【本編完結】Ib ~ゲルテナ展 10周年記念展~ (梅山葵)
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ゲルテナ展
『暗い美術館の音色』


 芸術好きという輩には、自己中な奴しかいないのか。紫色の癖っ毛が特徴的な、目の前の男を睨み上げながら、イヴは思った。

 

 イヴは、ゲルテナ展を1人で回っている最中であった。もちろん、まだ9歳の少女に過ぎないイヴが、たった1人でこのような催しにやって来たはずはない。イヴはあくまで両親に付き添うという形で、この展覧会に足を運ぶ羽目になったのである。

 

 そんなイヴが現時点で一人行動しているのは、受付に両親2人を置いてきたからに他ならない。長い待ち時間に辟易していたイヴは、面倒な入館手続きを両親に任せて先に美術館巡りを始めることにしたのだ。幸い"とっても良い子"を自負しているイヴは、それを認めてもらえる程度の信頼を、両親から獲得していた。

 

 これにはちょっとした打算もあった。イヴはこの美術展の主役たる、ゲルテナなる偉人のことをよく知らない。なんでもマイナーに部類される芸術家だそうだが、わざわざそんな人の個展に誘ってきたことから察するに、お母さんがかなりこのゲルテナにお熱なのは間違いない。つまりおそらくだが、両親、少なくともお母さんは、かなりじっくり時間をかけてこのゲルテナ展を鑑賞するつもりだろう。

 

 しかし残念。これといった了解も無しに連れて来させられたイヴからすれば、このゲルテナという人物にそこまでの関心を持つことはできない。もしも両親と一緒に美術館巡りをすることになった場合、興味のない作品を無視してどんどん先に進むという選択肢が奪われる未来が容易に想像できる。両親と別れて行動しているのには、そんな退屈を防ぐ意味合いもあるのだ。

 

 そうして1階をあらかた散策し終えたイヴは、まだ受付に時間を費やしている両親を尻目に、その脇の階段を登り…………今に至っている。

 

 視界の多くを占める青色のコートが、イヴの前からどこうとする素振りは見られない。ちなみにそのコートはと言えば、なかなかに前衛的なデザインをしている。この美術館に案外マッチしていると言えなくもないが、あいにく彼自身が作品である訳もなく。

 

 美術館内において、ある特定の作品のすぐ正面にずっと居座ってはいけない。何故なら……今この時にイヴ自身が作品名を読めなくて困っているように、他者がその作品を見る時の邪魔となるからである。じっくりと作品を鑑賞したいのであれば、作品から少し距離を置いた状態で行うべきだ。直前に見た作品である『新聞を取る貴婦人』を観察していた青年がまさにその模範例であった。

 

 もっとも、この理由でこの頭髪ワカメだけを責めるのは酷であるとも言える。イヴはこれまでうろうろしてきた中で、似たような状況のために肝心の題名を読むことが出来ないということが何度もあった。その多くは、「ちょっと見せてもらっていいですか?」と、そう一言尋ねさえすれば、おそらく全ての人が作品前からどいてくれただろう。そう、イヴは確信している。むしろ、先に述べたような礼儀を弁えた人の方がよっぽど異例ですらあり、彼をこそ褒めるべきなのかもしれない。

 

 しかし、イヴ自身はあまり意識しているつもりはないが、イヴはイイトコの御嬢様であった。そんなイヴはお母さんに、ことマナーに関してはかなりみっちり、徹底的に叩き込まれていた。イヴもそんなお母さんの教えを受けて、非常に"良い子"に育った。

 

 それ自体はとても喜ばしいことである。でもそんなイヴは、他者にもそれ相応の品格を求める傾向が付いてしまったのだ。

 

 そう。イヴにとっては、「頼んでどいてもらおう」ではなく、「頼まれずともどいてくれて当然」だった。故にこうして男性の後ろ姿を見上げながら心の内で不平不満を漏らしつつ、でも決して話しかけることはしないのである。

 

 ただ、誤解してはいけない。確かに、「他人が邪魔で作品名を見ることができない」という事例が多発したことは事実である。しかしイヴは、はたしてそれ以外の作品の題を読むことが出来ただろうか? 否。読めたものは正直、多くない。それは何故か? 「イヴが知らない漢字が多かったから」である。

 

 なんのことはない。先程までのイヴの批判、結局は自分の至らなさに対する言い訳も含まれている。自身の失態による責任の所在を見知らぬ他人に押し付けて誤魔化そうとしているあたり、やっぱりイヴはまだただの、幼い子供に過ぎないのかもしれなかった。

 

"だいたい、なんなの? その首肩周りのギザギザ。気取ってるの? 服飾を、ファッションを、馬鹿にしてるの? "

 

 今持っているハンカチに自身の名前「Ib」がわざわざ刺繍されているように、イヴの家系では服飾系のデザインに、強い拘りがある女性が多い。イヴが今日着てきた服も、お母さんが独断と偏見で選んできたもの。イヴ自身、それに大人しく従っているのはお母さんのセンスを信じているからであって、自分のお洒落意識には、それはもうかなりの自信がある。時間が経っても絵の前から全く動く気配のない青年に業を煮やしたイヴは、彼のファッションセンスに対する罵倒を心内で散々に投げかけてから、その場を後にすることにした。

 

 振り返って目に留まったのは、それぞれ赤・青・黄から成るやけにセンスのある衣装を纏った、3体の石像の後ろ姿であった。その丸みを帯びた体つきと服装から察するに女性を意識して創られたものに間違いないが、何よりも特徴的であったのは、首から上がないこと。石像の顔がないことから、むしろ赤・青・黄の衣装の主張が激しく見える。

 

"なんだか、マネキンみたい"

 

 興味を持ったイヴは、回り込んで石像を前から観察してみることにした。視界の端に映った看板には、『無個性』の字がデカデカと刻まれていた。

 

「僕が思うに……ゲルテナの言う“個性”っていうのは表情だと思うんだよね。だからこの像たちには頭がないんじゃないかな? そう思わない?」

 

 急に声をかけてきたのは、顎に手を当てながら『無個性』を鑑賞していた男性である。 突然に質問を振られ、狼狽えるイヴ。ナニかとても難しい話をしている。正直な話、漢字すらロクに読めないイヴにとっては、ちんぷんかんぷんだ。ただ、「分からない」と正直に告げるのは自尊心が傷つくし、とりあえずこの男は自分の考えを肯定してほしいらしい、ということだけは理解できたので、

 

「……そうかもしれない」

 

 と、イヴはお茶を濁す。断定を避け、「かもしれない」を付けておくことでいざ間違っていた場合にも対応できる。いい子であるが故にちょっぴりプライドが高く育ってしまったイヴの、どこか悲しい処世術だ。

 

「おっ! 分かってくれたみたいで嬉しいよ! やっぱりそうだよね!」

 

 首を縦に振りながら喜ぶ彼の様子を見るに、どうやら窮地は切り抜けたみたいだ。ほっと安堵の息を漏らしつつ、自分の分からないことが分かるらしいこの男に、ほんのり尊敬の眼差しを向ける。

 

「しかしこの像って結構スタイルいいよな……」

 

 そしてすぐに激しく後悔した。みるみるうちに、男を視る眼が腐った生ゴミを視るようなものに変わっていくのを感じる。こんな馬鹿な男の発言によく考えもせず迎合したのは、間違いなく自身の黒歴史に刻むに値する事件である。不都合な現実からも、その場からも、逃げ出したイヴの足音がやや強いものであったのは、けして偶然ではないだろう。

 

「変なソファ……でも、それがいい…….座ってみたいけど、ダメだろうなぁ……」

 

 スタスタと歩き去る途中、さっきとは別の男が呟いているのを耳にした。その視線の先を追ってみると……なるほど。珍妙な配色の背もたれが目立つ変なソファがあった。名前は、『指定席』だそうである。

 

"座っちゃいたいな"

 

 イヴは思う。ただ、彼みたいに座り心地を確かめてみたかったわけではない。……ないったらない。ただ、単純に足が疲れたのだ。歩幅が大きい大人がどうかは知らないが、身体が小さいイヴにとって、ここまで美術館を歩き回るのはそこそこ体力を消耗したから。

 

 ただ、そんな誘惑に駆られるイヴの頭に、ふと一階を廻っている時に耳にした言葉が過る。

 

「これ、ちょっとした衝撃であのクキの部分、折れちゃったりしないのかな……。もしそうなったら、一体いくら弁償するんだろう……。うわーっ、コワイなぁ……」

 

 巨大な薔薇の像の傍にいたおじさんの独り言である。それが事実になった時を想像して、近くにいた小さな子が「あの落ちてるの、取りたい!」と騒いでいるのを、咄嗟に「怒られちゃうよ」と注意してしまったのは記憶に新しい。それを思い出したイヴは、自分が『指定席』に座って万が一壊してしまったらどうなってしまうのかを想像する。

 

 ~ここでニュースです。本日未明、ゲルテナ展を訪れた9歳の少女が作品『指定席』をその全体重で以て破壊するという事案が発生しました。作者のワイズ・ゲルテナ氏が既に他界していて作品の再現が望めないこともあり、歴史的価値まで含めるとその価値はとても金銭に換えられるものではないとも言われ……~

 

 弁償!! お母さんは激怒!! お父さんは借金!! 

 

"これはいけない、我慢しないと。私イヴは、とても良い子なんだから"

 

 ……実際のところ、イヴの実家はゲルテナの作品を弁償できる程度にはお金持ちかもしれなかったりするのだが、実際の細かい数字のことなんて、幼いイヴは知らないのである。欲求を振り払うように、イヴはぷるんぷるんと首を振った。

 

 『指定席』を見て足の疲れを自覚させられていたから。角を曲がった先の"3Fは休憩スペースとなっております"の案内が掲げられた階段を見て、眼が輝いた。休憩所ということは、座れるかもしれないということである。何より、じっくりと作品を鑑賞するために追いつくまで時間がかかりそうな両親を待つ場所として、休憩所は申し分ない。

 

"椅子あるといいな、空いてるといいな"

 

 期待に胸を膨らませて階段下から上の休憩所の様子を伺おうとする。でもつま先立ちになっても、角度的に見通せない。改めて自分の背の低さが意識させられる。

 

 きっと、最後の辛抱だと思って、階段を登る。ここまででずいぶんと疲労したからだろうか。階段を登る一歩一歩が、イヴには酷く重く感じられる。なんか、やけに段数まで多いような、そんな錯覚さえ覚えた。

 

 でも、そんな疲れも。

 

「――!!」

 

 眼前に一杯に広がる彩りの力強さに、丸ごと吹き飛ばされた。それは、超巨大なキャンバスに描かれた、たった一枚の絵画だった。ゲルテナ展のリーフレットの表紙を、何故これにしなかったのか。運営さんの正気を疑う。確かにあのお魚さんの作品にも、子供のイヴでも理解できるような、どこか怪しげな魅力があったが、それでもこれとはレベルが違った。

 

 休憩所なのに椅子が無かったことも、今なら寛大な気持ちで許してあげられる気がした。見るだけでこんなに圧倒されるこの作品を鑑賞している人が、どうしてイヴの他に誰もいないのだろう? しかしそんな一抹の不可解さも、今しばらくこの絵を自分だけが独占できるという喜びの前には、大したものには思えない。

 

『???の世界』

 

 ???の部分の漢字を、読むことはできなかった。ついさっきまでとは違い、もうちょっと漢字の勉強を頑張ろうと素直に思えたイヴであった。ただ単純な大きさだけでなく、額縁の中から飛び出してきそうな迫力を、額縁の中に惹き込まれるような魅力を、この絵は確かに有していた。お母さんに半ば引きずられる形でやって来たゲルテナ展だったが、「過程はどうあれ来て良かった」と、確かに断言出来た瞬間であった。

 

 チカチカッ…………。

 

 電灯が切れかけているのだろうか? 視界全体が数度、瞬くように点滅する。せっかくの感動に、水をさされてしまった感じだ。

 

 イヴは軽く溜息を漏らすと、休憩所で待つのを止めることにした。この機会に動き出さなければ、いつまでも絵の前から動けなくなってしまうような、そんな変な感覚に囚われていたからだ。

 

 随分と長い時間、この絵の前に、休憩所に居座っていた気がする。これでは先の頭髪ワカメを責められない。流石に両親の入館手続きもとっくに終わっている頃のハズ。ならば呼んできて、お父さんにこの題名を読んでもらうことにしよう。この絵の世界に浸るのは、それからでもいい。

 

 ……異様な、静けさであった。

 

 イヴが履いている革靴とフローリングとがたてる硬質な足音が、雑音1つ無い美術館の中を、やけに大きく反響する。誰もいない美術館は広いから、壁と反響して返ってくる音は、実際にワンテンポ遅れ気味に、イヴの耳に入ってくる。イヴにはそれが、不気味に聴こえた。まるで自分の歩みにピッタリ合わせて、誰かに付け回されているかのよう。

 

 展覧会は静かに行われるもの。たとえ展示されているものに対しての感想だったとしても、私語はあまり推奨されない。それを考えれば先程までと比べて、より作品の鑑賞に適した環境になったと言えることだろう。絵を見る邪魔になるような人が誰一人いない現状は、ある意味ではイヴがさっきまで、何よりも望んでいた環境に違いなかった。

 

 ドクッ、ドクッ……。

 

"うるさいなぁ。落ち着いて鑑賞が出来ない"

 

 そう考えて、並んでいる作品をマトモに見ようともせずに、急ぎ足で美術館を練り歩く。でも今この瞬間、イヴの周囲に、音の発生源となる者は誰もいない。ならばこのうるさい鼓動音は、イヴ自身が出している心臓の音か? あるいは、イヴの不安が創り出した、まやかしから成る心の音か?

 

 飾られている作品にはもはや目もくれず、何かにまるで追い立てられているかのように、早足で美術館を巡るイヴ。しかしその中でたった1つだけ、例外があった。

 

 先の巨大な絵などとは違い、他の作品と比べて特別派手な絵ではなかった。だが同時にゲルテナとしては珍しい絵でもあった。

 

 抽象的な作風が売りのゲルテナは基本的に実在する人物を描くことはほとんどなく、人の顔を個人が特定できるほど鮮明には描かないという特徴がある。『無個性』という彫像なんかは、その極地とも言えるだろう。ただ、今日初めてゲルテナの作品を知ったイヴは、それに気付いたから立ち止まったわけではなかった。

 

『赤い服の女』

 

 珍しく、題名に使われた全ての漢字を読むことが出来る作品だった。しかしイヴの頭を過ぎったのは、そんなどうでもいいことに対する喜びなんかじゃない。

 

"この人、何処かお母さんと似てる……"

 

 絵画に描かれている女性の顔立ちが、どことなくお母さんと似ている気がした。そうしてお母さんの顔が浮かんだ瞬間、思ったのだ。

 

"……お母さんに、会いたいっ"

 

 ギリギリの所でどうにか踏み留まっていた感情が、イヴの中で一気に爆発する。そんな衝動をぶつけるように、力いっぱい床を蹴った。

 

『館内で走ることは禁止』

 

 そのような条文がイヴの頭の中を過ぎったが、一度決壊してしまった心はそう簡単には止まらない。

 

 走る、走る、走る。

 

 このように大きな足音を立てて騒ぎ立てていれば、誰かが注意しにやって来てもいいはずである。いい子を自称するイヴにとって、叱られることはいつもなら、絶対にあってはならないことだ。それなのに今だけは、誰かに思い切り叱られてもいい気分だった。いやむしろ、そうなってほしかった。……それで誰かに、会えるならば。

 

 下への階段が見えてきた。あそこを降りてしまえば、フロントはすぐ其処だ。両親はそこで待っているはずである。真っ直ぐ階段へと駆け寄り、滑り降りるようにして1階へと向かう。仮に一歩でも踏み外そうものなら、あわや大怪我をしかねないスピードだ。受付にいるはずの両親は、こんなイヴの暴走行為を、見逃しはしないだろう。ただ怒られるだけでは済まず、本当に久しぶりに、お母さんに叩かれてしまうかもしれない。それですべて元通り。いつもの日常に戻る。…………そのはずだったのに。

 

 降りた先のフロントに、両親は2人共いなかった。受付をしていたジェントルマンすら、その影も形もなかった。いやそれどころか、やっぱりイヴの他に誰1人、人の姿は見えなかった。

 

 チカチカッ…………。

 

 突然、館内の照明が切れ、辺り一帯が闇に染まる。今にして思えば、巨大絵の前で経験した点滅は、これの前兆だったとも考えられた。明かりが落ちてしまったとは言え、幸い目を凝らせば、なんとか行動に支障はない程度の、穏やかな暗さで済んでいる。しかし、追い打ちのようにして起きたこの現象で、イヴの中に僅かに残されていた、なけなしの正気も削られていく。

 

 急に襲った暗さにどうにか目を慣らさせていくと、フロント奥のポスター写真に載っている、口を開けた深海魚と眼が合った。その虚ろな暗い眼は、イヴの眼、それ自体を見てはいなかった。それが見通そうとしているのは、イヴの眼に映りこむ、恐怖の色に他ならなかった。

 

 最初は開いていたはずなのに、何故か今は閉まっている出入り口のドアに走り寄って精一杯の力を振り絞ってノブを回した。そんな努力を嘲笑うかのように、扉はウンともスンとも言わず、ただ其処に鎮座するのみ。

 

 扉にかかった鍵は、中からなら開けることが普通出来るものである。自然とイヴは施錠を解除しようとドアノブに視線を移し……絶句する。ノブの施錠は「開」を示していた。……なら、どうして扉は動かないのだろう?

 

「お母さんっ!? お父さんっ!?」

 

 大声を上げながら扉に拳を叩きつけても、外から返事は帰ってこなかった。イヴ自身、既に気が付いていないわけではない。やって来た当初は大いに賑わっていたはずの、美術館表通りの喧騒が今は全く聞こえないことに。それでも。それでもイヴは、僅かな可能性にかけて助けを求めずにはいられなかったのだ。

 

"扉が開かないなら、窓からならっ?!"

 

 すぐ近くにある窓を開けようと踏ん張ってみても、結果は出入口の時と同じ。鍵はかかってないというのに、全くスライドさせることが出来なかった。確かに、イヴは小さな少女で、その力も大の大人と比べれば微々たるものである。でも、別に虚弱少女ではないイヴにとって、扉や窓の開閉くらい簡単のはずだ。その事実を鑑みれば、この結果は異常である。

 

 せめて窓ガラス越しに外の様子を窺おうとしたが、硝子が曇ってしまっていてよく見えない。こうなったら、何か鈍器でも持ってきて、無理矢理ガラスを割ってしまおうか? そう思い立とうとした瞬間である。

 

「ひっ!?」

 

 大量の赤い液体が、イヴが割ろうかと考えていた窓の外を流れてきたのだ。幸い(?)窓は閉まっていたために建物の中に液体は流れ込んではこなかったのでイヴがそれで濡れることは無かったが、突然視界の大半を埋め尽くした赤色に、反射的にイヴは後ずさってしまう。

 

"なにこれ……。ペンキ? 血じゃ、ないよね……"

 

 少なくとも、もう窓から逃げるつもりは起きなかった。それどころか、もうこの窓に近づく気すら全く起きない。

 

 悪夢を見ているかのようである。突然、暗くなった美術館で、ひとりぼっちで迷子のイヴ。

 

 目が醒めた次の瞬間には、いつもの我が家のベッドで眠っている。そんなことを願っては、目を強くつむってみたり頬を軽くつねってみたりするけれど、一向にその予兆は感じられない。そもそも家族と一緒にこの美術館に来たことさえ、今のイヴには事実であったかどうか疑わしく思えてくる始末。

 

"でも、そんなの確かめることなんて……、あっ"

 

 受付のノートである。来場者のサインを逐一チェックしていたお爺さんがいない今、それが記されたノートの中身を、イヴは自由に見ることが出来る。本当に両親が今日ここに来ていたならば、2人と別れたあの後に、氏名をノートに綴っている可能性は高かった。御客様のプライバシーの侵害とか、頭に浮かんでくる問題を振り払ってカウンターに無造作に置かれたノートを手に取ると、イヴは自分の父と母のサインを探した。

 

 さしたる手間もかからずに、2人の手で書かれた2人の名前は見つかった。そして……その下に父が代筆として添えた「Ib」の文字も。

 

 イヴは後悔していた。なぜ自分は今、独りなのか。それはあの時、お母さんとお父さんを置いて行ってしまったから。もしも2人と一緒に残って、自分が自分の手で自分の字で自分の名前をここに記していたのなら、こんなふうに1人で迷子になって、怖い目に遭ったりするようなことはなかっただろう。

 

 確認は終わった。何が起きているかはさっぱりだけど、どうやら今のこの現状、現実の延長線ではあるらしい。この美術館に両親が来たことも間違いない。それなら私は、お母さんとお父さんを探すだけ。だけど、その前に。

 

"お母さん、お父さん。私は、Ibはここにいるよ(I'll be right here.)"

 

 イヴはペン立てから万年筆を手に取ると、受付ノートの父が代筆した「Ib」の文字の隣に、自分の手で自分の名前を綴った。ブロック体で書かれたその字は、筆記体で書かれた父の字とは比べるまでもなく不格好だったけれど、それは紛れもなくIbの字であった。これで、少なくともこの受付ノートを見た両親と入れ違いになることはないだろう。

 

 美術館の一階にも、やはり誰もいなかった。誰に会えることもなかった。ただ、誰の姿も見えないのに、やけに気配は感じられ、それが異様で堪らない。

 

 イヴ自身の音に混じって、確かにソレが聴こえてくる。イヴの後ろを歩く足音。イヴをつける誰かの足音。ソレの目的が分からなくて、イヴを拐いに来たかのようで、追いつかれるのが怖かった。ただ、独りはもっと怖いから、こわごわ発生源を探すけど、やっぱりそこには誰もいなくて、矛盾するけどホッとした。

 

 誰かのせきする、声がした。けれど辺りを見回しても、周りにやっぱり誰もいない。『せきをする男』なんて作品があったりしたが、まさか絵の中の人が動いて、せきをしたりするわけもなし。

 

 どこか恐ろしげな気配から、そっと距離をとるように、2階に戻ることにした。暗い中での階段では、昇り降りに慎重さが必要だ。取っ手に手を滑らせて、一段一段足で感触を確かめ、やっとの思いで踏破する。視界が広がった先の窓に、人の影が映り込んでいた。

 

"良かった!! 人がいた……"

 

 全く知らない人かもしれないとは言え、やはりたった1人であるのとそうでないのとでは安心感が違う。その人影はすぐに見えなくなってしまったので、こっちに気付いていないのかと不審に思うが、真っ直ぐその窓にイヴは駆け寄った。1階の窓もそうだったが、やっぱりこの窓も開かないらしい。……1階の窓も? そうだ、ここは2階。どうしてベランダも無いような2階の窓に、人が映り込めるのか……?

 

 それに思い至った瞬間、外側からイヴの方に向かって、激しく窓を叩かれた。いや、より厳密に描写するなら、外からイヴを掴もうとした黒い手が、窓によって弾かれたかのようだった。窓のすぐ前にいたことで、イヴは間近にそれを直視し、恐ろしさで声も出ない。くっきりと残った掌の跡は、いかに強い力であったか、それを物語っている。イヴを掴もうという行為の意図が、イヴを連れ去ろうとするためだったのか、それとも助けを呼んでいたのか、それがどっちなのかは分からない。しかし少なくとも、今のイヴを助けてくれる、頼れる人物ではなさそうだ。

 

 二度も窓によって怖い思いをしたイヴは、無意識に窓から離れるように進路をとる。以前に絵の前に陣取っていたワカメも、『無個性』に現を抜かしていた馬鹿も、『指定席』に座りたがっていた男性も、やはり姿形も見えやしない。この際、前者2人のどっちかでも、特別に許してあげるから、どうか出てきてほしいのだ。

 

 そうして再び足を運んだのは、イヴが素直に感嘆した、あの巨大な一枚絵が飾られていた休憩所である。もはや作品鑑賞どころではないとはいえ、自然とイヴの目が再び絵に惹きつけられる。

 

"あれっ、こんなふうに青ペンキが垂れてたりしたっけ?"

 

 イヴの疑問はすぐに打ち消されることになる。何故なら、そんなことがどうでもよくなるくらい、恐ろしい超常現象が目の前で起こったのだから。

 

"したのかいに、おいでよイヴ。ひみつのばしょ、おしえてあげる"

 

 ただ絵から垂れていただけの青ペンキがまるで意思を持つ生き物のようにうごめいて、そのように文字を形作った。それに目を疑う暇もなく、白のフローリングに現れた「おいでよイヴ」の赤い文字。

 

 イヴという自分の名前が刻まれていることから、間違いなく他の誰かではなく、自分へと宛てたものだった。どうやらこれの書き手とやらは、イヴを"ひみつのばしょ"とやらへ、どうしても連れて行きたいようだ。

 

 イヴは引き寄せられるように歩き出す。下の階へ。一階へ。ただただあの文字に、言われたとおりに。

 

 どこに来てほしいのかは、何となく分かる。それはペンキが青だったから。深くて暗い青だったから。それが示すのはただ1つ。題名こそよく知らないけれど、ゲルテナ展のポスターにも使われている、たぶんゲルテナ屈指の有名作。足元も覚束ない暗い美術館の中を、イヴは迷わずあの場所へ、美術館1階中央へと惹き寄せられていく。

 

 お母さんに散々言い聞かせられた、ある言葉を思い出していた。

 

「知らない人に、勝手に付いて行っちゃダメよ」

 

 あの文字の書き手はきっと、「知らない人」だ。お母さんの言いつけにのっとるなら、「付いて行っちゃダメな人」だ。……それなのに。どうして私はただ、言われるがままに従ってるの? いつもだったら絶対に、こんな怪しい人の言うこと、聞いたりなんてしないのに。

 

 いけないなぁ。私、悪い子だ。お母さんに、怒られちゃう。

 

 ……あぁ、そっか。私はきっと、怒られることよりも何よりも、1人でいるのが怖いんだ。1人でいるのが寂しいんだ。

 

 ……ひとりぼっちは、もう嫌だ。だからあえて悪いことをして、叱りに来てくれたお母さんに会おうとしてる。

 

 ……ねぇ、お母さん。どうして怒りに来てくれないの? 今の私、悪い子だよ? お母さんの言いつけを破って、知らない人に付いて行こうとしてる。早く止めてくれないと、私ってばその知らない人に、どんな悪いことをされちゃうか、わかんない。

 

 ……あれ? でも、それならそれで、いいのかなぁ? だって、知らない人と一緒なら、ひとりぼっちじゃ、ないもんね。

 

 作品の周りを囲んでいた柵は、一部取り払われていた。代わりにあの青いペンキで足跡が、「こっちにおいで」と残されている。その足跡の続く先は、それより青い海の中。

 

 おそるおそるその際へと近づくと、作り物でしかないはずの青い水は波を成し、イヴの脚を打ち付ける。そのさざ波の音色だけが、暗く静かな今の美術館に、唯一響き渡る孤独な音。

 

 深い水底を覗き込むと、暗くて大きいお魚さんが、虚ろな眼でポッカリ口を開け、イヴのことを待っていた。無機質なその眼球は、先程見たポスターとは違い、まるで一種の鏡のようで、イヴの姿をぽつんと映す。

 

 次の瞬間、眼が合った。

 

 お魚さんと、眼が合った。

 

 お魚さんの眼の中の、イヴ自身と眼が合った。

 

 イヴ自身の眼の中の、イヴ自身と眼が合った。

 

 ひとりぼっちのイヴと、眼が合った。

 

「どうせひとりぼっちなら、死んじゃった方がましじゃない?」

 

 ひとりぼっちのイヴは、そう囁く。

 

 誘う声に、操られるように。イヴは海へと身を投げた。

 




シンカイをのぞくとき、

シンカイもまたこちらをのぞいているのだ。


~???~




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『心配』

「や! いや……!」

 

 誰かに助けを求めるような、そんなとても悲痛な声が、部屋の中を反響する。とても、聞いていられない。

 

 間違いなく彼女、イヴは魘されていた。

 

 ……起こしてあげるべき、なんだろうか。

 

 でも、このまだ小さな少女が、悪夢を見ている原因なんて分かり切っている。この世界だ。まるで悪夢そのものといった、この世界だ。

 

 たとえ、起こしてみたところで。イヴ視点、この悪夢のような世界に囚われているという状況は、何一つ解決するわけでもない。彼女が会いたいと零した両親がいない状況だって、何一つ変わらない。

 

 それだけじゃない。情けない自分を前にしたら、イヴは心配をかけまいと、無理に気丈に振る舞うのが目に見えている。

 

 目が醒めても悪夢が続くという事実を直視させるくらいなら。たとえ精神は休まらなくとも、このまま眠らせてあげたままの方が、身体だけでも休まってマシなんじゃないか。

 

 答えは出ない。

 

 迷いでどうしても声を出せなかったギャリーは、せめてその夢が少しでもマシな物になることを願って、寝相で少しはだけたコートを、もう一度彼女にかけなおした。その際、軽く彼女の頭に手を置けば、改めてこの少女と歩んできた、これまでの記憶が思い出される。

 

 

 

 ギャリーがいわゆる芸術展にたまに足を運ぶことを趣味としているのは、まあ、そこそこ芸術という表現の世界に興味があって、それを勉強したい、というのが表向きの理由だ。しかし、こと今回。「ゲルテナ展に来た理由もこれが一番だったか?」と問われると、答えに窮せざるを得ない。

 

 どうということもない。何処にでも誰にでもある、よくある話だ。辛いことがあって。苦しいことがあって。だから嫌なことから、袋小路な現実から目を背け、空想の世界に浸る。逃げちゃいけないことくらい、自分でも分かっているのに。

 

 わざわざゲルテナ作品を観るために来たというよりは、都合の良い逃げ場所を探していたら、偶然丁度よく開催していた、というのが適当かもしれない。

 

 幸いなことに、ゲルテナという画家はその独創的な作風から一部に熱狂的なファンがいるものの、長い芸術の歴史からすれば、比較的最近の人物。世界的な知名度は、良くも悪くも程々で、混雑具合は酷くなかった。

 

"まあ、現実逃避でファンタジーな脅威に晒されてちゃ、世話ないんだけどね"

 

 実のところ。ギャリーにはこの世界に迷い込んだのが厳密にはどのタイミングだったのか、よく分からない。

 

 『青い服の女』という絵画について考察していた時に、その絵画自身に襲われた時か。"薔薇と貴方は一心同体"というお誂え向きの文章に操られるように、今この手に持つ美しい青薔薇を手に取った時か。休憩所に飾ってあった、『絵空事の世界』というやけに大きい絵画に圧倒された時か。あるいは、死ぬ勇気だってろくにないのに、何故かどうしようもなく『吊るされた男』の虚ろな目に映り込んだ自分の姿に惹かれた時か。

 

 実際、イヴと出会う前の記憶としてなら、ギャリーの印象に残っている出来事はこの程度。ギャリーが真にこの世界で起こる常識外れの現象を目の当たりにし始めたのは、白のブラウスと赤いスカートがよく映える、この少女イヴに助けられて行動を共にし始めてからだったと言える。

 

 そう。この小さな少女イヴに、ギャリーは命を救われた。この世界で文字通り命と等しい"一心同体"の青薔薇を、『青い服の女』から取り返してきてくれたという形で。この世界では、最初に渡された薔薇が傷付くと、その持ち主も傷付く。薔薇が散ると、その持ち主も死ぬ。そういうルールであるということを、ギャリーはその身で味わいかけた。

 

 そこを彼女に助けられてから、そのまま一緒に美術館の出口を探す流れとなるに当たって。ギャリーは、互いの気が滅入らないよう、できる限り明るく振る舞うように意識していた。精神にキッツイこの世界では、ただ沈黙が続くだけでも心を病みそうになる。だからとにかく、会話だけは途切れないように。それだけは気を配っていたのだ。

 

 そんな中、「アタシと出会う前、どうしていたか」を訊くことになったのは、とても自然な流れで、ほぼ無意識だったと思う。だからこそ、彼女から返ってきた言葉の意味は、一瞬では理解が追いつかなかった。なんと彼女は、ギャリーを助けるまではたった1人で、この摩訶不思議な世界を彷徨っていたのだという。

 

 ギャリーはここに迷い込んでからすぐ、『青い絵の女』に襲われている。今思い返しても、アレは一生の不覚だ。あの時のギャリーは、その危険性にも気づかず、目の前の『青い服の女』という絵画の由来について、呑気に考察を巡らせていたのだから。

 

 『青い服の女』。その名の通り、青い服を着た美しい女性が描かれた絵である。ただ、ギャリーがこの絵に目を留めたのは、その芸術性からではない。これと非常に類似した絵画が、ゲルテナの有名作品とされていることを偶然知っていたからだった。

 

 『赤い服の女』。抽象画家として有名なゲルテナが現実の人物を題材にして描いた珍しい作品。死した後に評価されることが珍しくない芸術家という職業において、ゲルテナは幸運にも生前財を成すことに成功した珍しい例だ。そしてその遺産目当てで言い寄ってきた女性をイメージとしたのが、『赤い服の女』であるとされる。そして興味深いことに、この『赤い服の女』と先の『青い服の女』は、その構図・描かれている女性まで全く同じ。違うのは着ている服の色、それだけだったのだ。

 

 そもそも、『赤い服の女』がゲルテナが現実の人物を描いた作品として珍しいとされているなら、何故ゲルテナ作品をまとめた本を執筆した専門ライターは、この『青い服の女』を合わせて紹介していないのか。何故、明らかに深い関係があるこの作品を、ゲルテナ展の職員は『赤い服の女』と合わせて展示していないのか。そんな疑問を、隙だらけの姿でつらつらと考えていたのだ。

 

 まあ、今となっては本当にどうでもいいことでしかない。此処では、現実では有り得ないことが起こる。実際にこの身で経験してきたばかりだ。まさかこの超常現象を引き起こしているのが、ゲルテナ専門ライターやゲルテナ展職員のハズも無いだろう。

 

 それに、いざ美術館を彷徨い始めてみれば、赤と青だけどころか『黄色い服の女』、『緑の服の女』もいたし、『虚空を見つめる女』までいた。抽象化を施されたと思われる最後の作品はともかく、全て同じ女性を同じ構図で描いた作品のようだ。しかもそれらが、何枚も。たかが遺産目当てに擦り寄ってきた女ごときに、ゲルテナ氏はたいそうご執心のようだ。

 

"ああ、いけないいけない。思考に没頭すると現実を忘れそうになるのは、アタシの良くないクセなのに"

 

 長々と考察したが、結局重要なのは次の事実。ギャリーは『青い服の女』にすぐに襲われて気絶したので、「このゲルテナの世界で一人きり」という恐怖を、味わわずに済んでいるということ。

 

 死ぬかもしれない。薔薇を奪われた後に身体に走った痛みを感じて、そういう恐怖は確かに感じた。でも、幸か不幸か身体的な限界ですぐ気絶できたギャリーは、"孤独"の恐怖を生で感じる時間自体は少なかったと思う。そのギャリーですら、現在進行形で恐ろしくてたまらないのに。それなのに、幼いイヴは、この恐怖をたった一人で耐え抜いて来たという。そしてここに到達するまでは、彼女の方がこの美術館探索をリードする形になっていた。

 

 イヴはこういうのが怖くないのか? 平気なのか?

 

 出会った最初の方こそ、そう思っていた。彼女はとても芯が強く、気丈な性格の女の子なのだと。しかし、それは見当外れだったのだと、今は分かる。

 

 この部屋に逃げ込む直前に見た、『ふたり』という題の絵。イヴの言葉を信じるならばイヴの両親の絵。確かに、どこかイヴと似ているとはギャリーも思わないでもなかった。でも、ゲルテナの生前の作品だとすれば、どう考えても年代が合わない。だからおそらく他人の空似なのに、それを前にして両親はどこだとギャリーに縋りついたイヴの顔が目に焼き付いている。嗚呼、それまで強がりで被っていた仮面など、どこにもなかった。

 

 ギャリーはもう気づいている。イヴがギャリーをリードしていたのは、ただの強がりだったのだと。頼りない自分を心配させまいと着けた、脆い仮面に過ぎなかったのだと。そんなツギハギの強がりをさせてしまう、頼りない自分が嫌になる。今にして思えば、イヴが纏うどこか寡黙な雰囲気だって、どこまで本来のものか疑わしい。

 

 本来なら。大人であるギャリーが、導いてあげるのが筋。親が子を導くように。だって彼女はまだ成人とはほど遠い、まだ小さな女の子なのだから。両親のような大人に手を引かれて当然の、無垢な少女。それは決して、逆であってはならない。

 

 だからギャリーは決意する。これからは自分が探索のリードをしよう。趣味で無駄に溜まってしまった芸術の知識だって、総動員させよう。この美術館から脱出する手掛かりが、どこかに転がっているかもしれないし、それに気づけるのは大人の自分だけかもしれないのだから。

 

 何か見つけられないかと部屋の中を見渡してみて、ぎっしり詰まった本棚に目が留まった。その中に一際長い題名が背表紙に書かれた1冊があって、どこか異彩を放っている。『深海と古代生物における未知の恐怖とそれに対する好奇心についての考察』。おそらくゲルテナが作品を創るに当たって、参考にした蔵書のうちの1つだろう。

 

 物理的な出口を探すだけでいいなら、積まれた数々の本に一々目を通すなんて、時間の無駄以外の何物でもない。しかし、ここはおそらくゲルテナの世界。ゲルテナが創ったルールとゲルテナが敷いた法によって支配される、より概念的な世界なのだとしたら。創造主ゲルテナの思想を解読することこそが、最も脱出の近道なのではないか。

 

"結局やることは、ある意味では作品の鑑賞か。ゲルテナの思い通りにされてるようで、嫌になっちゃうわ"

 

 夢の中でもイヴは戦っている。だから、ギャリーも戦わなくちゃいけない。

 

 彼女の頭から手を離すことをどこか心苦しく思いながらも、ギャリーは本棚の方へ向かうため、ゆっくりとその膝を立てた。

 

 


 

 お父さんとお母さんを、ずっとずっと探してた。

 

 お父さんが、私を探している。だけど私は、追いつけない。

 

 お母さんが、私を探している。だけど私は、追いつけない。

 

 皆が、私を嗤ってる。迷子の私を、嗤ってる。 

 

 お父さんとお母さんが閉じ込められているような、そんな絵を見つけてしまった。

 

 怖くてたまらなくなって、走り回って、出口を見つけた、次の瞬間。

 

 絵に変えられてしまった、眼が無いモノクロのお母さんと、眼が合った。

 

 そこで、目が覚めた。

 

「おはよ、イヴ。気分はどう?」

 

 とても怖い夢を見た。そんな気がする。咄嗟の質問になんて返せたか、自分でもよく分からない。

 

 ただ、身体を覆うほのかな温もりのお陰で、何故か寒い思いはしなかった。身をよじって自分の状況を確認すると、センスのない青のボロいコートが目に留まる。どうやら、これによって包まれていたようだった。

 

 重い瞼をしばたたかせながら、かけられた声の方を見上げると、紫の癖毛が特徴的な緑シャツ姿の青年の姿。ギャリーだ。

 

コート姿が見慣れているから、襟ぐりが開いたシャツの姿が、やけに肌寒そうに見える。

 

 眠りから覚醒して、状況を把握していくに従って。どうして今ギャリーと一緒にいるのか、そこまでの記憶が急速に蘇ってくる。

 

 自分以外の美術館遭難者であるギャリーを見つけたのは、一面が赤く彩られたフロアでのこと。見つけた当初は床に倒れ込んでいたから、てっきり死体だと思ってた。だからうめき声が聞こえた時は、すごく、すごく、びっくりした。びっくりしすぎて、大声をあげてしまった。たぶん、ギャリーの方は覚えてないだろうけど。

 

 でも、今にして思えば。この世界に迷子になってからマトモに声が出せたのは、あの時が初めてだった気がする。

 

 ギャリーは酷く勘違いしてる。イヴが怖いもの知らずの、とっても強い女の子なのだと。誤解するのも当然だ。絵画の女性が動き出して、上半身を額縁からこちら側に乗り出してくる。幻覚でなければ、化物だ。そんな青い服の女性と丸腰で格闘し、青薔薇を取り返してきたのだ。そりゃあ、実績だけを聞けばメンタルつよつよ女の子だと判断して当然だろう。

 

 だけど実は、「なんて無謀なことをしたのか」と、今更ながらにイヴは自分でも驚いているのだ。そもそも、あの時だって、『青い服の女』に向かっていった時だって、怖くなかったわけでは無いのだ。とても怖かったし、とても恐ろしかった。

 

 ただ、それ以上に。"ひとりぼっち"が怖かったから、無理矢理頑張れただけ。やっと見つけた他の誰かを、失いたくなかっただけ。そう。あの時の私は、自分で自分を助けようともがいていたただけに過ぎない。

 

 だから、青薔薇を取り返して来たことで倒れていた青年が、ギャリーが息を吹き返した時は、自分のことのようにホッとしたものだ。そのまま自然と、彼と行動を共にする流れになったから。

 

 ギャリーと合流してからも、"ひとりぼっち"が、イヴのトラウマなのは変わっていない。だから、イヴは、ギャリーと別れるようなことが無いように、ギャリーから別れたいと思われないように、気を張り続けている。ギャリーの誤解を解かず、気丈な子を演じ続けている。だってどうしようもなく、心配なのだ。本来の弱い子供がバレたりしたら、足手纏いとして切り捨てられてしまうかもしれない。

 

 この世界では、自分の薔薇が散るだけで命の危険に繋がる。例え大人だろうと、簡単に命を失いうるとても恐ろしい場所。ギャリーはそれこそ、身を以て味わった。

 

 そんな非常事態で、イヴのような小さな子を、しかも見ず知らずの子の面倒なんて、わざわざ見ようと思うだろうか。……普通は、ない。

 

 確かに世間一般では大人が子供を守るものとされている。しかし、そんなものは建前だと、賢いイヴは知っている。本当はみんな誰だって、自分の命が一番大事だ。

 

 確かに、青薔薇を取り返したことへの恩返し程度は果たしてくれるかもしれない。でも逆に、それが終わった後。義理を果たした後にまで、ギャリーは一緒にいてくれるのか。同年代と比べて賢いからこそ、イヴにはそれが分からない。

 

 だから、おびただしい数の作品達に追われた恐怖と逃げきった安心で腰が抜けてしまった時。マズいと、思った。歩けないなんて、御荷物の最たるものだ。大丈夫なところを、見せないと。

 

 でも、一度散々に乱れた呼吸を落ち着かせるのは難しい。ゆっくりと深呼吸すべきなのに、焦って息を吸って。吸う前に息が吐き切れていないから、ろくに息が吸えなくて。だから息が苦しくて、さらに息を吸おうとして。そんな悪循環の中、あっという間に視界が狭まっていってしまう。

 

 ……ただ。意識を失う間際に見た、ギャリーの慌てた表情は。座り込むイヴが倒れて怪我をしないように、すぐに駆け寄って背中を支えてくれた時の表情は。煩わしい足手纏いとか、思い通りにならない邪魔者ではなく、純粋にこちらを心配してくれたものであったような。

 

 そしてあの時の焦った表情と。今、上半身を起こしたままのイヴにしゃがんで寄り添う、穏やかで、でもどこか辛そうな表情。雰囲気は全然違うのに、やけにそれらが重なって見える。それは、寝ていたせいで、イヴの中ではすぐのことだから?

 

「イヴ。そのコートのポケット、探ってごらん?」

 

 両腕をだらんと持ち上げるようにして、身体の上にかけられたボロいコートを引っかけて浮かせる。年季が入ったコートはくたびれていて、やけに柔らかい。そのままガサゴソと腕を動かしてみれば、ポツンと1点だけ、固い感触が返ってくるところがあって、そこがポケットの場所だと分かる。ギャリーに言われるまま、手探りでその中身を取り出してみると、それは1個のキャンディーだった。明るい黄色い包装に、ほのかに香るレモンの風味。

 

「それ、あげるわ。食べてもいいわよ」

 

 その言葉を最後にギャリーは立ち上がってしまったから、ギャリーの顔は見えなくなってしまう。もう少しだけ、見ていたかったのに。2つの異なる表情が重なった、その理由を整理したいと思っていたのに。どこか名残惜しい自分を自覚しながら、手のひらの上で手持ち無沙汰にキャンディを転がし、それがコロコロする様子を眺める。

 

 たかだか1粒の、キャンディだ。口に入れても、すぐに消える。そんな程度の、小さなお菓子。価値だって、大したものじゃない。それこそイヴが両親にねだれば、何十粒だろうと簡単に手に入るだろう。こんなものでご機嫌が取れるほど、普段のイヴはお子様でもないし安い女でもない。本気で喜ばせるつもりなら、沢山の苺をのせた、ホールケーキを所望する。……けれど。

 

 閉ざされた状況で渡されたこの小さなキャンディは、ギャリーからのイヴへの気遣い、そのものだった。ギャリーがイヴを見捨てないという、小さな証だった。だから、たかがレモンキャンディ1つで、こんなにも心が暖かくなってしまうのだ。こんなにも不安が消えてしまうのだ。

 

"良い人……、だよね。服のセンスは、無いけれど"

 

 食べるのは、後にしようと思う。だって、食べたら無くなってしまうから。あっという間に、なくなってしまうから。

 

 だから、せっかく貰ったこのキャンディは、大切に持っておくことにする。これは御守り、そう決めた。

 

 もしも食べる時がくるとするなら。それはこの時の記憶を、どうしようもなく思い返したくなった時になると思う。

 

 それが2人一緒に元の世界に、帰れた後になればと願って。イヴはギャリーの、コートを抱えた。

 




赤の『心配』がある。

青の『心配』がある。

黄の『心配』はない。


~???~




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『さぼり癖のある秒針』

 扉の向こうに耳をすませて、ふたりがやって来るタイミングを伺う。絶対に向こうにバレないように、息をしっかり潜ませて。

 

 ずっと、ずっと、待っていた。ずっと、ずっと、探してた。外に出る手段。新しいトモダチ。

 

 やっとそれが、やって来る。この扉の向こうから。私、メアリーのために、やって来る。

 

 ……お父さんが最後にこの世界に来たのは、一体どれくらい前のことだったっけ。

 

 あまりにもずっと待ち過ぎた私は、もうそれを数えるのも嫌になってなってしまった。

 

 まあ、それも仕方ないよね。

 

 なにせ今。この世界で正しく動いている時計は、1つだって存在しないんだから。

 

 ワイズ・ゲルテナ。それが私達家族にとっての、みんな共通な親の名前。

 

 バス調の穏やかな優しい声をしていて、だけど姿勢はいつもどこか猫背がち。

 

 ふさふさとした髪の毛も、顎に蓄えた立派な髭も、どちらも綺麗に真っ白。

 

 左手に持ったステッキにいつも体重を預けては、いつも何かに思いを巡らせ、手持無沙汰にその顎髭を、空いた右手で撫でている。ステッキの柄に添えられた虹色の薔薇が、その髭の白と対照を成して、いつも綺麗に映えている。

 

 それが私の知っている、とっても大好きなお父さんの姿。

 

 もっともこれはあくまで、末っ子だった私が知っているお父さんの姿っていうだけ。

 

 なんでも私以外の家族のみんなは、これ以外の姿を昔見たことがあるんだって。

 

 例えば、がっしりとガタイのいいダンディな灰色の髪のおじさんだったり。

 

 スラリと背筋の伸びた細身の茶髪のお兄さんだったり。

 

 私と同じ位の背の高さの黒髪の男の子だったり。

 

 そうやって結構いろんな姿を使い分けていたってウワサ。

 

 私は家族全員の顔と特徴を完璧に記憶してるけど、自分の外見を変えられるなんて家族を、私は他に誰も知らない。

 

 つまりそこから導き出される結論は、やっぱりお父さんはスゴいってこと。

 

 話はちょっと変わるけど、家族の中では一番若かった私は、当然お父さんと過ごした時間は他の誰よりも少ない。

 

 だけどみんなが言うには、お父さんは他の誰よりも、私に愛を注いでくれたらしい。

 

 お父さんだけじゃない。家族のみんなも、一番小さい妹な私に、とても優しくしてくれた。ちょっと我が侭なことだって、文句も言わずに聞いてくれた。それが当然だと、思っていた。

 

 だけどそれは、期間限定だった。

 

 特別扱いは、末っ子だけの特権。いつかお父さんが新しい作品を産み出したら、これも御仕舞い。私も他のみんなと同じように、今度はその弟か妹かを可愛がる側になる。

 

 私は……そんなのは嫌だった。

 

 みんなに一番にちやほやされる、その立場が好きだったから。

 

 もちろん、それを口に出して言ったことはない。

 

 だけどどうやら、それは態度に表れてしまっていたみたい。

 

 ある日一緒に遊んでもらっている時、お父さんはふと零したのだ。

 

「……作品を創るのは、メアリーが最後でいいかもしれないな」

 

 それを聞いた時の、私の喜びようと言ったらなかったよ。

 

 これで私はいつまでも。みんなの大事なお姫さまのまま。

 

 あの時の私は、それが素晴らしいことなんだって、これっぽっちも疑ってなかったから。

 

 ……そんな私だからこそ。新しい誰かがやって来るのを素直に喜べないような私だからこそ。

 

 きっと罰が当たったんだと思う。

 

 歯車が狂い始めた切っ掛けは、本当に些細なことでしかなかった。

 

 この世界にある全ての時計。今までずっと休まずに動き続けていた時計が、どういうわけか、壊れちゃった。たった、それだけのこと。

 

 もうちょっとだけ詳しく言うとね、時間を刻んでくれないの。

 

 針の位置を無理矢理動かせば、昼と夜は変えられる。でも逆に、動かそうとしなかったら、いつまで経っても変わらない。

 

 あの、カチッ、カチッ、っていう規則正しいリズムの音が、鳴らなくなった。

 

 あんまり困ることじゃあないけれど、不便なことには変わりないし、お父さんにすぐに直して貰わなくっちゃ。

 

 この世界にある全ては、お父さんが描くことによって、お父さんが創ることによって、産まれてる。

 

 当然、止まってしまった時計達だって、その仲間だ。

 

 だから。お父さんの手にかかりさえすれば、この止まってしまった時計達もすぐに動き出すはずに違いなかった。

 

 だけど、お父さんを呼ぼうにも。お父さんは私達と違って、外の世界の住人。いつもこの世界に居続けてくれるわけじゃない。

 

 お父さんはあの大きな額縁を通り抜けてこの世界にやって来て、そしてまた、それを通ってあっちの世界に帰っていく。

 

 その事に不満に思ったことなんてなかった。少なくとも、この時までは。だってお父さんは、毎日決まった時間に、必ずこの世界に来てくれたのだから。

 

 もっとも、お父さんの方はそれを残念に思っていてくれたらしい。いつか私をこの世界から外へと連れ出すこと。それがお父さんの夢なんだと、他ならぬお父さんの口から教えてくれたからよく覚えている。

 

 この、全ての時計が同時に故障しちゃう事件が起こった時。運の悪いことに、お父さんは外の世界にいる真っ最中だった。

 

 だけど、その時はまだ、それを気に病む必要はなかったんだ。

 

 時間は確認できなくなってしまったけど、ちょっと待っていればすぐにお父さんがやって来てくれる。

 

 それが私達の日常の1つだったんだから、それを疑うなんてこと、あるはずもなかった。

 

 ……それなのに。今までずっと待っているのに。その未来は、お父さんは、やってこない。

 

 

 

 お父さんがいなくなってからというもの、この世界からは変化が消えた。

 

 新しい家族が増えることはない。新しい世界が広がることもない。新しい時間が流れない。

 

 もちろん、今までお父さんが創り上げてきたこの世界の楽しさがそれで全て無くなったなんて、私、これっぽっちも思ってない。

 

 家族のみんなはちゃんと元気で、誰1人だって欠けてない。

 

 たまには、喧嘩しちゃったりすることもある。

 

 お父さんに会えない寂しさや苛立ちを、家族にぶつけちゃうこともある。

 

 でも、仲直りした後で、ちゃんと直してあげれば全て元通り。

 

 ……でも、逆に言えば。

 

 お父さんがいなくなったあの日から、この世界は何一つ変わらないまま。そういうことなんだ。

 

 全ての玩具は遊び尽くしてしまった。

 

 沢山に思えた家族だって、見慣れたメンバーのままが続くと、どうしたって代わり映えしない。

 

 だからね。私、みんなが楽しめるようにしようと頑張ったんだよ。

 

 新しい遊びを考えてみたり、それをモチーフにした笑い話を絵本に描き上げてみたりね。

 

 みんな、とっても楽しんでくれた。

 

 中でも一番頑張ったのは、やっぱりSketchBookを描き上げたことかな。

 

 と言っても、お父さんを真似してみただけなんだけどね。お父さんはこんな風にして、この世界を創っていたらしいから。

 

 ……それでも。やっぱり、お父さんみたいにはうまくいかないや。

 

 私が描いた絵の道の上は歩けるようになったし、私が描いた太陽は温かく光ってくれる。私が描いた新しい絵本は、私が思ったように動いてくれる。私が描いた蝶は、自分でパタパタ羽ばたいてくれる。

 

 でも、それらはあくまで、私がそうなるように願ったから。私の意思、ありきなんだ。

 

 どんなに頑張っても。お父さんが描いたみたいに、お父さんが作ったみたいに、自分の意思では動いてくれない。

 

 これじゃあ、家族の一員になんて加えられない。

 

 やっぱり私じゃあまだ、お父さんの代わりにはなれないみたいだ。

 

"なんでお父さん、帰ってこないのかな"

 

 そう考えた時だった。お父さんのいる世界に、外の世界に、興味を持ったのは。お父さんがかつて連れ出そうとしてくれてた、外の世界に行きたいと思ったのは。

 

 この世界には、外の世界について書かれた本がいっぱいある。外の世界について書かれた絵も、いっぱいある。つまりお父さんは、外の世界を元にして、この世界を作ってるんだ。

 

 そんなお父さんが帰ってこないのは何故?

 

"どうしようもなく、外の世界が楽しいから"

 

 そうとしか思えない。

 

 外の世界では。あるもの全てが、変わっていくものばかり。あるもの全てが、新しいものばかり。そうお父さんは言っていた。

 

 そんな世界に住んでるお父さんだからこそ、アイディア切れになることもなく、この世界をここまで広げた。

 

 外の世界では。たとえ何もしなくたって、向こうの方から変化がやって来るのだという。

 

 例えば、お腹が空くだとか、喉が渇くだとか。

 

 この世界に「飲食物の持ち込みは禁止」だから、お腹が空くなんてことはないし、喉が乾くなんてこともない。

 

 お腹が空くのも、喉が渇くのも、きっとどれだけ楽しいことだろう。

 

「こんなの、不便なだけだよ」

 

 そう言いながら、軽く『苦味の果実』を撫でた、お父さんを覚えてる。

 

 外の世界で食べたそれが、一体どんな味なのか。きっと本に書かれていたような、「オイシイ」ものに違いない。

 

 その味を想像して。いろんな果物の木を、色んなクレヨンで描いてみた。そして出来上がったそれらから、1つずつ実を採ってみて、一口ずつかぶりつく。

 

 見た目が違くなったんだから、違う味になったんじゃないか。そう予想してみたけれど、口に含んでみたらみんな同じ。味がしなくて、すっごくマズイ。

 

 なんだかそれがイライラして、クレヨンの端を囓ってみるけど、粉っぽい舌触りが広がるだけで、やっぱり味はしなかった。

 

 ……お父さんは、帰って来ない。いつまで経っても、どれほど経っても。

 

 待つ時間が増えるほどに、外へのあこがれは募っていく。

 

 そんなに楽しいところなんだ。そんなに面白いところなんだ。

 

 ……私達家族を、忘れるほどに。

 

 そんな楽しそうな場所、私だって出てみたいよ。そんな面白そうな場所、私だって行ってみたいよ。

 

 そして何よりお父さんにもう一度会って、私達のことを思い出してもらいたいよ。

 

 お父さんはもう、自分からは会いに来てくれない。こんなにも待ち続けた以上、それはもう認めない訳にはいかなかった。

 

 それなのに。忌々しいあの額縁は、私達が外へ出るのを拒み続ける。なんど外へ腕を伸ばしても、境界で弾かれてしまうばかりで、絶対外へは届かない。

 

 分かっている。この額縁が悪いんじゃない。私達に、その資格がないっていうだけ。

 

 ここを出る方法。それを探すのは本当に大変だった。

 

 最初にしたことと言えば、家族のみんなに訊いて回ること。

 

 でもね、みんな知らないって言うんだ。

 

 まあ、当たり前だよね。みんな外の世界に行ったことなんてないんだもの。お客さんを受け入れたことはあったみたいだけど、自分達がお客さんになったことはない。

 

 結局。外の世界のことを知ってるのは、お父さんしかいない。

 

 でも、その肝心のお父さんはと言えば、あの時からずっと来てくれない。

 

 だからお父さんが書き残した文字を、片っ端から読んでみたんだ。

 

 分からない漢字もあったけど、それはみんなが教えてくれた。

 

 あ、そう言えばさ。1つだけ絶対に読んでくれなかった本があったんだよね。なんでだろ。

 

 ま、いいや。見つけたいものは、見つかったから。

 

"存在を交換することにより、空想が現実になり得る"

 

 ……これだ、間違いない。お父さんが綴ったこの言葉を一目見た時、そう確信した。

 

 私達が外に出られないのは、外に存在しないから。

 

 空想である私達は、外の物理現象に干渉できない。だからこそ。お父さんが通れるあの額縁に、外に世界に繋がる額縁に、私達家族は触れられない。

 

 でも、その逆はできるんだ。外の世界の存在である、お父さんがこっちに来ることができたってことが、その証明。

 

 そして、このお父さんの言葉は。それと存在を交換することで、私達が外に出ることもできるようになるってことを示している。つまり誰かがこの世界に来てくれれば、私の願いは叶うってこと。

 

 でも、その誰かを見つけるのが簡単じゃない。

 

 外の世界にちょっとだけでも出られれば。私の代わりになってくれるような友達くらい、きっと作れる。「ともだちのつくりかた」って本で、ちゃんと勉強した。それにお父さんが作ったこの世界は、面白いって保証するから。あくまでずっと居続けた私には、ちょっと飽きちゃったっていうだけなんだもん。

 

 でも、肝心の外の世界に行くために、まず外の世界の人が必要。

 

 私、ちょっぴり諦めかけてたんだ。

 

 ……ちょうどね、そんな時だったの。この世界にアナタタチ2人がやって来たのは。

 

 ……ねえ。これって運命だよね。

 

 きっと運命が、困っている私のために用意してくれたんだよ。

 

 そうじゃなかったらなんだっていうの?

 

 1人だけならともかく、2人。しかも、私と同じくらいの可愛い女の子までいる。

 

 1つだけ、悩んでいたことがある。

 

 この世界にはたくさん家族がいるけど、外の世界に家族はお父さんしかいない。

 

 まあ、お父さんがいればとりあえずそれで十分と言えば十分なんだけど、とは言えそれだけだと、ちょっとだけ寂しいよね?

 

 だけど今。この世界には2人、外の世界の人がいる。

 

 これなら。片方は私の代わりになってもらって、もう片方には友達になってもらう。

 

 これができるんだっていうことだ。

 

 ところで。外の世界では、運命的な出会いはお互いがぶつかることから始まるものらしい。なんでも、「ぼーい・みーつ・がーる」と呼ぶんだって。

 

 それなら。この扉の向こうの2人との、運命的な出会いだって、ちゃんとコレにのっとるべきだよね。

 

 ……お父さん。今から、会いに行くよ。

 

 ずっと、待っていたんだよ。会いたくて、たまらなかったんだよ。

 

 退屈は、もう嫌なんだよ。だから外の世界の楽しいことを、一杯教えてほしいんだよ。

 

 言いたいことが有り過ぎて、ちょっと言葉にならないけど。

 

 まず最初に、新しい友達を紹介したいな。

 

 ……ガチャッ。

 

 ドアノブがゆっくりと、回される音。その音を、耳にするや否や。

 

 扉がしっかり開き切る、そんな少しの時間だって待てず、私は向こうへ駆け出した。




今はもう動かない、時計の針。


~???~




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『月夜に散る儚き想い』

「わぁー、見て! 下に花びらがいっぱい落ちてる!」

 

「ホントだ。この絵から出てきてるみたいね」

 

「ここでずーっと待ってたら、このお部屋、花びらでいっぱいになるかな!?」

 

「なるかもしれないけど、そんなことになる前に帰りたいわ……」

 

 夜と、月と、桜。暗い青、明るい黄、鮮やかなピンク。対照的な3色が互いをさらに際立たせ、観るものを惹きつける。何より、額縁から零れ出て下に積もった桜の花びらの数々が、美しくも物寂しい。

 

 『月夜に散る儚き想い』。そう題された絵画をネタにしてギャリーにウザ絡みするメアリーを見ながら、イヴは新しく合流したこの少女について想いを巡らせていた。

 

 ギャリーと2人で美術館を探索している中で突然現れた、イヴと同い年くらいの女の子。ギャリーは彼女のことを「美術館にいた子じゃないか」と言っていた。

 

 しかし、イヴはその言葉に、ちょっとだけ疑問を持っていた。

 

"……こんな可愛い子、ホントにいたっけ?"

 

 まだお父さんとお母さん、それにたくさんのお客さん達がまだいた時。イヴはその中の1人に、確かにギャリーがいたことをよく覚えている。今となっては見ず知らずの子供のことを本気で心配できる優しいお兄さんに捉え方も変わったが、ギャリーの第一印象は周囲の迷惑を考えられないワカメだったので、まあ忘れようがない。

 

 一方、メアリーだ。お星様のようにたなびき煌めく金髪に、曇り1つないきめ細やかな肌。面白いものを見逃してたまるかと言わんばかりにパッチリ開かれた蒼い瞳は、どこかカメラのレンズを思い起こさせる。そんな一連の姿形は、一級の芸術品と言ってもいいかもしれない。

 

 そして深い緑一色のワンピースに、ワンポイントとして首に巻いた、彼女の眼と同じ青いスカーフ。もちろん、彼女自身が選んだわけじゃないかもしれない。だけど少なくとも、彼女が身に纏っているその衣装は、彼女に似合ってセンスがある。そうイヴは感じていた。

 

 美術展というほとんど大人しかいない場所にいる、同い年くらいのお洒落で印象的な超絶美少女。そんなものを見かけたならば、まず間違いなくイヴの記憶に残ると思うのだ。お仲間さんとして。

 

 両親を置いてかなり駆け足でゲルテナ展を巡っていたイヴは、とっくに1Fは制覇していた。最初に1Fを巡っていた時はまだ多分、こんな不思議な世界には入っていなかったと思う。

 

 そうなると、メアリーは2Fの奥の方にいたってことになるのだろうか?

 

 いや、それとも。イヴやギャリーよりももっと前から、この世界に迷い込んでいた可能性もある。

 

 イヴが両親とゲルテナ展に入場したのは昼下がりで、ギャリーよりもたぶん遅い。だから、先に入場したギャリーだけが、メアリーがいたことを見ていた。これなら、前後関係の辻褄は合うのだ。つまり、実はメアリーこそがゲルテナ展の一番最初の被害者だった、という可能性。

 

 ……もしそれが事実だとしたら。本当に凄い子だと、イヴは思う。

 

 だって、そうだとしたら。メアリーがひとりぼっちでいた時間はイヴよりも長い。そういうことになる。あくまで、このゲルテナ世界での時間の流れ方が普通だったら、という但し書きは付くけど。

 

 出会ったばかりの時も、こうして一緒に絵を見ている今も、メアリーがこの状況を怖がっている様子が見受けられない。イヴとギャリーと同じように、「早く外に出たい」という意志は、ハッキリ強く感じるが。

 

 もちろん、イヴと同じように強がっているだけ、という可能性はある。ただ、メアリーの態度は、やけに自然体なのだ。

 

 常に会話を途切れさせないでいてくれるギャリー。とても有り難いと思うが、同時に沈黙が怖いという雰囲気がイヴにも読み取れるくらいに滲み出ている。

 

 早くお父さんとお母さんの元に帰りたくて、率先して先を歩こうとするイヴ。でもギャリーとは逆に、緊張で喉がキュッとキツく締まったような感覚が抜けず、なかなかハッキリと声を出すことができない。

 

 対して、メアリーはどうか? 通りがかりの絵画について、楽しそうにギャリーに訊ねる様子は、まるで今が日常生活の一場面でしかないと言わんばかりだ。到底、恐怖から気を逸らすため、無理矢理で話題を広げているようには見えない。

 

 そしてそんなメアリーのお陰で、イヴ自身かなりリラックスできているのが分かる。だってこうやって他愛も無い話をしているだけで、あれほど出しにくかった声が、少しずつ出しやすくなってきている自分を感じるのだ。

 

 そうして、イヴは1つの結論に至る。

 

"本物の、メンタルつよつよ女の子だぁ……"

 


 

「わぁー、見て! 下に花びらがいっぱい落ちてる!」

 

「ホントだ。この絵から出てきてるみたいね」

 

「ここでずーっと待ってたら、このお部屋、花びらでいっぱいになるかな!?」

 

「なるかもしれないけど、そんなことになる前に帰りたいわ……」

 

 黄色い声を、聞きながら。ギャリーは、新しく加わったこの少女、メアリーの扱い方に頭を悩ませていた。

 

 新しく見つけた不思議の世界の遭難者、メアリー。彼女が、まだ少女だったのはある意味ラッキーだった。イヴも年が離れた見知らぬ男よりは、同い年くらいの女の子の方が気兼ねなく話せることだろう。イヴの心労を強く心配していたギャリーは、メアリーとの合流がイヴの気持ちに良い影響を与えることを期待していた。

 

 だからそういう意味では、メアリーが仲間になったことの効果は期待以上だ。……期待以上に過ぎる劇薬だった、という点に目を瞑れば。

 

 自由奔放、純真無垢、好奇心旺盛。イヴがどこか背伸びした大人びた良い子というイメージだったのに対し、メアリーはわんぱくな我が儘少女といった感じを受ける。きっとこの子の親御さんは、彼女に色々と苦労させられていることだろう。

 

 実際に今の状況、現在進行形でギャリーは軽く困らされている。多分、本当に彼女は「ずっと待ったら部屋が桜の花びらで一杯になるか」疑問に思っているから、それをギャリーに訊いているだけだ。ただ、本当の意味で普通の子供は、たとえ疑問に思ったとしても、声に出して訊けはしない。今はそれを訊くような時ではないと、周りの雰囲気やギャリーやイヴの様子から察してしまうから。

 

 メアリーは自分が思ったことは、すぐに口に出して言う。何か自分にとっての疑問が浮かべば、すぐに誰かに訊いてしまう。それは極端に言えば、周りの様子を窺わずに発言するということ。「空気の読めなさ」と表裏一体でもある。

 

 いや、より正確に表現するなら、「空気の読まなさ」か。メアリーの一挙手一投足からは、「自分が言うことは、聞いてもらえて当前」という態度が読み取れるのだ。「自分の望みは、叶えられて当然」という言葉に置き換えてもいい。それはある種の、無意識な傲慢である。

 

 自分、自分、自分。この子にとって、世界とは、自分を中心に回るもの。世界に、自分を合わせるのではない。それが常識なのだろう。

 

"さぞや、おもいきり甘やかされてきたんでしょうね。まあ、気持ちは分かるけど"

 

 イヴも美少女だが、メアリーもまた違ったタイプの美少女だ。メアリーの我儘は、無邪気でとても愛らしい。それに得てして、そういった手がかかる子供っぽい子ほど可愛がられやすい、とも言うものだ。見ず知らずの他人であるギャリーですらそう思うのだから、こんな娘が家族にいたら、きっと可愛くて可愛くて仕方ないことだろう。

 

 けして、悪いことではないのだ。ついさっきまでギャリーは、大人びた良い子なイヴが、何かを言いかけようとしては、考え直すように口をつぐむ仕草を見てきた。それを悲しく、痛々しく、感じていた。子供が子供らしく、思いのままに振る舞えないことは、ある種の不自然を内包しているということでもある。だから、メアリーの子供っぽいそれは、たとえ足を引っ張られようと、ギャリーからすれば微笑ましい。今が命のかかった、緊急事態でさえなければ、だが。

 

 人の言うことを聞く、イヴ。人に言うことを聞かせられる、メアリー。2人はまるで対極のようだが、どちらが良い、どちらが悪い、という話ではない。ただ、色々な子供がいる。そういう話だった。

 

"それにしても……"

 

 ギャリーは、メアリーの話題に上がった、この『月夜に散る儚き想い』という絵画について考察する。

 

 読んで字の如く、満月の夜桜を描いた作品である。対照的な3色を混ぜることで互いの存在感を際立たせるその美的感覚は、まあ流石は成功した芸術家、の一言に尽きる。そしてこの作品の最大の特徴は、絵であるのに額縁の外に飛び出し、まるで本物の桜であるかのように花びらが動くことだろう。

 

 そよ風に息づくように揺らいでは、それにあわせて散っていく桜の花びらの数々。嗚呼、確かにこれは美しい。

 

 だが同時に、ここで描かれているのは、満開の桜ではなく、散り際の桜なのであることを忘れてはならない。題名に「散る」と明記している辺り、ギャリーはそこにゲルテナの強い拘りを感じた。

 

 まるで作品を通して訴えかけられているようではないか。「花は散る瞬間こそが最も美しい」と。

 

"花は散る瞬間こそが最も美しい? 冗談じゃないわ"

 

 薔薇の花が命と同義のこの世界で。その言葉はつまり、「命は死ぬ瞬間こそが、一番美しい」とでも?

 

 この絵画には、魅入られるかのように観る者を釘付けにするほどの美しさがある。ギャリーはその美しさを、肯定した。肯定してしまった。だからこそ、まるで死が美しいものであると、自分自身でも認めてしまったような気がして、ギャリーはゾッとしたのだ。死ぬのが怖くない自分を見つけてしまったような気がして、そんな自分を怖いと思ったのだ。

 

 まだ子供のイヴとメアリーを、大人として絶対にこの世界から助け出さなくてはいけない。その義務感に突き動かされているから、「まだ死ねない、死んではいけない」という感情はある。

 

 ただ、本当に自分は外の世界に帰りたかったのだったか? 自分にとって、外の世界とはそんなに美しい場所だったか? 世界が色づいて見えなくなったのは、いつからか? そんな心の叫びの限りが、ギャリーの脳内に木霊する。

 

 例えばもしも、この2人の少女を無事に外へ連れ出せたとして。3人無事に、外に出られたとして。外の世界に戻ったギャリーは、果たしてその後どうするのか。その後、何をして生きていきたいのか。その目指すべき具体的な道の先を、ギャリーは知らない。きっとこれまで同様に、ずっと袋小路に閉じ込められたまま、ただ惰性で生きるだけ。死にたいほどの理由は無いが、特に生きたい理由も無い。

 

 こんな唾棄すべき感傷に捉われているなんて、絶対に打ち明けるわけにはいかない。本来なら頼れるはずの大人が、本当は自分達子供よりもずっと弱かったなんて。幼いこの子達に伝えたところで、ただ不安にさせるだけなのだから。

 

 こんな弱い想いの全てなど、それこそ命散るその瞬間まで。墓場まで持って逝くべきものに違いないのだ。

 


 

「わぁー、見て! 下に花びらがいっぱい落ちてる!」

 

「ホントだ。この絵から出てきてるみたいね」

 

「ここでずーっと待ってたら、このお部屋、花びらでいっぱいになるかな!?」

 

「なるかもしれないけど、そんなことになる前に帰りたいわ……」

 

 実際に、私はしばらく待ってたことがある。お父さんが帰ってくるのを、この絵の前で。積もっていく桜の花びらを、一枚一枚数えながら。

 

 『月夜に散る儚き想い』。

 

 この絵は、私にとってのお気に入り。

 

 月の黄色、桜のピンク、夜の青。私の好きな色が、全部あるから。

 

 散った花びらが下にたまって、少しずつだけど、動きがあるから。

 

 それらをずーっと眺めているのは、やっぱりとても綺麗だから。

 

 黄色は好きだ。星くずの色。私のバラと髪の色。

 

 ピンクは好きだ。桜の色。私が描く道の色。

 

 青は好きだ。夜の色。私のスカーフと瞳の色。

 

 夜。『呑み込める夜』、『ミドリのよる』、『星と鉱石の煌めき』、『零れ落ちる星空』、そしてこの、『月夜に散る儚き想い』。

 

 海。『干からびた螺旋生物』、『幾何学模様の魚』、『波打ち際の孤独』、そしてあの、『深海の世』。

 

 お父さんが創り上げた、夜や海の作品達。

 

 夜の空と海の底。上にあるもの、下にあるもの。大きく離れたこの2つは、だからこそとても似ているんだと、お父さんは言っていた。どちらも暗い色だけど、お父さんはこれを青で塗る。

 

 そう言えば。私の服は緑、茨の色。ちょっと難しい話だけれど、ミドリはアオの仲間なんだって。『ミドリのよる』が、あるのもそのせい。だから、茨や草木や葉っぱとかは、Greenで青々してるのが一番綺麗。

 

 つまり私は、青色と黄色。2つの大好きな色で出来ている。それは私の、ひそかな自慢。

 

 この絵に描かれているみたいに。外の世界の夜空には、数え切れないほどたくさんの、お星様が煌めいているらしい。どうやって宙に浮かんで光っているのか、それはとっても不思議だけれど、たぶんアンコウが頭の飾りを輝かせて、ぷかぷか海を泳げる理由と同じ。

 

 やっぱり私は、外に出たい。色づく世界に、行ってみたい。

 

 桜の花びらを数えることに、きっと終わりはあるけれど。夜の星を数えることに、きっと終わりはないはずなんだ。

 

 この眼で見たい。この眼に入れたい。

 

 私の瞳の2つの青は、夜や海を呑み込めるのか。きっとそれで、分かるはず。

 




赤色の薔薇、黄色の薔薇、青色の薔薇。

ならばいわゆる薔薇色は、

どんな色のことなのか。


~???~




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『ミルクパズル』

「ねぇ。アンタ達、ミルクパズルって知ってる?」

 

 突然ギャリーの口から飛び出した質問に、イヴは黙って首を振った。

 

 そんな単語、今までに一度だって聞いたこともない。

 

 ただのパズルとは何が違うのか。ちょっと想像してみたけれど、想像力の乏しいイヴの頭では、精々が牛乳の絵が描かれたパズルとか、そんなものしか思いつかなかった。でも、それじゃあ牛乳だけを特別扱いして、わざわざ別の名前をつける意味が分からない。

 

 結局その答えは、隣にいたメアリーが教えてくれた。

 

「ミルクパズルっていうのはね、牛乳みたいに真っ白なパズルのことだよ。ほら、あんな感じのやつ」

 

 メアリーが指差した先の壁に掛けられているのは、手付かずのキャンバスを思わせる純白の絵。

 

 いや。よく眼を凝らしてみると、確かにその絵は、無数のピースで作られていた。そして額縁の下には、今まで見てきた絵と同じように、この作品の名前がきちんと記されている。

 

『ミルクパズル』

 

 先程ギャリーが発した単語が、そこにはあった。

 

 なるほど。ギャリーはこれを見つけたからこそ、こんな話題を切り出したに違いない。

 

 絵が描かれたジグソーパズルだったら、私もやったことがある。

 

 ピースを繋げて組み上げていくうちに、段々と絵柄が出来上がっていくのは、自分がすごい絵描きさんになったみたいで、意外とやりがいがあるものだ。完成品を飾れることも、他の知育玩具に比べて達成感がある。

 

 そんなジグソーパズルは、元の絵の破片から類推して、嵌まるピースを見つけていくのが当たり前。なのにそのヒントとなる元の絵が、このパズルには存在しないわけで。それってとっても難しくない?

 

 疑問を抱いたイヴは、それを2人に訊いてみた。

 

「絵が無いのに、どうやって作るの?」

 

「さあ? アタシも昔やってみたことあるんだけど、テキトーに嵌め込んだらパズルはじけ飛んじゃったし……」

 

「ぷっ!?」

 

 ギャリーの返事の直後に聞こえた、声と言うには、どこか変な音。それはこのとっても静かな廊下に、よく響いた。

 

 今、イヴ達の傍に石像や動く絵は一つとして存在しない。だからどうしたって、その音の発生源は私達の中の誰かに限られてしまう。

 

 とすれば……自然と私とギャリーの首はその声の方向を向いた。そこには案の定、うずくまりながら口を手で塞いで必死に笑いを堪えているメアリーの姿があった。

 

「ギャリーってば、おもしろ〜い! どうやったらそんなことになっちゃうわけ!?」

 

 ついに我慢できなくなったのだろう。メアリーはギャリーを指差しながら、腹を抱えて大声で笑い出した。

 

"なんというか、可愛いってそれだけで有利だよねぇ。こうやって笑ってるだけで絵になるんだから"

 

 そうイヴは思った。

 

「何よ。そんなに笑わなくたっていいじゃない!」

 

「無理。絶対無理。だって……ねえ?」

 

 ギャリーの言葉に反して、メアリーの笑いは一向に収まりそうな様子を見せない。

 

 そして、ギャリーにとっては不幸なことに。笑いというのは、とっても伝染しやすいものなのだ。つられて笑ってしまったイヴは悪くない。だって、想像してしまったのだ。必死に無理矢理ピースを押しこんでいるギャリーの様子を。

 

 過去の行いを笑われることが照れくさかったのか、ギャリーは不貞腐れたように頬を膨らませた。

 

「もうっ! 笑うくらいなら、一遍やってみなさいよ! アンタ達もきっと同じ事になるんだから!!」

 

 ……それは、苦し紛れのただの言い訳にしか聞こえなかった。実際、ギャリー自身もまさかそれは、本気じゃなかったと確信している。今は、この不思議な美術館から脱出することが先決。だから、あくまでギャリーは自分の恥ずかしさを誤魔化したかっただけだったはず。

 

 それなのに。メアリーはそこで笑うのを止めて、急に真顔を浮かべたかと思えば……。

 

「いいよ」

 

 目の前に掛けられた『ミルクパズル』を、その額縁ごと手にとって、床へと向けてぶちまけた。

 

 


 

「ちょっ!? メアリー! 何やってるのよ!?」

 

 ばらばらと廊下一面に散らばる乳白色の破片達。額縁に綺麗に嵌まっていたピースは、全て衝撃で弾け飛び、その結果として眼の前の惨状がある。

 

 ギャリーは酷く焦っていた。まさか自分が『ミルクパズル』について触れたことが原因で、メアリーがこんな行動に出るとは思っていなかったのだ。

 

 黒歴史であるミルクパズルの話題をギャリーが出したのは、新しい仲間メアリーが増えてからというもの、どんな話題を振ればいいのか分からなかったから。だからその笑い話を通じて、イヴとメアリーが仲良く笑ってくれたところまでは良かった。……今となっては、後悔するしかない。

 

「大丈夫だよ〜。壊してるんじゃないから、怒られたりしないもん。パズルは遊ぶためにあるんだから!」

 

 どうやら、ギャリーの制止の意図は理解されなかったらしい。そんなギャリーにおかまいなく、メアリーは崩したパズルに取り掛かり始める。

 

「そういう問題じゃないでしょ!? 第一、どれだけ時間がかかると思って……!」

 

 今、ギャリー達がすべきことはこの不可思議な美術館からの脱出。こんなところで道草を食っているわけにはいかない。

 

 ましてや、かの悪名高いミルクパズルだ。以前これに挑みかかり、無様なまでに見事な敗北を経験したギャリーは、その難易度の高さ・かかる時間の長さを知っていて、だからこそ今この緊急事態で始めるなんて、全くもって冗談じゃなかった。

 

 咄嗟に、周囲の様子を警戒する。メアリーが『ミルクパズル』を床に叩きつけたことで、けっこうな音が出てしまった。この騒ぎをきっかけに、動く作品達が寄ってこないとも限らない。

 

 ……幸いなことに、メアリーがパズルピースをパチリパチリといじる音以外、廊下は静まり返ったままだ。何かがやって来るような気配は無い。

 

 やっと少し落ち着けたギャリーは、改めてメアリーに止めてもらうため、説得に舵を切ることにした。

 

「ねえ、今は外に出る方が大事でしょう? 早く、先に行きましょう?」

 

「…………」

 

「外に出た後、いくらでもできるじゃない?」

 

「…………」

 

 何度も隣で声をかけても、メアリーから返事は返ってこない。

 

「ちょっとメアリー、聞いてるの……!?」

 

 いい加減、無視されることに頭がきて、声を荒げかけた瞬間、気づいた。メアリーの丸い大きな青い眼が床の方から、一瞬だってギャリーの方に逸れないことに。

 

 おそるおそる、メアリーの顔の前、視界を遮るように手を振ってみる。しかしメアリーの眼の焦点は、全くと言っていいほどぶれないまま。

 

 無視しているんじゃない。気づいていないんだ。

 

 周りの景色も見えない。周りの音も聞こえていない。文字通り自分の世界に潜り込んでしまったような、凄まじいまでの集中力。それに息を呑まされたギャリーは、直前までの勢いを失ってしまう。

 

「ねぇ、ギャリー……。見て……」

 

 震えながら地面を指差すイヴの言葉。その顔は信じられないものを見るようで、口もポカンと空いたままだ。メアリーの顔に眼を奪われていたギャリーは、そんなイヴに促されて初めてちゃんと、メアリーの手の先を見た。

 

 真っ直ぐ手を伸ばし、床のピースを拾う。『ミルクパズル』の額縁に、それを嵌め込む。パチリという音がする。すぐに次のピースに手を伸ばし、それを拾う。先程の嵌めたピースの隣に、それを嵌め込む。パチリという音がする。

 

 動きに1つの迷いもない。動きに1つの乱れもない。……1つ1つの動作自体は速くない。十分子供に出来る動きだ。ただ、全く無駄のない動きというものは、こんなにも速く見えるものなのか。

 

「嘘でしょ……。確かに頭がいい人はすぐにできるって聞いたことがあるけど、これは……」

 

 どのピースがどこに嵌まるものなのか、メアリーに見えているとしか思えない。

 

 ミルクパズル。またの名を、ホワイトパズル・無地パズル。その名の通り牛乳でコーティングしたように全面が無地で真っ白なジグソーパズルのことを言う。

 

 絵柄という手掛かりが何1つないそれには、他にも実は異名があって、宇宙パズルとか地獄パズルとか言ったりする。宇宙パズルの名の由来は、その要求される集中力と忍耐力の高さから、宇宙飛行士の選抜試験にも採用されたことがあるから。地獄パズルの名の由来は、そのあまりの難易度の高さから、地獄の苦行を連想するからである。

 

 その正攻法は、1つ1つ順番に、合うピースを確かめていくしかない。しかし今ギャリーの眼前で繰り広げられている解法は、どう考えてもそれではなかった。

 

 驚きから立ち直れないギャリーとイヴを他所に、みるみる『ミルクパズル』が完成していく。……そして。

 

 パチリ。

 

 その音はゲーム終了の合図。全てのピースを嵌め終えたメアリーは、その表面を手で軽くポンポンとならすと、元々飾られていた壁の位置に、『ミルクパズル』を引っかけた。そしてこちらに回れ右をして……。

 

「ね、どうだった……!?」

 

 はしゃいだ声でイヴとギャリーに、その感想を訊くのである。

 

 まるでON・OFFを切り替えたみたいに、パズルを始める前と同じ、騒がしいメアリーが戻って来た。パズルに取り組んでいる最中のメアリーは、一言だって喋らなくて、まるで別人のようだったから、ギャリーはその様子にホッとする。

 

 かかった時間は体感時間でおよそ5分。腕時計が動かないことが大層悔やまれる。この世界に来てからというもの、何故か時計が止まったままなのだ。もしも動いていたとしたら、かかった正確な時間が分かっただろうに。

 

 すごいものを見た。命がかかった状況を考えれば、メアリーが『ミルクパズル』で遊び始めたことはハプニングだったが、こんな短時間でできるものなら、強く責めることはもう出来ない。

 

 メアリーは期待が混じった眼で、こっちのことを見つめてる。そうだ。あまりの凄さに圧倒されて、反応するのを忘れていた。

 

 パチパチパチ……。

 

 先程までの感動を掌に込めて、何度も何度も手を叩く。すぐにイヴもギャリーのそれに続く。

 

「スゴイじゃない! 一体どうやったらこんな簡単にできちゃうわけ?」

 

「コツがあるんだよ~。パズルを崩す前にね、その上に頭の中で絵を描いておくの! そうすれば、普通のパズルと同じ。……でしょ?」

 

「は……? いやいや、バラバラにしたらそんなの消えちゃうでしょ……」

 

「??? ちゃんと見ておけば消えないよ?」

 

 頭の中でピースの上に描いただけの絵が、消えないまま残って見える。それは言い換えれば、どこのピースがどこへ散ったか、全て憶えているということと同義ではないか……?

 

 メアリーがパズルを崩す動作は、ギャリーとイヴも見ていた。床に叩きつける衝撃を使ったそれは、ほんの一瞬の出来事だった。もしもその一瞬で、本当に数々のパズルピースの全てを、脳内の絵と関連付けられると言うならば……それはもはや、記憶力が良いというレベルを超えている。

 

 瞬間記憶能力、カメラアイ。そんな単語が、ギャリーの頭を過った。眼で見た風景、物質、映像を、一瞬で記憶できる特異能力のことで、そんな能力を持った人が少ないながら、確かに現実に存在すると、ギャリーは知識で知っている。

 

 ただ、今メアリーが行ったことを再現するなら、それですらまだ不足に思えた。

 

 写真1枚では、足りないのだ。眼の前で散っていく数々のピースを、元の正しい場所へと結び付けるには。必要となるのは、ピース1つ1つが飛び散る過程を映した、精確無比な動画である。

 

 ならばメアリーのこの青い眼は、カメラという比喩すらまだ足りない。あえて例えるならハイスピードカメラと言ったところか。

 

 その考察に至った時、ギャリーには眼の前の少女のことが、人ならざるナニカに見えてしまった。近寄ることすら躊躇わせる、化け物じみた異質な才能。凡人であるギャリーとは、住んでる世界が違い過ぎる。

 

 そう思い至ったギャリーが、一歩後ずさりかけた時。

 

「すごいよ、メアリー。私じゃ、そんなのできない」

 

 純粋なイヴがかけた言葉に、すんでのところで踏み止まった。

 

「そーなの?」

 

「うん。それ、メアリーがすごいだけ」

 

「えへへー」

 

 イヴとメアリーが和気あいあいと、楽しそうに話してる。それに比べ、今、自分は何をしかけた……?

 

 そうだ。イヴが正しい。メアリーはただ、すごかっただけだ。そこに悪いところなど、あるはずもない。ただちょっとそのすごさが、人智を超えたものだっただけ。

 

 それなのに、ただ自分の理解が及ばないというだけで、それを畏れて遠ざける。そんな醜悪な人間に、ギャリーは先程なりかけた。それを食い止めてくれたイヴには、感謝しかない。

 

「好きなんだ……? ミルクパズル」

 

「うん。でも、もう飽きちゃった」

 

 イヴの質問に対し、どこか遠い眼でメアリーは答える。

 

 ギャリーに言わせれば。一回やれば、あんなものは絶対に飽きてしまう。これに関しては、ギャリーは自分の判断がそう間違ったものじゃないという確信がある。

 

 しかし、彼女の口ぶりは、それを何度もやったことがあるかのようなものだった。

 

 彼女、メアリーは。一体何回、ミルクパズルをやったことがあるのだろう。

 

 メアリーの言葉を聞きながら。ギャリーはふと、そんなことを考えた。

 


 

「よくできたね、メアリー」

 

 その言葉は、私が大好きな言葉だった。

 

 お父さんはこう言って私を褒めてくれる時、決まって私の頭を撫でてくれる。

 

 その手の朧気な感触とお父さんが浮かべる笑顔こそが、私にとっての存在理由だったんだと思う。

 

 だけど。大好きだったその手の形も、今はもう思い出せない。

 

 だからそれを思い出すために外の世界に行く。そのハズだったのに。

 

 『ミルクパズル』をイヴとギャリーの2人の前でやって見せたのは、単純に自分だったら出来るんだという事を証明するための手段に過ぎなかった。

 

 だって私にしてみれば、もうこんなのは出来て当然。私が何度これをやったと思ってるの? 数えてなんかいなかったから流石に正確には分からないけど、100や1000じゃきかないよ?

 

 だからそこまで、私は2人に何かを期待していたわけじゃなかった。褒めて欲しいなんてことは、ちょっとだけしか思ってなかった。

 

 だけどやっぱり「すごい」って、そう言ってくれるのはとっても嬉しい。

 

 こんな感覚、いつ以来だろう。家族のみんなも、褒めてくれたりはする。拍手してくれたりもする。けれど、こんなに懐かしい感じがしたことはなかった。そんな気がする。

 

 ……そう言えば。初めて『ミルクパズル』をやった時、お父さんが横でそれを見ていてくれた。

 

 あの時の私は今みたいに、まだやり方も何も知らなくって、ただただうんうん唸るばかり。そんな私の隣にしゃがみ、横から覗き込みながら、お父さんは訊いたんだ。

 

「白は好きかい、メアリー?」

 

 床に置かれた額縁と、辺り一帯に散らばった『ミルクパズル』のピース。眼の前に広がる白を睨み、喉に上がってきた本音を、ちょっと躊躇いながら口に出す。

 

「……実は、あんまり」

 

「ほう……?」

 

 色の好き嫌いは良くないと、ホントは私も分かってる。でもそれが当時の私の、正直で素直な感想。

 

「まだキャンバスだった時を、思い出しちゃうの……」

 

 お父さんが色を入れる前の私は、元は白紙のキャンバスだった。その時の私は今みたいに、考えることも動くことも、何ひとつ全く出来なかった。

 

「……私、あの時には戻りたくない。だから、白はちょっと怖いの」

 

「そうか。それは、辛いことを訊いたね」

 

 お父さんは、なんとも言えない優しい眼で、私の言葉を聞いている。

 

「好き嫌いしたりして、ごめんなさい」

 

「謝る必要は無いとも。それも立派な、メアリーの色だ。いろんな人がいて、いいんだよ」

 

 そう言ってお父さんは私を撫でた。いけない私を責めたりせず、白が嫌いなことも否定せず、まとめて私を受け入れてくれた。

 

「それにね、メアリー。最初が真っ白だったのは、メアリーだけじゃない。みんな同じさ」

 

「……みんな?」

 

「生まれた時は誰もがみんな、純白でまっさらだ。それは、私だって変わらない」

 

「お父さんも……!?」

 

 私は眼を輝かせて、お父さんにすり寄る。自分だけのコンプレックスだと思っていたことが、実は自分だけじゃなかった。それを知るのは嬉しいことだ。それが特に、大好きなお父さんとも共通するなら、なおさらだった。

 

「私のこの薔薇だって、最初はただの白だったんだ」

 

 お父さんは手に持ったステッキの、持ち手部分をこちらへ向けた。花びら一枚一枚の色が全て違う、とても綺麗なレインボーローズ。これが元は白だったなんて、ミルクパズルと同じ白だったなんて、ちょっと私には想像つかない。

 

「……ねぇ。どうしてお父さんは白いパズルをするのが好きなの?」

 

 白が嫌いな私が、どうして『ミルクパズル』に挑戦してみたのか。それは、大好きなお父さんがよくやっていて、その真似をしてみたいと思ったからだ。

 

「……これを作る過程が、作品創りに似ているから、かな。……メアリーはこのパズルをするのに必要なものは何だと思う?」

 

 お父さんは手近なミルクパズルのピース1つを拾うと、額縁の嵌まる場所にパチリと合わせ、そして私に問いかけた。ちょっと首を傾げつつ、私はさっきまで自分が遊んでいた感触と、お父さんがやってた時の姿を思い出して、自分なりに答えを捻り出す。

 

「組み合うピースを見つける眼……?」

 

「……これは持論だけどね。頭の中でハッキリとした絵を描き出す創造力と、それを一瞬でキャンバスに焼き付ける記憶力。その2つだと思っているよ」

 

 その時の私には、それがどうしてこのパズルの攻略に繋がるのか、意味不明だった。そんな私の様子を見て、お父さんは話を続ける。

 

「ミルクパズルを始める前に、崩す前のそれを見ながら私はいつも一呼吸置くだろう? その時に私はこの白いキャンバスの上に絵を1つ頭の中で描き上げるんだ。できれば、カラフルな方がいいね。そしてパズルを組み上げる時は、その頭の中の絵の色を頼りに、1つ1つピースを繋げていく。もちろん、崩す時にもピース達に目を光らせておく必要はあるがね」

 

「え〜。そんなこと、ホントにできるの?」

 

 確かに、額に収められた状態のミルクパズルなら、頭の中で絵をその上に描き出すことも可能かもしれない。

 

 でも、ピースをバラバラに崩してもそれを維持するなんてことができるとは、絶対であるお父さんの言葉とはいえ、俄かには信じ難かった。

 

 だけどそんな私に、お父さんは額縁から1つ白いピースを摘まみ出すと、それをおもむろに私の方へ向けたのだ。

 

「私にはこのピースに描かれた、虹色の薔薇のうちの黄色い花びらが見える」

 

 どんなに目を凝らしても、確かにそれは真っ白いただのピースに違いなかった。けれどそう言うお父さんの眼に宿る光も、その落ち着いた口調も、どこまでも真剣で。あくまでそれは私にとってそう見えているだけで、お父さんには確かに別に見えてんだって、これ以上ないほど悟ったんだ。

 

「……メアリー。どんな時も心の中に、真っ白なキャンバスを持っておきなさい」

 

 真っ白な髪・眉・髭のお父さんは、ゆっくりと私に言い聞かせる。

 

「いずれ技量は、ついてくる。だからただ、一度見たもの、聞いたこと。そしてその時、感じたこと。それを絶対に忘れないように、キャンバスの余白に描いておくんだ。……積み重なったそれらがいつか、メアリーのことを助けてくれる」

 

 ……実際に私が『ミルクパズル』に没頭するようになったのは、お父さんが来なくなっちゃってから。

 

 大して面白くも思えないのに、ひたすらこれを繰り返した理由。それは多分そうすることで、あの時のお父さんの声をはっきり思い出せると、そう信じたかったからだと思う。

 

 今では。元々疑ってなんていなかったけど、お父さんのやり方が正しいんだって、自分の身で証明できるようになった。

 

 どんなに散らばってシャッフルされても、私のこの眼は見逃さない。全てのピースはちゃんとそれぞれ、違った絵柄が描かれていて、固有に色づき輝いてる。そういう風に、見れるんだ。

 

 もっとも、あまりに使い古したこのミルクパズルじゃ、もう触った感じだけでどこのピースであるか、一瞬で分かるようになった。たぶん今の私なら、目隠しした状態だったとしても、パズルを簡単に完成させられる。完成させることが、出来てしまう。

 

 ……だから言える。飽きちゃった、と。

 

 ピースの形を感触で覚えるなんて方法、お父さんは私に言ったことはない。つまり、これは間違ったやり方なんだ。

 

 私は他でもない、お父さんの教えてくれたやり方で遊びたいのに。慣れ親しんでしまったこのピースでは、もうそれもままならないよ。

 

 ねえ、お父さん。私、こんなに短い時間で『ミルクパズル』できるようになったよ。

 

 あの時の私なんかとは、もう比べ物にもならない。ね、すごいでしょ。

 

 ……それなのに。

 

 どうして、褒めにきてくれないの?

 

 会いたいよ、お父さん……。

 




虹色の薔薇の造り方。

生きた白薔薇を用意して、

色とりどりの色を吸わせる。


~???~




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『争いの矛先』

「……イヴ、好きなの? こういうの……。アタシは無理だわ……」

 

「ギャリーって……ヘン!」

 

「変なのはアンタたちでしょ!」

 

 ……やっぱり、一緒に出るならイヴかなぁ。

 

 青いみんなが、カワイイのか、カワイクナイのか。意見が真っ二つに分かれたさっきまでの論争を思い返しながら、紫一色の廊下を歩く。

 

 私は当然カワイイ側で、イヴも同じ。だけどギャリーは、みんなのことをキモチワルイと言った。

 

 やっぱり、ちょっと感性が違うのかもしれない。ほら、やっぱり男の人だし、大人だし。女の子の私達とは、合わないところもあるのかも。

 

 ギャリーも、悪い人じゃあ、ないんだけどなぁ……。『月夜に散る儚き想い』や『ミルクパズル』の前で話した時の、さっきまでの印象を思い返す。

 

 どこかお父さんを思い起こさせるような、懐かしい雰囲気。でも、外に出ればお父さんには会えるんだから、私がほしいのはトモダチなんだ。

 

 この世界から出られるのは2人だけ。だから私は、眼の前の2人のどっちと一緒に行くかを選ばなくちゃいけない。決めなくちゃいけないんだ。そしてその、制限時間が迫ってる。

 

 この世界から出る直前まで、別れを引き延ばすのは良くない気がする。だって出る直前まで3人一緒だったら、ちょっとした手違いで、外に出る2人に私が入れなくなっちゃうかもしれない。

 

 逆に、予め2人になっておけば、万が一私がお父さんの作品の1つだと気付かれちゃったり、出られるのが2人だけなんてことがバレたりしちゃったとしても、「2人で出よう」ってなるかもしれない。

 

 ……だからみんなにお願いして、できるだけ自然な流れで、2対1のグループになるように分けてもらうんだ。私から無理矢理別れようとしたら、それで嫌われちゃうかもしれないもんね。

 

 だけどそれを、どこか名残惜しく感じている私がいる。どっちも選ぶことが出来るなら、3人全員で出ることが出来るなら、それを選びたい私がいる。でも、それは叶わない。

 

 自然と歩みが遅くなる。ギャリーが先を歩いて、イヴが続いて、その後ろに私。でも、そうやって先延ばそうとしても、遂にここまで着いちゃった。みんなと相談して決めた、分けてもらうための場所。

 

 …………。

 

 ……迷ったけれど。私、決めたよ。

 

 やっぱり、私はイヴと出たい。好きなもののセンスも一緒だし、同じくらいの女の子。絶対にいいトモダチになれる。

 

 ギャリーもいい人ではあるけれど、大人だし、男の人だし。確かにお父さんに似てるところもあるけれど、お父さんには外に出れば会えるもん。それに何より、みんなをキモチワルイなんてヒドイしヘン。そーゆーところは、ちょっと嫌だな。

 

 だからお願い、『嫉妬深き花』。私・イヴ2人と、ギャリー1人。その頑丈な茨を使って、私達をそうなるように分けてほしいの。

 

 ゴゴゴ、ゴゴゴ……。

 

 茨がだんだん迫ってくる音。お願いした私はもう気づいてるけど、イヴとギャリーはまだ気づいていない。上手くタイミングを合わせるために、その音に耳を澄ませながら、1個だけ大事なことを、決め忘れてたって気づいちゃった。私とイヴで2人して、これからどっちの道を進むのがいいかな?

 

 まず、最初に頭をよぎること。お父さんのパレットナイフを取りに、物置部屋に寄るべきかどうか。

 

 あのパレットナイフは、元々はお父さんのもの。お父さんが作品を創る時に使ってたもので、その気になればこの世界のものはなんでも描き変えられる。

 

 お父さんがこっちの世界に来なくなってからは誰も使わなくなっちゃったから、ガラクタ置き場に仕舞いっ放しだけど、念のためアレを取っておくべき?

 

 ……そしてすぐに思う。その必要はないよね、と。

 

 だって、イヴもギャリーも悪い人じゃなかったし、この世界の家族にだって、悪いのなんていやしない。悪いのなんていないんだから、何かを描き変えなきゃいけない状況なんて、やっぱり起きようがない。

 

 だからもっと考えるべきなのは、これからイヴと2人でどっちの道を行きたいか。

 

 物置小屋を通るルートは、すぐに2階に上がる。『星と鉱石の煌めき』を見ながらお星さまについてお話しするのもいいし、『扉の番人』に協力してもらって、クイズゲームやるのも面白そう。イヴには家族のみんなのこと、もっと知ってほしいしこれはありだね。

 

 逆に、『赤色の目』の部屋に戻るルートは、本棚裏の隠し通路を通って1階を進むことになる。イヴもみんなのことは撫でたいくらいに好きだって言ってくれたし、みんなと遊びながら進むこっちも楽しそうだ。

 

 そうだ。タカラサガシ。イヴと一緒に、絵具玉の宝探しゲームするのはどうかな? お父さんを待ちくたびれた私が退屈していた時に思いついた遊び。みんなに7つの絵具玉を隠してもらって、それを私達が探す。隠す場所を変えればなかなか飽きない、私が思いついた自慢の遊び。

 

 あっ!? いけな~い!? とっても大事なこと、思い出しちゃった! 1階には、私について書かれた本がある。イヴとギャリーがこの世界にやって来たのは突然で、すぐに合流しようと慌てていたから、あの本はそのまんまだ。

 

 何かの拍子であの本を読まれたりしたら、私が作品だって2人にバレちゃう。マズい、マズい。それはすっごく、大問題。イヴにもギャリーにも、嫌われたくはないもん。ちゃんとこっそり、差し替えとかなきゃ。

 

 よーし! そうと決まれば、後は頑張るだけだよ!

 

 決意を胸に、私は出来る限り自然を装って口を開く。

 

「なに……? この音……、近づいてくる…………」

 

 私の言葉を合図にして。石の茨が床を割き、私達の3人の足元から次々と突き出す。私達が歩く廊下通路を塞いで、真っ二つに分けるように。

 

「床から、何か出てきた!」

 

「な、なんかマズイわ! みんな絵から離れて!」

 

 イヴもギャリーも私に言われて、ようやく異変に気付いたみたいだ。

 

 ダイジョーブかな、私の言い方。ボーヨミになってたり、しないよね?

 

「イヴ! あぶない!!」

 

 私はイヴの手をしっかり掴むと、イヴが茨に当たらないように、私の方へと引き寄せた。

 

 私がいた、後ろの方へ。青いみんなの、いる方へ。

 

 


 

 

「困ったわねぇ。画材ばっかりで、ロクなもんがありゃあしないわ」

 

 ギャリーは所せましと並べられた無数の段ボール箱を引っ繰り返しながら、そう愚痴る。丁寧に中を調べたりせずに、やや荒っぽい調べ方になってしまっているのは、やはり焦っているからだろうか。

 

 『嫉妬深き花』と題されたあの絵のせいで、その茨によって物理的にイヴとメアリーから引き離されてしまったギャリーは、あの気色悪い青い人形が陳列された部屋で見つけた紫色の鍵を使って、この倉庫のような部屋の探索をしていた。

 

 廊下を塞ぐ無数の茨の間に若干の隙間があったことは、不幸中の幸いだった。その隙間を通じてお互いの様子を窺うこともできたし、こうしてイヴ達の方から鍵を投げ渡してもらうことも出来たから。

 

"あの子達2人にケガがなかったことだけが、せめてもの救いね"

 

 イヴとメアリーの2人に合流する手段、茨を壊す手段がこの手に無い以上、それを探さなくてはいけない。あるいは、別ルートを通じて、向こう側へと迂回する道を見つけるか。

 

 メアリーの提案に乗って別行動することに、あまり気乗りしなかったのも事実だ。その理由は、あの『嫉妬深き花』の攻撃に、若干の不自然さが見え隠れしていたから。

 

 ただ偶然ギャリー達を襲おうとしてきて、それが当たらなくて諦めただけならいい。ただ、あの絵画は一度ギャリー達が目の前を通るのを完全にスルーした後、何故か2回目の通りがかりで襲撃を行ってきている。そして一度無害だと判断して油断していたからこそ、こうして今その被害に悩まされているとも言えるのだ。

 

 こうしてイヴ・メアリーの2人からギャリーが離されているこの状況、それこそがあの攻撃の意図だったとしたら。それこそあの絵画の名前の通り、イヴ・メアリーとギャリーが一緒にいた状況に嫉妬した誰かの存在を感じないわけにはいかない。その誰かとは、やはりこの世界を支配するゲルテナか?

 

 美術展に来る観客は、大人の方がずっと多い。メアリーと出会うまでは、子供のイヴが巻き込まれたのは、ただの偶然だと思っていた。しかし2人目まで現れたとなると、いよいよ何かしらの意図を感じてしまう。

 

 ……でも、確かにメアリーの言う通り。ずっとあのまま茨を挟んで、3人で立往生を続けるわけにはいかないのもまた事実。幼いあの2人に先を行かせるならともかく、逆にあの2人を待たせて大人の自分が探索するのは道理にも合っている。

 

「……あら?」

 

 電灯のちらつきに反射して、ギャリーの視界をかすめる、一筋の閃き。先程中身をぶちまけて、あたりに一面に散らかった無数の画材の中に、ギャリーは金属特有の光沢を見つけた。

 

「パレットナイフ、か……。」

 

 声に混ざってしまった落胆の色は隠せない。

 

 パレットナイフ。別の呼び方では、ペインティングナイフと言うこともある。主として油絵具で絵を描く時に使われるナイフの一種。柔らかいタッチを与える筆とは異なり、盛り上げや塗り込みなど、硬質な塗り表現をしたい時などに使う。また、既にキャンバスの上に塗られた絵具を掬い取ったりするときもある。

 

 つまりその本質は絵を描くための道具であり、何かを切ったり裂いたりすることが目的の、通常のナイフとは全くの別物なのだ。その証拠に、このパレットナイフも菱形状の刃先は楕円形に丸みを帯びていて、尖ってすらいない。

 

 画材と一緒に保管されるものという点では、此処にあって納得の品ではある。だが残念ながら、こんな小さな刃物と呼ぶのも烏滸がましいナニカで、あの巨大な茨の石柱を削って子供一人通れるようにすることは、どう考えても現実的でなかった。

 

「……ただ。こんなものでも、無いよりはマシかしら」

 

 どこまで役に立つかは分からないにしろ、まあ丸腰よりは良いだろう。イヴ、メアリー、ギャリーの3人の中で、ギャリーだけが大人。いざという時、まあ力仕事だったり、あるいは考えたくもないが暴力的な手段が必要になった時、その役回りを果たすべきは自分なのだと、ギャリーは自覚している。そんな時に、この頼りない絵を描く道具によって、あるいは助けられることもあるかもしれない。

 

 ギャリーは軽くコートをはためかせると、その内ポケットに拝借したパレットナイフを忍ばせてみる。皮肉にもパレットナイフは武器としては小さ過ぎるおかげで、特に持ち運びに不便は感じなさそうである。これなら、邪魔になってかえって足を引っ張る可能性を考慮して、此処に捨て置いておく必要もないだろう。

 

"……そう言えばこのポケットは、レモンキャンディを入れていたところだったわね"

 

 大した収穫が無かったのは名残惜しいが、一度イヴ達の元に戻って、改めて作戦を考えることにしよう。そう思い、ふと入口の方を振り返って瞬きをする。

 

 まるでモアイ像のような、首から上だけを模した超巨大な石像がある。こっちの方を向いている。入口の扉の前に、立っている。さっきまでは、絶対なかった。このままでは、通れない。イヴとメアリーの元に、戻れない。

 

"ちょ……、ふざっけんじゃないわよ!"

 

 慌てて、石像に駆け寄って、全体重をかけて押そうとしてみるけれど、ビクともしない。人間と同程度の体積しかない『無個性』の重さとは訳が違う。ことこの非常事態に至って、たとえ禁則事項に触れようが、壊すことだって躊躇しないが、この丸ごと大きな岩から彫り出したらしき頭の像は、そもそもそれすら不可能に思える。

 

 ゴトゴトッ……。

 

 後ろの方から、部屋の中から、物音がした。おそるおそる物音の方を、像を押そうと屈んだ態勢を維持したまま、石像の顔が黙って見つめる方向へと首を回す。

 

 青と黄色。2体の『無個性』達が、動いていた。こっちの方へと、近づいてくる。

 

 え。コレ、無理じゃない……? こんな狭い場所で、1体ならまだしも、2体相手に自分の薔薇守りながら格闘とか……。

 

 その結論に、至った直後。

 

「イヤーッ!!??」

 

 ギャリーは男にあるまじき甲高い悲鳴を上げた。そしてその悲鳴で発揮した声の大きさを維持したまま、巨大な顔の石像の向こう側の入口の扉へ向けて、その先のイヴとメアリーに向けて捲し立てる。

 

「イヴ、メアリー! ちょっと戻れなくなっちゃったけど! 絶対! 絶対! 別のルートから、そっちに合流するから!」

 

 扉に阻まれてイヴとメアリーに聞こえていないかもしれないという懸念はあったが、部屋奥の扉へと走り出す。この美術館に来て、もはや無意識にまで染み付いた動き。作品達は、扉を超えられない。だから、扉を超えてしまえば安全なのだ。

 

 否応なしに道を別つことになってしまった2人の少女を心配しながら。ギャリーは扉の向こうへ逃げ込んだ。

 




かくして、物語の行き先は道を違えた。


~???~




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『心壊』

「どうしたの、イヴ? イヴも宝探し、一緒にしようよ?」

 

 耳を素通りする、まるでこれは日常だと言わんばかりの、平然したメアリーの呼びかけ。

 

 白とピンクの兎さんの、縫いぐるみ達が入り乱れる部屋の中。イヴは眼を疑う景色を前に、ただ呆然とへたり込んでいた。

 

 視界のあちこちに散乱する、お腹の部分をパックリ裂かれた、痛ましい姿の兎さん達。中から漏れ出た綿屑が、まるで内臓を引き摺り回されたように、床のところどころに落ちている。

 

 そしてその中央では。楽しくて堪らないといった様子のメアリーが、また新しい兎さんに手をかけては、爪を立てるようにしてそれを引き裂く。

 

 ビリビリッ!

 

 耳を塞ぎたくなるような、繊維が千切れる不快な音。同時に勢いよく飛び散った、細かい中綿の破片の数々。その一部はゆっくりと放物線を描き、イヴの頭に当たったあと、最後はその髪に引っかかった。

 

 陰惨としか表現できない、現実離れした光景だ。イヴは自分がなぜこのような状況に直面しているのか、メアリーと此処に来るまでの一部始終を、思い返さずにはいられない。

 

 

 石の茨によってイヴ・メアリーの2人とギャリー1人に物理的に引き離されてしまった後、イヴ達は紫の鍵で開く扉の先を調べに行ったギャリーを待っていた。そしてそう時間が経たないうちに、たぶんその扉の向こうから、やけに騒がしい音が響いてきて、そうしてすぐに静かになった。

 

 イヴにはハッキリ聞こえなかったが、騒がしい音の中に、ギャリーが叫ぶ声も混じっていた気がする。

 

 たぶんあの後、あの部屋で、何かトラブルが起きたんだ。だから、ギャリーは戻ってこなかったんじゃなくて、戻ってこれなかったんだ。

 

 メアリーと一緒だから、ひとりぼっちじゃない。そういう意味では以前とはずっとマシだけれど、それでもギャリーと離ればなれになってしまったことは不安でならない。

 

 ギャリーは、大丈夫……、かな。 とても、心配だ。

 

 無意識に、ギャリーに貰ったレモンキャンディを掌の中で転がした。そうすれば、改めて落ち着くことができるような気がしたから。

 

 

 

 メアリーの提案で、私達も改めて兎さん達のお部屋を調べることにしてみた。

 

 本来は、ちゃんと大人の言うとおりに待っているのが良い子なんだろう。だけどずっと茨の前で座り込んでいるだけだと、ギャリーが大丈夫かという心配が頭をぐるぐる回るばかりで、気が変になりそうになる。

 

 それなら、まだ動いて何かをやっている方が気が紛れそうな気がしたから、メアリーの意見に賛成した。

 

 だから、まさか。調べ直すことで、本当にメアリーの言うように、何か見つかるなんて思っていなかった。それどころか、先へ進むための通路のようなものが本棚の後ろに隠れてたなんて、思ってもみなかった。

 

 なんで。どうして。最初に3人で調べた時に気づけていれば、今頃ギャリーと離ればなれになんて、なる必要がなかったってことになっちゃう。

 

 せっかくメアリーが新しい通路を見つけてくれたのに、イヴはそれを純粋に喜ぶことができなかった。

 

 ただ、曇った気持ちがちょっとだけ晴れた出来事もあった。本棚裏の隠し通路の先の狭い通路を進んでいると、あの部屋にいた兎さん達の縫いぐるみのうちと思わしき1匹が、イヴ達に付いてきたのだ。

 

 どうやら口を開いて話すことはできないみたいだけど、兎さんはインクで壁に文字を書くという形で、イヴ達にこう伝える。

 

"こんにちはイヴ、メアリー。わたし、ひとりでさみしいの。だからいっしょにつれてって"

 

 兎さんはイヴの一番大好きな動物さんで、兎さんに話しかけられるというこのシチュエーションは、美術館に閉じ込められているという点にさえ目を瞑れば、夢で見たような状況だ。とてもほっこりする。胸がポカポカする。

 

「わぁ~。ねぇ、イヴ。連れてってあげようよ!」

 

 メアリーも兎さんのことは好きなようで、メアリーの意見に同意したイヴは、廊下にぽつんと座っていた兎さんの縫いぐるみを床から拾い上げる。

 

「あ。イヴだけ、いいなぁ……」

 

 そう言えば、ギャリーはこの兎さん達のことを、気色悪いと言っていた。実際、動く作品達に何度も襲われたりしてるから、動いたりしそうに見える作品は全て、危なそうに見えるのだろうか? こんなにも可愛いのに。

 

 イヴは腕の中にすっぽりと収まった兎さんを優しく撫でた。兎さんも兎さんで、口で直接は喋れないからその感想を聞くことはできないけれど、その身体をぐりぐりとイヴに押し付ける様子を見る限り、なんとなく満足気な様子に見える。

 

 この世界に迷い込んで一番最初に会ったのがアリさんだったことを、この時のイヴは思い出していた。アリさんが話すなら、兎さんだって話すだろう。アリさん、元気にしてるかなぁ。絵は踏み潰しちゃったけど。

 

「ねぇ、イヴ……ちょっと、聞いてもいい?」

 

 抱えた兎さんを撫でながら長い廊下を歩いていると、横のメアリーがふと歩みを止める。

 

「ギャリーって……、イヴのお父さん?」

 

 ギャリーが、イヴのお父さん。そう見えるくらい親密な仲に、メアリーには見えたのだろうか。もちろん、事実は違う。イヴには別にお父さんがいて、だからこそイヴはお父さんとお母さんの元に帰ろうとしているのだから。

 

 ……でもじゃあ、ギャリーとイヴの関係って、どう表現するのが正しいのだろう。ギャリーとは、この美術館で迷う中で、今日初めて出会った。そういう人のことを、世間一般ではどう呼ぶ?

 

"知らない人……?"

 

 違う、違う! 確かに、イヴとギャリーが共に過ごした時間はまだ短い。けれど、一緒に協力してこの美術館を歩いて育んだ親交は、そんな薄っぺらな関係じゃないはずなんだ。ギャリーからもらったレモンキャンディが、その証拠だ。

 

 だからただ、イヴは自分の脳裏をよぎった言葉を振り払うように。

 

「ちがうよ」

 

 とだけ、答えたのだった。

 

「ふーん。じゃあ、お父さんは別にいるのね」

 

 イヴの回答に、メアリーは何を考えたのか。ただ、その内容を噛み締めるように、

 

「そっかぁ……」

 

 とゆっくりつぶやく。

 

 そのままメアリーは、おそらく自分の中では繋がっているのだろう質問を続ける。

 

「イヴのお母さん、やさしい?」

 

 お父さんの話に続いて、お母さん。こんな問いかけをするということは、やっぱり明るいように見えるメアリーも、心の奥では自分の両親に会いたくて寂しいのだろうか。

 

 ……お母さん。こんなにも長い間、迷子で行方不明になって、いろいろな人に心配をかけてしまっているのだから、やっと会えた時にはきっと怒っていることだろう。その怖い顔を想像して、でもその懐かしい顔が思い出せたことで、イヴは少し上機嫌になって笑顔が零れる。

 

 だからメアリーの耳元に、口を近づけ片手を添えて、そっと告げ口をするように、

 

「怒ったらこわい」

 

 と囁いた。

 

「あははは。イヴでも、怒られるんだ!」

 

 それを聞いたメアリーは、いたくイヴの回答が気に入ったみたいで、ころころと楽しそうに笑っていた。メアリーも、自分のお父さんかお母さんに怒られた時のことを思い出しているのだろうか。

 

「早くお父さんとお母さんに会いたいよね? わたしも早くここから出たいよ……」

 

 両親の記憶を思い出して、少しだけ気分が晴れて、だからこそ早くここから出て会いたいと強く思わされる。メアリーがこの会話を振ったのは、そのためだったのかもしれない。

 

「ね……イヴ、あのさ……」

 

 そして最後におずおずと戸惑いがちに、メアリーが切り出した。

 

「もし、この世界から出られるのが、2人だけだったら……。どうする?」

 

 あまりにも、考えたくない。遭難者が助かるにあたって、むしろ考えてはいけないような、悲観的過ぎる仮定だった。

 

 ただ、訊いているメアリー自身も、どこか気まずそうな様子に見える。イヴがこの質問で気分を害するかもしれないとは、きっとメアリーも察してはいるのだろう。ただ、それでもこうしてわざわざイヴに訊いてきたということは、これはメアリーにとって重要な問いだったんだと思う。

 

「どうしてそんなこと聞くの?」

  

 メアリーの意図が知りたくて、イヴはそう返す。

 

「え……、ん-と。なんとなく……。もしそうだったら、イヴはどうするのかなって……。ちょっと気になっただけ! もういいや、早く行こ!」

 

 すると、メアリーは誤魔化すように言葉を並べて、先にスタスタ行ってしまう。

 

 ただ悲観的になってしまっただけなら。「出られるのが1人だけ」あるいは「誰も出られない」というもっと最悪なケースを想定してしまうもの。そうではなくて、「出られるのが2人だけ」のケースを考えてしまうとしたら、それはきっと、「出られない1人」が誰になるかが、気になっているんじゃないだろうか。

 

 もしかしたら。「もしも仲間外れにされるなら自分かも」と、メアリーは恐れているのかもしれない。最初に訊かれた内容も、ギャリーとイヴの関係性についてだった。メアリーは、イヴとギャリーのペアに、後から加わった形で合流している。今はこうして不可抗力でイヴとメアリーの2人きりになっているが、あんな事件が無ければ、今も3人一緒だったろう。そういった構図の中で、イヴとギャリーが仲良くしていたことは、メアリー視点では疎外感を受けるものなのかもしれない。だから不安で、あんなことを訊いたんじゃないだろうか。

 

 だとしたら、メアリーがそんな不安を感じないようにしないと。そう思って、私は兎さんを持っていない方の手をメアリーと繋いだ。そうすると、メアリーはパァッっと弾けるような笑顔を浮かべる。

 

 

 細長い廊下を抜けた先の扉を開くと、とても開けた大きな部屋に行き着いた。奥には2階へと通じると思しき階段が見えたが、巨大な顔つきパレットがそれを塞いでる。

 

"7つの色彩、絵の具玉を集めよ。さすれば、道は開かれるだろう"

 

 イヴには、絵の具玉とやらが何を言っているのか、すぐに当たりがついた。床に落ちていて、拾った瞬間に消えた謎の黄色い玉、間違いなくアレのことだろう。その証拠にあの顔つきパレットに、消えたはずの黄色い玉が勝手にセットされていたから。

 

 そしてその絵の具玉探しは、かなり順調に進んでいたはずだった。

 

 やけに乗り気なメアリーは、意外にもゲルテナ作品の知識が豊富のようで、『ジャグリング』なる絵画の製作が6223年だと見事に当てた。イヴと同様に、メアリーも親に連れられて来ただけかと思っていたが、この感じだとメアリーは純粋にゲルテナ作品が好きでゲルテナ展にやってきたのかもしれない。

 

「見てよ、イヴ! 青色の玉、もらったよ!」

 

 また、そうやってイヴとメアリーが絵の具玉を探している様子を見ていたからだろうか。突如、イヴの腕の中の兎さんが飛び出したかと思うと。

 

"ねえ、たからさがししてるの? わたしもいっしょにあそびたい"

 

 兎さんは壁にそうコメントを残すと、ぴょんぴょんと跳ね回りながらどっか行ってしまった。

 

 その後もイヴとメアリーで絵の具玉探しは続けていたのだけれど、『連作 同体の2匹』の蛇から吐き出された『ガラスのハート』を『あずかりし心臓』に渡してから入れた書庫では、イヴ達とギャリーを引き裂いた茨がこっちにも生えていた。

 

 そして、茨の隙間から奥を覗き見てみると、桃色の絵の具玉が置かれている。

 

「う〜ん。あれは、トゲトゲをなんとかしないと取れないね〜」

 

 ただ、他にもこの書庫の本に紛れていた『色彩の極意』と題された本からは、緑の絵の具玉を見つけることができたし、本を調べている途中で兎さんも戻ってきた。

 

"わたしも、ふたつみつけたよ。いっこあげるね"

 

 ポンと眼の前に置かれる赤の絵の具玉。兎さんのおかげで、これで黄・青・緑・赤・4つだ。

 

"もういっこもほしかったら、わたしたちのおうちにあそびにきて"

 

 イヴとメアリーが頷くと、兎さんは案内するように、1つの扉を開けて、その中に入っていった。そこは、さっきまでは開かなかったとこだ。

 

 イヴがメアリーと一緒にそこに入ると、そこは隠し通路を見つけた部屋とすごく似ていて、兎さんの縫いぐるみ達がたくさん並んでいた。そして部屋の中央に、白い絵の具玉が置かれている。

 

 ここが兎さん達のおうち、ということなのだろう。こうして遊びに来たのだから、もうこれは貰っていいということだろうか。

 

 疑問に思いながらも、白の絵の具玉を拾って、これで計5つ。残りは、書庫の茨奥の桃色とガス室の青色の2つだから、一応、全ての絵の具玉の所在は明らかになったということだ。

 

 ……その時、入口のドアノブをガチャガチャと回そうとする焦ったメアリーの声が響いた。

 

「ねえ、イヴ。大変だよ! カギ閉められちゃった!」

 

 同時に、イヴの目の前に現れる赤い文字。

 

"また、たからさがし、しようよ。だれが、カギをもってるかな"

 

 ついでに鳴り響く、ゲーム開始っぽい鐘の音。それに合わせて、部屋奥の絵画から、たぶん兎さん達のドンらしき、一際大きな兎さんが、ひょっこりと額縁から顔を出してこっちを見下ろす。わぁお、ファンシー。

 

 え、ところで……。宝探し? またぁ? 遊びのレパートリー、少な過ぎない? 正直、絵の具玉探しで、もうお腹一杯なんだけど。

 

 まあでも、兎さん達のお願いなら、しょうがないかなぁ……。

 

 たくさんの兎さんがいるとは言え、兎さんの総数は多く見積もっても50匹は超えないくらい。縫いぐるみ自体は柔らかいから、硬いカギを持っていれば、触って簡単に気づけそうだ。メアリーとの2人がかりだったら、そこまで時間もかからないだろう。

 

 イヴにとって、本当に怖いのは、ひとりぼっち。ゲルテナ作品それら自体は、厳密な恐怖の対象ではない。だからこの状況は、実はあまり怖くない。

 

 もちろん、命に等しい薔薇を奪おうとしてくる作品は、怖くはある。だが、逆に言えばここまで来る途中で、いろいろ味方になってくれた作品もいた。

 

 この兎さん達は、別に薔薇を奪おうとはしてこないし、なんなら絵の具玉探しに協力してくれたりしている。

 

 その後に追加の遊びに付き合うことを強制してくるあたり、すごく面倒くさいお友達なのは確かだが、身の危険を感じる手合であるわけではなかった。

 

 メアリーは、そっちの方から、お願い。

 

 役割分担のためにそう言おうと、半ば疲れ気味の雰囲気で振り返ったイヴは口を開きかけ……そして、そのまま冒頭に戻る。兎さんの縫いぐるみ達を次から次へと破り続ける、メアリーの姿に。

 

 ……この美術館の探索途中。閉じ込められているにしては、メアリーは楽しそうだな、とは思っていた。唐突に『ミルクパズル』で遊び始めた時なんかが、最たる例だろう。

 

 そして、その底抜けの明るさに、助けられていたところも間違いなくあった。雰囲気が暗くなりそうな時だろうと、構わず明るくいられる。それはこういった極限状態では、最大の強みであって、イヴもギャリーも持ち得ないもの。だからイヴは、メアリーのそういうところは好きだったのだ。

 

 ただ、ことここに至って。イヴがこれまでに描き上げてきたメアリーの人格像、それが根底から揺るがされている。

 

 実のところ。ギャリーが目の前のような行動に、兎の縫いぐるみを引き裂くような行動に出たとしても、イヴはショックを受けこそすれ、それでもすぐに回復していただろう。

 

 イヴが見る限りでは。ギャリーは基本的に、作品は作品でしかないという考え方だ。たとえ動いていたとしても、自分達と同じ存在だとは見做していない。だから、禁止されようとも、あまり作品を壊すこと自体に躊躇しない傾向がある。まあ実際、動く作品なんて常識外れの代物は、下手をすれば化物だってこと、イヴだって否定はできない。

 

 一方のイヴは、と言えば。まだ子供だからかもしれないが、そこまでハッキリ割り切ることができないでいる。作品達が自分達と同じように意思を持って動いている以上、自分達と根本的には何が違うのか、それが分からない。だからどこかで、作品を壊すことへの本能的な恐怖がある。それは言わば、無意識的な殺しへの忌避に近かった。

 

 メアリーも、同じだと思っていた。動く作品達に親近感を持ち、また動いている兎さんの縫いぐるみをカワイイと言うメアリーは、つまりはイヴと同じものの見方をしている側なのだと。

 

 しかし。イヴの前で繰り広げられた、この惨状を整理するなら……。もしかしたら、それは違うのではないか?

 

 メアリーは、兎さん達の縫いぐるみをカワイイと言ったのに、そんな兎さん達を引き裂くことに、なんの痛痒も感じていないように見える。

 

 メアリーは、もしかしたら。ギャリーのスタンスでも、イヴのスタンスでもなくて。動く作品達のことを、自分達と同じ存在と見做しているのに……別に壊しても構わないと思ってる。

 

 理解できない。理解したくない。……だって。だって、それじゃあ。

 

 メアリーは、全く同じ状況なら。相手が自分達と同じ人間でも、物を取り出すためならば、喜んでその腹を開こうとする。そういうことに、なりはしないか?

 

 その結論が、導かれるや否や。強烈な既視感が、イヴを襲った。

 

 知ってる。知ってる気がする。それとすごくよく似た話を、イヴは最近、観た気がする。

 

「イヴ! カギ、見つけたよ~! 今、扉を開けるね~!」

 

 遂に宝探しの賞品を、この部屋のカギを見つけたメアリーが、それを持った左手を頭上に挙げて、高らかにゲームクリアを宣言した。そのメアリーの台詞と姿。完全にあのシーンと一致する。

 

 嗚呼、そうだ。その絵本の名は。その絵本の名は、確か……、『うっかりさんとガレット・デ・ロワ』。

 

 ガレット・デ・ロワの中にコインではなく、うっかりカギを入れた赤い少女が、うっかりそれを呑み込んだ、青い少女の腹を裂き、そのカギを取り出す物語。

 

 まだギャリーと合流する前、ひとりぼっちの時に見たあの絵本が、イヴは気持ち悪くてたまらなかった。人が包丁で腹を裂かれるという、残虐な結末自体も怖かったが、何より怖かったのは常識のズレ。

 

 あの絵本の中で、赤い少女は悪として描かれておらず、あくまで普通の少女である。それなのに。たかだか書斎のカギ程度のため、人の腹を切り開くのが、彼女にとっての常識なのだ。そこに潜む、普通に生きている限りにおいて、絶対に揺らがないはずの優先順位の違い。それこそが、イヴが理解できずに恐怖したもの。

 

 そう。今のこの状況を、あの絵本に当てはめるとするなら。メアリーが、あの絵本の赤い少女で。兎さん達が、あの絵本の青い少女で。

 

 そこで、兎さん達の姿がブレた。兎さん達の姿が、絵本の青い少女の姿に、一瞬だけ重なった、次の瞬間。イヴの周りを取り囲んでいた兎さん達は全員、不気味な青い人形達へと変貌していた。

 

 ……そして。それらの赤い目に取り囲まれながら、それらのお腹を破いて笑えるメアリーは。自分達とは、違うのだと。心の作りが、違うのだと。イヴはこの時、気づいたのだ。

 




厄介なことに。

自身が"壊れて"いることは、

自分では気づけない。


~???~






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『回転』

 視界が、回る。意識が、回る。さながらそれは、走馬燈のように。

 

「―――!!」

 

 丸ごと蒸し焼きにされているような灼熱に、あわや絶叫しそうになる。しかし、少し触れただけでこれほどの苦痛を与えるこの煙を直接吸い込もうものなら、それこそどれほどの地獄が待っていることか。そう予想することで、必死に口を食いしばって、喉で悲鳴を噛み殺した。

 

 身体を蝕む毒々しいペンキに似たガスの痛みに耐えながら、イヴはやっとのことで、紫色の絵の具玉が置かれていた安全地帯に辿り着いた。

 

 そして部屋の奥へと目をやり、部屋の入口へと目をやり、絶望する。たった今踏破した距離とは比べ物にもならない長さの煙の道が、視線の先に続いていた。

 

 この部屋の探索は、あえて後回しにするようにしていた。この部屋のあちこちから吹き上がる色付きのガスは、どう見ても身体に優しいものではないと、本能的に察知していたから。

 

 それなのに、今になってこの部屋の捜索に踏み切った理由は、他に調べるところが無くなってしまったのもあるが……。

 

「これで6つ目。あとは書庫の一個だけだね、イヴ!」

 

 こうやって隣で笑う、メアリーが怖くてたまらなくなったから。それが多分、一番だ。

 

 あの青い人形達の部屋での一件を受けて、イヴのメアリーへの印象は、可愛いけれど強い女の子から、得体の知れないナニカへと反転した。

 

 だからメアリーと2人きりの今の状況が怖くて、早くギャリーの元に戻りたくて、先に進める唯一の可能性に賭けた。この煙の中は通るべきではないという、自分の直感に蓋をして。

 

 その結果、なんとか6つ目の絵の具玉までは手に入れることができた。……でも、無理だ。この先を耐え切って奥に行くことなんて、とてもではないができるわけがない。ちょっと煙に触れただけで、ほぼ萎れかけてしまった赤薔薇が、その証拠だ。

 

 このままだと、すごく危ない。早く元来た道を戻って、花瓶に薔薇を活けて回復させないと……。

 

 そう思って振り返り、そこに先ほど潜り抜けたばかりの煙が上がっているのを目にして、足が止まる。

 

"もう一度、あれを通るの……?"

 

 この半分薔薇が萎れた状態のまま、もう一度煙に突っ込んだりしたら。今度こそ完全に、薔薇は枯れてしまうかもしれない。そうなったら、イヴはどうなるのか?

 

"本当に、死んじゃう、かも……"

 

 ならばこの状況は、もはや「閉じ込められた」ようなもの? その事実に気づき、イヴはゾッとして立ち尽くす。

 

「あっ……! 見てよ、イヴ! あの床にキチッとハマりそうなクローバーの置物だよ! あれで本置き場のトゲトゲも、きっとなんとかできるはずだよ!」

 

 この部屋の入口付近にも、最後に残った桃色の絵の具玉が残っている書庫にも、茨の石像がある。そして、この茨を引っ込ませる方法は、おそらくメアリーが言うように、床の隙間に、同じ形のオブジェを嵌め込むことだと思う。前にやった時と、同じように。そういう意味では、この絵の具玉集めの終点はもうすぐだ。

 

 そのためには先程より遥かに長い煙の道を潜り抜けなくてはいけない、という事実さえ無視すれば。

 

「それじゃあ一緒に、レッツ、ゴー!」

 

 そう言いながらメアリーは、左手で私の右手を掴み、グーにした右手を上に伸ばした。右手が強い力で、引かれているのを感じる。その向かう先は当然、煙がもくもくと立ち込める部屋の奥。

 

「や、やだ!」

 

 気がつけば。イヴは咄嗟に、メアリーの手を払い除けていた。

 

 された方のメアリーはと言えば、目を丸くしてパチパチさせながら、呆然とイヴの方を見るだけ。なんでそんなことをされたか、分からない。そう、言わんばかりだ。

 

「……え、……イヴ?」

 

 是が非でも、行きたくない。そんな態度をメアリーに示すように、イヴは両手で膝を抱え、壁を背にして座り込む。

 

「ね、ねぇ、どうしたの? 座ってないで、行こう? きっとあと少しで、出口があるよ!」

 

 ……メアリーは、なんで笑えるのだろう。

 

 青い人形達を素手で引き裂いていた時もそうだが、今もそうだ。メアリーも、イヴと一緒にあの煙に触れたばかりのハズ。一瞬でさえあんなに痛かったのに、こうして笑顔を浮かべたまま、奥へ進むことを戸惑わないでいられるメアリーが理解できない。

 

「私も頑張るから! 一緒にここを出ようよ! ね、イヴ?」

 

 メアリーは、死ぬのが怖くないのだろうか。イヴは、怖い。ひとりぼっちだった時は、「死んじゃってもいいや」と思ってた。でもその後ギャリーと出会って、ひとりぼっちじゃなくなって、いざこうして肉体的に激しい痛みを味わってみたら、どうしようもなく死ぬのが怖くなっている自分がいる。

 

「ほら、立って!」

 

"嫌、嫌、嫌。痛いのは嫌、痛いのは嫌、痛いのは嫌。死にたくない、死にたくない、死にたくない"

 

 必死にイヴを立たせようとするメアリーに、イヴは全身全霊の力を込めて抵抗する。腕を必死に互いに組んで、その場から動かないで済むように。

 

「イヴ……。私、ひとりで行っちゃうよ? いいの?」

 

 ただ、どうしてもその言葉だけは、聞き逃せなくて。身体がビクッと、一瞬震えた。ただ、それでも。俯いて膝を抱えた体勢から、顔を上げることは出来なかった。

 

 イヴ自身、訳が分からなかった。

 

 メアリーのことを、怖いと思っているのに。メアリーには、付いて行けないと思っているのに。そんなメアリーに置いて行かれることも、とても怖いと思っている。一体、何様のつもりなんだろう。

 

 少なくとも、メアリーはイヴと仲良くしたいと思ってくれている。それは、メアリーの態度からすごく感じる。それなのに、イヴが勝手に、一方的に、メアリーのことを怖がった。ただ理解できないものとして、メアリーを遠ざけようとした。……だから。

 

「……イヴのバカ……。せっかく、外に出られるかもしれないのに」

 

 こうして、見捨てられてしまうのも、当然なのかもしれない。メアリーの声からは、呆れと失望が滲む。メアリーがイヴから離れていくのを、イヴはその足音から聞いていた。けれど、まさか。

 

「ほんとに、私だけで行っちゃうからねっ!」

 

 元の部屋の方向ではなく、煙が立ち込める奥の方へ、たった1人で飛び込んでしまうとは。

 

「ダメっ、メアリー!!」

 

 そんな。自殺行為だ。メアリーは、どうしてこんなことを? 掴めるわけもないのに、メアリーが消えた煙の方へ手を伸ばす。

 

 自分のせいだ。自分がメアリーの手を振り払うようなことをしたから、こんな無謀なことをしたに違いない。

 

「置いてかないで……」

 

 最後に口から零れ出た言葉は呟きに近くて、ろくに反響もしなかった。そうして静かになった後、イヴは床に這い蹲った状態のまま、身体も起こさず嗚咽を漏らした。

 

 また、ひとりぼっちに、なっちゃった。この期に及んで考えているのは、1人で死地に向かわせてしまったメアリーのことじゃなくて、自分のこと。なんて自分勝手なんだろう。

 

 ……カタン。……カタン。

 

 軽い木片同士がぶつかり合った時のような、場違いな明るい音がした。それは部屋の奥の方から、したように聞こえた。

 

 先程までと、煙が出る場所と、煙の色が変わっている。イヴが閉じ込められていた安全地帯を取り囲んでいた煙も、入口扉方向のものはもう止まっていた。つまり、これでイヴはこの部屋から、安全に出ることができるということだ。

 

「んーしょ! んーしょ! ふぅ~……」

 

 聞き覚えのある声。とても騒がしくて、明るい声。呆然と声の方に目をやると、イヴの目の前でこの部屋の片方を塞いでいた、石の茨が引っ込んでいく。

 

 そうして茨がどいた先では、メアリーがおでこにかかった邪魔な髪を、左手で後ろに流していた。その姿は、まさに一仕事終えたと言わんばかり。そしてその足元には、きっちり嵌め込まれたクローバーのオブジェがある。

 

「……メアリー?」

 

「大丈夫! イヴのこと、置いてったりしないよ! だって、それってとっても寂しいもん。私、よく知ってるんだから!」

 

 分からない。分からない。メアリーは良い子なのか、悪い子なのか。メアリーは優しい子なのか、怖い子なのか。メアリーの人物像が、ぐるぐるぐるぐる回り続ける。

 

 ただ、メアリーはイヴを見捨てなかった。それだけは、間違いなかった。

 

「……そうだ、メアリー! 身体は!? 薔薇は!? 痛いところない!? 大丈夫なの!?」

 

 1人で煙の通路を奥まで行って、そうして戻って来たメアリーは、イヴよりずっと長い間、正面からあのガスを浴びたはずだ。気が狂いそうなあの痛みの中を越えてきたはずだ。死んじゃったとしてもおかしくなくて、すぐに治療しなくてはいけない。

 

 すぐにメアリーの元に走り寄り、その勢いのまま一緒に部屋を飛び出す。すぐにでもメアリーの薔薇を、花瓶に活けないといけないから。そのはずだから。

 

 ……なのに。2人で花瓶の前に立っても、メアリーは一向に自分の黄色い薔薇を活けようとする素振りを見せない。そんなことよりも気になることがあるといった感じで、なんかピンピンしているような……。

 

 ……あり得ない。すごく我慢強いだとか、死ぬのが怖くないだとか、そんな精神論を超えている。

 

「変なイヴ……」

 

 キョトンとした様子の、メアリーと眼が合った。そして彼女が続けた言葉で、全ての前提がひっくり返った。

 

「"イタイ"わけ、ないじゃん」

 

 メアリーの黄色い"バラ"は、花瓶に活けるまでもなく、ただ綺麗なままだった。

 


 

 

「メアリーは……。メアリーは、ゲルテナの作品なの……?」

 

 "イタイ"わけないってイヴに言ったら、何故か質問で返って来た。

 

 そのあまりの内容に、耳を疑う。

 

 ……ナンデ? ……ドウシテ? 

 

 オカシイ、オカシイ。バレちゃいそうなことなんて、何もしてない。

 

「アハハ。やだよ、イヴ。突然、何を言うの……?」

 

 今、私は自然に笑えてる? ちゃんと上手く、誤魔化せてる?

 

 イヴとはずっと、一緒にいた。私が作品だって書かれた本だって、イヴは絶対に見てなんかいない。それはイヴの傍にずっといた、私が一番よく知ってる。

 

「だって、その"バラ"……」

 

 イヴがおそるおそる指差したのは、私が手に持つ黄色いバラ。それをなんとなく不吉に思った私は、咄嗟に手を後ろに回して、自分の背中にバラを隠す。別にやましいところなんて、私のバラには無いはずなのに。

 

 気のせいかと思っていたけど。ちょっと前からイヴはどこか、私から離れたがっているような素振りをしていた。私より先に歩くようになったり、私の手を振り払ったり。これも全て、私が作品だって、気づかれてしまったから?

 

 近づくイヴから離れるように、ずりずりと後ずさる私。そんな私に構わずに、イヴはさっきの続きの言葉を言った。私にとって、絶対に無視なんてできない、その言葉を。

 

「だって、その"バラ"……。偽物、でしょ?」

 

「!? 違う!!」

 

 ほとんど、無意識だった。

 

 ニセモノ。それは、お父さん以外の人が、お父さんの作品だと偽って、作ったもののこと。私達家族が、絶対に許せないもののこと。だから私は、隠していたバラをイヴの前に見せつけて、大きな声で言い返す。

 

「これはお父さんが私のためだけに創ってくれた、ホンモノのバラだもん! ニセモノなんかじゃ、ないもん!」

 

 薔薇は、その人の心を映す鏡。それがモットーなお父さんが、私にくれた宝物。私が綺麗な心を持てるようにって、願いを込めてくれた宝物。だからいつも肌身離さず、大切にしている宝物。

 

 ただ、反射的に叫んだ後。悲しそうに私を見つめるイヴは、ゆっくりと首を振りながら言ったのだ。

 

「……メアリー。普通の薔薇は、誰かが作れるものじゃないよ」

 

「え……」

 

 ナニソレ、シラナイ。

 

 イヴはゆっくりと、その手に持ったイヴの赤い薔薇を、私の前に掲げる。それはちょうど、私がイヴへと突き出した、私の黄色いバラの隣。

 

 イヴの赤い薔薇は、なぜか皺くちゃになっていた。私の黄色いバラは、ぜんぜん綺麗なままなのに。

 

「だからメアリーは、痛くなかったんだね……」

 

 なにかが、違うんだ。イヴの薔薇と、私のバラで。イヴが言ってた、"ニセモノ"ってこのこと?

 

 そのままイヴは、水が貯まった花瓶にその赤い薔薇を挿す。すると、赤い薔薇はみるみる水を吸って、そのみずみずしさを取り戻していく。

 

 そうして並ぶ、赤い薔薇と、黄色いバラ。それを並べて見比べて、隣の赤い薔薇の方が、何故か綺麗に私には見えた。

 

 薔薇は、その人の心を映す鏡。健全な肉体にしか、咲くことはない。私が外に出るための"存在の交換"でも、一番大事になってくるモノ。

 

 その間で出たハッキリとした差を見せられて、私はすごく嫌な予感がしていた。ナニカ、とんでもないものを見落としているような、そんな気がする。

 

 それがなんなのか知りたくて、感じた疑問をイヴにぶつける。

 

「……イヴ。イヴの言う"イタイ"って、なに……?」

 

 私が知ってる"イタイ"って言葉は、自分が壊れちゃいそうな時に言う言葉。例えばみんなで遊んでいたりして、足が片っぽ取れちゃったりすると、歩きにくくて不便だよね。そーゆー時に"イタイ"って言えば、誰かが直しに来てくれるの。

 

 だけど、イヴが言う"イタイ"は、なんか違う。もっと別の意味から、出来ているような気がした。

 

 ……イヴは、なかなか口を開かない。どう言葉にすれば良いのか、それを考えているようだった。

 

「"痛い"っていうのはね……。苦しいこと、辛いこと。ヒリヒリして、怖くて、嫌なこと。傷ついたり、怪我をすると、私達はそうなるの」

 

「傷つく……。壊れそうってことで合ってるよね……? イヴは今、"イタイ"の……?」

 

「……今は、もう大丈夫。……さっきの煙に当たったとき、痛かったの。すごく、すごく、痛かったの」

 

 そう話すイヴの顔は暗いもので。だから、言われた言葉だけではよく分からなくても、少なくともそれは良い感じのものじゃないんだってことだけは分かった。

 

「……でも。傷ついたって……。こうやって、ほら! すぐ"直せる"よね……?」

 

 私はちょっとだけ半笑いで、花瓶に差されたイヴの赤い薔薇を指差しながらそう言おうとして。でも、私を見つめ返すイヴの真剣な眼差しに、その言葉はだんだん小さくなる。

 

「……メアリー。"痛い"は耐えられないとこまで行くと、"治せない"よ……。……それにね。"治せる"から傷ついていいなんて、そんなのは絶対おかしい」

 

 ナオセナイ。傷ツイテハイケナイ。それはとても、私には分かりづらい話だった。それに何よりどうしても、気になることが1つできた。

 

「"ナオセナイ"と、どうなるの……?」

 

 美術館で、物を壊したりするのはいけないこと。確かにお父さんからは、そう教わってはいる。ただ、家族みんなで一緒に遊んだりしていると、どうしても何かしら傷つけちゃうことはある。そういう時、私は皆が動けるように、ちゃんと元通りに直してきた。……だけど、それが出来ないとすれば。

 

「……ずっと、動けなくなっちゃう。……ずっと、話せなくなっちゃう。……そうして最期には。ずっと遠いところに行っちゃって、もう会えなくなっちゃうの」

 

「!?」

 

 私にとって、家族が動くのも、家族が話すのも、どっちも当たり前のことだった。だからイヴが先に言った2つは、私には想像が難しくて、あまりピンとは来なかった。だけど最後の1つだけは、それだけは私にもすぐに分かった。

 

 だって、私は知ってるから。会いたい人にずっと会えない寂しさを、私はずっと知ってるから。他でもない私自身が、それでずっと苦しく辛かったから。

 

 だから本当に悪いことをしちゃったんだと思って、今まで誰かに謝ったことなんてほとんど無かったのに、自然と謝る言葉が出てきたんだ。

 

「ゴメン! 私、そんなつもりじゃなくて……。私、イヴと会えなくなるなんて、ヤダ」

 

「……いいよ。メアリーに悪気があったわけじゃなかったんだって、分かったから」

 

 さっき、イヴに手を払われた理由は、これだったんだろう。イヴに酷いことをされたって、あの時はこっちがちょっと怒っていたけど、もっと酷いことをしていたのは私だったんだ。

 

 ……だけど、どうしよう。今のこの状況。私がお父さんの作品だって、認めてしまったようなものだよね? それって、やっぱり良くないことなんじゃ。

 

「……メアリー。私ね。メアリーのことが、怖かった」

 

 イヴが口にする言葉が怖くて、ギュッと強く目を瞑る。

 

「人形さんのお腹を破って、笑えちゃうメアリーが怖かった。毒の煙に当たっても、笑えちゃうメアリーが怖かった。理解できないメアリーが、とってもとっても怖かった」

 

 作品の、私が怖い。作品の、私が嫌いだ。だから作品の、私とは友達になれない。……そんなふうに、続けられると思った。

 

「でもね、今はもう違うよ」

 

 その瞬間。イヴが話す言葉の流れが、私を中心にぐるりと回る。

 

「メアリーは、知らなかっただけなんだ。自分が痛いっていうことが。誰かが痛いっていうことが。痛いのはみんな嫌だから、自分を、誰かを、傷つけちゃいけないんだっていうことが」

 

 イヴが右手を伸ばして、私の髪を梳かすように撫でる。その優しい手付きを感じて、やっと私はイヴがどんな顔をしているのか、見てみたい気持ちにかられた。

 

「もう理由が、解ったよ。メアリーのことが、解ったよ。だから私、もうメアリーのことは怖くない。メアリーがゲルテナの作品だってことなんて、友達になる邪魔にはならないよ。だってほら。私、作品の友達、他にもけっこういるし」

 

 おそるおそる眼を開けると、イヴは私を穏やかに見つめながら、その指を折り曲げるようにして、これまでに作った友達を数え上げているところだった。

 

「アリさん、椅子さん、猛唇さん、ガン見さん、いただきますさん、貴婦人さん、ジャグラーさん……。兎さんは、人形さんで、ちょっと残念だけど……。でも、どーだろ……? キモカワ?」

 

 イヴに最後に読み上げられて、大部屋に1人だけいた青い子は、嬉しそうにジャンプする。

 

「ほらね? メアリーが増えたって、それはとっくに今さらなんだよ?」

 

 そう言って、イヴは私に向けて、手を伸ばす。

 

 イヴが言ったことの意味が、じんわりと私の中に染み渡って、心が温まっていくのを感じる。

 

 ……すっごく、すっごく、嬉しい。もうイヴに、隠しごと、しなくていいんだ。私が作品だって知られちゃっても、イヴは嫌ったりなんてしないんだ。大好きなお父さんの話だって、もうぼかさずに話しちゃっていいんだ。

 

「ありがとう、イヴ!! 私達、これでシンユウだね!」

 

「そうだね、メアリー」

 

 私は幸せいっぱいの笑顔で、イヴの差し出した右手を掴んだ。そしてそんな私に、イヴも満面の笑顔を返してくれる。

 

 天にも昇る気持ちって、きっとこういう感じなんだね!

 

 ……そしてその笑顔のまま、手を繋いだまま。イヴは私に、言ったんだ。

 

「ところで、ギャリーと合流したいんだけど、できるよね。メアリーは詳しいんでしょ、この世界」

 

 この世界からは、2人しか出られない。やっぱり、このことだけは、言うわけにいかないんだと分かって。

 

 最後に改めて、地面へと突き落とされた気分だった。




印象は、状況は、反転する。

人間万事塞翁が馬。


~???~




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『隠した秘密』

「私達、鍵がかかったドアの先で階段を下りたところの部屋の書斎にいるよ」

 

『告げ口』という作品から、はぐれたイヴとメアリーからの居場所の情報が来た時は、とてもビックリした。ゲルテナ作品を伝言役にするとは、なんともまぁ奇想天外な連絡手段を見つけたものだ。

 

"これが若い柔軟な頭って奴なのかしら……"

 

 虹の橋が落ちないか、そーっと渡って鍵を手に入れて、そうして開くようになった扉は1つ。急いで階段を駆け下りて、書斎と思わしき扉を片っ端から開け放っていく。そして。

 

「ギャリー!!」

 

 ある扉を開けた瞬間、ギャリーに向かって、小さな身体が勢いよく突撃してきた。そしてそのまま、ひしとギャリーにしがみつくと、そのお腹に顔を埋める。紛れもなく、それはギャリーが探し続けていた2人の少女の片割れ、イヴに他ならなかった。

 

「イヴ!! 良かった! 大丈夫? 怪我はない?」

 

 コクッ、コクッ……。

 

 押し付けられる力が2回。ギャリーの言葉に頷くように、ギャリーのお腹に強く伝わる。イヴが無事だったのだと、下手な言葉よりもよく伝わって、ギャリーは胸を撫でおろした。

 

「メアリーは? あの子はどこ行ったの?」

 

 そう訊かれたイヴは上目遣いでギャリーを見上げると、その身体を預けたまま、首だけをゆっくりと回して、書斎の奥の方を見やる。その視線の先を追うと、本棚の裏に隠れるようにして、顔の上半分だけをひょっこりと出し、おっかなびっくりこちらの様子を窺っているメアリーがいた。

 

「……!?」

 

 ギャリーと眼が合ったことに気づくと、メアリーはそれに驚いたようで、すぐに本棚の向こうへ顔を引っ込めてしまった。しかし、ちょっと待つと。またおずおずと顔を出して、こちらを覗く。そしてやっぱり、すぐに引っ込める。

 

"なに、あれ……?"

 

 一方そんな姿を見たイヴは、ギャリーにくっついた体勢のまま、大きく溜息をついたかと思うと、名残惜しそうにギャリーから離れた。そしてメアリーが消えた奥の本棚まで、スタスタと歩いていき、その裏へと回り込む。本棚の向こうから、イヴとメアリーがこそこそと、言い争うような声が聞こえる。

 

「……ほら! ホントのこと、言うんでしょ!?」

 

「ヤ、ヤダ、イヴ……!? 押さないで……!」

 

 イヴが強い声で何かを主張し、メアリーがそれに弱い声で抗議する。それは、ギャリーが離ればなれになる前に2人に対して抱いていた印象とは正反対だった。まるで、攻守がくるっと逆転してしまったかのような。

 

 やっとギャリーの前に全身を見せたメアリーは、1冊の分厚い本を胸に抱えていた。本はメアリーの身体がほとんど隠れてしまうくらい大きなもので、遠目では図鑑のように見える。

 

 姿を見られたメアリーは、ようやくそれで観念したのか、肩をイヴに両手で後ろから押さえられたまま、ゆっくりとギャリーの方へと歩いてきた。そうしてギャリーの元まで辿り着くと、持っていたその本を、黙ってギャリーに押し付ける。『ゲルテナ作品集 下』。そう表紙には、書かれていた。

 

 内容を見てほしいという意味だろうとは察しがついたので、軽くパラパラと中身を流し見する。『蛇蝎の精神』、『吊るされた男』……。ゲルテナの作品の数々のエピソードが、絵の写真と共に紹介されている。2階の茶の間でギャリーが見つけた、『ゲルテナ作品集 上』の続巻のようだった。

 

「……? これが、どうかしたの……?」

 

「……」

 

 ギャリーの問いに対し、メアリーは口を閉ざし、目を伏せたまま、動かない。

 

 簡潔にまとめられていて、確かに情報源としては有力かもしれない。ゲルテナ作品の知識についてクイズを出してきた輩もいたことだし、脱出の手掛かりにも成り得るだろう。しかし、今のメアリーの態度を見る限り、彼女が伝えたいことは違うように思える。

 

 見かねたイヴが、ギャリーに言った。

 

「Mの、ページを見て」

 

 イヴに言われるままに作品集のインデックスを頼りにMから始まる作品が纏められているページを開く。

 

 真っ先に開いたページで解説されていたのは、『ミドリのよる』だった。ただ、イヴも、メアリーも、反応がない。イヴとメアリーが伝えたいことは、この作品についてではない。だから隣のページを捲ってみた。そこの見出しには……

 

 『メアリー』とあった。『メアリー』とあった。『メアリー』とあった。

 

"『メアリー』 ----年 ゲルテナが手掛けた、生涯最後の作品。まるでそこに存在するようにたたずむ少女だが、もちろんのこと彼女も実在しない人物である"

 

 紹介文の反対側のスペースに載せられている絵の少女。それはつい今しがた、ギャリーにこの本を手渡しした少女と、瓜二つで……。

 

「な、なんで……。え? うそでしょ……、これ……。メアリー……?!」

 

「……なんて言ったらいいか、分からなかったから。だから、この方が早いと思って……」

 

 弾かれるようにギャリーは顔を上げ、本とメアリーの間で視線を往復させ、作品集の少女と目の前の少女を見比べる。作品集に載っている絵の少女を、2次元から3次元化させたなら。まさに目の前のような少女になるに違いなかった。

 

 メアリーをモデルにして、ゲルテナがこの絵を描いたということはあり得ない。だってここの解説文で、メアリーという少女は存在しないと断言されている。解説文の方が間違っている可能性が頭を一瞬過るが、それはメアリーがこれを自分から渡したことによって否定された。

 

「お父さんが創ってくれた"バラ"も。イヴ達が持ってるのとは、ちょっと違うみたいなの……」

 

 メアリーはそう言うと、彼女が持つその黄色い"バラ"をギャリーの眼の前に差し出した。

 

 ギャリーが間近でよく目を凝らすと、それはとても綺麗だったが、逆にそれが異質に感じた。生きた薔薇に特有の、いつか散ってしまう儚さが、眼の前のこれからは感じられない。そうやってやっと、ギャリーはメアリーが持つ"バラ"が、とても精巧に作り込まれた造花だったのだと気付いた。こうやってまじまじと見ない限り、暗い美術館の中で気づくのは、至難の業だったに違いない。

 

「……メアリーはね。ゲルテナの作品だったの。でも私達と同じように、この世界から外に出たくて。だから仲間に、なりたかったんだって……」

 

 混乱するギャリーが状況を整理できるよう、イヴが補足する。

 

「確かに隠し事をしてたけど……。でもそれは、私達に嫌われたくなかったからってだけ。だから、ギャリー……。メアリーも、一緒に連れてってあげよう?」

 

 そしてイヴは、メアリーがゲルテナ作品だと分かった今でも、彼女を一緒に連れて行くべきだと、そう言うのだ。

 

「ちょっと待って……。大丈夫なの、それ……?」

 

「―!? ほら! やっぱりダメじゃん、イヴ!!」

 

 気が進まなそうなギャリーの姿勢を見て、メアリーの声色に怒りが滲む。

 

 ギャリーにとって。ゲルテナ作品は、敵だった。『青い服の女』に薔薇を奪われたことに始まり、命の恩人のイヴまで手にかけようとする非生物達。それに、イヴとギャリーがこの世界に迷いこむことになった元凶は、結局はゲルテナ。そのゲルテナによって創られた作品達が、ゲルテナ側であることは自然である。

 

 一度イヴと離ればなれにさせられたのだって、ゲルテナ作品のせいだ。そしてギャリーはあの事件に、ギャリーを引き離そうとする何らかの意図を感じていて、その不吉な違和感の正体は明らかになっていない。

 

 そもそも、イヴとギャリーが「この世界から出たい」と思うのは、「元の世界に帰りたい」からだ。しかし、メアリーがゲルテナ作品だと判明した以上、彼女の帰るべき世界は此処ということになる。ゲルテナ作品である彼女にとって、此処は言わば我が家であり、積極的に出ようとする事情がない。つまり、メアリーが「この世界から出たい」はずの具体的な理由が、まるまる失われてしまったことになる。

 

 そういった数々の考察から予想されるのは、メアリーはまだ他にも私達に言えない秘密を隠しているんじゃないか、ということだった。

 

 頭の中に思い浮かんでは消える、メアリーを連れて行くべきではないという、数々の理屈。しかしイヴがメアリーを庇う次の言葉を聞いて、ギャリーはそれを呑み込むしかなかった。

 

「大丈夫……! だって、メアリーは。私が危なかった時に、助けてくれたから……」

 

 ギャリーがイヴのために何でもしたいと思うのは、イヴが幼い少女であることも理由だが、一番の理由は「ギャリーが危なかった時に、イヴが助けてくれた」からだ。

 

 同様に、「イヴが危なかった時に、メアリーが助けてくれた」なら。イヴがメアリーのために何でもしたいと思うことを、ギャリーには否定できない。否定できる、わけがない。それはギャリー自身の行動原理をも否定することになるから。

 

「……分かったわ。ごめんなさい、メアリー。疑ったりしちゃって」

 

 だからギャリーは、表面上ではそれを受け入れることにした。この優しい少女が、イヴがメアリーを信じようとする気持ちは、尊いものだから。それは決して、単なる大人の理詰めで、一方的に論破していいものじゃない。

 

「え……? ホント!? ギャリーも、私のトモダチになってくれるの?」

 

 でも、だからこそ。そんな優しい心に付け込んで、メアリーがイヴに何か悪いことをしようと企んでいたなら。絶対に、ギャリーはそれを許せないだろう。

 

「ええ。アタシとメアリーも……。これで、友達よ」

 

「……!? やったーっ! スゴイ、スゴイ! イヴの言ったとおりになったよ!」

 

 ギャリーの言葉を素直に受け取ったらしいメアリーは、さっきまでの怒りがみるみる引っ込んで、イヴと両手を取り合って、上機嫌そうにジャンプを繰り返す。

 

 ギャリーは強く決意していた。メアリーを信じるのが心が綺麗なイヴの役目なら、メアリーを疑うのが心が汚いギャリーの役目。メアリーがまだ何か秘密を隠し続けているのであれ、あるいはそれがギャリーの杞憂であれ。それできっと、バランスは釣り合う。

 

 ギャリーはメアリーを信頼していない。そんな簡単に信じられるほど、ギャリーはメアリーのことを知っていない。

 

 そんな秘密を隠したまま。ギャリーは薄っぺらい笑顔を浮かべ、イヴとメアリーを撫でようと、それぞれの頭に両手を伸ばす。

 

 彼女達から見えないように、コートの中に潜ませたままの、パレットナイフ。それが振り下ろされるその先が、メアリーにならないことを祈りながら。

 




Sub rosa.

薔薇のすぐ下、隠れた棘あり。


~???~




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『あこがれ』

「ここから先はね! 私が描いた場所なんだよ〜!」

 

 『あこがれ』という絵画の前から下に伸びる階段のてっぺんで、メアリーは後ろを歩くイヴとギャリーを振り返ると、両手を真横に大きく伸ばして、パタパタと上下に振る。

 

 そうして階段を降りた先は、確かにメアリーの言う通り、これまでとは雰囲気が違かった。

 

 そこにあるもの全てが、クレヨンで描き殴られて出来ているような、2次元の空間。このエリアを、メアリーは『Sketchbook』と呼んでいるようだ。

 

 2次元空間に3次元の自分達が入り込むことで生じる、まるで自分達こそが異物になったような変な感じ。それは決して混じり合わない並行世界の境界に立っているかのようで、似たような体験はこれまで味わったことがない。

 

 メアリーがゲルテナ作品だと判明して、改めて仲間に加わってから。この世界を進むのが目に見えて早くなったと、ギャリーは感じていた。

 

 と言うのも、この世界について詳しいだろうメアリーが、自分から前を歩いて、案内をしてくれるからだ。道がこの先どう続いているか、分からないのが最大の難点だったと思えば、今のこの状態は安心感が違う。

 

 とくにこのクレヨンエリアに入ってからは、なおさら勝手がよく分かるようで、その傾向は特に顕著だ。これまでの美術館の探索とは違って、身の危険を感じる状況はほとんどない。

 

 それはきっと、此処の主であるメアリーが、こうして味方に付いているからだ。そういう意味では、少なくともメアリーとの関係を絶たずに味方につけるというところまでは、イヴの提案はファインプレーだったのだろう。

 

"このまま何も起こらず、出口まで辿り着ければいいんだけど……"

 

「いろんなエリアがあるんだよ~! ちゃんと1つずつ、案内してあげるね!」

 

 そんなことよりも、出口は何処だ。そうギャリーは思ったが、あまりメアリーの機嫌を損ねない方が良いかと思い、結局黙っていることにした。

 

「今、私達がいる場所が"ぼくじょうエリア"だよ~。外には動物が、いっぱいいるんだよね!」

 

 ピンクや黄色の、現実ではありえない配色で塗られた馬が、そこには在った。動物なのに居たと表現しなかったのは、動かなかったからだ。クレヨンで描かれた絵でしかないのだから、動かないのは当然。いや、この世界では、むしろ異常なのか?

 

 そして、ギャリーと手を繋ぐイヴには、もっと気になるものがあるようだった。

 

「……これ。ここに描かれてるの、私達……?」

 

「うん、そうだよ!」

 

 それぞれの薔薇を持った、イヴとギャリー。そして道を隔てて少し離れた所に、メアリーと黄色い"バラ"を持った青い人形。そんな皆の姿が、クレヨンで描かれていた。

 

「……メアリー。この絵を描いたのって、私達と会う前だよね……?」

 

「そうだよ?」

 

「……どうして私達の姿を知ってたの?」

 

「鏡に映ってたから! あの時のギャリー、叫んだり、ひっくり返ったり、面白かった! ……あ。そー言えばその後、鏡、どこやったっけ?」

 

 鏡。ギャリーとイヴが2人で鏡の前に立ったのは2回あるが、叫んだり転んだりという醜態を見せたのは、流石に1回だけ。クソマネキンヘッドに、後ろから忍び寄られた時だけである。

 

 後ろで起こった事件に完全に気を取られて、鏡自体は普通のものだと思い込んでいたが、実はハーフミラーのように、向こう側から覗けるような状態だったのか。

 

 あの時、一瞬だけカッとなって、マネキンを蹴り飛ばしそうになったことを思い出す。イヴに止められていなければ、そのまま足を振り抜いていたいたことだろう。……メアリーが見ている、その前で。

 

 思考を、眼の前のクレヨンで描かれたイヴとギャリーの絵に戻す。背景はグレーで塗られていた。あの時、ギャリーとイヴがいたのも、灰の間だった。辻褄は、合う。

 

「次は"ちょうちょこうえん"! みんな、私とおんなじ黄色だし、ちゃんとパタパタしてくれるんだよ! スゴくない?」

 

「……でっか」

 

 先程の馬達とは違って、このエリアのクレヨン製の黄色の蝶達は、羽ばたいていた。動いている、という意味では、確かにメアリーの言うように「すごい」のかもしれないが、そんなことより。

 

 大きい。すごく大きい。人間大の蝶が何匹もバッサバッサと羽ばたいている様は、迫力満点だ。というか、怖い。

 

「ちょーおっきいね」

 

 イヴがボソリと呟く。その後、誰からも反応が無いことに気付くと、静かに顔を赤くしていた。

 

「"フルーツの木エリア"! あんまり使ってないけれど、食べる用のおうちもあるよ! ……ねぇ。外の果物って、みんな味が違うんでしょ?」

 

 続いて紹介されたのは、果樹園のようなエリアだった。果物がなっているたくさんの木が、やはりクレヨンで描かれている。小道には小さな一軒家が建っていて、どうやらここで採れた果物を食べる時に使うためのようだ。

 

 現実の果樹園は、ある程度果物の種類を決めて、それを集中的に生産するもの。こんなふうに、それぞれの木で一本一本異なる種類の果物が植えられた場所は、やはり何処か現実離れしているように感じられた。

 

「じゃ~ん! "びじゅつかんエリア"だよ! 私のお気に入りの場所! あのプリンを眺めながら、ここで日向ぼっこするの!」

 

 山のように大きいプリンと、サンサンと道を照らす太陽。ここの太陽も、クレヨンで描かれた絵だったが、その光はちゃんと暖かい。

 

「……プリン、好きなの?」

 

 光の中に差し掛かったところで、イヴが奥に見える巨大プリンを見ながら、メアリーに訊いた。

 

「んーとね、プリンだけじゃなくて、いろんなお菓子、食べてみたいなぁ……。ここに描くお菓子をプリンにしたのはね、ここには黄色いのがいいなって思ったからなんだ!」

 

「黄色い、お菓子……」

 

 イヴはメアリーが言った単語を繰り返すと、黄色いお菓子に相当する、イヴがギャリーがあげたレモンキャンディを取り出し、それをじっと見つめ始めた。

 

 そして当然、そんなことをしていれば、メアリーの目にも留まる。

 

「イヴ? どーしたの、それ?」 

 

「……レモンキャンディ。ギャリーに、もらった」

 

「!? それ、欲しい!」

 

「絶対、ヤダ」

 

「えぇ~!?、ど~してぇ!?」

 

 イヴはふふんと挑発するように流し目でメアリーを見やると、ギャリーからもらったレモンキャンディを、メアリーの前で見せびらかす。ゆらゆら……、ゆらゆら……、ゆらゆら……。

 

「ギャリー、イヴが意地悪するぅ! イヴだけズルいよ! 私にもなんかちょーだい!」

 

「えぇ~……?」

 

「い~でしょ! トモダチなんだから、区別しちゃヤダ!」

 

 突然、流れ弾が飛んできたことに、ギャリーは戸惑いの声を漏らした。

 

 偶然コートのポケットに一個だけ入れていたレモンキャンディは、もうイヴにあげてしまった。だから、今持っているものの中で、メアリーに渡せそうなものを思い浮かべてみる。

 

 ライター。危ないから、絶対ダメ。メアリーを完全に信用できていない以上、メアリーに危険物を持たせる訳にはいかない。それに、元々が絵のメアリーからしても、もらって気分がいいものじゃないだろうし、使い道もろくに無い。

 

 パレットナイフ。論外。玩具のようなものではあるが、金属で出来た兇器だ。何より、この世界に来て拾ったものを渡しても、正しい意味でギャリーからのプレゼントになるとは言えまい。

 

 となると、残された選択肢は、おのずと限られる。

 

「しょうがないわねぇ……。ちょっと、腕を出しなさい」

 

「?」

 

 この世界に来てから、壊れてしまった腕時計。ギャリーは自分の腕からそれを外すと、そのままメアリーの後ろに回り込み、ピンと伸ばされた彼女の左腕にそれを巻く。一番キツくしめられる穴に留め金を通してみるが、それでも大人の男物のそれは、メアリーの細い腕にはまだぶかぶかだった。

 

「時計……?」

 

「そ。あげられそうなの、もうコレしかないの。アタシのお気に入りだったんだから、サイズが合わなくても我慢しなさい?」

 

 しげしげと、自分の腕に着いたそれを眺めるメアリー。そして一拍置いた後、彼女はギャリーの方を見返した。

 

「でもこれ、動いてないよ……?」

 

「しょーがないでしょ、この世界に来てから壊れちゃったんだから。外に出たら、直すなりしなさいな」

 

「ふ~ん……? しょーがないなー。 許してあげる!」

 

「なんでもらっといて、上から目線なのよ……」

 

 クレヨンで出来た日向の上で、メアリーは座った状態から仰向けに寝転ぶと、左腕を上に高く掲げて、腕時計を太陽に照らした。直射日光が反射して、止まった秒針がキラリと光る。そんな様子を、真下からメアリーがじっと見上げる。 

 

 クレヨンで出来た偽物かもしれないけれど、それでもポカポカと心地よい陽気の中。横になっているメアリーにつられてか、イヴは胡坐座りしているギャリーの元にすり寄ると、その組んだ足の上にそっと頭をのせ、眼を閉じる。

 

 とても、静かだ。

 

 実際は数分かもしれないが、かなり長く感じられた沈黙の後、イヴは薄目だけちょっと開け、寝た体勢のまま切り出す。

 

「……メアリーは、さ」

 

「……?」

 

 寝たままの状態で器用に首を傾げるメアリーに、イヴは核心となる質問を投げかけた。

 

「外に出て、何がしたいの?」

 

 イヴがメアリーに訊いた内容を聞いて、ギャリーは心の中でイヴにガッツポーズを送り、耳をそばだてた。

 

 メアリーがリラックスして完全に警戒を解いている、今は絶好のチャンスだ。メアリーに裏の目的がないか探りを入れるのに、これ以上のタイミングはないだろう。

 

 油断して口を滑らせれば、儲け物。そうでなくても、ここで口籠るようなら、後ろ暗い何かがあるっていうことがハッキリする。それが分かるだけでも、これからのメアリーへの対応を決める大きな判断材料になるはずだ。

 

 だから、メアリーの口から。

 

「トモダチが、たくさんほしい」

 

 純粋な願いが、切実な願いが、零れ出てきて。完全に虚をつかれたのだ。

 

 メアリーの目が放つ青いオーラに、完全にギャリーは呑み込まれていた。そこには、子供のように純粋な光と、永遠を感じさせる雰囲気が、相反するのに両立していた。

 

「イヴともギャリーとも、シンユウになれたけど。動物さんだったり、もっといっぱい沢山の、一緒に遊ぶトモダチがほしい」

 

 ギャリーを畳み掛けるように、矢継ぎ早に次々と、やりたいことがあげられていく。

 

「美味しいものを、いっぱい食べてみたい。お菓子も、フルーツも、いろんな種類。ケーキが食べたい、クッキーが食べたい、チョコレートが食べたい、かき氷が食べたい、プリンが食べたい、キャンディが食べたい。リンゴが食べたい、サクランボが食べたい、ブドウが食べたい、バナナが食べたい」

 

 メアリーが言う食べ物は全て、ギャリーが一度は食べたことがあるもの。

 

「いろんな空を、見てみたい。明るいお昼のお日様と、暗い夜のお月様。それでたくさんのお星様を数えるの。雨が降ったり、雪が降ったり、きっと七色の虹だって。ころころ変わるお天気は、きっと見ていて飽きないの」

 

 メアリーが言う天気は全て、ギャリーが一度は見たことがあるもの。

 

「いろんなものを見てみたい。花びら吹きあれるお花畑。お魚さん達と潜る海の中。不思議がいっぱいのサーカス。キラキラ輝く宝石や、ピカピカ光るアクセサリー」

 

 メアリーが言う物は全て、外にいた時のギャリーが、望めば簡単に見れたもの。

 

 願望を1つずつ言う度に、上へ伸ばした腕時計を着けた側の手の指を、数えるように伸ばしたり折ったりしていくメアリー。

 

 この世界から脱出するためのただのルートとして、特に気にも留めずに通り過ぎてきた、Sketchbookの数々のエリア。ギャリーの中で、それが急に、強い意味を持ち始める。

 

 イヴに形の上では説得されたとは言え、ギャリーはメアリーを疑いの目で見ていた。メアリーもゲルテナ作品。絵の女達と同様に、何か良からぬことを企んでいるんじゃないかと。

 

 しかし、それはとんでもない筋違いだったのだと、今のギャリーなら認めることが出来る。

 

 メアリーの熱意がこもった強い口調が、外へのあこがれに満ちた蒼い眼が、これ以上なく訴えるのだ。

 

"……この子は、本当に外に出たいだけなんだわ"

 

 ふと、疑問に思う。外の世界に、素晴らしいものなど、綺麗なものなど、ろくにない。ギャリーはずっとそう思っていたが、それは本当に事実なのか?

 

 今しがたメアリーが語ったものは全て。ギャリーにとってはその気になれば、簡単に経験できるものばかり。大したものには、思えない。

 

 でもそれは、実は逆で。何も感じなくなっていたのは、ギャリーだけで。本当は外の世界は、キラキラしたもので溢れていたんじゃなかったのか。

 

 なんの根拠も無いのに自信だらけで、やりたいことが幾つもあった、かつての自分を思い出す。

 

 イヴやメアリーくらい幼かった時。絵本に出てきた巨大ケーキの上に乗ってその地面ごと食べてみたいとか、ジュースの海に飛び込んで泳いでみたいとか。そんな常識外れの奇天烈な夢を、ギャリー自身も持っていた。そして当時の若いギャリーには、確かに世界は色づいて見えていたはずだったのだ。

 

「あとはね〜。お姫様にもなりたいな!」

 

 ギャリーがとっくの昔に喪った"蒼さ"。それをこの子は、ちゃんと持っている。

 

 大人のギャリーにとって、灰色一色にしか見えない外の世界で。幼いこの子は、いったいどれだけの輝きを、その蒼い眼で見つけ出すことだろう。

 

 見てみたい。この子が行く先を、成長する先を、見てみたい。どうしようもなく、純粋に、心の底から、そう思う。

 

 メアリーが語る夢の数々を、黙って横で聞いていたイヴが、そこで堪らず切り出した。

 

「できるよ」

 

「え?」

 

「メアリーが、やりたいって言ったこと。お姫様だけはちょっと分からないけど、他は全部。できるところに、連れてってあげる。一緒に行こ?」

 

「……ホント!?」

 

 メアリーはそれを聞くや否や、上半身だけ飛び起きて、イヴにパァッ……と笑顔を向ける。

 

 このタイミングで、ギャリーは外の世界のあることを、1つだけ思い出していた。外の世界に魅力を感じなくなっていたギャリーでも、素晴らしいと思えた限られた1つ。

 

「ねぇ、メアリー……。マカロンって、知ってる?」

 

「マカロン? ううん、聞いたことない」

 

「ハンバーガーみたいな形のお菓子なんだけど」

 

「知らないお菓子だ!?」

 

 ただ偶然、足を運んだ喫茶店で食べたマカロンが、美味しかった。それは日々を取り巻くストレスに比べれば、本当に小さなものでしかない。でも、それを食べているだけで、ささやかな幸せを感じれたこと。それだけで十分だったのだと、メアリーのお陰でギャリーは思い出せていた。

 

「この間、そのマカロンがすっごく美味しい喫茶店を見つけちゃって! これがホントに美味しいのよー、クリームも甘すぎないし」

 

「食べたい!」

 

「……うん。だからね。ここから出たら、3人で一緒に、行きましょ! 約束よ!」

 

 3人一緒に、この世界を出た時の約束。それを自分の口から提案したことに、ギャリー自身でも驚いた。

 

 メアリーは外に出たいだけ。ギャリー達に悪さをしようとしている訳ではない。これはほぼ間違いない。だからメアリー自身が敵である可能性は、もう警戒する必要はないと思う。

 

 でも、「それならメアリーも一緒に出ればいいよね」とはいかないのが、大人である。

 

 「作品がこの世界を出て問題がないのか」という単純な懸念。それがまだ、ギャリーには引っかかっている。

 

 例えば、メアリーが外の世界に出たとして。作品である彼女は、外の世界で、人間として認められるのか。あるいは認められたとして、その身元はどういう扱いになるのか。そういった疑問が残るから、まだギャリーは、メアリーが外に出ることを完全に肯定しきれない。

 

「……あ! あとね~」

 

 ただ、そんなギャリーの心の中の葛藤は。

 

「お父さんに会うの! 外の世界に行っちゃったままの、お父さんに!」

 

 メアリーが思い出したように告げた言葉が、どうしても無視できないものだったことで、完全に中断を余儀なくされた。

 

「えっ……?」

 

 ギャリーは、咄嗟に出てしまった疑問の声を隠せない。

 

「ずっと、来なくなっちゃったの。前はしょっちゅう、この世界に来てくれてたのに。だからね。今度は私の方がお父さんに会いに行くんだ」

 

 ……ちょっと、待って。……元が絵である、メアリーが言う、お父さん。……それは、つまり。

 

 ギャリーはただ、思い至った結論を口にしていた。

 

「ワイズ・ゲルテナ……?」

 

「うん!」

 

 ……どういう、こと?

 

 ギャリーは、ずっと思っていた。今のこの状況は、ギャリー達がこの世界を彷徨っているのは、この世界の創造主ワイズ・ゲルテナの思い通りなのだろうと。自らの創った世界の中で、寿命すら超越して生き永らえたゲルテナが、この世界のどこかに潜んでいて、遥かな高みからギャリー達を眺めて、足掻く様を嗤っているのだと。

 

 ところが。今のメアリーの言葉を、素直に受け止めるのであれば。ワイズ・ゲルテナはもう、この世界には居ない。つまり、この世界は既に、ワイズ・ゲルテナの手を離れているのだ。で、あれば。今のこの状況は、ゲルテナ本人が意図したものですらない可能性がある……?

 

 いや、それよりも。この世界には居ない……? ……本当に、それだけ? ワイズ・ゲルテナが居ないのは、本当に、この世界だけだっただろうか……?

 

 ……ギャリーの脳裏に、ある映像がフラッシュ・バックする。こんな不思議な世界に、迷い込む前。まだ普通に他の観客がいた時に、ある人物が漏らしていた台詞。

 

「あぁ! あなたが生きていれば、絶対に弟子入りしたのに……!」

 

 ……そうだ。ワイズ・ゲルテナは、故人。もう、生きてはいない。

 

 ならば、眼の前にいるこの少女は……? 言わば親に先立たれた、子供にならないか? そして。自分がそんな立場であるということを、既に自分の親が死んでいるということを、メアリー自身は理解できているのだろうか?

 

 嗚呼、嗚呼……。間違いなく、理解ってなどいない。だからこそ、「外の世界に出て、お父さんに会いたい」などと、無邪気に笑って言うのである。

 

 メアリーが外の世界に出てやりたいと言ったことは、そのほとんどが外に出れば容易に叶うことばかりだった。しかし、最後に言った1つだけは。親にこがれる気持ちだけは、絶対に叶うことがない。

 

 傍らで聞いていたイヴも、ギャリーに遅れてメアリーの言葉が意味する残酷な事実を悟ったようで、それを確かめるかのように潤ませた視線を送ってくる。

 

 ……それは、悲劇だ。親に死なれること。それだけでも、子供にとっては最上級の悲劇である。だが、それ以上に。それを知ることすら許されず、悲しむこともできないという状況こそが、何にも増して悲劇なのだ。

 

 普通ならば、こうはならない。片方の親が死んだら、もう片方が。あるいは片親が死んだら、親戚なりが。誰かが子供に、親の死を伝えてあげるものだ。

 

 いったいどれだけの間、こんなことが続いていた? いったいどんなに長い間、メアリーは来ない父の帰りを待ちこがれ続けた? 

 

 大切な人と別れた時、自分の中でその死を受け止めるということは、とても辛く哀しいことである。だがそれは同時に、喪った誰かが居なくても次の一歩を踏み出せるようになるための、最も重要なプロセスに違いない。

 

 だから。それすら奪われたメアリーは、ゲルテナが他界してからずっと、時が止まったままなのだ。そしてそれは、メアリーがこの世界から出ない限り、彼女が父の死を実際に肌で感じない限り、絶対に終わることはない。それはそれこそ、永遠に。

 

 駄目だ、駄目だ。そんなことは、許されない。そんなことが、あっていいはずがない。

 

 誰か、いなかったのか? メアリーに、彼女の父がもう戻ってこないことを告げる人が。そうして行き場を失った彼女を引き取り、新しい居場所をもたらしてやれる人が。

 

 ……そんなもの、この世界に、いるわけが無い。いや、もしもいるとしたら、それは誰か?

 

 だから、この時ようやく。イヴに説得されたわけではなく、メアリーの願望に絆されたわけでもない。ただギャリー自身の考えとして、1つの決意が固まったのだ。

 

"メアリーを外の世界に出してあげなきゃいけない"

 




かつて子供であった時、私は大人にあこがれていた。

そして大人になった今、私は子供にあこがれるのだ。


~???~




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『指定席』

「メアリー……。落ち着いて、聞いてほしいの……」

 

 メアリーがお父さんについて触れた後に訪れた、とても永く思えた静寂。それを破ったギャリーの言葉は、イヴに向けたものではなかったけれど、耳を澄まさずにはいられない。

 

 チラリと横目でギャリーの様子を流し見る。ギャリーの目元には陰がかかっていて、その表情を窺うことは出来ない。

 

 そしてギャリーは遂に、その言葉を切り出した。

 

「アナタのお父さんは……。もう、"亡くなってる"わ」

 

「……? "ナクナッテル"? 何が無くなってるの?」

 

 眼を伏せているギャリーと裏腹に、メアリーの眼が疑問で丸くなる。それがすごく対照的で、だからこそ傍から見るイヴは、それをとても悼ましい光景だと思う。

 

 「亡くなってる」。メアリーには絶対に伝わらないだろう、その言い回し。しかし、ギャリーがそれを最初に使ってしまったことを、イヴは責めることが出来ない。だって、その単語を言ったら、核心に近づいてしまうから。それを直接メアリーにぶつけてしまうのは、余りにも残酷に思えたから。

 

 口を開きかけて、閉じて。また口を開きかけて、唇を軽く舐めて、また閉じて。そうしてやっと、ギャリーはその単語を口にした。

 

「……"死んでいる"って、ことよ」

 

「……??」

 

 たった10音にすら満たない、端的な一文。しかしそれを口にするのに、ギャリーがどれだけの勇気を振り絞ったか。イヴには、想像することしかできない。

 

 誰かに会いたいと言う人に、その誰かが死んでいると伝えること。そんな嫌な役回りは、出来るなら誰だってやりたくはない。実際、イヴは、出来なかった。

 

 ただ、だからって。気づいたにも関わらず、それを誰も本人に伝えないのは、やはりそれも間違っている。

 

 ……だから、イヴが逃げてしまったその仕事を。それを自ら引き受けたギャリーを、イヴは本当にすごいと思った。

 

「"シンデイル"って、なーに? イヴ、知ってる?」

 

 軽く首を傾けて、イヴに言葉の意味をたずねてくるメアリー。その響きの中には、「死」という単語が持って当然の、重みが一切感じられない。

 

 いや、事実、メアリーは本当に何も知らないのだろう。だからこうして、訊いている。

 

 イヴだって、まだ9歳だ。「死とは何か?」なんて訊かれても、ハッキリした答えなんて、持ってない。

 

 ……ただ、イヴはそれでも分からないなりに、「死」に触れたことがある。そこがきっと、何も知らないメアリーとは違うところ。

 

 それは祖母の葬儀の記憶。哀しくも懐かしい、お祖母ちゃんとの、お別れの日の思い出。

 

 イヴにとってお祖母ちゃんは、お裁縫のやり方を教えてくれる人だった。お母さん曰く、お祖母ちゃんは怒ると怖いらしいのだけれど、少なくともイヴが知ってるお祖母ちゃんは、とても優しい先生だった。

 

 特にしっかり憶えているのは、縫い方を教えてもらう最中に、誤って指を針で刺してしまった時のこと。痛みで眼が潤むイヴの手を取り、血が滲む指にハンカチを結んで留めてくれた。結局、その事件でその日の授業は中止。痛い思いをしただけで、なんの身にもならなかったけど、やけにハッキリ覚えてる。これがイヴが持っている、生前のお祖母ちゃんの姿。

 

 そう言えば。今日のゲルテナ展にお母さんが着てきた赤い服は、お祖母ちゃんの御下がりらしい。あの小洒落たセンスあるスーツは、とても高級で有り難いものだから、いつかイヴ自身の手で自分に合わせて仕立て直せるようになったら、イヴに渡る番が来るのだと言う。すごく丈夫で良い生地を使っているから、ちゃんと大切に手入れして扱えば、それだけ保たせられる品だと聞いた。

 

 お祖母ちゃんが、死んだ。お祖母ちゃんが、亡くなった。お祖母ちゃんが、他界した。お祖母ちゃんが、天国へ行った。

 

 そういった言葉が、やけにイヴの耳に入るようになってから、お母さんとお父さんはとても忙しそうにするようになった。どこか焦った様子のお母さんと、あちこちに電話を掛けているらしいお父さん。さっきあげた言葉はどれも、イヴには難しくて理解らなくて、とりあえずお祖母ちゃんに何かあったんだなと、イヴはぼんやり思っていた。

 

「お願いだから、良い子にしててね」

 

 そう言いつけられたイヴは大人しく、長ソファの中央に独り座って、家の中を駆けずり回る両親ふたりの姿を眺めていた。

 

 一人っ子だったイヴにとっては、両親にほったかされる機会なんて無かったから、あの時がこれまでで、一番長く放置された時だった。

 

 そうして終わった次の日には、お父さんが運転する黒いセダンに乗せられて、近くの教会に連れてこさせられた。なんでもイヴのお役目は、お花を運ぶことらしくて、ちょっと狭い後部座席に、赤薔薇の籠を抱えて座る。お母さんが選んでくれた今日の服は、黒一色でセンスが無い。だけど助手席に座るお母さんとペアルックであることに免じて、今回だけは我慢してあげることにした。

 

 教会に連れられて来たことはあったけれど、この日だけはちょっと、雰囲気が違う。イヴの親戚だとか、お祖母ちゃんの古い友達だとか、イヴの知らない大人がたくさん、教会にうじゃうじゃ集まってる。みんな黒い服を着ていて、ぞろぞろと長い列を作って、受付の順番待ちをしていた。ちょっとじゃ見分けがつかないそんな姿に、やっぱりみんなお洒落じゃないなと、イヴは密かに蔑んだ。

 

 お父さんとお母さんは、そういった人達への挨拶とかがあるらしい。やっぱりここ教会でも、イヴはちゃんと独りでいて、大人しくしてなくてはいけないようだ。

 

 ただただ何もせず待つだけなのは、籠を抱えた両手が重くて辛い。ついでに退屈だったから、適当な机の上に籠を置くと、中の薔薇から1本だけ、手慰みに抜き取った。籠は薔薇で一杯だから、1本くらい抜いたところで、きっとバレやしないだろう。

 

 教会の中は同じような人ばかりで、眺める景色も単調で、面白みの欠片もない。だから抜いた薔薇を片手に、ふらっと建物の外に出て、何かないかと周りをうろつく。

 

 周りの大人は誰1人、イヴのことを気にしていない。それが悪いってわけじゃないけれど、なんとなくそれが面白くなくて、不貞腐れ気味に手に入れた薔薇を眺める。

 

 とっても綺麗。この綺麗な赤い薔薇は、今はイヴのものなのだ。

 

 本当に、なんの気無しに、なんとなく。イヴはその綺麗な薔薇の花びらの一枚を摘まんで、ちょっと力を入れてみた。すると特に抵抗もなく、綺麗な薔薇はあっさりと、その一部が欠けてしまった。自分の思い通りになったようで、それがどこか小気味いい。

 

「すき。きらい。すき。きらい………」

 

 花占いと、言うらしい。別に占いたい特別な人が、今のイヴにいるわけでもない。これはちょっとした遊びなのだ。

 

「すき。きらい。すき。きらい……。あ、終わった」

 

 花びらが全て無くなって、何も付いていない茎から手を離した。

 

 足元にイヴが落としていった、赤い花びらが散らばっている。それを上から見下ろすと、その隙間を縫うように、小さい黒い点々が、蛇行した線を成していた。アリの行列だ。

 

 黒くて小さいアリ達は、自分達の巣穴へ黙々と、エサか何かを運んでいるようだ。その姿はどことなく、教会を並ぶ面白くない、黒ずくめの大人達と似ている。

 

 イヴは履いているローファーの先で、列の中の一匹を踏んでみた。靴をどかすと、踏んだところのアリは、ひしゃげて動かなくなっていた。そしてまた、新しいアリがそこに、代わるようにやって来る。だから、また踏む。また足を上げる。その繰り返し。

 

 薔薇に恨みがあったわけではない。アリに恨みがあったわけでもない。葬儀の全ての準備が整って、両親に呼ばれるまで続いた一連のそれは、イヴにとってただの暇つぶしだった。

 

 いざ始まったお葬式では、基本的に幼いイヴは、黙って座っているだけで良かった。神父さんが難しい話をしたり、シスターさん達が歌ったり。お父さんとお母さんが、来てくれた人にお礼を言ったり。それらをイヴは見ているだけ。

 

 ただ、大分時間が経って、そろそろ終わりが近いかな、とイヴが察した当たりで、お母さんがこっそり耳打ちしてきた。なんでも、出席者一人一人が、お花をお祖母ちゃんに供える習わしがあるのだという。

 

「イヴ? お祖母ちゃんが気持ちよく眠れるように、お祖母ちゃんが一番好きだったお花を、イヴが贈ってあげてね」

 

 お母さんから手渡された、真っ赤な一輪の薔薇。たぶんあの籠に入ってた、数あるうちの一本だ。これをイヴ自身の手で、お祖母ちゃんが眠ってる、箱型ベッドに入れてきてほしいらしい。そこに居る人全員が、何故かとても静かだったから、イヴもなんとなく雰囲気につられて、ただ黙って頷いた。

 

 イヴが手慰みに散らした薔薇は、お祖母ちゃんへの贈り物だった。イヴは自分の番が来るまで、手の中の薔薇を見つめながら、その意味を考えていた。

 

 イヴの番が来た。皆が見ている前でイヴ一人、お祖母ちゃんが眠っている、大きな箱の横に立つ。箱の中を覗き込むと、既にそれまで入れられた、色とりどりのお花で一杯。モノクロばかりなみんなの中で、お祖母ちゃんだけはカラフルだ。そしてそんな沢山の花をお布団にして、胸の前で両手の指を絡め、静かにお祖母ちゃんは眠っていた。その姿はまるで何かに向けて、祈りを捧げているみたいでもあった。だから、組んだその手のすぐ上に、一本の赤薔薇を添える。

 

 お祖母ちゃんは、痛そうには見えなかった。お祖母ちゃんは、苦しそうには見えなかった。ただお祖母ちゃんは気持ちよさそうに、寝息も立てずに眠っていた。だからきっとお祖母ちゃんにとって、これは辛いことではないのだ。

 

 でも、そんな安らかなお祖母ちゃんの姿を見て、イヴは直感的に悟ったのだ。もうお祖母ちゃんが、自分から目を開けようとすることはないのだと。もうお祖母ちゃんの声は、聞けないのだ。お祖母ちゃんの手が、イヴを撫でることはないのだ。お祖母ちゃんはどこか、とても遠くへ行ってしまうのだ。だからこれはお別れで、お祖母ちゃんにとっては辛くなくても、イヴにとっては寂しいことなのだ。

 

 気づけば、イヴは泣いていた。声も出さずに、泣いていた。今まで、泣いたことは沢山あった。だけど声もあげていないのに、とめどない涙が延々と、目から溢れ出たのは初めてだった。

 

 ……ふと、ここに来る前に車の中で、お母さんに訊ねたことを思い出す。お祖母ちゃんが行った場所。それは誰も会いに行けないほどに、とても遠い所らしい。

 

 ……ならば、そこには誰がいるのだろうか。いや、そこには誰かいるのだろうか。もしも、誰もいないとしたら。そこに行った人達は、ずっと"ひとりぼっち"、なのだろうか。

 

 その時。イヴは確かに、気づいてしまった。自分の遥か後ろから、ずっと着いてくる"ソレ"の足音。自分を遠い何処かへと、連れ去らんとする"ソレ"の黒い腕。

 

 その足と腕の持ち主は、その黒塗りの影の正体は、どんな姿をしていることだろう。お祖母ちゃんの、姿をしているかもしれない。お母さんの、お父さんの、姿をしているかもしれない。まだイヴが知らなくて、これから知り合う誰かの、姿をしているかもしれない。そしてあるいは……イヴ自身の、姿をしているかもしれない。

 

 ……お葬式の全てが終わった後。教会の建物から車に乗るまでの帰り路で、お葬式が始まる前に遊んだ、アリの巣の付近を通りかかる。

 

 自分が歩くその先に、散らばった薔薇の花びらと、踏み潰されたアリさんの死骸があると気づいた時。イヴはあえて意識して、踏まないように避けていた。

 

 薔薇が可哀想になったわけではない。アリさん達に復讐されるかもと、急に怖く思ったわけでもない。

 

 ただ。赤薔薇をあの時のイヴが、理不尽に引き千切ったように。アリさん達をあの時のイヴが、理不尽に踏み潰したように。イヴ達の元にだって、いつか"ソレ"がやって来る。

 

 "ソレ"が近づきつつある気配は、幼いイヴにはまだ怖い。眠っていたお祖母ちゃんみたいに、笑ってなんて受け入れられない。だから"ソレ"に追いつかれないよう、だから"ソレ"に捕まらないよう、歩みを止めるわけにはいかないから、ああいった遊びは止めたのだ。自分に"ソレ"がやって来るのは、まだずっと先であってほしかったから。

 

 ただいつの日か、"ソレ"に追いつかれた時。忘れた頃にやって来た、"ソレ"の黒い腕に捕まった時。自分はお祖母ちゃんみたいに、笑って逝くことができるのか。それだけは最後まで分からなくて、そのことだけは、お祖母ちゃんを心底、羨ましいと思った。

 

 これが、イヴにとっての"死"の記憶。これで全て分かったなんて、とてもじゃないが言えないけれど。それでもメアリーよりは知っていると、魂に焼きついて消えない記憶。

 

 そうしてトラウマのように刻まれた記憶が今、イヴに口を開くよう訴えかける。だから、うまく表現できる気がしなくても、自分ができる精一杯を、振り絞らないといけないと思って。

 

 イヴは、はっきり言葉を紡いだ。

 




皆、列を成して、待っている。

その席に、座る時を。

ゆっくり休む、その時を。

"ソレ"が追いつく、その時を。


~???~




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『決別』

 イヴが話す。私に話す。"シンデイル"って、どういうことか。

 

 ギャリーは横で聞いている。私と一緒に聞いている。

 

 イヴは私を見つめてる。ギャリーは私から目を逸らしてる。

 

 2人とも何故か暗い顔で、私だけが明るい顔で。

 

「……ずっと、眠ってしまうこと。……もう、話せなくなってしまうこと。……もう、撫でてもらえなくなってしまうこと。……どこか遠くへ行ってしまって、もう戻っては来てくれないということ。……もう会いにも行けないってこと。……だからとっても、悲しくてたまらないこと」

 

 そしてイヴの言葉を聞いていくうちに、私の顔も暗くなった。

 

 イヴがした"シンデイル"の説明。それを、傍で聞いてるギャリーも訂正しない。だからきっと、ギャリーが私に言った「お父さんは"シンデイル"」も、これと同じことなんだろう。

 

 イヴの言葉はゆっくりだったから、大きくなくてもちゃんと聞こえた。でも、言われたことの意味が、全然分からなかったから、私の口から疑問が漏れる。

 

「……どういう、こと?」

 

 いや、分からないんじゃない。分かりたくないんだ。イヴは私に分かるように、難しい言葉を使わなかった。だけど、そんなことはアリエナイから、両手でイヴの肩を掴んで顔と顔を近づけて、その内容をハッキリ確かめる。

 

 お父さんが最後に話してくれた時の、あの落ち着いた声色が頭をよぎる。

 

「……お父さんと、もう話せないって言うの?」

 

 私が訊いた問いかけに、イヴはゆっくり頷いた。

 

 お父さんが最後に撫でてくれた時の、あの大きな手が頭をよぎる。

 

「……お父さんに、もう撫でてもらえないって言うの?」

 

 私が訊いた問いかけに、イヴはゆっくり頷いた。

 

 お父さんは、"シンデイル"。だから思い出に残ってる、こんなお父さんとはもう会えない。そんな突拍子もないことを、イヴは言う。

 

 ……アリエナイ。みんなとは、家族とは、いつまでも一緒にいるもの。そんな当たり前のことも知らないなんて、イヴもギャリーもバカじゃないの? その証拠に、お父さんが創ったみんなは、全員そろってココにいるもの。

 

 ……でも、お父さんは? ここ最近、ずっと。お父さんと、話せてない。お父さんに、撫でてもらってない。お父さんは、外の世界に行ってしまったままで。お父さんに、会えてない。

 

 そんな今の状況が、まるでイヴの言っていることが合ってるみたいで、でもそれは絶対に合っていてはいけなくて、私は振り払うように言い返した。

 

「……イヴのウソつき。だってお父さんは、外の世界にいるもん。外に出たら、また会えるもん。外に出たら、また話せるもん。外に出たら、また撫でてもらえるもん」

 

 そうだよ。"どこか遠く"、なんかじゃないもん。お父さんがいるのは、外の世界。ちょっと出るのに手間取っちゃってるけど、額縁の向こうのすぐそこで、私が確かに行ける場所。私が迎えに行ける場所。

 

 そうやって私が否定すると、イヴは一度両目を閉じて、ゆっくり首を横に振った。

 

 そして再び目蓋を開くと、その赤い眼でジッと私を見詰めて、言い聞かせるようにこう呟いた。

 

「……外の世界に。メアリーのお父さんは、ワイズ・ゲルテナは、もういないんだよ」

 

「え……」

 

 パチ、パチ。考えてもみなかったことを言われた私は、2回大きく瞬きした。

 

 お父さんが、外にいない? それは、考えてもみなかった。だって私がお父さんを最後に見た時も、お父さんはあの外の世界への額縁の向こうへ消えていった。それはお父さんが外へ行く時の、いつも通りのやり方で、そして私もいつも通り、お父さんを見送った。

 

 いつもと同じ出かけ方なのに、別の場所に行っちゃうなんて、どうしてそんなことになるの? だいたい別の場所に行くつもりなら、お父さんはそうだと言ってくれるハズ。

 

 だからこそ、私は考えたんだ。

 

「お父さんは、外の世界が楽し過ぎて、私達を忘れちゃったから……」

 

 お父さんが戻ってこない理由は、コレしかないって。だから逆に、私が外に行くしかないんだって。

 

 それなのに。イヴはまだ言い続ける。

 

「……忘れたわけじゃ、ないと思う。ただ、もう戻ってこれないほど、遠いところに行っちゃっただけで」

 

 イヴの言葉に味方するように、ギャリーも眼を閉じて浅く頷いた。そんな2人が並ぶ姿に、すごくすごくイライラする。

 

「……おかしい! おかしいよ! 忘れてないなら、戻って来てくれるもん! だって、お父さんはなんでも出来る!! 本当に私達に会いたいと思ってくれてるなら、来れないわけがない! この世界だって、お父さんが創った! 世界だって創れるお父さんが、会いに来れないほどの遠い場所なんて、そんなのあるわけないじゃないっ!」

 

 忘れたわけじゃない? 忘れてないなら、何だっていうのよ。お父さんは私達を覚えてるのに、それでも私達を捨てたって言いたいの?

 

 ……だいたい、さっきから、ギャリーもイヴも。「私なんかが外に行ったところで、お父さんには会えないよ」って、そう言いたいみたいじゃない。私が外の世界に行って、何か困ることでもあるわけ?

 

 そう思って、ハッとした。

 

 ……あるじゃん。私に外に出られたら、困る理由。お父さんの作品の私が、外に出るために必要なルール。存在の交換。私が外の世界に出たら、誰かが代わりにこの世界に残らなきゃいけない。

 

 イヴもギャリーも、このことは知らないハズって思ってた。私が黙り続けている限り、きっとバレないって思ってた。でも、まだ私が作品だってことを隠してた時、イヴはそれを見抜いてる。

 

 ……私が知らないうちに、2人があのルールに気づいたんだとしたら? 2人が私に、「外の世界に行きたくない」って思わせようとする理由になる。……たとえ、ウソをついてでも。

 

 そのことに気づいた瞬間。私を何とか繋ぎ止めていた何かが、頭の中でプツンと切れた。

 

「ウソつき! ウソつき! ウソつき! ウソつき! ウソつき! ウソつき!」

 

 グシャグシャと頭を掻きむしり、イヴとギャリーを睨みつける。そして、お腹の中から沸き上がってきたその単語を、何度も何度も繰り返し吐き出す。

 

「イヴも、ギャリーも、ウソつきよ! 私に外に出てほしくないから、自分達がここに残りたくないから、だからそんなこと言うんでしょ! この世界から出られるのが、2人だけだって知ってるから!!」

 

「ちょ、ちょっと待ちなさい! なにそれ、聞いてないわよ!」

 

 ギャリーが、さも何も知らなかったかのように、慌てた顔で私に訊き返してくる。イヴも、初めて聞いたと言わんばかりに、眼を揺らがせながら口元を両手で覆っている。

 

 そんな様子に、「2人とも本当に知らなかったんじゃないか」なんて一瞬だけ考えたけど、もう騙されてなんてやるもんか。

 

 だから私は、全部ぶちまけてあげた。こんなことを隠してる意味なんて、とっくのとうに無かったんだから。

 

「知ってる癖に! 私が外に出るには、誰かと存在を、薔薇を交換してもらわなきゃいけないって! それが嫌なら、そう言ってよ! なんで2人とも、こんな酷いウソをつくの!?」

 

 ……許せなかった。"シンユウ"だって、思ってたのに。もうちょっとだけでも3人で一緒にいたいって、そう思ってたのに。それなのにそれは私だけで、イヴもギャリーも、ホントは私を置いてくつもりだったんだ。

 

 ……そして何よりも許せないのは。よりにもよってそのために、私の一番大切な、お父さんともう会えないなんてウソをついたこと。これだけは、これだけはどうしても、どんなに頑張っても、許せない。

 

 ……もう、知らない。誰かと一緒じゃ、なくてもいい。私は1人でも、外へ行く。それでお父さんに会えれば、それだけで、全然いいんだから。それでイヴもギャリーもウソつきだってハッキリして、嫌な気持ちごとバイバイできるんだから。

 

 そのためには、薔薇がいる。私が持ってる"バラ"じゃなくて、2人が持ってる薔薇のどっちか。

 

 私の視界の低い所で。赤い薔薇が揺れている。それを持ってるイヴの手は、小刻みに震えているようだった。

 

 私の視界の高い所で。青い薔薇は揺れていない。それを持ってるギャリーの手は、ちゃんとしっかり安定していた。

 

 そしてイヴもギャリーも、私が言ったことの内容について、考えるのに必死な感じ。それが演技かどうかなんて、どうでもいい。ただ、2人の薔薇への注意は、今この瞬間は薄れていた。

 

 ……直感的に、気づく。

 

"盗るなら、今だ"

 

 どっちも薔薇から気は逸れてる。でも、軽く指先で抓んでるだけのイヴと、掌でしっかり握りしめているギャリー。私と同じ子供のイヴと、私よりずっと大人のギャリー。どっちが奪いやすいかなんて、分かりきってた。

 

 気もそぞろになっているイヴに向かって、倒れかかるように体当たりした。

 

 トサッ……という鈍い音と共に、呆気にとられた様子のまま、軽く尻もちをついたイヴ。頭から倒れこまないよう無意識に、両手を地面に付けながら。

 

 そして近くに落ちた赤い薔薇をサッと拾って、私はイヴとギャリーを振り切って駆け出した。2人が事態が呑み込める前に、十分離れちゃえば、こっちのものだよ。

 

 だって、ここは私の世界。ここのことは一番、私が知ってる。イヴもギャリーも、ここじゃあ私に追いつけない。

 

 無我夢中で走った先は、自然と私の家の方。イヴとギャリーを撒く方法を、一生懸命考えて、慣れ親しんだ我が家に閉じこもることを、私は選んだ。この薔薇を持ったまま、そのまま外の世界に行ってしまいたい気にもなったけど、おもちゃのカギを持ったままこの世界の出口に向かったら、イヴやギャリーと鉢合わせちゃう。

 

 それは嫌だ。今だけはどうしても、イヴの顔もギャリーの顔も見たくない。いつもの場所で、ひとりっきりになりたかった。

 

 家に入ってすぐさまに、階段を急いで駆け上がって、奥の部屋に転がっていたクレヨン一式を眼につく限りにかき集めると、すぐにまた階段を下りて家のドアを開けた。そして玄関すぐ前のピンクの道を、黒のクレヨンで線を引いて塗り潰す。これで入口は無くなったから、もう2人はすぐには踏み込んでこれない。

 

 これだけでも、十分かもしれない。でも、このムシャクシャした気持ちに突き動かされるように、私は持っていたクレヨンを、緑と黄色に持ち替えた。

 

 そのままクレヨンを手に、今度は家の奥の階段を歩いて上がりながら、手当たり次第そこら中、黄色い薔薇と緑のトゲトゲを描きまくる。道を塞ぐためってよりは、どっちかと言うとイライラ発散の八つ当たり。お陰で出来たトゲトゲの柵は、今の私みたいに尖った出来栄え。これなら万が一にだって、イヴやギャリーが立ち入れる余地なんてないハズ。

 

 そうしてやっとクレヨンを手放した時には、家は静かになっていた。そうしてやっと、ひとりになれたって一息ついて、部屋の奥の方へと歩み寄る。そこが私の、いつもの場所。

 

 この世界に誰かが来たって気づいた時、慌てて飛び出してきちゃったから、まだ辺りは散らかったまま。ちょっと足の踏み場もないくらい。だから奥に進むには、足元のそれらが煩わしい。

 

「邪魔だなぁ……、邪魔だなぁ……」

 

 お化粧で一緒に遊んでた、白いみんなを蹴り飛ばす。カードで一緒に遊んでた、青いみんなを放り投げる。そして最後に開いたままの絵本を掴んで、奥の壁に向かって叩きつけた。

 

 そしてその勢いのまま、片手に持ったイヴの赤い薔薇の花びらに指をかけて……そこでピタッと、手が止まった。壁に当たって落ちた絵本の表紙が、『ともだちのつくりかた』っていう文字が、私の眼に入ったから。

 

 イヴもギャリーも、ウソつきだった。お父さんが"シンデイル"なんて、そんな酷いことを言うウソつきだった。

 

 でも、それはホントに、全部だったのかな。作品の私を受け入れてトモダチになってくれたことも、ウソだったのかな。外に出たいって私を応援してくれたことも、ウソだったのかな。

 

 そしてあの時、イヴが教えてくれたこと。「"イタイ"は行き過ぎると"ナオセナイ"」ってアレも、やっぱりウソだったのかな。

 

 こうして持ってる、イヴの薔薇と私のバラ。その違いがなんなのか、まだ私は分かってない。

 

 今、イヴの赤い薔薇は、私が持ってる。この薔薇の今の持ち主は、ある意味では私ってこと。

 

 でも、それは仮初の関係。イヴから無理矢理盗ってきちゃった以上、逆に取り返されちゃったりしたら、すぐに持ち主はイヴに戻る。

 

 そうならないようにするためには。このままここで花びらを、私の手で全部取ってしまえばいい。それで正真正銘、この赤い薔薇の花びらは私のモノ。どうしたってそれで動かなくなる。

 

 だからそれは正しいことのはずなのに、あの時イヴが言った"イタイ"の違いが、私をどうしても躊躇させる。イヴが二度と、動かなくなる。イヴが二度と、話さなくなる。そしてイヴとは二度と、会えなくなる。ウソだって可能性もあるはずなのに、それだけで私は動けない。

 

 だって、しょうがないじゃない。会えないってことは、辛いこと。会えないってことは、寂しいこと。お父さんに会いたくてたまらない私は、そんなことはとっくに知っていて、だから誰かのそれを作り出すかもってだけで、私はとても怖くなる。

 

 『ともだちのつくりかた』の絵本から視線をあげて、奥の壁に立てかけられた、今は誰もいない額縁を見上げた。そのすぐ下には、お父さんに初めて貰ったプレゼント、『メアリー』の名前。それを指でなぞりながら、お父さんとのこれまでを思い返す。大事ないつものルーチンをやれば、このBlueな気持ちだって、きっと落ち着くはずなんだ。

 

 潜る、潜る、深く潜る。私の世界、私の記憶。誰にも決して譲れない、私だけの宝物。

 

 私はこの中から、この額縁の中から飛び出してきた。お父さんが、私を絵として描き終えた時に、私は初めてここから出てきた。

 

 あの時は、それだけで良かった。私を描いてくれたお父さんに、直接撫でてもらえるだけで、それで確かに幸せだった。私を描いてくれたお父さんと、一緒に話しているだけで、それで確かに幸せだった。

 

 それからこの世界でお父さんと一緒に過ごすうちに、いつしかそれは当たり前で。それが無くなるなんて、あるハズなくて。

 

 お父さん。お父さん。お父さん。お父さん。お父さん。お父さん。

 

 あれが最後で、お別れなんて。そんなの絶対、認めない。

 




ヒトが立ち入ることは、許さない。

そんな自分だけの世界を、

誰もが心に持っている。


~???~




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『精神の具現化』

 視界一面に広がる、黄色と緑色の暴力の形。クレヨンで描かれた、薔薇の花と茨の棘。それらは階段を埋め尽くし、ギャリーとイヴの行く手を頑なに阻む。

 

 これまで"Sketchbook"の世界で見てきたような、憧憬や希望に満ち溢れた楽しい描き方ではない。ついさっき描かれたばかりの、荒々しく描き殴られた力任せのタッチは、これの描き手が今、明確に他者を拒絶しているのだと雄弁に語る。

 

 「ここから出てって!」という心の叫びが明確に形を持って、眼の前に具現化しているかのようだ。

 

 でも、だからこそ強く確信する。これを描いたのは、メアリーだ。間違いなくメアリーはこの先に、この階段を上った先にいる。

 

 自然とイヴと眼が合って、確認するように一緒に頷いた後、ギャリーは茨から成る壁を睨んだ。

 

 メアリーから、イヴの命と等しい薔薇を、絶対に取り返さなくてはいけない。

 

 ただ、今のギャリーを突き動かす動機は、決してそれだけでは無かった。ギャリーの眼から、先程のメアリーが、焼き付いて離れないのだ。

 

「ウソつき! ウソつき! ウソつき! ウソつき! ウソつき! ウソつき!」

 

 その綺麗な金色の髪を振り乱して、何度も繰り返し、そう喚いたメアリー。

 

 とてつもない、重圧だった。息が詰まって、呼吸するだけでも苦しくて。まるで深海の底で溺れているのかと、錯覚させられるほどだった。

 

 それに気圧されて、行かせてしまった。止めることも出来ず、走り去らせてしまった。

 

 ……あんな状態の子供を独りになんて、絶対にしてはいけないのに。

 

 この世界から出られるのは、2人だけ。メアリーが外の世界に出るには、命と等価な薔薇を、外の世界の誰かと、交換しなくてはならない。

 

 あの時メアリーが言っていたことが思い返されて、片手に持つ青薔薇を意識する。

 

 それを聞いた時、確かにギャリーはとても驚いたが、同時に納得してもいたのだ。

 

"ああ。だからあの時、あの作品はアタシだけを引き離そうとしたのね"

 

 『嫉妬深き花』が、その茨の石像で、イヴ・メアリーとギャリーの組み合わせに、引き裂いた理由。今となっては、それを想像するのも簡単だ。イヴとメアリーの2人で外の世界に帰って、ギャリーはこの世界に残る。そんな単純な、計画だったのだろう。

 

 つまりあの時の攻撃は、いたいけな女の子2人をかどわかそうとしたものなどではなくて、大人の自分を狙ったものだったわけだ。……そこまで、考えついて。

 

 全くと言ってもいいほどに、怒りが沸いて来ない自分に驚く。

 

 普通ならば、自分の命の方が狙われていたと知れば、そっちの方が許せないものなんだろう。ただ、そもそも外の世界で生きる意味そのものを半分失いかけていたギャリーにしてみれば、それはどこか馴染みがない感情だった。

 

 もちろん、進んで死にたいと思うほど、自殺願望に溢れているわけでもないのだけれど、死ぬ日が今日だと言われたところで、「あ、そうなんだ」と黙って受け入れてしまえるような、そんな感覚。

 

 そしてもう1つの理由は……。ギャリー自身も、「それが正解だ」と思ってしまったから。

 

 分かりやすい例を、考えてみよう。何らかの事故で、子供2人と大人1人が閉じ込められている。助けられるのは、2人だけ。さて、誰を助ける?

 

 そんな質問に対して、「それなら子供2人を優先すべき」と考えるのは、至極当たり前のことだと思うのだ。ましてや残る大人が、人生に疲れ切ったような、こんな萎びた奴なら、なおさら。

 

 よって残る問題は、ゲルテナ作品である『メアリー』を1人の人間の子供として扱うかどうかだけであって、それについてはもう、ギャリーの中で結論が出ている。外へ憧れるメアリーの声を聞いた、あの時あの瞬間から。

 

 だから今。ギャリーはイヴの薔薇を取り返すためであると同時に、あのまま行かせてしまったメアリーを助けるためにも。眼の前の茨の檻を、早くどうにかしなくてはならないのだ。

 

 クレヨンで描かれただけの茨なら、『無個性』達をどかしたみたいに、腕力でなんとかならないか。そう思って、半ば破れかぶれで、できる限り棘を避けるようにして指をかける。

 

「ッ……」

 

「ギャリー、血が……」 

 

 引きちぎろうと力を込めた瞬間、指先を走った鋭い痛み。咄嗟に声を押し殺すも、それを受けて反射的に、掴んだそれを手放してしまった。イヴの言葉を受けて視線を手に移すと、棘が刺さって切れてしまっただろうところから、赤い血が滲んで玉になっていた。

 

 大した怪我じゃないけれど、たかだか一本の蔦でこうして躓いているようでは、ギャリーがただ痛みを我慢した程度で、何とか出来るレベルではなさそうだ。

 

 ギャリーが掌を見つめながら唇を噛んでいると、その掌に被せるように、純白の布が重ねられた。目線を上げると、イヴがギャリーの怪我した指を包むようにハンカチを巻いてくれている。

 

「ハンカチ……。いいの?」

 

 問いかけるギャリーに対して、イヴは巻いたハンカチを結んだ後に、黙って頷いた。

 

 「こんな怪我は、唾でも付けておけば治るわよ」という台詞が浮かぶも、わざわざイヴが手ずから結えてくれた後に、突き返すのは忍びない。それにそもそも今は、そんなふうに気を遣い合って時間を取られている場合ではない、と思い直した。

 

「ありがとう、イヴ。借りさせてもらうわね」

 

 肌触りの質感とその光沢から、本物のレース、それもかなり上等な代物だと分かる。また、結んでくれている最中に一瞬だけ垣間見えた、彼女の名前を省略したであろう「Ib」の刺繍文字。そこから考察するに、ズバリこれは一点物なのでは、という恐ろしい仮説が頭をよぎるが、ギャリーは意識してそれを無視した。ただ、どうにも育ちの良さが隠しきれないこのイヴという9歳の少女が、間違いなくイイトコのお嬢様なのだと、ここに至って確信する。もしかしたら、とんでもない大富豪の家出身なんじゃ。穢れ1つない白い布が、自分の赤い血で汚れていくのを見ながら、ギャリーはふと、そんなことを考えた。

 

「……イヴ。身体が引き裂かれるように痛いとか、そういうことない? 我慢してるとか、ないわよね?」

 

「……うん。……今のところ、何ともないよ」

 

 万が一にでも強がって隠していないか、すごく注意してイヴの姿を眺めるが、幸いなことに、変にどこかを引きずっていたり、庇ったりしている様子はなかった。それまで持っていた赤薔薇が手元に無いことに、どこかソワソワと不安な気持ちは隠せないようではあるが、それは当たり前だろう。

 

 メアリーがイヴの薔薇を持ち去ってしまってから、すぐにその後を追ってきたけれど、それでも薔薇を散らすくらいならいくらでもできる時間が、既に経ってしまっている。メアリーがイヴを殺す気だったら成す術が無かったというギャリーの不甲斐なさを示す事態だが、逆に言えば、今こうしてまだイヴが無事であると言うことが、メアリーがイヴの薔薇をすぐにどうこうするつもりは無いということを意味してもいる。すなわち、メアリーはギャリーが想像する通り、純粋な悪い子では決してない。

 

 ただ、それに安心できる状況かというと、もちろん違う。今のメアリーは、唯一の親であるゲルテナの死をギャリーとイヴから伝えられたばかりで、酷く不安定だ。そしてこの世界を支配する「薔薇が命と等価である」というルール、これが良くない。

 

 極端な話、幼いメアリーが癇癪を起こして一時的に酷く暴れたところで、それだけならば大事には至らない。メアリーが落ち着くのを待って、受け入れてもらえるまで真摯に話す。それであの子は、絶対にいつかは理解ってくれる。

 

 ただそこに。薔薇の花びらを散らすだけで簡単に命が奪えてしまうという事情が重なると、一気に話が難しくなる。メアリーが受け入れようとしている途中で、悲劇を起こしてしまうことが、あり得る。そんなことにならないように、すぐにでもメアリーからイヴの薔薇を取り上げなくてはならない。イヴの体を守るためにも、メアリーの心を守るためにも。

 

 ……今、メアリーはこの茨の向こうで、どうしているのだろう。ひとりぼっちで奥に篭り、イヴの赤い薔薇を手に、何を考えているのか。

 

 それを心配に思った時に、ふと気づいた。

 

"思えば、茨を隔てて2:1のこの構図、アタシとメアリーが入れ替わっただけで、あの時と同じね"

 

 石像の茨とクレヨンの茨。そんな細かい違いこそあるけれど、挟んだ茨に分けられて、向こう側にいる人の元に行けないところは、何もかも同じ。

 

 あの時もギャリーは、3人を隔てる茨をどうにかできる方法が何かないかずっと探していて、結局何も見つけることができなかった。

 

 ……いや、1つだけ。『無個性』や顔だけの石像に邪魔されて、あの時、試すことすら許されなかったものがあった。

 

 吸い寄せられるように、コートの内ポケットに手が伸びた。そうしてギャリーが手にしたのは、ただ一本のパレットナイフ。

 

 馬鹿げている。こんな満足に刃物とも言えないような小さな金属片1本で、眼の前の頑なな茨の森を、どうこうしようとするなんて。

 

 だから傍らのイヴにパレットナイフを見せながら、半ば冗談めかした口調で、訊いたのだ。

 

「……イヴ。これでこの茨、なんとかできると思う?」

 

 そんなギャリーの質問に対して。確かにイヴは、こう言った。 

 

「やればできる」

 

 耳に入って来た声の意味を疑い、反射的にイヴの方を見た。イヴはどこまでも真剣な眼で、両手をグーに握りながら、ギャリーのことをじっと見つめている。直感的に、悟る。イヴは、本気であると。

 

「……フフフ」

 

「……なんで笑うの、ギャリー?」

 

 込み上げてくる笑いが、止まらない。ああ、だって、まさか。肯定されるなんて、思わないじゃないか。

 

 この小さなお嬢様は、眼の前のただの大人が、この小さなパレットナイフ1つで、この茨の山を何とか出来るものだと、本気で信じてやまないらしい。イヴの頭の中で、ギャリーはみんなのヒーローか、憧れのお父さんか、あるいは何でも出来る執事さんか。

 

 良いじゃないか。お嬢様が、それをご所望なら。それに応えてこそ、真の執事。この期待を現実のものにしてあげたいと思わなかったら、それこそ嘘だろう。

 

 ……ふと、思う。どこか物静かな雰囲気で、大人びて見えていた、この小さな少女。でもそれが、ただの仮面だったのであれば。ならば本当の彼女は、本当の彼女の頭の中は、実はとても愉快なことになっていたりするんじゃないだろうか?

 

"そうだったら、いいわね"

 

 イヴの命を握られているこの状況、見ようによっては絶体絶命のピンチなのだが、少しずつ不安が消えていくのを、ギャリーは感じる。

 

 ちょっと特殊な事情はあれど、今回のトラブルの本質は、「親を喪った子が、まだそれを認められない」という、現実でだって十分あり得ること。

 

 ならばきっとその結末も、誰かがそれで殺されてしまうとか、そんな非日常的なものではなくて、外の世界でもありふれた、そんな終わり方にきっとなる。そんな根拠もない自信が、ギャリーを確かに満たしていく。

 

 その自信を力に変えて、イヴに借りたハンカチを巻いたその右手に、パレットナイフを逆手に持ち、ギャリーは茨の前に静かに構えた。

 

 そうしてその手を振り下ろし、パレットナイフとクレヨンの茨が、接触したとき。ギャリーも、イヴも、目の当たりにした。

 

 パレットナイフのその先が、七色に輝くその瞬間を。

 


 

 ギィッ……。下で扉が開く音。誰かが家に入る音。

 

 紛れ込んだそれに邪魔されて、思い出のお父さんに浸るための、ひとりの時間は終わってしまった。深く潜っていた私の意識が、今に向かって浮上してくる。

 

 私の世界に侵入られた気がして、大事な記憶が穢された気がして、それがとてもムカムカした。

 

 私の心の呼び声に、お父さんが応えて帰って来てくれた? この期に及んでさすがの私も、そんな勘違いはしたりしない。

 

 姿を見れたわけじゃないし、声が聞こえたわけじゃない。それでも、イヴとギャリー、なんだろう。

 

 玄関に引いた黒い線を、なんとかして乗り越えて来たんだ。私の想像以上だよ。すごいね、2人とも。……でも、それで終わり。

 

 新しい道を書くだけで済む、入口とは、違うんだ。お父さんのプレゼントを真似て描いた、この黄色と緑の壁は、上描きなんて出来やしない。上描きなんてさせやしない。

 

 ……それでもイバラの向こうでは、どうにか足掻いてるみたい。動き続ける人の気配が、消える兆しが全然ない。

 

 その気配が、嫌で嫌で。追い出したくて、堪らなくて。だからしゃがんで、座り込む。耳を塞いで、目を瞑る。

 

 そのトゲトゲを見れば、分かるでしょ? 私は2人に、会いたくないの。いい加減諦めて、はやくここから、出てってよ。

 

 はやくここから、出てって! はやく! ハヤク!! 早くっ!!

 

 瞼の裏にちらつくふたりに、そう怒鳴りつけた。

 

 ……やがてそうして、静かになった。やっと、観念してくれた。

 

 ……だけど思い通りになったのに。それはそれで、どこか寂しい。それはどうしてなんだろね?

 

 そんな疑問が浮かんだ直後だった。

 

 ゴゴゴゴゴ……。

 

 床が小さく、揺れている。私の世界が、揺れている。そんな揺れを足裏で感じて、私はうっすら眼を開けた。

 

 ゴゴゴゴゴ……!!

 

 だんだん揺れは大きくなる。床、壁、天井、散らばる玩具。そんな全てが揺れ始める。そんな揺れを目で見て感じて、私は耳から手を外した。 

 

「なに……!? なんなの!?」

 

 揺れの中心は床下みたいで、自然と視線は階段に向いた。頑丈に描いたハズのトゲトゲが、揺れで激しく軋んでる。

 

 そんな蔦の隙間から、狼狽えたままの私の顔に、七色の光が差し込んできた。

 

 七色。虹色。全部の色。私の大好きなお父さんの色。

 

 あり得ない、あり得ない。今になってお父さんが、私の声に応えるなんて、そんな都合の良いことなんて、絶対絶対あり得ない。

 

 でもそんな素晴らしい、幻のようなもしかしてが、私を掴んで離さない。

 

 私の心の葛藤が、期待に揺れたその瞬間。強さを増した煌めきが、イバラに生えてるトゲトゲだけを、ただ一閃で消し飛ばす。

 

 そうして広がる七色は、階段下から弧を描き、私の足元を照らし出す。それはさながら、橋のようで。

 

 人影が、奥に見える。眩しくて、よく見えない。朧げにしか、分からない。

 

 ただ、大きな影だった。私よりずっと、大きな影。

 

 その影は大きな右手に、パレットナイフを持っていた。

 

 かつての道具をその手に持って、迎えに来てくれたその人影。私にはそう、見えたんだ。

 

 心にずっと描いてた、お父さんが現れた。

 




誰かの心に触れんとするなら。

その痛み、甘んじて受け入れるがいい。


~???~




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『あずかりし心臓』

 気がつけば、お父さんは消えていて。代わりにいたのはギャリーだった。そしてその背に隠れるように、イヴも後ろに付いて来てる。トゲトゲだけが無くなった、クレヨンの蔦を掻き分けて、2階に上がってきたようだった。

 

 まずい、まずい。シャキっとしないと。ふたりに此処まで、私の秘密の部屋まで来られちゃったからには、もう余裕なんて少しもない。なのに、ちょっとお父さんに見えかけただけで、さっきまで溜まりに溜まってた、2人をどうしようもなく憎かった気持ちが、どっか遠くに行きかけちゃってる。

 

 首を何度か左右に振る。なんとかお父さんの幻影を、瞼の裏から追い出して、私はイヴとギャリーに向き直った。

 

「……どうやって、この部屋に入って来たの?」

 

 一応それを訊いてみるけど、私の中では答えは出てる。お父さんが愛用してた、パレットナイフを使ったんだ。なかなかお父さんが帰ってこないから、道具一式まとめて奥の方に仕舞いこんでたハズだけど、ギャリーはそれを見つけてたみたいだ。

 

 お父さんの道具を使うのは、いくらなんでもズルいよ、ギャリー。そんなの、私が描いた絵なんかじゃ、太刀打ちできるわけないじゃん。

 

 お父さんのパレットナイフを持たれてる以上、私が何を描いたって無駄。新しく何かを描き上げるより、それを壊してしまう方が、ずっと簡単ではやいから。だからクレヨンでの抵抗は、もうどうしたって間に合わない。

 

 私の質問にギャリーは答えない。ただ代わりに、私にこう言った。

 

「メアリー……。イヴに薔薇を、返してあげて」

 

 そう言われるだろうってことは、予想してた。

 

 左手の中にある、イヴの薔薇の感触を確認する。……大丈夫。それでもまだ、主導権はこっちにある。

 

 ギャリーがこっちへと、足を踏み出そうとする。そのタイミングを見計らって、私はイヴの薔薇を見せつけた。その花びらに指をかけて。

 

「こっち、来ないでっ……!!」

 

「――!?」

 

 ギャリーの脚が、それだけでビタッと止まる。それを見て、自分の考えが正しいって、私は確信を強くする。

 

「言うこときかないと……。このイヴの薔薇に付いてる花びら、全部引っこ抜いちゃうんだから……!!」

 

 何かを壊すのは、とても簡単。それはこっちにだって言えることだよ。ギャリーやイヴが近づくより、この花びらを毟り取る方がずっとはやい。だからイヴの薔薇を持っている、私の方が優位なんだ。お父さんの仕事道具っていう、反則アイテムを持ってきたところで、それはどうしたって覆らない。

 

 ……でも逆に、散らした後は? イヴの薔薇が無くなったら、私を守れるものはなくなる。イヴの存在を奪った後、そんな私をギャリーは許すの?

 

 許さなかったら、どうなるんだろ。お父さんのパレットナイフで、きっと私は壊されちゃう。それはどのくらいまで? 両腕が取れるくらい? 両足が取れるくらい? 頭が取れるくらい? それとも木っ端微塵になって、私の形がなくなっちゃうくらい?

 

 そうやっていっぱい壊されて、動けなくなっちゃった私はずっと、誰かが直してくれるまで、ずっとここで待つのかな。それじゃあ結局、外には行けない。お父さんにも会いに行けない。

 

 だからまずやるべきことは、お父さんのナイフを取り返すこと。そもそもお父さんの持ち物を、借りられたままってゆーのが気に食わない。

 

「ねえ、ギャリー……。そのパレットナイフ、返してほしいな。それは大好きな、お父さんのなの」

 

「……そっち行って、渡せばいいってことかしら?」

 

「ダメ! ……それは、絶対ダメ」

 

 大人のギャリーに近づかれたら、万が一の時に敵わない。ましてやお父さんのナイフを持たれたままじゃ、不意討ちの一突きで終わっちゃう。

 

「じゃあ放り投げるか、足で蹴るかして寄越せってこと?」

 

「……そんな乱暴なのも、ダメ」

 

「どうしろってのよ、もう……」

 

 かと言って、お父さんの大事な道具を、そんな手荒に扱われるのも許せなかった。でもそうなってくると、次どうすればいいかなんて、それこそ私にも分からなくなる。

 

 ここは私の家だけど、結局ここは行き止まり。1階へと降りるためには、2人の横をすれ違わないとだけど、そんなすぐ傍を通るのは、いくらなんでもリスキーだ。

 

 それに仮にすれ違えたとして。後ろの壁に掛かってる、私の額縁はどうなるの? 位置がそっくり入れ替わったら、2人はそれを好きにできちゃう。やっぱり私もこの状況、追い詰められてるってことは変わらない。

 

 そうやって、お互いに。動けない時間がしばらく続く。睨み合ったままの時間がしばらく続く。

 

「……メアリー。どうしても薔薇が、欲しいなら……」

 

 沈黙に耐えきれなかったように、ギャリーが何かを言い出そうとしていた。でもそれに被せるように。イヴが私に、言い放つ。

 

「花びらを抜くなんて、ホントにできるの?」

 

 って。

 

「ちょ、イヴ!?」

 

「ギャリーはちょっと、黙ってて」

 

 イヴは、何を言ってるの? 花びらを抜いてくことなんて、モノを壊すことなんて、そんなすごく簡単なことが、出来ない訳がないじゃない。それなのにイヴは落ち着いた眼で、薔薇に手をかけたままの私を、疑わしそうに眺めてる。

 

「……で、できるに決まってるじゃん、何言ってるの?」

 

「なら、なんでもうやってないの? 私達がここに来る前に」

 

 イヴに図星を突かれて、ドキッとした。確かに一度、やりかけた。一度イヴの薔薇に、手をかけた。

 

 なのに、それを止めた理由。それを私は、あえて無視する。無視しなくちゃ、いけないの。だってそれに気づいたら、いよいよ私に後がない。

 

「それが出来なかった時点で、メアリーにはもう無理だと思うよ。私達を間近で眺めながら、花びらを千切っていくなんて、絶対に出来っこない」

 

「へ、へぇ……、言うじゃん。なんでそんなこと、私じゃないイヴが言えるわけ?」

 

 私のことを見透かしているかのように断言するイヴに、そう言い返す。

 

「メアリー。あの時、私、言ったよね? メアリーのこと、私はもう怖くないって」

 

 イヴの言う、あの時。それは、イヴに私が作品だとバレた時。……そしてそれは、イヴが作品の私を受け入れてくれた時。私がそうだと、思った時。

 

 おかしい、おかしい。怖がらせてるのは私の方で、怖がるのはイヴの方でしょ? なんで私の方が怖がって、イヴの方が怖がらせてくるのよ。これじゃあまるで、あべこべじゃない。

 

「メアリーのお父さんのことも……、3人揃って出られないことも……、どうすればいいのかなんて、分からないけど。でもメアリーのことは分かるから、だからよく聞いて」

 

 まだ遠くにいるはずなのに、かなり離れているはずなのに、イヴがやけに大きく見える。そしてイヴは私によく聞こえるように、ゆっくりはっきり言ったんだ。

 

「その花びらを抜いたら、私は"痛い"よ。全部抜かれたりなんかしたら、きっと"死んじゃう"」

 

 その2つの単語が出た瞬間、全身がビクリと震えたのを隠せなかった。私が知らなかった2つの単語。私が恐れる2つの単語。

 

「じゃあ、今からそっちに行くね」

 

「え……?」

 

 そうしてイヴは、薔薇に手をかけたままの私を気にせず、こちらへ一歩を踏み出した。

 

「来ないで……!」

 

 イヴが、歩いてくる。こっちの方へ、私の方へ。ゆっくりとした足取りで。でもしっかりとした足取りで。

 

「来ないでってば……!」

 

 ウソでしょ? なんでこっち来るの。なんでこっち来れるの? 今の状況、分かってないの?

 

 そうだ、薔薇。はやく抜かなきゃ。そうやって指に力を入れて、やっと自分を襲う異変に気づいた。

 

 花びらが、薔薇が、重い……!?

 

 本気で力を入れてるのに、手や指は激しく震えるばかりで、ぜんぜん言うことを聞いてくれない。そんな、そんなはずないでしょ? 花びらなんて、風にのって飛んじゃうくらい、とても軽くて柔らかいもの。私の両手に余るような、重いものなわけないよ。

 

「はぁ、はぁ……!」

 

 全力を振り絞ってるから、息遣いだって荒れていく。

 

 そんな私を尻目にして、どんどんイヴは近づいてくる。もうこれで、部屋の半分を越えられちゃった。

 

 このままだと、間に合わなくなっちゃう!?

 

 そんな焦りが手に伝わったのか、やっと1枚、抜くことができた。と同時に、絹が裂けるような悲鳴が上がって、驚いた私は、抜いた花びら1枚を摘んだまま硬直する。

 

「イヴ!?」

 

「――心配、しないで……!」

 

 床に倒れ込んだイヴに、奥のギャリーから心配の声がとぶ。けれどイヴはそれでは止まらず、また立ち上がろうとしてる。そのおでこには、1滴の脂汗。

 

 花びらたった1枚でこの大騒ぎ。別にイヴの身体の何処かが、無くなっちゃったわけでもないのに、それでも大事件のようだった。

 

 じゃあ全部を取ったりしたら、それこそいったいどうなっちゃうの? 私が全然分からない、"シンジャウ"ってそのことなの? 動けなくなるだけじゃすまないの? 話せなくなるだけじゃすまないの? どうして動けなくなった後に、会えない遠くに行ったりしちゃうの?

 

 なんなの、この薔薇。なんなのよ。

 

 はずみで1枚抜けたせいか、イヴは足を引き摺ってるけど、でもまだ止まった訳じゃない。だから続きをしなきゃなのに、さらに薔薇は重くなる。

 

 せめてバランスを崩して落とさないように、指先に神経を尖らせて、私は初めてそれを感じた。

 

 茎を通る水の流れ。千切った花びらから染み出す湿り気と香り。薔薇の鼓動、息遣い。

 

 私が持ってる、これは何?

 

 分からない、分からない。これが何かなんて分からないし、どうすればいいのかも分からない。

 

 分からないから、助けを求めた。心の中のお父さんに。お父さんはなんでも知ってる。お父さんだったら答えてくれる。

 

 だから私の記憶の中で、答えになりそうな言葉を全て、片っ端から探していく。声で残してくれたもの。文字で残してくれたもの。私へ向けて言ったこと。他の誰かに言ったこと。全部、1つも残さずに。

 

 ……そうして1つそれっぽいのに、私はなんとか行き当たる。憶えているのは得意だから、イヴが私のとこにまで、届いちゃう前に間に合った。

 

 けれど私は動かない。けれど私は動けない。答えは私を動かすどころか、もっと私を動けなくした。

 

 そうして動けない私の元に、遂にイヴが辿り着く。両手で私の手を包み込み、固まりきった私の指を、1本1本解きほぐしていく。そうして開いた掌から、赤い薔薇だけ抜き取った。

 

「返してくれて、ありがとう」

 

 私が動きも暴れもしなかったからか、イヴは私にありがとうと言った。盗られちゃった側なのに、お礼を言うなんておかしいね。

 

 でもそんな状況になってさえ、まだ私は動き出せない。

 

 イヴが薔薇を取り返したのをしっかり見てから、ギャリーもこっちに駆け寄ってきた。その手にはまだ、お父さんのパレットナイフも握られたままだ。

 

「イヴ。薔薇は? 身体は?」

 

「ん。平気」

 

 でもそんな状況になってさえ、まだ私は動き出せない。

 

 ただ、お父さんが残した言葉の意味を、噛みしめるだけで精一杯。

 

 そうしてやっと私の身体が、雁字搦めから抜け出せた時には、もう私は力も出せなくなってて、へなへなその場にへたり込んだ。

 

 お父さんが残した、あの言葉。難し過ぎて今の今まで、意味不明だったあの言葉。

 

 お父さんは、言っていた。

 

「命の重さ、知るがいい」




茨の棘落とすのは、薔薇にとっては辛かろう。

けれどそれを越えずして、

その薔薇、表に出すわけにいかぬ。


~???~




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『手の届かぬ場所』

「なんかここ……、見覚えある気がするわ……」

 

 まだ人がいた頃の美術館と、寸分違わず同じ間取り。そんな景色に気づいたギャリーが、ポツリとイヴの横で呟いた。

 

 電気が消えてて暗いってことと、他に誰もいないってこと。その2つ以外には何一つ、不思議なことも見つからない。展示された作品達は、当たり前のように動かない。それが普通なはずなのに、ここに来るまででイヴはもう、動く作品に慣れ過ぎた。動かない作品が並んでる、今がむしろ変な感じ。

 

 イヴが他の人達からはぐれた時も、最初はこんな感じだった。そこからだんだん現実じゃ、起こり得ないようなことが起きるようになって、不思議の世界に巻き込まれていった。

 

 つまり怪奇現象が起きないここは、ゲルテナの世界の中でも浅い場所で、かなり外に近いとこまで来てるんじゃ。

 

 お母さんとお父さんの元に、やっと帰れるんだっていう実感が沸く。それはとても嬉しいこと。

 

 だけど手放しで喜べないのは、どうしても心残りがあるからだ。

 

「…………」

 

 黙って後ろを付いて来てる、メアリーの方を振り返る。

 

 薔薇を返してもらってから、メアリーは酷く大人しくなってしまった。トボトボ付いては来るけれど、その青い眼は伏せられたままで、ほとんど何も喋らない。持ち前の元気さや明るさは、もう見る影も無くて、まるで牙を抜かれた猛獣か、あるいは糸が切れた人形のよう。

 

 でもそんなメアリーに、かけられる上手い言葉も見つからない。だからイヴも、隣のギャリーも、あまり話さず、あまり喋らず。すぐ先に迫る選択を先延ばしにするように、出口らしき方へと向かっていた。

 

 作品であるメアリーは、誰かと存在を交換しないと、外の世界に出られない。だから、ここから出られるのは2人だけ。

 

 知らなかった。何も考えていなかった。そんな事情があったなんて、薔薇を盗られる直前に言われるまで、全く思ってもみなかった。

 

 あの長い廊下でメアリーが、こわごわイヴに訊いてきたこと。「考えたくない」と目を背け、イヴが答えず切って捨てた、そんなIfの3択問題。それが実は、絶対に避けては通れない問題だったのだ。

 

"バカだ、私。大バカだ"

 

 3人で出ればいい。頭の中がお花畑なイヴは、メアリーとギャリーにそう言っていた。イヴの言葉を聞いていたメアリーは、あの時どんな気持ちだったろう。イヴの言葉を信じてくれてたギャリーは、今この時どんな気持ちだろう。

 

 メアリーを外に出してあげたい。それは誓って、本心だ。あのクレヨンの太陽の下、一緒に結んだ約束は、ウソの気持ちなんかじゃ絶対ない。

 

 ……でも。「じゃあ、イヴが代わりになれるの?」と訊かれたら、イヴは首を振ってしまう。迷ってあげる、ことも出来ない。自分でも冷淡だと思うけど、メアリーを応援したいっていう気持ちはあくまで、友達レベルのものとして。自分が代わりに閉じ込められてまで、メアリーの願いを叶えたいとは、どんなに頑張っても思えなかった。

 

 ならばいっそ開き直って、3人一緒に出られる方法を今から探す? でも少なくともメアリーは、それが無いんだと信じてる。知らないことも多いメアリーだけど、このゲルテナの世界についてなら、イヴ達より詳しいのは明らかだ。そんなメアリーがずっと追い求めて、そうしてやっと見つけた方法が、あの存在の交換だけ。他にいい手段があるなら、メアリーは廊下で問いを投げかけたり、イヴの薔薇を手に葛藤したりする必要なんてない。そんな都合のいいものを探し当てるなんて、どんなに永い時間がかかることか。

 

 イヴには、帰る場所がある。まだやりたいことも、沢山ある。だからメアリーの言っていた、存在の交換相手っていうのには、なってなんてあげられない。メアリーと3人揃って出るための、手段を見つけるための探索に、ずっと付き合うこともできない。代わりの誰かを、探してほしい。

 

"でも……。そんな誰かなんて、本当にいるの?"

 

 外の世界を生きてる人は、みんなそれらを持ってるはずで、そんな全てを捨て去って、誰かの身代わりになれる人を、イヴは頭に描けない。自分では代わりになれない癖に、自分でも他にいると信じられない癖に、「代わりの誰かを探してね」って考えは、とても他人事で薄情だ。そしてそんな自分も騙しきれない理屈で、言い訳する卑怯者が自分だった。

 

 前と同じ階段を、暗い気持ちを抱えながら上ってみれば、『吊るされた男』って題の絵画が、突き当たりの壁に飾られてる。よくよく思い返してみれば、ギャリーの奇抜な後ろ姿を、見咎めたのは此処だった。初めてギャリーと会った場所に、遂にイヴは戻ってきた。

 

"あの時、ギャリーはコレを見てたんだ"

 

 ちょっと記憶を辿ってみれば、灰色の大広間にも、同じヤツが飾られてた気がする。ゲルテナ作品集の1ページにも記載があった。男がロープで逆さ吊りにされた、どこか不吉に感じる絵。あの時ギャリーが見てた絵だけど、ちょっと好きにはなれないかも。

 

 曲がり角を折れた先。『無個性』三人衆と『指定席』の横を通り抜け、休憩所の看板が見えてきた。その案内に従ってまたもう一度、あのやけに段の多い階段を上る。

 

 イヴが生きてきた中で、ダントツ一番大きなあの絵が、そこでイヴ達を待っている。それがこの世界の出口なんだと、イヴはもう悟っていた。

 

 てっぺん付近に差し掛かると、視界全てを埋め尽くすように、あの巨大な額縁が見えてくる。イヴはそこで、ある違和感に気づいた。

 

"絵柄が、前と変わってる……?"

 

「なに、この大きな絵……。『絵空事(えそらごと)の世界』?」

 

 ギャリーが呆然と、絵を見上げている。背の高いギャリーのことを、イヴはいつも見上げていて、ギャリーは逆に見下ろす側。だから、見上げる側のギャリーというのは、とても新鮮にイヴには思えた。

 

"絵(え)、空(そら)、事(こと)。読み方、そのまま繋げるだけだったんだ"

 

 実はこの3つの漢字自体は、もう学校で習ったことがあるものばかりだった。ただ、イヴにはこの3つの漢字が並んでできる、ギャリーが今言った"絵空事(えそらごと)"っていう言葉をよく知らなくて、読み方に確信が持てなかっただけなのだ。

 

「ねぇ、この絵って……元の美術館じゃない?」

 

 中央に虚ろな眼のお魚さん、右に大きな赤い薔薇のオブジェ、左に青い液状のヒトガタ。ギャリーの言う通り、それはとても見覚えがある、とても普通な美術館の景色。

 

"一度入ると、もう戻れない。ここでの記憶も、全て失う。それでも貴方は飛び込むの?"

 

 ギャリーがさっき読み上げた題名の下に、小さく注釈が付け加えられていた。それはこの大きな絵の世界観を表現したフレーバーテキストのようであり、あるいはイヴ達に直接宛てたメッセージレターのようでもある。

 

 チカチカッ…………

 

 注釈の意味に、思いを巡らせるより先に。絵の全体が一瞬、明るくなった。一番最初、ひとりぼっちでこの絵を見て、周りが一瞬暗くなったと感じた時と、どこか対照的だ。

 

 そして、ふと気がつけば。さっきまでこの絵を囲んでた、額縁が全て消えている。絵と世界を分ける境界が、どっかへ行ってしまったみたいだ。

 

 だけど、それよりもなによりも。絵のところどころを揺らめく細い棒状の何かに、イヴの眼は釘付けになって動かない。

 

 人だ。人がいる。

 

 ずっと探し回っていた、イヴ達以外の他の人達。そんな人達が何人も、キャンバスの中で動いてる。そしてその中の動く1人が、目立つ赤い服を着ているのを、イヴはしっかりその赤い眼で見留めた。

 

 もう二度と会えないんじゃないかって。そんなふうにさえ思った家族が、すぐ向こうに。

 

 帰れる。帰れるんだ。お母さんとお父さんの待つ外の世界に、やっと。

 

 吸い寄せられるように、イヴはキャンバスの中へと手を伸ばしかけ……

 

「……行っちゃえばいい」

 

 後ろからボソリと呟かれたメアリーの言葉で、我に返った。

 

「……信じたわけじゃ、ないんだから。……外に出るのをやめて、お父さんが帰ってくるまで、待つことにしただけ。イヴもギャリーも、間違ってる。私はお父さんに、絶対にまた、会うんだから」

 

 納得し切った訳ではないけれど、そう強がるしかない。そう言わんばかりに、メアリーはくるりと背を向ける。この絵が間違いなくこの世界の出口なんだってことは、そんなメアリーのお陰で確信できた。

 

 でも途端に、さっきまでイヴを包み込んでいた多幸感はどっか行ってしまって、居た堪れなさと罪悪感に襲われた。声の方を、直視することができない。声に対して、返事することも出来ない。だって、どうしろというのだ。「またね、バイバイ!」とでも、笑顔で言えというのか。

 

 メアリーをただの怖い子だと思い込んだままだったら、きっとこんなに苦しまなかった。作品のメアリーを敵として切り捨てて、イヴとギャリーの2人で手をとり、この世界から脱出する。それで終わり、Happy End。めでたしめでたし。

 

 でも、イヴはもう知っている。メアリーは外の常識を知らなさ過ぎて、とても危うい子ではあるけれど、自分が外に出たいにもかかわらず、最後はイヴに薔薇を返してくれた、とても優しい子でもあるのだ。メアリーの声を聞く瞬間まで、自分が帰れることで頭が一杯になっていて、オマケにメアリーがこうして「行っていい」と言ってくれて、どこかホッとしてしまった、自分本位なイヴとは違って。

 

 手を伸ばしたままの状態で動きを止めたイヴを心配してだろう。足元を見下ろしながら、ギャリーはそっとイヴに囁いた。

 

「……段差が、ちょっと高いかしらね。イヴ、ひとりでもジャンプできそう?」

 

「できる、と思う。でも……」

 

 『絵空事の世界』は壁一面を覆うような巨大絵画で、他の通常サイズの絵画達と比べれば、床から絵の下端までの距離は小さめである。おかげで、子供のイヴでもそこそこ本気のジャンプをすれば、身体ごとキャンバスの中に飛び込むくらいは出来そうだ。

 

 ただ、後ろのメアリーを居ないものとして、脱出方法についての話を進めるのは、いくらなんでも残酷な気がする。だから、「でも」と遮ってしまったけれど。

 

「……イヴ。迷っちゃダメ。お母さんとお父さんが、待ってるんでしょ?」

 

 背中を軽く叩かれながらそう窘めるように言われて、イヴは覚悟を決めるしかなかった。

 

「イヴ。落ちても受け止められるように下から見ててあげるから、先に行きなさい」

 

 ジャンプの心配をしてくれるギャリーの言葉に戸惑いがちに頷いて、『絵空事の世界』の前に立つ。ちょっとだけ、助走が必要かもしれない。ギャリーがじっと見守っていてくれる中で、じりじりと後ずさりをしながら踏み切りまでの距離を調整する。……うん、ここだ。

 

 場所が決まって、最後にもう一度。メアリーの様子がどうしても気になって、その場で後ろを振り返った。振り返ってしまった。

 

 メアリーはどこか焦点の合わない眼をしながら、こっちの方へと手を伸ばしていた。クレヨンの太陽の下で夢を教えてくれた時、太陽に向かって手を伸ばしていた時の姿と似ている。どうしても欲しくて、でもどうしても届かないものへ、無意識に出てしまったような、そんな仕草だった。

 

「行きなさい、イヴ!」

 

 ギャリーの言葉より先に、イヴはもう駆け出していた。心がもう堪えきれそうになくて、だから逃げ出した。リレーのバトンのように、赤い薔薇をしっかりと左手に持って、そうして走る。

 

 ギャリーが見てる。メアリーも見てる。キャンバスが近づく。そうして最後に、右足で強く踏み切って、空いている右手をキャンバス中央に向かって思い切り伸ばした。

 

"あ 届いた"

 

 その勢いのまま、キャンバスに、全身でまるごと飛び込んで。……そこで途轍もない寒気を、背中に感じた。そうして気づく。間違えた。

 

 順番を、間違えた。

 

 飛び込むのは、ギャリーに先にしてもらうべきだった。先にギャリーに飛び込んでもらって、こっちに手を伸ばすギャリーの手を掴んで、一緒にこの世界から脱出する。それが正しいルートだった。

 

 『絵空事の世界』のキャンバスの中から、ギャリーの方を振り返る。ギャリーはそんなイヴを見て、どこかやり切ったような顔をしてる。その印象があまりにも儚げで、生気が感じられないことにゾッとした。なぜか異様に、胸騒ぎがする。

 

「どうしたの、ギャリー……? 早くギャリーも、こっち来てよ……?」

 

 おそるおそる、ギャリーの方へと手を伸ばす。でもイヴがこうやって呼んでいるのに、ギャリーはそこから動かない。寂しそうに微笑んだまま、イヴのことを見つめてる。そのまま少し遅れて、名残惜しそうに口を開く。

 

「……イヴ。……あのさ……。悪いんだけど……、先に行っててくれない?」

 

 そんなの、できるわけがない。

 

 すぐに、そう思った。……メアリーのことは、置いて行く決断ができたのに。

 

 だってギャリーとは、出会ってからずっと一蓮托生。だから元の世界に帰る時も、当然一緒じゃなきゃ嫌だ。

 

 そうやって首を振るイヴを見て、ギャリーは言葉を選んでいるようだった。

 

「アタシ、ちょっと……ゴメン。なんと言ったら、いいのか……」

 

 そしてギャリーは、こう続けるのだ。

 

「……ウソなんてつきたくないけど……、本当のことも言いたくない」

 

 その台詞を受けて、嫌な予感は膨らむばかり。それはどんどん大きくなって、イヴの首を振る大きさも、それに伴って大きくなる。

 

 遂に我慢しきれずに、絵の外へ腕を出そうとして……どうやっても指先がキャンバス外に出ないことに、そこでやっと気づいた。

 

 方向によって、距離感が違う? 進むのは簡単なのに、戻ることは全然できない。一方通行を思わせる、歪んだ白い空間の境界に、今のイヴはいるようだった。さっき流し見ただけの文章が、激しく脳内をリフレインする。

 

"一度入ると、もう戻れない。ここでの記憶も、全て失う。それでも貴方は飛び込むの?"

 

 もっと躊躇すべきだった。もっと逡巡すべきだった。メアリーへの後ろめたさに支配されて、他のことが疎かになってた。

 

「ギャリー……!! お願い、ギャリー……!!」

 

 嫌だ、嫌だ。ギャリーの方から手を取ってくれれば、今からでも間に合うハズなんだ。

 

「後で追いかけるから……、先に行ってて……」

 

 なのにギャリーはイヴの手を掴むどころか、絵の中に入ったイヴから目を逸らし、さっきまで意識して完全に反応しないようにしていたはずの、メアリーの方へと向き直った。

 

 これから目の前で、何が起こるのか。ギャリーがいったい、何をするつもりなのか。イヴにはそれが、朧気ながら分かっていて、だからこそ受け入れられるわけもなくて。だから必死に、声を張り上げる。我儘で全く聞き分けの無い、ただの小さな子供のように。

 

 ギャリーのことが、好きだった。

 

 たった1人で迷子になってた時に、やっと会えた他の人で。この世界で襲ってくる苦難に、一緒に立ち向かってくれた人で。……そして、見知らぬ他人の子供でしかなかったはずのイヴを、最後まで見捨てないでくれた人。

 

 だから、ギャリーのことが好きだった。メアリーのことも好きだったけれど、それ以上に。

 

 「2人しか出られないなら誰と出る?」なんて答え、ほんとはとっくに決まってたんだ。ただそれをメアリーに、言える勇気がなかっただけで。

 

 つまりこれは、罰なんだ。選択肢から逃げ出した、そんなイヴに課された罰。

 

 ギャリーが、メアリーが、遠くなっていく。あのゲルテナの世界が、遠くなっていく。

 

 怖くてたまらなかった、はずのあの場所。もう居たくなかった、はずのあの場所。

 

 そこに今、どうやっても。手が、届かない。

 

 


 

 

 結局、手が届かなかった。そんな外の世界へのキャンバスに、イヴが飛び込んでいく瞬間を、ただぼんやりと眺めてた。

 

 中に入ったイヴは振り返って、ギャリーも飛び込みやすいように、こっちに右手を伸ばしてる。

 

 だからギャリーもその手を掴んで、私はそれをひとりで見送る。眼を閉じてたって簡単に描ける、そんな流れ。

 

「ねぇ、メアリー……」

 

 だから、そんなイヴを余所目にして、ギャリーが私の名前を呼んだ時、一瞬そうだとは気付かなかった。

 

 だってイヴの方はともかく、ギャリーは私のことを無視してたじゃない。こんな「さあ、一緒に出るぞ!」っていうタイミングで、急に私の方を呼んでくるなんて、ちょっと想像つかないよ。

 

 イヴから薔薇を盗んだりした、私のことを嫌いになったんじゃなかったの? イヴ、呼んでるよ? 早く行かなくていいの?

 

 だけどギャリーは私の前に回り込んで、顔の高さを合わせるようにしゃがみ込むと、私の頭の上に軽く右手をのせた。

 

「あの時、イヴの薔薇を千切るのを、踏み留まってくれて、ありがとう。外に出たい気持ちもあったでしょうに、それでも我慢できたメアリーは、本当に偉いわ」

 

「……別に。イヴのために、我慢したわけじゃない。やろうと思っても、出来なかっただけ」

 

「それでも。メアリーが偉かったことに、変わりはないわ」

 

 ギャリーが眼を細めながら、ゆっくりと私の頭の上で手を動かす。それに合わせてさらさらと靡いた髪の毛が、ちょっとだけ顔にかかって、それがどこかこそばゆかった。

 

「そんないい子なメアリーに……。話したいことが、あるのよね……」

 

 そう言うとギャリーは、右手をコートの中に入れ、そこから何かを取り出した。

 

「あ……」

 

「これ、お父さんのなんでしょう……? 勝手に借りちゃったりして、悪かったわ」

 

 お父さんの、パレットナイフ。ギャリーはそれを、刃先を自分の方へと向けるように、無防備に手渡してくる。

 

「返してくれるのは嬉しいけど……。危ないことしてるって気づいてる? それがあれば、ギャリーをやっつけちゃうのも簡単なんだよ?」

 

「フフッ、そうなの? じゃあアタシは今から、メアリーにやっつけられちゃうのかしら?」

 

 面白そうに笑うギャリーがなんか癪で、返事もせずにお父さんのナイフを受け取る。手の中のパレットナイフを眺めながら、ぼんやりとギャリーが言ったことを考えた。

 

 これを使ってギャリーから薔薇を奪う? 今さらそんなことをしてどうなるの? そう考えてしまってる時点で、多分ギャリーの思い通りなんだろう。

 

「……それで? これで終わりなら早く行けば?」

 

 『絵空事の世界』に入ったイヴの方に目配せして、イヴを待たせていることをギャリーに伝える。

 

 パレットナイフを持ったまま、私は特に動かない。ギャリーはそんな私を確認してから、私の肩に手を当てて、じっと私の眼を覗き込んできた。

 

「……いいえ。本題は、ここから」

 

 ギャリーの青い眼の中に、私の青い眼が映っている。どっちも青い眼だけれど、ギャリーの眼は小さくて、私の眼は大きかった。こんな小さな眼で世界を観るの、ギャリーは窮屈じゃないのかな。ギャリーがやけに勿体つけるから、私は空いた時間の中で、そんなことを考えた。

 

 そしてギャリーは深呼吸して、私に言った。

 

「……メアリー。私の薔薇、アンタにあげてもいいわ」 

 

 ――???

 

 あ。たぶん私、今ポカンとしてる。

 

「え」

 

 え……? ……なんで? ……どうして?

 

 ギャリーが言ってることが、分からない。私、最初はギャリーの方から薔薇を盗っちゃうつもりだったんだよ? 大人で、男の人で、イヴほど仲良くなれそうじゃなかったから、だから要らないって、しちゃうつもりだった。

 

 それなのに。そんな酷いことをしようとした私のために、どうしてギャリーがそんなことを言ってくれるの?

 

「な、なんで……?」

 

「……。メアリーに……、夢を、見続けてほしいと思ったから、かしら……?」

 

 夢。それは私がSketchbookで私が話した、外でやりたいことのこと? あの時の私の本気の気持ちが、ギャリーにはちゃんと伝わってたの? それこそ、存在を交換してもいいって、言ってくれるくらいに。

 

 大人だから、男の人だから、私といっぱい違う人だから。だから私のことを、イヴより分かってくれにくい人なんだと思ってた。でも実際はそんなこと無くて、私の一番強い気持ちのことは、ちゃんと読み取ってくれる人だった。そういうことに、なるのかな?

 

「でもね、メアリー……。よく聞いて。外の世界はアンタが思ってるほど、楽しいことばかりじゃあ、ないかもしれない。それでもアナタは、外に出たい?」

 

 あれ? まだその設定、続くんだ。でも、おかしいな? その設定って、私が外に行くのを諦めさせるためだったんじゃなかったの? それなのにギャリーは、私が外に行く協力をしてくれるって言ってる。

 

 混乱する頭を、整理しきれないまま。それでも私は、ガクガク頷く。楽しくない外の世界なんて、私には想像できなかった。

 

 ギャリーはそんな私の様子をしっかりとその眼に収めると、安心したように深く頷く。

 

 そして本当の本当に、手に持つ青薔薇を私へ向けて、ゆっくりと差し出した。ウソなんじゃないかって疑っていた私は、それでどこかに行っちゃった。

 

 眼の前に掲げられた、青の薔薇をじっと眺める。私の大好きな、青色だ。私の瞳の青色だ。イヴの赤薔薇も綺麗だったけど、ギャリーの青薔薇の方が好きかもしれない。

 

「ホラ、大事にしなさいよ」

 

 ギャリーが薔薇をくれるって、存在を交換してくれるって、言ってる。私のためにギャリーはそう言ってくれてるのに、私はただ黙ってそれを受け取るだけでいいの? 私はギャリーに、何か返さなくていいの?

 

 でも、今の私はもうちゃんと、薔薇の重さを知っていて、それに釣り合うものなんて……。

 

 そうだ、交換。交換、なんだから……。私は反射的にソレを、ギャリーに突き出す。

 

「メアリー、それ……」

 

 私の、黄色いバラ。それがギャリーの、青い薔薇とクロスする。

 

 直感的に、これが正しいと思った。ギャリーやイヴの薔薇とは違うって、もう分かってはいるけれど、それでも釣り合いそうなものなんて、これくらいしか思いつかない。

 

 お父さんが私のためだけに創ってくれた、この世界にたった1本の特別なバラ。私の一番の宝物で、これまで手放すことなんて、想像だってしたことない。でも今、ギャリーにだったらあげてもいいって、私の特別をあげてもいいって、自然にそう思えたの。

 

「交換、だから……」

 

「……そうね。交換よ」

 

 こわごわと、お互いが差し出し合う、薔薇とバラを交換する。イヴの赤薔薇を持ってた時と同じ、いやそれ以上に腕に感じる、なんとも言えない重み。だから落とさないように大切に、しっかりと両手で胸に抱えた。そしてそんな私の様子を、上から下まで眺めると、ギャリーはしみじみとため息をつく。

 

「ああ……。やっぱり、そんな気はしてたのよね……」

 

「?」

 

 ギャリーの呟きの意味が分からなくて、私は眼をパチパチさせる。

 

「いやさ。赤い眼のイヴに、赤い薔薇は似合ってたじゃない?」 

 

 イヴを象徴する色を選ぶなら、それは赤だ。赤い薔薇、赤いスカート、赤いスカーフ。イヴはたくさんの赤を着ている。でもイヴの赤で一番印象的なのは、やっぱりイヴの眼の色だ。薔薇もスカートもスカーフも、きっとイヴの眼の色に合わせて、その色が選ばれたんだろう。

 

「だから。青い眼のメアリーには、青い薔薇が似合うわね」

 

「――!!」

 

 私を象徴する色は今まで、黄色なんだと思ってた。この髪の毛だって黄色だし、お父さんから貰ったバラも、すごく綺麗な黄色だったから。

 

 でも、ちょっと考えてみたら、お父さんに貰ったスカーフは青で、私の眼の色は青だった。そして実は黄色より、青の方が私は好き。

 

 それをギャリーに気づかせてもらって、好きな青が似合うと言ってくれて、私の心はポカポカした。

 

「……ほら!! 外に出るんでしょう? 早くイヴを追いかけなさいな」

 

「あ……」

 

 ギャリーが私の背中に回って肩を押して、私をキャンバスの前へと立たせる。そこで『絵空事の世界』を見て……絵の中で顔をぐちゃぐちゃにしながら、何かを叫んでいるイヴに気づいた。

 

 キャンバス越しで何を言ってるかよく分からなかったけど、それでも分かる。イヴが手を伸ばす先は、私じゃなくてギャリーの方だって。イヴはギャリーを、置いて行きたくないんだって。

 

「……ギャリーは。これから、どうするの?」

 

 だから、ふと。この世界に置いて行かれる、ギャリーがどうするのか気になった。私は首だけ後ろに回して、肩越しにギャリーの顔を見た。

 

「……この世界を、ゆっくり満喫させてもらうことにするわ。……ちょうど、やりたいことも出来たしね」

 

 ギャリーはすごく綺麗な顔で笑ってた。

 

 私にとってはもう飽きちゃったこの世界だけど。まだ来たばっかりのギャリーには、まだまだ楽しめるところがあると言う。それはおかしな理屈ではなくて、だから代わりになってもらうことへの、ギャリーへ向けた負い目の気持ちはずいぶん薄れた。ギャリーと一緒に帰りたい、イヴへの申し訳なさは残るけど、それだけだったら呑み込めた。

 

「……だから気にせず、先に行きなさい。アンタら子供は、大人の心配なんてしなくていいの」

 

「……うん」

 

 大人。私にとって一番身近な大人は、お父さんだった。ならやっぱりお父さんも、こんなふうに考えるのかな。こんなふうに言ってくれるのかな。

 

 知りたい、と思った。だから外に出てお父さんに会ったら、まずそのことを訊いてみたい。そう思って目の前のキャンバスを、外の世界へと続く道を見上げる。その中に遠く小さくなりながら、こっちへ手を伸ばすイヴの姿。

 

 イヴには向こうで、ちゃんと話そう。ギャリーが私と、薔薇を交換してくれたこと。ギャリーが私に、夢を見続けてほしいと言ってくれたこと。それがとっても、嬉しかったこと。ギャリーが大好きなイヴとは、それで喧嘩になっちゃうかもだけど、それでも今のこの気持ちを、私はイヴに伝えたい。

 

 トンッ……と背中に軽く、力を受けた。ワンテンポ遅れて、ギャリーに後ろから突き飛ばされたんだって気づく。

 

「あ……」

 

 乱暴なのに優しいその手に押されて、私は咄嗟にジャンプした。青い薔薇を、手に持って。先に行った、イヴの手を目がけて。

 

 あんなに遠かった、外の世界。どんなに手を伸ばしても、届かなかった、外の世界。それはこんなにも簡単に、私のことを受け入れる。

 




"奇蹟"をもらって、"友情"で返す。

"愛"の言葉は、渡しそびれた。


~???~




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『絵空事の世界』

 ■■■■が最後に残した言葉。それが意味することなんて、到底受け入れられるはずもなくて。だから首を横に振りながら、ぐちゃぐちゃの顔で精一杯、ただ何度も名前を呼ぶ。

 

 無我夢中で、何かを掴もうと足掻いてた。ただ、どうしてもそれには届かなくて。だから指先に触れたものを手当り次第、なんでもいいから引っ掛けようとした。

 

 そうしてなんとか、掴めたもの。それが望んでいたものよりも、ずっと小さかったことだけ覚えてる。

 

 ……気づいたら、休憩所にいた。

 

 離してはいけないのは何だったか。そうだ、右手。

 

 無意識に強く握りしめていた右手に目をやれば、ひしと結ばれた誰かの左手がある。

 

 その左手の先から、腕、肩、そしてゆっくりと頭の方へ向けて視線を移すと、眼をパチパチさせながら、自分の身体を見下ろしているメアリーの横顔。

 

 ――さっきまで、何をしていたのか思い出せない――

 

 思い出せないということは、大したことではないということだ。まあ、休憩所にいるんだから、休憩してたんだろう。ちょっとだけ、ウトウトしてしまったみたい。

 

 ……そうだ、そうだ。今日はメアリーの誕生日祝いもかねて、家族4人でゲルテナ展を見に来たんだった。お母さん、お父さん、メアリー、そしてイヴ。家族4人、全員で。

 

 主役がメアリーだってことを忘れて、お母さんが作品に没頭しそうな予感があったから、2人でこうして手を繋いで、先に回ることにしたんだった。

 

 メアリーと顔を見合わせた後、自然と繋いだ手を離す。メアリーはそのまま、両手を自分の顔の前に持ってくると、閉じて開いてを繰り返す。そしてそれが終わった後には、今度は視線を自分の両足に移し、床を軽く踏み鳴らした。そうして一頻り満足したのか、嬉しくて堪らないといった様子を隠さず、メアリーはイヴに確認してきた。

 

「イヴ……。私達、出れたよね……? ここは、外なんだよね?」

 

「……?」

 

 メアリーは、何を言ってるんだろう? ここが建物の中なのは、どこをどう見たって一目瞭然。メアリーがとってもおバカさんなことを言うもんだから、メアリーの頭が心配になって、自然と眉に力が入る。

 

 せっかくの誕生日なのに、風邪引いたりしてたら台無しだよ? そう思ってメアリーの前髪を掻き分けて、そのおでこに右手を添える。……特に熱は、無いみたい。

 

「……やっぱりイヴ、怒ってる?」

 

 傍からジロジロ覗き込まれて、居心地悪そうなメアリーは、どこかちょっと不安げな様子だ。

 

「怒ってないけど。……どうして?」

 

 怒ってるなんて勘違いされた、原因に見当がつかなくて、理由をメアリーに問い返す。

 

「……だって。ほら……」

 

 するとメアリーは眼を少しだけ不安そうに揺らし。

 

「ギャリーの代わりに、出てきちゃったから……」

 

 戸惑いがちに、こう言った。

 

「……でもね!!」

 

 その言葉を境に、メアリーの雰囲気が塗り変わる。

 

 「ギャリーの方から、そうしなさいって言ってくれたの! だから、私、嬉しくって、それで……」

 

 メアリーは少し赤らめさせた両頬に手を当てながら、矢継ぎ早に言葉を捲し立ててくる。その顔はとても幸せそうで、溢れ出る喜びを共感してほしくて堪らないみたいだ。

 

 そんなメアリーの姿に、イヴは心のどこかでイラッとするのを感じる。

 

「あのさ」

 

 でも、話がまとまっていないままでは、どうしてそう感じたのか、分かるわけないから。

 

「ギャリーって、誰?」

 

 とりあえずイヴは、そこから訊いた。

 


 

 外に出れた喜びを、その全身で実感していた。

 

 キャンバスを通る途中、掌を通じて青い薔薇が、私の中に入って来た。だから目には見えなくても、無くしちゃった、わけじゃない。ちゃんと私の中にある。

 

 実際、キャンバスから出た瞬間。何かがハッキリ変わったと、すぐに私は身体で感じた。だからそれを確かめるように、手足を動かしてみていた最中だった。

 

 ……それなのに。

 

「ギャリーって、誰?」

 

 そう言うイヴの赤い眼はダルそうで、口調もかなりぶっきらぼう。まるで話の内容自体には、本当は興味が無いみたいで、私が話すから仕方なく、聞いてあげてるだけって感じ。

 

 外に出れた喜びに、急に曇りが差してくる。訳が分からない私はイヴに向かって、どうしても声を荒げてしまう。

 

「何……、言ってるの……? ギャリー、ギャリーだよ! さっきまで、一緒にいたじゃん!?」

 

 初めて会った時にはもう、イヴとギャリーは一緒だった。ギャリーはイヴのことを知っていて、イヴはギャリーのことを知っている。それは全く当たり前のことで、それが私の知ってる2人。

 

「……だ、か、ら。知らないってば、そんな人。……だいたいさ。知らない人に付いてったらダメって、いつも言われてるじゃん。お母さんの言いつけ、また破ったの? 叱られちゃっても、知らないよ?」

 

 面倒臭そうに、鬱陶しそうに、イヴは自分の髪に視線を移して、毛先を指でいじり始める。ギャリーのことなんかどうでもいい。ギャリーのことなんか知りもしない。イヴの態度がそう言ってる。髪の触り心地を確かめる方が、今してる話より大事みたいで、それがすごく嫌だった。

 

 ギャリーのことを知らない人だと、付いていったらダメな人だと、眼の前のイヴはそう言った。でも、私の知ってるイヴだったら、ギャリーと一緒にいることを、むしろ自分から望むハズ。それなのに今のイヴはまるで、ギャリーと一緒にいた時間は全部、ウソだったみたいに言ってくる。

 

 ……そして、そのことに気づいた時。どうしようもなく恐ろしい、そんな閃きが私を襲った。

 

 ギャリーと一緒の時間がウソなら、私と一緒の時間はどうなの?

 

「わ、私のことは? わ、分かるよね?」

 

 片手を胸に当てて自分のことを示しながら、なんとか声を絞り出した。怖くて怖くて堪らない、そんな仮説を振り払いたかった。そうやって慌てる私を見て、イヴはいよいよ胡散臭そうにしてる雰囲気を隠さなくなってきたけど、それでも私の質問に答えてくれた。だから。

 

「メアリー」

 

 私の名前を呼んでくれた瞬間、すごくホッとして。

 

「私の妹」

 

 そう続けられた瞬間、すごくゾッとした。

 

 "トモダチ"でもなく、"シンユウ"でもなく、"イモウト"……?

 

 私を"イモウト"と呼べるのは、お父さんが創った家族のみんなだけ。そしてイヴはお父さんに創られた作品じゃあない。イヴと私の関係は、"トモダチ"か"シンユウ"であるべきで、"イモウト"なんかじゃないはずだった。

 

 このイヴ……、私の知ってるイヴじゃない。

 

「どうしたの、メアリー……。さっきから、変だよ?」

 

 イヴから離れるように。一歩、また一歩、と私は後ずさる。

 

 赤いその眼も、茶色の髪も。白のブラウス、赤のスカーフ・スカートも。全部イヴと同じなのに、何か決定的なものが違ってる。それは一体、なんだろう?

 

 お父さんの作品だってことも含めて、隠し事のない"ホンモノ"の私を、一緒にいる仲間と認めてくれたこと。それこそが、私がイヴを大好きな理由の中で、一番大きなものだった。

 

 お父さんの作品であること。それはイヴやギャリーのような、「外の世界の人とは違う」って点で、最初はコンプレックスだったこと。でも本当は、他でもないお父さん自身の手で創られたことは、私にとっては自慢でもあって、だからそれらを全部丸ごと、受け入れてくれた2人が好きだった。

 

 けれど今、こうして私に話しかけてくるイヴは、そんな"ホンモノ"の私を全部無視して、"ニセモノ"の家族関係を主張してくる。

 

 このイヴは、私のことを見てくれてない。"ホンモノ"の私を、受け入れてくれてない。そう思ってしまったら、もうダメだった。

 

「やだっ……」

 

 イヴとそっくりなイヴでないナニカは、私にとっては恐ろしいもので。後ずさるうちに下り階段に足が差し掛かった私は、近づいてくるイヴを払いのけると、回れ右して逃げるしかなかった。

 

 階段を一気に駆け下りながら、考えてたことは1つだけ。

 

 お父さんに、会わないと。

 

 何か、おかしなことが起こってる。あっちの世界で仲良くなったイヴが、全く別人になっちゃった。こんな大変なトラブルでも、お父さんならなんとかできるはず。

 

 階段を下り切ったその先には、私が見たことないくらい、沢山の人達がいた。大多数は大人だけど、それに連れられた子供もちらほら。いろんな人が一杯。誰もがあちこちに散らばって、お父さんの作品を眺めてる。

 

 そんな沢山の人の中に、お父さんの姿がないか、キョロキョロ辺りを見回してみるけど、私の期待とは裏腹に、お父さんは見つからない。

 

 そもそもよく考えてみれば、外の世界は遊びつくせないほどに、とってもとっても広いはずで、ちょっと周りを探した程度じゃ、見つけられなくて当然なのかもしれなかった。

 

 なら、もう誰かに訊くしかない。

 

「ねぇ、お姉ちゃん! お父さんがどこか、知らない?」

 

 ちょうど近くに『無個性』なお姉ちゃん達が、3人揃って立ちんぼしてたから、お父さんの居場所を訊いてみた。

 

 ……お姉ちゃん達は答えない。それ自体は、いつも通り。『無個性』なお姉ちゃん達は頭が無いから、元々喋ることはできたりしない。ただ、いつもと勝手が違ったのは、動いてもくれないことだった。

 

 あ、そっか。いつもの癖で訊いちゃったけど、ここは外の世界なんだった。"ホンモノ"のお姉ちゃん達は、あっちの世界でお留守番してるんだ。

 

 もう一度、お姉ちゃん達を見上げる。

 

 お姉ちゃん達は、喋らない。お姉ちゃん達は、動かない。お姉ちゃん達は、遠い場所にいる。

 

 あれ……? そういうのをなんて呼ぶか、私、聞いたことがあるような。

 

 何故か言いようのない焦りが、私のことを包みかけた時。

 

「そこの可愛いお嬢ちゃん、どうしたの?」

 

 お姉ちゃん達を眺めてた、大人の男の人が話しかけてきた。

 

「わ、私……。……お父さんに。お父さんに、会いたくて……」

 

「おや? お嬢ちゃん、迷子かい? お嬢ちゃんのお名前とお父さんのお名前、言えるかな?」

 

 一見、優しそうなお兄さんに見えた。私がお父さんを探してるってことを言うと、心配そうに眉を曲げて、私の傍に近づいてくる。外の世界のことは、外の世界の人に訊くべき。私にも分かる、簡単な理屈。

 

「わ、わたしメアリーって言うの……。お父さんの名前は……」

 

 だから私は自己紹介した後、ハッキリとお父さんの名前を言った。

 

「ワイズ・ゲルテナ!」

 

 その私の答えを聞いて、その人が浮かべた表情を、なんと表現すればいいだろう。ただ少なくとも、さっきまでのような口を真横に結んだ真剣そうな雰囲気は消えてしまって、どこかおかしそうに、お兄さんは嗤ったんだ。

 

「ハハハ……! メアリーちゃんのお父さんは、ワイズ・ゲルテナなのかい? そりゃ、すごい! 将来は芸術家さんだね!」

 

 何が、面白いんだろう。私はこんなにも困ってるのに。私はこんなにも焦ってるのに。眼の前の人は、そんな私を嘲笑う。

 

「でもね、メアリーちゃん。いくら新しく知った言葉で遊びたいからって、自分が迷子だっていうウソをつくのはよくないよ? そんなことをしたら、本当に迷子の子供が困っちゃうだろう?」

 

 ウソつくのはよくない。そう言われて一瞬、言葉の意味が分からなかった。だって私はウソなんてつくまでもなく、ホントのことしか喋ってないんだから。

 

「わたし……、ウソなんてついてない……!」

 

 私を上から見下ろしてくるお兄さんの眼を、見返しながらそう言い返す。精一杯声を出したつもりなのに、首を上に向けた体勢では、いつもほどしっかり声が出せない。

 

「……まだ続けるのかい? あのね。メアリーちゃんは知らなかったかもしれないけど、ゲルテナ氏はもう死んじゃってるんだ」

 

「――!?!?」

 

「だからメアリーちゃんが、ゲルテナのお子さんなんてあり得ない。ウソだって、簡単にバレちゃうんだよ?」

 

「……っ!!」

 

 私のお父さんは、ワイズ・ゲルテナ。これはもちろん言うまでもなく、私にとって本当のこと。それなのにこの男の人は、私がウソをついてるって、その前提で話してくる。

 

 ウソをついてないのにウソつき呼ばわりされると、まるで私が"ニセモノ"なんだって、そう言われているみたいで、苦しくて辛くて堪らなくなった。

 

 それだけじゃない。"シンジャッテル"。目の前のこの人は、お父さんのことをそう言った。もう会うことができないくらい、遠い所にいる人なのだと。

 

 それはイヴやギャリーが言っていた、間違いであるはずだった。あるいは私を外に出さないための、ウソであるはずだった。でもよくよく思い返せば……。どんなに私が否定しても、イヴもギャリーも最後まで、それだけは撤回してくれなかったってことに気づく。

 

「どうしたんです?」

 

 私が頭をグチャグチャにしていると、『指定席』の方から遠目に私達の様子を窺ってた人がこっちに来た。真っ先に問いかけた先はお兄さんの方で、まるで信頼できない私を、はなっから無視しているかのよう。

 

「いや、この子が迷子だって言うから親御さんの名前を訊いたんだけど、ワイズ・ゲルテナだって言うんですよ」

 

「ええっ? いくらなんでも、それはないでしょう?」

 

 新しくやって来た男の人も、私のことを信じてくれない。変なものを見るかのような眼で、私のことを睨めつける。

 

 ……やめて。……もう、やめてよ。お願いだから。

 

 私がお父さんの娘だってこと、ウソだなんて言わないで。私がお父さんの子供だってこと、"ニセモノ"みたいに言わないで。

 

 私という存在自身を、根本から全部否定されて、頭がぐちゃぐちゃでおかしくなりそうだった。

 

 咄嗟にお父さんのパレットナイフに手が伸びる。私を邪魔する人達を、これで描き換えてしまいたい衝動に駆られた。……でもそこで、これを返してくれた時のギャリーの顔が浮かんできた。

 

 ギャリーがあの時に褒めてくれたのは、イヴの薔薇を千切らなかったからだ。今ここでこのパレットナイフを振り回すのは、裏切りみたいで違う気がする。

 

「あっ……、ちょっとお嬢ちゃん!?」

 

 だからいよいよ手段がなくなっちゃって、私をウソつきだと決めつける2人から、振り切って逃げ出すことしか出来なかった。

 

 人、人、人。人だけは、2人以外にもいっぱいいる。こうやって美術館の中を走っていると、そんな人達はみんなうるさそうに、私の方を睨んでくる。さっきの人達に言われたことが、こびりついてる私には、それがとても怖かった。きっと他の人達だって、さっきの2人と同じなんだ。もうこの世界の人達なんて、怖くて誰も頼れない。

 

 だから人を避けながら、必死にお父さんのことを呼び続ける。

 

「お父さん……、どこ……!?」

 

 私は間違いなくお父さんの子だって、今すぐそう言ってもらいたいのに、肝心のそのお父さんが、どこにいるのか分からない。まるであっちの世界でイヴやギャリーと、喧嘩した時に言われた通り。……そして。私はそれを認めなかったのに、そうやって頷こうとしない私を、2人は頭ごなしに否定しなかった。さっきの人達とは、そこが違った。

 

 それにイヴとギャリーは少なくとも、私がお父さんの娘だって打ち明けてから、そのことを疑ったりはしなかった。こうして外の世界の人と話してみて、そんな人と出会うのは、ホントはすごく難しいんじゃないかって、私はやっと気づき始めていた。

 

"外の世界はアンタが思ってるほど、楽しいことばかりじゃあ、ないかもしれない"

 

 私を送り出してくれた、ギャリーが私に言ったこと。それが頭の中で膨らんで、どんどん重さを増していく。

 

 帰りたい。

 

 急に、そう思った。

 

 あっちの世界に帰れば。家族は待ってる、ギャリーもまだいる。

 

 通ったキャンバスのとこに行くため、さっき下りた階段の下まで戻って来た。

 

 こんな訳が分からない、とても怖い世界から、早くおうちに帰りたい。そう心に念じながら、階段をてっぺんまで上ってみれば。

 

「え……?」

 

 そこには白い壁しかなかった。

 

 何が起きてるか意味不明で、呆然と壁をペタペタ触る。壁以外にあるものは、小さな窓が2つだけで、壁一面を覆うキャンバスなんて、影も形も無くなっていた。まるで私が住んでたあの世界自体、幻だったんだよって言われてるみたいに。

 

 え……? これ、どういうこと……?

 

 帰り道の心配なんて、考えてみたこともなかった。外の世界に出てからは、お父さんと暮らす気だったから。だからあっちに戻る必要なんてなくて、たまに家族のみんなに会いたくなったとしても、お父さんと一緒に里帰りすればいいだけ。そんな未来を想像してた。

 

 あっちの世界には、家族みんなを置いてきちゃってる。それだけじゃなくてギャリーには、私のために残ってもらった。そしてそんなあっちの世界に、家に帰る方法が、これっぽっちも分からない。つまり今の私にとって、あっちの世界は行けないくらい、とても遠くになっちゃったってこと。それこそ、これからずっといつまでも、行けないかもって思うくらい。

 

 つまりこれって、下手したら。ギャリーもみんなも"シンジャッタ"。そういうことに、なったりしない?

 

 「ギャリーもみんなも"シンジャッタ"」。その響きは、意味もよく分からないはずなのに、酷く私を焦らせる。

 

 そしてそれが私の中に、じんわり染みこんでくるにつれて。「お父さんが"シンデイル"」も、実は本当だったんじゃないかって、私自身でも思えてきて、頭が軋む音がした。

 

 優しかったイヴとギャリーが、「お父さんが"シンデイル"」と、それでも私に言ってたのは、他でもない私のために、教えてくれてたって可能性はないの? そしてそんな2人の言葉をアリエナイと、切って捨てたのは私だから、今さらになってそれに気付いても、もう自業自得でしかない。

 

 お父さんは、見つからない。イヴは、知ってるイヴじゃない。ギャリーは、向こうに置いてきた。家族のみんなは、喋らないし動かない。外の世界で会った人は私のことを、全部ウソだって言ってくる。

 

 私の知ってる人がいない。私を知ってる人がいない。私の大切な思い出が、"ホンモノ"だって言ってくれる人がいない。

 

 あれ……? だったら、まさか。むしろ私の記憶が"ニセモノ"だった。その方がずっと、自然なんじゃ。

 

 私がお父さんの子供だっていうのも、全部ウソで。

 

 私が家族と過ごしたあの世界も、全部ウソで。

 

 私がイヴと"シンユウ"になったのも、全部ウソで。

 

 私がギャリーに送り出してもらったのも、全部ウソで。

 

 瞬間、私を襲うクラッっという眩暈。それに合わせるかのように、美術館の形と色が、グニャリと互いに混ざり始めた。足元がぐらぐらぐらついて、立っているのもやっとだし、電気は点いてるままなのに、だんだん暗くなる。

 

 怖いよ。寂しいよ。息がすごく、苦しいよ。

 

 どこに行けばいいか、分からない。何をすればいいか、分からない。ただ、その場に取り残されるのだけは怖くて、覚束ない足取りで精一杯、暗くなっていく世界をさまよった。

 

 形はどんどん歪んでく。壁も、床も、天井も。動かなかった家族のみんなも。元々の形が混ざりあって、ドロドロの液に融けていく。

 

 色はどんどん暗くなる。赤も、青も、黄色も、白も。元々の色が混ざりあって、黒ずんだ絵の具に変わっていく。

 

 そうして垂れてきた液体が、足元にどんどん溜まって来た。重くてネバついた液だから、足に纏わりついてきて、歩くだけでも大変だ。

 

 最初は、足先だけだった。でも、すぐに足首まで水位が上がって。……そして今、気づいてみれば。もう、腰までどっぷり浸かってる。

 

 あ。もう、ダメ。

 

 足の重みが、限界を超える。足をとられた私は頭から、どす黒いペンキに突っ込んだ。

 

 慌てて顔を上げようとしたけど、もう眼を開けてみたとしても、どこもかしこも真っ暗闇。

 

 やだ……やだ……! なにこれ……何も見えない!

 

 息が、出来ない。何も、見えない。何も、聞こえない。

 

 私、壊れちゃうんだ。ここで。こうやって、ひとりぼっちのまま。

 

 なんで……なんで、こうなるの? 外はもっと明るくて、楽しくて……。いい人だって、いっぱいいるはずで……。それなのに、なんでわたしは今、ひとりぼっちなの?

 

 うううぅぅ……イヴ……。会いたいよ……さみしいよぉ。

 

 怖いよ……。たすけて……。ギャ……ギャリーっ……!

 

 …………お父さん…………!

 

 みんなに助けを呼びながら、私は独り後悔する。

 

「おうちに、帰りたいよぉ……!」

 

 融ける。融解していく。私の記憶が、私の心が、"ニセモノ"として融けていく。

 

 そうして遂に私自身が、"ニセモノ"として融け切る間際。

 

 ほっぺたを走る鋭い"痛み"が、私の形を思い出させた。

 

 


 

 

「やだっ……」

 

 怯えたようなメアリーが、イヴのことを振り払って、逃げるように後ろの階段を下りていく。

 

 ただ、なんとなく。メアリーのことを追った方がいいんだろうなとは思って、だけどお行儀が出来ているイヴは、メアリーみたいに階段を駆け下りたりせず、ちゃんと一段ずつ下りることにする。

 

 階段を下りる途中。メアリーのあの変な様子は、なんだったんだろうと考えた。

 

 メアリーが言っていた、ギャリーっていう人のことを、イヴは全く知りもしない。でもメアリーの態度はまるで、イヴがギャリーを知っていて、それが当然って感じだった。

 

 どっかでそんな名前の人、会ったりしたことあったっけ?

 

 でも逆に、こうやって。ちょっと考えても思い出せないってことは、別に大切な人じゃないんでしょ。

 

"本当に?"

 

 その声はイヴ自身と、全く同じ声をしていた。そんな気がした。でも声の発生源を探してみても見つからないから、たぶん気のせいに違いない。

 

"忘れちゃって、いいんだ?"

 

 しつこいなぁ……。忘れちゃって、いいんだよ。だって、憶えてないんだもの。あまり大事なことじゃないから、忘れられる。だって普通は、そうだよね?

 

"そうかな……?"

 

 なんか、言いたげだね?

 

"大事な思い出でも、あえて無理矢理、忘れようとしてる。そういうことも、あるんじゃない?"

 

 えぇ……? それ、どういう状況よ。

 

"うーん、例えば……。思い出すだけでも辛くなる、そんな出来事とか"

 

 ああ、そういうパターン……。

 

 ……でも、やっぱりその場合も、忘れちゃっていいと思うな。

 

"どうして?"

 

 だって思い出したら、辛くなるんでしょ? そんな記憶を無理に抱えて、ネガティブになる必要なんてない。そんな過去なんかさっさと忘れて、新しい思い出を作りに行った方が、きっと人生楽しいよ。

 

"……そっか。それも1つの考えだね"

 

 イヴに話しかけるもう1人のイヴは、それである程度は納得したようだった。

 

 休憩所前の階段を下りて見渡せば、すぐにメアリーは見つけられた。さっきよりももっと焦った様子で、美術館の中を走り回っていたから。

 

"……それでも、言わせて。どんなに辛い思い出でも。どんなに悲しい思い出でも。そこで感じた気持ちは絶対、無駄になんてならないよ"

 

 明らかに普通じゃないメアリーの様子に、心配そうに見守っている人もいるけれど、その人達が近づこうとする度に、メアリーが酷く怯えた様子で逃げ出そうとするから、声をかけられていないようだった。

 

「お父さん……、どこ……!?」

 

 キョロキョロと怖そうに寂しそうに、あちこちうろつくメアリーは、まるで迷子の子供のよう。お父さんはお母さんと一緒に、まだ美術館一階にいるに決まってるのに。

 

"ねぇ、ホントに何も思わない? ひとりぼっちで迷子になって、大好きな家族を探してる。そんな怖かったあの時を、無かったことにしてホントにいいの?"

 

 たくさん周りに人がいて、ひとりぼっちの訳が無い。そう心の中で言い返そうとして、出来なかった。

 

 自分がひとりぼっちだと思ったら。それはもう、本人にとってはひとりぼっちなのだ。そうだってことを、イヴはよく憶えてる。

 

 イヴに話しかけているのは、あの時のイヴだった。イヴの眼の前で怯えるメアリーは、あの時のイヴだった。

 

 見知らぬ世界に迷い込み、死んだ方がマシだとさえ思った、あの孤独。胸の奥に刻まれた、決して消えないあのトラウマが、忘れるんじゃないとイヴに囁く。

 

 そして声の正体を悟ったとき、イヴは全てを思い出した。ゲルテナの世界に迷い込んだこと。ギャリーとは、そこで出会ったこと。メアリーとは、そこで友達になったこと。メアリーは、ゲルテナの作品だったこと。外に出られるのは、2人だけだったこと。そして。……イヴとメアリーを外に出して、ギャリーだけは向こうに残ったこと。

 

 ああ、そうだ。忘れようとしたんだ。大切な人と会えなくなったと、認めることが辛過ぎて、ならばいっそ会えた記憶ごと、無かったことにしようとした。

 

 思い出してしまったから、案の定。辛くて、悲しくて、寂しくて。そんな気持ちが、止まらない。

 

 でも、そんな数々の思い出達が、今、イヴの背中を突き動かす。あの時の自分自身は、あの時の自分と同じメアリーは、自分じゃないと助けられないよ、と。

 

 先を走るメアリーはふらついていて、マトモに真っ直ぐ走れてもいない。焦点の合わない眼差しで、アチコチに視線を揺らしてる。

 

 あと一押しの勇気が欲しくて、自然とポケットに手が伸びた。ギャリーに貰ったキャンディを、両手で強く握り込み、祈るようにおでこに当てた。

 

「お願い、ギャリー……。力を貸して……」 

 

 本当は……今でも。メアリーよりもギャリーの方が、好きなことは変わらない。ギャリーの代わりになって外に出てきた、メアリーを憎んでしまう気持ちも捨てきれない。

 

 でも、他でもないギャリー自身が、自身を犠牲にしてまでも、メアリーを外に出すことを選んだ。もしもギャリーがここにいたら、あんな状態のメアリーを、放っておく訳が無いんだ。イヴはギャリーが好きだから、ギャリーの気持ちを蔑ろになんて、そんなことできるはずもなかった。

 

 そうしてやっと、覚悟が決まった。本気でイヴが走り出せば、身体がグラグラ安定しない、メアリーに追いつくのはすぐだった。

 

 メアリーが躓いて、床に倒れこむ。イヴはその隙間にギリギリ滑り込んで、なんとかメアリーを抱き上げた。

 

「メアリー……! ねえ、メアリー……!」

 

 何度も名前を呼ぶけれど、メアリーは無闇矢鱈に腕を振り回すだけで、声が聞こえてるようには見えない。覗き込んだメアリーの瞳は、激しく動いてはいるけれど、その視線がどこを向いても、映っているものは何もなくて、此処ではない別の何処かに、囚われてしまっているようだった。

 

 どうすればいい……、どうすればいい……?

 

 そうやって迷っていたら、メアリーの口元が僅かに動いて、小さく何かを呟いた。

 

「おうちに、帰りたいよぉ……!」

 

 は……?

 

 言っている意味を理解して、カッと頭に血が上る。

 

 ギャリーが身代わりになってそれでやっと、メアリーは外に出れたんでしょ……?

 

 なのにこんなに出てすぐに、もうメアリーは外が嫌になった……?

 

 だったらギャリーの犠牲の意味は? 無駄だったとでも言いたいの? 要らなかったとでも言いたいの?

 

 許せるわけがなかった。こうしてイヴが傍にいるっていうのに、勝手にひとりぼっちだと勘違いしていること。ギャリーから沢山のものを貰ったはずなのに、全部蔑ろにするようなことを言ったこと。そして何よりも、イヴやギャリーからそれらを引き出せるだけの輝きを持っていたはずのメアリーが、こうして燻ぶっている姿が気に喰わない。

 

 感情のままに振り上げた手を、メアリーのほっぺに力任せにぶつける。

 

 パンッ……!

 

 急に始まった暴力騒ぎに、遠巻きに様子を見てた人が、ギョッとするのを感じるけれど、それを気にしていられる余裕は、頭の中に残ってなかった。

 

「…………?」

 

 激しく瞬きをするメアリーは、何が起きたか分からないようで、反応はまだ鈍いまま。

 

 ふーん? へぇー? あ、そう……。これでも、まだ分からないんだ。

 

 じゃあ、もっと効くように。

 

 握りこぶしで、もう一発。

 




私達は何処から来たのか?

私達は何者か?

私達は何処へ行くのか?


……迷子の人は、いないかね?


~???~




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『永遠の恵み』

「"痛い"! "痛い"よイヴ! いったい、何をするの!?」

 

 周囲の状況を把握する間もなく、頭をゴスッ! と揺さぶられて、無意識に声が出た。

 

 なにこれ、"イタイ"と全然違うじゃん!? 今までの"イタイ"って、なんだったわけ!? というか、なんで私、こんな目に遭ってるの……!?

 

 立て続けに襲い来る理不尽に、流石に怒りがこみ上げてくる。その感情に身を任せ、胸の中身を全部吐き切ったら、重苦しい空気は随分減って、真っ暗だった視界に少しずつ、明るさが満ちてくる。

 

 グチャグチャに融けたと思った美術館は、形と色を取り戻していた。さっきまでの悪夢がウソみたいに、ただただ普通な世界がそこにはある。

 

 両膝をついたイヴが上から、私のことを覗き込んでる。床にへたり込もうとする私の首の、スカーフの根元を左手で掴み、私が倒れることを許さない。空いている方の右手では、固そうなグーが作られたままで、私の反応次第では、まだ殴る気なんだってすぐに分かった。

 

「やめて! もうぶたないで!」

 

 反射的に身体をすくませて、必死に頭を腕で庇う。

 

 ……そんな私の姿を見て、やっと少し落ち着いたのか、イヴはゆっくり息を吐くと、握った右手を解いていく。でも、私の首のスカーフを掴んだ、左手の方は放さずに、むしろ右手でもそれを掴んで、喉の奥から絞り出すように、私に向かって叫ぶのだ。

 

「おうちに、帰りたい……!? なんで今さら、そんなことを言うの……!!」

 

 私の首元を引っ張り上げて、イヴは私が眼を逸らせないようにしてくる。

 

 イヴの瞳は、赤だった。激情に染まった、赤だった。

 

「だったら、ギャリーはどうなるの!? メアリーが外に出たいって言うから……! だから、ギャリーは……!」

 

 ……ギャリー。

 

 その名前が耳に入ってきて、それが意味することが分かって、やっと私は自分から、イヴのことを見つめ返す。

 

「イヴ……? 私の知ってる、イヴなの……?」

 

「……うん」

 

 私が呆然と問いを投げると、イヴは怒った顔をいったん引っ込め、悔やむような顔で頷いた。

 

「忘れちゃってたのは、ごめん……。全部忘れちゃえば、傷つかなくて済むって思って。……それで私、忘れようとしたの。それってメアリーを、ひとりぼっちにするってことなのに。……だからそれは、ほんとにごめん……」

 

 そうして頷いたそのままに、イヴはだんだんとうなだれていく。イヴの身体を支えるものは、私を掴む両手だけ。

 

「でも、だからって……! あっちに帰りたいなんて、今さらメアリーが言うのは許さない……!」

 

 でも、最後には弾かれるように頭を上げて、またすごく怒った顔で私を睨む。

 

 イヴが怒っていた原因が、少しずつだけどわかってきて。私はそれを言ってしまった、理由を少しずつ話し始めた。

 

「……お父さんが、いないの」

 

「……うん」

 

 イヴは首を縦に振る。

 

「……みんな、お父さんが"シンデル"って言うの」

 

「……うん」

 

 イヴは首を縦に振る。

 

「……みんな、私がお父さんの子じゃないって言うの」

 

「……ううん」

 

 イヴは首を横に振る。

 

「私は、そんなこと言わない」

 

「……」

 

 そこで一回、一息ついて。再び私は、話し出した。

 

「……家族のみんなが、動かないの」

 

「……うん」

 

 イヴは首を縦に振る。

 

「……ギャリーが、ここにはいないの」

 

「……うん」

 

 イヴは首を縦に振る。

 

「……私を知ってる、人がいないの」 

 

「……ううん」

 

 イヴは首を横に振る。

 

「私が、いるよ」

 

「……」

 

 私が喋る1つ1つを、イヴはちゃんと聞いてくれた。肯定するものも、否定するものも。

 

 イヴがこうしていてくれるお陰で、ひとりぼっちじゃないって分かって、すごくホッとはしたけれど。逆に言えばイヴ以外に、"ホンモノ"の私を知ってる人が、この世界にいないって分かってしまって、帰りたい気持ちは拭えない。

 

 私の曇った顔を見かねてか、イヴはどこか尻込みするように、手の指を遊ばせていたけれど、最後には決意を込めた眼で、私にそれを訊いてきた。

 

「ねぇ、メアリー……。メアリーのお父さんも、メアリーの家族も、そしてギャリーも、確かにいないかもだけど……。でも、それで全部なの……?」

 

 親指大の黄色の袋を、イヴは私の前で取り出した。袋の両端を引っ張って、結ばれたその包みを解いていく。

 

「口開けて」

 

「え……?」

 

「開けて」

 

 そのレモンキャンディって確か、イヴがギャリーに貰ったもので、Sketchbookで私がねだった時は、絶対あげないって言わなかった……?

 

 間抜けに開いた私の口に、イヴは袋から取り出した黄色い飴を、有無を言わさず入れてきた。

 

「ゆっくり、舐めて。……噛んだら、絶対許さない」

 

 イヴの言葉に従って、玉を舌の上で転がすと、ツンとした酸っぱさが鼻をついた後、ほんのりとした甘さが広がる。コロコロと丸い舌触りが、滑らかでどこか心地良い。たまに左のほっぺたの方に行くと、叩かれて腫れてるとこに沁みて、それが少し痛かった。

 

「……どう?」

 

「思ってた、味と違う……」

 

 甘味は優しい雰囲気だけど、酸味はちょっと癖がある。お菓子はただただ良い味なのだと、シンプルに思い込んでた私は、こんな小さな飴玉1つでも、いろんな感想が出てくるんだって、今ここで知った。

 

 ただ、1つだけ言えることは……。囓ってたクレヨンの無味無臭と違って、そこには味も匂いも、いっぱいあった。それだけは、ハッキリ違った。

 

「おいしい……」

 

 ただ浮かんできた言葉を、そのままに呟く。それを上手く表現する言葉を、それ以外には知らなかったから、私はただそれを繰り返し続けた。

 

「おいしい……! おいしい……! おいしい……!」

 

 眼を閉じて舌先に神経を集中させて、無我夢中でその味を噛みしめる。

 

 イヴは私を邪魔しない。でも、たまに私が薄目を開けて、イヴの様子を見ると、何とも言えない羨ましそうな眼で、私のことを眺めていた。

 

 ……一生懸命、舐めていたら。口の中から小さな飴が、消えてしまうまですごくあっという間だった。行き場を失った私の舌が、もっと欲しいと言い続ける。

 

「……約束、したでしょ」

 

 私が口を動かさなくなったのを確認してから、イヴがポツリと呟いた。

 

「食べたいものも、見たいものも。メアリーがやりたいことができるところへ、私が連れてってあげるって」

 

 それはまだ、こっちに来る前。私がこの世界のことを、ただ楽しいだけの場所なんだと、そう思いこんでた時にした、あの約束。あの後、私が薔薇を奪ったから、全部帳消しになったんだと思ってた、あの約束。

 

 そんな約束をもう1つ、イヴはこんなにもすぐに果たしてくれた。美味しいお菓子を食べたいと夢見た私に、このレモンキャンディの味を教えてくれた。

 

「……まだ、私は子供だけど。それでも9年この世界を生きた私は、初めてのメアリーよりは少しだけ、この世界の歩き方を知ってるの。……だから」

 

 そうしてイヴは顔を歪ませ、私に向けてこう続ける。

 

「まだ何も、知らないのに。こっちの世界の、楽しいものも、綺麗なものも。いいもの何も、知らないのに。勝手にあこがれて、勝手に幻滅して。それであっちの方が、良かったなんて。そんなの絶対、言わせない……!」

 

 イヴはすごく、怒ると怖い。どっかで聞いたようなフレーズが、頭の中を駆け巡る。

 

 ……でも。その怖さはけして、冷たいものなんかじゃなかった。私を叱る言葉の中に、確かに愛情が込められていて、だから私はイヴの言葉を、ずっと忘れないだろう。

 

「……イヴが言う、通りなら。……本当にこっちの世界が、いいものばかりでいっぱいなら。……イヴはどうして、そんな顔するの」

 

「そんな、顔……?」

 

 私の問いかけを聞いてから、イヴは自分の顔を手でなぞる。自分が今どんな顔をしてるのか、それを確認するように。そうして当てた掌が、濡れているのを目の当たりにして、イヴはようやく気付いたようだった。飴玉みたいにポロポロ落ちる、小さな雫の数々に。それは降ってきた雨みたいに、イヴのスカートを濡らしていく。

 

「……だって。……私、だって」

 

 それまでハッキリ喋っていたイヴの声に、だんだん嗚咽が混じっていき。

 

「ギャリーに……。ギャリーに、会いたいよ……!」

 

 そして最後に、決壊した。周りのこともはばからず。

 

「うあああああああぁぁぁぁ………………!!!!」

 

 静かな美術館の中だから。イヴが叫ぶ大きな声は、とても大きく響き渡った。

 

 左ほっぺを、いたわるように。そっと左手をそこに当てた。左腕に巻かれた腕時計が、サイズ外れでやけに重い。

 

 口の中に広がる、ほんのりとした甘酸っぱさと。余韻のように残り続ける、腫れた左ほっぺの鈍い痛み。お父さんが見てきた外の世界を、これからイヴに教えてもらえるんだっていう嬉しさと。漠然と悟った、ギャリーと、お父さんと、家族のみんなと、会えないんだっていう寂しさ。そういったものがグチャグチャに混じって、私のことを圧倒する。

 

 それは全て、知らないものばかりで。どうしていいか、分からなくて。

 

 だから私は、導かれるように。イヴの姿を、なぞるように。

 

 私は生まれて、初めて泣いた。

 

 瞳から滴り落ちる水滴は、一向に止む気配がない。それはもしかしたら永遠に、続くんじゃないかとさえ私は思った。

 

 知らなかった。外の世界の人達も、他でもない私自身も、こんなにたくさんの水が流れてたこと。

 

 零れ出す。溢れ出す。心の奥底に溜まってた、そんな想いが波となって、私を堰き止めていたナニカを押し流し、涙となって外に出てくる。

 

 そうやって気持ちの澱みを全部丸ごと、吐き出し切ったその最後。自分でも気づいていなかった、痛みの核が顔を出した。

 

 ずっと一緒に、いたかったの。いつまでも一緒に、いたかったの。

 

「なに? なに? なんの騒ぎ?」

 

「子供の泣き声が聞こえる……」

 

「迷子らしいよ」

 

「いや、子供の喧嘩だって」

 

「嫌だわ、ご両親はどちらかしら?」

 

 私とイヴが身体を寄せ合い、ふたり一緒に泣く姿に。美術館にいた沢山の人達が、ざわざわ周りに集まってくる。

 

 みんな心配そうな顔をしていて、私を怖がらせる敵なんて、誰もいなかったんだと私は気づいた。

 

 その中に、男の人と女の人。とくに慌てた様子のふたりが、真っ先に私達へと駆け寄って。ふたりで併せて包み込むように、私達を抱きしめた。

 

「イヴ!? メアリー!? どうした!? 何があった!?」

 

「ごめんなさい……! ごめんなさい……! 先に行かせたりなんてして、放ったらかしになんてして、本当にごめんなさい……!」

 

 その腕のあたたかさを感じた時、ストンと胸に落ちてきた。

 

 私はこの世界に、いてもいいんだ。私の居場所はちゃんとここにも、この世界にもあったんだ。

 

 洗われていく。癒やされていく。私についてた、心の傷。

 

 私の左の、耳元近く。腕時計の秒針が、小さく音を響かせた。

 

~『ようこそ私達の世界へ』~

 




赤児よ赤児、何故泣くの。

父親の生まれた世界をしっておそろしいのか。


お誕生日、おめでとう。


~???~




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裏・ゲルテナ展
『赤い服の女』


 自身と一心同体の薔薇を渡す以上、最悪命を落とすことも、覚悟していたつもりだった。しかし意外なことに、メアリーが薔薇ごと外に出て行った後も、特に不便を感じることなく、自分の意思で歩き回ることができている。それはあるいは、メアリーが代わりにくれた、この黄色い造花のバラのお陰なのかもしれない。

 

 ボロボロの王族衣装を纏った巨大な骸骨が、女性を額縁の中から引き摺り上げて、愛おしそうに撫でる巨大な彫像。『死後の逢瀬』という作品の前で、ギャリーは顎に手を当てながら、これまで観てきたゲルテナ作品、その考察を巡らせていた。

 

 ギャリーがやっていることを端的に言えば、ただの暇潰し。それに尽きる。

 

 ……イヴやメアリー達と、まだ別れる直前。元の美術館そっくりのエリアにあった、かつて通ったはずの階段に、強く惹かれる自分を感じた。ゲルテナの世界。その深淵からの呼び声が、確かにギャリーには聞こえていたのだ。

 

 だから、イヴとメアリーを外の世界に出した後、ギャリーはあの階段を再び下りて、このゲルテナ世界の探索を続けていた。「他に出口がないか探す」という名目ではあるが、その希望が無いだろうことは、始めた段階でほぼ悟っていた。

 

 見覚えのない新しい場所に辿り着くことはまだある。そういう意味では、全てを調べきったわけではなく、希望が残されていると言えなくもない。しかし歩けば歩くほど、どんどん深い場所に潜って行っているような、漠然とした感覚がある。出口からはむしろ遠退いているなと、なんとなく分かるのだ。

 

 そもそも、別の出口を見つける程度でこの世界から出られるとしたら、メアリーはとっくに外に出ている。だからギャリーが探索を続けていたのは、この世界に閉じ込められることで、意図せず手に入れた永遠の休暇、その退屈しのぎが主だった。

 

 だからここに至るまで、ギャリーは改めて丁寧に、1つ1つゲルテナの作品達を、ゆっくりじっくり眺めてきた。脱出ゲームは、既に終わっている。ならば心ゆくまでゆったりと、作品鑑賞に浸っても、そうバチは当たるまい。それこそが本来の、正しい芸術活動の在り方。……そうだろう?

 

 改めて眼の前の作品を見上げる。紛うことなき、大作である。この作品を創るに当たっての、ゲルテナの非常に強い熱意が見て取れる。

 

 やはり目に留まるのは、額縁から上半身を出した女性。文字通りの意味で死ぬかと思うほど見たので、もう忘れようがない。間違いなく、『赤い服の女』と同じ女性がモデルだろう。

 

 『赤い服の女』は、かつて遺産目当てに擦り寄ってきた浅ましい女のイメージであると、取材に対してゲルテナ自身が言っている。これはゲルテナファンの間では有名な話であり、実際にここで見つけたゲルテナ作品集にも、そうであると綴られていた。

 

 しかし、ギャリーの眼の前の作品からは。来世でもまた会いたいという、ゲルテナからこの女への、どうしようもないほどの恋慕の情が溢れ出ていた。

 

"これで財産狙いの赤の他人は、ちょっと無理があるんじゃない?"

 

 こうなっては、もうあの取材記事を、ギャリーは鵜呑みにできはしない。ゲルテナの取材への回答は嘘か、あるいは本当であったとしても、ゲルテナが女に抱く本音を全て、馬鹿正直に話した内容ではないのではないか。

 

 そうやって人間関係を組み直してみると、納得がいく点があるのである。

 

 灰の間で、ギャリーとイヴは、とても数え切れないほど『~服の女』と対峙した。実際にあれだけの数をこの眼で見た以上、それと同じ回数ゲルテナはあの女を描いた、そう考えるのは不自然ではあるまい。そうした時、それだけ多くの時間を費やした女のことを、「憎んでいた」と捉えるよりは、「愛していた」と考えた方が、腑に落ちる。

 

 とすれば、いろんな色で女が着ている服を描いた理由も、およそ予想できなくもない。彼女に最も似合う服の色が何か、ゲルテナは実際に描いてみて、その想像を膨らませたのではないか?

 

 現代アート作家であるゲルテナは、絵画分野のみならず、彫刻や家具といった方面の、立体美術にも造詣が深い。服飾に関しても優れた才能があるのは、『無個性』や『赤き衣のステップ』『融解』などが示している。

 

 特に『無個性』。個性的な衣装で着飾った、首から上だけがない女の像。『無個性』という題材ゆえに、頭が無いことが注目されているが、むしろゲルテナの緻密な表現力は、着ている服の方でこそ発揮されている。まるでマネキンのようだ、と評されるこの作品がゲルテナにとって、元々は本当にマネキンだったなんて、そんな仮説はどうだろう?

 

 ……少なくとも。『無個性』はいずれも女性の像。もしもゲルテナが『無個性』達の首の上に、誰かの顔を想像したとして、それがどんな顔になるのか、ギャリーはすごく興味がある。あるいはそうしてできる顔は、『赤い服の女』と一致したりして。

 

 自分の最大の愛する女性に、どんな服を贈ろうか。そんなゲルテナの葛藤が、『服の女』と『無個性』の数に現れている。ギャリーにはそう、思えてならない。

 

 歴史的な芸術遺産を、科学の力で分析しようという、そんな新しい試みを、どこかで聞いたことがある。なんでもX線を使うことで、絵画を一切傷つけずに、その材質を調べていたら、中から別の絵が見つかった。そんなこともあったとか。

 

 もしも叶うことならば、外の世界のゲルテナ展に飾られていた、『赤い服の女』という1つの絵画。あれを全く同じように、分析してみたら面白いように思う。ひょっとすると、あの絵の服が描かれている部分は、実は沢山の色が塗り込まれていて、最後にやっぱり赤が似合うと、一番上に重ね塗りされていたとか、そんなことがあるかもしれない。

 

 「ここの女達はみんな花占いが好き」。みな例外なく花占いが好きというのは、同じ1人の女性をモデルにしていることの証拠では? 命に等しい薔薇を手に入れようと向かってくるので、恐ろしい相手に見えていた。しかし、薔薇が命という特殊状況を抜きにすれば、薔薇を欲しがって花占いするだけの女性に、怖い点など存在せず、それ自体はむしろとても女性らしい、可憐な趣味であると言える。今にして思えば、ギャリーはここに来てから作品の女達に、薔薇を奪われかけたことは何度もあったが、直接身体に暴力を、振るわれた経験はなかったと気づく。やはりギャリーには、もうあの絵の女がただの恐ろしい者には思えない。

 

 しかし、そうだとしたら。ゲルテナが『赤い服の女』を愛していたとしたら、それがどうして遺産を狙う浅ましい女と答えるような状況になるのか。懸想相手についての情報を隠すのは、まあよくある話だが、想い人へと向けるにしては、表現が憎悪に寄り過ぎている。

 

 そこでギャリーは、この有り余る時間を使って、1つ1つ鑑賞してきた作品達を振り返り……ある結論に辿り着いた。

 

"……ゲルテナ。アナタ、この人に振られたんじゃないの?"

 

 『月夜に散る儚き想い』、『嫉妬深き花』、『争いの矛先』、『心の傷』、『決別』、『蛇蝎の精神』、……。

 

 これらの作品を創り上げた時、現実のゲルテナ自身も、それらと無縁ではいられなかったのではないか。

 

 何より、『精神の具現化』だ。この世界で薔薇が命の象徴なのは、あの作品が由来であると考えるべきで、そんなこの世界のルールを縛る作品に、ゲルテナ自身が残した解説文がある。なんでも、「一見美しいその姿は、近づきすぎると痛い目に遭う」とのことだ。恋をして振られるなんて、「近づきすぎて痛いに遭う」の最たるもののように思える。

 

 花占いが好きな人に、恋をした人がいるとする。花占いが決めるのは、「誰かが自分のことを、好きか嫌いか」。だから誰かが花占いをしていたら、きっとその人には、とても大好きな誰かがいる。問題は、占っている相手が誰か。

 

 その占い相手が自分ならばいい。だけどもしも、違ったとしたら。花占いをする誰かを横で眺める人は何を感じる? それは文字通り、直接身体を引き裂かれるような、そんな心の痛みかもしれない。

 

 逆に。花占いが好きな、『赤い服の女』。彼女が花占いで「自分を好きかどうか」占っていた相手、つまりは『赤い服の女』が好きだった相手は、どんな人がそれっぽいだろうか?

 

"資産家、だったりしたら辻褄が合いそうね"

 

 年代的に追っていくと、『赤い服の女』が描かれた6210年時点で既にゲルテナは妻子がいる身であるし、絵の女と比べれば年齢もかなり上だ。そんな状況で芸術家として既に金銭的成功を収めているゲルテナの元に現れた女性が、彼の心を奪った上で、また別の資産家と結ばれたとしたら。

 

 それはゲルテナの目線から穿った見方をすれば、「元々遺産目当てで近づかれた」ように感じたとしてもおかしくないだろう。その失恋の要因が、真実どうだったにせよ、嫉妬は相手を憎く見せる。どちらかと言えば遺産云々より、年齢差と妻子持ちであったことの方が、よほどそれっぽいと邪推したくはなるが。

 

 あるいはゲルテナ自身、女が本当に遺産目当てだとは思っていなかったかもしれない。自分を振った相手を忘れたくて、酷い女だと思い込もうとした、という可能性だってある。少なくとも、好きになった相手に振られることは、いたくプライドを傷つけるものなのだ。

 

 そう言えば。服の女の絵がたくさん飾られていたのは、灰の間だった。そして服の女の絵達のすぐ近くでは、偽物の金を堂々と掲げ、『金を自慢する貴族』がいた。

 

 なるほど。自分を振って別の資産家と結ばれた、そんな失恋相手への意趣返し。それならばゲルテナがインタビューで『赤い服の女』のことを、「遺産を狙って近づいてきた浅ましい女」のように表現した、もっともらしい理由づけにできなくもなさそうだ。

 

「資産家、か……」

 

 ふと。イヴから借りたままになってしまった、レースの刺繍入りハンカチを、ぼんやりと眺めた。ある種騙すような形で、イヴを外へと出したから、返す機会を失ってしまって、その点は酷く申し訳ないと思う。

 

 外の世界への出口の前で、返そうと切り出すことは出来なかった。そんなことを言い出そうものなら、聡いあの子は意味を察して、絶対に先に出ようとしなかっただろう。

 

 手に持つ白のハンカチは、その肌触りの高級感と一点物の名前入り刺繍から、イヴがイイトコのお嬢様であることを訴える。イヴのおウチは、資産家の家系かもしれない。

 

「ふふふ、あり得ないでしょ。流石に」

 

 ゲルテナが片想いしたとギャリーが想像する、『赤い服の女』。その『赤い服の女』のお相手として浮かび上がった像と、イヴのおウチから浮かび上がる像が、偶然一致した。それだけのことだ。

 

 ……ただ、思い出すのは。灰の間で部屋に閉じ込められそうになった直前、『ふたり』という作品をイヴと見た時のことだ。イヴはそれに描かれた男女を、自分のお父さんとお母さんであると言った。

 

 ゲルテナの生きていた年代を考えれば、ゲルテナがイヴの御両親に会った機会があったとしても、もっと若い頃の姿が描かれる可能性が高いように思う。あの時のイヴは精神的にかなり参っている様子で、両親に会いたくて堪らない気持ちから、別人をそう見間違えたという可能性は高い。

 

 しかし、イヴにそれを言われた時。ギャリーも描かれた『ふたり』とイヴを見比べて、どこか似ていると感じたのもまた事実だった。そして、『ふたり』の片割れの女性と、『赤い服の女』もまた、どこか似ている。そう感じる。

 

 このゲルテナの世界では、いろいろと不思議なことが起こるから、あまり理屈を並べて考えても、意味はないかもしれない。ただ、そういった怪奇現象もまず大前提として、ワイズ・ゲルテナが生前創り上げた作品達の上に立っているような気はしていた。

 

 その法則が、ちゃんと適応されるなら。芸術家ワイズ・ゲルテナは生前に、イヴの御両親か、それととてもよく似たカップルを、描くような機会があった。そういう解釈もありだろう。

 

 なぜ、イヴはゲルテナの世界に招かれたのか。美術館にやって来たメアリーと同年代の少女達の中から、ただ無作為に選ばれただけなのか。

 

 ギャリーの説が、仮に全て正しいと考えれば。『赤い服の女』と資産家の子孫に対し、ゲルテナが向ける感情はどんなものだろうか? 愛しい女の面影を見て、攫ってやりたいと思うのか。女を奪った憎い男の影がちらついて、殺してやりたいと思うのか。想像することしかできないが、きっと愛憎入り混じった、複雑なものとなるに違いない。

 

 結局、真相は分からない。ただ『ふたり』は、絵の女達が並ぶ灰の間の、その中央の小部屋に飾られていた。その事実だけが、残っていた。

 




イヴも、イヴのお母さんも。

赤い服が、よく似合う。


~???~




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『メアリー』

 この『死後の逢瀬』は、このゲルテナ世界のおよそ最深部、その部屋の中央に鎮座している。変幻自在に造りを変える空間的制約が無いこの世界で、それでも最中央に据えるということには間違いなく意味があり、おそらくこの作品はゲルテナの核に近い。

 

 『死後の逢瀬』という題材から察するに、およそ死期を悟ったゲルテナが、来世で再び想い人に会いたいという願いを込めた、集大成的作品がコレなのでは。それがギャリーの予想である。

 

"……嗚呼、それでも。『メアリー』が、ゲルテナの生涯最後の作品、なのよね"

 

 『ゲルテナ作品集 下』に記載された内容を振り返ってみる。

 

"『メアリー』 ----年 ゲルテナが手掛けた、生涯最後の作品。まるでそこに存在するようにたたずむ少女だが、もちろんのこと彼女も実在しない人物である"

 

 『赤い服の女』の考察では、書籍に描かれた内容、ひいては世間に出回っている『赤い服の女』の定説を疑ってみたが、『メアリー』に関するこの記述は正しいような気がする。

 

 しっかりしたものではないが、一応の根拠はある。それは、『赤い服の女』は現実世界で既にゲルテナ作品として確認されているのに対し、『メアリー』はそうではない、ということだ。

 

 ギャリーがゲルテナ作品の『メアリー』を知らなかっただけ、というのは考えにくい。現代アーティストゆえに世間一般の認知度はそこまでだったが、ワイズ・ゲルテナの死は、一部の芸術界隈ではそれなりの騒ぎとなったものだ。

 

 そんな彼が遺作として、こんなにも謎に満ちた女の子を描いた作品を遺していたら、間違いなくゲルテナの最も有名な作品の1つとして、その名が広く知れ渡っていよう。

 

 つまり『メアリー』は、おそらく現実世界には存在していなかったか、あったとしてもゲルテナの作品とは知られず埋もれていた。そんな状況の作品だったのだと考えられる。

 

 世間に知られていない以上、『ゲルテナ作品集 下』に記された文章は、世間一般の通説ではありえず、この世界で作られた内容で、すなわち作者であるゲルテナだけが知っていることだったと考えるべきだ。

 

 『メアリー』。彼女は、ゲルテナにとっての何なのか。

 

 これほど執拗なまでに繰り返し登場した、『赤い服の女』を押しのけて急に現れ、彼の最後の遺作という、一番を掻っ攫っていった少女。他の作品達があくまで動く作品を超えられなかったのに対し、彼女だけはギャリーもイヴも、出会った最初は彼女が作品だと気付けなかった。こうしてギャリーの手に渡った造花の黄薔薇を、わざわざ手創りして贈っていることからも、『メアリー』こそがゲルテナにとって、『赤い服の女』以上の特別なのだ。

 

 ……いや。急に現れたわけでは、ないのかもしれない。ギャリーがここで夢想するのは、実はあの『メアリー』が、『赤い服の女』の延長線上にある作品だったという可能性である。

 

 メアリーが描いたというあのクレヨンの世界で耳にした、彼女の言葉を思い出した。

 

「お父さんに会うの! 外の世界に行っちゃったままの、お父さんに!」

 

 彼女は父親に会いたいとは言ったが、母親の話は出てこなかった。作品である『メアリー』には、親と呼べるものは創造主たるゲルテナしかおらず、だから彼女目線からすれば、母親がいないのは当然である。

 

 だが。『メアリー』が自分には母親はいないと思っていたからといって、ゲルテナが『メアリー』に母親はいないと思っていたかは、別のように思うのだ。……ゲルテナは『メアリー』を描いた時、その母親役とした女性はいなかったのだろうか?

 

 ここの作品達は、基本的に全てゲルテナが手掛けたものばかりだ。創造主のことを親と呼ぶのであれば、この世界の作品達は例外なく、ゲルテナが親となる。

 

 しかし。数ある作品達の中で、明確にゲルテナを「お父さん」呼びしているのは、『メアリー』一人だけなのだ。それはゲルテナが『メアリー』に、自らが手掛けた作品として以上の実の娘としての役割を投影したことの現れであるように思う。最も『メアリー』を描き上げた際の外見的な年齢差を考えれば、実際は孫娘がより正確かもしれないが。

 

 ゲルテナが『メアリー』を実の娘と位置付けていたのなら、『メアリー』のモデルの一人はゲルテナ自身だろう。おそらく、『メアリー』の外見にはいくつか、ゲルテナ自身との類似が確認できると思われる。それはさながら、娘が父親に似るように。

 

 ただし言うまでもないが、ゲルテナは男だ。男の自分を参考に、自分の子供としての女の子を描くには、参考元としては不十分ではないか? やはり女を描くに当たっては、誰かしら脳裏に浮かぶ女を参考とするのが自然だろう。そしてそんなアンノウンXにピッタリ当て嵌まりそうな女に、ギャリーは一人心当たりがある。

 

 つまり、ギャリーの最終的な予想は、次の通り。

 

 ゲルテナが「もしも自身と『赤い服の女』と結ばれて子供がいたら」というIFを空想して描いた少女、それこそが『メアリー』なのではないか、ということである。

 

 それならば。『赤い服の女』に執着していたゲルテナが最期に『メアリー』を描くという流れ、これが一本の線として綺麗に繋がる。『赤い服の女』以上に、『メアリー』が愛される理由も分かる気がする。愛していたのに結ばれなかった人と自分との間の子供なんて、それはもう可愛くて可愛くて仕方なかったはずだ。

 

 そうやって改めて考えてみれば、『ゲルテナ作品集 下』に載っていた絵画としての『メアリー』と、『赤い服の女』はとっているポーズが非常に似ている気がしなくもない。

 

 ……さて、そう考えると疑問が残る。ゲルテナはそんな愛する娘を、外の世界に出してあげる気は無かったのか? いや、ゲルテナは愛する娘のために、自分を身代わりにすることは考えなかったのか?

 

 あれからこのゲルテナ世界の探索を続ける中で、ギャリーは書斎でゲルテナ自身によるものらしき言葉を見つけた。

 

"存在を交換することにより、空想が現実になり得る"

 

 ゲルテナ自身の言葉を書き残されたこれは、ゲルテナがメアリーを外に出す方法を知っていた証拠だ。メアリーがゲルテナに貰ったという黄色の薔薇の造花を使うことで存在の交換が成立したことからも、ゲルテナはこの方法を使ってメアリーを外に出すことを考えてはいたはずだ。

 

 ゲルテナはこうして自らの世界を創り上げるほどに芸術にのめり込んだ人物ではあるが、それでも現実世界出身であることに変わりはない。ギャリーとメアリーの存在の交換が成立するなら、ゲルテナとメアリーの存在の交換も、同様に成立すると考えてよいだろう。……それでもメアリーとの存在の交換をしなかった理由は、たとえ愛娘のためであったとしても、やはりゲルテナもこの世界に閉じ込められるのは嫌だった、そういうことになるのだろうか?

 

 ……いや、別の理由も考えられる。そうして外の世界に出した後の、メアリーが心配だった、という可能性だ。

 

 ギャリー自身、最初に作品である『メアリー』が外の世界に行きたいという話を聞いた時、いろいろと懸念点が浮かんだものだ。

 

 作品として生を受けた『メアリー』は、元は文字通り空想の存在。外の世界において頼るべき縁を、外の世界での居場所となり得る人間関係を、彼女はゲルテナ以外に持っていない。

 

 そのゲルテナ張本人が、メアリーと存在を交換してしまったら。メアリーは正真正銘のひとりぼっちで、外の世界に放り出されることになる。ゲルテナには、愛娘が無事に外の世界で無事にやっていけているのか、それを見守ってあげられる手段が無い。

 

 幻想の存在であったメアリーと、現実の存在であったゲルテナが、共存できる場所はこの世界だけだった。他の誰かを犠牲にしない限り、メアリーがゲルテナと存在を交換して外の世界に出た時点で、ゲルテナとメアリーが一緒にいれる時間は終わりを告げる。

 

 ならばできるだけ、ギリギリまで。時間の許す限り一緒にいたいと思うのが、家族というものなのかもしれなかった。あるいはそれは、いつか来るはずの子離れ・親離れの時を惜しみ、それを出来る限り先延ばしにしようとしてしまう過保護な親心に近いものがある。

 

 そうして先延ばしを続けた結果……、遂にどうしようもない意味での制限時間が来てしまった。それだったら、「メアリーがゲルテナに愛されていたということ」と、にもかかわらず「メアリーがこの世界に取り残されてしまったこと」。どちらもが両立できる説明ができるように思う。実際に現実でだって、独り立ち前に予期せぬ親の他界に遭ってしまう子供は、そう珍しくないのだから。

 

 このゲルテナの世界に外の世界から迷いこんだのは、なぜ2人だったのか。極端な話、メアリーとの存在の交換相手を求めていたのであれば、1人で足りる。それでも2人になったのは、メアリーと外の世界を結ぶ接点になる人が必要だと、この世界は分かっていたのかもしれない。

 

 ……そう言えば。さっきまでの考察では、『赤い服の女』がイヴのご先祖様かもなんて奇天烈な思いつきをしてしまった。でも、今までのギャリーの妄想が仮に正しかったとするならば、イヴとメアリーの間には、『赤い服の女』を通じて、いわば仮想的血縁関係があるということになる。

 

 だとしたら。外の世界に出たメアリーの新しい居場所は……イヴの家族が、自然なのかもしれない。

 




愛娘のことを、どうか。

どうか、よろしくお願いします。


~???~




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『ゲルテナ』

 ……ところで。結局、芸術家ワイズ・ゲルテナとは、どのような人物だったのだろう?

 

 ギャリーやイヴを自身の世界へと連れ去り、その上で命の危険に繋がるようなルールを強要するなどの所業から、ギャリーは当初ゲルテナのことを、芸術に魂を売り渡し、そのためなら何でもするような傲慢で理解し難い人物なのだと考えていた。彼によって創造されたこの世界を徘徊する動く作品という怪物的な存在達も、その仮説を後押ししていた。

 

 しかし、今。こうして『赤い服の女』と『メアリー』についての考察を踏まえて浮かび上がってくる『ゲルテナ』像は、そんなものとは似ても似つかない、人間味に溢れたとても分かりやすい性格をしているように思える。

 

 最初の印象としての邪悪なゲルテナ像は、メアリーが語っていた大好きなお父さん像と、どうしても噛み合わなかった。しかしここで、それと比較的マッチしそうな『ゲルテナ』像が仮説から導かれてきたわけだ。

 

 やはり性格の捻じ曲がった人物が、あんな純粋な女の子を育て上げられたとは信じ難い。いや、信じたくない、と言った方が正確か。

 

 ならば発想を逆転してみよう。

 

 ゲルテナが真っ当な善人であると仮定してみる。その場合、どうして彼はこんなおどろおどろしく見える世界を創り上げるに至ったのか。これを作品達の鑑賞を通じて考えてみることにする。

 

 まずはゲルテナの人物像を考察するに当たり、特に参考になるだろう作品について触れてみよう。ゲルテナが、他ならぬ自身をモチーフとしたのではないかと考えられる作品がある。『寝起きの悪い男』、『夜更かしをする男』、『未完成の少年』、『失敗作』、『不眠症の死者』の5つだ。

 

 少なくとも、『寝起きの悪い男』、『夜更かしをする男』、『失敗作』に出てくる男が同一人物らしい状況証拠が1つある。前者2つがペアになっていて、同じ男だというのはすぐに分かる。そして、『失敗作』と題された絵の、顔を塗り潰された男の動く速度は、明るい時には緩慢で、暗い時には俊敏だ。それは、『寝起きの悪い男』と『夜更かしをする男』から連想される男と一致する。それに加え、『不眠症の死者』は墓の絵だが、そこに埋まっている人物は『夜更かしをする男』のイメージとよく合うのだ。

 

 ここで考えたいのは、そういったゲルテナ自身がモチーフと思わしき作品に、どこかマイナスイメージが付き纏う題を付けていることだ。"寝起きが悪い"も"夜更かし"も、いい印象の言葉ではないだろう。そして特に、『失敗作』は顕著である。自分をモチーフにした絵の顔をグチャグチャに塗り潰し、『失敗作』のレッテルを貼る。それはどこまでも自虐的で、傲慢というイメージからは程遠い行為だ。おそらく、ゲルテナは自分のことが好きではない。

 

 ただそれは、ギャリーがこれまで組み上げてきたゲルテナ=失恋した男の像とはよく重なった。本気で好きになった相手に受け入れてもらえないことほど、自信を失うことなど無いのだから。

 

「自分に自信が無い、か……」

 

 人が立ち入ることは許されない。深海と心壊。これらのフレーズからも想像できるように、ゲルテナの描く暗い深海は、およそ心の中の隠喩である。

 

 つまりこの世界は、言わばゲルテナの心の中。ゲルテナが現実で完成させた数多の作品達も、元はアイディアという形でゲルテナの心から生まれ出でたものと考えれば、此処にあらゆるゲルテナ作品が保存されているのも合点がいく。

 

 芸術と心。そのいずれにも関係の深い用語である、「昇華」という単語をギャリーは思い出していた。

 

 端的に言えば、そのままでは表に出せない不満・葛藤を、より高度で他者が認めやすい形へと転化させて発揮し、そのストレスの解消を図ること。心理学における防衛機制の1つとされる。

 

 分かりやすい例で言うなら……。破壊衝動を制御するため、武道に打ち込むとか。親への反骨心から、勉強を頑張るとか。そして……、失恋の辛さを紛らわすため、芸術活動に邁進するとか、だろうか。

 

 「優れた作品を生むには昇華が必要」と、主張する芸術家は数多い。「芸術は爆発だ」などという言葉が示すように、心の内に溜め込まれたエネルギーの爆発が、他者の感情を揺り動かす作品を創り上げる。

 

 そして、今。ギャリーはゲルテナの創作意欲の根源も、これに根差していたのではないかと考えていた。先の『赤い服の女』の仮説とその考察に用いた作品の数々など、まさに失恋に対する昇華の典型例のように思える。

 

 そうなると、この世界が一見恐ろしく感じられたことについて、もっともらしい理由づけをすることができる。先に述べたように、もっぱら昇華の対象となるのは、表に出せない抑圧された不満・葛藤。つまり、醜い感情だ。

 

 ゲルテナの芸術の本質が、彼の心に潜む闇を昇華したものなら、その作品としての世界には、彼の心中の最も醜い部分、彼が他の誰にも見せたくなかった部分が凝縮されていても、ある意味では当然である。怒り・憎しみ・嫉妬・殺意。それらが込められた作品達が恐ろしかったからと言って、それでゲルテナ自身の人間性が歪んでいると、決めつけるのは早計だ。だってそれは彼の一側面でしかないし、そういった醜い感情と、生涯で完全に無縁でいられる人物など、いるわけもないのだから。ギャリーにだって、それはある。

 

 他人の深層意識に土足で立ち入っておいて、そこに悍ましい化け物が潜んでいたとして。そのことで以ってその人物を糾弾するなど、ギャリーには到底できない。どんなに恐ろしい姿形をしていようと、深海魚はあくまで深き者。水面に浮かび上がって来ない限り、それと対峙する機会は訪れず、誰に悪さをするわけでもないのだ。むしろそんな怪物を表に出さぬよう、強靭な精神力で飼い馴らしていたのだとすれば、それは十分以上にまっとうな人間と言えないだろうか。

 

 そしてゲルテナ本人が居なくなった後、それでも作品にこびりついた遺志だけは、忘れ形見のように残り続けた。で、あるならば。一連の事件の原因は、ある1人の老人の死という、誰の身にも起こりうるありふれた、そんな悲劇に帰結するかもしれなかった。もしもゲルテナが生きていたら、彼の世界に無理矢理取り込まれる人間なんて、出たりしなかったのかもしれない。

 

 ……いや、そもそも。ギャリーがゲルテナ展を訪れた一番の理由は、現実から逃げ出すためだったのだ。そう考えれば今のこの状況、ある意味ギャリーの願いを叶えてくれたとも言える。

 

 現実世界のゲルテナが、精神破綻者だったとか嫌われ者だったとか、そういうエピソードをギャリーは寡聞にして知らない。ゲルテナは恐ろしい人物であるという当初の固定観念は、全てこの世界に迷いこんでから築き上げられたものに過ぎないのだ。

 

 そしてそんなこの世界ですら、一部の作品達は味方だった。本当にゲルテナ作品が全て敵対的だったら、イヴもギャリーも成す術が無かったに違いない。心の中に、怖い面も優しい面も両方ある。それが普通の人間である。

 

 実際、ちゃんと探してみれば、ゲルテナの根が善人なのだと示唆する作品も見つかる。

 

 『ジャグリング』は、ゲルテナが実の孫と見に行ったサーカスがモデルだ。そして『ジャグリング』は、その誕生年をわざわざ問うてくる。それは他ならぬゲルテナが、実の孫と過ごしたその記憶を、大切にしていたことの表れであるように思う。ゲルテナが愛していたのが『赤い服の女』と『メアリー』だけなら、こんな質問はきっと訊かれない。

 

 そうやって数々のピースを繫ぎ合わせて浮かび上がってくるのは。芸術面でも家庭面でも、世間から見れば人並み以上の幸せを手に入れたにもかかわらず、どうしてもかつての片想い相手を忘れることだけが出来なかった、ただの不器用極まりない、等身大の男の素顔である。それは間違っても、世界を思いのままに操れる、万能の神なんかではない。

 

「……分かる気がするわよ。現実って、なかなか思い通りには、いかないものよね」

 

 ギャリーはゲルテナ展を訪れたそもそもの原因が、外の世界での苦悩だったことを思い出す。

 

 どんなに他人から見ればちっぽけなことでも、自分にとっては大きな悩みであったりすることがあるように。どんなに他人から幸福そうに見えようとも、結局自分が幸せかどうか、決めるのは自分でしかない。

 

 芸術家として、世間一般の評価では順風満帆な生涯を送ったとされるゲルテナだが、彼が自身が幸福だと思えていたのかは、究極のところ彼にしか分からない。

 

 ゲルテナもギャリー同様、現実世界で足掻いていたのかもしれない。自分だけにしか分からない、幸せを求めて。

 

 死者と語る術はないが、もしもゲルテナと話せるなら、ギャリーは1つ訊きたいと思った。

 

 ゲルテナは『メアリー』の後も作品を創る気だったが、寿命で意図せず『メアリー』が、最後の作品になってしまったのか。それとも『メアリー』を描いた後に、そもそも作品を創ろうとするのを、そのタイミングで止めたのか。

 

 ギャリーの仮説が正しいなら、ゲルテナという芸術家を創作活動へ走らせたのは、ゲルテナ本人の現実への不満。心の奥底に秘めるしかなかった、抑圧されたストレスである。……だから、もしも彼が創作活動を、自分の意思で止めたのだとしたら。

 

 ゲルテナは最期に、自分が納得できる幸せを見つけた。そういうことに、なる気がした。

 

"……なんて、ね。妄想が過ぎたかしら"

 

 結局、ここまでの推論は全て仮説。数々の作品を元に自分なりの考察はしてみたが、全てはなんの証拠もない、ただの絵空事でしかない。

 

 畢竟、作品の解釈はそれを観る者に全て委ねられるのが芸術という世界だ。このゲルテナの世界だって、他の誰かが観ればきっと別の見方をするのだろうし、それは否定されるものじゃない。今回のギャリーの個人的解釈を否定する権利が、他の誰にもないのと同様に。

 

 本気で答え合わせをしたければ、生きたゲルテナから生の声を、聞くより他に術は無いが、いくらこの世界を創ったゲルテナでも、それは叶わぬ願いだろう。でなければ。あんなにも純粋に自分のことを慕い続ける少女を、この世界に放置したまま声もかけないとは思えないからだ。

 

 永遠を得たギャリーによる、ゲルテナの人物像を完成させるための、作品というパズルピースを繋ぎ合わせる旅。それも遂に、終わりが近い。ある意味において、ギャリーは作品を通じて、故人ゲルテナと十分語り合ったと言える。

 

 いや。この世界から出られないギャリーは外の世界から見れば故人のようなものだから、これは言わば死者同士の歓談、といったところか。

 

「……もう、十分かしらね」

 

 このゲルテナの世界で、ギャリーは様々な理不尽に見舞われた。ギャリーだけじゃない。イヴもそうだし、ある意味では、メアリーも。この世界によって苦しめられた、被害者である。

 

 だからギャリーは、恨んでいたのだ。この世界の創造主である、ゲルテナのことを。あんな小さな子供達を辛い目に遭わせるなんて、何事かと。

 

 それだけでなく、今も現在進行形でギャリーは世界に閉じ込められるという被害を受けているのだから、ギャリーにはゲルテナをこれからも呪い続ける権利がある。

 

 しかし。ここまででゲルテナの人間性について、自分なりの考察が出来てしまったギャリーには、もうゲルテナ本人を全ての元凶として憎むことはできなくなっていた。

 

 ギャリーは大きく溜息をつくと、『死後の逢瀬』から背を向けて、奥へ奥へと歩き出した。今まで踏み入る勇気が持てなかった、大広間の奥へ向けて。

 

 唯一探索を後回しにした場所。なんとなくここを訪れるのは最期にした方が良いと、そう直感で悟っていた場所。

 

 おそらくゲルテナ世界の最深部で、黒一色のダイヤ型ベッドが、そこでギャリーを待っていた。

 

「『最後の舞台』、ね……。またお誂え向きなタイミングで、お誂え向きな作品と出逢えたことだわ」

 

 なんとなく、作品名を見て悟った。これはゲルテナがメアリーと存在を交換した後のゲルテナが、自身が使うために用意したものである気がする。ならば、実際にメアリーと存在を交換した、ギャリーが使ってもバチは当たるまい。

 

 だって、考察も結構疲れるのだ。肉体的にではなく、精神的に。

 

 タイミング良く見つけたベッドに、ギャリーは飛び込むようにして寝っ転がると、静かに両の瞼を閉じた。身体が適度に沈み込むと、いつだか嗅いだ炭のような、とても懐かしい香りがする。これならきっと、気持ちよく休める。

 

 ……ゲルテナ作品の鑑賞を、ただの暇潰しだと言っていたが。今になって気づく。そうではなかった。

 

 ギャリーは、自分が納得できる理由を見つけたかったのだ。

 

 ギャリーはメアリーの身代わりとなる形で、この世界に取り残された。そのこと自体に悔いはない。

 

 ただ、ある意味ではゲルテナの計画通りに、そうやって自らの身を捧げた者として、自分の行為に意味はあったと、そう信じたいと思わなければウソだろう。

 

 だからギャリーは、探していた。メアリーが悪くない理由。ゲルテナも悪くない理由。誰も悪くない理由。

 

 全てのしがらみから解き放たれて、せっかくゆっくり休めるのに、脳裏で誰かを呪い続けるなんて、そんな勿体ないこともないだろう。

 

 こうして思い残すことも無くなった今、やっと安らかに眠ることができる。

 

 きっととてもいい夢が、見られるに違いない。




死者は生者に語らぬ。


ただ、死者の遺したものを通じて、

生者が何かを汲み取る。


~???~




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真・ゲルテナ展
『???』


 メアリーも救い隊、その映えある会員No.1に立候補させて頂く。

 

 メアリーにハッピーエンドを。それこそが、私が慣れないペンをとった全ての原動力だったのだから、それくらいはいいだろう?

 

 まず、この作品を読んでくれて、こんな後書きにまで目を通してくれて、有難う。そして敬愛する観客の方々へ向ける言葉なのに、敬語を使わない無礼を赦してほしい。ただ、おそらくこの方が「らしい」と思われるから、あえてこの語り口調でいかせてもらう。きっと最後には、皆も納得してくれるだろうと信じている。

 

 さて。それでは書いた張本人である私から、畏れ多くもこの作品のテーマについて解説させて頂こう。

 

 その内容を一言でまとめるなら、「生きているとは何か?」

 

 原作Ibで、一般にメアリーのハッピーエンドとされているものは2つある。ご存知の通り、『いつまでも一緒』と『ようこそゲルテナの世界へ』の2つだ。

 

 しかし、私は疑問に思っていた。果たしてこの2つは、本当の意味でメアリーにハッピーエンド足り得るのだろうか、と。

 

 『いつまでも一緒』は、メアリーとイヴが絵空事の世界を脱出するEDである。ギャリーが消え、イヴは記憶を忘れるこのED、プレイヤーからすればバッドエンドなのは間違いないが、メアリーの「外へ出たい」という願い、それを達成したという意味では、確かにあの瞬間はメアリー視点ハッピーエンドであることだろう。

 

 しかし、ここで疑問の余地が残る。

 

 はたして外の世界で、あの後のメアリーは幸せになれたのか?

 

 メアリーの外への憧れは、「お菓子を食べてみたい」だったり「友達がほしい」だったりがあるが、絶対に忘れてはいけない理由が1つある。「お父さんに会いたい」、だ。

 

 メアリーには、「外の世界に出られればお父さんにもう一度会える」と信じている節が見て取れる。これは真ゲルテナ展での台詞からも明らかだが、彼女の考えが正しくないことは言うまでもない。原作Ibにおいて、ワイズ・ゲルテナは故人であることは明言されている。

 

 ……このことが示唆するのは、次の事実。メアリーは父が死んでいることを理解していない、「死が何か、分かっていない」ということだ。

 

 外に出たいと願った理由のうち、下手をすれば一番大きなものが叶わないと、外に出たメアリーはすぐに知ることになる。素晴らしいものでいっぱいだったはずの外の世界。しかし、その夢と現実の落差は如何ほどのものだろう?

 

 現実には確かに楽しいこともあるが、それ以上に辛かったり苦しかったりすることの連続だ。宝探しで心が壊れたギャリーが語る誰かへ向けた独り言は、まさに現実世界の嫌な側面を彷彿とさせる。それは、生きている以上、どうしても付き纏ってくる問題だ。

 

 他にも、懸念点はある。なんと言っても、メアリーの癇癪持ちな性格は何も治っていない。証拠となる場面は幾つかあるが、自分が一番厳しいと感じたのは「邪魔だなぁ」と石像の頭(スケキヨ)に八つ当たりするシーンだ。

 

 極端な話、利害が対立する相手に攻撃的なだけなら、まだなんとかなるのだ。別に外の世界で待っているのは、メアリーの敵ばかりという訳ではないのだから。だから、ストーリー内で入れ替わり対象のギャリーに激昂するのは、この際は無視してもいい。しかし、石像の頭(スケキヨ)はどう考えても作品の仲間、つまりは身内である。些細な怒りで身内を攻撃してしまう性格のまま、外に出たところで……。容易に悲劇が起こりうると考える自分は、果たして考え過ぎだろうか。

 

 結局私が言いたいことは、『いつまでも一緒』は長い目で見た時、決してメアリーのハッピーエンドには見えないということである。

 

 では次に『ようこそゲルテナの世界』を考察してみよう。イヴとギャリーをあの世界の仲間に加え、みんなで永遠に遊び続けるこのEDはどうか?

 

 問題は、いつまでメアリーが心壊したイヴとギャリーに飽きずにいられるかだろう。メアリーが外の世界へ出たいと考えたのは、絵空事の世界に飽きたから、という理由もあるはずだ。そこで、「単純に友達が増えたからもう外の世界に出なくてもいい」と、それこそ永遠に思い続けられるだろうか?

 

 ある意味、作品達だってメアリーの家族で遊び友達である。でも彼ら作品の存在は、メアリーが外を目指すことを思い留まらせる理由にはなっていないようだ。新しく仲間に加えたイヴとギャリーは元々は作品ではないが、心壊したイヴとギャリーはもはや、『忘れられた肖像』のように、作品の一部と言えないだろうか。そんな2人にいつまで飽きずにいられるか、私は非常に疑わしく思う。その場合、結局いつかまた外にあこがれて、入れ替わる誰かを探し始めることだろう。

 

 ここまで考えた結果、原作Ibには真の意味でメアリーのハッピーエンドは無い、という結論に行き着いた。さらに発展させて言うと、「メアリーはただ脱出させただけでは幸せになれない」。……おやおやぁ? 等価交換の原則だけでも問題山積みなのに、さらに難易度が上がってしまったね?

 

 ところで諸君。「原作Ibの一番のハッピーエンドはどれ?」と訊かれたらどう答える? 『再会の約束』を挙げる人がほとんどではないかな?

 

 イヴとギャリーの脱出EDは『片隅の記憶』と『再会の約束』の2つがあるが、どちらがハッピーかと問われれば、『再会の約束』しかあるまい。2つを決定的に分ける差異は、「脱出した2人が絵空事の世界の中での記憶を持ち帰るか否か」、それだけである。にもかかわらず、これら2つのEDから受ける印象は、それこそビターとハッピーくらい、天地の差がある。同意してくれるよね?

 

 IbのOPテーマ曲名は『記憶』。あの美しくもどこか物悲しいメロディの名前が示す通り、『記憶』こそIbという作品が掲げるテーマの核であることは間違いない。

 

 『いつまでも一緒』では、イヴは絵空事の世界の記憶を持ち帰らない。メアリーは覚えている可能性もありそうだが、イヴから思い出すきっかけを奪っていくあたり、どうやら不都合な、忘れたい記憶なのだろう。

 

 さて、ここで思う人はいないか? なんか『いつまでも一緒』と『片隅の記憶』ってイヴが絵空事の世界の記憶を忘れるって意味では状況が似てるな、と。

 

 そこで私が考えたことはひどく単純。

 

 イヴとメアリーが脱出した上で、2人ともが『記憶』を持ち帰るEDがあってもいいのでは? つまり、『再会の約束』に対応するイヴとメアリーの脱出ED、真の意味でのメアリーハッピーEDを書いてやろうじゃあないか。

 

 これが全ての出発点となる。

 

 メアリーが外の世界で幸せになるにあたっての障害たりえるのは、先程述べたように他者への攻撃を躊躇わない、倫理観の欠如にある。メアリーは純真無垢なだけでその根は決して邪悪ではないが、かと言って「代わりの誰かが必要という事情があっただけで、普通の女の子と変わらない」と解釈するのはちょっと難しい。むしろ無知過ぎるがゆえの危険性、これを秘めているのがメアリーなのだ。このような価値観に育ってしまった原因を明らかにしないことには、彼女の矯正は難しいのだが……その原因と思わしきものについて、私はある仮説を立てた。

 

 ズバリ、「メアリーにはろくに痛覚がない」。

 

 根拠となるシーンはいくつかある。まず、原作Ibでギャリーに突き飛ばされて気絶するシーン。そして、クライマックスである、自分の絵画を燃やされるシーン。メアリーは「あ……」とか「嫌……」とかは口にしても、「痛い」とか「熱い」とかそういった苦痛を叫ばず、やけに静かなのだ。

 

 次に、メアリーの薔薇が造花であること。Ibにおいて、薔薇は一心同体、命の象徴だ。その言葉通り、花びらが落ちることがそのままダメージ、「痛み」を意味する。では、造花のメアリーはと言うと……そもそもダメージを受ける描写が無い。勿論、「ゲルテナに愛されたメアリーは作品達に襲われないから、ダメージを受ける状況がなかっただけ」という見方もあるのだが、そもそも「造花のように花びらが落ちない」=「『痛み』を感じない」身体である、という解釈は自然ではないか?

 

 関連する興味深いシーン紹介しよう。イヴとメアリーが連れ添っている際に、イヴがダメージを負う限られた方法の1つをご存知か? それは、メアリーにイヴの赤薔薇を貸すことだ。渡されたメアリーはイヴの赤薔薇を散らしてしまうが、「これはメアリーの悪意による故意か?」と考えると、違うと思われる。この時点ではメアリーは「イヴと2人で脱出しよう」と考えているはずで、イヴを傷つけようとする理由はとくに無い。にもかかわらずイヴの赤薔薇を散らせてしまうのは、「悪気もなくぞんざいに扱ってしまったから」という理由が濃厚だ。ここでは、メアリーはイヴの「痛み」に気づけていない。

 

 『うっかりさんとガレット・デ・ロワ』についても述べさせてもらう。メアリーが作った世界、Sketchbookのタッチなどを鑑みても、作者XXXX=メアリーであることはほぼ確定的である。残酷な結末を迎える童話や絵本の例は枚挙にいとまがなく、最初にあのオチを見たときは、「これもその類かな」と考えたものだ。しかし、後にギャリーの宝探しで伏線が回収された時、あの絵本の結末には別の解釈の余地があると私は感じた。すなわち、「あの絵本で鍵を取り出すために腹を割かれた青い子は、実はピンピンしている」という可能性。腹から絵の具玉を取り出された青い人形が元気だったのと、全く同じように。ちなみに青い人形はギャリーに蹴られると「イタイ」と言うが、首がもげても大丈夫な者の「イタイ」が我々の「痛い」と同じだとは考えないほうが良いだろう。つまり、『うっかりさんとガレット・デ・ロワ』は、作者メアリー視点ではブラックジョーク溢れる残酷な話ではなく、本当にただの笑い話だったのでは、ということだ。実際、いろいろと無邪気なメアリーが、ブラックジョークのなんたるかを解しているとは、ちょっと考えにくくはないか?

 

 「痛み」と「死」。この2つは非常に近しい概念だと、私は思う。いずれも、「生きること」と切っても切り離せないことだから。これらが「生きる」という単語を通じて互いにリンクしているとすれば、複数に渡っていたように感じたメアリーの問題は実は一つに集約され、一挙に解決できることにはならないだろうか。「生きるとは何か」、「死ぬとは何か」。メアリーにこれらを学んでさえもらえば、それに関する記憶を持ち帰る行為そのものが、メアリーの倫理観の欠如や憧れと現実のギャップという、幸せを阻む障害を解決する手段にもなりうる。例えば、「自分がされて嫌な"痛い"ことは、他の人にもやったらダメ」といった言葉のようにね。

 

 Ibにおいて、「痛み」は必ずしも悪いものだとは描写されていない。薔薇の花びらが落ちることは、その精神が本物であることの証。心壊したギャリーを正気に戻すのは、イヴの平手打ちによる「痛み」。そしてイヴがハンカチをギャリーに貸す切っ掛けはギャリーの怪我、すなわち「痛み」であり、それこそが脱出後のギャリーに絵空事の世界での記憶を呼び覚まさせる。つまり、「痛み」を感じることこそが、「生きている証」なのだ。

 

 とすると、「痛み」を感じないメアリーは、「生きているようで生きていない」。そう考えると、イヴ・ゲルテナ・メアリーの中で、最も「命の重さ」を知るべきはメアリーである、と言うことになる。命と等価の薔薇を手に取る時の、Ibを象徴するあの一文は、本当は誰に宛てるべき言葉なのだろうね?

 

 さて。ここまでの話の中で、この小説の主人公は実はイヴではなくてメアリーだったということはもう皆様にも伝わっていると思うが、それでイヴやギャリーの魅力が隠れてしまうようなことはあってはならない。イヴ・ギャリー・メアリーの3人揃ってこそのIbである。そこでこの小説で私がイヴやギャリーに与えた役目は、メアリーに「生きる」を教える先生役である。

 

 ギャリーの性格を決めるのは、比較的簡単だった。着想元は、ギャリーのテーマBGMの『袋小路』。どうしてギャリーのテーマが袋小路なのかを考えた時、真っ先にギャリーが心壊した時の台詞を思い出した。その結果、ギャリーには現実世界で生きることに疲れた、大人らしい大人の役を担ってもらうことになった。

 

 難しかったのは、イヴである。なにせギャリーやメアリーと違い、操作キャラであるイヴはほとんど話さない。手がかりが少ないのだ。それをそのまま、大人しい性格と解釈しているのが一般的に浸透しているイヴ像なのだが……。私はこれに異論を唱えさせてもらおう。

 

 イヴの性格を明らかにするには、会話の選択肢などの数少ない手がかりから、少しずつ読み解いていくより他に道はない。特に象徴的なのは心壊したギャリーを叩くシーンの「もう一発」である。ここにこそイヴの魅力が詰まっているのであるが、この行動は「大人しい」からはかけ離れてはいまいか?

 

 その疑問を抱えるままに、他のイヴの会話での選択肢についても考察していこう。

 

 ギャリー視点でイイトコのお嬢様だったり、両親からは物持ちが良い良い子と思われているのは確かなようで、この点までは「大人しい」というイメージとは合うだろう。

 

 しかし、真っ暗闇になってギャリーから「いるか」と訊かれた時。「いない」とか「……」という選択肢がこの非常事態で思い浮かぶのは、正直けっこういい性格をしていると言わざるをえまい。一応、命がかかった非常事態だぞ?

 

 また、メアリーにパレットナイフで茨の像を壊せるかどうか意見を訊かれた時、「やればできる」と言ったイヴは、メアリーには冗談じゃないように見えたようだ。ここから読み取れるのは、体育会系的なスポ根精神である。

 

 結局のところイヴは、大人しいのか、そうではないのか。ところで、性格とは言わば精神である。Ibという作品において、精神の具現であるとするモチーフがあったね? それを参考にしようではないか。

 

 イヴの薔薇の色は赤。その花言葉は、「愛情」、「美」、そして「情熱」。この「情熱」という単語が、イヴがギャリーをビンタして救ったこと、怒ると怖いお母さんの血をイヴが継いでいること、この2点と重なった時、イヴの本質はこちら側であると確信した。

 

 原作Ibでメアリーを燃やすのは、メアリーに追い詰められたことによる、正当防衛的な流れがある。ただ、そんなルートの中で1つだけ、ギャリーから貰ったレモンキャンディーを食べ、動かなくなったギャリーからライターを持ち出したイヴだけは、本当にそうだったか怪しい。

 

 たかがレモンキャンディー1個の違いで、持ち物が一杯かそうでないかが変わる、という状況は考えづらいだろう? つまり、あの場面でイヴがレモンキャンディーを持ったままギャリーのライターを手にしないのは、イヴの感情が要因だろうというのが私の推察だ。

 

 レモンキャンディーを舐めてギャリーとの記憶を思い返しながら、ライターを手にする。一連の行為は、イヴが復讐の覚悟を決めるための、儀式であったようにも思う。メアリーが燃え尽きる間際に見たイヴの眼は、どんな色の赤だっただろうか。

 

 ちょっと話は逸れるが、自分はリメイク前ギャリーの、メアリーを燃やした後の「女って怖いわね……」という言葉が好きだ。とは言え、残念ながら修正されたのは仕方ないかもしれない。Ibが世界的に有名になるに当たって、下手をすれば差別的だと誤解されかねないこのセンシティブワードは、残すわけにはいかなかったのだろう。

 

 ただ、ギャリーが思わずこんな発言をしてしまったのは、『~服の女』達に追われ、『無個性』達に追われ、最後に『メアリー』に殺されかけるという経験からだ。そしてそれは「女は怖い」と作品を通じて訴えていただろうゲルテナに、無意識に共感してしまったようなものである。そしてその感想を、実は怒ると怖い女筆頭のイヴについ漏らしてしまう、というウィットに富んだシーンだと私は捉える。女の怖さは、美しさと表裏一体。それを象徴するのが、あの言葉だったのではないだろうか。

 

 まあそうやってまとめると、大人しいイヴは仮初の姿、というのが自分の中での結論である。まあ、「操作キャラだから喋らない」を大人しい性格だと見做さなければならないなら、どこぞの配管工のおじさんや原点にして頂点だって大人しくなってしまうことだし。(そう言えばあの2人も、赤がイメージカラーだったね。)

 

 では、何故イヴはそんな大人しい姿をとっているのか? 2つ理由が考えられる。まず1つは、「両親など、大人の前では猫を被っているかもしれない」という理由。そしてもう1つは、「摩訶不思議な美術館で迷子」という原作Ibの特殊な状況である。たとえ元来は情熱的な性格でも、あんな目に遭えば幼い少女から声が奪われてしまっても責められまい? 実際ギャリーも心の中で、気丈に見えた少女だけど参ってきているようだと、イヴのことを評していた。これらを加味すれば、情熱系なのに一見大人しいという相反する性質は、決して矛盾せず両立する。……そして言い方を変えれば、あまり喋らないからと言って心の中まで静かである必要も無い、ということである。

 

 このことは、思わぬ副産物も生んでくれた。世間一般が想像するイヴからギャップ発揮してくれることで、「予想通りの展開による飽き」を軽減してくれる効果が見込めそうだと思ったのだ。これに気をよくした自分は、合間合間でお客様方に楽しんでもらえるよう、かなり辛辣なことをイヴには考えてもらうことにさせてもらった。まあ、このくらいの年頃で、普段良い子を演じてるなら、「そんな自分は偉いんだ」って、心の奥底では思っててもいいではないか。なんてったって、お嬢様だ。ちょっと高飛車だったとしても、これぐらいなら可愛いかろう?

 

 このようにして。外面は大人しい文化系優等生を演じているが、1つ皮を剥けば生意気なクソガキ成分が顔を覗かせる、熱血系毒舌お嬢様イヴちゃんが誕生した。

 

 さて。大人らしい大人のギャリー、一見大人しい子供のイヴとくれば、最後は子供らしい子供のメアリーと結んでこそ美しい。メアリーの特性の1つ「死を知らない」は、決して非生物にしか起こりえないことではない。何も知らない生きた子供だって、この状況はあり得るハズ。幼い子供が遊びで無邪気に、虫を殺したりすることは珍しくなく、それはきっと花占いをするメアリーにも重なることで、ならばそんなメアリーは、子供らしい子供と言えないか?

 

 そうしてやればこの3人は、それぞれの立場を異にしたままに、上手くパラレルを成立しうる。まさにそう気づいた時、3人の誰もを埋もれさせず、それぞれの見せ場を残すまま、ストーリーを展開できると感じた。

 

 原作Ibにおいて。イヴの最大の見せ場は、心壊したギャリーを救うためにギャリーを叩くシーンだと思う。そして、ギャリーの最大の見せ場は、イヴを救うために自ら犠牲となって薔薇交換を進み出るシーンだと思う。

 

 ただ、この2つのシーンは実のところ、原作Ibでのハッピーエンド『再会の約束』に進もうとする場合には邪魔となるフラグである。ギャリーの方に至っては、『再会の約束』に進むルートで上記のシーンを拝むことは絶対にできない。

 

 これが意味することは、『再会の約束』の感動は他のビターエンドによって支えられているからこそであり、Ibの魅力の本質はビターエンドの方にあるということ。

 

 『忘れられた肖像』や『いつまでも一緒』でギャリーが居ない寂しさ、『片隅の記憶』ですれ違う哀しさ、そういった甘くない後味こそがIbの最大の魅力である。「3人脱出EDがないからこそのIb」と言われたりするのは、おそらくそのためだ。メアリーも救い隊である私には、3人脱出EDを望む人の気持ちも分かるのだが、それが強く反対される理由も分かる。

 

 だから私は、この作品を紛れもなくIb小説とするために、ギャリーにはゲルテナの世界に残ってもらわざるをえなかった。ギャリーが犠牲になってしまうのは、本当に心苦しいのだが、そうしなければイヴとギャリーの魅力を表現し切ることができない。Ib小説の後味には、苦さが含まれているべきだ。

 

 ただ、1つ。「ビターエンドとハッピーエンドは、両立しないのか?」ともやはり思う。Ibのテーマが記憶ならば、Ibを象徴する苦い痛い記憶こそが、後のハッピーエンドに続く布石になっても良いのでは、と。

 

 皆様方は、裏・ゲルテナ展でちゃんと日記の言葉は読んでいるかな? 文字が滲んでいてよく読めなかった? それはいけない。一部だけ穴埋めして、改めてお伝えしよう。「作品は完成した時点でその■■を失ってしまう」。

 

 「完成した」とは、とても耳触りが良い。しかし逆に言えば、そこで終わりで、それ以上が無いということ。時間が止まると同義と言えよう。それによって失われる何かを、我々はきっと無視してはいけないのだと思う。だからぜひ皆様方には、「この作品はここで終わりなんだ」と、勘違いしてほしくはないのだよ。

 

 メアリーには、いつまでも未完成であり続けてほしい。そうして噛みしめてほしいのだ。単なる甘さだけではない、酸いや苦み、辛さや涙のしょっぱさも全て入り混じった、「生きている」という奇跡の味を。それを彼女が記憶して、成長していった先にこそ、彼女のハッピーエンドはきっとある。そう信じて、私はこの小説を書いた。

 

 読者諸君も著者の私も、イヴ・ギャリー・メアリーとは今を生きる世界が違う。3人に声を届けることはできないし、3人がこちらに気づくこともない。我らにできることと言えば、こうして作品という形で可能性を示し、黙ってそれを見守ることだけ。だからどんなに頑張ろうとも、これが3人のためにしてあげられる、私にとっての精一杯だ。

 

 最後にちょっとした豆知識。この小説、実はここまで来るのに10年かかったと言えなくもないんだ。 初めてこの小説を書きたいと、プロットを立ち上げたのは10年前。あの原作Ibが公開されて私がプレイしたすぐ後のことだ。

 

 でも、私はこれまで小説など書いたこともなくて、実際にちょっと文章を書こうとしてみても、その大変さにすぐに諦めてしまった。何かを創り上げるというのは、本当に難しい。小説に限った話じゃない。絵画も、彫刻も、音楽も。マンガも、アニメも、そしてゲームも。そういった全てに言えることだ。二次創作ですらこうなのだから、フリーゲームとして0からIbを創った、氏の凄さを思い知らされるばかりだ。

 

 そしてそのまま何年も。ずっと何もできず、でも忘れることもまたできず。たまに頭を過ぎっては、構想だけは膨らんで、でも実行には移せない。そんな感じだったよ。

 

 でもちょうど10年が経ったある日のこと、あのIbが10周年記念で、なんとリメイクすると言うじゃないか。そうしてそれをプレイして、私は確かに思い起こされたとも。これまでずっと夢だった、Ib小説を書き上げたいと思ったあの記憶。だからこの小説の執筆が再開して、やっとここまで来れたのは、やっぱりIbのお陰なんだ。

 

 さて。本当に随分と長い時間、話に付き合ってもらったものだ。改めて感謝するよ。そろそろ良い頃合いかな? もう秒針は再び時を刻み始めていたことだし、だいぶゼンマイも回ったことだろう。話は変わるが、空想と現実は非常に曖昧で、容易に交換しうるというのが私の持論だ。それはつまり、どっちに想像してもいい、ということなんだ。そんな夢の境目の先、皆様は何を思い描くか。どうかこの私めに、教えてくれはしないかな?




愛を込めて。


~ワイズ・ゲルテナ~




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『無題』

 ……とても長いこと、眠っていたような気がする。いや、あるいはまだ夢の中にいるままなのか。心地よい微睡に半分浸ったまま、ただぼんやりと考える。

 

 気づいたら、此処にいた。

 

 自分が何者だったのか。さっきまで何をしていたのか。何もかもが思い出せない。

 

 何処へこれから行くべきかも。何をこれから成すべきかも。何もかもが分からない。

 

 寝ぼけ眼を叱咤して、周りの状況を確認する。まだ眼を開けたばかりだから、視界はくすみ朧気だ。

 

 真っ先に眼に留まったのは、すぐ傍にいた2人のお嬢さんだった。見る限り、年齢は同じくらい。高校生か、大学生か。ただ、着ている服がそれぞれ白いブラウスと緑のワンピースで、ふたりとも私服だったから、どっちかと言えば大学生の方が、それっぽいような気がする。片方はサラサラな茶髪に赤い眼で、もう片方はフワフワな金髪に青い眼で、そこまでは対照的だ。しかし顔の造形は、どこか共通しているような気もする。似ているようで、似ていない。そんな2人がそこにいた。

 

 どちらもとても感極まった様子で、眼を潤ませながらの笑顔で、自分の身体に縋りつき、「良かった」だとか「会いたかった」だとか、そんな言葉をかけてくる。

 

 自分とそう年齢が離れているように見えないこの2人は、たぶん自分の知り合いなのだろう。ただ、自分のことすら覚えていない現状、この自分を心配してくれたであろうお嬢さん2人のことも、当然覚えている訳もなく、それがとても心苦しい。

 

「ごめんなさい……。アタシ、自分のこともアナタ達のことも、何も覚えてないの……」

 

 その顔をきっと曇らせてしまうだろうなと、躊躇いがちに2人に告げる。けれど2人はそれを聞いても、その涙混じりの笑顔のまま、ただ黙って首を振るばかり。そんなことはいいのだと、そんなことは大丈夫なのだと、そう言っているかのようだった。

 

 そして2人のうちの片方の、金髪のお嬢さんは自身の眼元を拭うと。

 

「おいでよ、■■■■。ひみつのばしょ、おしえてあげる」

 

 こちらの右腕をその両腕で抱き込んで、そう言った。

 

 ■■■■のところだけは、ノイズがかっていてよく聞こえなかった。いや、記憶喪失のこの身には、それが自分の名前なのだと、実感できなかっただけかもしれない。

 

 隣の茶髪のお嬢さんも、そんな金髪のお嬢さんの様子を見て、何かを察したようにパっと笑うと、残ったこちらの左腕を、やはり両腕で包み込む。

 

 両腕を包む柔らかさはそのまま、腕ごと自分を引っ張り始めた。2人は自分を、何処へ連れて行くつもりなのか。そこで何をさせるつもりなのか。そんな疑問が頭をよぎる。

 

 でも、逆らわなくてはいけない理由すら、頭に何一つ無かったから。こうして2人の間に挟まれて、その両腕を引かれるまま、言われるままに付いて行く。まだ眼が明るさに慣れていないから、2人がこうして倒れないように、支えてくれるのは有難かった。

 

 自分がいた場所は、どこかの建物の屋内だったようで、そんな廊下を3人で、横並びで一緒に歩く。窓から黄金色の太陽の光が差し込んで、自分達の歩く道を照らしている。どうやら今は、昼下がりのようだ。案内人の2人と一緒に、突き当たりにある扉のドアノブに手を添えると、ポカポカとした木製の温かさが、掌へと伝わった。

 

「ここ……?」

 

 不安混じりの眼差しで、隣の2人に目配せすると、それぞれ眼を閉じて軽く頷く。それに背中を押されるように、ドアノブを握る手に力を込めて、ゆっくり捻って向こうに押した。

 

 次の瞬間。

 

 視界一面を埋め尽くす、色、色、色。ありとあらゆる種類の色が、一斉に飛び込んでくる。その色彩の暴力は、物理的な力を纏い、寝ぼけた自分を叩き起こす。

 

 目が慣れてくると段々と、"ひみつのばしょ"と呼ばれた今居る此処が、どんな場所か分かってきた。色彩豊かだった原因は、絵画やオブジェ、衣服など、ありとあらゆる様々なアートが、所狭しと並べられていたからだった。その数の多さたるや、すわ美術館かと見紛う程だが、展示されているにしては配置のされ方が無造作なのが気になる。

 

 ジッと目を凝らしてみれば、既に出来上がった作品に混じって、製作途中のようなものも多く混じっていた。例えば、背景の虹だけが描き込まれた油絵。それを塗るために使ったであろう絵の具付きのパレットナイフが、画架の縁に引っ掛けられている。例えば、襟付コートが下書きされていると思わしき型紙。近くには深い青色の生地が置かれ、まさにこれから仕立てる直前と思われる。他にも、筆・キャンバス・デッサン人形などの画材、ハサミ・ミシン・チャコペンなどの裁縫道具、粘土・石膏・大理石などの素材、そういったものが机なり床なりに鎮座していた。どうやら此処は、アトリエらしい。

 

 そんな散らかった中において、一部だけ綺麗に整頓されている、部屋奥のエリアが眼に留まった。その辺り一帯は床の掃除なども綺麗に行き届いていて、そこに飾られている作品達は、きっと何か特別なのだろう。その証拠に、それら全ての作品の傍に、題名を告げるプレートが掲げられている。

 

 壁伝いに並んだその作品達の方へ、自然と足が引き寄せられた。隣の2人が案内しようとしていた、最終的な行先も同じだったようで、彼女達も身体を寄せたまま、そんな自分についてくる。

 

 『暗い美術館の音色』。『心配』。『さぼりがちな秒針』。『月夜に散る儚き想い』。『ミルクパズル』。『争いの矛先』。『心壊』。『回転』。『隠した秘密』。『あこがれ』。『指定席』。『決別』。『精神の具現化』。『あずかりし心臓』。『手の届かぬ場所』。『絵空事の世界』。『永遠の恵み』。

 

 どこかで聞いたことがあるような、どこかで見たことがあるような、そんな作品達ばかり。こういった題名の作品達が、記憶のどこかにあったような。

 

 しかし、同時に不思議だった。眼の前に並んでいる作品達は、自分が記憶していたあの作品達を、とても強く想起させるのに、明確に違う作品なのだ。だって覚えていたものは、それぞれ独立した作品だったのに、眼の前のこれらは全てが一本、連続して繋がっている。

 

 共通して作品に登場する、10歳くらいの少女2人と、20歳くらいの青年1人。茶髪の女の子は白のブラウスと赤のスカートを合わせていて、金髪の女の子は緑のワンピースに青いスカーフを纏っている。そして残った青年は、くたびれた青いコートを羽織っている。

 

 そんな3人によって紡がれたストーリーが、時系列を追うように順番に、作品の形で並べられていた。

 

「この、作品達って……」

 

 知ってる気がする。この一連の物語を、■■■■は実際に経験した気がする。

 

 でも最後の一欠片だけが、どうしても見つからない。煮え切らない葛藤を抱えたまま、遂に最後の作品へと足を運ぶ。そしてそれに目をやった瞬間、雷に撃たれたかのように足が止まった。

 

 『ギャリー』。

 

 それは、ある青年の肖像画だった。それは、自分と同じ姿をしていた。

 

「……私達が2人で協力して。一緒に作ってきた作品達なの」

 

 絵画を凝視したまま動かない自分に、金髪のお嬢さんがそう言った。

 

「……絶対に忘れないように。そんな思いを込めた作品達なの」

 

 作品を凝視したまま動かない自分に、茶髪のお嬢さんがそう言った。

 

「「だから」」

 

 そして2人で口を揃えて。

 

「私とイヴが、あの時どんな気持ちだったか」

 

「ギャリーが、あの時どんな気持ちだったか」

 

「「一緒に思い出していこう?」」

 

 


 

 

 そうして今に至るまで、全ての作品にまつわるエピソードを、2人はそれぞれ話してくれた。

 

 作品解説という名目で始まった、2人の懐かしい思い出話。それを順番に聞いていく中で、ギャリーはあの世界であった出来事を、確かに思い出してきたのだ。

 

 同時に合間を埋めるように、ギャリー自身が何を感じていたかも、自然と呼び起こされてきた。

 

 改めて、2人の姿を見る。

 

「イヴとメアリー、なの……?」

 

 一緒にあの世界を歩いてきた2人の姿が、ついさっきのように瞼に浮かぶ。まだ背も低くあどけなくて、綺麗よりも可愛さが強かったあの2人。それに対して、今の眼の前の2人はどうか?

 

 イヴは、スラっとしたスタイルが印象的だ。手足含めて細長くモデル体形な彼女は、ギャリーにこそ及ばないものの、背が低いというイメージとはほど遠い。

 

 一方のメアリーは、曲線に富んだ柔らかそうなプロポーションをしている。服越しにも分かるメリハリのある身体つきは、グラマラスで健康的だ。

 

 もう、可愛らしいだけの女の子だなんて言えない。2人とも見違えるほどに綺麗な、大人の女性になっていた。同一人物だったなんて、一瞬見ただけじゃ分からないくらいに。

 

 でも、こうやって気づいてみれば。ハッキリと面影も残っている。イヴのサラサラした茶髪も、その凜とした赤い眼も。メアリーのフワフワした金髪も、その吸い込まれるような青い眼も。あの時から何一つ変わらない。眼の前のこの2人は、紛れもなくあの2人が成長した姿なのだ。

 

「こんなに立派な、一人前のレディーになっちゃって……!」

 

 感嘆の声が漏れる。気づけば、2人の頭の上に、それぞれ手が伸びていた。子供だった2人を撫でる動作に慣れすぎて、自然と出てしまった仕草だった。でも、ふと今の2人に対しては、子供扱いが過ぎる気がしたから、そのまま手の位置を滑らせて、代わりに髪を手櫛で梳かす。するとそんなギャリーの手に、2人は軽く頭を預けて、嬉しそうに目を細めるのだ。

 

「あれから、大丈夫だった……? 幾つになったか、訊いてもいい……?」 

 

「うん……。私、大学生になったの……。19歳に、なったんだよ……?」

 

 2人の成長を目の当たりにしたギャリーが訊くと、イヴはしっとりした目でそう答えた。

 

 19歳。あの世界で聞いたイヴの年齢が9歳だったから、丸々10年が経っていることになる。嗚呼、それだけの年月が経てば、あの子達がここまで大きくなるには、十分過ぎる時間だろう。

 

「ギャリー……。今の私はね、イヴの義妹なんだ」

 

 イヴの回答を繋げる形で、メアリーが現状を教えてくれる。

 

「だから今も、私はイヴと一緒にいるの。お義父さんもお義母さんも、本当の子供同然に、私のことを愛してくれて。だから私はあれからずっと、ちゃんと元気にやれてるよ……」

 

 メアリーがイヴの家族の一員として、愛されて元気に過ごせている。それを聞いて、ギャリーはすごくホッとしていた。

 

 それは数少ない残っていた懸念点だった。外の世界に出たメアリーが、出生不明の孤児として、児童養護施設に送られてしまう可能性だってあった。

 

 愛らしい性格のメアリーのことだから、それでも上手くはやっていけたかもしれない。けれどやはりこうして聞くと、そうはならなくて良かったと、胸を撫でおろさずにはいられない。

 

「……ギャリーは何もかも、あの時のままだね」

 

 しみじみとイヴにそう言われて、やっと自分の状況に気が回る。自画像製作などで使うためであろう鏡が、丁度良く近くに置かれていたから、それを覗き込む。

 

 そこには、あの時と全く変わらない、見慣れた自分の姿があった。2人がこんなに変わっているのに、ギャリーだけが変わっていない。まるで時の流れから、ギャリーだけが置いてかれてしまったようだ。

 

「どうなってるの、コレ……? そもそもアタシ、どうやってあっちの世界から……」

 

 鏡を呆然と眺めながら、自分の頬に手を当てる。10年経って、それ相応に老け込んでたっておかしくないのに、肌の感触もそのままだった。

 

 ギャリー自身、納得して諦めたのだ。あの世界に取り残されたギャリーが、別の脱出方法を見つけたのならいざ知らず、そんなことをした覚えもない。……と、いうことは。

 

「あの後、何があったの……?」

 

 外に出た後の2人が、何かしたとしか思えない。それを訊ねる意図を込めて、鏡から視線を2人に戻す。

 

「……あの後、こっちの世界に出た後に。ギャリーを連れて来る方法を、メアリーと一緒に探したの」

 

 言葉を吟味するように、イヴが答えを話し始める。

 

 半ば騙す形でイヴを『絵空事の世界』から送り出した以上、外の世界に出たイヴが、そうしようとするのはなんとなく分かる。

 

 そんなイヴの言葉を引き継ぐように、メアリーが続ける。

 

「……でも、見つからなかった。3人揃って出る方法どころか、あの世界に帰る方法すら、手掛かり一つ見つからなかった」

 

「……帰る?」

 

 3人揃って出る方法が見つからなかった、という結果についてはすぐに頷けた。それが想像できていたからこそ、ギャリーはあんな手段をとったわけだから。しかし、外の世界に出たくて堪らなかったはずのメアリーの口から出た「あの世界に帰る」という言葉は、無視するには違和感が強すぎた。

 

「……ギャリー、ごめんなさい。ギャリーのお陰で、出られたのに。ギャリーがあんなに、念押ししてくれたのに。私、もうあっちの世界に帰りたいって、そう思っちゃったことがある……」

 

「え……」

 

 俯いたまま自身の胸を両腕で抱え、二の腕に爪を立てるようにして、自分の身体を掻き抱くメアリー。そうして込められた力によって、その服と身体の形が歪む。自分を締め付けるようにして絞り出されたその言葉は、紛れもなく懺悔の言葉だった。

 

「……2人の言ってた、通りだった。外の世界は、楽しいことばかりじゃなかった。……外の世界に、お父さんはいなかった」

 

 お父さん。その単語を聞いて、メアリーの言わんとしていることをすぐに察する。メアリーが外の世界に出たいと思っていた理由は、たった一人の実の親に、会いに行きたかったというのが一番だろう。それが叶わないと分かったからには、帰りたいと考えるのは不自然ではない。

 

「メアリーと一緒に、調べたの。外の世界の、ワイズ・ゲルテナについて」

 

 下を向いて眼を伏せるメアリーに寄り添い、その背中に軽く手を添えながらイヴが付け足す。

 

 あの世界に遭難したことで、ギャリーもイヴも、ゲルテナについては詳しくなった。メアリーに至ってはあの世界でずっと暮らしてたわけだから、そんなギャリーやイヴすら超える。

 

 ただ、そういったゲルテナに関する詳しさは、あくまであの世界から見た、偏った情報に過ぎない。イヴは両親に連れられて来ただけだし、ギャリーはたまたま開催していた展示会にふらっと立ち寄っただけ。ゲルテナ展に立ち寄る前は、どちらもゲルテナについてはどこかで名前を聞いたことがあるか程度だった。

 

「外の世界のお父さんは、根強いファンこそいるけれど、どちらかと言えばマイナーな、そんな過去の芸術家の一人。私が思っていたような、なんでもできる神様じゃなくて、アートの才能があっただけの、ただの普通の人間だった。だから最後に行き着いた先も、お父さんの名前が刻まれたお墓だけで、そこでどんなに呼びかけても、返事は返ってこなかった」

 

 自分で傷を抉る様に独白を続けるメアリーに、どう声をかけていいか分からなくなる。

 

 世界の隔たりを超えてまで、会いに行こうとした父親が、既に墓に眠っている。物語の終着点として、それはあまりにも残酷極まりない。しかしどんなに何とかしてあげたいと思っても、ただの人間でしかないギャリーとイヴには、それだけはどうすることもできなかった。

 

「悲しかった。苦しかった。なんでも出来るって信じてたお父さんが、実はそうじゃなかったこと。そしてこの世界を生きてる人からすれば、そんなお父さんはもう過去の、終わった人でしかなかったこと」

 

 あの世界しか知らなかったメアリーにとって、父親とは自分の全てだったのだろう。

 

 子供からすれば大人というのは、自分に出来ないこともいろいろできる、ある種あこがれの存在だ。そんなあこがれの存在のうち、最も身近なものが親であり、だから子供は小さいうちは、どうしても親に幻想を抱く。そしてそれを向けられた親は、せめて我が子の前だけでもと、それを演じようとする。

 

 そうした過度な期待はいずれ、子供が大人になるにつれ、だんだん綻んでいくものだ。かつて大きく見えていた姿が、ある日とても小さく見える。それ自体は自然な現象だが、よりによってそれに気づかされたのが、メアリーにとっては父の死だった。

 

 聞いているこっちまで顔を背けたくなるような、悲痛な事実を並べていたメアリー。……しかし。

 

「でも、そうして泣いて泣いて、やっとそれを認められるようになった時。私は、気づいたの」

 

 その言葉を言い切ると共にメアリーは顔を上げると、ガラッと雰囲気を反転させた。

 

 大きく見開かれてギラギラと輝くその瞳。口角が上がったその顔は、どこか笑っているかのようで、ある種の怖さすら感じさせる。全身から放つ不敵なオーラに気圧されるまま、続くメアリーの言葉を待った。

 

「ただの人でしかなかったお父さんが、生涯を捧げたその果てに、あの世界にまで至ったなら。……私達にもきっと、届くって」

 

「は……?」

 

 すぐに、理解が及ばない。場違いな間の抜けた声が、ポカンと開けた口から漏れた。

 

「お父さんは、あの世界に行けた。だからあの世界に行くためには、お父さんと同じくらいになればいい。……ね、そうでしょ?」

 

 それはあまりにも、荒唐無稽な発想だった。

 

 つまり、メアリーはこう言っている。ワイズ・ゲルテナがあの世界を創り、自由に行き来することができた以上、ワイズ・ゲルテナに匹敵する芸術の力を持つことができれば、同じことができるようになるはず。そしてワイズ・ゲルテナが普通の人間だった以上、同じ人間である私達に超えられない道理が無い、と。

 

 確かに、理屈で言えばそれは成り立つかもしれない。しかし、たとえそれを思いついたとして、いったい誰がそれをやる?

 

「アンタ……!? それがどれだけ無茶で、そのためにどれだけのものを犠牲にしなきゃいけないか、分かってる……!?」

 

 隅から隅へ心ゆくまで、あの世界を鑑賞する機会があったギャリーは確信している。心の中に異世界を構築できる創造力と、それを作品として具現化できるだけの表現力。それらを高次元で両立し、遂には作品達に自我すら吹き込むことに成功したワイズ・ゲルテナは、まごうこと無き天才であると。彼が世間的にマイナー止まりになっている原因は、現代アーティストゆえにまだ評価が追いついていないことと、長い歴史上を見れば芸術の分野で他にも天才は数えきれないほどいるということ、その2点に依るものだけでしかない。

 

 メアリーの発言はそんな正真正銘の天才を相手に、「専門分野である芸術の土俵で、真っ向から追いつけばいい」と言っているに等しい。

 

 できるわけがない。あの世界をよく知る者であるほど、それが想像もつかないほど険しい道で、普通なら人生を賭けたところで、絶対に届かないということだけは分かる。ゴールに繋がっているかも非常に怪しく、寿命という制限時間すらあるという意味では、それはあの世界から出ることより、もしかしたらずっと難しい。

 

 でも、今こうして。ギャリーが外の世界にいるということは。

 

「まさか、アンタ達……! 本気でそれをやろうとしたって言うの……!?」

 

 物理法則を超えて世界を飛び越えられるだけの芸術の力量。そんな極まりきった業を身に付けるために必要な時間と努力はどれほどのものか。

 

「……10年かかっちゃったけどね」

 

 10年。イヴが告げた年数を聞いて、血の気が引いた。

 

 以前のイヴが、9歳で。今のイヴが、19歳で。つまり10年とは……、イヴとメアリーが外の世界に出てから、その時間の全てである。

 

 イヴからすれば、この世界で生きてきた時間の半分。メアリーからすれば、この世界で生きてきた時間の全て。ギャリーの年齢に匹敵する、合わせて20年分という時間と引き換えに、2人はギャリーを連れ戻しに来たという。

 

 聞こえてきた内容に耳を疑い、本当かもう一度確かめたくて、イヴとメアリーの顔色を伺おうとした。2人の肩に手を回し、軽く引き寄せるようにして、ぐっとその顔を覗き込む。そうやって間近で見つめてみれば、以前の2人とは異なる点に気づく。イヴもメアリーも、ナチュラルではあるが、メイクをしている。

 

 そりゃあ女子大生ともなれば、化粧くらいして当然だ。ただ、コスメにもそこそこ造詣が深い男なギャリーは、2人の化粧が主として隠そうとしているものが何か分かってしまった。これは、目の下の隈を目立たなくするためのものだ。イヴもメアリーも、十分に睡眠をとっていないのかもしれない。

 

 そうやって1つ気づいてしまえば、どんどんそれを皮切りに、他の点にも眼が留まってしまう。たとえば両手。あんなにすべすべで柔らかかった手に、はっきりタコが出来てしまっている。輝いていた爪は擦り減って、その先の隙間には、洗っても落としきれないくすみが見て取れた。元の小さく柔らかかった掌を知っているからこそ、ギャリーにはそれが痛々しくて堪らない。

 

 直視をするに耐えなくて、アトリエ全体を見渡した。解説を受けた作品だけでなく、あちこちに放置されたアートの数々も含めて。ちょっと注意してみれば、失敗して作り直しになったのであろう同じ構図の習作が、異様に多く混ざっていた。おそらく練習のために、何度も繰り返し模写・模造したのだろう。

 

 ちらっと流し見しただけでも、隠しきれない努力の痕が、そこらじゅうに刻まれている。だからメアリーの話がどんなに現実離れしていても、もうウソと切り捨てることなんてできなかった。ただ自分のために費やされたもの、それらのあまりの重さを前に、ただ途方に暮れて喘ぐだけ。

 

「忘れてくれて、良かったのに……」

 

 初めて出会って1日程度、同じ道を歩いただけの男。そんな見知らぬ男のために、華の10代殆どの時間を、捧げる必要なんてありはしない。ましてや、こんな自分のためなどには。そんなことは、他でもないギャリー自身が、一番よく知っている。

 

「アタシのことなんて全部忘れて、ただ笑って生きてくれたら。それで全然、良かったの……」

 

 イヴとメアリーを外に出して、ギャリーだけが残ったのだって、ただ彼女達が笑う未来に希望を見た、ギャリー自身のエゴに過ぎない。自己犠牲とすら呼べないその行いが、若い彼女達を負い目で縛りつけ、ずっと苦しませてしまったのだとしたら。それが申し訳なくて堪らなくなった。

 

「ふざけないで!!」

 

 でも、そんな思考を引き裂くように。イヴがギャリーの胸倉を掴み、嗚咽混じりに叫ぶのだ。

 

「ギャリーが自分を粗末にしたら、傷つく人がいるって分からないの!?」

 

 燃える想いを宿したその眼は、溢れる涙で滲みながらも、それでもギャリーを深く穿つ。

 

「あの時もそう! 勝手に全て決められて、「先に行ってて」なんて言われた私が、どんな気持ちだったと思う!?」

 

 ポカ、ポカ、ポカ、ポカ……。

 

 ギャリーの胸元にイヴの拳が、何度も何度も打ちつけられる。

 

 ギャリーの中で、イヴという少女は優しい子である。きっとかなり無理をして、強く振る舞っているのだろう、とは思った。実はもっと快活で、面白い子なのかもしれない、とも思った。それでも、誰かを思いやれる優しい子だという印象だけは、一緒にいた最初から最後まで、全く揺るぎはしなかった。

 

 だからこそ。ギャリーにはイヴが怒る姿だけは、どうしても想像できなかった。

 

 今、イヴは怒っている。ギャリーのことを叱っている。誰かを思いやれる優しいイヴは、誰かのために怒るのだと、ギャリーは今、この時知った。そしてそんなふうに怒るイヴを、ギャリーはとても綺麗だと思った。

 

 イヴを、泣かせてしまった。泣かせたのは誰か? ギャリーである。

 

 自分に価値などあるわけない。そう思っていた。誰かにそれを否定されたことは、人生で何度もあったけれど、そんなものは社交辞令で、馬鹿正直に受け取ったことは一度も無い。

 

 けれど今。イヴを泣かせたのはギャリーの仕業で。つまりギャリーはそれくらい、誰かの心を揺るがしうる存在なのだと、眼の前にはっきり示されてしまった。

 

 ギャリーの胸を叩くテンポが、次第に遅くなっていき、遂には止まる。

 

「……私、こっちの世界に帰って来たばっかりの時。メアリーが思い出させてくれるまで、あっちの世界のこと全部忘れちゃってた」

 

 さきほどギャリーが言った仮定。それはまさに一度起こったのだと、そうイヴは言う。

 

「確かに楽だったよ? 嫌なことに目を瞑って、ただの日常に戻るのは。でも……」

 

 イヴの口調は乱暴で、吐き捨てるという表現が合っていた。隠しきれない苛立ちがそこにはあって、でもそれらの矛先は実のところ、ギャリーにもメアリーにも向けられていないように思えた。

 

「忘れたままだったら、こうしてまたギャリーと会えてないじゃない!」

 

 瞳に潤いを溜めたままに、キッと強い眼差しでギャリーを睨み、イヴは叫ぶ。

 

 ギャリーが覚えているイヴという少女は、他人の眼を気にするタイプで、こんなふうに感情に任せて、自分の主張を出せる子ではなかった。でもあれは、あの世界に迷いこんでいて、いわば非日常のイヴの姿だ。だからギャリーは今初めて、情に熱くて涙もろい、イヴの素顔を知ったのだ。

 

「ギャリーが気に病む必要なんて、ないんだよ……?」

 

 ……一気に言葉を捲し立てたイヴの、息が整うのを待っていたらしいメアリーは、穏やかな笑顔で諭すように、横からギャリーへと語りかけ始めた。

 

「だって私は、この10年が辛かっただけなんて思ってないもん」

 

 優しいけれど、それでいて有無を言わさない。そんな雰囲気を両立させながら、メアリーは続ける。

 

「ねぇ、ギャリー……? なんでたった10年で、ここまで来れたんだと思う?」

 

 10年。「たった」と前につけるには、どう考えても長い時間だ。しかし、2人が挑戦したらしい「ゲルテナに芸術面で追いつく」という目標を鑑みれば、短過ぎる時間であることも間違いない。2人合わせたところで、ゲルテナが生涯でアートに費やしたであろう年数に、まだ遠く及ばないのだから。

 

 そんな問いをギャリーに認識させた上で、メアリーはおもむろに口を開く。

 

「想い出が、助けてくれたんだ」

 

「想い出……?」

 

「うん。お父さんは、きっと手探りだったと思う。でも、私には地図があったから。あの世界で過ごした、お父さんとの、ギャリーとの、みんなとの、大切な想い出があったから。だからそれらを道標にして、あそこを目指して歩けたの」

 

 メアリーが話す一語一句を聞きながら、ギャリーはゴクリと唾を飲む。

 

 アートでは、常に真新しさが要求される。新しい表現、新しい作品。まだ見ぬそういったものを創り出すことこそ、アートの神髄に他ならない。先の見えない暗い迷路を、自分の手で切り拓いていかねばならないこと。それこそが、世の芸術家達に立ち塞がる最大の壁である。

 

 ……しかしそれは、逆に言えば。誰かの後をなぞるだけなら、ずっと簡単に済むということだ。

 

 アートにおいて、真作と偽って作られる贋作は評価されない。それは先に述べた一番槍開拓者の栄誉を盗まんとする行いだからだ。

 

 ……ただ、そういった事実とは裏腹に、アートは「先人を真似る行為」それ自体は否定していない。模写・模造という概念があるように、むしろ奨励している側と言って良いだろう。今日の歴史に名を刻んだアーティストの多くも、その下積み時代などに模写・模造を行っていた例が見つかるのは枚挙にいとまがない。

 

 ギャリーは思い出していた。あの『ミルクパズル』での出来事を。メアリーはこと記憶力に関しては、常人を全く寄せ付けない、超人的な才能を持っていた。そんなメアリーならばあるいは、彼女が永くいたあの世界の詳細全てを、憶えていてもおかしくない。

 

 吸収したというのか。自分の頭に保存した、あのゲルテナの世界の記憶。それらをお手本代わりとして、ゲルテナの持つ芸術の世界観、その全てを。水やりされた花がすくすくと、それを吸って育つかの如く。

 

 記憶とは、ある意味それ自体が学習のプロセスである。教えられたことを、頭で、身体で、憶える。それは、最も基本的な"学び"="真似び"の在り方だ。

 

 無論、何も考えずに覚えるだけでは、応用は効かない。記憶が学びの全てであるわけではない。しかし新しい何かを生み出す行為だって、土台となるのは憶えた知識だ。

 

 ならばその記憶という分野で、人智を超える能力を持つメアリーには……あらゆるものを吸収するために必要な素地が、最初から完全に備わっていた。そういうことになるのでは。

 

 ゲルテナはメアリーを置いて逝った。しかしゲルテナは芸術家だ。そして芸術家という人間に限って言えば、自身が創り上げた作品以上に、何かを伝える言葉など在りはしない。ならばゲルテナはメアリーをただ置いて逝ったのではなく、彼女へ遺せるものは全て渡して逝った。それを否定できるだろうか。

 

 アートとは、歴史の積み重ねだ。ある人の作品が他の誰かの心を揺り動かし、影響を受けたその誰かが、また新しい作品を創り上げる。連綿と続くそういった継承・変遷の果てに今日のアートがあるのである。それはそれは文字通り、美術史という言葉が産まれるほどに。後世に与えた影響を鑑みて、死後に再評価される芸術家がいたりするのも、そのためである。

 

 そもそもアートという単語は、今でこそ芸術的意味合いを特に強くしているが、かつてはそれに留まらなかった。文学・医療・算術・土木建築・工芸・音楽・武道等を含むとても広い分野を包括した概念、それらをまとめてアートと呼んだ。その元々の語源は「究めるもの」。つまり、人が長い歴史の中でその業と叡智を究めてきた技術体系、そういった全てである。だからこそ、先人の智慧の結晶で、後の世にそれらを伝えうる遺物のことを、アーティファクトなどと呼んだりするのだ。

 

「絵を描いているとね。頭の中のお父さんが、ギャリーが、みんなが、あの時の声で応援してくれるの。お父さんやみんなから聞いたいろんな教え。あの時、薔薇をくれたギャリーの言葉。そんな声が聞こえるのが嬉しかったから、だから辛くなんてなかったよ」

 

「私も同じ。メアリーからギャリーにまた会えるかもしれない道を聞いた時に、一緒に行きたいって私が決めたんだ。あの世界で交わした、3人一緒にマカロンを食べに行こうって約束の想い出が、その時から私達の夢になった。それを現実に変えられるか、それとも夢のままで終わるかは、私達に懸かってるんだって、それが分かっていたから頑張れた」

 

 そして単純なアートの知識・感性という側面だけでなく、原点たる動機を支えたものも、培った記憶だったのだと2人は話す。

 

「あっちの世界だけじゃない。こっちの世界に出てきてからは、イヴがいろんな所へ連れてって、宝物みたいな想い出を、有り余るほど私にくれた。お菓子屋さんのスイーツバイキングでは、チョコクッキーもフルーツケーキも、全種類ちょっとずつ食べさせてもらった。ブルーベリーケーキが、今の私のお気に入りなの。動物園や水族館では、私が見たことも無い動物さんやお魚さんと会わせてもらえて、ウサギさんやイルカさんを撫でさせてもらったりもしちゃった。お洒落もいっぱい教えてもらえて、似合う服やアクセサリーを、一緒にブティックで選び合いっこしたりもしたよ。この前の夏休みにはみんなで旅行に行って、雪がしんしんと降りしきる夜に、オーロラだって見れたんだ。カラフルなカーテンの向こうでお星様が沢山輝いてて、とってもとっても綺麗だった」

 

 イヴはメアリーとの約束を守ったのだ。過去を懐かしむメアリーの顔を見れば、メアリーがこの10年でいかに素晴らしい想い出をこの世界で得ることができたか、楽しく人生を謳歌してこれたか、それが一目瞭然だった。

 

「そうやって憶えてきた感動を他の誰かに、今度は私が伝えたい。だからね、ギャリー。私がこの道を選んだのは、今となっては他でもない、私自身のためなんだ」

 

 あの世界で、ギャリーはメアリーに心を動かされた。外へのあこがれを込めてメアリーが描いたクレヨンの絵の数々は、確かにギャリーの共感を呼んだ。しかし、それはメアリーの純粋な想いに触発されたからであって、メアリーの絵の技量自体は、あくまで子供相応だった。

 

 ただ、よくよく考えてみれば、『メアリー』はゲルテナ最期の作品だ。ならばメアリーはもしかしたら、肝心の絵を実際に描いているゲルテナを観たことは、一度として無かったのでは? 完成形だけは多く知っていても、それではきっと絵は上手くなれない。

 

 あの閉じた世界だけで学べることは、どうしたって限られていた。そんな世界の中ですら、異彩を放っていたのがメアリーの憶える才能だ。そんなものを、新しいものだらけの外に出したらどうなる? ……決まっている。あらゆるものを呑み込んで、真の意味で花開く。

 

「メアリーの言うとおりだよ。他の誰でもない、私が決めたの。あの世界に迷い込んだばかりの頃は、最初は怖くて堪らなかったけど……。でもギャリーとメアリーに会えたのは、全部あの世界のお陰だった。そうやって思い返してみれば、恐ろしかったはずのあの世界での想い出は、いつしか時が経つほどに、どんどん大切になってきたの。こっちの世界に戻ってからだって、自分が今生きてるってことが、当たり前じゃなくて奇蹟なんだって、そう気づくことができたから、だから私もこの世界を、本当の全力で生きてみたいと思った。ねえ、ギャリー? 今日の私達の服はサイズが違うだけで、あの時の私達みたいでしょ? でもこれは全部、私が一から仕立てたの。他にもね……」

 

 イヴはくるりと回って自身の衣装を強調した後に、高級感溢れる白いレースのハンカチを取り出した。刺繍が入ったそれは、とても見憶えがある。しかし、ギャリーはまだイヴにそれを返していない。

 

「ギャリーに渡したハンカチは、お母さんに買ってもらったものだけど。今の私は自分の手で、それを再現できるまでになった。ギャリーにハンカチを渡したあの記憶が、私をここまで連れてきてくれたの」

 

 あの世界とこの世界、そのいずれもの中で集めてきた記憶の数々。それこそがイヴとメアリーに、アートの道を選ばせた。イヴとメアリーはギャリーのせいで、選択肢を奪われたのではなかった。イヴもメアリーも、自分の記憶を元に自分の意思で、自ら進む道を選んだのだ。

 

 自分のやりたい道で、生きていく。

 

 言うだけなら簡単だ。しかし本気でそれを選べる人が、この世界でどれだけいることだろう。

 

 生きる者は誰もが皆、できることならそうありたいと、心のどこかで願いつつ、しかしどこかで諦めて、ただ惰性に生きることを選ぶ。「所詮自分なんてこの程度だ」と、自分の限界に見切りをつけて、かつての夢を完結させる。

 

 「それが大人になるってことなんだ」と。「それが現実を見つめるってことなんだ」と。そうしたり顔で嘯いて、それが言い訳であることに眼を瞑り、なんとか自分を納得させる。

 

 だって、自分で決めるのだ。自分で決めた道の先に、何が待っていたところで、誰も責任なんてとってくれない。その結果から目を逸らすことなんて、他ならぬ自分が許さない。一度飛び込めば、もう戻れない。

 

 芸術家の道なんて最たるもの。成功できるかは、実力次第。どんなに頑張ったからと言って、頑張ったという事実だけで、評価されることは絶対にない。だから本気の全力で、その技術を磨き上げんとするのだが、それでもなお及ばなかった時、待ち受ける挫折は計り知れないものになる。

 

 そんな世界である以上、そこを勝ち残ってきた者達の中には、天才なんてもうゴロゴロいて。そんな天才達を相手取るうち、かつて自分に才能があると、信じていた者が筆を折る。そんな魔境がアートの道だ。それはこの世界に顕現しうる、悪意なき地獄の形である。

 

 そこに身を投ずるくらいなら、ただ誰かの勧めるままに、あるいは世間の常識に沿うように、敷かれたレールを歩く方がずっと楽だ。

 

 ……しかし。そんな地獄を歩いてきたはずの、イヴやメアリーの表情はどうだ? 決して楽な道ではなかっただろう。ギャリーの想像を超える苦難や挫折に、何度も出くわしたに違いない。けれどこうしてそれを乗り越えて、ギャリーへと向ける生き生きとした眼の輝きは、まるでこの世界を生きる誰よりも、この世界を楽しんでいるように見えないか?

 

「迷わなかった。怖くもなかった。何をしたらいいか、分からなくなったら。どう進めばいいか、分からなくなったら。心のキャンバスに刻まれた、宝物みたいな想い出達が、夜空に煌めく星くずみたいに、深海を照らすアンコウみたいに、色とりどりに輝いて、行きたい道を照らしてくれるの」

 

 自分の半分にも満たない子供で、笑える場所まで大人の自分が、連れてってあげなければと思っていたあの2人。そんな2人は気づけばもう、肩を並べるまでになっていて、今や逆に自分の手を引く。「この世界の歩き方はこうだよ」と、「この世界を楽しむ秘訣はこうだよ」と、人生の袋小路から自分を連れ出す。

 

「後悔なんて、あるわけないよ。ギャリー。私ね。今が、楽しくて楽しくて仕方ないの。今、私とイヴは、同じ藝術大学に通ってる。イヴは服飾専攻で、私は絵画専攻。私達の中にあるものを、外で形にする方法を、修行してる真っ最中。みんなすごい人達ばかりで、挫けそうになる時はあるけれど、私が思う綺麗なものが、みんなに届かない訳がないって、たくさんの綺麗な想い出が、私の背中を押してくれるから、どんなに批判されたって、またもう一度歩き出せるの。そうやって一生懸命頑張りながら、本当に少しずつではあるけれど、お父さんに近づけてるって実感が確かにあって、それがどうしようもなく嬉しいの。お姫様になるって夢だけは、ちょっと叶いそうにないけれど、好きになってくれることさえも、当たり前じゃないこの世界で、それでもこんな私のことを、世界で一番好きだと言ってくれる、そんな男の子だっていてくれた。どうしてもやりたいことがあり過ぎたから、ごめんなさいをしちゃったけれど、そんな風に言ってくれたことは、ほんとにとても嬉しかったの。こんなにも沢山の、宝物みたいな想い出が、たった10年で見つけられたんだから、まだ見つけられてないものだって、まだまだ隠れてるに決まってる。そうやって全く色褪せない、沢山の記憶のパズルピースが、1つ1つ組み合わさって、今の私があるんだよ」

 

 子供から大人への成長とは、肉体に限られたものではない。精神だって、子供から大人へとなるにつれて成長する。そして口から取り込んだ栄養を素に人の身体が形造られるとするなら、人の精神を形造るのは頭に取り込んだ記憶がそれだ。

 

 ならば人が生きる目的は、彩りに満ちた体験を探し積み上げ、想い出に色を足していくためなのかもしれない。それを成し得た者だけが、いつか来る最期の時に、これまでの人生を思い返し、笑って逝く権利を得るだろう。

 

 ここに至って、ようやく気づいた。このアトリエに並んだアート達が、なぜこんなにも色づいて美しく見えたのか。ここに積み重なったアートは全て、イヴとメアリーがこの10年を、全力で生きてきた証だったのだ。

 

「本当はね。お父さんのレベルになんて、まだ全然届いてない。完成した作品は意志を持たないし、世界そのものを創るなんてもってのほか。当然だよね。生涯をかけたお父さんが最期に辿り着いたあそこに、まだまだ先がある私達程度が届こうなんて、甘いなんてもんじゃないよ。でもイヴと2人でなら。こうしてギャリーを連れ戻すことだけに全てをかければ、私達の時間とギャリーの時間を交換するくらいなら、なんとかできるようになった。この一点だけにかけてなら。私とイヴは、お父さんだって超えたんだ。そして、こうしてギャリーを連れ戻す夢を叶えた今……、やっと。どんなに探しても見つからなかったお父さんの、背中が見えた気がするの」

 

 そこでメアリーは日向が差し込む窓際へと歩み寄り、その黄金色の光の中に身体を委ねる。そうして照らされたメアリーを、窓の外の風景を背景として見直した時に、ギャリーは気づいた。

 

 隠し切れない眼の下の隈。痛々しそうに見えていたペンダコ。爪の隙間にこびりついた汚れ。それらはそこだけ切り取れば、見ていて辛さが先立った。しかしそんな勲章があるお陰で、浮世離れした美しさがあったメアリーは、自然な生きた人間として、この世界に溶け込めるようになったのだ。

 

「イヴ。ギャリー。聞いて。私にはね。今、新しい夢があるんだ」

 

 メアリーは窓の外の太陽に眼を向けると、ゆっくりとそれへ向けて左手を伸ばした。その仕草は全てあの時と同じで、その左腕にはギャリーがあげた腕時計が、あの時と同様に巻かれている。唯一違うところと言えば、メアリーが大きく成長したことで、もう不釣り合いではなくなったこと。

 

「私、お父さんみたいな、お父さんを超えるような、そんな芸術家になりたい」

 

 あの時と同じだけの蒼い眼で、あの時と同じかそれ以上のあこがれを込めて、メアリーは再び夢を言う。

 

 ギャリーが心配するまでもなかった。大人になるにつれて"蒼さ"を忘れたギャリーより、彼女はずっと強かった。子供の"蒼さ"を抱えたままに、自分の足で歩いていける。そんな大人へと成長したメアリーは、ギャリーと同じ轍など踏まず、きっとどんどん先へ進む。

 

「お父さんに、見えていたもの。お父さんに、聞こえていたもの。そんなものを感じられるところまで、いつか私も行ってみたい」

 

 そう語るメアリーの姿に、直感的に悟る。

 

 メアリーは生涯死ぬまで、この道を征くつもりだ。亡き父の面影を追って歩き続け、そうしてきっとゆくゆくは、彼にすら辿り着けなかった、前人未到の域にまで手をかける。そんな無限の可能性が、未来に見えた。

 

 生きとし生ける者は、必ず死ぬ。それは絶対の真理である。

 

 しかし、たとえ終着点が同じだったとしても。そこに至るまでの軌跡すらも、全てが無駄だと言えるだろうか?

 

 人は生きるその過程で、様々な経験をし、それを記憶し、同時に何がしかの証をこの世に刻んで、そうしてあの世へ旅立っていく。

 

 そんな先人達が積み上げた業や叡智を武器に、今人達は現世を生き、さらにそれを磨き上げた上で、次の世代へ託すのだ。

 

 ならばそれら忘れ形見を通じることで、先人達の記憶と遺志は、今を生きる人々へと受け継がれている。そう考えることはできまいか。

 

 ギャリーがゲルテナの作品を通じて、彼の一生を垣間見たように。イヴとメアリーがゲルテナの芸術を通じて、彼と同じ道を歩み始めたように。

 

「イヴ。ギャリー。……ずっと。……こうやって3人揃える日が来たら言おうって、ずっと決めてたことがあるの」

 

 その場でくるりと振り向いたメアリーは、強い決意を秘めた眼差しのままに、ギャリーとイヴにそう切り出す。

 

「続きをしよう。世界のキャンバスに隔たれて、有耶無耶にしちゃったあの話の続き」

 

 言葉を切ったメアリーは、ゆっくりその瞼を閉じる。そして何かに思い馳せるように、そのまま大きく深呼吸すると、再び青い眼を見開いて、瞳にギラつく輝きを宿しながら、おもむろに核心となる言葉を紡ぐ。

 

「お父さんは、死んでない」

 

 そしてメアリーはゆっくりと。腕時計を巻いた左手で。自分を、自分の頭を、指差して言う。

 

ここにいる(I'll be right here.)

 

 その時。ギャリーには確かに、ダブって見えた。メアリーの姿が、ゲルテナと。

 

 ギャリーは、ゲルテナの顔も知らない。なのに、ギャリーは感じたのだ。今この瞬間のメアリーに、ゲルテナの魂が乗り移ったのだと。

 

「私とイヴが忘れないでいたことで、こうしてギャリーをあっちの世界から掬い上げれたように。私が憶えている限り、お父さんは死なないの」

 

 震えが、止まらない。一緒に話を聞いている、イヴも震えている。

 

 寒いのではない。怖いのでもない。メアリーが口にする一言一言が、どうしようもなくギャリー達の心を打つ。

 

"これが、本当に、あの子だというの?"

 

 美しいと思った。綺麗だと思った。ギャリーを連れ戻すために積み重なった、沢山の努力の結晶達を。そうした多くの経験を積み、ここまで成長したメアリーとイヴの姿を。しかし、きっと一番は。

 

"……嗚呼。アタシってば、本当に何も見えなくなってたのね"

 

 この世界に、素晴らしいものなど、綺麗なものなどろくに無い? バカを言え。今すぐ眼の前に、それがある。

 

 今を一生懸命に、生きる人。困難な現実と真正面から向き合って、それでもこの世界を全力で楽しんでいる人。

 

「あの時、あの世界から飛び出したばかりの私には、イヴとギャリーが何をくれたのかなんて、まだぜんぜん分からなかった。……でも、今なら。あれから10年この世界を生きた、今の私なら言えるんだ」

 

 生きるとは、何か。その意味は、何か。かつて何一つ知る由もなかった彼女が、この世界で10年生きて、今ここに自分なりの答えを見出した。

 

 彼女よりずっと長く生きてきたはずのギャリーですら、それがどうしても思い出せなくて、ずっと彷徨っていたと言うのに。

 

「……ギャリー。ありがとう。私を、この世界に出してくれて。ありがとう。私に、可能性をくれて。ありがとう。私に、生きる時間をくれて。ありがとう。私に、大切な人と別れる寂しさを教えてくれて」

 

「……イヴ。ありがとう。私の、友達になってくれて。ありがとう。私の、新しい家族になってくれて。ありがとう。私と、同じ時間を生きてくれて。ありがとう。この世界の右も左も分からなかった私の手を、迷子にならないように引いてくれて」

 

"……お父さん。ありがとう。私は、今ちゃんと幸せだよ"

 

~『色褪せぬ記憶達』~

 

 




いつまで経っても、忘れない。

そんな記憶を、ありがとう。


この小説をIbファンの皆に、

モノクロミュージアムのkouri氏に、

そして全てのアートを愛する者達に捧げる。







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外・ゲルテナ展
『対極の器』


絵空事の記憶3に向けた外伝作品。

PARCOのワイズ・ゲルテナ展や、
ファミ通のIb特集ページとかで、
モチベーションが爆上がりした結果とも言う。


 

 大きな円卓を囲んで座っている、他の11人を見渡した。中央の机の上には、クリップで留められた紙束が51部、少しずつずらして輪のように並べられている。

 

 それぞれの表紙右上には、異なる人物の正面写真が貼られている。教授達はその顔ぶれを見渡しながら、ある者は顎に手を当てたり、ある者は訝しげな眼つきで睨んだり、種々の仕草を見せていた。

 

「……では。合格は以上51名、ということでよろしいですね?」

 

 そんな全員の動きを牽制するように、ウィッシュアート学長が強気に言い放つ。ハイエナのような眼光が、円卓を一周した。

 

 我が王立総合藝術学院の学長は、背筋が凍るようなオーラを纏うことがある。普段はまるで枯れ木のようで、風が吹けば飛んでってしまいそうという印象なもんだから、こうしてそれが発揮される場にいる際のギャップたるや凄まじい。

 

 ウィッシュアート学長の怖い側面が登場するのは、生徒達の作品を講評する時が多いのだが、今回はそのプレッシャーが珍しく、同僚の教授・准教授・講師陣に向けられる形となった。

 

 場にいた何人かは、その圧力に負ける形で、すごすごと顔を伏せた。かく言う私ことワーズワースも、脳裏に浮かんでいた疑問を呑み込んで、首を縦に振らざるをえなかった。

 

 この瞬間、全会一致の確認が取れた。今年の合格者、決定である。 

 

「それでは皆さん、長い間お付き合い頂き、有難うございました」

 

 ウィッシュアート学長が座ったまま礼をする。それを皮切りにして、全員を固く縛っていた緊張の糸が、やっと緩んでいくのを感じる。毎年恒例のイベントではあるが、やはりその意味を考えれば、審議中は真剣にならざるを得ない。

 

 通す者と、落とす者を、選ぶ。我々の選択によって、文字通り人生が変わってしまう。合否を決めるとは、そういうことだ。

 

 これが一般の勉学を扱う大学であれば簡単だ。正解の答えを問うという、誰かの主観に依存しない公平な選抜方法に委ねることもできるから。科学において、答えが定まる問題は用意できるから、それで能力を測れば良い。

 

 しかし、ここは藝術大学だ。国内最高、世界でもトップクラスとされる、藝術大学の最高学府だ。こと芸術という分野において、答えが定まることなんて、あってはならない。だから本学での受験でも当然、答えの定まらない要求がされる。

 

 つまり、教授個人の主観や好みによる評価が、合否に大いに反映しうるとも言えるのだ。複数人による合議で決定するとは言え、合格者決定の作業がいかに責任が求められるか、分かるというものだろう。

 

 我々も教育者である以上に創作者だ。誰かに評価される重みは知っている。アートとは結局、評価が全てだ。ここに居る者達もかつて、誰かに評価されたことで、藝大講師というポストを得たのだから。

 

 この王立総合藝術学院は、世界的に見てもかなり異色な藝術大学だ。最も特徴的な点と言えば、やはり専攻に依らない共通課程が1年目にあることであろう。

 

 絵画・彫刻・工芸・服飾・デザイン・建築・先端芸術。本学にはこれら7種の専攻があるが、どの専攻の学生であれ、1年目は必ずこれら全ての分野について一通り触れさせられる。

 

 その点もあって、本学では専攻が違う教授同士で、共同作業を行うことも多い。

 

 これはこの大学が、リベラルアーツという概念を重んじていることによる。分野という縛りから解き放たれた、多角的な視野を持つ人材。そういった者達こそが、将来のアートを牽引する者となるべき、という思想であった。

 

 本学の受験プロセスにも、この点は反映されている。ウチの選考プロセスは、二次審査までは専攻によらず共通なのだ。そして三次審査以降であっても、他専攻の教授も採点に加わる。こんなシステムになっているのは、私の知る限りにおいては此処だけと言ってよい。

 

 まず一次審査は、ポートフォリオによる書類審査。ポートフォリオとは、自分の作品を簡潔にまとめた、自己アピールのための作品集のことだ。ウチを受験する生徒は皆、自身が作ってきたもののうち、厳選した12作品を掲載したポートフォリオの提出を予め命じられる。一連の作品を作り上げるだけでも数カ月から1年はかかるものだが、それぞれの教授達が眼を通す時間は流し見程度だ。ただし残酷ではあるが、これを通過した時にはもう、志願者は5分の1程度まで減っている。極端な話、この時点で足切り未満は弾いておかないと、続く審査にゆっくり時間がかけられない。

 

 続く二次審査は素描。すなわち、デッサンである。本学の試験会場にて対象物を指定され、制限時間内でその場でデッサンを行う。対象物は学生が志願する専攻によって異なるが、デッサンが出題されるという点は専攻関わらず共通だ。ここで作品制作に必要な空間把握と情報出力の両面について、基礎力が十分身についているか判断する。ウチの7専攻のいずれにおいても、必須となる能力だ。

 

 三次審査で、ようやく各専攻それぞれが主題とする作品の製作試験へと分野が別れる。受験会場で漠然としたテーマを受験生に投げ、それに従って各々の判断で制作を行ってもらうのだ。たとえば今年の絵画専攻での問題は、「人物画を描きなさい」だけで、他は自由だった。

 

 そして最後に四次審査、面接。ただ、一般的に想像される面接とは、勝手が違うと考えてもらいたい。面接に臨む教授達の机には一次審査のポートフォリオが並べられ、受験生の横には二次・三次審査の作品が置かれる。その状況で、面接という名の作品講評をされるわけだ。どの点に注力したのか。何故そのような作品にしたのか。専門が異なる12人の教授達に取り囲まれた状況で、そういったことを徹底的に詰められるわけである。

 

 四次審査まで到達した時点で、入学に値するだけの最低限の実力は認められていると言ってよい。三次審査までは、レベルに値しない者達を減点していく方式で採点が成されるから。しかし、四次審査ではそういった採点基準が一変する。すなわち、何か光るものがあるか。受験生の回答と合わせて作品を見て、心揺さぶられるものがあるか。そういった観点から、才能の原石を選び取る形へ変わるわけだ。

 

 上手いだけは、四次で落ちる。誠しやかに囁かれる噂である。実際、そう間違っていないと思う。芸術予備校などに通って何年も受験芸術を勉強してきただろう、非常に上手い作品群。それを提出した者が四次審査の場になって突然、「もう見飽きた」と切り捨てられる様を何度も見てきた。

 

 逆のことも言える。四次審査では、教授の過半数の評価を得る必要は、実はない。たとえ多くの教授から疑問を呈されたとしても、ある1人が強く推すようなことがあれば、それで通過するようになっている。一部の者達が強烈に惹かれるナニカがあれば、癖があっても良いという訳だ。

 

 そしてこの最終関門である四次審査の結果についての相談が、つい先程にやっと終わったわけである。肩の荷が下りるというものだ。

 

 他の教授・准教授達が次々と椅子を下げ、立ち上がっていく。会議室を後にするためだ。

 

 それを皮切りにして、一部教授達同士で歩きながらの談笑が始まり、それが遠ざかっていく。

 

「いやぁ、今年はあの子が全部持ってったな! 笑ったよ、アレは!」

 

「まあ、面白い子が来たな、とは思ったわね」

 

「私は大嫌いです。表現の自由を失礼と履き違えていませんか? 直接喧嘩売られたようなもんですよ。腹立ちません?」

 

「そりゃあイラついたとも。だからこそ、此処で徹底的に扱いてやろうと思ってな」

 

「まあ、常識で測れる器じゃなさそうという点は認めますがね……」

 

 立ちどころに吹き荒れる、賛否両論。……ただ誰も、「"あの子"って誰のこと?」とは訊かない。そんなことは、訊くまでもなく分かるからだ。合格者は51人いるのに、"あの子"だけで誰を言っているかが分かる。つまり好印象にしろ悪印象にしろ、彼女はそれほどまでに教授達の記憶に自身の存在を刻みつけた。それは紛れもなく、芸術家としては成功なのである。

 

 皆が口々に感想を述べる件の彼女。メアリーについて、私はこれまでの選考課程を思い返していた。

 

 

 

 

 一次審査は時間との勝負だ。だから流れ作業的にサッサッと通過/非通過の仕分けをしている中で、そのポートフォリオだけは軽く捲った瞬間に手が止まった。

 

「なんか変な世界観したヤツが来たな」

 

 軽く見るつもりだけだったとしても、関係ない。真に魅力的な作品はその一瞬で、見る者を釘付けにして離さなくできるだけの魔力がある。

 

 描かれている題材は抽象的かつ幻想的なのに、独特のタッチと抜きでリアル感を演出している。陳腐な表現ではあるが、「飛び出してきそう」とか「吸い込まれてしまいそう」とか、そんな言葉がよく似合うだろう。

 

 明らかにゲルテナの影響を強く受けているな、とすぐに分かった。私自身、かつて生きていたら弟子入りを志願していただろう程に尊敬していた芸術家だったから、一目見てピンと来た。

 

「こいつは通るな。十中八九」

 

 まだ一次審査の段階でしかない。しかし、このタイミングでそう思わされた時点で、その予測はそう外れないと、これまでの経験から知っていた。

 

 ポートフォリオを閉じ、一次審査通過の箱へと書類を入れる。その途中、表紙に添付された願書の顔写真が見えた。ウェーブがかった金髪に、パッチリ透き通った青い眼。美人な女性である。

 

"メアリー、ね……?"

 

 かつて、どこかで見たような気がしないでもない。ただ、特に知り合いではないはずで、そこで考えるのは打ち切ることにした。審査しなくてはいけない書類は、まだ山積みなのだ。

 

 続く二次審査と三次審査。面倒なことに、若い准教授の立場である私は、試験会場での監督役をやることになった。とは言え、カンニングなどの問題が発生しえない藝大受験の試験監は、そこまで気を張り詰める必要がある仕事ではない。そもそも、制限時間は昼休憩含んで7時間である。制限時間をどう使うかは受験生達の自由で、好きに会場から外に出たりしても良い。そんな状況で、そこまで見張りに気を引き締める必要は無い。

 

 絵画専攻の二次審査課題は石膏像デッサンであった。なんとなく私は気になっていたメアリーの様子を確認しに行ったのだが、ここで私は面白いものを見つける。

 

 彼女メアリーは、最初こそしげしげとデッサン対象の石膏像を見つめていた。だが、いざ鉛筆を手に取れば、石膏像を一瞥もせずにずっと紙に向き合い始めた。

 

 デッサンとは、眼の前にあるモチーフをそのまま描く行為である。であるが故に、観察をするという行為が非常に重要だ。自身の記憶に頼り過ぎたデッサンは、主観による改変を受け、現実からかけ離れたものになるというのは常識である。記憶頼りのデッサンは、プロでも難しい。

 

 しかし、メアリーが描き上げていく石膏像のデッサンは、そういった歪みを一切感じさせなかった。視線を石膏像に移さなくても、白紙の上に石膏像が見えているのかと錯覚しそうになる。そうして出来上がった作品は、トップクラスの完成度だった。

 

 デッサンは、才能以上に、数である。自由になんでも表現してよい状況では、その無限の択の中で何を選ぶかという点において、本人の資質センスは絶対に無視しえない。しかし、こうやって同じ対象をそのまま描くという状況では、研鑽にかけた時間が如実に現れる。

 

 このため、この二次審査は浪人生の合格率が特に高いとされる。単純に今まで練習に費やした時間や描いてきたデッサンの枚数の差が、そのまま表れてしまうことが多い。

 

 3、4年の浪人が全く珍しくない本学の受験生達に対して、メアリーは現役生であった。つまり、純粋な基礎技量が問われるこの二次審査が鬼門になるかもしれないと思っていたが……どうやら杞憂のようである。受験生の中で一回り若い彼女はしかし、十分な修行を既に積んでいるようだった。どうやら、彼女はここにいる者達と比べてもさらに早い頃から、スタートを切っていたと思われる。文句無しの通過であった。

 

 三次審査。絵画専攻のお題は、「人物画を描け」である。

 

 受験生の多くは、自画像を選んでいるようだった。描いている対象が自分であれば、メッセージを込めやすいからだろうと思われる。極端な話、評価する我々教授陣営が知らない者が描かれた場合、メッセージが伝わりにくい可能性があるからだろう。まあ、鏡があれば簡単にモデルが準備できるため、描き慣れているから、と安直に選んだ人も混ざっているかもしれない。

 

 さて、彼女は誰を描くのか。それを楽しみにしている私がいた。目ぼしい受験生の製作過程を真っ先に見れるのは、監督役に許された特権である。

 

 彼女は油絵にすることを選んだようで、キャンバスに絵具を敷き始めた。バックの色を塗り終えると、下書きとなる色を置き始める。

 

"ほう? 複数人、ね……"

 

 筆の動きがぼんやりと何人かの人影を成した段階で、それに気付いた。

 

 1人でなくてはいけない、という決まりはない。全て自由である。ただ、複数人はある種のリスキー性とも隣り合わせだ。どうしたって描く一人一人に割り当てられるエリアは小さくなるし、全体の印象が希薄化しやすくい。その点をどう彼女が対処するかが、最大の見物となるだろう。

 

 そうして全ての人型の輪郭が描かれ、いよいよその顔に筆が入れられ始める。やっとここで、誰が描かれているか読み取れるようになってくるわけだが………。

 

"あれ? この端のやつ、俺だよな……? というか、描いてるのはウチの教授達、ってことか"

 

 キャンバス左下の人の顔に、とても見覚えがあった。毎朝、鏡の前で見るという点で。そして彼女が手を進めるにつれて、他の描かれた人々も同僚の顔をしていると気づく。

 

"……ふむ。写真を持ち込みもせず、よく特徴を捉えている。憶えてきたのか……?"

 

 ただ写実的に描いた絵ではない。それぞれの人物の特徴を適度にデフォルメ・強調している。そのことで、小さく描かれていても、存在感を失わないように描かれていた。

 

 誰を描いているか伝わりやすいように、審査員が必ず知っている人物を描こう。そういうことだろう。それで関わる複数の教授をまるごと描こうとする思い切りの良さは、なかなかである。

 

"……ただ。これは好き嫌い別れるぞ"

 

 まず気になるのは、デフォルメが入っている点。これはその人らしさを強調する手段として、個人個人を際立たせる効果をもたらしている。ただ、似顔絵を描かれた側からすれば、その強調点がコンプレックスだったりすると、「風刺されている」と不愉快に感じる危険性を孕む。

 

 また、それとは逆に。これは下手すれば、「審査員に媚びている」と評価する人もいるかもしれない。

 

 「審査員である教授陣のために、描きました」。それ自体は、親切だ。でもそうやって他者に配慮してしまうということは、「確固たる自己が無い」とも捉えられうる。見る者を想定して作品を創るのは大切だ。しかし、見る者に合わせた作品では、作者の主張が消えてしまう。

 

 芸術とは、表現である。極論、どんな高尚な技量だってそのための手段に過ぎない。そしてその原点を守り続けることは、プロとして誰かからお金をもらう立場になると、もっと困難なものになっていく。逆に言えば、まだ学生の立場であるのに、それが揺らいでしまうなら、この後の面接で落とされる可能性は否定しきれない。

 

 期待していた彼女の未来に一点の淀みを感じ、聞こえないほど小さく息を吐く。ちょうど彼女が最後の1人を描き終えたタイミングと同じだった。

 

 改めて完成像を見る。技量としては他の受験生達と比べて十分高いから、問題なく三次審査自体は突破だろう。問題は四次審査、か。

 

 ……? 視線の片隅で彼女がまだゴソゴソと、沢山の絵具チューブとバケツ相手に格闘している。まだ何か、手を入れるところがあるのか?

 

 絵具バケツの1エリアは、紅に染まっていた。単なる市販絵具の赤ではない。赤と黒と黄と白を混ぜ、血を思わせる紅い液体が、なみなみと底に溜まっていた。こんなに大量の紅を入れる場所なんて、この絵に残っている訳が……。そう思った、時だった。

 

 彼女はおもむろに左腕をまくると、その左手を自らが創り出した紅へと突っ込む。そして……。

 

 バアアァンッ!!!!

 

 その紅く塗れたままの手を、今しがた自分が描いたばかりの絵に向かって叩きつけたのだ。滴る液が弾け飛び、返り血のように彼女の顔と衣服を紅く汚す。

 

 突然響き渡った巨大な音に、周りの受験生達の視線が集まるのを感じる。

 

「え、何あれ……。こわ……」

 

「失敗してヤケになった?」

 

「どーせ他の人動揺させて邪魔しようって魂胆でしょ」

 

「ライバル減ってラッキー……」

 

 私に言わせれば後ろ向きとしか思えない独り言を受験生達が零すのを耳にしながら、私は自身が直接張り手を喰らったかのような衝撃を感じていた。眼の前には絵の中の教授陣達全てに向けて一発くれてやったかのように、彼女が今しがたつけた赤い手形がベッタリ。一見すれば、台無しである。しかし本当はこれこそが、この作品のあるべき姿なのだ。私は勝手に、作品の完成を早合点した。

 

 「こんなものは人物画ではない」とか、「教授陣全員をバカにしている」とか、そんな評価を下されてもおかしくない所業。それを躊躇なく実行できる胆力に、しかし私はゾクゾクしていた。ああ、「この子の話が聞いてみたい」と。そう思わされた時点で、三次審査の結果なんて、分かり切ったものだろう?

 

 そして、遂に。四次審査だ。12人の教授達が並ぶ中で、彼女の番がやってきたのだ。

 

 ポートフォリオの作品それぞれの意味についてなどの、受験生全員に訊く質問もそこそこに、議題はすぐに本題に入ることになる。

 

 ウィッシュアート学長が、代表して訊いた。

 

「三次審査で描いてもらった、その絵。私達ですよね。どういう意味ですか?」

 

 それに対し、彼女メアリーは目を逸らすことなく、こう言い放つ。

 

「……見たままの、通りです」

 

「見たままとは?」

 

「私は貴方達全員も超えていくつもりで、此処に来たの。コレはその宣戦布告の証」 

 

「なっ!? 失礼だぞ、君!」

 

 それまでは拙いながらも丁寧語を維持していた話し方が、それを皮切りに彼女から消えた。そんな彼女の答えに対して、反射的に教授陣の一人から野次が飛ぶ。芸術家として力量は高いが、だからこそプライドも高い典型例のような教授だった。

 

 彼女の口調や振る舞いからは、これから教わろうという相手への遜りは無かった。そしてその傍若無人で堂々とした態度は、しかし彼女に似合っている。

 

「逆に訊くけれど。受験の課題として出す作品に、込めるべき気持ちってこれ以外にある?」

 

 ギラつくその青い目で真っすぐに見返されて、誰も彼女に反駁できない。彼女の纏う確固たる自信が、私達に反論の言葉を紡がせない。

 

「私は、本気で、教えてもらいに来たの。ここに並んでる貴方達にはみんなそれぞれ、自分の世界があるんでしょ? 全部残さず、教えてよ。貴方達が持ってる世界も全て、私はこの眼で見てみたい」

 

 その空気に、私達は呑まれかけた。まだ20年にも満たない若人よりも、ずっと長く生きてきたはずなのに。

 

「……メアリー君。一番身近な人って言われて、誰を思い浮かべますか?」 

 

 突如。試験となんら関係無いと思われる質問が、学長から投げかけられた。「何訊いてんだコイツ?」といった訝しげな視線が眼の前の彼女からだけでなく、他の講師陣からも向けられる。

 

「? それって何か関係ある?」

 

「ええ、とても。とても大事な話です」

 

「……イヴ。私の、お姉ちゃん」

 

「……なるほど。良く分かりました、ありがとうございます」

 

 そんなよく分からない質問を最後に、あの印象的な彼女との面接は終わりを告げ。

 

 そしてその場面を区切りに、私のこの回想も一旦切り上げることとなった。

 

「皆さんもう退出されましたよ? ワーズワース先生」

 

 気づけば、残っているのはもう私とウィッシュアート学長のみ。片割れの私は座ったままで一切動かず、ウィッシュアート学長も書類を整理しているだけだったので、さっきまで真剣な議論がぶつけられていた場とは思えないくらい、部屋の中は静かだった。

 

「いえ。学長に個人的に訊きたいことがあったもので」

 

「ほう?」

 

 ウィッシュアート学長は眼をしばたかせながら書類を机にまとめて置くと、掌をこちらに向けて先を促す。その仕草を確認したところで、私はずっと抱えたまま切り出せなかった疑問を口にした。

 

「どうして。メアリーの姉、イヴを合格に推したんです?」

 

 その言葉を聞いた学長が、片方の眉をゆっくり吊り上げるのを私は見た。

 

「おや? イヴさんは我が校で学ぶに当たって、十分過ぎるほどの基礎力を備えていました。それは先生も同意したことでは?」

 

「煙に巻かないでいただきたい。しっかりとした土台があるか、特別光るものがあるか。その2つは全く別の話だ。そんなことは、学長だって分かっていることでしょう?」

 

 イヴという女性は、メアリーとはあまりにも対極的だった。見目の印象だけを言っているのではない。その有り様が、である。本当に血が繋がっているのか、疑ってしまうほどに。

 

 芸術家なんていう奇特な職を目指していることを疑うレベルの、真面目な優等生。それが面接ですぐに抱いた第一印象である。どうしても自己主張が激しくなりがちな藝大受験生とは信じられないほど、礼儀正しく受け答え振る舞いも洗練していた。

 

 作品も基本に忠実で、とても教科書的で上手かった。デッサンからも、先生から教わったことを何度も何度も繰り返してきただろう道のりが透けて見える。アートに対して、どこまでも真摯で実直だ。そんな作品達を見せられて、それが示唆する人間性に好印象を抱かなかった者は講師陣の中にいなかったと思う。

 

 ただ、作風がオーソドックス極まりなかった。誰もバツをつけない王道は、個性が無いことと表裏一体。作品を通して、彼女の顔が見えてこない。

 

 才能が無いわけではない。そもそも才能が無い者が、本学の四次審査まで来れるわけもない。ただ、どうしようもなく……我々教授陣にとっては、見飽きた程度の才能だったということだ。

 

 そうして教授達の誰もが彼女の中に特別な何かを見出だせず、遂にその不合格が決まろうとした、その時……。ワーズワース学長の鶴の一声で、一気にひっくり返った。それがあの時に起きた顛末だった。

 

「現役生としてあのタイプが受けてきたら、落とすべき。私のみるかぎり、それが今までの学長のスタンスだったはずです」

 

 本学限らず、芸術大学における浪人率は高い。四浪・五浪は当たり前だ。

 

 残酷だと思うだろうか? しかしあえて言おう。そういった「不合格」で、芸術という魔物から早々にドロップアウトできた者達は幸運である、と。

 

 芸術家という職業は、天才ですら「生きているうちに評価されない」なんてことがざらだ。そして他者から見向きもされない作品など、言ってしまえばゴミである。真っ白なキャンバスや彫り出す前の石材の方が、素材としての使い道が思いつく分だけよほど価値があるというものだ。我々は貴重な材料を使って、生きる上ではなんの役にも立たないゴミを作る仕事をしているのである。芸術が金持ちの道楽と称されるのはありがちだが、そう的を外した表現ではないだろう。

 

 こんなにもコストパフォーマンスの悪い仕事が、他にあるだろうか。たかだか数年の挫折で、割りに合わないと思えるだけの頭の良さがあるなら。もっとマトモな進路を選んだ方が、よほどマシな人生を歩めるに違いない。

 

 だからこそ。学長も私も、基本的に「迷う程度の受験生は落としてしまえ」と思う立場で共通している。こんな道を進むのは、他の道など選べないようなどうしようもない、取り返しのつかない者達だけで十分であるがゆえに。そしてメアリーには、確かにそんなオーラがあった。

 

「なまじ努力の跡が見てとれるからこそ、いっそう憐れですよ。ああいった子は壁にぶつかる度に、これでもまだ足りないんだと考えます。その根本の原因は、本人にはどうしようもないところにあるというのに。まだ取り返しがつく若いうちに引導を渡してやる。それが優しさだったんじゃないですか?」

 

 彼女イヴは、どこまでもマトモ過ぎた。それは普通ならとても評価されるべきことであるはずなのに、この世界に居続ける限り、それで彼女は否定され続けるだろう。決定的に、芸術家に向いていない。

 

 学長がこれまでもあのような優等生タイプの受験生を通してきたなら、価値観の相違と納得したかもしれない。しかし、そうではない。今回だけが例外だった。

 

 私は続ける。

 

「……もちろん、これは彼女に限った話ではありません。芸術を志す者達は遅かれ早かれ、いずれそういった壁には絶対にぶつかる。でも、言い方を変えるなら。入学の段階で躓いているようでは、やはり彼女にこの世界は向いていないと、私には見えました」

 

 私が話す間、学長は机の上に両肘をついたまま手を組んで、じっと眼を閉じていた。そうして私の言葉を脳内で反芻した後、おもむろに口を開いた。

 

「そうでしょうね」

 

「……!? なら、なぜ!?」

 

「……彼女を合格にしたのか、ですか?」

 

 私の疑問を予想したのか、学長はゆっくりと細眼を開けて、私に言葉を重ねてきた。

 

「ワーズワース先生。本学の理念を、今ここで言えますか?」

 

「……? 『人間らしい社会の形成に貢献できるような、高い専門性と豊かな人間性を有する芸術家を……」

 

「ああ。違う、違う。そんな薄っぺらい建前じゃない、本物の方のことですよ」

 

 学長の意図を量りかねながら、本学の理念を思い浮かべ読み上げ始めると、すぐに学長に遮られた。間違っていない自信はあったのに。そこで改めてヒントを与えられて、やっと学長が言ってほしい本音の理念とやらに行き着いた。

 

「アレですか。『何年かに一人、天才を作り出せればそれでいい』。こっちのことですか」

 

「ええ。ちゃんと真の理念も伝わっているようで安心しました」

 

 本学の学生は、入学時の学長挨拶で、決まってこう言われるのだ。「何年かに一人、天才を作り出せればそれでいい。他の学生は、そのための礎。ここはそういう大学です」と。いよいよ華の大学生活が始まって早々に告げられるこの言葉は、その単純にして凶悪な印象も相まって、裏理念と呼ばれて学生達に深く浸透している。それはもう、表の公式理念が霞むほどに。

 

 そして今、わざわざこの言葉を引っ張り出してきた意味に思い至り、絶句する。

 

 天才。この場面でその単語が差しそうな人物は、たった一人しかいない。

 

「まさか……。メアリーの、あの子の姉であるという理由だけで、彼女を合格にしたんですか!!??」

 

「その通りですが?」

 

 カッ、と頭に血が上る感覚が分かった。紛れもなく、今の私は強い怒りを抱いていた。

 

 眼の前の人物は、こう言っている。「天才であるメアリーの踏み台にするために、彼女の姉であるイヴを入学させた」と。冗談ではない。

 

「学長……貴方、何様ですか!? 確かに芸術は、最終的には一握りの天才が独り勝ちし、ほとんどが消え去る残酷な世界です。でも、だからこそ! 私は学生一人一人と相対する時、どうかその天才になってくれと信じて、いつも教えているつもりです! どうか天才の踏み台になってくれ、なんて思って指導している子は一人もいない!」

 

 私も先の裏理念には、深く共感するところがある。芸術は結局、実力主義だ。強い者が、弱い者を食い散らかす。ゆえに芸術家の卵を集めた此処は、いわばある種の蟲毒のようなもので、最終的に生き残った勝者のために、他の者達は存在する。それは客観的な事実に他ならない。

 

 しかし。たとえ最終的には、そのほとんどが礎になる運命だとしても。一番最初の段階では、集められる者達には全て、最後まで生き残れる可能性があるべきだ。その可能性があるから、「学生のために大学はある」という体裁が、かろうじて本学でも守れるのである。

 

「それだけじゃない! 私はてっきり……! 私には見つけられない、しかし学長には見つけられる何かが、彼女イヴの中にあって、それを評価したんだと思っていたんです! それなのに……、貴方はメアリーのために、イヴの評価を曲げたんですか!? それの何処が正当な評価ですか!?」

 

 皆、本気で人生を賭けて、こんな分が悪い世界を歩んでいる。それなのに下される評価が、自分の実力以外のところにあったりしたら……。納得できるわけが、ないだろう。

 

 芸術は、実力主義でなくてはいけない。そうでなくては、美しくない。それを汚したと言っているに等しい学長を、私は侮蔑の眼差しで見据える。

 

「……メアリーは、不思議な子でしたね」

 

 私からの睨みを無視したまま、学長はぼんやりと宙を見上げると、ぼうっと呟く。この期に及んで、まだイヴ自身を見ることなく、メアリーのことしか頭に無いのか。そう弾劾を続けようとして、でも。

 

「不思議な子、止まりでした」

 

「……はぁ?」

 

 予想外の言葉に虚勢をそがれた。どうせメアリーを褒める言葉が続くと思っていたのに。

 

「キチガイでも、バケモノでもない。独特な雰囲気の子でしたが、普通に会話が成り立つ人間でした」

 

「なにを、当たり前のことを……」

 

「本当にそうですかねぇ……?」

 

 ウィッシュアート学長はパチンと一回だけ両手を打つと、ふてぶてしい笑みでこちらを見やる。

 

「私、この仕事柄と幸運に恵まれて会うことができた、ある一人の天才が今でも記憶に強く残っているんですけど」

 

 そこで一旦学長は、どこか憂いたような表情で長い長い溜息を吐く。

 

「話が、通じませんでした」

 

「え」

 

「既存の概念に囚われない、全く理解できない世界観の作品を創り上げる人でした。真の天才とはああいう人物であると、私は今でも思います。……ただ、彼は私達とは違いました。違い過ぎました。彼には、私達の観えないものが観えていました。彼には、彼の世界独自のルールがありました。そして彼と私達は、平行線で、対極で、住む世界の常識が違い過ぎて、まともにコミュニケーションができませんでした。結果。彼が、彼の作品が、この世界に受け入れられることはありませんでした。天才ではなくキチガイと扱われたので、そもそも競争の土俵の上に立つこともできなかったんです。もしもそこまで辿り着けたら、きっと彼は素晴らしい世界を見せてくれただろうに、そんな結末になってしまったことを、私は今でも後悔しているんです。何か私に出来ることは無かったのか、と」

 

 芸術をちょっとでも齧ったことがある者なら、ギフテッドやサヴァンという言葉を、一度は聞いたことがあるはずだ。才能が作品という形で実体化するこの世界では、類稀なる創造性を持つ天才の存在は目立ちやすい。

 

「私、思うんです。天才とは彼のように、自分の中に閉じた世界を持っている者のことであると。世界が自分の中で閉じているんですから、そんな天才と理解し合うのは、本当に途轍もなく難しい」

 

 ただ、これら天才は凄いところだけがクローズアップされ、それによって併発しがちな問題については見過ごされがちだ。特にサヴァンに至っては、いわゆる自閉スペクトラム症の一種であるとされている。発達障害という単語を宛てるのが適切かは人それぞれ意見があるだろうが、少なくともそんな言葉が産まれるくらいには、天才とは良いだけのものではないということだ。私達が死ぬほど追い求めてやまない才能は、他者と違うことを、普通ではないことを強要する。

 

 自分の世界にあるルールに強いこだわりがあり、全てが0or1の極端思考。完璧主義と言えば聞こえは良いが、適度に調節する柔軟性がない。それが人間関係に現れると、丁度いい距離感を掴むということができず、周りは全て敵味方の2択。そして一度敵だと思ってしまえば、そのまま他者への攻撃性へと繋がってしまう。

 

「ですから。メアリーを、メアリーの作品を、一目見て思ったんです。どうしてこんなにも違う世界観の持ち主と、普通にこうやって話せているんだろう。彼女はどうやって、自分と他との違いという、常人にとっては簡単でも天才にとっては難しい、障害を乗り越えられたんだろう。だから、訊きました。彼女にとって、最も身近な他人が誰か」

 

 ごくり、と口の中に溜まった唾を呑み込んだ。その答えは、知っている。メアリーは最も身近な人として、姉であるイヴの名前を上げたのである。あのどう考えても審査と無関係だと思われた質問に、こんな意図があったのか。

 

「そうして告げられた彼女の姉イヴと、幸運にも面接会場で話す機会があって、その立ち振る舞いを見て思ったんですよ。メアリーを我々と普通に話せるまでにしたのは、この子なんじゃないだろうか、と」

 

 学長に言われて改めて、初めて私はイヴとメアリーを並べて考えた。どこまでも対極的なこの2人は、しかし互いに揃っていることで、やっとバランスがとれるのかもしれなかった。

 

「先程ワーズワース先生は、天才の踏み台になってくれ、なんて思って教える生徒はいないとおっしゃいましたね? でも、そんな踏み台にすら、まともになれない者がどれだけいますか? 才を羨み、差異をあげつらって、足を引っ張り、出る杭を打つ。それによって埋もれたまま、表舞台に立つことなく消えているだろう才能が、この世界には数え切れないほどあるはずなんです。……いや、私は別にそれを責めたいわけではありませんよ? 理解できないものを理解しろというのが、そもそも無理難題なのであって、出来ない方が普通でしょう。私自身、そうだった。……だから私は、それをやってのけているかもしれない彼女を、評価しているんですよ。メアリーという才能を、他の人にも受け入れられやすい形にして、私達の世界へと連れて来たこと。ある意味では天才という作品を作り出したとも解釈できるそれは、我が校の理念によく一致し、合格最後の一推しとする輝きとしては十分だろうとね」

 

 学長の言葉は紛れもなく、メアリーではなくイヴを対象としてのものだった。そうして本人を見て下された評価であるならば、それはもう他人がどうこう言える領分ではない。私自身、ここまで強く言われれば、ある程度の納得感もある。……ただ。

 

「……貴方の評価基準は分かりました。もうそれについて、文句をつけるつもりもありません。……でも、最後に一つだけ。どうかこれだけは言わせてください」

 

 そこで一区切りして息を入れ。そうして溜めた息の全てを、浮かんだ言葉と共に吐き捨てる。

 

「……地獄を見ますよ、彼女。この芸術の世界で"行儀が良い"とはどういうことか、すぐに知ることになる」

 

 そしてそんな私の捨て台詞を聞いても、学長はその瞳を揺るがせもせず、ただこう返すのである。 

 

「……地獄。地獄、ですか。地獄なら、彼女はもう見飽きてますよ。才能の隣に立ち続けるとは、そういうことです」

 

 

 




評価・推薦をねだるこの行為、
恥ずべきこととは分かっている。

しかしその一票の有る無しは、
日の目を見るかを左右する。

「この作品にしてくれ」とまでは言えぬから、
どうか貴方の記憶に残り続けている作品を、
思い出してやってはくれまいか。


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