藤原佐為が生きていた時代の物語 (こうやあおい)
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第一話:時鳥(ホトトギス)の鳴く声

『どこかで時鳥(ホトトギス)が鳴いているのではありませんか……?』

 

 初夏の夜に発したあの一言が、思えばこの姫の長きに渡る非業の、あるいは宿命の始まりだったのかもしれない。

 

 

 

 時は、のちに『平安』と呼ばれる世。

 そのいずれの御時のことだっただろうか。貴族文化が鮮やかに花開いたこの時代は純然たる身分差が存在する世でもあった。

 

 そんな貴族文化の中心、(まつりごと)と華やかな遊びが絡み合う京の御所には七殿五舎から成る後宮があり──複数の女御が住まって今上の寵を競っていた。

 

 その後宮の、とある初夏の日の昼下がりのことだ。

 

 

「佐為の君が麗景殿へお渡りよ……!」

「まあ、いつお見上げしても花のようなお美しさだこと……」

 

 

 一人の女人が、そんな声に足を止めた。

 振り返ったその女人の視界には緋の袍が映った。腰には剣帯している。

 緋の袍は五位の証。そして剣帯しているということは──。

 

「……侍従……?」

 

 陽の差し込んだ先の緋の色が眩しくて、彼女は目を窄めた。

 視界の先にあるのは麗景殿だ。あの侍従らしき人物は麗景殿の女御の関係者だろうか。

 立派な小袿を身に纏った彼女は、後ろ姿の緋の袍を一瞥してから歩いていた承香殿の渡殿を進んでいく。

 

 

 今上の世になってまだ日は浅い。

 だがここ数年は政争もなく、穏やかで安定した日々が続いてる。

 先帝の末期はあれほど騒がしかったというのに、まるであの日々が夢のようだ……、と彼女は少しだけ遠い目をして雲居を見上げた。

 

 

 ──先帝の末期、時の大臣が大宰へ配流となる不祥事が起きた。その監視のためという名目で、慣例では親王が任じられる『大宰帥(だざいのそち)』に任じられたのは当時の左大将であった。

 本来は在京でその職に就くことが習わしの(そち)が下向を命じられたのは、真実(まこと)に『監視のため』であったのかは今も定かではない。しかし、度々の賊徒侵入で中枢の人間を大宰府に送る計画自体は以前からあり、腕利きの武人でもあった左大将は異議を奏上せずに下向を決めて筑紫へと旅立つ日を待った。

 

 その後すぐに先帝は譲位し今上の世となったわけであるが、春宮時代から慣れ親しんだ左大将を不憫に思った今上は即位後に彼を内大臣に格上げした。

 内大臣とは時に名誉職として贈られるものだ。すでに下向の決まった彼の官職が上がろうがそれほどの脅威には思われなかったのだろう。議政官からも異議が出ることはなく、これを境に『(そち)大臣(おとど)』と呼ばれるようになった彼は、大嘗祭を最後にたった一人の姫を都に残して筑紫へと下向した。

 

 

 その姫が『(しおり)』という(あざな)で呼ばれていたことは、千年ののちまで残る『二条左大臣記』、俗に『二左記』と呼ばれる日記や複数の貴族の日記からも確認できる。

 

 父は(そち)大臣(おとど)、母は宮家というその姫は、都いちと謳われるほどに舞の才に秀でていた。──と、後のどの史料にも記してあった。

 

 

 そして、その姫には縁者の後見人がいた。

 名を──。

 

「今宵は源博雅(みなもとのひろまさ)さま……長秋卿(ちょうしゅうきょう)が宿直の夜でしょうか」

「笛の音がここ登華殿まで聴こえてきますわ」

 

 名を、源博雅(みなもとのひろまさ)と言った。

 産まれた時に天から楽の音が響いていたとまことしやかに噂される、当代一の管弦者でもある。

 

 その博雅の奏でる笛の音を目敏く聞きつけ、宮中は後宮──登華殿の女房たちが囁いた。

 すれば、殿(でん)(ぬし)たる女御(にょうご)その人にも聞こえたのだろう。上げられた御簾(みす)の先から上品な声が漏れてくる。

 

「長秋卿の宿直(とのい)とあらば、今宵は栞の君が参られますわね」

 

 その声に呼応するように、彼女の声を聞いていた女房の一人が、あら、と小さく呟いた。

 

「うわさをすれば……」

 

 みなが廂の方へ目線を移してしばらく、一人の女人が小袿姿で母屋へと顔を出した。

 

「女御さまにはご機嫌うるわしく……」

 

 若菖蒲襲ねの質の良い衣に豪奢な文様。その出で立ちはひと目でこの殿舎の主(女御)に次ぐ身分だと見て取れたが、みなは慣れたように彼女を迎え、彼女もまた慣れたように奥に座る女御に向かって一礼をした。

 

「まあ栞の君、そろそろあなたが来られる頃ではと話をしていたところですのよ。わたくしが春宮妃であった頃からの慣わしですから」

 

 女御は上品そうな声で女人──栞に声をかけ、彼女も顔を上げて頬を緩めた。

 すれば周りの女房たちがさっそく彼女へと声をかける。

 

「栞殿、こちらへいらして」

「栞殿がいらしたんですもの、碁でも打ちませんこと?」

「あらせっかく長秋卿の笛が聴こえるのですから、合わせて舞っていただきたいわ」

 

 女房たちの艶やかな衣装が薄闇を照らす灯に映えてなんとも雅やかだ。

 その様子を穏やかに見守る女御もまた、宮中暮らしがすっかり馴染んでいるのが見て取れた。

 というのも今上の春宮時代に入内(じゅだい)していた彼女の元には親兄弟が競うように学の誉高い女房を送り込んで教養を身につけさせ、今上即位後には真っ先に女御宣下(にょうごせんげ)を受けたほどには宮中暮らしが長い。

 しかしながら今上は今のところ三后が全て埋まっていることを理由にのらりくらりと将来に誰を立后させるかかわしており、上達部(かんだちめ)はやきもきしていたのだが、当の女御本人は全く気にする様子を見せていない。むしろ才ある女房を集めて自身の殿舎を社交場とするのを楽しんでいる風でさえあった。

 

 見上げればいつの間にか格子の先に月が出ており、うっすらと朧げな様子に誰とはなしに感嘆の息を漏らした。

 

「このような趣深い夜は、琴など弾き鳴らすのがよろしいかと思われますが……」

「長秋卿がいらっしゃるのですから、こちらの拙い音など聞かせてはと気後れいたしますわね」

 

 帝のお召しも御渡りもない後宮の夜は普段よりもゆったりと更けていき、しかしながらみな飽きもせず歓談に興じた。

 碁や双六に精を出し、そのうちに一人、二人と寝静まっていったが、栞はというと一人の女房の(つぼね)に引き入れられてまだまだ眠れぬ夜を過ごしていた。

 

「せっかくの夏の夜ですから......楽しまないのも罪というものですよ」

「清少納言殿はまたそのような......」

 

 御簾も几帳もどかし、御格子をあげた先から差し込んでくる月明かりを頼りに既に二局は碁を打っただろうか。

 彼女──女房名を清少納言と言う──はここ登華殿の女御が春宮妃であった頃から仕えており、栞とはその当時からの付き合いになる。才気煥発な女房で後宮内でも随一の棋力を持ち、栞ともよく打つ囲碁好きである。

 

「夏の夜は短いのですから寝て過ごしては損というもの。長秋卿もまだ笛を吹かれているではありませんか」

「博雅さまが宿直所(とのいどころ)からお出にならずに夜通し(がく)に夢中なのはいつものことですし……」

 

 途切れなく聴こえてくる笛の音色に清少納言は笑い、栞は肩を竦めた。同時に少しだけ目を見張る。

 笛の音に混じってほんの微かに鳥の鳴き声のようなものが聞こえたのだ。

 

「どこかで時鳥(ホトトギス)が鳴いているのではありませんか……?」

 

 栞は外へと視線をやった。

 すれば清少納言からは「まあ」と訝しがるような息が漏れた。

 

「もう時鳥の季節は過ぎましたでしょうに」

「でも、いま確かに……」

「でしたら……、どなたかが栞殿をお呼びなのではないですか? 時鳥は冥界からの使者だと言いますから」

「またそんな迷信めいたことを……」

 

 そもそも離れて暮らしているとはいえ両親もまだ健在だというのに不吉な。と清少納言へ視線を戻した栞はギョッとする。彼女は何かを訴えるようにしてこちらを熱心に見ており、栞はやや身構えた。

 

「清少納言殿……?」

「いずれにせよ、まこと時鳥なら見逃すわけにはいきません。栞殿、確かめて見てきてくださいませ」

 

 え……と栞は頬を引きつらせたと同時に思い出した。

 ──この清少納言という人は、今年一番の時鳥の鳴き声を聞き漏らすまいと夜通し粘って待っていたりする風流人でもある。ゆえに、今年最後かもしれない時鳥も見逃せないということだろう。

 失言だった、と頭を押さえた栞になお清少納言は言った。

 

「おついでに蛍など捕らえてきてくだされば嬉しゅうございますわ」

「私に後宮を夜歩きせよ……と?」

「あら、そのままでとは申しません。栞殿のご衣装はございますからお着替えなさいませ」

 

 言って清少納言は部屋の奥から衣装箱を出してきて、有無を言わさず既に薄着であった栞に着せていった。水干と呼ばれる童衣装であるが、栞が時折り舞を舞う際に使用しているものだ。

 童衣装とはいえ動きやすい故に下人が使用することもあるが、女人が着ることはまずない。

 ゆえに水干(これ)さえ着れば、たいていの人間には小舎人(こどねり)にしか見えないゆえ歩きやすくはあるが……などと考えているうちに髪を左右に分けて下げ角髪(みずら)に結われ、仕上がった姿を見て清少納言は感嘆の息を漏らし頬を染めた。

 

「相変わらず……宮中のどの姫大夫(ひめもうちぎみ)よりも美しいこと」

 

 姫大夫、とは東豎子(あずまわらわ)という下級女官のことである。行幸の際は男性官人の装束を身を纏い、馬に乗って供奉(ぐぶ)することもある。

 つまるところ男装を褒められているわけで、栞は肩を竦めた。

 

「ありがたいことですが、水干が似合うというのは自慢になるでしょうか。髪も、角髪を結えるほどに短いのですし」

 

 動きにくい、という理由で栞は髪を短めに保っていた。女性の美しさの基準の一つは髪の長さであり、やや気恥ずかしい思いで言うと清少納言は自身の縮毛に手をやって笑った。

 

「栞殿が御髪(おぐし)を頻繁に切られるおかげで私は美しい(かもじ)が手に入るのですし、少なくとも私にとってはありがたいことです。それに男衣装を着られた栞殿に勝る殿方はこの宮中でもいるかどうか……! あの佐為の君よりも瑞々しさでは勝っておいでですのに」

 

 清少納言は目を輝かせて言い、栞は目を瞬かせて少し眉を寄せた。

 

「佐為の君……?」

 

 誰だ? 思うと同時に、ここに来る前に麗景殿で見かけた殿方がそう呼ばれていたような。と考えるもギュッと手を握ってきた清少納言にその思考は乱される。

 

「ほんとうに……、大臣(おとど)の姫君というのは肌の輝きからして私どもとは違うのですから……。貴いお生まれがいかに天からの賜り物か分かるというものです」

「その大臣(おとど)の姫に時鳥探しをご指示なさった方が目の前にいらっしゃるのに」

「恐れ多いことは重々承知しておりますが……。でも栞殿と私の仲ですもの」

 

 恐縮しつつもあっけらかんと清少納言が言い、さすがに栞は苦笑いをこぼした。

 彼女の方は気にする様子もなく、それに、となお軽く言う。

 

「宮中の者は、栞殿が大臣(おとど)の姫であると承知している上にご性質もご存知です。咎める者もいないのですから、これ以上の適任はいないでしょう」

 

 では後ほど、と清少納言は栞を部屋の外へと出し、あっけに取られた栞は肩で息をした。

 ここ登華殿や直ぐ隣の弘徽殿の細殿には女房たちの部屋があり、彼女たちに通う男君と()()()()()で鉢合わせでもしたら厄介である。

 足早に外に出れば緩やかな風が頬を撫でていく。

 

 「夏は夜がいい」──と清少納言は昔からしきりに唱えていた。

 

 夏も盛りになってくると京の蒸し暑い夜はとても「良い」と言えるものではないが、初夏の月夜は悪くない。

 緩やかな風に包まれ、爽やかさと共になんとも艶かしい雰囲気が漂っており彼女の言葉も道理であろう。

 ましてや、神の祝福を受けてこの世に生を受け“楽聖”とまで称えられる博雅の奏でる笛の音が響く宮中の夜なのだ──と感じ入りつつも栞は自嘲気味に眉を寄せた。

 清少納言も本当は自分の目で時鳥や蛍を見たかっただろうに、女人の夜歩きなど叶わない世だ。

 

 自分にしても、さすがに屋敷内や宮中以外を舎人(とねり)もつけずに歩くことはまずないが。と、若い公達(きんだち)であれば心躍りそうな夜歩きを、人目を気にしつつ闇夜に紛れるようにして歩いていく。

 登華殿の外に向かう門を抜ければ、塀の先にあるのは疑花舎、飛香舎、そして襲芳舎──またの名を梅壺、藤壺、雷鳴壺──だ。

 生ぬるい風に吹かれつつ心地よさに口の端をあげながら耳を澄ましてみる。

 しかし、いくら意識を集中させても聴こえてくるのは博雅の笛の音で、栞は唸りつつ首を傾げた。

 

「聞き間違いだったかな……」

 

 時鳥を訪ねて、などと使い古された夜歩きの口実であるが、本当に聞こえたというのに。なお耳を澄ませていると、ふと風向きが変わって笛の音が遠のいた。

 

「……あ……」

 

 代わりに、微かだが何かを弾くような乾いた音が栞の耳に届いて目線を上げる。襲芳舎の方からだ。

 

「石の音……?」

 

 今上の女御や女官で襲芳舎に住まうものはいないはず。とすれば、隣の梅壺に入りきれない女房が使っているのか、それともあの場を宿直所としている右近衛府(うこんえふ)の誰かか。

 いずれにしても誰かが石並べか囲碁にでも興じているのだろう。

 さっきの今で囲碁という気分でもないが、清少納言にも勝る囲碁好きの誰かだろうか。

 右近衛府の武官たちであれば賭け碁だ罰杯だと騒がしいに違いないから女房たちか。

 

「“手談幽静処, 用意興如何……“」

 

 静かな場所で打ち手の石が語らう。手を考えることのなんと趣深いことか。見知った漢詩を口ずさみつつ、栞は石の音の導かれるようにして襲芳舎へと足を向けた。

 

 うっすらと月を覆っていた雲が晴れ、眩い光が宮中を照らしつけている。

 

 やはり、『夏は夜』なのかもしれない。

 蛍が一、二とほのかに道行きを彩る。栞は水遣りの方からふわりと飛んできた蛍の光を目で追いながら、誘われるように後を追った。

 

 石の音が少し近くなる。

 襲芳舎の簀子が見えてくる。一匹の蛍が廂の方へと向かい、栞はそちらに目線をやった。

 そうしてやや目を見開く。

 月明かりに照らされたその先で、その明かりを頼りにするように優雅に簀子に腰を下ろして碁盤へ向かう青年がいたのだ。

 彼に近づいた蛍が彼の纏う葵襲ねの冠直衣(かんむりのうし)を淡く照らした。その襲ね(かさね)の薄青と薄紫が月明かりと蛍の二重に照らされ、思わず目が奪われるほどの優雅さを放っている。

 一人で碁盤に向かう彼は対局図を並べているのだろうか。

 規則的に響く石の音を聞きながらぼんやりと眺めていると、彼の視界に蛍の光が映ったのだろう。栞からもはっきりと分かる、色形のいい唇が柔らかく笑みを浮かべた。

 無意識のうちに視線をその青年に縫い留められていると、彼は蛍の光を目で追うような仕草を見せた。しばし碁盤の上で舞っていたその蛍は簀子の外へとゆらゆら向かい、その青年の視線も外へと向けられた。

 

 刹那、月明かりが互いの顔を照らし──確かに二人の視線が重なった。

 

 栞の瞳に、青年の涼しげな切れ長の瞳が微かに見開かれるのが映った。

 

「そなた……少将殿の使いか……?」

 

 先に青年が口を開き、栞はハッと息を詰めた。

 ──彼はどうやら自分を右少将あたりの小舎人童とでも思ったようだ。

 ということは、こちらの顔も身分も知らないということだ。

 ならば、まだ出仕して日が浅い下級貴族か。

 ともかくも、下手にいま大臣(おとど)の姫だと露見するよりは『少年』と思われていた方が良いだろう。

 栞は意識して声を低く発する。

 

「碁石の音に惹かれて参りました。ご無礼をお許しください」

 

 碁石、と発した途端に青年の表情が少し和らぐ。

 

「そなた、碁を打つのですか?」

「え……、ええ嗜む程度には」

「ならば、こちらで一局打ちませんか? 右近の少将殿に付き合いを請われたというのに…… 主上(おかみ)の宿直所に顔を出しに行ったきり戻られず対局相手に飢えていたのです」

「ああ、あちらからは笛の音が響いていましたから、待ち人は恐らくそれを聴かれているのでは……」

「ええ、どうやら博雅三位(はくがのさんみ)がおられるようなので……きっと聴き入っているのでしょう」

 

 要するに彼の対局相手は博雅の笛の音に惹かれて職務放棄をしているらしい。

 そして、どうやらこの場にいるのもこの青年のみ。

 しかし宿直の夜はこれ幸いと女房相手に遊び歩く殿方も少なくないのだから、楽の音に抗えないというのはまだ健全だろうか。思いつつ請われるままに栞は青年のいる方へと向かった。

 幸いなことに眼前の彼はこちらの名を訊ねるでなく、栞は(きざはし)を上がって青年の前に腰を下ろす。

 こちらを元服前の子供と思っているせいだろうか。向き合った彼は優しげな眼差しでこちらを見てきた。

 ──いったい誰だろうか。目の前のこの青年は。

 右近衛府の武官……とも思えないし、どうも武官らしい感じはしない。

 などと考えつつ黒石の碁笥を受け取る。

 

 さて、どうしたものか。

 清少納言などはよく殿方相手に囲碁で大立ち回りを演じては誰々を負かしたと声高に自慢しているが、さて。ここは()()()()()打つべきだろうか。

 

 考えつつ打ち始めた栞は、しばらくして対局相手の打ち筋に違和感を覚えた。

 彼の打つ手は、まさに上手(うわて)下手(したて)にするような、大人が子供を導くような、そんな碁だったからだ。

 ──登華殿随一の打ち手である清少納言よりも数段上の棋力だと自覚のある栞は、まるで指導を受けているようなその対局に思わず目線を上げて彼を見た。

 すれば図らずも目が合い、ふ、と青年が微笑む。

 

「そなた、筋がいい。どなたか師について学んだのですか?」

「──いえ。幼い頃、父から少し手ほどきを」

「ではお父上は碁を生業に?」

 

 いえ、と栞はなお首を振るう。

 もしも自分の父が(そち)大臣(おとど)だと知れば、こちらを下位だと思っているらしき彼は平静に打てないどころかしばらく謹慎生活を送りかねない。

 

 これはただの夏の夜の戯れ。彼が知る必要はないのだ。

 

 考えつつ黙していると、彼はなお笑う。

 

「それでは、そなたの父上は相当な打ち手なのでしょうね。叶うならば一度手合わせを願いたいものです」

 

 彼が本気で打っていないのは明らかで、眼前の対局から技量を測るのは難しい。

 だが相当な腕だということだけは分かる。

 淀みなく流れるような応手が続き、思わず栞は手を止めた。

 いったい眼前の彼は何者だろうか? 昼であれば装束から位階が割れ、ある程度の官職も察せるものである。が、生憎と眼前の彼は冠直衣姿だ。

 むろん今宵限りで会うこともない相手なのだから、知る必要はないのだが。

 巡る考えとは裏腹に、栞はジッと眼前の青年を熱を込めて探るように見つめた。

 手が止まってしばらく。ふいに彼の瞳が、ふ、と細められる。──長考しているとでも思われたのだろうか。カッとしたものの、月明かりが照らす彼の面差しがあまりに美しく……なおさらに石を持つ手が止まってしまう。

 

 現状の盤面は互角と言って差し障りない。彼が本気で打っていないからだ。

 

 視界の遠くで蛍が舞った。

 栞はハッと目を見張る。

 こちらに続く軒廊(こんろう)に人影が見えたのだ。

 ──対局の約束をしていたという少将だろうか?

 さすがに少将がこちらを知らないとは思えない。身咎められれば厄介だ。ここは心苦しいが対局を投げるしか……。

 考えあぐねていると不審に思われたのか、眼前の彼の柳眉が寄せられた。

 しかし栞の意識は近づく人影に支配されており、姿を見られまいと水干の袖で自身の顔を覆う。

 

(とき)が参ったようです」

「え……?」

「今宵はこれにて……。失礼いたします」

 

 そうして栞は渡殿を歩いてくる人影がこちらにたどり着く前に立ち上がり、(きざはし)を駆け下りて襲芳舎から足早に離れた。

 

「そなた……!」

 

 その後ろで青年も立ち上がって栞に声をかけるも栞に振り返る余裕などなく──。

 残された青年はしばし呆気にとられて闇に紛れた人影を追っていたが、そのうちに聞こえてきた足音にはっと意識を戻す。

 

「佐為殿? 如何された、そのような場所に立ち尽くして」

「少将殿……」

 

 佐為、と呼ばれた青年はやってきた人物が自身の待ち人であると確認して小さく息を吐いた。

 

「おや……」

 

 そばまで歩いてきた少将は、打ちかけの碁盤を目に留めたのだろう。意外そうに瞬きをした。

 

「これは……、盤面互角に見えますが、石並べですかな」

「いいえ、少将殿をお待ちしている間に一局打っていたのですよ」

「ほう。して……どなたと?」

 

 問いながら少将は碁盤の前に腰を下ろし、佐為も連なって腰を下ろしつつ「それが……」と言葉を濁す。

 つい今しがたまで打っていた少年。相当に元服が遅れているのか、小舎人童にしてはやや大柄だったように見受けられた。

 それに、月明かりに晒された彼の姿は隠せぬ気品が漂い、立ち姿は凛として──。打つ石の流れさえ淀みなく、久方ぶりに心躍る一局であった。

 惜しむらくは最後まで打てなかったことだろうか。佐為はそっとこちらを照らし付ける月を見上げる。

 

「夏の夜の精が……人の姿を借りてこの世に舞い降りたのやも知れませぬ」

 

 戯れ半分、しかし半ば本気でそう言い下した佐為の言葉など栞は知るよしもなく──。

 

 彼女はまっすぐと登華殿へと戻り、そっと戸口を開けて細殿へと入った。

 端部屋の女房に通う男でもいるのだろうか。微かに男女の逢瀬の気配がするも、そのようなことは日常茶飯事。未だに御格子が半分上げてある清少納言の局の前まで行くと、栞は差し込む月明かりをぼんやりと見上げた。

 しばらくすると、御簾の揺れる音がして栞は振り返る。

 

「まあ栞殿、戻られたのなら声をかけて下さればよろしいのに」

「清少納言殿……、いえ、もうお休みになられたかと」

「寝るには惜しい夜ですから」

 

 言って彼女は薄着のまま栞の横に腰を下ろした。そして彼女は月を見上げる。

 

「夏は夜……月の頃はさらなり……。これで蛍でも舞えば格別ですのに。して……時鳥は見つかりまして?」

「いいえ。でも蛍ならば……先ほど襲芳舎(しゅうほうしゃ)で見ました」

「あら雷鳴壺(かんなりのつぼ)へ行かれましたの?」

 

 なぜ、と問う彼女に向かい栞は自嘲する。

 

「それが、石の音が聞こえて──」

 

 そうして栞はつい今しがた打ちかけで終わってしまった対局のことを話した。

 

「まるで子供扱いでした。歳の頃は二十歳か、少し上か……。とても美しい殿方でしたが、あのような碁を打たれたことが少し口惜しくて。右近衛の誰かでしょうか」

 

 僅かな悔しさと、もしかしたら清少納言であれば先ほど会った青年を知っているのではないかと淡い期待も抱いて栞は言い下した。

 すると清少納言は暑さ避けのためか手にしていた扇を開いて仰ぎつつ緩く笑う。

 

「それは恐らく……佐為の君ではないでしょうか」

「佐為の君……?」

「ご存知ありませんの? 宮中の女人でその名を知らぬものなどいないほどのお方ですのに……」

 

 視線をこちらに流してきた清少納言を見つつ、ああ、と栞は口元に手をやる。

 まさにここを出る前に清少納言がその名を口にしていたし、麗景殿でも確かに誰かがその名を口にしていた。

 

「ちょうど麗景殿へ渡られる後ろ姿をお見上げしました。緋の袍を着ていらして……帯剣されていたので、侍従のうちの一人かと思いましたのに」

「ええ、その通りです。碁に関しましては、かの君は大学寮で算道を学ばれて……その時に才を見出されたと聞いております」

「なるほど、あそこは雑戯の全てが禁じられているというのに碁だけは目こぼしされているようですからね……僧さえ許可されているのになどと言って。だから自然と学生(がくしょう)たちも碁の腕を競うようになるのでしょうか」

 

 思い起こせば、かの菅原道真も碁を愛して漢詩など残していたのだった。と栞は口元に手をやる。

 このところは算道や陰陽道にも盛んに囲碁を取り入れているとも耳にするし、教養の要素の一つでもあるし、賭け碁などを貴人の御前で打つこともあるのだ。意外に碁の腕自慢というのは探せば多いのかもしれない。

 

「そういえば……主上(うえ)も格別に碁を愛でておいででしたね」

「そうなのです。それで佐為の君が碁の覚えめでたく、課試の結果も申し分なくて……主上(おかみ)からは碁の指導役にと取り立てられたという話を私も聞いております」

「侍従の職務に碁の指導が含まれていたとは存じ上げませんでしたが──あ」

 

 そこまで言って、栞はふと思い当たることがあり唇に手を当てた。

 

 ──遣唐使が廃止されて久しいが、今上は大の唐かぶれな上に囲碁好きで名高い。

 「唐の棋待詔(きたいしょう)のような官職を設けたい」と春宮時代によく漏らしていたとは父に聞いた覚えもある。

 『棋待詔』とは囲碁をもって皇帝に仕える役職だ。この宮中で言えば大学寮を出た進士や秀才などが就く役職でもある。

 だとすれば、なるほど。課試に通った碁の上手を侍従としてそばに控えさせ、棋待詔のような役所を担わせるのも頷ける。

 

 栞は思ったままを清少納言に説明しつつも肩を竦めた。

 

「いくら主上(うえ)でも新たな官職の設置は叶わないでしょうから、侍従の業務を増やすというのは考えたものだとは思いますが……それにしても御師待遇でしたら結構なことですね」

「佐為の君は特別なのですよ。とはいえもう一人、主上(おかみ)に碁を教えている方がおられますが」

「あら……、では先ほど私が打った方は佐為の君だとは限りませんね」

「いえ……歳若く容貌も優れた殿方となると、やはり佐為の君でしょう」

 

 清少納言は言葉を濁したが、つまりはもう一人の囲碁指南役が年配か、もしくは褒められない容姿なのか。栞は深く追求はせずに小さく頷くに留めた。

 それにしても、と清少納言が軽く笑う。

 

「佐為の君と栞殿の対局、見逃したなんて悔しいわ。打ち掛けなんて勝敗が気になりますもの。石の並びは記憶してます?」

「ええ、もちろん」

「ではそのうちに並べて見せてくださいな。いっそ女御さまにもお話しようかしら」

「ご冗談を。女御に水干姿で襲芳舎(しゅうほうしゃ)に出向いたなどとお話なさっては私の恥となります」

「今さらではないかしら。女御さまも私も、栞殿のことは裳着も済まさぬうちから存じているのですから」

 

 冗談めかす清少納言に栞は少しだけ肩を竦めた。

 確かに彼女たちとの付き合いは裳着の前(子供の頃)からではあるが──。

 

 あの頃は東宮御所が昭陽舎(梨壺)にあり、当時は春宮坊を仕切っていた博雅や左大将であった父と共によく参入しては舞などを披露していた。

 今上の即位とともに博雅も今上母后に奉仕し後宮全体を取り仕切る中宮職に移り従三位(じゅさんみ)に昇って今では「長秋卿」と呼ばれているわけであるが……。

 

 ()()()の方が楽しかった。と振り返るにはまだ早すぎるだろうか。

 

 

『どなたかが栞殿をお呼びなのではないですか?』

『時鳥は冥界からの使者だと言いますから』

 

 

 やはり時鳥の鳴き声は聞こえない。

 きっと聞き間違いなのだ。

 今夜のことは、夏の夜の戯れ……、と栞はもう一度御格子の外を見上げた。



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第二話:登華殿での対局

 博雅について参内することもあれど、栞の日常はほぼ自身の邸宅内で完結している。

 

 その住まいは左京の四条大路沿いに建つ豪奢な寝殿造りで京でも一、二を競う大豪邸であり、両親が筑紫へ下ったいまの主は栞自身であると言っても過言ではない。

 屋敷内には馬場殿もあり馬を駆り弓を打つのさえ困らない広さで、以前はもっぱら父の訓練場であったが、今は栞自身が弓を楽しむ場と化している。

 とはいえ彼女が出歩くのはあくまで屋敷内のみであり、それさえもあくまで特殊な例だ。貴族の女人とあらば基本は屋根の下から出ることは快く思われないうえ「立ち」歩くのさえご法度な生活である。

 

 そんな夏のある日。

 栞は先日の一局を並べつつ、ため息を吐いていた。

 その肌にじっとりと汗が浮き出てくる。

 京の夏は日に日に蒸し暑さが増し、日の高いうちは寝殿の奥に籠もって(うすもの)単衣(ひとえ)一枚で過ごさねばとても耐えられるものではない。単衣一枚では身体が透けて見えるため、さしもの栞もこの装いで端近に寄るような真似は決してせず奥でじっとしているのが常だ。

 暑さにうんざりしつつ耐えていると、女房──乳母の一人でもある──が近づいてきた。

 

「姫さま、お文が参っております」

「必要だったら適当にお返事差し上げておいて」

 

 ここは大臣家。藤原の摂関家ほど時めいた家でなくとも、未婚の姫がいるとあらばそれらしい文が有象無象から届くのが常である。

 今回もその類だろうと軽くあしらった栞だが、女房の次の言葉を聞いて目を見開く。

 

「それが……登華殿の女御さまの使いが見えまして……」

 

 差出人は女御らしく、その内容は──。読み終えた栞は小さなため息を溢した。

 

「参内せよと……?」

 

 そこには先日の夜に襲芳舎で打った打ち掛けの一局を見せて欲しいとの要望が記されていたのだ。

 今まさに並べていた一局でもあり、盤面を見下ろしつつ思う。女御が知っているということは、清少納言が先日の一件を彼女に話したのだろう。

 つまりは面白がられているわけだ。理解するも、女御からの要望を無碍にするわけにもいかず。栞は急ぎ返事を書くと屋敷の外で待っているらしき使者に届けさせ、さっそく参内の準備をするように女房に言いつけた。

 

命婦(みょうぶ)、明日は女御に参入するから衣装を整えておいて」

「かしこまりました。登華殿へ上がられるとなると、薫物はいかがいたしましょう?」

「暑いから……爽やかな香りがいいわ。控えめにね」

 

 言えばすぐに準備に取り掛かる女房──命婦以下はどこかうきうきと浮き足立ち、自身の仕える(あるじ)を着飾るのが楽しみで仕方ないといった具合だが。

 この暑い中で小袿を纏うのは……などと気の重さも感じるも昼の宮中に上がるには最低限の決まりがある故に致し方ない。

 幸運であるとすれば、正装せずとも許される身分だということだろうか。

 栞としては単純に暑いがゆえに裳唐衣(正装)を避けたいわけであるが、中には自分の地位を誇示するために場の空気も読まず砕けた格好をして公の場に現れ裏で顰蹙を買う貴人もいる。それに公家の姫ともなれば身に付ける物の質はもちろん洗練具合も観衆に晒され、うわさは内裏中を巡るわけで……。どんな襲ねにするか、どの小袿にするか。その選択肢がこの大臣家の評判を左右する。──と、命婦以下女房たちは思っていることだろう。

 貴族と生まれた限りは避けられない煩わしさだと知りつつ、翌日の午前中を参内準備に費やした栞は正午前にようやく身支度を整え終えて牛車に揺られた。

 

 四条から大内裏は目と鼻の先であるが、牛車で向かえば時間がかかるのは知れたことだ。

 いっそ馬に乗るか走って行きたい。などと思ってはいけないと戒めつつも思わずにはいられない自身とどうにか戦って堪える。

 この堅苦しい京生活にそれほど未練があるわけでなし、いっそ父や母のいる筑紫に行った方が楽しいのかもしれない。

 が、彼らが自分を京に残したのは広大な四条の邸宅や莫大な財産の管理が主目的であり。その役目を放り出すわけにもいかない。

 

 そんなことを巡らせつつしばし牛車に揺られ、大内裏へと入る。

 殿上人ならば例え上達部でもここで牛車を降りねばならないが、女人の、それも高位の場合はやや事情が違った。栞の場合、牛車の使用が許されているのは建春門までである。

 建春門は大内裏の東に面しており、内裏へと通じる宣陽門は目と鼻の先であるため牛車を降りても徒歩(かち)ですぐだ。

 そうして辿り着いた内裏の、まずは温明殿の回廊へと栞は足を進めた。

 ここ温明殿の一角には内侍所(ないしどころ)がある。宮中の華でもある才ある内侍の女官たちが詰める場所だ。

 今日も彼女たちは宮中業務に追われているのだろうか。思いつつふとよぎらせる。

 内侍でも最上位の女官である尚侍(ないしのかみ)は公卿の姫たちが勤めるが、実質の職務を遂行するのは主に中流以下の貴族の娘たちである。特に今の上臈(じょうろう)掌侍(ないしのじょう)は宮廷一の美姫と名高い才媛で、たびたび殿方を悩ませる種になっているとは栞も聞き及んでいた。

 過去に何度か顔を合わせたことがあるが、確かに美しく身に纏う香りも艶やかで……などと思い返しつつ温明殿を抜ければ麗景殿が見えてきた。

 そして承香殿を抜け、弘徽殿を過ぎればようやく登華殿である。

 

「栞殿……! よくいらっしゃいました」

 

 先方はこちらが来るのを既に承知済みだ。

 顔見知りの女房たちが迎えてくれ、栞が女御に挨拶を済ませればさっそく御簾の内からは微かな笑い声が聞こえてきた。

 

「清少納言に聞きましたよ。あの佐為の君と互角の碁を打たれたそうですね」

 

 やはり筒抜けだった上にどうやら話を面白おかしく脚色されているらしい。栞は苦笑いを漏らす。

 

「いえ、私は佐為の君を存じ上げませんので……どの殿方と打ったかさえ定かではないのです」

 

 すれば周囲の女房たちが我先にと反応した。

 

「まあ栞殿、なにをおっしゃるの!」

「清少納言殿に敵う殿方さえ滅多におりませんのに、栞殿と打ち合えるとあらば佐為の君以外におりませんわ」

 

 彼女たちの声が弾んでいるのは、話題の主がその『佐為の君』とやらだからだろうか。

 それに、今上の囲碁指南役を勤めているのは二人だと聞いたはずだが、なぜ彼女たちは佐為の方だと決めてしまっているのか。

 いずれにしてもあの夜の相手は手を抜いて打っていたし、終局まで打ったとしても見かけ上は波乱もなく淀みもない互角の図が出来ただけのような気がするが。

 御簾の内からは微かに布擦れの音が聞こえた。女御も笑っているのだろう。ちらりと栞が御簾へと視線をやれば、女御は応えるように言った。

 

「佐為の君は二十歳を過ぎてなお北の方がおられず、都中の女人を悩ませる種になっているのですよ」

 

 その声を受けて女房たちの声がいっそう色めく。

 

「北の方だなどと大それたことは望みませんわ」

「そうですとも、一晩だけでもお側に……!」

「でもあの君は橘内侍(きのないし)とのおうわさが……」

「あら、わたくしは麗景殿の宰相の君にお通いだと聞きましてよ」

「どちらも美貌の誉高い方々ですもの、さぞやお似合いだとは思いますが……。その話が本当ならば佐為の君は殿方のお恨みを買いますわね」

 

 そんな会話が止め処なく彼女たちの口から漏れ、さっぱり話の見えない栞は口をつぐむしかない。

 とはいえ先日の夜に会った青年がうわさの『佐為の君』だとしたら、騒がれるのも無理からぬことかもしれないと思う。あの、まるで月読が地上に降りたかのような姿は……と、月明かりに照らされた青年の姿を思い浮かべていると御簾の内から女御の声がして栞はハッと意識を戻した。

 

「昨日、佐為の君は弘徽殿にいらしていたから今日はこちらに見えるはずです。それであなたを呼んだのですよ、栞の君」

「え……!?」

「佐為の君も朝には他のご公務がおありですから、その後に主上(おかみ)のお相手をなさったり、こちらでも囲碁の指導をなさっておいでなのですよ」

「まあ、では佐為の君は女御がたへも指導を……?」

 

 栞はやや意外で目を瞬かせる。彼は侍従、ということは冠位は従五位下であり、女御と直に顔を合わせるのは憚られる立場だ。

 すればその疑問に答えるように、「いえ」と女御の否定声が届いた。

 

「他の女御がたのことは存じませんが、こちらでは女房たちと打っていただいています。女房たちと佐為の君の対局を見るのもゆかしい事ですから」

 

 なるほど、と栞は頷いた。

 囲碁は貴族の中でも、とりわけ屋根の下から出られない女人に人気の娯楽だ。直接の対局でなくとも、見ているだけでも十分に楽しめるに違いない。

 考えていると、「ですが」となお女御は言葉を続けた。

 

「未だ誰も佐為の君に黒星を付けた者がおらず……、栞の君ならばと思ったのですよ」

「女御、それは……あの対局は──」

 

 驚いた栞は声を上げかけた。あの夜の青年の棋力は図りかねるとはいえ手加減されていたことは明らか。清少納言がどう説明したのかは知らないが、戯れがすぎる。

 

「まあ、みなさん」

「佐為の君がお見えだわ……!」

 

 などと考えていると廂の端側にいた女房たちから声が上がり、女御からは「うわさをすれば」とおっとりした声が漏れた。

 裏腹に栞はやや焦って誰とはなしに訴える。

 

御几帳(みきちょう)をだれか、これへ!」

 

 さすがに見知らぬ殿方に易々と姿を晒すわけにはいかない立場の栞だ。

 慌ただしく女房たちが栞の前に几帳を置いたと同時に一人の殿方がこちらに姿を現した気配が伝った。

 

「女御さまにはご機嫌うるわしく、ご挨拶申し上げます」

「よくいらっしゃいました、佐為の君」

 

 相当に慣れた相手なのか女御は直接声をかけ──、栞は目を見開いていた。

 間違いない。あの夜の青年の声だ。

 

「おや……」

 

 一方の青年──、佐為は奥の御簾のそばに置かれた几帳が目に入って目を瞬かせた。

 どこぞの貴婦人の来客なのか。几帳の端から覗く百合襲ねの衣。綾錦の小袿。しつらえから相当な身分の女人だと一目でわかる。

 もとより(あるじ)に仕える女房には裳唐衣(もからぎぬ)の正装が義務であり小袿(こうちき)の着用は許されておらず、おそらくは女御の親族が参上しているのだろうと推察する。

 どう挨拶したものかと考えあぐねていると、そばにいた女房が歩み寄りそっと伝えてくる。

 

「今日は女御さまのお召しで(そち)大臣(おとど)大君(おおいぎみ)が参られてますのよ」

(そち)大臣(おとど)の……? そのような方が先客であれば、私は日を改めた方がよろしいでしょうか」

 

 女御の親族という予測は外れたものの、大臣家の姫なら納得の装いである。佐為が言えば「いいえ」と周りの女房たちが口を揃えた。

 

「姫君は囲碁の上手で知られてまして、佐為の君のおいでを楽しみにされてましたの」

「清少納言殿よりもお強いのですよ」

 

 とたん、佐為の声がやや跳ねる。

 

「清少納言殿より……!?」

 

 清少納言は登華殿はもとよりこの後宮内でも一、二を争う打ち手だ。その彼女より上とあらば──自身の勝敗には左右せずとも──相当な打ち手に違いない。

 

「それは、許されるならばぜひ手合わせをお願いしたく思います」

 

 興味を引かれた勢いで几帳に向かい声をかけるが返事はなく、佐為は自嘲して目を伏せる。高貴な姫が初対面の相手に返事をするなどまずないことだ。いた仕方ない。

 だが女御と親しいのならばそのうちに言葉を交わす機会もあるかもしれないと気を取り直して用意された碁盤の方へ向かっていると、御簾の内から女御が几帳の方へ声をかける気配が伝った。

 

「栞の君……」

 

 促すような声に栞の頬がぴくりと動いた。

 女御を含め、みなが面白がっていることは分かっている。それに栞自身、先日の打ち掛けの一局が気になっているのは確かだ。

 が、彼──佐為はあの夜の自分を小舎人だと思っているのだ。困ったことに彼自身が“(そち)大臣(おとど)の姫”である自分の存在すら知らないようであるし、わざわざ面倒なことを説明する必要などないのではないか。

 

「せっかく佐為の君がおいでくださったのですから、わたくしも楽しみにあなたを呼んだのですし……打ってくださいな」

 

 考えあぐねていると女御からの更なる要請を受け、栞は心内でため息を吐いた。

 女房の要求ならば突っぱねることも可能だが、さすがに女御にこう言われては。そっと懐から扇を取り出しつつ栞は息を吸い込む。せめて精一杯『大臣(おとど)の姫』らしい振る舞いをせねば。

 

「わたくし、打ち掛けで終わった心残りの一局がございまして……。そのお相手を頼めるのであれば、ぜひ」

 

 佐為の方は思いがけず几帳の奥から声をもらい、あ、と目を瞬かせた。

 一瞬だけ違和感のような、どこか聞き覚えのある声のような気がしつつ、少しだけ声を弾ませる。

 

「打ち掛けの一局とはなんという偶然でしょうか。私も先日同じように打ち掛けのまま終わった一局がございまして……姫君のお心が手にとるように分かります」

 

 女房たちがその返答に耐えきれず口の端からわずかに笑みを零したが、佐為の耳には届かず。

 しばし几帳の方を見つめていると、さらりとした布擦れの音と共に一人の女人が姿を表した。

 こちらに()()()()()様子など、さすがは大臣家の姫だと賞賛したくなるほどの尊貴さで──当の本人は女御の御前で見知らぬ男(佐為)を前に「立ち歩く」わけにはいかず仕方なく膝行(しっこう)しているだけであるが──佐為は思わず目を奪われた。ほのかに漂う荷葉のくゆりも夏らしく爽やかだ。

 髪は深窓の姫とは思えぬ短さであったが艶は見事で、もしや裳着を済ませたばかりの歳若い姫なのだろうか? 扇で顔を覆っているためどのような容貌かを窺い知ることはできなかったが、佐為はふと視線を彼女の扇に向けた。

 ──檜扇ではない。蝙蝠扇のようだが、通常より重々しく両面を張ってあり開き方も大きく類を見ないものだ。おかげでちらりと顔を見ることすら叶わず、特別に作らせたものだろうかと佐為は思う。

 いずれにせよしつらえから身分の高さが伺え、佐為は用意された碁盤の下座について彼女を待った。

 

「姫君……、打ち掛けとなった一局の石の並びは覚えておいででしょうか」

「ええ。いまお並べいたします」

 

 彼女も上座につき、扇で顔を覆ったまま空いていた手で碁笥から碁石を摘んで並べ始める。

 その手付きは彼女が相当に打ち馴れた者であると雄弁に語っており、佐為は期待に高鳴る心音を抑えきれずに笑みをこぼした。

 が、十手ほど並べたあたりからだろうか。笑みの消えた佐為の顔は強張り、次第に引き攣っていく。

 

「これは……」

 

 見覚えのある、いやあの夜からずっと頭を離れなかった手順だ。あの夏夜の精が小舎人に姿を変えて自身の前に舞い降りたかとさえ感じたあの一局。

 

「姫……!」

 

 思わず彼女を見やるも、扇で覆われたその奥の素顔が見えるはずもなく。

 やがて彼女が手を止めれば、一手も違わずあの夜と同じ図が出来上がって佐為はさすがに動揺を隠せずにいた。

 まさかあの時の()()が目の前の女人(ひと)だとでも言うのだろうか? いやしかし。彼女とあの少年が知り合いで、この一局をたまたま彼から聞いた可能性は?

 見やる先で眼前の彼女は一人の女房を呼んでなにかを耳打ちした。

 すれば女房は彼女のそばから白の碁笥を佐為の方へと運び、佐為は息を呑む。

 

「ここで打ち掛けとなったのです。わたくしの事情で止めてしまったので、申し訳なく思っていました」

 

 その言い分はあの夜の一局の相手が彼女であったことを含ませているように感じ、佐為は喉元を引きつらせた。

 あの心躍った対局が、夏の夜の精が舞い降りたとさえ思った相手が大臣家の姫であったなどと誰が想像できようか。

 そのような高貴な姫がなぜあのような出で立ちをしていたのだ?

 それよりもなによりも、あの夜の自身の態度は姫君相手にはあまりに……と若干血の気が引いていると小気味のいい音とともに黒石が盤面へと打ち込まれた。

 ハッとした佐為はどうにか頭を対局に切り替えようと努める。

 あの夜の相手ならば、技量は申し分ない。こうもあっさりとあの一局を並べたことからも、やはり相当な打ち手であると見て取れる。

 ならば対局に集中しなくては。あの夜の続きを打てずに口惜しく思っていたのは他ならぬ自分自身ではないか。

 ましていまは女御の御前──。

 

 集中しなくては──。

 

 との思いが伝わってくるようだ。と、栞は打ち返してくる相手の石筋を見ながら内心息を吐いていた。

 予測できたことではあるが、おそらく彼は動揺しているのだろう。

 驚かせたかったわけではないというのに、女御の前では気安い会話を交わすことさえままならない。

 さりとてこちらから「通常通りに打ってくれ」と言いつけるのは彼に更なる追い討ちをかける結果になりかねず……。周りの女房たちのみが目を輝かせて碁盤へと視線を向けている。

 

「あれでは白は大石を取られますわ」

「さすが栞殿、お強いわね」

「佐為の君が手加減なさってるのではありません?」

 

 対局者には届かない程度の声で女房たちがささやく中、対局は進み──。

 栞は手を止めた。

 数えれば黒が多いはずだ。もともと盤面互角での打ち掛けだった上に相手の応手が通常ではない以上、黒が勝つのは予測できたこと。

 むろん佐為にも勝敗は見えているだろう。

 

「白が……足りませんね。さすがにお強い」

 

 眼前からやや掠れた声が聞こえた。

 そう告げるだけで精一杯という具合だ。

 

「いえ……打ち掛けの一局でしたから、佐為の君を戸惑わせてしまったのでしょう。お付き合い頂き感謝します」

「姫……!」

 

 栞は腰を上げ、佐為は思わず彼女を呼び止めた。

 が、この場ではどうすることもできず、誤魔化す様に頭を下げて目線を盤上に戻す。

 清々しい一局と言えないのは確かだ。動揺を隠せず打ち損じたのも事実。

 

「佐為の君は栞の君の前でご緊張なさったようですね」

「まあ女御さま……、いくら大臣(おとど)の姫君が相手といえど佐為の君はいつも主上(おかみ)を相手に打たれている方なのですから」

「きっと栞殿に花をお持たせになったのね」

 

 女御含め対局を見守っていた女房たちの声を耳に入れながら佐為はようやく視線をあげる。

 栞、と呼ばれている彼女は中座したのか見当たらない。

 ならば追って話を、と願っても叶わぬことだ。自嘲していると次の相手にと女房の一人が碁盤の前に座り、佐為は今度こそ気持ちを切り替えて相手へと向かった。

 

 

 一方の栞は簀子に出てぼんやりと庭を眺めていた。

 先ほどの一局、結局は不本意なものに終わってしまった。

 できるならば、このような形ではなくもっと違う形であの夜の続きを打ちたかった。などと願うのは過ぎた望みだろうか。

 こちらにしても扇が邪魔で相手の顔さえ見ることすら叶わずに──と、あの夜に慈しむような眼差しを向けてくれた彼の面差しを浮かべて扇を持つ手に力が入る。

 きっと彼はこちらを元服前の子供だと思ったからこそあれほど優しげな瞳をしていたのだろう。それにも増して、蛍の光を受けた月下の彼の姿はあまりに優美で……と思い返してハッと首を振るう。

 なにを考えているのだろう。

 どんな形であれ、あの一局は既に片がついたのだ。ならばもう忘れなくては。

 佐為が退出すれば自分も女御に挨拶して四条の屋敷に戻ろう。

 ぼんやり考えつつ日差しを受けて青々と茂る木々の葉を眺めていると、けっこうな時が経っていた。

 

「姫君──ッ!」

 

 柱に寄りかかるようにして庭を眺めていると後方から声がかけられ、反射的に栞は扇を開いて顔を覆った。

 

「姫、いましばしお待ちください……!」

 

 佐為の声だ、と慌てて隠れようとするも引き止められて足を止めてしまう。

 他の女房たちとの対局は済んだのだろうか? すぐ後ろまで足音が迫って栞は思わず息を呑んだ。

 彼はよほど焦っていたのか、息を整えている様子が伝わってくる。

 

「姫……、知らぬこととは言え先日の夜の非礼、お詫び申し上げます。どうかお許しを」

 

 やはり彼はあの夜の対局相手が自分であったと確信したのだろう。栞は視線を床へと落とした。

 

「私の方こそ、あのような形で去ってしまい……今日もあなたにとっては不本意な対局を強いてしまいました。申し訳なく思っています」

「そのような……、先ほどは私の未熟さゆえの心乱れが出たまでのこと。姫君の技量は本物にございます」

 

 こちらの返答に安堵したのか佐為の声がやや柔らかくなり、栞も少し安堵する。

 が──、振り返って顔を見たい。というのはやはり止めた方がいいだろうか。

 

「姫……」

 

 しばしまごついていると、やや緊張を孕んだ佐為の声が背中にあたった。

 

「重ねての非礼を承知で……、いま一度私と打ってはくださらないでしょうか」

 

 え、と栞は目を見開いた。

 

「お気づきでしょうが、私はあなたを元服前の子供と思い指導碁を打っていました。心躍る一局だったというのに、打ち負かすわけにはいかぬと。そして先ほどは酷い一局を晒してしまい……挽回の機会を与えていただきたく」

 

 自嘲気味な声が響いてくる。

 

「いえ、言い訳は致しますまい。私は姫君のような相手を探していたのです」

 

 言われて、栞は扇の持ち手に無意識に力を込めた。

 彼の真意は図りかねるが、強い打ち手を求めているということだろうか。

 いや、この際彼の真意がどうであっても構わない。

 やはり一度ちゃんと向き合って話がしたい。

 ぱち、と音を立てて扇を閉じ栞はそっと振り返る。

 

「姫だなどと……、栞とお呼びください、佐為の君」

 

 すれば栞の瞳に緋の袍を身に纏った、あの夜に向かい合った青年が目を瞠り、そしてすっと細めて頬を緩める様子が映った。

 姫、と再度小さく呟いた彼はそっとこちらに近づき扇を持っていた栞の手を取る。

 

「ああ、やはりあなただ……あの夜の──」

 

 よもや人ではないとさえ感じた相手と再び会えるとは。

 どちらともなく顔を見合わせて微笑みあった。



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第三話:目的

「栞殿、もう一局! もう一局だけ……!」

「先ほどもそうおっしゃって、これでもう三度目ですよ」

「これで最後にしますから……!」

 

 登華殿に響くやりとりを女房たちは遠巻きに、慣れたように見つめていた。

 

「栞殿がいらっしゃると佐為の君は必ず長居なさって……、すっかりお目当ては栞殿ね」

「栞殿というよりは、栞殿との対局が目当てと言った方が正しそうですけども」

「ああ刻一刻と栞殿のお顔が険しくなっていくわ」

「これまで容赦なしの連敗ですもの……、私なら石でも投げつけてやりたいところです」

「普段はお優しい佐為の君ですのに……栞殿には容赦のないこと」

 

 夏が過ぎ、京の都は秋へと移ろいつつあった。

 ──あの登華殿での佐為と栞の“打ち掛け”続きの対局後。

 佐為は登華殿勤めの女房に栞の参内予定を聞いては登華殿に詰めかけて碁を打つということを幾度となく繰り返していた。

 その内容は傍目にも情け容赦なく、今のところ最初の一局を除いて栞の黒星続き。ゆえにすこぶる楽しそうな佐為の前で、次第に凍りついていく栞という図が風物詩となりつつある。

 

「でもそこは負けん気の栞殿ですから、腕を上げているのが見て取れます」

 

 笑いながらそんな風に言ったのは清少納言だ。

 しかし、と他の女房が悩ましげにため息を吐く。

 

「せっかく佐為の君がお見えなのに、栞殿とばかりと打っていらしてつまりませんわ」

「そうね、そろそろ栞殿を助けて差し上げなくては」

 

 清少納言はきりの良さそうなところで二人に割って入った。

 

「あまり大臣(おとど)の姫を独占なさらないでくださいませ」

 

 佐為は囲碁のこととなると周りが見えなくなるきらいがある。その一言ではっと我に返ったらしき彼は自嘲気味な笑みをこぼした。

 

「栞殿がお強いので、つい」

「それは結構なことですが、私にとっても栞殿と過ごす時間は貴重なのですから。佐為の君はほかの方々のお相手もなさってくださいませ」

 

 言って栞を連れ出せば、彼女は相当に疲労困憊していたのかほっと大きく息を吐いた。

 清少納言にしても、あの初夏の夜のできごとがこのように発展するとは思っておらず、多少なりとも責任を感じてしまう。

 外で風にあたってくるという栞を見送り、清少納言は肩で息をした。佐為が栞本人に執着しているのならまだいいが、あれはおそらく──と浮かべた思いを掻き消すように首を振るう。

 

 

 一方の栞は弘徽殿を臨む庭のそばに座り込んでぼんやりと外を見ていた。

 それからどれほど経っただろうか。

 

「いけませんね、大臣家の姫ともあろうお方がそんな場所で姿を晒して」

 

 聞こえてきた声に栞は振り返らずため息を吐く。

 

「今さら佐為の君からそのようなお言葉をいただくとは思いもよりませんでした」

 

 女房たちとの対局は一通り終わったのか、振り返ると隣へと腰を下ろした声の主──佐為と目が合った。

 むろん彼が本気で咎めているわけではないのは見てとれ、いつも通りの穏やかな声を唇に乗せている。

 

「あなたを初めて見た時はなんと美しい少年かと思い、二度目にお会いした時は尊貴なしとやかさが流石は大臣家の姫だと思ったものですが……」

「なにがおっしゃりたいんです……?」

「いえ、よくもまああれこれお化けになると感心しまして」

 

 袖口で口元を隠しながら佐為は笑みを零し、栞はむっと頬を膨らませた。

 

「実態がこのような姫でがっかりされたやもしれませんが、それでも私が大臣(おとど)の姫であるということはお忘れなく。侍従の君」

 

 今度は栞が冗談めかしたのだが、佐為はさすがに不味いと感じたのだろう。取り繕うように栞の瞳をじっと見やる。

 

「栞殿のそのご性質により私はあなたと碁を打つ幸運に恵まれたのですから……、がっかりどころか神に感謝していますよ」

「大袈裟なことを……」

 

 栞は小さく息を吐いた。

 眼前のこの殿方(ひと)にとって、自分は優れた対局相手以外の何者でもないのだろう。

 

「私は佐為の君と出会ってすっかり自信をなくしてしまいました。碁では人より秀でていると自負しておりましたのに」

「なにをおっしゃいます。栞殿は十分にお強いですよ。私が手加減できないのもあなたの技量があればこそですから。できればもっと──」

 

 そんな会話をしていると、ふいに近場の木々が揺れる音がした。人の気配だ。佐為は慌てたように栞の腕を引いて自身の胸へと引き寄せる。とっさに栞の姿を隠そうとしたのだろう。

 

「──佐為の侍従……?」

 

 栞は不意に目の前が緋の袍で覆われ目を見開いたが、聞こえてきた声は見知ったもので、「あ」と佐為から身を離す。

 

「博雅さま……!」

 

 博雅の声だ。簀子の外に顔を向ければ博雅と目が合うも、彼の方は驚いたのだろう。窪みがちの目を大きく見開いている。

 

「栞……!? なぜ佐為殿と……」

 

 その反応から要らぬ誤解を与えたと悟った栞はしまったと額を押さえた。誤解を解くべく説明する。

 

「佐為の君と登華殿で碁を打っていたんです。それで……少しお話をしていただけなのですが……急に物音がしたので私を匿おうとなさったのですよ」

 

 たぶん、と佐為を見上げると彼はどこかバツの悪い顔を浮かべている。

 

博雅三位(はくがのさんみ)とは知らず……、姫君のお姿が白昼に晒されては、と慌ててしまいまして」

「なるほど。だがこの宮中で栞の顔を知らぬ者はそうはおらんぞ、佐為殿」

 

 博雅はというと、さして気にする様子もなく肩を揺らしている。

 聞けば彼は隣の貞観殿に用のあった帰りらしく、栞の様子もついでに見ていこうとこちらに寄ったということだ。

 

「私はこれで退出するが、おまえはどうする?」

「では私も。女御にご挨拶申し上げてきます」

 

 言って栞は彼らに背を向けて母屋の方へ向かい、残された二人はどちらともなしに顔を見合わせる。

 

「佐為殿と碁を打っている、とは栞に聞いてはいたが……。さすがにそなたからすると不足の相手であろう?」

「いいえ、栞殿との対局はいつも楽しませていただいております。栞殿に手ほどきをされたというお父上の(そち)大臣(おとど)は相当な打ち手なのでしょうね」

「うーむ……、栞は筋が良かったようで父君よりも上かもしれんぞ。父君に似て武芸にも秀でているんだが……悪いことに私に似たのか和歌(うた)の類はさっぱりでな。そなたには物足りぬであろうよ」

 

 佐為はやや首を捻る。武芸? どういう意味だ? 考えるも、博雅は宮中の「変わり者」の呼び声高い人物だ。深い意味はないのだろう。

 

博雅三位(はくがのさんみ)こそは神に愛された管弦の才をお持ちではありませんか」

「神とはまた大袈裟な。私はただ楽が好きなだけだよ」

「ご謙遜を」

 

 話をしていると栞が戻り、二人は揃って後宮をあとにして内裏を出、牛車に揺られた。

 

「しかし間近で見ると華やかな人だなあ佐為殿は。宮廷中の女官や女房がこぞってかしましいわけだよ」

 

 感慨深げに博雅が言い、栞は小さく息を吐いた。まさかこの博雅までもがあの美貌に魅入られるとはと空恐ろしく思っていると、博雅は面白げに軽口を叩く。

 

「おまえも例に漏れずその一人か?」

「──美しい方だとは思いますけど! でも、佐為の君は私のことを(てい)のいい対局相手とお思いですから」

「佐為殿の指導碁は丁寧で分かりやすいと主上(おかみ)からも評判だぞ?」

「私とは勝負をしておいでなので、丁寧でお優しいところはございませんね」

「さりとて手加減されたらお前のことだ。それはそれでむくれるのだろう?」

 

 ははは、と博雅は肩を揺らし、栞は少々頬を膨らませる。

 確かに博雅の言う通りではある。その通りなのだが、黒星ばかりが続くと気も滅入るというものだ。

 彼の人となりを知ろうと世間話でもと思っても、二言目には「もう一局」。その繰り返しだ。

 いっそしばらく引き篭もって師でも付け、碁の腕を磨こうか。

 

「あ……!」

 

 そんなことを考えていると、あることを思い出して栞は「そうだ」と博雅を見た。

 

「先ほど女御に挨拶した際に言われたんです……久方ぶりに舞を見せて欲しいと。なので博雅さまも揃って近々お召しのようです」

「そうか。ならば今日はこのまま共に四条へゆこう、少しは心づもりをせねばな」

「はい。……私が登華殿へ上がると最近はずっと佐為の君と打っているものですから、女御もきっと飽きられたんだわ」

 

 栞は再び息を吐いた。

 この博雅の例を見るまでもなく近親者に「何々狂い」と形容される人物が多いものだから、佐為の囲碁狂いも理解できないわけではないのだが。

 むしろ……、と栞はそっと懐から自身の扇を取り出して目線を落とした。むしろ、素直に「何々狂い」をやれることは羨ましくもある。自分はどれほど望んでも()()()()()()()()()()のだから。無意識に眉を寄せつつ自嘲する。

 とはいえ、一つのことに情熱を傾けすぎると他が疎かになるのは世の常で、この目の前の博雅も楽狂いによって公務に支障をきたすことがままある。それでも彼の身分なればせいぜい軽い嫌味を言われる程度で済んでいるが、佐為はそうもいかないだろう。

 あの調子で通常の公務をこなせているのか不安……というのは余計な世話だろうか。

 

 

 佐為の主な職務は今上への囲碁指南であるが、それのみに従事しているわけではなく他の業務も担っている。

 基本は帝の側に控えての雑務であり、書の作成や同じく帝の側に控える内侍の女官との連絡のため内侍所のある温明殿と清涼殿を行き来することも多い。

 後宮への出入りも佐為自身の自由意思で行なっているというよりは後宮を取り仕切る中宮職を通して后妃たちから召されたゆえであり、決められた順でそれぞれの殿舎を廻っているに過ぎない。あくまで『公務内』に限ればの話であるが。

 

 ゆえに栞との対局が叶うのは公務が済んだあと、かつ栞自身が参内している日に限定されるのだ。

 それさえも登華殿に赴いての対局となり、そして登華殿にとって彼女は客人。とあらば、栞とばかり打っているわけにもいかず、できれば心ゆくまで対局したい。などと思うのは望みが過ぎるというものだろうか。と、秋も深まりつつあるとある日の午後、佐為は清涼殿を出て後宮へと続く渡殿を歩いていた。

 ──栞の棋力は間違いなく宮中でも一、二を争う上に打つたびに腕を上げているのだ。職務上、本気で打てる対局の機会に恵まれることは無きに等しい佐為にとっては得難い相手に他ならない。

 自身で最善の一手を追求し続けるのも乙であるが、やはり手応えのある誰かとの対局は心躍らされる。

 あの夏の夜に彼女と巡り合えた事はなんという幸運であったことか。

 できればもっと……と思う気持ちは、しかしながらやはり過ぎた願いだろう。なんと言っても栞は大臣家の姫。本来ならば生涯顔を合わすことすら叶わない相手である。

 そんな相手との対局が叶うだけでも幸運なのだ。それ以上の贅沢は──。

 

「おや……」

 

 そんなことを考えつつ、清涼殿を出て右手側へと向けようとしていた足を佐為は止めた。

 ふいに北の方から横笛の音が聞こえてきたのだ。登華殿の方角だ。

 

博雅三位(はくがのさんみ)……?」

 

 その音色は間違いなく博雅の奏でる笛の音で、佐為は私用で向かおうとしていた麗景殿への予定を切り替え登華殿へと急いだ。

 

 “長秋卿”と呼ばれている博雅はその通り名の通り中宮職──長秋宮は帝の正妃が住まう御殿の漢名──の要を務めている。

 ゆえに彼が後宮にいることは珍しくはないが、それでも登華殿に上がっているということは。もしや栞も参上しているのではという淡い期待があった。

 

 弘徽殿から登華殿への回廊を通り東廂へと臨む渡殿へ出る。

 すると佐為の瞳に思いがけず黒の袍に身を包んだ男が廂に座っている姿が映った。その男は熱心に母屋を見つめており、佐為は無意識に足を止める。

 

(とう)の中納言……」

 

 その人物が誰かを確認して佐為は呟いた。自身よりも幾分若い摂関家の嫡男だ。

 

「佐為殿……」

 

 彼の方も気づいたのだろう。目線を送ってきて、佐為は一度頭を下げた。

 すれば彼は刹那の間でも惜しいとばかりに視線を母屋に戻し、佐為は少しばかり首を捻る。

 中に何かあるのだろうか?

 博雅の笛の音と共に床を踏み鳴らすような音が聞こえる。

 下ろされた御簾のせいで中が見えないが、誰か舞でも舞っているのだろうか。

 思いつつ中納言のそばまで歩いていき、上げられた御簾の先を見やる。瞬間、あ、と佐為は目を見張った。

 水干の袖が翻されて舞い、見覚えのある特徴的な扇がパッと視界に飛び込んでくる。

 

「……栞殿……」

 

 軽やかにその身を博雅の笛の音に委ねる姿は、彼女を初めて見たあの夜を佐為に思い起こさせた。

 凛として上品で、現世(うつしよ)のものではないと思わせたほどにどこか浮世離れしていて……と立ち尽くしていると、中納言が座るよう促してくる。

 そもそもなぜ彼はここにいるのだろう。思いつつ従うと、目線の先の彼は目を細めた。

 

「こちらの女御さまに請われて長秋卿が栞殿と舞を披露されると聞き及び、これは見逃せぬとついてきたのですよ」

 

 栞の舞が目当てで来たと言う中納言は、さらに頬を緩めてどこか懐かしむような目をした。

 

「大嘗会での五節の舞が忘れられなくてね」

「大嘗会で……栞殿が……?」

 

 栞から視線を離さないまま中納言が呟き、佐為は思わず彼を凝視した。

 その反応が中納言には意外だったのか、中納言は一瞬だけ視線を佐為に戻す。

 

(そち)大臣(おとど)の……先の左大将の姫が舞の上手というのは内裏中に響いていたし、主上(おかみ)は春宮時代から見知っておられたから左大将に是非にと請われたのだよ。そして帳台試から豊明節会(とよのあかりのせちえ)までそれは素晴らしい舞を披露して……感嘆された主上(おかみ)が栞殿に四位(しい)叙位(じょい)されたことは宮中の誰もが知っていることと思っていたが、そなたが初耳とは意外な」

「大嘗会の折は私はまだ宮中に上がっておりませんでしたので……」

 

 そうか、とさして気に留めた様子のない中納言の視線は栞に縫い留められたままだ。

 ──聞き覚えのない楽曲。おそらく博雅自身が作ったものだろう。栞の舞も、知る限り見覚えのない振りだ。

 まるで少年のような──。本来は深窓の姫であるはずだというのに。だが凛々しいその姿に不思議と魅せられていると、笛の音が止んで栞は女御に挨拶をした。

 

「栞殿のあのお姿はやはりどんな男君より素敵ですわあ」

「佐為の君に勝るとも劣らずで……、あら」

 

 そんな声を上げた女房たちは佐為の姿に気づいたのだろう。ハッとしたように自分たちの口元を扇で覆って口をつぐんだ。

 そのせいだろうか。あ、と廂の方を振り返った栞がこちらに気づく。

 

「中納言さま……、佐為の君も」

「忍んで観ているつもりが、あまりの美しさにそばに寄らずにはいられなかったのです。栞殿……いつ観てもあなたの舞は素晴らしい」

 

 佐為が声をかけるよりも先に中納言が栞に歩み寄り、彼女は困ったように肩を竦めた。

 

「博雅さまの笛の音があればこそです。私などまだ……」

「もちろん長秋卿の笛も抜きん出ているが、あなたの舞が観たくて来たのですから」

 

 中納言は栞の両手を取って熱心に語りかけ、佐為は少しだけ眉を寄せた。

 熱っぽく彼女を見つめる中納言の気持ちは明白に見てとれ、とあることを思い出す。

 

 ──彼には、先帝が内親王を降嫁させたいと強く望んでいた。話が出た当時はまだ宰相だった彼が中納言に進んだのもそういう背景があると認識している。

 

 だというのに彼は未だ首を縦に振っていない。少なからず皆が不審に思っていたが、もしかすると栞が原因なのでは。と息を飲む。

 摂関家の跡取りともなれば妻を複数持っても障りはないが、内親王(ひめみこ)大臣(おとど)の姫を同時期にというのはいささか外聞が悪い。

 そうでなくとも未婚の彼には宮家や他の権門から数多の婚姻話があるというのに。考えて佐為はハッとした。

 自分からはあまりに遠すぎる世界の話ではないか、と自嘲する。

 そうだ……、栞は大臣家の姫なのだ。こうして目通りが叶うだけでも信じられないほど本来ならば遠い存在。もし彼女が誰かの妻となれば、もはやこうして顔を合わせることさえ叶わなくなるだろう。

 彼女にとて求婚の話は数多来ているはずだ……と目の前の二人のやりとりを見やっていると、博雅もこちらへと歩いてきた。

 

「わざわざお出ましいただいた甲斐はあったかな、藤の中納言?」

 

 その一言に、中納言はああと頷いてようやく栞の手を離した。

 

「今日ここに居合わせた幸運は明日にもみなの羨みの的となるでしょうね」

 

 そりゃ良かった。と笑った博雅は今度は佐為を見た。

 

「……で、そなたは何を?」

「あ、ええ……」

 

 ええと、と話を振られた佐為は口籠ってしまう。

 

「その……麗景殿に行こうと向かっておりましたら博雅三位(はくがのさんみ)の笛が聞こえたもので……」

 

 栞がいるやもと思いこちらに来た。というのは言わずにいた佐為だが、直後に今の言葉を後悔した。

 ああ、と意味ありげに中納言が檜扇を開く。

 

「麗景殿といえば、麗景殿いちの才ある女房と名高い宰相の君はそなたの馴染みだそうですね」

 

 え、と佐為は目を見張った。いまそこに触れるとはなんと無粋な。反論が脳裏を巡ったが、むろん中納言には通じない。

 

「そんな方との逢瀬をも邪魔だてするとは、長秋卿の奏でる音の魔力には恐れ入る」

「いえ、その……」

 

 博雅も軽い笑みを零しており、はっと佐為は栞を見やる。

 すれば、一瞬確かに目が合った彼女はパッと顔を背けて母屋の方へと踵を返してしまった。

 

 

「栞殿……!」

 

 その後、中納言と博雅がともに清涼殿の方へ戻るのを見届けてから佐為は栞を探した。

 彼女は水干から小袿に着替えており、北廂に面した簀子の隅に座ってぼんやりと外を見つめていて声をかければこちらを見上げてくる。

 

「佐為の君……、なにか? 博雅さまはどちらに……?」

「あ、博雅三位(はくがのさんみ)なら中納言殿と話し込んで、そのまま二条の中納言殿のお屋敷で宴を催すなどとおっしゃって退出されましたが」

「え──!? もう、博雅さまはお酒が絡むとこれだから……」

 

 栞は目を見開いた後に頭を抱える。博雅が天下の酒豪でもあることは佐為を含めた宮廷中が知っている周知の事実である。

 

「せめて一言言って下さってからでもいいのに置いていくなんて……」

「まあ、博雅三位(はくがのさんみ)もお付き合いがあるでしょうから……」

「佐為の君は……?」

「え?」

「ご一緒に行かれなくてよかったのですか? せっかくの機会でしたのに」

「いえ、私は」

「それともこれから麗景殿へ行かれるの……?」

 

 ふいと栞が視線を逸らし、隣に腰を下ろした佐為はギョッとする。

 麗景殿へ行こうとしていたことは事実であるし中納言が暴露してくれたことも事実だが、なんとも決まり悪い。

 それに──。

 

「私はあなたに会えると思って登華殿へと足を運んだのです」

「……え?」

博雅三位(はくがのさんみ)の笛の音が聞こえたので、栞殿も一緒に上がられているかと……それで」

「そ、そう……ですか」

 

 こちらを見上げた栞がわずかに目を伏せた。

 それはなぜ? とは聞かれなかったが佐為は思ったままを口にする。

 

「私はもっとあなたと碁を打ちたいのです」

 

 瞬間、栞が大きく目を瞠った。

 

「は──?」

 

 碁……? と呟いた栞に佐為は力強く頷く。

 

「はい!」

 

 すれば何をどうしたのか栞は頭を抱えるような仕草で右手を額にやり、小さく首を振るった。

 

「佐為の君とは既に十分に打っていると私は認識していますが」

「ですがこの登華殿では栞殿とばかり打つわけにもいきませんし、誰にも邪魔されずに打ちたいのです。できれば一晩中でも」

 

 佐為の方は強く訴えるようにして言葉に力を込め、額を押さえていた栞の手を取る。一瞬だけ表情の固まった栞は呆れたような息を吐いた。

 

「それは……、四条に、私の屋敷に来て打ちたいという意味でしょうか」

「え……!?」

 

 場所までは考えていなかった。言いかけた佐為は口を噤む。

 どこでも良い、言ったところで栞が佐為の家に出向くことは身分柄不可能だ。

 残る手段はせいぜい博雅の屋敷にお互い出向くくらいで、実質の選択肢は栞の言う通り四条の屋敷しかない。

 

 だが、それの意味するところは──。

 

 意味するところは、と佐為はもう一度ジッと栞を見た。

 なんの疑いもなく、()()()()()と思っている。栞は美しく可愛らしいし──歳のわりにややあどけなさが残ってはいるが、なにより碁の腕は申し分ない。

 問題は自分程度の身分ではどうこうできる相手ではないということだ。

 それでも、この人が他の男(ほか)に取られれば二度と対局が叶わなくなる──、佐為は栞の右手を包んでいた手に力を込める。

 

「私は……。ええ、もし許されるならば」

「まあ、私は構いませんけど……」

「え──!?」

 

 が、やけにあっさり承諾されて佐為は内心目を剥いた。裏腹に栞は小首を傾げている。

 

「佐為の君は本当にそれでよろしいの?」

 

 この人はいまの口約束が()()()()()()()()()分かっているのだろうか?

 やはりどうも頼りないような……。やや彼女の頬が染まったように見えるのも暮れてきた陽のせいかもしれない。

 世慣れない娘にしても、このような女人(ひと)は初めてだ。それとも深窓の姫とはみなこうなのだろうか?

 いずれにせよ、説明するのも野暮だろう。藪蛇になれば厄介だ。

 素知らぬふりで栞に合わせていれば、そのうちに気付くはず。

 

「では……約束ですよ」

 

 言って、佐為は薄く笑った。



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第四話:それを世間(ひと)は妻問いと呼ぶが鈍い姫には伝わらない

 財産の管理。

 というのが貴族の、とりわけ上達部(かんだちめ)ともなると大仕事であった。

 

 男手のない屋敷ともなれば荒れて盗賊などに押し入られる例も多く、いかにして財を守るかというのは家主にとって、特に女主人にとっては必須の技である。

 

 栞の屋敷も例に漏れずで、父の(そち)大臣(おとど)の莫大な収入に加え栞自身の収入、代々受け継いできた資産や荘園の管理など目眩がするほどの膨大な仕事をこなさなくてはならないのは在京の栞自身である。

 

 幸いにも栞は財産管理に関する教育は受けており、家臣も代々仕えてくれている忠臣を父が屋敷に残していき、時には博雅も手助けしてくれて問題なく過ごせていた。

 

 

 皇族生まれにとってどう生活の糧を得るかというのは悩ましい問題だ。

 品位を保たねばならない立場に反し、その政治的立ち位置はあまりに不安定だからだ。

 博雅にしても、もしも父宮が生きていれば──考えて栞は首を振るう。

 博雅は神に愛されたと称される楽の腕があり、楽さえあれば良しとして政治的野心は持たず見せず、摂関家の脅威とならない立場でうまく立ち回っている。

 栞の家もそうだ。父は武芸に恵まれ才覚もあったが一人娘の栞を宮廷政治に利用することを是とはしなかった。

 いずれは春宮妃に、と囁かれていた自分に(きさい)教育は施さず、むしろ武芸を教えたり舞を舞わせたりと周囲からは奇異の目で見られる行動をとっていた。

 ただ、彼のその振る舞いを見て同じように入内可能な娘を持つ大臣家の者たちは安堵したに違いない。彼が脅威となることはない、と。

 だからこそ父に内大臣を贈ると決めた今上に臣下から異論が出なかったのだ。

 

 ゆえに──と栞は思う。

 頭によぎったのは藤の中納言のことだ。

 彼から求婚を仄めかされていることには気づいている。未だ彼が未婚でいる原因もおそらく自分。

 先帝である院は内親王を彼に降嫁させたい意向だというのに、色良い返事をしない彼に院も彼の両親も焦れているという。

 中納言は間違いなく将来の天下人だ。

 だからこそ、そのような人物の北の方に収まる気は栞にはなかった。父の意思に反すると理解しているし、望んでもいない堅苦しい生活を強いられることは目に見えているからだ。ましてや内親王と寵を競うなど想像すらできない。

 どのように断ればいいのかと悩み続けて既に数年が過ぎているが……出てくるのはため息で、考えるのは止そうと栞は頭を振るう。

 

 

 それよりも、だ。

 もうそろそろ本格的な紅葉が始まる季節だ。

 博雅を誘って宇治の別荘へ紅葉狩りにでも行こうか。

 あそこなら京からは遠く、乗馬などに興じても見咎められることはあるまい。

 

「姫さま、お文が届いております」

 

 そんなことを考えていると、女房の一人であり乳母(めのと)でもある命婦(みょうぶ)が文の入っていると思しき箱を携えて栞の方へとやってきた。

 またか、といつものことながら栞は肩で息をした。

 

「どなたから? 返事が必要なようなら、いつものようにそなたがお返事差し上げて」

「それが……取り次いだ女房たちが少々騒がしいので確認しましたところ、藤原佐為さまからだと」

「え──!?」

「お使者の方が外でお待ちのようで、返事を控えるようでしたらそう伝えさせますが……いかがなさいますか?」

 

 一瞬驚いた栞は「ああ」と先日に登華殿で交わした会話を思い出した。

 一晩中でも対局したい──。あの碁狂いと言っても過言ではない人は確かにそう言っていた。

 おそらくは彼は囲碁のことしか頭がなく、大臣家の姫を訪ねることの意味など気づいていないに違いない。

 

「佐為の君は私と碁を打ちたいとおっしゃってるの。その文もたぶんそのことだと思うわ」

「碁……、でございますか」

「ええ。先日、御所でお会いした時にそう言われたから」

 

 命婦はやはり恋文の類だと思ったのだろう。訝しげに箱を見つめ、栞は苦笑いを漏らす。

 開けて読むよう促せば、やはり思った通りの内容で明後日に訪ねたい旨が記されているという。

 命婦がやや不安げに言ってくる。

 

「目的がなんであれ……殿方をこの屋敷に迎えるとなると要らぬうわさも立ちましょう。この方はまだ侍従でいらっしゃいますし、姫さまがお相手するにはふさわしくございません」

 

 乳母(めのと)とは実母よりも近しく、かつ絶対的な腹心だ。自分の仕える主人()に最高の相手をと思うのは無理からぬこと。

 暗に身分違いだと苦言を呈す命婦に栞は肩を竦めた。

 

「ただ対局に来られるだけなのに、そんな風に言っては失礼よ」

「でもございましょうが……、姫さまには藤の中納言さまからのお話に加えて未だ入内の可能性もあるのですから」

「それは父上の望みとも私の望みとも違うのだから。それに……」

 

 栞は手を差し出し、文を受け取って一度目を通した。

 佐為の書く文字を見るのは初めてだ。

 想像通りの美しい手蹟()。菊を思わせる白と紫を重ねた薄様には香が焚き染められているが、このくゆりは菊花ではなく『侍従』だ、と栞は口元を緩めた。わずかに麝香(じゃこう)を混ぜたのか艶かしさが鼻腔をくすぐり、やや心が騒いでしまう。

 ただの連絡事項だというのに、彼は相当に心を砕いて届けてくれたらしい。

 もしこれが恋文なら、どんな女人も舞い上がってしまうに違いない。

 さすがはああみえて貴族の男らしいものだ。と、栞は自嘲めいた笑みを僅かばかりこぼした。

 

「姫さま……?」

「それに、私には佐為の君をお断りする理由が思いつかないもの」

「姫さま……」

 

 命婦ははっとしたような顔をしてからしばし口を噤んだ。

 

「了承のお返事を差し上げて」

「かしこまりました。姫さまがそうお望みなら……」

 

 命婦は頭をさげて下がったが、相手が相手ゆえかその日のうちから屋敷内は騒がしくなった。

 

「まあ藤原佐為さまが……!?」

「うわさでは輝くばかりに美しい方だと」

「お見上げする機会に恵まれるなんて!」

 

 佐為が宮中の女人のうわさの的だとは聞き知っていたが、どうやらその規模は宮中に留まらず都中に響いているらしい。

 その彼が訪ねてくると聞き知った、特に年若い女房たちは色めき立って客人を迎える準備に精を出した。

 この屋敷に迎える殿方と言えばもっぱら博雅や親族のみであり、屋敷の規模に反して華やかな催しも滅多に行わないため彼女たちも腕の見せ所と張り切っているのだろう。まだ若い、宮中でうわさの殿方のためとあらばなおさらだ。

 

 とはいえ、当の本人は単に碁を打ちに来るだけだが。

 

 と、当日が来てますます落ち着かない様子の女房たちを見やって栞は苦笑いを漏らした。

 そして思う。出会ってからというもの、佐為とはそこそこ頻繁に顔を合わせているが、やっていることは全て対局に終始しておりじっくり話し込んだ事はない。

 登華殿の女房曰く佐為の人格評価は「お優しい」であったが、いったいこれのどこが優しいと言うのだ。と、先日あまりに無慈悲に一刀両断された対局の棋譜を並べて栞は盤面を睨んだ。

 

『あの君は橘内侍(きのないし)とのおうわさが……』

『あら、わたくしは麗景殿の宰相の君にお通いだと聞きましてよ』

 

 ふいにそんな言葉がよぎって栞は息を詰めた。

 うわさの真偽は定かではないが、でも。

 

 対局以外では佐為のことをほぼなにも知らない。

 もしも和歌(うた)の詠み合いなどを望まれた場合はどうすればいいのだろう。とてもではないがまともには付き合えない。

 いっそ乗馬や弓に誘ってはどうだろうか? どちらも得意だし、あとは蹴鞠……野外でのことなら十二分に付き合えるのだ、が。

 

『いけませんね、大臣家の姫ともあろうお方がそんな場所で姿を晒して』

 

 冗談めかしていたとはいえ、あんな風に言う人の前でそんな特技を披露したら卒倒されかねない。

 やはり大人しく碁を打つしかないのだろうか。

 考えているうちに昼がすぎ、栞は寝殿の庭から太陽を見上げて首を傾げた。

 既に宮中での公務はとうに済んでいる筈だ。いったい彼は何をしているのか。

 どうせならば帰宅途中に寄って夜前には帰ってくれればそう大袈裟になることもあるまいに。まさか「一晩中」と言うのは比喩ではなく本気なのだろうか。

 にわかに頭が痛んできてこめかみを押さえていると、ようやく来客の旨が伝えられた。

 

「姫さま、いらっしゃいました」

「お通しして」

 

 今さら御簾を隔ててよそよそしく話をする間柄でもなく、栞は自身のいる寝殿の母屋に直接通すよう言いつけた。

 女房たちがそわそわと落ち着かないのが伝わってくる。

 そのうちに女房の一人が御簾を巻き上げ、客人がそれを潜って入ってくる。

 

 瞬間、遠巻きに見ていた女房たちが息を呑んだのが確かに伝った。

 

 紫苑色に金糸で鮮やかな雲鶴文(うんかくもん)の織り込まれた艶やかな直衣を身に纏った彼は、今日は冠ではなく烏帽子を被っている。

 それがまた長身の彼をひときわ大きく華やかに見せ、ある程度は見慣れていた栞でさえ一瞬言葉をなくして見入ってしまった。

 

「栞殿……?」

「あ…… い、いらっしゃいませ佐為の君。どうぞ」

 

 ハッとした栞はとりあえず自身のそばの座に腰を下ろすよう促す。

 佐為は礼を言ってこちらに歩み寄り、物珍しげに周囲を見渡した。

 

「うわさには聞いていましたが……、玉の御殿とはまさにこの事ですね。いざ門をくぐると圧倒されました」

「住んでいるのは私だけなので、あまり広すぎるのも……とは思うのですが」

大臣(おとど)馬場殿(うまばどの)もお持ちだとお聞きしました」

「ああ、馬場(うまば)でしたら東の対の裏手にあります。ご覧になります?」

「いえ、私は……。ですが、さすがは先の左大将で都一の武才だと称えられていたお方ですね。私はずっと昔に遠くからお見上げしただけですが……あなたの父上のお姿はそれはご立派でした」

「ありがとうございます。私もよく父に──」

 

 父について流鏑馬(やぶさめ)など嗜んでいた。とうっかり口にしそうになり栞は慌てて口を噤む。

 

「栞殿……?」

「あ、いえ。佐為の君はお酒は嗜まれます? ご存知とは思いますが博雅さまがよくお呑みなのでこの屋敷にも多種多様の用意があるんです。珍しい唐菓子などもありますので、お好きだといいのですが」

「お気遣い感謝いたします。どれもありがたい申し出ですが……栞殿」

「はい」

「碁、打ちましょう!」

 

 ね! と力強く言われて栞は脱力した。

 彼の目的は最初からそれなので当然なのかもしれないが。

 とりあえず言われた通りに碁盤と碁石を持ってこさせ、対局用の座の用意をさせて互いに向き合った。

 佐為の表情に先ほどよりも明らかに正気が宿り、よほどこの対局を心待ちにしていたことが見て取れる。

 

 ──が。

 

「栞殿、もう一局!」

「もう休ませてください! あれから何局打ってると思ってるんですか」

 

 予想通りの展開と予想通りの碁の内容で栞は登華殿でも幾度となく繰り返した会話を再び繰り広げるに至った。

 

「姫さま、佐為さま、夕餉のお支度ができましたのでしばしご休憩なさいませ」

 

 女房たちは女房たちで声をかける頃合いを見計らっていたらしく。すっかり陽は落ちて夜も更けてきたところでようやく夕食にありつける運びとなった。

 ──食に執着するのは、はしたない事。などと言われるが、これだけ神経を使って飲まず食わずでは耐えられるものではない。

 幸か不幸かこの家には筑紫から送られてくる珍しい食材がふんだんにあり、佐為は物珍しげに見ていて栞はホッと胸を撫で下ろした。

 

「地方には珍しい食材が色々あると任地から帰京した知人に聞いてはいましたが……これはまた見事ですね」

「佐為の君は京をお出になったことはないの?」

「父が以前に下国(げこく)(かみ)上国(じょうこく)(すけ)を預かっていたこともありましたが、私は下向せず京に留まっていたので外に出たことはないのですよ」

「そうですか。……ああそういえば大学寮で学ばれたとのおうわさを聞きました」

「ええ。碁もそこで本格的に学びました」

 

 一瞬だけ複雑そうな顔をした佐為は学生(がくしょう)の時分に色々あったのかもしれない。

 大学寮は大学寮で複数の派閥が睨み合う場所でもあり気苦労もあったのだろう。でも。

 

「私には少し羨ましい」

「え……」

「私は大学寮には入れませんから、父に師の君を付けられこの家で色々学びました。(きさい)教育とは程遠いので相当に変わり者呼ばわりをされたようですが」

「先日、登華殿で舞われていた舞もお父上から?」

「いえあれは……。父が左近衛府に詰めていましたので、私もよく大内裏に上がっていまして、お隣が内教坊ですから舞そのものはそこで学んだのです」

 

 なるほど、と佐為は笑った。

 

 内教坊とは舞踊や音楽を主として女人に教える機関である。

 栞の才能自体はそこで見出され花開いたものの、内教坊への出入りが許されたのも人前(公の場)で舞を披露できたのもせいぜい成人を意味する裳着の儀までであった。

 私的に舞は続けているが、内教坊に所属する女人たちは──市井の人でないとはいえ──貴族ですらない下層の官人や妓女たち。公卿の娘がいていい場所でもない。

 

 ── 裳着の儀などしたくなかった(大人になどなりたくなかった)

 

 あの頃の心情を思い出して複雑さが胸に飛来するも、佐為の方は薄く笑う。

 

「私は学業中の身で見逃してしまいましたが、大嘗会の折に主上(おかみ)から四位(しい)叙位(じょい)されたそうですね。素晴らしい五節舞であったと」

「ええ。光栄なこととはいえ、身分が重くなるたびにますます動きづらくなってしまって……。もっと人前で舞えたらとは思っているのですけども」

「先日は登華殿で披露されていたではありませんか。それもご自分で振り付けて舞ったのでしょう?」

「披露の場を下さる女御には感謝しています。どのような舞も喜んで観てくださいますし」

 

 ──実は今上も栞の舞見たさにたまに忍んで登華殿に来ることがある。知っている栞であるが、あくまで非公式である。

 

 やはり窮屈なこの都を飛び出して筑紫に行くのも悪くないかもしれない。

 

 だが……。そうしてしまえば、この人との縁もここまでになるだろうか。ちらりと佐為を見やる。

 目が合い、ふ、と微笑まれてわけもなく鼓動が跳ねたのも束の間。

 

「まだ時間はたっぷりあるのですから、食事を終えたらまた打ちましょう!」

 

 満面の笑みでそう宣言され、栞は固まったのちに小さく苦笑いを漏らした。

 

 

 そうして、もはや夜明けさえ近くなり──。

 

「まだ打つんですか?」

 

 掠れた声で問えば肯定する佐為に栞は深く追求することをついに放棄した。

 今さら帰れと言ったところで時すでに遅しである。

 もうこの際、この人の気が済むまで付き合ってやろうと応じているうちに夜明けまであと少し。さすがに思考回路がおぼつかなくなってきた。

 

「佐為の君……、お休みにならなくてよろしいの……?」

 

 公務は昼前には終わるぶん朝が早い。寝ずの出仕は堪えるだろう。

 

「ああ、もうそんな時間ですか。夜が明けるののなんとはやいことか」

 

 そう言って切なそうな表情を浮かべる佐為を前に栞は瞳を擦った。対局での夜明かしだというのに、逢瀬のあとのような物言いも囲碁への情熱が為せる技だろうか。

 

「私はもう休みます……」

「では、私は家に戻るとします。出仕の準備もありますから」

「分かりました。お見送りさせますので、しばしお待ちを」

「あ、栞殿──」

 

 そうして栞が立ち上がり、女房を呼ぼうとすれば後ろから手を引かれて振り返る。

 なんだ、と眉を寄せた視界に燈台の灯に揺らめく佐為の神妙な眼差しが映る。

 

「今宵また、訪ねても……?」

「え……」

 

 まだ打ち足りないのか、この人は。と、半ば呆れて栞は頷いた。

 

「構いませんよ。お待ちしてます」

 

 すれば灯に揺らめく佐為の顔がパッと笑った。

 

「では、今宵また」

 

 そこで佐為が手を離したため、栞は今度こそ控えていた女房に声をかけて寝台へと向かった。

 

 

 それから栞の目が覚めたのは実に昼前だった。

 手水(ちょうず)で顔を洗い身支度を整えていると、命婦が漆喰の箱を抱えてこちらへとやってきた。

 

「佐為さまからお文が参っております」

 

 瞬間、栞は首を捻る。

 確か寝る前に今日もここへ来たいとは言っていたが、律儀に文で確認しようというのだろうか。

 

「開けてみて」

 

 言えば命婦が紐を解いて箱を開け、「まあ」と感嘆の息を吐いた。

 栞も見やれば、佐為の家の庭にでも咲いていたのだろうか。紫苑の花──昨夜に佐為が身に纏っていた直衣の色でもある──が添えられた文らしきものが入っていた。

 

「まあ姫さま、これは後朝(きぬぎぬ)のお文ではございませんか」

後朝(きぬぎぬ)って……、碁を打っていただけなのに」

 

 戸惑いつつ文を手に取った栞は、う、と思わず呻いてしまった。よりによって和歌(うた)である。

 

「“明けぬれば…………“? よくわからないけど、今日も来ていいかお尋ねになっていたから、たぶんそのことじゃないかしら」

「お見せくださいまし」

 

 和歌(うた)詠みだけはからっきしな栞は一瞥しただけで眉間を押さえ、その文を命婦に手渡した。

 すれば、「まあ」とまた彼女の声が跳ねる。

 

「夜が明けるのが恨めしく、次に逢うのが待ち遠しくて、あなたにも私を思い出して想いを同じくして欲しいという意味ですよ。わざわざ紫苑を添えて……まあまあ!」

 

 興奮気味の命婦に栞はますます眉間に皺を刻んだ。

 

「まあ、佐為の君は対局を楽しんでらしたから……にしても本当にすごい情熱だこと」

 

 碁に対する。と言葉を濁せば、命婦が返事を書くように急かしてくる。

 

「いいわ、もうだいぶ時間が経ってるし。昨日ちゃんとお返事したもの」

「ですが……」

 

 命婦はまごつき、渋々と言った具合に引き下がる。

 あれほど佐為が来るのを懸念していた様子だったというのに、一晩ですっかり彼に魅せられてしまったらしい。

 だが……と思う。

 碁に対する情熱には舌を巻くが、この文や昨日の文の手慣れた感じを見るに、彼が橘掌侍(きのないしのじょう)や麗景殿の女房と関係があるといううわさは事実なのだろうな。と、察して栞の胸に一抹の苦みが飛来する。

 

 佐為は自分を(てい)のいい対局の相手としか見ていないのだから、彼が誰とどのような間柄であろうがこちらには何の関係もないことであるが。

 

 だが。

 もし明日も来たいなどと言い出したらどうしようか──。

 

 栞はもう一度深い深いため息を吐いた。

 

 



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第五話:噛み合わない話

「いらっしゃいませ、佐為の君」

 

 佐為は夕方ごろにやってきて、栞は昨日と同じように彼を迎えた。

 しかし彼はどこか複雑そうな表情を浮かべている。

 

「佐為の君……?」

 

 どうしたのか問うと、いえ、と彼は苦笑いを漏らした。

 

「文の返事がなかったもので……、本当に来ていいものかと迷っていたんです」

 

 え、と栞は意外な返事に目を瞬かせた。あの和歌(うた)への返歌をしなかったことを、まさか気にしているとは思わなかったからだ。

 

「お帰りになる前に今日も来られることは了承していたので……改めてお返事せずとも問題はないと思ったのです。気を揉ませたのでしたらお詫びします」

「え、ち、違いますよ。そういう意味では──」

「それに私、苦手なんです……和歌(うた)

 

 やや気恥ずかしく目線を逸らすと、あ、と思い当たるように佐為はうなずいた。

 

「そういえば博雅三位(はくがのさんみ)がそのようなことをおっしゃったような……」

「私も博雅さまも和歌(うた)は苦手で……。ああでも、漢文はできるので、漢詩でよければお付き合いできますけど」

 

 念を押すと、佐為は若干残念そうな顔をするも得心がいったのかホッと胸を撫で下ろすような仕草を見せた。

 

 そうして夕餉を済ませてからさっそく碁盤を挟んで向き合う。

 

「栞殿と会う以前から私は登華殿へ行くと清少納言殿とよく打っていたのですが、清少納言殿の棋風は力碁なんですよね。大石を取って相手を打ち負かすことを好まれる」

「そうですね、宿直の殿方とも打たれているようで誰それを打ち負かしたという話はよく聞きます」

「栞殿も似た棋風ではありますが、もう少し手堅い守りもできるんですよね。まるで戦場の武人のようというか。とはいえ、私のように論立てて学んだという風でもなく……不思議です」

「それは……そうですよ。囲碁を学んだのは兵法のためですから」

「兵……ッ?」

「父が武官でしたから、あくまで馬弓を学ぶついでに教わったんです」

 

 佐為は手に持っていた碁笥の蓋を取りこぼすほど驚いた様子を見せ、どこか苦く笑う。

 

大臣(おとど)はいったいあなたをどのようにお育てしたかったのでしょうね」

「どうもこうも……」

 

 言葉を濁すと、佐為はなにか言いたいことでもあるのか緊張したように喉仏を上下させるのが見えた。

 

「栞殿には……入内(じゅだい)の話などもあったのではありませんか?」

 

 栞は少し肩を竦める。まさかそんなことを聞きたかったとは。

 

「そりゃ、あったとは思いますよ。でも見ての通り父は私にいっさいの(きさい)教育を施さなかったので、それが答えです。馬弓だって私が好きだったからで……やらせてくれた父には感謝しています。入内(じゅだい)なんて考えられませんから」

 

 言えば、佐為は少しだけ安堵したような息を漏らした。

 

「ええ、私も感謝します。もしあなたが女御ででもあれば、手は届きませんでしたから」

「佐為の君……」

 

 それはどういう意味なのだろう。

 殿上人の悪癖の一つに言葉を濁しがちだということがあるが、佐為も例に漏れずでいささか分かりづらい。

 とはいえ、佐為の言うように自分が女御であれば宮中で彼と出会っていても直接に顔を合わせ碁を打つことはできなかった筈だ。

 すれば対局が叶わず残念。──程度の意味なのだろう。

 佐為に出会って自信を失い気味とは言え、栞自身は自分の棋力が人より秀でていると自負している。それは自分より優れた対局相手がほぼいないことを意味するのだ。だからこそ、さらに人より抜きん出た強さを持つ佐為が対局相手に飢えているのはわかるが。

 ならばいっそ弟子でもとってそちらを鍛えた方がいいのでは?

 などと思うのは的が外れているだろうか。

 考えつつ、何度目になるか分からない投了を宣言した栞は肩を落とした。

 

 

 そうして明け方にはいま少しという時分になり──。

 栞はそろそろ休もうと、ちょうど終わった対局を最後に切り出した。

 

「私はもう休もうと思いますが……、どうなさいます?」

 

 佐為が普段いつ寝ているかは知らないが、こうも夜更かしが続けば身体を壊すというものだ。

 今さら佐為がいつ帰ろうが栞としてはどうでもよかったが、彼は返事に窮したのか煮え切らないといった具合にまごついている。

 半端な時間に女人(ひと)の家から出るのは後ろ暗い関係の場合も多く、見咎められるのを気にしているのかもしれない。

 

「まあ、こちらで休んでいただいても構わないので。なにがあれば女房に言いつけてください」

 

 では、と碁盤の前から立ち上がると彼は昨夜と同様に呼び止めてきた。栞は振り返り佐為を見やる。なにか言いたそうにする佐為の表情を見て少しだけ怯むも、促されて仕方なしに佐為のとなりに再度腰を下ろした。

 なにを言いたいのだろう。また今宵訪ねたいなどと言われたら──。

 

「また……、ここを訪ねても構わないでしょうか」

「……いつに?」

「あなたさえ良ければ、今日の出仕が済めば参ります」

 

 ──やはり。と栞は首を振るう。今日の夜はもう三日目となる。昨日とは違うのだ。

 

「私と打ちたいと思ってくださるのはありがたいのですが……。今日も来られたらお困りになるのは佐為の君かと」

「そ、そんなことはありません」

「ただでさえあなたがここに来られた事はもう人の口の端にのぼっているでしょうから。今日も来られたら私も言い訳できなくなります」

「栞殿……」

「三夜続けて通うことが……どういうことかお分かりにならないわけではないでしょう?」

 

 見上げれば、佐為は少し眉を寄せて視線を流した。

 

「それは……私では身分違いだということでしょうか」

「──え!?」

 

 なにを言っているんだ。と思わず佐為を凝視すれば佐為はますます柳眉にしわを刻んで苦く呟いた。

 

「自身の立場を……弁えてはいるつもりです。あなたは後朝(きぬぎぬ)の文への返歌をくれなかった。それが答えだと、ですから私は──」

「は──!?」

 

 後朝(きぬぎぬ)……? と栞は思わず間の抜けた声でおうむ返しをした。

 

「あの、私たち……碁を打っていただけでは……?」

「ですが世間は一夜を共にしたと見るはずです」

「そ、そんなことは存じております。だから言っているのです、今宵また来られたら取り返しがつかないと。ですから、碁を打ちたいのならばもう少し間を置いて──」

 

 それにさっきも言ったが和歌(うた)は苦手で返歌をしなかったのに他意はないと念を押すと、佐為は神妙な面持ちでこちらに向き直ってしっかりと栞の瞳を見つめてきた。

 

「あなたはもしや……私が本当に対局のため()()に一晩を過ごしたいと言ったと、今でもお考えなのですか?」

「え……、え、でも、そうおっしゃいましたよね?」

「ああもう。なんと情けない……」

 

 ついに彼は落胆したように懐から檜扇を取り出して頭を押さえてしまい、栞はにわかに混乱する。

 

『誰にも邪魔されずに打ちたいのです。できれば一晩中でも』

 

 あれのどこに艶めいた要素などあっただろうか?

 いやでも、通常ならば彼の行動は間違いなく妻問いであるとは言え。

 ──無理だ。この家系は()()()()()()には疎くできているのだ。はっきり言ってもらわねば、最低でも藤の中納言くらいの意思表示をしてもらわねば分からない。

 

「で、でも……この二晩はひたすら打っていただけで、そのようなそぶりは一度も……」

「あなたにその気がないのは見てとれましたから、こちらもそうしただけです。そのうちに気づくだろうと。許しもなくの無理強いは本意ではありませんから」

「で、ですが……じゃあ碁を打ちたいとおっしゃったのは方便だと?」

「碁を打ちたいというのは偽りない私の本音です」

「……」

 

 いよいよ分からなくなってきて、栞は瞳を数度瞬かせてから小さく息を吐いた。

 つまり、この人は碁を打つために妻問いをすると言っているのだろうか?

 

 ああ、でも。

 仮にこれが博雅であっても、目的が「(がく)」であれば手段は選ばないはずだ。

 これだから「何々狂い」は……と頭がくらくらしていっそ目眩がしてきた。

 それに、この人は本当の意味で自分が言っていることを分かっているのだろうか?

 自分へ妻問いすることがどういう結果を生むか。栞はぎゅっと膝の上に置いていた手を握り締める。

 

「佐為の君、先ほど身分のことをおっしゃいましたが……。私は大臣家の娘です。その私を妻にするということがどういうことか本当にお分かりですか?」

「──身分が違いすぎることは十分に承知しています」

「そういうことを言っているのではありません。あなたには……色々とお相手もいらっしゃるのでは?」

 

 佐為はハッとしたように栞を見やる。

 今度は栞の方が佐為から視線をそらした。

 

「あなたが……もし他の方を妻に迎えたいと思っても、おそらく世間は許さないでしょう。例え好いた方がいらっしゃったとしても……、私の上に誰かを置くことはできない」

 

 言い下した意味は佐為に通じたのだろう。

 彼が息を詰めた様子が伝った。

 栞は少しだけ息を呑む。自分の上となると、もはや血筋では内親王以外にはいないのだ。それでさえ結婚に際してはおそらく『同等』。

 だから……と考えていると、佐為はそっと両手で栞の両手を包み込んだ。

 

「生涯、あなた以外を妻に迎える気はありません」

 

 ふ、と目を細めた佐為が「でも」と言い淀む。

 

「栞殿の方こそ、良いのですか?」

「私は……」

 

 栞は佐為の眼を見やって口籠った。

 ここでこの人の手を振り解けばどうなるのだろうか。

 世間は佐為の手がついたと見るのだから、さすがに入内の話は霧散するはず。だが求婚に煩わされる日々は変わりなく続くはずだ。

 裏腹に、受け入れればその煩わしさからは解放されるだろう。が、人妻となれば失うものも大きい。生涯未婚で通した方が……。さまざまな考えが瞬時に巡って栞はまごついてしまう。

 そういうことではないのだ。

 そういうことでは──。

 

「私は……、断る気であれば……例え対局のためでもこの場にあなたを招き入れるような真似はしておりません」

 

 細く呟くと、一瞬だけ佐為は目を見張った。次いで、ふ、と柔らかく口元を緩める。

 

「分かりました」

 

 そうして彼は握っていた栞の手を少し引いて自身に引き寄せ、栞の額に温かい感触が伝った。

 口付けられたのだと理解したときには、手を離した佐為がそっと包み込むようにして頬を撫で息さえかかりそうな距離で艶っぽく言った。

 

「では、今宵また」

 

 そのまま佐為は立ち上がり栞に背を向け──しばし硬直していた栞は佐為が御簾の外へと消えてからようやくはっと我に返った。

 

 今ごろになって一気に頬が熱を持ち、唸りつつ両手で自身の顔を覆う。

 

「わ……わかりづらい……ッ」

 

 彼が最初から()()()()()()()だったとは。

 ただ、目的はやはり囲碁なのかもしれないが。でも。

 

 博雅に、いや父や母にどう伝えようか。

 あまりに突然で、どう反応したらいいのだろう。

 三日夜餅(みかよのもちい)も用意せねばならないだろうが、全くなんの実感もない。

 

 ともかく色々なことが起こりすぎて。

 いまはきちんと考えられない。起きてまた考えようと栞はそのまま寝所へと向かい、しばし夢の中へと旅立っていった。




※「和歌(うた)は苦手」という作中の源博雅の実際(史実)の和歌力はというと。


一例を挙げると応和二年五月四日の御所での歌合の際の一首。

『夜もすがらまつかひありて時鳥あやめの草にいまもなかなむ』

この時のお題は『明日は五日時鳥を待つ』だったのですが、博雅氏はその意図を読み違えたとして無事敗北しております。(たぶん‘いつか’も‘あす’もないため)

詠みっぷりも「夜通し待ったんだから端午の節句なんだし鳴いてほしいよ!」というようなことを言いたいのか、適当感が否めない印象を受けます。
状況的には私的な性格の強い歌合で、和歌の専門家でもない事前準備したわけでもない身内の集い(珍しく藤原佐理が参加してますが他は源保光や延光などのいつメン)、お題もあって内容も制限されみんなでわいわい盛り上がっていた(たぶん酒も入ってた)と思われるため、それらを加味して判断すべきではありますが……。とっさに古今集(夏歌137)を引用してる(かなりズレてるけど)と見受けられるので、和歌の知識も貴族の常識として普通にあったでしょう。一番手だったのに、五日=端午の節句=あやめ、もすぐ分かっています。
しかしながら、「和歌は(できるけど)取り立てて得意ではない」と解釈しても差し支えないのではないかな、と。こういう場にしょっちゅう呼ばれていた博雅氏ですが、そこは天皇の身内かつ管弦の天才ゆえで歌合はついでというか。


なのでこの連載の博雅ひいては栞の和歌力はお察しください。


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第六話:三日夜

 栞が起きる頃には四条の屋敷中がにわかに騒ぎとなっていた。

 

 

 それもそうだろう。

 ただでさえ主人の結婚は家人(けにん)の身の振りにも影響があるというのに、突然かつおそらくは彼らが期待していた相手とは違うのだ。

 そのうえ諸々の準備を早急にしなければならない彼らの焦りようも理解できようというもの。

 

 とはいえ、結婚相手が誰であれこの家は都一と言っても過言ではない莫大な資産を有しており、臣下の住処や給与も申し分ないものを与えているためか代々長く勤める家人(けにん)も多く評判の良い屋敷でもある。

 

 それだけに赤子の頃から仕えた姫を最高の人に、という親心めいた気持ちもわからないではないが。

 と、栞はそわそわと落ち着かない女房たちを見て思う。

 入内が無理なら摂関家へと彼らは思っていたかもしれないが──でも。それが務まる姫に育たなかったことは彼らこそよく知っているはずであるし。

 

「姫さま」

 

 考えていると、命婦が漆塗りの立派な皿を手に携えてこちらに歩いてきた。

 

三日夜餅(みかよのもちい)はこれでお出ししてよろしいでしょうか」

「え!? え、ええ……お願い」

 

 三日夜餅(みかよのもちい)とは男君が通ってきて三日目の夜に口にする餅であり、これをもって婚姻の成立となる。分かってはいるがやはり気恥ずかしい上に自ら用意するとなるとことさらで。かと言ってあまりにも急で、慌ただしさはどうしようもない。

 

「博雅の殿さまにもご相談しませんと……、露顕(ところあらわし)のこともありますし」

「ええ……、明日にはお知らせするわ」

 

 なにせ博雅は後見人でもあるため父に代わり露顕(ところあらわし)を取り仕切ってもらわねばならない。

 おそらく博雅にとっても晴天の霹靂だろうし、使いを出した直後にすっ飛んでくる姿が目に浮かぶようだ。それに本来ならば自分は父の代わりである『博雅の認めた』相手と結婚する必要があるのだ。事後承諾の例はままあるとはいえ、その場合も「予め博雅に許可をもらっていた」等と前後関係を逆にした話が事実として公にされることとなる。とあらば、さすがに博雅を怒らせてしまうだろうか。

 

「姫さまの晴れの日であらせられますのに……。大臣(おとど)も北の方さまも今回こそは京におられないことをお嘆きでしょう」

「命婦……」

 

 父や母を気遣う命婦に栞は少しだけ目を伏せる。

 

「そなたは良いの? 佐為の君とのことを」

「まあ、姫さま……」

 

 実際の佐為を見て意見を変えたらしいとはいえ、彼を迎え入れることに最初は乗り気ではなかったはずだ。含ませれば彼女は朗らかに笑った。

 

「ご身分がさほどでなくとも……まだお若いのですし、何よりあのお美しさですもの。私どもの姫さまは都一美しい背の君をお持ちになると誇らしく思います。きっと大臣(おとど)もあのような方を婿殿に持たれることを嬉しく思われるに違いありません」

 

 そしてそんな風に言い、つられて栞も少し笑った。

 

「これからは佐為さまも主人とお見上げして、精一杯お仕えいたします。何より姫さまが望まれたことですから」

「──ありがとう」

「ですから、姫さま」

「え……?」

「入念にお支度なさいませんと……!」

 

 え、と目を瞬いているうちに命婦はじめ複数の女房に連れられ湯殿へと入れられ「入念」な「お支度」とやらをさせられる羽目になる。

 

薫物(たきもの)はどうしましょう」

伽羅(きゃら)をふんだんに使用した薫衣香(くのえこう)にしましょうよ」

麝香(じゃこう)の方がいいのではありません?」

 

 女房たちはしきりに衣装や髪に焚き染める香は何にすべきかで白熱しており、栞はこれらが()()()()()成されているのか考えただけで居た堪れなくなりそうでしばらく思考を放棄した。

 だってそうだろう。あまりに突然なのだ。心の準備さえできていない。

 

『あなたはもしや……私が本当に対局のため()()に一晩を過ごしたいと言ったと、今でもお考えなのですか?』

 

 佐為からすればこの屋敷に足を踏み入れた時点で察しろという意図だったのかもしれないが。

 だったら最初から分かりやすく言ってくれと思うのは間違いなのだろうか。

 

 ──とはいえ。

 

 佐為とは初夏のあの夜に出会って以来の付き合いだ。

 長い付き合いとは言えないが、顔を合わせて言葉も交わした相手という意味では心情的に恵まれている方だろう。

 しかし──。佐為自身の身分は下級貴族とはいえ出自は下級官人、大臣家との差はやはり覆しようもない。

 中流以下の貴族ができうる限り身分の高い姫をと望むことはままあることではある。ひとえに生活と出世のためだ。

 大国の国司を預かるような受領層は上達部(かんだちめ)よりも裕福である場合も多く、その場合は上流の姫を望むのは生活よりも出世のためといえる。どれほど資産を有していようが公卿の口添えなくば除目(じもく)で上へ行くことなど叶わないからだ。

 生活にしても夫の面倒は全て妻の家が見るわけで──生活が心許ない者は身分の高低より相手の資産を見て結婚を決める。この場合は逆に公達(きんだち)が受領の娘を求める──などの例も出てくるのだ。

 栞の家はそのどちら──身分と資産──も兼ね備えているが、佐為の狙いは……。栞は苦笑いを浮かべた。彼の場合、出世や資産が目当てということはまずないだろう。

 仮に(てい)のいい対局相手を捕まえたいという目的だとしても、互いにそろそろ……特に佐為の場合は独り身でいるのは訝しがられ物笑いとなる身である。

 栞自身にしても、夫を持てば求婚相手に悩まされる日々からは解放されるのだ。

 ただ──と栞は思う。

 今後はもう今までのような自由を許される身ではなくなるだろう。参内も叶うかどうか、と登華殿の友人たちを浮かべて少しだけ眉を寄せた。

 裳着、叙位、そして婚姻。少しずつ何かを諦めることに慣れてきた。

 あの頃()に戻りたい、と思っているわけではないが……と栞はわずかに首を振るう。

 

 

 それよりも、だ。

 この人こそと思った男君が三日目に来ず捨て置かれるなどという事態は世間にはままあること。

 さすがに佐為の場合それはありえないはずだが、と栞の身支度が済んで日も落ちた頃。ようやく佐為は四条の屋敷に参上した。

 

「いらっしゃいませ、佐為の君」

 

 支度に手間取ったという佐為が御簾の先から寝殿の母屋へと入ってきて、栞は迎えつつも気恥ずかしさに目を逸らしがちになる。

 裏腹に佐為はすこぶる落ち着いた様子で、彼が何も知らない若者ではないことを改めて栞は悟る。

 女房たちが恭しく席を整えて酒など運んで傅き、応じる彼の様子がなんとも様になっていて、さすがは五位でありながらも殿上を許された身といったところだろうか。

 思えば宮中でも彼は()()だったはずだというのに、なまじ対局ばかりをしていたせいか碁に向かう以外の彼の様子を未だあまり知らないのだ。

 そっと自身の座る上座の座具から佐為のそばへと移動する。

 今さらに何を話せばいいのかまごついていると、微かに首を傾げた佐為がほんのり口元を緩めて手を差し出してきた。

 その手を取れということなのか。伸ばした手を佐為に引かれてそばへと腰を下ろす。

 

「今日、宮中で博雅三位(はくがのさんみ)にお会いできればと探したのですが……見つけられずに終わってしまいました」

 

 佐為の方でもいきさつを博雅に話そうとしてくれていたらしく、ああ、と栞は彼を見上げる。

 

「博雅さまの出仕状況はまちまちですから……」

 

 博雅は佐為の碁狂いに勝るとも劣らない楽狂い。楽のために出仕が疎かになることは珍しいことではない。考えていると、佐為は持っていた酒盃を高坏(たかつき)に置いてもう少しそばに寄るよう言ってきた。

 

「え……」

「私たちは妹背となるのですから……」

 

 戸惑っていると、やや呆れたように呟いた佐為は栞の肩を抱き寄せ自身の胸に寄りかからせるようにした。

 僅かに目を見張った栞が見上げれば穏やかに微笑まれ、栞の頬に少し赤みがさした。

 すれば、おや、と佐為が肩を竦め案じるように言う。

 

「あなたが世慣れないというのは分かっていますが、その調子では……今宵は三日夜だというのに」

 

 持ってまわった言い方だが、はっきりと()()()()()()()()()()という意味だ。カッと栞の頬が染まる。

 

「そう言われましても……!」

 

 そもそも昨夜まで口を開けば碁のことばかりだった佐為だというのに。

 

「さ、佐為の君はずいぶんとお変わりというか……昨夜までとは別の方のようです」

 

 思ったままを言えば、佐為は心外だとでも言いたげに涼しげな切れ長の瞳を見開いた。

 

「私は変わったつもりはないのですが……」

「そ、そんなことはありません。だって……あれほど囲碁囲碁、と」

「……。囲碁のみ、ということでも構いはしませんが」

 

 そして佐為は一瞬だけ栞から視線をそらし、改めて視線を合わせた。

 

「あなたにその気がなければ、しばらくは……いえ、ずっと表向きの夫婦仲であっても構いません」

「え……」

「対局にはお付き合いいただきたいですけど」

 

 表向きの夫婦仲でいい、とは文字通り実態は『ただ対局するだけの相手』でいいということだろう。

 つまり、実際は()()()()()()だというのに三日夜餅(みかよのもちい)を口にし、露顕(ところあらわし)の儀を行わねばならないということ。加えて……佐為はそうなっても囲碁に関して()満足するのかもしれないが、つまりは。つまりは、こちらは「妻」の役目を放棄するということであり彼が他の女人に通うのを咎めず見送らねばならないことに他ならず。さすがにそれは……と、いやでもその場面を想像して栞は眉間に皺を刻んだ。

 

「栞殿……?」

「わ、私は……その、世間並みの妹背に……と思っています」

 

 ややしどろもどろになった言葉の意味を佐為は理解したのだろう。

 

「では、そのように」

 

 微かに愉悦めいた息を佐為が漏らし、栞は目を合わせることが適わず伏せ目がちに視線を下げた。すれば頭部が露わになったせいだろうか。佐為が額から髪に唇を落とし埋めてきて栞の鼓動は痛いほどに跳ねる。

 

「これは……上等な伽羅(きゃら)ですね。なんと高雅な……」

 

 佐為の方は右手で栞の左頬を撫でつつ焚き染められた香に感じ入っているらしいが、栞はというと──。佐為の言うとおり、この調子で夜を越せるのだろうか。と、脈打つ胸がいっそ恨めしくて目尻に涙が滲んできた。

 

「栞殿……?」

 

 心の準備ができていない。などと、この状況でこれなのだから、ある夜突然に男君が寝所に押し入ってきた不幸な姫はどれほど痛ましかったのか。

 それに比べたらこちらは自らの意志で承諾したのだ。これ以上ないほどに恵まれているというのに、情けない。

 目線を上げると、間近で切れ長の美しい瞳がやや心配げに揺れる様が映った。

 おそらく佐為にしても自分のような相手は初めてなのだろう。彼が普段相手にしているだろう手練手管の女官女房たちとは違うのだから。

 深窓の姫は身分ばかり高くてつまらない。──などと世間でまことしやかに言われるのもやむなしなのだろうか。

 

 ただ、やっぱり『断る』選択肢だけは浮かんでこない──。

 

 栞は自身の頬に添えられていた佐為の右手にそっと左手を重ねた。

 

「もう少しだけ……一人にさせてください。夜には……その、きちんといたしますので」

 

 そうして佐為からそっと身体を離して立ち上がる。

 

「もし対局相手が必要であれば打てる女房を呼びますのでおっしゃって」

 

 佐為は小さく首を振るった。

 

「大丈夫、しばらく一人で石並べでもしていますから」

 

 その返事に栞も頷き、一度外へ出て気持ちを沈めようと妻戸を開いて外へと出た。そうして簀子からそっと庭を見つめる。

 

 じき冬だ。

 夜風はもうだいぶ冷たい。

 

 だが火照った身体にはかえって心地が良い。と、灯籠の灯が照らす先の闇に紛れた庭を見ながら遣水の音に耳を傾ける。

 こんな時だからか、浮かんでくるのは子供だった頃の記憶だ。

 

 生まれてまだ二十年にも満たないが、故一品式部卿の宮の内孫として、そして斎宮の大宮の外孫としてそれは高貴な身に生まれついた。そのような血筋ゆえか、(きさい)がねとならぬのなら数多の求婚を断り続け生涯独身を通しても世間はおそらく納得するはずであった。父の大臣(おとど)に大切に育てられ、幼い頃から御所に上がり、あの頃のままでいられればこの世になんの憂いもなかっただろうに──。

 

 ただ、あの頃に戻ってしまえばおそらく佐為に出会うことはなかっただろう。

 仮に出会ったとしても、彼は『侍従』そしてこちらは『大臣(おとど)の姫』。あの夏の夜、互いの身分も知らずに出会っていなければこうも近しい人にはきっとなれなかった。

 

 だから──。ならば、これがさだめなのだろうか。

 

 栞は苦く笑う。運命など微塵も信じていないというのに、おかしなことを。

 全て自分で選んだことなのだ。佐為を拒まなかったのも自分の意思。ならばなにを憂うことがあるだろうか。

 

 考えていると、「姫さま」と命婦の声が聞こえた。

 

「まあ姫さま、お身体が冷えてしまいますよ」

「ええ、そろそろ中へ戻るわ」

「もうじきお(しとね)の準備も整います」

 

 その一言にまたも狼狽した自分を栞は自嘲した。

 自分以外のみなが落ち着き払っているというのに。他の宮家や大臣家の姫たちはこういう時どうしていたのだろう? むろん自分にしても閨での振る舞い方は習ってはいるが……。いや習いはしたが生涯独身を貫く覚悟であったし、あまり真剣には聞いておらず記憶がおぼつかない。今日も身支度中にこんこんと言って聞かせられたが、昨日の今日で心構えなどとてもとても。

 ただ、望まぬ婚姻を強いられる貴族の娘の方が多いことを顧みれば、恵まれているではないか。再度強く思う。

 そのままぼんやりと外を眺めていると、ずいぶんと時間が経っていたのか足音が近づいてくるとともに心配げな声が後ろから響いた。

 

「栞殿……」

 

 佐為の声だ。振り返ると、灯籠の火に照らされた彼がそばまで歩いてきてこちらの手を温めるようにとった。

 

「ああ、やはりこんなに冷えて」

 

 その温かさに栞が頬を緩めると、佐為も小さく口元を緩めた。

 

「戻りましょうか」

「はい」

 

 そのまま佐為に手を引かれて中へと戻り、燈台の灯がうっすら照らす寝殿の奥へと向かう。

 御簾が巻き上げられた先の几帳で仕切られた寝台には(しとね)が敷かれており、寝所の準備はできていることが見てとれた。

 二人が中へ入ったのを見届けた女房たちが御簾を下ろす音が伝う。こうなれば完全に二人きりだ。

 

「みっともない姿を晒すことになりますが……」

 

 佐為は(しとね)に腰を下ろしてそう前置きし、自身の被っていた烏帽子を取った。

 すれば(もとどり)元結(もとゆい)が緩んでいたのか解けて髪が垂れ、佐為は決まり悪そうな表情浮かべたものの、その黒髪は数多の女御もかくやという艶やかさで隣に腰を下ろした栞は見惚れつつ少し肩を竦める。

 

「見事な御髪(おぐし)ですね、羨ましいくらい」

 

 烏帽子を置いた佐為は元結(もとゆい)で垂れた髪をゆるく括り直し、襟の留め具を外して直衣をはだけさせながら意外そうに瞬きをした。

 

「栞殿の髪も美しいと思いますが……」

「私は……、それほど長くもないですし」

 

 舞を舞う際や外出時に不便なため、栞の髪は比較的短い。長ければ長いほど良しとされる美の基準には合わず、今さらながらにやや恥ずかしく感じていると佐為は優しく笑った。

 

「あなたを初めて見た時…… 私には夏の夜の精が人の姿を借りて舞い降りたとさえ思えたんです」

「佐為の君……」

「まことにそうであれば、こうして触れることさえ叶わなかったでしょうね」

 

 佐為は栞の頬をそっと撫でてから、手を首筋へと滑らせて栞が重ね着ていた細長と袿を肩から落としながら器用に細長の当て帯を解いた。すれば単衣のみとなりさすがに栞の身体が震え、佐為は指貫の腰紐を解きつつ栞を自身の胸へと抱き寄せる。

 あたたかい、と感じていると袴帯を解かれた気配が伝い、栞は一度ごくりと息を呑んでから顔を上げた。

 

「私の方こそ、あの夜にあなたをお見上げして……」

 

 まるで月読が地上に降り立ったようだと感じた。との言葉を続けられずにいると、佐為は少し笑って栞の頬を捉える。

 

「あの夜に……なんです?」

 

 耳元に口を寄せて続きを促されるも栞は口籠もり、佐為は低く笑みを漏らした。

 そのまま彼はそっと栞と自身の額を合わせ、栞は佐為の手に自分の手を重ねて彼の瞳を見つめる。

 これから生涯をこの人とこうして過ごすことになるのだという実感は未だ沸かないまま目を閉じ──栞はそのままその身を佐為に委ねた。



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第七話:露顕(ところあらわし)の儀

「お目覚めでございますか?」

 

 うっすらと瞳を開けるとそんな声が聞こえた。命婦の声だ。

 見やると、まだぼやける視界に手水を持ってきた彼女の姿が見えた。

 辺りは既に明るい。自身が単衣を身につけていることを確認しつつ栞は上半身を起こした。

 

「私……」

 

 寝過ごしたのだろうか。まだおぼつかない頭で考える。

 ──確か、まだ夜が明けぬうちに三日夜餅(みかよのもちい)を口にした記憶はある。

 あのあとまた眠ったのか、と栞は辺りを見渡した。

 

「佐為の君は……?」

殿(との)なら夜明け前にご自宅へ戻られました。姫さまを起こさないようにと。今日は出仕が済めば直接こちらにいらっしゃるとおっしゃってましたよ」

「そう」

 

 手水で顔を洗っていると、(しとね)の横に置かれた紙が目に入った。ああ、と視線に気づいたらしき命婦が笑う。

 

後朝(きぬぎぬ)のお文でございましょう。発たれる前にしたためておいででしたから」

 

 そう、と頷き身支度を済ませてから栞はその文を手に取った。

 返歌を期待していないからこそこういう形で残していったのだろうが、彼は義理を通したらしい。

 

「私も文を出さなくてはね……」

 

 博雅さまに。と呟く。博雅が帰宅する頃合いを見計らって文を届けさせよう。

 佐為が直接ここに戻るならば一緒に朝餉でも取りながら話を……と思うも慌てふためいて飛び込んでくる様がありありと浮かんで苦笑いを漏らした。

 なんとも不思議な気持ちだ。

 実感が全くないが、三日夜餅(みかよのもちい)も済ませてもはや人妻となってしまった。

 ──ということは軽々しく博雅と対面できる立場でもないということになるが。博雅ならばその辺りをうるさくは言わないだろう。

 

 そうして昼に差し掛かり、ちょうど文を出したのと入れ違いで佐為が御所から戻ってきた。

 

 三日夜餅(みかよのもちい)を食べて以降初めて顔を合わすことになる。

 やや緊張した面持ちで、栞は佐為が寝殿の御簾を潜ってこちらへと入ってくるのを待った。──散々、命婦に「こう言え」と念を押され教え込まれていたことがある。

 緊張のまま待っていると宮中では見慣れた緋の袍が瞳に映り、栞は(しとね)から降りて頭を下げ彼を迎えた。

 

「おかえりなさいませ、殿(との)

 

 すると、佐為は驚いたように持っていた笏で口元を押さえた。

 

「これはまた……仰々しい出迎えですね」

「だって、あなたは背の君になるのですし」

 

 言うも気恥ずかしくて顔を背ければ、佐為がこちらに歩みよりながら小さく笑う声が伝った。

 

「ところで……、恐れながら博雅三位(はくがのさんみ)の弟君とは同僚ですので今朝それとなく博雅三位(はくがのさんみ)の居所を聞こうと思ったのですが……」

「ああ、四位侍従(しいのじじゅう)殿ですね」

「ええ。ですが理由を問われてもお答えできかねるので躊躇してしまい……今日の出仕でも結局お会いできませんでした」

「博雅さまのところには少し前に使いを出しましたので、もうじき来られると思いますよ。佐為の君が気を回さずとも──」

 

 そこではっとした栞は思わず佐為の顔を見て、次いでぱっと目を逸らす。

 

「いえ、と……殿(との)

 

 佐為はくつくつと抑えきれない笑みをこぼしつつ栞の手を取って顔を覗き込む。

 

「構いませんよ、好きに呼んでいただいて」

「で、ですが……」

「私もまだあなたのことを“上”とは呼びかねますから」

 

 そんな会話をしている最中にも辺りが騒がしくなり、慌てたように命婦が歩み寄ってきた。

 

「姫さま、博雅の殿さまがたったいまお着きに……!」

 

 同時に渡殿から凄まじい勢いで足音が近づいてくる。そして母家の御簾が破れるほどの勢いで揺れた。

 

「栞!! 佐為殿と結婚したとはどういう──ッ!」

 

 焦ったように走り込んできたのはつい今二人が話していた博雅その人だ。

 その博雅の表情がこちらを見て固まるのが見えた。

 

「博雅さま……」

「は、博雅三位(はくがのさんみ)……」

 

 とりあえず博雅を落ち着かせて座らせ、ここに至るまでの諸々の経緯を説明するもさすがの博雅もため息を吐いて難しい顔をしている。

 

「こうなった以上は今さら詮無いことであるが、せめて私にだけでも事前に相談してくれればもっとやりようもあったというのに」

「も、申し訳ありません」

「いや、まあ。栞の結婚についてはそれとなく世話するよう父君も一任してくださっていたからいいものの……」

「あの、それで…… 露顕(ところあらわし)のことなど博雅さまにご相談したくて」

「そうだな……。幸い、明日は吉日のはずだ。今日中に急ぎその旨の使いを出させよう。まずは叔父上たち……式部卿の宮や(げん)の中納言など」

 

 うんうん唸りつつ博雅がいえば、佐為は驚いたような声を漏らす。

 

「し、式部卿の宮さまにまでおいでいただくと……?」

 

 すれば博雅はきょとんと佐為の顔を見返した。

 

「宮は管弦の名手であられるから、露顕(ところあらわし)の儀の映えにもなるだろう。それに私にとっては叔父だし、栞の父君や母君ともいとこ同士であるし」

「そ、それは……。いえ、はい。……恐れ多いことです」

 

 露顕(ところあらわし)の儀はいわば婿の顔見せの場。参列するのは妻側の者のみである。必然的に皇族筋ばかりになることが佐為には重いのだろうか。やや複雑そうな顔をした佐為だが、こればかりは致し方ないことである。

 

「とはいえやはり急なのだし、あとで私の家からも応援を出させよう。ああそれと筑紫におられる父君に火急でお知らせせねば……」

 

 博雅には娘はおらず、婚儀を整えるのは今回が初の経験だろう。

 

「博雅さま……」

 

 父がそばにおらずとも博雅がついていてくれることは幸運だと思いつつも、本心で博雅はこの結婚をどう感じているだろうか。栞がやや不安に感じていると彼は敏感に察したのか、少し肩を竦めて冗談めかした。

 

「しかし佐為殿がいよいよ結婚となると……都中の女人が出家しかねん騒ぎになろうなあ」

 

 ははは、と肩を揺らす博雅に佐為は自嘲気味の表情を浮かべた。

 あながち冗談とも思えない、と栞も苦笑いを浮かべれば博雅もゆるく笑った。

 

「お父上も私も、栞……そなたの望まぬ結婚はさせまいと心を砕いてきたのだから、そなたが佐為殿を好いているならこれ以上の喜びはないよ」

「博雅さま……」

 

 栞は佐為と顔を見合わせて、そして微笑みあってから強く頷いた。

 

「はい」

 

 

 夜も更け、露顕(ところあらわし)の儀の指示も一通り終えた博雅は佐為と酒を酌み交わしていた。

 

「しかしそなたと栞を登華殿で見かけた時はまさかと思ったものだが……」

 

 笑う博雅は、佐為が博雅と気づかず栞をとっさに自身の袍で隠したあの一件を思い出しているのだろう。

 しかしながら佐為の方は申し訳なさげな声を漏らす。

 

「自分でも大それたことだとは承知しております。本来なら入内して国母さえあり得た姫だというのに」

「おいおい、私は責めているわけではないよ。それに、我々はいつどうなるかわからん身だ。血筋だけは良いが、それだけだよ」

 

 はは、と博雅は軽く笑ったが博雅自身も時流が自身に向いていれば帝位さえ望めた身である。

 そう多くは望んでいないのだ。博雅の言葉の意味を察した佐為はなおのこと眉を寄せた。

 

「実は今日の朝参に先立ち両親にこのことを話しましたところ……、出家して大臣(おとど)に詫びるなどと大騒ぎいたしまして」

「そりゃまた難儀な……」

「こちらに不備なく仕えるよう再三言い渡されましたが、博雅三位(はくがのさんみ)の方にも文など届くやもしれません。どうかお気になさらずいてくださればありがたく思います」

 

 佐為の話しぶりから、彼の両親は息子が無理強いしての婚姻だと感じているのだろう。

 三日通えば婚姻は成立するとはいえ大臣家の、それも姫のいる寝所に忍び込むなどと仮初の一夜でもそう容易ではない。ましてこの屋敷は通常より警備が厳重で、無理やり押し入るなどは不可能なのだ。仮に押し入ったところで貴族以外なら検非違使に引き渡され牢獄入りが関の山。貴族であっても大臣家の姫が親の承諾もなしの結婚などあり得ない。──ゆえに自分が正式な婚姻として大々的に世間へと公にしなければ大臣家にとっての恥。考えて博雅は低く唸る。

 

 正式な婚姻となると、夫の世話は妻側の責任となる。佐為の実家への援助もしなければならない立場となるだろう。

 

 実弟から聞いた覚えがあるが、佐為の家は下級官人の出で従五位下以上(叙爵しているの)は佐為だけのはずだ。つまりはこの大臣家の家司(けいし)に取り立てられるか否かという身分と出自──となると息子のしたことに恐れをなして出家しかねないというのもあながち嘘ではないに違いない。

 とはいえ佐為は歴とした殿上人。四位や五位の者が殿上を許される例はそう多くなく、五位に限ればほんの数名。まして彼の出自と年齢を思えば異例とも言えるのだ。

 いくら貴族に列していても地下(じげ)であればさすがに結婚の許可は出せなかったが……彼ならば。きちんと説明すれば父君の大臣(おとど)や北の方を納得させられるだろう。

 

 それとなく自分がうまく取り計らっておくゆえ心配無用だと博雅は佐為に告げ、その夜はお開きとなった。

 

 

 

御寝(ぎょし)あそばしませ」

 

 そうして(しとね)の準備が整えば女房たちに促されて栞と佐為は寝所に入る。

 昨夜は佐為が予め女房払いをしてくれていたようだが、今夜は普段通り女房たちに衣装を取り払われ寝間着となる単衣のみで栞たちは(しとね)の上に腰を下ろした。

 

「明日の露顕(ところあらわし)……、なんとかなりそうでよかったです」

 

 急とはいえ年頃の姫がいる以上それなりの用意は元々してあり、きちんとした形に整えられそうだとほっとした様子の栞は早々に一人寝床につこうとした。

 対する佐為は少々首を傾げる。

 

「栞殿……」

「はい?」

 

 声をかければ燈台の灯にきょとんとした表情が照らされるも、佐為はすっと栞の頬に手を滑らせた。

 

「私たちは妹背になるのですから……」

「え……」

 

 そのまま口付けようとした佐為だが栞が不審そうに瞬きをしたため止め、内心どうしたものかと頭を抱える。既に枕を交わして三日夜餅(みかよのもちい)さえ済ませたというのに、まだまだ世慣れぬ『深窓の姫』のままらしい。

 すればこちらの困惑している様子が伝ったのだろう。なおさらまごついたように彼女は呟いた。

 

「え、あの……もう三日夜餅(みかよのもちい)の儀も終えましたし……その」

「終えたからこそ、ですよ」

 

 まさかこの人は共寝をするのは「三日夜」のみだと思っているのだろうか?

 いやさすがにそんなはずは……との思いが錯綜するも、説き伏せるのもかえって興醒めだと感じた佐為は栞の肩口を押してそのまま(しとね)に押し倒した。

 

「佐為の君……?」

()()()()()()にも慣れていただかねば」

 

 そして抱きしめて耳元に口を寄せて言えば、さすがの栞も理解はしたのだろう。戸惑う様子を見せたのも一瞬で、素直に応じてくれ佐為は安堵の息を吐いた。

 ──もしも彼女が表向きの夫婦関係で、純粋に囲碁の相手として受け入れてくれていればどうなっていただろうか。一瞬浮かべたことを今さら意味がないと切り捨て、佐為は意識を目の前のことに集中させた。

 

 

 そうして翌日──。

 

 朝から忙しなく、栞の屋敷の釣殿とそれに続く東の対の中門廊(ちゅうもんろう)には宴のための席のしつらえが施された。

 いまが盛りの紅葉が映えるよう趣向を凝らして灯りも設置され、雅やかな雰囲気に色を添えている。

 

 博雅は数人の息子とともに昼にはやってきてあれこれ指示を出し、客人を迎える準備を進めた。

 さらには近隣の民に酒など振る舞い、佐為の従者たちも盛大にもてなし、日も落ちた頃には博雅や栞の親類が集まり始める。

 

「やあ、またこれは見事なしつらえだな」

「あの姫が結婚とは驚いたが……、大臣(おとど)もこの晴れの日に京におられないとはお気の毒な」

「それにしてもなんと見事な紅葉……、これほどの庭は藤家(とうけ)の屋敷でも見られますまい」

 

 源の中納言や式部卿の宮、いずれも宮家や臣籍降下した皇族筋の面々が集い──この中に一人混じる藤とは。と、佐為は秋模様の庭を優雅に歩く客人たちを寝殿の御簾の内から見て無意識に息を呑んだ。

 公卿ならいざ知らず、中流以下の貴族にとって皇子とは軽々しく接せる相手ではない。まして多くの親王皇子の中でも役職付き、特に式部卿を預かる親王は皇族の最上位に位置する雲の上の存在。そんな彼らが博雅や栞にとっては祝いの場に集うような「親族」なのだ。こちらとてただの五位(地下)ではなく歴とした『殿上人』だという矜持など彼らの前ではなんの意味もなく、ただ臣下として見上げるのみである。

 父や母がこの光景を見たらきっと卒倒してしまうだろう。自分ですら未だ現実のものと思えない、などとよぎらせつつ衣装を整える女房たちに身を任せる。

 葡萄染(えびぞめ)の唐の綺の直衣に菊の下襲(したがさね)を合わせ纏えば、晴れの席にふさわしい優雅な直衣布袴(のうしほうこ)姿となって女房たちが感嘆の息を漏らすのが伝った。

 

「宮さまがたにも勝るほどの高貴なお姿ですこと……!」

「なんと大袈裟な……」

「いいえ殿、本当によくお似合いでございます。姫さま、いかがでございますか?」

 

 話を振られた栞の頷く様子が佐為の目に映った。

 

「本当に……あなたには高雅な色がとてもよくお似合いになります」

「宮さまがたの前では恐縮ですが、今日ばかりは許されるでしょうか」

「そうですとも」

 

 小さく笑い合い、佐為の緊張が少しだけほぐれる。

 そうして栞たちに見送られ、(きょ)を長く引きながら佐為は寝殿から東の対へと向かった。

 細殿や廂に控える女房たちの衣装も今日の儀に合わせ整えてあり、灯篭や庭の至る所に置かれた篝火がいまを盛りの紅葉を鮮やか浮かび上がらせている。

 その光景は目を奪われるほど美しく、東の対、中門廊を通って釣殿に足を踏み入れ客人から声をかけられた佐為ははっと意識を戻した。

 

「婿君のお出ましだ」

「さすが宮廷一の美丈夫と名高い君だけあって今宵はまた格別な美しさよ」

 

 みなが囁く中、佐為は主催の博雅を始め客人らに礼をして席へと着いた。

 

「しかし博雅がこのような儀を取り仕切る日が来ようとは……、我らの兄宮が生きておられたらどれほど喜ばれたことか……」

 

 綾織物の下襲(したがさね)で佐為よりさらに豪奢で威厳のある直衣布袴(のうしほうこ)姿をした博雅を見つつ彼の父である夭折の親王を思い出したらしき一人が涙ぐめば、もう一人も同じように袖で涙を拭いつつ頷いた。

 

「兄宮の楽才を受け継いだ長秋卿こそは当第一の管弦者……、今宵もそなたの箏が楽しみでね」

「もったいのうございます。叔父上こそは主上(おかみ)もご寵愛なされる腕をお持ちですのに」

「私などまだまだそなたの父宮にも及ぶまいよ」

「ご謙遜を」

 

 一通り祝いの言葉を述べた彼らは音楽談義に華を咲かせ始めた。

 政務から弾かれがちの彼らの管弦の才は他の追随を許さず、皇族のみに伝わる演奏術なども独占しているのだ。佐為にしても管弦は趣味としているために興味深く聞いていると、ああ、と親王の一人が佐為の方へ目線を送ってきた。

 

「佐為殿は確か……主上(おかみ)へ碁の指導などされておるのだったな」

「はい」

「碁の上手というと……、我が式部省にも腕達者がいると聞いた覚えがあるが……」

 

 親王──式部卿の宮がそう言い、佐為の頬がぴくりと反応する。

 ああ、と別の宮が応じた。

 

「確か、六位の蔵人にも任官された式部の丞でしょう。菅家(かんけ)の者だったかと」

「ああ思い出したよ。秀才試に及第した碁の達人がいるとうわさになっていた覚えがある。それでかな、主上(おかみ)が雑務の合間に碁の指導を請うているということだったが……、佐為殿はご存知か?」

「あ、はい……。私も大学寮におりましたので、菅原殿のことはその時から」

 

 話をふられた佐為はやや端切れ悪く答えた。

 裏腹に式部卿の宮は興味深げに佐為を見て微笑む。

 

「侍読のような地位に就く者は菅家(かんけ)江家(ごうけ)からは多く出ているが……藤家(とうけ)からは珍しい事例だと思うと、佐為殿はよほどの腕だとみえる」

 

 それを受けて謙遜する佐為に博雅が口を挟んだ。

 

主上(おかみ)も佐為殿の指導を楽しんでおられるようだからなあ。栞も昔から碁才に長けていると評判でしたから、この婚姻もその縁でございましょう」

「なるほど、失礼ながらこちらの姫が佐為殿とご結婚とは意外に思っていたが……そういうこととは」

(そち)大臣(おとど)も風変わりな方だから、確か佐為殿は算道を修めたということだし大臣(おとど)の好きそうな良い婿君となろうな」

 

 話がそのように進んだことで佐為はほっと胸を撫で下ろした。

 

 宴が進み、それぞれ琴や箏、横笛などを持ち出して弾き鳴らす音が屋敷に響き渡る。

 

 その音は寝殿にも届いており、女房たちはうっとりと耳を傾けている。

 裏腹に栞は少し寂しげに言う。

 

「この(きん)(こと)……、式部卿の宮さまの音だわ」

 

 (きん)は皇族を象徴する楽器だ。その弾き手は限られており当代の名手は式部卿の宮である。

 

「宮さまの(きん)の音が聞けるとは……多福の限りにございます。博雅の殿さまの箏も一段と冴え渡って……姫さまのご婚礼に相応しい宴となってこれ以上の喜びはありません」

 

 命婦などは感激のあまり涙を滲ませており、他の女房たちも同様のようだ。

 しかし、と栞は思う。

 さすがに親王たちを前に、しかも婿の顔見せ(婚礼)の最中に自分がのこのこ出ていくなど許されず、流れてくる音を寝殿の奥で聴くことしか叶わないのは寂しいものだ。

 あれほど管弦の名手が一堂に介しているのだから、舞いに行きたい……。思う気持ちをなんとか抑えて流れてくる音に耳を傾ける。

 

 こうも多くの親族が私的に集う機会は滅多になく、まして博雅は酒豪で名高い人物だ。おそらく彼らは夜明けまで宴を楽しむのだろう。思いつつ夜も更けてくると佐為が寝殿へと戻ってきた。

 

「いささか酒をいただきすぎてしまいました」

 

 既に用意の整っていた寝所に佐為を迎え入れ、栞は労いの声をかける。直衣布袴(のうしほうこ)を取り払い単衣一枚で目元を酒でうっすら上気させた様子は言い表しようもなく艶かしいが、佐為には気の張る場でもあったことだろう。

 

「宮さまがたの楽の音を間近で聴かせていただき、恐縮しきりでした。これほどの名手が集うのが自身の婚礼の儀であることが光栄というよりは現実のものとも思えぬようで……もし父の耳にでも入れば恐れ多さに明日にも出家しかねないというか……」

 

 そうして真面目に言い下す佐為に栞は苦笑いを浮かべる。彼の両親は未だにこの結婚をなにかの間違いだと思っているらしい。

 

「でも、宮さまたちの奏でる音をそばで聴けて羨ましいです。私は御簾のうちから出られなかったので」

「宮さまがたはご親戚筋でしょうから、お咎めにはならないのでは?」

「そうですが……さすがに今日は、と」

 

 なぜ出てこなかったのかと言いたげな佐為に栞は自嘲した。

 佐為はというと、そのうちに宮たちとも碁を打とうと言い交わしたらしく楽しんだ様子で栞はほっと胸を撫で下ろす。

 微かに聴こえてくる東の対からの音色にどちらともなく顔を合わせ、微笑みあった。

 これでこの関係は晴れて公のものとなるのだ。

 

「それはそうと……今宵は()()()()()()ちょうど三日夜にもなりますね」

「え……」

「昨夜のあなたはそのつもりでなかったようですが」

 

 苦笑いを漏らされ、栞は昨夜のことを思い出して思わず目を逸らした。相変わらず彼の中での自分は「世慣れない姫」なのだろう。

 しかし佐為の言うとおり、これで名実ともに妹背となるのだ。──栞は再三『こうしろ』と命婦に言い付けられていたことを思い出し、一度すっと息を吸い込むと佐為に向かって手をつき頭を下げた。

 

「な、なにごともよろしくお導きくださいませ……」

 

 佐為の方は瞬時にそれを命婦に仕込まれ言わされた台詞だと理解して笑みを漏らす。

 

「そう硬くならずとも、これから長い付き合いになるのですから」

「そうは言っても……。あ……!」

 

 そういえば、と栞は口元を覆う。

 露顕(ところあらわし)の儀を済ませ、この目の前の人は公私ともに夫となるのだ。ならば伝えねばならないことが……と栞は佐為に身を寄せそっと耳打ちした。

 

「私の()は──」

 

 佐為は少しだけ目を見開いた。

 高貴な女人の真の名を知ることができるのは両親と夫くらいのものである。その行為は彼女が自分の存在をこちらに預けたと言っても過言ではなく、さすがの佐為も感じ入って少しの間を置き口元を緩めた。

 

「そうですか……。それで(あざな)を”栞”と……」

 

 道しるべ、という意味だ。大臣(おとど)はなにを思ってこの名を姫につけたのか──。

 

「私があなたを導くのではなく、導かれることになりそうですね」

(いみな)といっても……、たかだか名前ですのに」

「あなたは言霊など信じないのかもしれませんが」

 

 言って佐為は一度栞のことを(いみな)で呼び、そっと自身の手を栞の頬に滑らせる。

 

「この先でどれほど道に迷おうとも……私の帰る場所にはあなたがいるということです」

 

 遠くに楽の音が聴こえる。

 見つめ合いつつ二人はどちらともなく唇を重ねた。

 

 

 おそらく明日にも都中にこの露顕(ところあらわし)の儀の話は巡るだろう。しばらくは騒がしい日々となるに違いない。

 

 だがいまは楽の音を遠くに聴きつつ、末長く共に……という想いに身を委ねた。

 

 



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第八話:変化

四条の(そち)大臣(おとど)邸の規模=四町≒250m四方


 博雅が親王たちを含めた親類を集めて四条の屋敷で露顕(ところあらわし)の儀を催した。

 

 という話は瞬く間に京中を巡ることとなった。

 

「四条の大臣(おとど)大君(おおいぎみ)が……」

「藤原佐為殿と──」

 

 大内裏でもそれは同じであり、次の日に佐為が参内するや否や不自然なほどに視線を感じて首を捻るに終始した。

 そうして二、三日が過ぎた辺りだろうか。

 今上への指導碁が済んだ後、典侍(ないしのすけ)を待つ今上のそばに控えていた佐為に彼はああと思いついたように声をかけた。

 

「そなた、四条の姫との婚礼を済ませたそうだね」

「は──!?」

 

 まさか今上の耳にまで届いているとは思わず、佐為は驚いた自身を誤魔化すように頭を下げた。

 

「は……もったいなくも身に余る御縁でございまして……」

(そち)大臣(おとど)が姫の宮仕えにも結婚にもなかなかに慎重で、よもや生涯独身を貫かせる気かと私も気を揉んでいたが……世にも麗しき佐為の君が背の君とは女官たちの嘆きが聞こえるようだよ」

「お戯れを」

 

 今上は軽い笑みを零したが、佐為はやや緊張して彼が去るまで頭を下げ続けて見送った。

 そうして清涼殿から出て弓場殿(ゆばどの)の方をぼんやりと眺める。

 若い公達が弓に興じており、見物者が囃し立てていて賑やかな様子にしばし身を委ねていると「佐為殿」と思いがけず呼び声がして佐為は振り返った。

 黒の袍が目に入り、あ、と佐為は目を瞬かせる。

 

「藤の中納言殿……」

 

 自分よりも幾分年若い摂関家の総領の姿が目に入るも、彼はどこか窶れたような顔をしていた。

 その理由を佐為は察したものの態度には出さずにいると、中納言の方が先に口を開いた。

 

「四条の姫君と……結婚なさったそうですね」

「……はい」

 

 頷けば、中納言は一瞬だけ眉を寄せてからぎこちない笑みを浮かべた。

 

「おめでとうございます。あのような素晴らしい方を妻としたこと、羨ましく思いますよ」

「恐れ入ります」

 

 中納言はそうしてどこか諦めたような顔をし、小さく息を吐いた。

 

「姫の婚礼の話を聞いて……私もようやく決心を固めました。そなたも存じているとは思いますが、院の四の宮さまのこと……ありがたくお世話差し上げたいと」

 

 佐為は返事に詰まる。

 栞への恋が破れたいま、中納言は内親王降嫁の話を受けるということだろう。

 とはいえ、自分が妻とせずとも栞は中納言との結婚は望んでいなかったのだし……と考えていると彼に伝ったのか中納言は自嘲気味に肩を竦めた。

 

「姫がそなたを選んだのだから仕方がないのだと言い聞かせてはいるのだが……なかなか思うようにはいかぬものです。せめて姫に婚姻祝いを贈ることくらいは許していただきたい」

 

 では、と告げてその場を離れた中納言に佐為は頭を下げて見送った。

 致し方のないことであるが、彼にとっては若い日の苦い思い出となるのだろう。

 

 

 事実、のちに左大臣へと進むこととなる彼は千年ののちにまで残る『二条左大臣記』に、若き日に恋い慕った五節の舞姫への苦い失恋の記録を残している。

 当時を知る貴重な史料となるとともに数多の研究者の興味を千年という時を経てなお誘ってやまないのだが、それはまた別の話である。

 

 

 一方の後宮は登華殿でも栞の婚姻の話は伝わり、女房たちのうわさの的となっていた。

 

「佐為の君、栞殿がいらっしゃる時はずっと栞殿と対局ばかりされていると思っていたらいつの間に……」

「でも佐為の君って色々うわさがおありよね。橘内侍(きのないし)や麗景殿の宰相の君など」

「そうは言っても宮仕えじゃ家庭は難しいし、相手が大臣(おとど)の姫じゃとてもとても……」

「佐為の君をお慕いしてる女人は多そうだけど、大臣(おとど)の姫だと諦めもつくというものよね」

「かえって佐為の君の方が恨まれているのではないかしら。なにせ(そち)大臣(おとど)の一の姫で、縁付きたい公達は多かったはずだもの。ほら藤の中納言さまとか──」

 

 その辺りで女御がみなを嗜め、自身もこう口を開いた。

 

「わたくしも祝いの品など贈ろうと思うのだけれど……、栞の君の参内はしばらく難しいでしょうか」

 

 女房たちも各々が顔を見合わせる。

 めでたきことなれど親しく付き合ってきた人が急に遠くなった気がして、みなの胸中に一抹の寂しさがよぎった。

 

 

 三日夜餅(みかよのもちい)及び露顕(ところあらわし)の儀が済めば夫は妻の元へと通うのが通例であるが、佐為は出仕後は栞の屋敷へ戻ってそのまま過ごし、翌日は栞の屋敷から出仕するようになった。

 四条からの方が大内裏に近く便利であることと、なにより広大な屋敷の主人は栞のみで同居するのになんの不備もなかったからである。

 

 婚礼よりしばらくは祝いの使者などで忙しく過ごす日々が続いていた栞だが、ようやくひと段落したある日の午後──筑紫からの使者がひときわ豪奢な祝いの品を届けに訪れた。

 

「父上からだわ……!」

 

 栞自身も事の成り行きを文にしたためたが、博雅が相当に心を砕いて取り繕い、佐為のことから露顕(ところあらわし)の儀の様子まで詳細に書き記した文を筑紫へと出してくれたことは知っている。

 ──貴族にとって娘というのは宮廷政治を生き抜くための重要な道具である。まして大臣家ともなれば帝の外戚となれるまたとない機会。という常に反し、父はたった一人の娘である自分を政争から遠ざけた。その昔は五世女王までは臣下との婚姻は禁止されていたのだから、と未婚を貫いても構わないとさえ示唆していた。要は摂関家と縁づく必要はないという事だったのだろう。

 もしかしたら入内はともかく皇族(血縁)と結婚しろという意味だったのかもしれないが。しかし。博雅の言うように「望まない」結婚をする必要なはいという親心だったはず……などと錯綜する考えを浮かべつつ父からの文に目を通した栞だが、心配は杞憂だったとホッと胸を撫で下ろす。

 

「佐為の君にもはやくお会いしたいと書いてあります」

 

 出仕から戻ってきていた佐為に手渡すと、佐為も同じ心境だったのだろう。一通り目を通して安堵したような息を吐いている。

 

「恐れながら……私からも返事を差し上げて構わないでしょうか」

「ぜひそうなさって」

 

 笑って言い、送られてきた品々を二人で眺めていると「姫さま」と命婦が声をかけてきた。

 

「お文が届いております。登華殿の女御さまから」

「え、女御から……?」

 

 栞は受け取りつつ瞳を瞬かせた。

 女御からは祝いの品と文を既に受け取っているし、私用だろうか。

 思いつつ文に目を通せば、久しく参内していないため折りを見て歓談に来ないかという誘いの文だった。

 思わず栞は佐為を見る。すれば彼はやや首を傾げた。

 

「女御さまはなんと……?」

「あ、いえ……顔を見せに参内して欲しいと」

「参内……登華殿にですか」

 

 きゅ、と栞は持っていた文の端を握りしめた。しばらく登華殿の友人たちの顔も見ていないし、ありがたい誘いだ。

 でも、と探るように佐為を見上げる。

 

「お許しくださる……?」

 

 面倒にも思うが、結婚して失った自由の一つが()()だ。

 

「参内を……ですか?」

 

 もちろん自分の意思だけで参内することは可能であるが──。見やった佐為はやや逡巡するような素振りを見せている。おそらく彼は積極的には賛成しかねるのだろう。

 それもそのはず。女人()を喜んで公の場に出したがるのはせいぜい父や博雅くらいだ。

 が、佐為の立場上はっきり反対するのは憚られるに違いない。

 もう身軽な身でもないのだし、と小さく栞は肩を落とした。

 

「これから新年の準備で忙しくなりますし……年が明けて落ち着いてからとお返事します」

「ああ、もうそんな季節ですね」

 

 文を仕舞い、話を変える。事実、新年の準備はことさら妻の側は忙しい。

 

「新年用の衣装など整えさせますので、佐為の君のご実家の趣味に合うといいのですが」

「ありがとうございます。みな喜ぶと思いますよ」

 

 夫の実家の家族、使用人含めて正月の衣装等の全ての面倒は妻がみるのが慣例だ。

 正月といえば、と栞は手を合わせた。

 

「父が長く左大将を務めていたので、お正月の賭弓(のりゆみ)の節で勝った際はこの屋敷で還饗(かえりあるじ)を催していたんです。私も父方が勝った際は陵王を舞ったりして……とてもいい思い出です」

 

 今ではもう叶わないが。と一瞬だけ眉を寄せる。

 賭弓(のりゆみ)の節とは、左近衛府と右近衛符に分かれてそれぞれから射手を出し競い合う宮中行事だ。勝利した側の大将は自身の屋敷にみなを招き饗饌(きょうせん)を振る舞うのが習わしである。なお左方が勝った場合は陵王を、右方が勝った場合は納曽利を舞うため栞は陵王を特に得意としていた。

 公の場で陵王を舞う──もう昔のことだ。浮かべた栞の顔がやや曇る。

 

「栞殿……?」

「あ、いえ。せっかくですし……今度のお正月には私たちも屋敷で弓など射って競ってみましょうか」

「え──!? わ、私は弓はあまり……」

「訓練なさったらいいのに、せっかく馬場があるんですから」

「うーん……」

 

 苦笑いを浮かべる佐為を見つつ、栞は小さく笑った。

 余計なことを考えている場合ではない。

 正月の衣装、佐為にはどのような織物が似合うだろうか。

 きっとみな佐為にいい衣装を着せようと競って励むに違いない。

 

 

 などと日々を過ごしているとあっという間に時間が過ぎていく。

 ただでさえ忙しい師走、今年はことさらに忙しい。

 屋敷の家人(けにん)たちはもちろん栞自身もだ。監督責任は栞にある上に、そもそも()()が……と見ていたのは帳簿だ。

 

「これはまた……、圧巻ですね……」

 

 ある日の午後、栞は佐為を連れて屋敷の御倉を見て回っていた。

 西の対及び北の対の裏手に造られた御倉町はこの屋敷の膨大な財が貯蔵されている場所でもある。

 この御倉町の敷地だけでも佐為自身の自宅よりも広く、さすがに佐為は圧倒された。

 この大臣家の富の象徴──それでもまだごく一部に違いない。

 栞曰く危機管理及び分散のため、かなりの財や荘園の名義は父の大臣(おとど)ではなく栞になっているという。定期点検も常に怠らないということだ。

 並の大臣家よりも遥かに物持ちだという(そち)大臣(おとど)を世間は不思議がりもしているが、おそらく常日頃から厳しく管理している結果なのだろう。

 それにこの御倉町に仕えている使用人の数。自身の自宅と比べることさえおこがましい。改めて身分差とはいかに越え難いものか。頭を下げる彼らの出自は、自分とそう変わらない者も多いはずだ。

 

 だというのに、この屋敷の大臣(おとど)の婿というだけで自分にまで傅いてくれるのか──。

 

 しゃんとしなければ。佐為は改めて背筋を伸ばした。

 

 

「お手伝いしましょうか」

 

 気になった点を洗い出し、帳簿を積んで山にして北の対の書物庫に籠る栞に佐為は声をかけた。

 結局は主計寮や主税寮に召されなかったとはいえ、帳簿の照会・財政管理は佐為にとっては専門分野だ。栞は頷き、いくつかを任せてくれた。

 

「さすがは算道出身……お速いですね」

 

 貸借文書、売渡状、寄進等が逐一記載された書類と照らし合わせ計算違いや漏れがないかを見ていく作業を共に進めていると、栞が驚いたように言った。

 ふ、と佐為は笑う。さすがにこればかりは負けてはいられない。

 

 にしても。漢詩ができるとは聞いていたが、おなごがこうも漢字(真名)を使いこなし漢書さえ読めるとは。このようなことばかりに神経を費やしているからこの人は和歌(うた)が苦手なのだろうか……と一区切りつけて少しばかり休息を取りつつ佐為はちらりと栞を見やった。

 博雅にしても栞にしても万葉や古今を誦じてはいるらしいが、いかんせんそれに感じ入ることがないらしく……。(そち)大臣(おとど)和歌(うた)が苦手など聞いたこともないため、栞の場合は博雅本人も言っていたように彼の影響か。

 などとやや無礼なことを思いつつずらりと並べてある古めかしい書物を佐為はなんとなく眺めた。

 おそらく貴重な書が山のようにあるはずだ。触れていいか許可を取り、いくつか手に取り捲っていく。

 そして何冊目だっただろうか。手に取った一つの書を開いて佐為は思わず声を上げた。

 

「これは……梁武帝の棋書では……!?」

 

 梁の武帝は囲碁好きで著名な太古の唐土(もろこし)の皇帝である。

 驚いたように栞が振り返って見上げてくるも佐為は高揚した自分を抑えきれず、栞は瞳を瞬かせる。

 

「た、たぶん……。碁に関する古書でしたらその辺りに色々あると思いますよ」

「ほんとうに……!? 見ても構いませんか?」

「ええ」

 

 どうぞ、との返事を待って佐為は古書を次々に探っていった。

 そうして見ているうちに、漢や隋、唐の碁の専門書のまとめ、格言集などが──原書ではなく写しであろうが──見つかり佐為は息を呑んだ。もちろん全てが揃っているわけではなく欠本も見られたが、それでも信じられないくらいだ。

 侍従として様々な御書を手に取る機会はあるが、これほどのものは大学寮にも、いや内裏にさえあるかどうか……とよぎらせはっとする。

 そもそもこの屋敷の所有者だった栞の祖父は故一品式部卿の宮だ。歴史に必ずや名が残ると言わしめた才ある親王で、薨るまで歴代の帝の信任が最も厚かった人物でもある。

 栞の母方の祖父母にしても双方共に帝の御子。祖母に至っては斎宮まで務めた大宮だ。であれば、これほどのものが受け継がれ揃えられるのも不思議ではなく──書を持つ手が震える。自分のようなものには一生目を通す機会にさえ恵まれなかったに違いない。

 栞を妻にしてどれほどの僥倖であったか──と、利己的に感じてしまう自身を叱咤しつつも佐為は口元を緩めた。

 

 これらに囲まれて育った栞が棋力に恵まれているのも道理というもの。

 

 さすがに書物庫から持ち出すのは父から禁じられていると言われた佐為は、しばらくの間は栞と共に北の対に篭もって帳簿の管理を手伝う傍らひたすら書を読み耽った。

 出仕の時間さえ惜しいほどだ。

 博雅が楽に夢中なあまり職務が疎かになることを同僚の弟君がたびたび愚痴っていたが。今度からは多めに見て差し上げてほしいと言おう。と、佐為は楽狂いの博雅に強い共感を覚えつつ誓った。

 

 

 そして佐為も少しずつ四条の屋敷での生活に慣れていく。

 

 出仕が済めば大内裏を出て大路を下り、四条に差しかかった辺りで豪奢な四足門が見えて来る。大路に面した四足門──大臣(おとど)の住処の証だ。

 その西門が開かれ、その先の西中門近くに牛車を止めて降りた佐為の視界にまず映るのは侍所だ。西門から西中門までの区画には使用人たちの住まいである雑舎群もある。

 

「お帰りなさいませ、殿」

「お帰りなさいませ」

 

 みなが頭を下げて迎えてくれ、佐為は西中門をくぐった。いつもならここで屋敷に上がるが、今日は庭を歩こうとそのまま進んでいく。

 昨夜からちらちら降り始めた雪が出仕前には積もっており、御所から戻ったら雪景色を鑑賞しようと決めていたのだ。

 

「あ、殿! お帰りなさいませ」

「お帰りなさいませ!」

 

 歩いていると西の対付近で使用人の子供である童女たちが雪遊びをしている様子が見えた。一同こちらの姿を目に留めて手を止め挨拶をし、佐為も口元を緩めた。

 

「ええ、ただいま」

 

 聞けば外で遊びたいとせがんだ彼女らに栞は快く許可を出したらしい。

 愛らしい様子に目を細めつつ、遣水にかかった橋を越えて銀世界の広がる広大な庭を見渡してみる。

 光が反射して眩いばかりだというのに、視界を覆う景色はどこまでも荘厳で幽玄だ。

 

「おや……」

 

 しばし銀世界を堪能してから今を盛りの椿の木に視線を移せば、雪をかぶった真紅の花がよりいっそう鮮やかに映える様が目に映った。思わず頬が緩み、近づいてみる。

 なんという美しさだろうか。香り豊かな梅も優美な桜も心惹かれるが、椿ほどではあるまい。雪を手で払い、露わになった椿の姿に佐為は笑みを深くした。

 あまりにはっきりした色は慎みがないなどと言われはするが、美しいものは美しい。

 このようなはっきりと鮮やかな色が栞にはよく似合うのだ。一枝手折って彼女の髪に挿してやりたいが、さすがに無断で手折るのはまずいだろうか……などと思いつつぐるりと屋敷を見渡してみる。

 

 見慣れたとはいえ、改めて見ても広大な屋敷だ。

 

 大学寮と同規模の広さを持つだろうこの大邸宅は、主殿である寝殿を中心にいくつもの対の屋が連なっており全てを見て回るのは骨の折れる作業である。

 今でこそ栞は寝殿を主に使っているが元々は北の対に住んでいたようで、事務仕事をするための部屋や書物庫があるのもここだ。

 その北の対の西に位置する西北の対は栞が舞の稽古に使う場所にしていて管弦に覚えのある女房が控えており、彼女が寝殿をあけている時は十中八九この西北の対にいる。

 先ほど童女が遊んでいた西の対は西一の対と西ニの対の二つの対の屋が連なっており、女房たちの局があり、方違え等でやってくる親族や客人を寝泊まりさせるのに使う場所でもある。

 東の対及び東北の対はもっぱら宴に使われ、隣接する馬場殿も合わせて──今は栞の馬弓遊びの場と化しているが──大臣(おとど)が在京の頃は公達を集め華やかな催しをよく行っていたらしい。

 そんな東の対に連なる釣殿はこの屋敷でもっとも見所のある場所で、広大な庭の清涼な水の流れる池は船遊びも楽しめ、中島には幾つもの橋がかかり、四季折々にさまざまな花が咲き乱れている。

 

 佐為自身はほとんど寝殿で過ごしているものの、この屋敷の主としてあちこちを忙しなく動き回る栞が並の姫より活動的なのも致し方ないのかもしれない。

 そういう姫を妻としたのだから、寝殿の奥でじっとしていて欲しいと言う気はないが──だが。矛盾しているようだが、出会った夜のようなことはさすがにもう控えていただかなくては。幸いこの屋敷の広さがあれば、彼女が退屈することもあるまい。

 考えているとさすがに身体が冷え、かじかんだ指に息を吹きかけると息が白くなって辺りを包んだ。

 そのまま佐為は寝殿の方へと歩いていく。

 

 

 そうして新年が訪れ、寒さも和らいで梅の花が盛りの季節となった。

 

 少しばかり暖かくなってきた時分、内裏の梅の花を見逃さぬうちにという名目で栞は久々に参内することにした。

 公務もひと段落したこの時期、公達や殿上人も今を盛りの梅の香に気もそぞろなことだろう。

 

「女御さまにはご機嫌うるわしく……」

「よくおいでくださいました、栞の君」

 

 女御に挨拶をし、見知った女房たちから歓迎されて栞は懐かしさに頬を緩めた。

 

「登華殿までの道すがら、梅の良い香りが漂っていて立ち止まっては梅を見て……と時間がかかってしまいました」

「四条の屋敷の梅も素晴らしいと聞いておりますよ。一度拝見したいわ」

「では明日にでも一枝折って届けさせましょう」

 

 そんなさりげない話をしつつも、彼女らはおそらく佐為とのことで聞きたい話が山のようにあるのだろうと栞は感じた。うずうずしている様子が見てとれる。

 事実、佐為は仕事柄この登華殿にはよく訪れるが栞とのことを聞くのは憚られてほぼ聞けていないらしく。そのうちに誰かが切り出してきた。

 

「私たち、とても驚きましたのよ。突然に栞殿が佐為の君と、と」

 

 栞は肩をすくめてみせる。

 

「それは私も同じです。気がついたら……というか、たまたま縁があったというか」

 

 まさか二日目の夜まで佐為にその気があるなどいっさい分からなかった。とはさすがに言えず。

 それでも彼女たちは興味深そうに次々と口を開いた。

 

露顕(ところあらわし)の儀は長秋卿が取り仕切られて、宮さま方がご参列されてそれは見事だったそうですね」

「私、上野(かんづけ)親王(みこ)さまに聞きましたのよ。長秋卿や式部卿の宮さまをはじめ当第一の楽の上手が集って秋の夜に響く音色はそれはそれは素晴らしく……それにもまして佐為の君の婿姿は比類なき美しさだったと」

「羨ましい……! その日だけでもそばでお仕えしたかったわ……!」

 

 女房らの色めく様子を見つつ、確かにあの露顕(ところあらわし)の儀は後世の語り草にもなりそうだと栞自身も我が事ながらに思う。

 

「博雅さまが立派に取り仕切ってくださって、急な事でしたのに感謝してます。でも……せっかくの楽の音を私は寝殿の奥で聴いていただけでしたので口惜しい思いもしました」

 

 すれば、さすがの栞も自分の婚礼で舞ったりはしないのかと周りは笑みを漏らした。

 そうして新婚生活はどうかと聞かれ、さしもの栞もやや気恥ずかしく目線を泳がせる。

 

「あんなにお美しい方が背の君なんですもの、お通いが楽しみでしょう?」

「通い……というより、佐為の君は四条から出仕されて四条にお戻りになるので……」

「まあ……!」

「佐為の君のご自宅は七条の賑やかな場所という事ですし、四条の方が出仕もしやすく……それに私一人であの屋敷に住まうには持て余していたので、かえってありがたく思っています」

 

 おおよその場合、結婚当初はまず通い婚となるため物珍しいのだろう。彼女たちはますます瞳を輝かせる。

 

「佐為の君はお優しい?」

「や、優しいは優しいですけど……。相変わらずいつも碁を打たれてるし、私と結婚なさったのも対局相手欲しさというか……」

 

 栞はやや気恥ずかしさも感じつつ扇を開き、扇いだ。

 

 ──突き詰めて考えれば、佐為にとって自分は好都合な相手ではあったのだろう。

 結婚相手として釣り合う歳で独り身で、碁の相手もできて。佐為は身分違いを気に病んでいたが、裏を返せば妻側のこちらは十二分な援助ができる力を有していることに他ならず。そもそもの話、貴族の婚姻は常に経済、権力、そして名誉の均衡と等価交換で成り立っているのだ。

 

 だとすれば、自分たちはどうなのだろう──。

 

 沈思していると、清少納言から「栞殿」と囁かれてはっと栞は顔を上げた。

 

「長く連れ添って、徐々に育まれる情愛というものもあると思いますよ」

「清少納言殿……」

「私どもも、夫とは実のところよく知らぬまま結婚したのですし……、栞殿の場合は珍しくすらあります」

 

 すれば他の女房たちもそれぞれにどこか複雑そうな顔色を浮かべた。

 ──貴族の婚姻は個人の選択とはおおよその場合遥か遠い場所にあるのだ。

 それでもこうして宮中にあがれば公達との恋も楽しめようというものだが。その恋も所詮は「遊び」でしかない。

 それに栞自身は父がもし宮廷政治に乗り気であれば入内していた身である。そうでなくても摂関家との絆を強めるため藤の中納言と結婚させられていたら、佐為と会うことなど一生なかったに違いない。

 よぎらせた栞は少しだけ肩を竦めた。

 

「そうですね」

 

 ゆるく笑えば、周りも明るく笑った。

 

「それにしても、お二人の間に若君がお生まれになればさぞや美しい公達におなりでしょうね」

「まあ気が早いこと……! あの佐為の君が父親になんて想像もつかないわ」

 

 盛り上がる周囲の声を聞きつつ、せっかく来たのだから和琴や琵琶でも弾いて一曲舞わせて欲しいと言おうとした時だった。

 

「佐為の君がこちらへおいでです……!」

 

 庇の方からそんな声が聞こえて、急なことに一同互いの顔を見やった。

 今日は佐為が登華殿へ来る日ではないというのに。ざわつく中で女御がこう言った。

 

「背の君がお迎えにいらしたようですね」

 

 ぴく、と栞の頬が反応する。

 今日は登華殿へ参上するとは告げたが、なにもわざわざここに来なくても──と思う間にも巻き上げられていた御簾の先から見慣れた緋の袍と姿が顔を出した。

 

「女御さまにはご機嫌うるわしく……。突然に申し訳ありません。妻がこちらへ上がるとのことで、退出の供にと参りました」

 

 栞は佐為のもとへと歩み寄り、小声で訊く。

 

「どうなさったの?」

「私も所用が終わりましたので、迎えにと思いまして」

「迎えにって……私はまだ……」

 

 ごくごく小さな声で話していたものの、栞はそこで言葉を切った。

 久々ゆえにもう少しゆっくりしたい。できれば舞の一つも舞いたいと思っていたが、背の君が迎えに来た以上は退出せざるを得ない。心内でのみ小さく息を吐くに留めた。

 

 また近々参内するとの旨を挨拶とし、栞は渋々登華殿をあとにした。

 

「やはり羨ましいわあ……佐為の君が背の君だなんて」

大臣(おとど)の姫と並んで劣らぬお美しさですもの。(そち)大臣(おとど)は寛容なお方ですし、いい婿殿におなりね……きっと」

「栞殿は気苦労もありそうですけれど……」

 

 口々に話す女房たちの声など届くはずもなく、栞は渡殿を歩きつつちらりと佐為を見上げる。

 次からは迎えに来なくていいと予め言っておくべきか。いや『次』があるのだろうか。おそらく佐為は自分が参内することをあまり良しとしていないのだから。

 彼は博雅や父とは違うのだ。佐為の方が一般的で博雅や父が変わり者とはいえ。と、考えあぐねつつ歩いていると承香殿に差し掛かったあたりで佐為が歩みを止めた。

 かと思うと低く言う。

 

「栞……!」

 

 え、と思うより先に誰かの足音が聞こえてハッとした栞は急ぎ扇を開いて顔を覆い隠した。

 

「これは藤の侍従殿……。そちらは四条の北の方ですかな?」

「──ええ」

 

 誰だ? と思うも聴こえたのは聞いたことのない声だ。

 見れば、佐為はどこか強張ったような厳しい顔を浮かべている。栞が首を捻っていると屈んだ佐為に「行きましょう」と促され、顔を見られないよう注意しつつ承香殿の方へ向かった。

 そうして扇で顔を覆ったまま後ろ目でちらりと見やる。青色の──麹塵(きくじん)の袍が目に入った。禁色(きんじき)だ。

 

「六位の蔵人……?」

 

 六位の蔵人とは六位でありながら昇殿が許されている蔵人所の官人だ。

 たいていは若い権門の公達が出世の足がかりとして任じられるが、たまに学者などの秀才がこの官職に就く場合もある。

 公卿家の公達なら見知っているし、いまの声は若者ではなかったような……などと思案しつつ扇を閉じる。

 

「今の方……、どうかなさいました?」

「いえ」

 

 佐為は小さく首を振るい、栞は微かに息を吐いた。単に他人に軽々しく姿を晒すなという意図だったのかもしれない。

 にしても、と渡殿を歩いていると内裏の内郭門である宣陽門が見えてきて栞は佐為を見上げた。

 

「私、内裏外郭門(建春門)からは車を使用しているのですが……」

「え──! ああ、そうですよね……では私は随身しますので、呼び寄せましょうか」

 

 基本的に大内裏内は牛車の使用は禁止されているが、女人の場合は自身の身分に応じて多少の例外があるのだ。

 

「いいです。手間ですので……、徒歩(かち)で行きます」

 

 予定外に佐為が迎えに来たために予め牛車を呼び寄せておらず、このまま歩いていこうと準備を済ませて建春門へと向かい、大内裏へと出た。すると。

 

「姫さま……!?」

大君(おおいぎみ)さま……! 徒歩(かち)でなどと、御車をお待ちください」

 

 内裏の方へ向かう途中だったらしき顔見知りの左近衛府の武官たちから声が上がった。みな佐為を伴って現れたことに驚いたのか、急ぎ駆けて近くまでやってきた。

 

「構いません。大内裏外郭門(陽明門)までこのまま参ります」

「し、しかし……!」

「車を呼んでも、大内裏(ここ)では夫を同乗させるわけにはいきませんから」

「では、お供をお許しください」

 

 佐為はというと、ついてくる武官を気にしつつ栞に並んだ。

 

「やはり車を待った方が良かったのでは……?」

「いいえ。……久々にこうして左近衛府を見ることができましたから。やっぱり懐かしい」

 

 少し歩けば左近衛府の殿舎が見えてきて栞は笑った。父に連れられ、この大内裏内でもっとも足を運んだ場所でもある。

 あの頃に戻りたいと思っているわけではないが、やはり感慨深いものがある。殿舎に気を取られつつ歩いていると陽明門が見えてきた。

 佐為と一緒に参内したわけではないので、乗ってきた牛車はそれぞれ別だ。栞が檳榔毛車(びろうげのくるま)、佐為が網代車(あじろぐるま)──檳榔毛車は格が上──である。

 

「私の方に同乗なさいます?」

「そうですね」

 

 それぞれ自身の従者を呼んで告げ、乗車準備が整うと佐為は栞を抱きかかえて栞の牛車へと乗り込んだ。

 そうして本来なら男君が座るべき上座(右側)に彼女を下ろし、自身も座る。

 殿方のみであれば御簾をあげ、道中は笛などに興じることも可能だが女車ではそうもいかない。実のところ暇で仕方がないのだが、同乗者がいるだけ通常よりはいいだろうか。栞は佐為をちらりと見やった。

 

「佐為の君、四条に着いたら笛を吹いてくださいね」

「え……? ええ、構いませんけど」

 

 藪から棒になぜ、という佐為に栞は少しばかり拗ねてみせる。

 

「私、今日は登華殿で舞うつもりだったんですから」

 

 邪魔だてしただろう。との気持ちが通じたかは定かではないが佐為はやや言葉に詰まり、栞は苦笑いを漏らす。

 

「そのあとでしたら、気の済むまで対局にお付き合いします」

 

 そんなやりとりの末に佐為がパッと華やかに笑い、ふ、と栞も口元に笑みを浮かべた。

 

『長く連れ添って、徐々に育まれる情愛というものもあると思いますよ』

 

 この人とそうなれればいいが……、一瞬だけよぎらせた栞は小さく首を振るった。




佐為の好きな花は椿(blanc et noirより)


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第九話:夏夜(かや)の契り

 貴族の婚姻は三日通えば成立するのが通例である。

 おおよその場合は結婚当初は通い婚で、夫は妻のもとに通うのだ。

 

 しかしながら通いの義務があるわけでなく、彼らの通いどころは一つと決まっているわけでもない。

 

 つまり屋敷の屋根の下から出られない妻にできることは、夫の通いをひたすらに待つことのみだ。

 

 

 ──これでは気に病みすぎて身体に不調をきたす女人が後を立たないのも致し方ないのかもしれない。

 

 と、栞は午後の暖かな日差しを受けつつ簀子に出て佐為と碁を打ちながら思った。晩春の気持ちのいい午後だ。

 佐為はこの屋敷をほぼ本宅のように使っているため夫の通いがないという懸念を抱く暇さえないわけであるが、それでも。

 パチ、と佐為の打った石の乾いた音を耳に入れていると「あ」と佐為がなにか思い出したように顔を上げた。

 

「明日は宿直(とのい)なので、次にこちらに伺うのは明後日になります」

 

 ──これだ。と、栞はつい今考えていたことをよぎらせて息を吐く。

 

 宿直とは宮中夜間の警備である。

 殿上人含め各官人持ち回りでの夜勤だ。

 が、警備とはいえ夜通し公務に勤しんでいるかというとそうではなく、宿直番でない者が宿直の友人を尋ねてお喋りや管弦に興じたり、馴染みの女官や女房の寝所に通ったりと様々に過ごすのが実態である。

 

 現に栞が初めて佐為に会った夜も、彼は知人の宿直に付き合い襲芳舎にいたのだ。

 夜通し宿直所に籠り一晩中管弦の相手をしている博雅のような例外もいるが、あれは例外中の例外。佐為もむろん「一般的に」過ごしているはずだ。

 栞は佐為をジッと見つつこう言ってみた。

 

「あなたが宿直なさるなら、私も参内しようかしら」

「え──!?」

「だって、以前は博雅さまが宿直の折には私も登華殿の友人のところに泊まったりしていたんですもの。佐為の君と出会った夜もそうでしたし。結婚後は一度もそういった機会がなくてつまりませんの」

 

 あからさまに佐為の狼狽する様子が伝った。

 

「こ、こちらも望んでの宿直ではないのですから……」

「ですから私もお付き合いしますと申し上げているのに」

 

 言えば佐為は一旦言葉を止め、碁盤の前から立ち上がって栞の隣に腰を下ろすと栞の両手を優しく取った。

 

「たった一晩離れることさえ寂しくお思いなら……、望まぬ宿直へ赴く私の方をこそ哀れんで欲しいものです」

 

 諭すように言われて栞は小さく息を吐いた。

 このような──心にも思ってなさそうな言葉がさらりと出てくる──部分はやはり彼も貴族の男なのだろう。

 

「うまくお逃げになりましたね」

「なんのことでしょう。ほら、続きを打ちますよ」

 

 佐為は宥めるように言ってから対局の続きを促し、栞は肩を落としてから素直に対局の方へ集中し直した。

 

 

「姫さま、御寝(ぎょし)あそばしませ」

 

 そうして翌日の夜、佐為が宿直で不在の(しとね)に栞は横になった。

 

「……」

 

 宿直、というものは以前は嫌いではなかった。父や博雅について内裏にあげてもらえる機会でもあり、友人たちと過ごせる日であったというのに。

 今では憂鬱なものになりつつある。

 

 結婚して初めて佐為が宿直でこの屋敷を空けた晩。

 慣れ親しんだはずの一人寝がこれほど寂しいのかと感じた自分自身にひどく驚いたものだ。

 

 それでも、佐為とは互いに想い合って妹背となったわけでないのだ。佐為にとっては都合のいい対局相手で、自分はただ断る理由もなかっただけ。だから平気だ……と思う気持ちとは裏腹に宿直や所用で佐為がこの屋敷にいない夜のたびになかなか寝付けない身体になってしまった。

 幸い、彼は何日も家を空ける事はないため大事には至っていないが、これが他の夫婦のように夫の通いを待つだけの身であったら耐えられたかすら今ではもう自信がない。

 無意識に眉間に皺を刻んだまま、栞は暗い天井を睨んだ。

 登華殿の友人と過ごした夜に、女房たちの局へ通う殿方を数え切れないほど見てきた。彼らのほぼ全てが妻を持つ身だ。ゆえに、佐為にしても宿直の夜に「宿直だけ」をしているとは思っていない。

 まして彼には宮中に馴染みの通い所が婚前から複数あるとのことだし、昨日のあの狼狽ぶりからして今宵はたぶん──。考えそうになった栞はきつく首を振るった。

 余計なもの思いはやめよう。考えてもなんの意味もない。そう思っているのに、何故こうも憂鬱なのか。

 はやく眠りに落ちれたらいいのに。願いながら栞は瞳を閉じて一度寝返りを打った。

 

 

 そうしてそろそろ夏が見えてきた頃──。

 

 やや汗ばむ陽気の気持ちのいいある日の午後に、源博雅は内裏の梨壺の辺りを歩いていた。

 この梨壺はその昔に博雅の父宮が部屋を賜っていた場所でもある。幼い頃に死に別れて父の記憶はほとんどないが、それでも梨壺に来るとどこか嬉しい気がする。

 その縁か、今上が春宮時代にこの梨壺で過ごした折にはそばで奉仕したものだ。父宮とは従兄弟で親友であった栞の父、先の左大将と共に幼い栞を連れて……、などと思いつつ歩きながら温明殿の方へ向かうと、どこからともなくゆかしい琵琶の音が聞こえてきた。

 

「ほう……風香調(ふこうじょう)……」

 

 笛の音も聞こえる。調弦しているのか黄鐘(おうしき)の調に合わせて琵琶は緩やかな弦の音を響かせている。

 内侍の誰かだろうか? なかなかの音だ。笛の音も悪くはない。

 博雅が誘われるようにして温明殿の近くへと歩いていくと、簀子に座る鮮やかな女官の装束が目に入った。

 お、と博雅は目を瞬かせる。

 

橘内侍(きのないし)か……」

 

 宮廷一の美姫と名高い掌侍(ないしのじょう)上首(じょうしゅ)だ。

 高位の女官ともなれば教養高いのは常だが、橘内侍(きのないし)もなかなかどうして。聴き応えのある腕だ、と近くでその音を聴こうと近づいた博雅だったが、(きざはし)に腰掛けて横笛を吹く人物を見て思わずその場に固まった。

 宮廷一と名高い内侍の美貌さえ霞むほどの水際立つ姿。見慣れた緋の袍。

 

「佐為殿──!?」

 

 思わず大きな声を出し、しまったと思った時には二人とも手を止めて博雅の方を向いていた。

 

博雅三位(はくがのさんみ)──ッ」

「まあ長秋卿……」

 

 佐為はやや焦ったような声を漏らしたものの橘内侍(きのないし)の方は落ち着いた様子で、博雅は首に手を当てると苦笑いを漏らした。

 

「あーその……すまん。琵琶の音に惹かれてつい」

「長秋卿に至らない音を聴かせてしまい、お恥ずかしゅうございます」

「い、いや。それはいいんだが……佐為殿はなぜ?」

 

 博雅が佐為を見やれば、彼はどこか気まずそうに笛を下ろした。

 

掌侍(しょうじ)の君が琵琶の調弦を望まれていたので、それでお付き合いを……」

「藤の侍従がこちらに書をもっていらしたので、公務もお済みだとお聞きして、それならばとわたくしが頼んだのです」

「ほー……。しかし佐為殿もなかなか、そなたの笛は初めて聴いたぞ。調弦が済んだのなら一つ合奏でもどうだ? そうだな、蘇合香を触りだけでも──」

 

 いずれにせよ博雅にとってはまたとない機会であり、いそいそと懐から横笛を取り出していると佐為は驚いたように立ち上がって慌ててこちらにかけてきた。

 

「それはまたの機会に……! 私もそろそろ退出しようと思っていたところですから」

「お、おい、佐為殿……!」

 

 そのまま強引に温明殿から連れ出され、博雅はわけがわからないまま佐為と並んで御所から退出する流れとなった。

 致し方ない、と切り替えて博雅はこう提案した。

 

「ならば帰る道すがらなら良かろう?」

「え……?」

「合奏だよ。この後は四条へゆくのだろう? 私も久々にゆこう。こちらの車に乗ればいい」

 

 佐為はやや困惑気味だったものの、断る理由もなかったのだろう。博雅の提案通り共に四条へと向かうこととなった。

 

「にしても、そなたが橘内侍(きのないし)とああも親しいとは」

掌侍(しょうじ)の君に限らず内侍司(ないしのつかさ)の女官とは近くで接する機会も多いですから」

「ああ、侍従だからなあそなたは」

博雅三位(はくがのさんみ)こそ、中宮職ではそういう機会も多いのでは?」

「そうだなあ……。だが先ほどのような機会に合奏でもと持ちかけても、すぐに断られてしまうのだよ」

「それは己の拙さが露見してしまうと恐れてのことでしょう。私なども恐れ多くて……」

「そう言ってまた逃げようという腹なのだろう? だが今日こそは付き合ってもらうぞ!」

 

 言って博雅は笑い、笛を構える。すれば佐為も渋々と言った具合に笛を取り出して構えた。

 

 

 その音色は道沿いの屋敷の者たちをざわめかせ楽しませて、やがて牛車は四条へと差しかかる。

 

 四条の屋敷にも彼らの笛の音は届いており、そろそろ佐為も帰ってくるだろうと思っていた栞は意外な音色に目を見開いた。

 

「博雅さまの笛だわ……! それに佐為の君も」

 

 まさかとは思うが博雅の笛の音を間違えるはずはない、と栞は廂に出て渡殿の方を見やった。

 すれば予想通りに黒の袍と緋の方が見え、パッと栞の顔が華やぐ。

 

「博雅さま……! 佐為の君も、おかえりなさい」

「おお、栞。久しいな、変わりないか?」

「はい。お二人お揃いでどうなさったの?」

「御所でたまたま会ってな。せっかくならと久々に四条にも顔を出そうと共に来たのだ」

「それで道中合奏なさってたのね……」

 

 ちらりと栞が佐為を見れば、佐為はどこかぎこちなく言った。

 

博雅三位(はくがのさんみ)のお供は気の張る思いでした」

 

 さすがに博雅と笛を合わせるのは腕に多少の覚えがあろうとも気が引けるだろうと栞も頷く。

 

「でも博雅さまが来てくださって良かった。久々に馬弓にお付き合いくださいません? 佐為の君がなかなかお付き合いくださらないので一人も飽きてきたところなんです」

「馬弓か……うーむ、外はもう陽が高く蒸し暑い。今日はここの釣殿で涼みがてら佐為殿と話でもと思ったので、弓は次の機会にやろう」

 

 博雅はちらりと佐為を見やってから、とりあえず暑いので狩衣に着替えたいと周りの女房に言いつけた。

 衣装だけは山のようにあるのだから好きに選んでくれと寝殿の奥へ行きつつ栞は女房たちに釣殿に飲み物の用意などするよう言い付ける。

 

「私も狩衣に変えようかしら。袿を重ねていると暑くて……」

 

 夏用の生絹の単衣は薄いために着ている分には涼しいが、肌が透けて見えるゆえそれ一枚で人前に出ることは憚られるのだ。栞にしても見苦しくないよう常にやや厚手の袿を上から重ねていた。

 女房たちはというと、いそいそと多種多様な狩衣を運んできて彼らに選ばせている。博雅はもとより彼女たちは佐為を着飾らせることがこの上なく楽しいようだ。

 

「博雅の殿さまも佐為の殿も背が高くていらっしゃるからお見栄えがしますわね……」

「撫子の襲ねをあれほど着こなせる男君は殿をおいて他におりませんもの……! ほんとうに輝くようで、お見上げする私どもまで華やぐようだわ」

 

 着替えを終えて庭から釣殿の方へと向かう二人を見送り、女房たちはそう褒めた。

 博雅は着飾ることにあまり頓着がなく、言われるままに青を重ねた夏の青々と茂る木々を思わせる爽やかな狩衣に腕を通している。

 一方の佐為は白を基調としたものを着たいと言っていたが、撫子襲ねを推す女房らに根負けし、結局は彼女たちの言うままを着る羽目になっていた。が──日差しに透ける撫子襲ねの薄蘇芳と青が重なり、華やかな中にも気品ある色合いを着こなす佐為の様子は見慣れていてさえはっとするほどだ。

 

 そうして栞も衣装替えをしているころ、佐為と博雅は釣殿に腰を下ろして涼をとっていた。

 

「夏になるとここの釣殿が恋しくなるよ」

 

 釣殿から真下の池を見下ろして博雅は満足げに笑った。

 この屋敷は泉の湧き出る地に恵まれそこから直接に池を作っており、常に清涼で爽やかである。

 夏にはこの釣殿で庭を眺めながら饗宴を催すのが習わしでもあった。

 

「なあ佐為殿」

「はい……」

 

 博雅は運ばれてきた高坏(たかつき)の上の酒を手に取り、自身の盃に注いでから佐為へと視線を向けた。

 

「そなたと栞が睦まじくやっているという話は私も伝え聞いてはいるが……。なにせあの通りの跳ねっ返りな姫だ、物足りぬことも多いだろう?」

 

 佐為の手がぴくりと反応する。

 彼は何を言いたいのだろう? 先ほど橘内侍(きのないし)と二人でいたところを見咎められたゆえ牽制されているのか。はたまた他意はないのか。

 いいえ、と佐為は笑う。

 

「私の方こそ不足な相手であると思っています。現に栞の方が私よりも……馬弓などよほど達者で……」

 

 答えた言葉はしかしながら本心で、ははは、と博雅は肩を揺らした。

 

「あれが()の子であれば父のような武官になっただろうと父君である大臣(おとど)もよく嘆いていたよ。せめて舞ならば、と栞が興味を持ったのをいいことにやらせてみたら殊の外に才があったというのに……身分柄それも結局は難しくなり……。哀れなことだよ」

 

 博雅としては、自身が管弦という己のしたいことを堪能しているというのに栞にはそれをさせてやれないことが不甲斐ないのだろう。盃を煽る博雅を横目に佐為は頷いてみせる。

 

「ですがあのご気性があればこそ父君が不在でも立派にこの屋敷を守っているのでしょう。深窓の姫君には難しいことをしておいでですから」

 

 事実、佐為からしても想像がつかないほどにこの家の財産管理は難儀なはずだ。所有している荘園や牧場なども膨大であろうゆえになおさらだ。

 これらの管理ができずに落ちぶれていく宮家や貴族もままいるというのに、都に一人残って管理し維持している栞には相当の能力があるのだろう。

 ああ、と博雅が頷く。

 

大臣(おとど)は風雅を愛でるよりも現実的なところがおありだから、栞は一人娘でもあるし、その辺りは厳しく仕込んだらしい。荘園などの管理書の不備も目ざとく見つけるゆえに昔から大臣(おとど)も舌を巻いていてな。安心して任せているのだろう」

「そういえば去年の暮れにも書物庫に籠もって一日中うんうん唸っていることがありましたね。私も少しだけお手伝いしましたが……」

「おお、そうであった。そなたは算道を修めたのだったな」

「はい……」

「それはいい。算道のような技官養成科は低く見られがちであるが、その実、腕のよく信頼できる算師を雇うのにはみな難儀しておるのだ。大臣(おとど)は詩歌や儒学を軽視しているわけではないが実のある算術をより評価していてな。栞にも師の君をつけて計数など学ばせていたよ」

「それは……大臣(おとど)が風変わりなお方とはお聞きしていましたが、さすが都一の物持ちとも言われるわけですね」

「これからはそなたが手伝ってくれるのならこの家も心強いだろう。私の方でも手伝いを頼みたいくらいだ」

 

 ははは、と博雅が冗談めかし、佐為もゆるく笑った。

 

「私などでも少しはお役に立てるのでしたら気が楽になる思いです」

「やはり大臣(おとど)は良い婿君を持ったということだな」

 

 言われて佐為は目を伏せ頬を緩めた。

 貴族の男は妻の家に生活の全てを世話になるのが当然とはいえ、やはり自身で何か返すことができれば少しは気が楽である。

 

 にしても、と佐為は思う。

 この目の前にいる源博雅は、先の帝の第一皇子の嫡男だ。神に祝福された楽才とまで言われ、箏などは祖父帝に直々に伝授されたとは彼と言葉を交わす遥か以前から聞き知っていた。

 つまるところ佐為にとっては雲の上の存在に等しく、そのような人物とこうして親しく話をするまでになったことが佐為には今でも不思議であった。

 

「そういえば……博雅三位(はくがのさんみ)の北の方のことなど聞いたことがありませんね」

 

 何気なく佐為が聞いてみれば、博雅は目を丸めてきょとんとした。

 

「いやあ私は……そなたと違い色めいた話など誰の口の端にものぼらんからな」

「またそのような……」

「いや、実際に私はどうにもその手の機微に疎くてな。元服後にいつの間にか結婚相手も日取りも決められていて、気がついたら婚礼という有り様だったぞ」

 

 まあ妻とはそれなりに仲も良いが、と続けられて佐為は口元を狩衣の袖で覆った。

 権門の嫡男には元服と同時に同等の家の姫が添臥(そいぶし)に立つというが、似たようなものだろうか。

 いずれにせよ宮中で彼の名を聞く時はもっぱら管弦絡みかせいぜい酒絡みで、当人が言うように浮いた話などいっさい聞かないのは事実である。

 彼は栞の親代わり兄代わりであり血縁でもあるのだから、やはり似ているのだろう。と、自分たちの三日夜のあれこれを思い出しつつ自嘲していると、当の本人がこちらに歩いてくるのが見えた。

 

「博雅さま、佐為の君……!」

 

 やや昔めいた百合襲ねの──栞が好んでよく着ている取り合わせである──赤と朽葉の色目が派手やかな狩衣だ。

 はっとするほど目を引くのは色合いのせいだろうか。相も変わらず男衣装の方が匂い立つような華があるのは単に物珍しいせいなのか、それとも──と佐為が栞を見つめていると隣で博雅が肩を竦めた気配がした。

 

「ずいぶんと派手な狩衣だな」

「陵王を舞おうかと思いまして。やはり殿方のご衣装は動きやすいです。夏に冠や烏帽子は蒸すので困りますが……」

「確かになあ」

 

 ははは、と博雅が笑った。

 烏帽子を被らず髪を緩く結っただけのその姿は少年のようでさえあり、佐為は出会った夏の夜を思い出して目を細めた。

 

 栞は陵王を舞うという。

 唐由来の左舞の代表作である。

 左右に分かれての弓での勝負などで左方が勝てば舞われる定番の舞でもあり、栞の得意としているものの一つだとは佐為も聞き知っていた。

 

 笛だけでは寂しいが、と言いつつ博雅が横笛を構える。

 栞は陵王の舞の際に持つ(ばち)の代わりに自身がよく使っている扇を逆さにして持っている。朱色の鮮やかな陵王の衣装に見立て、百合襲ねを選んだのも道理だろう。

 

 陵王とは『蘭陵王』と呼ばれた北斉の王──。

 才智豊かで武芸に優れた彼は世にも稀な美貌だったため、仮面を付けて闘いに臨んだと伝えられている。王の美貌に気もそぞろとなる兵の士気を下げないためだ。

 

 ──ああ、これぞまさに栞が得意とするわけだ、とこの場では仮面をつけずに舞う栞を見て佐為は感じ入った。

 艶やかな黒髪が揺れ、紅が冴える唇に涼しげな目元がえも言われぬ艶麗さを放っている。凛として勇壮で、それでいて普段は仮面に遮られ見ることの叶わない陵王の艶かしい視線に意識を絡めとられて動くこともできない。

 

 今上をはじめ登華殿の女御や多くの上達部が栞の舞を褒めそやすのも無理はない。

 まして楽聖とまで称えられる博雅の音に乗せてとあらば……と目の前の光景を見つめつつ佐為は思う。

 もしも今のように仮面をつけずに人前で舞うなどと栞が言い出せば、おそらく胸中穏やかではいられまい……と。

 そう感じてしまったのは妹背の仲だからか。それとも──、と考えていると博雅が笛をおろした気配がして佐為はハッと我に返った。

 舞い終えて口元を緩めた栞と目が合い、思わず佐為は目を瞠る。『美貌を晒した北斎の王』を前に目を逸らせないでいると、眼前まで歩いてきた栞が首を傾げた様子が映った。

 

「佐為の君……?」

 

 呼ばれるまで惚けていた佐為は、動けずにいた自分を取り繕うように栞の手を取って笑ってみせた。

 

「そなたがあまりに美しくて……見惚れていました」

「え……」

「仮面をつけねばならなかった陵王の状況が手に取るようにわかるというものです」

 

 栞の方は意外だったのだろう。目を見開いて瞬きをし、そしてはにかんだ様子を見せた。

 

「佐為の君こそ、鬼神さえ愛でそうなお姿ですのに」

 

 うっすら頬を染めた姿があまりに可憐で、思わず栞の手を引き掻き抱こうかという衝動に襲われた佐為だが、聞こえてきた博雅の笑みで何とか思い留まる。

 

「蘭陵王は創作舞にも明るかったらしいから、確かに栞には合っているなあ」

 

 栞も笑い、そうだ、と彼女はまっすぐ佐為を見てきた。

 

「陵王の後は納曽利を舞うのが習わし。お付き合いくださる?」

「え──!?」

 

 納曽利とは右方──高麗楽を代表する一作だ。陵王の番舞(つがいまい)としておおよその場合は陵王ののちに舞うのが流れである。

 二人舞であり、舞われる機会も多いために一端の貴族であれば大まかな流れは頭に入っているものだ。栞も当然、佐為が舞える前提で話しているのだろう。

 むろん舞えるし舞そのものは嫌いではない佐為だ、が。

 

「私が相手では見劣りしてしまいますし……」

 

 遠慮してみるものの、栞は重ねていた手を引っ張って佐為を立たせた。

 わ、と声を漏らした佐為は一つ息を吐いて観念する。

 

「ひとさしだけなら……」

「では“破”の部分のみを……。博雅さま」

「ん。……しかし都中の女人に恨まれそうな光景だな。私がそなたたち二人を独り占めとは」

 

 そうして自身の笛の音に合わせて舞う二人を博雅は目を細めて見つめた。

 栞の舞は天賦の才だ。舞台上での「華」も含めて才能である。

 裏腹に、ただそこに「居るだけ」でこうも華やぐとは末恐ろしい。と博雅は佐為をそう評した。男の自分さえ魅入られそうなのだ、女人ならなおさらだろう。宮廷一の花と謳われる理由がよく分かるというものだ。

 それに、彼の舞は及第点といったところか。技術的なことなら栞に及ぶべくもないが、危なげなく舞えている。普段からそれなりには嗜んでいたのだろう。

 二人の様子を見つつ、博雅はどこかホッとしていた。

 先ほど栞が陵王を舞っていた時──佐為は確かに目を奪われていた。まさか彼があのような熱っぽい目を栞に向けるとは、と我が目を疑ったほどだ。

 佐為はなにかと宮中ではうわさの絶えない人で通いどころも複数あるらしいと聞き及んでいたため気にかかることもあったが。あの様子を見るに一番に寵愛しているのは栞で間違いないのだろう。

 ならば下手に口を出すのも無粋というもの。うまくやってくれればそれでいい。

 

 ──そうして自宅へと帰る博雅を見送る頃には四条の屋敷はすっかり薄闇に包まれていた。

 

 せっかく身軽な格好をしているのだから散歩でもしようと栞と佐為は屋敷の池にかかる橋を渡って中島へと出た。

 この時期は池の周りを飛ぶ蛍が見られるのだ。

 

 佐為はどことなく栞と出会ったあの夏の夜を思い出していた。

 あの夜、蛍の光に照らされた水干姿は現世(うつしよ)のものとは思えないほどに妖美で……と遠くの篝火にぼんやり映し出された栞の横顔を見つめていると、どうかしたかと彼女が見上げてくる。

 

「いえ、そなたと出会った夏の夜を思い出していたんです」

 

 ああ、と少し栞がはにかむ。

 

「あなたは私を小舎人だと思われていましたね」

「もしくは夏の夜の精か……と」

 

 栞はそっと佐為へと身を寄せ、佐為は彼女の肩を抱き寄せた。

 するとふわりと水辺から辺りを照らす光がいくつも浮かび上がってきて、あ、と照らされる互いの顔を見合わせる。

 

「あの時は……こうして今年の蛍もあなたと見ることになるとは思いもしませんでした」

 

 微笑む栞の頬に佐為はそっと手を添えた。

 

「今年と言わず……一度契った仲なのですから、千年(ちとせ)の先までをもともに過ごしたいものです」

「千年……」

 

 そのようなありふれた言葉は栞にはあまり響かなかったのか、彼女は少し肩を竦めた。

 

「私はあまり前世や来世など信じていないのですが……そうなったらあなたは次の世でも私を見つけてくれるでしょうか」

「え……」

「ああでも、人は七度生まれ変わるなんて言いますから……その度にあなたと逢えるかな」

 

 栞は頬に触れていた佐為の手に自身の手を重ねた。

 

「佐為の君は千年先の世でも囲碁ばかりかもしれませんが……」

 

 そうしてほんの少しだけ苦笑いを漏らした栞はそっと佐為から手を放して離れ、蛍の光を追うように水辺の方へと視線を送った。

 

 あの夏の夜──栞の姿に目を奪われたのも、栞の棋力に惹かれたのも事実だ。

 

 彼女が大臣家の姫だと知った時は、まさか妻にしたいなどと大それたことを思ったわけではない。

 だが、もしも栞が摂関家の北の方にでもなれば──おそらくもう二度と会うことは叶わない。そう思った時、手の届かない人となる前に……と妻問いをしたのは碁のためだった。少なくとも彼女との対局が叶わなくなるのは惜しいと思った。

 だが……と佐為は蛍の光に照らされる栞の横顔を見つめる。

 あれが栞でなくとも、栞と同等の棋力を持った別の誰かであったとしても、果たして自分は同じように妻問いをしただろうか。

 

「佐為の君……?」

 

 ぼんやりしてどうしたのかと問われ、佐為はああと取り繕う。

 

「いえ……。蛍の光とそなたの美しさに少々酔ったようです」

「まあ……、どうなさったの? 今日はそんなことばかりおっしゃって」

 

 なにか後ろめたいことでもあるのかと問われ、佐為は誤魔化すように笑った。

 ──いま目の前にいるこの女人(ひと)を外に出さず自分だけに留めおきたい。などと、今まで情を交わした相手に思うことなど一度たりともなかった。

 してみれば、やはり栞を慕わしく思っていることは疑いようもないだろう。

 ああいっそここで蛍の光をくすぶる情炎に例えた和歌(うた)でも口ずさめば風雅なやりとりもできようが、伝えたい相手に和歌(うた)は通じず佐為はいよいよ自嘲した。

 すれば、ますます訝しがった栞がそばまで歩いてくる。

 

「佐為の君……?」

 

 佐為は迂闊にも自分へと近づいた相手に焦れたように手を伸ばした。

 

「蛍も恋に身を焦がす夜だと思っただけですよ」

「え──」

 

 そのまま顎を捉えて上向かせ性急に唇を重ねれば、栞は驚いたのだろう。が、すぐに応じてくれ……まるで物言わぬ蛍のように吐息だけを零して互いの熱を伝え合う。

 

 

 夏の短夜(みじかよ)なのがなんとも惜しく、今宵はひときわ暑い夜となりそうだ──と意識の奥で思ったままに寝殿に戻って夜明け近くまで睦み合い、ふと佐為は意識を戻して瞳を開いた。

 腕に抱いたまま眠ったはずの栞は寝暑かったのか少し身体を離して寝息を立てており、ふ、笑う。

 この暑さではさわりはあるまいが。思いつつも単衣を掛け直してやる。

 

「栞……」

 

 ふと、佐為は夕闇の池のほとりで交わした言葉をよぎらせた。

 

『千年……』

『あなたは次の世でも私を見つけてくれるでしょうか』

 

 次の世でもこの女人(ひと)に巡り逢いたいと思うほどの想いを自身が抱いているかは分からない。

 こと男女のことは(いにしえ)からの(えにし)というのだから、想いの強さに関わらずにそのような縁で結ばれていれば次の世で逢うこともあるのだろう。

 

『この先でどれほど道に迷おうとも……私の帰る場所にはあなたがいるということです』

 

 そうであれば、婚礼の夜に栞の(いみな)を知ってああ感じたことが(まこと)となることもあるのか。と、そっと佐為は栞の頬を撫でた。

 千年先の世など想像さえできないが、それでも……とぼんやり思いつつ、佐為はいましばし微睡みの中へと戻っていった。



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第十話:夷狄襲来 - 外敵対策は大宰府(こっち)に丸投げで京の貴族連中は現場も知らずなぜああも呑気にのんびり構えて(略) -

 ──筑紫。大宰府。

 

 「(とお)朝廷(みかど)」と称されるほどの権限を持つ重要な地方行政機関であり、この国の西側の防衛及び外交を一手に担っている。

 

 その長官を務めるのは時の内大臣、源某(みなもとのなにがし)

 某代天皇の后腹・故一品式部卿の宮の嫡男でのちに臣籍降下した彼は「大臣」の権限と先の左大将という経験を活かして高麗(こうらい)唐土(もろこし)との貿易──正式な国交はなかったものの──を円滑に進め、また兵団を再編成して西側の守りを強固に作り上げていた。

 

 ──栞の父でもある彼が筑紫に赴いて数年。

 

 台風(野分)の季節のとある夜。その日も例に漏れず、外は酷い豪雨という有り様であった。

 

大臣(おとど)! 大臣(おとど)!! 対馬守(つしまのかみ)が参っております!!」

 

 ふいにけたたましい知らせが飛び込み、大臣は飛び起きる事となる。

 急ぎ政庁の政務の間へ顔を出せば、大宰少弐に連れられた濡れ鼠の対馬守(つしまのかみ)が伏して声を上げた。

 

「申し上げます! 今より五日前に夷狄(いてき)の来寇を受け対馬介代(つしまのすけだい)及び数多の民が攫われ、島は壊滅の危機に瀕しております!」

 

 あまりの報告にさしもの大臣も絶句した。

 聞けば彼は来襲を受けて賊徒に対抗しようと兵を率いるも多勢に無勢。一時後退して最終防衛線だけは守り抜くよう命じ、自らは報告のために大宰府へと決死の覚悟で渡ってきたという。

 一通りの報告を聞いて大臣はすぐさま控えていた少弐以下に命じた。

 

「筑紫の武士団全てに状況を伝達せよ! 賊徒の規模を顧みて山陽の武士団数個も内大臣権限で増援に来させるのだ、急げ!」

「ハッ!」

「それと、駅馬(はゆま)の用意を!」

 

 海賊の出没はさして珍しいものではないが、島一つを襲うというのはいささか規模が大きい。

 夷狄(いてき)という報告だったが、唐土(もろこし)高麗(こうらい)とは現時点で敵対関係にはなく、友好的なやりとりが叶っているのだ。とあらば、賊の出自次第では厄介な外交問題となりかねない。

 ──都まで飛駅(ひえき)発遣(はっけん)してもこの野分の時期だ。七、八日はかかるに違いない。その上、議政官(連中)の協議の結果を悠長に待つのは愚の骨頂。

 

 対馬守(つしまのかみ)によれば賊の規模は数千。賊船は四、五十隻。早急に鎮圧しなければ、対馬のみならず壱岐や引いてはこの筑紫をも襲うだろう。

 いや、最初の襲撃からすでに五日は経っている。壱岐は十中八九既に襲われているはずだ。つまりもう一刻の猶予もない。

 賊が筑紫(ここ)へ辿り着く前になんとしても撃退せねばならない。

 

 過去、大宰府独自の決定を朝廷はああだこうだと批判ばかりしてきたが幸いにも自分はただの大宰帥(だざいのそち)ではない。内大臣なのだ。ある程度までは事後報告も許されよう。最優先すべきは朝廷の顔色伺いではなく筑紫、ひいては鎮西の防衛だ。

 

 

 そうして大臣自ら大兵団を率いて陣頭指揮をとっている頃、各駅馬を飛ばしに飛ばして都を目指していた飛駅使(ひえきし)の鈴付きの馬は、六日目の朝に朱雀門へと辿り着いた。

 

「筑紫の(そち)大臣(おとど)より火急の知らせにございます!!」

 

 飛駅使(ひえきし)は清涼殿の滝口に通され、地面へと伏した。

 この身分の者に今上が直接に顔を見せることなどあり得ず、話を聞くのは蔵人頭の一人である源の頭弁(とうのべん)だ。

 頭弁(とうのべん)飛駅使(ひえきし)から報告を受け、やや血相を変えて清涼殿の母屋へと戻った。

 

主上(おかみ)!」

 

 そうして今上が右大臣と話しているのも構わず割り込み、跪く。

 

「筑紫より報告にございます。夷狄(いてき)の来寇により対馬は壊滅状態。次官ほか島民が攫われ、賊の規模は数千、賊船約五十隻。頻発する海賊騒ぎとは一線を画しており、(そち)大臣(おとど)は筑紫の武士団及び周辺国から数個の武士団を呼び寄せ御自ら陣頭指揮をとってこれの壊滅にあたる由にございます。なお、改めての報告書を無事提出できるよう武運を祈ってほしいということで……」

 

 頭弁(とうのべん)の報告に、清涼殿にいた全ての人間が凍りついた。

 

「……なんと……?」

 

 今上ですら目を見張ってそう呟くのが精一杯と言った具合だ。

 

 むろん女官も女房たちも控えていた蔵人や侍従たち──佐為含む──も例外なく絶句していた。

 

 ハッとしたように今上は眼前にいた右大臣を見た。

 

「右大臣、至急参議以上を集め朝議を! 頭弁(とうのべん)、使者に褒美を取らせよ」

「かしこまりました」

「侍従、佐為の侍従……!」

 

 そうして今上は佐為を呼び、やってきた彼をまっすぐ見やった。

 

「そなたはすぐ四条へ戻り、北の方に今のことを話して差し上げよ。落ち着くまで出仕を控え、姫についていてやるがよい」

「しょ、承知いたしました」

 

 佐為もまた顔面蒼白といった具合で、今上はそれだけ告げると再び右大臣に向き直った。

 

 

(そち)大臣(おとど)からの報告書によると対馬守(つしまのかみ)から報告を受けたのが七月二十六日。本日は八月二日……既にケリがついているか未だ闘いの最中か」

「とあらば、恩賞を出すか否かをまず決めなければならぬだろう」

「それよりも高麗との関係をどうするかだ。国交もない、賊の主体も分からずでは動きようがないではないか」

主上(おかみ)はまた(そち)大臣(おとど)の判断に任せ勅を出すなどと甘いことをおっしゃっているが身内贔屓がすぎるというもの」

 

 

 そうしてこれと言った具体的な結論も出ないまま朝議が続くも、筑紫から遠く離れた朝廷にできることはなく。

 

 渦中の筑紫では要衝(ようしょう)の防衛体制を強化した上で博多湾に浮かぶ能古島に前線基地を構え、兵船五十隻が玄界灘に飛び出して賊船と激しい戦闘を繰り広げていた。

 その最前線で自ら指揮をとっていたのは大臣その人であるが、赴任して以降に行ってきた兵団再編成が功を奏して賊の鎮西本土への上陸前に迎撃態勢を整えるに至ったのは上等と言えるだろう。

 海賊対策に水兵を強化していた甲斐もあり、無数の弓矢が賊船に降り注いでは賊を撃退していく。

 

 それでも天はどちらの味方か。野分(のわき)のせいで海は荒れ、戦闘は激しいものとなっていった。

 よくある朝鮮からの海賊とは毛色が違っており、ひとたび賊の乗船を許せば大太刀で凄惨に嗜虐の限りを尽くす様を見て大臣は接近戦の回避を指示。射程の限界まで距離を取り弓矢で応戦するよう命令を出した。

 

 

 その筑紫の戦闘の様子さえ分からないまま、都では時間だけが過ぎていった。

 

 佐為は四条の屋敷の東の対に籠りきりの栞を心配しつつも黙って見守るしか術はなく。

 

「栞……」

 

 時折り馬場に出ては弓を引いている彼女は、おそらく父の援護に駆け付けたい心境なのだろう。

 矢は寸分違わず的に射られていき、その見事さがかえって佐為をはらはらと案じさせた。

 出仕を控えるよう言われているため内裏がどう動いているかは分からないが、様子を見にきた博雅によれば陰陽師に闘いの行方を占わせたり、僧官を呼び寄せて加持祈祷を盛大にやらせているらしい。

 

 ──占いや祈祷が前線で兵を率いている父の役にどう立つというのか。

 

 と、相も変わらず迷信じみたことを受け付けないらしき栞は苛立った様子を見せていたが、それ以外にできることはないのも事実だ。

 が、栞の焦燥も無理からぬこと。珍しく博雅でさえ神妙な様子で憤りを見せていた。

 というのも、議政官内では博雅の叔父であり栞の父には従兄弟にあたる源の中納言のみが筑紫の状況を憂い安否を気遣っている状態で、他は藤家同士あるいは藤家の顔色を伺っている状態だという。

 “源氏(げんじ)大臣(おとど)”などこれを機に消えてくれればありがたい。──そう考えている層は民がいくら死のうが気にも留めないのだ。とは博雅の弁だ。

 

 藤原氏の端くれとして、佐為にはこの賜姓皇族と藤家の睨み合いをどう見ればいいのかはっきりとは分からずにいた。

 

 所詮はこの一大事に出仕しなくて良いと言われる程度の自分には考えることすらおこがましいのだ。

 今上の言う通り、今は栞についていることが自分の役目なのだろう。

 少し風が出てきた。佐為は栞を屋敷内へ連れ戻そうと歩み寄る。しかし栞は弓を構えて矢を引き絞り、まるで風に煽られることを計算済みのようにきっちりと的に射ってみせた。

 

「なんと……! 先の左大将のお血筋とはいえ見事なものですね」

 

 さすがの佐為も目を見開いて感嘆し、栞はいいえと肩を落として弓を下ろした。

 

「今は野分(のわき)の季節です。筑紫の野分(のわき)は都よりも激しいものだと聞き及んでおります。海が荒れ狂う中で父上たちはどうなさっているかと思うと……」

「栞……」

 

 佐為は宥めるようにして栞の手を引き、東の対の中へと連れ戻した。

 女房たちが小袿を持ってきて栞に羽織らせ、それでも栞はぼんやりと外を見つめている。

 

「佐為の君」

「はい」

「私のために出仕をお控えなさってるんでしょう? 筑紫から知らせが届くまでにはまだ時間もかかるでしょうから、気になさらず参内なさってください」

「今は私などが出仕してもお役に立てることはありませんよ。それに主上(おかみ)もそなたを心配なさってお気遣いくださっているのですから」

 

 佐為は栞の肩を抱き寄せて自身の胸に引き寄せ、髪に指を絡めながら宥める。

 小さく栞が笑みのような息を溢したのが伝った。

 

「ありがとうございます、そばにいてくださって」

「なにを感謝することがありますか。私たちは妹背なのですから」

 

 軽く言えば、わずかに栞が肩を揺らしたのが伝った。

 佐為もつられて頬を緩めつつ思う。

 この広い屋敷に大臣(おとど)の姫がたった一人で残されたのだ。任地は遠く、危険も多い。

 都を出たことのない自分には想像すら及ばないが、今生の別れすら覚悟をして姫一人をここに残して行ったに違いない。

 ──そんな大臣(おとど)鍾愛(しょうあい)の姫を、なまじ碁が強いというだけで妻とした自分など叩き斬られても文句は言えないのではないかと佐為は一人自嘲した。

 

 

 八月四日、筑紫。

 

 野分(のわき)により海は時化ており、鎮西の兵船及び賊船は壱岐に上陸しての合戦に相成っていた。

 

「放てーーーッ!!!」

 

 源氏の(そち)大臣(おとど)壱岐守(いきのかみ)が構えていたと思しき塹壕(ざんごう)に陣を構え、一斉放射で賊を討った。

 その賊の応戦具合から、幾度となく討伐してきた高麗の海賊とは違うと確信しつつ大臣は思う。

 

 当初の予測通りに壱岐は既に一度蹂躙された後であり、壱岐守(いきのかみ)以下主だった官人は無残に惨殺されていた。島民・家畜問わず生き延びた者はごく僅かで、聞けば賊に連れ去られた者も多いという。

 

 ならば尚さら高麗の仕業とは思えず、大臣側の武官武士たちは嵐の中で賊を追い詰め捕らえていった。

 そのうちに野分(のわき)が去り、賊は再び船に乗り込み逃亡を図る。

 大臣は二十隻ほどを追撃に出すも、以下のような指示を出した。

 対馬を越えれば高麗の制海権に入る。よって深追いはせず、その先は高麗水軍に任せよ、と。

 さらには賊の残党が肥前の海岸沿いの要衝(ようしょう)を襲う可能性を考慮し、国司以下には警固体制を整えておくよう既に命じてある。──この布陣があたり、数日後に筑前に程近い湾岸部を襲った残党を肥前の国司率いる兵士たちは無事に討ち取り、十余名を生け捕りにして大宰府へと移送してくることとなる。

 

 

 こうして十日以上続いた戦闘の後、源氏の大臣(おとど)は壱岐と対馬の被害状況の詳細を調べるよう命じて数名のみを残し、大宰府の政庁へと帰還すべく船を出させた。

 

 

 ──姫。

 

 

 玄界灘の潮風に吹かれながら、大臣は都に残してきた一人娘のことを浮かべる。

 もう何年も会っていない姫はどう成長しているだろう。今回の出兵も博雅あたりから伝え聞いているだろうし、さぞ心配しているに違いない。

 

 早いもので、姫ももう数えで二十歳となる。

 

 あの姫が産まれた時、どう育てたものかとずいぶん頭を悩ませたものだ。

 血筋だけなら女王と遜色ない姫だ。ゆえに春宮に入内させれば将来の皇后にふさわしいと誰もが思い、また藤家が恐れていたことは肌で感じた。一世源氏の台頭を藤原一族はよく思っておらず、濡れ衣での配流の憂き目にあったのは一人や二人ではない。

 だからこそ、姫を(きさい)がねとすることを早い段階で断念したのだ。上流の姫は常に政争の道具だ。特に栞は数代に渡り帝の信任が最も厚かった一品式部卿の宮の孫にして左大将の姫。源氏一族から悲願の立后も夢ではなく、入内すれば今上も三后の空位を待って姫を中宮にしただろう。

 しかし、その道のりは権力闘争という名の鬼が巣食う険しい旅だ。その中に身を置かせることが姫の幸せとも思えず、帝の外祖父となる夢など最初から抱かずにいた。

 

 そのように考える皇族や賜姓皇族はなにも自分に限ったことではない。

 

 従兄弟で親友でもあった博雅の父宮もそうだ。

 帝位への夢など最初から抱かなかった彼は薨る直前まで我が子の行く末をひどく気にかけていた。

 幼くして父を喪ったのが不憫で、博雅以下の宮の息子たちを我が子同然に目をかけてきたつもりだ。

 その博雅がまたどうしたことか、類稀な管弦の才に恵まれたばかりでなく、文筆なども卒なくこなす優秀な人物でありながら、野心というものを微塵も抱かない性質のまま育ってしまった。公務に熱心というわけでもなく、藤家の眼中に入らない彼は出世はそこそこで終わる代わりに政争にも巻き込まれず穏やかな生涯を過ごせることだろう。

 何事にも鷹揚な性格で、だからこそ姫の、栞の後見を頼んで都を離れたのだ。

 仮にも大臣(おとど)の姫が落ちぶれるようなことがあってはならない。と、幼い頃からずいぶん心を砕き栞には色々なことを身につけさせてきたつもりだ。

 摂関家にやるつもりもなく、大嘗祭のあとに藤の中納言──当時はまだ宰相だったが──からそれとなく姫を室に迎えたいと仄めかされた時も交渉の座にはつかなかった。

 そもそも、その昔は五世女王まで降嫁は許されなかったのだから、望まぬ結婚をさせるくらいなら未婚を貫き気楽に過ごさせればいいのだ。

 それだけの財産は充分にあるのだから。少なくともあの屋敷の中であれば、自由に生きていけるのだ。

 

 ──などと考えていた姫が結婚したと博雅からの文で伝え聞いたのは、一年ほど前の話だ。

 

 姫が望めば……とは都を離れる際に博雅に伝えてはいたが、あまりに青天の霹靂で政庁の政務の場で文を開いた瞬間に卒倒しそうになってしまった。

 

 聞けば相手は藤家、とは言えとうの昔に没落した一族の傍流で今や下級官人の出。本人は若くして課試に通り侍従に取り立てられ昇殿も許されたということで、今上の覚えがいいのも才ある若者であるのも伺い知れたものの。

 身分違いも甚だしく、いったいどういうことだと頭を痛めていたら式部卿の宮まで文をくれ、いかに婚礼の儀が素晴らしかったかを切々と伝えてきた。

 

 藤原佐為という名の美貌の朝臣で、博雅が言うには姫とは後宮で偶然出会い、囲碁を通して交流するうちに通う仲になった。

 

 という事であったが。

 そのあまりの美しさは後世まで語り継がれるほどだと式部卿の宮でさえ絶賛していたから、おそらく容貌には優れた青年なのだろう。

 下級官人の出の例に漏れずの大学寮出身ゆえに、この大宰府に詰めている佐為と同時期に大学寮にいた官人を片っ端から集めて人となりを聞けば、全ての者がやはり彼の容姿を褒めそやした。

 曰く、暇さえあれば碁を打っている青年らしく、おおよそ出世欲らしきものは見えなかったということだ。

 

「姫……」

 

 彼らの言い分が正しいならば、昇進や生活のために大臣家の姫を無理やり我がものとしたわけでなく栞の方が彼を好いて受け入れてのことなのだろう。

 元よりこれだけ身分に差があれば栞が肩身の狭い思いをすることもなかろうし、かえって良かったのかもしれない。

 算道出身で財産管理の手伝いをしてくれ助かっているとは栞がくれた文にもあり、博雅や宮たちが不満を漏らしていないのが栞が幸せでいる何よりの証拠だろう。

 

 しかしこの目でそれを確かめることができる日はいつになるやら。

 一日でも早く姫に、そして婿君にも会いたいものだ……と野分(のわき)明けの爽やかな景色の中で見えてきた博多湾を前に大臣は頬を緩める。

 

 

 とはいえ、この討伐戦の事後処理を思えば頭が痛いばかりであり。

 八月十日を過ぎたあたりで肥前守(ひぜんのかみ)らが捉えた賊徒が政庁に移送されてきて、大臣は自らが捉えた賊と合わせて幾日もかけ尋問させた。

 漢語及び新羅語の通訳を複数付けて調べたところ、ごく数人に新羅語が通じた。曰く、自身は高麗人であり高麗にて同じように襲撃され捕らえられていたという。

 他は漢語がなんとか通じたものの意思疎通は困難で、唐土(もろこし)の異民族か……よもや渤海(ぼっかい)靺鞨(まっかつ)系の遺民ではないかと感じつつ大臣は──使者を遣わす勅は出ていたため──高麗に使者を送った。

 

 高麗は高麗で賊徒の襲撃を複数回受けていたらしく、水軍がこれの大半を討ち取ったあとに救助した中にいた対馬介代(つしまのすけだい)に対馬・壱岐の島民引き渡しの旨を伝えていた。その上で(そち)大臣(おとど)からの使者を受けた高麗は正式に大宰府へと高麗側からも使者を遣わすことを決定した。

 そして船を数隻出した高麗の使者は、対馬介代(つしまのすけだい)も含めた百五十人ほどの救助者を乗せて大宰府へと向かった。

 

 その使者団が途中の対馬・壱岐にて島民を下ろし、無事に筑紫に着いたのが八月末日。

 使者を迎え入れつつ源氏の(そち)大臣(おとど)は考えた。

 大宰帥(だざいのそち)兼内大臣権限でここまでは独自にやったが、保護している高麗人の返還や賊徒の対処、さらには高麗官人曰く取りこぼした賊の船に捕らえられている和人の救出に既に向かっているということで、これらの対応はさすがに大宰府主導で決められるものではない。

 

 とりあえず高麗の使者を手厚くもてなしつつ、状況を目の当たりにした対馬介代(つしまのすけだい)に詳しく話を聞くことにした大臣だが、賊徒の主体が異民族であるのは間違いないということだ。

 その話も含めて書状にしたため、急ぎ朝廷へと馬を走らせる。

 大臣としては保護した高麗人を返還し、かつ使者に贈品を与えた上で高麗国に正式に感謝状を出して改めて残りの民の保護・返還を一刻も早く求めたいところであった。が、さすがに朝廷の決定に先んじて動くわけにはいかないだろう。

 まして有職故実という名の『先例』を重んじる朝廷なのだから尚更だ。

 

 ともかく出来る限り迅速に対処を決定して知らせて欲しい。

 との大臣の願いを乗せた使者は翌月の七日に内裏に辿り着き、すぐさま議政官は朝議を開いた。

 

壱岐守(いきのかみ)含め官人・島民の百余名が殺害され、家畜や民家、寺なども襲撃されて壱岐は凄惨な有様であったということだ」

「なんと恐ろしい……! 鎮魂の祈祷をさっそくさせねば」

「捕らえた賊徒の中にはやはり高麗人もいたのだ。この賊も夷狄(いてき)ではなく明確に新羅の賊と見た方がいいのではないか? 国号が改まっても新羅人が消滅したわけではあるまいよ」

(そち)大臣(おとど)も全く早まったことをしてくれたものだ」

 

 朝議はおおよその場合、下位の者から順に発言していく習わしであるが、昨今は大納言以上の藤原一族が意思決定するだけの場と化しているため他の一族は参加しない場合も多い。

 しかしながら今回ばかりは全員揃っており、源の中納言が習わしに抗うように口を開いた。

 

高麗(こうらい)は使者を遣わせてこちらの捕虜を救出・保護し送り届けてくれたと大臣(おとど)は書いているではありませんか。対馬介代(つしまのすけだい)の弁でも高麗(こうらい)夷狄(いてき)の来寇を受け水軍は何度も対処しているようですし、大臣(おとど)高麗(こうらい)の申し出を受けて一刻も早い残された島民の救出を訴えておいでです」

 

 視線が一斉に源の中納言に集まった。

 中納言にしても源氏側がよく思われていないことはわかっており、せめて誰か味方につけねば。と、ちらりと藤の中納言を見やった。──彼は未だに四条の姫に懸想しているゆえにおそらくその父に関わる意見も甘くなるはず。

 年若い彼は目線で訴えられて逃げられなかったのだろう。小さく喉を上下させる様子を見せた。

 

「わ、私も源氏の大臣(おとど)の判断は迅速で的確であったと思います。あの方は内大臣でいらっしゃるのですから、朝廷を代表して高麗の使者を受け入れても問題はないでしょう。いずれにせよ高麗が公式に民を救助してくれたのは事実。すれば、こちらもあちらに正式に礼をするのが筋というものかと」

 

 その様子を見ながら源の中納言は内心で息を吐いた。

 (そち)大臣(おとど)としては事後処理を全て大宰府主導でやりたい思いなのだろう。が、朝廷の顔を立てねば源氏一族の立場が危ういゆえにまどろっこしい思いを抑えて書状を送ってきたに違いない。

 朝廷には朝廷の決まりがあるとは言え、結論が出るのはいつになるのか──。

 

 そんな朝議は一日では結論が出ずに、三日後になってようやく高麗に謝状を送ることで落ち着いた。

 また、筑紫への恩賞を出すかどうかで揉めに揉めたが、今後も海賊騒ぎは避けられないと見込んで現場の文官・武官の士気の維持のためにも結局は出すことに決まった。

 

 そうして九月十日の朝、今上に召された博雅は四条に寄って佐為を伴い出仕した。

 

 

「此度の夷狄(いてき)の来寇……犠牲も出たとは言え源氏の(そち)大臣(おとど)の活躍で予想された被害よりも少なく済んだことは不幸中の幸いであった。源朝臣博雅(みなもとのあそんひろまさ)藤原佐為朝臣(ふじわらのさいあそん)、そなたらを大臣(おとど)の代わりと思い篤く礼を言う」

 

 

 今上は一通りの議政官の結論を語って聞かせた上で博雅と佐為にそう言った。

 二人は首を垂れて深く頷く。

 今上としては一難去って安堵したのだろう。小さく息を吐いた。

 

「侍従、四条の姫の様子はいかがか?」

「はい。ずっと父君の安否が気がかりな様子でしたが、無事と聞き及び今朝はようやく落ち着いたようでした」

「そうか。私も大臣(おとど)が筑紫にいてくれて頼もしい反面、そのせいであの方にはひどく心細い思いをさせていると申し訳なく思っているのだ。今後もそなたがしっかりそばについていてやって欲しい」

 

 言われて返事をしつつ佐為もほっと胸を撫で下ろした。

 

 

 そうして朝廷から大宰府に使者が戻り着いたのが九月の末。

 その勅諚に従い、(そち)大臣(おとど)は高麗の使者に礼状と共に金銀等の贈品を持たせ、保護していた高麗人を返還して帰国する彼らを見送った。

 高麗側が行方知れずのこちらの民を救助した場合は再び送り届けてくれるよう依頼し、その後のことはまた改めて朝廷で協議するということで、まだまだ全てが終わったとは言えずに大臣は無意識にため息を吐いた。

 

 ともかく、ちょうど秋の除目(じもく)ということもあり賊徒の討伐の際に活躍した幾人かは出世という形で禄が贈られるということだ。

 朝廷からの禄で不足な分は大宰府の予算から出すことを大臣は決めた。ここは都とは違うのだ。一部の人間にのみ恩賞を与えても意味はない。命がけの闘いに臨まねばならない場合もあるというのに、禄もなしでは彼ら──末端の武人たち──の士気は維持できないからだ。

 

 そうして、高麗が海賊船の追討にて救助した和人の五十名ほどを送り届けてきたのはそれから二ヶ月後のことであった。

 朝廷は未だ元新羅の陰謀を疑っていたが、やはり賊徒の主体は靺鞨(まっかつ)系の異民族。高麗人も含め住民を攫い労働力として使う目的だったという。

 

 その一連の報告書をしたためて朝廷に送り、再び高麗に礼状を送り終えて全てが終結した時には既に年が明けていた。

 

 

 今ごろ内裏では正月行事に追われている頃だろうか──と大臣はふと思う。

 分かっているのだ。まつりごとは朝廷の核。有職故実を重んじる貴族たちは日々多種多様な行事に追われている。

 

 そんな彼らの目に、果たして都以外が入っているのだろうか……と、時折り思うことがある。

 この筑紫に赴任して数年、筑紫の武士団はずいぶん強固に成長した。

 今は自分が統率できているが、この先に彼らを制御できない事態となればいったいどうなるのだろうか。

 いや筑紫に限らず、武士というのはその名の通り武力を有している。中には貴族崩れの武士さえいるのだ。

 その力を貴族(彼ら)とて知らぬわけではないというのに、最近は地方官に任じられてさえ下向して来ない者も大勢いる有り様だ。その穴埋めをするのは現地の豪族。既に地方権力に入り込む世襲制さえできつつあり、文武ともに彼らに侵食されつつある。

 だというのにいつまで貴族(彼ら)は都から動かず、今の生活を続けていられるか──。

 

 ふとよぎらせた思いを掻き消すように大臣は首を振るった。

 

 

 

 なお、彼の懸念通りに朝廷の支配力が弱り武士の台頭する世がいずれ来ることになるが──それはまだしばし先の話である。



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第十一話:それぞれの内裏事情

 早いもので栞と佐為が出会ってから三度目の夏が見えてきた。

 

 

 その夏の田植えの時期──。

 

 この時期、下級貴族を含めた下級官人の多くが農作業のために宮廷から離れる。人を雇う財も力もない彼らは自ら働く他ないからである。

 

 下級官人が出世を掴むには学問しか道はない。

 それでも盤石な上級貴族の壁は崩し難く、大学寮を出ても公卿にまで昇り詰めるものは一割にも満たない──その一割未満でさえ受領階級を含んでいるため、只人(ただびと)が貴族まで昇れる可能性はいかに小さいものか。

 まして大臣にまで昇ったものなど……、と菅原顕忠(すがわらのあきただ)は蔵人の詰所である蔵人町(くろうどまち)で控えながらふと昔のことを思い出していた。

 

 ──菅原道真の左遷以降、代々学問で身を立てていた菅原一族はその威光を急速に失いつつある。

 道真とはほぼ無縁の自分のようなものですら『菅原』というだけで大江氏などに一歩劣る扱いに甘んじなければならなかったのだから迷惑千万と言えるだろう。

 それでも学問以外に道はないのだ。他の菅原の人間の例に漏れず、顕忠自身も元服後には大学寮は紀伝道へと入った。

 

 そうして足掛け九年──ようやく官人登用試験(対策)に及第し喜び勇んで任官を待ったもののなかなか決まらず。待ちに待った挙句、山陰の中国(ちゅうこく)(じょう)として下向するよう言い渡された日の夜は屈辱で一睡もできなかったほどだ。

 外国(京の外)に出ることは恥。──そう思いつつも山陰で過ごした四年が全くの無駄だったかというとそうでもない。

 かの地は唐人(からびと)が多く来たる地。大学寮ではかじった程度だった漢音を磨き、唐土(もろこし)の言葉を問題なく話せるまでになった。そして、幾人もの唐人から碁の相手をするたびにこんな話を聞かされた。

 

『唐土では碁打ちは重んじられている』

 

 まだ都が平城にあった頃は大陸の皇帝のためにと碁の上手を重用したという話もあったが、既に遣唐使さえ廃止されて久しい。囲碁は私的分野の趣味であり公的にはなんの力も持っていないのが現状だ。管弦などの高雅なものと違い、帝の御師などという職位があるわけでもない。

 だというのに──唐土には()()があるという。

 碁を幼少の頃から得意としていた顕忠は身を思わず乗り出すほどその話に惹かれた。とはいえ所詮は遠い大陸の話。羨むことさえ虚しいというもの。などと感じていたちょうどその頃、京からのうわさを伝え聞いたのだ。春宮がことのほか碁に執心であられる、と。

 うわさによれば唐土のように囲碁を公のものにしたいとまで考えていると聞いた顕忠は、その日から自身の腕を密かに磨き始めた。万に一つも機会に恵まれれば、自分こそが当代一の碁の上手と名乗りをあげられるように、だ。

 幸い任地には唐人が多いためか碁の上手が多く、数年が経つ頃には顕忠は我こそが天下の碁打ちだと胸を張れる力を付けたと自負していた。

 

 そうして四年の任期が明け──帰京した顕忠はしばらくして大学允(だいがくのじょう)に任じられた。

 

 そこに()()()がいたのだ……と顕忠の拳に力が入る。

 

 算道にて学ぶ学生に類稀な美しさを持つ少年がいる、と当時の大学頭(だいがくのかみ)が頬を緩ませていたのをよく覚えている。

 藤原佐為──、藤原姓だというのに上級とは縁のない下級官人の出らしく、学生の少ない算道ではひときわ目を引く存在だった。

 とはいえ算道そのものは本科からは独立した存在でもあり、せいぜい「見目麗しい少年がいるらしい」と大学寮内でうわさになっていた程度だ。

 だというのに、あれはいつのことだったか。

 

 算道にえらく碁の強い学生がいるという話を伝え聞いたのは。

 

 大学寮という場所はまさに学問を極める場所であり、雑戯は堅く禁じられている。許されているのはせいぜい琴と弓の稽古だ。が、碁は卑しいものではなくあらゆる雑戯を禁じられている僧侶でさえ律令で例外扱いされている高雅な趣味。碁にばかり夢中になり学問が疎かになるという警告を鳴らす儒家もいたが、そんな儒家たちに愛されたのもまた碁であり、そのような雅致な遊戯を禁じることは不可能に近く、大学寮内でも囲碁だけは黙認扱いをされていた。

 密かに碁で身を立てたいと目論む顕忠は公の場での囲碁の地位向上を図ろうと折に触れて学生に碁を打たせ、儒と碁がいかに繋がっているかを説き、囲碁への関心の高まりが内裏まで届けばと心を砕いてきた。本科の学生を相手に熱心に教え続けた。

 だというのに、まさか算道の学生の、まだほんの少年に評判になるほどの碁才があるとは思ってもみなかったのだ。

 

 算道の学生は得てして盤上遊戯に長けている傾向はある。囲碁との親和性が高いのは否めない事実だ。

 みなはその事を怪しげな数字ばかりを見ているから先読みが身につくのだろうと下に見て冷笑するのが常であったが──そのうわさの少年は、藤原佐為は、いつ誰が挑んでも軽やかに白星を上げると紀伝道や明法道の学生の間にまで名声が広がるようになった。

 

 ──どうせあの君の美貌に見惚れて手を誤ったのだろう。

 

 そのような戯言も飛び交っていたが、顕忠はどこか脅威を覚えた。

 とはいえ、算道は閉ざされた世界。藤の花が咲くには相応しくない場所だ。権門の藤家に縁を持たぬ輩など脅威ではなく、下級官人のまま一生を終えるだろう相手に気を取られるなどは無意味。すぐに思い改めた。

 それよりも心を砕くべきは自身の出世だ。顕忠は大学允を務めている間、どこぞの公卿が碁好きだと聞けば飛んでいき縁を繋ぐという弛まぬ努力を繰り返し、ついに六位の蔵人という晴れがましい官職を手にするに至った。

 

 六位の蔵人とは帝の秘書たる蔵人所の官人である。

 本来なら地下の身分にも関わらず、昇殿が許され禁色さえ許可される羨望の位でもある。

 そのため権門の子息が任じられるのが常であるが、彼らはその地位には長く留まらず、すぐに出世していくのもまた常だ。

 一方で顕忠のように学問を修めた者が任じられる例もあり、そのような人間にとっては昇殿を許されるというのはこれ以上ない至極の喜びであった。

 

 顕忠が六位の蔵人となってすぐに当時の帝が譲位したが、春宮──今上──は前評判通りの囲碁好き。顕忠の碁の上手を伝え聞いた今上は顕忠を蔵人の地位に留めた。

 そうして、時おり今上から囲碁のために召されるまでになり……いずれはそれを足がかりに出世を、と思い描いていた顕忠をこんな話が襲ったのだ。

 

 あの藤原佐為が課試に通ったという。しかも全問正解(甲第)でだ。

 

 算道は得てして大学寮を出ても式部省の省試なしに任官される場合も多く、七月をもって大学寮を出た彼はすぐに秋の除目での任官対象となった。

 その際に彼を気に入っていた先の大学頭の推挙でもあったのか、はたまたうわさを聞きつけたのか。彼が類稀な美貌かつ神童と呼ばれたほどの碁の上手であると今上の耳に入ったらしい。

 

 ぜひ側にとの今上の声もあり、大初位(だいしょい)という不文律を大幅に破った彼は従五位下──異例中の異例で昇殿まで許され侍従に叙された。

 

 その彼の昇殿に際する拝舞の優美な仕草はいまも語り草になるほどであったが、顕忠としてはこの美しいばかりの若人の下座につかねばならない自分の不幸を呪った。

 一度たりとも対局したことのない相手であったが、彼と打ったという学生に石を並べて見せてもらうこと数度。もしや勝てないのではないか……と一瞬だけでも脅威に感じた心情が未だ尾を引いているせいで彼を快く思えないのかもしれない。

 

 しかも蔵人と侍従の職務は似通っており、多くの場合は納言や中将などとの兼職──顕忠や佐為ではなく権門の公達たち──だ。

 つまるところ大学寮上がりの六位の蔵人や侍従がいくら今上の側に仕えても権力とは程遠く、基本は昼夜問わずの雑務に従事するのみである。

 しかしながらそれこそが今上の狙いだったのだろう。佐為が内裏にあがるまでは時折り今上の対局相手をしていたにすぎない顕忠であったが、今上は上達への意欲を見せて本格的に教えを請いたいと願うまでになった。

 

 とはいえ管弦や儒学と違い碁の師などという職位はなく──宣旨の降りる正式なものにはなり得なかったが、今上は佐為と顕忠を師として碁を学ぶようになっていった。

 

 なぜ一人ではなく二人を指名したのだろう。疑問に思った顕忠であったが、蔵人、しかも六位ともなれば激務で出仕日数(上日)は他の官職に比べ桁違い。ほぼ毎日、内裏に上がって雑務をこなさなければならない。

 ゆえに顕忠一人に負担をかけまいという今上の心遣いに他ならない。そう顕忠は理解していたが、一方で不満もあった。

 今上が顕忠と佐為を召す割合はほぼ同じだったものの、佐為の方が公務に自由が効く。よって今上は女御たち──に仕える女房たち──を鍛えて欲しいと佐為に後宮での業務を与えたのだ。

 今上としては、自身の妃の棋力を間接的に鍛えて共に打つという楽しみのためだったのかもしれない。

 が──、ただでさえ佐為が昇殿して以降かしましかった宮廷の女官女房たちがこの後宮での佐為の公務に文字通り狂喜乱舞したというのは顕忠本人も見知っていることである。

 

 以来、宮廷一の花とも謳われる美貌の君の気をなんとか引こうとみな手ぐすねを引いている。などという話を聞かない日はなかったほどだ。

 

 忘れもしない。あれは佐為が昇殿して最初の端午の節句のことだ──。

 

『いつも変わらぬ美しさの橘の君に──』

 

 たまたま温明殿の辺りを歩いていたらそんな場面に出くわした。

 花橘をあしらった薬玉を女官に贈る佐為がいたのだ。

 相手は橘内侍(きのないし)──宮廷一の美姫とも呼ばれる才媛。歳の頃は佐為よりやや上か。

 こちらはこれほど出世に心を砕いているというのに、女遊びに余念がない辺りは腐っても藤家の人間か。神童ではなく業平(なりひら)の再来の間違いであろう。などと思ったことを鮮明に覚えている。

 その後も麗景殿の宰相の君など名高い美女ばかりと浮名を流していた彼だったが、それがただのうわさなのか真実かさえ顕忠にとってはどうでもいい話であった。

 

 あのような美しいばかりの男になにができる──。

 

 そう思っていたというのに。

 

『佐為殿が四条の大臣(おとど)の姫君とご結婚されたそうだぞ』

(そち)大臣(おとど)の姫君と──!? 長秋卿が許したのか!?』

『それが……式部卿の宮さまがたも婚礼に駆けつけられ、それは立派だったという話です』

 

 まさか大臣家の姫を妻とするとは──。あの日の衝撃は忘れられない。

 いくら宮廷の女官女房と恋をしようがしょせんは遊び。みなが分かっていることだ。

 だが結婚となると、おおよその場合はそれ相応の相手が北の方となるものだ。

 男の出世は女の家にかかっていると言っても過言ではないのだから、みな良い家の娘を口説き落とそうと目論んでいる。が、現実はそう上手くいくはずもなく、下級貴族が大臣(おとど)の姫と、などとお伽話にさえ描かれないだろう。

 ましてあの姫は今上や院にも寵愛され──、摂関家の嫡男が求婚していたという話さえ聞くほどだったというのに。

 

 いったいどんなまやかしを使えばそのようなことが可能なのか。

 あの姫の後見人は放縦不羈(ほうじゅうふき)で知られる源博雅といえど、身分違いがわからぬほど愚かな人とも思えない。どんな手を使い許可させたのか。

 一つだけ確かなことは、いずれ(そち)大臣(おとど)が帰京すれば佐為は押しも押されもせぬ内大臣の娘婿。出世も思いのままとなるだろう。

 

 このままでは下座に甘んじるだけでは飽き足らず──いずれ上達部となった佐為を生涯に渡り見上げ続けなければならなくなる。

 

 そんな思いが顕忠の胸中をよぎった。

 

 そして顕忠は佐為への認識を改めた。ただ美しさをひけらかし女房女官に騒がれるばかりの若人だと思っていたが、妻としたのは大臣家の姫。これは彼の野心の為せる技に他ならないだろう──と。

 

 ──せめて今上の寵愛を奪われるわけにはいかぬ。

 

 そう誓ったことを思い出しつつ、顕忠は校書殿を出て清涼殿へと向かう。

 そろそろ昼。官人の退出を見届け、今上の夕餉の準備などやることが山積みだ。

 

 などと思っていると今まさに思い浮かべていた渦中の人物──佐為と博雅が揃って今上と話をしている様子が見え、無意識に舌打ちをした顕忠は慌てて雑色の袍で口元を押さえた。

 博雅をお召しということは政務とは関係ない管弦遊びの話題に違いない。いちいち気を取られている場合ではないと雑念を振り払う。

 

 

 

「ど、どどうしましょう……! ああどうしましょう!」

 

 一方の佐為は博雅と共に今上から話を聞き、退出して共に四条の屋敷に帰ってなお焦ったように同じ言動を繰り返していた。

 

「なんなんです……?」

 

 見かねた栞が博雅に尋ねれば、博雅は苦笑いを零す。

 曰く、今上が近々管弦の催しを主宰するらしく。その趣向は楽人を殿上人と地下人に分け、その腕を競い合わせるのだという。つまり殿上人対地下人の管弦対決であるが、演奏者の選出を今上自ら行い──殿上人側は博雅や式部省の宮など錚々たる管弦の達人を選んだ上で最後に博雅と佐為を前にしてこう言い放ったという。

 

『笛には藤の侍従──そなたをと考えている。そなたも長秋卿の笛を間近で聴き習う機会に多く恵まれ、さぞ上達したことであろう』

 

 つまり博雅たちに混じって佐為は横笛を担当しなければならず、恐れ多くて混乱しているのだと栞は理解した。

 全く解せないという面持ちなのは博雅だ。

 

「佐為殿は笛には一家言あるように感じられだが」

「そりゃ……多少はできるという自負はあります。が、博雅三位(はくがのさんみ)や宮さまがたに混じるなどとても……!」

 

 佐為にとってあくまで管弦は趣味だ。秀でてはいるが、当代一の名人に囲まれるとやはり劣るだろう。

 とはいえ選出された以上は拒否する権限など佐為にあるはずもない。

 

「まあ、しばらくは私もここに通って教えよう。叔父上たちにお出ましいただくのも恐縮だし、ある程度仕上がったらこちらから出向いて合わせて本番に備えれば問題なかろうよ」

 

 そんな博雅の声に顔を引きつらせる佐為とは裏腹に栞は感嘆の声を漏らした。

 

「では、宮さまのお屋敷で予行を行う際には私もお供してかまいません?」

「良いんじゃないか? なァ佐為殿」

「え!? あ、まあ……」

 

 はい。と呟いた佐為に栞は声を弾ませた。久々の外出である。

 

 

 そうして一ヶ月ほどの間、佐為は博雅に師事して横笛の腕を磨いた。

 元から笛の上手い佐為であったが、その上達ぶりは見て取れて、本番前の式部卿の宮の屋敷で行った予行では博雅や親王たちに囲まれても危なげなく吹きこなしており栞も本番の成功を確信して嬉しく思った。

 一方、式部卿の宮の屋敷に勤める女房たちは世に名高い美貌の君が来るとあって色めき立っていたという。

 

 

 本番は晩夏。納涼と称した今上主催の私的な御遊だ。

 殿上人の席は清涼殿東孫廂に、地下人の席は東孫廂に面した地面に用意された。

 

「こっそり垣間見に行きましょうよ!」

登華殿(ここ)でただ聴いているだけなんてもったいないわ……!」

「しっかり見て栞殿に背の君のご活躍ぶりを教えて差し上げないと……!」

 

 当日の後宮は登華殿も色めき立ち、どうにかして管弦対決の様子を見に行こうと女房たちは盛り上がった。

 

 むろん盛り上がるのは登華殿だけではなく後宮全体であり──後宮殿舎のうちの一つ、麗景殿。

 この殿舎の主である麗景殿の女御は、今上の皇子を産みまいらせた身でありながらも後ろ盾が心許ないゆえか奥ゆかしく、このような催しの際も慎ましくしているのが常だ。

 

「そなたたちは行けばよいではありませんか」

 

 そわそわと落ち着かない女房たちを見た女御がそう言い、彼女たちは互いに顔を見合わせる。

 

「ではせっかくですし、そういたしましょうよ」

 

 誰ともなくそう言い、そのうちの一人が奥で大人しくしていた一人の女房に声をかけた。

 

「宰相の君、あなたもお出になりませんと……」

 

 すると、宰相の君、と呼ばれた女房は小さく首を振るう。

 

「いえ、わたくしは……」

 

 艶やかな黒髪が揺れ、同僚たちはその見事さに感嘆しつつ一人がうっとりとして言った。

 

「まるで絵物語から抜け出てきた姫君のようだこと……」

 

 彼女の優美な様子に見惚れる女房の一人を横にほかの女房たちも捲し立てる。

 

「あなたが行かなければ佐為の君も張りがないというものですよ」

「そうです。どうせ北の方は御所にはお出ましにならないのだし……、裏腹に橘内侍(きのないし)は行くというのに」

掌侍(しょうじ)の君はご公務ですから……」

 

 控えめで煮えきらない態度の宰相の君に女房の幾人かは息巻いた。

 

「四条の姫にならともかくも、橘内侍(きのないし)に遠慮することなどありませんのに」

「だいたい佐為の君もひどいわ。宰相の君をこそ橘内侍(きのないし)よりご寵愛なさっていたのに、急に(そち)大臣(おとど)の姫とご結婚なさるなんて……!」

 

 興奮気味の女房たちを女御がとりなし、場が収まって宰相の君はほっとしたように息を吐いた。

 

 宰相、とは参議の唐名である。

 『宰相』と付く通称で呼ばれる者は、なにかしら参議にゆかりのあることがほとんどだ。

 事実、宰相の君の祖父は参議にまで昇った人物であり、両親に先立たれた彼女は祖父の養女となり暮らしていた。

 しかしその祖父も亡くなり身寄りもなく、伝手をたどって宮仕えをする運びとなったゆえに参議だった祖父のゆかりの女房、『宰相の君』という女房名を麗景殿の女御に与えられた経緯がある。

 深窓の姫とは言わないまでも、人前に出るのは恥と言われ育った身としては姿形を隠せぬ宮仕えに抵抗があった。が、生きるための選択肢は他になかったのだ。

 

 それから二年ほど経った頃だろうか。佐為が侍従に任官され初めて後宮のこの麗景殿を訪れたのは。宰相の君は在りし日のことを思い浮かべる。

 

 御簾の内から彼の姿を初めて見たとき、この世にこんなに美しい殿方が存在していたのかと言葉をなくした。

 むろん見惚れていたのは自分だけでなくその場にいた全ての女人で、それからというもの誰もが彼の気を引こうと競うように励んだ。

 一方で、あの頃から佐為は宮廷一の美姫と名高い橘内侍(きのないし)と恋仲だという噂もあり諦めた層も一定数いたという。

 いずれにしても自分には関係のないこと。そう思っていた自分に多少なりとも武器があったとすれば囲碁だろうか。

 幼い頃に引き取ってくれた祖父と遊んだ思い出のおおよそは囲碁だ。だから人より多少は優れている自負はあった。

 

 その日はたまたま、女房の一人と打っていた。

 理論派で強者である相手を前に思いのほか熱くなり、対局後にああだこうだと検討していた時だ。佐為が来る日は事前にわかっていると言うのにそれさえ忘れ、彼が来たという侍女の声で慌てて奥へと引っ込んだのだ。

 しかし当の彼は残された盤面を見て興味を引かれたようで、その日の麗景殿での囲碁指南が終わったのちに宰相自身の部屋へと赴き御簾の外から声をかけてきた。

 

 一局打たないかと誘われ、断るのに精一杯。

 さすがの彼もぶしつけだったと感じたのだろう。

 引き下がったと胸を撫で下ろした数日後、文が届いた。

 艶めいた和歌(うた)ではなく、やはり対局したいと仄めかす内容だったが、美しい手蹟()に心惹かれて返事をしたためた。

 そうして文のやりとりが続けば、いずれ男君が訪ねてくるのは知れたことだ。

 

『あなたの温かな文の通り、なんと優美な……』

 

 新手枕を交わした朝に初めてこちらの姿を見た彼は、自分こそが美しい顔を湛えてそう褒めてくれた。

 そうして逢瀬を重ねて碁も打つ仲に至ったが、三子を置いてなお真剣な対局の叶わない自分を彼は碁の相手としては満足しなかったに違いない。それでも何とはなしに通ってくれ、彼との付き合いは続いた。

 

 あれは佐為が結婚する前の端午の節句のことだ。

 探しに探してようやく見つけた。と、山吹の花をあしらった薬玉を贈ってくれた。

 山吹は参議の飾る花。薬玉に使う例はあまりないが、自分のために尽くしてくれた佐為の心遣いがただただ嬉しく、一度は呪った宮仕えという運命さえ喜びに変えることができた。

 

 このまま時折りそばにいられるだけで構わない。

 そう思って間もなくの秋、佐為は(そち)大臣(おとど)の姫と結婚した。

 

 宮仕えをしている以上は人並みの家庭を望むのは難しいことだ。ゆえに佐為との結婚を夢見たことなど一度もない。

 まして相手は大臣(おとど)の姫。仮に自分が参議の養女のままであっても、とても勝てる相手ではない。

 むしろ我が君は大臣家の婿となれる器であったと誇らしくすらあった。

 それに──。

 

『妻は碁が強いんですよ』

 

 結婚後に初めてこちらを訪ねてきた際、佐為はそう言っていた。

 急に他の女人と妹背となった言い訳ではなく、本心であることがよく分かった。彼にとって──少なくともあの時は──手放せない碁の相手だった。大臣家の姫だからなどは関係なく、ただただそんな理由で大臣(おとど)の姫を北の方としたのだろう。

 佐為の身分を思えば、おそらくは望むことすらおこがましいほどの身分差だ。それを分かってなお碁のためにあの姫を得た。時々、あの人が碁のことでいつか身を滅ぼすのではないかと不安がよぎることもある。碁しか見えていないのが彼だと分かってはいても──。

 

 こちらへの通い自体は減ったが、それでも宿直の際には佐為はここへ寄ることもあり、宰相の君に現状への不満はなかった。

 まして宮廷内にいるだろう彼の馴染みの女人たちと競うなどとても……、と今宵の管弦対決の垣間見に向かう同僚たちを見送りながら思う。

 このような御遊が催される夜、佐為はこの部屋に来て泊まっていくことも多い。が、今宵の催しには彼の北の方の後見である博雅も共に出るのだから、きっと彼はまっすぐ妻の待つ四条へと戻るだろう。

 ならば待っている必要もないか……、と宰相の君はそっと清涼殿の方角に背を向けた。

 

 

 宮中を取り巻く人々の思いはそれぞれなれど、着々と準備は進められていく。

 殿上人側は佐為以外は博雅や式部卿の宮など皇族で固められ、対する地下人側は雅楽寮の楽人や管弦の覚えある地下の家系から選ばれている。

 そうして今上の納涼に相応しい楽曲というお題のもとで、按察使(あぜち)の大納言が判者を勤めることとなっていた。

 

 

 “その音色たるや浄土に響く音もかくやという素晴らしさで、地下(じげ)も宮さまがたの気品さ高雅さには及ばぬものの、なかなかどうして素晴らしく。まして月明かりの差し込む清涼殿に浮かび上がる佐為の君のお姿ときたら鬼神も魅入られるほどに素晴らしく宮さまがたにも劣らぬ優美さで、多少の音の劣りなど掻き消しておいででした。

 按察使(あぜち)の大納言さまもそうとうに悩まれたご様子で、最終的には殿上人側を選ばれたものの、世に二つ無き管弦の競となり主上(おかみ)も双方にたいそうな禄を給われ痛く感動されたご様子をお見せでした。

 それにも増して佐為の君の晴れ姿を垣間見に来た見物の女人の重みで清涼殿周りの板や反橋は崩れ落ちてしまうのではと思わせるほどの賑やかさで、そんなお方を背に持たれたことを誇りに思いませ。“

 

 

 ──などという清少納言からの文を明け方に戻ってきた佐為から渡され、栞はくすりと笑みを漏らした。光景が目に浮かぶようである。

 

 裏腹に当の佐為は疲労困憊と言った面持ちで、帰ってくるなり束帯を脱いで(しとね)に横になっている。

 

「本当に気の張る夜でした……」

 

 栞は文を閉じ佐為の方に目をやった。

 

主上(うえ)もとても感じ入っていらした、と清少納言殿がおっしゃってますよ」

「もちろん得難い経験ではありましたよ。宮さまがたの楽の音は素晴らしく……地下方の技量も申し分なくて」

「あなたを見ようと清涼殿周りが崩れ落ちるほどの数の女人が駆けつけたらしいですね」

「……また清少納言殿はそんな戯言を……。そりゃああれだけの方々が揃っていれば誰もがそばで聴きたいと思うでしょう」

 

 もしも奏者に選ばれていなければ自分も見物に参上している。とこぼす佐為に栞は肩を竦める。

 

「佐為の君……」

「はい?」

「大役ご苦労さまでした。じきに秋ですし……慰労も兼ねて羽を伸ばしに宇治にでも出かけません?」

「それも良いですが、栞」

「え……?」

「そなたも夜通し待っていてくれたのでしょう?」

 

 横になったまま佐為が栞に向かい手招きをした。その仕草があまりに艶かしくて、見慣れているというのに胸が高鳴った自身に栞は驚く。

 佐為は否定したが、清少納言の言い分は誇張ではなく事実に違いない。観られなかったのは口惜しいが、彼女の言うとおりそんな君を背に持っていることを誇るべきなのか。

 とりあえずいまは朝寝に誘うこの人に付き合い、しばし微睡もう。と栞は誘われるままに(しとね)へと入った。

 

 

 

 なお、この夜の管弦対決は数世紀後に書かれることになる『平安京草紙』の中で少しだけ触れられている。

 その説話の中には“藤の侍従見たさに押し寄せた女房たちの重みで清涼殿向かいの簀子に穴が開いた”などと誇張されて描かれた一文が見られ、「かの侍従の美貌とはいかほどのものであったか」と読者に想像させるのだった。

 



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第十二話:負態(まけわざ)

 ──あれは遠い昔の秋の日のこと。

 ──その御時の梅壺の内親王(ひめみこ)が碁を競わせなさった。

 ──その頃の人々の優雅な振る舞い、趣ある光景が今なお偲ばれる。

 

 

 

 

 四条の屋敷を彩る木々も紅葉の季節となり、栞はかねてから計画していた通りに佐為と宇治へ出かけることにした。

 

 長旅ゆえ楽な格好をということで佐為は狩衣に袖を通し、その様子を栞は羨ましげに見つめる。

 

「私も狩衣を着て行こうかしら……」

「それはさすがにちょっと……」

「そうだ! 車だと時間もかかりますし、いっそ馬で行きません?」

「良いから大人しく小袿を着てください!」

 

 佐為はというと栞を諫めつつ命婦たちに目配せして素早く彼女に衣装を身につけさせた。

 

 

 宇治に出かけようと誘ったのは栞だが、佐為は「二人でなら」と答えていた。

 というのも、去年は宇治に行くという話を聞きつけた博雅も同行したからだ。

 寝泊まりは別で博雅は自身の別荘を使っていたわけであるが、博雅を追ってきた都の風流ぶった貴族たちと連日連夜優雅な管弦の催し──ならぬ飲んだくれの宴三昧となり佐為も駆り出されてかえって気疲れしたという経緯がある。

 ゆえに今年は二人で、というのが佐為の望みだ。

 

 宇治までは牛車で三、四刻はかかる。

 馬で行けばさぞ快適であろうに──、と思う栞だったが生憎ながら佐為は乗馬をそこまで得意としていない。無理強いをするのも酷というものだろうと大人しく牛車で向かうこととする。

 

 牛車一つをとっても殿方と女人では乗り降りから手間のかかり方が違う。

 殿方のみであれば中門辺りから乗れば済むのだが、身分の高い女人が乗る場合は寝殿から直接乗り降りできるよう呼び寄せなければならない。

 おおよその場合、男君が同乗する際はその人に手を引かれたり抱き抱えられたりして乗り降りするのが常だ。

 むろんそのようなまどろっこしいことをせず外まで歩いて行って一人で乗り降りすることも──体裁を気にしなければ──可能ではあるが、栞は佐為と同乗するときは寝殿の(きざはし)まで牛車を呼び寄せて大人しく抱き運ばれることにしていた。

 

「まあまあ姫さまと殿のお似合いなこと……!」

 

 見ている女房たちが喜ぶことだし。と、佐為に抱き抱えられて牛車へと乗り込む。

 今日は女房二人も同乗するため、佐為は栞を上座ではなく女君を座らせる左側に下ろして自身は右に座った。

 そうして几帳を一枚立て、後ろに女房たちが乗り込めば出発である。

 そのまま揺られることしばらく。法性寺の大門──九条河原過ぎ──が見えてくる。この先はいよいよ山道に入るのだ。

 

「ねえ佐為の君、やっぱり馬に乗り換えません?」

 

 おおよそ宇治へ向かう際に牛車から馬に乗り換えるとしたらこの辺りである。ちらりと栞が佐為を見上げれば彼は小さく息を吐いた。

 

「宇治につけば私も少しは乗馬に付き合いますから」

「そうじゃなくて……やはりこの先は乗り心地が──わ!」

 

 言っているそばから牛車が大きく揺れ、よろめいた栞の身体を佐為は抱きとめて自身の足の間に座らせた。

 

「これで少しは楽でしょう?」

「そう、ですけど……。宇治まで三、四刻はかかりますのに」

「では退屈しのぎに碁でも打ちましょうか」

「え……」

 

 碁盤も碁石もないし、あっても牛車内で打つのは無謀だが。と栞がよぎらせれば佐為はにこりと笑って第一手を口上した。

 

「あ、頭の中で石を動かせと……!?」

「それほど難しくありませんよ。ホラはやく」

 

 急かされて栞も第一手を口上した。

 まさか佐為の腕に抱かれたまま碁盤も碁石もなしに対局とは……とは思うものの碁は時間を食う遊戯でもあり途中休憩を挟みつつ三番勝負が終わる頃にはもう宇治が見えるところまでやってきた。

 

 宇治は京の都に住む貴族には人気の別荘地である。

 栞の家も例に漏れず都周りに複数の別宅を持っており、宇治もその一つだ。持ち主は栞の母方の祖母であるがいずれは栞の母が継ぎ栞が相続することとなっており、現在管理しているのも栞自身である。

 

「姫さま、遠いところをようこそおいでくださいました」

「お久しゅうございます姫さま」

 

 各別宅にはそれぞれを管理する女房や家人が雇われており、定期的に四条の屋敷を行き来して現状報告し指示を仰いでいる。

 出迎えた彼女たちもそのような女房たちである。

 

「そなたたちも元気そうでよかった」

 

 宇治川を一望できる位置に立つこの別荘は風雅という意味では四条の屋敷に勝るかもしれず、佐為は感嘆しつつしきりに周りの風景を見渡している。

 

「東屋の先に見える紅葉のなんと見事な……。こちらの葉は京よりも色が深いですね」

 

 寝殿から庭の方を見やって満足げに微笑む佐為を女房たちもうっとりと見上げた。

 

「それにも増して佐為の殿の水際だったお姿……、菊襲ねの狩衣がほんとうにお似合いで」

「姫さまはなんとお美しい背の君をお持ちなのでしょう」

 

 日がもう落ちかけている。

 すぐに暗くなってしまうだろうが庭の散策なら構わないだろうか。栞は佐為に声をかける。

 

「少し外を歩きませんか?」

「今から……? もうじき暗くなるというのに」

「でも、秋は夕暮れ……と申しますのに」

 

 言っていたのは清少納言だが。と春夏秋冬の素晴らしさについて語っていた友人を一瞬だけよぎらせた栞だが、佐為は気乗りしないといった具合にこちらを見た。

 

「長旅でいささか疲れましたし、探索は明日にして、今日ははやく休みたいのですが」

 

 そうして彼は女房らに寝所の準備を急ぐよう言いつけ、栞はさすがに寝るには早いだろうと首を捻る。

 確かに碁盤なしに碁を打って気疲れしたといえばそうであるが──。

 

「では、あなたは先にお休みになって」

 

 疲れたという佐為に無理に付き合わせる必要もないし、一人で庭に行こうとした手は佐為に捕まれ阻止されてしまう。

 振り返って見上げれば、訴えかけるような視線の佐為と目があった。

 

「半日近くもそなたをただ腕に抱いていた私の身にもなっていただけませんか」

「? それが……」

 

 どうしたのだと問おうとした栞に佐為は焦れたような息を小さく吐いた。

 

「あの場で契らなかっただけ褒めていただきたいほどだというのに」

「は──!? な、なにを……私たちはただ碁を打っていただけですのに」

「そなたはそうでしょうが、私は時折り気がそぞろでした」

「さ、三局すべて勝っておいて……」

 

 あまりのことに呆れて栞は絶句する。

 そういえば結婚前後にもこのような噛み合わないやりとりをした気がする。

 佐為からすればこちらが鈍いのかもしれないが、こちらからすれば佐為の方がよほど分かりにくい。

 それに──。

 

「ぎ、牛車で……って、かの業平(なりひら)でもあるまいし……!」

「業平卿に限らず……、栞が知らないだけで世には多分にあると思うのですが」

 

 佐為の方は心当たりがあるのかはたまた殿方間でそんな話をするのか苦笑いを浮かべており、栞はなおさら呆れ返って頭を押さえた。さすがに今()()()()()になるのは無理だ。

 

「私はお腹が空きましたので夕餉をいただきます」

 

 食の話ははしたない。ことさら男女の間では。と言われることくらいは栞でも知っており佐為も拒否の意思だと理解するだろう。

 事実、長旅で空腹ではあるし夕餉の用意を言いつけなくては。と佐為に背を向ける。

 

 

 しかしいつもと違う空間や調度品が旅気分を盛り上げてくれるためだろうか──。

 

 いざ夜となれば栞も拒否することはなく、命婦をはじめ女房たちは察して翌朝はやや遅い時間に手水の準備をした。

 

 

「姫さま、ほんとうに()()をお召しになるのですか?」

「ええ。今日は外に出るから」

 

 翌日、水干を出すように言う栞にここ宇治の女房たちはもちろん命婦でさえちらりと佐為の顔色を伺った。

 おそらくはこういう主人に慣れているはずだというのに、結婚後まで()()だとは思わなかったのだろう。

 

「構いませんから、上の言うとおりに」

「殿がそうおっしゃるなら……」

 

 佐為が苦笑いを漏らせば、栞はどこか不服そうに息を吐いた。

 ちくいち夫に確認を取らねばならないとは。という不満なのだと佐為は理解したが、自分は博雅ほどには放縦不羈(ほうじゅうふき)でも寛容でもないため栞としては不服な部分もあるのだろう。

 しかし気を取り直したのか色合いなどを指示して、彼女は自身には赤と濃赤の紅葉襲ねの水干を、佐為には萌葱と薄萌葱の初紅葉襲ねの狩衣を選んだ。

 

 この程度の着替えは一人でもできるが、基本は女房にさせるのが常だ。

 髪が邪魔だと高い位置で括るよう言っている栞の支度の様子を見守りながら佐為は無意識に口元を緩めた。

 

「佐為の君……?」

「いえ、初めて会った夜が思い出されて……」

 

 思い出したのか栞は少し頬を染めたが、女房たちにはなんのことか分からないに違いない。

 夜の後宮を水干に角髪(みずら)姿でそぞろ歩きしていた栞を小舎人童と間違えたのが出会いだと知れば、彼女たちはどう思うだろうか。

 

「鮮やかな赤と萌葱が互いに引き立て合ってとてもお似合いですが……」

「お美しいのに、なんだかご夫婦というよりご兄弟のようというか……」

 

 女房たちはそう言ったが、佐為としては悪くないと思った。

 それに、あんな出会い方をしたせいだろうか。男衣装を纏う栞は普段よりも艶めいて見え、いつも心が騒ぐ……と佐為は目を細める。

 こんな栞を外に出し誰かに見せるのは惜しいと感じてしまうのだから、やはり自分は博雅のようにはなれないのだろう。

 

「山の方へ紅葉狩りに行きましょう!」

 

 栞の方は佐為の気も知らず、待ち切れないといった風に笑顔で従者の人数などを女房らに伝えている。

 

 そうして馬を用意させ、栞は久々の乗馬に笑みを零した。

 佐為にしても乗馬ばかりは蹴鞠のような娯楽と違い避けられないために最低限はこなす訓練はしているが、いかんせん好きではなく──。

 

「栞、あまり飛ばさないで……!」

「え──!?」

 

 聞こえない、と風を受ける栞は快活で凛々しい公卿の若君のようで麗しく。それを眺めているのもまた良しかと佐為は落馬にだけは気をつけてそのまま馬を走らせた。

 そうして山の麓で馬をおり、従者に見張っているよう言いつけて二人で少しばかり登ってみることにした。

 

「わあ……きれい……!」

 

 早足に前を行く栞の結われた髪が揺れ、ついていく佐為は小さく笑みを漏らす。

 四条の屋敷に籠もっていればこうして山に踏み入ることなど不可能だと思えば彼女の高揚も当然なのだろう。

 だが──自分と結婚していなければ、こうして野山を駆け回る自由を彼女はもっと持てていたかもしれないのか。と一瞬よぎらせた佐為はすぐに首を振るった。

 風が吹けば色づいた葉が舞い、手で受け止めて笑う栞の落ち葉を踏み鳴らす音が辺りに心地よく響いている。

 赤い袖が紅葉と溶け合い、まるで紅葉を愛でるために秋の精が人の姿を借りて舞い降りたかのようだ。

 初めて栞を見た夜にも夏の精の化身かと思ったものだが──、こうして改めて見るとなんと美しい。思うも、すっかり風景に夢中でこちらのことなどまるで目に入っていない栞の様子に少し寂しく笑う。

 手を伸ばせば届く距離にいるというのに。と、先ほどから遠くに聞こえる鹿の鳴き声を耳に入れつつ、佐為は誦じている古今の一首を口ずさんだ。

 

「“奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき……“」

 

 すれば声が届いたのか栞が振り返り、彼女に歩み寄った佐為はそっと栞の身を自身の胸に抱き寄せる。

 

「なに……?」

「鹿も恋に鳴く季節だというのに……我が妻はなんとつれない、と思っただけです」

 

 相も変わらずこのような物言いでは通じないのか、栞は解せないと言いたげに小首を傾げた。

 まこと人ならぬ精霊であれば、男女の機微が分からずとも仕方ないが……と佐為は栞の額に軽く唇を寄せる。

 そのまま頬に滑らせて顎を掬い柔らかな唇を塞げば、栞にしてもまんざらでもなかったのか大人しく狩衣を掴んで応じた。

 気を良くした佐為は頬を捉えていた右手で露わになっている栞の左耳に触れる。ぴくりと栞の身体がしなったのが伝った。

 女人が耳を見せるなど興醒めだなどと言われるが、このように撫でれば戻る反応が違うのだから乙なものだというのに。と、指の腹を耳に滑らせる。

 

「ん……っ」

 

 しばしそうして酔っていると、栞が腕に力を入れてこちらの胸を押し返してきた。

 仕方なしに唇を解放して見やれば、よほど切羽詰まった顔でも晒していたのだろうか。栞は少し目を見開き、一瞬だけ怯えたような色を宿してから視線を逸らせた。

 

「こ、これ以上は……外なのですし」

 

 昨日、牛車で契りたかったなどと言ったせいで警戒されているのか。さすがに佐為は苦笑いをこぼす。

 

「そんな無体を強いる気はないのですが……」

「そ、そんなの分かりませんもの……!」

 

 栞の方は逃げるが勝ちと思ったのかするりと腕から抜け出てこちらと距離を取った。

 

 一陣の風が木々を揺らし、舞い散る紅葉を差し込む陽が照らしつけてくる。じきに夕暮れらしい。

 

 

 その風雅な景色にのみ見入ってくれればいいというのに。

 

 今日はずっと佐為の視線を感じる。と栞はやや居心地悪く身を捩った。

 

 水干など着ているから物珍しいのだろうか。

 でもあの艶っぽい視線は……と栞は無意識に触れたばかりの唇に手をやり僅かに頬を染める。

 せっかくなにかと煩わしい京を離れて屋敷の外にいるというのに、いま屋敷内に連れ戻されるのは避けたい。

 そろそろ夕暮れも近いようだし、宇治川の方へ出て夕陽でも見ようか。栞は佐為を誘い、従者の元へと戻って川の方へと移動する。

 そうして馬から降りて川岸へと歩けば、栞の背を覆うほどに育ったススキが陽を受けて黄金色に輝いており栞は感嘆の声を上げた。

 

「美しいですね」

 

 佐為も柔らかく笑い、栞も微笑む。

 

「ねえ佐為の君、笛をお持ちですよね?」

「ええ、持っていますが」

 

 言われた佐為が懐から横笛を取り出し、栞はゆるく笑った。

 

「一曲吹いてくださらない? 舞いますから」

 

 栞は懐から扇を取り出し、ああ、と佐為も笑う。

 

「では……」

 

 佐為が横笛を構え、耳慣れた音色が響きだす。先日、今上に召された管弦対決のために博雅とよく練習していた博雅の曲だ。──実はこの曲に合わせて栞は予行の際に式部卿の宮の屋敷で自ら振りを付けた舞を舞った経緯がある。

 

 宮廷のような公の場で舞うことなどもう叶わないだろうが……と栞はうっすら思う。こうして時おりにでも外に出られる自分はきっと恵まれているのだ、と。

 

 本来なら屋敷内でさえ立ち歩くのが稀な深窓の姫として育つのが常の身だというのに、こうしていま外の景色を眺めていられる。きっと世間では笑うのだろうが、一生を屋根の下でのみ過ごすよりは幸福であろう。

 まして、自らの意思で背となる人を選べたのだ。

 佐為との婚姻は愛情によるものとは呼べないが、それでも──。と栞は佐為の初紅葉の狩衣に反射する夕陽を眩しく見やった。

 茜色の陽が佐為の纏う鮮やかな萌葱色をいっそうあわれ深く風雅に見せており、目を奪われそうになった刹那、栞は目を瞠った。

 こちらを見やる佐為の眼。焦れたような、熱を孕んだ視線だ。

 こんな表情(かお)を見せる時の彼がどんな気でいるかは知っている。が──。

 

 

 佐為は横笛を下ろし、栞にそばへと来るよう言った。

 

 さわさわとススキが秋風に揺れる。視界を覆うススキに囲まれ、遠目にはこちらがなにをしているかなど見通せないだろう。

 

「ふ……っ」

 

 佐為はそう思ったのか、先ほどの続きとばかりに栞の手を引くなり唇を重ねてきて栞は応じざるを得ない。

 彼がどういう気でいるか分かってはいたが、これ以上この場では──と意識の奥で思う間にも佐為の手が髪に伸びてきて元結(もとゆい)をしゅるりと解かれ、まとめていた髪が風に舞ってさすがに栞は抗議の声をあげた。

 

「なにをなさいます……! こんな髪で戻れば命婦たちになんと言われるか」

 

 すれば気に障ったのかむっとしたように佐為の柳眉が寄せられる。

 

()相手に髪を乱したとて、誰が咎めるというのか」

「そ……!」

 

 それはそうだが、と言いくるめられそうになるも髪を手に絡めて首筋に口元を寄せる佐為の肩を掴んで栞は抗ってみせた。

 

「佐為の君……ッ」

 

 呼べば佐為が顔を上げ、欲を宿したような瞳と間近で目が合いぞくりと栞の背中が粟立つ。たちまち金縛りにあったかのように動けなくなり、そのまま甘んじて口づけを受け入れつつ栞は思う。

 

 佐為が自分を妻とした理由はきっと棋力の高さに他ならない。

 

『長く連れ添って、徐々に育まれる情愛というものもあると思いますよ』

 

 だが、()()は情愛ではなく情欲でしかないだろう……と。他の殿方を知らないとはいえ、おそらくこの人は思いの外このような欲が強い。それはきっと愛情ではなく──。

 それでもこの二年間ずっと一緒にいるのだから、内裏にいるだろう彼の馴染みの女人たちよりは好かれているのだろうか。

 佐為が宿直の夜や方違えと称して四条に帰らない日になにをしているかは知らない。婚前の恋人たちと切れているとも思えないが、確かめる気はさらさらない。

 が──最初に誓ってくれたように、他に妻問いだけはしないで欲しい。

 息苦しさを訴える頭は切なさと同時に熱く触れ合う多幸感にも満たされ、感情が錯綜して涙が滲むのが自分でも分かった。

 佐為は情欲だけでこちらを欲しても、自分は──。

 

「栞……?」

 

 しばらくして唇を離した佐為が両手で頬を包み込むようにして顔を覗き込み、栞ははっと瞬きをした。

 

「それほどいやでした……?」

 

 不審げに佐為が眉を寄せ、栞は首を横に振るって佐為の胸にそっと身を埋めた。

 

「私は……」

 

 これほど近くにいても、どんなに求められても目の前のこの人はどこまでも遠い。よぎったことを飲み込み、栞は佐為から身を離した。

 遠くに松明が見える。戻りが遅いと案じて迎えにきた従者たちだろう。

 

 そうして屋敷に戻れば、栞の乱れた髪を見た命婦は案の定驚いた様子を見せたものの、何かを察したように押し黙り……いたたまれなくなった栞は下手な弁明をせず黙っておいた。

 

 四条の屋敷に仕える者は主人が夜にどう過ごしているかは把握しているものだ。

 四六時中そばで控えている義務があり、さらには屋敷の構造上物音や声を遮ることはほぼ出来ないからだ。

 

 しかし宇治の別宅で年に数えるほどしか主人を知らぬ者はどう感じたのだろう。

 去年は博雅たちが連日宴を開いておりゆっくり休む間もなかったのだし。──などと気を回す余裕などその夜の栞にあるはずもなく、次の朝にも命婦は慣れたように遅い時間に手水を持ってきた。

 

「姫さまと殿が仲睦まじくて命婦は嬉しゅうございます」

 

 その一言で女房たちの間でなにを言われているか目に見えるようだったが、こうして主人の元に夫君が居続けているのが嬉しいのは事実だろう。

 

「昨日は一日私にお付き合いいただいたから、今日は私がお付き合いしなくてはね」

 

 運ばれてくる朝餉を見やりつつ言うと、命婦は意味を察したのだろう。「それなら」と口元を綻ばせた。

 

「それでしたら、東屋に碁盤を運ばせたらいかがでしょう? お庭の木々も今が見頃でございますゆえ」

 

 すれば栞より先に佐為が反応する。

 

「それはいい。頼みます」

「かしこまりました」

 

 一日付き合う。とうっかり言ってしまったせいだろうか。昨日とは打って変わって彼はすこぶる無邪気に頬を緩めている。

 

「さ、栞! はやく朝餉を済ませて打ちましょう!」

 

 ああやはりこの人を純粋に喜ばせるには碁しかないのかと突きつけられているようでもあったが、栞は肩を竦めて頷いた。

 

 東屋に座が用意され碁盤も運ばれ、時折り紅葉の降る中で打つ碁には格別の趣があるのだろう。佐為は終始満足げに打っていた。

 

「ねえ、栞」

「はい?」

 

 そうして栞が本日何度目の黒星を記した時だっただろうか。

 佐為は降ってくる紅葉に目を細めつつ冗談めかして微笑んだ。

 

「これまで私たちは数えきれないほどの対局を重ねてきましたが……、碁手(ごて)をいただいたことはありませんでしたね」

 

 栞は目を見開く。

 碁手、とは勝負事全般で賭ける物を指す言葉だ。

 

「対局のたびに碁手を贈れとおっしゃるの?」

「いえ、それは冗談ですが……。ふと思い出したのです。この宇治の別荘の持ち主である斎宮の大宮さまのお話を」

「おばあさまの……?」

「ええ。そなたは存じませんか? 大宮さまが斎宮に卜定(ぼくじょう)される前に催された梅壺での囲碁合のお話を」

「ああ……、おばあさまのお父帝と梅壺の女御さまがおばあさまのために催されたという」

 

 ええ、と佐為は頷く。

 

 栞の母方祖母の斎宮の大宮は、父であった当時の帝が即位してすぐの十三歳の時に卜定(ぼくじょう)により斎宮に選出されている。

 卜定(ぼくじょう)とは占いにて物事を定めることであるが、実のところ誰が選出されるかはおおよそは分かっており、梅壺の女御は自身の姫宮が選ばれると半ば察していたという。選出されればすぐに潔斎に入らねばならず、女御は卜定(ぼくじょう)に先駆けて姫宮のための華やかな催しをしたいと帝に持ちかけた。

 帝も快諾し、季節もちょうど紅葉が見頃とあって姫宮主催の名の下に梅壺にて帝側と女御側に分かれ秋の夜長に夜通し囲碁で競う囲碁合が催されたのだ。

 その際の負態(まけわざ)として用意されたのが豪華絢爛な檜扇をはじめとした様々な扇──。骨は彩画された銀や紫檀、地は唐の薄絹、そして鮮やかな絵や古今の和歌(うた)が縫い描かれた扇の数々はあまりに雅やかで、碁にて白星を挙げた側が今を盛りの紅葉の下でその扇を手に梅壺を歩く様子はこの世のものとも思えぬ高雅な光景で今なお語り草となっている。

 

 以来、賭け碁の碁手は扇という暗黙の了解があり、碁の負態(まけわざ)と聞けば風流人はこの時の梅壺の様子を思い浮かべるという。

 

「なんと風情ある趣向でしょうか……。この話を思い出す度に私もその場にいたかったと思うばかりです」

 

 うっとりと語る佐為に栞は苦笑いを漏らした。

 

 ──その後、予想通りに斎宮に選出された栞の祖母は伊勢に下り数年間斎宮を務めるも、母である梅壺の女御の薨去により退出して京へと戻った。

 内親王で斎宮まで務めた姫宮といえど、後ろ盾をなくした宮を帝は案じたのだろう。父である帝とは血縁の薄い数代前の帝の皇子にちょうどいい歳周りの親王がおり縁付かせる運びとなったのだ。

 そして栞の母である女王に恵まれるも、斎宮の宮は夫の宮に先立たれたことを機に髪を下ろして仏門へと入り、以後、京の中心部を離れて桂の別荘に引き篭もり御堂を建て勤行に明け暮れ、今では斎宮の大宮と称され人々の尊敬を集めている。

 

 祖母の大宮のその話にそれほど感動したのなら帰りに桂に寄って祖母の顔を見がてら話でも、とも思うがきっとそういうことではないのだろう。と、栞は佐為の顔を見やる。

 すれば、ふ、と佐為は口元の笑みを深くした。

 

「そなたの祖母の大宮さまにちなんで……私も一度くらい扇など所望したいものです」

「佐為の君ならば数えきれないほどの扇を既に貰い受けたのでは……?」

「そうですが……そなたの扇は物珍しいですからね」

 

 そうして佐為は栞が携えていた扇に視線を移し、栞は目を見開いてぱっと扇を隠す。

 

「こ、これはだめです……!」

 

 その扇は栞が愛用している特製のものだ。

 佐為も戯れで言ってみただけなのだろう。反応を予測していたのか、くすくすと笑みを漏らしている。

 

 

「姫さまが馬で山に行くなどと申された時はどうなることかと思いましたが」

「こうして見るとお似合いのご夫婦ね」

「夫婦仲も申し分ないご様子だし……、お二人の御子はきっと美しくおなりよ」

 

 

 控える女房たちは二人がどのような会話を交わしていたかは知る由もなく、彼らの様子を遠くから見やって口々に囁き合った。

 紅葉降る東屋の風景に溶け込むような二人の姿はまるで絵巻物のようで──誰もがこの宇治宅の主である大宮の若き頃の囲碁合の話を浮かべ、目に映る光景をうっとりと眺め続けた。




この世界線ではこの宇治別荘がのちの平等院かも?


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第十三話:()が袖ふれし

 色鮮やかだった紅葉もすっかり落ち、そろそろ落ち葉の絨毯も見苦しくなろうという頃──。

 

「じき冬本番ですね……」

 

 出仕後の昼過ぎ、屋敷の庭に広がる落ち葉の絨毯を踏み鳴らしながら歩いていた佐為がしみじみと冬枯れた空を見上げて言った。

 

「落ち葉が地面を埋め尽くす初冬の風景もまた風情があって良いものですが……。雪が待ち遠しくもあります」

「佐為の君は冬がお好きなの?」

 

 隣を歩いていた栞が佐為を見上げれば、ふ、と彼は笑みをこぼした。

 

「どの季節もそれぞれ見どころがありますが、雪景色は格別に思い入れがあります。あの真っ白な世界に咲く真紅の椿など、それは見事で……開花が待ち遠しいです」

 

 うっすら頬を染めて語る佐為は梅や桜でなく椿がよほど好きらしい。

 栞はどうかと問われ、少し間を置いたのちに栞はこう答えた。

 

「私は寒いのは少し苦手です……。かと言って夏の暑さも耐え難いし……。でもやはり、緑が萌える夏の方が好ましいでしょうか」

「そなたには色鮮やかな季節が似合いですからね。なかなか他のものには着こなせないような派手やかな色も着こなしておいでですから」

 

 おそらく佐為は栞が夏によく着ている百合襲ねの衣装のことを言っているのだろう。やや昔めいて、いまではなかなか見る機会のない取り合わせでもある。

 

「季節と言えば……、思い出しました。今日、上野(かんづけ)親王(みこ)から使いが来まして──」

 

 言いかけた栞の頬にぽつりと水滴が伝った。

 はっとして思わず佐為と顔を見合わせる。その間にもぽつぽつと二人の頭上から水滴が落ち、急な雨だと悟った二人はどちらともなく寝殿の方へと走った。

 

()くお着替えなさいませ!」

 

 屋敷に上がった頃には幾分濡れていた二人を見た命婦が声を上げ、他の女房たちも集まってくる。

 烏帽子を脱いだ佐為の艶やかな前髪が幾重かしっとりと額に張り付いており、伏せられた切れ長の眼を縁取る長い睫毛に水滴が伝う様子に誰とはなしに陶酔したようなため息を吐いた。

 雨に濡れてもお美しい、などと女房らは誉めそやしたものの見とれている場合でもない。風邪を召す前に手早く着替えを済ませた栞は先ほど話そうとしていた続きを佐為に聞かせた。

 

上野(かんづけ)親王(みこ)の姫君が近々裳着ということで……、いくつか香を合わせるよう頼まれたんです」

上野(かんづけ)親王(みこ)さまの姫君が……」

「ええ、それであなたにも一つお願いしようと思って」

 

 つまりは裳着の祝いの贈り物にということだろう、と何気なく話を聞いていた佐為はその一言で驚愕した。

 

「私が……!? わ、私のようなものが恐れ多い」

「そんな、宮には私たちの露顕(ところあらわし)にも来ていただいた仲ですのに」

「それはそうですが……」

「あなたに初めていただいた文に焚き染められていた香がとても素晴らしかったので……、調合もお得意かと思ったんです」

 

 佐為は、ぐ、と言葉に詰まる。裏腹に栞はどこかうっとりとして口元を緩めた。

 

「ほのかに麝香が混じって艶かしくて……、藤家に伝わる調合法でしょうか?」

 

 曖昧な笑みを浮かべつつ佐為は思い起こす。

 栞に初めて出した文には洒落も込めて『侍従』の香を焚き染めた覚えがある。が、あの調合は橘内侍(きのないし)から教わったもの──などとは口が裂けても言えない。それを教え合う仲が()()()()()()か、さすがの栞でも察するだろうからだ。

 そもそも名香と言われる調合法は秘伝として主に皇族に伝わるものだ。自分など知り得ようもない。しかし香りの良し悪しは内裏での評価にも関わるわけで、殿上人としては気を抜けない部分でもある。

 というより佐為としては調合自体は好きな方であるし、趣味人でもある橘内侍(きのないし)に昇殿当初から折を見て訊き密かに腕を磨いたにすぎない。彼女もまた、宮仕えをする中で伝手を辿り調合法を教わって腕を磨いていったのだろう。

 特に彼女の合わせた『黒方』は素晴らしく格別で……と考えそうになった佐為ははっと意識を戻して栞を見やった。

 

「そういうわけではないのです。宮中には趣味の高い人もいますから、少々教えを請うただけで……」

「やけにご謙遜なさるのね」

「そ、そういうわけでは……」

「でしたらせっかくですもの。いっそ香合わせにするというのはどうです?」

「え──!?」

「私も一つ合わせますから、仕上がったら博雅さまに判じていただきましょう」

 

 佐為はあっけに取られるも、宮に頼まれた以上は断るのも無理な話なのだろう。そもそも、恐れ多いというだけで自信がないわけでもないのだから栞の言う通り謙遜しすぎるのもかえって嫌味というものだ。

 

「分かりました」

 

 ともあれ、香を合わせるには良い季節だ。

 それに、ひとたび香を作るとなると希少で高価な材料を多々使わねばならない。香合わせが高雅な趣味と言われ、特に皇族に秘伝の技が伝わる所以だろう。

 今までは原材料を揃えるのにまず苦心していたが、さすがにここは大臣家。質の良く珍しい原料が全て揃っていて心踊らされる。

 上野(かんづけ)親王(みこ)の姫に贈る分は別にして、色々と合わせてみるのも一興だろう。じきに正月であるし、『梅花』も合わせようか。ああでもちょうど落葉の頃であるし『落葉』を合わせたら……いや季節外れだろうか。

 豊富な原料を前に考えていると気持ちも高揚していき、佐為は出仕と碁盤に向かう時間の間を縫って香の調合に心を砕いた。

 

 一方の栞も香を合わせている間は北の対に籠もってしまい、「勝負」に集中しているらしい。

 

 香を合わせるには実に細かい工程が必要だ。原料を砕き、粉状にして繋ぎを混ぜ、練り状にしていく。ほんの僅かの匙加減が香りを変えてしまうのだから技の競い合いに相応しいと言えるだろう。

 そうして練り上げたものを丸薬状に整えたら壺に入れて土に埋め、香りが馴染むのを待つのだ。

 この馴染み具合の出来不出来は神のみぞ知るところであるが、佐為は──家人は止めたが──屋敷の遣水周りを自ら慎重に歩き、最も湿気を孕んだ良さげな場所を選んで複数の壺を埋めていった。

 そうして五日から十日ほど経って取り出すわけであるが、あらかじめ栞と決めた期日があるため不出来でも仕切り直しは不可能だ。

 

 栞の完成具合は一向に分からないが、勝負の日。

 

 出仕から四条に戻った佐為は埋めていた壺を取り出してみる。博雅は夕方にもここへ来るという。

 上野(かんづけ)親王(みこ)の姫への香を予め用意されていた贈呈用の香壺(こうご)へと移し、それ以外もそれぞれ香壺に移し替えていると栞も自身の合わせた香を携えて北の対から戻ってきた。

 

「出来はいかがですか?」

「さて、それはなんとも……。博雅三位(はくがのさんみ)を待ちましょう」

 

 ちらりと栞の方を見やると、彼女も贈り物の他にも香を合わせたようだ。

 が──。

 

「ずいぶんたくさんお合わせになったんですね……」

「つい、興が乗ってしまいまして」

 

 複数の香を合わせた佐為に栞は驚いたらしく目を瞬かせ、佐為は少しばかり自嘲してみせた。

 そうして陽が落ちてしばらく、博雅が屋敷へと顔を出した。

 

上野(かんづけ)親王(みこ)の姫のために香を合わせたとな?」

 

 博雅は舞と歌そして和歌(うた)は好んで嗜まないが、たいていのことは他に劣らぬ趣味人だ。優劣をきちんと判じてくれ、宮家の姫に相応しくない出来であればはっきり言ってくれるだろう。

 並べられた二つの質の良い香壺を見て興味深そうな表情を浮かべた博雅は、まず佐為の合わせた香壺を手に取る。

 

「ほう、『菊花』か……。白檀を心持ち多めに入れたな? 甘やかで若い姫には似合いだろう。それにやや艶かしさも混じって……。うむ、見事だ」

 

 調合はまさにその通りで、さすがは先の帝の第一皇子の嫡男だと佐為は改めて思う。

 栞の方は意外そうに佐為を見上げた。

 

「『侍従』をお合わせになると思ってましたのに」

「季節柄で言えばそうですが、姫の裳着のお祝いにはこちらの方が合うと思いましたので」

 

 菊花は長寿を願うめでたい花でもあるゆえだろう。

 博雅は次いで栞の合わせた香を手に取った。

 ほう、と喉を鳴らした博雅の表情が綻ぶ。

 

「これはまた、すっきり爽やかな『荷葉』だな。だが……亡き式部卿の宮秘伝のものとは少し違うような……」

「おじいさまから伝えられた調合法だと少し重くなるので、微調整したんです。軽さを意識して、より爽やかになるようにと」

「なるほど、溌剌としていかにも栞らしい香だよ」

 

 そうして二つの香壺を前に博雅は考え込んでしまい、栞と佐為は顔を見合わせる。

 終いには「持で」と引き分けを宣言されて二人はゆるく笑った。博雅らしい判定である。

 ともあれ勝負も済み、それぞれ相手の合わせた香を手に取ってみた。

 佐為は栞の合わせた香をきき、なるほど博雅の評価通りだと笑う。

 

「そういえば登華殿で初めて栞に目通りした時も『荷葉』を纏っていましたね。あの時は、淑やかな振る舞いには不似合いなほどの爽やかな香りが夏の時期に合っていて……清涼な空気を漂わせる姫にこちらまで涼やかな心地になったものです……」

 

 懐かしい、と笑う佐為に栞はやや訝しげに眉を寄せる。

 

「なにがおっしゃりたいんです……?」

「いえ……。そなたには似合いの香だという意味ですよ」

 

 佐為は言葉を濁したが、この香りが栞に合っているというのは本心である。

 ははは、と博雅は笑った。

 

「ともあれ、これを贈れば宮も喜ばれるだろう。双方どこに出しても恥ずかしくない出来だ」

「ありがとうございます。ただ……裳着の儀はめでたきことなれど、成人後の女王というのも身の振りが難しいですからね……宮はどうなさるおつもりかしら」

「まあ斎宮も代替わりしたばかりであるし、遠くへやる心配はないと思うが……」

「入内するにしてもお歳が主上(うえ)とは不釣り合いですしね……」

 

 裳着を済ませて成人とならば、それは婚姻可能ということを意味する。しかし臣下の身でない女王の嫁ぎ先はなにかと難航を極めるのだ。

 一番良いのは入内し帝の妃となることだが、そう簡単にいけば誰も困らぬというもの。

 栞の母方の祖母である斎宮の大宮も背の君は親王であるし、女王である栞の母も妹背となったのは二世王で賜姓皇族かつ大臣の父である。つまり血縁(皇族)同士の繋がりで完結しており、臣下への降嫁は常に慎重に行われるのだ。

 とはいえ皇族と言えど不安定な身に変わりなく、両親に先立たれれば途端に落ちぶれる例もあり、身分相応の品格を保ったまま一生を過ごすのは想像よりも遥かに難しいことでもある。──栞の父が栞に関して一番危惧しているのもこの事に他ならない。

 話をしつつ、佐為は心内で自嘲した。このような話を聞くにつけ、栞を妻にした自身がいかに大それたことをしでかしたのか後追いで実感してしまう。後世では身の程知らずもいたものよと物笑いの種にさえなるかもしれない。

 だが、もはやどれほど責められようがこの女人(ひと)を手放す気はないが……と無意識に栞を見やっていると彼女は首を傾げた。

 裏腹に博雅は宮の姫用ではない並べられた香壺に目を向けている。

 

「にしても……そこの数々の香壺はいったいどうしたのだ?」

「あ、ええ……その、姫君用に調合しているうちに興が乗ってしまい……つい」

「全部佐為殿が合わせたのか?」

「一つは栞ですが、それ以外は」

 

 博雅は数度瞬きをしてまじまじと香壺を見つめている。

 四つのうち三つが佐為の合わせたものであるため驚くのも無理からぬことだろう。

 さすがにやりすぎたかと佐為がやや気恥ずかしく感じていると、博雅も栞も香りをきいてみたいと望み品評会と相なった。

 

 栞が佐為の合わせた『梅花』を手に取る。

 あ、と瞬きをした彼女はゆるく微笑んだ。

 

「これは……青みがかった若い梅を思わせるような華やかで心地よい香りですね。佐為の君がこれをお合わせになったなんて……少し意外です」

「じき正月ですから、そなたに贈ろうと想い浮かべつつ合わせましたので、私に合わないのも道理ですよ」

 

 言いつつ佐為は栞の合わせた『梅花』を手に取り顔を寄せる。

 これはまた……、と鼻腔をくすぐる香りに佐為は無意識のうちに微笑んでいた。匂い立つような艶かしさが後を引くような、同じ『梅花』でこうも違ってくるとはやはり香は奥が深い。

 

「そなたにしては……ずいぶん大人びた香りですね」

「私も佐為の君に合うようにと思って……お正月用に」

 

 栞はうっすらとはにかみ、佐為は僅かに切れ長の瞳を見開いた。

 つまり栞もこちら用に『梅花』を合わせてくれていたということだ。

 自分はあれもこれもと気が多く香を合わせてしまったが、彼女はたった一つを自分だけを想って合わせたくれたのだろう。常と変わらぬいじらしさについ口元が緩んでしまう。

 

「では、この香壺は私がいただいても?」

「はい」

 

 そうして互いの合わせた香を贈り合う二人を博雅は微笑ましく見守った。相変わらず夫婦仲は申し分ないらしい。

 佐為は栞との身分差を気に病んでいるようだが、栞にとってはこれ以上の相手を見つけることはできないだろう。願わくばこのままずっと睦まじくいて欲しい。思いつつ他の香壺に手を伸ばす。

 どうやら一つは『落葉』のようだ。この初冬の風景を眺めつつ合わせた一品だろう。

 甘みのないしっとりと艶かしい匂いだ。麝香を多めに入れているらしい。さすがは宮廷一の色男、この辺りも抜かりない。これを纏えば常の倍は宮廷の女官女房が彼に酔うに違いない。感心しつつ博雅はもう一つを手に取る。

 

「お、これは……」

 

 『侍従』だ。

 沈香の上品さを際立たせるほのかな甘み。それでいてしっとりと落ち着いた、なんとも言えない深みがある。

 

「これはよい香りだな……! こちらであれば私は佐為殿に勝ちの判定を下したぞ」

 

 博雅はやや興奮気味に声を上げ、佐為は恐縮した。

 栞はその絶賛ぶりに驚いたのだろう。自分も試してみたいと香壺を博雅から渡してもらう。

 

「『侍従』……? でも、前にきいた匂いとは違うような……」

「少し調合を変えてみましたので」

 

 さすがにこの屋敷で合わせるのに橘内侍(きのないし)から教わった調合通りにするのは憚られた佐為は自身で手を加えていた。

 その佐為の調合を博雅は痛く気に入ったらしい。

 

「佐為殿は多才なのだなあ……、香合わせは臣下の身ではことさら難しくあろうに、見事だよ」

「そんなもったいない……、買い被りすぎです」

 

 そして佐為はそれほど気に入ってくれたならば、と『侍従』を博雅に贈ろうと言ってみる。

 

「差し出がましいようですが、よろしければぜひお持ちください」

「いやそんな……これほど出来のよいものを全ては貰えぬよ」

 

 佐為としては全て持ち帰ってもらっても問題なかったのだが、あまりに博雅が遠慮するため半分ほどを小さな香合に移し替えて渡した。

 

 そうして彼はせっかくならばと上野(かんづけ)親王(みこ)のところに香壺を届ける役を買って出てくれ──先方から承諾の返事が来るのを待って栞たちの合わせた香を手に四条の屋敷をあとにした。

 

 おそらく姫への贈りものついでに宮と演奏しつつ酒を飲む口実にするのだろう。などと思いつつ夜も更けて二人は寝所に入る。

 

「佐為の君がこれほど香合わせがお上手だとは思いませんでした」

「馬弓や蹴鞠は一向にそなたに敵いませんから、これくらいは……」

 

 『梅花』を棚に収めつつ言う栞に佐為は笑った。

 それに栞の合わせた『梅花』の出来こそ実にこちら好みで、と口元を緩める。

 

「二つの梅花が混ざればどうなるか……今から楽しみです」

 

 呟けば、栞は佐為の方を振り返ってきょとんとして目を瞬かせた。

 

「でしたら……一度混ぜて焚いてみます?」

 

 その答えに佐為はいささか失望して頭を抱えた。

 いつまで経っても彼女には寝所での艶話が全く通じないらしい。説明するのも野暮だというのに──。

 

「そうではなくて……、新年には私はそなたの合わせた香を、そなたは私の合わせた香を纏うのですから」

「それが……?」

 

 いよいよ佐為は困り果ててため息を吐き、手招きをして栞を(しとね)の方へと呼び寄せる。

 小首を傾げつつやってきた栞を抱き寄せ、膝の上に座らせながら小さく囁く。

 

「夜通しこうしていれば……互いの香が移るでしょう?」

 

 そこまで言って初めて栞ははっとしたらしく、さすがに佐為は苦笑いを漏らした。

 

 

 ──しかしながら『移り香』の話題は二人の閨でのものとは全く違う場所で発展した。

 その後しばらく、寸分違わぬ同じ匂い、しかも『侍従』を纏う佐為と博雅は本人たちの知らぬところで内裏中を巡るうわさとなり、いったい北の方を介してどんな関係なのかとしばしの間穿った目で見られたという。



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第十四話:遠国の歌語り

「春はあけぼの……」

 

 清少納言はそんなことを口ずさみながら登華殿から朝ぼらけの空を眺めていた。

 

 かつてはこんな季節の移ろいを一日中お喋りしながら共に過ごした年下の友人もいたが、もうずっと会っていない……と凛々しく美しかった栞の水干姿を思い出し首を振るう。

 

 女と産まれたとて、屋敷に引き籠もっているばかりではこの世に生まれ出た甲斐もないというものだ。

 もしも内侍の高官として出仕できるならば、きっと得るものも大きく良い経験となるだろうに。

 

 そう思う一方で世の殿方が娘や妻に「宮仕えだけはするな」と切々と諭す理由も分からないではない。

 彼らは良く知っているのだ。

 高位の女官ならばまだいい。だが女房や下女たちは、自らを守る術などそうはない。一説によると出仕した女房の七割、八割は誰かしら公卿や殿上人のお手付きだというし、むろん自ら恋を楽しんでいる場合も多かろうが、けしからぬ男の餌食となった例も多分にあろう。

 裏腹に──望む望まないとは別に──あえて幾人もの公卿・殿上人と定期的に枕を交わす女房もいる。経済支援目的だ。

 ここはそのような魑魅魍魎の住まう場所でもあるのだ。

 

 だから佐為が妻となった栞をこのような内裏に参上させたくないのも致し方あるまい。

 

 と、佐為との結婚の報告を最後に一度もこちらに参上していない栞を清少納言はそのように解釈していた。

 

 少なくとも人妻となったからと自ら行動を変えるような栞でないことは間違いないはずだ。

 ならばやはり、背の君が良い顔をしないのだろう。

 もしくは宮廷内で栞に知られたくないことがあるゆえ来させたくない、というセンもありうる。

 佐為は宮廷いちの花と謳われる美貌で内裏中の女人を虜にしてきた。身分はさほどでもないというのに、年配の尚侍(ないしのかみ)でさえ彼を前に見惚れて強く出られないという場面も何度か目にしたほどだ。

 殿方の中にも「あの君が女人ならば是が非でも一度……」や、逆に「自身が女の身であれば是非とも一夜そばに」など冗談まじりに語っているのを耳にしたことがある。

 物腰柔らかく、話しかければ応えてくれ、碁の指導も丁寧で優しい。しかも顔が良い。とにかく顔が良い。

 こう考えるのはきっと良くはないのだろうが、顔立ちの良さはなぜああも人の心を捉えるのだろうか。眠気が襲うのが常の僧侶の説教ですら美男だと殊更ありがたく聞こえるのが世の常なのだ。まして佐為は近くで向き合って碁を打ってくれ、立ち姿は立ち姿で長身が映えいっそう美しい。

 とくれば、熱をあげる女人が後をたたないのも無理からぬことだろう。

 

 滅多なことではなびかないと名高い橘内侍(きのないし)との仲はみなの知るところであるし、麗景殿の宰相の君こそが佐為の一の人であると真実なのか尾ひれがついたうわさなのか、ともかく佐為にまつわる話は後宮にいればいやでも耳にする機会が多い。

 

 聞いた話によれば佐為と栞の仲はとても良いようであるし、栞が内裏に上がって良からぬうわさを耳にしたり、佐為自身の馴染みの女人と顔を合わせるような事態を避けたい。──と、佐為も思っているのかもしれない。

 

 いずれにせよ佐為も大胆なことをしたと思う。

 

『私と結婚なさったのも対局相手欲しさというか……』

 

 栞はああ言っていたが、もしもあれが本当なら碁のために大臣の姫を得たこととなる。

 出世のために家柄の良い姫を狙うのは野心を持つ殿方の常套手段であるとはいえ、限度というものがある。栞は女御どころか皇后も狙える出自なのだ。いくら本人にも父親にもその気がないとはいえ、誰もが摂関家か宮家と縁付くと思っていたことだろう。

 

 だというのに──、と清少納言はすっかり明けて趣の減った空を眺めながらため息を吐いた。

 

 だというのに、これほど思うところがあっても、いざ佐為本人を目の前にするときっと自分とてなにも言えなくなってしまうだろう……と。

 

「末恐ろしいかただわ……佐為の君って……」

 

 

 

 一方の四条の屋敷では梅の季節も終わり、桜がそろそろ盛りだとばかりに春の庭を彩っていた。

 

「美しいですね」

「ほんとうに。ひと枝折って女御に差し上げようかしら……」

 

 あと幾日もすれば散り始め、舞い散る花弁で彩られた庭の池がさぞ風流な様子となるだろう。

 博雅を呼んで花見の宴でも催そうか、と思いつつ栞は出仕の支度をする佐為を見やる。

 

「桜に添える和歌(うた)を詠んでいただけません?」

「構いませんが……、女御さまにですか?」

「ええ。届けるのは他の者に言付けますから」

 

 言って、栞は家人に桜の枝を折ってくるよう言いつける。

 そうして佐為の書いた文を受け取りつつ格子の外に目をやった。

 

「暖かくなってきたし、今日は馬場で小弓でも打とうかしら。一人じゃつまらないけど……」

「私は付き合いませんよ。だいたい、勝負になりませんから」

 

 栞の勝ちで。と先手を打った佐為が呟き、栞は肩を揺らす。

 

「私は日々囲碁で負かされているのですから、他は譲っていただいてもいいでしょう?」

「たまにでしたら、と言いたいところですが……今日は按察使(あぜち)の大納言殿に呼ばれていてどのみち時間がないのです」

「まあ……、では着替えを用意しておきますね」

「ありがとう。昼にはいったん戻ります」

 

 言って佐為は一度栞の額に唇を寄せ、妻戸から外へと向かった。

 

 

「命婦、桜襲ねの直衣が仕上がっていたでしょう? 出してちょうだい」

 

 夫の生活全般の面倒を見るのは正妻の役目、特に衣装の用意は重要な仕事だ。

 ゆえに出世を狙う男はまず受領階級の金持ちの娘を妻にし身の回りを整えさせ、出世したら公卿の姫を狙うなどという身勝手な振る舞いを行ったりもしている。逆も然りで受領の金持ちが高貴な血を求め、落ちぶれかけた宮家などと縁付くということもままあるのだ。

 ──自分たちには当てはまらないことであるが。などと思いつつ運ばれてきた衣装箱を見やる。

 

 桜襲ねを着こなすのは公達の間でも洒落た粋人の証だ。佐為なら着こなせるだろう。

 それに、彼を送り出すのはこの大臣家だ。彼は従五位下の朝臣であると同時に「大臣家の婿」なのだ。それにふさわしいものを仕立てねばこちらの恥。──ということまで考えなければならないのがこの貴族社会の厄介なところだろう。

 

「とても見事な唐織で……きっとお似合いになりますわね。殿はどのようなお召し物でも見事な着こなしで、様々な衣装のお姿をお見上げできて私どもも楽しゅうございます」

「本当は近々博雅さまをお呼びした時に着て頂こうと思っていたのだけど……、按察使(あぜち)の大納言のところなら直衣でも構わないでしょうから」

「あちら様も殿のお姿にきっと魅入られることでしょう」

 

 うきうきと衣装を見やる命婦を見つつ、栞は小さく息を吐いた。

 出仕が済めば一旦戻ると言っていたが、今夜は大納言家から帰ってくるのだろうか。あの屋敷にどんな女人が揃っているかは知らないが──。

 

 

 栞がそのような物思いをしている頃、登華殿の女御の元へ栞の屋敷の桜の枝が届けられた。

 

「まあ、四条のお屋敷の桜だそうよ」

「栞殿から女御さまへの春のご挨拶だわ……!」

 

 取り次いだ女房たちが見事な桜に昂揚して口々に声をあげる。

 そして女御の御前へ運んでいると、一人が枝に結んであった文に気づいた。

 

「まあお珍しい。和歌(うた)でしょうか」

 

 栞の和歌(うた)の苦手は登華殿では周知の事実だ。

 女御に読んでみるよう促され、清少納言はじめ幾人かの女房が物珍しいその文を見ようと集まってきた。

 すると、春を謳う洒落た和歌(うた)が優美な文字でさらりと詠まれており、女房たちは揃って感嘆の息を漏らす。

 

「なんて美しいお手蹟()……! 栞殿の筆跡とは違いますね」

「それにこの和歌(うた)……、長秋卿……ではありませんよね」

「お二方とも美しい文字を書かれますが和歌(うた)となると……、背の君ではないかしら」

「まあ……では佐為の君のお手蹟()……!?」

 

 女御の御前ということすら失念して女房たちは盛り上がり、当の女御はさして気にする様子もなく自分にも文を見せるよう言いつけた。

 

「確かに栞の君のお手蹟()ではありませんね……」

 

 栞は華美な文字を書くが、この筆跡は優美さが勝っているいると女御が評し、ますます女房たちは盛り上がる。

 

「この登華殿には佐為の君の書き文字を見た者はおりませんもの……! 想像に違わずこんなに美しい文字を書かれるなんて……!」

「やっぱり素敵ねえ……」

「栞殿はきっとお幸せにお暮らしなのね……。もうずっとお会いしていませんが……」

「きっとお幸せよ。あの佐為の君が背の君なんですもの」

 

 文字の美しさは本人の評価に即繋がると言っても過言ではない。期待以上の文字を見せた佐為に彼女たちが惜しみない賞賛をおくるのも無理からぬことだろう。

 しかし……、と誰とはなしに寂しげな息を吐く。

 栞が最後に登華殿に参上したのは二年前の梅の季節。つまりもう二年以上顔を合わせていないこととなる。

 話をする彼女たちのそばに置かれたままだった碁盤を見やった清少納言が小さく言った。

 

「こちらで打っていた頃のお二人は、()()()()ような仲ではなかったはずですのに……」

 

 彼女はそっと碁盤の方へと歩み寄り、終局した盤面を見つつ腰を下ろして碁石を片すために盤面を崩しつつ考える。

 あの頃は()()()()ような仲でなかった二人は、今やヨセさえすぎて盤面を崩し白黒の碁石が混ざりあった状態──つまり男女の仲がすっかり深まったのだ。浮かべて自嘲気味の笑みを漏らす。

 まことに男女の仲として深まったのならいいが……、在りし日の栞に対局ばかりをせがむ佐為をよぎらせて清少納言は小さく首を振るった。

 

 

 そうして昼も過ぎようという頃に佐為は四条へと戻り、陽もすっかり傾いた時分には外出の準備を整えた。

 女房たちが仕上がったばかりの桜襲ねの直衣を佐為に着させて見上げ、見惚れているのが見て取れた。

 栞にしても胸が騒がないことはなかったが、それよりも他所の屋敷に送り出すのはいつまで経っても慣れず憂鬱なものだ。

 

「今宵はお戻りになります……?」

「そのつもりですが、先に休んでいて構いませんよ」

「私が起きて待っていると気がお咎めになる?」

 

 その言い分に佐為は肩を竦めつつそっと栞を抱きしめた。

 

「休んでいるそなたの元へ戻るのも、恋人を忍んで訪ねるようで悪くありませんから」

 

 そうして佐為は「行ってきます」と屋敷を出、牛車に揺られた。

 栞は存外に寂しがりなのか、家を空ける日はやや不安そうな顔をする。

 宿直の夜や方違えなどで帰れないことを告げるとなおさらだ。

 単に離れがたいと感じているのか、外でなにをしているのか疑心暗鬼なのか。

 少なくとも栞が整えた衣装を着て他の誰かへ通ったことは一度もなく、今日に限ればゆっくり碁を打ちたいと誘われてのことゆえに要らぬ心配なのだが。と、栞に持たせられた桜の枝を見やる。

 

 按察使(あぜち)の大納言は既に引退してもおかしくない高齢でおそらくこれが極官。大臣家よりは下の家門だ。

 それでも自分にとっては雲の上の存在なのだから本来なら正装で向かうべきだが、栞に送り出されてここにいる自分は「大臣家の婿」に他ならない。その証左がこの『大臣家の桜の枝』である。

 父が聞いたら卒倒しそうなことであるが、あの四条の屋敷にもすっかり慣れている自分がどこか恐ろしくもある。と、しばし牛車に揺られてたどり着いた大納言の屋敷は四条の屋敷に比べればこじんまりとしており、家人に案内され庭を歩いて寝殿の方へと向かう。

 

 その佐為の纏う桜の唐の綺の直衣に葡萄染(えびぞめ)下襲(したがさね)の裾を引いて歩く様を、寝殿の御簾内に控えていた女房らはもちろん宴席にいた殿方たちも息を呑んで見やった。

 

「まあ……なんとあでやかな大君姿(おおきみすがた)でしょう。まるで花の王のような……」

「あんなに美しい殿方がこの世にいらっしゃるなんて……!」

 

 女房たちの色めき立つ声は佐為の耳に届かなかったが、視線を感じるのは常のことだ。

 そのうちの一人が「佐為の君」と意外そうな声で呟いたが佐為にはむろん聞こえず、案内されるままに寝殿の(きざはし)を登った佐為はまず按察使(あぜち)の大納言に挨拶をした。

 

「今宵はお招きいただき恐縮の限りに存じます。こちらは妻から大納言さまにと預かって参りました」

 

 自身を前に惚けているらしき大納言に佐為は携えていた桜の枝を差し出し、彼ははっとしたように瞬きをしてから受け取った。

 

「この屋敷の桜も今が盛りだが、さすがは(そち)大臣(おとど)邸の桜……。ましてや北の方は春の王を遣わせたと見える」

「お戯れを」

「ともあれ花見には格好の夜となろう。納涼の御遊でのそなたの笛の音を忘れかねておるのだよ。まず一曲聴かせてもらえるかな」

 

 意外な言葉に佐為は目を瞬いた。

 納涼の御遊とは佐為が博雅たちに混じって御前で横笛を吹いた管弦対決のことだ。その際、按察使(あぜち)の大納言は判者を務めたという縁がある。

 この場にはあの時不在だった者もいたため、彼は佐為が博雅に師事して素晴らしい演奏だったと誉めそやし、佐為はやや恐縮した。

 むろん楽聖と称えられる博雅に笛を師事できたことは至福ではあったが。と佐為は請われるままに懐から横笛を取り出して構える。

 

 夕暮れに染まる薄紫の空にひらひらと花びらが舞い、桜襲ねの直衣布袴(のうしほうこ)姿で優雅に笛を吹く佐為は比喩ではなく春の王が降り立ったような出立ちで、盃を手に見やる殿方たちもその姿に酔って見入った。

 

 佐為の叙爵も婚姻も出自を思えば不可解な出世とはいえこの姿を見れば納得であろうと誰しもが感じ、佐為が笛を下ろせば詩歌自慢が和歌(うた)や詩を詠み合う宴席と相なった。

 佐為も酒を貰い受け、誰とはなしに碁を打とうという話になって相手を務める。

 こういう場ではたいてい相手に応じて石を置かせ、指導碁めいた対局になるが、これはこれで楽しいものだ。

 

 一局、また一局と対局を重ね、酒をもらい、また打つ。時おり誰かが弾き鳴らす管弦の音や歌う声が聴こえ、優雅な時間が流れて夜は更けていった。

 

 そうしてどのくらいの時が経っただろうか。

 さすがに少々酒を入れすぎた、と少し酔い覚ましをしようと佐為は区切りのいいところで中座した。

 灯籠を頼りに人気のない方の庇へと歩いていく。

 端近に控えている女房たちの衣の裾が御簾から覗いていてなんとも色鮮やかだ。

 それにも増して……と佐為は夜桜を見やった。月明かりに照らされる様が言い表しようもなく美しい。

 今が盛りだというのに花びらを風が攫い、やや火照った頬に心地いいはずの風が恨めしい。

 

「もうしばし留め置きたいものを……」

 

 歩きながら憂いていると、その呟きが聞こえたのだろうか。そばの御簾の内から声が届いた。

 

「残りなく散るぞめでたき……と申しますのに」

 

 佐為ははっと目を見開き、足を止めて口元を緩めた。見知った声だ。

 

「ありて世の中はての憂ければ。……ですか?」

 

 桜は全部散ってしまうのが素晴らしい。世の中というものはいつまでも有り続けると最後はいやなものになるのだから、という意味の古今の一首だ。

 佐為の声を受けて御簾のうちから小さな笑みが溢れ、佐為はその声の主が控える御簾のそばまで寄って腰を下ろした。

 

「どれほど美しいものもいずれは憂しものになる。……とはいささか厭世がすぎますね」

 

 これほど美しいものを、と声をかけると相手は御簾の内だというのに檜扇を開いて顔を覆う気配が伝った。

 

「わたくしは()()()()()をずっと見ていましたから……。この和歌(うた)こそ真理だと思うばかりです」

「それは穿ちすぎというものです。()()()は今も変わらず睦まじいままですから。──藤式部(とうしきぶ)殿」

 

 苦笑いを浮かべ、佐為は御簾の内の人物をそう呼んだ。

 彼女、藤式部は麗景殿に仕える女房で、宰相の君の親しい友人でもある。部屋も隣同士ゆえに佐為と宰相の君の馴れ初めから全てを見知っており、彼女への通いが減ったことを責めているのだろう。

 

「あなたこそ、いつまでお逃げになるつもりですか? 一度手合わせを、とかねてからお誘いしているというのに」

 

 佐為はそう切り返してみた。

 宰相の君に興味を持ったきっかけは他でもない、彼女の残した対局の盤面を見たことだ。白黒共にひとかどの打ち手であり、特に片方は熟練の理論派なのが見てとれた。

 しかし誰が打ったかまでは分からず、宰相の君に通う仲となってしばらくののちにそれが彼女──藤式部であったと知るに至ったのだ。

 もとより学者の家系らしく聡明な彼女と接するのを佐為は好んでいたが、藤式部の方は友人の恋人と碁を打つなど御免被りたい一心なのだろう。幾度となく対局に誘うも色よい返事はなく。未だ対局は叶っていない。

 いずれにせよ栞の棋力には劣るため、今では是が非にでもとは思っていないが……と夜空を見上げる。

 

「ところで、意外なところでお会いするものですね。あなたの宿下り先が按察使(あぜち)の大納言殿のお屋敷だとは思いもよりませんでした」

「遠縁の伝手でございまして。わたくしこそ佐為の君にお会いするとは思いもよりませんでした、麗景殿ではなかなかお会いできない昨今ですのに」

「せっかくの美しい夜だというのに、手厳しいですね。今は恨み言よりも夜桜を眺めるほうが有意義というものですよ」

 

 佐為は苦笑いを漏らした。

 彼女の身を思えば友人のために恨み言の一つや二つ言いたくなる気も分からないわけではないが。さりとてどうすることもできない。

 この人は和歌(うた)も巧みだし、今宵はそれに興じてみようか。四条の屋敷では和歌(うた)の詠み合いなど叶わないのだから一興だろう。

 思ったままに声をかけてみると、ぱち、と御簾の内で檜扇が閉じられる音がした。

 

「でしたら、ちょうど興味深い話がありまして……。佐為の君は“かい沼の池”をご存じ?」

「かい沼の池……? いえ……」

陸奥国(むつのくに)にある場所らしいのですが、民衆の間になんともあやしき歌語りが伝わっているそうで……」

怪奇な(あやしき)歌語り……ですか」

 

 佐為は少々身を御簾に寄せて藤式部の話に耳を傾けた。

 陸奥国とは遠国の一つであるが、この屋敷の主人は按察使(あぜち)の大納言だ。按察使(あぜち)とは陸奥国及び出羽国の地方行政を監督する地位。既に形骸化して久しい役職とはいえ、その地域の話が入ってくるのも道理だろう。

 だが陸奥国などあまりに遠い外国(とつくに)。しかも民衆の話など、京から出たことのない自分には想像すらできない。

 

「そのかい沼の池に身投げしたという伝承の一つが歌となっているようで」

「え──!?」

「どうせならわたくしもそれにちなんだ和歌(うた)など詠んでみようと思ったのです」

 

 つらつらと話す彼女の声に佐為は絶句した。

 身投げなどという仏道に反する最たること、なんと恐ろしい。と口元を覆う。

 それとも和歌(うた)のように、恋の淵に身を投げる、などと言葉の上でのみの戯れなのだろうか。いやしかし、遠国の民衆はこちらの想像に及ばない生活を営んでいるという可能性もあるわけで。と、佐為が絶句したまま凡夫には予想もつかない才媛の言葉を聞いていると、彼女はこう口上した。

 

「世にふるになぞかい沼のいけらじと思いぞ沈むそこは知らねど……」

 

 刹那、ぞくり、と佐為の背中に悪寒が走る。

 彼女はいったい何を詠んで(言って)いるのだろう。

 

 

 ──この世に生きていてなんの()()があろうか。

 ──いっそこの身を沈めてしまおう。その水底(みなそこ)になにがあるかは知らないけれど。

 

 

 しかし和歌(うた)が巧みなせいだろうか。それともあまりに強烈な内容ゆえか。佐為はふと、水の中でゆらゆらとたゆたい、水底(みなそこ)に沈んでいくような漠然とした光景に囚われた。暗い水の底など確認しようもないというのに、それを見てみたい。と、誘われるように感じてハッと意識を戻す。

 

「あ、あなたという人は……先ほどから厭世がすぎるというものですよ」

 

 少々息の乱れた自身を誤魔化すように彼女を窘めてみせる。

 ふ、と御簾の先からは自嘲気味の笑みが漏れた。

 

「そういうわけではないのですが……わたくしもこの世に常なしということを少しは悟っているつもりですから」

「そうであっても、身を沈めるなどと……有りもしないことを」

「さもありましょうが……、地方に下向した折にそういうこともままあるのだと見聞きしましたゆえ。京に住む方々には理解の及ばぬところではございましょうが」

「ともかく……次はもう少し明るい和歌(うた)を」

 

 言いつつ佐為は考える。

 怪奇で幻想的(あやしい)などと評される池ならば、水面に光が反射する様子などもっと美しい光景を描けるはずなのだ。そう、生きる甲斐なしではなく生きる甲斐もあるというような。

 

「心ゆく……水のけしきは今日ぞ見る……」

 

 佐為が心のままに呟けば、藤式部が下の句を継いだ。

 

「こや世に経つるかい沼の池」

 

 

 ──心が晴れ晴れとする景色を今日は見た。

 ──これが生きる甲斐があると伝わるかい沼の池なのだ。

 

 

 彼女は佐為の心情を汲み取ったようで、先ほどとは打って変わって明るい和歌(うた)となり佐為もようやく笑った。

 たかだか和歌(うた)だというのにこうも狼狽えるとは、とさらに自嘲していると藤式部には奇妙に映ったのだろう。不審がられて佐為は弁明してみせる。

 

「四条ではこのようなやりとりはしませんから……。あなたと話しているといつも気の張る思いです」

 

 栞は栞で聡い姫ではあるが、やや方向性が……と思い浮かべて佐為は苦笑いを浮かべる。

 彼女は今ごろどうしているだろう。もう眠ってしまっただろうか。それとも起きて自分の帰りを待っているのか。

 心地よい夜風が頬を撫で、空を舞う桜の花弁を目で追う佐為の脳裏に扇を翻して舞う栞の姿が浮かんだ。

 これほど美しい夜だというのに──。

 

「我は寂しも……君としあらねば……」

 

 あなたがいないから寂しく思う。などと、いったい誰を想って口ずさんだのだろう。それとも見知った万葉の一句が口をついて出ただけか。藤式部にもさしもの佐為にさえ分からず、しばし二人は無言で舞い散る桜の花を見つめた。

 

 

 そうして夜明けまであと一刻(いっとき)ほどとなり──。

 

 

 四条の屋敷では、(しとね)に横になった栞が揺らめく燈台の火をぼんやり眺めていた。

 佐為が夜に外出している際は帰るまで起きて待っているのが常だが、今日は先に寝ていて欲しいと言われてしまったし……と寝返りを打つ。

 もう夜明けが近いはずだ。

 佐為は帰らないつもりなのだろうか。

 でも寝ようにも寝付ける気がしないし、などと考えつつ時折りうとうとしながら起きていると、ふいに風が入り込んだように燈台の火が揺れ、はっと栞は目を凝らした。

 すれば几帳に大きな人影が映っており、驚いて上半身を起こす。

 その間にも几帳を乱して影の主が近づき、さすがに栞は声を上げかけた。

 

「誰か──ッ!」

 

 が、声を発する前に後ろから手で口を塞がれ身体を抱き抱えられて恐怖で一瞬身がすくむ。

 

「お静かに。姫、あなたに焦がれてここまでやってきたのですから」

 

 だが耳元で囁かれた声は見知ったもので、瞬時に脱力した栞は呆れて後ろを振り返った。

 

「佐為の君……、なんの真似です」

 

 着替えもしないで。と、桜襲ねの直衣を纏ったままの佐為を見やれば、ふ、と口元が愉悦めいて緩められたのが見えた。

 

「今宵はそなたのところへ忍んでいくと言ったでしょう?」

 

 そういえば出かける前にそんなことを言っていた気もするが、まさか本気だったとは思わず栞は困惑するしかない。

 

「お、お戯れが過ぎます。いったい誰かと……とても恐ろしく思ったのに」

 

 佐為は栞のその反応を見て自身も困惑したように肩をすくめている。

 

「やはり……このような形で妻問いをせずにいた私が正しかったといま改めて悟りました」

 

 呆れたように言われた栞は釈然としなかったが、こればかりは彼の言う通りかもしれない。

 ──貴族の子女は声を荒げることははしたないと言われ育つ。ゆえに望まぬ輩が寝所に押し入って来たとしても助けなど求められないのだ。が、自分ならおそらく大騒ぎしていたであろうし、厄介なことになっていたはずだ。

 

「じき夜明けですのに……、ずいぶんと遅くまであちらにいらしたのね」

 

 ともあれ帰宅した彼を迎え、それほど熱心に対局していたのかと問えば佐為は少しばかり言葉を濁した。

 

「色々……話も弾みましたから」

 

 佐為の方は逡巡しつつ言い淀んだ。

 按察使(あぜち)の大納言家で交わした藤式部との会話を栞に話すか否か迷ったのだ。

 

『世にふるになぞかい沼のいけらじと思いぞ沈むそこは知らねど……』

 

 うっかり思い出して再び背筋に悪寒が走る。

 いくら遠国の民衆の歌語りを聞いたとて、彼女とて貴族の端くれであろうに、暗に水に入っての死を連想するなど常軌を逸している。

 それともあまりに賢すぎるゆえ、彼女に見えている世界はこちらとは違うのだろうか。考えつつ佐為はちらりと栞を見やる。

 栞にしても神仏を恐れぬきらいがあるため、今宵の話を語って聞かせたら案外藤式部の言い分を理解してしまうかもしれない。

 

「佐為の君……?」

 

 いや、さすがにないだろうか。いくら栞とて、そんな反貴族的なことを……と思い至って佐為ははっとした。

 

 自分は偶然に取り立てられただけで、本来は叙爵など望むべくもない出自だ。本来ならば『貴族』ですらないのだ──。

 してみれば、自分こそが理解すべきなのか。

 遠国の民の── 水底(みなそこ)に身を沈めたという。

 

「佐為の君……!」

 

 ゆらゆらとまたも水にたゆたうような感覚に囚われ愕然としていると、先ほどよりも強く栞から呼ばれて佐為はびくりと身体をしならせた。

 

「どうなさったの……?」

「い、いえ……すみません、ぼんやりしてしまって」

 

 訝しげに栞が見上げてきて、佐為は取り繕うように笑ってみせた。

 そして内心で自嘲する。たかだか戯れの和歌(うた)の話だというのにおかしなことを。けれども、なぜか漠然と胸に引っかかるものがあるのは確かで……と考えていると栞が直衣の袖を引いた。

 

「じき夜明けです。せっかく起きているのですから外を見ませんか?」

 

 きっと美しいはずだと誘う彼女に佐為は頷いた。

 さすがに格子を上げさせるには忍びなく、二人してそっと妻戸を開けて外へと出てみる。

 すれば薄紫に色づいた空にうっすらと雲がかかり、庭の桜がその色に溶け入るような光景が目に映ってどちらともなく感嘆の息を漏らした。

 

「春はあけぼの……と言いたくなる気持ちもわかる光景ですね」

 

 小さく栞が笑みをこぼした。曰く、かつて清少納言がそう語っていたという。

 佐為も小さく笑って栞の肩を抱き寄せた。

 少しずつ空が白んでゆく。あの雲の先から陽が顔を出すのも近いだろう。すれば庭の池に陽が反射して……、そうだ、生きる甲斐もあるような光景となろう。と、佐為は無意識に脳裏の奥でそう感じた。

 

「ねえ佐為の君」

「はい」

「あなたは私のもとへ忍んで通うのも悪くないとお戯れをおっしゃいましたが……、もしそのような仲であれば、夜明け前には帰ってしまうあなたを見送らねばなりません。こんな風に夜明けを共に見ることもできないなんて……、私はいやです」

「栞……」

「ですから、ここにいらしてね」

 

 ぎゅっと直衣を握りしめて見上げてきた栞に佐為はさすがに胸打たれ、腕に力を込めて彼女を抱きしめた。

 ええ、と頷きつつそっと額に口付けを落とす。

 そうして思う。なにを不安になることがあろう、と。ここにいる自分は他でもないこの人の背で、歴とした上人(うえびと)なのだ。

 そう、昇殿さえ許された貴族()なのだから……と明けゆく薄紫の空間に身を委ねながら強く思った。




この世界線では藤式部(紫式部)はこの夜の佐為の姿にインスパイアされて「花宴」の光源氏を書いたんでしょうね。


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第十五話:澪標(みをつくし)

 小春日和の昼下がり。

 内裏の庭には蹴鞠に興じる公達の若々しい声が響いていた。

 

 蹴鞠は貴族の嗜みの一つである。

 とはいえ「高い趣味」と言われるようなものではなく、年齢が上がり身分も上がるにつれ蹴鞠に興じる機会も自ずと減っていくものである。が、例外もまた往々にして存在するものだ。

 

「五百十九──五百二十──!!!」

 

 そんな蹴鞠に熱を上げる若い公達──に混じる源博雅──の白熱した様子はにわかに注目の的となり、彼らを召した今上も熱心に見入り、最終的に五百二十回も落とさず蹴り上げ続けた博雅たちには禄が給われることとなった。

 

 今上は汗を拭う博雅を見つつ感心したように笑う。

 

「長秋卿は楽の才に加えて幼い頃から蹴鞠の上手だったと父帝も申しておられたが……頼もしい限りだな」

「まことに……」

「そなたとは北の方の後見人の縁で近しい関係であろう? 四条の屋敷でもやはりこのような遊びを催すのかな」

「いえ、私は蹴鞠の方は恥ずかしながら……。博雅三位(はくがのさんみ)も私が相手では物足りぬでしょう」

 

 今上のそばに控えていた佐為はそう答えつつ、公達と笑い合う博雅を見やる。

 博雅が蹴鞠の上手とは自分も耳にしていたが、まさかこれほどとは。これも血筋や育ちの為せる技なのか。

 いやそれにしても。三位(さんみ)の公卿ともなれば蹴鞠には参加しなくなるのが常だというのに率先して楽しんで……。ああいう破天荒さもきっと血筋や育ちに違いない。と、栞の姿も重ねて浮かべていると今上が改まって佐為の方を向き直った。

 

「ところで……北の方、(そち)の君はお元気でいられるか?」

 

 (そち)の君、とは栞のことだ。は、と佐為は頭を下げる。

 すれば今上が少し寂しげに笑ったのが伝った。

 

「以前は登華殿の女御のところによく参入していて私も忍んで舞など観に行っていたものだが……。まあ、いまはそなたの北の方なのだから仕方がないね」

「は……、女御さまからも惜しまれて、私ももったいなく思ってはおりますが……参内となりますとなかなか難しく」

「まだ私が春宮であったころはあの方もよく御所で舞っていて……いまでも語り草になっているほどだよ。私も未だ忘れられず……あのように身分高く生まれついた姫にあそこまでの舞の才が備わっていたことを不幸にも思ったものだ」

 

 今上は栞を惜しみつつ、もはや人妻となった大臣家の姫が軽々しく人前に出る機会などそうそうないと諦め嘆いてもいるのだろう。

 まさか栞本人に今上がご執心ということはないと思うが。などと佐為が内心焦りも感じていると、彼はこう切り出してきた。

 

大嘗会(おおにえ)(そち)の君が舞った五節舞の話はそなたも聞き及んでおるだろう?」

「──はい」

「じき新嘗会(にいなえ)だが、今年は左大臣が中の君を舞姫として出すと言っておるのだ。そこで、まずそなたに内々に知らせておこうと思ったのだが……」

 

 そうして続ける今上の話に佐為は目を見開いた。

 

 

 新嘗会──新嘗祭とは毎年冬に行われる宮中の重要行事である。

 その最後に行われる豊明節会(とよのあかりのせちえ)で五節の舞は舞われるわけであるが、これを舞うための舞姫は親王、公卿もしくは殿上から四名を出すことが習わしである。

 しかしながら女人が人前に姿を晒すことを良しとしない風潮により、ここ最近は公卿たちは自身の娘を舞姫として出さずに配下の中流以下の貴族の娘から出すようになっていた。

 が、今年の新嘗祭は左大臣が自身の娘である中の君を舞姫として出すという。聞けば外腹の姫らしく、とはいえ左大臣の鍾愛の姫で、新嘗祭の後は欠員が出ている尚侍(ないしのかみ)として入内する予定だということだ。

 

 五節の舞姫には五節舞を専門として指導をする五節舞専門の「舞師」という官職がある。五節の舞姫の経験者から選ばれ、その職位は終身職である上に毎年多大な禄も入るというおおよその女人には名誉な、また生活のためにも良い職と言えるものだ。

 しかしこの五節の舞師は得てして下級貴族や官人階級出身であり、入内する娘の師としては不足に感じたのだろう。折も折、この舞師が体調を崩しがちであることを理由に左大臣はとある相談を今上に持ちかけたという。

 近年の五節の舞姫経験者でもっとも出自がいいのは栞である。ゆえに栞を自身の姫の師につけたいというのが彼の主な相談内容だった。

 今上にしても自身の大嘗祭で舞姫を務めた栞には並々ならぬ思い入れがあり──それならば権官として栞に権舞師を贈ってはどうかと左大臣に告げた。

 左大臣は今上の言葉に喜び、議政官もそれでまとまっているという。

 

 そんな話を聞かされた佐為は思わず頭を押さえた。

 

 背の君が反対するならば無理にとは……と今上は付け加えたものの、どこをどう見ても断れる筋の話ではない。

 

 

 ──などと思いつつ帰宅すると、すでに御所からその話がいっていたのだろう。栞は熱心に文を読みながら難しい顔をしていた。

 

「栞……」

「あ、ああ……おかえりなさい。すみません、つい今しがた御所から使者が来たもので気を取られていて……」

「ええ、私もちょうど御所で主上(おかみ)からお聞きました。新嘗会(にいなえ)のことでしょう?」

「はい。……でも突然で、驚いてしまって」

 

 栞は目を伏せたが、舞師の話を受けたいのだろうと佐為は悟った。ただでさえ結婚後は外に出る機会が激減しているのだ。彼女がそのことを不満に感じているのは知っている。今回のことは外に出るまたとない機会だろう。

 

「左大臣の姫君を教習するのにあまりに身分が低い師だと……とお思いというか、だからこそあえて私に出向かせたいお心のようですね。舞師は終生に渡ってその職務を果たすものですが、私は今回ばかりの権舞師とするということですから」

「実質、左大臣の姫君のためということですね」

「そのようです。加えて、これを受けるならば私には従三位を給うという話です」

 

 ありがたいが益々身分が重くなってしまう。と言う栞に佐為は肩を竦める。

 

「それでは、そなたはますます私には手の届かない人となるのですね」

「何をおっしゃいます。あなただってご昇進はこれからいくらでも……と言っても父上が戻られない限りはあまりはかばかしいことは無理かもしれませんが、ゆくゆくは参議にでも」

 

 ともかく、と栞は笑った。

 

「お受けしようと思います。加階や俸禄はともかくも……舞に貢献できることは嬉しいですから」

 

 やはり、と佐為は無意識に拳を握りしめた。

 舞師そのものに反対なわけでは決してないが、一つ懸念が──と訴える。

 

「左大臣家へ直接出向いて教習を行うつもりですか?」

「それは……そうなると思います。他の舞姫がたには大師()ではなく小師がつくと思いますし……」

「そうではなくて……!」

 

 佐為は思わず栞の手を取った。

 左大臣宅といえば、あの藤の中納言の生家である。

 

「藤の中納言はそなたに求婚していたのですから……何もそんなところに行かずとも」

「で……、ですが中納言さまは今は三条邸においでですし、一昨年にご結婚されたばかりなのに」

 

 不思議そうに栞は目を瞬かせた。

 彼が、藤の中納言が自分たちの婚姻後に院の内親王降嫁の話を受ける決意をしたことは佐為も本人から聞いて承知している。事実、その翌年に院の女四の宮との婚儀を済ませた彼は、いまは実家の二条から女四の宮の母方の里邸である三条邸に移り住んでいる。

 

 しかし──栞への気持ちを忘れたわけでないことは時おり送られてくる文から見てとれ、本人も栞が参内しないことで彼女と会う機会がないことに不満を感じていることは内裏でそれとなく何度も匂わされていた佐為である。

 

 そんな彼が栞が二条へ出向くと知れば、舞姫となる妹の様子を見る名目で実家に顔を出すに違いない。

 いや左大臣家のことだけではない。五節舞の師ともなれば、新嘗祭の折りには参内して御所に幾日も詰めていなければならないのだ。

 もしもなにか間違いでも起これば、という佐為に栞は怪訝そうな顔をする。

 

「そんなに心配なさらずとも……」

「そなたは大臣(おとど)の姫ですが、同時に私の妻でもあります。私には……そなたを守れるほどの力はありませんから」

 

 左大臣家ではともかくも、御所に上がれば全ての女官・女房は人前に顔を晒すことを避けられない。いくら栞の顔は大多数に割れているとはいえ、誰ぞに見初められないとも限らない。

 しかも夫が自分程度の身分では──、手を出しても構わぬと軽んじられてしまうだろう。

 

「大丈夫ですよ、博雅さまも後見くださるはずですから」

「でも……」

「あなたが私をあまり人前に出したくないのは存じてますし、ご心配も分かります。かと言って、そもそも断れる筋の話では──」

 

 そこまで言って、栞は何かを思い出したように佐為を見上げた。

 

「そういえば……五節舞師は内侍宣で決定が下るのでした。おそらく私の場合も同じでしょうね」

「え──」

「ということは上臈(じょうろう)の内侍……橘内侍(きのないし)から言付けされるんだわ」

「え……」

「懐かしい、あの方は私が五節の舞姫を務めた時にはまだ上臈(じょうろう)にお昇りではなかったから……。そう考えると、あなたよりも私の方があの方と()()()()()()()ということになりますね」

 

 ふ、と口元だけで微笑まれて佐為は握っていた手を思わず離してしまう。

 

「い、意味がわかりかねます」

「五節師を引き受けるとなると内侍とも関わらねばなりませんから、そうなるとあれやこれや申す者もいるでしょう。……あなたのご心配はそちらなのかと思って」

「そ──!」

 

 そうではないと言い返そうとして佐為は言葉に詰まった。

 考えたくはないが、栞の言う通りである。

 思い起こせば三日夜を前に、他に妻にしたい人たちがいるのでは、と尻込みしていた栞だ。自分と橘内侍(きのないし)のことも元から承知のはず。

 

 どうしてこう次から次に……、と佐為はため息を吐いて説得を諦めた。

 

 

 

『掌侍橘何某宣、奉勅____』

 

 そうして新嘗祭が近づき宣旨が渡り、栞には今年の新嘗祭の五節舞を取り仕切る役が正式に下りた。

 

 これを境に従三位に昇った栞は、以後『三位(さんみ)御方(おんかた)』や『四条殿』と呼ばれることになる。

 

 五節の舞師となれば舞姫を出す家それぞれから膨大な禄が贈られる上に必要なものは全て彼らが揃えるわけで、栞自身の持ち出しは実質ない。

 この収入が今年絶たれるだろう本来の舞師には哀れなことで、栞は病みがちだという舞師に見舞いの名目で絹や綿、米や調度品など栞自身が受け取るだろう禄に準ずる品々を贈り届けさせた。

 

 栞の役目は舞姫たちが御所に参入する前の数日間に左大臣家で中の君に教習すること、及び舞姫に先駆けて参内して新嘗祭が無事終わるまで五節舞のいっさいを取り仕切ることである。

 

 つまり左大臣の家に泊まり込まねばならず、佐為としては送り出したくない気持ちもあったのだろう。

 が──。

 

 いったん決まった以上は覆しようがなく──、佐為にしても新嘗祭の準備に追われてそれどころではない。

 

「姫さま、左大臣さまのお屋敷よりお迎えの車が来ております」

 

 五節の舞姫の御所参入まであと三日と迫った日。その夜に左大臣は栞のところへ迎えをよこした。

 了承の返事をして栞は佐為に告げる。

 

「それでは、後のことはよろしくお願いしますね」

「分かりました。気をつけて」

 

 佐為に見送られ、左大臣からの迎えの牛車に乗った栞は自身の屋敷から複数の従者、女房を選んで同行させた。

 この舞師の連れてくる従者へ禄を取らせるのも世話をするのも舞姫を献上する側──つまり左大臣家の負担である。

 一家から舞姫を出すというのは並大抵の負担ではないのだ。

 

 栞自身が舞姫を務めた時は……あの年は特に大嘗祭だったこともあり衣装から人選まで色々と大変だった。などと思い返していると、牛車は二条の左大臣宅に着いた。

 

 教習所は東の対に設置したのか、牛車は東の対の端に寄せて止められ栞は直接そこから中へ迎え入れられた。

 さすがに摂関家。調度品やしつらえの趣きも品があり全てが一級品だ。薫物の匂いがわずかにくゆり、良い暮らしぶりが見てとれる。

 

御方(おんかた)さま、お隣に北の方さまと中の君さまがおいでです」

「参ります」

 

 栞自身は客人で師という以前に大臣家の姫で従三位も預かる身だ。本来なら舞師は下級貴族で公卿家に傅かねばならないが、むろん栞はその立場にない。

 あちらも当然、大臣家の姫に礼節をもって接するだろう。

 女房が仕切りの役目を果たしていた二枚の几帳を移動させて道を作り、栞はその先に控えていた二人に挨拶をする。

 栞の目に人懐こそうな笑みを浮かべる年若い姫が映った。この中の君は外腹の姫ということだが、幼い頃にこの家に引き取られたらしく継母である北の方との仲も良さそうだ。

 

「兄の中納言が大嘗会(おおにえ)の時の御方(おんかた)さまの素晴らしさを何度も語られて……わたくし、今日は御方(おんかた)さまが来られることを楽しみにしていたんです」

「それは恐縮です。ともあれ五節の舞は格別に難しいということはございませんのでお気楽になさってね」

 

 変な話だが今上の御前よりもよほど緊張する。と、今日ばかりは大臣(おとど)の姫らしいゆかしさを忘れず振る舞おうと頭に刻み、栞は中の君に舞の教習を行った。

 さすがに尚侍(ないしのかみ)になろうというだけあって明るい人柄のようだ。きっと宮仕えも上手くこなすだろう。

 さすがは左大臣──智略に優れているとも言える。正妻腹の大君(おおいぎみ)は既に院の女御であるし、この中の君は外腹だとみなが知っているのだ。女御として入内させても問題はないが、あえて尚侍(ないしのかみ)として出仕させる。そして今上の目に止まり寵を受け懐妊したら女御に格上げさせる腹なのだろう。仮に今上の寵を受けずとも尚侍(ないしのかみ)の職位は終生維持できるのだから、次の帝も未定なことであるし、譲位後に残って望みを繋ぐ手さえあるのだ。

 表向きは慎み深く、それでいて左大臣家にはなんの損もない采配である。

 

 こういうものを見るにつけ、やはり自分には入内して寵を競うなど不可能であった。

 

 などと思いつつ教習は夜中まで続き、その日はそのまま四条から連れてきた女房や従者ともども栞は左大臣宅で休んだ。

 

 そうして翌日も引き続き教習を続けていた栞であるが、午後になってやや風向きが変わる。

 休息を取っていた時に、とある一つの事件が起きたのだ。

 

「若さまがお戻りですって……!」

御方(おんかた)さまにご挨拶をと申されております」

 

 この家の女房たちが騒ぎ始めたかと思うと上臈らしき女房が栞の元へ来てそう告げ、さすがに栞は目を見開いた。

 

 

「かの五節の舞姫がこちらにおいでだと伺い、昔を思い出して我が家を訪ねて参りました」

 

 

 若さま、とは藤の中納言のことである。

 驚いた栞だが、ここは左大臣宅。断るのも無理な話だ。

 取り急ぎ、座が用意されるのを待って御簾越しで話をすることとした。

 御簾を隔てて久々に対面した彼は数年前よりも立派な青年になっており、さすがは摂関家の総領と言うべきか。

 

「“天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ”。──などと過去詠まれもしましたが、そうありたいと願っても叶わないこの世が恨めしい限りです」

 

 御簾の先で中納言はそんな風に言った。

 おそらく昔は直接の対面が叶っていたのに今は御簾を隔ててしか会話できない現状への愚痴……という風に栞は解釈した。

 

「こうして中納言さまとお話するのは数年ぶりですもの。その間にあなたは内親王(ひめみこ)さまとご結婚され、さまざまな事が変化いたしました」

「あなたが先にご結婚されたのですから、私と距離を置かれたのはあなたの方だというのに……」

「そんな風におっしゃいますな、私など宮さまとは比ぶべくもない只人(ただびと)です」

 

 そもそもの話であるが、内親王降嫁がなくとも中納言の求婚は受けていない。と匂わせると、伝わったのだろう。自嘲するような声が中納言から漏れた。

 

「すみません、あなたが妹の教習に来られると聞き及んでいてもたってもいられず……。どう過ごされているのかずっと気にかかっていたのです。あれほど足繁く通われていた登華殿への参上も遠のき、もしや背の君がお咎めなのか……お幸せなのか、と」

「中納言さま……」

「私のところへおいで下さっていれば、そうはならずにいたものを……と」

 

 栞は苦笑いを漏らした。

 中納言()と結婚していれば、さらに窮屈な生活となっていただろうに。──それでもその心意気だけはありがたく思い、栞は微笑む。

 

「私は幸せに過ごしております。それに、夫に言われずとももう独り身ではないのですから……軽々しく参内するのも憚られまして」

「さもありましょうが、あなたが来られないことをみな残念に思っているのです。今回のこともそれで主上(おかみ)など熱心に──あ」

 

 これは失礼。と言いすぎたことを中納言が詫び、栞は肩を揺らした。

 

「私も今回のことは公事として参内できる機会をいただき、ありがたく思っております。こちらの中の君さまをはじめ、舞姫がたを統率して大嘗会(おおにえ)に勝るような五節舞にできるよう務めるつもりです」

「私も御所でのあなたの久々のご活躍がなによりも楽しみで……きっと素晴らしく取り仕切られるのだろうと確信しております」

「もったいないことを……。私などのことよりも中の君の舞の方をお楽しみになさってください」

「舞も楽しみではありますが……、あなたが居られるだけで私にとっては御所が明るく華やぎますから」

 

 相も変わらずな彼の熱心ぶりに栞は苦笑いを漏らすもしばし歓談し、中納言は三条邸へと戻っていって栞はホッと胸を撫で下ろした。

 

 

 そうして丸二日の教習を終え、左大臣より大層な禄を贈られ左大臣家の従者に傅かれて栞は四条まで送り届けられた。

 

「おかえりなさいませ、姫さま」

「おかえりなさいませ」

 

 家人や女房たちと共に佐為も出迎えに赴き、彼は自ら左大臣家の車より栞を抱きかかえて下ろし迎えた。

 その様子から、この二日間はよほど気を揉んでいたのだろうと察するも疲れも相まって大人しく運ばれて寝殿の母屋へと足を下ろす。

 

「留守を預かってくださり、ありがとうございました」

「いえ……。それより左大臣の屋敷はどうでしたか?」

「とても良くしていただいて……、中の君は好感の持てるお人柄できっと良い尚侍(ないしのかみ)におなりだとお見受けしました」

「それは何よりですが……」

 

 やや不安げな佐為はまだ中納言のことを気にしているのだろうか。

 正直に話せば「やはり」と佐為はわずかに柳眉を寄せた。

 

「だから言ったでしょう」

「でも御簾越しにお話しただけですし……」

「御簾越しって……、直接話したんですか!?」

「で、でも……急なことで取り継ぎなども難しくて……」

 

 佐為は一度溜め息を吐いて栞を抱き寄せた。

 

「以前も言いましたが……私ではそなたを守りきれないのですから」

 

 やり切れなさを含んだような声に栞の眉尻が下がってくる。

 佐為の懸念がわからないわけではないのだ。女人とは軽く見られがちであるし、いくら栞自身の身分が高かろうが実父は在京ではなく夫の身分も高くない。となれば、屋敷の外──御所や今回の左大臣宅など──で他の男の手が付きやすくなってしまう。特にそれが公卿級や恐れ多くも帝とあらば佐為には抗議する術さえない。ということなのだろう。

 佐為がそういう意味で自分を外に出したくないと思っているかは定かではないが、もしそうなら……と栞は一度唇を結んでから佐為を見上げた。

 

「この新嘗会(にいなえ)が終われば、私はもう二度と御所には上がりません。だから心配なさらないで」

「栞……」

「幸いこの屋敷は十分に広いですから、私は舞も馬弓も好きなだけできるもの。それで十分です」

 

 笑うと佐為は自分がそう言わせたと感じたのか、どこか後ろめたそうな顔をした。

 

「すみません、私のわがままで……そなたに我慢ばかりを強いて」

「なにをおっしゃいます。私はあなたを背に持って幸せなのに」

 

 栞はそう言うと、そっと佐為の胸に身を埋めた。

 事実、栞はそれで良いと感じていた。外に出られない不満も佐為が不快に思うなら取るに足りないことだ。この先の一生をこの屋敷内で過ごすことになっても構わない。

 佐為が囲碁を一番に思うように、かつてはただ純粋に舞に励んでいたこともあったが……公卿の姫と生まれた以上は諦めるしかないのだから。だから、むしろ佐為がいて良かった。

 過去に戻りたい、裳着の儀の前に。との願いがもしも叶ったならば、そこに佐為はいないのだ。ならば、これでいい。

 この人のために人生を生きるのもそう悪いことではない。

 佐為といられるなら他を全て捨ててでも──と栞は佐為の直衣を強く握りしめた。



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第十六話:最後の参内

 左大臣宅での教習から戻った翌日──子日(ねのひ)、午後。

 

 夜に御所へ参入する予定の四人の舞姫に先駆けて参内する栞の準備は着々と整いつつあった。

 この日は佐為以下博雅や博雅の息子たちも出仕を休み、栞の参内や付き添いの準備に追われた。

 

 参内にあたり紅紅葉(くれないもみじ)襲ねの裳唐衣で正装した栞は、滅多に乗らない金作(こがねづくり)の牛車に乗り込み、佐為たちの乗る複数の牛車と多くの従者を連れて仰々しく内裏へと向かった。

 

 従三位に昇ったこともあり内裏の内郭門まで牛車のまま行くことを許され、大内裏の外郭門で車を降りた佐為や博雅たちに付き添われた栞は後宮北側の 玄輝門(げんきもん)のところで車で降りた。

 その先には栞のために筵道(えんどう)が敷かれており、到着を待っていた諸大夫たちが栞の姿を隠すように差几帳(さしきちょう)をした。そうして栞は佐為に手を取られ先導され博雅たちが付き添って後宮は常寧殿の方へと歩いていく。

 

 その華やかな様子を貞観殿の女房たちが見つめてしきりに感嘆していた。

 

「まあ、今年の五節大師の参内は後の世の語り草にもなりそうな……」

(そち)大臣(おとど)大君(おおいぎみ)で後見人の長秋卿や若君たちも付き添われて……なんと立派なことでしょう」

「それに背の君は侍従藤原佐為朝臣、宮廷一の花とも呼ばれる君が今日は一段と麗しいこと」

 

 登華殿の栞の友人たちも遠くからその様子を見守っていた。

 

「栞殿……お元気そうでよかったこと……」

「従三位にお昇りで今後はますますこちらへのお出ましは難しくおなりでしょうね」

 

 栞はというと正装の重々しい重みに耐えながら常寧殿の馬道を歩き、どうにか目的地に辿り着いた。別名を『五節殿』とも呼ばれるこの殿舎は五節の舞姫の詰所となる場所である。

 五節師には上座に宿所が設営され、『帳台試』と呼ばれる常寧殿での試楽の際には五節師の宿所に今上の座も──もしも渡りがあれば──置かれることとなる。

 つまり帝と同席するということで、──これは下級貴族や官人の子女には名誉と同時に荷が重いに違いない。と、あながち本来の舞師が病みがちというのも本当かもしれないと感じつつ栞は自身の宿所となる塗籠に案内されホッと息を吐いた。

 

「大丈夫ですか?」

 

 辛そうにしていたのか佐為が心配げに顔を覗き込んできて栞は小さく首を振るう。

 

「重いです……。私も直衣を着たい」

 

 そう切り返せば、彼は呆れたような息を吐いた。

 博雅はというと、全体が見渡せるこの場から感心しきりに常寧殿の母屋を見渡している。

 明日の夜には四人の舞姫が揃い最初の教習が行われるのだ。その設営やら歌人の調子の最終調整が栞の役目である。

 今日から豊明節会(とよのあかりのせちえ)が終わるまでの五日間、御所住まいだ。

 ──思えば自身が舞姫をつとめた時には父がいて左近衛の武官が幾人も側に控えており、不安など微塵も感じなかったが。改めて考えれば一人でここに寝泊りするのは心細いかもしれない。

 

 にしても……と栞はまだ主のいない舞姫たちの詰所を見て思った。

 

 舞姫というのは本来なら人前で顔を見せることのない未婚の娘たちが公に出てくる特殊な場だ。

 本人の容姿はもちろん、着ている装束や連れてくる童女たちの容姿装束まで全てが面白おかしく批評される対象となるのだ。

 自身も経験したこととは言え、改めて別の立場から見ると如何ともしがたい気分になる。

 

 ともかくも今夜は佐為が宿直を勤め、明日以降は博雅が宿直を勤めてくれる予定だ。

 佐為とのことはみなが承知しているのだから自分の寝所に入れても文句は言われまいが、さすがに詰所内で床を同じくするのは憚られ、几帳で仕切りをつけてその夜は別々に夜を明かした。

 

 翌日──佐為は宿直明けのまま出仕したようで、栞は台盤所から自身の朝餉が運ばれてくるのを察して戸の方を見やった。が、ふと違和感に眉を寄せる。

 運んできた女官からほのかに香るくゆり。覚えがある。黒方の匂いだ。

 

「この香……、橘内侍(きのないし)?」

 

 まさか橘内侍(きのないし)が食事を運んでくるとは思わず、栞の顔がややこわばった。

 いったい誰の指示だろう。にわかに頭が痛んだものの几帳の先からは聞き覚えのある声がした。

 

「お目覚めでございますか」

「ええ。──お久しぶりですね。そなたの香が大嘗会(おおにえ)の時と変わらぬのですぐに気づきました」

 

 『黒方』は季節を選ばないが冬場に特に好まれ、慶事の際にも用いられる大人びた香りだ。新嘗祭の時期とあって使用しているのだろう。場に合った香を合わせるあたりはさすがに上臈の内侍を務めるだけある。

 感心していると、ゆるく彼女が笑みを漏らした気配がした。

 

「内侍……?」

大嘗会(おおにえ)の時にも御方(おんかた)さまにこの香を褒めていただいたことを懐かしく思い出しておりました。そして……()()()()()()()をお見つけになられたのだとも」

「どういうことです?」

 

 持って回った言い方は宮中では嗜みなのかもしれないが、なにが言いたいのか。考えている間に、ふ、と橘内侍(きのないし)は息を漏らした。

 

「侍従の君が折りに触れてこの香をお褒めくださいますもので……さすがは妹背ともなると趣味が似ていられる、と」

 

 愉悦を含んだような声が届き、栞の顔がますますこわばった。

 そんなことをわざわざ言ってくる意図は何なのか。思いつつ眉を寄せる。

 

「いっこうに風雅を解せぬ私だというのに、香の好みが似ているとは嬉しいことです。もっとも夫婦は似てくると申しますから……自ずとそうなったのかもしれませんが」

 

 そうして朝餉をおいてさがるよう告げ、栞は肩で息をした。

 佐為は職務上、内侍と接することも多いはず。ゆえに彼女の調合する香について話す機会もあるのだろうが。でも。

 

 ──ここまであからさまに佐為との関係をほのめかす意図はなんなのか。

 

 などと気にしても詮無いことで、ふるふると首を振る。

 朝餉を済ませ、歌人の座所や調子の確認をしつつ公務をこなしているとあっという間に午後に差し掛かった。

 

「栞……!」

 

 すれば群臣の退出の時間でもあり、佐為も例に漏れずだったのだろう。

 常寧殿に顔を出した彼の姿を見た途端に栞の眉間に無意識に皺が寄った。

 

「佐為の君……」

「これから退出するのでそなたの顔を見てからと思ったのですが……、何かあったのですか?」

 

 浮かない顔をしていたことに気づいたのだろう。

 栞は少し目を伏せた。

 

「別に……なにも」

「なにもないようには見えませんが?」

「いえ、ただ……橘内侍(きのないし)が朝餉を持ってこられたもので」

「え──」

 

 目の前まで来た佐為が驚いたような気配が伝った。

 

「そ、それで……なんと?」

 

 栞は言い淀む。彼女の合わせた香をあなたが褒めていたと言っていた、と告げたところでなんになろうか。

 言葉を噛み殺して佐為の胸に身を寄せるも、ほんのわずかに目尻に涙が浮かんだ。

 宥めるようにして髪を撫でる佐為には何があったのかおおよそ察しているだろう。

 

「そなたが気に病むようなことは何もないのですから……」

 

 佐為は指の腹で掬うようにして目尻の涙を拭い、そっと栞の額に唇を寄せた。

 

「……んっ」

 

 そうして何度か唇を重ね合い、佐為は明日また様子を見にくると告げて常寧殿を後にした。

 

 

 そのまま内裏の外へと向かった佐為であるが、温明殿を通りかかったところでちょうど件の橘内侍(きのないし)を見かけて足を止める。

 

掌侍(しょうじ)の君」

 

 呼びかけると橘内侍(きのないし)は振り返り、普段通りに何の用かと聞いてきた。

 大声で話すわけにもいかず、佐為は彼女の方へ歩み寄って低く声を抑えた。

 

「栞の……妻のところへ朝餉を届けたそうですね」

「ええ、朝餉をお届けするのが遅れていてお気の毒でしたので」

典侍(ないしのすけ)たちや、まして主上(おかみ)がそなたに栞の世話など頼むはずがないというのにいったいどうしたことか。そなたにしても出過ぎぬのが筋であろうに……!」

「まあ……、ひどいおっしゃりようですね。あやしげなものを差し上げたわけでもございませんのに……」

 

 詰め寄れば彼女の艶やかな顔が悲しげに歪み、ぐっと佐為は言葉に詰まる。公には彼女は自分の職務を遂行しただけで非難される謂れはないというのは道理だ。

 が、自分と橘内侍(きのないし)のことは御所中が知っていること。あの博雅でさえ薄々感づいているのだ。そんな彼女を大臣家の姫で自分の妻たる栞に近づけようなど誰もしないだろう。

 佐為がまごついていると、こちらの心情を察したのか橘内侍(きのないし)はすっと目を伏せた。

 

「あなたの妻となられた御方(おんかた)さまのお姿を一目近くでお見上げしたいと存じることさえ、わたくしのような身分では罪だとお思いなのですね」

 

 その言い分を聞いて佐為はわずかに息を詰めた。

 麗景殿のあの人なら、宰相の君ならこんな真似は絶対にするまいに、気の強さはさすがに上臈の内侍というべきか。佐為は思うもこれ以上咎めて事を荒立てるのは悪手だろう。小さく息を吐く。

 

「少々言葉が過ぎました。私たちの仲はなにも変わってはいないのですから……ほら、機嫌を直して」

 

 そっと宥めるように佐為は彼女の頬を優しく撫でた。

 ともかく、栞にとっていまが大事な局面。無事に新嘗祭が終わるようこちらも努めなければならない。

 ただでさえ宮中で何日も過ごさせることに気を揉んでいたというのに、本当に次から次に……と佐為は心内で深いため息を吐きつつ御所を後にした。

 

 

 一方の栞は、陽も落ちてきて参入してくる舞姫たちを待った。本来は昨日の子日(ねのひ)に参入しなければならない彼女らだが、二名ほど遅れているのだ。自宅での舞の個人教習が長引いているのだろうか。

 

 舞姫一行の参入はなかなかに大変なものである。自身も経験しているがゆえに手に取るように準備の苦労がわかるが、舞姫に同行する童女・下仕(しもづかえ)一つとっても五、六人は必要なのだ。その全てを似た背格好、優れた容姿で揃えるのは至難の技。

 だというのになかなかどうして、例年おおよその家がきちんと揃えてくるのだから並々ならぬ力の入れようだろう。

 

 今年の舞姫は左大臣の中の君、参議二名──のそれぞれの臣下の娘──、殿上受領の娘だ。

 

 左大臣の中の君は既に尚侍(ないしのかみ)として入内が決まっているが、他の舞姫たちはそもそも身分柄入内は望めない。

 

 その昔は舞姫は帝と共寝してそのまま入内などということもあったらしいが……とよぎらせ、自分の時に既にその慣習が途絶えていて良かったと栞は思わず頬を引きつらせて咳払いをした。

 

 入内の望めぬ舞姫のために莫大な費用を支払い舞姫を献上する旨みはないはずだが、旨みがないゆえに規定上は輪番、実態は昇進したばかりの公卿・新任参議が舞姫献上を命じられるという暗黙の了解がある。事実、栞自身が舞姫を務めたのも父が内大臣に昇進し献上したゆえだ。

 とはいえ公卿の場合は実の娘を舞姫として献上することはまずなく、代わりに娘を差し出すこととなる彼らの臣下の嘆きぶりは痛ましいほどだと聞いているが、果たして。

 

 舞姫経験者は五節舞師に就任するための切符を手にしているという点では、将来に安定した莫大な禄を得られる可能性もあるという利はあるのだが。あまりに低い可能性ゆえに慰めにはならないだろうか。

 

 女人が気軽に表に出られるような世が来れば、娘が顔を見られることに逐一気を揉む必要もなくなるだろうに。

 世知辛いものだ、と思いつつ全ての舞姫が揃って栞は最初の教習に臨んだ。

 この最初の教習──帳台試に帝が来ることは義務ではなく稀ですらあったが、今上は常寧殿に渡り栞の宿所に席を設けさせ座して見物していた。

 今上としては五節の舞そのものより久々に対面の叶った栞との語らいがことさら嬉しいのか、しきりに栞に声をかけている。

 

「今年はあなたがおられるためか、指示も細やかで大嘗会(おおにえ)での思い出が忍ばれるよ。明日の御前試も楽しみにしている」

「恐れ入ります」

 

 夜中すぎて終わった帳台試を見届けて去っていく今上に頭を下げ、栞は一息ついた。

 これほど夜が深くなってもまだ辺りがざわついている。おそらく上達部や殿上人たちが各五節所の品定めをしつつ舞姫献上者の昇進祝いと称して呑み騒いでいるのだろう。

 

「栞、火桶をこっちにも回してくれ。寒い!」

「あ、はい。ただいま」

 

 宿直のためにやってきた博雅の声がして火桶を手配し博雅のところへ行くと、やはり予想通りに公達たちが各五節所の様子を見て周り、あれやこれやうわさしているのだと聞かされ栞は苦笑いを漏らした。

 

「こうなると、その昔の私の五節所がどのようにうわさされていたのか気になるというものです」

「あの時は大嘗会(おおにえ)でいつもとは違っていたからなあ。それに栞の母上や私の叔父上たち天下の風流人が心を込めて選んでいたし……良かったと思うぞ」

「明日の御前試には博雅さまもいらっしゃる?」

「ああ。叔父上たちもいくだろう。佐為殿も……明日は朝から殿上するんじゃないか?」

「殿上……許されるかしら。明日は全ての公卿・上人が一堂に介する機会でもありますし……全員は殿上できるとは限らないでしょうから」

「おまえがいるのに背の君が殿上しないということはなかろうよ」

 

 ははは、と博雅は笑った。

 

 

 翌日──寅日。

 五節舞の清涼殿での御前試が行われる日であるが、舞姫たちの出番は夜である。

 午前中は朝から参入していた公卿及び殿上人たちに盃が振る舞われ、管弦などを楽しむ宴が催される。

 

 しかしながら清涼殿は殿上の間に控えられる人数には限りがあり、三位以上の公卿が昇殿できないということはまずないが、四位や五位では昇殿を許された身であっても昇殿できない場合もままあるのだ。

 

 昇殿の間を取り仕切るのは蔵人の役目である。

 特別に昇殿を許されている六位の蔵人が早朝から忙しなく動き回って準備を進めている。

 

 佐為も朝から出仕し殿上を許されたものの、自由に着席できるはずもなく身分順である。

 位階的にはこの場で末席となる佐為だ。博雅を見かけても気軽に挨拶すらできない。──と、佐為は他の公卿と雑談をしている博雅を昇殿の間の隅から見やって小さく息を吐いた。

 

 節会ゆえに今上が臣下に宴を振る舞うという名目ではあるが、この場に帝が現れることは稀だ。

 蔵人頭の一人──頭中将(とうのちゅうじょう)──が献杯すればあとは歓談するのみである。

 正月が近いゆえか、みなの話題は除目が中心だ。聞き耳を立てつつ佐為は思う。下手に国司などを命じられて下向するのは御免被りたい……などと心内で考えつつ大人しく盃に口をつけていると、参議あたりの席から声がとんだ。

 

「ここらでひと差し舞など所望したいところですな」

 

 酒が進めば詩歌や楽など腕自慢が競い出すのは常である。

 さして気にも留めずにいた佐為だが、次の言葉で顔を上げざるを得なくなる。

 

「藤の侍従、一ついかがかな?」

「は……?」

 

 まさか自身が指名されるとは露ほども思っていなかったのだ。佐為は目を瞬かせた。

 

「それはいい……!」

「侍従の北の方は都いちの舞い手と名高いあの(そち)大臣(おとど)の姫君ですからな、あの御方(おんかた)が師とあらばさぞやご上達されているでしょう」

「まして今年は五節大師であられる……」

 

 博雅はというと、上座からその様子を見ていた。

 

「いえ、私などが舞ってはかえって妻の恥にもなりましょうから……」

 

 やんわりと断る佐為の様子はまことに奥ゆかしく、なおさら彼らの興味を駆り立てている。

 ──貴族とは風流でさえあれば納得するようなところがあるから、あの美貌をもってすれば身分差をこえて大臣(おとど)の姫を妻としても仕方がない。などと栞との結婚当時にうわさされていたのも頷ける雅さである。

 しばし観察するもさすがに哀れになって、懐から笛を取り出した博雅は助け舟を出してやる。

 

「婿君の代わりに私が一曲吹きましょうぞ」

 

 そして視線をちらりとそばにいた叔父の源の中納言に向ければ、あ、と彼も頷いた。

 

「では私が歌おう。“美濃山”……でよいかな、長秋卿?」

「相応うございます、叔父上」

 

 天下の楽才が笛を取るとあらば皆の興味はむろんそちらに移るわけで。

 佐為はホッと胸を撫で下ろした。

 不思議なものだ。栞の縁続きなのだから当然といえばそれまでだが、下級官人の出である自分が公卿がたに気遣われ庇われて──。

 

 

 などと佐為が思っている頃、栞は常寧殿の自身の部屋で聞こえてくる笛の音を羨ましく聞いていた。

 博雅の笛だ。いつものことであるが、楽しげな音色はやはり羨ましく出ていけない身が恨めしい。などと思っていると、世話係の下級女官の声が聞こえた。

 

御方(おんかた)さま、登華殿の方がこちらに……」

 

 え、と目を瞬かせる。

 開かれた戸から中を隠す几帳のそばまで寄っていけば、うっすらと几帳に透ける懐かしい面差しが見えて栞は思わず自身で几帳を退かせた。

 

「清少納言殿……!」

「一昨日に参内なさる姿をお見上げして、いてもたってもいられず……来てしまいました」

「よく来てくださいました、どうぞ中へ」

 

 直に言葉を交わすのは数年ぶりだろうか。懐かしい友人の姿に昂揚した栞は清少納言を中に招き入れる。すれば彼女には五節師の宿所が物珍しかったのだろう。しげしげと見つめている。

 そのうちに彼女の書く散文らしきものにこの事も登場するかもしれない。思っていると「それにしても」と清少納言がこちらへ向き直ってきた。

 

「ご結婚されてからというもの全く参内なされなくなって……、みな心配しておりましたのよ」

「すみません、そうできれば……とは思うのですが、私は今回を最後にもう二度と御所に上がることはないと考えています」

「まあ……! なぜです、佐為の君がそうせよとおっしゃるの?」

 

 清少納言は心配げにこちらの手を取って見上げてきた。

 返事に窮していると、彼女は肯定だと捉えたのだろう。少しだけ眉間にしわを刻んだ。

 

「憎らしいことをおっしゃるのですね。栞殿は女御さまにも、恐れ多くも主上(おかみ)にも気に入られて……。今回もこのような晴れがましい役を務めていることを誇るべきだというのに。佐為の君がそのようなつまらない殿方であったとは……お情けない」

「そ、そういうわけではないのです。その、私が屋敷で好きに過ごす分にはなにも言われないですし……。ただ、やはり人の妻となった身で内裏などで好きに過ごしていると軽薄に思うものもおりましょう。それでも大臣である父がおいでならばただの物笑いで済んでも、佐為の君はご自分では私を守れないと気を揉んでおられるようで……」

「栞殿……」

「私は佐為の君にそのような思いをさせてまで御所に上がりたいとは思えないのです。皆さんにお会いできないのも、舞をお見せできないのも口惜しくはありますが」

 

 栞は苦く笑った。だがそれが栞自身の偽りのない本心だ。

 清少納言は同情気味な表情を浮かべている。栞への同情か、佐為へか、それとも両方なのか。

 彼女は小さくため息を吐いた。

 

「ご存知の通り、私は風雅を全く解せぬ夫と離別いたしましたが……内裏(うち)で顔を合わせる機会もあり今も仲良く過ごしております。栞殿はそうなさろうとは思わないのですね」

 

 暗に窮屈な生活を強いられているならこの結婚を終わらせればいい、と含ませる彼女に栞はきつく首を横に振るった。

 

「離別など……、七度生まれ変わってもまた逢いたいと思っていますのに」

 

 なにがあろうがそんなことは考えられない。と匂わせれば、清少納言は驚いたように目を瞬かせたあと、どこか哀れむような目を向けた。

 だがそれも一瞬。次には彼女はいつものような快活な表情で笑った。

 

「でもお元気そうで良かった。昨日の帳台試を見た頭中将さまが今年の五節舞の出来を褒めて回ってらしたので、私どももこっそり観にいこうかと話しておりましたの」

「ぜひいらして。それに……四条まで来ていただけたらいつでもお会いできますもの、お気軽に来ていただきたいわ」

「まあ……、大臣宅になど恐れ多い」

「そんなことおっしゃらずに──」

 

 そうして話をしていると、ふとこちらに近づく足音が響いて二人は顔を見合わせる。

 

「栞……? 誰かいるのですか?」

 

 あ、と二人は互いに呟いた。佐為の声だ。

 どうぞ、と栞が言えば開いた戸の先からやや顔を赤らめた佐為が入ってきた。

 

「清少納言殿……」

「まあ佐為の君、ずいぶんとお酒を召されたご様子だこと」

「ええ……、それで一度退出するのも煩わしいと思いまして」

「御前試までここで休もうという腹づもりですか……。私はお邪魔のようですね」

 

 さらりと清少納言は立ち上がり、そのまま佐為に一礼して戸の方に向かった。

 

「では栞殿、最後までつつがなくお勤めくださいませ」

「はい、ありがとうございます」

 

 慌ただしく去っていった清少納言とは裏腹にどうも佐為の足元はおぼつかない。

 

「あの、佐為の君……大丈夫ですか?」

「たぶん……。宴が進んで……ずいぶんと飲まされましたので」

「博雅さま……は愚問ですよね」

 

 いまこの瞬間も清涼殿の方からは博雅の鳴らす篳篥の音が聞こえてきており、佐為は一足先に出てきたのだろうと肩を竦める。

 休むように促し、佐為は袍をはだけてから横になり栞の膝に頭を預けた。

 

「先ほど……博雅三位(はくがのさんみ)と源の中納言殿に助けていただきました」

「え……?」

 

 ぼそりと呟いた佐為は、先ほど殿上の間で舞を請われた一連の流れを栞に語って聞かせた。

 

「舞って差し上げたらよかったのに」

「そなたと比べては……見劣りしますから……」

 

 そこまで言うと彼は眠りに落ちたのか、ふ、と栞は息を吐いた。

 御前試は夜中だし、あとでもう一度舞姫たちを見ておこう。この常寧殿の詰所で人目に晒されやすい状態で過ごしている彼女たちは不安に違いないし、気を配っておくのも仕事のうちだろう。

 明日は明日で清涼殿にて『童女御覧』があるのだ。舞姫よりもさらに幼い少女たちが公卿たちの好奇の目にただただ晒され見せ物のように品評されてしまう機会でもあり、決して気持ちのいいものではないはずだ。特に節会の最中はみな酒が入っていることもあり、殿方がどのような振る舞いをしても『戯言』にしかならない。

 自分だって……と栞は目線を下げて佐為を見た。

 佐為とは妹背なのだからこの宿所に入れたわけだが、ここは誰であっても踏み入ろうと思えば足を踏み入れられる場所であることは否めない。

 実際、過去に舞姫の部屋に忍び込んで籠もったまま出てこなかった男がいたことなど笑い話として語り継がれていたりするが。その舞姫が忍び入った男に()()()()()()()()は自明であり……。

 

 ──そう思うと佐為の心配も当然なのだろう。

 

 

 などと思いつつ、しばらくして佐為が目覚めると栞は各五節所を訪ね舞姫たちの様子を見て回った。

 やはり相当に気疲れをしているらしく、今にも倒れそうで退出したいなどと泣き始めた舞姫をどうにか慰めて今夜の御前試に臨む。

 

 清涼殿での御前試では舞姫たちは東孫廂に参入し、舞師もそこに円座が設けられる。

 

 一方の昇殿の間からは直接には今上の座や東孫廂は見えないため、せいぜい聞こえてくる歌人の声に耳を傾けるくらいしかできることはない。

 

 と、佐為は栞たちがいる東孫廂の方角を見やる。

 ちらりと上座に目やれば、藤の中納言がそわそわした様子でしきりに東孫廂に繋がる戸の開いた先を見ている。

 舞姫を務めている妹の中の君を気にしているのか、それとも栞を気にしているのか。おそらくは両方なのだろうが──たぶん後者が強いのだろう。と佐為はやや眉を寄せた。

 とはいえ、彼の恋心を自分が咎める権利などはないのだ。そもそも藤の中納言からすれば自分こそが栞を奪ったと感じているに違いない。自分が彼の立場であったならば、やはり良い気はしなかったはずだ。

 

 いけない、と佐為は自身を戒める。

 

 せっかくの節会だというのに、こうも心乱されるとは。

 理由は藤の中納言のことではない。節会の間中、自分の妻が観衆に晒されて品定めされるのを見聞きせねばならないのだ。これで胸中穏やかでいられる方がおかしいだろう。

 くすぶる気持ちが自分でも抑えきれずに佐為は下唇を噛んだ。

 きっと博雅ならば、いや栞の父の(そち)大臣(おとど)も栞のことを……従三位に昇り今上と同席する娘を喜び誇らしく思うのだろう。

 比べて自身のなんと小さいことよ、と佐為は自嘲した。

 

 せめて辰日の、豊明節会(とよのあかりのせちえ)での最後の五節舞は晴れやかな気持ちで見守らねば。

 

 

 そんな佐為とは裏腹に監督する立場の栞は無事にこの新嘗祭を終わらせることのみに神経を削っており、御前試が終わり、翌日の童女御覧も問題なく終えて既に疲労困憊状態に陥っていた。

 

 

 ──辰日、豊明節会(とよのあかりのせちえ)

 

 本日の夜の紫宸殿での宴が新嘗祭の最後を飾る。

 参入の刻限が近づいてきて、栞は深呼吸をした。紫宸殿に入るのは初めてである。

 紫宸殿は内裏の正殿。御所に来るのも今日が最後。勝手ながら今日という日にはふさわしい場所だ、と舞姫たちの参入に先立って紫宸殿へと向かう。

 

 格子があげられ、南向きのすべての御簾も上げられている様子が栞の瞳に映った。

 

 今日の殿上に席が設けられているのは親王及び公卿までである。四位、五位と一部の六位の席は全て地下に設けてある。彼らの全てからこちらの姿は丸見えだ。

 

 すでに新穀や酒も諸臣に振る舞われている筈だ。

 篝火に照らされた幾人かの顔色がほんのり赤い様子が紫宸殿の上からでも見てとれる。

 

 舞姫たちの顔色が疲労と緊張でだいぶ悪いがこれが最後である。無事に終わって欲しいと座して彼女らを見守りつつ、宴も進んで彼女たちの出番となり大歌も終わって舞が終わり、栞はホッと胸を撫で下ろす。

 一人一人の退出を見送って、これでほぼ役目を終えたと栞が安堵していたあたりで予想外のことが起きた。

 御帳台の先から今上の声が飛んできたのだ。

 

「今宵は私の大嘗会(おおにえ)を飾った舞姫が師の君として来ているのだ。最後に一つ、舞ってはくれぬだろうか」

 

 栞は思わず今上を見返してしまった。

 次いで公卿の席へと視線を移せば、案の定博雅が目を剥いている。

 やや緊張も覚えつつ栞は今上の方を見やる。

 

主上(うえ)、恐れながらこの装束ではご期待通りに舞うのは難しいかと存じますが」

「うむ、であるから、五節舞ならば問題なかろう?」

「は……五節舞を、一人で……でございますか?」

大嘗会(おおにえ)でのあなたの舞を忘れかねているのだよ」

 

 栞は目を瞬かせた。

 なるほど五節舞ならばこの裳唐衣の正装でも舞えるのはその通りだが。

 でも、まさか一人でとは──と思いつつも舞が舞えるという事実を前に栞は胸を高鳴らせた。

 他でもない今上からの頼みなのだ。ありがたく引き受ける。

 

「かえって興醒めにならないといいのですが……」

 

 謙遜してみせたが、おそらく誰の目にも謙遜だと分かっていただろう。

 広場がざわついている。地下にいる群臣たちには晴天の霹靂に違いない。思いつつ栞は廂の中央まで歩いて行った。

 そうして檜扇を取り出し、大歌所の歌人に視線で合図を送る。

 

 五節舞は大歌の伴奏で舞う緩やかな舞で、難易度は低いと言えるだろう。

 

 だが──翻す袖、目線。歌との調和。

 

 いまこの空間にいる全てを自身が支配している……と栞は振り返って篝火や燈台の明かりに照らされる舞台から群臣たちの姿を見下ろして感じた。

 この紫宸殿で、今上の御前で──。と、囃し立てる者すらおらず、むしろ静まり返る中で栞は舞い終えて腕を下ろし、昂る胸を鎮めるように一つ深い息を吐いた。

 

 

 

 こうして圧巻の舞を見せつけた元五節の舞姫の師の君の舞は、のちの『二条左大臣記』のみならず数多の貴族の日記にその詳細が記され、千年先の世でも史料の中で色あせず生き続ける事となる。



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第十七話:祈り

 新嘗祭も無事終わり、新年──。

 

 

 五節大師という大役に加えて紫宸殿で舞った栞には予想よりも遥かに莫大な禄が贈られた。

 

 栞はそのほとんどを佐為の実家に贈るといい、それとは別に正月用に用意された品も携えて新年の挨拶のため佐為は自宅へと戻った。

 むろん佐為自身、栞の用意した正月用の衣装を身に纏っている──これは一年で最重要とも言える正妻の仕事だ。

 

 四条から牛車に揺られることしばらく。

 七条まで下れば市場の広がる庶民じみた景観が見え始める。賑やかさも増してくる。この辺りは公卿はまず足を踏み入れない場所でもある。

 

 括りとしては“月卿雲客” ──昇殿を許された公卿・上人──の住む場所なれど、京でも一、二を争う敷地を誇る大邸宅である四条の栞の屋敷と佐為の家は同じ『貴族屋敷』と呼ぶのも憚られるほどに違いがある。

 それでも官位相当の使用人はおり、牛車が着けば屋敷の上土門(あげつちもん)が開けられた。

 

「若……!」

「おかえりなさいまし……!」

 

 三面廂の寝殿に対屋が一つ、侍所と小さな庭。簡素な屋敷とはいえ下級官人の邸宅としては十分な広さだ。

 

 父はついぞ貴族階級に及ばない身であったが、五位に昇れば収入は桁違いに跳ね上がる。貴族(五位)只人(六位)の壁は高く厚く、超え難い。

 ここ数年は両親や使用人の衣装、調度品類は栞が立派に整えてくれたが……それでも屋敷の修繕や維持くらいは自身の給与で十分に賄えている。

 佐為は寝殿の檜皮葺(ひわだぶき)の屋根を見上げる。

 あれは自身が従五位下を賜った際に古くなってきた家を修繕させ造らせたものだ。

 檜皮葺(ひわだぶき)こそは貴族の証──五位以上の屋敷にしか許されていない。

 

 思えば自分の生まれは下級官人だが、自身はあまりそのような──ある種の庶民的な──暮らしをしたことはないように記憶している。と、佐為はぼんやり考えた。思い上がりかもしれないが、子供の時から意識だけは既に貴族でいた。

 

 佐為自身の所属する『藤原氏』もかつては権勢を誇っていたらしいが没落して既に日が長い。

 その傍流も傍流の生まれである佐為の父は若い頃にはさる公卿の屋敷に家司として勤め、母もまたその家の女房として共に暮らしていたという。

 そのうちにその公卿に昇進を取り立ててもらったのだろう。地方での任に就くために父は下向し、身重だった母は京に残って自分を産んだのだと聞いている。

 おおよそ記憶にはないが、囲碁を最初に覚えたのもその屋敷でだったのだろう。

 一度諸国に派遣されれば小さく貧しい国でさえそこそこの財は築けるものらしく、帰京した父はこの屋敷を建てた。対する母は相変わらず女房業に精を出して稼ぎ、自分には複数の師をつけて幼い頃から学業に手習いにとずいぶんと仕込まれたものだ。公達に見劣りしないようにと身の回りのものに蓄えた財のほとんどを注ぎ込んでもらった。

 そうして早めに元服を済ませた自分は大学寮に入れられ、父は再び地方官に任じられ今度は母と共に下向した。

 

 以来、家に帰ることはほぼなく──課試に通って侍従に取り立てられ昇殿を許された。

 

 この世界は純然たる身分社会。

 労せず昇殿を許される家系はもとより大臣にまで昇れる家系もほぼ決まっており、その牙城は崩しがたい。

 例外があるとしたら、それは学問──菅原道真などはいい例だろう。

 ゆえに下級官人が学での昇進を自身の子息に託すのはよくあることだ。──そういう意味では、両親の目論見は成功だったと言える。

 

 自分は遅くにようやくできたたった一人の嫡男。

 思いがけずに容貌さえ優れて生まれついた自分に彼らは一家繁栄の夢を託し、いつの日か内裏へ上がる日が来ても困らぬよう公卿にさえ引けを取らない教養を身につけさせた。

 貴族らしい品格を保てるよう、下級官人の私的業務と言われる農業などもいっさいやらせずひたすら知識を身につけさせた。

 

 そうしてあわよくば大国を預かるような受領の物持ちの娘あたりと結婚させたかったのだろうな。と、佐為は遠い目をした。

 受領どころか天下の大臣(おとど)の姫を妻としてしまった。

 

「父上、母上、おめでとうございます」

 

 屋敷に上がり、寝殿の母屋へと進んだ佐為は奥に座する両親に新年の挨拶を済ませた。

 自身の姿を見た母が、まあ、と目を見張ったのが映る。

 

「立派なお召し物ね……」

 

 父も恐縮しきりに頷いた。

 

「四条の三位(さんみ)御方(おんかた)さまからは去年にも増して大層な贈り物をいただき……。あちらとのご縁で近頃は物騒なこともなくありがたいとそなたからもお伝え申し上げて欲しい」

 

 ふ、と佐為は笑う。

 

「それはよかった。私もなかなか戻れないもので、家のことを案じていたんです」

 

 京というのは下れば下るほど治安も悪くなってくる。

 隙を見せれば強盗に押し入られることもざらであるゆえに、家の警備というのは頭の痛い問題なのだ。が、有力者の縁続きとあらば相当な抑止力となる。

 既にこの家は大臣家の婿の生家だと知れているためそうそう手は出せないのだろう。

 

豊明節会(とよのあかりのせちえ)で四条の姫さまは主上(おかみ)の御前で舞を納められたそうね、天女もかくやというお美しさだったと伝え聞きましたよ」

「ええ、みな言葉をなくして魅入っていました」

「そんなお方があなたの北の方だなんてねぇ……いまだに恐れ多くて。くれぐれも姫さまに失礼のないよう、大臣(おとど)と長秋卿を主人と思し召してお仕えなさいよ」

 

 母の言葉を受けて佐為は頷く。

 自身の実家にまで豊明節会(とよのあかりのせちえ)で栞が舞ったことが届いているとは。よくよく狭い世界と言える。

 などと思いつつ、挨拶も済ませて一通り屋敷の様子を見てから佐為は自宅を出た。

 牛車を走らせてしばらく。四条の屋敷の豪奢な四足門が見えてくる。

 

 ──幼い頃から、学業のかたわらで碁を学んできた。

 学業で身を立てるためには人より秀でろと厳しく躾けられたというのに、物心ついた頃から心奪われたのは碁だった。きっとあの十九路の宇宙には魔力でも宿っているに違いない。

 偉大な大陸の儒学者たちでさえ碁を嗜むと学業が疎かになるとの批判を展開しつつ、結局はその魅力に取り憑かれていたのだ。

 そのせいだろうか。雑戯の一切を禁じられているこの国の大学寮でもまた、碁を学び碁を打つことは見逃され黙認されていた。自身の学んだ算道ではむしろ学業の助けになると秘密裏に推奨されていたほどだ。そのことは今でも心からありがたかったと思っている。学業漬けの日々も歓びに変えて精進することができたからだ。

 そうしていつしか、囲碁に人生を捧げたいなどと有り得ない望みさえ抱くようになっていた。

 

 ──唐の役人のように碁で取り立ててもらえればどんなにか良いだろう。

 

 唐には皇帝に仕え囲碁の腕のみで奉仕する官職があると知ったのは大学寮で見た古い文献からだ。多数の異民族が集うという長安の、想像を絶する広大な城で聖なる皇帝に仕え碁にて奉仕する。そんな夢のような話、自身が太古の生まれであったならば必ずや大陸へと渡り、きっと阿倍仲麻呂のように皇帝の目に留まってみせようと幾度となく夢想した。出自など関係なく、実力のみでのしあがる。この国では夢想することさえ虚しい絵空事だ。

 そして遣唐使も廃止されて久しく唐さえ滅びたいま、かの文献で見た話などおとぎ話に等しい存在。時おり空想に興じるための慰みもの。現実は大学寮を出たとて出自が下級官人である以上、位を得ても初位から地道に昇進を重ねるしか術はなく、生涯をかけてさえ貴族層に届く可能性はごくわずか。まして昇殿など、万に一つの望みさえもないのだ。

 そのうえ碁で立身したいなど、夢の中の夢──。

 

 そう諦念していたというのに、よもや思いが叶うかもしれないと知ったのは今上が即位した後だ。

 

 春宮時代から碁に熱心で唐土のように碁を公のものにしたいと話されているとは風の噂で耳にはしていたが。即位後、今上は折りに触れて六位の蔵人である菅原顕忠を御前に召し、碁の相手を請うていると大学寮の官人から伝え聞いたのだ。

 宴の際に碁を打たせるなどさして珍しくもないことだが、どうやら今上は棋力向上に熱心だとの話も聞き、佐為は自分に目をかけてくれていた先の大学頭にそれとなく、だが熱心に訴えた。恐れ多くも内裏で碁を打つ機会があれば是が非でも賜る栄誉に預かりたいと。

 碁に優れているという矜持は幼少の頃からあった。菅の蔵人が大学寮の役人であった頃から碁に熱心であったことは聞き知っていたが、彼に劣っていると感じたことは一度たりともない。だから、と彼と競おうと思ったわけではないが、彼ができるのならば自分とて──と感じたことは否定できない。

 そのためには人より抜きん出ようと、最高の結果で大学寮を出るのだと死に物狂いで励んだ日々は今も鮮明に覚えている。

 今上の住まう内裏に、清涼殿に上がるなど下級官人の出には過ぎた望みだ。だが両親はその過ぎた望みを自分に託して賭け、財産のほとんどを注ぎ込んでくれた。

 そしてそんな神聖な場所に住まう今上が、自分と同じく碁に執心している。ならば、これを神の思し召しと理解し叶わぬ望みを抱いても罪にはならぬだろう。

 是が非でも内裏に上がらなければ──、あの魑魅魍魎の巣食う朝廷で生き残らねば、自分の目指す高みには辿り着けない。そんな風に感じた。

 

 だからだろうか?

 

 妻にと望んだ人が大臣(おとど)の姫だったのではなく──大臣(おとど)の姫()()()妻にと望んだのだろうか。

 栞と初めて対局した時、得難い腕を持った少年(ひと)だと思った。

 この人が成長すればどんなにか……そう思って再会した相手は大臣(おとど)の姫で、自分には手の届きようもない人だったと知った。

 それでも対局さえ叶えば良いと、そう思ったはずだったのだ。

 だが──藤の中納言と結婚されたらもう手が出せない。そう感じて彼女を欲したのは……。

 

「殿……!」

 

 到着を知らせる声に佐為はハッと意識を戻した。

 何を考えているのだ、と首を振るう。

 久々に昔を思い出して感傷的になっているのか、と牛車を降りて屋敷の中へと向かう。

 

「おかえりなさい……!」

 

 母屋に入ればいつも通りに栞が迎えてくれ、ふ、と佐為は笑った。

 

「ただいま」

「ご両親はお元気でした?」

「ええ。立派な衣装に調度品にといろいろ贈っていただき恐縮していました」

「そんな大袈裟な……。でも気に入っていただけたなら良かった」

 

 こちらに歩み寄ってきた栞は佐為の手を取って火桶の方へ促した。外で冷えただろうと気遣ってくれているのだろう。

 

「ねえ佐為の君、一月のうちに博雅さまたちを呼んで賭弓(のりゆみ)をしません? たまには付き合ってください」

「いいですよ」

「え、ほんとうに!?」

「その代わり私が入った方は敗色濃厚ですけど、それでよければ」

 

 冗談めかせば栞は小さく肩を揺らした。

 佐為も微笑んでその肩を抱き寄せる。

 

「明日は出仕がありませんから、二人でゆっくり過ごすこととしましょう」

「それは一日中碁を打ちたいという意味ですか?」

「そ……そういうわけでは……」

 

 ないこともない、と濁すと栞は苦笑いを漏らす。

 ふ、と佐為は笑った。

 なにを考え込むことがあるだろう?

 碁のためでも、大臣(おとど)の姫という要素のためでも良いではないか。

 いまの自分は、間違いなくこの人の居るところが自身の居場所だと感じているのだから。思ってそっと栞の髪に唇を落とした。

 

 

 京の冬は冷える。

 暦の上では春となったばかりだが、まだまだ『春』には程遠い寒さだ。

 

 夜明け前、ふと目の覚めた栞は寒さから身震いをした。

 その振動が伝ったのだろう。

 

「……栞……?」

 

 掠れた声が聞こえて、栞はしまったと薄闇の中で佐為を見た。

 

「すみません、ふいに目が覚めて」

「じき……夜明けですからね」

 

 言って、佐為はぐいと栞の肩を引き寄せ自身の胸へと抱き寄せた。

 

「これで少しは暖かいでしょう?」

 

 間近で佐為の声を受け、栞は佐為に身を寄せつつ頷いた。

 暖かい。冬に誰かと寝る暖かさは、佐為に出会わなければ知らなかったことだ。

 佐為も同じように感じてくれているならいいのに……。甘えるようにして下半身を絡ませ、栞は再び目を閉じた。

 

 冬は早朝。──などと言う人もいるが、冬の朝ほど目覚めの辛い季節もないような気がする。

 

 おおよそにして冬の朝は女房たちが炭櫃(すびつ)にくべる炭の用意に行き交う物音で目が覚めるものだ。

 そのうちに命婦が手水を持ってやってくる。それでも(しとね)からなかなか出られないというのに、佐為はそうでもないらしくいつも先に起きている。

 

「栞……! 雪が降っているようですよ」

「え……」

 

 寒いと思ったら、と身を捩る栞とは裏腹に佐為は意識を庭の方へと飛ばしているようだ。

 

「格子をあげるにはまだ寒いでしょうか……」

「佐為の君?」

 

 彼は外の景色を見たいと思ったのか起き上がって女房に声をかけている。

 (しとね)の中からぼんやり見ていると、佐為は白い狩衣を身につけて髪も結い上げないままに烏帽子だけを掴んで外へと向かってしまった。

 そのうちに彼に付き添って行った女房が戻ってきて、「一面の雪景色で素晴らしいのでぜひ姫さまもおいでくださいと殿が……」と言付けてきて栞はようやく身を起こした。

 さすがに自身も狩衣を着て外に出ていく力は朝から出ず、顔を洗い身支度を整えてから妻戸を開けて簀子へと出てみる。

 

「わ……!」

 

 雪のせいだろうか。いつもの朝より眩しい光が瞳に飛び込んできて栞は思わず目を窄めた。

 

「栞……!」

 

 佐為の声が聞こえて見やると、粉雪がちらちらと舞い散る先で彼は庭の椿を見ているようだった。

 

「ひと枝手折っても構いませんか……?」

「え、ええ……」

 

 気に入ったのなら誰かにやらせればいいものを自ら摘みたいとは。佐為のこのような部分は自分も含めて風変わりなこの家に馴染んでいると言えるかもしれない。

 (きざはし)の方へ向かいながら佐為を見やる。その横顔は本当に嬉しそうに椿を見つめており、いまを盛りに鮮やかに開いた赤い花を彼は手折った。

 そうしてこちらを向いた佐為はにこりと微笑み、栞は思わず目を奪われてしまう。

 雪の反射を受けた白い狩衣が垂らしたままの佐為の艶やかな黒髪や血色の冴えた唇を際立たせており、彼の口の端からのぼる息さえ雅やかだ。

 

 ──なんて美しい人だろう。

 

 舞う粉雪さえ、まるでこの光景を彩るために降っているかのようだ。栞が目を逸らせずにいると、佐為は(きざはし)を登って栞の目の前まで歩いてきた。

 

「美しいでしょう?」

 

 佐為はなお目を細めて手折った椿を栞に差し出してくる。

 その様子は椿にも増して美しく、栞がやっとのことで頷けば佐為は口元を緩めながらその枝を栞の耳元に髪飾りのようにして挿した。

 

「ああやはり、よくお似合いですよ」

 

 どうやら彼は自分に見せるためにわざわざ自ら手折ったようで、栞は頬が震えて思わず目を伏せた。

 すれば佐為の袖の先の手が少し赤みを帯びているのが目に映り、冷えているのだとそっと両手で包む。

 

「こんなに冷えて……」

「でもせっかくの美しい朝ですから」

 

 はやく母屋へ入ろうと促せば、佐為はもう少し雪景色を眺めようと言い、二人して(きざはし)に腰を下ろして寄り添いあう。

 

 朝の冷えた清涼な空気に一面の銀世界。

 中島にかかる太鼓橋にも雪が積もり、その下の朱色をいっそう鮮やかに映えさせている。

 

 こうしていると、しんしんと降る雪の中に二人だけで佇んでいるかのようだ。

 そっと佐為を見上げると、目が合った佐為は、ふ、と口元を緩めて栞の額に唇を寄せ、先ほどよりも強く抱き寄せてきて栞の目尻が無意識に滲んだ。

 

 

 ずっとこのまま、ずっとこの人と一緒にいたい──。

 

 

「まあ姫さま、殿……! こんなお寒い中でなにをなさっておいでですか……!」

 

 目を閉じてそんなことを思っていると命婦の声が聞こえ、身体に触りがある前にと寝殿の中へと戻されてしまった。

 

 そうして長炭櫃(ながすびつ)のそばで佐為は雪に濡れた狩衣を脱ぎ、栞も重ねていた衣を脱いで寛ぎつつ暖を取る。

 格子は明かりとりのために上半分を上げられたものの、御簾や壁代、几帳で何重にも守られた母屋の奥の、さらに大きな火鉢のそばにいればそれなりに冷気は凌げて暖かい。が、ここからでは外の風景は楽しめずに佐為はしきりに残念がっていた。

 せっかく美しい景色だったものを、と悲嘆する彼はぶつぶつとなにやら和歌(うた)を詠んでいたが、栞は付き合えないので流し聞いておく。

 

「栞……」

「はい」

「香炉峰の雪は……と唐でも言われてるというのに」

 

 すれば彼は和歌(うた)から漢詩に切り替えてきて、こういう機転はさすがに大学寮から昇ってきた人だけある。と、栞は肩を竦めた。

 

「いま御簾をあげたら女房たちに恨まれてしまいます」

 

 佐為は白居易の『香炉峰下新卜山居』から「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」を引用したつもりらしいが……と答えれば、彼はいよいよ複雑そうな顔をして栞は苦く笑う。

 

「もう少し陽が高くなれば子供たちが庭で雪遊びをしたがると思いますので、混ざります?」

 

 屋敷の使用人は家族で住んでいるものも多く、子供の数もそれなりにいる。それほど雪景色が恋しいなら彼らと一緒に遊ぶのも一興だろうと冗談めかせば、さしもの佐為も呆れたように息を吐いた。

 その様子を見て栞は肩を揺らす。

 が──。

 

「あ……」

 

 ぽとり、と栞の手にふいに何かが落ちてきた。

 見れば赤い花が転がっている。髪に飾っていた椿の花首だ。

 その光景に栞はやや動揺した。

 一瞬だけ不穏な予感がよぎり、せっかく佐為がくれたのに……と拾い上げるとよほど悲しげな表情をしていたのだろうか。そっと佐為が手で頬に触れて慰めるように言った。

 

「そんな顔をせずとも……椿の花はもともと落ちやすいのですから」

 

 栞がそのまま佐為の胸にもたれかかりつつ手の中の椿を見ていると、佐為は命婦に手水鉢に水を張って持ってくるよう言いつけた。

 そうして運ばれてきた小さな手水鉢に椿を浮かべてみるよう佐為が促し、栞は手の中の椿の花を水に浮かべてみる。

 

「ほら、美しいでしょう?」

 

 浮かべる椿の数を増やせば屋敷の中でも椿観賞が楽しめる。と、かえって上機嫌の佐為を見て栞も少しだけ頬を緩めた。

 新年早々、なにを不安になることがあるだろう。

 ただこのまま、ずっとこのままいつまでもそばにいたい──。と、栞は佐為の胸に顔を埋めてそっと単衣の裾を握りしめた。



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第十八話:前世よりの(えにし)

 佐為と出会ってからもう幾たびの季節が巡っただろうか。

 

 夏が来て、秋が訪れ、冬が過ぎて──。

 

 佐為は変わらず日々のほとんどを碁盤の前で過ごし、栞は佐為の望みのままに屋敷からは出ず不満を漏らすこともなくなっていた。

 ただ平和に日々が過ぎ、このまま何事もなくこのような日が続いていくのだと信じて疑わずにいた。

 

 

 今年も梅の季節が過ぎ、庭の桜もそろそろ終わりが見えてきた頃。

 舞い散った花びらが池に浮かびなかなか風情があるが、そろそろ掃除を指示しておかねば……と東の対の釣殿から庭を見渡して栞は小さく息を吐いた。

 

 正月での叙位に際して、佐為は加階され一つ位階を上げた。

 そうして続く春の除目であるが──ここあたりで国司にでも任官されるのが常であるが、佐為自身は在京を強く望んでおり、また国司ともなれば一国を預かる身として妻を伴い下向することが望ましいため京の屋敷を空けられない栞にしても手放しで賛成とは言えず。結局のところ職位もやや特殊ということもあり現状維持となった。

 

 父に関しては既に大臣ゆえに定例の除目とはほぼ無縁であるが、下向した地方官の任期は基本的には四年、そして大宰府の場合は五年である。

 が、重任……すなわち延長される例もままあり、父の場合は既に二期目。その任期ももうじき明ける。

 父の帰京まであと少し……のはずだ。

 

 父の役目は配流となった先の大臣の監視。

 菅原道真を始め、大宰府送りとなった公卿はこれまで枚挙にいとまがない。そのほとんどが政争の結果とも言えるが、中にはそうでもないものもある。自らの地位に奢り高ぶり暴挙の限りを尽くし、結果只人ならば左遷のような生ぬるい措置などあり得ない温情をかけてもらっての配流であっても、貴族ましてや公卿となると無罪こそ是と思うものらしい。ゆえに、都落ちの不満から一向に『任地』たる筑紫に下らず途中の地に留まったり、秘密裏に帰京しては帝の怒りを買う、などの例もあった。

 結果としてそれらの野放しを良しとしなかった朝廷が、罪人と無関係かつ武芸に覚えもある栞の父を下向させることを決めたのだ。

 というのは表向きで、一世源氏の有力者を少しでも中央から遠ざけようという藤家の思惑も多分にあったに違いない。

 しかしながら父に不満はなく、内大臣に加えて大宰の帥の収入まで得られる上に交易収入等々も管理できるとむしろ喜んでいるが、増えるのは財産ばかり。

 それを管理するのは他ならぬ自分である。──と、栞は今度は重々しい息を吐いた。

 

 内大臣で充分なのだから、一刻も早く京に戻して欲しい。

 すれば佐為の出世も違うだろうし……と思うものの、次は別の悩みが出てくる。

 この家の莫大な資産の相続権及び母方の資産の相続権は自分にあるが、その後の問題である。

 佐為との間にもし男子が産まれたとして、この大臣家で育つのだ。すれば姓こそ藤原なれど後見は源氏の父となり、元服すれば佐為を抜いて出世しかねない。とあらば、やはり佐為にはいずれ参議程度には昇ってもらわねばならないだろう。

 姫が産まれれば、次こそ入内……父の養子としてならば女御として入内できる血筋だ。となると否が応でも後宮政治に巻き込まれることとなる。

 それらを全て避け、好きに生き、このまま緩やかに没落していくか──それもまたありなのかもしれない。

 

 とはいえ、と栞は苦く笑った。

 世間は自分と佐為の間に子ができないことをそろそろ奇妙に思っている頃だろう。

 子供は前世からの(えにし)というから、きっと縁の薄い夫婦だとも。

 

 ──子を宿すのは前世からの(えにし)がゆえ。

 

 どこの誰が言い出したのか、はたまた陰陽寮の役人の怪しい占いの結果かは知らないが。子を成すか否かは縁などではなく当人同士の身体的相性の問題ではないのだろうか。

 佐為は両親の遅くにできたたった一人の子だというし、自分自身もそうだ。

 つまりは子供が出来にくい家系同士だとすれば……と栞は重々しく息を吐いた。

 

 佐為は子供が好きだ。

 出会った夜にこちらを小舎人童(こども)だと誤解していた時も信じられないほど優しい目をしていたし、いまも童殿上(わらわてんじょう)の子供たちの世話をよく焼いているようであるし、この屋敷の使用人の子供たちにも優しく、子供たちからも慕われている。

 

 だから自分でもはやく欲しいのだろうというのは察しているが、こればかりはどうしようもない。

 もう何年もほとんどの夜を共に過ごしているというのに。

 

 

 事実、仕える主人と背の君の睦まじさは女房たちには知れたことであり──。

 

 広い屋敷と言えど御簾や几帳、屏風といった仕切りでは音や話し声はもちろん微かな息遣いでさえ完全にさえぎるのは難しく。主人の寝所から夜通し睦言の気配がしても、控えている女房たちは常事と思い気にも留めないものだ。

 むしろ静寂の夜が続けば夜離れの懸念に気を揉まねばならず、彼らが仲睦まじげな様子はうれしいことだ。

 それでもあまりに過ぎる夜は、彼女たちの口の端にその話題がのぼることもある。

 

 今宵はそのような夜でもあった。

 

「殿はほんとうに姫さまをご寵愛なさって……」

「夜明けにお手水を差し上げる時の殿のお顔がまた素敵なのよねえ……!」

 

 そろそろ夜明けも近い頃、宿直も兼ねて控えていた女房たちは顔を見合わせて囁き合った。

 今日は遅めに手水を用意したほうがいいだろうか、などと相談しつつ「でも」と一人の女房が言い淀む。

 

「これこそは“鶏鳴(とりはなきぬ)”と思われますのに……」

 

 その言葉にみながぴくりと反応する。

 『鶏鳴(とりはなきぬ)』とは催馬楽(さいばら)の一曲であるが、男が女の閨に押し入り夜が明け鶏が鳴く時分になっても我が子成すまでと何度も何度も情を交わしている。と、後朝までも冷めやらぬ性愛の模様を謡ったやや下世話なものだ。

 みなそれを理解して、暗にこの歌のような仲の主人には一向に子ができないと眉尻を下げた。

 

「ご結婚からずっと殿はこちらにいらして、姫さまへのご寵愛も深くていらっしゃるのに……」

 

 元服や裳着と同時に婚礼も行うような夫婦ならば、しばらくは子供の延長で跡継ぎを急かされることもない。

 が、栞と佐為は──適齢期ではあったものの──どちらかというと晩婚で既に複数の子がいてもおかしくない歳だ。

 

「殿も姫さまを一の人と遇しておいでだけど、あれほどお美しいお方ですもの。ご結婚前から通い所もあると聞きますし、もしもそちらが殿のお子を……ということになれば」

「そんな、殿に限ってまさか……」

「けれどもこればかりは前世からの(えにし)と言いますから……。姫さまが悲しい思いをなされなければよいのだけれど……」

 

 これほど睦まじい二人だというのに。なのになぜ──と、誰しもが案じた。

 

 

 

「じじゅーー!!!」

 

 幾日かのちの昼前、紫宸殿の簀子を歩いていた佐為は可愛らしい声に呼び止められて振り返った。

 見れば、六、七歳ほどの童がこちらに小走りで駆け寄ってきており、思わず顔を綻ばせる。

 

「これは右大将殿の次郎君(じろうぎみ)、今日はどうなされました?」

「あのね、ぼくを抱いて温明殿に連れてって!」

「温明殿へ……? お使いですか?」

 

 佐為は屈んで童と目線を合わせ、優しく語りかける。すれば「うん!」と頷いた童は手に持った書を佐為に見せてきた。

 

「これは……典侍(ないしのすけ)殿への書物ですね」

「うん、頭中将(とうのちゅうじょう)がぼくにおねがいしたの。だから連れてって!」

 

 そう言って童は抱っこしろとばかりにしがみついてきて、佐為は苦笑いを零した。

 

「次郎君……お仕事ですからご自分で歩かねば」

「でもぼく、どこに行けばいいかわかんないの。抱っこして連れてってくれたら碁をいっしょに打ってあげる!」

「これはまた……断りづらいことを」

 

 根負けした佐為は童を抱き上げて歩いた。すれば笑って喜ぶさまを見て、ふ、と口元を緩める。

 

 公卿の子息は元服前にこうして童殿上することがある。おおよそ十歳前後で初殿上し、権門の次代を担う彼らの顔見せをするのである。

 

 右大将の次男はまだ初殿上して日が浅く、ひときわあどけなさが残っていて可愛らしい。などと感じつつ雑談をしながら温明殿の内侍の詰所へと向かう。

 佐為にとっては慣れた場所だ。それゆえだろうか。佐為の姿を視認してすぐに女嬬の一人が橘内侍(きのないし)を呼びに行ってしまい、佐為は苦笑いを漏らしつつ童を床へと下ろす。

 

「佐為の君……? まあ可愛らしいお連れさまだこと」

 

 すぐに母屋から廂へと橘内侍(きのないし)が出てきて、佐為は軽く事情を説明した。

 すれば彼女は女嬬に声をかけ、童を典侍(ないしのすけ)のところへ連れていくように告げた。

 

「侍従、ここにいてね!」

「はいはい、お待ちしていますよ」

「うん!」

 

 童はパッと笑って佐為に手を振り、佐為も笑って手を振った。

 

「可愛いですねえ」

 

 その後ろ姿が見えなくなってもにこやかに笑う佐為をちらりと見た橘内侍(きのないし)が呆れたような寂しそうな目で呟く。

 

「そのような嬉しそうなお顔……、わたくしの前では一度もなさらないのに」

「え……!?」

「次郎君が羨ましゅうございますわ」

「なにを言うのです、子供相手に」

 

 佐為は苦笑しつつも、彼女は童にかこつけて恨み言を言いたいのだと察した。こうして日中に会うことは多いが、夜に()()少なさへの不満だろう。

 そんな二人の間に風が一陣過ぎ、佐為はさっと彼女を庇った。その風は紫宸殿の橘の香りを連れてきて、二人はどちらともなく互いの顔を見つめ合う。

 

「あなたに花橘の薬玉をいただいてから、もう何年が経つでしょうか……」

「何年経ってもそなたは昔と変わらず、常葉木(たちばな)のように美しいままです」

「では……、お変わりになったのはあなたの方ですね。その翌年には麗景殿の方にお贈りになって、わたくし泣きましたのに」

「そなたが……?」

「かと思えばその秋にはご結婚なさって……」

「そんな昔のことを今さらどうしたというのです」

「いえ、ただ……そうは言ってもあなたは子供がお好きなようなので、四条の北の方さま腹でなくとも喜んでくださるならば……と」

「は──!?」

 

 瞬間、佐為は反射的に橘内侍(きのないし)の肩を掴んでいた。

 

「そなた、まさか懐妊したと……?」

「先にこちらの問いにお答えになってくださいまし」

「そ、それは……もちろんです。もしそうなら身体を大切にして元気な子を産んでください」

「北の方にはなんとおっしゃるおつもりです?」

「そなたとのことは……婚前からの仲ですから、妻も理解するはずです」

 

 やや混乱しつつ佐為は拳に力を込めた。

 

 ──子供を欲したことは一度や二度ではないし、むろん嬉しいことには変わりない。が、できれば第一子は正妻()からと願っていたというのに。

 

 そのうろたえが顔に出ていたのか、橘内侍(きのないし)は檜扇を開いて口元を覆い目を伏せた。

 

「ご心配なさいますな。四条の姫君を差し置いてそのような真似、わたくしなどができるはずもないでしょうに」

「え……、では」

「それより、こちらよりも麗景殿の方へ足繁くお通いのようですから……あちらのご心配をなさいませ」

 

 あ、と佐為は目を見張った。

 橘内侍とは公務中(昼間)に顔を合わせることも多く、それゆえ夜に通う頻度は麗景殿(あちら)が上になりがちなのだ。彼女がそれを恨んでいることは薄々分かっており、そういう不満をぶつけたかったがゆえの言動なのだろう。

 

「そなたを疎んじているわけではないのです。私は……」

 

 彼女の艶やかな髪に指を絡めつつ宥めるように頬へ触れた瞬間、ぱたぱたと足音が母屋からこちらに近づいてきた。

 

「じじゅー!」

 

 右大将の次男だ。

 佐為はとっさに橘内侍(きのないし)から離れ、取り繕うように笑った。

 

「次郎君……、用事はお済みですか?」

「うん! ぼくは主上(おかみ)のところにもどる」

「ではお供いたします」

 

 言えば彼はパッと笑ってそばまで駆け寄り、佐為は一度橘内侍(きのないし)に目配せした。

 彼女に手を振る童を見て笑いつつ、清涼殿の方へと戻り公務をこなし、退出前に右大将の直廬(じきろ)に寄って次男と碁を楽しんでから帰路についた。

 

 

 童殿上したばかりの子供がいつしか大人びて元服していくのは何度も見たが、やはりまだ幼い時分の子供は可愛らしい。と、四条に帰宅した佐為は着替えてから今日のことを栞に話してきかせる。

 

「明るく人懐こくてとても愛らしく、利発なたちで碁も教え甲斐があるんですよ」

「右大将の次郎君が……」

「大将殿が、舞の名手(そなた)と妹背となって長いのでさぞや舞の腕もあげただろうと囲碁だけでなく舞も次郎君に教えて欲しいなどともおっしゃって……どうしたものかと」

「御前での童舞の出来は重要ですもの、あながち冗談とも思えませんね。見て差し上げたら?」

「きっと可愛らしいでしょうねえ」

 

 光景を想像して自身でも顔が緩むのを佐為は自覚した。

 本腰を入れ栞に舞を習ってあの童に教えるのもいいかもしれない。きっと愛らしいだろう。なんとも心躍ることだ。考えていると微かに栞が視線を下に流したのが見えた。

 

「あなたは子供がお好きだから……ご自分でも欲しいですよね」

 

 どこか力なく笑う栞を見て、あ、と佐為はその肩を抱き寄せる。

 

「欲しいですけど……、もうしばらくこうして二人だけで過ごすのも悪くありませんから」

「でも……」

 

 栞は一度こちらを見上げ、すぐに口を噤んで小さく首を振るうと黙って胸へと身体を預けた。

 

 子を成すのは前世からの(えにし)と言えど、栞との夜が途切れたことはなく……こう何年も懐妊の兆しさえないのはやはり不自然かもしれない。と、佐為は思う。

 すれば物の怪のせいということもあるかもしれず、加持祈祷などさせた方がいいのか。

 第一子は栞からと望んでいるが、むろん子の誕生そのものは喜ばしいことに変わりないのだから誰が相手でも……と心当たりを浮かべてやや眉を寄せる。

 

 そもそもの話、『第一子』は正妻からと()()()()()()。まして今をときめく大臣(おとど)の姫以外の子が嫡子など()()()()()()()()のだ。つまり、栞が子を産むまでは他から産まれても世間的に認めるわけにはいかない。

 そんな哀れなことを……とよぎらせ栞を見やる。

 例え外腹の子が生まれたとしても、庶出ゆえに寺に入れろなどの無情な圧力を彼女がかけるとは思えないが、さりとて快く思うはずがない。

 世間からも、大臣(おとど)の婿となりながらとんでもない恥知らずがいたものよと後ろ指をさされる結果となろう。

 ああ、やはりこの人がはやく子を宿してくれれば。声には出さないまま佐為は栞を強く抱きしめた。

 

 

 だが世間は世間。実際に栞以外から子が生まれたらどうなるのか──。

 

 

 結婚した頃は、こんなもの思いをするなど想像もしていなかった。と、栞は思う。

 幸いにして一生を独り身で過ごしても困らない資産もあるし、入内も宮仕えも藤の中納言との結婚さえも断って、あのまま独りでいるつもりだったのに。

 

 あの夏の夜に佐為と出会ってさえいなければ──。

 

 そう思うのに、佐為のいない生活などもはや考えられない。と、栞はその日の夜に佐為の腕に抱かれたまま眠れず考えを巡らせていた。

 結婚した時は、大臣の姫(自分)と妹背になれば今までの恋人を妻にはできなくなる佐為を不憫にさえ思っていた。身分柄、彼は大臣家(こちら)を尊重するしか道がないからだ。

 でも……と眉を寄せる。

 今はもう、そんな風には考えられない。

 もし佐為の通う誰かが佐為の子を身篭ったら?

 あれほど子供を好きな佐為が、我が子の母を見捨てるわけがない。むしろ子に会うため、その母の元へ足繁く通うようになるに決まっている。

 そうなれば世間はその人を妻の一人と認めないわけにはいかなくなるのだ。正妻の座を追われるなどありはしないが、寵愛はきっとそっちに移ってしまう。

 佐為は碁のために身分差さえ顧みず自分を妻にしたほどなのだ。だからきっと、自身の欲求を世間の暗黙の了解より優先するだろう。時の内大臣たる父に睨まれることさえ気に留めないかもしれない。

 すればこの大臣家はいい笑いもので、自分は気が触れてしまうやもしれない。

 そうなればさすがの博雅も離縁しろと言いかねず、そのような目に合うのだったらいっそ出家して世を捨てて……と栞は目頭が熱くなった自分を叱咤するようにきつく唇を噛んだ。

 

 考えすぎている。

 まだそうなると決まったわけでもないというのに。

 だが最近は女房たちでさえ不振がっているようであるし、何より佐為自身も望んでいるのだ。ならばはやく……、と栞はぎゅっと目を瞑ってただひたすらに祈った。



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第十九話:藤波

 “思へども(しるし)なしと知るものをなにかここだく我が恋ひわたる”

 

 

 どれほど想っても甲斐なしと知りながら、なぜずっと恋い慕うのか。

 ──と、叶わぬ恋の苦しさが太古より和歌(うた)に詠まれ残されたのも分かるというもの。

 まして最近は文の返事(しるし)すら途絶えがちで……。

 

 と、思い浮かべながらため息を吐いたのは藤の中納言だ。

 職務中であったがゆえ、彼の眼前にいた源の頭弁(とうのべん)が不審そうな顔色を浮かべている。

 頭弁(とうのべん)はついいま彼が説明していた文書の内容をこちらが気に食わぬとでも感じたのだろう。慌てて取り繕った中納言は、何事もなかったかのように頭弁(とうのべん)から上申文書を受け取った。

 

 そうして曹司から内裏へと向かい、建春門にさしかかった辺りで中納言の視界に源の四位侍従(しいのじじゅう)──源博雅の実弟──と佐為の姿が映り、思わず足を止めた。

 

 あ、と源の四位侍従が立ち止まる。

 

 そうして彼は藤の中納言より先を歩いていた源の頭弁(とうのべん)に歩み寄り話しかけた。

 仕事のことか、はたまた親族ゆえに雑談か。藤の中納言は彼らの視界に入らぬように門の手前で歩みを止めた。

 そのまま遠目に見ていると、四位侍従は佐為を呼び寄せ三人でなにやら宣陽門の先で話し込んでいる。

 彼らは栞を介して親類なのだから親しい間柄であっても当然なのだが。──中納言の口からため息が漏れた。

 

 佐為が栞と妹背となってもう幾年も経つというのに、未だに彼女を諦めきれない自分はどこかおかしいのだろうか。

 それとも、あれほど身分が下の者の妻に彼女がおさまったのが口惜しいだけなのか。

 

 けれども、と中納言はちらりと佐為に目をやる。

 

 賜姓皇族に混ざる狂い咲きの藤。

 ()()()()()()だというのに、今が盛りの匂やかな藤の花がこうも似合う人もいるまい。涼しげな目元や艶っぽい口元など、一度目をやるとその気がなくとも見とれてしまう優美さだ。

 自分でさえそう思うのだから、女の身ならばさぞや……と彼が未だに多くの女人を悩ませる種となっているのも理解できる。

 栞とのことにしても、仕方のないことだととうの昔に諦めたはずだというのに。

 ただ、あの快活で華やかだった人が今ではすっかり四条の屋敷に引きこもってしまい、今も本当に彼女が幸せでいるか気にかかっている。

 だから、せめて遠くから恋うることくらいは誰に咎められることもあるまい。と、中納言は彼らが過ぎ去るのを待ってから一人内裏へと戻った。

 

 

 佐為の方は中納言の気持ちを分かりつつどうすることもできず。

 日々の公務を朝臣としてつつがなくこなすのみである。

 

 そんな佐為の仕事場の一つである後宮──麗景殿。

 佐為にとっては()()()()()場所だ。

 後宮の各殿舎にはそれぞれ色合いというものがある。おそらくは殿の主たる女御の性質を反映しているのだろう。

 この麗景殿は控えめで上品で、それでいて見どころのある才女が集う後宮でも随一の品格を誇る。

 

 だというのに。いや、そのせいだろうか。

 

 昼の公務でこの殿舎を訪ねても、宰相の君が出てくることはまずない。彼女との仲はみなが知っているのだから顔を出してもさわりはあるまいに、と思うもののそれが彼女のゆかしいところなのだろう。

 しかしながらそのせいゆえか、“訪ねる時間をお間違え”だの“情に薄い方”だのと彼女の同僚に釘を刺されるのも常ゆえ、麗景殿(ここ)に公務で来る日はいつも気の張る思いがするわけである、が。

 

 色恋とは別に、この殿舎を訪ねるささやかな楽しみもある。

 

 それは──。

 

「まあ若宮さま、はしたのうございますよ」

 

 几帳の影から幼子が駆け出てきて、佐為は思わず頬を緩めた。

 

「宮さまは日一日とお可愛らしくご成長されて……こちらでお見上げするのがいつも楽しみです」

 

 今上の第一皇子だ。駆け寄ってきた皇子を見て、佐為は碁笥の蓋をして碁盤の上へと置いた。

 

「だっこ……!」

 

 そうして抱っこをせがまれ、母屋の御簾のうちにいた女御から抱き上げる許可が出るのを待って佐為は請われるままに皇子を抱き上げてみる。

 

 まだ赤子だった頃から成長を見てきたせいだろうか。臣下の身ながら愛しく感じ、頬を緩めたまま思う。

 

 第一皇子とあって生後すぐに親王宣下が下りたが、春宮の座は未だ空席だ。三后が全て埋まっていることもあり、今上は将来に誰を中宮に据えるかも一才匂わせてはいない。

 こちらの皇子を産みまいらせた女御は今上の思い入れも深いやもしれないが、後宮の均衡を考えて誰かを贔屓にするわけにもいかないのだろう。まして麗景殿の女御には後ろ盾がなく、いくら皇子を成したとはいえ下手を打てば他の有力公卿から何を言われるかわかったものではないのだ。

 

 佐為は愛らしくも皇子らしい気品を持った幼子を見やりながら考える。

 

 恐れ多くも自分が今上なら、このようないたいけな幼子から一時でも離れるなど考えられず、きっと麗景殿に通い詰めになってしまうに違いない。

 そう思うと帝位につくというのは常人には想像さえ及びもしない苦悩があるのだろうと思われる。

 

 それでも皇族と生まれたからには帝位を夢見るものなのだろうか。

 自身が仕えたのは今上のみであるが、ここ数代は帝位が安定せず、先々帝は数年で退位し、先帝は十年ほどの在位期間で政争が絶えず生まれたのも皇女ばかり。度重なる不祥事と天変地異を恐れて世の安寧のため譲位した。

 そうして今上の世となり今は安定した御代に見えるが、いつなにが起こるかは分からないのだ。

 この幼子にしても、この後に待ち受けるのは帝位争い──、考えそうになって眉尻が下がる自身を叱咤し、佐為は微笑んで膝の上に乗せたままの皇子の話に耳を傾ける。

 ちょうど言葉を覚えた時分だ。あのねあのね、と喋りたくてたまらない様子がことさら愛おしい。

 

主上(おかみ)のおそばに侍る侍従の君がお気に入りとは……、お目が高い宮さまですこと」

「佐為の君も幼子の相手をよくなさって……、宮さまをあやすお姿も素敵ね」

 

 女房らが誉めそやすも、それほど幼子がかわいいならもう少し公務外で麗景殿に通って自分でも子を儲けろとちくちく小言を漏らされ始め、佐為は苦笑いを浮かべた。

 

 

 宰相の君や藤式部をはじめ麗景殿には腕の立つ碁の上手が揃っており、皇子がおらずとも囲碁好きの今上は麗景殿を気に入っているのはなんとなく察している。後ろ盾がないとはいえ女御は左大臣家と縁つづきだったはず。粗略に扱われることもあるまい。

 

 

 などと思いつつ、ほぼ若宮の相手のみに終始して麗景殿をあとにした佐為はふとよい香りに歩いていた足を止めた。

 庭の松の木にかかる藤が今を盛りに花開いている。──この内裏を象徴するような光景だ。

 

「甘やかな香りが漂っていますね」

 

 しばし佐為が藤の花を見ていると、布ずれの音とともに鈴を転がすような声が聞こえた。

 振り返って見上げれば、承香殿の簀子に質の良い唐衣を纏った小柄な若い女人の姿が佐為の瞳に映った。

 

尚侍(かん)の君さま……」

 

 承香殿の一部を預かっている尚侍(ないしのかみ)──左大臣の中の君だ。栞が舞師を務めた年の新嘗祭で五節の舞姫を務めた姫でもある。

 中の君は人懐こそうな笑みを佐為に向ける。

 

「四条の御方(おんかた)さまはお元気でいられますか?」

「はい、変わりなく過ごしております」

「まあ……、では」

 

 答えれば、中の君は檜扇を少しだけ開いてさも驚いたように目を瞬かせた。

 

「兄が御方(おんかた)さまから文のお返事がないと嘆いておりましたので、体調でも崩されているのではと案じていたのですが……。そういうわけではありませんのね」

 

 予想外な言葉に、ぐ、と佐為は返事に窮した。

 彼女の兄、藤の中納言はいまだに栞を慕って時候の挨拶は欠かさず送ってくる。栞にしてもさすがに藤の中納言を無下には扱えないのか当たり障りのない返事は出しているようであるが、さすがにどのようなやりとりをしているかまで把握するほど無粋な真似は──いくら意に染まぬことだろうが──していない。

 

「妻が中納言殿への礼を欠くとは思えませんが……、私も詳細は存じ上げませんのでお答えできかねます」

「では、あなたがお咎めではないのですね」

「これは穿ったことを……、困りますね、そのような誤解は」

 

 いったい左大臣家で自分はなんと言われているのだろう。私信にさえ口を出すけしからぬ夫などと噂されていたら心外もいいところである。

 そもそも中納言にしても実の妹にそのようなことを愚痴るとは、と情けない思いをしていると、目線の先の中の君がやや目を伏せたのが映った。

 

「わたくし、兄の気持ちが少しは分かるような気がいたしますの」

「え……?」

「藤も今が盛り。…… ()()()()()()()()()()、と申しますのに」

 

 佐為はやや目を見張った。

 彼女が口にしたのは万葉の中の一句だが、意図する意味は恐らく──彼女の所属する『藤原氏』もこちらの所属する『藤原氏』も奈良の都では(元を辿れば)祖を同じくする一族。それを縁に恋しく思って欲しい。ということだ。

 兄が兄なら妹も妹で困ったことを、と思いつつ佐為は素知らぬふりで笑う。

 

「松が枝にちとせをかねて咲ける藤波。……とも申すように、()()()()()をこそご覧になっていただきたいものです」

 

 あなたは帝に、私は妻に、それぞれ皇族()に千年をも誓った身ではありませんか。

 言えば通じたのか、まあ、と中の君は眉を寄せた。

 

「そう申されましても、わたくしの()()殿()へはお通いですのに……ずいぶんとつれないおっしゃりようですね」

 

 今度は彼女にとっては配下である橘内侍(きのないし)のことまで持ち出され、佐為は肩をすくめた。

 

尚侍(かん)の君……、お戯れもほどほどになさって貰わねば」

 

 彼女の父である左大臣は今上の寵を得る目的で彼女を内裏にあげたのは自明だが、名目上は尚侍(ないしのかみ)は内侍所の長官であり女官だ。まだ歳若く、幼さも目立つゆえかあまりに歳が不釣り合いゆえか今上は彼女が出仕して以降ずっと彼女を「尚侍(ないしのかみ)」として遇している。

 明るく可愛らしい姫ではあるため、もう少し成長して成熟した後はわからないが──。

 

「兄はあなたを羨んでおいでですが、わたくしは御方(おんかた)さまが羨ましい……」

尚侍(かん)の君……」

 

 年若い姫に悲しげな顔をされて、さすがに佐為もやや哀れに思った。

 入内してからだいぶ経つというのに今上の寵は得られず、かといって家の繁栄という期待を背負っている以上は他の女官のように宮廷で恋に興じることもできかねるのだろう。若い彼女には酷なことだ。

 が、その矛先を自分に向けられても応えるわけにはいかない身である。

 せめて尚侍(ないしのかみ)でなければ……、などと考え佐為はふと思う。

 尚侍(ないしのかみ)の地位に就くのはおおよその場合大臣家格の姫だ。今上は栞にも宮仕えを勧めていたというし、もしも彼女が尚侍(ないしのかみ)として出仕し出会っていたらどうなっていただろうか。

 あれほど棋力の高い人を見過ごすことなどきっとできず、おそらく手合わせを願い──すればただ碁を打つだけの仲で済むとも思えない。もしも帝の寵を得るような立場であればとんでもないことに、と恐ろしい事態が浮かんでさすがに佐為の額に汗が滲んだ。

 

「佐為の侍従……?」

 

 物思いに意識が飛んでいた佐為は呼び声にはっと目を瞬かせた。

 中の君が簀子から身を乗り出してこちらを見下ろしており、佐為は取り繕うように笑ってみせる。垂れた目尻が愛らしく、可愛らしい人だ。きっと美しく成長するだろう。

 やや困った姫ではあるが、他の女御がたを思えばまだ子供と言っても過言ではない歳なのだ。次代の帝たる皇子を産むためだけにこの御所にあげられ、その望みさえ宙に浮いた状態だと思えば少しくらいは情けをかけるのが人情というものだろうか。

 これであの藤の中納言の妹でさえなければもっと良かったものを──。

 

「中の君──ッ!」

 

 そのうち碁にでも誘ってみようか。考えていると空を切るような声がして佐為ははっと声のした方に目線をやった。

 すれば承香殿に連なる渡殿を歩く黒の袍が見え、佐為は慌ててこうべを垂れた。中の君の父、左大臣だ。

 

「まあ、おとうさま……」

 

 どうなさったの? と呑気な声が頭上から響いたが、なんとも間が悪い。佐為は内心ため息を吐いた。だがこの場を去るいい機会でもある。早々に挨拶して退出しようと考えていると、先に左大臣から声がかかった。

 

「こんな場所でなにをしておいでかな、侍従」

「麗景殿の帰りに通りがかりまして……、藤の花など眺めておりましたところです」

 

 これより退出する旨を伝え、再度挨拶をしてから佐為はその場を後にした。

 

 その背を見送った左大臣は、承香殿に渡りつつため息を吐きながら娘である中の君に声をかける。

 

「姫……、いくら主上(おかみ)のおそばに侍る侍従といえど、あまり軽々しく口をきくものではないと常から言っておるのに」

「まあ、おとうさま……。お兄さまが四条の三位(さんみ)御方(おんかた)さまから文のお返事がないことを気に病んでいらして……それで御方(おんかた)さまがお変わりないかお聞きしていたんです」

 

 それを聞いた左大臣のため息はますます深いものとなった。

 

「あれは未だに四条殿のことを忘れかねておるからな……」

 

 嫡男の中納言が大嘗祭で栞を見初め、室に迎えたいと望んだ時は悪くない話だとも思ったが、あちらの父が良い顔をせず。ちょうど先帝から内親王の降嫁を望まれて話はうやむやとなった。

 しかし中納言は栞を諦めきれず、栞にしても内親王にも劣らぬ血筋。もしも二人に姫が産まれれば押しも押されもせぬ(きさい)がねとなるゆえ次善ではあったが、一方であちらの父である源氏の大臣(おとど)がこれ以上力を得る事態は好ましくない。

 なにせ彼の父である故一品式部卿の宮は后腹の親王。今上とは祖父母共に同腹の近しい従兄弟同士であり、今上にとってはもっとも頼りとする忠臣なのだ。そんな彼が将来の帝の外戚となるなどとんでもない。

 ゆえに中納言が無事に内親王を頂いた時は収まるところに収まったと胸を撫で下ろしたものの、未だ姫の一人にも恵まれず。

 本人も栞を忘れかねているため、佐為(今の夫)と離縁でもしてくれたら今度こそ話をまとめようものの。左大臣は三度目になるため息を吐いた。

 

「おとうさま……?」

 

 中の君は中の君で今上の寵を得られておらず、先帝に差し上げた大君(おおいぎみ)も皇子を成す前に先帝は譲位し出世の望みは既に断たれている。

 

「姫、そなたが主上(おかみ)の皇子を産みまいらせればいずれは国母に立てるのだ。しっかり主上(おかみ)のお心を掴むよう励んでもらわねば」

「でも……麗景殿の女御さまのところには若宮さまがおいでですし、お世継ぎのご心配はないはずですのに」

「麗景殿の女御ではなく、そなたでなければならぬと言っておろうに……!」

 

 詰め寄ると、中の君はすっと視線を下に流した。

 

主上(おかみ)はお優しいお方ですが、いまはわたくしが公務に精進するよう望んでおいでです。わたくしも女御さまがたと寵を競うなどとても」

「だからこそ主上(おかみ)のお心を掴む努力をせねば……! 例えば碁など──」

 

 そこまで言って左大臣ははっと口をつぐんだ。

 見れば、中の君はぱっと明るい顔で微笑んでいる。

 

「では、わたくしも他の女御さまのように佐為の侍従から碁の指導を受けてもよろしいのですね……?」

 

 失言だった、と左大臣は笏で頭を押さえる。

 年若い姫があの美貌の君に惹かれるのは必然とは言え──。

 

「姫……、佐為の侍従は仮にもそなたの舞の師の背の君であろうに」

「まあ穿ったことを……。そのようなことではないのです、おとうさまが他の女御さま方と競えとおっしゃるならば、同じようにしていただきたくて」

 

 無邪気に笑う中の君を見て左大臣の唸りは苦いものに変わった。

 中の君が初めて内裏に上がって今上に目通りした際、彼女は今上ではなくそばに控えていた佐為に目を奪われたらしく。今上が中の君に興味を移さないことと相まって左大臣にとっては物思いの種となっている。

 

 佐為にはしっかりした嫡妻がおり、通いどころとうわさの女人たちも才媛と名高い落ち着いた女君ばかりで万が一にも間違いなど起こるはずはない。

 

 が──、五、六年後はどうなるか。

 

 いまは頼りなげな中の君もきっと美しく成長するだろう。その時こそ、今上の寵が中の君に移る絶好の機会。

 そして佐為はというと。これまた頭が痛いことだと左大臣は小さく歯噛みをする。

 今をして鬼神さえ魅入るばかりの男盛りだというのに、舅である源氏の大臣(おとど)が京に戻れば彼の出世はほぼ約束されているのだ。押しも押されもせぬ立派な朝臣となるに違いない。

 そしていまは幼い中の君の憧憬が、兄の中納言のような道ならぬ恋に変わったとしたら──。

 いささか子供たちを甘やかして育てすぎたやもしれぬ。と左大臣は自嘲した。

 

 ()の子は将来の国母たる姫を儲け、()の子は御所に上がり将来の帝たる皇子を産む。それが摂関家に生まれたものの使命なのだ。

 

 その道理から外れてもらうわけにはいかぬ。──と、左大臣は松に絡まる今が盛りの藤を見た。

 

 皇族を取り囲むこの藤波こそが我が一族の証。この場に、狂い咲きの藤はいらぬ。と左大臣は拳を握りしめた。



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第二十話:伝え継ぐこと

 過ごしやすい季節となったからだろうか。

 

 佐為は晴れた日には簀子に碁盤を持ち出して庭を見ながら、陽が落ちれば篝火を頼りに碁を打っていることが多い。

 

 夏になると毎年こうだ。

 

 佐為が屋敷にいる限り、栞は一日一局は付き合うようにしている。

 おおよその場合は一局で終わらないため、栞はいまではキリのいい切り上げ方をすっかり身に付けていた。

 そうして佐為は一人で古書を手に石を並べていたり、何刻も難しい顔をして考え込んでいたりと日々のおおよその時間を碁盤の前で費やしている。

 

 そんな佐為を見慣れているはずだというのに──。

 何年見ていても、毎日でも見とれてしまう。と、月明かりに照らされ碁盤に向かう佐為の様子を一寸離れた廂から見守りながら栞は思った。

 ほんとうに出会った夜からなにも変わっていない。

 時おり険しい顔をして盤上を見つめる佐為が少しだけ気にかかるも、きっと今の彼の頭は碁のことのみでいっぱいに違いない。

 

『あなたにその気がなければ、しばらくは……いえ、ずっと表向きの夫婦仲であっても構いません』

『対局にはお付き合いいただきたいですけど』

 

 昔はああ言っていた佐為だが、結婚に際してのあの提案を受け入れていたら今ごろはどうなっていたのだろう。

 なし崩しで妹背となったとは言え、きっと不可能だったに違いない。

 佐為は自分を妻にさえすれば頻繁に打てる狙いだったのだろうが、とてもそれだけで済んだとは……と“夫婦”という間柄でのあれこれを思い出して栞は自嘲した。

 

 そもそも自分にとって碁は趣味でしかなく、佐為のようには情熱を注げない。まして同じ目線に立とうなど──。

 

 佐為が碁打ちとしての同士を求めていたのなら、おそらく自分は期待外れだっただろう。

 

 そんなことを思いつつ見つめていると、パチ、と石の音がしたと共に佐為の視線が廂の方へと向けられた。

 

「なんです、先ほどから黙してこちらを見てばかりで」

 

 呆れたようでいてからかうような声だ。

 栞は急に気恥ずかしくなり、思わず佐為から視線をそらす。すれば、ふ、と笑みが漏れる気配がした。

 

「どうせ見ているのなら、こちらへおいでなさい」

 

 月の光を浴びる佐為は相も変わらず優美で、栞は誘われるように頷いて佐為のそばまで歩み寄り腰を下ろした。

 

「夏の夜にこうして石を並べていると……、そなたと出会った時のことを思い出します」

「私も……。それに、登華殿で続きを打ったあの夜の一局が唯一あなたを負かした碁ですから、とても思い出深いです」

 

 ふふ、と栞が笑みを漏らすと佐為は腑に落ちないという風に眉を寄せた。

 

「あれは……大臣(おとど)の姫と知らず礼を欠いたと心乱れが出たまでで……!」

「その大臣(おとど)の姫を妻になさったのはどなたでしょう」

 

 ぐ、と言葉に詰まりしてやられたと言いたげな佐為の顔を見上げて栞は肩を揺らした。

 

「そのあとはどれほど打っても勝てなくて、今ではすっかり自信を失いましたけれど」

「そなたは腕を上げましたが、私もそのままというわけではありませんからね」

「では一生勝てないということではありませんか」

「負けず嫌いもけっこうですが、囲碁くらい私が勝っていてもバチは当たらないでしょう」

「囲碁くらいなどと……、管弦全般もあなたが勝っておいでですのに」

「私など博雅三位(はくがのさんみ)の足元にも及びませんよ」

「それは比べる相手が悪すぎます」

 

 そんなやりとりをして佐為はようやく笑みをこぼした。そうして、ふ、と肩の力を抜いたように碁盤の方へ視線を戻す。

 

「常に……、最善の一手を追求しているんです。もっと優れた手はないものか、と」

「そんなにお強いのに?」

「そなたや博雅三位(はくがのさんみ)にしても、舞や楽への追求が止む気配はありませんからね。何事もそういうものですよ、きっと」

 

 そう言った佐為の目線はまた鋭くなり、栞は息を吐いた。

 自分たち(舞や楽)と違い、碁は一人では打てないのだから孤独に己を高めるという道は果たしてあるのだろうか。共に高め合う“誰か”には自分はなれないのだし、そもそもこの国には囲碁で身を立てる道は公にはないのだ。

 

紅旗破賊非吾事(戦いは我がことでなく), 黄紙除書無我名(取り立てもないのだから), 唯共嵩陽劉処士(ただ友と酒を賭け),

囲棋賭酒到天明(夜通し碁を打とう)

「……。白楽天ですか」

 

 栞がぼそりと詩を誦し、佐為は一寸だけ間を置いて碁盤から目を離さぬまま応えた。

 この詩は白居易が江州に左遷された折に詠まれ、せめて囲碁くらいはと無意無冠の友と静かに楽しもうとするも公から排除された悔しさが滲み出たものである。が、海を渡ったこの詩は──特に後の世で──やや違う受け止められ方をした。戦いも官職も知ったことではない。友と碁を打ち酒を飲み夜を明かす。これ以上の生き方があろうか。と、いうものだ。

 栞がどのような意味合いで呟いたのか、佐為がどう受け止めたのかさえ定かでないまま──佐為はしばしの間を置いてこんなことを口にした。

 

十九條平路(十九路の道は), 言平又嶮巇(平坦なようで険しく), 人心無算處(人の心は計りがたく), 國手有輸時(名人さえ負ける時有り)

 

 唐の時分の、碁そのものを題材にした詩の首聯(しゅれん)及び頷聯(がんれん)だ。

 ああ、と栞はすぐに応じた。

 

勢迥流星遠(石の流れは星降るようで), 聲干下雹遲(音はまるで雹のよう), 臨軒才一局(窓辺で一局打っていたら), 寒日又西垂(もう日が暮れていた)

……唐土は本当に太古より碁が盛んであったことが偲ばれますね」

「ええ、太古の頃からみながこの十九路の宇宙に迷い、魅了されてきたことが手に取るように分かります」

 

 吸い付くように碁盤を見やる佐為の眼は何を宿し考えているのか分からず、栞は無意識に眉を寄せた。

 碁という芸事はことさらに厄介なものだと数多の儒官者が論じて久しいが、やはり自分と佐為とでは碁に関する受け止め方が違うのだろう。

 もう何年も、これほど長く共にいるというのに、佐為がなにを考え求めているのかははっきりとは分からない。

 “人心無算處(人の心は計り知れない)”とは言ったものだ。

 ひとつだけ分かっていることがあるとすれば、彼の心に棲んでいるのは囲碁のみで他はきっと瑣末なこと。──と、いうことくらいだろうか。

 出会った頃から囲碁狂いと分かっていたが、それよりもさらに、もっと、博雅のような楽狂いとは違う人間的な部分が……と栞は膝に置いていた手を無意識に握りしめた。

 この人にとっては自分の存在など──。考えそうになって栞ははっと意識を戻した。

 目の前の佐為はきっと自分が隣にいることすら忘れているに違いない。

 これほど近くにいるというのに──。

 

「あなた」

 

 しばし佐為の横顔を見つめていた栞はそっと囁くように佐為を呼んだ。やや遅れて佐為の瞳が揺れ、こちらを見てくる。

 

「もう遅いですし、今宵は先に休ませていただきますね」

 

 そうしてさらりと立ち上がり、廂の奥まで歩いて行ってから栞はもう一度簀子の方を振り返った。佐為の瞳は先ほどと変わらず盤の上に向けられている。

 生ぬるい風が頬を撫で、ふと、ほんとうに不意に栞の脳裏に佐為と出会った初夏の夜の出来事がよぎった。

 

『どこかで時鳥(ホトトギス)が鳴いているのではありませんか……?』

 

 あの夜、確かに時鳥の声を聞いたというのに──。

 清少納言にせがまれ、探し歩いた先で見つけたのは時鳥ではなく佐為であった。

 あれから幾年も経つが、思い起こせばあれ以来時鳥の鳴き声を聞いていない気がする。と、やや奇妙に思う。

 世の人が慕うようには時鳥の鳴き声にそれほど執着していない故に気付かなかったのだろうか。

 

『でしたら……、どなたかが栞殿をお呼びなのではないですか?』

『時鳥は冥界からの使者だと言いますから』

 

 それとも……、と無意識に額を押さえつつ栞は今度こそ寝殿の奥へと向かった。

 

 

 

 そうして雨の続く梅雨に入り、徐々に蒸し暑い日々がやってくる。

 

 その日も例に漏れず、汗ばむ天気となった。

 ここのところ雨続きだったせいか大内裏の朱雀門が一部壊れて所轄の官人は大忙しらしい。

 

「姫さま、佐為の殿、博雅の殿さまがおいでです」

 

 そんな日の午後、予告なく博雅が四条の屋敷に顔を出した。

 帰宅後の佐為は廂にて狩衣の前や指貫をくつろげて休んでおり、女房の声に慌てて狩衣の襟を留め直した。

 

「やあ佐為殿、この暑さだ、かしこまらずともよいぞ」

 

 しかしながら指貫の括りを縛るのは間に合わず、顔を出した博雅はだらんと垂れたままの指貫の裾を見やって笑った。

 

「むしろそなたの着乱れた姿を見たとあらば、都中のおなごの羨みの的だよ」

「お戯れを……」

「それはそうと、栞は? 今日はよいものを持ってきたのだ」

「え……?」

 

 笑う博雅に佐為はきょとんと目を瞬かせた。

 曰く、内裏で氷を賜ったから削り氷にして食べようと持ってきたらしい。

 官職・位階に応じて分頒される夏場の氷は涼を取るためにはうってつけのものだ。

 酒に浮かべたり額に当てたりと使用方法は様々であるが、削った氷を器に乗せて甘葛煎をかけ菓子として食べるのもまた一興だ。

 

「冷たい……! 美味しい」

「上品な甘さですね」

「やはり夏の楽しみはこれだな」

 

 口の中にひんやりと冷たい氷が溶けて広がる感覚は何ものにも代え難い格別なものだ。

 黄金色の甘葛煎をかけた削り氷は見た目も涼しげで、香ばしいにおいが鼻腔をくすぐり自然と頬が緩む。

 栞は感嘆の声を漏らし、佐為も口元を緩ませ、博雅も満足げに笑った。

 

「残りは溶けぬうちに酒に浮かべて一杯やろうぞ」

 

 そして博雅はなお佐為に向かってそう言い、ふと真面目な顔つきをする。

 

「時に佐為殿……、そなたは朱雀門を見たか?」

 

 ああと佐為も思い出したように頷いた。

 

「屋根の一部が崩れたそうですね。出仕の時に大勢の役人が集っているのは見ました」

「三日前の大雨が原因とは思うが、不吉の前触れか物の怪の仕業ではないかと主上(おかみ)や一部の上達部は気にしておられてな」

「そういえば陰陽寮は忙しそうにしてましたね」

 

 彼らは内裏の様子を思い浮かべたのかそんな話を口にしたが、栞の方は首を捻る。

 

「大雨は天候の乱れですし、屋根が崩れたのは朱雀門の老朽化が原因ではないのですか……」

 

 自然現象のどこに不吉の前触れなどという不確定要素があるのか。まして物の怪など、と疑問を口にする栞に博雅は苦笑いを漏らした。

 

「栞はお父上の影響かいつもああでな、例え病を患っても僧さえ呼ばんのだよ……」

 

 削り氷を食べ終わった栞がその場を離れ、盃に浮かべた氷を見つつ博雅はそんな風に言った。病気平癒の祈祷や悪霊祓いは元より、日常から僧などに助言を求めるのは本来ならば貴族の生活には欠かせないものだ。

 佐為も盃を手にしながら微かに肩をすくめる。

 

「栞がそうというだけで、私や女房たちが望めば僧や陰陽師を呼んでくれますから……」

「いや、まあ……。つくづくそなたが栞の夫で良かったと思うよ。私は慣れているが、世間からは変わりものの姫であろうから」

博雅三位(はくがのさんみ)がそれをおっしゃるとは……、あ」

 

 これは失礼。と佐為が口元を押さえ、博雅は肩を揺らす。

 

「私はな、佐為殿。なんとなくだが理屈では説明できない力というものを信じているのだよ」

「え……」

「そして常に思っておるのだ、もし次の生があるなら……いや何度生まれ変わっても(がく)をやりたい。何度でも、どの世に生まれようとも萬秋楽を奏でるのだと」

 

 変わりもの呼ばわりされたついでとばかりにそんな話をした博雅に佐為は瞼を持ち上げた。

 言い分そのものは博雅らしいものだ。それに弥勒菩薩の曲とも言われる萬秋楽を奏でたいとは、彼は栞とは違い仏道に造詣が深いのやもしれない。

 が──、佐為はいつかの夏の夜に栞と交わし合った言葉をふと思い出した。

 

『私はあまり前世や来世など信じていないのですが……そうなったらあなたは次の世でも私を見つけてくれるでしょうか』

『ああでも、人は七度生まれ変わるなんて言いますから……その度にあなたと逢えるかな』

『佐為の君は千年先の世でも囲碁ばかりかもしれませんが……』

 

 千年をも共にすごそう。とありきたりな甘言を受けて真面目に考え込んでいた。

 こちらは特に深い意味を持って言ったわけではないが、あの夜に考えたのだ。もしも次の世があるなら──。

 

「佐為殿?」

「え──ッ!?」

 

 呼ばれてハッとした佐為は意識を戻す。訝しげな色をした博雅の視線を受け、佐為はとっさに笑った。

 

「私は、そうですね。次の世でも碁が打てればとは思いますが……私にはこの現世でやるべきことがありますから、今生のことで手いっぱいです」

「そうか。私はどのような形でも(がく)ができればそれ以上に望むことはないが、そなたは違うようだからな」

「どういう意味です?」

「そなたは碁がただ打てれば満足するわけではあるまい? 例えば、そうだな。山陰などの外国(とつくに)には唐人も多く碁の上手もいると聞く。庶出のものにも腕利きがいるやもしれん。だが、そなたは下向するのは望まないだろう?」

「それは……」

「上昇志向が悪いとは言わんよ。都におらねば得られないものもあろうから」

 

 グイッと博雅が盃をあおり、佐為はどこか見透かされたような気がして無意識に盃を持つ手に力を込めた。

 

 おそらく孫王という──先の帝の第一皇子の嫡男という高貴な身に生まれた博雅には理解できないのだろう。

 今上の御前に、清涼殿へとあがることにどれほどの意味があるか。ましてそのような場所で碁を打てる歓びが如何ほどか。どれほどの努力と運が必要であったか。

 どこで笛を吹いても変わらぬと言い張るだろうこの人とは決定的に違う。

 

 それに──。

 

「私は……他の誰でもない私自身が囲碁を、神の一手を極めたいのです」

「神の一手……?」

 

 なんだそれはと博雅は瞬きをする。

 佐為は高坏に盃を下ろした。

 

「私にもはっきりとは分かりません。が、今までのどの石の働きをも超越した究極の手……まさに神のような。そのために私は……」

「都……いや宮廷のような穢れなき場所こそふさわしいというわけか」

「思い込みかもしれませんが」

「にしても“神”の一手というほどのものが、人である私たちに打てるものなのか?」

「分かりません。でも、その一手を極めるのは私でありたい。他の誰でもなく、私が……!」

 

 思わず拳に力が入り、肘が高坏にあたって佐為は慌てて酒が溢れぬよう盃を右手に取り高坏をもう一方で押さえた。

 その様子を博雅はジッと見つめ、そうして瓶子から盃へと酒を注ぐ。

 

「そなたも付き合え」

「え……あ」

 

 どうも、と佐為は盃を差し出し、博雅は少し笑う。

 

「私も管弦を極めたいという志を持ってはいるが、私などではその領域には至れぬことも分かっているつもりだ。私は筝を祖父帝に学び、そして琵琶、笛、篳篥とその道の名人に学んだ。私の師たちもまた、その道の名人に学んだものを私に教え伝えてくれた。だから私の筝には祖父帝が生きておるのだ。私の楽を通して多くの名人が生きておるのだ」

 

 博雅はしみじみと言い下したが、佐為はやや困惑した面持ちで博雅を見つめた。

 ぐいと博雅はなお酒を喉に通す。

 

「幸い、息子たちはみな楽の才があってな。私の楽は息子たちに伝えてゆくつもりだ。私にできることは、おそらくそこまでだよ」

博雅三位(はくがのさんみ)……」

「それになあ佐為殿、私はいま譜を書き記しておるのだよ。それを読めば、私ではない誰かも同じように奏でられる。この譜が百年ののち、いや千年ののちまで残ればその世の人は楽を奏で、この博雅を知るのだ。私はそれを天から見守ろうぞ」

 

 佐為は切れ長の眼を見開いて博雅を見つめ、ほんの少しだけ曖昧に微笑んでから長い睫毛で縁取られた目を伏せた。

 

「私には……いささか理解が及ばないやもしれません。やはり私は、違う誰かではなく私自身が碁を極めたい」

「それもよい。それに、そなたはまだ若い。が……いずれ分かる時も来るだろう」

 

 ははは、と博雅が笑い佐為は少しばかり肩を竦める。

 若いといえば、と博雅は母屋の方へ目をやった。

 御簾が下ろされており中が見えない。きっと栞は薄衣一枚で暑さを凌いでいるのだろう。

 

「栞には舞の天賦の才があったが……、惜しいことをしたと思っているよ」

 

 その一言に佐為はぎくりとした顔をした。

 

「それは……参内ができないからという意味でしょうか」

「ん? いや、そういうわけではないが……。そうかなる程、やはり栞の参内を止めたのはそなたであったか!」

 

 博雅は肩を揺らし、佐為はしまったとばかりに目を逸らす。

 

「ご存知のように、宮中はあまり安全とは言えぬ場所ですので……」

「そうさなあ、栞も私と同じで場所に拘っているわけではなかろうよ。そなたが舞うことまで咎めれば別であるが、そうではないのだろう?」

「はい。栞の舞は言うに及ばず、私より達者な馬弓などは頼もしく見ています」

「ならば、そなたはやはりよい夫だよ。栞の才は惜しいが、おなごではどうしようもないこともある。平城(なら)に都があった頃はこうではなかったと思うと、栞は生まれる時代を違えたのかもしれんな」

 

 とくとくと酒を注いでは飲み干すという動作を何度か繰り返し、博雅は息を吐いた。

 そろそろ女房の誰かが次の瓶子を持ってくる頃だろう。

 すれば案の定、絶妙の頃合いで瓶子を携えた女房がやってきて、彼女は瓶子を替えつつ佐為の方を見やった。

 

「殿、姫さまから言伝でございます。博雅の殿さまにお付き合いせず程々になさってくださいましと」

 

 博雅はその言葉にきょとんとし、佐為も目を瞬かせてからゆるく笑う。博雅の酒豪ぶりは知れたことであるし、無理して付き合い酒をするなと言いたいのだろう。

 

「明日は出仕休みですから、酔い潰れても平気です。とお伝えなさい」

 

 女房は頷いて去り、博雅は新しい瓶子を手にしながら上機嫌な様子で笑みを見せた。佐為が博雅の酒にとことん付き合う意思を見せたのが嬉しいのやもしれない。

 

「栞の父上も酒は呑まれるから、そなたは覚悟しておいた方がよいぞ」

 

 言われて佐為も少し笑い、ふと盃を下ろして目を伏せる。

 

「この屋敷にも日に日に慣れ、恐れ多くも今では自宅のような気さえしております。ですが時おり思うのです、これで良かったのかと」

「栞との結婚を悔いておるのか?」

「まさか、その逆です」

「栞はそなたを好いておるぞ」

「分かっています。だからです」

 

 佐為は盃に映る自身の顔を覗き込んだ。酒が揺れ、少しばかり柳眉を寄せて視線を横に流した。

 博雅が小さく息を吐いたのが佐為の耳に伝う。

 

「以前にも言ったが、私は私の預かり知らぬ所で結婚を決められていた。妻の顔を見たのも全てが終わった後だ。が、そなたは少なくとも栞を気に入って選んだのだろう?」

 

 博雅の声を聞きつつ佐為は逡巡していた。

 栞の親代わりとも言うべき彼にしていい話ではないかもしれないが、いまは双方酒が入っている。ならば多少は過ぎた口も許されるやもしれぬ……と。

 

「栞には碁の才があります。栞と偶然にも手合わせが叶ったのは神の思し召しと思えるほどの幸運でしたが……望めばたやすく会える身の人ではなかった。そのうちに栞が人の妻となれば生涯会えぬと思ったのです」

「ああそれで……、栞を自身の妻としたのか。して、そなたはそれで満足しておるのか?」

「毎日打てるのですから、幸せです。ただ、栞は碁打ちではありませんから……」

「そなたの望むほどには上達しなんだか」

「いえ、私が()()接するには難しくなったのです」

「? なぜ……」

「妻ですから」

「ああああ」

「栞が世慣れぬというのをわかって、私は栞を我がものとしました。私のわがままで……栞には望んでいたことをずいぶんと諦めさせた。私が権門の出ならそれでも格好も付きましょうが……栞は私と出逢ったがために人生を狂わされた気がしてならないのです。私とさえ出逢わなければ好きに生き、違う人生もあったものを……。だからといって、手放す気はないのですから浅ましい我が身にほとほと呆れかえることがあります」

 

 佐為は伏せ目がちのまま正直な心情を吐露したが、博雅は要領を得ないと言った面持ちで目を寄せつつ小さく唸った。

 

「佐為殿……前にも言ったが、私は男女の機微とやらがさっぱりなのだ。色々と難しく考えているようだが……、そなたも栞を好いているのだろう? ならばどこに問題がある?」

「……愛しくは思っております」

「? なにか違いがあるのか?」

 

 ますます分からん、と言いたげに博雅は眉を寄せた。

 佐為はうっすらと苦く笑う。曖昧にさえ答えられず押し黙ると、博雅は再び盃に酒を注ぎつつこう言った。

 

「そのうちにそなたにも子ができよう。美しく碁も強い()の子が産まれるだろうと主上(おかみ)も楽しみにしておいでだ。栞ではなく我が子に碁を教え、共に打つがよい。すれば……そなたにもきっと分かる」

 

 そして笑った彼は瓶子を差し出し、佐為の盃にも酒を注ぐ。

 

「佐為殿、栞に物足りぬこともあるやもしれんが、私にとっては妹のような、娘のような姫だ。どうか大事にしてやって欲しい」

 

 

 すっかり夜も更け、博雅は四条の屋敷を後にした。

 

 残された佐為はふらふらと立ち上がり、括らないままでいた指貫の裾を引きずりながら寝殿の奥へと向かう。

 少し喋りすぎたやもしれぬが、酒の席の戯言で許されようか。

 蒸し暑い夜だ。客人が帰宅したのを良いことに、佐為は烏帽子をとって狩衣をはだけ、息を吐いた。

 そうして燈台の灯にうっすら浮かび上がる几帳で隔たれた最奥を見やる。

 ()()に足を踏み入れられるのは自分だけの特権だ。博雅ですら叶うまい。自覚した昂揚ゆえか、佐為の口角が無意識下でやや上がった。

 

「栞……」

 

 几帳を掻き分けて中を見やれば、(しとね)の上で脇息(きょうそく)にもたれかかる薄衣一枚の栞が燈台の陽にゆらゆら照らされる様子が映った。

 

「佐為の君……」

 

 思わず佐為は目を細める。

 柔らかな肢体が(うすもの)の単衣に透け、(しとね)に投げ出されて散った黒髪はさながら絹のように艶やかだ。

 出会った頃はまだあどけなさの残る危うげな色香が漂っていたが、今は匂い立つようですっかり大人びた。

 

「博雅さまは……?」

「お帰りになりましたよ。それにしても、栞」

 

 佐為は指貫の腰紐を解きながら(しとね)の上に腰を下ろして栞を見やる。

 

「ずいぶんと悩ましい装いですね」

 

 その一言にぼんやりしていたらしき栞はハッとしたように上半身を起こし、そばに脱ぎ捨ててあった小袿を手繰り寄せた。

 

「あ、暑かったので……!」

 

 薄衣はその薄さから透けてしまうため襲ねて着れば色合いが美しいが、一枚ではほぼ着衣の意味を成さないのだ。

 さすがに恥入ったのか隠そうとする栞の手を取り、小袿を剥ぎ取った佐為はそれを(しとね)の脇に投げやってしまう。

 

「ちょ……、と」

「どうせこれから脱ぐのですから」

 

 言いつつ栞の手を自身の手で撫でるように這わせつつ指を絡めれば、小さく栞が息を詰めたのが伝った。こちらが()()()()でいるかを悟ったのだろう。

 首筋に顔を埋め、薄衣越しに唇を滑らせれば栞の口からは甘い息が漏れて佐為は口元を緩める。

 そのまま(しとね)に組み敷き、やや酔いが回った頭で思った。明日は出仕休み。このまま夜明けまで戯れても許されるだろう、と。

 

 

 

「美しい夜だなあ……」

 

 一方の博雅は家に帰らず朱雀門まで牛車を走らせており、夏の夜空の下で横笛を手にしていた。

 湿気を孕んだ空気は笛の音を狙い通りに響かせ、直りかけの屋根の下で警備の武人たちを客として虫の音と調子を合わせていく。

 

『それになあ佐為殿、私はいま譜を書き記しておるのだよ。それを読めば、私ではない誰かも同じように奏でられる。この譜が百年ののち、いや千年ののちまで残ればその世の人は楽を奏で、この博雅を知るのだ。私はそれを天から見守ろうぞ』

『栞ではなく我が子に碁を教え、共に打つがよい。すれば……そなたにもきっと分かる』

 

 いつの日か佐為が理解してくれる日は来るだろうか。

 残酷で身勝手な自身を自覚しているらしき、あの美しい若者が──いつか。

 そしてこの音は自身の望むように悠久の時を超えて同じ空の下へと響くのだろうか──と。

 

 

 

 そんな博雅の願い通りに、博雅は勅命により──のちに現存する最古の笛譜となる──『博雅笛譜』を編纂し、彼自身の作曲した『長慶子(ちょうげいし)』は千年の時を経てもなお色褪せず人々に奏でられ生き続けることとなる。

 

 むろん今の彼らにその事を知る由はなく、今はただそれぞれの夜を満天の星空だけが静かに見下ろしていた。



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第二十一話:矜持

 羅城門を越えれば『京』に入る。

 

 京こそはこの国の中心──いやこの国そのものだ。

 

 こと貴族は京の外を『外国(とつくに)』と呼び、任官での下向さえ忌み嫌う。

 

 この京に住まい、今上が座す内裏に上がることこそが貴族の誉れであり、そこからの転落は人生の終わりをも意味する。

 

 生まれながらの公卿には決してわからない感情なのかもしれない。

 

 清涼殿で碁を打つということが、どれほど特別か──。

 

 そう思ったのは果たしてどちら(・・・)だったか。

 

 

「腕をお上げになりました、主上(おかみ)

 

 清涼殿の母屋でそう言ったのは、今上との対局を終えた佐為だ。

 ふむ、と今上は満足げに盤を眺める。

 

「次からは一子減らしてもよい、という意味だと理解してよいかな?」

「そうなさるのがよろしいでしょう」

 

 佐為も微笑んでいると、蔵人の一人が書物を抱えてこちらに歩いてくるのが見えた。

 佐為は一瞬だけ頬を引きつらせたが、今上はちらりとそちらに目をやってから「そういえば」と佐為に聞いた。

 

「そなたと菅の一﨟(いちろう)は腕比べをしたことがあるかな?」

 

 一﨟(いちろう)、とは六位蔵人の首席官である。いま現在は菅原顕忠──もう一人の囲碁指南役──のことだ。

 いえ、と佐為はその顕忠の視線を感じつつ否定する。

 

「生憎とそのような機会は……」

「そうか、宴の余興に三番勝負など打たせてみるのも一興かもしれぬな」

 

 今上は冗談めかし、「お戯れを」と佐為が返す間にも顕忠は上役に書類を渡してその場を立ち去った。

 今上は気に留めた様子もなく、「宴といえば」と佐為を見やった。

 

「北の方はお元気か?」

「は……。はい、いつも通りにすごしております」

「あの方の舞を独占することは私にも叶わぬ。そなたを羨ましく思うよ」

「もったいない仰せにございます」

「そなたたちの子が童殿上するようになれば北の方譲りの舞を楽しめよう。それを近い将来の楽しみにしているよ」

 

 言われて佐為は頭を下げつつ目を見開いた。

 

 童殿上は公卿の、それも権門の子息にのみ許されることだ。

 にも関わらず、今上は自分と栞の間に()の子が産まれれば童殿上を許すと暗に言っているのだ。

 

 驚きつつも思う。いくら父方の自分──つまり藤原──の子になるとはいえ、子の将来に影響するのは母の出自だ。従三位()の子、まして大臣の孫ともなれば当然なのやもしれぬと。

 考えていると今上はさらに続けた。

 

「そなたの子であれば、いずれにしても(・・・・・・・)美しく産まれようから楽しみであるが……私が見られるのは四条の北の方の子だけ(・・)であろうからな」

 

 瞬間、佐為の額に汗が滲んだ。

 嫡妻腹とそれ以外では価値が違う。という当然の意味合いだろう。

 どういう意図で言われたのだ? と考えるより先に佐為はいまこの場に控えている内侍は誰かと巡らせた。なぜなら自分と橘内侍(きのないし)とのことは皆の知るところだからだ。

 もしも今の言葉を彼女が聞いていたら、どれほど道理でもあまりに無慈悲ではないか。思いつつグッと膝の上で手を握りしめる。

 

「私も一日もはやくと願ってはおりますが……」

 

 言葉を濁しつつ佐為は石を碁笥に戻した。

 すれば碁盤を片づけに来たのは橘内侍(きのないし)ではなく別の掌侍二名でホッと胸を撫で下ろす。

 しかしながら、あれほどあからさまな今上の言葉が本人に伝わらないということはまずないだろう。近々様子を伺いに行こう。思いつつ佐為は今上がその場から去るのを見送った。

 

 

 

「──いたッ!」

 

 そろそろ薔薇(そうび)も見納めだろうか。と、栞が寝殿の壺前栽を眺めに壺庭に降りて手を伸ばした瞬間、ちくりと指を鋭痛が襲った。

 薔薇(そうび)の棘に触れてしまったのだろう。指を見やると案の定、血が滲んでいる。

 家人や女房に見咎められたら穢れだ不吉だと騒ぎ立てるに違いない。周りに気づかれていないか確認しつつ、栞は母屋に戻り自身で止血の薬を塗り手当てをした。

 

「姫さま、博雅の殿さまがおみえです」

 

 そんな日の午後、博雅が四条へと顔を出した。

 

「佐為殿はおらんのか?」

 

 ちょうど佐為もおらず一人で時間を持て余していた栞が喜んで迎えると博雅はぐるりと母屋を見渡して言い、ああ、と栞はうなずく。

 

「佐為の君なら今日は宿直(とのい)だとおっしゃっていたので戻られないですよ」

「宿直……? そうであったか……?」

 

 博雅は思案顔で首を捻った。

 

 宿直は中納言以下全ての廷臣に義務付けられている夜間警備だ。これの当番表はそれぞれの省の判官が名簿に記載している。

 

 実は佐為と博雅は同じ中務省に属している。つまり、知ろうと思えば互いの勤務状況は調べられるということだ。が。

 

「予定表をご覧になったの……?」

「うむ……、五日ほど前に出仕した時に確認したような……してないような……」

 

 これだ。と、栞は唸る博雅を見て頭を抱えた。

 宿直のみならず勤怠状況は全て記録されており、出仕日数(上日)が規定に届かぬものは厳重注意や処罰の対象である。

 

「そうやって出仕が滞ると誰それから怠慢がすぎるなどと注意されますよ」

「い、いや怠慢ではないのだ。よい曲を思いついて夢中で譜を書いていたら数日などあっという間でな……!」

「佐為の君も夜通し碁盤の前から動かれない時もありますが、出仕はちゃんとなさるのに……」

 

 佐為と博雅では立場が違いすぎるとはいえ。と栞がため息を吐くと博雅は苦笑いを漏らした。

 ともかくも酒などを運ばせて廂に出て博雅と雑談を交わしていると、ふいに博雅はこんな話を切り出してきた。

 

「佐為殿もいればと思ったんだが……、栞」

「はい」

「近々遠出して、長谷寺詣でにでも行かんか? いま公務も暇な時期であるし」

 

 珍しく真剣な瞳だ。栞は目を見張る。

 

 長谷寺とは初瀬山の中腹に建つ寺院のことで、貴族たちの信仰を一身に集める霊場である。主に安産祈願や授かり祈願のため、女人もこぞって参拝するのだ。

 

 博雅が()()()()()()()()を悟って栞はため息を吐いた。

 

「神頼みでどうにかなる問題だとは思えませんが」

「そ、そうは言っても……! おまえもおまえの父上ももう少し神仏に恐れを抱くべきでな」

「博雅さまの母方祖父の太政大臣も物の怪など一切恐れないお方だったと聞いておりますよ」

「あ、そうであった」

 

 博雅はハッとしたように瞬きを繰り返した。──博雅の祖父は菅原道真失脚の黒幕などと言われ道真にも大層恨まれたものの、本人は道真の怨霊相手に怯まず一喝したなどという説話が残っている人物である。

 博雅もそれを思い出したのだろう。しばらく唸ってからこんな風に切り出してくる。

 

「最近、主上(おかみ)からおまえと佐為殿の子はまだかとせっつかれることがあってな」

主上(うえ)が……?」

「本心から楽しみにされているのもあろうが、おまえたちの仲を懸念しておられるのだろう」

 

 まさか今上までもがそのような事に気を回しているとは想像もしておらず、栞は肩を竦めてみせた。

 

「私は変わらず睦まじく過ごしているつもりですが……。世間はなにかと不確かなことばかりうわさしますから」

「い、いや、私もおまえたちは仲良くやっていると申し上げておいたが……。一緒になってもう長くなるのだし、どうしてもな」

「結婚してようやく求婚やなんやの煩わしさから逃れられたと思ったら、次から次へと……」

 

 煩わしい、と栞はため息を吐いた。

 でも『煩わしい』だけでは終わらないのだ。事実、この先もずっと言われるのだろうし、なにより──。

 

『あなたは子供がお好きだから……ご自分でも欲しいですよね』

『欲しいですけど……、もうしばらくこうして二人だけで過ごすのも悪くありませんから』

 

 なにより佐為本人が、と目を伏せていると博雅が持っていた盃を高坏に置く音が響いた。

 

「気に病んでいるのか?」

「そういうわけではありませんが……。佐為の君が欲していらっしゃるので、できればはやくとは思っています」

「佐為殿が望んでいるから?」

「はい」

 

 頷けば、博雅はなにか言いたげに唇を開いた。が、しばし逡巡するそぶりを見せてから小さく首を振ってキュッと唇を結ぶ。

 

「それほどまでに好いているのか」

 

 栞は少しだけ目を見開き、少しののちに伏せてからやや寂しげに笑う。

 

「はい」

 

 すると博雅は一寸間をおいたあとに「そうか」と呟き、もうなにも言わなかった。

 きっと博雅も思うところは色々あるのだろうが、佐為との結婚を──身分違いと言って差し障りない婚姻を──なにも言わず認めてくれた。思い返しながら栞はありがたく思いつつ、差し込む西日に目を細めた。

 

 

 

 一方の内裏。夜明け前。

 

 空を見上げればおおよその時刻は測れるものであるが、大内裏に勤める官人が時刻を知る第一の方法は陰陽寮の役人が鳴らす鐘鼓の音である。

 

 一日の始まりを共にするのも、夜明けごろに響く大内裏の諸門の第一開門鼓だ。官人の忙しい朝を告げる音である。

 

 

「……の君、佐為の君。起きてくださいまし」

 

 佐為は遠くで響く声に誘われて目を開いた。掠れた視界に映るのは未だ薄暗い空間だ。

 

「あと小半刻で次の太鼓が鳴ります。わたくしも行かねばならないのですから」

 

 聞こえてくる声を頼りに身を起こせば、燈台の火がぱっと辺りを照らして佐為は目を窄めた。

 

「いまお手水を運ばせますから、お支度をお急ぎなさいませ」

「ありがとう。私はあとで良いから、そなたが先にお使いなさい」

 

 掠れた声で言いつつ、佐為はそばにあった自身の単衣や半臂を羽織り束帯の袴に足を通した。

 そうして顔を洗ってからようやくホッと一息吐く。

 

掌侍(しょうじ)の君」

 

 既に身支度の大部分を終えたらしき昨晩を共に過ごした相手を呼べば、彼女── 橘内侍(きのないし)は慣れたようにそばの几帳にかかっていた緋の袍を手に取った。

 

「こうしてお支度をしている間にも別れを惜しんでくださるのが後朝(きぬぎぬ)の定めごとというものですのに、ぼんやりなさって」

 

 袍に腕を通し整える作業を手伝いながらそう言う彼女に、佐為は目を瞬かせてから「ああ」と頷いた。

 

「久方ぶりですので……余韻に浸っていました」

「まあ……、お上手におかわしなさること」

 

 彼女は軽い口調でさらりと言いつつ、手早く佐為の髪に櫛を通し整えていく。

 ちらりと佐為は鏡を見やった。さすがに内侍の高級女官。今上の身辺の世話をするだけあって髪の結い上げも見事だ。感心しつつ冠をつけ、手短に別れを告げて温明殿を出る。

 

 次の太鼓が鳴るまでに侍従所に着かねばならない──。

 

 幸いにして内裏を出れば侍従所は目と鼻の先だ。

 陰陽寮の鐘楼をちらりと見上げて足早に門をくぐれば、下級官人たちが朝から忙しなく働く常と変わらぬ光景が飛び込んできた。

 

「おはよう、佐為殿」

「おはようございます、源の侍従殿」

 

 侍従所へ入れば、同僚であり博雅の実弟である源の侍従が既に出仕しており佐為は頭を下げた。侍従自体は従五位下相当であるが兼職が多く、おおよその場合は冠位もだいぶ上であることが多い。黒の袍を纏う彼もその一人だ。

 

「佐為殿……、ところで兄上をお見かけしなかったか?」

 

 そして──博雅の実弟ながら無遅刻無欠席を誇る彼の声に「は?」と佐為は目を瞬かせる。

 

博雅三位(はくがのさんみ)ですか? いえ……」

「四条にも顔を出しておらぬと?」

「はい」

「そうか……、五日前に梅壺で宿直を勤めて以降行方知れずなのだよ。物忌みなどという話も聞かぬというのに、またどこぞに夜歩きでもして笛でも吹いておられるのだろう」

 

 盛大にため息をつく源の侍従は忙しなく勤務表を確認してから急くように侍従所をあとにした。

 博雅の職務怠慢はいまに始まったことではないため、おそらく上役に小言でも言われたのだろう。思いつつ自身のすべきことを確認する。

 

「あ……」

 

 すれば陰陽寮の役人の複数が遅れて農業休暇に入るゆえ手伝いに行くよう記されており、佐為は苦笑いを浮かべた。

 陰陽寮の主な仕事は天体の観測。複雑な計算を要する場合もあるため、算道出身者と陰陽寮の役人は被っている場合もある。

 四条の屋敷でも栞の財産管理の主計を手伝っているが、こうして出身ゆえに借り出されるのはままあることだ。

 栞といえば、彼女は陰陽寮の役人を怪しげな術を使う非合理的存在と思っているらしいが、彼らは囲碁もよくするため自分としてはそう嫌ってはいないのだが。

 浮かべつつ佐為は思う。今日はいったん七条の自宅へ戻って着替えや湯浴みをせねば、と。

 

 そうして今日の公務は陰陽寮で過ごして終わりのはずだった。

 

 しかし退出前に右大将に召され、かなりの時間を右大将の直廬(じきろ)にて碁を打ち過ごすこととなった。

 

 

 そんな想定外の事態のまま退出した佐為は従者に七条へ向かうよう告げるのも忘れ、自身でもすっかり失念して四条へと戻った。

 

「お帰りなさい、ずいぶん遅くまでいらしたのね……」

「あ、ええ。予定外に召されて色々と」

 

 栞が迎えれば佐為はどこかハッとしたように瞬きをし、着替えのために女房を呼んでいる。

 

「食事はお済ませになったの?」

「朝餉は御所でいただきました。あと、先ほど右大将殿にお付き合いして酒を少々……」

「そう。あ、そういえば……昨日、博雅さまがいらしたんです。あなたは宿直で不在だと言ったら驚いてらして……」

「え──!?」

 

 着替えていた佐為が驚いたようにこちらを振り返り、栞は首を捻った。博雅が四条に来るなど珍しいことでもあるまいに。

 

「ここずっと出仕してないらしくて、宿直表を確認なさってなかったんじゃないかしら」

「あ、ええ……。私も今日似たようなことを弟君の源の侍従殿に訊かれました。もう五日ほど出仕していないと」

「ええ、家に籠もって譜を書いていたそうですから。博雅さまにも困ったものだわ」

 

 栞は小さくため息を吐く。

 ともかく佐為も帰ってきたことだし夕餉の準備をさせようか。

 

「佐為の君、先に夕餉になさいます?」

 

 狩衣に着替えた佐為に聞けば、どこか歯切れの悪い曖昧な返事が来て栞はやや不審に思う。

 

「佐為の君……?」

 

 宿直明けの長時間勤務で疲れているのだろうか。案じて歩み寄れば、佐為の身体がどこか強張ったように感じられた。

 同時にうっすらとほのかなくゆりが鼻をかすめ、栞は眉を寄せる。

 

 わずかな違和感だった。

 

 佐為が好んで身につけている香の匂いではなく、いま身につけている狩衣に焚き染めた匂いでもない。

 狩衣は袖と脇の間が開いており着脱しやすく寛ぎやすい構造だ。ゆえに単衣が狩衣を着たままでも見えており、栞はそっと佐為の腕に身を寄せてみた。

 

「栞……?」

 

 訝しむような声が降ってきたが、栞の眉間の皺が深くなる。

 この匂いは単衣か下着に移った匂いだ。

 この大人びた香り。おそらく黒方だ。大嘗祭、そして新嘗祭の時と同じ──。

 

『侍従の君が折りに触れてこの香をお褒めくださいますもので……』

 

 先の新嘗祭であのくゆりを漂わせながらそう言った橘内侍(きのないし)の声が蘇って、栞はパッと佐為から身体を離した。

 

「栞……?」

 

 頭が真っ白になるとはこういうことを言うのか。

 昨夜に彼が()()()()()()()()()()のか、いやと言うほど理解してしまった。

 

「あなたの宿直所はいつから温明殿になったの……?」

 

 思わず佐為を睨み上げれば、彼はしまったといった具合に頬を強張らせた。

 

「なにを……私は──」

「見くびらないでください。そのくゆりは橘内侍(きのないし)が合わせた香のはず。私の方があなたよりあの方と付き合いが長いと以前にも言ったでしょう? 知らないとでもお思いでした?」

 

 佐為は返事に窮したように口を噤む。

 今さらなにを、という気なのかもしれない。

 佐為が幾人か通いどころを持っているのも知れたことだ。

 でも、佐為は今まで一度も気付かせなかった(・・・・・・・・)。だというのに何故……。

 もしや今さら他に妻を持ちたくなったのか?

 何年経っても子ができないから?

 それとも──。

 

「栞──」

大臣(おとど)の姫を妻にして、なにが不満なんです!?」

 

 取りなそうとしたらしき佐為を振り払うようにして栞は訴えた。

 佐為には痛い一言だと分かっていてもそう訴え、それでも瞠目した佐為の顔を直視できずに目を伏せる。

 

「そりゃ……、私にも……いたらないところが……ッ」

「しお──ッ!」

 

 しかし込み上げてきた涙が抑えきれず、言葉を言い終わる前に佐為の制止も聞かず栞はその場を離れた。

 

「姫さま!?」

塗籠(ぬりごめ)(しとね)を運んでちょうだい。しばらく一人にして」

 

 そうして塗籠(ぬりごめ)に向かいつつ命婦に告げ、(しとね)を運ばせると中に籠もって伏せった。

 

 

 一方の佐為はあとを追えずにその場に立ち尽くしてしばらく。額に手をやって深い息を吐いた。

 あの調子では話もままならないだろう。しばらくは一人にしておこう。考えつつも脱力してその場に腰を下ろす。

 ──しくじった。自省しつつ佐為は控えていた女房を呼んだ。

 

「湯浴みの用意を頼みます。それから全ての着替えも」

「かしこまりました」

 

 いつもは他の女人の移り香は消すように努めていたというのに。

 特に隠していたわけでないし、栞とて自分に他に通う女人(ひと)がいるのは承知していたはずだ。

 だが頭で分かっていても実感したら確実に栞は()()()()。分かっていたからこそ最大限に悟らせぬよう気を配っていたが、なんという失態だろう。

 自省する一方でこうも思う。落ち着きさえすれば、彼女のような高貴な姫がいちいち気にするようなことではないと思い直すはずだ。しばらく一人にしておこう、と。

 

 

 そんな佐為の考えは果たして正しかったのか否か。

 

 

 栞は(しとね)に伏せったまま袖で涙を拭いつつ声を殺して涙を流し続けていた。

 自分でもこれほど傷ついているのが不思議でならない。

 佐為が宿直や方違えと称して家を空ける理由をそのまま信じていたわけでもないし、折に触れて女人と逢っているだろうことも知っていたことだ。

 でも本当にただの一度もそんなそぶりを見せなかったものだから、心のどこかで「そんなことあるわけない」と信じていたとでもいうのだろうか?

 

 これほど身分高く生まれつけば、自身の正妻の座は決して揺るぐことはない。仮に夫の通う誰かに子が宿ったとしても、寵愛が移ったとしてもだ。

 だから高貴な姫は堂々としていなければならない。──誰しもがそう言われて育つのだ。

 

 それなのに、なぜそうできないのだろう。栞はしゃくり上げながら首を振るった。

 

 あの香の匂いが誰のものか悟った瞬間、いやというほど脳裏を襲ったのだ。

 佐為が昨夜、自分ではない誰かと情を交わしたのだと。

 佐為のいない夜を心細く思う自分とは裏腹に、佐為は──と栞は歯を食いしばってきつく首を振るう。

 振り切ろうとしても考えてしまう。

 いつも自分にするように佐為は彼女に触れたのだろうか。

 どんな言葉をかけたのだろう。

 なぜ? ただの気晴らしなのか?

 なぜ……と今まで考えもしなかったことが一瞬にして実感を伴い脳裏を襲った。

 

 佐為にとっての自分は、一番都合の良い碁の相手。適齢期で申し分ない身分だったに過ぎない。

 この結婚は愛ゆえのものではないのだ。

 

 分かっていたのに──。

 

 

「殿、そろそろお休みになりませんと……」

 

 その夜、暗くなっても碁盤に石を並べ続けていた佐為に命婦がおずおずと声をかけてきた。

 ああ、と佐為は手を止める。

 

「もうそんな時間ですか」

「お(しとね)を用意しようと思うのですが……」

「栞は?」

「姫さまは夕餉も召し上がらず、塗籠(ぬりごめ)にお籠もりになったままです」

 

 言いづらそうに命婦はいい下し、佐為は小さく息を吐いた。どうやら機嫌はまだ直っていないらしい。

 

「では私も塗籠(ぬりごめ)で休むことにします」

「で、ですが姫さまは一人にして欲しいと」

「構いません」

 

 言って佐為は立ち上がり、狩衣の当帯を解いて脱ぎつつ塗籠(ぬりごめ)の方へ向かった。

 命婦が慌てて他の女房を呼び、佐為を呼び止めて夜支度を整えさせ、塗籠(ぬりごめ)の出入口へと連れていく。

 佐為は手燭を持って塗籠(ぬりごめ)の出入り口を開け、中へと入った。

 中は暗闇に支配されており手燭の炎を頼りに燈台を探し当て、そのまま火を移して明かりを灯す。

 

「栞……」

 

 栞は(しとね)に伏せったまま返事をせず、佐為は肩を落とした。

 そのまま(しとね)へと入って腰を下ろし、こちらに背を向ける栞の肩をそっと抱き寄せる。

 抵抗されたため起きていることは悟った佐為だが、それよりも単衣の袖がしっとり濡れていて佐為は少しばかり目を見開いた。ずっと泣いていたのだろう。

 

「なにを……嘆く必要があるのです。競争相手になりもしないものを」

 

 言って自身の胸へと引き寄せると、栞は抗うように腕の中でふるふると首を振るった。

 そういうことではない。と途切れ途切れにしゃくり上げながら言われて佐為は解せずに眉を寄せた。

 

「ではいったいなにを気に病んでいるんです? 誰のもとへ通ったとて、そなた以外を妻にする気はないというのに……」

 

 宥めつつ佐為はなお困惑する。

 なにをこれほど嘆いているのだろう。今さら情人の存在を知ったわけでもあるまいに。

 橘内侍(きのないし)と個人的ないざこざでもあったのだろうか。

 いやまさか、彼女は受領の娘。大臣の姫()とではいざこざすら起きようもない程の身分差だ。

 だというのに──。

 

 

 夜明けが近づいても泣き止まない栞に佐為はほとほと困り果てた。

 自身の落ち度だと理解はしていたが、それにしても他所への通いが露見するたびにこの調子では困るのは栞自身だろう。──いや、悟られたのはやはり自分の落ち度だが。

 ここまで恨まれるのはかなわない。ちゃんと話をしなくては。

 

 そんなことを考えていると塗籠(ぬりごめ)の出入り口が開く音が聞こえた。

 

「殿、そろそろお支度なさいませんと……」

 

 命婦の抑えたような声だ。

 出仕の気分ではないが、この事で休暇届を出すわけにはさすがにいかないだろう。

 佐為はそっと栞から身体を離すと起き上がって外へと出た。

 

「姫さまは……」

「まだ休んでいるようなので、そのままに」

「お食事はいかがいたしましょうか。お粥などお召し上がりになりますか?」

「いえ、すぐに戻りますから……あとで栞といただきます」

「かしこまりました」

 

 話をしつつ身支度を整え、出仕の準備を終えた佐為は一度塗籠(ぬりごめ)へと戻った。

 伏せったままの栞へと身を屈めて告げる。

 

「これから出仕ですが……、急いで戻りますから」

 

 そうして佐為は出ていき、塗籠(ぬりごめ)の戸が閉まる音を遠くに聞いた栞は重たい瞼を少しだけ開いた。

 佐為は自分がなぜ泣いているのかすら分からず、ひたすら困惑していた様子だった。

 きっと佐為の反応の方が普通なのだろう。

 例えこのことを博雅に話しても、いや登華殿の友人たちでさえ分かってくれるとは思えない。

 でも──。

 

「姫さま、お目覚めになられましたか……?」

 

 しばらくすると命婦が起こしにきて、栞は気怠い身体を起こした。

 目が腫れているに違いない。

 明るい場所に出たくないという思いとは裏腹に身支度を整えられ、外へ出るよう促された。

 すれば心配そうに命婦が顔を覗き込んできて、栞は少し目を伏せる。

 

「そんなに酷い顔をしている……?」

「姫さま……」

 

 こういうのは夫婦喧嘩というのだろうか。

 女房たちにはやりにくいに違いない。みなの主人は自分だが、同居している以上は佐為にも同様に仕えてきたはずなのだから。

 

「姫さま、佐為の殿がなにをなさったか詳しくは存じませんが……お気持ちを鎮めて差し上げてくださいませ。殿はあれほど姫さまを大切になさっているではありませんか」

 

 佐為の肩を持つような物言いに栞は小さく息を吐いた。この世で一番の味方のはずの乳母までこうとは。

 

「宿直と言って……、夜通し別の女人(ひと)と過ごしていてもそう言える?」

 

 命婦は袖で口元を覆うと、しばし黙して逡巡するようなそぶりを見せた。

 そうして意を決したようにこちらに向き直る。

 

「殿が外でなにをしておいでかはこの命婦にはなにも言えませんが……ご結婚なさってからのこの屋敷でのことは存じております。姫さま、よくお聞きなさいませ。世の女人は夫の通いを繋ぎ止めるためにご自分のそばには数ならぬ身のものを用意するものでございます。月の触りや懐妊時にも通わせるためです」

 

 諭すように言われ、栞は思わず押し黙った。

 

「この屋敷にも見目のいい若い女房は幾人もおりますが……殿は誰にも情けをかけることなく姫さまだけをご寵愛しておいででした。よく思い出してくださいませ、姫さまがお相手できぬ時でも殿はこちらにいらっしゃって……これはとても稀なことでございますよ」

 

 言われて栞は眉を寄せ首を振るった。

 

 命婦の言いたいことはわかるのだ。

 貴族の男は自身の屋敷に情欲を満たすための女房を抱えているのが常だ。それらは妻どころか愛人ですらなく、「数ならぬ身」に他ならない。

 そして貴族の妻も、自身の屋敷に若く美しい女房を用意して故意に夫と関係を持たせるのは常だ。命婦の言う通り、自身が相手をできない時や容貌が衰えたあとも夫を通わせるためである。

 佐為が七条の実家にそのような相手を抱えているかは知らないが、少なくともこの屋敷で彼は一度も自身の妻に仕える女房に手を出してはいない。にもかかわらず、妻が(しとね)の相手をできない時も他所に通うことはなかった。──これは通常ならばあり得ないほどのことだと命婦は言いたいのだろう。

 

 でも、だから何だというのだ。などと思ってはいけないのだろうか。

 

「まして殿は……ご身分はさほどでなくても、どんな公達にも勝るお美しさをお持ちです。あれほどの方があそこまで姫さまだけを一途に愛されていることを幸せに思わねば」

「愛されてる……?」

「そうでございますとも。殿の姫さまへのご寵愛は世にも眩しいほどではありませんか」

 

 必死に説得する命婦とは裏腹に、全てが栞の耳には虚しく響いた。

 佐為は別に自分を愛しているわけではない。むろん好かれてはいるのだろう。婚前からの恋人たちと比べたとしても一番に好いてくれているはずだ。でもそれは愛ではなく──。

 

『長く連れ添って、徐々に育まれる情愛というものもあると思いますよ』

 

 月日をかけても、重くなったのは自分の情愛ばかり……と思い至って栞は自嘲する。

 こうまで胸が痛んでも、佐為と離れることなど考えられない。

 けれども自分が想うほどの気持ちを佐為に求めるのは一生をかけても叶わないに違いない。

 

『一度契った仲なのですから、千年(ちとせ)の先までをもともに過ごしたいものです』

 

 いくら言葉で契っても、心からそう思っているのは自分だけ。佐為にとってその相手は囲碁でしかなく、自分は女人という括りの中で一番都合がよかったに過ぎない。

 それでも生涯を共にと誓ったのだ。こちらから離縁しない限り、彼はそうするはずだ。

 

 いつ頃からか、ぼんやりと気づいていた。

 どれほど想いを告げても、佐為が同じ言葉を返してくれたことは一度もなかった。いつも言葉を濁して微笑むのだ。(しとね)の中でさえ、決して同じようには返してくれない。──そう気づいてから、いつしかこちらも口にするのを控えるようになった。

 元々想い合って妹背となったわけではないと分かっていても、やはり悲しくて──。

 

「姫さま……?」

 

 心配げな命婦の声を聞きつつ、栞は溢れそうな涙を拭った。

 

 ──なぜあの夏の夜、佐為に出会ってしまったのだろう。

 

 出会わなければこんな思いなど知らずに一生を過ごせたはずだというのに。

 でももう全てが遅い。

 自分に佐為と別れる意思がない以上、受け入れるしかないのだ。他所に通うなと咎めても、聞き入れる殿方などきっといない。そんな無駄なことのために諍いを起こすくらいなら咎めないほうが良いというもの。

 

 昨夜、(しとね)で抱き寄せてくれた佐為からは既に橘内侍(きのないし)の移り香は消えていた。

 

 湯浴みでもして下着も全て替えたのか。

 おそらく今まではそうしていたのだろう。佐為なりに気を遣って、いっさいこちらに悟らせないようにしていた。

 

 少なくとも彼は自分を妻として最大限に尊重してくれている。

 ならばもうそれでいいではないか。

 

 今はただ、今朝の約束通りに彼がここへ帰ってくるのか。そちらのほうがよほど怖い。

 

 はやく帰ってきて欲しい。それでもうなにも言わないから──。

 

 遠くで巳四刻を知らせる鐘の音が響いた。そろそろ公務も終了の時間だ。

 普段の佐為はなんだかんだ昼過ぎまで戻らないが、今朝はなにも食べずに出仕したというし、言葉通りに帰ってくるつもりなのだろう。

 それでも栞はじんわりと手のひらが汗ばむのを感じた。

 もし帰ってこなかったら……。

 

「姫さま、殿がお戻りです」

 

 緊張気味に待っていると控えていた女房がそう伝えてきて、栞はびくっと身体をしならせた。

 程なくしてやや慌てたような佐為がこの母屋に入ってきて栞は少しだけ目を伏せる。

 

「おかえりなさい」

「栞……」

 

 佐為が小さくほっとしたような息を吐いたのが伝った。

 栞もほっと胸を撫で下ろす。

 

「よかった」

「え……?」

「もう私を訪ねてきてくださらなかったらどうしようと……不安で」

「なにを言うのです」

 

 そばまで歩み寄ってきた佐為が右手でそっと栞の頬に触れる。

 

「私の帰る場所はそなたの元です、栞。これから先も、なにがあろうとも」

「……あなた……」

「こんなに目を腫らして……」

 

 痛ましそうに栞を見やり、佐為はそっと栞を自分の胸へと抱き寄せた。

 栞はギュッと佐為の袍を掴み、目を閉じる。

 

「佐為の君……、もう昨日のようなことはなさらないで。今まで通りに(・・・・・・)なさって……そうしたら私も普通に過ごせますから」

 

 他の女人(ひと)と逢ったことを気づかせないで欲しい。そうでない限りは素知らぬふりをする。

 と、栞があれほど嘆いていた感情を飲み込んで譲ったというのはさすがの佐為にも分かった。

 

「栞……」

 

 都に並び立つもののいないほどの高貴な姫が、自身の矜持さえも飲み込んだ。その気持ちの正体を佐為は悟り、自身の妻ながらに彼女の痛々しいほどの想いをやや哀れにも感じた。それほど身を尽くしてくれても、同じようには返せないのだから。

 そっと佐為は栞の耳元に唇を寄せて、ささやくように彼女の(いみな)を口にした。本来なら、澪の(しるべ)になるべき名だというのに──。

 皮肉に思いつつも佐為はそっと心内で誓う。少なくとも二度とこのように目を腫らすような真似はさせまい。しばらくは誰の元にも通うまいと。

 この女人(ひと)を大事に思っている気持ちに偽りはないのだから、と。



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第二十二話:庚申の夜の過ごしかた

 昇殿の間を許される──すなわち殿上人であること。

 

 ここから地下人(ただびと)となる恐怖は恐らく公卿には分かるまい。

 やっとの思いで掴み取ったその地位にしがみつきたいと願うのは世の摂理に他ならないだろう。

 

 

 じき秋の除目がやってくる。

 この除目は京官の任命ゆえに京外へ飛ばされる心配はない。昇進を期待すれど降格ということもないと言っていい。むしろ昇殿の許されぬ諸大夫など今回こそはと密かに思っているだろう。

 

 しかし、加階を約束されながらも地下に逆戻りという特異な官職が一つあった。

 それは──。

 

 

「この筆記を承香殿御書所へ!」

「内侍所からの伝書はまだか!?」

 

 今日は朝から騒がしい。と、出仕したばかりの佐為は早朝から忙しなく働く省内の官人たちを見てごくりと喉を鳴らした。

 

「佐為殿!!! この書物を兄上のところへ持っていってくれ!」

 

 むろん人ごとでなく、出仕して早々に源の侍従(博雅の弟)に言いつけられた佐為は書物を抱え侍従所を出た。

 博雅の公の詰所は職曹司──左近衛府の西隣の殿舎だ。

 とはいえ、朝から博雅が出仕していることなど恐らくあるまい。()()()()()

 職曹司に詰める中宮職は中宮──現在内裏にいるのは皇太后──含め後宮事務の一切を取り仕切る機関だ。“長秋卿”たる博雅を筆頭に女嬬などの下級女官も属しており、たまにこの殿舎を春宮や妃たちが方違えなどの所用に使うこともある。

 

博雅三位(はくがのさんみ)はおられるか?」

 

 殿舎の入り口で雑任に声をかけると、ぎくりと肩を揺らした彼は申し訳なさそうに言った。

 

「それが、長秋卿はまだ……」

 

 やはり、と佐為は肩を落とす。

 とりあえず四等官の誰かに渡すよう言って佐為は職曹司を出た。

 

 今日は庚申待(こうしんまち)

 六十日に一度巡ってくる庚申の日である。

 この日の夜に眠れば身体に宿る三尸虫(さんしちゅう)が抜け出して天帝に悪事を告げ、寿命を縮めてしまうがゆえに眠ってはならない。という唐の風習が伝わり、今では内裏でも行事化している「眠らない夜」だ。

 その心は単に庚申待を理由に夜通し遊び倒したいという側面も否めない。が、宮中のみなが例外なく起きて過ごすのだから、後宮それぞれの殿舎でも詩歌や歌合わせ、碁などに興じるわけで、そのぶん準備も大掛かりとなり職曹司が多忙なのも道理だろう。

 

 肝心の博雅は御遊とあらばおおよその場合は出仕してくるのだが、いかんせん気まぐれな彼の行動は読めない。

 楽と酒という最高の呼び水を持ってしても己の気分が最優先。源博雅とはそういう人なのだ。

 

 佐為自身は夜通し碁が打てる夜でもあり庚申待は嫌いではなかった。

 

 が。夜に備えるせいかいつも以上に公卿方の出仕率が悪く遅刻率の高い日でもあり、書類関係が滞りがちで真面目な役人は朝からピリピリする日でもある。

 

 などと関係各所を行き来しつつそろそろ出仕時間も終わりという頃、佐為は紫宸殿の前の桜の木のそばを歩いていた。

 

「佐為さま……!」

 

 すると木の影に隠れていたらしき下女から呼び止められ、足を止める。

 

「お文が参っております」

 

 言って下女は佐為に文を握らせ去っていき、佐為は目を瞬かせつつとりあえず懐に仕舞う。

 文をもらうこと自体はさして珍しくもないが、誰だろう? 近くの殿舎の(きざはし)に腰を下ろし文を取り出して目を通してみる。

 女文字だが見覚えがあるようなないような筆跡で、内容は恨み言のようだ。

 はっきりとは覚えていないが、戯れにでも逢った誰かだろうか。今の下女にも見覚えがないし……、頭を捻らせるも思う。返事を書いた頃にはあの下女もまた姿を見せるだろう、と。

 博雅のような極端な例を除けば、こういうことも貴族の義務である。

 

 昔は栞が和歌(うた)を好んでいないことを残念にも思っていたが、いま思えば幸運であった。

 栞の前でわざわざ恋文の返事を書くような無粋な真似などしたことはないが、仮に書いていても興味さえ示さないのだから大事には至らないだろう。こちらの貰う文や返す文にまで気を揉んでいたら身が持たないはずだ。

 それに、栞は気分を害するかもしれないが……、あまりに熱心に望まれると少しばかりはその想いに応える慈悲を見せるのが人の道という気がするのだ。仮に囲碁であれば、対局を望む相手にずっとつれなくするのは慈悲がないというもの。

 それでもこちらから気に入って通った相手はそう多くはないのだから、見逃してはくれぬものか……と言い訳じみたことを浮かべている時点で栞のことが気に咎めているのか。と、佐為は自嘲した。

 

 栞は昔から自分が屋敷を空ける日は浮かない顔をしていた。

 宿直の夜など、こちらの想像以上に気を揉んでいたのだろう。

 だが──と佐為は己の知る宿直の実態を思い浮かべた。

 宿直の夜に宿直所から一歩も出ない人間など広い内裏を探し回っても博雅くらいのものだろう。まして彼は中宮職という後宮に堂々と出入り出来る身でありながら()()だ。人選が非常に厳しいことで知られる中宮職の長。仕える人(中宮)の縁者が選ばれることが多く、博雅は適任なのだろうが、それ以前に博雅ならば後宮に好きに出入りさせても間違いは起こらないという信頼の証だろうと思う。

 裏腹に、その博雅が宿直の夜は宿直所から夜通し楽の音が響いてくるため他の人間はこれ幸いと遊び歩いているのが常なのだが。

 

 だから博雅が例外で、あの人を基準にするのは間違いなのだ。とまで言う気はないが──、と佐為は苦しげに眉を寄せる。

 一晩中泣き明かして目を腫らしていた栞を思い出すたびに胸が痛む。

 あの日以来、公務で定められた宿直以外で夜に屋敷を空けた事はなく、その宿直でも博雅を倣って大人しく宿直所に引きこもっている。

 栞からは自分に分からないようにさえしてくれればいいと暗に言われたが、また嘆かれるのは……と佐為は目を伏せた。

 栞に恨まれるのは敵わない。

 もう二度とあのような真似は──。

 あのような…………。

 

「……」

 

 せめて栞が嫡子を懐妊するまではすまい。

 と、佐為は心内で誓いつつ思った。先日に博雅が言っていたことは真理なのかもしれないと。

 

『栞ではなく我が子に碁を教え、共に打つがよい。すれば……そなたにもきっと分かる』

 

 自身の子を鍛え、共に最善の一手を追求し合える相手となれば。

 だが、それでも。

 神の一手を極めるのは自分以外には──。

 

 

「佐為の侍従!」

 

 

 いたいた、とふいに声をかけられ佐為はびくりと肩をしならせた。

 見ると、黒の袍を着た殿方がこちらに歩いてきている。蔵人頭であり右近の中将だ。

 

頭中将(とうのちゅうじょう)殿……」

「探していたのだよ。今宵の庚申待のことだが……」

 

 眼前までやってきた彼はそう切り出し、書類の不備でもあったのかと佐為は身構える。珍しく佐為と目線を合わせられる背の高い男だ。

 しかし意外にも彼は上機嫌そうにこんなことを言った。

 

主上(おかみ)が今宵は弘徽殿(こきでん)にて管弦を催すとお決めになられた。そなたには私と番碁をせよというお召しだ」

「は──!?」

 

 いまなんと? と佐為は声を出しそうになり慌てて笏で口元を押さえた。

 つまり今上は今宵の庚申待を弘徽殿で過ごすため、そこで催される囲碁勝負で頭中将と打てということだろう。

 碁が打てることは嬉しいが、佐為は少々戸惑った。事前に召される予定がなかったため、今日は帰ると栞に伝えていたからだ。

 

「恐れながら、主上(おかみ)が私をお召しなのでしょうか?」

「いや、私が上奏した」

「なぜ……!? 碁の上手であれば蔵人所には他におりましょうに」

 

 佐為はあえてその人物──菅原顕忠──の名は出さずに言った。しかし彼はあっけらかんと笑う。

 

「弘徽殿に上げるのに、()()よりそなたの方を優先せぬ道理はあるまい?」

 

 派手やかな面持ちの眼前の男は妙に艶っぽく笑った。

 彼は確か弘徽殿の女御の身内だ。帝が他ならぬ弘徽殿で宴を催すとあらば一家の栄え。上機嫌の理由はそれだろう。

 しかし、と佐為はまっすぐ頭中将を見やった。

 

「今宵は生憎と先約がありまして……」

「なに、四条へ帰られると申すか?」

 

 頭中将は取り出した笏でぱちんと手を打ち、佐為は押し黙る。

 その沈黙を是と取ったのだろう。彼はからかうように目線を流した。

 

「遊び歩きもせずの()()な夫ぶりは称賛に値するが、内裏(ここ)でのそなたはそうでもあるまいに……、心変わりかな?」

 

 くくく、と喉の奥で笑われて佐為は柳眉を寄せた。見透かしているとでも言いたげだが、図星なだけにタチが悪い。面倒な人に捕まったものだと内心毒づいていると、頭中将は笏で佐為の左頬に触れてズイと顔を覗き込める距離にまで詰めてきた。

 

「そなたの美貌で弘徽殿を飾ろうと言うのだ、不足はあるまい? あの六位の一﨟なぞより、よほど女御も喜ばれる。この美しさを北の方ばかりに独占させるのも罪というものだよ」

「お褒めに預かり光栄ですが、それではなおのことあなたと並んではお株を奪うことになりかねませんが」

 

 負けじと真っ直ぐ目を見て言い返すと、ははは、と彼は肩を揺らした。

 

「構うまいよ。私とて醜いものより美しいものを眺めている方がよいのだ」

 

 ともかく、と頭中将は笏を収めた。

 

「午の刻には弘徽殿へ参られよ」

「午の刻とは……。中将殿、夕刻には参上いたしますゆえ私は一時退出したいのですが」

「何故だ?」

「妻に今宵のことを伝えねばなりませんし、朝餉も四条でと……」

「四条へは使いを走らせればよいではないか。朝餉は我が家が弘徽殿で振る舞おうぞ。女房たちもそなたの世話なら我先にと競い合うであろうよ」

「中将殿──ッ!」

 

 しかし頭中将は聞き入れる様子もなく、そう言い残して踵を返した。

 しばし呆気に取られたのち、佐為は大きくため息を吐いた。

 

 ああいうのが出世する公達というものなのだろうか。強引もあそこまで行けば特技と呼べるのかもしれない。

 きっと彼に目をつけられた女官女房は逃げる術もなく彼の手に堕ちてしまうのだろう。──これだから宮中は、と頭を抱えつつもう一度ため息を吐く。

 

 いずれにせよ今上のお召しでは断ることも難しいだろう。

 今宵の庚申待は一晩中栞と打ち明かす約束をしたというのに、と佐為は四条の方角を見やった。

 公務に準じたものなのだから、栞も理解するだろうが。あまりに急なことで良からぬ勘ぐりをされても──。

 

「栞……」

 

 呟いた声が自身でも驚くほどに切なげで佐為ははっとした。

 なぜだろうか。今朝に別れたばかりだというのに、帰れぬと決まった途端に無性に逢いたい衝動にかられてしまう。

 

 明日になれば逢えるというのに、そなたが恋しい──。

 

 などという心情を和歌(うた)にしたためても栞には通じず女房に回し読みされるのが関の山だろうから、ここは大人しく文を書いて届けさせよう。と、もう一度ため息を吐いてから佐為は懐から和紙を取り出した。

 

 

 ──弘徽殿。

 

 佐為自身は定期的に後宮の全ての殿舎を囲碁指導の名目で回っているため勝手知ったる場所である。

 日が暮れるまでは弘徽殿付きの女房たちと碁を打ったり和歌(うた)を詠み交わしたり、請われれば笛など吹いて過ごした。

 さすがに華やかで時が経つのは早く、夜が更ければいよいよ今上のお出ましである。

 

主上(おかみ)がお渡りになります」

 

 廂に用意された座についていた佐為の目に、清涼殿の渡殿から歩いてくる今上の姿が見えた。

 灯籠の明かりに照らされる控えの女官女房たちの衣装が鮮やかで目にも美しい。

 

「中将からそなたと番碁で打ちたいと言われてね。今宵の庚申待の良い余興となろうぞ」

 

 今上は御座に腰を下ろしそのように言って佐為は丁寧に頭を下げた。

 五番勝負で負ければ罰杯。勝てば女御から録が出るという。

 楽の上手に笛や筝などを弾かせ──呼ばれたのか博雅も来ている──対局の様子を女房たちに詠ませるという趣旨らしい。

 頭中将は佐為に六子ないしは五子置きだ。──勝って禄を持ち帰れば、公務であった良い証拠となるだろう。絶対に勝たねば、と佐為は目線を鋭くした。

 

 

「頭中将の若さまもお美しい公達ですが、佐為の君はそれにも増して涼しげというか」

「年々と男らしくますます美しくおなりで……、(そち)大臣(おとど)が戻られたらきっとすぐにご昇進なさるわね」

「近ごろはご公務が済めばすぐ四条に飛んで帰られるし……北の方がほんとうに羨ましい」

「登華殿にいらしていた四条の三位(さんみ)御方(おんかた)さまをお見初めになって、ご身分も顧みず熱心に求愛なさったそうだもの。御方(おんかた)さまも藤の中納言さまからのご求婚を断って佐為の君をお選びになったそうだから……」

「素敵ねえ……」

 

 

 御簾のうちで女房たちが口々に佐為を褒めつつ、事実か否かも定かではないうわさを囁き合った。

 その声は今の佐為には届かず、美しく響いてくる楽の音も聞き流して盤面を睨む。

 

 

 そうして夜も明ける頃となり、宴もお開きとなったわけである。が、みなこのまま公務である。

 中には公務に出ずに帰るものもいるだろうが、佐為はそうもいかない。

 特に今回の庚申待では御遊の中心にいたこともあり、その詳細を公文書にするよう“長秋卿”──なお本人は帰宅した──から依頼され、草案に目を通して修正を繰り返し書き上げる頃には公務終了の時間となっていた。

 

 大内裏を出て牛車に揺られる四条への道すがら、佐為はついうとうとしてしまう。

 昨夜、栞はなにをしていただろうか?

 自分が不在ならば栞にとっては庚申待も非合理なものであろうから、常と変わらず寝ていたかもしれない。

 寂しい思いをさせただろうか──。

 

「ただいま」

 

 そんなことを考えながら四条の屋敷に戻れば、栞は妻戸から廂まで出てきて出迎えてくれた。

 

「おかえりなさい」

 

 うっすら目の下に隈ができている。起きていたのだと悟って佐為は肩を竦めた。

 

「朝寝もせずに起きていたんですか」

 

 そうして両手で栞の頬を包めば、栞は笑って頷いた。

 

「一緒に朝餉を頂こうと思って。あなたこそ庚申待明けのご公務でお疲れでしょう?」

「疲れはしましたが……得たものもありますよ」

 

 言って佐為は庚申待の『証拠』とも言える番碁の録の話をしつつ着替えようと母屋へと向かった。

 

「頭中将と五番勝負ですか……」

「ええ。……栞は中将殿をご存知ですか?」

「はい。叙爵なさった頃から存じてますが……」

「で、では言葉を交わしたことは……!?」

「ありますよ」

 

 なにを藪から棒にと言いたげな栞とは裏腹に、佐為は着替えの最中だというのに思わず栞を見やった。

 

「まさか文などもらったわけではないですよね?」

「中将は右兵衛佐や右少将を歴任してらして、ご存知のように私の父は左大将でしたので、節会の際の勝負事ではほぼ負けなしの左方のために私が舞を舞うことも多くて……、それでなんやかんや言われたことはありますね。裳着もまだの頃の話ですが」

「なんだ、子供の頃のことですか……」

「ええ、裳着のあとは顔を合わせる機会もほとんどなく……。中将がどうかなさったの?」

「え!? い、いえ……」

 

 なんでもない。と取り繕って着替える佐為に栞は首を捻ったものの、さして気にする様子もなく佐為の持ち帰った禄の方に目を移して興味深く見ている。

 そのうちに、あ、と禄の中に豪奢な檜扇を見つけたらしき栞に佐為も口元を緩めた。

 

「弘徽殿の女御さまから賜りました」

「碁の負態(まけわざ)ですものね……。次に桂を訪ねた時におばあさまにお聞かせして差し上げないと」

 

 碁の負態(まけわざ)は扇──という暗黙の了解は斎宮を務めた栞の祖母が「梅壺の内親王(ひめみこ)」と呼ばれていた頃からの習わしだ。未だその雅な伝統が続いていることを祖母に話して聞かせようなどと話しつつ、佐為の着替えが済むと二人は朝餉をとった。

 

 そうして弘徽殿の女御からの録である絹などを仕舞う指示を終え、さすがに二人とも何をする気力もなく褥の上に横になる。

 

 

 佐為は腕に栞を抱いて彼女の髪を撫でながら囁いた。

 

「昨夜は寂しかった……?」

「そりゃ……寂しかったです。急に内裏から文が届いて驚きましたもの」

「帰宅したいと粘ったんですけどねえ」

 

 苦笑いを溢しつつ、佐為は栞の頬にそっと口付けを落とす。

 

「次の庚申待こそどこにも行きませんから」

「そんなことおっしゃって……また召されるかもしれないのに」

主上(おかみ)からのお召しではどうしようもありませんが……、次は必ずそなたと夜を明かしますよ」

 

 耳元に口を寄せれば、栞が小さく笑った気配が伝った。

 互いに互いの体温を心地よく感じつつゆっくりと目を瞑る。

 

 その何気ない口約束が永遠に果たせなくなるとは知らないままに、二人は温かな微睡みにしばし身を任せた。



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第二十三話:月の満ち欠け

 清涼殿──夜御殿(よるのおとど)。今上の寝所である。

 

 今宵の今上は登華殿の女御を召していた。

 

 夜御殿(よるのおとど)塗籠(ぬりごめ)になっており四方を照らす灯りが絶やされることはない。外には常に蔵人及び非蔵人が控えており、女御の女房たちも控えているが、この空間はあくまで私的なものだ。

 

 明かりをそばに置き、今上は碁盤の上に碁石を並べていた。

 先日、弘徽殿にて佐為と頭中将が打ったうちの一局だ。

 

主上(おかみ)司召(つかさめし)のことですけど……」

 

 話が途切れた機を伺い、女御は檜扇を開き耳打ちするようにして囁いた。迫る除目に際し、自身が推挙したい人物の名をさりげなく挙げているのだ。

 今上は否定も肯定もせずうなずく。

 一通り言い終わった女御は再び碁盤を見つめながら、そういえば、と口を開いた。

 

「佐為の君は次もまだ留任されるのでしょうか? 叙爵なさってから今まで加階は一度だけで……少し栞の君を気の毒に思っていますの。三位(さんみ)御方(おんかた)と呼ばれるまでにおなりなのに背の君が見劣りするのではと」

「昇進させると言っても、佐為の侍従は一旦地下に降りての地方任官には難色を示しておるから……、私もあの君は内裏(てもと)においておきたいし、そうなると適当な官職がなかなか」

「文筆も優れてらして学識にも秀でていらっしゃいますから……、弁官になさったらお手元に置いておけるのではございません? 源の頭弁(とうのべん)とは婚家を通して縁続きにおなりですし上手くやれるのでは」

「弁官のような忙殺されかねない職だと、私が碁を打つ時間がなくなってしまうよ。唐のように棋官を朝廷に置ければ最良なのだが、こればかりは私の一存では難しい」

 

 言いつつ今上は考えを巡らせる。

 除目が近づくたびに女御たちが自身の実家の推す人物の昇進をあの手この手で言いくるめようとしてくるのは常なのだが。それを別にしても、栞のことは気掛かりではある。

 なにせ父帝最愛の同腹弟宮であった一品式部卿の宮のたった一人の御孫なのだ。歳もたがわぬというのに帝位につけない弟宮を決して粗略にせぬよう最大の敬意を持つよう父帝にはずいぶんと言い聞かされて育った。兄である院や自分にとっても、かの一家は心を許せる血縁であり忠臣だ。

 

 今上として、要職は賜姓皇族で固めたい。──という願いはいつの世も叶えるのは難しい。

 

 栞の父を内大臣にあげるのが精一杯で、それもいまは筑紫に下向させてしまっており不甲斐なく思っているのだ。

 藤家は源氏の昇進を良く思っておらず、大納言にするのさえ難色を示す状態だ。栞の父の任期が明け、京に戻せば今よりも源氏全体に当たりがきつくなるかもしれない。

 

 佐為は今でこそ内大臣の婿ではあるが、元は大学寮出で下級官人出身。本来ならばどれほど才長けていようと昇殿など生涯叶わぬ身と言っていい。それを顧みれば異例の出世だ。ひとえに彼の類稀なる美貌と碁の才があったればこそだと言える。

 大臣の姫の背にしては足りぬ官位であろうと、これ以上の引き上げは時期尚早ではあるまいか。

 

 いや、いまはそのような憂いた考えはよそうと今上は意識を切り替える。

 

「侍従相手にようやく四子置きまで来たが……いつも美しい流れのままで勝たれてしまうのだよ。今上たる私にさえ勝ち星を譲る気はないらしい」

 

 女御に語りかけ、小さく笑って今上は石を並べ直す。どうやら佐為と打った一局らしい。

 女御はそこまで囲碁が達者ではなかったが、佐為の指導が巧みなのは見知っている。

 

「私へは指導だからともかくも……。いつも隙を見せず、対局相手の棋力を見定めて品のある勝ち方をしてゆくのだよ、佐為の侍従は。敬服に値するが……あの君が打ち負けることなどあるのか疑問だ」

 

 今上はいっそ過ぎるほどの言葉で佐為を誉めそやし、女御は「主上(おかみ)……」と言いかけた口元に袖をあてて止めた。

 佐為はあれで意外に想定外の出来事に弱い。と、栞に──大臣の姫と知らずに打った続きの対局で──黒星をつけられた一局を話そうかと思ったが控えたのだ。

 あの二人が妹背となる決定的な出会いでもあるため今上にとっても興味深い話となろうが、佐為はその今上の碁の師。それもこれほど心酔した様子を見せているとあらば、彼の負け碁の話を聞かせるなど無粋だろう。

 

 

 その些細な気遣いが大勢の人間の運命を分けることになるかはともかくも、塗籠(ぬりごめ)の外では今上の側近たる蔵人たちが控えており──その中に菅原顕忠の姿もあった。

 

 

 ここ最近の顕忠は焦っていた。

 六位蔵人となり、一﨟となって六年。次の正月で巡爵である。というのも上臈の六位蔵人を一定年数勤め上げれば巡爵──年労により従五位下に叙爵される──という習わしがあるのだ。つまり、次の正月の叙位では加階されて従五位下を賜ると同時に六位蔵人の職は解かれるのだ。

 六位蔵人はその職務ゆえに昇殿を許された特別な職位である。職が解かれるということは昇殿を止められ地下人に逆戻りを意味することに他ならず、加階され“貴族”の仲間入りを果たす喜びよりも昇殿を止められ地下人となる耐え難さが勝るのが常だ。

 おおよその場合、叙位のあとには地方官として国司に任じられる例が多いため悪いことばかりではないとはいえ、源氏でも藤家でもない自分は()()()()だということも顕忠はよく分かっていた。

 今上が碁好きだという話を頼りに腕を磨き出世の足掛かりとしたというのに、外国(とつくに)送りなどとんでもない。

 なにより昇殿の誉れを失うのは我慢ならない──。

 

 正月までにはなんとか策を練らなくては。

 

 灯る燈台の明かりを見つめながら顕忠は考えを巡らせた。

 今のところ自分は蔵人という激務に追われて佐為に囲碁指南の大半を譲る形となっている。というのも、今上への指南は半々だが後宮も含めた宮廷全体を見れば佐為の方が公務で囲碁に携わっている時間が長いからだ。

 次の除目で佐為がどうなるかは読めないが、正月の叙位で自身が地下落ちは既定路線。恥を忍んで蔵人の末席での留任を望んでも、蔵人という職は権門の公達の出世への登竜門ゆえ空きはなく、聞き入れられることはないだろう。

 

 すれば、年が明ければ今上の囲碁の師たる役目は自ずと佐為一人のものとなってしまう。

 

 考えて顕忠は歯軋りをした。同じ下級官人出身の大学寮からの叩き上げだというのに、彼は一度も地方任官することなくあの若さで昇殿を許された。今後も地方官を任じられる可能性は限りなく低いに違いない。

 そうして名実ともに今上の師となっていく佐為を京の外から指をくわえて見ている生涯で終わるのだろうか。

 内大臣の婿として、いずれは公卿へも昇れるだろう彼に囲碁まで独占されては今まで何のために努力を重ねてきたのか分からないではないか。

 佐為にしても、既に出世は約束されているのだから、今上の囲碁指南まで続ける道理はないだろう。そうだ、弁官にでも中将にでもさっさとなればいい。

 それで囲碁指南役は自分に任せていればいいのだ。

 ともかく地方送りは何がなんでも避けたい。

 どうすればいいのだろうか。

 どうすれば──。

 

 

 

 下級官人も含めて除目の時期とならば貴族たちは浮き足立つわけであるが、佐為の方は相変わらずだ。

 

 特に出世を狙っているわけでなし。さりとて地下に落ちる心配がほぼない今は、囲碁さえ打てればそれ以上の望みはないというのが佐為の正直な心情だった。

 

 肌寒くなってきたある日の午後、佐為は四条の屋敷で琵琶を抱えて寝殿から北の対へと移動していた。

 北の対へ足を踏み入れると、北の対付きの女房たちが頭を下げてくる。

 

「殿……!」

「上の様子は?」

「先ほど棗や梨、柑子(こうじ)などを少々お召し上がりで、いまはお休みです」

 

 佐為は返事に頷いて奥の一角へと向かった。

 御簾が下げられ、その奥は几帳や屏風でかっちりと仕切られている。

 

 昨日から月の触り(月水)に入った栞はこの場に隔離されているのだ。

 

 

 御簾の前に佐為が腰を下ろしたとは気付かず、栞は(しとね)に横になって時折り襲う痛みに袖を噛み締め耐えていた。

 こんな場所に隔離されてますます気も滅入るが、いちいち抗うのも面倒である。

 月水(げっすい)など知る限り全ての女人に定期的に訪れる単なる身体現象だというのに穢れだなんだと隔離される意味に疑問を抱いてはいるが、物理的に動き回れないため大人しく隔離される他はない。

 栞自身は気にせずとも家人たちはそうでもないため、月水(げっすい)の間は寝殿を離れて北の対の決められた部屋で引き籠る生活だ。

 

 にしても薬師にもっと良い薬はないか聞くべきか──と顔を顰めたまま横になっていると、少しだけ御簾が揺れたのが目の端に映った。

 

「栞、気分はどうです?」

 

 ついで佐為の声が御簾の先から聞こえ、栞の顔が若干明るくなる。

 

「佐為の君……!」

 

 琵琶でも弾こうかと気遣うような声が聞こえてきて栞は頷いて返事をした。

 そうしてそっと目を閉じて響いてくる琵琶の音色に耳を傾ける。

 佐為はいつもこうだ。月水(げっすい)で籠もっている間、こうして北の対まで足を運び、そばにいて色々と気遣ってくれる。

 最初は穢れに近づけば障りがあると止めていた女房たちも今では諦め、むしろこうも自分を慮る彼を賞賛しているきらいすらある。

 

『姫さま、よくお聞きなさいませ。世の女人は夫の通いを繋ぎ止めるためにご自分のそばには数ならぬ身のものを用意するものでございます。月の触りや懐妊時にも通わせるためです』

『よく思い出してくださいませ、姫さまがお相手できぬ時でも殿はこちらにいらっしゃって……これはとても稀なことでございますよ』

 

 先日、命婦にああ言って諭されたことも道理なのかもしれない。

 他の殿方のことは知らないとはいえ、月に何日も隔離されている妻のところへ夫が常と変わらず通うとは思えない。

 そのことを隔離期間は相手ができない妻側の落ち度だと割り切るべきなのか。対策として屋敷に形代となる女房を置き夫を留めおく方がいいのか、諦めて他に通う背中を見送るか。

 佐為は月水(げっすい)の時も屋敷を空けたことは一度もないゆえ、そんなこと考えたことさえなかった、と栞は眉を寄せる。

 出仕はしているのだから内裏で何をしているかは知らないが、それでも夜には必ず帰ってきてくれていた。そうしてこうやって琵琶や笛を奏でて気分を紛らわせてくれたり、ただそばについていてくれ気遣ってくれる。

 そもそも宿直やたまに方違えなどと称して家を空けることのある佐為だが、三日と続けてこの屋敷にいなかったことは一度もない。──三日続けて通いが途絶えることは、新しい妻を迎えたことを示唆する。そう思わせないように努めているのだろう。

 

『あれほどの方があそこまで姫さまだけを一途に愛されていることを幸せに思わねば』

 

 愛されているかはともかくも、これほど優しくしてくれているのだから……自分の預かり知らぬところで数人の情人を持つくらい、それくらい。──いやなことに変わりはないが。なるべく考えないようにしよう。唇を噛みしめつつ栞は思った。

 佐為の琵琶の音は不思議と気分が落ち着く。技巧という意味では博雅に敵わないが、人柄がよく出ているのだろう。

 直接に顔を見れないことが寂しい、と思いつつ耳を傾けているとしばらくして音が止んだ。

 

「栞……」

「はい」

「近々、時間を作って初瀬詣(はつせもうで)へ出かけませんか?」

 

 佐為が琵琶を下ろし言い下すと、部屋の奥の栞が返事に窮している様子が伝った。

 初瀬詣(はつせもうで)とは長谷寺(はせでら)への参詣を意味する。そのことが──この状況で──なにを意図しているか栞に分からないはずもない。

 だが、昨日も月水(げっすい)が始まって相当に落ち込んでいた様子であるし、と佐為は御簾の方を振り返る。

 

「栞……」

「まだ薔薇(そうび)が咲いていた頃、博雅さまからも同じことを言われました」

「え……」

主上(うえ)から博雅さまも色々と探りを入れられているようで、本当はあなたにも言いたかったみたいですけど、生憎と温明殿へお泊まりの日でしたので私だけにおっしゃって帰られましたが」

 

 淡々とした返事がきて、う、と佐為は息を詰めた。

 なんと間が悪いこともあったものか。と頭を抱える。

 自分が逢瀬を楽しんでいる間に栞は博雅を通して間接的に今上からも嫡子はまだかと暗に言われていたとは。

 そのような後であったのならばあれだけ嘆かせたのも無理はない、とさすがに申し訳なく思いつつなお声をかける。

 

「神頼みをしてどうにかなるものではないとそなたが考えていることは分かっていますが……良い気晴らしにはなると思うんです」

 

 栞としては思い出したくないことも思い出して顔をしかめていたが、外から聞こえてきた佐為の声にはっと顔を上げた。つまり彼はしばしの遠出に誘ってくれているのか。

 

「京から初瀬(はつせ)までは三、四日はかかると聞いておりますが……」

「公務もそれほど忙しくない時期ですから、休暇を願い出ます。主上(おかみ)もさすがにお咎めにはならないでしょうから」

 

 理由が理由だけに、と笑う佐為の声が届いて栞はやや自嘲する。それに。

 

「長谷寺は初夏の……牡丹の頃が素晴らしいとのことですから、どうせなら一番良い時期の方が遠出するにはふさわしいのではありません?」

「これ限りではなく、初夏にはまた行けばいいのですから……。そなたと遠出をする良い理由にもなりますしね」

 

 返事を受けて、栞は少しだけ笑った。

 やはり引き籠もっているばかりでは気が滅入るものだし、佐為は自分を外に連れ出そうとしてくれているのだ。

 それに佐為はきっと神頼みをしたいのだろうな、と悟って栞は頷いた。

 

「ではこちらで手配を進めておきますね」

 

 佐為は再び琵琶を抱え直しつつ言った。

 来月の菊の宴にはさすがに出なければならないだろうが、それまでは自分が必ず出なければならない行事もない。

 しばらく栞はこの部屋から動けないのだし、その間に準備をしておこう。と考えつつ思う。

 月水(げっすい)は物の怪や忌み日とは違うというのに、このように隔離されて気の毒なことだ、と。穢れの許されない宮中であれば血を嫌うのは理解できるが、そもそも……と遠い昔に大学寮で過ごした日々を思い出す。

 いつだったか、古文書を読んだことがある。太古のころは定期的に血を流しては止まる女人の身体は豊穣の象徴でさえあったというのに、唐土の教えが入って以来徐々に変わっていったという。

 その昔は月水(げっすい)の最中でさえ睦み合った神々もいたということだが、それを思うと現世とはなんと狭量なことか。

 

 時代さえ違えば……と思えば、博雅が言ったように栞は生まれる世を間違ったのやもしれない。

 それに──。

 

『栞は私と出逢ったがために人生を狂わせた気がしてならないのです』

 

 以前に博雅にああ言ったことは紛れもない本心だ。

 栞は一品の宮の孫にして大臣の一の姫。本来なら生涯をかけて臣下として仕えこそすれ、妻にしたいなどと考えることさえ筋違いの相手だ。

 自分とさえ出逢っていなければ、高貴な姫として自由の身を貫くことも、身分相応の相手の妻となることも、入内して国母となることさえ出来ただろうに。

 まして子にも恵まれず、子は前世からの(えにし)というのだから、なんと縁の薄い相手と妹背になったことか……と自分自身を俯瞰して哀れに思う心もまた本心だというのに、やはり今さら手放す気にはなれない。と、佐為は撥で琵琶の弦を弾いた。

 

 ──私のために、誰よりも高貴だったはずの彼女の人生は……。

 

 薄ぼんやりと、佐為はいつかの夏の夜に栞と交わし合った言葉を思い浮かべた。

 

『私はあまり前世や来世など信じていないのですが……』

『あなたは次の世でも私を見つけてくれるでしょうか』

 

 もしも次の世があれば、自分のことなど忘れて今度こそ自由に生きて欲しい。そう本心から思う一方で、きっとこれほど碁に執着している自分は目の前に彼女のような碁才豊かな人が現れれば手を伸ばさずにはいられないだろうとも思う。例えまだ見ぬその人の人生を狂わすこととなっても──、と佐為は自身の鳴らす琵琶の音を遠くに聴きつつ息を吐いた。

 来世がどうであろうと、自分こそが神の一手を極めるのだという願いを叶えるのは自分でなければ意味がないというのに。仮に来世の自分であろうと、()()()()()()()()()意味がない。

 

 

「栞……?」

 

 しばし琵琶を弾き鳴らしてから、佐為はそっと御簾のうちに声をかけてみた。

 振り返って御簾のうちを窺うように見ても反応がない。眠ってしまったのだろうか。ならば少しは気分も落ち着いたのか。ふ、と佐為は口元を緩める。

 

『栞ではなく我が子に碁を教え、共に打つがよい。すれば……そなたにもきっと分かる』

 

 博雅の言うように、いつか彼の言葉が理解できる日が来るのだろうか。

 この人との間に子ができれば──、と噛み締めるように思いつつ佐為はそっと手に持っていた撥を隠月へとおさめた。



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第二十四話:初瀬

 初瀬詣(はつせもうで)──長谷寺(はせでら)に参詣すること──を理由にしばらくの休暇を願い出た佐為の意向は認められ、佐為と栞は大勢の従者を連れて初瀬を目指した。

 

 初日は宇治の別荘に泊まり、初瀬への足がかりである“椿市(つばいち)”までは船旅を選んで牛車をも船に乗せるという大掛かりなものとなった。

 

 遠出──特に女人が遠出をする場合は船旅を第一選択とする。山道は危険が多いからだ。

 

「わあ……!」

 

 栞は屋形の御簾をあげて外を見やり感嘆の息を漏らした。四条の屋敷にも船遊びが楽しめる池はあるが、こうも大掛かりな船旅は初めてだ。

 この辺りは交通の要所でもあるため川は物資を京へ運ぶ様々な船で賑わい、京を離れたことのない栞はもとより佐為にしても物珍しい光景が眼下に広がっている。高揚を抑えがたいのも道理だろう。

 間近で感じる水流の音、跳ねる水、頬を強く撫でる風。全てが新鮮だ。

 

 初瀬への道は遠く険しく危険も伴うため、公卿ともなれば代理を立てて初瀬詣(はつせもうで)に行かせるのが常である。ましてや大臣の姫ともなれば、いくら“変わり者”と知られる栞のような姫であっても自ら出かけることは一生に一度あるかないかという一大事だ。

 栞もそのことはよくわかっており、なおさら目に映る光景が愛しく感じられた。

 

 そうして京を出て三日目に一行は椿市(つばいち)に着き、船を降りて初めて「市」を目にした栞はひときわ大きな感嘆の息を吐いた。

 忙しなく行き交う人々。食材や物を売っているらしき人々。市井の人は動きやすそうな服装で自由に歩き回っている。

 裏腹に壺装束でただでさえ動きにくい上に市女笠を被り、周囲を覆うように垂れた布で視界に制限がかかっている栞はもどかしさから佐為を見上げた。

 

「笠、外しても構いません……?」

 

 すれば佐為は檜扇で口元を覆いつつ困ったように顔をしかめた。否定の意だろう。予想通りの反応に栞はしゅんとうなだれる。

 

「だって周りがよく見えなくて……」

「姫さま、もう少し我慢なさいませ」

 

 食い下がってみるも命婦にまで諫められ、栞は肩を落とした。

 狭い視界を凝らして見ても、周囲でこのような出で立ちをしているのは自分一人だ。従者を引き連れ歩いているこの姿はひと目で高位の貴族だと分かるだろう。

 

 周りには見たこともない世界が広がっているのに──。

 

 と、佐為は「あれはなんです?」と物珍しげに尋ねる栞に答えつつ“伊勢物語”を頭によぎらせた。在原業平()が懸想した高貴な姫を盗み出し、外の世界を初めて見た姫は彼に問うのだ。あれはなんですか、と。

 どれほど破天荒に見えても、栞は深窓の姫なのだと改めて実感させられるではないか、と佐為は少しばかり自嘲した。

 佐為とて貴族の端くれではあるものの、佐為自身の里は七条に位置しており市場が近く行商の行き交う騒がしい界隈である。

 佐為にとっては市場の様子は見慣れてはいるが、かといって日常では交わらない世界であり、明確な線引きがある。

 まして公卿ともなれば直に見ることなどない世界であろう──、と佐為は元服前に見た遠い昔のことを思い浮かべた。

 立派な召し物で明らかに市場では浮いた公達をある日、偶然見かけた。興味本位で市場に紛れ込んだらしきどこぞの貴公子は、物売りの商人を見て「まるで鬼のようだ」と言い異質な存在として扱っていた。あの時にはっきりと感じた。あの貴公子と周りの風景とは決して相容れぬ存在。纏う空気や色さえ違っているのだと。

 とはいえ、彼の反応は貴族としては当然の感想と言える。市場とはそのような場所なのだ。

 

 このような雑多な場所に栞を置いておきたくないと思う自分とは裏腹に栞はすこぶる楽しそうで、やはりこの人は変わり者なのだろうか。思いつつ佐為は従者に先導させ栞を連れて宿へと向かった。

 

 椿市(つばいち)初瀬詣(はつせもうで)──長谷寺への参詣の入り口として身分問わず様々な人が行き交う場所である。

 多様な宿で賑わっており、佐為たちは護衛や下働きの従者も含めて全て同じ宿に泊まれるよう一箇所を借り上げて一息ついた。

 参詣は一般的に夜に開始するため、それまで身体を休めるよう栞に言いつつ佐為も狩衣を寛げて息を吐く。

 

「栞、疲れてませんか……?」

「平気です」

 

 栞は壺装束──外歩きのために括っていた袿や単衣の裾を元に戻して(しとね)に腰を下ろしながら笑った。

 

「“市”というものがあれほど活気にあふれているとは思いませんでした……! 女人も外で商いをなさっていて……なかなかに面白そうです」

「それは……大臣の姫(そなた)のやることではないのですから」

 

 佐為は市井の人を賤しく思うでなく興味を抱いたらしき栞をやんわり牽制した。

 が、栞には通じなかったのだろう。

 

「この衣装では悪目立ちしますから、男装束などに身をやつせば見物に出かけても構わないのでは……」

「栞!!」

 

 案の定なことを言い出した栞を佐為は先ほどより強く牽制した。

 しゅんと項垂れる様を見てさすがに罪悪感が込み上げるものの、やはり『市』とは公卿の姫に相応しい場所とは言えない。

 佐為自身は京の市しか知らないものの、地方任官を終えて帰京した知人友人から様々な話は伝え聞いている。京の外で栄える「市」とは交易の場であると同時に男女の交歓の場所でもあり、色好みの男などわざわざ京から京外の“市”へ出かけて愉しむという。

 

 ──そういう場所を貴族の、まして公卿の姫が練り歩くなどとんでもない。

 

 などと思っていると、栞は少し寂しげに笑った。

 

「私、これほど遠くに来るのは初めてで……もしかしたら父や母のいる筑紫もこのような場所なのかと考えてしまって……。私もついていっていればあのように外に出る機会もあったのかと」

「ですが大臣(おとど)はそなたを連れていくことを良しとせず京に残したのでしょう?」

「それは、財産管理など私が京でやることも多いですから……」

「それだけではないと思いますよ。やはり京外はなにかと不便も多いでしょうから」

「……。佐為の君は京でないとおいや?」

「私は……」

 

 佐為は思わずグッと手を握りしめた。

 

「私は一度も京を出たことがありませんから……、やはり住みなれた場所の方が善いと感じます」

 

 内裏で碁を打つ以外の人生など考えられない。という思いを飲み込み、佐為は言い下した。

 そう、と栞はふいと目線を逸らす。小さくではあるが、市人の行き交う声が聞こえてくる。栞は耳をそばだてているのだろう。

 彼らとは身分が違う。──と感じるほうが正常な感性であろうが、それでも佐為は外への興味を示す栞の望みを叶えてやれないことを申し訳なく思ってその横顔を見つめた。

 

「口うるさい夫だとお恨みでしょうね……」

「え……」

「外へ出たいのでしょう?」

 

 栞は意外そうな顔をしてこちらを向き、しばし黙したのちに小さく首を横に振るった。

 

「もう何度も言ったように、これほど京から離れたのは初めてなんです。父上も博雅さまも今まで私をこれほど遠くへはお連れくださいませんでしたから……。だから感謝こそすれ、恨んでなどおりません」

 

 そうして栞は少し悲しげに眉を下げる。

 

「私は……身分も高く生まれつき、けれども(きさい)がねとして育てられたわけでもなく、それでも好きなことも身分ゆえに諦めなければなりませんでした。父上はせめて裳着まではと心を尽くして私の自由にさせて下さったことは存じているのですが……。でも、先ほどあなたがおっしゃったように一度も私を筑紫へは呼び寄せてくださいませんでした。あなたの言う通り、父は私を外に出す気はなかったのでしょう」

「栞……」

「だとすれば、自分の人生というものがなんなのか……私はいったい何のために生まれたのか……と」

 

 在原業平()が盗み出したような深窓の姫。──自身も結局はそういう存在でしかないのだと栞もうっすらと自覚したのだろうか。

 だが、裳着を済ませた彼女の自由を奪ったのは他ならぬ自分自身だ──、分かりつつ佐為はそっと栞を自身の胸へと抱き寄せた。

 

「そなたが(きさい)がねとならずにいたのは、私と出逢うためであったと思ってはもらえませんか」

「佐為の君……」

「私の子を産み、育てていく人生であったと……。不服でもそれがさだめと諦めて」

 

 言えば、わずかに目を見開いたのちに栞は口元を緩めつつ頷き、自身を抱きしめる佐為の腕に体重を預けて腕を絡めた。

 

「はい……」

 

 

 長谷寺は元は天皇家の管轄下であったが今は摂関家たる藤家の庇護下だ。

 ゆえに藤原の……摂関家ゆかりの人間がよく詣でている。

 だからというわけではないが、源氏の姫や既に没落した藤原家の傍流も傍流である自分に利益があるかは疑わしい。などと僅かでも思ってしまうのは神仏に対しあまりに恐れ多いことだろうか。佐為は自嘲しつつ、夜の帳もすっかり降りてそろそろ初瀬へ詣る頃合いとなった。

 徒歩(かち)で向かうか途中まで牛車を使うかだいぶ揉めたが──命婦などは牛車に乗せたがっていたが──、帰りは牛車を使うことにして結局は歩いて向かうこととなった。

 

 笠を嫌った栞は「夜が明ければちゃんと被る」と約束して顔を晒し、松明に照らされる夜の風景を視界いっぱいに直に見ていた。

 佐為にとっては闇夜を、しかも京でない場所を歩くなど空恐ろしく感じたが、栞はそうでもないらしい。内裏や四条の屋敷以外の場所を、まして夜に歩くのは全てが新鮮なのだろう。灯りに照らされた栞の笑う横顔を見て、佐為は肩を竦めつつも頬を緩めた。

 

 しかし──。

 

「なんと恐ろしげな……!」

 

 御堂に辿り着くまでの山中の石段は暗がりで足元さえおぼつかず、絶えず川や滝を流れ落ちる水の音、風に揺れる木々の音が不気味に聞こえるのだ。

 命婦などは恐怖に苛まれたのかしきりに怖がって佐為が慰める有様だ。

 

「しっかりなさい。大丈夫ですから」

「しかし殿……! あやしげな下臈(げろう)などが行き交って恐ろしくて……、姫さまにもしものことがあれば大殿にどうお詫びすればいいか……」

 

 当の栞は平気そうにしているが、大臣家に仕える女房からすれば出自も分からぬ輩や見慣れぬ衣装の修行僧がそばをうろつくのは耐え難いものなのだろう。まして今は夜中だ。

 せめて御堂の局では人払いを頼もう。思いつつ縋り付いてくる命婦を宥め、さすがに足の重さを感じながら段を登っていく。

 そうしてようやく見えてきた本堂は張り出した懸造りとなっており、燈台や燭台に照らされるその光景は佐為には京の清水寺を思い起こさせた。

 

「足は大丈夫ですか?」

「平気です」

 

 栞を気遣えば、さすが日頃から馬弓を巧みにこなす彼女らしく鍛えられているようで、佐為はやや苦笑いを漏らした。下手をすれば自分の方が息が上がっている。

 命婦も含め同行した女房たちはかなり消耗しており、佐為は先導させていた従者を呼び寄せ本堂の局に案内するよう指示した。

 そうして参籠する貴族たちは専用に設えた局にて幾晩も費やし祈りを捧げるわけであるが、佐為たちは今晩のみである。

 

 本尊の観音菩薩像に程近い局に入ればさすがに身の引き締まる思いがし、佐為たちは椿市(つばいち)にて用意していた灯明を供えてそれぞれ勤行に励んだ。

 

 初瀬への参詣は現世利益をもたらしてくれると貴族のみならず人々から尊ばれ広い信仰を集めている。

 

 特に子宝や安産に御利益があるとして、娘を入内させた公卿たちは娘付きの女房をここへ送り懐妊祈願や安産祈願をさせている。

 という話は栞も何度も耳にした。

 しかしまさか自分が来ようとは……と栞は灯りに照らされる観音菩薩を見上げる。

 おそらく、佐為との子ができないのは互いの相性や家系の問題だ。前世からの(えにし)などとは思えない、とギュッと裾を握りしめる。

 それでも皆が、なにより佐為が望んでいるのだからそう遠くない未来に叶えてあげられればとは願っている。

 それさえ叶うならば自分はどうなっても……と思うが、でもまだ佐為と離れたくない。お産は命がけだ。こればかりは身分の高さなどなんの意味もない。今まで何人の姫たちが実家の栄華のためだけに入内し、そして死んでいったことか。──両親がたった一人の娘である自分を入内させなかったのは、そんな不幸を避ける狙いもあったに違いない。

 

 願いはただ一つ。

 佐為と一緒に歳をとっていきたい。

 ずっと仲良く、できれば幾人かの子に囲まれて──。

 

 それともそれは過ぎた望みなのだろうか。と観音を見つめて問答を続ける栞の心理は佐為には分かるはずもなく。

 栞よりも遥かに──と言えば語弊があるかもしれないが──ごく平均の貴族並みに仏道にも馴染みのある佐為は誦じている経を口遊んでいた。

 他人(ひと)の子でも童は愛しいものであるから、我が子ならばどれほどか……と思う。それが正妻()との子でなくとも変わるまいが、やはり自分は栞との子を望んでいる。

 それはなぜか、と考えた時にどうしても碁のことがよぎる。みながそう思うように、栞との子ならば碁才もまた抜きん出ているだろうからだ。

 我が子を鍛えて切磋琢磨すれば神の一手に届くのだろうか。

 それでもし、仮に実子であっても自分ではない誰かが神の一手に届いたとしたら──自分は嫉妬と絶望で生きていけぬやもしれない。

 

 ──神よ。

 ──神の一手とはいったいどう極めればよいのか。

 

 縋るように観音像を見やった自分に佐為ははっとした。

 こんな時でさえ囲碁への思いが勝ってしまうとは。生涯を誓った妻がそばにありながら。

 が、でも──栞に興味を抱いたのも囲碁ゆえ。

 初瀬は夢を授けてくれる場所でもある。眼前におわす観音が夢で告げられる事柄はどちらなのか。

 囲碁か、それとも──。

 

 

 その夜、祈りながら微睡んだ佐為がいったいなにを夢見たのかは誰にも分からない。

 

 

 一つ確かなことは、東雲の頃に本堂を出て見やった風景があまりに高雅で神々しく──佐為は約束を違えて外で顔を晒した栞を咎めることを控えた。

 空がうっすら紫に色づき、なんとも幻想的な中に燈台の灯が揺らめいて色づき始めた紅葉を鮮やかに映し出している。

 

「美しい……!」

 

 栞はギュッと昂揚気味に佐為の狩衣の袖を掴んで目を輝かせ、佐為も薄く笑った。

 

「ええ、ほんとうに」

 

 そうして顔を見合わせて微笑み合う。

 夜が明けたためだろうか。昨夜は恐ろしかったはずの風の音や水の音さえこの風景を彩る豊かなものに変わっている。

 そのまましばらく眼前の光景を堪能してから、佐為たちは下山を始めた。

 山を下る参道へと出れば人の行き交いが密になり、佐為よりも先に命婦が促して栞は虫垂衣(むしのたれぎぬ)と笠を被って人目を避けた。

 それでも栞は周囲の秋の風景に見入っており、時おり足を止めては感嘆の息を吐いている。

 

「春の終わり頃……初夏にはきっと牡丹が見事に花咲くでしょうね」

 

 長谷寺は多種多様な牡丹で名高い。佐為も頷く。

 

「そうですね」

「その頃にはまた連れてきてくださる……とおっしゃいましたよね?」

「本願叶えば、そなたは牡丹の頃には山道を登れる身体ではないと思いますよ」

「そ……!」

 

 それはそうだが、と複雑そうな声色が栞から漏れた。

 垂衣の先で栞がどのような表情をしているのかは読めない。が、こうして外に出られるのは得難く、できれば折に触れて遠出したいに違いない。

 とはいえ栞が望んでもなかなか叶えてやれるものでもないが。などと思いつつ境内を下っていくと二本の杉が見えてきた。

 古今の中でも詠まれている二本杉であろうか。佐為は思い当たる一首を脳裏に浮かべた。

 昨夜は闇夜ではっきり見えなかったが、明けたいまはいっそ清々しいほど鮮やかに根を同じくする二本が寄り添ってそびえ立つ様子が目に映る。

 

「立派ですね」

 

 佐為が立ち止まって見上げれば、栞も頷いて二本杉を見上げた。

 ふ、と佐為は微笑む。

 

「この二本の杉のように末長く共にありたいと……そう思っています」

「またそんなことおっしゃって……。千年よりも長そうなお話ですのに」

 

 栞は苦笑いのような曖昧な笑みを漏らした。

 きっとこの二本杉は千年先の世もこの場にあるのだろう。佐為は先ほども浮かべた古今の一句をいま一度浮かべる。

 

 ──年を経てまたも逢ひ見む二本(ふたもと)ある杉

 

 時が経っても、例え千年を経てもこうしてまたお逢いしよう。

 その先の世など想像すらつかないが……とどちらともなく思いつつ杉を見上げ、二人はそっと手を取り合い重ね合った。

 

 

 そのまま佐為と栞は参道をある程度下ったところで迎えの牛車に乗り、椿市(つばいち)の宿へと戻る。

 全ての従者に朝餉が振る舞われ、栞たちも軽く朝餉をとって各々湯浴みなどをし、さすがに疲れた身体を休めた。

 

 そうして夕方には椿市(つばいち)を発つものだと思っていた栞だが、佐為は今夜もここに泊まるという。

 

「みな疲れているでしょうから」

「まあ、構いませんけど……」

 

 宇治まで戻れば別邸も荘園もあるのだからそっちでゆっくりできるのではと思った栞だが、特に反対する理由もなくうなずいた。それに、参詣も終わったことだし町に出てみたいという欲求もある。

 

「ここに泊まるのでしたら、時間もありますし水干に着替えて市場に行きたいのですが……」

「栞」

 

 おずおずと言ってみれば一蹴され、やっぱり、と栞は息を吐いた。不便な身を少しばかり恨めしく思う。

 

「みな、精進落としが必要なのですよ。我々も……」

 

 言って佐為が宥めるように頬に触れてきて栞は首をかしげた。

 

「精進落とし……?」

 

 精進落としの膳は既に振る舞ったが、となお首を捻れば「ええ」と佐為はどこか含んだような笑みを漏らした。

 

「それに私たちは本懐も遂げねば」

 

 そして彼は栞の袴の腰紐に手をかけて解き、惚けていた栞ははっとする。

 ()()()()()()だったか……と思案している間に佐為は額を合わせてきて両手で栞の頬を覆った。

 

「構わないでしょう?」

 

 栞はそっと佐為の手に自身の手を重ねて小さく頷いた。

 

 

 

 そうして栞たちが初瀬詣(はつせもうで)に赴いている頃──。

 

 侍従という職務は帝に侍っているとはいえ、蔵人ほどの激務ではなく常に全員が今上のそばにいるということはない。

 

 が──。

 ()()()()の姿が幾日も見えないことを菅原顕忠はやや不審に思っていた。

 公卿・殿上人の殿上の間への出仕を管理・把握するのは蔵人の勤めとはいえいちいち佐為一人を気に留めてはおらず。彼の不在に気づいたのはここ三、四日ほど今上に続けて召されて碁を打っているからだ。

 今までこのようなことは記憶の限りなかった。

 とはいえ、病欠や方違え等あるゆえ差して気にも留めていなかった顕忠だが、たまたま台盤所で四位侍従──博雅の実弟でもある──に会い、それとなくたずねてみた。

 

「源の侍従殿……、ご同僚の姿が見えないようですが、物忌みですかな?」

「は……?」

 

 彼にしてみれば急に親しくもない身分も下の相手に話しかけられ不躾に感じたのだろう。顔をしかめている。何の用だと言わんばかりだ。

 

「いえ、今日も主上(おかみ)から私の方へ囲碁指南のお召しがあったものでどうしたものか、と」

 

 そこまで言って、ああ、と源の侍従は頷いた。

 

「佐為殿はいま北の方を連れて初瀬詣(はつせもうで)に出ているからな」

「北の方と初瀬へ……ということはご懐妊で?」

 

 踏み込み過ぎたのか源の侍従の顔が険しくなる。

 

「そうだったら良かったのだが」

 

 佐為の北の方──四条殿は彼には近しい親戚筋だ。不快にさせたのだろうと顕忠は頭を下げ、出て行く黒の袍を見送りつつ思う。

 なるほど、今の反応を見るに佐為は正妻の懐妊祈願に初瀬まで赴いているらしい。

 彼の正妻は皇族筋で今上にも先帝にも気に入られている従三位も預かる姫だ。今上も手放しで佐為の参籠を許したに違いない。

 ということは、佐為はあと五日ほどは出仕しないとみていい。

 

 この機をなんとか使えないものか。──と顕忠は考えを巡らせた。

 

 指を咥えて年明けをただ待っていれば五位の大夫にされ地下に逆戻り、そして地方送りは免れない。

 大国の任が得られれば一生困らぬ財は築けるだろうし、既に落ちぶれている菅家としては十分なのかもしれない。

 しかし──しかし。昇殿の栄誉を預かったいま、そこから降ろされるのは耐え難い屈辱なのだ。まして囲碁で抜きんでようと人知れず励み、ようやく身を結んだばかりだというのに。

 

 対してあの若造(佐為)はどうだ?

 内大臣の婿としていずれは参議にも登れるはずだ。自分には生涯をかけても届かぬ地位だろう。

 

 そもそもにして、あの佐為という男は大学寮を出たあとはせいぜい主計寮や主税寮にて算師として取り立てられる程度の経歴でしかなかったというのに。なぜか彼は侍従に叙され、あっけなく昇殿を許され今に至っている。

 その上、自分が地下に落ちれば今上の囲碁の師という名誉までも彼一人のものとなるのだ。

 

 それだけはなんとしても阻止したい。

 しかしあの輩の碁の腕は本物。対局こそ一度もしたことはないが、良くて五分。

 どうすればいい? 菅家らしく、儒家の言葉でもふんだんに引用した申文でも書いてみるか。いかに自分を重用することが朝廷のためとなるか、と。

 顕忠は焦燥と自嘲が混じったような笑みを浮かべた。

 このまま何もしなければ地下に逆戻りだ。

 

 どうすれば──、などと考えているうちにも時間が過ぎ、妙案浮かばぬまま顕忠は今日も召されて今上と碁を打った。

 六位蔵人となり今上とこうして対局する機会に恵まれ、“師”と請われて指導をするようになってからずいぶん経った。この場に居る栄誉を噛み締めれば噛み締めるほど、この地位を追われるのは耐え難い。

 まして菅原は学業で身を立ててきた一族なのだ。囲碁こそはその最たる高雅な嗜みではないか。忌々しくも一族の誉であったあの菅原道真も生涯囲碁を愛し続けたのだ。

 

主上(おかみ)……」

 

 終局して盤面を崩しながら顕忠は今上を見た。

 六位蔵人風情が今上と密談をするなどあり得ず、常にそばに誰かが控えている。下手なことは言えない。ごくりと顕忠は喉を上下に揺らす。

 

「恐れ多くも主上(おかみ)へこれまで囲碁指南をさせていただきましたが……もうじき辞さねばならぬことがまことに口惜しくてなりませぬ」

 

 今上も正月の除目で自分が巡爵し六位蔵人の任を解かれることは分かっているはずだ。だからこそ、蔵人は辞しても囲碁指南は辞したくないことを奏上せねばならない。顕忠は続ける。

 

主上(おかみ)は院さまの御時に蔵人として召された私をお見捨てにならず棋力を見込んでくださり、蔵人にとどめ置いてくださいました……。そのお心にこれからも尽くしてまいりたいと感じていることをお伝えいたしたく……」

「つまりそちは私への囲碁指南を継続したいと、そう申しておるのか?」

 

 今上が読めない表情で言い、顕忠は改めて奏じ上げる。

 

主上(おかみ)がお許しくださるならば……」

「うむ、私にとっても碁の上達はこの上ない願いではある。そちの貢献には感謝しておるが……ここには佐為の侍従もおる。棋力ならばそちよりあれが上であろう」

「そ……!」

 

 思わず声を上げそうになるのを顕忠は堪えた。対局したことはないが、佐為が上手であろうことはみなが薄々感じていることだろう。

 だが──と顕忠は思う。どのみちどう足掻いても地下落ちは免れない。ならば()()()意義はあるのでは、と。

 

「それでは……もし私が侍従殿に優れば、私を召してくださいますか」

「なんと……?」

「対局にて雌雄を決し、勝者をお召しくだされば……と」

 

 言い下せば、今上は突然の直接的な奏上にやや驚いている様子を見せた。

 控えの女官たちも互いに顔を見合わせて困惑している様子が伝った。

 顕忠はごくりと息を飲む。

 今上は笏を口元に当て、しばし唸る。

 そうして何か思いついたような顔つきで口を開いた。

 

「誰を召すかはともかくも、そなたたちの対局は一度見てみたいと思うていたところだ。近々……そうだな菊の宴の余興に三番勝負などどうか」

 

 あくまで今上の口ぶりは軽いものだ。が、顕忠はいっそ仰々しいほどの動きで首を垂れた。

 

「ありがたくお受けいたします」

 

 おそらく今上は勝敗がどうなろうが佐為を遠ざけるような真似はすまい。が、勝てば確実に禄がある。菊の宴は今月九日の宮中行事で、めでたき席ゆえ結果次第では臨時の除目もあり得る。

 ゆえに、うまくいけば殿上の官職に取り立ててもらえる可能性も出てくるのだ。少なくとも訴えが通りやすくはなるだろう。

 

 

 なんとしても勝たねば──。



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第二十五話:呼び水

 初瀬から宇治まで戻った佐為と栞は宇治の別邸で数日過ごしてから京へと帰ってきた。

 

 

 久々の出仕は九月に入って初めてとなる。

 京はすっかり秋の匂いで満ちており、朝の空気に立ち込める落ち葉の香りを感じつつ佐為はいつも通りに出仕して侍従所へと向かった。

 そして自身の九月の宿直日などを確認していると、源の侍従が出仕してきた。

 

「佐為殿!」

「源の侍従殿、お久しぶりで──」

「そなた聞いたか!? そなたの居ぬ間に厄介なことになっておるぞ」

「え……?」

 

 会うなりこちらに駆けてきた源の侍従に佐為は目を丸めた。

 聞けば、六位蔵人の菅原顕忠が今上に自分との対局を懇願したという。そうして今上は今月九日の菊の宴にて三番勝負で雌雄を決せよと顕忠の奏聞を受け入れたとの話だ。

 

「菅原顕忠は一﨟になって六年、正月の加叙で巡爵だ。そなたも知るように六位蔵人がその任を解かれれば、昇段も止められることとなる。おそらく菅の一﨟は主上(おかみ)の碁師という立場で殿上に留まりたい腹だと思うのだが……」

「私に勝って主上(おかみ)の碁の指導を独占しようとしていると……?」

「そこまではどうか……。なにぶん私も女官からのまた聞きで……、話に尾ひれもついていようし」

「では主上(おかみ)に謁見して参ります」

 

 佐為はやや焦りつつ源の侍従に頭を下げ、その場を離れて内裏へと向かった。

 御前に召されての対局など珍しくもないが、相手がいささか不穏である。

 

 菅原顕忠。佐為自身が大学寮で学んでいた頃に大学寮の役人も務めていたゆえに存在そのものは昔から見知っていた。

 菅原一族らしく学問に秀で、紀伝道にて学んだ彼は囲碁の上手と大学寮でも評判で熱心に学生を鍛えていたと聞き及んでいる。

 とはいえ、佐為自身は彼との接点は特に持たずに来た。腕が立つのならばぜひ対局をと望んだこともあったが、佐為自身は藤原氏であり菅家との縁もなく、大学寮内でも一段低く扱われる算道の学生。いつか手合わせできる機会があれば、とは思いつつも日々をこなしているうちに彼は六位蔵人に取り立てられて大学寮から去ってしまった。

 

 そのしばらく後に先帝が譲位し、そして今上の御代となった。

 大学寮にいた佐為の耳にも今上が碁の上手を私的な師として取り立て、いずれは唐国のように棋官を置きたいと願っているとの声が届き、是が非でもその地位が欲しいと望んだのだ。

 幸いにして課試に通り、前々から目をかけてくれていた先の大学頭が今上に推挙してくれ恐れ多くも侍従に取り立てられて昇殿を許され今に至っている。

 

 そう、顕忠とは内裏で再会したのだ──と見えてきた清涼殿を見つめながら佐為は思う。

 

 昇殿の間を管理しているのは蔵人だ。

 蔵人の一人に今上への要件──表向きは休暇明けの挨拶──を告げて殿上の間に上がり、召されるのを待つ。

 黙しつつ佐為は改めて思う。顕忠とは内裏で再会した。

 自分に先んじて今上に碁の指導をしていた彼は蔵人という激務だ。おそらく今上が自分を特例に近い形で昇殿させ侍従に取り立てたのも、激務の顕忠一人では師が足りないと感じたゆえなのだろう。

 

 帝や春宮には学問や管弦を教える「御師」という存在がいる。

 おおよそにおいて地位ある人々が選ばれるゆえに正式な宣旨がおりるわけであるが、教えを請いたいほどの腕を持つものが高貴な出でない場合はどうであろうか。

 例えば管弦などは帝の身につけるべき教養であり、また──皇族出の博雅を例に取らずとも──楽狂いに近しいほど楽を羨望する帝は数多くいたため、時には名手と謳われる地下人や女人が時の帝に請われて参上することもあった。その場合は正式な“師”というより“相談役”と言うべきか。

 自分や顕忠の存在は後者に近く、そもそも囲碁は学問や管弦と違って必ずしも帝に必要なものではなく、“今上の師”という立場は非常に危ういものだ。が、一つはっきりしていることは、ひとたび今上の『師』に選ばれれば帝のそばに侍る栄誉を預かるのだ。仮に地下人であれ、昇殿の勅が下る可能性さえある。

 ゆえに下級官人からすればこの上ない名誉となるのだ。

 

 先ほど源の侍従が言ったように、顕忠は六位蔵人を辞しても昇殿を続けるために今上に師の役目を継続したいと奏上したのかもしれない。

 彼は次の正月には巡爵して『貴族』となる。であれば、「師」として昇殿の勅を受けるに不備はなくなると言える。

 とはいえ、だ。仮に彼が地下人に戻っても、もう一人の師──佐為自身──がいるのだから、今上の碁の指南そのものに不足はないだろう。侍従は蔵人ほどの激務ではないし、囲碁指南もつつがなく務められるだろうからだ。

 だからこそ彼は自分を追い立て、その地位を独占しようとしているのか。

 彼とは顔見知りではあるが親しく口を聞いたことはないし、大学寮にいた頃からあまり好意的とは言えない目線を向けられていた気がする。内裏(ここ)での位階はこちらが上ゆえ直接に何かをされたわけではないが、今上の囲碁指南を分け合う立場として築いたのは友好ではなく緊張関係でしかなかった事実は否めない。

 

 だからどうというわけでもないが。と考えているうちに許可が下り、佐為は東孫廂に抜けて清涼殿を歩いていく。

 

主上(おかみ)……!」

 

 ちょうど手が空いていたらしき今上の姿を見つければ、ああ、とあちらから先に佐為の方へ向き直ってきた。

 

「佐為の侍従、初瀬詣(はつせもうで)は無事済んだかな?」

「はい。道中特に問題もなく……」

「それは何よりだ。初瀬は京よりも秋深く、さぞ美しいことだろうね」

「盛りにはいま少しという頃合いでしたが、そのなんとも言えない色合いがまた格別で……、妻も京より遠く離れたのは初とのことで大層喜んでおりました」

「私もなにかと不自由な身ゆえに、北の方のお喜びが我がことのように分かるよ」

 

 今上は穏やかに言い下し、佐為はどう切り出したものかと考えあぐねる。が、迷っていても仕方ない。ごくりと息を呑むと思いきって聞いてみた。

 

主上(おかみ)、先ほど侍従所で耳にしたのですが……菊の宴のことなど」

 

 そこまでいえば、ああ、と今上は頷いた。

 

「そなたと菅の一﨟を召して三番勝負でも打たせようかと考えている。どちらが勝つのか……宴のよい余興となろう」

 

 言われて佐為は反応に窮した。

 こういう場での「対局」とは基本「賭け碁」である。先日の庚申待で頭中将に勝って録を得たように、勝てば録、負ければ罰杯であるのが常だ。

 しかし「賭ける対象は何か」とは佐為は聞けず口をつぐんだ。

 黙していると、侍従、と声をかけられ佐為は目線を上げる。

 

「そなたの腕は知っておる、が……そなたをそろそろ弁官に取り立ててはどうかという意見があってな」

「え……!?」

 

 思いがけない言葉に佐為は瞠目した。

 弁官とは太政官──最高機関──の実務中枢を担い諸司・諸国を指揮しつつ諸行事の運営をも行う非常に多忙な官職だ。

 弁官の下で働く下級官人である史は算道や各文書に通じた選りすぐりの賢人が務めるゆえ、佐為自身の出自には合っているとは言える。が、弁官とならば中弁以下は正五位相当──つまり今上は自分の出世を仄めかしているのだ。弁官の中でも高位となれば殿上人にとっては公卿への登竜門となるし、栞や博雅の親族の誰かが推したのだろうか。

 むろん出世は名誉なれど、弁官となれば今まで通り今上に碁の指導をする時間は取れまい。

 つまりは顕忠に負けるようであれば囲碁は諦め、激務に耐え朝廷に尽くして内大臣の婿らしい働きをせよということか。と、佐為の長い睫毛が伏せられて影を作る。

 

「もったいないお話で真に恐縮ですが……、私は主上(おかみ)のおそばでこれまで通り尽くさせていただきたく思っております。主上(おかみ)もご存知のように『琴棋書画』という言葉通り唐土では楽についで重んじられているのが囲碁にございます。”六藝備閑、棋登逸品“と評された高名な皇帝もいたほどに、かの地では皇帝たる御方と高く品位ある棋力が切り離せぬではありませんか」

「なるほど、そなたは出し惜しみするが……学才も惜しいものだな」

 

 あえて佐為が今上の傾倒する唐国のことを引き合いに出しいかに碁が帝に必要なものかを訴えれば、彼は褒めるような笑みを見せた。

 

「ともかく……その話はまた菊の宴の後にすればよい。それより今日は久々にそなたと打てるのを楽しみにしていたのだから……相手を頼もうぞ」

「は……、はい」

 

 佐為は返事をしつつ、今上の話しぶりから顕忠との対局は避けられないのだと察した。

 そして、勝敗によっては近々職位が変わる可能性さえ今上は示唆したのだ。

 弁官ともならば出世ではあるのだから、負けて出世するというのもいささかおかしな話であるが、だとすれば今上としては自分の勝ちを期待してくれているのだろうか。

 一方で、これまで尽くしてくれた顕忠にも情けをかけるということかもしれない。菅家である顕忠には、この後のはかばかしい出世は不可能に近いからだ。

 対する自分は──今をときめく家系ではないが──藤家ではあるし、なにより立場としては内大臣の婿だ。碁で実力を示せないなら朝廷に尽くせというのは道理だろう。

 

 だが──神の一手を極めんと自負する自分が碁で誰かの下位になるなどとうてい我慢のできることではない。このようなところで負けていては、それこそ神の一手を極めるという戯言など二度と口にできまい。

 

 なんとしても勝たねば──。

 

 

 

「今日の出仕でなにかありました……?」

 

 公務が済んで帰宅した佐為は栞を捕まえてひたすら打ち続けた。

 言葉も少なく幾度もの対局を繰り返し、いつの間にか格子も全て下ろされ、もう暮れきってしばらくたった頃。何度目になるか分からない対局が済んだ後に栞が佐為に訝しげにきいた。

 

「え……?」

「帰ってからずっと怖い顔をなさっているから……何かあったのかと思って」

 

 指摘されて初めてはっとした佐為は努めて表情を緩めてみせる。

 

「こうしてゆっくり碁盤に向かうのは久しぶりなので、つい」

「ならいいんですが……」

「栞、もう一局お願いします」

「え、でも……」

「頼みます」

 

 おそらくはもう休もうと言いかけた栞に再度言えば、栞は不審げながらも頷いた。

 

 栞と顕忠の棋力にどれほどの差があるのかは分からないが、栞は置石なしの互先で打てる貴重な相手。そんな相手は京中を探してもきっと見つかるまい。

 だからこそこの人を欲したのだ。

 

 我ながら、こうして思うとなんと利己的に妻を選んだことか──。

 

 長く時間を共にするに従い、栞は自分とは志を共にする同志ではないのだと後追いで実感し……なによりも情を交わす相手ゆえか無意識に打つ手を控えるようになってしまったが。今ばかりは──、と無慈悲なまでに文字通りに一刀両断すると、投了した栞はやや困惑したような怯えた表情を浮かべた。

 いけない、と佐為は律するもかける言葉に詰まっていると、しばらく盤面を見て黙していた栞は小さく口を開いた。

 

「私、なにか気に障るようなことしました?」

 

 そうして怒っているのかと訊いてくる栞に佐為はなお返事に詰まった。

 どう説明したものだろう。菊の宴で今上の碁師を賭けて打てと言われたなどと。おまけに弁官への昇進さえ示唆され──。考えあぐねた佐為は誤魔化すように首を振るった。

 

「いえ、ただ……少し自分を鍛えたいと思っただけです」

「私ではあなたが満足いくほどの相手はできないと思います。お望みなら……誰か対局相手を招きましょうか?」

「京中を探してもそなたほどの打ち手は見つかりませんよ」

 

 ──だから栞を欲したのだから。とは続けないでいると、栞はやや複雑げに笑う。

 

「あなたにとっての私の価値は棋力の高さ……というのは分かっていますが、それでも足りない自分が恨めしいです」

 

 まるで佐為の飲み込んだ言葉を察したような栞の声に佐為はハッとしたが、栞は腰を上げて今日は先に休むと告げその場を離れた。

 

「お待ちなさい」

 

 さすがに自分の態度があまりに度を越していたと悔いた佐為は栞を呼び止める。

 

「そなたの碁の才に惹かれたことは事実です。ですが……」

「分かっています。ただ、あなたと同じようには碁盤に向き合えないことが……少し寂しかっただけです」

 

 お休みなさい、とほんの少し振り返って告げた栞は寝所へと向かい、その後ろ姿を見送ってから佐為は小さく息を吐いた。

 こんなことではダメだ。少し落ち着かねば。栞にもちゃんと事情を話して……と思いつつ盤面を睨む。

 もしも栞の夫でなければ、弁官への出世の話はなかったはずだ。言うなれば顕忠と同じ、後ろ盾のない下級貴族に過ぎなかった。

 そうであれば、今回の話なども負ければそのまま地下に戻るというオチなのだろう。叙爵はされたのだから貴族から落ちることはないにしても、おそらく内裏(うち)にはいられまい。

 いけない。と考えすぎている自身を佐為は叱咤する。あまり気負いすぎては良い碁は打てまい。

 考えつつしばし一人で打ち続けてから、その夜は佐為も寝床へと入った。

 

 

 翌日、内裏。

 菊の宴でのことがうわさとなり内裏を巡っているのか妙に周りからの視線を感じる。

 宴での御前対局などさして珍しいことでもないというのに、“賭け事”がいささか特殊ゆえだろうか。

 

「佐為の君……!」

 

 佐為が居心地悪い思いをしつつ内裏を歩いていると、見知った声に呼び止められた。

 見上げれば、仁寿殿の簀子を歩いていたらしき橘内侍(きのないし)の姿が見え「ああ」と向き直る。

 

「どうし──」

「あなた、菊の宴で菅の蔵人と御前で賭け碁をなさるんですって?」

 

 歩み寄ってどうしたのか聞こうとすれば、彼女は手摺りまで駆け寄ってきてこちらを覗き込むようにして言った。

 

「そうらしいですね。私も昨日聞いたばかりで……なにやらうわさになっている風なのは落ち着きませんが」

「負ければ職位が上へ変わるやもしれないともお聞きいたしました」

「それは……、ええ。そのような話は私も主上(おかみ)からそれとなく」

 

 少し笑えば、彼女は相変わらずの艶やかな顔を顰める。

 

「菅の蔵人は年明けには加階巡爵ですので、あなたに負ければ予定通り地下に戻ります。お気をつけなさいまし」

 

 佐為にとっては予想外の言葉で、無意識に肩がやや揺れてしまう。すれば眼前の相手は不審そうな目をし、佐為は「失礼」と笏で口元を覆った。

 

「そなたにとっては私が出世した方が望ましいかと思っていたもので……」

 

 まさか勝敗を案じてくれるとは、と続けると橘内侍(きのないし)は心外とでも言いたげに少しだけ目を丸めた。

 

「御覧試合に勝たれた上でご出世なさるのが一番嬉しゅうございます」

「なんと……、そなたらしい言い分ですね」

「わたくしの選んだ男君はそれに見合うお方でいてもらわねば……こちらの恥にもなりますゆえ」

 

 佐為はその言葉に苦笑いを漏らした。

 あまり心配しないよう言って彼女に背を向けると、その背後で橘内侍(きのないし)は不安げな表情を浮かべたものの、佐為はそれとは知らずにその場を去る。

 

 

 いまの佐為に橘内侍(きのないし)のことまで気を回している余裕はなく、帰宅すれば栞ときちんと話をしようと公務が済むと真っ直ぐにやや緊張したまま四条の屋敷へと戻った。

 

 折も折で、栞は庭の菊を摘んでいる最中だったようで両手いっぱいに抱えたまま迎えてくれた。

 

「おかえりなさい」

 

 優美な菊を溢れるほどに抱えたその姿はあまりに可憐で、一瞬にして緊張の解けた佐為は思わず目を細める。

 

「ただいま。見事な菊ですね」

「ええ、博雅さまにもお届けしようと思って」

 

 宴の際には宮中の菊もちょうど見頃となるはずだ。菊の宴での御前対局は佐為自身にとっては一大事とはいえ、今上や公卿がたには花に添えるいい余興でしかないだろう。

 栞が菊の処理を指示している間に佐為は着替えを済ませ、碁盤の用意をしてから栞をそばへと呼んだ。

 栞は対局を請われると思ったのだろう。昨日のことがよぎったのか僅かに身構えた様子を見せた。

 やや罪悪感も覚えつつ、佐為は自身の隣に座るよう促す。

 

「打たれないの……?」

「その前に話をしておこうと思いまして。九日に菊の宴が宮中で催されるのは知っているでしょう?」

「ええ」

「実は主上(おかみ)に召されて御前で対局することになったんです」

 

 腰を下ろした栞の手をそっと取って言えば、栞には意外すぎる話だったのだろう。きょとんと瞳を瞬かせている。

 

「先日も召されてませんでした……? 庚申待で」

「今回のは少しばかり毛色が違います、実は──」

 

 佐為は順を追って顕忠との対局の詳細を栞に話した。顕忠がこれに賭けているであろうこと、負ければ出世ではあるが激務となる可能性もある等々を含めてだ。

 

「そなたには悪いと思うのですが……私は今は出世よりも主上(おかみ)のおそばで碁の師でありたいのです。いつまでもこのわがままが許されるとは思っていませんが、今ばかりは」

「佐為の君……」

「そういう事情から、昨日はやや気が焦ってしまい……申し訳ないことをしました」

 

 怖がらせるつもりはなかったのだが。と頬を撫でると、栞は合点がいったとばかりに薄く笑った。

 

「私の腕で菅の蔵人の代わりが務まったのならいいのですが」

 

 その言葉に佐為は思わず肩を揺らし、手を引いて栞の身体を自身の胸に収める。

 

「棋力の方はなかなかですが、お姿が可愛らしいので代わりとまではいきませんね」

 

 膝の上に座らせて顔を覗き込めば、栞は呆れたような顔色を浮かべた。

 

「あんなに容赦なく打たれてたのに」

「昨日は気が立ってましたから」

 

 髪に指を絡めながら額に唇を寄せれば腕の中の栞はくすぐったそうに身をよじる。

 柔らかな感触に安堵しつつ、佐為は思う。いずれは出世の話も受けて、この人の夫として大臣や博雅への恩に報いなければならないだろう。それに、もっと立場が重くなれば恐れ多くも今上とさえもう少し打ち解けた碁が打てるかもしれない。そう思えば悪いことでもない。

 そのうちに栞が子を産めばみなが望むような美しく碁も強い子となろう。その子と共に高みを目指すというのもまた我が人生の定めなのやもしれない。

 考えていると、栞が不安げにこちらの頬にそっと手を添えて心配そうな目をした。

 

「余興とはいえ、職位を賭けるとは行き過ぎに思います。主上(うえ)もおかしなことを言い出されたこと……」

主上(おかみ)も長く蔵人を勤めたあの方への労いもあるのでしょう」

「でもあなたと対局なんて……。互先なのでしょう? そんなにお強い人なの?」

「お強いといううわさは聞いています。手合わせしたことはないですし、私たちをよく知る主上(おかみ)も我々の腕を比べることはなさいませんでしたから、実際の棋力はなんとも……」

 

 それに打ってみなければ真の技量は計れない。と言うと、栞は不安げな表情のまま佐為の肩に頭を預けた。

 

「無事に済めばいいのですが……」

「ええ。必ず勝ってみせます」

 

 もとより碁をもって今上に仕えるという立場を失うわけにはいかない。と栞の髪を撫でつつ佐為は目線を鋭くする。

 

 

 そうして佐為は菊の宴までの数日間は出仕している間以外のほぼ全ての時間を碁盤の前で過ごした。

 一人で石を並べ考え込むのはもちろん、栞にも心ゆくまで対局に付き合ってもらった。

 

 栞にしても、普段の対局以上に一局一局に神経を集中させた。いつも以上に佐為を負かす気で打った。

 その中の何局目だっただろうか。

 ふと佐為が盤面を見下ろして手を止めた。

 白を持っていた栞は首を捻る。

 左上の隅に白地がつきそうな局面だ。黒としては阻止しない手はない。上辺との連絡も睨んで打つ手に迷うところではない気がするが、どうやら長考に入ったらしい彼を見て栞も再度盤面を睨む。

 一見して迷うような場所でない時に佐為が長考に入る場合、こちらには考えも及ばない一手を打ってくるのが常だが、果たして。

 などと栞も同じように考え込んでいると、しばらくして佐為の選んだ一手は左下の白石に割り込む形で置かれ、反射的に栞は目を見張った。

 全くもって考えていなかった手だ。思わず佐為を見るも、彼は険しい顔を崩さない。──嵌められようとしているのだろうか。思いつつ当て押さえ、慎重に手を進めて十手ほど重ねたところで栞ははっとした。

 ──やられた、と気づいた時には見事にダメに嵌っており唸るしかない。

 

「よくこのような手を思い付かれますね……」

 

 いっそ恐ろしいとさえ思う。もう一人の今上の師がどれほどの腕かは知らないが、この人を上回るなどあり得るのだろうか。

 

「そなたのおかげでもあります」

 

 佐為の方は感心したように言う栞に少しだけ笑ってみせた。

 栞の棋風は力強い歴戦の武者を思わせる。本人は兵法のために碁を学んだからだと言っていたが、そんな栞とずっと打っているためだろうか。自分の方は局地戦を凌ぎ全体を見渡す術が大幅に向上したように思う。

 惜しむらくはこの人が碁打ちではなく、妻であったことだが──。一瞬だけよぎらせて佐為は再び鋭い目線で碁盤へと向かった。

 

 

 

 一方の菅原顕忠も迫る御前での対局について考え込んでいた。

 

 なんとしても勝たねばならない一局だ。

 

 地方官として山陰にいた頃、唐人から聞いた様々な話を懐かしく思い出す。

 

 碁打ちは唐土では重んじられている。ゆえにその地位にしがみつこうと悪どい手を使う例も過去にあった。

 

 という言い伝えに過ぎないだろう事例をいくつも聞いた。

 

 唐よりもはるか昔の王朝時代のとある皇帝がことさらに碁を愛し、その彼の寵を競って宮廷内では陰謀めいた策略があまた張り巡らされていたという話も中にはあった。

 むろん史実ではなかろうし、仮に似たような事例があったとしてもだいぶ尾ひれがついて説話化しているものであろうが。そうまでして自身が得た職と地位にしがみつきたい気持ちは分かるというものだ。

 

 一つ違いがあるとしたら、ここは唐土ではなく京ということだろうか。

 いくら今上が囲碁を愛でていようが、師の地位は政務には何も影響せず議政官含む上達部たちは誰がその地位に就こうが気にも留めない。

 

 しかも。──と顕忠はさらに思いを巡らせた。

 

 あちらは囲碁が一定の公的地位を持っているゆえに囲碁絡みの事件、つまるところ政争は特定の誰かを謀って組織的に起こるのだ。

 

 が、ここ京の朝廷ではせいぜい囲碁道具に小細工くらいしかできることはないだろう。

 

 しかもその道具を用意するのは内侍の仕事。──上臈の掌侍である橘内侍(きのないし)は佐為の通いどころの一つのはずだ。つまり、少しでも不穏な動きが露見すれば内侍を通してすぐに佐為にも今上にも筒抜けとなってしまう。

 

 結局のところ、自力でなんとかするしかないのだ。

 実力で勝てればそれに越したことはないが、勝算があるかと問われれば厳しいと言わざるを得ない。

 もしも盤面劣勢となればどうすれば良いのだろう?

 素早く石の列をズラす術などを取得しておくべきやもしれない。

 菊の宴が催されるのは紫宸殿。それも正式な御覧対局となれば今上や公卿がたから盤面は遠いのだ。細かい石の並びなど恐らく見えまい。つまりは誤魔化しやすいと言える。

 なに、罪悪感に苛まれることはない。どうせ佐為は負けてもその地位に影響はないどころか出世の話さえあるのだ。

 裏腹にこちらは負ければ地下送りに加えて地方送りがほぼ決まったようなもの。

 これほど理不尽なのだから、勝つための手段など選んではいられまい。

 

 並べた石を巧みに袖で隠しつつ一路ずらしてみて顕忠は口の端を上げた。

 

 盤面はみなから遠く、盤面複雑となれば初手から覚えているだろう打ち手はいない。仮にいても誰が佐為を庇うのか。しょせん我らの対局など公卿がたにとっては宴の余興でしかなく、公事を荒立てることなど望むまい。

 例外はせいぜい博雅だろうが、あの楽狂いが我らの対局に口を挟めるわけがない。

 

 うまくやれば確実に誤魔化せる。そう、誤魔化せるはずだ。落ち着いて、冷静にやればいい。

 

 

 そうして顕忠が策を巡らせていることなど知る由もなく、菊の宴は明日へと迫った。

 

 明日の御前対局で使用する碁盤と碁石の用意は内侍の仕事である。

 内侍所で預かっているそれらを見つめて、橘内侍(きのないし)は小さなため息を吐いていた。

 明日は佐為と顕忠の御前対局。佐為のことだ、囲碁以外でならば顕忠を哀れんで情けをかけるやもしれないが、碁ではまずないだろう。彼にとっても自身の矜持を賭けた対局のはず。

 ふ、と橘内侍はさらに息を吐いた。

 佐為とはもう二、三か月ほど()()()いない。

 彼とは長い付き合いになるが、こんなことは初めてだ。

 昼間に顔を合わせることはあるし、たまに文のやりとりはするが……見たところ彼は他の通いどころにも寄らず毎日公務が済めば四条へと戻っているらしい。

 先日は休暇をとって初瀬詣(はつせもうで)に出かけていたということであるし、彼が()()()()()()()なのかはそれで察した。ゆえに問いただしはしなかったが──。

 

 内侍として宮仕えをしている以上、世間並みの家庭を築けないのは承知している。それに、いつ通うかも分からない夫をただじっと待つだけの人生などこちらの方から願い下げだ。

 だから佐為(あの人)と家庭を持ち家に収まりたいと思ったことはない。

 

 だけど、でも。

 いつか……彼はせめて自分を妻の一人としてくれるだろうか──?

 

 一瞬だけ浮かんだ考えに橘内侍(きのないし)は小さく首を振るった。

 

 

 やや心の乱れが出たせいだろうか。

 彼女は碁盤と碁笥の入念な最終確認を失念した。

 そのことを、生涯に渡り悔やむ結果となるなど知らずに──。



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第二十六話:重陽

 太古の昔、唐土ではあまりに極まった『陽』は不吉だと言われてきた。

 陽──すなわち奇数の、その極地が重なる九月九日は不吉を運ぶがゆえに祓うための節句が制定されたほどだ。

 のちに吉祥に転じたその日は、海を渡った先のこの国でさらに意味合いを変えた。が──果たして()()()()が正しかったのか。

 

 

 

 ──九月九日、未明。

 

 佐為はなかなか寝付けない自身を恨みつつ、幾度となく目を開けて暗い屋敷の梁を眺めていた。

 

 裏腹に……と傍らで寝息を立てている栞を見やってわずかに口元を緩める。

 こんな風にこの人の温もりを感じて眠るのがいつの間にか当然のようになってしまった。本来なら望むべくもない高貴な人を……と目を瞑るも、やはり菊の宴での御前対局を気負ってしまっているのか。どうも落ち着かない。負ける気など微塵もないというのに。

 

 

 菊の宴は唐土より伝わった“重陽(ちょうよう)の節句”が宮中行事化したものだ。かの地では陽数の重なるこの日──九月九日──の意味合いは大きく、邪気を祓い無病息災や長寿を祈る重要な祭事であったが、ここ朝廷では菊を愛で詩歌を詠み宴を楽しむことを主にした娯楽の意味合いの強い行事となっている。

 

 今年も例年と違わず、紫宸殿にて今上が宴を催し親王・公卿らが参列して舞や詩を楽しみ酒を酌み交わす場となる予定だ。

 違っているとしたら、宴の余興の一つに御前対局が加わったことくらいだろうか。

 

 

 今年もきっと、舞や詩歌で華やかな宴の席となるだろう。と、栞はやや遅めに出仕の支度をする佐為を見守りながら幼い頃から慣れ親しんだ内裏の様子を思い浮かべた。

 もう二度と足を踏み入れることはない場所であるが、記憶の中の内裏はいつでも華やかな場所だ。

 

 重陽は唐土に倣い、長寿を願う節会でもある。

 もしも長い時を生きていられたら、いつか自由に外を走りまわって舞い踊れる世となるだろうか──。

 などという願いを口にすれば、また佐為を困らせてしまうから脳裏に留めておくが。

 やや自嘲しつつ佐為を見やる。どことなく緊張した面持ちだ。今日の宴での御前対局を気負っているのだろうか。

 

「今日は宴の場ですから、帰りは遅くなると思いますが……」

 

 支度が済んだ佐為は、見送りに妻戸の外まで出てきた栞に一度向き合った。

 

「お帰りになるまで起きています。博雅さまにくれぐれもお酒を召されすぎないよう言伝くださいませ」

「それは……、伝えても聞き入れていただけるかどうか」

 

 ふふ、と互いに小さく笑い合う。

 佐為はそっと右手を伸ばし、栞の左頬を優しく撫でた。

 

「では、行ってまいります」

「はい」

 

 栞は佐為の右手に一度手を添え、頷いてからその背を見送った。

 

 

 牛車に乗り込んだ佐為は先ほど栞の頬に触れた右手を口元に当てた。

 そして微かに眉を寄せる。温かかった栞の頬とは裏腹に指先がやや冷たい。緊張しているのだろうか。

 今上にとってはいつもと同じ御前対局だろう。庚申待の夜に頭中将と打った対局となんら変わりはないはずだ。

 ただ自分にとっては──。碁打ちとして雌雄を決する場で負けることは自身の存在意義さえ否定する死にも等しいものだ。

 これに負ければ帝の碁の師という立場を失っても致し方あるまい。甘んじてどんな職位も受け入れ、内大臣の婿に相応しく朝廷に尽くす以外に道はない。

 仮にも神の一手を目指そうと自負する自分がここで敗するなど、片腹痛いにもほどがあろう。

 

 だが、それは相手も同じはず──。

 

『菅の蔵人は年明けには加階巡爵ですので、あなたに負ければ予定通り地下に戻ります。お気をつけなさいまし』

 

 相手の思惑がどうあれ、負けるわけにはいかない。

 清涼殿(あの場)から追い落とされるわけにはいかないというのは変わらないのだ。

 ふ、と佐為は息を吐いた。

 課試を受けた時でさえこれほど気が昂ぶることはなかったというのに。今まで数多の人と数えきれない対局を重ねてきたが、ここまで神経を尖らせる一局は初めてだ。

 唐土で皇帝に仕えたという棋官たちは、このような張り詰めた日々を送っていたのだろうか。あまりに時代も国も違うゆえに想像すらできないが、本気の打ち合いが続く日々という意味では少し羨ましくもある。と、緊張と高揚の入り混じった複雑な思いを巡らせていると牛車は大内裏に到着した。

 

 ともあれ、今日は菊を愛でる日でもある。

 内裏中がすっきりと落ち着いた菊のにおいに包まれているのが分かる。そこかしこで邪気を払う名目で菊の花を鑑賞しているのだろう。

 宴の催される紫宸殿では観菊の用意や菊花酒の用意で今も官人たちが忙しなく働いているに違いない。

 

 

 昼に差し掛かればいよいよ菊の宴──重陽の節会が始まる。

 今日の節会で内弁──奉行役──を務めるのは一上(いちのかみ)たる左大臣だ。

 彼は今上の紫宸殿への出御を待ち、尚侍(ないしのかみ) ──娘である中の君──に召されて紫宸殿へと上がった。そうして参列した親王・公卿らを饗座につかせる様子はまさにかの藤家の栄えを見せつけるようですらあったが、今日は何を置いても菊を愛でながら長寿を願うめでたき場だ。

 今上は母屋中央の御座に、親王・公卿らの席は母屋東第二間に斜め行きに配置され、舞や詩歌が順に披露されて雅やかに菊の花びらを浮かべた酒に酔う。

 今上も親王たちや公卿らも、この優雅な席をただ楽しんでいた。

 こうして今上が臣下たちと空間──この場合は母屋──を共にするのは紫宸殿ならではと言えるだろう。観菊の場というのも相まって、いつもは政務に目を光らせている者たちも今日は肩の力を抜いているようにさえ見えた。

 

 

 そうして宴が進み、佐為と顕忠の三番勝負も近づいてくる。

 碁盤を運んできたのは上臈の内侍たる橘内侍(きのないし)だ。

 彼女は南廂の母屋との境目に沿って設置された座具の上に碁盤を置き、黒石の碁笥を下座に、そして白石の碁笥を上座に置いた。

 対局するのは自分ではないというのに、いやでも緊張してしまう。橘内侍(きのないし)は汗ばむ手を袖に隠し小さく息を吐く。

 佐為の宮廷での立ち位置はなんとも複雑だ。栞と結婚したことでそれなりの後ろ盾は手に入れたとはいえ、かえって彼の台頭を警戒し始めた公卿らもいるに違いない。

 今さらながら、彼はなぜ大臣の姫に妻問いなどしたのだろう。当時はさまざまなうわさが飛び交っていたが、彼は一度も自分に()()を話すことはなかった。

 出世のためだろうか。それとも本当にあの姫に心を奪われたというのか。

 こちらから訊けるはずもないというのに、平静を装ってめでたきことだと取り繕う以外にどう道があったというのだろう。

 

「……」

 

 こんな時になぜ今さらなことを、と橘内侍(きのないし)は心内で自嘲しつつ碁盤を一瞥してからその場を去った。

 

 そうして準備が整い、佐為と菅原顕忠が参入して座すれば“余興”の始まりである。

 三番勝負で二局勝った方が勝者となる。位階が上の佐為が上座で後手番だ。

 

 御帳の倚子の御座に座した今上は碁盤を挟んで向かい合う二人を見下ろしながらほんの少し口元を緩めた。

 こうしてやや離れて眺めていると、改めて下級官人からよくもあのような美しい廷臣が現れたものよ。と、観菊の場がこの上なく似合う臣下(佐為)を見て今上は感じた。物語の中にはこの世のものとも思えぬ美貌の貴公子が登場するが、まさにそのような表現が似つかわしい。

 もしも彼が権門の出で自分に内親王(ひめみこ)がいたとしたら、彼のところに降嫁させて娘婿にしたいと思うほどの優美さだ。

 

 そういう意味では(そち)大臣(おとど)が羨ましくもある、と今上は遠い地にいる従兄弟を浮かべた。

 

 彼に()が生まれたのち、何度か内々で話をしたことがある。もしも自分が春宮に立てば、姫を入内させていずれは中宮に立てよう。すればより良い親政を執り行えるようになる、と。

 娘が中宮に冊立される。全ての公卿の夢だろう。が、彼は源氏一族からの悲願の立后と、藤家との勢力争いとを秤にかけ、ついに首を縦には振らなかった。

 そうして内親王(ひめみこ)の如く生涯を独身で、とさえ大臣が考えていたらしきことを顧みれば、あの姫()のためにはこうなって良かったのだと思う。

 佐為にしても、どれほどの才覚があろうと栞と縁続きになっていなければ生涯に渡り一切の昇進は不可能だっただろう。彼は本来、いまの地位にすら遠く及ぶべくもない出自なのだ。だが内大臣の婿なら話は違う。摂関家の公達ほどはかばかしくはなくとも、それに見合う出世は必要だ。

 佐為自身は出世意欲を見せてはいないが、この三番勝負を制すれば録という形で後押しがしやすくなる。職位を変えずとも加階なら可能だろう。

 万に一つもなかろうが、もしも負けるようなことがあれば本当に弁官にしてしまうのも有りかもしれない。佐為は難色を示しているが、いずれは経験してもらわねばならないことであるし、慣れれば碁の指導を頼む時間も増やせるだろう。

 それに、佐為のこととは別に顕忠が長年に渡り尽くしてくれたのもまた事実。正月の巡爵及び除目で彼には国司の任が下るだろうが、昇殿の勅を出し碁の指導を続けさせれば遙任という形で京に留まったとしても文句は出まい。

 

 

 などと考えを巡らせている今上の心内など知る由もなく、佐為は盤面に意識を集中させていた。

 

 

 それは見守る博雅も同じであり──。

 まだ序盤。どちらが優勢かは分からない上に盤面もはっきりとは見えない。と、公卿の座の博雅は難しい顔をしていた。

 私的な宴席であれば堅苦しい座でなくもっと碁盤も近いというのに公事ゆえに遠すぎる。年配の親王・公卿がたは盤面の石の並びなどとても見えないだろう。

 今上ですら見えているかどうか。と、博雅は目を凝らした。石自体はなんとか判別できるが、自分は栞のように碁が達者なわけではない。

 佐為は後手番ゆえに黒を追いかける形で石を置いている。黒は攻めながら左下辺に地を作ろうと励んだようだが、どうやら白に相殺されたように見える。──が、心許ない。と博雅は碁の上手に解説を求めたい気になるも、この距離でも目視可能な年齢かつ碁の腕が良さそうな参議陣は全員下座におり、彼らの席からは佐為の後ろ姿しか見えていないはずだ。

 うむむ、と博雅は唸った。

 彼が碁に対して並々ならぬ情熱を注いでいるのはよく見知っている。私的な御遊の席でさえ勝ちを譲ったことなどないのだから、このような公事の席で負けるなど彼にとってはあってはならないことだろう。

 まして神の一手を極めるなどと大それた願いを口にする彼ならば──、と思うも否が応でもはらはらしてしまう。

 はやく管弦の席となれば良いものを。思う間にも盤面は着々と進んでいく。

 

 

 一方の顕忠は眉を寄せつつちらりと佐為を睨んだ。

 対局するのは初めてゆえに彼の棋風はほぼ知らない。算道で暦学をかじった影響なのか、大胆でいて盤面全体の調和を睨んだ常人には思いつかないような手を打ってくる。一見すると奔放なようで、打ち進めると手筋となり無駄な石さえ一つもない。

 打ちやすいはずの先番でこうも打ちにくいとは。まだ勝負の行方は分からないが、右上辺はこちらが生き勇んでしまい白に上手く打たれ、左下にもまとまった地を作らせてしまった。

 ギリ、と歯軋りしつつ顕忠は石を中央に打った。

 昔、佐為が学生だった時分に打ったという対局図を並べてもらった時にも手強いと感じたが、あの時より遥かに棋力が向上している。

 もしも先番のこの対局を落としたら、次の後手番はもっと厳しい戦いとなるだろう。

 そうなれば──、考える顕忠の背に汗が伝った。

 実力で勝てればそれに越したことはないが、もしもという時のために何度も何度も人目を欺き盤面を操作する術を修練してきた。が、手を加えるには終盤まで行き盤面複雑にならねばやりづらい。万が一にも中押しとなればもはや手立てはなくなるのだ。

 それは避けなければ……と、碁笥から次の石を掴んだ顕忠は思わず眼を見開いた。

 一瞬だけちらりと目の端に捉えた碁笥の中に白石が一つ見えたのだ。

 なぜだ、と真っ先に顕忠の脳裏は不可解さに支配された。

 碁笥に相手の石が混じることが全くないとは言わないが、これは公事での御前対局なのだ。しかも、碁盤と碁石の用意を預かっていたのは内侍所で、準備をしたのも運んできたのも橘内侍(きのないし)。──佐為とは昔からの皆に知れた仲だ。

 だからこそ、事前に対局道具に小細工をするなど不可能だと断念したというのに。

 なぜだ、と重ねて考える顕忠の頭はとある答えを弾き出した。

 わざとではないだろうか、と。

 佐為には内大臣の姫という揺るぎなく寵愛も深い北の方がいる。その上、お気に入りの通いどころとうわさなのは彼女ではなく麗景殿の女房。表向きは睦まじくしていたとしても橘内侍(彼女)は才気豊かな宮仕えの花なのだ。内心どう感じていたかは分かったものではない。

 とくれば、御前での対局で佐為に恥の一つでもかかせてやろうと悪戯めいた仕込みをしていても不思議ではないだろう。

 であれば……、と顕忠は掴んでいた碁石を碁盤の上辺に打ち込んだ。佐為の視線を少しでも佐為側の辺に留めておくためだ。

 そうして顕忠はごくりと息を呑む。この碁笥に混じった白石を自分のもの(アゲハマ)にしてしまおう。おそらくは一目、二目を争う際どい勝負となるのだ。アゲハマは一つでも、二つでも喉から手が出るほど欲しい。

 なに、臆することはない。きっと上手くいくはずだ。この碁笥の場所は今上からも親王・公卿席からも死角で見えないうえ、仮に咎められても真の咎人は準備を怠った橘内侍(きのないし)。そうだ、彼女に懇願されたとでも言えばいい。

 自分に靡かぬ恋人への仕打ち──、皆が食いつくだろう。

 

 などと顕忠が思い巡らせているなど知らず、佐為は盤面をじっと見ていた。

 先ほど顕忠が放り込んできた一手──、黒は右辺下に勝負を仕掛けたいらしい。ここを競り勝ったとしても中央がどうなるか、と先を読みつつ序盤に置いた白石に繋げる。

 そしていったん手を膝に戻した佐為はふと顔を上げた。その視界にたまたま、本当に偶然に目線が黒の碁笥を捉えた。刹那、佐為の切れ長の眼がやや見開かれる。視線が捉えた黒石の碁笥に白石が一つ混じっているのが映ったのだ。

 滅多に起こらないことゆえに佐為は首を傾げた。この碁盤と碁石を用意したのは橘内侍(きのないし)のはずだ。彼女がこのような失態を犯すとは思えないが──、ともあれ、そのうち顕忠も気づくだろう。

 目についたゆえになんとなく黒石の碁笥を見ていた佐為は、次の瞬間に信じがたいものを目にした。

 顕忠が碁笥に混じった白石を掴んだあと、あろうことか自身の碁笥蓋の上に移動させたのだ。

 アゲハマと混ぜた──、目を見開いた佐為は考えるより先に口を開いていた。

 

 

「そなた、今──」

 

 

 顕忠はというと、慎重に慎重を重ねた白石の移動をまさか見咎められるとは思っておらず、反射的に立ち上がって佐為の言葉を遮った。

 

「侍従殿! 碁笥に混じった私の黒石をアゲハマにするとは……見損ないましたぞ!」

「な──!? な、なにを言う。それは今そなたがしたことではないか!」

 

 佐為の方もまたそのような反論が来るとは露ほども思っておらず、反射的に反論した。

 

 そうして始まった突然の言い合いに辺りがざわつき、公卿席で見ていた博雅も困惑するしかない。

 碁笥の石を? 見ていたか? などと周りの公卿たちも囁き合っている。

 いったい何が起こったのかは知る由もない。が、いくら対局で熱くなっているとはいえ御前でやったやらないの言い合いは悪手ぞ。と博雅は二人へと脳裏で訴えたが、声を出せない場であることが口惜しい。

 誰か、親王でも大臣でも誰でもいい。はやく二人を取りなしてくれ、と博雅が上座を見やるも誰よりも先に今上が帳台の御座から二人を一喝してしまった。

 

「これはいったいなんの騒ぎか! この紫宸殿での一局を汚すなどあってはならぬ!」

 

 そして今上は顕忠に座するよう告げ、そのまま続けるよう命じた。

 ハッとしたように顕忠はその場に座する。

 佐為はというと、公卿たちが何かを囁き合っている気配が背に伝い、つ、と額から汗が流れ落ちるのを感じた。まだ脳裏が眼前の出来事を処理できていない。

 黒の碁笥に白石が混じっているのを確かに見たのだ。それを顕忠が自分のアゲハマにした。だというのに、彼はこちらがそうしたと訴えたのだ。

 なぜ──?

 

『菅の蔵人は年明けには加階巡爵ですので、あなたに負ければ予定通り地下に戻ります。お気をつけなさいまし』

 

 顕忠にとっては背水の陣ゆえに何を仕掛けてくるか分からない。そう橘内侍(きのないし)が忠告してくれた言葉が佐為の脳裏を掠めた。

 だが、あの碁笥を用意したのは他ならぬ彼女なのだ。ゆえに、黒の碁笥に白石が混じっているなど有り得ない。ではなぜ……?

 もしや、故意なのだろうか。彼女との仲が変わらないと思っていたのは自分だけで、恨まれていたというのか。

 いや、そんなはずは──。

 

 

 動揺を隠せない佐為を知らず、今上は御座の上でしたたかに眉を寄せていた。

 佐為との対局を奏上してきた顕忠はもとより、佐為にとってもこの対局が重要であることは百も承知だ。

 しかし醜く勝ちにしがみつく様など誰が見たいというのか。

 そもそも囲碁という遊戯は、言わば言葉を介さぬ会話だ。手談と呼ばれる所以でもある。今上たる自分が臣下である彼らと席を同じくし手談を交わす。碁を打っている間だけは眼前の彼らは師であり友であるとさえ感じていた。

 特に佐為は、今上たる自分に臆することなく勝ちを譲る姿勢さえ一度たりとも見せなかった。それでいて無理な手は打たず、鮮やかに軽やかにかわして先導していく打ち筋にどれほど心打たれてきたことか。そう、未だ見ぬ神の一手とやらでさえ本当に極められると信じさせるほど。

 そんな彼が相手の石を故意にアゲハマにしたなど、とても考えられぬ。そんなことをせずともいつもの調子で勝てるであろうに。

 それとも、自らの手を汚してまでも勝ちにしがみつきたいというのだろうか。

 佐為を内裏(うち)から出したくないと考えていたが、このような騒ぎを起こした以上、国司に任じ下向させて廷臣の自覚を促すのも将来のためによいやもしれぬ。あれほどの打ち手なのだから碁の方を優先させたい思いを甘んじて見逃してもよいと考えていたが、そもそも朝廷に尽くすのは廷臣たる彼の義務。

 しかし国司とならば嫡妻たる栞もついていかざるを得ず、父の大臣に恨まれるだろうか。

 

 いや、そうではあるまい。──と今上は御座から対局の場を鋭く見下ろした。

 

 この際、どちらが何をしたかなど瑣末な問題だ。

 なんと言ってもこの場は公事。重陽の節会という、めでたき場だ。

 この一局が済めば、騒ぎを理由に大臣や納言たちが対局の中断を上奏してくるだろう。事実、先ほども左大臣が二人の退出を示唆してかこちらに視線を送ってきたため気づかぬふりをしてやむなく対局の継続を指示した。

 今上はちらりと親王・公卿席に目をやる。博雅を始め親王たちや源氏の一族が不安げな顔をしている。

 それもそのはず。ここに菅原の者はいないが、佐為には婚家の親族が数多いるのだ。

 ゆえにこのようなケチのついた対局で負けることは許されぬぞ。と感じる心に今上は矛盾も覚えていた。

 もう何年も忙しない政事(まつりごと)の合間に時間を作り、佐為と打ってきた。その鮮やかで優美な、いっそ神々しいほどの打ち筋に感銘を受け、ずいぶんあの君を引き立ててきたつもりだ。

 その彼が囲碁で──佐為と顕忠のどちらの言い分が是にせよ──過ちを犯す(負ける)ところを見たくはない。

 

 

 一方の北廂──女官の控え所──では母屋の様子がおかしいことに一同ざわついて御簾で隔たれた内部を遠目に見ていた。

 

「そなた……対局道具になにか不手際でもあったのですか……!?」

 

 小声で左大臣の中の君である尚侍(ないしのかみ)に責められていた橘内侍(きのないし)は顔面蒼白でつい今しがたの騒ぎを遠くに聞いていた。

 突然に言い合いを始めた佐為と顕忠の話を聞くに、どちらかの碁笥に相手側の石が混じっていてどちらかが故意に自身の取り石としたらしい。

 むろん佐為がそんなことをするはずがない。確信を持って言える──が。碁笥に不手際があったのならば、それは用意をした自身の失態だ、と橘内侍(きのないし)は懸命に昨夜からの行動を顧みる。

 明日は佐為の一大事だと入念に確認をしたはずだ。──いや、本当にそうであったか? 昨日、今日ときちんと中身を隅々まで調べただろうか。

 先ほど碁盤と碁石を運んだ際にも余計な物思いに思考が支配され、蓋を開けて中をきちんと確認する作業を自分は怠った。思い至って橘内侍(きのないし)は愕然とした。

 このような失態、宮仕えを始めてから一度たりともなかったというのに。他でもない佐為の大事な場でこんな……と橘内侍(きのないし)は思わず両手で自身の口元を覆った。

 

 佐為はきっとこちらが故意にやったことだと誤解しているだろう。

 

 一瞬でも感じた考えを橘内侍(きのないし)はすぐさま消し去った。誤解され疎まれるなど瑣末な問題だ。何事もなくこの一局が終わればそれで構わない──と震えながら御簾の先を見つめるが佐為の表情までは見えず。

 

 

 佐為は心の動揺を抑えられずにいた。

 ここでもし顕忠に打ち負けたらどうなるのだろう。

 濡れ衣を着せられ、今上の御覧対局を汚した下賎な存在と見なされるのか。

 なぜ顕忠はあのようなことをしたのだ。一目、二目を是が非にでも欲する気持ちは分かるが、だからといって碁笥に混じっていた石を故意にアゲハマにするなど碁打ちとして常軌を逸している。

 そもそもなぜ碁笥に石など混じっていたのだ。橘内侍(きのないし)にそれほど憎まれるようなことをしてしまったのだろうか。

 なぜだ……と巡る思いに呼応するように身体に響く心臓の音が大きくなっていく。

 石を持つ手が震えて感覚さえおぼつかない。

 目の前の盤面、下辺の白石を繋ぐべき局面だ。頭では分かっていたというのに見当違いな場所へと打ってしまい、佐為は自分で放った悪手に驚愕した。

 眼前の顕忠が嘲笑ったような気配が伝う。顔を上げられずに佐為は小さく震えた。

 

 ──集中しなくては。

 

 そう考える佐為の脳裏に一瞬だけ、初めて栞と打った登華殿での対局の記憶がよぎった。

 そうだ、あの時も碁盤に向かうべき気持ちに乱れが出て、結果勝てずに終わった。あれも自分の未熟さゆえだ。まして今は絶対に勝たねばならない一局なのだ。

 勝たねば。──思う心とは裏腹に焦りと動揺が手となって盤面に表れてしまう。ちゃんと読まねば。全体を見渡せば勝てるはずなのだ。際どい一局とはいえ、勝てる碁だ。そう思い勇むほどに脳裏に描いていた読み筋が歪んでいく。

 裏腹に顕忠は調子を上げているようで、それがいっそう佐為の思考から冷静さを奪った。

 少なくとも彼自身は自分こそが不正を犯したと知っているのだ。見咎められたことさえ分かっているはずだというのに、なぜこうも迷いなく打てるのだろう。

 このような場面ですら臆せず打てるのが真の碁打ちというのなら、自分は顕忠に劣っているとでもいうのか。

 いや、そんなはずはない。碁打ちを自負するならば、碁に誠実でないなどあり得ないはずだ。

 ここで負ければ不正に屈したことになる。

 負けてはならぬ、と気持ちを立て直そうと必死に応手を続ける佐為は既に中央に自身の生きがないことを悟った。序盤に得た右上辺の地では足りない。

 元より思い描いていた図とは程遠い並びとなった盤面のその先に既に活路は見出せず、佐為は握っていた白石を力なく碁笥に落とした。

 唇を噛んだ先で顕忠が再び嘲ったような気配が伝った。

 

 紫宸殿は水を打ったような静寂に包まれている。

 親王・公卿席からは盤面の様子までは見えていないだろう。

 

 いっそこのまま時が止まってしまえばよいものを、と佐為は小さく唸る。

 

 

 ──いっそこの場で消えてしまいたい。

 

 

 込み上げる恥辱に耐え、佐為は頭を下げた。

 その投了の宣言に静まり返っていた紫宸殿が大きく揺れた。

 

 

 そんな紫宸殿のざわめきを心あらずで遠くに聞いていたのは今上その人であった。

 盤の様子ははっきりとは見えないが、佐為の様子は御座の上からでも見えていた。

 佐為と顕忠が一悶着起こしたのち、佐為は狼狽を隠せず顔色も徐々に悪くなっていったように感じられた。

 そのことが未だに信じられない思いだ。碁盤を前にした彼のあのような様子、今まで一度たりとも見たことがないからだ。

 自身のよく知る藤原佐為はいつも優美で上品で、そうだ先日に彼が引用した『棋登逸品』という言葉通り、彼の指から描き出される石の動きは流麗で気品に満ち、どれほど無茶な手を仕掛けても軽やかにかわしていく。

 だというのに──。

 目線の先で、顕忠に敗してうなだれている姿は本当に自身の知る藤原佐為なのだろうか。

 あの佐為が負けるなどと、時に無邪気に時に恐ろしいほど真剣に神の一手を極めるのだと語っていた彼の言葉さえまがい物に思えてしまうではないか。

 

 主上(おかみ)、と呼ぶ声にはっと今上は意識を戻した。

 見れば、御座の前までやってきて座した左大臣がこれ以降の対局及び宴の中止を奏上してくる。

 

「重陽はめでたき席。それをこのような不祥事が起こったとあらば……あの二人は、特に侍従の方は相応の勘事を受けさせねば示しがつきますまい」

 

 加えて左大臣は負けた佐為に勅勘を出すよう暗に言い、今上は眉を寄せる。

 眼前の結果に自身がひどく失望したことは確かだが、勅勘を出すほどのことではあるまい。

 が、公事でのことゆえに議政官としてはそうもゆかぬのだろう。

 一上(いちのかみ)がこう言う以上、自身が命じて議定を開かせねばなるまい。そして議政官(彼ら)は合議結果を近日中に上げてくるはずだ。

 今上は宴の中止を了承し、その場を左大臣に任せて自身の紫宸殿からの退出を決めた。

 

 左大臣の方は今上の紫宸殿からの退出を待って、親王・公卿席を見やる。

 

主上(おかみ)は宴の中止を決定された。親王がた及び上達部はすみやかに南殿から退出されよ。菅の蔵人はこの後すぐに我が直廬(じきろ)に参るがよい。そして侍従藤原佐為朝臣──そなたは内裏(うち)からの即刻の退出としばしの恐懼(きょうく)に処する」

 

 恐懼(きょうく)とは出仕の停止処分だ。

 恐懼(きょうく)自体は貴族・官人隔てなく職務怠慢等で処されるありふれた戒めではあるが──。

 

 

「叔父上……!」

 

 眼前の出来事が未だ信じられない博雅は思わず叔父の源の中納言を捕まえて聞いた。

 御前であのような言い合いをした以上、恐懼(きょうく)は甘んじて受けるにしても左大臣の様子を見るにそれで済むのか。

 源の中納言は難しい顔をして博雅に耳打ちをする。

 

「左大臣は主上(おかみ)に議定の勅を出されるよう奏上した様子だ。佐為殿に何かしらの処分を下すつもりなのやもしれん」

「し、しかし……、なにも対局の結果でそのような」

「いまここでそれを言ってもどうしようもなかろう。とにかく、佐為の侍従をすぐに四条へと帰すように」

 

 そしてくれぐれも外出せぬよう言い聞かせておくようにと念を押して源の中納言は去り、博雅は頭を抱えた。

 振り返ると、佐為は未だ碁盤の前で心ここに在らずと言った様子で博雅は眉間に皺を刻んだ。

 

「佐為殿……!」

 

 歩み寄って声をかけると、佐為の肩が少しだけ反応した。

 彼自身にも眼前の出来事が信じられず受け入れ難い心地なのだろう。感じ取って博雅の胸に苦みが走る。

 

「佐為殿、辛かろうが今は四条に戻って──」

 

 佐為はというと、博雅の言葉をさえぎるようにしてきつく柳眉を寄せた。

 

「私は……! 私はアゲハマを誤魔化してなどは……ッ」

 

 顔を歪める佐為の様子を博雅は哀れに思うも、どうにもできず。佐為の腕を掴んでどうにかその場に立たせ、この場からの退出を促す。

 

「そなたのことは信じておる。だが……とにかく今は退出せねば」

 

 内裏からの退出を命じられた佐為以外は勝手に内裏を出るわけにはいかない。博雅は佐為に真っ直ぐ四条へと戻るよう言い聞かせて、今にも倒れそうなその背を見送った。

 

 佐為の方は顔もまともに上げられず、廂を出てどうにか簀子を歩きつつ未だ思考回路の機能しない頭でなんとか懸命に考える。

 顕忠ではなく自分に恐懼(きょうく)の処分が下されたということは、左大臣はもとより今上さえも自分がアゲハマを誤魔化し対局を汚したと思っているのか。それとも負けた罰なのか。

 負けたことが罰というならば甘んじて受け入れもしようが、アゲハマを誤魔化すような真似をしたと思われるなどとうてい耐えられるものではない──。拳を握りしめる。

 なぜなのだ。

 なぜ黒の碁笥に白石が混じっていたのだろう。

 なぜ気づいてしまったのか。

 なぜ心を鎮めて打てなかったのだ。

 なぜ……。

 出ない答えを巡らせたまま、外に続く軒廊(こんろう)に向かおうとしていると東簀子からこちらに近づく布ずれの音が聞こえた。

 

「あなた……!」

 

 焦ったような声に目線を上げると、泣き出しそうなほどに顔を歪めた橘内侍(きのないし)がいた。

 何か言いたそうな様子だったが今の佐為に応える気力はなく、一瞥しただけで彼女に背を向けるとそのまま紫宸殿を後にした。

 

 

 その背を見送った橘内侍(きのないし)は両手で口元を押さえて震えたまま目尻に涙を溜めた。

 対局道具を用意したのは自分なのだ。

 自分が確認を怠らなければこんなことには──、こんな不名誉な退出をする彼の背を見送らずに済んだというのに。

 なぜあのような過ちを……とひたすら自身を責めて震え続けた。



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第二十七話:形見

 あまりに過ぎる「陽」が不穏な出来事を連れてきてしまったのだろうか──。

 

 菊の宴での御前対局の一悶着はあの場にいた誰一人として──当の顕忠でさえ──想定外の出来事であったに違いない。

 

 

 しかしながら一旦起こってしまったことは覆しがたく、佐為は命じられたままに退出して牛車を走らせていた。

 

 未だ(うつつ)のこととも思えず、四条へ戻ってどう説明すべきかさえ少しも浮かんでこない。

 それでも牛車が四条へ着くと、予想よりも遥かに早い自身の帰宅に驚いたのだろう。中門廊のところで牛車を降りると家人たちが驚いたような表情を浮かべていた。

 

「佐為の君……!?」

 

 それは栞も同様だったのだろう。

 寝殿の妻戸から中へと入ると驚いたような声が上がり、佐為は俯きがちであった視線を上げた。

 すると、重陽の節句とあって着替えたのだろうか。黄菊襲ねの華やかな五衣(いつつぎぬ)を纏った栞の姿が目に映って佐為は少しだけ惚けた。

 こんな時だというのに、なんという美しさだろうか。その美しさがいまは遠く虚しい。と、佐為は口を開けずに再び眼を伏せる。

 

「お戻りは遅いと思っていたもので……。あの、どうかなさったの……?」

 

 こちらに歩み寄った栞の声に小さく首を振ると、佐為は彼女の横を無言で抜けた。

 しかし一人で引きこもれる場所などあるはずもなく、何も言わずとも女房たちが着替えの世話をしにやってくる。

 仕方なしにされるがまま束帯を脱ぎ、簡素な直衣を羽織ってから(しとね)の上に横になる。

 具合でも悪いのかと心配げな声がそばに来た栞から漏れたが、やはり佐為は口を開けない。

 今ごろ内裏はどうなっているのだろう。口頭で恐懼(きょうく)を言いつけられたが、そのうちに正式な処分が下るのだろうか。あの場で後々のことを顧みず声を上げたのは自身の落ち度でもあるし致し方ないのかもしれない。

 だが──、と顕忠が碁笥に混じった白石を我がものとした瞬間を思い出し顔が自ずと歪んでしまう。

 

 そんな佐為を見て栞は訳が分からず困惑していた。

 

 まだ陽が落ちて間もない。宴はまだ続いている時間のはずだ。

 もしや宴での御前対局で何かあったのだろうか。それとも体調が優れず退出したのか。

 

「佐為の君……?」

 

 状況が状況だけに放っておくわけにもいかず、栞は再度声をかけると(しとね)に上がって脇息(きょうそく)に寄りかかっている佐為の横に座った。

 そっと手を伸ばして額に触れてみるが、熱はなさそうだ。少しだけ安堵して手を離すと、その手を佐為に取られて栞は目を瞬かせた。

 佐為はそっと身を起こし、いまにも泣き出しそうなほどに顔を歪めたかと思うとそのまま栞の手を引いて強くその身を抱き締めた。

 目を丸める栞の耳に震え混じりの掠れた声が届く。

 

「そなたには……本当に申し訳ないことを……」

 

 え……、と全く状況の掴めない栞はわけがわからないままになおさら困惑するしかない。

 

 

 

 その頃の承香殿──。

 この殿舎の一部を尚侍(ないしのかみ)である左大臣の中の君が預かっていると同時に左大臣の直廬(じきろ)がある。

 

 その左大臣の直廬(じきろ)にて菅原顕忠は菊の宴での騒ぎについて尋問を受けていた。

 左大臣の他には彼の嫡男である藤の中納言もおり、顕忠はあくまで碁笥に不備があったことを強調して訴えておいた。

 もしも二人が石の並びを全て覚えているほどの囲碁強者であれば、アゲハマをどちらが誤魔化したか容易く露見してしまうのだ。二人が佐為と親しいとは思えないが、自分などの味方でないことは確かだ。被害者ぶるのは得策ではない。

 にしても厄介なことになったと思う。

 あの場を何とか誤魔化せたのはよかったが、予想外の騒ぎとなったせいで宴も三番勝負も中止となったのだ。佐為の方に恐懼(きょうく)の処分が下った以上、こちらが彼より重い処罰を受けることはないはずだが、無傷とはいかぬやもしれない。

 ともかく今は事を荒立てず、今上や公卿らの怒りが治まるのを待つしかない。

 

 決して碁を汚そう、佐為を謀ろうなどと考えていたわけではない。

 ということを重ねて強調し、しばらくすると顕忠は直廬(じきろ)からの退出を許された。

 

 残った藤の中納言は顕忠の背を見送ってから顔を顰めている父、左大臣を見やる。

 

橘内侍(きのないし)が碁笥の確認を怠るような凡庸な失態を犯すとは思えませぬ。やはり意図的ということでしょうか……」

「侍従と共謀して菅の蔵人を陥れようとした線もあろうな」

「しかし父上……、佐為殿にはそのような小細工など必要ないでしょう。私は彼と対局したことこそありませんが、彼の腕はみなが知るところですから」

「証拠がない以上、なにが事実かなどはどうでもよい。内侍が菅の蔵人に便宜を図ることなど無いことを顧みれば、筋としては“侍従が内侍と共謀するも露見し自滅”というのがもっとも通りがよかろう」

「ですが佐為殿は既に恐懼(きょうく)の処罰を受けておりますし、これ以上となると北の方……栞殿があまりに不憫。主上(おかみ)も同じようにお考えでしょう」

 

 左大臣は公事を乱した佐為に厳しい処置を取りたい様子であったが、中納言はそんな彼をどうにか取り成そうと試みた。

 

 佐為自身のことはともかく、夫が厳しい処罰を受けることになれば栞にとっても恥となるのだ。

 そんな哀れなこと──。

 

 などと考えているらしき息子を見やって左大臣はため息を吐いた。

 想い人を慮る気持ちは分からないでないにしても、なぜこうも甘いのか。将来の藤家長者となる男だというのに。

 この調子だから佐為のような取るに足らない身分の者に四条の姫を奪われたのだろう。そのことに憤るでなく、未だあの姫に懸想している様子なのが哀れでもどかしくてならない。

 その上──と考えていると、左大臣の()()()()()()()()()が几帳で仕切られた部屋の先から現れた。

 

「おとうさま、おにいさま……!!」

 

 尚侍(ないしのかみ)である左大臣の中の君だ。

 彼女もまたこのような騒ぎを目の当たりにして動揺しているのだろう。内侍も関わる不祥事でもあり、彼女は橘内侍(きのないし)に聞いたという話を伝えてきた。

 

橘内侍(きのないし)はひどく憔悴なさっていてお気の毒ですが……対局道具の確認を怠ったことはお認めでした。ですからどちらかの碁笥に対局相手の石が混じっていた事実はあれど、あの二人が……まして佐為の君が謀をなさったなどとんでもない誤解です……!」

 

 言動にあからさまに佐為をかばっている様が見えて左大臣は再びため息を吐いた。

 橘内侍(きのないし)が道具の確認を怠ったことは事実ではあるのだろう。が、偶然か故意かはこの際どうでもいいことである。

 裏腹に中の君は懇願するように訴えてくる。

 

「内侍の不手際で佐為の君が恐懼(きょうく)に処されるなどと、わたくしとても申し訳なくて……。おとうさま、処罰ならばどうか内侍にお下しになさってくださいませ」

「中の君……、そうは言っても侍従が潔白だというのなら、あのような敗北を喫してはおらんだろう」

「佐為の君はご動揺なさっただけです! 無理もないことです……、掌侍(しょうじ)の君があのような失態を公事で犯すなど想像すらされておられなかったはずですから」

 

 中の君が佐為を庇い立てしたい気持ちはいやというほど伝ったが、()()()()()()()なのだ。

 いつまで経っても今上の寵さえ得られないこの姫は、あろうことか他人(ひと)()に淡い想いを寄せている。今まではあの程度の下級貴族などどうでもよいと考えていたが、今上は佐為を出世させたい意向を示しているし、あと一年もすれば(そち)大臣(おとど)の筑紫での任期が明け帰京するのだ。すればおそらく、参議程度にはそのうちに昇るはずだ。

 そうなれば今の北の方以外に妻を迎えても差し障りはなく、あくまで尚侍(ないしのかみ)であり未だ未婚の中の君ともし間違いが起これば我が藤家の栄華が──と左大臣はこめかみを押さえた。

 

 いっそしばらく佐為(あの者)を京から遠ざけておこうか──。

 

 今上が首を縦に振るかはともかく、公事で謀をした挙句にあの失態はそれなりの処罰が必要なのもまた事実。

 もしも彼が貴族でさえなければ問答無用で収監して、今月末の流人送り出しの際に京外に流してしまえるが。仮にも殿上人を相手にそんな真似はできない。

 それに()となれば律令にて嫡妻の同行が定められているのだ。あの姫()を縁座の形で処するなど、源氏一族どころか今上も全力で反対するに違いない。

 その上、と左大臣はちらりと息子である中納言を見やる。

 あの姫()のことさえなければ──思い巡らせる左大臣の脳裏にふと全く別の考えが浮かんだ。

 要は佐為を京から出して栞を京に残せばいいのだ。()にするのはおおよそ不可能だが、合議で源氏を脅し今上を説得する方便には使える。

 そして佐為を何年か京外に留めおけば栞は彼と離別せざるを得ない上、中の君の目も覚めるだろう。すれば今度こそ京に戻った栞の父を説得して我が息子(中納言)と再婚させれば全てが丸く収まるではないか。

 

 

 

 などと左大臣が考えている頃、栞は佐為から菊の宴で起こった一連の出来事を聞かされ愕然としていた。

 出世のかかった場面で不祥事が横行するなど史書には散見される出来事であるし、それこそ先帝の末期は荒れていてこんな騒ぎは度々起こっていた。

 が、まさかこんな身近で──と眉を寄せる。

 佐為が囲碁で不正をするなどあり得ない。それにきっと、橘内侍(きのないし)が故意に碁笥に石を混ぜたということもないはずだ。あの人とて佐為を心底慕っているはずなのだ、そんな佐為の大一番にそのようなことはすまい。

 だからおそらくは不幸な偶然。

 それを顕忠が利用して露見し取り繕って騒ぎとなった。──というところだろう。

 佐為にしても、佐為の棋力の高さは毎日打っている自分が誰よりも知っているのだ。顕忠の棋力は知らないが、普通に打てば間違いなく勝てていたはず。

 が──、自分が佐為に唯一勝った一局も、思えば彼にとっては想定外の事態となった中での対局であった。碁とは思っているよりもはるかに心の持ちようが盤面に現れる。御前で、よりにもよって囲碁で濡れ衣を着せられようという時に心乱れが出たとしても誰にも責められまい。

 

「アゲハマの騒ぎが起きるまでの手を……、主上(うえ)に並べて見せて差し上げたらいかがですか。すればどちらに非があるか、一目瞭然でしょうから」

「盤面は主上(おかみ)から遠く、公卿がたからもはっきりとは見えていなかったはずですから……。私が初手から並べたところで信用されるかどうか」

 

 打ちひしがれた様子の佐為に栞は眉を寄せる。

 恐懼(きょうく)処分では弁明の機会も与えられていないとはいえ、このまま黙していていいものか。上達部は、特に藤家はどんな機会に何を仕掛けてくるか分かったものではない。先帝の末期、彼らの氏族間闘争に故意に巻き込む形で父の筑紫への下向を決め中央から遠ざけたのも彼らだ。

 むろん佐為は権力争いからは遠い存在ゆえに何事もないとは思うが──、と栞は拳を握りしめる。

 

「あなたが参内できないのでしたら……、私から主上(うえ)に奏聞いたします。主上(うえ)もあなたが囲碁で不正をなさったなど本気でお考えではないでしょうから、すぐにでも文を差し上げて──」

 

 そうして(しとね)から降りようとした栞の両肩を佐為は掴んで制した。

 ふるふると首を振るう様を見て栞は困惑する。

 佐為は眉を寄せつつそのまま栞を抱き寄せた。

 

「潔白を証明する手立てがあるわけでなく、そなたから言い訳めいた文をもらっても主上(おかみ)をいっそう失望させるだけでしょう」

「で、ですが……!」

「私の心乱れのせいで負けたのは事実。その処罰は受けねばなりません。今はただ……主上(おかみ)のお怒りが溶けるまで待つしか術はありません」

 

 耳に届く佐為の声が震えている。彼はこの処罰を()()()()()と思って受け入れ納得しようと自身に言い聞かせているのだろうか。

 だが──彼は自身の出自ゆえにきっと公卿たちのさかしさを真の意味では知らないのだ。隙を見せれば喰われる。それが朝廷の、その中枢に居るものの定め。

 負けた処罰ではなく、もしも御前での謀の嫌疑がかけられたら。栞は強く佐為を抱きしめ返してきつく眉を寄せた。

 それとも自分が考えすぎているのだろうか。過去に賜姓源氏の台頭を嫌った藤家からこちらがどんな目に合わされてきたかを知っているだけに、どうしても恐ろしく感じてしまう。

 

 

 このまま恐懼(きょうく)のみで済めばいいが……と栞が祈っている頃。

 博雅は叔父の源の中納言の屋敷にいた。

 

 あの後、議定のための手続きが早々と進められ、菊の宴だったこともあり既に揃っていた議政官(諸卿)が招集されて、左大臣は内裏の諸門を閉じると勅令という名のもとで合議に入った。

 予想よりも遥かに大事になっている様子に不穏さを感じ取った博雅はいっそ自身の役職を活かし今上の母后に取りなしてもらおうかと考えもしたが、関係者以外は外に出されて諸門が閉じられたゆえに後宮には入れない。

 となれば帰宅した叔父を捕まえて状況を聞くしか手はないのだ。

 

『私は……! 私はアゲハマを誤魔化してなどは……ッ』

 

 あの時の佐為の様子を思い浮かべた博雅は低く唸る。

 佐為が不正をしたなど思ってはいないが、彼らが御前で騒ぎを起こしたのは事実であり。佐為が敗したのも事実。

 今回の御前対局はただの対局ではなく二人の矜持と今上の師という栄誉を賭けたものだったことはみなの知るところだ。であれば、いらぬ嫌疑をかけられるのも避けられないと言える。

 しかし──、とぐるぐると考えているうちに夜も更け、もはや夜明けが近いという時分になってようやく中納言が帰ってきた。

 

「叔父上……!」

「博雅……、来ておったのか」

「合議の結果は……!? 佐為殿は……」

 

 博雅がやや焦って問いかけると、源の中納言は小さく首を振るった。結論はまだ出ていないということだ。

 しかし……、と中納言は女房たちに席を用意させて博雅と向き合った。

 

「左大臣が相当に憤っていてどうにも手がつけられん様子なのだ。というより……内侍と結託して侍従の勝利を確実にしようと謀ったのは我ら源氏ではないかという嫌疑まで吹っかけてきおったわ」

「な──ッ!? そんな、無茶苦茶な……!!」

「藤家としてはこの機会を使って源氏にどうにか損害を与えたいという腹なのだろう。我々は佐為の侍従にとって婚家筋となるからな」

 

 中納言は苦々しい息を吐いた。その表情は燈台の灯火を受けてさえ陰っており、彼は逡巡するようなそぶりを見せた後にゆっくりと口を開いた。

 その言葉に博雅は瞠目した。

 今上の御前で、まして公事で謀をしたとして佐為を()に処すこともあり得る、と。そうなれば縁座の形で共謀したと思しき人間──つまり源氏の者──も京外に流す可能性を左大臣は示唆したという。

 当然、中納言は反論した。冤罪もいいところであるし、全くもって筋の通らぬ話だと。

 

 結論はまだ出ていないが、今日もまた参内して合議を続けなければならない、と中納言は強い口調で言うも博雅としては困惑するしかない。

 

「る、流罪だなどと……、()大臣(おとど)は正気なのですか!?」

「道理が通じる相手ならば、我々源氏が過去に謂れなき仕打ちを受けることもなかったであろう。……博雅、そなたも知っておるだろう? 我々が藤家にどのような煮え湯を飲まされてきたか」

 

 言われて博雅は押し黙る。

 藤家が賜姓源氏の台頭をよく思っていないことは知れたことで、ひとたび権力の上澄みに到達すると謂れなき謀を捏ち上げられ左遷などの憂き目に遭わされてきたのは事実である。

 

「し、しかし……」

「もしも佐為の侍従が流罪とならば四条の姫も共に流されることとなる。(そち)大臣(おとど)の居ぬ間にあの姫をそのような目に合わせるわけにはいかぬ」

「しかし叔父上、栞は──」

「我々も、我々を守らねばならん。主上(おかみ)は親政を望んでおいでなのだ。我ら皇親が藤家にいいようにされることは、決してあってはならんのだ」

 

 栞は佐為と引き離されることより罪人とされても共にいることを望むだろう。言おうとした博雅の言葉は中納言に遮られた。

 博雅は強く歯を食いしばる。源の中納言の言わんとしていることは分かるのだ。栞やこの目の前の中納言、自分や息子たちや弟たち、そしてその家族に累が及ぶことは避けねばならない。

 だが、それでは──と博雅が脳裏に打ちひしがれていた佐為を浮かべていると中納言が苦々しく眉を寄せた。

 

國手有輸時(名人さえ負ける時有り)、と碁の盛んな唐でさえ詩に詠まれたほどなのだ。今回の敗北が佐為殿の碁打ちとしての評価を下げるとは私は思ってはおらぬ。かの君は才もあり、御所にいるだけで光が差すような得難い青年だとも思っている。が……(そち)大臣(おとど)が京に居られぬいま、私一人ではどうしようもない……」

 

 博雅もまたきつく眉を寄せた。

 今から筑紫の大臣のもとへ知らせを飛ばしても合議結果が出るまでに間に合うはずもない。藤家の勢いに源氏は勝てず、自身を守ることを最優先にせねばならない。

 しかし、それは佐為を見捨てることに等しいのだ。

 悟って博雅は血が滲むほどに拳を握りしめた。

 

 

 

 一方の左大臣宅。

 普段は正妻・院の女四の宮の住まいである三条に住んでいる藤の中納言も今日ばかりは実家に戻り父に今日の合議について問いただしていた。

 

「実際に不手際のあった内侍に処罰を下すならまだしも……、佐為殿に加えて婚家筋の面々も縁座にしようとは……正気ですか父上!」

 

 合議の場は往々にして位階が下の者から発言していく習わしがあるが、左大臣に口を挟まないよう言われていた藤の中納言だ。ようやくという具合に語調を強めれば、左大臣は何食わぬ顔でいなした。

 

「侍従を()に処するという案はただの布石。そなたも四条殿が縁座に処されるのは賛成できかねるだろう?」

「そ、それは……むろんです! 主上(おかみ)も、いくら公事での不祥事とはいえ栞殿を巻き込むような真似は望んでおられないでしょう」

「であろうな。源氏一族も自らに累が及ぶようであれば侍従を庇うことは諦めるであろう。それに、()ではなく菅公や他の例のように遠い地の権守(ごんのかみ)にでもして左遷という形であれば……妻子の帯同は許されぬ」

「そ、それは……」

 

 藤の中納言は思わず口ごもる。

 流罪とそれに伴う縁座をちらつかせての左遷という処置ならば筋が通るのかもしれないし、これならば栞は京に残れる。

 だが、やはり処罰としては重すぎないだろうか。確かに職位を賭けた、ある意味では出世争いと言える対局ではあったが。いやでも、そう考えると今上を謀ったとも取れるのだろうか。とあらばしばし京外で蟄居謹慎を強いられても致し方ないのか。

 だが──、と中納言は直衣の裾を握りしめた。

 

「背の君が左遷とあらば……あまりに栞殿が不憫に思います。主上(おかみ)のご意向は分かりませんが、しばしの停任で十分なのでは……」

 

 あまり栞を悲しませるようなことはしたくない。と含ませれば、左大臣が小さく笑ったような気配が伝った。

 中納言はバツの悪さにやや頬を染める。未だに彼女を忘れ得ない自分はいい笑いものなのだろう。

 しかし左大臣の次の言葉は中納言にとってあまりに予想外のものであった。

 

「中納言よ、そなたも知るように左遷にて京を追放とあらば離別となるのが常。まして四条殿にはまだお子もおらぬのだから……、そうなれば今度こそそなたが室に迎えればよいではないか」

 

 父のその言葉に中納言は極限まで目を丸めた。

 全く考えてもいなかったことだからだ。

 だが──、そうだ。離別も再婚もままあること。彼らが()()ならないと決まったわけではなく、まして父がいま述べたような理由があれば()()()()のも道理だ。

 が──。

 

「し、しかし……私には……四の宮さまが……」

「いくら内親王(ひめみこ)を貰い受けたとて、そなたであれば正妻格が二人いても不都合はあるまい。まして四条殿は再婚……、今度は内大臣も応じるであろう。大臣(おとど)が帰京したら申し込むがよい」

 

 中納言はとっさに返事ができずにいた。

 今も考えるだけで震えるほど、あの人に……あの遠い日に見た五節の舞姫に恋焦がれているのだ。一度は叶わぬ恋と諦めようとしたが未だ忘れられず、もしもあの人を本当に妻にできるならどれほどいいだろうか。

 

『私は幸せに過ごしております』

 

 佐為が咎めるゆえに参内しないのか、幸せに過ごしているのか、と五節の舞師として実家に足を運んだ栞を訪ね、問うたら彼女はそう答えた。もはや御簾に隔たれ、直接に顔を見ることも叶わぬのが苦しくてたまらなかったが、昔のままの声で──と思い出す中納言は身体の芯が震えるのを感じた。

 毒を孕んだような甘い誘惑だった。

 栞はおそらく佐為との離別も自分との再婚も望まないに違いない。頭では分かっているというのに、痺れるような誘惑に抗うことができない。

 それに、そうだ。左大臣の嫡男とはいえ自分はまだ中納言。佐為の処罰を止めるほどの力などない。結局のところ最終判断を下すのは今上であり、自分にはどうしようもできないのだ。

 そして何より、咎を受けるべきは佐為のみで、栞や源氏の面々に累が及ぶことに反対であるというのは正しいに違いない。

 だからこれは自身のせいではない──、と中納言は喉を上下させた。

 

 そんな息子の様子を見て左大臣は口の端をあげた。

 こうなればあとは今上が首を縦に振るか否かである、が。今上とて公事での不祥事にはそれなりの落とし所が必要なことは理解しているだろう。

 しかしながら左遷と言っても舅のいる筑紫に飛ばすわけにはいかず、そもそも京より西は(そち)大臣(おとど)の勢力が強く待遇も良かろうし、そうなってくると栞とは離別に至らず(そち)大臣(おとど)の帰京に伴い佐為にも赦しが出て帰京する恐れがある。

 であれば東──いっそ遠国まで行かせてしまうか。権守ゆえ権限はなく蟄居処分ではあるが、大国であれば文句もでまい。

 佐為が栞と離別すれば後ろ盾を失うこととなり、帰京しても元の官職は取り戻せまい。昇殿はおろか官位も打ち止めのまま生涯を過ごすこととなるだろう。

 裏腹にこちらは中の君が今上の寵を得られずとも、栞が中納言との間に姫を産めば麗景殿の女御の皇子を春宮に立てて入内させればいいのだ。

 そうなればこの摂関家も安泰。全てが丸く収まるというもの。

 

 

 

 そうして翌日の議定にて源氏や他の公卿も佐為の左遷処分ということでおおよその合意をし、その次の日には御前での議定で今上の裁定を待ち詔勅を賜る流れとなった。

 

 四条ではそんな内裏の動きを知る由もなく、すっかり意気消沈して食事さえままならない様子の佐為を栞は案じていた。

 佐為の実家にもこの騒ぎが届いたのか、こちら宛に長い詫び状が届いている。が、佐為は両親への弁明はおろか謹慎処分ゆえに実家に帰ることすらできない状態だ。

 

 一度だけ博雅が様子を見に来たが、どうやら佐為の処分に関して議定が行われているらしく、博雅は言葉を濁していたが状況が芳しくないことは見て取れた。

 

 佐為は対局に負けたことと碁に関して謂れなき疑念をかけられたことを殊更に気に病んでいる様子であったが、おそらく議政官(彼ら)は佐為が碁で不正をしたか否かなど問題にしていないはずだ。

 どう先例に倣い起きてしまった不祥事にカタをつけるか。あるいは──と考えて栞は眉を寄せた。佐為はともかく、藤家にとって目障りな源氏は佐為の婚家筋になる。これを理由に源氏の力を少しでも削ごうと躍起になられたら面倒なことになるやもしれない。

 

「……」

 

 佐為の望みは出世よりなにより今上のそばで碁の師でありたいということだ。

 なにより今上の怒りを買い失望させたと佐為自身が感じているゆえに、佐為自身は一層辛いのやもしれない。

 しかし栞の知る今上は狭量な人物ではなくこれを理由に佐為を遠ざけるとは思えない。が──親政を望む今上が一番に頼りとしているのは自身の父である大臣だ。それさえ筑紫に下らせられている今、仮に上卿が処罰を望んだ場合、佐為本人ではなく()()婿()()()()()()を今上が庇いきれるかは疑問が残る。

 父の居ぬ間に権力を盤石にしたい摂関家の思惑はそれほど上手くいっているとは思えないし──と内裏の現状を思いつつ栞は眉を寄せる。

 ともかく、しばらくは佐為が落ち着くのを待つしかない。

 自分も佐為の望まぬ出世など望んではいないのだから、どうかこのまま過ごさせて欲しい──。

 

 

 

 そんな栞の想いは届いたのか否か。

 菊の宴から三日後の朝──、清涼殿は御前にて議定が執り行われていた。

 諸卿がずらりと揃い、まずはこれまでの合議でのそれぞれの発言を書にしたものが今上に向けて読み上げられる。

 

 今上は黙して聞いていた。

 公事での不祥事ゆえになんらかの処罰が必要という意見は一致しているものの、やはり佐為の婚家の源氏の者や全く無関係のもの、源氏に対抗する藤家では見え隠れする思惑が違っている。

 左大臣に至っては佐為が橘内侍(きのないし)と共謀して顕忠を陥れようとした疑いありと発言しており、今上は眉を寄せた。

 橘内侍(きのないし)からは既に内々に自身の落ち度だと、処罰なら自分にと訴える書が届いている。おそらく彼女が対局道具の確認を怠ったのは事実なのだろう。しかし謀だの恋人への恨みだの確証もないことを女官や群臣たちの間でうわさされている様子なのは哀れに思う。

 仮にどちらかの碁笥に相手の石が混じっていたにせよ、使わなければよいことなのだからこの件に橘内侍(きのないし)は関わりがないと言っても過言ではない。

 では佐為と顕忠のどちらが相手の石を故意にアゲハマにしたのか。──というのももはや真実は分からぬだろう。負けた佐為が処罰の対象となるのは避けられないとはいえ、顕忠に咎めはなく予定通りに巡爵させた上で殿上に留まらせるのもまた非であろう。

 上卿たちがどうしても佐為に処罰を、というなら顕忠にもそれ相応の……と考えている今上の耳にとんでもない言葉が届いた。

 左大臣が佐為を()に処し、源氏の幾人かも縁座に処するというのだ。

 最初の議定はそこで終わったらしく、聞いていた今上はまさかそこまでの話になっているとは思っておらず目を丸めた。

 

 ──左大臣の狙いは佐為ではなく源氏の縁座の方か。

 

 悟った今上であるが、真っ先に浮かんだのは栞のことだ。

 ()に処されれば妻子も流されることとなる。(そち)大臣(おとど)の居ぬ間に鍾愛の姫が罪人に落とされたなど、いくら玉座に座る身とはいえ申し訳が立たない。

 それだけは避けねば、と感じたのは他の源氏や当の藤家の面々その他も同じだったのだろう。佐為一人を処すればいいという意見が出、加えていくら出自が低くとも殿上まで許されている人物に罪人の烙印を押すのは忍びないという流れとなっていった。

 そうして遂には左大臣が左遷という形でしばしの蟄居謹慎に処すればどうかとまとめた。

 殿上・公卿を罪に問う代わりに左遷という形で京外に下向させるのはままあることではある。先帝の御代など上卿でさえ左遷で地方送りになっているし、佐為より位階も遥かに上の者が処されている前例がある以上、できないということはないだろう。

 今上にしても、罰というわけではないが、一応の責任を取らせ地方官に任ずるのもよいと考えていたし京外に出すのはやぶさかではないが──しかし。

 左遷での蟄居となると権限がなくなるのだ。あまりに哀れではないだろうか、と思う反面、栞や婚家に累が及ぶよりも数年ほど佐為に耐えてもらうしか手はないのか──とも思う。

 議定は長引きとうに昼を過ぎ、なんとか少しでも佐為に温情をと今上は粘るも左大臣は譲る姿勢を見せず、ついに彼はため息を吐いた。

 ここで左大臣のまとめた合議をはねつけても後々厄介なことになるやも知れぬ。

 ならば、と左大臣の意見を飲みつつ前例に多くあるように大宰府への左遷を今上は示唆した。が、間髪入れずに舅の管轄下では謹慎にならないという意見を左大臣が上奏し、西ではなく東側の遠国への左遷を推してきた。

 大国であれば表向きは佐為の官位相当であり、権守として下向させ蟄居に処する場としてこれ以上のものはない。という意見にもはや異を唱えるものもおらず……今上は最終的にはその合議結果を認めた。

 

 そうして速やかに作成される詔勅の様子を見ていた左大臣はわずかに口の端を上げた。

 

 今上や源氏は、栞をはじめ皇親を守るために仕方なく佐為の左遷をのんだと思っているのだろう。

 しかし左大臣(こちら)の狙いは端から佐為の左遷なのだ。

 これで宮中から佐為を追い出し物理的に中の君を佐為から引き離せる上、栞も佐為とは離別となるはず。(そち)大臣(おとど)が帰京すれば藤の中納言との再婚をまとめやすくなる。さすがの彼も左遷された出自の低い、まだ見ぬ婿に執着することもなかろうし、一度夫にまみえた姫を差し出すのを渋ることもないはずだ。

 

 

 

 これでよかったのだ、と左大臣が考えている頃──。

 博雅は大内裏の自身の詰所で源の中納言から御前議定の結果を聞き、驚愕のままに退出して四条へと牛車を走らせていた。既に陽は西にだいぶ傾いている。

 

 夜明け前には検非違使が詔勅を伝えに四条の屋敷を取り囲むはずだ。

 そうなれば──、気だけが焦って博雅は空を掴むようにして拳を握りしめる。

 過去にも謂れなき嫌疑で左遷の憂き目にあった賜姓源氏はいたが、まさか佐為が……といくら頭で問答を繰り返したところで詔勅が出てしまえば覆すことは叶わないのだ。

 ならばせめて一刻も早く知らせねば、と見慣れた四条の屋敷に着いた博雅は中門廊に駆け上がり寝殿へと急いだ。

 

「佐為殿──!!」

 

 母屋へと入ると、すっかり窶れた様子の佐為が顔を出して博雅の顔は居た堪れなさに無意識に歪んだ。

 

「佐為殿……」

 

 一刻もはやく伝えねば。そう勇んでいた博雅の決意は本人を前にして呆気なく崩れ去ってしまう。

 

「博雅さま……?」

 

 不安げな栞もこちらにやってきて、博雅はなおさら言葉に窮した。

 どう伝えればいいというのだ。とても言い出せぬ。

 だが、何も知らぬまま突如としてやってきた検非違使に連れ出されるよりは──と博雅は一度息を吸い、吐いた。

 

主上(おかみ)が合議の裁定を下された。佐為殿は──」

 

 二人の前に腰を下ろし、博雅は詔勅の内容を告げる。みるみると佐為と栞の顔色は驚愕で染まった。

 全てを伝え終えた後も二人はうまく理解できないとばかりに瞳を揺らしている。

 

「権守として……陸奥国へ……?」

「左遷……ということですか」

 

 震える声で栞が呟き、色なく佐為が零した。

 博雅も低く唸る。博雅にしても信じがたく、源の中納言をずいぶんと問い詰めたのだ。

 そして左遷が避けられないならば、せめて西の国々であれば支援もしやすいというのにと訴えれば、源の中納言はそれを嫌っただろう左大臣が東の遠国へ決めたのだと述べた。

 栞が悲痛と困惑混じりの声を上げる。

 

「あ、あまりにひどい処罰です……! いくら公事でのこととはいえ、左遷だなんて……!」

「私もそうは思うが……力及ばず……。すまない、佐為殿」

 

 佐為の方は彼らの声を聞きながら柳眉を寄せていた。

 これが今上の決断なのか。それほどまでに許しがたいことだったのか。碁打ちとしての矜持を賭けた一局とはそれほどまでに重いのか──。

 おぼつかない頭で考えていると栞が焦ったように立ち上がった。

 

「左大臣に目通りして参ります! 私が出向けば……中納言さまがおいでならあるいは……!」

 

 瞬間、はっとした佐為は思わず栞の腕を掴んで制止していた。

 振り返った栞に向かい、きつく首を振るう。

 一度下った詔勅を覆すことはどう足掻いても不可能だ。まして藤の中納言のところへ妻をなど──。

 そんな恥辱には耐えられないと無言で訴えた佐為の意志が伝ったのか、栞は言葉をなくして力なくその場にへたり込むも声を震わせた。

 

「でも……このままでは……ッ」

 

 栞の瞳に涙が滲んでいく様子が佐為の目に映った。そうして悟る。

 

 ああ、そうか。そうなのだ。

 左遷の詔勅(みことのり)が下ったということは、この人とは別れなければならないのだ──。

 

 おぼつかない意識の奥で自覚して、佐為はかける言葉を失っている博雅に向き直った。

 

博雅三位(はくがのさんみ)、最後に頼みがございます」

「な……なんだ? 私にできることならなんでもするぞ」

 

 相変わらずの気さくさに、こんな時ながら佐為は少しだけ笑った。

 この人との付き合いもこれまで……、思いつつ頭を下げる。

 

「朝まで……、どうか栞と二人だけで過ごさせてください」

 

 刹那、博雅が言葉に詰まった気配が伝った。

 一瞬の静寂の後、博雅は立ち上がると佐為の隣に再度腰を下ろして力強く肩に手を置いた。

 

「しばし辛い生活となろうが……主上(おかみ)は必ずお赦し下さる。私も力の限り支援するから、気を落とさずにおるのだぞ……!」

 

 心から励ましてくれていることが伝わるように力強く言ったあと、博雅は佐為の望み通りその場を後にした。

 二人きりとなり、佐為は栞に向き直る。

 

「そなたにも、頼みが……」

 

 そっと栞の頬に触れ、涙を拭いながら真っ直ぐ目を合わせた。

 

「こんなことを頼める筋ではないと承知で……、どうか、残される両親のことを見捨てずにいてもらえればありがたく思います」

 

 戸主が左遷とあらばあっという間に屋敷は荒れるのが常だ。故意に壊される例もあり得る。詔勅次第だが縁座もないとは言い切れない。

 暗に七条の自宅をこの大臣家で買い取った上で両親を保護して欲しいと訴えれば、栞は何度も強く頷いた。

 そうして縋りつくようにして佐為に抱きつく。

 

「私……、一人で残されるのはもういやです……! あなたと離れるなんて……ッ!」

 

 自分も連れて行ってほしい。と訴える栞に佐為はやるせなさに目を瞑って首を振るった。

 菅原道真やその他の例を見るまでもなく、妻子の帯同が許されることはない。まして子もおらず妻のみであればなおさら──と佐為の寄せられた柳眉の皺が深くなる。

 

「このような……不甲斐ない夫に連れ添い、そなたには本当に申し訳ないことを……」

 

 碁のために望んだこととはいえ、博雅も(そち)大臣(おとど)も自分のようなものにたった一人の姫を許してくれたというのに。結局、この人の人生を狂わせただけで終わってしまう──と、佐為は栞を抱きしめる腕に力を込めた。

 腕の中で栞が首を横に振るったのが伝わる。

 

 左遷された者が必ずしも赦され帰京が叶うわけではないことは、これまでの事例が克明に告げている。

 自分にしても帰京できる保証などどこにもないのだ。佐為は涙で濡れる栞の頬を拭いつつ思った。

 仮に戻れたとて、全てが元通りというわけにもいくまい。

 ましてこの人とはもう──、よぎらせつつ佐為は濡れた栞の頬に唇を寄せ、その温かさを確かめるようにしながら唇を重ねた。

 こんな時でさえ生きていることを確かめさせるほど互いの身体は熱く、脈打つ鼓動が重なってうるさいほどだ。

 佐為は自身の両手を栞のそれと強く絡ませあって願った。

 

 せめてこの人に子を残していけたらよいものを──。

 

 しかしどれほど願っても、それが叶う望みはそう多くはあるまい。

 これは初瀬でさえ碁のことを祈ってしまった自分への罰なのか。いくら棋力に惹かれたがゆえとはいえ、望んで妻にした人を不幸になどしたくないというのに……。

 

 

 夜が明ければ今生の別れとなるやもしれない。

 

 

 佐為と離れて生きていくことなど考えられない。

 宿直で一晩会えないだけでも辛いというのに、と栞は未だ現実のこととも思えず、佐為の腕の中で刻一刻と夜明けが迫ることに怯えていた。

 こうして互いの体温を感じてまどろむのも最後かもしれない……とよぎる思いを振り払おうと小さく首を振るう。その度に佐為が慰めるようにして髪を撫でてくれるのがいっそう栞には辛く感じられた。

 なぜこのようなことになってしまったのか。なにもできない自分がもどかしく情けない。

 このまま朝が来なければいいのに……と祈る気持ちとは裏腹に、まだ暗い時分だというのに遠くから地を鳴らすような牛車の音と足音が近づいてくるのが響いた。

 

「佐為の君……」

「……」

 

 検非違使だろうか。どちらともなく重ね合っていた手を離すまいと無意識に力がこもる。

 そうしていると寝所の几帳のそばまで命婦がやってきて、やはり門のところまで役人が来たことを告げた。

 

 

「詔勅、藤原佐為朝臣────陸奥国にて権守に処する。速かにいでしめ給うべし」

 

 

 静寂の中で寝殿までも届く声で詔勅が読み上げられ、几帳の先からは命婦を始め女房たちのすすり泣く声が伝った。

 これに応じなければ、いくら大臣家といえど検非違使たちが無慈悲に乗り込んできてしまう。佐為は身を起こして単衣を身につけ、無言のまま身支度を始めた。

 栞も身を起こし、手早く単衣を身につけて何枚か衣を羽織ると今日ばかりはと佐為の着替えを自ら世話した。

 表向きは左遷とはいえ流人に等しい扱いゆえ、身軽な狩衣に袖を通し烏帽子を被った佐為は他に持つものもなく母屋を出る。

 そしてかける言葉に詰まって泣いている女房たちを見渡した。

 

「私のようなものに……、これまでよく仕えてくれました。どうかみな息災で……、上のことを頼みます」

「殿……!」

「殿……! なんとおいたわしい……!」

 

 大臣家に仕え、その姫の()が検非違使に連れられ京を出される場に立ちあうなど思ってもみなかった出来事だろう。

 誰も彼もを嘆かせてしまう。と、佐為は妻戸を開けて灯籠に照らされるまだ暗い庭を見た。

 この庭を歩くのも今は限りか、と(きざはし)から庭に降りた佐為の隣を栞もついていく。

 こうしていつも共にこの景色を眺め、愛でて来たというのに。

 あの門を開ければ自分は咎人も同然となるのか──、と佐為は中門廊をくぐったあたりで一度栞に向き直った。

 

「栞、もうここまででけっこうです」

「佐為の君……?」

「あの門を出れば私は都を追われる身。そんな姿を見せたくはありませんから」

「でも……ッ」

 

 夜明け前に屋敷を出る恋人を見送るように、そなたの夫のままで別れさせて欲しい。続けた佐為の言葉に栞の顔が歪むのが篝火にうっすらと照らされた。

 泣いて縋って何かが変わるならばきっとそうしただろう。栞はしばし口籠ると、そっと自身の懐から何かを取り出して佐為の方へと差し出した。

 

「これを……、せめて私の形代にお連れください」

「これは……」

 

 佐為は少しだけ目を見張った。

 檜扇や蝙蝠扇ともやや違う、栞に初めて目通りした時から彼女が持っていた愛用の扇だ。舞っている時も外出の際もいつも離さず携えていたもの。

 栞は自身の身代わりにと差し出したのやもしれない。しかし佐為は違う意図も感じ取って僅かに頬を震わせる。

 扇は囲碁の負態(まけわざ)の象徴──。碁にて勝ち星をあげた者のみが受け取る栄誉に預かる制勝の証だ。

 この扇を戯れに欲したこともあった。その度にはぐらかされていたというのに──まるで真実の勝者は自分なのだと励ましてくれているようではないか。

 佐為は手を伸ばしてその扇を受け取り、丁寧に懐へと仕舞った。

 

「必ず……必ず帰っていらしてね……、私のところへ」

 

 涙を堪えて必死に見上げてくる栞の言葉には、しかし答えることは叶わず、佐為はそっと両手で栞の頬を優しく包む。

 

「そなたの夫で……幸せでした」

 

 栞の瞳から涙が溢れたのを佐為の目は捉えたが、そのまま佐為は栞の唇を己のそれで塞いだ。

 栞の涙が佐為の両手を伝い濡らす。

 しばしの間をおいて唇を離すと、佐為は濡れたままの栞の瞳を見つめながらそっと額を合わせた。

 このまま永遠にこうしていられればどれほど良いだろう。慣れ親しんだその温かさから後ろ髪を引かれる思いで静かに身を離す。

 

「では……、今宵また」

 

 ほんの少しだけ微笑んでみせ、佐為は栞に背を向けた。

 

 後ろで彼女が崩れ落ちた気配を感じるも気づかぬふりをし、そのまま振り返ることなく開かれていく門の先の検非違使たちを見据える。

 そうして数えきれないほど通った四足門を出れば、門の先に佐為を残したまま、いっそ悲痛なほどの音を響かせながら屋敷の門は固く閉ざされた。



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第二十八話:幻惑

 都を追放される者は夜が明けきらないうちに京を出なければならない。

 

 佐為を乗せた簡素な網代車(あじろぐるま)追使(おいつかい)を務める検非違使に付き添われ、まず粟田口へと向かう。

 佐為も東への追放者が粟田口から京を出ることは見知っており、うつろな頭で考えた。西への追放であれば遠目にでも七条の自宅を見ることが叶ったやもしれぬが、ついに両親とは顔さえ見れぬままの別れとなってしまった、と。

 考えている間にも粟田口へ着き、追使(おいつかい)が領送使と護送の役目を交代するといよいよ京からの出立となる。

 

 まるで罪人のような扱いのまま、住み慣れた京を発つことになるとは。過去に無実の罪で都を追われる憂き目にあった人々もこのような気持ちだったのだろうか。

 それとも、やはり碁に負けたことこそが罪なのか。佐為は悲観さに苛まれる自身に抗うように栞の扇を無意識に強く握りしめていた。

 

 

 次第に外が白んできたのが牛車の中にも伝わる。

 

 このまま近江国を目指すのだろうか。ならば、かの有名な逢坂の関も通るのか。

 このような旅路でなくば少しは心躍る道ゆきであったろうに。

 これからどう生きて行けばいいのだろう。京外で暮らしたことはなく、京の外に出たことさえ数えるほどしかないのだ。まして遠国など、陸奥国など想像もつかない──と考える佐為の脳裏にふといつぞやの春に交わした会話がよぎった。

 

『佐為の君は“かい沼の池”をご存じ?』

陸奥国(むつのくに)にある場所らしいのですが、民衆の間になんともあやしき歌語りが伝わっているそうで……』

 

 あれは確か藤式部から聞いた話だ。

 あの時は自分には生涯関わりのない遠い地の話だと思ったものだが、まさかその地に他ならぬ自分が送られようとしているとはなんの因果なのか。

 なんの縁もゆかりもない地で、表向きだけは権守という肩書きであるが実態は謹慎蟄居。権限などなにもないのだ。頼りになる人もおらず従者の一人さえ連れてくることも許されず、生きる術さえない。

 まして碁を極めるなど、どうしてできよう。

 京から離れ、いったいなにを成せばよいのか。

 頭に浮かぶ全てのことがあまりに絶望的で、京を発ってまだ半日も経っていないというのに既に千里をこえた先までやってきたような気さえしてしまう。

 

 物見の御簾からうっすら差し込む陽の傾きを見るに今は午の刻あたりか──と佐為が薄ぼんやり思っていると牛車が揺れ始めた。山道に入ったのだろう。

 

 護衛の領送使の役人たちの声を聞くに、どうやら逢坂の関に着いたようだ。

 上洛する者たちもいるようで、佐為を乗せた車はしばし彼らが通り過ぎるのを待つ。

 こちらはこれから京を追われるというのに、行き違う彼らは喜び勇んで京へと帰るのだ。なんと羨ましいことか、とすれ違う者たちを羨む佐為を乗せて牛車は本格的に近江国へと入り、いよいよ畿内から離れた。

 佐為は思う。ここはもはや『外国(とつくに)』なのだ。元より逢坂の関所を越え畿内から出ることは禁じられているゆえ、生涯足を踏み入れることなどないと思っていた場所。未知の世界だ。

 

 佐為はそっと栞の扇を取り出し、開いてみる。

 

 今上の怒りが溶け、赦されて再び京に戻れる日は来るのだろうか。

 来たとして、果たして再び栞と逢える日が来るのか──。

 きっと栞はいつまでも変わらず自分を待っていてくれるだろうが、彼女は内大臣の姫。元々身分違いの婚姻だったのだ。いくら栞の父が寛容な人物であれ、一度都を追われ京での官職も失った自分を再び婿として迎え入れるかは……、考えて佐為は瞳に影を落とした。

 国母さえ望めた姫が自分などを受け入れてくれたというのに、いま思い返すとずいぶんと彼女を苦しめてきた。快活で華やかだった彼女を屋敷に閉じ込め、こちらのわがままで色々なことを諦めさせて……そして別れの時まであれほど嘆かせ、と最後に見た彼女の泣き濡れた顔が脳裏によぎる。

 栞のことを考えれば考えるほど、いつもそばで見ていたはずの彼女の笑顔すら遠く、昨晩この腕に確かに抱いていたというのに、あの温もりさえも今は思い返すことすら遠い気がしてやるせない。

 

 せめてこの扇くらいは──、思いつつ佐為は扇の持ち手を強く握りしめた。

 

 そうすることで無意識に込み上げる不安から気を逸らそうとしたのかもしれない。

 だってそうだろう。このような狭い牛車に閉じ込められ、いったいいつまでこうして過ごさねばならないのか。何日ここにこうしていればいいのか。遠い昔、まだ学生だった頃に目を通した主計式の記憶を手繰り寄せる。遠国と呼ばれるほどに遠く、また広大であるという陸奥国は確か京から三十日かそれ以上はかかるということだったはずだ。

 三十日……、具体的に想像した佐為はめまいを覚えた。それほどの日数を耐えた旅路の先に待っているのは孤独な蟄居の地だ。

 いったい自分がどれほどの罪を犯したというのか。

 官職を解かれ、京を追われて妻とも引き離され孤独に追いやられるほどの罪だったというのか。

 碁打ちとして心の動揺を抑えきれずに負けたことは甘んじて未熟だと受け入れもするが、しかし──。

 

 

 と、狭い牛車の中で自問自答する佐為にはこの左遷が左大臣を始めとしたさまざまな人間の思惑が絡み合った結果だとは知る由もなく。また、そう思い至るほど宮廷内の事情にも長けておらず、今上の前であるまじき不正をしたと他ならぬ今上が思い憤っているがゆえだと思い込んでいた。

 

 

 そのことが佐為の精神にどれほどの影響を与えたかは定かではない。

 しかし、菊の宴のあとから食事も睡眠さえもまともにとれずにいた佐為は京を離れてたった一日で既に限界が来つつあった。

 領送使たちの態度が特に悪いというわけではない。彼らが『罪人』に対し普段どう接しているかは分からないが、仮にも殿上人だった貴族の護送役という最低限の礼節は保っているのだろう。しかし、領送使に護送されているという状況そのものが佐為の精神を蝕んでいくことまでは止められない。

 食事も提供されるが、佐為の方が手をつけたいという気にならず、日が暮れて夜が来ても眠りさえ訪れてはくれず、こうなるといよいよ平静を保つのが厳しい状態に陥ってしまう。

 

 なぜこうなってしまったのだろう──。

 

 この一日でもう何度同じことを考えたことか。

 幼い頃から両親は自身に栄達の望みをかけて身の丈以上の教養を身につけさせてくれ、自身もまた励んできたというのに。その中で夢中になった囲碁にて今上に取り立てられたことは自身のなによりの誇りだった。

 そして栞と出逢い、(そち)大臣(おとど)の婿というこれ以上望むべくもない地位を得た。

 あまりに過ぎたことゆえに、神が罰を与え給うたのだろうか。

 栞との間に子ができずにいたのは、いずれこうなる定めだったからなのか。

 

『栞ではなく我が子に碁を教え、共に打つがよい。すれば……そなたにもきっと分かる』

 

 そうなれれば、と心から願っていた反面、やはり今でも分からないのだ。

 碁で誰かの下になってしまうなど考えることさえ疎ましい。神の一手を極めるのは他ならぬ自分でありたい。

 

『私も管弦を極めたいという志を持ってはいるが、私などではその領域には至れぬことも分かっているつもりだ』

『私の楽は息子たちに伝えてゆくつもりだ。私にできることは、おそらくそこまでだよ』

 

 あのように偉大な楽聖が言うのならば理なのかもしれない、が。やはり自分は博雅の心情にはなれそうもない。

 ただこうして京から遠ざかり、内裏(うち)で碁を打ち碁に精進した日々を手放さねばならないのが口惜しくてならない。二度と両親と会えぬやもしれないことより、栞と引き裂かれることすらよりも──。考える佐為は迫り来る苦しさと無念さで低く唸った。

 陸奥国での蟄居中にも碁は打てるのだろうか。打てるとして、誰と打つのか。

 もしもずっと一人であれば、いつの日か赦されて帰京できる日をひたすらにただ孤独に待ち続けるのみなのか。

 

 牛車の御簾からうっすらと光が差し込んできた。どうやら夜が明けたらしい。

 

 外から話し声が聞こえてくる。何とは無しに耳に入れていると、「鳥籠山(とこのやま)が見える」「鳥籠駅(とこのえき)で朝餉がてら休憩をしよう」などと役人たちが言い合っているのが分かった。

 

 鳥籠山(とこのやま)か……と佐為は物見の御簾をめくり外を見やった。

 うっすらと霧がかった風景の先に山らしきものが見え、ふと誦じている万葉の一首が頭を掠めた。

 

 

犬上(いぬかみ)鳥籠(とこ)の山なる不知哉川(いさやがわ)……いさとを聞こせ我が名()らすな……」

 

 

 ──私の名を聞かれても決しておっしゃらないでください。

 ──このように不名誉な私の名を……。

 

 

 ああそうだ。もしも自身の名が残ってしまえば、御前対局で恥を晒して都を追われたという耐えがたい記録まで残ってしまう。

 それならばいっそ、なにもかもを消し去ってほしい。

 

 悲観的な思考に苛まれていると、しばらくして牛車がひどく揺れてから止まった。鳥籠駅(とこのえき)に着いたのだろう。

 領送使たちだけでなく牛にも食事を与え休息を取らせるつもりなのだろう。先ほどの揺れは牛を車から放したゆえか、とぼんやり考える。

 

 ここが鳥籠駅(とこのえき)ということは、じきに不破の関のはずだ。

 越えれば美濃国に入るのか。思い巡らせる佐為の脳裏にふと思い出せないほどの昔に読んだ史書のことがよぎった。

 

 不破の関、鳥籠(とこ)……覚えがある。

 

 この地は、そうだ。ここは壬申の年に大海人軍と大友軍が戦い、後者が大敗して逃げ惑ったという場所だ。

 あれは確か崩御した帝の弟宮と皇子とで帝位を争ったがゆえの戦いだったか。

 いにしえの闘諍にそれほど深く思いを寄せることなどなかったが、いまこの地に立って考えれば疑問にも思う。

 あれは必要な戦いだったのだろうか──と。

 

「雨……?」

 

 外からふと雨音がした気がして、佐為は牛車前方の御簾をめくって外を見てみた。

 牛車の外に人の気配はない。役人たちは見張りも残さず休息に行ってしまったのだろうか。

 外が少しずつ靄がかってきている。霧雨のようだ。まだ日中のはずだというのに、まるで夕暮れ時のように薄暗い。

 みるみると見通しさえ全く利かないほどの深い霧が辺りを包み、そのあやしげな光景に誘われるようにして佐為は無意識に、本当に意図せず牛車から降りた。

 

 その昔に闘諍が起こった場所──。

 考えれば考えるほど、霧の奥にけたたましい合戦の音を聞いた気がして佐為は眉を顰めた。

 この鳥籠山(とこのやま)の戦いでの大友軍は、惨敗という表現すら生ぬるいほどの、大海人軍による掃討戦と呼ぶに等しい凄惨な負け戦だったという。彼らの亡骸でいっそ琵琶湖(におの海)さえ赤く染まるほどに、辺りの池や沼は血に濡れて……と考える佐為の顔が歪む。

 今の世は穢れを嫌い血を不浄だと避けるが、同じ地にあっても太古の世では皇子さえ血を流して戦っていたのだ。

 

『佐為の君は“かい沼の池”をご存じ?』

『そのかい沼の池に身投げしたという伝承の一つが歌となっているようで』

 

 あの時に藤式部の語った、これから自分が向かおうとしている陸奥国の話に自分は恐れおののいた。あまりに仏道に反するおぞましいことだと、考えることさえ拒絶したのだ。が、思えば我が藤原氏でさえ落ちぶれる前は射殺されたり毒をあおっての自害などを繰り返していたではないか。

 ならば、()()()()()()()()()。なにを恐れることがあろうか──。

 

 霧のせいかぼやける視界を見ていると思考さえ混濁してきて、佐為はあてもなく霧の中を歩いた。

 

 手酷い敗北を喫した大友軍は歴史の中でも敗者の位置づけだ。かの皇子は壬申のいくさ前に即位さえしていたと聞くが、史書にそのことは記されていない。

 帝……あの頃は大王(おおきみ)と言ったか……にあってさえそのような扱いを受けるのだ。ならば自分のことなど、この目の前の霧のように儚く霧散しても世のならいと諦めもしよう。

 そもそもいま歩いているこの場所は現世(うつしよ)なのだろうか、それとも常世か──。おぼつかない意識の中で佐為はふと足元がぬかるんだ感覚を覚えた。

 琵琶湖(におの海)にほど近いこの場所は池や沼が多い。その一つだろうか。

 その昔、この場で朽ちた大友軍が呼んでいるのか。我らと同じ敗北者よ、ここで果てよと。

 霧の向こうにゆらゆらと揺れるような水の音が聞こえる。

 霧が濃く前が見えないが、水は澄んでいるだろうか。ならば、その水底にはどんな景色が広がっているのだろう。と、佐為はいつかの春に藤式部の呟いた和歌(うた)を口ずさんでみた。

 

「世にふるに……なぞかい沼のいけらじと……思いぞ沈むそこは知らねど……」

 

 

 ──この世に生きていてなんの()()があろうか。

 ──いっそこの身を沈めてしまおう。その水底(みなそこ)になにがあるかは知らないけれど。

 

 

 あの時も思ったのだ。この和歌(うた)に恐れを抱く反面、その水の底を見てみたい……と。

 ()()に在る世では、なんのしがらみもなく碁を打てるのだろうか。すれば、今度こそ神の一手を極められるのか。

 もはやその望みがこの現世(うつしよ)にないのならば、なぜ()()に居られようか。

 

 ただもっと、もっと碁が打ちたかっただけだというのに──。

 

 無意識のうちに佐為はぬかるみに誘われるように歩き続け、ついには膝辺りまで水に浸かってなお足を奥に進めた。水圧で重いなどという感覚さえなく、ただ霧雨に濡れる中で冷たい水へと身を沈めていく。

 それでも心のどこかに僅かばかりの罪悪感が飛来したからか、それとも制勝の証というよすがゆえか、佐為は栞の扇を開いて強く握りしめた。

 いつの間にか髪が乱れ烏帽子を被っているかさえ定かではなくなったが、それでも意識ある限りこの扇だけは手放すまいと強く念じた。

 

 

 その佐為の面窶れて打ちひしがれていた姿はいっそ凄みを増して美しく、(まこと)に神が(かどわ)かしたのやもしれない。

 

 

 そのうちに霧が全てを包み込み飲み込んで、この閉ざされた濃霧の中で起こったことを知るものは誰一人としていない。

 ひとたび迷い込めば二度と生きては出られないと思えるほどの、この世のものとも思えぬ幻のような光景のなかでなにが起こったかは──。

 

 

 

 やがて霧が晴れ、鳥籠駅(とこのえき)で休息をとり視界が晴れるのを待っていた領送使の役人たちはようやく異変に気づいた。

 牛車に向かい声をかけても返事はなく、車を持ち上げようとすれば軽く、慌てて御簾を捲ると中は無人。一同は互いの顔を見合わせて押し黙った。

 逃げたのか、はたまたあの霧に紛れ鬼でもやってきて連れ去ったか。

 ともかく陸奥国まで護送する任を負った彼らが護衛すべき本人を見失ったとあらばとんでもない失態であり、一同は散り散りに辺り一帯を探しに出た。

 

 

 

 そして佐為が京を発ち、三、四日ほど経っただろうか。

 

 四条の屋敷で二日ほど泣いて伏せっていた栞はようやく起き上がって少しは動こうという気になっていた。寝具にも佐為が着ていたものにもまだ彼の移り香が残っていて片すのさえ忍びなかったが、そのままではかえって亡くなった人のようだと命婦に諭され、仕方なしに佐為の衣装は丁寧に仕舞った。

 それにこれから遠い地で精進の日々を送る佐為に服など送り届けさせないといけないのだ。落ち込んでばかりもいられない。そうだ、とびきり質のいい碁盤と碁石も送ってあげよう。きっと慰めになるに違いない。

 

 四条には自分を案じた博雅が宿直を務めに来てくれており、栞は佐為に頼まれた通り佐為の両親の様子を見てきてほしいと博雅に頼んだ。

 博雅はすぐに七条に使いを走らせ、報告を聞くと、佐為の両親ともに既に出家した後だったということだ。縁座ではなく自らの判断であったという。

 栞は自ら七条に出向くことは身分柄叶わない。本来なら博雅も軽々しく出向ける身ではないが、佐為のたっての望みということで七条の屋敷を大臣家の庇護下におく旨の文を出し、その上で博雅が直接彼らの元へ出かける運びとなった。

 

 公卿どころか先の帝の御孫を下級官人の家に迎えるなど本来ならば起こり得ないことであり、佐為の実家に足を運んだ博雅は彼らのあまりの恐縮ぶりにかえって哀れな気がした。

 ともかく、博雅自身も栞も佐為は無実であると確信しており、一日も早い帰京を待つつもりだと彼らを励まして、これからの生活の心配などせず勤行に精進するよう告げて七条を後にした。

 

 

「兄上……!!!」

 

 

 そのまま博雅は一度自身の屋敷に帰ったが、そこには意外な来客が待ち構えていた。実弟の源の侍従だ。

 寝殿の母屋で彼の姿を見た博雅は首を捻った。なにやら血相を変えている様子だ。

 

「珍しいな。なんぞあったのか……?」

「なにを呑気な……! 今日の出仕で小耳に挟んだのですが──」

 

 座していた源の侍従は焦ったように立ち上がり博雅の方へ駆け寄ってきた。

 そうして告げられた話に博雅は目を見開く。聞けば、検非違使別当が今上にこう告げていたという。不破の関を前にして領送使が佐為を見失った、と。

 

「み、見失ったとはどういうことだ!? 佐為殿は……!」

「分かりませぬ。聞いた話によりますとどうやら霧が濃くて動くこともままならず……晴れた時には佐為殿が煙のように消えていたと。主上(おかみ)もご動揺なされて、物の怪の仕業ではあるまいかとさっそく陰陽寮の役人に行方などを占わせている次第でして……」

「占いも結構だがまずは探索であろう!? 検非違使を派遣せぬというならこちらの荘園から幾人か向かわせようぞ」

 

 あまりにも突然な話に博雅は焦りつつ思った。栞のことだ。

 佐為が移送途中で行方知れずだなどと、ただでさえ憔悴している栞に話すべきことだろうか。

 もし話してしまえば、自ら探しに行くと言い出しかねない栞だ。だが佐為を乗せた牛車が畿内を既に発っていた以上それは不可能。自分たちが畿内を無断で離れることは固く禁じられているのだ。

 しかし──もしも騒ぎが広まれば自ずと栞の耳にも入るだろう。その時に黙っていたことを悔いるよりは、と博雅は屋敷を出て四条に牛車を走らせた。

 

 

「佐為の君が……行方知れず──!?」

 

 

 そうして栞に実弟から聞いた話を告げると、栞はその場に倒れかかり博雅は慌ててその身を支えた。

 物の怪や鬼の仕業など万に一つも考えない栞だ。

 佐為自身が自らの意志で牛車から出たか、あるいは役人が故意になにかしたか。どちらにせよ案の定自身も近江へ探しに行くと言い出したため、博雅は既に自分の配下を手配したと言い聞かせてなんとか彼女を落ち着かせた。

 それでも真っ青な顔でへたり込んで震える栞が哀れでならず、博雅は居た堪れなさに強く拳を握りしめた。

 

 ほんの少し前まで、あれほど仲睦まじく幸せそうな二人だったというのに──。

 

 左遷を嫌ってどこぞに逃げおおせたというのだろうか。

 あてもなく逃げても生きる術などあるまいに。

 であれば、まことに鬼の仕業なのか……それとも彼を憐れんだ神か御仏が連れ去ってしまったか。

 

「栞……」

 

 もしもそうであれば、栞はどうなるのだろう。

 あれほどまでに佐為を愛し、その身を尽くしてきたこの姫は──。

 

 

 博雅も栞も一抹の望みを託し、ひたすら吉報を待った。

 しかしその願いも虚しく、十日経っても、ひと月がすぎても佐為の行方が知れることはなかった。



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第二十九話:常夏へ

 佐為が移送途中に行方知れず──という話は宮中に広まり、当初は逃亡を疑っていた人々も日を追うごとに物の怪の仕業やもしれないと恐れをなすようになっていった。

 

 同時に佐為への同情も高まり、左遷はあまりにひどい処罰だったとの声も出始め、関わったものたちは祟りに怯えて秘密裏に加持祈祷などを行わせていた。

 

 ほとぼりがさめれば佐為を呼び戻すつもりであった今上としてもまた、このような不測の事態が起こるとは青天の霹靂でしかなく心痛からやや窶れていた。

 ともかくも佐為の消息さえ知れずこのような事態となった以上、顕忠の昇殿留任どころか予定通り巡爵させるのさえ取りやめた方がよいと考える今上の意向に異を唱える議政官は誰一人とておらず、本来ならば年明けの加階で巡爵の予定だった顕忠の従五位下への加階──つまり貴族階層への仲間入り──は見送られることとなった。

 そして顕忠は正月の除目にて六位のまま下国の守として離島へ派遣される流れになった。

 至極真っ当な任官とはいえ、誰の目にも左遷同然である。

 

 顕忠にしても祟りや物の怪の累が自身に及ぶのを恐れ下向するその日まで物忌を続け、もはや出世の望みは絶たれたのだと失意のまま京を後にした。

 

 

 あの重陽の日を境に、誰も彼もの命運が分かれてしまった。

 

 

 その最たる人の一人が橘内侍(きのないし)だろうか。

 あの日以降、積年の恋人を謀っただの逆に佐為の不正に手を貸しただのの謂れのないうわさを囁かれ続けた彼女は憔悴し、それにも増して自身の失態が佐為の左遷を招いた事実と、その佐為が消息をたったという話を聞いてついに倒れてしまった。

 そのまま宿下りが続いて出仕も滞りがちになり──翌年の重陽が見えてきた頃に彼女はついに髪を下ろして宮廷を去った。

 出家する前に彼女は栞に宛てて長い長い文を書いた。全ては自身が招いたことであると。この先の生涯を捧げ、佐為のために祈り過ごすことをどうか許してほしい、と。

 栞には敵わぬと諦めつつもいつか妻の一人にと切望していた彼女にとって、その文を出すことがどれほど辛かったかは計り知れない。

 ただ、才気豊かな宮仕えの花に世を捨てさせるほどの深い悔恨を残したできごとだったのだけは確かだろう。

 

 もう一つ、あの日を境に変化したできごとがあった。

 左大臣の中の君──尚侍(ないしのかみ)のことだ。

 彼女もまた行方知れずとなった佐為のことに心を痛めており、同じように傷心の今上をそばで慰め続けた。どちらも佐為を失った痛手という点で似ていたゆえか、二人は少しずつ心を通わせ、図らずも左大臣の望み通りに尚侍(ないしのかみ)は今上の寵を受けるに至った。

 

 

 それがどのような結果をもたらすかは分からないが──、佐為が消息を絶って一年が過ぎた。

 

 

 また秋が巡ってきてしまった。

 と、四条の屋敷で栞は夕暮れに舞い散る紅葉をぼんやりと眺めていた。

 佐為が近江の鳥籠(とこ)あたりで消息を絶ったと聞き、ずいぶんと探させたつもりだ。しかしどれだけ経ってもなんの手がかりも得られず、捜索を打ち切って久しい。

 あまりに不可解なことゆえ、みなは鬼か物の怪が連れ去ったと言っていたが、そんなことはあり得ないのだ。佐為自らの意志で領送使たちのもとから離れたのだろう。

 あれほど京で碁を打つことにこだわっていた佐為だ。ひょっとしたらこの国に見切りをつけ、囲碁の盛んな唐土の都へ秘密裏に渡ったのでは──などとも考えた。そうでないなら、あるいはもう……と栞はよぎった考えを否定するように首を振るう。

 

「姫さま……、お外はもう寒うございます。お戻りあそばしませ」

 

 そんな栞を案じ、命婦は妻戸を開いて栞を母屋に戻るよう促した。

 栞は力なく返事をして戻り、命婦は妻戸を閉じる。そうして命婦は冷えないように栞に何枚か単衣を重ねてやりながら眉を寄せた。

 あれほど快活で明るかった姫はあれ以来見る影もなく涙がちで塞ぎ込むことが多くなった。

 それでもこの大臣家に仕える数え切れない数の使用人の生活が自分の肩にかかっていると自覚しているゆえだろう。財産管理だけはなんとかこなしてはいるものの、それ以外は臥せっている時間が日一日と長くなってきており、気が気ではない。

 赤子の頃からこの手で育て、親以上の思いで仕えているこの姫にもしものことがあったら。──そうは思っていても、栞が佐為を今でさえどれほど愛しているかを思えばなにも言えず。佐為が再び京に戻る日を元気に迎えなくては、と繰り返し励ますしかない自身が口惜しい。

 

 

 事実、栞はなにをするのも煩わしいと思う反面、両親が帰京するまではこの屋敷を守らねば──という気力でなんとか生きているようなものであった。

 

 年が明ければ任期の明けた父が母とともに帰京する。

 

 それまでは……、と考えているうちに日々は流れ、栞の両親はこれ以上ないほどの派手な大行列を成して帰京し、都もまた派手やかに彼らを迎え入れた。京にとっては久々の華やかな催しでもあった。

 

 栞は帰京した父と母に長年守ってきた寝殿を返し、自身の住まいを北の対に移した。

 

 もはややることもなく、生きていることすら虚しい。と、栞は立ち歩くことさえ滅多になくなり、屋敷の奥でただ過ぎていく時間に身を委ねた。

 寝ても覚めても、佐為がいないことを思い知らされるのがたまらなく辛い。

 いま彼はどこにいるのか、それだけでも分かれば──。そう願いながらも日一日と佐為のいない日が伸びていくのが怖い。

 いつまで経っても慣れないというのに、一人分の(しとね)での独り寝が当たり前になっていき、滲む涙だけは枯れることはなく苦しさも少しも和らいではくれない。

 

 このままでどうやって生きていけよう──。

 

 帰京した栞の両親はあまりに変わり果てた鍾愛の姫の様子に困惑しつつも為す術なく。

 

「源氏の大臣(おとど)……!」

 

 大宰帥(だざいのそち)の任を終えて内大臣に戻った栞の父は日々を朝廷に今上にと捧げる日常を送っていた。

 そんなある日、ふと左大臣に声をかけられた彼は立ち止まる。おりいっての話ということで二人は人気のない殿舎の一角で顔を突き合わせた。

 

「御娘の四条殿のことですが、お加減がよろしくないとか……」

 

 当たり障りのない雑談を少々したのちに、左大臣はそんなことを切り出してきた。

 

「こちらの留守中に色々ありましたから……、心労もあるのでしょう」

「それは大臣(おとど)も北の方もさぞやご心配でしょう。主上(おかみ)もたいへんご案じなさっていると聞きましたぞ」

「私どももどうにか姫を元気付けたいとは思っているのですが……なかなか」

 

 源氏の大臣(おとど)が一人娘の行く末を案じているのを察して、左大臣はさっそく嫡男である藤の中納言との再婚をそれとなく申し入れた。当の中納言はまさか佐為が移送途中に行方知れずとなるとはと今さらながらに栞を慮って尻込みしているが、どのみち恋心までは消せぬのだ。ならば早急にまとめたほうが良いというもの。

 

 急な話に源氏の大臣(おとど)は少々驚いたものの、未だに中納言が栞を想っているならば一度断った手前哀れでもあるし。なによりも最初の結婚があのような結果を招き、栞がやつれ切っているのが不憫で今のまま一人で過ごさせることに不安も覚えており。

 その話を持ち帰って自身の北の方である栞の母に相談する運びとなった。

 

「どうだろうか、上……。昔ならば姫が生涯独身でもと考えていたが……、今の状態では私たちの亡きあとに一人残されるとなるとやはり誰か大切に世話してくれる人がいたほうがよいやもしれん」

「ですが……、あちらには四の宮さまという北の方がおいでですし……院もどう思われるか」

「院も中納言が姫に想いを寄せていたことはご存知だし、栞のことも案じておられるからそうご不快に思われることもなかろう」

 

 男女がなし崩しに一緒になり時間をかけて世間に認められるという方法もあるが、正式な結婚となると親同士の承諾の元で行われるのが常だ。栞の再婚に積極的には賛成というわけではない二人だったが、それでも屋敷に籠りがちの栞の現状を見ていると将来的には誰かと縁づかせるほうが良いのではと考えてしまうのは親として責められることではないだろう。

 

 しかしそのことは栞にとっては思ってもみない話であり──。

 

 後日、源氏の大臣(おとど)は北の対に足を運んで左大臣家との内々の話を栞に伝えた。

 栞の方はまさか再婚など考えてもおらず、強くかぶりを振って拒否する。

 

「私の()は佐為の君だけです──ッ! お断りしてください!!」

「し、しかし……かの君は行方知れずでもう二年以上が経つのだし、そなたもその調子では誰かしっかりした者がそばにいたほうが良かろう」

「いやです! 二夫(にふ)にまみえるくらいなら今すぐ髪をおろします……ッ!」

 

 栞は父に泣いて訴えた。

 さして信心深くもない自分が髪を下ろすほどのこと。どれほどの拒否かは推して知るべしだろう。

 幼い頃から落ちぶれることだけはあってはならないと教え育てられた栞としては一人娘の将来を案じる父の気持ちが分からないわけではない。が、再婚それも藤の中納言が相手など考えられもしないことだ。

 中納言を嫌っているわけではないが、なにより中納言と文を交わすことにさえ難色を示していた佐為を思えばなぜ再婚などできようか。

 中納言からは今も度々文が来るが、佐為が京を経ってからというもの返事の筆をとる気にもならずそのままにしているというのに。

 

「姫……、では気晴らしに御所に上がってみるのはいかがか? 主上(うえ)もあだめいた筋でなしの宮仕えを薦めてくださっている。これを励みに気を持ち直して──」

「御所にはもう二度と上がる気はありません!」

 

 以前は結婚にも宮仕えにも積極的でなかった父がこんなことを薦めてくるとは。それほど今の自分は頼りなげだというのだろうか。思う反面、もはや自分でもどうしようもないことだ。佐為がいないというのに、どうやって以前通り笑って過ごせというのだろう。

 

「私はここで、佐為の君のお帰りを静かに待ちたいのです。父上……どうかお聞き届けくださいませ……!」

 

 そう懇願すれば、父の大臣(おとど)は釈然としないような表情を浮かべた。

 父にしてみればもう何年も行方知れずの相手など、いないものとして切り替えろということなのかもしれない。

 無理矢理に縁談を進められるとは思いたくないが、と寝殿へ戻る父を見送ってから栞は女房の中でも特に信頼のおける複数人を集めた。

 そうして今後は自身の寝所のそばで宿直を務めるよう言う。万が一にも両親や女房の誰かが自身の寝所に中納言を手引きするという強硬手段に出られた場合の阻止手段としてだ。

 それでも夜が近づくたびに身がすくみ、栞はその日以来夜がくると怯えてほとんど眠れない日々が続いた。

 

 心労が祟ったゆえか何かの拍子に気を失うようなことが何度も続き、見かねた命婦が栞の様子を見にきた源氏の大臣(おとど)に訴えあげた。

 

「私どもでさえまだ佐為の殿のことを忘れかねておりますのに、姫さまはどんなにお辛いことか……! あの殿の代わりなど、どれほどご立派な方でもつとまる気がいたしません……」

 

 そして佐為と栞の仲がどれほど睦まじかったか、どれほど栞が佐為を愛していたかを切々と語るも、当の本人に会っていない大臣(おとど)には真の意味で伝わらないのもまた道理だろう。

 事実、大臣(おとど)としては佐為がここにいれば姫の選んだ婿としてそれ相応の引き立てをするつもりであったが、いや蟄居の身でさえ今上に働きかけ帰京させることもやぶさかではなかったのだ。それが行方知れずではどうしようもないではないか。まして、彼の生死がどうであれ、こちらからすれば栞を捨て置いて逃げたも同然。そんな者のために栞の身が苛まれているのが哀れでならない。

 

 たった一人の、それもこの大臣家の一の姫だというのに──。

 

 そう強く思うものの、日に日にやつれ衰えていく栞を見て大臣(おとど)は左大臣の申し入れも宮仕えも病を理由に断ることを決めた。

 

 それでも栞が夜に寝付けるようになるまでずいぶんと時間がかかり、とは言え心から安堵して眠れる日は一日もなく。定期的に博雅にも宿直を頼むようになっていた。

 

 当の博雅は今も時おり人を手配して佐為の行方を探させてはいたが一向に見つからず。これほどまでに情報が出ないのであれば、やはり鬼か物の怪の仕業であると思った方がよいとまで考えるようになっていた。

 栞やここの大臣(おとど)は不確かな存在を信じない性分ではあるが、博雅としては人智を超えた何かはあり得ると思っているからだ。

 そのことを酒を酌み交わしつつ源氏の大臣(おとど)に話してみたとある日のこと。彼は盃を手に神妙な顔をして小さく唸った。

 

主上(うえ)もいつか同じようなことをおっしゃっていたよ。陰陽寮の役人に占わせても、高麗人(こまびと)に占わせてもいつも同じ結果が出ると」

主上(おかみ)が佐為殿をお探しに……?」

「うむ。逃げおおせたか、それとも死したか。結果はいつも()()()()と」

「わからぬとは……?」

「陰陽寮の役人が言うには、この世にも常世にもおらぬゆえにわからぬということらしいが……。まあ、占いだからな」

 

 大臣(おとど)の口ぶりから占い結果は微塵も信じていないことが見て取れたが、博雅はごくりと息を呑んだ。

 やはり佐為は人ならぬものが連れ去ってしまったのだろうか。

 

「佐為殿は……、男の身から見上げても鬼神さえ魅入られると思えるほどの美しさでしたから……神が彼を哀れんで連れ去ったとも考えられましょう」

「そうであろうか? 私には我が姫を見捨て逃げた不実な男に思えるがな」

 

 あっさり言い返されて博雅は言葉に詰まる。

 佐為のことを不実とまでは思っていないが、確かに彼には栞よりも己の意志や何より碁を優先する利己的な部分はあったが──でも。それでも。

 

『私のわがままで……栞には望んでいたことをずいぶんと諦めさせた』

『栞は私と出逢ったがために人生を狂わされた気がしてならないのです』

 

 もしも本当に源氏の大臣(おとど)の言う通りなら、あまりに栞が哀れではないか──。栞は文字通り、佐為に身を尽くして全てを捧げてきたと言っても過言ではないのだ。

 今もおそらく、佐為がいつの日かこの京に戻るという僅かな可能性をよすがに懸命に生きている状態なのだ。

 

 だから今は気の済むまで待たせてやって欲しいと博雅は陰ながら大臣(おとど)を説得し、季節はまた幾度となく巡っていった。

 

 

「姫さま、寝殿のお庭の紅葉がとても見事だと北の方さまからのお届けものでございますよ」

 

 とある秋の日、命婦は寝殿から届けられた鮮やかな紅葉の枝を(しとね)に横たわり脇息にもたれかかっている栞のところへ持っていった。

 

「紅葉ならこちらも変わらないのに……」

「でもございましょうが、北の方さまからのお心遣いですから」

「もう寝殿の南庭も久しく歩いていないけど……この紅葉は佐為の君と一緒に見た紅葉かしら……」

 

 ふ、と栞が力なく笑って命婦はその儚げな様子に思わず眉を寄せた。

 いつも若々しく頬はほのかに赤く艶めいて夏の陽のように明るく美しかった姫だというのに、すっかり痩せて線も細く弱々しくなってしまった。

 それがかえってほっそりした清らかさが加わったようにも思うが、それでも今にも消え入りそうでやるせない。

 

「佐為の殿がお帰りあそばしたら、また宇治へお連れくださいませ。あちらの紅葉はもっと美しいことでしょうから」

「ええ、そうね……」

 

 頷いて、栞は脇息にもたれかかって目を閉じた。

 佐為と別れたのも秋だが、浮かんでくる思い出はどれも幸せなものだ。

 佐為との婚礼の日も紅葉の舞い散る美しい夜だった。博雅や宮たちの奏でる楽の音色を遠くに聞いて、生涯をこの人と過ごすのだと誓った。

 二人で宇治の野を馬で駆けた秋も、初瀬詣(はつせもうで)に出かけた秋も幸せで……、ただあのまま佐為と歳をとっていきたかったというのに。

 

 もう何度、こうして一人の秋を迎えただろうか。

 

 これから何度、巡る季節を一人で過ごさねばならないのだろう。

 あとに残して気がかりな子供もいないのだから、もういっそこのまま世を去ってしまいたい──などと思う反面、もしも佐為が戻ってきたらと思うと、せめてその日までは生きていたいとも思う。

 だが、いつまで待てばいいのだろう。

 いつまで──、と移りゆく季節さえも屋敷の奥に引きこもって滅多に見ることもなくなっていた栞だったが、秋が深まり冬が来たとある朝のこと。

 珍しく栞は北の対の簀子に出て外を見てみた。

 

「雪……」

 

 冷えると思ったら、と東の対を臨む庭は一面白く覆われており白い息が空へとのぼっていく。

 そういえば佐為は冬を好んでいた。寒さを厭わず、雪が降れば子供のようにはしゃいで……と寒さに肩を震わせる栞の視界にふと赤いものが目に入った。

 

「あ……」

 

 椿だ。栞は誘われるように庭に降りてみる。

 遣水の先に植えてある椿は今が盛りのようで、雪化粧をした赤い花が鮮やかに色づいている。

 そばに寄れば雪の重みでいくつか地面に落ちているのが目に映り、栞はしゃがみ込んでそのうちの一つを手にしてみた。

 椿は佐為が格別に愛でていた花だ。

 

『栞……!』

『ひと枝手折っても構いませんか……?』

『美しいでしょう?』

『ああやはり、よくお似合いですよ』

 

 いつかの冬の朝、彼は口の端から白い息をのぼらせながら嬉しそうに椿を差し出して髪に飾ってくれたのだ……と思い浮かべた栞の瞳から手の中の椿に涙が伝い落ちた。

 直後、堰を切ったように涙が流れ出す。

 雪に散らばる椿にすがるようにして嗚咽し、何度も何度も佐為の名を呼んだ。

 

 いったい彼はどこにいるのだろうか。

 せめてもう一度、一目だけでもいいから逢いたい──。

 

 そのうちに吹雪いてきたことにも気づかず、栞は雪に臥したままいつのまにか意識を手放していた。

 

 あまりにひどい雪ゆえに格子は降ろされ妻戸も閉じられ、女房たちが栞の不在に気づいたのは結構な時間が経ってからであった。

 

「姫さま……?」

 

 普段は母屋の奥で一人じっとしている栞だ。普段どおりに過ごしているだろうと思っていた女房らは栞の不在ににわかに取り乱し、北の対は元より栞が以前はよく使っていた西北の対もくまなく探した。

 しかし栞はどこにもおらず、慌てた命婦が寝殿に駆け込む。

 

「北の方さま、姫さまが──!」

 

 栞の母に栞の不在を知らせ、ちょうど顔を出しにやってきた博雅にもその旨を知らせて屋敷中で捜索が行われた。

 昔の栞であれば馬場殿に籠もっているなどもあり得たが。と、博雅は吹雪の中を外に出て走り探した。視界が悪い。寝殿の庭から東の対の簀子に上がり、北の対側の庭に出て辺りを見渡す。

 

「栞──!」

 

 まさか栞までもが鬼に攫われたなどということは、と一瞬縁起でもないことを浮かべて青ざめ、雪を払うようにして走る。

 そうしてふと、遣水のそばに大きな白い塊が見えて博雅は走り寄ってみた。

 

「栞!?」

 

 すればあろうことか雪を被った栞が倒れており、博雅は慌てて雪を払う。

 うめき声が小さく聞こえた。ひどい熱だ。

 

「栞! しっかりいたせ!!」

 

 博雅はそのまま栞を抱き上げると急ぎ北の対に駆けて手当をするよう指示を出した。

 

 薬師が屋敷に呼ばれるも熱は引かず。栞の母たっての要望で徳の高い僧が何人も呼ばれ栞の寝所の横で絶やさず加持祈祷を行わせるも一向に病状は快復せず、熱が下がったと思えばまた上がるを繰り返して両親や女房らは生きた心地すらしない。

 栞の母に至っては北の対に泊まり込んで看病を続けるも、栞の方は響く祈祷の音さえ耳に入らずいく日もいく日もうなされ続けた。

 

 ──佐為の君。

 ──もしももうこの世にいないというのなら、迎えに来て下さってもいいものを……。

 

 佐為のいない世に生きていることが辛くてたまらない。自分を哀れんでくれるなら同じ場所へ連れていって欲しい。それとも、迎えにくるほどには愛されていなかったのだろうか。

 だから去っていってしまったのか──。

 

「佐為、の……君……ッ」

 

 朦朧とする意識の中で佐為の名を呼んでうなされ続ける栞を女房たちが取り囲み、栞の母が涙を溜めて栞の手をとった。

 

「しっかりなさい……! あなたに先立たれてどうして老い先短いこの母に生きてゆけというのです……、まだお若い盛りだというのに……」

 

 それが栞の耳に届いたかは分からない。

 しかしひと月を過ぎても病状は良くならず、もはや快復の見込みがないやもしれないと薬師に告げられた源氏の大臣(おとど)はいっそ栞にはっきりと告げようか迷っていた。

 もはや佐為はこの世のものではなく、死したのだと。大臣(おとど)からすればそれ以外の答えが見出せないのだ。

 

大臣(おとど)、それはなりませぬ……!」

 

 そんな源氏の大臣(おとど)の考えに苦言を呈したのは博雅だ。

 

「しかし、これでは姫が前に進めぬ……! 背の君を見送った日からもうずっと時が止まったままではないか!」

大臣(おとど)のおっしゃることも尤もでございますが……、いま栞から佐為殿がいつの日か帰京するという希望まで奪えば、もはや生きてはいけますまい」

「それではこの先の一生をありもしないものに縋らせて死んだように生きよと言うのか……?」

「さもありましょうが……、栞がそれほどまでに佐為殿を好いておるのを知っていればこそ……」

 

 偽りでも生きるよすがを与えねば。と、暗に仄めかす博雅に大臣(おとど)は歯を食いしばった。

 栞と佐為がどのような生活を送っていたかを直に知る博雅がそう言うのならば、それもまた理にかなっているのかもしれない。

 しかし──と葛藤するも病状の重い栞を思えば僅かでも快復の見込みにすがるしか術はなく、大臣(おとど)は久々に出仕をして今上のところに向かった。

 

「源氏の大臣(おとど)……!」

 

 自身の姿を見つけた藤の大納言──中納言から権大納言に昇進した──が駆け寄ってくる。

 

大臣(おとど)、栞殿のご様子は……!?」

 

 栞が病に臥していると聞いて案じたのかやつれ気味の彼に首を振るってそのまま今上に謁見した。

 今上の方も栞の様子を訪ねる文を何度も四条に届けるほどには栞の容体を案じており、大臣(おとど)はさっそく本題を切り出した。

 佐為のことだ。陰陽師たちがあの世にもこの世にもいないなどと意味のわからぬことを曰うゆえに宙に浮いたままだった処置をはっきりさせて欲しいと奏上したのだ。

 

 

 そうして源氏の大臣(おとど)の奏上を受け、今上が佐為に大赦を出したという話は瞬く間に宮中に広まった。

 

 

 登華殿でもまた今上の公式の赦しを知って安堵すると共に、栞が生死を彷徨っていると聞いた女御は秘密裏に僧を呼び祈祷を続けさせていた。

 彼女にとってもあの重陽の日の御前対局はにがく苦しい出来事だ。

 

「いまも時おり思うのです。わたくしが主上(おかみ)に、佐為の君はそれほど完全無欠なお方ではないと伝えていれば……と。あれ以来、主上(おかみ)はあれほどお好きだった碁からも離れられて、誰も彼もが悲しい思いをしましたから……」

 

 過ぎ去ったときを省みて、あの時こうしていれば、と悔いることは誰しもあるだろう。

 女御もさることながら、清少納言もまたすっかり沈みがちになり自身の部屋で大人しく書きものをする時間が増えていっていた。

 

 佐為の左遷と、それ以来塞ぎ込みがちでもはや生死すら危ういという栞のうわさを聞くにつけ、後悔に苛まれる日々だ。

 もう何度、いつかの夏に交わした会話を悔いたことだろう。

 

『どこかで時鳥(ホトトギス)が鳴いているのではありませんか……?』

『まこと時鳥なら見逃すわけにはいきません。栞殿、確かめて見てきてくださいませ』

 

 あの時になぜ、ああも気安くあの姫を行かせてしまったのか。

 なぜ戯れに佐為と引き合わせ、対局の続きを打たせてしまったのだろう。

 なぜ──。

 

「私があの時……行かせていなければ……!」

 

 佐為と出逢い、恋をした彼女は変わってしまった。

 

『私は今回を最後にもう二度と御所に上がることはないと考えています』

『離別など……、七度生まれ変わってもまた逢いたいと思っていますのに』

 

 あの新嘗祭の日に言葉を交わした彼女の姿が今生の別れとなってしまうのだろうか。

 何もかもに恵まれた姫だったのに、このように慈悲もない結果を招いて命を終えねばならないのか。

 もしも御仏がおわすなら、あの夜に戻してほしい。今度は時鳥など探しに行かせず、佐為にも逢わせずにやり過ごすから。

 

 筆をとった清少納言は、まだ裳着も済まさぬ少女だった頃の栞の姿を浮かべた。

 可憐で美しく、自由闊達な少年のようだった頃の栞の記憶を脳裏に蘇らせ、一心不乱に書き記していく。

 

 光り輝くこの御所にあって舞の才能豊かな美しいお姫さま。何もかもに恵まれて、憂うことなどひとつもない。悲しいことなんてなにもなく、この中であなたは永久に輝き続けるの。

 私たちがこの世を去っても、いつまでも──。

 

 自責の念への罪滅ぼしか、栞を哀れんだゆえか。

 清少納言は栞との美しく楽しい思い出のみをひたすら紙に書き残した。その散文の中には幼少の頃から成人後まで多岐に渡る様々な話が描かれたが、彼女はいっさいの佐為の話を記していない。意図的にそうしたのだろう。

 そうして佐為の記憶だけを取り除いた、美しく装飾された栞の姿がまさに筆者の意図通りに後の世に残ることとなる。

 

 

 麗景殿でもまた栞が危篤状態ということは伝わっており、それにも増して今上が佐為に大赦を出したことが話題となっていた。

 

「これで少しは佐為の君の汚名もそそがれるでしょう。よかったこと」

 

 誰とはなしにそんな声をかけられた宰相の君は、喜びよりも気疲れをして部屋で深いため息を吐いていた。

 その様子を仕切りを取り払って休んでいた隣室の藤式部が気遣う。

 

「みな好き勝手にこちらのことをおっしゃって……、もともと佐為の君になんの汚名があったというのでしょう」

「わたくしもそうは思いますが……主上(おかみ)が勅を出されたことはありがたく思っております。ですが、病床の四条の御方(おんかた)さまを思うと……お気の毒で……」

 

 宰相の君も佐為の左遷当初はやつれていたが、それにも増して北の方の焦燥はいかほどかと感じたのだろう。栞を気遣う文を書いては出しあぐねているのを何度か見ていた藤式部は友人として彼女を哀れに思っていた。佐為と先に出逢ったのは彼女の方だというのに、なまじ身分の差と正式な婚姻という事実を前にはこうも弁えなければならないのか、と。

 むろん彼女のゆかしい考えは嗜みにかなってはいるものの──。

 

「わたくし、北の方さまのお気持ちが……数ならぬ身ながら分かる気がいたしますの。わたくしもいつの日か佐為の君が京にお戻りになるのをお待ちしたいと……そう思っておりますから」

「まあ……」

 

 佐為が消息不明となり、宮中は物の怪だ鬼だと騒いでいたが、物の怪というのは心理的なものであるし鬼も空想上のもの。物語を彩る添え物にはなっても現実にはあり得ないと心のどこかで察していた藤式部だ。おそらく佐為が戻る日は二度とない、と彼女は誰に告げずとも自分ではそう結論づけていた。

 それでも幼少の頃から親族や友人といった身近な人々を幾人も亡くした彼女は人の死に敏感でもあり、また佐為がそうなっただろうことに際しては残された友人の方へ深い同情を覚えていた。

 あの人が宰相の君を少しも愛していなかったとは思えない。おそらくは北の方のことも。それでも左遷の憂き目に合い、京を追われて碁での栄達が叶わぬことを苦にしたのか。

 貴族であればあるほど、自ら命を絶つなどあり得ないゆえに誰も考えすらしない。佐為もそうだろうと思う反面、あの人ならあるいは──と藤式部はいつかの春に桜を眺めながら交わした会話を思い出した。

 

『我は寂しも……君としあらねば……』

 

 あなたがいなくて寂しい、と桜を見上げて呟いていた彼は、無意識下で愛する誰かを想い浮かべていたはずなのだ。

 だというのに、それに気づくことなくこの世から去ってしまったのだろうか──。

 だとしたら人人(ひと)とはなんと業の深い、救いがたいことか。

 

 ──と考える藤式部もまた後の世に残る物語を書き上げ、歴史にその名を残すこととなる。

 

 

 その事実を誰が知らずとも、あの重陽の日を境に歴史さえも変わったというのだろうか。

 それとも元からそうなる定めだったのか。

 

 

 今上が佐為に大赦を出し、博雅を始め父の大臣(おとど)もそのことを励みに持ち直すよう栞に語りかけ続けた。

 もはや今上にも赦され、帰京すれば元の官職を取り戻せるのだからなんの憂いもなく佐為を待てばいい。

 

 と、励ます博雅も大臣(おとど)もまた矛盾した感情を覚えながら、それでも栞のために心からそう言って励ました。

 その甲斐あってか栞はなんとか一命を取り留めたものの、すっかり身体も弱り病みがちになってしまい、大臣(おとど)は時おり悔恨の念を口にした。このようなことになるのなら、厳しくとも入内させ国母となる人生を歩ませた方がよかったと。

 その度、博雅は諭した。

 おそらくは入内してもいずれ宮中で佐為と出逢い、栞はきっと道ならぬ恋に落ちてしまうと。そんなことになるよりは、束の間だけでも幸せな時をすごせた。それで良かったのだと語る博雅だったが、やはり娘とも妹とも思い見守ってきた姫がこのように弱りきった姿でいるのが不憫でならず、度々袖を涙で濡らしてはこうなった運命を呪った。

 

 

 そうして一年、また一年と時が過ぎ、やがて十年、そのまた十年、二十年と数えきれない月日が流れた。

 

 

 長寿であった両親が世を去り、博雅やその弟たちも見送って、もはやもうこの世に在るのは自分一人──と栞は両親亡き後に再び寝殿に戻って広大な四条の屋敷の主として日々を過ごしていた。

 

 立ち歩くことさえ思うようにいかぬというのに、生き永らえている自身がいっそ恨めしい。

 もはや佐為の帰る日まで死ねないという執念のみでこの世に存在しているのだろうか。と、栞は時おりすさび書きで佐為との思い出を筆にのせた。

 若い時期のほんのひと時を過ごした幸せだった時間の、その記憶が薄れるのが恐ろしくて、ただ殴り書きすることでどうにか記憶を留めようと努めたのやもしれない。

 

養母上(ははうえ)、おかげんはいかがでございますか……」

 

 今日もいつものように筆を走らせていると、几帳の先から声がした。

 

兵衛佐(ひょうえのすけ)……そう度々見舞ってくれずとも今日明日でどうにかなることはないのだから」

「そうおっしゃいますな。養母上(ははうえ)がお元気でいられる様子を見て私も安堵するのですから」

 

 左兵衛府の次官を務めている博雅の孫だ。

 栞は子がおらず跡継ぎもいないゆえ、博雅の孫の一人を養子にしてこの四条の財産のほとんどを継がせるよう既に手配していた。

 また広すぎる屋敷には身寄りのない親類の女王や宮家筋のものを引き取って面倒も見ていた。

 

「私のことは構わず、私が世を去っても葬儀などは最低限でよいですから、くれぐれもみなのことを頼みましたよ。北の対にいる姫たちをはじめ、この屋敷に長く勤めている身寄りのない者たちのこともどうか見捨てずに」

養母上(ははうえ)、なにもそのような悲しいことを……」

「いいえ。それから、そなたの祖父君の……博雅さまの遺されたものは全て後世に伝え残すようそなたがしっかり努めなければなりません。あのように偉大な方はこの先ももう現れることはないでしょうから」

 

 晩春の過ごしやすい夜、栞は重ねて兵衛佐(ひょうえのすけ)に語って聞かせた。

 普段は東の対に住んでいる彼がこのところ訪ねてくるたびに同じ話をしてしまうのは年を取ったがゆえなのか。それとも、もうじきこの世を去るのだとどこかで悟ってしまっているからか。

 

 ただ心残りがあるとすれば、今も佐為に逢いたくてたまらない。一目だけでもいいのだ。一目逢えたら、それを最期に事きれても構わぬと思っているのに。

 そう思い続けていったいどれだけの月日が流れただろうか。

 佐為はいまどこにいるのだろう。

 どこか遠くに逃れて、例え他の誰かと家庭を持っていたとしても、生きていると一言知らせてくれればもうそれでいいのに。

 

 それともやはり、もう既にこの世の人ではないのか──。

 

 こうして長い時を独りで生きて、つくづく思い知ったことがある。

 人は生まれ出ただけではどうにもならないことがあるのだと。

 佐為も、博雅も、そして自分も生涯この身を捧げたいと思うものに出会い、またはからずもその才能を持って生まれた。

 だが自分は身分と、なにより女であるがゆえに、今の世では外に出て、まして舞い踊るなど許されることではなかった。

 佐為にしても、囲碁に巡り合い才豊かで、時の帝さえその才能を認めて彼に地位を与えた。とはいえ、この国のいまの造りでは碁に邁進する環境など整ってはいないのだ。もしも彼が唐土に逃れ、かの地で碁才豊かな者たちと共に競い合って碁にのみ邁進できる場に身を置いたとすれば。きっと彼にとってはその方が幸福であっただろう。

 対する博雅はどうだ。あの生まれでこそ数多の管弦者から楽を受け継ぐ機会に恵まれ、仕えたすべての帝に重用され、また本人も驕ることなく生涯を管弦に捧げて生き抜いた。それは朝廷が何よりも楽を重んじ、また藤家が(まつりごと)に関わる源氏を嫌ったればこそ、彼はその身を楽にのみ捧げて生きることが叶ったと言える。

 おそらく人とは何かを成すには全て揃わねばならないのだ。才も、時代も、環境さえも全てが。だとすれば、きっと神が真に愛し時代に選ばれたのは博雅──。

 

 そのことを後世に伝える一助ができるだけで、もう思い残すこともない。

 思いつつ栞はやや自嘲した。神だなどと、少しも信じていないというのに。

 これも年を取ったがゆえなのだろうか。

 

 神も仏もいまは詮無いことだ。もう自分にはそれほど時間は残されていないだろう。

 だから、ただ一目だけでいいのだ。

 ただ最期に一目だけでも佐為に逢えたら……。

 

 考えて臥せがちに過ごし、暑さが身体に障る季節が見えてきた。

 今年は酷暑となるのだろうか。そんな予感のするある日の夕暮れ、栞はふいに寝殿の簀子に出てみた。

 夏が来ると佐為はいつもここに碁盤を持ち出し、庭を眺めながら打っていたものだ。

 夜が来れば、時おり共に庭に出て池に舞う蛍を追って──と懐かしい思い出が脳裏を掠める。

 

 ああそうだ、佐為に出逢ったのもそんな夏の夜だった。

 夏が来るたび、出逢った夏のことを二人で懐かしく語り合った。

 

『あの時は……こうして今年の蛍もあなたと見ることになるとは思いもしませんでした』

『今年と言わず……一度契った仲なのですから、千年(ちとせ)の先までをもともに過ごしたいものです』

 

 あれは出逢って一年が過ぎた夏の夜のことだ。

 あの時の佐為の声さえまだはっきりと覚えている。

 蛍の光に照らされて、この世のものとも思えぬほど美しく。互いに夢中で夏の短夜(みじかよ)を過ごした。幸せだった頃の遠い記憶──。

 

 もう二度と戻れぬというのなら、あの時の思い出の中で眠りにつきたい。

 二度と覚めることのない、あの五月(さつき)の──常夏の世へ……。

 

 

「御方さま……ッ!!」

 

 

 遠くで女房の慌てたような声が響いた。

 みなが集まり、誰かが兵衛佐(ひょうえのすけ)を呼びにいくよう叫んでいる。

 

養母上(ははうえ)……ッ! お苦しいのですか……!?」

 

 必死に呼びかける兵衛佐(ひょうえのすけ)の顔が薄ぼんやりと映ったが、栞は息苦しさに目を閉じた。

 胸が苦しい。

 なぜなのだろう。

 なぜ──。

 夏だというのに、佐為に出逢ったあの時以来、時鳥(ホトトギス)の鳴き声を聞いていない。

 なぜいまそんなことを考えるのか。

 

「……佐為の君……ッ」

 

 時鳥は冥界からの声を伝えるという。

 佐為がもうこの世にいないというのなら、なぜ時鳥は鳴かないのか。なぜ声さえ伝えてはくれないのか。

 いま彼はどこにいるのだろう。

 どこを彷徨っているのだ?

 どこを──。求めるように伸ばした手を誰かが掴んだような感触が伝った。

 時鳥よ、哀れに思うならせめて最期に聞かせて欲しい。

 あのひとはいったいどこにいらっしゃるのか──。

 

 

「佐為の……き……み……」

 

 

 握っていた手から力が抜け、兵衛佐(ひょうえのすけ)は目を見開いた。

 控えていた女房たちが一斉に泣き崩れる。

 

 

 

 そして四条の屋敷が騒然となっている頃、誰かが慌てたように左大臣家に駆け込んで告げた。

 

「左大臣さま!! 四条の三位(さんみ)御方(おんかた)さまが先ほど……薨去なされたと……!」

 

 知らせを受け、書に向かっていた左大臣は思わず瞠目した。

 しばしそのままで硬直していた彼は次第に身を震わせ、双眼からは大粒の涙が溢れ出す。

 居ても立っても居られず、左大臣は身分も顧みずに簡素な衣装に身をやつしてごく少数を連れ四条へと駆けつけた。

 すれば既に葬儀の準備が進められており、指示していた人物──兵衛佐(ひょうえのすけ)に声をかけると彼は驚いたような顔をした。

 

大臣(おとど)……!?」

「すまない、四条殿がみまかられたとお聞きして……今日のことだと聞いたというのに、もう納棺を進められているのか」

「故人のたっての願いでございまして……」

 

 そうして穢れに近寄らないよう告げる兵衛佐(ひょうえのすけ)に左大臣は首を振るった。栞の死が穢れであるなら喜んで受けるという自分に、なんの事情も知らない兵衛佐(ひょうえのすけ)は不審そうな顔を浮かべた。が、左大臣の言い分を断る理由もなかったのだろう。

 本来ならば栞の身分であれば死後に幾日か安置した上で陰陽師に日を選ばせての葬儀となるが、栞の遺言に従い準備ができ次第ここから直接に鳥部野に運ばれ荼毘に付されるという。

 

 女房たちに棺に収めるものなどの指示をしている兵衛佐(ひょうえのすけ)をぼんやり見つつ、左大臣はなにを収めているのかを訪ねてみた。

 

養母上(ははうえ)がご夫君(ふくん)との思い出をお書きになったものや……ご夫君(ふくん)から贈られた和歌(うた)などを。時おり、とても懐かしそうにお眺めでしたので……」

「背の君の……」

 

 左大臣は自身の声が震えたのを自覚した。

 そうとは気づかず、兵衛佐(ひょうえのすけ)は左大臣を見やる。

 

大臣(おとど)は……養母(はは)の背の君をご存知で……?」

 

 聞かれて左大臣は歪む顔を見られまいと檜扇を取り出し、なんとか取り繕ってみせる。

 

「もう昔の……私がまだ中納言だった時に、あの君は侍従を務めておいでで、男の身でさえ目を奪われるような美しい殿方だったよ。それにもましてそなたの養母上(ははうえ)は……それはそれはお美しくて……華やかな……見ているだけで心が晴れるような……すばらしい女人(ひと)だった。私はあの方を御所でお見上げするたびに、どれほど心踊らされたことか……」

 

 言葉に出せば涙が滲むのを堪えきれず、そんな左大臣を不思議そうに兵衛佐(ひょうえのすけ)は見やる。彼にとっては左大臣が遠い昔から栞に想いを寄せ続けていたことなど知りようもないことだ。

 

「そうですか、養母(はは)がそのような……。私が産まれた時には既に養母(はは)は病弱で屋敷の奥で静かにお過ごしと聞いておりましたもので……まさか御所に上がったことがあるとは想像もつかず」

 

 栞が御所から遠ざかったのは結婚したがゆえだが、病みがちとなってしまった原因は──考えて左大臣は眉を寄せる。

 結局、どう請うても栞は自分との再婚を拒否し続け、ついには身体まで壊してしまった。誰よりも幸せを願っていた人だというのに。左大臣はきつく首を振るう。

 

大臣(おとど)……?」

「ああ、いや。……四条殿は、最期になんと? もしも私にできることであれば、遠慮せず言ってほしい」

 

 取り繕うように言った一言を受け、兵衛佐(ひょうえのすけ)は一瞬だけ口籠った。臨終の際の栞は呼吸も乱れ、ひどく苦しげだったという。

 

「なにやら息苦しいご様子でして……。懸命に最期は……ご夫君(ふくん)の名を呼ばれ……そのまま……」

 

 兵衛佐(ひょうえのすけ)が涙を拭う。

 左大臣は大きく目を見開いた。自身の想い続けた人は生を終えるその瞬間まで佐為を愛し続けたのだと思い知らされ、ただただ頬を震わせた。

 

 そのうちに親族が揃い、出棺の準備が整って霊柩車が四条から出る運びとなった。

 女房や女人たちは牛車に乗り栞の棺を乗せた車の後に続き、親族の殿方は歩いてその後を追う。左大臣もまた最後まで付き添いたいと願い、月明かりの照らす京の夜を鳥部野に向かい歩いていく。

 その左大臣の脳裏を追想の記憶がとめどなく駆け抜けていった。

 

 もう何十年前になるだろうか──。

 最後にあの方と言葉を交わしたのは──。

 

 遠い少年の日に見たあの五節の舞姫への恋は、けっきょくは成就することの叶わなかったというのに。なぜ──。

 

 記憶は徐々に色鮮やかに、若かった日の宮中でのさまざまな出来事がまるで昨日のことのように蘇ってくる。

 いつの日か彼女の心が溶ければと熱心に声をかけ続けたこと。だというのに突然に佐為と結婚して永久に捕まえられぬ人となったこと。それでも諦めきれずに、折に触れて文を交わすだけでも心躍り、彼女が妹のために舞の教習に来ると知った日には勇んで駆けつけた。

 

 ついにあの日があの方と今生で言葉を交わした最後の機会となってしまった──と考える左大臣の目からはいつしか涙が溢れ、視界さえおぼつかないまま歩いていると霊柩車が鳥部野へと着いた。

 

 そうして葬送の儀が終わり、鳥部野一帯を月明かりが照らす中で栞を送る煙が空へと立ち上っていく。

 

『中納言さま……』

『私は幸せに過ごしております』

 

 もはや左大臣は体裁を取り繕うのも忘れて地に伏せ咽び泣いた。

 なぜあの時、佐為の御前での失態にかこつけて策を練る父左大臣を止めなかったのだろう。

 栞が自分との再婚など望まぬと知っていながら、なぜ。

 あの父を自分程度で止められたかはともかくも、なぜ佐為を遠国へやることに異議を唱えなかったのか。

 なぜ──。

 

「あ、あなたの……誰より美しかったはずの人生を……私は……ッ」

 

 誰よりも幸せを願った人だというのに、失意のまま辛いだけの生涯を過ごさせてしまった。こんな結果など望んでいなかったというのに。

 どれほど悔いても、もう取り返しもつかない。と、煙となって天へと還る想い人に左大臣は咽び泣いて請うた。

 

「あなたにも……佐為殿にも……、許してください……」

 

 ひたすらに天に向かって訴え、左大臣は心から祈った。

 どうか浄土で再びあの二人が巡り逢えるように、と。

 そして二度と離れず、いつまでも幸せに過ごして欲しいと。

 

 

 やがて全てが終わり、遺骨を納めた瓶を首に懸けた兵衛佐(ひょうえのすけ)がみなを伴い栞の父が眠る源氏の菩提寺に向けて歩いていく。

 その頃には左大臣は涙で頭さえおかしくなって生きているのかすら定かでない心地がしていた。

 もはや夜も明けたというのに、空の色さえ分からない。

 ただもう、自分も生きるよすがを失ってしまった。

 

 あの方が亡くなられたいま、自分の人生もまた終わりを告げたのだ──。

 

 

 

 

 のちに賢左府として称えられる彼の残した、この時代を知る貴重な史料となる『二条左大臣記』は「四条殿薨去」という五文字を最後にこの日で途切れている。

 

 左大臣はその後もしばらく生きたが、皮肉にも彼の次世代で摂関期は全盛期を迎え、瞬く間に院政と武士の台頭によりその栄華は途絶えた。

 

 

 

 栞や佐為、博雅たちの生きた時代は王政・王朝文化のもっとも鮮やかに花開いた世として煌めき、輝いて、そして多くを語られることなくひっそりと時の流れの中に儚く消えていった。

 

 

 そうして百年が過ぎ、千年という時を経ても変わらぬ月明かりが今日も地上を照らしつける。

 

 誰が真実を知らずとも、彼らは確かにその時代に生まれ、愛し、ただ懸命に生きた。

 

 その語られない物語を知る術はなく、ただ一陣の風のようにあの時代を駆け抜けた人がいたという事実がそこにあるのみである。



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結び:千年の約束

 あれからいったいどれほどの時が流れただろう──。

 

 

 ここはかつて「江戸」と呼ばれた地である。が、いまは「東京」という名らしい。

 

 と、藤原佐為は未だ見慣れぬ高層ビルとやらを視界に映して感嘆の息を吐いた。

 

 

 およそ千年ほど前に終えたはずの人生だというのに、しかしながら浄土へゆくことも叶わず、もとよりそのような場所はないのか、はたまた神仏のいたずらゆえか。かつて在ったはずの身だけを失い、この世ともあの世とも分からぬところに魂となって留まってしまった。

 

 

 もしや碁への執着が怨念となって残ってしまったのでは。と思い至ったのはどこぞの碁盤に取り憑くようにして宿って長い長い時が経ってからだ。

 

 碁盤から顔を出すことくらいしか叶わぬゆえに時おり人の声がしては出て行ってみたりを繰り返したが、人なる者にはこの姿は見えないらしく。

 たまに僧や陰陽師のような怪しげなものが来ては悪霊だなんだと怯えるものだから、もはや碁盤の中でジッとしていることに決めた。

 

 にしても悪霊扱いとはなんたる無礼──と思うものの、自分で自分の姿は見えず。仮に鏡などあっても映るはずもなく。

 

 生前は人に褒めそやされる容貌をしていたはずだが、それほど変わり果ててしまったのだろうか。と、髪に手をやってため息を吐く。

 なんともみっともないが、結い上げていたはずの髪は解けてそのままになっているようだ。辛うじて烏帽子は被っているのだから恥にまではなるまいが──思いつつもう一度ため息を吐く。

 

 まだ藤原佐為として現世に在った最期のことははっきりとは覚えていない。

 誘われるように水に入って、いつの間にか意識が遠のいていた。

 苦しかったはずだがはっきり覚えていないし、烏帽子など脱げたはずなのに被っているし。おぼろげな記憶がいま着ているものや姿を形取っているとすれば、自身は生前とは違うものになってしまったのやもしれない。

 

 思いつつ、佐為は自身が唯一手に取ることのできる扇を取り出した。

 

「……」

 

 これだけは離すまいと強く思ったせいだろうか。それとも碁の勝者は我だという証への執着か。遠い昔に、大切だったはずのひとから手渡されたもの──。

 

 

 そうして何百年もの時が経ち、ついに自身の声を拾った幼子に佐為は取り憑いた。久々の現世は武士勢が力を得た時代だったらしく、江戸という地の将軍の前で御城碁を打つに至った。

 しかしながら長年を共にした彼が不幸にも死に至り、佐為は再び碁盤へと戻ることとなる。

 

 そしてまた百年以上を経て自身の声を聞く相手と巡り会えたわけであるが──。

 

 

 高層ビルに囲まれた佐為のため息はより深いものに変わってゆく。

 

 進藤ヒカル、と名乗った少年に取り憑いてから二、三ヶ月ほどが経つが、こたびの現世は一筋縄ではいかない世のようだ。

 

 ヒカルは囲碁にはまるで興味なしといった普通の子供であったし、だが子供ゆえだろうか。自身が身の上を話すと純粋に同情を示したのが彼の意識を通じて伝った。

 

 しかし実のところ、平安京で過ごした日々はあまりに遠すぎて全てを鮮明に記憶しているかと問われればそうでもない。

 

 宮中に上がってあの御代の帝に仕えていたが、細かい作法はすっかり忘れてしまった。もはや着ていたはずの束帯すら思い出せず、いま着ている狩衣しか具体的に連想できない。

 それさえも自身の記憶を頼りに形取られているらしいのだから、いま着ているものと自分が最期に着ていたものが同じであるかは自信がない。

 現にあの当時は足袋などはいていなかった気がするが、江戸城で長いこと足袋を見てきたせいか気づいた時には自身もはいており、魂魄とはいい加減なものだと我ながら思ったものだ。

 

 その調子で自身の生きた世よりも記憶の新しい江戸の世の方が詳しい始末で、ヒカルには謀られた末に京を追われて入水したとだけ伝えた。

 

 その方が同情を得やすい、という計算がないわけではなかったが細かいことなどとても思い出せないし、そんな身の上話をくどくど聞かせてなんの意味があろうか。

 その上、相手はまだ子供なのだ。大人が諭すように聞かせても説教くさくなるだけ。よほどのことでない限りは相手に合わせて言葉を交わすのが筋だろう。

 

 元よりヒカルは平安にも江戸にも全く興味を示さず、口を開こうものなら許可なく喋るなと訴えられる始末で現世に蘇った直後にこう誓った。あちらから聞かれない限り余計な口は挟まず喋らない、と。

 人を宿主として間借りするのだから、共存のための掟と思えば安いものである。

 

 

 それにしても──、と佐為は思った。

 

 中学校とやらに進んだヒカルは毎日居眠りに勤しむ日々だ。

 この少年はそれほど勉強熱心ではないらしく、ほとんどの授業で上の空か居眠りといった有り様。最初の頃は呆れもしていたが、ヒカルはあくまで宿主。余計な口は挟まない。

 それに、佐為にしても自身が生きていた時代はおろか江戸の頃ともまるで違う勉学の内容にそこまでの興味は持てず──あるいはヒカルの意識に影響を受けたがゆえか──授業中はうわの空でいることが多かった。

 

 それでも古典や漢詩の授業、歴史の一部分は馴染みがあり、興味を持って聞くこともあったが、自身の知識と教師の教える内容に差異を感じ頭が混乱すること数度。

 今の世にも残る万葉や古今の和歌(うた)はいまだ誦じているが、おぼろげな記憶も多々あるゆえにこちらの覚え違いなことも大いにあるだろう。あくまで「歴史」として通説を唱えている彼らと自身の記憶との齟齬が生じた先で佐為はこう結論付けた。もはや何が事実かなど誰にも分からないのだ、と。

 

 

 そうして現世に戻り、半年ほど経った日のことだろうか。

 

 その日の歴史の授業を、常通りに眠りこけるヒカルのかたわらで佐為はじっと聞いていた。

 前回の授業では平城の都から京への遷都の話が出たゆえに、今日はおそらく自身の生きた時代の話も聞けるだろう。

 こんな機会でもなければ思い返すこともなく、思い返してさえ気の遠くなるほど昔のことゆえに今では夢か幻のような気さえしているが。

 それでも古典の授業では清少納言や藤式部──彼女は紫式部と呼ばれているようだ──といった懐かしい名を耳にして、やはりあの京に自分は確かに生きていたのだと実感するに至った。

 

 そして──。

 

 

「それで菅原道真は大宰府に──」

 

 

 教師の話を聞きながら、はぁ、と佐為は感嘆の息を吐いた。

 千年経った世でさえ道真公の騒動が語り継がれているとは、当の本人すら予想だにしなかったに違いない。

 とはいえ、()()にとっての道真公はもっと身近な存在だったが……と要点だけを手短に語っていく教師の声に耳を傾けつつ佐為は思った。彼のことは直接には知らないが、なんといっても京を祟る畏怖の対象であった。

 だというのに、今の世の人からは同情と尊敬を集めているらしく、歴史とはわからぬものだ。

 

 もっとも千年先の世がこれほどまでに様変わりするとは、それこそ想像だにしていなかったことであるが──。

 

 教師が当時の習慣などを語り始め、「貴族は毎日日記を書いていた」などと述べながら今なお現存しているというあの時代の貴族日記を挙げ始めた。

 佐為自身も例に漏れず書いていた記憶は薄ぼんやりとあるが、さすがに自身のものは伝え残っておるまい。浮かべつつ耳を傾ける。

 

「中でも価値が高いと言われているのは“二条左大臣記”だな。通称“二左記”と呼ばれるこの日記の作者は賢左府と称えられたほどの人物で、藤原(ふじわらの)──」

 

 そこまで聞いて、佐為は意図せず切れ長の瞳を極限まで見開いた。はるか昔に聞いた、覚えのある名だ。

 

「藤の中納言──!」

 

 思わず声を張ったものの教師に聞こえるはずもなく、佐為は千年ぶりに聞いたその名に瞳を揺らして記憶を手繰った。

 彼は自身が生きていた時分の摂関家の嫡男で、そして──と無意識に手にしていた扇を強く握りしめる。

 

 聞けば、彼は最終的に左大臣に昇り詰めてその地位に長く留まり朝廷に尽くし、その思慮深さと優れた手腕で「賢左府」と称えられ人々に慕われたという。また長寿であった彼は欠かさず日記を書き続け、膨大な量のそれは今日の歴史学に多大な貢献をしているということだ。

 

「藤の中納言が……」

 

 教師の言葉の真偽はともかくも、あれほどの権門の公達であれば歴史にその名が残るのも道理か。と、佐為は彼の姿形は思い出せずともいつも見ていた黒袍を浮かべて苦く笑った。

 

 教師はなお続ける。

 

「二左記がこうも取り上げられるのには他にこんな理由がある。通常、この頃の貴族の日記に書かれるのは公のことというルールがあるんだ。例えば今日は朝廷でこんな行事をやってこういう流れで……と次世代にしきたりを伝えるマニュアルのようなものと言えば分かりやすいかな。二左記も基本的にはそうなんだが、一つだけ例外があった。この二左記は彼の若い日の大嘗祭の記録から始まるんだが……そこで彼は五節の舞姫の一人に恋をしたらしい」

 

 ざわ、とそこで所在なげに聞いていた生徒たちが反応した。

 佐為の方も同様で──生徒に釣られたわけでなく──息を呑んだ。

 

 教師は反応が来るのを長年の経験で知っているのか、五節の舞姫とはどのような少女たちであるかを説明してから続けた。

 

「それ以来その舞姫のことだけはこの日記にたびたび登場するんだが、和歌の返事がいつも代筆で落ち込んだり、御所で会えた時は嬉しさで食事が喉を通らなかったり、求婚をいく度も断られて泣いたりと彼の恋する様子だけは生き生き描かれていて、“恋日記”とも呼ばれているんだ」

 

 ははは、と教師は軽い笑みをこぼした。

 女子生徒の一人がその恋は叶ったのかと質問している。佐為は人知れず苦く笑った。

 

「うん……。残念ながら、彼女は別の男性と結婚してしまったらしく……、その姫の婚礼の話を聞いた日からしばらくショックで日記が止まっているんだ」

「えー、かわいそー」

 

 さすがに「それは私」などと茶化す気にはなれず、佐為はそっと目を伏せた。もう何もかもが遠い日に過ぎ去ったできごとだ。

 

 教師はさらに続けた。恋の相手は清少納言の随筆の中にも登場する、時の大臣のお姫さま。舞の才能があってそれはそれは美しく賢い姫であったという。

 

「ただ……この姫が誰と結婚したかは、清少納言の随筆にもこの日記にも書かれてなくて、謎も多いんだが……。まあ10世紀の現存する史料は少ないから、分かることの方が珍しいんだけどな」

「この時代って女の人は名前も残ってないんですよね?」

「ああ、そうだな。この姫も実名を伝える史料は見つかっていないみたいだ。一般には源栞姫(みなもとのしおりひめ)と呼ばれているが」

 

 ドクッ、とそこで佐為は失ったはずの心臓が確かに脈打ったような気がした。

 

 

「栞…………」

 

 

 ああ、その名を他者から聞く日など二度と来ないと思っていたというのに。

 

 

『佐為の君……!』

 

 

 今も、彼女の声だけはこうして思い出せる。必死に思い出さないよう努めていた、自身のただ一人の妻──。

 彼女が自分の亡きあとどう過ごしていたか、考えることすら恐ろしくてずっと思い出さないよう努めていた。

 どうあっても哀れな姿しか想像できず、それは自分のせいだという咎から目を背けたかったのやもしれない。そうしていつしか本当に姿までも思い出せなくなって──。

 

 佐為の心情など知るよしもなく、教師は話を続けている。

 

「どうもこの栞姫は晩年は身寄りもなくして、子供がいた記録もないから夫とも離婚か死に別れたらしく……、二左記でも度々気遣う話が出てくるんだ。そしてこの二左記が恋日記たる所以は、栞姫の死の記録を最後に途切れてるんだよ。左大臣はその後も生きていたから、意図的にそこで書くことをやめたんだろう」

 

 え──!? と佐為は瞠目した。

 

 栞が死んだ……?

 

 思わず扇を開いて口元を覆う。

 みな千年前に亡くなっているのだから当然なのだが……。

 そうか。

 彼女は亡くなったのか──と重く実感したせいで震えた頬を隠すようにそのまま扇で顔を覆った。

 

 教師は藤の中納言に──左大臣に好意的なのか、栞への恋と共に始まり、恋の終わりと共に途絶えた日記はこれ以上ない一途な恋の証明である云々と熱を込めて語っている。

 他の貴族の日記によれば左大臣は身分も顧みず泣きながら栞の葬儀に参列したらしく、佐為は小さく唸った。

 今の世の人がどれほどの実感をもって語っているかは分からないが、左大臣ともなれば並ぶもののない天下人。それが親族でもないものの葬儀に参列し、しかも人前で泣き腫らすなど考えられもしないことだ。

 

 中納言はそれほどまでに生涯をかけて栞を愛し抜いたのか──。

 

 感じる反面、佐為は少しだけ安堵もしていた。

 いま教師が語った話が事実ならば、自身の亡き後に栞が彼と再婚ということはなかったのだ。

 こんなことに安堵する自分が浅ましいが、もしもあのあと栞が中納言と縁付いていたら……と知るのが怖くて考えることすら拒否していたのも事実。

 しかしながら安堵する佐為の胸には、やや苦しさも飛来する。

 子供がいなかったということは、やはり栞が自身の子を宿すことはなかったということ。

 ならば、あの後の生涯を彼女は独りで過ごしたのだろうか。

 

 あの広大な四条の屋敷で──。

 

 見上げた太陽が眩い。

 いまの季節は夏だろうか。と、佐為はその日の午後の体育にて蹴鞠に似たサッカーとやらに精を出すヒカルたちを見やりつつ思った。

 

 千年の時を経ても陽の光は眩いものだ。

 

 ──栞……。

 

 この夏の日差しのように明るく、爽やかな気質の女人(ひと)だった──と記憶している。

 派手やかな、やや昔じみた百合襲ねの衣装が似合う可憐で華やかな……と佐為は柳眉を寄せた。

 

 彼女が好んで着ていた百合襲ねの小袿(こうちき)や狩衣の色合いはまだ覚えているのだ。が、栞の顔を思い出そうにも、もはやおぼろげにしか浮かんでこない。

 交わした数々の言葉や最後に触れた額のあたたかさ、手にかかった涙の感触は覚えているというのに。

 

『必ず……必ず帰っていらしてね……、私のところへ』

 

 よく笑うひとだったはずなのに、おぼろげにでも思い出せるのは別れ際の泣き濡れた顔だけだ。

 彼女と打った何千という対局の石の並びは今もはっきり覚えているというのに、妻だったひとの顔さえ忘れてしまうとは。我ながら本当にどうかしている。彼女が愛してくれるほどに愛していたかはともかく、大切だったはずだというのに。

 

 今さら考えてもどうにもならないことではあるが──。

 

 事実、栞のことを浮かべても、苦しさや後ろめたさといった感情はあれど、激しく狂おしいまでに彼女を求めるような衝動はもはや完全に忘れ去ってしまった。

 

 それは囲碁だけのためにこの世に留まっているがゆえか、既に身をなくして碁を打つ以外の欲をなくしてしまったためか。

 

 だが、それでも。

 彼女と離れたかったわけではないのだ。

 あのまま京の都で、生涯をあのひとと過ごすのだと信じて疑わなかった。

 だというのに、なぜ私はあのような……と霧がかる最期の風景を思い出して佐為は小さく首を振るった。

 

 

 そうして少しずつ日々は過ぎ──。

 

 最初はそれほど熱心には囲碁に興味を示さずにいたヒカルは少しずつ碁を覚え、佐為自身もこの時代の定石を覚えて思いのほか棋力の向上を実感した。

 が、満足いく日々とはほど遠い。

 

 江戸にあっては生前に夢みた唐の棋待詔のように碁を持って仕え碁に捧げる日々──自身の形代となってくれた人を通してだが──を過ごし、多様な棋士たちと研磨し合って充実した幸せな生活を送っていたというのに。

 

 だがそれも夢半ばで潰え、今度こそはと久々の現世で意気込むも、ヒカルは前の人のようには身を借してはくれない。

 彼はまだ子供とはいえ平安の世なら元服してもおかしくない歳ゆえに自我があったせいか、それともこの現世の特徴なのか。生前の貴族という身分意識が抜けきれず思い通りにいかないことに最初は戸惑ったが、是非も無いと切り替えた。こちらには無限の時間があるのだし、ヒカルが死ねばまた次の誰かを待てばよいことなのだ。

 だから間借りしている立場上、余計な口出しはしない。そう最初に決めた掟は囲碁に関しても同様であったが、意外にも今以上の碁の上達を望むヒカルに請われて徐々に教え導くようになっていった。

 自身で思い切り碁を打てない不満はあれど、誰かを教え鍛えるのは初めてのことで思いのほか楽しく、碁にのめり込み上達していくヒカルを見ながら思ったものだ。遠い昔、自分にもこのような時期があった気がする……と。

 もうはっきりとは覚えていないが──。

 

『栞ではなく我が子に碁を教え、共に打つがよい』

 

 我が子がいたら、このような感じであったのだろうか。

 ついぞ子を育てる機会には恵まれなかったが、と碁盤を挟んでヒカルを見つつ、負ければ素直に悔しさをあらわにする様子に佐為は笑った。

 

 

 そうしてヒカルは院生となり、ますます碁漬けの日々となる。

 ヒカルが高みを目指すことは、自身にとっても強い棋士が近づくゆえに都合がいい……と思ってしまうのはどうしようもない己の性質であるが、一方で本当にヒカルの成長を見守りたいとも思うようになっていた。

 

 そんな冬の日のことだ。

 書店に用があるというヒカルと街を歩いていると、ふと空から白いものが舞い落ちてきた。

 

「うはっ、雪! 今年はホワイトクリスマスだな!」

 

 ほわいとくりすます? 聞き慣れない言葉に頭を悩ませつつ雪に手をかざすヒカルを眺めていると、どこからか聴き覚えのある音が響いてきた。笛の音だ。佐為は思わず立ち止まって耳を澄ませた。

 

「? 佐為ー?」

 

 ヒカルに呼ばれたのも知らず、流れてくる旋律を聞きながら佐為は僅かに瞳を見開いた。

 

「……長慶子……」

 

 そうだ、この旋律──間違いない。

 博雅が作り、長慶子と名付けた曲。

 

博雅三位(はくがのさんみ)……!?」

 

 博雅の奏でる音色でないのは自明だったが、佐為は思わずそう呟いてあたりを見渡した。

 すると目線の先の店に置いてあるテレビという箱の中で横笛を奏でている人物が映る。

 

「佐為……?」

 

 近寄れば、後ろからヒカルが覗き込んできて興味なさげな顔を晒した。

 

「なんだコレ、雅楽とかいうヤツ?」

「……この曲は長慶子といって、源博雅というお方が作られたものなんです。とても現代的な音色だと評判で──」

「げ、現代的ィ!?」

 

 これが? という反応に佐為は肩を竦めた。

 この長慶子を笛、笙や太鼓等々で揃えて奏でればそれはそれは華やかで先進的な音色なのだが。今の世の人──いやヒカルが興味を持てずとも仕方のないこと。

 それ以上は述べず、佐為はそっと空を見上げた。

 江戸の世でも管弦がまだ息づいているのは聞き知っていたが、まさか長慶子まで今に伝わり奏でられていようとは。

 

『それになあ佐為殿』

『私はいま譜を書き記しておるのだよ。それを読めば、私ではない誰かも同じように奏でられる』

『この譜が百年ののち、いや千年ののちまで残ればその世の人は楽を奏で、この博雅を知るのだ。私はそれを天から見守ろうぞ』

 

 ──あなたはいま、天から見守っておられるのか。

 

 碁がためにこの世に在り続けている身ではあるが、千年の時を経て彼の言葉が真実であったと知れるとは……なんと感慨深い。

 

 あの頃はこうして自身が千年ののちまでこの世に留まるなどとは分かるはずもなく、ずいぶんと軽々しく千年という言葉を口にしていた気がする。

 

『千年……』

『私はあまり前世や来世など信じていないのですが……そうなったらあなたは次の世でも私を見つけてくれるでしょうか』

『佐為の君は千年先の世でも囲碁ばかりかもしれませんが……』

 

 千年先の世までも共に過ごそう。いつかそんな会話をした時の栞がどこか苦笑い気味だったのは、あまりに軽々しい言葉だと思われていたせいか。

 それとも彼女には見透かされていたのだろうか。

 

『あなたにとっての私の価値は棋力の高さ……というのは分かっていますが、それでも足りない自分が恨めしいです』

 

 妻にしたいと思ったのは囲碁のため。

 だから碁のことは記憶していても、彼女の顔さえ思い出せないのか。

 そう思う反面、()()()分かる気はするのだ。もしも彼女が生まれ変わってどこかで生きていれば。──そう思って江戸の世でも何度も似たような姿形の女人(ひと)を見かけては追い、人違いだと落胆した。

 

 そもそも逢ってどうするというのだろう。

 あれほどまでに愛してくれたひとを、独り残してきた自分だというのに。

 

「栞……」

 

 死して、彼女はどこへ行ったのだろうか。

 

 おなごは、初めて身を任せた男に手を引かれて三途川(みつせ)を渡るという。

 

 だとすれば、いまも彼女は彼岸へ渡れずに川岸で私を待ってくれているのか。

 

 ふ、と佐為は自嘲した。

 

 なにを都合のいいことを考えているのだ。

 あのひとは神仏など少しも信じていなかったではないか。

 仮に待っていたとして、自分は神の一手を極めるまで成仏する気はないのだ。あと千年、二千年とかかるやもしれない時間をただ待たせるなどは哀れ。こちらのことなど早々に忘れて──と考えつつグッと扇の持ち手を握りしめる。

 こちらを忘れて生まれ変わりどこかで好きに生きて欲しいと思う一方、本当に忘れられ捨ていかれたらと思うと辛く感じるのだから自身の身勝手さにほとほと呆れ返ってしまう。

 

 

 もうどこにも居ないひとだというのに──。

 

 

 考えても詮無いことだ。

 せっかく現世に在るのだから碁のことのみを考えていればいい。

 そうして過ごしているうちにヒカルはとうとうプロという碁を職にする試験を受けようというところまで来た。

 碁ではないが生前に受けた課試もなかなか大変だった記憶があるため、意気込む心情も我がことのように分かるというもの。

 ちょうど夏休みに入ったこともあり、ヒカルは院生仲間やヒカル自身で碁会所に通い腕試しをするようになっていた。

 そんな夏の日の午後。昼食後に公園を歩きながら自販機でジュースを購入したヒカルは一人ベンチに座って一息ついた。

 佐為も彼の隣に座り、午後の日差しを受けてしばらく。うとうととまどろむような不思議な感覚に陥る。

 眠いという感覚などあるはずもないというのに、ヒカルの影響なのか。魂となっても午後の日差しが眠りを誘うのは変わらぬのか。

 まどろむ脳裏はどこか懐かしい光景を連れてきた。

 

『佐為の君……!』

 

 絹のような黒髪に赤く鮮やかな小袿(こうちき)。白昼夢だろうか。懐かしい呼び声が聞こえる──。

 

 

「しおりーーー!!」

 

 

 その白昼夢をふいに響いた声が掻き消し、はっとした佐為はバッとベンチから立って声のした方を凝視した。

 するとヒカルと同い年くらいだろうか。少女が手を振る先にもう一人の少女が駆け寄る様子が映り、佐為は力なく肩を落とす。

 きっとあの少女の名を友人が呼んだのだろう。

 

「佐為……?」

 

 だが、確かに栞に呼ばれた気がしたというのに──と佐為はなんとなく少女たちの方を目で追った。

 はっきりとは覚えていないが、派手やかな小袿(こうちき)を身に纏って、こちらに手を差し出して──。

 

 あまりに私を想うがゆえに、夢に現れてくれたのだろうか。と佐為はそっと呟いてみる。

 

「……みをつくし……」

「は……?」

「心尽して思へかも……ここにももとな……夢にし見ゆる……」

 

 そう切なげに漏らしてしばらく。はっとした佐為はぽかんとするヒカルの方を向いて何事もなかったかのようにパッと明るく笑ってみせた。

 

「万葉集の一首です。古典の授業で出てきたでしょ」

「そーだっけ?」

澪標(みをつくし)とは水路の道しるべとなる杭のことなのですが、この澪標(みをつくし)の名のように身を尽くして私のことを想ってくれてるためか、故郷に残した妻が夢に浮かんでくる……と旅先の夫が妻を偲んで詠んだものなんです」

「??? ふーん……?」

 

 さっぱり意味が分からない。と言いたげの顔をさらすヒカルを見て佐為は苦笑いを浮かべた。

 栞の(いみな)の記録は残っていないということだったが、澪標は彼女の()を連想させる。

 

『な、なにごともよろしくお導きくださいませ……』

 

 婚礼の日の夜にその()を知った時は、むしろ自身を導いてくれるような名だと思ったものだが、いっそ哀れなほどの愛を示してくれる彼女を見て、身を尽くすという意味合いだったのかと考えを変えた。

 

「けど、おかしいよな?」

「え……?」

「会いたいと思うから夢に見たんじゃねーの?」

「え──!? ち、違いますよ。夢とは……相手がこちらを想うから夢の中にまで現れるものなんです」

「なんだソレ、ぜったいヘン!」

「へ、変……?」

「オレたまに分かるんだよなー夢見てる時のこと。ラーメン食いたいって思ってたらラーメンの夢見るし、ゼッタイ願望だぜソレ」

 

 ドサッとヒカルはベンチの背もたれに勢いよくもたれかかり、佐為は唖然とした。

 なぜヒカルはああも正反対のことを──、思いつつそういうこともあるのだろうかとも思う。

 そうであれば、()()()()想っているから夢に現れるのか。目線を落として握っていた扇を見やる。

 

『これを……、せめて私の形代にお連れください』

 

 ()()は栞が私を想うからこそ消えないのだと思っていた。もしくは()()は私が受け取った勝者の証だからだと。

 

 だが、実はそうではなくて私の方が彼女を──。

 

 考えているとベンチの背後から急にブワッと水飛沫が上がって佐為はハッとそちらを向いた。

 公園の池の噴水だ。太陽に反射した水がきらきらと眩しく光っている。

 水の欠片が佐為の身体にかかりすり抜け、その煌めきが佐為の脳裏にいつぞやの春の日を思い起こさせた。

 このように池を題材に和歌(うた)を詠んでいた時のことだ。

 

「心ゆく……水のけしきは今日ぞ見る……」

 

 ──こや世に経つるかい沼の池、と下句を継いだのは藤式部だった。心が晴れ晴れする景色を見て生きる甲斐もあろうと。彼女が気の滅入るような恐ろしげな和歌(うた)を詠んだゆえに、もっと明るい和歌(うた)をと詠み交わしたのだ。

 あの日の夜明けに、栞と四条の屋敷の池を眺めながら強く思った。

 美しいあけぼのの風景を抱きながら、彼女とともに生涯を生きていこうと。

 

 だというのに、なぜ──。

 

 例え何があったとて栞と別れる気などなかった。

 別れたくなかったのに──。

 

 あの時、左遷の地へと送られる最中の絶望の中でふいに目の前を霧が覆って自分でもわけがわからないまま誘われるように水の中へと入った。

 まるで誰かにいざなわれていたかのように──、などと感じるのは自分の選択を誰かのせいにしたいだけなのだろうか。

 

 江戸の時分に長く共にいた人と死に別れ、少しは残される辛さを知ったつもりだ。

 

 栞にはきっと、あれよりも遥かに辛い思いをさせたに違いない。たった独り残されて、帰らぬ私を待ち……。そもそもが彼女に色々なことを諦めさせてきた私だったというのに。

 

『栞の才は惜しいが、おなごではどうしようもないこともある』

『栞は生まれる時代を違えたのかもしれんな』

 

 もしも私が彼女の人生を狂わせてしまったのならば、やはり次の世では全てを忘れて生きて欲しい。

 千年後の世はこれほどまでに様変わりしたのだ。女人も外で学び自由に動き回って、身分というものさえなくなっている。

 きっとこのような世に生まれた方が、あのひとには合っているに違いない。

 

 

 だが、もし叶うならば──。

 

『必ず……必ず帰っていらしてね……、私のところへ』

 

 叶うならばもう一目だけ────。

 

 

 佐為は感じたことを心の奥の奥に仕舞い込み、なるべく考えないように努めた。

 それ以外にどうしろというのか。自身がここに在るのは神の一手を極めるため。それさえヒカルの元では叶わないかもしれないのだ。

 今はヒカルの成長を見守り導くのも悪くないと感じているし、次に誰かの元に蘇った時こそもっと打たせて欲しいとせがもう。

 だから今はヒカルの成長を……と過ごす日々を楽しく思うと同時に佐為は少しずつ不安めいたものも覚えるようになっていた。

 こちらはヒカルを通してしか打てないというのに、自らが碁打ちとして生きると決めた彼は彼を通してこちらの存在が世に知れるのを嫌った。

 よくよく考えれば自分自身の生はあろうことか自身で絶ってしまったのだから言えた義理ではないが、それでも江戸にあっては好きに打てていたし、それを当然として享受してきたために焦るなという方が無理な相談だ。

 この人生は自分ではなくヒカル自身のもの。ということに気付かぬふりをして、それでも打ちたいと我を通せば考慮してくれる優しさを見せる彼だったが、それでも己の身を明け渡そうなどとは微塵も思わなかったのだろう。

 

 オレの心はオレのもの。最初に言われた通り、そこは聞き入れ弁えるしかないのだ。

 だが、この身がなく誰と会話できるでなく碁石にさえ触れられないことが言い表しようもなく辛い。

 

 などとまさに身から出た錆。ヒカルと打つことは楽しいし、時おり他の誰かと打てればそれで──。

 

 と、ついにプロにまで昇り詰めたヒカルの元に蘇って二年余り。

 現世に蘇って、いつかこの者と対局が叶えばと切望し続けた一局が叶った時のできごとだった。

 

 会心の一局を打てた、と感じた直後に、ほんとうに急に雷に打たれたように悟った。

 自身がヒカルの身を借りて打つためでなく、自分こそが彼に碁を教え導き、そしてこの一局を見せるためにここに在ったのだと。

 

 神がそうした──、と解釈したが、それがまことであったかは分からない。

 ただ、自身がそう悟ってしまったがゆえに、もう現世にはいられないのだとも悟った。未来永劫に存在し続けると思っていたのは誤りで、もう残りの時間がないと自覚した時、一度はこの手で終わらせた「未来」がどこにも無いことに抑えきれない口惜しさを覚えた。

 ヒカルのように数多の人と碁を打ち競い切磋琢磨したかったというのに。ヒカルのようにその才をみなに認められ、対局を渇望されたかった。ヒカルのように──。

 

 自分の成し得ないことを誰かが成すということがこれほど苦痛を伴うとは思ってもみなかった。

 神の一手は自分こそが極めるのだと自負していたのに。まだ誰にも負けない自信さえあるのに、なぜ。

 

『私も管弦を極めたいという志を持ってはいるが、私などではその領域には至れぬことも分かっているつもりだ』

 

 なぜ博雅はあのような境地に至れたのだろう。悔しく感じなかったのか。それとも……、と葛藤する中でこうも感じた。

 ヒカルの一手が段々と自身に似てくるたびに、教え導くとはこういうことかと喜びも感じたではないか、と。

 それは遠い昔に博雅から諭すように言われたこと。

 

『私の楽は息子たちに伝えてゆくつもりだ。私にできることは、おそらくそこまでだよ』

『栞ではなく我が子に碁を教え、共に打つがよい。すれば……そなたにもきっと分かる』

 

 千年前に成せなかったことを神が哀れんでくれたのならば、こういうことだったのかもしれない。

 もしも千年を永らえたことに意味があったとすれば、少しなりとも自身の碁を誰かに伝えられた。そうしてまた彼が、彼らが次の世に伝え継いでくれるのだろう。

 

 その気づきに至れるまでに千年もかかってしまった──。

 

 今ようやく、誰かに残される辛さも、誰かを残していく気がかりも知った。

 己だけでは成せない、人と人との繋がりこそが人を、時代を作っていくのだと……未熟ゆえに広大な時間を要してしまった。

 

 

 自分が消えたらヒカルは悲しむだろうか──。

 だがきっと、彼なら前を向いて歩いていけるだろう。

 今度はそれを天から見守ろう。

 この千年が神の定めたものでも、運命のいたずらだとしても、楽しかった。

 

 

 

 ──その気持ちのまま静かに眠りにつこう。

 

 

 

 白みゆく視界の中でヒカルを見つめながら穏やかな心地で身を任せていると、次に佐為が気づいた時には辺り一帯を霧のような靄が覆っていた。

 

 まさかこれは千年前の最期の光景か……と身構えるも不思議といやな感じはしない。

 

 耳を澄ましていると、遠くに響く笛の音が聞こえた。

 懐かしい、聞き覚えのある旋律と音。

 弥勒菩薩の曲と言われる『萬秋楽』だ。

 

博雅三位(はくがのさんみ)……!」

 

 間違いない、これは博雅の奏でる笛の音色。

 そうだ、あの人は何度生まれ変わろうと萬秋楽を奏でたいのだと語っていた。

 

 そうか──では、彼は浄土で今なお楽を奏でているのか。

 

 思う脳裏にはっきりと鮮明に、今までは思い出せなかった博雅の顔が浮かび上がってきた。

 

 

 遠かったはずの記憶が蘇ってくる──。

 

 

 ああもしも博雅に会えたら、きっと伝えよう。ようやくあなたの言葉を理解するに至ったと。

 笛の音に導かれるように歩いていると、川のせせらぎのような音が聞こえてきた。

 

 少しずつ視界が晴れてくる。

 

 さらりとした布ずれの音が聞こえた。

 靄の先に鮮やかな赤い衣が見える。

 忘れもしない、やや昔めいた百合襲ねの小袿(こうちき)──。

 

 佐為はゆっくりと大きく瞳を見開いた。

 

 

「……栞……?」

 

 

 呟くと、記憶のままの、千年前に別れたあの頃のままの姿が靄がかる視界の中で嬉しそうに頬を染めたのが見えた。

 佐為はおぼつかない足取りでその人に近づく。あちらも駆け寄ってきて、目の前に来た相手の頬に佐為は震えながらそっと手を伸ばした。

 触れられたことに驚き、一瞬だけ手を離してからもう一度そっと触れてみる。

 柔らかい。感じながら悟った。彼女は千年もの間、ここで待っていてくれたのだ。

 

「長い間……、苦労ばかりをかけて……ッ」

 

 申し訳なかった、と紡ごうとした言葉は声にならず、目の前の彼女は瞳に涙をためて首を振るいこちらの胸に飛び込んできた。

 

「お逢いしたかった……!」

 

 佐為も感極まったように栞を強く抱きしめた。

 この手にかかる髪の感触、荷葉のにおい、何もかもがあの頃のままだ。

 実感して目頭が熱くなり視界が滲む。

 こんなにも愛しく思っていたとは──。噛み締めるように佐為は告げた。

 

「本当に、苦労ばかりをかけました。これほど長い間、そなたを独り待たせて」

「いいの、いいんです。今こうして逢えたから……もういいの」

 

 確かめるようにして互いの身を抱きしめ、佐為は身をかがめてそっと両手で栞の頬を覆い溢れた涙を拭ってやる。栞の方もこちらの頬に触れながら涙を拭ってくれ、そして小さく笑った。

 

「やっぱり私の思ったとおりでした」

「え……?」

「あなたは千年先の世でも囲碁ばかり」

 

 戯れるように笑う彼女は、ここから現世を見ていたのだろうか。

 ややばつの悪い思いもしつつ佐為は首を振るう。

 

「それだけじゃないですよ。色々なことがありすぎて……話すことがたくさんです」

 

 そうだ、ようやく大事なことに気づいたのだから。いったい何から話せばよいのだろう。考えていると栞はなおも笑う。

 

「私もです。積もる恨み言が千年分はありますから」

「そ、それは……、はい」

 

 お手柔らかに、と観念し、二人でひとしきり笑い合う。

 そうして栞がすっと佐為の方へ手を差し伸べてきた。

 

「そろそろ参りましょう。博雅さまたちがお待ちです」

 

 佐為はほんの僅かに切れ長の眼を見開きつつ、そっとその手を取る。

 しっかりと手を繋ぎ合い、二人して目の前の川に入り渡ってゆく。冷たさも重みも感じない、不思議な川だ。

 この流れの先に彼岸が待つのか。思う佐為は栞に手を引かれながら遠い昔のことをよぎらせた。この人の()となり、()を知った時のこと。

 

 道しるべ──という意味の()だ。

 

 どれほど道に迷っても、きっとこのひとの元へ導かれ帰るのだ──と思ったものだ。

 きっと栞はその()の通りに身を尽くして私を愛し、こうしてここに導いてくれたのだ。佐為は噛み締めるように目を閉じて繋がれた手に力を込めた。

 

 長い長い旅を終え、ようやく帰り着けた。

 そっと栞の()を呼び、見上げてきた彼女に微笑みかける。

 

 

「ただいま」

 

 

 もう二度とそばを離れない。想いを込めた声に栞は幸せそうに頬を緩めた。

 

 

「おかえりなさい……」

 

 

 美しい靄があたりを包み込み、清らかな水の流れが心地よく響き渡る。

 

 もう二度と離れない──。

 

 二人はただ満たされた心地で、久遠に続く常世の中へと静かに入っていった。

 

 

 

 

 

 ──── 完 ────



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あとがき(設定、補足説明+α)

およそ半年間、佐為の平安話にお付き合いいただきありがとうございました。

 

この話もしかして5/5に終われるんじゃないか?と途中で気づいたものの予定より数話多くなりそうなことにも途中で気づき、なんとか調整しながら無事5/5に終われてホッとしています。それも30話ときりがいい感じで。

 

 

ニッチな時代の話なので作中で極力分かりやすいように努めたつもりではありますが、補足説明が必要かなと思い、舞台となった平安の話や設定なども含めてあとがきという形でぐたぐた話も交えつつ書かせていただきたく思います。もう少々お付き合いくだされば幸いです。

 

 

前提として、私はこの話のパイロット版を大昔に書いており、色々あって引っ込めたのですが、ありがたいことにいつかまた読みたいと言っていただけることも時おりあり、今回こういう形でお応えできたので当時の読者の方にも楽しんでいただけていれば嬉しく思います。

ちなみに、まだアゲハマンこと菅原顕忠の名前も判明してない時期のことです。

 

あのパイロット版も、端的に言えば「佐為と出逢ったがために悲劇的な人生を送ったお姫さま」の話だったので、基本的には変わってないはずです。

 

今回はそれに加えて、佐為の生前の人生のつじつまと整合性をとことん合わせよう、というコンセプトもありました。

というのも、作劇上の理由で見た目が当時の風俗と合っていないのは漫画なのでと思えど、昔からどうしても入水自殺というのが疑問で疑問で。

 

もちろん原作者は史学家ではないしそもそも史学の中でも平安中期なんてスーパーニッチだし、連載当時はネットも発達しておらず簡単に史料にもアクセスできないしヒカ碁以降に発展したことも多々あるので、かつヒカ碁を読んでて端々から平安のことに詳しくないのは見てとれるのでメタ的な意味で時代考証を気にしても仕方がないというのは重々承知しているのですが。

 

あれがおかしいこれがおかしいと言い始めたらキリがないし、考証的なツッコミはそのうち機会があればいつかもっと公の場でしたいと思っているので今回は譲るとして。

 

この話の作中でも佐為自身が散々言ってますが、平安中期の貴族は死を極端に嫌厭し、自殺なんてもってのほかという日本の歴史から見ると特殊な時期です。世を捨てるイコール出家です。

 

 

非常に聡明で人と変わったものの見方をしていた紫式部ですら、源氏物語の宇治十帖で浮舟の入水のエピソードを書くのに慎重に慎重を重ねて言い訳三昧でようやく書いたのが見てとれる程です。田舎娘で貴族ではなく教養もなく、苦悩に苦悩を重ねて水への恐怖心も伏線にして、その上での入水はけっきょく成功せず失敗。そのくらいあり得ないことだと本人も分かっていたはずなので、苦労が偲ばれます。

紫式部自身は、作中でも出しましたが、水に揺られる恐怖を覚えたり沈んでいくような感覚を時おり感じていたのか日記や(作中では佐為と詠んだ)和歌にいくつか入水に思いを馳せるような思想的なものが散見される部分があって、佐為って紫式部と知り合いだったなということで「言い訳」が繋がり、「これは紫式部に影響を受けたセンだろうな」と私たちの現実とリンクさせる場面がピンと浮かびました。

 

で、佐為は入水のアイディアは彼女からインストールするとして、次は京追放です。

あの当時、流罪は基本的に貴族以外が処されるものです。貴族である限り仮に殺人を犯しても大した罪にはならないのが現状で、どんなに罪に問いたくても最大級で左遷。貴族のそれも殿上人一人を都から追い出し失脚させるって簡単なことじゃないんです。それくらいの特権階級なんです。

しかも佐為は記録が(ぱっと見だろうけど)残っていないという設定もあり。だったら三位以上の公卿、権門の出だと確実に名前は残るので、出自は良くないことにしないといけない。しかし権門でないなら政治理由での左遷にする価値もないという新たな問題が発生してしまう。

 

じゃあ何だ……?

 

ということで作中のような設定になりました。

ありとあらゆる、記録に残りそうにないかつ佐為に合うような人生ルートを行かせないと、と踏ん張ったつもりです。

 

 

平安中期というと、おそらくおおよその人が無意識に思い浮かべるのは11世紀かと思います。道長の最高潮期-頼通の時代ですね。

今回あえて10世紀を強調したのは、11世紀に入ってしまうと残ってる史料が増えて佐為の存在を消しにくいのと、単純に10世紀半ばの方が平安らしい魅力があると個人的に思うからです。

平安時代は長いです。Wikipediaなど、平安時代のどの時期のことを言っているか不確かなことが多く常に遺憾に思っており、ネットで情報を集めるのは非常に困難です。ちゃんとしたところでない博物館など説明から間違ってるのも見たりするくらいニッチな時代でもあります。11世紀と10世紀も地続きとはいえ風習などだいぶ違います。私たちの現代でも10年程度でさえだいぶ変わりますよね。それが半世-1世紀も違えば全く違う社会になるのは、遠い過去のことであっても変わりません。

11世紀の要素は今回は一切入れておらず、10世紀の時代観を書けることが一番の楽しみであったと言っても過言ではありません。

 

 

10世紀中盤はまだ下級官人が立身出世を見込める名残が残っていました。

下級官人といえどもそれなりの家系であることが前提ですが。佐為も藤原氏ですし。

あえて出してませんが二十八話「幻惑」や佐為自身「かつては権勢を誇っていたけど没落した」、左大臣家「狂い咲きの藤」という表現でピンときていたかたはいると思います。佐為は藤原式家のつもりで書きました。

初期で没落して歴史からも消える家系ですし、チラホラ大学寮出が出世することもあったので、一番しっくりくるかなと。祖先は毒で自害やらなんやらあったし…で「幻惑」される要素にもなりますし。

 

 

そんなことを下敷きとして、京追放-入水ですが。牛車で京から二日弱というと近江国を抜けるか否かの場所です。

琵琶湖が近いので入水場所には困らない。

不破の関のあたりだなーと思った時、そうだ壬申の乱の亡霊に取り憑かれた流れでいけんじゃね?とピンときて……そもそも佐為は今上のことを「大君」とか当時の人が呼ぶはずない言葉を使いながら回想してたからたぶん死ぬ直前にあの頃の大王(おおきみ)を思い浮かべたせいで記憶混濁が起こったに違いない等々、紫式部じゃないけど四苦八苦して舞台設定した感じです。

 

そして、佐為の辞世の句は紫式部の和歌……。

 

佐為がいなくなって、まさか入水したなんて一般的な貴族なら想像すらできないことですが、たぶん紫式部だけは薄々勘づいてたんだろうなーと思うと、紫式部めちゃくちゃキーパーソンなんですよね。

 

 

紫式部や清少納言は史実ではこの連載の想定してる時代より後の人たちなんですが、我々の知ってる20世紀末にはヒカルたちはいないので、その未来に繋がる過去が我々と同じはずがない。ということでそこは多少弄りました。大事なイベントは歴史の修正力とやらで発生するだろうから無問題です。

 

そして今回、一番書きたかったと言っても過言ではないのが源博雅。

実在の人物ですが、非常に逸話・説話での登場率が高く、そのことは彼の音楽的才能や名声が伝え残ったがゆえでしょうから、その才能は推して知るべしというか。実際に残した功績も日本音楽史にもっとも貢献した一人であろう偉人です。

佐為よりも高い位置で、かつ天才として物事を言える説得力のある人物として彼以上の人はいないと思ったのと、源博雅という人はどんな人だったのかというのを多少なりとも見せたいという思いがありました。

 

説話はあくまで作り話なので置いておくとして。

源博雅という人物は我々現実の世界では醍醐天皇の第一皇子の嫡男という大変やんごとないお生まれです。太政大臣藤原時平の孫でもあります。

 

博雅氏の実際の功績は作中でもだいぶ書いたので、そこは省略するとして。

この人は宮中の管弦の催しなどの史料をチェックすると基本的に「居る」んです。つまり毎度毎度、歴代の天皇に呼ばれて参加しているわけです。もちろん皇親なので身内として気安い相手というのもあるでしょう。しかしそれ以上に彼の楽才によるところでしょう。

和歌の才能はなかったようで、歌合には参加しないのにその後の管弦の遊びには居るという。

 

例えば作中で、栞の祖母の大宮が梅壺で碁合わせをした際の負態(まけわざ)が扇であったことから、以後、碁の碁手といえば扇が暗黙の了解となりこの時の雅やかな光景が思い出されるというエピソードがあったと思いますが、これ自体は史実です。

元ネタは天禄四年の五月、円融帝が姉宮の資子内親王と梅壺で行った乱碁歌合。この際の負態の扇とそれを持ち歩く人々の優雅な風景は、作中同様、語り継がれています。これ以来、この時は乱碁でしたが、囲碁でも碁手は扇というか「扇」を象徴して浮かべるというのが人々の共通認識になったわけです。

例えば紫式部日記の「播磨守、碁の負態しける日…」のところで最後にこの乱碁歌合を思わせる一文が出てきます。この資子内親王のエピソードを知らなければ読解不可能で、知っていれば「ああ!」となる。紫式部は後の世代の人ですから、この乱碁歌合の高雅ぶりが語り継がれている証左でしょう。

また、馬内侍歌日記にも「まけものには扇をなどのたまはせて」と碁を打たせた時の様子の記載があります。この人は資子の同腹妹の大斎院に奉仕していました。姉宮の乱碁歌合以来、碁の碁手は扇ということが相場となっている様子が見てとれます。

 

それましたが、この乱碁歌合の後の管弦の場にもやはりあの人物が…源博雅氏が居るんです。つまり呼ばれ召されているわけです。

 

「青海波」と聞けばたいていの人は源氏物語を浮かべると思いますが、例えば康保三年の秋に青海波が舞われた御遊の際にも博雅氏は楽担当で呼ばれています。紫式部はもちろんその記録を見たか聞いたかしたはずです。

歴史の影に常に居る。それが源博雅氏。

 

上記のように博雅氏にとっては御前で何かをすることは日常茶飯事で、よく彼に関しては天徳四年の歌合での失態が帝の前で緊張したせいなどと言われてますが、それはあり得ないことです。

あの歌合は世で言われているほど完全仕様なものではなく、読師という講師(読み上げ係/博雅氏が担当した)を補佐する役がいませんでした。

想像してください。あの頃は電気がないんです。夜は真っ暗です。補佐人がいない中、暗がりで読み上げ予定の和歌を手に取って読んでしまったら間違えていた博雅氏のミスは当然起こり得るものです。

でも間違いは間違いなので彼は恥いって青ざめたりしていたんでしょう。御前で緊張したからではなく、単に読師がおらずヒューマンエラーが起こりやすい状況だっただけです。

 

あと藤原北家の連中が何かをディスる時に博雅氏の名前をあげつらっていたことが分かってますが、これに関してここでくどくど言う気はありませんが、博雅氏が帝に一定以上の信頼を寄せられていたことは明らかだし、作中でも書きましたが、中宮職の長という人選の厳しい職についているので朝廷の一般認識は信頼に足る人物であったことは疑いようがないはず。

 

博雅氏は研究者気質であったのだと思います。

例えば彼は大篳篥の最後の奏者だと言われてますが、これはやんごとない身分の人は扱わない楽器です。博雅氏はこの楽器を得意としていました。身分に驕らず楽への探究心を貫いた結果ではないでしょうか。

また大篳篥は肺活量を要する楽器なので、体力のある恰幅のいい人だったのではないかと。これも作中で出した通り、蹴鞠なんかも得意だったようですし(作中で出した記録は西宮記に記載があります)。

そして何より、息子たちも楽才を発揮しており、彼は後進教育にも熱心だったのでしょう。

彼の作曲したとされる長慶子はあの時代にあって非常にアップテンポで斬新な音色であり、新しいことを積極的に取り入れる度量が垣間見えます。

そんな氏ですが、あの時代らしく非常に信心深く……という。博雅氏の、なるべく史実から分かっていることをそのまま膨らませ、作中の博雅になりました。

 

そういう博雅だったので、栞の変わった気質を許容できたし、栞には不釣り合いな身分の佐為を受け入れて(といっても殿上人なので博雅にとって最低限の身分はあったのですが)親しくしたと。

 

ヒカ碁の作画の小畑氏はたびたび佐為が笛を吹いている絵を描かれていましたが、その音があの源博雅から多少なりとも習った音だと思うとワクワクしませんか?

 

そう思われるくらい博雅氏に興味を持ってもらえたらいいなと思う次第です。

 

 

そんな博雅をメインキャラクターにしようと思ったら必然的に後見される立場の栞は源氏のお姫様になるわけで。

 

栞とは(博雅ともですが)パイロット版からの長い長い付き合いです。

考案のきっかけは元々、小畑氏が佐為に持たせたという扇がとても気になっていて、扇の形状が安定しないこともあり、中期の扇とちょっと違うなと思ったことがきっかけで、この扇は特製でそれを使っていた人から佐為が別れる際にもらったのでは、という着想から生まれたのが栞というキャラでした。

舞の才能があるという設定だったんですが、本腰入れて書くとなると大臣のお姫様が人前で舞うなんてとんでもないことですから、裳着まではある程度自由で裳着以降は身内で、という流れになりました。

その『身内』の中にはそもそも歴代帝も入っているので、相当に贔屓にされていたのだろうと思います。

 

読者が現代人なので現代目線というメタ的な意味合いも含め、あの時代にあってはやや感性がズレている設定にしました。立ち歩くなんて大臣の姫にあるまじきことですし、姫に流鏑馬なんてもってのほかだし、そもそも身分の賤しい人と同じ目線でものをいうことはあり得ません。それがこの時代の是ですから。

でもたぶん父親がやや変わった人だったんでしょうね。そもそも博雅を起点に考えると全員“あの”博雅の身内なので多少変わった人が出てきても仕方ないかな…ということで。

 

栞の家は父親は臣籍降下しましたが一品式部卿の宮の嫡男でつまり孫王、栞の母親は女王。源氏/宮家ですね。

10世紀末-11世紀になると若い親王/女に一品をあげてバーゲンセールな感じになってきますが、作中の時代にあって一品式部卿の宮というのは聞いただけで後光がさすレベルの皇族最高位中の最高位です。

その宮家の孫ですから、しかも母方も宮家で、栞の血筋だけはやんごとないにもほどがあるお姫さま…なのですが…。舞の才能はどこから?というとたぶんこの祖父の宮様が得意だったのではないかなーという気がします。舞は内教坊で習ったとはいえ、才能があると見込んだからこそ(父が)習わせたのもあるでしょうし。

父親は武官の長でもある左大将をずっと務めていたということですが、これも作中の時代設定が近衛府の人事がまだ武芸に長けた貴族を採用する最後の時期であったこともあり、武芸が達者な武人気質の人になりました。大将は将来有望な人物がなる羨望ポジションなので大将の個人的強さはそれほど関係がないのですけどね。栞の父はたまたま腕に覚えがあり非常に合っていたんでしょう。書いてないけど大納言兼任だったはずです。

近衛は帝に近しいエリアを担当するので警護よりも行事を司ることが増えていき、有職故実に長じた人や、中将レベルではそもそも実務の知識に乏しい若い公達(10代)が出世ルートとしてこの職を得るように10世紀末-11世紀にはなります。

が、10世紀中盤-後半はまだそこそこの年齢の実務を担える人が任官していたと言える時期です。博雅氏も割と長く中将をしています。

 

栞に片想いをする中納言を、栞に惚れた当時に宰相中将にしようかとチラッと思ったのですが、時代を考えるといくら権門でも中将はないわ、と思い直し参議で落ち着いたという経緯があります。

 

栞の話に戻すと。

大嘗祭の五節の舞姫を務めているので実名が残っていてもおかしくはないのですが……まあ、公文書も全部残ってるわけじゃないので紛失か消失かしたんでしょうね。

彼女の実名はけっきょく出なかったけど、なんという名だったのか。

『澪標』かつ『道しるべ』なら源標子かな。その場合しなこ/こずえこ/つくしこetc.と読み方が割とある気が……、どれだ? 栞ってあざな付くくらいだからこずえこ?

私も正直わからないのですが、分からなくても何も支障はないので、適当に好きに考えてください。

 

舞姫はあくまで現存する史料からだと平均年齢が12歳前後だったと思うので栞は(中納言の異母妹も)けっこう歳がいってから務めたことになりますね。

五節の舞姫に関する鬼畜事情(金がかかりすぎる、舞姫やそのお付きの人に対する人権無視がやばい等々)は作中で書いた通りなので、舞師を含めてああいう職や行事があったんだなーとちょっとでも思いを馳せてもらえれば嬉しいです。

 

(11世紀に入ると貴族の財政状況悪化のせいか受領からも『担当』として舞姫を出す(=主体的に金出す)ようになり童女御覧も「定番化(栞の時代は違います)」していったり鬼畜度が増していきます)

 

栞は佐為に出逢ったがために悲劇的な一生を送るのですが、栞にとって佐為はオムファタールみたいなものだと思うんですよね。

周りの言うとおり、本来は入内か、中納言と結婚するのが当然のルートなのに客観的には完全に道を誤った人でしかないですから。

何でそこまで佐為に……と思ってはいけないというか。本当に献身的に佐為を愛していたんだなー本当に好きなんだろうなーというのが伝わっていれば、栞の目線になって佐為を見てもらえれば分かってもらえるかな…と思います。

 

 

そろそろ佐為の話を。

 

そもそも論として古代中国と違ってあの頃の囲碁は趣味領域の遊びです。

しかも碁の達人は基本的に僧侶。これは僧が碁を打つことは律令で認められてた影響かもしれません。

なので碁を職業にするということは貴族としては絶対にないし、佐為がいっそ庶民ならまだ分かるのですが、貴族ということが重ねて強調されているので貴族なんだろうし、うーん……といったん碁のことはわきに置き、他の名前が残らなかった等の要素から逆算してああいう形の設定で落ち着きました。

 

ただ、今回の話を書くにあたって一つ最大級のウソ(史実と異なること)をつきました。

大学寮の学生は作中で書いた通り弓と琴以外の遊びを一才律令にて禁止されてます。碁(というか賭け碁)もです。

ただ碁は僧が許されるほど市民権を得ていたのも事実だし、数少ない大学寮関連の史料に学生が賭け碁をやって情けない!最近の若いもんは!大学寮も地に落ちた!みたいなのが出てくるので、まあやってただろうな…と。ということで「許可されてないけど囲碁が黙認され流行っていた」というのは創作です。が、実際やってたよね、という。

大学寮の史料は少なく、とはいえまだ大学寮の出身者が出世できる可能性のある最後の時期が10世紀半ば。かつ算道は本科から離れて(本国中国を倣ったのか)低くみられており、いっそう史料が少ない(=名前が残らない)。でも算師は引っ張りだこレベルだし、囲碁の才能があるなら数学的才能もあるよな、ということで我ながらこの設定天才だな?と思った次第です。

 

舞台が現代だったりファンタジーであれば身寄りがない天涯孤独もありえると思うのですが、佐為のような殿上人で平安中期の貴族にあってそれは『絶対に』あり得ません。家族・親族誰かしら必要だし引き立ててくれる主筋等の繋がりが必須です。

現にこの話は下級官人なんて…という扱いではありますが、佐為にしても父親が位階を持っていなければ大学寮にすら入れない。そういう時代です。

作中の佐為のように何も後ろ盾のない人が試験通った後に叙爵はまずあり得ないのですが、そこは作中で語った通りです。

 

こういう出身であればあるほど、佐為は他よりも教養を身につけそれらしく振る舞う術に長けてなければいけなかったはずです。

博雅や栞は生まれがやんごとないので何をしなくてもその立場は安泰ですが、佐為はそういうわけにはいかないので。

 

五位のいわゆる貴族階層と六位以下の下級官人とでは立場が天と地ほど違ってきます。

単純に給与だけでも五位と六位は全く違うし貴族になれば資人なども与えられ、佐為も言っていたように屋敷の屋根を檜皮葺きにできるのも五位から(それ以外がうっかり作ると速攻で取り壊される)。

まして佐為は殿上人です。五位の殿上人はレアキャラです。

よく貴族はみんな殿上できたかのように思っている人を見受けられますが、違います。特にこの時代は五位だと片手で数える程度かと(11世紀以降、その数が増えますが)。

そして殿上人と普通の五位の間にも高い高い壁があります。

例えば栞の家である大臣家を訪ねた場合。普通の五位だと中門廊(≒玄関)から上がることは許されず使用人同様待機室で待って許可が出てから屋敷に上がる運びとなります。が、殿上人なら玄関から上がれるわけです。まさに格が違うというか月卿雲客と言われる所以でしょう。

博雅が最低限(=殿上人)はクリアしてるからまあいいかと結婚を許可したのもそういう理由からだと思います。

 

佐為はこれらを自らの運と努力(と美貌?)で得たものだとすれば、そこに矜持もあっただろうし執着もあっただろうし、この時代のことですから個人的願望より両親だったり一家繁栄のためという責任が当然ながら重くあったはずです。

 

庶民から見たら佐為は雲の上のお殿様だけど、貴族社会の中では下っ端中の下っ端です。

わかりやすく収入面で言っても、栞の家は元々一品式部卿の宮家(=ドチャクソ収入と資産ある)、父が帥の大臣(=大宰府長官として桁違いの収入があるかつ大臣になれる位階として桁違いの略)、母が女王(=女王としての収入がある)、栞(=位階持ってるのでめっちゃ収入がある)という全員体制で収入があるのでどえらいことになってるはずです。数え切れないほど荘園や牧場も持ってるでしょうし。おまけに父親が実利主義で溜め込んでるらしいのでたぶん京一番の大金持ち。

佐為(従五位下)の年収が一千万-二千万だとしたらこの家は父親だけで年間数十億はくだらないでしょうから、佐為がやったこと(大臣の姫を妻にした)はとんでもないこと。と思ってもらえるかと。

 

基本が婿取り婚なので玉の輿どころの話ではないというか、ここで割と恨みを買った気がします。

 

まあ、でも、栞は子供がおらず博雅の家系も長くは続かないので、ここで歴史の修正力が働いて栞の継いだ宇治エリアなんかはいずれ藤原に買われ紆余曲折を経て平等院鳳凰堂になるのか……と思うと諸行無常感ありますけどね……。

 

 

佐為の話となるとアゲハマンこと顕忠とのイカサマ事件に帰結しなくてはならないので、ここもどう整合性をつけようか、と頭を悩ませてました。

 

佐為の回想の画像がある程度合っていると仮定すれば、佐為は上座に座って打ってます。ので、位階は上なのだろうと思いました。

 

でも、当時の碁の打ち方って詳細は判明していないのですが、白番=先番なことが多かったのだろうと思われています。これは古代中国がそうだからで、実際日本でも江戸でさえ白が先番の棋譜が割と残ってたりと厳密なルールは決まっていなかったというのが正解だろうなーと思っています。

 

じゃあ平安中期はどうだったか、ということで西宮記や源氏物語を見ると、西宮記では上首に黒という記録があるので黒の方を偉い人(強い弱いではなく)に持たせていた。

紫式部は、作中でも出しましたが、相当な囲碁オタクだったようで結構な描写がありますが、浮舟のエピソードで明確に強い相手を後手番にしてます。つまりコミ制度がないあの時でも先手が有利なのは知れていたということです。でも白黒どっちが先番かは書いていない。

 

もう少し時代が下ると時間帯によって偉い人に白持たせたり黒持たせたり囲碁のルールとしての決まりとは別の理由で白黒使い分けているので、さっきも書いた通り厳密なルールはなかったと思います。

 

なので佐為の位階が上なので上座。番勝負なので佐為は後手番からということで、ノリで白になった感じで「白が後手番で強い人」と明言するのは避けました。

 

ちなみに宇治十帖のヒロイン浮舟はおそらく源氏物語史上最強の碁打ちです。入水失敗の後で気が滅入る中、碁だけは打つ気になり誘われた相手と先番で打つもあっさり勝つので、後手番と入れ替え、誰よりも強いだろうと相手に言われる話があります。

我々の世界の源氏物語であればもちろん佐為は関係ないので違う解釈をしますが、作中の紫式部は薄々佐為が自殺したこととひょっとしたら自分との会話が引き金になったと気づいているので、佐為のことを思いつつ浮舟のエピソードを書いたのだろうな、と私の中では繋げています。

佐為本人や佐為周りのエピソードは色々彼女の創作の糧になってそうです。

少なくとも源氏のお姫さまが愛する人と引き裂かれる殿上人左遷騒動とか滅多に生で目撃できるもんじゃないし、この世界線の源氏物語だいぶ佐為成分入ってそうな予感が……。

 

 

顕忠の話に戻して。

 

菅原氏かー…と一旦菅原の人間を思い浮かべて……菅原となったらもう学問しか道がない上、菅公のあとなので出世はほぼないですよね。

大学寮出身で学問の道にいって地方官を繰り返しながら割と年がいってから六位の蔵人は一応菅原としては典型的で良いルートではないですかね。

 

そんな彼なので、佐為がもしも権門藤原家の公達だったら羨むことすらお門違いの差があることになるので、ここでも佐為は出身が良くないとするしかない筋書きができる。

 

あと、菅原程度と言ったらあれだけど、六位蔵人が帝にあのような奏上するなんてあり得ないです。勝者のどっちかを召せ、とかあり得ない。あれはたぶん佐為の記憶が相当悪感情として顕忠にいった結果もしくは超簡略化してヒカルに説明したためだと解釈しました。

 

職位としては侍従も六位蔵人も殿上できるし帝のそばにいるので、二人の対比という意味ではもうこれ以外ないというか。六位蔵人は任期付きなのでその地位から落ちるのを非常に嫌がるというのもその通りで、顕忠の動機は見えやすかったです。

佐為が異例の出世なら、なんであいつだけ、とも思ったはずですからね。

 

でも菅原レベルでは殿上人一人の左遷に関与はできないです。大臣クラス(というか北家)から睨まれてないと。

なので佐為が京を追われたのは各アクターがそれぞれ少しずつ意図的又は無意識に行動した結果の積み重ねが不幸な結末を連れてきた、という形になりました。

 

ただそのことを佐為は知らないし栞だって知らないし、結果的に顕忠も出世が断たれてるし誰にとっても不幸だった。一人勝ちしてるのたぶん諸悪の根源の左大臣(中納言の父)なんですが、まあこの人藤原北家の長者だろうから歴史的に見て約束された勝者なので仕方がないんです。歴史の修正力に完敗した結果ですね。

 

 

生前の佐為の性格とか。

 

佐為がどうというよりまず平安中期の貴族としての常識と振る舞いはあることにしないと生きていられないのでそこは譲れなかった。

 

あと、平成の世でも佐為は非常に自己中で利己的ですよね。例えば塔矢行洋が「(負けたら)プロをやめてもいい」と言ってヒカルが心底驚愕してるのに佐為はプロをやめる(=職業と矜持をかける)ということはかつて自分が入水のきっかけになった一大事と同じだと瞬時に理解して=本気の対局になると分かってヒカルの言葉を遮ってゴリ押しした。行洋の人生を狂わせるかもしれない可能性、ヒカルが被る迷惑を一瞬たりとも考慮せずに。分かってたはずなのにね。ほんまこの人なんて自己中…と思ったものですが、まあ、うん。

 

その割に都追われた途端に入水するくらい弱い。時代考証的にあり得ないというのを抜いても、なんで?というか。神の一手極めたいんちゃうの?だってこれアキラ君なら下剋上レベルで生き抜くぞ?物語の都合を度外視したらマジでなんで?というか。

 

でも子供には優しいのは本当に子供好きなんだろうなーという。

 

平安貴族は感情表現豊かで雨が降れば泣く花が咲けば泣くのが専売特許みたいなものなのでそれと佐為はまあ合致しているのですが。

 

上記のようなことを考えてというか、上記のもととなるような生前の佐為はどういう人だったか本当に長い間考え続けていました。良いところも悪いところもある、というキャラ像にしないとというのが長年頭にあり、また、時代にも合っていないといけない。

 

何度も書いたように佐為は貴族で殿上人という国全体から見たらとんでもない特権階級です。

佐為にはまず近代の発想である平等や権利という概念がそもそもあるわけないんですよね。平成で初めてそういう価値観に出会うことになって、最後は学習したかもしれませんが、彼は無意識にでも自分を高い位置に置いているというか置いてないとおかしい生い立ちです。

なので(ヒカルや私から見たら)わがままに見えるし、生前においても博雅からは同じ何かを志す人間として「碁に関しては」利己的な部分があると思われていたのでは、と。別に博雅はそれを悪いとは思ってないんですけどね。

 

その最たる部分が江戸末期のことですが。

私自身は思うことが山のようにあるのですが、本因坊秀策は実在の人物で彼の残した功績はとても大きく、あくまで漫画の設定とは言っても、その功績を誰かが成り代わっているとか奪って乗っ取っていたというのは、私にとっては気持ちのいいものではないのでお茶を濁す形にしました。

ヒカ碁の作者陣もそれをおそらく分かっていて、ここには詳しく触れられないのだと思います。

 

佐為からすれば庶民は自分に傅いて当たり前の身分ですから、死後もその習性が消えないのは当然のことで、そもそも庶民目線を少なからず持っていた栞みたいな貴族の方が頭おかしい扱いなので、佐為は真っ当ということを強調しておきたいです。現代人から見たら、ん?と思う部分があるというだけで。

 

そういう風習というか風俗の違いなども見せたくて書いた話でもありますしね。

 

そんな佐為の成人男性としてのあれこれ。

 

基本的に子供(ヒカル)といるので多分に彼に合わせてる部分があると思うんですが、たまに垣間見える部分がなんというか。

緒方に対してこれだけ酒が入っていれば戯れにしかならない、なんていうのはそういう経験があるから言ってるんでしょうし、そもそも自発的に思い出す生前の記憶って毎度毎度女人に囲まれてるところ……。ああモテてたんだね、ってのは予想できるけどピンポイントで露骨じゃないですかね……というか。

アキラ君のことを「女の子にモテモテだから(虐められた)」と見抜いたあたり、経験則だろうし……。

ヒカ碁はシナリオと作画が分かれていて、両サイドで細かい設定の共有はしていない(そもそも設定がない)ようなので各人の解釈の差異が見える作品でもありますが。小畑氏の描く佐為は基本的には氏が得意とする耽美系の美青年で普通の血の通った男性なんだろうなと感じていました。

 

一般的な貴族の男性がどういう性的な価値観や教養・経験を持って育つかは、この話は年齢制限を設けていないので露骨な話は避けましたが、佐為も当然「普通に」育った以外の選択肢はないはずなんです。そういう時代なので。

その上でどんな恋愛をしてきたかなと思った時に、碁の時間を削ってまで夜な夜な女人に通うのはまずないな、となり。その辺は合理的に宮中だよな、というか。

 

なぜ合理的かというと、宮中なら顔を見ることのできる女官も多いし直接仲良くなれる機会が多々ありますが、どこぞのうわさの姫を落とそうとなると姫にたどり着くまでが面倒ですからね。まず姫のそばにいる女房から落として(自らのお手つきだったり自分の従者と懇ろにさせたり等)なんとか文を届けて、ってプロセスが色々ある(なので栞は「常夏へ」で自分の女房と中納言が通じてしまったら寝所に押し入られる=再縁不可避と警戒していたわけです)。

まあ、佐為なら余裕でお付きの女房も落とせると思うけど、正直実行しないと思うというか……ものすごく碁が強いとかいう触れ込みなら別かもですが。でも宮中にいくらでも魅力的な碁の打てる女性はいるだろうし、深窓のお姫さま自体が栞と出会うまでは未知のものだったはずです。

 

いま考えれば佐為にとって栞は本当に一生顔さえ合わすことのできない高貴な未婚のお姫さまに偶然出会ってしまったシチュエーションですね。

なんて書くとロマンチックな気がしますが、宮中(職場)で出会ったのでめんどうなプロセスを踏まなくて良かった上に、女官や女房ではない(=職場の人間ではない)ので職場恋愛という現代に続くリスクも孕んでいない。まさに棚からぼたもち。

 

ただ、二人の最初の出会いは映像だったらとても美しいとは思います。

時鳥(冥界からの声)が誘った不穏なきっかけだけど、月明かりの下で蛍が飛んでいて、直衣姿の佐為の美しさは言うに及ばず、水干に角子の瑞々しい美少年と見まごう美女が偶然顔を合わせる。二人とも一瞬時が止まったのがよく分かる美しさかなーと思います。映像があれば…!

 

戻して。

栞は、栞には大変申し訳ないけど、佐為から見るとこれ以上ないくらい都合のいい相手だったんだろうなと思います。

年齢が釣り合ってて、碁が強くて、婿取り婚って考えたらこれ以上ない玉の輿で出世ルートに(乗りたいかは別にして)乗れるし、四条に大きな屋敷を持ってて、栞自体が佐為から見ても「美しく可愛らしい」。釣り合わないのは身分のみ。

特定の身分ある女性と顔を突き合わせてずっと碁を打ちたいとなると、もはや結婚するしか手がないわけです。

なので佐為は栞に妻問いして色良い返事をもらったので気合い入れて訪ねていったのに、全くそういう雰囲気にならず二日経って…なあたりはちょっと同情しますね。艶っぽい後朝の文を送っても意図に気づかれずスルーですし。佐為としては栞がずっとこの調子なら碁の相手だけでもと思ったんでしょうけど、いけそうなんで押したらいけたという身も蓋もない話ですね。

 

でもそうなると名実ともに夫婦関係となり、栞の方が佐為に夢中になってしまったのが不幸の始まり……と清少納言なんかは最終的に結論付けてしまった。

 

佐為も言っていたけど栞は碁才があって強くても佐為の望む姿勢で碁には向き合えないんですよ。でも彼女は佐為を好きになったのでできる限り希望に沿ってあげたいと思っている。だけど佐為と碁の同志にはなれないし、なれないことは寂しく思いつつも佐為の妻でありたいし佐為の一の人でありたい。

佐為もそのことは分かりつつ、碁の相手としても惜しいし何より妻として手放したくないのでどこまでも二人は夫婦という男女関係でしかなくて、だから博雅はそれ(碁)は栞ではなく子供に求めろとやんわり助言したんですよね。

 

佐為はけっきょく栞のことを愛していたのかは、好きに解釈してもらいたいところではありますが。

紫式部は、生きてる時に気づけなかった業の深い人、という解釈をしたわけですよね。

もちろん好きだったと思うんですけど、佐為としては元は碁のために妻問いしたわけです。現代と違って恋愛結婚するわけでもないので、佐為としては結婚したからには妻として遇して一番大事な女性という扱いをしようというところから入ったと思います。

 

なんだかんだ理由つけて中納言と口を聞くことさえ嫌がっていたり等、名目上の妻でいつでも碁が打てる相手という「だけ」ではないのは自明なんですが、どうなのかな。紫式部が正しいのかな。

 

ただ佐為には世間的に認知されてる恋人が複数いて、当然だけど誰も結婚後にその関係が切れると思っていないし切れないのを当然としてる。

栞も分かっているので気づかないふりをして咎めない。

この辺は現代と全く感性が違うのであれですが、そういうものなので佐為は全く悪くありません。

 

むしろ佐為はすごく栞を大事にしていると命婦が力説していた通りというか。

宮中に馴染みの人が複数いる(たまに文もらって情けをかける相手がいたかも)だけで本人は他に妻を持とうとは一切思っていない(恋人からしたら酷い話だけど)し、その辺の女房捕まえて手を出したりも一切しないって伝説のぐう聖レベルじゃないですかね……。

しかも月経の間も体調を気遣ってそばにいてくれるとかもうぐう聖通り越して神じゃないですかね。この頃は血の穢れを非常に嫌うので、それ以上に栞の体調気遣ってそばにいるってそら女房は「うちの殿が素敵すぎる」「姫さまの最高の背の君」って推しになるわ。と思うわけで。それに佐為は女房たちには絶対優しくて親切だから「うちの殿尊い…」レベルで信者が爆誕してそうです。ある意味一番美味しいポジション。

というか、佐為は碁狂いというだけで基本的にはすごく優しい人ではあるんですよね…。博雅とか父親とか特殊な人が基準だろう栞にはそのありがたみが伝わりにくいのかもしれないけど。

 

当の栞の感性がちょっと変わっているので、宿直で佐為がいないだけで(今夜は誰々のところかな、と考えて)落ち着かないし、実際他の女のにおいがしただけでショックで泣き倒してましたが、佐為からすると失態と同時に「なぜ???」だったのも本音だと思います。

佐為からすると崇めるレベルのお姫さまがなんで取るに足らない相手に嫉妬?と考えるのが当時のセオリーですから。

でもあれ以来、栞をもっと大事にしていたので佐為自身の言葉を借りると「痛い目にあって懲りた」んでしょう。栞が懐妊するまではやめとこう…とか思ってましたがたぶんあのまま生きていたら本当に懲りて栞だけを大事にしたんじゃないですかね。

だから、二人の別れはようやく本当の意味で家族になれそうだった、というまさにこれからだったんですよね…… (しかし、栞を大事にした結果が恋人からは遠のいて橘内侍が不安になって碁笥の確認を怠るという致命的なミスと不幸に繋がったのですが)。

 

佐為は子供だけは本当に好きなようなので自分の子供が産まれたらさすがに入水はしないでしょうから。

だから子供ができたらずっと幸せなままだったのに、という悲劇感も増してるというか。

 

まあ、でもあのままで子供が生まれたら栞も強くなって「和歌の詠み合いがなさりたい?麗景殿でどうぞ!」「合奏?温明殿へ行かれたら?」とか佐為を適当に突き放したり…しないかな…一生やきもち妬きでずっと佐為が大好きなのかな…。

でも佐為は突き放すと焦って追い縋るタイプな気がするから対処法としては正解な気がするんですよね。「懲りた」のも本能的に栞が限界まで辛くなったら縋ってくるどころか突き放すタイプだろうって気付いてるからだろうし…。

 

逆にいうと栞の懸念通り、他の女人に子供ができたら佐為はそっちにかかりきりになって栞はどのみち不幸になるという諸刃の剣。

正妻以外の子を大事にするかはケースバイケースなのですが、佐為の恋人たちは粗末に扱うには(佐為にとっては)憚られる身分ですからね……。栞も嫉妬のあまり権力にモノ言わせて何かしてやろうという性格でもないし、発散できずに内向的に病む方向にいくんじゃないかな。

 

最悪なケースは佐為が気に入ってる宰相の君の方に子供ができた場合ですね。身寄りがない庇護欲をそそるタイプで佐為は放っておけないのでたぶん自宅に引き取って、そうなると世間は第二夫人って認めちゃう上に子供がいる方に佐為は居続けることになると……。別の意味で左遷ルート入りそう……父の大臣とか今上がブチ切れる方向で……。

 

橘内侍は受領の金持ちのお嬢さまでしょうから、子供ができても彼女の実家がしっかり育てるでしょうし問題ないですね。

彼女はいつか佐為に妻にしてほしいと思ってましたけど、あくまで子ができても佐為は彼女とは結婚はしないだろうな……。碁も強くないし、プライド高いからずっと一緒にいると疲れそうだし。

宮中に子供連れてきたら頻繁に彼女の部屋に通うとは思うけど……。

橘内侍はもやもやしながらも、立場的に栞が強すぎて何も言えず、のままでしょう。

 

にしても(大っぴらに)最初に手を出した相手が宮中でも評判の美女の掌侍で、次が身寄りがないとはいえ美人で名高い参議の孫で最終的に摂関家のお坊ちゃんが求愛してる大臣の姫とかモテ男すげえな……という。佐為の立場だとみんな高嶺の花だよな…と。

 

(現代感覚だと)栞も佐為の恋人たちも割とひどいことになってるんですが、みんな佐為のこと大好きなのがまた…モテ男すげえわ…。

 

佐為に塩対応で最終的に意図的に歴史から名前を消す試みが大成功して復讐を遂げた清少納言ですら「直接会ったら絆される」と感じていたので、とてもとても魅力的な青年だったんでしょうね。

 

でも清少納言からすれば栞の方がうんと大事で、美しくて才能があって身分が尊い(清少納言にとって最も重要ファクター)お姫さまが、なんで恋愛ごときしかもあの程度の身分の男にハマって破滅しなきゃなんないの!という気だったんでしょうけど。

でも、栞は佐為と別れても本当にしたいこと(舞)は身分柄無理なんです。身分が高すぎて本当に身動きとれないんですよ。でも佐為のことを好きになって、佐為のために全部諦めてもいいって思って、佐為が自分といずれ生まれてくる子供のための人生だったと思ってほしい、って言ったからそれを心から受け入れたわけです。それに佐為はあくまで四条の屋敷の中であれば好きにしていても文句は言わない柔軟性はありますから、栞からすると現状を顧みてこれ以上はないという。外に出たら姿を隠せというのもこの時代の常識だから倣ってるわけで、佐為本人は「口うるさくてごめんね」って一応栞を慮ってはいるわけですしね。まずあり得ないくらい柔軟性あると思います。

 

ただ清少納言の気持ちも分かる気もするんです。佐為すら世慣れないお姫さまだと心底感じたレベルですれてない深窓の姫だったのに、すっかり佐為に心身捧げて佐為が中心になってしまってもう会えなくなって、それで佐為が栞を大事にしてればまだいいけど清少納言は結婚前から佐為が囲碁目当てって見抜いて危機感覚えてましたから余計に「私が止めてれば!」と思っただろうしという。

 

 

佐為の女性関係を擁護するのもなんですが、あれだけモテてたら宮中の肉食女子から常にコナかけられる状態なので、むしろレベルの高い恋人がいるのっていいことだと思うんですよ。掌侍のトップなんてすごく地位のある女官でしかも宮廷で一番と言われるくらいの美女が恋人なら、肉食集団も「ああ私では無理ね」となって露払いできるでしょうから。

逆にいうと「私の武器は碁」と自覚して結局佐為を落とした宰相の君って策士ですよね。ガツガツいかないことで佐為の興味を引くことに成功してる。

 

しかし、いま気づいたんですが、だから彼女は「妻は碁が強いんですよ」なんて結婚後一番に無邪気に言われて「あ、勝てないんだな」ってなっちゃったのかも……。身分も碁も勝てないならもうお手上げですもんね。佐為よ……。まあ、同時に「碁目当ての結婚か」とも見抜いて寵愛が完全に移ったわけではないと悟ってホッとしたりね。いずれにせよ佐為よ……。そして彼女は「この調子でいつか彼は碁で身を滅ぼす」って見抜いてた聡い人でした。

 

とまあ、こうして佐為の恋人枠が埋まり、その後、結婚した相手が大臣の姫でトドメです。もう誰も手が出せない。

佐為が言ってたように「(めっちゃモテるけど)自分から通ったのは多くない(から見逃してよ)」は真理で偉いと思います。まあ、あんまり請われるから一度くらい、はままあったかもしれないけど、割と普通のことだし、自宅にそういう関係の女房(恋人ですらない)抱えてたりするよりよっぽど良いというか。

この時代にあって、全部相手の意思を尊重してるし、自分の方が(社会的)立場が明らかに強いとわかる相手には手出ししてないですよね。

逆にそういう(能動的な恋愛の結果)のがいや!というタイプもいただろうけど、なかなか現代人には理解しがたい部分なのかな。

栞はどうだったのかな。最終的に「ぜったいバレないようにして!」という解決策に出てたけど…うーん。

 

 

逸れましたが。

上記しましたけど、佐為との別れは最高の幸せの絶頂期へ向かう予感があったところで突然やってきた、栞にとっては最悪のタイミングだったんですよね。

子供がいて幸せの絶頂だったら、辛いけど子供のためにまだささやかな幸せを感じて生きていけたでしょうから。というか子供いたらたぶん佐為死なないし……。

 

栞は佐為を心から愛していたので、佐為にそこまで愛されていないことも当然気づいていて、でも佐為が「懲りた」あと多少変わったのも感じていたでしょうから本当にこれからだったんですよ。長谷寺から帰った直後ですからね。あの時、本当に幸せだったはずなんです。

 

そんなこんなで栞は人生をかけて恋をして佐為が帰らないのすら分からず待ち続けて生涯を終えるという恋に殉じる報われない悲劇的な人生を送ったわけです。

が、その悲劇性は後世に伝わらず、美しくて快活な姫というイメージのまま歴史に残り誰も真実を知らない。悲劇であっても彼女は佐為に恋したことを一切後悔してないのに。むしろ佐為に出逢わない人生に意味はないと思っていたのに。

 

という無常なお話でした。救いは……生きてる時分には一切ないです。

 

むしろ、いかにして巧妙にかつ偶然に佐為が歴史から姿を消したかという話だったなと振り返って思います。

タイトルに特に意味はなかったんですが、結果的にはタイトルそのまま佐為の生きた時代そのものを主にした話になったな…と。

 

 

 

少し構成上の話を。

 

この話にパイロット版があったのは話した通りなので始まりや結末、流れは基本的に昔からあってプロット的なものはなかったのですが。

 

というか辛い話なのが最初から分かっていたので、いまさら書く気はなかったのですが、2020年の暮れにちょっとまとまった時間が取れたのと思うところあって重い腰を上げ、一気に書きました。二十五話の「呼び水」にあたる話まで。

その後の展開が辛いのと、ちょうど時間もなくなったことで再び放置してもう書くことはないかなと思っていたのですが半年前にふと思い立って唐突にアップしようということで見切り発車で始めました。

週一くらいでアップしたら何ヶ月もストック切れるまでに時間あるし書けるかな、と思って。

 

が、そう簡単にはいかず。紆余曲折ありました。

 

例えば十三話「誰が袖ふれし」は急遽挟んだ話です。

平安中期の風習をできる限り後悔のないよう余すことなく書こうと思っていても流れに合わない場合は泣く泣く捨てていたのですが、お香の話は個人的に書いておきたくて。彼らがどのように香を作っていたか豆知識にもなりそうだし、佐為の器用さ殿上人らしさも出せるかなと。

基本的に全話を全て読まないと話が通じない部分が出るはずですが、あえて一話選ぶならここは飛ばしても問題ないはずです。読んだほうがより佐為と橘内侍の関係がわかって次の新嘗祭編が分かりやすいとは思いますが。

そして十四話の「遠国の歌語り」はターニングポイントの最重要と言っても過言ではない話なので嵐の前の静けさになるかな、と。

 

補足するなら、この話で橘内侍がどれだけ佐為が好きか分かると思います。普通、秘伝の香の調合方法なんて教えません。あの人たぶんものすごく佐為に尽くしてきたんだと思います。ツンツンしてるけどね。

佐為はそんな年上の恋人の機微を察するに至らなかったというか、たぶんそこまで入れ込めなかったんでしょうね。橘内侍もそれを分かってるのでみっともなく縋れない。

でも彼女の視点に立つと、薬玉をくれた(これも5/5のイベントだ)翌年にはもう別の恋人に贈って、それから半年と経たず全く別の相手と結婚って屈辱じゃないですかね。新しい恋人を作っても自分に通わなくなるわけではないから嫉妬もできないだろうし。結婚相手なんか雲の上の人すぎて何も言えるわけない。結婚後は通いが間遠になってる上に佐為は宰相の君の方を優先してたはずなので、ものすごく嫌だったでしょうけどプライド高いから文句も言えないし、その後もずっと尽くしてたんだと思うと…うん…。

しかも自分のせいで佐為が京を追われたと思って若くして出家…。この人はこの人で佐為に全てを捧げた人生だったよな…と。

 

ただ、全てを捧げてもたぶん佐為が最初の相手ではないので三途の川は違う人の手に引かれて渡ったんでしょうね…。

 

宰相の君はなんだかんだ、佐為を想いつつも生活のためにいずれはそこそこの男性と結婚したんじゃないかなーと思うので、まあよし。

(書いてないけど佐為が健在の間はおそらく定期的に佐為から贈り物という形で援助を受けてたはずで、佐為の亡きあと物理的に一番困ったのは彼女だと思う)

 

そう思うと若くして出家できるのは橘内侍が十分な財力を自前で持っていることの証明に他ならず、そういう選択ができただけ幸せと思うしかないですね。

 

掌侍のトップ(時代が下れば勾当内侍なんて呼ばれる)は(この時代は)受領の娘がなるポジションで本人の給与はもとよりお金持ちだろう親から引き継ぐ財産がありますからね。まだ自分の意志で人生を決められる程度の自由はあると言える。

対する宰相の君は両親がおらず参議だった祖父の養女。その祖父も亡くなりツテをたどり麗景殿の女御(血縁?)の上臈の女房に。両親が早くに亡くなっていれば継ぐものもそれほどないし、参議は公卿だけどこれがまたなんというか…。公卿には列するけども位階は四位なので位階通りの扱いをされるし、昇進した途端に舞姫なんて金のかかるものを献上しろと言われる。微妙なポジション。晩年に参議になったとして、自身の亡きあとに孫が出仕したということは面倒を見る人もおらず財産もそれほどなく、良い縁談ももちろんなかった末のことでしょう。血筋がそこそこなので上臈の女房にはなれるけど…という典型的な落ちぶれルートです(栞の父が、絶対に落ちぶれてはならない、と言っていたのもこういうことです)。

 

なので宰相の君にしても、生活のために女房として働いているのであって、生活のためにそこで経済力のある男性と関係を持つこともままあることですから。彼女は自分が憧れた相手に(碁目当てとはいえ)見初められて幸せだったとも言えますね。

個人的に佐為と宰相の君の関係は平安の男女っぽくて好きです。佐為は碁目当てだったけど、和歌のやりとりから始まって、お互い字の美しさとか詠みっぷりにもっと好意を抱いて、そして相手が受け入れる姿勢を見せたから訪ねていって、翌朝初めて女性の顔を見る、と。もちろんうわさで美人って聞いてただろうけど、実際美人でテンション上がったのかな…とか考えるといとおかし。

栞や橘内侍のように顔をちゃんと知った上で関係持つってイレギュラーですからね。栞が主人公格なので詳しく書けませんけど、それぞれの女君との話もストーリー化したら面白そうです。

まあ…いずれもバッドエンドでしょうが…。

 

 

金銭の話が出たからついでに。

佐為の生活の面倒は栞(の家)がみてます。現代でいうヒモではありません。そういうものなので。なので佐為(夫)は将来は出世して恩返ししなきゃねとなるわけで。

上記したように栞の家は桁違いの収入があるので、佐為は着ている服から持ち物全て結婚後はめちゃくちゃ高級仕様になったはずです。ますます素敵になって、なんて女官女房が言ってたけどそりゃそうだろうよというか、大臣家の財力パワーが多分にあるわけです。

佐為は自分の収入もそこそこあるので、それは実家はもとより身寄りのない宰相の君とかに使ってたんだろうなーという。もちろん佐為にも連れてる従者がいるのでそれは自分で面倒見てたんだろうけど、ずっと栞の屋敷にいるので栞側は持てなしという形で面倒見なきゃならないし。栞の家の財政状況を思えば微々たる差でしょうけど。なかなか理解しがたい世界ですね。

 

ちなみに佐為が天寿を全うしても恩返しレベルまで出世できるかは……うーん。参議くらいにまでならなれると思うけど、うーん。納言までなれるかな。うーん。

佐為と栞の間に娘が産まれたらたぶん世紀の美女だろうから(祖父の大臣の力で)入内してワンチャンかな。そうしたら納言にはなれそう。

新嘗祭編で書きましたけど、新参議は舞姫を出さないといけないので、娘が産まれたら10歳くらいで佐為は参議に昇進して舞姫を出せって言われて嫌すぎてガチ泣きしてる様子が浮かびますね…。こんなに費用がかかって!娘をあんな見せ物にしたあげく入内させろ!?バカ言わないでください!!娘はまだ10歳なんですよ!!とか言ってそうです…。

 

なんかifでありそう。「参議に昇進したら娘を舞姫に差し出せって言われた件」とかって。

 

でも次の春宮って佐為が生きている場合は佐為も可愛がってた麗景殿の女御腹の皇子の可能性が高いので、佐為には悪いけど年齢は釣り合っちゃいますよね。本当にご愁傷様です。どう転んでも入内です。今上もウッキウキで推薦するでしょう。栞と佐為の姫が義理の娘になるなんて。自分の在位中に春宮妃にしたがるに決まってます(譲位すると帝は内裏を出るので)。本当にご愁傷様です。

まあでも入水エンドより幸せそうな未来ですけど。

 

十話「夷狄襲来」

これも流れ的にいらないかなーと悩みつつ書きたくて書いた話です。

大宰府はじめ地方官もちゃんと仕事してることも伝えたくて。また栞の父親がどういう人物かも見せておきたかったので。

少なくとも「常夏へ」で今上に「奴ら(僧/陰陽師)の戯言なんざどうでもええやんけ!姫が死にそうだからさっさと佐為に大赦出せやボケが!!」と言えるくらいの人物であることは伝わったかなと。(でも佐為が冥土に行けず現世にもいないって見抜く僧侶たちけっこう優秀ですけどね…)

そして中央との距離感や意思決定が遅すぎてイライラな部分もわかってもらえればと。

アクションが得意というか好きなので動きのない話の中でドンパチが書けて楽しかったです。

 

十二話「負態」

上記しましたが、碁の碁手が扇というのは史実でそれを雅やかなものと人々が語り継いだのも史実です。なのでこれは絶対出さなきゃ、と思っていました。栞の扇を受け取った意図にもかかってくるし、これを知ってからヒカルが夢に見た光景をもう一度見るとニュアンスが広がって世界観に広がりも出るかな、と思うので。

 

この話は宇治での紅葉狩りに挟みましたが、屋敷の外で動きのある話って書いていると新鮮です。佐為はインドア派でなかなか外に出てくれないので貴重というか。

そういう意味では二十四話「初瀬」も新鮮でした。読んでる方も栞もそうじゃないかなと勝手に思っています。それだけ、栞のような姫であっても、外出が貴重すぎて心躍る機会なのだと、あの頃の生活の様子など一緒に感じてもらえればと思います。特に「初瀬」は庶民と貴族の隔絶感が出てたと思うので、栞はおかしい姫扱いだけど、現代人からすると栞の気持ちがわかるんじゃないかな…と思います。

 

宇治で佐為は珍しくずっと栞に見惚れてましたけど、出会った時の栞の装いが男装だったので凛々しい格好してる栞萌えなんですかね……。「夏夜の契り」でも栞は男装してましたし……。特にそう意図はしてないのですが……。

ただ佐為もこの時感じていたように、高貴な女性はあの長い髪を耳にかけるのすらご法度で、佐為は耳出しはそれはそれでそそられると思っていたので活発な栞のことを困ったお姫さまとは思いつつ好んでいたのかもしれないですね。佐為とは正反対な感じが。

 

十五話「澪標」十六話「最後の参内」

栞が舞姫というのは設定上重要なので、五節の舞はどこかで出そうと思っていました。

栞の佐為への献身ぶりや清少納言が栞を哀れに思う様子で佐為が狭量な人に見えるかもしれませんが、そんなことなくて、本当に心から(栞を内裏に上げるのが)嫌だったんだと思います。妻が見せ物にされてるのが不快で何がおかしい。って思ってましたけど実際はもっとえげつない場なので…栞はもとより舞姫やお付きの少女たちが嫌な目に遭ってるところなんて書きたくなくて言葉を濁しましたけど、察してもらえるとありがたいです。

「娘が舞姫に!」って喜ぶどころか大号泣な様子は実際に残ってますし…新参議陣なんて娘を差し出すのが嫌すぎて部下の国司の娘を代わりに出すのが常套手段だし、内裏は危険がいっぱい。人権なんてないし身分は絶対だし、実際「誰々が少女の胸元に手を入れてまさぐってけしからん騒ぎを起こしたけど、まあ酔ってたから、無罪!」みたいなことが日記に書かれている。

佐為は悪くないと思います…、本当に心配してるんですよ、自力で栞を守れないので。

そんな内裏ではあるけど、栞の晴れの舞台でもあり、佐為や博雅たちに付き添われて参入する豪華な様子や紫宸殿で舞う華やかさも伝わっていれば…と思います。

 

十九話「藤波」

この話は書こうと思って書いたわけではなく終盤が空白な中でふいに頭にブワッと映像が流れてきて書いた話ですね。

新嘗祭編を書いたときは左大臣の中の君がキーを握るとは一切思ってなかったのですが、少女が女官として御所に上がったら、初めて見るレベルの美貌の君に憧れるのって当然だよなーと。そして身分の高い姫さまなので佐為に妻がいても遠慮なしにガンガン来る。

左大臣家は遺伝子レベルで源氏ファミリーに害なす存在なのは避けようがないんでしょうね。

兄は栞にいつまでも片想い、妹は佐為に淡い想い。

佐為は佐為で困ったお姫さまだなと思いつつ、まあ可愛らしいけどなんて危機感がない。おまけに栞がもしも入内してたらマズイと知りつつ手を出しただろうとか恐ろしいことを考えていたので、最後に博雅がこう(真っ当に結婚できる出会いで)なってよかったというのは大正解なんでしょうね。

左大臣がガチめに佐為を目障りに思った重要な話になりました。

 

二十話「伝え継ぐこと」

ここ書いてほぼ満足したレベルで重要な話なのでここ読まれてないと本格的に意味がわからないと思います。

また、栞は和歌は苦手だけど漢詩はたくさん覚えており、佐為の言葉にもすぐ応じられる。佐為は唯一和歌欲は栞では満たせないですけど、他は完璧で、本当に佐為にとってもこれ以上の相手はいないと思うんですよね。

いくつか漢詩を引用しましたが古代中国には膨大な量の漢詩があるにも関わらず和訳が出ているのはごくごく一部。碁に関する漢詩もいっぱいあって佐為は絶対覚えているでしょう。その中の一つを出したのですが、漢詩を日本語で短く音よく表すのは困難でもう少しニュアンスに広がりがあるのですが文字の関係上仕方なく。拙訳ですがこういう詩もあったのだなーと思ってもらえれば嬉しいです。

後々この時の漢詩を源の中納言も呟いていたりして、何かにつけ引用を頻発する文化であること、かつ各人がどう考え相手をどう思っているかも引用の内容から知れるので、そういう部分も感じてもらえればなーと思います。

 

引用といえば十八話「前世よりの縁」

これも二十一話「矜持」と合わせて平安観がたっぷり出ていて現代人には理解しがたい話なのであえてじっくり読んでもらいたいと個人的に思います。

 

ヒカルは現代人なのでプライバシー侵害を最初は気にしたかもしれないけど佐為は平安の貴族なのでそもそもプライバシーは侵害され放題で侵害という概念もないわけです。

女房たちには基本なんでも筒抜けですからね。

夫婦の仲も当然筒抜けなわけで。

栞は当人なので佐為の気持ちが自分にそこまで向いてないのは体感しているんですが、命婦たち女房から見たら佐為はずっと栞と住んでるし女房には一切手を出さないし夜離れなんて想像できないくらいの様子が筒抜けなので、佐為は栞を寵愛しまくっている睦まじい夫婦にしか見えなかったでしょう。

そんな夜に控えの女房たちが催馬楽をとっさに引用してみせた場面が十八話にあるのですが、彼女たちは大臣家に仕えるレベルにふさわしい教養がある人たちである、という場面でもあります。

我々の世界では道長ですら気の利いた女房を揃えるのに四苦八苦してるくらいですから、栞の家の財力や人脈が充実してることの証左ですね。

 

二十六話「重陽」

この辺りから一話一話書いていかなくてはならなくなって、かつ5/5に終わりたいという思いがあり、タイムアタックをしていました。

アップする日を決めて、かつ4-5日しか時間がなく、「重陽」をアップして次の「形見」を書き始める。ということを繰り返していたので時間との戦いというか。

特に二十七話から結びの三十話まではアップして四日目に次の話という計算をしていたので……。実質の平安の最終話の「常夏へ」は本当は5/1の日付け変更と同時にしたかったのですが間に合わずに伸びました。なので「結び」を書き始めたのはその後で、かつ私は5/5はどうしてもネットにほぼ丸一日繋げない予定が入っており5/4の夜までに終わらせてアップロード予約をしていないとダメだったんです。

もちろん他の日常業務をこなしながらなので、正直間に合うか不安だったんですが、せっかくなので逃したくなくてやり切りました。

逆にいうとこの辺りの話は辛くて書きたくなかったので、5/5という目標にまくられなかったら一生書けなかったかもしれないです。

 

ともあれ五月は(旧暦だけど)栞が亡くなった月であり二人が出逢った季節でもあり栞を象徴する季節でもあり、サブタイトルで季節の漢字は夏以外は使わない、という制限を設けてたくらい作品の軸になる季節なので、ヒカ碁っぽくもあるだろうしこだわってみました。

 

余談ですが重陽の節句は中国では一大イベントだけど日本ではそうでもなくて、宮中行事としても大事ではないししょっちゅうキャンセルしていたし、というような扱いです。しばらくやってなくて村上天皇が復活させた時なんか残菊の宴とかいって日程からもズレていて、というような扱い。マイナーゆえか重陽に関する説明は割と公的な場でも間違った記述を目にしやすいです。

そんな扱いなので佐為の人生が変わるイベントはこの日にしました。不吉だし、扱いが歴史的に軽いので記録も残らないかもだし、ちょうど秋だし、という。

 

「常夏へ」は佐為以外のキャラクターのその後なので、みんなままならないまま生きていった様子がなんというか……みんな人生が狂ってしまったというか。

あえてクローズアップしていないですが、橘内侍はそれこそ現代なら自殺レベルの後悔をしているでしょう。彼女のせいではないのに、愛する佐為の失意の背中を見送ったのが最後の姿でしかもお互い誤解がある中でのことで…きついと思います。

中の君は父親や兄の思惑は知らないまま、今上と傷の舐め合いという関係に。碁好きだった今上は碁からも遠ざかり、ただでさえ非公式だった碁の師という立場は完全に歴史から抹消されることに。

中納言もそこまで佐為の進退に影響は与えていないはずなんですが、元が良い人なので一瞬でも父親の誘惑に負けたことが結果的に栞の不幸に繋がったという自責の念があり物語の最後まで後悔し続ける人生。

栞の両親なんてたった一人の姫が帰京したらボロボロで、両親視点だと婿が下向途中に消えて娘がそのせいで衰弱して死にそうとか正直死ぬほど恨みたい心境だったと思うんですよね。そしていっさいの事情をそばで見ていないので置いてきぼり感がすごい。

救いがないのは佐為も含めて誰もこうなった真相を知らないということですかね。みんなさまざまに誤解したままそれぞれままならない人生を過ごしていったという、救われないエンディングです。平安ぽい無常感といえばそうですが。

というかもうちょい各々の悲惨な現実・人生を書きたかったのですが時間と文字数が切迫しており断念。佐為の両親なんて書けなかったけどどれだけ悲惨だったことか。もう想像を絶するレベルだと思います。

あの後、何十年もああいう状態が続いて栞はもとより色んな人が苦しみ続けたというのを想像してもらえれば…と思います。

 

最後に栞が感じていた、才能とやりたいことが合致していても制度や環境が充実していないと意味がないというのは一つの真理ではありますよね。特にあの時代。

佐為は古代中国に生まれていたか、もしくは中国に逃れる気概があれば、もっと碁人生も充実していたでしょう。でも、平安の世で貴族の生まれでは佐為の望む人生は得られない(得ようというアイディアさえ浮かばないでしょうが)。

栞は何もかもに恵まれたお姫さま。なんていうのは周りが思うことで、舞どころか出歩く自由さえない。

対する博雅は、平城生まれでもダメだし平成生まれではもっとダメ。あの平安の世で、あの生まれで、あの才能でなければならなかったという、時代に選ばれた、なるべくしてなった楽聖だったわけです。

 

つまり自分と佐為は時代に選ばれなかった、と。栞は一生をかけてそのような救いのないことを悟って、いったいどんな気持ちだったのか。やはり救いがない。

 

そして結び。

時間との戦いでしたが、最後の最後はパイロット版から変わっていないので、そこに至る佐為をどう書くかとの戦いでしたが、そもそも結びを書くための全29話だったので集大成でもありました。

 

そもそもの話、佐為は千年前のことはっきり覚えてないよね、というのがスタートラインでした。

はっきり覚えてないから狩衣で御前に上がった想像しちゃうし帝を大君とか呼んじゃうし儀礼空間的におかしい並びを浮かべちゃうし帝が余(よ)とか江戸の殿様に影響受けたみたいな一人称だし(よしんば余を使っても読みはワレ)等々、ありとあらゆる記憶が混ざってるんだろうなーと。佐為の記憶でアイテムの形状が変わると思えばあの格好も説明がつくので、自分の中ではこれでけっこうしっくりしました。

人間の記憶なんていい加減で三日前の晩御飯すら覚えてないことも多いですから、そら千年前なんて覚えてなくて当然です。

 

佐為のビジュアルがああなったのは小畑さんに聞かないと分からないので滅多なことは言えませんが、もしアイディアの影響を受けたとしたら1987年の杉井ギサブロー氏による源氏物語のアニメの光源氏じゃないかなと思っています。まんまなので。

 

佐為に関する史料が残っていないということでしたが、おそらくこれもちゃんと探せばあると思います。

平安中期はニッチ分野で数少ない専門家ですらちょっと得意なものからずれると知らないことも多いですしあの頃は電子化も進んでおらずいっそう調べるのに難儀します。ちょっと問い合わせた程度では分かるはずもないんです。

そもそも漫画だから文字が分かっているけどヒカルはあくまで「ふじわらのさい」と音で聞いていて漢字は知らないはずですよね。サイは音読みで実際の佐為の名前の読みはスケタメですよね。音読みで入ったヒカルから「ふじわらのさい」って聞いてもサとイを音読みとする訓読みの漢字の組み合わせは無限にあるので、こうなると探し当てるのはほぼ不可能です。

しかも帝の碁の師という非公式な役職しか知らないのではね…。作中に出しましたが管弦の師は現実に存在するけどこれも誰が担ってたかは特定するの難しいのに…(当然みな中将なり納言なりの公的な職がある)。

なので目立つところに残ってないだけで、佐為が全く残っていないわけではない。という可能性を残したくて十一話「それぞれの内裏事情」のラストのようなことを匂わせました。

 

ちなみにですが佐為の私的な書物(手紙とか日記とか)は博雅の孫が栞の葬儀で全部栞と一緒に燃やしているので全く残ってないという流れでした。燃やしてなくても残らないでしょうが。

 

そして佐為自身が自分のことをヒカルに話していないのは自明で、あの二人は(物語の都合上であっても)囲碁を介してのつながりですから、ヒカルも最終的に囲碁を通して佐為のことを昇華するに至ったんでしょう。

佐為は上記したように非常に自己中で利己的な性格をしていて、綺麗な容姿と柔らかい物腰に騙されがちですが、とてもとても我が強い。

本当に最後の最後になって、碁ではなく人間を思いやる感情を本当の意味で知ったんだなという、佐為が成仏に至る通過儀礼がそこにあったんだろうな、と私は解釈しています。

 

なので千年を経て博雅の言葉を理解するに至った、というストーリーラインになったわけです。

 

博雅だって永遠に楽を続けたいと思っていたはずなんです。だから何度生まれ変わっても…と言っていたし、有限だと分かっていたから彼は前向きに折り合いをつけていた。

たぶん博雅にも佐為と同じように考えていた時期があるんでしょう。でも子供が産まれて歳を重ねてああ至ったのだろうから、まだ若い佐為を見守る姿勢でいた。

でも佐為は若いまま亡くなって時も止まってしまい、博雅のように年を重ねる機会がないまま千年を過ごして、もう時間がないと自覚した最後の最後ギリギリでもまだ「何々ならば何々で、だから何々ならば何々だろう」ってずっと仮定の話ばかり思い浮かべて何とか自分を納得させようとしてましたからね。急転直下で凝縮された時間の中で今までを振り返らなきゃならなくなった。

残酷に思えるかもしれないけど、佐為は一度自ら手放した人生ですから、むしろほんの僅かでも時間が動いたことは神様の慈悲というか、そういう風に捉えることもできると思います。

博雅(や全ての人類)が大昔に通った道をようやく…という流れです。

 

佐為がある意味の人間らしさを千年かけて最後の最後で会得したことは意味があると思います。

佐為が消えたことを悲劇と捉えるのではなく、佐為は千年前に生きていて、そこには家族や大事な人々がいたはずですよね。その人たちは佐為を失って耐えようのない苦しみの中で生きていったはずです。ずっと会いたくてずっと待ってたはずなんですよ。

佐為は悲しみの中で消えたのではなく、ようやくその人の元へ還った。待っていた人たちのところへいった、と私は捉えています。

 

平安時代の人がそうであったように、ヒカルは佐為の姿を写真に残すこともできないし、きっと年数が経つとともに佐為の記憶は薄れて、いつしか思い出すのも難しくなっていくと思います。ヒカルはヒカルとして棋士として成長する以上、佐為と同じようにはなれないし自分の中で消化して生きていくしかない。彼もまた歳を重ねて気づいていくこともあるでしょうから。

 

そう思うと栞の人生って文字通り本当に悲惨だよなというか。

前にも後ろにも進めないまま時が止まって、死ぬことさえできないまま生き永らえて最後まで佐為に会いたいって思ったまま死んだんですからね。佐為のようにボーナスステージがあったわけでもないし。元より何もかも諦めて佐為のために生きようって思っていたのにね。まあ、現実は物語のようにいかないということですかね…これ物語だけど…。

 

結びで夢の話をしましたが、ヒカルに希望を残す意味合いにもなったかなと思います。

ヒカルの見た佐為の夢は明晰夢のようなものかもしれないけど、ヒカルがいつか「相手が想っているから夢に現れる」という佐為の言葉を思い出したら、佐為が望んだから会いに来てくれた、って捉えられたら救いになるかな…と。

 

 

佐為が栞と三途の川のところで再会できたのは佐為の願望かもしれないし幻かもしれないし、そんな都合のいいことはないかもしれないし。もしかしたら栞が臨終の際に一瞬見た光景なのかもしれない。

でも、素直な流れでいけば、千年を経て佐為はいろんな感情を学んであそこに至った、と、栞や佐為の人生はバッドエンドでしたが、例え幻でも救いのあるエンドマークを打ったほうがみんなハッピーかな、とああいうラストになりました。なによりいろんな人が「二人が常世で会えるように」って千年前に祈り続けたわけですしね。

 

もしも佐為が一瞬「死ぬ直前の光景では?」と思ったように過去に戻れていたら、今度こそ栞と幸せな人生を全うできるんでしょうが、そんな都合のいい話はありませんよね。

 

佐為は1000年間、肉体を失って誰にも触れることができなかったので、幻でも本当に浄土へ向かう三途の川のほとりであっても、栞に触れられて込み上げるものがあったのではないかな……と。

通過儀礼を経て、ようやく心から彼女を愛していたと自覚して、満ち足りたのではないかな。

ハッピーなのかメリーバッドエンドというやつなのか分からないですが、本当に救いがないのでこれくらいは、と。

 

 

あと、栞が本当に七度生まれ変わってずーっと佐為を探していたら悲惨なので、そういうルートを考えることもあったんですが、書くのは躊躇しました。

生まれ変わりってその人の人生に過去の別の人間の要らない思考を背負わせる羽目にどうしてもなっちゃうので、とても残酷だし、七度目に現代に生まれた栞(仮)はいい加減栞の記憶にうんざりすると思うんですよね。いい加減に解放して、と。

なのに七度目で無関係な過去はもう知らないと生きていこうと思った矢先にヒカルに取り憑いた佐為と会ったりしそうじゃないですか。栞(仮)は嬉しいでしょうか。私には、1000年間生まれ変わりながらその都度本来の人生を諦めてまで探していた相手が、1000年前のあのあとたった二日で全てを捨てて死んでいたあげく今は碁のことしか考えてない魂魄体と知った日には…修羅場な予感しかしないですね。栞なら佐為に甘いので許すんでしょうけど、ただの栞の記憶を持った別人だと…うーん…。

それに栞ってものすごく碁が強いので七度も生まれ変わって佐為のために碁を続けていたら正直佐為より強くなってそうでパワーバランス崩壊しそうだし…これはあかんわ…と思った次第です。

 

というか、碁はともかく佐為と最悪な再会から始まって一から関係性を構築していくストーリーは描けるかもしれないけど…栞(仮)が今の人生と人格をもって佐為のことを好きになっても絶対結ばれないんだし、佐為が今度は栞(仮)のことをちゃんと好きになったら栞(仮)の中の栞の記憶からしたら別の女性なんだから裏切りだろうし、めちゃくちゃ複雑な上に結局結ばれない…今以上に悲惨な話になりそう…。

 

パイロット版の時にこの生まれ変わり続けての再会verを読みたいと言われたことがあるんですが…各々好きにその後のことを浮かべて想像してもらえればと思います。

 

 

ストーリーとは別にして春夏秋冬様々な佐為を見せたいと意識しながら書いていました。

佐為の生前の素敵な姿はもっとたくさん想像できるし書き足りないことも多いのですが話の都合でどうしても書けないことも多く……これだけ書いても書き足りない気がします。葵祭りとか勅使派遣される佐為とか華やかな場面を色々もっと書きたかったなと今でも思っています。栞との生活も極々一部しか書いていないのでもっと色々楽しい日常もあったはずですしね。

この話をもとに各々で色々と想像して楽しんでもらえたらとても嬉しいです。

 

もしも繰り返し読んでいただけたら新たな発見もあると思うので、気が向いたらまた読んでもらえたらと思います。




この後書きはそのうち活動報告に移すかもしれません。
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