文々。異聞録 ~Retrospective Holy Grail Wars. (悠里@)
しおりを挟む

01.交差する世界 《2月2日》

 

 

――人にて人ならず 鳥にて鳥ならず

――犬にて犬ならず 足手は人

――かしらは犬 左右に羽根はえ 飛び歩くもの

 

 

 

土蔵の滞留した空気が、一瞬で吹き抜ける突風へと変貌した。

 

「こんにちは、召喚主さん。……あら? 外の様子からして今はこんばんはですかね。まあ、どっちでもいいや。……ええと、私は射命丸文といいます。以後お見知りおきを」

 

そう明朗に言葉を紡ぐ少女は、仰臥し呆けていた俺に軽い調子で会釈をする。

 

「くッ――あ」

 

その時、左手の甲に焼き鏝を押し付けられたような痛みが走った。

未知の激痛に顔を歪ませたくなるも、そんな余裕もなく。

辛うじて俺にできるのは、酷く間の抜けた顔で少女を見上げるだけ。

 

視線の先には、一人の少女――。

そうとしか形容しようのない女の子が、前屈みになって俺の顔を覗き込んでいた。

魔術鍛錬の場として慣れ親しんだ土蔵に立つ――見知らぬ黒髪の少女。

それは俺の知る日常から大きく乖離した、異常と呼んで差し支えのない光景だった。

 

多少でも、この事態を伝えるとしたら『何の前触れもなく少女が現れた』と言うしかなくて。

そんなことは、俺の人生にあり得ていい話ではなく。

しかし、今日はそんな俺の知っている現実では、あり得ないことばかりが続いていた。

 

――ああ、今夜は本当に奇妙なことが続く日だ。

 

 

すべての発端は、学園の下校時刻まで遡る。

友人の間桐慎二に弓道場の清掃を頼まれて、それを快諾した時だろうか。

弓道部は、事情があって辞めてしまったが、元部員ということあって今も愛着のある道場だ。

そう思って俺は、気合を入れて部室の掃除をはじめた。

そんな甲斐あって、誰もが納得できる程度には綺麗に道場の掃除を終わらせたと思う。

 

掃除をはじめた放課後から、随分と時間が経ったのか。

道場の外は存外暗く、外灯の蛍光色だけが存在感を示している。冬木の町は、そんな深い闇のなかへ沈んでいた。

 

そして、さっさと帰宅しようと昇降口に向かったときだ。

……あれはおそらく、俺のような常人には触れてはいけない類のものだった。

 

学園の校庭という、あり触れた場所で。

数分前の日常を切り落としてしまったかのような。

神話の世界から顕れたとしか思えない戦いを繰り広げる、二人の存在がいた。

 

一人は剣を持ち、一人は槍を携えた男――。

身に纏った外装すらも、とても現代のものとは思えない。

奇妙な風体と言いたかったが、不思議とその姿には何も不自然さを感じさせなかった。

 

その二人の戦いを見た瞬間、ずるりと音を立て、俺の衛宮士郎の日常は大きく崩れていった。

 

彼らは人の眼に捉えられない速度で己の凶器を重ね合わせ、火花を散らす。

肌が粟立ち、俺は逃げ出すのも身を隠すのも忘れていた。ただ、その剣戟の極致に魅入ってしまう。

 

思えば、それがいけなかった。

ふとした拍子に物音を立ててしまい、槍を持つ青い外套の男に気づかれてしまう。

男はジロリと、こちらの俺のいる方角を睨んだ。

 

俺が出したのは、靴を地面に擦り合わせた程度の小さな音。

極限とも言える戦いの最中、男は周辺に対しても気を張り巡らせていたのだ。

 

「――――!!」

 

目は合わせられない。合わせてはいけない。

アイツと目を合わせた瞬間に、俺の足は恐怖によって固まってしまう。

俺という目撃者に気付いて、二人は戦いの手を中断させた。

熱波とも形容できる戦闘の空気は消え去り、空間は一転して夜の静謐なものへと戻る。

 

直後、槍の男の持つ圧倒的な殺意が俺の方へと向けられた。

戦いを中断した目的。

それは戦いの目撃者……俺という存在を消すためだと、否が応でも理解してしまった。

 

 

それからは、恥も外聞もなかった。

脇目も振らずに全速力で逃げだした。ひたすらに、ただ無心に走って、走った。

姿は見えずとも、背後から感じる男の獣めいた存在感からは逃げられない。

 

あっという間に追い詰められた俺は、校舎のなかで男に襲われてしまう。

些細な抵抗もむなしく、男の持つ2メートルはあろうかという真紅の槍によって。

俺は、あっけなく胸を貫かれた――。

 

そうだ。俺はあの時、間違いなく男の手で殺されたはず。

 

……だけど、二度と開かれるはずのない瞼を開け、俺は意識を取り戻す。

 

朱槍の一突きによって、作られたはずの胸の孔が消えていた。

だが、口のなかには鉄の嫌な味が広がり、制服には大きな穴が開いて血に染められている。

それが、あの悪夢が現実のものであると教えてくれた。

 

俺は茫洋とした意識のなかで、血に濡れた廊下をモップで拭き取ると、何もかも曖昧なまま帰路につく。

 

 

――しかし、帰宅した直後、悪夢が再来する。

俺を殺した男が再び姿を現した。殺したはずの俺をもう一度、そして確実に殺すために。

 

男の辣腕から振るわれる槍を、出来損ないの強化の魔術で辛うじて凌ぐ。

強化の魔術が、俺の持つ唯一のカードだった。

だが、たった一枚のカードでは、かろうじて延命するのが精々。

絶望的な実力差に、戦いは大人と子供、いや、それ以下のレベルでしかなかった。

誰にでもわかる見え透いた手加減を、青い外套の男はしていた。

 

男は俺が晒す醜態に、どこか自嘲めいた笑みを浮かべていた。

あからさまな手加減を受けても尚、今まで耐えられたのは奇跡としか言いようがない。

魔術で強化されて鋼鉄のようになっているが、丸めたポスターなんかではどうしようもなかった。

 

かわりに武器になるものはないかと庭に転がって、必死で土蔵に踏み込んだ時――。

ぼんやりとした月明かりに照らされていた土蔵が、強い風と目映く光に包まれていった。

 

 

 

 

そして現在、俺の目の前には『射命丸文』と名乗る少女がいる。

 

年齢は俺と同年代……いや、二つか三つは幼く見えた。

肩まで伸びた烏黒のショートカット、好奇心に満ちた忙しなく動く赤い瞳。

顔立ちはまだ幼いと言えたが、息を呑むほどに端麗で理知的だった。

 

少女の服装は、清潔感のある袖の長い白のブラウスに、襟には黒いリボン、腰には細いベルトで飾られていた。

リボンと同色の黒いスカートは縁をフリルであしらわれており、高級感を演出する。

まあなんてことのない。そこまでは、一般的な服装と言えた。

 

だが異様だったのは、頭には修道者が付ける頭襟という多角形の被り物を頭に付けていて。

それにとてもバランスが取れそうもない、長い一本歯の赤い靴を履いていたことだろう。

 

そんなちぐはぐな出で立ちをした少女は、興味深げに薄暗い土蔵の周囲を見渡した。

俺と目が合うと、人好きのする笑みを作ってみせた。

 

「ふむ、ふむ……ここは室内ですね。えっと、あなたの家ですか?」

「……あ、いや。ああ、そうだけど」

 

少女の声は、何の緊張も感じさせないものだった。

一方で俺は、突然の少女との遭遇で呆気に取られてしまい、随分と間抜けな返事をしてしまう。

彼女の言うとおり、ここが俺の家の一部であることには間違いない。

だけど、ここはガラクタだらけの土蔵であり、少女には誤解を招く返事をしてしまったかもしれない。

 

「いろいろと見慣れないものがあります。外の人間はこんな暗くて、ゴチャゴチャしたところに住むんでしょうか。……いやはや、とても興味深いですね!!」

 

自分だけではなく、俺にも言い聞かせるように矢継ぎ早に言葉を紡いでいく。

そんな少女の様子に、張り詰めていた空気が僅かに弛緩したように感じた。

 

 

しかし俺の背後からは、今もまだ槍の男が放つ獣めいた重圧を感じている。

少女もそれを感じ取ったのか、俺の肩越しに土蔵の外を覗いていた。

 

「あや? 外にもどなたかいますね……」

 

不自然な一本歯の靴で、少女は自然に歩き出す。

まるで自らの足の一部であるかのように身のこなしだった。

 

……いや、ちょっと待て。

一体、彼女はどこに行こうとしているんだ?

 

この少女は、俺が外にいる男に襲われていたなんて知らないはず。

目撃者としての俺を始末しようとしているのなら、俺だけではなく彼女も当然危険に晒される。

 

だったら、彼女を今すぐに止めなければならない!

 

しかしこの状況をどう説明していいのか、頭の中はぐちゃぐちゃで、うまく言葉が纏まらない。

そう躊躇しているうちに、彼女は足早に土蔵の外へと出て行ってしまった。

 

……くそ! 馬鹿か俺は! こんな時に何をやってるんだ!

 

「おい!! 今すぐ戻ってくるんだ!!」

 

必死に投げた言葉は、既に届いてはいなかった。

俺は慌てて立ち上がると、土蔵の外に行ってしまった少女の後を追う。

 

 

少女は既に青い外套の男と対峙していた。

長槍を肩に担いだ男は、上から下へと少女の姿を舐めるような目で観察する。

その男の様子は、待ち焦がれていた恋人と逢瀬が果たせて、酩酊しているように見えた。

 

「ハ、そうだ。そうこなきゃならねぇ。目撃者のガキを殺すなんて気の進まねぇことから一転して、まさかのまさかだ! こんなところでサーヴァントと戦えるとはな。ククク、様子がおかしいと待った甲斐があったぜ。……で、おい。てめえのクラスは何だ?」

 

男の不可解な問いかけに、少女は訝しげな表情を返す。

 

「サーヴァント? クラス? ……はてさて、何のことでしょうか? それよりも私は、あなたがやる気満々なのが気になるところですけど」

 

唇に指を当てて、どこかとぼけたような仕草を取ると、少女は男との間合いを無防備に詰めた。

 

「あ、私、射命丸文と言います。実は、ブン屋なんてものをやってまして……。『文々。新聞』という新聞を不定期発行してます。個人で弱小なんですけどね。……これ名刺になります。よろしければどーぞ」

 

そう言って、彼女は胸のポケットから名刺を取り出すと、目の前にいる男に差し出した。

男は、差し出された名刺に一瞥をするだけで、受け取ろうとしない。

今まで上機嫌だった表情から豹変して、担いだ槍を横一文字に切ると臨戦態勢を取った。

滾った眼光からは明確な怒気を孕んでおり、目にも見えそうなプレッシャーを押し出す。

 

「得物を出せ。構えろ」

「あややや。お気に召しませんでしたか」

 

少女は、男の挑発的な態度にさして気にした様子を見せない。

名刺を胸のポケットに仕舞うと軽々とした身のこなしで、男との間合いを広げる。

 

「いきなりで何が何やらですが……まぁそうですね。弾幕ごっこなら望むところです――!!」

 

少女が男の重圧に呼応し、それで俺は理解をした。この少女もまた男と同様にまともな存在じゃない。

直接対峙していない俺にも伝わる、肌を針で刺すような存在感。

 

それに彼女の放つソレは、男のものとは本質的、根源的に違うものだった。

男の放つ重圧は、ヒトの限界を遥か高く超えたものではあったが、それはヒトが持ちうるものだ。

だけど、この少女は男の放つプレッシャーとは根幹から違っていた。

 

人間味と呼べるような、そんな生易しさが存在していなかった。

 

……これは、ヒトとしての本能なのだろうか。

そんな俺の本能が、こんな小柄な少女に対して『逃げろ逃げろ。――われてしまうぞ』と警鐘を鳴らしていた。

青い外套の男以上の、いや、理屈や理解とは別の――種としての本能が警告していた。

少し前までは、場違いだと勝手に思い込んでいた少女。

彼女は、あの男と同種であり、ある意味で別種の存在だった。

ただの人間でしかない衛宮士郎こそが、この場で最も相応しくない存在だった。

 

 

突然、どこからか強い風が吹いた。

その風が彼女の周囲を取り巻いて、シャリシャリと大きな風切り音を鳴らす。

 

「はっ、随分と心地のいい風だ。さっきまでとんだハズレだと思っていたが、とんでもねぇ。心の底から訂正するぜ。こうして相対するだけで外見からは想像できねえプレッシャーが伝わってくる」

 

男の眼が一段と鋭くなり、朱槍を構え直した。

 

「いえいえ、あなたほどの重圧を出せる人間もそういませんよ。鋭い殺気であるにも関わらずドロドロしたものがなく、透き通るような心地の良さです」

「……ま、戦争ってものは国同士のいざこざから始まるものだ。だがな、国の駒に過ぎねぇ戦士はそんな確執とは無縁に戦いを純粋に楽しみたいものでね」

「おお、それはすばらしい信念です。……やはりあなたのお名前をお聞きしてもいいですか? 繰り返しになりますが、私は射命丸文と言います。私が尋ねているのは格式とか、しきたりとか、そんなややこしい作法からではありません。弾幕ごっこ――いいえ、喧嘩とはそういうものでしょう?……もっとも、あなたなら言わずともわかると思いますけど」

 

男は少女とそんな言葉を交わすと、何か考える素振りを見せた。

そして迷いを感じた表情は一瞬で消え去り、真紅に染まる長槍の矛先を少女の顔に向ける。

 

「我がクラスはランサー。そして、貴様を殺す男の名はクーフーリンだ! ――来やがれ、射命丸!」

 

クーフーリンだって……?

その名前は、クランの猛犬と呼ばれたケルト神話における最大の英雄の名前だ。

まさか……あり得ない話だが、あいつがクーフーリン本人ならば、あの槍の名前はゲイボルグになる。

……あの朱槍を構成する理念と神秘は本物であり、決して贋作などではない。

海獣の骨で作られたという、ゲイボルグそのものとしか思えなかった。

 

だったら、あいつは、あの男は本当に――。

クーフーリンという、にわかには信じ難い名乗りに少女も驚きを隠せないでいた。

 

「……クーフーリンさんですか。いつかどこかで聞いた名前です。外界とは隔絶された幻想郷にも届くほどのビッグネームの方でしたか。ふむふむ」

 

そう呟くと、少女は後ろを振り向いて、すぐ後ろにいる俺と視線が合った。

夜にも関わらず赤く妖しい光を灯す瞳に、びくりと身構えそうになる。

 

それでいて、どこか悪戯っ子のように細められた瞳が『さあ、いきますよ』と言っていた。

そんな口許には、屈託のない笑み。童女のようなあどけなさに、俺の胸が微かな高鳴りを感じた。

 

 

 

 

それは……ほんの一瞬の、ほんの僅かな動揺だったはず。

 

次に気づいた時、俺は――深山町の夜景を眺めていた。

二月の寒気が露出した肌に突き刺さり、濁流の風音が内耳に響く。

 

俺はいま明らかに空を飛んでいる。

ここは上空何メートルだろうか? 少なくとも、百メートル以上あるのは間違いなかった。

 

ついさっきまで俺は、土蔵の入り口の付近に立っていたはず。

それが何故か瞬きにも満たない、コマ落ちの一瞬で、その遥か上空にいる。

 

これは……何かの悪い夢ではないのか?

そう思いたかったが、頬をつねるまでもなく、肌を刺す冷たい外気が紛れもない現実だと告げていた。

 

この理不尽な状況に、答えをくれる者はいないか。

そう思って、首をあちこちに傾けると……密着とも呼べる距離に黒髪の少女。

……どうやら俺は、射命丸文と名乗る少女に抱きかかえられているようだった。

 

「……!」

 

彼女の背中には、さっきまで存在しなかった黒染めの翼が生えていた。

まさに烏のような黒い両翼が、夜の帳の落ちた冬木の空に溶けだしている。

 

「召喚主さん。どういう理由か定かではありませんが、あの人に襲われていたみたいですね。でしたら、ここは私が一肌脱いで――なんとか撒いてみせましょう!」

「へ?」

「……おー、怒ってます、怒ってますよ。何をそんなにムキになっているのでしょうかね」

 

少女は俺の家の辺りを見下ろして、ケラケラと笑う。

やはり童女のような笑みだったが、それは悪戯に成功して浮かる悪質なものだった。

 

俺も視力を魔術で水増しして、目眩のする高さから衛宮家の庭を覗き見る。

そこには、土くれの地面をえぐり取る勢いで地団駄を踏み、俺たちを指さして何かを叫ぶ男の姿があった。

……その激高した貌は、今にも手に持った朱槍をこちらに向かって投げかねないほどだ。

 

「では、これからよろしくお願いしますね、召喚主さん。あ、名刺いりますか? 記念すべきこの日のために作ったんですけど……」

「名刺って……」

 

異常事態の連続に『今はそんな場合じゃないだろう』と言う気にもなれず、逡巡してしまう。

 

「あやや。両手塞がって名刺が出せませんね」

 

そうして残念そうに項垂れる。彼女の両腕は、俺を抱えるために使えなかった。

 

と、ここでいま、俺がどんな体勢で少女に抱えられているか、簡潔に説明したい。

確か、この格好は俗にいう『お姫様だっこ』と呼ばれるものだったと記憶している。

 

「ふむ……ちょっとだけ、手を離してもいいですか?」

 

少し申し訳なさそうに嘯く。

 

「なんでさ」

 

 




良ければ、感想お待ちしています。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

02.お互いに現状を整理しよう

 

 

青い外套の男を撒くことに成功した俺たちは、商店街の一角にある公園へと降り立った。

 

クーフーリンを名乗る男はすでに諦めてくれたのか、もうこの付近にはいないようだった。

公園のあるマウント深山商店街は、俺も昔から利用しており、知り合いも多い場所だ。

もっとも、いまは夜が色濃くなり、冷たく静かで、公園には誰一人としていない。

 

 

……クーフーリンとの逃走劇は、思い出したくないものだった。

 

冬木の夜空に連れ去られた俺は、少女に抱えられてあちこちを飛び回っていた。

その常軌を逸した速度と加速度と恐怖心により、早々に俺の意識を刈り取られてしまった。

意識は失っていたが、俺の体にはジェットコースターなんてお遊戯に感じるほどの恐怖が刻まれていた。

 

そしてその超速度に、これまた尋常じゃない脚力で追いついてくる外套の男。

闇夜を超高速飛行する少女に、姿勢の良いフォームで猛追するなんて、普通じゃない。

だがそんななかにあっても、少女は焦る素振りも見せずに、ただただ面白そうに男を見下ろしていた。

その時の含みのある笑顔は、意識を失いかけていた俺の脳裏に深く植え付けられた。

 

それにしてもだ――。

意識を彼方に預けた男子生徒をお姫様だっこで、宵闇の空を颯爽と飛ぶ少女。

それを猛スピードで追いかけるタイツのように見える青い外套を着た男。

俺には命懸けの逃走劇だったが、傍から見れば、恐怖以上にとてもシュールな光景だっただろう。

 

俺の冬木における名誉のためにも、目撃者が居ないのを切に祈らざるを得ない。

ただ、並の動体視力では影すら追えない速度だったと思うけど。

 

 

しかし彼女はあの途轍もない重力加速度に平然としていたが、疲れていないのか?

 

「はー、見るものすべてが新鮮! 新鮮でしかありませんね!」

 

少女は、物珍しそうに公園を観察していた。

うん……まあ、なんでもないんだろう。

 

今は、俺と公園のベンチに並んで腰を下ろす。

こうやって、同じ高さに座ってみると、少女の体型の華奢さに改めて驚かされる。

この小さな体のどこに中肉中背の男子学生を軽く抱える力と、常識外れたスピードが出せるのかが不思議でならない。

 

外見だけでは想像できない――いや物理法則からは、完全に逸脱した存在なのだろう。

 

 

少女を注視していると、背中の翼が消えていることに気づく。

夜の暗がりに紛れたかと思って、視線を回り込ませ背中を見てみたがやはり翼は見あたらない。

……あれ? さっきまで鴉のような黒い翼が生えていたと思ったんだけど。

 

「……はて? どうかしましたか? もしかして私の背中にゴミでも付いています?」

 

いや、そうじゃなくて、むしろ付いているはずのものが付いてないから見てたのだけど。

だけど、これ以上は女性の体をじろじろと観察するのも失礼なので「何でもない」と伝える。

 

「ふふふ。それにしてもです。召喚された直後にあんな馬鹿げた鬼ごっこをするなんて、思いませんでしたね」

 

やはりというか、少女は丁寧な言葉使いだった。

その淀みなさからして、普段から使い慣れているようにも思える。

もしかしたらだが、上下関係の厳しい縦社会で彼女は育ったのかもしれない。

 

だが物腰や口調が丁寧であっても、同時に剛胆な性格であるのもうかがえる。

命のやりとりの一歩手前までいったのに、こうしていまは何でもないようにしているのだ。

そも、あの命がけの逃走劇を『鬼ごっこ』の一言で片付けるのは、なんの冗談だろうか。

 

「しかし、なんと言いましょうか。まさかまさかのまさかですよ! クーフーリンという有名人に会えるなんて思いもしませんでした! どうしてかわかりませんが、非常に好戦的だったので思わず逃げてしまいましたが。……あー、できればインタビューがしたかったですね。うーん、そこだけは、少しもったいなかったわ」

 

赤い目を輝かせて、どこからともなく赤い和風手帳と万年筆を取り出した。

くるくると万年筆を回してから、手帳に何かを書き始める。

よく使い込まれた少し古めかしい手帳だった。万年筆のほうも相当の年代ものだ。

 

「……あ、すみません。職業柄ネタになりそうなことがあれば、書き留める癖がありまして」

 

少しだけすまなさそうに笑って見せるが、目線は手帳から外さないし、筆を走らせる手も止めようとしない。

思い返してみれば、男に対して新聞記者だと名乗っていたな。もしかしなくてもそのことだろうか?

 

「……ああ。色々あって混乱しているけど、おまえの名前は『射命丸文』でいいんだよな」

 

その問いに少女は声に出さずに、コクリと首肯する。

 

「俺は、衛宮士郎。さっきの家の家主だ。……それで、あのクーフーリンにしても、お前にしても……何が起きているのかさっぱりわからない。なんでもいいんだ。教えてくれないか?」

 

区切りの良いところまで書いたのか、少女は手帳をぱたんと音を立てて閉じると、形のよい顎に万年筆を当てた。

 

「ふむ。では、そうですね、士郎さん。まず、私のことは『文』とお呼びください」

「『文(あや)』か。わかった」

 

シンプルだが、響きも良く、とてもいい名前だと思う。

 

「しかし、困りましたね。私の疑問は士郎さんの疑問でもありましたか。それは想定外でした。この私にわかるのは……私は私の意志によって、あなたに召喚されたことだけです。申し訳ないですが、それ以外は何もわかりません」

 

唯一の頼みの綱だった少女も、この事態を全く把握していないようだった。

だけど、この窮地と呼んで差支えのない状況に、少女は悲観をしたり混乱している様子もない。

 

……ん? 待てよ?

いま聞き捨てならないことを言わなかったか? 『あなたに召喚されたこと』だって?

 

「……ちょっと待ってくれ。俺は文を召喚なんかしていないぞ」

 

召喚という高度な魔術は、俺みたいな未熟な魔術使いでは、やり方どころか仕組みすらわからない。

知識として、そういうものがあるのを知っている程度だ。

 

「はい?」

 

その言葉に何か思うことがあったのか、間の抜けた返事とともに目を丸くして驚く。

 

「ついでに言うと、俺はあの男に襲われて、武器を探すために土蔵に入っただけだ」

「え? え? ほんとですか?」

 

少女は腕を組み、考えを巡らせるような仕草を取った。

一連の出来事がどういうことなのか、自分なりに考えているのだろうか。

 

「でも……いえ……。士郎さんが私を召喚したのは間違いないと思いますよ? その左手の模様から微弱ながらも私と魔力的な繋がりを感じますし」

 

……左手?

指摘通りに、左手を見てみると、手の甲の部分に赤く光る紋様がはっきりと刻まれていた。

 

「うわ、なんだこれ」

「……はて? なんでしょうかね?」

 

二人そろって、はてなと首を傾ける。

確か……今朝までは、みみず腫れのように赤くなっていた場所だ。

思い出してみれば、文が現れたときに熱のような痛みが走った。

文の言った『魔力の繋がり』というのはわからなかったが、手の甲の紋様からは確かに魔力を感じる。

 

「それ以外にも、召喚に使われたと思われる魔法陣が私の足下に浮かんでいました。なので、私を召喚したのは士郎さんで間違いないでしょう」

 

少女は軽く息を吸ってから、一拍を置く。

 

「ここからは私の考察です。ただ私は、一介のブン屋でしかありません。話半分にして、鵜呑みにはしないでください」

「わかった。文の意見を聞かせてほしい」

「……まず、士郎さんはクーフーリンという大きな脅威に襲われました。そして必死に逃げようと、土蔵に駆け込み生き残る術を探した。そこまでは合ってます?」

「うん。間違いない」

 

こうして五体満足で生き延びているのは、本当に奇跡だと思う。

 

「その時の感情の高ぶりが、魔法陣の起動のキーになったと考えるのはどうでしょうか?」

「感情の高ぶり? そんなものが文を召喚までの力を持つものなのか?」

「ごもっとも。ですが、この地は召喚の詠唱が必要としない程に龍脈が――まあ土台ができています。まあ、私もこの手のジャンルは門外漢で、なんとも言えませんけど。……もしかしたら、紫もやしの所為かしら」

 

この口ぶりから察するに文は、ある程度の知識はあっても魔術に明るいわけではないようだ。

…………てか、『紫もやし』ってなんだ?

 

「……あ、そういえば、あの場所は住まいにしては変わっているなーとは思いましたが土蔵でしたか。それはそれは失礼をしました」

 

考察に加えて、最後に微笑ましい勘違いを謝罪すると、少し恥ずかしいのか万年筆で頭を掻く。

そういえば、彼女が現れたときに土蔵を俺の家だと変な思い違いをしていたな。

 

文の言うとおり、俺は男に襲われたとき『こんなところで死んでたまるか』と強く思ったのは確かだ。

そして何とかして生き延びようと土蔵に転がり込んだ瞬間、強い風と大きな光に包まれた。

それが結果としてこの少女を召喚することになるなんて誰が思うのだろうか。

だけど、そのお陰で俺はあの男に殺されずに、こうして怪我一つなく生き延びられた。

 

「じゃあ偶然とはいえ、本当に運が良かったんだな……」

 

そんな俺に少女は、ふふんと鼻を鳴らす。

 

「いえいえ、我々のこの出会いを運や偶然で片付けるのはあまりにも勿体ない。勿体ないです!」

「そ、そうか?」

「ええ、そうですとも! ですので、これは起こるべくして起きた必然と考えましょう。どこかの吸血鬼の言葉を借りるなら、そう、まさに運命です! 今日のこの出会いを『運命の夜』とでも呼びましょうか! ふふ、俗っぽくて少し恥ずかしい言葉ですけど!」

 

彼女は、少し興奮しているかもしれない。

だけど、そうやって大げさな口調で大げさに言葉を飾っているにしては、どこか冷静にも見えた。

悪い見方だが、俺に合わせるように、あえておどけて見せているような。

まあ……敵意はないようだし、なんだかよくわからないやつなのは間違いないな。

 

もっとも、こんな場合に彼女の歯の浮く言葉にどう返せば良いのか、俺はそれすらも決めあぐねいていた。

 

 

「ずっと気になっていましたが、その服の染みは血ですよね。あなた自身の血液に見えますけど、それにしては外傷が見あたりません。ひょっとして、治癒の『魔法』でも使われましたか?」

 

俺の着ている穂群原学園の制服を改めて見てみる。

薄茶色の制服は俺の血に染まっており、時間経過によってすでに凝固していた。

血液以外にも制服には、あの男に突かれた大穴が開いているので、どうにか直すのは無理だろう。

 

それと、文の言う『魔法』という言葉には未熟ながらも引っかかりを覚える。

だが、素人の俺なんかが訂正を求めると逆に恥を掻きそうなので、今は気にしないでおこう。

 

俺の知る『魔法』とは、現代技術によって到達の叶わない奇跡であり。

逆に『魔術』とは、時間と資金さえあれば再現可能なものを指す。

つまり、治療を目的とした『治癒』は『魔術』であり『魔法』には該当しない……はずだ。

 

「いや、俺は治癒なんて使えない。俺が使えるのは強化魔術だけだ。……それもかなり成功率が低いけどな。学園で男に槍で胸を貫かれたはずだけど、気がついたら塞がっていたんだ」

 

刺された後は意識を完全に失っており、何も思い出せない。

……なんとなく、ポケットに入れてある赤い宝石のペンダントを握る。

確か、俺が刺された場所に落ちていたんだっけな。

それならば、この宝石の持ち主が俺の命を助けてくれたんだろうか?

 

 

それと、いい機会だったので、これまでの経緯を文に説明した。

 

あの槍の男が、学園の校庭で何者かと戦っていたこと。

男に気づかれた俺は、朱槍で胸を貫かれて死の淵にいたが、気がつくと治っていたこと。

そして、家に戻ると再び男に襲撃受けて。直後、文と出会って、助けられたこと。

 

こうして順序立ててみると、この数時間で俺の価値観がひっくり返る経験を何度もしていた。

 

「ふむふむ、そんなことがあったんですか。しかしそうなってくるとやはり疑問は尽きませんね」

 

今の提示された情報を整理して、再び考えを巡らせているようだ。

改めて、この少女の聡明さに感心させられる。

 

少して何か考えが纏まったらしく、自身の考えを話し出す。

 

「これもまた強引な解釈ですから、適当に聞いてくださいね」

「わかった」

「……私もそうだったようにクーフーリンも召喚された存在なのではないでしょうか? まず根拠として、彼の身体はエーテル体によって編まれており、生身の肉体ではありませんでした」

「……なんだって? 肉体じゃない?」

「はい。私の知り合いにも似たような人が何人かいますので、これについては間違いないでしょう。ただ英雄の降霊なんて大それたことは、ただの人間なんかにできるはずがありません。ですが、この地は土台となる龍脈だけではなく、それを可能とする特別な力があると思われます」

 

――特別な力。

俺が文を召喚ができたのと同じように、クーフーリンもまたその特別な力によって何者かに喚ばれたのか。

確かに文やクーフーリンのような強大な力を持つ者が、冬木に偶然集まったと考えるよりずっと自然な考えだ。

 

「その、特別な力というのはなんだろう?」

「すみません。それは、私にも分かりかねます。ですが」

 

少女は、何か想いを馳せるかのように一度目を閉じた。

 

「ですが、私はその力のおかげで、いまこの地に立っている――」

 

ベンチから飛び降りると軽く踊るかのように、高下駄を使って、くるりと一回転した。

好奇心に輝く赤い瞳には、俺には有り触れた世界をどう映しているのか。

 

それと、一つだけ、わかったことがあった。

彼女は何かしらの目的があり、俺の召喚に応じてくれたのだろう。

少女は、座っている俺の前に立ち、俺はそれを自然と見上げる形になる。

 

こうして、月の光を背にした黒髪の少女は、幻想的なまでに美しかった。

 

「ごめんなさい。私にわかるのはここまでですね」

 

口では謝っていたが、顔に翳りなど一欠片もなく。

そこにあるのは、好奇心にだけ満ちた怜悧で秀麗な相貌。

 

「では早速ですが、士郎さん。今度はあなたの口から、あなたの世界のことを聞かせてくれませんか――?」

 

 

 

 

彼女が何かを質問し、俺がそれに答える。

質問の内容は様々で、この国の政治宗教から、極めて日常的の小さな事柄も訊いてくる。

今更だったが、彼女はこの世界の住人ではないらしい。

俺にとっては、何でもないことでも、彼女は感心しながらもメモを取っている。

ちょっとした疑問があれば、疑問の要点を的確に突いてきた。

彼女は話し上手の聞き上手であり、大してしゃべり好きでもない俺も少し楽しく感じる。

公園にあるブランコ、滑り台、シーソーといった遊具なんてことも、興味津々に訊いてきた。

 

その瞳に映る全ての世界が、彼女に取って新鮮なものなのだろう。

そうして、夜は更けていった。

 

「……ところで文って一体何者なんだ? あの男みたいにどこかの英雄なのか?」

 

ちょっとした質疑応答の区切りがついたあと、ずっと疑問だったことを文に尋ねてみる。

 

「いえいえ、私はそんな大層なものではなく、ただの新聞記者に過ぎません。もっとも、私はあなたのような人間ではなく、天狗のブン屋ですが」

 

隠す情報でもなかったようで、手帳に目を置いたまま平然と告げた。

 

「……天狗だって?」

 

天狗というと、太郎坊や鞍馬天狗に代表される日本ではポピュラーな妖怪だ。

彼女の翼を見た時から人外の存在であるのは何となく想像していたが、まさか天狗だったとは。

一般的に天狗とは赤ら顔で長い鼻を持ち、山伏の格好をしていると言い伝えられている。

文のような女の子が天狗だったとすると、自分の知るイメージと酷く剥離している。

言われてみれば、既に違和感がなくなった頭の頭襟と、高下駄に似た靴は天狗の名残だろう。

 

「ええ、そうですとも」

 

そう言って、文は今まで隠していた黒塗り翼を大きく広げて見せてくれた。

やはり、あの翼は俺の見間違いではなかったようだ。

改めて見ると、その漆黒の翼は美しさと同時に、日本人の血に根付く妖怪に対する畏敬を感じさせた。

 

……そして、黒い翼の生えた天狗と言えば一つしか思いつかない。

 

「もしかして、文は鴉天狗なのか?」

「はい、その通りです。ふふ、こうして外の人間に知られているのは、なんといいますか、多少なりとも嬉しいものですね」

 

照れくささと誇らしさが両立させた表情を見せる。

自己顕示欲というのは人間であれば大小あるだろうが、誰もが持つ感情だ。

それは、彼女のようなヒトという大きな枠組みから外れた妖怪でも例外ではないのかもしれない。

 

公園に設置された時計を見ると、どうやら文と二時間近く話していた。

ほかにもいろいろと確認したかったが、それはまた別の機会にしよう。

 

「じゃあそろそろ帰ろうか。あの男ももう諦めただろうし。……一応に確認するけど、文もうちに泊まるよな? どうやら召喚したのは俺みたいだしさ」

「あ、いいんですかー。実は、今夜のねぐらをどうしようかと思っていたので、それは助かりますね」

 

俺の提案に文は破顔してくれた。

彼女は常に笑みを口許に浮かべているが、それとは少し違う顔に少しだけ見惚れてしまった。

遅れてやってきた思春期のような醜態に気恥ずかしくなり、目を逸らしてしまう。

 

「それじゃ、帰ろうか。文の恰好は目立つけど、この時間帯なら大丈夫だと思う。……どちらかというと血まみれな俺の方が問題だろうし」

 

魔術に携わるものとして、神秘は秘匿するもの。

文の翼はどうなっているのかわからないが、いまは隠しているようで、なだらかな背中があるだけだ。

頭襟と下駄は目立つが、仮に目撃されたとしても奇抜なファッション程度で済むだろう。多分。

だけど、俺のこの血まみれの姿を目撃されたら、それこそ警察沙汰になりかねない。

 

「そうですね。では、目立たないように、飛んで帰りましょうか?」

 

そんな恐ろしい提案を少女は当然の口調で言ってのける。

あの男との逃走劇は俺のなかでトラウマになりつつあった。

 

「……いや、それだけは勘弁してくれ。この時間帯なら人通りも少ないし、俺の血も暗くて目立たないと思うから歩いて帰ろう」

 

強烈な重力加速度によって意識を失った恐怖もあるが、それ以上に一人の男子として女の子にお姫様抱っこはされたくない。

言うなれば、ちっぽけなプライドだった。

 

「あはは。そうですね。では、そうしましょう」

 

俺と文は、長時間お世話になったベンチから立ち上がった。

疲労と貧血で立ち眩みを起こしかけたが、自分から歩くと言った手前だ。

腹に力を込めて踏ん張ってみせる。

 

しかし、今日は本当に疲れた……。

 

そんな俺と違って、文の足取りは軽かった。

疲れを感じさせないどころか、機嫌が良いのか、聞きなれない鼻歌も歌っている。

そのへんてこな一本下駄の靴でも平然と歩いているし、ものすごいバランス感覚と体幹だ。

 

とりあえず、家に帰ったら文の部屋を用意して、風呂に入ろう。

そのあとは、疲労はあるが日課の魔術訓練かな。

魔術の訓練は、衛宮士郎にとって習慣であり、やらないと眠れない程度には日常の一部になっている。

 

……いや、待てよ、衛宮士郎。

当然の親切のつもりだったが、俺はしばらくの間、隣を歩くこの少女と一緒に暮らすのか?

それはつまり、世間で言うところの……ドーキョ、もしくはドーセイというやつじゃないのか……?

さっきは何気なしにだったが、俺はさらりととんでもないことを口走った気がする。

 

さっきは咄嗟に出た言葉であり、そこまでの考えは回ってなかった。

自身をカラス天狗だという彼女は、おそらくは見た目通りの年齢じゃなさそうだ。

だけど、外見上はどう見ても10代半ばぐらいの少女。

それに、眉目秀麗で、ゾッとするぐらいに可愛い女の子である。

 

……ちらりと横目で文の顔を見る。

鼻歌は止めていたが、そういった男女のあれこれを気にした様子はないようだった。

うんまぁ、今後を考えると何かと問題がありそうだけど、それは明日の朝にでも考えようか。

 

だが、俺のそんな心配は他所に、文の言った『運命の夜』はまだ終わってはいなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

03.聖杯戦争

 

 

「――おかえり、衛宮くん。その様子だと大丈夫そうね」

 

ボロボロの身体を引きずりながら、家に帰ると穂群原学園のアイドルである遠坂が居間でお茶を啜っていた。

 

彼女は普段見慣れた制服ではなく、赤を基調としたセーターと黒のスカートという私服姿だった。

我が家のロータイプの食卓には、茶箪笥の奥に隠していたはずの高級な茶筒が置かれており、それで淹れたお茶を我が物顔で飲んでいる。

……藤ねえでも見つけられなかった一品なのに「よくも見つけられたな」と混乱した思考で感心してしまう。

 

なぜかクーフーリンに襲撃の際に割れたはずの窓ガラスもすべて元の状態に戻っていた。

ぐるりと見渡しても、荒れ果てた痕跡はなにも見当たらない。

いつもの俺の家だった。もっとも、ここに遠坂がいることを除けば、だが。

 

……実は、窓ガラスは元から割れておらず、一連の出来事はすべて夢ではないか。

そして、俺はまだ夢のなかにいるのかもしれない。

密かに憧れていた遠坂凛が、俺の家の居間で茶を楽しんでいるなんて不自然が過ぎる。

 

「どうしたの? 鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして。……ま、あんたの家だから別にどうでもいいけど」

 

本当にどうでもよさそうに呟くと食卓に湯飲みを置いて、一息つく。

 

「……そうね。いろいろと言いたいことはあるけど、まさか衛宮くんが魔術師だったとはね。土蔵にサーヴァント召喚の形跡があって驚かされたわ。あんたがランサーに襲われていると思って急いで来てみたら誰もいなかったし。それから2時間以上も待たされるなんて思わなかったわよ」

 

遠坂が変なことを言っている。

だけど、その言い方だとまるで遠坂自身も魔術師みたいじゃないか。

 

いまになって思い出してみれば、家に明かりが付いていたし、玄関には見覚えのない靴が一足あった。

その程度の違和感に気づけないほど、頭が回らなかった自分の間抜けさに辟易する。

 

……しかし、学園での遠坂とは違って砕けた話し方だ。

こっちが彼女の本性だとすると、俺の知っている遠坂は猫を被っていたのか?

 

「で、衛宮くんのサーヴァントはどこなの? 敵対する魔術師を前にずいぶんと余裕そうね」

 

遠坂の話している内容に理解が追いつかない。

どうも、俺がすべての事情を把握しているのを前提にしているようにも思える。

それに余裕があるのは俺ではなく、人の家で秘蔵の玉露を飲みながらくつろぐ遠坂だろう。

……怖そうだから、突っ込まないが。

 

――そんなとぼけたことを考えていると、軽快な足音が聞こえてきた。

 

「いやはや、もしやと思いましたが、やはり土蔵にありましたよ。私としたことが仕事道具を忘れてしまうなんて、職業意識が足りなかったのでしょうか」

 

『忘れ物を思い出しましたので、先に行ってください』

玄関先で、そう言い残して別れた天狗の少女が照れくさそうに姿を現す。

その肩には、彼女の忘れ物だと思われる旅行鞄を担いでいた。

 

下駄のような変な靴を脱いだせいか、彼女の身長は決して背の高くない俺よりも頭一つ分は小さい。

桜と同じか、それよりも小さいんじゃないだろうか。

ここまで小柄な体なのに、軽々と俺を抱き上げた事実に改めてショックを受ける。

 

「あ、士郎さんのご家族の方ですかね。初めまして、私、射命丸文と言います」

 

彼女の形の良い口から出たのは、大きな勘違いが含んだ挨拶だった。

 

「……いや、遠坂は家族じゃなくて、俺の通っている学園の同級生だ」

 

変に勘違いされたままだと遠坂にも悪いし、ここはちゃんと訂正すべきだろう。

そんな小さな勘違いよりも、重大な問題が山積している気もするけど。

 

「あれ、そうなんですか? それはそれは失礼しました」

 

突然現れた少女に遠坂は目を鋭くさせ、真贋を見定めようと睨みつける。

その視線に文は、何が何やらとへらへらとした態度で受け流した。

 

「……もしかして、その娘が衛宮君のサーヴァントなの?」

 

余裕の態度を崩さないが、遠坂は警戒心を剥き出しにする。

かたや天狗の少女は、場の空気が読めないのか読む気がないのか、はてと首をかしげるだけだった。

 

「でもこの感じ……エーテルじゃなさそう。そもそも、真名を隠さないサーヴァントなんて……」

 

誰に言うまでもなく、遠坂は独りごちる。

俺たちは、遠坂の話がまるで要領を得ていないため、会話が噛み合いそうにもない。

そもそもとして『サーヴァント』という言葉を何度も聞いているが、それが何なのかもわからない。

それでも、今はいちばんに知りたい疑問を遠坂に投げかけた。

 

「えっと、遠坂は、もしかして魔術師なのか?」

「は――?」

 

その疑問に遠坂は俺たちと同じか、もしくはそれ以上に困惑を露わにするが、無視して話を続ける。

これまでの状況を整理するに、遠坂がすべての答えを持っていそうだったからだ。

 

「俺は……いや、ここにいる文も、自分たちの置かれている事情をわかっていないんだ。いま冬木に何が起きているんだ? もしかしなくても、遠坂は何か知っているのか?」

 

なるべく真剣な表情を作り、詰め寄るように疑問を吐き出した。

隣で文が何かを納得したようにポンと手を叩いたが、頼むからいまは空気を読んだ発言であってほしい。

 

「『サーヴァント』という言葉を聞いたのは、あの全身青タイツ男と合わせて二回目です。状況から察するに『サーヴァント』とは『召喚された者』を指す言葉ではないでしょうか。だとしても『サーヴァント』は直訳すると『使用人』や『奴隷』と言う意味です。まあ、これは、随分な呼ばれ方ですね」

 

『サーヴァント=召喚された者』……そう仮定すると、確かに今までの出来事が幾つか繋がってくる。

 

そして、今の遠坂の顔は『絶句』という言葉しか思い浮かばないほど酷いものだった。

……俺たちは、そこまで変な質問をしてしまったのか?

遠坂は僅かに居住まいを崩すと、俺たちの腹を探るのに飽きたのか、大きく溜息を吐いた。

 

「はぁ……どうやら、本当に嘘を言っている様子じゃなさそうね。これでもし嘘だったら大した名優だわ。この調子だとあなたたちもしかして『聖杯戦争』すら知らないとか?」

 

俺と文は、お互いの顔を見合わせるが「うへへへ」と苦笑いをするだけだった。ちょっと照れくさい。

それを見た遠坂は緊張を完全に解いて、呆れるように眉間を抑えた。

 

「まさかとは思ったけど、本当に何も知らないようね。『セイバー』は召喚されたサーヴァントには、聖杯から知識が与えられると言ってたのに」

 

湯飲みに残ったお茶を飲み干すと、気を取り直すように居住まいを正した。

 

「まず、衛宮君の質問だけど、私は確かに魔術師よ。それと、冬木の土地を管理するセカンドオーナーをやっているわ。あんたも魔術師なんだから、同じ土地に住む同業者ぐらいは知っておきなさい。ズブの素人じゃあるまいし」

 

『俺は、強化の魔術しか使えない半人前なんだけどな』と言いかけたが、話の腰を折りそうなので黙っておく。

 

「ふむふむ、セカンドオーナー。つまり、この土地の地主みたいなものでしょうか」

 

文は旅行鞄を降ろして、遠坂の話を興味深げに手帳へ書き写しだした。

 

「とにかく、この冬木はいま聖杯戦争が起きているわ。魔術師と、その魔術師によって喚ばれたサーヴァントによる聖杯を賭けた戦い。それを私たち魔術師の間で聖杯戦争と呼んでいるの。そして、賭けるチップは自分の命」

 

遠坂は話を尚も続ける。それを要約するとこうだ。

冬木には、聖杯という人々のどんな願いを叶えられる願望機があるらしい。

聖杯は、冬木の地により数十年に一度のペースで顕現される。

その聖杯を得ようと、七人の魔術師と七騎のサーヴァントによって聖杯戦争が起きるという。

 

魔術師は聖杯の力を借り、七つのクラスに嵌められたサーヴァントと呼ばれる英霊を召喚し。

絶対命令権である令呪の力により己のサーヴァントを使役して、残りの一組になるまで殺し合いを続ける。

そして、残った魔術師とサーヴァントが聖杯を手に入れ、願いを叶えることができる――――。

 

「なんだよ、それ」

 

ふざけた話に頭がカッと熱くなり、固く握られていた拳に爪が食い込む。

――ふざけている。

自分本位の願いを叶えるためだけに、他人と命を奪い合うだって!?

俺たちは、そんなくだらないものに巻き込まれたというのか。

 

俺と遠坂は、食卓を挟む形で対面している。

隣に座る少女は、遠坂の話に驚きも見せずに、僅かな感心を示していた。

 

「なるほど。実に興味深い話でしたね。これまでの一連の出来事が一本の線として繋がりました。いろいろと疑問解決で今夜はぐっすりと眠れそうです」

 

ふむふむと何度も頷きながら、軽快なリズムで筆を走らせ手帳に遠坂の話を書き留める。

ここで文は何か気づいたのか、ピタリと筆を止めた。

 

「……しかし、しかしですよ。いまの話によると、私たちと凛さんは敵対した立場です。仮にですが、この場で私たちに襲われる可能性は考えなかったんですか?」

 

物騒な話だが、文の疑問はもっともだ。

サーヴァント召喚の痕跡を見つけた遠坂は、俺たちがここまで何も知らないとは思っていなかったらしい。

だったら遠坂凛からすれば、眼前の衛宮士郎は倒すべきマスターと考えるのが当然の思考なのだ。

敵陣であるはずの俺の家で、無防備に待ち構えるのはあまりにも不合理だった。

 

遠坂は文の疑問に一寸間を置いて、こう答えた。

 

「ええ、大丈夫よ。だって、『私たち』はそれもコミコミでここにいるのだから――」

 

その直後、俺のすぐ背面からガタンという物音――。

途端、家に張られていた防犯の結界が警報を鳴らす。

 

「士郎さん!!」

 

烏天狗の少女が、初めて声を荒げた。

その声が耳に届いたときにはもう、俺の首に『見えない何か』が当てられていた。

 

「――!!」

 

それは不可視の刃だった、目には見えないが、刃の鋭い感触が首筋から伝わってくる。

 

そして俺のすぐ後ろに誰かが、いる!

 

「動くな。お前の命は私が握っていると知りなさい」

 

文や遠坂とは違う少女の気丈ではっきりとした声。しかしそれは気高さとともに殺意を孕んだ声だった。

 

「そこの間抜けなサーヴァントも同様だ。少しでも妙な動きを取ると貴様のマスターの首が飛ぶことになるぞ」

 

背後から伝わるこの万人にも及ぶ存在感。

それを今まで隠蔽し、結界にも反応しないようどこかに身を潜めていたのか――?

 

「――凛、このまま切り捨てますか?」

 

カチャリ、と鍔の鳴る音。首筋の皮が少し切れて、鋭い痛みが走った。

 

「くっ……!」

 

少女の持つ不可視の刃の正体――それはおそらく剣だ。

それに、この不可視の剣には見覚えがある。

学園の校庭で、槍の男と対峙していた少女の剣に間違いない。

じゃあ俺の背後にいるのは、あの場所にいた金髪の少女なのか?

そして遠坂曰く、聖杯戦争においての最良のサーヴァント――。

 

「セイバー、なのか……?」

「そう、私は最良のサーヴァントであるセイバーを引き当てた。アサシンでもない限り、サーヴァント同士が接近すれば互い気配で分かるらしいけどね。あんたのサーヴァントは相当ポンコツなのか、それとも何か特殊な事情があるのかしら。こんな簡単な手段が通用するなんて」

 

遠坂はそれだけ言うと、敵意を僅かに崩してみせる。

 

「セイバー、もういいわ。剣を収めてちょうだい」

「ですが、リン。これは好機です。……無礼を承知で進言します。これを見逃すのは愚策でしょう。当初の予定通り、このままサーヴァントともども仕留めるべきです」

「衛宮くん程度が相手なら、いつでもやれるわ。たったいま聖杯戦争を知ったばかりのこいつらを殺るなんてフェアじゃないし。それに私は、聖杯戦争に参加するかどうかも衛宮くんの口から聞いていない」

「……はい、わかりました」

 

剣の少女は納得がいかないのか、渋々といった様子で俺の首に当てられた剣を収めてくれた。

 

そして一切の警戒を解かないまま、遠坂の側まで移動すると再び臨戦態勢を取る。

彼女は魔力で編まれた西洋甲冑を着込んでおり、俺が校庭で目撃した少女で間違いなさそうだ。

セイバーの持つ翡翠色の瞳は『妙なことはするな。いつでも貴様らを殺せるぞ』と強く語っていた。

 

「どう? これが聖杯戦争よ。格式の高い騎士や武士の戦いじゃないんだから、こんな手段で殺されても何も文句は言えないわ。それに魔術師というのは外道の名よ。これよりももっとえげつない方法を使ってくるでしょうね」

 

聖杯戦争において、この程度は序の口だと言っているのだろう。

つまり、遠坂は――。

 

「……ま、要するに降りるなら今のうちってことよ、衛宮くん。あなたはいますぐサーヴァントを手放して、聖杯戦争を棄権しなさい」

 

遠坂はそう俺たちに警告するも、その言葉は厳しさではなく、優しさも含んだものだった。

先程まで頭に上っていた血は、セイバーの強襲によりすっかり萎んでいた。

 

それでも、俺のなかでそれとは別の何かが湧き上がるのを感じた。

それは、一時の感情任せのような怒りではなく。

『正義の味方』を目指すという、絶対の使命感が心の奥で渦巻いていた。

 

 

 




みんな靴を脱いでましたが、セイバーだけ土足でした。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

04.天狗少女の野望

 

 

遠坂はそれ以上、なにも語らなかった。もう言うべきことは言い終えたのだ。

紺碧の感情の読み取れない眼差しだけが、俺の答えを待っていた。

 

彼女は、俺に聖杯戦争を降りろと言った。

この場で左手の令呪を放棄して文との契約を抹消し、今すぐ聖杯戦争を棄権しろ、と。

そうすれば、このふざけた命のやりとりから逃げ出せるのだと。

 

もし、遠坂が非情な魔術師だったら、あの場で俺は間違いなく殺されていた。

彼女は、セイバーの剣を収めただけでなく、俺に選択肢を与えてくれた。

 

……それは遠坂凛の持つ優しさだ。

変に誤魔化して、無下にしていいものではない。

 

だけど――。

 

「……遠坂、一つだけ確認しておきたいことがある。聖杯戦争は関係のない人を巻き込むようなものなのか?」

 

確認と訊いたが、これは半ば確信していた。

魔術師という存在の性質は、遠坂よりも前に切嗣から聞かされていた。

 

「ええ、魔術師が他者を顧みることはないわ。聖杯戦争に与しない一般人が巻き込まれることもあるでしょうね」

 

遠坂は、そんな残酷な事実を端的に述べた。

その時、遠坂の顔に僅かな怒りが見えたのは見間違いではないと思う。

 

それならば、俺の意志は固まった。

 

「なら遠坂。俺は――聖杯戦争に参加する。関係のない誰かが傷つくのなら一人で逃げ出すわけにはいかない」

 

遠坂が真意を測るように俺の目を見るが、決意は決して揺らがない。

たとえどんなに自分が危険にさらされようとも、無関係の誰かが泣くような事は絶対にあってはならない。

 

俺の本気が伝わったのか、遠坂が重たい息を吐く。

 

「どうやら本気のようね。じゃあ……その言葉は私への宣戦布告と受け取ってあげる。――おめでとう、衛宮くん。たった今から、私とあなたは殺し合う関係になったわ」

 

そんな言葉を皮肉混じりに吐き出した。

 

「いや、俺は遠坂とは争いたくない!」

 

それが聖杯戦争のルールだとしても。

知り合いの、それも学園の同級生と殺し合うなんてどう考えてもおかしい!

 

「何を言っているの? 聖杯戦争は騙し合い、殺し合う魔術師のバトルロイヤルよ。残りの一組になるまで聖杯戦争は決して終わらないわ」

 

遠坂は、苛立ちを隠そうともせずに立ち上がった。隣で待機していたセイバーも遠坂の後に続く。

 

「だけど! 俺は……!」

「衛宮くん、甘えも大概にしなさい。これで、私とあんたの立場はイーブン。次に会ったら気兼ねなく殺すわ。今夜のところは見逃してあげるけど、次に会ったときは覚悟しなさい」

 

遠坂に言葉は届かない。

俺が聖杯戦争に参加すると宣言した瞬間に、賽は投げられていたのだ。

 

「……最後に一つだけ助言をあげる。今から聖杯戦争の監督者に会いに行きなさい。新都の言峰教会にいるわ。それじゃあね、衛宮くん。お茶ごちそうさま。――ばいばい」

 

これ以上はもう何も伝える事はないと、彼女は居間から出て行った。

セイバーは俺たちを一瞥すると、遠坂の後を追う。

彼女は最初から最後まで徹底して、俺たちに対する警戒を解くことはなかった。

 

少し経ち、玄関の引き戸が閉じる音が居間まで響く。

 

「……くそ!」

 

畳に拳を叩き付けるが、それで蟠りは解消されはずもなく腕の痺れだけ残された。

 

遠坂の言うことは正しいのだろう。

聖杯戦争に参加すると言ってしまった以上、俺と遠坂は敵対関係だ。

だとしても、俺は遠坂と殺し合うなんて絶対にできない。

 

「……畜生! どうすればいいんだ……!」

 

何の意味もないと行為だとわかっていても、俺は再び畳に向かって拳を振り下ろした。

 

 

「ふむ、士郎さん」

 

これまで寡言に徹した文が、俺に対面する形で座り直した。

俺の痺れが残る手を取って、そっと撫でてくれた。柔らかくきめ細かい少女の手だった。

そして、俺の手をぎゅっと握り、俺の顔を見る。

彼女の瞳に引き込まれそうな錯覚。色素の薄い赤の瞳――ああ、これは血の赤だ。

 

「士郎さん、ありがとうございます」

 

『ありがとうございます――』

その言葉を何度か反芻して、やっと言葉の意味を飲み込めたが、俺は彼女に感謝される覚えがひとつもない。

それどころか、今日はずっとみっともないところを見せてばかりだ。

 

「凛さん曰く、サーヴァントを現界させるにはマスターが必要という話でした。もし契約を破棄されてしまったら、私はもうここにはいられなかったでしょう」

「だけど――」

 

だけど、それは違う。

俺は、聖杯戦争に参加すると言った時、隣にいる彼女のことは何も考えてなかった。

自分の都合ばかりを優先させていて、文の存在を忘れていた。

 

これは決して、俺だけの問題じゃないのに自分の都合だけで文を振り回してしまった。

馬鹿か俺は……こんなの、どうしようもなく情けなく、身勝手な話じゃないか。

 

「……ごめん」

 

まだ知り合って数時間の関係だが、聡明な彼女だ。俺の浅慮さには当然気づいているはず。

俺がいま何を謝っているのか、それもわかっているだろう。

 

「いえいえ、まあまあ。うーん、そうですね。とりあえずは結果オーライですので、気にしないでくださいな」

 

俺には、文に対しての罪悪感があった。

だけど『気にするな』と言ってくれたのだ。これ以上謝っても不快にさせるだけだろう。

 

「……ありがとな」

 

喉元まで出かかっていた謝罪の言葉を飲み込み、感謝の言葉に言い換えた。

それで天狗の少女は、少し目を細めながら笑ってくれた。

 

「――では、凛さんが言っていた言峰教会とやらに行きましょうか」

「ああ」

 

 

 

 

電話帳で新都の教会を調べてみると、『冬木教会』という名前を見つけた。

さっき遠坂の言った名前とは違っていたが、おそらくこの教会であってるはずだ。

今回の聖杯戦争の監督者らしいが、教会本来の業務もやっているようだった。

住所を見るに徒歩では距離があったが、今から向かえば何とか夜のうちに帰ってこられるだろう。

 

そうして玄関に向かう途中、自分の姿がとんでもない状態であるのに気づいた。

そういえば、俺はまだ血まみれの制服を着たままじゃないか。

遠坂もなぜか俺の恰好に驚いてなかったから、すっかり忘れていた。

 

「ちょっと待っててくれ。着替えてくる」

 

少し時間が掛かりそうだったので、遠坂が勝手に飲んだお茶を淹れなおし、台所から茶菓子を用意した。

文は、そんなささやかなおもてなしに「わぁ」と声を上げる。

実際大したことはしていないが、そう喜んでくれるとこちらとしても嬉しい。

 

背筋を伸ばして正座をした少女のお茶を嗜む姿は、実に絵になる。

その佇まいの美しさに少し見惚れていたが、当初の目的を思い出し慌てて自室へと行く。

 

使い物にならなくなった制服を脱いで、普段着のトレーナーとジーンズへと着替える。

全身から嫌な血の臭いがしたのでシャワーを浴びたかったが、これ以上、文を待たせるのも悪いだろう。

着替え終わったと文に声を掛けたら、名残惜しそうに残ったお茶を見ていた。

 

「あー……」

 

考えてみたら、彼女の服装も少し目立つかもしれない。

文の着ている白いブラウスとスカートはクラシカルではあったが、そこに問題はない。

 

問題なのは、頭襟と長下駄の靴だ。

そのあまり奇抜な姿は、他の聖杯戦争のマスターに勘付かれる可能性もある。

それに、聖杯戦争に関係のない一般人に目立つのもあまり得策とは言えないだろう。

 

文には悪かったが、天狗の象徴ともいえる頭襟を外して貰って、靴のほうは藤ねえのスニーカーを貸そう。

しかし藤ねえは、うちに住んでいるわけでもないのに、何で靴が置いてあるんだか。

 

「ああ、確かにそうかも。わかりました。了解です」

 

文に今の事情を話すと予想外だったが、二つ返事で快諾してくれた。

彼女もまた、無闇に目立ちたくはないのだろう。

 

頭襟を外し、市販品のスニーカーを履いた天狗少女の姿は、どこにでもいる普通の女の子にしか見えなかった。

だが、どういうわけか、彼女の首にはこれまではなかったカメラを下げている。

手帳や万年筆同様の使い込まれたカメラだ。それも、フィルムを手動で巻く必要のある旧式のタイプ。

 

「文、そのカメラは?」

 

『よくぞ訊いてくれました!』と言わんばかりに顔を喜色満面に綻ばせる。

 

「ふふふ。これは、新聞記者である私の相棒です。知り合いの河童が作ってくれたんですよ。私がどんなスピードで飛んでも、被写体がブレない優れものです」

 

誇らしげに胸を張る。

そして、記念と言って俺の写真を撮ってくれた。ちょっと照れくさい。

カメラを構える少女の姿は使い慣れているためか、とても様になって少しかっこよかった。

 

ん……? スルーしそうになったけど、河童だって?

河童というとあの頭に皿を乗せ、人間を川に引きずり込んで尻子玉という謎の物体を抜くという。

日本人であれば誰もが知っているあの妖怪だろうか。

文のような美少女が天狗という例もあるので、河童もまた俺の想像とは違うかもしれないが。

 

「河童って?」

「エンジニアのにとりさんです(ニコニコ)」

「…………」

 

詳しく聞きたかったが、俺の河童像が大きく崩れそうな予感がしたので、ここはぐっと堪えた。

 

 

 

 

等間隔に設置された街路灯の明かりを頼りにして、夜道を文と歩く。

俺の住む深山から、冬木教会のある新都までは距離がある。

徒歩という移動手段だと時間は掛かるが、道すがら文がなにかと訊いてくるので退屈はしなさそうだ。

 

文は歩きながらも赤い手帳を手にして、これまでの俺の話を纏めている。

どうやら鴉の天狗といっても鳥目ではなく、それどころか夜目は人間よりも利きそうだった。

 

深山と新都を二分する未遠川に掛けられた冬木大橋に、文が声を上げて感動していたのが微笑ましい。

フィクションでよくみる江戸時代からタイムスリップした侍みたいな反応だった。

走行中の車を見た時は、一目でどういうものか理解したらしく『鉄のイノシシだ』と言わなかったのは、少し残念だった。

 

 

「で、ここからが新都だ」

「はー、なんだか町の雰囲気が違いますね」

 

冬木大橋を渡り、新都に入ると町並みが大きく変わる。

深山は昔ながらの旧家のある住宅街だが、新都はオフィスビルや娯楽施設が建ち並ぶ商業地域だ。

文はその都会の姿に、物見遊山の様子で意識を奪われていた。

 

 

どうやら質問も一区切りしたみたいなので、今度は俺から文に質問することにした。

 

「ところで、文はどんなところに住んでたんだ?」

 

現状、文については烏天狗である以外はなにも知らない。

自分が質問される側になるとは思っていなかったのか、僅かに鼻白んだ。

 

「……私ですか? えーとですね。端的に言うと、私は幻想郷という大きな結界で隔絶された土地に住んでいます」

「結界で隔絶された土地……?」

 

いきなり突拍子もない話が飛び出したが、これは俺が聞いても大丈夫な類なのだろうか。

 

「そこには、外の世界……つまり、この世界において幻想とされている。いえ、正しくは――されてしまった妖怪や神々の世界です。もちろん人間も住んでいますが、その数は妖怪に比べて多くありません」

「……それ、この日本の話なのか?」

「ええ、もちろんです」

「…………………………そうなのか」

 

俺は、すでにこの話についていくのがやっとだった。

どうやらこの日本のどこかに、そんな神秘そのものといえる場所があるようだ。

 

「明治時代の初期ごろに隔絶されたので、文明はその時から停滞しています。そのかわりに精神の発展がすさまじく、魔法の類はこの世界よりも発展しているかもしれませんね」

 

他にも種族が魔女という生まれついて魔に携わる者や、人間をやめて魔法使いという種を確立した者もいるのだという。

俺のような凡庸の魔術使いではなく、この世界の魔術師がこの話を聞いたら、垂涎ものの内容ではないだろうか。

 

そして文は、その幻想郷で人間が立ち入ることがない八百万の神々が住む山に居を構えているらしい。

その御山は幻想郷においても、独自の文化と規律があり、さっきの話に出てきた河童の技術者や文のような天狗の新聞記者が他にもいるという。

 

「――それでですね。私事ではありますが、天狗のブン屋は毎年、新聞大会を開いてまして……私は、その大会に優勝するのが目下の目標なんです」

 

新聞大会か。学園の部活動みたいでちょっと面白そうだ。

 

「……実は、私がここに来た目的は外の世界を新聞のネタにするつもりだったんですが、まさかですよ。こんな事態になるなんて思いもよりませんでした。ですが、これはこれで何かのネタにはなりそうですけど……」

 

相づちを入れる暇もなく、彼女は話を続ける。

考えてみれば、新聞記者……ジャーナリストというのは他者に情報を伝えるための職業だ。

己の見聞を、こうやって俺に伝えるのも嫌いではないのだろう。

 

……それにいま、この世界に来た動機をさらりと話したな。

 

「……新聞大会優勝できるといいな」

「はい! 士郎さんのご期待に添えてみせますとも!」

 

つまり文は新聞のネタのために、この外の世界を訪れたというのか。

俺にはよくわからないが、天狗の新聞大会は彼女にとってそれだけ重要なんだろう。

そうやって話をする彼女は、いつものように薄く笑みを浮かべていた。

それでも情熱と呼べるようなものは、他人の感情に鈍い俺にも伝わってきた。

 

 

 

 

新都のビル群が並ぶオフィス街を越えた郊外に、目的地の冬木教会を見つけた。

教会は思っていたよりも豪華な外観であり、夜という雰囲気もあってどこか圧倒されてしまう。

 

「…………?」

 

しかし静謐で神聖な空間であるはずなのに、どうしてか俺は正体不明の禍々しさを感じていた。

冬だというのに肌にはじっとりとした不快さを感じ、足が自然に止まってしまう。

 

隣を歩く文はそんな感覚をものともしないのか、そもそもなにも感じていないのか。

教会の正面口まで続く石畳を淀みなく歩いていた。

 

「あや? 士郎さん、どうかしましたか?」

「いや、なんでもない」

 

急いで文に追いつくと、俺は彼女よりも先に教会の大きな扉を開いた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

05.そして、火蓋は切られた

 

 

教会内部の礼拝堂。

中央奥の祭壇まで続く通路、その両側には何列もの長椅子。

それは、映画やドラマで見るような教会の印象となんら変わらない。

管理も行き届いているようで、古い建物ではあったが、厳かさと壮麗さがあった。

 

だが、それは『一見したら』という前提の話で、この空間は教会の外で感じた以上の禍々しさを帯びていた。

肌に纏わりつくじめついた空気に、俺は呼吸さえも躊躇わせる。

 

「あれは――」

 

礼拝堂の長椅子のひとつに金髪の男が何をするわけでもなく、悠然とした様で座っていた。

極めて感覚的な話ではあるが、男には諸人も寄せ付けていない何かを感じさせる。

 

「あのー、すみません。この教会の方ですか? 私たち、ここの神父さんにお会いしたいのですが」

 

そんな俺の警戒を余所に、天狗の少女は物怖じせずに男に声を掛けた。

男は、初めから俺たちの存在に気づいていたような振る舞いで俺たちを見る。

 

癖のない金髪に、文よりも濃い赤い双眸。風貌からして外国人だ。

 

冬木は土地柄、国外から移住する者が多く、外国人がいても別段驚くようなことでもない。

教会に外国人がいるのは、決して信心深くない日本人がいるよりも自然ですらある。

 

だから、不自然さはないはずだったが、この金髪の男には得も言われぬ違和感があった。

だが、男の佇まいから正体を探ろうにも霞のように掴み取れない。

 

「――ハ」

 

いや、そうではない。

この男は、無闇に探り、自分の物差しで計ろうとしてはいけない。

そんな、虎の尾を踏むような危うさがある。

何人であろうと寄せ付けず、誰であろうと意にも介さず。

そんな絶対的なオーラとでも言うべきものを男から感じた。

 

「いいや、我(オレ)は違う。神父……言峰に用があるのか? だったら我が自ら呼んできてやろう」

 

文とは正反対の尊大な口調で答えると、長椅子から立ち上がり教会の奥へと歩き出した。

どうやら、この教会の神父とは知り合いのようだった。

……そうすると、この男もまた聖杯戦争の関係者なのだろうか?

 

「どうもありがとうございます」

 

文は男の背中に頭を下げたが、一度も振り返らずに礼拝堂の奥へと姿を消した。

 

 

それから少しして、金髪の男が消えた先から神父服を着た長身痩躯の男が現われた。

 

「…………!!」

 

ああ――、一目見て理解した。

こいつがこの教会を支配する禍々しい空気の元凶であると。

そしてこの男もまた、それを理解しながらこの空気を振りまいている。

 

カツカツと靴を鳴らしながら、俺たちへと近づくと、出来の悪い能面のような顔で俺たちを見下ろした。

黒に黒を重ねた、汚濁のような目だった。

 

「ようこそ、冬木教会へ。この教会の管理を任されている言峰綺礼という。君が聖杯戦争の7人目――最後のマスターと、そのサーヴァントで相違ないか?」

 

決して大きくはないに、教会の隅まで響くような重厚な声。

ここいると、この男の腹のなかにいるように感じて気分が悪くなる。

 

「ああ、そうだ。間違いない」

 

文は、何も言わずに背の高い男を見上げていた。

高下駄の靴を履いていない彼女の身長では、この長身の男と対面すると見上げるような形になる。

 

「ふーん」

 

そういえば……この天狗の少女は、俺が誰かと話していると急に寡黙に徹していた。

 

「なに、先ほど凛から連絡が入ってね。『一組のマスターとサーヴァントが来るから頼む』と。……彼女が私を頼ることなどついぞなかったから、どうしたものかと思ったものだ。……それで少年、君の名前は何というのかね?」

 

遠坂を下の名前で呼ぶところから察するに、彼女とは既知の間柄なのだろう。

だが、それでも、俺は無意識のうちに警戒してしまう――。

この言峰綺礼という男は、これまで会った他の誰よりも危険な存在なのだと。

 

「衛宮、士郎」

 

そう答えると、言峰綺礼は僅かにだが口元を歪ませた。

 

「――衛宮。そうか、衛宮。衛宮士郎か。クッ、ククク。なるほど」

 

男は、己の愉悦を隠そうともせずにくつくつと笑う。

それは自嘲とも他者への嘲笑とも違う、溢れ出る歓喜を堪えずに嗤っていた。

 

「何が、おかしい……!」

「――喜べ、少年。聖杯戦争を勝ち残り、聖杯を手に入れれば、おまえの内にある泥をすべて吐き出すことも可能だ」

 

俺の内にある泥? なんのことだ?

その理解できない言葉に、俺はこの男に頭を覗かれたような錯覚を覚えてしまう。

 

「……何を言っている?」

 

俺の言葉を待ち構えていたかのように、言峰綺礼は己の歪んだ嗜好をさらけ出した。

 

「そうだな。前に聖杯戦争が起きたのは10年前。その聖杯戦争の爪痕は君もよく知るところじゃないかね」

「10年前――? まさか!」

「そうだ、未だ原因不明とされている10年前の災禍こそ、前回の聖杯戦争によるものなのだよ」

 

10年前――。

冬木で起きた未曾有の大火災。

それこそ、衛宮士郎にとって最大級の精神的外傷――。

 

あの地獄の光景は、いまだって俺の網膜に焼き付きついている。

 

視界に広がる赤。赤く染まった空。

業火に包まれ、倒壊する建物。

呼吸をするだけで、肺が焼ける空気。

充満する死の匂い――ヒトの焼ける匂い――。

 

………………。

 

「――士郎さん、士郎さん。どうかされましたか?」

 

文の呼ぶ声で意識を取り戻す。

形の良い眉をひそめた文が、心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。

 

「……ああ、いや。なにも問題ない」

 

耳の奥では、今も燃える業火の音と、生きて焼かれる人々の悲鳴が聞こえていた。

胃液が逆流しそうになるが、文にこれ以上は心配かけられない。額に浮かんだ脂汗を服でぬぐう。

 

「クク……大丈夫かね? 衛宮士郎」

 

嗜虐的な笑みを隠そうともしない言峰が、明け透けた言葉を俺に向かって吐き出す。

 

くそ、こいつはどこまで俺のことを知っているんだ……?

 

 

そして男は、次の標的と言わんばかりに、文のほうへと黒く濁った瞳を向けた。

 

「……それはそうと、随分とおもしろいサーヴァントを引き当てたものだ。今回で5度目を数える聖杯戦争において最大級のイレギュラーだと言っても過言ではないだろう」

「はあ」

「此度の聖杯戦争で残ったクラスはアーチャーだけだが――彼女がそのクラスに該当するかどうか、聖杯戦争の監督者である私にすらわかりかねる」

「はあ、まあ。そうなんですか」

 

少女は、心底どうでもいいような顔をしていた。

言峰の高圧的な態度が気に入らないのか、ぼんやりとした様子で受け流す。

……いや、彼女はもしかしたら。本当に興味がないのかもしれない。

 

しかし、アーチャーか。

弓使いのサーヴァントであると遠坂から聞いたのを思い出した。

しかし文の姿を見るに、とても弓を使うように見えない。

それ以前に、俺は彼女の戦う姿をまだ見ていなかった。

 

彼女がどんな戦い方をするのか。

少女然とした華奢な体型からは、とても戦っている姿は想像できなかったが。

最速のサーヴァントであるランサーから逃げ切った速度を考えると、ポテンシャルは相当なものに違いない。

 

「……ほほー。この椅子、なかなか面白い意匠をしていますねー」

 

そんなブン屋の少女は、教会内の写真を眼前の管理者の無許可でパシャパシャと撮っていた。

新聞記者の烏天狗が、英霊と呼ばれる英雄英傑と渡り合えるのか、少し心配になった。

 

 

 

 

それから俺たちは、聖杯戦争について監督者の言峰綺礼から教えてもらうことになった。

遠坂からも大まかだが、聖杯戦争のシステムについて聞いていた。

今回は、その補足を兼ねてのものだ。

俺としては、一刻も早くここから立ち去りたかったが、文がそれを許さない雰囲気だった。

 

「ほうほう、『英霊の座』ですか。ますます興味深いです」

 

つい先ほどまでは、大して興味がないように振舞っていたというのに、どうしてか今ではその真逆だ。

 

文は、遠坂の話を纏めた手帳と見比べつつ、的確な質問をする。

一応彼女のマスターである俺は、口を挟む余裕もなく、ただ二人の話を聞くだけだった。

そんな空気を読まない質疑応答の所為か、教会に帯びている澱みも多少はやわらいだ気がする。

 

 

そうしているうちに、文の質問もすべて終わった。だったらもう、ここに用はない。

 

「では、ここに聖杯戦争の開幕をここに宣言する――。少年よ、思う存分戦うがよい。聖杯とは、この世に現存する究極の願望機だ。それは、どんな望みすらも叶えられるだろう。そう、すべてをはじめからやり直すことも可能だ」

 

俺の内情を知っているかのように振舞う言峰が、俺にそう告げる。

『すべてをやり直す』

だが俺にそんなつもりは毛頭ない。あれを無かったことにしてはいけない。

言峰綺礼が、どんな甘言を使って俺を惑わせようとしても、それだけは絶対にありえない話だ。

 

「…………」

 

俺は何も言わず、言峰に背を向けて教会の外へと向かう。

 

「ではでは~、お世話になりました~」

 

文はペコリと社交的な一礼を言峰にすると、俺と並んで歩き出した。

 

「聖杯戦争はすでに始まったのだ。いかなる時であっても、気を配らせることだな――」

 

教会の扉が閉じられるまで、男の嗜虐的な視線は消えなかった。

 

 

 

 

言峰綺礼の重圧に強く当てられたのか、教会の外に出ても気分があまりよくない。

肺にたまった空気をすべて入れ換えるため、何度も深呼吸をする。

時計を見ると、すでに日付も変わっており、普段ではもう寝るような時間になっていた。

 

文と帰途に就く。二人とも黙っていた。

肉体の疲労も当然あるが、あの男のプレッシャーによって、俺は疲労を隠せずにいる。

文は特に疲れた様子もなく、歩きながらも手帳に目を走らせている。

聖杯戦争の特集を組むということで、新聞の構成を考えているらしい。

 

「でもまあ、私は、こういった血なまぐさい事件は全然好みではないんですけどね。ひょっとしたらボツになるかもです」

「そうか」

 

苦笑を浮かべる文に、俺はなぜか少し安心した。

 

彼女は、教会にいても自分のペースを崩さなかった。

この聡い天狗の少女が、神父の歪みを感じ取れないはずはない。

何から何まで理解した上で、特別な感慨も得られずにいた。

 

もしかしたら、文はそんな存在なのかもしれない。

 

 

 

 

……冬木大橋を再び超えて深町の住宅街を歩いていると、文がふいに立ち止まった。

 

「どうしたんだ?」

「シッ……聞こえませんか? この音」

 

文が珍しく神妙にして、耳を澄ます。

俺も同じように聴覚に神経を周遊させたが、聞こえるのは夜の静寂だけだった。

 

「……? 俺には何も聞こえないぞ。いったい――」

 

俺が言い切る前に、文は背中に隠した翼を広げると砂塵を撒き散らし、空に舞い上がった。

そのまま、俺の遙か上空で停止する。

額に手を置いて、ある一定の方角の見定めると、そのまま飛翔してしまった。

 

「おい!」

 

あっという間に文を見失うが、かろうじて俺の家がある方向へと飛び去ったのはわかった。

疲労した体に鞭を打って、彼女の後を追うように走る。

 

「……くそ! どうしたっていうんだ!」

 

 

……登下校で見慣れた道を走ること数分。

これまでの静寂に混じって、固い金属のぶつかり合う音が聞こえてくる。

 

「文の言ったのはこの音か……?」

 

校庭のサーヴァントの戦いの音と似ていたが、少し違う気もする。

 

音のするほうへと気づかれないよう慎重に歩みを重ねると――。

一般住宅が並ぶ狭い路地の向こうに、見覚えのある背中を見つけた。

 

ここ角度だと顔まではっきり確認できないが、その特徴的なツインテールと赤い服は遠坂で間違いない。

そして、彼女の視線の先に音の正体を発見する。

 

彼女のサーヴァントであるセイバーが、これまで何度も見た不可視の剣を振るっていた。

セイバーに相対するのは、一つの巨石を削り取ったかのような黒い巨人――。

ランサーとは違う、別のサーヴァントだった。

剣の少女と黒い巨人が、剣戟の極致の戦いを繰り広げている。

 

巨人の持つ強大な斧剣の猛攻を、セイバーは不可視の剣を巧みに使って受けた。

斧剣の刃渡りだけでも、セイバーの体よりもずっと大きい。

そんな斧剣を持つ黒い巨人に、セイバーは体格差をものともせずに拮抗と呼べる勝負をしている。

 

「凄い……」

 

サーヴァントは人間を超越した存在であるのは、もう何度も聞かされていた。

それをこうやって実際に目の当たりにしてみると、言葉で聞いた以上のものだった。

 

なんと、表現したらよいのだろうか。

現実のものとして肉眼で見ているのに、派手なアクション映画よりも現実味がない。

俺のような魔術使いでは、どうしようもない相手だと改めて実感させられる。

 

 

「あれ? あの子は……たしか」

 

巨人の後ろに、見覚えのある少女がいた。

腰まで伸びる銀色の髪に、色素の抜けた新雪の白い肌。紫のコートと防寒帽子。

 

彼女は、数日前に俺の家の前の道路で声を掛けてきた少女だった。

『早く呼び出さないと死んじゃうよ、お兄ちゃん』そう俺に伝えてくれた女の子だ。

 

「そうだったのか……」

 

すれ違いざまに言われた言葉の意味を、俺は今になって理解した。

あの少女の言っていたのは、この聖杯戦争のことだった。

 

「なんだよそれ」

 

それでは、あんな小さな女の子まで、こんなくだらない争いに参加しているというのか。

奥歯をかみ砕きそうになる思いだったが、今の俺ではどうにもできない。

 

あの黒の巨人が、マスターである銀髪の少女のサーヴァントなのだろう。

彼女を護るような立ち回りからして、間違いない。

その少女は、自分のサーヴァントの勝利を疑わないのか、微笑を崩さない。

己のサーヴァントの絶対を信じた、そんな表情だ。

 

巨人は、理性をどこかへと置き去りにしたかのように、ただ力任せに斧剣を振るうだけ。

だがあの巨人には、そんな小手先の技術など不要だった。

人並み外れた巨体からの膂力があれば、技術など不純物にしか過ぎない。

つまらない小細工など一切なく、純粋な破壊力とスピードによる圧倒的暴力――。

 

 

……これ以上、ここにいるのは危険なのかもしれない。

 

いまはまだ俺の存在にこの場にいる誰も気づいていないようだが、それも時間の問題だ。

ランサーに何度も殺されかけた経験がそう言っている。

それに傍観者でしかない俺が、戦場の空気に当てられて足が動かなくなりそうだった。

誰にも気付かれないように、この場から退避しなければならない。

 

その時ふと、銀色の少女が何かに気づいたのか、サーヴァントの戦いから目を離した。

それで、何かを探すようにきょろきょろと視線をあちこちにと彷徨わせる。

 

「あっ!」

 

そして、少女がこちら見た。――目が合った。

俺の存在を見つけた少女は目を大きく開いて、楽しそうに嬉しそうに笑った。

 

「ふふ――」

 

『ああ、新しい玩具がようやく届いた――』

 

そんな少女の顔だった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

06.少女と狂戦士と

 

 

アルビノのような、少女の淡紅色の瞳が愉しそうに俺を捉える。

視認ができるほどの魔力を帯びた瞳は、少女の魔術師としての資質の高さを感じた。

聖杯によるバックアップを受けたとしても、あんな化け物クラスのサーヴァントを使役しているのだ。

小さく可憐な見た目とは裏腹に、聖杯戦争のマスターとしてのレベルはここにいる誰よりも高い。

 

「――こんばんは、お兄ちゃん。こうして会うのは二度目だね」

 

サーヴァントの戦いを挟んで対峙する俺に、甘い声色を紡ぐ。

小さな少女の声は、剣戟が重なる戦場のなかにあっても、はっきりと聞き取れた。

外見通り、澄んだ鈴の声。

この空間には似合わない異質な響きだったが、俺ははっきりと戦慄を感じていた。

 

「……え、衛宮くん!? なんであんたがここに……」

 

少女に続き、遠坂も俺の存在に気づいた。

ここは、俺の家から新都まで続く道だ。

俺と文が遠坂の忠告どおりに教会に行けば、この出会いある意味必然だった。

遠坂も一瞬でその考えに至ったのか、「あちゃあ」と漏らし片手で顔を覆った。

 

銀髪の少女は、遠坂を無視して話を続ける。

 

「あ、そういえば自己紹介がまだだったね。私の名前は、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。聖杯戦争のマスターよ。……そして、今セイバーと戦っているのが私のサーヴァントのバーサーカー」

 

――イリヤスフィール。

――バーサーカーのマスター。

 

……たしかバーサーカーとは、理性の代償に能力を強化されたサーヴァントだったはず。

そのクラス名が示す通り、あの眼前の破壊をするためだけに斧剣を振るう姿はまさに狂戦士だった。

 

「え、なに? もしかして衛宮君、この娘と知り合いなの?」

 

遠坂がイリヤスフィールと名乗る少女と関係を尋ねていた。

つい数時間前、あんな別れ方をしたというのに、どうして遠坂は何事もなかったかのような口ぶりなのか。

衛宮士郎は、遠坂凛にとってどんな位置にいる存在なんだろう。

 

「いや、別に知り合いじゃない。何日か前にすれ違っただけだ」

 

……それに対し、馬鹿正直に答える俺も俺だった。

 

しかしイリヤスフィールは、俺とは知り合いであるように接している。

いくら記憶を探っても『イリヤスフィール』という名前に覚えがない。

印象に残る名前だ。

記憶力にそこまで自信はないが、一度でも耳にしたら忘れないだろう。

 

「もう、遠坂の魔術師は品格というものがないんだから。いまは私がお兄ちゃんと話しているのに、あなたなんかが口を挟まないで」

「な……なんですって!」

 

白い少女は拗ねたように、頬を膨らませて批難すると、遠坂はヒステリックに声を荒げた。

どうも『遠坂の魔術師は品格がない』という言葉が逆鱗に触れたようだ。

 

それよりも、自分たちのサーヴァントの戦いを放っておいていいのだろうか。

好意的に解釈すれば、自身のパートナーへの信頼と言えるかもしれない。

それでも、いまも死闘を繰り広げている彼らが些か不憫だった。

 

「ね、ね! それでお兄ちゃん! お兄ちゃんはサーヴァントを喚べたのかな!」

 

イリヤスフィールは、激昂する遠坂を無視して俺だけを見ていた。

 

「……ああ」

 

そう答えてみたが、俺のサーヴァントである射命丸文の姿はどこにも見あたらない。

彼女を追ってここまで来たので、この近辺にいるのは間違いないと思うが。

 

「ふーん……そっか。喚べたんだ。それは、よかったね」

 

どこか少女の纏う雰囲気が、異質なものになる。

 

「それじゃあ――今からリンとリンのセイバーを殺すわ。そしたら次はお兄ちゃんの番! あはは! 絶対に逃がさないんだから!」

 

これまでのあどけない表情から豹変し、少女は口の端を吊り上げると、酷薄な笑みを浮かべた。

その変化と同時に、少女の全身に赤い光を放つ模様が浮かぶ。

それは、厚手のコートの上からでもわかる魔術の光彩だった。

知識のない俺でもわかる、膨大な魔力そのもの。

 

「まさか……その全部が令呪だとでも言うの……?!」

 

目を開いて、驚嘆する遠坂に少女は満足そうにクスリと笑った。

 

「ええ。そう、その通りだわ。正解よ、リン。あなたにはご褒美をあげる。――狂いなさい、バーサーカー」

『■■■■■■■■■■――!』

 

バーサーカーが、言葉では形容しようのない咆哮を上げた。

空気を震わせる巨人の咆哮は、俺の体が削られるような凄まじい轟音だった。

 

「うそ……今まで本気じゃなかったとでもいうの……!?」

 

遠坂が驚くのも、無理はない。

イリヤスフィールの一言で、バーサーカーの攻撃がこれまでよりも苛烈になった。

一撃でも必殺の威力を持った斧剣が速くなり、重さも増していく。

 

「はぁぁ!!」

『■■■■■■■■!!』

 

バーサーカーが相対しているのは、最良のサーヴァントと呼ばれているセイバー。

速度と重さを増したバーサーカーの斧剣を、不可視の剣によって捌く。

刀身が触れるごとに、闇に火花が散った。

イリヤスフィールによって、強化されたバーサーカーの攻撃は、何度も正面から受けきれるものではない。

だからセイバーは『受け止める』のではなく、『受け流す』ことで対処を可能とした。

 

 

 

「…………くッ!」

 

しかし、そんな機転を許したのも束の間で、セイバーの顔が僅かに険しくなった。

バーサーカーの取っている戦い方は、これまでとなんら変化はない。

超人的な膂力を使って、無骨な斧剣を振るう。それだけのもの。

しかし、そんな単純な攻撃だからこそ、反撃に転じるにしても方法が限られてしまう。

 

セイバーも刹那の隙を見逃さずに、バーサーカーに攻撃を仕掛けた。

 

「まだまだ!!」

 

そうして、二度三度と攻撃が命中したが、バーサーカーは怯まない。

攻撃を受けながらも、攻撃をしてくる相手には致命的なダメージを与えられない。

セイバーは、一回の瞬きさえも許されなかった。

神懸かり的な剣捌きでバーサーカーの猛攻を防ぐが、時間の経過とともに均衡が崩されつつあった。

 

 

いくらセイバーであっても、バーサーカーを相手に真正面から戦うのは無理なのだ。

この場所は、車両同士がすれ違うのも難しい路地だ。

素早さと小柄な体躯でバーサーカーを翻弄しようにも、そのための手段がない。

 

ついには、バーサーカーの薙ぎ払いによる一撃を受けてしまう。

 

「ぐっ!」

 

最良のサーヴァントであるセイバーだとしても、バーサーカーの攻撃は受けてはいけない。

衝撃によってセイバーの体は、遙か後方のブロック塀まで弾き飛ばされた。

 

「……セイバー!!」

 

これまで静観していた遠坂がセイバーの元へ駆け寄った。

俺も、遠坂のあとを追う。

 

「はあ……! はあ……!」

 

セイバーは、コンクリートブロックが砕ける衝撃に、仰臥したまま起き上がれないでいた。

上体を起こして立ち上がろうとしたが、バーサーカーがその隙を見逃すはずがない。

 

「バーサーカー! とどめよ! セイバーを殺しなさい!」

『■■■■■■■■■■――!』

 

黒い巨人は咆吼を上げ、巨体からは考えられない脚力でセイバーへと襲いかかる。

 

「ッ……! 行かせない――!!」

 

セイバーの元へと辿り着いた遠坂は、少女を庇うように立ち塞がった。

……そんな馬鹿な。

魔術師であっても人間でしかない遠坂に、バーサーカー相手に無事でいられるわけがない。

 

遠坂はスカートのポケットに右手を入れる。

そこから取り出したのは二つの宝石だった。

それは、ただの宝石ではなく、膨大な魔力が凝縮された神秘だ。

 

二つの宝石を指に挟むと、バーサーカーに向かって勢いよく投げる。

 

「これでも! 喰らいなさい!!」

 

少女の腕から放たれた宝石は魔弾となり、バーサーカーの眉間と腹部を貫くように着弾した。

ガラスが砕けるような音とともに、大きな爆発が起きる。

 

『■■■■■!!』

 

しかし、バーサーカーは爆発を意に介さずに、さらに速度を加速させた。

 

「う、嘘でしょ? まったくの無傷だなんて……!!」

 

バーサーカーには、宝石が着弾した痕跡すらもなかった。

なんて、化け物だ……。

遠坂はそれでも逃げようとせずに、襲い掛かろうとするバーサーカーを睨みつける。

 

「ふふん。遠坂の宝石魔術なんか、わたしのバーサーカーに効果があるとでも思ったのかしら? フン、馬鹿みたい」

 

見たいものが見られたのか、イリヤスフィールは得意げに笑う。

 

「……凛、この場から離れてください」

 

なんとか起き上がったセイバーは、マスターである遠坂を退避させようとする。

セイバーは立ってはいたが、だが剣の支えが必要であり、すぐに戦闘ができるとは思えない。

 

仮に、10秒あればセイバーが戦闘可能まで持ち直すとしても。

その10秒でバーサーカーは、遠坂と今のセイバーを三度は殺せるだろう。

 

「…………ッ!!」

 

遠坂は、セイバーの忠言を無視して、セイバーの前から離れようとしない。

それでは、ものの数秒で二人は揃って肉塊にされてしまう。

 

ああ――それは、つまり、人が死ぬということ。

俺の目の前で、誰かが死ぬということ。

 

「やめろ――ッ!!」

 

ようやく彼女たちにたどり着いた俺は、とっさに遠坂を突き飛ばした。

無防備だった遠坂は、勢いを殺せないまま道の端まで飛ばされて、尻餅をついてしまう。

 

「!! 衛宮くん、あんた何を……?!」

 

彼女は、唖然とした様子で俺を見ていた。だがこれで遠坂は目前の死から回避できる。

 

そのまま、俺はセイバーも庇おうとしたが――もう目の間には。

斧剣を振り上げるバーサーカーがいた。

 

「――――!」

 

ああ――これはもう、どうやっても間に合わない。

俺は、衛宮士郎は、また誰も助けられないのか――。

 

巨大な斧剣が、俺とセイバーを二人とも巻き込むように無情にも下ろされる。

……俺は痛みすら感じる暇すらなく、斧剣によって潰されるだろう。

死ぬのは怖かった。

だが、それ以上にセイバーを助けられなかった事実に恐怖を覚えた。

クソ、なんて無様だ。俺は――。

 

「■■■■■■■■■■――!」

 

バーサーカーの斧剣によって、俺とセイバーの潰れる音が夜の路地に響いた――。

 

 

 

 

――死ぬのは、苦しかった。

 

死ねば、一瞬のうちに意識を刈り取られて、苦痛はなにも感じないと思っていた。

だが、それは迷信だったらしい。

死の苦しみ。たとえるなら、それは首を絞められるような苦しみ。

 

さらに具体的に言うと、トレーナーの襟が首の動脈に食い込んでいるような窒息感。

 

「……?」

 

目を開けると、遠くに俺が立っていたはずの路地があった。

遠い頭上から見るバーサーカーの姿は、少しく見える。

俺に突き飛ばされた遠坂なんて赤い色の豆粒のようだった。

 

バーサーカーが振り下ろした斧剣によって、アスファルトに大きな亀裂が刻まれていた。

俺は、あそこで潰されたはずだが、亀裂の下には誰の姿も確認ができない。

そしてそれは俺だけではなく、セイバーの姿もなかった。

バーサーカーの手によって誰も死んでないことに気づいて、安堵を覚える。

 

しかしこの既視感はなんだろう。

ああ、そういえば、前にもこんなことがあったような。

 

「――ふう、間一髪だったわ」

 

その聞き覚えのある声に、首だけをなんとか後ろに曲げた。

そこにいたのは、何も言わずにどこかへ飛んで行った天狗の少女だった。

 

どうやら俺は、文にトレーナーの襟首を掴まれて、宙づりにされているようだ。

それと、文のもう片方の腕には、金属製の装具を身に着けた脚。

視線を下にスライドさせていくと、セイバーが振り子運動のようにぶらぶらと揺れていた。

そんな状況でも剣を手放してないのは、流石は剣の英霊といったところか。

 

つまり、バーサーカーの斧剣が俺たちに届く瞬間。

その刹那のタイミング……一瞬ともいえる時間で、文が俺とセイバーを助けてくれたのか。

とてもじゃないが、信じられない。

だが、ランサーからも逃げ切ってみせた神速を考えれば、あり得ない話でもない。

 

「な……? は、離しなさい!!」

 

状況を察したセイバーはジタバタと暴れるが、文の見た目からは考えられない握力によって抜け出せない。

 

「離していいんですか? あなたは士郎さんのついでなので、手を離すのに何の躊躇いもありませんけど」

 

いつものように丁寧な言葉遣いではあったが、なかなか辛辣なことを言う。

いくら文でもそんな真似まではしないはずだ。

 

「それにこのまま手を離すと、おそらく頭から落ちることになりますよ?」

「ええ、構いません!!」

「じゃあはい。わかりました」

 

天狗少女は本当に何の躊躇もなく、セイバーを掴む手を放した。

 

「……あっ、お、おい」

 

文を止めようとしたが、彼女の手には既になにも握られておらず。

 

「さよならー」

 

それどころか、地面へ落下するセイバーを見送るように手を左右に振っていた。

セイバーは、文の言う通り頭から落ちていく。

だが地面に届く直前に上体を捻って体を回転させると、足から見事に着地してみせた。

 

「おお、やりますね」

 

俺が唖然とするなかで、主犯である少女は他人事のようにセイバーを傍観している。

 

「いやあ、それにしても危ないところでした。私もちょっとヒヤッとしましたよ」

 

空いたばかりの腕で額をぬぐう仕草をしたが、汗は一滴も浮かんでなかった。そ、それよりも。

 

「……あ、文、トレーナーが、け、頸動脈に食い込んで、る……な、なんとかしてくれると、……た、助かる」

 

実は、生きるか死ぬかの瀬戸際に俺はいた。

 

「あっ! ご、ごめんなさい!」

 

すぐに両腕を使って俺の体を抱え直してくれた。

死の苦しみから解放された俺は、大きく息を吸って、新鮮な空気を肺のなかに取り込む。

 

「た、助かった。もう大丈夫だ」

 

……ん? そういえば、俺たちのこの体勢はつい最近経験した覚えがあるような。

 

「では、お空のツアーはこれにて終了ですかね」

「文! ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 

何を思ったのか、文は俺を抱いたまま地上に降りようとする。

ひょっとしたら、ひょっとしなくも。

これは、確信的にやっているのか。じゃなければ、よっぽどの天然か。

俺は今後の信頼関係のために、後者であると切に願いたかった。

 

 

 

俺たち、いや主に俺に刺さる二つの視線が痛い。

こんな状況にあっても血が巡り、顔が熱くなるのがわかった。

 

「…………」

 

尻餅状態から立ち上がり、スカートの埃を叩く遠坂は、じっとりとした呆れ顔だ。

イリヤスフィールに至っては、頬を大きく膨らませて、今にも吹き出しそうにしている。

……バーサーカーを牽制するセイバーに見られなかったのは、不幸中の幸いか。

だが、このサディスティックな気質のある二人の少女に見られたのは、ちょっとばかし俺も堪えた。

 

「……なんでさ」

 

俺のこの状態は所謂、天狗少女によるお姫様だっこの再来だった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

07.試練

 

 

地面に降りた直後に、俺はお姫様だっこから解放してもらう。

 

「はい。お疲れ様でした」

「あ、ああ……」

 

空中にいたためか、アスファルトを踏む感覚に多少の違和感があったが、すぐに慣れるだろう。

それより、二度目となるお姫様だっこの羞恥心で、今すぐここから逃げ出したい。

だが実行すれば、余計みっともない事態を生んでしまう――。

 

「んふふー」

 

そう懊悩とする俺を見て、文は見透かすような含み笑いを浮かべた。

最早、なにも言うまいと思った。

 

 

セイバーとバーサーカーは、膠着状態で睨み合っていた。

セイバーの傍らにいる遠坂は、常にセイバーのバックアップを取れる態勢で待機している。

一応の敵対関係である俺たちを、まったく意に介していないようだ。

 

そんな一触即発のなかで、銀髪の少女――イリヤスフィールだけは違っていた。

相対する遠坂たちを一顧だにせずに、面白そうに俺たちを眺めていた。

イリヤスフィールの視線は気になったが、今は他にやるべきことがある。

 

「文、助けてくれてありがとう」

 

お姫様だっこ姿を衆目に晒した犯人だとしても、命の恩人であるのは間違いない。

文に心の底から感謝を告げる。

それに彼女は俺だけではなく、セイバーの命も救ってくれたのだ。もっとも、扱いは雑だったが。

 

「いえいえ、あれぐらいならお安いご用です」

 

決して、へりくだっているわけでもなく、本心から何でもないように言ってのける。

 

「ですが、立場上敵である凛さんたちも、自分を顧みずに助けようとしたのに驚きましたけどね。思わず、私もセイバーさんを助けてしまいました」

「ああ、セイバーのこともありがとう。俺は……遠坂たちに死んでほしくない」

 

それは、遠坂たちに限った話ではない。

他の誰であろうと、あんなふうに死んでいいはずがなかった。

 

「まあ、目の前で知り合いに死なれるのは気分の良いものではないでしょう」

 

「それはわかります」と文は一拍置いた。

 

「ですけど、あんな状況で飛び込むのは、いくら何でも普通じゃありませんね。士郎さんも、あとちょっとで死んでましたよ?」

「…………」

 

生存本能。自己の保身。

それは人間だけに限らず、生物であれば当然のもの。

自分の命よりも優先できるものなんて、そう多くない。

しかし、俺はそんな普遍的な本能よりも先に、身体が勝手に動いていた。

俺は自分の命よりも、目の前で死のうとする誰かを救えないほうが許せなかった。

 

「んー、まぁいいでしょう。こうして士郎さんは助かったんですし、へんな邪推は無粋でした。でも、次はないようにお願いしますね!」

「ああ、文には迷惑かけない」

 

少女は、俺に向けた懐疑的な態度を潜め、いつもの人好きのする笑みを作る。

文に迷惑かけないと約束できても、俺は状況次第で同じ行動を繰り返すだろう。

 

俺は、結局なにもできなかった。

文が助けてくれなかったら、セイバー共々、バーサーカーに殺されていた。

つくづく、衛宮士郎の無力さが嫌になる。

死んでしまった爺さんから託された理想は、果てしなく遠い。

 

……沈みそうになる思考を断って、文に気になっていた疑問をぶつける。

 

「……ところで、文はどこにいたんだ?」

 

サーヴァントの戦闘にいち早く気づいたのは、他の誰でもない彼女なのだ。

だが、現場に到着した時、文の姿はどこにもなかった。

遠坂たちやイリヤスフィールも、文の存在に気付いているように思えなかった。

 

「私ですか? 私はあの家の屋根の上からサーヴァントの戦いを撮影していました。被写体までの距離はありましたが、なかなか良い写真が撮れたので満足です」

 

指を差す方向には、コンクリート製の三階建ての住宅があった。

ここからだと、ゆうに50メートルは離れている。

 

まさか、あんなところにいたなんて。気づかないわけだ。

そしてそこから一瞬で、バーサーカーに殺されかけていた俺とセイバーを助けたのか。

それなのに、焦りなどなく、こうも涼しい顔をしている。

それは、どんなスピードなのか。

俺にはとてもじゃないが、想像が追いつかない。

バーサーカーとセイバーの戦いは出鱈目だったが、彼女もまたそれに類する存在なのだ。

 

「はて、どうかしましたか?」

 

何も言わないでいた俺を怪しく思ったのか、文は首を傾げる。

こういう仕草を見ると、本当に年頃の少女にしか見えなかった。

 

 

「おもしろーい! ……それがお兄ちゃんのサーヴァント? へー、空を飛べるなんてちょっとだけ凄いね」

 

離れた場所から、甘い少女の声が上がった。

ずっとこちらの様子を窺っていたイリヤスフィールだ。

……どうやら彼女は、文に興味を持ったらしい。

俺としても、それでさっきのアレ(お姫様だっこ)を忘れてもらえたら非常に助かる。

 

少女は好奇に光る瞳を隠そうともせずに、文の翼を面白そうに眺めている。

黒く艶めいた翼を触りたくて、うずうずしているようも見えた。

 

「その羽、とっても綺麗なのね!」

「そ、そうですか……」

 

文は純粋な少女の反応に、少し照れくさそうにする。

飄々とした態度を崩さない彼女だが、子供に好意的な感情を向けられるのは、あまり慣れていないのかもしれない。

 

しかしそれも束の間で、イリヤスフィールの無邪気な表情が険しくなる。

 

「……あれ? あなたは本当にサーヴァントなの? 完全に受肉しているようだし、そもそも英霊には見えないわ」

 

文というイレギュラーな存在に、イリヤスフィールが不信感を募らせていく。

……そういえば、遠坂や言峰も文に対して似たような反応していた。

それを考えると、彼女は相当特殊なサーヴァントなのだろう。

いや、そもそもサーヴァントという立場かどうかも怪しい。

俺のこれまで会った聖杯戦争の関係者は口を揃えて、文の存在に疑問を呈していた。

 

「ええ、私は死んではいませんよ、イリヤスフィールさん。ええと、確か『英霊の座』……でしたか。そこから喚び出されていません。私がサーヴァントとして召喚されたのは、ちょっとした裏技を使ったからです」

 

言峰綺礼のおかげで、文は聖杯戦争のシステムを俺よりも把握しており、少女の疑問にある程度の回答を持っていた。

……イリヤスフィールもまさか、敵対するサーヴァントから回答が返ってくるとは思ってはなかっただろう。

 

「そんなのウソ。サーヴァントシステムに介在するなんて、ただの人間にはできっこないわ」

「ええ、おっしゃる通りです。人間の仕業ではありません」

「なに……どういうこと?」

「ヒトの子では到達不可能な神秘を成す、生まれついての魔女のおかげです。もっとも、私にも具体的な方法はわかりませんし、たとえ知っていたとしても誰も真似できないでしょうけどね」

 

彼女は俺に自分は人間ではなく、天狗という妖怪であると包み隠さず教えてくれた。

その証拠として、彼女の背中には人外の証明である異形の翼が生えている。

そんな天狗の少女の知り合いならば、言葉通りの意味で『人間業ではない』と考えてもいい。

 

どうやら彼女は、独力で聖杯戦争に参加したのではなく、別の協力者の力を借りたようだ。

そんなレベルの魔術は、にわかに信じられないが、現に文がここにいる時点で紛れもない真実だ。

 

「……そんなの、わけがわからないわ」

 

イリヤスフィールは納得がいかず頭を悩ませるが、その思考は第三者によって遮られた。

 

「イリヤスフィール――いい加減にしなさい。あんたが来ないならこちらから行くわよ?」

 

進展しないバーサーカーとの睨み合いに業を煮やしたのだろう。

遠坂は、苛立ちを隠すつもりもなかった。

 

「へぇ……あれだけやられて、まだわたしのバーサーカーに勝てるつもりでいたんだ」

「それ、何かの冗談? 勝つつもりがなければ、聖杯戦争に参加なんてしないわ」

 

イリヤスフィールは、これまで蚊帳の外にいた遠坂にあざ笑うような視線を向ける。

バーサーカーの絶対的な強さを信じているのか、余裕の表情は揺らがない。

 

「いいわ。はじめにあなたたちを殺すって約束したものね。……バーサーカー! そいつらをやりなさい!」

『■■■■■■■■■■――!』

 

イリヤスフィールというマスターの命令に、黒の巨人が空を貫く咆吼を上げる。

それが再戦の合図のように、セイバーとバーサーカーの戦いが再び始まった。

 

 

 

バーサーカーは斧剣による怒濤の連撃をセイバーに繰り出し。

 

「――はあっ!」

 

セイバーもダメージを感じさせない妙技によって、連撃を紙一重で躱して反撃に転じる。

彼女の動きはバーサーカーから一撃を受ける前と何ら変わらない。

これはおそらく、イリヤスフィールとの会話中に遠坂がセイバーに魔力を回して、ダメージを回復させたのだろう。

遠坂は雑談をするイリヤスフィールに苛立ちを見せていたが、実は、勝つための行動を抜け目なくしていた。

 

だがこれだけでは、さっきまでの焼き直しだ。

イリヤスフィールにより狂化されたバーサーカーの攻撃を、セイバーは完璧にカバーしきれない。

今は拮抗しているが、バーサーカーの並外れた剣圧によっていずれそれも傾いてしまう。

 

しかし、遠坂は何か秘策があるのか表情に憂いはなかった。

イリヤスフィールもそんな遠坂の様子に気づいたようだが、腰に手を置いて余裕の態度を崩さない。

 

「……もう出し惜しみはしないわ。といっても、さっきもケチったわけじゃないけどね!」

 

遠坂は、ポケットから三つの新しい宝石を取り出した。

 

「あれは……」

 

それは、先ほどの宝石とは何もかも違っていた。

バーサーカーに着弾した二つの宝石も、相当量の魔力が込められていた。

だが、遠坂がいま持っているそれは、桁違いの神秘が秘められている。

 

おそらくは、この宝石が魔術師である遠坂凛の秘策であり、切り札なのだ。

正しく運用すれば、バーサーカーの堅牢な肉体を貫きかねないほどの魔力が込められている。

それは宝石の形をしただけの、強大な神秘そのものだった。

 

「セイバー! どいて!」

 

遠坂の声に反応し、セイバーが正面を見据えたままバーサーカーとの距離を取る。

 

「Neun,Acht,Sieben――」

 

遠坂の口から紡がれる魔術詠唱。

 

「――ErschieSsung. ……私の取っておきよ! 喰らいなさい!」

 

遠坂の手から放たれた宝石は彗星のような光を帯びる。

それが、三つの魔弾となって、黒い巨人に向かっていく。

初弾はバーサーカーの斧剣によって、容易く弾かれてしまった。

だがその瞬間、破壊された宝石からフラッシュバンのような閃光が発生した。

 

強烈な光に、離れた場所にいる俺も目がくらんだが、バーサーカーはそれ以上だ。

そのまま、残された二つの宝石の魔弾は、バーサーカーの頭部に吸い込まれるように命中した。

着弾の瞬間、鼓膜をつんざく炸裂音が響く。

 

『■■■■■■――!!』

 

爆煙によって包まれたバーサーカーがどこかくぐもった咆哮を上げる。

これまで無傷だったバーサーカーも、遠坂の奥の手によって確実なダメージを受けたのだ。

 

 

煙が晴れると、未だにバーサーカーの頭部は存在していた。

だが、その相貌は焼けただれており、口と眼窩が確認できるだけで他のパーツは消失していた。

バーサーカーは沈黙したように動きを止めてしまう。

 

そしてそれは、セイバーにとって今までで最大ともいえる好機だった。

 

「セイバー! 今よ! バーサーカーを倒しなさい!!」

「ええ、マスター! 決着をつけます――!」

 

剣の少女はバーサーカーに向かって大きく跳躍し、黒鉄の首を渾身の横薙ぎによって両断した。

 

 

 

 

 

バーサーカーの首は、皮一枚でかろうじて繋がっている状態だった。

首の切断面からは、おびただしい量の血が流れている。

 

遠坂の奥の手ともいえる宝石によって、すでに倒されたと思ったが、そこに追撃となるセイバーの斬撃。

首を切断されて、生存可能な生物はこの地球上に存在しない。

過去の英雄であるサーヴァントであったとしても、それは普遍的な、変わらぬ死だ。

つまり、イリヤスフィールのサーヴァントは遠坂たちの手によって倒された。

 

セイバーの剣の鋭さか、それともバーサーカーの戦士としての矜持か。

黒い巨人は、地に伏せることなく立っていた。

だが、巨人が倒れずとも、もう二度と動くことはないだろう。

 

聖杯戦争一日目。

マスターとサーヴァントによる死闘を制したのは遠坂たちだ。

 

「――やった!」

 

遠坂が両手を胸元で強く握って、歓喜の声を上げた。

セイバーは、イリヤスフィールへの警戒はそのままに構えた剣を僅かに下げる。

 

「イリヤスフィール、私たちの勝ちよ。令呪をこの場で放棄するなら、見逃してあげる。でもそれを拒むなら容赦しないわ」

「遠坂! それは――!」

 

『容赦はしない』

まさか遠坂は、イリヤスフィールのような小さな女の子に危害を加えるつもりなのか?

サーヴァントが倒された今となっては、彼女は間違いなく無力だ。

イリヤスフィールが、いかに優れた魔術師であっても、バーサーカーを倒したセイバーに勝てるはずがない。

 

「衛宮君は黙ってて。セイバーを助けてもらってなんだけど、これが聖杯戦争というものよ」

 

イリヤスフィールは、遠坂の脅迫めいた選択に答えない。

最強と信じていた自分のサーヴァントが、無惨にやられてしまって放心しているのか。

少女は俯いたままであり、垂れた前髪によって表情もわからなかった。

 

――しかし、口元だけは三日月を思わせるような形を作っていた。

 

「勝ち誇っているところを悪いけど、わたしのバーサーカーはやられてないわ」

 

そんな言葉とともに、不動だったはずのバーサーカーが斧剣でセイバーを薙いだ。

セイバーは、未来予知めいた判断力で回避しようとするも、すでに斧剣の切っ先が甲冑だけではなく胸部も貫いていた。

 

「ぐ、あ――!」

 

防御が間に合わなかったため、勢いを殺さないまま斧剣を振り抜かれてしまう。

それは肉をえぐり、骨を砕いて。少女の胸から鮮血を散らさせた。

 

「ウソ、そんな! セイバー!!」

 

遠坂がセイバーに駆け寄ったが、それをセイバーは右手を突き出して制止させる。

 

「マスター、私なら問題ありません……」

 

……セイバーは、バーサーカーによる不意の一撃を喰らっても倒れずにいた。

人間ならば、間違いなく致命傷と言っていいダメージだ。

 

「……は、あああ!!!」

 

セイバーはその損傷を物ともしない動きで、不可視の剣を中段に構える。

切っ先をバーサーカーに向けたセイバーの姿は『まだ戦う意思は奪われていない』と語っていた。

セイバーの全身に纏った魔力は衰えることもなく、なおも暴風のように渦巻いていた。

そんな剣の少女の胆力に、遠坂は制止せざるを得なかった。

 

だが、真に異常なのはバーサーカーだ。

首はセイバーに切断されたままなのに、巨人はそれを無いものとして動いている。

セイバーへの不意打ちによって、巨人の首は、ぶらりぶらりと左右に揺れていた。

 

「どういうことなの……?」

 

遠坂の言う通り、意味がわからなかった。まるで質の悪い悪夢のような光景だ。

 

バーサーカーの腕が自らの頭を掴み取り、そのまま切断面に固定させた。

傷口から焼石を水に沈めたような音と白い煙が上ると、数秒後には元通りに固定してしまった。

そこには、傷跡すら残っていない、黒い巨人がいた。

 

「…………!!」

 

信じられない状況に流石の遠坂も絶句してしまう。

俺もまた、目の前の悪夢に歯の奥が鳴りそうになった。

 

「おおー」

 

そして、俺の隣にいる天狗の少女だけは、平然と悪夢を写真に収めていた。

カメラのファインダーを覗く少女の表情は確認できない。

 

 

「残念でしたー。わたしのバーサーカーはその程度じゃやられないわ。だって、バーサーカーは――ギリシャの英雄ヘラクレスだもの」

「……ヘラクレスだって!?」

 

俺の反応がよほど面白かったのか、イリヤスフィールは「ふふん」と得意げに鼻を鳴らす。

 

ヘラクレス――言わずとしれたギリシャの大英雄だ。

ギリシャから遠く離れた日本人でも、その名前は広く知られている。

主神ゼウスの子であり、半神半人の存在である。

ヘラクレスは、アルゴスの王女、母であるアルクメネにある呪いを受けた。

それは『気が狂ってしまい、自分の子を殺す』というあまりにも残酷なもの。

しかし、アルクメネはそれだけでは飽きたらずヘラクレスに『十二の試練』を与えたという。

 

「『十二の試練』の伝説を乗り越えたヘラクレスは、12回殺されないと死なないわ。リンが1回、セイバーが2回分殺したから……クスクス、これで残りは9回かしらね」

 

鈴のように鳴る少女の声が、とっておきの玩具を紹介するかのように。

どうにもならない絶望を、隠すことなく説明する。

 

「じゃあ、精々頑張ってね」

 

そして、少女と巨人は夜を支配した――。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

08.天狗の風

 

 

バーサーカー……ヘラクレスというギリシャ最大の英雄を、あと9回も殺さなければならない。

それが、ヘラクレスの宝具である『十二の試練』の効果なのだとイリヤスフィールは言った。

 

遠坂の切り札を使ったセイバーとの連携で、何とかバーサーカーを倒した。

それを何度も繰り返さなければ、バーサーカーは本当の意味で倒せないという。

それは、あまりにも無茶苦茶だ。

 

「あはははは! 驚いてくれているようでなによりだわ!」

 

驚愕を隠せない俺たちに対して、イリヤスフィールは満足そうに哄笑を上げた。

 

「でも、飽きちゃったから終わりにするね! バーサーカー! 今度こそセイバーをぺちゃんこにしなさい!!」

『■■■■■■■■■■――!』

 

イリヤスフィールの呼びかけに応じて、バーサーカーは繋がったばかりの首で吼えた。

巨人の怒号は、俺の腹部から全身に響いて足が竦みそうになる。

 

 

そしてバーサーカーは、大きな傷を負ったセイバーに容赦無い攻撃を振るった。

 

「や、あ――ッ!」

 

セイバーの剣技は、胸部を切り裂かれた傷により、素人目にも精彩を欠いているのがわかった。

胸からの出血だって、止まりそうもない。

不可視の大剣を操り、大きな動きをする度に血が溢れていく。

足下にできた水たまりに少女の鉄靴が触れると、ぴちゃぴちゃと音を鳴らした。

 

一方でバーサーカーは、命を奪われたとは思えない猛攻を繰り広げる。

遠坂とセイバーによって、三度の死に至ったが、その痕跡はどこにも残されてなかった。

 

「セイバー……!」

 

遠坂もセイバーに宝石による支援ができない。

セイバーの受けたダメージにより、一時的な退避もままならないからだ。

 

「フフ――」

 

それに、イリヤスフィールも彼女の支援を許さないだろう。

同じ轍を踏まれないよう、遠坂に対して警戒をしているのがわかった。

セイバーのマスターである遠坂は、苦渋を噛み締め、サーヴァントの戦いを見ているだけで。

人類の英雄であるサーヴァントに、人間でしかない俺たちはどうしようもなく無力だった。

 

「はぁッ!!」

 

セイバーは、体重を乗せた捨て身の攻撃をしたが、その刃はバーサーカーには届かない。

バーサーカーの斧剣によって、いとも容易く弾かれてしまう。

 

そして、セイバーはバーサーカーによって、何回も攻撃を受けていた。

一流の概念武装であるプレートも砕かれてしまい、少女の肉体を容赦なく切り裂いていく。

それでも、セイバーは不意を突かれた時以上の攻撃を受けていないのは流石だった。

 

「ぐっ……この程度で……!」

 

だがもうセイバーの身は、誰の目から見ても満身創痍としかいえない状態になっていた。

そう遠くない未来、命に関わる決定的な一撃を、バーサーカーから受けてしまう。

そんな、確信めいた予感があった。

 

 

「…………く!」

 

今すぐ、セイバーのもとに駆け出したかった。

それが無策なだけではなく、無謀であるとわかっていても。

先の経験から、努めて冷静であろうとする思考のなかにあっても、そんな衝動を抑えきれずにいる。

 

仮に俺がセイバーを庇ったところで、抵抗するまでもなく殺されるだけだ。

それでも、それでも。

この場で何もしないでいるよりもずっとマシじゃないか――?

俺の身を犠牲にして僅かな時間を稼ぎ、それがセイバーの延命に繋がるなら。

 

次にセイバーがバーサーカーの攻撃を受けたら、俺は後先考えずに走り出してしまうだろう。

 

 

「国も時代も違う英雄二人の戦い! まさに空前絶後! まさに竜闘虎争です!」

 

その泥沼な思考の中。

剣と剣がぶつかり合う音に混じって、忙しくシャッターを切る音がした。

 

……そうだ。俺には文がいた。

形の上では、ともに聖杯戦争を戦うパートナーとも言える存在。

セイバーやバーサーカーほどの実力はなくても、彼女ならどうにかできるんじゃないか?

そんなどうしようもない思考が、ふと頭に浮かぶ。

 

「なにを馬鹿なことを考えているんだ……」

 

俺は今、自分の成すべき道を他人に預けようとしていた。

そのどうしようもない浅ましさに、情けなくなる。

実際、セイバーを救うのにはそれしか方法がないのも事実だ。

そうだとしても、文にセイバーを助けるメリットや動機がない以上、手を貸してもらうのはエゴの押し付けだ。

 

そう頭で理解していても、俺は少女に縋るしかなかった。

 

「……文、恥を承知で頼みたい。何とかならないか?」

 

文は一通り写真を撮り終えたのか、今度は手帳を開く。

 

「バーサーカーはギリシャの大英雄ヘラクレス! セイバーさんの正体はいまだ不明……と。クーフーリンといい、著名な人物が次から次へ現れますね!」

 

俺の言葉が聞こえていないのか、少し興奮気味に筆を走らせていた。

 

「――文!!」

「ふぇ? ……あ、士郎さん、どうかしましたか?」

 

俺の呼びかけに気付いた少女は、出したばかりの手帳を畳んで、にこやかに笑いかけてくる。

すぐ目の前に戦場があるとは思えない、異常なまでの普通の態度だった。

 

「……どうにかできないか?」

「へ? なんですか? どうにか、といいますと?」

 

どうとでも取れる言い方で、文に理解してもらおうとするのは、虫の良すぎる話だ。

文に頼む後ろめたさが、俺は言葉を曖昧に濁らせていた。

足りない言葉で、俺の真意を理解してもらおうなんて……まったく、どうかしている。

 

「……文、頼む。セイバーを助けてくれ」

 

包み隠さず、いまの感情を射命丸文に伝えた。

それを聞いても少女は、眉一つ動かさないまま、形の良い口を開いた。

 

「彼女たちとは今はどうかわかりませんが、いずれは敵対する立場。ここで倒されても何も問題ないと思いますが?」

「だけど……」

「それに、ここで遠坂さんたちが倒されて、次に私たちが狙われたとしても、あの程度の足なら軽く逃げる自信はあります」

 

俺の真意や覚悟を推し量るように、彼女は一つ一つ言葉を選んでいる。

 

「そもそもとして、彼女たちは死ぬのも覚悟の上で戦っているのですよ? 私たちのように偶発的に聖杯戦争へ参加したわけではありません。彼女たちと私たちとでは、覚悟も在り方も違うでしょう」

「だけど……!」

「士郎さんは、聖杯戦争に無関係の人間を巻き込みたくない、そう言っていましたね。そして、遠坂さんたちは聖杯戦争の参加者。早期に聖杯戦争を終わらせるためには、早期の脱落者が必要でしょう。もしかしたら、ここで彼女たちが死ぬことで助けられる人間も増えるかも知れませんよ?」

 

矢継ぎ早に言葉を並べるが、そのどれもがもっともな意見だった。反論の余地もない。

 

聖杯戦争のルール上、ライバルが減るのは俺たちにもプラスになる。

巨体に見合わぬ俊敏さを見せるバーサーカーからも、文は逃げ切るのも可能だという。

遠坂は、俺たちなんかに助けられるのを決して望んでいない。

聖杯戦争が早く終われば、このくだらない戦いに巻き込まれる人も少なくなるかもしれない。

 

「だけど、俺は……!! 誰にも死んでほしくないんだ!!」

 

これは、俺のどうしようもない我儘だ。

筋違いで利己的で、そんなどうしようもない感情を文にぶつけてしまっている。

 

「ふむ」

 

天狗の少女は、それ以上なにも言わずに、傷だらけで戦うセイバーに視線を移動させた。

セイバーは最早、立っているだけで奇跡な、瀕死にも近い有様だった。

それでも、目に宿った強い力だけは少しだって失っていない。

それは、決して折れることのない剣の少女の矜持なのだ。

 

「まあ、他でもないマスターである士郎さんのお願いです。この射命丸文が何とかしてみましょう。……私も本気で聖杯戦争に参加しているわけじゃありませんし」

「……文」

「結局それが、いちばんの理由なのかしらね」

 

そう言って、どこか自嘲気味に笑ってみせた。

 

 

「これ、持っててください。絶っ対に落とさないでくださいよ?」

「わかった」

 

カメラを俺に手渡した。意外と重い。

彼女が大事に扱っている商売道具だ。

万が一にも落とさないように両手でしっかりと受け取る。

 

カメラを手放した少女の右手には、いつの間にか葉団扇が握られていた。

八手の葉で作られた扇は、天狗の象徴ともいえるものだったはず。

 

「ふぅ。じゃ、やってみますか」

 

手に持った葉団扇を振りかぶると、バーサーカーに向かって下ろす。

それだけで、葉団扇から弧を描いた風の刃が発生し、バーサーカーへと襲いかかった。

 

それは、大気を切り裂いて、バーサーカーの頭部へ随分と呆気なく命中した――。

それも当然だろう。

この場にいる誰もが、俺たちにはなんの警戒していなかった。

 

『■■■■■■……!』

 

風の刃が、一瞬巨体をよろめかせた。

たとえ大型トラックと激突しても、微動だにしないと思わせる巨人だ。

文から放たれた風の刃には、相当な魔力が秘められているのだろう。

 

「……?」

 

だが、それだけだった。

文の攻撃を急所に喰らったが、バーサーカーは傷一つ負っていない。

ただ、本当によろめいただけ。

 

「……ふむ、やはり効きませんか。予想はしてたけど、少しだけショックだわ」

 

落胆を帯びた、射命丸文の声。

彼女の姿がどこにも見当たらない。たった今まで、俺の隣にいたのに。

 

声のした方角を追ってみると、彼女は――イリヤスフィールの真後ろに立っていた。

ポンと、銀髪の少女の小さな肩へ手を置く。

 

「こんばんは、フロイライン(お嬢さん)」

「えっ!?」

 

イリヤスフィールが、あり得ないはずの声に振り向こうとする。

だが、首に掛かった細い指が優しくそれを阻んだ。

 

「イリヤスフィールさん、あなたは前だけを見てください」

 

少し冷たさを帯びた声に、銀髪の少女は身を強ばらせる。

 

「文、なにを……!」

「しー、士郎さんはお静かに。おそらくこれが最善です」

 

『聖杯戦争では、マスターはサーヴァント以上に狙われるもの』

ふと、教会で聞いた言峰綺礼の言葉が脳裏をよぎる。

 

まさか! 文はイリヤスフィールを殺すつもりじゃ!?

 

「バーサーカー!!」

 

イリヤスフィールが悲痛な声で叫ぶ。それは、子が親に助けを求めるような。

 

しかしバーサーカーは、動けなかった。

彼は理性を失った狂戦士だが、自分がマスターのもとに向かえばどうなるか理解していた。

文から伝わる少女に向けた殺意が本物であると、理性ではなく、戦士の本能が察したのだ。

 

『■■■■■■■■■■――!!!!』

 

バーサーカーはマスターを守れなかった怒り、そしてマスターを脅かすサーヴァントへの怒りでこれまでにない咆吼を上げた。

それは、一つの爆発だった。

セイバーですら、バーサーカーに咆吼に気圧されて、剣を止めてしまう。

並の人間なら、それだけで死にかねないバーサーカーの殺意を受けても文は平然としていた。平然と、笑っていた。

 

「イリヤスフィールさん。私は、瞬きの暇すら与えずにあなたの首をへし折ります。それは、あなたが魔術を行使する前に。バーサーカーが私を潰す前に」

「~~!!」

 

文は、イリヤスフィールからの返事も待たずに話を続ける。

 

「これほどの大英雄。マスターのあなたが死ねば、数分も現界できないのでしょう?」

「……それだけあれば充分だわ。わたしを殺した瞬間にバーサーカーがあなたを殺す」

 

イリヤスフィールは背後から迫る死に、震えを止めて気丈に答えた。

 

「はい。私の力では、バーサーカーに勝てないでしょう。でも、バーサーカーから逃げ切る自信は私にはあります」

 

誇張などなく、言葉通りなのだろう。

文はバーサーカーへの牽制攻撃をした後、僅かな隙を突いてイリヤスフィールの背後まで接近した。

不意を突かれたとは言え、サーヴァントにも捉えられないほどのスピード。

 

それがどういうことなのか、イリヤスフィールは理解する。

もう、詰んでいたのだ。

少女の白磁のような肌は血の気が引き、蒼白となった。

 

「ええ、イリヤスフィールさん。──あなたの負けです」

 

冷酷に告げた文が、少女の首に指を食い込ませようとする。

その時、イリヤスフィールは最期にバーサーカーではなく、なぜか俺の顔を見ていた。

こうして、文をけし掛けた俺の恨むわけでもなく。

大事な何かを諦めたような、小さな少女に似合わない儚げな顔だ。

それは、たとえるなら春の雪を連想させる儚さだった。

 

「文!! 止めるんだ!!」

 

馬鹿な俺は、自分でも理不尽なことを言っているのはわかっている。

セイバーを救うのには、バーサーカーか、そのマスターであるイリヤスフィールを殺すしかない。

それならば、バーサーカーを狙うよりもマスターである少女を狙った方が勝機は高い。

文に、セイバーを助けてほしいと言ったのは俺だ。

そうだとしても、俺は、俺は……!

 

そんな馬鹿げた俺の懇願に文は小さくウインクをすると、少女の首に掛けた手を再び肩に置く。

 

「ですけど、ここは引いてもらえませんか? なんだったら、勝ちだって譲ります」

「……なんなの? もしかして、わたしを馬鹿にしているつもり?」

「いえいえ。それこそ、まさかです」

 

文の取り巻く空気が変わったのを察してか、イリヤスフィールは睨みながら振り向く。

天狗の少女が見せていたのは普段と変わらない、何を考えているかもわからない薄い笑みだった。

 

「言葉通りです。私のマスターである衛宮士郎さんが、そう強く願っています。どうやらあなたにも死なれてほしくないみたいなんですよね。マスターの我儘にも困ったものです」

 

彼女は、矛盾に満ちた俺の意向をすべて汲んでくれていた。

文の言葉を聞いて、イリヤスフィールはどういうわけか、怒りを潜めて目を丸くする。

 

「エミヤ、シロウ。……ふぅん、エミヤシロウがそう言うならしょうがないか。──わかった、今日はもういいわ。帰るわよ、バーサーカー」

 

彼女は、バーサーカーを最強だと信じている。

たとえ脅迫があったとしても、退いて欲しいという願いに応じてくれるとは思えなかった。

だが、それは杞憂に済んだようだ。

理由はわからないが、とにかく俺たちは助かったのだろう。

 

それと、最後に雪の少女が俺の名前を拙い発音で。

それでもどこか嬉しそうに紡いでいたのは、気のせいだったのだろうか。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

09.夜が終わる

 

 

イリヤスフィールとバーサーカーの主従は、冬木の夜に紛れて姿を消した。

先刻までのセイバーとバーサーカーの戦いが嘘だったかのように、寂静が辺りを包む。

 

遠坂とは変わらず敵対関係であり、話せるような雰囲気でもない。

 

「…………」

 

特にセイバーは、文に対し並々ならぬ敵意を剥き出しにして、翠の双眸で睨み続けている。

文は、セイバーの睥睨を知ってか知らずか、俺から渡されたカメラの状態を確認していた。

 

満身創痍だったセイバーの傷は、遠坂の魔力によって時間を戻したかのように塞がった。

だけど、あのダメージだ。

こうして外見は取り繕えても、完治までには至ってないだろう。

 

『じゃまたね──エミヤシロウ』

 

俺の耳には、イリヤスフィールが別れ際の言葉が残っていた。

この先、俺たちもバーサーカーと対峙する時が来るのだろうか。

それは、途轍もない恐怖だ。

先の文が弄した手が、再び通用するとも思えない。

もし通用したとしても、あんな小さな少女が殺されるなんて許されるはずがない。

それに、文にだって手を汚して欲しくなかった。

 

そう思っていても、俺にはあの化け物への対策は何も思い浮かばずにいた。

 

「ふう……」

 

でも今は、文の努力によって得た束の間の安息を受け入れよう。

誰一人として欠けずに、サーヴァントの戦闘を終息させたのだ。

聖杯戦争で、こんな奇跡はもう二度と起きないかもしれないのだから。

 

 

「……今回は何度も助けられたわ。一応、礼だけは言っておく。ありがとね、衛宮君」

 

静寂のなかで、遠坂が口火を切った。

それだけ言って少女は背を向け、イリヤスフィールが消えていった方角を見る。

ここからでは、表情は確認できない。

それでも、握られた手が微かに震えているがわかった。

 

研鑽を積んだ魔術師だとしても、俺と同年代の少女があれだけの目に遭わされたのだ。

何も感じないはずはない。

今になって押さえていた恐怖と緊張がぶり返したのかもしれない。

 

「遠坂……」

 

掛けられる言葉は見つからなかったが、つい彼女の名前を呼んでいた。

 

「…………」

 

返事はなかった。

その代わりなのか、遠坂は震える手をより堅く握った。

それで、俺は理解した。

ああ、これは恐怖なんかで震えているんじゃない。

 

遠坂は悔しいのだ。

イリヤスフィールに負けたこと。俺たちに助けられたこと。

そんな悔しさから彼女の手は震えているのだと。

 

文が言っていた。

俺たちと彼女では聖杯戦争に懸ける覚悟が違うのだと。

魔術師としての遠坂は、今回の聖杯戦争に自身の半生を費やしてきたのだろう。

……悔しくないはずがない。

遠坂の魔術師として。遠坂凛という一人の少女として。

 

俺が知る遠坂凛という少女は、優等生でいつも自信に満ち溢れていた。

俺もほかの生徒に混じって、ミーハー気分で遠坂に憧れていた。

それは彼女の優れた見た目だけではない。

己の才能に胡坐をかかず、努力を怠らない。

彼女の、才能と努力に支えられた揺るがない顔が好きだった。

 

……だったら、今の遠坂の顔には翳りが差しているのだろうか。

そんな彼女の心中を察した俺は、もう何も掛ける言葉が見つからなかった。

彼女の背中を、ただ見ているだけの自分がどうしようもなく情けない。

 

そう思った矢先、不意に遠坂が振り返った。

その時の顔は、俺の勝手な想像と違い、何の揺らぎもなかった。

そこにあるのは、遠坂凛という少女のいつも見せる顔。

自信に満ちており、その目に宿らせるのは確固とした決意のみだ。

 

「次は負けない。負けられない。あんたたちの力も借りない。──そうよね、セイバー」

 

それはセイバーだけではなく、自分自身にも言い聞かせるような声。

 

「凛、それは当然です。今回は不覚を取りましたが、私は全力を出してはいません。私には宝具がある。それに私は、あなたの剣になると誓った身だ。あのような醜態は二度と許されない」

 

セイバーは、仕えるマスターの期待に応えてみせた。

それを聞いた遠坂は、満足そうにセイバーの言葉の一つ一つを噛み締めて。

 

「ええ、期待しているわよ! セイバー!」

 

迷いもない力強さで、己を奮い立たせた。

 

ああ……敵わないな。素直にそう思う。

俺は、遠坂凛という少女を勝手に侮っていた。

彼女の強靱な精神と聖杯戦争を戦おうとする決意は、この程度では決して揺るがない。

 

遠坂凛は、俺にもその強い視線を向ける。

 

「……衛宮君、悔しいけど今回は一つ貸しにしてあげる。だけど、忘れないで。私たちは今も敵同士だということを。そんな相手を助けるなんて正気じゃないわ。──次にあんな無茶をしたら確実に死ぬわよ」

「……ああ」

 

決意の定まっていない俺は、形ばかりの気の抜けた返事をしてしまう。

今も、遠坂たちに傷ついて欲しくない気持ちは変わらない。

もし同様の状況に遭遇したら、俺は同じ行動を繰り返すだろう。

それは、彼女たちのプライドを傷つけてしまう行為なのかもしれない。

それでも死んでしまったら、何もかもおしまいなのだ。

 

遠坂は、俺のそんな曖昧な返事をどう解釈しただろうか。

 

「……ふん。行くわよ、セイバー」

 

見透かしたように鼻を鳴らすと、それ以上なにも言わずに背を向けてセイバーとともに歩き出した。

彼女たちがこの後なにをするかはわからないが、俺に聞ける権利などなかった。

 

 

「みなさん、行ってしまいましたねえ」

 

文の口からは、何の感慨もなく、ただ起きた事実を述べただけの言葉。

 

「……そうだな」

 

最後に残されたのは俺と天狗の少女だった。

術者を失った人避けの結界もいずれは消えてしまうだろう。

戦いの痕跡が残るこの場所にいるのは得策ではない。俺たちも退散しよう。

 

 

 

 

それから、10分足らずで家に着いた。

すぐ近所であんな戦闘があったのに、家に入ると途端に夢のように思えてくる。

だが、あれは間違いなく現実なのだ。

バーサーカーの咆吼は、思い出すだけで肌が粟立ってしまうものだった。

 

俺を容易く殺した朱槍のランサー。

強靭な肉体に守られ、蘇生を繰り返すバーサーカー。

そして、荒々しくも絶技と呼べる剣の担い手であるセイバー。

俺たちはあんな規格外の存在と、これから同じ舞台で戦わなければならない。

 

それだけではない。

ほかに三体ものサーヴァントが残されていた。

未だ遭遇していないサーヴァントはライダー、キャスター、アサシンの三騎。

そこに俺の召喚した射命丸文を含めた、七騎のサーヴァントとそのマスターにより、一つの聖杯を勝ち取るための争奪戦。

つまり、血を血で洗う凄惨な殺し合いが行われる。生き残るのは、ただ一組だけ。

 

……勝ち残れるかはわからない。

それでも、正義の味方を目指す者として、やらなければならなかった。

今までの日常は、もう過ごせないかもしれない。

普通を過ごすには、俺はあまりにも知りすぎた。

そして、自らの足で踏み込んだ。

最初は、巻き込まれた形だったとしても、引き返せるタイミングはいくつかあった。

俺は自分の判断で、聖杯戦争に参加すると決めたのだ。

 

だったら、こんな馬鹿げた戦いは絶対に止めてみせる。

 

 

「それで文は、洋間と和室のどちらがいい?」

 

聖杯戦争の間、文にはこの家で過ごしてもらう。

この家は武家屋敷だけあって、部屋数だけは無駄に多いのだ。

せっかくだし、彼女には快適な生活を送ってもらいたい。

 

「洋間!! そ、それは、ちょっと心惹かれますね。……ですが、慣れた和室でお願いします」

「よし。わかった」

 

玄関廊下の突き当たりから、左側にある空き部屋に案内する。

部屋に入ると、ツンと畳の匂いがした。

疲労はピークだったが、色んなことがあったせいで、五感が研ぎ澄まされているかもしれない。

決して黴臭いわけではではなく、畳に使われた藺草の匂いだった。

使われていない部屋でも暇があれば掃除をしているので、汚れてはいない。

 

「じゃあ、この布団で寝てくれ」

 

押し入れから布団を取り出して畳へと敷いた。

干していない布団を客人に使わせるのは気が引けるが、だからと言って俺の布団を貸すわけにもいかない。

申し訳ないが、文には今日だけ我慢してもらおう。

 

「私も手伝いましょうか?」

「いや、文はお客様だし、そんなことはさせられないよ」

「何もそこまで気を使わなくてもいいと思いますけど」

「いいや、絶対にダメだ! 部屋の準備だけは俺にやらせてもらう!」

「えええ……。士郎さん、ちょっと怖い」

 

衛宮家の家長として、客人を働かせるわけにはいかない。

何があろうと、それだけは絶対に譲れない一線だった。

 

 

俺が部屋の準備をしている間、文は旅行鞄を広げて所持品の整理をしていた。

新聞記者と名乗るだけあって、フィルムやインク、原稿用紙などが目立つ。

ほかにも、歯磨きやタオルといった日用品の類もあった。

 

「……!」

 

一瞬、下着らしきものが目に入ったので、慌てて目を逸らした。

本当に一瞬だったので、文には気づかれてない。

疲れていたとしても、人様の、しかも女の子の荷物をじろじろ見るなんて、何を考えているんだ俺は……。

 

それから暫くすると、様々な道具が机の上に溢れていた。

やっぱり、ちょっと気になるな……。

当然これは、知的好奇心からであって、決して下卑た下心からではない。

 

「もし気になるんでしたら見てもいいですよ?」

「いいのか。だって……」

「ふふふ。下着の類は鞄に隠してありますので、お気になさらずに」

 

ばっちりと気づかれていた。

 

彼女は、この世界とは隔絶した世界の住人という話だが、意外と俗っぽさがあるなと変な関心をした。

浮世であっても幽世であっても、生きている以上は日用品も必要なのだろう。

 

「ん?」

 

そんな机に並べられた日用品の一つに、茶色の瓶に入った錠剤を発見した。

もしかしたら、何かしらの常備薬だろうか。

勝手な先入観から、天狗のような存在は病気と無縁だと思ったが、実際は違うかもしれない。

 

「あ、これ、気になります?」

 

物珍しそうに見る俺の視線に気づいたのか、薬を手に取って俺に見せてくれた。

ラベルすらも貼っていない茶色い瓶だ。なんだか、すごく怪しいぞ。

 

「文、その薬は?」

「胡蝶夢丸ナイトメアです」

 

勿体ぶらずに、教えてくれた。本当に怪しかった。

ナイトメアってなにさ。

 

「……参考までに効能は?」

「ぶっ飛ぶ夢が見られます。おひとつどうです?」

 

ニコニコと笑っているが、つまりはヤバい薬ってことだ。

多分、現代の日本だと認可されていない成分が含まれているやつだ。

 

「……いやいい。いらない」

 

俺は何も見なかったし、何も聞かなかった。

屈託のない笑顔で、怪しい薬物を勧められたのは、人生初めての経験だった。

 

他には、どんなものがあるのだろうか。

烏天狗の私物というのはやはり気になる。

日本酒らしき一升瓶があるが、ひょっとして彼女は見た目に反して酒豪なのだろうか?

だとしても酒なんて、旅行鞄に入れてまで持ってくるものなのか?

 

念入りに旅支度をしたのか、着替えの類も充実している。

今も着ているブラウスに似たデザインの衣服も何着かあった。

射命丸文という少女は肉体を持っており、魔力によって編まれたエーテル体ではない。

だから他のサーヴァントと違って、新陳代謝も俺たちと同じようにあるのだろう。

 

「ん……?」

 

あれ? この綺麗に折りたたまれた白いもの……これって、下着じゃないか?

その手の類のものは鞄に隠したと言ったはずだったが。

 

「うーん……まだわからないことばかりね」

 

少女は独り言ちながら、手帳とにらめっこしており、俺が下着を見たことに気付いてない。

ならこれは、彼女の罠でもなんでもなく、ただのうっかりミスか?

 

いや、そもそも許可を得たとしても女性の私物を見るなんて、どうかしているのだ。

俺の最も身近な女性が、そんなデリケートさとは無縁の虎だったのがいけなかった。

うん、そうだ。何もかもあの虎が悪い(責任転嫁)。

 

そういえば……。

彼女は、スカートで空を飛び回っているが、不思議と下着は見た記憶がない。

空中にいる彼女を何度となく見上げたが、夜のせいなのか何も覚えてなかった。

まあ、彼女は不思議を体現したような存在だ。

そんな不可解もあるんだと納得しよう。

もちろんこれは、純然たる疑問であって、彼女の下着が見たいわけではない。

悔しくない。悔しくない。

さらに、念を押してもう一度言っておくが、決して悔しくなんかない。

 

「まったく……どうかしている」

 

強くかぶりを振った。

こんな馬鹿みたいな思考になるなんて、俺の脳も疲労で相当悲鳴を上げている。

 

 

「じゃあ文、おやすみ。家にあるものは何でも自由に使っていいからな」

「はい。おやすみなさい、士郎さん。素敵な部屋を用意してくれて、ありがとうございます」

 

出会ってから、一度も笑みを崩さずにいた少女の部屋を出る。

天狗という奇妙な同居人だが、今のところはうまくやっていけるかもしれない。

つかみどころがなく皮肉屋でもあるが、基本的には社交的で人当たりのいい娘だ。

彼女のような美少女と同居するのは恥ずかしくもあるが、現状はそうも言っていられない。

当然、嬉しいという感情もないわけじゃないけど。

 

 

シャワーを浴びて、汗や血の汚れを落とした後、一日の最後──魔術の鍛錬のため土蔵に入った。

土蔵は文が召喚された場所のはずだが、痕跡はどこにもない。

 

「ふう……」

 

今にも意識は崩れ落ちそうだったが、この身体は魔術訓練をしないと眠れなかった。

土蔵の空気は、どこか気分を落ち着かせる。

日頃、修理のために使う、機械油の匂いがそうさせるかもしれない。

冬の冷たく湿った空気によって、多少の疲労と眠気が吹き飛ぶ気がした。

 

……でも鍛錬が終わると同時に、俺は意識を手放すだろう。

 

「よし、やるか──」

 

普段の工程通りに魔術回路を生成させ、固く握ったパイプに強化の魔術を行使する。

今夜は、夢を見ないほど深く眠れそうだった。

 

 




聖杯戦争一日目終了。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10.動機は本当に大したことじゃないです

 

 

「……外の世界に行きたい?」

 

パチュリー・ノーレッジはつまらなさそうに言った。

彼女は分厚い魔法書から目を離さず、すぐ隣にいる射命丸文を一顧だにしない。

 

「――はい。是非お願いできないでしょうか」

 

紅い悪魔と恐れられているレミリア・スカーレットが住む紅魔館。

その悪魔の館の地下には、大きな図書館が存在していた。

幻想郷随一の蔵書を誇り、魔術書を始めとしてあらゆる稀少本が揃っている。

図書館に広がる古書の饐えた匂いは、乱読家には堪らないものだろう。

 

図書館の主である少女の名前は、パチュリー・ノーレッジと言う。

起きている時は本を読むか、紅茶を飲むぐらいで、外出もままならない日陰の少女。

本人曰く『日に浴びると本と髪が傷むから――』とのこと。

そのため、彼女の肌は病的なまでに白かった。

常にネグリジェのような服を着ているのは『寝間着と普段着の兼用なのでは』と文は邪推していた。

 

それら理由から『動かない大図書館』と揶揄か畏敬か判断の付かない二つ名がついている。

しかしその名は伊達ではなく、パチュリーの知識の深さは、幻想郷で五本の指に入るのは間違いないだろう。

七曜を操る稀代の魔女。

こと魔法についての造詣の深さは、幻想郷一だと文は踏んでいた。

 

「そんなこと。博麗の巫女か、スキマ妖怪にでも頼めばいいじゃない」

 

やはり、つまらなさそうに紫の少女は言った。

 

「霊夢さんが外の世界に出たいだなんて聞いてくれるわけありませんし、八雲紫に至っては住所不定でどこにいるのかもわかりません。というより、八雲紫も聞いてくれるわけないじゃないですか」

「あの大妖怪は今だと冬眠中でしょうけどね。……それに『幻想郷の全てを知る』と嘯くわりには天狗のネットワークも随分とお粗末なのね」

 

馬鹿にした物言いに文はカチンと来たが、ここは我慢だ。

薄暗い部屋で本を読むしかできない紫もやしに、何を言われても心には届かないと自制する。

 

「それにしても何でまた外の世界なんて行きたいの? あなたたち天狗はてっきり幻想郷の中だけで完結しているものだと思ったわ」

 

何かの気まぐれか、パチュリーが微かに声色を微かに変えて尋ねてくる。

……視線の先は、本から外さないままだったが。

 

「最近の幻想郷はすっかり安定してまして、ネタ不足が深刻です。そこで『文々。新聞』の大特集として、外の世界を扱おうかと考えたわけですね。……そして、あわよくば、次の新聞大会で優勝を狙おうかなー、なんて」

 

最後の一言は余計だったかもしれないと、彼女は言ってから後悔した。

この魔女は地位や名誉などには一切興味がない。あるのは、病的なまでの知識欲だけ。

パチュリーは『本を読む』。

それだけがこの少女の手段であって、目的なのだ。

自分の欲望を魔女に語ってしまったミスに、文は少し顔が熱くなるのを感じた。

 

「あなたの新聞はユニークで嫌いじゃないわよ。……ま、氷精が大ガマに飲み込まれるという記事が一面で三号続いた時に呆れたものだけど」

「うっ。とまあ、それだけネタ不足が深刻なんですよ……」

 

この本の虫に、自分の書いた新聞がユニークと言われると文もそう悪い気はしない。

……でも、新聞にユニークってほめ言葉なのだろうかと少し怪しんだ。

 

「それに、あなたの力なら博麗大結界を無理矢理こじ開けることも可能じゃない?」

「いえいえ、いくら何でもそれは無理だと思います。仮にそんなことができたとしても、霊夢さんに全殺しにされますよ」

「まぁそうでしょうね」

 

『なら言うな』とつっこみそうになったが、やはり堪える。

この紫モヤシの機嫌を損ねたら手伝ってくれないどころか、いつまでも根に持っていそうだ。

 

「………………」

 

……嫌な沈黙が、図書館に流れた。

パチュリーは本から目を離す様子もなく、すぐ傍らにいる文の存在など意に介していない。

文も本来なら他人にこんな頼み事をするタイプではないので、このなんとも言えない空気がつらかった。

 

(はあ、なんだか馬鹿らしくなってきたわ)

 

もう帰ろうかな、文が諦めかけた時、日陰の少女が初めて文に顔を向けた。

 

「――いいわ。手伝ってあげる」

 

パチュリーは、読み終えたばかりの本をパタンと閉じる。

 

「ほ、本当ですか?!!」

「……子供みたいなキンキンした声出さないで。不愉快。聴覚に障るわ」

 

嬉しさと驚きの反面、このネグリジェは本気で頭に来るなと文は思った。

 

「ですが、急にどういうつもりです? さっきまでは『聞く耳を持たないー』って感じでしたのに」

「そうね……。あなたがさっき言ってたとおり、私も最近は興味を引くこともなくて少し暇なのよ。だからたまには大規模な魔法の実験をするのも悪くない、そう思っただけよ」

 

今の幻想郷は平和そのものだ。

本来、幻想郷の不文律であるはずの、人間が妖怪に喰われるという話も聞かなくなった。

そんなことをすれば、最近になってますます力を付けた博麗の巫女に退治されてしまう。

 

「それに、壊れにくそうな実験台もやる気のようだし」

 

悪びれる様子もなく、実験台と言われた文は奥歯を少し噛み締めた。

 

 

 

「まずは、さっきの案。どうにかして博麗大結界に穴を開ける。……まぁこれは考えるまでもなく却下。結界の綻びを狙えば、私とあなたの力でなんとかできるかもしれないけど、霊夢にボコられるのは目に見えているし、ほかにも問題があるわ」

「といいますと?」

「スキマ妖怪のような境界を操れる例外中の例外はともかく、あなたのような千年単位の強大な妖怪が、幻想を失った世界に出たらどうなるかわからないのよ」

 

『どうなるかわからない』……妙に引っ掛かる言い方だ。

 

「……具体的にどうなるんですか?」

「もしかしたら、七色の泡になって消えてしまうかも」

「ええっ!?」

「……もしかしたら、よ。今のは冗談だけど、本当にどうなるかは私にも見当がつかない」

 

生粋の魔女の冗談は、最低最悪につまらなかった。

 

「外に出た瞬間に幻想の存在と扱われて、幻想郷に引き戻されるかもしれない。……それならいいけど、最悪の場合、妖怪としての力を失って脆弱な存在になり替わるかしら」

「うーん、それはとても困ります」

「もし何もなかったとしても、行ったきりで帰る手段がないのも問題だわ。実験結果がわからないままなのは少し歯痒いわね」

 

パチュリーは、文の存在を本気でただの実験台としか思っていなかった。

文は笑顔を崩さなかったが、こめかみには血管が浮き出ていた。

 

 

突然、パチュリーがピースサインを作った。

「ついに狂ったのか」と文は本気で思ったが、それは思うだけに留めておいた。

それとも……急に写真を撮ってもらいたくなったのかもしれない。

それにしては、あまりにも顔が笑っていない。

ピースサインをしながらなんだその顔は。馬鹿にしてるのか。

 

「プラン2、私の魔法で外の世界へ転移させる」

 

ピースサインの正体は『二つ目の案』という意味だった。

じゃあプラン1はあの強行突破だとでも言うのか。いくらなんでもお粗末過ぎる。

だが、ようやくまともな案が出てきた。

結界に穴を開けるだけの力業なら、そもそも文はパチュリーを頼ったりはしない。

実用的な計画を求めて、こんな薄暗く埃臭いところまで来たのだから。

 

そう安堵しようとしたのも束の間。

パチュリーの表情から察するに、どうやらこれもあまり良い計画ではないようだ。

 

「といいたいところだけど、これはあまり自信ないわ。――博麗大結界はあまりにも強力よ。外界とは陸繋ぎなのに、大結界によって幻想郷という一つの世界を作っていると言ってもいい」

 

それは文も知るところだ。知っているから、パチュリーに頭を下げて頼んでいた。

 

「そんな一つの世界を飛び越えて、あなたを無事に転移させるなんて無茶もいいところ。……まぁ一週間は寝込む覚悟で魔法を使えば、あなたの肉塊ぐらいは外に転移させることはできるかもしれないけど」

 

それでは、何の意味もなかった。

空間転移後、気づいたら烏天狗の挽肉なんてシャレにもなっていない。

それとも、これも魔女なりの冗談だろうか。

魔女の発言は、本気と冗談の境目がわかりづらすぎる。

なぜなら、人々の冗談を可能とする存在が魔女だからだ。

 

「万が一に成功しても、プラン1と同様にあなたが外界に適応できずに、七色の泡になるだけかもね」

 

「ふふふ」と珍しく魔女が声に出して笑った。すこぶる不気味だった。

生粋の魔女が、天丼ネタで笑いを取ろうとした珍事に鼻白むも、文は自分の嫌な未来を想像して笑うに笑えなかった。

 

「はぁ、やっぱり無理ですか」

 

こんな根暗馬鹿に頼むのが間違いだったかと考えた矢先――。

パチュリーが三本目の指を立てた。

 

「プラン3――外の世界の魔法使いに召喚してもらう」

「え?」

 

先の二つ、プラン1とプラン2は文もパチュリーから話を聞く前に思いついていたものだった。

『外の住人に召喚してもらう』――それはこれまでにないアプローチだ。

 

「そしてこれが本命。言葉通り、あなたを外の世界の魔法使いに召喚してもらうわ。幻想のない世界だけど、それでもまだ魔法使いが絶滅したとは思えない」

 

端的に言ってしまえば、他力本願だった。

 

「あなたを外界に押し出す力が足りないのなら、外からも引っ張ってもらえばいい。あなたを喚べるほどの高レベルな召喚儀式をサーチして、無理矢理にでもそこと繋げてあげる」

「何だか凄そうですけど、それ大丈夫なんですか?」

「愚問ね」

 

パチュリーは眉一つ動かさずにそう言い切った。

七曜の魔女の言葉だ。

人格面ではまるで信用におけないが、こと魔法においては信用していいかもしれない。

 

「それに、この方法ならさっきの懸念も大丈夫よ。幻想郷の住人であるあなたが外界に身を晒すことになっても召喚主が存在の維持をしてくれる。相当な高負荷になるでしょうけど、維持よりも召喚のほうが難しいものだし、それについては問題ないはず」

 

どこまでも他力本願だった。

 

「じゃ、私は専用の魔法陣を描くから、あなたは一度帰って旅支度でもしなさい。そうね、一日もあればできるわ」

「あ、はい。わかりました」

 

文は使役している烏を肩に乗せて、紅魔館を出た。

かなり長い間、薄暗い場所にいたためか、冬の太陽が心地よかった。

やはり人間だろうが妖怪だろうが、外に出なければ、心身ともに駄目になるのだと文は悟った。

今しがた会ったばかりのサンプルケースも、それを実証していた。

 

紅魔館の門番が職務を放棄してシエスタに耽っていたが、そんなのはどうでもいい。

今更、何のネタにもならないが、あまりに間の抜けた顔だったので少しだけ面白かった。

 

「…………あれ?」

 

妖怪の山までの道中、文は胸の鼓動が速まっているのに気づいた。

彼女は幻想郷の誰よりも速く飛ぼうが、心臓は一定のリズムを乱したりはしない。

ならこれは、彼女自身の感情が高ぶっている証拠だった。

 

千年を生きた、幻想世界の天狗少女。

そんな見た目通りの、女の子らしい感覚が残っている事実に、少女は戸惑いと喜びを覚えた。

 

 

 

 

何が起きるかわからないので、文は使役している烏を妖怪の山で留守番をさせた。

使いっぱしりの白狼天狗に預けようとも思ったが、今回はいいだろう。

たくましい子だった。たとえ文がいなくなっても自由気ままに生きるはず。

 

一日掛けて、旅支度を終えた文が旅行鞄を抱えて図書館に戻る。

 

「これは……」

 

巨大な魔法陣を発見した。

細部まで緻密にして難解な、大魔術式が組み込まれていた。

一体この魔法陣に、どれだけ莫大な情報と魔力が詰め込まれているのか。

魔法にはさして明るくない文だったが、魔力はぴりぴりと肌に伝わってくる。

視覚から流れ込む情報量に目が眩みそうになるが、なぜか同時に引き込まれる魅力もある。

 

「……あまり長い間見ない方がいいわよ。人間なら直視するだけで精神が侵される代物だから」

「パチュリーさん」

 

いつも以上にやつれた顔をしたパチュリーが文の前に現れた。

これだけの物をパチュリーはたった一日で作り上げたのだ。気力体力ともに使ったのだろう。

 

「じゃ、早速だけど、陣の中心に立ってちょうだい」

「は、はい!」

 

文は少し嫌な予感がしたが、言われるがまま魔法陣の中心へと立つ。

少女然とした胸の高鳴りも、少し強くなった気がした。

床に刻まれた魔術式から光が放たれて、薄暗い図書館を赤く照らし出す。

文という対象に魔方陣が共鳴しているように思えた。

 

「――――。――――」

 

パチュリーは神経を集中させるためか、目を深く閉じて呪文を詠唱する。

巨大な魔法陣が文の腰の辺りまで浮かび上がり、光が一層強くなっていく。

 

「えーと。ここは魔力が貧弱。ここは維持が無理そう。ここは……やっぱダメ。アルゴリズムがへたっぴ、センスゼロ。は、出直してきなさい」

 

この魔女は、季節もののカタログでも眺めているのだろうか。

 

「――あ、待って待って。いいところ見つけた。すごい規模。これは、うん。なかなか良いわね、私も参考にしたいぐらいだわ」

 

どうやら、本命である強力な召喚儀式を見つけられたようだ。

そして、パチュリーがゆっくりと瞼を開けた。

いつも通りの、眠たそうで不機嫌な顔。それはつまり、成功したと思っていいのだろう。

 

「幻想郷に帰りたくなったら、召喚主に契約を切ってもらうこと。もし、面倒そうだったら――殺してしまいなさい。そうすれば、主という楔を失って、あなたはこの魔法陣へと自動的に戻されるわ」

 

帰る方法は意外と簡単のようだ。

気に入らなければ、いつでも帰れるぐらいに。

 

「ええ、そうします」

 

魔法陣の光が文の体を包む。

既に転送が始まっているのか、地面を踏む感触がなかった。

 

「……ああ、言い忘れてたけど、召喚先は未来かもしれないし過去かもしれないわ。もしかしたら、幻想郷の外とは違う、どこか別の平行世界に繋がっているかもしないわね」

 

……この魔女は、知ってか知らずか、最後にとんでもないことを言ってくれる。

 

「この! 紫もや……ッ!」

 

溜めに溜め込んだ鬱憤を吐き出そうとするが、周囲は光に包まれて文の声は届きそうもなかった。

 

そうして――世界は、くるりと暗転する。

 

 

 

 

「――うわっ!?」

 

俺は、その暗転した世界で跳ね起きた。

空は白んでおり、いつの間に寝込んでいたのか土蔵には朝日が差していた。

慌てて周囲を見渡すが、いつもと変わった様子はない。

 

「……なんか、とても嫌な夢を見たような」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

11.一夜明けて

 

 

へんてこな夢を見た。

あんな夢を見るなんて、異常事態の連続で頭がどうかしてしまったのか。

普段は夢をあまり見ないから、貴重な体験だとも言えるが。

 

それに夢を見るというのは、深く眠れておらず、眠りが浅い証拠でもある。

そのためか、もう朝なのに眠気が抜けきってないし、身体もだるい。

 

「まいったな……」

 

鍛錬の後、気絶するように土蔵で寝てしまったのも疲れの原因だろう。

こんな体調のままだと、一日をまともに過ごせそうもない。

多少の罪悪感もあるが、一度自室に戻って寝なおそう。

二度寝なんて滅多にしないが、色々とあって疲れていると自分に言い訳をする。

 

「…………うわっ」

 

……冬だというのに、身体は寝汗でべったりだった。

やっぱり、悪夢の類じゃないのかアレ。

 

 

 

 

次に目を覚ました時、太陽は真上近くまで昇っていた。

時間を確認すると、11時を過ぎようとしており、普段ならあり得ない起床時間だ。

それでも倦怠感は完全に抜けきってなかったが、今日一日を過ごすには十分だ。

こんな調子じゃ、平日だと確実に寝過ごしていたな。今日が日曜日でよかった。

 

結局、昨晩のあの夢はなんだったのか。

二度寝の時は深い睡眠が取れたらしく、あんな夢は見なかった。

細部については忘れかけているが、ただの夢と言い切るのも何か違う気がする。

 

あの夢は、文の主観によるものだった。

まるで彼女の視点を借りているような、リアリティのある夢。

彼女の感情も、自分のことのように伝わってきた。

 

夢には彼女以外にも、もう一人、奇妙なネグリジェを着た少女がいた。

あの人物にしても、何者なのか。

文に確認したかったが、私生活を覗いてしまったようでそれも気が引ける。

 

 

射命丸文は、居間の畳の上に朝刊を広げて読みふけっていた。

俺の存在にはすぐ気づいたようで、いつもの笑みを浮かべてみせる。

 

「おはようございます。士郎さん」

「……ああ、もう昼近いけどな。おはよう、文。よく眠れたか?」

「はい、とても。低反発な枕のおかげで快適に眠れました。ありがとうございます」

 

そんなとりとめもない挨拶を終えると、彼女は再び新聞に目を走らせる。

 

「ん? これって……」

 

よく見たら今朝の新聞だけではなく、かなり古いものも彼女の側に積まれている。

確か古紙回収に出そうと思って、土蔵の奥にしまい込んでいたものだ。

そんな昔の新聞まで、なんでまたと思ったが、同業者として他社の新聞は気になるのかもしれない。

 

「……この世界の新聞は、文の目からみるとどうなんだ?」

 

何気なく、そんなちょっとした質問を文に訊いてみる。

 

「そう、ですね。毎日これだけの情報を出せるのは凄いです。印刷技術と流通の発展、何より完全分業制の成せる技でしょうか」

 

新聞から目を離さないままの、淡々とした回答だ。

それでも口ぶりからして、一応は褒めているように聞こえる。

 

「ただ、私の『文々。新聞』は『事実だけを客観的に』をポリシーにしています。主観に傾倒した記事は好みから外れますね」

「なるほど。裏が取れない記事は書かないってことか?」

「その通り。自分の足で稼いでこそ新聞記事です。けっして、伝聞ではいけません」

 

文が今この世界にいるのも、ネタ探しだと言っていた。

 

「ですが、完全に客観というのも難しい。感情がある以上はどうしても主観が入ります。ですが、『客観的にあろうとする』のと『客観的に見せかける』のでは大きな違いがあります」

 

ちょっとした質問のつもりだったが、天狗少女の口はまだまだ回りそうだった。

 

「こちらの記事も一見すれば、客観的に書かれているようですが、記者の恣意的な解釈が見て取れます。記者というのは常に第三者であり、傍観者です。新聞は情報であって、自身を投影するものではありません。万人に与える影響を考えて記事を書くべきです」

「……ふうん。いろいろと考えているんだな」

 

俺には彼女と議論するだけの知識はないので、気の抜けた返事になってしまった。

やはり、職業新聞記者だけあって、彼女の言葉には含蓄の深さを感じた。

これまで新聞をそんな観点から読むことがなかったから、あまりピンと来なかったが。

 

文は、その考えを自らの戒めにして、日々の新聞作りをしているのかもしれない。

『新聞は、自身を投影するものではない』か。

改めて頭で反芻すると、なかなかどうして含みのある言葉に思えてくる。

 

 

……小難しく考えていたら、腹が盛大に鳴った。

昨夜は夕食を食べられる状態じゃなかったし、今朝も寝過ごしてしまった。

いや、そもそも文も朝食を食べていないじゃないか。

これは、客を預かる家主としてあり得ない大失態だった。

しかし、過ぎてしまった時間は戻せない。

ここは、せめてものお侘びとして、昼食は文のリクエストを聞いてみよう。

 

「これから昼食を作るけど、何か食べたいものあるか? あと、食べられないものがあったら遠慮無く言ってくれ」

「作っていただけるのなら何でも嬉しいんですが……鶏肉だけはちょっと」

 

へえ、鶏肉が嫌いなのか。

鶏皮のツブツブした感じが嫌という人もいるし、そう珍しくはない。

 

「鶏肉が嫌いなのか?」

「いえ、決してそういうわけではないのですが……」

 

文にしては、珍しく歯切れが悪かった。

 

「同族を食べるわけにはいかないんで……」

「ああ……そ、そうだよな。ごめん」

「いえ、まあ」

 

……あまりにも切実で、二人揃って歯切れが悪くなった。

そういえば、彼女は『烏』天狗だったな。

 

 

 

 

昼食を作るため、エプロンを着けて台所に立つ。

ちょっと不本意ではあるが、台所は衛宮士郎にとって土蔵と同じぐらい落ち着く場所だ。

 

「あー。そういえば、米を炊いてなかったな。完全に忘れてた」

 

昨夜は何の準備もせずに寝てしまったので、炊飯器の中身は当然カラだ。

仕方がない、今回は圧力鍋を使おう。

圧力鍋であれば、通常の何倍もの早さで米を炊けるからだ。

昼食で使い切るなら、少し多めに三合ほど炊いておけば十分だろう。

 

しかし、鶏類が駄目となると卵はおろか鶏ガラといった調味料も使えない。

俺からすれば、鶏肉と卵が使えないのはそこまでの問題じゃない。

それよりも、幻想郷という土地の食文化が全く想像できないのが問題だ。

文は何でも良いと言ってくれたので、何度もしつこく確認するのも気が引けてしまう。

かといって、あまり食べ慣れていないものを出すのもよくない。

 

「じゃあ、天狗の好物といえばなんだろう……」

 

射命丸文という個人ではなく、天狗としての射命丸文を考えればいい。

同じ妖怪とカテゴライズされる河童ならキュウリであり、猫又だと魚だろうか。

その観点から考えると、自ずと答えが見えてくるはず。

そう、天狗は大層な酒豪だと聞く。文の荷物のなかにも酒瓶らしきものがあった。

それに、酒なら貰い物含めて色々とある。

 

「……駄目だ。昼間から酒を出す馬鹿がどこにいる」

 

そもそも酒は、あくまで嗜好品であって空腹を満たすものでもない。

 

それと天狗といえば、山伏の姿を想像する。それじゃ、精進料理か……?

今ある冷蔵庫にある材料だけでは、精進料理としては本当に質素なものしか作れない。

それに、動物性タンパク質も肉体を作る上で重要な栄養素だ。

寺暮らしの一成も、食事に肉っ気が足りないとよく嘆いていた。

 

「……あまりごちゃごちゃ考えるのも良くないな」

 

頭の中だけで解決するのではなく、台所の相棒である冷蔵庫と相談した結果。

無難に鮭を焼くことにした。鮭の旬は秋から冬かけてだ。

冬の鮭もよく脂が乗っていて、グリルで焼くだけでも十分に美味しく作れる。

 

それと作り置きのほうれん草のお浸しが、冷蔵庫に入っていた。

後は、ジャガイモとタマネギの味噌汁でも作ろうか。

昼食にしては朝食みたいな献立だったが、これなら和食中心で間違いもないはず。

よし! じゃあさっさと作ろうか――。

 

「手伝いましょうか?」

「うわぁ!?」

 

居間で新聞を読んでいたはずの少女が、ひょっこりと台所に顔を出した。

不意を突かれた状態で話しかけられたので、少し大げさに驚いてしまう。

 

「あ、いや、文は居間でお茶でも飲んでいてくれ」

「いえいえ、手伝わせてくださいな」

「昨夜も言ったけど、文は大事なお客様だ。客に働かせるわけはいかない」

 

昨日今日の知り合いに台所に立ってもらうなんて、衛宮士郎にはできない。

 

「なので、居間にいてくれると助かる」

「いいえ、少し働かせてください。家主が働いているのに何もしないで平気なほど、居候の私も厚かましくはないです。幻想郷の住人は自分のことしか考えてない人間や妖怪ばかりですけど、私は彼女たちとは違いますから!」

 

そう声高に力説する烏天狗の少女。幻想郷って一体。

 

 

結局、文の舌鋒に押し切られる形で、手伝ってもらうことになった。

手始めにタマネギとジャガイモでも切ってもらおうか。

包丁を握る手つきは想像以上に慣れており、食材を綺麗にカットしていく。

この感じからして、普段から自炊をしているように思える。

漫画やアニメにあるような『まな板ごと食材を切断』なんて失敗も当然ない。

 

……一瞬、セイバーの顔が浮かんだような?

 

「文は一人暮らしなのか?」

「ええ、まあ。だから家事は一通りできますよ。ちょっと水道をお借りしますね」

 

扱い方も知っているのか、慣れた手つきで蛇口をひねる。

『幻想郷にも水道はあるのか』と危うく口に出そうになった。

極めて失礼な想像だが、幻想郷は各種ライフラインとは無縁な場所だと思っていた。

 

「ふふ。一部だけですけど、幻想郷にも水道は通っていますよ」

 

……俺って、そんなに顔に出やすいのかな。

水道を使う文を見ていた時点で、バレバレだったかもしれないが。

 

「幻想郷にも水道はあるんだ」

 

確かに人間はもとより、文のような妖怪も生きる上で水は必要だ。

幻想郷も俺が思った以上に普通の場所なのかもしれない。

 

「はい。魔法使いなんかが水道工事の請負をしていますね」

「魔法使いの水道工事……?」

 

それは、俺の知る普通から些か逸脱していた。

魔法使いなら地下に水道管を引くというより、魔術で源泉から水を転移させる姿を想像する。

そっちの方がしっくりきた。

空間転移は、この世界だと魔法の域に達する大魔術だけど。

 

「~~♪」

 

こうして並んで台所に立っていると、昨晩の死闘を収めた立役者とは思えなかった。

包丁を使う彼女の姿は、あくまでどこにでもいる普通の少女だ。

 

同じ少女のサーヴァントであるセイバーは、抜き身の刃のような鋭さがあった。

……敵対している俺たちの前なのもあるだろうが、彼女の在り方は西洋の騎士そのものだ。

文は必要のない時は翼も隠しているし、大体はニコニコと笑っている。

自分の実力を見せるのが好きではないのか、意識的に力をセーブしているかもしれない。

 

 

食卓を挟んで、天狗の少女と少し遅めの昼食を取る。

文は、焼き鮭の骨を奇麗に取り除いてから、鮭とご飯、味噌汁を啜っていた。

主食、主菜、汁物の順の三角食べという食事方法だ。

それに、なんというか……見ていて気持ちがよくなる食べっぷりだった。

とても美味しそうに食べているし、姿勢も綺麗で上品さも感じる。

 

「そういえばだけど……サーヴァントにも飯は必要なのか?」

「つまり、私めに食わせるような飯はないと。およよよ……そんなご無体な」

 

顔を手のひらで覆って、さめざめと泣いた。

 

「いやいやいや、そうじゃなくて、食べる意味はあるのかってことだ」

「ああ、そういうことですか。それはですね――」

 

彼女の話によると、文はほかのサーヴァントとは違って、霊体ではなく肉体を持っている。

自分の肉体であるため、本来必要なはずのマスターからの魔力供給も不要という。

魔力保有量が大したレベルではない俺としては、実にありがたい話だ。

 

「あれ? 待てよ?」

 

考えてみたら、彼女にとって俺の存在は必要ないんじゃないか?

その旨を伝えると文は「とんでもない」と一蹴した。

 

「私は士郎さんとサーヴァント契約によって結ばれていることが重要なのです。その左手の甲にある令呪が私とあなたを繋ぐための『かすがい』です。本当に重要なので、絶対に忘れないでくださいよ」

 

令呪について強調する。

これは俺がマスターである証であり、サーヴァントへの絶対命令権だと説明を受けていた。

確かに、聖杯戦争において重要なファクターだと思うが、そこまで強調するまでなのか。

 

「まあ、何が言いたいかというと、私がご飯を食べるのは生きる上で必要不可欠です」

 

少しはぐらかされた気もしたけど、気にするほどでもないだろう。

つまり、射命丸文は肉体を持って存在しており、腹も減るし眠くもなるのだ。

 

というか、彼女の食事のペースを見ていると、炊いた米で足りるのか心配になってきた。

美味しい美味しいと、上品ながらもバクバク食べる。

居候は三杯目のおかわりはそっと出す、なんて格言は迷信だったようだ。

今回の聖杯戦争で、ここまで食に執着するサーヴァントは文以外にいないだろう。

 

……なぜかまたセイバーの顔が浮んだが、ストイックな剣の少女だ。

普段は遠坂の魔力で賄うだけで、稀に遠坂とアフタヌーンティーでも嗜んでいるかもしれない。

 

「おかわりください!」

 

そうして、天狗の少女は四杯目も茶碗も笑顔で出してきた。

これでもう鍋の中は空だ。

さっき『自分は厚かましくはない』と言ってなかったか?

そんな自称謙虚な烏天狗が言う、厚かましい住人だらけの幻想郷は想像するのも恐ろしかった。

 

勿論こうやって、食事を楽しんでくれるのは料理人冥利に尽きる。

決して、手の込んだ料理ではないが、作った甲斐があった。

こうやって遠慮せずに食べてくれるのは、迷惑と思わないし、逆に嬉しいぐらいだ。

気を遣わないでいてくれた方が、彼女との距離が近く感じるのもある。

 

まだ知り合って一日も経っていないが、彼女とはうまくやっていけそうに思えた。

 

それに、昨日は文に散々迷惑を掛けたし、俺に至っては何もできなかった。

その時の借りを、食事でもなんでもいいから返したい。

大げさかもしれないが、本当にそう思う。

結局、彼女は四杯目で箸を置いた。今は満足そうな顔で熱いお茶を啜っている。

 

 

「……そういえば、士郎さんが寝ている間に廊下の黒い物体が大きな音を出してましたよ」

 

ふと、思い出したかの様に文が言う。

黒い物体……ああ、電話か。

 

「ちょっとビックリしましたが、あれは何の道具ですか?」

「ああ、あれは電話といって、遠くにいる相手とやりとりをするためのものだ。多分、俺に用のある人が電話を掛けてきたんだと思う」

「ほー、これが電話ですか。名前だけは知っていましたが、現物は初めて見ました。……しかし、かなり長い間鳴っていましたが、放っておいて大丈夫でしたでしょうか?」

「文は別に気にしないでいいぞ。火急の用事だったらまた掛けてくると思うから」

 

恐らく弓道部に顧問として出ている藤ねえが、弁当を作って持ってきてくれとかそんな用件だろう。

姉に厳しい弟としては、無視して然るべき案件だった。

 

『士郎ー、お腹減ったよぅー。お姉ちゃん、士郎の作った鶏の唐揚げが食べたいなー』

 

俺の脳裏にはそう宣う藤ねえが容易に想像できた。

しかし、よりにもよってなぜ鶏の唐揚げ。

暫くの間、衛宮家では鶏料理が出ないと決まったばかりなのだ。

でも、禁止されると途端に鶏の唐揚げが食べたくなるのはなぜなのか。

 

「……はて? 私の顔を見てどうかしましたか?」

「いや…………なんでもない」

 

 

 

 

午後になって、俺は文と二人で町を探索する。

冬木はこれから、魔術師とサーヴァントによる戦争の舞台になる。

これは、素人なりの考えだが、地形の把握は聖杯戦争において重要だと思ったからだ。

 

文は俺のそんな考えを知ってか知らずか、好奇心を隠せない様子で商店街を歩いている。

少し悪いと思ったが、昨夜と同様に文には天狗ルックをやめてもらった。

 

「珍しいものばかりです! うー、私が撮りたいのはこういうのなんですよ!」

 

マウント深山商店街。家から一番の近所にある商店街だ。

天狗の少女は、ふわふわと浮き足立って、商店街の店をカメラ片手で覗いている。

商店街を縦横無尽に写真に納める文の姿は、ステレオタイプな外国人観光客みたいだった。

顔立ちは日本人なので、何でもない日常をカメラで切り取る彼女は少々浮いていたが。

 

「お、士郎君! そちらの可愛いお嬢さんは士郎君の彼女かい?」

 

いつも贔屓にしている魚屋の店主からそんな声が掛かる。

 

「な! 違いますよ!」

 

いつも溌剌とした感じの良いおじさんだ。

だが、この年代の人たちは男女でいると、こういう冷やかしを入れてくるから困る。

 

「まぁまぁそう隠さなくてもいいじゃない。桜ちゃんもいるのに隅に置けないね! この色男!」

「さ、桜も違いますよ!」

 

桜も学園の後輩であって、別にそんな特別な仲ではない。

本気で勘違いしているのか、それとも単に俺をからかっているのか。

明らかに後者の反応だったが、俺はこの手の話は得意じゃない。

日曜の昼下がり、年頃の男子と女子が肩を並べて歩いていれば、無理はないかもしれない。

それに……こうして言われるまで意識していなかったと言えば、少しだけ嘘になる。

 

「では、おじさん。一枚どうですか?」

「おっ! じゃあ、おっちゃんを男前に撮ってくれよ!」

 

文は魚屋店主の話に否定も肯定もせずに、いつも通り社交的に接していた。

そして当然のように写真を撮る。

店主もサービス旺盛で、大きい魚を片手で掲げてポーズを取った。魚はアイゴか。

それにしても、ノリノリであった。

 

商店街を歩いていると、馴染みの店から似たような冷やかしを受けてしまった。

顔見知りの多い場所を、男女二人で歩くのはあまりにも危険だった。

というより、文が否定しないから、変に勘違いされたままだし。

 

 

埒が明かないので、江戸前屋で大判焼きを買って、逃げるように公園に移動する。

そのままベンチに二人で腰を下ろした。

ここは偶然にも昨夜、文と二人で話をした場所だった。

 

「……しまった」

「どうかしましたか?」

 

座ってから気づいたが、公園のベンチで若い男女が肩を並べて甘い物を食べる――。

そんなの、ますます言い訳の立たない状況じゃないか。

冬であっても、今日は日曜日、公園にもそれなりに人がいる。

気づけば、立ち話をしていた奥様方や、遊んでいた子供までもこちらを見ていた。

子供も含めて微笑ましそうな顔をしている。

『あらあら、若いっていいわねぇ』そんなテンプレ的な会話が聞こえてきそうだった。

 

「あー、もー……」

「あもう? アモーレ? イタリア語でしたか? はて、意味はなんでしたっけ?」

 

少し恥ずかしかったが、逃げ出すことできない。

ここで逃げたら負けだ。何かに。

俺と同じ当事者の文は視線など気にせずに、大判焼きを食べ始めた。

 

「あ、なにこれ、すごく美味しい。これは……カボチャの餡ですかね? なんとも新しい発想。外の世界の食文化は進んでいるようで、羨ましい限りです」

「……ああ、ここの甘味はオススメだ」

 

何でもないフリをしながら、俺も文に続いて大判焼きを食べる。

江戸前屋の大判焼きは、人気があるのが頷ける上品な甘さがあった。

文の言う通り、大変美味だ。

種類は決して多くないが、それだけ味へのこだわりがあるのだろう。

 

糖分を摂取してから冷静に考えてみると、俺も変に意識し過ぎなのだ。

少なくとも隣の少女は、はむはむと大判焼きを食べているだけで、何とも思ってないだろう。

 

「そういえば、皆さんに恋人と間違えられてしまいましたね。……少しだけ、照れくさかったです」

 

少女が、ぽっと頬を染めた。

 

「なっ!?」

 

飲み込もうとした大判焼きを喉に詰まらせて、思いっ切りむせ込んでしまう。

無理やりに納得しようとした矢先に、俺の虚を突く言葉。

どう考えても、わかって言っているとしか思えないタイミングだった。

 

むせながら咳をする俺の背中を、文は「大丈夫ですかー」と優しくさすってくれる。

一息入れてから空を仰ぐと、そこには口角を少し上げた悪戯混じりの笑み。

 

ああ、彼女とは本当にうまくやっていけそうだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

12.異変

 

 

「で、ここが俺の通っている穂群原学園だ」

「ほー、これはこれは立派な建物ですね。幻想郷にも寺子屋はありますけど、比べられるレベルじゃないです。生徒も数えるほどでしたし。慧音先生、涙目ですね」

 

俺と文はいま、穂群原学園の校門前いた。

聖杯戦争の舞台となる冬木の地勢の確認に、各地を巡るはずだった。

だがどういうわけか、途中から衛宮士郎ガイドによる、冬木市観光案内に成り下がってしまった。

まあ、文も聖杯戦争よりも地方観光に興味があるみたいなので、今日はこれでよしとしようか。

 

深山町を中心に案内をしていたが、その中でもこの学園に一番の関心があるようだ。

俺のつたない説明にも「ほー」や「へー」など何かしらリアクションを取ってくれたし、他と比べてシャッターを切る回数も多い。

やはり、学園というシステムは文にとって目新しいものなんだろうか?

 

「……人があまりいませんけど、今日はお休みなんですか?」

「ああ、今日は日曜日だから休日だ。俺も明日からは学園に行くぞ」

 

聖杯戦争だからといって、学園は休めない。

今の生活のスタイルを崩したくないのもある。

それに聖杯戦争が始まった途端に休みだしたら、関係者だと疑われかねない。

だったら、いつも通りに学園へ通って、いつも通りの衛宮士郎を装ったほうがいい。

文も俺が学園に行くのに意見は無いようで「はあ、そうなんですかー」とやけに長閑な反応をしていた。

 

 

校門の前で文と話していると、ふと見覚えのある女子生徒の姿を見つけた。

その負けん気が強そうな眉は、同級生の美綴綾子だ。

彼女も俺の存在に気づくと、どこか不機嫌そうだった表情が一転した。

 

「お、なんだ。衛宮じゃんか」

 

制服姿の美綴は、冬のこの季節にうっすらと汗をかいている。部活帰りなのだろう。

その証拠に、肩から部活用具の入ったスポーツバッグを提げていた。

 

「美綴か。今日は部活だったのか?」

「ああ、いま終わったとこ。衛宮は休みの日にこんなところでどうしたんだ。……ん?」

 

隣にいる文に気づいたようだ。

……商店街から続いて、少し嫌な予感がした。

 

「ふうん……衛宮が知らない女の子を連れているなんて珍しいな」

 

美綴が上から下へとじっくりと観察するも、文も特に気にしていないようだった。

 

「へえ。可愛い子だけど、あたしたちより年下かな。ひょっとして、中学生? ……もしかして、衛宮の彼女かい? 薄々そうじゃないかと思っていたが、まさか本当に年下趣味だったとはね」

 

冗談か本気か、蔑むように細めた目で俺を見る。

 

「そんなわけあるか」

 

文は恋人じゃないし、当然俺は年下趣味でもない。

というか、『薄々そうじゃないかと』ってなんだ。

過去に俺が一度でもそんな態度を見せたとでも言うのか。

そう否定すると、美綴はニヤリと笑う。

 

「……衛宮にそんな甲斐性があるわけないか。あたしは美綴綾子。この学園で弓道部の主将をやっている。このロリコンとは同級生で……ま、元同じ部活の友人だな」

 

自己紹介のついでに、またしても酷いことを言われたが、いまは気にしないでおこう。

俺が美綴に反論したところで、余計にからかわれるのがオチだろうし。

 

「ご丁寧にありがとうございます。私、射命丸文と言います。……あ、こちら名刺です。よろしければどうぞ」

 

胸ポケットから取り出した名刺を渡すと、美綴は二度三度と瞬きをした。

文の名刺はこれまで何度か見る機会はあったが、渡すのに成功したのは初めてみた。

……そういえば、俺もまだ貰ってない。

それと、名刺を渡すのに成功した文の顔が、心なしか嬉しそうに見えたのは気のせいか。

 

美綴も社会人には見えない少女から、名刺を貰うなんて経験も一度ないだろう。

少し面喰らうかと思ったが、思ったよりかは気にした様子もない。

剛胆な性格をした彼女らしい反応だ。

 

「これはどうも、ご丁寧に。えっと、なになに……『文々。新聞 記者 射命丸 文 ~幻想郷最速の情報をあなたに~ 定期購読の際は直接申しつけください』」

 

名刺から一度目を離して、美綴は再び天狗の少女の顔をまじまじと見る。

それで何か納得したような顔をした。

 

「ああ、なんだ。なるほどね」

 

その態度から察するに、文を中学校の新聞部か何かだと思ったのだろう。

彼女の幼い外観を見れば、そう考えるのが普通の反応だ。

まさか真実を言うわけにもいかないので、美綴にはそう思い込んでもらうか。

 

「……へえ、これで『ぶんぶんまる』と読むのか。ちょっと洒落た名前だね。もしかして、学園一の変わり者である衛宮士郎の密着取材でもしているの?」

「まあ、そんなところです。士郎さんにはとても世話になっています」

「あははは! そうか、衛宮の変人ぶりは学園の外までも轟かせたか! こいつのお人好しぶりは異常だからな!」

 

やっぱりか、と豪快に笑う。

……どうでもいいけど、俺さっきからずっと酷いことを言われ続けてないか?

ぼろを出さないようにずっと黙っていたが、失敗だったかもしれない。

 

 

文と美綴は意気投合したようで、そこからはとりとめのない話をしていた。

『衛宮の射は神業だった』『衛宮にはいつか部活に戻ってほしい』とまあ、そんな話だ。

俺の話が中心のようだが、二人に共通の話題なんてそれぐらいしかない。

文は俺の話を美綴からうまく引き出すので、なんとも気恥ずかしい気分だった。

 

 

「……ところで、その制服可愛いですね」

 

話がひと段落してところで、天狗の少女がふいに漏らした。

赤い目を輝かせて、美綴の制服にどこか熱っぽい視線を送っている。

もしかしたら、彼女はこういった服が好みなのだろうか。

考えてみたら確かに襟首のリボンやデザインが、彼女の服装と似てるかもしれない。

 

「穂群原学園の制服は独特だからな。他県からも人気あるんだ。そうだ、だったら文ちゃんも卒業したら穂群原に来なよ。その時に私たちがいるかわからないけどさ」

 

やはり、文を中学生だと勘違いしているようだ。

……そういえば、文の実際の年齢は何歳ぐらいなんだろう。

見た目通りの年齢でないのは間違いない。

射命丸文は大人のような物腰を見せるが、時折無邪気な子供の一面も見せていた。

 

「はい、是非そうしますね! その制服を着れる日が楽しみです!」

 

食い違いが出ないよう、嘘と本当を混ぜながら当たり障りなく話している。

彼女は頭の回転が速く、その場その場で相手に合わせた話をする。

だから、俺がフォローする必要はまったくない。

 

 

「そういえばだけど、衛宮。間桐を知らないか? あいつ、副主将の癖に今日無断で部活をサボったんだ。それに桜にも確認したけど、昨日は家にも帰っていないらしくてさ」

 

美綴が思い出したように尋ねた。

あいつ……部活を休んだのか。

間桐慎二はああ見えて、部活をサボることは滅多にないから少し不思議だった。

 

美綴に言われて思い出したが、慎二といえば、昨日部室の掃除を頼まれていた。

……あれから本当にいろいろとあったので、すっかり頭から抜け落ちてたぞ。

 

「昨日の放課後に会ったけど、下級生の女子を連れて遊びに行ったみたいだったぞ。それで疲れて休んだんじゃないか?」

 

それを聞いた美綴が腕を組むと、少し不機嫌そうな顔になる。

ああ、なるほど。

最初に会った時に美綴が不機嫌そうだったのは、慎二のサボりが原因か。

 

「ふぅん……ま、あいつのサボりは今に始まった話じゃないけどな。今度あったらもう少し副主将としての自覚を持つように言ってやらんとね」

「はは、お手柔らかにな」

 

慎二は他人の言葉を素直に聞くようなやつじゃないが、決して悪いやつじゃない。

自分のすべき仕事は最後まで責任を持つし、それに決められたルールにも厳しいやつだ。

 

「じゃあ衛宮、あたしは帰るよ。それと文ちゃん、衛宮をよろしく頼むよ」

「ああ、また明日な」

「はい、さようなら」

 

そう言って、美綴は片手をひらひらさせながら帰宅した。

俺は、彼女の背中が通学路の坂に消えるまで見送る。

 

 

「あれ? これって……」

 

美綴のいなくなった直後、文は校舎の一点を見上げていた。

これは『見る』というよりも、『凝視している』といった方が正解かもしれない。

彼女の瞳の虹彩が微かに光っており、眉もひそめ表情も険しい。

 

「文、どうしたんだ?」

「……士郎さん、気づきませんか? この校舎、どこかおかしいです」

「おかしいって……。あ、おい!」

 

俺が止めるよりも先に文は正門を通って、学園の敷地内に入ってしまった。

今日は休日ではあるが、それでも私服姿なのは少しまずい。

何しろ知り合いの教師もいる。見つかったら何を言われるかわかったものじゃない。

 

そうして、文を追いかけるように、学園に入った瞬間だった。

 

「……なんだ、これ?」

 

周囲の空気が一瞬にして、変質した。

空気が見えない膜を被せたように纏わりついてくる。

それに、このむせ返るような甘ったるい臭い。すごく、気持ち悪い。

 

「文、これってまさか……」

「はい、この一帯に魔力の高まりを感じます。おそらくは、聖杯戦争の関係者によるものでしょう」

 

このタイミングである以上、文の言う通り、聖杯戦争の関係者以外は考えられない。

 

「ええと、そうですね。何かしらの結界が学園全体を覆うように張られています」

「……結界、だって?」

「ええ、効果までは不明ですが、この異質な空気。外敵から守るための物じゃありません」

「じゃあ、なんだっていうんだ……!?」

 

激情に駆られる俺とは違って、文は落ち着いた様子で首を横に振る。

 

「今はまだなんとも……。この結界の基点になっている呪刻を調べれば、多少はわかるかもしれません。ですが、私は生憎と魔術に詳しくはないので」

 

文は詳しくないと言っているが、彼女の経験上のものなのか感覚的には掴めているようだ。

 

「……この結界は発動前でしょう。そして発動すれば、建物にいる人間はただでは済まされないはず」

「なんだって……!?」

「こんな簡単に覚られる場所に、この手のタイプの結界を張るなんて……。単に無能なのか……それとも誰かを挑発しているのでしょうか?」

「クソ……誰がこんなものを」

 

……許せない。

この学園には、俺の知り合いもたくさんいる。

でもそれだけじゃない。

聖杯戦争に無関係な人たちを巻き込もうとしている。

それは衛宮士郎にとって、もっとも恐れていたものであり、絶対に許してはいけない行為だ。

 

「昨日もこんな感じでしたか?」

「……いや、昨日はこんなんじゃなかった」

「ふむ、ではこの結界が張られてからまだ浅いと考えていいでしょうね。……わかりました。私が探りを入れてみます」

 

聖杯戦争に消極的な彼女の、思いも寄らない発言だった。

 

「……文に任せてもいいのか?」

「ええ、私はブン屋ですから調査や潜入は大の得意です。……では士郎さんは先に帰っていてください。いろいろと準備するものがあるので」

「いや、俺もやれるなら手伝うぞ」

 

学園がこんな状態だというのに、何もせずに家に帰るなんて真似はしたくない。

だが文は首を横に振って、俺の申し出を断った。

 

「いえいえ、士郎さんの手を煩わせるほどではありません。というより、人手があればいいわけでもないですし。……というか目立ちますし」

 

最後の一言は、少しだけ聞き取りづらかったような。

彼女は、一体なにをする気なのか。

まさかだと思うが、犯罪行為じゃないといいんだけど。

少女の赤い目は、混じりけのない輝きをしており、そこに邪なものは一つもない。と思う。

うんまあ、悪い事ではないのだろう。多分。

 

「……わかった。俺は先に帰って夕飯の支度でもしておくよ」

 

何もできない自分が不甲斐なかったが、必要ないときっぱり言われてしまった。

俺の我儘で、文の足を引っ張るような真似はしたくない。俺は、俺にできることをしよう。

 

「ふふ。今晩も楽しみにしていますね」

 

少女が、微笑を浮かべる。

少しだけドキッとさせられたが、できるだけ平静を装って俺も学園を後にした。

普段から笑みを絶やさない彼女だが、たまに見せる妖艶さとでも言うのか。

そんな大人っぽい笑みに、ドキドキしてしまう。

……美綴の問題発言も、あながち否定できないかもしれない。

 

 

 

 

俺に隠されていた新たな一面に動揺しつつ、夕食の準備を進める。

文と学園前で別れてから、3時間ぐらい経つ。

外もすっかり暗くなったが、彼女はまだ帰ってこなかった。

サーヴァントに遭遇した可能性も考えたが、彼女はまず戦わないから大丈夫だろう。

それに、逃げ足なら随一だ。

単身の彼女を捕まえられるサーヴァントなんて、絶対にいないと断言できる。

 

今晩は、寒空の下を一日歩いたのもあって、ビーフシチューを作る。

洋食はあまり得意ではないが、外がまだ明るいうちから下拵えをしたので美味く作れたと思う。

それと、シチューを作る際に余ったジャガイモでポテトサラダ。

後は、商店街で買ったばかりのバケットを焼こうか。

 

実は、ホワイトシチューを作ろうとしたのだが、それだと鶏肉が必要なのだ。

烏天狗に鶏肉は厳禁らしいので、ちょっとだけ危ないところだった。

寒い中で何かしている文にも、シチューのような煮込み料理は丁度いいだろう。

少しでも喜んでくれたら、俺も嬉しい。

 

 

そうして夜の七時になろうとした時に、文が帰ってきた。

彼女は、いつにも増して上機嫌だった。

その様子からして、聖杯戦争絡みのトラブルには、巻き込まれなかったと見ていいだろう。

安堵を覚えると同時に、気になる点が一つ。

外出の際、彼女はカメラしか持ってなかったはずだが、今は手提げの紙袋が握られている。

お金は渡していないはずだが、彼女はどこで何を手に入れたのか。

 

「ただいま戻りましたー。おや、良い匂いがしますね」

「おかえり。寒いと思ってビーフシチューを作ったんだ。ところで……その紙袋はなんだ?」

「ほほう。それはまた美味しそうですね。これは……えー、明日までの秘密です」

 

紙袋を掲げて、アピールしてくれたが、肝心の中身は見せてくれなかった。

上機嫌を隠そうともせずに、少女は自室へと姿を消した。怪しい。すごく怪しい。

……よからぬことを企んでなければいいんだけど。

 

 

幻想郷から召喚された、射命丸文という烏天狗の少女。

彼女はいつも笑み浮かべており、人当たりが良くて、社交性も高い。

だが、その笑みは仮面の一種だろう。

何を考えているかわかりづらく、大きな感情も表に出さない。

俺が今まで一度も接した事がないタイプの人間だった。妖怪だが。

 

「まあ……それでも良いやつなのは、間違いないと思うけどな」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

13.月曜日の憂鬱 《2月4日》

 

 

校庭が視界に入る。

どこのクラスかわからないが、この寒空の下でサッカーに興じていた。

いや、興じていたというのは語弊があるかもしれない。

サッカーは授業の一環であって、決して遊びではないはず。

 

「……まったく」

 

俺はぼんやりとした頭で、そんなどうでもいいことを考えていた。

 

現在は、四時間目。

穂群原学園2年C組の俺のクラスも数学の授業の真っ只中だった。

ふと、空いた席を見る。慎二は今日学園に来なかった。

担任の藤ねえも知らない様子だったし、どうやら無断で休んだようだ。

 

美綴の話だと昨日も部活を休んだらしく、流石に心配になる。

慎二は、授業を抜け出す癖もあるが、登校そのものをしないなんて滅多にない。

桜に事情を聴いて、場合によっては探しに行った方がいいかもしれない。

大げさかもしれないが、何らかの事件に巻き込まれた可能性もある。

まさに今は、聖杯戦争が起きているのだ。

状況次第では、万が一では済まされないかもしれない。

……まぁ慎二のことだから、素知らぬ顔で昼休みに現れてもおかしくないが。

 

そういえば、今朝は桜と藤ねえも家に来なかったな。

……ひょっとしたら、今は部活の忙しい時期なのだろうか。

桜は今年の一年だと期待の新人だし、藤ねえに至っては弓道部顧問だ。

それなら慎二がサボったのを、美綴があそこまで気にしていたのも納得できる。

 

 

今朝。

朝食をとってから、文に学園へ行くと告げて、いつも通り登校した。

聖杯戦争の渦中なので、学園に行くのを止めるかもと思ったが、それは杞憂で。

彼女は、玄関先まで俺を丁寧に見送ってくれた。

……その時、やけに含みのある顔をしていたのは、ちょっと気になったけど。

 

学園の敷地に入ると、昨日と同様に甘い匂いがした。

学園に張られた結界の力が増したのか、昨日よりも不快感が酷くなっている。

徐々にだが、結界は完成へと近づいていた。

 

ほかの生徒は普通の様子だったので、俺のなけなしの魔力と反応したのだろう。

この事態を誰かに伝えようとも考えたが、間違いなく頭がおかしなやつだと思われるだけだ。

 

その後は何もなく、いつも通りの授業が行われた。

しかしこの平穏も、次の瞬間には破壊されるかもしれない。

それだけは何があっても阻止しなければ――。

 

昨日、文はこの結界について調べてくれると言っていた。

今はそれに希望を託すしかない。

 

「…………くそ」

 

文に頼りっきりで、何もできない自分に歯噛みする。

やり場のなさに、焦燥感だけがいたずらに募っていく。

俺にもなにかできないだろうか?

 

俺にできること――それは強化の魔術だけ。

それも成功率も低い。

仮に成功しても、サーヴァント相手に通用するものじゃない。

そんなの、何もできないのと同じじゃないか。

……いいや、違う。

何もしないうちから諦めてどうする。

俺にも、やれることが絶対にあるはず――。

 

 

「衛宮殿、下級生が呼んでいるでござるよ」

 

没頭していた意識を現実に戻すと、俺の前に後藤くんがいた。

彼は、妙に時代がかった胡散臭い口調だった。

また例によって、テレビか何かで見た時代劇にでも影響されたのだろう。

四時間目の授業は、俺が思考に没頭している間に終わっていた。

だから、今はもう昼休みにある。

 

「む、すまん。それでなんだって?」

「廊下で下級生が衛宮殿を呼んでいるでごわす。……しかし下級生の女子とは衛宮殿も隅に置けないでござるな」

 

ごわす……?

まあ、その下級生は間違いなく桜だ。

俺に繋がりのある女子の下級生なんて他にいない。

しかし何の用だろう?

桜が俺のクラスまでわざわざ来るなんて珍しい。

ひょっとしたら、行方不明の慎二についてかもしれない。

 

「ああ、ありがとう。後藤くん」

「なになに、礼には及ばないでござる」

 

俺は、席を立つと走らない程度の速度で教室を出る。

 

「あれ?」

 

リノリウムの廊下を見渡すが、桜の姿はどこにもなかった。

彼女は大人しい性格ではあるが、意外と目立つ外見をしている。

だから昼休みで、人通りの多い廊下であってもすぐにわかるはずだけど。

 

「士郎さん」

 

背後から声を掛けられた。

可愛らしい声ではあるが、張りもあって意志の強さを感じさせた。

聞き覚えはあるが、これは桜の物ではない。

というか、この声は今朝も聞いている。

 

後ろを振り向くのが非常に怖い。

というか、振り向かずに、このまま全力疾走をしたい気分だ。

万が一、別人である可能性も捨てきれない。むしろそうであってほしかった。

 

「…………」

 

僅かな可能性にかけて、ぎりぎりと音を立てながら振り向く。

そこには、見知らぬ女子生徒がいた。

よかったよかった。知らない女子だ。じゃあ、この子は誰だろう?

 

「――ふふ」

 

いや……知らないのは服装だけであって、その顔は俺のよく知るところじゃないか。

突然の事態に対して、俺の頭の回転が著しく鈍くなっている。

 

「来ちゃいました」

 

来ちゃったかー。

そこにいたのは、とっておきの悪戯に成功して喜ぶ射命丸文の姿だった。

どこで見つけたのか、彼女は穂群原の制服を着ている。

 

……こんな時、人はどんな反応をすればいいんだろうか。

人は過去の行動と照らし合わせて、最善の行動を取るように学習する。

つまりは、経験だ。

留守番をしているはずの文が、どうしてか俺の学園の制服を着こなして目の前にいる。

二十年にも満たない俺の人生において、これと似た経験はない。あるはずがない。

一語一句を違えずに、不測の事態と言えた。

 

俺のちっぽけな脳味噌は機能停止寸前であり、思考が正常に働いてくれない。

制服を着て、はにかむ文の顔が綺麗だと思っただけ。……俺はもう駄目だ。

 

「どうですか? 似合いますか?」

「あ、ああ……」

 

確かに似合っていた。

私立穂群原学園の女子制服。

赤いリボンタイで飾られた白のブラウス、薄茶色のベストに黒のスカート。

彼女が普段から着ている清楚なデザインの服とも似ており、違和感はない。

小柄なので袖が少し余っていたが、それもまた少女の可愛さを引き立てている。

 

「ふふ。ありがとうございます」

 

文は嬉しそうに、その場で一回転する。

少女のスカートが遠心力によって、ふわっと浮かんだが中身は見えなかった。

待て、俺は何を期待している。

 

「突然で申し訳ありませんが、一枚撮ってくださいますか?」

 

肩にかけていたカメラを俺……ではなく、廊下を歩いていた男子生徒に渡す。

 

「え?」

 

彼はわけのわからない顔のまま、古めかしいカメラを丁重に受け取った。

 

「私と士郎さんとのツーショットでお願いします」

「えええ!?」

 

突然のお願いに驚く男子生徒。

奇しくも俺も同時に声を上げていた。見事にハモっていた。

 

呆然と立ちつくす俺に、腕を絡めて抱きつく少女。

男子生徒は簡単な手ほどきを受けると、言われたままにシャッターを押した。

天狗の少女はカメラに向かって笑っていたが、衛宮士郎はさぞ滑稽な顔をしていただろう。

 

「ありがとうございます。おかげで素敵な写真になりそうです」

「……あ、うん」

 

少女は、状況を飲み込めていない男子生徒からカメラを受け取るとお礼をいった。

俺もだ。彼と同様、俺もまったく状況を飲み込めてない。

 

『……………………』

 

そして一連の騒ぎに何事かと、教室からずっとこちらを覗いていたクラスメイトたち。

 

「衛宮のやつ、また下級生をたらし込んでいるぜ」

「何だと! 間桐の妹だけじゃないのか!」

「普段は仏頂面なのに、やることはやっているんだな。ちくしょう」

「まあ! まあまあまあまあ! 『士郎さん』! 『士郎さん』ですって!」

「……あんな可愛い子、うちにいたか?」

「衛宮氏はロリコン野郎だと思っていた。だって同じ匂いがしたし」

 

ひそひそとこちらを窺う同級生の視線が、俺の精神に強烈なダメージを与える。

しかも謂れのない噂まで立てられている。もう泣きそうだった。

……これはマズい事態になりかねない。

現状で十分にマズい事態だったが、それについてもう泣き寝入るしかない。

 

一番の問題は、文を知っている人物に見つかる可能性だ。

特に遠坂や美綴に見られてはいけない。

大体の事情を知っている遠坂は問題ないかもしれないが、美綴は駄目だ。

昨日の時点で、うちの生徒ではないと知られている。

見られてしまったら、その時点で言い訳のしようがない。

二人とも何かと鼻が効くので、早急にこの場を離れるのが得策だろう。

 

「あっ……士郎さん」

 

そう結論に達すると、俺は文の手を握り無言で歩き出した。心持ち早歩きで。

 

「お、おい! て、てて、手を握っているぞ!!」

「やっぱり、衛宮と……」

「逢い引き……不潔だわ」

 

そんな声が聞こえたが、聞こえなかった。

それなのにどうしてか、耳が痛い。心が痛い。

 

 

 

 

今日ほど、屋上に誰もいなくてよかったと思った日はなかった。

本来は立ち入り禁止なのだが、昼休みともなれば生徒がいる時もある。

もっとも、こんな寒い時期に屋上に行く物好きもいないかもしれないが。

 

「…………」

 

文は、黙って付いてきてくれた。

俯いたまま俺に手を引かれていたので、すれ違った生徒に変な顔をされた。

絶対に狙ってやっていたが、それを立証するための証拠はなかった。

 

とりあえず、開口一番に何を訊くのかは決まっている。

 

「……それで。どうして文がここにいるんだ?」

「潜入調査です」

 

一秒の間もなく、あっけらかんと答えた。

腰に手を置いて、胸まで張っている。

あ、なんかもう目眩がしてきた。

……でも詳しく聞いておく必要はある。

 

「潜入調査?」

「ええ、そうです。結界を調べるのに学園内では私の姿は目立ちます。木を隠すには森の中。ここの生徒の一人に成りすませば、目立たないという考えに至りました」

 

昨夜、文が持っていた紙袋には制服が入っていたのか。

そして『目立たないため』と言いながら写真を撮らせていたのは何の冗談か。

それに制服の出所も気になった。

まさかとは思うが、他の女生徒から盗んだんじゃ。

というか、それしか思いつかない。

 

「その制服はどうしたんだ?」

「これですか? 借りただけです」

「借りた?」

「ええと。職員室……ですか? そこに保管してあったものを」

 

ああ、なるほど。

おそらく彼女の着ている制服はこの学校のサンプル品だろう。

学園の説明会などでマネキンに着せているものだ。

だとしても、それを部外者に貸す教職員なんているはずもない。

 

「……もしかして、無断で持ち出したのか?」

 

途端にばつが悪そうな顔をした。

昨日帰りが遅かったのはまさか学園に忍び込んで、この制服を探してたんじゃ。

 

「……ま、まあ。そうともいいますかね。いえ、私は借りたという認識ですし、それにどこかの魔法使いみたいに『一生借りるだけだぜ』なんて馬鹿はいいません。必要がなくなったら、ちゃんとお返ししますとも!」

 

貸し借りは双方の同意があって、初めて成立する。

彼女の言っているのは、ただの言い訳だ。

しかし、女性徒から盗んだのなら大問題だが、文が着ているのは今は使われていない制服だ。

本来ならすぐに返すべきだが、今は学園の一大事でもある。

文がここの生徒に扮装することで最善を尽くせるのなら、しばらくは目を瞑ってもらおう。

 

……昨日は日曜日だとしても、部活の顧問や宿直なんかで職員室に先生がいたはずだ。

その状況で、どこにあるかもわからない制服を手に入れたのか。

 

「なあ、文。職員室には誰もいなかったのか?」

「……ああ、いましたよ。でも私なら愚鈍な人間が何人いても気づかれずに行動できますが」

 

少しだけ、彼女の本性を垣間見た気がした。

というよりも、何人いても見つからない自信があるのなら制服なんて必要なくないか?

 

 

 

弁当は持ってきていたが、教室に置いたままだった。

教室に戻ると愉快な審問会が始まりそうだったので、購買まで走ってパンと飲み物を買ってきた。

当然、文の分も買ってきたが「もう家で食べました」との返答。そうですか。

 

二人して屋上のフェンスに寄りかかり、少し遅めのランチを取る。

無言ではあったが、雰囲気はそう悪いものではない。

吹き抜ける冬の冷たい風が、購買を往復して火照った身体にも心地よい。

 

「こら! まだあるから取り合わない!」

 

文はいつの間にか、集まっていた数匹の烏にパンを与えていた。

烏は俺たちを恐れる様子もないどころか、異様なまでに礼儀正しかった。

餌を貰って、神妙に頭を下げる烏なんて初めてだ。

文が烏は頭を掻いてやったら、彼らは一鳴きしてどこかに飛んでいった。

 

「士郎さん」

 

烏が飛び去るのを眺めながら、落ち着いた声で俺の名前を呼ぶ。

彼女の声色に真剣味を感じて、口のなかの根菜パンを牛乳で流し込んだ。

 

「んぐ。……で、どうしたんだ?」

「学園に張られた結界の基点はここです」

 

屋上の一角を指差した。

 

「呪刻はここ以外の場所でもいくつか発見しましたが、これが血の結界の源流でしょう」

 

目に魔力を通わせて、初めて気づく。

文の指差した先、そこには血の色で描かれた呪刻が刻まれていた。

呪刻から異様な魔力とともに腐り落ちた果実の臭いがした。

 

「――これ、は」

 

これはヤバい。

俺なんかがどうにかできるものなんかじゃない。

見ているだけで、頭がどうにかなってしまいそうだ。

俺は、何も気づかないで、こんなものの側で飯を食べていたのか。

昼食をすべて吐き出しそうになるが、何とか抑え込む。

 

「……文、これをどうにかできるか」

「無理ですね。私の持ちうる手段をすべて使ってもこの結界は破壊できません」

 

あらかじめ答えを用意していたように、文はきっぱりと答えた。

 

「どんな呪術的作用があるかわかりませんが、ただ強力なのは理解できます。人間に作れるような代物ではありません。サーヴァントの仕業と見て間違いないでしょう」

「……じゃあ、この結界を消すにはどうすればいいんだ?」

 

そう質問しながら――それだけは、わかっていた。

半人前の魔術使いでしかない俺でも、その答えは知っていた。

それを文の口から言わせようとする俺は、あまりにも卑怯者だった。

 

「この結界を張ったサーヴァントを見つけて止めてもらう。可能ならそれが一番。でもそれはまず無理」

 

次に文の口から出る言葉は、一語一句違わずに予想ができた。

 

「だったら結界を張ったサーヴァントか、そのマスターを殺すしかないわ」

 

俺の心中を察しているのか、酷くつまらなそうに答えを言う。

 

「…………そう、だよな」

 

冬の冷たい風が、屋上に吹いた。

魔術師であるマスターは別として、サーヴァントは人間ではない。

だが、ヒトの形はしている。それを俺は殺せるのか。

それはつまり、文やセイバーのような存在を俺は殺すことができるのか。

それと同じ意味だった。

 

サーヴァントを殺す。……ああ、できるさ。

その覚悟は、正義の味方になると誓った日からできていた。

切嗣に託された理想は、俺のすべてであり、何があろうと絶対に揺るがない。

 

 

「――――」

 

そう決意を改めた俺に、文は初めて見せる顔をしていた。

彼女は無表情だった。

まるで俺に対しての興味を失ったかのような、つまらないものを見る顔。

 

風が途端に強くなった。

聞こえるのは、悲鳴のように鳴る風の音だけ。

さっきまで心地よく思えた風が、肌を冷たく刺す。

 

そして沈黙を破ったのは、錆付いた屋上の扉が開く音だった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

14.人ならざるモノたち

 

 

沈黙を破るのは、決まって第三者だ。

物語では、そう相場が決まっている。

しかし、第三者が必ずしも事態を好転させるとは限らない。

だけど、今はそれでもよかった。

 

屋上に二人。マスターとサーヴァント。

沈黙と静寂、そして冬の冷たい風が世界を支配する。

俺は、天狗の少女に自分の真意が覚られてしまった。

衛宮士郎という男は、自分の正義に反するものを背中から刺せる存在なのだと。

 

「――――」

 

天狗の少女は、俺という存在を見定め、見透かしている。

彼女は、俺をどう思っているかはわからない。

でも、これだけはわかる。

彼女は今、仲間に向けるような目をしていない。

敵意を向けているわけでもない。

それは、とてもつまらないものを見る、そんな目だった。

 

ああ……耐えられない。

とてもじゃないが、耐えられそうもない。

少女からは、威圧感などはなく。

だけど、温かさもなければ冷たさもない。

ただ、乾いていた。

僅かな侮蔑だけを残して、乾き切っていた。

社交的な笑みを浮かべていた少女が、こんな視線を向けてくる事実に耐えられない。

口の中が乾く。

唾液すら飲み込めないほど乾いていく。

 

……この世界を壊してくれるのなら、なんだっていい。

どうか俺を、ここから助け出してほしい。

 

だけど。

この時が初めてだったと思う。

俺は、射命丸文という妖怪をほんの少しだけ理解できた。

 

 

 

 

錆びた鉄の扉の音が高く鳴り、沈黙と静寂のなかにひとつの亀裂が入った。

凍てついた世界を氷解させる、第三者。

 

つまり、遠坂凛が姿を見せた。

 

「……驚いた。騒ぎを聞いてまさかとは思ったけど、本当に学園にサーヴァントを連れてくるなんて」

 

遠坂が目を丸くして、制服姿の文の姿を見る。

やはり、遠坂も文の着ている穂群原学園の制服が気になるようだ。

 

「こんな手を使って、サーヴァントを自分の側に置くなんてね。こんな普通の魔術師には想像の外よ」

「――ふふふ。なかなかの名案でしょう」

 

制服を見せびらかすように、スカートの両端をつまんで頭を下げる。

今までの態度が嘘だったように、妖怪少女はいつもの微笑を浮かべていた。

俺は、安堵と同時に戦慄を覚えた。

射命丸文が、あの素顔を今に至るまでずっと隠していたことに。

 

「はあ……。それで、結界の基点はどうやらここのようね。……で、ここにいるあんたたちが犯人?」

「ち、違う! 俺たちはやっていない!」

 

遠坂は俺の態度に驚きもしないで、苦笑を漏らした。

 

「わかっているわよ。あんたが結界を仕掛けたにしては矛盾が多すぎるし。何よりあの衛宮君がそんなことをするはずがない。……ずっと変な顔をしていたから、少しからかってみただけ。ごめん、謝るわ」

 

変な顔?

咄嗟に触ってみたが、それで自分の表情がわかるはずもない。

それでも、顔の筋肉が少し強張っているのはわかった。そしてその原因もわかる。

射命丸文。烏天狗の妖怪少女。

俺は、彼女を初めて恐ろしいと思ったからだ。

 

いや……違う。

よく考えてみろ、衛宮士郎。本当は初めてではないはず。

それをわかっていながら、都合よく目を逸らしているだけだと。

 

文を召喚した夜、ランサーと対峙した時。

その時に俺は彼女をどう思った? どう感じた?

ヒトとしての本能が、警鐘を鳴らしていなかったか?

それも単純で明快な理由。

原始から始まる自然の理――つまり、弱肉強食。

俺は、彼女に比喩でも何でもなく言葉通りに『彼女に――われる』と思わなかったか?

 

横目で文を窺うも、これまでと違った様子はない。

怪訝に彼女を見る俺を不審に思ったのか『どうかしましたか?』と視線がそう訊いてきた。

文は俺の強張りの原因を、本気でわかっていないようにも思える。

 

じゃあ、さっき彼女が見せたあれはなんだったのか。

嘘だったかのように、今の彼女はあまりにも普通で、肩の力が急激に抜けてしまう。

……それならば、あれは気のせいだと思いたい。

俺の疑心暗鬼から来る思い込みで、彼女の口から直接なにかを言われたわけでもない。

出会ってからまだ一週間も経ってないのに、あまりにも失礼な態度だ。

それを直接伝えるわけにもいかないので、心の中で反省をする。

 

得体のしれないところはあるが、文は良いやつだ。今はまだ――そう信じよう。

 

 

 

 

遠坂は俺たちを無視して、結界の基点を調べていた。

時折「やば」「こんなのどうしようもならない」と驚きと落胆を漏らす。

つまりは、俺たちと同様の反応をしている。

この結界は、優秀な魔術師である遠坂にも手に負えないものなのだ。

 

「ふうん」

 

その間、文は俺が購買から買ってきたテトラパックの牛乳を飲んでいた。

飲み終えると、空になったパックを手のひらに隠れるほどの握力で握り潰す。

 

「……それで、凛さん」

「なに? ちょっと忙しいんだけど」

 

俺たちを無視して結界を調べている遠坂に、文が話し掛ける。

 

「あなたは敵対する私たちの前に現れてどういうつもりですか? もしかして、サーヴァントを従えずとも私に勝ち目があるとでも?」

 

彼女の口から出たのは、俺の想像からはかけ離れた台詞だった。

それは、今まで第三者であろうとした文には信じがたいものであり、間違いなく遠坂を挑発している。

 

「お、おい、文! どうしたんだ!?」

 

遠坂は俺たちを無視していたが、ある一定のレベルで警戒していたのだろう。

大して驚いた態度も見せずに、俺たちのほうを向く。

 

「へぇ、そっちがその気なら私はいいわよ。確かに今はセイバーを連れてきてないけど、サーヴァントは令呪を使えば呼べるの。……もしやり合う気があるのなら、人払いの結界を張ってあげてもいいわよ?」

 

遠坂凛の性格を考えれば、相手が誰であろうと売られた喧嘩は間違いなく買う。

喧嘩を吹っ掛けられたら、トイチを超える利子付きで返してくるだろう。

 

遠坂は右手を掲げ、制服のボタンを外すと袖をまくった。

手の甲に赤い光を放つ、三画の令呪。

……俺の左手にある令呪とは形状が違ったが、あれが遠坂の令呪なのだ。

聞いた話だと使うごとに一画ずつ失っていくらしいが、彼女の令呪はすべて健在だった。

 

「随分と迂闊ですね。敵である私に令呪を晒していいのですか? あなたが魔力を込める前に私の風がその腕を切り刻みますよ?」

 

文を良いやつと思おうとしたのも束の間、遠坂に対して取り返しのつかない言葉を投げかけた。

 

「ふん。やれるものならやってみなさい。それよりも早くセイバーをここに呼んでみせる。そして、私には指一本触れることなく、セイバーがあんたの首を切り落とすわ」

 

売り言葉に、買い言葉。言葉と言葉の応酬だった。

ひょっとしなくても、これはマズい状況ではないか?

聖杯戦争に消極的だった文が、急に妙なやる気を見せている。これはどういう心境の変化なのか。

 

そんな、一触即発の張り詰めた空気のなか。

次に文が何か動きを見せたら、遠坂は間違いなくセイバーをこの場に呼ぶ。

そうなったらもう止まらない。止まりようがない。

聖杯戦争のルールに則って、サーヴァントによる命の奪い合いが始まってしまう。

 

しかも、ここは学園の屋上。

昼休みという活気のある時間に、サーヴァント同士の戦い。

それは俺が、一番回避したい事態。絶対に壊されてはいけない日常の一コマ。

それを知り合いの二人が、今まさに壊そうとしている。

 

 

「はぁ……隠れてないでそろそろ姿を見せたらどうですか? これだと私が馬鹿みたいです」

 

文の嘆息混じりの一言によって、遠坂が令呪を発動させようと構えた時だった。

 

こちらに向かって、放たれた何かの物体に気付く。

鈍い光を放つ金属が――遠坂の頭を後ろから撃ち抜こうとしていた。

 

「……ッ!」

 

俺が気づいたのは、ただの偶然だ。

飛来する金属が日光を反射させなければ気付くことなく、遠坂が死ぬのを待つだけだった。

しかし、気づいたところでどうなる……!

俺と遠坂は離れた位置にいる。何をどうしようが間に合わない……!

 

「遠坂!!」

 

駆け出しながら、せめて遠坂に気づいてもらおうと、声を上げた瞬間。

 

「――――掛かった!」

 

文が、刹那のなかを動いた。

それは、人間には認識できないスピード――天狗少女だけの世界。

射命丸文は、一瞬で遠坂に息のかかる距離まで詰め寄り、頭部を砕こうとする金属を片手で掴み取った。

 

「へえ。これは――杭? いえ、短剣ですかね?」

 

文の手に握られたのは、杭状の短剣だった。

その短剣は長い鎖に繋がれており、勢いを殺されたことで細かく振動している。

命中すれば、人間の頭なんて簡単に貫いていただろう。

 

「私たちの共倒れを狙ったみたいですが、そうは問屋が卸しません」

 

文は長い鎖を手繰り寄せようとするも、鎖は固定されたようにぴくりとも動かない。

短剣に繋がれた鎖は、屋上に設置された給水塔の後ろから伸びている。

それはつまり、遠坂を襲った犯人は給水塔の裏手、鎖の先にいるという証拠だった。

 

「え……? なに? どういうこと?」

 

あと一歩のところで死にかけた遠坂は、崩れるように座り込む。

突然の事態にセイバーを呼ぶ気もなくなったのか、目の前に突然と現れた文を見上げている。

 

鎖がギリギリと鈍い音を鳴らす。

鎖の反対側を握っている相手が、力を込めて引っ張ったようだった。

同じように鎖を握ったままでいる文の身体が、ずるずると引きずられてしまう。

 

「……綱引きですか。ですが! 我ら天狗との力比べなんて百年早い!」

 

負けじと文も鎖へと引く力を込めた。

しかし文の体型は、どこにでもいる少女と変わらないもの。

綱引きに重要な体重なんて、たかがしれているだろう。

だったら、純粋な腕力だけを使って鎖を引くしなかない。

 

……今、自分の正体を『天狗』だと敵の前でばらしていたな。

サーヴァントの正体が判明するのが、聖杯戦争における一番のタブーだと聞いていたはずだが。

 

しかし、この鎖にはどれだけの力が込められているのか。

文の履いている上履きが、コンクリートの床を陥没させた。

 

膠着状態が続くと思った矢先、次第に文の身体がずるずると給水塔のほうへと引きずられていく。

 

「う、凄い怪力。大見得切ったのに、このままだと普通に負けそうです。やりますね。ですが……!」

 

それでも、文の顔には余裕があった。

それもそのはず、綱引きはそもそも片手でやるものではない。

俺の思考が伝わったように、文は鎖を両手に持ち直した。

 

再び鎖が動かなくなり、また膠着状態が続くのかと思いきや。

 

「今回は無効試合にしてあげます……よっ!」

 

文が鎖を引くのではなく、左右に大きく振り回した。

そして給水塔の影に隠れていた存在が、白日の下に晒された――。

鎖を振り回すと、まるでハンマー投げのような状態になり、大柄な人影が弧を描く。

 

「でもこれじゃ私の反則負けかしらね!」

 

文は凄まじい遠心力を利用して、相手をコンクリートの地面に叩き付けようとしたが――。

 

「いい判断です」

 

途端、じゃらりと文の持つ鎖が力を失って垂れてしまった。

相手が鎖を寸前のところで手放したのだ。

それで空に投げ出されて落下するも、豹のような身のこなしで屋上に着地する。

 

「…………」

 

そこにいたのは。

女性らしい肉体を黒いボディスーツに包み、足下まで伸びる紫色の髪を持つ女だった。

異様だったのは、バイザーのような眼帯で両目を隠していたことか。

唯一見えている口は真一文字に結んでおり、そこには何の感情も見えてこない。

ただ立って、構えもせずに俺たちを見ていた。

視界は眼帯で隠されているはずだが、こちらを見ているのは間違いない。

 

……ただ者じゃない。

何もその異様な姿や、文と拮抗する身体能力から言っているのではない。

空気を介して伝わる気配は、俺たち人間とは別次元のもの。

この大柄な女もまたヒトとは一線を画した存在で、間違いなくサーヴァントだった。

 

「…………」

 

その女のサーヴァントは、射命丸文を最後に一瞥すると、終始無言のまま屋上から飛び降りた。

文も深追いする気はないようで、その場から一歩も動かない。

屋上のフェンスからサーヴァントが降りた地点を見たが、そこにはもう誰もいなかった。

 

「私たちに単純な力で勝てるのは、それこそ鬼ぐらいなものです」

 

文は、鎖鎌のような短剣を興味なさげに放り出す。

床に短剣の先端が接触すると、コンクリートを砕いて鈍い音を鳴らした。

 

「……あんた、いつからあのサーヴァントの存在に気づいていたの?」

 

これまで、傍観に徹していた遠坂が文に尋ねた。

あと少しで殺されていたとは思えない横柄な態度だった。実に遠坂らしいと言えた。

彼女もまた同じようにあの長身の女を、サーヴァントと判断したようだ。

どのクラスのサーヴァントかはわからないが、出で立ちと武器から考えてアサシンだろうか。

 

「ずっとですよ、ずっと」

 

遠坂の疑問に文がすんなりと答えた。

 

「私たちが昼食を食べている時も気配がありました。あのサーヴァントは私達が屋上に来る前からここにいたようですね」

「……少しも気づかなかった」

「それはまあ、仕方がないです」

 

文もそんな素振りを一度も見せなかったが、それは演技だったのか。

 

「こちらをずっと観察していたので、何度も隙を見せたのですが、なかなか動いてくれませんでしたね。随分と疑り深い性格なのでしょうか?」

「ふーん。それであんたは私を生餌にして、あのサーヴァントを見事釣りあげたと。……やってくれるじゃない」

「あややや、気づいていましたか。申し訳ないです。……あと凛さん、なかなか上手いこといいますね!」

 

形ばかりにぺこりと頭を下げたが、本心から申し訳ないとは思ってなさそうだった。

それどころか、遠坂を餌にしたことも、最初から隠すつもりはなかったようだ。

その文の態度に遠坂は顔を引きつらせるが、結果的には助けられたからか強く出られないでいる。

 

「……ふん。で、あのサーヴァントがこの結界を張ったのかしらね?」

「一連の状況証拠としては十分です。屋上にいたのも結界の様子を確認するためでしょうし。そう考えるのが妥当でしょう」

「はぁ。今日はそれがわかっただけ収穫かしらね。餌に使われたのは癪だけど、この間の借りもあるし、今日のところは見逃してあげる」

 

遠坂は踵を返して、屋上の出口に歩き出した。

 

「遠坂。俺たちは本当に戦うしかないのか。他に何か――」

 

左右に束ねた黒髪の揺れる後ろ姿に、そんな願望混じりの言葉を掛ける。

 

「……衛宮君もくどいわね。私に、何度も何度も同じコトを言わせないで欲しいわ」

 

彼女は、少し時間を置いてから振り返ると、はっきりとした口調で言う。

 

「私とあんたは聖杯戦争が終わるまでは敵同士。そこは絶対に違わない。今回は学園内でも不用意に近づいた私が迂闊だったわ。それじゃあね。……それと、もうすぐ昼休み終わるわよ」

 

それを最後に、屋上の錆びた扉が閉められた。

再び二人きりになるも、あの時とは違って、耐え難い空気には戻らなかった。

あの時に見せた文の様子もまた、サーヴァントを誘うための手段だったのか。それとも。

 

「もうすぐ、休み時間も終わりだそうです」

「そう、みたいだな……」

 

今は時計を持ってないが、じきに予鈴が鳴る時間だろう。

しかし一連の出来事に気分が高揚して、とても授業を受ける気分じゃない。

 

今回の件から、サーヴァントは昼夜関係なしに襲ってくるとわかった。

学園で文を見つけた時は驚いたが、結果として命を助けられた。

もし俺一人が屋上にいたら、遠坂ともどもこの床に落ちた短剣で殺されていただろう。

 

聖杯戦争の期間中、サーヴァントが側にいないのは自殺行為に等しい。

遠坂は、なぜかセイバーを連れずにいたが、それもすぐに令呪で呼べると言っていた。

それだけでは心許ないだろうが、遠坂も遠坂なりの対策があるだろう。

 

聖杯戦争は始まっている。

日常を守るためには、日常は過ごせないのだと、俺はようやく理解した。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

15.a bomb

 

 

午後の授業は、午前以上に身に入らなかった。

そのまま下校時間まで迎えたが、昼に起きたサーヴァントの襲撃が嘘だったように平穏に過ぎた。

 

文は、下校までの時間を学園内で待機してもらった。

流石に同じ教室というのは無理だったが、それでも他サーヴァントに対しての警戒になるはず。

俺も屋上に現れたサーヴァントに顔を見られている。

あんなことが起きた後に文を家に帰らせるのは、ただの自殺行為だろう。

 

そうして、文と並んで帰路に就く。

道中、見知った生徒が信じられないものを見る目でこちらの様子を窺っていた。

……文は人間ではないが、彼女の風貌に不自然な点はないはず。

顔立ちは若干幼いけど、この学園の生徒といっても十分に通用する。

マンモス校と言える規模でもないが、それなりに大きな学園でもある。

この学園の生徒に扮装した部外者が紛れ込んでいるなんて、誰一人として思わないはずだ。

 

「衛宮もついに……」

「あの朴念仁の衛宮君がねぇ……」

「うっそ、マジで? 衛宮の? なになに超かわいいじゃん。それに超細くね? 顔も超小さくね? アイドル?」

 

彼らは俺が聞き取れない程度のボリュームで会話をしていた。

なんとなく俺の名前が上がっているのはわかったが、内容の詳細までは聞き取れない。

もしくは、聞き取れなくてよかったかもしれない。なんかそんな気がする。

 

 

「じゃあ文は俺の授業中、図書館で本を読んでいたのか」

 

周囲への警戒は必要だったが、常に神経を張り巡らせているわけにもいかない。

通学路を歩きながら、文と取り留めもない雑談をする。

 

「図書館は知識そのものですからね。ジャーナリストたるもの情報だけではなく、知識にも敏感でなければなりません。それに幻想郷にはない蔵書ばかりで興味を惹かれますし」

「勉強熱心なんだな。……それで、まさかとは思うけど、図書館の本を持ち出してはないだろうな?」

 

いま着ている制服もそうだが、彼女は意外と手癖が悪い。

今のも半ば冗談で言ったが、少し心配になる。

家にあるものなら何を持ち出しても構わないが、学園にあるものは生徒の共有財産だ。

借りるにしても、ちゃんとした手続きを取ってもらいたい。

 

「……さ、さすがの私もそんなことはしませんよ」

 

いつも真っ直ぐに目を見て話す少女が、あからさまに視線を逸らした。

その反応に、俺には言えない何かがあるのだと察した。

文が持っている学園指定の鞄の中身をあとで確認するべきか。

……というか、鞄までも持ちだしたのか。

これも手癖が悪いのか、それとも用意周到とでも言えばいいのか。

もはや、呆れていいか感心していいのか、俺にはその判断が付かなくなっていた。

 

「……あ、そうだ。忘れてた」

 

今日は、食品の買出しをしなければならない。

商店街に寄った昨日すべきだったが、あのあと地域観光に洒落こんでいたのでその暇がなかった。

それに今晩は藤ねえと桜もうちに来るだろうし、今の冷蔵庫の中身では心許ない。

うん、そうと決まれば商店街へ寄っていこう。

 

「文、ちょっと帰りに商店街に寄っていいか? もちろん先に帰ってもいいけど、一緒に来てくれると俺も嬉しい」

「あ……はい。お供しますよ!」

 

先程とはうってかわり、今度は真っ直ぐに俺を見て頷いてくれた。やはり怪しい。

 

 

マウント深山商店街は、いつもと変わらない賑やかさがあった。

改めると酷いネーミングセンスだと思うが、昔から利用しているだけあって違和感はない。

今は夕方時なのもあって、喧噪は一番のピークだろう。

 

……そんな有り触れた日常も、聖杯戦争によって壊されるかもしれない。

10年前のあの時、俺の知る日常は一瞬で炎に包まれた。

あんな惨劇は二度と起こしてはならない。そして何があっても絶対に俺が止めてみせる。

 

 

「いやあ、士郎さん、買いに買いましたね。今日も大判焼きゴチになります」

「ああ。いつもと違って文もいるしな」

「でも私、そこまで食べませんよ? 夕飯前の大判焼きも一つで十分ですし。素朴な粒あんも実に美味しいです」

 

いつものルートで店を巡り終えた時には、俺は大きなビニール袋を4つ提げていた。

文も手伝うと言ってくれたが、それはやんわりと断る。

女の子を前に格好つけたいわけではなく、こういうのはいつだって男の仕事だからだ。

 

少女と夕日を背負いながら、家までの道を歩く。

まだ夕方の4時を過ぎたばかりだというのに、陽が既に沈もうとしてした。

黄昏時が過ぎ、夜の帳が下りれば、サーヴァントの戦い、聖杯戦争が再び始まる。

 

 

「ただいま」

「はい、お帰りなさい。士郎さん」

「……ああ、文もおかえり」

 

そんな微笑ましいやり取りに二人してほっこりするも……玄関に置かれた長下駄の靴の存在感が凄かった。

何度見ても凄い靴だ。思わず、二度見三度見してしまう。

優れた身体能力がなければ、簡単に転んでしまう代物だろう。

俺も運動神経に自信がないわけではないが、これを履いてまともに歩ける自信はない。

伊達や酔狂などではなく、本当に文はこの靴を履いて日常生活が送れるのか。

 

……待てよ、前提として彼女は天狗だ。

もしかすると、逆にこの靴じゃなきゃ駄目な理由があるかもしれない。

 

「やっぱり、普通の靴よりもこの長下駄の方が歩き心地がいいのか?」

 

天狗としての矜持だけではなく、何らかの機能がこの靴にあるのかもしれない。

 

「うーん、そうですね。ずっと昔から履いているので特別な感想もありませんが、決して歩きやすいわけではありません。このローファーのほうがずっと歩きやすいです」

 

……今更だけど、天狗って何なんだろう?

 

 

今日の夕食のメイン料理は、メカジキの唐揚げと牛肉の肉じゃがだ。

赤身魚の唐揚げはタルタルソースも捨てがたいが、今日は和風テイストの醤油味にしよう。

文も小さい身体で人並み以上に食べると判明したので、いつもより二人前多く作れば十分なはず。

俺も人のことは言えないが、この家は冬木の虎を筆頭に大飯喰らいが多い。

桜もああ見えて結構食べるほうなのだ。そこは特筆しておく。

 

文は、昨日と同様に手伝ってくれると言ったが、客に何度も働かせるわけにはいかない。

毅然とした態度でそう伝えると渋々了承してくれたので、今は居間でテレビを見ている。

穂群原の制服から普段の服に着替えて、食い入るように報道番組を見ていた。

同じジャーナリストとしてのシンパシーなのだろうか、とにかく凄い集中力だった。

天狗の頭襟を頭に乗せていないので、端から見るとテレビを楽しむ女の子でしかない。

家にそんな女の子がいる事実に多少意識してしまうが、今はそんな邪な考えは止めて料理に専念しよう。

 

そして、付け合わせのレタスと海苔のサラダを完成させた頃だった。

玄関の引き戸を開ける音が聞こえてきた。

 

「士郎のお家でご飯食べるのもなんだか久しぶりー! お姉ちゃん、お腹すいちゃったよぅ」

「先輩、お邪魔します」

 

一人はいつも通り賑やかに、もう一人はいつも通り控えめに入ってくる。

藤ねえと桜の二人。衛宮家の家族同然と呼べる二人だ。

いつもは桜が先に来るパターンが多いが、今日は珍しく藤ねえと一緒のようだった。

 

しかし、桜も俺の家族なんだから『お邪魔します』なんて他人行儀に言わなくてもいいんだけどな。

だからといって、藤ねえほど傍若無人になって欲しくもない。そんな桜は絶対に嫌だ。

……そんなあり得ない想像しながら、ふと気づく。俺は、とんでもない事を忘れていた。

 

「…………あっ! 藤ねえと桜に文の紹介をしていないじゃないか!」 

 

今更気付いたが、もう遅かった。

藤ねえと桜に今の状況をどう説明していいのか、まるで見当がつかない。

彼女たちの知らない十代半ばぐらいの女の子が、俺の家でくつろぎながらテレビを見ている。

もっと言えば、同じ屋根の下で同居生活をしている。

 

当然だが、これまで女生徒を家に泊めた経験はない。あるはずがない。

聖杯戦争の説明をするわけにもいかないので、俺と文の本当の関係は絶対に言えない。

俺は、嘘は得意ではない。

だけどこの状況は、どんな巧みな詐欺師でもあっても、穏便に済ますのは難しいんじゃないか?

誰の目から見ても、文の存在は怪しい。そして誤魔化しようがない。

 

ついさっきまで文に邪な感情を抱いたせいか、余計な焦りも胸中を襲う。

これはマズいぞ。絶対にマズい。一体、どうしたらいいんだ……!

正直な気持ちを言うと、俺はいま命の危機すらも感じている。

 

そんな俺の心境を無視して、廊下の床がドタドタと威勢の良い足音を鳴らしていた。

後生だから、廊下を走らないでほしい。二重の意味で。

 

「畜生! あの虎は少しでも俺に考える時間をくれないのか!」

 

このまま何もせずに、文が二人に見つかるとどうなる? この家で何が起きる?

……パッと見で中学生ぐらいの女の子がいたら、桜はともかく虎が咆吼を上げる。

それはもう、確実に絶対に。

その姿を想像した途端、頭が真っ白になり、これ以上は考えがうまく纏まらない。

 

一旦料理を中断して、居間でテレビを見ていた文の手を掴む。

 

「はえ? 士郎さん、どうかしましたか?」

 

文はテレビに夢中になっていて、既に家の中にいる二人の存在に気づいていないようだ。

……こんな警戒心で聖杯戦争は大丈夫なのか、このサーヴァント。

そして『どうかしましたか?』は訊かれても、実のところ俺は何も考えていない。

今やろうとしていることは、将棋で言うところの指運。つまり、運次第だ。

 

「はあ、なんでしょう。もうすぐお天気コーナーなんですけど」

 

意識をテレビに集中していたのか、本当に何もわかっていなかった。

だが今は悠長に状況を説明する時間もない。

 

「文、ちょっとお願い!」

「……どこかに付き合えばいいですか?」

 

これ以上は有無を言わさずに立ち上がってもらって、彼女の手を引く。

のっぴきならない俺の有様に気づいてくれたのか、文句一つ言わずに付き合ってくれた。

理解の早い文には、夕飯のおかずを一品増やしてあげたい。

 

藤ねえたちと鉢合わせする前に、俺の部屋まで足音を立てないように走った。

部屋の襖をゆっくりと閉めて、乱れた呼吸を整える。

さっきからずっと心臓がバクバク鳴りっぱなしだった。

 

「……たまたま桜ちゃんと士郎の家の前でばったり会っちゃってー。ところで玄関にある下駄みたいな靴はなにー? 士郎の修練用の靴? もしかしてパーティーグッズかなー? 士郎の足じゃ小さそうだったけどー」

 

居間の襖を開ける音が、俺の部屋まで届いた。

様子からして、藤ねえは俺の居場所に気付いていない。

間一髪のタイミングだった。あと少しでも遅れたら完全に見つかっていた。

 

「あれ? 士郎がいないや。どこにいっちゃったのかなー? むー、まだ家に帰ってないの?」

「先生、先輩の靴はありましたので、家にはいると思います」

 

藤ねえに続いて桜の声。

居間の照明やテレビもつけっぱなしなので、俺が家にいるのは誤魔化しようもない。

 

「んー。夕食の準備も途中みたいだいし、トイレなのかなー」

 

快活とした声が俺の部屋まで聞こえたが、無視を決め込む。

少し心が痛むが、いま文と会わせたら自らの墓穴を掘る事態になりかねない。

 

「はてさて? それでどうしたんですか?」

 

文句も言わずに俺の部屋までついてきてくれた少女は、不思議そうに首を傾げていた。

……ああ、そうだ。まずは文に事情を説明しなければならない。

 

「……文、いま家に来た二人は一緒に住んでいる訳じゃないけど、俺の家族みたいなものだ。こうやってよく一緒に食事を取ることが多い」

「はあ」

 

それがどうしたんだと言わんばかりの返事だった。まったくもって、その通りだよ。

 

「でも、あの二人に文の紹介を忘れてた。それ以前にどう紹介していいのかもわからない。二人とも聖杯戦争以前に魔術の世界と無関係な人たちなんだ。だから本当のことは絶対に言えない」

 

納得がいったのか、文の表情から怪訝なものが取れた。

 

「あー、なるほど。納得しました。無言で布団の敷かれた明かりのない部屋に連れ込まれたので、まさかと驚かされましたが。……なるほどなるほど、そういうことでしたか」

 

布団が一組敷かれた暗い部屋に十代ぐらいの少女。少女の手を握るのは息の荒い男。

……冷静になるまで気付かなかったが、今の状況は別の意味で危なかった。

 

「いやその! これは! そんなんじゃなくて!」

「ふふ、わかってます。ではお二人にどう説明したらいいのか、一緒に考えましょうか」

 

 

それから数分後。

藤ねえは居間でくつろいでいるようだが、まだ油断はできなかった。

俺がいつまでも姿を現さなければ、いつ家探しが始まってもおかしくない。

藤ねえだったら、この部屋はおろか、風呂場もトイレもお構いなしに開けるだろう。

そして状況的に最初に探すと思われるこの部屋を見られたらおしまいだ。

明かりもつけずに男と女――。文のした勘違いを間違いなく藤ねえもする。

人の話を三分の一ぐらいしか聞かない藤ねえだから、問答無用で吼えられる。

ああ、もう泣きたくなってきた……。

 

それなのに考えは一向に纏まらない。

時間が経つにつれて、焦りがどんどんと膨らんでいく。本当にどうしようか……。

いっそ、部屋の窓から外に逃げ出してやろうかと思った矢先。

 

「士郎さん、ここはぜひ私に任せてください」

 

いつも以上に自信に満ちた表情で、射命丸文がそう宣言した。

 

「え? 本当か?」

「はい、ばっちりですね。……コホンコホン。では、このまま手を繋いで行きましょうか?」

「あ……ごめん!」

 

文を部屋に連れ込んだ時から、ずっと繋ったままの手に気づいて、慌てて放した。

文は、そんな俺の慌てる様を見て、ニヤニヤと笑みを浮かべる。羞恥に顔が熱くなった。

 

「そ、それで、ど、どんな案なんだ……」

 

気恥ずかしさを紛らわすために彼女の案を聞こうとしたが、思いっきり噛んでしまった。

これじゃ、内心焦っているのがバレバレだ。もう泣きたい。

 

「ふふ、士郎さんはただ私の紹介をしてくれればいいです。後は私に任せてください」

「? ああ……じゃあ頼むよ」

 

文の自信に満ちた顔を見ていると、これ以上は何も聞けなかった。

部屋を出て、二人で居間に向かう。

今は手を繋いでいないが、感情がごちゃ混ぜになって心臓がドキドキしっぱなしだ。

 

俺が先頭になって居間に入る。

藤ねえが、つけっぱなしだったテレビを見ていた。

これから夕食だというのに、せんべいを囓っているのはどうなんだ。

桜は台所で制服に自分のエプロンを着け、途中だった調理の続きをしている。

そんな普段通りの衛宮家の光景に安堵して、胸の鼓動も少しずつ落ち着いていく。

 

「あ。士郎ー、ただいまー。どこにいってたのー?」

 

藤ねえが、テレビから目を離さずにいたのは幸いと言うべきなのか。

まだ文の存在に気付いていない。

 

「先輩、お邪魔してます。 ……え!?」

 

だが、台所から出てきた桜が絶句した。

そんな桜の様子に気づいた藤ねえが、テレビから目を離してこちらを見る。

 

「こんばんは」

 

藤ねえは、俺の隣にいた天狗の少女と目が合ってしまった。

状況が飲み込めない藤ねえは唖然としている。

文は臆すこともなく、いつもの人好きのする笑みを作った。

 

「んお? あ、はい。こんばんは……?」

 

あ、咥えていたせんべいがポロリと落ちた。

思っていたより、藤ねえのリアクションが薄かった。単に理解するまで頭が回っていないのか。

まあ何だっていい。酷く情けないが、ここは文に任せよう。

 

「二人とも紹介する。この子は文。暫く家で面倒を見ることになった」

「ご紹介に与りました、射命丸文と申します。お歴々のお二方にはお初にお目にかかります。急な挨拶となり大変不躾ではありますが、今後ともよろしくお願いします」

 

その場で深々と頭を下げる。どういうつもりか、やけに畏まった挨拶だ。

 

「あ、はい。こちらこそよろしくお願い…………って、そんなの駄目ーー!!!」

 

藤ねえも文につられて頭を下げそうになったが、寸前のところで冬木の虎が目覚めた。

バーサーカーたるやの咆哮に耳が痛くなったが、文に言われた通りに俺は黙っているしかない。

 

「士郎ー! どうしちゃったの!! こんな女の子を連れ込んだりして! それに暫く面倒を見るって、どーゆうことー!? そんなのお姉ちゃん絶対許さないんだからーーッ!! ……それに、士郎にそんなつき合いがあったなんてお姉ちゃんは信じられません」

「先輩……」

 

桜のどこか悲しそうな視線と、藤ねえの舌鋒に胃と耳がズキズキと痛む。

ついでに心臓もバクバクで、喉もカラカラだった。

 

「大体どこの子なのよー? ……えーっと、学校はどちらなの? こんな遅くに男の人の家にいたら親御さんに叱られたりしない?」

 

多少落ち着きを取り戻した藤ねえが、まるで教師のように優しく接する。

 

「あなたは士郎さんの保護者の方ですね。いつもお世話になっております。私の家族につきましては、事前に許可をいただいてますので、ご心配には及びません」

 

文はいつも以上に丁寧な口調で話すと、藤ねえの前で流れるような動きで綺麗な正座を作る。

幼い見た目とは裏腹に、強い意志の感じさせる言葉と態度に、藤ねえが少したじろいだ。

 

そして、この後に続く文の爆弾発言に、この場にいる全員がかつてない衝撃を受ける。

 

「私、射命丸文はこの度、こちらの衛宮士郎さんと恋い慕う間柄となりまして――。そのつまり、恋人としてのお付き合いさせていただくことになりました。それを急場ではありますが、お二方への挨拶とさせていただきます」

 

三つ指をついて頭を深々と下げる。

 

「………………」

 

あ、藤ねえが止まった。桜も止まっている。もちろん俺も止まっている。

……今、この場で呼吸をしているのは文だけだった。

天狗の少女曰く、俺と文は好き同士であり、しかも付き合っているらしい。

その初めて知った衝撃の事実に俺も含め、三人とも驚きを隠せずに止まってしまう。

 

………………………………え? なんでさ?

 

そして、時は動き出す。

覆水は盆に返らないし、こぼれたミルクを嘆いても無駄だ。

時間は場合よって止まるが、決して戻ったりはしない。

絶対に、なかったことにはならないのだ。

 

「な、ななななななんですってーーッ!!」

「……………ッ!!」

 

冬木の虎が三度吼えて、間桐桜が目を見開いて、完全絶句する。

俺のほうも実に間抜けな顔を晒しているはずだろう。

一方で、文は頭を下げたまま。

そうか。これが文の言っていた案か。いや、絶対に許さないからなおまえ。

 

額を畳につけ、顔が隠れてるほど深々と頭を下げる天狗の少女。

彼女が、どうやってこの混沌を収拾させるのかは想像もつかない。

だけど、一つだけ想像がつくものがあった。

 

隠された文の表情は、この混沌とした状況に笑いを堪えているに違いない。

これまでの付き合いで、それだけは何となくわかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

16.自分の発言には責任を持ちましょう

 

 

居間に掛けられた時計が静かに時を刻んでいる。

それ以外は一切の音もなく、居間に広がるのは沈黙そのもの。

そんな瞬きさえも許されない空気のなかで。

誰も彼もが呼吸すらも忘れたように口を閉ざしている。

 

……気まずい。これは気まずい。

 

衛宮家は、いつからこんな緊張感に包まれるようになってしまったのか。

理由については考えるまでもない。

つい5分ほど前、隣に座る文が俺との交際宣言をしたからだ。

 

そして今、俺と文は食卓を挟み、藤ねえと桜の二人と向き合う形でいる。

緊迫した空気に飲まれているのか、皆が一様に正座をしていた。

 

藤ねえは、珍しく難しい顔で瞼を閉じ、腕を組みながら考えごとをしていた。

 

「…………」

 

桜は不安げな表情で俺を見ていた。

……桜、すまん。そんな顔をされても俺にも何が何だかさっぱりなんだ。

 

文だけは、一仕事をやり遂げたすっきりとした顔をしていた。

言いたいことは全て言い切ったのか、実に満足げだった。この天狗は本当に……。

 

彼女の立案によって、事態は混沌の坩堝にあった。

時折、隣に座っている俺に対して頬を染め照れくさそうな視線を送ってくる。

文なりの恋人の演技だと思うが、その度に桜の顔がどんどん沈んでいくので、本気で止めてもらいたい。

 

「……士郎、今の話は本当なの?」

 

その空気の中、口火を切ったのは年長者(多分)の藤ねえだった。

俺と文が本当に交際しているのか訊いているのだろう。

 

『もちろん嘘だ』

そう言えたら、どれだけ楽だったか。

ただ俺も思春期真っ只中な男子なので、こういうことに興味がないと言えば嘘になる。

今は自分の進むべき道に精一杯で、そんな余裕がないだけ。

だから演技であっても、文のような可愛い女の子に交際を迫られたら、多少なりとも嬉しい。

 

……しかし、今回のケースはどう答えたらいいのか。

藤ねえと桜に嘘をつきたくないが、ここは文に話を合わせるのが筋だろう。

でなければ、余計にややこしい事態になってしまう。

俺がこうして口を噤んだままでいても、何の解決にもならない。

そもそも、この異常な空気の原因は、間違いなく俺にも一端がある。

文からの交際宣言の後、中心人物の俺が何も言わずにいるから、こんな状況になっているのだ。

 

文もそれを理解してか、これ以上は何も言うつもりはなさそうだった。

事前に説明してほしかったが、文は俺の反応込みで楽しんでいるのは間違いなかった。いや、マジで許さないからな。

 

……こうなったら仕方がない。

ここは覚悟を決めて、射命丸文の大芝居に俺も付き合おうじゃないか。

 

「……本当だ。付き合い始めてまだ日が浅いけど、俺と文は交際している」

 

ああ、言ってしまった。言ってしまった。

言ってしまったら最後、その嘘を貫き通すしかない。

今後は舌の根が乾き切らないうちに、次の嘘を用意しなければならない。

でも……自分でも驚くぐらいすんなり嘘が言えたと思う。

緊張で声が上擦ったりもせず、それが当然の事実であるように言えてしまった。

なぜかはわからないが、衛宮士郎として過去一番の演技だった。

 

「…………ッ」

 

そして、俺の男優賞ものの台詞に一番反応をしたのは桜だった。

もともと伏せ目がちの彼女が、今は前髪で表情が見えないほど俯いてしまった。

……そんなに驚いたのだろうか。

まあ、文は俺なんかには不釣り合いな美少女だと思うけどさ。

 

藤ねえは、目を閉じたままで反応がない。

俺の言葉を真摯に受け止めてくれたのかは不明だが、聞こえてはいただろう。

……だが俺には、この先の藤ねえの反応が手に取るようにわかる。

俺と文との関係を根掘り葉掘り詰問される予感がひしひしとするのだ。

 

そう、相手はあの藤ねえなのだ。冬木の虎だ。俺は、自らの意思で虎の尾を踏んでしまった。

今は大人しくしているが、俺が想像するに次の一声は『士郎にはまだそんなの早いんだからーッ!!』という虎の咆吼。

……そんな剣幕でまくし立てられたら、俺なんか簡単にボロを出してしまう。

 

喉は渇いているが、なんとか唾を飲み込み、咆吼に耐える準備をする。

その後のフォローは文がしてくれるに違いない。

人では虎に太刀打ちできないのだ。だったら、虎には烏だ。

なんだかそれも分が悪い気もするけど、何とかしてくれるだろう。

というか、してくれなきゃ困る。勝手に期待しているぞ、文。

 

そして、固く閉ざされていた虎の目が開いた。

 

「……うん、わかった。お姉ちゃんはあなたたちの交際を認めます」

「………………え?」

 

咆吼を防ぐために耳を塞ぐ準備をしていたが、虎の……いや藤ねえの口から出たのは咆吼ではなく、酷く落ち着いた優しげな声だった。

少し寂しそうではあるが、見守るような温かい笑みを俺たちに向けている。すごい、まるで教師みたいだ。

 

「文ちゃん。士郎はすごーいニブチンだけど、すごーく優しいところもお姉ちゃん、自信を持って保証します。だから……士郎のこと、お願いね」

 

藤ねえは文の手を優しく握って、赤い瞳の奥まで覗き込む。

 

「……あ、あの」

 

流石の彼女も藤ねえの態度に驚いたようで、目が泳ぎそうになっていた。

こんなふうに狼狽える文を見るのは初めてだ。

これまで遭遇したサーヴァントの前でも、そんな顔は見せなかったぞ。

 

「……は、はい、わかりました。私の方こそよろしくお願いします……」

 

少女の語気にいつもの勢いがなく、ちょっと語尾が濁っていた。

藤ねえも出会ったばかりの少女の逡巡に気づかなかったのか、文の返答にすっきりした表情を見せた。

 

「うん、よし! それじゃあご飯にしようかー!お姉ちゃん、お腹ぺこぺこー」

「……あ、ああ。いま用意する」

 

ご飯も炊けているし、料理は桜のおかげでできあがっているので、後は皿に盛りつけるだけだ。

その支度のために立ち上がろうとすると。

 

「し、士郎さん……私も手伝いますね!」

 

どうやら今度は文にとって居た堪れない空気になったらしく、逃げるように俺の後を追おうとする。

だが、そこは藤ねえだ。そんな空気を読めるはずがない。読む気もない。

 

「いーのいーの! 士郎に任せておけば! 文ちゃんは座っていてー。あ、足も崩してもいいよー。新しい家族なんだかららくーにしてちょうだい」

「いえいえ! お気遣いなく! こ、これは、その、えっと、きょ、共同作業です!」

「そっかー。共同作業かー。でも今はお姉ちゃんを構ってもらいたいなー」

 

藤ねえの勢いに圧倒されて、少女は脱出に失敗する。

立ち上がろうと腰を浮かせるも、それは居住まいを正すだけに終わった。

流石の天狗少女も、藤ねえが相手ではたじたじのようだ。

これはまあ、藤ねえのおかげで、文の新しい一面が見れたのかな。

 

「…………」

 

桜がやけに静かだったが、今も俯いたままでいた。

まさか、俺に彼女(嘘)ができたのが、言葉に出ないほどの衝撃だったのか。

ちょっとやるせない気持ちになったが、少し心配になる。

 

「桜、どうしたんだ?」

 

ビクッと桜の肩が震えた。いや、そんな過剰反応をされても……。

 

「……いーの。今は桜ちゃんのことより、士郎はご飯の準備ー」

 

ん? 桜を気遣うなって意味なのか?

藤ねえがそんな薄情なはずがないし、何か事情があるのだろうか?

 

「……先輩。私は大丈夫ですから、お料理の続きをお願いします」

「ああ……わかった」

 

心なしかいつもより声のトーンが低めだったけど、どこか具合でも悪いのだろうか?

弓道部の大会も近いらしいし、その練習で疲れているのかもしれない。

ここは藤ねえと桜の言うとおりに、料理に専念するか。

 

 

「……まったく、本当にニブチンなんだから」

 

 

 

 

いつもより一人多い、衛宮家の食卓。

文は少しぎこちないものの、いまは肉じゃがのじゃがの部分にご執心だった。

せっかくの肉じゃがなんだから、ジャガイモだけではなく肉も一緒に食べてほしい。

煮物には勿体ない、ちょっとだけ高級な牛肉なのだ。

 

「…………」

 

桜はやはり黙ったままで、いつもと比べて箸が進んでいない。

本人は大丈夫だと言ってくれたが、やはり気になってしまう。

俺が心配性なだけかもしれないが、どう見ても本調子じゃないよな。

ひょっとしたら、部活での調子が悪いのか。明日にでも部長の美綴に確認してみるか。

 

藤ねえは先程のシリアスはどこへやら、結構な勢いでメカジキの唐揚げを食べている。

やはり、シリアスモードは長時間維持ができないのだろう。なんせ虎だし。

というか、唐揚げは一人5個ずつだと理解しているのだろうか。

 

「士郎、これ、ちょーイケるねー。いくらでも入りそう。具体的には百個ぐらいー」

 

……うん、してないだろうな。

大皿に唐揚げを盛ってしまったのを後悔する。まあ俺の分を減らせばいいか……。

 

 

夕食後はお茶を飲みながら、文と藤ねえの会話に耳を傾けていた。

 

「へー、文ちゃんは新聞作りが趣味なのー? ねえねえ、どんな記事? どんな記事?」

「……そうですね。普段は主に何気ない日常の一コマを記事にしてますかね。たとえば『某神社の巫女、赤貧のあまり畳をかじり空腹に耐える!』みたいな感じで」

 

人当たりの良い文と、同じく人当たりの良い藤ねえは、さっそく打ち解けていた。

文はもう、藤ねえに対しての苦手意識はないようにも見える。

文の新聞は、趣味ではなく仕事なのだが、見た目中学生ではそう思うのも仕方がない。

しかし、今の話は何気ない日常の一コマなのか……?

畳食べても空腹を満たすどころか、お腹を壊すだけだと思うけど。

これまで文から聞いた話を総合しても、幻想郷がどんな場所なのかまったく想像できない。

 

「それで、二人はどこで知り合ったのー? お姉ちゃん、知りたいなー」

 

藤ねえから、この質問が飛び出すのは時間の問題だと思っていたが、実際どう答えればいいのか。

『俺が槍を持った青タイツの男に襲われた時に、土蔵の中から光と風とともに文が現れた』とは間違っても言えない。

そもそも俺は嘘が苦手なので、つつかれた先からぼろを出してしまう。

ここは、嘘が得意そうな文に任せた方が間違いないはず。

 

「ええと、それはですね……」

「ふんふん」

 

藤ねえが目を輝かせ、相づちを打ちながら文の言葉を待った。

口から先に産まれたような天狗の少女であっても、少し考える時間が必要なのかもしれない。

『神秘とは秘匿するもの』……これについては口が酸っぱくなるほど、言い聞かせてある。だから変な話はしないはずだ。

 

「全身青タイツの変態男に私が襲われていたところを、偶然その場に居合わせていた士郎さんに助けてもらいました。それがきっかけで、懇意にしていたただいてます」

「ブブーーーッ」

 

……淹れたての緑茶を吹き出してしまった。

俺と文の立場が逆なだけであながち嘘ではないが、いくら何でもそれはない。

そんな狂った状況に立ち会うなんて、人生で一度でもあってたまるか。

全身青タイツの男が冬木に出没して、人を襲うマネまでしてたら今頃は新聞沙汰だ。

……いくら藤ねえでも、今の話で納得するとは思えない。

 

「ふーん、士郎は正義感が強いからねー。それなら納得ー」

 

納得するのか……流石は藤ねえだ。

人を疑わないのか、それとも疑う気がないのか。感性が俺たち常人とはかけ離れている。

 

「その後も2メートルを超す上半身裸の巨漢や、紫髪のボディコンスーツを着た痴女にも絡まれてしまいまして、その度に士郎さんが颯爽と駆けつけて助けてくれました。こうして私が無事でいられるのも彼がいてくれたおかげだと言えます。まさに吊り橋効果」

 

……吊り橋効果とは、極限の緊張下に置かれた男女がストレスによって、お互いに惹かれ合う心理的学説だったと思う。

しかし秘匿すべき神秘については一応触れていないが、今の話は別の意味で神秘だった。

文がこの世界の住人じゃないからなのか、常識が明後日の方向にずれている。

今の話を聞いたのが、同じく感性のずれた藤ねえで助かった……。

 

「士郎は正義感が強いからねー。それなら納得ー…………できるかーーーッ!! いつから冬木はそんな変態さんがはびこる魔境になったのーーー!?」

「あ、ようやく虎が吼えた」

 

いくら藤ねえでも、今の話は流石に信じられないようだ。

俺と文の立場が逆なだけで、話そのものは本当なんだけどな。

 

桜も調子が悪そうなのに、こんな荒唐無稽な話を聞かされて大丈夫なのか?

心配になって様子を見てみると、桜は目を見開いて驚いていた。

それに、これまで一度も目を合わせずにいた文に視線を向けている。

ひょっとして、あの話を真に受けたのか? いや、いくらなんでもそれはないと思うが……。

 

「いやいや、本当なんですよ。これがまた不思議なことに。『恐怖! 冬木市の怪異! 異常者は互いに惹かれあうのか!?』という見出しで新聞を出したいぐらいです」

「嘘おっしゃーーーい!!」

 

天狗の少女は、藤ねえのシャウトをへらへらと受け流していた。

ああ……二人とも本性が出ているな。

 

こうして、文を新たに交えた奇妙な夕食は終わりを迎えた。何でもいいけど疲れた。

 

 

 

 

「じゃあ交際しているからといって、変な行動には走らないことー。ガクセーらしい節度のあるお付き合いをしましょう。……ま、そこんとこだけは士郎を信じているけどねー。どーせそんな甲斐性ないしー」

「あーはいはい、変なこと言ってないでとっとと帰れ。そして寝ろ」

 

藤ねえと桜を玄関口まで文と一緒に見送る。

 

「桜は家まで送っていくよ。藤ねえは一人で帰れ」

「うえーん、士郎が冷たいよー」

 

桜は今も文を見ていた。というよりも、さっきからずっとこんな感じだ。

何かあるのかと桜に確認してみたが「……なんでもないです」とはぐらかされてしまう。

俺には聞かせられない話があるのだろうか?

 

「……先輩、すみません。もしよろしければ、射命丸さんに送っていただくのをお願いできないでしょうか?」

「あや? 私ですか?」

「えっと……」

 

桜のらしくない発言に驚かさせられる。

少し人見知りの桜が、初対面の相手にこんな頼み事をするなんて俺の知る限り初めてだ。

 

「そっか」

 

藤ねえだけは、何かを納得したように少し憂いのある笑みを浮かべた。

よくわからないが、送ってほしいというのは建前で、実際は文に訊きたいことがあるかもしれない。

 

「その……できればなんですが、お願いします」

 

桜が頭を深々と下げた。

そうやって健気な態度を見せる桜に、文は首を縦に振って応えた。

 

「はい、わかりました。では士郎さん、桜さんを送ってきますね」

 

そして少し言葉を交わした後、文の手によって玄関の戸が閉められた。

三人が居なくなって、俺は一人玄関に取り残された。

……実際はそんなことはないが、久しぶりに一人になった気がする。

 

「……桜はどうしたんだろうか?」

 

桜と文に付いて行きたい気持ちがあったが、それは野暮だろう。

そうしてほしかったら、桜がそうお願いするはずだ。

だったら今日はもう魔術の鍛錬を済ませて、明日に備えて早めに寝ようか。

 

聖杯戦争は、まだ始まったばかりだ。

夜も本格的に更けて、今のこの瞬間サーヴァントに襲われてもおかしくない。

ずっと一緒だった文と離れていることに、かつてない不安を覚えていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

17.てんぐ巣病

 

 

間桐の館までの帰路。

私は、かつてなく緊張していた。

私の少しだけ前を歩く、自分より少し幼い女の子。

幼い顔つきだったけど、目は自信に輝いており、口元はその表れのような笑み。

それは、私なんかには絶対できない顔だった。

 

だけど、私はこの顔をよく知っていた。

今では他人のように疎遠になってしまったけど、かつて姉だった人と同じ――。

確かな能力に支えられた、決して折れることを知らない人の顔。

造形が似ているわけではないが、彼女の浮かべる表情は、姉さんを彷彿とさせた。

 

そんな彼女を見ていると、私という存在が酷く惨めに思えてしまう。

そう考えてしまうのは悪い癖だと思うけど、自虐的な思考は一度始まると止まらない。

 

 

「――どうかしましたか?」

 

何でもないはずの一言で、私の心臓がドクンと跳ね上がった。

 

気付いたら、血のような赤い瞳が私を覗き込んでいた。

彼女の態度を窺うように、じっと見ていたら、誰だって不審に思うだろう。私の落ち度だった。

しかしこの人は、なんでこんなにも真っ直ぐに相手を見て話せるのか。

私のような人間は、正面から見据えられると身体が自然と竦んでしまう。

 

「……あ、いえ、なんでもないです」

「そーですか」

 

そう言って、彼女は本当にどうでもよさそうな様子で再び歩き出した。

 

「はあ……」

 

自然と重い溜息が出る。自分が情けなくなる。

会話ができる絶好の機会だったのに『なんでもないです』はないだろう。

先輩の家を出てから、初めてまともに話ができそうだったのに……。

 

私の胸のなかで、ぐるぐると渦巻く感情。

彼女が先輩と付き合ってると言った時から、その感情をどうしても制御できない。

 

ああ、もう。

……いっそのこと『あなたは先輩のサーヴァントですか?』と言ってしまいたかった。

だけど、それは私が聖杯戦争の関係者だと告白しているのと同じ。

……私の令呪は、『偽臣の書』で兄さんへと移譲してある。

だから、私がライダーの本当のマスターなのはわからないはず。

それでも、聖杯戦争の関係者と判明した時点で殺されてもおかしくはない。

 

一つ疑問があった。

彼女は、本当に先輩のサーヴァントなのか。

少女の顔は、女性の私から見ても整っているけど、顔かたちは日本人のもの。

服装も少し古い印象があるが、不自然と言える程でもない。

当然サーヴァントだとしても、服を着替えるのは可能だけど。

 

それよりも、サーヴァントというのは霊体のはずだ。

サーヴァントの身体は本来、エーテルによって作られた仮初の肉体でしかない。

射命丸文……彼女はどう見ても、本物の血と肉を持っているとしか思えない。

 

サーヴァントは英霊であり、既に亡くなっている存在だ。

そのため、サーヴァント召喚は降霊儀式とも呼ばれている。

本物の肉体を持つ彼女の存在は、明らかに矛盾しているのだ。

サーヴァント同士だったら、気配でそれもわかるかもしれないけど、未熟な魔術師でしかない私には無理だ。

彼女を先輩のサーヴァントと考えるのが、早計だったかもしれない。

よく考えてみたら、同盟を組んだ他のマスターという線も十分にありえた。

 

一つだけ言えるのは、彼女が聖杯戦争に関与しているのは間違いない。

何故なら、彼女の口からライダーとしか思えない身体的な特徴を言っていた。

これはもう、偶然では考えられない。

 

私が、いま必要なのは――。

自分の素性をばらさずに、相手の素性を知る。それには、どう切り出すのが最善なのか。

そう、たとえば『あなたは本当に先輩と付き合っているんですか?』――と。

それが最も知りたいことだったけど……それを確認する勇気が私には、ない。

仮に質問しても『付き合ってますよ』と、言われるに決まっている。

嘘かどうかを見破ろうにも、こんな人が嘘をつく程度で動揺するとは思えなかった。

 

彼女が聖杯戦争に関与している以上、恋人関係が嘘であると考えていいはず。

それでも、100パーセント嘘である保証はどこにもなかった。

実際は彼女が聖杯戦争の関係者なのかは、この際どうでもよかった。

私は知りたいのは、彼女と先輩が交際をしてないかどうかの、その真偽だけ。

それだけは……それだけはどうしても絶対の確信が持ちたかった。

 

もし本当に先輩と付き合っていたら……私の弱い心はどうにかなってしまうのだから。

 

 

 

 

考えが纏まらないうちに、間桐邸まであと少しの場所まで来てしまった。

決して、帰りたい家ではなかった。

だけど私が『間桐桜』である以上、私はあそこに帰らなくてはならない。

 

射命丸さんとは、あれから一度も話せていない。

先輩の家での彼女の様子では話好きだと思ったけど、ここまでずっと無言のまま。

……私の内向的な性格を察して、気を遣ってくれたのだろうか?

そうだとしても、見ず知らずの相手に送って欲しいと頼まれれば多少は疑問に思うはず。

それだって、まだ彼女の口から訊かれていない。

私から話し掛けるにしても、露見した時の恐怖に怯えてしまい、上手く言葉が紡げなかった。

 

射命丸さんは、機嫌良さそうに私の隣を歩くだけ。

もしこのまま目的地まで着いてしまったら、間抜けもいいところ。

 

「…………」

 

少しでも時間を稼ぐため、歩くペースを緩める。

射命丸さんを横目で見ると少し不思議そうな顔をしたけど、何も言わないで歩調を合わせてくれた。

この私なんかを気遣ってくれたのだと、そう考えていいかもしれない。

 

うん――だったらもう、その優しさに甘えようじゃないか。

タイミングは今しかなかった。

……何でもいい。

……何でもいいから、彼女から話を聞こう。

……少しだけでもいい。勇気を出せ! 間桐桜!

 

私は自らを無理やり鼓舞して、歩くのを止めた。

 

「……どうかしましたか?」

 

射命丸さんも急停止をして、再び不思議そうに私の顔を見た。

そして、私は彼女に質問する。

 

「あの、射命丸さん……」

「はい、なんでしょう」

「あなたはいったい、何者なんですか?」

 

そんな漠然とした質問に懐疑的な顔を見せたが、それも一瞬だけ。

何か納得したような素振りを見せると、赤い目を細めて、再び自信の溢れた表情に戻った。

 

……逆に私は、今どんな顔をしているのか。

言葉だけはすんなりと出たが、顔は緊張で強ばっていたと思う。

もっと気の利いた言い方もあったのに、これじゃどう考えても変な子だった。

だけど、もうこれ以上の言葉は喋れそうにもない。

 

「――ふふ」

 

射命丸さんはそれ以上なにも言わずに、また歩き始めてしまった。

少しの間、茫然としてしまったが、慌てて彼女の後を追いかける。

自然と彼女の後ろを付いて行く形になったが、射命丸さんは構わずに歩き続けた。

 

「…………」

 

ああ、結局なにも答えて貰えなかったな。

これも考えられた結果のひとつなので、驚きはしなかった。

ただ、私のなけなしの勇気を出した反動からか、どうしようもなく気落ちしてしまう。

気が沈んだ私は、自分の足下を見ながら、とぼとぼと彼女の後ろを付いて行った。

 

ただ……射命丸さんの沈黙は、何かを隠していると言ってるようなものだった。

欲しかった答えは得られなかったけど、少しだけ安心した。

 

 

……前を歩いている射命丸さんが、十字路に差し掛かっていた。

この十字路は右に行かないと、目的地の間桐邸には着かない。

本当なら道を知っている私が先頭に立つべきなのだけど、もう声を掛ける気にもなれなかった。

 

しかし、彼女は迷うことなく右の路地へと入っていった。

 

「えっ……なんで……?」

 

その後も迷うことなく、射命丸さんは歩き続ける。

そして最初から目的地を知っているように、間桐邸の前で歩みを止めた。

 

「はい、着きましたよ」

 

事実だけを伝える事務的な口調で、彼女はそう言った。

 

「……どうしてこの家だとわかったんですか?」

 

そんな当然の疑問を彼女にした。

……なぜ、この家が私の住む間桐邸だとわかったのか。

魔術師の家に表札なんてものはないし、先輩に確認する暇もなかったと思う。

それに魔術師の住む家は、普通では辿り着けないよう、認識を阻害する作りになっている。

 

私の質問に、彼女は女性らしい妖艶な笑みを浮かべた。

それは初めて見る、少女の少女らしくない顔。

同性の少女に対しておかしな感情だけど、その表情は艶やかで見る者を魅了するものだった。

それは同時に、人間を惑わすような――。

 

「――するんですよね。同じ匂いが」

「え?」

「あなたと同じ醜悪な蟲の匂いが、この館からプンプンします」

 

蟲の匂い――。

 

「だからその匂いを辿れば、簡単に桜さんの家に着きますよ」

 

そう、彼女は言った。

 

「なにを……」

 

『――言ってるんですか?』

言葉は形を保てないまま、口のなかで散り散りに砕けてしまった。

視界が狭まって、目の前が急激に暗くなる。

両足がガクガクと震えだして、止まりそうもない。

 

え……? この子は、今なんて言ったの?

その心のうちの疑問に、酩酊したかのような微笑で少女は答える。

 

「私は、人間たちよりもずっと鼻が利きます。特に『魔の匂い』には敏感でして。桜さんの胎内に巣食う蟲の存在には、お会いした時から気づいていましたよ。そりゃもう酷い悪臭でしたし」

「悪臭……?」

「ええ。おかげさまで、夕飯のお肉を食べる気になれませんでした」

 

口許の笑みはそのままに、目をいやらしく細めた。

赤い瞳に浮かぶ瞳孔が縦に細く縮まり、まるで爬虫類のような形になる。

 

その時、ようやく私は理解した。

彼女の目は侮蔑の現れであり、口に浮かべた笑みは嘲笑。

明らかに私、いや私たち人間そのものを見下している。

 

――ああ、どうして今頃になって気づくのか。

この目の前にいる存在は、人間なんかじゃない。

 

 

「士郎さんがあなたは聖杯戦争とは関係ないと言っていました。ですが、そんな魔の匂いを漂わせてそれはあり得ないでしょう。……それでですね、私の知るサーヴァントの特徴を挙げて鎌を掛けたんですが……ふふ、こうも簡単に引っ掛かるとは思いませんでしたよ」

 

眼前の化物が、尚も可笑しそうにクスクスと哂った。

彼女とは対照的に、私の顔は恐怖によって引きつっている。

ずっと続いている足の震えも、全身にまで伝わっていくようだった。

……今の私の顔は、この暗がりでもわかるぐらい蒼白になっているだろう。

 

「もしかして、あの人間のことが好きなんですか――? まあ、彼は悪意どころか好意にも鈍い人ですから、あなたの想いにまったく気づいていないでしょうがね」

「あ、ああ……」

 

人間じゃない化物が、どうして知ったふうに核心を突く!

そんなこと言われなくても、とっくにわかっている!

だけど、先輩と一緒にいられるだけで私は幸せなんだ!

 

「そもそも、そんな蟲を胎に飼っていて、誰かから好かれるとお思いでも? 正常な感性を持っていれば、それはあり得ないでしょう」

 

うるさい……。うるさいうるさいうるさい!

お願いお願い! お願いだから黙って!

 

「桜さん――あなたは妖怪でも喰うのを憚る下手物です」

 

そんな容赦ない言葉が、耳鳴りのように響いた。

化物は口の端を限界まで吊り上げ、他者の心を踏みにじる嗜虐に酔っていた。

 

 

私にとって、先輩は日向の存在であり、一緒にいるだけで温かい気持ちになれた。

だけど、同時に私のような穢れた存在には、あまりにも先輩は眩しすぎた。

時々、先輩の側にいると堪えきれない感情がこみ上げてくる。それが、悲しかった。

 

膝の震えは、止まりそうもない。

いろんな感情がせめぎ合い耐えられそうにない。

頭がぐるぐるで、思考が正常に働かない。

心がバラバラに引き裂かれてしまったかのように苦しくて、悲しい。

……だけど、どうしてなのか、涙だけは出なかった。

 

私のなかに住む蟲だけが、キィキィと鳴いていた。

 

 

 

 

どれだけそうしていたのか。

あれからずっと私は、間桐邸の前に立ちつくしている。

家には、一度も入っていない。

温暖な冬木でも今は二月の夜であり、寒くないはずがない。

 

だけど、私は何も感じなかった。

ただ、足だけは震えが止まらずにいた。

その震えの正体はきっと、寒さによるものではないのだろう。

 

先輩に私の正体がばれるのが、なによりも恐ろしかった。

「先輩には言わないで」と彼女に懇願しても、ニヤニヤといやらしくあざ笑うだけ。

そして私に一切危害を加えずに、彼女は先輩の家へと帰って行った。

 

「……憎らしい」

 

化物の癖に、先輩の家に帰れるなんて。

私は人間なのに、帰れる場所はこのおぞましい間桐の家だというのに。

先輩に私の正体が露呈する恐怖と、彼女に対する憎しみで心が悲鳴を上げていた。

あんな化物と姉さんを、一瞬でも重ねてしまった自分が腹立たしい。

 

「だけど……もういいんだ」

 

もう私のやるべきことは、決まっている。

あの女を――してしまえばいい。

たったそれだけで、この恐怖と憎しみの両方を同時に解決できる。

そう考えてみたら、自分でも驚くぐらい冷静になれた。

 

「あれ? ……あ、ははは」

 

気付くと、ずっと続いていた足の震えは止まっていた。

 

 

 

 

そうして、日付も変わろうという時間になって、ようやく私の待ち望んでいた人物が現れた。

無断で学園を休んだらしいが、なぜか制服を着ていた。

 

「なんだ桜か、僕が帰ってくるのを門の前で待っていたのか? は、はははは! ようやくおまえも自分の立場がわかってきたようだな!」

 

間桐慎二――戸籍上、私の兄にあたる人物だ。

 

兄さんは、今日も上機嫌だった。

私の知る限り、サーヴァントを手に入れてから、機嫌の悪い日は一度もなかったと思う。

ライダーには悪いけど、発作のような癇癪を起こさないでくれるから私も助かっている。

 

『…………』

 

ライダーの姿は見えなかったが、視線だけは感じた。

こんな私を包み込むような優しさがあった。

……彼女になら、私の知っているすべてを話してもいいだろう。

 

そのためにはまず、この浮かれた男にお願いをしなければならない。

私は、兄さんに貼り付けた笑みを向けて言う。

 

「兄さん、お帰りなさい。実は、兄さんに聖杯戦争のとっておきの情報があるんですが――」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

18.初陣 《2月5日》

 

 

昨晩とは違って、今朝は文と二人で朝食と弁当を作る。

朝の献立は、大根と人参の味噌汁、なめ茸とシラスの和え物、そして主菜は、サワラを焼いて柚子で香りづけしたもの。

そんな、オーソドックスなメニューだ。その分、昼の弁当はちょっと力を入れた。

 

射命丸文による、嘘の交際宣言のせいなのか、今朝は藤ねえと桜が家に来なかった。

桜はともかく、藤ねえがその程度で自粛するとは思えなかったけど。

だが、今の冬木は聖杯戦争の只中にある。

この家に近づくだけでも、二人に危険が及ぶ可能性が十分にあった。

少し寂しく感じたが、二人の命には代えられない。

それを考えたら、あの交際宣言もあながち間違いじゃないかもしれない。

もしかしたら、文もそれを見越した上で、あんな発言をしたんだろうか……?

 

「……違うだろうな」

 

それに、聖杯戦争が終わったあとで、あの二人になんと説明したらいいんだろう。

『実は、嘘でした』と言う勇気はない。

藤ねえは間違いなく本気にしてたし、バレたら怒られるだけじゃすまない。

『実は、別れました』……聖杯戦争は長くても、二週間程度で終わるらしい。そうなると。

 

「交際期間が最長でも二週間……。どれだけ甲斐性なしなんだ、俺は」

 

今は戦後処理に頭を使うよりも、聖杯戦争を無事に生き残ることを考えよう。

 

 

嘘の片棒を担ぐ天狗の少女は、新聞を片手に、主菜の魚に箸を伸ばしていた。

最初は、驚くぐらい綺麗な姿勢で食事を取っていたが、今やそのメッキも剥がれつつある。

幻想郷という、隔絶された土地から召喚されたらしいが、既に彼女は現代日本に馴染みきっていた。

今朝の朝刊に目を走らせながら、朝食を取る少女の姿は、家主である俺よりも堂に入っている。

 

それに文は、他のサーヴァントと違って、聖杯から土地の文化や常識を与えられていないらしい。

つまり、彼女自身が持った適応能力の高さが窺い知れる。

暇さえあれば、新聞や本を読んでいるので、好奇心の高さもその一助になっているのだろう。

 

「そういえば……昨日の夜に桜、何か言ってたか?」

 

俺に代わって、桜を家に送ってくれたのは文だった。

これは桜たっての願いだったし、何かしらの用事が文にあったと考えるべきだろう。

ただ、文と桜の二人には接点がないどころか、夕飯時には一言も会話がなかった。

そこから考えると、桜が聞きたかったのは俺たちの交際についてだと思う。

本来であれば、俺が聞いていい話じゃないかもしれない。

だけど、昨夜は桜の様子が明らかに変だったので、今までずっと気になっていた。

 

「もぐもぐ。桜さんですか?」

 

少女は、新聞から目を離して俺を見てくれたが、朝食を取る箸と口は止まらなかった。

朝から気持ちいいぐらいの食欲だけど、あまり行儀は良くない。

 

「違ったのならそれでいいんだけど……例の交際宣言で、何か桜から言われたりしなかったか?」

「……うーん。その件については、特になかったですね。単に身の上話をしただけです。士郎さんが気にする話ではないかと」

「身の上話? まさか、烏天狗だと桜に言ったんじゃ……?」

「そんなわけないでしょう。桜さん自身について少しお話しただけです。いわゆる、ガールズトークってやつですね。……男の子には言えない乙女の秘密です」

「そっか。じゃあ俺は聞かない方がいいかな」

 

乙女の秘密と言われたなら、男の俺が聞くのは野暮ってものだ。

……それなりの付き合いのある俺にも話せない内容。

なんだか寂しい気もしたが、女の子同士でしか話せない話題もあるのだろう。

男の俺には少しわからない世界だ。ガールズトーク……。

 

「それと……桜さんの家だけあって、彼女と同じにおいがしましたね。もぐもぐ」

 

家に呼ばれて、お茶でもしたのだろうか。

俺は、中学以来一度も慎二と桜の家には遊びに行ってないので、少し懐かしくもある。

なんにしても、二人が仲良くなれたのなら何よりだった。

 

 

「そろそろ学園に行こうと思うけど、文は今日どうする?」

 

昨日のように、制服姿で忍び込むつもりなら、事前に知っておきたい。

あれを二度三度と繰り返されたら、俺は聖杯戦争とは関係のない理由で社会的に死んでしまう。

だけど彼女がいなければ、サーヴァントと遭遇した時の対処ができないのも事実だ。

 

「そうですね。じゃあ今日は上から士郎さんを見守っています」

 

そう言うと、彼女は天井を指さした。

 

「……上? なんのことだ?」

 

俺がよほど間抜けな顔をしてたのか、彼女は上品に口を押さえて笑う。

 

「つまりは、上空からです」

「へ?」

 

 

 

 

通学路の長い坂道を一人で歩く。

二月の透き通った空気が心地よく、空を仰げば雲一つ無い快晴があった。

その空に、小さな人型らしきものを発見した。……うん。多分あれが文だ。

 

視力を魔力で最大に水増しして、ようやくその程度にしか見えない。

生身の人間が、肉眼で観るのはほぼ不可能だろう。

一体、彼女は上空何メートルにいるのか。空気も薄いだろうし、何より寒そうだ。

 

「……マフラーでも渡しておくべきだったかな」

 

あの距離なら、何日か見てなかった一本歯の靴、頭襟という天狗姿でも問題ないはず。

そもそも、女の子が空にいる時点で言い訳のしようもないんだけど。

学園の制服姿を着ない理由を尋ねたら「戦闘でボロボロになりそうですからね」と言われた。

その後に「あ、あと天狗としての矜持とモチベーション的にも!」そう取って付けたように説明していた。

 

「ふー」

 

一度唾を飲み込んでから、穂群原学園の正門を通る。

学園に張られた結界が解かれてないか……そんな淡い期待したが、それは楽観だった。

 

「ぐ……ッ」

 

この淀んだ空気……昨日よりもずっと酷いじゃないか。

これは、間違いなく完成が近い。

昨日襲撃したサーヴァントか、そのマスターを倒さない限り、この結界はもう止まらない。

 

義務感にも似た焦燥に襲われるが、闇雲に探し回っても見つかるはずがない。

今のこの状況では、悠長に授業を受ける余裕もない。何でもいいから対策を練らないと……。

 

「よお、衛宮。そんなところでぼけっとしてたら、背中を蹴られても文句は言えないぞ」

 

正門で立ち尽くしていると、後ろから聞き馴染みのある声がした。

 

「……慎二か。最近学園を休みがちだけど、どうかしたのか?」

 

数日ぶりに見る慎二だった。珍しく機嫌の良さが顔にも出ていた。

 

「ふん、僕が休んで何しようと衛宮に関係あるのかい?」

 

態度は相変わらずだが、少しも気にした様子を見せない。

こんな慎二を見たのは、もしかしたら中学の時以来じゃないか?

 

「弓道部も休んでいるらしいじゃないか」

「それこそ衛宮は部外者だろ。そんなことを僕に言う権利はないと思うけどね」

 

それは、慎二の言う通りだった。

部を辞めた俺が今更、首を突っ込める問題じゃない。

 

「ああ、そうだったな」

「……衛宮と話しても時間の無駄だし、僕はもういくよ。おまえが遅刻しようが知ったことじゃないけど、ホームルームに遅れて僕に迷惑掛けるなよ」

 

それだけ言って、慎二は校舎へと歩き出した。

俺も、こんなところにいても仕方がないので、慎二の背中を追うように教室へ向かう。

 

「……慎二」

 

また昔のように肩を並べて歩けたらな、と少しだけ思った。

 

 

このまま校舎に入ると、文とは会えなくなる。

昇降口の手前で空を見上げたら、彼女が大きく手を振っていた。多分だけど。

俺も彼女に倣って空に手を振ると、周りにいた生徒が気の毒そうな顔で俺を見ていた。

 

自分の教室に入る前に、遠坂が学園にいるか確認したが、クラスメートによると今日は休みを取ったらしい。

それもそうだろう。

普通であれば、命を賭けた戦いに、普段通りの生活を送る方がおかしい。

だけど、疑問に思う。

あの遠坂凛が、自分のライフスタイルを聖杯戦争なんかで変えるとも思えない。

考え過ぎかも知れないが、少しだけ引っ掛かりを覚えた。

 

 

 

 

午前中の授業が終わって昼休み。俺は約束通り、屋上に向かう。

屋上のドアを開けると、殺風景な空間が広がっていた。

昨日と同じく、生徒の姿は一人もいない。

本来であれば、屋上特有の解放感もあるはずだが、結界の力でとてもそんな気分にはなれない。

 

「士郎さん――」

 

そこに、文の姿を発見する。

屋上で少し退屈してたのか、俺の顔を見たら子犬のように駆け寄ってきた。

 

「お待たせ。じゃ、昼食にしようか」

 

今朝、朝食と同時に作った弁当を文に渡した。

朝食と同じおかずも入っているが、大体は弁当のために新しく作ったものだ。

同じものを出すよりも、彼女に食事の際は、常に新鮮な気持ちを味わってもらいたい。

彼女がいつまでこの世界にいられるかわからないので、食事だけは手を抜きたくなかった。

 

「わー。ありがとうございます。……うっわ、すごい豪勢。ちょっと引きましたけど、流石は士郎さんです」

 

そんな少女らしい笑顔で、弁当を見て喜んでくれた。

その顔に朝から頑張って作った甲斐があったと思う。ちなみにお重は五段だ。

 

 

「授業中、退屈じゃなかったか?」

 

視界にちらつく結界の基点が気になるが、文と二人きりになれる場所なんて、学園では屋上ぐらいしかない。

 

「いえ。サーヴァントに警戒しつつ、手帳に今回のことを纏めていたので、そうでもないですよ」

 

和綴じの赤い手帳を手品のように取り出す。

これは文花帖といって、自分の足で稼いだ新聞のネタを書き留めるためのものらしい。

簡単に言えば、ただのネタ帳だ。

いつだか「見たら殺しますよ」と曇りない笑顔で言われたので、ちょっとしたトラウマだった。

 

「……それって空の上で?」

「ええ、空からですが。それがどうかしました?」

 

天狗である彼女に取って、地上にいるのも上空にいるのも同じようなものなのか。

 

「でも寒くはな――」

 

その時、全身に得も言われぬ嫌悪感が走った。

それと同時に、周辺が一面の赤に覆われる。

 

「なん、だ、これ……」

 

学園で常に感じていた嫌悪感が、比較にならないほど濃密になる。

目に映るすべてが、血の海にいるかのように赤く染まり、体を支える力が抜けてしまう。

あまりの気持ち悪さに胸を押さえたら、食べたばかりの昼食を吐き出した。

 

「はあ、はあ……」

 

胃酸を味わいながら、もしやと思い結界の呪刻の基点を見る。

これまでは、魔力を通わせないと見えなかった呪刻が赤く輝いていた。

 

「まさか……! もう結界が発動したのか……!?」

 

文の目算だと、完成までにまだ時間があったはず。

 

「……ふむ。これは、そうね。『溶解』と表現するのが妥当かしら」

 

隣の少女が俺にも聞こえる声でつぶやく。

文はみっともなく嘔吐する俺と違って、何でもないように平然としていた。

未だに吐き気が堪え切れない俺の背中を、優しくさすってくれる。

 

「大丈夫ですか?」

「あ、ああ……もう大丈夫だ。それに……溶解って?」

「こうして、肌と匂いで感じれば、私にでもわかります」

 

異様な空気を取り込むように、形の良い鼻をすんすんと鳴らす。

 

「ええと、結界の中にいる人間の肉体を魂ごと溶かし、魔力として取り込んでしまうものですかね」

「……人を溶かして、取り込む?」

 

今は昼休み。学園の生徒や教職員が昼食を楽しんでいる。

そんな日常の象徴とも言える瞬間に、そんな恐ろしいものを発動したというのか。

このまま放っておけば……藤ねえや桜、クラスのみんなが死んでしまう。

 

「ふざけてる……! そんなこと、絶対に許してたまるか……!」

「ですが……この結界、完全とは言えませんね。本来なら耐性があっても昏倒するほどの代物です。それでもただの人間には大変危険な代物ですが」

「くそ、早く止めないと……!」

 

気を抜くと意識が飛びそうになる身体に鞭を入れて、何とか立ち上がる。

 

「――――ふむ。どうしたものやら。士郎さんを無駄死にさせるわけにもいかないし」

 

文は顎に手を置いて何かを考えているようだ。

 

「文? どうかしたのか?」

「……そうですね。マスターまではわかりませんが、サーヴァントは同じ結界内に必ずいるはず」

「だったら、二手に分かれて行動しよう。その方が効率的だ」

「えっ、そうなります? まあ、士郎さんがそれでよければ。うーん」

 

文の危惧する通り、安全面を考えれば、二人で探したほうがいいだろう。

だが、それだと作業効率が二分の一になる。

その結果、誰かが犠牲にでもなれば、俺は悔やんでも悔やみきれない。

 

「……わかりました。マスターである士郎さんの指示です。そうしましょうか」

 

結界の基点を撮影すると、カメラから彼女の武器である葉団扇に持ち替えた。

 

「ふふ。異変解決にいち早く行動なんて――まるでどこかの巫女みたい」

 

誰に言うわけでもなく、少女はどこか自嘲的にそんな言葉を漏らす。

そして彼女は人外としての象徴である、黒染めの翼を大きく開いた。

 

 

 

 

文と別れた俺は、元凶のサーヴァントを探すため、上の階から順に駆けていく。

文は逆で、下の階から探してもらっている。

もし俺が先にサーヴァントを見つけたら、すぐに逃げ出すように言われていた。

それで逃げられるかどうかはわからないが、必ず負ける戦いに挑むほど俺も無謀ではない。

 

廊下には、何人もの生徒が倒れていた。幸いにも息はあったが、意識は完全に失っていた。

だがそれも時間の問題だろう。

俺たちがぐずぐずしていると、彼らはいずれ結界の餌食になってしまう――。

 

 

「誰だ……?」

 

三階の廊下を走っている時、一つ人影を発見した。

サーヴァントかと思って、身構えたがそうではないようだ。

あそこにいるのは、まさか慎二か――!?

 

「慎二……!? おまえは大丈夫なのか!?」

 

緊張を少し解いて、慎二の側まで近づく。

 

「……ああ、なんだ。どこの間抜け面かと思ったら、はは、衛宮じゃないか」

 

慎二はこんな異常事態だというのに、まったく動揺した様子を見せないでいた。

それどこか、校門で見た時よりも機嫌がよさそうに思える。

奇妙な装丁の本を持っていたのが気になったが、今はそんな場合ではない。

 

「慎二! ここは危ない! 早く学園の外にでるんだ!」

 

俺がそう伝えると、どういうつもりか慎二は心外そうに顔を歪ませる。

これまで見たことのない、酷薄さが滲み出ていた。

 

「ハ、ハハハハハ! 衛宮、おまえが勘違いしているようだから言っておくけど、この結界――『鮮血神殿(ブラッドフォート)』を発動したのは、僕のサーヴァントなんだ!」

「――なッ!?」

 

慎二は一体、なにを言っているんだ……?

言葉の意味はわかるが、上手く飲み込めず、理解を拒絶する。

 

「ふん。心底意外って顔だな。馬鹿な衛宮にわかるように説明すると――僕もおまえと同じ聖杯戦争のマスターということさ。それにさ、光栄に思えよ。今日この鮮血神殿を発動したのは、おまえのためなんだからな!」

 

俺のためだと? どういう意味だ……?

だが、今の俺にはあれこれと悩んでる猶予も余裕もなかった。

 

「慎二、お前が本当にあのサーヴァントのマスターと言うなら、今すぐに結界を止めるんだ!!」

 

あの慎二が聖杯戦争のマスターという話は、信じたくなかった。

しかし魔術師じゃないあいつが、結界の中でも無事なのだ。

耐性がある俺だって、今も身体が重く、吐き気が抑えきれない。

それならば、本当に慎二があのサーヴァントを従えるマスターなのだろう。

 

「ハハハ……何を勘違いしているんだい? どうして僕が衛宮の命令なんて聞かなきゃならないのさ! それにさあ! 本気で止めて欲しいんだったら、土下座ぐらいするのが礼儀じゃないのか!?」

「ふざけるな! 結界を止めろ!」

「ああああ! イライラする! イライラするなあ!! 僕は顔を青くして狼狽える衛宮が見たかったのに! なんで魔術師である僕におまえなんかが命令するんだよ!!」

「…………」

「おい! 何とか言えよ! 衛宮ァ!!」

 

もう慎二には、何を言おうが言葉は届きそうもなかった。

 

「もう……いいんだな、慎二。だったら俺はおまえを力ずくで止めてやる」

「ハハハハ――! そうだ、そう来なくちゃな! 僕と衛宮、どちらが優れた魔術師なのか力比べをしようじゃないか!! ハ、ハハハハハハハ!!」

 

俺の言葉に一瞬だけ目を見開くと、何がおかしいのか壊れたように笑い続ける。

慎二の顔には、正気ではありえない凶相が刻まれていた。

 

「それに――おまえの弱っちいサーヴァントも、今頃ライダーが殺してるだろうしな!」

 

そうして、慎二は手に持った赤い本を俺に向けて掲げた。

 

 

 

 

士郎と慎二のいる三階の下。

二階の廊下では、ライダーと文が二度目の会敵を果たしていた。

廊下では、三階と同様に何人もの生徒が半生半死の状態で倒れている。

 

「…………」

 

ライダーは重心を下げ、四つん這いになると、大柄だがしなやかな身体がたわんだ。

引き絞られたライダーの身体が矢のように放たれて、文に襲い掛かる。

 

「――ふっ!」

 

それと同じタイミングで、鎖に繋がれた短剣を文に向かって投擲。

文は高速で飛来する短剣を難なく躱してみせたが、これは牽制でしかない。

短剣は鎖の両端に付いており、ライダーは時間差でもう一本を投げる。

 

「はぁ!」

 

二本目の短剣に、文は回避行動を取らずに葉団扇を扇いだ。

そこから発生した暴風によって、短剣の勢いは殺されてしまい、力なくその場に落ちる。

ライダーは、既に回収済みの一本目の短剣を文に振り下ろそうと駆けたが。

それもまた、葉団扇から吹き付ける風によって、動きを止めた。

 

「やはりあなたがこの結界の術者でしたか。しかし、挨拶もなしとは随分ですね」

 

文は余裕綽々と言った態度で、ライダーに話し掛けた。

 

「……あなたが昨日、桜に言った言葉は覚えていますか?」

「桜さんのサーヴァントはあなたでしたか。ふふ……確かに陰湿な感じがそっくりかも」

 

その人を食ったような物言いに、ライダーは確信する。

間桐桜の心をズタズタにしたのは、間違いなくこのサーヴァントだと。

 

「あなたは桜を傷つけた。――死んで償いなさい」

 

ライダーは、文との間合いを跳躍して一気に詰めようとする。

 

「…………」

 

天狗の少女は、ライダー相手に余裕を見せていたが、内心では焦りを覚え始めていた。

容赦なく襲い掛かるライダーに、彼女の得意とする風の弾幕が使えない。

この狭い空間で派手な弾幕を使えば、廊下で死にかけた人間を巻き込んでしまう。

それは、士郎との軋轢になりかねないし、文にとっても望むところではない。

これでは、高密度の弾幕は使えないのも同然。

 

そしてもう一つ。

 

「既に気づいているようですが、あなたに取ってこの空間は不利に働く。このような狭い空間で持ち味である俊敏な動きができますか?」

 

ライダーは昨日の屋上での一件で、この少女の強みは尋常ならざるスピードにあると読んでいた。

遠坂凛に放たれた短剣を、刹那のうちに掴み取る神業。

この黒翼の少女は、ランサー並かそれ以上のスピードがあると考えて間違いない。

 

「……さてさて、どうでしょうかね?」

 

ライダーの言葉通り、文のスピードはこの場所だと十全には生かせない。

そして何よりも、この場所では『飛ぶこと』ができなかった。

他のサーヴァントにはない、射命丸文が持つ最大のアドバンテージ。

今はまだ致命的とまではいかないが、弾幕と機動力の両方を封印されてしまっている。

その二つが制限された状態で、一騎当千の古強者であるサーヴァント相手にして勝てる見込みは少ない。

 

「ふっ! はっ! はああっ!」

 

ライダーは、両手に持った短剣を使い、刺突による攻撃を繰り出す。

文は軽業師のような身のこなしで、その攻撃を躱していった。

急所を的確に狙い続ける二本の短剣。

文はそれを、弾幕攻撃によって鍛えられた反射神経で見切っていく。

 

「……ッ」

 

それでも、限界を感じていた。

サーヴァントの攻撃を、ガードもせずにそう長い間、躱し続けるのは厳しい。

文の持つ葉団扇では、攻撃を受けるにはあまりに心許なかった。

ヤツデの扇なんか、簡単に貫かれる。逆に攻めに転じる余裕もそこまでなかった。

 

(まあ、それでも――)

 

文は、床が砕けるほどの力を一本下駄の足に込める。

極限まで集中して、ライダーによる左右からの挟撃を紙一重で躱してみせる。

そして躱すと同時に、バネのように込められた脚力を解放した。

 

「な……!?」

 

170センチを優に超すライダーを軽々と飛び越えて背後を取った。

跳躍の勢いのまま、少女の履いた一本下駄が、ライダーの後頭部をしたたかに蹴り飛ばした。

ライダーは数メートル先まで蹴り飛ばされたが、追撃を受けぬようすぐに体勢を整える。

 

「――驚いた。異常なスピードもですが、どんな眼をしているのですか」

 

ライダーは肩に手を置いて、首を軽く回す。

魔力も込められていない、ただの力に任せただけの蹴りだ。大したダメージは受けていない。

 

「お褒めにあずかり光栄です。最近は回避してばかりの人生でしたので」

 

いつも通りの笑みを作って余裕を見せるが、当然そこまでの余裕はない。

だが、近接攻撃のパターンはある程度は見切っており、今なら即反撃も可能だった。

 

「ふう」

 

葉団扇に魔力を走らせて、風による刃を纏わせる。

今度はこちらから攻めに転じようと、一歩目を踏み込んだその時だった。

ライダーが射命丸文にわざと似せた、口角を上げた笑みを作る。

 

「――それでは、次は私の眼を見せてあげましょう」

 

ライダーが顔を覆う眼帯を手に取った。

ゾクリ――と射命丸文の背中に、かつてない悪寒が走った。

それは、外の世界に来てから初めての感覚だ。

 

「やっば……!」

 

文は、経験的に悟った。

彼女がいま外そうとしている眼帯は、魔眼封じなのだと。

そして、感覚的に悟る。

それに対抗する術などなく、故にこの場から逃げるしかないと。

 

文は、廊下の窓を破って、校舎の外へと抜け出そうとする。

 

「フフ。良い判断です――ですが、もう遅い」

 

既に眼帯が外されており、『魔眼《キュベレイ》』が解き放たれた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

19.宝具疾走

 

 

慎二の掲げた魔導書から魔力が迸った。

三列の地を這う黒い刃が、俺に襲い掛かる。

 

「本当に馬鹿だね、おまえ」

 

黒い刃が俺に迫ろうとするが、決して見切れない速度じゃない。

こんなの、サーヴァントの攻撃に比べたら児戯に等しいレベルだ。

 

俺は迫り来る刃を無視して、正面から真っすぐに慎二に向かって走る。

黒刃によって、制服ごと皮膚を切り裂かれたが、ただそれだけ。

その程度の傷では、俺の動きに支障はない。

 

「馬鹿はおまえだ! 慎二!」

 

慎二は、刃を無視して向かってくるとは思ってなかったのだろう。

余裕の表情から一転して、驚愕に引きつる。

 

「なッ――! やめろ! 来るなぁ!」

 

狼狽える慎二に掴み掛かろうとしたが、あいつは俺から逃げるため、廊下を走った。

だが、決して追いつけないスピードじゃない。これなら一分もしないで捕まえられる。

 

「…………」

 

慎二を追いながらも、廊下に倒れた女子生徒を見る。

胸は微かに上下しており、しっかりと生きていた。決して、手遅れではない。

ここで誰かが死んでしまったら、俺は一生悔やむことになるだろう。

10年前のあの日、俺には何の力もなかった。

でも、今なら……文の力を借りられる今なら、あんな悲劇は絶対に止められる――。

 

それに、慎二にとっても手遅れではない。

やってしまったことは、到底許せるものではない。

だが、慎二はまだ誰も殺してはいなかった。まだやり直せるのだ。

誰か一人でも死んでしまえば、取り返しのつかない罪を背負わなければならない。

 

「クソクソクソ! どうしてこうなるんだよ……!?」

 

慎二が逃げながらも、廊下の端に備えられた掃除用具ロッカーを倒した。

……そんなので、逃げ道を塞いだつもりか。

 

撃鉄を下ろすイメージ――。

通常であれば、土蔵で一時間掛けてやるプロセス。

だが、必要な行程を無視して、無理やり魔術回路をこじ開けた。

慎二が蹴飛ばした掃除用具から、モップを拾い上げて詠唱を開始する。

 

『――同調開始(トレース・オン)

 

モップの先端を外して、解析を開始。強化の魔術を行使する。

 

「く……! あああああッ!!」

 

身体中に張り巡らされた神経を、引き千切られたような激痛。

それでも、何とか強化を成功させた。

 

「衛宮ァ!!」

 

慎二が逃げながらも、魔導書から二度目の刃を走らせる。

 

「はぁ!」

 

それを強化したモップで破壊した。大した手応えもなく、黒刃が砕け散った。

 

「うああああ……ッ!! クソ! クソォ!!ライダーのやつ、なにやってんだ! ライダーッ!!」

 

刃が破壊されるのを目の当たりにした慎二が、足を止めて喚き散らした。

その隙に慎二の顔を思いっきり殴り飛ばす。

転倒した慎二が起き上がる前に馬乗りになって、再び顔を殴った。

 

「慎二! 結界を止めろ! 今ならまだ間に合う!」

「……クソ! だ、誰が、誰がおまえなんかの言うことを聞くかよ!」

 

慎二は馬乗りの状態から逃げ出そうと藻掻いたが、俺と同程度の体型である以上、ここから逃げるのは無理だ。

 

「今ならまだ間に合うと言っているんだ! 誰も死なずに済む!」

「ハ、ハハハ! そんなこと僕の知ったことか! ……ライダーのやつ! まだ片付けてないのか!?」

 

頭に血が一気に上る。

人が、人が死のうとしているんだぞ……?

それを……おまえは『そんなこと』だと言い切るのか!?

 

「慎二、おまえがどうしてこんな凶行に走ったのかわからない。だけど、今そんなことは関係ない。――これが最後だ。結界を、止めるんだ」

「知らないね! 馬鹿が! 僕がなんで……」

 

慎二が戯言を言い終わる前に、俺は再び顔を殴った。

マウントポジションのままに、何度も何度も拳を振り下ろす。

何本も歯が折れて、拳に破片が突き刺さる。痛みはない。

極度の興奮状態で、脳内麻薬が分泌されているのかもしれない。

 

慎二は、ぐるんと白目を剥いたが、それでも殴る手を休めなかった。

何かを砕く嫌な感触が、殴っている腕に伝わった。

その時にはもう、慎二は失神していた。

整った顔は、見るも無惨な状態だった。

顔中が赤く腫れ上がり、前歯も半分近く折れて、鼻の軟骨も完全に砕けている。

もしかしたら、顎の骨も折れているかも知れない。

 

慎二は気を失っていたが、手に持った魔導書だけは万力のような力で握られていた。

もう慎二に、結界を止めることはできない。

 

「…………ぅ」

 

蚊の鳴くようなか細い声。

近くで倒れていた女子生徒の顔が、グズグズと溶け始めていた。

時間はもう残されていない。ひょっとしたら、もう手遅れかも知れない。

そう、この結界を止めるには――。

 

『結界を張ったサーヴァントか、そのマスターを殺すしかないわ』

 

俺は、慎二の首に手を掛けた。

 

 

 

 

ライダーが魔眼を解放すると、空間が色を失って凍った。

水晶細工のような灰色の美しい眼。

虹彩には光沢がなく、まるで作り物のように無機質だった。

それは、神域に封じられた神の呪いであり、視線だけで対象を石化させる魔眼。

キュベレイとも呼ばれる、規格外の能力。最高位のノウブルカラー。

 

魔眼の視線に捉えられた気を失った生徒たちが、足下から石へと変化していった。

それは文も例外ではなかったが、石化までには至らない。

しかし幻想郷最速と言われた射命丸文の脚は、もはや完全に失われていた。

 

「――ふむ。効きがあまりよくありませんね。やはり、制限された今の私に鮮血神殿との同時展開は無理がありましたか」

「冗談、キツいですね……」

 

この状態ですら、効きが悪いのだと言う。

視線すら合わせず、視界に入れられただけなのに、身体が石になったように動かない。

それは比喩ではなく、一定の対魔力がなければ、本当に石と化してしまう代物。

文からすれば、とことんタチの悪い冗談でしかなかった。

 

「あなたのその脚は厄介ですね。早めに封じさせてもらいましょう」

 

ライダーが、短剣を再び投擲する。

天狗の少女は、自分の足に短剣が飛んでくるのを、ただ眺めるしかできなかった。

普段なら、なんなく躱してみせただろう。

彼女の神懸かり的な動体視力に反して、身体は回避しようにも反応がない。

なんとか、ずるずると身体を引きずってみるが、それは徒労に終わるだろう。

 

文は、これから確実に訪れる痛みに備えるため、奥歯を強く噛み締めた。

そして鋭い刃の先端が、文の細い足を簡単に貫く。

 

「…………ッ!!」

 

想像していた以上の痛みに襲われる。

短剣が下腿部を貫通して、おびただしい鮮血が流れ出した。

もしかしたら、血管を深く傷つけているかもしれない。

 

「フ……そこまで深く刺さったのなら、もう簡単には抜けないでしょう」

 

ライダーは眼帯を付け直して、魔眼キュベレイを封印した。

こうなってしまえば、余計な魔力を消費する必要はない。

あのダメージなら、今までのような動きは二度とできない。

そう確信したライダーは、短剣に縫いつけられた文を鎖によって全力で振り回した。

 

「はあああっ!!」

 

文の小さな体躯を、壁や窓へ叩きつける。

サーヴァントの膂力による衝撃で鉄骨が剥き出しになり、ガラスを失った窓枠は無残にひしゃげる。

最後に最大級の力で床へと叩き付けられて、受け身すら許されない文は蛙のように潰された。

 

「……かはっ」

 

肺から嫌な音がしたが、激痛のあまりに呻き声すら上げられない。

ライダーは、そんな状態の文に対して無感情に告げる。

 

「無様ですね。あなたには鮮血神殿という鳥籠のなかで、惨たらしく死んでもらいます」

 

それでも天狗の少女は、ライダーを無視して、よろよろと立ち上がった。

足に刺さった短剣は、まるで返しでも付いているように、肉に食い込んで微動だにしない。

だが、文はそれを力任せに引き抜いた。

 

「…………ッ!!」

 

脚の肉が一部削げてしまい、意識が飛びかねない激痛が走る。

我慢できずに苦悶の表情を浮かべるが、悲鳴だけは出さなかった。

 

「……忘れ物です。お返ししますね」

 

自分の虚勢を見せつけるように、文は引き抜いた短剣をライダーの足元に投げ捨てた。

ライダーは自身の得物を拾い上げ、刃に付いた文の血を舐める。

 

「フフ。あなた、本当に英霊ですか?」

 

短剣という栓が抜かれたため、文の足から再び大量の血が流れた。

叩き付けられたせいで身体もボロボロで。

肺が傷ついているのか、呼吸は不規則であり、喘鳴をする有様。

それでも、少女の赤い目は輝きを失われないまま、薄い笑みも絶やさない。

 

「……まぁいいでしょう。あなたの敗北は決定しています。桜への暴言を心から謝罪するのであれば、優しく殺してあげましょう」

 

ライダーがそう言うも、妖怪少女は歪な微笑を続けていた。

それは、まるで人を食ったかのような――。

 

「知ってますか。妖怪は、心が折れるとオシマイなんですよ」

「……何を言ってるのです。おかしくなりましたか?」

 

ライダーは、怪訝な表情を見せる。

目の前の少女は、そうやって立っているのもやっとだ。

それなのに、このサーヴァントはどうして笑っていられる?

 

「ですから、私は絶対、桜さんに謝りません。ここであなたの言う通りにしたら、負けを認めるのと同じじゃないですか」

 

……幻想郷に住む妖怪は、精神によって生かされている。

肉体に負った傷は問題ではない。その反面、精神の傷は簡単には癒えない。

屈服や敗北は、その最たるものだった。

そんな心の傷は肉体にも影響を及ぼして、妖怪すらも死へと招く。だから。

 

「――だから心が折れない限り、私は決して負けない」

 

文は、葉団扇に風を纏わせた。

そのまま、傷ついた足を庇おうともせずにライダーへと駆け出す。

だがそれは今までの文に比べて、あまりに遅い。遅すぎた。

 

「何を……!?」

 

ライダーは長身を活かして、葉団扇が届くより先に少女の顎を蹴り上げた。

カウンター気味に入った蹴りによって、文は天井へ叩きつけられて蛍光灯を砕く。

 

「…………ぐ、ふ!」

 

硝子片と水銀蒸気がキラキラと降りしきるなか、文はそれでも立ち上がった。

 

「何か奥の手があるのかと思いましたが、闇雲に突っ込むだけですか」

「はあ……はあ……」

「では、とどめを刺しましょう。――あなたが今回の聖杯戦争で最初に脱落するサーヴァントです」

 

確実に殺すため、文に近づいていく。

ライダーは口では侮ったように見せていたが、相手は自分と同じサーヴァントである。

宝具の正体も未だ不明であり、一瞬の油断は命取りになる。

だから一切の油断をせず、確実に距離を縮めていった。

 

ほら、肩で息をする少女の赤い目は、相変わらず強い光を灯しているじゃないか。

 

「――――?」

 

だがその目は、眼前のライダーを見ていなかった。

視線の先、それはライダーの遠く後方の――。

 

「――文!!」

 

ライダーの背後から、強い意志を感じさせる男の声が響いた。

 

その声にライダーは、ほんの僅かな隙を作る。

文を警戒するあまりに、周囲の警戒が散漫になっていた。

 

そしてそれを見逃すような天狗の少女ではなく。

ライダーまでの数メートルの距離を一瞬で縮めると。

葉団扇で作られた刃によって、ライダーの肉体を水平に切り裂いた。

 

ライダーも風の刃が届く直前に身を翻したが、腹部が大きく裂かれていた。

致命傷とまではいかないが、決して無視していいダメージではない。

ライダーは、注視したまま後方へと下がり、文との距離を再び取った。

 

「ナイスアシストです――。士郎さん」

 

文はライダーの肩越しにいる、自身のマスターに親指を立てた。

 

「…………」

 

まだあんな動きができたのかと、ライダーは感心する。

無鉄砲な吶喊は、油断させるための布石として、わざと鈍足を演じてみせたのだ。

そしてライダーが、確実に間合いに入るか、少しでも隙を作る瞬間を狙った。

 

「文、その傷……大丈夫なのか!?」

 

士郎は少しでも文の側に近づきたかったが、ライダーがそれを許さない。

ライダーの肩越しではあったものの、そこからでも文の状態が酷いのはわかった。

彼女の身体は、傷がない箇所を探す方が難しいほどだった。

 

「ええ、見ての通り、問題ありません。唾でもつけておけば治ります」

「そんなわけないだろ! 血だって流れてるじゃないか!」

「まあまあ。ところで士郎さん――その背中の大きな荷物はなんですか?」

 

 

 

 

俺が慎二の首を絞めようとした時、すぐ下の階から爆発音がした。

その音の正体は一瞬でわかる。間違いなくサーヴァント同士の戦いだ。

文が結界を仕掛けたサーヴァントと遭遇し、そのまま交戦状態になったのだろう。

 

俺は、このまま慎二を殺してしまってもいいのか?

間違いなく親友と呼べていた頃の、懐かしい記憶が脳裏をよぎる。

 

「…………くそ」

 

少しの逡巡――俺は気絶した慎二を背負うと階段を降りた。

 

 

 

言葉とは裏腹に、文は満身創痍だった。

全身から血が流れており、右足には目を背けたくなる穴が開いている。

清潔感に溢れていた白い服も穴だらけで、修繕が不可能なほどに破れていた。

 

それでも文はいつもと変わらない、意志の強い声で「問題ない」と言う。

そこに、嘘や虚勢は少しだって感じられなかった。本当に問題ないのかもしれない。

だが、文の傷が命には関わらなくても、戦闘に支障を来すのは明白だった。

 

そしてその傷を負わせた相手は間違いなく、文と対峙しているサーヴァント――ライダーだ。

俺はライダーに向かって、肺に残る空気をすべて吐き出すかのように叫ぶ。

 

「ライダー! お前のマスターは戦闘不能だ! 結界を解除しろ!!」

「……聖杯戦争とは、サーヴァント同士の戦いです。マスターが戦闘不能だとしても、サーヴァントがいる限り問題はありません」

「そうか。それなら、この場で慎二を殺す」

 

気絶したままの慎二を壁に寄りかからせて、再び首に手を掛ける。

このまま本気で力を込めれば、窒息死するより先に慎二の首の骨が折れるだろう。

 

「本気ですか? シンジとあなたは友人であると聞きましたが」

「ああ、本気だとも。俺だって魔術師の端くれだ。殺す覚悟も殺される覚悟もできている。魔術とは己を殺し、他者を傷つけるものだと、切嗣から最初に教えてもらった」

 

それに殺す覚悟なら、三階で慎二の首に手を掛けた時から済んでいた。

下の階からサーヴァントの戦いの音がなければ、慎二は今頃死んでいただろう。

殺さないで済むなら、それが一番なのは間違いない。

だけどこれ以上、誰かが傷付いて命を落とすかもしれないなら、俺は慎二を殺すのを躊躇わない。

 

「……なるほど」

 

ライダーは、文に対して警戒してるのか一度たりとも振り向こうとしない。

それでも、口だけは開いた。

 

「――わかりました。鮮血神殿を解きましょう」

 

その瞬間、赤く染まった世界が、本来の色を取り戻した。

俺の体を重く縛っていた虚脱感も一瞬で消えた。

慎二の首に掛けていた手も、安堵によって少しだけ緩んでしまう。

 

「ですが、シンジは返してもらいます」

 

一瞬の油断がいけなかった。

ライダーは人間にはできない速度で振り返ると、俺と慎二の元へと飛んだ。

 

「士郎さん!!」

 

文も咄嗟にライダーを追うが、足へのダメージのためか追いつくことができない。

迫るライダーに、俺は強化したモップで迎撃しようとして、結果的に慎二を解放してしまった。

ライダーは俺を無視して、廊下で倒れる慎二の襟を掴むと、廊下の奥まで駆け抜けていった。

 

少し遅れて追いついた文が、俺の背中を軽く叩く。

 

「士郎さん、行きましょうか!」

「ああ……!」

 

どうしてか、少しだけ彼女に認められた気がした。そのまま二人、肩を並べてライダーを追う。

 

 

ライダーとは、廊下の突き当たりで対峙した。

気絶した慎二を抱えたままでの戦闘は不可能なはずだ。

 

「では、この場は離脱させてもらいます。あなたを殺せなかったのは心残りですが、鮮血神殿で魔力の補充はできましたし、多少の収穫もありました」

 

文が視線を鋭くしてライダーを見据える。

 

「こんなところで逃がしませんよ。ここはほら、私からあなたまで一人の人間もいません」

 

文が手に持った葉団扇に魔力を集中させた。

 

「つまり、ここなら被害を出さずに弾幕を使えます。ライダーさん、あなたはこの狭い廊下で私の弾幕を躱せますかね」

 

だんまく? ……弾幕って何のことだ?

しかしライダーは、態度を崩さずにニヤリと笑ってみせる。

 

「フフ――たかが一匹の烏如きが我が宝具の疾走を妨げられるとでも?」

 

ライダーが、手に持った短剣を自分の首へと突き刺した。

動脈から飛び散った血が、廊下を赤く染めていく。

 

「あなたは、なにを……!?」

 

自傷としか思えないライダーの異様な行動に、文ですら言葉を詰まらせてしまう。

 

そう呆気に取られた直後。

飛散した鮮血が、ライダーの眼前に集まり、魔法陣を形成する。

屋上のそれとも違う、初めて見る形だ。

人の眼球を模したような魔法陣が光を放ち、これまでで最大の魔力を奔らせた。

 

閃光が、周囲を包み込む。

 

「いけない! 士郎さん、舌噛まないように!」

「え?」

 

文は乱暴に俺を抱えると、廊下の窓に向かって跳躍した。

ガラスを突き破って、二階から外へと飛び降りる。

俺たちが今までいた場所からは、閃光と大きな振動、そして破壊音が鳴り響く。

 

文は俺を抱えたまま、楽々と着地してみせた。

ああ……彼女がいま履いているのは、一本下駄なのに器用だなと。

そんな状況にそぐわない、ずれた思考のなかに俺はいた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

20.決して忘れてはいけないこと

 

 

学園の結界が解かれて、嵐が去ったように周囲は静まり返っていた。

最後に宝具を使用したライダーは、気絶した慎二を連れて学園からいなくなった。

どこに行ったのか不明のため、これからライダーを追跡するのは不可能だ。

 

「文……本当に大丈夫なのか?」

 

さっきまで文の小脇に抱えられていたが、今はもう下ろしてもらっている。

あらためて彼女の姿を見ると、全身の傷が酷いものだとわかる。

特に右足の状態が酷く、下腿からの出血が今も止まらずに流れていた。

 

こんな大怪我を負った少女に、俺はまた助けられてしまった。

目指すべき理想に反した、自分自身の実力不足に情けなくなってしまう。

 

「先程も言いましたが、このぐらいなら問題ありませんよ。ただ足のほうは少し時間がかかるかもしれません」

 

文は黒い翼を羽ばたかせて、自身が大丈夫であるとアピールをする。

それと彼女の赤い目も、普段より優しげな雰囲気を感じた。

もしかしたら、俺を安心させようという彼女なりの気遣いかもしれない。

それでも、傷の手当てぐらいはしてやりたかった。

 

だけど、俺には他に優先しなければならないことがあった。

 

「文、俺は一度校舎に戻る」

「……わかりました。どうかお気をつけて」

 

文に一度頭を下げてから、一階の廊下の窓から校舎に入る。

今は、昇降口まで行く時間も惜しかった。

校舎の中では、今も苦しそうに呻いている生徒を見て足を止めたくなる。

ライダーの結界から解放された今でも、こうして後遺症は残っているのだ。

 

「…………ッ」

 

彼らに心の中で謝罪を繰り返して、廊下を駆け抜けた。

 

 

 

目的地は、二階廊下。

ライダーが最後に強力な宝具を展開していた場所だ。

ただでは済まない。済むはずがない。

宝具が残した傷跡は、校舎の外から見ても深刻だった。

廊下の端から端までを破壊し尽くし、終着点である校舎の壁は貫かれていた。

 

心臓の鼓動が、うるさいぐらいに早まっていく。

ここまでの距離を全力疾走したからではない。もっと大きな不安によって、胸が早鐘を打っていた。

 

そして、二階の廊下へと到着する。

窓ガラスは一枚残らず砕かれており、窓枠も原形を留めていなかった。

リノリウムの床は、ライダーの宝具が疾走した方向に抉られて、今も煙を上げている。

 

「…………」

 

そんなものより、この廊下にいたはずの生徒はどうなってしまったのか。

今日も、いつもと変わらない昼休みだった。

教室ではなく、廊下でも何気ない会話をする生徒たちがいたはず。

だけど、廊下には破壊された痕跡が残されているだけで誰もいなかった。

 

だというのに、俺の心臓がドクドクと警鐘を鳴らしている。

……これ以上は一歩でも踏み込むな。足下を見るな。目を背けろと。

 

ふと、タンパク質の焦げる嫌な臭いがした。

10年前のあの日の光景が、脳裏にフラッシュバックする。

俺は必死になって、燃える街中を歩いたあの時、こんな臭いをずっと嗅いでいた。

そう、これはたしか、ヒトの焼ける――。

 

ぼんやりとしていたせいか、何かに躓きそうになった。

無機物とも違う弾力。コンクリート片などではない。

原因を探ろうと反射的に足下を見てしまう。俺は、生まれて初めて条件反射を恨んだ。

 

「あ、ああ……なんだよ、これ……?」

 

それは、おそらく焼けこげた人間の胴体だった。

四肢は千切れてしまったのか消失しており、性別の判断ができない頭と体だけあった。

 

周囲に目を凝らすと、ほかにも似たような肉片が散乱していた。

とてもじゃないが、数え切れない。

俺が躓いた肉体はまだ原形を留めていたほうだった。

この有様じゃ、この廊下に何人いたのかもわからないじゃないか……!

どんな難解なジグソーパズルでも、ここまでは悪質じゃない……!

あ、あああ……。

 

「――うわあああああ!!!」

 

なにが、なにが正義の味方だ!

自分の通う学園の仲間すら守れなくて、なにが正義の味方だ!

あの時、慎二にとどめを刺していたらこんな事態にはならなかった!

俺は、この人たちを確実に救えたのだ!

だが、くだらない情に流されて誰も救えなかった!

それなら彼らを殺したのは、紛れもなく俺自身だ!

 

……目の前が暗くなった。

この惨状を拒絶しようと、意識が閉じかけた。

 

「ふざけるなよ……衛宮士郎――!!」

 

都合良く逃げる気なのか! 目を逸らすな! 目の前の現実だけを直視しろ!

これが己の甘さが招いた結果だと、衛宮士郎を構成する細胞一つ一つに刻みつけろ!

 

「うぐ……あ」

 

膝を折ると、酷い嘔吐感に襲われた。

胃の中は、とっくに空っぽかと思っていたが、それでも残った胃液を吐き出す。

そして吐き出すものがなくなっても続く激しい吐き気。

喉の奥が切れて、口のなかに鉄の味が広がった。それでも嘔吐は止まらない。

 

ふと、気づいた。

 

「ああ――これじゃ10年前の繰り返しじゃないか……!」

 

叫び出したかったが、もう喉が擦り切れて声は出そうもなかった。

 

 

 

「士郎さん……」

 

気づくと隣に文がいた。いつからそこにいたのか。

無感情に眼前の惨状を見つめている。彼女の顔に、いつもの張り付いた笑みはない。

ライダーと直接対峙したのは文だった。

彼女の力が足りていれば、これを防げたのか。

そんな、どうしようもない「たられば」の考えに至ってしまう。

当然それを俺に糾弾する資格はない。

彼女は他の生徒を巻き込まないよう、精一杯に戦ってくれていた。

……俺なんかは、確実に防ぐ手段すらあったのに。

 

俺は、この凄惨な光景を決して忘れぬよう、瞳に焼き付くまで眺め続けた。

 

 

 

 

「――なんてこと」

 

セイバーを従えた遠坂凛が俺たちの後ろから現れた。

セイバーは既に武装しており、不可視の剣を構えている。

遠坂は、学園を休んでいると彼女のクラスメイトが言っていたのを思い出す。

 

「これって、あの結界……? ウソ、まさかもう!? ……どういうこと?! 衛宮君!! ……これ、慎二のやつがやったの!?」

 

遠坂が、狼狽えていた。

自分の通う学園での死者に、年相応の少女の顔を隠しきれないでいる。

ひょっとしなくても、遠坂の知り合いだって、ここにいるかもしれない。

 

……そんな少女の一面を見せる遠坂に対して、俺は今どんな顔をしているのか。

酷く情けない姿なのは間違いないが、多少の冷静さを取り戻せたと思う。

 

「はい、そうですよ。彼と彼のサーヴァントがやりました。屋上であなたを襲ったサーヴァントです。どうやらライダーのサーヴァントだったみたいですね」

 

俺の代わりに、文が事実を端的に答えた。

それを聞いた遠坂は、苛立ちを隠せないように親指の爪を強く噛んだ。

 

「……?」

 

……慎二がマスターだと、遠坂はいつ知ったのか。

 

「それにしても凛さん。あなたは今までどこにいたんですか?」

 

うがった見方をすれば、文が遠坂を批難しているように聞こえた。

だけど、彼女に限ってそれはないだろう。

ただの純粋な疑問として、事実の確認をしているのだ。

 

「……少し、昔の知り合いに会ってただけ。今日学園を休んだのもそのせい。あんたには関係ないわ」

「…………ふむ」

 

文は一瞬の思考の後、ニコリと微笑みを作る。

 

「――ああ、なるほどなるほど。わかりました。教えてくれて、ありがとうございます」

「ふん。何を勝手に納得してるんだか」

 

惨状を前に何も言わずに黙っていたセイバーが、業を煮やしたのかマスターに進言した。

 

「凛、こんな事態を二度と繰り返さないよう、一刻も早くライダーとそのマスターを討つべきです」

「ええ、わかっている。すぐに動きましょう」

 

遠坂はセイバーを連れて、この場から立ち去ろうとしていた。

これから、慎二たちを探しに行くのだろう。

 

「……それと衛宮君、この後始末は教会がやってくれるわ。人が死んだから綺礼も骨が折れるでしょうけど、事実の露見はしないはず」

 

遠坂の魔術師が、冷静に告げようとしたが、声は微かに震えていた。

合理的で、冷血な魔術師であろうと努めていた。

それでも、遠坂はこの土地に住む十代の女の子でもあった。

日常の象徴である学園で、こんな惨劇が起きてしまった。普通でいられるはずがない。

だからこそ遠坂凛という少女は、冬木のセカンドオーナーとしても、慎二を倒すのに躊躇いを持たない。

 

だけどな、遠坂。

これだけは、絶対に譲れないんだ。

 

「いいや、慎二とライダーは俺がやる。この惨状は俺の甘さが招いた結果なんだ。だから、俺が」

「――――」

 

話をしている途中、文が俺の手を握った。

柔らかくて温かい、女の子の手だ。それでも、力強く握られている。

その意味を理解して、俺は言葉を一部だけ変えた。

 

「いや――俺たちがけじめをつける」

 

遠坂が足を止め、俺たちに振り返った。

 

「……何を勝手なことを言ってるの、衛宮君。また忘れているようだけど、あんたたちと私は敵同士なの。何ならこの場で決着付けてもいいわよ?」

 

そこには既に、魔術師の仮面をつけた遠坂凛がいた。

彼女は俺たちに何度も言っていた。

これは、たった一つの聖杯を賭けた魔術師たちの殺し合いだと。

ルールに則るなら、俺たちはここで戦うのが道理なのだろう。

特に文はライダーにやられたダメージが残っており、遠坂に取って、またとないチャンスだった。

……言い訳がましいが、そんな理由とは別に俺は遠坂たちと争いたくない。

 

「いいや、違う」

 

ここでは、その思考も間違っている。戦うなんて考えは最初に切り捨てろ。

俺たちは争っている場合じゃない。

 

この学園には、すぐにでも病院に行かないと助からない生徒たちがいる。

二階の廊下はこの有様だが、教室の被害はそこまで酷くない。

俺たちの行動によって、助けられる人がいる。それがいま俺たちの求められる正常な思考だ。

 

こんなにも苦しむ人たちがいるなか、俺は何もせずに呆然と立ち尽くしていた。

自分で少しは冷静になれていたと思い込んでいたが、そうではなかった。

 

「遠坂、そんなことは後だ。みんなの応急処置をして救急車を呼ぼう」

 

遠坂がはっとしたように肩に張った力を抜いた。

 

「俺たちにはまだやれることも、やるべきことも残っている」

「……それも、そうね」

 

学園で起きた惨劇は、まだ何も終わってないのだ。

 

 

 

 

文の傷の手当が終わった。

治癒力が人間とは桁違いであり、足の傷以外は手当の必要がないほど塞がっていた。

それに驚いていると文が「それでも痛いものは痛いんですけどね」と苦笑いをしていた。

 

衛宮家で、夜の帳が落ちる。

あんな事件があったのだ。今夜は藤ねえも桜もうちには来ないだろう。

俺は、自身のサーヴァントと机を挟んで向き合う。

少女はライダー戦でボロボロになった服ではなく、同じタイプのものに着替えていた。

 

あれから、遠坂とは一度も話さずに学園の外で別れた。

俺たちは、あの場でできる限りのことをしたと思う。

仮にあの場で遠坂との戦闘が起きたら、助からなかった命があったかもしれない。

 

藤ねえや、教室にいた俺のクラスメイトは、そこまで酷い症状ではなかった。

それと幸いだったのは、桜が今日学園に来てなかったことか。

彼女の兄である慎二が、学園に行かないよう事前に伝えていたかもしれない。

 

だが、ライダーの結界によって、百人単位の生徒が病院に入院をしている。

ベッドの数が足りないので、市外の病院に搬送された生徒もいるらしい。

一部の人は、皮膚がグズグズに溶けていた。

悪い想像だが、もう二度と目を覚まさない人もいるかもしれない。

 

そして、ライダーが脱出のために使った宝具に巻き込まれた人たち。

彼らは、変わりない日常を過ごしていただけなのに殺されてしまった。

聖杯戦争には、何の関係もない罪なき人々だ。

それなのに、不運という言葉では片付けられない理不尽によって殺されてしまった。

それが、絶対に許せない。

それを未然に防ぐこともできた俺自身も許せない。

だから。

――これから俺たちがやるべきこと。

そんなのはもう決まってる。

一分でも一秒でも早く、慎二とライダーの二人を倒す。

 

 

当然ライダーは強力なサーヴァントだ。まともにやり合って、勝てる保証はない。

特に最後に使った宝具の威力は群を抜いており、対策なしに真正面からぶつかるのは得策じゃない。

だから、弱点を探す。

あの二人を倒せるなら、どんな手を使ってでもいい。

俺は、直接対峙していないのでライダーの弱点はわからないし、そもそも弱点があるかどうかも不明だ。

 

「だけど、慎二なら……」

 

ライダーのマスターである間桐慎二とは、中学の頃からの付き合いだ。

かつては親友同士であり、あいつの家にも何度も遊びに行っている。

慎二は、昔からプライドが高かった。

顔が変形するほど殴った俺を、あいつが許すはずない。

次に対峙した時に矛先は文ではなく、間違いなく俺に向くはずだ。

 

「――それを何かに利用できないだろうか?」

 

 

 

 

ライダー戦の作戦を立てる前に、文の実力を知っておきたかった。

 

「文、おまえの能力を詳しく聞きたい。俺に教えてくれるか?」

「えーと、私の能力ですか……」

 

何事も即断即決の彼女には珍しく、歯切れが悪い。

それもそのはず、己の手のうちを晒すのは、同時に弱点を晒すのと同義だからだ。

魔術師として未熟な俺が、意図せずに文の能力を漏らしてしまったら、今後の戦いは一気に悪い方へと傾く。

それでも今は、ライダーを討つために可能な限り知っておきたかった。

 

「頼む。教えてほしい」

 

文は、他のサーヴァントと違って、英霊といった存在ではない。

だから彼女には『人間の幻想を骨子にして作り上げられた武装』という、そんな奇跡を体現した『宝具』は持っていない。

それでも彼女には、その力に匹敵するような『奥の手』はある。そんな奇妙な確信があった。

 

「はい。わかりました」

 

それから少しして文は、自身の奥の手を俺に見せる決心をしてくれた。

どこからか取り出したのか、カードを食卓に一枚ずつ並べていく。

カードには見たこともない絵柄が描かれていたが、特別な魔力は何も感じられない。

 

「これは私たちの世界――幻想郷で『スペルカード』と呼ばれるものです」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

21.スペルカード 《2月6日》

 

 

人気のない公園。

冬木中央公園という新都中心部にある広い公園だ。

かつては新興住宅地だったが、10年前の聖杯戦争によって、焼け野原となってしまった土地。

そこは『衛宮士郎』の原初と言える、絶対に忘れられない場所だ。

 

「…………」

 

天を仰ぐと、一面の雲に覆われている空があった。

高層雲と呼ばれる薄灰色の雲は、たとえ日中であっても太陽を隠してしまう。

決して、良い天気とは言えない空模様。

 

「でも、それは俺たちにとって絶好のチャンスだ」

 

 

慎二とライダーによる凶行が起きた翌日。

学園は休みになった。あそこまでの大事件だ。当分の間は休校になるだろう。

しかし、あれだけの死者が出たのに、テレビではまるで報道されなかった。

ただ、地方紙の片隅に小さな記事があった程度。

その記事も『ガス漏れによる爆発によるもの』としか書かれていなかった。

遠坂の言うとおり、教会が事実の隠蔽に手を回したからだろう。

 

文は、記事の書かれた新聞を読んでこう言った。

『ふん……こんな捏造をするなんて、ブン屋として恥ずかしくないんですかね』と静かな憤りを漏らしていたが、今なら俺もその気持ちはわかった。

こんなに人が死んだというのに、遺族は真実を知ることすらできない。

悲しみに打ちひしがれて『どうしてこんなことに』と涙する。それも嘘の情報によって。

本当は憎むべき相手だっているのに、その存在を知る権利すら与えられない。

……そんなのは、絶対に間違っていた。

こうして秘匿された神秘や魔術に、そこまでの価値があるとは到底思えない。

 

 

……俺がこの場所に立ち尽くしてから、かなりの時間が経過している。

既に陽が沈んで、公園を薄暗く染めていた。夜に紛れて聖杯戦争が活発化する時間。

 

――視線を感じた。

敵意の込められた視線は、魔術師でなくても生物としての本能で察せる。

この蜘蛛に捕らわれたと思わせる感覚は、間違いなくライダーだ。

それは、敵意だけではなく警戒も混ぜられていた。

ライダーは自身の気配を隠そうともせずに、こちらを挑発するように視線を送ってくる。

その相手は俺なんかではなく、射命丸文に対してだろう。

 

もっとも、文はこの公園にいないのだけど。

 

 

そんな視線に捕らわれてから数分後、見計らうように慎二が姿を現した。

 

「衛宮……! 昨日はよくもやってくれたなあ……!」

 

慎二の声は俺に鼻を潰されたせいで、不明瞭にくぐもっていた。

顎の骨も折れており、喋るのもつらいだろうが、どうやら痛覚よりも憎しみが勝っているようだ。

慎二の顔は、殴られた打撲傷と俺への憎悪によって、酷く歪んでいた。

端正だった頃の面影はどこにもない。

治療すらもそこそこで、俺に借りを返すために探し回っていたのだろう。

 

今はそんなことよりも、慎二に言わなければならないことがあった。

俺は、憎悪によって赤く充血した慎二の目を正面から見据える。

 

「昨日18人が死んだ」

 

それを聞いた慎二は理解できないのか、僅かに眉をひそめるだけだった。

 

「昨日、学園でおまえたちに殺された生徒の人数だ」

 

藤ねえが昼を過ぎた頃、電話で教えてくれた。

死亡が確認された生徒もいるが、未だ行方不明扱いの生徒だっている。

そこまで、原形が残されてなかった。

 

「ハッ…………なんだ、そんなことか! 僕の知ったことじゃないね! どうせライダーの宝具で虫のように潰されて死んだやつらだろ! は、ははははは!!」

 

頭に血が急激に上った。こいつはもう二度と喋らせてはいけない。

 

「……人が死んだというのに! お前が殺したというのに! どうしてそうやって笑っていられる!?」

 

それでも、哄笑を続ける慎二に向かって、俺は走り出す。

 

「ははははははは!! ……そう馬鹿みたいにカッカするなよ衛宮ァ!! 今日はおまえじゃなくて、僕が怒ってるんだ!! これ以上調子に乗るなよ!!」

 

慎二の顔面を狙った拳は――命中しなかった。

俺と慎二の間に黒い大きな影が現れる。

 

「…………」

 

その影を認識した瞬間に、俺は脇腹を蹴り飛ばされていた。体から骨が軋む音が鳴る。

 

「ぐが……!!」

 

一瞬で意識が飛びかける強力な一撃だったが、これでも手加減されているだろう。

サーヴァントの攻撃をまともに喰らって、立っていられるはずがない。

 

「ははは! いいぞライダー! ひと思いに殺さず、じっくりと衛宮をいたぶってやれ!!」

「シンジ、この男のサーヴァントは周辺にはいませんが、令呪が今も残っている。令呪で呼ばれる前に殺すべきです」

 

ライダーは警戒するが、慎二は気にせずに笑い続けていた。

 

「くく、そんなの別にいいだろ。昨日は衛宮のサーヴァント相手に大した傷を負わされてなかったじゃないか。それとも何か? おまえは衛宮のサーヴァントに負けるとでも言うのかい?」

「……わかりました」

 

ライダーは、距離を取ろうとした俺に向かって、短剣を投擲する。

到底躱せるはずもなく、右肩に突き刺さった。

 

「――――!」

 

これまでの人生で一度も味わったことのない激痛に目の前が暗転した。

それなのに、ライダーは攻撃の手を休めない。

かつてない痛みに慣れる暇すら与えず、右腕、左脚、脇腹と次々に攻撃される。

 

「ががあああ……ぐ!!」

 

一度でも気が遠くなるような激痛の連鎖に、膝を折りかけてしまう。

だけど、ここで倒れるわけにはいかなかった。

 

「はは、ははははは! いいぞ! ライダー! なあ、衛宮ァ! 僕はおまえのその顔がずっと見たかったんだよ!!」

 

慎二はもう正気じゃなかった。

憎悪と歓喜によって、顔がかつてないほど歪んでしまっている。

 

一番酷い脇腹の傷を押さえながら、ライダーから逃げるように公園の中心部を目指して走る。

ライダーからの追撃が来なかった。

 

「…………?」

 

振り返ると、ライダーは俺の後を追わずに、いぶかしむように様子を見ている。

 

「ライダー!! おまえ何やってんだ!! 衛宮が逃げてるぞお!! さっさと追えええええ!!」

 

狂気の形相を浮かべた慎二に発破をかけられて、ライダーは躊躇を見せるも駆け出した。

 

 

 

「はあ、はあ、はあ……!」

 

もう振り返らなくても、背後からライダーの気配がひしひしと感じられる。

ライダーに攻撃された刺傷が熱を持って、体力を徐々に奪い始めていく。

まだ100メートルぐらいしか走ってないのに、俺の息は切れかかっていた。

 

「だけど……あと少し! あと少しだ!」

 

あと少しで、ライダーを目的の場所まで誘い込める!

 

そう思った途端――車に撥ねられたような衝撃が背中に走った。

追いついたライダーが俺の背中を蹴ったのだ。

強かに蹴り飛ばされた俺は、公園の冷たい芝生の上に倒れこんでしまう。

まともに呼吸ができなくなる激痛に立ち上がれない。

脳からの命令を無視して、身体が思うように動いてくれない。

 

それでも、芋虫が這うように前へ進むも、ライダーがそれすら許さなかった。

彼女の短剣が俺の右手の甲を貫いた――。

 

「ぐッ、あああ――――!」

 

腕が地面に縫いつけられて、昆虫標本の虫のようになってしまう。

そんな俺をライダーが見下ろした。

 

「……なぜ、サーヴァントを呼ばないのですか? サーヴァントはお互いに気配を察知することができる。あなたの近くにあのサーヴァントはいないのはわかります」

 

俺は何も答えずに、残る左手を使って芝生を掴み、前へ前へ進むためだけに足掻いた。

 

「ははは。本当に面白いやつだよ、衛宮は」

 

追いついた慎二が俺の行く手を阻んだ。

身を屈ませると俺の髪を握り、地面に伏した頭を無造作に持ち上げる。

 

「……まあ、知らない仲じゃないしな。これで許してやるよ。――殺せライダー」

 

慎二がそう命令すると、ライダーが残った短剣を俺の心臓に振り上げようとした。

 

だけど、まだだ。

まだこんなところでは死ねない――!

誰一人として救えないまま、自分勝手に死ぬわけにはいかないんだ!!

 

「ああああ――!!」

 

右手に刺さった短剣を、残った左手で引き抜いた。

焼けるような痛みが右手だけではなく、全身に走る。――だけど、これで自由になった。

残された力をすべて両脚に込めて、前にいる慎二を突き飛ばすように立ち上がった。

 

「うわ!! ……クソ! ライダー!! なにをトロトロしてんだよ!」

 

転倒した慎二に覆い被さるような形になってしまう。

倒れる慎二を無視して、震える足に再び力を入れてなんとか起き上がった。

 

「……く!」

 

ライダーが俺の背中に短剣を投げようとしたが、意図せず慎二が盾になって、攻撃を躊躇した。

俺はその間に10メートルほど走るのに成功するも、そこで足がもつれて転倒してしまう。

 

だが、ここだ。この場所でいい。後は待つだけだ。

 

「はあ、はあ……!」

 

息を切らして倒れこむ俺に、ライダーがとどめを刺そうと近づいてきた。

なんとか上体だけ起こして、ライダーの動向だけを観察する。

 

「もういい! 宝具を使え! こんなクズは骨一本だって残すな!」

 

よろよろと起き上がった慎二が、忌々しそうに服についた埃を叩く。

 

「ですが、こんなところでいたずらに魔力を消費するのは上計とは言えません」

「ふざけるなよライダー!! 僕の言うことが聞けないのか!! さっさとやれと言っているんだ!!」

「…………」

 

ライダーは、無言のまま己の首を切り裂くと、昨日と同じ魔法陣を展開させた。

魔法陣から光を放ちながら現れたのは、両翼の生えた白馬だった。

これが、昨日ライダーが最後に使った宝具の正体。

 

幻想種ペガサス――。

ヘレネスの神話に出てくるゴルゴンの三姉妹の末妹。

切り落とされた首から産まれた白き魔獣。

石化の魔眼に続いて、幻獣ペガサス。

ならばライダーの真名は、間違いなくメドゥーサだ。

 

ライダーはその天馬に跨ると、遥か上空へと飛んだ。

 

「はははは! 見たかい! これが僕と衛宮の力の差だよ! ……ライダー! 衛宮を殺せェ!!」

 

その幻想的な光景に目を奪われて、俺は自然と茫然としてしまう。

 

「ようやく、観念しましたか。では速やかに殺してあげましょう」

 

ペガサスに跨ったライダーが俺に目掛けて滑空を開始した。

 

騎英の手綱(ベルレフォーン)――!!』

 

宝具の解放とともに、天馬が嘶きを上げた。

ライダーの声によって、ペガサスは鞭で打たれたように急激に速度を増していく。

そして肉眼では姿が捉えられない、一筋の閃光へと化した――。

 

 

……このまま何もしなければ、慎二の言う通り、衛宮士郎は骨すら残さずに死ぬだろう。

もちろん、死んでやるつもりは毛頭もなかった。

 

宝具という恐怖の具現化に、俺は一瞬でも目を逸らさずに動きを観察する。

左手の甲に魔力を集中させて、発動すべきタイミングを見計らった。

 

そう、思い浮かべるのは――撃鉄を起こすイメージ。

 

一筋の矢となったライダーが、俺を確実に殺すために迫ってくる。

……まだ早い。暴発は絶対の死を招く。

タイミングは、コンマ一秒早くても遅くてもいけない。

ここで焦れば、ただの無駄死にだ。だから、待つ。

死にたくなければ、全神経をライダーにだけ集中させろ――!

 

「今だ!!」

 

そして、イメージの引き金を引いた。

 

『文! ライダーを撃て――!!』

 

サーヴァントの絶対命令権である令呪。

左手の甲に刻まれた、三画のうち最初の一画が消えた。

 

 

 

 

少女が天を仰ぐと、そこには星空が広がっていた。

とある星座の中核に並ぶ三つ星。確か名前は、トライスター。

文からすれば、住吉三神という名が馴染み深い。

その星座の正体は、言わずと知れたオリオン座。

ヘーシオドスの叙事詩によれば、弓を扱う狩人としてオリオンは知られていた。

 

「ふう」

 

ここが外の世界であっても、幻想郷と変わらない夜空を確認できた。

今も幻想郷の誰かが同じ星空を見ているかもしれない。

幻想郷に住む人間や妖怪は、暇人ばかり。

それでも情緒を大切にしているので、その可能性は十分にあった。

 

(……もっとも、ここが本当に幻想郷の外だったらだけど)

 

足下には、海のように一面に広がる雲――。

高層雲、または朧雲と言って、高度二千メートル以上の高さに浮かぶ雲。

地上にいる衛宮士郎が空を見上げれば、この雲が全天を覆っているだろう。

 

「だけど、それは私たちにとって絶好のチャンス」

 

 

衛宮士郎が立てた作戦。

それは作戦と呼ぶのには、あまりにお粗末で、無謀過ぎるものだった。

特に、ライダーのマスターである間桐慎二の不安定な性格を作戦に組み込む必要があり、不確定要素が多い。

 

その作戦の内容はこうだ。

公園にいる士郎が囮となって、慎二たちをおびき寄せる。

その後、所定の場所までライダーを誘い込む。

そして、サーヴァントでも気配が探知できない超高々度にいる文が、ライダーを狙撃するというもの――。

 

言うは易く行うは難し。

まず、文が見つかった時点でこの作戦は失敗だ。

遥か上空にいても、サーヴァントの視力は人間のそれとは比べものにならない。

それは、この空を覆い隠す雲はいい隠れ蓑になってくれた。つまり、運に助けられている。

 

そもそもとして、士郎がライダーに有無言わさずに殺される可能性もある。

間桐慎二が衛宮士郎をいたぶらないで殺そうとしたら、それでも失敗だ。

危なくなったら令呪で呼ぶと言っていたが、士郎はあの通りの強情な性格だ。それも怪しかった。

 

「…………」

 

衛宮士郎は、面白い人間だと思う。

夢で見た彼の掲げる理想は、彼女にとって理解不能であり、とてもつまらないものだった。

それでも自分の夢や理想に向かって、悩み苦しむ人間を見るのは嫌いじゃない。

大いに悩み、大いに涙しろ。

結果が伴うかどうかは二の次だ。夢に向かって奔走しろ、男の子。

 

そんな理想の影響からなのか、衛宮士郎は妙に強情で妙に情に脆い。

彼が幻想郷にいたら、遠慮をしない連中にいいように使われる姿が目に浮かんでしまう。

 

「ふふ」

 

文は茶色のマフラーで綻んだ口を、少し照れくさそうに隠した。

 

このマフラーもまた士郎から、文の首に巻かされたものだった。

空は地上よりもずっと寒いからと、無理やりに。

自分は妖怪だから寒さはさほど問題はないと主張したが。

『そんなのは関係ない。文は女の子なんだから体を冷やしちゃ駄目だ』と言われてしまった。

彼は本当に強情で強引だった。でも本気で心配しているのは伝わってきた。

 

(相手によっては、ころっとやられちゃうんじゃないかしら。……ゆくゆくは天然のたらしね)

 

そんなことを文は痛烈に思う。

 

「さてと……」

 

考えを切り替えて、文は一枚のスペルカードを取り出した。

そして誰もいない空の上で宣言をする。

 

『――風符「天狗道の開風」』

 

相手がいないのに、スペルカード宣言もおかしな話だが、射命丸文にはもう習慣になっていた。

このカード自体には、何の魔力も霊力も込められていない。

言ってしまえば、ただの紙切れだ。

単にスペルカードとは『これからこういう攻撃をします』という意思表示に過ぎない。

 

ある妖怪により考案されたスペルカードルールは、幻想郷での揉め事を解決するための手段である。

主に力のない人間が妖怪と対等に戦うために用いられており、それが妖怪の間でも爆発的に普及した。

『吸血鬼異変』という吸血鬼と妖怪の間に起こった戦争が事の発端なのだが、それは余談であろう。

 

薄灰色の雲に覆われているため、鷹の目を持つ文でも地上の様子を確認することはできない。

千里眼を持つ白狼天狗の力があれば可能だろうが、それは無い物ねだりだ。

 

文の今いる真下が着弾地点として、事前に士郎と打ち合わせをしてある。

そこは、公園の中心部。

思った以上に閑散とした場所で、誰かに目撃される可能性も低い。

発射のタイミングは、令呪。

士郎がこの真下までライダーを誘い込み、トリガーとして令呪を使う。

最初は、士郎を発射地点に待機させる予定だったが、それは不自然で余計な警戒を買いかねない。

士郎自らが、ライダーをここまで誘い込むと言った。

ならばサーヴァントして、マスターの覚悟を汲んでやろうじゃないか。

 

文はありったけの魔力を葉団扇にチャージして、その令呪の合図をいまかいまかと待つ。

長い間、大きな魔力を滾らせていると暴発しかねないが、そこは文のセンスと経験で調整する。

 

「――――!!」

 

――瞬間、文の魔力が令呪によって、急激にブーストされるのを感じた。

令呪による命令は、内容が曖昧だと効果が稀薄化してしまう。

だが、その逆に『魔力を放つ』という単純な命令であれば、効果は抜群に強化される。

 

葉団扇に、魔力を伴った巨大な暴風が渦巻いた。

並大抵の精神では抗えない、強制力が文の意識に働く。

 

「なるほど……! これが令呪の力……!」

 

文は令呪による強制力のままに、荒ぶる暴風を着弾地点に向かって解放した。

 

烈風が奔る――。

幾層にも重なる雲海に大穴を開け、荒れ狂う風が天より堕ちた。

 

 

「これは……?」

 

冬木の空を天馬で駆けるライダーは、自身の遥か上空から強大な魔力を感じ取った。

だが、時速五百キロという速度で駆ける『騎英の手綱』に命中するはずはない。

ライダーは、そう確信していた。

 

しかし、たかだか五百キロの速度。

その程度で、幻想郷最速の烈風から逃げられるはずもなく。

 

「……!?」

 

ライダーがその事実に気づいたのは――自身の身を砕く天狗の風が命中した時だった。

 

 

 

 

ライダーは天馬ごと、公園の地面に計り知れない力で押しつぶされた。

墜落した後も風の勢いは弱まらずに、ライダーと天馬だけではなく、地表さえも風の刃で削っていった。

公園の土とライダーたちの血肉の混じったものが、着弾地点の周辺へ飛び散っていく。

目には見えない巨大なミキサーにより、ライダーの肉体が攪拌されているようにも見えた。

 

「くっ……!」

 

俺にとってライダーは、学園の仲間を殺した仇敵だ。

それでも、今のライダーはとても見ていられるものじゃなかった。

 

 

風の刃は時間が経つと、次第に勢いを弱めて大気へと拡散するように消失。

着弾地点には、クレーターのような巨大な窪地ができていた。

 

その中心には、ライダーと天馬がいた。

天馬の頭部は挽肉になっており、残った胴体はビクビクと痙攣を繰り返している。

最後に、ボロボロの両翼を何度か羽ばたかせると、砂のように天馬の姿は霧散していった。

 

天馬に庇われるように倒れていたライダーは俯せたまま、ピクリとも動かない。

 

「……ライダー! ライダー!? おいおいおい! どうした!? 何があった!? ……ま、まさか死んだんじゃないよな!?」

 

慎二がライダーに向かって、喚き散らした。

 

「クソ! 本当に死んだのかよ! 何だって僕が……クソクソクソ! ふざけるなよ! おい!!」

 

感情を抑えきれない慎二は、聞くに堪えない罵詈雑言を倒れているライダーにぶつける。

口角泡を飛ばすといった有様で、もはや見るに堪えなかった。

 

「――シンジ、少し黙ってください」

 

慎二の罵声によるものかは不明だが、ライダーが起き上がった。

彼女は、ダメージを感じさせない口調だったが、右腕の肩から先が千切れかかっていた。

皮一枚で繋がった腕が、プラプラと頼りなく揺れている。指の数も明らかに足りない。

それだけではなく。

全身を鋭利な刃物で切り刻まれたような姿で、立っていられるのが不思議なぐらいだった。

 

「……ら、ライダー!! 生きているなら衛宮を今すぐ殺せ! 殺すんだ!!」

 

ライダーが左右に首を振る。

 

「シンジ、今は退却すべきです。この傷では、サーヴァントとの戦闘は不可能です。それに宝具を――ペガサスを失ってしまった。ここは退却して、一度体勢を立て直しましょう」

 

ライダーの言葉のすべてが気に入らないのか、慎二がワナワナと震えだした。

 

「ふ……ふざけるな!! 今ここで! 衛宮を殺せば! あいつのサーヴァントも消滅するんだよ! おまえはそれすらもわからない馬鹿なのか!? やれといっているんだ!! 僕の命令が聞けないのか!?」

「ですが……」

 

慎二は、手に持った魔導書を開く。

そして今までの激情が嘘のような、白けた表情を作った。

 

「もういい――『ライダー、衛宮を殺せ』」

 

慎二の令呪が発動した。

 

「――――」

 

その強制力によって、ライダーが自らの意志とは無関係に、俺に向かって走り出した。

ライダーは、瀕死に近い状態だ。動きに今までのキレがない。

それでも、サーヴァントである以上、人間を遥かに凌駕する力を持っている。

対抗できるような相手ではなかった。

それに、俺は上体を起こすのがやっとで、ここから立ち上がれないほど疲弊している。

回避は不可能だ。

痛みや恐怖すら感じる暇すらなく、ライダーによって殺されるだろう。

 

最短距離で疾走したライダーが俺の前に現れた。

そうして、左手に持った短剣を振り下ろす。

短剣の切っ先が、俺の頭部を貫く直前――。

 

「…………か、は」

 

ライダーの動きが不自然に止まった。

あまりに一瞬で、ライダーも自身に何か起きたのか理解できないようだった。

令呪の強制力によって縛られていたライダーの身体が、崩れるように脱力する。

それと同時に、口から大量の鮮血がこぼれた。

誰も彼もが理解できないのか、俺と慎二はただ茫然とするだけだった。

 

そして、もっとも異質だったのは――。

ライダーの胸から、血に染まった腕が生えていたことだろう。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

22.大妖怪のあとしまつ 前

 

 

 

胸を貫かれたライダーは、もはや死に体だった。

ライダーは、自分を倒した相手を確認するため、胸を貫く腕を見る。

 

「こ、れは……?」

 

その腕は、確実にライダーの霊核を破壊していた。

霊核とは、サーヴァントの核になる部分であり、絶対的な急所だ。

ここを破壊されて、生き残れるサーヴァントはいない。

つまり、これからライダーを待っているのは、確実な死だった。

 

「――逃走を図るのなら見逃す予定でしたが、士郎さんを殺すのなら別です」

 

ライダーを殺した腕の持ち主。

それは俺の良く知る、天狗の少女のものだった。

見た目からは想像できない人外の膂力によって、ライダーの胸を貫いた。

おそらく、ライダーをスペルカードで狙撃した後、俺たちの動向を上空から観察していたのだろう。

 

自らの死を悟ったライダーは、正面の俺を見ていなかった。

しかし、胸を貫いている腕がある以上、物理的には振り向けない。

前を向きながらも、後ろにいる少女に対して自嘲めいた笑みを浮かべた。

 

「は……冗談を」

「いえいえ、本当ですよ。私は聖杯戦争に大した興味はありませんし、可能な限り第三者に徹するつもりでした。ましてや、傍観者たる私がサーヴァントを倒すなんてとんだ想定外です。これでは記事のタイトルが『聖杯戦争体験レポート』になってしまいます」

 

天狗の少女が、ライダーの身体から腕を躊躇なく引き抜く。

人体の千切れる、ブチブチという嫌な音が俺の鼓膜を震わせた。

 

「かはッ……!」

「それに私は、自分の力を見せびらかすのが好きではありません」

 

ライダーは、血を吐き出して俺の顔を赤く濡らした。

そして最後まで残っていた糸が、プツンと切れたように膝をつく。

一見すると正座のような姿勢だったが、ライダーの残された左腕も力なく垂れた。

もう彼女には、己の武器を握る力さえも残されていない。

 

「う、あ……」

 

俺と慎二は、サーヴァント二体が放つ形容しがたい重圧に動けずにいた。

 

「……まさか、あんな馬鹿げた手で来るとは思いませんでした……」

 

死にきれなかったライダーが、残された力で言葉を漏らす。

肺も完全に潰されているのか、喋る度にコポコポと不自然な音が鳴る。

 

「ええ、確かに酷い作戦でした。士郎さんも手酷くやられちゃいましたし、真正面からぶつかった方がよかったかもしれませんね」

「フフ……私に正面から勝つつもりですか? 笑わせてくれますね……」

 

ライダーからの思わぬ口撃に、文が少しだけ眉を顰める。

 

「……今更証明はできませんが、昨日のような狭い廊下ではなく、広い空間でこそ私の本領は発揮できます。こんな不意打ちで得た勝利はやはりというか、気持ちの良いものではありませんし」

 

戦いを終えた二体のサーヴァントが自然と話していた。

彼女たちには、俺たち人間とは違う世界が見えているのだろうか。

 

「……あなたは、アーチャーだったんですね。戦っていた相手のクラスを知らずにいたのは、いささか甘く見すぎていましたね……」

「アーチャー……? そうなんですか? あー、教会でもそんなことを言われた気が」

 

顔に浴びた返り血を、ハンカチで拭いていた文が意外そうに反応する。

あれだけの血の量だ。小さなハンカチでは焼け石に水でしかない。

 

「……自分のクラスを知らないサーヴァントなんて、聞いたことがありません。あんな攻撃が許されるクラスはアーチャーだけ、です……」

 

ライダーが再び血を吐き出した。消滅の時が迫っている。

 

「が、は。……最期に、私のマスターに『申し訳ありませんでした』と伝えてくれますか?」

「はい、それは構いませんけど……ですが、ライダーさん、あなたは足掻かないのですか? このまま大人しく消えるよりも、多少は暴れたくありません?」

 

は――なんだ、それ……?

俺には、射命丸文が何を言っているのかわからない。

どうやっても、ここからの形勢逆転は不可能だ。

万が一に文を倒せたとしても、その直後にライダーは消滅する。

文もライダーもそれはわかっているはず。なのになぜ……?

 

「フフ……。それでは、反英霊らしく最後まで足掻いてみせましょう、アーチャー」

「はい、どうぞ。どこからでも掛かってきなさい、メドゥーサ」

 

ライダーは、もう身体を構成するエーテル体が分解されている。

つまり、消滅する直前だった。

それでもライダーは左手で、短剣を掴む。

灯滅せんとして光を増す。ロウソクが燃え尽きる一瞬の力が、ライダーを動かしていた。

振り向きざまに、短剣で文を殺そうと攻撃した。

 

「――――――」

 

しかしそれは叶わない。

短剣が届くよりも先に、文はライダーの首を葉団扇で刎ね飛ばした。

 

奇しくもそれは、神話におけるメドゥーサの最期と同じ。

古代ギリシアの伝承。

アテナとヘルメスの助力を得た英雄ペルセウス。

彼は鏡の盾で石化の力を防ぎ、曲がった刀を使って、メドゥーサの首を落とした。

そうして、メドゥーサの首より溢れた血から、ペガサスが生まれたという。

 

ライダーは消滅した。

 

 

 

 

慎二は、その光景を震えながら見ていた。

全身をライダーの血で染めた、一人の少女を恐れていた。

それは、古来より刻まれし人間の本能。即ち、人は妖怪を恐れるのだ。

 

間桐慎二は、恐怖の虜だった。

 

「ひぃぃぃ!!」

 

慎二の持っていた魔導書が燃え上がる。

今さら間抜けな話だが、あの魔導書がライダーを制御していたのだ。

魔導書の消失と同時に、慎二が俺たちに背を向けて走り出す。

 

大した怪我もないはずなのに、慎二は何度も何度も転びそうになる。

それも当然だった。

人であるならば、この少女に恐れを感じないはずがない。

味方であるはずの俺も、射命丸文の存在に恐怖を覚えていた。

 

「慎二……!」

 

俺は慎二を追おうと起き上がろうとしたが、体が言うことを聞かない。

ライダーに負わされたダメージだけではなく、精神的な疲弊も一因だろうか。

 

「ああ! 士郎さん、酷い怪我です! あなたはここにいてください!」

 

ライダーの返り血を浴びた烏天狗の少女。

そこにいたのは……いつもの射命丸文だった。

その軽快な態度が、あまりにもいつも通りすぎて、頭が混乱しそうになる。

 

「……あの人間のことは任せてください。この私が、懲らしめてあげますよ」

 

次の瞬間には、いつもの文が消えてしまう。

血に塗れた顔に相応しい、嗜虐的な表情を浮かべている。わけがわからなかった。

かぶりを振って、思考を切り替える。今は慎二のほうが重要だ。

 

「あいつとの決着は俺が付けなきゃならない。死んでしまった人たちのためにも」

 

そんなのは、俺の利己的な感情に過ぎないかもしれない。

それでも、法によって裁けない慎二を、己の罪と向き合わせなきゃならない。

 

「今のあなたでは無理です。……少し休んでいてください。救急車を公衆電話で呼びますので」

 

再び、いつもの文に戻った。

彼女の口から聞き慣れない単語が幾つか出たが、今は感心している場合じゃない。

立てない以上、這ってでも慎二を追おうとしたが、文が俺の身体を掴んで、まったく身動きが取れない。

 

「文! 放してくれ!」

 

少女は、俺の必死の懇願を当然のように無視する。

そもそも、彼女には俺の言葉なんて少しも聞こえていない。

 

「うーん、困りましたね。これはどう見ても堅気の人間に見せていい怪我でもないですし」

 

文の手から逃れようと藻掻き続ける俺を、容易く拘束する。

 

「教会に連れて行こうかな。でもあの神父、あからさまに胡散くさい。あーもう、仕方がありません。……士郎さん、ごめんなさい。――とう!」

 

少女から放たれたボディブローによって、俺は一瞬で意識を刈り取られた。

 

 

 

 

次に目を開けた時、そこには見知った天井があった。

どうやら俺は、自室で寝かされているようだった。

血と泥で汚れた服は脱がされており、清潔なものと交換されている。

 

「いっつ……!」

 

それに、体中が包帯だらけだ。

ライダーから受けた傷の処置も適切に済まされていた。

枕元には、俺の身体を拭いたと思われる水桶とタオルがある。

 

「……まさか」

 

布団をまくって自分の下半身を見る。トランクスが今朝履いたものと違っていた。

……これについては、気づかなかったことにしよう。

 

少しでも身じろぎすると、体の至るところから激痛が走る。

それでも、歩く分には問題ないはず。

警告のように休息を求める身体の痛みを無視して、居間へと向かった。

 

 

「そうだ。俺は、慎二を……」

 

ようやく、頭がはっきりとしてきた。

文がライダーを倒して、マスターである慎二を追おうとしていたはず。

文から拘束されて……その後の記憶はない。

時計を見ると、夜の11時になろうとしていた。あれからかなりの時間が経過している。

 

「そういえば、文はどこだ……?」

 

文の姿がどこにも見当たらない。

部屋にも行ってみたが、照明もついておらず、もぬけの殻だった。

居間に戻り、食卓の上に書き置きがあるのに気づく。

 

『安静にして寝てください。――射命丸文』

 

ちょっと丸っこくて、意外と可愛らしい文字だった。

書き置きの紙を裏返してみるが、書かれていたのはこの一行だけ。

状況的に気絶した俺を家に運んで、傷の手当てをしてくれたのも彼女だろう。

 

一行の文字に込められた様々な気遣いに感謝し、そして謝った。

俺は、慎二に会わなきゃならない。

あんなことがあっても、あいつは俺の親友なんだ。だから俺の手で決着を付けなくてはならない。

 

激痛が走る傷を無視して、新しい服に着替える。

俺は、重い身体を引きずりながら、再び冬木の夜に飛び出した。

 

 

 

 

衛宮士郎の手当てをした烏天狗の少女は、冬木の上空から間桐慎二の捜索をしていた。

念のために自宅である間桐邸に行ってみたが、やはりそこには慎二の姿はなかった。

魔術師のホームであっても、慎二自身は何の力もない人間だ。

サーヴァント相手に、どうこうできるものではない。自宅に戻るのは自殺行為だ。

 

だが、聖杯戦争の管理者たる教会に駆け込まれると少し困った事態になる。

なので、自宅の次に教会へ向かったが、そこにもいないようだった。

どこに行ったものかと、スタート地点である冬木中央公園に戻ろうとした矢先だった。

 

「おっと」

 

射命丸文は、公園からそう遠くない住宅地の一角で、間桐慎二を発見した。

あれから時間も経過していたが、事実は灯台下暗しだったようだ。

夢遊病患者のようにふらふらと歩いており、ちゃんと意識があるかも怪しい。

 

 

「ええと、慎二さんでしたか? いえーい、こんばんはー」

 

地面には着地せず、頭上から話しかける。

慎二が驚きのあまりに尻餅をついた。

 

「う、わわあああああ!!」

(良かった……! まだ正常な判断ができるみたい……!)

 

そう思いながら、文はこうも感じていた。『ああ、なんて素敵な反応をしてくれるのだろう』と。

今日日、妖怪に驚いてくれる人間なんて幻想郷では皆無に近い。

こんな久しく見ない反応に、天狗の少女は感動のあまり涙が出そうになった。

 

このまま空中から、恐怖のどん底へ落とそうと思ったが、スカートの中を見られたら堪らない。

今の射命丸文は、妖怪としての側面が色濃く出ている。

だからと言って、少女としての最低限のプライドを捨ててはいけない。

彼女は一度だけ空中で身を翻すと、慎二の側に着地した。

 

もっとも、慎二は尻餅をついており、上から見下ろす形なのは変わらなかったが。

 

「こんばんはー。良い夜ですねー」

 

あくまでフレンドリーに文は話しかける。

 

「な……何しに来たんだ!? 僕はもう聖杯戦争の脱落者なんだぞ!!」

 

慎二は腰が抜けてしまい、起き上がるに起き上がれない。

腕と足を使って、ほんの少しの距離を後ずさるだけだった。

 

「あはははははは。――そんなの、関係ありませんよ」

 

間桐慎二が、後ずさりで離れた距離は一歩分でしかない。

烏天狗の少女は、その一歩を容易く縮めてみせると、慎二の目の前で身を屈めた。

長い一本下駄のおかげで、まだ見下ろす形からは崩れていない。

互いの息がかかる距離だった。文は慎二の恐怖に歪んだ顔を覗き込む。

 

「……ぼ、僕を殺しにきたのか?!」

「はい、そうです」

 

それが決定事項であるように、文はあっけらかんと答えた。

文は、士郎に対して『ライダーのマスターを懲らしめる』と約束していた。

少なくとも、文はそう思い込んでいた。

良好な関係を作るには、お互いに助け合い、約束を違えなければいい。それだけのことだと。

 

「私は妖怪なので、なぶり殺してから喰らいます。――いえ、喰らいながら殺す方がいいかもしれませんね」

 

少女の目が、赤く光る。

それは何かの比喩表現ではなく、事実として光っていた。

久しぶりのニンゲンのエモノに対して、烏天狗の目が爛々と輝く。

 

「ねえねえ、慎二さん慎二さん。どちらがいいですか? せめて自分の死に方ぐらいは自分で選びましょう?」

 

慎二の目が恐怖に濁る。ズボンは随分前に濡らしていた。

 

「…………あ、あああ……!」

「そんなに怖がることはないですよ。ほらほら、あなたのサーヴァントと同じです。彼女は結界の力で、人間を溶かして肉体と魂を喰らってたじゃないですか。あんなふうにじわじわと溶かされるより、よっぽどマシですよ?」

 

文は、慎二の顔が伏せられないよう、妙な癖のある髪を掴み上げた。

 

「もっとも、私は彼女と違って――そこまでお上品ではないのだけど」

「ひっ! ……やめろやめろやめろおぉぉぉぉぉ――!!」

 

悲痛な叫びを無視して……文は慎二の耳に、ふっと冷たい息を吹きかける。

それは恐怖だけではなく、得も言われぬ快感を慎二の背中にゾクゾクと走らせた。

 

「それじゃ、いただきまーす」

 

猛禽類のように、闇夜に光る赤の双眸――。

それを最後にして、間桐慎二の意識は途絶えた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

23.大妖怪のあとしまつ 中

 

 

――コンコン。

 

あり得ない話だが、二階にある私の部屋の窓を誰かがノックしていた。

その不可解に少し躊躇したけど、もうどうでもよかった。

思い切って窓を開けると、冬夜の冷たい風が私を襲う。

 

「こんばんは。清く正しい射命丸です。……んしょっと、お邪魔しますね」

 

そこには何者かを背負った射命丸さんがいた。

こちらが返事をするより先に、開いた窓から遠慮なく侵入する。

 

「に、兄さん!?」

 

彼女が背負っていた人物は、間桐慎二――私の兄さんだった。

射命丸さんは、気絶している兄さんを下ろすと、私のベッドの上に横たわらせた。

昨日先輩に殴られた顔の傷以外に、目立った外傷はない。少しだけ安心する。

……少しおしっこの臭いがしたのは、気になったけど。

 

「重さは苦じゃないですが、体格が違う相手をおんぶするのは少々骨ですね」

 

彼女は兄さんが眠るベッドの端に座ると、物珍しそうに私の部屋を見渡した。

 

「洋室というのはあまり縁がないんですけど、これもお洒落でいいかもしれません。士郎さんに言って、部屋を変えてもらおうかしら」

 

そんなどうでもいいことを言うために、彼女は私の部屋に来たわけじゃないだろう。

もちろん、兄さんを家まで送り届けに来たわけでもないはず。

そうなると、考えられるのは一つだけだった。

 

「射命丸さん、あなたは私を殺しに来たんですか?」

「――――ふ、ふふ」

 

私の発言に、少女が堪え切れないようにケラケラと笑った。

……何がそんなにおかしいのか。また私の、私という存在を笑っているのか。

 

「何がそんなにおかしいんですか? また私を馬鹿にしてるんですか……?」

 

頭で考えていた言葉を咀嚼せずに、そのまま口から出てしまった。

随分と私らしくなかったけど、この人が相手ならそれでいいと思う。

 

「ああ、ごめんなさい。兄妹で同じ台詞を言っているのが、少しおかしくて……」

「…………」

 

初めて聞く、彼女からの謝罪の言葉。

そんなどうでもいいことで、謝ってほしくなかったな……。

 

それにどうやら、兄さんは彼女を見て喚いていたようだ。

戸籍上ではどうか知らないけど、私は彼を兄とは思っていない。

だから今の発言には、ちょっとだけ傷ついた。

なんにしても、私たち兄妹にとって、彼女は死神と変わらない存在だった。

 

射命丸さんは、ようやく落ち着いてくれたのか、少しだけ真剣な顔を作った。

それでも、人を見下したような表情は相変わらずだったけど。

先輩は、よくこんな化物と一緒の空間にいられるなと思う。

私は近くにいるだけで、恐怖以前に虫唾が走った。

 

「違いますよ。そんなことは目的ではありません」

 

『そんなこと』――つまり私を殺しに来たわけではないと言う。

相変わらず、カチンとくる物言いだったけど、それも含めてどうでもよかった。

 

「だったら、何をしにこんなところまで来たんですか?」

「ええ。実はですね、桜さん。あなたに確認したいことが幾つかありまして――」

 

射命丸さんは、どこからか赤い手帳と万年筆を取り出した。

そういえば……この化物は新聞記者であると自称していたな。

 

「わかりました。なんでもお答えします」

 

少女に気圧されたわけではないけど、なんでも答えるという言葉に噓偽りはなかった。

今の私は、自暴自棄になりかけている。いや、もう既になっていた。

なぜなら、私は――。

 

「快諾していただいて、ありがとうございます」

 

ふざけたことに、化物が私に向かって頭を下げた。

この女は、私を苛立たせるためだけに存在しているのかと錯覚してしまう。

 

「ではまず初めに……。ライダーさんのマスターは桜さんだと思ってましたが、マスターとして出てきたのは、お兄さんである慎二さんでした。これはどういうカラクリですか?」

「私が召喚したライダーを兄さんに令呪ごと譲渡しました」

「ふむ……」

 

ぱらぱらと手帳をめくっていた。

どうやら、これまで得た情報と齟齬がないか確認しているらしい。

 

「譲渡……といいますと? 令呪は他人に譲れないと聞きましたが」

「それは聖杯戦争の御三家で、令呪を作ったマキリの裏技みたいなものです」

「ふむふむ。なるほど、わかりました。……それが慎二さんの持っていた魔導書の正体だったと」

 

『これ以上の詳細を聞く必要はなさそうね』

彼女は、そう独り言ちて手帳に筆を走らせていた。

 

 

その後も、インタビュー形式で射命丸さんの質問を幾つか答えた。

一匹の妖怪ではなく、一人の記者として接してくる彼女は思いの外、真摯でひたむきな態度だった。

だけど私は、彼女を視界に入れるのも嫌だったので、早く帰ってほしいと思った。

 

「では、これが最後の質問です。桜さん、あなたが昨日、遠坂凛さんを足止めしたのですか?」

「…………」

 

ああ――なんてことだろう。

彼女はもう、醜悪な私の正体に気づいていたのか。

今日の本当の目的は、その裏を取りに来たのだ。

そしてこれは同時に、彼女と私しか知り得ない事実になる。

 

「――はい。私がやりました」

 

もう、開き直るしかなかった。でなければ、罪悪感で今すぐに潰されそうだったからだ。

彼女も仮説の域からは出てないのだろう。今はまだ手帳に何も書き込まない。

 

「私が遠坂先輩の家に行って、学園を休ませました。間桐と遠坂は、不干渉が鉄則です。あの時の私はどうかしていたかもしれません」

 

そして私は、昨日の顛末を語る。

 

 

 

 

遠坂先輩と私は、リビングのテーブルを挟んで座っていた。

間桐の人間である私が、遠坂の家を訪問する。

そんな本来であれば、あり得ない事態に彼女は心底驚いただろう。

 

向かい合うだけでお互いに無言のまま、かなりの時間が経過している。

遠坂先輩は紅茶に口を付けつつも、複雑な表情で私を見ていた。

私は俯いて、手つかずの紅茶を眺めているだけ。

淹れてもらった時には香っていた上品な匂いは、もうとっくに飛んでいた。

 

「…………」

 

遠坂先輩のサーヴァントは、私服姿ではあったが、あからさまに私を警戒していた。

私たちの本当の関係を知らされてなければ、それも当然の反応だ。

彼女は、まさに主を守る騎士という装いで、マスターである遠坂先輩の傍に控えている。

 

「で、桜は遠坂と間桐の盟約まで無視してなんでうちまで来たの? ま、どうせ聖杯戦争絡みなんでしょうけど」

 

長く続く無言の空気を焦れったく感じたのか、遠坂先輩が先手を打った。

部屋にあったアンティーク時計を見ると……もう昼を過ぎている。

……そろそろ頃合いですかね。

 

「……兄さんに口止めされています」

 

これまで以上に沈んだ表情を作って、私は膝の上の手を固く握った。

そんな煮え切らない態度の私に苛立ちを隠せなくなったのか、遠坂先輩が立ち上がる。

 

「――じれったいわね。じゃああなたはなんでここに来たの?」

「それは……」

「そうやって、俯いているためじゃないでしょ?」

 

そう、俯いている場合じゃない。だけどまだ――演技は必要でしょう?

 

「何か言いたいことがあったから、私のところに来たんでしょ、桜」

 

私は冷めた紅茶を見ながら、ぼそぼそと話す。

 

「学園の――しています」

「そんな声じゃ聞こえない。前を……いえ、私を見てはっきりと言いなさい!」

 

そんな『姉』らしい言葉に、私は今日初めて姉さんの目を見た。

 

「兄さんが学園に張った結界を近いうちに発動しようとしています! 兄さんを止めてください!」

 

ああ、ついに言っちゃった。

想定外の発言に姉さんが目を大きく開いて驚いてたけど、すぐに落ち着きを取り戻した。

 

「なんてこと……。慎二が、あのサーヴァントのマスターだったのね」

 

誰だって、兄さんがマスターだと思わないだろう。

だって、彼は魔術師でも何でもない、ただの人でしかないのだから。

 

「セイバー! すぐに学園に行くわよ!」

「はい――!」

 

姉さんは、制服の上から赤いコートを着ると駆けだした。

彼女には、セイバーがいる。ものの数分で学園に着けるだろう。

だけど、大丈夫。

ライダーは、あのサーヴァントを殺してくれると約束してくれていた。

約束した時間は、もう過ぎている。

 

「桜、言いにくいことをよく言ってくれたわ。また機会を作って、二人で紅茶を飲みましょう」

 

最後に姉さんは、振り返らずに私にそう言ってくれた。

これで、最良のサーヴァントであるセイバーが、兄さんを止めてくれるだろう。

この時間であれば、不完全な『鮮血神殿』では誰も死にはしない。

学園の人たちに苦しい思いをさせてしまうのは心が痛むが、あの時の私の心はもっと痛かった。

だから、心の中で深く反省すれば、みんなも許してくれるはずだ。

先輩のサーヴァントである、射命丸文という化物だけが死んでくれればいい。

 

「あはは――」

 

意識しなくても、笑みがこぼれてしまう。

その歪んだ口元を慌てて手で押さえて、なんとか元の形に戻した。

 

先輩はもとより、姉さんも私のことを疑わないはずだ。

姉さんは、誰よりも頭がいい。

だから一度そうだと思い込んでしまったら、その考えを変えたりはしない。

私の身の潔白は、姉さんの思いこみが証明してくれる。

 

でも、兄さんもあそこまで扱いやすいとは思わなかったなあ。

私が先輩のサーヴァントの情報を流すと嬉々として踊ってくれた。馬鹿な人だ。

兄さんなんかに先輩が倒せるはずないし、死ぬのはあの化物だけ。

 

ああ……これで、先輩との日常が戻る……はずだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

24.大妖怪のあとしまつ 後

 

 

私の顛末を聞いた射命丸さんが、筆を一旦止めた。

 

「はあ、つまり……私を殺すために一芝居打ったと?」

「はい」

「では、昨日の被害者の方々はあなたが殺したようなものですね?」

「……はい」

 

ライダーは、学園の人たちを巻き込んで殺してしまった。

私はサーヴァントに対して、あまりに理解が浅かった。

特にライダーは反英霊という存在であり、無関係な人々を巻き込むのにさして抵抗がない。

私が彼女に頼んだのは、特定の時間までに先輩のサーヴァントを殺してもらうこと。

結局それも果たされず、無辜の人々だけ殺してしまった。

 

私のお粗末な企みは、あっけなく瓦解。

熱に浮かされていた私の頭は、すっかり冷え切ってしまっていた。

 

「あんなことになるなんて思わなかった!」と叫び出したい。

だけど、サーヴァント同士の戦闘に死者がでないなんて、どれだけ幸せな頭をしていたのか。

私の頭は、射命丸さんに対する憎悪と焦りでどうにかなっていた。

 

ああ――あの時、ライダーにたった一言だけ。

「他の誰も巻き込まないで」と伝えておけば、悲劇は防げたかもしれない。

彼女だったら、兄さんの命令を無視してでも、私の言葉を守ってくれただろう。

でもそうしなかったのは、まぎれもなく私だった。

事件の詳細を聞いてから、そんな後悔ばかりが私の胸中を占めている。

 

それから一夜明けて、私の心は完全に折れてしまった。

だからもう、何もかもどうでもよかった。

 

「兄さんに結界を発動するように仕向けたのも私です。責任は私にあります」

 

そう考えたら、兄さんも私の被害者なのかもしれない。

結局のところ、引き金を引くように促したのは、私なのだから。

 

 

己の罪を、目の前の化物にすべて告白した。

そう懺悔を終えたところで、私の胸が軽くなるわけもなく、自らの償えない罪を改めただけ。

私はもう、恐怖と殺意の対象だった彼女にすら、大きな感情が湧かずにいる。

 

「わかりました。質問に答えていただきありがとうございます」

 

彼女は手帳を静かに閉じた。もう質問は終わったのだろうか。

それなら、私のやるべきことはもう何もない。後はもう。

 

「それで、つかぬことを伺いますが。……桜さん、あなた死ぬ気ですか?」

 

確信とも言える言葉に、冷え切った私の心臓がドクンと跳ねた。

 

「……どうしてそう思いますか?」

「私から色々と訊いておいてなんですけど、こうしてぺらぺら話してくれるのが怪しい」

 

私は、自らの罪を自白してるようなものだった。

罪から逃げる気であるのなら、沈黙を貫くか、嘘の証言をするだろう。

 

「そして、あなたのその目。絶望と後悔に満ちています。私に対する憎悪だけではなく、恐怖も麻痺していますね」

 

言われてみれば、今の彼女は少しも怖くなかった。

ただ、憎しみだけはまだあったので、思いっきり顔を引っ叩きたい気持ちは残っている。

 

「恐怖の根源は、死を恐れる生物の本能。それを感じずにいるのは死んでも構わない証拠でしょう」

 

この化物は本当に、ずかずかと他人の心に土足で上がり込む。

 

「ふふ……人間ではないあなたは私の心が手に取るようにわかるんですね。先輩は最後まで、私の気持ちに気づいてくれませんでしたけど」

 

もう、この化物と先輩が付き合っていないのはわかる。

衛宮士郎と射命丸文の二名は、マスターとサーヴァントとしての関係でしかない。

だったら、私の企みは本当になんだったのか。鬱憤を晴らそうとするだけで、何の意味もなかった。

もっとも、私の初恋は、もうとっくに終わってしまったわけだけど。

取り返しのつかない罪人である私を、正義の味方を目指す先輩が許してくれるはずがない。

 

「あ、はは……」

 

不謹慎ではあったけど、つい笑ってしまう。

これから死のうというのに、自虐的な性格だけはついに変わらなかったから。

もしかしたら、その自虐心が高じて、最期は自分だって殺してしまうのかもしれない。

 

「うーん。でも死のうとするまでの気持ちは、まったくわかりませんね」

 

腕を組んで、ヒトよりも聡明な頭を悩ませた。

彼女には、私が死に至ろうとする理屈は考察できても、気持ちだけは心底理解できないようだった。

そのあんまり過ぎる態度に、私はかつてない苛立ちを覚える。

 

「それは! あなたが強いからでしょう!」

 

それは何も、肉体だけの話ではない。

この少女の精神は、人間のソレからは完全に逸脱している。

私を絶望のどん底まで突き落としても、こうして取材に来れる精神は、まるで理解できない。

罪悪感を一欠片も持たずに、ここにいられる時点で、この化物の頭はどうかしているとしか思えなかった。

 

一度堰を切ってしまった感情は、もう止まらない。

 

「それに今更生きたって何がありますか!? 兄さんを誑かし、姉さんを騙して、先輩もずっとずっと騙し続けてきた! ライダーもあなたに殺されてしまった! この手は血に染まってしまった! 先輩も姉さんも私のことを絶対に許さないでしょう! だったらもう――死ぬしか……死ぬしかないじゃないですか」

 

私の豹変に射命丸さんは、引いているようにも見えた。

 

「あ、はい。勝手に死んでください」

 

そして矢のように放たれたのは、容赦の欠片もない言葉。

同情心もなければ、悪意すらも感じさせない。まるで壁に向かって話しているようだった。

高揚していた感情が、途端に萎えてしまう。

 

「私はあなたが死ぬのを決して止めません。ですが、私はあなたが招いた悲劇も決して咎めません。今回は出しゃばりましたが、本来の私は第三者であり、傍観者です。干渉せずに観察する――それが千年にも及ぶ私の生き方です」

 

彼女は、私を咎めないという。

ここまで散々引っかき回しておいて、よくもそんなことが言えたものだった。

マッチポンプという言葉が、ここまで相応しい存在はいないと思う。

 

「では、私は帰りますけど、何かありますか?」

「何もありません」

 

もうどうでもいい。さっさと帰ってほしかった。

 

「あやや、即答。そう言われると悲しいです」

 

柳眉を少し悲しそうに歪ませた。

ああ、初めて彼女に一矢報いた気がする。ほんの少しだけ、つまらない達成感を覚えた。

……ちょっとだけ気が晴れた。最後に何か訊いてやってもいいかもしれない。

 

「……聖杯戦争は、これから苛烈を極めます。勝ち残る自信がありますか?」

 

答えは聞くまでもなく想像できるが、自信を持って言うだろう――。

 

「これっぽっちも勝てる気がしませんね」

 

彼女は指先で、これっぽっちをアピールした。そこには1センチの隙間もなかった。

それは、私の予想していたのと違うもの。

傲岸不遜で自信家の少女の口から、そんな言葉が飛び出すとは思わなかった。

 

「驚いていますが、そんなに意外ですか?」

「……意外です」

 

本当に意外だった。

 

「残るサーヴァントとの戦いは、ある『制約』または『不文律』がどうしても生じます。絶対に負けるとまでは言いませんが、今まで以上に厳しくなるのは確実でしょうね。私、好相性のライダーさんにも殺される直前でしたし」

 

『制約』や『不文律』が何なのかわからなかったけど、勝てるとは一言も言わなかった。少しいい気味だった。

それでも彼女は、飄々とした態度を崩さずにいつもの笑みを浮かべている。

 

「あ。そうそう、忘れてました。ライダーさんのから遺言です。『申し訳ありませんでした』。それを伝えて欲しいと」

「それだけですか?」

「はい、それだけです。私にも意味はさっぱりです」

 

……ライダーは、私に何を謝りたかったのだろう。

射命丸さんに負けて、聖杯戦争を脱落してしまったこと、それとも無関係の人を巻き込んでしまったこと。

もしかしたら、その両方かもしれない。

そんな勝手な想像はいくらでもできるけど、真意はもう死んでしまったライダーにしかわからない。

 

 

射命丸さんは、突然背中に隠されていた黒い羽を広げた。

『埃が立つのでやめてほしい』

なんてどうでもよく考えたけど、すんなり聞き入れる性格ではないだろう。

 

「最後に一つだけ。死んでしまった人間にできる贖罪なんてありませんよ」

 

殺してしまった人たちへの罪悪感はある。今も重しのように私の心にのしかかっている。

それが死のうとする一番の理由なのは間違いない。

だけど、贖罪のために死のうとしているわけでもなかった。

ただ、生きるための気力をなくしたから。それだけの話。

 

「死者にできることがあると思うなら、それはエゴと単なる思い違いです。死人は泣きも笑いもしません。ならば何ができるというのでしょうか?」

 

この人は、さっきから何を言っているんだろう。

それはまさに、強者の理論だ。弱者の私には、到底理解ができないもの。

ああ――なるほど。

私が彼女を理解できないように、彼女もまた弱者である私を理解できないのだ。

様々な状況から、理屈の推理ができるだけ。

だからこんな見当違いな見解を、自信満々に言えるのか。その事実に、少しだけおかしくなる。

 

「あの……」

 

見当違いを正そうとしたけど、彼女はもうそっぽを向いてしまっていた。

 

「ああ、らしくない。らしくないわ」

 

そんな言葉を、背中を向けたまま呟く。

どんな相手であっても、真っ直ぐに目を見て話す射命丸さんが、私に背を向けている。

彼女からしたら、よほど珍しい言動なのかもしれない。

 

「――それではさようなら、桜さん。機会があったらまた会いましょう」

 

まるで、気を取り直すような明朗とした声だった。信じられないけど、彼女はそう声を作っていた。

そのまま、来た時と同じように窓から飛び去っていく。

私の目なんかで追えるスピードではなく、あっという間に闇へと溶けてしまった。

 

「…………?」

 

部屋には冬の寒風と違う、どこか温かな風だけが残されていた。

それは、桜の咲く頃を思わせるような春の風だった。

 

 

勘違いを正す前に、彼女はいなくなってしまった。

言いたいことだけ言って、まったく会話にもならない。

結局、なにが言いたかったのか、それすらもさっぱりわからなかった。

 

少し好意的に解釈をすれば、私に死んでほしくなかったのかもしれない。

それが本当だったら、どこまでも身勝手な人だった。

 

「いえ。ヒトじゃなくて……バケモノかな」

 

私のベッドで眠っている兄さんの息づかいが聞こえる。

その顔は恐怖に歪んでいて、時折悲鳴のような呻き声を上げていた。

私には想像が及ばない、悪い夢を見ているのかもしれない。

 

……射命丸さんは、殺してしまった人にできる贖罪は無いと言っていた。

それは、その通りなんだろう。「ごめんなさい」と謝ったところで満足するのは自分だけ。

それを理由にして、私が死んだところで償いになるはずがない。

もっとも、私がしようとしているのは、そんな理屈ですらなく、自分が楽になるためのただの身勝手。

 

死ぬのは怖くないはずだった。

今も、生きるために必要な気力は失くしている。

 

「う、うううう……」

 

だけど、ずっと出なかった涙が止まらなかった。

生きるのにずっと絶望していた私が、こんなにも死に臆病だったなんて。

この涙の正体は、先輩と出会ってから培った唯一の人間らしさだ。

胸のうちに潜む、私の少女らしさが「生きたい」と叫ぶ、そんな魂の慟哭だ。

 

「死にたくない……死にたくないよう……」

 

私は膝を抱えて、嗚咽すら堪えずに泣き続けた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

25.夜が終わらない 《2月7日》

 

 

――俺の名前は、衛宮士郎。

 

表向きは、とある学園に通う普通の生徒だ。

……裏の顔? 正体は何者かだって?

そうだな……一人の魔術師であり、一人の正義の味方とでも言っておこうか。

 

そんな俺は、聖杯戦争という争いに巻き込まれてしまった。

七人の魔術師が万能機たる聖杯を求めて殺し合うという、くだらない揉めごとだ。

 

聖杯戦争に参加する魔術師は、聖杯の力を借りて、パートナーとなるサーヴァントを召喚する。

サーヴァントとは、過去の英雄――すなわち英霊を召喚して共に戦うのだ。

 

そして、俺のパートナーは射命丸文という天狗の女の子。

かなりの美少女で、清く正しく、気立ても良い。

もちろん、顔が可愛いだけじゃない。

見た目とは裏腹に、なかなかの腕っ節の持ち主だ。そして美少女で、美少女だ。

それでも、俺ほどの強さはないけどな。美少女ではあるが。

 

初めて戦ったサーヴァントは、ランサーという槍の使い手だった。

やつの扱う槍はなかなかのスピードだったが、俺の神域の目にとっては児戯も同然。

容易く槍をつかみ取ってやり、驚愕するランサーの顔面に俺の拳をめり込ませてやった。

ランサーは、捨て台詞を吐いて逃げ出したが、俺はそれを見逃した。(※ランサーとは初日に会ったきりです。今はどこにいるんでしょう?)

逃げる相手を追うのは、好みじゃない。

俺の敵は勇猛な獅子であって、臆病な兎じゃないからだ。

 

いつも通り、俺は学園(※学校とは何が違うのでしょうか?)に行く。

聖杯戦争という些事に、俺の生活スタイルを崩されるのは許されない。

俺の行動はすべて俺が決める。誰かに脅かさせていいものじゃない。

もっとも、学園にサーヴァントが現れようが、大した問題じゃない。容易く撃退できる。

 

廊下で学園のマドンナ(※誰でしょうかね? 美人の偶像的存在?)である遠坂凛とすれ違った。

彼女もまた、聖杯戦争のマスターの一人だ。

腐れ縁である彼女は、何かあるとすぐ俺にちょっかいを掛けてくる。

いわゆる、ツンデレ(※ツンツンデレデレの略らしいです)というやつだろう。

俺に惚れているのはバレバレだったが、ワザと気づかないふりをしてやってる。(※実際は不明。拗らせた感じはします)

可愛いやつだ。射命丸ほどじゃないがな。(※えへへ(*^^*))

 

昼休みは、下級生の女子と昼食を取った。(※先日の重箱五段は引きました。加減しろバカ!)

彼女の名前は、間桐桜。ある事がきっかけで知り合った女の子だ。(※ある事は不明です)

いつもは大人しい性格なんだが、俺が他の女の子と話すだけで嫉妬の視線を向けるのが困る。(※士郎さんェ……)

当然だが、俺に惚れている。(※ガチです。裏取れてます)

 

夕食は、桜と一緒に藤村大河という俺の姉のような女性(※後見人?)と取ることが多い。

本来、料理は交代制(※私も作ろうかしら?)なんだが、この藤ねえだけは作ろうとはしない。

やれやれ、困ったやつだ。当然だが、俺に惚以下略。(※詳細不明。でもきっかけがあれば秒で結婚しそう)

 

夜は聖杯戦争のため、冬木の町を散策する。(※聖杯戦争飽きた。日本各地で美味しいものが食べたい)

そこでバーサーカーという巨人(※超でかい!)、そして雪のように白い少女(※超かわいい!)と遭遇した。

彼女もまたこのくだらない聖杯戦争に巻き込まれた哀れな子なんだろう。(※ガチっぽい。洗脳教育されてそう)

だが、俺という男に出会えたのだ。その運命の鎖を引きちぎってやる!

 

イリヤスフィールと名乗る少女は、俺に熱っぽい視線を送ってくる。(※これも詳細不明。拗らせ度は70~90ぐらい?)

俺は、バーサーカーの攻撃(※当たったらペシャンコです(T_T))を巧みなステップで翻弄しつつも、雪の少女に視線を返した。

途端、少女が顔を赤くした。しまった! 俺の眼には魅了の効果があるんだった!(※ないです)

 

バーサーカーは強い。並大抵の力じゃ倒すことはできないだろう。(※勝てる気ゼロ!)

俺は、左手に封印した暗黒の力を解放し、バーサーカーを討つ!!(※本当にどうしよう(^o^))

 

「うおぉぉぉぉ! 左手の暴走が止まらない!!」(※左手への謎の特別視)

 

 

 

 

射命丸文は現在、与えられた部屋でグラスを片手に、原稿と向かい合っていた。

そのグラスには、外界に来る際に持ち込んだ天狗の酒が注がれている。

かなりのアルコール度数を誇る日本酒だが、うわばみの天狗にとってなんてことはない。

 

間桐家から帰宅した文は、熱い風呂でその日一日の疲れを癒した。

上空二千メートル以上の場所に何時間もいたため、妖怪ではあっても疲労はそれなりにある。

そして、今は酒を飲みながら原稿を書くという至福のなかに彼女はいた。

 

「んふふー」

 

ぽかぽかの風呂上がり、冬の寒さでよく冷えた酒を傾ける少女。

頬を赤く上気させており、どこか艶めかしい。

彼女の着ているパジャマは、士郎が用意したものだ。

ピンクを基調とした女の子らしいデザインであり、とてもよく似合っていた。

 

彼女が書いているのは、新聞に掲載しようと考えているノンフィクション小説のプロットだ。

外界の新聞を読んで、事件や事故といった記事だけではないコンテンツの豊富さに影響を受けたもの。

コラムや小説といった外部からの寄稿もあって、プロの小説家も連載している。

その連載という形式だったら続きが気になって、継続契約の購読者が増えるかも知れない。そんな小さな企みがあった。

 

故あって射命丸文は、聖杯戦争という奇妙奇天烈な体験をしている。

こうして、本格的に参加してしまった以上、特集記事だけでは少々もったいない。

多少の脚色を加えて、荒唐無稽な小説にでもすれば面白いだろう。

 

物語の主人公は、文のマスターである衛宮士郎が大抜擢された。

当然許可は取ってない。事後承諾の予定だった。

タイトルは『俺と聖杯戦争』――。

魔術師としての顔を持つ正義の味方の衛宮士郎が、個性豊かなヒロインたちに言い寄られつつも、他を寄せ付けない強さでサーヴァントを打倒していく話だ。

繰り返すが、脚色はほんの僅かだ。

 

小説なんて初めて書くが、思いのほか筆が進み、傑作が生まれる予感が文にはあった。

この時の射命丸文は、ライダー戦の高揚、間桐兄妹との問答、深夜のテンション、度数の高い酒のせいで変な方向に入っていた。

 

「……こ、これは、士郎さんにも見せなければ!」

 

ああ、今宵傑作が生まれてしまった。文は、心の底からそう思った。

頭が有頂天な天狗少女は原稿を手に取ると、士郎の部屋へふらふらと歩いていく。

もう日付が変わって久しい。

だが、今の文の思考力は烏と変わらない程度まで落ちていた。

大脳が麻痺して、自己抑制や判断力が著しく低下している。

そもそも、士郎は絶対安静のはずだが、それすらも文の頭から抜け落ちていた。

ライダーに穴だらけにされた身体で、この怪文書。士郎は一体どんな顔をして読めばいいのか。

 

「いえーい! うえーい! 士郎さーん! ちょっとこれ読んでくださーい!」

 

浮かれ切った天狗は、ノックすらもせずに士郎の部屋に押し入った。

しかし、そこには士郎の姿はなかった。

 

「…………?」

 

酩酊した頭で、部屋の隅から隅まで見渡すも、やはり誰もいない。

 

「あ、これヤバいわ」

 

文は、冷や水を浴びせられたように、少し冷静な思考を取り戻した。

そして自らの考えが甘すぎたと、痛感する。

士郎は、間桐慎二に会うために、傷だらけの身体でこの家から抜け出したのだ。

それも、聖杯戦争がもっとも活発となるこの時間に。

 

まさか、士郎がそこまで慎二に執着するなんて、射命丸文にとって計算外だった。

あんなリアクションしか能がない失禁男に、どうしてそこまでする必要があるのか。

聡明な頭をフル回転させても、文には少しも理解できなかった。

 

天狗の少女は、パジャマから着替えることも忘れて、士郎の部屋から外に飛び出した。

 

 

 

 

「――うわああッ!!」

 

バーサーカーの斧剣が、コンクリートで舗装された道路を次々と破壊していった。

モグラ叩きのように振り下ろされる凶器を、俺は転びそうになりながらも何とか躱していく。

 

「クスクス。お兄ちゃん、頑張ってね。頑張らないと死んじゃうよ?」

 

狂戦士の主たるイリヤスフィールは、そんな光景を少し離れた場所から楽しそうに眺めていた。

 

ここは新都に通じる、冬木大橋の近くの住宅地。

かつて、バーサーカーとセイバーの戦闘があったところからそう遠くない。

 

「クソ……!!」

 

どうして、こうなってしまったのか。俺はいまバーサーカーに襲われている。

慎二を探すために、冬木中央公園まで行こうと思った矢先。

まるでタイミングを見計ったように、バーサーカーを引き連れたイリヤスフィールが現れた。

しかも、イリヤスフィールに先に見つけられてしまったため、俺は明確な死を覚悟した。

少女は一言二言の挨拶を済ませると、バーサーカーに俺を襲わせた。

 

もちろん、バーサーカーは本気ではない。

本気で俺を殺す気だったら、最初の一撃で肉塊と化していただろう。

つまりは、イリヤスフィールが手加減をするように命じていたのだ。

理性を失くしたバーサーカーに、そんな器用な真似ができるのかと思ったが、俺は現に生きていた。

 

だけど、これでは慎二に会うどころの話じゃない。

下手をすれば、ここで衛宮士郎の何もかもが終わってしまう。

 

「シロウ、このままだとバーサーカーにぺしゃんこに潰されちゃうよ」

 

イリヤスフィールが、鈴のような声を鳴らした。

子供そのものの声質に反して、彼女の言葉はあまりにも残酷だった。

 

「はぁ……はぁ……」

 

息は、だいぶ前から上がっていた。

ライダーから受けた傷が熱を持って痛み始めてる。

塞がりかかった傷が開いて、服の上から血が滲み出していた。

少しの衝撃で、体がバラバラになりそうなほどの激痛。

このまま何もしなければ、無惨に殺されるのもそう遠くないだろう。

 

「フフ……」

 

どうやら俺は、イリヤスフィールによって逃げられる場所を限定されていた。

フォックスハンティングのように、どこか特定の場所に誘い込まれているのかもしれない。

……そして記憶が確かなら、この先の道を進むのは非常にまずい。

逃げ道を変更しようとしても、途端にバーサーカーの攻撃が鋭くなり、あえなく失敗する。

 

「…………くっ!」

 

気づけば、目の前に乗り越えられそうもない壁があった。

そして、すぐ後ろにはバーサーカー。

つまりは、袋小路。俺はもう、前にも後ろにも、どこにもいけない。

この行き止まりが少女の目的地で、イリヤスフィールによって誘導された場所。

 

「もう後がないね、お兄ちゃん」

 

イリヤスフィールが、バーサーカーの隣へ並んだ。

バーサーカーは攻撃を中断しており、少女を庇うように静止している。

どう考えても絶体絶命の状況だったが、俺には一つ腑に落ちない点もあった。

 

「イリヤスフィール……何が目的なんだ?」

「んっと。イリヤスフィールだと、少し長くて呼びにくいから、わたしのことはイリヤでいいわ」

「……じゃあ、イリヤ。なんでわざわざこんな真似をするんだ? 俺を殺そうと思えば、いつだって殺せたはずだ」

「だって、こうしないとシロウとゆっくりお話ができないじゃない」

 

なんだって……?

 

「昼にお城を抜け出して、お兄ちゃんを探したけど見つからなかったわ」

 

昨日の昼は、ずっと冬木中央公園にいたから、この近辺を探しても見つからなくて当然だった。

 

「だからね、シロウ。わたしとお話しましょ?」

 

イリヤの思いがけない発言に、俺はきょとんとしてしまう。

少女の話し方も命令するようなものではなく、どちらかというとお願いに近いものだった。

その顔に浮かぶのも、いつもの冷酷な無邪気さではない。

家族に願いを乞うような、年相応のもの。

そう言われても、どうしたらいいのか。突然の事態に考えがうまく纏まらない。

 

「シロウ……」

 

俺がいつまでも返事をしないのを不安に思ったのか、眉を下げて悲しげな顔になる。

これはひょっとしなくても、俺に断られるのを恐れているのか――?

今のイリヤは絶対的優位な立場であり、その気になればいつだって俺を殺せる。

なのにどうして『話がしたい』なんてちょっとしたお願いで、そんな悲しそうな顔をするんだ……?

 

「…………」

 

それ以上は、イリヤの悲しげな顔は見ていられなかった。

そうして、少女に話しかけようとした時――。

 

「なにやってんですか!!」

 

突如、俺の頭の上から、馴染みのある声がした。

そう思った瞬間に、その声の主は俺とバーサーカーの間に割って入る。

まるで俺を庇うように立ち塞がり、バーサーカーと対峙する烏天狗の少女。

 

「文!?」

「あのサーヴァント……!」

 

そんな突然の来訪者に、イリヤは苛立ちを覚えていた。

俺と話がしたい少女にとって、射命丸文は邪魔者以外の何者でもなかった。

 

「ああもう! 士郎さん! 私の書き置きを見たでしょう!」

「ああ……見た」

「だったらなんで、こんなところでこんなことになっているんですか! どう見ても絶体絶命じゃないですか!」

「あ、ああ……そうだよな。ごめん」

 

今まで見せなかった剣幕で、俺の浅慮な行動を糾弾する。

その迫力に、反射的に謝ってしまう。

ただ今の彼女からは、妖怪としての恐ろしさではなく、年齢の近い女の子に怒られている感じがした。

だが、まずは気になったことがあったので、それを先に言っておこうか。

 

「それよりも文、そんな格好で外を出歩くと風邪を引くぞ」

 

彼女は、俺が先日購入したピンクのパジャマを着ており、しかも裸足だった。

家が火事にでもならない限りは、こんな格好で外には出歩かない。

 

「――あ」

 

つまり彼女にとって、家が火事になるのと同レベルの一大事があった。その原因は間違いなく。

 

「はい? 今なんと?」

 

俺の何気ない発言に、文が青筋を立てる。

それなのに顔は、いつも以上に笑っており、それが余計に怖い。

 

「こんな格好でいる原因を作ったあなたが言わないでください!!」

「ごもっともです。ごめんなさい」

 

その通りだった。間髪入れずに謝罪をした。

そんな文の顔をこれ以上気まずくて見ていられなくなり、つい視線を逸らしてしまう。

そんな俺たちを見て、イリヤが唖然としていた。

確かに敵対サーヴァントの前で、こんな醜態を見せられれば誰だって呆気にとられる。

 

しかし少女の反応は、思わぬものだった。

 

「あははは! お兄ちゃんのサーヴァントって面白いね! 何なのその格好!」

 

イリヤが、本当に可笑しそうに俺たちを見て笑った。

 

「あ、あんな小さな子供に笑われちゃったじゃないですか! 今まで築き上げてきた私のクールなイメージが台無しです!」

 

イリヤの反応に顔をより一層赤くして俺をなじるが、文にそんなイメージあったのだろうか?

聖杯戦争で一番の色物枠なのは、間違いないと思うけど。

 

……なんだか今の文は、表情をころころと変えて面白いな。

いつもと違って発言に裏表がなく、人間味さえも感じてしまう。

つい数時間前に、ライダーと死闘を繰り広げていた彼女とは別人みたいだ。

 

それにこのタイミングだったら、さっきイリヤに言えなかったことも言えそうだ。

 

「……なあイリヤ。俺と話がしたいんだったよな。だったら、ここだと寒いしウチまで来ないか?」

 

今の俺は、パジャマ姿の文にバーサーカーから庇われており、大変アレな状態だ。

それでも、恥を忍んでイリヤに話し掛けた。

いくら重ね着をしても、身に染み入るような寒さを感じる冬の深夜。

文なんて、肌着の上にパジャマ一枚を着ているだけ。それも裸足のまま。

第一、文がこんな格好をしているのは、間違いなく俺の責任だ。

 

未だ行方知れずの慎二が頭に浮かんだが、これから探そうとしても、文に止められるだろう。

それと文は、慎二と会っているはずだ。あいつが今どこにいるのか聞けるかもしれない。

 

「…………」

 

俺の発言に、文とイリヤの二人が目を丸くして驚いていた。

あれ? そこまで変なことを言ったか?

文も着替えられるし、イリヤも温かい場所で俺と話ができる。双方にとって、メリットしかないはず。

 

他の誰かに同意を求めようと周囲を見渡すも、そこには物言わぬ黒い巨人がいるだけだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

26.暁の空に酔う

 

 

日付が変わり、聖杯戦争が始まってから五日目。

俺たちは、寝静まった住宅街を歩いていた。

 

どこか気もそぞろな様子で歩く四人。

先頭から順に俺、文、イリヤ、バーサーカーだ。

殿として、これほど頼りになる存在は他にいないだろう。

国民的RPGなら、壁役としてバーサーカーを先頭に置くべきか。

その場合、他の三人がバーサーカーの巨体に遮られて前が見えなくなる弊害があるけど。

 

「…………」

 

しかし、こんな異様な集団は見たことがない。そしてその一員に俺がいる。

もしご近所さんに見つかったら、今後の付き合い方を考えさせられてしまうかもしれない。

 

銀髪の白人少女であるイリヤはまだいいとして、烏天狗の文はパジャマ姿で裸足。

巨漢半裸のバーサーカーに至っては……もはや何も言うまい。

その先頭で彼女たちを引き連れているのが、何者でもない俺なのがシュールさを引き立てている。

一体どこの仮装行列なのか。十月なんてとっくに過ぎているぞ。

 

「お兄ちゃん、あとどれぐらいで着くの?」

「もう少しだな」

 

あれから少しして、俺たちは衛宮家に向かうことになった。

俺の家にイリヤを呼ぶ提案は、すんなり通ったのだ。

イリヤも多少は驚いたものの、遠慮がちに頷いてくれた。

理性を失ったバーサーカーは、マスターの意向に異論を唱えたりはしない。

文は、よくわからなかった。

あの瞬間は驚いていたが、その後は珍しく黙り込んでしまったからだ。

 

「ふふー。シロウのおうちかー」

 

イリヤは少し緊張していたが、それでも笑顔で俺たちの後を付いてくる。楽しそうで何よりだった。

 

「…………」

 

一方で射命丸文は、ずっとご機嫌斜めだ。

俺が彼女の書置きを無視して、不用意に慎二を探しに行ったのを怒っているのだろう。

 

「もしかして、文、怒ってるか?」

「……ええ、まあ、そうですね。怒ってます」

 

俺が死んでしまうと、射命丸文もこの世界に現界できなくなる。

それなら、怒って当然だ。

聖杯戦争が始まってから、俺の考えなしの行動で何度も何度も面倒を掛けていた。

俺は、彼女から見ればどうしようもないやつなのだろう。

 

「ええ……確かに怒っていますが、実は、ほっとしている部分もあります」

「え?」

「士郎さんに何かあったら、私は損得抜きで駆けつける程度には情が移っています。だからあんまり無茶しないでください。……心配させないでください」

 

……その言葉は、俺の想像とは大分かけ離れたものだった。

射命丸文は、自身の見返りではなく、ただの感情だけで俺を助けると言ったからだ。

さっきもパジャマ姿で、バーサーカーと対峙していた。

それは間違いなく命懸けの行為だ。それを献身と呼ばずに何を献身と呼ぶものか。

……俺は、いくつもの意味を重ねて彼女に謝らないといけない。

 

「ごめん……」

 

本当にごめん。

俺は心のどこかで、射命丸文という少女を見くびっていたかもしれない。

 

「そうですよ。もっと私を信用してください」

 

少女が、ただ笑う。その含みのない顔に胸が熱くなるのを感じた。

 

「……あ、そうだ。裸足じゃ足が冷たいだろ? 俺の靴でよければ貸そうか?」

 

今頃気づくなんて、うっかりしてた。

家まで背負ってもいいが、彼女は性格的に嫌がるだろう。

 

「いえいえ、面の皮が厚いので大丈夫ですよ」

「面の皮……?」

「足の皮でした。天狗ジョーク」

 

あまり面白くなかった。

 

 

 

 

それから、運よく誰ともすれ違わないで、目的地である衛宮邸までたどり着いた。

近所の人に見つかったら言い訳のしようがないので、これに関しては本当に運が良かった。

 

しかし、ここに来て新たな問題が浮上する。

イリヤのサーヴァントであるバーサーカーの存在だ。

俺の家は、元々は武家屋敷なのでそれなりに広いが、あくまで普通の人間用だ。

バーサーカーの2メートル50センチを超える巨体が耐えられるように作られていない。

少なくとも廊下の床は、バーサーカーの体重を支え切れずに抜けてしまう。

お茶の間まで庭を迂回してもらう? でも天井の高さが足りるのか疑問だった。

 

「……どうしよう?」

 

恐る恐る振り返ると、そこに巨人の姿はなかった。

イリヤが一人だけで、ぽつんと玄関前に立っている。

 

「……イリヤ、バーサーカーはどこにいったんだ?」

「何言ってるの、シロウ? 霊体化させただけじゃない。ちゃんとここにいるわ」

 

霊体化? 聞き覚えのない言葉だった。

俺と文は、お互いの顔を見合わせるが「うへへへ」と苦笑いをするだけだった。

そういや、前にもあったな、こんなこと。

そんな俺たちを見てイリヤが溜息をつく。う、なんだか呆れられてしまっている。

 

「……はあ、お兄ちゃんのサーヴァントは肉体を持っているから知らないのね」

 

射命丸文は、三食ご飯を食べるし、風呂にも入るし、しっかりと寝ている。

俺が気付いてないだけで、多分トイレにも行っているだろう。

サーヴァントとして本来はあり得ない、この世界に生きた存在だった。

 

「サーヴァントは魔力の供給をカットすれば、本来の霊体に戻れるの。それを霊体化というの。わかった?」

「あの胡散臭い神父……割と大事なことを言い忘れてますね。いつか折檻してやる」

 

文の冗談に背筋が凍ったが、これでようやく理解した。

忘れがちだが、サーヴァントも英霊と呼ばれているだけあって、霊体の一種だ。

霊体と言っても、人間よりも存在規模が大きいため、これまで失念していた。

確かに霊体であれば、物理的に干渉できないため、家に入るのも問題はないだろう。

 

……それなら、ここまでの道中も人目に触れないよう、霊体化してもらいたかったな。

 

「なるほど。肉眼では確認できませんが、バーサーカーさんの濃密な気配がありますね」

 

文がイリヤの背後を、目を細めて凝視していた。

霊体というのは、目を細めれば見えるものか。近視の人の視力検査じゃあるまいし。

 

 

「へえー、ここがシロウの家なのね。日本家屋に入るのは初めて! えっと……ここで靴を脱ぐんだよね?」

「そうです。靴を履いたまま……つまり土足で家に上がったら、家主に殺されても文句は言えません」

「それが、日本……サムライの国なのね。セイバイ!」

「そう、無礼打ちです。セイバイ!」

 

イリヤが少し興奮した様子で、いそいそと靴を脱いでいる。

文がいい加減なウンチクをイリヤに教えていたが、二人ともちょっと可愛かったので放っておこう。

それとイリヤには敵意がないようで、仕掛けられた警報も鳴る気配がなかった。

 

「じゃあ居間に案内するから、ついてきてくれ」

「日本の家って、こんな感じなのね。木の良い匂いがする」

 

イリヤは、物珍しそうにきょろきょろと家の中を見ていた。好奇心に溢れた目だ。

 

「……あ、この感じ。懐かしいな」

 

初めて文が召喚された時とそっくりだった。

あれからまだ一週間も経ってないのに、少しだけ昔のように感じてしまう。

 

「では、お先に」

 

天狗の少女は、すたすたと誰よりも先に行ってしまった。

すっかりこの家というか、現代社会に馴染んでいる。もはや家主が誰なのかわからない。

……何の気兼ねもないようで嬉しいけどさ。もうすっかり衛宮家の一員だ。

 

 

 

 

時計を見ると、時刻は深夜の二時になろうとしていた。

夜の静寂のなか、三人のお茶を啜る音だけが聞こえる。

俺たちは居間の食卓を囲んで、緑茶を飲んでいた。

初めは紅茶を出そうと思ったが、生憎この家には安いティーバッグしかなかった。

そんなものを舌が肥えてそうなイリヤに出すのは、少しだけ気後れする。

だったら馴染みがなくても、味に自信があるものを出した方がいいという判断だ。

 

俺の隣にイリヤ、文は俺たちの正面に座っている。

文はいまだにパジャマ姿だったが、想定外の事態に楽しそうにしている。

この感じだと、寝るつもりはなさそうだ。

彼女はコミュ力の化物だし、俺もいてくれると助かる。

 

「イリヤは聞きたい話でもあるのか? ……文の話でもどうだ?」

「そんなのつまらないわ。もっと面白いお話をしましょう?」

「…………!!」

 

あ、文がショックを受けている。

口には出さずにいたが、顔に動揺がありありと浮かんでいた。

 

「えっと、じゃあ、イリヤはどんな話がしたいんだ?」

「わたし、あんまり人とお話したことないし、それはシロウが考えて。レディーをエスコートするのは男性の役目でしょ?」

 

そう言われても、何を話せばいいのか検討がつかないぞ。

うーん、白人少女と共通の話題。……駄目だ。俺のボキャブラリーじゃ何も思いつかない。

やはり、ここは無難に天気の話か? 天気の話をすればいいのか?

 

そんな矢先、ショックから立ち直った文がするっと机に身を乗り出した。

 

「では、イリヤスフィールさん。僭越ながら私、射命丸文からご質問させてください」

「えっ、どうしてあなたが? わたしはお兄ちゃんと話がしたいわ」

「士郎さんは、なんだか天気について語り出しそうですし。ここは私とお話ししましょうか」

「お天気なんて、最低最悪のセンスね。……はあ。それじゃ、なんでも質問していいわよ」

 

まだ口にも出していないのに、完全否定されてしまった。

天気の話題って、そんなに悪いものなのだろうか。

お年寄りとの話をする際によく使っていたが、もしかして俺に気を使ってくれたのか?

 

「それでは早速。イリヤさん、あなたはどちらから来られたんですか?」

 

文の手には、いつもの手帳と万年筆が握られていた。

これは、仕事熱心とでも言えばいいのか。もしくは、ワーカホリックのほうが正しいかもしれない。

彼女は仕事だけではなく、生活の一部としてネタ探しが習慣化していた。

 

「……ドイツの山の中にあるアインツベルンから来たわ。いつも寒くて雪が降っているようなところよ。だからわたしは寒いのが苦手」

 

サーヴァントとしては、あり得ない行動にイリヤは鼻白むが、それでもちゃんと答えてくれた。

さっきまでは気まずい空気だったが、文のおかげでなんとかなりそうだ。

俺一人なら、出だしから天気の話題でイリヤを盛大に白けさせていただろう。

射命丸文という、コミュ力モンスターがいてくれて本当によかった。

 

 

 

「へえ、それじゃあイリヤは城住まいなのか」

 

城といっても、水堀と石垣で守られた日本の城ではなく、西洋の石造りのものだろう。

なるほど確かに。

厚手のコートを脱いだイリヤの姿は、お城に住むお嬢様と言った出で立ちだった。

 

「それに貴族なんですね。どうりで物腰が上品だと思いました。どう見ても貞淑なレディーです」

「うん。本国の城はもっと大きいのよ。魔術用だけど、蒸留所なんかもあるし」

 

一切の物怖じをしない文のおかげで、会話のキャッチボールがスムーズに続いていく。

相手を常に立てながら、話題を尽きさせない。流石は新聞記者と言ったところだ。

それに俺も会話に混ざれるよう誘導してくれるし、随分と心地よい空気になってくれた。

 

そんな雰囲気に安心してしまったのか、迂闊にも腹の音が鳴ってしまう。

そういえば、昨日の昼から何も食べていない。同じように文も食べていないはずだ。

ライダーにやられた傷はまだ痛むが、思ったよりも身体は動かせそうな感じがする。

聖杯戦争が始まった頃から、なぜか怪我の治りが早い気がした。

 

「文、イリヤ。もうこんな時間だけど何か食べるものを作ろうか?」

「えっ。でも、そんなの悪いわ」

「おお、いいですね。イリヤさんも遠慮する必要はないですよ? 士郎さんは頼られるのが病的に好きな人ですから」

「……お兄ちゃん、病気なの?」

「そんなことはない。文もイリヤに変なことを吹き込むな」

 

そんなことはない……はず。

人のために行動するのは好きだけど、病気とまでは……。

イリヤはなぜか俺に変な遠慮をしているけど、文についてはもう何も言うまい。

 

「では、士郎さん。ちょっとお酒が飲みたいので、おつまみを作ってくれませんか?」

「へ? 酒?」

 

俺が気の抜けた反応をすると、天狗の少女は一升瓶を取り出し、ドンと食卓の上に置いた。

以前に文の部屋で見たものと同じだろうけど……今どこから取り出した?

そのラベルには、やけに力強い書体で『神便鬼毒酒』と書かれていた。

名前以外は、製造元もアルコール度数も書かれていないし、とことん怪しい代物。しかも毒酒ってなんだ。

明らかにその酒は、日本で市販されているものではない。そうなると、自家製かもしれない。

個人による酒の製造は法律で禁止されているが、幻想郷の住人に日本の法律なんて通用しないだろう。

 

「ふふふ。そろそろ士郎さんと酒を酌み交わして、親睦を深めようかと思っていたんですよ。しかも今日はイリヤさんもいますし、丁度良い機会ですね」

 

こんな目に見えてわかるほど、上機嫌な文を見るのは初めてだ。

天狗の酒好きは有名な話であり、見た目が少女そのものの文もその例から漏れないのだろう。

折角の文からの好意だ。未成年を理由にして無下にはできない。でも。

 

「ちょっと待った。俺はともかくとして、イリヤはどう見ても早いぞ」

 

俺は酒を飲んだりはしないが、誘われたら多少は付き合うべきだとは思っている。

だが小学生ぐらいにしか見えないイリヤでは、健康に悪影響を及ぼしかねない。

 

「ふふん」

 

しかしイリヤは思いの外、優雅な態度で構えていた。

 

「いいわ。アインツベルンの淑女として、お酒のお誘いを断ったらみっともないもの」

「イリヤ……? 無理して付き合う必要はないんだぞ?」

「……シロウはなんだか子供扱いしてるけど、わたしは車の運転もできるのよ。今日も郊外のお城から商店街まで車に乗って来たもの。ちゃんとコインパーキングに停めてあるわ」

 

うーわー。この子、飲む気満々じゃないか。

そして車の運転をしているという、今日一番の衝撃発言。

そんな小さな体でアクセルに足が届くのか。そもそも免許を持っているのか。

どう見ても、デパートの屋上にある上下に揺れるだけの遊具に乗る姿しか思い浮かばない。

 

……その後、イリヤの車が『300SLクーペ』という高級車だと聞いて、俺は心底おったまげた。

ガルウィングの超カッコいい車だ。俺も一度ぐらいは乗ってみたい。

 

こうなったらもう誰にも止められそうもない。

何とかして、イリヤには舐める程度にしてもらわなければ。

 

 

 

 

文のリクエストにより、大量のつまみを作る。

枝豆の塩ゆで、ねぎやっこのごま油かけ、豚バラ叉焼、生ハムとクリームのカナッペ等々だ。

中でもこのシーフードアヒージョは会心の出来だと思う。

得意な和食中心でもよかったが、外国人のイリヤもいるし、文にもいろんな料理を味わってほしかった。

できたばかりのつまみを持って居間に戻ると、少女たちは既に一杯やっていた。

 

「……美味しいと思うけど、かなりきついね。日本酒ってみんなこうなの?」

「日本酒は酵母を使うお酒でも比較的に度数は高いですが、これはその中でも特別ですね」

「うん……やっぱり美味しい。体もなんだかポカポカしてくるし」

 

イリヤは少し赤い顔をしていたが、文はけろりとした表情で呷っている。

冬の夜なのもあって、冷酒ではなく熱燗にしておいた。

熱燗のほうが酔いやすいので、イリヤには早々に飲み潰れてほしい思惑もある。

文は、中学生ぐらいの見た目とは裏腹に、随分と飲み慣れているようだった。

お猪口を傾ける姿に違和感がなく、かなり堂に入っていた。そのちぐはぐ感がなんとも凄い。

そんな気持ちの良い飲みっぷりを見た俺は、ここで致命的な一言を漏らしてしまった。

 

「この家にも酒が結構置いてあるぞ。よかったら持ってこようか?」

 

この家には、酒の貯蔵がそれなりにある。

出所は主に藤ねえの家である藤村組からのお裾分けだが、当然未成年なので飲んだりはしない。

日本酒は料理に使えるが、洋酒の類は余らせてしまう。

 

「――――!」

 

そんな俺の言葉に、文の目が妖しく輝き出した。

いや、これ本当に光ってるぞ。怖。

 

「ああ、ああ……! なんて嬉しいお言葉でしょうか!!」

 

射命丸さんのテンションが、一瞬で上限突破してしまった。

欣喜雀躍と言わんばかりに、ぴょんぴょんと小躍りしている。雀じゃないけど。

これはもしかして、とんでもない失言だったんじゃ?

 

「持ってきてください! 見せてください! そしてあわよくば、飲ませてください! 外のお酒はどんなのがあるのでしょうか……!」

「うわ! 文ちょっと離れてくれ!」

 

凄い力で抱きつかれて、頬ずりをされてしまう。いや、これもう出来上がってないか?

少女の顔には「わくわく」と書いてあった。……まさかここまで喜ばれるとは思わなかったぞ。

 

「むー。シロウってば、不潔だわ」

 

何故かイリヤが拗ねていた。

 

 

文をなんとか引きはがして、再び台所に移動する。

そこに保管してあった日本酒、焼酎、ワイン、ブランデー、スコッチ、リキュール等々……。

未開封の各種アルコールを埋め尽くすように食卓の上に並べてみた。

まさか全部飲むとは思えないが、とりあえず貯蔵してあった酒の全てを持ってきた。

 

「わ、わー。知らない種類の酒もいくつかあります!」

 

少女は、見て目相応の笑顔を浮かべて、パチパチと手を叩く。

酒瓶を一つ一つ手に取って、愛おしそうに確認していった。

 

「あ、開けていいですか?!」

 

興奮冷めやらない少女が、いま手に取っているのは『ヘネシーX.O』。

葡萄を原料としたブランデーで、アルコール度数は四十度を超える高級酒だ。

 

「開けていいですよね!!」

 

迫力に押されて俺は、無意識のうちに首肯していた。

少女は嬉しそうにブランデーの金キャップを開けると、その匂いを嗅ぐ。

酒気を鼻腔に含んだ少女が、恍惚とした表情を見せる。人に見せていい顔ではない。

 

「ああ、これは葡萄でしょうか。樽熟成のいい匂りがしますね……」

「…………」

 

そんな豹変にイリヤも唖然としていた。当然、俺もだ。

イリヤと畳の下で手を取り合い、二人でちょっとしたシンパシーを感じていた。

 

「飲ませていただいても!?」

 

俺は、再び首肯した。なぜか隣でイリヤも首をコクコクと振っている。

こんな期待に満ちた目を見て、断れる勇気は俺にない。

 

……そこから先は、語れる言葉を俺には見つからない。

射命丸文という天狗の少女は、酒豪と呼べるレベルじゃなかった。

明らかに胃の体積以上のアルコールを呷っても、味わうように飲み、じっくりと楽しんだ。

そんな彼女のペースについて行けるはずもなく、俺とイリヤは早々に力尽きてしまう。

 

 

 

 

……意識を取り戻した。

衛宮家の食卓には、大量のつまみと無数の酒瓶が置かれており、その殆どが空だった。

 

「うっ……」

 

起き上がると傷だけではなく、頭もガンガンと響く。

明らかに飲みすぎだ。俺も飲酒初心者なので、加減というものがわからない。

文のペースに合わせていたら、間違いなく急性アルコール中毒で死んでいた。

考えてみたら、怪我をした状態で血の巡りに作用するアルコールを飲むなんて正気じゃない。

実は文だけではなく、俺自身もどこか浮かれていたのかもしれない。

慎二のことや、学園の事件を思い出すと心が沈みそうになるが、それでも楽しかったと思う。

 

「すう……すう……」

 

俺の隣では、イリヤが畳の上で寝息を立てていた。

お城住まいのご令嬢に、こんな姿をさせるなんてとんだ失態だ。

起きないように、そっと毛布を掛けてやる。

イリヤは小さな身じろぎをしたが、目覚めてはないようだ。

 

「お父様……」

 

少女が、ふいに寝言を漏らした。

閉じた瞳から一筋の涙が頬を伝って、畳の染みになる。

 

「ああ……クソ」

 

こんな少女も俺の知らない事情があって、聖杯戦争という殺し合いに参加している。

やりきれないもどかしさで胸がいっぱいになる。

聖杯戦争を辞退するように言おうと考えているが、おそらくは暖簾に腕押しになるだろう。

 

「あれ? 文がいないな……?」

 

文の姿は、居間のどこにも見あたらなかった。

少し待っても戻ってくる様子がないので、彼女の部屋にも行ってみたがそこにもいない。

探そうと思って廊下に出たら……思いの外すぐに見つかった。

 

射命丸文は、縁側に柱に寄りかかって座っていた。

そこはかつて、切嗣が好んでいた場所だ。

そして、今の『衛宮士郎』を決定づけた誓いの場所でもある。

 

天狗の少女は、陽が昇って白み始めた空を見上げていた。

彼女の周囲には、風が意識を持ったようにくるくると渦巻いている。

決して、荒々しいものではなくて、ゆっくりと髪を靡かせる程度の優しい風。

 

「…………」

 

幻想的な姿に少しの間、声も掛けられずに見惚れてしまう。

夜明けの空と、作り物のような少女の顔も相まって、本当に美しい光景だった。

朝靄の澄んだ空気も冷たく、二日酔いの気付けになりそうだ。

彼女もまた俺と似た理由で、冷たい空気に身を晒しているのか。そうだったら少し嬉しい。

 

彼女の手には、グラスが握られていた。

傍らには、文が幻想郷から持参したという一升瓶。グラスの中身も同じものだろう。

 

「――士郎さん、おはようございます」

 

文はとっくに俺に気づいていたようだ。

赤色の視線をゆっくりと俺に向け、静かに手を上げる。

 

「おはよう、文。まだ飲んでるのか?」

「ええ、少し飲み足りなくて。……士郎さんもどうですか?」

 

自分の持ったグラスを俺に差し出してきた。

誘いを断るのは気が引けるが、頭痛を抱えたままでの飲酒は遠慮したい。

 

「いや、やめておくよ」

「そうですか。ちょっとだけ残念」

 

グラスを口に傾けて、三分の一ほど残っていたそれを一気に飲み干した。

俺は彼女の側まで歩いて、二人並ぶように縁側に座った。

 

「ここでの生活はどうだ?」

 

何気なく彼女に尋ねた。

特に意味のない質問だったが、少女はにっこりと笑ってくれた。

 

「ええ、とても楽しいですよ。寒さや餓えに苦しむことはなさそうですし、なにより報道や情報が発展しています。そこには嘘も混じってますけど、それも受け手次第でしょう」

「報道についてはわからないけど。楽しいと言ってくれるなら俺も嬉しい」

「ただ――」

 

少女が再び視線を朝空へと移した。

 

「この世界には、私のような妖怪はいないのですね」

「妖怪?」

「幻想郷での妖怪は、人間の奇妙な隣人です。相互依存の持ちつ持たれつの関係で成り立っています。では、この世界の伝承に伝わる妖怪たちは、どこに行ってしまったのでしょうか?」

 

え――? それはだって、文が自分で言ってたじゃないか。

 

「幻想郷じゃないのか?」

「……違います。残念なことに、ここは幻想郷の外ではありません。違和感は最初からありました。……確信を持てたのはついさっきですけどね。どうやら私は似ているようで、異なる世界に来てしまったみたいです」

 

手に持ったグラスに酒を再び注ぐと、口へと運んだ。

色素の薄い小さな唇が酒に濡れて、どこか艶っぽく見える。

 

「私は聖杯の力によってここにいられますが、世界から拒絶されているのがわかります。――それこそ、気を抜くと今でも味わえる。自分が薄くなって消えてしまうような恐ろしい感覚」

 

少女は儚げに笑った。そう笑いながら、酒を飲む。

 

「……どうやら幻想たる私は、この世界に相当嫌われているようですね」

 

魔術師の世界での話。

世界は、秩序という名のルールに厳しく、矛盾を極端に嫌うという。

不自然なものは、自然なものへと修正が働く。

つまり烏天狗の少女は、存在そのものが世界にとって矛盾していた。

 

「遠い昔、この世界にいた妖怪たちは何かを……そう、生きた証を残すことができたのでしょうか。それとも――」

 

それ以上は、何も語らなかった。

東方から顔を覗かせる日輪にグラスを掲げると、文は軽く一礼をする。

そして、グラスに残った幻想郷の酒を、最後の一滴まで味わうように飲み干した。

 

「ふふ。これでこのお酒も空になりました。ああ、少しは酔えたかな……」

 

少女の周囲を取り巻いていた風が空へと上り、大気と混じり合うように霧散した。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

27.銀糸の橋

 

 

ゆっくりと、しかし確実に太陽が昇っていく。

東の空が一瞬だけ朱く染まる、朝の黄昏。

 

少女の赤い瞳に陽が差すと、淡く光り始めた。

赤い光を乱反射させる瞳は人外の証明であり、他に例えようのない美しさがあった。

少女は空のグラスを縁側に置くと、注がれる陽光に身を委ねた。

 

「…………」

 

俺たち二人は、そんないま生まれたばかりの世界に揺蕩っていた。

本当に静かな朝だった。

こんなふうにゆっくりと時に身を任せたのはいつ以来だろうか。

まさか聖杯戦争の最中に、こんな気分を味わえるとは思えなかった。

 

だけど、安らぎと安寧のなかに身を置いていると胸が痛くなってしまう。

これは、10年前から癒えずに燻りを続ける大きな傷だった。

この痛みを感じる度に、俺には人として幸せになる権利はないと思う。

……いや、事実そうだろう。何故なら俺は。

 

「シロウー! そんなところで何してるのー?」

 

廊下を走る音が、小さな足音が聞こえてきた。

思考を切り替えて、音の方向へ顔を向ける。

そこには、パタパタとこちらに向かってくるイリヤの姿があった。

あれからすぐに目を覚ましたのだろう。

 

「お兄ちゃーん!」

 

そして小走りまま俺に向かって、フライングアタックを敢行した。

 

「ん? ……フライングアタック!?」

 

小さな少女が、俺の胸に飛び込むと、トスンと軽い衝撃が走った。

イリヤの体型では、いくら勢いをつけても大して痛くない。

 

「ッッ……!!」

 

のだが、ライダーに手酷くやられた傷は悲鳴を上げていた。

だが一人の男として、少女の前で苦痛に顔を歪ませるわけにはいかない。

歯をギリギリと食い縛って、何でもないように耐える。耐え続ける。

 

「んふふふ」

 

イリヤは俺に甘えるように身を擦り寄せた。服から血が滲んでないか心配だった。

 

「えへへ。お兄ちゃんの体って温かいね」

「……お、おい」

 

このぐらい年齢の子供に甘えられるのはそう悪い気はしない。

それでも、少し気恥ずかしく感じてしまう。

イリヤは俺の心音を確認するように、目を閉じて胸に耳を当てた。

 

「トクン、トクンって聞こえるわ。でもちょっと鼓動が早いね」

「そ、そうなのか……」

 

緊張してないと言えば嘘になる。だけど、緊張しているとは言えない状況だった。

銀色の長い髪が俺の肌に触れて、妙にむず痒く感じる。

 

「ニヤニヤ」

 

文に助けを求めようと視線を向けたが、そこにはカメラを構えたパパラッチがいた。

……くそう、いつの間にカメラを用意したんだ。

そう呆気に取られているうちに、シャッターを切られてしまった。

 

「縁側で朝日を浴びる銀髪の美少女。そんな少女を優しげに抱きしめるお兄ちゃん。とても素晴らしいフレーミングです」

 

実際は、間抜け顔の俺に寄り添う少女という一枚が撮れたに違いない。

文は口元を緩ませながらフィルムを巻き上げて、再びファインダーを覗く。

 

「あー。写真を撮る時は、被写体に断りを入れないと駄目なんだよー」

「私は今まで被写体に断りを入れた覚えがないから大丈夫です」

 

文は、イリヤの非難を無視してもう一枚パシャリと撮る。どんな理屈だ。

 

「むー。アヤには女性としての慎ましさとデリカシーが足りないわね」

「失敬な。記者に対する誹謗中傷として、あることないこと新聞に書きますよ」

 

だけど、それを言うイリヤも俺から離れようとしない。

この少女の慎ましさとデリカシーは、どこへいってしまったのか。

それよりも文の発言が一番の問題だった。新聞を捏造すると自白していた。

 

こんな状況では、文に助けを求めても無駄のようだ。

だかといって、楽しそうにしているイリヤに退くように頼むのも心苦しい。

それなら理由を付けて、この場を離れるのがいいだろう。

 

「文、イリヤ。腹が減ってるだろ? 朝食を作るよ」

「私はまだいいです」

「お腹減ってないー」

 

息ぴったりに俺の提案は却下される。

頼むから空気を読んでくれ。この場合に読むのは空気じゃなくて、俺の心情か。

それに二人揃って笑っているし、単に俺がからかわれただけか?

命の駆け引きをした関係なのに、どうしてこうも息がぴったりなんだろう。

……女の子って怖い。

 

さて、他に何を言えば、この場から自然に離れられるのか。

……あ、そうだそうだ。これなら絶対に問題ないはず。

 

「じゃあ、俺は魔術の鍛錬に行くよ。最近はサボりがちだから、そろそろ身体が鈍りそうだし」

 

この理由なら、問題なくここから逃げ出せる。

それに、ここ最近鍛錬を休んでいたのは事実だ。我ながら完璧な作戦だった。

 

「シロウの魔術の練習? 見てみたいー!」

 

俺の胸元に顔を埋めていたイリヤが、上目遣いでそんなことを言う。

 

「それなら私もいいですか。少し興味がありますので」

 

まさかの文まで関心を示した。

こうして、完璧だったはずの俺の作戦はあえなく潰えてしまった。

 

「……俺の魔術の鍛錬なんか見ても面白くないぞ」

 

実際、面白いものじゃない。

俺が一人で棒切れを持ちながら、一時間ぐらい唸っているだけだ。

 

「シロウのやることだもの。面白いに決まっているわ」

「つまらなそうだったら、すぐに見切りを付けるので大丈夫です」

 

本当に見せたくないのだが、この二人に何を言っても無駄そうだった。

 

「ふふー。なにかいい匂いがするね」

 

このままイリヤを懐に抱えているよりかは、いくらかマシかもしれない。

 

 

 

 

「へぇ、ここがシロウの工房なんだ」

「みたいですね。実は私もここで召喚されました」

 

イリヤは興味深げに、文は懐かしむように辺りを見渡す。

ここにあるのは俺が集めたガラクタばかりで、面白いものなんてないはずだけど。

 

「……魔術工房と呼べるほど立派じゃないけどな。せいぜい鍛錬場がいいとこだ」

 

魔術品らしいものなんて、俺が投影したガラクタが関の山だろう。

探せば切嗣が遺した魔術品があるかもしれないが、俺には判別が付かないし。

 

「私が召喚されたのは確かこの辺りですね。初めはここが士郎さんの家だと勘違いしていましたよ」

「ふふ、アヤって意外とお馬鹿なのね。こんな埃まみれの物置に人が住むわけないじゃない。……んーと、この魔法陣かな。……あれ? でもこれって召喚用じゃないよ?」

 

俺の話は誰も聞いていなかった。二人が仲睦まじいようでなによりだけど。

今更気づいたが、文とイリヤは意外と相性が良いというか、単純に仲が良い。

あれは忘れもしない、聖杯戦争の初日。

文はイリヤを人質に取って、バーサーカー相手に脅迫していた。

それからまだ数日しか経ってないのに、どうしてこうも仲良くなれるのか。

あの時の脅迫は、今後の禍根になると心配していたが、どうやら杞憂だったようだ。

もし聖杯戦争以外で知り合えたのなら、二人は本当の意味で友達になれたかもしれないな。

 

「ねえ、これってシロウが描いたの?」

「いや、違う。文が召喚されるまで、そんなものがあるのも知らなかったし」

 

おそらくは、切嗣が遺したものなんだろうけど詳細は一切不明だ。

 

「ふーん、そうなんだ。召喚陣以外で召喚されるサーヴァント……。だからこんなにデタラメなのね」

「デタラメとか言わないでください! 私でも多少は傷つきますから!」

 

冗談半分で憤る文を見て、イリヤがクスクスと笑う。微笑ましい光景だった。

 

「じゃあ、今から鍛錬するけど……本当に見ていくのか?」

「うん。見てみたいわ」

「はい。多分新聞には載らないでしょうけど」

 

二人とも同時に頷く。どうやら本気だった。

もはや何を言っても無駄だと諦めて、いつもの定位置に座った。

手近にあった木刀を手に取り、強化の魔術を行使するため意識を集中させる。

人に鍛錬を見られるなんて初めてだが、こうして集中してしまえば関係はない。

 

瞼を閉じて、イメージする。

 

目には見えず、手にも取れない焼けた火箸をずぶずぶと背骨に刺す。

背骨に魔術用の第二の神経を作るのだ。

――激痛が走った。この痛みは何年たっても慣れそうもない。

そして、疑似神経と呼ばれる魔術回路を生成する――。

 

『――同調開始(トレース・オン)

 

魔術回路に紫電が走った。

大気から大源を汲み上げて、魔力に変換。素材を解析して魔力を流し込む。

 

「…………」

 

木刀の強化に成功した。

見た目に変化はないが、鋼鉄以上の強度があるはず。

聖杯戦争が始まるまでは一割の成功率だったが、ここ最近はかなり調子がいい。

自分ではわからない何かが刺激になり、俺に良い影響を与えているかもしれない。

 

「……ふわ」

 

その影響を一番に担ってそうな天狗の少女は、俺の背後で欠伸をしていた。

振り向いて目が合ったら、ばつが悪そうに苦笑いをする。

俺の魔術の鍛錬は派手さがなく、見ても面白くはない。

だからと言って、傷つかないほど無神経でもなかった。畜生。

 

イリヤに至っては、もはや寝ているのでは……?

そう思って、彼女に視線を移してみたが、そんなことはなく。

イリヤは聖杯戦争の時と同じような、真剣な顔をしていた。

 

「――ねえ、シロウ。どうして魔術回路を生成しているの?」

「え?」

 

当然の疑問のように少女が言っているが、俺にはその言葉の意味が解らない。

 

「……もしかして知らなかったの? 本来魔術師は毎回そうやって魔術回路を作ったりはしないわ」

「どういうことだ? 詳しく教えてほしい」

「えっとね。魔術師は魔術回路を一度開けば、スイッチのようにオンオフで切り替えられるの。そんなやり方をしているようだと命がいくつあっても足りないよ」

「そ、そうなのか?」

 

イリヤの言う通りなら、何年間もの俺の努力は無駄だったのか。

魔術を行使する以前に、魔術回路の生成に失敗することは何回もあった。

死にかけたのだって、一度や二度じゃない。

これが本来一度だけで済むものだとしたら、しばらくは放心しかねない事実だった。

 

「もー、キリツグも何でちゃんと教えないのかな」

 

驚愕の事実に打ちひしがれると、白い少女がよく知った名前を呟いた気がした。

 

「イリヤ、今なんて言っ――……!!」

 

イリヤと目が合った途端、身体が動かなくなる。

紅玉をはめ込んだような瞳に捕らわれて、瞬きすら許されない。

 

「シロウってば、守りも何もないんだもの。こんな簡単に掛かっちゃうなんて」

 

金縛りに掛かったように体が硬直して、声を出そうとしても変な呼吸音が漏れるだけだった。

 

……イリヤは、俺をどうするつもりだ?

まさか敵マスターとしてこのまま殺すつもりなのか? 文の見ている前で?

イリヤは、霊体化したバーサーカーを連れているはず。

そうだとしても、彼女の速度の前では無謀でしかない。

俺に危害を与えた瞬間に殺されてしまう。今のこの状態だって、相当な綱渡りだ。

後ろは振り向けないから、文の様子は確認できない。

天狗の少女が今どんな顔をしているのか……それが一番怖かった。

 

「ごめんなさい、お兄ちゃん。少しだけ我慢してて」

 

イリヤは意を決したかのように、座ったまま動けないでいる俺に身を乗り出した。

そして何を思ったのか、少女はそのまま顔を近づけてる。

あと数センチでお互いに触れかねない距離。白磁のように白い顔から目を離せない。

 

間近で見るとその白い少女の顔は、正確に測ったような端正な顔立ちであるのに気づく。

あと何年かすれば、誰もが振り返る美人になりそうだ――。

 

…………?

 

そう考えているうちに、イリヤの小さな唇が、俺の唇に触れた。

全神経がそこに集中しているように、瑞々しい感触が伝わってくる。

 

「ん――んん……」

 

少女の湿った吐息が唇の隙間から漏れて、お互いの顔を少し濡らした。

幼くて白い顔が、とても紅潮している。

俺の顔も同様か、それ以上に赤くなっているのは間違いない。

 

「はわわわわ……」

 

背後から、文の変な声が聞こえてきた。

このタイミングで、シャッターを切る音がしなかったのは幸いだった。

いつもの文なら、シャッターチャンスとばかりに写真を撮っていたはずだ。

そうどうでもよく考えたら、今度は少女の舌が俺の口内に侵入してくる。

 

「ん……シロウ、苦しくない?」

 

決して苦しくはなかったが、俺には声を出す権利も与えられていない。

口を閉じようにも、喉を鳴らそうにも、ぴくりとも動かない。

躊躇いがちな小さな舌が、俺の口内を探る。

俺の舌と触れ合うと、熱を持った液体が流し込まれた。

少しだけ粘度のある液体は……もしかして少女自身の体液なのか。

正体は不明だったが、その液体はとても熱くて、甘かった。

 

流し込まれた熱い液体を、自分の意思とは無関係に飲み込んでしまう。

食道を通り過ぎ、胃までに到達する。

まるで灼けるような熱を持って、意識を朦朧とさせた。

 

だけど、それは苦しくもなく、不快でもない。……甘美な痺れとでも言うべきか。

脳がゆっくりと抵抗をやめて、強張った全身の力が抜けていく。

 

少女は俺が液体を飲み込んだのを確認したら、ようやく唇を離す。

つう、と一本の銀糸が俺とイリヤを繋ぐように掛かったが、その儚い橋はすぐに壊れた。

 

「ぐ、うううう……!」

 

俺の体内で、イリヤから流し込まれた液体が暴れ出した。

視界が徐々に歪んでいって、耳鳴りも聞こえる。

それなのに、少しも嫌な気持ちにならないのが不思議だ。

俺を見つめるイリヤは真剣な表情だったが、頬は照れくさそうに赤く染まっている。

 

「……ちょっと辛いだろうけど我慢してね。これで強制的に魔術回路がオンになったはず。頭でスイッチをイメージできれば、簡単に魔術回路をオンオフができるわ」

 

スイッチ……。

そう言われても、甘く痺れた頭では理解できない。

それよりも俺の思考力は、今起きたショッキングな出来事のほうを優先している。

 

暫くすると腹のなかが静まり、視界も回復していった。

何かが、全身の隅から隅までに染み渡った感じだ。

 

「じゃあ、暗示を解くね」

 

イリヤと目が合うと、今までが嘘のように体が動き出す。

 

「シロウ、大丈夫?」

「……ああ、だけどなんだってこんなことを」

 

おおよその察しは付いているが、流石に確認せずにはいられない。

 

「……ごめんなさい。でも今ある間に合わせで魔術回路を開いたままにする方法がこれしかなかったの。そのまま伝えたらお兄ちゃん絶対に嫌がるだろうし、だから暗示を掛けさせてもらったわ」

 

イリヤは頬を染めつつも、少し気まずそうに真相を伝える。

心臓は、さっきからずっと早鐘を打っていた。決して嫌じゃなかった。

俺がこんなんじゃとてもイリヤを責められそうもない。

 

「……いや、イリヤには助けられたよ。ありがとう」

「どういたしまして。えへへー」

 

少女は目を細めて笑った。そのまま嬉しそうに抱きついてくる。

 

「うわ! 急にやるなって!」

「だって、シロウが好きなんだからしょうがないじゃない!」

 

そのまま何かを上書きするように、頬ずりを繰り返す。

 

そういえば……さっきからずっと文の反応がない。

ようやく動くようになった身体で、後ろを振り向いた。

 

「……………………」

 

そこには、俺たちよりも更に赤い顔で呆けていた射命丸文がいた。

 

何もない中空をぼうっと見ており、視線が定まらずにいる。

まさに心ここにあらずと言った有様だった。

もしかすると、ここで一番動揺していたのは、この天狗の少女だったかもしれない。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

28.姉の願い

 

 

時刻は昼過ぎ。

今日は、曇天だった昨日と違って晴れ模様だ。

ただ、放射冷却の影響からか、昨日よりも一段と冷え込みが厳しい日だった。

 

「うー……寒いね」

 

衛宮家の玄関先、イリヤが自分の身体を抱きしめるように身を震わせていた。

この場にいる三人のなかで、一番温かそうな格好をしているのは彼女だった。

冬用のコートに帽子、マフラー、手袋と防寒対策は完璧だ。

この雪の精霊のような少女は、自分で言っていた通り、本当に寒いのが苦手なのだろう。

ちなみに文のほうは、八分袖の白いブラウスだが、生地はそこまで厚手ではない。

そうでなくても、生足が覗くスカートはどう見ても寒そうだった。

遠坂と違ってオーバーソックスも履いてないので、清楚そうに見えて意外と露出が激しい。

 

「イリヤ。本当に帰るのか?」

「うん……これ以上ここにいると、名残惜しくて帰れなくなっちゃうから」

「……そうか」

 

そう言われてしまったら、これ以上は引き留めるわけにはいかない。

 

イリヤにはあれから、魔術についていろいろと教えてもらった。

彼女自身は、あくまで聖杯戦争のマスターであって、根源を目指すような魔術師ではないらしい。

それでも半人前の俺より、魔術に対する造詣はずっと深かった。

 

そこで判明したのだが、俺の魔術の本質は強化ではなく、投影にあるらしい。

俺が投影魔術で作ったガラクタの数々を見て驚いていた。

イリヤ曰く、魔術の根幹である等価交換の原則から外れたデタラメなのだと。

そうは言われても、俺にはいまいちピンと来ない。

その直後、『こんなの他の魔術師に見せたら……そうね。お兄ちゃん、バラバラに解剖されちゃうと思うよ?』とイリヤに言われて、ようやく事態の重大性に気づいた。

つまり、俺の伸ばすべき魔術の才能は強化ではなく、投影のほうなのだ。

 

余談だが、イリヤの魔術講座の間、天狗の少女はずっと赤い顔で居たのが少しだけおかしかった。

ただ、イリヤとの例の行為は、俺も思い出す度に顔が赤くなってしまうけど。

 

「イリヤ、途中まで送っていこうか?」

 

雪の少女は、少し悲しそうにしてから首を振る。

これは俺のわがままかもしれないけど、この少女にそんな顔をしてほしくない。

 

「ううん。バーサーカーがいるから大丈夫。お兄ちゃん、次は聖杯戦争で会えるといいね」

 

『聖杯戦争』の部分を少しだけ強調して、少女は言う。

それは間違いなく俺たちに対しての意思表示だった。次に会った時は殺すという。

 

「……やっぱりダメなんだな」

 

イリヤは俺の再三の説得にも、首を縦に振らなかった。

彼女の意志は強固で、かたや俺には何の説得の材料も持っていなかった。

ただの一般論を振りかざすだけで折れてくれるなら、初めから聖杯戦争には参加していない。

そうだとわかっていても、俺にはもうイリヤと戦える気がしなかった。

 

「うん。聖杯はアインツベルンの悲願だから。ごめんね、お兄ちゃん」

 

悲願……俺にも、切嗣から託された理想がある。

俺にとって理想が絶対に覆らないように、イリヤにしても同じなのかもしれない。

それこそ、自分を構成するすべてがその成就にあるように。

なら俺は、再びこの少女と対峙した時に自らの理想のため、弓を引けるのだろうか。

 

「でも、シロウとお話ができて本当に良かった。とっても楽しかった。……だからもう悔いはないの。これでわたしは聖杯戦争だけに専念できる」

 

それでも少し寂しげだったが、イリヤはもう覚悟を決めたような顔をしていた。

その時の彼女は、見た目以上の……もしかしたら、俺よりも大人びて見えた。

 

イリヤは俺から視線をすっと外して、ずっと無言のままの文を見る。

 

「……アヤ? 聞こえてる?」

「…………」

 

天狗の少女は、今も熱病に冒されたようにぼんやりしていた。

あれからずっとだ。もう何時間経ったと思っているんだ。

ふざけてやっているのかと思ったが、そうでもなさそうだった。

イリヤは、今までの真剣な表情を崩すと、途端に顔を紅潮させてしまう。

 

「アヤがずっとそんなだと、わたしも恥ずかしくなっちゃうんだから!」

「……ふぇ?」

 

いきなり大きな声を掛けられたためか、文が間抜けな声を出す。

文とイリヤ、二人して顔を赤くしていた。

……なんだか、あの瞬間を思い出して、俺まで顔が熱くなってしまう。

冬のど真ん中なのに、三人揃って顔が真っ赤だった。……なんなんだろうか、この集団。

 

「アヤ――シロウのサーヴァント」

 

イリヤは手袋を外すと、両手を使って文の手を固く握った。

大切な何かを懇願するような上目遣いで、文の顔を見る。

 

「……シロウを、お願いします。わたしのたった一人の大切な――」

 

イリヤの言葉は、最後まで聞き取れなかった。

いや、彼女は言い切らないで、言葉を途中で飲み込んでいた。

その時のイリヤはなんと言えばいいのか。

例えるなら、家族を他の誰かに託すようなそんな態度だった。

 

なんだか、年の離れた妹ができたみたいでくすぐったく感じてしまう。

 

「はい。わかりました」

 

天狗の少女は少し狼狽えていたが、イリヤの願いを汲むようにしっかりと返事をした。

その返事を聞いてイリヤは満足そうに微笑むと、握った手を放して身を翻す。

 

「じゃあね、ばいばい。……また会いましょう」

 

それだけ残して、イリヤは俺たちに背を向けて歩き出した。

彼女は送られるのを拒んだが、せめて姿が見えなくなるまで見送らせてほしい。

 

イリヤの小さな背中を見ながら、決意を改める。

彼女は聖杯戦争を最後までやる気だ。

だけど、こんな馬鹿げた殺し合いは何があっても必ず止めてみせる。

あんな染み一つない小さな手を、誰かの血で汚しちゃいけない。

 

 

 

 

イリヤが衛宮家を去ってから、少しして。

あの時の真摯な彼女のおかげなのか、文はいつも通りの明朗快活な少女に戻っていた。

 

「この度は大変お恥ずかしいところを……」

 

なんて殊勝な態度で頭を下げるので、大変驚かされた。

この天狗が、冗談や取材以外で他人に頭を下げるなんて一度もなかったからだ。

しかし、ここまで回復するのに実に六時間かかっている。

英雄色を好むというが、英霊ではない文にとってその手の色事に免疫はないのか。

そもそも天狗は、性豪としての逸話がいくらでもある妖怪なのに。

かまととぶっているわけでもなさそうだし、本当に射命丸文という個人は性に初心なのかもしれない。

 

そういえば、前に虎が衛宮家に襲撃した日。

文を自室に連れていった時に変な冗談を言われたけど、あれは単に耳年増なだけだったのか。

性の知識を背伸びしたがるなんて、その辺は見た目通りの少女そのものだ。

……あれ? でも昨日、俺が気絶した時にトランクスの交換をされたような?

 

「……まあいいか。記憶の封印を解放してまで考えることじゃない」

「『記憶の封印を解放』なんて言葉。生きていて使う機会そうはありませんよ」

「確かに……」

 

 

俺たちは、今後の方針を決めるために作戦会議していた。

居間の食卓で、お茶とお菓子をパクつきながらという、緊迫感の欠片もないものだ。

それでも、これまでは何の方針も決めていなかったので上等と言えた。

 

「ええ、体調は万全です。ライダーさんにやられた足の傷も癒えているので、戦闘には問題ないでしょう」

 

右足に受けた傷はまだ完治ではないみたいだが、それも今日中には治ると言う。

肉の一部が完全に抉れるほどの大怪我だったのに、たった一日で治る再生能力がすごい。

 

「それはよかった。じゃあ、さっそく今夜から本格的に巡回する方針でいいか?」

「いやいやいやいや、何を馬鹿な。士郎さんも私と同様にこっぴどくやられたじゃないですか」

 

文の反応も当然だった。

俺も昨日、ライダーに短剣で体中を穴だらけにされていた。

 

「それが不思議なんだけど……もう普通に動くには問題ないぐらい治ったんだ」

「え、何それこわい」

 

どうも聖杯戦争が始まってから、傷の治りが著しく向上している気がする。

いや、確実に向上していた。

今朝はまだ身じろぎするだけで激痛が走ったが、昼下がりの今では無茶をしなければ問題ない程度には治っていた。

 

「……うわ。本当、ですね。えっと……士郎さん、いつから人間を止めました? 幻想郷に来ます? 就職先の斡旋ぐらいはできますよ?」

「失礼な。俺は人間だし、これからも人間を止めるつもりはないぞ。あと俺には正義の味方になる夢があるから、幻想郷には行けない」

 

俺の理想については、誰にだって恥ずかしげもなく言えるものだ。

 

「そうでしたそうでした。失礼をば。それで……当面の方針は、夜の町の巡回でしたっけ?」

「ああ、他に手があればいいんだけど、今はそれしか思いつかない」

 

今の俺たちには、闇雲にサーヴァントを探すしか手立てはない。

文も情報網として、日中の間は烏を使ってサーヴァントを探させているらしい。

しかし聖杯戦争が活性化するのは、どうしても夜だ。

烏は昼行性なので、夜間の活動はできない。そのため、その探索はまだ実を結んでなかった。

文も期待通りにならなくて歯痒いのか、少しだけ申し訳なさそうにしていた。

 

なんでも『この国の烏は、誇りと一緒に野生を忘れてしまっています。嘆かわしい』との話。

その時は言葉の意味を理解できなかった。

その後、集積所のゴミを漁る彼らを、文がこの世の終わりのような顔で見ていたのを忘れられない。

 

閑話休題。

聖杯戦争が、活性化する夜まで待ってから探索行動する。

ついでに言えば、こちらから探すと同時に相手からも探してもらう。

つまり、俺たちが餌となって、他のサーヴァントを釣り出す作戦でもあった。

そして遠坂やイリヤと違って、話がまったく通じない相手だったら倒す。

学園で起きた惨事を、これ以上は繰り返すわけにはいかない。

 

言峰綺礼とライダーによると、アーチャーのクラスは射命丸文で間違いない。

そうすると残ったサーヴァントはセイバー、ランサー、バーサーカー、キャスター、アサシンの五騎。

その中で確認済なのが、セイバー、ランサー、バーサーカーの三騎。

現状で全く情報がないサーヴァントは、キャスターとアサシンの二騎。

 

キャスターは、魔術師のサーヴァントだ。

聖杯戦争では強力な対魔力を備えたサーヴァントが多いので、最弱候補だとも言われている。

アサシンは、マスター暗殺に特化した暗殺者のサーヴァント。

俺のような身を守る手段のないマスターにとっては、非常に脅威になる。

 

現状で所在地が判明しているのは、セイバーのマスターである遠坂だけ。

遠坂たちとは戦いたくないし、罠だらけの魔術師の根城に攻め入るなんて無謀が極まる。

それに、遠坂が一般人に手を出すはずがないので、現段階では除外する。

今はとにかく夜を待つしかなかった。

 

太陽は、まだ高い位置にある。

俺にはまだ、どうしてもやらなきゃならないことがあった。

 

「これから出かけようと思うけど、文はどうする?」

「はて? どこに行くんですか?」

 

今朝の朝刊を読みながら、お茶を飲んでいた少女が首をかしげる。

 

「うん、慎二のところだ」

 

昨夜は、なあなあになってしまったが、慎二のやってしまったことは絶対に許せない。

あいつは人としての道を、完全に外れてしまった。

サーヴァントを失って無力化したとしても、俺たちは決着を付けなければならなかった。

過去はどう足掻いても戻せないが、それでも前に進むためにやらなきゃならない。

 

「ああ――あの人間のところ。ええ、ええ。行きましょうか」

 

俺の言葉に反応して、天狗の顔が喜悦に歪んだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

29.烏天狗の爪痕

 

 

慎二は、家に戻っているだろうか。

サーヴァントを失ったとしても、あいつが聖杯戦争のマスターであるのは変わらない。

そんな状態で、町中をふらつくのは自殺行為だ。

教会に保護されている可能性もあるが、今は新都よりも先に同じ深山町の間桐邸に行くべきだろう。

 

「慎二は家にいると思うか?」

「さあ、多分いるんじゃないですかね?」

 

天狗装備を外した文は、どこかとぼけた様子を見せる。

それでも、妙に確信めいた言い方をしていた。

ライダー戦の後、二人の間に何かあったのかもしれない。

 

そう考えているうちに、目的地である間桐邸に着いた。

開けっ放しだった正門を通って、呼び鈴を押す。

 

「…………?」

 

しばらく待っても、反応がない。

昨日から学園は例の事件で休みだし、桜も家にいるはず。

荒らされた形跡もないので、何者かに襲撃されたとも考えにくい。

だけど何度も鳴らしても反応がなく、胸騒ぎのような不安を覚えてしまう。

 

無断で踏み込もうかと考えた矢先、木製の扉がゆっくりと悲鳴を上げた。

 

「あ、先輩……?」

 

開かれた扉の先には桜がいた。

扉にもたれ掛かるように体重を預けており、どこか様子がおかしい。

顔にいつもの血色がなく、血の気が引いたように蒼白くなっていた。

両眼も一晩中泣き明かしたのか、赤く腫れぼったい。

そうして、俯いたまま視線を合わせてくれない彼女の姿に覚えがあった。

それは初めて桜と会った中学生の頃の、慎二から紹介を受けた時の彼女とそっくりだった。

そんな桜を見て、咄嗟に思いつくのは一つだけ――。

 

「桜! 慎二にまた何かされたのか!?」

 

慎二は、かつて妹である桜に対して、日常的に暴力を振るっていた。

サーヴァントを失った慎二の怒りが、真っ先に向かいそうな相手は桜だ。

その考えに今まで至れなかった俺は、どうしようもなく間抜けだった。

やはり、昨夜のうちに慎二と会うべきだったのだ。

桜の顔に殴られたような傷はないが、これは容認できる状態じゃない。

 

しかし、桜は悲しそうな顔のまま首を左右に振った。

 

「……いいえ、兄さんには何もされていません」

「じゃあ、どうしたって言うんだ!?」

「…………!」

 

思わず、桜の細い肩を乱暴に掴んでしまう。

彼女の肩は細かく震えており、何かに耐えているよう萎縮していた。

 

「そ、そんなの……」

 

俺から目を逸らしていた桜が、苛立ちを覚えたように視線を向ける。

 

「そんなの! 決まってるじゃないですか! 一昨日学園で何があったのか先輩なら知ってるでしょう!?」

「……あ」

 

そうだった。

世間ではガス爆発の扱いになっているが、学園の生徒がライダーの宝具に巻き込まれたのだ。

死んでしまった生徒のなかに、もしかしたら桜の友達もいたかもしれない。

それならこれは同じ学園の仲間として、正常の反応だ。馬鹿な自分に恥ずかしくなる。

 

「そ、それがどうしたですって!? 白々しいですね!? 私を責めに来たんでしょう!? それとも先輩が私を殺してくれますか?!」

「桜……?」

 

しかし、桜の反応は俺の想像とは違っていた。

自嘲に歪んだ笑みを一瞬だけ浮かばせて、赤く腫れた目から涙が止まらない。

 

「あ、あ……あ、ああああああ!!」

 

自分の発言に絶句したかのように、桜が目を大きく見開く。

 

「……ご、ごめんなさい先輩。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 

桜は肩に置かれた俺の手を振り解くと、顔を両手で押さえて泣き崩れてしまった。

 

「う、うう……うう、ううあああああああ……!」

「……桜?」

 

俺たちがこうして見ていても、桜は声を上げて泣くのを止めない。

 

……おかしい。何かがおかしい。

桜の言っている言葉の意味が全くわからない。

今の桜は、亡くなった人たちに向ける哀悼や憐憫とも違った、別の激情に飲まれている。

 

「そっとしておいてあげましょうか」

 

これまでずっと黙っていた文がしれっと言った。

 

「こんな状態の桜を放っておけるわけがないだろ!」

 

そんな無関心とも取れる文の態度に、怒りを覚える。

たった一日だけでも、一緒に食事を共にした仲じゃないか!

そう言いたかったが、彼女にこんな感情論は通用しない。

文は俺の態度を気にもとめずに、濁りのない赤い目で俺を真っ直ぐに見た。

 

「士郎さん、あなたが桜さんにできることは何一つありません。下手な慰めは余計に彼女を傷つけるだけ」

 

文も何を言っているんだ……?

何もわからない。何もわからないが、文と桜の二人に何かがあった。

俺の知らないところで、重大な何かが終わってしまっている。

 

「……桜に何かあったかのか?」

「桜さんは、己の罪と向き合っています」

「罪……?」

 

意味がわからなかった。

この優しい少女に罪なんてあるはずがないからだ。

 

「その誰もが逃げ出したくなるような罪から目を逸らずにいる。それこそが彼女がやっとの思いで積み上げてきた人間らしさなんでしょう」

「それって……」

 

やはりわからない。だが、文は俺の知らない桜を知っている。

数年の付き合いがある俺以上に、射命丸文は間桐桜という女の子を理解している。

 

「桜の罪って……」

 

それが何かを聞き出そうとしたが、教えてくれるとは思えなかった。

いくら俺でも、彼女が婉曲的な言い回しをしているのはわかったから。

 

「内緒です」

 

少女が自分の人差し指を、俺の口の上に置く。

 

「それは私からではなく、彼女の口から聞いてください」

 

理解が追いつかず、頭が混乱しそうだ。

 

「ですが今はまだ早い。……そうですね。聖杯戦争が終わって、何もかもが落ち着いてからでしょうか。彼女がどんな結論を出すのか楽しみですが、その時にはもう私はここにいないかな」

 

……今まで、本当の家族のように接してきた桜に何もできないというのか?

こんな状態の桜をただ見ているだけだなんて、俺はもう彼女の兄貴分を名乗れない。

それでも、俺が彼女にできる何かがあると……そう思いたかった。

しかしこちらに背を向けて泣き続ける桜は、明らかに俺という存在を拒絶していた。

 

「桜……俺に何かできることがあるならすぐに連絡をくれ。何があっても飛んでいくから」

 

桜は俺の言葉に反応を見せずに、ただただ嗚咽を漏らして泣いていた。

 

「それでは、慎二さんのところに行きましょうか」

 

文が俺の手を取った。しっかりと握られた腕は、俺の力じゃ振りほどけそうにもない。

こんな状態の桜を置いていくことに、途轍もない罪悪感を覚えた。

 

「さあ、行きましょう」

 

これ以上の問答は不要と、文に引きずられるようにして慎二の部屋へ向かった。

 

 

 

 

今の学園に進学してから初めて訪れる慎二の部屋。

俺たちが遊ぶ時は、決まって慎二の部屋だった。あの頃にはもう二度と戻れないだろう。

 

「ふふーん」

 

隣の少女は、俺の感傷など気づかないように、ノックもせず部屋のドアを開けた。

 

「こんにちはー。慎二さんお元気ですかー?」

 

間桐慎二は、確かに部屋にいた。

ベッドの上で布団も掛けず、仰向けの状態で寝ていた。

目は開いており、どこかぼんやりとした様子で天井を眺めている。

俺たちの存在に気づいていないのか、ぴくりとも動かない。

 

「…………」

 

俺が顔を覗き込んでも、瞳は揺れずに何の反応を示さない。

慎二の視界に俺は入っているようだが、それを情報として認識できないようだった。

 

「おい、慎二!」

 

胡乱なまま横たわる慎二の肩を揺らすと、ゆらりと焦点が俺に合った。

 

「ああ……衛宮か。どうしたんだ? こんなところで?」

 

生気が抜けたような淡白な声だった。

感情すべてを、どこか別の場所に置き去りにしたように希薄だった。

 

「どうしたって……そんなの」

 

決まっていた。

今の俺たちの間に、聖杯戦争以外の何かがあるはずがない。

しかし慎二は俺の言葉に反応を見せずに、曖昧なまま何かを語り出す。

 

「眠るとな。夢を見るんだ。その夢のなかで、僕はどこか暗いところにいる。暗いと言ってもな、自分の体はちゃんと見えるんだぜ? あは、はははは。お、おかしいだろ?」

「慎二……? 何を……?」

 

なんだ、これ? 慎二はどうしてしまったんだ?

 

「何とか歩こうと思って足に力を入れるんだけど、どうやっても歩けない。……どうしてだと思う? 下半身の足の付け根から先がなくなっているんだ。それも両足ともだぜ? それで、腕すらもないことに気づく」

「……なにを、言っているんだ?」

 

慎二に俺の声が聞こえていなかった。声を遮るようにぶつぶつと話を続ける。

 

「手足がないことに驚いて悲鳴を上げようとすると、喉から得体の知れない奇声が出るんだ。キイイイイイイイイってな。……それでようやく理解する。僕の体は四肢がなくなったわけじゃなかったんだと!」

「慎二……おまえ」

「何が起こったと思う? 僕の正体は人間なんかじゃなくて、ぶよぶよした芋虫だったんだよ! ふへへへ、傑作だろ! だけどそれは夢なんかじゃなくて紛れもない現実なんだ! 何でかわかるか? 今この瞬間の僕も間桐慎二という人間の夢を見ている芋虫なんだぜ。ひっひ、ひひひひ」

 

慎二が乾いた声で笑う。笑い続ける。

慎二はライダーを従えて、俺に攻撃していた時以上の狂気に飲まれていた。

 

「間桐慎二の夢が覚めたら、また芋虫の僕が這いずっているんだ。傑作だホントに傑作だ。芋虫芋虫芋虫芋虫ひひひひ」

 

明らかに常軌を逸した慎二の様相に、圧倒されそうになってしまう。

 

「……おい! 慎二! 一体どうしたんだ!?」

 

さっきまで無表情だった慎二の顔が、完全な狂気に彩られていた。

眼球が散漫な運動を繰り返して、開いた口の端から涎がダラダラと溢れている。

俺の言葉は何も届かない。

いくら話し掛けても、壊れた玩具のような哄笑が返ってくるだけ。

 

「何だよこれ……?」

 

……このベッドに横たわっている男は、本当に間桐慎二なのか?

俺の知っている慎二とあまりにも違いすぎる。別人と言ってもよかった。

どんな時でも、皮肉屋で自尊心が高かったあいつは、どこにいってしまったんだ?

 

「ああ――慎二さん。あなたは蝶になれましたか?」

 

部屋の入り口で、遠巻きに様子を眺めていた射命丸文が慎二の側まで寄る。

 

「お、お……!?」

 

俺には意に介さずにいた慎二が、一瞬だけ自分を取り戻したように笑うのを止めた。

そのまま、天狗の少女だけを見て動かない。

そして文の存在を認識すると、引きつけのように体を痙攣させた。

 

「しかし芋虫ってなんでしょうか。あれ、そんな薬じゃないですけどね。やはり、魔術師でもないただの人間には過ぎたものだったのかしら」

 

尋常でない慎二を気にも留めずに、文は興味深げに上から覗き込んだ。

慎二は悪夢から覚めたように跳ね起きると、ベッドから転げ落ちて部屋の隅へと這いずる。

 

「は、はっ……! ひぃぃ! ひいいいぃぃぃ!!」

 

恐怖で身体が竦み上がっており、それでも文からは絶対に目を離さずに部屋の壁を爪でガリガリと削る。

 

「……わお。何もそんな驚かなくてもいいんじゃないですか? 私、女の子ですよ?」

 

慎二の狂奔に、文は呆れた感じでクスリと笑った。

 

「文……慎二はどうしたんだ?」

「うーむ。なんて言えばいいでしょうか。……聞きます?」

「教えてほしい」

「あなたと約束した通り、彼を発見した後に少しばかりお灸を据えました。あ、もちろん危害は加えてませんよ」

 

そんな約束をした覚えはなかった。

しかし身体に危害は加えていないかも知れないが、この慎二の様子は只事じゃない。

 

「ですが、その後にちょっとした悪戯心というか好奇心で、胡蝶夢丸ナイトメアを飲ませたんです」

「……胡蝶夢丸って、いつか部屋で見せてくれた薬か?」

 

しかも飲むように勧められたやつだ。

 

「ですです。本来の薬効であれば、自分が蝶になって空を飛ぶ夢を見られるんですけど。それが、なぜか本来とは別の形に作用したみたいですね。不思議」

 

文は、どうしたものやらと困った顔で俺を見る。

そんなふうに見られても、俺もどうしたらいいのかわからない。

 

ただ、一つだけわかった。

サーヴァントを手に入れた慎二は、自分が魔術師だとずっと言っていた。

だけど結局はその力も借り物で、慎二は何も成し得ていなかった。

芋虫から蝶へ。人から魔術師へ。

ただの人間でしかなかった間桐慎二は結局、魔術師にはなれなかった。

 

 

「どーどー。少し落ち着いたらどうですか、慎二さん。私、ちょっとだけ心が痛いです」

 

天狗の少女は優しく語りかけるが、慎二は顔を引きつらせたまま、首をブンブンと振った。

 

「あー……その、慎二さんについても、また後日にしませんか? なんだか心神喪失一歩手前といった感じですし」

 

そう言って、気まずそうに文は頭を掻く。

 

「ああ、そうだな……」

「慎二さんから、何か有益な情報でも聞き出せたらなと思ったんですけど」

 

サーヴァントのマスターだった慎二の敵は、何も俺たちだけじゃない。

もしかしたら、他のサーヴァントの情報も掴めていたかもしれなかった。

だが慎二がこんな状態では、その望みも薄そうだ。

 

慎二もだが、何よりも桜が気がかりだった。

このまま胸に大きなしこりを残したまま、俺たちは間桐邸を後にするのだろうか。

 

「……りゅ……だ」

 

その時、膝を抱えて震えていた慎二が何かぼそぼそと呟いた。

 

「慎二?」

「……りゅ、柳洞寺。柳洞寺だ!!」

「今なんと言いましたか? りゅうどう寺? どこかのお寺ですか?」

「…………!!」

 

文に顔を覗き込まれた途端、慎二は恐怖を喉に詰まらせて、壁に寄りかかったまま気絶した。

よく見ると、失禁もしている。

……灸を据えたと言っていたが、文は慎二をどんな目に遭わせたんだろうか。

拷問のような手を使って、怪我をさせたわけではないようだが。

 

「……なあ、文は慎二に何をしたんだ? 薬を飲ませただけじゃないだろ?」

「だから、ちょっとお灸を据えただけですよ」

「いや、ちょっとでこうはならないだろ」

 

文を見ただけで飛び起きて、その直後に気絶してしまった。

薬の影響もあるだろうが、彼女が致命的な何かをしたのは間違いない。

 

「うーん。疑り深い士郎さんのためです。その時の状況を実演してみましょう。こほん」

 

わざとらしく何度か咳払いをする。

……慎二がこんなになった原因の一つだ。

たとえそれが演技だとしても、それ相応の覚悟が必要だろう。

俺は喉をごくりと鳴らして、これから来る衝撃に耐えようとした。

 

「がおがお! 悪い子は食べちゃうぞー! がおー」

「…………」

 

…………絶対に嘘だ。

絶対に慎二の前では、そんな可愛らしくなかったはずだ。

イリヤのような甘い子供の声まで作っている。

おまけに両手で怪獣のように構えたポーズまで再現していた。

 

「いや、何か言ってくださいよ……生殺しですか」

 

怪獣ポーズのまま、文が突っ込みを待っていた。

自分でも少しやりすぎたと思ったのか、顔が朱色に染まっている。

 

「可愛かった。ドキドキした」

「ふ……………………いっそ、殺してください」

 

少女が羞恥に悶えるように、顔を手で隠してしまう。

……俺たちは、失禁して気絶した慎二の隣で何をやっているんだろうか?

 

「そ、そそそれで、し、士郎さんは『りゅうどう寺』なるものをご存じですか?」

 

顔を赤くした少女が、話題を急に転換した。

この件をこれ以上深堀するのは止めよう。お互いの傷になりかねない。

 

「よく知っている。柳洞寺は俺の友人の家でもあるから」

「……な、なるほど。それで、慎二さんの言ってた意味はわかりますか?」

「わからない。でも行ってみる価値はあるかもしれない」

 

もう慎二の部屋には、用はないだろう。

気絶した慎二をベッドに寝かせて、部屋を後にした。

あいつの犯した罪は何も消えないが、このままでは会話もままならない。

全てが終わった時に、また慎二と会う必要があった。

 

 

 

間桐邸の玄関まで戻ると、さっきまでいたはずの桜の姿がなかった。

 

「桜……!?」

 

鼓動が大きく跳ねた。踵を返し、慌てて桜の部屋へと走る。

扉を開けようとノブに手を掛けた時、ドア越しからすすり泣く声が聞こえていた。

 

「…………」

 

最悪の事態には至ってなかったが、それでも彼女を慰められる状況でもない。

……何もできない自分が悔しくて、音が鳴るまで歯を噛み締めた。

このままドアノブを捻っても、何の解決にもならないだろう。

 

この結果もまた、聖杯戦争が産んだ一つの爪痕なのだろうか。

それは、桜だけではない。

このふざけた戦いで、誰かが泣くような事態はまた起こり得る。

そんなことは、絶対に許されてはいけない。

 

ならば、聖杯戦争を少しでも早く終わらせる、それが俺にできる最短の道だ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

30.啖呵を切る

 

 

深夜と呼んで差し支えのない時間。

俺たち二人は、慎二の情報を頼りに柳洞寺へ向かっていた。

こうして文と二人で夜の冬木を歩くのも、これで何度目になるか。

片手で数えられない気もしたが、実際はそうでもないかもしない。

 

ただ、これまでは流されるばかりで自分の意志とは無関係のものばかりだった。

だけど、今回は違う。

聖杯戦争を終わらせるという明確な意志の元、俺たちは動いている。

この一歩一歩が、馬鹿げた戦いの終着へと向かっているのだと。そう信じていた。

 

俺の心中は、義憤と不安が入り混じり合ったものだ。

だが、肩を並べて歩く天狗の少女は、笑みを絶やさない。

いつもの笑み――それは俺が一番知っている射命丸文の顔だ。

その微笑は、彼女の何があろうと決して乱されない証拠だった。

彼女は新聞記者だが、幻想郷でもこんな争い事に慣れているかもしれない。

 

「……あれ?」

 

彼女がいつも大事そうに持っている、古めかしいカメラがなかった。

たったそれだけの話だが、奇妙な違和感がある。

かつて、文がカメラを手放した日があっただろうか?

……俺が知る限り、一度もない。

彼女が聖杯戦争に参加する動機は、この争いを記事にするためだと言っていた。

それなのに、彼女の記者としての証である商売道具を持っていない。

 

そもそも射命丸文は、聖杯戦争に消極的だった。

端から見てもやる気がないと感じられるぐらいに。

ライダーとの戦いはなし崩しだったが、本当は倒す気もないと言っていた。

それは、些細な引っ掛かりかもしれない。だけど、この奇妙な胸騒ぎは何なのか?

 

そんな違和感は解消されないまま、柳洞寺はもう目前まで迫っていた。

 

……柳洞寺では、サーヴァントと戦闘になる可能性がある。

あの状態の慎二の言葉を信じているわけではないが、今はそれに賭けるしかない。

 

文は戦闘に消極的ではあるが、先のライダー戦を考えると俺の意向はなるべく叶えてくれる。

彼女を利用しているようで心苦しかった。女の子に戦わせるなんてどうかしている。

それでも俺はサーヴァントに対して、あまりに無力なのも事実だ。

今もこうして柳洞寺まで付き合わせている。

自分の都合に巻き込む理由にはならないが、無力な俺には文に頼るしかなかった。

 

柳洞寺は、クラスメイトで友人でもある柳洞一成の住む自宅だ。

一成の身近な人物に、聖杯戦争の関係者がいると考えるべきだろうか?

考えたくはないが一成がマスターの可能性もある。

 

遠坂、慎二に続いて一成も聖杯戦争のマスターなら、それは悲劇を通り越した喜劇だ。

しかし、こうして知り合いばかりが、聖杯戦争に加担していた。

本来あり得ないはずの偶然が、二度も続く。ならば次も必然的に――。

 

「クソ、しっかりしろ。衛宮士郎」

 

どうしても……悪い想像ばかり浮かんでしまう。

あの生真面目な一成が、聖杯戦争の関係者だとは思えない。

聖杯戦争が始まってからの一成にそんな様子はまったくなかった。

それでも俺は、確信が持てない。

頭のなかで考えても、答えなんて見つかるはずがない。

もし見つかったとしても、それは自分にとって都合がいいだけのまやかしだ。

だからこそ、こうして柳洞寺まで直接調べにいくのは間違いじゃないはず。

 

 

 

 

柳洞寺の山門へと続く長い石段が見えた。

階段の周囲は樹木や雑草が生い茂っており、照明などは一つもない。

ここにある確かな灯りは、薄暗く光る月だけ。

それを頼りにして、俺たちは月の光に誘われるよう、石段を登り始める。

柳洞寺は円蔵山の中腹に位置するため、石段はかなり長い。

 

柳洞寺も度々訪れる機会があった。だが、今日は何か違う。

緊張しているせいかとも思ったが、普段と違う異様な気配を感じる。

そうして、三分の一ぐらいまで階段を登った頃。

一本歯の靴で、危なげなく石段を登っていた文が足を止めた。

 

「あは――あの人間の言ってたことは、あながち嘘じゃなかったみたい」

 

これまで道中、寡黙に徹していた文がそう言葉を紡いだ。

爛々と赤い目を光らせて、山門付近を嬉しそうに見上げている。

そんな彼女を見て、なぜか身体が反射的に震えてしまう。また胸騒ぎがした。

 

……いや、言葉を濁さずに正しく言うべきか。

俺はここまでの道中、ずっと文に怯えていた。彼女を恐ろしいと思ったのは初めてではない。

だけど今の射命丸文は、何かをしているわけではない。ただ普通に歩いているだけ。

そのはずなのに、俺の本能が彼女の存在そのものを恐れている。

 

「ほら、ほらほら。目を凝らして見てくださいな。山門に門番がいますよ、門番が」

 

だけど、そんな態度を出すわけにもいかない。

文の言う通りにして、視力を魔術で強化して山門を見た。

 

「あいつか……?」

「あいつです。ふふ。何でしょうか、あの時代錯誤な恰好」

 

彼女の言葉通り、山門には長身の男が立っていた。

こちらの存在に気づいているのか、俺たちを見下ろしている。

 

「とろとろ階段を登るのも興醒めです。一気にいきますから、私の肩に抱きついてください」

 

文は身を屈めるようにして、俺に背中を向けた。これから彼女が何をするのかは大体想像がつく。

 

「わかった。お手柔らかにな」

「それは約束できないかも」

 

躊躇いがちに、少女の肩に後ろから手を回す。

 

「では」

 

文が足に力を込めて、石段を駆け上がった――。

彼女の華奢な肩に、しがみつくかどうか迷っていたが、それは間違った考えだった。

本気で力を入れないと確実に振り落とされてしまう。

身長差から俺が引きずられるかと思ったが、風にはためくハチマキのように身体は宙を浮いていた。

薄々気付いていたが、文は飛行速度だけではなく、脚力も並大抵じゃない。

 

そして、ものの数秒で男の近くまで到着した。

俺自身も文の無茶に随分と慣れてしまったと思う。

そんな様子をじっと見ていた長身の男が、俺たちに喜色を浮かべていた。

 

「はは――随分と待ちくたびれたぞ、我が敵」

「は? それなりに急いだつもりだったんですけど?」

 

どうしてか、文がキレ気味だった。

だけど彼女の言う通りだ。

俺たちが柳洞寺の石段の下から上までの最短レコードを更新したのは間違いない。

 

「いやなに。こちらからは出向くことが叶わぬ身なのでな。やれやれ、おまえたちの有様に些か気が急いてしまったわ」

「は? 何言ってるんですかこの侍?」

 

何故か文はキレたままだった。

何が彼女をそこまで不快にさせたのだろうか。

 

文の言う通り、山門に立っていたのは一人の侍だった。

そうとしか形容できない風体をしている。

青い陣羽織を着た男は、涼しげな笑みを浮かべ、風雅とも言える空気を纏っていた。

そして侍の右手には、並の腕力では決して扱えない異様な尺の長刀。

 

「しかし面妖なサーヴァントよ。まさか化生の者だとはな」

「……私をご存じで?」

 

侍の何か知ったふうな態度に、文は探りを入れる。

 

「こうして相対するのは私も初めてだがな。これまで死合ったサーヴァントともまた違う。別の気配を帯びている」

「…………」

「英霊と呼ばれる者とは全くの別物。しかし、私のように人の道を違えたわけでもない。うまく人の皮を被っているようだが、正体は物の怪の類であろう?」

「な!? 失礼ですね。この可愛い顔は私の自前ですよ」

 

文のむっとした少女らしい反応に、侍はくつくつと笑う。

俺もいつもの文の態度に少し安心を覚えていた。

 

「いやはや、今の言葉は無粋だったようだ。私はアサシンのサーヴァント、佐々木小次郎――。故あってこの門を守っている」

 

佐々木小次郎だって……? あの男が……?

 

佐々木小次郎と言えば、宮本武蔵と並ぶ、言わずと知れた大剣豪だ。

二人の雌雄が決した巌流島の戦いなら、日本人なら誰でも知っているエピソードだろう。

あの長刀は佐々木小次郎が持つとされている、伝説の名刀『物干し竿』なのか?

それならば、呆れてしまうほどの長さにも納得ができる。

 

それより、真名を名乗るのは同時に弱点を晒すのに等しい行為だとされている。

文のような特殊ケースはともかく、自ら真名を名乗るなんてどういうつもりなのか。

 

アサシンの名乗りを聞いて、文もそれに倣うように口を開いた。

 

「それはそれはご丁寧にありがとうございます。私はアーチャーのサーヴァント。名は射命丸文。妖怪――烏天狗です」

 

その時、ずっと感じていた恐怖の正体が露わになった。

……彼女が名乗ることまでは想像できた。これまで誰に対してもそうしてきたからだ。

だが、今まで烏天狗であるとは、俺以外には名乗らなかったはず。

どんな時だって、自分は新聞記者であると言っていた。

自らの肩書を捨てたように、烏天狗であると文は名乗った。それが意味するのは――。

 

その時、文がアサシンから視線を離して俺のほうを見た。

決して逸らせない、赤い瞳が俺の姿を捉える。

 

「士郎さん、今朝の話を覚えていますか? ここは私の住む世界ではなく、まったくの別世界だと。……そして、この世界で生きていた妖怪はその証を遺せたのかと」

「ああ、覚えている」

 

俺は、声が震えるのを抑えられていただろうか?

 

……あの時に彼女が見せた顔は、絶対に忘れられないものだった。

普段の文からは考えられないほど、儚げで今にも消えてしまいそうで……。

 

「それから私は考えました。彼らのためにできることはないのだろうかと。人間たちが妖怪への恐怖や畏敬を忘れてしまったら、彼らは本当の意味でいなくなってしまう」

 

今の彼女は、いつもと違う表情をしている。

飄々として誰であろうと見下していた彼女からは考えられない、決意が込められた目。

 

「だから私は決めました。彼らが遺したものがないのなら、私がこの世界に一体の妖怪として、彼らの存在の証を立てます」

 

存在の証? 文はいったい何を……?

 

「――ここに宣言しましょう。私はこれ以降、ブン屋の射命丸文ではなく、烏天狗の射命丸文として聖杯戦争に参加します。そして残るサーヴァント……アサシン、キャスター、ランサー、バーサーカー、セイバー。私が一人残らず屠ってみせます」

 

そんな大見得とも言える啖呵に、彼女を取り巻く空気。いや、風が変わった。

木々をざわつかせ、雲が流れていき、大気を揺らしていく。

その風は彼女から発生しているのではなく、彼女自身が風を従わせているようだった。

 

そして、彼女の人外の証である黒い翼を外気へとさらけ出す。

 

「ほう、その翼。それに風を操るのか。まさに天狗よの。……しかし、こうも見事に花鳥風月が揃うとは。クク、もっとも雅さからは少々欠けるがな」

 

それに文が嘲うように口を歪めた。

 

「これから私たちは殺し合うのです。そんなものは必要ないでしょう」

「ふ――はは、それもそうだな。良かろう……ならば掛かってくるがいいアーチャーよ。これ以上の問答は無用。この門を通りたくば、おまえの力を以て押し通るがいい」

 

アサシンは、物干し竿を持ち直した。

構えを作らない自然体の姿だったが、一瞬のうちに文を取り巻いていた風が両断される。

 

その瞬間、気付く。

文からアサシンまでは5メートルは離れている。

だがたったそれだけの距離では、射命丸文はあまりにも無防備だった。

その距離は既に、アサシンの領域――五尺にも及ぶ刀が持つ必殺の間合い。

 

そう思った時。

月に光るアサシンの長刀が、烏天狗に向かって奔り出していた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

31.剣に死ぬ者

 

 

アサシンが一歩を踏み込んだ。

踏み込むと同時に振るわれた太刀は風を斬り、少女の首を刈り取ろうとする。

 

「――――」

 

しかし、その五尺余りの長刀は、文の黒い髪をぱらぱらと数本散らすだけ。

 

「ほう、これは――」

 

侍が感心を示すかのように嘆息を漏らした。

アサシンの太刀は、文を完全に間合いの中にあった。

彼女は動かなかったが、切っ先がすり抜けたかのように掠めただけ。

アサシンが備中青江の間合いを見誤った?

いや、佐々木小次郎であるなら、対象との距離を測り間違えるなんてあり得ない。

それなら敢えて手加減をした?

アサシンの反応から察するにそれも考えにくい。

その疑問に答えるように、アサシンは口を開く。

 

「ほお、差し詰め曲芸よな。我が太刀筋、紙一重で躱してみせるとは」

「…………」

 

文は何も答えない。

いつもの彼女なら、相手を挑発するような言葉を返していたはず。

 

「ふ、答えぬか。ならば我が剣の極地、見せてくれようか――!」

 

アサシンが太刀を振るうため、二歩三歩と間合いを縮めていく。

そこから放たれた太刀筋、俺の目なんかでは輪郭ですら捉えられないほどの剣速。

一度二度ではなく、次々に斬り重ねていく。

そして斬撃は、攻撃を重ねる度に速度を加速していった。

 

アサシンの剣には構えがなく、それゆえに力みもない。形のない剣だった。

剣の英霊であるセイバーが剛の剣とすれば、アサシンは技の剣、または流動の剣だった。

それはまさに流れるような剣捌き。

川の水が上から下へと流れるが如く、あくまで水流のような自然な太刀筋。

一度の瞬きであっても、首を落とされかねない剣術の極限。

それすらも天狗の少女は、最小限の動きで躱していった。

 

「フッ! せい――っ!」

「…………」

 

何十何百もの剣光を重ねても、文は反撃せずに無言のままアサシンの剣を躱し続けた。

彼女の顔は余裕そのもの。いや、まるで意に介していなかった。

まさかこの短時間で、アサシンの剣技の全てを見切ったのだろうか?

……そんなはずはない。いや、そんなことがあってはならない。

ヒトが辿り着ける一つの極限を、こうも簡単に攻略できるはずがない。

 

アサシンの剣の間合いに一つの結界が作られた。

剣速が増し、太刀が重なることで発生した斬撃による結界。

落ちた木の葉が、その結界に触れると音も立てずに消失する。

あの空間に触れれば、何者であろうともたちまちに切り裂かれてしまう。

 

その結界の中にいてもただの一太刀ですら、少女の体に届いていない。

射命丸文に何かの仕掛けがあるわけでもなく、特殊な能力も隠されてはいない。

純然たる身体能力だけで、剣鬼の技のことごとくが躱されていた――。

それならこれは、間違いなく悪夢の光景だった。

 

「……ふふ」

 

少女は、そんな悪夢の中で平然と笑う。

何よりも彼女はこれまでと違い、戦いそのものを楽しんでいた。

あの斬撃全てが、意志を持ったように殺そうとしているのに。

 

「――なんと」

 

途端、白刃の結界がピタリと静止した。文とアサシンも動きを止める。

一体、何が起こったのか。

これまで涼しい顔をしてしたアサシンも、剣を振り下したまま驚嘆していた。

つまりこの状況は、アサシンの意図するものではない。

 

アサシンの太刀の切っ先を目で追うと、白い二本の指があった。

……それの意味するもの。

信じ難いものではあったが、理由は考えるまでもない。

アサシンが放った袈裟斬りを、文が人差し指と中指だけで受け止めていた。

指の力もそうだが、それよりも信じ難いのは彼女の動体視力。

どんな目を持っていれば、神速の刃を二本の指だけで掴み取れるのか。

 

「放さない。放してあげないわ」

 

万力のような力で、太刀の切っ先を更に締め上げていく。

その態勢のまま、文は葉団扇から高圧縮の風をアサシンに放とうとしていた。

文とアサシンの二人は、2メートルにも満たない距離にいる。

ただの人間には不可能だが、サーヴァントであれば回避は可能だろう。

 

「フッ」

 

しかし侍であるアサシンは、自らの命である太刀から手を放せずにいた。

それが不合理だと知りながら、佐々木小次郎に敵前で刀を捨てる真似はできない。

あの刀は、巌流島で投げ捨てられた鞘とは違う。勝つための手段なのだから。

 

「ほらほら。頑張りなさいな」

 

それを知りつつ、少女は狡猾に笑う。

天狗の怪力で挟まれた刃はギリギリと叫喚を上げ、ピクリとも動かず。

そして、風が放たれた。

少女の思惑通り、アサシンは回避行動が取れずに腹部へと命中する。

 

「ぐっ……!」

 

人体を押し潰される音を立てながら、アサシンの痩躯が宙に浮く。

腹から背中へ突き抜ける風の暴力は、並の人間なら風穴を開けて絶命するもの。

そんな一撃を受けながら、侍は尚も太刀を握ったまま放さない。

臓器を幾つも破壊されたアサシンは、整った口端から一筋の血を流す。

 

「…………」

 

射命丸文は何故か追撃をしない。どう見ても絶好のチャンスだった。

そのまま攻撃の手を緩めなければ、アサシンを倒せていたのは間違いないはず。

それどころか、今まで放さなかったアサシンの刀身も、興味を失ったかのように解放する。

 

「……ただの速いだけの剣じゃ、決して私に届かない。勝ちたければ、もっともっと工夫をしなさい。それにあなたは他のどのサーヴァントよりも私との相性が悪い。世の理、不文律を覆してみなさい」

「ハ――それは、失礼をした。こうも容易く我が剣を封じられるとは思いもよらなかったぞ。私の剣は邪道故な、並の者ならただの一振りで首を落とす。それが他愛もなく躱されるとはな。ククク、なんと恐ろしきことよ」

 

腹部へのダメージにより、アサシンの足は震えていたが、決して膝を折らない。

口端の血も拭わずに、眼前の好敵手に喜びを堪え切れないようだった。

 

「ならばこれより先、無聊の慰めは仕舞いだ。我が秘剣を以て、そなたと死合おうぞ」

 

アサシンが、初めて剣の構えを取る。

長刀を逆手で担ぐような、独特のスタイルだった。

アサシンが纏う空気が、冷たいものに変わる。

冷や水を浴びたように身体が強ばり、四肢の自由が奪われてしまったかのようだ。

その変化は文にも伝わったのか、八手の葉団扇を広げて口元を隠した。

 

「フ、フフ――」

 

しかし団扇から隠しきれない笑い声がこぼれていた。

それは相手を見下すためだけの嘲笑と蔑視。

 

「さ、手加減してあげるから――貴方の技、ここですべて見せてみなさい」

「その余裕……さて、どこまで続くかな。我が秘剣、燕でさえ逃れ得ぬ。故に烏にも通じるぞ!」

 

サーヴァント、アサシン。真名は伝説の剣豪、佐々木小次郎。

だとすると、佐々木小次郎の持つ技は――。

 

「秘剣――燕返し」

 

俺の思考よりも速く、アサシンの剣が揺らめいた。

 

 

 

 

――燕返し。

生涯、剣を振うことで費やしたアサシンの剣。その全て。

佐々木小次郎の人生そのもの。

疾走するのは三つの刃。一振りで三度切る刃。矛盾。

剣を振うだけで到達した魔法の領域。

多重次元屈折現象。キシュア・ゼルレッチ。

 

その刃は、慢心する鴉天狗を切り裂く。

燕にも届くその剣技が、烏に届かぬ道理はなし。

 

「――――!?」

 

射命丸文は、物理的にあり得ぬアサシンの剣に目を見開いた。

一振りの太刀から、三つの斬撃が襲いかかってくる。しかもそれぞれ別々の方向から。

魔術的な気配は、一切感じられない。

それは、ただの人間が一生涯剣を振り続けることで成し得た、この世界の魔法の体現。

 

しかし不可能な筈の攻撃に対して、文の驚きもまた刹那のなか。

状況を瞬時に分析する。

千年の経験、天性の能力で、回避の一点のみに頭と体を動かす。

幻想郷全ての弾幕を避けてみせた彼女に、捉えられぬものなど存在しない。

 

 

「やっちゃえ、バーサーカー」

 

佐々木小次郎の人生の集大成である燕返しは、驕り高ぶる天狗の少女が躱す必要もなく不発に終わった。

代わりに耳をつんざくような凄まじい轟音。

他と比肩しない強大な力が、文とアサシンの戦っていた石段を粉砕した。

 

 

 

 

「文!!」

 

張り上げた俺の声はどこにも届かずに、大地を揺らす轟音に掻き消されてしまう。

少しして夜の世界は再び静寂に戻ったが、それも圧倒的な存在感によって上書きされてしまう。

土煙が晴れた先にいる巨躯、何があっても見間違うはずもない。

そこにいたのは、斧剣を振り下ろしたバーサーカーの姿だった。

 

「ざーんねーん。二人ともぺちゃんこに潰れちゃえば良かったのに」

 

俺のすぐ後ろから、今日何回も聞いた幼い少女の声。

声の持ち主はイリヤ――イリヤスフィール・フォン・アインツベルンだった。

昼に別れたばかりの彼女と、その日のうちにこんな形で再会してしまう。

 

「こんばんは、お兄ちゃん。今夜は月が綺麗な日だね」

「イリヤ……!!」

 

イリヤは、何事も無かったかのように甘い声で挨拶をする。

土蔵での出来事を思い出して、心臓が跳ねそうになった。

しかし、それもバーサーカーから放たれる威圧感に飲み込まれてしまう。

どうしてここに、イリヤとバーサーカーが……と思ったが、今はなによりも文の安否が先だった。

バーサーカーの斧剣を振り下ろした先を見たが、そこには誰もいない。

 

「こんな空気の読めない行動。ひとかたのレディーのやることじゃないわね」

 

いつの間にか俺のすぐ隣に文がいた。

突然現れた彼女に驚いていたら、俺を一瞥してクスリと妖艶に微笑む。

……やはりいつもと雰囲気がまったく違う。

別人とまでは言わないが、いつかの学園の屋上を思い出して身震いしてしまう。

 

「わたし、まだ子供だからいーんだもーん」

 

文の指摘に対して、イリヤが頬を膨らませて開き直っていた。

ふざけたような態度を取るイリヤだったが、文を見ると表情が硬化していく。

 

「……え? なに? あなた……本当にアヤなの?」

「ふふ、何のことでしょうか? 私は皆様方から愛される清く正しい射命丸ですよ」

 

イリヤの疑問におどけた態度を見せるが、少女もまた文の変質に気付いたようだ。

 

「……ふん、まあいいわ」

 

イリヤは納得がいかないようだったが、気を取り直して俺に顔を向けた。

 

「シロウ、アヤ。――今夜であなたたちを殺しちゃうね。他の誰にだって譲らないんだから」

 

聖杯戦争のマスターとして現れたイリヤは、冷酷な視線で俺たちを射貫く。

背中に冷たいものが走り、ゾッとさせられる。

文と同じように、イリヤもまた昼に別れた少女とは別人だった。

この残酷な顔を含めて、イリヤスフィールという一人の少女なのだろうか。

 

ここでバーサーカーと戦闘になってしまったら、文の力があっても倒し切るのは難しい。

バーサーカーを殺せても、何度も復活するという悪夢のような宝具を持っている。

それでも、遠坂とセイバーによって三度殺しているから『十二の試練』の残りはあと9回――。

 

「あ、そうそう。ちなみに言っておくと、リンとセイバーに殺された分はもうないわよ?」

 

え? それってどういう……?

 

「ウソまさか――?」

 

文も今のイリヤの話に細められた目を大きくする。

彼女は、もう理解したのだろうか。

 

「フフ、アヤはわかったようね。『十二の試練』の特性のひとつ、殺されたとしても時間を置けば、命のストックは回復する。だから振り出し。十二回殺さないとバーサーカーは絶対に倒せないわよ。あははは」

 

泣き面に蜂とはまさにこのことだった。

一度ですらバーサーカーを倒す術を持っていない俺たちにとって、それはもう死刑宣告に等しい。

あの遠坂とセイバーが命懸けで三度殺したのに――それがたった数日でリセットされるなんて。

 

……イリヤはまだ、バーサーカーに次の命令を出していない。

そのため、巨人が襲ってくるまで猶予がある。

これからどうするべきか相談しようと隣にいる文を見た。

 

「……あ、すごい」

 

天狗の少女は、夜空に浮かぶ月を見上げていた。

文の視線の先、そこには月光を背負った人影が巨人に目掛けて降下していた。

一振りの大太刀が、月の光を反射して鈍く煌めいている。

 

『■■■■■■――!!』

 

バーサーカーもそれに気付いていたようで、イリヤが命令を出す前に咆哮を上げた。

その時にはもう、金属同士がぶつかり合うような鈍い音が山門に響き渡る。

 

「――ははは! 遅いなァ!」

 

アサシンは、バーサーカーの口の中に大太刀を突き立てていた。

降下による加速度も加わって、アサシンの刺突は相当な威力があっただろう。

 

「ふむ。もしやと思ったが、やはり駄目のようだな。よもや、そこまでもが鋼だとは」

 

アサシンによる渾身の一撃は、バーサーカーにダメージを与えていなかった。

アサシンは太刀を口中から引き抜くと、続けざまに巨人の眼窩を貫く。

 

「なんと……!?」

 

眼球への攻撃だというのに、大きな火花が散った。

人体であれば、間違いなく急所の一つである眼球ですら、口内と同様に弾かれてしまう。

バーサーカーは、顔にまとわりつく羽虫のようにアサシンを手で振り払った。

アサシンは、巨人の頭から咄嗟に飛び退くと山門の前に着地してみせる。

 

「ハ――『刃』が立たぬとは正にこのことか」

 

アサシンは己が剣が通じなくとも、嬉しそうに口を歪ませていた。

 

「当たり前じゃない。わたしのバーサーカーは『十二の試練』によって守られているのよ。神秘を打倒するにはそれ以上の神秘が必要なの。そんな何の概念武装でもない鉄の棒で攻撃したところで意味ないわ」

 

イリヤの話は俺たちだけはなく、アサシンにとっても絶望的な言葉だったはず。

しかしそれを聞いてもまだ、アサシンは未だ態度を崩さずにいた。

 

「クク……それはどうだろうか。生憎、剣を振るうしか知らぬ身でな。そのような言葉は一切わからぬわ。しかし我が秘剣。未だ存分に振るってはないぞ。――さあ、さあさあ! 今一度、尋常に果たし合おうでないか!」

「なによ……! 馬鹿じゃないの……!?」

 

バーサーカーの絶対を信じるイリヤは、癇に障ったようにアサシンを睨み付ける。

どうやら、今のアサシンの言葉はバーサーカーに対する侮辱だと受け止めたようだ。

 

「……いいわ。口で言っても理解できないようね。だったらアサシン、あなたの体に直接わからせてあげる。バーサーカー!! こんなやつ、さっさとやっちゃいなさい!!」

『■■■■■■――――!!!!』

 

イリヤからの命令で、バーサーカーが山門で佇むアサシンへ駆け上がる。

 

「ふっ、ここが見せどころよな!」

 

死を具現化したような黒い巨人に対して、アサシンは尚も優雅に太刀を構えた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

32.死地に生きる者

 

 

バーサーカーとアサシンの戦い。

剣戟の響きと巨人の咆吼が、氷のように冷え切った石段に木霊する。

 

『■■■■■■――!!』

 

アサシンの長刀では、バーサーカーの斧剣を受けられない。

バーサーカーの筋力は、全サーヴァントの中で圧倒的に抜きん出ている。

その膂力から振るわれる岩塊の剣は、すべてが一撃必殺。

アサシンの痩せた身体と備中青江では、到底受けきれるものではない。

 

「フッ! せいっ!」

 

アサシンは、石段を上手く利用してバーサーカー相手に立ち回っていた。

そして、石段の高低差がアサシンの命を繋いでいるもの。

何もない平地であれば、アサシンとバーサーカーでは勝負にならないだろう。

技術以外の面ですべてに劣るアサシンが、地の利を活かして、ようやく戦いと呼べるものになる。

それでもバーサーカーの攻撃は完全に避けるか、受け流すしかない苛烈なもの。

 

バーサーカーの攻撃は、ただの一撃でアサシンの命を奪い取る。

片や、アサシンの長刀はバーサーカーの『十二の試練』によって弾かれてしまう。

目、口といった人体の急所ですら、一切攻撃が通らない。

 

「これって――」

「まあ、そうですよね。そうなりますとも」

 

感覚的にはわかっていた。

だが、こうして実感が伴うと別の何かがこみ上げてくる。

 

「もう勝負は、始める前から付いています」

 

すぐ隣にいる射命丸文が言葉にして吐き出した。

アサシンの剣の腕が如何に優れようとも関係ない。

どんな奇跡が起きようと、アサシンの剣はバーサーカーには絶対に届かない。

 

 

「今回はこの前みたいにはいかないわ。跡形もなく殺してあげるんだから」

 

どうやらバーサーカーは、アサシンと戦うのは初めてではないようだ。

それはつまり、アサシンはバーサーカーを一度は退けたという意味。

それがどれだけの偉業なのか、一度でもバーサーカーの戦いを見た者ならわかる。

あの無敵の巨人を撃退するなんて、人間ではどう足掻いても不可能だ。

つまりあの剣豪もまた、バーサーカーと同じくサーヴァントに名を連ねる証拠だった。

ヒトでありながら、ヒトという枠から外れた規格外の存在――。

 

 

だがそれから数分もしないうちに、アサシンは陣羽織を裂かれていた。

アサシンは一度だってバーサーカーの攻撃を受けていない。

完全に躱しても尚、巨人の剣圧は皮を切り、肉を裂く。そんな常識外れの攻撃だった。

 

「ク、クク」

 

しかし、アサシンは笑う。

刹那で死に至る中で、感情を抑えきれないようにクツクツと嗤う。

死地に己の生を見出したかのように。

それは、狂気に彩られた悦楽。

ああ、つまりサーヴァントに連なるとはそういう意味なのだ。

剣に生き、剣で死んだ侍は、死した今も剣を振るう。アサシンは、今を生きていた。

 

 

 

 

サーヴァントの死闘に魅入られていると、何者かが俺の脇腹をつついた。

それは、言うまでもなく射命丸文だ。

 

「士郎さん、士郎さん」

「ん? 文、どうしたんだ?」

 

俺の耳元で小さく囁く。

にんまりと少し上目遣いの少女の顔に見惚れそうになった。

妖怪然とした彼女からいつもの雰囲気に戻っており、少しだけほっとする。

 

「先、行っちゃいましょう」

「なんだって? ……先?」

「彼らにはここで潰し合ってもらって、私たちはあの門の先へ行っちゃいましょう」

 

アサシンという門番は死闘を繰り広げている。

つまり、守るべき門はがら空きとなっていた。文はそれを指差して笑う。

 

「マジか」

「マジですとも」

 

……その発想はなかったよ。

アサシンとバーサーカーの戦いを無視して先に進むなんて、想像外だ。

気は少しも進まないが、彼女の提案が最善なのかもしれない。

ん……? でも、ちょっと待て。それは文の発言と矛盾してないか?

 

「文はサーヴァントを全員倒すんじゃなかったのか? このままだとどちらか倒されるぞ?」

 

ついさっきの話だ。あれからまだ十五分も経っていない。

しかし、俺の言葉に文はきょとんとしていた。

 

「ああ、それですか。あれはその場で格好つけたくて言った――ただの出まかせです」

「マジかー」

「マジですとも。そもそも私がバーサーカーに勝てるわけないじゃないですか。ふふ、おかしな士郎さん」

 

おかしいのは文のほうだと思うぞ。たぶん。

俺みたいな凡人には、天狗の思考は遠く及ばないとしても。

俺はあの時、彼女を恐れていただけではなく、胸が熱くなっていた。

つまり、格好いいと思っていた。

あの時の感動を返してほしい。そして謝ってほしい。

嘘つきはどうか閻魔様に舌を抜かれてほしい。いるかどうかは知らないけど。

 

「じゃあ、行きますか。イリヤさんにバレたらうるさそうなので、静かにお願いしますよ……」

 

まるで近くのコンビニにでも行くような口調。本当に未練はなさそうだった。

そろりそろりと文が石段の端を上り出す。俗に言う、抜き足差し足、というやつだ。

 

「…………」

 

なんだか……文の背中がいつも以上に小さく見える。

彼女の黒い翼も、今は頼り気なく揺れていた。

そんな小さな背中を追いかける俺の姿もさぞ滑稽なものだろう。

 

「それよりも、門の上を飛んでいった方が早いんじゃないか?」

 

こんな泥棒のような真似をするよりも、そっちの方が文らしいと思う。

というか、少しでも格好いいところを見せて欲しい。

 

「柳洞寺の正門以外は強力な結界が張ってあります。気合で通り抜けられなくもなさそうですけど、大幅に魔力が削られるので推奨はできません」

 

……知らなかった。正門を抜けるのにも意味があったのか。

文もイリヤも真正面から柳洞寺を攻めていたのも、ちゃんとした理由があったようだ。

バーサーカーに絶対の自信があるイリヤは、そんなのは関係無しに正門から侵攻するだろうけど。

 

「……誰がそんな結界を?」

「誰でしょうね。この柳洞寺は冬木最大の霊脈が流れてします。普通に考えれば、霊脈目当てで柳洞寺を拠点とするサーヴァントではないでしょうか?」

 

やはり、柳洞寺にはアサシン以外のサーヴァントはいるのだろう。

それなら、アサシンが門番だと言っていた意味も理解ができる。

正体が不明なサーヴァントは一体だけ。そうなるとクラス名は消去法で――。

 

「あ――!!」

 

イリヤが俺たちを指差して叫んだ。

苛烈極めるサーヴァントの死闘の端をコソコソと歩いてたのを、少女に気付かれてしまった。

 

「ちょ、ちょっとお兄ちゃんたち! どこに行こうとしてるの!?」

 

イリヤの慌てた様子に、文は意地悪くニヤニヤとしていた。

 

「あやや、気付かれてしまいましたか。どこに行くのかと聞かれたら、そりゃもう門の向こう側ですよ。そんなの決まってるじゃないですか。ねー? マスター」

 

文が俺を共犯者に仕立てようとしていた。

それどころか普段使わないマスター呼びからして、俺を主犯にしている……?

なんというか、お願いだから色々と待って欲しい。

 

「バーサーカー!!」

 

俺たちのどうしようもない行動に腹を立てたのだろう。

イリヤが怒気の混じった声でバーサーカーを呼ぶ。

 

『■■■■■■――!!』

 

巨人が俺たちに対して咆吼を放つと、殺意の矛先をアサシンから俺たちに向けた。

バーサーカーからの猛然たるプレッシャーを全身に受けて、足が自然に震え出してしまう。

アサシンはこんな殺意を正面から受けても尚、嬉しそうに笑っていたのか。

 

「おや? 何処へいく?」

 

バーサーカーはアサシンを無視して、俺たちへと駆け出した。

 

「まあ、バレたら必然。こうなりますよね」

 

文が俺を庇うように一歩前に出て、葉団扇を突き出すように構える。

左手を横に広げ、これ以上は前へ出るなと暗に語っていた。

 

「我が宿敵! ここで逃がしてなるものか――! はぁっ!」

 

アサシンがバーサーカーに追いつくと、長刀をバーサーカーの背中に振るう。

これまでの再現のようにその一撃も弾かれた。

バーサーカーは、アサシンの剣撃を歯牙にもかけずに俺たちへと向かってくる。

 

「いやはや、貴殿の相手はこの私だと忘れてはないだろうな」

 

アサシンは、再び剣を振るう。

その全てが人体の急所を狙うえげつない太刀筋だったが、バーサーカーは止まらない。

それどころか、アサシンをまったく意に介していない。

バーサーカーの目に映るのはイリヤの命令により、標的となった俺たちだけだ。

それでも剣鬼は、無心に剣を振るい続けた。

 

「これは――」

 

そして、ついにアサシンの刀がバーサーカーの鋼の肉体に耐えきれずに、曲がってしまう。

だがアサシンは曲がった刀身のまま、剣を振るうのを止めなかった。

あの刀身では、緻密なバランスが要求される『燕返し』はもう二度と使えないだろう。

 

「あはははは。ソレ、壊れちゃったね」

 

イリヤは嘲笑いながらアサシンを見ていた。

決して、届かないと知りながらも無心で剣を振るう。

イリヤから見れば、それは滑稽な姿なのかもしれない。

 

「……アサシン」

 

だけど俺には、胸に湧き上がる感情があった。

そのアサシンの姿を、成し難い理想を叶えようとする俺自身に重ねていた。

叶わないと知っても尚、己の道に殉じようとする者を誰が笑えるか――。

 

 

 

 

そしてついにバーサーカーが動きを止めた。

剣を曲げても挑み続けるアサシンをバーサーカーは気に留めなかったはずだ。

剣に込められたアサシンの気迫が、理性を失った狂戦士にも届いたのか。

もちろんそれはわからない。それでもわかることもあった。

 

『■■■■■■――!!』

 

バーサーカーは、アサシンを今ここで排除しなければならない敵だと認めたのだ。

絶対の殺意を俺たちから、アサシンへと向ける。

 

「は――待ちくたびれたぞ。そうだ。貴殿の敵はここにいるぞ」

 

振り向きざまにバーカーカーが振るう斧剣を、アサシンは折れ曲がった剣で受け流そうとした。

……が、叶わない。

刀身の歪みのせいか。

アサシンのような達人であっても、力を外に逃がせずに斧剣を受けてしまう。

太刀を介したとしてもバーサーカーの攻撃を受ける。結果、アサシンの足下の石段に亀裂が走った。

 

「ぬッ……!」

 

暫しの拮抗。

アサシンがバーサーカーの斧剣を曲がった太刀で支えるという、鍔迫り合い。

本来なら、あり得ない光景だった。

アサシンの筋力では、バーサーカーと攻撃を押し合うなんてできるはずがない。

バーサーカーの持つ力は、精神論でどうにかできるものでもない。

だがその信じられない光景がこうして現に起きていた。それの意味することは――。

 

「もう! そんな雑魚にいつまで時間掛けてるのよ! バーサーカー!! さっさと始末しなさい!!」

 

しびれを切らしたイリヤが、自らのサーヴァントに苛立ちを見せた。

今回の聖杯戦争において、イリヤは間違いなく資質と能力ともに最高のマスターだ。

その彼女が従えた最強のバーサーカーが、力の拮抗を意味する鍔迫り合いなんて起きていいはずがない。

 

「もういいわ。狂いなさい、バーサーカー!!」

 

イリヤの身体から、赤い光が浮かび上がった。

彼女の全身に刻まれた令呪が、バーサーカーに向けて発動される。

 

『■■■■■■――ッ!!!』

 

バーサーカーが咆吼を上げると、冬の大気を大きく震わせた。

巨人の筋力が狂化によって更に跳ね上がり、アサシンの足場が砕け散る。

 

「…………ッ!!」

 

アサシンを支えていた左膝があらぬ方向へと曲がってしまった。

肉体の至る場所が限界を迎えて次々と破壊されていく。

青かったはずの陣羽織は赤く染まった。

だがアサシンの長刀は未だ折れていない。それならアサシンもまた折れないのだ。

そして、バーサーカーが一気に圧し潰そうと更に力を込めた瞬間だった。

 

巨人の持つ斧剣が――ずるりと、真っ二つに両断された――。

 

「え――?」

 

それは、誰の声だったのか。

斧剣の刀身が半分になり、残りは石段へ落下すると鈍い音を立てた。

ここいる誰もが、驚きのあまり言葉を失った。バーサーカーとアサシンを除いて。

 

「ようやくだな。ようやく貴殿に一泡吹かせられたようだ」

 

アサシンが静かに歓喜する。

全身を赤く染め、左脚は明後日の方向に曲がっていた。

自らの痛手など些事とでも言うように、してやったりとほくそ笑んだ。

それは、まさに剣鬼と呼ぶのに相応しい姿だ。

 

「……なんなの。ヘラクレスを奉る神殿の支柱から作られた剣なのよ。それをただの刀で切り落とすなんて……信じられない……」

 

イリヤは目の前で起きた奇蹟を飲み込めないのか、うわ言のように呟いた。

しかしそれも束の間。

 

「――なんだ。そういうことか」

 

瞬時に思考を切り替えて、満身創痍のアサシンを睨む。

 

「……わかったわ。聖杯戦争の御三家の一つアインツベルン。そのマスターであるイリヤスフィール・フォン・アインツベルンが、アサシン――あなたを私たちの敵として認めてあげる。バーサーカー! アサシンを強敵とみなして殺しなさい!」

『■■■■■■――ッ!!!』

 

バーサーカーが大きく咆哮を上げた。

イリヤの瞳には、もう俺たちは映っていなかった。

彼女の中では、バーサーカーと好敵手であるアサシン以外は存在していない。

 

「ふむ。じゃあ、私たちは先に行きましょうか」

 

射命丸文は、気を取り直すようにそれだけ言った。

ここで起きたすべてから背を向けて、再び石段を上る。

アサシンとバーサーカーの戦いは、ここで間違いなく決着が付く。

それは――バーサーカーの勝利という形で。

最後まで見届けたかったが、文はそれを許さないだろう。

 

「――いずれ決着を」

 

全身を破壊されたアサシンが文の背中にそう告げた。

「ええ、いずれまた決着を」

 

天狗の少女は、一度も振り返らずにそんな言葉をアサシンに返す。

そして俺たちは山門を潜ると、柳洞寺の境内に足を踏み入れた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

33.境内にて

 

 

「静か、ですね」

「……静か、だな」

 

後ろ髪を引かれながら柳洞寺の境内に入ると、そこは静寂が支配していた。

あまりにも静かで、俺たちの声以外は何一つ聞こえない。

隣にいる天狗の少女の鼓動も聞こえそうな、寂寂たる世界だった。

 

「ふむ――なんでしょうか」

 

正門入口で立ち止まっていた文が、境内の中央付近まで進む。

不用意な行動に驚かされるも、敵のホームで文と離れるのはまずい。

情けなく感じたが、先を進む少女の背中を追いかける。

文は、境内の中央で立ち尽くすと腕を組んで思考に没頭した。

 

「外ではバーサーカーとアサシンが戦っているはずなのに、境内に入ったらピタリと止まった。……いえ、これは止まったのではなく、聞こえなくなった?」

 

自身に問うように呟いている。

彼女は戦闘に備えるわけでもなく、明らかに無防備だった。

 

「こんな目立つ場所にいて大丈夫なのか?」

 

素人考えだが、敵陣のど真ん中で何も備えずにいるのは良くないだろう。

しかし少女は、そんな忠告にどこ吹く風だった。

 

「こんな閑散とした場所ではどこにいても同じですよ。ここを拠点とするサーヴァントは最初から私たちの存在に気付いています。それなら、むしろ目立ってやりましょう。……ビビっていると相手に舐められますよ?」

 

俺の胸を拳でぽんと叩いた。

 

「だけど敵陣の真ん中にいるのもどうかと思うけど」

「士郎さん、あなたは男の子です。そして私のマスターでもあります。そんな情けない顔してないで、どっしりと笑ってくださいな」

 

俺がまだ不安そうに見えたのか、再び俺の胸を叩く。

十分に加減しているだろうが、一発目と違い少し呻き声が出そうになった。

そう笑っている文の顔は、どこか男前だった。

ここは彼女の言う通り、どっしりと構えるべきなのだろう。

 

「じゃあ、今この境内には何か魔術的な効果でも働いているのか?」

「――防音の結界を張らせてもらったわ」

 

文に尋ねたはずの言葉は、予想外のところから返ってきた。

 

「!?」

 

背後から聞こえたのは、妙齢と思える女性の声――。

急いで振り返ると、俺たちが今までいた山門の入り口に一人の女がいた。

闇に同化するような黒と紫のローブを纏った女だ。

顔はフードで隠れて見えないが、青いリップを引いた唇は薄い笑みを浮かべている。

 

「武器を振り回すしか脳のない野蛮人同士の戦いなんて、聞いても不快なだけだもの。ここに似つかわしくないと思わない?」

「……あなたがキャスターのサーヴァント?」

 

文の言うとおり、未だ遭遇していないサーヴァントはキャスターのみ。

それに、消去法で考えなくても女の風貌は魔術師そのものだ。

 

「ええ、その通りよ。可愛い可愛いアーチャーさん。ようこそ私の根城へ。歓迎させていただくわ」

 

俺たちは、キャスターと向き合う形で対峙していた。

周囲を見てもキャスターのマスターは、近くにはいないように思える。

 

「フフフ……」

 

僅かな睨み合いの後、キャスターが俺たちに歩み寄っていた。

他のクラスならまだしも相手はキャスターだ。

距離を取るならともかく、縮めてくるなんて普通は考えられない。

そんな異常と言える行動に俺は身構えたが、文は腕を組んで事も無げな様子だった。

 

「…………?」

 

キャスターは文だけを見ていた。隣にいる俺は相手にもされていない。

無防備のままで、文まで後一歩という距離で歩みを止める。

このゼロに近い距離では、魔術師の名を冠するキャスターの間合いではない。

俺の目にキャスターの行動は、ただの自殺行為にしか映らなかった。

文がその気になれば、コンマの世界で首を落とされてしまう。

そうすると、キャスターのこれは何かの罠と考えるのが妥当だろうか?

 

「フフ――ごめんなさい。ちょっとだけ、触らせてもらうわね」

 

キャスターはローブから腕を出して、文の顎を掴むように手を置いた。

何故か文もされるがまま、キャスターの行動に身を委ねている。

 

「へえ、本当に可愛いのね。こうして近くで見ると、寒気を覚えるぐらい整った顔立ちをしている。アサシンに名乗りを上げてたけど、確か烏天狗とかいうこの国の妖怪だったかしら?」

「…………」

 

文は何も答えない。

真っすぐに、フードの下に隠されたキャスターの目を見つめている。

 

「……あなたたち妖怪は、人を誑かし、人をさらい、最後に人を食べてしまうのでしょう? なるほど。そのために人の目を惹き付けるような姿形をしているのね。理に適っているわ」

 

フードから品定めをする碧眼が妖しく光ると、魔女の指が文の顎を持ち上げた。

 

「おい! なにを……!?」

「坊やはそこで黙っていなさい」

「…………ッ!!」

 

キャスターの一言で、身体が急激に重くなった。

声を出そうとしても言葉にならず、口が金魚のようにぱくぱくと開くだけ。

こ……これがキャスターの魔術!?

今朝イリヤに似た魔術を受けたが、これは視線すら交わっていない。

たった一言だけで、この有様だなんて……。

 

「ふうん――」

 

キャスターは、本当に俺を黙らせたかっただけだ。

それ以上は何もせずに、息の掛かる距離で文の顔をまじまじと見つめている。

 

「それと、とても綺麗な目をしてる。これまで一度も挫折なんて味わったことがないのでしょう? 弱者を蹴落とし、寄せ付けず、ずっとずっと勝ち続けてきたのね」

 

文の深紅の目は、とても綺麗で透き通ってる。

それが誠意とでも言うように、常に相手の目を見て話をする。

その時の彼女の瞳は、吸い込まれそうなほど美しい。

 

「だからこそ、あなたのその目が汚れるのを想像するとゾクゾクするわ」

「――――」

 

ピキリと文が凍った。

彼女が怒るところは、あまり見た覚えがない。

それでも、ここまで言われ放題だと流石に頭にきたようだ。

 

「……それで、言いたいことはそれだけ?」

 

文の赤い目が、キャスターを睨むように細くなった。

余裕を感じさせる微笑も消えて、射殺すような鋭い視線だけが残る。

 

「あら? もしかして、気に障ったの? それならごめんなさい」

 

キャスターは形ばかりの謝罪をすると、ようやく文の顎から手を放した。

それと同じタイミングで、俺の身体も呪縛から解き放たれように身軽になる。

 

「さて、もういいかしら。この距離だと私が完全に優位。少し待っててあげるから、さっさと戦闘の準備をしなさい」

 

文の口から敬語が完全に取れてしまった。

得体の知れない不気味さが、敵意が向けられない俺でも感じる。

バーサーカーのような肌でも感じる殺意とは違って、何か無性に気持ちが悪い。

敵意を一身に受けているキャスターは、少しも態度を崩さずにいた。

 

「そうカッカしないで待ちなさい。血の気ばかりが多いと器と底が知れるわよ」

「余計なお世話。掛かってこないなら私から行かせてもらうわ」

 

文が組んでいた腕をほどくと、境内に来てから初めて臨戦態勢を取った。

鼓膜も震える風の渦が文の周囲に展開される。

しかし、キャスターは天狗の暴風を受けても尚、その場から動かずにいた。

 

「ねえあなた、私と手を組む気はないかしら?」

「……はい?」

 

キャスターからの予想外の言葉に、文が少し気の抜けた声をあげた。

張り詰めた文の空気が四散すると、展開されていた風も雲散霧消してしまう。

まるで風が文の感情に連動しているようだった。

 

「は? え? なんですって? 話が突然すぎて驚いてしまいました」

 

文が敬語モードに入ってしまった。

俺もこちらの彼女のほうが落ち着くけど……。

 

「私と組むかと訊いているの」

「はあ。私があなたと組んでどんなメリットがあるんですか? ……プレゼンテーションは大事ですよ? アジェンダはあります? 顧客説得の重要性はブン屋である私もうるさいですよ」

 

この烏天狗、もう駄目だ。

敬語モードも通り越して、記者モードになってしまった。

せめて、境内に入った時の文ぐらいだとバランスが取れるんだけど。

 

「ブン屋……? でもそうね。プレゼンは大事よね」

「そうです。あなたと組むことで得られる魅力をわかりやすくアプローチしてください」

「…………」

 

俺は、一体何を聞かされているんだ?

俺たちの主導権は文にあるけど、一応はマスターである俺にも確認ぐらいはしてほしい。

……文の返事によって、俺たちは今後キャスターと手を組んでしまうのか。

 

「あのバーサーカーだけは私の手に負えないわ。自己陶酔馬鹿のアサシンも今回ばかりは駄目そうだしね。もう時間の問題。……だけどアサシンではなくあなたと二人ならバーサーカーを倒せる可能性がある。……それだけで十分じゃないかしら?」

 

自己陶酔馬鹿……。

そんな言われように、仲間でもない俺も気分が良くない。

 

「それだと不十分ですね。私は知りもしない相手を素直に買い被れません。あなたはマーケティングに失敗しました。その程度のバリュープロポジションでは、顧客満足度を十二分に得られません」

 

よくわからない言葉を混じらせて、きっぱりと断っていた。

おそらくは、この世界の本で学んだ言葉なんだろう。勉強熱心で感心する。

 

「……実力を知らない相手と組む気は私もさらさらないわね。そこは確かに説得力に欠けるわけか。でも私は魔術師だもの。まだ組んでもないのに手の内を晒すわけにはいかないわ。だけど、あなたの価値ならわかるわよ?」

「私の価値ねえ。自分は何も見せずに相手だけを評価するなんて、まるで詐欺師ですね」

 

文の言う通り、結婚詐欺でよく使われる常套手段だ。

 

「最後まで聞きなさい。絶対に損はさせないわよ」

「はい、どうぞどうぞ」

「あなたの戦いを見せてもらったけど、面白いわ。風を意のままに操り、傅かせる。魔術で強制的に従わせているわけでもなく、成るべくして成っている。つまり、あなた自身がそういうモノなのでしょう?」

「へえ……よくわかりましたね」

 

それは、マスターである俺も知らなかった情報だった。

ライダー戦の前にスペルカードの説明は受けたけど、能力の全容は誤魔化してたのか。

ちょっとショックだったが、今は気にしても仕方がない。

文もキャスターの考察に対して、素直に感心しているようだった。

 

「私はその力を100パーセント以上に使ってあげる。そして残るサーヴァントを倒して、聖杯は私たちのものになる。どう? 色よい返事を聞かせてくれるといいんだけど」

 

キャスターは文だけを見ており、マスターである俺は存在していない扱いだった。

俺のような半人前なら、それでも仕方が無い。

だけど、もし手を組むなら知っておかねばならないことがあった。

 

「ちょっと待ってほしい。柳洞寺の人たちは無事なのか聞いておきたい」

 

友人である一成の名前は出さない方がいいだろう。

交渉が決裂した時に、一成を何かに利用される可能性がある。

俺の言葉で話の腰を折られたためか、キャスターが不機嫌そうに眉をひそめた。

 

「……坊やには何も聞いてないのだけどね。まあ、いいわ。教えてあげる。柳洞寺の人間は全員無事よ。私の魔術で深く眠っているだけ。死んだりはしないわ」

 

もちろんキャスターの言葉を、そのまま鵜呑みにはできない。

しかし、手を組もうと考えている相手の言葉だ。

嘘をついている可能性は低いと考えていい。ひとまず安堵する。

疑問はまだ残っている。これは確認しないといけない。

 

「キャスター、おまえのマスターは誰だ?」

「それは教えられないわね。でも手を組んでくれるのなら考えてあげてもいいわ。……ふふ、案外坊やの身近な人物かもしれないわよ?」

 

「もういいでしょう」と言って、キャスターは俺との会話を打ち切った。

 

「それで、アーチャー。あなたの返事は?」

 

キャスターは、どこか期待に満ちた様子で少女の返答を待っていた。

文もすっきりとした表情で、キャスターの目を見つめている。

 

「考えるまでも無かったんですが――答えはノーです。謹んでお断りします。さて……その理由ですが、三つほどあります。どうします? 聞きますか?」

「……参考までに聞かせて貰おうかしら」

 

キャスターは一見冷静に見えたが、声に抑揚がなかった。それが恐ろしい。

そんな彼女を更に挑発するように、文は人差し指を立てた。

 

「第一に、魔術師にはろくな人物がいません。私の知り合いも――人の話を聞かないコソ泥、本の虫のヒキコモリ、他人に関心を持たない協調性無し。そんなろくでなしばかりです。内側の世界に閉じこもるばかりで、社会性が著しく欠如しています。統計的に見ても、魔術師は基本信用がおけません。あなたも見るからに面倒臭くて、胡散臭い。今の会話の範囲でも、仲間であるアサシンを見捨てました」

 

二本目の指を立てる。キャスターは何も答えない。

 

「第二に、マスターである士郎さんを蔑ろにした。これから交渉する相手のパートナーを魔術で拘束するなんて誰が信頼できますか。士郎さんは未熟者の癖に無鉄砲で、尊敬に足るような人物ではありません。ですが、彼は私のマスターです。居候先の主で色々と世話を焼いてくれます。彼の作るご飯も美味しいです。我ら天狗は仲間を大切にします。決して、蔑ろにしてはいけません」

 

三本目の指を立てる。キャスターは何も答えない。

 

「最後にあなたがどう見ても反英霊だということ。……私も運が良いんでしょうか。これまでまともに戦ったサーヴァントはライダー、アサシンの二人だけ。他のサーヴァントとの戦闘は有耶無耶なうちに終わっています。なので、あなたとなら先の二人と同じ理由で思いっ切り戦えるんですよ」

 

口角を上げ、眼前の魔女を見下す笑みを浮かべた。

 

「それに――せっかく私がやる気を出したのに、キャスター如きに従うなんて面白みに欠けると思わない?」

 

交渉決裂が決定的となる言葉を、キャスターに言い放つ。

そんな言葉とともにキャスターの魔力が急激に上がっていった。

 

そこからは、何もかもが速かった。

キャスターの魔術が発動するより先に、文が俺の襟首を掴んだ。

猛スピードでバックステップして距離を広げていく。一瞬で頸動脈が絞まり、意識が飛びかけた。

 

「死になさい」

 

キャスターから紫電が走り、肉眼で確認できる高出力の大魔術が一工程の詠唱で完了した。

人を軽く飲み込めるほどの光線状の魔力が、俺たちを殺すために放たれる。

俺を抱えた状態だと、とても躱せるような魔術じゃない。

……こんなんじゃ、役立たず以前に足を引っ張ってるだけだ。

 

「おー、これはなかなか」

 

文は十分に距離を取ると、即座に障壁を展開した。

文の魔力と風によって編まれた風の障壁だ。

風の壁がキャスターの魔術と衝突すると、魔力が弾けるように拡散していく。

だが、それもほんの数秒だけ。

キャスターの光線が瞬く間に障壁を浸食して、突き破ろうとする。

 

「士郎さん、ごめんなさい!」

「え!?」

 

襟に首を絞められて咳き込んでいる俺を、文が片手で軽々と持ち上げた。

襟首が食い込み、再び頸動脈が絞まる。

その状態から振り向き様――俺を力任せに空中へとぶん投げた。

 

「――――!!」

 

浮遊感なんて生やさしいものじゃない。レールガンの弾頭にでもなった気分だ。

そう考えているうちに、俺は寺の敷地内にあった池に頭から飛び込んだ。

水面に激しく叩き付けられるが、砂利の引かれた境内より少しはましだろう。

 

「よっと」

 

俺という重荷を捨てた文は、光線状の魔術を軽く躱してみせる。

キャスターも詠唱を繰り返し、周囲に浮かぶ魔法陣から十本以上の光線が展開されていく。

 

「なんだ、あれ……? あんなのどう見ても、一工程の詠唱で使える魔術じゃない……!」

 

馬鹿げたことに展開された光線すべてに、さっきと同程度の魔力が込められていた。

 

「ふふ、ここにいたら焼き鳥になるわね」

 

そんな魔術の奔流を避けるため、文は翼を大きく広げると空へ飛んだ。

キャスターの光線も追随するように、空中にいる少女を追いかけていく。

上空に放たれた魔術によって、空が明るく染まった。

 

キャスターの常識外れの魔術より、文の機動力のほうが勝っていた。

くるりくるりと空中で回転をして、紙一重で攻性魔術を回避していく。

どう見ても、運動力学を無視した非常識な動きだった。

 

「ちっ……鬱陶しいわね」

 

キャスターもより狙いやすくするためか、身体を中空高く浮かべる。

当たり前のように空を飛んでいる文とキャスターを見てると、現実感が稀薄になっていく。

俺のような魔術使いには、生涯を費やしても決して立ち入れない世界だった。

今や同じ目線にいるキャスターに対して、射命丸文が堪えられないように口元が緩んだ。

 

「ようこそ――私たちの世界へ。先達としてあなたを歓迎するわ」

 

こうして、天狗と魔女による空の戦いが始まった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

34.弾幕ごっこ

 

 

キャスターの使う魔術は、考えられないものだった。

現代を生きる魔術師では、到達不可能な攻勢魔術。

自己の研鑽に道徳や倫理を捨てた魔術師であっても、夢想の領域。

 

空を飛ぶ射命丸文に降り注ぐ光弾の雨。

その一つ一つが現代魔術の常識の枠から大きくはみ出した大魔術。

一つの光弾に対して、俺が保有できる魔力量の三倍以上の出力があった。

それをこともあろうかキャスターは、同時に十発以上も放っている。

これが魔術師の名を冠したキャスターの魔術……。

 

「ふふ――」

 

しかし文は、それを躱していた。笑いながら、嘲笑いながら。

信じられないが、軽々と、いとも容易く。

 

正直に告白すると――。

聖杯戦争が始まってから、もうすぐ一週間が経とうとしていた。

その一週間で、俺の理解や常識を超えたものを数えきれないほど見てきた。

しかし、その全てをひっくるめても――。

上空で起こっている光景が、衛宮士郎の理解を最も逸脱していた。

そう信じられるほど、射命丸文の回避能力はただ事ではない。

 

それは、烏天狗の身体能力による常識外のスピードだけではない。

何と言うべきなのか。とにかく上手いのだ。

寒気がするほどに。肌が粟立つほどに。

他と比類しない身体能力から鍛え上げられた、才能と研鑽を重ねた一つの究極。

 

目にも留まらぬスピードから、一瞬で停止する。

万物全ての物体は、速度を維持するために慣性という性質がある。

高速飛行から完全なゼロにするのは、本来ならあり得ない。

あんな速度で完全に停止する力が一瞬で働いたら、身体がバラバラになる。

理外である魔術の世界であっても、その法則には抗えない。

だが、射命丸文はそんな常識をすべて置き去りにしていた。

世の理や万物の法則を無視した本来あり得ない行動を、当然のものとしている。

 

キャスターの魔法陣から、光弾雨が再び降り注いでいく。

文は、殺意を持って迫る死の雨を針の穴に糸を通す精密さで避けていた。

初めは紙一重という危うさで躱していると思ったが、実際はそうではない。

あれはわざと、自分の身体と擦れ違うギリギリの位置で回避している。

大魔術によって、肌がチリチリと焼き付くほどの距離。

そんな最小限の動きは、躱すだけではなく何か別の意図が感じられた。

あの身を焼く行為にも、何かしらの意味があるのか。

 

それは端から見ていると、光弾が文をすり抜けているようにも見える。

実際はそうではなく、外れた光弾の一部は容赦なく境内を吹き飛ばしていた。

無数の流れ弾によって、境内一帯は荒れ果てていく。

厳かな風格があった柳洞寺の境内は、今や爆撃された跡のようだった。

 

「く……! なんなの一体……! 悪い夢でも見ているの……!?」

 

キャスターが、急に攻撃を止めた。

その結果、今までが嘘のように境内がしんと静まり返る。

大魔術の行使による魔力切れか、それともこれ以上の攻撃は何の意味がないと察したのか。

 

文もまた、キャスターと同じ高さで停止し、空中で対峙する形になる。

二人の高度は上空二十メートル程度。

地上より遠く離れた上空、人の形をしたサーヴァントが向かい合う。

ある意味では、滑稽とも言える状景だ。

だが、こうして眼前に広がれば異常極まりない光景だった。

 

「……お疲れかしら?」

「言ってなさい! この烏風情が!」

 

キャスターはローブを蝙蝠のように広げ、その周囲には複数の魔法陣を浮かばせている。

用途は対象に光線状の魔術で攻撃するという、それだけのもの。

それは魔術の砲台であり、発射口はすべて対峙する少女に向けられていた。

 

文はまるで地上に立つかのように上空で静止していた。

その態度は、まさに余裕そのもの。

キャスターの魔術はただの一発も当たらずにすべて躱された。

防御をしたのも、俺を抱えていた時の一回だけ。

 

「これはもう――」

 

戦いの場に身を置くものとして、決して考えてはいけないことが頭に浮かぶ。

文の力を過信しているわけでもなく、キャスターを過小評価しているわけでもない。

だけど俺はこう確信してしまった。

――キャスターの魔術は、絶対に射命丸文には当たらない、と。

 

「火力は大したもの。それでも当たらなければ意味はないわね。とにかく弾幕が直線的過ぎる。あれなら命中する直前にちょっとだけ避ければ絶対に当たらない。いくら数を用意できても、愚直なまでに対象を狙い撃ちだなんて本当に愚か。……なんでも弾幕はブレインらしいわよ?」

 

文は自分の頭を、人差し指でとんとんと二回叩いた。

キャスターという世の叡智を超越した魔術師を小馬鹿にするように。

 

「この……!」

 

その横柄で相手を見下す振る舞いに、魔女が歯を鳴らす。

無理もない、この場で異端なのは射命丸文だ。

 

「ま、大昔に死んでしまったあなたに今の流行を言っても仕方が無いか。日進月歩。技術は常に進歩するもの。時代遅れの魔女が弾幕ごっこで私に勝てるわけもない」

「戯言を……ッ」

 

魔女の声は怒りに震えており、彼女が冷静さを失っているのがわかる。

 

「で、もう来ないの? まあ、いくらやっても無駄も無駄だけど。――では、ここらで攻守交代といきましょうか!」

 

文が葉団扇を横一文字に一振りした。

団扇から発生した風が三日月型を作り、対象を両断する刃となった。

ただ真っ直ぐに放たれるのではなく、迂回するような弧を描いてキャスターを狙う。

キャスターは、奔放自在に空を駆けた文と違って、その場所から動かない。

結果、呆気なくキャスターへ命中し、ゴムタイヤが破裂するような音が境内に響く。

 

「ア、ハハ」

 

しかし、相手は魔術師のサーヴァントだ。何も対策してないわけがない。

やはりと言うべきか、文の風の刃はキャスターの魔術障壁に容易く砕かれていた。

……いつの間にそんな障壁を展開したのか?

遠距離戦を得意とするアーチャーが相手だ。初めからと考えるのが妥当だろう。

 

「アハハハハ! 何それ? 私を馬鹿にしているの?」

 

キャスターが、文の攻撃の呆気なさに高らかに笑った。

文の風の刃は、聖杯戦争初日にバーサーカーを不意打ちでよろめかせたもの。

あの一撃の風だけでも、相当な破壊力が込められていたはず。

 

「んー。また駄目か。流石にこう続くと自信を無くしますね」

 

文が、がっくりと項垂れるようなポーズを取った。

 

「この程度の攻撃、一発や二発やられようとも何でもないわ。アーチャーのサーヴァントだというのに。フフ――お粗末なものね」

 

文の攻撃を軽くいなして、キャスターが饒舌になる。

 

「どうかしら? 今ならまだ許してあげるわよ? さっきの言葉を撤回して、私の仲間になりなさい。……もちろん、無理やりというのも嫌いじゃないのよ? あなたみたいな跳ねっ返りを強制的に服従させるのも悪くない。今ならそれも許してあげると言ってるの。素直に従うのが身のためじゃない?」

 

キャスターが自分の唇を舐めた。

フードに隠れた双眸が、文の瑞々しい肢体を舐めるようになぞっていく。

そんな視線に反応するように、今まで肩を落として項垂れていた文が顔を上げ、にっこりと笑った。

 

「願い下げです。この年増」

 

うわあ……。

文が断るのまでは予想ができていた。

だけどそんな直接的な悪態で拒否するとは思わなかった。

キャスターにとっては、禁句っぽいワードも言ってしまっている。

しかし、文はなんて気持ちのいい笑顔をしているのか。

こんな新年の朝のような晴れ晴れとした顔を見たのは初めてだ。

 

「…………な、なんですって!!」

 

言葉の意味をようやく飲み込んだキャスターが当然のように激昂した。

やはり、今の発言は禁句だったか。

文は、そんな怒りを無視して扇を正面に掲げると、キャスターを直視する。

 

「――じゃあ、リクエスト通りにその一発や二発を増やしてあげるわ」

 

そんな意味深な言葉と同時に、天狗の少女を中心にした大きな魔法陣が現れた。

五芒星の描かれた簡易な魔法陣だ。

赤い不思議な光を灯しており、下から見ても威圧感はさほど感じられない。

 

「……ふうん、それは何かしらね」

 

状況の変化にキャスターも冷静さを取り戻し、分析を始める。

誰でも描けるようなシンプルな魔法陣。だからこそ用途は無限にあった。

しかし文の言葉と意味を考えると、この魔法陣の正体は――。

 

幻想少女が自分の魔法陣の上で踊るかのように、ふわりふわりと身を翻していく。

五芒星の陣が夜に馴染んだ頃、空が徐々に歪んでいった。

 

そして、夜が爆ぜた。

 

 

 

 

無数の弾が夜を覆いつくすように、視界を埋め尽くす。

魔力を内包した赤と青の二色の弾弾弾弾弾弾――。

圧倒的に暴力的で、理不尽なまでに不条理で。

隙間も狭間も残さずに、二色の光弾が闇夜を染め上げた。

 

「――――あ」

 

もはやそれは、数えるのも馬鹿らしかった。

この瞬間だって魔法陣から次々と光弾が生み出されていく。

今はすべての弾が空中にピタリと静止しているが、それもまた文の匙加減。

 

彼女が『弾幕』という言葉を度々口にしていたのを思い出した。

これはまさに『弾による幕』だ。それ以外にどう表現しても、意味を持たない。

徹頭徹尾、完膚なきまでの、弾幕による世界の浸食。

 

「なんなのよ、それ……? そんなデタラメ……が」

 

一発一発の威力は、キャスターの魔術を大きく下回るだろう。

だが、数が違う。違いすぎる。

無限に広がる夜空の全てを埋め尽くす弾幕など誰が考えるものか。

 

「頑張って躱してみなさい。時間は一分にしておくから」

 

天狗の少女がいやらしく笑うと、空中に静止していた弾幕がキャスターを捉える。

 

「じゃあ、対戦よろしくお願いします」

 

利き手に持った葉団扇をキャスターに向けて降ろした。

その瞬間を待っていたかのように、弾幕がキャスターに向かって襲いかかった。

 

 

スピードは目で追える程度のもの。それでも数が尋常じゃない。

弾幕の動きは不規則ではなく、まるで軍隊の行進のように規律を守っていた。

夜の空に奇妙で美しい、幾何学模様を描いていく。

その弾幕はキャスターだけを狙ってはおらず、あらゆる方角に飛んでいた。

無差別とでもいうべきだが、キャスターに向かう弾幕だけでも数え切れない。

 

「だから、なんなの!」

 

弾幕の第一陣がキャスターの魔術障壁に着弾すると、ドンドンと弾けるような音を繰り返し鳴らしていく。

キャスターの張った魔術障壁は堅牢であり、びくともしない。

予想通り、一発一発にそう大した威力は込められていない。

 

「弾幕をそうやって防ぐのは幻想郷だと御法度なんですけど、ねッ!」

 

烏天狗が葉団扇を横薙ぎに振るう。

扇から放たれたのは、リング状の弾幕。複数の光弾が数珠繋ぎで一つになっていた。

たった一振りだったが、同時に五つも発生していた。

回転も加わったその弾幕は、確実にキャスターだけを襲う。速度も今までよりずっと速い。

 

リング状の弾幕がキャスターの障壁と衝突した。

その弾幕は今までよりも重く、今までよりしつこかった。

接触しても先程と違って砕けずに、電動丸鋸のように障壁をガリガリと削っていく。

同時に第二陣の弾幕も着弾して、確実にダメージを蓄積させていった。

世界最高峰の魔術障壁であっても、徐々に悲鳴を上げているのがわかる。

 

このままだと崩壊も時間の問題だった。

そんな壁一枚だけに守られるキャスターのストレスは相当なものだろう。

絶対に思えた魔術障壁も、今や烏天狗の理不尽によって食い破られようとしていた。

 

「この――! ふざけるのも大概にしなさい……!」

 

キャスターが障壁に魔力を込めると、より強靱なものになった。

リング状の弾幕も、キャスターに届かずにそのことごとくが砕かれてしまう。

だからといって安心はできない。魔法陣からの弾幕は未だ発生し続けている。

前面の魔術障壁を強化したためか、それ以外の守りが手薄になった。

 

「くっ、アーチャーはどこ!?」

 

キャスターの言葉通り、文の姿が消えていた。

視界全てを弾幕という壁に奪われていたせいで、俺も含めて見失ってしまった。

キャスターがどこか散漫とした様子で周囲を探す。しかし少女の姿はどこにもない。

 

「――あなたの上ですよ」

 

そんな声に、キャスターが反射的に見上げてしまう。

キャスターが文の姿を視界に入れた瞬間――魔女の妖艶で美しい顔に天狗の踵が刺さった。

耳を塞ぎたくなるような、人の肉体が砕ける音がした。

 

「ぐ、が……!」

 

衝撃にキャスターの飛行魔術が解けて、力なく落下していく。

意識すらも刈り取られたのか、荒れ果てた境内の上に呆気なく墜落した。

文もキャスターを追うようにして、ふわりと着地する。

 

「……敵の言葉に耳を傾けて上を向きますかね? その時間で上部に障壁を張ればよかったのに。愚かしいほどの馬鹿なんですか?」

 

足下に倒れているキャスターを少女が睥睨する。その顔には嗜虐心が滲み出ていた。

……天狗の少女は希代の魔女を、見下ろしながら見下していた。

絶対的に有利な立場にいても追撃せずに、淡々と相手の精神を逆撫でする。

 

「弾幕攻撃の途中に肉弾戦を仕掛けるのは好きじゃないんですけどね。まあ、無法には無法ということで」

 

キャスターはぴくりとも動かなかった。文の踵落としで気を失っているのだろう。

無反応なキャスターを無視して、文が俺のほうを見た。

俺と視線が合うと今までの嗜虐的な笑みではなく、にこやかに笑っている。

 

「士郎さーん、大丈夫ですかー?」

 

彼女からは何一つ敵意を向けられていないのに、俺は少したじろいでしまった。

思い出すと……ライダーを倒した直後も、彼女は瞬時に態度を切り替えていた。

 

今になって初めて気付く。

射命丸文という烏天狗の少女は、複数の顔を同時に持っている。

新聞記者としての顔、見た目通りの少女の顔、そして狡猾で残忍な妖怪の顔。

どれも隠された一面なんかではなく、それぞれの顔が隣り合っていた。

 

いつか学園の屋上で文に、乾いた目で見られたのを思い出した。

あの時、あれは何かの嘘だと思った。そう思い込もうとしていた。

でも間違いではない。あれも彼女の一つなのだ。

 

射命丸文は自分の物差しで相手を測り、その相手によって接し方を変える。

興味のあるもの興味のないもの、強いもの弱いもの。

例外としては、新聞記者の顔を見せる時だろうか。

冗談を交えつつも、その時だけは誰にも真剣でひたむきな態度を取ってくれる。

 

屋上で俺に見せた顔も、ふとした拍子に見せる別側面だった。

今はどうかわからないが、あの時の俺はあんな目で見られる程度の対象でしか無かった。

彼女に感じる恐怖の片鱗を少しずつだが、理解できた気がした。

 

「地上には弾幕が飛ばないようにしましたけど、流れ弾は飛んできませんでしたかー?」

 

離れた場所にいる俺に対して、境内に響き渡るような声を上げる。

大声で返事をする気にはなれなかったので、手を上げて無事を伝える。

 

「それは良かったですー。自分で投げといてなんですけど、そろそろ池から上がったらどうですかー? こんな季節なんですから、風邪を引きますよー?」

 

文がこちらを見ながら、ぶんぶんと両手を振るう。

文とキャスターの戦闘にすっかり目を奪われて、自分の状況を把握していなかった。

池の水にいたせいで身体からすっかり熱が奪われて、指先の感覚が既に無くなっていた。

冬の夜にずぶ濡れの状態。間違いなく命の危機だった。

 

「……これはやばい。普通に死んでしまう」

 

いい加減、池から上がらないと心臓が止まる。

ふと……文の足下で倒れていたキャスターが動いた気がした。

少女は今もこちら手を振っており、気付く様子はない。

 

「文!!」

 

俯せのキャスターの手には、歪な刀身をした短剣が握られていた。

寒さとは別の理由で、悪寒が走る。

あんな形状のものに、まともな殺傷能力があるとは思えない。

しかしあれは良くないものだと、衛宮士郎の根幹が警鐘を鳴らしている。

あの短剣の構成材質と創造理念が、普通ではないと教えてくれる。

 

「はいー? 名前だけ叫ばれても私はどう反応すればいいんですかー?」

 

文は気付かない。

驕り高ぶる天狗の少女は、人理の到達点であるサーヴァントを軽んじていた。

キャスターの歪な短剣が、無防備な少女の背中に振るわれた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

35.信頼

 

 

キャスターの短剣が文を襲う。

歪に捻じれた、異様な形。

刃も細く、武器としてはあまりに心許ない。

殺傷能力は無く、儀式用と呼ぶのが相応しいもの。

キャスターも俯せの状態であり、文の急所を狙えるとは考えにくい。

致命傷には至らず、反撃を受けるのは必至だ。

 

だが、仮にもサーヴァントが使用する武器。

しかも相手は、キャスター。

何らかの魔術的な作用を秘めていることは明白だった。

つまり、殺害に至らなくても構わないと暗に仄めかしている――。

 

短剣の切っ先を少女の下肢に突き立てようとする。

文はキャスターに気付いておらず、今も俺に目を向けていた。

 

しかし……この窮地で思う。文は本当に気づいていないのか?

あの常識破りの回避を見せた文が、こんなあっさりと攻撃を喰らう?

アサシンの刀、キャスターの魔術を躱し続けた少女の姿が脳裏から離れない。

それは、一種の信仰だった。

俺には、短刀が刺さる射命丸文の姿は想像がつかない。

どれだけ慢心しようとも彼女は、あの程度の攻撃は回避する――。

 

「残念」

 

俺のビジョンと重なったように、キャスターの短剣が空を切った。

 

「な――!?」

 

天狗の少女はキャスターを視界にすら入れずに、最低限の動きで回避した。

キャスターは怯まずに二度目を振るったが、それも届かない。

ゆっくりと振り向いて、文がキャスターを赤い瞳で捉えた。

何をするまでもなく、腕を組んだ状態でキャスターを見下ろしている。

 

「あなた……! 私に気付いてたの……!?」

「どーでしょうかねー。ンフフ」

 

ようやく立ち上がったキャスターは文を睨みつけると、短剣を尚も突き立てようとする。

肉弾戦に不向きな魔術師だが、それでも思った以上に機敏な動きだった。

これまでと違った、体重を乗せた攻撃。

あんな形状であっても、急所を狙われればただでは済まない。

 

「ふふ――」

 

文は腕を組んだまま、避けようともしない。

何を思ったのか、キャスターを制すように片足を上げた。腕ではなく足を。

 

「馬鹿にして……!!」

 

それで、キャスターが止まるはずもない。

怒りに任せたまま、文に短剣の切っ先が届く。

境内に響いたのは肉を切るものではなく、何か乾いたような音。

 

「おお! 見事命中! おめでとうございます!」

 

キャスターの短剣は、天狗の一本下駄に突き刺さっていた。

厚みのある一枚歯に攻撃を阻まれて、刃は肉を貫くには至らない。

それでも、体重を乗せた一撃だ。深く突き刺さっており、そう簡単には抜けない。

 

「よっと――少しお借りしますね」

「く……!」

 

文は足を折りたたむだけで、キャスターから簡単に短剣を奪い取った。

 

「少しばかりお待ちを」

 

文が短剣の刺さった靴を脱いで片足立ちになる。

 

「……ッ!!」

 

一見すると文は隙だらけだったが、キャスターは何もしない。

ただ、苛立っているのはわかる。

文は短剣を下駄から抜こうとしていたが、なかなか抜けない。天狗の頬が少しだけ赤くなった。

 

「いやあ、困りました。これ、かなり深く刺さってますよオホホ」

「……あなた、いつから私に気づいてたの?」

「キャスターさん……あなた、私に言いましたよね。『風を意のままに傅かせる』と。風を操れる私は、風の流れも当然読めます。その私にあなたの呼吸が読めないと思いますか?」

 

文はキャスターの質問に答えてはいるが、意識は短剣の刺さった靴に集中していた。

 

「これ本当に抜けないですね。力任せに抜くと傷が大きくなりそうですし……」

 

キャスターを一顧だにせずに、再び作業に没頭する。

……射命丸文は、相手の神経を逆撫ですることに関して超一流だった。

 

「あなたの呼吸、気絶しているにしては不自然でしたから。それに……これから誰かを突き刺そうなんて人は、余程の達人でも無い限り呼吸のリズムが乱れます。だから、こうやって察知できるわけです」

 

サーヴァントは幽体だ。

肉体は存在せず、エーテルによって編まれている。

サーヴァントに食事は不要であり、睡眠も必要ない。

それでも、呼吸だけは止めることができない。

呼吸は酸素を取り込み、体内に溜まった炭酸ガスを吐き出すためだけの行為ではない。

生前の習性が一番の理由だが、他にも身体能力や自然干渉にも影響する。

キャスターからすれば、呼吸の乱れは魔術行使にも支障が出るだろう。

文が相手の呼吸が読めるのなら、あのずば抜けた回避能力も頷けてしまう。

 

「お、抜けました。でもちょっと穴になっちゃったかな。……ではこれは一生お借りしますね」

 

下駄から抜けたキャスターの短剣を、山の方角に投げる。

天狗の剛腕によって、短剣は敷地外の円蔵山の茂みに消えてしまった。

 

「魔術師に一杯食わせるとはとんだ狸ね!」

 

キャスターは短剣が闇に消える直前に、高速神言を詠唱した。

銃の引き金を引くような速さで大魔術が発動。かつてない至近距離で光線が文を狙った。

 

「私は狸なんかじゃありませんよ! 烏天狗です!」

 

キャスターの攻撃は、完全に不意を突いていた。

文は詠唱後のタイミングで葉団扇を薙ぐ。

文の前に竜巻が発生して、一瞬で光線を飲み込んでいく。

竜巻に触れると、質量を持たない魔力が散り散りに拡散してしまった。

 

「ふむ。魔力を逃がすだけなら、これぐらいで十分ですね」

「……これでも駄目なのね。憎たらしい」

 

キャスターは、文の対処に恨み言を吐く。

だがその結果を予想していたのか、すぐに平静を取り戻していた。

 

「どーしますか? これ以上やっても無駄ですけど?」

 

首を可愛らしく傾げて、キャスターに尋ねる。

それは事実上、射命丸文の勝利宣言だった。

 

 

「……悔しいけど、今の材料だけじゃあなたを倒しきるのは不可能みたいね。魔術師がホームでいいように負けるなんて洒落にならないわ。……そこで提案があるんだけど、どう?」

「……怪しい宗教の勧誘なら、お断りしますけど」

「勧誘じゃなくて、提案よ。そうね。聖杯戦争の情報を私の知る限り提供するから、今回は見逃す気はない?」

 

思いがけないキャスターから提案に、文が傾げた首はそのままに顎に手を置く。

 

「……魔術師との取引ですか。……あまり気が進みませんね。しかし『情報』という言葉は、いつ聞いても甘美な響きです。うーんうーん、どうしようかなー。……あっそうだ」

 

文が良からぬ何か思いついた顔でこちらを見た。

 

「士郎さーん!! どうしましょうかー!? さくっとやっちゃいますー?」

 

文が俺に意見を求めて大声を上げた。

何もせずに、池の側でぼけっと立ち尽くしていた俺に。

文が俺に求めている判断――。

それは、キャスターを殺すかどうかの判断だった。

 

犠牲者を減らすには、聖杯戦争をすぐに終わらせなくてはいけない。

俺は手を血に染める決意はできている。正義の味方という名の人殺しだ。

だからといって、柳洞寺の人たちを手にかけていないキャスターを殺してもいいのか――。

 

「…………?」

 

枯れ木――。

目の前に枯れ木があった。

まったく気づかなかった。いつの間に……?

 

……いや、違う。

これは枯れ木なんかじゃない。

一切の気配を感じさせない、生きているかどうかも怪しい。

そんな枯れ木のような長身痩躯の男の姿。

俺は今まで気付かずに、あの文ですら感じ取れずに。

闇に紛れた男の姿は、さながら幽鬼のようであり――。

 

「が……!」

 

もう、遅かった。

幽鬼の放つ拳が、俺の腹部に突き刺さる。

突き抜ける衝撃は、本当に背中まで貫通したようだった。

 

 

 

 

「葛木、先生――?」

 

肺に残された空気が、最後にそれだけを紡いだ。

くたびれた深緑のスーツを着込んだ男は、間違いなく葛木宗一郎だった。

まさか、先生がキャスターのマスターだとでもいうのか――?

いや、あいつはキャスターだ。傀儡のように操られている可能性も。

このまま何も確認もせずに、攻撃はできない。

もっとも俺はあまりの苦痛に攻撃どころか、呼吸すらままならない。

 

「あ……ぐ」

 

痛みに喘いで数歩よろめくと、今度は後頭部を肘鉄が抉る。

目の奥に火花が散った。

容赦の欠片もない連撃は、相手の命を奪うのに何の躊躇もない。

後頭部の一撃で失いかけた意識――それは、次の横隔膜への膝蹴りで強制的に覚醒させられる。

そのまま腕を取られて、砂利引きの地面に押し倒された。

 

「がはッ!!」

 

意識を失わずに済んだのは、幸運だった。

敵の前で気絶する真似なんて、絶対にしてはいけない。

意識を覚醒させるため、舌を噛み切る準備もできている。

苦痛で停止寸前だった肺を無理矢理働かせ、体内に酸素を取り込む。

狭まった気管から、ひゅーひゅーとか細い呼吸音。車に轢かれた野良犬のようだった。

 

「士郎さん!?」

 

文も今まで葛木先生……いや葛木宗一郎の存在を察知できていなかった。

珍しく焦燥を覚えた文が駆け出したが、魔女が予定調和のように道を塞ぐ。

 

「駄目よ、駄目駄目。あなたはそこから動いちゃいけないわ」

「……キャスター、そこをどきなさい。――どけ」

 

聞き違いかと思ったが、文の口から出たのは明確な殺意を孕んだ声だった。

激情に飲まれるわけでもない、底冷えするような冷酷さ。

 

「宗一郎様があの状態の坊やを始末するのに数秒も掛からないわ。あなたが坊やの元までは一秒も掛からないでしょうけど、それは私が邪魔をするもの」

 

駄目だ文……。そいつの口車に乗ってはいけない。

 

「フフフ、あなたでも私を殺すのに数秒で足りるかしら? その頃には確実に坊やは死んでるわね。命が惜しいのなら、そこでじっとしていなさい」

「…………」

 

文は両手を下ろして、キャスターに無防備な姿を晒す。

その文らしからぬ態度に満足したのだろう、魔女は声に出さずに笑った。

……俺はもういいから、キャスターを倒してほしい。これ以上、文の足を引っ張りたくない。

 

「……キャスター。衛宮をどうする? 殺すか?」

 

抑揚のない話し方。

葛木宗一郎という男は寡黙だった。俺の知っている葛木と言って間違いない。

それにキャスターとの遣り取りを考えると、こいつは操られているとは思えない。

 

「宗一郎様、申し訳ないですけど坊やを始末するのは少し待ってもらえますか? このアーチャーをどうしても手に入れたいので」

「ああ、わかった」

 

葛木が倒れる俺の腕を更に捻り上げて、逃げられないように拘束する。

 

「…………ぐうう!」

 

あと数ミリでも腕を捻られたら、関節が外れてしまうギリギリだった。

……逃げる以前に立ち上がるのもままならない状態。

これは文が変な動きをしたら、すぐにでも俺を殺すというアピールだろう。

キャスターは俺の醜態を満足そうに一瞥して、再び文の方を向いた。

 

「……あなたはマスターの存在を軽んじているのね。もし付け入る隙があるなら、ここだと思っていたわ。聖杯戦争を戦うのはサーヴァントだけど、マスターも参加者なの。それをただの足手纏いにしか思っていないようじゃ、どのみちどこかで負けていたわね」

 

キャスターは、冷たい手で文の頬に触れる。

それでも文は、キャスターではなく俺だけを見つめていた。

 

「……アーチャー、天狗は仲間を大切にすると言ってたけど、それは相互に信頼を寄せてこそ。動物を飼うような一方通行の関係ではないの。マスターを一度でも頼ったことはある? フフ、あるわけないわよね。あなたの坊やに対する扱いはとても仲間とは言い難いわ」

 

文は反論せずに無表情のままで、拘束された俺を見る。

そんな少女の顔を見ていると、どうしようもない罪悪感が込み上げてくる。

 

「…………くそ」

 

キャスター、お前の言っている言葉は全部間違ってる。

遠坂やイリヤと違って、俺はマスターとしても魔術師としてもちっとも優秀じゃない。

こんな状況に陥ってしまって文を困らせているのが、何よりの証拠だ。

でも文は、こんな俺の意見をいつだって尊重してくれた。

ライダーを倒した時だってそうだ。そして今だって……。

それこそが、お前の言っている信頼じゃないのか――?

 

「フフフ、これで形勢逆転――!?」

 

そう勝ち誇った時、キャスターの姿が轟音とともに消えた。

 

 

 

 

一体、何が起きたのか?

瞬きの暇もなくキャスターが境内から掻き消えてしまった。

それに答えてくれたのは――第三者の甘い声。

 

「――それ壊れちゃったから、あなたにあげるわ」

 

子供特有の無邪気さと残虐性が混じった、アンバランスな声の主。

正門付近に見覚えのある大小二つの人影。

見紛うはずもない巨漢の正体はバーサーカーであり、傍らの少女はイリヤスフィール。

 

「イリヤ……!」

 

間髪入れずに再び轟音が境内に響く。柳洞寺の一角を何かが破壊した。

ふと、バーサーカーが斧剣を持っていないことに気づく。

今まで斧剣を持っていた腕は、張り詰めた力を解放したように震えていた。

バーサーカーが斧剣をキャスターに目掛けて投擲したのだ。

アサシンに両断されたとしても、巨人の強腕によって投げられた斧剣の破壊力は想像に難くない。

 

「クスクス。キャスター程度じゃ数秒いらなかったわね。あなたの召喚したアサシンのほうがよっぽど手強かったわよ」

 

イリヤが嗜虐に口を綻ばせている。

彼女がここにいる意味――アサシンはバーサーカーに倒されたのだ。

 

「文は……!?」

 

それよりも今は文だった。彼女は無事なのか?

文はキャスターと手の触れ合う位置にいた。平気なはずがない。

 

「…………し、心臓が止まりかけました……」

 

彼女のいた方角を見ると、地面にぴったりと張り付いている文の姿があった。

ものすごい格好だったが、怪我もなさそうで安心する。

投擲された斧剣に巻き込まれる直前、体勢を最大まで低くして避けたのだろう。

彼女の反射神経なら十分に可能だ。

 

「ふう。今のはヒヤッとしましたね。……相変わらずイリヤさんは容赦ないです」

 

未だに潰れたままの姿勢でイリヤに話しかける。

 

「アヤもよく避けられたね。フフ、とっても恥ずかしい格好だけど。……でもピンチのところを助けてあげたんだから、少しぐらい感謝したらどうなの?」

「ありがとうございます。イリヤさん」

 

地面から跳び上がり、服に付いた埃を叩いてから、ぺこりと頭を下げた。

予想とは違う反応だったのか、イリヤが驚いている。

 

「……意外と素直なのね。皮肉の一つでも返されると思ったからちょっとだけ驚いちゃった」

「清く正しい射命丸ですから。まったく失礼な反応ですね」

 

いつの間にか、拘束されていた身体が軽くなっていた。

倒れた姿勢のまま首だけ後ろを向けると、葛木の姿がいない。

この短時間で、どこに行ったのか……?

 

「士郎さん、大丈夫ですか!?」

 

文がほんの一瞬で俺の側まで移動していた。もういちいち驚いてもいられない。

未だに倒れたままでいる俺に手を差し伸べる。

 

「ああ、ありがとう」

 

大丈夫とは言える状態ではないが、これ以上格好悪いところは見せたくなかった。

 

差し伸ばされた手。

普段はブン屋としてペンを握る手。そしてライダーの胸を貫いた腕。

俺は躊躇うことなく、差し伸ばされた手を力強く握る。

 

「それならよかったです。とても心配しました」

 

文が笑ってくれた。

いま握っている温かい手は、間違いなく女の子のものだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

36.天狗と少女と狂戦士と

 

「ぐ……」

 

葛木にやられた傷が、冷え切った身体に熱を持って痛む。

人のものとは思えない鋭い打撃だったが、幸い骨や内臓には損傷はなさそうだ。

おそらく、利用価値が不明なうちは死なないように手加減をしていたのだろう。

それでも、立つのもやっとなのは変わらない。暫くの間、まともに歩くのも難しそうだった。

 

俺と文の前に立ち塞がる、イリヤとバーサーカー。

文は無傷であり、大きな魔力の消耗もしていないだろう。

だが、問題は俺だ。

このまま戦闘に入れば、キャスターの時と同様に文の足を引っ張ってしまう。

今だって俺を庇うように一歩前に出て、イリヤたちと対峙している。

何もできない自分が、つくづく情けない。

 

……キャスターの姿は、どこにも見当たらない。

バーサーカーが投擲した斧剣によって、キャスターは柳洞寺の外壁に巻き込まれた。

それで消滅した可能性もあるが、欺計に長けたサーヴァントだ。

あのままやられたと考えるのは、少し早計なのかもしれない。

それにマスターである葛木も姿を消しており、今もどこかで身を潜めている。

 

「アサシンは死んだわ。バーサーカーの命を一つも奪うことなくね。でも強かった。これまで戦ったサーヴァントの中で一番だった」

 

あの剣鬼は、最期までバーサーカーに臆さずに剣を振るったのだろう。

死の瞬間であっても、あの涼しげな表情を崩さずにいたのは容易に想像できる。

 

「キャスターはしぶとく生きているけど、霊核に致命傷を負ったから、時間の問題。夜明けを待たずに消滅するわ。柳洞寺に張られた結界も消えたし、マスター共々どこかに雲隠れしたみたい。……どうせ死ぬなら玉砕覚悟で掛かってくればいいのにね。フフ」

 

そう言うイリヤは、キャスターのことなどどうでもよさそうな口振りだった。

俺たちを見ている視線が熱く、鋭くなる。待ち焦がれていた獲物を捕らえたように。

 

「そしてここに残るのはわたしたちだけ。それがどういうことか説明しなくてもわかるよね。シロウ、アヤ。一切の慈悲も容赦も無く、バーサーカーがあなたたちを潰すわ」

 

イリヤスフィールが、俺たちに宣戦布告をする。

彼女は本気だった。本気で俺たちを殺す気だった。

迷いなんて、一つも存在しない。

イリヤは昼の時点で別れを済ませて、覚悟を決めている。

俺たちとの馴れ合いは、あの時に終わってしまった。

 

「…………」

 

だが、俺はどうだろうか?

自らの正義のために誰かを殺す覚悟はできている。当然殺される覚悟も。

そう信じていながら、俺はイリヤを殺せるのか?

俺の中で彼女は良き友人と言っても良い。魔術回路を開けてもらった恩もある。

 

あの無垢な顔を向けてくれた少女を、正義の名の下に殺せるのか?

俺では、バーサーカーに勝てるはずもない。狙うのなら必然的にイリヤになる。

彼女の実力は未知数だが、魔力の保有量なら遠坂以上だ。

仮に倒せる力があったとしても、とどめを刺せなければ勝てないのと同じ。

絶対的な実力不足に、生半可な覚悟。

これでは、イリヤたちに殺してくれと言っているようなものだった。

 

深く深く、深呼吸をした。

そして、あの白くて細い首を締め上げる自分の姿をイメージする。

 

――――吐き気がした。

 

……自分が他の人とは、どこか致命的にズレているのは気付いていた。

それでも、あの雪の少女を手に掛けてしまえば、俺の中の決定的な何かが壊れてしまう。

慎二の時もそうだった。

俺は、未曾有の凶行に走った慎二を殺せなかった。

代償として、多くの学園の仲間が死んでしまった。

それは間違いなく、慎二を殺せなかった俺の責任だ。

俺の理想に殉じようとする覚悟は、その程度のものだったのか。

 

切嗣から託された理想を、一度も疑ったことはない。

だけど聖杯戦争が始まり、俺の目指すべき理想は現実との齟齬が生じている。

それは、衛宮士郎のアイデンティティを覆しかねない問題だった。

生涯全てを捧げると誓った理想を疑ってしまったら、俺は俺ではなくなってしまう。

 

しかし、どうあっても俺にあの少女を殺せるはずがない。

だから、彼女に一度尋ねよう。彼女にとって『何のための聖杯戦争』なのか、と。

それが自分を誤魔化すための言い訳だと理解した上で。

 

「……一つ確認したい。イリヤは聖杯を手に入れてどうするつもりだ?」

 

何の脈略のない質問に、少女がきょとんとした。

 

「……なんでそんなことを聞くのかわからないけど、シロウの頼みだもの。少しだけ教えてあげる」

 

それでも俺の真剣さが伝わったのか、躊躇いながらも答えてくれた。

 

「アインツベルンは、聖杯そのものが目的よ。願望機としての聖杯には興味も関心もないの。……聖杯を求める姿勢は妄執と言ってもいい。長い間、聖杯だけを求め続けてきたら、手段と目的が入れ替わったのね」

 

重要な箇所がいくつ抜けていたが、わかったこともある。

イリヤは、願望機としての聖杯は必要としていない。

そして、それが俺にとって最も重要な答えだった。

つまり、アインツベルンは聖杯を悪用する気はない。

遠坂や言峰の話が本当なら、聖杯は使いようによって世界を滅ぼしかねない代物だ。

慎二のように聖杯戦争で誰かを傷つけない限り、俺はイリヤと争う理由がなくなる。

だけど――本当にそれでいいのだろうか?

 

「士郎さん、どうしますか?」

「え?」

 

文が俺に何かしらの決断を求めていた。

 

「何を寝ぼけた顔してるんですか。この場でイリヤさんと戦うかどうかですよ。私はまだまだ戦えます。……あれに勝てるかどうかは別ですけど」

 

バーサーカーと睨み合う文は、いつもの余裕がないようにも見える。

無理もない。ヘラクレスの『十二の試練』によって十一もの命のストックがある。

それをこの場ですべて奪わなければ、バーサーカーを倒し切れない。

遠坂たちが削った命のストックも、この数日で無かったことにされてしまった。

その時点で、これまで遭遇したサーヴァントとは一線を画している。

 

聖杯戦争は、サーヴァントと魔術師によるバトルロイヤルだ。

ここで戦わない選択をしても、イリヤとはいずれは戦わなければならない。

他のサーヴァントに期待するのは、あまりに惰弱で甘い考えだ。

イリヤと戦う理由もなく、勝算も極めて低い。

ここは本来ならば、逃げ出すべきだった。文の力ならそれも可能のはずだ。

 

「…………」

 

ふと、昨晩の事を思い出す。

『お父様』と夢のなかで泣きながら父親を求めるイリヤの姿。

あの時の寝顔は、あどけない少女そのものだった。

イリヤの父親が誰か知らないが、どんな親であっても子供にこんな真似はさせたくないはず。

やはり、このままではいけない。

理想の話ではなく、俺自身がイリヤにこれ以上戦って欲しくなかった。

あの雪の少女が、こんなくだらない殺し合いに関わっちゃいけない。

 

「――戦う。こんな殺し合いにイリヤみたいな女の子が関わるのは絶対に間違っている。イリヤに誰かの命を奪わせるわけにはいかない。ここで止めさせてみせる」

 

イリヤが驚いてた。

俺の言葉がどうやら意外だったらしい。文もまた目を見張っている。

 

「へえ、驚いた。やる気なんだ。お兄ちゃんのことだから命乞いはしないにしても、わたしをまた説得するんじゃないかと思ってたわ」

「同感です。士郎さんの小っ恥ずかしいご高説が始まるかと思いました」

 

文とイリヤが同調するように「ねー」と頷く。……なんか調子狂うな。

やはりこの二人は仲がいい。というよりも、嗜好と考え方が少し似ているのかもしれない。

 

「イリヤが、そこまでして聖杯戦争に固執する理由はわからない。だけど聖杯戦争に参加する信念は本物だと思う。そんな信念なら俺が何を言ってもイリヤの心には響かないし、届かない。だからここは力ずくでもイリヤを止めてみせる」

「あははは。だから大好きだよ、シロウ。――お姉ちゃんも誇りに思うわ」

 

雪の少女が本当に嬉しそうに笑っていた。

……これから俺たちは戦うのに、どうしてそんな顔で笑っていられるんだ。

 

「はい、わかりました。私、射命丸文も士郎さんの意に従いましょう」

 

声を上擦らせながら、文もまた応えてくれた。

バーサーカーと向き合うと、先程見せた弱気な姿勢はおくびにも出さない。

その表情は、イリヤと寸分違わず同じもの。声も歓喜によって震えた。

 

「バーサーカー!! アヤを殺しなさい!!」

『■■■■■■■■■■――!!!』

 

静謐な境内に、大きな雷鳴が轟くような狂戦士の咆吼。

そんな粗暴な戦いの鐘によって、静まり返った境内が再び戦場と化した。

 

 

 

 

先に動いたのは、文だった。

風の刃をバーサーカーに向かって放つと、同時に自身も巨人へ駆け出した。

先遣する刃が巨人の頭部に命中するが、巨人はまったく怯まない。

石柱のように巨大な腕を振い、文を迎撃する。

 

今のバーサーカーは無手だ。それが文の勝機になる。

そうであっても、バーカーカーの膂力から繰り出される拳。

どこに命中にしても、致命傷になってもおかしくない代物だ。

 

文は速度を緩めず、紙一重で巨人の拳を躱す。

完全に回避したはずの打拳は肩を裂いて、肉を抉った。

 

「…………」

 

しかし文は、そのダメージの一切を無視する。

スピードを落とさないまま、バーサーカーの眼前で跳ね上がった。

 

「しっ!」

 

弧を描くように巨人の顎を蹴り上げた。脳を揺らす鋭い一撃で、巨人は僅かに硬直する。

その一瞬を利用して、文は巨人の伸ばされた腕を足場に蹴撃を重ねていく。

 

「――――!」

 

バーサーカーの剛腕が文の蹴り足を掴み取った。頭部へのダメージをものともしないように。

巨人が文に向かって、ニヤリと笑いかけた――ように見えた。

抜け出す暇も与えずに、バーサーカーは腕を大きく振り上げ、文を地面へと叩き付ける。

 

文は風を圧縮したクッションを地面に作り出し、衝撃を和らげようとした。

それだけでは勢いを殺せないと悟ったのか、文は両腕を地面に向けて受け身の体勢を取った。

腕が地面に接触した一瞬、少女の身体はこともあろうか上空に飛び上がった。

両手からゴムのような高圧縮の風を出現させ、力の向きを変えたのだ。

バーサーカーの力を上方向に逃がしたため、弾けるように空へと投げ出された。

 

文は翼を羽ばたかせて、スタート地点に着地した。

肩口の破れた箇所から血が流れているが、それを無視してバーサーカーを見据えた。

焦りはない。アドレナリンが表情を歪ませ、声を出さずに笑っていた。

 

「私の足を掴んでおきながら解放したのが間違いね。やはり狂戦士、おつむが少々足りないわ」

 

イリヤを挑発してみせるが、少女のバーサーカーに対する自信は絶対のもの。

そんな挑発は気にもせず、夜風に靡く髪を押さえていた。

 

「だけど、私の風が完全に無効化されるとは思わなかったわ。以前はダメージが無いにしても怯ませるぐらいはできたのに、どーゆうカラクリ?」

 

イリヤが自信に満ちた表情で、耳に掛かった銀髪をかき上げた。

 

「ふふん、それは秘密。……でも少しヒントをあげる。『十二の試練』は命のストックを増やすのと、高ランク以外の攻撃を無効化する以外にもまだ隠された能力があるわ」

「……それは重畳。やりがいがあるわね」

 

風の攻撃が同じように通用しなかったのは、バーサーカーの宝具によるものらしい。

それなら文の使う風はすべて『十二の試練』の力で、無効化されてしまうのか?

 

「フフ。アヤ、あなたは本当にバーサーカーに勝てるつも――?」

 

少女が突然、話すのを止めた。

 

「……イリヤさん、どうかしましたか?」

 

文が何かしたわけじゃなさそうだ。口調もいつもの敬語に戻っている。

イリヤは勝気な表情を崩して、今も事態を必死に飲み込もうとしている。心なしか顔色も悪い。

 

「……ウソ、もうランサーがやられたの? この短時間で二体のサーヴァント……。ううん、キャスターを入れれば三体になる。これでアヤも入れたら四体。……まずいかも」

「ランサー……?」

 

イリヤは、自分に言い聞かせるように呟いていた。

ランサーとは初日に遭遇しただけだったが、あいつには何度も殺されかけた。

実際、学園の廊下で、深紅の槍に貫かれて一度殺されている。

……そのランサーが誰かに倒された?

イリヤが俺たちを見据えると、程なくしてバーサーカーの戦闘状態が解除された。

少女の視線は冷酷なものではなく、信じられないほど弱々しいものだった。

 

「ごめんなさい。シロウ、アヤ。今日はこれ以上戦えなくなっちゃった」

 

イリヤが本当に申し訳なさそうに俺たちに謝る。眉も下がり、何かに縋るような表情だった。

何かを企んでいる様子もなく、心の底からの謝罪だ。

それにイリヤという少女は、俺たちを嵌めるような奸計を企てるタイプじゃないのは理解していた。

理解に苦しむ俺と文は顔を見合わせるが、それだけで事態の把握はできない。

 

「はて? いきなりどうしたんですか? それにランサーがやられたというのは?」

 

すっかりいつもの調子に戻った文がイリヤに質問をする。

 

「キャパシティの問題なの。時間を空ければ問題ないけど、たった数時間で四体ものサーヴァントを取り込んだら、その場で機能停止になりかねないわ。……ランサーがやられたのは本当。それもたったいま起きたこと」

 

ランサーが誰かに倒された以外は要領を得ない言葉だったが、イリヤの顔を見るに深刻な事態のようだ。

 

「主語を使わないことで回答をぼかしているようですが……いいでしょう。私は手を引いても構いません。……士郎さんはどうですか? マスターであるあなたに一任します」

 

実際に戦うのは文であって俺ではない。ここで何か言える立場でもなかった。

それに、イリヤの申し訳なさそうな顔を見ていると、手前勝手な義憤も落ち着いていく。

 

「……ああ、俺も構わない」

 

俺と文の言葉に、イリヤがホッとしたように笑みを浮かべた。

胸に手を置く姿は、年相応の少女にしか見えない。

 

「我儘を聞いてもらって、本当にごめんなさい。でも、明日――明日必ず殺してあげるわ」

 

それだけ宣告すると白の少女は頭を下げて、黒い巨人と共に去っていった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

37.夜に抱かれて静かに眠る

 

 

夜明けまでには、まだ時間がある。

 

イリヤとバーサーカーが去り、柳洞寺には俺と文の二人が残された。

キャスターの魔術から解放された一成や寺に住む人たちも、夜明けと共に目を覚ますだろう。

荒れ果てた境内を見て心を痛めるだろうが、誰かが死ぬよりかはずっといい。

その後は、聖杯戦争を監督する言峰綺礼が事後処理をしてくれるはずだ。

 

イリヤ曰く、ランサーは死んだという。

残るサーヴァントは、アーチャー、キャスター、バーサーカー、セイバーの四騎。

消去法で、この場にいなかったセイバーがランサーを倒したのだろう。

キャスターも今も生きているが、時間の問題だと言っていた。

そうすると、残るサーヴァントはたった三騎。聖杯戦争の決戦は、すぐそこまで近づいていた。

 

「う、ぐ……」

 

緊張の糸が切れたのか、意志に反して体が崩れ落ちてしまう。

四肢に力が入らず、このままだと倒れてしまいそうだった。

こんな冬の深夜に身体を濡らしたのがまずかった。

葛木から受けたダメージも深く、体温が徐々に抜けていくのがわかる。

俺は、もはや立っていられないほど消耗していた。

結局俺は何もせず、足を引っ張り、ただ無様を晒しているだけ。

 

サーヴァントではない人間の不意打ちで、こうも容易くやられてしまった。

この聖杯戦争の最中、何度もサーヴァントと遭遇した。

その度に彼らの実力に震撼して、自らの弱さが浮き彫りになっていく。

そしてサーヴァント以前に、徒手空拳の相手にも何もできない体たらく。

 

……何年にも及ぶ、命懸けの魔術の鍛錬に何の意味があったのか。

これまでの戦いで、一度だって役に立っていない。

今は情けなく、勝手にやられて地面に膝を突こうとしている。

……こんな姿、爺さんには到底見せられない。つくづく救えない。

 

「おっと、大丈夫ですか?」

 

崩れ落ちようとする身体を、誰かが優しく支えてくれた。

艶やかな黒髪が鼻先をくすぐると、俺と同じシャンプーの匂いがした。

その匂いに混じった、女の子の甘い香り。

 

「…………」

 

今になって気付く。

イリヤに戦いを止めさせるため、俺は彼女を矢面に立たせていた。

俺は後ろに立って傍観しているだけ。戦える力がないのを言い訳にして。

――なんて矛盾。

自分がどれだけ恥知らずな存在なのか理解してしまう。

 

「……なあ、文。俺は間違っていると思うか?」

 

少女の小さな肩を借りて、冷え切った身体で何とか歩く。

 

「はい? 何がです?」

「俺はイリヤに戦って欲しくないと思った。それは偽りのない本心だ。……なのに俺はこうして文にだけ戦ってもらっている」

 

改めて言葉に出すと、自らの欺瞞に吐き気がしてくる。

イリヤという女の子に戦ってほしくないのに、俺は文という女の子を戦わせてしまっている。

それは、理想から大きく乖離した矛盾と欺瞞に満ちていた。

 

「はあ……」

 

文が少し落胆したように溜息を吐いた。

 

「そんなつまらないことで悩んでたんですか」

「つまらないことはないだろ。俺だって……」

「失礼」

 

文がいつかのように、指先を俺の口に置く。

これ以上は話すなと言いたいのだ。

 

「私を士郎さんの物差しで測っても意味がありません。あなたが想像する以上に私という存在は老成しています」

 

自分は見た目以上に大人だと言いたいのだろう。

彼女は、人間ではない。

少なくとも可憐な見た目に反して、俺よりも年上なのは間違いなかった。

 

「例えば、イリヤさんも私と同様に見た目よりもずっと大人です。ですが、まだ間に合います。何にでもなれます。だから彼女を止めようという士郎さんの気持ちは多少なりとも理解できます」

 

イリヤは時折、俺よりも大人びて見える時があった。

それでも彼女は、まだ子供だ。

あの雪の少女を、心の底からこの馬鹿げた戦いから解放したい。

 

「それに比べて私は心が完成してしまった。感受性も落ち着いて、感情の起伏もすり減ってしまった。士郎さんは直感でそれを感じ取ったんでしょう。だから私を戦わせるのは、何も間違いじゃないですよ」

 

理屈はわかる。だけど感情がそれを許さない。

無理強いじゃないにしても、俺は文を戦わせている。自分は一切動かずに。

俺に戦う力がないなんてただの言い訳にしか過ぎない。それに――。

 

「文だって、イリヤと同じ女の子だ」

 

ピタリ、と。

文が歩くのを止めた。

 

「――あまり天狗を舐めるなよ、人間」

 

初めて聞くその声に、寒さで震えていた身体が本当の意味で凍てついた。

文の見開いた赤い瞳孔が細くなり、俺という獲物を捉える。

呼吸が止まる。

指先一つ動かすことも、目を逸らすことも、そして呼吸さえも許されない。

この瞬間に少しでも変な動きを見せれば、俺は絶対に殺される。

 

脳裏に浮かぶのは、恐怖と畏敬。

どんな理不尽であっても、弱者は強者に喰われる。

弱いのは、それだけで罪。弱肉強食という原初にして絶対の摂理。

ヒトの遺伝子に刻まれた、単純で最も明確な捕食の恐怖。

……俺は、彼女を本能から畏れていた。

数秒が無限にも思える緊張。その時間、俺は恐怖の虜だった。

 

「つまりは、そーゆーことですよ」

 

目の前の存在が顔に笑みを貼り付けた。緊張が嘘だったかのように解かれる。

 

「私が言うのもなんですが、見た目に騙されちゃいけません。アサシンの言葉を借りるのは癪ですけど、私は『人の皮を被った物の怪』です。今のあなたはそれを感じ取ったでしょう? ……これで理屈と感情の両方で理解ができたかしら?」

 

思い出したかのように、胸がドクドクと鼓動を打った。

ひょっとしたらあの瞬間……俺の心臓すらも凍り付いていたかもしれない。

 

仮初めではあったが、文に初めて向けられた敵意。

こんなのは、普通の人間が耐えられるプレッシャーじゃない。

射命丸文という妖怪は、英雄や英傑でなければ立ち向かえない存在だ。

俺のような出来損ないの魔術使いとは、そもそもとして立っている舞台が違っていた。

 

「俺が爺さんから託された理想は、何も間違ってないよな……」

 

ふと漏れてしまった弱音という本音。

俺は文の過去を夢で見ていた。

直接聞いたわけではないが、彼女も俺を夢で見ているはずだ。

こんな事を誰かに訊くなんて俺も相当参っている。

 

「そんなの知りませんよ。自分の夢を他人に預けないでください。私ではなく、あなた自身の夢でしょう? 士郎さんの思うまま、悩み苦しみ、最後までやりたいようにやってください」

 

まったくもって、その通りだった。

俺は、彼女になんと言ってほしかったんだ?

慰めて欲しかったのか? 罵倒して欲しかったのか?

何を言われようが、最後に決めるのは自分だけ。

他人に何かを言われて揺らぐような理想なら、掃き溜めにでも捨ててしまったほうがいい。

 

俺の理想は、文からすれば知ったことじゃないし、関心の及ぶものではない。

それでも否定も肯定もされなかったのは、文なりの優しさだったのかもしれない。

 

「ああ――そうだな」

 

納得した。

俺の理想が二律背反の板挟みだとしても、俺は自分を曲げるのはもう嫌だ。

誰かを救いたいという考えは、決して間違いなんかじゃない。

どんな欺瞞を抱えようとも、この願いが尊いものなのは変わりがない。

 

「帰りましょうか。こんな濡れ鼠のままじゃ風邪を引きかねません。私はそれが一番心配です」

「……ありがとう」

 

文は屈託のない笑みを向けて、預けた身体を支え直してくれる。

俺たちは再び前へ向かって歩き出した。

 

 

 

 

衛宮士郎が柳洞寺を去ってから、数時間が経過していた。

 

そんな空が白み始めて、夜明けを迎えようとした頃。

キャスターを抱えた葛木宗一郎が、鬱蒼とした山の中を走っていた。

キャスターのフードが脱げて、眉目麗しい素顔を晒している。

しかしその美貌は苦悶に満ちて、荒い息を繰り返す。

胸部の大きな傷は出血が止まらずに、点々と大地に続いていた。

 

円蔵山の中腹にある柳洞寺は、未開拓のルートが多い。

単純に行くだけなら、柳洞寺まで続く長い石段を使えばいいだけ。

だが宗一郎はキャスターを抱えて、木々が生い茂る未開のルートを突き進んでいた。

そんな薄暗い闇のなかで、淀みなく山の中を走り続ける宗一郎の健脚は並外れていた。

 

キャスターがバーサーカーにやられた後、マスターである宗一郎は柳洞寺で息を潜めていた。

キャスターを抱えて、息を殺して、戦いが終わるのを待っていた。

瀕死のキャスターを抱いた状態では、それはとても拙いもので。

仮に射命丸文とイリヤスフィールのどちらかが探していたら、すぐに見つかっていただろう。

だが二体のサーヴァントは、キャスターの存在を歯牙にもかけていなかった。

取るに足らないもの。無価値のもの。どうでもいいもの。

言葉をいくら飾ったとしても、文とイリヤの二人にとって、キャスターはその程度の存在でしかなかった。

……死を待つだけのキャスターに取って、それは僥倖と言えたのだろうか。

 

そして少し明るくなるのを見計らって、二人は下山を試みた。

目立ちやすい石段は使えない。他のサーヴァントが張っている可能性がある。

今にも消滅しそうなキャスターが、サーヴァントと遭遇するのは確実な死を意味する。

ならば危険を冒してでも、空が明るくなるのを待って獣道から下山した。

 

「……宗一郎様、私を降ろしてください」

「…………」

 

この時、キャスターは走り続ける宗一郎の身体を気遣ったわけではない。

この男は、暗く足場の悪い道をずっと同じペースで走っている。

キャスターの危惧したのは、このまま自分と一緒だと宗一郎の身にも危険が及ぶということ。

 

(ああ、本当にこの人は……)

 

宗一郎は、キャスターの命を救ってくれた恩人だった。

その献身は、キャスターの命だけではなく、心までも救ってくれた。

裏切りの魔女と罵られ、恐れられたメディアであっても。

恩人である宗一郎を、これ以上危険に晒す真似はしたくなかった。

 

宗一郎は答えなかった。

もともと口数の少ない寡黙な男だった。

それでも、必要な言葉は間違いなく伝える男だった。

 

「霊核に傷を負ったので、どの道もう駄目です。ですので、ここで私を捨てるのが最善でしょう」

「黙っていろ。舌を噛むぞ」

 

宗一郎はキャスターと視線も交わさず、無表情のままで、それだけを答えた。

キャスターはそれ以上なにも言わなかった。だけど心は満たされていた。

もしこの場を離脱できたとしても、キャスターには緩やかな死が待っているだけ。

何があっても訪れるのは、確実な絶望。

だけど――だけど今だけは、宗一郎の胸に抱きかかえられる幸せを享受しよう。

 

心からお慕いする殿方の胸の温かさに幸福を覚えるなんて――。

キャスターは、少女じみた自身の感性に驚きつつも、口元がだらしなくなるのを止められなかった。

 

 

 

あと少しで山を抜けようとするところで、宗一郎が静かに足を止めた。

木々が不自然に開けた中心に、一人の男が立っていた。

 

「――待ちくたびれたぞ、雑種」

 

黒のライダースーツを着た若い風体の男だった。

こんな山のなかでは、あまりに不自然な存在。

しかし力ある者であれば、一目で只者ではないのはわかる。

 

「あなた、何者?」

 

男は肉体を持っていたが、彼の放つ存在感は人間のそれではない。

体躯はバーサーカーより遙かに劣る金髪の優男だったが、存在感だけは巨人を凌駕していた。

信じられないが、ただ目の前にいるだけで、へりくだってしまいそうになる。

男はキャスターの質問に忌々しそうな顔を作ったが、それも一瞬のこと。

 

「我に問うのを許した覚えはないぞ、雑種。だがな、我は少々機嫌が良い。答えてやろうではないか。……10年前の聖杯戦争で勝ち残ったサーヴァントと言えば十分であろう?」

「……なんですって?」

 

男の口から出た言葉は、信じられないものだった。

しかしそれはキャスターの思いつく限りでは、一番納得のいく答えでもあった。

これだけの存在感と重圧を放つ男が、現代の人間であるはずがない。

聖杯の力によって受肉したサーヴァントと考えるのが最も自然だった。

この男の言うとおり、10年前の聖杯戦争で受肉を果たした存在なのだろう。

 

そんな存在が、目の前に現れた理由は何なのか?

キャスターは何十もの仮説が導き出したが、どれも良くないものだった。

その答えは、血のように赤い男の目を見て勘づいてしまう。

あの目は、いけ好かないアーチャーと同等か、それ以上にキャスターを見下している。

キャスターの存在すらも許してはいない。もう、これ以上考えるまでもなかった。

 

「綺礼の狗がセイバーにやられてな。それでだ。我が直々に貴様らを殺しに来たというわけだ。ククク、どうもあの男はランサーが死ぬとは露にも思ってなかったようでな。あの仏頂面が狼狽える様は、中々に見物であったわ!」

 

何が面白いのか、愉悦を堪えきれずに声を上げて嗤った。

 

「さて、浅ましく生き足掻く雑種どもをこの舞台から引きずり降ろしてやろう――!」

 

明確な殺意を向けられて、男のプレッシャーが膨れあがった。

その重圧に、自身が万全であっても絶対に戦ってはいけない存在だとキャスターは理解する。

彼女のサーヴァントとしての資質が、かつてない警鐘を鳴らしていた。

 

今のキャスターでは空間転移どころか、簡単な魔術一つもままならない。

万事休すとは、まさに今の瞬間以外に考えられなかった。

 

「…………」

 

だから魔女は、如何にして宗一郎をこの場から生き長らえさせるか――その一点だけに聡明な頭脳を使った。

……だが、いくら思考を巡らせても答えは見つからない。

男が特別な気まぐれでも起こさない限り、確実な死が二人を待っている。

 

「……ここで待ってろ」

 

宗一郎がキャスターを木陰に降ろした。

 

「宗一郎様!? 何をするつもりですか!?」

 

まるで童女のように声を上げて、宗一郎の思惑を問う。

 

「あの男を殺す」

 

宗一郎は眼鏡の位置を直すと、無感情にそれだけ答えた。

 

「な――ッ!? 私に構わず逃げてください!!」

「……ハッ、我が逃がすとでも思ったのか?」

 

今まで機嫌が良さそうだった男の眉間に皺が寄った。

この金髪の男は、信管の壊れた爆弾を思わせる危うさがあった。

 

「王の前でやかましいぞ、雑種ども! ここは我の手を煩わせず速やかに自害すべきであろう!」

 

独裁者……いや、暴君としか思えない発言にも臆さずに、宗一郎は男と向き合う。

逃げられる可能性はゼロに等しく。勝てる可能性は更に絶望的で、どうあがいてもゼロ。

それなら、僅かな可能性に賭けて逃げ出してほしい。

しかし、この融通が利かないマスターがキャスターを置いて逃げる姿が想像できなかった。

 

「…………うあ」

 

それを想うだけで魔女は胸が熱くなった。

――嬉しかった。涙が出そうだった。

死に直面しているというのに、キャスターは心の底から歓喜した。

だったら、宗一郎の勝利に自分の全てを捧げるしかない。

 

「宗一郎様――ご武運を」

「ああ」

 

木に身を預けたキャスターは、もう自分では起き上がれない。

腕を動かすのもやっとで。

本当は少しの会話でも、かなり無理をしていた。

それでもキャスターは残った力を使って、宗一郎の拳に強化の魔術を掛ける。

それが残された寿命を確実に縮めるとしても――。

キャスターは、それしかしてやれない自分がとても情けなく思えた。

 

視界が霞んで、景色はぼんやりとしか見えなかったが、もう関係無い。

視力以外の残った五感すべてで宗一郎の存在だけを感じよう。

 

「…………」

 

宗一郎は拳を構えると、男に向かって駆け出した。

ただ愚直に走るのではない。視界の悪い地を活かして、変則的なフットワークを見せる。

それは、正中線の揺らぎが無い無音の足捌きだった。

だが、男は同じ場所から構えもせずに悠然とその場に佇むだけ。

明らかに相手にされていない。宗一郎を視界にすら捉えようとしていない。

 

それでも、宗一郎の何の不安もない。

彼にできるのは二十年間もの歳月――暗殺の道具として磨き上げられた己の技だけ。

宗一郎は自身の間合いまで踏み込むと、予測不能な方向からの左腕を男の腹部に放つ。

暗殺術『蛇』――。

その変則的な軌道を持つ蛇の拳は、サーヴァントとすら渡り合える徒手空拳による暗殺術。

そしてキャスターに強化された拳は、鉄板だろうが貫く凶器と化していた。

 

人体の砕ける音が薄暗い森の中に響いた。

 

 

 

 

めきょりと、かつてない不快な音が森のなかに響いた。

その人体が砕かれる音を聞いて、宗一郎は勝利を確信した。

だがその思考を慢心と断じて、頭から消し去る。

暗殺術とは、対象の息の根を完全に止めて勝利と言えるもの。

 

確実な死を与えるために二打目を打ち込もうとした時、違和感に気付く。

 

「――ハ」

 

腹を撃ち抜かれたはずの男の瞳は、何の揺らぎもなかった。

それに魔術で強化されたはずの腕からの痛み――。

 

「!?」

 

砕けていたのは、宗一郎の左拳だった。

壊れた拳を確認すると同時に、男が金色の鎧を纏っていることに気付いた。

砕かれたのは宗一郎の拳だけで、豪奢な鎧には傷一つも残されていない。

 

宗一郎は何が起こったのか、理解ができなかった。

そうだとしても、今は思考をする猶予もない。

彼にできるのは暗殺術だけであり、それ以外の思考など不要だった。

残された右腕を、男の唯一守られていない頭部へと打ち込む。

それは予測されていたかのように、金色の男は拳を軽く掴み取る。

 

「狙いが些か単純だぞ、雑種。もっとも、どこを狙おうが徒労に終わるがな」

 

宗一郎は壊れた左腕で尚も頭を狙う。それは虚しく空を切った。

拳が届かなかった要因――。

それは左腕の肘から先が斬り落とされて、宙へ舞っていたから。

 

金色の男の手には、いつの間にか剣が握られていた。

黒い刀身が特徴的な両刃の片手剣。

鎧と同様に、宗一郎が知覚する前に出現していた。

 

「…………」

 

宗一郎は、ぼんやりと消失した左腕を眺める。

切断された腕からは、血は一滴も流れずに黒い煙が立ちのぼっていた。

右腕は尋常ではない握力で掴まれており、左腕は既になく。

そして宗一郎の暗殺術は、奇襲によって完成する技術。万策はここに尽きていた。

 

「これは貴様などに過ぎた王の宝だ。――精々感謝して死ね」

 

男の荒々しい袈裟斬りによって、宗一郎の身体が肩口から真っ二つに両断された。

葛木宗一郎の意識は、そこで途絶えた。

臓物をまき散らすことなく、冬の凍土へと両断された身体を沈める。

上半身が二度三度、跳ねるように痙攣すると脈動が止まり、活動を完全に停止させた。

切断面から腕と同じような黒い煙が上がり、肉体を浸蝕していく。

あと数分もすれば全身を塗りつぶし、宗一郎の存在を跡形もなく消滅させるだろう。

 

宗一郎は死しても、表情を変えずにいた。

もし、この上半身に意識があったとしても「ああ、そうか」ぐらいにしか思わなかったのか。

それとも、残されたキャスターに何か言葉を述べたであろうか。

それはもう誰にもわからない。朽ちた殺人鬼の生涯はこれで終わった。

 

「端女、次は貴様の番だ」

 

男は、宗一郎だったものに一見も与えず、キャスターの元へと歩いていく。

キャスターは俯いたまま、ぴくりとも反応を示さない。

薄く開いた瞳は虚ろであり、どこを見ているかも定かではなかった。

 

「…………フン」

 

男はそんなキャスターに対して、不満を現すように鼻を鳴らす。

剣と鎧は既に消えて、男は黒いライダースーツの姿に戻っていた。

ここにもう用はないのを知ると、山を下り、冬木の町へと姿を消した。

 

――キャスターは既に事切れていた。

 

魔女のエーテル体が大気のなかに拡散していく。

そして、半刻も経った頃。

キャスターと葛木宗一郎の二人は、痕跡すら残さずに消滅した。

 

長い夜が明けた。

この一夜にしてアサシン、ランサー、キャスターの三騎が落ちる。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

38.朝を迎えてその日を生きる 《2月8日》

 

 

枕元の時計を見ると、正午になろうとしていた。

 

「…………もう昼か」

 

そんな寝起きの、朦朧とした意識で思う。

この世界は、俺がいなくても正常に動いていると。

おそらく、正義の味方としての衛宮士郎は誰からも必要とされていない。

しかし衛宮切嗣から託された理想が、今の衛宮士郎そのものだ。

それなのに俺は、何かを成し得る力がない。

力のない正義に価値はない。それはこの一週間ではっきりとした。

 

正義の味方になるには、救うべき人と倒すべき悪が必要だった。

聖杯戦争には、救うべき人も倒すべき悪もいた。

そう、確かにいたのだ。

だけど俺は、学園で救うべき命を救えなかった。

自らの甘さで殺すべき慎二も殺せなかった。

今はもう、悪はどこにもいない。

 

今回の聖杯戦争は終わりに向かって、急激に加速していた。

俺たちを除くと、残る陣営はイリヤスフィールと遠坂凛の二組だけ。

 

イリヤには多少の危うさがあるが、聖杯戦争に赤の他人を巻き込むような性格ではない。

そもそもイリヤには、バーサーカーに対して絶対の自信があった。

ライダーやキャスターのような小細工を弄したりはしない。

何があっても、バーサーカーと共に正面からぶつかってくるだろう。

 

遠坂凛は、冬木のセカンドオーナーとして一般人を巻き込んだりはしない。

彼女の人となりを考えれば、そんな大仰な肩書きがなくても他者を害するなんてあり得ない。

セイバーは敵対者には厳しく苛烈だが、悪に怒り、自らの正義のために動ける人物だ。

 

あとは俺たちを含めた三つの陣営が、たった一つの聖杯のための殺し合いをするだけ。

そこにはもう、救うべき人も、倒すべき悪もいない。

だから――衛宮士郎の聖杯戦争は、昨夜の時点で終わっていたのだ。

 

「それでも俺はもう迷わないし、違えない」

 

この先も、爺さんから託された理想を貫いていく。

それが借り物で、身勝手で、強迫的で、他の誰からも必要とされて無くても、衛宮士郎にとってかけがえのない綺麗なもの。

それだけは、何があっても絶対に変わらない。

陳腐な言い方だが、何ができるかではなく、何をするか。それが衛宮士郎に必要なものだった。

どれだけ矛盾を多く抱えても、俺は俺の理想を捨てたりはしない。

だから今は、聖杯戦争を生き延びるために全力を尽くそう。

 

「ふう」

 

布団の中で身を捩らせ、起き上がると身体の節々が痛んだ。

昨日受けたダメージの影響だろう。それでも、歩けない程ではない。

俺の正体不明な治癒能力は、未だに健在だった。

伸びをすると、短い欠伸が自然と出る。これだけ深く眠れたのは久しぶりだ。

今日は、ずっと見ていた彼女の夢も見なかった。

 

「…………」

 

夢のなかで見た射命丸文の存在は、まさしく奔放と言う言葉が当てはまる人物だった。

彼女の世界である幻想郷でネタを求め、西へ東へ、黒い翼を翻して飛び回る。

それは現代では、考えられないような生き方だ。

少し馬鹿にした考えかもしれないが、ストレスとは無縁のようにも感じた。

そんな意味でも、現代社会とは違う『幻想』と呼べるような場所なのかもしれない。

 

 

「……あれ?」

 

私服に着替えて居間に行くと、食欲を刺激する良い匂いが漂ってきた。

ふと、桜の姿が頭をよぎったが、今の彼女がうちには来るとは思えなかった。

桜とは、聖杯戦争が終わった後にじっくりと話すつもりだ。

時間は場合によって残酷でもあるが、それでも人を癒すのに時間は必要だ。

今回の聖杯戦争が終わって、何もかも落ち着いたら彼女と会おう。

その時に何があっても、俺は桜の味方でいようと思う。

 

藤ねえも学園の事件の影響で、当面の間は来れないだろう。

もっとも藤ねえの作る料理は、こんな胃袋を刺激するような匂いはしない。

そうなると、残る人物は――。

 

「やっぱりか」

 

予想通り、台所の覗くと桜のエプロンをつけて料理をする文がいた。

下駄を脱いだ文の身長は、桜よりも少し小さいので何とも映える姿である。

 

「おはよう、文。もう昼も近いけど。……何か作ってるのか?」

「おはようございます。今日は士郎さんから頂いたお小遣いで食材を買ってきました」

 

お小遣いというのは、俺が少し前に渡したお金のことだろう。

文は妖怪ではあるが、女の子である以上、俺に知られたくない生活必需品があると思ったからだ。

 

「本当は俺がやらなきゃいけないのに。お金まで使わせちゃって悪いな」

 

この家に初めて彼女が来た日。俺は家の仕事をやらせるなんてとんでもないと思っていた。

しかし今となれば、彼女もすっかり衛宮家の一員。あの時に感じていた罪悪感もなくなっていた。

 

「士郎さんは、身体以上に心が疲れています。たまにゆっくりしてください。睡眠は心のリセットです。どんなに気分が滅入っても眠ってしまえば、多少は心の整理がつきます」

 

彼女の言う通り、頭のなかは随分とすっきりしたと思う。

 

「それに一人で商店街を見て回るのも楽しかったですね。最近は聖杯戦争ばかりで、あまりこの世界を見てませんでしたから」

 

「それも仕方ないですけど」と言って、再び料理に専念する。

この世界にすっかり馴染んだ彼女は、もう炊飯器やガスコンロも使いこなしていた。

その適応能力の高さに改めて感心する。多少は手伝おうかと思ったが、料理は殆ど完成していた。

 

「さあ、できましたよー。幻想郷が外界から閉ざされて百三十年余り。海の食材を使うのは随分と久しぶりです。士郎さんのお口に合えばいいんですけど。そこが、ちょっと心配」

 

文が炊飯器を開けると、炊き込みご飯が入っていた。

調整の難しいご飯の水加減も丁度良いようだし、初めて炊飯器を使ったとはとても思えない。

少し焦げた匂いがまた食欲をそそる。しかもメインの具材は、毛ガニと牡蠣……何ともリッチだ。

 

「文、すごく美味しそうだけど、お金は足りたのか?」

「すっからかんです。まま、そんなことは気にせずに。どうぞどうぞ」

 

副菜はふろふき大根と小女子と大根のサラダ、汁物はアサリの味噌汁だった。

メイン料理は、あくまで炊き込みご飯という主張がはっきりとした献立だ。

味が濃いものが多いと、炊き込みご飯本来の味が邪魔されるという配慮だろう。

不慣れな調理器具で作ったとは思えないハイレベルな料理だった。

 

「……うん、美味しい」

「んふふ。でしょー。料理上手の士郎さんに褒められるのは最高に気分がいいですねー」

 

たったそれだけの感想に、少女は顔を大きく綻ばせた。

炊き込みご飯には、毛ガニと牡蠣という二つのメイン食材が入っていたが、お互いに喧嘩せずにうまく調和していた。

おそらく、出汁の味をそこまで濃くしなかったのが成功の秘訣だ。

この味からして、出汁は薄口醤油、酒、みりん、かつお節、だし昆布だけだろう。

 

「普段は扱わない食材だったので、苦心した甲斐がありました。……もっと褒めてくれてもいいですよ?」

「このふろふき大根も良くできてる。味噌だれに隠されたいりごまが良いアクセントになってるな」

「でしょー。んふふー……顔が勝手ににやけちゃいます」

 

文は含みのない顔で、自分の作った料理に口に運んでた。

昨日、柳洞寺で見た少女とは別人だったが、当然そんなことはない。

俺を睨んだ文も、今の文も等しく同じ人物だ。

妖怪として、新聞記者として、女の子としての射命丸文がいるだけ。

状況に応じて、どの顔が強く出ているか程度の差でしかない。

……何事においても自信たっぷりなのは、どんな時であっても変わらないけど。

 

「んく? ……どうしたんですか? もしかしてお腹一杯ですか?」

 

行儀悪く箸を口に咥えているため、少し舌足らずな発音だった。

普段の滑舌の良さを考えると、何だかおかしく感じる。

 

「いや、まだ食べるよ。それよりも今日はこれからどうするんだ?」

「……んーと、どうしましょうか」

 

イリヤは、俺たちを殺しに来ると言っていた。それでも、陽の出ているうちに襲撃するとは思えない。

聖杯戦争は人目に付く日中に戦わないのが、原則的なルールだ。

厳密に守る必要はないが、わざわざそのルールを違えるとは思えない。

遠坂もそれは同じだろう。この地のセカンドオーナーとして神秘の秘匿は責務だ。

そうなると、陽の沈むまで時間ができる。

 

「……俺は、最近サボりがちな魔術鍛錬でもするかな」

 

折角イリヤに魔術回路を開けてもらったのだ。試してみたいこともいくつかある。

 

「じゃあ……士郎さん。今日一日は私に付き合ってください」

「え?」

 

鍛錬をしたいと言った側から、文から予想だにしない誘いがきた。

もっと詳しくいえば、俺の話を聞いた上で完全にスルーしていた。

……前に俺の魔術鍛錬中に欠伸してたので、よっぽどつまらなかったのだろう。

 

「そうですね。新都に行きましょうか。あそこは都会なので楽しそうです」

「なんでさ」

 

とても良い提案だと言わんばかりだった。

ここまで自信満々だと俺の魔術鍛錬が間違っているものだと思えてくる。

……イリヤに魔術回路を開いてもらうまで、別の意味で間違っていたけど。

 

「でも聖杯戦争の最中だし……そんな場合じゃなくないか?」

「……はて? おかしなことをいいますね。私がこの世界に来た目的は聖杯戦争ではなくて、外界へのネタ探しだと言ったはずです。だったら暇ができた時ぐらいは本職に精を出したいですし。……取材と言っても、観光のようなものになるでしょうけど」

「……文からすれば、ここは外の世界じゃなくて、別世界じゃないのか?」

「まあまあ、それはそれこれはこれ。似たようなものです」

 

言うほど似ているかなと思ったが、それを口に出すのは野暮だろうか?

新聞記者の少女は、和綴じの赤い手帳と万年筆を携えると、すくっと立ち上がった。

期待と好奇心に満ちた目が、俺を捉えて離さない。どうやら拒否権はないらしい。

 

「ふう、仕方がないな……」

「士郎さんは話がわかりますね! それじゃ、遊び……もとい取材に行きましょう!」

 

俺たちには、息抜きが必要かもしれない。

そして聖杯戦争の終わりも近い。戦いが終われば、文は幻想郷に帰ってしまう。

そうなれば、こんな機会は二度とない。今日の戦闘のなか、命を落とす可能性だってある。

 

それに……文のように可愛い女の子と二人と遊びに出かけるなんて、またとない機会だ。

一般的な若者より、その手の欲求が薄いのは自覚している。

だからといって、全く興味がないわけではない。俺も男だし、実はエッチな本だって持っている。

 

「じゃあ、今日は文とデートだ。一応は恋人同士だしな。それと文がお上りさんにならないように見張っておかないと」

「なっ! いくら私でもそこまで恥ずかしい真似はしません! ……そ、それにデートってなんですか! わ、私は取材だと言ったでしょう!」

 

少女が顔を赤くして否定する。

藤ねえと桜の前でした例の恋人宣言は、どうもやりすぎたと思っているらしい。

恋人の話は、あの日以降一度も出なかった。

普段は俺がからかわれているため、今日ぐらいは意趣返しもいいだろう。

攻撃力はとても高い彼女だが、実は防御力が皆無なんじゃと最近は思っている。

 

「ああもう……! なんなのデートって……!」

 

顔を赤くする少女の姿は、普段毒づく彼女からは考えられない。

この天狗少女は、達観した感性を持っているが、免疫がないものも幾つかある。

そんな反応が妙におかしくて、人外の彼女から否が応でも女の子らしさを感じてしまう。

本人に言えば昨夜にみたいに凄まれるので、絶対に言わないけど。

 

「じゃあ、準備してくるから待っててくれ」

 

新都に行くなら、上着を用意したほうがいいだろう。

あ、大事なことを言い忘れていた。

 

「それとごちそうさま。とても美味かった。……図々しいけど、また作ってくれたら嬉しい」

「…………あ、はい。お粗末様でした」

 

彼女にしては珍しく、間を空けた返答だった。

 

 

 

 

俺たちは、新都に向かうバスに揺られている。

やはり平日昼下がりだけあって乗客は少なく、老夫婦が最後列に座っているだけ。

並んで座る俺たちを見て、どこか微笑ましい眼差しを送ってくる。

悪い気はしないけど、なんだかこそばゆくも感じる。

文もその視線に気付いたようで、老夫婦に人好きのする笑顔を返していた。

 

学園はあの事件以降、未だに休校のままだ。

学園からは不要な外出をせずに自主勉強を励むようにと通達が来ていた。

こうやって平日の昼下がりに遊びに出かけるのは、些かまずいかもしれない。

まあ今更気付いたところで、浮かれた文を見ていると引き返すのは不可能だ。

 

「はい、撮りますよー」

 

彼女はいつものカメラで何枚も写真を撮っていた。

それを笑って許容する老夫婦に、心のなかで感謝の言葉を送った。

 

「んー、バスに乗るのは初めてです。早速貴重な経験ができました。士郎さん士郎さん。このバスの式……ではなくて動力はなんですか?」

 

目を輝かして、俺に質問を投げ掛ける。

昨日の夜に「感情の起伏が薄くなった」と言っていたが、どう見ても今の文は好奇心に溢れている。

赤い瞳は爛々と輝いており、新しい玩具を手に入れた子供と変わらない。

この姿からはとてもじゃないが、昨夜の捕食者の顔は思い出せなかった。

あの時は、本当に殺されるかと思った。

 

「それとそれと! あの吊り下がっているあの輪っかの飾りはなんですか!? 首を吊るにしては輪が小さいように思えますけど!」

 

異常なほどのテンションの高さだ。

というか、つり革に対して発想がサイコパスのそれだ。怖い。

 

「動力は化石燃料。燃料を燃やして内燃機関を動かしている。昔だと臭水と言われたんだっけ? ……それとあの輪っかはつり革。乗客があれを握って身体を支えるもの。誓って絞首用の設備じゃない」

「なるほどなるほど。つまりは席が全て埋まって、その上で立って乗る客までいると。なんだか居た堪れない光景ですけど、そういうことですかね」

 

手帳を開いて、つらつらと文字を書き始める。

時折筆が止まるのは俺の言葉をそのまま写すのではなく、自分なりの解釈で文章を組み替えているのだろう。

文の理解力は早い。ただ今の話もどう解釈したのかは、手帳を見なければわからない。

正直に言えばかなり気になったが、俺も命が惜しいのでやめておこう。

 

 

少しして、新都のバスターミナルに到着した。ずっと文のテンションは高めだ。

バスに揺られるのに飽きた文が、速度に駄目出しを始めた時はどうしようかと思った。

窓から飛び出しそうな勢いだったので、それを宥めるのに必死だった。

単にからかわれただけかもしれないが、今の文の上がり具合ならやりかねない。

 

「うーん、大きいです! 幻想郷にこんな大きな建物は一つもありませんよ! 膠灰の建造物も珍しいのに、それがこんなに大きくてこんなに沢山だなんて。にわかには信じられない光景です!」

 

立ち並ぶビル群を見て文が大きな嘆息を漏らした。

そして、くるくると回りながらシャッターを切る。にわかには信じられない光景だった。

出掛ける前の冗談が、こうして現実のものになるなんて思わなかったぞ……。

 

「あの子……何やってるんだ……?」

「雑居ビルなんて撮ってどうしたのかしらね……?」

「あれ、『私かわいいでしょ』アピールだよ。ボク、そういうの詳しいんだ」

 

周囲から、残念なものを見る目を感じた。

ただのビルをカメラに撮ったら、悪目立ちは避けられない。

奇人変人の扱いならまだ良いが(良くないけど)、文の見た目を考えると不登校児として補導される可能性もある。

妖怪である彼女の身分を証明するものなんて何もない。避けないといけない事態だった。

 

「新都には何度か来ましたが、遊び……取材目的で来るとやはり新鮮に見えますね」

「それに今は昼だしな。見え方も違ってくるんじゃないか?」

 

回転するのをピタッと止めて、俺と正面から向き合ってくれた。ホッとする。

 

「言われてみればそうかも。あっ……あのネクタイと帽子、かわいい!」

 

そう言って、今度はショウウィンドウのマネキンを撮り始めた。

頼むから妙な行動を取らないでほしい。

人目を引く整った外見をしているから、余計に奇行が目立ってしまう。

しかし彼女は狙ってやっている節もあるので、下手に突っ込むと余計な行動をしかねない。

 

「うーん。いいですね、新都。一つの店だけでもその日一日を潰せそうです」

「ああ、そうだな。俺もこうやって遊ぶ目的だけで新都に来るのも久しぶりだ」

 

官民一体の都市開発によって、新都は県一番の繁華地帯と言っても過言ではない。

そんな繁華街で俺は彼女をエスコートする事態になったが……さて、どうなることやら。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

39.天狗と歩く街

 

 

「デジカメほしいなー」

 

射命丸文は、その言葉だけを繰り返すオウムだった。

烏なのにオウムはどうかと思うが、とにかく同じ台詞しか言わない。

街道を歩く俺の周りをグルグルと回りながら、ずっとプレッシャーを掛けてくる。

 

「ほしいなー、ほしいなー。デジカメほしいなー」

「はあ……」

 

肺の空気をすべて吐き出すような重い溜息をつく。

吐いた息はすぐに白くなって、今日という日の寒さを教えてくれた。

やはり、家電量販店に寄ったのがまずかったと今更ながらに思う。

 

初めのうちは、洗濯機や冷蔵庫などの家電コーナーを二人で大げさに驚いていた。

すぐに買うつもりがないにしても、俺も最新家電には興味がある。

 

「電気圧力鍋……圧力調理以外もできるのか。……いいな」

 

調理家電に目を奪われた隙に、文は一人でデジカメコーナーへと足を運んでいた。

そこで店員に捕まり、気づけばデジカメの接客を受けていた。

アナログカメラを持ち歩いていれば、どう見たっていい鴨だった。烏だけど。

 

「へえええ! 凄いです! 凄いとしか言いようがないぐらい凄いです! 凄い凄い!」

 

その時、新聞記者の語彙力は完全に崩壊していた。

彼女の目は、ショーウィンドウに飾られたトランペットを眺める子供と同じだった。

新聞記者を生業にして、暇があれば常に写真を撮っている少女だ。

現代日本最新のデジタルカメラに興味がないはずはない。

店員もかなりカメラに詳しいらしく、文の持つアナログカメラと比較した説明もしていた。

よりにもよって、接客を受けていたのが超高級なデジタル一眼レフ。

望遠レンズや記録メディアなど、オプション品込みでウン十万はする代物だった。

 

「ISO感度? 数値が高いと暗い場所でも明るく撮れるんですか? この絞り値との違いは?」

 

ブン屋という職業柄、大変な聞き上手であり、店員の接客も熱が入っている。

しかも射命丸文は、大変な美少女な上に愛想もよく、接客する側としても楽しいだろう。

……正直、彼女の居候先の主としては、あまり気が気でない状況だった。

接客が終わった直後、文が目を輝かせて俺のほうまで走ってきたのは言うまでもない。

 

「そんなお金、うちにはありません」

「そんなー」

 

手持ちがないという理由で、文を引きずるようにして店から出た。

あのまま電気屋にいたら、ショッピングクレジットを組まされていただろう。学生だから審査は通らないけど。

 

そして、現在に至る。

 

「デジカメほしいなー」

「……もし買っても、幻想郷じゃ他の機材がないし、印刷もできないだろ」

 

今は後ろ髪を引かれまくりの文を連れて、海浜公園に向かっている。

海浜公園は、深山と新都に二分する未遠川からほど近い。

そこは近辺に娯楽施設が多くて、遊ぶにはもってこいの場所だ。

 

「そこは山の技術者である河童たちになんとかしてもらいます。いえ、むしろさせます。あのデジタルカメラはそれだけの衝撃でした」

 

河童たちが哀れでならない。文に何か弱みでも握られているのか?

 

「それでも駄目だ。俺としても買ってやりたいけど、あの金額は学生である俺には厳しい」

 

切嗣の遺産を切り崩せば何とかなるだろうが、なるべく手をつけたくない。

居酒屋のコペンハーゲンのバイトで貯めた金だけじゃ、どうにかできる額じゃなかった。

だが文は、尚も食い下がってくる。

空気を読んで、引くべきところを弁えている彼女からしたら少し驚きの行動だった。

 

「私は今日この世界に来た目的を見つけました。それはデジカメを手に入れることです。そのためなら清く正しく使うと決めたこの手を汚しても構わない所存。それにほら、どうせ別世界ですしね。ここは立つ鳥跡を濁す精神で行きましょうか!」

 

……あー、どうしよう。

この世界に来た目的がデジカメのためだと言い切ってしまった。

しかも犯罪行為を仄めかす発言までも。……これはもしかして脅されているのか?

 

……というより、新聞のネタは? 聖杯戦争は?

アサシンの前で『この世界で妖怪が生きていた証を残す』と啖呵を切ってたけど、あれはどこまで本気だったのか。

聖杯戦争のサーヴァントを全て倒すと豪語していた烏天狗は、もうどこにもいない。

ここにいるのは、新しいおもちゃを親にねだる子供そのものだった。

考えてみれば、あの時の発言から半日もしないうちにアサシン、ランサー、キャスターが別のサーヴァントに倒されている。

……もうよくわからなくなってきた。本当に何がしたいんだ、この天狗は?

 

「どこかで割のいい仕事ないですかね。私、何でもできますよ? おっ、そこのコンビニで履歴書を買いましょう」

「いや、そもそも戸籍がないだろ……」

 

彼女なら力仕事から接客まで本当に何でもできるだろうが、それでも見た目が中学生だ。

雇ってくれるとしても、彼女も得意な新聞配達が関の山だろう。

しかし俺の複雑な胸中も知らずに、彼女の目はどこまでも本気だった。

もう深く考えないほうが精神衛生上良いかもしれない。何か別のことを考えようか。

 

……そういえば、文は今ここを『別世界』と呼んでいたな。

昨日の朝、この世界が幻想郷の外ではなく、別の世界だと言及していた。

今まで不思議とは思わなかったが、どうやってその事実を知ったのだろうか?

……話題を変えるために訊いてみようか。少しだけ気になったのも間違いない。

 

「話は変わるけど、どうしてここが幻想郷の外ではなくて別の世界だと気付いたんだ?」

「会話に脈絡が無さすぎですよ……」

 

う、ちょっと無理があったか。

会話のキャッチボールで例えるなら、ワイルドピッチをしたようなものだった。

 

「うーん、確かに詳しく説明していませんでしたか……。自分の中で完結していたので忘れてました。ちょっと理解しがたい部分もある上に、それなりに長くなります。それでよければ話しますけど」

「ああ、頼む」

 

デジカメのことを忘れてくれれば、なんだっていい。

 

「ええ、わかりました。それでは――」

 

歩きながらも人差し指を立てて、少し得意げな顔をする。

何か説明する時に人差し指を立てる人がいるけど、どういう意味があるんだろうか?

 

「昨日もお話しした通り、この世界から来た時から既に違和感がありました。空気感や気配、そう言った類ですね。話す言葉、地理、空に浮かぶ星々は同じなのに、感じる空気はどこか違う。外と言っても元々私の住んでいた世界です。たかだか百年ちょっとでここまで変わるものなのか、と。まあ……これは感覚的な話なので、分かり難いと思います」

 

今の説明だけだと、確かにピンと来ない。

感覚の言語化は難しいし、超感覚的知覚の論理的説明になると俺には理解できない。

それと……聞き流しそうになったが、百年を「たかだか」と言ってなかったか?

達観した物腰から見た目通りの年齢ではないとずっと思っていたが、まさかそれは百年単位の話なのか?

それなら、このあどけなさを残す少女の年齢は一体……?

正直に言えば、今の話より文の年齢のほうが気になってしまった。

だけど、話の腰を折るわけにはいかないし、それ以前に女性に年齢を聞いてはいけない。

 

「それは『幻想の無くなった世界』だからと無理やり納得しようとしましたが、それでも違和感を拭い去れませんでした。……そしてこれから話すのは決定的な証拠です。この世界に住む烏からの情報なので、私自身は裏を取ってませんが、ほぼ間違いないでしょう」

 

少し勿体付けた口調からして、これから話す内容が本番だと思われる。

そして射命丸文は、一拍溜めて言葉を吐き出した。

 

「それは、この世界に諏訪大社があることです」

 

あまりにも予想外の言葉だった。

 

「……諏訪大社って総本社の? お諏訪さまだっけか?」

「そうです。日本に住む者なら私たち妖怪も含めて、誰でも知ってるお社ですね」

 

諏訪大社というと、信濃国一之宮として信仰されている長野県の有名な神社だ。

全国に二万にも及ぶ分社があるとされている。

それと、10メートルを超す御柱を急な斜面から落とす御柱祭が有名だった。

 

「その諏訪大社に祀られている二柱の神と一人の風祝が、外の世界で失った信仰を求めて神社ごと幻想入りをされました。神々は人々の信仰を集めなければ、御身の維持ができません。そして、ここが外の世界なら諏訪大社は既に無いはずでした。そのはずなのに、今も現存している。……ただ、幻想入りは曖昧なところもあるので、神を失った神社が形骸的に残っているだけかもしれません。蛇足ですけど、幻想郷では諏訪大社ではなく、守矢神社と呼ばれてますね」

 

射命丸文は、いつも以上に饒舌だった。

やはりジャーナリストだけあって、情報を伝えることに関心があるのが窺える。

 

「ですが、ここで神と共に移り住んだ風祝が重要になります。その彼女こそがここが別世界である証明となりました。その風祝の名は『東風谷早苗』と言います。そしてこの世界には驚いたことに『守矢早苗』なる人物が、守矢家の現頭首として実在している。こうも関連した名前の人物が二人いるとは考えにくい。これが決定的でした。……以上から、ここは幻想郷の外ではなく、似て非なる世界に迷い込んでしまったと考えるのが正解でしょう」

 

それだけの物的証拠と状況証拠が重なれば、そう思うのが当然だろう。

 

「私をこの世界に送り込んだ魔女も異世界に飛ぶかもしれないと言ってました。……まさか本当にそうなるとは思ってなかったです。あの萎びた紫モヤシめ」

 

最後に特定の人物を罵って話を締めた。それさえなければ、含蓄のあるいい話だった。

 

「……でも俺は、その魔女に感謝しているけどな」

 

その魔女というのは、いつか文の夢で見たあの眠たそうなネグリジェの少女だろう。

何か持病があるのか顔色は悪かったが、とても可愛い子だったと思う。

 

「へ? なんでです?」

「だって、彼女がいなかったら文に会えなかったってことだろ。俺は文に会えて良かったと思ってる。だったら、きっかけを作ってくれた魔女にお礼を言いたい」

「――――――――」

 

文がほんの一瞬だけ目を見張り、しぱしぱと瞬きをする。

 

「………………あなたは本当に天然のたらしですね」

「? なんか言ったか?」

 

文にしては珍しく歯切れが悪く、うまく聞き取れなかった。

 

「べつにー。なんでもないですよー」

 

文は誤魔化すようにそっぽを向いて嘯く。

何か変なことでも言ったのだろうか? まあいいか。

話もなんだかんだ二転三転したし、これでデジカメの件も忘れてくれただろう。

 

「で、今はそんなことよりもデジカメなんですが……」

 

ばっちり覚えていた。

 

 

 

 

それから程なくして、海浜公園に到着した。

 

冬木大橋が見える場所にあるので、ここからなら帰りは歩きやすいだろう。

当初の予定では、総合デパートに足を運ぶ予定だったが、文にこれ以上欲しい物ができると困るので中止した。

まずは、公園の最寄りにあるバッティングセンターに入る。平日だけあって客は殆どいない。

穂群原学園の生徒もいなかったので、不良なのは俺たちだけだった。

 

「文は野球を知ってるか? 集団でやるスポーツなんだけどさ」

「ヤキュウ? うーん、聞いたことがあるようなないような。……でも団体競技ならサッカーを知ってますよ。こう見えて私も大の得意です」

「へえ、サッカーを知っているのか」

 

これは意外だった。

野球は知らないようだが、サッカーを知っているとは。しかも経験者という談。

俺自身は、野球もサッカーもさほど得意ではないが、共通の話題ができると少し嬉しい。

だけど、彼女のような身体能力で試合が成立するのか?

そもそも、サッカーボールが彼女の非常識な脚力に耐えられるのか?

 

……少し野暮な考えだった。

スポーツは道具さえあれば、誰だってルールの上で平等に遊べる。

特にサッカーはボール一つあればいいから、世界中で愛されているスポーツだ。

 

「観客席を焼き尽くす魔砲をボールに込めて放つシュートや、試合中にフィールドを二つに割られると相手が敵だとしても心が躍りますねー」

「…………それってサッカーの話だよな? フットボールの話だよな?」

「ええ、サッカーの話でフットボールの話ですけど?」

 

どうやら俺の知るサッカーとは根本的に別物らしい。

彼女の身体能力なら、この世のものとは思えないサッカーが見られるだろう。

 

「そうそう、いつだったか永琳さんが人工衛星を……」

 

天狗のサッカー談義を聞いていると、これまでの常識が非常識に塗り潰されてしまう。

俺の頭がおかしくなる前に、さっさとのバッティングの準備をしよう。

 

まずはお手本として、俺が先に打席に立った。

バッティングは普段使わない筋肉を使うので、柔軟体操を念入りにしておいた。

聖杯戦争中にバッティングセンターで腰を壊したら洒落にならない。

 

「あの正面の機械からこぶし大の白い球が飛んでくるから、それをこのバットで打ち返すんだ」

「ほうほう」

 

ピッチングマシンから投球されるストレートを打ち返す。

速度設定は120キロ。球種を知っていれば、なんてことのない速度だ。

それに人の投げる球に比べて癖が少ないので、かなり打ちやすい。

 

「おー、反発力の影響でしょうか。面白いぐらい飛びますね」

 

一球目はいい感じに打ち返せた。ここが球場ならセンターフライで1アウトだ。

そのまま続けて、合計10球ほど打ち返していく。

10球のうち7本はヒット性の当たり。久しぶりにしてはそう悪くない結果だと思う。

 

「じゃあ次は文の番だ」

「士郎さんと同じことをやればいいんですね。任せてください」

 

ネット裏に戻って、文にバットとヘルメットを渡す。

 

「私はペンより重い物は持ったことがないので心配でしたけど。……ふむ、意外と軽い。中身が空洞なんでしょうか?」

 

浪人回しのように、腕の上でくるくると金属バットを回している。

流石というかなんというか、初めてバットに触れた人の扱いじゃない。

そしてヘルメットも被ってもらったが、大人用だと大きすぎて顔がすっぽりと隠れてしまう。

 

「……前が見えません。世界は暗黒に閉じられてしまったんでしょうか?」

「ああ、悪い」

「私は深淵に揺蕩う一羽の烏。闇に染まる翼でいつか世界に光を――」

 

暇があると図書館で借りたノベル作品を読んでいるためか、ごく稀に変な言葉遣いになる。

この間も『士郎さんの左腕は暴走しないですか?』と正気を疑う質問をされた。

よたよたと打席へ歩く姿に愛くるしさを感じたが、慌てて子供サイズの赤いヘルメットを渡す。

 

「……闇の世界に囚われるあまりに、三千世界への道が開けそうでしたよ」

「俺のやつだと大きかったな」

「ふふふ。では士郎さんはそこで見ててください」

 

気を取り直すように打席に立つと、数回ほど見よう見まねで素振りをした。

……予想はしていたが、バットどころか振る腕すら見えない。人気がなくて良かったと本気で思う。

 

「では、いつでもどうぞ」

 

バットをブンブンと回しながら構えている。どこの大リーガーだ。

メットの陰に隠れて見えにくいが、文の赤い目が一瞬光ったような気がした。

背筋に言いようのない悪寒が走る。……まずい予感がした。

 

感情のないピッチングマシンに、そんな心の機微が読めるはずもなく。

無情にも、一球目が放たれる。

外角高めのストレート。設定は俺の時と一緒だ。

佐々木小次郎の剣を全て躱した文からすれば、120キロの球なんて止まって見えるだろう。

 

「――――よっと!」

 

その時、今まで聞いた覚えのない破裂音がした。

 

突然だが――射命丸文という天狗の少女は、現代社会に馴染んでいた。

それなりに冗談は言うが、これまで反社会的な行動をしたことは一度もない。

優れた頭脳と優れた情報収集能力で、現代社会のルールを完全に理解していた。

しかし当人は極めて剛胆な性格をしており、あえて空気を読めない言動も見受けられた。

 

そんな大事なことを、なんで俺は今まで忘れていたんだろう……?

 

 

 

あー、バッティングセンターは楽しかったなー。

うん、楽しかった。もう最高だった。俺はもう二度と行けないけど。

出禁を喰らってしまったから、俺はもう二度と行けないけど!

 

「まさか、あんなところやそんなところから煙が出るとは思いませんでした」

「……本当だな。俺もアレから煙が出るなんて初めて知った」

「私も本気でやったらヤバいかなと薄々感じていたんですが……何だか楽しくてつい。……てへ」

「…………」

 

「てへ」ってなんだ。そんなキャラじゃないだろ、このやろう。

 

海に近いからか、塩気のある匂いがした。……潮を含んだ風が、堪らなく気持ちいい。

ああ、もういっそこのまま海に還りたい。還してくれ。

 

「ドンマイです、士郎さん。土下座だけで許してくれてよかったですね」

「……………………」

 

俺の肩に手を乗せる文の笑顔が、目と心に染み入るほど眩しかった。

 

 

 

 

最寄りの喫茶店で軽食を取った頃、太陽がゆっくりと沈もうとしていた。

時刻は夕方の五時に差し掛かっており、二月だけあって日没が早い。

これから先は、聖杯戦争の時間だ。

そして、今夜はイリヤとバーサーカーとの決着がつく。

今日は午後からずっと遊んでいたせいで実感が湧かないが、その時は刻一刻と迫っていた。

 

「……これからどうする? 家に戻ってイリヤが来るのを待つか?」

 

イリヤは、何があっても俺たちを殺しにやって来るだろう。

謝りながらも『殺しに来る』と言っていた。

明らかに歪んでいたが、あの少女が約束を違えるはずがない。

 

「それについてはちょっと考えていたことがあります。……いいですか?」

 

……驚いた。

俺は、文に聖杯戦争の方針を何度か尋ねることがあった。

しかし、彼女から意見を出してくれたのは今回が初めてだった。

彼女のモチベーションがいつもより高いのか。

それとも、バーサーカーはそれだけ油断のならない相手なのか。

口許を固く結んでおり、そこに余裕の笑みがなかった。おそらくは後者だろう。

 

「ああ――文の案を教えて欲しい」

 

俺の言葉に、少女は少し嬉しそうに頷いた。

 

「相手は、あの最強無敵のバーサーカーです。守りに入ったら確実に負けます」

 

守りに入っても無駄なのはわかる。

イリヤの魔力量はマスターの中でも破格であり、疲れ知らずでいつまでも暴れ続けるだろう。

 

「それならば、ここは相手の逆手を取るべきです。何も素直に待ってやる必要はありません」

「それって……」

 

まさか。

 

「こちらから根城に攻め込み――私たちがイリヤさんの虚を突いてやろうじゃないですか」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

40.天狗と歩く森

 

 

冬木市の郊外に大きく広がる森。

この森の奥地に、イリヤスフィールが拠点とする城がある。

 

時刻は、夜の七時を過ぎている。

こんな場所に街灯があるわけもなく、夜に浮かぶ月だけが頼りだ。

森は車道に面していたが、何の用意もなく入れば確実に遭難してしまう。

広大な森は、未開拓の山の一部でもあり、天然の要塞と化していた。

アインツベルンが、ここを聖杯戦争の拠点にしたのも頷ける。

高木が生い茂っており、たとえ日中であっても視界は狭いだろう。

当然、夜ともなれば、更に悪条件が重なってしまう。

まともな神経をしているのなら、こんな時間に攻め込むなんて愚の骨頂だった。

 

「ふう、ここは森林浴に最適ですね。昼でしたら」

「……そうかもな。昼だったら」

 

俺たちは、そんな森に躊躇なく足を踏み入れた。

侵入する者を拒むような凍土の冷たさが、靴の裏側から伝わってくる。

それは、これから起きる惨劇を予感するような冷ややかさだった。

 

本来であれば、魔術師のホームに攻め込むなんて無謀でしかない行為だ。

半人前の俺でも知るような、魔術世界の常識。

この森の全てはアインツベルンの結界であり、ひいてはイリヤの腹の中に等しい空間。

……おそらく、森に一歩目を踏み入れた時点で、イリヤは俺たちの存在に気づいている。

 

「イリヤさーん! かわいい文ちゃんがやってきましたよー! 遊びましょー!」

「イリヤに聞こえていても聞こえていなくても、地獄みたいな台詞だ…………」

 

今はまだ何のリアクションもないが、こうして侵入した以上なにが起きても不思議ではない。

そう思うと自ずと慎重になる。神経を研ぎ澄ませて、常に最悪な事態を想定する。

……ただイリヤの性格を考えると、俺たちの不意を突くような真似はしないかもしれない。

 

「…………」

 

その『かもしれない』は甘い考えなのだろうか? 俺はなぜかそう思えなかった。

 

「イリヤは……俺たちが城に着くまで何もしないと思うか?」

「ええ、間違いないでしょう。あのバーサーカーがいれば、小細工なんて必要ありませんし」

「それは俺も思う。イリヤはバーサーカーを信頼しているからな」

 

文は、バーサーカーを子供みたいに『最強無敵』と評していたが、それは一つだって間違いない。

だから文がどうやってバーサーカーを攻略するつもりなのか、俺には何も見えてこなかった。

本人に聞いても『力の限り頑張ります!』と要領を得ない答えが返ってきた。多分馬鹿にされてる。

 

「それに彼女は、士郎さんを裏切るような真似は絶対にしませんよ」

「…………そうだな」

 

信じられないが、それは自惚れでもなんでもなく、俺もそうだと思った。

理由を言葉にするのは難しい。イリヤとは一日程度の付き合いしかないが、なぜだか確信できた。

 

 

俺の前を歩く少女は、暗い森を躊躇いなしに進んでいく。

俺も彼女の動きを投影するように同じ足取り、同じ道筋を歩く。

夜目が利いても、こういった足下が不確かな道では、それが堅実だった。

そのため、視線が自然と文の足下に向いてしまう。

ここに来る際、少女はいつもの高下駄の赤い靴を履いていた。頭には山伏の頭襟だ。

やはり敵地に乗り込む時には、天狗の姿でなければならないのだろうか?

それも気持ちだけの問題であり、大きな意味も無いようにも思える。

 

「よくその長い一本下駄で躓かないな」

「躓くもなにも……私、生まれてから一度も転んだことがありませんよ」

「は? え? ……嘘じゃないよな?」

「はい? そんな嘘ついて何になります?」

 

そんなことあり得るのか?

文は人間じゃないとしても、人型であるのは変わらない。

二足歩行というのは常に重心が安定せず、立っているだけでも不安定だ。

 

「むしろなんで転ぶんですか? 皆さん、お馬鹿さんなんですかね?」

「…………」

 

文は意図的じゃなくても、ナチュラルに他人を見下しているよな。

そこに悪気がなくなると、余計に質が悪くなる。

 

下駄と頭襟と同様に、普段は隠している翼も晒していた。

その小さく揺れている黒い翼を見ていると、彼女に抱えられて空を飛んだ記憶がありありと蘇る。

お姫様抱っこで空中飛行をした時、俺はもう二度と体験したくないと思っていた。

実はそんな決意とは裏腹に、少し前に体験したばかりなのだが。

 

「う……」

「どうしました? さっきの喫茶店で食べた蠣フライにあたりましたか?」

「いや、別の事情だ……」

 

思い出しただけで、吐き気がしてくる。記憶から一切を封印したいほど酷い。

文からの提案により、金と時間が惜しいという理由から、ここまで抱えられて飛んできたのだ。

急にそんな倹約家になった理由は不明だが、俺からしたらものすごい有難迷惑だった。

市の郊外までの数十キロの距離を、ものの数分で到着したのは事実だ。

そうだとしても、俺は強く思う。

どれだけ時間とお金が掛かったとしても、タクシーで行くべきだった、と。

 

「私の食べたナポリタンは美味しかったですね。どこがナポリなのか疑問でしたけど」

「ああ……あのケチャップ味が癖になるよな。少し焦げていると美味しい」

「あー、わかりますわかります。チープな美味しさとでも言うんでしょうか。なんというか、わんぱくな味ですよね」

 

彼女は人目に付かないよう、闇に紛れて飛んでくれてた。それはいい。

速度と高度が上がる度、身体が寒さで凍り付きそうになった。それも許そう。

だけどせめて、人間が耐えられる加速度にしてほしかった。……俺の耳から脳みそ出てない?

それでも、普段の十分の一程度に加減したというのが恐ろしい。

帰りの足は考えてないが、あれを再び味わうぐらいなら、俺はどれだけ時間が掛かっても歩いて帰る。

 

「でもどうせなら、空からイリヤの城まで行ったほうが早かったんじゃないか?」

 

スカートから覗く生脚のまま藪を突き進む文を見て、ふと湧き上がった疑問を投げてしまった。

とんでもない墓穴を掘った気もするが、振り向いた文は意外と真剣な顔をしている。

 

「……地に足をつけて歩かないと、環境や地形がわかりませんからね。空から見ても森に隠されて何も見えませんし」

 

確かに、ここを上空から見ても青々と茂った常緑樹が広がっているだけだろう。

 

「……残された戦いは、大変に厳しいものになります。これまでが前哨戦だと言っていいぐらいに。バーサーカー戦の勝率を少しでも上げるため、地道な努力も必要なんですよ」

 

思った以上に、まともな回答だった。

文は丁寧な言葉遣いとは裏腹に豪快な性格をしているので、その場のノリと勢いでどうにかすると勝手に思っていた。

……もし『そうですね。そうしましょうか』とでも言われたら、俺は自分を迂闊さで呪い殺すところだった。

 

 

枯木を踏み砕く音だけが、閑静な冬の森に響く。

先頭を歩く文は、俺からの質問に答えながらも淀みのない歩みを見せている。

目的地までのルートも、どうやら全て頭に入っているようだった。

 

「聞き忘れてたけど、どうしてイリヤの拠点がここにあるって知ったんだ?」

「ああ、先日イリヤさんが士郎さんの家に泊まった帰りに尾行をつけさせましてね。使い魔と違って、魔力もないその辺にいる烏です。如何に優れた魔術師だとしても、彼らの存在には気付けないでしょう」

「……まったく、気づかなかった」

 

文とイリヤで酔っぱらった日だ。……いま思うとあの夜は本当に楽しかった。

ああやって酒を飲むのも初めてだったし、文もイリヤも楽しそうに笑っていた。

少しズルをして、大人の宴会を先行体験させてもらった。

教職員の藤ねえには絶対に言えないが、またあんな機会を作ってみたいと思っている。

 

「楽しかったな。俺もイリヤも馬鹿みたいに酔っぱらってた」

「はい、とても。今度はちゃんとしたお酒の飲み方を教えますよ。お酒は酔うものではなく、味わって楽しむものですから」

「ああ、楽しみにしている」

 

イリヤとの関係は聖杯戦争のせいで硬化してしまったが、彼女ともまた酒を楽しめる日が来るのだろうか?

いや……ここで弱気になってはいけない。絶対にそうしなければならない。

 

「あの時の文は、心ここにあらずな感じで固まってたけど、よく尾行をつける余裕があったな」

「え…………マジですか? その話、ふつー触れます? …………『衛宮士郎は人の心がわからない』とメモメモ」

 

メモメモされてしまった。あることないこと新聞に書かれてしまう!

 

「そ、そうじゃなくて! いつ烏を尾行させたんだ?」

「んー、ぶっちゃけ放心状態でしたけど。でもイリヤさんが私に頼んだじゃないですか。『シロウをお願いします』って」

 

声帯模写が得意なのか、拙い名前の発音も含めてイリヤにそっくりだった。

いやいや、そうじゃなくて。この天狗……まさか?

 

「ああ……! 私はそんなイリヤさんの純粋な願いを無碍にはできませんとも……! ……とまあ、そんなわけで士郎さんのため、私は涙を飲んで彼女に烏をつけさせましたとさ」

 

あの直後、文は放心状態から戻っていた。

抜け目がないというか、行動があまりに冷静で容赦がない。

これはもう、人間ができるような発想と判断力じゃない。

 

「……他にも抜け目なく色々やってそうだ」

「ふふふ。どーでしょうかね」

 

冗談交じりの俺の発言に、天狗の少女は妖しく微笑んだ。

これは間違いなく何かやっているだろうな。

 

 

 

 

どこまでも続く、深く暗く冷たい森のなか。

道と呼ぶには少し大袈裟だったが、全力で走れるぐらい開けた場所もあった。

 

「これは……」

「ふむ。足跡ですね。二人分……しかも新しい」

 

開けた地面を見ると誰かが踏み入れたような痕跡があった。

文の言う通り、時間経過で風化もしておらず、どれも真新しいものだ。

 

「靴のサイズはどちらもイリヤさんよりも大きいですね。そうなると……うーん」

「文? 何かわかったのか?」

「今はまだ……いえ、何でもありません。先に進みましょう」

 

確証がないうちは、何も言えないのだろう。

文は俺を置いて、さっきよりも速い速度でどんどん先に進んでいく。

ここではぐれてしまったら、一生森で迷い続けてしまう。俺は少し慌てて、文の背中を追った。

 

そうして、森が切れると石造りの城を発見した。

見るものを圧倒する佇まいは、まさに魔術師の根城。

あの城の周辺だけ、まるで別の国のような異質な空間だった。

 

「…………誰か住んでいるみたいだな」

「……ですね」

 

灯りを漏らしている窓があった。それは間違いなく人がいる証拠だ。

……ここからでは判断が付かないが、魔術的な対策も何重にも施されているはず。

これ以上は、考え無しに先に進むのは危険だろう。

 

「イリヤのやつ、本当に城住まいだったん――」

 

文が咄嗟に手で俺の口を塞いだ。

呼吸ができなくなり咳き込みそうになったが、今度は人差し指を鼻の前に立てる。

その馴染みのジェスチャーは万国共通で、どこでも通じるとされているもの。

 

「シッ、静かに。……可能な限り気配を殺しなさい」

 

俺が何とか聞こえる程度まで声のトーンを落とす。表情もいつもより険しい。

どうやらただ事ではない様子だった。俺も呼吸を落ち着かせて、神経を集中させる。

『気配を殺す』。要領は魔術の訓練と同じだ――。

 

「うん、お上手」

 

満足そうに頷いてから、俺の口から手を放してくれた。

俺たちは腰を低くして、藪の中に隠れる。

文は、最大限に周囲を警戒しながら口を開いた。

 

「結論から言うと、現在このイリヤ城に侵入者がいます」

 

予想外の発言に大きな声を出しそうになったが、感情をコントロールして再び落ち着かせる。

感情の制御は、魔術の基本だ。毎夜繰り返してきた俺は、その精度だけは自信がある。

 

「……俺たちよりも先に誰が? ………………それとイリヤ城って?」

「そんなの考えるまでもなく、凛さんとセイバーです。…………イリヤ城については忘れてください。忘れろ」

 

イリヤ城については一生忘れられそうもないが、イリヤを除けば現存している陣営は遠坂だけ。

これから戦う相手という自覚なのか、セイバーに敬称を付けていなかった。

片や遠坂だけが『さん付け』のままなのは気になったが、そこは大した問題じゃないだろう。

 

「…………」

 

視線の先――文は、イリヤ城のエントランスを凝視していた。

そんな鋭い視線は、厚い木製の扉ですら貫いて先を見通しそうだ。

潜入取材が得意とも言っていたが、その時の彼女もこんな感じなんだろうか?

 

「――来るわ。もっと身を屈めてください」

 

ドン、と何かが破壊されるような音が城内から響く。

その音が徐々に大きくなっていく。まるでこちらに近づいてくるように。

一際大きな爆音がエントランスで起きた。

そんな音に、今まで森で休んでいた野鳥が慌ただしく空へと飛んでいく。

今この瞬間、この森が戦場と化したのを察知したように。

 

そして、エントランスの閉ざされていた扉が木片と化した。

 

「邪魔だ――!」

 

ぽっかりと口を開けた扉から、飛び出してきたのは剣の英霊であるセイバー。

その直後、斧剣を振りかざしたバーサーカーがセイバーに迫る――。

 

『■■■■■■――!!』

 

城の前の開けた土地に、セイバーがステップで退避する。

その退避した地点に間髪入れず、斧剣が刺さった。

まるで回避地点を予測したようなバーサーカーの一撃――。

しかし、そこにはもうセイバーの姿はない。

彼女は、バーサーカーの身の丈を超す跳躍によって回避していた。

 

「――取った!」

 

セイバーは跳躍を回避だけでは終わらせない。

落下の勢いを加えて、不可視の両手剣を巨人に振り下ろす――。

当然、バーサーカーの反応速度も尋常ではない。

足場のない空中で自由の効かないセイバーに対して、斧剣を薙ぎ払う。

 

「ぐっ――!」

 

剣と剣がぶつかり合って、暗い森に鮮烈な火片が散った。

互いの均衡の取れた剣圧により、互いの肉体に刃は届かない。

セイバーは、身を捻らせて着地する。

翠色の瞳はバーサーカーを常に捉えており、巨人もまたセイバーから視線を離さない。

 

「…………」

 

俺たちは呼吸も忘れて、英霊二人の戦いを観察していた。

身を潜める俺たちに、気づく余裕はないだろう。

破壊されたエントランスからまた一人――何者かが駆け出してきた。

……あの目に染みる赤い服は見間違えようもなく、遠坂凛だ。

 

「セイバー!!」

 

遠坂はセイバーに声を掛けたが、彼女は巨人を見据えたまま動かない。

セイバーの相手は、昨夜二騎のサーヴァントを無傷で倒したバーサーカー。

一瞬の気の緩みが、命取りになる。

遠坂もそれを察したのか、セイバーの邪魔にならない位置に移動した。

セイバーから数メートル後方。そこなら魔術による支援も最適な場所だろう。

 

「ふむふむ……役者が揃って来ましたね」

 

隣で息を潜めている少女がそう呟く。

声のボリュームは小さかったが、そこに興奮が混じっているのがわかる。

 

「そうだな。あとはイリヤだけだ」

 

イリヤの姿は見当たらない。まだ城の中にいると考えていいはず。

 

「私たちはここで決着が付くのを待ちましょう。三つ巴になるのは利口とは思えません。……セイバーが少しでもバーサーカーの命を削ってくれたらいいんですけど」

 

ここにいる三つの勢力は、それぞれが別の思惑で敵対している。

彼女の提案は、正々堂々と言えたものではない。

ただ、聖杯戦争の性質上、勝ち残ったサーヴァントが消耗しているうちに狙うのは定石だ。

文の判断が、間違いなくこの場に最適な戦法だろう。

 

「それに見てください。バーサーカーのあの剣。……柳洞寺でぶん投げたものと同じですね。刀身を繋ぐために鋲が打ってあります。あんなんで折れないのかしら?」

 

バーサーカーの武器は、イリヤが神殿の石柱を削って作った剣だと言っていた。

それを今はアサシンに切断された箇所を大きな鋲で繋げている。

言うまでもなく、切れ味や耐久性は格段に落ちているだろう。

それは同時に並外れた力を持つ巨人であれば、武器の性能など二の次なのを証明していた。

 

「キャスターに『あげる』なんて言っておきながら、あのリサイクル精神。これはアレですか。エコですか、エコロジーですか。……一度帰った後に柳洞寺に戻って壊れた剣を回収している姿を想像すると最高に笑えますね」

 

天狗のツボに入ったのか、声を殺して笑っている。

俺の肩に寄りかかりながら腹を押さえているので、余程面白いようだ。

 

「……そんなに面白いか?」

「だってイリヤさん、あんなに格好つけてたんですよ? 『――それ壊れちゃったから、あなたにあげるわ』と言っておきながらですよ? 面白すぎでしょう。んふふふ」

 

同じ声で一語一句違えずに再現するのは凄いが、妖怪の笑いどころは理解しがたかった。

人間と妖怪――笑いのツボだけは生涯分かち合えないかもしれない。

 

 

 

 

そして、最後の役者であるイリヤスフィールがエントランスから姿を現した。

 

「ハア、ハア……」

 

いつもと違って、イリヤの様子がどこかおかしい。

息が荒く、足取りもおぼつかない。どう見たって体調が悪そうだった。

 

「イリヤ、何かおかしくないか?」

「どうしたんでしょうか? 魔力も大きく揺らいでいるように見えますけど……」

 

最後に会った時も変な様子ではあったが、体調不良という感じはなかったはずだ。

 

「……バーサーカー!! さっさとセイバーとリンを殺しちゃいなさい!!」

 

そんな状態であっても、気丈な声でバーサーカーに命令を下す。

 

「フン。言ってくれるわね。でも今回は前のようにはいかないわ。セイバーがなんで最良のサーヴァントと言われているのかここで教えてあげる」

「うるさいうるさいうるさい……! わたしのバーサーカーにしたら、なんだって同じよ……!」

「……イリヤスフィール、何をそんなに焦っているのかしら? いつもの小憎らしさが足りないようだけど」

 

遠坂の言うとおり、イリヤには焦燥があった。小さな身体が、ただ立っているだけなのにふらついてる。

焦りの原因は、体調不良と関係しているのか……?

 

「わたしはそこで隠れているシロウとアヤの相手をしなきゃいけないから忙しいの! あなたたちなんて相手にしてられないんだから!!」

「…………あ」

 

俺と文の声が重なった瞬間だった。

イリヤが明らかに気づいている様子で、俺たちの方向を見ている。

 

「ま、まだセーフなのでは……?」

 

イリヤの視線に気付いた文が見苦しく地べたに這いずるが、もう何をやっても手遅れだった。

俺は既に、イリヤと目が合ってしまっている。

 

「お兄ちゃんたち、そんなところでコソコソ隠れてないで出てきたらどう?」

「イリヤスフィール……? 何を言って……?」

 

遠坂も、何事かとイリヤの視線の先を追う。

……そして俺は、遠坂とも目が合ってしまった。

イリヤの言葉を訝しんでいた遠坂の表情が驚きに染まる。だけどそれも少しの間だけ。

 

「……あんたたち何やってんの?」

 

最終的には、遠坂の呆れ返ったジト目が俺たちに突き刺さった。

 

「士郎さんとちょっと森林浴がてらにお散歩デートしていたら、偶然にもこんなところに迷い込んでしまいました。……うへへへ。私たちにはどうかお構いなく。……ねえ、士郎さん?」

「……その言い訳は、苦しい。かなり苦しいぞ」

 

俺の家からここまで、どれぐらいの距離があると思っているんだ。

 

「…………」

「…………お散歩デート」

 

遠坂とイリヤの空気が急激に白けていく。

当然なのだが、今は冗談を言えるような雰囲気ではないようだ。

 

「はあ。止む無しです」

 

文は盛大に溜息を吐くと、いち早く藪から抜け出した。俺も彼女の後に続く。

俺たちの情けない姿を確認したイリヤが満足げに微笑んだ。

 

「こんばんは。シロウ、アヤ。今日は前と違ってシロウたちがゲストね。わたしのお城へようこそ。今夜はアインツベルンを代表して歓迎させてもらうわ」

 

スカートの端を上品に掴み、大仰に一礼をした。

前に文も学園の屋上でしていたが、確かカーテシーと呼ばれるヨーロッパの伝統的な挨拶だ。

白い少女のお姫様らしい姿に、少し見とれてしまう。

この瞬間ばかりは今まで見せた体調不良はおくびにも出さない。それはイリヤなりの矜持だった。

 

「本当はお兄ちゃんたちを殺す前にお茶会に招待したかったけど――こいつらがちょっと邪魔ね」

 

破壊されたエントランスの前で、遠坂とセイバーを冷淡に見下ろす。

 

「言ってなさい。子供だからといって、泣いて謝っても許してあげないわよ」

「――マスター」

 

そんな一触即発の中、バーサーカーを牽制していたセイバーが遠坂に目配せを送る。

 

「セイバー、なに?」

「……このままだと以前の繰り返しになりかねません。宝具使用の許可をください」

 

宝具とは、サーヴァントの奥の手。

真名を開放した宝具は、魔術を上回る神秘を引き起こす。

宝具にもよるが魔力の消費も膨大なため、ここぞと言う場面でしか使えず、正体が露呈するリスクもある。

……セイバーは、どう見ても俺たちの存在を無視している。

というよりも、セイバーとバーサーカーの周囲だけが、切り取ったように緊迫していた。

 

「ええ――いいわよ、セイバー。真名がばれたって構わない。あなたの力をガツンとお見舞いしてあげなさい」

「はい。ここでバーサーカーとの決着をつけてみせましょう」

 

遠坂は、セイバーの真名がイリヤにだけではなく、俺たちに露呈しても構わないのだろう。

剣の少女の宝具は、バーサーカーを倒し切るほどの威力を持っているのか?

 

「文は、セイバーの真名わかるか?」

「少し考えたんですけど、わかりませんでしたね……。紀元前もありだなんて、範囲が広すぎです。その時間でラノベを読んでいたほうが有意義でした」

 

イリヤは、そんな状況でもおかしそうに笑っていた。

 

「クスクス。何をしたって、私のバーサーカーには勝てっこないのに」

 

イリヤの自信は絶対だ。

それを裏付けるだけの強さがバーサーカーにはある。

遠坂もセイバーに全幅の信頼を寄せている。

その自信は、お互いに決して揺らいだりはしないだろう。

 

「以前は町の中だったから使えなかったけど、ここだったら一切の遠慮はいらないわ。……ランサーも倒したセイバーの宝具がどれほどのものか見せてあげる」

「へえ……。それは楽しみ――!?」

 

――ゴウ、と風が鳴った。

突然の風音にイリヤも言葉を詰まらせてしまう。

発生源は、風を操る烏天狗からではない。

それは――セイバーが構える不可視の剣から発生していた。

見えざる剣が暴風を起こしている。

そして風だけではなく、すべてを圧倒する魔力も剣から感じた。

この場にいる誰もが息を飲む。

俺の隣にいる文だって、セイバーの剣に目を奪われていた。

 

「……風……風の力。すごいわね、これは」

 

そんな言葉を、ぽつりと漏らした。

 

「これは『風王結界(インビジブル・エア)』と言うわ。本当は刀身を隠すのが目的じゃなくて、剣の正体を隠すためのカモフラージュでしかないの。セイバーの持つ剣は、それだけで正体がわかってしまうほど有名なのよね」

 

遠坂の余裕の現れか、ここにいる全員に言い聞かせるように説明をした。

だが、その遠坂の余裕にイリヤですらも異を唱えない。それだけの魔力を剣から感じてしまう。

 

「ふむ、圧縮した風で光を屈折させて剣を隠したんでしょうね」

 

文はなぜか剣そのものよりも、剣に纏っていた『風王結界』を気にしているようだった。

そして、『風王結界』から解放されて、抜き身になるセイバーの剣。

そこから感じるのは、途轍もない魔力――。

刀身は眩く煌めいており、それが、人々の想いによって鍛え上げられた想念の結晶であると教えてくれた。

 

「あれは……もしかして……」

「士郎さん? どうかしました?」

 

俺はなぜか、文よりも先に理解ができた。セイバーの使う剣の正体は――。

 

「バーサーカー!! 何をもたもたしているの!? 宝具を使われる前にセイバーを殺しなさい!!」

 

イリヤがバーサーカーに発破を掛ける。少女の態度に今までの余裕は感じられない。

無理もなかった。セイバーの剣に内包された魔力量は、今回の聖杯戦争で群を抜いていた。

 

『■■■■■■――ッ!!』

 

バーサーカーが咆吼を上げると、セイバーまで駆け出していく。

巨大な斧剣でセイバーを潰すまでに数秒も必要ない。

俺が息をつく暇もなく、バーサーカーはセイバーを肉薄する距離まで詰めた。

その一瞬の間で、セイバーが剣を肩に担ぐように構える。

 

『エクス――』

 

巨人の斧剣よりも速く。

凝縮された魔力を眼前に解放するために剣を振り下ろし。

セイバーは、宝具の名を解き放つ――。

 

『カリバーーァァ!!』

 

視界を埋め尽くす光の奔流――――。

聖剣から放たれた光が、斧剣を振るうバーサーカーを飲み込んだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

41.試練の先

 

 

セイバーのエクスカリバーから放たれた光の奔流。

膨大な魔力は光となり、光は断層となった。

光の断層は、あらゆる対象を焼き尽くし、そして切断する――。

 

バーサーカーを貫いた光は凍土を焼き払い、アインツベルンの城すらも破壊した。

様々な結界が施された魔術師の不夜城は、もはや瓦礫の山と化している。

 

これまで、どんな攻撃も届かなかった黒き巨人。

そのバーサーカーの姿は、見る影もなかった。

焼け果てた大地に、横たわるように転がっている巨大な消し炭。

それが、かつて最強のサーヴァントだったもの。

四肢が辛うじて残り、人の形をしてなければ、判断すらできなかっただろう。

これでは、いくら何でも再起不能だ。

バーサーカーの不死性を象徴した『十二の試練』。

それは、セイバーの『エクスカリバー』によって攻略された。

 

「…………」

 

その圧倒的な破壊力に、誰もが声を上げず、息を飲んでいた。

聖剣の担い手であるセイバーと、彼女のマスターの遠坂凛を除いて。

 

「これが……」

 

これがセイバーの宝具『エクスカリバー』の威力なのか――?

風王結界から解き放たれた抜き身の聖剣は、豪華な意匠は施されていなかった。

言ってしまえば、無骨な大剣だ。

しかし、その剣は誰の目も惹き付けるような美しさがあった。

 

エクスカリバーの担い手――それは、誰だって知る高名な人物。

古代ブリテンの王にして、円卓の騎士を束ねたという伝説の騎士王。

――アーサー・ペンドラゴン。

あの小柄な少女が、伝説のアーサー王だと言うのか。

……信じられない。

信じられないが、エクスカリバーの存在がそうであると示していた。

 

「あんたの拠点がこんな森の奥で助かったわ。もし町の中だったら、対城クラスの宝具はとても使えないもの」

 

エクスカリバーを市街地で使えば、確実に大惨事を招いた。

それは遠坂凛という、気高い少女が許すはずがない。そのため、使える場所が限定されていた。

遠坂は、その威力からセイバーの宝具を持て余していた。

だから俺たちと同様に、リスクを承知して魔術師の根城に乗り込んだのだろう。

 

「……凄いですね。あれがセイバーの宝具ですか。あんな高出力なのに発動まで大して時間も掛かっていない。可能なら立ち会いたくない相手です」

 

射命丸文も、手放しでセイバーを賞賛していた。

他者を貶める発言の多い彼女にしては、珍しい態度だった。

だが、こうしてバーサーカーが脱落した今、次の相手は間違いなく俺たちだ。

 

 

 

 

「………………」

 

イリヤは俯いたまま、小さな肩を震わせていた。無理もないだろう。

たった一度の宝具で、絶対と信じていたバーサーカーを倒されてしまったのだから。

 

「……やってくれたわね。バーサーカーの命を一度に7つも奪うなんて。こんな屈辱、生まれて初めてよ」

「は? …………なんだって……?」

 

イリヤの言葉は、俺の想像を遥かに逸脱したものだった。

それは恐らく、文も遠坂も、バーサーカーを倒したセイバーだって思ったはず。

 

「な……ッ!?」

「バーサーカー!! いつまで寝ているの!! さっさと起き上がって、殺される前に殺しなさい!!」

 

イリヤに身体に刻まれた令呪が赤く光り出す。

令呪の力に反応して、消し炭だったはずのバーサーカーが立ち上がった――。

焼け焦げた金色の眼球が光り出し、これまでと変わらない大地を揺らす咆吼を上げる。

 

『■■■■■■――――ッッッ!!!』

 

炭化していたはずの体組織が、咆哮とともにボロボロとこぼれ落ちていく。

そこにあったのは、傷ひとつないバーサーカーの姿だった。

更にイリヤの令呪によって、格段に戦闘能力を向上させている。

 

……あのエクスカリバーを以てしても、バーサーカーを殺しきれないというのか。

そんなふざけた道理があるわけがない。あるはずがない。

だがそんなふざけた事実が、現実のものとして起きてしまっていた。

 

「……ふざけてる! なんだって言うの、こいつ!?」

「…………!」

 

遠坂がバーサーカーのデタラメに狼狽えるが、セイバーは冷静だった。

 

「はあああ――!!」

 

バーサーカーが無手のうちに、抜き身のエクスカリバーで真っ向から斬り掛かる。

 

「ぐぅっ……!」

 

しかし、届かない。

狂化されたバーサーカーが、今までを超える速度で聖剣の腹を殴りつけた。

ギシリと音を立て、聖剣が軋む。

バーサーカーの並外れた力なら、エクスカリバーすらへし折っても不思議じゃない。

 

巨人は未だ熱を持つ大地から斧剣を拾い上げ、セイバーに叩き付けた。

斧剣は度重なる酷使によって切れ味は失われているが、バーサーカーにとって問題ではない。

己の膂力に耐える強度があれば、剣が切れようが切れまいが関係ない。

眼前にいる敵を、己の持つ最強の力で叩き潰せればいい。

 

「…………ふっ!」

 

セイバーは斧剣を受けようとはせずに、距離を広げて回避した。

バーサーカーはセイバーとの間合いを瞬時に縮めると、斧剣を連続して振るう。

セイバーは攻撃を受けようとはせずに、卓越した体捌きだけで躱し続ける。

狂化したバーサーカーの攻撃を一度でも受けてしまえば、そのまま圧し潰されてしまう。

 

「やあぁぁ――っ!」

 

セイバーは小さい体躯を活かして、バーサーカーを翻弄しようとした。

だが巨体からは考えられない俊敏さで、それすらも許さない。

セイバーもバーサーカーと同じように、圧倒的な身体能力で相手を叩き潰すタイプだ。

しかしバーサーカーは、遥か上を行く能力を持っている。

障害物のない場所だと、セイバーの体躯もメリットが薄い。

筋力で劣り、敏捷で劣り、耐久で劣り、リーチでも劣る。

城の前の開けた場所では、その差が顕著になってしまった。

セイバーはバーサーカーが相手だと、すべての面で絶対的に相性が悪い。

……いや、俺の知る範囲で相性が良いサーヴァントなんて、ただの一体もいない。

この剣の少女だけが、こうしてバーサーカーと渡り合える唯一の存在だ。

 

「クスクスクス。逃げ回るだけじゃ、わたしのバーサーカーには勝てないわよ」

 

崩壊した城の瓦礫に座るイリヤが、セイバーを挑発する。

戦闘中に腰を下ろす行為は、彼女の余裕の表れか。

仮にバーサーカーを無視して、イリヤを狙おうとしても不可能だ。

敏捷で勝るバーサーカーから少しでも目を離したら、その瞬間にやられてしまう。

 

『■■■■■■――――!!』

 

戦況は、堂々巡りだった。

バーサーカーは斧剣を振り回し、セイバーがそれを後退して避ける。

逃げの一手だけでは、セイバーがバーサーカーの懐へ斬り込むのは難しい。

……この状況を打開するにはどうしたらいいか。

遠坂の魔術では、バーサーカーに通用しないだろう。

かつて巨人の頭を破壊した宝石を複数持っているとは思えない。あるならとっくに使っているはず。

もし俺が割って入っても、バーサーカーに太刀打ちできるわけがない。

 

「ふむ。いよいよ大詰めかしらね」

 

隣で傍観している文は動かないだろう。彼女に遠坂たちを助けるメリットはない。

 

俺の思いつく限り、戦況を翻す手段は一つしか残されていなかった。

セイバーには、『十二の試練』を一度で7回殺した宝具がある。

それだけが、バーサーカーを唯一倒し切る方法――。

 

「――凛、宝具をもう一度使います! 発動の許可を!」

 

俺の思考と同じタイミングで、セイバーは二度目となる宝具の使用を求めた。

今だってセイバーは、斧剣を振るうバーサーカーから目を離さない。

たった一度の会話ですら、バーサーカーが相手だと命取りになる。

 

「駄目よ! 二日で三回も使用したら魔力が尽きてしまうわ!」

 

遠坂の魔力量があっても、エクスカリバーは頻繁に使えるものではなかった。

あれだけの破壊力。莫大な魔力を消費するのも当然だ。

サーヴァントはマスターの魔力によって、存在を保てている。

魔力切れを起こしたサーヴァントを待つもの――それは緩やかな死でしかない。

 

「ですが、このままでは千日手になる。……いいえ、悔しいが私ではバーサーカーに接近戦では勝てない」

 

今は会話をする余裕も何とか作れるが、それだって時間の問題だ。

セイバーは、敵愾心とは別の感情でバーサーカーを睨んでいる。

 

「くっ……!」

 

咬牙切歯。

歯を砕けるほど噛み絞め、堪え切れない悔しさを何とか飲み込もうとしている。

当然それは、パートナーである遠坂にも伝わっただろう。

 

「……わかった。でもその代わり確実にバーサーカーを仕留めなさい」

「はい――ありがとう、凛。必ずやバーサーカーを打倒して、マスターに勝利を捧げます」

 

セイバーは、マスターからの注文に力強く答えた。

風王結界から解かれているエクスカリバーであれば、解放に時間はさして必要としない。

だが、バーサーカーは数秒もあればセイバーをミンチにできる。剣の少女もそれを理解しているはず。

 

『束ねるは星の息吹──』

 

それでも、セイバーは目を閉じてエクスカリバーを眼前に掲げた。

聖剣に魔力が急速に収束していく。

 

『■■■■■■―――!!』

 

そんな真名解放のなか、バーサーカーが斧剣を薙ぎ払う。

セイバーのプレートを砕いて、血を撒き散らした。

 

『輝ける命の奔流──』

 

セイバーは、決して軽くないダメージを受けても、宝具解放を止めなかった。

僅かに身体を横にずらして致命傷だけは避けている。

バーサーカーに次ぐ耐久力を持ったセイバーのみに許された無茶だった。

 

『受けるがいい! 約束された勝利の剣(エクスカリバー)!!』

 

そして、二度目となる光の奔流が発生する。

しかも今回は、バーサーカーはセイバーの剣の届く範囲にいる。

一切の威力減衰もなく、ゼロ距離からのエクスカリバー。

一度目以上の火力──。バーサーカーは、間違いなく焼き尽くされる。

 

同じフィルムを再生するように、バーサーカーが魔力を持った光に飲み込まれた。

2メートル50センチの巨体が一瞬で見えなくなる。

 

……そんな中にあって、イリヤはセイバーと遠坂のやり取りを見ているだけだった。

ただ黙って、瓦礫に座ったまま何もせず傍観していた。

 

「……へえ」

 

そこにあるのは、表情筋が緩むのを耐えようとする底意地の悪い顔。

イリヤスフィールは、バーサーカーを単純に妄信しているわけではない。

バーサーカーには飛び抜けた実力があり、その能力を状況に応じて披露してきた。

今の笑いを堪えようとしているイリヤだって――。

根拠のない信頼ではなく、『何か裏付けがあるのでは』と考えてしまった。

 

 

結論から言うと――。

バーサーカーは、無傷で立っていた。

 

バーサーカーの全身から煙が上っていたが、ダメージを負っているようには見えない。

宝具の不発ではなかった。

その証拠に巨人の背後にあった森は焼き払われて、先の見えない道が作られていた。

モーゼの海割りのような奇跡は、エクスカリバー以外では再現不可能だ。

信じ難かったが、セイバーの宝具はバーサーカーに効果が無かったとしか思えなかった。

 

『■■■■■■――――ッッ!!』

 

バーサーカーは何事もなかったように再び斧剣を振るった。

絶望によって彩られた剣戟が再開された。

 

「馬鹿な――!?」

 

セイバーは茫然とした様子だったが、振り下ろされた斧剣を辛うじて対応する。

 

「くう……!!」

 

しかし、セイバーの動きは精彩さを欠いており、息すらも切らせていた。

 

「あれ? もう魔力切れなの? セイバーって、そんなちっちゃな身体なのに随分と燃費が悪いのね。それともリンの魔力が少ないのかしら。……まあ、そんなのどうでもいいわ。だって、二人ともここで死んじゃうんだから! あははは!」

 

イリヤが堪えていた感情を、全て吐き出すように笑いだす。

無邪気な子供が笑うようだったが、そこには身の毛がよだつ残虐性も含まれていた。

 

「どうして……? なんで、こんな……?」

 

絶望的な状況に遠坂ですら、弱音を呟いてしまう。

常に勝気で気丈であった、遠坂凛とは思えない姿だった。

 

「クスクス。いい反応よ、リン。何も知らないで死んじゃうのはちょっと可哀想だから、教えてあげるね。バーサーカーの『十二の試練』は11の命のストックだけの宝具じゃないの」

 

それだけではなく、イリヤは『神秘を打倒するにはそれ以上の神秘が必要』とも言っていた。

アサシンの物干し竿では、最後までバーサーカーに傷を付けられなかった。

 

「――もう一つの特性。バーサーカーは、一度でも受けた攻撃は二度と通用しない。だから、二回目のエクスカリバーは、ただの魔力の無駄遣いに終わったわけ。それを知ってたから、もう笑いを堪えるのが大変だったわよ。あははは――!」

 

そして、イリヤが勝ち誇るように再び哄笑を上げた。

 

「はあ、はあ……」

 

セイバーは、バーサーカーの攻撃を避けていたが、傍から見ても限界だった。

宝具発動直前に受けた傷と、魔力切れの影響があまりにも大きい。

目は弱々しく、剣を構える腕も力がない。立っているのだって、やっとに見える。

騎士王としての矜持なのか、バーサーカーの攻撃は未だ命中していない。

それは体捌きというより、未来予知めいた直感だけで何とか命を繋いでるようだった。

数秒先に潰されていても、何ら不思議ではない状態だ。

 

『■■■■■■――――ッ!』

 

そして一分もしないうちに、セイバーはバーサーカーの右薙ぎを腹部に受けてしまう。

 

「ぐぅ……はっ――!!」

 

斧剣が魔力で編まれた甲冑を容易に貫通して、横腹を抉り潰す。

その先端に、セイバーの肉片がこびり付いていた。

斧剣の切れ味の悪さが、セイバーに必要以上の苦痛を与えていた。

 

「不覚……でした……」

 

それでも――セイバーは倒れない。

崩れ落ちそうな体を剣で支えて、マスターの遠坂を庇うように立ち塞がっている。

 

「……セイバー!!」

 

遠坂がセイバーの名前を、ただ叫んだ。これではもう――。

 

「あーあ。これはバーサーカーの勝ちか。……参りましたね。セイバーのほうがまだ勝算があったんですけど」

 

天狗の少女が、これまで考えないようにしていた現実を告げる。そこには一欠片だって情がない。

セイバーはこれ以上、バーサーカーの攻撃には耐えられない。確実に命を落とす。

 

だったら、俺のやるべきことは一つだけ――。

頭が真っ白になって、身体が自然に動き出した。

 

だが――。

 

「おっと。行かせませんよ」

 

俺の腕を文が掴んだ。

外見からは想像できない握力によって、腕が音を立てている。痛みを感じないで済む、ギリギリのライン。

彼女が本気になれば、俺の腕など容易く握り潰せる。

 

「……文、放してくれ」

「絶っ対、駄目。ここでむざむざ士郎さんに死なれたら、何もかも興ざめですから。…………それと、念のため言っておきますけど、私はもう彼女たちを助けませんよ」

 

口にはいつもの薄い笑みがあったが、その赤い目は本気だった。

こいつは、本気でセイバーを見捨てる。

 

「だったら、今すぐその手を放せ!!」

 

大きな感情に飲み込まれて、声を荒げてしまう。そんな俺に、文は少し呆れたように肩を竦めた。

 

「……何を言っても無駄かも知れませんが、今あそこに行って何ができますか? 向こう見ずもいいところ。……そうやって思考を極端にしてはいけない。私は士郎さんにもっともっと悩んでほしい」

「ふざけるな!! 悩んでいる暇なんてあるか!! それに、行ってみなきゃわからないだろ!!」

 

残った理性ではわかっていた。

だが衛宮士郎という存在は、ここにいる事実に耐えられなかった。

 

「……士郎さん、あなたはバーサーカーにしたら路傍の石にも足り得ません。……その程度の存在が困っている人間を助けたい? はははは、笑わせてくれますね」

 

そして、烏天狗の貌が大きく変わった。もう笑みすら浮かべていない。

 

「力を持たない雑魚の分際で烏滸がましい。その態度、鼻につくわ」

 

俺を見る天狗の双眸が、一瞬のうちに白けてしまう。

それはかつて、学園の屋上で見せた顔だった。

その時の顔に言葉が伴うと、心臓が掴まれたような痛みがあった。

恐怖だけで、人は殺せるのだと実感する。

淡白な赤い瞳に映る俺の顔は、どれだけ情けなく引きつっているのか。

 

この腕は、どうやっても振りほどけそうもない。

俺にはもう文から視線を逸らすように、セイバーを見るしかなかった。

 

「……あ、うあああ!!!」

 

その時には、朦朧と立ち尽くしたセイバーの頭に。

バーサーカーの斧剣が触れようとした。

セイバーが終わる。たった一つの命が終わってしまう――。

俺は目を逸らさず、少女の最期を見届けるしかできなかった。

 

 

 

 

「…………?」

 

しかし、セイバーの姿が消えていた。

どこかに移動したわけでもなく、跡形すらもなく、バーサーカーの前から忽然と消失していた。

標的を失った斧剣が大地に刺さり、衝撃によって小さなクレーターが生まれる。

 

何が…………起こった?

空間転移なんて大魔術は、騎士であるセイバーには不可能。

優秀な魔術師でしかない遠坂にも無理だ。だとするとそれは――。

 

「――ッ! 令呪ね!」

 

いち早く理解したイリヤが叫ぶと、瓦礫の上から立ち上がる。

そして遠坂のいる方角を忌々しそうに睨んだ。

そこには、遠坂の姿もなかった。セイバーのように消えていた。

 

「あいつ……! バーサーカー!! リンはまだこの辺りにいるわ! 今すぐに追いかけて殺しなさい!!」

 

アインツベルンの森を管理するイリヤには、遠坂の居場所がわかる。

令呪の効力はサーヴァントだけであって、マスターには及ばない。

遠坂はセイバーをどこかに転移させた直後、自分の脚で戦場から離脱したのだ。

しかし、相手はバーサーカー。

アインツベルンのフィールドで遠坂凛が逃げ切れる確率は、ゼロに等しい。

 

「あんな雑魚――放って置いたらどう?」

 

遠坂を追跡しようとするバーサーカーを遮ったのは、射命丸文だった。

いつの間にか俺の隣から消えて、最強の巨人と対峙していた。

文の周囲には暴風が立ち上り、砂塵を撒き散らしていく。

 

「アヤ……?」

 

イリヤは当然の文の登場にきょとんとしたが、それも一瞬のこと。

すぐに嬉しそうな笑みに表情を作り替える。

 

「……ええ、その通りね。リンとの鬼ごっこなんかで、お兄ちゃんたちをこれ以上待たせるのも悪いもの。……いいわ。私と楽しく遊びましょう? もっとも、朝になってもおうちには帰れないけどね!」

「そういうこと。さあさあ! 掛かってきなさいな!」

 

翼を大きく広げて、臨戦態勢を取る。

微笑は浮かべているが、そこにいつもの慢心は含まれていない。

 

『■■■■■■――――ッッ!!』

 

バーサーカーも文を敵性存在と判断したのか咆吼を上げて、大気を震わせた。

 

「…………文」

 

そして、俺にできることは何もなく、二体のサーヴァントをじっと見るだけ。

………文に掴まれた腕から、ジンジンとした熱い痛みを感じた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

42.不文律

 

 

『魔獣「鎌風ベーリング」』

 

文のそんな言葉と共に、風が彼女の周囲に吸収されていく。

吸収された風は、鎌鼬となって少女の身体を纏った。

巻き込まれた石ころが風に触れると、バターのように切断される。

それは天狗少女の鎧であり、触れるものを全て切り刻む刃だった。

迂闊に手を出そうものなら、肉体どころか骨ごとなます切りにされるだろう。

 

『■■■■■■――ッ!』

 

だが、バーサーカーはお構いなしに猛進する。

荒ぶる鎌鼬の圏内に侵入しても尚、未だセイバーの血で濡れた斧剣を振るった。

風刃がバーサーカーの巨体を次々と襲うが、皮の一枚すら切れていなかった。

行動を制限された様子もなく、巨人の機動性は一切損なわれていない。

 

「なんて――化物!」

 

文は苦々しい表情で、目前に迫る唐竹割りを巨人の身の丈を超す跳躍で躱した。

空中という、自由の利かない空間。

本来なら無防備な状態に陥るが、そんな常識は文には当てはまらない。

空中こそが彼女本来の戦場であって、真の実力を発揮できる。

俺はキャスターとの戦いを見て、それを強く実感していた。

 

跳び上がった少女は足場のない空間に、片足だけで立っていた。

背中の翼を動かすまでもなく、当たり前のように空中でバーサーカーを俯瞰する。

 

「あれは……?」

 

よく目を凝らすと、少女の足の下には球体状に圧縮された風が生成されていた。

 

「喰らいなさい!」

 

その風の球体を足場にして軽業師の如く、後方へと跳ね飛ぶ。

風の球体が蹴り飛ばされて、バーサーカーに飛んでいく。

ドン、と派手な音を立て胸部に命中したが、それも鋼鉄の肉体に弾かれて霧散してしまう。

やはり、ダメージは受けてないようだった。

 

「これも駄目」

 

重力の落下に身を任せる少女に、バーサーカーは間合いを詰めた。

あの程度の距離ならば、数秒すら必要ない。

 

「ふっ!」

 

しかし文は襲い掛かる巨人ではなく、地面を狙って天狗の羽団扇を二度振り抜いた。

団扇から発生した二つの風は地面に刺さると、地を這う刃となってバーサーカーへと奔った。

 

『■■■■■■――!!』

 

バーサーカーは、物ともせずに刃を蹴り破る。

 

「わお――何の足止めにもならない」

 

文は、地面に足が着く前に翼を大きく広げると、空で迎え撃つ態勢を取った。

バーサーカーは、自身の間合いに入った瞬間に、空飛ぶ天狗に武器を振りかざした。

どうやら文はセイバーのように、攻撃の回避に専念するようだ。

 

……バーサーカーの戦法は極めて単純だ。目に映る敵に斧剣を振るうだけ。

奇を衒わない、至極単純な正攻法。

バーサーカーのように攻守ともに、ずば抜けた身体能力があれば、どんな敵であってもオールマイティに戦える。

現に文もこれまで数々な風の技を駆使したが、ただの一つも『十二の試練』を貫けていない。

 

『■■■■■■――ッ!!』

 

斧剣の切っ先が、文の鼻先を掠めそうになった。

 

「おお、怖い怖い」

 

回避を続ける文は余裕そうに見えたが、おどけた言葉にはどこか焦りも含まれていた。

恐れなど知らないバーサーカーは間合いを更に詰めて、剣速を加速させていく。

アサシンの剣を全て避けきった文も、触れずとも肉を裂く巨人の剣は勝手が違うのか。

 

「――――失礼。ちょっとだけ退避させてください」

 

文は翼を羽ばたかせると、空に向かって飛んでいく。

そのまま、バーサーカーの手の届かない10メートル程度の高さで静止した。

夜の森に混ざる濡羽色の翼……彼女の着る純白のブラウスがとても明るく感じた。

 

「あー! ずるいずるーい! そんなの反則よ、反則ー!」

 

イリヤが頬を膨らませて抗議をした。

この高度では、バーサーカーの間合いの外だ。

理性を失ったヘラクレスでは、本来の特技である弓は使えない。

そのせいで、バーサーカーの攻撃手段はかなり限定される。

キャスターの時のように斧剣を投擲するのも可能だろうが、空中であればどんな不意打ちであっても文に当たるはずがない。

 

『■■■■■■……』

 

そんな状況でバーサーカーは、低い唸り声を上げて立ち尽くしている。

 

「おほほ。私へのクレームは事務所を通してください」

 

……その事務所とは、聖杯戦争を管理する教会を指しているのか。それとも単に俺の家だろうか。

イリヤの膨らんだ頬は更に大きくなり、空を悠々自適に飛んでいる文を非難する。

 

「もー。そんな意地悪言うなら、先にシロウを狙っちゃうんだからね!」

 

今まで空を仰いでいたバーサーカーが俺をじろりと睨んだ。

 

「く……!」

 

イリヤとの戦いは、暗黙の了解であるようにマスターを直接狙わなかった。

それは遠坂たちも含めたもので、単純にサーヴァントの力だけを競わせていた。

おそらく聖杯戦争初日に、文がイリヤを直接狙ったのが原因だろう。

それでも何か取り決めをしたわけではないので、イリヤの言い分には何の非もない。

俺も以前に、バーサーカーがどうしようもなければ、イリヤを狙うしかないと考えていた。

それは文も納得しているのか、困惑を表すように翼を力なく垂らした。

 

「あー、それは困るわね。……とても困ります。では、5分だけ時間をください」

「……いいわ、ぴったり300秒ね。1秒でも過ぎたらシロウを殺しちゃうんだから」

 

イリヤは、文からの提案をすんなりと受け入れた。

射命丸文が最大のポテンシャルを活かせるフィールドは空だ。

彼女がその気になれば、手が出せないバーサーカーに一方的な攻撃だってできる。

そのため、この提案はイリヤからすれば破格の条件だった。

文に取って相性が良い相手ではないのに、そのバーサーカーの最も得意とする舞台で戦う。

そして文が約束を反故にすれば、イリヤは確実に俺を殺すだろう。

 

「クソ……まただ」

 

また文を窮地に追い込む原因になってしまった。

俺の力の無さがどこまでも彼女の足を引っ張ってしまう。

 

『力を持たない雑魚の分際で烏滸がましい』

さっきからずっと、呪いのように付きまとう文の言葉――。

今もまた彼女の言葉通りの現実があった。

 

でも彼女は、その前にこうも言っていた。

『思考を極端にしてはいけない。私は士郎さんにもっともっと悩んでほしい』

……悩む、つまりは思考だ。

『一つに囚われずに、いろいろと思考を巡らせろ』と彼女は暗に言っていた。

そうすれば……今の俺にだって何かできるのだろうか?

 

 

 

 

猶予は250秒を切った。

彼女は何もせずに翼を羽ばたかせ、空中でぶらぶらしているだけだった。

ただ、いつになく思慮が深い顔をしている。

そうして時間がいたずらに過ぎる中、文が腕組みを解いて俺たちを見下ろす。

 

「これから話すのはただの独り言。あなたたちは別に聞かなくてもいい」

 

彼女から感じる雰囲気は、妙に神妙で飾り気がなかった。

端的に言えば、俺の知る射命丸文らしくなかった。そして少女は『独り言』を始める。

 

「私は運が良かった。これまで戦ってきたサーヴァントに純粋な英霊は一人としていなかった。同じ穴の狢のメドゥーサ。人間の亡霊でしかない佐々木小次郎。……これは当て推量だけど、裏切りの魔女メディア。彼らは誰一人として、英雄と呼ばれる存在ではなった。だから私も不文律の外で気兼ねなく戦えた」

 

……メディアというのは、キャスターのことだろうか?

どこで知ったのかは不明だが、情報の収集と分析は彼女の専門分野だから不思議ではない。

 

「……で、その『不文律』って何のこと?」

 

イリヤは俺と違う点が引っ掛かったらしい。そんな疑問を上空にいる文に尋ねる。

……どうやらその『不文律』が本筋だったようで、文はイリヤに感心するような一瞥を与えた。

 

「妖怪は人間を喰らい、人間は妖怪を退治する。それが私の住む幻想郷での尊い秩序であり、妖怪と人間の間に築かれたひとつの信頼。そして妖怪を退治する人間。それは即ち、英雄と呼ばれる存在――」

 

何が正しくて、何が間違っているか。

そんなものは、時代や環境によって大きく変わる。

彼女は人を喰らい、人に殺される関係を秩序と尊び、信頼と呼んだ。

……俺はそんなこと、絶対に認められない。

だが俺がそう思っていても、文の住む世界ではそれが事実なのだろう。

 

「英雄とは――人間たちの願いによって奉られる者。古来より彼らは我らの天敵であり、そうあって欲しいと願われた英雄の剣は、妖怪にとって究極の毒になる。妖怪が英雄に倒されるのは、世界の定めたルール。世の理。なるべくしてなり、負けるべくして負ける」

 

烏天狗は、地上にいるヘラクレスを見下ろす。

 

「………ふふ」

 

その時、文の肩から血が滲んだ――。

そこは昨日の夜、ヘラクレスの攻撃が掠ったところだ。

異常なまでの再生力を持つ文が、一日経った今でも傷が塞がってない……?

 

「そして、その最たる存在が大英雄ヘラクレス。私のような一介の烏天狗では、とても敵うような存在ではありません」

 

どの国であっても、古典的な英雄譚は『英雄が魔を討つ』といった話が多い。

ヘラクレスもそんな例に漏れず、ネメアの獅子を始めとする数々の化物を滅ぼしたのは有名だ。

今の話が本当なら、文に取ってヘラクレスほど絶望的に相性の悪い相手はいない。

 

「妖怪が英雄に勝つ――それは、上から下へ流れる水を逆さにするのと同じ。正直に言えば、無茶もいいところ。……でも、たまには妖怪が英雄を打ち破ってもいいと思いませんか? だから私は挑みます。私の風が下流に流れる水を、上流に押し戻してみせましょう!」

 

少女は、一枚のカードを取り出した。スペルカードと言う彼女の切り札。

彼女はこれまで、殆どスペルカードを使っていない。

あれは、サーヴァントで言うところの宝具に該当する神秘だ。

宝具と同様で、迂闊に晒すわけにはいかない。

それとも、単にスペルカードを使う機会に恵まれなかっただけかもしれない。

 

そのカードを、誰の目にも映るように掲げた。

 

『風符「天狗道の開風」――』

 

誰の耳にも届く、はっきりとした発声でカードに記された一文を読み上げた。

 

「このスペルカードには、私の得意技を記してあるの。で、いま宣言した『天狗道の開風』がその技の名前。扇の一薙ぎとともに魔力で練られた最大級の風を放つ。ライダーも倒したそれを、バーサーカーに使うわ」

「何それ? 私のバーサーカーを相手に技の説明? ……随分と舐められたものね」

 

最強のバーサーカーが甘く見られたと感じたのだろう。イリヤが不機嫌を露わにした。

 

「いえ。これは私の住む幻想郷のルールみたいなものでしてね。このルールを無闇に破ると、こわーいお歴々にボコボコにされてしまいます。癖みたいなものですから、気になさらないでくださいな。……もっとも今回に限って、出力を落とすつもりはありませんけどね――!」

 

文の魔力が高まると、利き腕に持った葉団扇に巨大な旋風が発生した。

いや、これは旋風なんて優しいものではなく、竜巻と呼べるクラスの暴風だ。

 

文の言う通り、これはライダーとの決着を付けたスペルカードだ。

その風が持つ威力は、間近で見ていた俺が最も理解している。

雲海にぽっかりと穴を開け、数キロ先のライダーを天馬ごと切り刻んだ。

ライダーは身体を切り刻まれ、肩から切断されかけていた。ペガサスに至っては、頭部を抉り取られていた。

それは、いま思い出すだけでも肌が粟立つ光景――。

 

「でも、これなら……きっと」

 

あの技ならきっと、バーサーカーの『十二の試練』でさえも打ち破れる……!

 

「じゃあ、行くわ。避けてみなさい。――避けられるものならね!」

 

文が葉団扇を一閃した――。

 

距離は、たったの10メートル。来るとわかっていても躱せるような規模じゃない。

烈風の大きさはバーサーカーを優に超え、その速度もまさに疾風迅雷。

バーサーカーは、回避行動を諦めているのか、両腕を掲げて風を受け止る態勢に入る。

 

息つく暇もなく、巨人と烈風が接触した。

 

『■■■■…………!!!』

 

押し潰そうとする風の圧力は凄まじく、バーサーカーの足が瞬く間に大地にめり込む。

離れた場所にいる俺のところまで、暴風が吹き荒れる。

目に砂塵が入らないように腕で顔を覆ったが、大した意味はなかった。

 

抵抗する暇すらも与えずに、烈風がバーサーカーを飲み尽くし、押し潰した。

ミキサーのような風の刃が、ガリガリと音を立てて鋼の巨躯を削っていく。

 

『■■■■■■――ッ!』

 

竜巻が消える頃、巨人の姿は地面に埋まるまで潰されていた。

黒の巨人は、ぴくりとも動かない。いや、動けなかった。

 

そして、ぴったり5分後――天狗の少女が地上に下りた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

43.叫哭

 

 

烏天狗の烈風によって、バーサーカーは地に伏せた。

 

吹き荒ぶ風も大気に四散し、夜の森はかつての静けさを取り戻している。

後はただ、バーサーカーが起き上がらないことを祈るだけ。

バーサーカーの命のストックは、残り4つ――。

文のスペルカードで、そのすべてを削り切っていればいいはず……!

 

「あははははは――――!!」

 

夜の静寂に水を差す、無邪気な少女の笑う声が響いた。

崩れた城の瓦礫の上に座るイリヤが、肩を揺らして笑っていた。

本当は……今だって体調が悪いはずだ。

それすら無視できるぐらい、おかしくて堪らないのか、転げるように笑っている。

 

「イリヤ…………?」

「おっかしい! 笑っちゃうわね! ねえねえ! アヤの奥の手って、その程度なの!?」

 

それだけの言葉で、俺はイリヤが何を言っているかわかってしまった。

こんな時に感じる悪い予感は、かつて一度だって外れた試しがない。

 

「嘘……!?」

 

文ですら同じだった。色めき立ちながら、視線をバーサーカーに向ける。

 

「あーもう! ほんっと、おかしいんだから!」

 

つまりバーサーカーは、文のスペルカードで倒されてはおらず――。

 

『■■■■■■……!!』

 

イリヤの声に反応して、地面に潰れていたバーサーカーが、何でもないように起き上がった。

文の烈風で削り取られたはずの肉体は何一つ傷もなく、低い唸りを上げる。

 

「命を奪うどころか、無傷……? そんなこと……!?」

 

そう、あり得るはずがなかった。

セイバーのエクスカリバーほどの威力はなくても、ライダーを宝具ごと飲み込んだ天狗の風だ。

『十二の試練』のストックを削ったとしても、全く不思議じゃない。

 

「クスクス。二人揃って、なんでって顔してるね。……アヤはさっき私が言ったこともう忘れちゃったのかしら? あっ! もしかして、鳥頭だからなのかな!?」

 

バーサーカーは、一度受けた攻撃は二度と通用しない――。

イリヤがそう言っていたのは間違いない。だけどそれは。

 

「攻撃の耐性を会得するのに、殺される必要もなかったわけ……?」

「そう! アヤの風はバーサーカーには効かないの! 聖杯戦争の始まった日に攻撃を受けた時からもう――ぜんぶ! ぜーんぶ! バーサーカーには、最初から意味なんてなかったんだから!!」

「いくらなんでも……そんなの、嘘だろ……?」

 

自分で言いながら――なんて間抜けなのか。

イリヤの話が嘘じゃないから、こうしてバーサーカーは無傷で立っているじゃないか。

 

「はあ……」

 

天狗の少女が、覚めない悪夢を振り払うように頭を何度か振ってみせた。

それに彼女は、あのスペルカードを『最大級の風』と言っていた。

つまり、『あれ以上の風は起こせない』と言っているのと同義だった。

 

「さて…………どうしましょうか?」

 

射命丸文は、それでも笑っていた。

でも口端が少し引きつったその笑みは、常に自信に満ちた彼女に少しも似合わない。

だって、それは自嘲の笑みなんじゃないのか?

 

「………………」

 

ああ……こんなの、思ってはいけない。絶対に思っちゃいけない。

俺は文のマスターとして、一瞬であっても最低最悪なことを思ってしまった。

 

もう射命丸文は、バーサーカーに勝ち目がないと。

 

「シロウもアヤも、バーサーカーには何をやっても無駄だって理解したようね。じゃあ、もう思い残すこともないかしら。――バーサーカー! アヤをやっちゃえ!!!」

『■■■■■■――ッッ!!』

 

何度目になるかわからない雄叫びを夜の森に響かせ、バーサーカーが文を襲うために肉薄する。

 

「ま、白兵戦でやるだけやってみますか。……イリヤさんとの約束ですからね」

 

文がバーサーカーを、再び迎え撃つ。

斧剣の横薙ぎを限界まで身を屈めて回避し、巨人の懐に飛び込む。

風による攻撃が効かない今、文はバーサーカーに対してセイバーよりも更に間合いが狭くなる。

そのため、自ら死地に赴く距離でしか文は攻める手段がない。

 

「これは――どう!?」

 

葉団扇を無防備な腹に目掛け、横一文字に斬りつける。

魔力を纏った葉団扇は鋭利な切れ味を持つが、巨人に対してダメージを与えるまでに至らない。

少しも怯まずに、懐にいる文に蹴りを放った。

斧剣による攻撃でなくとも、ガードはできない。バーサーカーの放つ攻撃はすべて一撃必殺だ。

 

「ふ……ッ!」

 

地面を抉るようなバックステップで距離を取りつつ前蹴りを躱すも、巨人の追撃は止まらない。

 

『■■■■■――!!』

 

地面を掬うように斧剣を振り抜くと、文にめがけて無数の飛礫を飛ばした。

大型の散弾銃を超える威力を持つ飛礫に、文は咄嗟に風の防壁を展開して防ぐ。

 

「……く!!」

 

しかし本来、バーサーカーの攻撃は、回避のみに専念しなければならない。

避けなければいけない攻撃を、たったいま防壁で受けてしまった。

結果、ほんの一瞬だけ生じてしまう防御による硬直。

 

巨人は一息に間合いを詰め、文に有無を言わさず斧剣を叩き付けた。

 

「…………!!」

 

大地を二つに割る一撃――。

それを間一髪のところで身を捻り回避したが、ここはもうバーサーカーの領域。

斧剣の攻撃に隠れていた左腕が、既に文を狙っていた。

 

「ウソ……!?」

 

下から上に突き上げるように放たれた左拳は、風の障壁を紙クズ同然に突き破る。

そして一切勢いを落とさずに、文の胸部を深く抉った。

間違いなくクリーンヒットだった。肉体を打ち砕く衝撃が文に走った――。

 

「ぐぶ……!」

 

少女は口から大量の鮮血を吐き出し、華奢な身体が空高く打ち上げられる。

……その時の滞空時間は、ゆうに10秒はあった。

かつてないダメージにより受け身も飛行もままならず、そのまま凍り付いた大地に叩き付けられてしまう。

 

「~~~~ッッ!」

 

都合、二度に渡っての衝撃。

しかし落下時の衝撃よりも、バーサーカーの左拳によるダメージが致命的だった。

耐え難い痛みに悶絶するようにのたうち回り、呼吸すらもできずに呻き声を上げる。

黒色の血を吐き出す様からして、内臓にも大きな損傷を受けていた。

 

「文!!」

「……………………!!」

 

少女に、俺の声は届いていない。

どんな時だって俺が話しかければ、彼女は返事をしてくれた。

真面目に答えてくれる時も、冗談を返してくれる時もあった。

 

「……あ……ぅ……」

 

そんな彼女が、身体を痙攣させるように地面でビクビクと震えている。

 

文の攻撃は、スペルカードも含めて一つたりとも通用しない。

片やバーサーカーは素手による一撃ですら致命傷。

お互いの相性や身体能力の差――そして『十二の試練』があまりにも常識外れだ。

…………もうこれは、戦いにすらなっていない。

 

「あははは! アヤは空を飛ぶのが好きみたいだから、バーサーカーが気を利かせてくれたようね! ちゃんと感謝しなさい!」

「…………あ、あっ」

 

文は地面に倒れたまま、声にならない声で喘いでる。

必死で起き上がろうと、手と足に力を入れようとしていたが、それも叶わない。

 

「でも、もう駄目。それと、さっきみたいに空をうろちょろされるのも面倒ね」

 

イリヤスフィールが、かつてないほどの残忍な顔をしていた。

あれが少し前に、俺たちと一緒に酒を楽しんだ少女と同じ人物なのか……?

 

「だから――その羽、もぎ取ってあげる」

 

は――――?

 

「なにを、言って……?」

 

羽をもぎ取る……? 文の黒い羽を……?

理解ができない。理解したくない。

イリヤは何の恨みがあって、そんな残酷なことを文に言えるんだ……?

 

『■■■■■■……!』

 

バーサーカーが、地面に寝そべる文の身体を人形のように鷲掴みにした。

 

「ハッ……ハ……」

 

受けたダメージが甚大で、文は短く呼吸を繰り返す。無抵抗そのものだった。

そしてこれからバーサーカーは、イリヤの命令通りの行動を行う――――。

 

「……やめろ――――ッッ!!!」

 

こんなの黙っていられるか!!

いくら足手纏いと罵られようが、構うものか!!

ここで彼女を見捨てたら、その時点で俺は爺さんの理想を追う価値のない人間に成り下がってしまう!!

 

「ふざげるな……!! 今すぐやめろ!! やめるんだ!!!」

「クスクスクス。やめない。絶対やめないわ。だからね……お兄ちゃんは大人しくそこで見てなさい」

 

座り込んでいたイリヤが起き上がると、照準を定めるように少しだけ俺に歩み寄った。

少女の微笑が凄惨なものに変貌して、紅玉の魔眼に魔力を灯す。

 

「ガア、ア……ッ!」

 

土蔵の時と同じく、俺の身体がイリヤの魔眼によって縛られてしまう。

手も足も縛られたように動けない。呼吸以外の生命活動を止められてしまったようだ。

 

「ぐ……う……!!」

 

しかし、術者との距離が離れているためか、辛うじて体が動く――!

拘束の魔眼に逆らったせいで、身体の神経が悲鳴を上げる。

だけど、ここで俺の全部の神経が千切れようが、そんなの知ったことか!!

 

「うぐうううう……ああああ…………!!」

 

身体中の神経や血管が破壊される音とともに……足だけに集中をして、一歩また一歩と刻んでいく。

歩いている! 歩けている!

 

だが、それでも――――文までの距離は絶望的だった。

 

「アヤはどんな悲鳴を聞かせてくれるのかな? ふふー。とっても楽しみ!」

『■■■■■■―――!!』

 

丸太のような黒い腕が、少女の黒い翼を乱暴に掴む。

いつだって飄々としていた文の顔が――その時だけは誰かに縋るように強張った。

 

「はっ、は! ………………じょ、冗談じゃ、ないわよね……?」

 

そんな、文らしからぬ言葉。

巨人の金色の瞳からは、相変わらず何の表情も読み取れない。

こいつはイリヤスフィールの命令に従うだけの木偶にしか過ぎないのだと、俺たちは悟ってしまった。

少女の顔に諦念と自省の念が浮かび、最後は絶望に染まる。

 

そして、巨人の腕に力が込められた――――。

 

「――――――――!!!!!」

 

ブチブチブチと――筋繊維が断裂する不快な音。

バーサーカーの豪腕によって、少女の翼が躊躇なく、少しずつ引き千切られていく。

 

「ああ……ッ!! いゃあ、あああああああああああああ………………ッッッッ!!!!」

 

限界まで目を見開き、これ以上ない苦悶の顔で、かつてない絶叫を上げる。

恥も外聞も己の矜持すら捨て去って、涙をぼろぼろと流しながら泣き叫ぶ。

 

「う……あああああ…………ああ、ああ……あああああああああ……ッッ!!」

 

俺の心までも、潰されてしまいそうな悲鳴だった。

いま彼女を助けられるなら、俺は首だってもがれても構わない。

あの気丈で快活な少女が、涙を流しながら叫び続ける姿――。

俺にはもう、耐えられそうもなかった。

 

「う、あ………………あ…………ッ」

 

喉が枯れ果てたのか、悲鳴は声にすらなってない。

息を詰め、小さく震えている。

だけど、ゆっくりと確実に、少女の背中から黒い翼がもぎ取られていく。

俺はこんな時だって、見ているだけで何もできなかった。

イリヤの魔術のせいで、目を逸らすのも耳を塞ぐのも許されず、ただ、地獄を眺めるだけ。

 

「………………………………」

 

そして、根本から文の左の翼が引き千切られた――。

バーサーカーはまるでゴミでも扱うように、千切り取った翼を地面に投げ捨てる。

文はもう、壊れた人形のように首を垂らし、なんの反応を示さない。

 

少女の背中から夥しい量の血が溢れ出し、純白だったはずのブラウスを赤く染めた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

44.風神少女

 

 

「…………あ……ああ……」

 

黒い巨人の腕のなか、精も根も尽き果てた天狗の少女は、ただ喘ぐ。

今も意識を失わずにいるのは、彼女にとって幸か不幸か。

ここで首をねじ切るように命令されたら、それで全てが終わってしまう。

 

「ア、ハハハ。いい気味、だわ……」

 

バーサーカーに悪魔のような命令を下したイリヤは、瓦礫の上で俯いていた。

明らかに体調を崩してる。声にも張りがない。

 

「動ける……?」

 

……魔眼の拘束力が、さっきよりもずっと弱くなっていた。

もしかしたら、距離の問題ではなくて、イリヤの体調が原因なのかもしれない。

だが拘束力が弱まったとしても、到底走れるような状態ではない。

 

『――同調開始(トレース・オン)

 

イリヤに魔術回路を開けてもらったので、命懸けの工程も必要なくなった。

 

『――――基本骨子、解明。――――構成材質、解明』

 

イリヤの金縛りを、強化魔術の応用で解析していく。

 

「…………?」

 

たったそれだけで、魔眼の拘束が解けてしまった。

土蔵で受けた時とは比較にならないぐらい、魔眼の力が弱い。

ともかく、これで身体は動けるようになった。

すぐにも文の元に駆け出したかったが、それこそ彼女への裏切りだ。

 

『今あそこに行って何ができますか? 思考を極端にしてはいけない。私は士郎さんにもっともっと悩んでほしい』

 

彼女の言葉を、頭の中で反芻する。

今の文は、あの時のセイバーと寸分違わず同じ状況だ。

そのとき彼女は、俺に悩むように言った。結論を一つにせず、思考を巡らせろ、と。

だから、悩む。自分に何ができるかを、思考する。

俺にできるのは、強化の魔術。それと――投影。

強化魔術は、ここでは何の役にも立たない。俺の周辺には、木の枝しか転がってなかった。

そうなると、投影魔術が残った。

今の俺に投影できるものなんて、たかが知れている。

それでも俺は、投影できそうな武器を思い浮かべてみた。

 

「…………」

 

最初に浮かんだのは、一振りの剣だった。でも俺に剣なんて使えない。

……仮に使えたとして、それでどうなる?

バーサーカー相手に剣を持って吶喊しても、一撫でで殺される。

衛宮士郎という存在が、意味もなく死ぬだけ。

だから投影するのは、剣じゃない。

俺に使える武器があるとすれば、一つだけ。そして、その武器だったら自信だってある。

 

『――投影、開始(トレース・オン)

 

大して時間も掛からずに、一組の弓と矢を投影できた。

武器を投影したのは初めてだったが、思った以上に上手くいった。

部活でずっと使ってたから、イメージもしやすい。

 

そして、これが俺に使える唯一の武器。

弓矢には神秘も何もなく、市販品と変わらない性能しかない。

こんなもの、バーサーカーには絶対に通らない。

だから、これを使って何ができるかを悩む。思考する。

 

「もしかして……文なら……」

 

一つだけ思いついた。あとはそれを実行するだけ。

慎重に、なるべく早く。

イリヤがバーサーカーに、次の命令を下す前に実行しなければならない。

 

「……文」

 

名前を呟いてしまう。

大きな声を出すわけにはいかない。イリヤに気付かれたら、それで終わりだ。

 

だから俺は、文に目配せをした。

文は俺の知る人物のなかで、一番周りを見ている。もちろん、サーヴァントも含めて。

なんせ、相手の呼吸から行動が読めるとキャスターに言っていた。

あんな状態であったとしても、文の能力を信じる。

それに俺はその能力以上に、彼女が持つ目端に全幅の信頼を寄せていた。

 

「…………?」

 

文が虚ろながらも、俺の目配せに反応した。

視線が、少しの間だけ重なる。

そして弓矢を見た彼女は俺の意図に気付いて、小さく首肯をした。

苦痛に顔を歪ませながらも、少しだけ驚いた顔だった。

 

ほら、やっぱりあいつは凄いやつだ。俺の考えなんて、手に取るようにわかってしまう。

だけど俺の想像とは、ちょっと違う驚き方をしていたな。

 

「よし……やるぞ」

 

自らを奮い立たせるため、あえて声に出した。

当然、自分だけにしか聞こえない範囲で。

標的までは、目測で10メートル。この程度の距離であれば、俺は絶対に外さない。

 

「それじゃあ……折角だし、もう片方の羽もいただいちゃおうかしら?」

 

俯いていたイリヤも、いつの間にか回復していた。

……こちらには気づいていない。俺の拘束が解除されたとは思ってないのだろう。

それでも、これが最初で最後のチャンスだ。何があっても、失敗は許されない。

 

「イリヤ、どうしてなんだ……?」

 

あんなに仲の良かった文に対して、あそこまで残酷な仕打ちができたのか。

聖杯戦争の敵の一人として、殺してしまうのならまだわかる。

拷問のように痛めつける必要があったのか。それだけは少しも理解できない。

もしかしたらあの雪の少女は、根本的に善悪の判断がつかないのかもしれない。

 

だが、今は文が最優先だった。

バーサーカーの腕が残った翼を掴もうとした瞬間、狙いを定めて弦を引き絞り、矢を放つ。

 

「……気づいてくれよ」

 

一本の矢は、吸い込まれるように巨人の目に命中した。

そして、当たり前のように弾かれる。

ダメージがないにしても、俺の攻撃に気づく――。

バーサーカーは、反射的にこちらを向いた。当然イリヤも俺に気づく。

 

「……シロウは放っておきなさい。アヤを殺した後に好きなだけ遊べるんだから」

 

こんな弓矢、最初から通用しないのはわかっていた。

それでも一瞬――ほんの一瞬でもバーサーカーの注意を逸らせればいい。

想定外の事態があれば、文を握る力だって多少は緩まるはず。

 

「ぐ、うううううう――――!!!」

 

微かに緩んだ巨人の腕をこじ開けて、文は弾けるように飛び出した。

彼女は、バーサーカーに力で遠く及ばない。それでも俺は、彼女の強さを知っている。

なんせ、怪力スキルを保有しているメドゥーサに綱引きで勝つ実績があった。

 

脱出に成功した文は、これまでよりも大きく距離を取って、バーサーカーと対峙する。

 

「はあ、はあ……ッ!」

 

口の端から垂れる血と、頬に残る涙の跡をブラウスの袖で拭き取った。

そのまま何度か深呼吸をして、身体と心を落ち着かせる。

 

『■■■■■■――!!』

 

そんな隙を見せても、バーサーカーは襲いかからない。

文の脱出した場所は、これまでよりもイリヤのいる位置に近い。

イリヤを守らなければならないバーサーカーは、その場所から離れられない。

文は、バーサーカーを視界で捉えつつ、同じ方角にいるイリヤも同時に見ていた。

 

「……なによ?」

 

視線に気づいたイリヤは、不機嫌そうに文を睨む。

普段なら軽口の一つでも返すだろうが、今の彼女にそんな余裕はない。

ここまで追い込まれたら、文もイリヤを直接狙う可能性もあった。

彼女のスピードは、絶対的にバーサーカーを凌駕する。

バーサーカーがイリヤから少しでも離れれば、たちどころに襲われてしまう。

それが、満身創痍の文が作った膠着状態だった。

 

「……死んじゃうほど痛かったので、良い眠気覚ましになったわ」

 

葉団扇で扇ぎながら嘯くが、今の彼女はそれが精一杯の強がりだった。

背中から絶えず血が流れており、貧血のためか足取りも覚束ない。

 

「……ふん。馬鹿みたい。そんなふらふらで何ができるっていうの?」

 

イリヤは呆れたように尚も睨んだが、天狗の少女は逆に媚びるような視線を送っていた。

 

「ところで……イリヤさん、また私の提案に乗りませんか?」

「は? いきなり何を言い出すのかと思ったら、どういうつもり? 今のアヤの提案を私が受けて、何かメリットがあると思っているの? 命乞いの間違いじゃない?」

 

イリヤの視線が更に厳しくなったが、文は態度を崩そうとしない。

 

「それがですね。実のところ私……翼がなくても飛べます。もちろん速度は格段に落ちますけど、その気になれば士郎さんを連れて逃げ出すのも可能です。……そんなことになれば、お互いに面倒でしょう?」

 

嘘を言っているようには見えなかった。

イリヤが『提案』を断れば、彼女は今の言葉を二の句を継ぐ暇もなく実行する。

そんな雰囲気を、天狗の少女は漂わせていた。

 

「…………話だけ聞いてあげる」

「へへへ。ありがとうございます。では、僭越ながら……。これから私は、一枚のスペルカードを展開します。そのスペルをバーサーカーが最後まで耐えきったら、イリヤさんたちの勝ちです。それだけです。他に難しい条件はありません」

 

へつらった笑みを見せて、勝利条件を提示した。

 

「一度だって、バーサーカーを殺せてない癖に。……偉そうにして。でも、いいわ。ここまで来て逃げられるのもまっぴらだしね」

 

相手の思惑に乗せられて気に入らないようだが、不承不承ながらその提案をのむ。

イリヤにとって、バーサーカーの存在は絶対だ。そんなプライドのためにも、ここで引くわけにいかなかった。

 

「どのみちこんな状態であのスペルを展開すれば、私は確実にぶっ倒れます。後は煮るなり焼くなり、殺すなり好きにしてください。…………ん、士郎さんも付き合わせちゃうけど、ごめんね」

「いや、気にしなくていい。俺は文の強さを信じる」

「またそうやって歯の浮くような恥ずかしい台詞……。でも、今だけはイヤじゃないかも」

 

そんな文の軽口に、つい笑いそうになってしまう。

だが血の気は完全に引いており、今にも倒れそうなほどふらふらだ。

 

「…………シロウの馬鹿。二人ともバーサーカーに殺されちゃえばいいのよ」

 

どこか拗ねた様子のイリヤも、彼女の状態を考慮した上で提案をのんだのだろう。

文の足下は、背中からの出血によって水たまりができていた。

歩こうとしても、あの射命丸文が頼りなく感じてしまうほど不安定だった。

 

「あわわ!!」

 

血溜まりに足を滑らせたのか、尻餅をついてしまう。

血が飛び散って、自らを更に赤く染めた。

 

「あ、転んじゃった……恥ずかしい……」

 

彼女が転ぶなんて、信じられない光景だった。

この森に入った時も『生まれてから一度も転んだことがない』と言ってのけていた。

こんな局面で、道化を演じているわけじゃないだろう。

その証拠に、よろよろと起き上がる文も転んだ事実に驚きを隠せていない。

 

「………………邪魔。走りにくい」

 

少し逡巡を見せたあと、文は一本歯の靴をソックスごと脱ぎ捨てた。

自分の血に染まった大地に、裸足になって立つ。

しかし……転んだ原因が、あの靴だけとは考えにくい。

失血による体力消耗だけではなく、片翼を失ったせいでバランスを取れずにいた。

 

それでも天狗の少女は、唯一残された右の翼を限界の限り広げてみせた。

 

「…………っ!!」

 

……広げた時にもがれた翼も反応したのか、顔をしかめ苦痛に耐えようとする。

そんな文を見て、イリヤは嬉しそうに笑っていた。

 

「……ところでイリヤさん。神秘に打ち勝つには、それ以上の神秘が必要なんでしたっけ?」

「そうよ。神秘はより強い神秘に倒されるの。だからバーサーカーの『十二の試練』を破るには、セイバーのエクスカリバーのような概念武装が必要だわ。……アヤがそんな概念武装を持っているとは思えないけどね」

 

アサシンの太刀が、バーサーカーに通らなかったのはそのためだ。

あの男の剣技が如何に優れようとも、備中青江ではどうやっても『十二の試練』を貫けない。

現に文の使う葉団扇だって、弾かれてしまっている。

これまで文は『十二の試練』を超えるどころか、一度だってバーサーカーにダメージを与えていない。

……だがなぜ、今になってそれを確認したのか?

 

「私にもちゃんとありますよ。いえ、『いる』と言った方が正しいでしょうか」

「クスクス。よくわからないけど、それなら最初から使えばいいのに。……痛みのあまりに気でも触れちゃったのかしら?」

 

文の言葉は、漠然として要領を得ないものだった。

そうではなく、重大な何かを隠しているような口振りだ。

 

「神秘とは、つまり幻想でしょう? ――あなたの目の前に千年を超す幻想がいませんか?」

「え――?」

 

ペガサスのような幻想種は、在り方そのものが神秘であり、それだけで魔術を凌駕する。

魔術が知識で力を蓄えるのならば、幻想種は長く生きることで力を蓄える。

それが、千年クラスの幻想種なら『十二の試練』を打ち破れても不思議じゃない。

 

「じゃあ、文が……?」

 

ニィと天狗の少女が笑みを作った。

赤い目が深度を増してより紅くなり、瞳孔の形が細く狭まる。

あれは以前、柳洞寺で見せた目だ。

今の射命丸文は、すべての虚飾を脱ぎ捨てて、妖怪本来の顔をしていた。

 

「あなたたち、死にたくなかったら、一ミリでも動かないほうがいいわよ。これから使うスペルはもともと制御が利くようなものじゃないから」

 

天狗の少女は、一枚のスペルカードを取り出した。

 

「……それをこんな有様で使えば、どうなることやら」

 

先程発動した『天狗道の開風』とは違う絵柄。つまり、別のスペルカードが展開される。

 

「これから見せるのは、本当の幻想郷最速。もう二度と使わないから、精々刮目しなさい。――見えるものならね」

 

文は、肺を膨らませるように大きく息を吸う。

 

『幻想風靡』

 

その宣言の直後――――文の姿は、爆音と共に掻き消えた。

凍った大地に、少女の足跡とは思えない大穴を三つ残して――――。

 

たった三歩。たった三歩だった。それで、烏天狗は音速を超えた。

初動加速で音の壁を突き破り、超音速に達する。

同時にソニックブームと呼ばれる、音を超えた時に生じる衝撃波が発生した。

 

「――――――――!!!!」

 

身体が浮き上がるような衝撃に、俺とイリヤは反射的に耳を塞いだ。

耳を塞いでも意味がない。耳鳴りが止まない。それどころか、このままじゃ鼓膜が破けてしまう!

 

それでも尚、烏天狗は速度を上げていく。

 

速く速く。ただ、速く。

その一点以外は、何もかも置き去りにした、風神の少女――。

神速の世界は、誰の目にも捉えられない。赤く光る流線だけが、微かに痕跡を残す。

周辺に自生する常緑樹が、大穴を開けて砕け散った。

神域の疾風と衝突し、樹齢数百年の大木が次々と倒されていく。

 

一歩でも動けば、俺もあの木のように破壊されるという確信。

いつ落ちてくるかもわからない、ギロチン台に乗せられたような恐怖。

それはイリヤも同じだ。両手で耳を覆い、小さな身体を縮めて震わせている。

 

『■■■■■■――――ッッッッ!!!!』

 

しかし黒い巨人だけは、咆哮を上げた。

最強のサーヴァントだけは、斧剣で疾風を迎え撃とうとした。

そして、赤い流線を斧剣で狙おうとした瞬間。

 

バーサーカーの頭が、熟れた果実のように爆ぜた――――。

 

頭部を失った巨人の体躯に、次々と大穴をあけていく。

腹部、前腕、上肢、背部、脚部、胸部、腰部、下腿――――。

何もかもが滅茶苦茶だった。何もかもが恐ろしかった。

だってもう、バーサーカーは人の形をしてないじゃないか。

 

「イヤ、イヤイヤイヤイヤイヤ……!! 止めて、止めてよ!! わたしの……わたしのバーサーカー!!」

 

イリヤは立ち上がり、声を上げて、更に削れていくバーサーカーに手を伸ばす。

バーサーカーは、自分が死んだ事実にも気付けない。耐性を付ける以前の問題だった。

 

人体を構成するおおよそのパーツが、跡形も残さずに消し飛んでいく。

そこにあったのは、ヘラクレスと呼ばれた偉大な大英雄でなく、ただの潰れた肉塊だけ。

 

こうなってしまえば、決着も何もない。もうすべてが終わっていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

45.姉の想い

 

 

原形を残さずに散らかされた、黒い巨人。

そこに、バーサーカーをバーサーカーとたらしめる要素は一つもない。

それがギリシャ最大の英雄ヘラクレスだったものの。その成れの果て。

 

こうして最強のサーヴァントは、一つの命も残さずに殺しつくされた。

 

「わたしの、バーサーカー……」

 

酸鼻な光景に、イリヤは泣いて震えていた。

バーサーカーを絶対と信じていた自信は消え去り、眼下の惨劇に震えるだけ。

文と敵対している以上、自分もああなってしまうかもしれない。

そんな恐怖からは、どう足掻いても逃げようもなく、惨劇の終わりだけを強く願う。

 

「――――――――」

 

尚も音を超えて、空を疾走する赤の流線。

烏天狗――射命丸文。

バーサーカーを散らかした今も、速度を落とさずに狂奔を続けていた。

通り抜ける度に、少し遅れて発生する破裂音と、身体がバラバラになりそうな衝撃。

胃酸が逆流する緊張に心は蝕まれて、体は恐怖に震えてしまう。

 

そして烏天狗は、森が切れる高度まで一気に駆け昇る。

月を背にした一体の妖怪は、一呼吸ほどの滞空をして――そのまま大地に急降下した。

 

「まさか、文のやつ……!?」

 

これから起こる事態に予想は付いたが、俺には身を伏せる余裕しかなかった。

 

 

地表を貫く爆音――。大地が局地的に揺れる。

衝撃波がサークル状に走り抜け、俺の身体は数メートル先まで吹き飛ばされた。

鼓膜を損傷させる轟音と、体中を打ちつけられる激痛。

 

もしかしたら――俺は一瞬だけ気を失っていたかもしれない。

目は見えるし、手足もちゃんと動く。

だったら……起き上がれないほどのダメージじゃない…………!

 

「――――!!」

 

イリヤの無事を確認しようと彼女の名前を叫んだが、その声は奇妙なノイズとなった。

あまりの轟音に、俺の聴力は失われてしまっている。

頭痛が伴う不愉快な耳鳴りがする。それ以外は何も聞こえない。

でもこんなのは、一時的なはず。急いでイリヤの安否を確認しなければならない。

 

「………………!」

 

目を凝らすと、土煙の向こうにイリヤの姿を発見した。

頭を抱えて屈んでいるが、意識は失ってはいなかったようだ。

瓦礫の上という、他より高い位置にいたのが幸いしたのだろう。

衝撃と同じ高さにいて、地面に打ちつけた俺よりも被害は小さい。

 

良かった……。

今は敵という立場だが、彼女に死んで欲しいと思ったことは一度だってない。

胸を撫で下ろしたくなったが、今はまだそんな場合じゃない。

 

かつて、バーサーカーが立っていた場所。

そこには地表を深く抉る、巨大な窪地が出来ていた。

これじゃ隕石が落下したクレーターと変わらない。

文が最後に見せたスペルカードは、現実味のない破壊力を持っていた。

……これが、聖杯戦争の終盤戦で見せた射命丸文の本気。

 

天狗の少女は、バーサーカーの何もかもを蹴散らした。

それこそ、肉片すらも残さずに――。

必要のない追い打ちで、バーサーカーの存在をこの世界から消し去った。

……あの少女はかつて『自分の力を見せびらかすのは好きではない』と言っていた。

それなのに、今はこんなにわかりやすい形で誇示している。その意味はなんなのか。

 

粉塵に包まれたクレーターの中心。

そこに、ぼんやりと立ち尽くす烏天狗の少女。

バーサーカーにもがれた片翼も含めて、全身に目を逸らしたくなる傷があった。

生きているのが不思議だった。立ったまま死んでいるのかと思った。

 

スペルカードを発動する前は、あそこまでの傷ではなかった。

傷の大半は、発動後にできたもの。

片翼を失った状態での超高速飛行により、自分もダメージを負ったのだ。

人間なら、何度だって死んでいるような出血量。

白色のブラウスは、もはや血で染まっていない箇所を探すほうが難しい。

 

「…………んー」

 

そんな傷だらけの身体で、少女はきょろきょろと周囲を見渡していた。

 

「――――あ」

 

そしてクレーターの淵にいた俺の姿を見つけると、ニコリと微笑を貼り付けた。

全身の傷に反して、彼女の顔は不自然なまでに綺麗なまま。

それに……どこか様子が少しおかしい。

彼女が普段見せる相手を見下す笑みではなく。純粋な笑顔だった。

 

「文……」

 

その顔を見ているだけで、これまでの恐怖と緊張が同時に解けていく。

……だけど、どうしてなのだろう。その顔に魅入られると、俺は思い出しまう。

妖怪は人を誑かし攫い食べてしまう――。そんなキャスターの言葉を。

 

少女の可憐な顔は、何かしらの魔力があるのは確かだろう。

キャスターは文を『人間の目を惹き付けるような姿形』と評価していた。

その通り、彼女の顔は寒気を感じるほどに整っている。不自然なまでに欠点がない。

 

それこそが――人間を喰らうために必要な罠ではないのか?

 

「……馬鹿か俺は!」

 

こんな時に何を考えている!

それが必死の覚悟で勝利を上げたパートナーに思う感情なのか?

最強のサーヴァントを倒して得た勝利を共に喜び、讃えてあげるべきじゃないのか?

 

それでも……頭に一度浮かんだ不安はどうしても打ち消せない。

それに文は、自分の口ではっきりと言ってたじゃないか。

――妖怪は、人を喰らうものなのだと。

だったら……この化物は俺を喰うために惑わそうとしているんじゃないか?

いま彼女に必要なものは高いエネルギーだ。

ここにある最も手近なものは、それこそ人の血と肉ではないのか?

 

「…………」

 

いつまでも突っ立ったままの俺に、天狗は首を傾げて何か言いたげに視線を送った。

その視線に対して、身体が構えるように反応してしまう。

俺は警戒を解かずに、唾を飲み込み、眼下にいる天狗の出方を待った。

 

「……士郎さん。次に目を覚ましたら、温かい布団の中というのを希望します」

 

それは不快な耳鳴りと、くだらない妄想を塗り潰す――――少女の綺麗な声だった。

そして天狗の少女は、身体を支えるための全ての力を失ったように倒れた。

 

 

 

 

不自然な倒れ方からして、少女は意識を失っていた。

うつ伏せに倒れたまま、少しだって動かない。呼吸をしているのかも怪しかった。

彼女はバーサーカーとの戦いで、限界を超える力を出した。

それでなんとかバーサーカーに勝利した。考えなくても、当然の代償だった。

 

「それなのに俺は何をしてた……? くだらない妄想に取り憑かれてる場合じゃないだろ……!」

 

あの時、俺は何を考えていた?

彼女に喰われるだって? そんな根拠がどこにある!!

彼女がもし人喰いの化物だったとしても、俺の窮地を何度も救ってくれたパートナーじゃないか!

大切な翼をもがれても、血と涙を拭いて、あのバーサーカーに立ち向かったじゃないか!

そんな少女に疑惑の目を向けるなんて、何様のつもりだ!? 衛宮士郎!!

お前のような、何もできないろくでなしが仲間を疑える立場だと思っていたのか!?

 

「俺は馬鹿だ! どうしようもない馬鹿だ!」

 

クレーターの斜面を転げるように走ると、倒れている少女の身体に触れる。

完全に意識を失っており、揺らすのを躊躇うほど、ぐったりとしていた。

失血のために体温の低下が著しく、死人のように冷たい。脈も動いているかわからない。

 

でも……こんなのは素人診断だ。

そもそも人間の知識が、妖怪の彼女に通用するのか俺は知らない。

なんであっても、危険な状態なのには変わらなかった。

急いで手当てをしないと、命に関わるのは間違いないはず。

 

下手に動かすのは危険だとしても、妖怪の生命力を信じるしかない。

彼女を背負って、窪地の斜面を登り始める。

……気絶した人体は重いなんて話があるが、そんなのは絶対に嘘だ。

だって、こいつは何も感じないぐらい軽いじゃないか!

それなのに俺はこんな少女に何もかも背負わせて、ボロボロになるまで戦わせて……クソ!!

 

「どうして俺は……こんなに……!」

 

クレーターの淵に辿り着く。

そこに憔悴したイリヤが、文を背負う俺の方角を見ていた。

 

「…………どうやらアヤは生きてるみたいね」

 

イリヤの囁くような声は、はっきりと聞き取れた。

頭痛はまだするが、この感じだと少しずつ回復するだろう。

 

座り込んだイリヤは、どうしてか俺から少しずれた場所を所在なげに眺めていた。

彼女の瞳も心なしか、定まっていないように思える。

どうやら未だに立ち込める土煙で、俺の位置を把握していないようだ。

でも今はイリヤに気を取られている場合じゃない。事態は一刻を争う。

 

「そうだ。こんなところで絶対に文を死なせるものか」

 

寝息とは違う弱々しい呼吸が肌に触れて、俺は焦燥感に駆られてしまう。

 

「そう。アヤを助けてあげたいのは山々だけど、わたしのお城……こんなになっちゃったからね。……ちょっとここじゃ無理かな。シロウには悪いけど、森を抜けてから治療するしかないみたいね」

 

今やイリヤの城は、セイバーの宝具によって瓦礫の山と化していた。

もしかしたら、という淡い期待もあったが、それもいま水泡に帰した。

それならイリヤの言う通り、この森を抜けるしかない。

だが、来るだけでも相当な時間が掛かった。只でさえ広大な森だ。

悪路に視界不良も加わって、道だってちゃんと覚えているかも怪しい。

森を抜けるのも、同じぐらいの時間が必要だろう。だったら急がないといけない。

 

「……だけど」

 

一つだけ気がかりがあった。文には悪いが、これだけは確認したかった。

 

「イリヤは……これからどうするんだ?」

「……わたしはまだここにいるわ。敗者だもの。これ以上、聖杯戦争には関与しないつもり」

 

雪の少女は、敗北を真摯に受け入れていた。

俺は、バーサーカーが負けた事実に耐えられないと思ってた。

文だって言っていたが、彼女は俺の想像以上に大人なのかもしれない。

いや、事実そうなのだろう。今のイリヤはかつてないほど毅然とした態度だった。

 

「……大丈夫なのか?」

 

令呪を全て失っていない以上、聖杯戦争を完全に脱落したとは言えない。

だからと言って、サーヴァントがいないと勝ち残るのは不可能だ。

残る陣営は、俺たちと遠坂とセイバーの二組だけ。

遠坂たちが、サーヴァントを失ったイリヤを狙うとは考えにくい。

命を狙われる心配はないはず。

そうであっても、こんな森の深くに少女を一人残す真似はしたくなかった。

 

「イリヤ……もしよければうちに――」

「お兄ちゃんはわたしなんかより、自分とアヤの心配をしなさい。シロウと話すのはこれで最後になるけど……あの日の夜は楽しかったよ。たくさん話せて嬉しかった」

「……ああ、俺もあの夜は楽しかった」

 

本当に楽しかった。

俺も文もイリヤも、みんな馬鹿みたいに酒に酔って笑っていた。

 

「わたしのバーサーカーをぐうの音も出ないほど倒したんだからね。セイバーなんか、こてんぱんにやっつけちゃいなさい。そうじゃないと、わたしもバーサーカーも絶対に許さないんだからね……! だから、もう行って……」

 

これまで毅然としていたイリヤの表情が崩れかけた。

ああ……俺はここにいちゃいけない。ここはもう……イリヤとバーサーカー、二人だけの聖域だ。

 

「……わかった。行くよ」

 

それだけしか彼女に言えなかった。

背中に命の重みを感じながら、振り向かずに走り出した。

 

 

「ばいばい、シロウ。わたしのたった一人の大切な弟――」

 

 

 

 

衛宮士郎が去って、三時間が経過した。

士郎は、無事にアインツベルンの森を抜けられたようだ。

それだけは、この致命的に綻び始めた身体でも何とか知覚できた。

 

「よかった……。ついでにアヤも助かればいいんだけど」

 

運が良かったのか、それとも意図的だったのか。

どうやら――この森に侵入したやつとは接触せずに済んだらしい。

 

「ふう」

 

イリヤスフィールは、安堵の溜息を吐く。

この三時間、それだけが少女の心の中心にあった。

張り詰めた緊張が解けたせいか、抗い難い眠気に襲われてしまう。

 

「だけどまだダメ。まだ眠っちゃダメ」

 

イリヤスフィールは、人間ではなかった。

ホムンクルスという、アインツベルンの魔術によって造られた人工生命だった。

正確には、ホムンクルスを母体とした人間とのハーフなのだが、在り方は人間とまるで違う。

彼女は、母の胎内にいた時から様々な施術を加えられている。

元々短命のホムンクルスなのもあり、その時点で彼女は真っ当に生きる道を閉ざされていた。

しかし、そんなことは彼女を造ったアインツベルンにとって関係のない話。

此度の聖杯の器であるイリヤスフィールには、真っ当な人生などそもそも不要だった。

 

聖杯の器である彼女は、倒されたサーヴァントの魂を取り込む度、人間としての機能を失っていった。

そして、五体目になる自身のバーサーカーを取り込んだ結果、彼女の視界は完全に閉ざされた。

少女の愛らしい赤い瞳はもう何も映していない。ただ、深い闇を映すだけ。

最後に焼き付いた光景は、絶対であったバーサーカーが滅茶苦茶に潰される瞬間だった。

 

「それが人生最後の光景かー。ま、考えなくても最低最悪よね」

 

それでもイリヤスフィールは、嘆かなかった。

それどころか雪の少女は、自分の人生を不幸だとも思っていない。

アインツベルンの悲願を達成するための道具……それが自分の役目であると割り切っていた。

これが自身に与えられた運命であり、自分もそうあるべきとずっと思っていた。

 

だがそんなイリヤスフィールも、唯一と言っていい気がかりがあった。

10年前の聖杯戦争で生き残った実父の衛宮切嗣が、自分を忘れて暮らしていたこと。

それだけがイリヤスフィールは、どうしても許せなかった。

次に会ったら殺してやろうと思った。酷たらしく殺してやろうと思った。

深い愛情が、深い憎悪に裏返った瞬間だった。

しかし殺そうと思った父は、何年も前に自分とは無関係に死んでいた。

そんな事実に言葉では言い表せない、やり場のない感情が渦巻いた。

 

だけど、衛宮切嗣は10年前の聖杯戦争で一人の孤児を拾ったらしい。

だとすれば、そいつは自分の弟に当たる存在なわけだ。

どんなやつなのか、一目でも見てやろうとワクワクしていたのを思い出す。

そいつには、衛宮切嗣にぶつけられなかった、ありったけの感情をぶつけてやろうと思った。

 

「……シロウ」

 

だが実際会ってみたら、驚くほど無防備なそいつに随分と拍子抜けした。

もうすぐ始まる聖杯戦争を知らないまま、暢気に生活をしていた。

そいつの左手には、聖痕の兆候まで出ていたのに。

切嗣は、死ぬまでの数年間に何をしてたのかと随分と呆れたものだ。

だけど、その時になぜだかそいつの――自分の弟をもっと知りたくなった。

 

そして、二度目の邂逅。

どういうつもりか衛宮士郎は、黒い羽が生えたへんてこなサーヴァントの尻に敷かれていた。

本来あるべきサーヴァントの主従関係なんてあったものじゃない。

衛宮士郎は、そんなとびっきりのお人好しだった。

 

それから衛宮士郎とは、また会って――。

お話をした。家にも招かれた。なぜか酒盛りもした。魔術回路も開けてやった。

 

(あの方法は……いま思い出しても恥ずかしいけどね)

 

とても恥ずかしくて声には出せない。だから心のなかで強く思った。

 

そして最後に殺してやろうと――思ったわけだが、現実はこの有様だった。

人は見かけによらないと言うらしいが、どうやらそれはサーヴァントにも当て嵌まるらしい。

あんな弱そうなサーヴァントに、バーサーカーが負けるなんて万が一にも思わなかった。

悲しいし、悔しいし、泣きそうになった。

だけど、ここまで容赦無く敗者の烙印を押されると逆に清々しくもある。

 

「いま思えば、シロウを殺さなくて良かったかな。アヤは……ちょっと別だけど」

 

射命丸文とは、とても気が合った。

こうして思い返してみると、初めての友人だったかもしれない。

それと一応はシロウのサーヴァントだったから、目一杯の気持ちを込めて彼女に弟を託した。

だけど同時に士郎を取られた気がして、とても嫌な気持ちになった。

大好きな弟を、赤の他人に取られた姉の気分というのか。いや、それはちょっと違うかもしれない。

そんな気持ちを理解できるほど、イリヤスフィールは対人関係を積み重ねていなかった。

 

「少しだけ、アヤに意地悪し過ぎたかも。……あーあ、一思いに殺してあげるべきだったかな」

 

その時――雑草をぞんざいに踏み付ける音がした。

息の詰まる禍々しい存在感は消せないのか、男の存在は視力を失っていても気づいた。

もっとも、この男もその気配を消すつもりはないようだったが。

 

「ふーん。あなただったんだ。わたしは聖杯である前に、『ひとかたのレディー』なんだから丁重に扱ってよね」

 

ホストが座ったままなのは礼節に欠けるが、彼は士郎たちと違って招かざる客だ。

だから、気にしてやる必要もない。

……本当は、士郎について行きたかったが、森に侵入した男の目的は自分にあると理解していた。

こうして最後ぐらいは、姉らしく弟の身を案じてやるのも悪くない気分だった。

 

「フ――――」

 

少女を見ていた男の口が、醜く歪んでいくのを感じた。

たった一つの気持ちを馬鹿にされたようで、イリヤスフィールは酷く不愉快になった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

46.「32,400円です」

 

 

「ハ――ハァ――」

 

全身の筋肉が、悲鳴を上げる。

血中を巡る乳酸が、これまでにない疲労を脳に送っている。

無理もない。人を背負ったまま、足場の悪い森のなかを2時間以上走りっぱなしだ。

だが身体がどれだけ休息を求めようとも、俺は絶対に休むわけにはいかない。

 

万が一、おまえがここで挫けてみろ――。

絶対に取り返しのつかない事態になるぞ、衛宮士郎。

おまえは、おまえを守ってくれた女の子すら助けられないのか――?

 

 

「クソ……! まだ抜けられないのか……!!」

 

簡単な応急処置をしたが、ただの止血程度のもの。

それもこんな不衛生な場所では、破傷風をはじめとした感染症にもなりかねない。

 

後先考えず走っているが、同じような景色ばかりで出口に向かっているのかも定かではない。

アインツベルンの森は、あまりにも広大だった。

ただ広いだけではなく、全域に常緑高木が生えており、視界が狭く空も真上しか見えない。

そのせいで、方向感覚が掴みにくい。

文に頼れない状況になって、それを強く理解する。

俺にできるのは、来た時に使ったと思われる道を辿るだけ。

そんな不確かな現状に苛立ちと焦燥が募り、疲労感もより一層強くなっていく。

 

「ハァ、ハァ…………」

 

それでも、投げ出し、足を止めようとは絶対に思わなかった。

背中越しから伝わる微かな心音。少女の命の脈動が俺の両脚を支えていた。

 

「……大丈夫だ。絶対に大丈夫だ」

 

この鼓動を感じていられる間なら、俺は決して挫けたりはしない。

この状況にも――そして自らの理想にも。

 

なんてことだろうか。

俺は――こんな時だって彼女に助けられていた。

無力な俺でも彼女を救えるという事実だけで、こんなにも心を強く支えてくれる。

それが、堪らなく胸を熱くさせる。

 

「大丈夫だ! 大丈夫……! 俺は何があっても文を死なせたりしない!」

 

 

そして、ついに森が切れた。

腐葉土が堆積した土壌ではなく、久しぶりにアスファルトで舗装された道路を両足で踏みしめる。

時計を見ると、イリヤの居城から3時間が経過していた。

森を抜けて奇妙な達成感を覚えたが、それはただの錯覚だ。少女の命は、まだ救えてはいない。

 

「はあ、はあ、はあ……!」

 

あの激戦が嘘だったように、夜の風が閑散とした道路に流れている。

氷のように冷たくなったアスファルトに立ち尽くし、取り返しの付かない事実に気付く。

 

「馬鹿か俺は……。ここはまだ、冬木の郊外じゃないか……」

 

走っている時は、森の出口がゴールのように感じていたが、それはとんでもない間違いだった。

森の外は道路があるだけで、人の住む土地ではない。

俺の家どころか、新都までも車で一時間以上かかる僻地。

文の飛行能力があって、この距離を短時間で来れただけ。

ここは本来、歩いて来れるような場所じゃない。

俺はいったい、何に浮かれていたんだ……。そんなの、少し考えればわかるじゃないか……。

 

こんな夜中とも言える時間帯。

冬木市郊外の道路に車が通るなんてまずない。

仮に運良く通ったとしても、こんな血まみれの男女を誰が乗せてくれる?

厄介事だと思われて、無視される可能性だってある。

 

「どうする……? どうすればいい……?」

 

仮に何時間か掛けて、町に戻ったとしても文の命が保つ保証はどこにもない。

この立ち止まって悩む時間だって、致命的なものになる。

 

「クソ、どうしたら……」

 

文は目を覚ます様子もなく、間隔の短い呼吸を繰り返している。

血の気は引いて、顔は白く冷たくなっている。

こんな容態ではとてもじゃないが、良くなっているようには思えない。

早く本格的に治療をしなければ、手遅れになってしまう。

 

その時――。

ざくりと――後方から土を踏む音が聞こえた。

たった今走り抜けた森の方角からだった。その足音が徐々に近づいてくる。

 

「誰だ……?」

 

これ以上の厄介事は御免だった。

突然の事態に、考えが纏まらずにパニックになりそうになる。

それでも今は、正体を確かめるために振り返るしかない。

なぜか、そうしなければいけない気がした。

 

 

「……え? もしかして、衛宮君?」

 

そこには、遠坂凛がいた。

彼女もまた走り疲れた様子で呼吸を整えている。

 

「……どうして遠坂が俺の後ろから来るんだ?」

 

突然現れた遠坂に驚いて、そんなどうでもいい言葉を口にしてしまう。

だが遠坂は俺よりも先に、この森を抜け出そうとしていたはず。

彼女が道に迷うとは思えないし、どうして俺の背後から来るのか?

俺も全力で走ってはいたが、人を背負った俺が先に森を抜けるとは思えない。

 

「敵のテリトリーで無闇に逃げるより、しばらく身を潜めたほうが安全と思ったからよ。でもあんたたちがバーサーカーの相手をしてくれたおかげでなんとかなったみたいね」

 

……遠坂の傍らに、セイバーの姿はなかった。

セイバーは、バーサーカーによって走り回れるような状態ではない。

 

「……セイバーは無事なのか?」

 

遠坂たちとは敵対してはいるが、セイバーも今ある心配事の一つだった。

バーサーカーの腹部を抉る一撃を受けている。無事かどうかだけでも確認したい。

 

「ええ、セイバーは先に私の家で治療中のはずよ。レイラインの繋がりを感じるから問題ないと思うけどね。……それよりも今回のことで気落ちしてなきゃいいんだけど。彼女、あの通り、負けず嫌いでプライドが高いから」

 

どうやら遠坂は、令呪の力でセイバーを自宅まで転移させたらしい。

空間転移なんて、神話級の大魔術だ。

そこまでを可能とする令呪の効果に改めて驚かされる。

俺の左手にも二画残る令呪――使うタイミングは考えなければならない。

もし気絶した文を自宅に飛ばせても、怪我を診る人がいなければ意味がないだろう。

 

「…………あれ? ちょ、ちょっと待って? 衛宮君がここにいるってことは……。え? ウソ? もしかしてあんたたち、バーサーカーに勝てたの?」

「ああ……バーサーカーは文が倒してくれた」

 

俺は見ているだけで何もできなかった。

思わず、そんな言葉も吐き出しそうになったが、なんとか抑えた。

それは俺の問題であって、遠坂に言うような言葉じゃない。

 

「どうやったかは知らないけど……まさかその娘がね。セイバーがバーサーカーの命をかなり削ったけど、信じられないわ。……今はあんたの背中でおねんねしていると。で、そいつ大丈夫なの?」

「ッ! これが大丈夫そうに見えるのか!?」

 

遠坂の物のついでのような言い方に、語調が荒くなってしまう。

俺の苛立ちが遠坂にも伝わったのだろう。不機嫌を露わにして眉間に皺を寄せた。

遠坂が俺の後ろに回って文の状態を確認すると、息を飲む音が聞こえた。

 

「なに、これ……?」

 

バーサーカーにもぎ取られた文の翼を見たのだろう。

数時間経った今も、血が止まらずにいる。

 

「……今のは考えなしの発言だったわ。ごめんなさい」

 

遠坂が申し訳なさそうに謝罪をする。

素直に謝られると思っていなかったので、どう反応していいのかわからない。

 

「……………………」

 

双方無言のまま、気まずい空気が流れる。

だが俺は、こんなところでぐずぐずしている暇はない。

今すぐ徒歩で新都に向かうべきか、別の手段を考える必要があった。

 

「ん。そろそろかしらね」

 

遠坂が腕時計を確認しながら、そう呟いた。

 

「そろそろって、なにがだ……?」

「まあ、待ってなさい」

 

文の容態もあって、どうしても焦りが先行してしまう。

遠坂の言葉に従うよりも、街に向かって走り出したほうがいいんじゃないか――?

 

「――来たわ」

 

……新都に続く道路から、車の走行音が聞こえてきた。

こんな状態の文を誰かに見られるのはまずい。背中の少女を隠すように数歩下がる。

 

「うん。時間ぴったり」

 

満足そうな遠坂の目の前に停止したのは、一台のタクシーだった。

その様子からして、彼女が手配したものだろう。

 

「衛宮君、ついでだから乗ってきなさい。この後どうせ家に帰るんでしょ?」

「……いいのか?」

「そんな顔をしたヤツ、いくら私でも放っておけないもの。それにいろいろと借りがあるしね。これでチャラにしてもらうわ」

 

このタイミングで車による移動ができるなんて、思ってもなかった。

 

「ありがとう。遠坂はいいやつだな」

「……随分と調子のいい台詞だこと。でも素直に感謝を伝えられるのは衛宮くんの美徳ね」

 

しかし、タクシーの運転手に傷だらけの文が気づかれる可能性がある。

翼さえ見られなければ普通の少女と変わらないが、全身の傷はここまで酷いと隠し通せそうもない。

もしも人間ではない文が、一般の病棟に運び込まれたら大変な事態になってしまう。

 

「……悪いけど、ちょっとだけ待ってて」

 

遠坂は運転席に回って、タクシーの運転手と少し言葉を交わした。

この距離からでは聞き取れないが、まさか文について話を付けたのだろうか?

 

「さ、いいわよ。乗りなさい」

「……今なにを話したんだ?」

「別に何の話もしてないわよ? このままじゃ彼女が怪しまれるから、認識を逸らす暗示を掛けただけ」

 

なんてこともないように、遠坂が言う。

魔術的な耐性のない人間であれば、苦労もなく認識阻害の魔術を掛けられるらしい。

後部座席で文を横にしたいので、遠坂には悪いが助手席に座ってもらう。

……車内での会話も暗示によって、運転手の耳には入らなくなっているらしい。

タクシーの運転手には悪い気がしたが、遠坂も暗示で料金を踏み倒す真似まではしないだろう。

 

「……………………」

 

大丈夫だとしても、遠坂と会話をする気分にもなれず、時間だけがいたずらに過ぎていく。

所在なく視線を彷徨わせながら、文の容態ばかりが胸中を占める。

ただ暖房の効いたタクシーで横になれたおかげか、顔色と呼吸も少し安定しているように見える。

 

「よかった……」

 

一つだけ気になっていたことがあったので、遠坂に確認してみた。

 

「遠坂は携帯電話を持っていたのか?」

「……いきなりなによ? 持ってないわよ。そんなもん」

 

前置きもなしに、そんなことを訊かれたら遠坂も怪しく思うだろう。

文から会話に脈絡がないと言われたばかりだった。

 

「じゃあ、どうしてタクシーを呼べたんだ?」

「はあ。なんだ……そんなことね。タクシーでここまで来たんだから、帰りも考えるのは当然じゃない。時間になったら、もう一度ここまで来るように頼んでおいたのよ」

 

俺のようにサーヴァントの力を借りれば、車よりも早くアインツベルンの森に着けたはずだ。

だが、神秘とは秘匿されるもの。

なるべくセイバーには頼らずに、タクシーを移動手段として使ったのだろう。

闇に紛れていたとしても、軽々しく空を飛んでくるなんて本来はとんでもない行為だった。

遠坂からしたら、極めて軽率な行動だ。絶対にばれないようにしないと。

 

「そういえば……彼女、アーチャーなんだっけ? ……とても聖杯戦争の三騎士には見えないわね」

「本人は忘れていたみたいだけど、どうやらそうみたいだな」

 

他の三騎士であるセイバーやランサーは、騎士や戦士の姿をしていたが、彼女はとてもそうは見えない。

翼を除けば、どこにでもいるような普通の少女だ。

聖杯戦争の関係者も消去法的に彼女をアーチャーだと呼んだだけで、実際は違うと思う。

俺も今更、彼女をアーチャーというクラス名で呼ぶ気にはなれない。文は文だ。

幻想郷の魔女の力で、聖杯戦争のシステムを根本からねじ曲げたらしく、サーヴァントとして確立しているのかも怪しい。

ただ彼女は、これまでの戦いを見た限り、遠距離戦も土俵の一つにしてた。

そんな状況も含めて、アーチャーと思われても仕方がないかもしれない。

 

「ふーん。肉体を持ったサーヴァントか。……私のセイバーも似たようなものだけど、アーチャーはそれに輪を掛けて特殊みたいね。そんなのがなんで聖杯戦争にいるんだか」

 

セイバーも似たようなもの……?

詳しく聞きたかったが、これ以上は教えてくれないだろう。

 

「なんでも、自分が書いている新聞のネタを求めてこの世界に来たらしいぞ。ここ何日かはそうでもないけど、初めのうちは聖杯戦争にも大して興味がなかったみたいだ」

「ホント、呆れちゃうわね。何なのよ、新聞のネタって。…………教会でタクシーを停めてあげるわ。そいつの怪我、綺礼に診てもらいなさい」

「綺礼って、教会の言峰神父のことだよな。なんであいつなんだ?」

 

あの言峰綺礼という男は、文が度々怪しんでいる存在だった。いつか折檻すると冗談半分に言っていた。

それに、俺自身も不信感を拭えずにいる。

明確な理由があるわけはなく、澱みのような近寄りがたい空気を教会に放っていた。

聖杯戦争の監督者と言っても、可能な限りは関わりたくない相手だ。

 

「あんな顔しているけど、綺礼は心霊医術のエキスパートよ。霊体、精神の傷を治す手腕なら司祭レベルね。もっとも監督者という立場上、直接的な手助けはできないと思うけど。もしかしたら、話ぐらいは聞いてくれるかもね」

 

文の治療――。俺からすれば、願ってもない話だった。

だがそれは遠坂からすると、自分の足を引っ張る行為だ。

聖杯戦争を勝ち抜こうと合理的に考えれば、俺たちを助ける理由がない。

今だってそうだ。

俺たちをあのまま道路に放っておけば、勝手に自滅していた。

そもそも俺より戦闘力で勝る遠坂なら、あの瞬間に聖杯戦争の終止符だって打てた。

だけど遠坂は、それをしなかった。

もしかしたら、そんな選択肢すらも彼女は思いついていなかったかもしれない。

 

「……ありがとう。繰り返すけど、遠坂は本当にいいやつだな」

「フン。何を勝手に納得してんだか。少しでもそう思ってるのなら、タクシー代は割り勘にさせてもらうからね」

 

ああ、それぐらいだったら喜んで払わせてもらうさ。

 

 

 

 

それから一時間ほど掛けて、新都の郊外にある冬木教会に着いた。

遠坂は「先に話を付けてくる」と言い残して、一人で教会に入っていった。

教会へ向かう時の苦々しい顔を見るに、どうやら彼女もあの言峰綺礼という神父は苦手らしい。

タクシーのなか、さして上等ではない膝の上で眠る少女の寝息を聞きながら帰りを待つ。

 

「…………」

 

これまで、タクシーの運転手は一言も言葉を発していない。

本当に認識を逸らす暗示を掛けただけなのだろうか……?

遠坂による魔術だから万が一はないだろうけど、眼鏡のずれた虚ろな表情に少しだけ心配になってくる。

……そうぼんやりと考えていたら、思ったより早く遠坂が教会から出てきた。

 

「どうやら留守みたい。まったく、聖杯戦争の監督なのにどこで何をやってんだか。……もう、居て欲しい時に居ないなんてホント嫌なやつ。衛宮君もそう思うでしょ?」

「ああ……うん?」

 

返答に困る理不尽な同意を求めないでほしい。

 

「でも居ないんじゃ仕方がないわね。悪いけど自分でどうにかしてみなさい。……衛宮君、わかっているとは思うけど、この娘があんたのサーヴァントなら、彼女を助けるのはマスターとしての責務よ」

 

遠坂は知ってか知らずか、俺の核心を突く言葉を放つ。

俺は、彼女のマスターに足るような存在ではない。それでも絶対に彼女を救ってみせる。

 

「ああ――わかった」

 

遠坂だけではなく、自分にも言い聞かせるように決意する。

 

「よろしい。……なによ。少しはマシな顔になったじゃない」

 

そして、遠坂は再び夜の町へタクシーを走らせた。どうやら先に俺の家に向かってくれるようだ。

 

「正直に言って、私はあんたたちを舐めていたわ。どうせどこかで脱落すると思っていた。でも蓋を開けてみれば、最強のサーヴァントを倒して、ここまで勝ち残ったのは衛宮君たちだった」

 

遠坂もバーサーカーが、最強のサーヴァントという認識は同じのようだ。

もしあのバーサーカーがもう一度出てきたら、文もセイバーも勝つための手立てがないだろう。

 

「だから今まで舐めていた分、これからはあんたたちを敵として、敬意を払わせてもらう。そして、遠坂の名に賭けて私たちが聖杯を手に入れてみせる」

 

タクシーが衛宮家に着くと、深山の住宅街はすっかりと寝静まっていた。

プロパンガスを使うタクシーの独特なエンジン音だけが聞こえる。

遠坂に礼を言ってから文を背負い、傷の手当のため玄関に向かう。

 

「――――」

 

助手席から遠坂の強い視線を感じた。

反射的に振り返ると、決意を秘めた紺碧色の眼差しが俺を見つめている。

目の色の深さに息を飲みかけたが、俺は視線を逸らさずに胸の中の言葉を告げた。

 

「俺は聖杯なんて必要ないんだ。文だってそう言ってた。何度だって言うが、俺は遠坂と戦いたくない」

 

これは聖杯戦争が始まってから、繰り返し遠坂に伝えている言葉だ。

今回もまた呆れられると思っていたが、遠坂の表情は少しも揺るがなかった。

 

「衛宮君、さっきの言葉は私からの宣戦布告よ。今更だけど、こんな馴れ合いはこの瞬間に終わらせてもらうわ」

 

遠坂の決意は最初から一度だって変わらない。言葉と態度が明確にそれを示している。

 

「あなたもここまで勝ち残ったんでしょ? 賽はとっくの昔に投げられたの。もうどうにもならないことぐらい理解しなさい。……それじゃあね。寝首には気をつけることね」

 

遠坂は、再びタクシーを走らせて夜に消えた。

おそらく自宅へ戻ったのだろう。

彼女もセイバーの容態が気になるはずなのに、最後まで俺たちを優先してくれた。

遠坂は相当なお人好しであると同時に、俺なんかと比べものにならないぐらい格好いい女の子だった。

それだけに最後に見せたあの目は、本気であると教えてくれた。

成り行き上、遠坂とは今まで一度も刃を交えなかったが、あれが最後の警告なのだろう。

こうして残る陣営が二組である以上、もう都合良く逃げ回れない。

 

「でもな、遠坂……」

 

いくら甘いと言われても、聖杯のために殺し合うなんて間違っている。

何をどう言われたって、その考えだけは曲げるつもりはない。

でも今はそんな義憤に燃えるのではなく、文の怪我を診なければならない。

 

足早に玄関を潜り、彼女を部屋に運ぶ。

六畳の和室には、着替え以外にもインク、書き損じの原稿、フィルム、小説、酒瓶など。

おおよそ女の子らしくないものが散乱していた。

インクの匂いに混じって、どこか甘い女の子の香りもする。

文の私物を隅にどかして、干したままだった布団を敷く。

そして、その上に部屋の主である射命丸文を寝かせた。

俺には魔術的な治療はできないが、簡単な怪我の手当ぐらいなら部活動で覚えてた。

 

「……すまない、文」

 

文には悪いが、ぼろぼろになったブラウスをハサミで切って脱がした。

……下着に包まれた小振りな胸が露わになって、心臓が少し高鳴ってしまう。

不可抗力であっても、浅く上下する膨らみに目が行ってしまうのは、健全な男の性なのか。

しかしそんな邪な考えは、身体を預けてくれた文への裏切りだった。

邪念を振り払い、まずは消毒をするために傷口を濡れたタオルで拭いて洗浄する。

 

ふと、おかしなことに気付いた。

 

「これって……?」

 

傷の状態次第で最悪この手で縫うことも考えていたが、体のどこにも傷らしい傷がない。

血が付いていたら酷く見えていただけで、拭いてみたら跡形すらなくなっている。

……思い出してみれば、ライダーにやられた時もそうだった。

学園で受けた傷も、大半はその日のうちに殆ど塞がっていた。

今まで冷たかった体も体温を取り戻しており、肌も健康的な色に落ち着いている。

そういえば、タクシーに乗った時点で、呼吸も寝息と呼べるものになっていた。

 

……たった数時間でこの再生力は普通じゃない。妖怪という存在はみんなこうなのか?

全身の傷の大半は、無茶な状態で使用したスペルカードが原因だった。

それを加味しても以前より傷の治りが早い気もしたが、他に何か要因があるのだろうか?

 

しかし、バーサーカーに根本からもぎ取られた背中の翼は今も生々しい傷を晒していた。

片翼だけの姿を見ると、不甲斐ない気持ちが湧き上がる。

胸の下の辺りにも惨たらしい痣がある。これもバーサーカーに殴られた傷だ。

現存する傷は、翼と胸と右肩だけ。全部バーサーカーにやられたものだった。

 

「…………う」

 

消毒を終えた翼の生々しい傷に、抗生物質入りの軟膏を塗布していく。

少女の顔が苦痛に歪んだが、我慢してもらうしかない。

そして可能な限りの治療を済ませたら、ガーゼと包帯で処置して、洗濯したてのパジャマを着せた。

水分も摂らせたかったが、点滴でもない限り意識を失った状態の給水は危険だ。

 

 

「すう、すう……」

 

少女は今、静かに寝息を立てている。

最悪の場合、正体がばれるのも覚悟で病院に連れて行くつもりだったが、この様子なら大丈夫そうだ。

つたない処置ではあったが、これが今の俺にできる精一杯だった。

 

「文……早く元気になってくれ」

 

小さな手を握って、直接体温を感じる。

馬鹿な自己満足に過ぎないが、少女の体温を感じると、俺は涙が出そうなぐらい安心できた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

47.理性崩壊 《2月9日》

 

 

二人の繋がれた手は、いつの間にか解けていた。

 

カーテンの隙間から、朝影が漏れている。

そんな静かな光が室内を照らして、朝の訪れを優しく教えてくれた。

部屋を閉め切っていたため、空気は少し澱んでいたが、不思議と嫌な気持ちにはならない。

朦朧とした頭で、時計を確認すると時刻は8時を過ぎていた。

 

「もうこんな時間か……」

 

まだ6時ぐらいと思っていたから、また随分と寝坊をしてしまっていた。

変な姿勢で寝ていたので、身動きをする度に身体から小気味いい音が鳴る。

聖杯戦争が始まってから、衛宮士郎の生活習慣はすっかり乱れてしまった。

 

「…………」

 

少女は、今も眠っていた。

寝息すら聞こえない静けさに一瞬悪い想像がよぎるも、彼女の胸はしっかり動いていた。

思い返してみれば、彼女の寝ている姿を見るのはこれが初めてだった。

 

射命丸文は未だかつて、隙らしい隙を見せた記憶がない。

こんなあどけない子供のような顔を晒しているのが、そもそもあり得なかった。

もしかしたら……彼女なりに俺を信頼してくれた証拠なのだろうか?

自意識過剰と言ってしまえば、それまでの話。

もしその考えが本当だったら、こんなに嬉しいことはなかった。

 

「そうだな……。今のうちに包帯とガーゼを清潔なものに交換しようか」

 

目が覚めないよう、布団をゆっくりとめくる。

昨夜に着せたパジャマを脱がすために、上からボタンに手を掛けていく。

女性もののパジャマは、ボタンの向きが左右逆なので少しだけ外しづらい。

 

「……なにを、してるんですか?」

 

上から二つ目のボタンを外し終えた時、目覚めたばかりの少女と目が合った。

どうしてか、これ以上ない蔑みの視線を俺に向けている。

 

「なにって……パジャマを脱がそうとしているだけだけど。おはよう、文。元気そうで良かった」

 

……何か重大な要素を忘れている気がするが、朝の挨拶をした。

挨拶は大切だ。人間関係を円滑にする重要なファクターだ。

その際にお互いに笑っていれば、なお良い。

 

「ええ、おはようございます。…………そ、それで、なんで、わ、私のパジャマを、脱がしてやがるんですか……?」

 

口元が変に震えており、いつもの笑みすら作れずにいる。

彼女の視線から、蔑みとは違う、羞恥の感情が混じり始めた。

それにどういうわけか、全身がぷるぷると震えていた。

 

…………はて、どうしたんだろうか?

 

「あ」

 

三つ目の――小さな膨らみの上にあるボタンに手を掛けた時、ようやく自分の問題行動に気付いた。

もちろん、治療行為は問題ではない。だが、客観的に俺たち二人を見れば大問題だった。

 

文の顔がみるみる紅潮していく。もう耳まで真っ赤だった。

羞恥なのか怒りなのか、はたまたその両方なのか。

どちらにしろ、衛宮士郎に対して良くない感情なのは確かだった。

 

「それは……いや! ……ちょっと待とうか、文! してはいけない勘違いをしているぞ!?」

「……ええ。私も馬鹿じゃないので、現状は概ね把握しているつもりです。士郎さんにそんな度胸があるとは、とても思えませんしね。……で、でもね。は、恥ずかしいものは……恥ずかしいの。そ、そんな覆い被さるような姿勢で、ボタンを外されたら……きっと、だ、誰だって、そう思う……」

 

文の口調がごちゃ混ぜになって、安定していない。

よく見たら目には、涙すら浮かべていた。

あのバーサーカーを倒した射命丸文が、人前で泣いてしまっている……!

信じられなかったけど、それ以上に胸が苦しい。

女の子を泣かせてしまう罪悪感は、こんなに胸が苦しくなるものなのか……?

そんな当たり前の事実を、俺は今日初めて知った。

 

「そ、そうだよな。本当に悪かった! だから、その小刻みに震える拳をどうにか押さえてくれ!」

 

文の拳がプルプルと震えており、俺という標的に放たれる瞬間を、今か今かと待ち構えていた。

さっきまでの朝の清々しさは、どこに行ってしまったんだ。一瞬で修羅場になってしまったぞ。

 

「……ほんっとうにすまない! 俺も起きたばかりで寝ぼけてたみたいだ!」

 

ただ真摯に、ただひたすらに、謝り続ける。

……俺は文に殴られるのか。

コテコテなラブコメのように殴られてしまうのか。

相手が普通の女の子だったら、本気で殴られても仕方がない。

俺は、それだけの大罪を犯してしまった。

でも文の力で殴られたら、頭だったら爆ぜる。胴だったら貫通する。

どちらにしろ、デッド・オア・ダイだ。

本気じゃないとしても、悶絶するようなダメージは必至だった。

 

落ち度は完全に俺にある。ここで殴られようとも、文句は言えない。

だから、心のなかで十字を切った。

生きていられますように。

生きていられたら、文に美味しい朝食を作れますように、と。

……キリスト教徒ではないけど、たまには俺だって神に祈りたくなる。

 

「……わ、わかりましたから、みゃずはその。えっとえっと。その、て、手を放してくだしゃぃ……」

 

がたがたの滑舌で、少女が現状を伝えてくれる。

俺の右手は、未だに文のパジャマのボタンを掴んだままだった。

 

「あ……ああ! ご、ごめん! 気付かなかった!」

「あぅ、ううぅ…………」

「…………殴らなくていいのか? できたら加減してくれると助かる!」

 

慌ててボタンから手を放して、文の顔色を窺う。真っ赤な上に涙目だった。

 

「……こ、これで殴るなんて、どんな馬鹿な女の子なんですか……。そのぐらいの分別……私にだって、あります……」

 

文はゆっくり上体を起こすと、恥ずかしそうに胸元の着崩れを直した。

 

「まったく、グス……。わ、私の格好いいイメージが台無しです……。というか、こんなの私じゃありません……。何だか起きてからずっと、か、感情がおかしいの……。やっぱ、あ、あんな無茶をしたせいかな……グス」

 

あの射命丸文が、人前なのに堪え切れず、鼻を啜っている……!

格好いいかどうかは一考の余地があるが、飄々と、どんな時だって余裕の態度を崩さないのが彼女本来のイメージだ。

そこから大きく逸脱しているのは間違いない。

というか、さっきから罪悪感で胸が痛くて苦しい。何なんだ……これは?

 

「……し、士郎さんは、傷の手当てをしてくれたんですね……。じゃあ、怒れませんよ……」

「あ、ああ……そのつもりだったんだけど。俺も頭が働いてなかった。本当にすまない」

 

頭を下げると同時に、両手を合わせて再び謝罪を重ねる。

今の様子から察するに、どうやら許してくれたらしい。

 

「……それと水分を急いで摂ったほうがいいと思うんだ。何かリクエストはあるか? 酒は流石に駄目だけどな」

「クス……それは士郎さんなりの冗談ですかね。でしたら、温めのお茶をお願いします……」

「わかった。すぐに持ってくる」

 

急いで立ち上がって、文の部屋から出る。

 

「…………」

 

襖を閉める時、一瞬だけ文の顔が見えてしまった。

苦痛に歪んでいた。

俺の前だと平気な様子だったが、実際は激痛があったのだ。

文は、それを無理して隠した。

だから俺も気付かないふりをして、台所へと向かった。

 

 

 

「んぐんぐんぐ」

 

用意したお茶を、喉を鳴らして飲み干していく。

あれだけの失血をしたのに、今までまったく水分を摂っていなかった。

とても喉が乾いていたはずだ。

水分は摂り過ぎるということはない。温くしたお茶を、少女の湯飲みに再び淹れた。

 

「……朝食は食べるか? 文が買ってくれた毛ガニが残ってたから、カニ雑炊を作ってみたんだけど」

 

急ごしらえなので、出汁はちゃんと取れていない。

でも味見した感じでは、そんなに悪くない出来だと思う。

 

「ええ、いただきます。…………んん!?」

「ど、どうした? 熱かったのか!? 口の傷にしみたのか!?」

 

作ったばかりの雑炊を口に入れた途端、文が変な声を出した。

 

「……士郎さん、このお雑炊、美味しすぎる。……ショウガも入って、体も心も温まりますね」

 

良かった……。

さっきからどうしても、文の一挙手一投足が気になってしまう。

美味しいと言ってくれたのも、なぜかいつも以上に嬉しい。

 

「……ふう。美味しいものを食べると生を実感しますね」

「はは、いくらなんでも大げさだろ」

 

……少しは落ち着いてくれたようだが、起きた直後の文はなんだったんだろう?

『取り乱す』なんて言葉は、彼女から最も縁遠いはずだ。

 

「……よければおかわりもあるけど、食べるか?」

「鍋ごとください」

 

 

用意した朝食は、とても美味しそうに食べてくれた。

食欲に関しては問題なさそうだ。

そうなると、次に心配になるのはバーサーカーにもがれた翼だった。

背中を見ると、パジャマ越しに血が滲んでいる。

あの出血量だ。一度の包帯とガーゼだけではどうにもならないだろう。

 

「その……背中の傷は、大丈夫なのか?」

「背中……。ああ、私の翼のことですか。そんなに気を使わなくていいですよ。ふふ、私と士郎さんの仲じゃないですか」

「……ごめん。変に気にしすぎた」

 

直接的な単語を使うのを避けたせいで、逆に気を使われてしまった。

左の翼と殴られた胸の痣以外はほぼ完治しており、やはり文の再生力は並大抵じゃない。

見た目だけなら人間と同じなのだが、根本的な構造が別物だ。

それだったら、バーサーカーにもがれた彼女の翼だっていつ治ってもおかしくないはず。

 

「まあ、駄目でしょうね」

「……え?」

 

文の口から呆気なく告げられた、耳を疑う言葉。

 

「本来なら、肉体の欠損なんて大した問題じゃありません。事故で千切れたのなら数日のうちに生えてきたでしょう」

「だったら、どうして……」

「英雄様、直々ですからね。私たち妖怪は人間とは違って、精神の生物です。肉体に受けた傷は取るに足りませんが、精神へのダメージはその限りではありません。ヘラクレスのような大英雄の攻撃は、私の精神をズタズタに破壊してしまいました。私にしてみたらとんでもない猛毒です」

「猛毒……そう、だったな……」

 

バーサーカーとの戦いの時、文が『英雄の剣は妖怪にとって毒になる』と言っていた。

 

「英雄は魔を討つ存在ですから、私のような妖怪はどうしても相性が悪いんですよ。相手の動きだって、霞がかったように読みにくくなります。そして彼ら英雄から直接傷を負わされてしまうと……もうどうしようもないです。ある程度の傷なら治ります。ですが、この翼に関しては腐り落ちてしまったようなもの。それでもバーサーカーを私の手で倒せたから、この程度で済みました」

 

長舌に疲れたのか、喉の渇きを癒すようにお茶を飲んだ。

 

……だったら、もう文の翼はもうどうにもならないのか。

バーサーカーを討てた代償だったとしても、あまりに惨たらしい結果だった。

俺なんか、ただそこにいるだけ。戦うのも、傷を負うのも、いつだって文の役目だ。

 

「……そんな顔しないでくださいな。『ネタは自分の脚で稼ぐ』が私の持論ですが、何も完全に飛べなくなったわけではありません。速度も精密性も格段に落ちますが、なんとかなるでしょう。それよりも記事は腕がなければ書けません。だから私はこの右手が残っている限り大丈夫です」

 

……大丈夫なはずがない。肉体が欠損して、大丈夫でいられるはずがない。

烏天狗にとって、漆黒の両翼はアイデンティティみたいなもの。

初めて会った日――彼女は、公園で烏天狗だと名乗ってくれた。

その時、あんなにも誇らしげに広げた翼を見せてくれたじゃないか――。

 

「……………………」

 

慰めの言葉なんて、気休めにもならない。

そもそも、今の彼女を慰められる言葉なんて、この世に存在しないだろう。

何を言おうとも、見え透いた安い言葉になってしまう。

だけど、何も声を掛けられない自分もどうしようもなく情けない。

悔しくて、辛くて苦しい。衛宮士郎の心が、どうにかなってしまいそうだった。

 

それでも、彼女がいつもの顔で大丈夫と言うのなら、俺はその言葉に従うしかなかった。

 

 

 

 

「それでは、今後の方針を決めましょうか」

 

食後の休憩が終わり、一息ついたところで文が気を取り直すようにそう言った。

以前は俺の台詞だったのだが、もう聖杯戦争の主導は彼女にある。

 

「ああ、わかった。そうしよう」

 

文の傷は心配ではあるが、それについては俺も異論はなかった。

遠坂たちと殺し合う気なんて、俺には毛頭ない。

それでも相手がやる気なら、何らかの形で迎え撃つしかないだろう。

 

「セイバーがバーサーカーに負わされた傷は、一日程度で治るものではありません。それに、二日で都合三度の宝具使用。凛さんの魔力も枯れ果てているはず。挑むなら早ければ早いほどいいんですが、私も今日は動けそうもないです。なので、今日一日は治療に専念をして、明日の夜に挑むのはどうでしょうか?」

 

文は召喚された当初とは違い、最近はずっと聖杯戦争に積極的だった。

たった一日の休養で動けるか怪しかったが、俺は彼女の再生能力を信じるしかなかった。

 

「でも、遠坂のところは魔術師の家だぞ。考えもなく攻めるのは危険じゃないか?」

 

無暗に拠点に攻めるという意味では、イリヤの時もそうだった。

だけど、雪の少女は最後まで小細工には頼らず、バーサーカーの実力だけを信じた。

イリヤが手段を選ばずに最初から全力でいれば、聖杯は彼女の手にあったはず。

それだけ桁外れの実力が、バーサーカーにはあった。

 

遠坂は人の道から外れた行為はしないが、勝つためになら可能な限りの最善を尽くす。

それに彼女は、自分の家を隠していない。それがどうしても罠としか思えなかった。

余談だが、深山の小高い丘にある遠坂邸は、昔から曰くつきの幽霊屋敷として噂されている。

 

「そんなのは、私の風で木っ端微塵にしてみせますよ。あの程度の人間の張った結界なんて、我ら天狗の起こす風の前には児戯に等しい。……それともライダーの時のように超高度から、家ごと消し飛ばしてみせましょうか? それぐらいならまだできますよ?」

 

彼女ならではの発想だった。

ライダーの時と違って、建築物なら移動だってしない。文なら百発百中だろう。

奇襲としてはこの上ないぐらいに完璧だ。でもそれだと――。

『そんなことをしたら遠坂が死んでしまうんじゃないか』と言いかけた。

……セイバーはともかく、文が本気で風を起こせば、人間である遠坂は死んでしまう。

 

これまでの付き合いでわかったこともある。

射命丸文にとって、遠坂凛という稀代の才能を持った魔術師は、その他大勢に過ぎない。

好きでもなければ、嫌いでもない。いてもいなくても同じ。その程度の存在。

だから文は必要があれば、遠坂を殺すのを躊躇わない。

 

俺がここで『そんなことはやめろ』と言うのは簡単だ。

でも、ボロボロの状態で聖杯戦争を戦う文に、そんな言葉を口にしていいのか。

だからと言って、何もしないで見逃すなんて真似は絶対にできない。

 

「……ま、今のは冗談ですよ。そんな卑怯な手を使って勝てても面白くないですからね。正面からぶつかり、完膚無きまでに敗北を認めさせ、お二人をぴーぴー泣かせてやりましょう」

 

何も言わないでいた理由を察してくれたのか、彼女は少し笑いながら豪語する。

……俺が射命丸文を少し理解できたように、文は俺のことを何でも知っているんだな。

 

「じゃあ、いつかのバーサーカー戦のように住宅地で戦うのも手か? セイバーの宝具は攻撃範囲が広域だから、住宅が密集している場所では使えないはずだ」

 

遠坂が人避けの結界を張ってくれるだろうし、近隣住民を巻き込む戦いは絶対にしない。

少し卑怯な気もするが、遠坂が冬木のセカンドオーナーであるのを逆手に取った作戦だ。

 

「……それだと相手が全力を出せないじゃないですか。そんな状況で勝っても言い訳の材料にされてしまいます。それじゃ駄目ですね。却下です」

 

文の一言で無しになった。なんでさ。

俺にはやっぱり、この天狗少女が何を考えているのかを理解できていなかった。

 

 

 

 

どういうわけか、文は卑怯な手を使わずにセイバーを倒したいらしい。

マスターも狙わずに、セイバーと正面から決闘と呼べる戦いをしたいようだった。

理由が不明だったので確認してみたら『前にも話した』と言われてしまった。

 

「照れくさいので、もう絶対に言いません。忘れてしまった士郎さんなんて、もう知りません。つーん」

 

ついには、この始末だ。しかも『つーん』って。

俺も文に命を預けるつもりだから、知っておきたかったけどな。

ただマスターである遠坂を狙わないでくれるのは、これ以上ない条件だった。

 

「うーん……」

 

思い出せるのは、アサシンの前で啖呵を切った時――。

『全てのサーヴァントを倒して、この世界に妖怪がいた証を立てる』と彼女は言っていた。

でもその直後に敵前逃亡して、あの発言も『その場で思いついた出まかせ』だと言った。

ついでに『最新デジカメを買うのが、この世界に来た目的』だと言い切った。

 

「だけど、もしかして……?」

 

最初の発言だけは本当で、他は彼女の照れ隠しだとしたら――。

 

「な、ななななんで急に、あ、頭を撫でるんですか……!?」

「いや、なんか急に文が可愛くなって…………どうかしてた。ごめん」

「…………か、わわかわいいって! そ、そんなの千年前から知ってますよ! 馬鹿にしないでください!」

 

なんだろうか、この可愛い生き物。一生愛でてていたい。

 

 

文が落ち着きを取り戻した後、二人で今後の方針を綿密に話し合った。

その結果、目立つ遮蔽物もなく、人目に付かない冬木中央公園で遠坂たちを迎え撃つ計画になった。

慎二とライダーの時は俺一人だけだったが、今度は文と二人で待ち構える。

 

今回はライダーの時と違って戦略もなにもなく、作戦と呼べるものはない。

だから作戦ではなく、ただの計画だ。

あの場所なら、セイバーが宝具を開放しても問題ない。文だってスペルカードを使える。

文もセイバーも、己の実力を発揮できるはず。

俺としては過去のトラウマから近づきたくない場所だったが、そんなのは関係ない。

俺は、射命丸文のただ一人のパートナーだ。

彼女が望むものを望むがまま、何もかも差し出す覚悟はできている。

 

懸念があるとすれば、遠坂が決闘に乗ってくれるかだ。

だけど、それも心配ないと思う。

遠坂凛という少女は、正面から売られた喧嘩なら間違いなく正面から買ってくれる。

昨夜は『寝首に気をつけろ』と警告していたが、その心配もない。

俺はそんなところも含めて、遠坂を買っていた。いや、信頼していると言うべきか。

本当に寝首を掻くつもりがあるなら、わざわざ相手に伝えてやる必要すらない。

『非情になれない』というのは、少し語弊があるかもしれない。

 

遠坂も文と同じで、卑怯な手を使わず、正面からぐうの音も言わせないほど相手を負かせたい。

それだけは、お互いに共通しているのは間違いなかった。

 

 

「さて、方針も決まりましたし、私はまた眠らせてもらいますね。……お腹にものを入れたせいか、さっきから眠くて仕方がないです」

 

ふわ、と目尻に涙を浮かべて可愛らしい欠伸をした。

前までは絶対見せてくれなかった姿に、驚きと嬉しさを感じた。

 

「わかった。……でもその前に包帯を交換しないか? ここに用意してあるから」

 

パジャマから血が滲んでいたのが、ずっと気になっていた。

言い出すタイミングを窺っていたけど、これから寝てしまうのなら今しかない。

 

「――――」

 

しかし文は、俺の言葉に反応せずに唖然とするだけ。

 

「それとパジャマも新しいものに換えよう。汗もかいているだろうし、身体もちゃんと拭こうか」

 

そんなこともあろうかと、おろしたてのパジャマも用意しておいた。清潔なタオルもある。

 

「しくしく」

 

文が唐突に目を両手で押さえて泣き出してしまった。

狼狽えそうになったが、 声で『しくしく』と言っている辺りどうも胡散臭い。

 

「ど、どうしたんだ……?」

「士郎さんは、私を女の子として見てくれないのですね」

 

急に心臓を叩かれたような言葉が、文の口から出る。

今日は起きてからずっと文にドキドキされっぱなしなのに、どういうつもりなんだ……。

 

「そ、そんなことはないぞ。俺が言うのも変かもしれないけど、その、文は凄く綺麗だし、とても魅力的だと思う。……でも今はそれよりも、傷の手当てのほうが大事だよな」

「…………しくしくしく」

 

今度は芝居がかった口調と違って、『しくしく』に落胆が籠められていた。

意味深な質問といい、彼女は一体なにが言いたいのか。

 

「も、もう言うのも恥ずかしいですけど……。そ、そそそそんなに見たいんですか………………私の裸」

「!!」

 

今の俺は、文の役に立ちたいという感情が優先されて、他がいい加減になっていた。

こうして直接言われるまで、そこに気が回らずにいた。

パジャマのボタンを外した時も、寝ぼけていたのが原因じゃない。

彼女の力になりたい気持ちが空回ったせいだ。

……こんなじゃ治療に託けて、彼女の裸を見ようとする変態でしかない。

同じ轍を踏んでしまった。……我ながら度し難いな、これは。

 

「すまない……。悪いけど一人でやってほしい。タオルと着替えはここにあるから。……それと何か手伝って欲しいことがあれば言ってくれ。すぐに行くから」

 

文の返事を聞く前に、急いで部屋から退出する。

 

「まったく…………どんだけ間抜けなんだ、俺は」

 

そっと閉じた襖に背中を預けるようにして、ずるずると座り込む。

 

「文も朝からずっとおかしいけど、俺も大概だな、これは……」

 

文には聞こえないよう、小さく呟いた。

高ぶった気持ちを少しでも落ち着かせるため、深呼吸を繰り返す。

……少しして襖の向こうから、衣擦れや、水の跳ねる音がした。

 

「…………」

 

音だけだと、より蠱惑的に聞こえるのはなぜだろうか。

……! 何を考えて! 馬鹿か、俺は!

どうやら、この頭もいよいよおかしくなってしまったようだ。

 

馬鹿な煩悩を振り払うため、両頬を強く叩く。

そして、強い決意の元、襖越しの少女に声を掛けた。

 

「……文、勝とうな。勝って、聖杯戦争を終わらせよう」

 

衣擦れの音がピタリと止まった。

 

「――当然。そんなの、確認するまでもないわね」

 

自信に満ちた文の声。

いま彼女が浮かべている顔だって、俺には想像ができた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

48.降る雨、吹く風 《2月11日》

 

 

冬の風雨は、重く冷たくて、体の芯まで冷やしていく。

あの熾烈を極めたバーサーカーとの戦いから、一日後の夜。

冬木は、聖杯戦争始まって以来の雨が降っていた。

最近はずっと雨が降る気配も無かったが、公園に来てから少し経った後。

ぽつりぽつりと降り出した雨は、すぐに容赦のないものへと変わっていった。

 

雨に混じって吹く風は、音を鳴らし公園の草木を揺らす。

立っているだけでも体力を奪われてしまい、自然の無慈悲さが染みていく。

最悪の環境だったが、おかげでこの冬木中央公園に人気はない。

訪れた直後に公園を一回りしたが、時間帯もあって人の姿は見当たらなかった。

こうして雨も降れば、俺たちを除いて誰もいなくなるだろう。

だけど、それでよかった。

聖杯戦争という、無意味な殺し合いに他の誰かを巻き込むわけにはいかない。

 

この冬木中央公園は、一週間ほど前にライダーと決着をつけた場所だ。

つまり、聖杯戦争でサーヴァントの決着が初めてついた場所でもある。

そして、聖杯戦争の終着もこの公園で迎えようとしていた。

10年前の大火災といい、この土地は何か因縁があるかもしれない。

 

だが、もうあんな悲劇は二度と起こさせない。

10年前に起きた大火災。あれは聖杯戦争による戦火によるものだ。

あんな惨状はあってはならない。何があっても阻止してみせる。

 

「……士郎さん、身体は大丈夫ですか? 寒くありません?」

 

射命丸文は、冬の風雨の中で、気にした様子を見せていない。

超高度をマッハ以上で飛ぶ烏天狗だ。寒さの耐性は強い。

本音を言うと凍えそうだったが、それでも耐えられないほどじゃない。

 

「ああ、大丈夫だ。……それより、俺は文の怪我のほうが心配だな」

「………………うあ」

 

文が急に顔を押さえたと思ったら、頬の辺りをもにょもにょと揉みだした。

 

「……文? どうかしたのか?」

「い、いまの私、そういう言葉を聞くと……か、顔が勝手にニヤけちゃうので……やめてください……」

「うん? ご、ごめん……」

 

どういうわけか、文はあれからずっと情緒不安定だった。

本人曰く、かつてない躁状態が続いているらしい。

 

「まさか、一日以上経っても治らないなんて……。どうしてしまったんでしょうか、私。…………怪我は問題ないです。心のほうが問題です……」

 

文はそう言ってるが、バーサーカー戦のダメージは重傷だった。

もがれた翼は機能を失っているし、胸の傷も完治まで至っていない。

ただその二つ以外を除けば、ほぼ快気していると言ってもいい。

現に一日と少しの休息で、戦闘行為にも支障がない。

……サーヴァントはマスターの魔力で治療を行うが、文の場合は純粋な再生力だ。

相性の悪い英雄でなければ、彼女に敵う存在はこの世界でもそういないはず。

そう思えるほど、彼女の強さはこれまでの戦いで実感した。

 

しかし、それが覆されるほど翼の状態が深刻だ。

飛行自体は翼の欠けた今でも可能らしいが、戦闘での活用は難しいらしい。

サーヴァント相手では、精々奇襲に使うのが関の山だという。

速度と精密性ともに落ちて、キャスターとの戦いで見せた動きは不可能だそうだ。

つまり空中に退避すれば、セイバーの宝具の的にしかならない。

バーサーカーを倒したスペルカードも、相当な無茶だったらしく当面の間は使えない。

 

「…………」

 

今は残った右の翼だけを背中から出しており、どうしても痛々しさを感じてしまう。

片翼の烏天狗。それが今の射命丸文だった。

 

「せっかく新しく買ってもらったのに、穴を開けてしまって申し訳ないですね」

 

翼に向ける俺の視線に気付いたのか、本当に申し訳なさそうに謝罪を告げる。

度重なる激戦の末、幻想郷から持参した着替えが尽きてしまった。

だから今日の昼下がりに、二人で買い物に出かけて、これまでと似たデザインの衣服を何着か購入した。

女物だけあって、それなりの出費になったが、彼女はとても喜んでくれた。

購入後に翼を出すための穴を作ったので、それを律儀に気にしているのだ。

だけど文は、左側には穴を開けなかった。少し考えて、右側だけにハサミを通していた。

 

「いや……文に不自由がなければそれでいい」

「そう言ってもらえると助かります。……やさしいやさしい士郎さん」

 

そのブラウスも今は雨で濡れて、身体のラインを浮き彫りにしていた。

少女の柔らかな肢体は艶やかで、とても魅力的だったが、それだけに目のやり場に困る。

俺も一人の男である以上、どうしても意識してしまう。

指摘しようにも雨が降っている以上、対処のしようもない。

仮に指摘して昨日みたいな状態になったら、俺にはどうしたらいいかもわからない。

だから、結局は黙っているしかなかった。

 

「……文?」

 

そうやって目を逸らした隙に、彼女の顔が別物になっていた。

 

「…………ふふ」

 

天狗少女の燦然と浮かぶ赤い瞳は、今や公園の一点だけを見つめている。

 

 

 

 

雨の勢いは弱まるどころか、激しさを増していった。

公園の芝生も雨水を吸って、足場は悪くなる一方だ。

文の一本下駄の靴を見ていると、どうしても不安を覚えてしまう。

セイバーとの戦闘中。

もし、ぬかるみに足を取られたら、もし、転んでしまったら。

そんな心配が、胸に浮かんでは消えていく。

当然それは錯覚であり、彼女からすれば余計な心配に過ぎない。

 

「士郎さん、今すぐ螺子を巻いてください」

「……螺子?」

 

遠い先を見ながら、少女はそんな言葉を漏らす。

その実態のない言葉に意味が見いだせない。螺子なんてどこにあるのか。

 

「闘争の螺子。キリキリと絞めて二度と戻せないところまで。下らない常識や道徳が悲鳴を上げて泣き叫ぶまで。限界の先の先まで締め上げてしまいなさい。――それこそ、いつだって誰だって殺せるように」

「なにを、言って……?」

 

人を殺す覚悟がなければ、この先は生き残れないと言いたいのだろうか?

……それは以前の文であれば、絶対に言わない言葉だった。

そもそも価値観の押し付けなんて、ただの一度だってなかった。

バーサーカーの戦いの時に『極端にならずに悩め』と言ってくれた。

それは物事の捉え方を変えるものではない。あくまで自分の中にある選択肢の話だ。

『自分は自分。他人は他人』が彼女本来のスタンスのはず。

 

「もはや私の理性は薄氷の上。バーサーカーとの戦いの後から、私はどこかおかしくなってしまった。今なら親しげに笑いながら誰だって殺せちゃう。……あ、でもでも士郎さんだけは別ですよ! 私たち、パートナーですから!!」

 

今の射命丸文は、妖怪としての顔と少女としての顔がごちゃ混ぜになってしまっている。

それに、おおよその感情のブレーキが効いていない。

これまで、どんなにおどけようと、どんなに恐怖を振りまこうと。

根っこの部分では、誰よりも冷静だった。

妖怪という存在でありながら、他の誰よりも理性的な生物だった。

それがバーサーカーとの戦いを経てから、精神が不安定――いいや、壊れてしまった。

だから俺なんかの言葉であんなに動揺するし、今だって殺意を隠そうともしない。

本来は漣のような感情がぐちゃぐちゃになって、今や誰よりも危うい存在になっている。

 

「フ、フフ……」

 

話している今も俺の顔を見ずに、視線は遙か向こう側。

そして、視線の先の存在に気付いた少女は、内側から湧き上がる感情のままに顔を歪ませた。

 

「…………」

 

俺の喉が、音を立てて鳴った。

彼女の顔に張り付いているのは人間を惑わせる、魔性の笑みだ。

近づくだけで、彼女に飲まれてしまう。それが今になって、はっきりと確信した。

俺は昨日からずっと、射命丸文という妖怪に酔わされていた。

 

 

赤い瞳の先の、二つの人影。

予定調和のように姿を現したのは、遠坂凛と、最後のサーヴァントであるセイバー。

最良のサーヴァントと謳われる剣の英霊。真名は、アーサー・ペンドラゴン。

古代ブリテンの王であり、円卓の騎士を率いた世界で最も高名な騎士たちの王。

 

あのアーサー王が女の子だった事実には驚かされた。

『風王結界』から解き放たれた剣は、間違いなくエクスカリバーだった。

その聖剣を持つのを許されたのは、伝説のアーサー王ただ一人だけ。

文もアーサー王を知っていたが、女性だった事実には特に驚いた様子はなかった。

彼女曰く『まあ……幻想郷でもよくありますね』だそうだ。

言葉の意味はよくわからなかったが、言葉の重みは本物だった。

 

彼女が何の思惑から、聖杯戦争に参戦したのかはわからない。

アーサー王の最期は、決して幸福なものではなかった。

もしかしたら、彼女の聖杯に懸ける願いも、それに関するものかも知れない。

勝つための絶対の意志が、翠色の瞳から感じられた。

最終決戦の相手としては、申し分なかった。

この雨の夜のなか、どんな形であっても二人の決着はつくはず。

 

二人は雨に濡れた公園の芝生を踏みしめ、一切の隙を見せずにこちらに歩み寄る。

俺たちから5メートルぐらいの距離で、彼女たちは足を止めた。

射命丸文もセイバーも、一瞬で間合いを詰めて攻撃を可能とする距離だった。

 

「…………遠坂」

 

そんな互いをいつでも殺せる距離で、遠坂たちと対峙する。

セイバーは、『風王結界(インビジブル・エア)』で封印されたエクスカリバーを下段に構えていた。

俺たちと、いつでも切り結べるという意思表示。

不可視の剣は雨に濡れて、薄っすらと輪郭が浮かんでいる。

刀身を隠して、間合いを読めないようにするのは、ただの副産物でしかない。

風王結界は、アーサー王の象徴であるエクスカリバーを敵から隠すための鞘だ。

鞘から解き放たれて、バーサーカーを7度殺した『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』。

それこそ、俺たちが最も警戒しなければならない脅威だった。

彼女の宝具がなければ、文はバーサーカーを殺しきれなかったかもしれない。

その伝説の剣は、今や俺たちに向けられている。

驚異的な再生力を誇る文でも、彼女の宝具をまともに受ければ死んでしまうだろう。

 

「ふう。寒いわね……」

 

雨が強まるなか、互いの牽制を溶かすように遠坂が息を漏らした。

 

「……今朝、家の窓を突き破ってこんなものが投げ込まれたわ。言うまでもなくあんたの仕業よね?」

「…………?」

 

遠坂の手には、紙くずが握られていた。

彼女の視線の向きからして、文に言っているようだった。

横目で彼女を見るとニヤニヤと笑うだけ。とてもじゃないが真意は読めそうもない。

 

「衛宮君。はいどうぞ」

 

遠坂は俺が理解していないのを察したのか、紙くずをこちらに投げてきた。

それは、B5サイズのノートをくしゃくしゃに丸めたもの。

というよりも、俺が使っているノートだった。

こんな丸めただけの紙くずで窓を突き破るなんて、どんな強肩をしているのか。

バッターとして化物なのは知っていたが、これならピッチャーとしても食べるのには困らない。

 

「はあ……広げてみなさい」

 

遠坂に言われたとおり、紙を広げてみると可愛らしい筆跡が書かれてあった。

『今夜十二時、冬木中央公園でお待ちしております。――バーサーカーを倒した私より』と。

 

「……なんだこれ? 文がやったのか?」

 

このやけに可愛い字は、何度か見た覚えがある。間違いなく文のものだ。

どうやら俺に隠れて、こんなものを遠坂の家に投げつけたらしい。

 

「はい。私が遠坂さんの家まで届けました。……丸めた紙で窓ガラスをぶち抜くには手首のスナップが重要ですね! こう新聞を投げる要領で!」

 

右手首を2、3回鋭く振ってみせた。そもそも新聞だって投げるものじゃない。

 

「だけど、なんだってこんなことを……」

 

別に文を責めているわけではないが、疑問だけは残る。

単身で罠が張り巡らされた遠坂の家に近づくのは、どう考えても危険だった。

セイバーと鉢合わせする可能性だって、十分にあっただろう。

 

「だって、セイバーが来る保証がないまま待ってるなんて馬鹿らしいですし」

「…………そうだな」

 

もっともと言えば、もっともな話だった。

この冷たい雨が降りしきるなかで、誰も来なかったら本当に馬鹿みたいだった。

そうだとしても、単身で敵陣に乗り込むのはどういうつもりなのか。

やはり、今の文は浮足立って、かつての聡明さを失っている気がした。

 

「あんたたち……本当に今更だけど、聖杯戦争がどういうものかわかってるの? こんな果たし状まがい、相手を舐めているとしか思えないわ。つくづく思うけど、そんなんでよくここまで勝ち抜いてこれたわね」

「あれー? 私はライダーとバーサーカーの二体を倒しましたけど? あれれー? そちらのセイバーは何体でしたっけ?」

 

天狗の少女は、どんなハイな状態であっても、相手を煽る精神を忘れないでいた。

それでこそ射命丸文という感じがして、少し安堵してしまう。……俺も相当毒されているな。

 

「いくらでも言いなさい。……最後まで勝ち残れなきゃ、どれだけサーヴァントを倒しても同じよ」

「正解は、ランサーの一体だけですね。ぷぷぷー」

 

この烏天狗、もう駄目だ。

普段はもう少しウィットがある返し方をするのに、その切れ味も失われている。

 

「……遠坂も文の誘いに乗ってくれてありがとうな」

「ふん……」

 

俺たちが公園で待ち構えているのを知っていたなら、わざわざ姿を現す必要もない。

公園の中心にいる俺たちに宝具を放てば、それだけで全てが済んだ。

セイバーの宝具は、見てから躱せるようなものじゃない。片翼を失った文でも難しいだろう。

 

「でも、どうして果たし状なの? 悪いけど、あんたのこれまでの行動を見たら、正々堂々と勝負をするタイプにはとても思えない」

 

それは昨日、『照れくさい』と言われて、はぐらかされた件にも繋がっている。

俺の考えが正しければ、アサシンの前で切った啖呵が根源にあるはずだ。

 

「やれやれですね。それは心外というやつですよ」

「なに? 私を馬鹿にしているつもりかしら?」

「だってそうでしょう? 相手の目を見て叩き潰さなきゃ面白くないと思いません?」

 

いや、違う。

当然それもあるだろうが、文の真意はそれだけじゃない。別の思惑があるのは確かだ。

それだけだったら、あんなはぐらかし方はしない。

 

「ふん。癪だけど、それだけは同意してあげる。……あんた、今回の聖杯戦争で一番の食わせ者ね。よくそれで、愚直で真面目バカの衛宮君のサーヴァントなんて務まったものだわ」

「いえいえ。そんなことはありませんよ。清く正くをモットーに日々活動していますので。士郎さんとは相性抜群、相思相愛のベストパートナーというやつでしょうかね。えへへへへ」

 

誰の目から見てもわかるような、露骨にへつらう顔を浮かべた。

全ての表情を見せないようにするためか、口元だけは葉団扇で隠している。

だから、正面から対峙する遠坂からだとわからない。

 

「文、おまえ……?」

 

隣にいる俺には、彼女の口角が限界を超えて吊り上がっているのが見えてしまった。

それだけで、身体に雨の冷たさとは別の悪寒が走った。

今や薄氷の理性に立っている文は、この瞬間にだって遠坂を殺せる。

 

「化物め――貴様如きがマスターに一端の口を利くな」

 

これまで無言を貫いていたセイバーが初めて言葉を放った。

文の媚びへつらうような態度に、マスターへの侮辱を感じ取ったのだろう。

怒りを露わにして、射命丸文の本質を見抜く鋭利な視線で睨み付ける。

 

「……………………えへ」

 

文はセイバーの視線を受け流さず、見定めるように受け入れた。

眼を細め、口を閉じ、顔から感情と呼べるものが、少しずつ失われていく。

その文の変化に伴い、公園全体の気温も下がっていく感じがした。

 

「ああ……もういいか。私も限界だわ」

 

死体が喋っているような抑揚のない声。

それは、彼女の足元の氷が砕けた瞬間だった。

 

「今日で聖杯戦争もおしまい。当然、幕は私たちが引かせてもらう。あんたには一切の油断も容赦もしない。全力で倒してみせる。……セイバー、遠慮はいらない。宝具も一度だけなら使ってもいいわ」

「はい。この剣に誓って、必ずやマスターを勝利へと導いてみせる。凛、あなたは他の誰よりも優れたマスターだった。あなたにこそ、聖杯は相応しい」

 

セイバーは剣を掲げて、遠坂に騎士として誓いを立てる。

そのまま中段に構えると、睨視とともに剣の切っ先を天狗の少女に向けた。

剣の少女から、万人にも及ぶプレッシャーが放たれる。

それを受けた文は、いつものように笑いもせず、赤い瞳だけを更に細めていく。

どんなプレッシャーを受けても素知らぬ顔で受け流した少女が、恍惚感に身震いした。

 

「士郎さんは、絶対に手を出さないでくださいね。私が殺しても、私が殺されても。……そうじゃないと私が殺しちゃうかも!」

 

彼女の言葉は、もはや一貫性すらもなくなっていた。

少し前に『士郎さんは別』と言っていたが、今やそれすらも取り繕えてない。

 

「……文」

 

別に自分の命の心配をしているわけじゃない。

射命丸文という存在が、これ以上破綻してしまわないか。それだけが心配だった。

 

 

一陣の風が吹く。

その突風に触発されるようにセイバーが、魔力を爆発させる。

歩いても数歩程度の距離。一足で間合いを縮めて、文に斬り掛かれる。

文は葉団扇を正面に突き出して、セイバーを迎え撃とうとした。

それは文字通り、彼女の得意とする風の弾幕で迎え『撃つ』――。

 

天狗の葉団扇が篠突く雨も切り裂き、聖杯戦争の幕引きとなる弾幕を放った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

49.風雨の烏天狗

 

 

葉団扇から放たれた風の刃が、疾走するセイバーに襲いかかる。

5メートルという数歩程度の距離、セイバーでも回避できるものじゃない。

 

だが剣の少女は、迫る風に防御すらもしなかった。

それどころか、風の刃に真正面から立ち向かう。

 

「邪魔だ!」

 

セイバーと風が衝突した。

一瞬の閃光と、強烈な破裂音が夜雨の公園に響く。

 

「…………ふむ」

 

文は間合いを詰めず、弧を描く足捌きでセイバーとの間合を堅持した。

追撃のチャンスに見えたが、彼女は見守るように静観している。

 

……文の判断は正しかった。

セイバーは、風の刃を正面から喰らっても傷を負っていない。

怯みもせず、ものともせず。

強い魔力を滾らせたまま、速度を落とさずに文の元へ駆け出した。

文に追いつくと、不可視の両手剣を肩に担ぐように構えた。

 

「はあ――っ!」

 

上段からの袈裟斬り。

人の限界を超えて磨かれた剣技が、烏天狗を両断するために奔る。

 

「…………」

 

セイバーの斬撃を、文は冷静に見定め、軸足を急速に捻って回避した。

回避の勢いを利用して、大胆にもセイバーの頭部を狙う回し蹴りを放つ――。

 

「シッ!」

 

文の口から小さく息が漏れた。

セイバーは剣を片手に持ち直し、鋼鉄の手甲で蹴りを受け止める。

彼女の概念礼装と耐久力であれば、生身の攻撃など取るに足らない。

 

「な……ッ!?」

 

しかしセイバーの身体が地面から浮く。

文の凄まじい脚力によって、身体ごと持ち上げられていた。

セイバーが声を上げて驚くのも無理はない。

文の小柄な体型で、こんな威力の蹴りが放たれるのは想像できない。

 

そのまま風切り音を立てて、文の回し蹴りが少女の身体を振り抜いた。

地上であっても、常識外の俊敏性を持つ射命丸文の脚力。

耐久力が高いサーヴァントであっても、片手で受けきれるものではない。

 

「この程度!!」

 

セイバーは、蹴り飛ばされた直後、剣を地面に刺して勢いを殺す。

聖剣の切れ味と、蹴りの威力によって、公園の地面が数メートル切断された。

セイバーはすぐに体勢を立て直し、聖剣を右脇構えに持ち直す。

 

「ふーん……」

 

その間、天狗の少女はセイバーから目を逸らし、前髪に滴る雨の雫を鬱陶しそうに払っていた。

雨の止む気配は、未だにない。

 

「ねえ。もしかして、私の風――無効化された?」

 

濡れた髪を弄りながら、妙に軽い口調で文が質問をする。

 

「…………」

「おや、だんまり。ざんねん」

 

セイバーは口を閉じて何も答えない。

文の隙を狙うため、構えながら前進していく。

一定の距離まで縮めた時、脚を沈め、跳ねるように飛びかかった。

 

「さて。本当に効かないかどうか、これで見極めさせてもらうわ!」

 

葉団扇の一振りで放たれた、三つの風の刃。

半月状の刃は、最初の風に比べると格段に遅い。

しかしそれぞれ別の軌道から、セイバーを狙っていく。

その複数の刃に対しても、彼女はまるで見えていないかのように突き進む。

 

僅かな時間差をつけて、次々とセイバーに衝突する風の刃。

だが、それは足止めにもなかった。悪い想像は現実のものになる。

文の風はセイバーの対魔力により、ことごとく打ち消されていた。

 

「全然駄目だ! あははははは! これじゃバーサーカーと変わらないわね!」

 

それでも天狗は笑う。それは声だけで、顔はどこまでも冷たかった。

そしてセイバーの剣は、笑う天狗の首を切り落とすため横ざまに薙ぎ払う。

 

「怖い怖い」

 

一歩下がって回避するも、今まで弄っていた黒髪が何本か舞った。

 

「まだまだ!」

 

セイバーの斬撃は、それだけでは止まらない。

不可視の剣は雨を斬り、風も斬った。

そんな究極とも呼べる剣技を以ても、セイバーの剣は烏天狗に届かない。

一刀一足から繰り出される不可視の剣を、文は見切り躱していった。

 

文は、セイバーの剣を防御する手段を持っていない。

風の防壁では、バーサーカーの時と同様に瞬く間に打ち破られるだろう。

だから、回避しかできない。

そしてセイバーの持つ武器は、伝説のエクスカリバー。

たった一度でも攻撃を受ければ、それだけで終わりかねない。

彼女の風も、全て無効化されている。

客観的に見たら、射命丸文は圧倒的に不利な状況だった。

だがここまでの戦いからして、そうは見えない。

探るように攻撃を続ける文には、まだ明らかに余裕があった。

 

「……文。頑張れ」

 

俺も遠坂も固唾を呑んで、二人の戦いを傍観することしかできない。

とても俺たちが、介入できるレベルの戦いではなかった。

 

 

セイバーは突然、これまで以上に大きく踏み込むと、相手の身体に肩からぶつかった。

脇構えから出された、シンプルな体当たり。

決め手に欠けていると思ったのか、通常では考えられない大胆な行動だった。

 

「え? ……うわ!」

 

これには文も予測ができなかったようで、まともに受けてしまう。

彼女の体調は万全とは言い難い。片翼での立ち回りも勝手が違ってくる。

……それでも、佐々木小次郎の剣を全て躱した射命丸文だ。

あの程度の攻撃を、受けてしまうのかと思ってしまう。

文は病床で『英雄からの攻撃は、霞がかったように読みにくくなる』と言っていた。

つまり全てが毒となる攻撃以外にも、英雄との戦いには制限が存在していた。

 

無理な体勢からの体当たりだったので、それによるダメージはない。

しかし、小柄な体形と一本歯の靴。

バランス感覚が如何に優れようとも、足を取られるのは避けようもない。

天狗の少女は衝撃によって数歩後ずさると、あっけなく転倒した。泥水が撥ねる。

射命丸文の生涯二度目となる転倒だった。

 

「取った――!」

 

既に体勢を立て直したセイバーは、文の左胸に剣を突き立てようとする。

全ての体重を乗せた聖剣による刺突。雨と風の中、鈍い音が走る。

 

「文!!」

 

俺の声は、風雨に飲まれて掻き消えてしまう。

妖怪であっても、聖剣に心臓を貫かれて無事で済むはずがない。

 

「――――!」

 

だが、どこかセイバーの様子がおかしい。

冷静に徹していた表情に明らかな動揺が浮かんでいる。

 

「いったい、なにが……?」

 

心臓を完全に捉えていたはずの矛先は、文の左脇を掠めるだけだった。

標的から大きく外れた聖剣は、地面に深く刺さっている。

あの瞬間、文は何の回避行動も取らなかった。

セイバーもまた、身動きが取れない相手への攻撃を外すわけがない。

だとしたら、剣が不自然に心臓を逸れたとしか思えなかった。

 

「はい、残念無念」

 

文はそんな軽口を叩く同時に、覆い被さる少女の腹を一本歯で蹴り飛ばした。

 

「うぐっ!」

 

尋常ではない脚力によって、セイバーは雨空に打ち上げられる。

 

「このスペルは、今までの風とはひと味違うからね。覚悟しなさい」

 

文は地面から跳ね上がり、スペルカードを取り出す。

 

『――旋符「紅葉扇風」』

 

その宣言の直後、文は天高く葉団扇を振り上げた。

 

「ウソ……? 何なのあれ……?」

 

二人の戦いが始まってから、初めて遠坂凛が言葉を漏らした。

文の使ったスペルカードは、それだけ常軌を逸している。

ただの葉団扇の一振りによって、雨雲まで届く巨大な竜巻が発生していた。

 

「特別製の竜巻よ。そのまま上昇気流まで飛んでいきなさい」

 

意思を持った竜巻が、セイバーの小さな身体を飲み込もうとする。

文のように空を飛べない限り、誰であっても空中では無防備だ。

 

「ぐぅっ……!」

 

セイバーは上体を捻って何とか逃げようとするが、小さな健闘は虚しく終わった。

次の瞬間には、セイバーの身体は巨大な竜巻に飲み込んだ。

 

「セイバー!!」

 

吹き荒ぶ竜巻に飲まれたセイバーに、遠坂の呼ぶ声は届くはずもない。

 

「く、この――!」

 

遠坂は文に視線を向けると、狙い定めるように人差し指を突き出した。

 

「はて?」

 

文は遠坂の視線に気づいたが、表情はとぼけたままだった。

彼女の指先から、凝縮された黒い魔力が放たれる。

あれは……北欧のルーン魔術の一つである『ガンド撃ち』と呼ばれるものだ。

ガンドを受けると、風邪を引くなどの体調不良を引き起こすとされている。

だが、遠坂の使ったガンドは魔力の密度が桁違いだった。

 

「喰らいなさい!」

 

次々と指先から放たれるガンドは、敵意を超えた殺意が込められていた。

あんなものをまともに受けたら、風邪程度では済まされない。

しかし……その程度のものが、射命丸文の問題になるはずもなかった。

 

一瞥すら与えずに、天狗少女は全てのガンドを躱す。

そして振り向き様に葉団扇を扇ぐと、公園の芝生が一本の道を作るように剥がされていく。

 

「きゃあ!!」

 

遠坂は短い悲鳴を上げ、強風によって公園の地面に全身を打ち付けた。

そして次に遠坂が目を開けた瞬間、文はもう彼女を見下ろすように立ち塞がっていた。

 

「がおー! 食べちゃうぞー!」

 

遠坂の前で、おどけるように叫んでみせた。

それは以前、慎二の部屋でも見せたもの。

しかし顔は少しも笑っておらず、目だけが夜に光っていた。

台詞も姿も同じはずなのに、氷よりも冷たい悪寒が全身に走った。

彼女の理性と呼べるものは、もうとっくに砕けてしまっている。

 

「…………!」

 

遠坂も尻餅をついたまま、文に心を掴まれて視線を外せない。

理性が崩壊した今の彼女は、もはや一匹の獣……いや、一体の妖怪だった。

 

「……子供が火遊びをしていると、怖い妖怪に食べられちゃうわよ?」

 

そこに表情はなく、声色はどこまでも冷たい。

暗に『次はない』と仄めかしていた。

遠坂は最後まで恨めしそうに睨むが、文は意に介さずに再び竜巻を眺めた。

 

「あらま」

 

突如、竜巻の勢力が弱まった。

中心部まで飲み込まれていたセイバーが渦を強引に断ち斬り、姿を現した。

 

「舐めるな――――ァァッ!!」

 

彼女の身体には旋風による傷が無数にあったが、どれも致命傷には届かない。

雨雲に大穴を開ける竜巻だ。

それがあの程度のダメージで済むなんて、にわかに信じられなかった。

 

「これが最良のサーヴァント……!」

 

攻撃面だけでなはなく、防御面でも隙がない。

宝具の性能もずば抜けている。最良の看板に偽りはなかった。

 

セイバーは剣を肩に担ぐと、文に向かって落下する。

落下と同時に、斬り伏せるつもりだ。

だが竜巻に飛ばされたセイバーが、文に到達するまでに数秒は掛かる。

文からすれば、十分すぎる猶予だった。

 

「思ったよりも、お早いご帰還でしたね! お勤めご苦労様です!」

 

自分のスペルカードが破られて何がおかしいのか、天狗がけらけらと笑った。

しかも棒立ちのまま、セイバーの剣から逃れようともしない。

余裕の表情で仰ぎ見るだけで、何も備えずにセイバーを待ち構えている。

 

「文は何をするつもりだ……?」

 

遥か上空から文に振り下ろされたセイバーの剣は――不自然に逸れてしまう。

 

「な、に――!?」

 

標的から外れた剣は、地割れのように地面を大きく二つにした。

 

「公園を耕して畑にでもするつもりですか? 管理団体の許可は取っています?」

 

……文は当然のように、その場から一歩も動いていない。

セイバーが、手心を加えているわけではない。

そうだとすると、文がセイバーに何かしたとしか考えられない。

セイバーは剣を引き抜き抜くと、後方に跳んで距離を取る。

 

「貴様……! 私の剣に何をした……!?」

「さてさて、なんでしょうかね。種もあるし、仕掛けもあります。ですけど、それを敵の口から聞き出そうとするなんて。……あなたもしかして、お馬鹿さん? ンフフフ」

 

顔は笑ってないが、声を出して笑っていた。

 

「…………!」

 

セイバーは、見下すような嘲笑に剣を握る手が強くなり、対峙する文を睨みつける。

……文も『風を無効化したのか』とセイバーに尋ねていたが、今の彼女ではそれすらも覚えていないだろう。

 

「……おやおや、呼吸が乱れてますよ? もしかして、この程度の挑発で心を乱されたのかしら? だとしたら、騎士王様の器もたかが知れますね」

「なんだと……!?」

「セイバー! そんなやつの言葉に耳を貸しちゃ駄目よ!」

 

遠坂の言葉は、セイバーの耳に届いているか怪しい。

感情の揺らぎで瞳が波打ち、剣を持つ手が微かに震えている。

 

「こんな沸点の低い子供が王様なら、国の程度も知れている。最期は身内に殺されて、国も身内に滅ぼされたんでしたっけ? あははは。――あなたなんかを信じた国民が可哀想でならないわね」

 

そんなセイバーの逆鱗とも言える言葉を、悪びれれずに嘲笑いながら告げた。

 

「貴様ーーァァ!!」

 

セイバーは憤激の形相のまま、一足飛びで文に斬り掛かる。

 

「あはははは。怒ってしまいました」

 

声だけおどけたまま、セイバーの上段斬りを難なく躱した。

再び連続して剣を振るうが、セイバーの剣筋にはどこか違和感があった。

 

『――投影、開始(トレース・オン)

 

イリヤによると、俺の本質は投影だ。

昨日の魔術鍛錬のおかげで、使っている武器から相手の動きを少しだけ理解できるようになった。

投影魔術の応用だが、セイバーの違和感ぐらいは掴めるはず。

 

『――創造理念、鑑定。――基本骨子、想定』

 

創造の理念を鑑定し、製作に及ぶ技術を模倣し、成長に至る経験に共感する。

大上段から続く、逆袈裟、胴斬り、横薙ぎ、上段刺突――。

 

「……ああ、やっぱりだ」

 

どの技にしてみても、今までのセイバーのものとは比較にならない。

明らかに彼女の剣技は、精彩を欠いている。

激しい怒りによって、冷静さを失ったのも一因だろう。

だが、これはそんな単純な話ではない。

俺の目から見ても、彼女の剣速が遅くなっていった。

文の言葉から想像するに、彼女がセイバーに何かしたと考えて間違いない。

それが何なのかはわからない。

だけど文は、あの最良のサーヴァントを相手にして優位に立っていた。

 

あの程度の攻撃であれば、文からすればなんてことはない。

現に腕を組んだ状態のまま、セイバーの剣を軽々と回避している。

そんな態度はセイバーの怒りを余計に買って、剣技も更に乱暴なものになってしまう。

 

それでも、セイバーの見せる隙は僅かだったが、彼女からすれば時間が止まっているのにも等しい。

セイバーの剣を躱すと同時に、葉団扇を振り抜いて突風を放つ。

剣の間合の中であっても、天狗の風はセイバーからすれば目眩ましにしかならない。

 

「それがどうした!」

 

ただの一喝で風が消し飛んだが、その隙で文はセイバーから大きく離れた。

 

「よっと! 鎌風ベーリング!」

 

文は風を操る能力を発動させ、周辺の暴風を巻き取るように集める。

鎌鼬がシェルターのように彼女を纏い、雨の一滴だって寄せ付けない。

以前、バーサーカーとの戦いで見せた鎌鼬のシールドだ。

バーサーカーには通用しなかったが、拳大の石すらバラバラにする威力がある。

 

「その程度!!」

 

セイバーは躊躇なく、再び剣を構えて文に疾走した。

戦況を見極める冷静な思考ができないのか――それとも強力な対魔力を持つ余裕なのか。

文の風は『取るに足らない』とでも言っているようだった。

 

「あはは」

 

そんなセイバーに文が口を歪めると、二枚目のスペルカードを取り出した。

 

『――突風「猿田彦の先導」』

 

スペルカード宣言の直後、彼女の周囲の風が密度を増していった。

もはや風の弾丸となった文が、セイバーという標的に向かって撃ち出された。

――風を纏わせた突進技。

周囲の風がなければ、彼女の姿を捉えることも叶わないスピード。

 

「な――!?」

 

冷静さを欠いたセイバーも、高圧縮された風の弾丸に目を見張る。

一目で技の性質を理解したのだろう。

急停止すると、剣を目の前にかざして防御態勢を取った。

本来であれば防御ではなく、宝具を使って迎撃したいはず。

だが今から宝具を解放する余裕はなく、文もそれを許すわけがない。

 

「――そうか」

 

セイバーの宝具を二度も目の当たりにしたら、文は僅かな隙も見せるわけにはいかない。

あのバーサーカーを7回殺せるエクスカリバーを、セイバーはものの数秒で放てる。

たった一度でも大きな隙を見せたら、その時点で文は宝具の餌食だ。

それを考えれば、あの見え透いた挑発も意味があったと理解ができる。

文の行動は、スペルカード発動を作り出すための布石だった。

そんな状況であっても、律儀にカード宣言をするのは彼女のプライドなのか。

 

――文とセイバーが衝突した。

 

「ぐっ……! く……!!」

 

セイバーは歯を食いしばりながら聖剣を構えて身を守るも、風の力に徐々に押されていく。

そんな抵抗は一瞬で終わり、風の弾丸はセイバーを喰らい尽くした。

 

雨音を塗り潰す衝撃が公園全体に広がり、セイバーの手から聖剣が弾け飛んだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

50.トンネル

 

 

一進一退だった戦局は、大きく変わる。

文によってセイバーの手から、エクスカリバーが奪われた。

聖剣は夜雨を舞って、公園の遥か後方に突き刺さる。

 

それを可能とした『猿田彦の先導』というスペルカード。

風の力を纏って突進という――単純ではあったが、それだけに強力な技。

セイバーの手から剣を弾き飛ばし、彼女の身体も貫いた。

 

宝具を失う。

剣の英霊であるセイバーが、己の武器を失うなんてあってはならない。

武器のない状態では、万に一つもセイバーに勝機はなかった。

文は素手でどうにかなる相手ではない。

それは、これまで彼女の戦いを見てきた俺が知っている。

 

「うう……ッ」

 

宝具を手放してしまったこともあるが、受けたダメージも深刻だった。

遠目で見てもはっきりとわかる疲弊と損傷。

大の字になって倒れる彼女の目には、天を覆う雨雲が映っているはず。

しかし、彼女にそれを見るような余裕はない。

苦痛に顔を歪ませ、酸素を取り込もうと、必死に呼吸を繰り返していた。

 

それでも、まだ良いほうだったかもしれない。

もし激情のままに文と衝突していたら、セイバーは絶命していた可能性もあった。

直前で聖剣を盾にして、そんな最悪を回避した。

それが、あの瞬間で可能だった最善の行動。

それでも、現在セイバーが不利なのは覆しようもない事実。

宝具を奪われて、大きなダメージも受けた。文はまだ無傷のままだ。

 

「――ふう」

 

文は、セイバーから少し離れた地点に着地した。

雨に濡れる髪をかき上げ、仰向けに倒れたセイバーを赤の双眸で見下ろす。

セイバーは忌々しそうに文を睨んだが、上体を起こすのがやっと。

 

「私の十八番を受けて、まだ睨む元気があるのね。セイバーを過小評価してたかも。……でも起き上がれないのなら、このチャンス、余さず使わせてもらう」

 

そう言うや否や、一瞬のうちにセイバーの目の前に移動した。

 

「さて――これで死ねなきゃ! 痛いだけかな!」

 

そのまま、セイバーの頭部を蹴るために脚を大きく振り上げる。

本来であれば、こんな単純な蹴りがサーヴァント相手に命中するはずがない。

しかし身を守る武器もなく、呼吸も整っていないセイバーには脅威そのもの。

 

「…………!!」

 

そして腕でガードするよりも先に、少女の頭を思い切り蹴り上げた。

頭から全身に伝わる衝撃によって、セイバーの身体は再び投げ出された。

人の頭部をボールに見立てた、サッカーボールキック。

文の脚力であれば、頭と体が泣き別れる威力がある。

 

「がは――!」

 

冬の雨で濡れた地面に、少女の身体が水の石切りのように転がっていく。

有利な状況にあっても、何の容赦もない攻撃だった。

 

「あはははは。簡単に死ねない体って、たまーに恨めしくなるわよね。わかるわかるー」

 

文はセイバーの動向を見逃さないよう、少しずつ距離を詰めていく。

剣の少女の爆発力は侮れない。少しの油断が命取りになる。

文にとって最悪のパターンは、セイバーが再び聖剣を手にすること。

そのため、聖剣から最も離れた方角に彼女を蹴り飛ばした。

 

「ねえ、ねえねえねえねえ! 聞こえてないのかな! ねえってば!!」

 

理性が崩壊していても、抜け目だけはない。

今もセイバーのマスターである遠坂が、聖剣を拾わないように警戒している。

この見晴らしのいい公園では、文なら対象がどこにいても即攻撃が可能だ。

遠坂がエクスカリバーを拾おうとした瞬間、その命を奪うだろう。

つまり、エクスカリバーを奪還されない限り、文の勝利は確実なものだった。

 

今の射命丸文は、それだけ行動に遊びがない。

かつて飄々としていた彼女は、病床から目覚めた瞬間にいなくなってしまった。

えげつない手段と攻撃を以て、セイバーを攻め立てる。

 

「……ッ! セイバー!」

 

遠坂が傍観をやめて、文の後ろに回り込むように走り出した。

文もまた遠坂の動向に気付いたが、セイバーからは目を離さない。

彼女からすれば、遠坂は取るに足らない存在だ。

聖剣だけ拾わないように注意すればいいはず。

 

「遠坂……? 何を!?」

 

何を思ったのか、文に少しずつ近づいていく。

それでも文は、遠坂を一顧だにしない。

起き上がれないでいるセイバーだけを見ている。

その気になれば、この瞬間にだって殺せるだろう。

あの時、文は遠坂に警告もした。次はないと。

でも彼女を殺さない。

……遠坂を殺せば、俺との軋轢は決定的になるだろう。

だが今の射命丸文に、その程度が問題になるはずがない。

じゃあ、なぜか――。

 

「…………まさか、たったそれだけか?」

 

あっという間に思いついて、ぞっとした。

今も殺さないでいる理由は、俺なんかの義理立てではない。

 

セイバーの現界のため、遠坂凛の存在が必要だからだ。

 

「ッ! ふざけんじゃないわよ!!」

 

相手にされない態度に侮辱を感じたのか、文の背中に怒声を浴びせた。

それでも彼女は振り返ろうともしない。気にも掛けない。

 

「この――!!」

 

その直後、遠坂が文に向けて何かを投げつけた。

女性のものとは思えない投擲力。

重たい雨に打たれても速度を落とさずに、天狗の少女を狙う。

彼女の得意とする宝石魔術なら、文にだってダメージを与えられる。

遠坂の宝石は、バーサーカーを一度殺してみせたのだ。

もし同じ宝石が残されていたら、文だって致命傷は免れない。

 

「………………」

 

だが、俺の知る限り――。

射命丸文が遠距離攻撃を受けたことは、ただの一度だってない。

鮮明に思い出すのは、キャスター戦。

キャスターの大魔術を回避した彼女の動きは、聖杯戦争一番のデタラメだった。

 

文は、背後から迫る脅威に何の行動も起こさない。

それもガンドの時と同じ結果に終わるだろう。

遠坂には悪いが、俺には宝石魔術が命中する姿がどうしても想像できなかった。

 

「宝石魔術……?」

 

闇に紛れてよく見えなったが、遠坂の投げたのは宝石じゃないような気がした。

いや、そもそも宝石魔術であるなら、闇の中であっても強く光ったはず。

 

「…………はあ」

 

結局、遠坂に背を向けたまま、文は完璧なタイミングで投擲物を回避した。

避けられて勢いを失った物体は、音を立て芝生に落ちる。

呆れたような溜息をつくと、ようやく天狗の少女が遠坂に振り向いた。

『溜息をつく』なんて感情がまだ残っていたことに、俺は少しだけ安心してしまう。

 

「あなたは『待て』すらできないお子様なの? そんなのはもう犬畜生以下だわ。……これ以上悪さができないよう、今から達磨大師にしてあげる」

 

無表情の赤い瞳から滲み出る、人外の殺意。

ただの人間なら、それだけで恐怖に飲まれてしまうもの。

しかし遠坂凛は、視線を逸らそうとしない。

浮かべる表情は、怯えでも恐怖でもない。

それは、遠坂によく似合う意地の悪い笑み。かつては文がしていた顔だった。

そんな場違いな表情に、流石に文も眉を少し顰めた。

 

「はて、どこかで見た顔です。…………それで、何がおかしいの?」

「前から思ってたんだけど。あんた、躱すことにポリシーでもあるの? ……まあ、今となってはそんなのどうでもいいんだけどね。……私を侮ってくれて、ありがとう。私の攻撃を避けてくれて、本当にありがとう」

「……頭おかしいのかな。血の気も多いみたいだし、少し抜いておきますか」

 

葉団扇を遠坂に向ける。

今の彼女なら、間違いなく遠坂に取り返しのつかない攻撃をする。

でも今は、それよりも──!

 

「文!! 後ろだ!!」

「士郎さん……?」

 

一瞬だった。

倒れていたはずのセイバーが地面を蹴って、遠坂が投擲したものを拾い上げる。

 

「――凛! やはりあなたは最高のマスターだ!」

 

文がセイバーに視線を戻した時にはもう、目の前まで肉薄していた。

――手に握った何かを構えて。

 

「えっ!?」

 

射命丸文の顔が、初めて表情を浮かべた。

驚嘆していた。

あれだけのダメージを受けて、ここまで動けるセイバーの体力に。

そして、彼女の手に握られた一本の黒い短剣に。

これまでのダメージがブラフと感じるほどの身のこなしで、セイバーが短剣を突き出す。

 

「ウソ──なんで!?」

 

文は後方へ跳ねて短剣を躱そうとしたが、セイバーの踏み込みが一歩分だけ速かった。

刺さる直前に身体を捻って回避しようとするが、それも間に合わない。

 

黒の刀身が買ったばかりのブラウスを貫いて、少女の柔膚まで届いた。

臍から右の位置、小腸の密集した辺り。そこにセイバーの短剣が刺さった。

 

「~~~~ッッ」

 

灼けつくような痛みに対して、声にならない悲鳴を上げる。

これまでの戦況をひっくり返すような起死回生の一撃。

だが、まだ止まらない。

確実な致命傷を与えるため、短剣を更に押し込もうとする。

 

「……こ、このッ!」

 

文は扇から風を放つも、これまで同じように無効化されてしまった。

セイバーにこの程度の風が効かないのは、文も理解しているはず。

それでも今の状況では、他にできる手がなかった。

結局、攻撃はすべて徒労に終わり、少女の表情が苦悶に呑まれる。

セイバーは勢いを加速させて、短剣を握る手に渾身の力を込めた。

 

「ここまでだ!! アーチャー!!」

 

セイバーの大喝とともに──短剣が射命丸文の腹を貫いた。

 

 

 

 

短剣が文の腹を穿ち、今は背中から黒い刀身を覗かせている。

刀身は血と雨を吸って、妖しく光っていた。

セイバーの短剣を握る手は、柄の部分しか残されてない。

つまり、短剣は根本まで刺さっていた。

刀身の部分は全て彼女の体内に収まり、残りは背中から露出している。

 

「…………」

 

傷を中心に、白いブラウスを赤く染めていく。

まるで切り取った一枚の絵画のような光景だった。

雨と風、そして少女から流れる鮮血だけが時間の刻みを教えてくれる。

 

セイバーが短剣を引き抜く。

その行動に一切の慈悲などなく、無造作に引き抜かれて傷口を更に広げた。

 

「ゴホ……!」

 

文が力なく咳き込む。

口に溜まった血を飲み込もうとしたが、許容量を超えて大部分を吐き出してしまう。

鮮血がセイバーの顔を濡らすも、雨によってすぐに流された。

 

「ゴホ、ゴホ……ッ」

 

よろよろと後ずさり、転びそうになったが直前で踏みとどまった。

前屈みになって傷口を押さえたが、それだけでは止血にはならない。

背中にまで続く大穴。

仮に腹の傷を塞げても、背中からの血が止まらない。

こうして、立てているのも不思議だった。

 

「それは、アゾット剣と呼ばれる儀式用の短剣よ。もちろん刀剣としての実用性もあるわ。そして、セイバーは剣の英霊。自分の宝具だけじゃなくて、剣だったら何でも扱えて当然だと思わない? あんたは投げ出されたエクスカリバーばかりを気にして、私の所持品には気にも掛けなかったわね。……私を侮ってくれて、とても助かったわ。感謝してもしきれないわね」

 

これまでの鬱憤を吐き出すように、遠坂は言葉を並べる。

文の視線はセイバーから遠坂に向いたが、虚ろな目に彼女が映っているか怪しかった。

 

「クソ……」

 

文は遠坂の言うとおり、投擲されたアゾット剣を防げばよかった。

しかし彼女は、躱してしまった。

ほんの少しでも興味を示し、一目でもアゾット剣を見ていれば結果は逆になっていたはず。

 

どんな人間でも見下している文は、遠坂凛という少女を甘く見ていた。

今に至るまで、セイバーを現界させる程度の道具にしか彼女を見ていなかった。

しかし、遠坂はそれすらも計算に入れて行動に移した。

それはプライドの高い彼女にとって、筆舌に尽くしがたい苦痛だったはず。

 

「…………」

 

セイバーはとどめを刺そうと、短剣を振り上げる。

文は、もはや意識もはっきりとしていなかった。

ぼんやりと剣先を見つめるだけで、身動きを取らない。

 

「アーチャー、これで終わりだ――」

 

セイバーは、聖杯戦争の終決と射命丸文の最期を告げた。

……そのセイバーの言葉に、俺の思考が曖昧にぼやけていく。

 

「……ふざけるな」

 

このままだと確実に文は殺されてしまう。それは絶対に許せない。

だったら、衛宮士郎──。

お前の為すべきことはなんだ? こうして何もしないで突っ立っていることか?

 

「違うだろ!!」

 

文がこれまでしてくれた忠告は、全て頭から抜け落ちていた。

考えるよりも先に、身体が動き出す。

射命丸文の元へと走り出した。

悩んでいる暇はなかった。思考をする余裕もなかった。

俺は走る。文の元に。彼女を生かすために。

セイバーが文の命を奪うまで、数秒の猶予もない。

ぬかるみに足を取られそうになるが、今は転んでいる暇だってない。

 

「やめてくれ!!」

 

文を庇うようにして、セイバーの前に立つ。

無手だったが、セイバーの前ではどんな武器を持っても無意味だ。

間違いなく、俺はここでセイバーに殺される。

彼女からすれば、俺は敵マスターでしかない。殺して当然の存在だ。

 

「やめてくれ……」

 

でも俺が殺されるなら、それでもいい。

俺という楔を失った文は、その時点で幻想郷に帰還できるはず。

だったらそれでいい。それが最善だ。

理想を果たせない悔いは残るが、それと同じぐらい文を失うのも耐えられない。

どちらが大事なんて、俺は考えたくない。

衛宮士郎にとって、どっちも大事だ。だから今は目先の彼女を優先する。

 

「…………」

 

セイバーは短剣を構えていたが、なぜか俺を殺そうとしなかった。

俺の目を見て、無言のままでいる。

しかし、こちらに向けるプレッシャーは尋常ではない。

こうして対峙しているだけでも、まったく生きた心地がしない。

文やバーサーカーとは違う性質の、剣の鋭い切っ先に貫かれたような寒気がした。

 

ここで逃げ出すわけにはいかない。

文はこれまで、何度も俺の窮地を救ってくれた。

正直に告白すると……それは嬉しいと思える以上に悔しさもあった。

それでも文が俺を何度も守ってくれたのなら、俺も何度だって文を守ってみせる。

どうなろうと、絶対に彼女を守ってみせる。

何ができるかなんて既に関係ない。もう何もしないでいる自分に耐えられなかった。

 

「ふ――!」

 

風を切る音――。

コマ落ちしたと思えるスピードで、短剣を鼻先に突き付けられていた。

俺の目には、何も見えなかった。

衛宮士郎とは、比較するのも烏滸がましい力量差だった。

それでも、セイバーから目を逸らすわけにはいかない。

 

「やめてくれ、セイバー。文はこれ以上戦えない」

「……そこをどけ、エミヤシロウ。貴様を殺すことはマスターの意に反する」

 

その言葉に遠坂が、ぎょっとしたように驚く。

 

「ちょ、ちょっとセイバー! それは言わないでって、約束したじゃない!?」

「すみません、凛。ですが、そうでも言わなければ、この男は決して動かないでしょう」

「……たく」

 

遠坂は、そっぽを向いた。

……こんな俺を気に掛けてくれるなんて、本当に遠坂はいいやつだ。だけど――。

 

「ありがとう――遠坂。だけどここで文に死なれたら、俺は死ぬまで後悔する。だからいま死ぬとしても、ここを動くつもりはない」

「エミヤシロウ、貴様はマスターの恩情がわからないとでも言うのか?」

 

セイバーは、苛立ちを隠そうともしなかった。

俺の発言は、彼女からしたらマスターを侮辱されるのと同じ。

 

「これは俺の我儘だ。だから何があってもここをどかない。それに文も絶対に死なせない」

 

何か特別な策があるわけでもない。

それどころか、自分がここで殺されるのが最善だと思っている。

結局、それを含めてどうしようもない自己満足なんだと思う。

 

「……そう、どうしてもそこから動くつもりはないようね。でも、衛宮君程度なら殺さなくてもどうとでもなるわ。私のガンドだけで十分。せめてもの情けよ。このまま聖杯戦争のことも忘れさせてあげる」

「…………遠坂」

 

文と違って、俺では彼女のガンドの一発で確実に昏倒する。

この距離じゃ躱せないし、身を守る術も持っていない。

もしここで舌を噛んだとしても、人間はそんなすぐには死ねない。

だから、何をやっても間に合わない。

 

遠坂が俺を指差し、魔力を込めた。

 

「じゃあね、衛宮君。言うつもりはなかったけど、あんたのことそんなに嫌いじゃなかったわよ」

 

黒い弾丸が放たれた。

背後から息づかいが聞こえる。はっきりと彼女の存在を感じる。

遠坂は俺を気絶させたら、魔術で記憶の操作をするのだろう。

聖杯戦争に関する記憶――。

それは文との思い出だ。その全てを消されてしまう。

 

それがどれだけ残酷な行為なのか、遠坂はわかっているのだろうか。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

51.ご清聴ありがとうございます

 

 

放たれた遠坂のガンド。

俺の頭を穿ち、意識を喪失させるのは一瞬。

 

何もかも、手詰まりだった。

こうして文を庇ったのも、結局はただの自己満足。

ほんの少しの間、彼女の命を長らえさせただけ。

でもひょっとしたら……文の命まで奪わないのではないか?

一瞬よぎる、甘えた思考。

彼女たちの聖杯戦争に懸けた意志は、紛れもなく本物だった。

口には出さないが、セイバーの聖杯への渇望もわかった。

聖杯戦争は、サーヴァントが残り一体になるまで終わらない。

聖杯を手に入れるため、射命丸文を倒す――いや、殺す必要があった。

そこに、遠坂もセイバーも躊躇いはない。

 

俺たちもこれまで二体のサーヴァントの命を奪った。

殺すということは、殺されるということ。

それは正義の味方を目指した時から、ずっと理解していたはず。

『もしかしたら自分だけは』なんて考えは許されない。

つまり、俺が気絶している間に文は死ぬ。

遠坂が記憶操作をしても、彼女を死なせた感情は生涯刻まれる。

その瞬間に正義の味方として衛宮士郎は、完全に折れてしまうだろう。

激しい悔恨と罪悪感。それと恐怖。

――文を死なせてしまった。その恐怖だけで、俺は俺だって殺せる。

 

ああ、本当に最後まで不甲斐ないマスターだった。

……ごめんな、文。

 

魔力の弾丸が、衛宮士郎を貫く――。

だけど俺は、絶対に目を逸らさない。

これは正真正銘、自分の弱さが招いた結果だ。

 

 

だが。

俺の意識を奪う直前、ガンドは消滅した。

魔力が四散し、夜雨に溶ける。

その結果に、セイバーも目を大きく見張らせた。

 

「なにが、起きて……?」

 

ガンドを放った張本人も事態の把握をしていない。

そこに、遠坂の意思もなかった。

見えない壁に遮られて、ガンドが消滅――。

今も俺の目の前で、雨水が不自然に弾かれている。

 

「これ、は……」

 

これは、風の力による障壁だった。

同じものを、キャスターとの戦いでも使っていた。

その時だって、俺を守るために。

凝縮した風の力で、遠坂の魔弾を消してみせた。

 

「アーチャー!!」

 

セイバーが、文のクラス名を叫んだ。

翠色の視線は俺を貫いて、背後にいる少女に向けられる。

 

「ふう――もう十分ですよ、士郎さん」

 

二度と聞けないと思った彼女の声。

 

その直後、体が浮き上がるような浮遊感――。

一つの疾風が、俺を挟んだまま剣の少女を狙った。

しかしこの程度の風では、セイバーの耐魔力に無力化されるだけ。

セイバーもまた、それを理解しているのか避けるつもりはない。

 

「うーん、慢心」

 

背後にいる文が、俺にだけ聞こえるように呟く。

疾風は軌道を変えて、セイバーの持つ短剣を粉々に砕いた。

 

「な……!」

 

彼女の狙いはセイバーではなく、セイバーのアゾット剣。

砕け散った刀身はバラバラになり、残っているのは柄の部分だけ。

これではもう、武器として使えない。

 

「……貴様!」

「受けるじゃなくて、避ければよかったわね、セイバー。ふふ、奇しくも私と逆の状況です」

 

文らしい軽口だった。

それだけで、俺は胸が無性に熱くなってしまう。

後ろを振り向くと、意地の悪そうな笑みを浮かべた少女。

そんな顔に思わず感極まりそうになったが、今はそれどころじゃない。

 

「……文! セイバーにやられた傷は大丈夫なのか!?」

「えっと、す、すごく恥ずかしいけど。…………ほら、この通りなんともありません、よ?」

 

本当に恥ずかしそうにブラウスをめくって、傷のあった箇所を雨水で洗う。

彼女の言うとおり、そこには小さな臍があるだけで、貫かれた傷はどこにもなかった。

 

「あ、あにょ! そにょ! し……士郎さんだから見せたんですよ! 私のおへそは他の誰にだってトップシークレットです!」

 

烏は卵生なのに、臍の存在は許されるのだろうか?

 

そうではなく、俺は別に文の臍が見たいわけじゃない。

……あの傷は本当に治ったのか?

驚異的な再生力を誇る彼女でも、背中まで届く刺し傷がこんな簡単に治るなんて。

……信じられない。信じられないが、現に腹の傷は跡形もなく消えている。

それに、ずっとおかしかった文の様子も戻っていた。

いや、まだ少しおかしい気もするけど、さっきと比べたら普通の範囲だ。

 

「ウソ……? バーサーカーじゃあるまいし、どんだけふざけた再生力なの……?」

 

遠坂も文のトップシークレットを見たらしく、俺と同じように驚いている。

 

「むっ、失礼な。このキュートな私を、あんな筋肉と同じカテゴリにしないでください。……それとも、達磨にすると言ったお返しかしら、凛」

 

いつの間にか、遠坂の呼び方も変わっていた。

 

「……やってくれたな、アーチャー。貴様のような化物には、あの程度では致命傷にもならないか」

「いえいえ。いくら私でもお腹にトンネルが開通したら――まあ、それなりに痛いです」

 

セイバーに貫かれた部分をさすりながら、「ふふん」と得意げに鼻を鳴らす。

 

「英雄様の攻撃ですからね。動き回れるようになるには、少し時間が掛かるかも。大した神秘が内包されていない短剣で助かりました。もしこれがアーサー王を象徴するエクスカリバーなら、その瞬間に絶命してましたね」

「……ほう、それはいいことを聞かせてもらった。次は私の剣で腹とは言わずに、貴様の首を斬り落としてやろう」

「あやや、今のは軽率な発言でしたね。失敗失敗。……これで絶対に拾わせるわけにはいかなくなったわ」

 

エクスカリバーは、今も王の帰還を待つように雨に打たれていた。

セイバーでも文を無視して、拾いに行ける距離ではない。

遠坂に至ってはもってのほかだ。

エクスカリバーに近づいた瞬間、風によって刻まれてしまう。

 

「士郎さん、ありがとうございます。今回は本当に助かりました。セイバーにやられたおかげで浮かれていた頭も多少は冷えました。ですが、こんな無茶な真似はもう止めてください。……私、あなたに何かあったら泣いちゃいますよ?」

「いや、俺も手を出さないって約束を破ってすまない」

「あの時の私は、理性が完全に崩壊したワルワル射命丸でしたからノーカンです。今の私なら嬉しい感情の方が強いです。てへ」

「てへ?」

 

それに『ワルワル射命丸』ってなんだろう。

 

「うっわ……。今の私、無意識のうちにすごい言葉が出てしまいました。数日前の私が見たら恥辱に耐えかねて首吊ってますね」

「でもすごく可愛かったぞ。もう一度言ってほしい」

 

前にも同じ言葉を言っていたけど、あの時は俺を馬鹿にするためだったからな。

それが自然に出たものなら、彼女の幼い外見もあってとても可愛らしい。

 

「~~~~~!! だからそういうの駄目ですって!! 恥ずかちい!」

 

顔を赤くして悶えてはいるが、それでもセイバーと遠坂に対しての警戒は解いていない。

かつての文とはまるで違うが、狡猾さだけ健在のようだ。

 

「凛、あの二人は少しおかしいのですか?」

「少し? ……あれは相当おかしいわよ。バカップルってやつ」

「バカップル……ですか?」

 

遠坂たちも文に警戒しつつ、雑談をしていた。

聖杯戦争の決着がつく戦いはずなのに。なんだろうか、この弛緩した空気は。

 

それでも、文とセイバーの間にいる俺が移動したら――二人は再び戦うだろう。

そんな確信めいた予感があった。

文は、たった今セイバーに殺されかけたばかりだ。

誰になんと言われようとも、彼女がこれ以上傷つく姿は見たくない。

 

「……どうしても、決着をつけないといけないのか?」

 

決戦の最中、この発言はどうかしているかもしれない。

だけど俺は、間違っていると思わない。

もしかしたら誰も死なずに、聖杯戦争を終わらせる方法だってあるのかもしれない。

 

少し前……ライダーの宝具に巻き込まれて、学園の仲間が死んでしまった。

聖杯戦争とは何の関係のない一般の生徒だった。

理不尽によって、18人もの命が奪われた。

……ああ、そうだとも。聖杯戦争なんて絶対に間違っている。

だからどうしても、ここで言っておきたかった。

 

「いい加減、空気を読みなさい。衛宮君」

「…………」

 

遠坂からすれば、これほど場を読めてない発言はない。

それに俺以外のここにいる全員が、聖杯戦争の決着を望んでいた。

物事が多数決で決まるのなら、一人だけ異を唱える俺だけが間違っていた。

 

「はい、どうしても決着をつけます。士郎さんは何もせずに、見ててくれるだけで結構です。いえ、私があなたに見てほしいです。……一応言っておきますけど、士郎さんが足手纏いだとかそんな理由ではありません。これはどうしても、私一人でやらなければならないのです」

「……理由を教えてもらってもいいか?」

 

俺には、彼女がここまで聖杯戦争に入れ込む理由がわからなかった。

まだ知り合ってから、10日程度しか経ってない。それでも、わかることだってある。

この少女は、自分から揉め事に首を突っ込むような性格ではない。

『自分は常に傍観者であり、第三者である』と聖杯戦争の当初から言っていた。

これが射命丸文の本来の在り方のはず。

そんな彼女が聖杯戦争の最終戦まで勝ち残り、今や望んでセイバーと戦っている。

 

「……士郎さん。いつだか私が柳洞寺の山門で言ったことは覚えていますか? この世界に生きた妖怪の証を立てる。そのために全てのサーヴァントを倒すと、私はそうあなたに言いました」

「ああ、もちろんだ」

 

啖呵を切るように、俺に向かって宣言した。

今になって思えば、それは俺だけではなく、この世界に向けての言葉だった。

あの時の眩しくて鮮烈な印象は、忘れられそうもない。

その瞬間から彼女は新聞記者ではなく、烏天狗の射命丸文として聖杯戦争に参加した。

……それでもわからない。

それが自分の在り方を捨ててまで、戦いを続ける必要がどこにあるのか。

英雄と呼ばれた過去の存在と、命を懸けて切り結ぶなんてどうかしている。

 

「この世界にもかつては妖怪がいました。ですが、今はいくら調べても伝承としてしか残ってない。……私だって物書きの端くれです。書物として残っている限り、彼らの存在は消えないのはわかっています。だけどそれは、記録であって記憶ではない。それはいつか風化して形骸化してしまう。中身を失って名前だけの存在となり、軽んじられてしまう。それはとても由々しき事態です」

 

文はそこで一呼吸置いた。

彼女の感情は読み取れない。笑っているが、悲しんでいるようにも見える。

だけど、大きな決意を秘めた顔をしていた。

 

「私から彼らにしてやれることは何もありません。この世界は幻想郷と違って、死んでしまったら人間も妖怪もそれまでです」

 

『でも文一人が、そんなにぼろぼろになるまで傷つかなくてもいいんじゃないか?』

頭に浮かんだそんな言葉は、なぜか吐き出せなかった。

10年前のこの場所――。

業火のなか、自分の身の可愛さから置き去りにしてしまった人たち。

どうしてなのか、文の言う彼らと俺が置き去りにした人たちが重なってしまう。

 

「そうだとしても、私は我慢できない。妖怪という強く恐ろしく、気高いもの。それを忘れて、安穏と暮らす人間たちが、私は許せない。……これは間違いなく私の我儘。消えてしまった彼らのためと託けても、結局は私自身が許せないです。だから私一人でやらなければならないし、そうでないと意味がない。私という烏天狗が聖杯戦争を勝ち切って、妖怪の強さと、恐ろしさを再びこの世界に知らしめる。……それは自らの在り方を殺してでも、やる価値はあります」

 

彼女の主張は理解できた。でも共感はできなかった。

ただ、一点だけ。

『彼らのためと託けて、結局は自己満足に過ぎない』

その一つだけが、掲げた理想と重なってしまう。

それなら、俺にはどうしようもできない。

結局、俺だって自分の我儘で行動している。そこになんら変わりない。

それに彼女が紡いだ言葉は、かつてないほど情熱的で心が籠もっていた。

 

射命丸文は、自分を語らない。

だから、そんな彼女の本心に触れられて嬉しかった。

 

「わかった」

 

俺はただそれだけ、文に告げた。

そして――。

 

『文、頑張れ。セイバーに負けるな』

 

そんな言葉に令呪を付加させた。

左手の甲に刻まれた令呪が、残り一画に減る。

最後の一画は、文と世界を結ぶ楔として機能している。

つまり、これでもう令呪は使えない。

 

こんな願いに令呪を使えば、稀釈化して効果は弱まる。

本来の使い方から、完全に逸脱している。

それでも、今の俺にはこのぐらいしかしてやれなかった。

少し前のように脅しなんかではなく、彼女の心からの願いだったから。

 

俺は天狗の少女から離れた。

これで、文とセイバーを遮るものは存在しない。

 

「ええ、ええ! 頑張ります! 頑張りますとも! 見ていてください! 士郎さん!!」

 

文はくるりと回って、遠坂たちと向き合った。

 

「さてさて、こんな雨と風のなか、ご静聴ありがとうございます。……なんにせよ、付き合ってもらって悪かったわね」

 

セイバーから視線が外れるのも覚悟で、少女は頭を深々と下げた。

 

「ま、本音を言えば、寒くてしょうがないけど。これで最後だもの、気にしないわよ。……それに私も少しだけ聞き入っちゃった。あんた、意外と青臭いのね。人の言葉を話す化物としてしか見てなかったわ」

「私、ちょっと前に壊れちゃいましたから。当時の私とは別人と思ってくれていいです。……でも今だって十分に化物ですよ? がおー!」

「……や、びっくりするぐらい可愛いんだけど。何なのその小顔? 舐めてるの? ……てか、あんた、セイバーに負けず劣らずの美形よね」

「ふふ。意外と言うと失礼かもしれませんけど――凛はすごく優しいわね」

「ああ、遠坂は良いやつだぞ。……なんだ、今さら気づいたのか?」

 

新聞記者だけあって、文の観察眼と洞察力はずば抜けている。

だけどこれまでは、興味のある対象にしか機能してなかったようだ。

 

「――待て! 私のマスターはそれだけではない! 彼女は優秀なメイガスであり、作る食事はきめ細かくとても美味だ!」

 

まさか、セイバーも俺たちの雑談に入ってきた。

今まで俺たちとは、頑なに話そうとしなかったのに。

こんな会話に割って入るほど、彼女は遠坂が好きなのかもしれない。

 

……というか、セイバーもご飯を食べるのか。

性格にしても何にしても正反対だが、そんなところだけ文と似ていた。

 

「あ、あんたたち! さっきから何を言っているのよ!? ……しかもセイバーまで! 気を抜けたことを言うのも大概にしなさい!」

 

雨のなか、遠坂がどうしようもなく狼狽えていた。

彼女もまた文と同じで、意外と照れ屋なのかもしれない。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

52.ただの現象

 

 

「では、正々堂々と殺し合いましょう」

 

弛緩した空気に、天狗少女が熱を入れる。

しかし心情を吐き出したせいか、彼女から妖怪然とした雰囲気が消えていた。

少し前までは、俺や遠坂にとって射命丸文は恐怖そのものだった。

だが俺たちは、彼女の内側に抱えているものを知ってしまった。

 

……人の恐怖の根源は、未知だ。

人は知らないから恐れる。人は知らないから知ろうとする。

いま降っている雨も、いま吹いている風も。

過去の人たちは、その原因がわからなかった。

わからないから、恐怖した。

そして思考を放棄して、原因を別の場所に預けてしまった。

つまり、神や妖怪によるものとした。

 

しかしそれも、長い年月を掛けて解明されていった。

解明された恐怖は、恐怖とは呼べない。

 

それはもう、ただの現象だ。

 

 

セイバーは、文の足下を見て呆れるように息を漏らした。

 

「……その馬鹿げた靴を脱ぎなさい」

「はい?」

「そのような靴で、貴様はまともに戦えるのか? 私への侮辱とも取れるぞ」

「おや、馬鹿げたとはまた酷い。これは天狗の象徴と言える靴なのに。……ですが、彼のアーサー王からの忠告です。ここは素直に聞いておきましょうか」

 

高下駄を模した文の靴は、当たり前だが戦闘で有効に機能するものではなかった。

ついさっきも転んでいたし、バーサーカーとの戦いの時も転倒していた。

 

「うっ……雨でぬかるんだ芝生に裸足は嫌な感じ……」

 

脱いだ靴を丁寧に揃えると、足場を確認するため、二度三度と強く踏み締める。

 

「……王よ、ご満足いただけましたでしょうか?」

「ああ。これで貴殿が負けた時の言い訳が立たなくなったからな」

「ふふ。私はそのドヤ顔がギャン泣きする時が今から楽しみですよ」

 

そして文はセイバーに向かって、裸足のまま歩き出した。

顔を突き合わせる程度の距離で、ぴたりと止める。

 

「では、ここで決着をつけましょうか」

「ええ、ここで決着をつけましょう」

 

こうして並んでみると、二人には共通点があるのがわかった。

彼女は、これまで戦ったどのサーヴァントよりも外見的な特徴が一致している。

高下駄を脱いだ文とセイバーの背丈は、寸分違わず同じだった。

二人の身長は、目算で150と数センチ。

セイバーは甲冑に包まれているが、体形も似ており、体重もおそらく同じぐらい。

見た目の年齢も、文のほうが少し幼いと思える程度の差。

仮にこれが競技なら同じ階級、同じ年代として、何のハンデもなく戦える相手だ。

しかしこれは競技などではなく、聖杯を奪い合うための殺し合い。

 

その思案のなか、ある事実に気付く。

セイバーは、聖剣もアゾット剣も奪われて現在は無手。

文も葉団扇による風もセイバーの対魔力で、無効化されてしまう。

だとすると……これから起きる戦いは、聖杯戦争の常識から逸脱したものになる。

最強を証明する最後の戦いが、まさかこんな形になるなんて誰も予想しなかったはず。

 

セイバーは表情を崩さないが、文は微かな笑みを浮かべていた。

互いの息が掛かる距離。互いに外さない距離。

 

視線が交わる――。

朱から翠へ、翠から朱へ。

二人の拳が、互いの腹へ叩き込まれた。

 

 

 

 

拳と拳の応酬。

それが、雨の降り風が鳴る夜の公園をリングに行われる。

腹、胸、頭――急所だけを狙う、両者ともに容赦など存在しない攻撃の数々。

文は敏捷性を活かした手数。セイバーは重い一撃を重ねていく。

筋力は、セイバーの方が少し上。

それにセイバーは文と違って、甲冑を装備している。

腕には鋼鉄の手甲。拳の攻撃力もセイバーが上だろう。

市販されたブラウスを着ている文に比べたら、耐久性もまた雲泥の差。

 

それでも徒手空拳では、セイバーよりも文に分があると考えていた。

彼女には、他のサーヴァントのように宝具がない。

唯一武器と呼べるものは、風を起こすために使う葉団扇だけ。

エクスカリバーに比べると、かなり見劣りしてしまうもの。

それは、こうも考えられる。

文は、宝具を持ったサーヴァントと身一つで戦えるだけの実力があると。

だから、素手のセイバー相手には絶対に負けはしないと。

 

「だけど、どうしてだ……?」

 

そんな考えとは裏腹に、彼女はセイバーに押されていた。

射命丸文は、遠近を問わずに敵の攻撃の回避を重要視している。

クリーンヒットだけは受けずにいるが、殆どの攻撃を躱し切れていない。

それどころか、息を切らして苦悶の表情さえも浮かべている。

セイバーの素手の攻撃なんて、アサシンの剣技に比べたら大人と子供以上の差があった。

相手が相性不利の英雄だとしても、ここまで攻撃を喰らう事態が考えられない。

 

「どうした、アーチャー。動きが鈍いぞ?」

「…………私の職業はブン屋ですからね。デスクワークが本分です。戦争屋のあなたと違って、そこまで人殺しに慣れていません」

「……どうやらまだ減らず口を叩く余裕はあるようだ。しかし、私にはあなたの腹に穴が開いているように見える」

 

……腹に穴が開いている?

 

「ッ……!」

 

戦闘からの離脱を謀るように、文はバックステップで距離を取った。

息を切らした状態であっても、彼女のスピードはセイバーでも追いつけない。

 

「やはりそうか」

 

セイバーは深追いをせずに、間合だけを詰めていく。

 

「ハァ、ハァ……」

 

文が呼吸を整えようとした時。

ブラウスの脇から、黒ずんだ血が滲み出した。

 

「あちゃ……これは流石に誤魔化しきれませんか……」

「文! 傷は治ったんじゃないのか?!」

 

あの時、傷は塞がっていた。俺も確かにこの目で見ている。

……だったら、なぜ?

 

「……傷の表面だけを取り繕っただけです。どうやらセイバー固有の能力で武器に魔力を帯びさせているようですね。それが私を蝕む攻撃になっています。色々と強がってはみせたんですが、どうやら洒落にならないダメージでした」

 

決まりの悪そうに苦笑いを浮かべ、傷を押さえる。

今にも足下から崩れ落ちそうなほど、彼女は消耗していた。

背中の翼はバーサーカーにもぎ取られて、機能は失われている。

残った片翼も雨に濡れて重くなり、力なく垂れている。

セイバーによって腹に受けた創傷は、それと同様の性質のものだった。

 

「それにただの拳で殴られただけなのに、ここまで痛いだなんて。……ぐす。少し涙が出そうです。……私、英雄の怖さをちゃんと理解してなかったかもしれません」

「……ここにきて泣き言か? それともまさか、これで終わりとでも言うつもりか?」

 

セイバーが、文を挑発する。

いつもの彼女だったら、敵の挑発は受け流すだけだろう。

しかし、今の文は危うい精神状態だ。勝てない喧嘩でも買ってしまう。

 

「それこそまさか! まだまだ足掻かせてもらうわ!」

 

大きく言葉を吐き出し、大きく息を吸った瞬間――。

烏天狗の姿が音もなく掻き消えた。

 

「――ウソ。どこに消えたの……?」

 

遠坂がうわ言のように呟くが、それは俺も同じ感想だった。

だが俺たちに知覚できないだけであり、本当にこの場から消えたわけではない。

単純に俺たちの目では、彼女の動きを捉えられないだけ。

ここから先は、人の領域ではない。

ここから先は、人を超えたサーヴァントのみに許された世界。

 

「…………」

 

セイバーは五感と第六感を駆使して、文の動きを捉えようとした。

彼女のスピードは、これまで戦ったどのサーヴァントでも並ぶ存在はいなかった。

いや、スピードに関して言えば、どのサーヴァントであろうと足元にも及ばない。

たとえそれが最良のサーヴァントであっても、不確かにしか映らない速度のはず。

 

「――――!」

 

音を突き破る衝撃音だけが、俺たちに届く。

その瞬間、セイバーの頭上から文が姿を現した。

俺の目では、突然上空に現れたようにしか見えない。

安い言葉で例えるなら、瞬間移動をしたようにしか思えなかった。

そのままセイバーの頭部に目掛け、鎌のように足を振り下ろす――。

 

「……クッ!!」

 

腕を交差させて手甲で受けたが、セイバーの足元が地割れのようにひび割れる。

破壊力は、想像するのも恐ろしい。

そんな攻撃を皮切りに、あらゆる方向からセイバーを縦横無尽に蹂躙していった。

攻撃する瞬間にだけ文は姿を現して、セイバーに対して着実にダメージを与えていく。

その戦法は所謂、ヒットアンドアウェイと呼ばれるもの。

強烈な一撃を与えて、深追いをせずに再び距離を取る。その繰り返しだ。

 

セイバーは文の動きに翻弄されておらず、致命傷だけは避けている。

如何にセイバーであろうと、ここまでのスピードは完全に捕捉できない。

未来予知めいた直感だけが、最適な展開を予測していた。

それでも、確実にダメージを重ねていく。

仮にセイバーが宝具を持っていたとしても、この攻撃の対処は難しいだろう。

それが素手のままであれば、どうしようもない。

 

「……………………」

 

この雨の中であっても血は流し切れず、セイバーを赤く濡らしている。

足下の水溜まりも彼女の血と混じって、赤黒く濁っていた。

それでも、セイバーは決して倒れなかった。

彼女の目に宿る強い意思は、初めて見た時からひとつも変わっていない。

このままでは文に押し負けるとしか思えないのに、その想像すらも超える力があった。

 

「これで――!」

 

天狗の少女が、セイバーを背後から強襲した。

背面から胸を貫こうとする手刀――。

これまでよりも速く鋭く、そして正確に狙い澄まされていた。

かつてはライダーも、文によって胸を貫かれて殺されている。

 

「くっ」

 

セイバーは咄嗟に身を翻す。

だがその時には――烏天狗の腕が剣の少女を貫いていた。

 

「セイバー!!」

 

決着がついた。

俺はそう思った。声を上げた遠坂だって、そう思っただろう。

しかし、どうしてなのか。

この状況で顔を歪ませていたのは……セイバーではなく、文だった。

 

「……最後に焦りましたね、アーチャー。それは踏み込みすぎだ」

 

心臓を貫いたように見えた文の腕は、セイバーの脇を通り抜けただけだった。

そして右腕は、セイバーの左脇に縫い付けられるように挟まれている。

これだと筋力で劣る文は、身動きが取れない。

 

「あれ? これは、かなりまずいかな……」

 

軽い口調だったが、焦りは明確に伝わってきた。

剣の少女は、右腕で血の滲んだ腹の傷を容赦無く殴りつける。

 

「…………ッ!!」

 

密着状態での攻撃では、そこまで威力は伴わない。

だがその傷は、背中まで繋がる大穴だ。

想像を絶する激痛が、少女を襲っているに間違いなかった。

セイバーは腕を解放したが、文は苦痛によって身動きが取れない。

 

「――まだだ!!」

 

セイバーは、存在しない剣を振るような動きで頭部を薙ぎ払う。

衝撃によって、赤色の頭襟が外れてしまった。

文の身体も、これまでにない強力な一撃によって、大きく飛ばされてしまう。

 

「……その方向、まさか!?」

 

辛うじて受け身を取って、転倒だけは免れた。

しかし頭部への大きな打撃によって、真っすぐ立ててすらいない。

セイバーは、間髪入れずに間合を詰めていく。

 

その過程で――セイバーは雨に濡れた聖剣を拾い上げた。

自身の宝具を手にしたことで、より一層、走る速度が上がっていく。

追いつかれた文は逃げずに、どこか胡乱な様子でセイバーを待ち構えていた。

 

「……その剣は、私に通用しませんよ」

 

身体の力が抜けており、視線もぼんやりと定まっていない。

それでも、話す言葉だけははっきりとしていた。

 

「ふっ――!」

 

そんな言葉を聞いても、セイバーは一足飛びからの大上段で斬り掛かった。

天狗の予言通り、剣は不自然に避けてしまう。

 

「…………」

 

だがセイバーは結果を事前に知っていたように、大きな反応を示さない。

届かない距離で、自身の剣を二度三度と軽く振るう。

そのまま聖剣を正眼に構えると『風王結界(インビジブル・エア)』を解いた。

 

これまで、透明化していた聖剣の真の姿が露わになる。

決して絢爛ではないが、それでも最強の座に在り続ける伝説の剣。

約束された勝利の剣(エクスカリバー)』。人々の願いの果てに誕生した神造兵装――。

 

「あー、ばれてしまいましたか」

「凛のアゾット剣を手にした時から、確信を得ていました。あなたは風を操るのでしょう? まさか私の『風王結界(インビジブル・エア)』までも対象だったとは。……にわかには信じがたい能力です。ですが、種が割れればそれまでのもの」

「あーあ。宝具の解放を防げれば、勝てると思ったんですけどね」

 

自尊心の高い少女には似合わない、諦めが含まれた言葉だった。

……射命丸文は、もうすでに敗北を認めていた。

 

「文……? どうして……?」

 

セイバーは、負けを認めた相手であっても表情を崩さない。

それでも敵に敬意を示すように、いつもと違う柔らかな口調だった。

俺にはそれが、とても残酷に思えてしまう。

殺意ではなく、敬意を以て敵を殺せてしまう彼女の存在に。

だがそれこそ、英雄が英雄たる所以なのかもしれない。

 

「覚悟を決めなさい。アーチャー」

 

ただ、一言だけ。

それだけを文に告げ、セイバーは聖剣を振り下ろした。

 

「それって死ぬ覚悟ですか。冗談きついですね、セイバー」

 

無情に振り下ろされた刃は――すんなりと左肩に入り、右脇から抜けた。

 

物事には、すべて終わりがある。

あんなに激しかった雨と風は、いつの間にか止んでいた――。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

53.風が止んだとき

 

 

セイバーの振り下ろした聖剣は――。

本当にあっさりと、射命丸文の左肩から右脇まで斬り裂いた。

 

「…………」

 

聖剣の刃は彼女の皮や肉だけではなく、臓腑までも達した。

少し遅れて溢れ出す大量の血。

深く鋭い傷だった。人間だったら、その場で死に至るもの。

ただ深いだけなら、問題ではない。

妖怪の驚異的な再生力によって、たちどころに塞がってしまう。

 

しかし、それはただの刃傷ではなく、英雄アーサー王の聖剣によるもの。

妖怪である彼女にとって、決して受けてはいけない。

聖剣の刃傷は、究極の毒となり少女を蝕む。

そんな決定的な一撃が、彼女の胸を酷たらしく斬り開いた。

 

目を逸らしたくなる残酷な光景だった。

だけど、一秒だって目を逸らしてはいけない。

 

「いっ、たぁ……」

 

か細く漏れた声。もう悲鳴とすら呼べない。

雨と風が止んでなければ、掻き消されたであろう少女の慟哭。

 

「…………あ、ああ」

 

これ以上、身体に力が入らない。

身体がガクガクと震えていて、その場に崩れ落ちてしまう。

まるで座り込むように、膝から地面についた。

前にも後ろにも、少女は倒れなかった。

だけど、もう二度と立ち上がれない。

誰の目から見ても、彼女はここで終わっていた。

 

全身を赤色に染め、肌は白く冷たくなっていく。

間違いなく、死に瀕している。

本当は誰よりも、死から遠い存在だった。

そんな一人の妖怪が、いま終わりを迎えようとしている。

 

「これで終わりです」

 

セイバーには疲労があり、大きな傷もあった。

しかし、致命傷と呼べるものは一つもない。

文と比べれば些細なもので、このまま戦闘続行するのも支障はない。

 

文は片翼をもぎ取られて、胸にも大きな傷があった。

決して、万全の状態とは言えなかった。

それでも全力を出して戦いに挑んだはず。

それなのに、セイバーは宝具も使用せずに余力すら残している。

 

……ああ、もう考えるまでもない。

ここに、勝敗は決した。

遠坂の宣言通り、聖杯戦争はセイバーの勝利によって幕は引かれた。

 

「……アーチャー」

 

セイバーは、ゆっくりと文を見る。

彼女の向ける視線には、確かな熱があった。

未だ戦闘は終わっていないとでも言うように。

瀕死の少女に対して、油断も見せていない。

文が普段から見せるような、相手を見下す感情はどこにも含まれてない。

ただ冷静に文の動向を観察していた。そこに付け入る隙などない。

 

「……まだ息がありますか。やはりあなたを殺すには首を斬り落とす必要があるようだ」

 

風王結界から開放された聖剣を、文の首に宛がった。

でも彼女は膝をついたまま指一つ動かす力もなく、反応を示さない。

 

「…………」

 

意識は失ってない。

でもその赤い瞳は曖昧であり、言葉を返す余力も残されていない。

以前なら、どんな窮地であっても言葉遊びのような皮肉を返していた。

もし死ななくても、失血によって昏倒するのは時間の問題だった。

だが意識を失うよりも早く、セイバーが文の命を刈り取る。

 

「なんて素敵な光景……。少し、写真に撮りたかったな……」

 

混濁した意識のなか、うわ言のように紡いでいた。

剣の少女をぼんやりと見て、口だけは少しだけ笑っていた。

その意味はわからなかった。

だけど最期の言葉にしては、あまりに儚い願いだった。

 

「マスター、命令を――」

 

セイバーは、遠坂の剣だ。

射命丸文の命を奪う意志は、遠坂凛のものでなければならない。

 

「ええ……わかってるわ」

 

遠坂の顔に浮かぶ、確かな翳り。

魔術師として完成しているかもしれないが、彼女もまだ十代の少女。

射命丸文は、人間ではない。

それでも、自分より年下に見える少女を殺すのには抵抗があった。

 

「……はあ」

 

彼女は、公園の重く冷たい空気を吐き出す。

その瞬間はもう翳りはなく、彼女の名前そのものの表情。

それは、魔術師としての遠坂凛の顔だった。

 

「……衛宮君、これからあなたのサーヴァントを殺す。でも、恨まないでなんて言うつもりはない。憎かったらいくらでも私を憎みなさい。……聖杯戦争に勝つことは、お父様から託された悲願。そして私自身の願いでもある。今更、他人の命を奪うことに躊躇わない」

「……………………」

 

遠坂に言葉を返したかった。

でも咄嗟に出そうになった言葉を飲み込む。

ここでどんな言葉を言おうとも、彼女の心には絶対に届かない。

いや、届いたとしても、その言葉を飲み込んでしまう。

聖杯戦争に懸けた意思は本物であり、文の命を奪う意志も覆らない。

 

「だけど……」

 

……そうはさせない。それを許してはいけない。

遠坂の聖杯戦争に懸けた悲願と同じように、俺にも絶対に譲れないものがあった。

正義の味方を目指す者として、傷ついている人を放っておけない。

目の前で誰かが傷ついているのなら、絶対に止めてみせる。

彼女を助けられるなら、俺は何だってしてみせる。

それがどんなに卑怯な手だとしても。

 

俺には一つだけ、文を助ける手段があった。

それもかなりの確率で、彼女の命を救える。

さっきのように、命懸けでセイバーとの間に入るわけではない。

それをすれば、今度こそ遠坂のガンドの餌食になって終わりだ。

そんな俺が、文を助けられる手段。

正式なサーヴァントとは言えない、射命丸文だから許される裏技。

そう大袈裟に言っても、大したことはない。方法も簡単だった。

 

それは、最後の令呪を使って……文との契約を打ち切るだけ。

内容は何だって構わない。

最後の一画を使えば、少女は俺という『かすがい』から解放される。

たったそれだけで、射命丸文は幻想郷に帰れる。

令呪を使うのを遠坂たちに気づかれない限り、絶対にうまくいく。

 

今になって思えば――。

二つ目の令呪をあんな形で消費したのも、この状況に備えてのものだったかもしれない。

俺は、無意識のうちに『文はセイバーに勝てない』と思っていたのだろう。

いいや……それだけじゃない。

俺はセイバーと初めて邂逅した時、この出来損ないの心が激しく揺れていた。

それはもう、最初から文を信じ切れずにいたのと同じ。

彼女をサポートできる力がないだけではなく、彼女の心すらも裏切っていた。

二つ目の令呪を使った時の文の顔が忘れられない。

 

『――文、頑張れ。セイバーに負けるな』

 

令呪に籠められた、そんな陳腐な願いに。

 

『ええ、ええ! 頑張ります! 頑張りますとも! 見ていてください! 士郎さん!!』

 

本当に嬉しそうにしていた。俺なんかを心の底から信頼してくれた。

それなのに、衛宮士郎という存在は――。

どうしようもない未熟者なんかじゃなく。

それ以上の、どうしようもない裏切り者だった。

 

これ以上、考える必要もなかった。……最後の令呪を使おう。

その後に何が起ころうとも知ったことか。聖杯戦争がどうなろうと関係ない。

文の命に比べたら、聖杯なんてどうでもいい。

それよりも心配なのは、彼女の怪我の具合だ。いつ死んでしまってもおかしくない。

それは幻想郷に送り返したあと、彼女の仲間に託すしかない。

 

……別れがこんな形になるとは思わなかった。だけど俺はもう合わせる顔がない。

せめて一言だけ謝りたかった。一言だけ感謝が言いたかった。

『勝たせてやれなくて、ごめん。それと、俺なんかに付き合ってくれてありがとう』と。

そんな機会は二度と訪れない。言葉に出せば、遠坂たちに気づかれてしまう。

 

「ク……ッ!」

 

令呪の刻まれた左の拳を血が滲むほど握る。

そこに籠もった熱の正体は、左手に魔力が込められているだけではない。

ああ……本当は伝えたい言葉だって別にあるんだ。

『ごめん』でも『ありがとう』でもなく、もっと大切な言葉。

でもそれだけは彼女を裏切った俺には、口が裂けても言葉にできない。

だからこうやって、握り潰す――。心にだって、二度と浮かばないように。

 

少し前の風雨は、もう気配を感じさせないぐらい遠い。

 

 

 

 

夜雨の止んだ冬木中央公園は、寂寞としていた。

冷たく湿った空気が辺りに満ち、死に瀕した少女の荒い息づかいだけが聞こえる。

聖杯戦争の終結――。

セイバーは宛がった剣で、彼女の首を刎ねる。

妖怪であっても、聖剣で首を落とされれば絶命は免れない。

 

「…………」

 

文にも、以前のように避ける力もない。

それどころか、自分の死を受け入れているようにも見える。

こうして、膝をついているのだって辛いはず。

だったら、前に倒れたらいいんだ。

それだと、無理をしてセイバーに首を差し出しているみたいじゃないか――。

 

「衛宮くん……彼女に伝えたい言葉はないの?」

 

ただの一言。

遠坂凛がセイバーに命令すれば、彼女の命が終わる。

文は感情の読み取れない虚ろな瞳で、セイバーを見上げている。

何の抵抗も見せない。

自由気ままに空を駆ける彼女を知っていれば、なんと似合わない姿なのか。

 

情けないが、これ以上は見ていられなかった。

文の傷つけられる姿も、セイバーが傷つける姿も、遠坂が命令を下す姿も。

もう限界だった。最後の令呪に魔力を灯す。

この行為だって、彼女に対する裏切りそのもの。

そうだとしても、文に死なれるぐらいならどう思われようとも構わない。

 

 

――足音が響いた。

雨にぬかるんだ土壌を踏み潰す金属音。

それは、かつてないほど唐突だった。

 

「ようやく決着か。このような児戯を眺めるのも酔余の一興ではあったが、それにも些か厭きていたところだ」

 

黄金の男――。

金色にあしらわれた大仰な甲冑を纏い、同じく金色に染まった髪。

こんな開けた公園で誰も気づかずにいたのが、不自然と思える風貌だった。

それは、姿形だけではない。

 

「久しいな、セイバー。それに図らずもこの場所とはな。フ、ハハ。何とも数奇と言えるではないか」

 

一目見て理解できてしまう。夜の闇すら照らし出す黄金の存在感。

噎せ返りそうになる破格の重圧。

ここにいる誰だって男の存在を無視できずに視線を向けてしまう。

 

その男は俺たちの視線を歯牙にもかけずに、こちらに向かって悠然と歩く。

……いや、『こちら』というのは語弊があった。

怜悧な双眸は俺や遠坂だけでなく、サーヴァントである文も映っていない。

紅玉の瞳にあるのは、セイバーだけ。

男からすれば、視界の端にいる俺たちなんて存在していないのと変わらない。

 

「アーチャー! なぜ貴様がここにいる!?」

 

セイバーが、文に宛がった剣をそのままに声を荒げた。

アーチャーと呼ばれた男の重圧を一身に浴びたが、セイバーは怯まない。

彼女の態度からして、あの男とは浅からぬ因縁があるようだった。

 

「あいつは……」

 

前に会った覚えがある。

聖杯戦争の初日、冬木教会の長椅子に座っていた男だ。

あの時は髪を下ろしていたが、その程度で見間違えるはずもない。

教会で見た時から変わらない、何人も寄せ付けない存在感。

しかし、放たれた重圧はあの日とは比較にならない。

意識を向けられずとも、ここにいるだけで押し潰さそうだった。

 

男はセイバーから10メートルぐらいの距離で歩みを止めた。

彼女が全力で踏み込めば、黄金の男に斬り込める程度の間合い。

セイバーが浮かべるのは、紛れもなく敵意。

黄金の男はそれに何も動じず、口を薄く開けて笑った。

文とよく似た他者を見下すための笑みだった。

 

「なに、そこでな。煩わしい雨が止むのを待っていたわけだ。セイバー、貴様とは久方ぶりの再会であろう? 我の髪が乱れてはなるまいよ」

 

逆立てた金糸の髪を整えるように触れる。

 

「光栄に思うがいい。これもおまえのためだ」

 

口角を上げて、黄金の男はくつくつと笑う。

自分の言葉は当然の真実であるように、セイバーに告げる。

 

「……貴様」

 

そんな尊大極まる態度に、セイバーは不快感を募らせる。

彼女の感情と呼応するように、聖剣を握る手も強くなっていった。

 

「アーチャー、戯言はそれまでだ! 私の質問に答えろ!」

 

セイバーは、不快感のままに激昂した。

しかし男がセイバーに見せる態度は、敵意や悪意ですらない。

この場には決して相容れない、別の何かだった。

 

そして、これまで文の首筋に宛がった聖剣を男に向けた。

彼女の血で濡れた剣を突き付けられても、男は眉一つも動かさない。

 

「――――」

 

その時、文の瞳が色を帯びた。

曖昧に揺れていた瞳が真紅に染まり、閉じかけた虹彩が大きく開く。

それだけではない。

 

「文――!?」

 

怒りだった。大きな怒りがあった。

理性が砕けた時も、怒りだけは剥き出しにしなかった。

彼女がこんな顔を見せたのは、一度だってない。

空気が震えるほどの殺意を、深い赤の瞳に乗せてセイバーに向けた。

 

そんな究極の殺意を受けても尚、セイバーには気付かない。届かない。

あの男が現れてから剣の少女は、一度たりとも文に目も心も向けなかった。

黄金の男によって、射命丸文の存在がセイバーから消えてしまった。

ほんの少しでも意識が向いていれば、敵対サーヴァントにこんな隙を見せたりはしない。

 

それは、セイバーだけではない。

射命丸文のマスターである俺も、男が現れてから令呪を使うのを忘れていた。

男の存在の大きさに、少し前までの判断が頭から抜け落ちていた。

 

「……クソ。こんな時まで俺は何をやっているんだ」

 

しかし見ようによっては、これはチャンスでもあった。

セイバーの気が男に向いている以上、令呪使用に気づかれる可能性が格段に減る。

考えてみたら、令呪を使用してすぐに文が帰還できるとは限らない。

タイミングとしては、間違いなく今が最高の瞬間。そして、潮時だった。

 

「…………」

 

左手に刻まれた令呪に魔力を込める。

……これが最後の機会だと思って、もう一度だけ彼女の顔を見た。

 

「……なんで、なの?」

 

天狗の少女は、儚げな言葉を漏らしていた。

誰に言うわけでもなく、小さな声。

そして、殺意に波立つ瞳を俺に向けた。

 

「何があっても……令呪を使うな」

 

その言葉は、蚊が鳴くよりも小さかった。

だが彼女の殺意と決意の込められた瞳が、どんな言葉よりも雄弁に語っていた。

 

『令呪を使って、文を幻想郷に返す』

 

そんな俺の企みは、とっくに見抜かれていた。

浅慮だと咎めるように、赤い瞳が俺を責め立てる。

それでも、これからどうすればいいなんて考えるまでもない。

 

彼女の意思を顧みずに、このまま幻想郷に送り出すのが最善。

次善策など存在しない。

令呪を使わない以外の選択は、確実な死が待っている。

セイバーと遠坂、そして黄金の男の意識は、まだこちらには向けられていない。

そうだとしても、もう彼女は瀕死だった。ふとした拍子で命を落とす。

 

当然、文もそれを理解しているはず。

聖剣によって胸を切り開かれて、まともに話すこともままならない。

そんな状態で、ここに残っても何ができるわけでもない。

迷う時間だって、無限ではない。

時間の浪費は少ない選択肢を更に減らし、彼女を確実な死へと近づける。

 

「――――ああ」

 

そんな絶望的な状況にあっても、衛宮士郎は考えてしまった。

『射命丸文の意志を尊重する』という、とびっきり狂った選択を。

……馬鹿げている。

その考えは、どんな道理からも外れている間違いでしかない選択。

 

『思考を極端にしてはいけない。私は士郎さんにもっともっと悩んでほしい』

 

彼女が俺に教えてくれた言葉だった。

『結論を一つにせず、思考を巡らせろ』という選択肢の話。

最善は『令呪を使用して射命丸文の幻想郷への帰還』。

次善策はない。

残った最後の選択肢――『令呪を使わずに彼女とこの場面を乗り切る』。

 

……ああ、本当に馬鹿げている。

遠坂、セイバー、アーチャーと呼ばれた男がいる中でどうやって乗り切る?

不可能だ。俺たちはきっと、抵抗すらもできずに殺される。

 

「だけど、それでも……」

 

俺は射命丸文との関係を、こんな形で終わらせたくなかった。

……どうしようもなく馬鹿げた自己満足だ。

それは掲げた理想からも反した、衛宮士郎という個人の我儘だ。

 

「あ……あ……!」

 

今や言葉も話せなくなった少女の赤い瞳が、激しく俺を糾弾する。

意識を保っているのも、奇跡に等しい出血量。

だが、膝をついたまま倒れない。

そんな状態になっても、彼女が幻想郷への帰還を拒む理由がわからない。

 

それでも死にかけの身体に宿る意志は、馬鹿げたほど直向きだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

54.必ず死ぬ

 

 

全ての終わりを迎えようとした時。

そんな間際に現れた黄金の甲冑を纏う男。

外見だけの虚飾ではなく、在り方さえも黄金そのもの。

 

セイバーからの問いに答えず、ただ彼女だけを静観している。

剣の少女は、明確な敵愾心を剥き出しにした。

男に向けた剣先は、文に向けたものより猛々しく、何よりも憎悪があった。

いつ男に斬り掛かったとしてもおかしくない、紙一重の空気。

 

あいつが、教会にいた男と同一人物なのは間違いない。

こうして全てが終わる時に現れたのは、何かしらの思惑があるはず。

それに……教会の男と同じ人物なのに、奇妙な引っ掛かりがある。

その引っ掛かりは悪寒となって、警鐘を鳴らしていた。

今はまだ何も正体を掴めず、輪郭すらあやふやなものでしかない。

だがその不確かなものが、この聖杯戦争を大きく狂わせている。

 

「ハァ、ハァ……」

 

そんななか、射命丸文は一人だった。

黄金の男とセイバーの世界に入り込む余地もなく。

悪く言えば、蚊帳の外。

セイバーの隣で息を荒げ、血を流し、俯くだけ。

今や天狗の象徴だった頭襟や、一本歯の靴もなく。

残された翼も雨水を吸って、力なく垂れている。

胸の傷だけではなく、背中まで届く穴も再び開いていた。

 

彼女の聖杯戦争は、セイバーに斬り伏せられた時点で終わっていた。

 

「………………」

 

だが赤い瞳だけは、未だ力を失っていない。

表情にあどけなさも、小馬鹿にしたような笑みもない。

強い意志に滾る瞳だけがあった。

そんな並々ならぬ精神力が、事切れる寸前の彼女を支えていた。

 

何が正しいのかわかっている。

今だって、文を幻想郷に返すのが一番だと思っている。

それなのに、俺はどうしようもなく臆病者だ。

彼女が帰らない意志を知って、ホッとすらしている。

このまま文と別れてしまうのを、心の底から恐れていた。

この決断は一生後悔するだろう。

だけどもう、結論は出た。それを彼女に伝えよう。

 

『わかった。令呪は使わない』

 

これ以上ない無責任な言葉だった。

単にこんな形で、文と別れたくなかっただけ。

別れる時は、お互いに納得のできる形でありたかった。

リスクを考えて、声には出さない。でも俺の気持ちは伝わったはず。

彼女は俺の眼の揺らぎだけを、俯きながらもじっと捉えていた。

俺の目は、もう迷いに揺れていない。

文の目端の利きは、俺が最も信頼しているものの一つ。

言葉に出さなくても、必ず伝わる。

 

退路は完全に塞がれた。俺たちはもう、聖杯戦争から抜け出せない。

 

これからやるべきことは決まっている。

それは瀕死の文を連れて、この冬木中央公園から逃げること――。

俺にできるのは、そんなあるかもわからないチャンスを待つだけ。

仮に何も考えずに彼女の元へ行けば、この膠着状態を悪化させる。

今の俺は、警戒の対象ですらないだろう。

それでも目立つ行動をして、見過ごしてもらえるほど甘くはない。

彼女を幻想郷に帰さないと決めた今、迂闊な真似はできない。

 

だから、そのチャンスを待つ。

……しかしこの状況でどうなれば、文を連れて逃げ出せるのか?

男はセイバーにしか興味を持たず、文は歯牙にも掛けない。

戦闘能力は未知数。

しかしセイバーの様子からして、とても油断のできる相手ではない。

 

そしてこの場で最も脅威なのは、間違いなくセイバーだ。

男の介在がなければ、どんな形であったとしても文はここにいなかった。

今は視界にすら入ってないが、彼女はいつでも文を殺せる状態にある。

 

そんな二人の目を盗んで、立ち上がることもできない彼女を連れて逃げ切る?

こんな遮蔽物もない広い公園から?

馬鹿げたほど無謀な試みだった。自身の正気も疑ってしまう。

だけど、そんな無謀も狂気も承知の上。

俺の正気なんて、令呪を使わないと決めた時点で失われていた。

 

 

 

 

「……セイバー。あいつはいったい、何者なの?」

 

遠坂は、誰もが思う疑問をセイバーに尋ねる。

セイバーは少し逡巡を見せたが、すぐに表情を改めた。

 

「……あの男は10年前の聖杯戦争で、決着のつかなかったサーヴァントです。彼のクラスはアーチャー。真名は最後までわかりませんでした」

「は――?」

 

遠坂の間の抜けた顔を見たのは、これが初めてかもしれない。

 

「10年前のサーヴァントですって!? それよりも、ちょっと待って。……え? もしかして。……あんた、前の聖杯戦争にも参加していたの!?」

「……はい。ですが信じて欲しい。今更言うのは都合がいいかもしれませんが、隠すつもりはありませんでした。かつて経験した聖杯戦争は、思い返すのも憚られるような陰惨なものだった。もしかしなくとも、無意識のうちに話題に上げるのを避けていたのかもしれません」

 

そう言って、彼女は顔を曇らせる。

……気のせいかもしれないが、一瞬だけ俺を睨んだ気がした。

 

「はー、やけに冬木の地理や地形に詳しいと思ったわ。聖杯からの知識なのかなと勝手に考えていたけど、実際に経験していたのね」

 

釈然としない様子ではあったが、一応納得はしたようだ。

これで男の言う『久方ぶり』という言葉が、今の話でようやく理解できた。

10年前の聖杯戦争で、セイバーは『アーチャー』と戦った。

弓兵と呼んでも、男の風貌と性格を見るに弓を射るようにはとても思えない。

あの仰々しい鎧で、敵に悟られず矢を放つなんて不可能だろう。

それを言えば、文も似たようなものだ。しかし、彼女は風を放つという手段を持っている。

つまりあの男もまた、攻撃手段が弓であるとは限らない。

 

「すみません、凛。本来なら召喚された直後に言うべきでした。私のつまらない感傷が、あなたの危険を招くことになったかもしれないのに」

 

セイバーは謝罪をしても、アーチャーと呼ばれた男に向けた切っ先は決してぶれない。

この決して短くない会話の中でも、一瞬たりとも隙を見せなかった。

 

「まあいいけど。……でもあとでお茶でも飲みながら、根掘り葉掘り聞かせてもらうわよ」

「はい。その時は覚悟します。それにあなたの淹れる紅茶もとても楽しみだ」

 

思い出したくないというセイバーを無視して、聞き出そうとするのは如何にも遠坂らしい。

そして遠坂は距離を取り、邪魔にならない位置で身構える。

ただならぬセイバーの様子を見て、これ以上は邪魔になると判断したのだろう。

 

そして男は今も、セイバーだけを見据えている。

あいつが最後に言葉を発してから、どれぐらい経ったのか。

極度の緊張下から、かなりの時間が経過したように思えるが、実際は数分程度なのかもしれない。

黄金の男の何もかもを見透かすような視線に、少女は忌々しそうに顔をしかめた。

 

「……あなたらしくもない。さっきから黙って何を見ている?」

 

セイバーの言葉に、緩んだ口を押さえるような仕草を取った。

 

「いやなに、10年ぶりとは言えど……ふむ、確認するまでもなかったか。セイバー、おまえは美しい。――喜ぶがいい、この無価値な世界で我の目に適うものなど、ほんの一握りよ」

 

あまりに高慢ではあったが、最大限の美辞麗句を連ねた文句だった。

この男に媚や、世辞を言う感性があるとは思えない。

ありのままの真実として、自分の感想を口にしただけ。

 

「その相手を顧みない言葉の数々。10年経とうが変わらないようですね、アーチャー」

 

不快感を露わにして、男を睨んだ。

如何に言葉を重ねようとも、剣の少女に意味はなかった。

彼女の本懐は、女性である前に騎士なのだろう。

自らの性別を捨て、自分の全てを国に捧げた。

騎士であり、王であろうとした彼女に今の言葉は時として侮辱にもなる。

 

「相手を顧みるだと……? ふ、はははは! セイバーよ! やはりおまえは下らぬ観念でしか物事を計れぬようだな! 忘れたか? この世の全ては我の物であることを! その所有物に何を配慮する必要があるというのだ!」

 

男は込み上げる感情を抑えようともせずに、声を上げて笑った。

相手を無能だと謗るかのような、高慢で不遜な態度。

 

「そして、貴様も我の物であるのを努々忘れぬことだな。……まさか忘れたわけではあるまい? 10年前、この地で我の下した決定を」

「……あの時の求婚のことか? まさか、あのような戯言を私が本気にするとでも思っていたのか?」

「そうだ。貴様は我の元へ下るがいい。この余計なモノで埋め尽くされた世界であろうとも、我は決しておまえを飽きさせないぞ」

 

求婚という思いがけない言葉。

セイバーの意志を完全に無視して、当然であるように告げる。

 

「……求婚ですって? 何なのこの金ピカ? 頭のネジが全部ぶっ飛んでいるのかしら」

 

今まで寡黙に徹していた遠坂も、男の言葉に呆れていた。

だがこの男がどこまでも本気なのは、ここにいる誰もが理解している。

遠坂も口調とは裏腹に、表情は緊張でどこか硬いままだった。

 

「世迷い言を……! やはりあなたとは相容れそうもなさそうだ! あの時の決着、今ここでつけさせてもらう!」

 

セイバーが風王結界から解かれた聖剣に魔力に通わせた。

大気を震わせる強大な魔力にも、男は己の愉悦を隠そうともしない。

 

「相も変わらず、じゃじゃ馬のようだな。まあいい、おまえのような女を平伏させるのも、男子たる我の務めだ。英雄王である我が直々に相手をしてやろう。――だが、その前にだ」

 

ふと、男の視線が初めてセイバーから切れた。

彼女の隣に向けられた視線の先、そこにいる半生半死の烏天狗。

射命丸文の姿が、紅玉の瞳に捉えられた。

セイバーに向けられていたものとは違う、明らかな嫌悪感が滲んでいる。

 

「セイバー、そこのサーヴァントですらない紛い物にとどめを刺せ。そのような輩が我と同じ『アーチャー』を冠しているなど、侮辱でしかないわ」

 

セイバーに向けるものとは逆の、汚らわしいものを見る目つきで文を睨む。

……まずい。

これまでずっと彼女に無関心だったが、ここに来て初めて意識を向けられた。

しかも、殺意という最悪な形で。

今までの機嫌の良さが嘘であったように、気紛れで態度を変えてしまう。

 

「…………」

 

文はもはや意識を落とさないことだけに、全神経を使っている。

殺意を向けられても反応が乏しく、男を見るのも叶わない。

浅い呼吸を繰り返し、全身を襲う寒気に耐えるように自分を抱いていた。

セイバーはつられるように文を見たが、彼女の顔に興味らしきものは浮かばなかった。

淡白と言えるほど表情に色がなく、一瞥だけ与えて再び男へと向き直す。

 

「……まさかあなたのような男が、脱落したサーヴァントに関心を持つとは。それにこの傷だ。この少女はもう起き上がることもままならないでしょう」

 

セイバーに見向きもされなかったのが、不幸中の幸いだった。

これで男の言葉通りに剣を振り下ろしていたら、その時点で終わっていた。

男は表情を一転させると、含み笑うように一度だけ喉を鳴らす。

 

「それは我に対しての跳ねっ返りのつもりか? ――よいか、セイバー。上辺だけではなく、常に本質だけを見抜け。貴様も女だてらに王を名乗るというのなら、それこそ最低限の資質であるぞ。ソレを指してよもや少女だと? ハ、笑わせてくれるわ。姿形は人に近くとも、人とは根幹から異なる別種の化物よ」

 

この世の道理を説くように、男は言葉を重ねていく。

 

「ソレは本能で人を喰らう魔獣だ。存在そのものが、人の世に害を為す厄災となんら変わらぬ。それにも関わらずだ。人の肉と恐怖を喰らわねば、己すらも確立できぬ愚か者どもよ。我の支配する時代には幾らでもいたが……ふむ、今はいないようだな。だが、結構。淘汰されて当然だ。我のものを我の断りもなく喰らうなど、到底我慢できぬわ!」

 

それは文が言った『妖怪は人間を喰らい、人間は妖怪を退治する』という言葉に通じていた。

彼女の住む幻想郷では、その摂理によって人と妖怪は共依存の関係にあると。

今この世界に、妖怪と呼ばれた存在はどこにもいない。

そして彼らは、伝奇や伝承の中に忘れ去られてしまった。それが彼女にとって許せずにいる。

 

「存在することが、世に蔓延る穢れと同じだ。人の上に立つ者であれば、速やかに祓うのが責務よ。……それにその程度で決着だと? ソレが醜く生き足掻くことに迷いなどするものか。今も何か企んでいるかもしれんぞ。寝首を掻かれたくなければ、疾くその首を斬り落とせ」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

55.ただ一度の

 

 

射命丸文は、かつてなく衰弱している。

撫でられただけでも、死んでしまいそうな状態だ。

そんな彼女の首を剣で斬り落とす――。

 

「――――――」

 

ドクドクと鼓動が異常なほど早まり、とてもうるさい。

文を連れ出す機会をずっと窺っていたが、事態は最悪なものになってしまった。

これ以上、ここにいるのは耐えられない。

文の助言を巡らせても、全力で走って助け出す以外の選択肢は思い浮かばない。

俺の魔術を使っても、サーヴァントが相手では挑発に終わる。

 

「は……」

 

息を殺しながら、一歩だけ文に近づいた。

歩く音だって、うるさく感じてしまう。だが、誰も気づく様子はない。

少しぬかるんではいるが、全力で走るのは問題ない。

……エクスカリバーの剣先が、少しでも男から逸れたら走り出す。

このまま何もせず傍観しているよりも、少しでも助けられる可能性に賭ける。

 

「そうだな――」

 

セイバーは、どこか自嘲的に再び死にかけの少女を見る。

そして重く息を吐いたが、それすらも彼女自身に向けたものだった。

そこに文に対しての感情は、何も存在しない。

 

「アーチャー、あなたの言う通り、私の国にもこのような化生の類はいた。民のために剣を振るったのも一度や二度では足りない。……だが、貴様の言われるがままに行動するのは、どうやら私は存外気に入らないようだ」

 

セイバーらしくない、感情的な言葉だった。

 

「言葉が正しいものであろうとも、貴様にだけは従う謂われはない。……いや、違うな。私に命を下せるのは、最初からマスターである凛だけだ!」

 

彼女の視線も剣の切っ先も、二度と射命丸文に向けられなかった。

黄金の男は呆れるように目を細め、嘆息を吐き出す。

 

「たわけ――。貴様の考えはそこらの幼童と同じだな。いや、我の威光を受け入れられないようでは、童よりも道理を理解しておらぬわ。……ただな、我にとって今の話も些事に過ぎぬ。これ以上、時間を使うのも下らん。……まあいい。おまえがやらないと言うのなら――我が直接、手を下してやろう」

 

不意に男は、中空に右手を掲げる。

その時には鍵のような形状をした剣が握られていた。

それがあいつの宝具だろうか。

だが内包している魔力からして、強力な概念武装には見えない。

 

『――王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)

 

そう紡ぐ言葉と同時に、背後の空間が歪む。

男の背後の闇が赤色に染まり、水面のように揺れていた。

 

「な……!?」

 

誰のものとも知れない驚嘆の声が上がる。

男が背負う真紅の空間に、鋭利な切っ先が浮かんでいた。

それはひとつだけではなく、剣、刀、槍、斧と言った武器の群だった。

数十という、数えるのも愚かしい凶器の軍勢が、揺らぐ水面に浮き立つ。

 

「あれって、もしかして……」

 

遠坂の先の言葉は続かなかったが、俺でもわかった。

浮かんだ全ての武器がサーヴァントの宝具と同等か、それ以上の神秘があった。

……あり得なかった。

あり得ないが、あの背後の武器が全て宝具としか考えられない。

 

「これは我が収集した王の宝よ。そのような醜悪な化物に使うなど、どれであろうと惜しいものばかりだ。しかしな、この世を乱すも正すも、全て人が為すべきこと――。貴様のような余計に過ぎぬ存在は、早々にこの世から消え失せるがいい」

 

声に従うように背後の軍勢が、少女に矛先を向けた。

 

「――文!!」

 

その時、俺の両脚は無意識のうちに動いていた。

自分が死ぬよりも恐ろしい事態の回避のために走った。

全ての思考を放棄して、直線で彼女に向かう。

十秒も掛からないで、文の手を握れる距離――。

 

「衛宮君!?」

 

最初に俺の行動に気付いたのは、遠坂だった。

男の剣群を見た時の顔とは別種の驚きを俺に向けていた。

 

「征け――」

 

宝具の軍勢の一群が放たれた。

あいつがアーチャーと呼ばれている由来を理解する。

あの男は、ああやって背後の武器を撃ち出して攻撃を行う。

そして吐き出される全てが、伝説を持つ宝具というデタラメ。

 

射出された数は、四つ。

そのどれか一つであっても、文の絶命は免れない。

投射の角度からして、セイバーの隣で膝を突く彼女だけを狙ったもの。

とても今の文に躱せるものじゃない。

仮に俺が盾になっても、何の意味もないだろう。

その程度で勢いを落とさず、二人とも貫かれて死ぬだけ。

 

「……は! ……は!」

 

それ以前に、俺が間に合わない!

射出された宝具よりも速く、彼女の元に辿り着くのは不可能だった。

……ふざけるな。このまま死ぬのを見ているだけなのか!

そんなの絶対に許せるわけがない! 思考をしろ、衛宮士郎!

文が俺に教えてくれたんだ! 悩め悩め思考しろ!!

何か……何か、あるはず……何かが――。

 

「セイバー! お願い!!」

 

遠坂らしくない大きな声が聞こえた。

セイバーがマスターの視線の先を追った。そこにいるのは死にかけの少女。

 

「……わかりました」

 

翠の瞳が俺を一瞥する。それは明らかに侮蔑だった。

遠坂が叫んだ意味を知り、セイバーの視線の意味も理解する。

『なぜ敵のマスターを助ける必要があるのか』と――。

だが瞳に感情を灯すのも、ほんの一瞬。

遠坂の剣であるセイバーに、疑問はあっても私情を挟む余地はない。

 

「はぁ――!!」

 

己の頭上を通過しようとする赤い刀剣を、自身の宝具で叩き付けた。

体重を乗せた大上段でも、剣は勢いを殺せず逸れるだけ。

軌道を外れた赤い剣は、雨で濡れた芝生を貫いて一帯を炎上させた。

宝具に付加された力だった。こんなに色濃い炎は一度だって見たことがない。

残りの宝具も、魔力でブーストされた彼女の剣によって、次々にねじ伏せていく。

そして、四つ全てを迎撃した。

セイバーは文との戦闘の疲れも見せずに、今の剣舞で息の一つも乱していない。

 

「ほう、流石よな。その魔力、その剣技。少しも衰えてはいないようだ。我が見込んだだけはある。まさに獅子と呼ぶに相応しい女よ」

 

文を狙ったはずの剣を邪魔されても、男は気にもとめずにいた。

それどころか嬉しそうに顔を歪ませ、セイバーに手放しの賞賛を送る。

しかし男の放った宝具は、たった四つでしかない。

あいつの背後で待機する宝具の数は、ここにいる全員の指を足しても届かない。

もしあれが一斉に射出されれば、俺たちは跡形すらも残らないだろう。

けれど今は、絶望的な状況を分析している場合じゃない。

 

「文! 文!!」

 

ようやく、少女の小さな手を握れた。

俺のガラクタの心が、たったそれだけで涙が出そうになる。

二度と放したくないと思った。

今にも崩れ落ちそうな文の手は冷たく、体温というものを感じさせない。

 

「……文! 大丈夫か!?」

 

馬鹿な質問だった。だけど、確認せずにはいられなかった。

返事はない。それでも、俯いた少女の瞳は生気を失ってはいない。

セイバーに斬られる直前に浮かべていた諦めの色はどこにもない。

 

言いたいことは色々とあったが、今ここにいるのは危険だ。

文を背負って、公園の外へ走り出す。

 

「…………!」

 

俺の首に回る少女の腕は、信じられないほど力強かった。

『絶対に死ねない』と彼女は心の底から叫んでいた。

 

「行くぞ」

 

手を握り返したくなったが、そんな暇はない。

……以前も文を背負ったことがあったが、やはり重さは感じなった。

そうだとも。

千年以上生きたとしても、見た目は成長すらも終えていない子供だった。

 

「遠坂、助かった……!」

 

遠坂を通り過ぎる前に、それだけ伝える。

ここにいるのは、他の誰よりも格好いい女の子だった。

同じ学園の同級生であるのを、誇りに思えるぐらいに。

彼女は一見すると呆れていたが、それ以上にさっぱりした顔をしていた。

 

「はあ、私もなにやってんだか。どう考えてもこんなのは心の贅肉よね。……ま、これで借金を返すどころか、衛宮君に大きな貸しを作れたし。よしとしますか」

 

少しだけ意地の悪い少女の声を聞きながら、俺は全力で走った。

 

「……本当にありがとう、遠坂」

 

俺は、また感謝を呟いた。

それは、決して遠坂には届かない言葉。だけど、今はそれでもいい。

次に感謝を伝えるのは、何もかもが終わってからだ。

 

一生を使っても返せない貸しを彼女に作ってしまった。

 

 

 

 

「ハァ、ハァ、ハァ――」

 

少女の重みを背中に感じ、ただ走る。

遊具が一つもない公園を、ここまで恨めしいと思ったことはない。

身を隠す場所もなく、全力疾走で距離を取るだけ。

速く走るほど身体は大きく揺れる。

セイバーから受けた傷に響くだろうが、ここで速度を落とすわけにはいかなかった。

ぬかるむ土に足を取られそうになるも、何があっても転倒はできない。

 

このペースを乱せば、確実に命を落とす。

どれだけ距離を離そうと、外気の冷たさに匹敵する視線から逃げられない。

男の放つ魔射の射程からは、今も逃れ切れていない。

 

「滑稽なほど無駄な足掻きだ、雑種。我が殺すと決めた以上、貴様らの死は絶対だ。疾く死ぬといい」

 

男とは50メートルぐらい離れたはず。

それなのに、あいつの声は目の前で告げられたように鼓膜を響かせた。

向けられた殺意が、冷たく背中を刺す。

それはおそらく、俺の背中に宝具の一群を向けられたもの。

どれだけ速く走ろうとも、あの宝具を躱せない。

 

「こんなところで……終わらせるか! 死ぬものか! 文を死なせるか!」

 

自らを鼓舞する言葉は意味を得ず、背後の殺意に飲まれてしまう。

周囲に身を守れる遮蔽物はない。

いや、そもそもあの剣群を前に遮蔽物など意味もない。容易く貫き、俺たちを殺し尽くす。

 

「……私を前にして、他に剣を向けるとは随分と余裕だな、アーチャー」

 

セイバーの声は、怒気を感じさせるものだった。

剣を持った自分を前にして、相手にされないのを侮辱と感じている。

 

「何を言い出すのかと思えば、そのようなことか。王たるもの、如何なる時でも余裕であるもの。国を統べる存在とは、絶対の超越者でなければならぬ。でなければ、民も家臣も支配できぬわ。――ク、ハハハ、そうか! お前はその余裕の無さから、国が滅びたのだったな!! フ、ハハ、ハハハハハハ!」

 

王後の男の哄笑が、夜の公園を支配した。

 

「アーチャー! 貴様……!!」

 

大気を大きく揺らす、セイバーの怒り。

かつてない少女の憤激を受けても尚、男は笑うのを止めない。

彼女の怒りなど、些末であるように嘲笑う。

 

「貴様ァァ!!」

 

直後――鋭い金属が衝突する音が響いた。

振り向かなくても、何が起きたのかは明白。

セイバーが、男に向かって斬り掛かったのだ。

 

再び戦闘が始まった。

だが、その戦いに気を取られている余裕はない。

この一瞬だけが、公園から逃げおおせる唯一のチャンス。

セイバーが奏でる剣戟を背に、公園を駆け抜ける。

 

これは間違いなく、敗走だった。

正義の味方を目指すなら、逃げ出してはいけない戦い。

当然、俺がいたところで、ただ殺されるだけ。

だが、何もやらないのが問題だった。

爺さんから託された夢を追うならば、ただ一度の敗走だって許してはいけない。

 

でも今は、俺の背中に文がいた。雨と、自らの血で全身を濡らしていた。

熱を少しでも奪われないように身体を震わせ、寒さに耐え続けている。

生き足掻こうとする腕の力は、少しだって失われていない。

だったら俺は何もかもを捨て、彼女を助けることだけを優先する。

 

彼女に死なれるのが、怖くて仕方がなかった。

文を生かすためには、この敗走だって絶対に間違っていない。

 

そして、気付いた時には剣戟の音は聞こえなくなっていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

56.小夜烏の声

 

 

寒夜の極限まで冷え切った空気を肺に吸い込む。

 

疲労の溜まった身体はそれ以上の酸素を求めるが、限界まで吸う必要はない。

人の身体は無意識のうちに、吐いた分だけ吸うようにできている。

大きく呼吸は、余計な疲れを招くだけだ。

 

新都の夜は、人気もなく不気味なほど静かだった。

今はもう止んでいるが、冬の凍てつく風雨には誰も触れたくないのだ。

雨に濡れて、夜と同じ色まで黒ずんだアスファルトの上を走る。

 

俺の背中にいる少女の呼吸の乱れは、公園の時より収まっている。

それでも、寒さに震えていた。

俺の肩に置かれた腕は、外気と同じぐらい冷たくなり死人と変わらない。

だけどその腕の力は、一度だって抜けずに生きる意志を感じた。

 

こうして戦線から逃げ出した今、これからなんて何も決まってはいない。

だが文が諦めずにいる以上、俺はすべてを差し出す覚悟でいる。

彼女が必要と言うのであれば、血の一滴すらも残さず捧げてしまってもいい。

 

 

「……寒いな」

 

150メートルの高さを誇る冬木センタービルが、こちらをじっと見下ろしてる。

新都と深山の境界線である冬木大橋まであと少し。

ここまで来れば、もう逃げ切れたと考えていいはず。

いや、逃げ切れたのではない。遠坂とセイバーに逃がしてもらったのだ。

今この瞬間もセイバーは、アーチャーと呼ばれた男と戦闘中だろう。

 

あのアーチャーの攻撃手段は、これまでの聖杯戦争を覆すものだった。

弓を用いずに、無数の宝具を虚空に展開して対象に放つ。

その宝具の一つ一つが、ただの一撃でサーヴァントを屠る威力を秘めている。

これまでずっとサーヴァントの戦闘能力に驚かされたが、誰もあのアーチャーとは比肩できない。

それだけ強さの規模が抜きん出ていた。

バーサーカーの『十二の試練』ですら、あいつが相手だとどうにもならないだろう。

 

それでもセイバーが、簡単に負けるとは思えない。

ライダーとバーサーカーを倒した射命丸文を、セイバーは余力を残し退けた。

文との戦闘による消耗はあるが、彼女は『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』を残している。

アーチャーが使う剣群の中にも、エクスカリバーと同等以上のものはなかった。

そして、宝具とは聖剣の担い手のみが開放ができる。

アーチャーの宝具による剣群だって、聖剣の光によって飲み込まれるだろう。

……そこには希望的観測も、含まれているかもしれない。

勝手な想像であっても、俺たちを助けてくれた彼女の負けを考えたくはなかった。

 

そう、遠坂は俺たちを助けてくれた。

いや、うぬぼれで無ければ、遠坂は『俺を』助けてくれた。

あの時、あの男が現れなければ、セイバーは間違いなく文を殺していた。

これは確実だ。あんな状況にならなければ、絶対に見逃さなかった。

だけど彼女は俺だけではなく、倒すべき敵である文も魔射から守ってくれた。

本来殺す予定の相手を、わざわざ助けてくれた。

 

……それはどうしてか。

セイバーによると遠坂は『俺を殺す予定はなかった』と言っていた。

それに文を倒した後、聖杯戦争の記憶を奪うとも。

それは俺からすれば、恐怖でしかない。だが、遠坂には最善だった。

……もし文をアーチャーに殺されていたら、俺はどうなっていたか。

十中八九、逆上して男に立ち向かっていた。そして、為す術なく殺された。

 

……もしかしたら、それすらも見越して文も助けてくれたのか。

それなら遠坂は俺の命だけではなく、俺のガラクタの心まで救ってくれたことになる。

俺にとって、遠坂は憧れの対象だ。

でも遠坂からしたら、俺なんて同級生の一人でしかない。死んだとしても、困りはしない。

 

遠坂凛という少女は自分で言うほど、非情な魔術師に徹し切れてはいない。

だけど彼女は、その甘さに付け込まれても物ともしない。

そんな才能と実力がある。

聖杯戦争を最後まで勝ち抜けるのは、彼女のような強かな人物だ。

……こうやって、逃げ出してしまった俺が言えた義理ではない。

願うことだって、無責任で身勝手なものでしかない。

 

それでも、俺は遠坂に聖杯戦争を勝ち残って欲しいと思った。

 

 

 

 

冬木大橋は町と町を繋ぐ橋だけあって、こんな時間帯でも車の往来はある。

ただ歩道は車道から目立たない位置に敷かれており、車から俺たちの姿が見られる心配はない。

だから魔力で強化した視力で、歩道を対岸まで確認する。

俺は重傷の女の子を背負っている。万が一にも目撃されるわけにはいかない。

 

「ふう……」

 

確認が終わって橋の歩道に足を踏み入れたところで、徐々に走るペースを落としていった。

体力的にはまだ可能だったが、これ以上走れば文の体力を消耗させるだけ。

早く家に戻って、彼女の手当てをしたい。

耳元から聞こえる少女の吐息を聞いていると、気持ちはどうしても焦ってしまう。

 

妖怪である彼女にとって、普通の傷なら半日足らずで完治する。

それこそ、目で見てわかるぐらいの速度で治っていく。

人間と本質から別種の生き物であるのを、否が応でも理解してしまう。

逆に英雄によって受けた傷。

伝承で魔物を討ち滅ぼした英雄からの攻撃は、妖怪にとって猛毒になる。

そして、二人の決着をつけたエクスカリバーによる攻撃。

射命丸文という妖怪を殺すための一撃。

たとえ刃傷が命を奪うほどじゃなくても、聖杯戦争中での完治は絶望的だ。

だからもう、文は戦えない。

これ以上は無茶させないよう、寝床に縛ってでも治療だけに専念させよう。

 

「士郎さん……」

 

背後からの声に、思案から呼び起こされる。

 

「文、起きたのか?」

 

俺のすぐ耳元で、何度も聞いた少女の声。

顎を肩に乗せているため、囁き程度でもはっきりと聞き取れた。

でもこの体勢では、顔を見るのは難しい。

そうであっても、彼女の声を聞いて心から安堵した。

公園では会話すらも難しかったが、この短時間で多少は回復したのだろう。

 

「いえ、ずっと起きてました」

「そうか」

 

公園からここまで、規則的な呼吸を繰り返すだけだった。

だから寝ていたと勘違いしていた。

声量は小さかったが、声色には苦痛は感じさせない。

 

「傷は……大丈夫なのか?」

 

彼女からしたら、とても馬鹿らしい質問だ。剣で胸を開かれて、大丈夫なはずがない。

でも俺が彼女にしてやれるのは、そんな安否の確認だけだった。

 

「ちょっとキツいですね。泣けてくるほど力が入りません。いやはや、こんなに痛い思いをしたのも、どれぐらいぶりでしょうか。……立っていられないほどの傷なんて、生まれて初めてかもです。バーサーカーに翼をもがれた時もそうでしたが、ここに来てから痛い思いをしてばっかりですよ」

 

自分に呆れたように乾いた笑みを溢した。

饒舌とも言える調子ではあったが、聞いているだけで胸が詰まってしまう。

 

「あれだけの大見得を切ったのに、士郎さんには随分と格好悪いところを見せてしまいました。今まで何かにつけて格好つけてたから、とても情けなかったです。とても恥ずかしかったです。……しょんぼり射命丸です」

 

……俺は、なんと返せばいいのだろうか。

気の利いた言葉は、何一つ思い浮ばなかった。

しかしどんな言葉を連ねても、彼女には慰めにもなりはしない。

それ以前に彼女の心を裏切った俺は、何かを言える立場じゃなかった。

 

「……………………」

 

沈黙が続いた。

300メートルほどの冬木大橋も、まだ中間程度しか進んでいない。

 

「実を言うと……最後に私を斬ったセイバーの剣。躱そうと思えば躱せました」

 

ぽつりと少女が呟く。

……あの瞬間、確かに違和感があった。

文は回避をせず諦めたような様子で、セイバーの剣を受け入れていた。

 

「嘘じゃないよな……」

「はい、嘘じゃありません。もしあそこで回避しても、どのみち負けていたでしょうけど」

 

文の言う通り、あのまま戦っていても聖剣を拾われた時点で勝ちの目はなかった。

長引けば宝具の解放によって、殺されていたかもしれない。

 

「あの時、私は死んでいいと思った。死の恐怖を塗り潰す高揚が、私を満たしました。だから死ぬ覚悟はできていたんです。…………私が千年以上も生きていたのは、彼女のような存在に滅ぼされるためだと。幻想郷でただ生き永らえるなら、死力を尽くして人の手で討たれるのも悪くない。そう思いました」

 

少女の身体は、失血と雨に打たれたせいで冷え切っている。

だがセイバーによって斬られた傷が少しずつ熱を帯び始めてた。

彼女の熱を持った血が俺の背中まで滲んでいた。

このまま小さな身体のなかの血を、全て流してしまうじゃないのかと。

そう思った時――。

 

「ぐ……文……!?」

 

突如、俺の肩を尋常じゃない力で掴まれた。

肩が握り潰されてしまいそうだった。

痛みのあまり、歩くのすらもままならない。

 

「でも――あの男が現れた瞬間、私は忘れられた。私の存在の全てが、彼女の意識の外へと抜け落ちた。……あんなたった一瞬で、私の存在は塵芥になった! それどころか、こともあろうに私を救うだと! どこまで舐めれば気が済む!!」

 

全てを絞り出すように、少女が怒声を吐き出していく。

死にかけているとは思えないほどの握力。

肩の骨が砕かれるほどの激痛。

ミシミシと軋んでいく鎖骨の音が伝導して、俺の内耳を震わせている。

しかしその軋む音以上の絶叫が、俺の脳と心臓を震わせた。

 

「……許せるか! 絶対に許してなるものか!! 私を、天狗を、ああも埒外に見下すだと……! ふざけるな!! あのガキが、生きたまま腑分けにしてやる!! 豚のように泣き叫ぼうとも、五臓六腑を喰らい尽くしてくれる!!」

 

文飾に彩られた言葉ではなく、感情のままに吐き出された叫喚。

人としての本能が、彼女の怒りに脳髄を痺れさせ、足を竦ませる。

彼女に恐怖心を感じるのは、これで何度目になるか。

何も知らなければ、恐怖に取り込まれて発狂していたかもしれない。

だが俺はそんな感情よりも、同情や憐憫が勝ってしまった。

 

「う、ううあああああああ…………!!!」

 

……文が吐き出したもの。それは、憤怒ではなく慟哭だった。

少女は、怒りをぶつけているのではない。

怒りすら凌駕する、魂の声を喚き散らしている。

命を差し出すのに相応しいと思った相手に無視された。

セイバーの中で、射命丸文が無価値になってしまった。

そんな敵だったはずの存在に、命すらも救われてしまった。

それが彼女にとって、俺の前で吐き出すほどつらく悔しかった。

 

人々に忘れ去られて、この世界からも消えてしまった妖怪。

彼女が感じている怒りと恐怖を、俺は少しだけ理解できたかもしれない。

 

「文……」

 

気付けば、俺は彼女の名前を呼んでいた。

そんな中身のない声に反応するように、肩を握る力が弱くなる。

強い痛みが両肩に残ったが、そんなのどうだっていい。

 

ポタリと、暖かな雫が首筋を打った――。

雫の正体はすぐに気付けた。だけど。

 

「……泣いてなんかいませんよ。また雨なんじゃないですか?」

 

雨は止んでから、もう随分と久しい。

だけど少女は泣いてないと言った。だったら、これは雨なんだろう。

 

「ごめんなさい。ちょっとだけ、こうさせてください……。今日は酷く、疲れました。……それと令呪を使わないでくれて、ありがとう……」

 

彼女は顔を誰にも見られないように、痛みが残る肩に顔をうずめた。

湿り気を含んだ黒髪が首筋に触れて、くすぐったさを感じる。

少女は、眠ったわけではなかった。

 

冬木の夜が、かつての沈黙を取り戻す。

聞こえるのは、水かさが増した未遠川の音。たまに橋を渡る車の音。

それに混じって小夜烏のなき声が、微かに聞こえた。

 

聖杯戦争の夜は、終わりそうもない。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

57.二人の王 前

 

 

それは――なるべくしてなったのだろう。

 

 

 

剣の英霊であるセイバーの正体は、ブリテン王国のアーサーである。

真名は、アルトリア・ペンドラゴン。

カリバーンによって選ばれた選定の王であり、ブリテンの伝説的な君主。

彼のアーサー王が戦場でひとたび剣を振るえば、兵を鼓舞し敵を恐怖に染め上げる。

その影響力たるや、千を超えて万の軍勢にも勝るもの。

そして恐怖に染まった敵兵は、時に味方にも勝る。

故にセイバーは単身ではなく、多勢の相手にこそ発揮できると言えた。

 

だが此度彼女が迎える敵兵は、剣群だった。

男の宝具である『王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)』。

黄金甲冑を纏う王の背後に浮かぶ、対象を破壊するための宝具の群。

そこに思想はなく、意志も存在しない。

剣群の力は有象無象を貫いて、ただの一つであっても傾国をも可能とする。

 

 

「どうしたセイバー。先よりも動きが鈍いぞ」

 

剣の少女が躱した十にもなる宝具が、公園の地表を根こそぎ削り取っていく。

如何にセイバーであっても、『王の財宝』の全てを聖剣一本だけで迎え撃つには分が悪い。

間合を通常よりも広く取り、回避に専念するしかない。

セイバーの耐久性であっても、ただの一本で死にかねない。

たとえ急所から外れたとしても、全てが伝説に名を連ねる聖剣魔剣の類。

切れ味が鋭いだけではなく、様々な呪術が付与されたものもある。

中にはかすり傷であっても、彼女の命を奪う危険性のある宝具もあった。

 

それに剣の少女は、射命丸文から続く連戦だった。

生々しい傷もそのままで、魔力の消耗もある。

ただ文から致命的な一撃は、受けていない。

絶対的な宝具である『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』も放ってはいない。

決して万全とは言えない。それでも十分な余力を残していた。

 

「…………!」

 

しかしセイバーは翻弄されるばかりで、反撃の糸口を掴めずにいた。

不用意に間合を詰めれば、それだけ矢面に近づく。

一本一本が必殺の矢。迂闊な行動だけは、絶対に避けなければならない。

男の背後には百の宝具が残されており、放つ度にまた新たに補充されていく。

 

「ふん。次は二十とするか。ほら、躱してみせるがいい」

 

背後に控えていた二十余りの剣群が、少女に矛先を向けて次々と放たれていく。

剣群と言っても射出された宝具は剣だけではない。

刀であり、槍であり、斧であり、鎌であり、果ては鈍器でもあった。

差はあれど、その全てが究極と呼んで遜色のない原初宝具である。

 

「――――」

 

セイバーはその時、一つの変化を見せた。

彼女の能力なら射出される宝具がどれだけ速くても回避に専念していれば、そう簡単には当たらない。

二十という数もまた、セイバーにすれば問題ではなかった。

だが黄金の男がその気になれば、百以上の宝具を一斉に撃ち込むのも可能である。

そうなれば、全てを回避するのは不可能であり、対処方法も限られていく。

つまり、男は初めからセイバーを殺すつもりがなかった。

『セイバーを娶る』という身勝手な理由から、殺さない程度の加減をしていた。

その侮辱とも言える事実は、彼女の気質からして気付いているのかも怪しい。

ただ全力を出していないのは、理解していた。

過去の戦闘からも、男の実力はこの程度ではないのは理解している。

 

セイバーからすれば不本意ではあったが、そこに付け入るのが最善だと考えた。

サーヴァントを相手にして、その高みから見下ろす慢心。

それが時として、容易く命を奪うのだと知らしめる。

 

(……『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』は使えて一度。それ以上は魔力がもたない)

 

二度目の宝具解放は、昏倒するどころか最悪消滅してしまう可能性があった。

だが、その一度で十分だ。

セイバーの宝具の射程なら、放つと同時に男を飲み込む。

本来ならば、バーサーカーのように二度の使用などあり得ない。

一度ならず二度も耐えきったバーサーカーが、それだけ規格外の存在だった。

しかし、今はまだ使うべき場面ではない。

男は一歩も動こうとはしないが、それは動く必要もないという意味。

矢継ぎ早に展開されていく『王の財宝』によって、男の守りは鉄壁だった。

 

それでもセイバーは、回避した二十の宝具が半分を数えたところで前方へと跳んだ。

男は少女を獅子と例えたが、それだって結局は甘くみている。

百獣の王が、このような膠着をいつまでも望むはずがない。

獅子の顎が獲物の喉に食らいつくように、セイバーもまた牙となる剣を振り下ろす――。

 

「…………!」

 

少女は剣を脇に構えると、速度を落とさないギリギリの前屈姿勢で男に向かっていく。

一歩一歩を重くして、地面を踏み抜くように助走を付けていった。

セイバーの行く手には、男の放つ十の障害が残っている。

可能な限り姿勢を低くしているため、そのうちの何本かはセイバーの真上を通り過ぎた。

それで全てが回避できるはずもなく、幾つかの宝具は甲冑を貫いて肉を抉っていく。

 

「……くっ!」

 

それでもセイバーは、速度を落とさずに更に加速させていった。

そして次は急所を狙って飛来する長剣。回避は不可能。

 

「はあッ!」

 

セイバーは剣を片手に持ち替え、空いた右腕で剣の腹を殴る。

彼女には、未来予知に及ぶ直感がある。タイミングだけは絶対に外さない。

その結果、剣の軌道を僅かに逸らすのに成功した。

その膂力を以てしても完全には外せず、切っ先が血肉を奪う。

腰から血煙が上がったが、セイバーはただ男のいる前方のみを見据えて駆けていく。

 

(――今は地を駆ける脚と、剣を振るう腕が無事ならそれでいい)

 

聖剣を使って弾こうとは思わなかった。

セイバーの持つエクスカリバーは、あの時代では珍しい両手剣だ。

その重量から振るうのに全身を使う必要があり、それでは走る速度が僅かに落ちてしまう。

 

「ほう?」

 

剣に頼らないセイバーの吶喊は、黄金の王も感心を漏らした。

二十という、これまでで最も多く宝具を一度に射出した。

だから今回もまたセイバーは回避にのみ専念すると考えていた。

牙城に攻め入る時は攻撃が最も苛烈な時ではなく、最も緩やかな時が定石。

セイバーの吶喊は果たして戦略と呼べるほどのものなのか。

だがそれでも男の予想を超えていた裏を掻く手段ではあった。

セイバーは二十の宝具を抜けるため、間合を更に詰めていく。

剣の届く範囲に入れば、全力で振るう彼女の攻撃を防ぎきれる相手はいない。

 

そして、少女は全ての『王の財宝』をやり過ごした。

聖剣を再び両手に持ち直す。

ここは既に弓兵の領域ではなく、剣士の領域。

男の顔がセイバーの目前にあった。

余裕が浮かぶ真紅の双眸。愉悦に歪んだ口許。

そこに焦りは感じない。だが、それも今だけ――。

 

「弓兵如きが我が一撃! 受けきれるか!」

 

そして騎士王は、英雄王に渾身の剣を振るった。

 

 

 

 

「なっ!?」

 

セイバーの一撃は、黄金の鎧ごと男を両断するはずだった。

 

「どうして……?」

 

二人の戦いを見ていた遠坂凛も、これまでのセイバーの戦いを見てそう信じていた。

自分の剣と自分の剣の腕には、絶対の自信がある少女も疑わなかった。

 

「フン」

 

彼女の手に、剣を振り抜いた感触というものがない。

男は元の場所から一歩だって動いていない。それどころか、何もせずに立っているだけ。

 

「我の鎧に傷を付けるとはな。ククク、やるではないか、セイバー」

 

剣の返礼と言わんばかりに、英雄王からそんな賛辞が返ってくる。

ダメージを受けた様子はない。

剣に付けられた傷に触れて、感嘆の声を漏らすだけ。

黄金の鎧は聖剣によってへこんだが、装甲を貫いたようには見えない。

 

両手剣は元来、鎧ごと敵を断ち切るのを目的とした武器だ。

彼女のエクスカリバーは、その分野においては最たる威力を誇る。

それが弾かれるなんて、セイバーは生涯で一度ですら経験がない。

 

「まさかこの程度で我から勝利を奪えるとでも思っていたのか? であれば、相当な間抜けよ。……これがおまえのすべてか? つまらん。我を飽きさせるのを許した覚えはないぞ、セイバー。あの鴉女の相手にしてもそうだ。あの程度の手合いにどれだけ時間を使った? よもや、あのように翻弄されるとはな。此度の聖杯戦争――些か手ぬるいぞ」

 

これ以上、呆気に取られている時間はない。

戦争では想定外の常であり、セイバーもまた幾度となく経験している。

むしろ考えた通りに行くほうが珍しい。現実とは、常に最悪を凌駕する。

 

(ですが……)

 

セイバーの今いる場所は、自身の間合であるのには変わらない。

男の能力は未知数だが、どれだけ堅牢な鎧であっても打ち込めば断ち切る自信はある。

しかしそれよりも、剥きだしとなった頭を狙えばそれで片が付く。

 

「ふっ!」

 

呼吸を整えて身体を捻り、突きによって男の頭部を狙う。

しかし、戦場で何回も経験した頭を砕く感触が剣先から返ってこない。

初撃と同様に金属音だけが返ってきた。

 

「狙いが単調よな。女狐のマスターも我が鎧を砕けぬと知ったら、同様の手段に転じたぞ? おまえはそこらの雑種と同じではないのだ。このまま凡百に終わってくれるなよ」

 

聖剣は、男がいつの間にか持っていた剣によって弾かれた。

あり得ない。片手に持てる剣で、セイバーの強撃は耐えられるものはない。

 

剣の少女の筋力は、目の前に立つ男を凌駕する。

体格で劣ろうとも、見た目からは信じられない重い一撃を放つ。

両手剣の攻撃を、弓兵の片手剣で防げるはずがない。

そもそも、アーチャーとは能力面で優れた英霊ではない。

強力な宝具があってこそ、アーチャークラスは他のサーヴァントと戦える。

アルトリア・ペンドラゴンはどの聖杯戦争においても、最高クラスの能力がある。

それをアーチャーがこんな簡単にいなしてみせるなんて、あり得ていい話ではない。

 

「…………!!」

 

得体が知れない男の力に、セイバーは自分の肉を削ってまで獲得した間合を再び広げた。

それに、男が追撃する様子はない。

 

「フハハ、どうした? まさかそれだけで終わりではあるまい?」

 

少女の視線は、男よりも男の持つ剣に注がれていた。

眼前に最大の敵がいても、その剣から目が放せない。

初めて見る剣なのは間違いなかった。そのはずのに、どこか懐かしさを感じる。

 

「その剣は、いったい……?」

 

声に出すつもりはなかったが、衝いて出てしまう。

 

「なんだこれが気になるのか? これはおまえとも縁のあるものだ。――お前の持つその聖剣。これは北欧に伝わる『支配を与える樹に刺された剣』が流れて生まれ出たものよ。そしてこの剣は、グラムの更なる原型になる」

「まさか……!」

「そう、これは竜殺しの魔剣とも呼ばれたグラムの源流よ。……竜の因子を継いだ貴様には、辛いものであろう?」

 

生じた違和感が、確信に成った。

ブリテンの赤き竜――。

セイバーの持つ膨大な魔力は、竜の因子が源流だ。

アルトリアの『ペンドラゴン』も、名字ではなく竜の王を意味する称号。

セイバーにとって、竜とは切り離せない存在だった。

つまり、北欧の英雄シグルドの所持した竜殺しの魔剣グラムはセイバーと相性が悪い。

驚愕の理由は、それだけではない。

 

「あなたは何故そんなものまで……いや、違う。一人の英霊がそれだけの宝具を持てるはずがない」

 

男の背後には、今も無数の宝具が浮かんでいる。

それはただの一つであっても、同一のものは存在しない。

 

「……我の正体が知りたいのか? 一人の英霊がここまでの宝具を持てないだと? それは早計だな、セイバー。この世界が、まだ一つだった頃の話だ。その時代、全ての財はたった一人の王の物ではなかったか?」

「全ての財を持った一人の王……!?」

「フ、ようやく察したか。我こそが人類最古、古代ウルク王のギルガメッシュ。元よりおまえが勝ちを望めるような英霊ではない」

「英雄王……」

 

10年前の聖杯戦争から、セイバーは男の正体を掴めずにいた。

しかし、これで全ての合点がいった。

こうして正体を知れば、今に至るまで気づかずにいたのが違和感を覚えるほど。

英雄王ギルガメッシュ――。

彼の終生を綴ったギルガメッシュ叙事詩は、全ての神話のルーツとも言われている。

彼が全ての宝具の原型を持っていたとしても、不思議ではない。

この他者を顧みない性格も、絶対の王として君臨したギルガメッシュなら頷ける。

 

「セイバー! そいつがギルガメッシュなら、この世界にある全ての宝具を持つことになるわ! そんなデタラメ、それこそサーヴァントキラーじゃない! ……あなたの真名が判明している以上、対抗策は限りなくある。悔しいけど、ここは一度退いて対策を立てないと……」

 

これまで静観に徹していた遠坂凛から、初めて声が飛んだ。

声色は気丈ではあったが、動揺がレイラインを通じてセイバーにも伝わる。

 

「やかましいぞ、雑種。おまえに発言を許した覚えはない。生かしているのも我の気紛れと知るがいい。ここで殺してしまうとセイバーの維持がちと面倒でな」

 

凛は初めて、ギルガメッシュからの直視を受ける。

たったそれだけで尻込みそうになったが、セイバーのマスターとして決して表に出すわけはいかない。

今は何としてもこの場所から退避する必要があった。睨まれただけで狼狽えている場合ではない。

しかしセイバーからの返事は、彼女の思いもしないものだった。

 

「……それは承知しています、凛。そうだとしても、私はここで退くような真似はできない。それにこの男がここで逃がしてくれるはずがありません」

「その通りだ。我がおめおめ逃すとでも思ったのか? つまりはだな――」

 

口の中はカラカラに渇いていたが、凛は唾を無理やり飲み込む。

ギルガメッシュの纏う空気が、より険呑なものに変化した。

肉眼で見えそうなほどの、圧倒的な存在感。

 

「ここが正念場だ、セイバー。我のものとしてこの手に下るか、それともここで死ぬか。それを選ぶ権利は貴様に与えん。……しかしな、これ以上我に刃向かうものなら、力加減を誤って殺してしまうかもしれんな。女子供に手心を加えてやるつもりはない」

 

背後の百の宝具が、さらに数を増やしていく。

虚空に開かれた赤い扉のうねりが、公園全体を緋色に染めていった。

 

「何を馬鹿なことを。結末は既に決まっている。貴様が私に倒されるだけの話だ」

 

翠色の瞳に揺らぎはない。もう彼女は決して臆さない。

 

「囀るな。我を人類最古の英雄と知りながら、尚も刃向かおうというのか」

 

ギルガメッシュは、自らに間違いがあると思っていない。

唯一絶対の理を説くように、僅かに苛立ちながらもセイバーに諭していく。

 

「これ以上、下らない問答を続ける暇はない。――ここで雌雄を決するぞ、英雄王。全力を以て貴様を討ち、聖杯を我がマスターに捧げよう!」

 

セイバーもまた、自身を疑わない。

選定の剣を抜いたのは間違いだったが、マスターに捧げた矜持に疑う余地などない。

 

「フ、ハハ。思い上がったな、セイバー。まずは力ずくで、我との力の差を教えてやる!」

 

夜籠もる公園は、かつての面影を失っていた。

度重なる戦闘によって、無惨に荒れ果ててしまっている。

だが、これまでの戦いはほんの始まりに過ぎない。

 

相容れぬ二人の王の饗宴は、これから本当の始まりを迎えようとしていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

58.二人の王 中

 

 

あれから、どれぐらい経ったのか。

雨を吸った冬木中央公園は、戦火によって燃え立っていた。

ぬかるんでいた土壌ですら蒸発させる火力。

常人が呼吸をすれば、肺が焼け焦げかねない灼熱。

そこは、セイバーとギルガメッシュ──王二人の決戦の舞台だった。

 

セイバーのマスターである遠坂凛は、劇壇に上がるのも許されない。

如何に研鑽を積んだ魔術師であろうと、この戦いには介入できない。

今いる場所から数歩でも進めば、命を落としてしまう。

少女は、遠巻きから壇上を観戦するだけの観客に過ぎなかった。

 

「…………セイバー」

 

身の丈を誤ってはいけない。己を過信すれば、セイバーの枷になる。

剣の少女の足を引っ張らずにいるのが、彼女の精一杯だった。

プライドが傷つかないわけではない。

それでもセイバーの邪魔になるのは、絶対に避けなければならない。

信頼を預けてセイバーの勝利を信じるのが、今できるすべて。

 

(だけど、いざとなったら令呪を使える。バックアップだけは最大限させてもらうわよ、セイバー)

 

最終決戦と呼ぶにふさわしい極限のなか。

何があっても、二人の戦いから目を離してはいけない。

魔術師の少女は、そう強く思った。

 

「どうした? おまえの言う全力とはその程度なのか? 身の程を弁えず、我に勝つとぬかしたのだ。まずは我をここから動かしてみせろ」

 

ギルガメッシュは今に至るまで、ただの一歩も動いていない。

セイバーの動きを目で追っているが、腕は組んだままだった。

背後に展開された『王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)』から宝具を無制限に射出するだけ。

 

「…………」

 

剣の少女は、ギルガメッシュの挑発に無言で返す。

上から目線の頭に来る物言いだったが、冷静さを少しでも欠けば命取りになる。

剣の英霊であるセイバーは、白兵戦に頼らなければいけない。

竜殺しの宝具などの弱点も多く、『王の財宝』との相性は悪い。

もっとも、ギルガメッシュと相性の良いサーヴァントなど存在しないのだが。

 

男の攻撃方法は、これまでから大きな変化はない。

しかし、セイバーに向けて放たれる宝具の数。

それだけが比べ物にならないほど増えた。

究極無比の宝具を、惜しみなく放ち続けている。

大抵のサーヴァントであれば、それだけで何の抵抗もなく殺されるだけ。

現に一歩も動ず、ことごとくを蹂躙する力を持っていた。

『王の財宝』は、慣れや経験でどうにかなるものではない。

策を弄するにしても、対策のしようがない。

有無を言わさず飲み込み、痕跡すら残さない。

セイバーにも一呼吸どころか、瞬き一つの暇すらも与えない。

これまでの手加減が、否応にも理解できてしまう。

理不尽なまでの圧倒的強者。それが英雄王ギルガメッシュだった。

 

「──ふっ!」

 

セイバーの身のこなしは速度だけではなく、精度すら上がっていく。

それでも少女の剣は、男の薄皮にすら触れるのを許されなかった。

唯一剣が触れたのは、自身のダメージも度外視にした先の一撃だけ。

それもまた、黄金の甲冑によって弾かれた。

 

(……あの時、アーチャーの頭に剣を振り下ろしていれば、勝敗は決していただろうか?)

 

そんな瞬間の判断に、セイバーは歯噛みしてしまう。

鼻につく黄金の鎧を砕こうという気まぐれがあった。それがこうして戦いを長引かせている。

その選択が、戦闘を長引かせるだけならいい。

今の状況はどう見ても、セイバーはギルガメッシュに押されている。

 

(それだけではない。私の選択は幾度となく間違いがあった。私が常に最善の選択ができたのなら、滅ぶと予言された祖国にも盛栄はあったのだろうか。……いいや、もし最善を選べたのなら、あの選定の剣すら抜くこともなかった)

 

あの選定の剣と違う、今ある聖剣を強く握る。

そんな自虐的な思考をしたところで、宝具の雨は止むはずがない。

手垢にまみれた言葉だが、歴史に『もしも』はない。

一度過ぎてしまった事象は覆せないのが、万物の理として決まっている。

けれど、この世界に一つだけ。

歴史の『もしも』を可能とする奇跡があるとするのなら。

こぼれてしまったミルクを元の瓶に戻せるのなら。

 

(私は聖杯を手に入れて、剣の選定をやり直す。…………だから今はどう防ぎ、どう躱し、どう剣を振るのか。それだけを考えればいい)

 

そして、英雄王をどう殺すのか――。

それだけを残して、騎士王は思考を閉ざした。

 

 

 

 

「……フン、埒が明かぬものよ」

 

英雄王は眉をしかめて、不快そうに言葉を漏らす。

停滞した今の状況もそうである。

それ以上に『王の財宝』を半端にしか展開できない状況に苛立ちがあった。

ギルガメッシュは、全力ではない。

万が一にも全力を出せば、セイバーが今も立っているはずはない。

目的である少女を殺してしまえば、元も子もなくなってしまう。

 

「さて、どうしたものか」

 

黄金の王が右腕をゆっくりと上げた。

自らの臣下を控えさせるような動きに対して、すべての宝具が進軍を止める。

そして、セイバーに言葉を紡ごうと口を開いた。

 

「…………!」

 

英雄王が何を話そうとも、律儀に待ってやる必要はない。

これまでにない好機。

彼女からギルガメッシュまでの距離――。

『王の財宝』からの攻撃がなければ、なんてこともなく。

ただの一足で詰め寄って、英雄王に斬り掛かれる!

 

「なっ……!?」

 

不意に、奇妙な感覚に囚われた。

セイバーの第六感が、これまでにない悪寒を走らせた。

一気に詰め寄るはずだった一足飛びを、反射的に止めてしまう。

彼女に備る未来予知に及ぶ直感。それが、セイバーを戦慄させた。

言葉での説明が難しい能力だが、彼女はこれまで何度も命を救われている。

今の悪寒も、決して無視していいものではなかった。

 

「セイバー、このような児戯はもう仕舞いだ」

 

『児戯』とはつまり、今のこの戦いを指している。

まるで、自分の思う通りにならずに愚図り出す子供のように感じた。

 

「英雄王。まさかとは思うが、手詰まりではあるまい?」

 

探りを入れるように、騎士王はあえて挑発をした。

宝具を解放する好機にも思えたが、今はギルガメッシュの出方を待つべきだった。

仮に後手に回ろうとも『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』であれば、即座に対応できる。

 

「ハ――下らぬ妄言は控えることだな! では、そのような誇大妄想に二度と陥らぬよう、これより英雄王にしか持たぬ剣を見せてやろう! ……精々耐えてみせろよ、セイバー! これで死ぬようならば、貴様もそれまでの女だったというわけだ!」

 

英雄王は赤く波打つ空間に、腕を差し入れた。

その手に握られていたのは、これまで放った宝具とも違う形状の剣だった。

本当に剣と呼んでいいのか、それすらも疑問に思ってしまう。

特に異質なのは刀身で、刃らしきものが先端にしか存在しない。

三つに分かれた黒い円柱状のパーツで構成されており、朱色の紋様が刻まれている。

それぞれが独自の回転をしたそれは、一見すれば削岩機のようにも見える。

 

「世界の混沌を切り裂き、世界を新たに創造した剣だ。銘は存在せぬが、我はエアと呼んでいる」

 

異様な形状に反して放たれる魔力は、どの宝具よりも強大だった。

英雄王の言うとおり、まさに唯一無二。

そして、セイバーが英雄王の宝具に対抗する手段は一つしかない。

彼女自身が今も握っているエクスカリバーの解放だけ――。

過信ではなく、セイバーは自身の持つ剣が最強であると信じている。

遠坂凛という優秀なマスターのおかげで、二度の戦いを重ねても尚、全力で宝具を解放する余力があった。

驕り高ぶる王を倒すため、今がまさにエクスカリバーを使うのに相応しい機会。

 

「――凛、今から宝具を解放します!」

 

セイバーは、遠坂凛から惜しみなく供給される魔力を聖剣に込めていく。

注がれた魔力が光に変換されて、莫大な熱量となり剣に纏う。

 

「ほう! 我の剣を見ても抵抗しようと言うのか! ク、ハハハハハ! 無知ゆえの蛮勇もここまで来ると滑稽だな!」

「何を馬鹿なことを……! ここで破れるのは貴様だ! 英雄王!!」

 

エクスカリバーは、ギルガメッシュを宝具ごと打ち倒すに十分な力を持っている。

それを覆すなど、あり得てはならない。

 

「エアとは即ち生命の記憶の原初であり、この星の最古の姿よ。つまりは地獄の再現だ! セイバー、貴様の目に地獄を焼き付けるがいい!!」

 

英雄王によって、エアと呼ばれた剣。

三つの刀身の回転が速度を増し、周囲の風を逆巻かせ取り込んでいく。

それが肉眼で認識ができるほどの魔力の渦となり、一帯を大きく震えさせた。

しかし、セイバーにギルガメッシュを待つ理由などない。

聖剣にはもう十分な魔力が充填されている。あとはもう解き放つだけ。

眼前に掲げた聖剣を振り上げ、秘められた真名を解き放った。

 

『英雄王――我が剣を受けるがいい! 約束された勝利の剣(エクスカリバー)!!』

 

放たれる光の奔流。

ギルガメッシュの眼前まで光は迫っていたが、余裕は決して崩さない。

英雄王もまた宝具を解放するため、虚空にエアを突き刺した。

 

『裁定の時だ――受けよ! 天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)!!』

 

 

 

 

結論から言うと、エクスカリバーで乖離剣エアに勝つのは不可能だった。

それは決定された前提であり、何があっても覆らない。

別の世界での必然――。

衛宮士郎の体内に埋め込まれたエクスカリバーの鞘。

『アヴァロン』という絶対防御を持たない限り、騎士王はエヌマ・エリシュを打ち破れない。

 

そして、遅れて放たれたエヌマ・エリシュはエクスカリバーと衝突する。

互いの最大火力が、ぶつかり合って生じる拮抗――。

しかしそれは、瞬間的なものでしかなかった。

乖離剣によって圧縮された風は、擬似的な時空断層を発生させ、空間を断裂させる力を持つ。

世界すら穿つ大嵐(タイラン)は、聖剣の光をあっさりと飲み込んだ。

 

「な――ッ!?」

 

自身の宝具が瞬く間に浸食される姿に、騎士王は瞠目した。

現実味が失われていく光景。

もしこれが悪夢の類であれば、セイバーは救われたかもしれない。

だがこれは、紛れもなく世界によって約定された現実だった。

 

「……くっ!」

 

彼女に驚いている暇はない。

魔力を如何に奔らせようとも、これ以上ない状態で宝具は解放されている。

この力を超える出力は、どう足掻いても出すことは不可能だった。

 

しかし――。

 

「令呪の契約によって、セイバーに命じるわ! 『金ピカをぶっ飛ばしなさい!!』」

 

セイバーにとって、これ以上ない檄が自身のマスターから飛んだ。

剣の少女の胸に、例えようもない熱が入る。

 

(凛……あなたが私を召喚したマスターで本当によかった……!)

 

遠坂凛の右手に刻まれた令呪の一画が消失する。

その結果、セイバーの魔力が爆発的にブーストされていく。

これ以上ない絶好のタイミングで、宝具の力が最大値を振り切った。

 

「はああああ――――!!」

 

セイバーの眼前まで迫ったエヌマ・エリシュの暴風がぴたりと浸食を止めた。

呼吸を止めて見入っていた凛が、安堵の息を飲む。

 

「…………!」

 

だがそんな彼女と違って、セイバーの表情は険しいままだった。

 

「――フン」

 

黄金の王は今も動じることなく、この世の全てを笑っていた。

つまり令呪による効果も、英雄王にとってそれだけのものでしかない。

 

「他愛ないな。我を退屈させるなよ。セイバー」

 

そんな失望とも言える声とともに、エヌマ・エリシュは拮抗を再び打ち破る。

その直後、セイバーは大嵐(タイラン)に飲み込まれた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

59.二人の王 後

 

 

「セイバーよ! どうやら貴様の思い上がりだったな!」

 

戦いが始まってから、初めて英雄王が歩き出した。

いや戦いと呼ぶものは、既に終わっていたかもしれない。

英雄王が悠然と歩む先、そこには騎士王がうつ伏せで倒れていた。

天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)』の直撃を受け、今や灰燼と化した地面に顔を埋めている。

 

「…………う」

 

あの大嵐(タイラン)を受けても、少女は剣を手放さないでいた。

しかし意識を喪失しているのか、指一つ動かさない。

 

「ほう。まだ生きてはいるようだ。しかし、最強の聖剣とやらがこの程度か! 笑わせてくれる! やはり女子供には加減が必要なようだったな! ……フ、ハハハハハハハッ!!」

 

灰燼の公園に、英雄王の哄笑が響き渡る。

 

「なんで、こんな……」

 

遠坂凛はレイラインの繋がりから、セイバーの生存を確認していた。

それはとても弱々しく、彼女の受けたダメージを否応にも理解してしまう。

これ以上の戦闘は、とてもではないが不可能だった。

それどころか残る全ての魔力を回復に当てないと、現界すらも危ぶまれる。

 

……セイバーの敗因は何だったのか。

約束された勝利の剣(エクスカリバー)』は令呪の効果も加わり、これ以上ないぐらい完璧だった。

騎士王と英雄王。

二人の解放した宝具の衝突は、完膚無きまでセイバーの敗北。

その答えは、あまりにも単純明快なもの。

単純にエクスカリバーの火力を、エヌマ・エリシュが凌駕していただけ。

 

「くっ……」

 

もし凛が男にガンド撃ちをしても、セイバーの剣すら弾く鎧を貫けるはずがない。

幾つか残された宝石であろうとも、同様の結果に終わる。

その後は、数秒のうちにギルガメッシュに殺されてしまう。

それは同時に、セイバーも殺すリスクも生む。とても冒せるものではなかった。

 

「クハ、ハハハハハハ――!!」

 

行動を起こすまでもなく、遠坂凛の戦いは終わっていた。

今も続く英雄王の呵々大笑。それが彼女には勝ち鬨にも聞こえた。

 

 

 

 

この時、本来ならばあり得ないことが起きていた。

それは、二つの要因が重なった偶然。

 

一つは、セイバーのマスターが遠坂凛であったこと。

それによって彼女の基本性能は、衛宮士郎がマスターだった時を遙かに超える。

そして二つ目は、令呪による宝具の強化。

結果として、エヌマ・エリシュを破るまでは至らなかった。

しかしその火力は、これまで聖杯戦争で使った四回のうち群を抜いた性能だった。

相殺には至らなかったが、エヌマ・エリシュの力を大幅に削いでいた。

そんな偶然が重なって、あり得ないことが起きる。

 

「う、くっ……」

 

セイバーに意識が残されていた。

全身を貫いたエヌマ・エリシュのダメージによって、苦痛の喘ぎが漏れる。

その声は、笑い続けるギルガメッシュの耳に届かない。

口に広がる鉄の味。呼吸がまともにできない激痛。

彼女は、自分の身体がバラバラになっていると錯覚していた。

 

(……ああ。まだ私の四肢はあるようですね)

 

目では確認していないが、少女の手には聖剣の感触が伝わってきた。

剣を握る力だってまだある。

失われた魔力も、徐々に戻ってくるのがわかった。

レイラインを通して、凛から魔力が急激に供給されていた。

並の魔術師であれば、宝具の解放後にここまでの魔力を送ることはできない。

遠坂凛という稀代の才能が、こうしてセイバーを生かしていた。

それは、冷徹な魔術師ではあり得ない少女の優しさと、絶対の信頼だった。

 

(なら私は、彼女の優しさに甘えるのではなく、彼女の信頼に応えなければならない!)

 

セイバーの耳に地面を伝わって、金属性の足音が聞こえていた。

その音は、すぐ近くで止まる。

顔を上げれば、すぐそこに男の姿があるだろう。

そう考えた直後、ギルガメッシュによって髪を無造作に掴まれた。

少女の矮躯を男の目線の高さに持ち上げると、そこに嗜虐に満ちた紅玉の目が二つ。

 

「我の手に下る気にはなったか? ……だがな、こうもあっさりでは面白味に欠けるものよ」

「…………」

 

セイバーは、何も答えない。

無言が答えであると言わんばかりに、翠色の眼差しで男を射抜く。

 

「ほう、まだ意識はあるようだ。しかし、その反抗的な目は変わらぬか! ハハハ!」

 

ギルガメッシュは目を細めて、喜悦を浮かべる。

未だ反抗的な少女に怒りを感じるどころか、真逆とも取れる態度を見せた。

もしここでセイバーが屈していたのなら、男はその時点で興味を失っていただろう。

 

「……気づいてないのか。私の手には未だ剣が握られているぞ」

 

身体を持ち上げられても尚、少女は決して剣を離さない。

 

「ク、フハハハハハハ! この有様で何ができるというのだ! 貴様は既に立つのもままならぬ状態であろう?」

 

英雄王には、(サガ)とも呼べる慢心があった。

自身の宝具を真正面から受けて、セイバーはまともに反撃ができない、と。

そう決めつけ、思い込んでいた。

もし男の慧眼が慢心に曇っていなければ、誰よりも先に気づいていたはず。

だが、もう遅い。

セイバーは、傷を回復させるために凛から供給された魔力を全て剣に込めていた。

更には自身のエーテルで編まれた甲冑も解いて、それすらも魔力として送っていく。

彼女の聖剣から伝わるのは、少し前と同様の魔力の迸り。

 

「……なに?」

 

凛もレイラインから、魔力の流出が急激に速まるのを感じた。

その瞬間に、セイバーがこれからやろうとする行為にも気づく。

 

「…………!!  駄目よセイバー!! そんなの無事で済むわけがないわ!!」

 

剣の少女は、マスターの命令には従えなかった。

今の彼女に英雄王を倒す手段は、もはやこれしかない。

 

「まさか、貴様……!?」

 

ギルガメッシュは、掴んでいたセイバーの髪を放す。

騎士王は再び灰燼に顔を埋めることはなく、二本の足で地面を強く踏みしめた。

 

「ここは私の領域だ。自ら間合を詰めるとは油断したな、英雄王!」

「ッ――抜かせ!!」

 

英雄王もまた、手に持った乖離剣に魔力を込める。

 

『エクス――!!』

 

しかし間に合わない。勝利の剣はもう振り下ろされた。

 

『――カリバーッッ!!』

 

男の宝具解放よりも、ずっと早く――。

聖剣の力は黄金の鎧を容易く砕いて、血煙を夜に舞わせた。

 

 

 

 

「う…………」

 

宝具を解放し、振り下ろした剣に重みを感じなかった。

自分が立っているかどうかも、あやふやではっきりとしない。

目がかすんでしまって、前が見えない。

頭を強く叩かれたように、大きな耳鳴りが響いている。

 

肉体の修復を無視して使った『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』。

禁止されていた二度目の宝具解放であり、出力は一度目と比較にならないぐらい落ちていた。

しかし、英雄王はエクスカリバーの切っ先の届く距離で宝具を受けた。

剣を振り抜いた瞬間、馴染みのある人体を斬る感触も伝わっていた。

その代償は大きく、セイバーの魔力は枯渇した。

急激な魔力消費によって、五感の幾つかに損害。または消失していた。

 

「カ――ハ」

 

呼吸ができない。

酸素を取り込もうとしても、肺そのものが機能を停止している。

まるでスイッチをオフにしたように、意識が奈落の底に転がり落ちていく。

このまま意識を手放したら、二度と目を覚まさない確信があった。

そう理解しても、意識の喪失から抗えそうもない。

だが――。

なにがあっても、倒れるわけにはいかない。

なにがあっても、確認しなければならない。

 

「…………ッ」

 

セイバーは、舌の先端を噛み切る。

曖昧だった痛みが鋭くなり、靄のかかった視界が少しずつはっきりとしていく。

そんな視界の先に、男の顔が映った。

 

(――生きている!?)

 

眼前に英雄王の姿があった。

俯く表情は、垂れた前髪に隠されて見えない。

だが口元には他者を見下す笑みはなく、端からも血が流れている。

大きなダメージは、確実に受けていた。

あの馬鹿げた強度の鎧も砕け散り、肉体を深いところまで切り裂いている。

剥き出しの上半身に、大きな太刀傷。

エクスカリバーの熱量によって、傷口も焼け焦げていた。

肉体に受けたダメージなら、セイバーよりもギルガメッシュが上――。

 

これは彼女に残された、最後の好機。

それなら、ただ一度。

ただ一度だけ、剣を振り下ろせば。

ギルガメッシュを倒せる――。

ならば。

ならば、今ここで。

英雄王に、終止符を――。

 

セイバーの魔力は、枯れ果てている。

通常の魔術師の何十倍ものキャパシティを持つ遠坂凛であっても、補いきれる状態ではない。

エヌマ・エリシュによる肉体的損害。いつ消失してもおかしくない魔力消費。

少女の両手足の感覚は、とっくに喪失していた。

それでも四肢は未だ健在であり、千切れてしまったわけではない。

 

(だったら動かせない道理はない!)

 

彼女は感覚のない両脚で身体を支えて、剣を大きく振り上げた。

黒く広がる曇天を切り開くようなセイバーの聖剣。

その刀身に一瞬だけ、遠坂凛の顔を映した気がした。

その顔は聖杯戦争の勝利よりも、セイバーの身だけを案じていた。

そんな今にも泣き出しそうな、女の子の顔。

 

(――ああ、凛。そのような顔はしないでほしい。あなたには決して似合わない顔だ。……それに心配は無用です。これで、聖杯はあなたのものになるのだから)

 

もう声には出せなかったが、セイバーはそれだけを伝えたかった。

言葉にならない以上、行動と結果で想いを示す。

そして残された魔力を燃やし尽くし、頭上高く掲げた剣を振り下ろした。

 

「あ……」

 

――ぱきり。

セイバーは、自分が内側から砕ける音をはっきりと聞いた。

痛みはなかった。痛みはもう感じなかった。

意志に反して、身体が崩れていくのがわかった。

それは比喩ではなく、少女の内側がぐずぐずになって崩れ始めていた。

残された時間は、もうどこにもない。

 

命を使った一撃だった――。

 

そして、そんな最後の攻撃は、ギルガメッシュに当たらなかった。

乖離剣を掲げて、少女の剣を軽く受け止めていた。

 

「――は、惜しかったな」

 

ギルガメッシュが顔を上げる。紅玉の瞳には、何の曇りもなかった。

力強さは失われていたが、そこに慢心の色はない。

最後の攻撃を防がれた直後、少女の手から聖剣がこぼれ落ちた。

彼女には、剣を握る力も残されていない。

肉体に魔力を宿していないセイバーは、同じ年頃の少女と変わらない程度の力しかない。

如何に命を使った攻撃であったとしても、その威力はたかが知れていた。

少女の身体が、ぐらりと揺れる。

 

(……倒れて、しまう。それ、だけは絶対に、駄目だ……凛を、泣かせて……)

 

「ああ……すみま、せん、リ――」

 

絞り出した謝罪は言葉にならず、セイバーは前のめりに倒れた。

 

 

 

 

「セイバー、膝をつくことを許した覚えはないぞ。おまえは我の認めた女であろう? そのような醜態、我の前で晒すなど決して許されぬ」

 

地面に触れる直前、セイバーの身体をギルガメッシュが支えた。

小さな背中に手を置いて、乱暴に少女を抱き寄せる。

その姿は、抱擁と呼べるような状態だった。しかし、セイバーからの抵抗はなかった。

彼女はもう、指一つだって動かせない。混濁した意識は、何もかも曖昧にさせた。

ギルガメッシュは抱き寄せたまま、紅い双眸で少女の顔を無表情に見る。

 

「どう足掻こうとも助からぬ。このままでも、暫時のうちに朽ち果てるだろう」

 

男が、か細い首にそっと指を掛けた。

 

「そうであればな、セイバー。おまえは我の腕の中で、死ね」

 

ギルガメッシュが腕に力を込めた。

それは、窒息させるような優しいものではない。

人体の重要器官を簡単に潰してしまう、サーヴァントの力。

その行為に躊躇などなく、セイバーの首は音を立てて――潰れた。

 

「……ガ、ハ」

 

潰された喉から泡混じりの血と、僅かに残った酸素を吐き出す。

その瞬間、翠色の瞳が見開かれていた。

何かに驚いているように、大きく開かれている。

そして徐々に虹彩から色が失われ、瞳孔もまた拡散していく。

瞳から生命が失われた。

 

「……………………」

 

冷たくなった顔を、男の指先が触れる。

それは今まさに、セイバーの首を握り潰した男の指だった。

割れ物を扱うかのように、少女の目元を優しく撫でた。

 

「……ふん、最期まで我に屈しなかったか。いや……それでこそ、おまえであったな。……ではな、騎士王。此度の饗宴、なかなかに楽しかったぞ」

 

セイバーの瞼は、もう閉じられていた。

その直後、彼女を構成するエーテルが冬木に空に拡散していく。

焼けた煤が漂う虚空に飲まれると、すぐに消えていった。

 

そこにはもう、セイバーの姿はなく。

騎士王の最期を看取り、天を仰ぐ英雄王の姿だけがあった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

60.残されたカード

 

 

――耳鳴りが止まらない。

 

遠坂凛を、取り巻く音。

雨に濡れたアスファルトを叩く足音、不規則な呼吸、波打つ心臓の鼓動。

そして、頭から爪先まで伝播する大きな耳鳴り。

内耳から脳に至る聴覚経路が神経に触れて、不快な音を立てている。

戦場から抜け出した今も、そんな騒音が彼女を苦しめていた。

 

夜明けまで、あと数時間と迫った夜半。

凛は冬木中央公園から深山の遠坂邸まで、ただひたすらに走っていた。

もう公園を抜けてから、かなりの時間が経っている。

ギルガメッシュが追ってくる気配はない。

逃げ切れたと考えても良いのか。いや、それは違うと彼女は考えた。

 

(そもそも金ピカは、私なんて眼中にもなかった)

 

ギルガメッシュにとって、遠坂凛はどういった存在であったか。

彼女は才能、実力ともに恵まれた魔術師だ。それは、紛れもない事実。

しかし英雄王からすれば、セイバーを現界させるために必要な道具でしかなかった。

だとしたら、セイバーが消失した今、彼女を生かす価値などない。

それは裏を返せば、殺す価値もないということ。

 

――逃げ切ったのではない。

元より彼女は、ギルガメッシュに相手にされていなかった。

初めから追われてもいない。だから走る必要もなかった。

だけど、少女は走るのを止められなかった。

ギルガメッシュに対する恐怖心からではない。

どろどろした負の感情が、胸のなかで燻っていた。

相手にされなかった悔しさはある。

だが、そのおかげでこうして生きていられる。

それに対して、どこか心の底でホッとしていた。

 

彼女は、愕然とした。

それに気づいた途端、自分の存在がとても卑しく思えた。

『常に優雅であれ』という遠坂家の家訓にも背いてしまっている。

何よりも、自分のために戦ってくれたセイバーに顔向けができない。

 

(でもそんなの、彼女を置き去りにした時点でわかっていたことよね……)

 

命を賭して、ギルガメッシュに挑んだセイバーを見捨てた。

ここまでの道すがら、何度となく思った。

無謀を承知で、英雄王に挑むことはできただろうか、と――。

出力は落ちたが、ギルガメッシュは『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』を至近距離で受けていた。

そのダメージは、計り知れない。

手持ちの宝石を全て使えば、一矢報いることができたかもしれない。

だが、彼女はそれをしなかった。

如何なる状況であっても、遠坂凛は勝てない戦いをする性分ではない。

それに一矢報いたところで何になる? 倒さなければ意味がない。

冬木のセカンドオーナーである以上、そんな時でこそ冷静でいなければならない。

 

男の目的は、未だ不明。

セイバーに執着していたが、彼女も自らの手で葬っている。

真名と10年前の聖杯戦争に参加したこと以外は、何一つわかっていない。

そして、これまで相対したどのサーヴァントよりも、規格外の力を持っている。

本来の定数である六体のサーヴァントは、既に倒された。

聖杯は十分に満ちているだろうが、今のところ顕現する気配はない。

それが意味することは、ただ一つだけ。

聖杯戦争は、サーヴァントが残り一騎になるまで終わらない。

 

もしギルガメッシュが聖杯を手に入れたら、ろくな使い方はされないはず。

他者を顧みない、傲岸不遜を体現したような男だった。

今回の聖杯戦争を抜きにしても、このまま野放しにしていい存在ではない。

そして、マスターの存在も不明。

受肉したサーヴァントであるなら、マスターの存在は不要だ。

既に死んでいるかもしれないし、そうでなくとも冬木にいない可能性ある。

ただそれは『かもしれない』という仮定。結局は何もわかっていない。

だったら、最悪の事態に備えるしかない。

聖杯戦争の原則から外れた、八騎目のサーヴァントが現れた。

これから先、何が起こっても不思議ではない。

 

(あんなやつが出てきた以上、やらなきゃいけないことが沢山ある……!)

 

しかし、凛は思った。

それは、セイバーを捨て駒にするほどの価値はあったのか、と。

遠坂凛の選んだ道は、この地の管理者として魔術師として、間違った判断ではない。

だがそれは、人間らしさとは無縁のもの。

勿論、凛はそんな『人間らしさ』よりも『魔術師』としての生き方を選んだつもりだった。

魔術師として生きる以上、人並みの感傷なんて不要なもの。

そう思っていた。だけど。

己を責め立てるような耳鳴りは、未だに止まらない。

途端、鼻の奥につんとした痛みが走った。

その痛みによって、涙腺がかつてないほど緩みそうになった。

(…………これを感傷と言わずなんと言うのかしらね)

 

だけど、泣くわけにいかない。

泣けば泣いた分だけ思考がぶれる。ただの逃避行動でしかない。

泣くことで発生する脳内のエンドルフィンが、一時的に気持ちを静めるだけ。

それは、有りもしない快楽に逃げていると変わらない。

 

泣いてはいけない。感情的になってはいけない。

そもそも、そんな資格は有りはしない。

セイバーがギルガメッシュに殺された瞬間、遠坂凛の魔術師としての顔が表面化した。

他者を顧みない利己的で冷徹な性質が、こうして彼女を生き長らえさせた。

今になって、涙を流すなんて甘えを許せない。

凛が、セイバーを見捨て逃げ出したのは覆しようもない事実。

泣いてはいけない。絶対に。絶対に。

 

 

 

 

遠坂凛が自宅の屋敷に着いた頃、吐き出す息は白さを増していた。

肩で息を繰り返しており、酸欠によって今にも気を失いそうだった。

深山町の自宅まで一歩も休むことなく、内罰的に走り通した結果だ。

呼吸を整えて、玄関扉を魔術によって解錠する。

 

「……あっ」

 

家に入ろうとした時、入口の段差に躓きそうになった。

こんなことで転んだら、情けなさのあまり笑い話にもならない。

傘もささずに冷たい雨に濡れて、二度もサーヴァントの戦いに身を投じた。

彼女が思っていた以上に、身体は疲れ切っていた。

 

「シャワー浴びたいわね……」

 

赤い上着とスカートは、重く感じるほど雨を吸っている。

熱いシャワーを浴びれば、この纏わりつく不快感から解放されるだろうか。

そう考えたが、そんな時間はないのはわかっていた。

自覚できるほど心身ともに疲れている。だけど今はまだ休む時じゃない。

次に休むのは、すべてが終わってからだ。

彼女は、これから自分が何をすべきか心に決めていた。

もしかしなくても、これは間違った判断なのかもしれない。

だけど、他に方法が思いつかなかった。

 

地下室へと足を運ぶ。

石壁と石畳で造られた部屋は、どこか厳かな雰囲気があった。

部屋の奥に、サーヴァント召喚に使った召喚陣が変わらない姿のままある。

溶解した宝石によって描かれた、遠坂家に伝わる召喚陣。

 

その傍らには、一本の短剣があった。

柄手が短いのが特徴的な、白い短剣だった。

積み重ねた時代を感じさせる姿ではあったが、錆は一つも浮いていない。

 

「……セイバー」

 

顔に悲嘆を浮かべ、少女は少し躊躇いながら短剣を手に取った。

これが遠坂凛に残された最後のカード。ほかのカードは残らず使い切った。

 

だが、彼女はこのカードを切る資格を持っていない。

聖杯戦争のマスターは、サーヴァントを失おうが身体から令呪は消失しない。

未だ一画の令呪が彼女の右腕に刻まれている。

こうして凛が生きている以上、聖杯戦争の参加資格は残っていた。

 

しかし、少女の細腕に、この短剣は余りにも重すぎた。

短剣を持ち上げた右手が震えてしまって、落としそうになる。

震えを抑えようと、自らの身体を抱く。それでも止まらなかった。

 

「う、うぅぅ……セイバー……ごめんなさい……」

 

彼女の手にはもう、キングのカードは存在しない。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

61.影踏みのカルンウェナン 《2月12日》

 

 

……決着は、ついただろうか。

 

負傷した文を背負い、セイバーとギルガメッシュの戦いから逃げ出した。

それから、かなりの時間が経過している。

温暖な冬木でも冬の夜は長く、世界は未だ宵の中にあった。

 

居間のなかは閑寂としていたが、胸のなかには焦燥感が募っていく。

そんな相反した状況に耐えらず、意味もなく居住まいを正してしまう。

畳と衣服の擦れる音だけが、夜の静けさを汚していた。

 

文の傷の手当てを済ませてから、何もせずにじっとしている。

セイバーから受けた彼女の傷は、とても酷いものだった。

聖剣による左肩から右脇を抜けた裂傷は深く、表面的にも塞がっていない。

並外れた再生能力を持つ文であっても、決定的な一撃だった。

 

良くなっているのか悪くなっているのか、そんな判断すらもつかない。

もう二度と起き上がれないんじゃないかと、悪い方向ばかり考えてしまう。

ただ意識の混濁は見られず、受け答えはしっかりとしていた。

以前のように側にいてやりたかったが、きっぱりと断られてしまった。

いくら食い下がっても、少女は頑なに許さない。

 

『士郎さんのどスケベ。もうあっちに行ってください』

 

どスケベ……。

生まれて初めて言われた言葉だった。

そう呆気に取られていたら、ピシャリと部屋の襖を閉じられてしまう。

 

 

俺も体力回復に努めたいが、とても休めるような状況じゃない。

それに色々な感情がごちゃごちゃになって、眠れそうにもなかった。

もしセイバーが負けてしまったら、次の標的は間違いなく俺たちだ。

そうわかっていながら、自宅に逃げたのは愚かな選択だったかもしれない。

あいつが俺の家を知っているとは思えないが、調べる方法はいくらだってある。

 

切嗣から受け継いだこの家は、魔術師の拠点と呼べるものではない。

通常の魔術師の家は、侵入者対策のトラップがある。

だがこの家は、警報を鳴らすだけだ。

聖杯戦争の初日、ランサーに侵入された時だって何もできなかった。

文が助けてくれなかったら、確実に死んでいた。

 

だけど傷の手当ても可能で、安静にできる場所を他に知らない。

血まみれの文を抱えて、ホテルに駆け込むにはいかない。

無関係の人を巻き込む可能性だってある。

藤ねえや一成などの知り合いの家でも同様であり、結局この家しかなかった。

今のままでは、殺しに来てくれと言っているようなものだった。

 

「クソ……」

 

自らの不甲斐なさに、テーブルを叩いてしまう。

こんなことで得られるのは、じんわりと広がる手の痛みだけ。

状況は、限りなく追い詰められている。

遠坂たちの勝利を信じたいが、相手はあのデタラメなサーヴァントだ。

連戦であるセイバーは元より万全ではなく、勝ちを望むのは厳しいかもしれない。

本当は今すぐにでも戻りたかったが、文を置いていくわけにもいかない。

 

結局、俺にできるのは彼女の回復を信じて、無事に夜が明けるのを待つだけ――。

 

「……なんだ?」

 

玄関の戸を乱暴に叩く音が聞こえた。

緊張が走るが、結界は反応を示していない。

少なくとも、敵意は持った相手ではない。

こんな深夜帯に訪ねてくる人物なんて限られている。

藤ねえとも考えにくい。……だとすればいったい、誰が?

 

ごちゃごちゃと考えを巡らせているうちに、さっきよりも強く叩かれる。

これ以上強く叩かれたら、玄関が破壊されてしまうかもしれない。

 

「……いや、そんなことはどうでもいい」

頭が混乱しているのか、つい余計なことまで考えてしまう。

 

「――衛宮君! いるなら今すぐ出てきなさい!」

 

懐かしい少女の声だった。

いや、本当はつい数時間前に聞いたもの。

だけど、もう何ヶ月も会っていないように思えてしまう。

 

「遠坂が生きていた……!」

 

聖杯戦争で、最大とも言える戦場から生き延びてくれた。

全身に歓喜が駆け巡った。急いで立ち上がり、暗い廊下を走る。

遠坂たちとの確執は、解消されたわけではない。

だが、今は生きてくれたことを素直に喜ぼう。

それに彼女は、命の恩人であるのは覆しようもない事実だ。

諸手を挙げて、生還を祝福しなければならない。

廊下の電気をつけるのを忘れたが、そんなのは後回しだ。

鍵を開けて、急いで戸を開ける。

そこにはちゃんと遠坂がいた。いてくれた。

 

「こんばんは、衛宮君。こんな時間に悪いわね」

 

息を切らせている以外は、いつも通りの遠坂凛だった。

でも、何かが違う。

目の前の彼女に、言葉では言い表せない違和感がある。

それが何なのかはわからない。

ただ一つわかるのは、遠坂が一人でいること。

彼女のサーヴァントであるセイバーがどこにも見えない。

 

「アーチャーは、生きてる?」

「……アーチャー」

 

何度聞いても違和感がある呼び方に、一瞬誰なのかわからなかった。

だが、言うまでもなく射命丸文のことだ。

 

「ああ、今は安静にしているから大丈夫だ。……それよりも、セイバーはどうしたんだ?」

「死んだわ」

 

予め用意していたように答えた。

 

「死んだ。殺されたの。ギルガメッシュに」

「…………!!」

 

聞きたくなかった言葉が、遠坂凛の口が次々と放たれる。

彼女の表情は、少しも変わらない。

自分と同じ顔をした仮面を被っているように、変化がない。

 

セイバーが死んだ――――?

 

死んだ。殺された。

心の中で何度繰り返しても『セイバーの死』としか意味を持たなかった。

感情を込めずに告げられた、剣の少女の死。

目の前が暗くなって、遠坂の顔がぼやけていく。

――信じられない。だが、彼女が嘘をつく必要がない。

だけど……セイバーが殺されて、どうしてそんな平気な顔でいられる?

遠坂のために戦ったセイバーに対して、何も感じていないのか?

 

「遠坂、おまえ……!」

「なによ……」

 

少女の目の奥が、微かに光っていた。

涙は流していない。

涙を流した跡があった。

遠坂は堪えきれない悲しみを、無理やり塗り潰していた。

セイバーを失って、平気なわけではない。

セイバーを失って、平気なふりをしているだけ。

 

「それで、アーチャーはどこ?」

「……文は、自分の部屋で寝ている」

 

寝ているはず。

そうであってほしい。

 

「起こしなさい」

「なっ……!」

 

思いがけない発言に、言葉が詰まってしまう。

遠坂は、何を言っているんだ……?

 

「今すぐに。叩き起こしてでも呼んできなさい」

「そんなことできるわけないだろ! あいつはもう自分で歩くことすらできないんだぞ!」

「それなら令呪を使ってでも、何とかしなさい!」

 

血が上る。完全に頭にきた。

この最後に残された令呪だけは、何があっても使えないもの。

これが俺たちにとって、どれだけ大事なものなのか……!

 

「――――ッ!! ふざけるな!!」

「無茶を言っているのは承知している。だけどもう時間がないのよ!」

 

無茶だと理解した上で、文を起こせと言っているのか。

何もかもわかっていながら、生死の境にいる少女を動かせと言っているのか。

 

「おまえは文を何だと思っているんだ!! わかっているならそんなこと絶対に言うな!!」

 

遠坂は黙ったが、青い瞳は揺らがない。

自分の主張を、覆すつもりはない。

命の恩人だったら、文を殺してもいいとでも思っているのか!

 

「…………」

 

しかし、彼女の瞳は俺を見ていなかった。

俺の背中、廊下の先を見ている。視線を追って後ろを振り返った。

 

「……まったく、夜中にそんな大声を出したら近所迷惑ですよ。もう少し社会性を持ちましょうよ、士郎さん。コミュニティを作るのは人間の持つ基本的な傾向であって、最大の利点なんですから」

 

廊下の壁に寄りかかりながら、射命丸文がこちらに向かって歩いていた。

声はいつもの調子だった。だがその姿は痛ましくて、いつもとはかけ離れたもの。

 

「文! 大丈夫なのか!?」

 

肩を貸そうと慌てて駆け寄るも、手を前に出されて制されてしまった。

 

「だから、そう大声を出さないでください」

 

俺の声だって、今の彼女にはつらいかもしれない。

 

「あ……ああ、すまない」

「よろしい。そうやって心から謝れるところは好きですよ。私にはない、あなただけの美点です」

 

それが冗談であっても『好き』と言われただけで、じんわりと染み入るように嬉しくなってしまう。

文への心配が当然勝るものの、俺もどうかしているぐらい単純だった。

 

「それに……士郎さんに『大丈夫か?』と尋ねられたのはかれこれ何度目でしょうか? こんなことならメモしておけばよかったかも。もったいないことをしちゃった」

 

この人を小馬鹿にしたような態度は彼女らしい。

重傷なのは変わらない。それでも、いつも通りの彼女に鼻の奥が痛くなった。

 

「へえ、思ったより元気そうじゃない」

 

遠坂は感心した様子だったが、それに対して文は頬を少し膨らませた。

そんな女の子らしい態度を取る彼女に驚いてしまう。

一見すれば普段と同じに見えるが、やはり精神状態は以前のものとは違っている。

 

「何が元気なものですか。貧血でフラフラ。頭ははっきりしない。少し動くだけでもセイバーにやられた傷に響いて、涙が出そうだわ」

 

壁に寄りかかりながら、廊下に座わる。

軽快な口調とは裏腹に、本当は立っているだけでつらいのだろう。

血色はずっと悪いままで、よく見れば脂汗も浮かんでいる。

でもこうして喋れる程度に回復はしてくれたのだ。

 

「まあ話を聞く程度なら、何とかなるでしょう。……それでこんな夜中に何の用ですか?」

「セイバーがギルガメッシュに倒された」

 

さっきと同じように、間髪入れず遠坂が答えた。

つらそうな表情から一転し、仄暗い廊下に赤い光が灯った。

それ以上の変化は読み取れなかったが、彼女の死に衝撃を受けたのは間違いなかった。

 

「…………へえ、そうですか。そう、ですか。……それは、とても残念ね」

 

廊下の温度を下げるような文の声。

遠坂は彼女の変化に顔をしかめるが、そのまま話を続けていく。

 

「でもセイバーは最後、ギルガメッシュに大きな傷を負わせた。彼女の宝具を正面から受けたの。今の金ぴかはあんたと同じで歩くのもやっとなはず」

 

セイバーはギルガメッシュに、ただでやられたわけじゃなかった。

勝手な考えだったが、それが嬉しく感じてしまう。

 

「ふーん。……でも、それだけを伝えに来たわけじゃないでしょう?」

「もちろん。そのために私は恥を忍んでここまで来たんだから」

 

文は目を鋭く細めて睨みつけたが、遠坂は意に介さない。

 

「――今日中、いえ、この数時間のうちにギルガメッシュを倒しなさい。でなければ、あいつは傷を癒す。そうなれば、もう誰にだって勝ち目はないわ」

「なにを、言って……!?」

 

信じられなかった。

遠坂は、こんな状態の文に戦えと言う。

それも深手を負ったとしても、セイバーを倒したギルガメッシュと。

 

「遠坂!! ふざけるのも大概に――」

「静かに。……近所迷惑ですよ?」

 

異論を唱えようとした直前、文が鼻先に人差し指を立てた。

もう俺たちの間では、お馴染みとなったポーズだった。

 

「……それで私のところに? 情報提供には感謝しますが、随分と都合の良いことを言いますね。あの男がそんな状態なら、自分でなんとかしようと思わなかったんですか? ……あなたの可愛くて仕方のないセイバーの仇なんでしょう? 私なんかが出しゃばっていいんですかね?」

 

文の言いたいことも多少はわかる。

俺の見る限り、遠坂が怪我をした様子はない。

 

「……私ではサーヴァント相手にどうしようもならない。深い傷を負ったとはいえ、あいつは人間とは桁違いの存在よ。サーヴァントはサーヴァントでしか勝つことはできない。それを今日の戦いで理解した。……死ぬほど悔しいけど、ギルガメッシュに勝機があるのは、死に損ないのあんただけよ」

「まあ、そうですね。深手を負ったとはいえ、凛のようなただの人間では無謀でしょう」

 

……遠坂は優秀な魔術師であり、ただの人間ではない。

しかしあいつを相手にしたら、遠坂もほかの人間と変わらないと言いたいのだろう。

 

「……当然だけど、強制するつもりはないわ。現存するサーヴァントは、あんたと金ぴかだけ。あいつは聖杯を顕現させるため、近いうちにあんたたちを狙うのは間違いないでしょうね」

 

遠坂の言葉に間違いはないだろう。……それでも、今の文に何ができる? 

とても戦える状態ではなのは、彼女にだってわかっているはず。

つまり遠坂は、ギルガメッシュがダメージを受けた今が唯一のチャンスと言いたいのだ。

この機会を逃したら、あの男が聖杯を手にするのは時間の問題だと。

 

それなら何とか逃げ回って、文の傷が癒えるのを待つのはどうなのか?

しかし、文が万全な状態になった時は、ギルガメッシュもまた万全になっている。

その状態で勝てるかどうかはわからない。

……いや、それでは勝ち目が薄いから、遠坂はこんな無茶を言っている。

 

残された道も他にもある。最後の令呪を使って、彼女を幻想郷に帰すこと。

おそらく、それは文が許さない。

それに彼女を幻想郷に帰せば、即座に聖杯が顕現する可能性もあった。

あの男が聖杯をどう使うのかは不明だが、ろくでもないのは間違いないだろう。

 

それなら……俺に何かできないのだろうか。

こうして遠坂の話を聞いてしまったら、何もせずにいるわけにはいかなかった。

文は、どうやっても動けない。だったら、俺一人でもあいつに立ち向かえばいい。

彼女と同程度の傷を負っているのであれば、俺でもできる何かがあるはず。

 

どんな手段でもいい。

あいつを、ギルガメッシュを俺の手で止めてみせる。

 

 

 

 

 

最後に遠坂が話してから、数分が過ぎた。

開かれたままの玄関から、ひんやりとした風が廊下に流れてくる。

 

「少し……寒いですね」

 

文がぽつりと漏らした。

それだけの言葉だったが、何か不思議な違和感があった。

しかし今が刻一刻を争う状況ならば、すぐに行動に移さなければならない。

まずはどうにかして、ギルガメッシュを見つける必要がある。

 

廊下に座りながら考えていた文が、俺の目を見つめた。

その赤い瞳が、俺の揺らぎを捉える。

 

「……はあ、わかったわ。やってあげる」

「文!?」

 

思い掛けない言葉に驚いたのは、俺だけではない。

口には出さなかったが、提案した遠坂も目を見開いていた。

 

「士郎さんがよからぬことを考えてましたからね。『文は動けない。だったら俺が行ってやる』って、そんな大馬鹿が顔に書いてありましたよ。このまま蛮勇に任せて彼を死なせるのなら、私が行った方が万倍ましでしょう」

「そんな身体じゃ無茶に決まっているだろ! だから俺が――」

「ほーらでた。ザ・シロウイズム。……それに『無茶』なんて言葉をあなたから言われると思いませんでした」

 

何を考えているんだ?

今だって立ち上がれもしないで座ってすらいるのに。

 

「……衛宮君、アーチャーが言ったことは本当かしら? 金ぴかのところに自分一人で行こうだなんて」

「ああ、間違いない。そのつもりでいる」

「あのね、衛宮君。私の話をちゃんと聞いてた? いくら弱っていても相手は英雄王と言われた存在なのよ? それこそ死にに行くようなもの。……そもそも衛宮君が行って何とかなるなら、私はここに来てないわ」

 

……遠坂の言葉は、もっともだった。

普通に考えれば、俺の考えは馬鹿げたもの。文が動くのが最善なのは間違いない。

この選択は、最善でも次善でもなく、独善と呼ぶに相応しい。

俺のそんなところを、ずっと彼女に怒られてきた。ずっと心配をかけてきた。

それでも、俺のこの馬鹿は死んでも治らない。

 

これ以上、彼女が傷つくのを見たくない。

 

「遠坂の言う通りかもしれないけど、そんなことはやってみなきゃわからない」

「……これを本気で言っているとしたら、かなり腹立たしいわね」

 

遠坂は怒るというよりも、もはや呆れ果ててしまっている。

 

「この世の中に、打算のない自己犠牲ほど気持ちの悪いものはありません。私には理解不能です。……ですが、それが士郎さんの面白いところでもあるんで、許してやってくださいな」

「はあ……そんなの、許せるわけないじゃない」

 

遠坂は、溜め込んだ息を吐き出した。

でも俺の行為は、自己犠牲だと思っていない。

打算だってある。――好きな子に元気でいてほしい。

だからこれは、単なる俺の我儘だ。

 

「……ま、何にしても、あなたはこの世界に私を繋ぐ『かすがい』だという自覚を持ってください。つまらないことで死なれたら私が困るの。馬鹿なこと言ってないで、少し黙ってなさい」

「…………文」

 

それを言われると、何も言えなくなってしまう。

自らの身勝手さで、自分以外の誰かが不利益が被るわけにはいかない。

 

「アーチャー、あんたは本当に衛宮君に死なれたくないからなの? 悪いけど、それだけの理由で動くような殊勝さを持っているとは到底思えないわね」

 

遠坂は猜疑心を露わにし、ころころと変容する少女の表情を窺う。

どう見ても好意的とは言えない遠坂の視線に、文は苦笑いを浮かべていた。

 

「あやや、疑い深いですね。嘘を言ったつもりはないですけど、建前に聞こえてしまいしたか? 士郎さんに死なれてほしくないのは本心ですよ。このまま幻想郷に帰るのは困りますし。……それと決まりの悪い話ですが、今日は格好悪いとこばかり見せてましたからね。本音を言えば、今だって寝たいです。そういう気持ちが三割ぐらいあります。でもこの状況で布団に戻って爆睡したら、格好悪いにも程がありません? 私だって最後ぐらいは格好つけたいです」

「それってつまり、見栄やプライドってこと? 本当にそれだけなのかしら?」

「ふふ。本当にそれだけですよ。そんな見栄やプライドは、私たちにとってとても大切なものです」

「まあ、あんたがやってくれるならなんでもいいわ。……話を戻すわよ」

 

軽く言っているが、文の『見栄やプライド』の意味と重さは、俺も遠坂も聞いている。

彼女は、この俺たちの世界に妖怪が存在していた証を刻もうとしてた。

それが目的なら俺が出しゃばるのは、文の気持ちを踏みにじってしまう。

 

「あれから大して時間は経っていない。あのダメージでは、そんな遠くまでは動けない。おそらくまだ新都にいるはず。だから傷を癒される前にギルガメッシュを倒して、あんたがこの聖杯戦争に終止符を打ちなさい」

 

俺たちは、悠長に会話をしている余裕もなかった。

ここで話しているだけで、ギルガメッシュを倒せる可能性は少しずつ減っていく。

 

「だけど新都と言っても広いぞ。そんな闇雲に探して見つかるものなのか?」

「忘れたの? サーヴァントにはお互いの気配を察知する能力があるのよ。金ぴかがどこかに雲隠れする前なら、なんとかなるでしょうね」

 

それは忘れてない。でも彼女には。

 

「その察知能力ですか? 私にはないみたいなんですよ。サーヴァントの気配を一度だって感じたことありません」

「え、嘘……?」

 

遠坂は知らないだろうが、文は滅茶苦茶な方法でこの世界に召喚されている。

その結果、本来サーヴァントに備わっている能力もいくつか欠けていた。

聖杯から何も知識も与えられておらず、サーヴァントを知覚する能力もない。

しかしそれだと、これまで遠坂の話した計画が水泡と帰してしまう。

 

「……そんな顔をしなくても大丈夫ですよ。私にはそういう時に役立つ優秀な仲間がいます。探索はこの子たちにお願いしましょう」

「……? この子たちって誰のこと?」

「ふふふ。では後ろを見てください。じゃーん」

 

遠坂の背後にある暗がりに、無数の何かがいた。

目を凝らして見てみると、それは何十羽もの烏だった。

その全てが、行儀よく一様にこちらを見ている。

鳴き声も上げずに夜の闇に溶け、不気味さを強調していた。

 

「ち、ちょっと……なんなのこれ?」

 

遠坂もまた、その異様な光景に面食らっていた。

俺も文が日常的に烏を従えているのは知っていたが、ここまでの数を見たのは初めてだ。

 

「ハシブトガラス。私が今日までに餌付けした烏たちです。そして、この子たちが私の目になります。烏は光り物が好きですし、あの派手な男でしたら、すぐに見つけてくれるでしょう」

 

これだけの鳥が上空から探してくれれば、見つけ出す可能性は十分にある。

……だけど、疑問もあった。

 

「でもこんな暗ければ、何も見えないんじゃないのか? フクロウみたいな猛禽類だったらともかく、烏は鳥目だろ?」

「ふふん、知らなかったんですか? 鳥が鳥目というのは迷信ですよ。ほとんどの鳥はただ昼行性で飛ばないだけの話です。それに烏に関しては、人間以上に夜目が利きます」

 

得意げな表情を浮かべていた。

鴉天狗というだけあって、眷属である烏にも誇りを感じているのだろう。

以前、ゴミ集積場に集まった烏を見て、この世の終わりみたいな顔をしてたからな。

 

そして文が小さく手を上げると、一斉に闇夜へと烏が飛び立っていく。

方角からして、新都に向かっているのは間違いない。

 

「……では、ちょっと着替えてきます。寝間着のままでは締まるものも締まりませんからね」

 

暗い廊下で座っていた少女が、立ち上がった。

手を貸そうとも思ったが、そう考えているうちに普通に歩きだしている。

ここに来た時とは違う、しっかりとした足取りだった。

大して時間は経過していない。それだけで、見違えるほど回復したのか。

……あの様子なら、本当にギルガメッシュと戦えるかもしれない。

 

「衛宮君、ちょっといいかしら?」

 

後ろ姿が廊下の角に隠れて見えなくなった頃、遠坂から声を掛けられた。

 

「どうかしたのか?」

 

彼女は古めかしい布にくるまれた物体を、どこからか取り出した。

形状からして、何か刃物のようなものが包まれている。

 

「カルンウェナン」

 

初めて聞いた言葉とともに、布を俺に差し出した。

 

「え? ……カルン、ウェナン……?」

 

受け取ろうとしない俺に痺れを切らしたのか、包んでいた布を外す。

中には、白い柄手をした短剣があった。

一目見ただけで理解する。その剣に内包された神秘を。

『カルンウェナン』――それが、この短剣の名前なのだろう。

 

「アーサー王……あの子が持っていた短剣よ。セイバーはこれで、魔女オルドゥーを真っ二つにしたわ。私はこれを触媒にして彼女を召喚した。衛宮君はこの剣を使いなさい」

 

それは、セイバーの形見とも言えるものだった。

セイバーも、遠坂に持ってもらいたいはず。

 

「いや、受け取れない。それは遠坂が持つべきだ」

「いいの。あんたは無理して使う必要はないわ。持っているだけでいい。……あいつの最期をセイバーに見せてあげて」

 

押しつけるように、遠坂から短剣を渡される。

持ってみることで実感したが、カルンウェナンは見た目以上に重かった。

それに普通の短剣と比べても、柄が短く、妙に振り回しづらい。

エクスカリバーには大きく劣るが、セイバーが持つに相応しい力を感じた。

 

「わかった。全てが終わったら返しにいく。……それで、遠坂はこれからどうするんだ?」

「私は別に行くところがあるわ。ただの思い違いだといいんだけど、気になることがあってね。……じゃあ頼んだわよ。金ぴかをこてんぱんにしてやりなさい」

 

それだけ言って遠坂は、一度も振り返らずにまだどこかへ行ってしまった。

 

 

 

 

「…………」

 

文が自室に戻ってから暫く経ったが、一向に帰ってくる気配がない。

さっきの様子なら大丈夫だと思うが、ここまで待たされると心配になってくる。

それでも、女の子が着替えている部屋に入るわけにもいかない。

 

「……ん?」

 

ふと――どこからか、嫌な匂いがした。

馴染みのある匂いだった。どうしてか、思い出せない。

胸がざわつく。

匂いの正体を思い出すのを拒否しているように。

これは、聖杯戦争で何度も嗅いだ。

 

「……こ、れは」

 

そして――匂いの発生源はすぐ近くにあった。

わざわざ探す必要もなく、振り返って注意すれば、すぐに見つけられた。

廊下の明かりをつけずにいた自分が、どうしようもなく恨めしい。

 

「俺は……なんて馬鹿だ……」

 

どうして、気づけなかったのか。

さっきまで文の座っていた壁際の床――そこに大きな血溜まりが広がっていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

62.バカでワガママ

 

射命丸文は、もう限界だった。

 

意識があるのも奇跡に等しい、重篤な傷。

病的とも言える矜持が、彼女の身体を動かしていた。

 

『会話ができた』『歩いていた』

 

その二つを理由にして、俺は彼女が回復していると錯覚していた。

 

「……だったら、この血はなんだ」

 

今まで座っていた廊下が赤く染まっている。

 

「これじゃセイバーにやられた時と、何も変わってないじゃないか……」

 

数時間前、エクスカリバーで斬られた胸の裂傷は少しだって塞がっていない。

人間だったら、とっくに致死量を超えた血を流している。

一度意識すると、むせ返りそうな血液の匂いが鼻腔を刺激した。

血液の大半を構成しているヘモグロビン。錆びた鉄のような独特の匂い。

 

そう……流れているものは、人間も妖怪も大差はない。

妖怪であろうと、人と同じ血が流れている。

彼女が人と違う存在であると、どこかでずっと考えていた。

結局、俺は文の痛みを少しだって理解してなかった。

彼女は妖怪であっても、俺たちと同じ生きた存在なのは変わらない。

決して不死身じゃないのに、それすらもどこか曖昧に感じていた。

 

廊下の奥まで続く、鮮血で作られた一筋の道。

踵を返して、文の部屋まで続く血路を辿っていく。

これを見てしまったらもう、彼女に戦わせようなんて思えない。

あいつはプライドのためだけに、自らの命を投げ捨てようとしている。

それを無視するなんて、俺にはできない。

もう文の意志を、顧みている場合じゃなかった。

この状態で、ギルガメッシュ相手に戦えるわけがない。

このまま戦えば、何もできずに確実に死ぬ。そうなる前に、彼女を止めてみせる。

 

「…………」

 

俺が何を言ったところで、右から左だ。

素直に聞き入れてくれるはずがない。その時は、彼女を無理やり拘束する。

抵抗を受けるのは、間違いないだろう。

しかし昨日までなら無理だとしても、今の彼女なら可能かもしれない。

少なくとも、ギルガメッシュを倒せる確率よりも確実に高い。

本来なら、絶対にあり得ない選択肢。

俺なんかがそんな発想に至れてしまう。それ自体が彼女の限界を示していた。

 

それでも射命丸文は、サーヴァントでもある。人間とは存在の規模が違う。

下手をすれば、殺される場合だってある。

……いや、俺はマスターである以上、彼女をこの世界に留めるために必要だ。

最悪、死んでいないだけの状態にされてしまう。

そして、そんな手段を彼女は間違いなく知っているだろう。

 

……こんなところで、怖じ気づいては駄目だ。

どんな手を使ってでも、死地に向かおうとする彼女を阻止する。

 

「…………」

 

左手の甲には、今も令呪が刻まれている。

残り一画の令呪――サーヴァントに対する絶対命令権。

俺と文の間で禁忌となった最後の一画。

それを使うことになったとしても、やむを得ない。

 

この感情は、俺から生まれた強烈なエゴだ。

他者の意志を少しも顧みない、利己的な衝動だ。

そうであっても、俺は彼女に生きていて欲しかった。

 

「……なんて欺瞞だ」

 

廊下の終着点、和室の前に立った。

耳を澄ませても衣擦れどころか、何の音も聞こえなかった。

……もしかしたら、彼女は部屋にいないのかもしれない。

あの血溜まりを俺に見られたら、厄介だと思うはず。

それに勘付いて、一人でギルガメッシュと戦いに行った可能性がある。

 

そもそも俺の存在は足手纏いであり、彼女の助けにすらなれない。

一緒にいるメリットが元からなかった。

魔力供給を必要としない射命丸文は、マスターが近くにいる必要はない。

ずっと忘れていたが、それこそ他のサーヴァントと違う大きなアドバンテージ。

 

「…………?」

 

それなら、どうして文は俺とずっと一緒にいてくれたんだ……?

今になって、ふと疑問に思った。

 

だけど今は、そんなことを気にしている場合じゃない。

彼女に会う必要があった。

そんなに広くもない部屋だ。いるかどうかなんてすぐわかる。

 

「文、部屋にいるのか?」

 

念のために声を掛けたが、返事はない。

最悪の想像が脳裏に浮かんでしまう。

襖越しではあったが、人がいる気配を感じない。

 

「……開けるぞ」

 

俺を置いて、ギルガメッシュのところに行ったのだろうか。

それとも――いや。

これ以上、馬鹿な想像は止めて直接確認するしかない。

 

 

 

 

俺のつまらない想像に反して、射命丸文は部屋にいた。

何も変わらずにいた。

何も変わらずに死に瀕していた。

 

「――文!!」

 

彼女は布団の上に顔を埋めて、倒れていた。

青白くぐったりと倒した姿は、死人すらも想起させてしまう。

俺と遠坂の前で見せた姿は、彼女が無茶をして作り出した演技だった。

 

彼女の上体を起こす。

呼吸はしている。浅く短い呼吸を繰り返している。

やはりセイバーから受けた傷は、少しも塞がっていない。

傷口が熱を持ち、脈を打っていた。

小さな身体から、残された血を全て絞り出そうとしている。

 

「文! しっかりしろ!」

 

朦朧としていたが、意識は完全に失っていない。

焦点の合わない瞳が中空を彷徨っている。

……少しして、顔だけを俺に向けてくれた。

 

「あー、士郎さんじゃないですかー。えへへー……そろそろ行きますかー」

 

それは、子供みたいな声だった。

口に笑みを浮かべようとするが、引きつるだけで形を成さない。

 

「あ、そうそうー。私、ずっと言いたかったんですよー」

「……文? どうしたんだ?」

 

文の様子が明らかにおかしい。

視線がぼんやりとして、心というものをどこかに置き去りにしている。

 

「私、士郎さんのご飯がすごい好きです。だから、そんな美味しいご飯を作ってくれる士郎さんも大好き―。……えっと、それがずーっと言いたかったの。でも恥ずかしかったんだー。やったやった! 言えちゃった!」

「文……」

 

……もう見てられなかった。

見た目以上に幼い感じで、会話すらも成立していない。

理性が壊れた時も、ここまでじゃなかった。

あの時だって、受け答えだけはしっかりとしていた。

 

「馬鹿……! そんなこと言っている場合か……!」

 

畳に手を突いて自分の力で起き上がろうとする。

だが、全身が痙攣を起こしたように震えてた。

彼女にはもう、身体を支える力すら残されていない。

 

「あー……言えたー。良かったー」

 

無理をして力んでしまったせいか、俺の腕から滑り落ちてしまった。

抱きとめようとしたが、頭から畳の上に落ちてしまう。

 

「文!!」

 

慌てて、少女を抱き上げた。

 

「…………? 士郎さん、どうして私の部屋に? あれ?」

 

ずっと曖昧だった目の焦点が元に戻っていた。

さっきまでの記憶が抜け落ちたようだったが、瞳に理知的なものが宿っている。

 

「……駄目だ駄目だ。頭の中がぐずぐずだ。もう心が半分ぐらい崩壊している」

 

頭を打ったせいなのか、心の平衡はなんとか保てている。

それでも、快方には向かっていないのは明白だった。

 

「……大丈夫なのか?」

 

今日だけで、何回したのかわからない質問。文にも指摘されてしまっている。

彼女にどう答えて欲しいのか……。そんな自分の気持ちすらわからない。

 

「ええ、勿論です。……さて、ギルガメッシュを倒しに行きましょうか」

「……いいからそこで寝ているんだ! あとは俺がなんとかする!」

 

俺の言葉に、少女の半眼が睨み付けるように鋭くなる。

身体を支える俺の腕をやんわり跳ねのけると、今度こそ自力で上体を起こす。

 

「……またその話ですか。下らない問答は止めにしましょう。見ての通り、私も余裕がありません。頭もパーになっています。……あなたの理想とやらにも構っていられません。次に馬鹿なことを言うと、そのよく喋る舌を引きちぎりますよ」

 

決して冗談で言っているわけではないのが、雰囲気からわかってしまう。

声の張りは元に戻っていたが、いつものゆとりを感じさせない。

ここから先の言動は、彼女に対する敵対行為を意味する。だとしても、俺は。

 

「駄目だ。これだけは絶対に譲れない。何があってもおまえをギルガメッシュと戦わせない」

「――――――」

 

瞳に懐疑が宿った。俺の真意を測ろうとする赤の双眸。

 

「黙って欲しかったら黙る。俺の舌だってくれてやる。だから今は安静にしているんだ」

 

血の目に宿る重圧に怯みそうになる。

だけど俺は目を逸らさない。ここで視線を逸らせば、折れたことになる。

 

「本気で言っているようね。…………これが最後通牒。発言を、撤回しなさい」

 

言葉から、感情と言うものが消えた。

スイッチのオンオフを切り替えるように、部屋の空気も変わってしまう。

空間が恐怖によって、塗り固められた。

人間の根っこの部分が、警報を鳴らしている。

暗闇を恐れる感情と似た、得体の知れないものに対する根源的な恐怖。

これまで何度となく味わった、射命丸文の人を喰らう妖怪としての性質。

 

「……………………」

 

……これが本当に、瀕死の少女が出せる殺気なのか?

今すぐに屈服したい感情が湧き上がる。

許しを請いたい。すべてが嘘だと言って、楽になりたい。

 

「いや……俺は絶対に譲らない」

 

声を、絞り出した。

本能ではなく、己の信念を言葉にして絞り出す。

声は震えていなかった。

だが、これでもう後には引けない。逃げ道は決定的に塞がれた。

無理やり押し込めた感情で、胸が潰れそうになる。

 

 

 

 

一分が過ぎた。永遠にも感じる60秒。

重圧に耐えかねて、呼吸を忘れたように肺が止まっている。

一度だけでいい。

たった一度だけ、肺に溜まった空気を吐き出してしまいたい。

だけど、そんな余裕なんてあるはずがない。

 

密着とも言える距離。

俺が文を捕らえようとしても、速度の差だけはどうやっても覆せない。

俺の初動を確認したあとでも、彼女は簡単にあしらえる。俺の行動なんて、止まって見える。

つまり文は後手に回ろうが、どうとでもできる。

いくら瀕死だと言っても、根本的な身体能力の差はどうしようもならない。

 

……もう、令呪を使うしかないのか?

 

「ねえ、士郎さん」

 

場の空気にそぐわない優しげな少女の声。僅かに緊張を解いてしまう。

一瞬の空白。

コンマ一秒にも満たない虚を突かれて、左手首が掴まれた。

俺よりもずっと小さな手によって、ギシギシと骨が軋みを上げる。

 

「……ぐあっ!」

 

思わず、歯を食い縛ってしまうほどの痛みが走った。

そうしなければ、耐えられずに絶叫だって上げていたかもしれない。

手首から先が震えるだけで、指が一本も動かせない。激痛によって、身体もまともに動かせない。

 

まずい……。

いま握られているのは、令呪のある左手だ。

当然、文もここに令呪があるのを知っている。

彼女は、これを狙っていた。

 

「ひとつだけいい?」

 

感情を感じさせない平坦な声。

その問いに対し、俺は声を出さずに首を縦に振って答える。

 

「セイバーのマスターが言ってた通り、ここであの男を倒さないと勝ち目がないわよ? それもわかった上で言っているの?」

 

少しだけ、手首を握る力が弱くなる。

今度は言葉で答えろと言っていた。

 

「……わかっているさ。だけど、俺は文に死んで欲しくない」

 

ギルガメッシュを倒せるのは、重傷を負った今しかチャンスがない。

それは、英雄王の強さを目の当たりにした遠坂が繰り返し言っていた。

 

たとえそうであっても、ここで自分を曲げるなんて絶対にできない!

 

「あっそう」

 

人間味を感じさせない無機質な声。それは、死刑執行の言葉だった。

反射的に目を閉じてしまう。

目を背けたくなかったが、人体の一部が壊される恐怖に抗えない。

左手首を掴む少女の腕に、これまでとは比較にならない力が込められる。

 

「うぐ、ああああああ…………ッ!!」

 

絶対に叫ぶまいと誓っていたのに、どうしようもない激痛に叫んでしまった。

手首が、折れてしまった。

 

そのまま砂糖菓子のようにあっけなく潰されて、俺の左腕がポトリと畳に落ちた。

 

 

 

 

「――おかしいの。とても恐がりで痛がりなのに、強がっちゃってる。あなたは本当に、バカでワガママ」

 

固く閉じていた目を、ゆっくりと開けた。

……瞼の裏の光景と異なって、左腕は掴まれたまま存在していた。

折れてもいないし、しっかりと生えている。

 

俺は……夢でも見せられたのか?

 

「……自覚はしている。だけど、死のうとしているやつを目の前にして見過ごすなんて、俺には絶対にできない」

「自覚した馬鹿につける薬はないわね。変なことに令呪を使われないよう、本気で左手を潰してもいいんだけど」

 

軽い口調で、ゾッとすることを言ってみせる。

必要とあれば、それぐらい平気でやる気だ。

だが夢の中であったとしても、俺の腕はもう潰されている。

だから、その覚悟はできていた。

 

「ふう……これ以上力みすぎると、失血性のショックでまた倒れそうです」

 

そう言って、固く掴んでいた俺の左腕を解放する。

同時に場を支配していた恐怖も消え去った。

 

「腕は平気ですか?」

「ああ、ちゃんと繋がっているみたいだ……」

 

ずっと溜め込んだ息を吐き出して、手首に異常がないか確認する。

工業機械のような力で握られていたが、筋や神経に大して痛みはない。

 

「怪我をさせずに痛みを与える方法って知っておくと何かと便利ですよ? 教えましょうか?」

「いや、遠慮しておく」

 

今は痺れでしっかりと動かせないが、痛みが徐々に引いていくのがわかる。

彼女の顔を再び見ると、見慣れた顔をしていた。

人を馬鹿にしたような、底意地の悪い笑み。

だけどその顔を見ただけで、俺はこれまで以上に安心してしまう

 

「おバカな士郎さん……」

 

少女もまた俺の顔を見て、やれやれと肩を竦めた。

その動作だけでもつらいのだろう。整った顔が強ばった。

 

「いたたた。……本当は言いたくなかったけど。ここまでずっとみっともないところを見せてるし、今更隠しても仕方がないか」

 

何を言うつもりなのか、再び俺の左手を取って、顔を真っ直ぐ見据える。

痺れた腕を優しく撫でながら、似合わない苦笑いを浮かべた。

そして、小さく息を吐き出した。

 

「えっと、このままだと私、死んじゃいます」

 

射命丸文は、そう言った。

それは、あまりに予想外な少女の告白だった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

63.夜明けまで、三十分

 

 

「なんだって……?」

 

その言葉を絞り出すのが精一杯で、これ以上の言葉を繋げられなかった。

 

「この傷はそれだけ深いものなんですよ、士郎さん」

 

少女は、なぜか嬉しそうに答えた。

 

「伝説のアーサー王が持つエクスカリバー。その刃傷は、私にとって猛毒です。肉体の修復を遅らせ、精神にも損傷を与えている。それはもう何度も言ったこと。……更にセイバーに負けて、私の心は大きく揺らいでいる」

 

彼女は、パジャマからすでに着替えていた。

いま着ているのは、昨日の二人で買いに行ったブラウスのうちの一枚。

少し高かったが、彼女の押しの強さに負けて購入したもの。

帰宅直後、傷の処置をして包帯を巻いた。

しかし着替えたばかりのブラウスは、もう赤く染まっていた。

 

「肉体の損傷など問題ではありません。忘れ去られた時。心が折れた時。……そんな時に私たち妖怪は死ぬのです。このまま何もせずいたら、私は死んでしまいます。それは、純然たる死です」

 

続けざまに紡がれる『死』という単語に揺さぶられる。

 

「……私の住む幻想郷は、本気を出すとみっともないという風潮が蔓延しています。諸々の事情から、それは決して悪いことではありません。スペルカードは上手くできています。ルールで守られた競技であり、殺し合いとは違う。いくらでも言い訳がききますからね。事実、妖怪たちのプライドを守るのにも、一役買ったのでしょう」

 

俺の頭の中はぐらぐらと揺れるばかりで、彼女の話す内容は殆ど理解できなかった。

それでも、とても大事なことを言っているのはわかる。

 

「私が本気を出したのなんて、ほんの数えるほど。自慢じゃありませんが、私に勝てる存在なんてそういません。……だけど私は負けました。完膚無きまでに。スペルカードルールではなく、ただの殺し合いで負けた。その時は、それでいいと思いました。死んでもいいと思いました。ですが、ギルガメッシュを前にしたセイバーの目に私は映ってなかった。……悔しかった。それこそ人前で喚き散らしてしまうくらい悔しかった」

 

それがなんで、文が死ぬ理由と関係あるのか。

 

「おや……? 信じられないって顔をしてますね。残念なことに事実です。肉体に依存する人間と違って、妖怪の心はちょっとばかし繊細なんですよ」

 

その『ちょっとばかし』の差が、人間と妖怪を隔てる境界だと言うのか。

 

「セイバーは死んでしまった。だから私は、セイバーを殺したギルガメッシュを殺す――。そんなどうしようもない八つ当たりが、私の精神を安定へと導く。この傷を癒す」

 

ギルガメッシュを殺さないと、セイバーにやられた傷が原因で文が死ぬ。

……なんだよ、それ。

そんなの、ちっとも理屈に合っていないじゃないか。

屁理屈にすらなっていない。俺にはまるで理解できそうにもない。

 

「もう、本当にそれしか方法がないのか……?」

 

悲しそうに笑っていた少女が、はっきりと頷いた。

嘘は言っていない。嘘であって欲しかった。

 

「……今の状態からして、丁度夜が明けるころ。時間にすると二時間ほど。それを過ぎれば、私は死にます。確実に」

 

死ぬ。確実に。

……わからなかった。彼女が何を言ってるのかわからなかった。

理解を試みようと、彼女の言葉を何度も何度も反芻する。

しかしその途端に頭が鈍り、感情だって追いつかない。

これは怒りなのか、悲しみなのか。それすらもわからなかった。

 

わからない。わからない。俺にはもう、何もわからない。

 

「…………う、あ」

 

ふと、舌に苦味を感じた。思考が臨界点を超えていた。

心と体の誤作動――。

味覚野の伝導路がエラーを起こし、舌に誤った情報を伝達している。

……これは、俺の脳の味だった。

衛宮士郎を構成するものが、もう限界であると告げていた。

好きな女の子に死んでほしくないと、心と体がおかしくなるほど叫んでいた。

 

だったらもうこれ以上、深く考える必要はない。

もっと、シンプルに考えればいい。

いま俺たちの置かれている状況を考えて、それだけを理解しろ。

 

『夜明け前にギルガメッシュを殺さないと、射命丸文は死ぬ』

 

それが俺の心と体を正常に動かす、唯一の理解だった。

 

 

 

 

駅から少し離れた新都のオフィス街。

近年の開発が進んで、高層ビルが建ち並んでいる。

古くからの町並みを残した深山町とは違う姿。

そんな新都の、深夜から早朝にかけての時間帯。

当然こんな時間に電車は運行しておらず、人は誰もいない。

ここにいるのは、俺一人だけ。文の姿もない。

 

「……ふう」

 

吐き出した息が、白く染まる。

それでも手は悴む様子もなく、じんわりと汗が滲んでいた。

そこに握られた三本の矢と、一本の短剣。

 

その矢は、文の手によって特殊な改造が施されている。

三本しか用意できなかった。

英雄王を相手にするには、心許ないもの。

だけど攻撃手段のない俺に、文が用意してくれた武器だ。

一本だって、無駄にはできない。

そして、遠坂から預かったカルンウェナン。

セイバーがかつて持っていた短剣。彼女の唯一の遺物。

遠坂は、それを俺に託してくれた。持っていて欲しいと、それだけを告げて。

 

……胸に燻る熱を吐き出して、天を仰ぐ。

数ブロック離れたこの場所でも、冬木センタービルがよく見える。

新都の開発を担う企業が詰め込まれた超高層ビルであり、冬木で最も空に近い場所。

 

「…………文」

 

夜明けは、すぐそこまで来ている。

文の余命が判明してから、一時間半が経過した。

夜明けまでは、もう三十分も残されてない。

それが文の残された時間。俺たちのタイムリミット。

 

彼女は空を飛ぶどころか、新都まで歩く体力も残ってなかった。

これ以上消耗させないために、文を背負って再び新都まで戻った。

そして指定された場所まで運ぶのも、かなりの時間が掛かってしまった。

 

文の使役する烏の情報により、ギルガメッシュの大まかな居場所は判明している。

過ぎた時間を考えれば、あいつが根城に戻っていても不思議じゃない。

幸いにも、それだけは免れた。

 

それでも、俺たちの状況が最悪なのは変わりない。

相手が魔物殺しの英雄であれば、射命丸文との相性は極めて悪い。

杉の森のフワワ、天の雄牛グガランナなど。あいつの伝説は、枚挙にいとまがない。

英雄王ギルガメッシュ――。

バーサーカーや、セイバー以上の難敵だろう。

そんな最強のサーヴァントを相手にして、射命丸文は瀕死の状態。

制限時間もある。タイムオーバーは死だ。

そんな絶望の状況下で、英雄王を倒す。

唯一の希望は、あいつもまたセイバーから受けたダメージが残されていること。

それを考慮しても、今の彼女に勝ち目があるようには思えない。

 

 

『――投影、開始(トレース・オン)

 

魔術回路を走らせる。

イリヤによって魔術回路が生成されてから、精度はかつてないほどにいい。

アインツベルンの森の時と同じように、弓を投影で急造する。

ギルガメッシュを倒すための作戦。

ここまでの道すがら、文から聞いた言葉を一つずつ思い出していく――。

 

 

『勝機……ですか? 当然ありますとも。

まあ、こんな状況になって、やけっぱちになっているのも否定しません。

だとしても、勝ち目のない戦いはしないつもりです。

ええ、そのための策があります。ですが、それは私一人では為し得ません。

 

そこで、士郎さんの力が必要となります。

当然ですが、命の危険も及ぶものです。……覚悟はありますか?

……あやや、確認するまでもなかったですね。ごめんなさい、失言でした。

 

士郎さんの死は、私の死でもあります。

あなたという『かすがい』を失えば、私は幻想郷に強制帰還しますから。

そうすれば、私は失意のどん底のなか、幻想郷にある図書館で死ぬのを待つだけです。

……パチュリーさんも流石にビビり散らかすでしょうね。それはちょっと楽しみかも。

 

……ん? なんでそんな顔しているんですか? まさか、気づいてなかった?

少し考えれば、わかりそうなものですけど。いやまあ、それはいいでしょう。

 

たとえあなたが死んだとしても、私は絶対にあなたを恨みません。

ここで死ぬ運命だったと受け入れることにします。

うーん……そうですね。

私が死ぬまでの時間は、すべて士郎さんのために泣いてあげましょう。

……ふふ。そういっておけば、少しは格好がつくかな?

 

つまり――ここから先、あなたと私は一心同体。

私たちが生き残るには、英雄王ギルガメッシュを倒すしかありません。

これからそのための作戦を士郎さんに授けます。メモの用意はできてますか?

……いえ、冗談です。何とかして頭に叩き込んでください。まずはですね――』

 

 

そして俺は、ギルガメッシュを発見した。

 

視力を魔力で強化して、顔を確認するまでもなかった。

あれだけの存在を、見間違えるはずがない。

黄金色の圧倒的なオーラ。サーヴァントの中でも類を見ない、強烈な存在感。

遠坂の言った通り、ギルガメッシュは無傷ではなかった。

黄金の鎧は砕け散って、上半身を晒している。胸にも大きく焼け焦げた傷痕。

約束された勝利の剣(エクスカリバー)』によるもの。

 

左肩から右脇――それは偶然にも、文と全く同じ位置だった。

……もしかしたら、それがセイバーの最も得意な剣の振り方かもしれない。

それなら文はギルガメッシュが現れるまで、彼女に手加減はされてなかった。

何の慰めにもならないが、どうしてか目の奥が熱くなる。

だが、男はそんなダメージを感じさせないように悠然と歩いていた。

 

幸運だったのは、俺が先にギルガメッシュの存在に気づけたこと。

自分を探している相手がいるとは、思っていなかったのもあるだろう。

だとしても、相手は紛れもなく聖杯戦争最大のサーヴァント。

奇跡的と言える確率。こうなれば、考える時間も惜しい。

この千載一遇のチャンスを、無駄にするわけにはいかない。

ギルガメッシュに気づかれるより先に、先手を打ってみせる。

 

「…………」

 

足踏みから胴造り、弓構えの三節を取った。

文から託された、三本の矢の一本を手にする。

 

『矢羽には、私の羽根を使ってあります。見栄えはよくないですが、そこは我慢してください。私の残された魔力と時間の兼ね合いで三本が限界でした。うまく運用すれば、その三本で十分事足ります。……頑張ってください。応援してますよ、士郎さん』

 

彼女に残された片翼。その羽根から作られた矢。

込められた魔力が、指先にチリチリと伝わってくる。

矢を弓に番え、墨染めの矢羽を大きく引いていく。

ギルガメッシュまでの距離は、目測でおおよそ50メートル――。

28メートルの弓道の的と比べて、倍近くある距離だ。

それでも、俺なら決して外す距離ではない。

 

矢羽を強く掴み、背中を向けて闊歩するギルガメッシュの後頭部を狙う。

人間と同じ姿をした相手に矢を向けるのを、躊躇してはいけない。

躊躇えば、それだけ精度が落ちてしまう。

 

「――――ふ」

 

そして、矢を放った――。

今まで無風だったオフィス街に、強い風が吹く。

射法八節の最後――姿勢を保つ残心ができないほどの追い風。

例えるなら、大口径の拳銃を撃ったような反動だった。

 

秒速60メートル。それが本来の和弓によって放たれた矢の速度。

つまり50メートルの距離であれば、一秒未満で届く。

それでも余程の不意を突かない限り、サーヴァント相手では意味がない。

 

しかし、文によって作られた矢は違う。

 

『私の魔力と愛情が込められた烏天狗の矢です。ただの矢とは比べるまでもありません』

 

どんな飛び道具であっても、放たれた直後が最も速い。

弓、クロスボウ、スリング、銃――。

そのどれだって、初速度こそ一番のスピードが出る。

だが風を纏った文の矢は、放たれた直後から速度を増していった。

 

『以前、士郎さんはバーサーカー相手にとても上手く当てました。弓に関しては結構な腕前をお持ちのようで、私も驚いたものです。……ふふ、とても格好良かったですよ。さて、そんなあなたの腕を見込んで次の標的は、ギルガメッシュです。総合的な力は比べるまでもなく、バーサーカーの方が上でしょう。筋力、耐久力、敏捷性、魔力の全てにおいて、バーサーカーがギルガメッシュに勝ります』

 

音の壁も越えた矢じり。

更に加速して、男の頭部へと吸い込まれていく。

息を飲むどころか、瞬きすらも許さないスピード。

 

『冷静になって、士郎さんの最善と思えるタイミングで矢を放ってください。そうすれば――』

 

ギルガメッシュが俺に気づくより先に、後頭部を狙えるという運を味方につけた。

『矢が中る』というイメージを自分に重ねて、最高のタイミングで矢を放つこともできた。

こんなチャンス、もう二度とないだろう。だが。

 

『間違いなく、当たりませんから』

 

男の頭を撃ち抜く直前――。

身を翻したギルガメッシュの側面を矢が通過して、オフィスビルが浮かぶ闇へと飲まれた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

64.追う男、追われる男

 

 

新都のオフィス街に硬質な音が響く。

ギルガメッシュが避けた矢が、ビルの壁面に刺さった音だった。

必中だと思った矢は、射命丸文の予言通り失敗に終わる。

 

俺は『中る』とイメージして放った矢を、これまで一度だって外したことがない。

しかも今の矢は文の特製のものであり、音速を超えるスピードが出ていた。

そうであっても、ギルガメッシュ相手には何の意味もなかった。

人間では、絶対にあり得ない反応速度。

サーヴァントと呼ばれる存在は、根本的に人間とのステージが違っている。

同じ舞台には、決して立てない存在なのだと理解してしまう。

 

そしてギルガメッシュが振り返り、気怠そうに揺れる深紅の半眼が俺を捉えた。

 

「……貴様か、雑種」

 

ギルガメッシュとの距離は、十分に離れている。

50メートル――。

それなのに、どうして俺まで声が届くんだ……?

 

「我に一矢報いようとでもしたのか? ……笑わせるなよ。この身はアーチャーを冠するサーヴァントだ。いくら不意を突こうとも、雑種如きの矢が当たるはずもないわ」

 

今はまだ反撃をする様子はない。

……予想した通り、ギルガメッシュは俺を敵として見ていない。

それも当然に思えてしまう。いま俺はそれだけの相手の前にいる。

射命丸文とは、別種のプレッシャー。

彼女が人間の根源的な恐怖の象徴なら、あいつは存在するだけで他の全てを圧倒する。

……文を倒して、聖杯戦争を最後まで勝ち残ったセイバー。

そんな彼女を殺した、イレギュラーである8人目のサーヴァント。

古代メソポタミアの王。半神半人の暴君。人類最古の英雄王、ギルガメッシュ。

 

「我はこの上なく機嫌が悪い。だが、疾く自害すれば許してやらんでもない。…………これ以上、我に刃向かうようであれば、わかるよな?」

 

赤い瞳に射抜かれる。

それだけで、身体の自由を奪われてしまいそうだ。

だがここで怖じ気づくわけにはいかない。

圧倒的な存在感に飲み込まれないよう、肺の空気を入れ替えた。

悴みそうになった手に、血を通わせて強く握る。

……この身体は、思う通りに動いている。

なら大丈夫だ。俺は成すべきことを成すまで。

 

大きく息を吸い、二本目の矢を弓に番えた。

これで残された矢は一本だけ。

弓構えの作法もデタラメに、最速で男に向かって矢を放つ。

 

「フン、どこまでも愚かよ」

 

ギルガメッシュは気だるい表情のまま、眉一つ崩さない。

だが、風向きが変わるように殺意が俺に向けられる。

あいつが初めて見せた敵意。自らの死を容易く連想させてしまう。

これで、英雄王が俺を殺すのは確定した。

……ただの矢なら、ギルガメッシュに届く前に俺が殺されるだろう。

だがあの矢は、音を超えて対象を貫くもの。

 

矢が届くのを確認しない。

放った瞬間に後ろを振り返り、全力で走り出した。

結果はすでにわかっている。ギルガメッシュに矢は絶対に当たらない。

それは不意打ちの時点でわかっていたこと。

それでもあいつは、重傷を負っている。

いくらサーヴァントであっても、回避行動なしに反撃には移れない。

 

今はただ、目的の場所に向かって走る。

文の計画通りに進めるだけ。ギルガメッシュとの距離は、約50メートル。

サーヴァント相手にするのは、あまりにも短い距離。

それに、中距離戦を得意とするギルガメッシュ相手では格好の餌食だ。

 

闇雲に路地を走るだけでは、すぐに殺されてしまう。

ビルの合間を通るようにして、決して背中を見せない。

いくらギルガメッシュでも、オフィスビルごと俺を殺すのは骨が折れる。

あの傷なら、すぐには追いつけないはず。

 

俺を殺すために、追ってきているのは間違いない。

その証拠に、背後から感じる気配が徐々に濃くなっていく。

否応なくあいつが俺に近づいているのがわかる。

後ろを振り向く余裕はない。そのタイムロスが、俺の生死を決める。

 

目的地までは、そこまで遠くない。視界にずっと入っている。

疲労もピークに達していた。連日の疲れもある。

それよりも、後ろから伝わる緊張の影響が大きい。

英雄王と呼ばれる最強のサーヴァントが、俺を殺すために迫ってきてる。

これに勝る緊張など、この世には存在しない。

 

だけど、あと少し。あと少しだ。

 

 

 

 

目的地まで続く最後の道に入った時。

何者かに後ろから押されたように、背中に衝撃が走った。

 

「なんだ……?」

 

後ろを確認しようとしたが、身体が思うように動かない。

しかし、背中を確認しなくても原因は判明した。

豪華な装飾が施された刀身が、俺の脇腹を貫いていたからだ。

 

「――――!」

 

触れて確認するより先に、身体がつんのめるように転倒する。

これは……まずい……。

 

「う、ぐあああああああ…………!!」

 

転倒から数秒間遅れて、腹部から激痛が走った。

名刀の鋭さから刺された直後は痛みを感じずに、衝撃だけが伝わったのだ。

俺は人より我慢強いと自負していた。だが、そんな考えが一瞬で吹き飛んでしまう。

 

「ぐう、うううう……!」

 

覚悟を曖昧にさせる苦痛が、腹と背中の両方から襲ってくる。

苦痛に呻くが、内臓を無理やり押し上げられる気持ち悪さがこみ上げる。

口の中に、酸味の混じった血の味が広がっていく。

地面の上でのたうち回りたかったが、痛みのあまりにそれすらも叶わない。

 

「違う……今は、そんな場合じゃない……」

 

立ち上がろうとしたが、痛みと熱が増すだけで身体が動かない。

背後からコツコツと硬質の足音が近づいてくる。

間違いなく、ギルガメッシュだった。

 

ふざけるな……。

こんなところで寝転がっている場合じゃないのに……。

 

痛みが増す刃傷を無視して、前へ前へと進もうとする。

両腕を使って這うように移動しても、この程度の速度じゃ何の意味もない。

そうしているうちに、足音が俺のすぐ後ろで止まった。

 

「さて、下らぬ余興はここまでだ。……何を企もうとも、我に通じると思ったのか?」

 

振り向いて、確認するまでもない。

ギルガメッシュは、もう手の届く距離にいる。

……サーヴァントを出し抜こうなんて、甘い考えだった。

あいつからすれば、俺なんていつでも殺せた。

 

「――フン」

 

そして、俺の背中に刺さった剣を無造作に引き抜いた。

 

「……あああああ!!!!」

 

肉が更に裂けて、激痛に追い打ちが掛かった。

穴を塞ぐ栓が抜けて、アスファルトの地面を更に血で汚していく。

 

「雑種の血で我の至宝が汚れてしまったわ」

 

剣が抜けたおかげで、身動きだけは少しだけ取りやすくなった。

そこからなんとか上体だけ起こして、ギルガメッシュと対峙する。

 

「王に弓を引く不敬者を、ただ殺すのもつまらぬな。…………あの烏女はどうした? まさか貴様だけで我に歯向かおうとしたわけではあるまい?」

 

ギルガメッシュは、まだ文の居場所を察知できていない。

 

「……まあいい。あのような出来損ないなど、我自ら探すのも面倒だ。貴様を殺し、聖杯戦争を終わらせるとしよう」

 

血で濡れた切っ先を、俺の胸に向けた。

その剣をあと少し前に突き出せば、衛宮士郎の命は終わる。

 

「…………」

 

……俺は、こんなところで死ぬのか?

文から託された計画も、切嗣から託された理想も成し遂げないまま?

駄目だ! そんなのは絶対に駄目だ!

体は………この体は、もう動かないのか!

 

腹の傷を無視して、全身にありったけの力を込めた。

後でどうなろうと、知ったことではなかった。

ここで死んでしまえば、何もかも同じだ。

 

「う、く……! ああああ……!!」

 

手は動いた。足も動いた。

……ああ……なんだ……だったら、何も問題ないじゃないか!

両脚がこうして無事であるなら、立てない道理はない。

 

俺の目の前にはもう、新都センタービルが聳え立っている。

それなら、立ち上がらなければ――立ち上がらなければならない。

そうでないと、彼女の計画が水泡に帰してしまう。

失敗しても、文は恨まないと言ってくれた。

だけど、そんなことはどうでもよかった。

 

一度だけでもよかった。

俺はあの子に、射命丸文に認められたかった。

これまでずっと、俺の存在をつまらなくて、取るに足らない存在として見ていた。

出会った日から今に至るまで、その認識も大して変わってないだろう。

それは、痛いほどわかっている。言葉に出していたし、態度でもわかった。

 

だから俺は、射命丸文に――好きな女の子に、あっと言わせたかった。

そんな子供のように、みっともない感情。

だが、その感情が他の何よりも大きかった。

対等なパートナーとして、彼女の隣に立ちたい。

それが叶えられないのなら、俺は正義の味方になんて絶対になれない。

たった一度だけ。

あの子が、本心から驚く顔をたった一度でもいいから見たい。

それだけが、俺を動かす原動力になっている。

 

膝に力を入れて、アスファルトに足をつけた。

失血の影響で膝がガクガクと震える。硬い地面なのに少しも安定しない。

今にも崩れ落ちそうだ。

倒れて楽になれと、高ぶる精神に反して身体が警告する。

そんな身体からの抵抗にも無理やり抗って、膝へ力を込めていく。

腹に開いた穴から、粘度のある血が溢れた。

 

「ぐうううう……!」

 

だが立てた。

呼吸も定まらず、両腕も弛緩したように垂れているが、立てている。

それなら、文のところに行かなければ……。

 

「ほう。その傷で立ち上がるとはな。……さて、それでどうするつもりだ? 我は、貴様を殺すことに感慨なぞ一つもないぞ?」

 

立ち上がって初めて対峙する形になったが、ギルガメッシュは表情を崩さない。

言葉以上に、感情の揺らぎがない。

ギルガメッシュの剣の一振りによって、俺は何の抵抗もできずに死ぬ。

だがそんなことは、重要ではない。

これ以上は何も考えないで、俺は英雄王に背を向けた。それは逃げるためではない。

 

「はあ、はあ……」

 

こうして立って動ける以上、文の計画はまだ破綻してはいない。

俺は、その計画を遂行するだけ――。

 

「此度の聖杯戦争は、これにて仕舞いだ。ク――あまりにも下らぬ幕切れだったな、言峰よ」

 

すぐ背後から、自嘲的なギルガメッシュの言葉。

そして俺を殺すべく、英雄王が剣を振り上げるのを感じた。

 

 

 

 

今際の際になって、ふと疑問に思った。

ギルガメッシュは、文に気づいていなかった。

逆に彼女は、ギルガメッシュに気づいていないのか?

……いいや、そんな筈はない。

冬木を一望できる場所にいて、英雄王に気づかないはずがない。

だったら、今のこの状況も当然――。

 

疑問が氷解するのと同時に、馴染みのある風の力を感じた。

俺の頭上に突風が通過すると、背後からの金属の衝突音。

ギルガメッシュが俺を殺すために振り上げた剣が、弾き飛ばされて宙を舞った。

 

「ハ、そこか――!」

 

ギルガメッシュが、冬木センタービルの屋上へと視線を向けた。

ここから100メートルほど離れた、冬木で最も高いビルの屋上。

そこに、一人の少女の姿があった。

屋上の塔屋に立って、他者を見下した可愛げのない笑みを浮かべている。

指先をくいくいと動かし、ギルガメッシュを挑発した。

 

「この我を笑うとはな。死に損ないの化物めが」

 

ギルガメッシュに、初めて表情と呼ばれるものが生まれる。

直前まで殺そうとしていた俺の脇を通り過ぎて、ビルに向かって歩き出した。

 

「よかろう。このような結末に興が冷めていたところだ。ならば、この英雄王が直々に決着をつけてやろうではないか!」

 

それは、ただの独り言だった。俺に言ったわけではない。

俺には一瞥も与えず、何の関心も示さない。

小さくなっていく、男の背中。

どうやら首の皮一枚で、命が助かったようだった。

僅かに緊張が解けたが、そこに安堵はない。

 

「う、あ……」

 

腹の傷が痛む。

口から血と胃液が混じった味がして、吐きだしてしまいそうだ。

気が緩んだ瞬間に、気を失ってしまう。

失神して、この苦痛から一時でも解放されるのなら……。

そんな甘美な誘惑に負けそうになったが、それは俺自身が許さない。

 

今回、俺が文に頼まれたことは一つ。

『ギルガメッシュを冬木センタービルの屋上に連れて行く』というもの。

それ以上の詳細は聞かされていない。あとは何とかすると言われた。

こうして、あいつが自発的に目的地に向かった以上、俺の仕事は終わっている。

 

「文……」

 

ギルガメッシュはビルに侵入して、屋上に向かっているだろう。

 

「…………」

 

俺の身体は、自然と歩き出していた。

こんな場所で何もせずに、じっとしているなんてできない。

走ることは、不可能だった。

腹の傷を庇うように、文のいるビルに向かっていく。

呼吸が浅く、傷が焼き付くように熱い。

こんな無茶をしたところで、俺には何もできない。

こうして歩くのもやっとな状態。それで何ができるというのか。

だけど、歩くのをやめようとは思えない。

 

全てが終わる瞬間をただ待っているだけなんて、絶対にできなかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

65.天国に一番近い場所

 

 

壁に身体を預けながら、冬木センタービルの階段を上っていく。

当然だが、エレベーターは屋上まで続いていない。

 

「ハァ……ハァ……」

 

腹に穴が開いた状態で階段を上るのは、自殺行為だろう。

傷は腕で押さえているが、こんなのは焼け石に水でしかない。

今だって、指の隙間から熱い液体が滴っている。

それに反比例して、身体から熱が奪われているようだった。

 

最後の戦いを見届けたい。

遠坂に託されたセイバーのカルンウェナン。

その短剣は腰に差し、右手には最後の矢を握っている。

聖杯戦争の顛末を、この目に焼き付けたい。

それは、マスターとしての義務感からではない。

 

俺は聖杯戦争で、最初から最後まで蚊帳の外だった。

正義の味方になると誓ったあの日から、爺さんから教わった鍛錬を重ねてきた。

それが理想に通じる道だと、信じて疑わなかった。

その想いは、今だって変わらない。

だがその積み重ねたものは、聖杯戦争では大して役に立たなかった。

何もできない自分の力の無さが、悔しかった。泣きたくもなった。

それでも自分の意志によって、俺は最後まで前を向いて歩き続けたい。

報われなくてもいい。もう二度と、振り返りたくなかった。

 

 

そして、延々と続いた屋上までの階段を登りきる。

屋上の扉は、開いていた。

冬の冷たい風が鉄扉を、ギシギシと揺らしている。

扉の先――そこに、ギルガメッシュと射命丸文の二人がいた。

 

 

 

 

重たい身体を引きずって、戦場に足を踏み入れる。

センタービルの屋上は想像以上に広かったが、サーヴァントからしたらそうでもないだろう。

身を隠せるものは、俺の後ろにある塔屋ぐらいだ。

いま対峙している二人は、両名ともアーチャークラスのサーヴァント。

文にとっても、ギルガメッシュにとっても、端から端までが射程の範囲内。

 

恐怖は、すでに麻痺していた。

頭の中は、かつてなく冷静さを保っている。

ここにいるだけで、文の邪魔になるのはわかっている。

しかしギルガメッシュが、今になって俺を構うとは思えない。

屋上に現れた時点で、俺の存在に二人は気づいているはず。

それなのに文もギルガメッシュも、一度だって俺を視界に入れない。

あの二人にとって、俺はその程度の存在でしかなかった。

 

「王様。遠路はるばるお越しいただき、ありがとうございます。何のおもてなしもできませんが、寛いでいただけると幸いです」

 

文はへらへらと軽薄な笑みで、ギルガメッシュを迎えた。

口調はやけに丁寧だったが、俺には相手に対しての侮辱にしか聞こえない。

彼女の心と身体はとっくに限界なのに、青白い顔色のままいつもの自分を保っていた。

 

「なに、貴様のような矮小な存在に見下ろされるのは少々癪だったのでな」

 

少女の挑発めいた言葉に、ギルガメッシュもまた軽口で返す。

思えば、二人ともセイバーに傷を負わされている。

……剣の少女が、聖杯戦争を勝ち抜いたとしても不思議ではなかった。

だがこうして最後に立っているのは、射命丸文とギルガメッシュのアーチャーを冠した両名。

数値で計れる強さだけでは、聖杯戦争は決して勝ち残れない。

 

「あらま、見下していたのがばれていましたか。ですが、惨めに地を這う人間を見下すのは面白いものですよ。それがあなたのような高慢な男だと尚更です」

「囀るなよ、化物が。王とは、視界に入る全てを飲み込む者だ。故に高みに立つ責務がある。貴様のような空を飛ぶしか能がない羽虫に、到底理解が及ぶものではない」

「確かに理解できませんね。もっとも理解したくもありませんが。……それでは、人間の王様。とりあえず、あなたはここで死んでもらいます」

 

何でもないように、文はギルガメッシュに告げた。

 

「……聞くに堪えぬ冗談だな。我の機嫌を損ねれば、貴様など須臾の間に肉塊へ変えられるぞ」

「何を馬鹿なことを。初めからそのつもりだったでしょうに。今こうして私と話していることが想定外です」

「ふ……はははははは! そうだ! そうだったな! 出来損ないの下らぬ戯言に付き合うなど、我もどうやら感傷があるようだ!」

 

感傷――。

あの男が口に出すとは、到底思えない言葉だった。

それは、セイバーのことを言っているのか。

 

「ふむ。自ら手で殺した女性を想ってですか。その手のネタは低俗ではあるんですが、昔からウケはいいんですよね。ま、そんな大失恋のあとに恐縮ですが、そろそろ覚悟を決めてください」

「貴様が死ぬのは必定よ。なに、覚悟などは必要ない。貴様は羽虫のように死ぬだけだからな」

 

緊張が伝わってくる。

ギルガメッシュが文に向ける殺意は、俺に向けていたものと桁が違う。

人類最古の英雄王は、射命丸文を己の敵として見ていた。

 

「いざ尋常に勝負……と言いたいところですが、私の残された体力で長々と戦うと、その間にぽっくり逝ってしまいます」

 

それは、俺も懸念していた。

文は目前に死が迫っている。明らかに戦えるような状態ではない。

ただでさえ英雄に対しての相性が悪いのに、こんな正面から対峙している。

ギルガメッシュもまた大きな傷を負っているが、彼女と比べたら軽傷の範囲だろう。

タイムリミットの夜明けまで、もう数えるぐらいの時間しかない。

 

「我をこんなところまで呼び寄せたのだ。貴様に勝てる道理などないが、つまらなく逝ってくれるなよ」

 

怒気を孕んだ声色でギルガメッシュは警告するも、彼女は何処吹く風だった。

しかし、表情に嘲弄はなく真剣そのもの。

 

「勝負は一瞬です。それこそ須臾の間に終わらせてみせましょう。だから……全速でいかせてもらうわ」

 

唯一の武器であるヤツデの扇を投げ捨てて、少女は完全に無手になった。

残った片翼を限界まで広げると、上体を低くして前屈みになる。

……文の言った、全力ではなく『全速』。

その意味は、これまで彼女の戦いを見てきた俺には理解できてしまう。

 

「小細工は一切使わない。よーいどんの一直線。……それまでに私を殺してみなさい。そうできなきゃ――あなたが羽虫のように死ぬわよ?」

 

ギルガメッシュは、余裕を崩すことはない。

背後にはすでに、ギルガメッシュの宝具である『王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)』が展開されている。

無数の宝具が空間に浮かび、切っ先全てが文に向けられていた。

その数は、およそ100。

この150メートルのビルでも、更地になる威力があるだろう。

一つでも命中したら、それまで。

強がっているが、本当は立っているのもやっと。

彼女に、究極の毒である英雄の宝具を受ける体力は残されてない。

 

「では、逝け――」

 

そんな英雄王の号令よりも先に、文が動いた――。

 

一歩目が屋上の床を踏み抜いた瞬間、少女の姿は消えていた。

加速を後押しするような大きな風が吹く。実際に彼女が操っているのだろう。

 

それから少し遅れて『王の財宝』が、一斉に放たれた。

だが、遅い。遅すぎた。

本気になった射命丸文は、誰よりも何よりも速い。

速く。なおも速く。音速なんて、とっくに超えていた。

 

そして彼女は、射出された宝具のことごとくを回避する。

それが百の究極だろうが、当たらなければそれまでのもの。

衝撃波と爆音が、屋上に広がる。

塔屋を盾にした俺も、反射的に目と耳を塞いでしまう。

腹の傷から、内臓が飛び出しそうな衝撃が襲いかかった。

 

次に目を開いた時――。

天狗の少女が、英雄王の両腕を掴んでいた。

二人の体型は、大人と子供ぐらい違う。

そんな文の細腕が、ギルガメッシュを拘束する。

 

「な、に……!?」

「ねぇねぇ、見えた見えた? 見えないわよね」

 

頭がガンガンと響くが、二人の声はなんとか聞き取れた。

文は悪戯に成功した童女のような上目遣いで、ギルガメッシュを見上げている。

 

「これで私の力は、完全に枯渇した。もうそよ風だって起こせない。つまり私にはあなたを倒す術がない。だから付き合ってもらうわ。……なーに、当たりどころが良ければ一瞬です」

 

あどけなさを残した少女の笑みが、狂気を孕んだものに変貌した。

全身を使って、ギルガメッシュを腕ごと抱きしめる。

そのまま地面を強く蹴り、二人の身体が冬木の空に跳ね上がった。

 

「よもや、貴様……!!」

 

ギルガメッシュが、すべてを理解した。

……そして、俺もこれから文が何をするのか気づいた。気づいてしまった。

 

「まさか、そんな馬鹿なことを……!」

 

くそ! なんて間抜けだ! どうして気づけなかったんだ!

 

「文――ッ!! やめろ――ッ!!」

 

俺の言葉は、文にはもう届いていない。

激痛が走る腹の傷を無視して、彼女の元へ走る。

だがたった数メートルで、身体は自由を失って転倒してしまった。

起き上がろうとしたが、顔を上げるのが限界。

文は、顔と顔が触れるような距離で英雄王を拘束する。

ギルガメッシュから一切の余裕の消えて、明確な焦りを滲ませた。

少女は艶然と狂気を混ぜた笑みで、力の限り抱きつく。

ここまで密着していれば『王の財宝』を使おうとも、二人ともども貫いてしまう。

 

「痴れものが! その手を放せ!」

 

拘束から脱出しようとギルガメッシュは藻掻くも、天狗の怪力から抜け出せない。

 

「これが今の私にできる全てです。人を呪わば穴二つ。まあ、精々付き合ってくださいな」

 

二人の描く歪な放物線は、転落防止用のフェンスをあっさりと跳び超えて――。

そのまま呆気なく、ビルの外へと放り出された。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

66.地獄に一番近い場所

 

 

射命丸文の命は、間もなく終わろうとしていた。

 

少女は命を燃やし、英雄王を拘束した。

それは、崩壊を早める行為。

彼女を構成するすべてが、崩れていくのをはっきりと感じる。

意識を保つのも限界であり、記憶もはっきりとしない。

もはや、今やるべきことしか覚えていなかった。

倒したサーヴァント、幻想郷の記憶、今日の日付ですらわからない。

 

そんな状態でも、セイバーへの遺恨だけははっきりと覚えていた。

彼女に負けたこと。……それは構わない。

自身の千年が、彼のアーサー王に劣っていただけ。

悔しくないと言えば嘘になるが、そこに恨みはない。

しかし、セイバーは戦いに決着をつけなかった。

ギルガメッシュを前にして、射命丸文は完全に忘れ去られた。

 

セイバーはたった一度だけ、剣を振り下ろせばよかったのだ。

それだけで、幻想に生きる千年天狗に終焉を与えられた。

だが彼女はそれもせず、これまで文に向けていた剣を英雄王に向けた。

 

セイバーにとって、射命丸文はその程度の存在だった。

殺されてもいいと思った相手に、価値を認めらなかった。

一方的な快楽に酔っていただけ。ただの独り相撲。

情けないほどの道化だった。

命を懸けた殺し合いだったのに、相手はこちらを見ていなかったなんて。

笑おうにも、笑えなかった。

そんなのが、千年以上を生きた烏天狗の末路だとでも言うのか。

 

……ああ、絶対に許せるものか。

 

堰を切って溢れ出た、怨憎――。

制御できない怒りは、生まれて初めての経験だった。

過ぎた怒りは呪いとなって、自身に降りかかる。

心だけではなく、体までも浸食していく。

胸を開く傷は、決して癒えない。

セイバーの命を刈り取るまで、呪いは決して消えない。

じゅくじゅくと、気が狂ってしまいそうな激痛。

それが剣の少女を殺すまで、永遠に心と体を蝕み続ける。

 

だが、騎士王は死んでしまった。英雄王に殺されてしまった。

殺すべき相手は、すでに死んでいた。

だったら、セイバーを殺したギルガメッシュを殺す――。

それだけが、呪いを消し、胸の傷を癒す。

呪いが全身を喰い潰すより先に、射命丸文は英雄王を喰い殺す。

 

 

 

 

文とギルガメッシュは、冬木センタービルから落下していく。

二人の身体は、重心のある頭を地面に向けた。

逆さまに映る新都の夜景は、ヘンテコで現実感を失わせる。

東の空が微かに白み始めていた。夜明けがすぐそこまで来ていた。

長い夜が、間もなく終わろうとしている。

 

少女の身体の感覚は、殆どなかった。

ギルガメッシュを拘束して、動けなくさせている。

抱きしめる腕の感触も、あまり感じない。五感も限界にきている。

ただ普段は気にもならない風切り音が、やけに耳障りだった。

 

地面に到達するまでの、僅かな時間。

音速を超えて疾走する少女にとって、重力加速度による落下スピードなんて欠伸がでる。

だが、150メートルという高層ビル。

このまま頭から落下すれば、英雄や妖怪であっても無事で済むはずがない。

 

「おのれ……! このような……!」

 

ギルガメッシュは、拘束を解こうと今も藻掻き続ける。

しかし指一本であろうと、まともに使えない。

 

「ふふ……」

 

そんな男の慌てた様子を見て、文はくすりと笑った。

とても面白かったので、残った命を更に焼べて強く抱きしめる。

 

『自分の身体を拘束具にして身投げ』という、あまりにも馬鹿げた手段。

英雄王の対抗策としては、下から数えた方が早い下策も下策。

それが、今の文の全てだった。

万全の状態であれば、こんな馬鹿らしい手は絶対に使わない。

 

上手くやれば、ギルガメッシュだけをビルから落とせたかもしれない。

しかし、それでは何の意味もない。

この世の全ての財であるバビロニアの宝物庫を使えば、無傷で生還してしまう。

だから射命丸文は、ギルガメッシュを拘束する鎖となった。

保身を考えて、倒せる相手ではなかった。だから一切の損得を捨てる。

この行為に文が助かる要素は、どこにも含まれていない。

空を飛ぶどころか、風を起こす力も枯渇している。

つまり、ギルガメッシュを殺せても、彼女もまた命を散らす。

あと少しで、二人分の紅い花を盛大に咲かせるだろう。

 

死は、すぐそこだった。

 

天狗の少女は思う。

……怖くないと言えば、嘘になる。生に未練がないわけではない。

そもそも何のためにこの世界まで来たのか。それすらもよく思い出せない。

 

(たぶん、新聞を書いていた。でももうわかんないや)

 

この恨みを晴らさずに、生きていたいとも思えない。彼女は、あまりに長く生きすぎた。

少女の千年が、それを許さない。天狗としての挟持が、それを絶対に許さない。

万夫不当の英雄なぞ、死に損ないの妖怪に殺される間抜けだったと知らしめてやる。

 

地面まで残り半分――。

 

何もかも今更だった。この思考にも意味がない。

何秒か数えるだけで、そんな決意も含めて血と肉の塊に変わり果ててしまう。

死の覚悟はできているかどうか。こんな直前になっても曖昧のまま。

 

そんな中であっても、英雄王の足掻こうとする振る舞いに吹き出してしまう。

……ああ、つくづく自分は性格が悪い。

そんな些細な快楽のために、千年を生きた妖怪は死ねてしまう。

 

「こんな素敵な殿方の胸のなかで死ねるなんて! 私の一生もそう悪くなかったですね!」

 

なんとか声帯を震わせて、自分が拘束する男に精一杯おどけてみせた。

そんな言葉にギルガメッシュが憤怒に染まる。紅玉の瞳が殺意を彩らせる。

居竦まってしまうになるが、彼女はそれすらも楽しめた。

 

(最後の台詞としては面白くなかったかな。……あー、もうどうでもいいか)

 

ゆっくりと目を閉じて、最期の瞬間を待った。

 

 

 

 

「文ッ!! 文ッ!! ……くそ! ふざけるな!」

 

いくら大声で喚こうと、返事は返って来ない。

当たり前だ。今やセンタービルの屋上にいるのは俺だけ。

無様に転倒して、結局ここでも何もできなかった。

文が飛び降りた場所まで行こうにも、意志に反して身体はちっとも動かない。

 

「ぐ、ああぁ……!」

 

立ち上がろうとした瞬間、忘れようもない苦痛が腹部を襲う。

それも無視して、俺は立ち上がらなければならない。

……そもそも、今更下を見て何になる?

どう急いでも、文とギルガメッシュはとっくに地面へと到達している。

それがどういう意味なのか、誰であろうと理解できてしまう。

 

「うう……うぇ……」

 

凄惨な想像に胃酸が逆流し、血反吐と一緒に吐き出してしまった。

 

……違う違う。そんな場合じゃない。

実際に目にしていない以上、どんな想像だろうが当て推量でしかない。

可能性が僅かでも残っていれば、俺はそれを信じなきゃならない。

 

センタービル屋上の吹き荒む風に当てられて、身体が寒さに凍える。

それだけじゃない。

ここに来るまで血を流しすぎてしまった。吐き気と目眩が同時に襲ってくる。

こうやって意識を繋げているのも、腹の穴の激痛に助けられているようなもの。

行動に移そうにも、身体は少しだって動かない。起き上がれもしない。

それでも、腕の力だけで身体を捻って、何とか仰向けになる。

 

「はあ、はあ……」

 

……呼吸が安定しない。自発呼吸をする気力も失われつつある。

夜明けが目の前なのに、妙に周囲が暗かった。

白み始めた空がぼんやりとしか見えない。視力もおかしくなり始めていた。

冷たいコンクリートの床が、血を失った身体になぜか心地いい。

このまま起き上がらなければ、どれだけ楽なんだろうか……。

 

「う、ああああ……!」

 

だけどそれは、絶対にできない!

 

力を込めて、矢を握る。

俺にはまだ、文から託された矢が一本だけ残されている。

まともに弓を構えられるかも怪しい。

だが、この矢が存在するだけで俺に力を与えてくれる。

遠坂との約束も、果たしていない。

腰にあるカルンウェナンの感触も、ずっと感じていた。

俺にだって、まだできる何かがあるはず!

 

「くっ、あああああ……!!」

 

顔を上げる。

顔から首、首から肩、肩から腕、腕から腰、腰から脚――。

全身を、少しずつ動かしていく。

コンクリートの床に手を置いて、ゆっくりと確実に立ち上がる。

腹の痛みは、無視できるものではない。身じろぎする度に、視界が明滅した。

何度も堪え切れずに、崩れ落ちる。

 

「……か……はぁっ!」

 

それでも、立ち上がった。

膝から下がガクガクと笑い続けて、まともに制御できそうもない。

一瞬でも油断すれば、膝をついてしまう。

ここで倒れてしまえば、俺はもう二度と自力では起き上がれない。

一歩を踏み出すだけでも、頭がおかしくなりそうな苦痛。

歩くのもやっとだったが、気力だけは少しだって折れていない。

 

もし転んだとしても、起き上がれないとしても、その時は這ってでも前に進めばいい。

だから今は、一歩でも近く一秒でも早く――彼女の元に進む。

 

「………………待ってろ、文」

 

 

 

 

それは――射命丸文の不運か、それとも英雄王の強運か。

 

突風だった――。

これまで意のままに従えていた少女に、反旗を翻すような風。

そんな強風が、文とギルガメッシュを大きく揺らした。

地面に落下するだけだった二人の身体は、少女の背中からビルの壁面に衝突する。

 

「……ぐっ、ううう……!」

 

風に吹かれた時点で文は意識を覚醒させ、最悪のケースを想定した。

そのため、彼女の拘束はほんの一瞬しか緩んでいない。

だがそんな刹那であっても、サーヴァントからすれば十分な時間。

英雄王が見逃すはずがなかった。

 

それは天狗の少女にとって、致命的な一瞬。

腕の力が緩んだ瞬間、ギルガメッシュは拘束から両腕を引き抜く。

それと同時に解放された左腕には、一本の鎖が握られていた。

 

「――『天の鎖(エンキドゥ)』。我が友よ、このように使うことを暫し許せ」

 

天の鎖(エンキドゥ)』。

無限の宝具を持つギルガメッシュが、最も信頼を寄せる宝具。

かつての親友の名を冠した、神を律する天の鎖。

英雄王の鎖は、意志を持ったようにビルの窓を突き破り、内部の支柱に絡みつく。

落下の衝撃がギルガメッシュの腕に掛かったが、殆どは鎖が吸収してしまう。

 

上下逆さまだった二人の身体も元の位置に戻り、落下は未遂に終わった。

 

地面まで残すところ、70メートル――。

そのなかで起きた奇跡とも呼べる風。何者かの関与を疑いたくなる偶然だった。

射命丸文の命を溶かした拘束は、容易く解かれてしまった。

少女は今や、男の腰に縋り付くようにしがみ付くだけ。

飛行すら叶わない。手を離せば、今度こそおしまいだった。

 

形勢は、完全に逆転した。

ギルガメッシュは腕が自由であれば、いくらでも宝具を取り出せる。

偶然で片付けるには、あまりにも無慈悲で不平等な結末だった。

 

「……は、残念だったな。貴様如きに、よもやここまで追い込まれるとは思いもしなかったわ。その胆力だけは褒めてやる。下らぬ余興かと思ったが、存外楽しめたものだ。……だが、それも終わりよ。自らの下賤さを弁えながら、死ぬがいい」

 

ギルガメッシュの掲げた右手に握られていたのは、螺旋状の剣だった。

英雄王は、それをエアと呼んでいた。

数時間前にエクスカリバーを打ち破り、セイバーを殺害する切っ掛けになった英雄王だけの宝具。

円柱状の三つに分かれた刀身が音を立て回転し、強大な赤雷の魔力が剣に迸る。

 

「…………!」

 

戦場から離脱した文は、乖離剣エアを見ていない。

そうであっても、その用途は何となく察することはできる。

過剰なまでの魔力量からして、この場で使うのには不向きだと。

 

そんな推察通り、対界宝具であるエアは密着した距離で使う宝具ではない。

今にも弾けそうな魔力をそのまま解放すれば、担い手もろとも吹き飛んでしまう。

そこから導き出される結論。文の脳裏に浮かぶ最悪の想像。

 

「貴様の血で汚すにはあまりに過ぎた宝よ。だが、今宵散ったセイバーの手向けだ。――死に物狂いで泣き叫ぶがいい!」

 

最悪の想像は、現実のものになる。

少女の背中に、削岩機のように高速回転するエアが突き立てようとした。

 

「いや、いや……いやいやいや…………!!」

 

死に際の境地にあった少女も、この時だけは子供のように首を左右に振った。

恐怖に怯えて、涙すらも流した。

 

だが、英雄王に慈悲などなく――乖離剣が文の背中に触れた。

 

「あ、あああ! あ……!! ぎ……ぎやあああああぁああああぁ!!!」

 

鼓膜を大きく震わせる悲鳴だった。

声を出すのにも、体力を使っていたとは思えない絶叫。

それは千年を生きた天狗少女が、一度だって上げたことがないもの。

天狗としての矜持を誇った少女の顔が、醜く歪んでしまう。

普段の飄々とした彼女を知る者であれば、絶対に信じられない姿だった。

 

ギルガメッシュの視線の先。

少女の背中は乖離剣に掻き回されて、ミンチとしか形容しようのない有様だった。

バーサーカーにもがれた翼の傷も、どこにあったのか定かではない。

肉と骨が衣服を巻き込んでぐちゃぐちゃになり、過剰なまでの魔力は骨肉を焦がしていく。

人間よりも頑丈な妖怪であっても、少女の薄い胸など瞬く間に貫通するだろう。

 

……常人なら、吐き気を催す光景。

タンパク質を焦がす嫌な煙が上がっても、ギルガメッシュの瞳は冷酷さを宿したまま。

口端は上がり、この光景への愉悦を隠そうとしなかった。

 

 

 

 

少女の悲鳴が徐々に細くなり、ついには途切れた。

拷問以上の攻撃を受けて、英雄王を抱き締めていた腕の力が抜けていく。

 

「……フン、ようやく逝くか」

 

ギルガメッシュは、攻撃の手を止める。

 

文は、今も生きていた。

しかしそれは、本当に『生きている』だけ。

相性の悪いギルガメッシュに、乖離剣によって刺突された。

元々瀕死なのを考えれば、未だ生きていのも奇跡と言える。

病的なまでの執念が、命を繋いでいるのか。

しかし、それも限界に達していた。

胸の鼓動もあと何回か鳴らせば、その役割を永遠に終える。

 

「バケモノ風情にしては、よくここまで持ち堪えたものだ」

 

彼女は、口を微かに動かした。

端から見れば、とても言葉を話せる状態ではない。

それでも少女は、ゆっくりと口を開いた。

……ギルガメッシュの気まぐれが、今際の際の言葉を聞きたくなったのか。

英雄王は、射命丸文の最期の言葉を待った。

 

「…………」

 

文は、言葉を紡がない。

瞳孔は拡散して、生命の色を感じさせない。

赤い瞳には、もう何も映してはいなかった。

それでも、白痴のようにぽかんと口を開いている。

 

「………………………………」

 

それは、何かを伝えるための行為ではなかった。

いつの間にか、人の可動域を大きく超えて開かれた天狗の口――。

それは人の世の常識を、完全に逸している。

 

その時にはもう、英雄王の手首は天の鎖ごと――食い千切られていた。

 

「……なん、だ?」

 

鉄壁だった黄金の鎧は、エクスカリバーによって砕かれていた。

つまり、彼女の食事を邪魔するものは何もない。

機械で抉り取ったような、綺麗な半円。

それがギルガメッシュの手首に、ぽっかりと開いた。

 

「――――――」

 

天狗は異物である鎖の破片を吐き出すと、口に含んだ肉を咀嚼し始める。

くちゃくちゃと味わうように舌と歯で肉を転がし、時より骨を噛み砕く音。

存分に味わった後、喉の奧でソレを嚥下した。

 

なんてことはない。

妖怪は人を喰らうもの。だから人は妖怪を退治する。

それは古くから連綿と続く、人と妖怪との間に築かれた信頼関係――。

 

半神半人の血肉を取り込み、少女の顔に血の気が戻り始めていく。

 

「……あなたの肉は、お上品過ぎて私の口には合わないわね」

 

ギルガメッシュの左手首は、もはや皮一枚で繋がっているだけ。

骨や神経ごと食い破られてしまったため、もう使い物にはならない。

自らの肘を掴む角度でぶら下がった手首を、英雄王は自失したように見やる。

 

そして、かろうじて繋がっていた天の鎖が完全に千切れて、二人は再び落下する。

 

「貴様アァァァ――ッッ!!」

 

ギルガメッシュはエアを構えたが、空中が主戦場の文の動きはそれよりもずっと速い。

 

「……ああ、うるさいうるさい。ぴーぴー騒ぐな、ニンゲン風情」

 

天狗はエアの刺突をするりと躱すと、今度はギルガメッシュの喉元に喰らいつく。

妖怪の持つ凄まじい咬合力が英雄王の首を破壊し、発声器官と頸動脈を食い千切った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

67.午前6時13分

 

 

食い千切られた英雄王の首から、夥しい血液が噴き出した。

 

少女は全身にその熱い液体を浴びるも、気にする様子もない。

それどころか、妖艶とした表情を浮かべている。

手についた血に舌を這わせ、頬を紅潮させる艶姿は、見る者を倒錯させる。

 

英雄王の顔もまた、自らの血によって染まっていった。

出血を止めるため喉を押さえようとしたが、空を切るばかり。

何故なら左腕は、少女の腹の中に浮かんでいるから。

ぷらぷらと千切れかかった手首を、彼女は滑稽なものとして見ていた。

 

「……ガ、ハ……ゴッ!」

 

ギルガメッシュはパクパクと口を開けるが、言葉として成り立たない。

代わりに鮮血だけが、ゴボゴボと吐き出されていく。

声を発するのも叶わない。そのために必要な器官もまた、少女の腹のなか。

 

「あ、ははははははは――――ッ!!」

 

元凶である一体の妖怪は、腹を揺すって笑った。

本当に楽しそうに、見た目通りの子供のように、無邪気に笑った。

こんなのは品性がないし、自分の在り方から大きく逸脱している。

少女はそう思ってはいたが、胸から込み上げる感情を止められない。

心が、極端に残酷になっている。

砕け散った理性では、とても抑え切れない。

 

心の偏執。報復の履行。

人間を貶めて苦しめるのは、こんなにも気持ちがいい。

恨みつらみを晴らすのは、こんなにも気分がいい。

全身にゾクゾクとした快感が走る。

骨肉ごとグチャグチャにされた背中の痛みすら忘れてしまう。

圧倒的な快哉の奔流。

性行為すら比較にならない快感に、妖怪としての本能が満ちていく。

生きている実感というものを、存分に味わっている。

 

妖怪は精神生物だ。

人の常識では、測れない存在だ。

心に深刻なダメージを受ければ、それは妖怪を殺す。

逆に心が十分に満たされれば、それは身体の傷を治す。

人間の肉は妖怪にとって、栄養価が高いものではない。

人間を捕食するという行為そのものに、妖怪としての不変的な意味がある。

つまり妖怪を生かすも殺すも、結局は心の在り方でしかない。

 

射命丸文は今この瞬間のために、自分の千年は存在していたと錯覚してしまう。

極上の酒ですら味わえない酩酊感。それが少女を存分に酔わせている。

人類最古の英雄王であるギルガメッシュを言葉通り喰い殺した。

それで膨れぬ、腹と心はない。

 

決着はついた。

こうして喉を食い千切られれば、英雄王と言えど生きてはいられまい。

 

…………満足だ。

 

 

 

そして二人は、地上に叩き付けられた。

 

 

 

 

それは、水袋が破裂したような音だった。

 

人体は柔らかく、同時に硬くもある。

そんな肉と骨でできた混合物質であるが、大半は水分で構成されている。

70メートル近くの高さから落下すれば、人体なんて水袋と大差ない。

 

ギルガメッシュの抵抗によって、高度はビルの半分程度になった。

それでも人を殺すには、十分すぎる。

射命丸文は受け身も、飛行も、風を起こすことも許されない。

満身創痍の少女にとって、高度70メートルからの落下は、想像を絶する苦痛を生んだ。

 

 

「が、はっ……!」

 

肺腑から奇妙な音が漏れると同時に、血反吐を撒き散らす。

ギルガメッシュの血肉も喉元まで逆流したが、これは吐き出せない。

外に出してしまえば、それで彼女は終わりだ。

逆流する胃酸と一緒に血肉を飲み込み、無理やり胃袋に戻す。

落下の衝撃によって、酸素を取り込めない。呼吸ができない。

 

(苦しい、苦しい苦しい苦しい苦しい……!)

 

頭の中が、苦痛だけで満たされた。

内臓が、ぐちゃぐちゃに掻き回されている。

ほぼすべての臓器に、甚大なダメージを受けている。

眼球が破裂しかかっているのか、視界全てが赤い。目の前がチカチカと点滅している。

再び吐き気が襲ってきた。それもまたギリギリのところで飲み込む。

何とか呼吸をしようにも、喉からは蛙を踏み潰したような音が鳴るだけ。

 

(これは、ヤバいかも……)

 

気絶することも、死ぬことも許されない。

自らの不条理な頑丈さを呪ってしまう。

 

「~~~~ッッッ!!」

 

少し遅れて、手足からも激痛が襲ってくる。

どうにか動かそうと思っても、頭からの命令を受け付けてくれない。

……落下の衝撃によって、四肢が飛び散ってしまったのか?

そんな疑問が、脳裏に浮かんでしまう。

 

なんとか首を持ち上げて、自分の手足を確認する。

四肢は欠けずに存在していたが、決して無事とは言えなかった。

左手が、見慣れぬ方向へと曲がっていた。

特に右足が酷い。折れた脛骨が皮膚を突き破っている。

はみ出た骨が血に濡れて、ピンク色に染まっている。

そんな様子が、どこかおかしく感じてしまう。

損傷の度合いからして、足から地面に落ちたようだった。

 

 

「ふっ、ふっ……」

 

息を重ねようとする文の視界に、ギルガメッシュの姿が映った。

男はそう遠くないところで倒れていた。少女とは逆の、うつ伏せの状態。

食い破った喉を中心に、鮮血が舗装路に広がっていく。

 

……頸動脈ごと喉を喰らった。その時点で死んでもおかしくない。

追い打ちのように、彼女と同じ高さからも落下している。

 

生きているはずがない――。

生きているはずがないのに、どうして乖離剣を地面に突き立てている……?

使い物にならない左腕も使って、どうして起き上がろうとしている……?

 

……そもそも、呼吸はできているのか?

呼吸器官は、首から逆流した血によって満たされている。

つまり、自分の血で溺れている状態だ。

それなのに、ギルガメッシュは立ち上がろうとしていた。

あり得ない。

だがそんなあり得ない奇跡を成し遂げるから、英雄は英雄と呼ばれるのではないのか?

 

「――――」

 

ギルガメッシュの顔は、文以上に蒼白だった。

表情筋がすでに機能してないのか、感情は掴めない。

それでも赤い瞳は少女を完全に見据えており、熱量を失ってはいなかった。

 

大量出血、呼吸障害、筋肉の弛緩、微弱な痙攣――。

エクスカリバーによる裂創も常人であれば、絶命するもの。

死んでなければおかしい。意識があるのも信じられない。

決して折れない黄金の精神は、生理現象すら跳ねのけるのか。

 

「…………」

 

こんな状況なのに、文は痛みを忘れて感心してしまった。

紛れもなく、ギルガメッシュは全てのサーヴァントを凌駕するサーヴァントだ。

英雄の中の英雄。まさに英雄王の名に相応しい。

あり方は人間とは比較にならない。比べるのも烏滸がましい。

精神的な発展を遂げた幻想郷に住む人妖含めて、これほどの魂の持ち主はいない。

 

そして、ギルガメッシュは立ち上がった。

折れた足を引きずって、文に歩み寄る。確実に殺すために。

男のように、少女は立ち上がれない。

右足が開放骨折している以上、物理的に不可能だった。

まともに動けず、何もできない。王による裁定の時を待つだけ。

 

ギルガメッシュは、少女の目の前で歩みを止めた。

発声器官を失っており、言葉を話せない。

そのため、瞳が雄弁に語る。

 

『貴様の負けだ』と――。

 

今度こそ悠長に眺めずに、英雄王は乖離剣を構えた。

左腕と喉を食われて、高所から落下しても手放さなかった乖離剣エア。

宝具の解放は、もう不可能だ。

しかしその刀身は王の期待に応えるように、回転を続けていた。

 

「今更、負けるかよ」

 

文は、そう憎々しげに吐き捨てた。

四肢で無事なのは、右腕と左脚だけ。魔力枯渇でそよ風すらも起こせない。

つまり、彼女は何もできない。

 

ギルガメッシュは、文の心臓に乖離剣を振り下ろした。

 

その時、少女は笑っていた。

それは、諦観から来るものではない。

とても嬉しそうに笑っていた。

実は、頬も少しだけ赤かったかもしれない。

 

さっきの言葉も、決して虚勢ではなかった。

射命丸文は、気づいていたから。

 

そして、少女の胸に乖離剣が届くよりも先に、一本の矢が英雄王の胸を貫いた。

 

 

 

 

出血を続ける腹の傷を押さえながら、なんとか冬木センタービルから抜け出した。

 

「ハァ、ハァハァ……」

 

呼吸も不規則で、全身に血液がちゃんと循環してないのがわかる。

エレベーターがなければ、間違いなく途中で倒れていた。

それよりも今は文の安否だ。地上に落ちた彼女を探さなければならない。

 

「いた……」

 

拍子抜けなほど、簡単に見つかった。

ビルの真下の舗装路に、文とギルガメッシュを発見した。

二人とも生きている。

どちらのものかも判断できない血で、全身を染めていた。

 

文もギルガメッシュも、酷い有様だった。

……地上に至るまで、何があったのかわからない。

高所から落ちただけでは説明できない傷も、互いに存在している。

だが二人の明暗は、はっきりとしていた。

倒れて身動きの取れない文に、ギルガメッシュが剣を持って近づいていく。

 

「…………!」

 

声を上げそうになったが、ギルガメッシュに気づかれてはいけない。

 

これまで使っていた弓は、腕で腹の傷を塞ぐために捨ててしまった。

だから、一から作り直さないといけない。

……こんな状態で、魔術を使えばどうなるかわからない。

だが、この矢を使うためにどうしても必要だった。

 

『――投影、開始(トレース・オン)…………!』

 

弓の投影に成功した。

魔術回路を開いていなかったら、確実に死んでいただろう。

 

「うぐ……」

 

激痛に耐えかねて、涙が流れたと思った。

頬を伝う液体を袖で拭くと、赤色をしていた。

無茶をした結果、目の奥の血管が切れたのかもしれない。

 

「…………ふぅ、ふぅ」

 

文の力が込められた矢。最後の一本。絶対に外すわけにはいかない。

弦を引くと、気が遠くなりそうな激痛が襲う。

それでも、痛みだけなら制御できる。

手先の震えが止まらず、視界もずっとぼんやりとしている。

ギルガメッシュの頭を狙う余裕はない。だから、次に急所の集まる箇所を狙う。

 

……外せない。外せば全てが終わってしまう。

 

頭は、どんな時だって冷静でなければならない。

熱くなれば、当たるものも当たらなくなる。

距離も大したことはない。15メートル程度だ。

万全なら、絶対に外す距離ではない。

これまで二度放った矢は、全てギルガメッシュに躱された。

深呼吸――。

数秒の間でも、呼吸の乱れを抑えなくてはならない。

 

狙いは定まった。後はもう弓を放つだけ。

この距離であれば、放つと同時に矢はギルガメッシュに到達する。

あいつが、文を殺そうとした瞬間を狙う。それがきっと最良のタイミングだ。

 

そして、ギルガメッシュが剣を振り下ろした。

矢を放つ――。

 

反動が射手である俺を襲ったが、何とか転倒せずに済んだ。

転べばそれまでだ。もう二度と起き上がれない。

そう安堵した時には、矢はギルガメッシュを貫いていた。

これまでの結果が嘘のように、呆気なく矢は胸の中心に命中した。

 

「やった……!」

 

文によって強化された矢は、ギルガメッシュの身体を貫通する。

勢いを落とさずに、ビルの壁面に突き刺さった。

矢羽以外は、普通の矢と何ら変わらない。

それなのに、コンクリートの壁に半分以上めり込んでいた。

 

だが、ギルガメッシュは倒れなかった。

 

「うそ、だろ……」

 

胸の穴は、間違いなく急所を貫いている。

そのはずなのに、英雄王は生きていた。

耐久力の問題ではない。

心臓が破壊されている。死んでければおかしいのだ。

 

表情のない男の顔が、ゆらりと俺を捉えた。

 

「…………!」

 

英雄王には、喉というものが存在しなかった。

抉り取られた首から、骨が覗いている。

……それなのに、あの目の滾りはなんだ?

 

息が詰まる。殺されると思った。

それも束の間、ギルガメッシュは再び剣を構え直した。

焼き直しのように、少女に向かって剣を振り下ろそうとする。

矢はもうない。全て使ってしまった。

そうだとしても、このまま見過すなんて絶対にできない!

 

不要になった弓を捨てて、文の元に走る。

走っているとは到底言えない状態だ。歩いているのと変わらないスピード。

それなのに、腹の穴が今まで以上の悲鳴を上げている。

一歩進む度に、俺の命は確実に縮んでいく。

……だけど、それがなんだ。

彼女の命が助けられるのなら、俺はいつ死んでも構わない。

 

「間に、合わない……」

 

たったの15メートルの距離がどうしようもなく遠い。

 

文が死んでしまう……! 殺されてしまう……!

駄目だ駄目だ……! それだけは絶対に駄目だ……!

 

「文ーーッ!!」

 

ありったけの力で、少女の名前を呼ぶ。

それが何になる。名前を叫んでも意味はない。

 

ギルガメッシュの剣が、突き立てられた。

目は絶対に背けない。

これで彼女が死んでしまうのなら、それは俺の責任だ。

 

「…………!!」

 

文は寝返りを打つように身を翻し、刺突をかろうじて避けた。

今まで少女がいた舗装路が、粉々に破壊されている。

あんなものを喰らえば、間違いなく命を落としてしまう。

 

俺は、無意識のうちに腰にあった短剣を握っていた。

遠坂から託された、セイバーのカルンウェナン。

この短剣は、この瞬間のためにあったのだろう。

 

「う……く……!」

 

ギルガメッシュは、文の胸を踏む。

これでもう、彼女は身動きが取れなくなってしまった。

 

だけど、あと少し。あと少しだ!

文がギルガメッシュの攻撃を躱してくれたおかげで、何とか間に合う!

俺がこんなに近くにいても、あいつは文から目を離さない。

この男も余裕がないのだ。これなら俺でも――。

 

「――――!?」

 

強い衝撃の後、気づけば地面に倒れていた。

 

………………何が起きたのか理解できない。

ただ俺は文と同じように地面の上に転がっていた。

……平衡感覚を失っている。

起き上がろうとしても、地面がどこにあるのかもわからない。

 

頭がどうしようもないくらい痛い。吐き気が止まらない。

側頭部に生暖かい感触。

手を伸ばすと、頭がぱっくりと割れていた。

ギルガメッシュの間合に入った瞬間、薙ぎ払いを受けたのだ。

剣の側面に刃は付いておらず、鈍器で強打されたのと同じ状態だった。

 

これは……やばい……。

意識が……意識が、急激に遠のいていく。

 

「あ……うあ……」

 

目の前にいる少女の名前を呼ぼうとしたが、言葉にならなかった。

視界が急激に狭くなって、目の前が暗くなっていく。

意識を失う。文の顔を一瞬だけでもいいから見たかった。

 

そうする理由は何なのか。後悔、憐憫、同情、贖罪、自己嫌悪……。

どんな理由をつけても、不甲斐ない自分を納得させる材料にもならない。

ギルガメッシュは、俺など見ていない。

今の攻撃も纏わりつく虫を払う程度のもの。現に俺は、抵抗もできずにこの有様。

 

英雄王の剣が振り下ろされる――。

それなのに少女は、ギルガメッシュではなく……俺を、俺の目を見ていた。

でも何も浮かばない。意識が飛ぼうとしている。

 

「最後に格好いいところ見せなさい! 正義の味方!」

 

そう彼女は、言った。

その直後、英雄王の剣が少女に突き立てられた。

 

「…………ッッ!!」

 

文は咄嗟に右腕を使って、急所だけを庇った。

 

しかし、高速回転する刀身には殆ど無意味だった。

彼女の腕は、たちまち細切れにされていく。余計に苦しむだけの抵抗。

悲鳴は上げない。歯を食い縛り、一秒でも長く身を削って防ぐ。

それはかつて『この右手が残っている限り大丈夫』と言った記者の腕だった。

 

正義の味方。

それは、一瞬も忘れなかった、爺さんとの盟約。

生涯を捧げると誓った、俺自身の夢。

 

熱が入った――。

ああ、わかっている……。わかっているさ!

だったら、こんな時に何を呑気に眠ろうとしているんだ!

ここで好きな女の子すら守れなくて、何が正義の味方だ!

 

……セイバーのカルンウェナンは、今も握られている。

気絶なんて、ただの防衛本能だ。

それなら本能に抗って、身体を起こせばいい。

虚脱感と苦痛が全身を蝕む。いま死んだって構わない。

 

下肢に力を込めるが、膝から下の感覚が無く動かない。

それなら上体だけ起こす。膝立ちになって、両手で短剣を持つ。

 

「うあああ――ッ!!」

 

倒れ込むように、カルンウェナンを英雄王の腹に突き刺した――。

 

「…………!!」

 

腹に刺した短剣は、複数の重要器官を破壊しているはず。

 

その直後、ギルガメッシュの手首のない左腕が、俺の身体を撥ね飛ばした。

サーヴァントの膂力によって、再び地面に倒されてしまう。

 

「…………」

 

だが、ギルガメッシュは倒れない。

一歩二歩と後ずさったが、黄金の男は倒れない。死んでいない。

不死身の化物と戦っているような錯覚。

宝具によって、命を再生するバーサーカーの方がまだ理解できる。

英雄王は、己の精神力だけで持ち堪えている。理解を完全に超えていた。

 

そしてギルガメッシュが、文にとどめを刺そうとした時――。

 

「えい」

 

仰臥の状態で放たれた少女の蹴りが、腹に刺さった短剣を押し込んだ。

 

たったそれだけで、ギルガメッシュの動きが止まる。

ゴボゴボという奇妙な音と共に、喉と口から気泡混じりの血が流れた。

文は足に力を込める。

より体内深くに押し込まれた短剣は背中を突き破って、切っ先を朝日に晒した。

 

そしてギルガメッシュが、ついに膝をつく。

 

「――――」

 

言葉は遺さない。

前のめりに倒れると、英雄王の身体は暁の空に散った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

68.暁の空を迎えて

 

 

「……お、わっ……た?」

 

声帯を震わせたが、それは言葉にならなかった。

俺の身体は、もう限界だった。

寝そべったまま、起き上がれそうもない。

指一つ動かそうとしただけで、体中から激痛が走る。

 

「ええ。間違いなくギルガメッシュを倒しました」

 

そんな不明瞭な言葉に、文が淀みなく答えてくれた。

少女の身体もまた、目を覆いたくなる状態だ。

それでも赤い瞳には、しっかりと命の色が灯っている。

 

それに、心配なのは身体だけの話じゃない。

 

「…………文は、もう……大丈夫……か?」

 

戦いの前に言っていた『精神の死』は、これで回避できたのか。

妖怪を死に至らせる、英雄の傷。

ギルガメッシュを倒さないと、夜明け頃に死んでしまうと言っていた。

 

そして、夜はもう明けている。

 

「はい――おかげ様で。私の心は、十全に満たされました」

 

にんまりと、それでいてどこか得意げな笑みを俺に向ける。

文らしい表情だった。

……正直に言えば、少々憎らしく感じる時もある。

だが、射命丸文という烏天狗の少女には、とてもよく似合っていた。

本人には決して言えないが、誰よりも好きな顔だった。

 

……ああ、よかった。安心した。

 

ギルガメッシュを倒し、射命丸文を救ったのは紛れもなく彼女自身だ。

だけど多少は俺も、役に立てたかもしれない。

これまで何一つとして、彼女の力になれなかった。

しかし、ギルガメッシュをセンタービルに誘導して、文字通り一矢報いた。

その結果、文の命が救われた。

手放しで喜べない理由はない。誇りにだって思う。

 

その少女が倒した最後のサーヴァント。

英雄王の消滅は、実感が持てないぐらい呆気ないものだった。

ギルガメッシュは致命傷を負っても、何度も立ち上がって攻撃を仕掛けてきた。

『精神は肉体を凌駕する』というどこかで聞いた言葉。

その体現が、ここにあった。

だがそんな男も、文のなんてことのない一撃で命を落とす。

壮絶と呼べる戦いの連続だった聖杯戦争も、最後だけはあっさりとしていた。

 

「…………」

 

ギルガメッシュの消滅した場所には、カルンウェナンだけが残されている。

男がいた痕跡は、どこにもない。受肉した肉体もまた、分解されたのだろうか。

 

セイバー召喚の触媒となった短剣。

『ギルガメッシュの最期をセイバーに見せる』と遠坂と約束をした。

そして、そのカルンウェナンこそが、ギルガメッシュを倒す決め手となった。

この短剣がなければ、あいつを倒せなかったかもしれない。

……約束とは少し違う形になったが、そこは大目に見てもらおう。

 

これでもう、聖杯戦争は終わりを迎えた。

ライダー、アサシン、ランサー、キャスター、バーサーカー、セイバー。

そして、本来あり得ないはずの8人目のサーヴァント――ギルガメッシュ。

全てのサーヴァントは、アーチャーの射命丸文を除いて消失した。

 

聖杯戦争の終結。それは同時に、俺たちの勝利を意味する。

冬木を巻き込んだ魔術師同士の馬鹿げた殺し合いは、これで終わりだ。

達成感やカタルシスは、何も感じない。

俺自身が大して関与していないのもあるが、決してそれだけではないだろう。

 

残されたものは、戦いを終わらせられた安堵感。

それと、障害が残ってもおかしくない傷だけ。

当然、生き残れたのは十分な成果だ。どこかで救われた命もあるはず。

 

……正義の味方は俺の理想であり、生涯覆りはしない。

今回の聖杯戦争でその在り方が、わかりやすく示されたのかもしれない。

何か得たものがあるかと言えば、納得という自己満足。

つまるところ、何もない。たった今、身をもって理解した。

感謝されるとか、物品を得るとか、そういった見返りは望んでいない。

かといって、自己犠牲なんて高尚なものでもない。

やりたいからやっているだけの、身勝手なエゴイズムだ。

 

ただ。

 

『最後に格好いいところ見せなさい! 正義の味方!』

 

最後に文から投げかけられた言葉が、胸のなかで燃えている。

……いいや、違う。

この感情は、胸の奥でずっと燻っていたもの。それが再燃したのだ。

 

十年前の聖杯戦争。

その大火災で負った火傷は、今も癒えていない。

唯一生き残った俺は、あの時からほんの少しずつその身を焼き続けていた。

それは、自覚ができない緩やかな熱。

いずれは全身を燃やし、この身を破滅という形で焼き尽くす。

そんな『正義の味方』の終着点は、もう決まっていた。

この理想を追いかける限り、自身の死という形でしか終わらない。

それでも切嗣から託された理想はとても綺麗なもので、間違いではなかった。

たとえ俺自身が紛いものであっても、信じるものが正しければそれでいい。

 

そう思えるだけで、振り返らずに前だけを見ていられる。この道を進んでいける。

 

 

 

 

意識が急激に遠のいていく。

 

原因は確認するまでもない。

全身に傷があり、特に腹と頭が酷い。

今もこうして命を繋げているのは、偶然とは思えない。

何か特別な理由があるはずだった。

しかしどうしてなのか、それは一生わからない気がした。

 

俺の身体は、横たわったまま動きそうもない。

血を流しすぎてしまった。すぐに止血をしないと命に関わる。

少しでも気を抜けば、意識は瞬く間に寸断されてしまう。

夜は明けたはずなのに、視界は暗くモザイクが掛かっている。

極度の貧血によって、視覚を狂わせているのか。

 

そんな曖昧な景色に映った少女の姿。

彼女の傷は、俺とは比較にならないもの。命に関わる傷を、いくつも負っている。

そんな状態なのに、もう座って休める程度に回復していた。

 

「さてと……」

 

ギルガメッシュを倒して、文が命を拾えたのは間違いない。

つい数時間前まで、死の淵にいた彼女と少しも姿が重ならない。

外傷は今の方がずっと酷いが、少女から感じる生気はまるで別人だった。

血色がよく、表情も明るい。

 

それでも全身に残された傷は、見ていられない。

背中は、特に凄惨だった。

唯一残った翼もぐちゃぐちゃになってしまっている。

右腕もまた英雄王の攻撃を防いだことで、形を保てていない。

新聞記者なのに、これではペンを握るのもままならない。

右脚からは骨がはみ出していたが――文が突然、その足を引っ張り始めた。

 

「ふ、くううぅぅ……!!」

 

余程の苦痛が伴うのか。らしくない呻き声を上げている。

しかし、脛骨があるべき場所に戻っていく。

左腕も折れていたはずなのに、いつの間にか治っていた。

信じられない光景だった。

英雄の攻撃に比べれば、落下によるダメージなんてその程度のものなのか。

そうしているうちに、彼女は立ち上がっていた。

ギルガメッシュが消滅して、五分も経っていなかった。

 

「英雄殺しの効果は凄いですね。普段の何倍も傷の治りが早いです。……それでも腕と背中は当分治りそうもないかな。自分じゃ見えないけど、背中は相当グロいことになってそう」

 

陰惨な内容とは裏腹に、口調はどこまでも軽い。

 

「ま、解毒は済んだし、後は時間が解決してくれるでしょう。……さて士郎さん、まだ意識ありますか?」

「…………」

 

口を動かそうにも、声帯を震わせる体力も残されてなかった。

まともな反応を示せない俺に、少女は目の前で手を振って眼球の動きを確認する。

 

「あー……これはヤバいですね。止血を済ませて、さっさと病院に連れて行きましょうか」

 

慣れた手つきで、俺の止血処置を済ませる。これで、死から遠のいたかもしれない。

……ああ、それなら意識を手放してもいいだろう。

 

「士郎さん、あなたはとても頑張りました。もう眠ってもいいですよ。意識を保たなければ、死んでしまうようなこともないでしょうし。……多分」

 

最後に不穏な言葉をぽつりと漏らしたが、ここは彼女に甘えてしまおう。

命を懸けた戦いは、もう終わった。心配するようなことは何もない……はず。

 

「……………………」

 

 

 

……いや、違う。待つんだ。

奇妙な引っかかりを覚えた。なんだ、この感じは。

 

サーヴァントは全て倒されて、聖杯戦争は終わった。

それは、間違いない。

だがこの聖杯戦争は、何を目的とした戦いだったのか。

その名が示すとおり、聖杯を手に入れるための戦いだった。

俺も文も、聖杯には興味はない。

だが勝ち残った以上、聖杯は何らかの形で顕在化するはず。

遠坂から、そう聞かされている。

 

……なら聖杯は、どこに顕れる?

俺たちの目の前に、いきなり顕れるものなのか?

そんな予兆はどこにもない。何かが間違っているのか?

 

そうだ。あいつは……遠坂はどこに行ったんだ? 

 

『思い違いだといいんだけど、気になることがあってね』

確かそう言っていた。それは何のことだ?

……それだけじゃない。

ギルガメッシュは、誰かの名前を口にしていた。

まだ大して時間も経っていなのに、それが誰だったのか思い出せない。

……胸騒ぎがする。これは決して、俺の思い過ごしではない。

一度気を抜いてしまったせいで、意識が底の見えない谷に転がるように落ちていく。

 

文に伝えなくては……。

途切れそうな視界で彼女を見ると、屈伸運動をしていた。

 

「そういえば、こんな時間に病院は開いているのかな? ここまで発達した社会だし、急患を受け入れるシステムがないとは思えないけど。……うーん、私もこんなんだし、他の人間に会うのは面倒かも。士郎さんを病院の入口に転がしておけば、誰か気づいてくれるかな?」

 

あんまりな言葉が聞こえるが、今はそれどころじゃない。

気を失う前に、どうにかしてメッセージを伝えなければ……!

 

「……ッ! ……!!」

 

声を出そうと必死に声帯を震わせたが、言葉にならなかった。

しかし俺の様子が普通じゃないと気づいたのか、文が屈伸を止めて俺の顔を覗き込んだ。

 

「……どうかしましたか?」

 

眉目を垂らして、本当に心配そうな少女の顔。

少し前までは、こんな顔は決して見せてくれなかった。

 

「…………ッガ、くぅ」

 

だがどうやっても、声が出ない。

視線を動かすのがやっとで、思考を伝える手段がない。

彼女は烏天狗であって、覚り妖怪ではない。

洞察力は優れていても、読心能力のない彼女に考えが伝わるはずがない。

それでも俺を汲んでくれようと、顎に手を置き思案を巡らせる。

 

「……あ、もしかして健康保険証の心配ですか!? あれがないと、治療費が馬鹿高くなるんでしたよね!?」

 

もう……駄目だ……意識が――。

 

「……そんなマスターの懐事情すらも心配するサーヴァント。超強いだけではなく、経済観念まで熟知した私って、どれだけ完璧な存在なんでしょうか!」

 

最後に見たのは、得意げにふんすと鼻を鳴らす烏天狗の姿だった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

69.射命丸文の後始末

 

 

「ま……人間じゃここが限界か」

 

衛宮士郎が意識を失ったのを確認すると、射命丸文は赤い瞳を鋭く細めた。

たったそれだけで、少女の印象が酷薄なものに変貌する。

 

「ふう」

 

士郎の身体は見た目以上に筋肉質だったが、軽々と持ち上げて肩に担ぐ。

10センチ以上の体格差があるため、どうしてもアンバランスな姿になってしまう。

 

朝の6時を過ぎて、段々と空が明るくなってきた。

少しずつだが、人の気配も感じる。

致死性の怪我を負った少年少女。少年に至っては、意識を失っている。

誰にも見られてはいけない。見つかると面倒になる。

羽はズタズタで空は飛べないが、それでも隠密行動は得意だった。

蒙昧な人の目など、容易に搔い潜れる。

救急医療機関は、新都内に存在している。そう遠くもない。

 

「では、行きますか」

 

そう呟いた瞬間、少女の姿は冬センタービル正面から消えていた。

 

 

少々乱暴な運び方だったが、文は病院に士郎を届けた。

無事に届けたわけではない。

宣言通り、病院のエントランスに放置しただけ。

ただ身元がわかるように、気絶した士郎の上に身分証入りの財布を置いた。

傷だらけで倒れている少年。遠目からでも目立つ存在だ。

 

「……ちょっと心配だけど、無視されることはないわよね」

 

もっとも、ただの事故では片付けられない傷がある。

意識が回復した後は、警察からの尋問で忙しくなるだろう。

しかしそれは、文の関知することではない。今の彼女は、その程度には優しくない。

これで自由になった。やるべきことはまだある。

 

「さてと――面倒だけど、最後の後始末をしますか」

 

次の目的地も、同じ新都にあった。

同じ地域ではあるが、郊外に位置するため往来の良い場所ではない。

小高い丘の上に立つ教会。

聖杯戦争の監督役である言峰綺礼の住む冬木教会が、最後の目的地だった。

 

 

 

 

良質のオーク材で作られた重厚な扉。

聖杯戦争の初日。かつて訪れた時とは状況が違う。

律儀にノックなんてしない。

鍵は掛かってないかもしれないが、確認するのも面倒なので蹴り破る。

 

「おっはよーございますー! 清く正しく、そして聖杯戦争の勝者である射命丸ですー!」

 

明朗快活な声が、教会に響き渡る。

そして、屋内の様子は文の想像以上の有様だった。

神事を執り行う場所では、絶対にあってはならない光景。

 

薄暗い壁に飛び散る、真新しい血液。

入り口から中央奥、祭壇の前にいる長身の男。

その傍らに倒れた二人の少女。

 

「…………」

 

鮮度の良い血の匂いが、烏天狗の胃袋を刺激する。

くうくうと鳴る空腹感。

ギルガメッシュの血肉を喰らったせいで、理性どころか意識も酷薄になっている。

高位の妖怪として、行きすぎた感覚だった。

これでは、本能で生きる獣と変わらない。自重しなければ。

 

「……中年男の足下に、年端のいかない少女が二人。ふむ。一面を飾ってもおかしくないネタですが、生憎今日の私はカメラを持ってきていません」

 

初めて会った時と変わらぬ態度で佇む、言峰綺礼の姿。

闖入者である射命丸文を見ても、何の動揺も見せない。

そんな人並みの感情を感じさせない姿は、屍蝋を彷彿とさせた。

 

倒れた少女の一人は、数時間前に顔を合わせたばかりの遠坂凛。

赤い服の上からでもわかる血の染み。方法は不明だが、腹部を的確に抉られている。

返り血を浴びた姿を見るに、下手人は綺礼で間違いないだろう。

彼女のような聖杯戦争を戦い抜ける強かな魔術師に、無傷で傷を負わせている。

言峰綺礼は、相当な戦闘力を有していると考えていいかもしれない。

 

彼女は長椅子に寄り掛かり、傷を押さえている。意識は失っていない。

出血は激しかったが、すぐに死んでしまう類の傷ではなかった。

 

「あんた……? どうしてここに……?」

 

文の突然の襲来に、驚きを隠せないようだった。

 

「ふむ、凛はしゃべれる程度には元気みたいね。……カメラといえば、あのデジカメほしかったなー。それだけは心残りかも」

 

必死に声を絞り出した凛を適当にあしらうと、もう一人の倒れた少女を見る。

 

「…………!」

 

幻肢痛――失ったはずの片翼が疼いた。

 

「……イリヤさん?」

 

もう一人の少女。

それは、バーサーカーのマスターであるイリヤスフィールだった。

気を失っているが、遠坂と違って外傷は見当たらない。

 

しかしどうにも様子がおかしい。

姿形は人間と同じもの。だが――これは本当に人間なのか。

人の因子は、間違いなく持っている。

だが溢れる魔力が、常軌を逸していた。

こうして知覚できる範囲でも、一人の人間の抱えられるような魔力量ではない。

人ではなく、魔力で満たされた広大なプールを見ているようだった。

 

(…………??)

 

射命丸文は、魔術についての見識は深くない。

彼女をこの世界に送った魔女なら容易く看破できるだろうが、それは無意味な仮定。

これ以上考えても詮無いと判断し、本来の目的である男に視線を戻した。

 

「改めまして、おはようございます! 素晴らしい朝ですね!」

 

軽く手を挙げて、挨拶をする。

その右手は、ミキサーへ突っ込んだようにボロボロだった。

 

「ふっ……本来であれば、よくきたとでも言うべきだろう。しかし、今は状況が悪いようだ。何故ここを訪れた?」

 

傷だらけの手をあえて見せたのは、からかい程度の脅しだったが、男は眉一つ動かさない。

少しも意に介さず、淡々と自身の疑問を告げた。

 

「聖杯戦争に勝ち残ったので、聖杯を受け取りに来ました」

 

これは、男にとってアキレス腱とも言える質問のはず。

僅かな表情の変化でも見逃さないよう、文は綺礼の顔を凝視する。

 

「……ほう。聖杯がここにあると思ったのかね?」

 

それも無駄に終わってしまう。男には何の変化も見られなかった。

これ以上の脅しや牽制は、言峰綺礼に意味はないだろう。

 

「…………」

 

片や遠坂凛は、気まずそうに目を逸らしていた。露骨に文の右手を見ないようにしている。

ここまでの荒事には、免疫がないのだろうか。年相応の少女の反応だった。

 

「あはは」

 

あまりの愛らしさに口角が上がりそうになったが、寸前のところで抑える。

 

(……嗜好が露悪に傾いている。もう少し美意識を持たないと)

 

壊れた理性に人喰い――。彼女は、体裁というものを失っていた。

血の匂いを嗅いだ時の高ぶりも含めて、まともとは言えない精神状態。

セイバーと戦っていた際の高ぶりとも違う。あの時と違って、今の彼女は極めて冷静だった。

 

射命丸文はもはや、かつての自分を再現しているだけに過ぎなかった。

 

「あなたは前々から怪しいと思ってましたからね。聖杯を掠め取っても不思議じゃありません。……そしたら、こんな素敵な光景が広がってるじゃないですか!」

「私としても、教会を血で汚すような真似はしたくなかったのだがね。凛の訪問がなければ、すでに聖杯の力を行使していただろう」

「おや、すんなりと自白した。……しかし、その聖杯はどこに?」

 

てっきり白を切ると思っていただけに、少々鼻白んでしまう。

 

「君が気づいていないだけで、あらゆる奇跡を可能とする願望器はすでに顕在化しているのだよ」

「はい? 私は聖杯戦争の勝者なんですけど、そんなものはどこにも顕れませんでしたよ?」

「目聡そうに見えて、意外と鈍いのだな。……君の目の前にいるアインツベルンの少女こそが、此度の聖杯だ」

 

文は言われて、ようやく気づく。

イリヤスフィールこそが、聖杯そのもの。

これで、彼女が抱える膨大な魔力に納得ができた。

聖杯戦争――。

聖杯がその名の通り、杯である必要はない。

幻想郷に住みながら、固定観念や常識に囚われていた。

 

「それにしても、やけにべらべらと喋りますね」

「……おまえは私を殺しに来たのだろう? 私が何を言おうが、その意志は変わらないと思ったのでね」

「へえ――そういうのわかるものなんですか。おくびにも出してないつもりでしたが」

「クク。神の家を蹴破りながらよく言うものだな。……今日まで聖職者として生きてきたのだ。他者の心も判らずに告解など聞けぬよ」

「ごもっとも」

 

今や射命丸文の存在は、人間社会における悪そのものだった。

苦痛と不幸に、幸福と喜びを見出してしまう。

人間の苦しむ姿を見るのが、楽しくて仕方がない。

それを自分の手でやれば、もっと楽しいだろう。

 

「……………………」

 

……だから何としても、元の自分を保たないといけない。

そうじゃないと、きっと取り返しのつかないことをしてしまう。

それは困る。とても困る。

人間がどうなろうと知ったことではないが……彼を、衛宮士郎を悲しませたくない。

 

「……ところで、君一人かね。衛宮士郎の姿が見えないようだが」

 

会話が途切れたところで、綺礼がそう尋ねる。

強く観察してないとわからなかったが、語調にも変化があった。

 

「彼ならもうリタイアです。今ごろ集中治療室でしょう」

「そうか、それは残念だ。この状況で衛宮切嗣の息子に会っておきたかったが。……まあいい。それでアーチャー。貴様はどうする?」

「あなたが何をしようが、私の知ったことじゃありません。ですけど、士郎さんに義理立てする程度には世話になってますからね。悪いけど、ここで完全に死んでもらいます」

 

ここで初めて、男は表情らしきものを浮かべた。

 

「……『完全に』か。ふっ、言い得て妙な言葉だ。……だがこの仮初めの命が動く限り、抵抗はさせてもらおう――」

 

いつの間にか綺礼の手には、幾つもの剣が握られていた。

その指の間に挟むようにして構える剣は、黒鍵と呼ばれるもの。

聖堂教会に所属する代行者の正式武装であり、刃渡りは1メートルにも満たない。

斬ることには向かず、投擲を主とした概念武装。

 

文の位置は、投擲武器を武装した言峰には絶好の間合。

だが少女は、黒鍵を見ても構えようともしない。赤い瞳は、男の顔だけを捉えていた。

 

「あんた、ボロボロじゃない。そんなんで大丈夫なの……?」

 

凛の言うとおり、ギルガメッシュ戦での傷は少しも癒えていない。

今の文は、幻想郷最速と言われた頃の面影はない。空だって飛べないまま。

 

「息も絶え絶えな凛には言われたくない言葉ですね。…………ま、いま出せる実力は、ざっと見積もって絶好調時の5パーセントほどですけど。人間相手ならラクショーでしょう」

「綺礼を甘く見ないで……! 私の兄弟子でもあるし、異端狩りのエリートである埋葬機関の代行者なのよ……! あんたが思っているほど、一筋縄でいく相手じゃないわ……!」

 

気の抜けた文の言葉とは違って、凛の声色は怒りすら感じる。

 

「ふーん。……で、その大層な経歴の神父さんは私に勝てるつもりなんです?」

 

言峰綺礼を見る天狗の瞳が、突き刺すように細められる。

 

「……代行者が生半可な覚悟で黒鍵を執ることはない。我らができるのは、常に自身の行為を是とするだけだ」

「はあ、そうですか」

 

言峰は姿勢を低く構えると、両の手に持つ黒鍵を少女に向けた。

 

「今まで私は退治される側だったけど、あなたたちは私に喰われる側。……そこのところを理解してます? これは理屈じゃない、もっと単純な本能の話。……こんな台詞、三下の雑魚が言うものだけど、今回だけは言わせてもらうわ」

 

彼女の言葉と同時に、黒衣の男は黒鍵を投擲した――。

 

8本の剣の矢が、少女を狙う。

ある程度の広さのある教会でも、戦闘をする空間ではない。

均一に備え付けられた長椅子も、行動範囲を狭めている。

高速で飛来する剣の群を前に、未だ少女は男を睥睨したまま動かない。

 

……文の前にいるのは、人間だった。

これまで戦った英霊とは違う。魔を滅ぼし、歴史に名前を残すような英雄英傑ではない。

極限まで鍛え上げた、ただの人間。

これは、人間が妖怪と平等に戦うための弾幕ごっこではなく。

ただの殺し合いに、人間が妖怪に挑む。

それがどういう意味なのか、誰も理解していない。

 

「あまり天狗を舐めるなよ――人間ども」

 

閉ざされた教会に、暴風が鳴る。

放たれた黒鍵は一本も届かず、無慈悲に弾かれた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

70.二月下旬の、少し暖かな日

 

 

目を覚ますと、異常な渇きを覚えた。

 

更には目が痛くなる眩しさと、尋常ではない気分の悪さも。

頭も鈍化しており、状況がまったく掴めない。

何よりも全身が痛くて、身じろぎすらままならなかった。

 

そんな苦痛に耐えていると、明順応が進んで視界が開けてくる。

目が痛いまでの白一色。それと消毒剤の匂い。

清潔なベッドに寝かされており、腕からは点滴が伸びていた。

つまり、ここは病院のようだ。

 

ギルガメッシュを倒した後、俺は意識を失ってしまった。

そうして、今は生きて病院にいる。

あの後、文がここまで運んでくれたのだろう。

 

……だけど、その彼女はどこなのか? 俺以上に酷い傷を負っている。

自分よりも先に、あの子の心配が来てしまう。

今すぐにでも、文に会いたかった。顔が見たかった。

 

「…………う、く」

 

だが、どうやっても立ち上がれそうもなかった。

というよりも、身体が少しも動かない。

意思に反して、穴の空いた風船のように力が入らない。

 

「…………駄目だ」

 

暫くは、こうしているしかなさそうだった。

 

 

それから数分後、点滴の交換に看護師が入室した。

声を掛けると、俺の話を聞かずに慌ててどこかに行ってしまう。

すぐに担当医らしき男性が姿を見せて、検査を開始する。

それが済むと、何種類かの経口薬を渡された。

効能の説明を受けたものの、鈍った頭ではあまり理解できない。

薬を飲むと眠気に襲われて、再び眠りについてしまった。

 

それからまた目を覚まし、ようやく今の状況を確認できた。

どうやら俺は、五日間も寝たままでいたようだ。

つまり、聖杯戦争はとっくに終わっていた。

 

病院に運ばれた時、俺はかなり危険な状態だったらしい。

そのため、緊急手術をした。

もっとも意識がなかったため、手術自体は覚えていない。

その甲斐あって、何とか一命は取り留めたが、今や全身包帯まみれだ。

 

「士郎~~!! お姉ちゃん心配したよ~~!!!」

 

その直後、息を切らした藤ねえが駆けつけてきた。

そういえば、彼女は俺の保護者にあたる人物だった。

そんな当たり前の事実を、改めて実感する。

その時の状況については、彼女の名誉のため割愛しよう。

 

 

 

 

その後はずっと、ベッドの上で身動きが取れない日々を過ごしている。

担当医曰く、俺の傷の治りは目を剥くほど早いらしい。

それはあくまで常識的な範囲内であり、聖杯戦争での回復力は失われていた。

何にしても、今はリハビリが可能な段階まで快復する必要がある。

 

あれから藤ねえや一成などの見舞客は来たが、文の姿は一度も見ていない。

その代わりと言うべきなのか、警察が来るようになった。

まともに話ができるようになったのを、見計らったようなタイミングだ。

 

怪我の経緯について尋ねられたが、どう答えていいのかわからなかった。

まず初めに慎二の起こした学園の惨事が、脳裏に浮かんでしまう。

正直に話したい気持ちもあったが、やめておいた。

とても信じてもらえる内容ではない。俺の正気を疑われて、おしまいだ。

最悪、別の意味で入院が伸びる結果になるだろう。

 

結局、警察には記憶がないと言ってはぐらかした。

頭には、ギルガメッシュの宝具で殴られた大きな傷がある。

その影響で、記憶が一部喪失してもおかしくない。

怪我の功名と言っていいだろう。

ただあの時の苦痛を思い返すと、手放しで喜べるものではなかった。

 

 

そして一番驚いた来訪者は、イリヤだった。

彼女は心のどころかで、もう二度と会えないと思っていた。

お互い手を取り合って、再会を喜び合う。

これまでどうしていたのかと尋ねると、あの戦いの後、言峰綺礼に拉致されたらしい。

つまり、聖杯戦争の背景には、監督役であるはずの言峰綺礼の暗躍があった。

……今は定かではないが、気絶する前の懸念もあの男だったはず。

 

そして、俺が気絶した後の顛末を教えてくれた。

聖杯のこと、イリヤのこと、遠坂のこと、言峰のこと……文のこと。

俺が眠っている間に、全て終わっていた。

教会へと現れた彼女が、その場を滅茶苦茶にしたと言う。

もっともイリヤも意識がなかったらしく、遠坂から詳細を聞いたらしい。

俺はその間、呑気に気絶していた。

正義の味方を目指す者として、実に情けない話だ。

 

そうやって自己嫌悪に陥っていると、イリヤがこれでもないくらい慰めてくれた。

少女の献身にこそばゆさを感じたが、安らぎを覚えたのも確かだ。

『シロウは、正義の味方なんて目指さなくてもいい』とまで言ってくれた。

だがそれは切嗣から託された、俺自身の理想。

それだけは誰の頼みであっても、頷くわけにはいかなかった。

それを聞いたイリヤは、とても悲しげに笑っていた。

その顔は俺の目に焼き付くほど、印象的なものだった。

 

「うん。わかった。じゃあね。シロウ……」

 

雪の少女はそう言って、病室から去っていった。

その時、一抹の寂しさを感じた。

なぜなら、今度こそ彼女に会えなくなると思ったからだ。

 

「こんにちは! シロウ!」

 

そう思った翌日、彼女は再び会いに来てくれた。

 

それからイリヤは、一日も欠かさずに見舞いに来てくれる。

ドイツにあるアインツベルンには、もう帰らないそうだ。

見舞いというのは本人談だが、俺には遊びに来ているようにしか見えない。

それでも頼み事を色々と聞いてくれるので、退院した後は頭が上がらないだろう。

 

イリヤによると、どうやら遠坂もこの病院に入院したらしい。

そして一度も顔を合わせないまま、彼女は一足先に退院してしまった。

俺は立つのもままならないので、退院の前に一度は会って欲しかった。

 

……そういえば、セイバーのカルンウェナンはどうしたんだろうか。

あの後、文はちゃんと回収してくれたのか?

カルンウェナンは、遠坂から一時的に借りたものでしかない。

ギルガメッシュ戦のゴタゴタで失くしたなんて言ったら、ただじゃ済まされないだろう。

 

文と未だ会えないものあるが、それもまた懸念の一つだった。

 

 

……桜は、見舞いに来ていない。

最後に会った時、彼女は深い絶望にいたのを覚えている。

あれから一度も、連絡を取れていない。

文は何か知っているようだったが、詳しくは聞けていなかった。

『彼女から話してくれるのを待つべき』と言っていた。

それなら、直接会って話を聞いてやらなければならない。

退院したら、真っ先に彼女の元に行く必要があった。

 

もし言いたくないようなら、何も話してくれなくていい。

その時に側にいてやるぐらい、俺にだってできる。

 

それに、慎二のこともあった。

今はまともな精神状態ではないが、学園で多数の死者を出す暴挙に出た。

どんな形になるにしても、あいつとは決着をつけなければならない。

 

聖杯戦争は、冬木に大きな傷跡を残している。

俺の知る範囲でも、両手の指じゃ数え切れない人が死んでしまった。

俺にもう少し力があれば、救えた人もいたかもしれない。

だけど、そう考えるのは無意味だった。

10年前の大火災と同様に、過ぎてしまった過去はやり直せない。

だから、彼らの死をいつまでも忘れてはいけない。

決して、なかったことにしてはいけない。

そしてそんな犠牲を踏みにじる者を、絶対に許してはいけない。

 

それだけが、死んでしまった人たちにできる俺のすべてだった。

 

 

 

 

病室で文を待つ。

目を覚ましてから、今日で二週間が経った。

リハビリのためのハンドグリップを握りながら、窓の外を眺めている。

 

「ふう」

 

恥ずかしい話だが、一日千秋の想いだった。

会って話したいことも沢山あるが、とにかく今は彼女の顔が見たかった。

今日に至るまで……つまり、聖杯戦争が終わってから一度も会っていない。

その理由は、わからない。

聖杯戦争が終わった今、俺の存在など瑣末事であり、どうでもいいのかもしれない。

今も姿を見せない理由を考えると、そんな可能性も十分にある。

もしそうだったら、とても寂しかった。

 

それでも文は、必ず俺に会いに来る必要があるのは事実だ。

その一点だけで、俺と彼女はまだ確実に繋がっている。

 

聖杯戦争で召喚されたサーヴァントは、聖杯の魔力によって現界している。

しかしイレギュラーである射命丸文は、その枠組みから完全に外れていた。

現代に生きている彼女は、己の肉体を持っており、マスター無しでも存分に力を振るえた。

そして聖杯の力を失った今でも、この世界から消えていない。

未だ現界していると、確信を持って言えた。

その証拠に、本来は消えるはずの令呪の一画。それが、今も左手の甲に刻まれている。

 

つまり俺が令呪を使わない限り、文はこの世界から離れられない。

だから幻想郷に帰るために、必ず俺に会う必要があった。

それを俺は、ずっと待っている。

 

 

そして、それは呆気なく実現された。

 

梅の開花を報せるような、少し暖かい日だった。

陽が沈みかける黄昏時。

面会時間の終わる、一時間ぐらい前。

少し遠慮がちなノックが、二回鳴った。

 

「こんにちは、士郎さん。……あら? 外の様子からして今はこんばんはですかね」

「……文」

 

病室のドアから、夕日に染まった少女が顔を出す。

 

「まぁどっちでもいいや。どうもお久しぶりです。射命丸文です」

 

窓から来ると構えていただけに、少し拍子抜けな再会だった。

日がな一日、外を眺めていたのが少し馬鹿みたいだ。

だが、今はどうでもいい。

再会は劇的ではなかったが、何も変わらない彼女の姿に感動してしまう。

 

「うん。久しぶりだ」

 

天狗のトレードマークである、頭襟と高下駄は外していた。

一般の見舞客と同じように入ってきたのだろう。今更ながらの適応力だ。

 

「おお、個室なんですか! 意外とお金を持っているんですね。衛宮家の財力を侮っていました」

 

普段と変わらない軽妙な語り口で、話し掛けてくる。

こうして態度を変えず接してくれる少女に、笑みがこぼれそうになった。

 

「藤ねえみたいな騒がしい見舞客が来ると、他の入院患者の迷惑になるからな」

 

俺もまた、彼女に倣って軽口で返す。

つい藤ねえに悪態を吐いてしまったが、言うまでもなく、彼女にもその程度の良識はある。

そもそもこの個室は、藤ねえの家である藤村組が懇意で手配してくれものだ。

 

「なるほど……?」

 

気のない返事をして、備え付けのパイプ椅子に座った。

肩に掛けていた大荷物を、病室の床に置く。

最初から持っていた旅行鞄と、新たに増えた大きなスポーツバッグ。

この世界に来た時より、所持品が増えていた。

 

それを見た瞬間に理解してしまう。これが彼女と会う、最後の機会なのだと。

 

「……帰るのか? 幻想郷に」

「はい。ここでの用事も大体済みましたからね。まあ……多少の心残りはありますけど」

 

にべもなく答えると思っていたが、何か未練もあるらしい。

それが何なのか気になったが、尋ねても教えてくれない気がした。

 

「それで、怪我の具合はどうですか?」

「……まだリハビリを始めたばかりだけど、大きな後遺症は残らないかもしれない。医者が驚いてた」

 

暫くは、点滴生活が続きそうではある。

食欲は戻ってきているので、味の薄い病院食が続くのは少し気が滅入りそうだ。

入院患者のありがちな話ではあるが、油っ気のあるものが食べたかった。

 

「ほほう、それはなにより。……あ、林檎剥きましょうか」

 

文の目線を追うと、フルーツの詰め合わせが入ったバスケットがあった。

藤ねえが病室に訪れた時、持ってきてくれたものだ。

持ってきたその日に、自分で食べ尽くすんじゃないかと思っていた。

藤ねえは俺の姿を見て、泣き腫らした顔でずっと手を握ってくれた。

普段とは違う一面に驚いたが、女性のものとは思えない握力にもっと驚いた。

やはり、彼女の名誉のため早々に忘れてしまおう。

 

「悪い。頼めるか?」

 

林檎ぐらいなら今の俺でも剥けると思うが、ここは文に甘えよう。

多分こんな機会は、もう二度とない。

 

「私も食べたいですしね。……お、この林檎は蜜が多そうです」

「……文の傷は、大丈夫なのか?」

 

ナイフで手際よく林檎を剥いているが、指先まで巻かれた包帯が痛々しかった。

ある程度は回復しているようだが、万全とまでは言えないだろう。

 

「おや、私ですか? まあ、後遺症という意味では私の方が重傷かもしれませんね」

 

そう言って、自分の背中を覗き込む素振りを見せる。

文の背中の翼は、バーサーカーにもぎ取られて、ギルガメッシュに掻き回された。

今は隠しているので確認できないが、そう簡単に治るものではない。

人間には、翼はない。

だが空を自由に駆ける烏天狗に取って、翼を失うのがどういう意味なのか。

それは、想像に難しくない。

 

「もし、俺が……」

「おっと。その先は言わせませんよ。なに自分が悪いみたいな顔してるんですか。心外ですね。あなたは初めから戦力に入れていません。気にされるだけ不愉快です」

 

『あなたの責任じゃない』と、慰めているようも聞こえる。

だが彼女は、射命丸文だ。

本心でそう思っている可能性が高い。というか、本心だろう。

『俺が強ければ、そんなことにならなかった』なんて仮定は、彼女への侮辱でしかない。

 

「まあ、飛んだり跳ねたりする分には問題ありません。……どうぞ」

 

出された皿の上には、ウサギの形に切り揃えられた林檎が並んでいた。

不機嫌を露わにしていても、手元ではとても可愛らしい作業をしていたようだ。

 

「…………」

 

たまにこういうところを見せるのは、この少女の計算なのか。

 

「どうかしました?」

 

ウサギの林檎を美味しそうに食べる姿を見るに、割と天然なのかもしれない。

 

 

 

 

「それで、今日まで何をしてたんだ?」

「ネタ探しの取材旅行です。熱くなった頭を冷すために、日本各地を行脚していました。聖杯戦争よりもずっと有意義な時間でしたね。百年ちょっとで変わりすぎですよ」

 

先程までとは打って変わり、興奮した様子で話し出した。

本職が新聞記者なだけあって、好奇心は人並み以上にある。

長く生きて感動が薄らいでいると言っていたが、本当かどうか怪しくなってきた。

……ここは別世界の日本ではあるが、そこまで大きな違いはないらしい。

 

「これはお土産です。見舞い品ということにしてください」

 

そう言って、マトリョーシカ人形を渡された。

人形のなかに人形が入っている民芸品だ。……どこに行ってたんだ?

 

「あ、ああ……ありがとな」

 

ニコニコと笑みを浮かべる文を、邪険にするわけにもいかない。

 

……そうだ。お土産と言えば、俺からも渡すものがあった。

幻想郷に帰る日のために用意したものだが、おそらくそれは今日になる。

 

「これ、俺からのお土産。イリヤもお金を出してくれた」

 

動けない俺の代わりに、買いに行ってくれたのもイリヤだった。

本当は藤ねえに頼もうと思ったが、学園での事件もあってか、かなり忙しいらしい。

あの少女には、本当に頭が上がらない。

 

「ほうほう、ありがたくいただきます」

 

手渡した直後に開封してしまう。

せっかくイリヤと二人で、綺麗なラッピングをしたのにあんまりだった。

 

「……おおおおお! デ、デジカメじゃないですか! いいいいいいですか!? ほほほほほほ本当にいいですか!? 返せと言われても、もう絶対に返しませんよ!? やった! やったやったーーー!!!」

 

とんでもない喜びようだった。

 

一眼レフのデジカメ。

入院中、文がとても欲しがっていたのを思い出した。

初心者が使うエントリーモデルではなく、プロが扱うようなハイエンドモデルだ。

バイト代だけではどうにもならなかったので、イリヤに一部を出してもった。

城住まいだけあって、お金には困ってないらしい。今もホテルに暮らしているとか。

 

「喜んでくれて俺も嬉しい。記録用メディアと望遠レンズも入れてある。あとは説明書を見てくれ」

 

そう言うより先に、分厚い説明書に目を通している。

デジカメを手に取る少女の瞳は、今日までの付き合いで一番輝いていた。

……ひょっとして、この世界の心残りってデジカメだったのか。

 

まあ、幻想郷では現像するのも一苦労だろうが、妖怪の一生は長いらしい。

そこは、気長に頑張ってもらおう。

顔も知らないが、彼女の知り合いというエンジニアの河童には心の中で謝っておく。

 

こうして顔を綻ばせる文は、どう見ても普通の少女だ。

彼女は、それを意識しているわけではないだろう。

 

これはもう最初に会った時から、ずっと感じていたこと。

射命丸文は恐ろしい妖怪であると同時に、見た目相応の女の子だった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

71.林檎の味

 

 

それからは、本当に何でもない雑談をした。

 

「取材中にいろんな料理を食べてましたけど、どれも目新しくて美味しかったですよ。……それでも私には、士郎さんの料理が一番でしたね」

「それは褒め過ぎだ。お世辞でも嬉しいけど」

「いや、ホントお世辞じゃないんですって。…………というか、その若さでどうして和食の達人に?」

 

そんな会話のなか、聖杯戦争については挙がらなかった。

意図して、避けているわけではない。

あれはもう、俺たちの間で終わったこと。

だからこれ以上、話す必要もなかった。

 

「富士山に登りましたが、私が軽装だったせいか他の登山者に五合目で止められました。厳冬期に、この格好はまずかったみたいです」

「傍から見れば、死にに行くようなものだからな」

「『霊峰を舐めるな』とすごく怒られてしまいましたよ……。私、霊峰に住んでいる妖怪なのに……。しょんぼりです」

 

少女は手帳を片手に旅先の出来事を、面白おかしく話してくれる。

俺は、それに相づちを打つだけ。

 

とても、心地のよい時間だった。

 

俺たちは、聖杯戦争で繋がった関係だが、それは切っ掛けでしかない。

こうして、当たり前のことを当たり前に話している。

そして、彼女と過ごせる時間も残り僅か。

取り留めのない会話を、一つ一つ噛み締めていく。

こうやって話す機会は何度もあったのに、今はこんなにも惜しく感じる。

 

ああ……やはり俺は、彼女のことがどうしようもなく好きみたいだ。

 

 

 

「あ、そろそろ面会時間も終わりですね。……それじゃあ、お願いできますか?」

 

射命丸文は、笑顔で申し出た。

最後の令呪を使い、彼女の住む幻想郷に帰す。

それを、何でもないように話す。

 

「……これでもう、一緒にはいられないのか?」

「ええ。金輪際、会うことはないでしょうね」

 

一切の希望を持たせず、少女は明確に告げた。

 

「そうか……」

 

俺たちが別の世界に住んでいる以上、この別れは必然だった。

文はこの世界と繋がりを失うのに、何の感慨もないのだろうか。

だが俺は彼女のように、覚悟すらできていない。

この少女と過ごした時間は壮絶だったが、掛け替えのないもの。

 

「………………そう、だよな」

 

好きな女の子に、好きと言えない。

そのための機会は、もう一生訪れない。

わかっていた。

わかっていたが、暗く、沈んだ声が出てしまう。

 

「君に勧む金屈巵。満酌辞するを須いず。花発けば風雨多く、人生別離足る」

「…………?」

 

キンクツシ? なんだそれ?

漢詩の一節だろうが、授業で習う程度にしか知らない。

だから、意味についてはさっぱりだった。

 

「人の生涯とは、出会いと別れの連続です。それなら、旅立とうとする友人には歓を尽くしましょう。……まあ、友達なら別れ際にそんなしょぼくれた顔するなってことですね」

 

無教養が顔に出てたのか、少し呆れながら補足してくれた。

……勉強は不得意な社会以外、そこそこできるんだけどな。

いや……そうじゃない。

彼女は今さりげなく、俺のことを友達と呼んでくれた。

 

「……そうか。わかった。友達だもんな」

 

俺もまた、確かめるように友人だと宣告する。

別れは悲しいが、目の前にいる友達の言う通り、ここは笑顔でいよう。

俺たちは、マスターとサーヴァントという、主従関係ではない。

これが最後の別れだとしても、友達と別れる時のような平凡なものでいい。

 

「そーです、友達です。ダチです」

 

彼女もまた、強調するように繰り返す。

少し照れているように見えるのは、俺の気のせいではないだろう。

……まあ、多少の白々しさを感じなくもない。

そうであっても、友人と呼び合える関係は代え難いもの。

それに、彼女から友達だと言ってくれた。それが堪らなく嬉しい。

 

「……それと、私という妖怪はあなたの記憶に刻まれたでしょう?」

 

文が、確認するように言う。

だがそれは、確認するまでもなかった。忘れない。忘れやしない。

 

「ああ、おまえのことは絶対に忘れないさ」

 

射命丸文という鮮烈な少女のイメージは、俺に強く刻まれている。

何より、初恋の女の子だ。忘れようもない。

だがどういうわけか、俺の顔を見て文は困惑気味だった。

 

「……あやや? ちょっと違う刻まれ方をしたみたい。これはとんだ計算違いです。人間の恐怖が、妖怪にとっての信仰なんですけど……」

 

恐怖? 信仰?

何か物騒な単語が、含まれているような。

 

「……うん。覚えててくれるのなら、及第点としておきましょうか」

「えっと、なんのことだ?」

「いやなに。聖杯戦争であなたとずっと一緒にいた理由は一つしかありません。この世界にも恐ろしい妖怪がいた、その証人を残すためです」

 

一点の曇りもない表情で、衝撃の事実が判明した。

どうやら俺は、彼女の恐ろしさを記憶するために、一緒にいるのを許されていたらしい。

 

「……いや、文を本気で怖いと思ったことは何度もあるぞ?」

 

それ以外のイメージもあるが、背筋が凍る恐怖を感じたのも事実だった。

酷薄に歪む文の顔は、いま思い出すだけでも息が止まりそうになる。

 

「おー、それは重畳。…………必要以上に恐れられる態度を、何度もとった甲斐がありましたね!」

「って、おい!」

 

次から次へと、とんでもない事実をカミングアウトする。

だけど喜色満面にネタばらしをしたら、意味がないんじゃないか?

 

「そして士郎さん。……そんな私という存在を、誰かに伝聞してくれると助かります」

 

少女は居住まいを正すと、真剣な表情に作り直す。

射命丸文を纏う空気が、途端に厳粛なものになった。

 

「この、後ろ向きから始まった聖杯戦争。本音を言えば、厄介ごとに巻き込まれた気持ちが大半でした」

 

俺が彼女を土蔵で召喚したのが、全ての始まりだった。

彼女は聖杯なんて、初めから欲しがってなかった。

それなのに、自分の都合ばかりにかまけていて、俺はこれまで一度も謝罪をしていない。

 

「……ごめん」

「いえ、いいのです。私はその途中、目的を見つけましたから」

 

謝罪を否定するように、左右に首を振る。

 

「かつてこの世界にも、様々な妖怪がいました。彼らは時代と共に伝承のなかへと消えてしまい、人々の記憶から忘れ去られてしまった。私はそれが、どうしようもなく悔しかったのです」

 

それは以前、柳洞寺でアサシンと対峙する文から教えてもらったこと。

その日から、彼女の聖杯戦争に対する姿勢は変わり、本気で戦いに挑んでいた。

 

「だからあなたには、射命丸文という烏天狗の語り部であって欲しいのです。その目で見たこと、その耳で聞いたこと……そして、その心で感じたこと。それをありのまま伝えてもらいたい。……荒唐無稽な世迷言にしか聞こえないでしょう。ですが、それでもいいです。多少なりとも誰かの記憶に残れば、私がこの世界に居た意味があります」

 

そして、ゆっくりと頭を下げた。

妖怪の恐ろしさを、現代に生きる人に伝えられればいい。それだけのもの。

強大な力を持つ彼女なら、とても些細な願いだった。

 

「……文の力があれば、そんなのいくらでも方法があるんじゃないか?」

 

そう、口をついて出てしまった。

 

咄嗟の思いつきで、ぞっとする言葉を言ってしまう。

彼女はすべてのサーヴァントを退け、聖杯戦争を勝ち残った存在だ。

その気になれば、大抵のことは叶えられる。それだけ文の実力はデタラメだ。

だったら恐怖を振り撒くなんて方法は、直接的なものが何よりも手っ取り早い。

 

だがそれは、俺が絶対に許しはしない。

文が妖怪として人々に悪逆を尽すのなら、俺はその場で令呪を使うだろう。

 

「むー。それをやってしまえば、ただのマッチポンプじゃないですか。聖杯戦争という大義名分があったからこそ、私は妖怪として存分に暴れられたのです。……一応言っておきますが、聖杯戦争に関わった人間以外に、私は誰にも迷惑を掛けてませんよ」

「すまない。今のは失言だった」

 

彼女は商店街で、とても愛想よく接していた。

問題があるとすれば、藤ねえと桜の前でした恋人宣言くらいだろうか。

あの時は心臓が止まりかけたが、今になれば可愛いものだった。

 

「ま、その分、聖杯戦争に関わった人間には、もれなく全員に恐怖をばら撒きましたけどね! 特に凛には、心的外傷になりかねないものを見せてやりましたとも! あの時、私の心は色々あってどん底でしたから! ……ちょっと過激な演出になってしまいました。てへ」

「てへ?」

「あ……? あああああ! また無意識で言ってしまった! 恥ずかしいよう!」

 

恥ずかしさに耐えかねて懊悩する文を見るのは、とても楽しい。

これはもう、世界一可愛い存在じゃないのだろうか。

 

……彼女の言う『あの時』とは、聖杯戦争最後の日に教会で起きたことだろう。

俺は、イリヤから聞いただけで詳しくは知らない。

言峰綺礼を倒した後も、溢れようとする聖杯の処理が大変だったらしい。

 

その時の様子を『滅茶苦茶』と表現したイリヤには、嗜虐嗜好があるのを思い出した。

……遠坂には、ご愁傷様と言っておこう。

彼女はその程度でへこたれる質じゃないが、それでも夢に出ないのを祈るばかりだ。

 

「コホン。とまあ、話を戻しまして……このお願い、聞いてもらえますか?」

 

再び神妙な空気に戻る。

それだけ彼女にとって、重要な問題なのだ。

当然その程度なら、頭を下げてお願いされるまでもない。

本来なら、二つ返事で引き受ける。

 

「……だったら文は、俺のことを覚えててくれるか?」

 

俺の口から出たのは、文の望んだものではなかった。

見返りを求めた打算的な言葉だったが、この程度の我儘は許してほしい。

 

「ふえ……?」

 

そんな思いも寄らない返答に、少女は赤い目を瞬かせた。

 

「…………おっと。まさかそう返されるとは思いませんでした。ふふ、相変わらず、歯の浮く恥ずかしい台詞。……そんな言葉を重ねられたら、免疫のない女の子ならコロッとやられちゃいます」

「うん。まあ、自分でも驚いている」

 

文には、ずっとやられっぱなしだ。

とても照れくさかったが、最後に驚かせても罰は当たらないはず。

 

「さて、どーでしょうか。私は風雨を降らす烏天狗。自分の理想を叶えられない弱者には興味がありません」

 

いつの間にか手に取った葉団扇で、口元を隠している。

どうせ、薄笑いでも隠しているんだろう。

どんな形にしても文に挑むのは無謀だと思っていたが、やはり一蹴されてしまった。

 

相変わらず、彼女は手厳しい。

 

「……ですから、理想を実現できるよう、悩み苦しみ、精一杯生きなさい」

「――――」

 

不意に少女の口からこぼれた、虚飾のない叱咤激励。

一文字も逃さぬよう、言葉を丁寧に飲み込んでいく。

胸の奥に、じんわりと染み入った。

……情けない話だが、鼻の奥がつんとしてしまう。

 

「ああ……任せろ。必ず実現してやるさ」

「よろしい。……さて、もういいですかね。令呪を使ってください」

 

少女は椅子から立ち上がり、荷物の中から頭襟と高下駄を取り出した。

それらを慣れた手つきで身につけると、初めて見た時と変わらない天狗の少女がいた。

左手に刻まれた、最後の令呪。それを使えば、文は幻想郷に帰ってしまう。

 

「わかった」

 

引き留めたい気持ちは、当然ある。

だけど、それだけは絶対にしちゃいけない。

いずれは訪れる別離。

彼女がこうして帰還を望む以上、その意志を尊重しなければならない。

 

「あ、そうだ。令呪で使ったらどうですか? 今のお願い。『俺を忘れないで―』って」

「そんなことはしないさ。あれはお願いであって、命令なんかじゃないからな」

 

文も本気で言ったわけじゃない。

ニヤニヤしているのが、何よりも証拠だ。

それに、最後の令呪をどう使うのかはもう決めてある。

 

「じゃあ、使うぞ」

「はい」

 

緊張した様子もなく、文はあくまで自然体だった。

未だサーヴァントがこの世界に残っているのは、間違いなく異常事態だろう。

この令呪を使っても、幻想郷に還れないような不測の事態も起こりうる。

 

それでも、彼女は動じていない。

おそらく、この異常事態を可能とした幻想郷の魔女を信じているのだ。

左手に魔力を込めると、残る一画が赤い光を灯した。

魔術回路を起動させるまでもない。

 

ただ想い、願うだけ。

 

『幻想郷でも、元気で――』

 

俺の願いは、ただそれだけ。

これで最後の令呪は解放された。もう後戻りはできない。

この世界に彼女を繋ぐための『かすがい』は外されてしまった。

残された時間は、ほんの少し。

一回の瞬きで、彼女は目の前から消えてしまうかもしれない。

 

「ぷぷぷ。なんですかそれ。最後に笑わせないでください」

 

文に笑われてしまった。

込み上げる感情を堪えるように、腹まで押さえている。

まったく、感傷に浸る時間もない。

どうやら俺たちに、感動的な別れは不可能なようだ。

 

「……しょうがないだろ。『頑張れ』だと、文の意志じゃなくなるからな。だったら、今後の健康を願うのが一番だと思ったんだよ」

 

こんなことに令呪を使ったマスターは、聖杯戦争が始まってから俺が初めてだろう。

だけど、それ以外に願うものはないのだから仕方がない。

聖杯戦争も終結して、倒すべき敵はもうどこにもいないのだ。

 

「ご……ごめんなさい。それなりに考えてたんですね」

 

謝罪しながらも肩を震わせているのは、あんまりじゃないだろうか。

そうやって時間を浪費しているうちに、文の身体がゆっくりと薄くなっていく。

 

「ふむ。時間みたいですね。最後に何か言いたいことはありますか?」

 

そんなの決まっていた。

 

「今までありがとう。じゃあな、文」

 

感謝の言葉と、別れの言葉。

その二つが最後に言えれば、十分だ。派手に飾った台詞はこの場に相応しくない。

それと『またな』なんて、絶対に言わない。

あり得ない言葉は、自分自身への慰めに過ぎない。

そんなものは、彼女の心に届かない。

 

「…………」

 

文の姿は、もう見えなくなっていた。

だけど、こちらを見ているのだけは何となくわかった。

 

「ええ……さようなら。士郎くん」

 

…………。

 

締め切った室内なのに、心地よい風が吹いた。

それを感じた時にはもう、射命丸文はいなくなっていた。

……幻想郷に帰ったのだろう。

少女もまた、簡潔な言葉を残しただけ。病室には、俺一人だけが取り残される。

 

「…………『くん』ってなにさ」

 

最後に少女は、俺の名前をそう呼んでいた。

どういう意図があったのか? 何か印象の変化だろうか?

彼女のことだから深い意味なんてなくて、悪戯心で呼んだだけなのかもしれない。

……でも文はある時を境に、遠坂やセイバーを呼び捨てにしていた。

 

いくら悩んでも、真実はわからない。

彼女とは、もう二度と会えない。つまり、永遠の謎になってしまった。

こうして頭を悩ます俺の姿を想像して、ほくそ笑んでいるかもしれない。

そんな姿が、容易に想像できてしまう。

 

「まったく……」

 

だとしても、そんなに悪い気はしなかった。

文の残してくれたウサギ型の林檎を手に取って、口の中に放る。

こうして剥いてくれたのに、一つも食べていなかった。

 

「……悪いことしたな」

 

ずっと流動食が多かったので、咀嚼の際、顎がやけに疲れてしまう。

文の言う通り蜜が多くて、とても美味しい林檎だった。

 

「…………っ」

 

林檎の酸味が口の傷に染みた。痛みで涙が出たのは初めての経験だった。

 

 

 








私の恋は、一過性の麻疹なようなもの。
この傷が癒えればなくなってしまう、儚い恋心です。
それに私は、いたずらに人間の心を弄んで狂わせます。

「お互いのため、そういうことにしておきましょう」





目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

72.文々。異聞録

 

 

幻想郷は130年余の間、外界と大きな接触をせずに発展してきた。

精神分野においての発展は目まぐるしく、独自性を保ちながら各分野に貢献している。

それは、幻想郷に住む誰しもが知るところだ。

 

それと同様に、外の世界の発展も凄まじいものがある。

特に科学と情報の進化は、一つの信仰と呼べる程度に成長したと言っても過言でない。

それは同時に、民衆の心の支えである神の必要性が薄くなり、祭事もまた形骸化してしまったということ。

しかしながら、その旨に警鐘を鳴らすのが新聞の役割ではない。

 

ここでは、神を失墜させた外界の技術を紹介したいと思う。

原料を加工し、製品を作る産業。

つまり工業技術は、幻想郷と比肩しようもないほど発展している。

外界のポピュラーな移動手段として、『バス』という大型の乗り物がある。

自動車の一種と言えば、わかるかもしれない。

名称の語源は『全ての人の為に』の意味を持つ『オムニブス』というラテン語からきている。

その言葉が示す通り、バスは身分差なく、低料金で誰でも乗ることが可能だ。

動力は化石燃料を燃焼させて動かしているが、詳細については割愛させてもらおう。

バスの乗客は、通勤や通学に使う人間が最も多い。

車内には左右対になった座席が並んでいるが、それだけでは座りきれない場合もある。

つまり、座りきれない時、何十人と言う人間が少ない座席を求めて争うことになる。

 

そして勝者は悠々自適に座りながら、快適に目的地まで過ごせる。

ほどよいバスの揺れは、眠りを誘うものだろう。

 

しかし敗者はそうはいかない。言うまでもなく、座る席がどこにもない。

だが彼らの目の前には、吊り革と呼ばれるバスの天井部から垂れた輪状のものがある。

そう、負け犬である彼らは、その輪っかを自らの首に――。

 

 

『文々。新聞 五面「文々。異文録 第一回」』より抜粋。

 

 

 

 

幻想郷――。

妖怪の山の麓にある湖に、赤を基調とした西洋建築様式の館がある。

そこは紅魔館と呼ばれており、スカーレットデビルと恐れられる悪魔が住んでいる。

 

紅魔館の地下には、大きな図書館があった。

構造上、日光は当たらず空気も滞留しており、訪問者への配慮など一切されていない。

まさに、本のためだけに存在する空間だった。

そして地下と思えない広大な空間には、無数の本棚が整然と並んでいる。

そこには魔導書だけではなく、古今東西、ありとあらゆる書物があると噂されていた。

幻想郷全土にある蔵書を全てかき集めても、この図書館に比肩しうるかどうか。

 

その大図書館の一画に、木製の円卓が置かれていた。

見る者を圧倒する書物の大海と比較すれば、随分とこじんまりしたテーブル。

精々、三人か四人座るのがやっとだろう。

そこに図書館の主、パチュリー・ノーレッジと、幻想郷ブン屋である射命丸文がいた。

 

「…………」

 

両者は言葉を交わさずに、テーブルを挟んで座っていた。

文は出された紅茶の香りを楽しみながら、変わらない態度で赤い手帳を眺めている。

一方パチュリーは、仏頂面で新聞を読んでいた。

それは、文が書き上げたばかりの新聞であり、幻想郷に戻ってからの第一号となる。

別世界に行く際に、彼女は最も世話になった相手だった。

新聞を配り終えた後、その時の礼も兼ねて図書館まで渡しに来たのだ。

 

「……………………」

 

文の機嫌は良さそうだったが、パチュリーは日頃に増して眉間に皺を寄せている。

手をつけていない紅茶は冷め切っており、深みのある香りは消し飛んでいた。

 

「はあ……」

 

パチュリーは盛大に溜息をつくと、シュガーボックスを手に取り、紅茶のなかに多量の角砂糖を落とした。

乱暴な手つきでスプーンを突っ込むと、カチャカチャと掻き回す。

もはや砂糖水と化した液体を胃に流し込み、強烈な甘さから眉間の皺が更に深くなった。

 

「……で、何なのこれ。コラム? 散文?」

 

機嫌の悪さを隠そうともせず、対面の少女に詰問した。

飄々とした態度を崩すことなく、パチュリーの指差す記事を一瞥する。

 

「ああ、『文々。異文録』のことですか? 外の世界をこれでもかと面白く紹介する新聞の新企画です。略称として『ぶんぶんぶん』とでもお呼びください。……ちなみに『異文録』は『異聞録』と『異文化』を組み合わせたものです。わお、面白い」

(ちっとも、面白くない……)

 

聞いてないことをべらべらと説明されて、魔女は不機嫌さを増していく。

そんなパチュリーの様子に気づいていたが、文は得意満面だった。

彼女は妖怪の山というコミュニティに属しているが、究極的には自分さえよければいいのだ。

 

「あなたが体験した聖杯戦争はどうしたの? その記事がどこにもないじゃない」

「はて、そんなのはありませんよ?」

「……なんでよ。あなたからしたら恰好のネタじゃないの?」

「新聞に自分の姿は出てきません。……それにあんなバイオレンスなネタは私の趣味じゃありませんし」

 

自らのポリシーを話す少女の前で、パチュリーはもう一度溜息をつくと新聞を閉じた。

挑発的な態度を、隠そうともしない。

 

「……そうして異世界に行ってまで書いた新聞は、いつもと変わらないタブロイドなのね」

 

射命丸文が還ってきた直後、その世界で起きたことをパチュリーは簡単に聞いていた。

なんでも『聖杯戦争』という、魔術師同士の殺し合いに巻き込まれたらしい。

パチュリーは、その部分に興味を覚えていた。

詳細は新聞に載ると思っていたので、その場では深く追求しなかった。

だが、蓋を開けてみればこの有様だ。

 

「いやあ」

「………………」

 

照れたように頭を掻く文に、パチュリーは冷ややかな目で見る。

幻想郷に帰って来てから、彼女に会うのは二度目になる。

その時から、無闇矢鱈に元気だった。

以前は、貼り付いたような愛想笑いしかしなかったのに、今ではいつでもニコニコしている。

正直に言ってしまえば、気味が悪かった。

 

(……異世界で、脳味噌を有鈎嚢虫にでも喰われたのかしら?)

 

魔女は冗談ではなく、本気でそう思っていた。

彼女の知る烏天狗とは、別人だったからだ。

入れ替わりも考えたが、魔法を使って調べても本人の反応しか出てこない。

記憶の連続性も保たれており、この存在が射命丸文なのは間違いなかった。

 

「遠路はるばる異世界の日本まで行って、知識も技術も手に入れずに、こんなゴシップばかりを集めて来たなんて。流石に頭が痛くなるわ……」

 

頭痛の原因に愚痴るも、当人は妙に厳ついカメラの手入れを鼻唄混じりで始めていた。

少しも話を聞いていなかった。

 

「なんなのコイツ」

 

天狗の甘言に乗せられて、膨大な魔力が必要な術式を組んだのが馬鹿だった。

心の中でそう悪態をつくが、今回の件でパチュリーに収穫が無かったわけではない。

新しく組んだ魔法陣が成功したのは、それなりの成果だ。

術式が他の世界の召喚儀式に介入できたのは、今後の研究の糧になるだろう。

もっとも、正確に検証するには一回だけではなく、繰り返しの実験が必要になる。

 

「…………コイツは使えるかしら?」

 

検証には、壊れにくい実験体が是が非でも必要になるだろう。

 

 

「小悪魔さーん。紅茶のおかわりまだですかー?」

 

パチュリーの目に映る天狗の少女は、図書館の司書である小悪魔に手を振っていた。

ずうずうしさも、これまで以上だった。

あくせくと本の仕分けをする小悪魔は作業を中断して、同じように手を振り返す。

 

「わ~」

 

瞳をキラキラさせて、眩しいまでの笑顔を浮かべる小悪魔。

でもどうしてなのか、そこから一歩も動こうとしない。

 

文の声が、聞こえていないのかもしれない。

それとも、聞こえていないフリをしているのかもしれない。

小悪魔はアホの子のように、ぶんぶんと手を振り続けている。

天狗の少女もまた、止めようとしない。

 

「なんなのコイツら」

「くっ、さすが悪魔と言ったところでしょうか……!」

 

互いにムキになって振り合っていると、蚊帳の外にいたパチュリーが文の服の袖を掴んだ。

 

「……ところで、この服はなんなの?」

 

壮絶とも言える視殺戦は、魔女の介入によって一端の幕を引く。

小悪魔もまたパチュリーが睨み付けると、そそくさと仕事に戻っていった。

 

「ふふん、良いところに目をつけましたね。これは、私立穂群原学園の制服です。ライトブラウンのベストに、赤いリボンタイが良いアクセントになっているでしょう? 本当は学園に返すつもりでしたが、どういうわけか荷物に紛れてました。いやはや、不思議なものですね。……ですが、パチュリーさんは、他人の服の趣味なんて気にする人でしたっけ?」

「……別に。見たことのない素材なのが気になっただけよ」

 

本当はちょっと可愛いと思っていたが、それは間違っても言えない。

 

「なーんだ、そんなことですか。材質は、ウールとポリエステルの混紡ですね。ポリエステルは石油由来の繊維だとか。私も詳しくは知らないんですけど、外の世界の科学力はほんと凄かったですよ。デジカメとかデジカメとか」

 

それだけ言って、少女は再びカメラを弄りだした。

時折そのカメラを弄りながら、ちらちらとパチュリーの顔を見てくる。

……なんだか妙に腹が立つ仕草だった。

どういうつもりか知らないが、絶対に相手にしてやるものか。

 

そう彼女は思っていたが、一つ気になる点があった。

危なっかしい手つきでカメラに触る右手に、異質とも言える魔力を感じる。

 

「……その包帯はどうしたの? 妙な魔力の残り香を感じる……。それにあなたが治療の必要な怪我を負うなんて、珍しいこともあるのね」

 

見た目と物腰から、とてもそうは見えないが、射命丸文は幻想郷でも指折りの実力者だ。

遊戯でしかない弾幕ごっこで、包帯を巻く怪我を負うとは思えない。

 

「ああ、これですか。これは、ギルガメッシュにやられた傷です」

 

机の上にカメラをそっと置いて、右手をパチュリーの前に突き出す。

間近で見てみると、強力なアーティファクトによって、攻撃されたのがわかった。

 

「ギルガメッシュってあの? 古代ウルクの?」

「はい。あのギルガメッシュ叙事詩の英雄です」

「…………何を馬鹿なことを」

 

どういうことなのか真剣に考えてみたが、少しも意味がわからない。

天狗から引き出せたのは、そんな眉唾でしかない情報だった。

 

「ついでにヘラクレスには翼をもがれて、アーサー王にはエクスカリバーで撫で斬りにされました。超痛かったです」

「…………ハッ」

 

パチュリーは、鼻で笑ってみせた。これ以上、詳しく聞くまでもない。

どんな事情があれば、そんな神話クラスのビッグネームが一堂に会するというのだ。

ギルガメッシュに、ヘラクレスに、アーサー王……?

実在するかどうかも怪しいし、時代も地域もてんでバラバラ。

お話にならない。そんなこと、魍魎跋扈する幻想郷でも絶対に起こり得ない。

 

「……ついに頭がおかしくなったのかしらね? 魔法による精神干渉なら私が視てあげるけど、精神疾患の類は永遠亭で診てもらいなさい」

「いやいやいやいや、本当なんですって」

 

天狗少女は食い下がろうとするが、これ以上付き合ってやる筋合いはなかった。

 

「はいはい。永遠亭はあっちよ」

 

パチュリーは図書館の入口を指で差すと、読みかけの古書に目を落とした。

……つまり『図書館から出て行け』と暗に言っていた。

その程度で素直に帰る文ではないが、彼女はもう本の世界に没頭している。

後ろから覗き込むと、羊皮で装丁された本には見覚えのない言語が書かれていた。

 

「うーん。少しも読めない……」

 

……パチュリーに放語した文の傷は、快方に向かっていた。

特に幻想郷に戻ってからは、英雄から受けた攻撃も急速に治りつつある。

その中で特に深刻だったのは、バーサーカーにもぎ取られた翼だ。

不死性の高い妖怪ではあるが、英雄の攻撃によって失った部位。

『再生なんてトカゲじゃあるまいし』と思って、ほぼ諦めていた。

それが幻想郷に帰って少し経ってから、どういうわけか新しく生えてきたのだ。

 

(幻想郷の水と空気が私に合ってたのかな。……それとも士郎くんの令呪の効果? いや、まさかそんな)

 

『幻想郷でも、元気で――』

そんな本来の使い方から逸脱した健康祈願に、そこまでの効果があるとは思えない。

 

(でも、本当にそうなら……ちょっとだけ嬉しいかも……)

 

どちらにしても両翼が元通り完治するまでに、あと数年は必要だろう。

空を飛ぶ程度は問題ないが、幻想郷最速のスピードはとても出せそうにない。

 

「その間は、ここの家主にでもその称号を預けましょうかね。……ま、完治したらすぐに返上させてもらいますけど」

「……レミィのこと? どうかしたの?」

 

聞き耳を立てていたのか、パチュリーが独り言に反応した。

本から目を離していないので、多少気になった程度だろう。

 

「さあ。なんでもありませんよ」

「そう」

 

天狗がとぼけると、魔女もまた素っ気なく返す。

そして、再び訪れる沈黙。

常人であれば、居心地の悪さに退席しかねないが、文はやはり気にした様子を見せない。

この程度でへこたれるようなら、幻想郷でブン屋なんてやっていない。

 

 

「あ……そうだそうだ。一つお訊きしたいんですけど、あの時の魔法陣ってまだ使えますか?」

 

文の視線の先、そこに聖杯戦争に召喚される切っ掛けになった魔法陣があった。

それは、幻想郷外の召喚儀式を検索し、無理やり繋げるシステムが組まれたもの。

それも幻想郷の外だけではなく、平行世界も超越するというとんでもない代物だった。

 

「私が魔力を流せばいつでも起動できるわ。……また実験台になってくれるのかしら?」

 

興味がある話だけに、パチュリーの食い付きはよかった。

眠たそうな目は変わらないが、瞳の奥に微かな情動が見て取れる。

 

(……好みの話題が偏食過ぎて、まともに生活が送れるかすこぶる疑問ね。昼夜構わず図書館に引き籠もっている時点で、まともとは言えないけど)

 

それはともかく。

 

「それについては、半世紀先でお願いします。……それよりも私が召喚された場所ってまだわかりますか?」

「位置を特定するだけなら、できなくはないわね」

「おお、できますか!」

 

朗報だった。

本当は、ここまで大袈裟に反応するつもりはなかったのだが、感情の抑制ができない。

 

「多次元座標値のログを変換するだけだからね。……あらかじめ忠告しておくけど、あなたをまたその異世界に送るなんて二度とできないわよ」

 

それは、文も何となくわかっていた。

そもそもあんな別れ方をしたのに、今更会いに行けるはずがない。

 

「そんな無茶は言いません。言いませんが……仮にですよ。無理やりやろうとしたらどうなります?」

「転移先に大規模な召喚儀式があって、初めて実現するものよ。肉体だけではなく、魂の情報量も膨大だわ。データを送るための力が足りなすぎて、転移時にまともな形を保っていられないわね。特にあなたのような無駄に肥大化した千年妖怪を向こうの助力なしに転移しようとしたら。……そうね、ミンチ確定かしらね。ついでに魂もグチャグチャ」

 

要するに、送る対象のデータ容量が最大のネックであるらしい。

それもまた、想像していた通りだった。

 

「ほうほう、つまり挽肉なら送れるんですね。でしたら……これはどうです?」

「…………やってみないとわからないけど、おそらくいけるわ」

「やってくれますか?」

「報酬は? 私もお人好しじゃないわ。魔女は常に正当な対価を求めるものよ」

 

物語のなかでもあるように魔女や悪魔は、願いと引き替えに対価を求める。

それは美しい声であったり、記憶や感情であったり、それこそ命そのものであったり。

パチュリーもまた、そんな魔女たちの一人として数えられる存在だった。

 

「…………少々お待ちを」

 

文は鞄のなかから、一冊の本を取り出した。

そして見せつけるように、テーブルの上に分厚くて重いそれをドンと置く。

 

「はい。異世界の希少本」

「やるわ!!」

 

即答だった。

そう答えるや否や、パチュリーは立ち上がって分厚い本を胸に抱える。

 

「も……もう、返さないわよ?」

 

よたよたと重そうだったが、この日陰少女は大丈夫なのだろうか?

 

(……それにしても、この魔女、大概チョロいわね)

 

最悪、アーサー王の召喚媒体を手放すのも考えたが、広辞苑一冊で済んでしまった。

寝ずの作業によって写本も済んでいるし、それにたかだか8千4百円。

原本を手放すのは少し惜しかったが、そこまでは痛くない。大辞林もまだ手元にある。

それが希少本かどうかは怪しいところだが、少なくとも幻想郷にはこの一冊しか存在しないはず。

 

アーサー王の媒体であるカルンウェナンは、道に落ちていたから拾った。

そしていつの間にか、荷物に紛れていた。いやはや、不思議なこともあるものだ。

 

「――――」

 

パチュリーは既に魔法陣の前で、魔法詠唱を開始していた。

即断、即決、即行動。

 

(うん。幻想郷の住人ならこうでなければ)

 

やはり自分の興味のあるものなら、非常に行動が早い。

破綻した人格と言えるが、魔道の深遠に生きる魔女にとって『正常』など不純物。

魔法陣が赤く淡い光を灯して、浮かび上がっていく。

文がかつて見た光景と、寸分違わず同じもの。

 

「準備オーケーよ」

 

魔法詠唱に少し疲れた様子だったが、血色が悪いのはいつも通りだろう。

 

「はーい。いま行きまーす」

 

天狗の少女は、魔法陣に向かって歩き出す。少し、浮き足立っているのが自覚できた。

でも室内で走ったりはしない。みっともないから。

 

聖杯戦争以来、文は感情の制御ができていない。

振り返ると、枕に顔を埋めてジタバタしてしまう行動を何度もしてしまった。

理性が崩壊した彼女は、心の枷というものが外れている。

 

つまり、射命丸文は壊れてしまった。

 

「………………」

 

それに彼女は、恋を知った。

そして、失恋の味も知った。

自惚れではなく、彼から想われているのも知っていた。

 

でも、告白はしていない。

別れがとても、つらくなってしまうから。

きっと彼の前で、わんわんと泣いてしまうから。

それは困る。とても困る。

恋する女の子は、いつだって好きな人を悲しませたくない。

 

……だから悪いことも、もうしない。

ヒトの心や体を傷つけるのは、今だって大好きだ。

むしろ二度の人喰いによって、かつての自分よりも悪化している。

 

――だからこそ、絶対にやらない。

 

その誓いは、文自身が立てたもの。今後進むべき道。

つまりそれこそ、射命丸文の掲げた理想だった。

 

ああ、千年以上の歳月を生きているのに、こんなにも不安定になるなんて。

 

「……まるで、子供みたい」

 

気づけば、口元に笑みを作っている。

こうして、簡単に揺さぶられてしまう自分がとても恥ずかしい。

だけど、外向きや嗜虐的なものではなく、純粋な気持ちで笑うのはいつ以来だったか。

 

そう思えば、そこまで悪い気もしなかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

73.屋烏の愛

 

 

風が吹く――。

 

少し肌寒くもあるが、三月も半ばも過ぎて徐々に暖かくなってきた。

冬木市は名前に反して、日本の平均よりも暖かい土地だ。

もしかしたら、そろそろ桜が咲き始める頃なのかもしれない。

 

退院の手続きは、すでに済ませてある。

完治したわけではないが、衛宮士郎は本日付で退院する。

担当医に無茶を言って、退院させてもらったと言うのが正しいだろう。

だから暫くの間は、週のうちの何回かは通院する生活だ。

付き添いはいない。

一応の保護者である藤ねえは、教師としての仕事がある。

本人は来てくれると言っていたが、俺が断った。

 

逆に期待していたのは、ほぼ毎日来ていたイリヤだ。

だがどうしてか、退院日の今日に限って病院に来なかった。

退院する日は、もう何日も前に伝えてある。

付き添いを頼んだわけではないが、少しだけ残念だった。

それでも彼女のおかげで、長い入院生活を退屈せずに過ごせた。

それを考えたら、恨み言を言える立場じゃない。

 

運動は厳禁と言われているので、タクシーを使う。

新都から深山まで歩けなくもないだろうが、病院が手配してくれた。

今日まで散々お世話になったのだ。無下に扱うわけにはいかない。

 

「あれか」

 

病院の前にある道路、そこに一台のタクシーが停まっていた。

普段から使う習慣がないので、少しだけ緊張してしまう。

 

「…………」

 

どこかで見た覚えのある運転手だった。

眼鏡が少しずれているのは、暗示とは関係なかったらしい。

……そういえば、遠坂に割り勘のタクシー代を払っていなかったな。

それにセイバーのカルンウェナンも、今も行方不明のまま。

動けない俺に代わりに、イリヤに探しに行ってもらったが、結局見つからなかった。

失くした場所は、センタービル前という冬木の心臓部だ。当然だが、人の通りも多い。

見つけるのは、もう絶望的だろう。

遠坂に土下座をする覚悟を、そろそろ決めないといけない。

 

タクシーの後部座席に座り、大まかな目的地を告げる。

病室のベッドから立ちっぱなしだったので、少し疲れてしまった。

一か月以上の入院生活によって筋力は落ちたが、日常生活を送る分には問題ない。

リハビリの甲斐があったのだろう。

大きな後遺症が残らなかったのは、本当に運が良かった。

それよりも問題なのは、魔術の鍛錬を入院期間はずっとサボってしまったこと。

27本の魔術回路は、盛大に錆び付いてしまっている。

魔術回路はイリヤに開けてもらったので、鍛錬途中で死にはしないはず。

 

 

目的地まであと少しのところで、料金を払ってタクシーを降りる。

ここから先は、リハビリも兼ねて歩くことにした。

二ヶ月も経ってないのに、見慣れたはずの道が懐かしく感じてしまう。

 

「…………」

 

最近は、空を見上げる回数が増えた。

雲一つない、青く透き通った空。

俺は無意識のうちに、射命丸文の姿を探してしまっている。

彼女はもう、幻想郷に帰ったのだ。この空にはいない。

 

幻想郷――。

どれだけ手を伸ばしても、絶対に届かない場所。

二度と会えないのは、わかっていた。

 

「…………ふう」

 

乗り越えたはずだった。

お互いに納得もしたはずだった。

『ありがとう』と言えた。『さよなら』とも言えた。

だけど……『愛している』とは言えなかった。

 

胸が苦しい。

そのことが、俺の中で消化不良になっているかもしれない。

……そんな感情もまた、いずれは記憶の奥に沈んでしまうのか。

だが彼女との記憶を風化させるのは、最後の約束を違えてしまう。

 

それだけは、どんなジレンマに陥ろうとも、絶対にしてはいけなかった。

 

 

 

 

そうして歩いているうちに、衛宮家についた。

長い間、家を放置していたので、まずは窓を開けて換気をしよう。

その後は、積もり積もった埃を掃除しなければならない。

 

「よし!」

 

声を出して、自分に活を入れる。

そして、玄関の戸を開けようとすると――鍵が掛かっていなかった。

それに藤ねえに頼んで戸締まりした窓も、見える範囲で全て開いていた。

屋敷に張ってある結界は、警報を鳴らしていない。空き巣や、強盗の類ではないはず。

 

「もしかして……藤ねえかな」

 

桜の可能性もあったが、あの状態の彼女がこの家に来るとは思えなかった。

玄関先で考えていても仕方がないので、ゆっくりと戸を開ける。

 

「ただいま……」

 

誰かがいる確信を持てなかったので、つい小声になってしまう。

しかしその声に反応して廊下の先から、とてとてと軽快な足音が聞こえてくる。

 

「退院おめでとう! シロウ!」

 

イリヤだった。

どういうわけか三角巾を被って、体中を埃で汚している。

少女の埃塗れの顔は、満面と呼んでいい笑みをたたえていた。

 

「……あ、ああ。ありがとう。だけど、どうしたんだ?」

 

意外な人物の登場に驚いてしまう。

それより驚きだったのが、その不釣合な恰好からして、彼女が掃除をしていたらしいことだ。

退院の時に顔を見せなかったのは、この家の掃除をするためだったのか。

 

彼女の掃除は、完璧とは言い難い。

廊下は目を覆いたくなるほど水浸しだった。それでも、ある程度は綺麗になっている。

やり方を知らないだけで、努力した形跡は見て取れた。

このまま彼女が手伝ってくれるなら、今日中に掃除を終わらせられるかも知れない。

 

「掃除なんて初めてだったから、ちょっと上手くできなかったけど……。でも可能な限りやってみたわ」

 

城住まいのお嬢様であるイリヤが、掃除をする姿はあまり想像ができない。

畳敷きの部屋がどうなっているか不安だったが、それでも頑張ってくれたのは素直に嬉しい。

 

「……ありがとうな、イリヤ」

 

頭を撫でてやると、気持ちよさそうに眼を細める。

 

「えへへー。だって、今日からわたしも住むんだもの。シロウだけに負担をかけさせないわ」

「――――は?」

 

なにか、思いも寄らない発言を聞いてしまった気がする。

……聞き間違いの可能性も高い。いや、聞き間違いであるはずだ。

 

「……すまない、イリヤ。もう一度言ってくれるか?」

「だーかーらー! 今日からわたしもこの家に住むの!」

 

うん。聞き間違いではなかったようだ。

 

「なんでさ」

「なによー! シロウはわたしと一緒にいたくないって言うの?!」

「いや、そういうわけじゃないけど……」

 

そういえば、ドイツにあるアインツベルンの城にはもう帰らないと言っていた。

新都郊外の森にあるイリヤ城も、セイバーの宝具によって崩壊している。

そうなると、俺の家に住むことに……なるのだろうか?

 

「ダメかな……?」

 

期待通りの返事が返ってこないためか、雪の少女はしゅんと落ち込んでしまう。

いやいや、その上目遣いは反則だろう。人としての良心がズキズキと痛む。

 

もう、答えは出ているようなものだった。

 

「……ああ、わかった。好きにしてくれていい。一緒に住もう」

 

この後の展開が恐ろしくもあるが、難しく考えるのは疲れてしまった。

それに掃除だけではなく、入院中にも色々とやってくれたのだ。

そんなイリヤを、追い出すような真似なんて絶対にできない。

 

「わーい! 今日からよろしくね! お兄ちゃん!」

 

さっきまで沈んだ顔をしていたのに、今は諸手を挙げて喜んでいる。

喜怒哀楽がころころと変わるのは、見ていてとても楽しい。

 

「ああ、よろしくな。イリヤ」

 

何にしても、今は掃除の続きをしよう。

靴を脱ぎ廊下に上がると、突然イリヤが抱きついてくる。

俺との身長差が文以上にあるので、腰に抱きつかれた状態だ。

 

「おい、こら!」

「へへへー、シロウー!」

 

やんわりと振りほどこうとすると、余計きつく抱きつかれてしまう。

 

「まったく……」

 

そんな時、玄関の戸が開いた。もう、悪い予感しかしなかった。

 

「士郎ー? もう帰ったのー?」

 

藤ねえだった。

悪い予感というのは、得てして当たってしまうもの。

それは、聖杯戦争で何度も痛感した。

というよりも、なんで藤ねえがこの時間に……?

今はまだ昼下がりで、仕事の終わるような時間じゃないはずだ。

いや、それよりもこの状況を見られるのは非常にまずい。

 

「……あ、ああ。ついさっき戻ったよ、藤ねえ」

「…………士郎?」

 

俺の言葉は、藤ねえに届いていなかった。

考えてみたら……入院中、藤ねえとイリヤは一度も顔を合わせなかった。

少女は、藤村大河という知らない顔に表情が険しくなる。

というよりも、とても怖い。

やはり文とイリヤは、こういう二面性も含めてよく似ていた。

そんな中でも、俺に抱きつく手を放そうとしないのは何故だろうか?

 

「……あなた、誰よ?」

 

さっきまでの甘く柔らかなものとは違う、冷酷なイリヤの声。

普段は天真爛漫な少女なのだが、聖杯戦争で最も恐ろしいマスターなのだと実感してしまう。

 

「って、なんじゃこりゃーー!!!」

 

だがそんなイリヤの声は、虎の咆哮によって飲み込まれてしまった。

 

 

 

 

その後の悶着は、筆舌に尽くし難いものだった。

 

玄関での前哨戦は、膠着状態のまま終了した。

決戦の舞台は衛宮邸の居間へと移り、そこで話し合いが開始された。

当然、議題はイリヤについてだ。

 

衛宮家の食卓は、長方形であって円卓ではない。

だから『藤ねえ対イリヤと俺』という図式が自然と出来上がってしまう。

この時ばかりは、居間の机をちゃぶ台にしなかったのを後悔する。

いざとなれば、ひっくり返せるのも強みだった。

 

イリヤがここに住むという話をすると、烈火のごとく反対する冬木の虎。

そんな藤ねえの猛攻を、冷静に冷徹に受け流していく雪の少女。

何度かイリヤに助け舟を出したが、虎には届かず、ことごとく一蹴された。

この家の家主は俺のはずなのに、ヒエラルキーは常に最下層だった。

畳の下で何故かイリヤと手を取り合っていたが、俺が援護をする度に強く握ってくれた。

 

 

小一時間ほど平行線のまま話が続くと、突然イリヤは立ち上がる。

そして、藤ねえの耳元で何かを囁く。

こちらを気にしている様子だったので、俺には聞かれたくない話らしい。

 

「――――」

 

イリヤの言葉で、これまでの興奮が嘘のように藤ねえが素面になる。

といよりも、少し顔が青い。

彼女のこんな顔を見るのは、ひょっとしたら初めてかもしれない。

 

その結果、虎の牙が折れてしまったらしく、一緒に暮らすのを了承してくれた。

藤ねえの家に住むという案も出たが、イリヤはどうしてもこの家に住みたいらしい。

収拾がついたとは言い難いが、軍配は雪の少女に上がった。

 

「うわぁぁああん!! 文ちゃんに言いつけてやるんだからー!!」

 

そう最後に言い残して、藤ねえはどこかに走り去ってしまった。

家と学園のある方角とも違うし、本当にどこへ行ってしまったんだ。

折角来てくれたのなら、掃除を手伝ってもらおうと思ったのに。

それだけは、少し残念だった。

どうやら冬木の虎にとって、イリヤは天敵だったらしい。

倍以上年齢が離れた少女に言い負かされる、藤ねえも藤ねえだけど。

 

「……さっき藤ねえになんて言ったんだ?」

「んー。秘密」

 

そう言って、イリヤは目を逸らしてしまう。

その様子からして、どう訊いても教えてくれないだろう。

 

そういえば、藤ねえの中だと俺と文は今も恋人同士なのか。

あの恋人宣言は、彼女のからかいと、その場を収めるための奸計でしかなかった。

文について、藤ねえにどう説明しよう……?

振られてしまったと言えば、それで済むだろう。同時に凄く怒られそうな予感もある。

 

「…………」

 

でも彼女に振られてしまったのは、あながち間違った話でもなかった。

 

 

 

 

虎襲撃の一悶着の後、休憩を挟んでから家の掃除を再開した。

玄関から廊下、トイレ、風呂、台所を終わらせたので、次に個室の掃除を始める。

イリヤは途中で飽きてしまったらしく、随分前に戦線離脱してしまった。

それでも十分頑張った範囲だ。彼女に感謝は尽きない。多分。

 

「ふう……」

 

廊下の突き当たり。聖杯戦争の間、文が使っていた部屋に入る。

当時はいつ見ても、節操なしに散らかっていたが、今は彼女のいた痕跡すらない。

おそらく俺が入院していた間に、ここを訪れて掃除をしたのだろう。

 

「…………」

 

もしかしたら手紙でもあるかと思って探してみたが、当然そんなものなかった。

……彼女との別れは、もう済ませてある。

これ以上、何かを望むのは俺の我儘でしかない。

 

そのはずだった。

 

「…………文」

 

胸がとても苦しい。ガラクタの心が、今にも壊れてしまいそうだ。

 

 

…………。

 

 

「シロウー。土蔵に変なものが落ちてたよー」

 

縁側から、少女の声が聞こえた。

土蔵に遊びに行ったイリヤが、戻って来たのだろう。

あそこは魔術の鍛錬所なので、他人に見せるような場所ではない。

だけど彼女には、聖杯戦争の最中に俺の魔術鍛錬をすでに見せていた。

 

その時、イリヤは文の見ている前で俺に……。

 

「いや、それは忘れてしまおう」

 

いつの間にか、少女は俺のすぐ隣まで来ていた。

 

「……それで、変なものだって?」

「うんこれ。変でしょ」

 

イリヤに、筒状の木材を渡される。

……土蔵はガラクタだらけではあるが、こんなものは置いてなかったはず。

賞状筒と同じ形状をしており、素材は杉でできていた。

匂いを嗅いでみると、精油の良い香りがする。

 

「……うん、ここだな」

 

切れ込みを見つけたので引っ張ると、ポンと小気味良い音とともに蓋が取れた。

技術はそれなりにいるだろうが、単純な構造の木製細工だ。

 

「おおー!」

 

間近で見ていたイリヤが、大げさに声を上げる。

外国人の女の子には、それなりに面白いものなのかもしれない。

筒の中を見てみると、紙束が丸めて入れてあった。

 

「ん……? なんだこれ。新聞か?」

 

引っ張り出してみると、やはり新聞で間違いなかった。

 

「……中身は、ちょっとつまんないね」

 

一変して、落胆するイリヤ。

まあ新聞なんて、そうそう面白いものじゃないけどさ。

 

「いやだけど、新聞って……!」

 

新聞というワードに、ピンと来るものがあった。

慌てて、新聞名を確認する。

そこには、一際大きな文字で『文々。新聞』と書かれてあった。

その名前を目にした瞬間に、胸が大きく跳ねた。

 

「文々。新聞……! 文の書いた新聞だ……!」

「え、ウソ? アヤの!?」

「イリヤ……これは、土蔵のどこにあったんだ?」

「言われてみれば、アヤが召喚された魔法陣の上にあったかも。何の魔力も感じなかったから、気にしてなかったけど」

 

筒の奥を覗いてみたが、新聞以外は何も入っていない。

文が使っていたテーブルに新聞を広げて、読み始めてみる。

 

「…………」

 

ひと通り目を通してみたが、俺に対してのメッセージはなかった。

文の住んでいる幻想郷についての記事が、紙面の殆どを占めている。

幻想郷を知らない俺でも、本当に何でもない記事であるのがわかった。

新聞としてどうかと思うが、彼女なりの知見も書いてあって、それなりに面白い。

 

この世界を紹介する記事もあった。

それについては、世界を代表してでも間違っていると伝えたい。

そして聖杯戦争については、一文も記述がなかった。

『文々。新聞』に書かれた記事の傾向を見るに、その理由は何となくわかる。

 

「うーん……?」

 

イリヤも俺の隣で、難しい顔をして文の新聞を読んでいた。

彼女には入院中、文についてある程度だが教えてある。

それでもイリヤが、こんな顔をしているのもわかる。

 

「……多分これは幻想郷から、文が送ってくれたんだと思う」

「えっ?」

 

不可解な話だが、状況的にそうとしか考えられない。

 

「そんなこと可能なの!? それって、第二魔法に触れているようなものじゃない!」

 

驚きを隠そうともせずに、イリヤが語調を荒げている。

 

「……第二魔法って?」

「ええ、並行世界の運営ね。わたしは魔術師じゃないから、そこまで詳しくないけど。……詳しく知りたければ、リンに訊いてみるといいわ。第二魔法は遠坂の領分だから」

 

魔法というのは、現代の科学では決して到達できない奇跡だ。

イリヤが驚愕するのも無理はない。半人前の魔術使いである俺も驚いている。

 

「そうだとすると文は新聞を届けるために、この世界最大の奇跡に触れたのか?」

 

いくら精神分野で発展を遂げた幻想郷でも、そんな簡単なことじゃないだろう。

イリヤが疲れたような顔をしている。

いや、呆れ果てていると言ったほうが正確か。

 

「……それなら世界一馬鹿げた新聞配達ね。やっぱり、リンには言わない方いいかも。もしかしたら、卒倒するかもしれないから」

 

新聞配達……。新聞配達か。

 

「……そういうことなんだな、文」

 

この新聞は、何か特別な意図があるわけではない。

たったそのためだけに、送られたもの。

 

ああ――実に、彼女らしい話じゃないか。

 

「シロウ?」

 

イリヤが不思議そうに俺の顔を見ている。

気づくと、俺は笑みを作っていた。

当然、何か面白くて笑っているわけじゃない。

 

「……もしかしたら、新聞を発行する度に送ってくれるかもしれないな」

 

文と一緒に過ごした時間は、二週間にも満たない。

千年を生きる射命丸文にとって、瞬きにも満たない一瞬だ。

だが彼女は、こうして繋がりを残してくれる。

 

それが、どうしようもなく嬉しかった。

 

「…………文」

 

庭に出て、空を見上げる。

雲一つない、青く透き通った空がそこにあった。

彼女とは、もう二度と会うことはない。

 

だけどその空は、かつて見たものよりも、少しだけ高く感じた。

 

 






おわり




目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。