包まれたのをさやかは覚えている。
「そうなのよ、今の科学では説明できないけど、例えば貴方を原子レベルに分解して私の中で再構築するとして、だとしたら魂は…」
「わあ!まって、余計にややこしくなるわ」
そもそも彼女の中でどうやって私が再構築されるか?とさやかの頭の中にはクエスチョンマークしか生まれない。とりあえず、ここはただ概念に取り込まれて存在し続けるという事でいいのではないか、とさやかは考えた。
――私って、とことん文系脳なのかしら
使い方が正しいかはわからないが、さやかはとことん物事を突き詰めていくほむらと己を比べて、「残念」な気分になる。
「まあ、とりあえずさ、私はそのどちらでもいいわ」
「どちらでもいい?」
さやかの言葉に首をかしげるほむら。
「前にまどかの一部だった頃、すごく幸せだったのよ、うまくいえないけど…安心感っていうか。だからさ、もしあんたの一部になったとしてもそれは変わらないと思うし」
不思議そうにこちらを見つめるほむらにさやかは微笑んで。
「だからどんな形状で存在が続いたとしても、私は構わないわ」
「どんな形状でも?」
「そうよ、そうね…例えば、あんたの背中から私の頭が出てきたりとか」
「なによそれ、B級映画?」
「そ」
「馬鹿みたい」
そうして二人は笑いだした。
「ほむら」
「何?」
「私はあんたと一緒にいれるなら、それでいいのよ」
「…よく知っているわ」
長い間話をして、ようやく二人は安心感を得る、これでこの話題は終了だ。タイミングよく、二人の背後のガラス戸が開いた。ひょっこりと初老の男性が出てくる。
「あの…すみませんが、入口で立っているとお客様がはいってこれないので」
ここは喫茶店の軒先だった。出てきたのは店のマスターのようで。二人一瞬顔を見合わせて、それから申し訳なさそうにマスターに詫びると、すっかり晴れた空の下に出た。
「わあ、私達、雨宿りしてからずっとあそこで立ち話してたわね、マスターに悪い事したわ」
「そうね、物分かりの悪い誰かさんのせいね」
「ひど!だいたいあんた、人のせいにしすぎよ」
「そう?」
「そうよ」
そうしてごく自然に二人は手を繋いで歩きだした。
「それより、私達もう少し具体的な将来の話をした方がいいんじゃないかしら」
「具体的って?」
「年金とか」
「リアル!」
私は払っているわよ、と蒼い髪の女性が言うと、黒髪の美女はおまわりさんは給与控除でしょ、と囁く。それからさやかがまた言い返す。
晴れた空には蒼い髪の女性が探していた虹がかかっていたのだが、どうやら今の二人には必要なさそうだった。
END
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ほむらハンバーガーを食べる
これは、二人がまだ社会人になりたてだった頃のお話
美樹さやかには大学時代数人友人ができた。友人とはいっても中学生の頃の特殊な体験で築かれていった仲間達とは違う、一般的な友人だ。だが、それでもさやかにとっては大事なものであった。さすがに特殊な人生を歩んでいたとはいえ、表面上人間として暮らしているからには、社会人になって時折ふと気になるのは仕方のないことだろう。そうしてつい、ストローから口を離して美樹さやかは向いに座っている悪魔に尋ねた。
「ねえ、ほむら、あんた大学時代の友達がどうしているかって気にならない?」
「?」
突拍子もなくいきなりさやかが切り出したため、黒髪の美女――暁美ほむらはハンバーガーを咥えながら顔をあげた。さやかはこの美しい悪魔が食事中だったことを思い出して、「あ、ごめん」と謝り、そして微笑んだ。
「何、今私おかしいことをしたかしら」
ほむらがハンバーガーから口を離し、さやかに尋ねる。
「ううん、違うわ、あんたも人間らしい仕草をするんだなあって」
「何それ」
ふん、と悪魔は肩をすくめて、細い両腕の先に持っているやや小ぶりなハンバーガーを再び口に運ぶ。美味しそうに咀嚼する姿がまるで子供のように見えてさやかはついつい口元を緩めてしまう。
――可愛いと言えたらいいんだけど
さやかが心で呟く、だがいきなり目の前の美女がむせたので、慌ててティッシュを差し出しているうちに忘れてしまっていた。
ここは、二人の住んでいるマンションに近い24時間営業のファーストフード店だ。明日が土曜日だからか、時計の針は深夜を回っているというのに大勢の客がいた。さやかとほむらは窓際のテーブル席を陣取っていたが、時折客がじろじろとこちらを見てくるので、さやかはついついきょろきょろとあたりを見回してしまう。偶然目と目が会うと気まずそうに、あるいは興味深げにのぞき込んできたりと様々で、さやかははあ、とため息をついた。
「どうしたの?」
「いや、相変わらずあんたの美貌に見惚れる人が多いわねって思ってさ」
「くだらないこと言うと殺すわよ・・・これ飲んでから」
「ひど!あんたが綺麗って言ってんのに」
「黙りなさい」
この手の話に悪魔は興味が無い、むしろ怒りを示すため、さやかもとうとう黙り込んだ。よろしいとでも言う様にほむらはうなずくと、ストローに口をつけた。中の飲料を吸い込み始める。桜色の柔らかそうな唇につい目がいってしまい、何を意識したのか、さやかは慌てて視線を逸らす。
――まったくもう、反則でしょ。
美少女だったほむらの成長具合は美樹さやかの予想を遥かに上回っていた。「恐ろしいくらい」美しくなったのだ。長い黒髪に白い肌は変わりはないが、成長と共に顔つきがすっきりとし、更に透明感を増していた。そして陰鬱な双眸の神秘的なアメジストの色が見ている者を惹きつける。さやかは気まずそうな様子で頬を掻いて、しばらくして顔をあげるとほむらがこちらを見ていることに気づく。どことなく悪魔の口元が緩んでいて。
「・・・な、何よ」
「それはこっちの台詞よ、どうしたらそんなに顔が赤くなるのかしら?」
悪魔は左手で頬杖をつきながら尋ねる。
「え、嘘、違うわよこれは・・・」
さやかは頬に手をあてた後、今度は慌てた様子で両の手のひらを胸元まであげる。そしてマジシャンがトリックをごまかすように手のひらをひらひらと振った。一連の動作があまりにも滑稽で、とうとうほむらは笑い出した。空になった紙コップをトレーに置き、それを脇に寄せるとほむらは少し身を乗り出して囁いた。
「貴方って本当に、単純で、すぐに顔に出るわよね」
「な」
「特にその目つき・・・」
「へ?」
ぱちん、とほむらは指を鳴らした。店内に静寂が訪れる。ほむらとさやか以外は誰も動かない。時間を停止したのだ。ほむらの右手がさやかの左手を包んでいる。ほむらがさやかを見つめた後、その視線を右に逸らす、つられてさやかも視線を移すとそこには見知らぬ男性客がいて、こちらを(正確にはほむらを)見つめていた。
「もう慣れたわ」
ほむらの言葉でさやかははっ、とした表情になる。そうして再び悪魔へ視線を向ける。
「この人達の視線なんて、私はなんとも思わないし、どう思われても気にならない、私自身に影響はないし、関係が無いもの。だけど貴方の視線はーー」
「私が?何」
「すごく気になるわ、忌々しいくらい、ほんとどうしてかしら」
だが言葉とは裏腹にどこか悪魔の顔は楽しそうで。
「ねえ、それって特別ってことかしら?」
この悪魔の特別になりたいなどといつの間に思い始めていたのか、さやか自身にもわからない。だが、自然とその言葉がついて出た。
「ええ、いつかは殺さないと厄介になりそうと思うくらいに」
「ころ・・・」
珍しく肯定されたと喜んだ矢先の物騒な単語に絶句するさやか。
ニヤリ、と不敵に微笑むほむら。
「あら、だって貴方今私に発情したでしょう?」
「え、そんなこと・・・それは」
「本当に犬ってわかりやすいから・・・そういう時期」
「犬じゃないわよ私」
「あら、そうだった?」
そうしてほむらは笑う。確かにそう思ったことは否めないと困り顔になるさやか。だがどうして彼女に対してそう感じるのかは、さやかも、そして悪魔本人も知っていた。
――大学時代に彼女たちは一線を越えた。
文字通り体を重ねたのだ。それは魔獣の駆逐で疲労した互いを慰め合おうとしたのか、あるいは魔が差したのか、それはいまだにわからないが、互いが初めての相手となった。それから時折体を重ねるようになって今に至る。
「まあ、魔が差したとはいえ、犬を受け入れた私にも責任はあるわ・・・」
さも困ったといわんばかりの表情を浮かべ、ほむらはこめかみに手をあてため息をつく。この数年で悪魔はユーモアを僅かながら身に着けたらしい。
「ちょっと、真顔で言われると、本当に私が犬みたいじゃない、やめてよ」
そしてこの数年でさほど成長していなかったらしい鞄持ちは悪魔の言葉に振り回されて一喜一憂する。そのたれ気味な間抜け目を見て、ほむらはまたくすくすと笑う。おそらくその脳内でさやかを犬にでも変換しているのだろう。
「もう」
拗ねた様子のさやかを見て、ほむらは何を思いついたか、いきなり体を乗り出すと顔を近づけさやかの唇にキスをする。驚いているさやかを後目に、ほむらは平然と着席して囁いた。
「貴方の唇ポテトの味がしたわ」
「あんたこそ、コーラの味がしたわよ」
失笑しながら、ほむらはぱちん、と指を鳴らす。周囲が再び賑やかになる、時が動き出したのだ。
「ねえさやか」
「何よ?」
ほむらがさやかを見つめる、どうやら今度は真剣の様だ。
「さっきも言ったとおり、私はほかの人の視線なんて気にしないし、なんとも思わない。まあ、貴方のおかげで大学時代は助かったわ、それは事実よ」
大学時代、ほむらの美貌目当てで近寄った多数の男子学生(時折女子学生も)がさやかの脳裏によぎる。
「でもね、貴方ももう人の目は気にしないでほしい」
「え?」
意味をはかりかねてさやかが首をかしげる。
「人の目よりも気にしてほしいのよ」
「何を」
「私を」
嬉しさも通り越すと何も感じなくなるのだろうか、それはあまりにも突然の事で、さやかは口をあけたまま動かなくなった。
「ねえ、おわかり?ていうか聞いているの?」
ほむらがさやかの顔の前で、手のひらをひらひらと振る。しばらくして、さやかの顔が嬉しそうに崩れ始めたので、ほむらは手を止め、さも嫌そうな顔をした。
「気持ち悪い」
「ひど!てか、まあ・・えへへ嬉しいわ、あんたにそう言ってもらえるなんて」
「重症ね」
まだへらへらと嬉しそうにしているさやかの頭を軽く叩き、ほむらは立ち上がる。
「どうしたの?」
「おかわりよ、ハンバーガー2つ追加」
「そんなに?」
「「夕食をごちそうする」っていう誰かさんの言葉を信じてお昼から何も食べないで待ってたのよ?それが23時帰宅とか信じられないわ」
悪魔は相当お腹が空いていたらしい。申し訳なさそうな顔になるさやか。
「それは、本当にごめんなさい、謝るわ、次ちゃんと奢るから」
警察官になるとどうしても突発的に事案が発生してしまうのだが、さすがに今回はまずいとさやかは反省した。
「・・・まあいいわ、次、魔獣が出てこない日に絶対にね」
そう言って、ほむらは颯爽と店員の待つカウンターへ向かった。その子供の様な仕草にさやかは苦笑して。
約束の日、結局はまたハンバーガーを食べることになったことと、大学時代の友人の話で盛り上がったのはまた別の話
END
この直後R18な展開があり、R18短編集に転載(「ほむらお預けする」)
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それぞれに光あれ
30代も終わりに差しかかると色々な事があるものだ―。
高柳冴子は、ふう、と息を吐いた。
「サエコセンセー、あそぼ」
あどけない声の方へ冴子が目を向けると、膝に乗っかって笑顔を浮かべている園児。気を取り直したように冴子も笑う。
「そうだね、遊ぼっか」
冴子の言葉で、周囲の園児もわっ、と群がってきた。複数の子どもたちがまるでジャングルジム飛び乗るように、冴子の身体にもたれてくる。
「ほらほら、危ないわよ」
そう言いながらも冴子は笑顔を浮かべた―
高柳冴子は見滝原市で生まれ育った。地元の短大を卒業し、そのまま幼稚園の教諭となってもう15年以上になる。思春期時代に多少の恋愛は経験したが、どうにも縁が無かったようで結婚はしていない。生活も地味で両親と同居しており、もっぱら悩みの種はその両親の介護の事だった。
―‐なんだか惰性で生きているようね
飽きが来ると言えば語弊があるのだろうが、10代の頃と比べて見るもの聞くものに新鮮味があまり感じられないのだ。だからと言って何か始めようという気力も余裕も無い。だが―
「冴子先生?」
気付けばとても愛くるしい女性が冴子を見つめていた。桃色の髪の女性。冴子と同じくみたきはら幼稚園とロゴのあるエプロンを着ている。
―そう、この子が来てから私は変わった。
鹿目まどか
愛くるしい可愛らしい容貌を持つ新任の教諭。最初出会った頃は、一瞬10代の学生かと思ったくらいだった。今でも時折彼女が20代半ばということが信じられなくなる。
『はじめまして、鹿目まどかです』
ふんわりと微笑む彼女を見て冴子は何故か「神」を思った。特段何かの宗教に所属している訳でもなく、それほど迷信深い訳でもない自分がそう感じたのは、恐らく鹿目まどかの持つ雰囲気のためだろうと冴子は考えている。浮世離れした、それでいてどこか底知れない「何か」を湛えている鹿目まどかは冴子の中で秘かに神格化されていった。
***********************
「ご両親の介護ですか・・・」
「ええ、ちょっとうまく計画が立てられなくてね」
幼稚園の隅にある職員用の給湯室で、冴子とまどかは二人でお茶を飲む。冴子は疲れ切った顔に笑みを浮かべ、まどかを見つめた。
「ごめんなさいね、鹿目さん、こんな話…あなたはまだ若いのに」
「いいえ、そんなこと…」
えへへ、と子どもの様にまどかは笑って、言葉を紡ぐ。
「私…冴子先生のお話を聞くことしかできないですけど。それでよければ何でも話してください」
「ありがとう」
「きっと…冴子先生ならうまくいきます、根拠は無いけど・・・私、そんな気がします」
真剣に言葉を紡ぐまどかを見て、本当にいい子だなと冴子は思う。そして不思議と気が楽になる。
「不思議ね、鹿目さんの言葉を聞いていたら、なんだかうまくいくような気がしてきたわ」
「そうですか?嬉しいです」
「本当よ、鹿目さんってもしかしたら、魔法使いか神様かもしれないわね」
「まさか!絵本の読み過ぎですよ」
まどかの言葉で二人同時に吹き出した。本当は、冴子は真実を述べていたのだが、それが事実であることを知る日はこないのだ。
と、軽やかなメロディが給湯室に響き渡り会話は中断された。まどかの携帯の着信音だ。冴子に「すみません」と断りを入れてまどかは携帯を耳にあてた。
「はい、もしもし―あ、さやかちゃん?うん、明日?」
さやかという名前は冴子にも聞き覚えがあった。時折幼稚園に遊びに来る鹿目まどかの友人だ。確か職業は警察官だったと思う。蒼い髪の気さくで人懐っこい女性だ。しばらく何か話しこんだ後、まどかは携帯を切った。
「さやかさんって、よく遊びに来る警察官の人?」
「あ、そうです、クリスマスイブに買い物に行こうって」
親子ほど年が離れているせいか、冴子とまどかは気兼ねなく互いのプライベートな話をするようになっていた。
「ほんと仲良しね」
「はい」
まどかはとても嬉しそうに微笑む。デートの様だと冴子は思った。そうして、ふとまどかのもう一人の友人の顔を思い浮かべた。
「あの、とても綺麗な方も一緒?」
冴子は特にまどかの友人と親しいという訳ではないし、それほど交流がある訳でもない。だが、あの黒髪の女性は一度見たらもはや忘れることなどできない。それほどまでに美しかったのだ。
「はい、ほむらちゃんも一緒です」
「そう」
禍々しい―そう思う事自体失礼であると思うが、正直冴子は初めてあの黒髪の女性を見た時、何か得体の知れない恐ろしいものを感じ取った。細やかで繊細な黒髪に白く美しい容貌、それに反した美しいが禍々しい陰鬱な双眸。
「暁美…ほむら」
「え?」
冴子はつい、まどかの友人の名前を呟いた。そして呟いた本人も驚いた様に口を抑えた。
「あら、ごめんなさい、つい…前から面白い名前だと思ってたから口走っちゃったわ」
「ああ…よく言われます」
本当によく言われるのだろう、まどかはにっこりとほほ笑んで、中学時代の名前に関するエピソードを話しだした。
「それで、よく英語の授業の時に違和感が無いねってクラスメイトに言われてたんですよ」
「ああ、確かにそうねえ…暁美ほむらがホムラアケミで、美樹さやかがサヤカミキ…鹿目さんも」
「そうです、マドカカナメ」
フフフ、と得意げに笑う桃色の髪の女性は、本当に中学生の様にあどけなくて。冴子に子どもはいないが、もしいたら、こんなに可愛くて仕方ないと思うのだろう、と思った。
「本当ね、なんだか名前が二つあるようだわ」
―まるでどこか余所の、いや「架空」の世界の人の名前のよう―
冴子はふとそう思った。
******
「まどかも一緒に行けるってさ」
携帯を切り、蒼い髪の女性が優雅にソファに腰掛けている女性に話しかける。
「そう、よかったわ」
そっけなく―この美しい黒髪の女性は何事もないように囁いてはいるが、実は内心はそうでないことを蒼い髪の女性は知っていた。つい口元を緩め、余計な事を口走ってしまう。
「素直に喜べばいいのに…あいたっ!」
いきなりテーブルにあったスプーンが宙に浮いて、蒼い髪の女性の頭を直撃する。もちろんそのスプーンは黒髪の悪魔が操作したわけで。
「ちょっと!痛いじゃないの!」
「貴方が一言多いからよ」
優雅に立ち上がると、腕を組みながら黒髪の女性は蒼い髪の女性に近づいた。つ、と白い腕を伸ばしその蒼い髪の女性の頭に手を置く。
「よしよし」
「あいた!痛い!」
ぽん、ぽんとまるで犬の頭を撫でるような仕草だが、実は常人の数十倍の力で頭を叩いているのだ。通常の人間なら重傷だが、あいにく蒼い髪の女性の方も正確には人でないので、そこは黒髪の美女も容赦しない。頭を抑える蒼い髪の女性をみながら、ニヤリと鮫のように冷酷な笑みを黒髪の女性は浮かべた。
「この悪魔!」
「あら、元からそうよ、鞄持ちさん?」
肩をすくめて、今度は優しく蒼い髪の女性の頭を撫でた。それには慣れてなかったのか、もう10年も一緒に暮らしているというのに、蒼い髪の女性はまるで付き合い始めの恋人の様に顔を赤らめた。
「……貴方って、ほんとわかりやすいのねさやか」
「…悪かったわね」
くすくすと、今度は年相応の女性の様に可愛らしく悪魔は微笑んだ。反則だ、とさやかは思う。だがどうにも、悪魔のこういうところが憎めなく、つい許してしまう自分が一番悪いのだともさやかは考えた。
「だってあんたが―」
「私が?何?」
黒づくめのワンピースに身を包んだ美しい悪魔と、白いワイシャツにデニムという簡素な格好の鞄持ちは、窓の前で対峙する。ほんの数センチほどの距離を保った至近距離で見つめ合う。10年前に世界を再改変した悪魔とそれにわずかながら抵抗した鞄持ちの頃に様に。だが、違うのは互いが更に接近し、その唇が重なったことだ―‐。
*************
結局また二人は着替えることになった。だが特にそれについて互いに何か言及する訳でもなく、黙々と二人は外出の準備をする。
「そういえば、まどかは今日仕事だったわよね?」
珍しく「行為」の後に先に口を開いたのは悪魔――暁美ほむらの方だった。普段はさやかの方が話しかけ、ほむらの方は気まずい様にそっけなく返事をするくらいだったのだが、だいぶ変化が生じていた。
「うん、幼稚園の仕事終えてから直接待ち合わせ場所に向かうって言ってたわ確か」
「イブなのに仕事って大変ね。それに比べて…」
そう呟いた後、じろり、とほむらはさやかを睨む。ちょっと、とさやかは両手をあげた。
「警察官だって、大変よ?休みなんてあって無いようなもんだし…」
「あら、じゃあ仕事に戻る?」
「感謝してるわ、ありがとう」
さやかの切り返しにほむらは口元を緩めた。
実際警察官などの公安職ならイベントどころか通常の休みも返上されるのも常なのだが、さやかの場合は、大抵イベントや、まどか絡みの約束ごとの場合悪魔がどうにかこうにか時を「操作」してくれるのだ。ほむらは着替えをすませると立ちあがった。
「じゃあ行きましょう」
「へ?まどかまだ仕事中じゃないの」
「たまには迎えに行くのもいいんじゃない?」
そう言うと、ほむらは片方の目を軽く瞑った。大人になるとこういう仕草もできるようになるらしい。その魅惑的な仕草は案の定蒼い髪の女性を刺激したらしい、さやかの顔はわかりやすいくらい赤くなっていた。あきれたように悪魔は肩をすくめて、そうして笑った。
*********
「まどか先生、そろそろ帰らないと、待ち合わせに遅れるわよ?」
「あ、はいもう少し、この飾りつけがすんでから…」
「あらあら」
冴子が困ったように笑う。明日の幼稚園児を悦ばせるために、この年若い幼稚園の教諭は一生懸命クリスマスツリーの飾り付けをしているのだが、なんだかこの桃色の髪の女性自身が子どもの様に見えたのだ。
「じゃあ私も手伝うわ」
「あ、ありがとうございます」
そうして親子ほど年の離れた二人の教諭は黙々と飾り付けを始める。ほどなくして飾り付けが終了した頃には、幼稚園の内部に大きな可愛らしいクリスマスツリーができあがっていた。
「わあ、綺麗に出来上がりましたね」
「そうね、これで明日子どもたちも喜ぶわ」
無邪気に喜ぶ子どもたちを想像すると自然に二人の口元が緩む。
「冴子先生は、これから家でクリスマスですか?」
「ええ、特に飾り付けはしてないけど、ケーキを買って帰るわ」
「でもそれでも素敵だと思います」
「ありがとう」
家でささやかに身体の弱った両親とクリスマスを祝うつもりの冴子だが、それでも誰かにこういう風に肯定されると嬉しくなるものだ。
「まどか先生も家で?」
「はい、うちはずっと家族でお祝いしています。これからもずっとそうしたいなって…」
「素敵ね」
「ありがとうございます」
ふんわりとまどかは笑った。その清らかな笑みの前では彼氏などと、異性の話をするのは野暮なことだと冴子は思った。
「それじゃ、まどか先生、一緒に途中まで帰りましょうか」
幼稚園周辺の住宅街はイベント好きな家庭が多いのか、イルミネーションが例年飾られている。繁華街やイベントで華やいだ街とは比べ物にはならないが、家庭的だが個性的で、見る者を和ませるような優しい光に溢れているこの界隈が冴子は好きだった。
「このあたりのイルミネーションも綺麗ですよね」
「あら、まどか先生もそう思う?」
「はい、弟が小さい頃はよくここに連れてきました」
にっこりとまどかが笑う。どうやらとても甘えん坊な弟の様だが、確かにこのような可愛らしくて優しい姉ならそうなるだろう、と冴子は秘かに思う。冴子が手作り感溢れる赤、青、黄色の窓枠のイルミネーションに視線を向け、数秒ほど家のことに想いを馳せていると、すぐ近くで足音がした。
日常とはすぐ近く、前触れ無しに崩れるものだ。冴子は親が目の前でいきなり倒れた経験からそれを知っていた。知っていたはずなのだが、鹿目まどかというどこか浮世離れした優しく可愛らしい同僚と一緒にいたためか、冴子はすっかり現実を忘れていた。
「金…貸せよ」
唐突に二人の前に複数の男が立っていた。いやおそらく物影で隠れていたのだろう。このようなイベントを素直に甘受する人間ばかりではない、むしろ逆に妬みやどす黒い憎悪をむける人間もいる。下卑な笑いを浮かべる男達は、まだ20代くらいの若者だった。ジーンズに黒の皮ジャンで統一しているのは、何かグル―プなのだろうか、と冴子はひどく冷静に考えた。無意識にまどかを庇うように冴子は前に立つと、男達に向かって声をあげた。
「あなた達、誰?何の用?お金なんて今そんなにないわよ」
「うわ、うぜ、金出せってば」
「ないのに出せるわけないでしょ、どこか行って」
複数の男は見つめ合ってニヤニヤ笑うだけだ。冴子は無性に腹が立ってきた。こんな多くの人が楽しいと思える時期に、他人を脅かす若者の愚鈍さに。男の一人がふざけた様子を崩さずに言った。
「じゃあ、おばさんに用事ないからさ、そこの可愛い子貸してくんない?」
冴子の背中でまどかが息を飲んだ。震えていた。思わず冴子は桃色の髪の女性の腕を後ろ手で力強く握った。
「ふざけないで、こんな日に何よ、この子を怖がらせないで!」
強くなれる、冴子は不思議と力がみなぎる感じがした。だが男達は冴子の怒りを笑いで受け流すばかりで。
「ああ、もうおばさんには用無いからさ、ほら?」
男が手を伸ばし、冴子の肩を乱暴に掴んだ、咄嗟に冴子は両手を伸ばし男を突き飛ばした。意外と力があったらしく、男は尻もちをついた。
「このアマ!」
他の男が冴子に飛びかかる、気付いた時には冴子は地面に倒れていた、頬が異様に熱い、殴られたようだ。
「冴子先生!」
まどかが叫び、倒れた冴子の身体をかばうように座り込んだ。その目は既に涙で濡れていて。ゆっくりとまどかは男を見上げる。不思議な事だが、男達は一瞬桃色の髪の女性の顔に見惚れて。
「どうしてこんなことするの?ひどいよ…」
良心が咎めるという言葉は彼らにはなかったはずだが、冴子を殴った男は桃色の髪の女性の目から視線を逸らすことができなくなっていた。それに気付いた他の男がおい、早く女捕まえろと肩を揺らす。だが…
「おい、お前どうしたんだよ?何固まってんだよ」
まるで催眠術にかかっているかのように、男はまどかの目から視線を逸らさない。
「お前、一目ぼれか?」
失笑が男達から洩れる。
「まったく、大丈夫お前から先に…」
だが男は言葉を続けることができなかった。まるでいきなりバイクで当て逃げされた様におおきな衝撃音と共に男は数メートル先まで吹っ飛んだからだ。壁にぐしゃり、と音を立てて崩れ落ちる。
「何」
「おい一体…」
蒼い閃光が一瞬走り、残りの男達も四方八方に吹っ飛び壁に激突した。呆然とするまどかと冴子の前に忽然と黒髪の女性と蒼い髪の女性が現れる。
「何回殺しても飽き足らないわ」
「だめよ、こいつら一応人間よ」
「…仕方ないわね」
冴子は朦朧とした意識の中、蒼い髪の女性がこちらに近づいてくるのを見つめていた。まどかの友人美樹さやかであるということをようやく認識する。
「あなた…一体」
さやかの手が冴子の頬に触れた。
「え?」
その途端不思議な感覚が冴子を襲う。身体の芯から熱が生まれていき力がみなぎってくる。さやかは冴子に回復魔法を施しているのだ。思わず冴子は目を瞑る。赤くはれた頬が嘘の様にひいていく。
「大丈夫、すぐによくなります。あ…ついでに「虫歯」も治しておきますね」
「え?」
聞きたいことはいっぱいあったのだが、蒼い髪の女性の少し間の抜けた様なお人よしな顔を見て、冴子は笑った。なんだか不思議な事だがすごく満ち足りた気分なのだ。先ほどのことなどまるで遠い夢のようだった。そして冴子は睡魔に襲われた。ありがとう…と言いかけ、とうとう冴子は眠ってしまった。
********
「…冴子先生、冴子先生?」
「………まどか先生?」
気がつけば、クリスマスツリーの前で冴子は眠ってしまっていた。
――夢?
そういえば、幼稚園で桃色の髪の女性と飾り付けをしていたことを思い出す。
「あら、変ね、さっきまで私外で…」
「外で?ふふふ、冴子先生寝ぼけてますね、私と一緒に飾り付けしていたら先生眠っていたんですよ?」
「あら、そうだったのかしら」
そう言われればそんな気がする、そして次第に夢の内容も忘れていた。
「いやだわ私更年期かしら」
「まさか早いですよ」
まどかが微笑む、冴子も口元を緩めた。
「それじゃあ、私そろそろ帰ります、二人とも迎えに来てくれたみたいで」
「え、そうなの?」
冴子が視線を幼稚園の入り口に向けると、確かに蒼い髪の女性と黒髪の女性が立っていた。まどかと共に二人に歩み寄る。
「こんにちは、幼稚園教諭の高柳です」
「あ、いつもまどかがお世話になってます、保護者の美樹さやかです」
「もう、さやかちゃん!」
あはは、とさやかが屈託なく笑う、それを見て冴子も笑う、不思議とこの蒼い髪の女性には親近感を持っていた。どうにも憎めないところがあるのだ。そうして、冴子はその傍にいる黒髪の世にも美しい女性を見つめる。恐ろしいほど美しい容貌と、そしてその陰鬱な眼差し…。
「暁美ほむらです」
軽く会釈をしただけなのに、それすらも優雅に見えるのだから、美貌とは恐ろしいものだと思う。だがその口から意外な言葉が出てきて冴子は驚いた。
「…いつもまどかを守ってくれてありがとうございます」
「え?」
思わずびっくりして冴子は声をあげてしまった。だが黒髪の女性は真剣なまなざしでこちらを見ていて。
ああ、そうなのか―
その眼差しは陰鬱ではなく、どこか母親の様な優しい眼差しで。冴子はようやくこの黒髪の女性の本質を見ることができた気がした。
「いいえ、私こそいつもまどか先生に守ってもらって」
そう言って頭を下げた。なぜだかひどく嬉しい気持ちだった。
「それじゃあ、冴子先生お先に」
「ええ、買い物楽しんで」
はい、と元気よく返事をするまどかと、二人の友人を見送る。
「なんだか、ほんと浮世離れした三人ねえ…」
つい一人呟いた後、冴子は一人クリスマスツリーを見つめる。なんだかとても――幸せな気分だ。無意識に頬に手を触れる。いつもは痛む虫歯も今は全くといって痛くなかった。
*******
『仕事場に迎えに行ったのは正解だったわね』
珍しく、美樹さやかは念話でほむらに話しかける。間にまどかを挟んでいるため、通常の会話で聞かれたくないからだが。
『まあね、去年は「あれ」が突然襲ってきたからその予防線のつもりだったのだけど…』
「あれ」とは円環の理の事である。去年クリスマスイブの買い物の際にいきなりまどかに襲いかかり、あと少しでまどかと鞄持ちまで引き戻されそうになった経緯もあり、悪魔は警戒したのだが、まさか円環の理や魔獣でなく人間が襲いかかってくるとはさすがに予想しなかった。
『まったく…むしろあいつら魔獣だったらよかったのに』
さも残酷なことをさやかはさらっと呟く。それも当然、さやかとほむらはまどかのためなら鬼にでも悪魔でも(一人はすでにそうだが)なれるのだ。実際あの男達を殺しかねない勢いだったのはさやかだった。
『あら、おまわりさんが人を殺したら大変でしょ?』
『まあそれは…』
悪魔は肩をすくめる。鞄持ちがここまで怒り狂ってなければ、実はほむらの方が瞬時にあの男達をこの世から消していたかもしれない。互いが互いの殺人予防線となったわけだ。
あの後、まどかと冴子の記憶を消して、仕事場に戻したのは二人の仕業だ。男達は死んではいないが放置して警察を呼んだからどうにかなるだろう。
『まあ、これからはもっと気をつけないとね』
『当然よ、まどかにはもう指一本触れさせないわ、魔獣にも人にも貴方にも』
『なんで私?』
くすくすとほむらが笑ったので、傍にいるまどかが不思議そうに首をかしげる。
「どうしたのほむらちゃん?何か可笑しいことでもあった?」
「あ、いいえ違うわ…その…」
いつも冷静かつクールな悪魔はまどかの前だけはそうでないことをさやかは知っていて。思わずにやにやとさやかは笑う。その顔にほむらは指をつきつけて。
「この人の顔が可笑しいから…」
「ひど!」
とうとうまどかが吹き出し大笑いする。そうして両手を伸ばし傍にいる二人を引き寄せた。
「ふふふ、私両手に花だね」
そういうとさも嬉しそうに目を細める。これには悪魔も鞄持ちも何も言えなくて。コートに身を包んだ三人が肩寄せ合って光に包まれた街を歩きだす。行きかう人達はみな影絵の様で。
「これからもこうやって、ほむらちゃんとさやかちゃんと一緒に歩けたらなあ」
「うん」
「そうね」
三人は申し合わせた訳でもなく夜空を見上げる。クリスマスに彩られたイルミネーションと、そして夜空の星。
メリークリスマス、と誰かの声が響く。それはきっと三人の心の声。
その後三人が大量の買い物をして、文字通り鞄持ちが鞄持ちになったのはまた別の話。
END
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三角形のその先に
通り過ぎる風が悪魔の長い黒髪をたなびかせた。ひんやりと冷たい風に抗議するように美しい容貌に険しい表情を浮かべ、悪魔は目を細める。長い睫毛に隠されるアメジストの瞳。
「っひゃあもう、寒いわね」
すぐ隣で素っ頓狂な声があがった。悪魔は横目で声の主を見あげる。そこには、悪魔より少しだけ背の高い蒼い髪の女性がいて。寒さのあまり口を両手で抑えて情けない表情を浮かべていた。微かに悪魔の口元が緩む。
「情けないわね、それでもおまわりさん?」
蒼い髪の女性をからかう様に悪魔は囁いた。悪魔の反対を振り切って就職したこの元鞄持ちは、警察官になってかれこれもう3年になる。
「そんなこと言われてもねえ・・・」
小刻みに体を震わせながら、眉を下げ、情けない表情でこちらを見下ろす鞄持ちを見て笑いたい衝動がこみあげるが、悪魔は我慢した。視線を空へ移す。まだ昼下がりだというのに、灰色の寒空だ。
2月後半、世界規模の異常気象の為、ここ何週間かは例年よりだいぶ暖かかったはずなのに、今日の見滝原市は違っていた。例年通りというか、大分気温が低い。日曜日の昼下がり市街地は人で賑わっていたが、所々薄着の通行人はいかにも寒そうにして、身を縮めて歩行している。市街地の中心近くの街路樹を悪魔と共に散策していた蒼い髪の女性もまたその一人で。お気に入りなのだろう、いつものデニムとシャツに簡単なカジュアルジャケットを羽織ったファッションだったが、この季節に秋仕様にしたのが大間違いだったらしく、今まさに寒そうに長身で細身の体をやや前屈みにしていた。その横で寄り添い歩く黒髪の美女は、こちらも黒のニットにロングスカートと、いつもの黒中心のファッションで、ただひとつ違うのはグレーのコートを羽織っていて、いかにも温かそうなことだけだ。ちらり、と蒼い髪の女性がうらやましそうに黒髪の女性の方を見ると、すぐさまきっ、と黒髪の女性が睨み返し、蒼い髪の女性は縮み上がり視線を逸らす。吐く息が白い。それを見て、はあ、とため息をつく黒髪の美女の息もまた白くて。
「貴方って本当に馬鹿ね・・・さやか」
「わ!しみじみ言わないでよもう、へこむから」
名前を呼ばれた蒼い髪の女性ーー美樹さやかは眉を下げ、心底へこんだ表情で黒髪の美女を見る。さやかの垂れ気味の目と情けない表情を見て、何を思ったか、数秒ほど間を置いて、黒髪の美女は自分に言い聞かせるようにこう呟いた。
「まあ・・そうね、飼い犬の不手際は飼い主の責任だし、私がしっかり管理しないと・・・うん」
「ちょっと、今さらりと自己完結したでしょ!私犬じゃないって。あれほど・・・」
「あら、本当に?元から?」
「ほむら」
さやかが拗ねたように囁いた。悪魔ーー暁美ほむらはさやかの顔を見つめながら、艶のある唇を微かに動かした。
「冗談よ」
優しい声色で、そうして柔らかく悪魔は微笑んで。思わずさやかは固まった、こんな悪魔は滅多に見たことがなかった。
10年――
あれから10年経ったのだ。こんな時美樹さやかはしみじみ思ってしまう、そう例えば成長して更に美しくなった悪魔の横顔を見つめている時、または今こんな風に目を細めて微笑んでこちらを見つめてくれている時。
「さやか?」
「あ、ううん、なんでもないわ」
それでも一番変わったのは自分だとさやかは思う。
――だって、昔ならこいつにこんな風に
透き通った肌にかかる黒髪、寒さからか潤んだアメジストの瞳。引き込まれそうで、さやかは思わず目を逸らす。顔が紅潮していることが自分でもよくわかる。
失われた記憶を取り戻してこいつと反目していた時代が嘘みたいだ、とさやかは思う。そう、あの頃の確執も時の流れと成長と共に変化して、二人の関係は今ではさやかが最も想像してなかったものになって。
「あ~もう・・・」
「なんでもないわりには顔が赤いわよ?」
「い~や、なんでもないわ」
「ほんと?」
ほむらがからかうように囁いて傍らの蒼い髪の女性を見上げる。中学の頃の面影を残して大きくなったこの蒼い髪の女性は、本質もまた変わっていない、不器用でわかりやすい。ほむらは口元を緩めながら観察を続ける。肩まで伸びた蒼い髪に、すらりと伸びた背、美しく成長はしたが、どこか間の抜けた垂れ気味の目。今も案の定、赤くなった顔を両手でさすっては、視線をさまよわせていて。自分の所為でこうなっているのだという予感が、悪魔を至極愉快な気分にさせる。何故だかわからないが、この間の抜けた女性を試してみたい衝動が起きて、ほむらは小さな声で尋ねた。
「もしかして発情した?」
わかりやすく目を大きく見開き、蒼い髪の女性は、んとむの中間の様な変な声をあげて喉を詰まらせた。こういう軽口が悪魔の口から出るのは、二人の間にそういう行為があったからで。右手を胸の前にあげて、まるで窓を拭くようにせわしなく動かすさやか。
「そ、そんなことないわ!ないわよ・・・たぶん!」
とうとうほむらは吹き出した。珍しく声をあげて笑う。
予感が的中した嬉しさからか、さやかの言動があまりにも滑稽だったからかそれとも両方なのか。それは悪魔本人しかわからなくて。たださも嬉しそうにほむらは悪態をついた。
「まったくどうしようもない犬ね」
「ひど!・・・まあ、確かにそう言えなくもないけど・・でもさあ」
顔を赤くしながらも中途半端な抗議と肯定を口にする蒼い髪の女性。だがほむらはどこ吹く風で、そんな女性の情けない顔を味わうように見つめていた。
――どうしてこのひとを受け入れたのだろう?
愉快な気持ちのまま、ほむらは思う。時折、ふと考えるのだ。例えば魔獣の戦いの無い平和な時間、彼女が淹れたコーヒーを飲んでいる時や、こんな風にたわいのない会話をして彼女の情けない表情を見ている時。どうして?と。だが答えは出てこない、出てくることを恐れているのかもしれないし、そもそも答えなど元から無かったのかもしれない。
――魔が差したのだ
そう、やはりそうなのだ、とほむらは思う。理由なんてない。そうでないと、悪魔である自分が今でも時折この情けない女性を拒絶できず受け入れてしまう説明がつかない。
まだ顔を赤くしている蒼い髪の女性を見つめながら、ふう、とほむらは息を吐いて肩をすくめた。
「まあいいわ」
「え?な、何が?」
「貴方をこういう風にしたのは、半分は私にも責任はあるってこと」
意味をはかりかねて、首をかしげるさやかを見て、ほむらは反対側に首をかしげて「わからない?」と囁いた。
「簡単に言うなら・・・そうね、犬の発情期の処理は飼い主がきちんと・・・」
「言い方、言い方!」
慌てて遮るさやかの言葉に失笑しながら、ほむらは急に何故か心配そうな表情を浮かべて言葉を続ける。
「家まで我慢できそう?」
「きゃあ、やめて!人聞きの悪い!そんな風に言われると、私あんたに年柄年中発情してるみたいじゃない!外堀埋めないでよ!」
さやかの反応が可笑しくてほむらはまた笑う。もちろん今のは冗談だ。10年経つと悪魔も表情豊かになるらしい。まったくもう、と呟いて、さやかが寒そうに自分の体を抱きしめる。そうしてさも忌々しいといわんばかりの表情でさやかが呟く。
「まあ、あんたが可愛いのは認めるし、その発情っていうか、変な気持ちになったのも確かよ、でももちろん悪いと思っているからすぐに・・・ほむら?」
さやかの言葉を最後まで聞かず、すたすたと悪魔は早足で歩きだす。ちょっと、と蒼い髪の女性が呼びかけても黒髪の美女は振り向かず、数歩先を進んでいて。
「もう、どうしたのさ」
だが悪魔は答えない。こういう気まぐれは二人の間でよくあることなのだろう。特に慌てた様子もなく、さやかはほむらの数歩後ろを一定の距離で歩く、黒髪の美女の華奢な後ろ姿を眺めながら。
もし、今さやかが視点を自由自在に操ることができて、ほむらの顔を見ることができたなら、その表情の希少性に驚いただろう。だが、残念ながらその顔を見ることはなくて。
しばらくして、ぴたりとほむらが歩を止めた。まるで子供が電車ごっこをしているように、さやかも距離を保ったまま歩を止める。不思議そうにほむらの後ろ姿を見つめるさやか。と、おもむろにほむらが左手を腰にあてた。首をかしげるさやか。その姿はちょうど警察学校の整列の横ならえのようで。
「なあに?整列しろってこと?」
職業柄、隊列や整列は嫌というほどやらされているさやかは、迷わずひょこひょことほむらに近づいた。だが横に並ぶと、黒髪の美女に「馬鹿」といきなり言われ。
「何よもう」
「整列じゃなくて、腕を貸してあげるのよ」
「え?」
そういってそっぽを向いた悪魔の顔はどこか赤みを帯びていて。
「寒いでしょ、だから・・・」
ぱあ、と明るくなるさやかの顔。よほど嬉しかったのだろう飛びつくように悪魔の細い腕にしがみつく。変な声をあげる悪魔。
「やった!もう寒くて仕方なかったのよ」
あたたかい!と歓喜の声をあげるさやかに、珍しく面食らった表情の悪魔。
「ちょっと、そこまでしがみつかなくても・・・」
「いいじゃん、寒いんだもの」
華奢な悪魔によりかかる大柄な鞄持ち。二人の姿は、どう本人達が否定しても小柄な飼い主によりかかる大型犬のようで。
「もう・・・」
えへへ、とさも嬉しそうに喜ぶ蒼い髪の女性の腕を無碍にふりほどくわけもいかず、とうとう悪魔は観念した。あきれた様な表情を浮かべながら、なすがまま、「大型犬」がもたれかかってくるのを受容する。
「本当にしょうがない犬だわ」
「でしょ?」
笑顔全開の蒼い髪の女性と、渋い表情の黒髪の美女。だが、微かにその口元は緩んでいて。何名かの通行人が、妙齢の女性がまるで子供のようにじゃれ合いながら寄り添い歩くのを不思議そうに眺めていたが、二人にはどうでもよいことなのだろう、気にも止めずそのまま寄り添いながら歩き続ける。アメジストの瞳が街路樹と寒空を映す。寒空には一筋の陽の光が差していて。
――このまま時が止まるのもいいかもしれない
悪魔はふと、時間停止の衝動に駆られる。彼女にとって、そのような衝動は珍しいことで。
街路樹の葉達が風に吹かれて宙を舞う。その内の一葉がほむらの頭の上にちょこんと乗った。
「たぬきみたい」
そう言いながら微笑んで手を伸ばす蒼い髪の女性を直視できず、悪魔は足下の方へそっと目を伏せた。
****************
まどかからほむら宛に連絡があったのは、それから数時間後、二人が帰宅してからだ。
「映画?・・・ええ、もちろんよ」
ベッド横にあるソファに座りながら、ほむらが携帯の向こう側にいる愛しい存在に返事をする。無意識なのだろう、艶のある長い黒髪に指を絡めて。
「え、さやかにも?そうねえ、私は嫌だけどまどかがそういうなら・・・」
「こら、聞こえてるわよ」
既にベッドに潜り込んでいたさやかが、シーツから頭だけ出して抗議する。それを見てニイ、と歯を見せて笑うほむら、携帯の向こう側の主ー鹿目まどかと一緒にからかっているのだ。気のせいか、向こう側のまどかの笑い声も聞こえたような気がした。
「あ、待って、でも映画館って犬は入れないし・・・やっぱりお留守番」
「こらまた!」
「・・・そうね、それは言い過ぎよね、わかったわ、それじゃあ明日」
くっくっと肩を揺らしながらほむらは携帯を切った。さも嬉しそうにさやかの方に視線を向ける。まどかの事となるとこうも嬉しそうになるものかと、いつものことだがさやかは内心驚いていて。
「まどかなんて?」
「明日の夕方映画を観に行こうって、貴方も行けるでしょ?」
「うん、仕事が終わればどうにか・・・間に合わせるわ」
「わかってるわね、間に合わないと」
「怖!そんな目でみないでよ、約束するから!」
アメジストの瞳が妖しく光って、さやかを威嚇する。今にも目からビームが出そうだ、とさやかは思った。
「当然よ、まどかのお誘いだもの」
そう言って、ソファから立ち上がるとほむらは鏡台へ移動する。寝る前に髪を梳くためだ。キャミソールにタンクトップと既に二人ともくつろいだ格好で。髪を梳くほむらの後ろ姿を見つめながら、さやかはふと、何か思いついたのか、ねえ、と声をかけた。
「何?」
鏡越しにほむらがこちらを見る。
「いや、あんた私がついていってもその・・・別にいいの?」
「どういう意味?」
怪訝そうにほむらがさやかの方を振り向く。さやかは困ったように眉を下げて。
「気を悪くしたらごめん、ただせっかくあんたまどかと二人きりでも緊張せず話せるようになったんだし、二人きりの方がいいんじゃないかって」
そう、この10年で変わったのは二人の関係だけではない。まどかとの関係も変化した。世界を再改変してからしばらくの間ほむらはまどかとの距離を縮めるどころか、あえて遠ざけていたのだが、お節介な鞄持ちの介入によって、今ではまどかと良好な友人関係を築き上げている。
「余計なお世話よ」
怒らせた、とさやかは思ったが、悪魔は肩をすくめてただこちらをあきれるように見ているだけで。特に怒りの気配はない。
「それより、貴方はどうなの?さやか」
「私?」
矛先を向けられるのは珍しいことで、さやかは目を大きく見開いた。
「貴方は、私がまどかと二人きりでいること・・・どう思っているの?」
「え?」
それはさやかが考えたこともなかった初めての質問で。どうして悪魔はそんな質問をしてきたのか不思議で仕方なかったが、とりあえず、そうね、と口走り正直に答えた。
「・・・考えたこともなかったわ」
「本当に?」
「え、あ~まあ、確かに昔はね、あんたが得体が知れなかったから、まどかを守ろうとしたけど、今は別になんとも」
「じゃあまどかは?」
「まどか?まどかが何?」
こんなにしつこく食いついてくるほむらは珍しい、とさやかは思った。確かに話題は悪魔の最大唯一の関心事でがあるが・・・
「まどかは・・今でも貴方のことが好きよ」
「好きって・・・それは」
「私は」
遮るようにほむらが言葉を発した。口をつぐむさやか。どこか挑むようにその目はさやかを見つめていて。
「まどかを愛しているわ、誰よりも、何よりも」
――それはもう痛いほどに知っている。
どこか寂しさを覚えながらも、さやかはほむらをなだめるように「もちろん知っているわ」と囁いた。
「じゃあ貴方は?」
「え?」
「貴方は誰が好きなの?」
質問の内容もさることながら、それをほむらが発した事にさやかは驚いて。誰というのはおそらくきっと、この目の前の美しい悪魔と円環の女神の事だ。だがそれ以上考えようとしても今のさやかの頭の中は真っ白で。
数秒ほどさやかが固まっているのを見て、ほむらがはあ、と息を吐いて囁いた。
「・・・もういいわ」
くるりと体を鏡台の方へ向けて再び髪を梳き始める。困ったようにただ黙ってほむらを見ているさやか。
「明日早いんでしょ?」
「うん、そうね」
この話題は終わりだと言外に伝えられ、さやかはほむらの勧め通りシーツに潜り込む。
「おやすみ」
だがほむらから返事は無く、さやかはまたどこか一抹の寂しさを覚えたまま眠りにつく。しばらくして、さやかがまどろみに落ちた頃、電気が消えた。薄暗い暗闇の中、ごそごそと気配がして、さやかの隣でほむらが眠りにつく。息を吐く音と、そっと背中に触れるほむらの指の感触。さやかの背中にほむらの頭が触れる程度に寄り添ってきて、ようやくさやかは安心して眠りに落ちた。
****************
「ほむらちゃん」
嬉しそうな声をあげて、鹿目まどかは暁美ほむらに駆け寄ってくる。悪魔はただそれをまぶしそうに見つめていて。
「はあ・・・ごめんね、ちょっと遅れちゃって」
可愛らしいワンピースに身を包んだまどかは体を屈め、両手を膝につけて荒い息を吐いた。どうやら複合施設の入り口から映画館まで駆けてきたようで。
「大丈夫よまどか、私達も今着いた所よ」
そう囁いて、ほむらはまるで我が子をいたわるようにまどかの肩に触れる。その感触に反応してか、まどかは顔をあげて、えへへ、と子供の様に微笑んだ。その様子を目を細めて眺めているさやか。
ほむらを「恐ろしいほど美しい」と形容するならば、まどかは「狂おしいほど可愛らしい」なのだろう、とさやかは思った。この桃色の髪の女性は、10年前のあの頃と全く変わっていない。髪はおろして、背も少し伸びて大人びた雰囲気になっているが、顔つきはまだ幼く20代とは思えないほど若い。ほむらとさやかの妹と言っても疑われないだろう。美しさとかわいらしさ、どこか好対照で正反対な二人の横顔にさやかは見とれた。
――誰が好きなの?
ほむらの言葉がいきなり浮かぶ。
――なぜあんな質問をあいつはしたのかしら?
だが理由が浮かばない。さやかの脳裏にはただ、あの時の挑むような目の悪魔の顔しか浮かばなくて。ほむらとまどかがなにやら面白そうに談笑を始めるのを見つめながら、さやかはぼんやりと考え始める。
とりあえず、視点を変えて、好きとか愛とか別にして、私は二人に何を望んでいるのだろう?そう考えて、さやかはようやく何かひらめいたように、視線を二人に向けた。その先には愛する者を前にして微笑む悪魔の横顔があって。
ああ、そうなんだ、とさやかは思う。いつも何かに耐えているような、大切な何かを捨て去ってしまったような寂しそうな悪魔の横顔、それがこういう風に幸せそうに笑ってくれる、それだけで私も幸せで。
でもそれってつまり――だが、そう考えたところで、さやかは二人に視線に気づく。いつの間にか、ほむらとまどかはこちらをじい、と見つめていて。
「ね、まどか、あの人っていつも一人でああやってにやにやして・・」
「ふふふ、なんだかちょっと・・・気持ち悪いね」
「こら!なんなのよ!」
また二人にからかわれたのだ、不思議なことにほむらとまどかがさやかをいじる時のコンビネーションは抜群で。まるで姉妹の様に仲良く二人は笑い出した。
――幸せすぎでしょ、なんなのよこれ
さやかは思わず何かに対してツッコミを入れる。だがそう心で呟いているさやかも幸せで。もうこのまま時間が止まってもいいのに、と思った、だがその矢先。急に視界が暗くなる。
「停電?」
まどかの声が聞こえた。どうやら複合施設全体が停電したらしい、だがすぐに電気は復旧して。視界は元に戻る。
「わあ、びっくりしたあ。・・・さやかちゃん?どうしたの?」
まどかが慌てた様子で声をあげる。
目の前に立っているさやかが左手で項を抑えながら、険しい表情を浮かべていたからだ。
「さやか」
諭すような厳しい声でほむらが名前を呼ぶ。まどかに気づいてさやかがへらへらと笑い出した。
「ああ、なんでもないわよ、ちょっと緊急の連絡が入って、もうこんな時に腹が立つわよね」
そう言って、笑いながら内ポケットから出した携帯をかざす。もちろん連絡など入っていないのだが。
「え、それって」
まどかもさやかの職業は知っている。三人で遊びに出かけていて、呼び出しを受けてさやかだけ途中で帰ったりすることも今まで何度かあった。
「そ、だからごめんね、まどか私行かなきゃ、ほむら後よろしくね」
「後で埋め合わせしなさいよ」
「ひど!」
気をつけて、と心配そうなまどかにへらへら笑いながら手を振って、さやかは出口に向かって駆けだした。
******************
項が焼けるように熱い――
魔獣の気配を察知すると、さやかの体に焼けるような痛みが走る。これはある事件をきっかけにして起きたさやか独自のもので。特に項あたりの痛みがひどい。人混みをうまい具合にかきわけてエントランスへと向かうさやかの表情はもはや真剣そのもので。
――あいつは警察官になること反対したけど
自動ドアが開き、さやかの視界に青い空が広がる。そこは立体駐車場の屋上で。ちょうど目の前に光の亀裂が走っていた。異空間の入り口だ。そのまま空へ向かって駆け出すさやか。思い切り跳躍し、手すりを踏み込んで更に高く宙を舞う。
――こんな時にはめちゃくちゃ便利じゃないの!
泳ぐように手足をばたばた動かしながら、さやかの姿は亀裂の中に吸い込まれていった。
******************
こういう時は確かに便利だ――
ほむらはさやかが警察官になっていてよかったとしみじみ思う。こんな時――三人でいる時に魔獣がいきなり出現した場合、こうしてうまい口実でさやかだけ抜け出して戦う事ができるからだ。
「さやかちゃん、大丈夫かな?」
心細い声を出すまどかを優しい眼差しでほむらは見つめる。
「心配?」
「うん、ちょっと・・・」
えへへ、と笑うまどか。
「まどかは優しいわね、でも大丈夫よあの人は何があっても死なないから」
「もうほむらちゃんてば」
たしなむようにまどかがほむらを見上げる。だが、どうやらほむらの軽口で安心したらしく。ほむらの右腕の袖を掴まえて、くいくいとひっぱると
何を観る?と尋ねた。
「まどかが観たいものならなんでもいいわ」
「もう・・・たまにはほむらちゃんの観たいものでいいよ、あ、でもさやかちゃんが観たいものだったら、なんだか悪いかも」
「そうね、じゃあそれを観ましょうか?」
しれっと真顔で囁くほむらに、ええ、それは悪いよと言ってまどかは笑い出した。
「今度、さやかちゃんも一緒に映画観る時の為にとっておこうよ?」
「まどかはさやかに優しいのね」
「えへへ、そんなことないよ、たださやかちゃんとも一緒に楽しみたいなあって・・・」
照れたように微笑むまどか。その横顔をちらりとのぞきみて、ほむらは視線を目の前のポスターに向ける。クラゲを逆さまにした様な謎の乗り物をバックにいかにもB級的なスタイルのヒーローが謎のポージングを取っている。さやかの好きそうな映画だとほむらは思った。そうしてしばらくして、ほむらはまどかの名前を呼んだ。
「なあに?ほむらちゃん、観たい映画決まった?」
「まどかは・・・」
「なあに?」
「さやかの事が好きなの?」
ポスターに視線を向けたまま、ほむらは囁く。
「え」
突然の質問に、まどかは言葉につまって、ただ質問の主の横顔を見つめる。とても美しい綺麗な横顔。しばらくその横顔を見つめているが、こちらを見ようとしないので、まどかはあきらめたように視線をポスターへ向けて、うん、と囁いた。ほんの少しだけ紅潮する頬。
「そう・・・」
消え入りそうなほむらの声。まどかはまたその横顔をちらりと見て、言葉を続けた。
「でも私、ほむらちゃんも大好きだよ」
ほむらは驚いたような顔でまどかの方へ視線を向ける。まどかはにっこりと微笑んで。
「私はさやかちゃんも好きで、ほむらちゃんも好き・・・三人でこうやっていられることが一番好き」
「まどか・・・」
「それって・・おかしなことなのかな?」
ほむらはただ黙って首を振った。
「ねえほむらちゃん、私は二人とも好き。ほむらちゃんは?」
「私はまどかのことが好きよ」
誰よりも――とほむらは心で付け足して。
「じゃあさやかちゃんは?」
言葉に詰まる。それはまるで――決して開いてはいけない扉の取手を掴んでいるような気分で。
「・・・別に、なんとも。いてもいなくても変わらないくらいよ」
「もう・・・またそんなこと言って」
困ったようにまどかは苦笑して。
正直複雑で、言葉にならないのだ。だが、まどかはそれを見通している様で。幼稚園児に言い聞かせるような口調でほむらに囁いた。
「ねえほむらちゃん、ほむらちゃんが私を想ってくれているように――」
まどかが一呼吸置いて言葉を続けた。
「さやかちゃんはほむらちゃんのことが好きなんだよ」
*******************
大画面に美しい大自然と動物が映し出され、BGMに壮大な音楽が流れる。画面一面の草原の緑を眺めながら、ほむらは全く別の事に思考を奪われていて。
『さやかちゃんはほむらちゃんのことが好きなんだよ』
――そんなことはあり得ないわ
ほむらは脳裏に浮かんだまどかの言葉に対して返答する。確かに互いを受け入れて体を重ねた事はあったし、あの愚かな女性が過剰に自分を意識することはよくあった。でも――
――ああ、そうなのか
何かに気づいたようにほむらの目が見開かれる。
――私はそれが聞きたくてあの質問をしたのかもしれない
『誰が好きなの?』
あの時そうほむらはさやかに聞いた。何故そう聞いてしまったのか、ほむら自身も実はよくわからなくて、ただ、あの時は無性に彼女の本心が聞きたくて。
――でもそれって
そう考えたところで、脳内に全く別の声が響いた。
――ほむら
――さやか?
念話だ。近い距離でなら、ほむらとさやかはテレパシーで会話をすることができる。
――貴方生きてたの?
――ひど!
いつものやり取り。無意識にほむらの口元は緩んで。
――魔獣は一匹残らず始末したわ、私は先に家に帰っているから
――そう、まさかとは思うけど、貴方また腕やら足やら切断されてないでしょうね、血で家が汚れて困るのだけど
お疲れさまという言葉を飲み込んで、代わりにでてきたのはいつもの悪態で。
――あんた鬼?いや・・・悪魔だったわね
ふ、と笑いが漏れるのをほむらは口を抑えて耐える。
――お生憎さま、今回は怪我もまったくなくピンピンしてますから、まどかとどうぞごゆっくり!
――遠慮なくそうさせてもらうわ
そうして念話は途切れた。自然と口元が緩んでしまい、ほむらは口に手をあてる。
その横でまどかは不思議そうにほむらの横顔を見つめている。今見ている映画は感動するシーンなのに、何故かとても嬉しそうにほむらが微笑んでいたから。
*******
********************
「それで?結局動物映画を観たわけ?」
「ええ、誰かさんのためにまどかが面白い映画は次回にって」
「さすがは女神だわ・・・」
ありがたや、と時代劇風に呟くと、さやかはごろん、とベッドに仰向けになって。ふと、何か考え事をしているのか真剣な表情になって天井を見つめた。昨日と同じように鏡台で髪を梳いているほむらも何か考えているようで、櫛を持つ手の動きが止まっていて。
『ねえ』
同時に互いを呼びかける。そのタイミングの良さにさやかは吹き出して、そうして体を起こして「あんたから言いなよ」とほむらに声をかけた。だが黒髪の美女は首を振って。「貴方から言って」と言い返す。
「それじゃあ・・・」
さやかはベッドの縁に座り、鏡台の前に座っているほむらと向き合う。いつものように困った様に眉を下げ、垂れ気味の目を悪魔に向けて。
「あんたがさ、昨日言ってた事・・・」
「ええ」
ほむらが珍しく相づちを打つ。互いに聞きたかったことは同じことだと二人とも確信していて。さやかは意を決したように言葉を続けた。
「正直私、あんたとまどかの誰が好きかなんて聞かれてもわかんない」
「・・・・・」
「まどかの事は好きだし、あんたの事もその・・・」
そこでさやかは自分の髪をかく。面白がっているようなからかっているような表情を浮かべるほむら。
「その・・あんたの事は複雑で・・・」
だがそこで、ほむらが何故か急にくすくすと笑い出した。
「な、何よ人がせっかく」
「ああ、ごめんなさいなんでもないから、続けて」
やや不機嫌になりながらもさやかは再び続ける。
「うまく言い表せないのよ、だからいったん二人の事を脇に置いて考えたの。私が今一番何を望んでいるか」
「それで?」
「うん、そしたら、一番の望みはあんたがまどかと・・ううん、そうじゃない、あんたが幸せになるのを見ていること、幸せになるあんたがみたいことだって」
さやかの言葉にただただ悪魔は聞き入るばかりで。
「それってつまり、私はあんたのこと・・」
『さやかちゃんはほむらちゃんのことが好きなんだよ』
必死に言葉を紡ぐさやかの唇が、ほむらの指で抑えられた。ほむらはこれ以上は言わないでという様に首を振って。
「・・・今のままがいいって」
「?」
「まどかが言っていたの、三人でこのままって」
どこか困ったような迷子の様な表情を浮かべほむらが囁いた。ゆっくりと指を離す。さやかもまた困ったような表情を浮かべていて。
「でもあんたはどうしてあんなこと」
「聞きたかったから」
「え?」
「貴方の本心が知りたかったから、でもそれって――」
「ちょ、ちょっ待って」
今度はほむらの口を慌ててさやかが抑えて。驚いた表情のほむら。
「あんたもそれ以上は・・・」
言わない方がいいんじゃない?――とさやかは困ったように囁いて。
ようやく口からさやかの手が離れると、ほむらは何が可笑しいのかくすくす笑いだして。
「ええそうね、これ以上は今はよしましょう?」
「そうね」
悪魔の言葉にさやかも同意する。これ以上先は進んでいけない、今は。今生まれた互いの暗黙の了解。口元を緩め、ほむらは猫のようにさりげなくさやかの肩に頭をもたれさせてきて。
「ちょっと・・・」
顔を赤くしてまんざらでもない様子のさやか。それを盗み見して、ほむらは目を細める。
「あら、また発情?」
「!」
図星の様で、さやかの体が一気に緊張で硬直する。とうとうほむらは笑い出して。
「ほんとにどうしようもない犬・・・」
「仕方ないでしょ、もう・・・」
三角形の均衡を破ることはできないが、その先にある互いの本心をわずかながらに盗み見ることができて、二人は安堵する。だがその先にはまだ進んでいけない、今は。さやかの手がほむらの背中に回されて、ほむらの手は縋るように首に回された。
「・・・私も発情したみたい」
そう囁いて、ほむらはさやかの肩に顔をうずめ、ゆっくりと目を瞑った。
END
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それだけでいいのに
これは二人が表面上、大学生として暮らしていた頃のお話。
その頃、暁美ほむらの周りにはなにかというと人が群がっていた。その最もたる原因は彼女の人外と揶揄されるほどの美貌で。
「暁美さんって、ほんと綺麗よね」
「・・・そうなの?」
不思議そうに首をかしげるほむらを見て、数人の女子学生が困ったように苦笑いする。ほむらの横で同じように苦笑いするさやか。専攻が違う二人が唯一同席できる一般教養の講義が終わってから、女子学生達がほむらをいきなり取り囲んできて、トークが始まっていた。
「暁美さんってなんだか面白いね」
「そうそう、なんか見た目と違って、ギャップ萌えって感じ」
「何でそんなに肌が綺麗なの?」
女子学生達は思い思いにほむらに声を掛けるが、ほむらはただ不思議そうに首をかしげたまま、猫のようにじい、と彼女たちを見つめるばかりで。
そう、暁美ほむらに興味を持って近寄ってくるのは男子学生ばかりではない。むしろ同性の方が潜在的には多いのかもしれない、とさやかは思った。下心満載で、美貌に引き寄せられてきた一部の危険な男子学生達はさやかが完膚無きまでに叩きだせるのだが、女性の場合はそうもいかない。皆、不思議なほど友好的だし、この美貌の悪魔に畏敬の念だったり、憧れの念を抱いているのだから。
それから、ほむらのぶっきらぼうな返答も気にすることなく、女子学生達は好き放題に喋った挙句、チャイムとともに講堂を出て行った。まるで春の嵐のようだった。
「ねえ、あんた、もうちょっと愛想良くしたら?」
「どうして?別に普通よ?」
隣に座っているさやかの言葉に不思議そうに聞き返すほむら。
「いや・・あんたと友達になりたいと思って話しかけているんだから、もう少しと思って・・・」
「あら、男の人は問答無用で遠ざけているくせに?女の人はいいの?」
「え、それは・・・」
さやかの眉が困ったように下げられて。
「男の人っていっても、一部よ?下心満載の危険な奴ばかりで・・あんたも知ってるでしょ?」
「むきになるのが怪しいわね、本当にそれだけ?」
「むきになってないわよ、てかそれだけって何よ」
そう言って、さやかはむきになる。
「別に私はあんたが困っているかと思って、それ以外は何も・・・」
そこでさやかの言葉が途切れる。横にいる美しい悪魔がさも可笑しそうに肩を震わせていたから。
「・・あんた、わかっててからかったわね」
「貴方の顔が面白いから、つい」
「ちょ、ひど!」
くすくすとほむらが笑う、講堂の中だからか割と控えめに。この頃辺りから、悪魔はこの元鞄持ちをからかう事を覚えてきたようで。ひとしきり笑い終えると、疲れたのか、重ねた参考書とバインダーノートを枕代わりにしてほむらは頭をもたれさせた。長い黒髪が肩から机にかけてふわりと垂れて。
「まったくもう・・・」
眉を下げながら、さやかがほむらの形のいい頭を見つめる。と、その頭がくるり、と動き、顔だけこちらを向く。細められた切れ長の目。まるで猫ようで。何故かさやかは顔を赤くして。
「な、なによ?」
「それはこちらの台詞。・・・そっちこそ顔を赤くしてどうしたの?」
緩められた口元、白い肌。どうして赤くなるかなんて、そんな事言われても、とさやかは心で呟く。仕方が無いのだ、例えば今みたいに面白そうに眉を曲げたり、思ってたよりも低い声で囁かれたりすると、どうにもいたたまれなくなって。
「・・・・暑いから」
「何それ」
そうしてまた、美しい悪魔はくすくすと参考書にもたれたまま笑った。その姿を見て、さやかは疲れたのだろうか?とふと思った。
「大丈夫?疲れた?」
「・・・元鞄持ちのくせによくわかったわね」
「関係なくない?それ?」
さやかの台詞に吹き出す悪魔。さやかは立ち上がると、「帰ろ」と囁いて、ほむらに手を伸ばす。少し戸惑いを見せながら、顔をあげ、ほむらはその手を握った。
「熱いわ」
「あんたの手冷たいから丁度いいわよ」
そうして今度は二人同時に笑って。
*******
講堂の外は冴えわたるような青空が広がっていて。
「貴方の目の色ね」
「へ?ああ・・・」
ほむらの視線でその言葉の意味を掴み、さやかも空を見上げる。そうして、今度は不思議そうに黒髪の女性の横顔を見つめた。恐ろしいほど綺麗で、そしていつも何かに堪えているような横顔を。
――いったいあんたは何を堪えているの?
どうして言葉にできないのだろう、あれから、今まで。だがこの瞬間もさやかはそれを言葉にできなくて。代わりにさっきの悪魔の言葉を心の中で反芻する。
――「貴方の目の色ね」
そんな風に言われたことはなかった。これが始めてだ。唯一人を除いて、誰にも心を許さない人外である彼女は変わってきたのだろうか。
――あれ?
そうしてさやかは気づく。自分がいつからそんな風に考えていたのかを。いつから私はこの悪魔の事をこんな風に事細かに観察して、そうして意識していたのだろうと。風が吹いて、二人の周囲にキャンパスの木々の葉が舞う。
風に舞う艶のある長い黒髪、閉じられた瞳に長い睫毛。悪魔の美しい横顔がまるでスローモーションの様にさやかの視界に映って。
――ああ、そうなのか
その瞬間にさやかは悟った。この時二人は確実に変わり始めていて、そして。
「ほむら」
気づいていたら、女性の名前を呼んでいた。
「何?」
変わった事を相手が自覚しているのかどうなのか、それはさやかにはわからない。だが、確かに悪魔は今までと違ったしっかりとした視線でさやかを見つめていて。
「あのさ・・・」
情けない事に、今の気持ちをさやかは言葉に出来ずにいて。「なあに?」と重ねる様にほむらが囁く。
「あの・・・」
やっぱり言えない。不思議そうにだが、どこか面白そうにほむらは首をかしげ、そうして代わりに言葉を紡いだ。
「どうしてかしら?」
「え?」
「貴方といると、なんだか楽だわ」
そんな風に言われることも珍しい事で。どうにか絞り出すような声で、さやかは「なんで?」と聞いた。細い指を己の唇にあて、少しだけ考える悪魔。
「男の人とか女の人とか関係なく、私は人には興味が無いわ」
唯一人以外は、と付け足して、ほむらは言葉を続ける。
「他の人はただ疲れるだけ。だけど・・そうね貴方は別」
「別?」
ささやかな期待を抱いてさやかが聞き返す。頷くほむら。
「いるだけで何故か腹も立つわ、魔獣退治では足も引っ張るし、役に立たないし、いつ始末してやろうかと・・・」
「ちょっと!それってディすり?ディすりよね?」
さやかのツッコミに一瞬吹き出して、悪魔は続ける。
「ほんと役立たずの犬だけど、でもね、不思議といないと困るのよ、どうしてかしら?」
「・・・・」
「今まで不便なんて感じたこともなかったけど、貴方がいると楽と感じる・・不思議だわ」
本当に不思議なのだろう、だが彼女に「その先」をわかって欲しいと思う心とそのままでいて欲しいという気持ちでさやかは揺れて。
「そう・・・」
「貴方にはわかる?さやか」
名前を呼ばれることがこんなにも嬉しいことだとは思わなくて。
「そうねえ」
さやかは寂しそうに微笑んで。そうして嘘をつく。
「わからないわ」
「でしょうね、やっぱり犬には難しいのかしら」
「ちょっと!」
軽やかに笑って、歩き出す悪魔、追いかける様に後を歩くさやか。
――言えるわけないわ
さやかは困ったように心で呟いた。
――あんたが好きなんて
春の風がさやかの蒼い髪を揺らした。
END
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見知らぬ夜(前編)(番外編)
目が覚めると、全く知らない白い天井が目の前に広がったので、環いろはは慌てて起き上がった。
「あいた・・・」
眉毛を下げて、顔を歪ませながら、後頭部を抑える。
――痛い。
いろはは心で呟く。
と、いろはの手にいつもの頭の感触ではない、何かざらついたものがある。
「え・・・何?」
慌てて両手で頭をまさぐると、どうやら布のようで、しばらくしてそれが包帯であることをいろはは理解し、息を吐いて手を下す。そのいつも穏やかなとび色の瞳は不安で揺れていて。
――また、ウワサとの戦いで怪我しちゃったのかな?
初めてではないのだ、攻撃をした後、仲間を見渡そうと注意散漫になった時や、黒髪の美しい年上の魔法少女を背伸びして援護しようとした時など、さまざまなシチュエーションで、この桃色の髪の少女は怪我を負う。その度に胸が潰れそうになるほど申し訳ない気持ちになるのだが、チームみかづき荘達はそれを許さないし許してくれない。いろはの気持ちが楽になるまで、傍にいて激励してくれる。
ふ、といろはの口元が微かに緩んだ。おそらく仲間の事が脳裏に浮かんだのだろう。我に返ったように、再び辺りを見渡す。
目覚めた時の印象と変わっていなかった、見知らぬ白い無機質な天井と同じく、冷えた、温かみのかけらも感じられない白い壁。カーテンで閉ざされた窓。薄暗い空間。おそるおそるいろはの視線が下にうつる。己の腕が握っている白いシーツに、白いパイプベッド。
「病院・・・・?」
カーテンを目を凝らして見るが、光は漏れていない。夜なのだろうか。いろははそっとベッドから降りた。床について冷たい感触で自分が裸足だということを知る。顔をしかめながら、窓の方へ歩み寄る。無地のカーテンをつかむと、彼女らしからぬ乱暴な仕草でカーテンを開いた。シャッと鋭い音と共に、いろはの眼前に美しい夜空が広がった。満天の星。
普段ならその美しさにいろは素直に感嘆の声をあげただろうが、こんな状況ではむしろ美しいものは不安や悲しみをあおる。どん底の悲しみの中に見る朝日、家族を失って間もない時に見る幸せそうな家族の風景、いろはにとって、今眼前に映る夜空は不安や悲しみをあおるもの以外のなにものでもなかった。震える口元から声が漏れる。
「やちよさん・・・」
両親の名前でなく、でできた名前は美しい年上の魔法少女で。そうしてしばらくしてから、いろははきょろきょろと周囲を見渡す。ひたひたと今度はドアの傍にある洗面台に近づく。薄暗い中鏡に顔を近づける。薄ぼんやりと己の顔のシルエットが浮かぶ。だが明確に映り出したいのだろう、不安げに手を伸ばして、鏡の周囲をまさぐりスイッチを探しあてる。
カチリ、という音と共に明かりがついて、いろはの顔がくっきりと映し出された。
見慣れている己の顔が現れ、いろはがほお、と安堵のため息をついた。桃色の髪に鳶色の目、そして癖なのか、困ったように下げられた眉。そして何故か見知らぬ白い無地のパジャマ。違うのは、頭に巻かれている包帯だけ。鏡を見つめながらいろはが頭に触れる。――痛い。
「・・・何が・・・あったんだろ?」
状況を把握しようにも、もうこれ以上の情報はこの部屋から得られそうになかった。しばらく逡巡してから、桃色の髪の少女は思いついたように、ドアへと向かう。
――ギイ
重々しい音を立ててドアが開いた。眼前に広がるのは純然たる闇。何も見えず、いろははただ戸惑うようにドアに前に佇む。だが少女は怯えているわけではなく待っていたのだ、目が慣れて眼前の風景が明らかになることを。まだあどけない顔をこわばらせ、闇を睨み続ける。それから数分ほどして目が慣れてきたのだろう、いろははドアから外へ出た。
ちょうど真っ黒な深海に光が差すとそこだけ青白く輝くように、ドアの外も青白く光っていた。正確には薄暗い廊下に等間隔で備え付けてあるドアの傍にあるライトが光っているのである。
廊下には誰もいない。おそらく隣のドアを開ければ他にも患者は居るだろうが、そこまで確認するつもりはなかった。後ろ手でドアを閉め、そのまま裸足でいろはは廊下を歩きだした。
ピタ――ピターー
静かな足音を立てながら、いろはは進む。だが特に何か怪しい気配があるわけでなく、エレベーターの前に着いた。
「・・・・・・・」
――これからどうしよう?
何が起きたのか全く状況がわからない今、外に出るのは得策じゃない。それよりも朝を待とう、といろはは決心し、一人頷く。そうして踵を返し、元の病室へ戻っていった。
***************************
先ほどと変わらない無機質な病室に入り、いろははベッドの傍で立ち尽くす。ふう、とため息が出た。闇に慣れた目で室内を見ても、私物が一切見当たらないのだ。したがって携帯もない。と、いろはの右手が動き、己の頬をつまんだ。
「あいたっ」
夢じゃない――私は現実にここにいる。
その事実がいろはを更に困惑させる。
――とりあえず眠ろう
そう、朝になるまで待とう、と、いろははベッドに潜り込んだ。白いシーツに包まると、目を瞑る。思ったよりもシーツの中は温かく、疲れていたのか、すぐに眠気がやってきた。
「おやすみなさい」
誰に言ったのか、小さく呟くとそのままいろはは眠りについた。
********
鳥のさえずりが聞こえて、いろはは目が覚めた。ゆっくりと身体を起こす。寝ぼけた目で周囲を見渡すと、昨夜と同じ病室の中で。だが、白い壁や窓は陽の光の所為か、昨夜とは打って変わって暖かな雰囲気を醸し出していた。
「・・・雰囲気が全く違う」
いろはは驚いた表情のまま、ベッドから降り窓へと駆け寄る。白いカーテンを開けると、そこに広がっていたのは緑の木々と澄み切った青空で。視線を下に移すと、公園の様な丘にくつろぐ患者や寄り添う看護師の姿が見えた。
「おはよう、環さん」
いきなり声が聞こえたので、いろはは慌てて振り向いた。そこにはバインダーを持った白い制服の女性の看護師が立っていた。微笑みながらいろはの方に歩みよってくる。背はいろはより少し高いが、腰を屈めて視線を同じ高さにして囁いた。
「動いてもう大丈夫なの?」
とても優しい声、深緑色の長い髪に大人なのにどこか可愛らしい顔つき。いろははどこか懐かしさを感じながらこくりと頷いた。
「はい大丈夫です・・あの・・・ここ・・・どこですか?」
「ああ、覚えてないのね、ここは〇〇市立病院よ、あなたは昨日、怪我をしてこの病院に入院したの」
「え・・・・」
〇〇市はいろはの出身地だ、だが昨日は確か神浜でやちよさん達と・・・・
「あ、痛い・・・」
急に頭に痛みが走る。
「大丈夫?」
看護師がいろはの肩に手を置き、引き寄せる。いい香りと看護師の豊満な胸元で、さすがに同性のいろはでも変な照れが入り、顔が赤くなる。だが次の瞬間、その顔から色が引く。
その視線は看護師の胸元にあるストラップの名札に向けられて。
〇〇病院 外科 看護師 二葉さな
「さなちゃん?!」
気が付けばいろはは叫んでいた。その声の音量に驚いたのか、看護師も一瞬体を強張らせるが、すぐに屈託もなく微笑んで。
「なあに?環さん、私の事知っているの?どこかで・・・会った事あるのかな?」
不思議そうに小首をかしげながら、看護師はいろはを覗き込む。深緑の穏やかな瞳。――会ったなんてどころじゃない、私とさなちゃんは…だが心でそう叫んでもうまく言葉にならない。目の前の可愛らしい大人の女性に見惚れたまま、いろはは動くことができない。いろはの知っていたさなという少女はもともと可愛らしかったが、大人になるとこういう風になるんだ、ととても冷静な部分のいろはが考えている。と、看護師のPHSの着信音が鳴った。
「あ、ちょっとごめんね」
そう言って、二葉さなという名の看護師はいろはから離れた。なにやら緊急呼び出しらしい。
「環さん、また後でこの病室もまわってくるから・・・それと、家の方にも連絡してあるから、もう少しでご両親と妹さんがここに来るわ」
「妹・・・ういも?」
一体何がどうなっているのか、もういろはの理解の範疇を超えていた。思考することを放棄したのか、いろははただその場で立ちすくんでいた。
********************
それからしばらくして、いろはの両親が病室を訪れた。そうして妹のういも。両親は、交互にいろはを抱きしめ、頭を撫でた。そうして妹が姉に近づくと、逆に姉の方が強く妹を抱きしめた。
「お、お姉ちゃん?」
「うい・・・・よかった」
うっ、うっ、といろはが嗚咽した、それも当然だろう、魔法少女になってまで探し出そうとした妹が唐突に現れたのだ。細い腕で思いっきり強くういを抱きしめる。
「もう・・・苦しいよ」
いろはと似た――いろはよりもあどけない顔のういが困ったように笑う。姉よりも妹の方が大人びている様で。ようやく姉の腕から解放されたういが姉の顔を覗き込む。
「お姉ちゃん?」
「ううん・・嬉しくて」
と、何か思い出したようにいろははういに尋ねる。
「でもうい、今まで一体どこに行ってたの?お姉ちゃん探したんだよ?」
「?私どこにも行ってないよ」
「え、だってうい退院してから急にいなくなって」
「退院?私ずっと家にいるよ、病院なんて行ったことない」
「嘘・・・」
いろはの顔が驚きのそれに変わる。やはりここは、いや、この世界は何かが違う。
――夢じゃないとしたら、これは幻覚?
そうだ、何かきっと秘密がある。ここに来るまでの記憶も無いし、何より先ほどの大人になったさな・・・
「いろはは何も覚えていないのか?」
低い声で男性がいろはに尋ねた、不思議そうに見上げるいろは。
――父の顔はこんな風だったっけ?
どうにも記憶が曖昧だ。不思議そうにこちらを見ている娘を見て、男は困ったようにうなじに手をあてる。
「・・・お前は昨日の夕方、学校の帰り道で倒れてたんだよ」
「え?」
父親はそれから娘に簡単な経緯を説明する。昨日なかなか家に帰ってこないいろはを心配して、ういが探しに外へ出たところ、倒れているいろはを発見したらしい。その時いろははうつ伏せに倒れ、頭から血を流していた。
「誰かに頭を殴られたのか、何があったのかは俺にもわからない」
「そう・・・」
「もうすぐ警察の人が話を聞きに来るから、その時は父さんも一緒にいるよ」
「うん」
全ての話がまるで嘘のようで。だが不思議と今の状況が現実だと思えてきて、いろはは混乱した。と、ドアが開き、黒いパンツスーツ姿の細身で背が高い女性が現れた。
「すみません、環さんのお父さん?」
いろはの父親の方へ顔を向けて、女性が涼やかな声で話しかけた。
「そうです」
返事を聞くと、軽く会釈して軽やかな身のこなしで室内に入ってくる。ふと、いろは何故かまるで風のようだと思った。肩まで伸びた蒼い髪にどこか中性的な顔立ち、そして垂れ気味な目・・・・
「あ・・・」
思わず声をあげて、いろはは慌てて口を抑える。この人も見た事がある――
女性は内ポケットからバッジを出した。
「〇〇県警捜査一課の美樹です、お嬢さんにお話しがあるのですが」
その女性の面影は、確かにいろはの知っている魔法少女美樹さやかであった。
つづく
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見知らぬ夜(中編)(番外編)
こんなことがあるのだ――
いろははただ驚いて、刑事である成人した美樹さやかを見つめていた。父親と一言二言話をして、ようやくいろはを見つめる。蒼い瞳、見滝原市の魔法少女だった美樹さやかの瞳と全く同じ。
――一体何が起こっているのだろう?
さっきの大人になっていた看護師のさなといい、この、今こちらを見つめている刑事のさやかといい、どうして大人なのか、そして、どうして私がここにいるのか、そしてどうしてういが…思考の波に流されそうになるいろはに向かって、蒼い髪の女性が囁いた。
「大丈夫?」
優しい声、大人になると彼女はこうなるのか、とまた冷静な部分のいろはが考える。なにもかも不思議で、でも目の前の女性は確かに現実に存在して幻覚とも夢とも思えない。いろはの混乱はただ増すばかりで。
「・・・はい」
いろはの返答にさやかはにっこりと笑った。そうして、ベッドの横にあるパイプ椅子に掛けて、上体をいろはに近づけた。
「今から、君にいろんな事を聞くよ?もし、嫌なことだったり、覚えていなかったり、まだ・・・喋りたくなかったら素直に言って。・・・いい?」
いろははただこくりと頷いた。
「昨日、君は学校帰りに誰かに襲われた?あるいはその前の事覚えている?」
「・・・・いいえ何も」
「学校を出るときに何か変わった事とか起きなかった?」
「いいえ・・・というより」
――何も覚えていないし、ここがどこかわからない
桃色の髪の少女はそう答えたくてたまらなかった、とにかく不安だった、何が不安かは少女自身よくわかっていた。ここが現実で、もし、今までの妹を探しに行く一連の出来事がすべて夢だったらと。そうしたら、「あの人」との出来事もすべて嘘になってしまう。いろはの脳裏に長い黒髪の年上の魔法少女の顔が浮かんだ。いろはの口元が震えた。
「あの、お父さん、すみませんが、しばらく私といろはちゃんの二人きりにしてくれませんか?」
蒼い髪の女性が立ち上がり、いろはの父親に申し出る。
「ああ、いろはは大丈夫か?」
心配そうにこちらを見る父親に、大丈夫といろはは囁いた。それを見て、渋々父親は病室を出て行った。ドアの閉まる音がした後は、静寂が訪れた。不思議と穏やかな静寂で、大人になったさやかが再び椅子に掛けて、いろはを覗き込む。
「ねえ、いろはちゃん」
「はい」
さやかの穏やかな瞳に自分自身が映るのを確認して、いろはは返事をする。
「もし、誰にも言えないような事があって苦しんでいるとか・・・いや、違うわね」
そう言って、さやかが頭を掻いた。さっきとは打って変わった子供の様な仕草。急激な変化に戸惑ういろは。
「ああ、もう正直に言うわ、もし私が言うこと間違ってたら、変とか思わず忘れてくれる?」
「え・・・は、はい」
何を言うのか全く予想もつかないのにそう言われても困る・・・といろはは眉を下げながら返事をした。さやかは両手で何故か頭を抑えて「そうよね、うん、まあいっか」と独り言をつぶやく。いろははその仕草を見て、神浜市の中華料理店の少女を何故か連想した。
「・・・君は魔法少女よね?」
晴天の霹靂と言っていいほどの衝撃だった、いろはは目を見開き、ただ目の前の蒼い髪の女性を見つめる。ようやく口が開いたが言葉にならなかった。
「え・・・なんで」
やっぱり、とさやかが呟いて、ふう、と大きなため息を漏らす。そうしてこちらは安堵したように、口元を緩め、いろはを面白そうに見つめる。ああ、この人は私の知っている美樹さんに似ている、といろはは思った。
「もしかして、あの・・・あなたも魔法少女?」
いろははおそるおそる尋ねる。蒼い髪の女性は「とんでもない」と笑いながら両手を胸の前でひらひらと動かした。
「いやいや、もういい年だからそういう風には言わないわ、まあ魔法は使えるけど」
「それじゃあ、元魔法少女みたいなものですか?」
「そうねえ、そんなもんよ」
そう言って、さやかはへらへらと笑う。その笑顔がなんだかだいぶ子供に見えたが、もちろんいろはそんな事は決して言わない。
「・・・あ、でも・・・」
いろはは思い出す、魔法少女のシステムを。そう考えると、今目の前にいる大人になった美樹さやかの存在が不可解なものとなった。
「魔法少女だったら、どうして・・・そんな大人になるまで平気なんですか?」
「普通魔女になるのにって?」
「はい・・・」
「ん~、それがねえ、なんというか複雑なのよ」
人差し指を額にあてて心底困ったようにさやかは目を瞑る。大人の女性の困った顔を見るのが珍しいのか、いろははまじまじとその顔を見つめていて。しばらくして、意を決したようにさやかが顔をあげた。いきなりだったので、驚いてびくっ、と反応するいろは。
「あんまり喋ると「あいつ」に怒られるから、ちょっとだけ小出しでネタばれするわ」
「「あいつ」?」
「ここは魔女が存在しない世界なのよ」
「え?世界って、そんな・・・私、ついこないだまで魔女と」
「だから君はもともとここの世界の住人じゃないの、正確には中身が」
「どういう・・・」
だがいろはの言葉は続かなかった。目の前のさやかの背後から黒い影が煙の様に出現したからだ。いろはの表情で察したさやかが振り向く、「ヤバ」とその口から自然に言葉が漏れた。黒い影は次第に人間のシルエットを形作っていき、一人の女性になった。
「それは私から説明するわ、環いろはさん」
冷たい抑揚のない声を女性が発した。いろはは一瞬やちよさんと思ったが、そうではなかった。長い黒髪に白い肌、そして美しい容貌。どこかで見た事があると思ったが、思い出せない。ただ、女性の発するどこか禍々しい気配に押されてしまい、いろはは口をつぐんでしまう。喪服のような黒づくめの服を身にまとった女性は、その陰鬱な双眸をさやかに向ける。
「・・・私がくるまで喋るなと言ったはずよね?」
「・・・ごめん」
肩をすくめて謝るさやか、その姿は女性を恐れているようでもあり、おどけているようでもあり。しばらく見つめ合うと、女性は肩をすくめて、またいろはの方を向いた。
「あなたは違う次元の世界に飛ばされてきたのよ」
「次元?」
*********************
アラもう聞いた?誰から聞いた?
マヨイガのそのウワサ
「いろは、起きて、起きなさい!」
「どうしちゃったんだよ、いろはの奴・・・」
幾何学模様の結界の中で、倒れているいろはを抱きかかえるやちよとフェリシア、やちよとフェリシアは変身しているが、いろはは制服姿のまま目を閉じ、やちよの腕の中で眠っている。
「死んだら許さないわよ」
「怖いこと言うなよ、やちよ、いろはは死んでねーから!」
物騒な事を呟くやちよ、それほど腕の中に収まっている少女が大事なのだろう。その切れ長の目は怒りに燃えていて。フェリシアはその様子を見つめながら、いつ襲ってくるかもしれない使い魔にそなえ、ハンマーを肩に乗せ、臨戦態勢に入る。使い魔はまだ現れない。
――来るべきじゃなかった。
そう、ウワサを聞きつけて、いろはとやちよ、フェリシアの三人で神浜市のはずれにある郊外の森に来ていた。
今回は、「マヨイガのウワサ」。「迷家」ともいわれ、人里知れぬ山奥に迷い込んだものが偶然そこで家を見つけ、中に入るとひとつだけ好きなものを持っていく様進められる。その時邪まな心の無いものは、富を得るという。その話がウワサでは歪曲化され、「郊外でいきなり見知らぬ家が現れる、そこに入るといろんな宝物がひとつだけ持ち帰れる」となっていた。
ほんの数分ほど前に三人はウワサの家を見つけ入り込んだのだ。入り込んだ途端、中は骨董品だらけできらびやかなお宝とは程遠いものだった。
『なーんだ、ガラクタばかりじゃねえか!』
フェリシアが不満そうに口を尖らせながら呟く。その横で、やちよが口を緩めて。
『フェリシア、それもちゃんとした宝物よ』
『だってさあ、宝物ってもっとキンピカ・・・』
『やちよさん、フェリシアちゃん!』
二人は同時にいろはの方へ視線を向けた。桃色の髪の少女はなにやら嬉しそうに壺をもっていて。
――この子意外に渋い趣味ね
ふとやちよは思ったが、もちろん口に出さず、桃色の髪の少女の手にある壺を眺めた。形は普通の壺だが、色がどうにも不思議で。茶色を基調とした渋い色なのだが、光の加減か、いろはの手の動きか、揺ら揺らとまるで生き物の様にその茶色が動いているのだ。
『なんだか、綺麗ですよね、色が生きているみたいで』
『・・・そう?』
すごい感性だと思う。やっぱり中学生の感性にはかなわないのかしら、と一人心で呟きながら、やちよはいろはに近づいた。
と、壺の中から金粉の様なものが煙の様に現れた。一瞬、ラベンダーの様な花のいい香りがして、次の瞬間いろははその場に崩れ落ちたのだ――。
一体何があったのか、やちよもまったく状況が掴めなかった。ただその後、倒れたいろはを必死に抱きしめ、声をかけたが、全く起きることなく眠っており、その間に結界に囲まれたことしか把握していない。いろはの傍に落ちている壺は割れることなく今なお揺ら揺らとその色は生きているように蠢いていて。それを苦々し気に見つめるやちよ。これを割ったらいろはは元に戻るだろうか?とふと考えたが、逆に永遠に戻らなかったらと思うとぞっとした。そうして腕の中にいる少女を強く抱きしめる。
――起きなさい、起きないと許さないわよ
今までに感じたことがないくらいの情念を己の中に感じるのは、何故だろう?そう思いながらもやちよはこの少女に対する溢れるような祈りにも似た気持を抑えることができない。この状況でなければ、大学生である彼女は己の気持ちをこの時点でようやく自覚するのであろうが、残念な事にここは結界だった。
「やちよ!来るぞ!」
フェリシアの声でやちよが顔をあげた。どこか壺に似た使い魔が数体現れ二人に襲い掛かってくる。先発隊の使い魔が二体、金髪の少女のハンマーでいとも簡単になぎ倒された。
「くらえ、こんにゃろ!」
やちよもいろはを抱えたまま槍を構える。「私が守るから」と囁き、そっといろはを寝かせ立ち上がった。この怒りならコンマ何秒で使い魔全員倒せる気がした。
「かかってきなさい」
美しい容貌を怒りで歪め、やちよは使い魔に向かっていった。
**************
「次元・・・・じゃあ私は違う世界からここに・・・魂だけ飛ばされたってことですか?」
いろはは目の前にいる恐ろしいほど美しい黒髪の女性に尋ねる。アメジストの双眸が射る様にいろはを見つめるので、正視することがうまくいかず、いろは目を伏せた。
――この女性(ひと)どこかで会ったことがあるような・・・
だがどうにも思い出せない。いろはの記憶にある少女達の顔が浮かんでは消えるが該当者が出てこない。しばらくして、女性が口を開いた。
「そうよ、この世界のあなたの魂は今のあなたに上書きされているようなもの」
「どうやったら・・・元の世界に戻れますか?」
それは難しい方法なのだろうか、黒髪の美女は口を閉ざした。泣きそうな顔になるいろは。
「・・・・無理・・・なんですか?」
「いいえ、方法はあるわ」
「どんな・・・」
「「道」を探し当てるのよ」
「道?」
ドン、とドアが乱暴な音を立てて開いた、入ってきたのはいろはの父親と妹で。
「お父さん、うい、どうしたの?」
だが返事をせず、父親は慌ててドアを閉める、怯えるように父親の後ろに隠れるうい。
「一体・・・」
「化け物だ、病院の中に化け物・・・うわ」
いろはの父親が黒髪の女性を見て驚く、さっきまでいなかった存在なのだ、仕方がない。
だが黒髪の女性はどこ吹く風で気にも止めず、ドアの前に進む、さやかも後に続く。手は内ポケットに入れたまま。入れ違いに父親とういがいろはの元へ近づく。
「うい、一体何があったの?」
「お姉ちゃん・・・」
だが妹も答えることができず、ただいろはにしがみつくだけ。
「皆、私たちが戻ってくるまで、絶対にこの部屋から出ちゃだめよ」
さやかがいろは達に向かって囁いた。いろはの目が見開かれる。さやかの手に拳銃が握られていたから。さやかの後に続いて、黒髪の女性もドアから出ていこうとする。と、いろはが「待ってください」と声をかけた、動きを止める女性。不思議そうに振り向く。口数の少ない女性なのだろう、言葉を発せずただいろはを見つめるだけで。いろははおそるおそる尋ねた。
「あの・・・あなたは誰なんですか?」
「覚えてないの?」
そう言って、ニヤリと、その容貌からは想像もつかない残忍なサメの様な笑みを浮かべた。いろはは怯えた様に首を振る。
「ほむらよ」
「え」
「暁美ほむら・・・・あなたの前では眼鏡の少女だったわね」
――暁美ほむら
いろはは思い出す、自分と同じ年の見滝原の仲間を。鹿目まどかの傍にいつもいたあの眼鏡のおとなしそうな少女を。
――嘘
全く想像もつかない答えに、ただいろはは驚くばかりだった。
続く
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見知らぬ夜(後編)(番外編)
次元を越えて悪魔は真実を見た。
「・・・あっちでも理解していない世界があるってこと?」
「・・・そうよ、正確には」
そう言って、ほむらは人差し指をさやかの眼前にかざした。上を見ろという指示でないのは確かだが、若干さやかの蒼い瞳が揺れる。こほん、とごまかすような咳払いをしてさやかがほむらの顔に自分の顔を近づけて囁いた。
「・・・なによ、もったいぶらないでよ」
「剥ぎ取られてない女神もいるのよ」
「え、嘘?!」
嘘、と大声をあげた時点で、慌ててさやかは己の口を抑える。やってしまったという様に眉毛を下げた。ちっ、と舌打ちするほむら。廊下の先から聞こえるくぐもった声。
「来るわよ」
「OK、さっさと片づけてあの子を元の世界へ帰すわよ!」
-------------------
――信じられない
いろはは茫然と閉ざされた病室のドアを見ていた。
『あら、覚えてないの?』
今までにいろはが聞いたことのない、艶のある・・・しかしどこか禍々しい声色。
『暁美ほむら・・・・あなたの前では眼鏡の少女だったわね』
その声の主は見滝原市の魔法少女暁美ほむらだった。とはいってもいろはの知っている少女とはもういえない、恐ろしいほど美しい大人の女性だ。形のいい唇を少し歪め、その美しい双眸を細めいろはを見つめるその顔は、鮫のように獰猛で。
――やちよさんとも全然違う。
いろはが唯一親以外で知っている大人の女性を思い浮かべるが、全くと言っていいほど、この目の前の女性は規格外で。
『それじゃ、私らはちょっと敵を倒してくるから、ここでおとなしく待ってて』
その傍に寄り添うように立っている蒼い髪の女性が、愛想良く笑いながらいろはに囁く。美樹さやかだ。彼女もまた、いろはの知っている魔法少女ではなく随分大人になっていた。だがこちらは禍々しい印象はなく、どちらかといえば、いろはの知っている「美樹さやか」に近い雰囲気で。いろはが安心したようにうなずくのと同時に二人はドアの外へ出た。寄り添ってくるういを抱きしめながら、父親とともに病室の隅へと移動する。
――一体どうなっているの?
『ここは魔女が存在しない世界なのよ』
『君はもともとここの住人じゃないのよ、正確には中身が』
ここは元々いろはが住んでいた世界ではないらしい。だが、どうやってここに自分は飛ばされてきたのだろう?いろはは妹を抱きしめたまま考える。
「お姉ちゃん?」
「うい・・・」
――そういえば、この世界では灯花ちゃんやねむちゃんはどうなったのだろう?
不思議なことだらけだ、といろはは思う。先ほどの成人したさなもそうだし、そもそもあの二人も大人だ。時系列がおかしい。次元が違うとこうもいろいろなことがずれるものなのか。
「大丈夫だよ」
自分に言い聞かせる様にいろはは呟いた。
****************
パン、と乾いた音とともに、魔獣に憑依された看護師が崩れる様に倒れる。
「ごめんね」
銃口を倒れた看護師に向けたまま、さやかは呟く。少し手元が揺れるのは、仕方がない、何度倒しても慣れないのだから。
「さやか、感傷にひたっているヒマはないわ」
「わかってるわよ」
この世界では、魔獣が進化に進化を重ね人間に憑依するようになった。一度憑依されればもう人間には戻れない、よくて「人型」のまま駆逐されるか、人とは程遠い何かに変形して駆逐されるかどちらかなのだ。ほむらが美しい眉を少しだけ曲げた。
「まだ生きているわよ、とどめを刺しなさい」
「わかってる・・・」
額に銃口を向けるが、ぶれる。はあ、とほむらの口からため息が漏れた。
「貴方の学習能力の無さは知っていたけど、また死にたいの?」
この愚かな相方が、とどめを刺すのを躊躇して魔獣に反撃されて重傷を負うのは今に始まったことではなかった。
「貴方の腕がなくなろうが、首がもげようが、私には関係ないけど」
それでも、と言って、ほむらは右手の指を「ぱちん」と鳴らした。
ぶん、と音がして薄暗い廊下に幾何学模様の光が映し出される。見つめ合うほむらとさやかの顔にも光は反射して。廊下の奥から更に数名の病院の職員が現れる。目が血の様に赤い。そして何より普通に歩行しているが、四肢はすべてあらぬ方向を向いていて。
「ほら、もたもたしている間に、また来るわよ」
ほむらの囁きと同時に、倒れている魔獣と化した看護師が床にへばりついたまま、腕の力だけで廊下を移動した。俊敏な動きで、いろは達のいるドアへと向かう。
「くっそ!」
さやかが銃をポケットに戻し、両手を宙にかざすと、乱暴に振り下ろす。光のソードが出現した。そのままソードをクロスさせ魔獣達をなぎ倒す。横から変則的にさやかを襲ってきた魔獣は、ほむらが指を鳴らすと同時に幾何学模様の光に捉えられ、そのまま光に圧縮され小爆発を起こした。一気に駆逐したかと思われたが、最初に仕留め損ねた魔獣が、いろは達のいる病室のドアをけ破った。
----------------------
――やっぱりおかしい
いろははようやく気付いた、母親が姿を消していることに。
「どうしたいろは、大丈夫か?」
父親の顔をいろはは凝視する。なぜだろう、きちんと見つめているはずなのに、ぼやけて見える。顔が見えない。・・・・「顔が無い」。
「お父さん、お母さんは?」
「なんだって?」
いろはの問いに父親は一瞬戸惑い、そして答える。が、「聞こえない」。
――ああ、そうか、これは夢ではない、けれど
いろはは腕の中に収められている妹を見つめる。妹は――ういの顔はしっかりと見えている。
「お姉ちゃん?」
「ううん、ういごめんね」
「何が?」
「お姉ちゃん、願い事をかけたんだけど、かけ方が間違ってたよ」
「え?」
バン、とドアが乱暴に開いた。匍匐前進をしながらなにやら白い服を着た女性がいろは達をめがけてやってくる。ういが悲鳴をあげた。
「さなちゃん!」
そしていろはもまた、悲鳴に似た声で親友の名前を叫んだ。魔獣に憑依されて人あらざるものになった看護師――二葉さなに向かって。
――いろはさん
「え?」
確かにさなの声がした。いろはは白衣を血だらけにした親友を凝視する。確かに今、名前を呼ばれた。
――いろはさん、目を覚まして、このままじゃ危険です
「そうだよね・・・」
ようやくいろはは思い出した。ウワサから宝物をもらったことを。ラベンダーの香りとともに、声が聞こえたことも。
――キニイッタ?ソノジゲンヲコエルツボキニイッタ?ナラアゲル
――どこにでも行けるの?
――ドコデモ!イツデモ!イッチョクセン!
――じゃあ、ういのいるところに行きたい!夢でもいいから!
夢でもいいから・・・・果たして言葉通りの願いをこの壺は叶えたのか。だが・・・
わかる、ここは夢ではないけど、「夢」なんだ。
「いろはちゃん!」
魔獣を追いかけるように、さやかとほむらが現れる。いろはは二人を見つめると「ありがとう」と礼を言い、そして天井に顔を向け叫んだ。
「やちよさん!この壺を割ってください!」
*********************
壺から一瞬、いろはの声が聞こえたような気がした。
「おい、やちよ!何してんだよ危ないぞ!」
フェリシアのハンマーがやちよの眼前を通り過ぎ、襲ってきた使い魔を倒す。だがやちよはいろはの傍にある壺に駆け寄り、耳を寄せる。
―――やちよさん、やちよさん
「いろは?」
壺を抱き寄せ、やちよはいろはを呼ぶ。やちよさん、とすぐに返事が来た。
――この壺を割ってください
「わかったわ」
先ほどまでの躊躇が嘘の様に、やちよは迷いなく得物で壺を割った。
パリン、と繊細な音を立てて、壺が砕けていった。
--------------------
まるで万華鏡の中身が飛び散ったように、病室の天井から、色とりどりのガラスの破片が落ちてくる。天井にはぽっかりと冗談のように真っ暗な穴が開いていて。
「うわ、なにこれ?」
さやかが腕で顔をカバーしながら、穴を見上げる。
「あんたがやったの?」
「まさか」
さすがの悪魔も茫然としながら空を見つめる。そうして何かに気づいたのか、いろはを見つめる。いろはの腕の中にはもう妹の姿はなかった。そして看護師の姿もない。
「道を見つけたのね?」
「はい」
ほむらの問いかけに、いろはは頷く。
「ありがとうございます、ほむらさん」
「私は何もしてないわ」
後ろで「私は?」と呟くさやかの脇を肘でついて、ほむらは口元を緩める。
「私達も巻き込むなんてたいした子ね」
「ごめんなさい、そんなつもりなかったんですけど」
「ま、いいわ」
優雅に肩をすくめ、黒髪の美女は傍で脇を抑えている蒼い髪の女性の腕を取る。ぽっかりと開いた穴を見つめているほむらの背中から翼が現れた。黒い大きな翼。今度はいろはが驚く番だった。
「これ・・・翼?ほむらさん、あなたは・・・」
「楽しかったわ、環いろはさん」
いろはの問いかけには答えず、悪魔は翼をはためかせる。横でうめいている「元鞄持ち」を小脇に抱えて「それじゃ、お先にさよならね」と囁いた。そうして、宙に舞う。どうやら穴から外へ脱出するようだ。
「ほむらさん、さやかさん!」
もう顔もよく見えない位置まで飛び立った悪魔がいろはの叫びに反応する。
「ありがとう!」
「こっちこそ、元気でねー!」
悪魔の代わりに小脇に抱えられたさやかが、間の抜けた声で返事をする。それを聞いていろはの口元が緩んだ。ちぐはぐだが妙に仲のいい大人の二人が微笑ましくて。二人の姿が遠ざかり、視界から消えたと同時に、今度は天井が全て割れて、いろはの周りに宇宙空間が現れた。綺麗だと思う間に意識は途切れそして――
----------------
「いろは、いろは!」
必死に自分の名前を呼ぶ女性の声を聞きながら、いろはは意識を取り戻した。
「やちよさん・・・?」
「よかった・・・!」
ぎゅう、と頭を抱き寄せられて、ようやくこれが現実だと気づく。
「いろは大丈夫か?うわっ、てかっやべーぞ!ウワサが出てくんぞ!」
フェリシアの声で、やちよといろはは我に返る。慌てて立ち上がろうとするいろはの肩を抑え、やちよが顔を近づけた。
「大丈夫?いろは戦える?」
「はい、大丈夫です!」
至近距離で見つめ合い、そして互いに微笑み合う。ほんの一瞬だけでもそうすることで、いろはの全身に力がみなぎって。
――戻れてよかった
いろはは変身し、クロスボウを構えた――
*********************
「すごい・・・お話ですね」
さながいろはを見つめながら、驚いた顔でそうつぶやいた。
神妙な面持ちで頷くいろは。
戦いを終えて、みかづき荘に帰ってきたいろはは一連の出来事を仲間に話した。もちろん皆、さなと同じように驚いた表情を浮かべていて。特に一緒に戦ったフェリシアとやちよは驚きを隠せないようで、「信じられない」「すんげー」と、いろはの話の狭間狭間に率直な感想を挿入させてきた。戦闘後というのもあってか、やや興奮気味だ。
「すごいよ、いろはちゃん、そんな体験してくるなんて!でも本当にあっちも現実だったの?」
鶴乃がテーブルから身を乗り出していろはに尋ねる。
「そうね、私も気になるわ、二葉さんが大人になって、暁美さんも美樹さんも大人になっている世界なんて・・・夢じゃなかったの?」
鶴乃に続いてやちよも疑問を発する。
「はい、あれは現実でした。ただ・・・半分はそうじゃないっていうか」
「え?どーいうことだよ」
フェリシアが不思議そうに首をかしげる。
「うん、うまく言えないけど、私の「願い」ごとあの世界に移動したの、だから暁美さんと美樹さんは本物だけど、病院での出来事・・・大人になったさなちゃんや両親やういは私が作り出した幻」
「ウワサの作った異空間ごと、別の次元の世界に飛んだってこと?」
「はい、そういうことだと・・・思います」
やちよの要約にうなずくいろは。病院で現れた魔獣も全て幻覚で、おそらくいろはがこちらに戻ってきた時点で、あの病院は元に戻っているのだろう。
「でも・・・どうして私が大人になって出てきたんでしょうか?」
さなが不思議そうに囁いた。確かにそうだ、といろはも思う。大人になって、更に魔獣になっていろはに襲い掛かってきた。だが最後に声をかけてきてくれたのはさなだ。
「そう・・・なんだよね、私もそこがわからなくて」
「ある意味そういうところは夢と同じなんじゃないかなあ」
鶴乃が腕を組みながら、呟いた。楽天家で明るい彼女は、実は結構冷静な分析屋だ。皆、鶴乃に注目した。
「例えば現実で受けた刺激や、感じたこと思ってることが、夢だと時間の配列も関係なく表れてくるんだよきっと。だからほら、さなって、いつもいろはの傍にいるじゃない?だから影響したとか」
「ああ・・・それならわかる気がします」
「た、確かに・・・」
同意するいろはとさな。言われてみれば、確かにずっと一緒にいると言ってもおかしくない。いろははそれに、と付け加えた。
「わたし、さなちゃんの事大人っぽくていいなって、最近思ってて、それも影響したかもしれない」
「ええっ、私そんなに大人っぽくないですよ」
慌てた様子のさなに微笑むいろは。向かいに座っている家主はどこか面白くなさそうで。
「どうした、やちよー?なんか怒ってんのか?」
「違うわよ、なんでもないわ」
横に座っているフェリシアに急に指摘されたからか、どこか慌てた様子で。意外と敏いフェリシアはにんまりと笑って。
「いーや、絶対怒ってる!あ・・・いろはの夢に出てこれなかったから拗ねてんのか?」
「こ・・・!」
図星らしい、年長の美しい女性は顔をほのかに赤くして。皆にじい、と見つめられていることに気づき、軽く咳払いをすると、いろはを見つめ、小さな声で呟いた。
「・・・あんなに心配したんだから、ちょっとは私が出てきてもよさそうなものだけど」
「あ、ごめんなさい・・・でも私ずっとやちよさんの事考えてましたよ」
「え?」
「病院で心細かった時、眠る時、やちよさんって、心で呼んでました」
「そ、そう・・・」
いろはの美徳である素直で正直なところが、かえって仇となったというか、なんというか。やちよの顔は更に赤くなってしまって。横で小さく、あちゃーと鶴乃が呟いた。
「それなら・・・別にいいわ」
あえて冷静に囁いたつもりだが、その顔はまんざらでもない様子で。みかづき荘の家主がこの年下の少女をいたく気に入っていることを知っている面々は、口元を緩めて、その様子を見ていた。が、とうとう我慢できず
「やちよ顔真っ赤!」
「まんざらでもない様子だね、師匠!」
「やちよさん…うらやましいです」
それぞれが家主にツッコミを入れた。
「こら・・・!」
やちよが照れ隠しに怒り出すのと同時に吹き出すいろは。
――本当に戻れてよかった
そう思いながらいろはは微笑んだ。
そうしてふと、思い出す。あの二人のことを。
翼の生えていた暁美ほむらと刑事になっていた美樹さやか。
あの二人はずっと一緒に戦い続けていくのだろう、きっとこれからも。
また会いたいな――
いろははそう思う、たとえ叶わない願いだとしても。
******************************
「で、結局のところ、あの病院での出来事もみんな、あっちの世界の「異空間」で起きた幻覚ってこと?」
「そうよ」
夜の帳の下りた街。一番空に近い高層ビルの屋上で、悪魔と元鞄持ちは語り合う。眼下には眩いビルの明かり。風で前髪を揺らしながら、美樹さやかは美しい悪魔――暁美ほむらの方へ視線を向けた。
「異空間ごとここに来るって、あの子の力って・・・相当ヤバくない?」
「そうね、まどか・・・ほどの規模でないにせよ、すごい力を持っているわ」
「いろはちゃんかあ、私、どうにも会った記憶がないのよねえ」
「・・・特殊な世界だから、あっち(円環)に行っていた貴方でも覚えてなくて当然よ」
「特殊って?」
さやかの問いかけに答えるためか、ほむらは無表情で顔をそちらに向けた。だがその口元がすぐに緩んだ。何故なら、さやかの顔が微かに赤かったからだ。
「何?顔が赤いわよ鞄持ちさん?」
「え、ああなんでもないわよ、もう!」
慌てた様子で、今度はさやかが顔をそむけた。肩を揺らして笑うほむら。「そういう目」でこの女性から見られることは苦ではなくむしろ愉快なもので。
「変態ね」
「ひっど!仕方ないじゃない、だってあんたが・・・」
手慣れた仕草で悪魔はさやかの肩に手を置くと、顔を寄せ、さやかの唇に己の唇を重ねる。軽く音を立ててすぐに離れると、ニイ、と鮫の様に笑って「私が何?」と囁いた。
「ずる・・・」
「悪魔だもの」
ふ、とさやかが息を吐く、どうやら笑いを堪えているようで。二人見つめ合い、しばらくしてようやく微笑み合った。どうやら先ほどの話は打ち切りになったらしい、無言で二人は眼下の街へ視線を移す。悪魔が鞄持ちの肩にもたれかかった。寄り添うようにして、二人は夜の街を見下ろし続ける。きっとこの夜があのいろはの世界にも続いていると信じて――。
END
お読みいただきありがとうございました。
捏造設定ばかりですが、ラストさやかがいろはの力を「相当ヤバイ」と例えていたのは、マギレコ二部終了後の今となっては、ちょっと当たっていたなあとひとり喜んで自己満足中です…(なんと)
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ほむら後悔する
どうにも大人になると思春期時代の事は黒歴史になるものが多いようで、それは悪魔も例外ではなかった。
「あんたって、ほんと昔の事になると輪をかけて無口になるよねえ」
蒼い髪の女性は訳知り顔でニヤニヤ笑いながら、グラスを口につけた。悪魔は美しい顔を歪めて隣にいる訳知り顔の女を睨みつける。美しい者が凄むと、怖いが思わず見惚れてしまう、凄惨美のようなものがある。だが蒼い髪の女性はその美貌に気を取られることなく、肩をすくめ視線を逸らした。
「…うひゃあ、怖い怖い」
そう言うと、カウンターにグラスを置いて、横にあるボトルを手に取った。
「とりあえず飲みなって」
ノリがいいというのか、軽薄というのか、蒼い髪の女性は、悪魔の空になったグラスにボトルを傾けた。琥珀色の液体が注がれ、アイスがカランと音を立てた。悪魔の切れ長の目がグラスを睨むが、すぐに手を伸ばすと液体を口に運んだ。それを見て蒼い髪の女性は嬉しそうに笑った。
**********************
美樹さやかと暁美ほむらが二人で酒を酌み交わすことは珍しいことではなかった。もし、彼女達の歴史を知るものが、世界を再改変した日から今に至る二人の姿を見たとしたら、その劇的な変化(というより思いもよらない結末に)驚くことだろう。だが、幸か不幸か再改変の歴史を知る者は元かばん持ちと悪魔以外誰もいなかった。
そう、もうこの世界の秘密を知るのは彼女達二人以外誰もいないのだ。
ほむらはまどかのために、ただそれだけのために悪魔として生き続けていたし、さやかは時折起きる記憶の錯綜に悩まされ続けながら生きていたが、ある日、思いもよらない出来事のおかげで二人は再び相まみえることとなった。それから紆余曲折を経て、さやかはある程度の記憶を取り戻し、ほむらは天体レベルの気の遠くなるくらい少量の譲歩をさやかに対して見せる様になった。そしてそこから、二人は共闘するようになったのだ。
あれから10年
「どうして、あなたとこうなったのかしら…」
「うわ、ひど!あんた今更そういうこと言う?」
さも悲痛な表情を浮かべている悪魔の横顔を見つめながら、さやかが心外そうに言った。カウンターに座っている二人の前でグラスを拭いているバーテンが微笑む。彼女達はこのカウンターバーの常連なのだ。
「今更も何も、私は毎日思っているわよ、貴方と私がどうしてこういう状況になったか…」
「何もそこまで…って、ちょっとあんたまた」
さやかがよく見ると、悪魔の美しい横顔は笑みを浮かべていて。
「ほむら、あんたからかったわね」
「ようやく気付いた?」
くっ、くっ、と肩を揺らしてほむらは笑った。成人した彼女は恐ろしいくらい美しく成長したが、悪魔故か一種禍々しい雰囲気を醸し出していて、その笑みもまた鮫の様に凄惨だ。だがさやかの方は特に怖気づくこともなく、ややたれ気味な目を少しだけ釣り上げて批判するように悪魔を睨む。ほむらはグラスを持ったまま人差し指だけをさやかに向けて「威圧感ゼロ」と囁いた。むくれるさやかと吹き出す悪魔。実は2人ともほどよく酔っていて。
「私が貴方ごときの事で頭を悩ませると思う?美樹さやか」
陰鬱な目を向けながらほむらが口元を歪めた。う、とさやかが苦々しい表情を浮かべる。ほむらと同様、さやかも美しく成長したが、あの頃の面影がだいぶ残っていて。
「相変わらずお間抜けな顔ねえ」
「ちょっと!」
上機嫌に悪魔は笑う。実はそのかばん持ちの「お間抜けな」面影を見ることが秘かな楽しみなのだ。もちろん本人には言わないが。過去に戻りたいとは思わないが、「あの頃」に想いを馳せる事は悪魔は嫌いではなかった。
「そりゃあ、あんたに比べれば…お間抜けだけどさ」
悪魔の美貌を前にすると、さすがのかばん持ちでも顔が赤くなるらしい。抗議の台詞はどんどん尻すぼみになっていく。それを見て眉をあげてからかうような表情を浮かべるほむら。
「どうして貴方の顔が赤いのか、聞いてもいい?」
「聞かないで」
手のひらをひらひらと振って、顔を背けるさやか。どうにもこの悪魔の美貌というか魅力はかばん持ちにも有効なようで。それを悪魔もまたよく知っていた。
「ところでさあ、あんたに頼まれた事、まどかに聞いてきたわよ」
まどか、という名前を聞いた途端、ほむらの表情から禍々しさが消える。まるで少女の様だ、とさやかは思った。
「なんて…?」
「ただの友達だってさ」
「そう」
ほっ、とほむらが安堵の息を漏らす。その表情を見て苦笑するさやか。
「安心?」
「聞かないで」
「それブーメラン?」
そう言ってさやかが笑った。
鹿目まどかは二人の共通の友人だ。再改変の直後まどかはさやかが幼馴染である事を覚えていなかった。思い出してくれたのは、しばらくしてからだ。まどかの事については確執があった二人だが、今ではこうして、ほむらの想いを汲んでさやかが二人の間を取り持つような仲になっていた。
「てかさあ、あんたこんなにまどかの事好きなら告白しちゃえばいいのにさ」
「貴方はどこまで馬鹿なの?」
「はあ?」
「私はね、まどかを愛しているわ誰よりも、でも貴方の言っているただの「好き」とはわけが違うのよ」
「よくわかんないけど…、でも、それで気持ちを告白しないで後悔しないの?」
「…貴方だって告白しなかったでしょう?上条君に」
「うわ、懐かしい」
さやかが両手を挙げながら叫んだ。酔いが回っているのだろう。
「私はあれを思い出すたび思いっきり自己嫌悪しちゃうのよね、拗らせてしょっちゅう「あれ」になったし」
「それを何度も私が処理したしね」
「ほんと」
「あら素直ね」
そう言って、二人は笑う。「あれ」とは魔女のことで、大人になるともう円環の理も魔女も魔獣も「あれ」とか「これ」で会話は事足りていた。
「う~ん、私はまあ、なんかあっちに行ってものわかりが良くなったっていうか、つきものが取れたというか、恭介の事を特別意識することはなくなっちゃっているし、けどあんたは現在進行形でしょ?」
「だから…私のまどかへの愛はそういうものじゃないの」
このお話はおしまいと言わんばかりに、ほむらは右手の人差し指をタクトの様に振った。グラスから琥珀色の液体が少量飛び出して、さやかの顔にかかる。ひゃっ、と声をあげると、ほむらは笑った。
「別の話をしましょう、さやか?」
悪魔は珍しく親し気にさやかに微笑んだ。
*****************
――ああ、悪魔は酒に弱かったっけ
さやかはカウンターに突っ伏して眠りこけてしまったほむらを困った様に見つめた。長い黒髪が白い頬にかかり、長い睫毛が震えていた。綺麗だな、と素直にさやかは思う。こうして無防備に眠っている姿を見ていると悪魔とは到底信じ難い。ただの美しい女性だ。もっと別の人生があれば彼女は幸せだったはずなのに、とさやかは考える。もちろんそれはエゴなのだが。
「ん…」
寝ぼけているのか、ほむらが身じろぎした。口元を緩めるさやか。
「ほむら、帰ろ」
耳元で囁くと、ほむらの目がうっすらと開いた。
「……」
そうしてまた閉じられる。
「こら」
苦笑して、さやかはいつものように手を伸ばすとやや強引に悪魔を起こした。子供の様にほむらがぐずるが、器用にその腕を肩にかけると立ち上がる。
「ん…さやか?」
「そうよ、帰りましょ」
さやかは支払いを済ませると、そのままほむらを肩に抱えてバーを出た。
ややひんやりとしてきた夜風を受けながら、二人は帰路に着く。悪魔は相当酔いが回っているのか、かばん持ちに身体を預けたまま引きずられる様に歩いている。
「もう」
引きずって歩くのに限界を感じたのか、さやかは息を吐くと、身を屈め、ほむらをおぶった。
悪魔はまるで猫の様に気持ちよさそうに目を瞑ったままで。
「まったく能天気な悪魔だわ」
そう呟くと、さやかは歩き出す。と、いきなりさやかの耳元で声が聞こえた。
「どこいくの?」
「わ、あんた起きてたの?」
「何言っているの、私はずっと…起きてるわよ…」
寝ぼけているのだと気づいたさやかは苦笑する。
「家に帰るのよ」
「そう‥‥」
さやかの肩にほむらの息がかかる。安堵のため息なのかなんなのか、確かめたいがさやかは後ろを見ることはできない。
「…貴方いつの間にか大きくなったのね」
「同い年でしょ」
どうにも寝ぼけている悪魔は面白い事を言うものだ、とさやかは思って。
「ねえさやか」
「ん?」
「私は後悔している事がひとつだけあるの…」
「え、何それ、すごい気になるんだけど‥‥ってちょっと」
だが、それから悪魔の声は続かない。ただ規則的な呼吸が聞こえるだけで。また眠ってしまったのだとさやかは思った。
「‥‥まったく、なんなのよ、軽いからいいけどさ」
鞄持ちの独り言を悪魔は目を瞑りながら聞いていて。その口元は緩んでいた。
――後悔しているのは、貴方とこうして――
悪魔はかばん持ちの肩にそっと腕を回して強く抱きしめた。
END
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10年後のあなたへ
「記憶障害?」
さやかは目を丸くして、隣にいる鹿目まどかを見つめた。
「うん…心療内科に行ってみたら、先生が」
「…なんで私に言わなかったの」
「…だって」
「…」
そう、さやかはまどかの事をよく知っている、自分のために誰かが心配することを彼女は極端に嫌がる、そんな性質の持ち主なのだ。はあ、とさやかはため息をついて、じいと幼馴染を見つめた。内気でおとなしい幼馴染はこの10年でだいぶ成長していた。桜色の髪も背中まで伸びたし、顔つきもあの頃よりも少し大人っぽくなっていた。だが可愛らしさはあの頃のままだとさやかは思う。さやか自身も身長も伸び、顔つきも含めだいぶ大人になったが、まどかの場合はあの頃の若さのまま大人になったというイメージだ。
「ったくもう、私には遠慮しなくていいのに」
手を伸ばして、まどかの髪に触れる。一瞬びっくりしたようにまどかは身体を強張らせた。
「どうしたの?」
驚くさやか。まどかの顔が紅潮していて。ざあ、と風が吹いて、木々が揺れた。ベンチに座っている二人に揺れる木々の影がおちる。さやかは手をゆっくりと戻そうとして、止まった。
「さやかちゃん」
まどかがさやかの手を両手で掴んだ。さやかはただ目を丸くして幼馴染を見つめていた。
いつもは内気で気弱だが、いざという時に強い意思を宿す瞳がさやかを捉えた。
「まどか?」
「…私がこのまま記憶を失っても、ずっと友だちでいてくれる?」
「もう、何言ってんの」
「私怖い、いつか何もかも忘れてしまいそうで」
「まどか…」
強い意思を宿していたはずの瞳が揺れた。溢れてくる涙。気が付けば、さやかはまどかを抱きしめていた。腕の中にいる幼馴染の身体の感触。ああこれは本能の様なものだ、とさやかはぼんやりと考えた。
あの日――悪魔が宇宙を再改変したあの日。悪魔に一部をもぎ取られ、まどかは人間として地球に戻り、そして人か定かではないが、さやかとなぎさも戻って来た。あれからいろいろなことがあったとさやかは思う。錯綜する記憶との戦い、魔獣との戦い、人としての生活。そして悪魔との対峙――幼馴染を更に強く抱きしめて、さやかは目を瞑る。
あの時からまどかは時折記憶障害に悩まされることがあった。だが正確にはそれは記憶障害ではなく、悪魔の改変の所為なのだ。円環の理からもぎ取られた後遺症の様なもの。
――あいつの改変は完全ではなかった。
知っていながらこの10年真実を隠し続けていた。良心の呵責を感じて、さやかは囁いた。
「ごめんね」
気づけば、さやかの背中にまどかの手が回されていた。励ますようにぽんぽん、と優しく背中を叩かれる。ふ、とさやかが微笑んだ。いつの間にか立場が逆転している。いつもこうだった、昔から、とさやかは思う。彼女を助けたつもりで、実は助けられていたのは自分だということ。しばらくして、えへへ、と腕の中でまどかが笑ったので、さやかが不思議そうに彼女の顔を覗き込んだ。そこにあるのは満面の笑みを浮かべている幼馴染の顔で。訝し気な表情のさやかに気づいたまどかが囁いた。
「さやかちゃんとこうしてるとね、なんだかすごく安心できるの」
「そう?…実は私も…そうなんだ」
さやかの言葉に目を丸くして、しばらくしてまどかは笑った。さやかも笑う。無邪気に笑い合う二人。こうしていると、なにもかもがどうでもよくなってくるから不思議だった。円環の理とか、魔獣とか、魔法少女とか、そんなものはみんなさやかの妄想で、大人になって、警察官と幼稚園の先生になった幼馴染同士が今ベンチに座りながら抱き合っている。それだけが真実だと。
ギャア、ギャアと二人の近くで声がする。
「…鳥かな?」
まどかが顔をあげる。さやかもつられてまどかの視線を追うと、視界に黒い鳥が映った。
「鴉ね」
さやかがゆっくりとまどかから離れる。名残惜しそうなまどかの表情に気づくことはなかった。忌々しそうに鴉を睨みながら呟く。
「確かに現実よね」
「え?」
「…なんでもない。ねえ、まどか、あんたは記憶障害なんかじゃない」
「・‥‥」
「まあ、私は医者でもなんでもないけどさ」
失笑するまどかの腕を掴んで。
「それでもわかる。もしまた記憶が飛んじゃうようなことがあったら…」
「さやかちゃんが助けてくれる?」
「うん、だからいつでも呼んで、医者よりも先に私に言って、わかった?」
「わかった」
目を細めて、まどかは頷いた。
***************
帰路に着くまどかの背中を見送るさやか。後ろ姿が見えなくなると、ゆっくりと後ろを振り返る。夕暮れの公園に人気は無く、青々としていた野原にセピア色の光があたって、まるで燃えているように見える。少しだけ表情を険しくして、さやかは悪魔の名前を呼んだ。
「ほむら、いるんでしょ?」
風が吹いて、ザザッと木々が音を鳴らす。数枚の葉がさやかの前に舞い落ちてきた。目で葉を追っていると、気づけば目の前にほむらが現れた。陰鬱な眼差しでさやかを見つめている。さやかは特に臆することなく見つめ返す。
「…なんでこなかったのさ」
「……」
何も言わずほむらは目を逸らす。長い睫毛が揺れていて。綺麗だな、とさやかはこんな時嫌でも思ってしまう。それくらい目の前の女性は美しかった。『転校生』という認識しかなかった頃から美少女と思っていたが、今ではけた違いに美しい女性に成長している。風が吹いて、ほむらの長い黒髪と黒いスカートが揺れた。けだるげに右手で髪を掻きあげる。
ギャア、と鳴きながら鴉がほむらの足元に着地した。え、とさやかが目を丸くする。
「あんたまさか、その鴉飼ってるとか?」
「まさか」
フ、とほむらが口元を緩めた。微笑みというより失笑に近い。だが、昔の彼女と比べればこの反応は奇跡といってもいいくらいのレベルだ、とさやかは思う。だって、彼女がさやかに微笑むなんてこと、かつては無かった(さやかの記憶にない)のだから。
「…勝手に寄ってくるのよ、私を主か何かだと思っているのかしら」
鴉を見つめながら、ほむらが呟く。大人になり、彼女も少しは饒舌になっていた。
「へえ…昔見た鴉とは違うわね」
ほむらが改変したばかりの世界で、通学途中よくギョロ目の鴉を見かけたが、あの時のタイプとは違うようだ。とさやかは思った。じい、と鴉を見つめる。鴉がトトト、とさやかの足元に近づいてきて、予備動作もなく素早く突いた。
「あいた!何よ」
思わず右足をあげて叫ぶと、傍にいたほむらが顔を背けて、肩を揺らした。
「あなたを下僕と認識しているんじゃないの?」
「何よそれ、ひっど」
忌々しいという様にさやかが鴉に向かって右腕をあげる。と、鴉は軽く羽ばたいてほむらの肩にとまった。ほむらが形のいい眉を上げるのと同時に、さやかがわお、と声を漏らした。
「何そのラスボス感、あんた飼ってないって嘘でしょ?」
「本当よ、それよりラスボスって?」
「…忘れて」
失言だったといわんばかりに、さやかがひらひらとほむらの前で手を振った。ほむらはそう、と呟いて、特に気にする風でもなく、人差し指で鴉のくちばしを突ついて遊びはじめた。悪魔は意外と素直らしい。その姿がまたラスボスらしくてさやかは複雑な気持ちになる。
「ほら」
ほむらが手を伸ばすと鴉が腕に飛び移った。いつの間にか飼いならしたらしい。羽ばたくのを促しているのだろう、ほむらは軽く腕を揺らしている。
「行きなさい。それと…もう私の下僕を突いちゃだめよ」
ギャア、と返事して鴉は羽ばたいた。あっという間に上空まで辿り着くと主を名残惜しむように数回旋回してから、去っていった。無言で二人は空を見上げ鴉を見送っていたが、しばらくしてさやかがほむらを睨む。
「ちょっと、私あんたの下僕なんかじゃ…」
「あら、嫌じゃないでしょ?かばん持ちさん」
ニイ、と口元を歪めて鮫の様に笑うほむら。う、と言葉を詰まらせるさやか。なまじ美しいだけに悪魔のこういう表情は妖艶すぎて、タチが悪いとさやかは思った。
「図星ね」
そう囁くと、今度はふわり、と優しくほむらは微笑んだ。ああ、これだから…とさやかは苦々しく思う。
そう、「奇跡」は続いていた。二人の関係はあの頃よりも進展し、そして変化していた。
円環の記憶を断片的に取り戻したさやかは、ある事件をきっかけにほむらと共闘することを選んだ。だが最初の頃は悪魔はさやかを拒絶し、文字通り表面上の共闘のパートナーに過ぎなかった。だがある日、ふとした拍子に魔が差したかのようにほむらがさやかを受け入れた。その理由をさやかは今でもわからないし、たぶんほむらもそうだろうと思っていた。そしてあの日を境にさやかはこの美しい悪魔のことをもっと知りたいと思う様になった。彼女が何を考え、どういう思いでここまで来たのかを。そうしているうちにさやかのほむらに対する気持ちも変化してきて――。
「……」
まだこちらを見て微笑んでいるほむらを苦々し気に睨むさやか。もちろんこれは照れ隠しで、顔が赤くなってないだろうかさやかは内心不安になる。
まどかに対する気持ちとはまた異質のこの感情をなんと呼べばいいのか、さやか自身もまだ答えを見つけていない。ただ言えるのは、まどかを誰よりも愛している彼女が、もっと笑って、幸せになって欲しい――それだけは確かで。もう、とため息をついた後、さやかは話題を変えた。
「まどかがさ、心療内科に行ったんだって」
「……」
「記憶障害って診断されて、すごく不安定になってる」
「そのようね」
「…ってあんた、いたんだったらなんで」
なんで顔を出さなかったのか――そう言おうとしてさやかは口をつぐんだ。時々あるのだ、こういうことが。大人になってようやくまどかともまともに会話できるようになったほむらだが、時折こうしてまどかと会う約束を反故にしてしまうことが。もちろん突然の魔獣の出現であれば致し方ないが、今日は魔獣の気配はなかった。思い詰めたような表情の悪魔をさやかはただ黙って見つめる。ようやく悪魔は口を開いて。
「…あなたは」
「え?」
「あなたは今までの事が嘘だったって…そう思いたいの?」
抱き合っている姿を見られた、とさやかは気まずく思う。あの時のさやかの心の中を悪魔は覗いたのだ。
「…半分は当たっているかも」
さやかは正直に答えた。
「あれから10年経ってさ、私達大人になったでしょ?社会に出て仕事して、いろんな事を知っていくうちに、あの頃の事がだんだん希薄になっていって、嘘みたいに思えてきてる。あれは私の妄想だったんじゃないかって」
「そう…」
「もしかしたら、あんたも悪魔でもなんでもなくて、普通の女でさ、モデルとかやってたりって冗談よ、冗談」
気づけば悪魔がこちらを横目で見つめているので、慌ててさやかは否定する。だが。
「できるわよ」
「え?」
「私にはそうすることができる。今までのことが嘘――妄想だったとあなたに信じ込ませることが。そうしてあなたはまどかの親友として人間として幸せに暮らしていくのよ」
「……やめてよ」
「貴方が望むのなら、私は――」
「やめてってば」
さやかがほむらの腕を強く握った。今すぐにでも彼女が魔法を使いそうだったから。険しい表情を浮かべているさやかと、薄ら笑いを浮かべたどこか寂し気な悪魔が見つめ合う。
「せっかく、記憶を取り戻してここまで来たのよ、私はもうあっちに戻るつもりはない。あんただってわかってるでしょ?」
「人は嘘をつくわ、誰でも」
「私は人じゃない。私はあんたと一緒に戦って、まどかの一生を見届ける。その後の事は…まあまだわからないけど、でも私はあんたと一緒にいたいのよっ…て何?」
ほむらが肩を震わせて笑っている。はあ?とさやかは声をあげて、しばらくしてようやくからかわれていることに気づく。ちょっと…と詰め寄るさやかをかわして、ほむらが離れた。
「嘘よ、私でもそんな『複雑』な記憶操作は無理」
「だったら‥‥」
「あの時、私は自惚れていたの」
「?」
手を後ろに回し、さやかに背中を向けるほむら。
「人間としてのまどかを円環の理から奪って、そして幸せな人生を送ってもらおうと」
「送っているじゃない」
「でも完璧ではないわ」
「それは…」
さやかが顔をしかめる。中学の頃から今まで、まどかが記憶を失うことは頻繁にあった。円環の理を思い出そうとする度にその理に引き寄せられる。そしてそれを阻止しようとするほむら。反動でまどかはその前後の記憶を多い場合には一日丸ごと失ってしまうこともあった。ほむらがゆっくりとさやかの方を振り返る。泣きそうな顔。まどかの事になると悪魔の仮面はいとも簡単に剥がれ、ほむらの素顔が現れるのだ。
「私の所為でまどかはいつも苦しむのよ」
「あんたの所為じゃない」
さやかがほむらの方に一歩歩み寄る。ほむらが一歩下がった。
「貴方が正しかったのかしら…美樹さやか?」
「正しいから…幸せとは限らないわ」
それはさやかが知った真実。この10年で得た答え。
「誤っていたとしても、あんたの想いは本物よ。どうすれば良かったかなんて、きっと答えはない」
さやかがまた一歩近寄る。もう悪魔は動かなかった。
「それに私も共犯よ、まどかの傍にいてずっと真実を隠してるんだから、タチ悪いでしょ?」
おどけたようにさやかは微笑んだ。あの頃のほむらなら決して受け入れなかっただろうが、今は――
「まどかの為に、一緒に戦ってって言ったのはあんたでしょ?」
「そうね…」
そうだったわね――そう呟いてほむらはさやかへと手を伸ばした。
**********************
まどかの記憶障害を失くすためには、まどか自身の記憶の錯綜を止めつつ、円環の理の干渉も防がなければならない。
「じゃあ、まどかを守りつつ、あっちの動きにもアンテナを張ってないといけないってこと?」
「そうなるわね」
「うーん」
さやかが腕を組んで考え込む。その横でほむらはベンチに座り足を組んで、頬杖をつく。これから、まどかが人として暮らし続けていくためには記憶障害をどうにかしなければならない。
「完全…とまではいかないけど、まどかの記憶喪失の期間を短くできればなんとかなりそうだけど…あんたの力でどうにかならない?」
「そうね、私も考えたわ…せめて数分程度のスパンなら、まどかの負担も軽くなるかも」
やってみるわ、とほむらは囁いた。そうして、さやかの方を見上げる。
「何?」
「貴方は元あっちの一部分よね、もし、あちら側(円環)から干渉があった場合に事前に察知する事はできる?」
「そうねえ…あっちにいる時の『感覚』なら覚えているから、できるかも。やってみる」
「決まりね」
二人ができることをとりあえずやってみる。全てはまどかのために。さっきよりもほんの少し晴れ晴れとした表情を浮かべているほむらを見て、さやかは安堵する。
「不思議ね」
「何が?」
ほむらのつぶやきにさやかが反応する。ベンチからほむらが立ち上がり、さやかの方を見た。
「大人になんてなることないって思ってた」
「……」
「何度も繰り返していた時も、悪魔になった時も」
「まあ、確かに想像はできなかったわね…」
さやか自身もあらゆる世界線で魔女化していたから、ほむらの言いたいことは痛いほどわかった。
「なのに普通に人として大学まで進学して、よりによって貴方と暮らしてる」
「そこ?てかよりによってって……」
「信じられない世界線だわ」
「せめて奇跡と言ってよね」
「そうね、大人になった貴方とこうして話ができるなんて、奇跡以外の何物でもないわ」
「でしょう?」
嬉しそうにさやかが微笑む。肩をすくめるほむらを見つめながら、さやかは言葉を続けた。
「私と話ができるんだから、あんたはもっとまどかと話し合うべきだと思うけど?」
「……そうね」
「だから、これからは約束を反故にしないでよね。そりゃ悩んでるまどかと会うのは辛いかも知れないけど」
「そうじゃないわ」
意外と強く否定されて、さやかは驚いた。彼女がそれ以外の理由でほむらがまどかを避けるなんて想像もつかなかったから。
「公園に着いたら貴方とまどかが抱き合っていたから、入る余地が無かったのよ」
「ああ…」
やっぱり見られてた、とさやかは気まずくなる。だがほむらは特に気にしている様子でもない。
「お似合いねあなた達」
「え」
心底驚く。だって彼女は――
「?どうしたの間抜けな顔して」
「間抜けって…いや、だってあんたまどかの事好きでしょ?」
「?ええもちろんよ」
「私もまどかは好きだけど、それは幼馴染としてだし…いや、もっとあるかもだけど…と、とにかくあんたの邪魔をする気はないから!」
慌てた様子で支離滅裂に喋りだすさやかを見て、首をかしげるほむら。ようやくさやかの言わんとすることが理解できたのか、そういうこと、と呟いた。
「貴方ってホント馬鹿ね」
「‥ってそんな風に言わなくても」
あのね、とほむらは子供を諭すように、さやかの前で腕を組んで語りだした。
「私はまどかを愛しているわ、誰よりも何よりも」
「し、知っているわよ」
「私はまどかが幸せになればなんだってする、まどかには貴方が必要なの。お分かり?」
「…う、うん?まあ」
わかったようなわからないような、そんな表情を浮かべたさやかを見て、ほむらはとうとうため息をついた。
「まったく、いい?私の想いは貴方が考えている様な単純な感情じゃない。私のまどかへの愛はそういうものじゃないの。貴方がまどかと仲良くしてたからってくだらない嫉妬はしないわ」
「そ、そうなの…まだよくわかんないけど。あんたが嫌な思いをしていないなら、それでよかったわ」
「そうよ、まどかが貴方を必要とするなら、貴方を百人投下してもよいくらいよ」
「何それ怖い」
さやかの反応がおかしかったのか、ほむらが笑った。昔から、さやかには場を和ませる力があって、それが今では悪魔にも有効らしい。
「それに、私が嫌なのはむしろ――」
「むしろ?」
さやかが不思議そうにほむらを見ると、はっ、と何かに気づいた様で。
「……なんでもないわ、忘れて」
珍しくほむらが言葉を濁す。失言したようだ。さやかは特に気にする様子もなく、そっか、と囁いて。空を見上げる。あたりはもう夜の帳が降りてくる頃で。二人は特に示し合わせたわけでないが、自然と歩み寄り、そして帰路についた。
「不思議と言えばさあ」
「何?」
「私達がこうして一緒に帰るってのも、なんだか不思議よね」
「そうかしら?」
そう言って、ほむらはさやかを見上げる。不思議そうに見つめ返すさやか。だが悪魔はただ口元を緩めてこちらを見つめているだけで。
――私が嫌なのはむしろ
――貴方が離れていくことよ
決して口にすることのない想い。そしてそれこそが、あり得なかった奇跡。
二人が去った後の夜の公園にはもう誰もいなかった。
END
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10年後の私へ
目を開ける――気が付くと、ものすごく近くに女の人の顔があったので、わたしは驚いた。
――誰?
長い黒髪、透き通るような白い肌、長い睫毛と紫色の瞳…。怖いくらい綺麗。左耳に変わった形のイヤリング?ううん…イヤーカフスをしている。年齢は20代半ばくらい。わたしより年上だろう。とっても綺麗なその顔に見惚れていたら、そのひとがわたしを見てゆっくりと口を開いた。
「まどか」
「え?」
――わたしのこと?
まどか、という名前を聞いてもピンとこない。あれ、じゃあわたしの名前はなんだったろうと考えても何にも思い出せない。慌てて回りを見渡すと、青い空と木立とそして広い芝生が見えた。ああ、ここは公園だ、と気づく。自分が誰なのか知らないのに、公園には見覚えがあった。わたしは公園のベンチに座っていて、女のひとは隣に座っていた。
「あの…」
なんて言えばいいのだろう?わたしは誰?ここはどこ?って…でもなんだか聞きづらい。目の前のとても綺麗なひとはものすごく悲しそうな顔をしているから。わたしがそんなことを言ったら、もっと傷ついてしまいそうで。どうしてかな、このひとが悲しむのをわたしは見たくない。
「記憶が混乱しているのね…私を覚えている?」
わたしはただ首を振った。
「あなたは、私と公園にいて‥‥そうして急に意識を失ったのよ」
「そうなんだ…」
このひとは、たぶんわたしのともだちなんだろう。だってこんなに心配そうにわたしを見ているんだから。それとも…もしかしたらお姉さんとか?
「まどか」
また違う声がした。顔をあげたら、すらっとした背の高い女のひとがこっちに駆け寄ってくる。空と同じ色の髪。
「大丈夫?」
空と同じ色の瞳がわたしを覗き込んできた。とても優しいまなざし。あ、わたしこのひとのこと知ってる、とっても。
その瞬間、なんだかふわりと身体が軽くなって。頭の中にいろんな映像が入って来た。
学校の教室
赤毛で八重歯の女の子
唐揚げだけが残った弁当箱
それを取って美味しそうに食べる蒼い髪の女の子
「もしかして、さやかちゃん?」
目の前の女のひとが笑った。優しい笑顔。
「まどかー、もしかしては余計だよ」
そう言って、わたしのおでこをつつく。
「…え、でもいつのまにそんなに大きくなったの?」
目の前にいるのは、さやかちゃんだけど、背も高くなってなんだかカッコよくて。どう見ても中学生には見えない。もう、と言って、大人のさやかちゃんが笑いながらまたわたしのおでこをつついた。
「まーどーかー、しっかりしなよ、また中学校の頃のこと思い出しているでしょ?」
「へ、え?」
「あれから10年経ってるよ、まどか。私もまどかも、そしてほむらも皆大人になったんだ」
「…あ」
わたしはさやかちゃんから隣にいるとても綺麗なひとへ視線を移した。とても悲しそうな表情でわたしを見つめている。ああ、わたしこのひとのことも知っている。
「…ほむらちゃん?」
「そうよ、まどか」
大人になったほむらちゃんが、ほっ、と安心したようにため息をついた。
「じゃあ、わたしも大人になっているの?」
なんだかとても不思議で変な感じ。自分の顔を触ってみる。その瞬間、また頭の中にいろんな映像が流れてきた。
【〇〇大学入学式】の看板
難しそうな本とノート
桃色のスマホ
【見滝原幼稚園】
笑顔でこっちを見ている小さな子供たち
――ああ
――そうだ、わたし
――【鹿目まどか】だ
************
「…あれ」
「どしたまどか?」
気が付いたらさやかちゃんが私を見つめていた。いつの間にか私は公園のベンチに横たわっていて。視界いっぱいにさやかちゃんの顔が映っている。ふふ、さやかちゃんの髪の色と空の色がまったく一緒でなんだかみんなさやかちゃんに見える。
「こらこら、なんで私を見て笑ってるの?」
「…なんでだと思う?」
おでこをさやかちゃんの軽く指でつつかれた。なんだかそれが嬉しくて笑ってしまう。さやかちゃんが私の腕を掴んで起こしてくれた。隣にほむらちゃんもいる。
「私、いつの間に寝てたんだろう?」
確か、さやかちゃんとほむらちゃんと公園で待ち合わせをしていて、それで――
「もしかして、私また記憶…失くしちゃってたのかな?」
「失くしてなんかないわ、一瞬気を失っただけよ」
さやかちゃんが力強い声でそう私に言ってくれた。さやかちゃんの優しい目を見ていて、私は「夢」を思い出した。
「そういえば、私夢を見たの」
「夢?」
「うん、私だけが14歳のままで、さやかちゃんとほむらちゃんは大人になっていて」
「今くらい?それとももっと年を取っておばあちゃんになってたとか?」
「ふふ、違うよ、今くらいの年、それでね、私自分の顔を触ったの、そうしたら私も大人になっていて。それで初めて気が付くの、ああ、私14歳じゃなかったって」
「面白い夢ね」
さやかちゃんが笑う。なんだかそれが嬉しくて、私は他のことなんてどうでもよくなった。
「まどか、まだ休んでいた方が」
「大丈夫だよ、ほむらちゃん」
私が立ち上がろうとすると、ほむらちゃんが心配そうに体を支えてくれた。そんなに悲しそうな顔しなくていいのに。なんだか私といる時のほむらちゃんはいつもそんな顔をしている気がする。
「ねえ、ほむらちゃん、そんなに悲しそうな顔しなくていいんだよ。ほむらちゃんの所為じゃないんだから」
私の腕を掴んでいたほむらちゃんの手がびくり、と固まって。
「…そう…そうよね」
だけどほむらちゃんは今度は泣きそうな顔になって。私、何かひどいこと言ったのかな?
「あ、ははは、まどか気にすることないよ、こいついっつもこんな風に暗いからさあ」
「…なんですって?」
ほむらちゃんがさやかちゃんをぎろりと睨んだ。その顔はとっても険しくて、さっきまでの泣きそうな顔が嘘みたい。なんだかそれが可笑しくて。
「ふふふ…」
思わず笑ってしまったら、二人が不思議そうに私を見た。
「あ、ごめんね、二人とも仲がいいなって思っちゃって」
「まさか」
「なんでこのひとと」
同時に口を開く二人を見て、私はまた可笑しくて笑った。
「だって、ほむらちゃんがそんな風に怒った顔を見せるなんて、さやかちゃんにだけだよ?」
「そんなこと…」
困った顔で私を見つめるほむらちゃん。そういつも二人を見ていて気付いてた。感情をあまり表に出さないほむらちゃんだけど、さやかちゃんにだけは怒ったり、きついことを平気で言ったりしてて、きっとそれって…。
「そりゃあ、まどかの勘違いって、こいつが好きなのは…」
「美樹さやか」
う、と変な声を出してさやかちゃんが私の後ろに避難してきた。こういう時のさやかちゃんは、あの時のままだなあと思う。ほむらちゃんがまるで悪い人を見つけたように険しい顔で私の後ろにいるさやかちゃんを睨んでいる。
「ふふ、いいなあ」
羨ましいなあと思う。私もこんな風にさやかちゃんと…ううん、…二人と仲良くしたい。
「じゃあ、そろそろ行こっか」
さやかちゃんがそう言って、私の前にひょこっと出てきて手を伸ばしてくれた。
「ちょっと、まどかは私と行くのよ」
ほむらちゃんが同じように私に手を伸ばしてくる。
「何よそれ、3人で一緒に出掛けるんでしょ」
「人間しか入れない店もあるのよ、貴方がついてくると迷惑だわ」
「はあ?なにその子供みたいな難癖――」
二人のやり取りが面白くて、私はまた笑った。
…ああ、でも…今のままでも
私は手を伸ばして二人の手を掴んだ。驚く二人。
「ほら、3人で一緒に行こう?」
二人はにっこりと私に微笑んで。
…今のままでも十分幸せ
私は二人の手をぎゅっと強く掴んだ。ずっとずっとこのままで――
ずっと――
*************
3人での買い物を終え、家路についたまどかの後ろ姿が見えなくなるまで、私はずっとそこにいた。
「だいぶ暗くなったね、私達も帰ろっか」
隣で美樹さやかが囁いた。顔を向けると、何が楽しいのかニヤニヤと口元を緩めていて。私はなんだか腹ただしくなって返事をせずに視線を逸らした。視界に夜の帳が降りてきて昼とは雰囲気ががらりと変わった街が映る。喧騒に満ちた夜の街の雰囲気は、私はあまり好きではなくてむしろ苦手な方だった。
「大丈夫だよほむら」
「…何が?」
あまり無視するのも可哀そうなので返事をする。どうにもこのひとは無駄口が多すぎる。私の様に寡黙になる日が果たして訪れるのかはなはだ疑問で仕方ない。
「まどかはちゃんと家に帰れるから、心配ないって」
驚いて動きを止めた。念話を使ったわけでもないし、このひとが読心術を使えるわけでもないのに、どうしてわかったのだろう?私は彼女を観察した。背は私より高いので見上げる形になる。髪はあの頃よりも少しだけ伸ばしていて、顔つきもだいぶひきしまっているし、美しく成長したと思う。もちろん本人には決して言わないけれど。でも本当に「美樹さやか」なのだろうか、こんな風にもの知り顔で私の心を読んで語りかけるなんてあの頃のこの子からは考えられなかった。
「…な、なによ?」
間抜けな表情を浮かべてこちらを見る彼女を見て、ようやく理解した。あの頃の面影、不器用でどうしようもない子。ああ、やっぱりこのひとは「美樹さやか」だと。
「もう、何笑っているのよ」
そう言われて、私は自分が笑っていることにようやく気付いた。そんなに可笑しいことだったのかしら、まあどうでもいいけど。
「…貴方が「美樹さやか」だからよ」
「はあ?当たり前でしょ、それ」
「そうでもないわよ」
「え」
あえて含みをもたせて思わせぶりなことを吐くと、案の定、この間抜けなひとは神妙な顔をして私を見つめ返した。とうとう私は声をだして笑った。なぜだか愉快でたまらない。
「馬鹿ね冗談よ」
「もう…びっくりしたじゃない」
「あら、貴方は自分が自分であることに自信がないの?」
「そんなこと……あるかも」
「変なひと」
おかしなことをいう彼女に背を向けて、私は夜空を見上げた。星が見えない空に浮かぶ半分に欠けた月。私が世界を改変してからずっとそのままで。
「時間の力ってすごいのね」
「え?」
私は空を見上げたまま彼女に語りかけた。
「どんなに不器用なひとでも、時が経てば成長できる」
「‥‥ちょっと、ちょっと、それってもしかして…」
私のこと?とさやかが言いかけようとしたところを見計らって、私は早足で歩きだした。決して彼女の顔は見ない。こら、とかちょっと、とか背後でぶつぶついいながらついてくるさやかがなんともいえず可笑しくて、私は秘かに苦笑する。たぶん家に着くまでずっとこんな感じなのだろう、いや、家の中でもこうだろう。想像するだけでなんだか気分が高揚してきた。これが「楽しい」ということなのか。
「待ってよほむら」
名前を呼ばれて、つい反射的に振り返る。そこには昔の面影を宿した美樹さやかが慌てた顔でこちらを見ていて。
「早く来ないと置いていくわよ…さやか」
本当に不本意だが、私はさやかの前で微笑んだ。
さっきまでの不安はもうどこにもなかった――。
*****************
シャワーを浴びて、部屋に戻ったところで、ほむらちゃんからメールが届いた。ベッドに横になりながら画面を開くと私が無事に帰ったかを心配していることと、二人共家に到着したことが打たれていて。
「ふふ、ほむらちゃん、心配性だなあ」
いつも私のことを心配してくれて、いつも悲しそうな顔をして――なんだろう、とても不思議なひと。さやかちゃんとはいつあんな風に仲良くなったんだろう…?そう、今でも時々私は考えてしまう、中学校の頃まで、さやかちゃんとほむらちゃんはそんなに…ううん、全然仲良くなかった。どちらかというと、さやかちゃんの方がほむらちゃんを避けていた気がする。それなのに…
「だからあんな夢を見たのかなあ」
ふう、とため息が自然に出て。14歳だと思い込んでいた自分、大人になった二人。あの頃の私が今の私を見たらどう思うかな?
『さやかもほむらも何か隠している』
杏子ちゃんの言葉を急に思い出す。ああ、杏子ちゃんもあの二人のこと不思議がってたっけ。何かってなんだろう?私の知らないこと?それとも関係あることかな?うーん…わからない。私は寝そべったまま頭を振った。そうしてスマホの待ち受け画面を見る。そこにはさやかちゃんとほむらちゃんと私が映っていて。笑っているさやかちゃんと、その傍で肩をつかまれてものすごく嫌そうな表情のほむらちゃん。ほむらちゃんのその表情が面白くて私はつい笑ってしまって。
「でも、今こうして3人一緒にいられるんだから…それでいいよね」
そう、今こうしていられるだけで私は幸せ。だからこのままでいい。ほむらちゃんに返信しようと思って、私はベッドから立ち上がった。なんだかまだ眠りたくないや…ほむらちゃんに電話しようかな?…あれ?窓の外に誰かいる?
「誰…?」
思わずびっくりして声をあげて。でもよく見たら、窓に映っているのは私の姿で。
「もうびっくりした‥」
ドジだなあと恥ずかしくなって、私は窓に映った自分の姿をじっと見つめた。うん、私…でも‥。気のせいかな?なんだか目の色が違っているみたい。光の所為かなあ…?
窓に映った私の目は金色に輝いていた。
END
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光差して(番外編)
どうも最近記憶が途切れることが多くなってきた――
鹿目まどかはひとり鏡台の前で表情を曇らせる。背中まで伸びた淡い桜色の髪、20歳を越えてからだいぶ顔つきもほっそりしてきたと思う。
「はあ…」
溜息をつく。鏡に映るのは困り顔の自分。
――大丈夫、まどかは記憶障害なんかじゃない、私が保障する
蒼い髪の女性が微笑みかける。ずっと前から大好きな幼馴染の女性。
――まどか……
長い黒髪のとても美しい女性が悲しそうな表情でこちらを見つめてくる。いつも見守ってくれる不思議な女性。
大切な友人二人を脳裏に思い浮かべ、まどかは自分に発破をかける。
――そうだ、落ち込んでなんかいられない、私がしっかりしなきゃ
ぷるぷると頭を振って、両頬を掌で軽く叩く。そうして、「よし」と胸の前で手を握ると柔らかい笑顔を浮かべてリビングへと向かった。
「おはよう姉ちゃん」
「おはようタツヤ、あれ、お父さんとお母さんは?」
「ああ、父さんは庭でトマト取ってる、母さんは…んーわかんないまだ寝てるかも」
「そっか」
ふんわりと笑って、まどかは台所に立っている弟の傍に行く。弟はだいぶ背が高くなっていた。中2だというのに、もうまどかと同じくらいだ。
「手伝おっか?」
「ううん、いいよトーストと卵焼くだけだし、姉ちゃんもそれでいい?」
「うん、ありがと」
父親が小さいころから二人に料理を教えていたからか、鹿目家はここ最近姉弟が朝食を作っていて。タツヤもごく自然に朝は台所に立つ。いい香りが漂ってきて、まどかは嬉しそうに目を細めた。それを横目で見つめるタツヤ。
「なあ、姉ちゃん」
「ん?なあに?」
「……今日はもちろん早く帰ってくるよな?」
「うん、仕事が終わったら…どうしたの?」
「だってほら、今日お祝いするだろう?姉ちゃんの」
「ああ」
そっか、とまどかは思い出す。今日は10月3日まどかの誕生日だ。
「ああって、忘れてたのかよ姉ちゃん」
「うん、なんだかすっかり…えへへ」
まどかは無邪気に笑う、子供の様な可愛らしさで。それはどうやら弟にも有効だったらしく。
「…?タツヤ、どうしたの?」
「ああ、な、なんでもない!とにかく、今日は早く帰って来いよな、姉ちゃんの誕生日祝いするんだから」
「うん、ありがと」
「……おめでとう姉ちゃん」
とても小さい声で弟がそう囁いたので、まどかはとても嬉しそうに微笑むと、照れ隠しに弟にもたれるように軽く体当たりした。
* * *
今からちょうど10年前、中学2年生の時まどかはアメリカから日本に帰って来た。馴染めるか不安だった学校生活もすぐに馴れ、友人にも恵まれた。その後高校は地元の普通高校を出て、そして短大に入学し、幼稚園の先生になった。子供が好きで傍で成長を見守りたいと思ったのが理由だが天職だとまどかは思っている。
――幸せだなあ
まどかはいつもそう思う。朝起きてカーテンを開いて朝日が部屋に差し込んだ時、リビングで家族とたわいな会話をしている時、そしてこんな風に職場に向かう途中青い空や緑の木々を見ながら風を感じた時――まどかは大きく深呼吸した。
携帯の着信音が鳴った。
「?誰だろう…」
一通のメールが届いていて、差出人は佐倉杏子とあった。
「あ、杏子ちゃん」
まどかが口元を緩める。杏子は中学の頃からの友人だ。面倒見がとてもよく、まどかはよく杏子に悩みを打ち明けたりしていた。一時期、大切な友人二人との関係に距離が生まれたからだ。だが、大学に進学した頃にそれは誤解だと知り悩みは解消された。
「フフフ…」
まどかは嬉しそうに笑う。携帯のメール画面には『まどか 誕生日おめでとうな』とだけあって、その素朴だが心のこもったお祝いの言葉に嬉しくなる。『ありがとう 杏子ちゃん』と返してから、まどかは足早に職場である幼稚園へ向かった。
* * *
幼稚園では園児や先生からお祝いの言葉や手作りのプレゼントをもらい、まどかは嬉しい悲鳴をあげた。日中ずっと園児たちに「おめでとう」と言われ続け、照れながらも遊んでいるうちに時間はまたたく間に過ぎていった。
「まどか先生、今日は早く帰らないと」
「え?でも高柳先生の仕事手伝います」
「いいって、いいって」
高柳と呼ばれた30代くらいの女性が快活に手を振って笑った。
「家でも誕生日のお祝いするんでしょう?楽しまないと」
「ありがとうございます」
「それにしても、今日はこないのねあの二人」
「え?」
まどかが驚いた表情を浮かべる。
「ほら、時々まどか先生を訪ねてくるお友達、確か美樹さんと暁美さんっていったかしら、まどか先生と同じで姓名どっちも名前の様な」
「ああ、そうですさやかちゃんとほむらちゃん、ふふ、そういえばそんな話しましたね」
――姓名逆にしても違和感がない
そういう話をして盛り上がったことを思い出した。この高柳という女性は何回か二人と顔を合わせているし、会話も交わしたこともあった。
「まどか先生とあの二人ってとっても仲良しよね、羨ましいわ」
「いえ、そんなこと…」
「あら、本当よ、私くらいの年になると損得勘定ばかりで真の友人なんてなかなか…」
とても気さくな人柄なのだろう腕を組んで、うんうん、と己の言葉に頷いている。まどかは苦笑した。
まどかの二人の友人――美樹さやか、暁美ほむらはとても大切な存在で、そして不思議な存在でもあった。幼馴染である美樹さやかとは中学で再会し、会った途端に昔の思い出が一気に蘇って驚いたことを覚えている。なんで今まで忘れていたのか不思議なくらい急速に仲は深まった。そしてもう一人の友人暁美ほむらは、これまたまどかにとっては不可解な人物だった。とても大切に思ってくれていることはその視線や言動から伝わったが、そこまで想われる理由が全くわからなかった。尋ねようと思ったことはあったが、何故か聞くことが出来ず今に至る。
二人に会いたいなあ――
なんだか、今無性に二人に会って話したいと思った。
「あ、噂をすればなんとやらよ、まどか先生」
高柳がまどかに微笑みかけた。驚いて、後ろを振り向くと、玄関先に二人の女性が立っていて。黒づくめのとても美しい長い黒髪の女性と、パンツスーツの蒼い髪の女性がそれぞれの笑顔を浮かべていて。蒼い髪の女性が後ろ手から何か落とす。可愛らしいラッピングされた袋がまどかの目に一瞬映る。慌ててそれを黒い髪の女性が拾い、ついでに反対の手で蒼い髪の女性の頭をパチンと叩いた。まるで漫才の様な二人の動きにまどかと高柳は吹きだした。
「さやかちゃん、ほむらちゃん!」
駆け寄るまどか。二人――美樹さやかと暁美ほむらは嬉しそうにまどかを見つめる。
――ああ、幸せだなあ
そう、この二人がこんな風に一緒にいて、こっちを見て微笑んでくれている。なんだかずっと昔から夢見た風景の様で。
「えへへ、ねえさやかちゃん、ほむらちゃん…ハグしていい?」
あまりにも嬉しくて、まどかはもう自分の気持ちを抑えることができなかった、二人に今無性に触れたい。
「ええ、もちろんよ、ほらまどか…って痛っなにすんの?」
手を広げるさやかをほむらが肘で強くこづいた。
「貴方はダメよ」
「なんでよ?まどかが二人って言ってるでしょ」
「ダメなものはダメ」
「だからなん…わっ」
まどかは二人の間に飛び込んだ。それを抱きとめる二人。
「えへへ…」
まるであの頃の様に笑うまどか。さやかとほむらも微笑んで、そうして三人で強く抱きしめ合う。
『誕生日おめでとうまどか』
二人が囁いた。
どんなことがあっても二人がいてくれるなら大丈夫――
二人に身体に頬を寄せ、そうして幸せそうにまどかは微笑んだ。
その後、三人は一緒に帰路につき、幼稚園でまどかがもらった大量のプレゼントをさやかが文字通りかばん持ちになって運んだのはまた別の話。
END
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琥珀色のツリー
「――最悪だわ」
すぐ傍で黒髪の女性がそう呟いたので、さやかは怪訝そうにその横顔を見つめた。黒髪の女性――暁美ほむらはグラスを額にあて目を瞑っている。頬が少し紅潮していた。ああ、彼女は酒に弱かった、とさやかは思い出す。それにしても、相変わらずの美貌にいつものことながらさやかはしばし見惚れてしまった。初めて出会った頃がもうだいぶ遠い昔の様に思えるが、あの頃から『美少女』だったのに、今では怖いくらいの『美女』になっているのだから世は不公平だとさやかは思う。と、いろいろ考えているうちに、黒髪の女性がこちらに視線を向けてじろり、と睨んできた。
「…何見ているの」
陰鬱な眼差しがさやかに向けられる。慌ててさやかは右手をひらひらと振った。
「ああ、なんでもないわよ」
そう言って、さやかはグラスを取って琥珀色の液体を口の中に注ぎ込んだ。正直さやかは困っていた、彼女の美貌と妖艶さはどうにもさやかを「妙な」気分にさせるからだ。ほむらはニイ、と口元を歪めて囁いた。
「見惚れてた?」
さやかがむせる。くすくすとほむらは身体を揺らしながら笑う。
「いきなり変なこと言わないでよ」
バーテンがカウンター越しで差し出してくれたペーパーナプキンを受け取りながら、さやかはほむらを睨んだ。まだほむらはくすくすと笑っている。少しだけ機嫌が良くなったらしい。それを見て、さやかも少しだけ嬉しくなる。酒に弱いわけではないがさやかも実はもうほろ酔い状態で。要するに妙齢の女性は二人共酔っていた。
「不思議ねえ…」
さやかは呟く。こんな風に――大人になって――二人で当たり前の様に酒を飲んでいるなんてあの頃は全く想像できなかった。あの頃の私が今のこの状況を知ったらどんな顔をするだろう?カウンターで並んで座って酒を飲んでいる大人になった私達を?グラスを眼前に持ってくると視界が琥珀色になり、カウンターの隅に置かれていた小さなクリスマスツリーもその色に染まってしまっていた。ああ、そういえば今日はクリスマスイブだ。
「ねえ、あんたさっきどうして最悪って…」
さやかはほむらへと視線を移し、そうして口元を緩めた。黒髪の女性は器用にカウンターに前のめりになって眠っていた。寝顔が長い黒髪に隠れて見えないのをさやかは秘かに残念に思って。
「…まったく」
この可愛らしい(と最近思い始めた)悪魔はめっぽう酒に弱いくせに酒が好きなのだ。穏やかに微笑むバーテンと目があって、さやかは苦笑いすると手を伸ばし、ほむらの肩に触れた。
「ほむら、そろそろ帰ろ」
ゆっくりとその体をゆするがどうにも起きてくれそうでもない。また彼女を背中に担いで帰るはめになるのかと思ったが、それは苦痛ではなくむしろさやかにとっては嬉しいことだった。それがどうしてかはさやか自身深く考えない様にしているが。
「ん…」
ほむらが身じろぎするのを見てさやかはまた微笑んだ。今帰路に着けば、街路樹のイルミネーションを二人で眺めることができる。そう思いながら。
END
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夢
「隣の家で子供の叫び声が聞こえる」と110番通報がはいったのはちょうど深夜を回った頃だった。〇県警本部のオペレーションから所轄の警察署の当直へと連絡が入り、生活安全課の刑事が警ら隊と共に現場へと向かったが、ドアを開けて出迎えた夫婦は警察が来たことに心底驚いている様子だった。刑事はバッジを夫婦に見せて経緯を慇懃に話す。
「〇〇警察署の者です、さきほどそちらの家から子供の叫び声が聞こえると通報がありまして」
「ああ、うちの娘がどうも夢を見ていたようで」
「夢?」
「ええ、だいぶ怖い夢だったようで…」
父親の背後からぬいぐるみを抱えた幼い少女が現れる。刑事は険しい表情を緩め、にこりと微笑んだ。
「やあ、こんばんば、怖い夢を見たって本当?」
「…お姉さん誰?」
「私はおまわりさんだよ」
そう言って刑事―スーツを着た妙齢の女性は少女の顔を見つめる。刑事にしては妙に人なつっこいその態度に少女も心を開いたのか、にこりと笑った。
「では通報があった以上、本当に犯罪性がないか確認する必要がありますので、ご協力願えますか?」
「どうぞ」
父親に促され、刑事と警らの巡査は家に入る。刑事は振り返ると制服巡査に一階で両親の事情聴取を取るように指示する。
「私はこの子と一緒に二階の部屋へ行ってそれから「確認」する」
そう言って刑事は左腕の袖をまくる仕草をした。両親から虐待を受けていないかどうか確認するのだ。刑事自身が女性であるのでこの場合立ち合いは不要になる。そうして刑事が
少女を伴って二階へ上がっていくのを見届けた後、巡査は一階のリビングで事情聴取を始めた。
*******
年相応の可愛らしい部屋に入ると、刑事は少女と一緒にベッドの端に座り優しく微笑んだ。
「両手をみせてくれる?」
小首をかしげながらも少女は両手を刑事に向けてあげた。刑事はゆっくりとそでをあげ傷が無いか確認する。特に傷は見当たらなかった。
「お父さんかお母さんに叩かれたこととかある?痛いことされたりとか?」
「ううん、ない」
「そっか」
安堵したように刑事は息を吐く。少女の腕をおろすと刑事は微笑んでその肩を優しくさする。
「じゃあ、怖い夢ってどんな夢だったの?」
「うんとね…」
少女はベッドから降りて机に向かうとスケッチブックとクレヨンで絵を描きだした。赤、青、黄色、緑色とカラフルな色使いで中央に人の形をした真っ黒なものがある。見覚えがあるのか、背後から覗いていた刑事の顔が一瞬強張った。
「この化け物に追いかけられたの?」
「うん、それで怖くて泣いていたら魔法少女のお姉さんが助けてくれたの」
「魔法少女……」
刑事はいきなり部屋の窓へと歩み寄ると、ガラリと開けた。
「――いったいどうなっているの?」
夜の闇に向かって刑事が囁く
「――私にもわからないわ」
闇の中から大きな翼を持った黒づくめの女性が現れた。普通ならありえない光景。刑事はその女性を見つめながら会話を続ける。
「この世界には魔獣しかいないはずよ、だけどこの子が見た夢はたぶん」
「――魔女の結界、でしょう?」
ぞっとするほど美しい女性の囁きに刑事は頷いた。しばらく見つめ合い、美女はため息をついた。
「調べてみるわ、「あいつら」が何か企んでいるかもしれないし」
「お願い」
「それにしても貴方ずいぶん気安くなったわね」
「え、私達の仲なんだし、いいでしょ?」
不思議そうに聞き返す刑事をあきれたように見つめ、ひときわ大きなため息をついた後美女は夜空に羽ばたいて消えていった。
「今の魔法少女‥?」
いつのまにか少女は刑事の横に立っていて尋ねてきた。
「そうね、「元」魔法少女かしら」
そう言って刑事は笑う。
「もう大丈夫、君はもうあんな怖い夢を見ないから」
「本当?」
「うん、それから今の事もみんな夢だから目が覚めたら忘れているよ」
そう言って、刑事は少女の額に手をあてた。
**********
「お嬢さんはベッドに横になって眠っています」
リビングに入って来た刑事はそう両親に告げると、巡査の聴取したメモを読む。
「それでは事件性は無いようですので、我々はこれで引き揚げます、ご協力ありがとうございました。それと…」
刑事は内ポケットから名刺を取り出して父親へ差し出した。
「もしまたお嬢さんの様子が変だと思ったら遠慮なく連絡してください」
「ああ、これはご丁寧に…ええと、ミキ…?」
「ああ、よく名前に間違われますがミキは苗字です」
そう言って刑事は人懐っこい笑みを浮かべた。
美樹さやか――名刺にはそう書いてあった。
END
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星砂の瓶
これはまだ暁美ほむらが表面上人として大学生として暮らしていた頃の話。
小さな瓶を指でつまむ様にして持ち上げると、中身を覗くため暁美ほむらは顔を近づけた。美しいアーモンド形の目がUPになり、アメジスト色をした瞳に星の形をした粒子が映し出される。
「友達からもらったのよ、それ」
背後から声がしたので、ほむらはゆっくりと振り返る。自分より少しだけ背の高い女性がそこにいた。
「そう…」
怪訝そうな表情を浮かべているのはほむら自身もわかっていた。だがどうしてもこの女性の顔を見るとそうなってしまうのだ。昔の――嫌と言うほど良く知っている――少女と同一人物とは信じられなくて。
「どうしたのさ?」
女性は不思議そうに首をかしげてこちらを覗き込む。晴れた空の色と同じ瞳。腹が立つほど真っ直ぐに向けられてくるまなざし。ふ、とほむらが口元を微かに緩めたのは「見つけた」からで。
「別に、それより友達がいたのね貴方」
「そりゃあ大学生なんだし、一人や二人出来ても当然でしょ」
「悠長なものね、私達にそんな時間があると思っているの?」
そう言ってほむらは何故か目の前でだらしなく笑顔を浮かべている女性――美樹さやかを睨んだ。
*********
暁美ほむらと美樹さやかはいつの頃からか一緒に暮らす様になっていた。なぜそうなったのか実はほむら自身もよくわかっていない。正直これは夢だと思う時もあったが、気づけば毎朝珈琲を淹れ食事も作ってくれるこのおせっかい焼きをほむらは受け入れていた。悪魔と名乗っている自分がまさか元円環の理のかばん持ちと暮らす羽目になるとは、と複雑な気持ちにはなるが、不思議なことに後悔したことはなかった。
「でもさあ、せっかく大学生になったんだし、あんたももう少し―」
「学生の本文は守っているわ」
「固いわねえ」
言葉を遮られて、バツが悪いのかさやかは両手をほむらの前でひらひらと動かした。バイバイしているわけではない。どうしてこうも無駄な動きが多いのか、だから戦闘時にも生傷が増えるのだとほむらは思う。袖まくりした白いワイシャツから伸びた腕がやけに眩しく見える。その腕がこちらに伸びてきたものだから、ほむらは一瞬身構えた。
「これ、ここに飾っておこうかなって」
ほむらの手からひょいと星砂の瓶を取ると、さやかはキッチンボードの小さい収納スペースに置く。
「調味料と間違えたりしないかしら?」
ほむらの言葉にさやかはきょとんとした表情を浮かべて、そうして。
「何」
「いや、あんたがそんな風に喋るなんて珍しいなあって」
そんな風に笑顔を浮かべないで欲しいとほむらは思う。どう対応していいのかわからない。すぐ横にあるキッチンボードに視線を移す。あの頃にはこんなものは家になかった。このひとが買ってきて勝手に置いたものだ。これも、あれも、全部。家の中もだいぶ変わったとほむらは思う。生活感が出てきたスペースを見つめ、ほむらはため息をついた。
「私、もう寝るわ」
「うん」
キッチンから出ようと数歩進んだところでほむらは歩を止めた。ゆっくりと振り返るとさやかを見つめて無表情で囁いた。
「私、明日は早く起きなきゃいけないの」
「実験?」
「貴方が夜中にベッドに入ってくると迷惑なのよ」
決して彼女が寂しそうな表情を浮かべたからではない。
「だから、貴方も一緒に寝て」
その方が効率がいいから、ただそれだけだ。ほむらは満面の笑みを浮かべるさやかから目を逸らした。
*******
『あたしも一緒に寝ていい?』
確か初めて家に招きいれた夜、さやかはそう言ってベッドに入ってきたとほむらは思い出す。一人で寝るには広すぎるベッドだったし、接触することは無いだろうとたかをくくっていたら、あろうことか背中から抱きついて来た。その日、何かトラウマになるような事件に巻き込まれたらしい彼女を無下にするわけにもいかず、いつでもひとひねりで殺せるのだからと大目に見てただ黙って抱きつかれたまま眠りについたのだ。
それがまさか今になっても続くとは、ほむらは不思議そうに背後から出てきた自分のものでない2本の腕を見つめる。その腕はほむらの下腹部あたり回されてそして温かかった。自分はどうしてこの腕を振り払わないのだろう、どうしてこんな姿で後ろから抱きつかれているのだろう。さやかの体温がキャミソールの布越しから伝わってきて妙に体が熱い。
「ほむら眠った?」
すぐ近くでさやかが囁く。深呼吸しワンテンポ置いてからほむらは口を開いた。
「眠ったわ」
「あんたって時々面白いよね」
くすくすと背後でさやかが笑う。
「私、朝早いのよ」
「あ、ごめん、ただ言いたいことがあって」
「何」
「私、嬉しくてさ、あんたが「私達」って言ってくれて」
『悠長なものね、私達にそんな時間があると思っているの?』
だからあんなにだらしない笑顔を浮かべていたのか、とほむらは思い出す。
「それだけよ、おやすみ」
こつん、とほむらの肩に何か当たった。たぶんさやかの頭だろう。いつでも殺せるはずなのに、ここまで無防備だと却って手が出しづらい。無駄に懐かれて迷惑だ、そう思った途端、ほむらの口元が緩んだ。
「まるで犬ね」
「え?」
くすくすとほむらは笑う。そうだ、ほんの少しかまってあげたら尻尾を振って懐いてきた犬の様なものだ。そう考えて溜飲が下がったからか、ほむらの心は浮足立ったように軽くなった。初めてのことだった。身じろぎしてさやかと向き合う形になるとほむらは腕を伸ばしさやかの腰に手を回した。そうしてその胸に顔をうずめる。
「ほむら?」
どうしてこうなっているのか、ほむらにもわからない。だが戸惑うさやかの声と激しい心臓の音でほむらはまた口元を緩めた
「これじゃあ眠れないわ」
そう囁いて腕に力を込める。
「だから――」
魔が差したのだ――
******
目が覚めると、珈琲のいい香りがした。ゆっくりとほむらは身体を起こしベッドから降りる。フローリングのひんやりとした冷たさが素足に伝わり、ほむらは眉をしかめた。不機嫌な表情のままカーディガンを羽織り腕を組んでキッチンへと向かう。
しばらくすると、もう嫌と言うほど見慣れ切った風景がほむらの視界に映る。カウンターの向こうで珈琲を淹れるおせっかい焼きだ。ほむらに気づいたのか顔をあげて微笑みかけた。
「おはよう」
その顔が何故か眩しく見えてほむらは視線を逸らす。朝の柔らかい日差しの所為だとほむらは思った。
「ブラックでいい?」
特に気にした様子もなくさやかは無言でカウンターに座ったほむらに尋ねた。こくり、とほむらは頷いて。そうして左手で首を抑えた。身体がやけに重い。カップに珈琲を注いだ後、さやかがキッチンボードに向かう。
「やっぱり別の所に飾ろうかしら」
さやかは小さな瓶を手にしてほむらの方に振り向いた。昨日の星砂の瓶だ。
「好きにすれば」
ぽつり、とほむらが呟いた。
「でもこの大きさ丁度いいんだけどねえ…中身をどっかに移して調味料入れようかしら」
「大切なお友達からもらったんじゃないの?」
「そりゃあ」
言葉をにごすさやか。
「嫌味も通じるのね」
「あんた意地悪ね」
「悪魔だもの」
そう言ってほむらはカップを口に運んだ。
「私はその悪魔が一番大事よ」
一瞬むせかけて、ほむらは珈琲が熱いことを呪った。そうしてその呪いをぶつけるようにさやかを睨みつける。だがさやかはいたって真面目そうに真っ直ぐほむらを見つめていた。
「私が馬鹿だったわ、よそで友達作って浮かれて…これからは魔獣退治に専念する」
「わかればいいのよ」
昨日の夜の様に何故か心が軽くなる。きっと珈琲が美味しいせいだ。
「でも、誤解しないで美樹さやか」
「え?」
「私達は友達じゃないわ」
ほむらは左手を首から離しさやかの方に身を乗り出すと、カーディガンの襟元を軽く開いた。きょとんとしたさやかの顔がみるみる赤くなって。
「でしょ?」
「……それは、その」
もごもごと口ごもるさやかを見て、ほむらは声を出して笑いたくなる衝動にかられた。これが愉快というものだろうか。バツの悪そうな表情を浮かべているさやかをしり目にほむらは星砂の瓶を手に取った。そうして美しい顔を近づけて中を覗きこむ。
「どこにでも星はあるのね」
珍しく弾んだ声でほむらは囁くと、うっすらと痣のついた首を左手で数回撫でた――。
END
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コートと悪魔とかばん持ち
それは魔獣との戦いを終えた後、蒼い髪の女性のなにげない一言からはじまった。
「ねえ、あんたって私のことどう思ってた?」
恐々と蒼い髪の女性――美樹さやかは傍にいる長い黒髪の女性に尋ねた。
「過去形?変なこと聞くのね」
黒髪の女性はコートを羽織りながらさやかを見上げる。丁度魔獣との戦闘を終えたところだ。彼女は戦闘中に羽根を生やすためにコートをこの寒空の公園に放置していた。悪魔でも寒いのだろう、彼女の身体は震えていた。身体のラインが浮き出た黒のワンピースがコートで隠れる。
「うん、たぶんこの場所の所為だと思うんだけど、急に気になってさ」
そう、この「場所」の所為だとさやかは思った。冷たい風が吹いてさやかも身震いする。デニムにダウンコートのいで立ちなのにそれでも寒い。と、ほむらが両手を組んだまま、さやかにもたれかかってきた。心地よい重み。
「寒いわ」
口から白い息を吐きながら、ほむらが上目遣いでさやかを見上げた。透き通るような白い肌に黒髪がひとすじかかり、なんとも妖艶だ。
・・・ただでさえ美人なのに困るわ
何が困るのか、とにかくさやかはわざとらしく咳をして空を見上げる。星は一つも見えない。
「あら、見惚れた?」
「違…そうよ」
くすくすとほむらは笑う。こういうさやかのわかりやすいところは(自分が)操縦しやすいという意味で嫌いではなかった。こつん、と更に頭を肩にのせる。夜中の公園は二人だけしかいない。
「昔、私の夢にあった場所よね、ここ」
「うん」
ほむらの呟きにさやかが頷く。そうここは以前ほむらが魔女になった頃、結界の中にあった公園と同じ場所だ。今考えたら十二分過ぎるほど幸せな夢だったとさやかは思う。円環のまどかとなぎさと共に訪れた時はこれがほむらの夢の中かと泣きそうになったくらいだ。
「あんたとっても幸せそうだった」
「同情は嫌いよ」
驚いてさやかはほむらの顔を覗きこむ。意外にもその言葉とは裏腹に微笑んでいた。美しい大人の女性の顔にあの頃の眼鏡の少女のはにかんだ面影が見えて、さやかは何故かあの時のように泣きたくなる。
「変なひとね」
その顔を見て苦笑するほむら。10年経てば彼女もまたこんな風に表情豊かになっていて。そしてこんな風にさやかと会話するようになっているのだ。夢みたい、とさやかは思う。そして今自分は幸せなのだと。ほむらは視線を空に向けて、そうねえ…と呟く。先ほどのさやかの問に答えようとしているのだろう。
「あ、待って、ごめん、やっぱ答えなくていいわ」
「あら、怖いの?」
からかうように囁くほむらに真顔でさやかは頷く。
「うん、まあ怖いというかさ、せっかくあんたと今こうしていられるんだから昔のことはもういいかなあって」
「お利口になったのね」
そう囁くと、ほむらはさやかから身体を離して数歩前に出た。首をかしげるさやか。おもむろにほむらがコートを脱いでそのままさやかに向かって放り投げた。ふわり、と宙に舞うコートをキャッチしたさやかはほむらの方を見て目を見開いた。
月明りの下、背中から黒い羽根を出している悪魔の姿は美しかった。どこか神々しさえ感じるその姿に、さやかは彼女を「悪魔」以外で形容する言葉がないか必死で考えた。だが、こちらを見て微笑むアメジストの瞳をした妖艶な悪魔に魅入られて何にも考えられなくなる。
「帰りましょう」
そう囁いて手を伸ばしてくるのだから、え?とさやかは間抜けな声をあげた。そうして空を飛んで帰るということをようやく認識して。慌ててダウンコートの前を閉める。この寒空冷たい風に吹かれながら飛ぶのだからと、ほむらのコートも身に付けようとしたが入らないことに気づき途中で辞めた。
「前みたいに落とそうとしないでよね?」
「いい子にしてればね、そっちこそ、前みたいに私のコート落とさないでね」
「わかって‥‥ひゃあああ」
さやかが変な悲鳴をあげた。いきなり脇を抱えられて宙に浮いたからだ。ものすごいスピードで冷たい風が遠慮なくさやかの顔にあたる。もう恥も外聞もなく、コアラの様にほむらの身体に横からしがみついた。まだ高校生ぐらいまでの頃はほむらがさやかの背後から抱きかかえていたのだが、さやかが(ほむらの)予定より大きくなったため今では色々思考錯誤してだいたいこういうしがみつき系で空を飛んでいる。どんどん地上から遠ざかっていく様子を目を白黒させて見つめるさやか。それをさも愉快と言わんばかりに笑顔で見つめる悪魔。
「相変わらずうるさいかばん持ちさんね」
「だって、落ちたら死ぬのよ?」
「そうかしら?」
「やめて、試さないで!」
更にほむらの身体に強くしがみつく。苦笑する悪魔。それはさやかが見ている時には決して見せない素朴な笑みで。
「ねえ、さやか」
「な、何?」
「昔じゃなくて、今私が貴方をどう思っているかは聞かないの?」
「へ、だ、だって、あんた前聞いても教えてくれなかったじゃない」
『貴方は私に恋しているのよ』
嬉しそうにそう言って、でも悪魔は自分の気持は明かしてくれなかった。
「あら、今夜は違うかもしれないわよ」
「え、ほ、ほんと?」
風に耐えながら必死に悪魔の方へ顔を向けると、妖艶な笑みを浮かべた美貌がそこにあって。
急にさやかは自分がこの美しい悪魔の身体に抱きついていることを妙に意識してしまう。華奢で柔らかい身体の感触…ヤバイ!と心で叫んでさやかは腕を緩めるが、そうなると今度は落下しそうで。
――何これ天国なの地獄なの?
心で叫んでいると、悪魔がさも呆れたと言わんばかりの表情でさやかを見ていた。
「心の声がだだ漏れよ、変態」
「やめて、変態でもいいから落とさないで!」
かばん持ちはもう支離滅裂である。もしかして高所恐怖症なのだろうか、と悪魔もまたどうでもいいことを考えてしまって。まあそれでも必死にしがみついてくるものを無下に落とすのも可哀そうだと悪魔は憐れんだ。
「まあ、躾が足りないのは飼い主の責任でもあるし…」
そう一人意味不明なことを呟くと、さやかの身体を抱きかかえ体勢を変えた。お姫様抱っこだ。身体の大きい方が華奢で小柄な方に抱きかかえられている構図はどこか微笑ましい。半泣きになっている蒼い髪の女性を見て、ほむらは目を細めた。
「ねえさやか、私が今貴方をどう思っているかだけど…」
「う…うん?」
「昔と今でね、実はそう変わってないの」
きょとんとしたさやかの顔にほむらの顔が近づく。
「しょうがないひとよ」
ゆっくりと音を立ててほむらの唇がさやかの唇に押し付けられた。かばん持ちはただ目を見開いてその柔らかい感触に意識が全部向きそうになりながらもコートを落とさないように必死で。
ふ、と唇と唇の間から息が漏れる。悪魔が失笑したのだ。
――ほんとしょうがないひとね
さやかの脳内で声が響く。念話だ。そうして唇が離れたと思ったら、更に強く押し付けられた。
ほむらもまた柔らかい感触を楽しんでいるようで、さやかの頭を抑えはじめ、そうして二人は空の上でしばらくそのままでいた。
二人が帰宅したのは明け方近くだったことはまた別の話だ。
END
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ほむら肩を揉む
はあ、とさやかは大きなため息をついた。いつもどこか間の抜けたお笑い要員なのに珍しいことだとほむらは眉を顰める。
「どうしたの?貴方がため息をつくなんて、何か変なものでも拾い食いした?」
「いや、道に落ちてるものなんて食べないわ…ってひどいわねえ」
さやかの間が可笑しかったのだろう、ふ、とほむらが笑った。そうして腕を組みながらさやかに近づく。仏頂面だったさやかの顔が微かに赤くなるのを見てほむらはまた笑う。どうにもこの蒼い髪の同居人はわかりやすい、まあそこが悪魔の気に入っている(操縦しやすい)所なのだが。
「なんか最近デスクワークばっかりでさあ、肩凝っちゃって」
「そんなこと?」
そういえば、ついいましたが目を覚ましたばかりのほむらがベッドで横になりながらさやかを盗み見した時も肩を揉んでいたような気がする。窓辺に突っ立って珍しく何か考え事でもしているのかと思ったらそんなことか、とほむらはくだらなくて失笑した。もちろんそこには安堵の感情も含まれているが。窓の外に広がるビルの街並みと反射して映るワンピース姿と少し背の高いワイシャツ姿の自分達を一瞥し、ほむらは横からさやかを覗き込むように見上げた。
「私が揉んであげましょうか?」
「え、いいの?」
珍しい、といわんばかりに目を丸く開いたさやかだがすぐに嬉しそうな笑顔になる。肩こりには勝てないらしい。ほむらの方へ背中を向けて左手でここ、ここ、と指さした。さやかの手にほむらの白い指が触れて、そうして肩に移る。細い指がさやかの肩に絡み、ぐ、と力が入った瞬間。
「あたたたたた!」
希少種の鳥の様な声をあげてさやかが片膝をついた。タンタン、と左手でフローリングの床をタップした。警察学校の逮捕術で関節を極められる度に使ったので身体が自然に憶えている。が、それが参ったの合図だと悪魔が知るよしもなく、その華奢な身体のどこから、と驚くくらいの力で容赦なくさやかの肩を揉んでくる。たぶん普通の人間なら余裕で内出血を起こしているだろう。
「痛い痛い痛い!ちょっと待ってストップ、ほむら!」
さやかが叫び、ようやくほむらは手を離した。涙目でさやかが振り返ると不思議そうに小首をかしげている。
「あら、痛かった?」
「普通に痛いわよ!ってか、あんた力全然抑えてなかったでしょう、むしろ全力‥‥」
「だって凝っているっていうから精一杯揉んであげなくちゃって思うでしょ?」
言っていることは間違いではないような…と思いかけてさやかはブルブルと首を振る。大学入学式の時、ゼミの勧誘で何故か体力測定を行っており、そこでほむらが押しの強い大学生に握力計を握らされたことを思い出した。ほむらの美貌目当てで必死に勧誘していた大学生達はニヤニヤしてそれを見ていたが、ほむらが涼しい顔で針を振り切り測定不能になったのを見た瞬間顎が外れそうな顔になったのを思い出す。
――あの時は笑えたが、今は笑えないわ!
さやかは心で叫び、そうしてもしかしたらこいつは肩もみを知らないのではないだろうか?と考えた。ずっと入院生活が長かったのと、魔法少女になった時も「まどか」一辺倒であったため、信じられないくらい世俗に疎い。にらめっこも大学時代にさやかが教えた記憶がある。
「あんた…もしかして肩もみって知らないの?」
「肩を揉む、でしょう?それくらい知っているわ」
「やったことは?」
ふるふると子供の様にほむらが首を振った。
「…ああ、なるほどね、ちょっとやり方にはコツがあるのよ」
そう言ってさやかは立ち上がる。そうして自分の肩に触れながら説明する。
「凝っているところをね、こう優しく…」
「優しく?」
「…表現よ、柔らかくっていうのかしら、力の加減を…ああ、もう説明しづらいわ、ねえあんた後ろ向いてよ、あんたの肩揉んであげる、その方がわかりやすいでしょ?」
さやかはほむらを見下ろしながら囁く。ほむらはその美しい眉をひそめて。
「また変なことする気?」
「なんでよ!肩もみよ?」
切れ長の目でじい、とさやかを睨みながらほむらは背中を向けた。艶のある長い黒髪がさやかの目に映った。手を伸ばし髪を寄せると華奢な肩に触れる。
――全然凝ってないわね
悪魔は肩こりしないのだろうか?とどうでもいいことを考えながら手に力を入れる。
「んっ…」
ほむらが前のめりになってくぐもった声をあげた。
「あ、ごめん痛い?」
「痛くないけど…変な感じね」
ほむらが囁く。揉む度にほむらが反応してくぐもった声をあげるので、さやかもまた別の意味で変な感じになる。
「ど、どう?普通は凝っているところをこんな感じで揉むんだけど、あんた全然凝ってないから肩もみする意味ないかも」
「そう…でも結構気持ちいいわ」
「そ、そう?」
うなだれたまま、ほむらがこくりと頷く。こちらに後頭部を向けているので顔は見えないがたぶん気持ちよさそうにしているのだろう。だがさやかの顔は何故か次第に赤くなってきて。
――まずいわ
心の中でさやかは叫ぶ。されるがままのほむらを見ていると、どうしても「昨夜」のことを思い出してしまい頭の中で彼女の……
「さやか」
くぐもった声でほむらが囁く。その声にはどこか圧があって。
「は、はい、なんでしょう…」
思わずさやかはかしこまって、ほむらの後頭部を凝視する。表情が見えない分とても怖い。
「私念視ができるのよ、知ってた?」
「え、それって…まさか」
さやかの声がカラカラになる。
「そう、触れることで相手の心の映像を見ることができるのよ…」
そう言って、ゆっくりとほむらはこちらを振り向いた。はっとするような美しい顔を紅潮させながらこちらを見つめるほむらは扇情的で。
「どうして貴方の心の中の私は服をちゃんと着ていないのかしらね?」
ひい、と変な声がさやかの口から出る。ほむらの顔が徐々に笑顔になってきたからだ。かえってものすごく怖い、とさやかは思わず手を離してすごい勢いで後ずさる。
「いや、それは…違うの、違ってないけど違うのよ!」
「そう、どっちなのかしら?」
にっこりと微笑みながらほむらはさやかの手を掴み、万力の様にしめつけた。
「あいたたた!痛い!ごめんなさい!」
「貴方のおかげで肩もみがよくわかったわ…」
涙目で見上げると、ほむらはこちらを見つめて鮫の様な笑みを浮かべていて。
「私が貴方の肩を思いっきり揉んであげるわ、さやか」
その日、「変な叫び声がする」という通報が二人が住んでいるマンション周辺を管轄している警察署に殺到したという。
悪魔のかばん持ちに対するお仕置き項目に「肩もみ」が加わったのはまた別の話――。
END
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魔女談義
「ねえ、魔女って本当にいなくなったの?」
いきなり、ベッドの中で美樹さやかがそう尋ねてきたので、ほむらは怪訝そうな表情を浮かべ、振り向いた。世界を改変してからもう10年経った。あれから魔女も円環の理もたまに話題にでれば「あれ」や「あっち」で済ませていたというのに、この相方は何を今更改まって「魔女」と言うのか、と。
「いきなりどうしたの?」
頬にかかってきた髪を指で払いながら、背後にいるさやかと対面するためにほむらは身体を向けた。キャミソール一枚を纏うその肌は月の光に照らされて青白く輝いている。さやかのたれ気味の目がまん丸に見開かれるのを見てほむらは目を細めた。もう何年もこうして一緒に暮らし、ベッドも共にしているというのに、元かばん持ちは悪魔の扇情的な姿を見慣れることはできないらしい。
「…いや、昨日…ちょっとさ…」
さやかの言葉が途切れ途切れなのがおかしくて、ほむらは口元を緩めくすりと笑った。
「え?な、何よ、あんたいきなり」
「あら、そっちこそ顔が赤いわよ、かばん持ちさん」
月明りの下だ、それは嘘だというのにさやかは「え」と変な声をあげて黙り込んでしまう。それが引き金になって、とうとうほむらは肩を震わせて笑い始めた。この10年でだいぶ彼女達の関係は変わったようで。
「も、もう…あんまり笑わないでよ」
「だって貴方が未だに私に発情しているのが可笑しくて」
「なんで?そこ可笑しい?てか発情って…」
だがさやかの胸元にぽすん、とほむらが頭を預けてきたので、もう何も言えなくなって。むう、とうめき声のようなものをひとつあげて、腕を伸ばしほむらの白く細い腕に触れた。さやかもタンクトップ姿なので、互いの肌が触れあって心地よい。ついつい会話もほどほどに目を瞑りたくなってしまう。ほむらにいたってはさやかの胸に顔を寄せて気持ちよさそうに目を瞑っている。
「それで…昨日どうしたの?」
目を瞑ったままほむらが囁いた。子守歌替わりにさやかの話を聞こうと思っているらしい。さやかは、ふう、と息を吐いてから語り始めた。
「昨日、聞き込みで美術館に行ったのよ」
さやかの職業は警察官である。事情聴取で美術館の職員を訪ねたらしい。ほむらは聞いているのかいないのか、温かい居場所を見つけた猫のように気持ちよさそうに目を瞑っている。
「そこでたまたま目に入った絵があって、その絵が魔女の結界にそっくりだったのよ」
「どういう絵かしら」
ほむらがゆっくりと目を開いた。そうして手を伸ばすとさやかの額に触れる。
「浮かべてみて」
「うん」
さやかは目を瞑り昨日の絵を思い浮かべる。ほむらがなるほどね、と呟いて手を引っ込めた。
「マチスの様な力強いタッチね、そして魔女結界を知っている者にしか描けない色彩」
「でしょう?私もだいぶ驚いたわ」
「作者の名前は?」
「えっとね、外人だったかな…グレイ…アリナ・グレイだわ確か」
「アリナ・グレイ…」
「あんた知ってる?」
ほむらは再び目を瞑り、さやかの胸に顔をうずめた。
「新進気鋭の画家、エキセントリックな言動で有名よ、そして彼女は魔法少女だった」
「そうなの?」
「正確には別の世界でね、ここではどうかしら、わからないわ」
「私、全然覚えがないわ」
「貴方の記憶はまだ完全に戻ったとはいえないから仕方ないわ」
円環の理の一部として機能していたさやかは本来ならばすべてを見ているはずだ。だが、悪魔と化したほむらに一度記憶を消されてしまって以来、その記憶は未だに完全に戻ったとはいえない。
「それじゃあ、その時の別の世界の記憶が彼女の作品に影響しているってこと?」
「その可能性があるわね、その作品だけではなんとも言えないわ」
「そう…」
「心配?」
ほむらの手がさやかの腕をさする。
「そうね、私達今は魔獣と戦っているけど、もしかしたら魔女もどこかで暗躍しているかと思うと…怖いわ」
「大丈夫よ」
「え?」
さやかがほむらの方を見ると、ほむらもさやかを見つめていて。その瞳は夜の蒼白い闇の中アメジスト色に輝いていた。その妖しい美しさにさやかはぞっとする。
「この世界は私が作り変えたもの。まどかの改変した世界を礎として、だから…」
つう、とさやかの頬を撫でながら、ほむらが顔を近づけた。
「魔女なんていないわ、どこにも」
ゆっくりと唇が重なる。しばらくしてそれが離れた頃には二人の目もだいぶ熱を帯びてきて。
「…する?」
ほむらの囁きが合図となって、さやかはほむらを強く抱きしめた。失笑しながら手をさやかの首に回すほむら。
「信じた?」
そう囁いたが、もうさやかは魔女よりも悪魔といわんばかりにほむらに没頭して。さも嬉しそうにほむらは口元を緩めた。
魔女はどこにもいない――でも――
アメジストの瞳に半分欠けた月が映る。だがさやかがひとしきりほむらを強く抱きしめた瞬間、瞳の中の月が揺らぎ、ほむらは息を漏らす。
でもねさやか――
重なり合う二人を月だけが見ていた。
了
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Orange Peel
『貴方甘いもの好きだったかしら』
ある日悪魔は唐突にかばん持ちにそう尋ねた。自己完結性の強いこの美しい悪魔は全ての言葉が端的で。だが、それを理解できるようになったかばん持ちは笑顔で答えた。
『そうねえなんでも好きだけど、オレンジピール知ってる?私あれ結構好きだわ』
遠い昔、金髪の先輩が振舞ってくれたケーキに入っていたことを思い出す。あれから好きになったのだ。
『そう…』
嬉しそうに語るかばん持ちから悪魔は視線を月に逸らした。もう興味は無くなったのか、と、かばん持ちは口を尖らせて。
『あ、そういうあんたはどうなのよ、人に聞いといてさ』
さやかの顔を見つめながら、ふふ、と悪魔は笑った。何がおかしいのかさやかにはわからないが、最近悪魔はこのようによく笑うようになったと思う。
『そうねえ、甘いものは私も好きよ、特に――』
そう囁いて、悪魔は目を細めた。
*****
悪魔の朝は遅い
――はずなのに?
美樹さやかはそのたれ気味の目を一瞬大きく見開いた後ぱちぱちとしばたたかせた。朝の柔らかい光が差し込んだキッチンにいつもはこの時刻まで眠りこけている黒髪の女性が立っていたからだ。
――ああ、今日は黒じゃないんだ
そうさやかは心で呟く。好んでいるのかはわからないがいつも黒を基調とした服を着るこの女性は今朝はベージュのワンピースを着ていて。その所為か陰鬱な雰囲気も幾分かやわらいでみえた。こうしてみると「悪魔」とは到底思えない。作業に没頭する女性をさやかは首をかしげながら眺めた。その表情は惚けていてまるで彼女に見惚れているようで。だが無理もない、黒髪の女性は美しかった、恐ろしいほどに。
『私と契約しなさい、美樹さやか』
あれから8年か、とさやかは思う。この女性と自分がまだ少女の頃、共通の大切な友のため紆余曲折を経て共闘の契約を結んだあの日から。はあ、と息を吐いて視線を女性から壁一面に広がる窓へと移す。スウェットの上下を着た背の高い女性がそこにいて、さやかが頭を掻くとその女性も同じ動きをした。
「何一人で遊んでいるの?」
はっ、と我にかえったさやかは声の主の方へ視線を向ける。いつの間にか黒髪の女性がさやかを見つめていた。その両手にはボウルが抱えられていて。
「あ~あはは、遊んでいたわけじゃないのよ、ただ」
「ただ、何?」
形のいい眉をひそめ女性がさやかを睨んだ。一瞬たじろぐさやかだが意を決したように口を開いた。
「見惚れてたのよ、あんたって綺麗だなあって」
正直さはさやかの美徳だが、さてそれは悪魔にとっては?
「そう…」
悪魔はそうぽつりと呟くと、また淡々と作業に没頭した。端整な顔はいたって冷静で、だがその頬はほんの少しだけ赤くなっていた。
――こういうところは可愛いんだけどね?
そう心で呟いて、さやかは美しい悪魔――暁美ほむらの横顔を見つめた
**********
艶のある長い黒髪、白磁の様な肌、陰鬱だが妖艶な眼差し、そしてこの世のものとは思えない美貌。暁美ほむらという女性はだいぶ美しく成長していた。
――夢みたい
こんな時、さやかは嫌でもそう思ってしまうのだ。あの頃あんなに険悪で敵対(一方的にだが)していた少女とこんな風に一緒に過ごしていることが今でも夢の様で。そうして情けないことにさやかはどんなに一緒にいてもその美しさに慣れることがなくて。さやかは首を振って、そうして穏やかな声で囁いた。
「おはよう」
改まってだいぶ遅れた挨拶をするが、聞こえるのはカツン、カツンとボウルに木べらがあたる音。それがようやく止まって。
「……おはよう」
ほむらもぽつりと返した。
「あんたがこんな早く起きてくるなんて、珍しいわね」
「作りたいものがあったのよ」
「へえ、何作ってるの?」
どこか互いの態度に気恥ずかしさがあるのは「昨日」の所為なのだが、それについては一言も語らずに会話を始める。10年も経てばそういうこともできるようになるのだ。と、ボウルの中を覗いたさやかが不思議そうに呟いた。
「チョコレート?」
「そうよ」
「ああ、今日って」
バレンタインであることをさやかは思い出す。そうして、今までそういったイベントに全く興味を持っていなかったほむらが、こんな風に朝から張り切ってチョコレートづくりに精を出すことに嬉しい驚きを覚えた。
「自惚れないでね、貴方に作っているわけじゃないから」
さやかの方を見ないでほむらは囁いた。
「まどかによ…あの子にあげるの」
「ああ、まあそりゃあそうよね」
若干の寂しさを覚えながら、さやかは軽く肩をすくめた。そうしてボウルの中のチョコレートを意味ありげに一瞥した。一瞬強張った表情を浮かべるのは、以前チョコレートの液体で『散々な目』にあったからで。
「まどかも喜ぶわよ、あんたの手作りチョコならさ」
そう言ってさやかはスウェットの袖をまくった。
「さ、それじゃあ私珈琲作るわね」
「味見」
「え?」
ほむらの声に振り向くと、やけに険しい顔をした悪魔がさやかを見つめていて。
「仕方ないから味見させてあげるわ」
「ほんとそりゃ嬉しい…」
ほむらはボウルに指を入れ、チョコを絡めるとその指をさやかの唇にあてた。
「舐めて」
目を丸くしながらも、さやかはペロリ、とほむらの指を舐めた。甘い柑橘系の味が口に広がる。険しい表情を少し和らげ満足そうに目を細めるほむら。
「どう?」
「あ、う、うん、美味しいし、イケてるわ」
照れて赤くなるさやかを見つめながら、ほむらはその指を今度は自分の唇にあててぺろりと舐めとった。
「中々いいわね」
そう言って、ほむらはさやかに背を向けた。さやかは赤くなったまま、ふとあることに気づいた。それはチョコの味。さやかは唇に指をあてた。
『貴方甘いもの好きだったかしら』
そう悪魔に聞かれたのはいつだっただろう?
その時確かオレンジピールと答えた気がする。
そして、このチョコにもオレンジピールの味がして。
「あのさ、ほむら…このチョコってもしかして」
さやかが尋ねても、ほむらは返事をしない、ずっと背中を向けたままで。
「ほむら?」
戸惑いながらさやかはほむらに近づきその肩越しから顔を覗きこんだ。
――え、誰、この乙女?
ほむらの顔はさやかと同じように赤くなっていて、恥じらうような表情を浮かべていた。驚くさやか。
「もう…失敗したわ」
「え、何が?」
両手を腰にあてて、ほむらははあ、と息を吐くと、ゆっくりとさやかの方へ身体を向けた。潤んだ目でさやかを見上げる。
「貴方が起きるのが早いのがいけないのよ」
そう囁いて、恥ずかしそうに微笑んだ。新鮮な素顔。
「ほむら…」
そう、つっけんどんだったのは、慣れないことをする姿を見られた彼女の照れ隠し。
こんな朝早くからチョコレートを作っていたのも、その味がオレンジピールなのも全て――
『貴方に作っているわけじゃないから』
あれは嘘だった。悪魔の可愛い嘘。ほむらは口元を緩めながら、ボウルに人差し指を入れた。そうしてチョコレートを絡めとる。
「おかわりする?」
さやかは頷いた。するとほむらはその指をさやかにではなく、自分の口に入れて舐めとるとそのまま顔をさやかの顔に近づけた。軽く音を立てて唇が触れ合うと、そのまま悪魔はかばん持ちの首に手を回し唇をもっと押し付ける。
――私、今日死ぬのかしら?
そんなことをぼんやり考えながら、さやかは目を閉じている悪魔の美しい顔を見つめている。長い睫毛が震えていて。口に自分のものでない柔らかい舌の感触とチョコの甘さを感じてさやかも目を閉じた。
悪魔の口の中はチョコよりも甘くオレンジピールよりもいい香りがした――
『私も甘いものは好きよ、特に――』
『貴方の好きなものがね』
悪魔のチョコレートが完成したのは、その後、だいぶ夜も更けた頃だったという。
Are they satisfied?
END
Orange Peelとチョコが絡み合うとめちゃ美味いです…
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招かれた者
「あっちの世界ってどうだったの?」
黒髪の女性が何を思ったのかふいに蒼い髪の女性にそう尋ねてきた。
「あっち?」
一瞬なんのことかわからず女性――美樹さやかは聞き返す。その顔が惚けているのは相手の容貌に見惚れているためだ、さやかの目の前の女性はとても美しかった。それを知っているのかあるいは無意識か黒髪の女性――暁美ほむらはテーブルに肘を置いて頬杖をつくと艶やかに笑った。対面に座っているさやかは顔を赤くさせながら、ようやく気付いたのかああ、と声をあげた。
「‥…あっちのことね?」
「気づくの遅すぎ」
「あはは…」
右手で髪を掻きながらさやかは苦笑した。そうしてコーヒーカップを手に取って中をじい、と見る。頬杖をついたままその様子を眺めるほむら。
あれから10年、いつの頃からか二人は生活を共にするようになった。そうして今朝もいつもの様に窓辺のテーブルで朝食をとっているのだが――。白のシャツとデニムに身を包んださやかはカップを覗き込み黙り込んでしまった。無表情でそれを眺めるほむら。だがじれったいのだろうか、白のワンピースの裾を反対の手でいじっている。さやかがようやく口を開いた。
「あ~…実は…あんまり憶えていないのよね」
「嘘ね」
「はや」
「今さら私に言えないことでもあるの?貴方」
ギロリ、と陰鬱な目がさやかを睨む。ひい、と声をあげてさやかは観念したように喋りだした。
「く、詳しく憶えてないのは本当よ、ただそこはとても心地がいいのよ、すぐそばにまどかを感じるっていうかずっと包まれているみたい…って、わあ!」
さやかが叫んだ。フォークとナイフが宙に浮いて顔面に迫ってきたからだ。もちろんそれは目の前の美しい悪魔の仕業で。陰鬱な目を怒りで光らせこちらを見つめている。
「ほ、ほらだから言わなかったのよ、あんた怒りそうだったから!」
「怒る?私が貴方ごときに?」
――って怒ってるじゃない!
さやかが心で叫ぶ。ほむらはまどかのことをそれはもう心底愛している。悪魔になったのもそのためだ。そんな悪魔の前で最愛のひとにずっと包まれていましたなんて答えたらどうなるか見ての通りだ。さやかは両手をあげて降参の意を表するがフォークとナイフは微動だにしない。
「ふ、不可抗力なんだから許してよ!」
「よくもまあ、ぬけぬけとまどかに包まれていたなんて」
「あ、あんたも羨ましいならおとなしくあっちに迎えられてればよかったじゃない」
「羨ましい?」
はあ、と悪魔は大きく息を吐いた。
「ほんと貴方って馬鹿だわ」
カラン、とフォークとナイフが音を立てて落ちる。きょとんとした顔でそれを見つめるさやか。はっ、と何かに気づいたように両手を構え防御の姿勢を取る。第二陣が襲ってくると思ったのだろう。その様子を見て悪魔は首を振った。
「馬鹿にはきちんと言わないとダメなのかしら」
「へ?」
「私は別に羨ましくなんかないわ」
「そ、それって?」
「私はむしろ…」
そう言いかけてほむらは口を閉ざした。
「ほむら?」
「なんでもないわ、ほら」
「むぐ」
サラダを刺したフォークを口に放り込まれるさやか。そのまま咀嚼するさまはエサを与えられたペットの様だ。悪魔もそう思ったのかふ、と失笑した。溜飲は下がったようだ。流し込むように水を飲んださやかはふと思い出した様に呟いた。
「ああ、そういえば、私あの時のことは憶えているのよ」
「あの時?」
「うん、あんたの結界に入っていくとき」
「ああ…」
インキュベーターの実験に巻き込まれた時のことだとほむらは悟る。あまり思い出したくない記憶だが、それでもこうやって話に耳を傾けることができるようになったのは歳月のおかげだとほむらは思う。と、何を思い出したのかさやかは急に切なそうな表情を浮かべ語りだした。
「正直言うとね、私、あの時怖かったんだ」
「なにが?」
「遮断フィールドを通過できるのは、あんたに『招かれた』者だけ」
そう言ってさやかはほむらを見る。空の様な瞳がほむらを映し出した。
「私だけ招かれなかったら、どうしようって」
「……」
「でもあんたは私も招いてくれた」
嬉しかったなあ、とさやかは囁いて、そうして微笑んだ。それはいつもと違うどこかはにかんだような可愛らしい表情で。ほむらは陰鬱な目を少しだけ丸くさせた。そうしてしばらく二人は黙ったまま見つめ合って。次に口を開いたのは悪魔の方だった。
「馬鹿ね」
「そう?」
「そうよ、貴方は大馬鹿だわ、美樹さやか」
久し振りにさやかをフルネームで呼んだ後、ほむらはさやかをまっすぐに見つめて言った。
「私は貴方を嫌ったことなんて一度もないわ」
柔らかい日差しが二人を照らして。目を見開くさやか、見つめ返すほむら。ほむらの手がゆっくりと伸びて。
「あの時も、そしてこれからも」
そうしてさやかの頭に触れた。ほむら、ととても小さい声で囁くと、それきりさやかは黙り込んだ。うなだれたさやかの身体は微かに震えていてほむらは苦笑する。
「ほんと馬鹿ね」
それはひどく優しい声で。
そうしてしばらくの間、ほむらはさやかの頭を包み込むように撫で続けていた――
END
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その言葉が聞きたくて
「おかしいわ」
「へ?」
さやかは不思議そうに顔をあげた。そこには腕を組みながら窓を眺める美しい長い黒髪の女性がいて。ゆっくりとソファから立ち上がって傍に寄りそうようにして立つとさやかは囁いた。
「どうしたのよいきなり、何がおかしいの?」
「貴方と私の関係よ」
腕を組んだままさやかを見上げるほむら。上目遣いでこちらを見ている顔は美し過ぎてどうにもさやかは慣れることができない。思わず照れくさそうな表情を浮かべながら視線を逸らす。それを見てくすりと笑う黒髪の女性。
「ほらね、貴方私のこと好きでしょう?」
「え、そんなあからさまに…まあそうだけど」
「それがおかしいのよ、だって貴方が私を好きになるはずがないもの」
「え、あんたなに言ってんの」
突拍子もない言葉に驚くさやか。そもそもこの黒髪の女性が「好き」だのとあからさまな感情についての話題を口にしたのは初めてだ。
「私はあんたのこと好きよ」
「本当に?」
形のいい眉をひそめ聞き返す黒髪の女性。これはどうしたものか、とさやかは真剣に考える。
「本当よ、どうすれば信じてくれる?」
「……」
口を閉ざし黒髪の女性はさやかから視線を逸らすと窓へと顔を向けた。
「ほむら」
さやかがじれったそうに女性の名前を呼ぶ。その華奢な肩に触れると払いのけられて。さやかは目を見開きながら払いのけられた己の手を見つめる。こんな風に手をはじかれたのは彼女と敵対していた頃以来だ。途方に暮れた表情を浮かべるさやか、これではあの頃と変わらない、むしろ――
「ほむら…」
だが気を取り直し、さやかは再び腕を伸ばすと今度はその華奢な身体を後ろから抱きしめた。意外にも抵抗らしい抵抗はなく、ほむらはすんなりとさやかの腕に収まってなすがままに身を預けてきた
「お願いよ信じて」
だがほむらは何も言わない。さやかの視点からは形のいい後頭部しか見えないので表情は全くわからない。
拒絶されるだけでこんなに胸が苦しくなるなんて思わなかった――
さやかの視界が滲みその声は掠れて。
「お願い信じて、私はあんたのこと…」
―――――――
悪魔は夢を見ない。その代わりといってはなんだが、朝覚醒した後、しばしまどろんでいる時などにときおり見知らぬビジョンを見ることがある(それを相方は夢ではないかと疑っているが)だから今朝の妙なうめき声もそんな類いだろうとほむらは気にも止めていなかったのだが。
「ん……」
美しい切れ長の目を少しだけ開いてけだるげな声を漏らすと、ほむらは白い細い腕をもぞもぞと動かしてくるまっていたシーツをのけた。長い黒髪とキャミソール一枚を纏った妖艶な肢体が現れる。上体を起こそうとして何かに阻まれ動きが止まる。
「何…」
陰鬱な双眸を己の下腹部に向けると背後にいる相方の手ががっちりとそこを抱きしめていて。はあ、とため息をつきながらも優しくその手をほどこうとするとまたうめき声が聞こえてきた。そうしてようやくあの声がこの後ろの相方の声だとほむらは気づく。
「さやか?」
首を動かしてほむらは背後の女性を覗き込む。お間抜けなかばん持ちは目を瞑り何事か呻いてた、しかもどうやら泣いているようで。目を少しだけ丸くしてほむらはさやかを見つめた。
「お願い…信じて…」
どうやら夢を見てうなされているらしい。ほむらは顔だけさやかの方に向けたまま猫の様にじい、とその顔を見つめる。
「好きだから…とっても…好き‥‥ううん違う」
「違う?」
思わずぽつりと呟くほむら、これは珍しいことで。
「私、あんたのこと―――」
だが次の瞬間更に珍しいことが起こった。
「―――てる」
聞き取りにくい声でさやかがそう囁いた途端ほむらの顔が面白いように真っ赤に染まった。そうして反射的だろうか素早く左手を挙げると器用にさやかの額をぱちん、と叩いた。
―――――――
「もういいわ」
「え?」
さやかの腕の中のほむらがゆっくりと振り向いた。切れ長の目を細め口元を緩めてこちらを見つめているほむらの表情はいつもより優しくて、さやかは思わず相方を凝視した。
「なんかあんたいつもと…」
「同じよ、ほら…」
そう囁いて悪魔はさやかの顔へ手を伸ばす。
「夢から醒めなさい」
そうしてパチン、とこれまた優しくさやかの額を叩いた。
――――――
「痛…」
さやかはゆっくりと目を開く。すぐ目の前にほむらの横顔があって、流し目でこちらを見つめていた。寝ぼけながらも顔を赤くするさやか。
「ようやくお目ざめかしら?」
「…夢だったの」
潤んだ目をこすりながらさやかが呟く。そうしてはあ、と息を吐きながらさやかはほむらの肩に顔をうずめた。
「ちょ…」
「よかった~‥‥あんたに嫌われたら私どうしようかと‥‥」
そう言いながらぐずりはじめるさやか、形のいい眉を上げてほむらが何か言いたそうな表情を浮かべるが開きかけた口を一旦閉じて、そうしてしばらく間を置いてから囁いた。
「貴方。そんなに私に嫌われるのが怖い?」
「当たり前でしょ」
「そう…」
「え、も、もしかして私…なんか言ってた?」
「いいえ」
そう言ってほむらは身じろぎするとさやかと向き合い身体をぴったりと寄せ合った。さやかの背中に細い白い腕が回される。
「何も聞いてないわ…」
そう囁いて上目遣いでさやかを見つめるほむらの顔は少しだけ赤みが差していて。さやかもまた何か悟ったのか顔を赤くした。
「何も」
そう囁きながらほむらは目を瞑りその唇をさやかの唇へと押し当てた。2人がベッドから出たのはそれからもう少し時間が経ってのことだった――
******
「干渉し過ぎたかしら?」
白い空間の中にひとり佇む黒づくめの女性はそう呟いた。艶のある長い黒髪に恐ろしいほど美しい容貌の悪魔――暁美ほむら――は、左手をあげるとその薬指にはめている指輪に唇を軽くあてた。その指輪には蒼い宝石がほどこされていて、応じるように宝石がチカチカと数回光を放つ。
「…妬いてるの?」
ニイ、と悪魔は妖艶に笑った。
「貴方が復活するのを待っている間、もういちどあの時の言葉を聞きたかったのよ」
そうして再び濡れた唇をキスをするように宝石にあてると光を放つのをやめておとなしくなる。それを見て悪魔は苦笑したその表情はあの頃のようにとても――
「ほんといつになってもお間抜けね」
そう囁いて悪魔は目を瞑る。あの時のお間抜けなかばん持ちの言葉を心の中で反芻しながら。
好きだから――とっても好き――ううん違う――
私あんたのこと――
END
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明けない夜に生まれて
その女性は美樹さやかをやけに惹きつけた。黒いドレスに透き通るような白い肌、烏のような艶のある長い黒髪。それだけでもだいぶ目立つというのに加えて怖いくらい美しかった。
「さやか何見てるの?」
「ん、ああ~あはは、なんでもない」
隣の席の中学時代のクラスメイトが怪訝そうに尋ねてくるのでさやかは笑顔でごまかした。どうしてだかその女性のことを知られてはいけないようなそんな気がして。我ながらおかしいなとは思った。普段の自分なら『みてみて、すっごい美人!』などといいながらその女性を指さすくらいはするはずなのに、と訝し気にさやかは小首をかしげ、そしてテーブルに置かれたシャンパングラスを手に取って口に運んだ。なかなか美味い。前方に目を向けると大輪の薔薇に彩られたメインテーブルがあり、そこでかつての親友と幼馴染のバイオリニストが満面の笑みを浮かべていた。
――あ~あ、まったく
世界的に有名なバイオリニスト上条恭介と資産家の娘志筑仁美が見滝原市で挙式をあげることはマスコミにもおおいに取り上げられた。本人たちの強いこだわりで生まれ育った町で行いたいと挙式と親族のみの披露宴を執り行い、夕方である今はさやかを含めた友人達を招いた結婚パーティが執り行われている。まあパーティといっても会場は同じだし、招待された友人達も皆ドレスアップしているので二次会というよりも披露宴の延長といった感じだ。会場に埋め尽くされた招待客をさやかは見渡す。あまり見覚えのある友人は見当たらなかった。同じテーブルに座っているメンバーだけがかろうじて中学時代のクラスメイトとして記憶が残っているだけで。
「ほんとあっという間よねえ10年って」
隣のベージュ色のドレスを着たクラスメイトが呟いた、同意してさやかも頷く。
「ほんとね」
どうにも気分が沈んでしまう、しおらしくなってしまうのは着なれないドレスを身に纏っているせいだろうか?とさやかはふと思った。視線を落とし自分の髪の色と同じドレスを見つめた。
「あ、でもさあ、さやかって仁美と結構仲良かったよね」
「え?うん、良かったよ」
「なんか先越された感じで嫌じゃない?」
よほど詮索好きなのだろう、さやかの顔を覗きこむようにして笑顔を浮かべている。ああ、嫌だなとさやかは思う。そう思った瞬間、女性のシャンパングラスが傾いて中身が零れた。
「きゃっ」
「大丈夫?」
軽く悲鳴をあげて驚くクラスメイトの横でさやかが手近にあったテーブルナプキンで零れた液体を拭く。白いテーブルに零れたシャンパンの液体が何故か紫色に見えてさやかは目を丸くする。と、何か気配を感じたのかさやかは振り向いて左後方の末席のテーブルの方へ視線を向けた。そこはさきほどの美しい黒いドレスの女性が座っていたテーブルで。ぽつんと一人座っている黒髪の女性はさやかの方を見ていた。
遠目からでもわかる怖いくらいの美貌、そしてアメジストの色の瞳――
吸い込まれそうだ、とさやかは思った。視線を逸らすことができない。と、美しい女性は立ち上がって会場を出ていこうとする。
「待って」
思わずさやかは叫んだ。一瞬会場が静まるが気にも止めずさやかは駆け出す。慣れないヒールを履いてるためかその動きはもどかしそうで。声は聞こえているはずなのに、黒髪の女性は振り向きもせず扉に手をやりわずかに開くとすう、と会場の外へと出て行った。数秒遅れてさやかも閉じかけた扉に手をついて勢いよく外へ出る。
披露宴会場のホールには誰もいなかった。夕焼けの光が窓から差し込んで、ホールをセピア色一色に染めていた。
今あの女性を見失ったらもう二度と会えない――
そんな焦燥にも似た気持にかられ、さやかは必死に辺りを見回す。するとホールの玄関口からちょうど外へ出た黒髪の女性の後ろ姿が窓に映った。さやかは必死で駆け出し、玄関口から出ると黒髪の女性の後ろ姿に向かって叫んだ。
「ほむら!」
叫んだあとにさやかは驚いた表情を浮かべ自分の口に手をあてる。まるで勝手にその言葉が口をついて出たかのように。黒髪の女性も驚いたのだろうか、歩を止め固まったように動かなかった。
「あ…そうだ、なんで…」
呟きながらもさやかは歩を進め、黒髪の女性の元へと近づく。あと数歩で互いに触れる距離に近づいた時、女性は振り向いた。その勢いで長い黒髪が広がりゆっくりと落ちていく。
「覚えていたのね」
ぞっとするほど艶のある声。さやかはその顔に見惚れて。陰鬱な切れ長の目に艶のある唇。さやかの脳裏に中学時代の彼女の姿が浮かんだ。妖艶な美少女だった。
「うん…ほむらだよね?中学の頃同じクラスだった…なんで私忘れてたんだろう」
不思議そうに語るさやかを女性は無表情に見つめていて。
「それで、私に何か用?美樹さん」
「え、ああいや用ってわけでもないけどさ…私の名前覚えててくれたんだ」
さやかは困ったように頭を掻いた。その仕草は中学のあの頃と同じで、妙齢のドレスを着た女性の仕草としては子供っぽいものだった。その頬は赤く染まっていて。その挙動が可笑しかったのか、それとも何か思うところがあるのか女性―ほむらはほんの少しだけ口元を緩めた。
「髪伸ばしてるのね」
「へ?」
すう、と白い手が伸びてさやかの背中まで伸びている髪をつまんだ。更に顔を赤くするさやか。ほむらという女性の妖艶な美貌は同性であるさやかにも有効であるようで。
「ま、まあ…ちょっと女らしくしようかなって」
「でも迷ってるでしょう」
「なんで知ってるの?」
驚くさやかの表情を楽しむように見つめてほむらはさやかから離れた。
「前の髪型の方が似合うと思うわよ」
そう囁いて、ほむらはさやかに背中を向けた。そのまますたすたと歩きだす。茫然として動けないさやかだが我に返り慌ててほむらを追いかける。
「待って」
「何」
「また会えない?なんか…もっと話したくて」
ほむらは目を丸くした。その表情を浮かべさせたことが何故かさやかは嬉しかった。
「……いいわ」
とても小さい声でほむらはそう言った。
*******
それから数日後の昼下がり、美樹さやかは駅近くのカフェへと足を運んだ。
「ほむら」
笑顔を浮かべてさやかは店の一番奥のテーブルに座っている女性に声をかけた。長い黒髪の怖いくらい美しい女性。さやかに気づいた女性はためらうように右手を少しだけあげた。ふ、とさやかの口元が緩む。どうにもこの女性は容貌に反して内気らしいとさやかは思った。先日久しぶりに再会した時も黒のドレスだったが、今日も黒のワンピースを着ている。
「……髪切ったのね」
ほむらがまた目を丸くする。その表情を見てさやかは喜んだ、もしかしたらこの表情が見たくて髪を切ったかもしれないと秘かに彼女は考えて。
「うん、なんかほむらに言われてさ、私もやっぱ短い方がいいかなあって」
右手で髪に手をやる。空と同じ色のさやかの髪は肩あたりでばっさりとカットされていて。
「それに着なれないドレス着るよりやっぱこの方がいいわ」
そう言ってさやかは今度は腰に手をやり、得意そうな表情を浮かべた。デニムのパンツにシャツといういでたちとその髪型はどこか中性的な印象を与えて。黒髪の女性もそう思ったのか、ふ、と口元を緩めるととても小さな声で囁いた。
「その方があなたらしいわ」
その言葉がやけに嬉しくてさやかは満面の笑みを浮かべた。それから二人はコーヒーを注文し、互いの近況報告を兼ね語り始める。とはいってもほとんどさやかが喋っているのだが。
「でも本当、あっという間だったわね」
さやかが呟く。中学時代のこと、高校の部活のこと、大学では全然今の仕事とは関係のない哲学科へ進んだこと、いろんなことが走馬灯の様に浮かぶ。ほむらはその話をただこくりと頷いて聞いていて。ふと、何か思い出したように口を開いた。
「恋人とかいないの?」
「わ、そうきたか」
さやかはへらへらと笑った。だがほむらはいたって無表情で。
「いないわよ、まあ好きなひとはいたけどね」
「上条恭介でしょ」
「なんで知ってるの?」
あの日のようにさやかは驚いた。ほむらは表情を崩すことなくぽつりと「内緒」と呟いた。
「まあ…確かにあの頃は好きだったけどさ」
肩をすくめるさやか。ほむらを追求する気はないらしい。
「でもなんだろう?時が経つ度にいろんなことが薄れていって…好きとかそういう感情も無くなっちゃったみたい、不思議だけどね…それに」
そう言って、しばらくさやかは黙り込んでいたが意を決したようにほむらを見つめた。
「ねえ、ほむら、私今からおかしいこと言うけど聞いてくれる?」
「……構わないわ」
「私、中学の頃の記憶があまり無いの」
ほんの一瞬だけほむらの顔が曇った。
「そうなの?」
「うん、なんというかそこだけ抜け落ちているっていうか、今でも所々しか思い出せなくて、だからほむらのこともこないだ会うまでまったく忘れてて」
「そう…」
さやかの脳裏に見滝原中の制服を着た彼女が浮かぶ。とても美しい少女だがその笑顔は禍々しくてまるで――
「あれ?」
すとん、とさやかの心の中に何かが入ってきた気がした。桜の舞う通学路、紫色の液体、黒い羽根、悪魔――
悪魔――
目を丸くしてさやかは前にいるほむらを見つめる。
「ほむら……」
「思い出したのね」
ニイ、とほむらは鮫の様に笑った。それは美しくもどこか禍々しくて。
「あんたどうして、こんな…」
怒りというよりもどこか悲しそうな表情を浮かべるさやか。それは長い間真実を忘れていたことに対する自責の念か、それとも目の前の女性に対して同情の念を抱いているためか。
「そんな顔しないで」
妖艶に微笑みながらほむらは手を伸ばしさやかの頬に触れる。
「貴方にはそんな表情似合わないわ」
さやかは右手を強く握る。もう魔法の使い方も忘れてしまっていた。
「私……ずっとあんたのこと忘れてた」
「それでいいのよ」
「まどかは?まどかを留学させたのもあんたの仕業?」
鹿目まどかは高校を出てから渡米し、アメリカの大学に進学しそのまま就職している。美樹家に居候していた佐倉杏子もまた職を持ち既に自立していた。
「それは違うわ、まどかは自分の意志でアメリカへ行った、あの子は人生を謳歌しているのよ」
嬉しそうな表情のほむら。そうして両手を胸元にあげ、叩こうとしたところでさやかの手が伸び阻止される。その表情は怒りに満ちていて。
「私はもうあんたに記憶を奪われたくない」
「そう、その表情よ美樹さやか、それで…いいのよ」
「でもどうしてあの時あそこに出席したの?あんたにとってまどか以外のことはどうでもいいはずよ」
「元かばん持ちのあなたがどんな顔をするのか見たかったのよ、かつての親友に想い人を取られたあなたの顔がね」
「こ…」
さやかは思わず手をあげる。
『なんか先越されたようで嫌じゃない?』
クラスメイトの顔が急にさやかの脳裏に浮かんだ。そしてあの時タイミングよく傾いたシャンパングラス、零れた液体が一瞬紫色に見えたことも。さやかのあげられた手がゆっくりと降ろされた。
「あんた…もしかして、私を?」
だがほむらは何も答えないままパチン、と指を鳴らした。
「忘れなさい、美樹さやか、それが貴方の――」
*****
「さやか」
「へ?」
気づけばほむらが至近距離でさやかを見つめていた。
「あ、ああ~ごめんごめん、なんかぼうっとしちゃって」
「だいぶ話し込んだからかしらね」
長い黒髪を右手で梳いて、ほむらは微笑んだ。先ほどよりもだいぶ柔らかい印象になったとさやかは秘かに思った。
「あ、ほんとだ、もうこんな時間」
さやかは驚いた表情で窓の外を見つめる。夕焼けの光が差し込んで、カフェの中はセピア色に染まっていた。
「楽しかったわ」
そう言ってほむらが立ち上がる。そろそろお開きの様だ。名残惜しそうな表情のさやか。
「なんか私だけ色々喋ってほむらの話聞けなかったね」
「私はそれで構わないわ」
「そっか…」
窓の外へ再び視線を向けるさやか、何を思ったのか微笑んで。
「なんか夕焼けってほむらみたいだね」
「そう?」
「うん、なんでかはわからないけど」
「違うわ、夜よ」
「え?」
不思議そうにさやかはほむらを見つめた。その顔は無表情で何を考えているのかわからない。
「私に似合うのは夜――きっと私は夜に生まれたのよ、明けない夜に」
*******
「あ~あ、でももっとほむらと話したかったなあ」
「今も話しているでしょう?」
「まあそうだけど」
帰る方向が同じなので、二人は一緒に帰路についた。あたりはすでに暗くなっていて。
「ねえ、ほむら」
「何」
「さっき、明けない夜に生まれたって言ったでしょ?」
「……ええ」
「私、明けない夜は無いと思っているの、もちろんその逆もあるけどさ」
さやかの言葉にほむらは答えなかった。しばらく沈黙が続く。
「それでさ」
沈黙を破ったのはさやかだった。
「私、ほむらの夜が明けるまでずっと友だちでいていいかな?」
足音が止まった。ほむらの美しい顔は相変わらず無表情で。
「だめ?」
「話足りないって言ってたわね」
「え?」
「それじゃあ、今から家に来る?」
悪魔はどうしてそう言ってしまったのか自分でもわからなかった。
それは時の悪戯か、あるいは引き裂かれた理の見えざる干渉か、だがこの悪魔とかばん持ちはいつかきっと――
END
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向こう側のひと(番外編)
彼女達が出会う場所は――
妙齢を迎えた今、旭は魔法少女という単語をあまり(というかほとんど)使わなくなった。それは「少女」という単語が果たして成人した自分に通用するものかどうかはなはだ疑問だし、どうもこそばゆい気がしたからである。自分の納得のいく呼称を思いつけばそれを使いたいと思っているのだが、果たしてそれも思い浮かばず今に至っている。だがまさかこんな思いもよらぬ場所で良いアイディアを見つけるとは――
旭は目の前のスーツ姿の女性を見つめた。
――10分前のこと
〇県警察本部生活安全課は本部ビルの4階にあった。その無機質な廊下をデニムとシャツというその場に不似合いな服装の女性が歩いている。
「あの、生活安全課はどちらでありますか」
向こう側から歩いてくるスーツ姿の男性に女性は涼やかな声で尋ねた。三白眼の男はじろりと睨んだ後「用件は?」と聞き返す。女性は特に気にする様子もなく小首をかしげて
「猟銃等講習会の受講申し込みに来ました更新の方で」
「ああ…それなら」
言葉少なに男は右手で奥の方のドアを指す。女性は会釈して男の横を通り過ぎようとしたが、男が引き止め尋ねる。
「待て、もしかして身内がいるか?」
「いや?おりませんが何か?」
「…それならいい」
男は背を向けてすぐ傍にある執務室のドアを開いた。ドアにはなんの表札も無く何課なのかまったくわからない。女性は首をかしげその声と同じく涼やかで美しい顔を少しだけ曇らせた。それは男の不遜な態度からかあるいは入っていった名前の無い執務室が気になるのか、それとも両方か――だがしばらくして肩をすくめると女性は奥のドアへと向かった。
女性が生活安全課に入るとすぐに担当の刑事が現れた。
「ご用件は?」
「先ほど連絡した三浦です。猟銃等講習会の申し込みに来ました」
「ああ、三浦…三浦旭さんですね」
先ほどの無愛想極まりない刑事らしき男とは違い、こちらの担当刑事は愛想が良かった。天気の話題を振りながらカウンター下から書類を取り出すと女性――旭に一通り説明し手渡す。それから注意事項を聞いて旭は生活安全課を出た。書類を見つめながら廊下を歩いていると何かに衝突する。
「あいた」
「ああ、どうもすみません」
旭が顔をあげるとそこにはスーツ姿の女性がいた。旭のたれ気味の目が少しだけ見開かれる。ぶつかった女性もまた旭と似たようなたれ気味の目を見開いて互いに見つめ合った。
「あの」
「ええ」
背丈は同じか少し相手が大きいくらいだろう、旭は女性を観察した。空と同じ髪の色に目、そしてどこか間の抜けたようなお人よしそうな顔。ほんの少し旭の口元が緩んだ。そうして視線を相手の顔から胸へ移す。
S.Miki
「どっちが名前かわからないですな」
「ああ…まあ確かに」
女性は笑った。笑うとまた子供っぽくなるので、ふと旭は年下なのだろうかと考える。不思議な光景、警察官と一般人が廊下でぶつかってこんなに親し気に話し合うということはまずあり得ない。だがそれには理由があった。普通ならあり得ない理由が。
「あの、あなたは……ううん、違うわ」
言葉を濁しごほん、と蒼い髪の女性が咳をして、そうして意を決したように再び口を開く。
「あんたも「あれ」よね?」
「ええ、そうであります」
魔法少女――以前はだいぶ離れたところでもその存在を感知できたはずなのに、大人になった今では至近距離にならないと気づかないことも多い。ぶつかった瞬間に二人は互いが魔法少女であることを知ったのだ。蒼い髪の女性が右手の人差し指を立てながら小さな声で囁いた。
「大人魔法少女」
その瞬間旭が口元を緩め笑顔を見せた。驚く蒼い髪の女性。
「ああ、他意はありませんよただ…」
「ただ?」
「いい呼称だなあと思って、我も使っていいでありますか?」
自然と旭もいつもの口調に戻る。
「いいわよ、それじゃ」
蒼い髪の女性が笑って背を向ける。魔法少女同士会えただけでも全て通じ合えるのか会話はもう終了だ。だが女性がさっきの無愛想な男と同じ執務室へ向かっているのを見て旭はつい呼び止めた。
「あのそこは何課でありますか?」
「あ~…それは」
やってしまったといわんばかりの表情で頭を掻く女性。それを見て旭は何か納得したのか、いいですよ、といわんばかりに手を振った。
「我は何も見なかったであります」
「サンキュー」
蒼い髪の女性はニイと笑う。旭も笑うと思い出したように尋ねた。
「活動は一人で?」
「ずっと一緒に行動している仲間がひとりいるわ」
そうしてまたニイと笑うと付け加えた。
「すっごい美人なのよこれが」
ノロケの様な言葉を聞いて旭は苦笑する。そうしてこちらもとでも言う様に自慢げな顔をして旭は言った。
「我もずっと行動を共にしている仲間がおります、そのひとはとても――」
それを聞いて蒼い髪の女性はまるで自分のことの様に嬉しそうに笑った。その笑顔を見て旭はいつかその仲間を見てみたいものだと秘かに思った。
また二人は思いもよらぬ場所で再会するのだがそれはまた別の話――
END
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魔女の絵
「神浜市にはもう行かない方がいいわ」
どうしてと尋ねると彼女の返事は
「どうしてもよ」
だった。彼女が理由を言わない場合大抵深刻な事情があると美樹さやかは知っていた。それから薄い桜色の唇を閉じて黙り込んだ彼女をさやかは伺うように覗き込む。長い睫毛に隠れるアメジスト色の瞳。とにかく彼女は恐ろしいほど美しかった。と、その瞳が急にこちらの方に向けられたので思わずさやかの心臓が跳ねた。
――これだから困るのだ
もうあれから10年経っているというのに今だに慣れない。例えばゆっくりとこちらを見上げる時に艶やかに揺れる長い黒髪だったり、その猫の様な眼差しだったり。さやかは顔を逸らした。
「どうしたの」
知ってるくせに、とさやかは心で呟く。そのからかう様な口調は楽しんでいるに違いない、顔が熱くなるのを感じながらさやかは声の主の方を覗き見た。ああ、やっぱりと思う。声の主である黒髪の女性はこちらを見て微笑んでいて。さやかはいてもたってもいられなくてその女性の名前を呼んだ。
「もう、からかわないでよほむら」
「あら、からかってなんかないわ」
フフ、と笑いながら黒のワンピースに身を包んだ黒髪の女性――暁美ほむらは目を細めた。組んでいた腕を下し、白のシャツとデニムに身を包んだ彼女より少しだけ背の高い女性-さやかに近づくと横に並ぶようにして立った。ここはマンションの最上階、そして窓辺に立つ彼女達の前にはどこまでも広がる青い空と高層ビルが広がっていた。
*****
暁美ほむらが世界を改変してから10年が経っている。紆余曲折を経て軋轢を解消していった彼女達はこうして共に戦い共に暮らす様になった。この歳月で周囲の状況も変化し続け互いの外見も大人のそれへと変わっていった。互いの成長した姿を見る度今までのことが夢だったのではと二人は時折思う様になるがもちろんそれは錯覚だし、彼女達の力も魔獣も現実として存在している。
「…あと数回聞き込みしなきゃいけなくて仕方ないのよ」
窓の外を眺めながらさやかは呟いた。困った時の癖なのだろう腰に手をあて反対の手で頭をやや乱暴に掻く。肩まで伸びた髪すらりと伸びたしなやかな肢体を持つ彼女の姿はどこか中性的な美しさがあって。
「そう…」
同じ様に窓の外を眺めながら頷くほむら。細められた目に長い睫毛、繊細な絵の様に美しいその顔がゆっくりと右隣にいるさやかに向けられる。少しだけ顔をあげたのは蒼い髪の女性の方が少しだけ背が高いからで。視線に気づいたさやかもほむらの方へ顔を向け覗き込むようにこちらは少しだけ頭を下げた。そのどこか「間の抜けた」感じのたれ気味な目を見つめほむらは口元を緩めた。以前まで「腹が立つ」と評していた身長差も今はもう気にならないらしい。
「おまわりさんは大変ね」
「まあね」
からかうような口調のほむらに肩をすくめるさやか。さやかは警察官だ。当初は魔獣との戦いに支障があるからとほむらは反対していたが、今では表面上人として過ごしているうちには何かと都合がいいため協力的だ。むしろほむらの協力がなければさやかもこの仕事を続けることはできなかっただろう。
「でも……何かあったらすぐに連絡して」
「珍しい…あんたがそんなこと言うなんて、一体神浜市に何があるの?」
「何かあるのかも知れないし、ないのかもしれない…」
そう言ってほむらははあ、と息を吐いて肩を上下させた。珍しいことだ。首をわずかに傾げながらさやかを見上げる。左耳のイヤーカフスについている宝石が一瞬きらめいた。
「私が昔から口下手なの、貴方知っているでしょう?」
これもまた珍しいことだった、こんな風に自らを曝け出すような喋り方ができるのもまた10年という歳月の賜物なのだろう。何故か頬を赤らめているこちらを見つめているほむらの顔を不思議そうにさやかは見つめ、そしてしばらくして何かに気づいた様にあ、と声をあげた。
「もしかして…あの絵…アリナ・グレイのこと?」
*****
アリナ・グレイ――その名をさやかが目にしたのはある事件の聞き込みで神浜市の美術館を訪れた時のことである。たまたま入口近くにあった色鮮やかな絵が目に止まり近づいてみてさやかは驚愕した。その色彩豊かな絵は魔女結界そのものだったから。驚きで顔をこわばらせたままさやかは絵に近づき下に貼られているキャプションを読み、その名を知ったのだ。
『新進気鋭の画家、エキセントリックな言動で有名よ、そして彼女は魔法少女だった――正確には別の世界でね、ここではどうかしら、わからないわ』
その夜、事の顛末を話すとほむらはそう答えた。ほむらは次元を越えることができる。そのためあらゆる世界線を見渡すことが可能なのだ。そして円環の理においてさやかも全てを見てきているはずなのだが、以前ほむらに記憶を消されて以来完全に記憶が戻ったとはいえない状態のため、まったくその名前に心当たりがなかった。
――私はどれだけのことを忘れているのだろう?
さやかはふとそう思った。アリナ・グレイのあの絵は別の世界の記憶の影響だということで昨夜は落ち着いたが、もしかしたらほむらにはもっと気がかりなことがあるのかもしれない。それが思いつかない自分がふがいなくてさやかは困った様な表情を浮かべる。先ほどのさやかの問いにほむらは答えず黙ったきりこちらを見ていて。
――一体どうしたんだろう
さやかは困惑する。さっきからほむらの様子が変だ、寡黙だが必要な事は率直に口にする彼女が何か言いたくて言えないような…
――ああ、そうか
さやかはあることに気づく。
「…ごめんそういうことじゃないのよね」
そう言ってさやかは微笑んだ。それはいつもほむらに指摘されているへらへらした笑いではなく、落ち着いたもので。
「あんた私を心配してるのよね……ありがと」
目を丸くするほむら。その瞬間悪魔でも魔法少女でもない「暁美ほむら」の顔が見えた気がしてさやかは嬉しくなった。
「別に私は…」
珍しいことも続くものだ、ほむらは依然「暁美ほむら」を曝け出したままで。さやかは笑って「いいって」と小さく囁いた。
「あんたにそう思われてるってだけで私嬉しいからさ…それにうまく説明できないなら仕方ないわよ、何かわかったら教えてくれればいいし」
「さやか…」
不思議そうにさやかを見つめるほむら、その顔が次第に寂しそうなそれに変わる。
「貴方変わったわね」
「へ、そう?」
「ええ、でも…」
「でも?」
「なんだか寂しいわ」
そう言ってほむらは苦笑した。爽やかな表情で。
「でもあんたも変わったわよ」
「そう?」
「うん、なんだか素直になったっていうか、可愛くなったわ」
ほむらの美しい顔が強張る。地雷だったのか?と一瞬さやかは戸惑った。だが徐々にその顔に赤みが差すのを見てさやかは笑った。ああ、そうだこの悪魔は照れ屋だったと。だがいきなりその悪魔の細い腕があがりさやかの頭に振り下ろされた。
ばちん
「あいたっ!ちょ、何よ急に」
頭をおさえ抗議するさやか。涙目なのは、意外とスナップを効かせてきたほむらの打撃が強かったからで。ふ、とほむらが吹き出した。
「お間抜けなところは変わらないのね」
「ひど」
目を白黒させているさやかを目を細めて見つめるほむら。その表情はいつもの妖艶な悪魔のそれで。こんな時でも見惚れる自分が悔しいのだろうさやかは顔を赤らめながら口まで尖らせて。とうとうほむらは笑った。
「あんたこそ全然意地悪じゃない!まったくもう…変わってな」
ふいに白い細い腕が伸びて、さやかはぐいと引き寄せられる。重なる唇と唇。
「前言撤回ね」
しばらくして顔を離すと、濡れた唇を僅かに開きほむらは囁いた。これ以上にないほど真っ赤になったさやかの顔。
「な…」
「お間抜けなところだけじゃなくて、全然変わってないわ貴方」
そう言ってさやかの首に腕を回したまま、くっくっと楽しそうにほむらは肩を震わせる。
「ったくもう…」
溜息をつきながら、ほむらの腰に手を回すとさやかは引き寄せ抱きしめる。小さい笑い声を発した後、ほむらはさやかの肩に頭を預けそのままおとなしくなった。抱き合う二人。しばらく二人はそのままでいた。
******
「〇〇県警の美樹です」
警察手帳を見せると美術館の職員はすぐさま職員執務室へさやかを案内した。2回目の聞き込みなので職員もさやかの顔を覚えていたらしい。対象者が少ないため今日は美樹さやかは一人で訪れていた。
『神浜市にはもう行かない方がいいわ』
ほむらの言葉を思い出し、さやかの顔が一瞬険しくなる。一体何が起きるのかといつも以上に周囲に警戒してこの神浜市の美術館を訪れたのだが、今のところ何も起きていない。
「今日は刑事さんの指示通り当日休みだった職員を集めてます」
「助かります」
気さくに話しかける職員に礼を言いながら、さやかは展示されている作品に目をやる。執務室が展示室の奥にあるため数点の作品はどうしても目についてしまうのだ。だが今日は意図してさやかは作品を見ていた。
――あった。
さやかは心で呟く。色彩豊かで荒々しいタッチで描かれた絵がそこにあった。キャプションにはアリナ・グレイの名前。
――どう見ても魔女結界だわ
さやかは驚きを隠せなかった。この絵を見るのは二回目だが、見れば見るほど魔女結界にしか見えず、引き込まれていきそうなる。色鮮やかな背景の中央に陣取るように立っている真っ赤な人の形をした者――魔女だ。
「だから。気に入らない絵をずっと飾っておくのは精神衛生上悪いワケ、わかる?」
と、少し離れたところから女性の甲高い声が聞こえてきた。背広姿でひたすら頭を下げ続けている中年男性とさやかと同じパンツスーツ姿の女性。顔をあげてその様子を見つめるさやか。女性は不思議な髪の色合いをしていて。
「アハ」
「え?」
その女性がこちらを向いて笑いかけてくる。目を丸くするさやか。スタスタと早足で歩いてきたかと思うと、さやかの顔に自分の顔を近づけてきた。いきなり過ぎる無作法な行為に、さやかもただただ驚いて。
「あなた、面白いよネ」
「…何が?」
さやかは動揺を隠しながら尋ねる。女性はさも愉快で堪らないと言う様に笑顔を浮かべ、そうして右手の人差し指でさやかの胸の間をつついた。
「いつかあなたの中のモンスターをアリナが描いてあげる」
目を見開くさやか。女性はニイ、と笑うとさやかから離れ早足で去っていった。追いかける中年男性。
「あ、あの…大丈夫ですか?」
身動きしないさやかを見て職員がおどおどした様子で尋ねる。
「…ああ、なんでもありません、さあ行きましょう」
いつもの様にたれ気味の目を細めさやかは愛想よく笑った。再び執務室へ向かい歩き出す。
「……」
職員が先を歩くとさやかの顔から笑みは消え、険しい表情のそれになる。
――あれがアリナ・グレイ
さやかの瞳に暗い影が差した。
『いつかあなたの中のモンスターをアリナが描いてあげる』
それはとても暗い、死んだ魚の様な目で――
END
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追想
このままずっとこの犬は私の元に居続けるのだろうか?
蒼い――そう「犬」にしては珍しい毛並みのその犬は私の傍で何をするわけでもなく窓の外を眺めていた。
「何をぼうっとしているの?」
別に意味はない、ただそこにいるからなんとなく聞いてみただけ。だけど犬はすぐに反応するとこちらの方を見つめながらだらしなく尻尾を振ってきた。
――やめて
私は犬から目をそらした。窓の外に広がる夜の街、私が改変したこの世界。もう何度こうやって半分に欠けた月を見上げただろう。窓に私の姿が映る、喪服の様な黒のドレスに身を包んだ少女が。長い黒髪に蒼白い肌、そしてアメジスト色の瞳――疲れたような顔つきでこちらを見つめている私を私は手で塞いだ。
「魔獣を狩ってくるわ」
「私も行くわ」
犬があろうことか私の傍によってきた。いつの間にこんなに懐いていたのだろう。迷惑なだけなのに。
「ついてこないで」
「なんで」
「私は悪魔よ」
「関係ないでしょ」
生意気な犬だ。私はただ一人であの子のために戦い続けたかったそれだけなのに、どうしてこんな犬を手元に置いてしまったのだろう?
「貴方が邪魔なのよ、美樹さやか」
私は犬の名前を呼んだ。そう、犬の名前は美樹さやかといった。今までの記憶を失くし、そして再び取り戻そうとしている馬鹿な犬。
「邪魔でもなんでも、あたしはあんたについていく、もう決めたんだ」
かつて私が魔法少女だった頃と同じようにまっすぐな目で私を見つめてくる。私はこの目が嫌いだった。馬鹿正直でまっすぐで、私がどんなにがんばっても何度も絶望し魔女化したこの間抜けで不器用な子。
「愚かね美樹さやか、本当に馬鹿な犬の様だわ」
「あたし犬じゃない!」
「あらそうだった?」
嘲るように笑うと途端に犬――美樹さやかの顔が赤くなった。本当にわかりやすい馬鹿なひと。巴マミや杏子と違い何故この子はこんなにも単純でそして愚かなのだろうか、私は両手を胸の前まであげた。
「待って」
ほんの数センチほどの間隔をあけて手を止める。
「犬と思ってもいいから」
「え?」
「あたしも一緒に戦わせて」
縋る様な目は本当に主を失った犬の様に必死で。どうしてこうなったのだろう?こういう風になってしまったのだろう?どうして私はこの子にこんな風に見つめられているのだろう。わからない、何も。
『あたしが悪いんだ…あんたをこんなにしたのは…』
あの大雨の日失ったはずの記憶を少しだけ取り戻し、美樹さやかは私にそう言った。濁った死んだ魚の様な目はまるであの絶望に沈んだ時の様で。
『おかしいわ、あなたがこんな風になる記憶なんて無いはずよ…何を見たの?』
『あんたより』
『え?』
『人間の方が、悪魔なんかより、人間の方が…』
美樹さやかの唇には色が無かった。私は彼女の記憶を奪うのをやめた――
あの時どうして記憶を奪わなかったのだろう、どうして家へと連れ帰ったのだろう、そしてどうして…一緒に暮らしているのだろう?
はあ、と息を吐き私は両手を下す。
「…足手まといにはならないで」
「わかった」
やけに嬉しそうな声が背中から聞こえる。ああ、やはりこの子は「犬」だ。そういうことにしておこう、そうすれば何も考えなくていい、そうすれば――
*****
「月が綺麗だね」
私は目を見開いて隣の蒼い髪の女性を見上げた。私よりほんの少しだけ背の高い珍しい「毛並み」の彼女は窓の外を呆けたように眺めていて。
「…何さ」
私の視線に気づいたのか、彼女がこちらをのぞきこんでくる。空の色をした瞳に私が映って。
「なんでもないわ」
「ほんとに?」
「しつこいと嫌われるわよ」
「ぐ…」
口元が緩むのを必死に抑え私は彼女を眺める。
「そうね、やっぱり『あれ』になるとお利口になるんだなあって…そう思ったのよ」
「あれ?」
「成犬」
「ひど!あんたいつまで私のことを犬だと…」
「あら違うの?」
もちろん冗談だ(たぶん)。私はそう言って彼女の身体にもたれた。シャツの肌触りと彼女の腕の熱さが心地よい。ちらりと彼女の顔を覗き見ると案の定赤くなっていて、私はもう口元を緩めるのを抑えなかった。そうして窓の外に視線を移す。広がる夜の街――私が改変した世界はずっと変わらないままで。もう何度こうやって半分に欠けた月を見上げただろう。
「…あっという間だったね」
「そうね」
窓に私の姿が映る、喪服の様な黒のドレスに身を包んだ大人の女性が白いシャツの女性にもたれていて。長い黒髪に蒼白い肌、そしてアメジスト色の瞳――微笑んでこちらを見つめている私を私は手でそっと撫でた。
「さやか」
私は彼女の名前を呼んだ。甘い声になっているのは痛いほど自覚していた。だが仕方のないことなのだ、この長い年月で魔が差してこのひとを受け入れてしまった私の――
「何?」
「貴方の所為よ」
「え?」
私は答える代わりに少しだけ背伸びした。少しだけ高いはずの彼女の背が随分高く感じるのはこの時だけだ、唇に辿り着くまでの距離が遠くてもどかしい。
「ほむら…」
惚けた顔で私の名前を呼ぶ美樹さやか
なんてこのひとは――なんだろう
その顔を間近で眺めながら私は目を瞑った――
END
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Voice
例えば見えないものが見えるようになった――
暁美ほむらは水滴で曇った鏡に顔を寄せ、そうして顔のあたりを手で抑えた。白い細い指がぴくりと一瞬反応したのはガラスのひんやりとした感触のせいだろう、そのまま手をずらすとバスタオル一枚で体を覆った陰鬱な表情の、だが、恐ろしいほど美しい妙齢の女性が映し出された。
「――あなたは誰なの?」
艶のある唇がゆっくりと動き喋りかける、その視線の先は己の顔ではなくその背後にある白い影。影は煙の様に蠢きながら人の輪郭をかたどっていて。切れ長の目を細めほむらはその影を凝視するが、それから数秒も経たないうちに影は消失した。
…ふう
溜息を漏らし、肩を落とすと再びほむらは鏡を見つめた、アメジスト色の瞳が微かに揺れる。濡れ鴉の様な長い髪がバスタオルで覆われていない部分の肌に絡み、その美貌と相まって扇情的な雰囲気を醸し出す。だが当の本人はさして己の美貌に興味が無いのだろう、まるで他人の様に己を眺めていた。
「ほむら」
声がして、ほむらははっと反応し顔を横に向けた、艶のある髪から水滴が零れ白い胸元に落ちる。
「次、私もシャワー使うからさお湯そのまま…」
洗面所の入口から白いワイシャツとデニム姿のすらりと背の高い女性が出てきた。が、洗面台の前で立ちすくんでいるバスタオル姿の美女を見て取ると女性の身体はぴたりと硬直して。
「ひゃあ!」
変な叫び声をあげながら女性は入口から姿を消した。続いてどしん、という大きな音と震動が起きる。ほむらが咳をするように肩を震わせた。
「ねえ、一応聞いてあげるけど、大丈夫?」
返事の代わりにう~といううめき声が聞こえ、ほむらは唇に指をあてた、先ほどまでの陰鬱な表情はもうそこにはない。
「まあ一応…」
頭を抑えながら女性がひょこっと顔だけ出してぼやいてきたが、ほむらと目が合うと恥ずかしいのかまたひょこっと顔を隠した。
「大丈夫よ…」
小首をかしげるほむら。姿は見えず相手のぼやき声だけ聞こえるというのもいささかシュールで。はあ、とひとしきり大きなため息をついてほむらが低い声で女性の名を呼んだ。
「さやか」
ゆっくりと女性――美樹さやかが姿を現してくる。ほむらがさやかを睨みながら人差し指をくいくい、と曲げた『おいで』のジェスチャーだ。いや正確には『こっちに来い』か。そうしてとぼとぼとまさしく従者(飼い犬ともいう)の様に悪魔の元に近寄る鞄持ち。
「ねえ、貴方まさかとは思うけど…今更「これ」で恥ずかしがってるの?」
腰に手をあて挑発的な笑みを浮かべながらほむらはさやかを見上げた。バスタオルの中の身体のラインが浮き彫りになり、それに合わせてさやかの視線が遥か遠くの方へと泳ぐ。どうやら図星のようで。
「変なひと」
そう言って予備動作なく、ほむらはすとんとさやかの身体にしなだれかかる、ひゃ、と変な声をあげる相方に苦笑しながら目を瞑ると猫の様に気持ちよさそうに顔を擦り付けた。
――いつもはもっと恥ずかしい姿見てるくせにね?
そう心でほむらは呟くと敢えて念話として相手へと送った。ぴくり、と反応するさやかの身体にまた悪魔の口元が少し緩んで。
「…あんたってもうほんと」
絞り出すようにさやかの口から声が漏れる、念話で返す余裕は無いようだ。そういうわかりやすい所は操縦しやすいという意味で悪魔は気に入っていて。
「あれ、ていうか、あんた髪まだ濡れてるじゃない!乾かさないでこんなとこでずっと何してたのよ?」
「ああ…ちょっとあり得ないものが見えたのよ」
「あり得ないもの?」
「ええ、あそこに」
さやかにもたれたまま顔を鏡に向け、くい、とほむらは顎を軽く突き出した。さやかが鏡へ視線を向ける。そこに映っているのは電球色に染められた壁紙をバックに寄り添いあっているバスタオル姿とワイシャツ姿の妙齢の女性だけで…他には誰も映っていない。はっ、とさやかが何かに気づいたようにほむらを見つめる。
「え?待って、それってまさか幽…」
こくり、と頷くほむら。さああ、とさやかの顔から血の気が引いていった。
「なあに?赤くなったり青くなったり忙しいひとね」
上目遣いで苦笑するほむら。
「…まさか貴方幽霊が怖いの?」
「ち、違うわ…ううん、ちょっと、ちょっとだけ怖いかな?」
元かばん持ちの存外素直な言葉に悪魔は吹き出して。
「魔法が使えるのに怖いだなんて貴方相当ヘタレね」
「ひど!…まあ、でもそうよね…なんでだろうちっちゃい頃から苦手だったからかしら、あんたは…大丈夫なの?」
「え?」
ほむらは珍しく目を少しだけ丸くした。穏やかなたれ気味の目が見つめ返してきて。
「あんた怖くなかった?」
「…私は悪魔よ」
「関係ないじゃん」
ほむらのアメジスト色の瞳が一瞬揺らいで。
「ああ、でもとにかくお祓いしなきゃ…」
「さやか」
「え?」
細い白い腕をさやかの背中に回しその胸にほむらは顔を押し付けた。
「ちょ…ちょっと待ってそんなに顔押し付けられたら…」
「押し付けられたら…何?」
「変な気持ちに…」
ふっ、とほむらはさやかの顔に胸を押し付けたまま吹き出した。そうして顔をゆっくりとあげる。
「…貴方のこと今度から『リトマス紙』って呼ぼうかしら」
「なんでさ」
「また真っ赤になってるからよ」
そう言って、悪魔は鞄持ちの顔に自分の顔を近づける、互いの瞳の中に己を見出せるくらいにとても近く。
「あんた、髪乾かさないと――」
「構わないわ」
「え?」
「もう一度シャワー浴びるから」
満足そうにほむらは微笑んだ。何故なら鞄持ちのその蒼い瞳に劣情の光を見出したから。
「『この後』でね」
――でも貴方がいればきっと
そうしてほむらは目を閉じ唇を押し付けた――
*******
何故今ここにいるのか「彼女」自身もわからない、そしてここがどこかさえも。
ただ気づけば彼女はそこに「在った」。
――伝えて
彼女は声を発した。さきほど彼女を認識した女性に向かって。
だが聞こえている様子はなかった、女性はもう一人の女性と抱き合っていて。その光景が眩しいのか、彼女は目を細めそうして煙の様にふっと消えていった――
END
R18短編集にその後のエロが描かれています(「声」)
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眼鏡の奥の(番外編)
※誤ってR18にUPしたので削除してこちらにUPしなおしました。
「あんたさあ、謝ってばかりじゃなくてもうちょっとその…」
「え?」
「さ、さやかちゃん…せっかく3人で協力したばかりなのに」
「あ~、悪いそう言う事じゃなくて…」
美樹さやかはかりかりと乱暴に頭を掻いた。そうして腰に手をあてて困った様に夜空を見上げる。月は3人を祝福するかのように輝いているが、さやかは何かどうしてか気分は今一つ晴れてないようで。もう一度何か言いたげな顔をしてほむらの方を振り向くが、その気弱そうな表情を見てはあ、とため息ひとつつくと変身を解いた。それに合わせてまどかとほむらも制服姿に戻る。夜の駅はとても静かで。
「ま、いっか、さ帰ろ帰ろ、明日も学校だぞ~!」
そう言って二人に笑いかけるとさやかはスタスタと歩き出した。ほむらに笑いかける様になっただけでもだいぶ進展しているのだが、どうにもさやかの態度が腑に落ちなくてまどかもさっきまでの高揚が嘘のように沈んでいく。それを察しておどおどと声をかけるほむら。
「鹿目さん…」
「ん?あ、私達も帰ろっか」
にこやかに微笑みかけてくれるのだが、どうにも晴れやかでないその笑顔にほむらの顔も曇る。だが違うのは――魔女を倒す前と明らかに違うのは、ほむらがそこで顔をあげて――
―――
あ~調子狂うなあ…
どうしてだか、この眼鏡の――最近学校にやってきた――転校生のことがさやかは苦手だった。いつもおどおどしているし、足は引っ張るし、幼馴染のまどかにいつもべったりだしでどうにも…そうどうにも仲良くできなかった。たぶんにして嫉妬の様な気持ちもあると思うし、存外自分は心が狭いのだと嫌でも気づかされてさやか自身落ち込んでもいる。だがそれも先ほどの魔女との戦いで少しは変わったはずで――
『はい、さっきはサンキュ』
『ありがとうございます』
グリーフシードを渡した時に初めて握った手――さやかは自分の左手を眺める。
「み、美樹さん!」
「わ、びっくりした!何よ」
気づけばさやかのすぐ後ろにほむらが立っていて。
「あ、あの今日は美樹さんのおかげで魔女を倒すことができました…ありがとうございます」
「何言ってんのさ、あたしだけじゃなくて、まどかやあんたがいてくれたおかげだって」
「で、でも…」
「あ~もうそう言うところがさ…」
「え?」
きょとんとした表情のほむらを見つめ、そこでさやかはまた言葉を濁らせる。困ったように眉を下げたれ気味の目をほむらの背後に向けるとまどかと目があって。
「さやかちゃん…何か言いたいことがあるんだったらちゃんと言って欲しいな」
「あ~まあ…」
視線をほむらの方へ移せば、今度は彼女と目があった。眼鏡の奥の瞳は紫色で。
――綺麗
ものすごく落ち着いたまなざしにさやかは思わず驚く。
――本当はこいつ…
「あ、あの美樹さん私に何か言いたい事があるなら…言って欲しいです…」
「……」
「そうしてもらわなければ私…」
落ち着いた眼差し、だがその瞳は揺れていて。彼女も必死なんだとようやくさやかは気づく。
ぽん、とほむらの肩にさやかは手を置いた。
「…美樹さん?」
「悪かったわよ、なんか言いにくくてさ、あんた…」
「はい」
「もうちょっと、堂々としなよ」
「え?」
きょとんとするほむらの肩をまたぽんぽん、とさやかは叩いて、笑った。
「あたしって馬鹿だからさ、なんでもはっきり言ってもらわないとわかんないんだ、こいつ何考えてるのかな~とか、頭痛くなっちゃうし、あんたがおどおどしてたらほんとどうしていいかわかんなくなる…」
「美樹さん…」
「だからさ、あんたにはもっと堂々としてもらいたいんだ、勝手なお願いだけどさ」
「い、いいえ、いいえそんなこと…ないです」
首を思いっきり振るほむらを見て苦笑するさやか。
「まあ、でも案外あんたも…あたしが思ってるよりしっかりしてる気がするしね」
「は、はい、私…頑張ります」
「よかったあ…これでさやかちゃんもほむらちゃんと友達だね」
「え、ま、まあ改めて言われると変な感じだけど、そうだね」
頭を掻くさやかに満面の笑みのまどか、そして口元を緩めているほむら、先ほどの魔女を倒した直後の和やかな雰囲気に戻っていて。
「それじゃあ改めてよろしく転校生」
手を差し出すさやか、だがほむらはなかなか手を取らない。不思議そうにさやかがその顔を見つめると、ほむらが右手を胸にあてながら囁いた。
「名前…」
「え?」
「名前…で呼んでもらいたいです…」
「ああ…」
癖なのだろう、またさやかは頭を掻いて、そして珍しく固まった。
「どうしたのさやかちゃん?」
不思議そうに首をかしげるまどか。ほむらはさやかの顔をじい、と見つめ口を開いた。
「美樹さん…」
「な、何?」
一歩ほむらがさやかの元へ近づいた。
「もしかして…照れてます?」
「な…」
さやかが驚いた顔でほむらの顔を見つめる。
眼鏡の奥のその目は細められ、口元は綻んで――まるで
――別人?
さっきまでの雰囲気とは全く違う少女、だが一瞬でそれは消えて。
「い、嫌なら…無理しなくても」
「あ…ああ、そんなことないって」
そうしてさやかは顔を赤らめながら再び右手を差し出すと「ほむら」と小さく囁いた。
「はい」
嬉しそうに微笑むほむら。そうして二人は手を繋ぐ。
「よろしくお願いします、美樹さん」
「あ、う、うん、よろしく」
少し戸惑うさやか。現金な話だが、握手をした瞬間もう苦手意識はもうなくなっていて。その代わり――
「ど、どうしたんです、私の顔…何かついてます?」
「あ、ううん、なんでもないけど」
「けど?」
さやかは赤くなった頬を軽く叩いて、ほむらに向かって、ニヤリと笑う。
「ええい内緒だー!」
「きゃあ!?」
「さやかちゃん?」
幼馴染にするように、さやかはほむらに抱きついた。
「み…美樹さん…」
「ほむらもあたしの嫁になるのだー!」
「ちょ、ちょっとさやかちゃん?ほむらちゃん嫌がってるよ?」
変な悲鳴をあげながら体をよじるほむらとしっかり抱きつくさやか、そして傍でおろおろするまどか、三人の少女達は輝く月の下楽しそうにじゃれ合っていた。
「……」
だが、抱きつかれた眼鏡の少女の表情はほんの少しだけ――
END
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ささやき
「ねえ、帰りに塩買ってきてくれない?」
「塩?」
唐突に美しい悪魔がそう言ってきたものだから、思わずさやかは目を丸くして聞き返してしまった。もう共に暮らす様になってからだいぶ経つが未だにこの女性が世俗的なことを口にするのが信じられないようだ。
「貴方、塩知らないの?」
ベッドの上でキャミソールを着けながら、美しい悪魔――暁美ほむら――がさやかを睨む。その白い肌が眩しいのか、朝の陽ざしが眩しいのかとにかくさやかは目を細めて顔を背けた。それを見て肩をすくめ、はあ、とため息ひとつつくとほむらは艶のある声で語り始める。
「いい?塩っていうのはね、塩化ナトリウムを主な成分とした辛くて白い…」
「ちょっとちょっと、それくらい知ってるわよ」
「あら、顔を背けたからてっきり誤魔化したのかと思ったわ」
左手で長い黒髪を梳きながら、ほむらは艶やかに笑うと軽やかにベッドから降りた。そうしてパンツスーツ姿で窓辺に佇んでいるさやかに向かってゆっくりと歩み寄ってくる。キャミソール一枚を身に纏ったその姿は艶やかで。
――やば
隣に立ったほむらからさやか顔を背ける。ほむらの美しさは桁違いで、同性にも――正確にはさやかにも――だいぶ有効であるようだ。眉をひそめ小首をかしげるほむら。
「一体どうしたのよ、まさかまた今更照れているとかじゃないでしょうね」
「いや、それがほんと…そうなのよ」
そう言ってぱちぱちと両手で己の頬を叩くさやか。その動作に目を丸くさせるほむら。
「ほんと貴方には驚かされるわね…幾つ?」
「24…」
くっくっと肩を震わせて笑うほむら。
「貴方がそれで24歳なら私は240歳くらいね」
「にひゃ…そんなに?」
「もっとかもよ…それにしても」
ほむらがさやかを上目遣いで見上げる。さすがにもう顔を背けられないと思ったのかたれ気味の目で見つめ返すさやか。
「夜はあんなにいろいろしてくれたのにね?」
「…っそれは…」
かああ、と真っ赤になったさやかの顔を上目遣いで見つめ、ほむらはゆっくりと囁いた。
「いつ私に慣れてくれるのかしらね?」
「え?」
見下ろすさやかと見上げるほむら、二人はしばらく見つめ合って。ふ、と息を漏らしほむらが少しだけ口元を緩めた。
「…まあいいわ…それより塩忘れないでね?台所にあるのでは足りないから…」
「もしかしてお祓い用?昨日の…」
『ちょっとあり得ないものが見えたのよ』
昨日ほむらは洗面所であり得ないもの――端的に言えば幽霊――を見ている。
ほむらはさやかの問いにただこくりと頷いた。そうして横目でさやかを見つめた後クローゼットへ向かう。華奢な背中に見惚れているのだろう、しばらくほむらの後ろ姿を見つめるさやか。だが彼女が着替え始めるのを見て視線を窓の外へ移す。悪魔もどこかへ出かけるらしい。
「あんた家の周りに結界張ってなかったっけ?」
「あれは対魔獣用よ…まあ貴方みたいな不審者にも効果はあったはずなんだけど…」
「なにげにひど!」
「……私でも全てを網羅できているわけではないのよ」
パタン、とクローゼットを閉める音。
「ああ、まあそれは…」
悪魔は絶対的な力を持っている、だが世の事象全てに及ぶかといえばそうとは限らないのだ。
「面白いと思わない?」
「え?」
黒のワンピースを着たほむらが髪を梳きながらさやかの元にやって来る。そうして腰に手をあてて覗き込む様にさやかを見上げた。はっとするほどの美貌。
「この世界にはまだ私の理解を超えたものが存在するのよ…」
「あんたの理解を?」
「ええ、この世界を改変した悪魔である私の理解をね」
「そんな…」
「怖い?」
小首をかしげさやかに尋ねるほむら。さやかはふう、と息を吐くとゆっくりと首を振った。
「あんたと一緒なら怖くないわ」
あの頃とは違う深い優しい声。目を丸くする悪魔だがすぐに陰鬱な眼差しに戻りその目を伏せた。そうして肩を二、三回震わせて再び鞄持ちを見上げる。アメジスト色の瞳がさやかを捉えて。
「…成犬になると頭が良くなるのね」
「犬じゃないから!」
ほむらは爽やかに笑うとさやかの胸に飛び込んだ。こうなっては何も言えないのか、眉を下げさも情けない表情を浮かべるさやか。
――もう
さやかの手がほむらの腰に回される。安心した様に目を瞑るほむら。あの頃からは想像もつかなかった状況だが悪魔にとってはもうこの状況を手放せなくなっていて。
「ねえ」
「何?」
「私も貴方と一緒なら――」
悪魔のとてもとても小さな声を鞄持ちは聞き逃さなかった。あの頃の様に無邪気に満面の笑みを浮かべるとさやかはほむらを強く抱きしめた。
私も貴方と一緒なら、怖くないわ――
END
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もうすこしそのままで
さやかが警察官採用試験(二次・面接)を受けるシーンがありますが、そこでうちの本編(「アンダーカバー」R18)にも登場、さやかの恩人ともなる人事課長が登場します。リンクした話ですが、こちらだけでも読めます。また興味ある方は本編も是非。
家に帰る途中白い猫を見つけた。
あたしは犬が好きなので無視したら、猫が話しかけてきたのでびっくりした。
おもちゃかなと思ったけどそうじゃないみたい。
そして猫はあたしの願いごとをひとつだけかなえてくれると言った。
まほう少女になったらかなえてくれるって。
*****
「早いわね」
「え?」
芝生に寝転びながら、無邪気にこちらを見つめ返してくる相方を睨むと、黒髪の女性――暁美ほむらははあ、と大きなため息をついた。
「時の流れがよ」
我ながら辛抱強くなったと悪魔は秘かに思っていた。まどか以外の人とこんな風にゆっくりと会話のキャッチボールを試みるなんて、昔なら考えられなかったことだ。
「ああ…」
合点がいったのか、蒼い髪の女性――美樹さやかはたれ気味の目を丸くした後にっこりと微笑んだ。その表情はあの頃と同じで憎らしいほど無邪気だ。だが彼女の中にあの頃の面影を見つけ出し安堵してしまうのも事実で、それが郷愁の様なものなのか、それとも別の感情によるものなのか悪魔にはわからなかった。いやわかろうとすることを避けているのかもしれない。ほむらは手を伸ばし、すぐ横で寝転んでいる「元鞄持ち」の額をぱちん、と叩いた。
「あいた!」
額を抑えて悶えるさやかを見て、ふ、と咳をするように肩を震わせる悪魔。面白そうにしばらく様子を見た後、視線を前方へ向けた。視界に映るのは青々と広がる芝生と晴れた空。
『表面上は人として生きていこう』
この蒼い髪の女性と一緒にそう決めたのは5年前の高校2年生の時だった。どうしてあの時美樹さやかを許容し、生活を共にするようになったのか今でも悪魔自身わからない。だが、そうすることが必然だったと今では思うようになっていた。そう例えばこんな風に晴れた空を見上げ、吹いてくる風の心地よさに目を瞑りすぐ傍にいる彼女を感じる時は特に。
――私は変わった
悪魔は傍でリラックスしきっているさやかに再び視線を移す。自然と口元が緩むのも、心が軽くなることも少しは許せるようになったと思う。
「リラックスしすぎよ貴方」
「そ?でもま、まだ魔獣の気配も無いし少しくらいはいいんじゃない?ん~…」
そう言ってさやかは身体を伸ばした、すらりと伸びた手足にあの頃よりも伸びた背。ひきしまった顔は精悍で。仕草はあの頃と面白いくらい同じなのだが、表面上は成長しすっかり大人だ。見慣れているはずなのに、ふとした拍子に悪魔は改めて思い知らされてしまう、私も彼女ももう大人なのだと。
「よいしょっと」
さやかは軽やかに体を起こすと、黒髪の女性に倣うように体育座りになった。そうしてパーカーとジーンズについた芝草を手で払うと、当たり前の様に距離を詰めてきた。ほんの数センチほどで触れる間隔で寄り添う。心地よい彼女の体温を感じながらもほむらは何も言わず前を向いた。風が吹いて彼女の長い黒髪とワンピースがなびく。黒以外のワンピースを着るようになったのは彼女と一緒に大学に入学してからだ。
「あ~あ、もう大学4年かぁ、あっという間だったなあ」
「そうね」
鞄持ちの言葉に悪魔は同意した。
「ね、知ってる?楽しい時は時間が早く過ぎて、苦しい時は時間が進むのが遅いって」
「小学生じゃあるまいし、体感の問題でしょう?」
「だからさ、私、この大学生活がすっごく楽しかったんだと思う、過ぎてしまうのが惜しいくらいにさ」
「……」
ほむらはふいに口を閉ざした。憂いのある美しい横顔。
「あんたも?」
「……」
「そっか」
何も答えてないのに、こんな風に微笑んでこちらを見つめてくれるようになったのはいつからだろう?美樹さやかはだいぶ変わった、いやもしかしたら元々そうだったのに自分が見ていなかったのかもしれない、と悪魔は思い直す。気が遠くなるほど時を繰り返している間に次第に視野が狭くなっていったのは自分の方だ。佐倉杏子も巴マミも遠ざけて、当然この誰よりも手がかかった「不器用な子」も近寄らせないつもりだった、それなのに。
「あの…こんにちは」
背後から若い女性二人が声をかけてきた。ほむらに見覚えはない。ここはキャンパス内の芝生園地なので大学生なのだろうが、それ以上の情報はない。
「やあどうも、何?どこの学科?」
さやかが気軽に対応する。爽やかな笑顔。二言三言さやかと楽し気に会話を交わすと、ほむらとさやかを交互にちらちらと見つめながら二人は去っていった。
「相変わらずね」
「何が?」
こういう所は変わらず鈍感だ。
「もてるわねって、言ってるの」
少し語気が荒くなって。
「ああ、違うわよ、あの子達あんたに興味があったみたいよ、ずっとあんたの顔みてたでしょ?」
「そうかしら?」
本当にそうなのだろうかとほむらは思う。彼女達の視線はどちらかといえば――
「そうよ、やっぱすっごい美人はどちらにもモテモテで大変だわこりゃ」
屈託なく笑うさやかの横でほむらは首をかしげる。ほむらは自身の容貌にあまりにも無関心だった。確かに入学当初から周りは異様に騒がしかったし、不特定多数の学生にいきなり「美しい」「綺麗」などと言って近寄られたことは数えきれないくらいある。時には学生の範疇を超えた危険な輩にも。だが特に嬉しいとも怖いとも思ったことは無い。ただ一人の例外を除いて。ほむらはその『例外』を見つめながら口を開く。
「貴方だって…」
「え?」
「なんでもないわ」
あまりにも無邪気に見返されて気を削がれた悪魔は言葉を濁した。ほむらほどではないが、さやかもよく声をかけられることがある、主に同性からだが。
――今ならよくわかる
まどかが彼女といつも一緒にいたことも、そして傍でいつも幸せそうに笑っていたことも。認めたくないが、彼女には――美樹さやかにはそれだけの魅力があるのだ。
「…それにしてもいい天気だね」
口を閉ざしたほむらを見て、苦笑しながらさやかはそう言った。これが彼女の長所だとほむらは思う。相手に無理強いはしない。風が吹いてさやかの髪を揺らした。空と同じ色の髪がさらさらと揺れて。
「綺麗ね」
「ん?」
「……空が」
「ああ」
確かにね、とさやかは呟いて空を見上げた。晴れた昼下がりの空。今この時は魔獣は現れないで欲しい、と悪魔は秘かに願った。
もう少し、そのままで――
****
午後、講義があるというほむらを講義棟まで送るとさやかは一人噴水広場の周りをうろうろと散策していた。
『哲学科はお気楽ね』
そう言って曇った表情で講義棟へ入っていった黒髪の女性の顔を思い出し、さやかは自然と笑みを浮かべる。あんな風に彼女が弱音や愚痴を吐いてくれること自体がさやかには嬉しくて。あの時は心底講義を受けるのが嫌そうだった。もしかしたらもう少し一緒にさやかと時を過ごしたかったのかもしれない。
――自惚れすぎかなあ?
でもそうあって欲しい、さやかは秘かに願う。彼女がまどか一辺倒だということは嫌というほど知っている。それでも。
「よいしょ」
さやかは噴水の縁に座る。3年生の頃までは、さやかに非常に懐いていた他学科の女子学生がこの時間帯しょっちゅうつきまとっていたが、最近はめっきり会っていない。4年生ともなると講義以外で色々と忙しくなるのだろう。
「いろいろあったなあ」
どうにもこの蒼い髪の女性は独り言が癖らしい。そう呟くと、はあと息を吐いて空を見上げた。その表情はどこか寂し気で。しばらくしてからさやかは俯くと、パーカーのポケットからハガキを取り出した。
〇〇県警一次合格通知書
第二次試験のご案内――
いつになく真剣な眼差しで、ハガキの文面を読む。一瞬口元を緩めるが、今度はどこか途方に暮れているような様子で噴水広場の正面にある講義棟を見つめた。
******
「暁美さんは本当に第三の選択をするのね」
品のある初老の女性が穏やかに微笑みながらほむらを見上げる。
「第三の選択…ですか?」
ほむらは不思議そうに初老の女性――佐藤清子教授を見つめた。
彼女は化学科の主任教授であり、ほむらのゼミの担当教授でもある。不思議なことだがほむらはこの初老の女性の中に最愛の人―鹿目まどか―の面影を見出していた。それが何故なのかは未だにわからない。外見が似ている訳でもないし、彼女がまどかと血縁関係にあるわけでもない。だがどこかが似ていると。
「進学でもない就職でもない道を歩むということもまた冒険よ」
「そうですね…」
ほむらは目を伏せた。
講義が終わり人気の無い講堂には柔らかい日差しが差していて。
「あらあら」
憂いのある表情を見て、初老の女性は目を細めた。
「あなた自身が選ぶことなのだから、気兼ねすることは無いし気に病むことは一つも無いのよ」
「ありがとうございます」
ほむらは心を込めて佐藤教授に礼を言う。最愛の人に似ているからというだけでなく、尊敬できる人物としてほむらは彼女を敬愛していた。その敬愛する人物に勧められた進学の道も科捜研の採用試験の受験も断ったのだから、気に病まないということもまた難しいが。
「ふふふ、でも本当にあなたは不思議な子ね暁美さん」
「え?」
「私の昔の知り合いに少し似ているわ、たったひとつの大事なものを頑なに守ろうとする所…何を大事にしているかはわからないけど、あなたは何かを必死に守ろうとしている様ね」
ほむらの目が見開かれる。何が起きたかは知らなくとも本質を理解することができるこの初老の女性の慧眼にただただ感服するしかなくて。
「はい…」
ほむらは素直に認めた。珍しいことだった。
「やっぱりね、でもね暁美さん、近くであなたを見ている者からするとそれはとても辛いものよ、あなたを大事に思っているなら尚更にね」
「すみません…」
「あら、私のことじゃないのよ、もちろん私もあなたのことはとても大事に思っているけれど、もっと身近にいるでしょう?」
「え?」
「あの元気な子よ」
蒼い髪と空が同時に浮かんで。佐藤教授は美樹さやかも知っている。一般教養の化学を担当している佐藤が、講堂で頭を抱えている蒼い髪の学生と横で「優しく」指導していたほむらを見かけたのがきっかけだった。それ以来二人が一緒にいる時に会話を交わしたこともあるし、ゼミに入ってからはほむらからさやかの話題が出ることもあった。
「あの子とはいつも一緒にいるし、部屋もシェアしているんでしょう?」
常に一緒にいるのは魔獣退治の時に効率的だし、生活を共にしているのはなし崩し的にそうなっただけだと思っていた。いやそう「思い込んでいた」。ほむらの沈黙を肯定と受け取ったのか、初老の女性は目を細めて。
「暁美さん、身近なものは失ってからその大きさに気づくものよ、卒業した後あなたたちはどうするの?一緒に暮らし続けるの?」
初めて聞かれた質問にほむらは正直戸惑った。それは考えてもいなかったからだ。ただ漠然と魔獣を倒すため、まどかを守るためその間はずっと一緒にいるとそう思っていた。だが確かに美樹さやかが共に暮らし続ける必要性は全く無い。共闘はしても彼女が別の場所で暮らすといえばもう――
「はい一緒に暮らします」
だがほむらはそう答えた。美しいアメジスト色の瞳は微かに揺れて。佐藤はその瞳を見つめ、ただ優しく微笑みながら頷いた。
「それなら、大切になさい、大事にするものはひとつにする必要は無いのだから」
こくり、とほむらは子供の様に頷いた。
「あとそれと、私はあなたが卒業してもいい友人でいたいのだけど、それは構わないかしら?」
「もちろんです」
「良かったわ。まだ気が早いかも知れないけど、あなた達が卒業しても時々連絡させてもらうわね、それに…」
ほむらが小首をかしげる。
「私はまだあきらめていないわよ、卒業して環境が変わって価値観も変わるかもしれないわ、度々あなたを進学に誘うかもしれないから覚悟しなさいね」
「教授…」
「あなたはまだ22歳、院に進むのに遅すぎるということはないわ、私が退官するまではしつこく誘うわよ」
「はい」
ほむらは嬉しそうに笑った。それは魔獣や悪魔といったものを全て取り払った、暁美ほむらとしての笑みで――
******
「どうしたのさ、あんた無口ね」
「いつものことでしょ」
「まあ…てかいつもよりって感じ」
さやかは首を少しだけ傾けて、しばらくして戻すとフォークに刺さった肉を口に運んだ。そうして咀嚼しながら頭を小刻みに左右に振る、これは彼女の癖で、ほむらはその一連の動作をじい、と猫の様に見つめた。彼女と暮らし始めてからいろんな面を発見する毎日だが、こと面白いのはこの癖だとほむらは思う。
「うん、美味しいわ」
そうしてにっこりと笑う彼女を見て、ほむらも一瞬口元を緩めるがすぐに戻した。
「自画自賛?それ」
「あんたも手伝ったじゃない、これは二人で作った料理よ」
そう言ってさやかはまた肉を頬張ると美味しそうに咀嚼する。
「…美味しそうに食べるのね」
「そりゃあ食べるの大好きですから」
おどけた様子で肩をすくめるさやかからテーブルへほむらは視線を移す。サイコロ状に切られたステーキと色とりどりの野菜が盛られている皿とスープ、一人で暮らしている時には見た事のない料理。これを当たり前の様に口にすることになって何年になるのだろうなどとほむらが考えていると、さやかがおもむろに口を開いた。
「そういえば、あんたほんとに就職しないの?」
「…ええ」
「佐藤教授が勧めてた科捜研も?」
「受験しなかったわ」
「もったいない…」
二人が通う大学には警察関連の仕事をしているOBが多く、特にほむらの属している化学科は科捜研の職員を多く輩出している。
「時間を拘束されたら咄嗟の対応なんて無理でしょう、ましてや私達は魔獣と戦っているのよ」
「…うん」
ほむらの言葉にさやかは何故か嬉しそうな表情を浮かべて。
「でも、ほんとあんたって真面目だね」
「え?」
「魔獣はもちろんだけど、それで仕事がおろそかになることも嫌なんでしょう?」
穏やかなたれ気味の目がほむらを見つめて。ほむらは思わず視線を逸らした。
「あ~あ、でもこれじゃあ私も…困ったわ」
ナイフを置いて、さやかは右手でポリポリと頭を掻いた。その表情は笑みを浮かべてはいるがどこか途方に暮れていて。
「どうしたの?」
「うん、実はあんたに話さなきゃいけないことがあってさ…これ…」
「なに?」
さやかから差し出された一通のハガキを受け取るほむら。表と裏を交互に見た後、さやかに視線を向けた。美しい切れ長の目。
「一次通ったのね」
「うん」
警察官の採用試験を受験することは以前さやかから聞いていたが、正直ほむらはすっかり失念していた。
「おめでとう」
「え…」
驚いた表情を浮かべるさやかを見て首をかしげるほむら。そんな黒髪の女性を見てさやかははあ、とため息をつく。
「よかった、私あんたに反対されるかと思ったわ」
「どうして?貴方がやりたいことを私が止める権利はないわ」
「でも私達の優先順位はまどかとそして魔獣退治でしょ、警察官になったらきっと…」
「両立できなければ殺すわ」
目を丸くするさやか。目の前の恐ろしいほど美しい女性は無表情で。思わずさやかはごくりと喉を鳴らした。が、ほどなくして黒髪の美女がふ、と息を吐き目を細める。それだけでまるで花が咲いたように可愛らしさが美女に加味されて、思わずさやかは見惚れる。
「冗談よ」
惚けた顔をしたさやかが可笑しくて、ほむらは少しだけ肩を揺らす。
「なあに間抜けな顔して」
「いや…その」
何か言いかけてさやかは口を閉じ、再び開く。
「あんたもそんな顔するんだ…」
「変かしら?」
「そんなことないわ、むしろ――」
「むしろ?」
「……なんでもない」
「変なひと…表面上人として生きるなら一人は普通に働いていた方がいいわ、二人共無職なんて不自然でしょ」
「まあ確かに」
「その時はめいっぱい働いてもらうわ…覚悟しなさい」
口元を緩め、目を細めるほむら、一瞬アメジスト色の瞳が赤くなってまた戻る。
「ありがとう」
「礼には及ばないわ、まだ一次合格でしょう」
「絶対合格するわ」
目を輝かせるさやかを見て、ほむらはほんの少しだけ目を丸くした。
「貴方がそこまで警察官になりたがるなんてね」
振返ればその傾向はあったとほむらは思う。正義感の強さと意固地さと不器用さ、どの周回でも彼女は理想を追いそして現実を知り絶望した。
『悪魔より人の方が――』
あの雨の日のさやかをほむらは思い出す。確かに彼女はあの時何かを悟り絶望したはずだ。だがそれが何なのかは未だにほむらもわからない。
「あの時のことが関係しているの?」
野暮なことは聞くつもりはなかった。だが悪魔はそれを「知りたかった」。
さやかの空の色と同じ瞳が一瞬曇る。口を開きかけたがまた閉じて。
「……無理強いはしないわ」
「ごめん」
謝って欲しい訳じゃない時に謝られるのは腹ただしいことだとほむらはこの時知った。
「お皿…片づけるわ」
そう言ってさやかはテーブルの上のほむらの皿を回収し、自分のそれと重ねると、手慣れた様子でキッチンへと運んでいった。頬杖をつき、その後ろ姿をほむらは眺める。
「あのさ…」
さやかがシンクで作業しながらほむらに声をかける。
「何」
少しだけ口調が苛ただしいそれになっているのはほむら自身も気づいていた。だがどうにも抑えようがない。
「気が早いんだけど、もし合格したら半年ほど警察学校に入校しなきゃならないの」
「…それで?」
「その間は家を空けるわ、でもその後は――」
ゆっくりとさやかがキッチンから戻ってくる。ほんの少しだけ顔を赤らめて
「その…またあんたと一緒に暮らしていい?ここで」
頬杖をついていたほむらが顔をあげる。返事が無いのをどう捉えたのか、さやかは焦った様子で言葉を続けた。
「私、あんたとずっと一緒にいたいの。そりゃまああんたが嫌なら…仕方ないけど、でも…でもやっぱり…」
ふ、とほむらが息を吐いて、そうして肩を揺らす。
「ほむら?」
「馬鹿ね貴方…」
先ほどまでの苛立ちは嘘の様に消えて。
「貴方一人がいなくなろうが、ずっとここにいようが私には全然関係ないし影響はないわ」
「え…」
「だから好きなだけいなさい…ここに」
「ありがとうほむら」
あの頃と変わらない笑顔、そしていつの間にかほむらの右手は彼女の両手で包まれていて。アメジスト色の瞳が微かに揺れる。
「温かいわね」
「え」
「貴方の手」
そうしてほむらは左手をそっとさやかの両手に添えた――
****
まほう少女になったらかなえてくれるって
娘の日記はそこで終わっていた。男は食い入るようにその文を見つめ学習机に置く。娘が失踪して8年、もう数えきれないほど読んだ日記にも手がかりは見つからなかった。
『あの子が帰ってこないの』
あの時の妻の震えた声と表情が今でも鮮明に思い浮かぶ。
『大丈夫、俺が探し出してやる』
男は刑事だった。娘を見つけ出せるとそう信じていた。
無事でいて欲しいという願い、そして今この瞬間愛しい娘が怖い、痛い思いをしていないかという狂おしいほどの不安と恐怖の中、男は必死に娘を探した。
だが見つからなかった。
――気が狂いそうだ
そして文字通り妻は発狂した。娘を思うが故精神は崩壊しかつて幸せだった頃の思い出の中に妻は逃げ込んでしまった。病室で幸せそうに笑う妻を見舞う度、娘が受けている(あるいは受けた)であろう苦しみを想像しながら嘆き悲しむ日々を送るよりも、妻にとってはこれが良かったのかもしれないと男は思うようになっていた。
「いってくるよ」
娘の写真に声をかけ、男は部屋を出る。可愛らしいぬいぐるみと中学の教科書、部屋はあの時のまま――
****
「おはようございます」
「おはよう」
白い執務室内で挨拶を交わし、男は窓際の机に座る。机には『人事課長』のプレート。
皮肉にも娘が失踪してから男はとんとん拍子に出世した。マル暴や刑事畑を歩いていた男は畑違いの人事課へ異動させられた途端、人の本質を見抜く才能が開花し頭角を表したのだ。
「課長、面接試験の事前打ち合わせですが、0930に会議室で行います」
「わかった」
細面の部下の報告を聞き、男は頷く。部下はそれでもその場を動かないため、男の表情がやや険しくなった。
「どうした?」
「いえ、本日は課長の娘さんの…」
「ああ」
今日は娘の誕生日であり、そして失踪した日でもあった。部下はなんともいえない表情をしながら言葉を探しあぐねている。言葉を完結できないのにそれを発する所は、過度な共感能力故だろうと男は思った。現場には不向きな能力だが、人事には向いている。
「気にするな…もう8年目だ」
「はい」
ほお、と息を吐く部下を見て、男は微かに口元を緩めた。
「…事前打ち合わせの資料を見せてくれ」
「わかりました」
A4サイズのクリアファイルを受け取ると男は中の書類を取り出した。採用試験一次合格者のリストに『要打ち合わせ』の履歴書の写しとその関連資料が入っている。要打ち合わせとは面接試験の前に試験担当者が事前に打ち合わせする必要がある受験者のことである。マエ(前科)や事件の当事者だったものが警察官の採用面接を受ける場合にだけ行われるものだ。
「今回は念入りに打ち合わせする必要があるな」
誰にというわけでもなく男は呟いた。部外秘の印が押された履歴書の写しは一枚。マエでなく事件の当事者だ。しかもその事件は8年前見滝原市で起こった殺傷事件だった。暴力団員が殺され誘拐された女子中学生が保護された、平和な街を震撼させた恐ろしい事件。その事件の目撃及び通報者が今回警察の採用面接試験を受験するのだ。男はふと娘のことを思い出す。もし生きているならばちょうど受験者と同じ年齢だ。男は時の流れを痛感しながら書類をファイルに戻した――。
***
面接試験の担当者は警務係長、刑事課長、そして人事課長である男の三人だった。司会進行の警務係長に警察の職務への適性を主に見極める刑事課長、そして人としての基本的な部分を見極める人事課長という体で役割が分担されている。
「では、役割は今お伝えした通りに」
警務係長の言葉に刑事課長と人事課長が頷く。面接担当者席に着席すると警務係長がドアに立っている部下に向かって手をあげた。面接試験開始の合図だ。リクルートスーツ姿のがっしりした体型の男性が入ってくる。ドアでの一礼から着席までの動線はマニュアル通りと言っていいほど完璧だ。実際、公務員対策講座などを実施している専門学校のマニュアルだろうと男は思った。案の定男が思った通り警察官の志望動機もマニュアルにありそうなものだった。純粋に警察官に憧れる者、公務員として滑り止めに受ける者多種多様だが志望動機について「正義のため」「世の中のため」という言葉が出た場合より受験者の心は読みやすかった。本当に「そう思って」いるのか否か。男は心でため息をついた。
三名ほど面接が終了した後、警務係長が部下に向かって「待て」と合図した。
「では次の受験者は『要打ち合わせ者』です、午前中の事前打ち合わせの通りによろしくお願いします」
再び刑事課長と人事課長が頷いた。当時の事件についての質問は刑事課長が慎重に行い適性を見極め、そして人事課長は警察の業務遂行に支障をきたすようなトラウマの兆候の有無を見極める。本来この手の面接では課長クラスの担当者は一人で十分なのだが、今回二人も課長クラスが鎮座しているのはこの『要打ち合わせ者』の存在のためだった。警務係長が手をあげ、部下が廊下へと出る。微かに次の受験者の名前を読み上げる声がした。
ガチャ、とドアが開くと細身の黒のパンツスーツ姿の中性的な女性が入ってきた。一礼して軽やかに歩み寄ってくる。リラックスした無駄の無い動きに男は感心する。
「美樹さやかです」
その瞬間、周囲に風が吹いたそんな気がした。
「おかけください」
警務係長の言葉で美樹さやかは着席する。人事課長である男は観察を続けた。険しい表情ながらも中性的でさわやかな顔つきは好感の持てるものだが、身に纏っている空気は明らかに今までの受験者とは異なっていた。非日常を体験した者が持つ特有の「異質感」というか、何か特別なものを男は感じた。それがあの事件故なのか、それとも他にもその要因があるのか、男は珍しく人としてこの受験者に興味を持った。娘と同じ年齢というのもあったかもしれない。そうして実際不思議なことだが男は美樹さやかに何故か娘の面影を見出していた。容貌は似ても似つかぬというのに「何か」が似ている気がして。
――面白い
不謹慎な意味でなく、男は彼女を面白いと思った。嬉しかったのだ。6年前あんなに悲惨な事件を目の当たりにしてもなお、彼女は恐怖ではなく怒りを抱えている。その強さに。男は警務係長に向かって目配せした。『先に質問をする』の合図だ。男は美樹さやかに向き直った。
『君は何故、警察官を志したのかね?』
人事課長を見つめたまま、さやかは口を開いた。
『悪を撲滅したいからです』
模範的画一的な回答とは逸脱したそれを聞いた瞬間、警務係長と刑事課長の間で緊張が走った。だが人事課長である男はさも気に入った様子で口元を緩め頷いた。
――この子は大丈夫だ
男が求めているのは真実、口だけの偽善は不要。彼女は心の底から悪に怒り、そして憎んでいる。失踪した娘と同じ年の、そして悲惨な事件に関わった娘がこうして警察官を志したことに男は希望を見出していた。男の目と美樹さやかの目が合った。ほんの一瞬だが互いに口元が緩んだ。わかり合ったと言う様に。
絶望の中にも希望があると少しは思えるようになったのかもしれない。
***
〇〇県警察本部の前にやけに一目を引く女性が一人立っていた。長い黒髪に黒のワンピース、とても色白のその美しい女性は腕を組んでなにやら苛ただし気に入口を睨んでいる。
警備をしている制服警官が時折女性に視線を向けるが、離れた所に女性が立っているからか、声をかけるまでには至っていない。と、入口から細身のスーツ姿の女性――美樹さやかが現れ、美しい女性を認めた途端驚いた表情を浮かべ声をかけた。
「ほむら?迎えに来てくれたの?」
「…暇だったからついでよ」
嫌そうに答えながらも、黒髪の女性――ほむらはさやかが近づいてくると覗き込むように見上げてくる。その様子を見て破顔するさやか。
「そっか…ありがと」
「礼には及ばないわ…それにしても」
ほむらがじろじろとさやかを見つめる。文字通りさやかの頭から足の先までねめつけると、ぽつりと呟いた。
「似合っているわね、その恰好…」
「え、本当?えへへ…なんか嬉しいわ」
頭を掻くさやかを見て何か可笑しかったのか、ほむらが口元を緩める。
「あんたも黒だからなんかお揃いみたいね」
「……私は別として、貴方の場合馬子にも衣装だけど」
「ひど!」
さやかの反応を面白そうに見つめた後、ふい、とほむらは背中を向け歩き出した。まるで猫の様だ。黙って悪魔についていくさやか。なし崩し的に二人は帰路について。しばらくしてほむらが口を開いた。
「それで、面接はどうだったの?」
「ん~そうね…ぼちぼちってところかな、あ、でも面接官がとってもいい人だったのよ、私の答えに微笑んでくれたし、なんか嬉しかったわ」
「そう…」
ほむらがほんの少しだけさやかの方へと身を寄せた。
「……受かるといいわね」
「うん…あのさ、ほむら」
「何?」
「『あの時』の事はいつか必ずあんたに話すから…」
「……」
「もう少し待っててくれる?今はその…」
「いいわ、そんな事」
言葉を遮られ、目を丸くするさやかとそんなさやかを見上げるほむら。
「貴方が言いたくないことを私は聞きたくなんてないわ…」
「ほむら」
「それに、時間はたくさんあるわ…だって」
「だって?」
「貴方はずっと私の傍にいるんでしょ?」
「もちろんよ」
にっこりと笑うさやかを見て、ほむらは顔を背ける。その頬を微かに赤くなっているのを認め、嬉しそうなさやか。
「…痛いわ」
「あ、ごめん」
「…だからと言って離さなくてもいいわ」
「そう?」
「そうよ」
そう言って、ほむらはさやかの手を握り返す。いつの間にか二人は手を繋いでいて。
「もう離さないで」
ほむらはそう囁くと、さやかの手を握った。温かい手の感触。
「…さやか?」
反応が無いのを不思議がり、ほむらがさやかを見上げると、鞄持ちの顔は面白いように真っ赤になっていて。それからほどなくして返事の代わりに手を強く握り返されて、ほむらは思わず笑ってしまった。
そう、それはまるで花が咲いた様に――
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その先にあるもの
それは彼女達が神浜市から見滝原市へ戻る最中のことだった。
「ねえほむら」
「え、あ、はい…なんですか美樹さん?」
「あんたさぁ、まどかと前どこかで会ったことでもあるの?」
思わず強張るほむら。美樹さやかが意外と勘がいいことをほむらは知っていた。正確には周回を繰り返してようやく最近になってから気づいたのだが。
「それは…」
眼鏡の縁に手をあてて特に直す必要性もないのにほむらは少しだけそれを動かして、数秒間隔を置いてから剣先を地面に突き刺している魔法少女に視線を向けた。はあ、とため息をついたのはほむらの反応が遅かったからだろう、剣を得物にしている少女はいささかせっかちな所があった。
「どうなの?会ったことあるの、ないの?」
「……いえ、ありません」
少女―美樹さやかの双眸が一瞬暗く光った、ちょうど数日前、魔法少女の真実を知った彼女がほむらへ剣先を向けた時と同じ様に。
「……そう」
――嘘だと気づかれている
正確には嘘というよりも違和感を覚えているのだろう、だがさやかは小首を二三度傾げてから頭を掻いた。
「いや~…ごめんごめん、なんかあたしってちょっと変なところで疑り深くてさ」
屈託なく笑顔を見せるさやかにほむらは驚いた。その双眸にはもう先ほどの暗い光は無い。
ほむらの肩をぽん、と叩きながらさやかは言葉を続けた。
「あんたいっつもまどかの傍にいてさ、なんというか必死で守ろうって頑張ってるじゃん?まどかと出会ったばっかりなのにさ、だから…もしかしたらずっと前から知っていたんじゃないかなあって」
遠くから二人を呼ぶ声が聞こえた。杏子の声だ。いつの間にかマミ、杏子、まどかはだいぶ先を歩いていて。二人だけまるで内緒話をしている親友の様に寄り添い肩を並べ歩いている。こんな構図ははじめてだった。美樹さやかという人物は一度心を許せばここまで親密になってくれるのだ。ほむらはふと己の右手に視線を移す、つい先ほどまでさやかと握り合っていた手に。眼鏡の奥のアメジストの瞳が揺れて。
「…ち、違うんです」
「え?」
「会った事は無いけど、前から知っていて…」
――私、何を言おうとしているのだろう?
震える唇、更に狭まる距離、さやかの体温が間近にあって。
なにもかも初めてだった、こんな気持ちになるのも、全てを彼女に暴露したくなることも。もしかしたら周回を繰り返すことはもう無いのかもしれない。それはあまりにも唐突であっけない終わり。
だが――
「…夢で」
「夢?」
「は、はい魔女に襲われるところを魔法少女に助けてもらった…そんな夢を見たことがあるんです…その時の魔法少女が鹿目さんにそっくりで、だから…」
「ああ…そういうこと」
さやかの表情がぱあ、と輝く。
「まどかとあんた夢で繋がった運命共同体って所なんだ…いや~こりゃまいった」
――これでいいんだ
快活に笑うさやかを見て、ほむらの表情が少しだけ曇る。が、さやかに肩を再び叩かれて。
「まどかを守ろうとしてくれるなんてさ、幼馴染のあたしからしてもありがたいし、まあ、でもまどかがちょっとうらやましいかな」
「おーい、お前らほんと何してんだ?置いてくぞ」
「あ、やば、杏子が怒ったらめんどくさいぞ、行こう、ほむら」
「あ…」
当たり前のようにさやかはほむらの手を握り引っ張っていく。その手はひどく温かくて。
「あの美樹さん」
「ん?」
「わ、私…鹿目さんだけじゃなくて、美樹さんも…」
「あたし?」
ふと立ち止まり振り返るさやか、見つめ返すほむら。
「守りたいです」
それはとても小さい、けれどしっかりした声で。
「……」
「美樹さん?」
蒼い髪の少女が寡黙になるのをほむらはついぞ見た事が無い、数ある周回でもこれが初めてで。再び歩き出すさやかの背中のマントを眺めながら、ほむらの表情は不安なそれに変わる。
「あ、あの…」
「…と」
「え?」
ちらりと振り向いて、さやかははにかんだ様にほむらに笑いかけた。
「ありがと…ほむら」
そう言ってまた前を向くと、もうさやかは喋らなかった。
「美樹さん…」
だがほむらは嬉しそうに口元を緩める。何故なら顔を赤らめながら再び歩き出したさやかの手はさっきよりも強くほむらの手を握っていて。
「遅くなるよ、急ご」
ぶっきらぼうなその声も今のほむらにとっては――
「はい」
そう言ってほむらはさやかの手を握り返した。
この周回で、全てを終わらせたいとそう思いながら――
******
「記憶ってやっかいね」
「どうしたのさ急に」
振返って不思議そうにこちらを見る蒼い髪の女性を見上げ、黒髪の女性は別に、と囁いた。
「そっか」
特に問い詰めることもなく蒼い髪の女性は肩をすくめ、再び歩き出す。白いコートにデニムのパンツを身に纏った長身のこの女性は当たり前のように黒づくめのスカート姿の黒髪の女性の手を引いて。
「あんたさあ、今でも昔のこと思い出したりするの?」
「昔ってどれくらい?」
「改変の改変の前くらい」
「何それ」
ふ、と黒髪の女性は口元を緩めた。もうそんな「昔」を知っているのは宇宙でこの二人だけなのだ。恐ろしいほど冷たい美貌は花が咲いた様なそれに変わって――はあ、と息を吐きながら黒髪の女性は街を見渡した。
ひんやりとした外はもう夜の帳が降りていて、往来の人々もまた足早にそれぞれの帰り場所へと急いでいる。
「不思議ね」
「何が」
「貴方とこうしていることよ」
「ああ、私も時々それ思うわ、なんでこうなったのかなあって、でもさ」
振返ってニイ、と大人らしくない笑い方をする蒼い髪の女性。
「私はあんたとこうしていられることがすごく嬉しいわ」
「馬鹿ね」
その声色は優しくて、黒髪の女性は目を細め言葉を続ける。
「ねえ、前にも貴方はこんな風に――」
「こんな風に?」
――手を引っ張ってくれたわ
「…もう、だからこんな風になにさ」
「なんでもない」
「ったく」
だが蒼い髪の女性の声色もまた優しい。
「ねえ」
「ん?」
「好きよ」
蒼い髪の女性はただ顔を赤くして、そうして「あの時」のようにはにかんだように笑って―
「私も」
大人になった悪魔と鞄持ちは今でもあの頃のように――
END
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フィーリングカップル?4対4(番外編)
真っ白な空間で何故か佇んでいる見滝原メンバー
「あれ、ここどこ?あたしの夢とか?」
「いや、違うんじゃねえの?」
「魔女の結界…とも違うわね」
「でも…変だよ、だってわたし達さっきまで魔女と戦ってたはずなのに…あれ?ほむらちゃん?ほむらちゃんだけいない?」
「ほんとだ、どこいったんだろ、転校生…」
「ここよ」
「あ…もう、どこ行ってたんだよ転校生…って、あれなんか雰囲気違う」
「だな、眼鏡はどうしたんだよあんた」
「やめたの、魔法で視力はどうとでもなるわ」
「それにしても見た目も変わったわね、暁美さん、なんだか自信がついた感じ」
「ええ、ありがとう巴マミ」
「わ、呼び捨て」
「み、皆さん、遅れてすみません…」
「「?!」」
「あ、あれほむらちゃんが二人…?」
「いったいどうしちゃったの暁美さん?まさか佐倉さんの魔法が使えるとか?」
「いや、あたしの場合分身だけど、これ見た目違うだろ」
「あら、昔の私ね」
「え、あ、あなたは私?」
「どうして転校生が二人いんのさ…」
「皆、遅れてごめんなさい」
「「?!」」
「ほ、ほむらちゃん?」
「暁美さんが三人も?」
「どういうことだおい」
「あれ、その赤いリボン、まどかの?」
「ええそうよ…大切にしているの」
「…そっか…てか転…あんたもだいぶ雰囲気違うよね」
「そうね、私はあなたたちのいる時空よりもだいぶ先から来たの」
「時空?それって…じゃああなたたちはそれぞれ違う時空から来た暁美さんなの?」
「ええ、おそらく眼鏡の私があなたたちの時空に存在する暁美ほむら、そして眼鏡を外した私がもう少し未来の私、そしてこの私が誰よりも未来の――」
「あら、それはお門違いね」
「「?!」」
「私こそがもっとも未来の時空から来た、暁美ほむらよ」
「あ、暁美さん?その姿は?」
「ほ、ほむらちゃん…」
「あんた…一体」
「て、転校生何その格好?なんかエロ…」
「あら、言ってくれるじゃない美樹さやか♪」
「わぁ、き、気安く触らないでよ、なんなのこいつ!」
「暁美さんが4人も…これは一体どういうことなのかしら」
「時空が歪んじゃったのかな…」
「ちっ、まあどっちにせよこの変な空間から抜け出すのが先だ、おいさやか得物で一緒に…っておい、まだじゃれあってんのか?」
「違うわよ、なんかこいつが…」
「仲良くしましょうね、美樹さやか」
「こ…こんなものが未来の私だなんてあり得ない…まさか美樹さやかと…こんな…」
「だ、大丈夫ですか?ちょっと未来の私さん…」
「そこ?てか、見てないで助けてよ!転校生ズ!」
ピンポンパンポーン
「「?!」」
「あれ、皆見て、あそこに何か文字が…」
【カップルにならないと出られない部屋】
「「ええ、何それ?」」
――10分後
「いい、皆、整理するわね、まず魔女との戦いでなんらかの影響を受けて私達はここにいる」
(一同頷く)
「そしてなんらかの影響を受けて時空が歪み暁美さんが4人同時に存在している」
(一同頷く)
「そして、カップルにならないとこの空間から出られないということ」
(一同頷く)
「じゃあ、私と佐倉さんがカップルになるとして、後は皆で決めてね♪」
「「ちょっと待って!」」
「あら、皆嫌なの?佐倉さんも?」
「マミが嫌ってわけじゃないけどさ、いきなりカップルを決めると言われてもなぁ」
「私は、さやかちゃんとカップルになりたいなあ…てへへ」
「まどか…(赤面)…う、てかそれよりさあ、転校生ズずっとまどかを見ているんだけど…」
「あの…さ、さすがに自分自身とカップルになるなんてあれなので…」
「ああ、そういうことね、確かに暁美さんが暁美さんとカップルになるなんて、ちょっと変ね」
「だったら、人数的にほむら達とあたし達の組合せになるんじゃない?なああんたら誰と組みたいんだ?」
「「まどか(鹿目さん)」」
「わ、一択じゃん!」
「わ、私はやっぱり鹿目さんしか…」
「まどか以外誰を選ぶというの?」
「…まどかは私の大切なひとよ」
「私が悪魔になったのもまどかの愛ゆえよ」
「おいおい、同じほむら同士で睨み合ってるぜ、まとまるのか?」
「困ったわね、ねえ、暁美さん達、カップルとはいえあくまでこの空間を出るためのものと割り切って話し合ってくれないかしら?」
「「……わかったわ(わかりました)」」
ヒソヒソ…ヒソヒソ…
「それでも…私は美樹さやかだけは死んでもごめんだわ」
「ちょっと、聞こえてるわよクールな方の転校生!」
「み、美樹さんも結構いいひとですよ?」
「結構って、ちょっと!」
「あら、私は美樹さやかでもいいけど♪」
「ひ…エロイ転校生なんか怖!」
「…と、とりあえず何か方法を決めませんか?」
「そうね…消去法はどうかしら?」
「乗ったわ♪」
「それじゃあ美樹さやか以外で…」
「あんたたち全員ひど!」
ー更に10分後
「あの、決まりました…」
「そう、良かったわ、それじゃあ暁美さん達から相手を指名してくれないかしら?」
「は、はい…あ、あの私は鹿目さんと組みます」
「てへへいつものほむらちゃんだね、よろしく♪」
「へえ、そこはすんなり譲ったんだなあんたら」
「ええ、最初の私だもの」
「…その方がいいと私も思うわ」
「まどかには純粋な私がお似合いだわ」
「ありがとうございます、私さん達…(うるうる)」
「そして私は佐倉杏子と組むわ」
「へえ、クールな暁美ほむらってなんか新鮮だな、でも本当のあんたってきっとこんな感じなんだろうな…」
「ええ、あなたはどの周回でも私の理解者だったわ、知らないだろうけど」
「そうかい?まあよろしく」
「私は巴さんと…」
「よろしくね、リボンの暁美さん、ふふ…なんだか初めて会った気がしないわね」
「ええ、巴さんは知らないと思うけど、私にとって、あなたはとても大切な先輩です」
「ふふ、嬉しいわ」
「あら、ひどい顔ね美樹さやか♪」
「…よ、よりによってエロい転校生!」
「エロいなんて失礼ね、それとも私に興味あるとか?」
「ひぃ!くっつかないで!」
ピンポンパンポーン
『カップル成立おめでとうございます、ではこの空間から解放します―』
「てへへよかったねほむらちゃん」
「うん♪」
「無事に出られるならなによりだな」
「そうね」
「帰ったら家でお茶でも飲みましょう」
「はい」
白い空間が輝き、無事に脱出する三組のカップル…が…
「あ、あれ、なんであたし達だけ出られないのさ?」
「さあ?親密度が足りないのかしらね?」
「い、いやそんなことは…ひぃ、へ変なとこ触らないでよ!てかほんとにあんた転校生?」
「私はあなたのよく知っている暁美ほむらよ?鞄持ちさん」
「へ?な、何鞄持ちって」
「とにかく、もっと仲良くならなきゃね、そうしなきゃ出られないわよ?」
ヒイ、ミンナタスケテ―‼ダレカー!
ナカヨクシマショウミキサヤカ♪
ヒイイーー!
「誰か…助けて…」
「さやか?」
「…ん?」
「お目覚め?」
「あれ、ほむら?」
「だいぶうなされてたわよ」
「夢…そっか」
「うなされたり笑ったり、忙しいひとね」
「うん」
さやかは隣でシーツにくるまりながらこちらを見つめている美しい黒髪の女性に微笑んだ。
「でも起きたら最高の気分になったから、いい夢よ」
「そう?それならいいわ…」
そう言って、当たり前のようにさやかの肩に頭をのせてまた眠りにつく悪魔を見て鞄持ちは苦笑する。今の二人ならきっとあの空間でも楽しめるだろう、そう思いながら――
END
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それはチョコよりも甘くて
深夜、人気のない街を制服姿の少女が二人肩を並べて歩いていた。誰かこの少女達を目撃したならば深夜徘徊の危険性を説きながら延々と説教を続けるか、あるいは叱り飛ばしているのだろうが、あいにくもうこの少女達以外は誰もいない。まるでこの世で二人だけ残されたようなそんな静寂な空間で蒼い髪の少女が黒髪の少女に話しかける。
『ねえほむら』
『……何』
黒髪の少女――暁美ほむらはだいぶ間を置いてから返事をした。顔は前を向いたまま声の主に目だけ向ける。不機嫌そうだが美しい少女の横顔。
『…あのさ』
気後れしたのかそれとも見惚れているのか蒼い髪の少女もまた返事にワンテンポ遅れて。
『明日バレンタインじゃん、放課後買い物に行こうよ』
『私はそんなもの興味ないわ』
『興味なくてもさ、行ってみたら楽しいって』
『必要ないわ』
立ち止まり、ほむらは蒼い髪の少女を睨む。その美しくも陰鬱なまなざしは世界を改変し悪魔と化したあの日から変わっていない。その切れ長の目を蒼い髪の少女のややたれ気味な目が見つめ返す。
『あるよ』
その言葉にほむらは眉をひそめて。
『だって私あんたにもチョコレートあげたいんだもの』
滅多に崩れない悪魔の表情が少しだけ変わる。切れ長の目を丸くして、艶のある唇が少しだけ半開きになる。何か言いかけて、空気だけが動いて。
『ん、何さ?』
『なんでもないわ』
だが黒髪の少女の表情は少しだけ――
*****
「おはよ」
「…おはよう」
早朝の美しい悪魔はいつも不機嫌だ。美樹さやかはふ、と口元を緩める。もう数えきれないくらい一緒に朝を迎えて、そのまるで子供の様に不機嫌な顔を見てきたのだ。それがなんだか特別なようで心が躍る。たぶんこの感情に名前をつけるとすれば思い当たるものはあるのだが、どれも陳腐になってしまうのでさやかは敢えて考えない。ただ彼女が素の顔を自分に晒してくれるそれだけでいい、そう思っていて。
「うう…」
小さな唸り声をあげて美しい黒髪の女性――暁美ほむらは窓の傍にあるテーブルに座った。白磁のような肌にキャミソール一枚のそのいでたちはさやかにとってはいつになっても慣れないもので目を背けないと数秒で赤面してしまうものだが、今朝はほむらの仕草がやけに子供っぽいために緩和されている。頭をやや乱暴に掻くとほむらはそのままテーブルに突っ伏した。肩を揺らすさやか。
「ねえ、あんた酔っ払いみたい、ちゃんと眠れたの?」
「……珈琲淹れて」
「オッケー」
彼女の専用カップに琥珀色の液体を注ぐ、あたりに珈琲の良い香りが漂って、上体を起こし頬杖をつくと美しい黒髪の女性は口元を緩める。
「いい香り」
ほむらはさやかを見つめながらカップを口にする。
「美味しいわ」
「でしょ?やっぱ淹れる人の腕がいいから」
「褒めて欲しいの?それ」
肩をすくめさやかはただ笑顔を向ける。ほむらは右手をあげて何もない空間で二三回頭を撫でるような仕草をした。10年も経てばお互いこんな仕草も余裕でできるようになるのだ。
「ったく…」
「あら、ちゃんと褒めたでしょ?」
ほむらがさやかを見つめて笑う、どうやらだいぶ覚醒してきたようだ。露わになった彼女の白い肌が眩しくて思わずさやかは目を逸らす。こちらもだいぶ『覚醒』してきたようで。
「なあに発情した?」
「ぶ…!あ、あんた目ざといわね」
10年経って慣れないといえばこれだ、どうあがいても黒髪の女性に見惚れてしまうとさやかは思った。定かではないが思えば14歳の頃会った時から「美人」だと感じていたのだ、まだ半分以上は失われた『記憶』だが、それだけは明瞭に憶えているのもまたきっと――さやかは意味もなく白いワイシャツの袖をめくると咳払いして美しい悪魔に向き直った。それを面白そうに眺めている悪魔。
「どうしたの?そわそわして」
「な、なんでもないわ」
そわそわしているのには訳があった。今日は2月14日のバレンタイン、昔から彼女に『恋愛脳』とあきれたように言われ続けながらもこの行事はさやかにとっては重要で。(まあもちろん魔獣との戦いにかまけてあまり青春にかまけてはいられなかったが)今朝もチョコレートケーキをカウンター下に隠しているのだが――
「ねえ」
「ん?」
「今日バレンタインね」
いきなりむせるさやか。
「どうしたの?」
「い、いやなんでもないわ」
小首をかしげるほむらはまたいつも通り美しくて、さやかははあ、とため息をつく。
「あら、サプライズしようと思っていたのにがっかりしたという感じね」
「え、どうして」
「馬鹿ね」
どこか呆れたようなそれでいて優しそうにほむらは笑った。こんな風に彼女が笑顔を浮かべるようになったのはいつからだろう。
「サプライズしようと思うのは貴方だけじゃないってことよ」
「あんたも…?それで…」
「そんなに意外?」
ゆっくりとテーブルからほむらは立ち上がった、白い肌が眩しくて。
「ねえ、聞きたいことがあるの」
「何?」
さやかの元に近寄ってくるほむら、ゆっくりとその手が伸びる。
「高校生の頃、貴方言ったわよね私にもチョコレートをあげたいって」
――だって私あんたにもチョコレートあげたいんだもの
「…覚えているわ」
あの頃のことをさやかは鮮明に憶えている。その前の記憶が失われた分新しいことを吸収しようかというように、彼女の――暁美ほむらの表情や言動が脳に刷り込まれているのだ。背伸びしたように大人びた雰囲気を纏った美しい少女の横顔、妖しく光るイヤーカフ。ほむらの手がさやかの腕を掴んだ。
「貴方、私以外に誰にチョコレートをあげたかったの?」
あの頃にはもう上条恭介に対しての恋心は友人のそれへと変化していた。あげたかった相手は決まっている――
「そりゃ…あんたと同じまどかよ、あとは友達や家族…」
だがさやかは言葉を続けることができなかった。気づけばとても柔らかい感触が唇に押し当てられていて。しばらくしてそれがそっと離れると、美しい顔が息がかかるくらいの距離にあった。何かいいたげな眼差し、アメジストの瞳にたださやかは見惚れて。
「――これからは私だけにして」
艶のある唇がそう囁いて、再びさやかのそれと重なり合った。
――もちろんよ
念話で話しかけるが、ほむらからの返事は無い。
――ねえ、ほむら、あの時もさ、ほんとはあんたに一番あげたかったんだ……聞いてる?
返事の代わりに悪魔の細い白い腕がさやかの肩にまわされた。そうして強く抱きしめてくる。
――ったくもう
あの頃の記憶の中にある少女だった悪魔が少しだけ笑ったようなそんな気がして、鞄持ちは心で苦笑した。そうしてさやかも華奢なほむらの体を強く抱きしめ、何も言わずに目を瞑る。
それから彼女達が互いにチョコレートを渡したのは、日もだいぶ昇ってからだが、それはまた別の話――
END
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悪魔と映画と鞄持ち
悪魔と鞄持ちが一緒に映画を観に行くようになったのはいつの頃からだったか。それは実は本人達も正確には覚えていない。ただ気づけば映画館で肩を並べ大画面に見入る様になっていた。時にはコーラやポップコーンをお供にしたり、時には帰り道映画の結末について延々と語り合ったりと、まるで今までの事が嘘のような平和で幸せな瞬間を満喫している。
今日もまたそんな日のはずなのだが――
*****
大画面でイタリア系女性が何か叫びだす、それはまた情熱的な愛の告白で字幕を読まなくとも感情は伝わってきそうな勢いだった。だがそれなのに――
――ま、まずいわ!
美樹さやかは眠い目を必死に見開きながら心で叫んだ。
いや、わかってはいたのだ、夜勤明けな上に残業で丸一日半眠っていない。それなのにこうして映画館に来ること自体危険な行為なのだ、爆睡必至という所か。
「……」
微かな唸り声をあげながら、さやかは右手で顔を一撫でして首を振る。圧倒的眠気に耐えかねてとうとう席のひじ掛けにもたれるようにして頬杖をついた。仕事帰りでどこかしょぼくれた感じのスーツに皺が入る。たれ気味の目をしばたたかせると、ふと右横の席へと視線を移す。そこには姿勢正しく座っている長い黒髪の美しい女性がいて。
――こんな顔もするんだ
一瞬眠気を忘れて女性の横顔に見惚れる。女性は真剣な表情で食い入るように大画面に見惚れている。美しい横顔はだがしかしどこか子供の様でもあり、ついさやかは口元を緩めてしまう。映画よりも彼女の横顔を見つめている方が幸せだ、とでも言うように。だが実際惚けた表情で女性を見つめたままさやかはゆっくりと目を瞑っていった。
――やば!
数秒後びくん、と身体を強張らせ目を開くさやか。伺うように女性を見つめる姿はどことなく飼い主を伺う忠犬の様で。
「……何」
ひどく無愛想な、だが艶のある低い声を発しながら女性がゆっくりとさやかの方を向いた。映画館の青白い闇の中、画面の光で女性の恐ろしいほどの美貌が一瞬照らし出される。
「(なんでもないわ…)」
惚けた顔のまま、さやかは右手を小さく振りながら口パクでそう言った。通じたのか通じてないのか、ただ女性はやれやれという様に頭を振り再び大画面へと視線を向ける。ほっとさやかは溜息をついて、そうしてよせばいいのにまた彼女の横顔を盗み見る。
美しい悪魔――暁美ほむらの横顔を。
****
悪魔と鞄持ちが一緒に映画を観に行くようになったのはいつの頃からだったか。それは実は本人達も正確には覚えていない。だが鞄持ちはそうなるようになったことをとても――
――夢みたい
そう、本当に夢みたいだとさやかは思う。現在進行形で今でも色んなことが続いているが、悪魔と化して世界を改変した彼女と大人になって共に時を過ごしていることが。そしてこんな風にその横顔を見つめていることが。きっとしまいにはこうしていることが当たり前で、彼女が悪魔だったり、自分自身が概念の鞄持ちだったことが夢と思える日が来るのだろうか?
――前を向きなさいこの馬鹿犬
いきなりさやかの脳内に声が響き渡る。念話だ。
――やば!ごめん
念話で返すとさやかは神妙な面持ちで画面に目を向け姿勢を正した。大画面ではイタリア系女性が年配の白髪の男性と抱き合っている、そして切ないBGM。もうクライマックスだ。
さやかはちらちらと横を盗み見る。おそらくこういうシーンで悪魔がどんな表情を浮かべているのか非常に気になるのだろう。
――殺すわよ
ひ、と声を漏らしさやかは今度こそ大画面に集中した。
――にしても、どうしてこいつは私と映画を観に行きたがるんだろう?
そう、さやかはそれが不思議でたまらなかった。さやかはほむらほど映画が好きというわけでもないし、観たい映画もほむらとは真逆である。しかも仕事の後疲れてしまい眠ることもある。
『貴方どれだけ寝てたと思ってるの?映画全然見てなかったじゃない!』
『ほむらは観てたんでしょ?だったら後でストーリー教えてよ』
『嫌よ…それに』
『それに?』
『今度眠ったら殺すわよ』
思えば映画館でさやかが爆睡した時の怒りもエスカレートして、今では『殺す』が常套句になっている始末。それなのにこうして頻繁に映画に誘ってくるのだ。
大画面で主人公の女性が涙を流す。それは喜びの涙で。眠たさでストーリーの半分も理解していないさやかでもそのシーンには心打たれて。
――良かった
――そうね
はっ、とさやかが横を見る。ほむらもこちらを見ていて。
――ああ、そうか
ようやく悪魔の真意に気づき、鞄持ちは微笑んだ。そう、彼女はきっと――
「……きなさい」
「あれ…?」
さやかは目をぱちくりさせる。いつの間にか映画は終わっていた。観客が席を立ちあがり、それぞれ帰路につく所で。時折観客がこちらを見て微笑んでいることに気づき、さやかは訝しがる。そういえば視界がやけに斜めで――
「いつまで私にもたれている気?」
「へ?わ、ごめん」
慌てて頭を起こすさやか。悪魔の華奢な肩にずっともたれていたらしい。ふ、とほむらが息を漏らす。
「別にいいわ、貴方の頭重たかったけど」
「あ~面目ないわ、また眠っちゃった」
「いつものことね」
だがしかし、悪魔の声色が存外優しくて、さやかは不思議そうに首をかしげる。
「あんた、怒ってないの?」
「どうして?」
「だっていつも私が眠ると怒るじゃん」
「…そうね、今日はそれほど馬鹿じゃなかったからかしら」
「ひど!あ…でも私と観ると楽しいからとか?」
「自惚れないで」
そう囁くとほむらはゆっくりと立ち上あがった。黒のセーターにスカートと黒づくめのその姿は優雅で。右手で長い黒髪を軽く梳くと、さやかを一瞥して忌々し気に呟いた。
「…そう言いたかったけど」
「え?」
ほんの少しだけ悪魔は目を伏せて。
「…そうみたい」
「ほむら」
そのまま歩き出す悪魔の背中に鞄持ちは声をかける。
「私あんたと映画観るの好きよ、とっても」
「……馬鹿ね」
とても小さい声でそう返す悪魔に苦笑しながらさやかはその背中を追いかけた。
それから数分後、恐ろしいほど美しい黒髪の女性と友人らしき蒼い髪の女性が手を繋ぎながら映画館から出てくる姿が噂になるのはまた別の話――
END
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一瞬なのに甘くて
飛びぬけて美人、という言葉を昔聞いたことがある。だが実際会ったことがあるかと言われたら答えはNOだ。今、この瞬間までは。男は目の前にいる黒髪の女性を凝視していた。
「何か?」
存外と低い声で囁かれ、男はびくり、と身を固めた。その女性には何か言いようのない威圧感があった。畏怖の念ともいえる思いを抱きながら、男は口を開いた。
「い、いや何も」
女性は小首をかしげる。まるで子供の様に無邪気なその仕草は、その美貌とはアンバランスで、だが魅力的だった。
そう、彼女は恐ろしいほど美しかった。
「ちょっと、あなた恥ずかしいからやめてよ」
「あ、ああ、どうも失礼」
男は横にいる妻に腕をつつかれ、ようやく我に返り女性に会釈すると、カウンターから受け取ったトレイを手に席へと向かった。ちらり、とまた振り返ったのは未練なのか、なんなのか。
「なんなのよ」
思った通りのことを、美しい女性の傍にいた蒼い髪の女性が口走った。だいぶ気に食わなかったのか、口を尖らせて。
「どうしたの、嫉妬?」
面白そうに蒼い髪の女性を見上げる黒髪の女性、先ほどの能面の様な無表情とは打って変わり、人間味のあるそれで。
「ち…違うわよ!」
黒髪の女性は笑う。実はこれはとても珍しいことで。10年前の彼女からは全く想像のつかないことだった。癖なのだろう、長い艶のある黒髪を右手で梳いて、蒼い髪の女性を横目で見つめた。切れ長で睫毛の長い美しい目。アメジスト色に瞳は輝いて。その形のいい唇が微かに動く。「馬鹿ね」と。
「ひっど!――あ、」
いつも通りの声をあげ、ふと我に返った蒼い髪の女性は慌てて周囲を見渡す。数人の「客」は皆こちらに視線を送っていて。目の前のカウンターにいる店員も口元を緩めながら、こちらを見ていた。店員の背後には美味しそうなハンバーガーとポテトのパネル。くすくすと傍で笑う黒髪の女性をジト目で見つめてから、蒼い髪の女性は店員に向き直る。
「あ~、あはは、注文お願いします」
頭を掻きながら、蒼い髪の女性――美樹さやかは照れくさそうに笑った。そうしてくすくすと傍で笑う、美しい黒髪の悪魔――暁美ほむらをジト目で見つめた。
――ったくもう!
ーーーーー
ここは見滝原市の郊外にあるファーストフード店、二人は魔獣との戦いの後、空腹を満たすため訪れていた。平日の昼下がりのため比較的客は少ない。
「ねえ、あんたはどれにする?」
「これとこれがいいわ」
黒髪の女性は、ボリュームのあるセットと、デザートを指さした。げ、とさやかの顔が歪む。
「え、あんたそれ全部食べれるの?」
「食べれるわ」
「嘘」
「嘘じゃないわよ」
カウンターに手を置いて、ほむらがさやかを見上げる。キラリ、と左耳のイヤーカフについた石が光った。
「私は、このハンバーガーの味とデザートを試してみたいの、おわかり?」
「わかったわよ、じゃあこれとこれで――」
トレイを持ち、窓際の広い席に移動する。当たり前の様にさやかの横にほむらが座ると、さやかは照れくさそうに笑った。不思議そうに首をかしげる悪魔。
「何、気持ち悪いわね」
「ひど!…いや、あんたとこうしてるのが夢みたいで」
「もう聞き飽きた台詞よ、それ」
「そう?」
「そうよ、もう何年一緒にいると思っているの?ほら」
アイスティーを鞄持ちに手渡す美しい悪魔。
「ありがと」
「あとこれも」
給食の配膳の様に、さやかの前にハンバーガーとポテトを並べるほむら。一度心を開くと、情がうつってしまうのか、甲斐甲斐しく世話を焼くその姿はどこかいじらしくて。こんな光景が見られることが奇跡なのだ、とさやかは秘かに嬉しく思う。そう、こんな未来はあの頃、全く想像していなかった。けど――
「あれ?」
さやかが素っ頓狂な声をあげる。ほむらの方には飲み物しか置いてない。
「あんたさっき注文したのに、食べないの?」
「貴方にあげるわ、私お腹いっぱいだもの」
「へ、何その天邪鬼」
「いっぱい食べなさいな」
そう言って、ほむらは黙ってストローを咥えた。ほんの少しだけ、彼女の頬が赤い。
「あんたってもう…」
嬉しそうな、それでいてどこか泣きそうな顔でさやかは笑う。
「そんな風に優しくされるなんて、なんだか泣けてくるわ」
「黙って食べなさい」
「へいへい」
ハンバーガーを頬張りはじめたさやかを、隣で見つめるほむら、その口元が緩んだことに鞄持ちは気づかない。
「それにしても人が多いわね」
「ん~…ほんと…平日なのに」
「ちゃんと食べてから喋りなさい、まったく…躾が足りなかったのかしら」
はあ、と大げさに溜息をついて、ほむらは頭を振る。
「ひど!てか、私は犬じゃ」
「食・べ・終・え・てから話しなさい」
「はい」
瞬時にしゅんとした鞄持ちが、脳内で犬に変換されたのだろう、悪魔はくすくすとまた笑い出す。どうにも機嫌が良さそうだ。
「ほんと、手がかかる犬ね、食いしん坊だし、嫉妬深いし」
「〇☆…××」
もごもごと何か言いたそうにしている、鞄持ちの頭をほむらは軽く撫でる。まるで飼い主が愛犬にそうするように。真っ赤になる「愛犬」
「でもそういうところが」
時が止まる。
「――よ」
唇と唇が触れ合い、しばらくそのままに。
閉じられた瞼の長い睫毛に、きめ細やかな肌、彼女はとても美しく、鞄持ちはただただそれに見惚れるだけで――
嫉妬しないってのが、無理なのよ――
そう心で零しながら、そうしてさやかも目を閉じる。
うっかり、時間停止を解除してからも数秒ほど、そのままだった彼女達が珍しく気まずそうに店を出たのはまた別の話――
END
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欠けた月の下で
昔は貴方が嫌いだったのだろうか
『私…』
『言いたいことは言葉にしないと伝わらないものよ』
嘘だった。あの時、震え怯えている貴方の表情を見た瞬間、何が起きたのか私は悟っていた。ディテールではなく、アウトラインの様なものを。だけど、それでもあんな風にぎこちない態度を取ってしまったのは、共に暮らし始めたばかりで、まだくすぶるような怒りをその身に抱えていたから。
今なら――今こうして貴方を追いかけている私なら、あの時躊躇うことなく全てを聞き出せたのに。
*******
白い空間の中二人の少女は対峙していた。いや正確には対峙というよりも一人は椅子に座りうなだれ、もう一人はその傍で立ちすくむという、寄り添うような構図である。二人は見滝原高校の制服を身にまとっていた。
「どうしよう…」
「そんな風にめそめそしていても何も変わらないわよ」
少し苛ただしげに立ちすくんでいる少女が囁いた。少女は恐ろしいほど美しかった。艶のある長い黒髪に白磁の様な肌、繊細な美しさを湛えた容貌、陰鬱で禍々しい雰囲気を差し引いてもそれは余りあるもので。
「しっかりしなさい、美樹さやか」
まるで母親の様に黒髪の少女がうなだれる少女――美樹さやかに声をかける。
「あれは魔獣よ、憑りつかれた人はもう既に亡くなっていたわ、もう誰にも手の施しようはなかった」
「ほむら…」
涙で赤くなった目を悪魔に向け、さやかは美しい少女の名を呼んだ。
美樹さやかが断片的ながら記憶を取り戻したことを契機に二人は共に暮らすようになった。悪魔の言葉を借りるなら、それはやむにやまれずに至ったものであるが、しかし共に魔獣を倒し、日々の生活を送ることは確実に彼女達の関係性に変化を与えていた。鹿目まどか一辺倒であった暁美ほむらが、うちひしがれる美樹さやかに声をかけるなど、誰が想像しえたであろうか。
「ありがと…あんた優しいよね」
何も言わず椅子の背板から手を離し、ほむらはさやかから離れた。腰に手を当て、漠然とした体で宙を見上げる。
魔獣は進化した。魔女とは形態が違うがありとあらゆる形へと変化し、そしてタチの悪いことに人間に憑りつく。魔女の場合は人を意のままに操ったが、魔獣は人と融合するのだ。
――想定外だ
ほむらはゆっくりとさやかの方へ振り返る。
「ねえ、美樹さやか」
「何」
「貴方が忘れたいのなら、私は今すぐにでもその記憶を奪うことができる…そうして欲しい?」
「それは嫌、絶対に」
椅子から立ち上がる蒼い髪の少女を見上げ、ふ、とほむらは笑みを浮かべた。
「おかしなひとね、そんなに嫌な思いをしてまで戦う理由なんて、もう貴方には無いはずよ」
「あるよ、私は罪を償わなければいけないんだ」
「罪?」
珍しく、悪魔が聞き返した。悲愴な表情を浮かべた少女は意を決したように言葉を続ける。
「私――」
だがさやかの言葉はそこで途切れる。
「『あの時』のことね」
強張るさやかの顔。
『あの時』とはこの少女が記憶を取り戻したあの日のことだ。激しい雨に打たれながら、うわごとの様に謝罪を繰り返してほむらに縋りついて来たさやか。鳴り響くパトカーのサイレン、そしてどこか騒めいていた夜の街。暗黙の了解なのか、あれ以来二人はその事について語らなかった。今この瞬間までは。だが咄嗟にそれが口に出ること、そしてその表情から、常にそれが二人の心の中に暗い影を落としていたであろうことは、一目瞭然だった。
「言いたいことは言葉にしないと伝わらないものよ」
「ごめん」
「謝らないで、イライラするわ」
言葉通り苛ただしそうにほむらは声を荒げた。これも珍しいことだった。悪魔と化してから一貫して人を食ったような態度をとっていた黒髪の少女がここまで負の感情を露呈するなど。かつて悪魔や女神によって改変される前の世界では、彼女達はより険悪な状態に陥ったことも多々あったが、あの時のことを知るのは当の本人達以外もう誰もいない。
「でも、謝る…やっぱり言えない…今は」
「そう…」
引き下がるかに見えた悪魔。しかしそうではなかった。
「じゃあ貴方の記憶を消すと言ったら?」
「ほむら…」
「私は本気よ、美樹さやか、貴方が今まで記憶を保ったままここまでこれたのは誰のおかげだと思う?」
腕を組み、勝ち誇ったような笑みを浮かべる悪魔。その陰鬱なまなざしにはどこか怒りを湛えた光があった。過去の軋轢の積み重ねでさやかに怒りを覚えるなどという狭量さはこの悪魔には無いはずだ。だが、だとしたらこの美しい黒髪の少女が湛えている怒りは一体どこから来たものだろうか。巴マミや佐倉杏子に対してもこのような態度は取ったことは無かった。
「…あんたのおかげよ」
切なそうにさやかは呟いた。その様はまるで主従関係における従者のようで。
「お利口さんね、そうよ、私のおかげ。私が貴方の記憶を消さないから貴方は今のままでいられるのおわかり?」
こくり、と頷くさやか。
「なら、今すぐ言いなさい、あの時のことを美樹さやか」
二人の周囲で風が吹きあがり、ほむらの長い黒髪がゆっくりと浮き上がる。悪魔の力の発動だ。強大な力を常に制御し続けている彼女にとって、こうした感情の起伏は力を解放するトリガーともなった。その相手がかつて長い間誰よりも険悪だった美樹さやかというのはなんという皮肉か。怒りの表情は一層彼女の容貌を美しくさせた。
その容貌に見惚れているのか、茫然と立ちすくむさやか。悪魔に対してあの頃とあまり変わらない容姿の彼女だがしかし、4年の歳月は彼女の内面を確実に変えていた。何を思ったのか、さやかはほむらに歩み寄る。なんの躊躇いも気負いも微塵もみせずに。後少しで身体が接触する至近距離まできて、とうとう悪魔の方が後ずさった。
「ほむら…私やっぱりあの時のことはまだ言えない」
「…そう、なら全てを忘れて笑って暮らせばいいわ」
「それも嫌」
「…どういうつもり?」
人の好さそうなたれ気味の目に決意の光を輝かせて、さやかは重々しく囁く。
「このまま…あんたとずっと一緒にいさせて、もう泣き言なんて言わないから」
悪魔は言葉を失う、その固い決意を滲ませた表情はかつての美樹さやかに見出せなかったものだったから。歳月の見えない力は確実にさやかを変えていった。目の当たりにした悪魔はたださやかを茫然と見つめる。さやかの方が上背があるため見上げる形になって。
「どちらも嫌で、その上私とずっといたいですって?」
「だめ?」
小首をかしげ、伺うようにほむらを見つめるさやか。そんな仕草を目の当たりにするのも初めてだったのだろう、悪魔は少しだけ戸惑った様子で口ごもった。珍しいことだ。そんなこと言われたことも言ったこともない悪魔は蒼い髪の少女の前で、とうとうただの「暁美ほむら」を少しだけ露呈した。
「…そんなこと…わからないわ」
選択肢を示したはずが、その両方を選択し、ずっと己と一緒に暮らすことを懇願する少女。
悪魔はその少女の記憶を無理やり奪う事もできるし、無理やり外へ追いやることもできる。だが、その答えを出しかねていた。そのアメジストの瞳には内面の葛藤とそしてそれを与えた対象が映し出されて。
「お願い、私、あんたの言う事ならなんでも聞く、だから」
「なんでも…?私は悪魔なのよ」
「関係ない」
これも想定外だ――
あの雨の日、悪魔は美樹さやかを家へと連れ帰った、あの時点でもう全てが変わったのかもしれない。ほむらは視線をさやかから逸らし、組んだ自身の腕へと向ける。腕は少しだけ震えていた。悪魔が世界を改変してから想定外なことはいくつか起きている。そのひとつが魔獣の予想外の進化、そしてもうひとつはこの美樹さやかの変化。後者の方がほむらにとってはより衝撃的だった。
――でも、もっと想定外なのは
ほむらは組んだ腕を解くと、さやかに向き直る。妖しく輝くアメジストの瞳。
「関係ないって言ってくれるなんて、だいぶ変わったわね、美樹さやか」
今度は悪魔の方から距離を詰めると、そのまま手を伸ばしほむらはさやかの首元へ触れた。
「いいこと、私は貴方なんてひとひねりで片づけられる」
「…知ってる、今まで見てきたもの」
「だから貴方に発言権は無い、私が決める」
何も語らず、さやかはただ頷いた。以前の彼女ならきっと抗っていただろうが、今はもう違う。
「私のしもべになりなさい、美樹さやか」
――きっと、この私だ
かつてなかった状況に、ただただ戸惑う悪魔。だがしかし彼女は決意した。この以前より少しだけ成長した蒼い髪の少女を手元に置くことに。最も想定外なのは、この少女を受け入れた悪魔自身だった。何故こうなったのか、少し未来においても答えは出ないこの決断を、今この瞬間悪魔ははじき出した。
「…わかった」
ほむらの手の中でさやかの首がごくり、と鳴った。決意に満ちた表情とは裏腹にやはり多少の動揺なりがあったと知ることができたからか、それとも肯定されたからか、ほむらは口元を歪めた。再び悪魔にペースが戻った。
「いい子ね」
ほむらはゆっくりとさやかに顔を近づける。かつて、悪魔と化して初めてこの少女と対峙した時のように。だが違うのは更に距離を縮めてきたこと。それは神の悪戯か、それとも。
「さやか」
初めて悪魔は下の名前だけを呼んだ。それに驚くさやかだが、更に目を見開いてより大きな驚きを受け入れる。背伸びした悪魔の唇がさやかの唇に触れて。
――これが悪魔になるということか
どうしてそうなったのか、未だに答えらえない行為、魔が差したようにそれはいとも簡単に訪れて。顔を離せば一瞬で終わることだが、二人は互いの唇の感触が本物か確かめるように不器用に顔を寄せた。それが好奇心によるものか、あるいは同情や贖罪の様なものなのか、おそらく誰も、本人達すらわからないであろう。まるで以前からそうしたかったように二人はぎこちなくお互いを求めた。かつての世界なら想像のつかなかった光景。
ほむらがさやかの首の後ろに手を回す、それからしばらくして、さやかの手がたどたどしくほむらの背中に回された―――
********
夜の街、高層ビルを見下ろしながら颯爽と悪魔は空を駆ける。
――さやか
念話を飛ばし、もう長年連れ添っている相方を呼ぶが返答が無い。ちっ、と舌打ちする音が聞こえ、悪魔の顔が険しいそれに変わる。成長しあの頃よりもだいぶ大人らしくなった顔つきは、また更に美しさが増していて。
「あの馬鹿」
黒い翼をはためかせ、身体のラインの浮き出る黒の衣装に身を包んだ彼女は、強い風にあおられながら珍しくひとりごちる。10年という歳月を経て、悪魔――暁美ほむらもまた変わった。もう感情を露呈することも厭わない。それもこれも彼女が今「馬鹿」呼ばわりしている存在――美樹さやかの所為なのだが。乱れる長い黒髪をほむらは右手で抑え、とうとう上空で停止した。
彼女達――正確には魔法少女だった者たちは互いに気配を察知することができる。それが悪魔となって強大な力を得たほむらなら尚更、いともたやすくお目当ての美樹さやかを察知するであろう。だが違った。警察に拉致された後のさやかの足取りが掴めないばかりか気配が察知できないのだ。考えられることは、何者かが気配を遮断しているのか、あるいは
美樹さやか自身が気配を遮断しているかだ。そしてそれは意識喪失か、死を意味している。
『私は死なない、約束するわ』
いつかの、高校生だったあの頃交わした約束、そして相方の能天気な笑顔をほむらは思い出す。あの魔が差して、唇を重ねたあの日を。ふ、とほむらの唇が緩み、そうして指が唇にあてられた。
「そうね、貴方は私のしもべだものね」
そうしてほむらの顔がほんの一瞬だが綻んだ。それは奇跡に近いほどのもので。もしそこに鞄持ちがいたならば心底驚いたろう、そうさせたのは自分自身とも知らずに。
「見つけたわ」
悪魔は気配を察知し、一直線へそのビルへと向かう。
あの頃の約束を違えることはない、そして私は――
私は貴方を死なせたりしない
夜空には半分に欠けた月だけが残されていた――
END
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そのひとときが
どうにも暁美ほむらという人物は不可解である――
これは美樹さやかが10年という歳月を経て得た結論であった。
「どうしたの?人の顔覗き込んで」
アメジスト色の瞳がさやかの顔を捉えた。その瞳の中に映ったさやかはどこか動揺していて。
「い、いや、なんでもないわ」
「変なひと」
そう言って、ほむらはその切れ長の目を細め、横目でさやかを見つめたまま前を向いた。艶のある長い黒髪がさらり、と風にそよいで、淡い桃色の唇にかかって。
――反則!
美樹さやかは心で叫ぶ。中学2年生の頃から『美人』とは思っていた。だがまさか、大人になって更にこんな美しく成長し絶世の美女になるなんて。
「さやか」
「おっとと」
名前を呼ばれ、さやかは慌てて歩を止める。交差点の信号は赤になっていて。黒のタートルネックにロングスカートという黒づくめの装いの美しい『悪魔』とジーンズにダウンジャケットというラフな姿の『鞄持ち』は二人仲良く並んで信号が変わるのを待つ。もし彼女達が出会った頃――世界が二度改変される前――を知っている者がこの光景を目の当たりにしたならば心底驚くだろうが、生憎もうその頃のことを知っている者は誰もいなかった。成人して大人になった彼女達以外には。
「ねえ…あのひと」
「綺麗ねえ、モデル?」
ひそひそ声がして、さやかが声の方に視線を向ける。そこには見滝原高校の制服を着た三人の女子高校生がいて、ほむらの方をチラチラと見つめながら顔を赤らめていた。
「うっひゃあ~…」
奇声をあげるさやかを横目で睨むほむら。へらへら(そう悪魔はいつも形容している)笑っている蒼い髪の女性を認めて尚の事不機嫌な表情を浮かべて。
「何、気持ち悪いわね」
「いやあ、やっぱあんたってモテるんだなあって」
はあ、と露骨に溜息をつくと、ほむらはさやかから信号へと視線を移す。おどけた様子で肩をすくめ、気にする様子もなくさやかは言葉を続けた。
「まあ初めて会った時から私も『すっげ~美人』と思ってたけどねぇ、まさかここまで綺麗に成長するなんて、なんか感慨深いというかなんというか…って、ちょっと!」
「青よ、さっさと歩きなさい、時間が無いわ」
「はいはい」
たれ気味な目を細めながら、早足で歩きだすほむらの後をついてくるさやか。ふと、澄み切った青空を見上げ、口元を緩めた。
*****
10年前、黒髪の女性は世界を改変した。暁美ほむらと美樹さやかの間にある特殊過ぎる状況故に生まれた確執も時の力によって変化し――正確には互いの成長(特に美樹さやかの)と共に歩み寄りが始まり――今ではこのように行動を共にしている。
「夢みたいね」
「何が?」
「あんたとこうして肩を並べて歩いていることがよ」
「……今に始まったことじゃないでしょ」
「そりゃそうだけど、なんか未だに信じられないのよね、ほんと不思議」
歩く二人の姿がカフェの窓に映し出された。悪魔化と共に陰鬱な空気を纏う様になったほむらはそれを補い余りある恐ろしいほど美しい女性へと成長したし、美樹さやかもまたどこか中性的な雰囲気のまま、魅力的な女性へと成長を遂げていた。ちらり、とそんな窓に映し出されている自分達を盗み見ながら、さやかは頭を軽く抑える。
「記憶…また錯綜しているの?」
心配そうな声でほむらがさやかに囁く。
「へ、ああいや、私達の姿を見たら、なんか頭がバグっちゃってさ」
「本当に?貴方の記憶がまた消えたら――」
「えへへ、困る?」
「いえ、むしろ嬉しいかも」
「ええ?」
驚いた表情をさやかが浮かべると、美しい悪魔はただ首を振って苦笑した。
高校時代に美樹さやかは記憶の断片を取り戻し、ほむらに歩み寄った。それ以来何度も記憶の錯綜を起こし、今に至るのだが、悪魔がそれについて心底心配しているのか、それとも喜んでいるのかさやかには全くわからなかった。
「なあに、貴方、もしかして私に心配されたい訳?」
おどけた様に小首をかしげ、ほむらはさやかを見上げた。どこか挑発的というか小悪魔的な表情は同性であるさやかにも有効らしく、蒼い髪の女性の顔は一瞬で赤くなる。楽しそうに笑う悪魔。10年も経てばこのような仕草や表情も浮かべることができるのだ。
「そんなこと…あるけど」
「馬鹿ね」
ことさら愉快だと言わんばかりにほむらが笑った。この美しい悪魔はどうしてそこで嬉しそうに笑うのか、どうしてそんな風に見つめてくるのか、どうにもさやかは不可解で。
「あんたってほんと不思議だわ」
「そう?ほら、着いたわよ」
顎をしゃくるほむら。たれ気味の目を見開くさやか。そこは映画館の入口で。
「何を観ようかしら」
軽やかな足取りで悪魔は入口に向かう。そう、この美しい悪魔は映画好きなのだ。
「ったく、ほんと映画好きなんだから…」
苦笑するさやか。たまにふとした拍子で訪れる平和な日、こんな風に二人で出かけるのが日課になったのはいつからか。
「さやか」
「はいはい、お嬢様」
ほむらに手招きされて、おどけた様子で、だが嬉しそうに小走りで近寄るさやか。その様子もまた10年前には想像できなかったもので。
「ねえ、ほむら」
「何」
「私さあ、今結構幸せだわ」
「え?」
唐突な言葉に、怪訝そうな表情を浮かべる悪魔。
鞄持ちは少し困った様に笑って、そして囁いた。
「あんたといるから」
「……寝言は寝てから言いなさい」
少しだけ間を置いて、黒髪の女性の唇から辛辣な台詞が漏れる。そうして逸らされる顔。
ちょっとだけ鞄持ちは寂しそうな表情を浮かべて。
「ほら行くわよ」
そう言って、いきなり悪魔がさやかの腕を掴んだ。目を丸くする鞄持ち。戦闘時以外に悪魔がこのようなことをするのは珍しいことで。
「ほむら?」
思いのほか強い力で引っ張られながら、さやかは驚いた表情を浮かべる。だが次第にその表情は変化して、とうとうさやかは満面の笑みを浮かべた。何故なら、美しい悪魔の頬が微かに赤みを帯びているのを認めたから。
「ふふ…」
「何笑っているの?」
「なんでもない」
どうにも暁美ほむらという人物は不可解である。実際、出会って10年経つというのに美樹さやかは未だに彼女を良く分かっていない。でも――
「あんたって可愛いわね」
「馬鹿」
映画館の中はたくさんの客で溢れかえって、数名が目ざとくほむらの方をちらちらと見つめた。だが当の本人と、その本人に腕を引っ張られているさやかは気にすることなく奥へと向かう。そうして自然と寄り添って――
「何観るの?」
「私が観たいものよ」
それから映画を決めるまで結構揉めることになるのだが、それはまた別の話――
END
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you know
「例えば私が貴方のことを――」
そう言って、彼女は急に黙り込んだ。いつもそうだ、大抵何か大事なことを伝えようとするのに彼女は最後まで伝えてくれない。
――いや、それはあたしの所為だ
蒼い(時に幼馴染が空の様だと例える)髪の少女は、黒髪の少女の横顔を見つめる。ずっと前から綺麗だと思っていて未だに見慣れることのできないそのとても美しい横顔を。
「ねえ、こっち見て話して」
ふわり、と地面に落ちていた桜が舞い上がって、降り注ぐ桜と混ざり合った。視界を薄桃色で遮られ、慌てて右手でそれを払うと蒼い髪の少女は目を見開いた。薄桜色の隙間から現れたのは少女の面影を宿した妖艶な大人の女性だったから。
「ほ――」
名前を呼ぼうとして、少女はそのまま口を閉じることができなかった、惚けたようにただその女性を見上げる。長い艶のある黒髪を軽く右手で梳いて、こちらを見下ろす漆黒のドレスに身を包んだ女性。アメジスト色の瞳は煌々と輝いて。ニイ、とやけに嬉しそうに口角を上げると、目を細め、そうして少女の名前を呼んだ。
「さやか」
――綺麗
足が震えた、まだ見慣れない大人の怖いくらい美しい女性は、確かに蒼い髪の少女の知っている、あの無愛想で綺麗な「転校生」だ。だが、初めて名前で呼ばれたからなのか、それともそのぞっとするほどの美貌のためか、見えない威圧感からか、ただただ少女の身体は震えるばかりで。ふ、と嘲るように女性が笑う。
「私が怖い?」
流れるような黒髪は波打って、その艶のある低い声は少女の耳をくすぐる。震えながらもどこか心地よいこの感覚。少女は未知の感覚に怯えながら、それでも必死に頭を振った。
「いい子ね」
白い細い手が伸びてきて、少女の目の前で止まる。黒い手袋に包まれた掌、それをしばらく見つめ恐る恐る少女はそこに自身の手を重ねた。
その瞬間、ばさ、と音を立てて女性の背中から大きな翼が生える。包み込むように広がってくるその羽根は禍々しいほど黒く闇そのもので。
「そろそろ目を覚ましなさい、美樹さやか」
「え?」
吹きあがる強い風、勢いよく腕を引っ張られ、少女の足が地面から離れる。舞い散る桜と黒い羽根で視界はいっぱいになり、思わず少女は目を瞑った。
浮遊感。
おそるおそる目を開ければ、そこには半分に欠けた月、蒼白い光で夜は深い海の様で。
「わあ…」
思わず声を漏らした少女は、ふと何かに気づき驚愕の表情を浮かべた。それは、己の手、華奢だった手は以前よりも大きくがっしりとして。視線をスライドさせていく、長い腕、そしてしっかりとした肩、黒いパンツスーツを身に着けた両脚。左手で頬に触れる、シャープになった輪郭をなぞり、ようやくつい先ほどまで少女だった蒼い髪の女性は気づく。
「あ――わたしは」
黒髪の女性が手を離す。
「わあ、ちょ、ちょ!」
以前よりも低い声が出て驚きながらも、女性は叫んだ、笑顔で浮かんでいる美貌の女性の名を。
「ほむら!」
*****
「さやか」
女性の声、そして強い力で腕を掴まれ、蒼い髪の女性――美樹さやかは我に返る。
「起きた?お寝坊さん」
ビルの隙間を落下している黒いパンツスーツ姿の女性と、それに合わせて飛翔している黒い翼を生やした美女。さやかは瞬時に思い出す。そう、彼女達は高層ビルを縦横無尽に文字通り飛び回り魔獣と戦闘を繰り返していた。
「私――」
「魔獣の攻撃を受けて眠りこけるなんて初めて見たわ」
一瞬茫然としてさやかは呆れたようにこちらを睨んでいる女性――暁美ほむらを見つめる。夢の中で会った美しい大人の女性。それはいつも傍にいてくれる、無愛想でそしてぞっとするほど美しいさやかの「相方」
「ほむら、私――」
「何」
落下しながら、さやかは微笑む。それはいつになく穏やかでどこか深みのあるもので。
「――夢を見たの、あんたの」
蒼い瞳に怪訝そうな表情の美貌が映るが、すぐにそれは険しいものに変わる。
「くるわよ」
「OK」
翼を生やし進化した魔獣達が二人めがけて急降下してくる。ほむらはさやかを放り投げた。くるくると駒の様に回転し、ビルの縁へ足をつけると、ぐっと力を入れ垂直に飛ぶ。
「行くわよ」
己の身体を一瞬抱きしめ、思い切り開くとその両手には西洋の剣が握られていて。そのまま魔獣へと突っ込んでいく。光の弾丸の様に魔獣を一閃すると、再び向こう側のビルの縁に足をつけ、もう一匹、もう一匹と飛び移りながら魔獣を切り刻んでいく。
「やるわね」
不敵に笑みを浮かべると、ほむらは残りの魔獣と共に空へと舞い上がる。高く高く。そうして右手をかざす。紫色に輝くダークオーブが出現し、焼けているような夕闇を照らす。奇声をあげながら一気に消失していく魔獣達。ひゅう、とさやかが口笛を鳴らした。器用にビルの壁を走りながら、隣接するビルへと移っていくと、屋上へ飛び移った。剣を肩に担ぐようにして、降下してくるほむらを迎える。
「すごいじゃん」
「造作もない事よ」
翼を折りたたみながら、長い黒髪をたなびかせモデル然としてさやかの方へ歩み寄ってくるほむら。
「それより、貴方どういうつもり」
「へ?」
その表情は険しくその美貌をより際立たせていて。
「魔獣の攻撃をもろに受けるなんて、愚かにもほどがあるわ」
「ひど!‥‥いや、ごめん、確かに私油断したわ」
長い溜息をつく悪魔、どうしようもないとでもいう様に首を振ると、きっ、とさやかを睨み顔を近づけた。
「今度…こんな風に攻撃を受けたら、私が貴方を殺すわよ」
「わかったわ」
神妙な表情で頷くさやか。ようやく溜飲が下りたのか、視線を落とし、ほむらはさやかに背を向ける。さやかが寄り添うように近寄ると、横目で睨みながらもその身体にもたれてきた。
「馬鹿」
「ごめん」
長い年月は二人を戦友に、そして相方にした。落ちていく夕日を眺めながら、さやかがほむらに囁いた。
「ありがとう、ほむら」
「礼には及ばないわ」
「うん、でも現実でも夢でもあんたに助けられたわ」
「…どんな夢?」
「14歳だった私が、今のあんたと出会う夢」
「そう…」
たそがれている悪魔は、ふとさやかの方へと顔を向けた。
「どうだった?私と出会って」
「怖かったわ」
不本意な答えだったからか、ほむらは肩をすくめ、また夕日へと視線を戻す。
「でも、とても綺麗だなあって」
さやかの言葉に悪魔の顔は少しだけ――だが何も言わず、そのままじっと茜色から闇へと変わっていく空を見つめている。それを見て苦笑するさやか。そうして言葉を続けた。
「私、あの頃からあんたの事好きだったみたい、今ならわかるの」
まるで軽い挨拶を交わすような、そんな柔らかさで。
「寝言は寝てから言いなさい」
「本当よ」
返事の代わりに長い息を吐くと、ほむらは馬鹿ねと小さく呟いた。そうして更に体重をかけてさやかにもたれる。嬉しそうに微笑むさやか。言葉よりも仕草で多くを語る彼女のことがとても――
「ねえ」
「何」
「私、あれは夢じゃなかったと思うの、あれはきっと――」
だが言葉は続かなかった、その口を悪魔がふいに塞いできたから。夜の帳の中、二人はしばらくそのままで。
例えば私が貴方のことを――
その言葉の後はもう聞かなくてもわかるような気がした――
END
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スキンシップ
「まどかは私の嫁になるのだ~」
この光景を何度見た事か、実際傍にいて目の当たりにしていたわけでなく遠目からこの光景を何度も繰り返し見ていたわけだが、まさかこの年になって間近でこの光景を見ることになろうとは。暁美ほむらは二人に気づかれない様に息を吐いた。
「やめなさい、美樹さやか、まどかが嫌がっているわ」
「マジ?」
「え…いや、私は…別に」
驚いて後ろから覗き込んでくるさやかを見つめ、顔をほのかに赤くしているまどかは戸惑ったように口ごもる。
「お?その顔はまんざらでもないと?とぉ!」
歓声の様な小さな悲鳴。まるで中学生のあの頃の様にじゃれ合う二人。外見はもう立派な大人の女性であるが、そのはしゃぎようは変わらない。
「まったく…飲みすぎたわね…」
再びほむらはため息をついた。
『ねえ、三人で飲みにいかない?』
そう久しぶりにまどかから誘いを受けて、彼女のお気に入りの居酒屋で飲んだのが3時間前のことだった。大学生になって、ことあるごとにほむらとまどか、そしてさやかは三人で出かけることが多くなったが、短大生だったまどかが一足早く就職し、今日はそれを肴に酒とお喋りを満喫していた。そうして今は街の喧騒を楽しみながら帰路についている所だ。だが二人は飲みすぎたらしい。いや、私もだ、とほむらは己の顔を軽く撫でる。どうにも顔が火照って熱い。飲み始めた頃よりも酒に強くなった気がしていたのだが、そうではなかったようだ。まだじゃれ合っている二人をぼんやりと眺めて。
あれからもう8年経った――
パーカーにジーンズというラフな格好の蒼い髪の女性と、可愛らしいワンピース姿の女性のじゃれ合っている姿にあの頃の中学の制服を身に着けた少女の姿が重なる。
彼女達は変わった――
ひゅうと風が吹いて、ほむらの黒いワンピースの裾が揺らめいた。そっとそれを抑えた後、今度は艶のある長い黒髪を梳く。左耳のイヤーカフスが一瞬煌めいて。
では私は――?
もう誰とも関わらず、ただまどかの幸せだけを祈って生きていくはずだったのに、こうして表面上は大人になった今では当たり前の様に二人に関わっている。特に――
こちらを間抜けな顔で見つめている蒼い髪の女性をほむらは睨んだ。
「何を見ているの?」
「いや…別に」
どこか戸惑ったように、顔を背けるさやか、その顔が赤いのは酔いのせいか、それとも――ほむらはふ、と失笑する。そうして実感するのだ、ああ、やはり自分は変わったのだと。以前はこんな風に彼女を見つめた事もないし、何を思っているのかなんて考えたこともない。だが今はそういうことがとても愉快で。
「ふふ…さやかちゃん、ほむらちゃんにも抱きつきたいんだよね?」
「え?」
「な?ま、まどか?」
気づけばまどかが満面も笑みを浮かべ、ほむらとさやかを交互に見つめていた。更に真っ赤になるさやかを見て、ほむらも笑う。
「あら、そうなの?」
固まるさやかを見て更に愉快になる。まるで思春期の中学生の様だ。
「まどかとはできて、私とはできないの?ほんと腰抜けね」
「ちょっと…何よそれ」
むっとした顔のさやかを楽しそうに見つめるほむら。妙に自分を意識しているさやかの姿が滑稽で面白い。二人のじゃれ合いを眺めていた時の隔絶感はもう消えていて。
「じゃあ、やってみたら?」
腕を組んで、さやかを見上げる。たぶん自分は今満面の笑みを浮かべているのだろう、とほむらは思った。だってさやかの顔がとても悔しそうだから。両手を驚かすように挙げ、熊と言わんばかりの体勢で迫ってくるも、やはり躊躇してほむらに抱きつくことができないさやか。
――意気地なし
心でそう呟いて、ほむらは手を伸ばした。さやかの息を飲む声がして、ふ、と笑う。その手はしっかりとさやかの背中に回されて。そうしてほむらはぎゅっと彼女の身体を締め付けた。さやかの息が頬に触れて。
「あ、あんた!距離感、距離感バグってるわよ!」
慌てる声を聞きながら、ほむらはその胸元に頭をもたれさせた。ミントの様な爽やかな香りがして、口元を緩める。元鞄持ちの身体は抱き心地が良い。
――ああ、だいぶ私も酔っているらしい
そう思いながら、悪魔は気持ちよさそうに目を瞑った――
END
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闇の向こうへ
「ほむら、一緒に帰ろうよ」
彼女の記憶を奪ってから数日後、そう親し気に話しかけられた。まったくの想定外。ある程度――仲間だった彼女達のことを考慮してマミとなぎさ、さやかと杏子は以前と同じように友好関係を築ける状況にしたつもりだが、まさか彼女の矛先が私に向けられるとは。
「ええ、いいわ――」
どうしてそう答えたのか、今でもよくわからない。にべなく断ることもできたのに。親し気に話しかけてくる彼女の顔を見て絆されたのか、それとも――そう考えた瞬間ぞっとした。
「どしたの?」
「なんでもないわ…それじゃあ、一緒に帰りましょうか、美樹さやか」
――ありえない、無意識に私がこれを求めていたなんて
セピア色の世界、だいぶ日が暮れた通学路。
皮肉なものだ――あんなに何度も周回を繰り返していた頃にはあり得なかったことなのに、悪魔になった途端、まさかよりにもよって美樹さやかとこんな風に肩を並べて歩く日が来るなんて。何も語ることなく私達はただ歩き続けた。
「あのさあ…」
さやかが何か言いかけた。だが再び黙り込む。
「何、貴方が言いかけてやめるなんて珍しいわね」
「うん…あのさ今からおかしなこと言うけど、笑わないでね」
「内容によるけど」
「ひど!」
私は笑った。たぶん苦笑というものだろう。認めたくなかったが、悪魔になってからというもの私は美樹さやかをからかうことに楽しみを見出していた。この不器用な子が見せるわかりやすい表情や愚かな行動も今となっては可愛らしいものだ。
「あたし…この世界が夢なんじゃないかって思うの」
真剣なさやかの顔。空と同じ色の瞳に映る疲れ切った目をした私。
「どうして?」
「わかんない、でも…なんだか何かが違うような気がして」
「そう…」
彼女の記憶を再び奪うべきか否か。トマトを投げつけてくる『子供達』はまだ現れない。
「ほむら…笑わないんだね」
「笑う必要なんてある?」
「ありがと、やっぱあんたいい奴だ」
向ける相手が違うのではと思うくらいの笑顔。
「でも、どうして私に?」
「ほむらにしか話せなくて」
微調整を私は誤ったのだろうか、彼女なら話せる相手はたくさんいるはずだ。私以外に。
「貴方にはお友達がたくさんいるはずよ」
「ほむらだって友達じゃん」
足が止まった。
「ほむら?」
「…貴方がそう思うなら、勝手にそう思ってなさい」
「え?」
やはりこの子は「危険」だ。完全に消去しなければ、彼女の私に向ける感情も。ゆっくりと手を胸元まであげた。
「ほむら?」
セピア色に輝く風景はまるであの偽街が滅びる時の業火のようで、そんな火の中に私と彼女が二人だけそこにいる。
『あんたが悪魔だってこと』
本当にもう忘れたのね、美樹さやか。
あんな風に私を睨むことももう永遠にこないのだろう――
手が震える。この手を合わせれば、もう今度こそ彼女とは
私は手を――
*****
琥珀色の液体は、あのセピア色をした風景を私に思い起こさせる。
涼しい音を立てながらグラスを傾けて、その液体を少しだけ体の中に取り入れる。濡れた唇を舌で舐める、辛い燃えるような味。
「えっろいわね…それ」
傍でからかうように私を見ながら美樹さやかが呟いた。顔を少し紅潮させているが、彼女は酒には弱くないはずだし、そもそもまだ私と同じように一口目だ。
「あら、貴方にも有効なの、これ?」
私は舌を彼女の前でまたちょっとだけ出した、だいぶ有効らしい。いや、というより正確には彼女は私といる時は大抵こうだ、何かの拍子で赤くなる。私の知る限り彼女が恋慕の情を寄せていたのは既に志築仁美と結婚した上条恭介だけだ、それ以外の特定の異性と付き合ったこともないし、同性ともそれはないだろう。まあフランクな彼女のことだからどちらにも好意を寄せられたことは知っているが。だが、そんな彼女が私を見て赤くなる、それが何を意味しているのか、あの頃なら気にもしないし、したとしても嫌悪感を丸出しにしていただろう。しかし今では「それ」――美樹さやかが私に懸想していること――がとても愉快だ。それは悪魔になった所為なのか、それともそれだけ年を取ったからなのかわからない。傍でまだ赤くなりながらグラスを傾けているスーツ姿の女性を眺めながら私はアルコールを味わう。
――あれから10年
世界を改変してから、私はかつての仲間と断絶しただ鹿目まどかを見守るためだけに生きるはずだった。それが今ではこうしてよりにもよって美樹さやかとバーのカウンターで肩を並べている。バックバーに並べられた色とりどりのボトル、黒の人工大理石でできたカウンター、そして黒のスーツ姿の彼女と黒のワンピース姿の私。まるで夢のようで。
「ほむら?何か飲む?」
空になった私のグラスを取り、伺うようにこちらを見つめるさやか。
「そうね、貴方と同じのを」
「OK」
嬉しそうに笑う彼女、あの頃の面影は残っているがすっかり大人になっていて。まあ私も似たようなものだけれど。バックバーの壁面の鏡に映る長い黒髪の女性を私はそっと睨んだ。
「あんたほんともっと笑えばいいのにさ」
差し出されたグラスを受け取って、私は力なく笑う。この10年何度このひとは私にそう言ってきたのか。
「無駄よ、そんなこと言っても」
「だってあんた、こんなに…」
「こんなに、何?」
顔を近づける。悪魔になってからはよく彼女に対してこうするようになった。面白いくらいみるみる赤くなる彼女の顔は何度見ても飽きない。
「あ~もう、ずっるい」
手をせわしなく動かして、そっぽを向く。ああ愉快だ。気づいたら私は笑っていた。アルコールが回ってきたらしい。
「あ、笑ったじゃん」
そう言って得意げに笑う彼女を見ても、もう腹は立たなかった。私と彼女はアルコールが入るとお互い寛容になり、そしてほんの少しだけ相性が良くなるのだ。皮肉だが大人になって知ったこの事実は私の心を軽くしてくれている、もちろん彼女にそれを伝える気などないが。私は二杯目を飲み干した。
カラン…
氷を眺めながら私は思う。あんなに気が遠くなるほど繰り返していた周回も、魔法少女も悪魔も何もかも、こういう時は全て忘れてしまいそうになると。それもきっと――
気配がした。
私はグラスを置いた。
*****
「あ~あ、せっかく美味しいお酒飲んでいたのにさ」
雑居ビルの屋上でさやかがさも残念そうに呟く。刀を肩にかついで左手を腰にあてた立ち姿はあの頃と同じ。違うのはそれが魔法少女の姿ではなく、スーツ姿だということ。
「その姿だと、銃刀法違反みたいね」
「ほっといて」
口を尖らせるさやかを見て私は笑う。ああ、まだ酔いが残っているようだ。
「早く倒せば、まだ時間はいっぱいあるわ、飲み直しましょう」
「ほんと?」
ぱああ、と顔を輝かせる彼女を見て、私は苦笑する。
『なんで泣きそうな顔してんのさ』
あの時――私は手を叩くのをやめた。
何故そうしたのかわからない。叩くべきだったのかもしれない。でも――
「さあ行くわよ、鞄持ちさん」
「一応元だから」
軽口を叩きあいながら、私達はビルの屋上から夜の闇の中へと身を躍らせる。
――これで良かったのだ
戦いに向かう私達を闇は優しく包んで―――
END
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この世界に
終わりも始まりもない世界にただ一人概念として生きている「彼女」はどうやら一部分が抜け落ちてしまっているらしいことに気付いた。
「「おぞましい者」があなた様の一部をもぎ取っていったのです」
「……「おぞましい者」?」
おぞましい者とは誰ぞや?と概念はかつて古の砂漠の民であり、今は側近である少女に尋ねた。長い間逡巡していた少女は円環の理と他の次元世界を隔てるシールド近くまで腕を伸ばし、蒼い惑星を指差した。そして少女はぼそりと、あの星に住んでいるかつてあなた様の友であり仲間であった者ですと私に伝えた。
「…そう」
「彼女」は蒼い星へ視線を向けた。
**********************
「綺麗だね」
お間抜けな相方の声を聞いて、黒髪の美女がほほ笑んだ。珍しいことだ。
「ねえさやか…貴方って公園の噴水も口説く気?」
「へ?違うわよ…って何それ変質者みたいじゃない」
切れ長の目を抗議する蒼い髪の女性へ向けて、暁美ほむらは口元をニイ、と歪めた。
「みたいじゃなくてそうでしょ?」
「ひど!」
二人同時に笑う。
ある晴れた日の昼下がり二人は近場の公園へ散策に来ていた。いわゆる「息抜き」だ。しばらく笑いあった後、二人は再び噴水へ視線を向ける。
黒中心のワンピースと、デニムのパンツにシャツといつもの装いの二人は、どこからみても妙齢のただの美しい女性で。かたや悪魔であり、もう片方は高次元の存在の一部(鞄持ちというある意味特殊な)という人外であるなどまったく想像もつかない。
「貴方が真剣に噴水を見つめてそんなこと囁くからには何かあるのでしょうね」
「そうよ、これってほら、光を反射して結構綺麗なのよ」
さやかは噴水の縁に足をかけて手を伸ばす。そうして文字通り水を「掴んだ」。水を司る能力を保有している彼女特有の能力だ。手を広げると、球状になった水が手品の様にふわふわと数粒浮遊していて。
「騙されたと思って見てみなよ」
得意げに笑うと、さやかはほい、と粒をほむらの眼前へ放った。恐ろしいほど美しい容貌の前に球状の粒がふわふわと浮く。ほむらが粒を覗き込むと、確かに、その中に公園の緑と空の青とそして光が敷き詰められている。
「ね?パノラマみたいでしょ?中に世界が詰まっててさ」
「……不思議だわ」
「でしょ?」
「貴方の口からどうしてそんな恥ずかしい言葉がすらすらと出てくるのか」
「そっち?!」
うん、と子供のようにほむらが素直にうなずく。実際ほむらは不思議でたまらなかった。だいぶ昔からこの蒼い髪の女性のことを見てきたつもりだが、物事を端的にそして単純にしか見ることのできない子だと思っていたから。大学で哲学を専攻したのも意外だったし、こうして時折自分を「恥ずかしい」気分にさせる言葉が自然に出てくることも不思議だった。
――だが、元々そういう素質だったのだろう、ただ成長が遅かっただけだ
あれから10年、美樹さやかも正確には人ではないがそれでも成長しているのだ。時を司るほむらもまた、最近になって「時」の力の偉大さを感じる様になっていた。
「あ、こらまたあんた別の事考えて」
「違うわよ、貴方のことを考えていたのよ」
「え、ほんと?」
「…大きくなったのねって」
「おかしいわそれ!」
えい、と蒼い髪の女性が年不相応な掛け声をあげ指を鳴らす。ぱちん、と水粒が悪魔の顔の前ではじけた、ほんの少しだがほむらの顔が濡れた。それを指差して笑う蒼い髪の女性。己の艶のある黒髪を軽く手で梳いて、ほむらはにっこりとあり得ないほど優しく微笑んだ。
「前言撤回ね」
「きゃあ!」
噴水の全ての流れがさやかの方へ向いて、彼女は滝に打たれたように一気にびしょ濡れになる。そんなさやかを見て今度はほむらが笑う番で。苦しそうに肩を震わせ口を抑えていた。
「テンパりすぎ…」
「むかつく!」
髪も服もびしょ濡れの状態のさやかは、両手をあげ、黒髪の美女に抱きつこうとする。歯をみせ笑いながら、ほむらは駆けだした。追いかけるさやか。妙齢の女性二人が公園で追いかけっこを展開し始めた。その様はまるで子供の様でもあり、たわむれる恋人の様でもあった。
***********
――あの二人を知っている
概念は無数の数多の生命体の中から「二人」を見つけた。蒼い髪の女性と、黒髪の女性を。ただ「彼女自身」の「分身」は何故かまだ把握できない。
『ま、私はまどかの鞄持ちですからねー』
――ああ、そうだ
概念は蒼い髪の女性は自身の中の一部であったのだと思いだす。同時に何やらとても懐かしい感情が湧き上がるのを覚え、戸惑ったように己の手を見つめた。そこにまたスクリーンの様に二人が映し出される。
――あの黒髪の女性は
概念は珍しいことだが不思議そうに首をひねった。同レベルの力を内包しているというのに、表面上人として存在している黒髪の女性が不思議でたまらない。
――あれが私を引き裂いたものなのか
何故そのような行為に走ったのか、残念ながら今の「彼女」には理解できるものではなかった。だが、概念は思考をそこで一旦止め、しばらく監視を続けることにした。己の「一部」を発見するまで。
***********
毎年、鹿目家ではクリスマスを家族で祝い過ごしている。
「姉ちゃんてさあ」
「何タツヤ?」
タツヤは10歳年上の姉をベッドで寝転びながら見上げた。桃色の髪の可愛らしい女性がジャージ姿で弟のベッドの端にちょこんと座ってこちらを見ていた。
「…彼氏とかとクリスマス過ごそうって思わないの?」
「そういうのはまだいません」
おどけた様子でそう言うと、まどかは弟の脚を軽く叩いて笑った。
「それよりタツヤはどうなの?彼女…じゃなくてもいいからガールフレンドでもできた?」
「そ、そんなのいねーし」
タツヤは口を尖らせ姉から顔をそむけた。
――姉よりも可愛い女子なんて他にいるのだろうか?
常々タツヤが秘かに考えていることだが、この姉よりも優しくて気立てがよくて、そして可愛らしい女性がこの世にいるのか甚だ疑問だった。彼が同年代の女子に全く興味が持てないのと、友人らに秘かにシスコンと呼ばれている所以でもあるのだが、とにかく彼の姉は可愛らしすぎた。悪魔や鞄持ちにも愛されるくらいに。
「そっか、じゃあ残念だけど、今年もお姉ちゃんとパパとママと過ごそうね?」
「残念じゃねーし…子供扱いすんなよな」
「ごめんごめん」
そう言って、えへへと屈託なく桃色の髪の女性は笑った。そうして、あ、と何かを思い出したように、ベッドの縁に置いてあった携帯を取り時刻を確かめる。
「そろそろ行かなきゃ」
「?何姉ちゃんどっか行くの?」
「うん、さやかちゃんとほむらちゃんと約束しているの、買い物の」
「さやかも休みなの?」
「うん、休みが取れたんだって、タツヤも行く?」
「い、いいよ俺は」
タツヤにとってさやかは年の離れた友人の様な存在だ。それは彼女の職業がタツヤの憧れの仕事であることと、相性というのだろうか、とにかく気がねなく話しやすい。以前、タツヤが秘かに手に入れたエロ本で引き起こされた騒動を彼女が解決してくれたおかげで、今では頭があがらなくなってしまったが。どちらかといえば、タツヤはもう一人の黒髪の女性が苦手だった。とても美しいというのは認識しているが、(偶然目撃したタツヤの友人達はかなり騒いでいるが)何を考えているのかわからないし、何をしゃべっていいかもわからない。さやかとは気楽に話せる話題もあの黒髪の女性に話そうものなら、限りなく永遠に近い沈黙が訪れるのではないかと不安だ。
「そっか、じゃあお姉ちゃん行ってくるね」
桃色の髪の女性は目を細めて弟に微笑むと、ベッドから立ち上がった。この年齢で、休日当たり前のように互いの部屋を行き来して雑談に興じる姉弟というのも稀であるが、家族が確かな絆で結ばれている鹿目家ならそれが当たり前なのだろう。ジャージ姿の姉にその格好で行くのか弟が尋ねると、姉は「まさか」と言い笑いながら部屋を出た。
******************
久々に街に繰り出すと、鮮やかなイルミネーションで街が彩られて、美樹さやかは心が躍った。
「うひゃあ…綺麗ねえ」
「イルミネーションまで口説く気?」
「違うわよ!だってほらめちゃくちゃ綺麗じゃん、ほらあれとか」
子供の様に、黒髪の女性のコートの裾を引っ張りながら、彩られた街路樹を指差す蒼い髪の女性。黒髪の女性――暁美ほむらは、街路樹ではなくさやかの横顔に視線を向け、しばらく見つめる。ふ、と口元を微かに緩めて。
「とうとう街全体まで口説くようになったなんて」
「ちょっと、私そこまで博愛主義じゃないわよ」
「冗談よ」
そう言って、微笑むと、ほむらはさやかの指差した方向を見つめた。
「綺麗ね」
そう囁くその横顔の方が綺麗だと思ったが、さやかは口に出せずに。
イルミネーションの明かりで往来の人はすべて影絵の様になっている。数人ほど、ほむらの美貌に気付き、魅入られたように見つめているものがいた。
「まどか遅いなあ、どうしたんだろ」
さやかが呟いた。クリスマスイブの夜に三人で買い物をしようと約束したはずなのだが、珍しくまどかが遅れていた。
「さやかちゃん、ほむらちゃん」
ちょうど良いタイミングで、まどかが二人の元へ駆け寄ってきた。
「まどか遅―あいた!」
さやかの脇腹をほむらが小突く。
「まどか、ちょうどいい時間ね」
「えへへ、ごめんねほむらちゃん、待った?」
「いいえ」
脇腹を抑え、顔をしかめて相方に抗議しようとしたさやかは、まるで呆けた様に口を開けたままほむらを凝視した。そこにいるのは天使の様に微笑むとても美しい悪魔で。
――別人!?
さやかに「お仕置き」と称して殴る蹴るの暴行を加える悪魔とは全く違う女性がそこにいた。
「さ、行きましょうまどか早く買い物を済ませないと、家のクリスマスパーティに間に合わないわよ?」
「そうだね、行こうほむらちゃん」
「ちょっとちょっと、私も行くわよ」
「あら…店の中には入れないから、そのあたりで留守番…」
「犬じゃないから!」
ほむらとまどかが同時に笑う。からかわれたのだ。
「まったく…」
どうもこの二人が揃うと、さやかをからかう傾向がある。それも息ぴったりに。肩をすくめて、さやかは二人の後に続いた。
「まどかは何を買うの?」
「うんとね、タツヤとママとパパへのプレゼントと、あとクリスマスツリーの飾りで足りないものがあるからそれを…」
「素敵だわ…」
頬を緩ませながら、ほむらはまどかを優しく見つめる。イブの奇跡などというものが本当にあるならば、この悪魔の表情が奇跡そのものなのだろうとさやかは思った。
イルミネーションとクリスマスソングのBGMが街に溢れる中、三人はイブの買い物を楽しんだ。
――幸せね
と、さやかの頭に直接ほむらの声が響く、念話だ。珍しいとさやかは思った。戦いの最中以外(さやかが出張した時も使ったが)はあまり念話は使用しないのだが、それほどほむらにとっては嬉しい出来事なのだろう。感情を吐露するというのもまた珍しかった。
――そうだね
さやかもまた念話で返す。視線は二人ともまどかに注がれて。まどかが幸せであればまた二人も幸せなのだ。
****************
――見つけた
「彼女」はとうとうそれを見つけた。元々「彼女」自身であったもの、人間であった頃の「彼女」を。強い力を持つ磁場へと化していたそこに「彼女自身」と、そして「引き裂いた者」、「一部分だった者」がいた。「彼女」は「通路」を開いた。
*************
大きな衝撃音とともに、桃色の髪の女性の周囲に光が巻き起こった。
「まどか?」
「まどか!」
往来しているひとだかりからも声があがる。
「うわ、何、何あれイルミネーション?」
「イベント?」
ほむらは反射的にまどかを抱きしめた。さやかも力を放ちながら、二人の元へと駆け寄る。
「……ほむらちゃん、私…ここは?」
ぞっ、とほむらに悪寒が走った。抱きしめている桃色の髪の女性の目が黄金に変わっていたからだ。
「まどか――」
だめよ、と囁いて強く桃色の髪の女性を抱きしめる。光の中に幾何学模様と文字が浮かび上がった。「通路」を抑え、まどかと円環の理がひとつに戻るのを防ぐため。
――まだだめだ、だめなのだ、彼女が人として人生を全うするまでは
必死にほむらは願う。と、そこで違和感に気付いた、相方が――さやかの気配が無いのだ。
「さやか?」
ほむらは視線をさやかの方へ向けた。そのまま視線は凍りついた。
さやかの身体が半透明になり消えていこうとしていた。下半身はすでに無い。
「ほむら、私はいいから、まどかを離さないで…!」
その表情は苦しそうだ、おそらく必死に抵抗しているのだろう。円環の理とまどかの間に通路が開かれた今、その傍にいる記憶を取り戻したさやかも引き込まれるのは必然だった。
――冗談じゃない
さやかは消えかかる自分の姿を見ながら思う。冗談じゃないのだ、今ここで泡の様になって消えてしまうなんて。だが、こんな状況なら、まどかさえこの世に残ればいいとさやかは思った。自身が消えることに不思議と恐怖はないが、寂しさはあった。
――あいつを残していけない
だが、どうやって?必死に打開策を考えるが浮かばない。ほむらはまどかを抱きしめながら、こちらを見つめていた。美しい容貌を悲しそうに歪めて。あいつもこんな顔をするんだ、とさやかは思った。
「さやか」
ほむらの背中から羽根が現れた。
――消えたら許さない
そうして、悪魔はまどかを抱きかかえたまま、片方の腕を伸ばし、さやかを引き寄せる。
「戦いなさい、貴方が消えたら、私は永遠に貴方を許さない――」
言葉とは裏腹の、今にも消え入りそうな悪魔の表情に、さやかはただ微笑んで。
「わかったわよ、あんたの力を貸して…」
「もちろんよ」
まばゆい光に包まれたまま、さやかは手を伸ばし、ほむらの手を掴んだ。そうして思いきり握る、強く、とても強く。身体の中にほむらの力が流れ出しくる。
そうして光は更に大きくなり、街中を包んだ。
***********
通路が閉ざされた――
「彼女」は不思議そうに己の手を見つめる。なぜあれだけの力があの三人に備わっているのか全く理解できず。ただ、それが理解できるのは、失われた半身が元にもどった時なのだろう、と考えた。そうして、「彼女」は再び視界を全宇宙へと向ける、あの三人に視線を向けるのはまたもうしばらく後でよいだろうと――
***********
「あれ?私どうして…」
街路樹の傍にあるベンチでまどかは意識を取り戻した。
「まどか大丈夫?」
「びっくりしたよ、もう急にまどかが倒れるもんだから」
「え、私倒れたの?」
さやかの言葉に驚き、まどかが尋ねる。蒼い髪の女性はそうだよ、と囁いて、桃色の髪の女性の頭をぽんぽん、と軽く叩いた。
「たぶん貧血、まどかはあんまりご飯食べないからさあ」
「もう、子供扱いしないでよさやかちゃん…私もう大人だよ?」
幼馴染が顔を赤くして抗議するのを見て、さやかは微笑んだ。
「あはは、ごめんごめん…いったぁ!」
そうして急に顔をしかめて叫んだ。背後の黒髪の女性に脇腹を思い切りつねられたからだ。
その様子にまどかはきょとんとして、そうして笑った。
「もう…二人とも仲いいんだから」
「違うわよ、こいつまどかのことが好きだからさあ」
「いい加減殺すわよ」
そうして三人は同時に笑った。
**********
買い物も終え、まどかが帰路につくのを見送った後、二人はイルミネーションの街中を散策していた。
「あれでよかったかな?まどか…」
「ええ、だいぶ貴方の演技がよかったから」
「えへ、そう?」
嬉しそうにさやかが微笑んだ。尻尾があったら振りそうだとほむらは思ったが、口に出さない。二人の手には可愛らしくラッピングされたクリスマスプレゼント。
『えへへ、二人のプレゼント買ったから、遅れちゃったの』
ああ、なんて可愛いんだと二人は桃色の髪の女性を見て思う。彼女こそ、女神であり天使なのだと。
『ねえ、二人とも私の家に来たらいいのに…』
毎年、まどかは二人を家に誘うが、一度も二人は参加しなかった。それには三人が鹿目家で揃うことにより、それが引き金となって円環の理からなんらかの干渉が起こるのではないかと恐れたからだ。
その恐れたことが今回起きてしまった――
「貴方まで」
「え、何?」
「――いいえ、なんでもないわ」
美樹さやかまで円環の理に引き込まれることは想定外だった。ほむらは傍にいる自分より少し背の高い女性を見上げ、みつめる。
「もう何よ…」
「なんでもない」
だが、もう長い間同居しているとはいえ、美しい容貌の相方にじい、と見つめられるとどうにも落ち着かない。さやかは頬を紅潮させ、視線を空へと向ける。そうして何か気付いたのか、あ、と声をあげ再びほむらの方へ視線を向けた。
「はい」
「何?」
「手、繋ご?」
半ば強引にさやかはほむらの手を掴む。悪魔は珍しく周囲の視線を気にしだした。
「…世間の目が限りなく痛いのだけど」
「大丈夫よ、気にしない気にしない」
「お気楽ねえ」
だが悪魔もまんざらでもないようで、そのまま手を繋ぎ、光の中を歩きだす。
「ねえほむら」
「何」
「私は消えないわ」
だから安心して、と蒼い髪の女性は囁いた。ほんの少しだけ悪魔のアメジストの瞳が揺らめいて。
「どうだか…私の力が無いと消えていたわよ、貴方」
「だから、その時はあんたの力に頼るから…よろしくね」
「馬鹿…それじゃあ」
――ずっと傍にいて
そう囁くと、悪魔は背伸びをするため時間を止めた。
END
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恋人
「何しているの?「リーディング」って奴?」
美樹さやかはコーヒーカップを二つ持ったまま、黒髪の女性に声をかけた。
「そうよ」
黒髪の美しい女性――暁美ほむらは、白いテーブルに座りタロットに興じていた。そうして、口元を緩めながら、相方であるさやかに一枚のカードを見せる。
恋人――THE LOVERS
ああ、と声をあげながら、さやかはコーヒーをほむらの元へ置く。そうして横並びに椅子に座った。あの、波乱に満ちた大学のゼミ旅行にOGとして参加した時、後輩に二人の相性を占ってもらったが、その時に出てきたカードが同じく、恋人――THE LOVERSだったのだ。
「うわ、なんか照れるわねえ」
天使の元に二人の男女がまるで祝福されていかのように立っている。そんなカードを見て、へらへらと嬉しそうに相方が笑うものだから、ほむらは、はあ、とこれみよがしにため息をついた。
「貴方の先行きが心配になってきたわ…」
「なんでよ!」
ほむらはまたもう一枚のカードをさやかに見せた。こちらも同じく「恋人」のカードだ。
「あれ?」
「気付いた?」
にやり、と笑うほむら。
気付いたも何も、先ほどのカードは一組みの男女だったが、今、ほむらが手にしているカードは、一人の男を囲むように両脇に二人の女が立っていた。頭上に天使がいるのは変わりないが。
「これ、三人なのね」
「そう…そしてこれが初期のタロットなのよ」
『恋人の意味は「選択」の意味もあるのよ』
あの時、ほむらに言われた言葉をさやかは思い出す。
男を囲む女性の内、右側はなんらかしらの権威を持っているような女性、そして左側は若い女性。身動きが取れない男の図。二人に囲まれた男は右側の女に顔を向け、そして左側の女に体を向けている。
「どちらとも選べない男は正に「優柔不断」そして「決断」を表すのよ」
「へえ…」
ほむらの言葉にさやかは頷く。確かに、初期のタロットと今のタロットでは少し意味合いが違う気になる。
『貴方は誰を選ぶの?美樹さやか』
そう言って、あの時彼女は笑った。今、ほむらは何を言いたくて自分にこのカードを見せているのだろう?さやかは不思議に思った。
「ねえ、どうしてそのカードを私に見せたの?」
「さあ?」
くすくすと笑って、ほむらはカードを伏せた。二人の女に囲まれた男の立場をさやかと仮定して、おそらく一人の女はほむらだろう。そしてもう一人は、おそらく桃色の髪の幼馴染だ。逆に男の立場をほむらと仮定した場合は、さやかは誰を当てはめていいか思い浮かばない。何故なら、彼女の場合選択の余地などないのだ。すべてが鹿目まどか一点に絞られていく。さやかは、はあ、とため息をついて相方に体を寄せた。
「ほむら、私はあの時言ったわ」
「何を?」
面白そうに目を細めて、黒髪の美女はさやかを見つめる。二人の距離はもうほんの数センチ。さやかは両手を伸ばして、そうして相方を抱き寄せた。彼女の耳元で何かを囁く。しばらくして、バツが悪そうに体を離したのもさやかだった。顔は紅潮していた。面白そうに眺めるほむら。
「――選択の余地なんて無いって」
「ねえ、ちゃんと言って…」
今度はほむらがさやかを抱き寄せる。再び二言三言、さやかはほむらの耳元で囁いた。その言葉にほむらはくっ、くっ、と喉を鳴らして笑う。
「その言葉が聞きたかったのよ」
「……意地悪」
顔を真っ赤にする相方を悪魔はさも嬉しそうに抱きしめ続ける。
そう、この言葉を再び聞くために、彼女はこのカードを見せたのだ。二人はどちらともなく立ち上がり、ベッドのある部屋の奥へ移動した。
テーブルのカードが片づけられたのは、それから数時間後のことだったという――。
END
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ママがサンタにキスをした
「まどか」
ママが呼んでる。私はツリ―の「お星さま」を持ったまま、台所へ行った。
「ママ、どうしたの?」
ママはにっこりと笑って私の頭を撫でてくれた。長い黒髪のとっても綺麗な私のママ。
「…ツリ―の飾り付けは終わりそう?」
「うん!このお星さまを付けたらね、「かんせい」するの!」
「そう…」
「うん!それでね……」
ツリ―のてっぺんにこのお星さまをのせたら「ばっちりかんせい」って「さやか」が言ってたってママに教えたら、ママはなんだか変な顔をした。怒ったのかな?
「ねえ、ママ、さやかは?」
「…すこしお遅くなるって、でも帰ってくるわよ」
「よかった!」
さやかはずっと私とママと一緒に住んでる「どうきょにん」で、「おまわりさん」だ。いつも仕事で遅くなって、時々ママとケンカするけど本当はとってもなかよし。
「遅くなりそうだから、さやかが帰ってくる前に、先に食事しましょうか?」
「ううん、三人で食事したいから…待ってる」
「まどかは優しいのね」
そう言って、ママは私を抱きしめて、ほっぺをくっつけた。
「くすぐったいよぉ」
「ほら、じっとして…」
ママは私をぎゅうって抱きしめて、離してくれない。なんだか恥ずかしい。
――ピンポーン
あれ、夜遅いのにお客さんかな?ママは立ち上がると玄関にむかって「どなたですか?」って聞いた。
『サンタです』
え、サンタ?本当に?私はびっくりしてママのスカートを掴んで後ろに隠れた。
「本当にサンタさんですか?」
ママがまた聞いた。
『はい、まどかちゃんにプレゼントを渡しに来ました』
「え、私に?」
私は思わず声を出した。だって、サンタさんが私にプレゼントを渡しにくるなんて…でもなんだかどこかで聞いたことのある声。
「それじゃあ、仕方ないわね、どうぞ」
ママは、はあ、とため息をついてドアを開けた。なんだか怒っているみたい、どうしたんだろ?
ガチャリ、とドアが開いて、赤い服の白いおひげのサンタさんが現れた。
「メリークリスマス!」
「わあ、サンタさんだ!」
でも、サンタさんって、蒼い髪だったっけ?ちょっと不思議に思ったけど、でも袋から大きなプレゼントを出してくれたから、やっぱりサンタさんだ。
「あら、私にはプレゼントは無いの?サンタさん?」
ママがサンタに聞いた。サンタさんはびっくりしたみたいで、なんだかワンちゃんみたいに困った声を出した。でも、なんだかママは楽しそうで。サンタさんは袋に手を入れてごそごそして、なんだかちっちゃな茶色いものを出した。
「はい、まどかちゃんのママにはこれを!」
ママの手に小さなクマのぬいぐるみ。あ、家にあるクマのぬいぐるみと一緒だ。ママはそれをじっと見て、動かなくなった。サンタさんもなぜか動かなくなって。
「……持ち運べるサイズもいいかなって…」
サンタさんがとっても小さな声でそう言ったら、ママはもっと小さな声で
「馬鹿ね…」って言った。
それから、私はびっくりした、だってママがサンタさんに抱きついたから。
「本当に、情けないサンタだわ…」
そう言って、
――ママがサンタにキスをした。
END
ぬいぐるみのクマは以前登場したクマです。
そしてこのまどかはなんらかの理由で子供に戻ったまどかなのか、それとも…
強めな幻覚ですが楽しんで頂ければ…!
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雪と悪魔と鞄持ち
「わ、雪!」
嬉しそうに蒼い髪の女性は空を見上げる。傍にいた黒髪の女性はそれを呆れたように見つめるが、しばらくして薄く笑った。元々冷笑をよく浮かべていたこの黒髪の女性は、今では少しだけだが「普通に」笑えるようになっていて。だが今は心底可笑しいのだろう、空を見上げたまま口を惚けたように開けている女性を見て、とうとう笑みを浮かべながら囁いてしまった。
「まるで犬ね」
そう囁くのも実は致し方ないことで、どうにもこの蒼い髪の女性の挙動は犬のそれに近いと彼女は思っている。例えば魔獣との戦いの後のはしゃぎようだったり、今こんな風に雪を見上げている時の嬉しそうな表情だったりを見ていると、ついてないはずの尻尾がぶんぶんと振られているのも想像に容易い。長い睫毛を揺らし、目を細めながら黒髪の女性が蒼い髪の女性の横顔から腰まで視線をスライドさせていったのも脳内で彼女を犬に変換しているからかもしれない。
歩行者信号が青に変わる。
あたりは朝の早い時間だからか、クリスマスイブだというのに街は静かで。所々にイルミネーションが飾り付けられてあるので、きっと夜は美しく光輝くのだろうと黒髪の女性はそれを想像して目を細めた。
あの子と見たい――
桃色の髪をした女性が黒髪の女性の脳裏に浮かぶ。世界を改変してから10年。何もかもが変わった。変わらないのはあの子に対する思いだけ。
すれ違う歩行者たちが時折黒髪の女性を見てハッとした表情を浮かべる。それは黒髪の女性の美貌のためだった。本人はいたって無頓着なのだが、彼女はとても美しかった。
「いや~、行き交う人々はまたあんたに見惚れてますなあ」
おどけた様子で蒼い髪の女性はからかうが、黒髪の女性はいたって無表情…いや、少しは怒気を含んできたようで。寒そうにコートのポケットに入れていた細い白い手を出すと、胸元の前まであげて『パチン』と指を鳴らした。
「あぶなっ!」
舞い散る雪が手のひらサイズの雪の塊となって、蒼い髪の女性の顔めがけてぶつかっていった。が、見事な反射神経でそれを避ける。くすくすと笑う美女。
「お見事ね」
「ひどいよ、ほむら」
蒼い髪の女性は黒髪の女性――暁美ほむらを軽くにらんだ。といっても、たれ気味の目のためどこか迫力に欠けるのだろう、ほむらはただ口元を緩め横目で見つめるばかりで。
「あら、貴方がからかうからよ、美樹さやか」
「私が?」
蒼い髪の女性――美樹さやかがすっとんきょうな声をあげる。身に覚えが全く無いらしい。はあ、とため息をつくほむら。
「前に言ったでしょう?私は私以外の誰かにどう見られようとも気にならないって」
「ああ…」
そう言えばそうだった、とさやかは思い出す。
『この人達の視線なんて、私はなんとも思わないし、どう思われても気にならない、私自身に影響はないし、関係が無いもの。だけど貴方の視線は――』
「あ、でも私は気になるって言ってなかった?」
そう、確かに彼女はそう言った、とさやかは言いながら思い出す。そうしたら珍しいことにほむらの切れ長の目は少しだけ丸くなった。どうやら言った本人である彼女も忘れていたらしく――
「あ、ほむらびっくりしてるでしょ」
「うるさいわね」
美しく整った顔にこれまた珍しく人間らしい表情を見せて、ほむらはさやかから顔を背けた。ふふ、とさやかが笑った。
――クリスマスイブだからかな?
ふと、さやかは考える。
普段とどこか違う雰囲気、静かだけれど心が躍る様なそんな日は悪魔も女神の元かばん持ちも人となんら変わらぬ者になるのではないかと。もしそれなら――
黒いコートを着こなした女性の後ろ姿をさやかは見つめる。艶のある長い黒髪はこんな寒い日もさらさらと美しく流れて。それをしばらく見つめ、ぶんぶん、とさやかは頭を振る。もし目の前の美しい黒髪の女性がそれを見たら、また犬みたいとからかうのだろうが、生憎ほむらは何かを見つめている様だった。さやかも彼女と同じ方向を見つめてみるが、視界に映るのはまだ明かりが灯らない街灯とビルの街並みだけで。
「ああ」
さやかのたれ気味の目が何かを捉えた。
「夜になったらイルミネーション綺麗でしょうねえ、ね、夜にまた来てみない?」
「そうね…ねえ」
振り向いたほむらが、何か言いたげにさやかを見つめ、そうして口をつぐんだ。
「どうしたのさ、今日は珍しいわねえ」
「…何が?」
「あんた人間みたい」
ボスッ、とさやかのダウンジャケットが音を立てる。
「あいたっ」
みぞおちあたりを抑えるさやか。
「ちょっと、あんためっちゃ痛いんだけど!」
「貴方も人間らしいじゃない?」
ニイ、と鮫の様に笑うほむら。
――前言撤回だわ!
さやかが顔をしかめる。愛情表現と楽観的に解釈するにしても今のパンチは強すぎる。みぞおちを撫でるさやかを見つめ、ほむらがぽつりと囁いた。
「私と見たいの?」
「へ」
「イルミネーション」
小首をかしげてこちらを見つめるほむらは、さやかから見て美しく、そしてどこか幼かった。
「当たり前でしょ?一人で見るより、あんたと一緒に見た方が楽しいし…って、あんたもしかして私と見たくないとか?」
ふふっ、と何故かほむらが笑い出した。
「何が可笑しいのさ」
「だって、貴方この世の終わりの様な顔してるんだもの」
「え」
思わず顔を抑えるさやか。見ようにも己の顔を鏡無しで見る方法はない。
「馬鹿ね…見たくないわけないわ」
そうしてほむらは空を見上げる、言葉を選ぶためなのか、己の感情を整理するためなのか考え深げな表情を浮かべて。
「ただ、私は…あの子のことしか考えていないのよ」
「まどかでしょ?」
「…あの子とイルミネーションを見たいって思ったわ…でも」
「私のことは考えなかった…でしょ?」
驚いたほむらの瞳。
「まあ…そんなもんでしょ、あんたまどか一辺倒だしね、よく知ってるわよ」
ひらひら、と両手を胸の前で振るさやか。気にするな、のジェスチャーなのだろう。
「貴方…」
そう言って、ほむらは口を閉ざした。最も険悪な関係を築いたこともあるこの蒼い髪の女性にこんな風に理解され、許容される日が来ようとは。時の流れがどんなに偉大なものか、皮肉にも悪魔はこの鞄持ちの成長によって実感するようになっていた。
「それよりさ、何か食べてかない?ここらへんに美味しい――」
ぽすっ、とさやかのダウンジャケットが音を立てて、二人の女性が重なり合う。ほむらがさやかの身体にもたれてきたのだ。ちょうど少しだけ背の高い蒼い髪の女性の首元にほむらの顔がついて。
「何さ…こんなとこで」
顔を徐々に赤らめながら、さやかがほむらに囁いた。だがほむらは返事をしない。ほむらの肩に触れながら、慌ててキョロキョロと周囲を見渡すと、歩行者が興味深げに二人を横目で見つめながら通り過ぎていった。
――時間止まってないじゃない!
心で叫んだ後、さやかがほむらの顔を覗き込むと、ほむらもまたさやかを見上げていた。アメジスト色の瞳にさやかの顔が映し出される。
「――せて」
「え?」
ほむらの口元が微かに動き、そうしてその顔がさやかの顔に近づいていく。
白い雪が舞い落ちる中、さやかの唇に冷たい柔らかいものが触れた。
「―――貴方の唇、温かいわね」
妖艶に微笑んで、ほむらはさやかを見上げる。
「そ――」
何か言いかけたさやかから身体を離し、ほむらは笑いながら背を向けた。そうして早足で歩きだす。
「もう、待ってよ!」
頬を紅潮させながら、さやかはその後を追う。白い雪の降る中、悪魔と鞄持ちはまるで子供の様に追いかけ合って。そうして笑顔を浮かべる。
――貴方のことしか考えられないようにさせて
白い世界にまるで二人だけがそこにいるように――
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年の瀬に
年末の慌ただしい雰囲気を隠すことなく賑わう街の中、人目を引く二人の女性が歩いていた。
はあ…とそのうちの一人の女性が白い息を吐く。
「さっむいわねえ」
蒼い髪の女性が己の身体を抱えて震える。それを見て口元を緩める長い黒髪の女性。
「情けないわね、『力』を使ったら?」
冷笑ともまた違う、薄い笑みを浮かべる黒髪の女性はとても美しかった。降り注ぐ雪と同じ様に白い肌、艶のある長い黒髪、そしてほっそりとした繊細な輪郭に整った顔立ち。切れ長の目の下に微かに隈があるが、それはやつれ切ったというよりもどこか病的な妖艶さとでもいうのか、不思議な雰囲気を醸し出していて。長い睫毛の下からアメジスト色の瞳が蒼い髪の女性を映しだす。その瞳を見つめ返し、ダウンジャケットにデニムのパンツ姿の蒼い髪の女性がふるふると頭を振った。
「……いいわよ、もったいない」
少し間があったのは黒髪の女性に見惚れていたからなのだが、慣れているのか、それとも無頓着なのか当の本人は蒼い髪の女性を見つめながら無邪気に小首をかしげた。
「あら、出し惜しみするなんてらしくないわね」
黒髪の女性が右手で髪を抑えながら寒そうに囁いた。雪の中風で舞う長い黒髪。黒のコートとスカートという黒ずくめの姿は彼女の透き通るような白い肌と見事に対照的で、まるで世界が白と黒しかないようなそんな錯覚を蒼い髪の女性に思い起こさせた。
「いや…そんなんじゃないわよ」
頭を軽く振って、蒼い髪の女性は呟いた。肩まで伸びた髪、その毛先が風でゆらゆら揺れる。髪と同じ色のダウンジャケットにかかった雪を払いながら、少しだけまた間を置いて女性は言葉を続けた。
「なんかさ、変な話、大人になるにつれて魔法の力が減っていっている気がするのよね」
えへへ、と人の好さそうなたれ気味な目を細め、蒼い髪の女性は黒髪の女性に笑いかけた。左手で己の髪をくしゃくしゃと掻く。その気さくな所が彼女の魅力だ。黒髪の女性の妖しい美しさとは対照的に彼女はどこか中性的で人好きのする顔立ちをしていた。その顔をじい、と見つめる黒髪の女性。その表情にはわずかだが怒りが込められてきていて。
「それ、本当?」
「本当かは…わからないけど実感よ、だからもったいないから『節約』してんの」
並んで歩いている二人だが、黒髪の女性が距離を詰めてくる。そうして蒼い髪の女性にもたれるかと思いきや軽く体当たりしてきた。
「おわっ」
妙齢の女性らしからぬ、変な声をあげて蒼い髪の女性が2mほど横に滑るようにスライドする。両手をバタバタと振りながら、バランスを取ってようやく落ち着くと、たれ気味な目を丸くして蒼い髪の女性は口を尖らせた。
「ちょっと、あんた…」
黒髪の女性に抗議しかけて、蒼い髪の女性は口を閉ざす。往来の人々が何名か興味深げにこちらを見ていることに気づいたからだ。最初は挙動不審な蒼い髪の女性をそして次に隣にいる怖いくらい美しい女性に皆目を奪われていく。気まずそうに肩をすくめ、歩き出す蒼い髪の女性を見て、くすくすと黒髪の女性は笑いながらついてくる。恨めし気にそれを横目で見つめ(迫力は全く無いが)蒼い髪の女性はまだ笑っている美女に囁いた。
「…もう急になにすんのさ、ほむら」
名前を呼ばれた黒髪の女性――暁美ほむらは、隈のある目を細め囁く。
「貴方がくだらないこと言うからよ、美樹さやか」
「くだらないことって…ひっどいわねえ、私は結構気にしてんのよ?」
蒼い髪の女性――美樹さやかは口を尖らせながら抗議した。実際彼女は魔獣と戦う時も力の放出を調整している。攻撃する時には魔法を使い、回避する際にはほぼ己の人としてのフィジカルな部分に頼り切っている。そのおかげでだいぶ鍛えられて、今では力をまったく使わなくとも刀さえあれば魔獣を斬ることができるのではないかと思うくらい、さやかは自身のフィジカル面を過信していた。その反面、力については本人が言っていた通り『減って』いる気がして正直気が気ではないのだが…
「この世界に戻ってこれたとはいえ、10年も経てば、やっぱ力も減るものなのかしらね」
「ほんとに貴方って…」
美しい顔を少し曇らせ、そうして、はあ、とほむらは白い息を吐いた。
「私、前に言ったわよね、覚えてる?」
歩みを止めて、さやかがほむらを見つめる。少しだけさやかの方が背が高いため、ほむらは見下ろされる形になった。上目遣いでほむらはさやかを睨んだ。そうして蒼い髪の女性の言葉を待たずに自身の気持ちを吐き出した。
「勝手にのたれ死んだら殺すわよ」
それはドスの効いた艶のある低い声で、得体の知れない恐怖と同時にまたある種魅惑的なものをさやかに与えた。今に始まったことではないが、おそらく初めて出会った瞬間からさやかは彼女に魅了されていたのだろう。少女の時に抱いていた彼女に対する羨望の様なものは成長してからはまた複雑な想いへと変化していて、それがさやかの頬を紅潮させる。恐怖を感じているのにだ。ダウンジャケットのポケットに入れていた手をさやかは出して、参ったといわんばかりに胸の前へとあげた。
「…覚えているわ」
眉を下げ、心底困ったような表情でさやかはそう言った。二人を囲む空気が周りとは違う異質のものになる。緊迫した空気の中、さやかは黒髪の女性から放出される「力」を感じた。まるで静電気の様な痛みがさやかの身体に走る。
――無尽蔵
こんな時、さやかは相方の力の凄まじさを痛感する。とにかく差が歴然としているのだ。まるで地の底、いや、地球そのものから得ているのではないかというくらい果てしのない力をを感じ、さやかは思わず後ずさりする。だがそれを美しい悪魔は許さなかった。上目遣いで睨んだまま、さやかの体に接触するギリギリの距離まで近づいてくる。陰鬱なだが怖いくらいに惹きつけられる双眸。
「ほ――」
あの瞬間をさやかは思い出す。かつて仲間であった少女が悪魔と化して挑発的にさやかを見上げていた瞬間を。元々美少女だと認識していた少女がまるで見た事の無い妖艶な笑みを浮かべたあの瞬間、さやかは怒りよりもむしろ――
ゆっくりと美しい顔がさやかに近づいて、そうして何も見えなくなって、さやかの唇に温かいものが触れた。ほむらの唇だ。さらに押し付けられてさやかの口の中に何か液体が入ってくる。さやかは目を丸くして身じろぎするが、肩に置かれたほむらの手がそれを許さない。
――飲みなさい――
「!?」
さやかの頭に直接ほむらの声が響く、念話だ。顔を重ねたまま、さやかの喉が鳴る。だが、それでも二人の顔は離れなかった。雪も二人の周囲の人の波も全て動きを止めていて。ようやくどこか名残惜しそうに二人の顔が離れた時には、二人共顔は紅潮していて。
「ちょっと…あんた何を飲ませた…」
そう言いかけてさやかは目を丸くする。視線の先の美しい女性の唇に赤い一筋の線が見えたからだ。
「血…」
ほむらは己の唇を白い指でなぞるように撫でると、赤い舌を出してその血を舐め取った。
「どう?少しは元気出たかしら」
「え…あ」
さやかが己の手を見る。アメジスト色の光が一瞬掌を駆け巡って。
「すごい…」
その手で胸元を抑えながらさやかが呟いた。内なる力がみなぎってくるのがわかる。時折悪魔の力を手を繋ぐことで借りることはあったが、あの時よりも彼女の力がダイレクトに体に入り込んできていて。かつてあそこ(円環の理)にいた頃よりも力が増しているのではないかと思うほどだ。
「ほむら、ありが――」
「なんで言わないの」
「え?」
アメジスト色の瞳が困惑するさやかを映し出す。瞳の主の表情は険しいままで。
「力が減ってきていると感じているなら、何故もっと早く私に言わないの、それとも貴方はそのままのたれ死ぬつもりだった?」
腕を組んで上目遣いのままほむらはさやかに背を向けた。
「だったら貴方なんて――」
だがその声は微かに震えていて。そうしてさやかはようやく気付く。彼女の本当の気持ちを。
「ほむら――」
だがさやかが最後まで言い切らないうちに異変が起こる。顔をしかめ、さやかが項を抑えた。
「――魔獣が来るわ」
さやかの言葉でほむらが振り返る。その瞳の色は血の色に変わっていた。
******
幼馴染である鹿目まどかが改変した世界での記憶をまだ全て取り戻していないさやかにとって、魔獣は魔女よりある意味手ごわい相手であった。魔法少女であったものが敵でない点については申し分ないのだが、それ以外については何一ついいことはない。まずその形態。全てが謎のままである。魔女に似た風貌のものもいれば、巨大な仙人を思わせる風貌のものもいる。とにかくバラエティに富んでいて、しかも攻撃方法も様々なのだ。そして最もさやかを悩ませていたのが彼等が人間と融合することだった。この場合、どうしてもさやかは躊躇してしまい、怪我を負ってしまう。自らが保有している治癒能力に再生能力が備わっていることに感謝しながらさやかは失った四肢を再生したこともあった。
――今夜は人間と融合していない
秘かに安堵の息を漏らしながら、さやかは宙を舞う。相方である美しい悪魔の様に空を飛ぶことはできないが、その代わり、何度も高く跳躍し魔獣に近づいていく。今夜の魔獣は古代の空を飛ぶ恐竜にどこか似ていて。変身しないまま、さやかは両手に剣を携えて魔獣を切り裂いていく。その背後に現れる黒いコートの女性、その背中には大きな黒い羽根が生えていて。
「どきなさい」
その声で反射的にさやかは素早く体を捻る。と、黒い羽根の女性――ほむらの手に収められたダークオーブから光が放出され、数匹の魔獣が瞬時に消失する。
「すげ…」
さやかが目を丸くしながら傍らの魔獣を倒す。それからほどなくして襲い掛かっていた魔獣を全て倒し、二人は結界が消え去った夜の公園で佇んでいた。そこは小高い丘になっているため、夜の街を見渡せることができる。しばらく二人は何も語らなかったが、さやかが沈黙を破った。
「はあ~…大晦日だってのに、魔獣はほんと日を選ばないわねえ」
おどけたようにほむらに話しかけるが返事は無い。ほむらはというと、腕を組んで無表情に前方を見つめている。その横顔を見て、秘かに息を吐くと意を決したようにさやかはほむらの傍に寄り添った。拒む様子が無いので怒っているわけではないらしい。
「ねえ…あんた、私のこと心配してくれて…だからああ言ったんでしょ?」
「……」
「私、『ずっとあんたと一緒にいる』って約束を破るつもりなんてない、でも…そのためなら力が減ってきたことを相談するべきだった…ごめん」
風が二人の髪を揺らす。ここはかつて黒髪の女性が悪魔となる前、結界にも反映された場所だった。花壇の花や草もゆらゆら揺れて――
「自惚れないで」
ようやくほむらは口を開いた。そうして目を瞑ると長い溜息をついて。
「まあでも…わかったなら…いいわ」
その言葉で嬉しそうに微笑むさやか、その顔を見てようやく溜飲が下ったのか、ほむらは肩をすくめる。
「今度何かあったらあんたに必ず言うから」
「お気楽ね」
「あんたが守ってくれるからね」
そう言って、目を細めたさやかを見て、何故か
一瞬驚いた様な表情をほむらは浮かべた。そうして目を伏せると彼女は唇を噛んだ。先ほど蒼い髪の女性に与えたように血が浮き出てくるが、気にせずにそのままさやかを見つめる。驚いたさやかの瞳。
「貴方は絶対に死なせない、もし死ぬなら」
悪魔はかばん持ちに身体を寄せる。肩に手を置き引き寄せて、顔を近づけた。触れるほどの距離で見つめ合う二人。そして
「私が殺すわ」
唇が重なった。
微かな血の味を感じながらさやかはゆっくりと目を閉じた――
END
下書きはもっとキスが濃厚でしたが、あっさり目に変更しました。
R18でそのあたりは頑張ろうと思います(何)
ではよい大晦日を…
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満天の星の下
こちらでは初めてのお正月ですが、まだまだ好き放題書いていく予定ですのでうちの大人さやほむをどうぞよろしくお願いします。
「はあ…」
「どうしたの?」
黒髪の女性は目を細めながら美樹さやかを見つめた。先ほどの怒りを湛えた表情はもうどこにもなく、そこには穏やかな表情の美しい悪魔がいるだけだった。
「いや、なんかあっという間に新年を迎えちゃったなあって」
左手の腕時計をちょんちょんと人差し指で示しながら、さやかは微笑んだ。照れ笑いだ。ああ、と美しい悪魔――暁美ほむらはつぶやいて、口元を緩めた。
「あら、いいじゃない私とキスしながら年を越せたんだから」
「キ…っちょ、ちょっとそれは!」
「事実でしょ?」
しれっと涼し気にほむらはそう言うと、流れるようにさやかの肩に頭をもたれさせた。さやかはというと、顔を赤くさせたまま何も言えない様子で。ただ唇に指をあてて、夜空を見上げた。満天の星は二人を見つめて微笑んでいる様で。
「私ね」
ほむらが急に語りだした。おとなしく耳を傾けるさやか。
「昔ここでまどかに優しくしてもらったの」
ひゅう、と風が吹いて、ほむらの髪が揺れる。何も言わず視線だけほむらに移すさやか。
「あの時、私は決めたのよ、あの子は絶対に幸せにしてみせるって」
ほむらの本音の吐露、それはとても――さやかにとってはとても嬉しいことだった。かつて彼女がこんな風に自らの想いをさやかに語ってくれたことなど皆無に近い。もちろんそれは自分にも問題があったことは今のさやかにならわかる。こんな風に彼女が心を開いてくれることがまさに奇跡なのだと。ほむらほどではないが、さやかもまた『時』の偉大さを感じていた。10年という歳月が二人の関係を変化させてくれたのだと。
「私もまどかには幸せになって欲しい」
それがさやかの本音。今、自分の肩に頭をもたれさせている黒髪の女性が世界を改変した時は正直幼馴染の幸せのことまで考えていなかった。ただ、幼馴染が築き上げたシステムを壊されたことに怒りを感じていただけだった。
「それなら私達の目的は同じね」
どこか嬉しそうな響きを含んだほむらの声にさやかは思わず口元を緩める。
「そうだね…あのさ、ほむら」
「何?」
肩にもたれながら、ほむらが上目遣いでさやかを見上げる。そんなほむらをいつになく優しくさやかは見つめ、囁いた。
「ありがとう」
何も言わず見つめ返すほむら。
――ぱちん
「あいたっ」
さやかが額を抑える。器用にもほむらが掌でそこを軽く叩いたのだ。目を丸くしているかばん持ちを見上げ、ほむらは肩を揺らして笑った。当然さやかの身体も揺れる。
「もう…何さ、人がせっかく」
「初日の出」
「え?」
「ここで見るのと家で見るのどっちが良いかしら?」
質問の意図がよくわからず、一瞬戸惑いながらさやかは答える。
「そりゃあまだ時間はあるし、ここだと寒いから家がいいわ」
「決まりね」
ほむらは身体を離すと再び羽根を広げた。大きな黒い翼がふわりと上下に動いて。
「え、もしかして飛ぶの?」
「あら、タクシーでも呼んで帰るつもり?」
「いや…そうじゃないけ…わあ!待って!」
「待っている暇はないわ、鞄持ちさん」
珍しく楽しそうに笑い、ほむらは羽ばたいた。その両手にはしっかりとさやかを抱えて。
「ひぃ、高!」
思わずしがみつくさやかを見て愉快そうに笑うほむら。先ほどまでの陰鬱な雰囲気が嘘の様に消えていて。
「もっと高く飛ぶわよ」
「お、お、落とさないでよ!」
普段ならほむらの顔を見るだけで赤くなるさやかだが、命がかかるとなるとまた別なのだろう、必死にほむらの細い腰を抱きしめる。
「情けない顔ね」
鞄持ちの顔を眺めながら、さも楽しそうに悪魔は空を飛ぶ。
「ねえ、さやか」
「な、何」
さやかの耳元にほむらは口を寄せ、何事か囁いた。こくこくと頷くさやか。
「ふふふ…」
ほむらはそれから大事そうにさやかを抱えると、もう何も言わずに空を飛び続けた――
――ねえ、さやか
――な、何
――今年もよろしくね
END
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初詣にて
元旦から数日経ったというのに、見滝原市の郊外にある神社には大勢の参拝客がいた。
「うわ~すごい人だね」
「姉ちゃん、ほらぶつかるよ」
ぐい、と鹿目タツヤは姉の腕を掴み自分の傍へ引き寄せた。10歳年上であるこの桃色の髪の女性は、20代とは思えないほど(弟の視点では)子供っぽく無邪気であり、どうにも放っておけないのだ。
「ありがとう、タツヤ」
桃色の髪の女性――鹿目まどかは、自分より背が高くなった弟を頼もしげに見上げた。
「気をつけろよ…まったく」
そう言って、タツヤはそっぽを向いた。ダッフルコートにジーンズ姿のタツヤに、可愛らしいワンピースの上にコートを羽織った姉。傍目から見たらどう見えるのだろう?とタツヤは秘かに考えていて。
「ふふふ、タツヤも大きくなったんだね」
嬉しそうにまどかは微笑んだ。幼稚園の先生をしているせいだろうか、まどかは弟を14歳の少年というより、どちらかというともっと年下の子供の様に扱っていた。手を伸ばし、背の伸びた少年の頭をよしよしと撫でる。弟は面白い様に反応して、変な声をあげて身体を硬直させた。
「うわ、ちょ、ちょっと子供扱いすんなよな!」
思わず家の中の様に大声をあげる。周囲にいる人だかりもその声に反応し、数人が姉弟へ視線を向けた。それに気付きタツヤは顔を更に赤くし、姉の手を取ると強引に引っ張って足早に境内へ向かう。
「…もう、外でそんなことすんなっつーの」
「ふふふ、ごめんごめん」
まどかは無邪気に笑う。彼女からすれば弟はまだ4歳の頃のままなのだろう。
鹿目家は例年家族総出で初詣に出かけていたのが、今年はそうもいかなかった。母親がどうしても仕事を休めなくなったからだ。二人の母親である鹿目訽子は、会社でもかなりの重要なポストに就いているらしく、父親いわく「社長の右腕」らしい。正月の三が日と会社の行事が重なりどうしても休めなかったのだ。
「でもよかった、タツヤと初詣行けて」
まどかはふんわりと柔らかく弟に笑顔を向ける。
「…まあ毎年家族で行ってるし」
姉の笑顔にどうにも弱い弟は、赤くなった顔を見られたくないためか、顔をそむけぼそりと呟いた。
「でもさあ…」
「何?タツヤ」
弟は去年のクリスマスイブと同じ台詞を呟いた。
「彼氏とかと行こうとか思わないの?」
「そんなものはまだいませんって、いったでしょ?」
しつこいな、とからかうように囁いて、まどかが甘えるように弟の身体に体当たりした。まどかが小柄で体当たりが弱かったのか、弟の方はびくともしない。
「てかさあ、姉ちゃんくらい――」
――可愛かったら
と言おうとして何故か言えなくてタツヤは口を閉ざして。きっとまどかを知っている(あるいは見ている)男達は皆姉に惚れるのではないか、とタツヤは内心思っていた。姉を見て惚れない奴はいないという、やや盲目的な弟の視点ではあるが。姉を見て騒ぐ友人達を見て、勝ち誇った気分を味わうことも正直あるが、どちらかといえばよくわからない「不安」にかられることも多い。それは姉を取られるかもしれないという不安で、それがどこからくるものなのかは、まだタツヤにはわからなかった。
「なあに、タツヤ?」
「……いや、てかさあ、姉ちゃん前好きな人いるっていってなかったっけ?」
「ああ…でも内緒って言ったでしょ?」
可愛らしく囁くと、まどかは片目を瞑った。ちぇっ、とタツヤは呟く。以前好きな人がいるとは姉から聞いていたが、それが誰かは未だわからない。
「いつか教えろよな」
「うん、いつかね?」
そう言って、桃色の髪の女性は、あれ?と不思議そうに呟いた。それはあまりに唐突なので、弟も不思議そうに姉の顔を見つめる。
「姉ちゃん、どうしたの?」
「うん…あれ?なんかね…前にもタツヤとそんな話しをしたような」
「前って、去年話したじゃん」
「うん、そうじゃなくて…あれ、ずうっと昔…そうだ、タツヤじゃなくてママとだったかな?」
どうにも記憶の錯乱が起こっているらしく、まどかは額を抑えた。
「姉ちゃん?」
「大丈夫、ごめんね」
えへへと笑って己の頭をこつんとまどかは叩いた。時折姉はこうなることがある、とタツヤは思い起こした。時々急に不思議なことを口走るのだ。弟の心配そうな顔を見て、まどかはそれを吹き飛ばすように笑顔を浮かべると、さあ行こう?と弟と再び手を繋いだ。
*****
「…人がいっぱいね」
黒髪の妙齢の女性が子どもの様に囁いた。そしてそれに頷く蒼い髪の女性。
黒のワンピースに黒のコートと黒一色の服装を身に纏った美しい女性――暁美ほむらと、仕事帰りのスーツの上にキャメルのダッフルコートを纏った蒼い髪の女性――美樹さやかは初詣にこの郊外の神社を訪れていた。だが予想外に人が多く、二人は困惑していた。さやかとほむらは双方とも人混みはどうにも苦手で。(その理由は様々だが)とりあえずそのために元旦を外してこの神社に来たというのに、予想を上回るほどの参拝客だったため、二人はしばし呆然と立ち尽くす。
「ほんとそうねえ…予想外だわ…でもまあ…せっかく来たんだしとにかく行こ?」
そう囁いてさやかはほむらの腕を取る。
「あら、エスコートしてくれるの?紳士ね」
「せめて淑女と言って」
「いやよ」
さやかの言葉にほむらは可愛らしく舌を出して返答した。そうして二人器用に人混みをすり抜け歩き出す。時折ほむらの美貌に気付いた参拝客がぽかんと呆けたように視線を向けるが、二人とも気にしない。と、黒髪の女性が何かを見つけたのか、歩を止め、蒼い髪の女性に囁いた。
「ねえさやか、せっかくだからあれ…したいわ」
「あれ?」
黒髪の美女の視線をさやかが追うと、そこには「おみくじ」とでかでかと書かれた屋台。ああ、とさやかは笑った。
「あんたそう言えば好きよね、おみくじ」
「貴方もでしょ?前もあんなにはしゃいでたのに」
「まあね、あれって、おみくじを開くところが楽しいのよね」
陽気にさやかが笑いながら、おみくじを開くジェスチャーをした。ちょうど開き終えた仕草のあたりでほむらが「凶」と艶のある声で囁く。
「ちょっと!」
「冗談よ」
くすくすと笑い、ほむらはさやかに身体を預けもたれた。どうやら悪魔と鞄持ちもつかの間の平和を楽しんでいるようで。
「とりあえず参拝をすませてからおみくじ引こうよ」
「賛成よ」
そうして二人は身を寄せ合って歩き出した。
****************
人混みの中でひとしきり騒がしいところがあるので、タツヤは気になって視線を向けた。
「…あれ?」
「どうしたのタツヤ?」
「うん、あれって…」
タツヤの視線の先に蒼い髪の女性が見える。そしてその傍に黒髪の女性。
「さやかじゃないかなあ?」
「え?ほんと?」
まどかが弟の視線を慌てて追う。確かに蒼い髪が見える。
「ほんとださやかちゃんだ…ほむらちゃんもいる」
「呼んでみる?」
「うん、あ、気付いたみたい」
「マジ?」
あんなに離れているのに、まるでアンテナがついているかのように、二人はこちらに気付いた。嬉しそうに手を振る姉に合わせてタツヤも手を振る。
「さやかちゃん、ほむらちゃん!」
人混みを掻きわけ、蒼い髪の女性と黒髪の女性がこちらに歩いてきた。
**************
まどかの事に関しては、ほむらもさやかも他の者の追随を許さない。何故なら二人ともまどかを「愛して」いるから。どんな人混みにあっても二人はまるでアンテナがついているかのようにまどかの存在を察知するのだ。最初に気付いたのはほむらだった。
「…さやか、まどかの気配を感じるわ」
「え、マジ?…あ、ほんとだわ、ほらあそこに」
さやかの視線の先に、桃色の髪の女性の姿があった、嬉しそうに手を振っている。
「まどか」
まるで蕩ける様に相方が表情を和らげるものだから、さやかは毎度のことながら驚いた。
「…あんたほんとまどかの事になると別人よねえ…」
「あら、妬いてるの?」
「え」
驚いた様にさやかがほむらを見る。ほむらも不思議そうに己の唇に指をあてて。そうして見つめ合う。
「さやかちゃん、ほむらちゃん!」
名前を呼ばれ、二人は再び視線を数メートル先にいる桃色の髪の女性のところへ向けた。嬉しそうに手を振っている姿を見て、思わず二人も笑みを漏らす。そうして二人はまどかのところへ歩き出した。
******************
奇偶とは正にこのことだろう。
ほむらとさやか、そしてまどか達は市の郊外にある神社で偶然出会った。
「すごい偶然だね、さやかちゃん、ほむらちゃん」
「本当だねえ、お、タツヤ君も一緒じゃん」
まどかの傍にいる少年にさやかは手をあげて笑顔を浮かべる。少年もまた照れくさそうにしながらも笑みを浮かべ蒼い髪の女性の手を軽く叩いた。ハイタッチだ。それを見てまどかは面白そうに目を細めた。
「えへへ、さやかちゃんとタツヤって、まるで男の子の兄弟みたいだね」
「何を~せめて気のいい近所の美人なお姉さんと少年と言ってほしいわ」
「美人なお姉さんは無いわ」
「こら!」
タツヤの冗談にさやかが半ば本気で怒る。それを見て笑う姉弟。
「あ、ほらもう挨拶をすっかりすっとばしたわ、新年あけましておめでとうまどか、タツヤ君」
さやかの言葉に姉弟も挨拶を返す。それに続く様に黒髪の美女も軽く会釈し新年のあいさつを交わした。
「明けましておめでとうまどか…そしてタツヤ君」
「は、はい?!」
黒髪の美女がこちらに視線を送ってくるというのは滅多に無い。タツヤはほむらのアメジストの瞳をみつめたまま硬直した。恐ろしいほど美しい容貌を怯えながら見つめていると、ほむらは礼儀正しく会釈した。
「明けましておめでとう」
「は、はい、こちらこそおめでとうございます!」
タツヤはまるで部活の鬼コーチといきなり会ったかのように深々と頭を下げ、叫ぶ様に挨拶した。吹き出すさやかときょとんと不思議そうに弟を見つめるまどか。
――あいつは喧嘩最強よ
さやかの言葉をタツヤは思い出す。どうやらさやかが言うにはこの黒髪の女性は素手で5、6人の大人を瞬殺できるらしい。なんだろう、空手か合気道の達人なのだろうか、そうでなければMMAでもやっているのだろうかとタツヤは真剣に怯えていた。
「それじゃあさ、せっかく会えたんだし一緒に参拝しようよ」
さやかの言葉に嬉しそうに頷くまどか。なんだかさやかといる姉は子供の様だとふとタツヤは思う。顔も赤くてものすごく嬉しそうで――
「タツヤ君」
艶のある声でタツヤは現実に引き戻される。気付けば頭ひとつ背の高い黒髪の女性が傍にいて。
「は、はい」
じい、と切れ長の目で見下ろされるとまるで自分が無力な存在の様に感じて仕方が無い。何故だろう、とタツヤは思った。年は姉とさやかと変わりないはずなのに、どうにもこの黒髪の女性はもっとずうっと年上の様に思えてしまうのだ。
「…行かないと置いてかれるわよ」
「あ…」
気付けば姉と蒼い髪の女性は仲良く寄り添って前を歩いていて、タツヤは慌てて頷いて歩き出した、その傍であわせて黒髪の女性も歩き出す。普段とは違った組み合わせにタツヤは気が気ではない。と、タツヤが視線を前に向けると蒼い髪の女性が振り向いてこちらを見ていて。
――ドンマイ
とさやかの口が動いて、そうしてニイ、と笑って親指を立てた。
――鬼!
タツヤが心で叫ぶ。そうなのだ、あの年の離れた蒼い髪の友人はタツヤがほむらを苦手に思っているのを知っているのだ。それでいてわざとからかうようにこの組み合わせにしているのだ。
「…まったく」
いらただしさを抑え、タツヤは息を吐く。さやかの方はと言えば、タツヤの姉の方へ顔を向け何やら楽しげに会話を始めていた。嬉しそうに笑う姉は普段よりもなお一層可愛らしくて。ああ、姉もあんな表情をするんだな、とタツヤは新鮮に感じていた。そうして、ふと横にいる黒髪の女性の顔をタツヤは見上げた。とても綺麗だとタツヤは思う。とても美しいというのは以前から認識しているが、タツヤにとってこの黒髪の女性は未だ得体の知れない存在で、憧れというよりどちらかといえば畏怖の存在に近い。
――だが悪い人ではない
タツヤはそう確信していた。何故なら彼女の姉を見つめる時の視線がとても優しいものだったから。今も姉の後ろ姿を優しく見つめている。ふと、タツヤはまるで母親の様だと思った。と、前にいる二人が(正確にはさやかが)いきなりはしゃぎだして、あろうことかさやかがまどかに抱きついた。まどかが悲鳴をあげて顔を真っ赤にする。
「――殺さないと」
「え?」
いきなり物騒な言葉を横にいる美しい女性が口走ったものだから、タツヤが驚いた。その目は先ほどの母親の様な目とは全く違った、怒りに満ちた目で。その視線は蒼い髪の女性に注がれていた。その目を見て、思わずタツヤは口を開いた。
「ほむら…さんって」
「何?」
名前を呼んだはいいが、アメジストの瞳で見つめられると、その後の言葉がうまく続かずタツヤは戸惑う。不思議そうに黒髪の女性は小首をかしげた。左耳につけているアメジストのイヤリングが輝いて。
「言いたいことがあるのなら、言った方が後悔しないわ…」
「はい…」
そうなんだけど、どうして今自分は口を開いたのだろうとタツヤは不思議に感じていた。そうなのだ、まるで天啓の様に少年は口を開いていた。その時思った事を言うのは意外と勇気が必要で、数秒ほど逡巡して少年は言葉を紡いだ。
「―――のこと好きなんですか?」
*******
参拝を済ませ、ほむらとさやか、そしてまどか達は別れた。帰路についた黒髪の女性と蒼い髪の女性は、それぞれのおみくじの結果を語り合った後、互いに何をお願いしたか探り合う。
「ねえ、あんた何をお願いしたのさ」
「内緒よ貴方は?」
「私も内緒」
「ふうん…」
黒髪の女性は蒼い髪の女性を見上げ、じいと見つめた。
「…何よ」
「どうしてこんな犬の事をと思って見てるのよ」
「何気にひど!てかどういう意味よ」
「別に」
そのままの意味よ、と囁いて、悪魔はさやかの腕に自分の腕を絡めた。
「それより…貴方よくもまどかに抱きついてくれたわね」
「あ、やっぱあんたそれ怒ってんの?いいじゃん、別にあんたからまどかを取る気は無いし、あんただってまどかに抱きつけば…あいた!いたたた!」
ぎりぎり、と尋常じゃない力でほむらはさやかの腕を締めあげる。
「そういう問題じゃないのよ、この鈍感」
「え?」
不思議そうに聞き返すさやかとにっこりとほほ笑む悪魔。
「とにかく、今夜はお仕置きね」
「なんで?」
さあ、と顔色が青ざめたさやかと嬉しそうなほむら。悪魔と鞄持ちは引き摺り引き摺られ家へと向かった――。
*************
「ねえタツヤ、さっきほむらちゃんと何話してたの?」
まどかの問いで、タツヤが我に返る。気付けばあの二人と別れてもう30分ほど経っていた。高揚して赤くなっていた姉の顔も今では元通りで。なんだか今まで夢を見ていたようだとタツヤは思った。
「ああなんか色々と話したけどさ…それより姉ちゃんも楽しそうだったじゃん」
「うんまあね…えへへ」
さやかと話したことが楽しかったらしく、またまどかは顔を紅潮させた。それを見て微笑む少年。と、少年の脳裏に先ほどの黒髪の女性との会話が浮かび上がる。
――「さん」よ
――え?
――さやかはあなたよりも年上よ
――あ、ああごめんなさい
前にも黒髪の女性に注意されていたことだったが、ついタツヤはさやかの事を呼び捨てにしてしまった。詫びを入れて、再び黒髪の女性を見上げると、今まで見たことも無いような優しい表情を浮かべていて。タツヤは見惚れてしまった。黒髪の女性はゆっくりと細い指を己の唇にあてて囁いた。
――さっきの質問には答えられないわ
――は、はい
――だから忘れて頂戴
さきほどの質問に対し、黒髪の女性は肯定も否定もしない、ただ質問を忘れてくれという。
それはつまり――
少年は先ほどの質問を思い出していた。
――さやかのことが好きなんですか?
END
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Bonbon de chocolat
「ねえ、あんたは誰かにあげないの?」
言ってしまった後、あ、やばと美樹さやかは一人心で呟いた。
「あ~悪い、あんたがそんなことするわけないもんね」
傍にいる敵ともつかぬ(ましてや友達とも)黒い翼を持つ『元魔法少女』にさやかはつっけんどんにそう言った。どうにもこの少女と口を聞く時はついこういう風になってしまう。
「そういう貴方はいつも楽しそうに過ごしているのね美樹さやか」
「なにさ、いーじゃんバレンタインくらいちょっと浮いた話しても」
「悪いとは言ってないわ、私は貴方がそうやってこの世界の暮らしを受け入れてくれれば、後はどうなったっていいもの」
ふふふ、と語尾に艶やかな笑みを含んで黒髪の少女は目を細めた。変わったな、とさやかは思う。わずかな記憶を頼りにしても、この少女はこんな風に大人びた艶やかな笑みを浮かべるような子ではなかったはずだ、むしろつっけんどんというか、愛想ゼロで無愛想で、ただ「まどか」の事ばかりの不器用な奴、それがさやかの認識だった。だがまあ…
「あら、そんなに私を眺めるのが楽しいのかしら?」
「ば、違うわよ!そんなんじゃ…」
だが正直な所、さやかは否定できないことを自覚している。なにせ、この少女は「美人」なのだ。更にいうなら高校生になってから拍車がかかってきた、怖いくらいに。その美人がさやかを見つめ、ニヤリと笑った。
「貴方が興味あるのは男の子だけじゃないのね」
「ほむら!」
顔を真っ赤にしてさやかはとうとう、『悪魔』の名前を呼んだ。
****
悪魔と化した暁美ほむらと美樹さやかの関係は、とにかく複雑なものだった。さやかが僅かながら記憶を取り戻してから余計に。もしかしたら何もかも忘れていた方が良かったかもしれないとさやかは思う事もあるが、しかしそれはどうにもならないもので。だが記憶を取り戻してから色々あった、本当に色々。しかし、わずかながら訪れる平穏な時が積み重なる内に二人は共に戦うようになり、今ではこんなふうに魔獣を倒した後、夜の公園で会話を楽しむようにもなった。円環の理やこの世界のことなど懸念事項は横に置いて。奇跡的な風景。もしかしたら、この大切なひとのために悪魔と化した少女と、鞄持ちとして大切なひとの従者となった少女が求めていたものはお互いの中にあるのかもしれなかった。もちろん二人は気づいていないのだが。
「それで、貴方は誰にあげるつもりなの?」
「へ、ああ、まどかや杏子…それにマミさんかな」
「上条君は?」
「あんたの口からその名前が出てくるとは思わなかったわ」
さやかは苦笑する。高校生にもなるとそんな表情も浮かべるようになるものだ。ベンチから立ち上がり、パンパン、とスカートの埃を払う。
「意外ね、どの世界の貴方も皆あの少年に夢中だったのに」
さやかと同じように、いつの間にか変身を解いたほむらがからかうように見上げてくる。足を組んで座っている様は優雅で。
「若気の至りってやつじゃないの?…まあ、あいつがバイオリンを弾く姿を見るのがすごい好きだったし、正直今でもちょっと寂しい気はするけどさ、でも、それよりも仁美が嬉しそうに笑ったり、二人が仲良くしている姿を見るだけであたしは嬉しいんだ」
半分に欠けた月を見上げながら、さやかは呟く。そして人の好さそうなたれ気味の目を見開いて。
「…って、どーしてあんたにこんなこと喋ったのかなあ」
「そうね、今夜の貴方は喋り過ぎね、美樹さやか」
ゆっくりと、ほむらも立ち上がる。さやかと同じ高校の制服姿。右手で流れる黒髪を抑えながらほむらはさやかを見上げた。少しだけ、さやかの方が背が高かったから。近い距離で見つめ合う。それはかつて、ほむらが悪魔と化した直後に対峙した時の様で。
「…喋り過ぎついでにあんたに一言いい?」
「構わないわ」
すう、と息を吸って、さやかはほむらを睨むように見つめた。
「あたし、今度こそあんたにもチョコをあげたいと思ってるの」
*****
時は流れても、半分の月とそしてこの夜の公園は変わらない。静まり返った公園には二人の女性がいた。黒いドレスを着た女性と、黒いパンツスーツを着た女性。ドレスを着ている女性は夜風で流れる長い黒髪を右手で抑えており、そしてその容貌は恐ろしいほど美しい。その美貌に微笑を浮かべ、女性はすぐ傍にいるもう一人の女性――剣を携えたパンツスーツ姿の女性――を見つめている。
「あ~あ、ほんと私達って青春無駄遣いしてきたわねえ」
剣で空気を斬ると、そうこぼすスーツ姿の蒼い髪の女性。失笑する黒髪の女性。
「あら、そんなにバレンタインデーの日に戦うのが嫌だったの?特に予定も無いのに?」
「いーじゃん、季節ごとのイベントに燃えるのは若い証拠よ」
「若い…そうねえ」
一瞬どこか遠い目をする黒髪の女性。かつて彼女は時間遡行者だった。
「でもさあ、やっぱりチョコあげるのもいいけど、もらってみたいものよね」
「…貴方って結構たくさんもらっていそうだけど」
「えへへ、やっぱモテそうに見える?」
「いいえ、チョコ頂戴オーラが凄まじいから」
「ひど!」
薄く笑う黒髪の女性。かつて笑うことのなかった彼女は時の流れと共に変わっていた。思ったより、ここに至るまでの年月は彼女にとってそこまで孤独なものではなかったらしい。
「てかさあ」
「何?」
蒼い髪の女性がニヤリ、と笑いながら美しい女性を見つめた。あからさまに嫌そうな顔の美女。
「どうこう言っても、こんなに長い間一緒に戦ってきてるんだから、私に対してこう、好意みたいなもん湧いてこないのあんた?」
「気持ち悪い」
「ちょっとぉ」
「でもまあ…そうね」
流し目でスーツ姿の女性を見つめる美女(これがどれだけ絶大な効果があるか知ってか知らずか)
「犬に懐かれるのは悪い気はしないわ」
「情が湧いたってこと?」
「ええ」
「へえ…てか人以下じゃない!」
今度はさも愉快そうに笑う美女。そうして思い出したように左手を女性の前に差し出す。
「へ、何?」
「いつも無様ながら一緒に戦ってくれるお礼よ」
美女が手を開くと、なにやら落ちてくる。器用にキャッチするスーツ姿の女性。
「…え、これ」
そこには、小学生が駄菓子屋で買う様な一口サイズの市販のチョコレート。驚いたのか、蒼い髪の女性は目を見開いて、しばらく呆けたように口を開けたまま固まる。
「ちょっと…普通何かもらったらお礼を言うものでしょ」
美女が眉をひそめ抗議する。顔が赤いのは照れなのか、怒りなのか。はっ、と我に返る蒼い髪の女性。
「うわあ、めっちゃ嬉しいわ!ありがとうほむら!」
蒼い髪の女性は嬉しさのあまり黒髪の女性――暁美ほむら――の名を叫ぶ。それにはさすがの美女も恥ずかしい様で。
「ちょっと、やめなさい恥ずかしいわ」
「いーじゃん、誰も聞いてないし、てか…あんたからもらえるとやっぱ嬉しいわ」
「あげなければよかったわ」
だがそんな呟きをつゆ知らず、喜びにひたってはしゃいでいる蒼い髪の女性を眺めていると、自然にほむらも口元が緩んで。
「ほんと貴方って馬鹿ね、美樹さやか」
そうしてほむらは蒼い髪の女性の名を呼んだ。
『愚か』から『馬鹿』にいつの間にか変わったことに当の悪魔は気づいているのか。嬉しそうに、まるで普通の女性の様に笑って。
「あ、でも私、今日何も用意していないわ…」
はっ、と我にかえるさやか。申し訳なさそうにほむらを見つめるも、美しい悪魔はただ首を振る。
「甘いものはいらないわ…でもそうねえ、何かをあげたいっていうのなら」
「何?」
「もう少し傍に来て」
二人の影が近づき、そして一つになった――
――あたし、今度こそあんたにもチョコをあげたいと思ってるの
――ばかげているわ
――そんなことないって、そしたらきっとあんたはあたしに――
――私が何を?
――チョコをくれるから
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とある日の悪魔と鞄持ち
表面上、人として暮らしていくうちに、暁美ほむらと美樹さやかは酒を嗜むようになった。魔獣との戦いが無い時や、さやかの仕事が休みの日、あるいは逆に魔獣との激しい戦いの後、二人で互いの傷を確認し合ってからそのままBarに流れ込むことももう何度もある。あの頃の険悪だった関係は、長い時、時折訪れる奇跡的な平穏な瞬間を積み重ねていって徐々に解消されていったが、その要因のひとつが『アルコール』であったことは間違いないだろう。そして今夜も二人はバーで飲むことに…それはそんな平穏で不思議なひと時の話――
******
「私と宇宙まで行ってくれる?」
そう美しい悪魔がさやかに囁いた時も二人は行きつけのバーで飲んでいた。
こじんまりとしたオールドバー店内はカウンターにいる二人以外は客はいない。その前でシェーカーを振る初老のバーテン。流れるジャズ、バックバーの磨かれた酒瓶。悪魔のすぐ横にいる蒼い髪の女性はロンググラスを口に当てながら目を丸くした。
「へ?宇宙?」
ジンバックを口に含むのをやめて、さやかはいささか間の抜けた声で聞き返す。酔いが既に回っているのだろう、その目はどこか泳いでいて『あの頃』の面影を宿しながらもほっそりとした精悍な顔つきは見事に紅潮していた。そんな彼女を面白そうに眺めながら悪魔はカウンターに頬杖をついた。長い艶のある黒髪がさらり、と背中から流れ落ちる。
「そうよ」
切れ長の目に宿るアメジスト色の瞳が妖しく輝く。恐ろしいほどの美貌。TPOに合わせ今はある程度抑えているが、悪魔が持つ特有の妖艶さは隠しきれるものではなかった。溢れだす色香。悪魔―暁美ほむら―は美しい女性に成長していた。泳いでいたさやかの目が更に泳ぎ、酔いで紅潮した頬が更に赤くなったのはアルコールの所為だけではないのだろう。
「馬鹿ね」
くっくっと頬杖をつきながら笑う。いつもよりご機嫌で若干陽気なのは悪魔と化したこの美女にもアルコールが有効だからだ。その証拠に白磁のような肌には赤みが差していて。
「お待たせしました」
バーテンがほむらの前にカクテルグラスを差し出す。ショートグラスに透き通った爽やかな薄い緑色の液体、その淵にスライスしたライムが添えられている。ギムレットだ。
「ありがとう」
体を起こし、優雅にグラスを受け取ると、ほむらはスライスされたライムを指でつまんだ。艶のある唇とライムが軽く触れ合った後、赤い舌がそれを舐め取り、少量捕食する。
「エッロ…」
さやかがぽつりと呟くと、ライムを咀嚼しながらほむらが肩を震わせる。この蒼い髪の女性には『これが』非常に有効なのだと黒髪の女性はもう心得ていて、それを確信した笑いだ。10年の歳月は悪魔にこのような笑みを浮かべさせることも可能にさせる。こく、と喉を鳴らしライムを飲みこむと、ほむらは横目でさやかを舐めるように見つめた。左耳のイヤーカフスのペンダントが一瞬輝いて。
「貴方にはこれが『有効』なのよね」
「ゆ…ば、ち、違うわよ」
慌ててほむらから顔を逸らし、さやかはグラスの中の液体を一気に飲み干す。楽しそうにくすくすと笑うほむら。アルコールが入ると二人は普段よりも互いに対して馴れ馴れしくなるのだが、度合いは悪魔の方が高そうで。
「次は何にする?」
そう甘く囁くと、ほむらはさやかにもたれながら空になったグラスを取り、小首をかしげる。ああ、と気づいたようにさやかが『ジンバック』と呟いた。
「それをひとつ」
艶やかな声でほむらがバーテンに注文すると、初老の男性は目を細め頷いた。
「仲がよろしいですな」
低いバリトンの声が干渉するわけでもなく快く二人の耳に響く。照れたように笑うさやかとややすまし顔の美女。
「えへへ、そうなんで――」
「今夜だけなので」
「ひど!」
ほろ酔いながらも軽快なやりとりは、かつての二人を知っている者が見かけたなら驚くであろうが、あいにくもうかつてを知っているものは二人以外いない。その代わり、老齢のバーテンが穏やかに笑った。
***
カラン、とロンググラスに入れた氷が音を立てる、そこにジンとレモンジュースを注いで最後にジンジャーエール、シュワッと泡立つ音の後、カラカラと液体をかき混ぜる。そしてライムの輪切りをグラスの淵に添えればジンバックの完成だ。
「わあ、美味しそう」
子供の様な歓声をあげ、さやかが嬉しそうにグラスを手に取った。
「子供みたいね貴方」
「いいじゃん、たまには」
そう言ってグラスを口に当てた後、何かに気づいたように目を丸くする。
「そーいや、あんたさっき宇宙の話してたけど…」
「ああ…そうね」
額に手をあて、ほむらは首を振る。
「忘れて…大したことじゃないから」
「私答える前だったわ、答えさせてよ」
「ご勝手に」
「行くわ」
目を丸くするほむら、一瞬だけ酔いが醒めたようで。向かい合うさやかもまた顔は紅潮しているが、美しい悪魔に向けたその眼差しはしっかりしていて。ふう、と息を吐いた後、さやかは言葉を続ける。
「私、あんたに昔…高校生くらいだったかな?言ったでしょ『どこまでもついていく』って、あれ本気だからさ」
美しい悪魔は何も答えず、ただギムレットを口に含んだ。
「あんたのことだから、近い将来またまどかの為なら宇宙を改変しかねないからねえ、その時は私も形を変えてでもついていくわよ、ほら」
そう言って、『ガシャン』『ドカーン』と声をあげ、身体を大げさに動かしロボットの真似ごとをするさやか。その横で呆れたような顔を浮かべるほむらだが、次第にその顔は笑顔に変わっていき、とうとう吹き出した。
「ほんと…貴方って馬鹿ね」
喜んでいるような泣いているような不思議な笑い。その横で思いのほか穏やかに笑っているさやか。悪魔を気遣う鞄持ち、道化を演じる鞄持ちを受け入れる悪魔――10年の歳月が二人を大人に成長させ、そして軋轢を解消させていた。
「…また改変する気?」
「いいえ、まだだめよ、まだ…せめてまどかの生を見届けるまではそのままで…」
そのままでいたい――
そう囁いて目を瞑る。そんな黒髪の女性の横顔を見つめるさやか。そうして何か思いついたように
「ねえ、あんたの飲んでるギムレットと私が飲んでるジンバックって似た者同士なのよ、知ってた?」
不思議そうに鞄持ちを見つめる悪魔。しばらく間を置いてからゆっくりと喋りだす。
「……同じジンベースってことなら、当然知っているけど?」
「ちぇ、やっぱり知ってたか」
「それがどうかしたの?お間抜けさん?」
「ひど!」
くすくすと笑い合う二人、どうやらまたほろ酔いモードに戻ったようで。
「てかさ、似た者同士の飲み物をチョイスするんだから、私達も似た者同士だって思わない?」
「だから?」
「二人揃えば無敵ってこと」
「いい気なものね…でも、それもありかもね、いいわ――」
そうして鞄持ちを見つめて
「その時は問答無用で貴方も宇宙に連れていくわ」
「喜んで」
空になったグラス二つ
「ギムレットを」
「ジンバックを」
互いのカクテルをオーダーし合う二人。
彼女達の夜はまだまだ始まったばかりだ――
それから一時間後―カウンタ―で仲良く手を繋いでる女性二人が何を語り合っていたかは別の話――
元々は「ギムレットとジンバック」という題名でUPしましたが(10分ほどだけw)pixiv全年齢でUPするのにお酒をババーンと前面に出すのはいかがなものか?と自問自答してもんもん(何)してしまい、結局こちらの題名になったSSです。
もし、見滝原メンバーが大人になってお酒を飲む様になったとしたら、私はほむらとさやかが普段よりも仲良くなるんじゃないかなあと思っているんですよね(あくまで個人的妄想)大人になった二人があの頃よりも、そして普段よりも仲良く会話している姿が見たい…!そういう思いが強くてついついbarで飲む二人を書いちゃうわけです…これからもこのパターンのお話どんどん書くと思いますが、お気楽に読んで頂ければありがたいと思っています。ではでは…!
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綺麗な嘘
「私はまどか以外はどうでもいい」
「まぁ知ってたけどね、でもそこまであからさまに言われるとあんまいい気はしない――」
「だから貴方がどうなっても私は気にしないわ美樹さやか」
「ちょっ…ちぇっ知ってるわよそれくらいいちいち言わなくても」
「あら、そうなの、それなら――」
この年月も悪いものではなかったようね――そう微かな皮肉を込めて美しい悪魔は微笑んだ。大人びた横顔。
時の流れは偉大だと何かの本で読んだ。それは病院にあった本だったのか、休憩時間手持無沙汰で図書館に入った時のことだったのか暁美ほむらは覚えていない。だがその一節だけは何故か悪魔になった今でも脳裏に刻みつけられていて、この愚かでおせっかい焼きな蒼い髪の少女と一緒にいる時よく浮かんでくる。いや、正確にはこの少女の時だけだ。
「はぁ…ったく、悪気があるんだかないんだか」
公園の芝生の上、くつろいで座っている悪魔の横ですっと立ち上がるさやか。まだ変身は解いていない。すらっとした肢体に翻るマント。だいぶ背が伸びたように感じるが実際そうなのだろうとほむらは思った。そうして己がまどか以外のことを考えていることに気づき、自嘲する。
いつから私はこうなったのだろう?
悪魔と化してから何かが変わった。
巴マミ、佐倉杏子を拒絶し、この愚かな少女もそうする予定だったのに、取り戻した記憶を奪うこともせず、こうして魔獣退治に共に勤しむようになり、あまつさえ談笑するようになった。かつての自分なら想像もつかなかっただろうが、これもまた「時」の力なのだと悪魔は自分に言い聞かせた。まさに時の流れは偉大なのだ。
「でも、あたしはさ…」
半分に欠けたままの月を見上げ、さやかは呟きそして途中で辞めた。それを面白そうに見つめる悪魔。
「なあに、もうぼけ始めたのかしら?
「ひどいわね、まだ18だっつーの」
そう言った後、こほんと咳払いしてしばらく逡巡するさやか。そうして意を決した様に低い声で囁いた。
「あたし…あんたも救いたい、まどかだけじゃなくて」
涼しい風が悪魔の頬をかすめ、長い黒髪が揺れる。
「貴方の記憶さっさと消しておけば良かった…でももう遅いわね」
ふわりと悪魔が立ち上がる。二人丘の上街を見下ろす形で並びあって。
「私は貴方に救われるほどひ弱じゃないわ、美樹さやか」
「知ってる」
「そんなおせっかいはあの子にだけ向けなさい、そうすればこれからも協力してあげるわ」
はあ、と息を吐いて、さやかは何も言わず頷いた。
「いい子ね」
妖艶な笑みを悪魔は元鞄持ちに向けた。そうしてその頬が赤くなるのを見て愉快そうに笑う。変わったのはきっと――
「ねえ、せっかくだからひとつお願いがあるのだけれど」
「なによ」
「もし、私が消えることがあったとしたら、貴方がまどかを守って」
「言われなくても守るわよ、てか、あんたが消えるなんてそんなの許さないわよ」
「本当におせっかいで愚かね貴方は、私は――」
「はいはい、『貴方はどうなっても構わない』でしょ?」
「そうよ、だから貴方も私のことなんて構わないで」
「わかった」
そう言って、さやかは悪魔をひと睨みしてから月を見上げる。そしてほむらもまた鞄持ちを見つめた後同じ様にする。
半分に欠けた月に見下ろされた二人、互いに何を思っているのか、それは誰にもわからない。だがひとつだけ確かなのは、この時二人は互いに嘘をついたということだ。
それはあと少し時を経てから判明する
とても綺麗な嘘―――
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始まりの日
思い出深い場所というのは誰にでもあるものだ。それは楽しい思い出に限ったことではなく、辛い悲しい思い出の場合もある、いやもしかしたらそちらの方が多いのかもしれない。
――この場所は私にとってはどちらだろう
アメジスト色の瞳にひらひらと舞い落ちる淡い桃色の花弁が映し出される。その花弁と共に一瞬白い羽が映し出されるが、瞳の持ち主が反応した瞬間すぐに消失した。揺れる長い睫毛。そっと目が閉じられ、一枚の花弁が「彼女」の頬へと張りつきそしてはらりとその輪郭をなぞって落ちていく。白磁の様な白い肌にそして艶のある唇、その容貌にはどこか陰鬱な影がまとわりついているが、それすらもその美の前には霞んでいた。艶のある長い黒髪がさあ、と風になびく。
「まどか…いいえ、あなたは違うわね」
女性はぽつりと呟いた。悔恨の情なのか寂寥感なのかはたまた両方か、本人しかわからない感情をのせたその言葉はすぐに風に消えて。
「あ~、やっぱりここにいた」
ふいに快活な声がして黒髪の女性は振り向いた、さきほどまでの陰鬱な表情に少しだけ明るさが入り込む。だがそれは声の主にも女性本人も気づかないほど微かなものだ。
「よく私がここにいるってわかったわね」
「だって『あの日』だもの」
空と同じ色をした瞳に目を丸くした黒髪の女性が映る。
「朝起きたらあんたはいないし焦ったわ、でもまあよかった」
快活な声の主である蒼い髪の女性はそう言って歯を見せて笑う。年齢不相応だがその子供っぽい笑顔はなかなか魅力的だ。黒髪の女性もそう思ったのか(あるいは思わなかったのか)ふ、と息を漏らし口元を緩めた。
「かしこくなったわね」
「まあね」
「成犬は人間の子供くらいの知恵はあるのかしら」
「いやあさすがにどうだろう…って、ちょっとほむら!」
どこか間の抜けている蒼い髪の女性に抗議するように名前を呼ばれ、美しい悪魔――暁美ほむら――は妖艶に微笑んだ。
「冗談よ」
そうして顔を真っ赤にしている蒼い髪の女性をからかうように覗き込んでから、味わうようにその名を呼んだ。
「さやか」
****
こんな風になるとは夢にも思わなかった。
たった一人の大切な愛しいもののために世界を改変し、仲間から背を向けてきた。まったく後悔がないというのは嘘だ。だがあの子のためならば、あの子のためにはこれが一番だとそう信じて迷わずにここまできた。
10年
時の力は恐ろしいと黒髪の女性はしみじみと思う。あの時選択の余地も迷いも無かったはずなのに、今ではこうやって時折あの日のことを振り返り考えてしまう。あの悪魔と化し大切な人を引き裂いて、そして仲間と決別したあの日のことを。暁美ほむらが今朝この場所を訪れたのは今日がその日だったから。
ひゅう…
風が吹いてほむらの黒い喪服の様なワンピースを揺らした。舞う桜色の花弁が隣にいる蒼い髪の女性の顔にかかり、奇妙な声があがった。ほむらの口角があがる。己より少しだけ背が高く、あの頃よりも引き締まった顔立ちになった女性。パーカーにデニムとだいぶラフな格好なのは本人が言っていた通り、朝方自分がベッドからいなくなっていたから慌てて着替えたのだろう、そう思うと愉快になるから不思議だった。
「ねえ」
「ん?」
美樹さやかは無邪気に小首をかしげ、ほむらを覗き込む。
――こうやって大人になった美樹さやかを見つめた時もまた、ほむらは時の力の偉大さを感じてしまう。彼女との関係性がいつ、どうしてこうなったのか明確な答えはほむら自身まだ出ていない。だがこうしてかつての出来事を一人顧みている時に傍に駆け寄ってくれる存在になろうとは想像もしなかった。空と同じ色をした瞳に映る己を確認しようと見つめ返し、ようやくほむらは気づく。
ああ、私は喜んでいるのか――
どこか乖離したような感覚のままほむらはそう自覚した。気の遠くなるほど長い時間自分の感情を抑圧して過ごしていた故仕方のないことだった。だが、こうやって自覚できるのもまたほむら自身が変わったからかもしれない。皮肉にも彼女を変えたのは美樹さやかだ。かつてのメンバーの中でも特に険悪な仲になることが多かった少女が、10年経って大人になった今ではこうして傍にいて当たり前のように顔を覗き込んでいる。最も想像がつかなかったこの状態もまた、もしかしたら必然だったのかもしれない。砂時計の砂が零れるように、自然に、ほむらは数年後のあの日さやかを受け入れたのだ。そして今日も。
今日はかつてほむらが世界を改変した「あの日」なのだ。
「どうしたのさ?」
「貴方は…後悔してる?」
「ああ…」
蒼い髪の女性は「何が」とは聞かずただ微笑んだ。その笑みはあの頃よりも深みのあるそして思慮深いもので。舞い散る桜を見つめしばらくしてからさやかは口を開いた。
「あんたにひどいことを言った」
「え?」
「あの日、この場所で」
『あんたが悪魔だってこと』
舞い散る桜の花弁の中、かつての美樹さやかが怒りの形相でほむらにそう告げる。
「あんたは悪魔なんかじゃない、まどかや私達を救おうとした、優しい子だったのにさ」
「やめて」
そういうことが聞きたかったわけじゃない。だがそう言われて胸のつかえがすうっと消えていくのは確かだった。
「わかった」
そう言ってさやかは黙り込む。その沈黙が心地よくて、ほむらは思わずさやかに身体をもたれさせた。夜更けまで感じた体温が戻ってくる。
「……貴方の所為よ」
「え?」
「何もかもを私が放棄したくなったら、全部貴方の所為だと言っているのおわかり?」
「ど、どうしてさ」
先ほどとはうって変わって動揺を隠さない蒼い髪の女性を上目遣いで眺め、フフ、とほむらは笑った。
「貴方っておせっかいな割には鈍感なのね」
「ひど!」
鞄持ちの抗議の声を愉快そうに聞きながら、ほむらは視線を桜の木へ戻る。あの日もこんな風に花弁が舞い散っていて。ふいに学校のチャイムの音が鳴った。
「授業が始まったみたいね」
「そうだね」
桜の花弁が舞い落ちる路、ここは見滝原中学校へと続く通学路、そしてかつて悪魔と化したほむらが再び円環の記憶を宿したさやかと最後に対峙した場所だ。あれから、さやかは記憶を失ったが、今の所その一部は戻ってきている。
「私にとっては見滝原の全ての場所に思い出は詰まっているの、でもこの通学路は特別」
「特別?」
「おせっかいで愚かな誰かさんが噛みついてきたから」
「う…」
言葉に詰まる鞄持ちに肩を震わせる悪魔。
「でも記憶ってやっかいね…」
「どうして」
少し躊躇した後、ほむらは呟いた。
「あの時私は引き裂いたまどかの半身の姿も見えていたの…あの頃はなんとも思っていなかったけど」
「今も見えるの」
「幻覚かもしれないけれど」
「そっか…」
さやかの表情も少し曇る。かつて心を失った円環の理がまどかを迎えに来たことがあったから。問題は外部だけではない、内部――まどかの記憶にもある。もし記憶が戻れば一瞬でこの世界はまた変わってしまうのかもしれない。この世界は砂上の楼閣なのだ。思い出を積み重ねていけばいくだけそれを失うことに不安を覚えるのは仕方のないことだ。そしてそれは悪魔にとってもそうなのだろう。
「私がしたことは…」
「まどかの事を思ってしたことでしょ?」
さやかの強い口調で言葉を遮られ、目を丸くするほむら。
「あんたは大切な人を守るためにそうしたんだ、その気持ちは本物よ。正しいか正しくないかなんて誰にも決められないわ、もし決める奴がいたら私が許さない」
「さやか――」
時は偉大だ。日が差して、ほむらはさやかを見上げながら眩しそうに目を細めた。
思い出深い場所、見滝原中学校に続くこの通学路もまた二人にとっては思い出深いもので、特にほむらにとっては後悔の念を引き起こす場所へとも変質していた。その日が来るたびにほむらは過去に引き戻されそして心を揺さぶられていた。だが、今この瞬間もう――
「そりゃあ、あの日は最悪だったけどさ、でもあの日があったおかげであんたとこうしていられるんだから、私はこの日…今日が悪い日には思えないんだよね」
えへへ、とかつての頃の様に頭を掻いて歯を見せて笑って。
「だからさ、あんたもこの日が来るたびに辛気臭い顔するのはやめなよ、楽しく考えてさ」
青い空、桃色の花弁は先ほどよりも鮮明に美しくほむらの瞳に映る。
「…どんなふうに?」
「今日を誕生日にするとか」
「何それ、私の誕生日は決まっているわよ」
ふっ、と失笑すると、ほむらはさやかから身体を離すとスタスタと早足で歩きはじめた。
「あ、ちょっと、どこ行くのさ?」
「散歩よ、ほら」
そう言って、ほむらはさやかを振り返ると左手を伸ばした。
「行くわよ」
無表情、ぶっきらぼうにそう言ってまた顔を逸らす。だが嬉しそうに微笑むさやか。
彼女が恥ずかしがり屋だとよく知っていたから。
「うん」
そう言って、さやかはほむらの手を握る。美しい悪魔の顔はついぞ見えない。だがそれでも握り返す手の力でその気持ちは伝わって。
「さやか」
「ん?」
――ありがとう
とてもとても小さな声でそう呟くと、悪魔は鞄持ちを引き寄せる。
もう迷いはない
かつての様々な思い出が詰まったこの場所は、今日からまた新しい思い出に塗りかえられた。ほむらは、おせっかい焼きの手のぬくもりを感じながら通学路を歩く。
――もう白い羽は見えなかった
END
余談
数分後――
「ほらさやか、もっとこっちに寄りなさい」
「うん」
「ほらここ、転んだらダメよ?」
「大丈夫だってほむら、別に穴が開いているわけじゃないし…」
「だめよ、この路所々アスファルトが欠けているのだから、それに今日はリードを持っていないから貴方の手を私がしっかり握っていないと飼い主責任が…」
「私犬じゃないから、定期!」
仲睦まじく(傍から観たら)手を握り合って帰路に着く二人であった――(なんと)
そして、実は遅刻した学生に目撃されて「通学路で仲良く手を握り合って歩くすっげー美人なお姉ちゃんと普通(失礼)な人」と噂されるのだが、それはまた別の話――
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Home
美樹さやかには気になる事があった。そうは言っても時折ふと思うくらいのものであるが、それは『彼女』の元の家のことだ。一部取り戻した記憶の中にも美樹さやかが彼女の家を訪ねたというケースはなかった。いや正確にはなかったように思う。
――あんなに無数に世界はあるのに、あいつの家に行ったことが無いなんて。
カタン、とコンロにケトルを置いて、肩をすくめるとさやかは漠然と周囲を見渡した。広いキッチン。ここに住むようになってからは、さやかが綺麗に掃除をしている。収納棚や観葉植物はさやかが置いたものだ。それまでは機能的だがどこか無機質なキッチンだった。その時さやかは思ったのだ、あいつの元の家もこんな感じだったのではと。
――ここではいろんなものが見えるんだよ、さやかちゃん――
そう言って女神となった幼馴染が『世界』を見せてくれたことをさやかは漠然と覚えている。その時さやかは垣間見たのだ、彼女が繰り返し続けてきた時間を。それは驚くべき内容であったが、何故かそこで印象に残っていたのが彼女が住む家だった。佐倉杏子や幼馴染が彼女の家を訪れている様子を見た時のあの何も無い、時計を模したような空間のある部屋――。
あれは彼女自身の様だ、そうさやかは感じた。ただひとつのために全てを犠牲にしてきたあの少女の。あれから記憶を奪われたものの、再び取り戻してから8年、紆余曲折あったが今はこうして彼女と一緒にいる。
「夢みたいだわ」
さやかはぽつりと呟いた。どうにも…こうして実際に住んでいるというのに未だに信じられないのだ、あんなに誰よりも険悪だった自分と彼女が共に暮らしていることが。信じられないといえば、自身が大人になったこともそうだが、ついでにいえばあの頃――魔法少女システムに翻弄されていたことすら夢のように思える。そう、何もかもが夢のようで。だからなのか、さやかは縋るようにここに必死に跡を残そうとしているのかもしれない。自分が此処にいるということを、観葉植物や収納棚、いろいろなもので。だってもう、あの頃のことを知っているのは、あの怖いくらい綺麗なあいつだけなのだから。
ピ―ッ
ケトルが鳴いた。いつの間にか結構な時間が経っていたようで。コンロを止めると、カチャカチャと棚からカップを二つ取り出す。上品なティーカップは見る度に師であり良き先輩であるあの女性を思い起こさせて。軽く首を振るとさやかはポットに茶葉を入れ、お湯を注いだ。そろそろ彼女が起きてくるだろう。
「いい香りね」
抑揚のない、だが艶のある声がさやかのすぐ後ろで聞こえた。感じる体温。緩む口元。
「でしょ?」
そうして嬉しさを隠そうともせずにさやかは振り向いた。すぐ近くにある美貌の主はそんなさやかを呆れたように見上げ囁いた。
「変なひとね、何がそんなに嬉しいの」
「全部よ」
さやかは満面の笑みを浮かべると、かみしめるように言った。その美貌の主の名を。
「おはよう、ほむら」
長い黒髪の女性――暁美ほむらは、ただ嬉しそうにその目を細めたのだった。
*******
目が覚める。
未だに白い天井があの病室のものに見えてしまうことがある。だが違う、ここは新しい家の天井だ。そう、新しい家――そう思っただけで、重しが取れたように心が軽くなる。ああ、私は嬉しいのだ、と暁美ほむらはどこか他人事の様に冷静に分析する。ふふ…と声が漏れた、それが自分のものだと気づくのもタイムラグが生じる。長い間…気の遠くなるほど長い間己を押し殺し続けたせいなのだろう、まるで自分が二人に乖離しているようだ。左手で何かを探す様に傍のシーツをくしゃくしゃにするようにまさぐる。まだそこは温かい。あの『おせっかい焼き』の体温を感じ、ほむらはまたふふ、と笑った。今度はタイムラグは生じなかった。
「夢のようね」
ほむらは身体を起こし、窓の外の風景を眺めながらそう呟いた。映し出されているのは青空と高層ビル。微かに成人した自分の姿が重なって。
あの病室の天井を見上げ続けてきた頃の私がまさかこんな風になるなんて想像もつかなかった。愛しいたったひとりの大切なひとを知り合い、魔法少女になり、そして――悪魔になった。だが一番想像もつかなかったことは、あの単純で愚かな『おせっかい焼き』とこうして暮らす様になったことだ、こうやって体温を感じ、それを私自身が受け入れている。そのことがほむら自身今でも信じられなかった。昔の自分が知ったとしたら卒倒するだろう。
ギシ…
ベッドの縁に腰をかけ、ほむらは露わになった素足をシーツで隠した。床はひんやりと冷たくそれが心地よい。キッチンから物音が聞こえ、ほむらの顔が自然と綻んでいく。ゆっくりと立ち上がり、纏っていたシーツを脱いで傍に置いてあった部屋着用のワンピースに着替える。さらり、と右手で長い黒髪を梳いて。
「美味しいお茶でも淹れてもらおうかしら」
そう呟くと、ほむらはキッチンへと向かう、音もなく静かに。そうしてこちらに背を向けてポットに茶葉を入れている『おせっかい焼き』の背中を認め目を細めた。ほむらより背の高い、蒼い髪の女性。灰色の上下のスウェットはほむらが彼女にプレゼンとしたものだ。
「いい香りね」
その背中に向かって囁くと、ほむらはその肩に頬を寄せ、ぴったりと身体をつけた。まるで猫のように。
「でしょ?」
ものすごく嬉しそうな顔がこちらを見ている。その顔はまるで飼い主に褒められて喜ぶ飼い犬のようにほむらには見えた。
「変なひとね、何がそんなに嬉しいの」
「全部よ」
迷い無く蒼い髪の女性は満面の笑みを浮かべてそう答えた。そして言葉を続ける。
「おはよう、ほむら」
『眩しさ』に目を細めながら、しばらくほむらはその顔を見上げる。そうしてゆっくりと唇を動かして。
「おはよう、さやか」
飼い犬兼おせっかい焼きの名前を呼ぶと、ほむらは強くその体を抱きしめたのだった――
*******
「私さあ…」
「何?」
「覚えている限り、あんたの元の家行ったことないと思うんだよね」
「…そうだったかしら」
「え、行ったことあるの?」
「さあ?」
「う、思わせぶりな表情!」
「フフフ…そんな些細なこと気にしてどうするの?」
「え?」
「今の私だったら、何度でも貴方をあの家に連れていくわよ?」
そう囁かれたら、美樹さやかはもう何も言えなくなる――嬉しさで。
「あら、何、そんなに嬉しいの?」
「――うん」
目を潤ませながら鞄持ちには正直に答えた。
「馬鹿ね」
呆れたような、でもどこか優しい声色。鞄持ちの肩に顔を埋めながら悪魔は言葉を続けた。
「それに、ここが今は家よ」
そうして鞄持ちの手に自分の手を重ね、囁く。
「私たちの」
それからしばらくの間、二人はキッチンでそうしていたという――
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月とアンサー
「貴方ってほんと馬鹿ね」
そう言ってほむらは笑った。そんな風に笑顔を向ける対象が私じゃなくて異性だったらあんたはすごくモテるのにと、美樹さやかは思ったが、口には出さなかった。この年になるまでもう何回も…いや何百回も本人に進言したが彼女はその度に呆れたように『興味が無い』と切り捨てられてしまったから。
――でも、本当にこんなに綺麗なのにどうして彼氏一人くらい作らないんだろう?
初めて会った時から『すっげー美人』だと思った。あれから色々な事…本当に色々な事があってここまで来たがその気持ちは今も変わっていないとさやかは思う。いや、思わざるを得ないのだ。すぐ傍にいる彼女は変わらず、いやあの頃よりも更に美しくなっていて。
「どうしたの私を眺めたりして」
ほむらがさやかの方を振り向いた。あの頃の面影を僅かに宿した怖いくらいに美しい女性。
面喰ったように目を丸くするさやか。
「いや…なんでもないわ」
たれ気味の目をぱちくり、としばたたかせて頭を掻きながら夜空を見上げるさやか。黒髪の美女とはどこか対照的にその蒼い髪の女性は中性的で人の好さそうな顔立ちをしていて、困った様に眉を下げるとことさらそれが強調される。ほむらもそう思ったのか、くすくすと薄く笑った。睫毛の下のアメジスト色をした瞳が妖しく輝いて。
「貴方は本当に変わらないわね、さやか」
「へ、何言ってんのさ、変わったわよ」
「どんな風に?」
口を開けたまま、左手を意味も無く動かして目を泳がせる。そんな『元鞄持ち』の仕草が可笑しかったのだろう、とうとう悪魔は肩を震わせた。
「ひどっ、笑わないでよ」
陰鬱な目もこういう時は少しだけ明るくなって、ほむらは細い指で目から零れた涙をぬぐう。大人になりこうやって笑うこともできるようにはなったのだ。
「ほんと貴方って馬鹿だわ」
「また最初に戻って!」
さやかの叫び声を目を細めながら聞き流すと、ほむらは吹き上がる風で舞う己の長い黒髪を右手で抑えた。左耳のイヤーカフスが一瞬光る。ニイ、と妖艶な笑みを浮かべるとすっ、と立ち上がった。華奢なラインを浮かび上がらせた黒のワンピース姿は立ち並ぶ高層ビルの夜景に見事に溶け込んで。
夜の見滝原市――
高層ビルの屋上の縁で二人の女性は言葉を交わしていた。立ち上がったほむらの足元はあと数センチ進めば空気を踏むことになる。体育座りの姿勢でほむらを見上げるさやか。
「…魔獣?」
ほむらが微かに頷くのを見てさやかも立ち上がる。すらりとした黒のパンツスーツ姿。まるで悪魔と対の様な服装で。
「もう、さっき倒したばっかりなのに…なんか昔よりも増えてきてない?」
「増えようがどうしようが倒すしかないわね、そして、全ての魔獣を滅ぼしたら貴方と――」
「あ~それだったら、魔獣を一匹ぐらいは残しておきたいなあ」
「……貴方ってほんと馬鹿ね」
「3回目!」
だが悪魔のその顔はとても美しくて、鞄持ちはもう何も言えなくなってしまうのだ。
「さやか」
「ん?」
「私はある程度人の心が読めるのよ、でも貴方の場合はそうね、全部わかるわ」
「私そんなにわかりやすいの?」
「一番手がかかったからかしらね」
美女は眉を片方軽くあげ、小首をかしげる。大人になればこんな表情もできるのだ。
「だけど貴方がさっき考えたことの答えは、もうわかっているはずよ」
「え?」
大きな禍々しいしかし美しい黒い翼がほむらの背中から現れた。片方の翼がさやかを包み込む様にして引き寄せると、ほむらはその腰を抱えた。
「行くわよ、さやか」
「え、あ、OK」
そうして二人夜の闇へと身を投じる。
そしてあたりは静かになった。ただ、半分に欠けた月が空を舞う二人を照らすだけ――
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グレープフルーツ
暁美ほむらが酒を飲むようになったのは、この蒼い髪の『おせっかい焼き』のおかげである。
「せっかく20歳になったんだからさ、飲んでみようよ♪」
そう言って、これまたお気楽にコンビニでチューハイやらビールやらアルコールドリンクをカゴに入れ、身分証明書を自ら店員に見せびらかして買い込んだかと思うと、それはもう満面の笑みをほむらに向かって浮かべたのだ。
――何がそんなに楽しいのかしら?
ほむらには楽しい思い出が無い。いや、はるか昔あったかもしれないが、気が遠くなるほど時を繰り返したためそんな記憶が無いのだ。あるのは14歳の辛い思い出、そして世界を維持するために耐える現在だけ。が、なんの因果か行動を共にするようになったこの女性のおかげで最近は少しだけ、そうほんの少しだけ彼女の心は鹿目まどか以外のことにも目が向くようになっていた。だが当の本人は気づいていないのだが――
「ほら、ちょうど公園があるし、座って飲もう」
「昼間から公園のベンチで?馬鹿じゃないの貴方」
呆れたようにほむらは口走った。よくあるのだ、鹿目まどかはもちろんのこと、巴マミや佐倉杏子に対しても言葉遣いについては気を使っていた彼女が、この女性に暴言を吐くことは。しかもそれは成人してからではなく、あの頃から頻繁にあったことで。はあ、とほむらはわざとらしく大きくため息をついた。
「貴方といると私まで馬鹿になりそうだわ」
「うわ、傷つくからそこまで言わないでよ」
へらへら(そうほむらは思っている)と笑いながらそう言ってくる女性を見て、ほむらは心底嫌そうな表情を浮かべる。なのにどうして一緒にいるのか、とか、会話を続けているのか、とかそういうことはほむら自身も気づいていない。ただ、その笑顔にあの頃を面影を見出して、ほむらは形のいい眉を少しだけ曲げた。
「…いいわ、付き合ってあげる」
「やった!」
年不相応な仕草で喜ぶと、女性はアルコールドリンク類が詰まったコンビニ袋を大事そうに抱えながら、脱兎のごとく公園へと駆けていく。デニムのパンツにパーカーとあの頃の様にラフな格好はだがしかし背の高いこの女性には似合っていて。ほむらは自身が身にまとっている黒の喪服の様なワンピースをふと眺め肩をすくめた。まるで己もあのおせっかい焼きも変わってないとでも言う様に。確かに二人のファッションはどこかあの14歳の頃の好みと同じようだ。だが今ではそれを知る者もいない。
「よっしゃ」
まるで中年めいた声をあげると蒼い髪の女性はベンチにどっかと座った。嬉しそうに袋から缶を取り出し、すぐ横でさも嫌そうにゆっくりと腰かける黒髪の女性に差し出した。怖いくらいの美貌に怪訝そうな表情を浮かべるほむら。
「…グレープチューハイ?」
「あんたにはこれがいいと思ってさ、さっぱりして美味しそうよ」
「貴方は何を飲むの?」
「私も同じ」
「そう」
蒼い髪の女性が缶の蓋を開けるとプシッ、と気持ちのいい音がして。ちら、と横目でそれを眺めてからほむらもそれに倣って蓋を開けた。
プシッ――
シュワーと泡が出てきて戸惑うほむら。それはとても珍しい光景で、蒼い髪の女性は歯を見せて笑う。
「乾杯」
そう言って缶をほむらの前に出すと、きょとんとした黒髪の女性はつられるようにして、自分の缶を軽く相手の缶にあてた。それからまた豪快に飲み始める女性を横目で眺め、ほむらはチューハイの缶を口にして、ちびり、と中身を飲んでみる。
「わ、意外と美味しい、てかジュースみたい」
「そうね…」
ほむらは小首をかしげながらまたちびり、と一口飲んだ。
「…意外と美味しいわ」
「でしょ?」
自分が作ったわけではないのに嬉しそうにそう言う蒼い髪の女性がおかしくて、ほむらはとうとう口元を緩めた。
「貴方が作ったわけじゃないのに、偉そうね」
「そう?」
「そうよ」
ちびり、とまた一口。こんなに美味しい液体を飲んだのは初めてかもしれない。
ふふふ――
気づいたらほむらは笑っていた。
ああ、これが楽しいというものなのか。
傍にいる蒼い髪の女性の顔がなぜか慌てた様子のそれに変わる。その間抜けな顔が可笑しくてほむらはまた笑った。
「え、あんた大丈夫?」
「大丈夫よ、ただ可笑しくて」
「何が」
「貴方の顔が」
「ひど!」
ほむらはとうとう歯を見せて笑った。こんなに楽しいのならば、アルコールもまたいいものかのかもしれない。
「本当に貴方って馬鹿ね、さやか」
ほむらは初めて蒼い髪の女性の名前を笑顔で呼んだ。
******
「どうしたのさ?グラスをじーっと見て」
「私が初めてお酒を飲んだ時覚えてる?」
「へ?…ああ、覚えてるわよ、確か公園でチューハイを飲んでたわよね」
「貴方にごり押しされてね」
「わ、またそんな…まあ確かにあんたに飲んでもらいたくて必死だったけどさ」
ほむらの切れ長の目が少しだけ丸くなる。
「私に飲んでもらいたかったの?」
「そーよ、てかそれもあるけど二人で一緒に飲みたかったってのもあるわね…って、ど、どーしたのさ急に!」
驚くさやか、いきなりほむらがもたれてきたからだ。肩の軽い重みと頬をかすめる悪魔の艶のある長い黒髪。鞄持ちの頬にかすかに赤みが差していく。見ないでも鞄持ちの表情が手に取るようにわかるのか、美しい容貌に笑みが浮かんだ。唇から微かな笑い声が漏れた。
「ほんと…貴方って馬鹿ね」
さやかの肩にもたれたほむらの目の前にはスパークリングカクテル。青い液体、そしてグラスの縁に添えられているのはグレープフルーツ。
あの時、公園でちびりちびりと飲んだ缶を脳裏に思い浮かべ、ほむらは目を細める。
あれから4年――
ジャズの似合うバーのカウンターで今夜も二人は酒を飲むのだ。
夜はきっとまだこれから――
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