リトル・ヤタガラスは妖怪を狩るようです ~正義の妖怪ヒーローが往く退魔怪奇譚~ (小村・衣須)
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開幕
其の零 怪奇譚の幕が開く


新連載です。「うしおととら」と「ぬらりひょんの孫」を雑に混ぜて、隠し味に「平成仮面ライダー」を入れた感じでお送りします。

本作は先立って他サイト様にも掲載しており
ハーメルンでの投稿は、最新話に追いつくまで基本1日2話ペースでの更新を予定しています。


 茹だるような熱気に頭が眩み、九十九(ツクモ)は思わず膝をついた。

 

「はっ……! あ、くぅっ……!?」

 

 視線が下に向かい、床を舐める炎が嫌でも目に飛び込んでくる。

 荒い息遣いで顔を上げれば、見えるのは廃墟と化した博物館の内装と──異形の怪物。

 

「貴様……何を、した?」

 

 怪物は当惑の声を上げ、面頬の奥に鈍く光る目を細めた。

 その手に握られた刀が床を滑り、ゆらりとした動きで鎌首をもたげる。

 つい数分前まで逃げ惑う人間たちを切り刻んでいた血濡れの切っ先は、今は目の前で膝をつく少年へと向けられている。

 

「その力、は……貴様、ただの人間ではなかったのか?」

 

 おぞましく低い声色は、感情を思わせないながらも微かに震えていた。

 怪物でも困惑するのだな、と。煮込まれたシチューのように熱を帯びた頭の隅で、九十九はぼんやりと考える。

 

 軽い現実逃避でもしなければ、己の正気を保つ自信が彼には無かった。

 それでも、自分の胸を文字通りに()()痛みが、ちっぽけな少年から理性を奪わせない。

 

「ただの人間……か。は、ははっ」

 

 力ない笑いが口から漏れる。胸から湧き上がる熱で、ガラガラに乾いた喉に痛みを覚えた。

 

 突然現れた異形の怪物。パニックに陥った博物館。人々と共に切り刻まれ、血煙を浴びた展示品の残骸たち。

 その真っ只中にあって生き延び、しかし遂に追い詰められた九十九。

 本当なら、怪物の振るう刀によって命を奪われていた筈の彼は、しかし──

 

「少なくとも、僕はそのつもりだよ。……どうやら、違うみたいだけど」

「ああ、違う。ただの人間が、そんな力を持っている筈が無い」

 

 怪物にそう吐き捨てられて、九十九の胸がズキリと傷んだ。そんな事は、自分が一番よく分かっている。

 

 最早、言い訳のしようも無い。今、彼らを取り囲むように燃え盛る炎は、間違いなく九十九が生み出したものだ。

 それも例えば、ライターを使って着火したとか、ガソリンを使って放火したとか、そんな現実であり得るような現象ではない。

 

 それは九十九の胸から、蛇口を捻ったかのように溢れ出てきたものだった。

 ただの人間と思われていた少年が、無から炎を生み出した。その事実が、怪物に彼の殺害を躊躇わせている。

 

「その力を使えるという事は、貴様も我らと同じ存在という事。人間ではない」

 

 ほんの十数分の内に立て続けに起きた、現実とは思えない出来事。

 それら全てが紛れもない現実に起きた事であり、そして九十九もまたその渦中である事を、怪物は突きつけた。

 

「貴様は──」




FIRST CHAPTER→「八咫村(ヤタムラ) 九十九(ツクモ)覚醒(めざ)めしこと」


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【第壱幕】八咫村 九十九が覚醒(めざ)めしこと
其の壱 九十九という少年


「……戦国時代展?」

 

 5月の柔らかな朝日を浴びながら、八咫村(ヤタムラ) 九十九(ツクモ)は緩やかに首を傾げた。

 

「そーよ、九十九っち。次の土曜からさ、街の美術館でやるんだってよ」

 

 そんな九十九と並び立って河川敷を歩きつつ、日樫(ヒガシ) 光太(コウタ)が肯定の意を示す。

 彼が持つチケットは朝の冷たい風に吹かれ、柳のように揺れ動いていた。

 

「戦国時代のさー、武将ってーの? 大名ってーの? そういう偉い人らの鎧とか刀とか、鉄砲とかを展示してんだってよ。超カッケーじゃん?」

「その初日チケット……って事? でも、なんだって僕に……」

「だってお前、そういうの好きそーじゃん」

 

 能天気な声を出す幼馴染の言葉に、九十九の首がもう1度傾けられる。

 朝の日差しを目一杯に吸い込んだ黒髪の隙間から、眠たそうな瞳が光太を真っ直ぐに見つめた。

 

「好きそう……って、そうかな?」

「おっと、自覚ナシ? 漫画とかゲームとかでも侍系のキャラ好きじゃん、お前。だから喜ぶかなーって」

「光太は行かないの? チケット、1枚しか無いけど」

「ホントは俺が行く用だったんだけどネー。こないだの小テストの点数見た兄貴がさ、土日は勉強漬けだーって怒ってやんの」

 

 てへ♪ とわざとらしく舌を出して笑う。

 九十九の深い溜め息が、そんな親友を前にして発せられたものである事など自明の理だ。

 

「ちゃんと勉強してないからだよ……。高校入学したらちゃんと勉強するんじゃなかったの?」

「馬鹿言うな、俺だって全力で勉強してるぜ? ただちょっと、俺の全力が点数に反映されてないだけで」

「されてるんだよ……低い数字として」

 

 それもそうだと笑う光太の姿に、九十九は首を振るしか無かった。

 いつもと変わらない能天気な友人を、少しダウナー気味な眼差しと共に()()()()

 

「光太も変わらないね……。身長は高いのに成績は低い」

「それはお前だって同じでしょー、成績は高いのに身長は低い九十九クン。いつまで経っても伸びないねぇ、背」

「……身長が低くても、成績は落ちないから」

 

 そう呟く九十九の背丈は、一般的な男子にしては明らかに低い。

 丁度自分の胸辺りに来る彼の頭を、光太はポンポンと撫でるように叩いた。

 まるで年下の子供をあやすような手つきのそれに唇を尖らせつつ、九十九の伸ばした手は、光太の手からチケットを掠め取る。

 

「とりあえず、これはもらっとくよ。爺ちゃんに土産話ができるかもしれないし」

「そーいや、お前のじーさんってこの辺に住んでるんだっけ。よく行くのか?」

「ん? まぁね。婆ちゃんも死んでだいぶ経つけど、思い出のある家を手放したくないって言って今も1人で住んでるから。時々姉さんと一緒に遊びに行くんだ」

 

 チケットをリュックサックの中に仕舞い込みつつ、のんびりとしたペースで学校への道を行く。

 朝の河川敷を支配する静けさが、九十九に心地良さを感じさせていた。

 

 いつもと変わらない日常。中学校を卒業して、高校に入学した今でも、八咫村 九十九の世界は変わらない。

 今日も、昨日と同じ日常が過ぎていくのだから、明日もきっと同じ日常がやってくる。

 それが九十九の──

 

「いやぁーっ! 返して頂戴っ!」

 

 静かな河川敷に轟いた甲高い悲鳴に、九十九と光太の肩が跳ね上がる。

 顔を見合わせた2人が声のする方を見ると、そこには体勢を崩して座り込む老婆の姿。

 彼女の視線の先には、ブランド物の鞄を抱えて走り去る男の背中があった。

 

 何が起きたのかを察して、光太がうへぇと声を漏らす。

 その傍で、九十九が険しく眉を寄せている事には気付かない。

 

「うわ、ひったくりかよ。朝っぱらからよくやるぜ……って、九十九!?」

「僕が追う! 光太はお婆さんを!」

「あっ、おい待てって!」

 

 九十九は制止する光太すら意識の外に追いやって、脇目も振らずに走り出した。

 駆け出した拍子に背中のリュックサックがズシンと重たくのしかかるが、今はそんな事を考えている場合じゃない。

 河川敷の砂利を蹴飛ばすように踏み締めて、ひたすらにひったくり犯の男を追いかける。

 

「待て!」

「……!? ちっ、ガキが」

 

 追ってくる九十九の存在に気付いたらしく、ひったくり犯の舌打ちが聞こえる。

 彼は近くに落ちていた大きめの石を拾い上げると、後ろに向かって放り投げた。

 

「うわっ!? ……っと、不味い!」

 

 自分の頭を狙って飛んできた石に驚き、咄嗟に避ける。

 九十九が思わず足を止めた一瞬を突いて、男は更に加速。

 避けた拍子に転びかけた足を立て直した時には、先ほどよりも大きく距離が離されていた。

 

「止まれーっ!」

「へっ、誰が止まるかよマヌケ!」

 

 嘲笑と共に、小さくなっていく男の姿。

 九十九も負けじと走るが、この調子では到底追いつけないだろう。

 

(このままじゃ、お婆さんの鞄が……)

 

 手も足も、逃げゆく背中に届かない。その事実に九十九は歯噛みする。

 だが、はいそうですかと諦める訳にもいかない。だから、更に力を込めて地面を踏み締める。

 その程度で何かが変わるという事は無いだろう。それでも、自分の持てる全力を足に──

 

 

 

──ボオッ

 

 

 

 胸の奥で、炎が弾けたような気がした。

 

「──っ!?!?」

 

 自分の身に何が起きたのか。一瞬、九十九はそれを理解できずにいた。

 周囲の景色が異常な速度で後ろへ過ぎていき、あれほど遠かったひったくり犯との距離が見る見る内に縮まっていく。

 全身を殴りつけてくる風を一身に浴びながら、振り向いた男の驚愕を目にして九十九はようやく理解する。

 

「んな、速っ──」

「──あぁあああぁあああぁぁぁぁああああ!?!?!?」

 

 全力で地面を踏み締めた直後、強烈なスピードで加速しながら前方に吹っ飛んだのだと。

 

「ぐえっ!?」

「いぎっ!?」

 

 九十九がそれに気付いた時には、彼の超高速タックルをまともに喰らったひったくり犯が盛大につんのめっていた。

 同時に、九十九もまたタックルの拍子に姿勢を崩し、背中から地面に叩きつけられる。

 ドタァン! という音が轟いたのち、リュックサックを通して衝撃を受けた彼の背中に痛みが走る。

 

「あいっ、たぁ……!? おっ、覚えてろっ!」

 

 痛みに目を眩ませる九十九の目に、男が鞄を捨てて逃げていく姿が映り込んだ。

 乱暴に投げ捨てられた鞄が、視界の隅にチラリと見える。

 

「い……今の、って……?」

「──おーい、九十九―! 大丈夫かー!?」

 

 遠くから聞こえる光太の声に、砂まみれになった制服のままで起き上がる。

 ジンジンと痛む背中をさすりながら、九十九の視線は自分の足へと向けられた。

 

 お気に入りのシューズからは、まるで火をつけたかのように煙が立っている。

 よく見ると、靴裏が真っ黒に焦げていた。一体どれほどの摩擦熱があれば、ここまで焼け焦げるのだろうか。

 

「……一体、何が……」

「おお、いたいた……って、マジで大丈夫!? えっ、俺っちが追いかけてくるまでの間に何があったの!?」

「あ、はは……な、なんでもないよ。あ、そこにお婆さんの鞄があるから、届けてあげて」

 

 そう言って、道の端に落ちていた鞄を指差す。

 それを見つけた光太が拾い、後ろからついてきていた老婆に手渡した。

 

「ほい、ばーちゃん。俺のマブダチがちゃーんと取り返してくれたぜ」

「ああ、ありがとうねぇ……おかげで助かったよ」

 

 少し埃っぽくなったブランド物の鞄を、老婆は大切そうに抱きかかえる。

 その柔らかな微笑みに、九十九と光太は顔を見合わせて笑った。

 

「いやいや、俺はなんもしてないッスよマジで。やってくれたのは、こっちの九十九っちだけです」

「ん……いや、そこまで言われるほどじゃないよ……」

「ばっかオメー、お前が追いかけなきゃ俺だって動いてなかったっつーの」

 

 コツンと、九十九の頭が軽く叩かれる。

 それを為した光太は、間髪入れずに彼の黒い髪を撫で回した。

 やや不満げな九十九だが、背中に走る痛みのせいで抵抗する気になれなかった。

 

「昔っからそうだよな。いつもは眠たそうな、暗いツラしてる癖に、ここぞの時はハッキリシャッキリ決断して動く。そういうとこがカッケーんだよ、お前」

「そう、かな……? よく分かんないや。体が勝手に動いただけだし……」

 

 ポリポリと頬を掻く。

 それが謙虚に見えたのか、老婆はニンマリと笑って2人に言い募った。

 

「とにかく、本っ当にありがとうね。あんたたちは恩人だよ、何かお礼がしたいんだけど……」

「いやいやいやいや! だぁから、そんなつもりでやったんじゃないんですってば! お礼なんていいッスよぉ! なっ、九十九?」

「あ……ああ、そうだね。僕らは何も……?」

 

 目が瞬いた。

 不思議そうに目をパチクリとさせて、九十九は老婆を──老婆の後ろの景色を見る。

 

(キツネ……? それと、鳥……)

 

 さながら蜃気楼か何かのように。朧げなシルエットが2つ、九十九たちの遥か後方に佇んでいた。

 片方はデフォルメされたキツネか何からしく、モコモコの尻尾を揺らしている。

 もう片方は小さな鳥であるようなのだが、どの種なのかは遠目には確認できない。

 

 そのどちらも、白く反射する眼光で九十九を見つめているような……

 

「九十九?」

「えっ? あっ、はい。ぼ、僕たちはお礼なんて要りませんから」

 

 尻の砂埃を軽く手で払いつつ、立ち上がる。

 そうやって老婆に向き直った時には、遠くに見える2つのシルエットは跡形もなく消え去っていた。

 最初から、そんなものは存在していなかったとでも言わんばかりに。

 

「じゃ、俺らは学校がありますんで、これで!」

「おお、そうかい。それは済まなかったねぇ。気を付けて行くんだよ」

「ばーちゃんこそ、またひったくられねーように気を付けてなー!」

 

 朗らかに手を振り去っていく老婆へと、光太も手を振り返す。

 やがて老婆の姿が見えなくなった頃、ようやく一息つけたと肩の力を抜いた。

 

「んじゃ、行くべ。早く行かねーと遅刻すっからな~」

「……うん、そうだね」

 

 緩く頷きを返して、歩き出した光太の後を追う九十九。

 砂利を踏む音を耳にしながら、先ほど起きた事を思い返す。

 

(……あの、よく分からない加速は……なんだったんだろう)

 

 ひょっとすると、あれはただの錯覚で、本当はあっさりとひったくり犯に追い付いていたのかもしれない。

 でなければ、現実にあんな事が起きる訳が無い。

 

(……だから)

 

 だから、シューズの裏が焦げているのも何かの勘違いなのだと。

 そんな思いを隠しつつ、九十九は高校への道のりを急いだ。



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其の弐 戦国時代展にて

 そして、土曜日。

 

「へぇ……! これは本当に凄いな……」

 

 光太から譲り受けたチケットを手に、街の博物館を訪れた九十九。

 戦国時代展と書かれた案内表示を抜ければ、そこにはチケットに写されているような和の雰囲気が、まさしく目の前に広がっていた。

 

「これは光太に感謝しないとね……ここの展示だけで1日潰せちゃいそうだよ」

 

 博物館の中なので、周りの客の迷惑にならないように声を潜めながら。

 忙しなく周囲を見回す九十九の手には、今回の特別展示のパンフレットが握られている。

 パンフレットを読み込むだけでも楽しかったのだ。況や展示を直接見るともなれば、その心は自然と高揚する。

 

「えーっと、まずは……へぇ、戦国時代初期の甲冑かぁ」

 

 展示品はどれもこれも魅力的で、あちらこちらについつい目移りしてしまうほどだった。

 厳かな雰囲気を感じさせる戦装束に息を呑み、さる武将が描いたという掛け軸に惹き込まれ、合戦の様を事細かに描写した屏風に快哉を上げる。

 

 普段はダウナーで暗い雰囲気の九十九だが、高揚のままに展示品を見て回る内に、その目はキラキラと輝いていく。

 彼以外の入館者たちも、楽しげに展示を見て回っている様子が見て取れた。

 いつの間にか、手に持ったパンフレットは汗と握力でクシャクシャになっている。

 

「これ、は……? うーん……千人もの侍を斬り殺した刀ねぇ……」

 

 ふと九十九の目についたのは、まさしく彼が口にした事が解説されている一振りの刀だ。

 流石に刀身は綺麗に磨かれている為、血塗られた妖刀という訳ではなさそうだが、だからこそ胡散臭く感じられた。

 

「多分……どこかの武士が、箔付けの為にそう謳っただけのものだろうけど。……ちょっと、怖いな」

 

 綺麗に磨かれたこの刀が、かつては数多くの人間の血脂でベトベトになっていたのだとしたら。

 ほんの少しの怖さを感じて、九十九は足早にその場を去った。彼はビビりだった。

 だから他のところに意識を向けようと、まだ見ていない展示品を探そうとして──

 

 それを、見た。

 

「……これ」

 

 そこに展示されていたのは、1丁の火縄銃だった。

 なんの変哲も無い、木と鉄でできた射撃武器。戦国時代、かの織田(オダ) 信長(ノブナガ)が戦に用いたとされる南蛮由来の鉄砲。

 戦国時代展であるからには、火縄銃が展示してあってもおかしくないだろう。でも……

 

「……凄い」

 

 何故だか、九十九はその火縄銃に心を奪われた。

 なにか特別な謂れがあるものでもないのに、どうしてか目が離せない。

 思わず手を伸ばし、ガラスのショーケースに手を触れる。ガラスのひんやりとした冷たさが、この感情が夢や幻ではないのだと告げてくる。

 

「僕は、どうして……この銃が気になるんだろう……?」

 

 ポツリと零したその呟きは、誰に聞かれるでもなく人々のざわめきに溶けていって──

 

 

 

 

 

「おやァ、おや。その鉄砲が気になるのかい?」

 

 ヌラリと、甘い香りが鼻を刺す。

 その青臭い甘ったるさに不愉快さを感じた直後、九十九は自分の隣に見慣れる男がいる事に気付いた。

 

「うわっ!? ……っと、すみません」

「ヒヒヒ。なァに、驚かせたのはあたしの方だからねェ。気にする事は無いさ」

 

 枯れ木のような人だ。和装をした男の振る舞いを見て、九十九はそう思う。

 からからと薄っぺらく笑うその男は、吹けば折れる枝のような雰囲気を持ちながら、風を受けて揺れる柳の葉のような柔軟さを感じさせた。

 着物の袖から見える手には、彼の腕ほどに長い煙管(キセル)が握られている。ここが博物館だからか、流石に煙は出ていない。

 

「それよりもねェ、お前さん。この鉄砲に注目するたァ、お目が高いってモンだよ」

「は、はぁ……そうなん、ですか?」

「あァ、そうとも。これはねェ、雑賀衆(サイガシュウ)の小坊主どもが使っていた鉄砲なのさァ」

「雑賀衆……っていうと、戦国時代に存在した傭兵集団ですよね。鉄砲の扱いに優れていて、あの信長を苦戦させたっていう」

「ヒヒッ、よく知ってるねェ。奴ばらは鉄砲使わせれば紀伊一ってくらいの技量でさァ、その大将が……あァ、孫市(マゴイチ)だったかねェ。あれの掲げる八咫烏(ヤタガラス)の紋所と言えば、当時は鉄砲の象徴みたいなところがあったのさァ」

「……八咫烏?」

 

 訝しむように首を傾げる所作を見て、男は「ヒヒヒッ」と嘲笑うかのような声を漏らした。

 手の内で煙管(キセル)がクルリクルリと回転し、その度に甘ったるい香りが九十九の鼻に突き刺さる。

 

「おやおや、不勉強だねェ。八咫烏ってのは、3本の足を持つカラスのバケモノさァ。勝利を司るってんで、雑賀衆どもが有難がってたのよォ。まァ、バケモノというよりは……」

「……いや、それは知ってます。知ってるんです、けど……」

 

 そこでもう1度、九十九はショーケースの中の火縄銃を見た。

 銃を構成する木も鉄も、長い時の中でボロボロになっている。もしもケースを砕いて中の銃を取り出せば、容易く壊せてしまいそうなくらい。

 そんな火縄銃の存在を確かめるかのように、指先がガラスの上を滑る。

 

「なんか、よく分かんないんですけど……()()()()()()()

「……へェ?」

「こう……火縄銃の事も、八咫烏の事も。なんというか……僕の中で、妙にしっくりくるって言うか……パズルのピースが嵌ったみたいな感じというか……」

 

 口元に手を寄せて、ブツブツと呟きを繰り返す。

 そんな九十九の様子に男が口角を吊り上げたが、その事実に気付く者はいない。

 

「……あっ、すみません。全然意味分かんないですよね、いきなり変な事言って……」

「ヒヒヒヒヒ。いやァ、そんな事は無いさ。とても面白い意見だったよォ」

 

 ヌラリと笑みを深くして、男は九十九の顔を覗き込む。

 その瞳は、光の一切を飲み込むブラックホールを思わせるほどに暗く、底が見えなかった。

 

「でもねェ、用心した方がいいよォ。道具に深入りしてもロクな事にならないからねェ」

「どういう……事、ですか?」

「ヒヒヒッ。お前さん、九十九神(ツクモガミ)って知ってるかい?」

 

 やおらに後ろを振り向く。

 男の視線の先では、数多くの展示品……大昔に作られた道具たちが、所狭しと並んでいた。

 

「99年使い続けた道具にはねェ、100年目に神サマが宿るのさァ。ま、神サマと言っても幽霊みたいなモンだけどねェ。とにかく、道具は別のナニカに成る……変化(ヘンゲ)するのさァ」

「……この火縄銃も、そうだと?」

「さァねェ。こいつはただの古臭い鉄砲、それに変わりは無いさァ。でもね、覚えておくといいよォ」

 

 踵を返し、男が歩き出す。

 手元の煙管(キセル)を弄びながら、彼はするすると九十九から離れていく。

 

「想いってのはねェ、容易く世界を変えるのさァ。99年も想いを込めりゃ、そりゃ道具だって手足が生えて動き出すものよ。でもね、そうなったらもう道具じゃなくなるのさァ。九十九神に成っちまった以上、そいつはもう人の理を外れた存在──」

 

 つい、と。九十九の視界を、数人の客が横切った。

 人の波が九十九と男の間に割って入り、一瞬だけ男の姿を見えなくする。

 そうして、客たちが通り過ぎた後。

 

「妖しい怪しい、夜の世界の住人たち……“妖怪”、と呼ぶのさァ」

 

 男の姿は、どこにもなかった。



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其の参 妖怪変化

「ふぅ……結構楽しんじゃったな」

 

 奇妙な男と別れた後も、九十九は特別展示の見学を続けていた。

 途中で喫茶コーナーでの休憩も挟みつつ、全ての展示品を見終えた時には午後3時を過ぎていた。

 

 館内のベンチに腰を下ろして、小さく息を吐く。

 少しの疲労感にどこか心地良さを感じながら、九十九の視線は館内を行き交う人々へと向けられる。

 

「……初日から、こんなにも人が来てるなんて。やっぱり、凄いなぁ……」

 

 子供連れからお年寄り、1人で来た者、恋人や家族と来た者。

 老若男女が九十九の視界を横切っては通り過ぎ、思い思いのひと時を過ごしていた。

 そして、その表情はいずれも楽しげな、満足そうなものばかり。

 

 そんな穏やかな休日に思いを馳せて、九十九の頬は自然と綻び……

 

「……? この匂い、さっきの……」

 

 ふと鼻を刺す、不愉快な青臭さと甘さに満ちた香り。

 その甘ったるさに気付いた直後、九十九は火縄銃の展示で言葉を交わしたあの奇妙な男の姿を見つけた。

 

「……ヒヒッ。幻の妖刀ねェ……随分と大層なお題目じゃないの」

 

 男が見ていたのは、例の千人切りを為したとかいう妖刀だ。

 鏡面のように煌めく刀身を、あのブラックホールを思わせる濃い瞳が見つめている。

 

 だが、先ほど九十九と話していた時とは決定的に違う点が1つ。

 袖口から覗く長い長い煙管(キセル)からは、薄っすらと煙が湧き出ていた。

 目を凝らさないと見えないほどに薄い煙草の煙が、離れた場所にいる九十九にさえ酷く甘い香りを感じさせている。

 

「人の想いが道具を神に変えるなら、恨み辛みに怨念だって、人の想いにゃ変わりない。間抜けな侍どもの血と肉と魂を啜り上げた刀は……ヒヒヒッ、どんな魔物に成るんだろうねェ。あたしは、それが楽しみで楽しみで仕方ないよォ」

「あの……すみません。館内で喫煙はご遠慮頂けると……」

 

 男が煙草を()もうとしているのを見かねて、博物館の係員が注意と制止に現れた。

 その剣呑な雰囲気と奇妙な香り、そして館内に広がりつつある煙を認識して、周囲の客たちもにわかにざわつき始める。

 

 注意を呼びかけてきた係員に対して、男は伽藍のように深く暗い視線を返す。

 周囲からは「ひっ」という悲鳴にも似た声が聞こえ、それを遠くから見ていた九十九も思わずベンチから腰を浮かした。

 

「ヒヒヒヒヒ、そう目くじら立てなさなんな。なァに、すぐ終わるからさァ」

「す、ぐ……? えっと、とにかく煙草の火を消し……」

「ほォら、見てみな」

 

 男が示す先で起きた事に、その場の誰もが注目し、それを異常と理解した。

 

「じきに覚醒(めざ)める。さながら時報だよォ」

 

 展示されていた曰く付きの妖刀が、ガタガタと独りでに震え出している。

 煙管(キセル)から湧き出る煙は、ショーケースをすり抜けて内部を満たし……そして、妖刀がその煙を取り込み、吸収し始めた。

 

 凡そ非科学的な現象に、人々からは悲鳴や恐怖、当惑の声が次々に上がっていく。

 それは、九十九もまた同様だ。とうとう立ち上がった彼は、目の前で起きている不可解な現象に言葉を失っていた。

 

(何が……何が、起きてるんだ……!?)

 

「ヒヒヒヒヒッ。魂持たざる人形(ヒトガタ)よ、邪気を食む憑き物なりて、成るは物の怪、魑魅魍魎」

 

 男の妖しげな呪文に合わせて、妖刀の振動が一層強くなる。

 やがて煙を目一杯に吸収した刀は紫色の光を帯びて、ショーケースに無数のヒビが入り──

 

「さァ、変化(ヘンゲ)しな。山ン本(ヤマンモト) 五郎左衛門(ゴロウザエモン)の名の下に」

 

 全てが弾け飛んだ。

 粗雑なポップコーンのように炸裂したガラス片が、盛大な勢いを伴って撒き散らされる。

 吹き荒れる爆風が近くの展示品を巻き込んで薙ぎ倒し、その煽りを受けて照明が破裂する。

 

「きゃあーっ!?」

「うわっ、な、なんだ!?」

「誰か! 誰か警備員をっ!」

 

 一瞬の内にパニックを起こす人々。咄嗟に逃げ出す者や、その場に座り込む人々の姿が嫌でも目に入る。

 吹き飛んだガラス片や展示品に巻き込まれ、怪我をした者も数人見受けられた。

 

「……なんだ、あれ……。いや……そうじゃない。何が起きてるか分からないけど、でも今は重要じゃない……」

 

 その中にあって、九十九は冷静だった。いや、彼とて混乱と困惑はしている。

 だが、騒動の渦中から少し離れた場所にいた彼は、爆風の煽りをそれほど受けていない。

 

()()は、何者なんだ……!?」

 

 だから、()()を冷静に目視する事ができた。

 

「……フゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……」

 

 刀を手にした、人のようなナニカ。

 ボロボロの黒衣に身を包み、面頬によって素顔を隠された()()は、妖刀が飾られていたショーケースの上に立っていた。

 そして、()()が握っている刀は……間違いなく、あの千人切りの妖刀だ。

 

 突如として現れた謎の存在を前に、煙管(キセル)を持った男は満足そうに笑う。

 ガラスの炸裂を真っ正面から受けていた筈なのに、しかし傷の1つも見受けられないまま、男は異形の刀使いに言葉を投げかける。

 

「お前さん……名は?」

「……カタナ」

 

 そのおぞましく、心臓を鷲掴みにするような低い声色を聞いて、九十九が恐怖に我を忘れなかったのは真実幸運だろう。

 曰く付きの妖刀を握り締め、この場の全員に誇示するかの如く異形は名乗りを上げる。

 

「妖怪、カタナ・キリサキジャック……!」

 

 妖怪。

 その名を聞いた瞬間、男の言葉が九十九の脳裏に蘇った。

 

『九十九神に成っちまった以上、そいつはもう人の理を外れた存在──妖しい怪しい、夜の世界の住人たち……“妖怪”、と呼ぶのさァ』

 

「まさか、あいつが……妖怪。刀の九十九神、切り裂きジャック……!?」

 

 そんな呟きを男は確かに耳にして、一瞬だけそちらに目を向ける。

 しかし、すぐに異形の存在──妖怪カタナ・キリサキジャックに向き直った為、その事に九十九が気付く事は無かった。

 

「ふゥん……? 聞き慣れない名だが……確か、()()()()の辻斬りだったかねェ。妖怪だったのかい、あれ。まァ、今はその辺はいいか」

 

 そうして、男は着物の袖口から煙管(キセル)を取り出す。

 腕ほどに長いそれを口に咥え、息を吹き込めば、たちまちに溢れ出る大量の煙。

 煙管(キセル)を口から離し、もうもうと煙を吐き出しながら、男は妖怪キリサキジャックを見た。

 

「カタナ。お前さんに、『げえむ』の一番手になる権利をやろう。脆弱な人間どもの生き血を啜り、その命を奪い、妖怪への恐怖でこの世を闇に染め上げな」

「心得た、我ら妖怪の長よ」

 

 カチャリと、軽い音を立てて刀が振り上げられる。

 かつて、数多くの侍を斬り殺したという妖刀。普通であれば一笑に付されるようなほら話の刀身が、今。

 

「昼の光を、夜の闇に塗り替える。それは、我の得意分野だからな」

 

 目に見える全てを薙ぎ払うように、振り抜かれた。

 

(……っ!? 不っ、味……)

 

 その剣閃は、刀の間合いを遥かに超えてなお全てを切り裂く殺傷性を秘めていた。

 飛ぶ斬撃。それがパニックを起こした客や博物館の係員、駆けつけた警備員たちへと一斉に襲いかかる。

 

 そしてそれは、九十九とて例外ではなかった。

 あまりにも速すぎる剣閃を前に、彼が回避できずにいた事を誰が責められようか。

 

(だ、め……避けられっ、死──)

 

 恐るべき速度で目の前へと迫る斬撃は、ちっぽけな少年に回避を許さない。

 それは刹那の内に、彼の胴体を真っ二つに──

 

 

 

──ボオッ

 

 

 

 胸の奥で燃え上がる、赤い炎。

 

 九十九がその存在に気付いた時には、激しく動転する視界と強烈な破壊音が彼から意識を奪っていた。



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其の肆 惨劇と賭け

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


 頭を殴りつけてくる鈍い痛み。

 悲鳴。絶叫。断末魔。破壊音。耳をつんざく無数の音。

 そして、苦しいほどに胸を焼く正体不明の熱。

 

 心臓の鼓動に合わせて神経を刺すそれらの苦痛に、九十九は目を覚ました。

 

「──ん、はぁっ!?」

 

 我に返って早々、全身を刺激する痛みと不快感にたまらず飛び起きる。

 荒い呼吸音ばかりを吐き出して周囲を見回してみれば……そこに広がっていたのは、まさしく地獄だった。

 

「な……んだよ、これっ……!?」

 

 つい数分前まで楽しんでいた、博物館の特別展示などもう影も形もない。

 照明が割り砕かれて薄暗い館内は、壁や天井、床の至るところに斬撃痕が残されている。

 無事なショーケースはただの1つも無く、展示品のほとんどが無惨に破壊されていた。

 

 ……そして、そんな残骸たちを赤く染め上げているもの。

 それが人の血である事を理解するのに、九十九は数十秒を要した。

 

「~~~~っ!」

 

 口を抑え、胃から込み上げてくるモノを必死に押し留める。

 視線の先に転がっているのは、人の腕だった。

 

 胴体が横に、或いは縦に真っ二つ。腕が飛び、足が飛び、首が刎ねられて。

 ありとあらゆる斬殺をこの場に集めた。そう言われても納得できるほどの惨状が、そこにあった。

 

 大人が、子供が、男が、女が、客が、係員が、警備員が。

 その誰もが、顔に恐怖と絶望を貼り付けたまま事切れている。この凶行を為した悪魔に対して、怖れと恐れを向けたままに死んでいる。

 九十九が気を狂わせずにいられたのは、幸運と言う他ないだろう。

 

「はぁ……っ! はぁ……っ! ……こっ、これを……全部、あのバケモノが……」

 

 吐き気を無理やり飲み込んで、ヨロヨロとした動きで立ち上がる。

 着慣れた洋服も埃や返り血に汚れ、ボロボロに煤けているが気にしてはいられない。

 

 そんな事よりも、九十九は自分が思ったよりも冷静である事に気付き、驚いた。

 吐き気を催す凄惨な有様が視界いっぱいに飛び込んでいるというのに、心が狂う事も無く思考を維持していられる。

 まるで、自分が()()()()()()()()()()()()()()()()()になってしまったかのような……。

 

「──いやぁぁぁっ! 助けてーっ!」

「……っ」

 

 遠くから、誰かの叫び声が聞こえてくる。

 辺りは随分と静かになったと思っていたら、あの妖怪なる謎の怪物は展示室の外に出て人間を襲っているらしい。

 

「開けてっ! 誰かっ、開けてよぉ! なんでドアが開かないのぉっ!?」

「けっ、煙がっ! 煙みたいなのが、ドアを押さえて……開かなっ──ぎゃあっ!?」

「ひっ!? い、いやっ、助け──」

 

 ガタガタと博物館のドアが叩かれた直後、断末魔が轟いたのち、声が2人分消えた。

 それを理解したからこそ、九十九にできる事は何も無い。震える足が、その場から動こうにも動けない。

 

 だから、立ち尽くしたままにそれらを聞いているしか無かった。

 知らない誰かの絶叫が断末魔に変わり、肉を潰したような斬撃音が聞こえ、より悲鳴が上がり……。

 やがて、館内は静かになった。

 

「まだ、生きていたか」

「──っ!?」

 

 後ろから、首筋に刀が添えられる。

 全身から汗が吹き出す感覚に、九十九は目を見開いて息を呑んだ。

 

「……切り裂きジャック」

「そうとも。我の名は妖怪カタナ・キリサキジャック。人の理を外れ、夜の世界で生きる者。お前たち、昼の世界の住人とは違う者」

 

 今振り向けば、自分の首は瞬きよりも早く胴体を離れるだろう。そんな確信のみがあった。

 それでも、背後に立つ怪物──妖怪カタナ・キリサキジャックに対して、口を開かなければならなかった。

 

「なん、で……なんで、こんな事を。こんなっ、酷い事を……」

「知れたこと。貴様ら人間に、我ら妖怪への恐怖を刻みつける為」

 

 思いの外饒舌に、自分たちの目的を語るキリサキジャック。

 或いは、1分もしない内に死ぬ人間に対する冥府の土産なのだろう。

 

「貴様らが恐怖し、絶望し、妖怪に……『夜』に畏れを抱けば抱くほど、貴様らの生きる『昼』に闇が満ちる。闇が『昼』を埋め尽くせば、それは『夜』になる。即ち、我ら妖怪が世の覇権を取り、人間に取って代わる文明の覇者となるのだ」

「……その為に、なんの罪も無い人たちを?」

「そうだ。そして、今に貴様もそうなる」

 

 刀が振り抜かれる。

 路傍の虫を踏み潰すのと変わらない気軽さで、九十九の命が奪われようとしている。

 

 これを避ける術は無い。離れた距離でさえ、斬撃を飛ばす事で一切が薙ぎ払われたのだ。況や、超至近距離から首を狙うともなれば。

 これを避ける術は無い。普通であれば。

 

 だから、八咫村 九十九は「普通じゃない」可能性に賭ける事にした。

 

(南無──三っ!)

 

 最初に斬撃が放たれた時、すんでのところで何故か回避する事ができた。

 その時に感じたのは、胸の内に炎のようなナニカが灯り、燃え盛る感覚だった

 

 それで思い出すのは、光太と共にひったくり犯を追った時の事。

 砲弾めいて吹っ飛ぶほどの超加速と、靴裏が焦げるほどの熱。あの時感じたのも、さっきのような炎の感覚だったように思う。

 

 あれがなんだったのかは、未だに分からない。

 けれど、もしも。あの炎を、自分の意思で点火できるとすれば。

 

 

──ボワッ!

 

 

 果たして、賭けは成る。

 靴裏から一瞬だけ迸った炎は、九十九に尋常ならざる回避を実現できるだけの脚力と反射神経をもたらした。

 滑るように体勢を崩し、自分の頭の上を過ぎていく刀を感じながら床を転がって距離を取る。

 

「……何?」

「や……った! ぶっつけだけど、なんとかなった……!」

 

 そのまま流れるような動作で立ち上がった九十九は、口元の煤を拭いながら自分の行いに驚愕した。

 自分でもよく分からない、ともすれば気のせいで終われてしまうような力を土壇場で活用しようなど、どうして思いついたのだろう。

 いや、思いついたまではまだいい。何故、それが土壇場の一発勝負で成功したのだろう。

 

 奇跡? 偶然? それを否定できる材料は無い。

 けれど九十九は、別の可能性を脳裏に思い描いた。

 

 つまり、この力は最初から自分の中にあって、誰に教わるでもなくその使い方を──

 

「だが、甘い」

 

 キリサキジャックが刀を振るう。その衝撃が飛び、九十九に向かう。

 だが、それは斬撃ではない。刀の切っ先を敵に向かって押し出す──刺突だ。

 

「っ!? こな、くそっ──」

 

 飛ぶ斬撃よりも速い、飛ぶ刺突。

 直撃すれば体が抉れ飛びかねないそれを、咄嗟に身を捩る事で避ける。

 しかしそれによって足が滑り、九十九はその場に膝をつく形で転んでしまった。

 

「しまっ──」

「終わりだ」

 

 キリサキジャックの足元をなぞる切っ先が、一気に上段へと振り上げられる。

 渾身の、そして今までの斬撃よりも更に威力の高い逆袈裟斬り。それは床を抉り、天井をかち割るだけでは済まされない。

 床から天井まで届くほどに長い斬撃が、展示室を斬り砕いて突き進む。

 

 そんな殺意の塊が真っ直ぐに狙うのは、当然ながら九十九を置いて他にいない。

 

「妖術──《切り裂き御免》」

 

 轟く爆音が、博物館全体を大きく揺るがす。

 

「……さァて、ここからどうする? どう出るよ、八咫村の小倅」

 

 その一部始終を、柱の陰から男が煙管(キセル)()みながら見ていた。



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其の伍 カラスが叫び、炎が灯る

 ガラリと微かな音を立てて、コンクリートの破片が落ちる。

 足元に転がる甲冑の破片を踏み砕きながら、キリサキジャックは廃墟同然と化した博物館の中を歩く。

 

 刀は握り締めたまま、いつでも振るえる体勢を取っていた。

 面頬の奥に暗く光る目は、何かを探すようにキョロキョロと動き……やがて。

 

「……まだ、生きているか」

 

 足を止め、それを見る。

 グシャグシャに潰された展示品の影で、酷く荒い呼吸を繰り返す彼の姿を。

 

「はぁ……はぁ、はっ……はは。もう、足が動かないや……」

 

 九十九だ。あれほどの斬撃が放たれてなお、彼はまだ生きていた。

 焼け焦げてズタズタになったシューズが、彼がどのようにして攻撃を凌いだのかを雄弁に語っている。

 

 けれど、それだけだ。ここからキリサキジャックの魔の手を逃れる術は、もう無い。

 それを誰よりも分かっているのは、他ならぬ九十九自身だろう。

 

「人間にしてはすばしっこいようだが……もう打つ手はないようだな」

「……殺す、のか。僕も」

「そうだ。貴様を殺したのち、ここを出る。博物館の外でより多くの人間を殺し、恐怖させ、昼の世界を『夜』に近付ける。こんな博物館など、ただの通過点に過ぎない」

 

 ギラリと、刀が鈍い光を放つ。その刀身は、妖刀という触れ込みに違わぬほど血と脂に濡れていた。

 館内にいた全ての人間が、九十九を除いて斬り殺されたのだろう。そして今、九十九もそうなろうとしている。

 

(止め、ないと……。こいつが外に出たら、父さんや母さん、姉さん、爺ちゃんに光太、皆が……っ! でも、今の僕には何も……何も、できない……)

 

 考え得る全ての選択肢が、キリサキジャックの手で一刀のもとに斬り捨てられるだろう。

 だから、何もできない。何も成せない。八咫村 九十九は、ここで死ぬ。

 

(どうすれば……一体、どうすれば……。諦めたくない、けどっ……──?)

 

──ガチャリ

 

 手に、何かが触れる。いや、決して「何か」ではない。

 それを、九十九は刹那の内に理解した。他ならぬ彼の本能が、それの正体を理解したのだ。

 

 同時に、今まさに刀を振り上げようとしていたキリサキジャックの手も止まる。

 それは単に、九十九の顔色が変わったからだけではない。彼もまた、九十九が触れたものの存在と、それの正体に気付いていた。

 

「こ、れ……まさか」

「……馬鹿な。これほど破壊の限りを尽くしたのに、まだ壊れていなかったのか?」

 

 それは、1丁の火縄銃だった。

 なんの変哲も無い、木と鉄でできた射撃武器。戦国時代を取り扱った企画だから展示してあったというだけの、なんの謂れも無いもの。

 けれどもそれは、あの時。

 

『こう……火縄銃の事も、八咫烏の事も。なんというか……僕の中で、妙にしっくりくるって言うか……パズルのピースが嵌ったみたいな感じというか……』

 

 あの時、自分は確かにそう言った。

 なら、これは、でも、だって、だけど、だから、これは、きっと。

 

 

──ボワッ!

 

 

「……っ!? む、ねが……熱い……っ!?」

 

 火縄銃に触れた直後、九十九の胸が強く熱を帯び始める。

 それは目に見えて分かるほどであり、彼の胸部は明らかに赤い光を宿していた。

 

 故に、キリサキジャックは刀を振り上げた。

 その火縄銃が何なのか。それはつい先ほど妖怪になったばかりで知らないが、それでも直感的に分かる事がある。

 

「それは──駄目だ。その銃は、我ら妖怪の害となる──ッ!」

「──ぁ」

 

 九十九は、パチリと目を瞬かせた。

 視界に映る全てのモノが、スローモーションのように遅く見える。

 振り下ろされ、今まさに自分を切り裂かんとする刀の切っ先でさえ、カタツムリの歩みよりも遅い。

 

 それと同時に、胸の奥に灯る炎の存在をハッキリと知覚する事ができていた。

 例えるならばそれは、何よりも暗い闇の中にあってただ1つ燃え盛る篝火。闇を照らす唯一の灯火。

 その輝きと熱を、九十九は確かに実感した。その炎に、手を伸ばす事ができる事も。

 

(……これ、この光。これを掴めば、きっと……)

 

 だから、手を伸ばす。

 近付けば近付くほどに手のひらを焦がす熱が、段々と大きく、激しく、眩いほどに勢いを増して──

 

(……あれは)

 

 ()()()()()

 文字通り、炎が1対の翼を広げ、その目を見開いた。

 徐々に1つの形を取っていく炎は、九十九の目の前で立ち上がり……やがて。

 

(八咫烏──?)

 

 

 

【──Aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaッ!!!】

 

 

 

 3つの足を持つ、勝利と……そして太陽の化身。

 八咫烏の幻影がけたたましく雄叫びを上げて、暗闇を炎で埋め尽くした。

 

「な、にっ!?」

 

 キリサキジャックの刀が九十九の肩を切り裂こうとした寸前、彼の全身から溢れ出た炎がそれを阻む。

 蛇口を全開に捻って出した水とて、ここまでの勢いは無いだろう。迸る真っ赤な奔流は、それほどの勢いを孕んでいた。

 最早、斬り殺すだけで終わる話ではない。床を蹴り、大きく距離を取って炎から逃れる。

 

「……熱い。胸が、焼けてしまいそう……だっ」

 

 ゆらりと、幽霊めいた動きで九十九が立ち上がる。もう足は動かないと、そう言っていた筈なのに。

 胸を強く鷲掴みにすれば、勢いよく溢れていた炎はやがて衰え、消失する。

 それでも、既に放出された炎が辺りに火をつけ、館内を赤く照らしていた。

 

「一体、何が起きた……!? いや、ここで殺せばいいだけの事!」

 

 キリサキジャックが刀を横に薙ぎ、水平の剣閃を飛ばす。

 左右どちらに回避しても体を切断されてしまうだろう斬撃を前に、九十九は本能的に腕を振るった。

 

「え、えぇいっ!」

 

 振るった左腕から、炎が弾け飛ぶ。

 飛ぶ斬撃に対抗する形で放たれた炎の散弾が、斬撃を相殺して空中で爆発を起こす。

 その衝撃で吹き荒れた熱風、そして茹だるような熱気に頭が眩み、九十九は思わず膝をついた。

 

「はっ……! あ、くぅっ……!?」

 

 視線が下に向かい、床を舐める炎が嫌でも目に飛び込んでくる。

 荒い息遣いで顔を上げれば、見えるのは廃墟と化した博物館の内装と──異形の怪物、妖怪カタナ・キリサキジャック。

 

「貴様……何を、した?」

 

 キリサキジャックは当惑の声を上げ、面頬の奥に鈍く光る目を細めた。

 その手に握られた刀が床を滑り、ゆらりとした動きで鎌首をもたげる。

 つい数分前まで逃げ惑う人間たちを切り刻んでいた血濡れの切っ先は、今は目の前で膝をつく少年へと向けられている。

 

「その力、は……貴様、ただの人間ではなかったのか?」

 

 おぞましく低い声色は、感情を思わせないながらも微かに震えていた。

 妖怪でも困惑するのだな、と。煮込まれたシチューのように熱を帯びた頭の隅で、九十九はぼんやりと考える。

 

 軽い現実逃避でもしなければ、己の正気を保つ自信が彼には無かった。

 それでも、自分の胸を文字通りに焼く痛みが、ちっぽけな少年から理性を奪わせない。

 

「ただの人間……か。は、ははっ」

 

 力ない笑いが口から漏れる。胸から湧き上がる熱で、ガラガラに乾いた喉に痛みを覚えた。

 

「少なくとも、僕はそのつもりだよ。……どうやら、違うみたいだけど」

「ああ、違う。ただの人間が、そんな力を持っている筈が無い」

 

 人ならざる存在にそう吐き捨てられて、九十九の胸がズキリと傷んだ。そんな事は、自分が一番よく分かっている。

 

 最早、言い訳のしようも無い。今、彼らを取り囲むように燃え盛る炎は、間違いなく九十九が生み出したものだ。

 ただの人間と思われていた少年が、無から炎を生み出した。その事実が、恐るべき妖怪に彼の殺害を躊躇わせている。

 

「その力を使えるという事は、貴様も我らと同じ存在という事。人間ではない。貴様は──」

 

 ほんの十数分の内に立て続けに起きた、現実とは思えない出来事。

 それら全てが紛れもない現実に起きた事であり、そして九十九もまたその渦中である事を、キリサキジャックは突きつけた。

 人の理の外に在る者たち。それを示す、何よりも明解な一言を。

 

()()だ」



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其の陸 その名は

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


「あーらら……とうとう覚醒(めざ)めちまったんですかい、九十九の坊ちゃん」

「みたいですわねぇ。今年で16になるばかりだというのに……お(いたわ)しや」

 

 博物館の外。

 もうもうと立ち込める大量の煙がドアや窓を塞いで侵入も脱出も妨害している有様を見ながら、言葉を交わす2つの影があった。

 ただし、それらはいずれも人間の姿をしていない。それどころか、館内にいるキリサキジャックのような人型ですらない。

 

「どうしますの? 今からでも突入して、坊ちゃまの手助けを致します?」

 

 その内の片方、羽の先まで真っ黒に染まった小さなスズメがそう語る。

 軽やかで澄んだ女性の声色が、囀るように嘴から紡がれた。

 

「いや……やめときやしょう。わてらじゃあ、あの悪趣味な煙を突破するのは難しい。よしんば突入できたとして、中にいるのは変化(ヘンゲ)したてで妖気の使い方も分かっていない坊ちゃん。その威力に巻き込まれて、かえって足を引っ張るだけでさぁ」

 

 対するもう片方は、ぬいぐるみを思わせるほどにデフォルメされたような外観のキツネだ。

 ちっちゃな前脚を器用に組み、微妙にしゃがれた男性の声で話している。

 

「ここは静観するべきでしょうや。もし何かあれば、その時はなりふり構わず突入しやす。そうならない事を祈るばかりでやすがね」

「んもう! 腑抜けた事ばかりほざきやがりますわねぇ、このキツネは。わたくしと違って、ご当主(ダーリン)の召使いとしての自覚が足りていませんこと?」

「へっ、大したプランも無いのに突撃しようとするスズメは言う事が違ぇや。そんなに言うなら自分だけ行って、焼き鳥になっちまえばいいんでさ」

「お?」

「あ?」

 

 数秒ほどの険悪な雰囲気。

 どちらからともなく溜め息をつき、2つの影は博物館の中に意識を向け直した。

 

「……ま、結局は坊ちゃん次第でさ。何卒、気張ってくださいやし……!」

 

 

 

 

「妖、怪……? 僕が、妖怪だって……!?」

 

 咳き込み混じりの声色で、九十九が言葉を捻り出す。

 膝をついたままの彼は、胸を焼く熱の痛みに立ち上がれないでいた。

 

「……嘘だ。僕は、人間だぞ。まだ15歳だし、道具だった事なんて1度も無い」

 

 そのように否定の言葉を口にする。

 あの煙管(キセル)を携えた男の話が正しいならば、妖怪とは九十九神──99年使われ続けた道具に魂が宿った存在である筈だ。

 当然、九十九は自分が道具として誰かに使われていた記憶など持っていない。実は99歳だった、という訳でも無い。

 

 それを、目の前の妖怪は鼻で笑う。そんな言い訳は薄っぺらいとでも言わんばかりに。

 

「では、今しがた起きた事をどう説明する? ただの人間が、無から大量の炎を生み出し、それを操る。そんな事があり得ると思うか?」

「……それ、は」

 

 そう問い返すキリサキジャックを前にして、押し黙る他なかった。

 黒衣の妖怪が持つ刀を炎が爛々と照らし、べったりと貼り付いた血脂を熱が乾かしていく。

 ベトリと床に落ちた脂を踏みつけて、面頬に隠された素顔を横に振る。

 

「そもそも、ただの炎で我ら妖怪を傷つける事はできない。貴様の放つ炎は、妖気を宿した力──即ち、妖術だ。妖術を使える存在なぞ、妖怪以外にあり得ない」

 

 その言葉が伊達や酔狂、嘘やハッタリではない事は、自分自身でもよく理解していた。

 聞けば聞くほどに、自覚が進む。自分の中に眠る本能が、今語られた内容は真実であると否が応でも知らしめてくる。

 だから、黙って聞く事しかできない。目を背け、耳を塞ぐ事ができないのだ。

 

「先ほど変化(ヘンゲ)したばかりの我でさえ、それを本能的に知り得ている。貴様も同じ妖怪ならば、この事実を否定する事はできまい?」

「……そう、だね。そうだ。今の話を、僕は納得する事でしか受け入れる事ができない。それは……()()に触れた瞬間から、既にそうだったから」

 

 傍らに落ちていた火縄銃に、そっと手を添える。

 触れれば触れるほどに、九十九は自らの心臓が激しく脈打つ感覚を認識した。

 火縄銃を持つ手が、まるで焼けた鉄の棒を握り締めたかのような痛みを錯覚する。

 

「これは、何? ただの火縄銃じゃないの? 雑賀衆の僧兵たちが使っていただけの、ただの……」

「知らん。我にそれを知る術は無く、知る必要も無い。そして、貴様にも」

 

 刀を構え、攻撃の姿勢を取るキリサキジャック。

 黒衣の隙間から垣間見える足が、ミチミチと音を立てて引き絞られた。

 それに相対する形で、九十九も緩やかな動作で立ち上がる。

 

「だが、分かる事はある。その銃は破壊しなければならない。貴様のような不確定要素ごと、確実に──!」

 

 床が爆発した。

 いや、そうではない。恐るべき刀の妖怪が、床を全力で蹴り飛ばした結果がそれだ。

 砲弾の如く前に吹っ飛んだキリサキジャックは、驚異的な速度から袈裟斬りを放つ。

 

 このまま命中すれば、肩が抉れ心臓ごと胴体が消し飛ぶだろう一撃。

 それを前にして、九十九が取った行動は。

 

「せい……やっ!」

 

 火縄銃を、振り上げる。

 両手で握られたそれは、刀というより槍や薙刀を振る時のような動作で、妖怪の放った袈裟斬りを下段から迎撃した。

 普通なら、鍔迫り合いが成立する事すらあり得ない。銃身がすっぱり切り裂かれて、そこで終わりだ。

 

──ガ、キィン!

 

 けれど、そうはならなかった。薄っすらと炎を纏った火縄銃は、斬撃を真っ向から迎え撃ち、そして弾いた。

 金属同士がぶつかったような高い音を伴って、かち上げられた刀と共にキリサキジャックは体勢を崩す。

 

「馬鹿なっ……!?」

「……そ、こっ!」

 

 火縄銃が弧を描き、その銃口を露わにする。

 その中には、何も入っていない。当然だ。展示品の火縄銃に、火薬も弾丸も、着火された火縄(ひなわ)火挟(ひばさみ)に取り付けられている事も無い

 この状態で引き金を引いたとて、火皿(ひざら)に火挟が叩きつけられるだけ。何も起きる筈が無い。

 

 けれども、本当に九十九が妖怪であるならば。

 

(分かる……! この火縄銃の使い方……どうすれば弾を撃てるのかが、全部!)

 

 火縄銃を覆っていた薄い炎が、銃口へと吸い込まれていく。

 銃身の奥深くに蓄積された炎は団子のように丸まり、1発の弾丸を形作る。

 火縄も火薬も不要だ。ただ、引き金に指をかけるだけでいい。

 

──BANG!

 

 銃声が轟いた。

 腹の底にズンと響く音色が奏でられ、真っ赤に燃える炎の弾丸が放たれる。

 

「ぬ、ぉおっ!?」

 

 咄嗟に首を大きく捻る。

 自分の鼻先を焦がしながら飛翔していった炎の弾丸に、キリサキジャックは面頬の奥で冷や汗を感じた。

 

(まともに食らっていれば……我は、死んでいた)

 

 それが、純然たる事実として理解できる。

 つい先ほど妖怪として覚醒(めざ)めたばかりの少年が、同じく覚醒(めざ)めたばかりとはいえ強力な妖気を持つ自分に匹敵している。

 妖気の使い方さえロクに知らない筈なのに、それを当然のように妖術として制御している。

 

 その末恐ろしさに、キリサキジャックは歯を軋ませた。

 

「だが……舐めるな!」

 

 手にした刀を、今度は両手で握る。

 片手で持つよりも一撃一撃の初速は落ちるが、その分だけ勢いと威力が増加する。

 渾身の唐竹割りが振り下ろされ、九十九の頭を割るべく襲いかかった。

 

「くっ……けどっ!」

 

 その剣閃に、火縄銃が合わせられる。

 底知れぬ妖怪もどきを一刀両断せんとする刀身に、銃口が食らいつく。

 その奥底に炎が灯されている事を、決して見逃しはしなかった。

 

(あの一瞬で、装填されているだと……!?)

 

「喰らえっ!」

 

 それは、紛うことなく爆発だった。

 放たれた弾丸が斬撃に真っ正面から激突し、内側に内包していた炎を一気に解き放つ。

 溢れんばかりの灼熱が、博物館の中に真っ赤な華を咲かせた。

 

「あっ……つぅ!? けど……使いこなせてる。どんな力かも分からないけど、それでも戦えてる……!」

 

 爆風を受けながらも足の裏でブレーキを踏み、バランスを崩す事なく後退に成功した九十九。

 その頬は煤けているが、あれだけの爆発を至近距離で受けてなお彼の体に火傷の痕跡は見当たらない。

 

「ちぃっ……とんだデタラメだ。本当に、ただの人間だったとは思えない……!」

 

 対するキリサキジャックは、爆発を感知した瞬間に後ろへ飛ぶ事で直撃を免れていた。

 爆風を利用して後方に加速し、距離を離しての仕切り直しに成功している。

 舌打ち混じりの悪態と共に着地して、刀の切っ先を再び敵へと向ける。

 

「貴様……なんの妖怪だ。種族は? 素体は? 何という道具を素体として命を得た、何という種族の妖怪だ?」

「だから、僕は人間だって。……でも、なんとなく分からないでもない」

 

 激しくなりかけた息を整え、九十九は自分の胸の内に意識を向ける。

 先ほどのようなイメージは消え失せているが、それでもあれがただの幻覚とは思えない。

 あの炎でできた幻影が、本当に自分の中で芽生えたものであるとすれば……。

 

「……八咫烏。勝利を司る3本足の八咫烏が、僕に力を貸してくれた」

「八咫烏……ヤタガラスか。ならば、貴様はさしずめ──」

 

 周囲の炎が光源となって、切っ先は鏡のような役割を果たす。

 その鏡面に映すのは……確かな意思の宿る目を携えた、八咫村 九十九という1人の少年。

 

()()()()()()()……妖怪ニンゲン・ヤタガラス、と言ったところか」



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其の漆 勝利の銃声

 突きつけられたその言葉に、思わず息を呑む。

 キリサキジャックが言い放ったその名は、九十九が自分で思った以上に心身の隅々にまで染み込んでいった。

 今の彼を襲った感情は、ただ1つ「納得」以外の何物でも無い。

 

 妖怪ニンゲン・ヤタガラス。

 それが、妖怪としての自分の名前なのだと。理屈を追い越した理解だけが、そこにはあった。

 

「本当に……本当に、僕は妖怪なのか。妖怪に、なってしまったのか」

「さてな。少なくとも、それに答えを出す暇など与えん。我らは同族なれども同胞ではない。その点については、人間と変わらない」

 

 両手で握った刀を上段に構える。それが大技の構えである事は、火を見るよりも明らかだ。

 妖怪である自覚を得た今ならば、九十九にも分かる。キリサキジャックが持つ刀には、紫色のおぞましげなナニカが纏わりついていた。

 きっと、あれがキリサキジャックの「妖気」とやらなのだろう。そして、妖気を纏った刀を用いて放つ飛ぶ斬撃こそが「妖術」の正体。

 

 それを明解に知覚して、九十九は火縄銃をがっしと握り構えた。

 熟練の狙撃手めいた体勢を取った彼の出で立ちはまさしく、かつての戦国時代に活躍した雑賀衆の銃兵たちを想起させるだろう。

 

「我らが長は言った。これは『げえむ』だと。人間に恐怖と絶望をもたらし、昼の世界を夜の世界で覆す、その一番手こそが我であると。ならば、貴様は『げえむ』の障害だ。──ここで、排除する!」

 

 刀身が、色濃い紫色に包まれる。

 今か今かと解放の時を待ち侘びる暴れ狂う妖気の有様は、暴走したチェーンソーの方がまだ大人しいと言う他ない。

 

「そうは……させない。僕は……僕が、その悪趣味なゲームを止める。誰が敵で、誰が味方かなんて、何も分からない。けど……けど!」

 

 銃口に火を投じ、銃身の内で炎を育てる。

 より多くの種火を、より多くの灯火を詰め込んで、圧縮して、閉じ込めて。凄まじいまでの熱量が、空気の流れすら掻き乱す。

 

「お前を……倒す!」

「やってみせるがいい……!」

 

 この一撃で全てが決まる。

 誰かがそう明示した訳でもないのに、彼らはそれを明確に察していた。

 故に、全力を込めた技──妖術が放たれる。

 

「妖術《切り裂き御免》ッ!!」

 

 上段の構えから振り下ろされる斬撃。これ即ち真っ向斬り。

 渾身の膂力が実現したそれは、濃い紫の光を帯びて刀身を離れ、虚空を引き裂いた。

 

 コンクリートが捲れ上がり、進行方向の全てを切り裂き砕きながら突き進む飛ぶ斬撃。

 直撃すれば、真っ二つどころの話ではない。肉体は血煙となり、たちまち蒸発するだろう。

 

「でも……いける。きっと」

 

 九十九の指が、引き金に添えられる。

 妖気のチャージは既に完了した。彼の制御下にある火縄銃は、最早火薬庫と大差が無い。

 そんな迸る熱と反比例するように、頭は冷静さを保っていた。

 

 常識的に考えれば、あんな化け物が放つ攻撃を弾丸如きで跳ね返せる訳が無い。

 それでも、九十九の理性はいたって冷静に引き金の指を押し込んだ。

 

「──撃ち抜けぇっ!!」

 

 その銃声が、大砲を用いた砲撃音ではなかったと胸を張って言える者はそうそういないだろう。

 爆発寸前の太陽と言われても納得できるほどの熱量が、辛うじて弾丸の形を保ちながら撃ち放たれた。

 空気すら焼き焦がしながら飛翔する朱色の軌跡はやがて、眼前に迫る紫色の斬撃と正面衝突し──

 

「我の斬撃を……砕いただと!?」

 

 キリサキジャックが全霊を込めた妖術は、九十九の全霊を宿した妖術に打ち負けた。

 粉々に破壊された斬撃は方々に散って、その威力を失いながら空気中に溶け消える。

 

 そうして立ちはだかる壁を突破したのち、弾丸は己が滅ぼすべき敵に向かて軌道を変える事なく接近する。

 歯ぎしりの音を口内に残したまま、キリサキジャックは弾丸を撃ち落とす為に刀を振り抜いた。

 その結果として。

 

 

──バキィ……ン

 

 

 刀が、折れた。

 かつて千人の侍を斬り殺し、その怨念を吸い上げたという妖刀は、麩菓子を割るよりも容易くへし折られた。

 それを成した弾丸は、そのまま妖怪の胸へと吸い込まれ……そして。

 

「ガッ──!?!?」

 

 着弾。

 膨れ上がった妖気の炎は、キリサキジャックの体を突き抜けて彼の背中に真っ赤な輪を刻み込む。

 さながら、空に輝く日輪のように。

 

 着弾してなお荒れ狂う炎が、意思を持っていると錯覚するほどの動きでのたうち回る。

 周囲を取り囲む炎すらその風圧で全て消し飛び、やがて全ての炎が勢いを失って消え去ったのち。

 

「かっ……く、はは……よもや、これほどまで、とは……見誤った、か」

 

 ただの棒切れと化した刀を手から溢れ落とし、どす黒く焼き尽くされた胸を掴みながら。

 キリサキジャックは、自身の命脈があと数秒で尽きる事を感じ取った。

 

 ドロドロの血を吐き出し、その足はフラフラとよろめきながらも膝をつく事は無い。

 焦げた面頬から垣間見える瞳が、妖術の反動を受けて肩で息をする九十九をしかと見据えている。

 

「だが……だが、恐れるが、いい。我に、命を与えた、者……我ら妖怪の、長。かの者、が……必ず、我ら妖怪……に、覇権をもたら、す……だ、ろう」

 

 その語りを、九十九は火縄銃を下ろしながら静かに聞いていた。

 一言も聞き逃してはならないと、自分の呼吸音すら抑制して、断末魔の恨み言をしっかりと。

 

「畏れ、よ……人間。昼の世界、に……絶望……を。我らが()()山ン本(ヤマンモト)……ばん、ざぁいっ……!」

 

 それが、妖怪カタナ・キリサキジャックの最期の言葉となった。

 全身に深く浸透した妖気の炎が、一気に体外へと溢れ出す。それはつまり、肉体が内部から破壊される事を意味していた。

 

 

──BA-DOOM!!

 

 

 内側から襲い来る灼熱に耐え切れず、キリサキジャックの体は爆発四散した。

 近くにあったほとんどのものを吹き飛ばし、吹き荒ぶ爆風が彼の存在の一切をこの世から抹消していく。

 九十九が風圧を凌いだ頃には、2つに砕け折れた妖刀だけがその場に残っていた。

 

 爆発が終わり、館内には恐ろしいまでの静けさが訪れる。

 楽しかった特別展示は跡形も残っておらず、黒焦げになった死体や残骸ばかりが惨状を物語っている。

 最早、この建物の中で生きているのは九十九を除いて誰1人として存在しない。平穏な博物館は、完全に崩壊した。

 

「……終わった……のか」

 

 口に出して、ようやく実感する。

 戦いは終わった。恐るべき怪物は倒された。恐怖に彩られた殺戮劇は幕を閉じた。

 

 けれど、結果として多くの人の命が奪われた。多くの保存すべき史料が壊された。

 同時に九十九は、この力をただ隠して生きていく事ができない事も薄々察していた。

 自分はこれからも、数多くの事に巻き込まれていくだろう。そんな確信があった。

 

 妖怪ニンゲン・ヤタガラスに守る事ができたのは、自分の命だけだった。彼は、自分のこれからの平穏すら守れなかった。

 

「は……ははっ。全っ然、意味分かんねぇ……」

 

 乾いた笑いだけが出る。戦いが終わって始めて自覚できた疲労が、ズンとのしかかる。

 体が痛い。腕も疲れた。肩は怠いし、胸は火のついた煙草を押し付けられたかのように熱い。

 

 遠くから、サイレンの音が聞こえてくる。

 パトカーか、或いは消防車や救急車なのだろうが、今の九十九はその内のどれなのかを判断する事すら煩わしかった。

 

「恨む、ぜ……光太。昼飯……1週間は、お前の奢り……な……──」

 

 限界が訪れた。

 力の抜けた手から火縄銃が滑り落ち、九十九の体はその場に崩れた。

 いきなり床に叩き付けられた痛みこそ感じるが、体のどこにも力を入れる事ができない。

 

 徐々に薄れていく意識だけが、認識できる全てだった。

 

(あー……これ、警察の人とかに見つかったら……僕が犯人なのかなぁ……? 単独犯のテロリスト……嫌だなぁ……)

 

 そんな事をぼんやりと考えている内に、意識を保つ事すら難しくなっていく。

 そろそろ気を失うという間際、ふと頭の近くに何者かの気配を感じた。

 

「……けた! 坊……! 今、わて……助……」

「嗚呼……なん……労し……! すぐ……の家まで……」

 

(なん、だ……? 誰か、喋ってるのか……?)

 

 すぐ傍で誰かが何かを話している。

 その事に気付き、少しでも聞き取ろうとほんの少しだけ意識を取り戻して……。

 

 ぼやけた視界に映ったのは、別の光景だった。

 

(あ、れ……あの人、って……妖怪、の)

 

 離れた場所にある柱の陰から、こっそり顔を出した1つの人影。

 驚くほど長い煙管(キセル)を持った、枯れ木のような雰囲気をした和装の男。

 その暗く恐ろしい眼差しが九十九を捉え、ヌラリと笑ったのちにどこかへ立ち去っていく様が見えた。

 

 そこで、九十九の意識は途絶える事になる。




必殺技を喰らった怪人は爆発四散して死にます。当たり前だよなぁ?
これにて第1章はおしまい。エピソードを区切る都合上、今日の投稿は1話のみです。
明日から第2章開始。

NEXT CHAPTER→「小さな九十九神(ツクモガミ)


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【第弐幕】小さな九十九神
其の捌 『現代堂』


第2章開始。
TRPGで例えると、バス爆発事故の後に病院で霧谷さんと出会った辺りのパートです。


 とある路地。

 夕焼けがオレンジ色に染め上げる市街の片隅に、古びた店ばかりが立ち並ぶ通りがあった。

 誰も寄り付かない、存在すら気にも留めようとしない。そんな路地の一角を、数人の若者たちが通りすがった。

 

「んお……? なんだあの店、ウケる」

「あー、どしたどした? こんなボロっちいとこ、なんもねーだろ。さっさと行こーぜ」

「いやさ、あれ見て、あれ」

 

 若者の内の1人が指差す先にあったのは、なんて事の無い1軒の店。

 一戸建ての建物であるらしいが、その外観はいっそ清々しいほどに古ぼけていて全体的にレトロ調のセピア色。

 窓や壁に至ってはボロボロで、何故建物として機能しているのかが不思議なほどだ。

 

 そんな、どこにでもありそうな廃店の中で、若者の目を引いたのは看板である。

 

「見てみ、ホラ。看板に店の名前書いてあんだけどさ……」

「何々……ぷっ、『現代堂(ゲンダイドウ)』って!」

「ウケる~。どっからどう見ても昭和じゃん。なのに現代って、ドラえもんの未来デパートかっての」

 

 ゲラゲラと品の無い笑い声を上げる若者たち。

 店に立てかけられた木の看板は茶色に薄汚れていて、墨と筆を用いたらしき文字で「古美術商『現代堂』」と記されていた。

 尤も、文字自体がだいぶ古風な上に時間の経過によって擦り切れていて、とても読めたものではないのだが。

 

 ……とてもじゃないが読めない文字を、何故か読む事ができた。

 その違和感に、若者たちは気付かない。気付かないまま、通り過ぎていく。

 

「いや~、マジ草だわ。あんな古臭いセンスの店がまだあったとかさ」

「どんな店なんだろうな、あそこ。まぁ、どうでもいいか。行こうぜ」

「そーだなー。あー、でもそういや」

 

 だから、その呟きもただの考え過ぎとして流される。

 

「あんなとこに店あったっけ? 空き地だったような気がすんだよな~」

 

 

 

 

 この街に伝わる、ちょっとした都市伝説。

 曰く、どの地図にも載っていない店が、何も無かった筈の場所にある日突然現れる。

 古臭いセピア色の外観がよく目立つ店の中には、店主が「古美術」と謳うガラクタたちが山のように積み重なっているという。

 

 その名を、古美術商『現代堂(ゲンダイドウ)』。

 

「イッ、ヒヒヒヒヒッ……♪」

 

 薄暗い店の中を、ひょこひょこと跳ねるように歩く着物姿の奇妙な男。

 その手に握られている煙管(キセル)は、男の腕と同じくらいの長さを持っていた。

 一たび煙管(キセル)を咥えて煙草を()めば、不愉快になるほど甘ったるく青臭い煙が湯水のように湧き出てくる。

 

(ぬら)(ぬら)り、(ぬら)(ぬら)りと、(ぬら)(ぬら)り」

 

 薄く煙が立ち込める店内には、一般的な視点からすれば「ガラクタ」としか呼べないモノばかりが置かれていた。

 ボロボロの掛け軸、薄汚い仏像、無駄に大きな招き猫、何に使うのかさえ分からないブリキの置物。

 それらが棚の存在すら無視してジェンガのように積み重なった店内を、男はカウンターを目指して練り歩く。

 

(ひょん)()でたる……あたし、(かな)?」

 

 辿り着いたカウンターはやはり、店の有様と同じくらい古ぼけていた。

 ところどころにインクや墨の染みができていて、中途半端に塗られて放置された糊の痕跡すら見受けられる。

 そんなカウンターに、男はよいせと腰掛けた。ギシリと、軋む嫌な音。

 

「今、帰ったよォ。お前さんらの大将たる、このあたしのお帰りさァ」

「……遅い。今までどこをほっつき歩いていたのだ、山ン本(ヤマンモト)

 

 不意に呼びかけられて、煙管(キセル)の男──山ン本(ヤマンモト)はそちらを見た。

 

「おやァ、おや。相当お冠のようだねェ、神ン野(シンノ)。なにか、怒らせるような事でもしちまったかい?」

「分かって言っているだろう。昼間の騒ぎ、知らぬ存ぜぬでは済まさぬぞ」

 

 神ン野(シンノ)と呼ばれたモノの正体は、大きな甲冑だった。

 元はどこぞの武将のものであるらしきその鎧兜は、大男が着る事を想定したかのように大きく、兜には派手に「神」の一文字が飾られている。

 篭手や首周り、面頬などはより一層ゴテゴテとしていて、装着者の素肌を徹底的に隠しているらしい。

 

「貴様……『げえむ』の準備は念入りにするのではなかったのか? 俺たちに知らせる事なく『ぷれいやあ』を選出してしまうなど……。一体、誰を選んだ? ここの者から選んだ訳では無いようだが」

「ヒヒヒッ、まァた始まったよ。神ン野は説教臭くていけねェなァ」

「……よしなさい、神ン野。我らの長が自分勝手で気分屋なのは、今に始まった事じゃないでしょう」

 

──ベンッ

 

 雅な音色が、店内に反響する。

 それを為したのは1挺の三味線であり、それを手に持ち鳴らしたのは1人の女性である。

 

 彼女が普通の女性と異なる点は、大きく分けて2つ。

 その頭頂部に生えた1対のキツネ耳と、臀部でゆらゆらと揺れる9つの尾。

 縦長の瞳孔が金色に光り、呆れたような目つきで山ン本の姿を捉えていた。

 

「どうせ山ン本のする事です。ウチたちに無断でやらかした挙げ句、そこそこの損害とまぁまぁの利益を持ち帰ってきたのでしょう?」

「おっと、こいつァ手厳しいねェ。お前さんも虫の居所が悪いのかい? 信ン太(シノンダ)。さては、その辺の妖怪に尻の毛でも抜かれたか」

「そう……よほど死にたいのですね」

「やめろ、信ン太。貴様が怒ってどうする。山ン本も、煽るように茶化すのは程々にしろ」

 

 面頬の奥で溜め息をつく神ン野を見て、キツネ耳の女性──信ン太(シノンダ)は首を緩く振ったのちに三味線を鳴らす。

 それのどこが可笑しいのか、山ン本はカウンターに腰掛けたままヘラヘラと笑うのみだ。

 その直後の事である。

 

【──ギャハハハハ! 山ン本の大将も、信ン太の(あね)さんも相変わらずだなぁ! 神ン野の旦那が気の毒でならねぇぜ!】

 

 ズシンと、その場にいる者たちの臓腑に響く野太い笑い声。

 それを聞いた山ン本は楽しそうに煙管(キセル)を咥え、神ン野はガシャリと音を立てて上を見上げ、信ン太は苛つき混じりに縦長の瞳孔を細めた。

 

呑ン舟(ドンシュウ)……その笑い声は下品な上に頭に響いて不快だと、ウチは前にも言いましたよね?」

【そうだったかい? そりゃすまないねぇ、姐さん! オイラはちょっとした事でもすぐ笑っちまうタチでよぉ! 気をつけるから許してくれや! ギャハハハハハハ!】

「ハァ……これだから馬鹿は嫌いなんです」

 

 苛立ちながら弾かれた三味線の音色は、彼女の心象を表しているかのよう。

 その音色に釣られて、またどこからか腹に響くどら声が笑い出す。

 

 彼女が呑ン舟(ドンシュウ)と呼んだ者の姿は、この店の中のどこを探しても見当たらない。

 それでも、その場の誰もが呑ン舟の正体と居場所を理解していた。

 

「……それで? まだ答えを聞いていないぞ、山ン本。貴様が『げえむ』の最初の『ぷれいやあ』に選んだ妖怪は、どこの誰だ?」

「んー? あァ、カタナだよ。確か……キリサキジャックとかいう南蛮の妖怪だったねェ」

「キリサキジャック……? そのような妖怪、我らの中にいましたか? 或いは、ウチたちの知らない“魔王派”がまだ生き残っていたとか……」

「いいやァ? あたしがその場で変化(ヘンゲ)させた妖怪だよォ。思いの外強くて面白い奴だっただけに、負けたのは残念だったねェ」

 

 シンと、静まる店内。誰かが絶句した事を、空気を通して知覚する。

 その中にあって、最初に口火を切ったのは神ン野だった。

 

「待て、貴様……まさか、完成したのか? 妖術《物気付喪(モノノケツクモ)》が」

「そうだねェ。南蛮の妖怪が生まれたのは想定外だったけど、それ以外は良好さァ。やり方さえ覚えれば、誰にでも使えると思うよォ」

【ギャハハッ、そいつぁ朗報だなぁオイ! いよいよ『げえむ』の準備も整ったって事かい! オイラは今から楽しみでしょうがねぇよ!】

「……いえ。それも確かに大事ですが……それよりも、追及せねばならぬ事があります」

 

──ベベンッ

 

 その場の興奮を鎮めるように、三味線の音色が響き渡る。

 信ン太がジロリと睨みつけても、山ン本は眉1つ動かさずに煙管(キセル)()んでいた。

 

「あなたが、完成したばかりの《物気付喪(モノノケツクモ)》を用いて妖怪を変化(ヘンゲ)させた。それはまだいいでしょう。しかしあなたは、生み出した妖怪が『負けた』と言いました。……誰にですか?」

「……ヒヒヒ」

 

 フゥ……と、口に溜まった煙を吹き出す。

 もわりと青臭い煙がより充満し、神ン野と信ン太は揃って顔を顰めた。

 

()()()()()()()、さァ」

 

 今度こそ、店内にどよめきが訪れた。

 それは単なる驚愕だけでなく、()()()()が再び台頭する兆しを感じたが故の戸惑いである。

 

「馬鹿な!? 先代当主は80年前に殺した筈……! 今の“八咫派”に力は無い筈だ」

【だよなぁ、あのババアが死んだのはオイラも知ってるしよぉ。じゃあ、当代の奴なんじゃねぇの? ホラ、病弱の死に損ないがまだいただろ? 多分】

「……いえ。八咫村家の当代、ニンゲン・バケダヌキはほとんど力を持っていません。彼の息子も、自分の子供が生まれて以降も血に覚醒(めざ)める兆しが無い。で、あれば……」

「信ン太の考えてる通りよォ。バケダヌキの孫、変化(ヘンゲ)したばかりの青二才がカタナを()ったのさァ」

「なんだと……っ!?」

 

 具足の擦れる金属音を立てながら、巨体が立ち上がる。

 素顔を覆い隠す兜の下の面頬が揺るぎ、奥から鋭い眼光のみが見開かれた。

 

「如何な八咫村家と言えど、所詮は人間。変化(ヘンゲ)したばかりであれば妖気の制御は容易くない筈……。それが、貴様の見出した妖怪を退けたと言うのか。山ン本!」

「そうさァ。……ヒヒヒヒ、ありゃァ先祖返りかねェ。久々に初代の妖気を垣間見た気がするよォ。あの様子じゃァ、お前さんら“魔王派”もウカウカしてられないねェ。ヒヒヒッ」

 

 そう言って、山ン本は煙管(キセル)を軽く振る。

 指揮棒の如く揺れ動いた先端から、煙が妖しげな軌道を描いて虚空に消えた。

 

「……で、お前さんら。ここまでの話を聞いて、どうしたい?」

「知れたこと」

 

 ドスンと鈍く重い音を響かせて、薙刀の石突が床を叩く。

 その薙刀を握っているのは甲冑姿の巨漢、神ン野である。

 

 彼の視界では、信ン太が静かに三味線を掻き鳴らしていた。

 呑ン舟はどうしているか分からないが、あれの事だ。ゲラゲラと笑うだけだろう。

 

 故に。

 

「如何に彼奴らが再興しようとも、関係無い。人間文明を覆す。昼の世界に闇を満たし、夜の世界に塗り替える。我ら妖怪文明を、この現世(うつしよ)に築き上げる。その大義が為に、()()は貴様に与するのだ」

 

 ()()が、山ン本たちを取り囲む。

 

「ゲヘヘヘヘ……大将ォ、早く『げえむ』を始めてくれよォ」

「オレたちゃウズウズしてんだぜ! 早く人間どもをぶっ殺したくてたまらねェ!」

「うふふっ♪ 人間の生き血を食み、絶叫を聞く……想像するだけでゾクゾクするわ」

 

 店内を取り囲むのは、数え切れないほど多くの異形たち。

 右を見ても、左を見ても、おぞましい化外の者たちが視界を埋め尽くす。

 

 このような者どもは、先ほどまでいなかった筈だ。

 否、彼らは最初から()()にいた。彼らはずっと()()にいた。

 

「「「「「長! 長! 我らが長、『現代堂』の山ン本!」」」」」

 

 残酷な興奮に包まれた彼らを前に、山ン本が浮かべる笑みは寒気がするほどに虚ろなものだった。

 

「そうだ、そうだねェ。今回の実験で、妖術《物気付喪(モノノケツクモ)》は完成した。これさえ使いこなせれば、誰でも意図的に妖怪変化(ヘンゲ)()()()()()事ができる。より多くの『ぷれいやあ』を生み出せる」

 

 煙管(キセル)を咥え、中の煙を目一杯に吸い込んだ。

 この世の何よりも甘ったるい味を舌の上で転がして、その瞳は虚ろに薄暗く、どんな闇よりも色濃く歪む。

 

「かつての敗走から早80年、雌伏の時はもう仕舞いにしようじゃァないか。忌まわしい八咫村家の先代当主はもういない。これからはあたしたちの時代だよォ。今こそ『昼』を『夜』に堕とし、妖怪文明を打ち立てる時だ」

 

 甘い煙を吐きながら、山ン本は立ち上がる。

 その目に映る者たちは、いずれも恐怖と闇の化身たる魑魅魍魎──即ち、人の理を外れた妖怪たち。

 

「さァ、『げえむ』を始めよう。より多くの人間を殺し、より多くの人間を畏れさせ、より多くの妖怪を生み出そう。それを成し遂げ、昼の世界を夜の闇で満たす事ができた者には──」

 

 ヌラリと、粘ついた笑みを浮かべる。

 

「全ての妖怪を統べる魔の酋長──魔王たる(あざな)山ン本(ヤマンモト) 五郎左衛門(ゴロウザエモン)の名をくれてやろうじゃないか。ヒヒヒヒヒッ!」

 

 その言葉に、妖怪たちはたちまち沸き上がった。

 己こそが次代の魔王であると、全ての妖怪を統べるに相応しい器であると、残忍な笑い声が古びた店の中に木霊する。

 そんな歓喜に耳を傾けながら、山ン本は熱狂の中でなお平静な者──幹部たちに声をかける。

 

「お前さんらの参加権は後回し。暫くは『げえむ』を取り仕切る側で頼むよォ。まずは信ン太、お前さんは進行役さァ。あたしに代わって、こいつらがやる『げえむ』の音頭を取りな」

「とんだ丸投げですね。承りました」

「神ン野、お前さんに頼みたいのは審判役だ。『げえむ』の規則に違反したと判断したら、お前さんの判断で『ぺなるてぃ』を下していいよォ」

「ふむ……相分かった。それが貴様の命令であるならな」

【大将、大将! オイラは何をすればいいんだァ!】

「お前さんは今でも十分役目を果たしてるさァ、呑ン舟。いずれ面白い役どころを回してやるから、今は我慢しな」

【応! 分かったぜ!】

 

 幹部たちの返答に満足し、山ン本は他の妖怪たち──『ぷれいやあ』候補を見やった。

 

 彼らこそ、社会の闇に潜む異形たち。人間の世界に牙を剥かんとする、史上最新の百鬼夜行。

 その名を、妖怪文明『現代堂』。そして、彼らを統べる頭目こそ──

 

「先鋒は既にカタナが務めたが、正式な開催はこれからだからねェ。最初の『ぷれいやあ』はこのあたし、妖怪キセル・ヌラリヒョンが選んでやろうじゃァないか」

 

 そうして、煙管(キセル)の切っ先がある方向を指し示す。

 山ン本の(あざな)を持つ大妖怪、キセル・ヌラリヒョンが選ぶ最初の刺客に対して、真っ直ぐに。

 

「お前さんに決めたよ。さァ、頑張ってきな」




敵組織の幹部が集まってわちゃわちゃやるシーンはどんだけ書いてもいいってアーカイブドキュメントにも書いてあるから。

割りと最近になってニチアサ見始めたので、私の中で「悪の組織」の原風景ってフェニックスとメデューサが洞窟で駄弁ってるパートなんですよね。
ウィザードは最近じゃない? そうねぇ……


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其の玖 キツネとスズメと好々爺

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


 それが夢であると、九十九はハッキリと認識した。

 

 どこまでも広がる深い深い闇の中で、1人立っている。

 右を見ても左を見ても、上も下も全てが暗い黒に包まれていて、でも不思議と不愉快じゃない。

 そこで、徐に顔を上げると。

 

【──A、aa】

 

 九十九の視界全てを埋め尽くすほどに巨大な、炎のヴィジョンがそこにあった。

 炎は轟々と炎上しながらも何らかの形を取っているらしく、まず初めに3本の足が目に見る。

 次いで目を惹くのは、大きく広げられた1対の鳥の翼。そして、鋼すら焼き溶かしてしまえそうな鋭い嘴。

 

 それは、炎が象る八咫烏だった。

 

「……どうして、僕に力をくれたんだ?」

【我ガ血ノ、宿命デアルガ故ニ】

 

 燃える嘴が、厳かに開かれた。

 その声色は心臓を震えさせるほど恐ろしく……何故だか安らぎを覚えると、九十九はぼんやり考える。

 

【オ前ガ、ドノヨウナ道ヲ選ボウトモ……全テハ自由。ダガ、忘レルナ。オ前ノ血脈ニ流レル力ハ、太陽ノ光。昼ヲ闇デ蝕ムノ為デナク、夜ヲ光デ照ラス為ノ力ダ】

 

 八咫烏が、広げた翼を力いっぱいに羽ばたかせる。

 吹き荒れる突風は熱風へと変わり、九十九の全身を強く打ち据えた。

 

「くっ……!?」

【夜ヲ恐レルナ。我ラハ、昼ト夜ノ狭間ニ立ッテ生キル者。ソレガ──】

 

 轟く熱風は、それそのものが大いなる巨鳥の叫びであるようで

 

【妖怪ヤタガラス、ソノ宿命デアル!!】

 

 

 

 

「──はっ!?」

 

 目の前に炎が溢れ返るヴィジョンを見た直後、夢から醒めて飛び起きる。

 決して悪夢を見た訳ではないのに、九十九は自身の呼吸が荒く、大量の汗も吹き出している事を自覚した。

 それと同じく、仄かな痛みと疲れが体に貼り付いている事も。

 

「夢……か。そっか、そうだよね」

 

 自分の頬に触れ、今の意識が現実にある事を確かめる。

 ぺたりと触れた手のひらを通して、頬に絆創膏が貼られている事にようやく気付いた。

 絆創膏の感触に違和感を覚えて視線を下にやれば、自分の体のところどころに包帯も巻かれている。

 

 そこで初めて、今いる場所があの博物館ではない事、自分が布団に寝かされていたらしい事を知り……

 

「気が付いたようじゃな、九十九」

「ほぇっ!? ──っ、痛た……じ、爺ちゃん!?」

 

 驚いた拍子に痛んだ肩をさすりつつ、九十九はいつの間にか傍に座っていた老爺を見る。

 快活に頷く顎からは白い髭がモサモサと生えていて、少し見ない内に禿頭(とくとう)の照りにも磨きがかかっているのではないかと思う。

 そんな好々爺(こうこうや)然とした彼こそ九十九の祖父、八咫村(ヤタムラ) 四十万(シジマ)その人であった。

 

「ほっほっほ。その様子だと、筋肉が少し痛んでおるだけで怪我の方は問題無さそうじゃの。お前が巻き込まれたと聞いた時は、流石の儂も肝を冷やしたわい」

「巻き込まれた、って……ここ、爺ちゃんの家……?」

 

 改めて周りに目をやると、そこはよく見慣れた屋敷だった。

 和の香り漂うこの小さな屋敷は、かつて四十万が亡き妻──九十九の祖母と共に暮らしていたが、今は彼1人のみが暮らしている。

 だから両親と別の家に住んでいる九十九も、姉と共に時折この家を訪ねていた……のだが。

 

「い、いつの間に……。確か僕は……博物館で倒れて、それから……」

「それから、こ奴らがお前をここまで運んでくれたのじゃよ。あのまま放っておけば、警察やら何やらに絡まれて面倒じゃからのう」

「こ奴、ら……? それって一体……」

「にししっ。わてらの事で御座いやすよ、坊ちゃん」

 

 聞き慣れない声を耳にして、首を傾げつつも周囲を見る。

 けれども、この場には九十九と四十万以外は誰もいないように思えた。どこかに音声を出す装置がある気配も無い。

 

 不思議そうな顔をする孫を見て、老爺は緩く笑いつつちゃぶ台を指差した。

 そちらに視線を向けても……やはり、誰もいない。あるのは古びた急須と巾着のみだ。

 

「爺ちゃん……? どこにも誰もいないけど……」

「ところがどっこい! わてらがいるんでやすよ、これが」

 

 ドロン! と漫画やアニメでしか聞かないような音がして、急須と巾着が煙に包まれる。

 それに驚くのも束の間、煙が一瞬で晴れた後、ちゃぶ台の上にちょこんと座る2つの影が見えた。

 

「うわっ……!? キツネ、と……スズメ?」

「うふふっ。驚かせてしまって申し訳ありませんわ、坊ちゃま。ですがこうでもしないと、わたくしたちの存在をにわかには信じられないでしょう?」

「言っておきやすが、所謂“しいじい”などではありやせんぜ。わてもこのスズメも、れっきとした現実の存在でさぁ。……では、自己紹介と致しやしょう」

 

 九十九が呟いた通り、その正体は1匹のキツネと1羽のスズメだった。

 キツネはぬいぐるみの如くデフォルメされたような外観で、対するスズメは全身が夜の闇を思わせる漆黒に染まっている。

 予想通りの反応と言わんばかりに淑やかに微笑むスズメの横で、キツネがちっちゃな前脚でちゃぶ台をポスンと叩く。

 

「お控えなすって。こちら、生まれは天保(てんぽう)8年、育ちは江戸。妖怪キュウス・バケギツネ、(あざな)はイナリで御座いやす」

「生まれは明治21年、育ちは吉原。わたくし、妖怪キンチャク・ヨスズメ、(あざな)はお千代(チヨ)ですわ。以後お見知り置きを、坊ちゃま♪」

 

 どこか自慢げな表情なキツネのイナリと、可憐にウインクする黒スズメのお千代(チヨ)

 彼らの自己紹介を受けて、九十九はと言えば目をパチクリとさせている。

 

「……えっ、妖……怪? それ……って、あのキリサキジャックみたいな」

「ヘッ、あんな令和生まれのシャバ僧と一緒にするんじゃありやせんぜ。本来なら妖怪に善も悪もありやせんが、あえて区別するならわてらは善の妖怪で御座いやす」

「わたくしたちはご当主(ダーリン)……四十万様にお仕えする召使い妖怪ですの。かれこれ1世紀近くの付き合いになりますわね」

「善、召使い……か。実際に助けてくれたみたいだし、今はそれを信じるしかなさそうだけど……爺ちゃん」

「ほほっ、なんじゃいな九十九」

 

 真っ白に長く太い髭をしごきながら応える四十万。

 

 このイナリやお千代と言った妖怪たちが、本当に善なのかはまだ分からない。

 けれども、この状況が意味する事を九十九は理解していた。

 彼らが当然のようにこの家の中にいて、勝手知ったる風に四十万と言葉を交わしている。

 

 それは、つまり。

 

「……知ってたの? 妖怪の事とか、こいつらの事とか……僕自身の事も、色々」

「ほっほっほ。知ってるも何も、まず前提から間違っておるぞえ、九十九」

 

 ポフン……と軽い音の後、四十万の背面が煙と共に弾けた。

 彼の臀部からひょっこり現れたのは……茶と黒の縞模様が鮮やかな、丸々とした尻尾。

 

「な、ぁあっ……!?」

「何故なら、儂自身が妖怪じゃからの。八咫村 四十万は人としての(あざな)に過ぎん。八咫村家当主、妖怪ニンゲン・バケダヌキが儂の正体じゃよ」

 

 眼前でフリフリと振られるタヌキの尻尾に、開いた口が塞がらないでいた。

 視界の隅っこでは、イナリとお千代が顔を見合わせて「やっぱりこうなるか」と言外に語り合っている。

 

 額に手を当てて今にも頭を抱えようとする九十九を、老爺はそっと手で制した。

 ここまでの朗らかな表情から一点、彼の眉は歪み真剣な雰囲気を醸し出している。

 

「お前には話さねばならんの。我ら八咫村家の始まりと、奴ら……『現代堂』の妖怪どもとの因縁を」



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其の拾 八咫村家の秘密

「さて……まずは初代様の話をせねばならんのう。これ、イナリ。急須になりなさい」

「へいへい。ご当主様は召使いの使いが荒いでやすねぇ」

 

 ドロンと急須の姿に変わったイナリを、四十万は慣れた手つきで持ち、ポットからお湯を淹れ始める。

 多分お茶を淹れるのだろうが、イナリは熱くないのだろうか。九十九は思った。

 

「その顔を見る限り、大まかには知っておると思うが一応確認じゃ。お前は、妖怪がどんな存在か分かるな?」

「え……っと、99年経った道具に命が宿って神様……九十九神になった存在、だっけ」

「左様。もっと詳しく言うならば、長い時間をかけて『妖気』と呼ばれる力を溜め込んだ道具が成るものじゃが……ま、今はええじゃろ。さして重要でもない」

 

 パックの茶葉を急須に放り込み、サラサラと揺らす。

 急須からイナリの声で「もっと優しく振ってくださいやし」という苦言が聞こえたような気もしたが、気のせいだと思いたかった。

 

「時は江戸時代、とある1体の妖怪がこの世に生を受けた。その者は生まれながらに凄まじい力を持ち、妖気を完璧に練り上げる事ができたそうじゃ。卓越した妖術の才と力量から、妖怪の中の妖怪──大妖怪と讃えられておったと」

「それが……僕たちのご先祖様?」

「然り」

 

 頷くと共に、急須を傾け湯呑みに緑茶を注ぐ。

 熱々の、そして澄んだ緑色のお茶を見て、四十万はもう1度深く頷いた。

 

「その名を、妖怪テッポウ・ヤタガラスという。とある雑賀衆の銃兵が使用していた1丁の火縄銃に神が宿り、八咫烏──3本足のカラスとしての命を得た妖怪こそが八咫村家の初代当主様なのじゃ」

「火縄銃……八咫烏、って……それ」

 

 九十九の瞼に焼き付いた、あの光景。

 心の中に現れた炎の幻影から力を与えられ、言葉を授かった時の事を思い返す。

 夢で語られた通り、あれこそが九十九の祖先であり……その血に流れる力の根源であるならば。

 

「その八咫烏……知ってるかもしれない。僕が力を使えるようになった時と、さっきまで見ていた夢。そのどっちにも出てきた」

「なんと、それはまことか!?」

「うん……多分。それで、博物館を襲った妖怪……カタナ・キリサキジャックが僕に言ったんだ。お前は人間の九十九神……妖怪ニンゲン・ヤタガラスだって」

 

 ガタン! と大きな音が立つ。それは、四十万が驚きのあまり急須を落とした音だった。

 急須……もといイナリが、落とされた拍子に「痛っ!? もうちょっと大切に扱ってくださいやし、ご当主様!」と抗議の声を上げる。

 同僚の醜態を鼻で笑うお千代の声が聞こえたが、八咫村家の当代当主にとってはそんな場合ではなかった。

 

「なんと……おお、よもやじゃ。初代様から力を授かっただけでなく、妖怪としての種族までヤタガラスとは……。かか様の代を皮切りに衰えた八咫村家の血が、再び蘇ったとでも言うのか……」

「……八咫村家、って事は……相当長く続いてるんだ、この家」

「うむ……それこそが、儂らの体に流れる血脈の特異性とも言える。まぁ、簡潔に言うとじゃ」

 

 緑茶の満たされた湯呑みを九十九に勧めつつ、ゴホンと咳払いをひとつ。

 

「初代様……テッポウ・ヤタガラスは、人間の女性と結ばれ交わった。その結果として生まれた稚児(ややこ)は、人間でありながら妖怪の力を持つ存在……つまり半妖であったそうじゃ。その血が、八咫村家には脈々と受け継がれておる」

「え……えぇっ!? 妖怪、って……子供、作れるの!? しかも、人間と……」

「異類婚姻譚、と言うんじゃったか? 昔からよくあるじゃろ。かの陰陽師、安倍(アベノ) 晴明(ハルアキラ)の母親は葛の葉狐(クズノハギツネ)という妖狐じゃし、雪女が人間の男との間に子を生む怪談も有名じゃな。そもそも、やんごとなき天皇家だって源流を辿れば天照大神(アマテラスオオミカミ)が祖じゃしの」

 

 あんぐりと口を開ける孫息子を他所に、四十万は自分の分の緑茶を一口。

 お千代が布巾を持ってきたらしく、落とした拍子に急須から溢れたお茶は拭き取られていた。

 

「分かるような、分からないような……。とにかく、僕たちの遠いご先祖様が妖怪で、その血を継いでいるから……僕も、妖怪になった?」

「左様。人の世に仇為す妖怪の中にあって、初代様は人間に寄り添い味方したと言われておる。その御旗の下に集った妖怪が、所謂“八咫派”じゃな」

「何よりわてとお千代が、“八咫派”の好例でやすぜ。わてらは八咫村の皆さんにおっきなご恩があるんでさ。ですからわてらは、八咫村家の歴代ご当主様方にお仕してきやした」

「わたくしもお姉様……ご当主(ダーリン)母君(ははぎみ)にはとてもお世話になりましたの。わたくしは、その返し切れないほどのご恩に報いているだけですわ」

 

 急須からキツネの姿に戻ったイナリの言葉に、お千代がそのように追随する。

 

「ま、だからと言って八咫村の血を継ぐ全員が妖怪に変化(ヘンゲ)するって訳でも無いがの。ほれ、儂の倅……お前の父親がそうじゃろ。儂が知っている限り、あ奴は人間のままじゃし、八咫村の真実も妖怪の事も何も知らん。お前の姉、五十鈴(イスズ)も同じくな」

「じゃあ……僕は、どうして? それに、爺ちゃんも……」

「そうじゃのう……若い頃の儂は、それはもう病弱でな。結核拗らせて死にかけた時、妖怪ニンゲン・バケダヌキに変化(ヘンゲ)したおかげで助かったのじゃ。ついでに上手いこと出兵も回避できたんじゃが……まぁ、ここはどうでもええ」

 

 コトリと湯呑みを置き、四十万が髭を緩くしごく。

 彼が次に言う事を察したのか、お千代がちっちゃな翼をはためかせて彼の傍に寄った。

 

「要するに、命の危機に呼応して血が覚醒(めざ)めたという話じゃ。話を聞く限り、お前も似たようなものじゃが……厳密には、ちと事情が異なるようでな。これ、お千代」

「こちらに、ですわ♪」

 

 ぷくぅ……とお千代が頬を膨らませた直後、喉の奥からナニカが飛び出してきた。

 それは明らかに彼女の嘴よりも大きく、体よりも遥かに長い。にも拘らず物理法則を無視して吐き出され、ちゃぶ台の上に落下した。

 そして飛び出てきたものの正体に、九十九は心当たりがあった。そもそも、彼が妖怪になった根源と言ってもいいものだ。

 

「これ……あの火縄銃!? なんで……!?」

「そりゃお前、これが我が家の家宝じゃからじゃよ。というか、遺品じゃな」

「遺品……えっ、これもしかして……まさか?」

「うむ。八咫村家の初代当主、妖怪テッポウ・ヤタガラスの元になった火縄銃じゃ。妖怪は死ぬ時、自身の元になった道具を残して消滅するからの。遺品というより、遺骸そのものというか……遺骨の類いじゃな」

 

 この上なく頭を抱えたくなった。そう思った九十九を、責める事はできないだろう。

 自分が手に触れ、手に取り、妖怪に変化(ヘンゲ)した後も当然のように武器として振るっていた火縄銃。その正体が、自分たちの祖先の遺体にも等しいもの。

 祟られやしないかと冷や汗をかくのも無理は無い。

 

「これは博物館のオーナーにせがまれて一時的に寄贈したものじゃが……まさか、このような事態になるとはの。恐らくお前は、妖怪に襲われ死の危機に瀕した時にこの火縄銃を手に取り……今なお宿る初代様の妖気によって力を引き出されたのじゃ」

「……そっか。だから、あんなヴィジョンが見えたのか……。僕の中に眠る、八咫烏の遺伝子……」

 

 火縄銃をまじまじと見つめて、九十九は自分に差し出された緑茶を飲む。

 時間が経過したのもあって、少しぬるくなっていた。

 

「この銃のおかげで、僕は助かった。妖怪になったのが良い事か悪い事かは分からないけど……でも、これが無かったらあいつに勝てなかった」

「禍福は糾える縄の如し……という事かの。いやはや、90にもなってなお驚く事ばかりじゃ」

「……ですが、ご当主様。坊ちゃんの言う通り、必ずしも良い事ばかりとは限りやせんぜ」

「ええ……わたくしたちは、確かに見ました。坊ちゃまの囚われていた博物館を覆う、あの煙草の煙を」

 

 2体の召使いが告げた事実に、四十万は重々しく息を吐いた。

 

 まだ分からない事ばかりだけれど、彼らが言っているのはきっと……あの煙管(キセル)を持った男の事だろう。

 それを察し取り、1度息を整えてから九十九の口が開かれる。

 

「……爺ちゃん、それにイナリとお千代。それって……あの着物を来た男の人の事、だよね? それが、さっき言った『因縁』にも関わってくるの?」

「……ああ、そうじゃ。故に、これは話しておかねばならん。我ら八咫村の妖怪と、奴ら『現代堂』の妖怪どもの、数百年に渡る因縁を。……これを聞いたのち、お前が逃げる事を選んだとして儂らは責めん。全てを忘れて静かに暮らす事もまた、お前の人生じゃ」

 

 そう言って、空になった湯呑みが置かれる。

 その際に生じた音は、意図せずして大きなものだった。



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其の拾壱 変わり始めた日常

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


 日が2回沈み、2回昇って月曜日。

 衝撃的という言葉さえ陳腐に思える出来事を経験した九十九は……いつも通り登校していた。

 

「坊ちゃんは真面目で御座いやすねぇ……。あんな事があったんだから、もう1日2日は休んでもいいでしょうに」

「よほどの事が無い限りは出席落とさないのが僕の信条だから……。それに、誰かにノート見せてもらおうにも光太しかいないし……光太は、まともにノート取らないし」

「……友達、少ないんでやすか?」

「……うるさい」

 

 背負ったリュックサックを軽く振り、中に入っている()を揺さぶる。

 ファスナーの隙間から潰れた蛙のような悲鳴が聞こえたが、気のせいだろう。

 

 土曜日の惨劇を境に、九十九を取り巻く日常は大きく変転し始めた。

 具体例を挙げればキリは無いだろうが、その内の1つこそが今リュックサックの中に潜り込んでいる()の存在である。

 

「それで……本当に高校までついてきて良かったの? イナリ」

「いつどこで妖怪どもの襲撃があるか分かったもんじゃありやせんからねぇ。所謂“ぼでぃがあど”でさ。ご当主様の方にはきちんとお千代がおりやす故、無問題でさ」

 

 そう、イナリである。

 本来は四十万の召使いである彼だが、妖怪になりたての九十九をサポートする為に同行する事になっていた。

 スポンと、ファスナーの隙間をこじ開けて顔を出すキツネの顔立ちは、やはりぬいぐるみのようにモコモコとしている。

 

 ピコピコと震えるキツネ耳が、まるでアンテナだなと九十九は思いながら階段を登る。

 途中で数人の生徒とすれ違うが、彼らはイナリの存在を気にも留めずに通り過ぎていった。

 

「……本当に、誰もおかしいと思わないんだ」

「それがわての妖術でやすからね。幻術、認識阻害などと呼び名はありやすが、わては“ごまかし”の術と呼んでおりやす。何かと応用が効いて便利ですぜ。今こうして会話しているわてと坊ちゃんのやり取りも、他の連中からはまともに認識されないでしょうや」

「ゲームだと強過ぎて弱体化(ナーフ)されるやつ……。まぁ……漫画とかでよくある『誰と話してるんだ?』みたいな事が起きないのは助かるけどね」

 

 そんな会話もそこそこに、教室の扉を開く。

 入室して早々、机に頬杖をついている光太と目が合い「おはよう」と声をかける。

 彼はいつも通りぼんやりと眠たそうな顔をした九十九の姿を認めると、手を挙げて「おはようさん」と返してきた。

 

「よっ、九十九。無事で何よりだったぜ、ホント……。土曜は本当に心配で心配で心臓が爆発しちまいそうだった」

「あはは……ごめんね、光太。電話でも言ったけど、博物館から出てすぐ疲れて公園で寝ちゃってたんだ。まさか、寝てる内にあんな事があったなんて……」

「そーだよ、ホンットにそう! 俺がチケット渡したせいで、お前があんな大事件に巻き込まれて死んじゃってたらと思うと……心配かけさせやがって、このっ!」

 

 拳で涙を拭う真似をしながら、傍まで来た親友の肩をバシバシと叩く光太。

 小学校以来の幼馴染を心配させたツケだと、九十九はその痛みを黙って受けた。

 

 博物館で起きた妖怪カタナ・キリサキジャックによる殺戮劇と、妖怪に変化(ヘンゲ)した九十九との激しい戦闘は、表向きには大規模なガス爆発事故と報じられている。

 この事を四十万に問うと、彼は「儂は何もしとらんよ。じゃが、知っとる者は知っとる。そういう事じゃ」とだけ返してお茶を飲んでいた。

 

 その真意は不明だが、権力を持つ誰かによって妖怪に関する情報は隠蔽されたらしい。

 イナリとお千代が早期に救出してくれたおかげで、ニンゲン・ヤタガラスの存在について上手く秘匿できたのは僥倖だろう。

 

 一先ずの口裏合わせとして、九十九はガス事故が起きるよりも前に博物館を後にし、公園でうたた寝をしていた……という事になった。

 そして、もう1つ。

 

「普段ヘラヘラしてる俺だけどよー、今回はマジで心配だったかんな? 今日も一緒に登校しなかったじゃんか。そっちでなんかあったんだっけ」

「あ、あぁ……うん。爺ちゃんがそろそろ一人暮らしは厳しいんじゃないかって、僕だけ爺ちゃんの家に引っ越す事になったんだ。高校からも、そっちの方が近いしね」

 

 妖怪の力を家族にすら隠したまま今まで通りの日常を過ごす事は難しい。そんな判断の下、九十九は四十万の家に住まいを移す事になった。

 方便としては高齢の祖父が暮らす手伝いをする為なのだが、実際は妖怪としての力を学んで制御する為である事は言うまでもないだろう。

 何分急だっただけに両親は心配したが、姉の賛成もあって何とか話が進んで今に至る。

 

「ほーん、じゃあなんか機会があったら顔でも出そうかな。またお前のお姉さんともお話ししてーしよー」

「姉さんは引っ越さないからね……? 公務員としてバリバリ働いてるみたいだし、そんな暇も無いでしょ。確か、どこの部署だったっけな……──」

「おい聞いたか? 八咫村の奴があの爆発事故現場にいたってよ」

 

 妙に神経を逆撫でする声が聞こえて、九十九は光太を見た。

 視線を飛ばされた親友はと言えば、その声の主に当たりをつけて無言で親指を向ける。

 

「事故が起きる前に現場を離れてたらしいけどよー、本当なのかねー?」

「うっそくせーよなー。あんな陰キャ野郎が偶然生き残ったとかあり得ねーよ」

「そもそも公園で居眠りってホームレスかよ。根暗オタクにはお似合いだけどさー、アハハハハッ!」

 

 下卑た笑い声を交えて下品な会話をする、数人の男子生徒たち。

 その会話を聞いたクラスメイトたちが不快そうに見つめていたが、すぐに彼らに睨み返されて視線を逸らしている。

 光太からしてみれば、そんなメンチ切りは痛くも痒くもないようで「ケッ」と一言。

 

灰管(アクダ)のヤローだよ、灰管(アクダ) 道人(ミチト)。半グレとつるんでイキってる奴。俺らの中学でも有名だったろ、カツアゲに万引き教唆の常習犯」

「ああ……そういやいたね、そんなのも。同じクラスだったんだ……」

「うん、九十九くんにおかれましてはそろそろ人見知り治そうね? 俺っちだけが友達って状況は不健全だからね?」

 

 小学校からずっと一緒な幼馴染の溜め息を聞き流しつつ、灰管(アクダ)たちの会話に耳を傾ける。

 彼らの話題は徐々に過激で、下種なものへと変わっていた。

 

「ははっ、もしかしたらあいつが犯人なんじゃねーのー? ほら、立ち入り禁止のとこ入って変な機械触ったりとかでさー」

「おっ、それいいね。ウケる~。あの気色悪いほど黒い髪じゃ、ゴキブリ扱いされててもおかしくねーからな」

()()()()()くんはちっこいから、誰にも気にされないんだろうな~。カワイソーッ!」

「「「ギャハハハハハッ!」」」

 

 彼らが口にした「あだ名」に、光太は一瞬で激発しかかった。

 

「野郎……っ!」

「待って、光太。僕は気にしてないからさ」

「でもよ……」

「正直なところ、あいつらに対しては不快感とか嫌悪感より『よくそんなの覚えてたな』って気持ちの方が強いかな……うん」

 

 肩を掴みながらそう制止されては、口をモゴモゴしながらも不承不承落ち着くしかなかった。

 

 灰管たちが言う「ちびカラス」とは、小学生の頃に九十九がつけられたあだ名だ。

 九十九の背は当時から低く、格好のからかいの的だった。加えて、その眠たそうなダウナーじみた態度も「根暗」「陰キャ」と呼ばれるには十分。

 そんな彼の雰囲気に、濃い黒髪を交えて「ちびのカラス」と呼ばれていたのだ。

 

 当時こそ大いに傷ついた九十九だったが、光太の助けやフォローもあって今はそれほど苦手意識を持っていない。

 それを分かっているからこそ、光太は仕方なしに席についてスマホを取り出した。

 

「ったく、あの倫理観(モラル)最低オーディエンスどもがよ。あいつらだけ脳みその出来が小学生レベルだろ」

「単に背の低さを言われるだけなら気にしなかったんだけどね……。背の事なら、光太だって僕に言うし」

「お前が俺の背の高さを言わなかったら言わないんだよな。女子が体重を気にする程度には気にしてっから」

「困ったな……正論だ」

「ま、気心知れなかったらやらねーやり取りだし、それ抜きでも程度を守るのが友人関係のコツってね。……それよか、ほら。これ見ろこれ」

 

 ついっと見せられたのは、ニュースサイトのとある記事だ。

 目を通してみると、記事の見出しには大きく「猛獣脱走か!? 夜の街で起きた猟奇事件」と書かれている。

 

「昨日、この辺でエッグい殺しがあったんだってよ。デカい獣かなんかに食い千切られたみてーな遺体が見つかったって。たった一晩の内に、10人くらいやられたって話だ」

「1度に10人、って……猟奇殺人ってレベルじゃないよ、これ。猛獣脱走、っていうのは……」

「今言った死因だってんで、どっかの動物園からライオンか何かが脱走したんじゃねーかって言われてんだ。で、そんなニュースだからどこもかしこもザワザワしててさ……例えば、これ」

 

 ニュースサイトを閉じた光太が慣れた手つきでスマホを操作し、次に見せたのは匿名掲示板。

 様々な考察や憶測、不謹慎な物言いまで様々な書き込み(レスポンス)がなされていたが……その中に。

 

『事件があった現場の近くで、トラックくらいデカいネコ見た。あれ着ぐるみ?』

『トラック大の着ぐるみってwww遊園地のアトラクションかよwww』

『動物園にネコいなくね? しかも車よりデカいとか。じゃあさ──』

 

 

『それ、妖怪かなんかじゃね?』

 

 

 そのレスを見た瞬間、九十九は自分が唾を飲み込んだ事を自覚する。

 これまでならば、妖怪という文字を見てもただの冷やかし、ほら話としか思わなかっただろう。

 けれど、今となっては。

 

「土曜にあんな事があった矢先にこれだもん、一部じゃガス事故も含めてオカルト的な存在の仕業だって騒いでる奴がいる。宇宙人とかUMAとか、今書いてあったみてーに妖怪とか。ネットも現実(リアル)もこんなノリで、嫌んなっちまうぜ」

「……そう……だね」

「っと……悪いな、変なモン見せちまってよ。そろそろ授業だし、お前も準備した方が──」

 

 九十九が微かに気落ちしている事に気付き、スマホを引っ込めた光太が無理やり話題を変えようとした、その矢先。

 

「いないわよ、妖怪なんて」

 

 そんな声が、2人の背後からかけられた。



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其の拾弐 妖怪を知る者、知らぬ者

「いないわよ、妖怪なんて」

 

 唐突にかけられたその言葉は、少し強めに発せられた女性の声色だった。

 突然の物言いに九十九と光太が振り向いた先で、やや銀がかった白い長髪の少女が2人を見つめていた。

 

「……なんだ、白衣(シライ)か。いきなり後ろから言われてビックリしたわ」

「あ……おはよう、白衣さん。僕たちに……なにか用?」

「……別に、なにかあった訳じゃないの。八咫村君と日樫くんが妙な事を口にしていたから、少し気になっただけ。でも……」

 

 そう言って、白衣(シライ) 姫華(ヒメカ)は眉を寄せた。初雪のように白い肌が、険しい表情によって微かに歪む。

 彼女は九十九たちのクラスメイトだ。その白銀の髪と淡く白い肌が織り成す美貌から、入学して早々に「学校で1、2を争う美少女」として話題になっている。

 身内以外には人見知り気味の九十九でも、流石に彼女の存在は認知していた。

 

「妖怪なんて、この世界にいる訳無いじゃない。……馬鹿馬鹿しい」

 

 だから、姫華がそういう風に吐き捨てた事に驚きを隠せなかった。

 目を丸くする親友の横で、光太は椅子の背もたれで頬杖をつく。

 

「ん、白衣ってばそういうの嫌い系? 意外ってほどじゃないけど、そんなに強い言葉が出るとは思わなかった」

「……ごめんなさい、あなたたちを侮辱するつもりは無かったの。ただ、ちょっと頭に血が昇ってしまって……なんでもないから、忘れて頂戴」

 

 首を横に振った彼女は、申し訳なかったと頭を下げる。

 険しく歪められていた眉も、今度はどこか悲しそうに垂れている。その様子が、九十九にはどうしてか気になった。

 

「……昔、なにかあったの? 妖怪の事で」

「えっ……?」

 

 唐突にぶっ込まれた問いかけに、姫華はほんの小さく身を震わせた。

 両手で自分の体を抱く彼女を見て、眠たげな目を細める九十九。

 その所作は体を抱いているというよりも、服の下に隠している何かを掴んでいるかのような──

 

「このバカチンッ!」

「あいたっ」

 

 光太のチョップが、九十九の頭に直撃した。

 驚く姫華の目の前で、チョップは数回繰り返された。

 

「ンモー、九十九クンったらすぐそういうデリカシーの無い事言うー! 下手! 身内以外とのコミュニケーションが下手! ほら、お母さんついててあげるから、ごめんなさいしなさい!」

「痛っ……くないけど、分かった、分かったから。……ごめん、白衣さん。不躾だった」

「ううん、気にしてないから大丈夫。私の方こそ、突然割り込んでごめんなさい」

 

 顔を上げ、微笑む。

 その柔らかできめ細やかな笑みは、確かに美少女と呼ぶに相応しいものだった。

 

 流石の九十九や光太をしても、その微笑みの前には見惚れる他無い。

 それを知ってか知らいでか、姫華は肩の力を抜いたように2人の下を離れた。

 

「じゃあ、もうすぐ授業だから。私は自分の席に戻るわね」

「おっすおっす。さっきの事はあんまり気にすんなよ~」

「あ、うん……。またね、白衣さん」

 

 軽く手を振って姫華を見送ったのち、九十九は不思議そうに首を微かに傾ける。

 どうにも、何かが引っかかるような。そんな思考は、光太の「はぁ~」という溜め息に破られた。

 

「ったく、ビックリさせるんじゃないよ九十九っち。いつもは知ってる奴以外とあんまり話さない癖に、突然ああいう事言い出すんだもん。距離の測り方、もうちょっと学ぼう?」

「うん……ごめん。確かに、デリカシーが無かったよね……」

「分かればいいんだよ分かれば。……っかし、クラスで話題の美少女がオカルト嫌いだったとはね。光太様はコンプライアンスを分かってるので吹聴したりはしねーけど、ちょっと意外だったって感じだな」

「そう……だね。うん、そうかもしれない。……じゃ、僕もそろそろ」

「おー、また休み時間になー」

 

 そんな光太の言葉を背中で聞きながら、自分の席に向かう。

 リュックサックを机の上に置いてファスナーを開いた直後、その中からイナリがスポッと顔を出してきた。

 面食らって周囲を見回そうとする九十九を、イナリはちっちゃな前脚で制止する。

 

「今も“ごまかし”の術は使っていやす。誰も気付きやせんぜ」

「あっ……そっか。そういえば、そうだったね」

「ですから、ちょいとお耳を拝借したく。……先の事件についてで御座いやす」

 

 キツネ耳がピコピコと震える。

 事件、というのは先ほど話題に出ていた猟奇事件の事だろう。

 

「……やっぱりあれ、妖怪の仕業なの?」

「確証はありやせんがね。ですが一晩で10人も喰い殺せるような生き物が、誰にも見つからないまま街の中をうろついているとは思えやせん。それに、あの掲示板とかいうのの……」

「うーん……でもあれ、結構アングラなところの情報だから信憑性は……」

「何事も考え過ぎはよくありやせんが、かといって楽観視し過ぎるのも禁物でやすぜ、坊ちゃん。妖怪のやる事なす事は、得てして奇々怪々。況や、それを人に対して振るうともなれば……」

 

 ちっちゃな前脚を組み、うむむと唸るイナリ。

 会話の傍らで教科書やノートをリュックサックから出しながら、九十九は不安そうに呟いた。

 

「『現代堂』……か。本当に、そんな事を仕出かす奴らなんだね」

「へぇ。奴らの所業はまさしく悪逆非道。妖怪に善悪は無いとは言いやしたが、奴らを人間の尺度に当て嵌めるならば、所謂“てろりすと”というやつでさ」

 

 ピン! とキツネ耳が垂直に立てられた。

 強い義憤の込められた彼の言葉を受けて思い返されるのは、土曜の出来事。

 八咫村家の成り立ちを聞いたのち、四十万の口から語られたとある因縁についてである。

 

『……今から数百年前、恐るべき大妖怪がいたそうじゃ。その者はあまりに強大な妖気を帯び、他のあらゆる妖怪たちを己の配下とした。夜の闇を統べるその大妖怪を、昼を生きる人々は「魔王」と呼び、恐れ慄いたという』

()()……って事は、今はいないの?』

『うむ。その名を、山ン本(ヤマンモト) 五郎左衛門(ゴロウザエモン)。かつて、自分に従う妖怪ども──“魔王派”と共に江戸時代の日本を恐怖のどん底に陥れ、儂ら八咫村家の初代……妖怪テッポウ・ヤタガラスが刺し違える形で倒したとされておる』

『山ン本……それって、確か』

 

 山ン本。

 その名は、倒されたカタナ・キリサキジャックが死に際に放った言葉だったように思う。

 

『かつての大妖怪亡き今、山ン本の名は別の妖怪が(あざな)として名乗っておる。……妖怪キセル・ヌラリヒョン。奴こそ当代の山ン本であり……『現代堂』を称する妖怪どもの長じゃ』

『キセル・ヌラリヒョン……もしかして、あの』

『イナリとお千代から聞いた、奴もあの博物館にいたようじゃな……。奴は恐ろしいほど長い煙管(キセル)を使い、妖気の溶けた煙を操る。ほぼ間違いないじゃろう』

 

 その言葉に、博物館で出会った奇妙な男の姿が九十九の脳裏に蘇る。

 四十万の言う通り、彼は驚くほど長い煙管(キセル)を手から離さず、その立ち振る舞いには常に煙の香りがあった。

 恐らくは彼が妖怪キセル・ヌラリヒョン──山ン本なのだろう。

 

『『現代堂』は山ン本ら“魔王派”の残党どもが結成した一味であり、奴らが活動を始めたのは今から80年前。第2次世界大戦の動乱の影で、奴らは大勢の妖怪どもを引き連れて日本本土を攻撃したのじゃ。人間の文明を転覆させる為にの』

『えっ……!? そんな事、日本史のどこにも……』

『そりゃ、歴史の裏で起きた事じゃからの。儂ら“八咫派”にとって、“魔王派”の妖怪どもは初代様の代より続く因縁の敵。儂のかか様……お前の曾祖母は、“八咫派”の妖怪たちを引き連れて最後の決戦に挑み……そして、その命を散らして『現代堂』を退けたのじゃ』

『爺ちゃんも……その決戦に?』

『いいや。……さっきも言ったように、当時の儂は病弱でな。妖怪になったばかりの儂では足手まといになるだけと、家で戦いの終わりを祈っておった』

 

 お茶を啜りながらそう語る四十万は、どこか悲しそうな顔をしていた事を覚えている。

 勝利を信じて待った結果が、母の死。その時の彼は、どのような気持ちだったのだろう。

 

『……その決戦で多くの幹部、多くの構成員を失った『現代堂』は、そのまま闇の中へと消えていったそうじゃ。それから80年、妖怪による事件は鳴りを潜めた……そう、思っておったのじゃが』

『……今になって、活動を再開した。しかもあの男……山ン本は、目の前で妖怪を生み出してみせた』

『妖怪は、道具が99年を経て初めて成るもの。儂ら八咫村家の人間は混血ゆえにそうではないが……それでも、よもや人為的に妖怪変化(ヘンゲ)を起こさせるとは……。この80年の間に、奴らもそれだけの力を得た……という事か』

 

 そこまでを思い出して、九十九は現実に意識を戻す。

 チャイムが鳴り響き、教師が教室に入ってきた。これからホームルームが始まる。

 

 机に引っ掛けたリュックサックの中からは、イナリの気配が感じられる。

 それを確認して、ふと窓の外を見た。綺麗な青空が、今が「昼」である事を雄弁に語っている。

 

『貴様らが恐怖し、絶望し、妖怪に……『夜』に畏れを抱けば抱くほど、貴様らの生きる『昼』に闇が満ちる。闇が『昼』を埋め尽くせば、それは『夜』になる。即ち、我ら妖怪が世の覇権を取り、人間に取って代わる文明の覇者となるのだ』

 

 博物館での惨劇を引き起こした妖怪、カタナ・キリサキジャックの言葉を思い出す。

 あの時、九十九は自分が生き延びる為に妖怪としての力を振るい、戦った。

 

 けど、今は?

 

「……僕は、戦うべきなのかな」

 

 誰にも聞こえないほど小さな声で、そう呟いた。



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其の拾参 夕暮れの路地裏

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


「ん? 九十九っち、いつもの登校ルートと真逆の方向だけど、引っ越したじーさんっちってそっち?」

「うん、実家とは反対の位置にあるから……。でも、学校からは爺ちゃんちの方が近いんだ」

「おけまる水産。ほんじゃ、また明日~って事で」

「また明日。じゃあね、光太」

 

 授業が終わって放課後。校門の前で光太と別れ、九十九は夕暮れの帰路に踏み出した。

 リュックサックが数回揺れたのち、ファスナーをこじ開けて顔を出したイナリが「ふへぇ」と声を漏らしている。

 

「大変でやすねぇ……今の寺小屋も。わてには到底理解できない難しい説法ばっかで御座いやした。坊ちゃんたちは、あんな難しい事ばかりを学んでおるんでやすか?」

「大変かなぁ……? 勉強ってすればするほど楽しいし、難しいのもちょっとしたアクセントだよ」

「むむ、時代の違いって事でやすか。時は移ろうものでありやすねぇ……」

 

 物思いの込められた呟きを背中で聞きつつ、夕日が放つオレンジ色の光を浴びる。

 その色合いに目を細め、ふと思い付いた疑問を口にする。

 

「ねぇ……イナリ。昼は人間の時間で、夜は妖怪の時間なんだよね?」

「へぇ。正確には少し異なりやすがね。人間は夜の闇を畏れ、昼の光の中で生きる。妖怪は昼の光を厭い、夜の闇の中で生きる。そういう関係で御座いやす。尤も、最近では人間の文明が夜の闇を光で照らすようになり、その影響で妖怪の数も随分と減っておりやすが」

「……なら、今は?」

 

 九十九の目に、ビルの谷間の向こうへと消えてゆく夕日が映った。

 振り返れば、空の向こうからは夜の気配を感じさせる薄闇がやって来つつある。

 

「夕方……昼と夜の境目。ここは、人間と妖怪……どっちの時間なの?」

「……昼の光が彼方に沈み、夜の闇が迫る世界。夕方……特に誰そ彼刻(たそがれどき)と呼ばれる時間帯は、光に()てられていた妖怪たちが力を取り戻す時間で御座いやす。言うなれば『人間が力を失い、妖怪が力を得る時間帯』とでも言い表しやしょうか」

「やっぱり……妖怪にとって有利な時間なんだね」

「ですから、人は夜に寝るんでさ。妖怪を畏れる事が無いように、朝日を待つ為に」

「朝日……太陽、か」

 

 ぼんやりと、戦闘後に意識を失った時の事を考える。

 あの時、夢の中に現れた八咫烏──妖怪テッポウ・ヤタガラスの幻影はこう言った。

 

『オ前ガ、ドノヨウナ道ヲ選ボウトモ……全テハ自由。ダガ、忘レルナ。オ前ノ血脈ニ流レル力ハ、太陽ノ光。昼ヲ闇デ蝕ムノ為デナク、夜ヲ光デ照ラス為ノ力ダ』

 

 八咫烏は勝利を司る一方、太陽の化身ともされている。

 夜の闇の中で生きる妖怪でありながら、太陽──昼の光を象徴する存在としての力を持つ。

 そんな相反する性質を持ち合わせた妖怪だからこそ、彼は人の側に立って魔王と矛を交えたのだろうか。

 

「いやっ……! やめてっ!」

「へへっ、まぁそう言うなって」

 

 そんな思考は、少女の嫌がる声と、それに追随する男の下卑た声に遮られた。

 反射的に足を止めて周りを見やれば、声がどこから聞こえてきたのかは容易く特定できた。

 

 視線の先にある路地裏で、3人の男が1人の少女を囲んでいた。

 どうやら全員、九十九と同じ高校の生徒であるらしい。というか男の内の1人は灰管だし、他の2人も灰管の取り巻きだ。

 そして、彼らに囲まれた少女は──

 

「いいじゃねぇか、姫華。俺らと朝までタノシイ事しようぜ?」

「そうそう。塾でツマンナイお勉強するよりさ、道人さんと一緒に遊ぶ方が絶対いいって」

「入学して早々に美少女だなんて持て囃されてさぁ、ちょっと調子乗ってない? その鼻っ柱、道人さんに折ってもらえよ」

「ひっ……!? は、離してっ、やめて!」

 

 白衣 姫華だ。彼女は狭い路地裏の壁が背中につくまでに追い込まれ、その手首は灰管に掴まれてすらいる。

 雪のように白い肌も、今は恐怖で青褪めていた。

 この状況を見逃してしまえば、この後に彼女がどうなるか。そんな事は、わざわざ考えるまでもなく明白だろう。

 

「……光太の言ってた事は本当みたいだね。最低な真似を……」

「なんですか、あ奴らは。女子(おなご)を寄ってたかって取り囲んで、事もあろうに無理やり言い寄るなど! 日本男児の風上にも置けやせん」

 

 彼らのやり取りを物陰から確認した九十九が、いつものダウナーな表情を灰管たちへの嫌悪で歪ませる。

 それはイナリも同じようで、彼はリュックサックから顔を出しつつプンスカと耳を震わせて憤っている。

 

「……ねぇ、イナリ」

「ええ、わても彼女を助けたいのはやまやまでさ。しかし如何な悪党と言えど、妖術を人間に対して振るって害をなすのは頂けやせんぜ。そうして助けたとして、それをあの女子(おなご)にどう説明するんでやすか?」

「うん……分かってる。だから、ちょっと考えがあるんだ」

 

 九十九はそう言って、ポケットからスマホを取り出した。

 

 

 

 

「なぁ~なぁ、いつまでこうして抵抗してるつもり? いい加減、楽になれよ」

「……この手を離してくれたら、いくらでも楽になるわよ」

「うっそだぁ、手ェ離したら絶対逃げるでしょ~? 3人に囲まれるのに逃げられる訳無いのにさ~、バッカだよねぇ」

 

 ゲラゲラと、下品極まりない笑い声を上げる灰管たち。

 その粘ついた悪意に顔を引き攣らせ、それでもなお姫華はこの場から逃げる為の抵抗をやめない。

 

「いいからさぁ、さっさと道人さんに従いなって。俺たち、いつでもこの場でお前を凄い目に合わせられんだぜ~?」

「っ……! あなたたち、こんな事して……何が楽しいのっ……!?」

「何が楽しいかって? そりゃお前、自分より弱ぇ奴を足蹴にすんのは最っ高に楽しいに決まってんだろ。クラスの連中は全員、俺らの気分次第でいつでもどこでもボロ雑巾になる雑魚の群れってワケ。お前だってその1人だぜぇ、姫華」

 

 グイッと、姫華の手首を握る力が強められる。

 ギチギチと軋む手首に痛みが走り、少女の苦しむ声が歯の隙間から漏れた。

 

「い、痛っ……!」

「なぁ、幼馴染の俺がこんなに誘ってんのに反応ナシかぁ? やっぱお前、昔っからそうだわ。つまんない女だなぁ、オイ」

「あ……あなたと幼馴染だったのは昔の話っ……でしょ。私の家からも、縁切られた……じゃないっ」

「あ~~~もう、うっせぇなぁ! ゴタゴタ抜かすようだと本当に──」

「……やめなよ」

 

 その場にいた4人全員が、声のした方を見る。

 橙色の夕日をバックに、路地裏の入り口に立っていたのは……

 

「その手……すぐに離して。白衣さん、痛がってるから」

 

 紛う事なく、八咫村 九十九その人だった。



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其の拾肆 ちょっとした解決策

 最初に誰何(すいか)の声を上げたのは、姫華だった。

 

「あっ、あなた……は……八咫村、くん?」

「なんだぁ……? 誰かと思えばちびカラスじゃねぇか。陰キャの根暗オタクが、俺らに何の用ですかぁー?」

 

 路地裏の入り口に九十九の存在を認め、灰管が嘲るような罵声を放つ。

 しかし、九十九は動じない。その目は、じっと4人を見つめている。

 普段見せているぼんやりとした表情は、光太の言う「ここぞの時」らしいキリリと鋭いものへとすり替わっていた。

 

「……白衣さん、嫌がってる。そういうの、あんまり良くないと思うよ」

「は? なに粋がっちゃってんの? ちびの癖してヒーローごっこ? ダッサ、そういうキモいのメイド喫茶とかでやれよな」

「ぷぷっ、ウ~ケる~。あんな小学生みてぇな体で俺らをボコボコにできるつもり? ラノベ主人公みたいなイキりっぷりだわマジで」

「おーい、ちびカラスく~ん。アニメ大好きキモオタくんは早くおうちに帰りましょうね~? じゃないとボコボコにしちゃいまちゅよ~?」

 

 嘲りと侮辱がこれでもかと込められた品の無い声に、それを聞かされている姫華でさえ不快感を隠せない。

 しかし、彼らと相対する九十九は至って冷淡な表情のまま、怒るどころか苛立つ素振りさえ見せていない。

 

「……逃げた方がいいよ?」

「あ?」

「おまわりさんがそこにいたから、呼んできたんだ。補導されてもいいの?」

「ははっ、そんな見え透いた嘘にノセられる訳ねーだろ。あー、なんかキモすぎて腹立ってきた。姫華を虐める前に2、3発──」

 

──ピピーッ!

 

 耳をつんざく、甲高いホイッスルの音。

 突然鳴り響いた音に灰管たちが身を竦ませた直後、九十九の背後から自転車の走行音と、ベルを鳴らす音が聞こえてきた。

 ついで轟く、野太い男性の叫び声。

 

「お前らー! そこで何をしているー!?」

「笛の音にこの声、マジでサツ呼んだのかよ!?」

「やべぇって道人さん! 逃げなきゃ!」

「チッ……! 陰キャのちびカラス如きが調子に乗りやがって……覚えてろ!」

 

 本当に警察が来たのだと認識して、途端に慌て出す男子生徒たち。

 灰管は九十九に対して捨て台詞を吐くと、自分が拘束していた姫華をその場に突き飛ばして路地裏の奥へと消えていく。

 取り巻きの2人も、彼を追って一目散に逃げていった。

 

「きゃっ!? 痛た……本当にあいつら……」

 

 突き飛ばされた姫華が、小さく悲鳴を上げてその場に尻餅をつく。

 ジクジクと痛む手首をさすりつつも顔を上げると、そこには自分に向けて手を差し伸べる九十九の姿があった。

 

「……大丈夫? 白衣さん」

「あ……八咫村、くん。あの、あいつら逃げちゃったけど、おまわりさんは……?」

「ああ……あれ、嘘」

「えっ?」

 

 呆気に取られる少女の前に突き出されたのは、何かの実写ドラマを再生しているスマホ。

 

『お前らー! そこで何をしているー!?』

 

 その動画の中では、主人公らしき警察官が自転車を漕ぎながら不良を追いかけるシーンが描写されていた。

 主人公が発した叫び声は、先ほど聞こえた男の声と見事に一致してる。

 

「昔、光太と考えたイタズラなんだ。これで不良を撃退できるかも……って。上手く行ってよかった」

「イタズラ……って。よくやるわね……本当」

 

 少し呆れた風に笑う。乱暴に言い寄られる恐怖から脱却できた安堵感が、姫華の口角を無意識に吊り上げていた。

 まだ震えの残る手を伸ばして、差し出された手を掴む。

 灰管とは違う優しい手つきと力加減が、彼女の手を引っ張って立たせてくれた。

 

「よいしょ……っと。本当に……本当にありがとう、八咫村くん。おかげで助かったわ」

「……そんな、大した事はしてないよ。今回のだって、上手く行くかどうかは賭けだったし……」

「ううん、それでも八咫村くんが来てくれなかったら今頃どうなってたか……」

 

 面と向かって目を合わせ、両手で握手するように手を包み込む。

 すべすべと滑らかな手の感触に、流石の九十九もドキリとせざるを得なかった。

 

「ありがとう。何か、このお礼をしたいんだけど……八咫村くんは、何がいいかな?」

「えっ? ああ、えっと……別に、お礼してほしくてやった訳じゃないから……」

「私が、どうしてもお礼したいの。……道人に詰め寄られた時、本当に……怖かったから」

 

 明らかに気落ちした声色が、夕暮れの路地裏に染み渡る。

 九十九の手を包み込む姫華の両手は、先ほどの恐怖を思い出してかまだ震えていた。

 

「あいつ、よくない人たちとつるみ出してからパパとママにも迷惑をかけるようになって……縁を切ってもまだ、私に執着しようとしてくるんだ。だから……あそこで八咫村くんが助けに来なかったらきっと、想像できないくらい酷い目に合わされてた」

「白衣さん……」

「だから、八咫村くんは恩人なの。今まであんまり関わった事無かったけど、あなたは本当に優しい人なんだね。じゃなかったら、あんなに怖い道人に真っ正面から立ち向かおうだなんて思えないもん」

 

 そう語る姫華の微笑みは、朝に見た時と同じ柔らかな可憐さに満ちていた。

 その名の通り、まるで白い花が咲き誇るような美の笑みが、今は1人の少年に対してだけ注がれている。

 ドキマギする思春期の男子高校生の背後で、イナリが「アオハルでやすねぇ」などとほざいているが、とても気にしていられなかった。

 

「だからね、感謝を受け取ってほしいんだ。あんまり接点の無い関係だったけど……だからこそ、ちゃんと返したいから」

「う……うん、白衣さんがそこまで言うなら……。何が、いいかな……えっ、何がいいんだろう……?」

 

 そこで、暫し首を傾げる。

 お礼とは言われたものの、何を要求したものかサッパリ分からないのだ。

 

 意識を前に向ければ、数時間前までただのクラスメイトだった筈の少女がコテンと首を傾げている。

 それが可愛いとか、ヤバいときめいてしまったとか、そういう感情が嵐のように駆け巡った。

 

 九十九とて健全な男子だ。ときめきの1つ2つは普通にする。

 グルグルと掻き乱された情緒は、普段なら言わないだろう事を彼に口にさせた。

 

「なら……うん、そうだね。もし、今回みたいな事があったら……ちゃんと『助けてほしい』って言ってほしい、かな」

「……ほえ? そんな事でいいの?」

「う、うん……多分? その時になって、今回みたいに上手くできるかは分からないけど……でも」

 

 コクンと、頷く。何となく、しっくり来たのだ。

 

「もし『助けて』って声が聞こえたら……できる範囲で、どうにかするから」

「──うん、分かった。それが恩人の頼みなら、頑張ってみる」

 

 ニパッと花開く彼女の笑顔は、やっぱり胸をドキドキとさせる。

 これ以上こっちの気持ちを撹拌させてどうするのだと、内心で悲鳴が上がる。

 

「じゃあ、私はこれから今から塾に行かなくちゃだから。またね」

「あ……ああ、うん。また明日ね、白衣さん」

「うんっ! じゃあね、八咫村くん。また明日! 助けてくれて、本当の本当にありがと!」

 

 するりと脇を抜けて路地裏を出て、姫華は手を振りながら駆け出していった。

 互いの姿が見えなくなるまで、走りつつも後ろに手を振り続ける彼女の姿に、九十九は少しばかり呆けるしかない。

 やがて彼女が夕日の向こうに消えていったのち、リュックサック入りのキツネがニタニタと笑いかけてくる。

 

「いやー、流石は坊ちゃん。これが俗に言う“ふらぐ”というやつで御座いやすか?」

「めっちゃイジるじゃん……。それより、協力ありがとね」

「いえいえ。まさか、妖術を使いつつもあんな“ごまかし”方があるとは思いやせんでした。発想の勝利ってやつでさ」

 

 フリフリと大きな尻尾を振り、イナリが感嘆の声を上げる。

 

 九十九が提案した策とはつまり、イナリの“ごまかし”の術を使っておまわりさんの声や音を再現するものだ。

 かつて光太と共に考えた「イタズラ」は、よくよく考えれば「スマホの音量そこまでデカくないし、デカくしたらしたで他の登場人物の声も聞こえてバレるじゃん」という事で頓挫していた。

 

 そこを、妖術という理外の技によって補填。

 動画自体はそのカバーストーリーとして活用するというのが、今回の策である。

 

「これなら、多少の怪しさがあったとしても普通に“ごまかし”が効く範疇でさ。逃げてった連中が後から怪しもうにも、怪しむ材料が無い。なんせ、考える暇も無く逃げちまったでやすからね」

「ん……思いつきの作戦だったけど成功してよかった。白衣さんも助かったし」

「へぇ。彼女はこれから『じゅく』とかいう学び舎に行くようでやすし、もう安心でしょうや」

 

 そう言ったきり、イナリはもぞもぞとリュックサックの中に潜り込み直した。

 大きくフワフワとした尻尾が、ファスナーの隙間からピョコリと顔を出している。

 

「では、わてらも帰りやしょう。ご当主様から、妖気の扱いについて手ほどきを受けるんでさ」

「うん。妖気とか妖術とか……そういうのの使い方も、ちゃんと学ばないとね」

 

 路地裏を出る。

 目に飛び込んできた夕日の眩しさに目を細めながら、九十九は改めて帰路を急いだ。

 

 じきに、夕日が沈む。夕日が沈んで、夜が来る。

 それはつまり、妖怪たちの時間が訪れる事を何よりも意味していた。



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其の拾伍 残酷な夜

今日2話目の投稿です。
また、暴力・残酷な描写があります。ご注意ください。


 夕日がビルの谷間に消え去って、5月にしては冷たい風が街に吹く。

 時刻は午後8時を過ぎた頃。夜の帳が、街を覆い包み始めた時間の事である。

 

「塾、遅くなっちゃったな……。パパとママも心配してるだろうし、急いで帰らないと」

 

 白衣 姫華は1人、薄暗いシャッター街を急ぐように歩いていた。彼女が抱える鞄には、学習塾での課題が詰め込まれている。

 いつもはこんなに遅くならないのだが、今日は色んな用事やら何やらが重なった結果、塾を出る頃には外はすっかり暗くなっていた。

 

「最近、この辺で殺人事件があったっていうし……。猛獣が脱走してる、みたいな話も聞いたけど……とにかく、早く帰るに越した事は無いわよね」

 

 そんな独り言が、暗がりに包まれた商店街の中でいやに反響する。

 かつては商店街として賑わっていたこの通りも、今となっては経営している店の方がよほど少ない。

 恐ろしいくらいに静まり返ったこの場所では、まともな人の気配もまったくと言っていいほど感じられなかった。

 

 だからこの場で何か起きても、それを明解に知覚できる者はほとんどいないだろう。

 それをよく分かっているからこそ、()()はそれを利用した。

 

「よぉ、姫華」

「……っ。道人……」

 

 行く手を阻むように物陰から現れたのは、下卑た笑みを向ける灰管 道人。

 思わず足を止めた姫華は、背後にも気配を感じた。振り返れば、灰管の取り巻きの男子生徒2人も同様に顔を出してきていた。

 

「ひひ、さっきは余計な邪魔が入っちまったからな。今度こそ、もうお前を助ける奴はどこにもいない。詰みだぜ、姫華」

「……夕方みたいに壁際まで追い込まれた訳でもないから、今度こそ逃げて交番まで駆け込むわよ」

「できると思うか?」

 

 ジリ……と徐々に距離を詰める3人の男子生徒。

 

 前方には灰管、後方には取り巻き2人。そしてこの場所はひと気が無いシャッター街な上に、時刻は夜。

 夕方に助けてくれた九十九は、今はいない。既に家に帰った頃だろうし、ここで何が起きようとも彼にそれを知覚する術は無い。

 逃げ場も助けを求める相手も失った事を理解して、姫華は唾を飲み込んだ。

 

「そう……それ、その顔だよ姫華ぁ。弱ぇ奴が、自分は弱ぇ奴だって理解した時の顔。俺はそれを見てる時がいっちばん楽しいんだよ」

「……最っ低。例え一時(いっとき)でも、あなたの幼馴染だった事が恥ずかしいわ」

「言ってろ。んじゃ、お楽しみタ~イム。ぜーんぶ脱ぎ脱ぎして、持ってるモン俺たちに差し出しましょうね~」

 

 おぞましい声を放ちながら迫る元幼馴染を前にして、姫華の両腕が自分の体を守るように抱き締める。

 だから、灰管は見逃さなかった。彼女が自身を抱き締めるようにして、服の下の何かを強く掴んだ事を。

 故にそれまでのジリジリとしたペースを唐突に崩し、一気に肉薄して腕を掴み上げる。

 

「おや~? なーに隠してるのかなー?」

「──っ!? 嫌っ、離してっ……! 触らないでっ!」

 

 夕方の時のように片腕を掴まれて必死に抵抗する姫華だったが、もう片方の手も背後から近付いてきた取り巻きその1に掴まれた。

 前後から両腕を掴まれ拘束された彼女の服に、灰管は当然のように腕を突っ込んだ。

 ガサゴソとまさぐられる感覚に少女の顔から血の気が引いていく中、内ポケットに何かを見つけて一気に抜き取る。

 

「はーいご対面……っと、なんだこれ。手鏡?」

「うっわ古臭ぇ~。持ってる奴のセンスを疑うわ、これ」

「そ、れっ……!? 返してっ! 早くっ、それ、私のだからっ!」

 

 灰管が抜き取ったのは、1枚の手鏡だ。

 相当昔のものらしく、持ち手や裏面の絵柄はレトロ調に色褪せている。

 それでも鏡面はピカピカに磨き上げられていて、持ち主が如何に大事に扱ってきたかを物語っていた。

 

 けれども非道で下劣な灰管たちにとって、それはただの古臭くダサいガラクタでしかなかった。

 その手鏡を抜き取った瞬間、血の気が引いていた姫華の顔が更に輪をかけて青褪めていくの見て、男どもはニタリとおぞましく笑う。

 これが彼女の弱点なのだと理解されてしまった。

 

「返してっ……! お願い、だから……それ、とても大切なものなのっ……!」

「へぇ~? これ、お前の宝物なんだ。こーんなガラクタが? お前にとって大切な?」

「そう……そう、だから……! お願いします……返して……」

「……へへっ」

 

 必死の懇願を、鼻を鳴らして嘲笑う。

 それが、彼の人間性だった。

 

「嫌に決まってんだろバーカッ! これをお前の目の前でブッ壊して、ゴミになったこいつの前でお前をめちゃくちゃにしてやるよ!」

 

 手鏡を持ったまま、灰管が腕を大きく振り上げる。

 誰も介入する事が無ければ、手鏡はこのままアスファルトの地面に叩き付けられて無惨に割り砕かれるだろう。

 そして、この場に介入する者は誰もいない。それを理解したからこそ、姫華は絶望の叫びを上げ──

 

 

 

──ニャァァァ……ォオ……

 

 

 

 怖気の走るナニカの鳴き声が、夜のシャッター街に反響した。

 そのおぞましい声色を耳にした4人全員が、一斉にその動きを止める。

 

 手鏡を叩き落とそうとしていた灰管も、今にも泣き叫びそうだった姫華も、彼女を後ろから押さえつけていた取り巻きたちも。

 誰もがそれまでの思考をリセットされ、体をフリーズさせたままに周囲を見る。

 

「なん、だ……? 今の、音……」

「どこから……どこから、きっ、聞こえてきたんだ……」

「……っ! 道人さん、あれっ!」

 

 恐慌じみた声で取り巻きその2が指差した先。

 シャッター街の更に奥、暗闇に包まれた向こう側からナニカの気配を感じる。

 

 じっと目を凝らしている内に、4人は暗闇の奥に灯る2つの赤い光を認めた。

 ゆらり、ゆらり、と生きているかのように蠢く2つの赤色は、闇の中をクルクルと回転しながら近付いてくる。

 ただそれだけの現象に、灰管たちはどうしようもない恐ろしさを覚えていた。

 

「な……なんだ、あれ。人魂……?」

「だっ、誰かのイタズラだろっ! 怪奇現象なんてある訳ねぇ!」

「で、でも……あれ、見ろよ。なんか、シルエットみたいなのが見えて……」

 

 そこで息を呑んだのは、果たして誰だっただろうか。

 彼らは確かに見た。ゆらりと近付いてくる赤い灯が、1つのシルエットを映し出す様を。

 

 それは通りの端から端まで届くほどの巨体を持ち、4足歩行をしているようだった。

 丸々とした顔立ちに、白みがかった毛並み。頭頂部に生えたケモノ耳。

 その出で立ちは、まるで──

 

「ネ、コ……?」

「……っ!」

 

 その灯りとシルエットを前に、身の毛がよだつ恐怖を感じていたのは姫華とて例外ではない。

 それでも彼女は、自分が大事にしていた手鏡が、灰管の手からするりと零れ落ちていく様を決して見逃しはしなかった。

 

 だから、自分の両腕を掴んで離さなかった握力が緩んだ隙をつく。

 前後から受けていた拘束を振り払い、今まさに地面に落ちようとしていた手鏡を、身を屈めて滑り込むようにキャッチする。

 

 それに気付いた灰管たちが行動を起こそうにも、それが叶う事は無かった。

 同時に、シルエットに意識を割くよりも手鏡の奪還を優先した姫華は、この上なく幸運だったと言えるだろう。

 

「みぎゅっ」

 

 手鏡を拾う為に姿勢を低くしていた姫華の頭上を、巨大なナニカが高速で通り過ぎる。

 何が起きたのか。それを確かめる為に顔を上げると、先ほどまで目の前にいた筈の灰管やその取り巻きたちが視界から消えていた。

 

 よくよく周りを見れば、灰管と取り巻きその2はそれぞれ左右に突き飛ばされたように尻餅をついていた。

 凄まじいスピードで通り過ぎた何かが、彼らを吹っ飛ばしたらしい。

 

 では、もう1人は?

 そんな思いと共に、その場の3人が同じ方向を向き……見て、しまった。

 

 

──ガリッ……ゴリ、ゴリ。クチャ、クチャ……ミチ

 

 

「あァ……うんめぇよなァ。若ェガキの肉は柔らかくていいんだよなァ……甘みがあって、脂が程々で……」

 

 それの外見を一言で言い表すならば、巨大なネコ以外の形容が思い付かなかった。

 でっぷり丸々と肥え太った白毛の巨体は、まさしくトラックほどの大きさと例える事ができる。

 

 その尾は臀部から2つに分かれ、それぞれが独立して揺らめいている。

 それぞれの尾の先端には、真っ赤な光を灯す提灯が癒着していた。恐らく、先ほど闇の中から見えた赤い灯の正体はこれなのだろう。

 

 そして、何よりも。いいや、それら全てを差し置いて重要なもの。

 姫華たちのど真ん中を通り抜けていったその巨大なネコが、今まさに捕食しているモノ。

 それは。

 

「……さ、佐藤(サトウ)……? なんで、佐藤があそこで、食われ……」

 

 灰管の喉から発せられた震え声が、ネコの食事と成り果てたモノの正体を言い当てる。

 それはまさしく、灰管の取り巻きその1だった。喉を薄皮1枚しか残らないほどに食い破られた彼は、とっくに事切れていた。

 

 取り巻きその1の命を奪ったらしきネコは、彼の腹を引き裂き噛み千切り、その肉と臓腑を喰らっていた。

 そのあまりに現実離れした惨状に、姫華たちは悲鳴を上げる事すら忘れて呆然とするしかない。

 

 やがて、巨大なネコが食事の手を止める。

 血と脂でベトベトになった口から牙をギラつかせて、縦筋の瞳孔が3人を見やった。

 

「なんだァ……? オメェら、悲鳴も上げねぇんだよなァ。おれはよぉ、人間の悲鳴を聞きながら喰う肉が一番好きなんだよなァ」

「ひっ……!? な、何を言って……」

「何の因果か『げえむ』の一番手に選ばれたおれだけどよぉ、おれがやりてぇ事って言ったら人の肉を喰うくらいしか思い付かないんだよなァ。一晩に喰える量にも限りがあるし、あんまり一度にたくさんは殺せねぇんだよなァ」

 

 だから。

 そう言って、ネコは取り巻きその1の遺体を拾い上げると、大きく口を開けた。

 無数の牙がギラつく口の中に放り込まれた遺体は、そのままバキゴリと奇っ怪な音と共に噛み砕かれ……嚥下される。

 

 一連の光景が残酷過ぎるあまり、姫華は自分の口を押さえた。

 灰管や取り巻きその2がどんな反応を見せているかなど、確認している余裕も無い。

 

「量じゃなくて、質を増やしたらいいんじゃねぇかなァって思ったんだよなァ。お前ら人間を怖がらせるだけ怖がらせて、それから絶望の淵に追い込んで喰い殺す。そうすれば、一度の食事で効率よく恐怖や絶望を集められるんだよなァ」

「おっ、おおおおおっ、お前っ。なっ、何者、なんだよっ!?」

「おれかァ……? おれはなァ、お前ら人間の敵なんだよなァ。人間を死滅させて、おれたちに都合のいい世界に作り変える為に行動する『ぷれいやあ』なんだよなァ」

 

 のし、のし、とネコが歩み始める。

 その歩みは徐々に、そして確実に灰管たちへと近付きつつあった。

 突如として非現実的な世界に放り込まれた少年少女たちの目に、明らかな恐怖の感情が溢れ出す。

 

「昨日、たらふく喰って腹一杯だからさァ……ちょっとくれぇ妖気を振るっても問題無いんだよなァ……? 妖気を振るったら、お前らもっと怖がるんだよなァ」

 

 その直後、ネコの巨体から溢れんばかりのプレッシャーが放たれた。

 殺意と悪意、濁った食欲がこれでもかと詰め込まれたその圧力を浴びて、灰管が子供のように涙を流す。

 取り巻きその2もまた、歯をガチガチと鳴らして大粒の涙を零していた。

 

 その様を見て、ネコは満足そうに口角を吊り上げる。

 

「いいよなァ、いいよなァ……その顔、いいよなァ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だよなァ……。その顔を噛み千切れば、さぞかし美味そうなんだよなァ」

「ばっ……化け物っ!」

「違う、違うんだよなァ。おれたちを恐れるなら、もっと違う名があるよなァ? お前らがよーく知ってる言葉だよなァ。おれが言ってやるから、それに続けよなァ?」

 

 そうして、ネコが高らかに謳い上げる。

 この名こそ、『夜』から『昼』への宣戦布告だと言わんばかりに。

 

「──“妖怪”。そう、妖怪だよなァ。おれの名は妖怪チョウチン・ネコマタ。それだけ覚えて、お前らはおれの夕飯になるんだよなァ」



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其の拾陸 戦う理由

 時は少し遡る。

 

「……うん。多分、こんな感じかな……?」

「ほう……やはりというか何というか、飲み込みが早いの。妖気が暴走しなくなる程度の簡単な制御ならば、あっという間に会得してしもうたか」

 

 四十万の家に帰った九十九は、祖父から妖気の扱いについて手ほどきを受けていた。

 体に巡る妖気の知覚から始まり、空気中に溶け込んだ妖気の認識。そしてそれらの妖気に自分の意思で干渉し、指向性を持たせる。

 そういった能力は、妖怪ならば生まれながらに誰でもできるらしい。

 

 教えを受けた九十九もまた、それらの力をあっという間に使いこなしてみせた。

 軽く妖気を振るった彼の首には真っ黒いオーラのようなものが絡みつき、マフラーを形作っている。

 

「これは……ちょっと、カッコいいかも。アメコミのヒーローみたいで」

「今教えたのは妖気を糸のように編み、戦装束とする術じゃ。それを纏っている間は、妖怪ニンゲン・ヤタガラスと名乗るがよい」

「……爺ちゃん。その『ニンゲン』っていうの、本当に必要なの?」

「所謂“ふぁあすとねえむ”のようなものじゃ。その妖怪が如何なる道具から生まれたのかを示すものじゃが、儂らは人間由来じゃからの」

「……ダサい」

「ダサい!?」

 

 孫が言い放ったまさかの一言に、愕然とする四十万。

 数秒の微妙な雰囲気ののち、彼は空気を切り換えるように咳払いをした。

 

「ともかく、その装束には自分の正体を理解させなくする効果がある。同じ妖気由来の存在である妖怪などには効果は無いが、人間相手ならば覿面に効く。例え白昼堂々と戦ったとして、この術さえ纏っていれば正体がお前である事は誰にも認識されなくなるじゃろう」

「んー……イナリが使う“ごまかし”の術みたいだね」

「おっ、それはいい気付きでありやすね、坊ちゃん。いかにも、わての妖術はこういった認識阻害の術を更に発展させたものでさ。バケギツネとしての面目躍如って訳で御座いやす」

 

 嬉しそうに語るイナリの頭部には、黒い羽のお千代がチョコンと座っている。

 得意げに尻尾を揺らす同僚の言葉に、彼女はツンとしたおすまし顔で嘴を尖らせた。

 

「悔しいですが、“ごまかし”にかけてはこのキツネが最も優れていると言っていいでしょうね。ご当主(ダーリン)も似た術をお使いになられますが、イナリは数百年分の“きゃりあ”が御座いますから」

「あ、爺ちゃんも使えるんだ? “ごまかし”の術」

「ほっほっほ、妖怪としての種族はバケダヌキじゃからの。狐七化け狸八化け……と言いたいところじゃが、儂は元々戦えるほどの力を持っておらん。お前が先祖返りしたレベルで優秀なだけじゃよ、九十九」

 

 モサモサと生え茂った白髭を撫でながらの四十万の言葉は、まさしく孫を褒める祖父のようだ。

 その称賛をどこかくすぐったく感じながらも、九十九は祖父の髭がそろそろサンタクロースの領域に入ってきているのではないかと思った。

 

「そもそも妖気とは、地脈……地下に巡る『大きな力』の流れが噴き出したものじゃ。それは目に見えず、匂いもなく、人間が取り入れても害の無い程度の濃さでしか無い。じゃが、長い長い時間をかけて道具の中に蓄積していった妖気はやがて……」

「道具を核として妖怪に成る……だよね。除去とかはできないの?」

「妖怪を倒せるのは同じく妖気か、或いは徳のある坊主の説法、神道に仕える巫女の祝詞くらいしかない。じゃが、今はそういう話もとんと聞かん。科学と文明の発展した現代では、オカルトなど必要とされんという事じゃ」

「それに、モノを多く作り多く捨てる大量消費社会では、九十九神など生まれようがありませんわ。夜を照らす街灯の開発は、良くも悪くもわたくしたち妖怪の住処を奪いつつあるのです」

 

 そう語り、片羽を軽く振ってみせるお千代。

 九十九は首元に手を寄せ、妖気のマフラーで口元を隠すようにして思考に耽る。

 

「……それが、『現代堂』の妖怪たちが人間に危害を加える理由?」

「連中にとっちゃ、そんなもんただの()()でしょうや。人を恐怖させ、その血と死を以て自分たちに畏れの感情を向けさせる。その為に力を振るう以上、奴ばらのやっている事は単なる“てろりずむ”。被害者加害者、なんて尺度で考えるのは阿呆らしいというもんでさ」

「じゃあ……妖怪だけど人間の側に立つ僕らは、それを止める為に……」

()()、ではなく、()()()()が何の為に戦うのか。それを考えるのがよかろう」

 

 言葉を遮る形で、四十万が割り込んでくる。

 普段から好々爺然とした表情を見せているからこそ、こういう時に向けてくる真剣な眼差しは強く効果的だ。

 

「妖気の使い方を教えておいてなんだがな、九十九。儂らは、お前が『現代堂』と戦う事なくどこか遠くへ逃げる選択肢もアリと思うておる」

「えっ……? でも、家の使命なんじゃ……」

「家の使命だから戦えるのであれば、儂とて80年前の決戦に命を捨ててでも馳せ参じておったわい。……結局のところ、儂は腰抜けただけ。病弱だからだの、大した力も持っていないから足手まといになるだのと言って、結局は命がけの殺し合いから逃げただけじゃ」

「爺ちゃん……」

「お前は、怖くなかったか? 博物館に現れた妖怪を、多くの人間を殺戮した妖怪を前にして、そ奴を倒す為に命を賭け……そして、相手の命を奪った事に」

 

 その言葉に、九十九はハッとさせられた。それと同時に、自身の体に仄かな震えを覚える。

 

 妖怪カタナ・キリサキジャックとの戦いは、ともすればこちらが負け、死んでいてもおかしくのないものだった。

 もしも、奴がもう少し強ければ。もしも、自分がもう少し弱ければ。もしも、観戦していただろう山ン本が介入していれば。

 

──もしも、自分が妖怪の力に覚醒(めざ)める事なく順当に追い詰められていれば。

 

 その時死んでいたのは、間違いなく九十九の方だ。

 あの初陣は正真正銘、薄氷の上に成り立った勝利でしかない。それを漸く自覚して、体がにわかに震え出す。

 

「九十九。お前は、何の為に戦う? 誰かの為でも、自分の為でもいい。じゃがそれは、こちらの命を奪う事に躊躇いの無い妖怪どもを相手取り、いつ終わるかも分からない殺し合いに身を投じるだけの理由になるのか?」

「……それ、は」

「よく、考えなさい。……儂は、お前には死んでほしくない。ロクに戦う力も持たず、お前たち若い者に背負わせるしかできない無能ジジイの我が儘じゃが、な」

 

 九十九は黙りこくる。

 分からなかった。あの時戦えたのは、本当に成り行きでしかなかったから。ああしなければ、自分が死ぬだろう事が分かっていたからだ。

 

 でも、今は? 逃げる余裕も、力も、時間も十二分にある。

 それでも、逃げる事を選ばないだけの理由。

 

(……ただ特別展示を見に行くだけの話から、随分と大きくなっちゃったな)

 

 内心で溜め息をつく。

 元はと言えば、光太から譲り受けた戦国時代展のチケットを手に、博物館の展示品を見物しながら穏やかな休日を過ごすだけの筈だったのに。

 

(……そういえば、あのチケットは)

 

 そこで、気付く。

 特別展示のチケットは元々、光太のものだ。彼は家族から休日に勉強を強いられ、博物館に足を運べなくなった。

 だから、九十九にチケットを譲った。だから、九十九は博物館に行った。

 

 もしも、様々な要因の末に光太が休日に外出する事ができていたならば?

 彼は当初の予定通り、戦国時代展を見に行っていただろう。友人にチケットを渡す事なく。

 

 そうして彼は、キリサキジャックが変化(ヘンゲ)する瞬間を目撃し──

 

(僕が、チケットを譲られていなかったら……光太が、死んでた?)

 

 全身の鳥肌が立ち、薄い寒気を覚えた。

 無論、これは最悪に最悪が重なった場合だろう。

 彼が妖怪の出現する時間まで博物館に滞在し続けるという確証は何も無い。

 

 でも、もしも。もしも、もしも、もしも。

 

(もしもあの場にいたのが僕じゃなくて、光太だったら……キリサキジャックは館内の人たちを……光太たちを皆殺しにして、あのまま建物の外に出ていた。……より多くの人たちが、殺されていた)

 

 ならば、自分という存在は──

 

「──!?」

「……? どうしたんでさ、坊ちゃ……いえ、わても感知しやした」

「わたくしもですわ。これは……間違いなく妖気。それも、妖怪に連なる者が意図的に振るったものでしてよ」

 

 九十九のマフラーがぶわりと打ち震え、毛皮の如く逆立った。

 それはイナリとお千代も同じようで、それぞれがまったく同じ反応を検知していた。

 

 即ち──新たな妖怪が街に現れ、何らかの害を為している。

 

「とうとう本格的な行動を開始しましたのね……。しかも、こんなに分かりやすく。こちらに喧嘩を売っている……そう解釈してもよろしくて?」

「朝に聞いた“にゅうす”の件……恐らく、昨日起きたっていう人食い事件は十中八九妖怪の仕業で確定でさ。人の命を啜り喰らう事でも、妖気を得る事はできやすからね」

「うむ……これは由々しき事態じゃな。イナリ、お千代。お前らはまず──九十九!?」

「ごめん、爺ちゃん! 僕行くよ!」

 

 火薬が弾けたような勢いに乗って、九十九が駆け出す。

 そのまま家の外まで飛び出しかねない速度の彼に、慌ててイナリとお千代の2体がついていく。

 四十万も同様に、彼の背中を追おうと咄嗟に立ち上がった。

 

「待て、九十九! よもや、妖怪の元へ向かうつもりか!? 危険じゃぞ!」

「危険なのは分かってる! でも、僕は──()()()()()!」

「……!」

 

 決して、売り言葉に買い言葉ではない。

 いたって自然に、心から発せられたその言葉に、四十万は九十九を追う動きを止めた。

 目を閉じ、数秒思考したのちに、やがて目を開く。

 

「……イナリ、九十九についていきなさい。“さぽおと”は任せたぞ」

「ご当主様!? ……いえ、分かりやした。ご下命、確かに果たしやす!」

「お千代、九十九にあれを!」

「然るべく! 坊ちゃま、これを!」

 

 主の指示に従い、イナリが九十九の肩に飛び乗る。

 その傍らを飛んでいたお千代は、ぷくりと膨らませた嘴から、自分の体よりも大きなものを勢いよく射出した。

 

 それは、1丁の火縄銃。

 八咫村家の祖たる大妖怪テッポウ・ヤタガラスの亡骸であり、博物館で九十九の力を覚醒(めざ)めさせ、勝利に貢献した射撃武器。

 

「ありがとう!」

 

 それを受け取り、九十九は家の外に出る。

 肩にイナリを乗せたまま地面を蹴り、夜空に向かって大きく跳躍した。

 

 できるかどうかは分からなかったが、直感ができると言っている。

 その勘に従って自分の中の妖気を巡らせてみれば、九十九の体は真っ暗な夜空を滑空するような形で飛行し始めた。

 見えない翼を操っているような感覚で、徐々に加速をかけていく。すぐに、その手応えを掴んで慣れる事に成功した。

 

「……凄い。僕、空を飛んでる!」

「そりゃ、元になった妖怪がカラスでありやすからね。妖気の根源がどこにあるかは分かりやすか?」

「うん。……行こう!」

 

 火縄銃を手に、空を翔ける。

 その首元に巻かれた漆黒のマフラーは、風に靡いて一筋のラインを描いていった。



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其の拾漆 助けてほしいと願うなら

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


「はぁっ……はぁっ……はぁ……っ、く、うっ……!」

 

 走る。走る。ただ走る。

 自分以外に誰もいやしない暗がりの商店街を、姫華はただ1人走り続ける。

 

 逃げる拍子に放り捨てた鞄など、もう回収しようにもどこに置き去ってしまったかすら分からない。

 唯一、灰管の手から奪還できた手鏡だけは、元通り服の内ポケットに隠している

 これが無ければ、自分の心は既に折れていただろうという不思議な確信があった。

 

「なんっ、で……こんな、こんな事に……っ」

 

 その呟きに明確な答えを返してくれるものなど、誰もいない。

 それを分かっていながらも、呟かざるを得なかった。弱音でもなんでも、口にしなければ心が壊れてしまいそうで。

 何故ならば。

 

「ケッケケケケケ……! どこだァ……? どこにいるのかなァ……?」

「……ひっ……!? もう、来てるっ……」

 

 遥か後方に仄かな熱を感じて、姫華の背筋にゾクゾクと怖気が走った。

 走りながら振り向けば、遠く暗がりの奥から赤い灯が2つ、ゆらゆらと奇妙に揺れ動きながら近付いてきている。

 それが人魂などというチャチなものではない事を、少女はよく理解していた。

 

「よ、妖怪……なんて、いる筈が無い……無い、のにっ……!」

 

 荒い呼吸に混ぜて、そんな言葉を口にする。

 妖怪はいない。オバケは子供の内に卒業するもの。心霊現象なんてあり得ない。妖怪はいない。妖怪なんて誰も信じない。

 姫華たちが信じていた現実性は、この30分で粉微塵に破壊された。

 

「いいのかァ……? いいのかァ……? そんなにトロトロ走ってちゃァ、楽しい『おにごっこ』はあっという間に終わっちまうんだよなァ。そしたら、お前の肉がおれの夕飯なんだよなァ……!」

「~~~っ……!」

 

 恐怖を駆り立てる囁きに、限界を超えつつある足の筋肉を更に酷使した。

 

 あのチョウチン・ネコマタを名乗るネコの化け物が「おにごっこ」を提案してきてから、かれこれ30分ほど。

 一目散に逃げ出した灰管と取り巻きその2がどこで何をしているのかを知る術は無い。

 

 そもそも、自分が今走っている場所さえ不確かな状況だった。

 姫華の知る限り、このシャッター街はこんなに長く、どこまでも続くような場所では無かった筈だ。

 にも拘らず、途中で横道に飛び込んだりはしたものの、どこまで走っても商店街の出口は見えやしない。

 

 スマホに至っては、いつ圏外になったのかさえ分からない。

 よしんば警察に通報できたとして、こんな非現実的な状況を信じてくれる保証は無かった。

 いや、警察官の拳銃程度でトラックほどもあるネコの化け物を倒せるなんてとてもじゃないが思えない。

 

「お、婆ちゃん……お婆ちゃんっ……。パパ、ママ……皆っ……」

 

 涙が流れる。ボロボロと溢れた涙は、風に乗って後方へ消えていく。

 足がズキズキと痛み、息は切れ、肺と心臓が破裂するのではないかと思う。

 それでも姫華は、自分の命を奪い得る死神から必死に逃げ続けていた。

 

 けれど、そんな逃走劇にも終わりが訪れる。

 

「……!? どけっ!」

「きゃあっ!?」

 

 曲がり角に差し掛かった矢先、その向こう側から飛び込んできた灰管と鉢合わせする。

 灰管は目の前に現れた姫華を突き飛ばそうとして、しかし勢い余って互いに激突し、その場にもつれ込むようにして転がってしまった。

 

「痛っ……あ、足が……」

 

 不意に感じる足首の痛み。

 どうやら、ぶつかって転んだ衝撃で姫華は足を捻挫してしまったらしい。

 鈍い痛みが神経を蹂躙し、少女から走る力の一切を奪い去っていく。

 

 足を押さえて苦しむ幼馴染を見てなお、灰管は悪態だけを残して立ち上がった。

 

「チッ……姫華のせいで余計な時間を食っちまった。早く逃げないと……」

「あっ、待って道人さん! 置いてかないでー!」

 

 そこにようやく取り巻きその2が追い付いてきて、しかし視線の先に見つけた赤い灯を前にして「ひぃいっ!?」と情けない声を上げる。

 彼らがその場で制止してしまった間、赤く光る死神は刻一刻と獲物に近付いていた。

 

「あ、あの灯だ……! 佐藤を喰った化け物のっ……! みっ、道人さん、助けっ」

「うるせぇぞ田中(タナカ)! 俺が逃げられねぇだろ、さっさとどけっ!」

 

 自分に縋り付いてきた、頼ろうとしてきた取り巻きを、何の躊躇いもなく赤い灯の方へと突き飛ばした。

 強引に突き飛ばされた取り巻きその2は、自分が何をされたかも分からないままに地面をゴロゴロと転がり、やがて……

 

「ターッチ。肉の方から喰われに来るとは、最近の人間は進んでるんだよなァ」

「ひ、ぃいっ……!? たっ、助けっ、道人さっ、なん、で──」

 

 最後まで言い切る事なく、取り巻きその2は頭から喰い千切られた。

 断末魔を残す事すら許さずに少年の頭部を噛み砕き、暗闇の中からチョウチン・ネコマタがその巨体を露わにする。

 

 咀嚼の過程で口の中に溜まった鮮血をボトボトと吐き出しながら、それでもなお哀れな獲物の捕食を続ける。

 グロテスクな食事を目の当たりにして、取り巻きを押し退けてでも逃げようとしていた灰管すら、あまりの恐怖に足が竦んでいた。

 

「あァ……やっぱり人間の肉はうんめぇよなァ。それも、絶望をこれでもかと腹ン中に詰め込んだ弱者の味は格別だよなァ。恐怖の感情ってのは、じっくりコトコト熟成させてこそなんだよなァ、やっぱ」

「にっ、逃げなきゃっ、な、なんでっ、俺の、あ、あああ、足がっ、動けっ」

「あァあ、もう動けなくなっちまったか。1時間も走ってないのに、もう音を上げるのかァ? もうちょっと頑張ったらさァ、出口だって見えてくるかもしれないんだよなァ」

 

 取り巻きその2だったモノをほとんど食い尽くして、チョウチン・ネコマタの体がのそりと動き出す。

 2つの尻尾は妖しく動き、先端の提灯がおどろおどろしさを煽るように赤く光っていた。

 

幽世(かくりよ)って知ってるかァ? 外の世界から切り離された空間の事でさァ、そこでは内部の広さどころか、時間の流れすら外とは違うんだよなァ。つまりお前らがおれから逃げられないのは、ここがおれの幽世(かくりよ)で、幽世(かくりよ)を生み出すのがおれの妖術だからなんだよなァ」

「よっ、妖術って……わ、訳の分からねぇ事をっ、言うんじゃねぇっ!」

「そうだよなァ、お前ら人間は何も知らねぇんだよなァ。この迷路は太陽の光に弱くてさァ、朝まで逃げ切れば脱出できるんだよなァ。でもなァ、この迷路の中では外の3倍の早さで時間が流れるんだよなァ。つまり、1時間逃げても外じゃ20分しか経ってないんだよなァ」

 

 恐ろしい怪物の突きつけた真実に、少年少女2人の顔が強張った。

 そんな筈は無い。そう断言したいのに、理性がそれを阻んでいる。目の前の化け物が語る言葉を、ただのハッタリと言い切れない。

 

「それがおれの妖術、《行燈とおりゃんせ》なんだよなァ。ものの30分で走れなくなるようなお前らは、もうおれから逃げられないんだよなァ」

「でっ、デタラメ──」

「デタラメかどうかは、おれに喰われながら考えるといいんだよなァ」

 

 ネコマタの前脚がアスファルトを踏み据え、ズシンと重い振動を起こす。

 それはまるで、獲物を前にして少しずつ追い詰めるかのような歩み。

 

「もう『おにごっこ』はおしまいみたいだし、その使い物にならなくなった足からバリバリ貪ってやるんだよなァ。そうすりゃ即死できないから、長く苦しみながら生きてられるんだよなァ。ケッ──ケケケケケケヒャヒャヒャヒャヒャッ!!」

 

 牙を剥き、弱者を嘲るような高笑いが妖気の迷路に木霊する。

 それが、哀れな少年少女たちに突きつけられた「チェックメイト」を意味している事など、最早論ずるまでもなかった。

 

「さァ……まずはどっちから喰わせてくれるんだよなァ? ガッシリ喰い応え抜群の男からかァ? それとも柔らかくて甘い女からかァ?」

 

 妖怪チョウチン・ネコマタが、すぐそこまで迫っている。

 自分が助かる道は無い。姫華にそれを確信させるには、十分過ぎる材料が揃っていた。

 故に彼女は、その直後に起きた事に抵抗できず、また抵抗する事も無かった。

 

「ひっ、姫華ぁっ! お前が、おっ、囮になれっ! 俺が逃げる時間を稼げっ!」

「え──あっ?」

 

 姫華の両肩を掴んで押し倒し、灰管は彼女の体を思いっきりネコマタのいる方へ押し出した。

 突然の事に驚きながらも抵抗する事無く、華奢な体はそのまま転がるようにして怪物の足元へと投げ出される。

 

「おやおやァ? おれの前に獲物を差し出すとは、まるで供物を捧げるみたいだよなァ」

「……ぁ、あ」

 

 ペタンとその場に座り込み、しかし立ち上がる事もできず、ただ妖怪の殺意を真っ正面から受ける少女。

 その胸に宿る感情は、ただ1つ。

 

(……そっか。死ぬんだ、私。ここで)

 

 どうしようもない、諦観。

 そうして瞳から光を失った幼馴染を他所に、彼女を生贄に捧げた男は脇目も振らずに逃げ出そうとして……

 

「い、今だっ! あいつが喰われてる間に──」

「逃がす訳が無いんだよなァ?」

 

 空間が捻れ、歪み、法則が狂う。

 姫華をネコマタの前に投げ出してまで逃げようとした灰管は、迷路の壁を構成する廃店を寄り集めて作られた巨大な壁の前に足を止めた。

 どうにか手にした筈の淡い希望は、ものの数秒で泡に還る。

 

「え、ぁ……あ?」

「言ったんだよなァ。この幽世(かくりよ)《行燈とおりゃんせ》は、おれが妖術で生み出したもの。なら、その構造はいくらでもおれの好きなように作り変える事ができるんだよなァ」

「そ、んな……」

「だからその気になれば、お前らを閉所に閉じ込めて逃げ場を無くしてから喰う事もできたんだよなァ。お前らは、最初から詰んでたんだよなァ!」

 

 それは紛れもない嘲笑だった。

 鼻先に垂らしたニンジンを取り上げるかの如く下品な呵々大笑。

 そうしてその場に膝をつき、灰管は絶望する以外の行動を取る事ができなくなった。

 

「あ、ぁあ……あぁぁあっ……!?」

「でもなァ、その馬鹿馬鹿しい健気さに免じてやるんだよなァ。お前を喰うのは最後にして、まずは……この細くて柔らかそうな女から先に喰ってやるんだよなァ」

 

 ネコマタの顔面が、腰を抜かして座り込んだままの姫華へと向けられる。

 ネコの化け物が大きく口を開けば、不気味に生えた無数の牙が露わになった。

 灰管たちの取り巻きを捕食した事で貼り付いた血脂と、喉の奥から湧き出る生臭い呼気が、少女の顔をぶわりと汚していく。

 

「恐怖しろ、絶望しろ。自分ではどうにもならない現実があると理解して、打開を諦めろ。心のどこかで死を受け入れながらも、死ぬ事への嫌悪で心を湧き立てろ」

「……」

「お前らが負の感情を煮え滾らせれば滾らせるほど、それはおれたち妖怪の力となる。夜の闇を畏れる感情が強まるほど、昼の光は穢れていく。お前らの死と怨嗟と慟哭で、人間文明の牙城を崩せ」

「……」

 

 姫華は、何の感情も出さなかった。

 光の消えた瞳で、ただチョウチン・ネコマタをじっと見つめるのみ。

 鈍い痛みが刺し続ける足首さえ、彼女の感情を揺るがす事は無かった。

 

「……だんまり、もう壊れたんだよなァ。これはつまらない、とてもつまらない。足の1本でも折れば、もう少し無様に鳴くんだよなァ?」

「……」

「もう、助けを呼ぶ気すら起きないんだよなァ? 叫びが届く筈が無いのに、慟哭が伝わる筈が無いのに、それでも『誰か助けて』とありもしない希望に縋る陳腐な絶叫。それすらも無いとは、とってもとってもつまらないんだよなァ」

「……ぁ」

 

 瞳が、微かに揺らいだ。

 

 恐るべき妖怪の突きつけた「誰かに助けを求める」という選択肢。

 それが、既に絶望で塗り固められていた彼女の心を、ほんの僅かに揺るがした。

 

 それはネコマタの言う通り、叫んだとて叶わない選択肢。

 ただ自分の喉が枯れるだけで、何ももたらさない。よしんだ誰かが助けに来たとして、尋常の人間ではこの化け物を倒す事などできやしない。

 

 だから、無駄。無意味。無謀。希望なんてひとつも無い。

 妙な可能性に賭けるよりも、さっさと諦めて死んだ方がいい。

 

 でも。

 

『もし、今回みたいな事があったら……ちゃんと「助けてほしい」って言ってほしい、かな』

 

 あの時の、彼の言葉が不意に蘇った。

 

(……来て、くれるのかな)

 

 どうして、そう思えたのかは分からない。

 普通に考えれば、彼がここに来たとして何になるのだろうか? そもそも、彼が姫華の危機を知覚できる訳が無い。

 そもそも、自分を助けてくれるだろう人間を挙げる中で、わざわざ彼をピックアップする事自体が意味不明だ。

 

 けれど今日の夕方、灰管たちに詰め寄られた自分を助けてくれた、あの時みたいに。

 あの時は恐怖と痛みで声なんて上げる余裕も無かったけれど、もしも彼の言う通りに。

 

『もし「助けて」って声が聞こえたら……できる範囲で、どうにかするから』

 

 もしも、自分がハッキリと助けを乞うたなら。

 

「とりあえず、どう喰おうかなァ。足からバリバリ喰うか、腕を中途半端に噛み千切るか。あァ、耳や鼻を的確にむしり取るのも……」

「……て」

「あァん? 何か言ったんだよなァ?」

 

 だから、これは。

 白衣 姫華という少女が、断末の際に放つ最後の抵抗のようで。

 

「助けて……八咫村くんっ……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──助けるよ、絶対」

 

 

──BANG!

 

 

「ッ!?」

 

 その瞬間、チョウチン・ネコマタが自身に降りかからんとしていた攻撃を正確に認識できたのは、ほとんど偶然と言っていいだろう。

 目の前の少女を噛み砕く選択肢を即座に投げ捨て、後ろに向かって全力で飛び退いた。

 

 直後、ネコマタがいた場所の真上から飛来した弾丸が、アスファルトの地面を穿ち砕く。

 炎の力を帯びた弾丸は、着弾地点を砕くだけではなく真っ黒に焼き焦がした。

 

「なっ──今の、まともに喰らえばおれが死ぬ威力だったんだよなァ……!? それに、今の攻撃が来たのは……」

 

 自分の命を奪い得る一撃に戦慄を覚え、縦長の瞳孔は上方を見上げた。

 この空間は妖術によって構築され、外界から隔絶された幽世(かくりよ)。上を見上げれば空が広がっている事もあるが、それでも「概念的な天井」とでも言うべき到達点は存在する。

 

 その概念的な天井が破られた結果、空間を引き裂いて作った穴のようなものがポッカリと浮いているではないか。

 これはつまり、外部からこの幽世(かくりよ)を知覚し、的確かつ強引に突入したという事であり──

 

「よし……上手く行った! 突破できたよ、イナリ」

「あのね? 坊ちゃん。確かにわては幽世(かくりよ)について教えやしたし、侵入するには妖気を的確にぶつけて穴を開けるといいとも言いやしたよ? でもね、それは最大火力の鉄砲で無理やり吹き飛ばせって意味じゃないんでやすよ? 聞いてやすか? ねぇ?」

 

 空間の穴から飛び降りて、姫華の目の前に着地した影ひとつ。

 時代錯誤な火縄銃を手にし、肩にはぬいぐるみのようにちっちゃなキツネが1匹。

 そしてその首には、漆黒のマフラーが妖しく靡いていた。

 

「ぁ……あなた、は」

 

 姫華の瞳に、薄っすらと光が灯る。

 勘違いかもしれない。見間違いかもしれない。だって、目の前に立っている彼の顔が、どうしても認識できないから。

 でも、この直感が正しいならば。

 

「八咫村、くん……?」

「……もう、大丈夫だよ」

 

 果たして、彼は答えなかった。

 けれど、姫華には強い確信があった。

 だってあの時、夕暮れを背後に立つ彼のシルエットと、あまりにも同じだったから。

 

「必ず、助ける。その為にも、まずは──あいつをぶっ倒す!」

 

 火縄銃を手にした黒マフラーの彼こそ、八咫村 九十九なのだと。



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其の拾捌 提灯迷路の怪

「……やっぱり、あなたは……」

「ひっ……ひぃいいっ!? ま、また化け物が来た……! ()()みてぇな……かっ、怪人っ……!?」

 

 突然現れた黒衣の少年を前に、再びパニック状態に陥った灰管ががなり声で叫び散らす。

 対する姫華は、そんな幼馴染の声に意識を割かないまま、淡い光の灯った瞳孔を揺らして打ち震えていた。

 

「倒す、だァ……? そいつは中々、面白くない冗談だよなァ」

 

 咄嗟の回避で崩れた体勢を整え直し、チョウチン・ネコマタが強く地面を掴む。

 先ほどまでの、獲物を甚振る余裕の動きではない。それは間違いなく、自分と対等な敵を前にした時の戦闘態勢。

 大きく弧を描いて反り曲げられた1対の尻尾は、先端の提灯を銃口のように九十九へと向けた。

 

「どこの誰かは分からないけどなァ……おれの幽世(かくりよ)に来た以上、お前もおれの獲物なんだよなァ。今の内に、命乞いの言葉を考えておいた方がいいんだよなァ」

「……命乞い、か」

 

 そう呟いた少年の目に映るのは、ただの巨大な怪物の姿だけではない。

 その口を赤黒く汚す、夥しい量の人間の血。それがどうして付着したかなど、問うまでもなかった。

 小さく息を吐き、九十九は普段とは異なる強い眼差しをネコマタに向けた。

 

「僕は、お前が命乞いをしても……許さないけどね」

「──抜かせェッ!」

 

 巨体が跳ね跳ぶ。

 踏み締めた勢いで肉球が地面を割り、ネコマタは目の前の敵へと体当たりを仕掛けた。

 

「来やすぜ、坊ちゃん!」

「うん。白衣さんは下がってて」

「名前──ううん、分かった!」

 

 1歩も動けなかった筈の足に、僅かながらも力が戻る。

 助けに来てくれたという希望が勇気に変わり、姫華はなけなしの力を込めて転がるように脇へ逸れた。

 

 彼女が動いたのを背中で感じて、九十九は右腕を大きく前に突き出す。

 腕の軌道に沿うように湧き出た炎が、空中でカーブを描きながらも異形のネコに向かって放たれる。

 

「うおっ!? ……っと! まさか、これ……妖術なんだよなァ!? 妖術が使えるって事はお前、妖怪なんだよなァ!」

「さぁ……ね。生憎、普通とは違う生まれみたいだから」

 

 九十九から見て、右から左へ軌道を曲げながら放たれた炎。

 妖気の溶けた灼熱はネコマタの肉体を焼くには十分な威力を持っており、それが分かっているからこそ、巨体は炎の軌道とは反対側に大きく避ける動きを取った。

 

 果たしてそれは、姫華が飛び退いた方向とは正反対の位置。

 守るべき対象と倒すべき敵の距離が適切に離れた事を認めて、黒衣の銃士は肩に乗るイナリへと声をかける。

 

「イナリ、白衣さんと……灰管の2人を守って」

「へぇ。それは問題無くできやすが……あの野郎もでやすか?」

「お、俺を喰うのかっ!? やめろっ、来るな化け物っ! 俺より姫華を喰えよ!」

 

 ちっちゃなキツネの眼差しが、灰管を見やる。

 それを睨まれたと認識したのか、彼は引き攣った声でがなり立ててきた。

 

「うん、あいつも助ける。……駄目?」

「今日1日見た限り、あ奴は決して善性とは言えやせん。それに、此度の一件で心にもヒビが入っている様子。助けたところで、これからも周りに石を投げ続けるでしょうや」

「そうだね。でも助けるよ」

「……苦労するお人だ。だから仕え甲斐があるってもんでさ!」

 

 啖呵を切ったイナリのちっちゃな体が、九十九の肩から飛び降りて後方に向かう。

 一般人の2人が戦闘に巻き込まれる可能性を一通り排除して、少年は今一度、手元の銃を強く握り直す。

 顔を上げれば、1対の尻尾に提灯の癒着したネコの妖怪がこちらを睨み付けていた。

 

「……ねぇ。お前も、あいつらと同じ『現代堂』の妖怪?」

「あァ? そうだよなァ。おれこそ『げえむ』の参加者にして、記念すべき最初の『ぷれいやあ』。妖怪チョウチン・ネコマタなんだよなァ」

「『げえむ』……。あの男……山ン本も、キリサキジャックも同じ事を言ってた。ゲーム感覚で、人間を殺すの?」

「それこそ我らが長の思し召しであり、おれたち妖怪の望みなんだよなァ」

 

 ギラリと、穢れた光を放つ牙。

 その牙でどれほどの人間を喰い殺してきたのか。それは、妖怪を知らない者たちにとっては想像の外にあるだろう。

 

「1度に挑戦できるのは1体。参加時に自分で定めた『るうる』から逸れた行動は推奨されない。それさえ守れば、おれたちはどんな方法で人間たちを殺してもいい。むしろ、こんな縛り程度で好きなだけ人間を殺してもいいなんて、願ったり叶ったりなんだよなァ」

「……お前たちをそんな残酷な行動に駆り立てるのは、どんな感情? 恨み? 憎しみ? それとも嫌悪?」

「いいやァ? そんなチャチな感情で腹は膨れないんだよなァ。おれたち妖怪が人間を殺す理由は、いたって単純」

 

 尻尾が逆立つ。

 先端に取り付けられた提灯から、妖しく不快な光が強く迸る。

 

 それに伴って、九十九も同様に火縄銃を構えた。

 銃口に見立てた提灯などではない、本物の銃口が妖怪の瞳孔を捉えて離さない。

 

()()()()()()()()()()()。人間を痛めつければ痛めつけるほど、それがおれたち妖怪の快楽を満たすんだよなァッ!」

 

 直後、提灯の光が煌めいた。

 放たれたのは尋常の提灯に込められているような蝋燭の炎などではなく、純粋な光のエネルギー。

 矢のような形状を取った無数の光が、半妖の少年を蜂の巣にせんと襲いかかる。

 

 対する九十九は、足の裏に込めた炎を一気に点火する。

 小さく爆発する靴裏が、彼の脚力を瞬間的に補助して加速を手助けした。

 

 受け身を取る形で地面の上を軽く転がり、しかし火縄銃の照準は決して崩さない。

 ネコマタの揺れる尻尾が今なお光の矢を射出し続けている中、一瞬で体勢を立て直すと共に指が引き金にかけられた。

 

「まだ勝手が分からないけど、応用するなら多分──こう!」

 

──BANG! BANG!

 

 本来の火縄銃ではとてもじゃないがあり得ない、弾丸の連射。

 しかし妖術の使い手が銃を用い、弾丸に妖気を採用するのであれば、それも可能となる。

 絶妙にズラされた角度とタイミングにより、放たれた2発の弾丸はそれぞれが異なる軌跡を描いて飛翔する。

 

「連発、って……単なる炎使いじゃないんだよなァ!?」

 

 1発目は、ギリギリのところで回避する事に成功する。

 チョウチン・ネコマタの片耳を焦がし掠って明後日の方角に飛んでいった炎の弾丸は、この幽世(かくりよ)を構成する壁の一部を派手な轟音と共に破壊した。

 

 だが、2発目。精密にタイミングのズレた第2の弾丸は、異形の獣を確実に狙い撃たんと飛来する。

 1発目の回避に脚力のリソースを割いたネコマタは、時間差で襲い来る2発目を回避する事ができず……

 

「妖術《行燈とおりゃんせ》──“2番”!」

 

 横合いから凄まじいスピードで飛来する、廃商店の看板。

 煤けたネオン付きの看板は、術者の脳天を破壊せんとしていた炎の弾丸を防ぐ盾となり──着弾と共に爆発して果てた。

 

「あァ……冷や冷やしたんだよなァ」

「……今の、この空間にあったもの? それを、咄嗟の盾にした……」

幽世(かくりよ)の主であれば、中にあるものを自在に操れるんでさ! 気を付けてくださいやし、坊ちゃん。今のような盾程度であれば、奴はいくらでも無から生み出せやす!」

 

 背後からイナリの助言が聞こえる。

 体の向きはそのままに目線だけをそちらに向けると、彼は迷路の行き止まりで姫華と灰管を庇うように立っていた。

 

 どうやら九十九の命令通り、上手く2人を回収できたらしい。

 それを理解してホッと一安心するも、目の前のネコ妖怪は依然として脅威のままである。

 

「分かってはいたけど、この空間はあいつの腹の中……か」

「理解したか? 理解したんだよなァ? じゃァ、今度もこっちから行くんだよなァ!」

 

 ネコマタが2つの尻尾を震わせ、提灯から再び光の矢を放出した。

 今度は一点に向けて集中して放つのではなく、それぞれの照準をバラけさせての面制圧。

 

 シャワーのように降り注ぐ妖気の矢を回避するべく、九十九は細かいステップを何度も刻みながら矢と矢の隙間を潜り抜けていく。

 彼の足元では、地面に着弾した矢がアスファルトに夥しい数の小さな穴を空けていた。

 

(1発1発の威力は小さい……でも、数が当たればダメージは徐々に大きくなっていく)

 

 文字通り矢継ぎ早に発射される矢の雨は、途切れる素振りすら見せる事は無い。

 一瞬のミスが致命傷に繋がる死のダンスを続けている内、背中にぞくりと寒気が走る。

 

 カタナ・キリサキジャックとの戦いと何も変わらない。負ければ、待ち受けるのは死一択。

 その事実を再確認した九十九の心を、仄かな恐怖が締め付けた。

 

(なら、強引にでも突破するっ……!)

 

 そうして、矢と矢の狭間を狙って火縄銃を構えた直後。

 

「そこなんだよなァ! 《行燈とおりゃんせ》“3番”!」

「な、に──くぅっ!?」

 

 足元の床が、突如としてせり上がる。

 いや、それは正確な表現では無い。踏み締めた足元から、廃店を象ったモニュメントが生み出されたのだ。

 それは九十九の体勢を大きく崩すだけでなく、さながらアッパーカットのように彼の体を空中にかち上げた。

 

 それはつまり、攻撃を避ける為の逃げ場が無いという事。

 

「不味い、回避を──」

「もらったんだよなァッ!!」

 

 提灯が、今までで一番強く発光する。

 放たれた矢もまたこれまでの中で最も太く巨大で、それは最早矢ではなくパンツァーファウストとでも呼ぶべきものだった。

 

 妖気の光をこれでもかと凝縮した一撃は、空中に投げ出された九十九を狙って一直線に突き進み──

 

「──八咫村くんっ!?」

 

 空中で巻き起こった爆発の轟音と、姫華のつんざくような悲鳴が、ほぼ同時に響き渡った。



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其の拾玖 その名こそは

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


 轟々と吹き荒れる爆炎と煙塵を前に、姫華は両手を地面につける形で崩れ落ちた。

 

「そ、んな……八咫村くんが……」

「うっ、うるさいぞ姫華ぁ! や、八咫村って……さっきから、なっ、何言ってんだよ! 陰キャのちびカラスがどうしたってんだよ!?」

 

 瞳孔を震わせて悲嘆する幼馴染を見て、灰管は当惑の声を荒々しく上げる。

 

 いきなり目の前に現れた、あの妙に背の低い不審なヒトガタ。

 どうして現れたのかも、何をしに来たのかも分からないし、それを理解できるだけの正気も足りていなかった。

 そんな正体不明の怪人を応援する彼女の気が知れないが、それ以上にあの根暗野郎の名前を連呼している意味が分からない。

 

 だから、そんな姫華が枯れ切った声で呟いた一言も、灰管にとっては意味が分からないものだった。

 

「……あの、黒いマフラーの男の人。私の考え過ぎかもしれないけど……でも、多分……八咫村くんなんだ」

「は、はぁっ!? 今死んだ怪人の正体が、ちびカラス!? 頭おかしくなっちまったんじゃねぇのか! あんなカス野郎が、あの化け物なんて……」

「否定は……できない。さっきだって、何度見てもあの人の顔がハッキリ分からなかったし……それに、目の前で起きてる事ぜんぶ、私の知らない……訳の分からない事ばかりだから。でも……それ、でも」

 

 地面につけた手を、強く握り締める。

 アスファルトをザリザリと擦る指先が痛むが、ジクジクと痛みが刺し続ける足首の捻挫ほどじゃない。

 そんな事よりも、目から止めどなく溢れる涙の方がよっぽど重要だ。

 

「私が『助けて』って言って……あの人は『必ず助ける』って言った……。だから……だからっ……!」

「だが、その当人は今ここで爆散したんだよなァ」

 

 ゲラゲラと嘲る声がする。

 それは勿論、たった今九十九を爆炎の中に吹き飛ばしたチョウチン・ネコマタの擦れ切った重低音だ。

 

「おれの放った妖気の矢を! 真っ正面から受けて! 今も爆炎の中! あの弱っちぃ変な妖怪の肉体は粉々に消し飛んで、血煙になったんだよなァ! これはつまり、おれの勝ちって事なんだよなァ!」

「……っ。それ、は……」

「こうなった以上、お前らに抵抗の手段は何も無いんだよなァ。後はゆっくり、無様な抵抗をしようとした代償をおれが取り立てて……」

「……さて」

 

 イナリの尻尾が揺れる。ゆらゆらと、ふかふかと。

 彼のつぶらな瞳は、九十九の姿が消えた煙塵をじっと見定めていた。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を。

 

「そう簡単に事が運びやすかね?」

「──運ばなかったから、僕がここにいるんだよ」

 

 チョウチン・ネコマタの背後。

 何も無かった筈の空間が不気味に揺らぎ、透明なカーテンを開いたかのような動きを見せる。

 そんな揺らぎの向こう側から顔を出す──火縄銃の銃口。

 

「な──」

「そこっ!」

 

──BANG! BANG! BANG!

 

 字義通りに空間を引き裂いて、炎を圧縮して作られた3発の弾丸が虚空を往く。

 予期せぬ背面攻撃(バックスタブ)に異形の巨体では対応し切れず、それでも無理やりに回避を試みる。

 

 1発目。右前脚を起点に全身を捻り、ギリギリを掠めて地面に着弾させる。

 2発目。旋回した勢いを利用して宙に浮き、腹の下を通して壁にぶつける。

 そして、3発目。

 

「ぎゃァアッ!?」

 

 今度こそ命中した炎の一撃は、ネコマタが持つ1対の尻尾の片方、その先端からぶら下がる提灯を粉々に破壊した。

 クラッカーの如く弾け飛んだ提灯は、その焼けた残滓を周囲に撒き散らしながら異形のネコに痛痒を与える。

 

「ぐっ、ぐ、くっ……! おのれぇ……よくも、おれの提灯をっ……! いや、それよりも……何故生きているんだよなァ!?」

「計算通り……なんて言えるほどの策じゃないけどね。半ば賭けみたいなものだったから」

 

 歪んだ空間のカーテンから飛び出しがてらにそう返したのは、先ほどの一撃で爆散した筈の九十九に相違ない。

 その衣服はボロボロになっていて、肌にも焦げた痕が見えるものの、致命的なダメージは負っていないようだ。

 軽やかに着地した彼の首元には、無傷のマフラーが熱風で余裕綽々に靡いている。

 

「矢が当たる直前、矢に向かって至近距離から銃を撃ったんだ。被弾覚悟で撃ったから爆風に巻き込まれたし、ダメージの全部をやり過ごす事はできなかったけど……でも、この程度ならまだ戦える」

「っ……だが、それではおれの背後に回れた理由に説明がつかないんだよなァ! まさかお前みたいな()()の妖怪が、炎を生み出す他に透明化の妖術まで行使できる訳じゃないんだよなァ!」

「しししっ、それは何故で御座いやしょうねぇ」

 

 先ほど嘲笑を浴びせかけられた意趣返しとして、イナリが嘲るような声を放つ。

 その尻尾はゆらゆら揺れていて……同時に、ぶわりと激しく逆立っている。

 彼の視線の先では、あれほど立ち込めていた煙が、最初から存在しなかったかのように消滅していた。

 

「狐七化け。如何なる奇術か妖術か、認識を“ごまかされた”んじゃありやせんか?」

 

 無論、それらのトリックがイナリの振るう“ごまかし”の術である事は明白だ。

 九十九が光の矢を炎の弾丸で相殺した直後、荒れ狂った爆炎と煙に“ごまかし”の術による幻影を重ね、彼が爆発で吹き飛んだと錯覚させたのだ。

 そして爆炎の幻影に紛れ、まんまとネコマタの背後をついたのである。

 

「んだよっ、これ……! ワケ分かんねぇ! 化け物どもが意味不明な事ばっか言いやがって……!」

「……凄い」

 

 頭を掻き毟りながら喚く灰管を他所に、姫華はポツリと呟きを落とした。

 

「これが、妖怪……」

 

 その小さな呟きに、目の前に佇むイナリはただ尻尾を揺らすのみ。

 

「本当に……いたんだ……!」

 

 前方に向き直ると、爆ぜて真っ黒に焼け果てた尻尾を唸らせながら、チョウチン・ネコマタが九十九を睨み付けていた。

 自分という妖怪の核となる提灯が破壊された。それはつまり、妖怪としての能力の減退を意味する。

 例え2つある内の1つだとしても、たった一撃で自分が不利になった事は明白だ。

 

 尻尾を焦がす熱と痛みに喘ぎながらも、異形のネコはやがてある事に気付く。

 

「そうか……そういう事なんだよなァ!? やっと気付いたんだよなァ、お前の正体に!」

「……!」

「小間使いのバケギツネに、炎を操る妖術……そして人間同然の外見! お前が、我らが長の言っていたニンゲン・ヤタガラスなんだよなァ!?」

 

 喉を鳴らす音が、重機のエンジン音の如く重く響き渡る。

 1つだけになってしまった尻尾の提灯を震わせて、その光をスポットライトに見立てて浴びせかけた。

 

「だったら……どうするの?」

「……“八咫派”の小倅。お前は何故、おれの『げえむ』を邪魔するんだァ? おれもお前も、同じ妖怪。どんなに人間の血が混じり、どんなに昼の側で生きようとも、お前は妖怪として夜の側に立つ宿命から逃れる事はできないんだよなァ」

 

 獣のガサついた怒声が、たった1人の少年に注がれる。

 それは、まるで九十九という罪人を糾弾する言葉のようだった。

 

「答えろ、妖怪ニンゲン・ヤタガラス! お前も妖怪でありながら、おれたちの『げえむ』を邪魔する理由がどこにある!? おれたち『現代堂』の全てを敵に回す覚悟が、お前みたいな()()にあるのかァ!?」

「あるよ。僕にとっては強い理由が」

 

 間髪入れない即答が、糾弾の言葉全てをバッサリと切り捨てる。

 九十九の目に宿る透き通った光が、チョウチン・ネコマタという恐ろしい妖怪を正面から捉えていた。

 

「僕が力に覚醒(めざ)めたあの時……あの場所に僕がいたのは偶然だった。本当なら僕の友達があそこにいて……妖怪に殺されていたかもしれない。結果としてそうはならなかったけど……でも、僕はあの場にいた人たちを助けられなかった」

「なにを言って──」

「知らない人たちの命まで、全部を背負えるほど僕は強くない……心も体も。でも、僕の大切な人たち……家族や友達は、今の僕が手を伸ばせる位置にある筈なんだ。そして、妖怪たちが暴れ始めた今……僕の大切な人たちの命は、いつでも失われてしまう領域にある」

 

 チリ……と目に炎が走る。

 それは幻覚でもなんでもなく、少年の奮い立つ心に呼応するかのように、彼の瞳から妖気の炎が灯ったのだ。

 

「だから……僕は戦う! 僕の手が届く人たちを守る為に……お前たちを、倒す。お前たちの言う、悪趣味な『げえむ』を……この手で、止める!」

「クソッ、猪口才なんだよなァ……! 若造のニンゲン・ヤタガラスがァ!」

「……それも、違う」

 

 更なる否定を重ねて、首を横に振る。

 

「悪いけど、僕の名前はニンゲン・ヤタガラスじゃない。さっき決めたんだ」

「ちょいと坊ちゃん? いきなり何を言い出すんでさ!?」

「爺ちゃんが言ってたでしょ。名前の前半は『その妖怪がどんな道具から生まれたのかを示すもの』だって……。なら、ボクの由来は“ニンゲン”じゃなくていい」

 

 ガシャリと、確かな音を立てながら火縄銃を構え直す。

 熟練の狙撃手のように堂に入った構えは、相対するネコマタにとっては死神が大鎌を携えているようにも見えただろう。

 例え様の無い悪寒が、異形の毛皮を刺激する。

 

「お前たち妖怪にとって、僕たち人間は容易く踏み躙る事のできる弱くて小さな命なんだろう? だから、僕の名前は──」

 

──“ちび(リトル)

 

「妖怪リトル・ヤタガラス。昼の側に立ち、大切な人たちを夜の側から守る者──()()()()()()()()()()。それが僕だ!」

 

 その場の誰もが、彼の言葉に目を見開いた。

 言葉の意味を理解できる者、できない者の垣根はあれど、紡がれた声色を通して感じ取れる気迫と意思が確かにあった。

 ただの大言壮語、どこかで見たような薄っぺらい台詞だと、そう切り捨てる事すら許さない妖気が言葉の節々に宿っている。

 

 相手の意表を突き、驚かせ、恐れを抱かせる。

 そんな外連味(ハッタリ)こそが妖怪の本領であるならば、今の彼はまさしく妖怪と言えるだろう。

 

 彼の名は、妖怪リトル・ヤタガラス。

 血統に連なる妖怪の力を手にした八咫村 九十九の、真の意味での妖怪変化(ヘンゲ)の瞬間である。



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其の弐拾 日輪

「妖怪リトル・ヤタガラス。それが僕だ!」

 

 八咫村 九十九──否、リトル・ヤタガラスによる高らかな啖呵が木霊する。

 

 その宣戦布告にも似た叫びを前にして、チョウチン・ネコマタは恐れた。

 ただの矮小な半妖に過ぎない少年の出で立ちから、大きく翼を広げた八咫烏の姿を幻視したからだ。

 彼の体から溢れる炎の妖気が、人を恐れさせる筈の妖怪に恐れを抱かせる。

 

「そっ、そんな外連味(ハッタリ)で……我ら『現代堂』を倒せる訳が無いんだよなァ!」

「……試してみる? 僕の弾丸が、まずはお前を貫けるかどうか」

「……~~~ッ!」

 

 目の前の敵が嘯いているのはただのハッタリ。妄言。虚勢。中身の無い浅はかな虚言に過ぎない筈だ。

 その筈だ。その筈、なのに。

 

 数多くの人間を捕食してきた異形の魔物は、その人間を前にして逃走を選択した。

 

「妖術《行燈とおりゃんせ》……“1番”っ!!」

 

 空間が捻れ狂う。

 廃店を寄り集めて作られた迷路の壁が、一瞬で広大な回廊へと変貌する。

 それと同時に、ネコマタの巨体が尋常ではない速度で吹っ飛び、強い重力に引き寄せられたかというほどの勢いで回廊の彼方へと吸い込まれていった。

 

「これは……」

「恐らく、幽世(かくりよ)の構造を改変したんでさ! 内部構造を拡張する際の空間変動を利用して、自分の座標を無理やり奥に引っ張っていったんでやす!」

「なら……追いかけるだけっ!」

 

 グッ、と足裏に力を込める。

 九十九の体を巡る妖気が足の裏に集中し、それを一気に爆発させる事で実現する超加速。

 

 空を飛ぶコツは分かっている。カラスの妖怪として持つ本能で、風の流れを掴む。

 彼そのものが弾丸になったと言われてもおかしくない速度で、回廊の向こう側に向かって飛翔する。

 真っ黒い瞳が、座標移動の最中にあるネコマタの姿を確かに捕捉した。

 

「見つけたっ……!」

「もう来たのかァ……!? 《行燈とおりゃんせ》“3番”!」

 

 横合いから押し出された廃店が、ハンマーを思わせる勢いで襲いかかる。

 九十九はマフラーを靡かせながら、風に乗ったままそれをヒラリと回避する。

 

「くっ、くぅぅぅうっ……! “2番”! “3番”! “2番”! “2番”! “3番”!」

「無駄だよ……こっちも慣れてきたから。妖怪としての力を使えば使うほど、そのコツと感覚が手に取るように分かってくる……!」

 

 視界の脇から看板が、植木鉢が、三角コーンが、それぞれに殺傷力を秘めて飛んでくる。

 その全てを掻い潜ってもなお、壁や床が隆起して行く手を阻む。

 例え妖気を操る力が──妖術の効力が減退していたとしても、幽世(かくりよ)である以上は相手の土俵に立つも同然の事だ。

 

 だから、九十九はそこで足を止める。

 前に突き出した足で地面を削るようにブレーキをかけ、それでいて体幹を崩す事なく火縄銃を前に向けた。

 ネコマタの姿は徐々に遠ざかっていくが、その程度で狙いが逸れる事は無い。

 

 足の裏に回していた体内の妖気を肩に流し、肩から腕、腕から手先、そして火縄銃に集中させる。

 エネルギーのチャージが進むと共に、銃身の奥には真っ赤な炎が形成され始めた。

 妖気を炎に変換したものを、更に銃身の内部で圧縮。もっと圧縮。加えて圧縮。しかし暴発はしないように制御したままで。

 

「これが、僕の妖術……」

 

 引き金を引く段階で、一瞬だけ思考を巡らせる。

 カタナ・キリサキジャックも、今戦っているチョウチン・ネコマタも、自らの能力──妖術に名を付けていた。

 

 普通に考えるのであれば、そんなものは必要無い。

 けれど、自分たちは妖怪なのだ。我ここに在りと喧伝する事で恐れと怖れを集めるのであれば、成る程。技の名は必要だろう。

 

 だから、自分も叫ぶ事にする。

 自分は悪しき妖怪たちを狩るお前たちの敵なのだと、そう誇示する為に。

 

「妖術──《日輪》ッ!!」

 

 そして、勝利が放たれた。

 

 爆発も同然の硝煙が銃口から吹き荒れ、爆炎を引き裂いて回廊を飛ぶ緋色の弾丸。

 リトル・ヤタガラスの名に相応しい小さな太陽が、幽世(かくりよ)を形作る妖気に灼熱を刻み付けながら獲物を追う。

 その速度は、それまでの弾丸とは比較にもなりやしない。

 

「ひっ──ひぃぃぃいぃっ!? 《行燈とおりゃんせ》“3番”! “3番”! “3番”、“3番”、“3番”ッ!」

 

 迷路内のあらゆるモノを引き寄せ生み出し割り込ませ、その全てを自分に迫る赤い死神から逃れる為の盾にする。

 

 それでもなお、弾丸は止まらない。

 廃店を穿ち、壁を溶かし、看板を砕いてシャッターを消し飛ばす。

 障害の一切合切を破壊しながら突き進む灼熱の一撃は、やがて。

 

「げ、びゅっ──!?!?」

 

 ネコマタの額、脳天ド真ん中を撃ち抜いた。

 着弾の衝撃で後頭部のほとんどが弾け飛び、解き放たれた炎が真っ赤な日輪のサインを描き出す。

 まさしく、妖術に付けられた名の通り。刻み込まれた炎の輪を中心として、巨体の隅々にまで妖気の炎が浸透していく。

 

「げ、げびゅ……ごぇっ……おれ、が……おれが、焼けていくぅ……」

 

 全身に灼熱のヒビが入る感覚をこれでもかと味わいながら、人々に絶望をもたらさんとした妖怪は苦悶と絶望の声を上げた。

 血塗れの牙から漏れ出すのは、死を恐れ命を惜しむ惰弱な言葉。

 

「いや、だァ……嫌だァ、死にたくっ、ないんだよ……なァッ……! おっ、おれ……『げえむおおばあ』になんて、なり、たく……ないん……だよ、なァァァァァ──ッ!?!?」

 

 

──BA-DOOM!!

 

 

 断末魔の叫びを伴って、チョウチン・ネコマタの肉体が爆発する。

 内側から喰い破らんと暴れ回るヤタガラスの熱が、悪しき妖怪を木端微塵に消し飛ばしたのだ。

 

 そしてそれは、この廃店だらけの迷路にも波及していった。

 轟々と吹き荒ぶ熱波と灰燼が、主を失った幽世(かくりよ)を徹底的に削り、焦がし、砕き、粉微塵に虚空へと還していく。

 

「うぉ、おっ!? 空間全体が、崩壊していくっ……!」

 

 バターか何かのように捲れ上がる空間の中で、九十九は足場を失いながらも空中への浮遊を試みて──

 

「……っと……戻った?」

「ええ、確かに戻りやしたよ」

 

 何とか見つけた足場に着地した時、そこは夜の帳に包まれたシャッター街だった。

 

 冷たい夜風に頬を撫でられながら声のした方に振り向くと、イナリが尻尾を揺らしながらこちらを見ている事に気付く。

 彼の後ろには、ペタンと地面に座り込んで呆然としたままの姫華と灰管の姿もあった。

 2人を助けるよう命じられた召使いとして、空間が崩壊する際に上手く回収したようだ。

 

「勝ったんだね、僕」

「へぇ。坊ちゃんは、確かにあの妖怪に勝利しやした。御美事でさ」

「……そっか。うん、そっか」

 

 肩の力を抜く。

 今更ながらに襲いかかってきた痛みと疲労感に、どこか心地良さを覚えた。

 心臓の鼓動がやけに大きく感じるのは、戦闘の高揚からか、または死の恐怖からか。

 

 もうダルくて腕も上がらない。

 そんな本音を飲み込みながら、九十九は3人に向けて右腕を突き出す。

 彼の挙動を見て、一体なんなんだと訝しむ視線が向けられる中……

 

「勝ったよ。……もう、大丈夫」

 

 握り拳から親指だけを立たせて、力強くサムズアップ。

 漆黒のマフラーを巻いた妖怪リトル・ヤタガラスは、己の勝利を重く宣言した。

 

 その背後で、丸焦げになった提灯の残骸が風に吹かれて飛んでいく。

 かつて妖怪だった、しかしもう命が灯る事の無い残骸は、夜空の向こう側に儚く消えた。




ヒーローの必殺技は技名を叫ぶべきである。
たんけんこころえにも書いてあるから間違いない。


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其の弐拾壱 失ったものもあるけれど

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


「それで……イナリ。この後、どうすればいいかな……?」

「何も考えてなかったんでやすね、坊ちゃん。まぁ、とりあえずは……目撃者をどうにかせにゃならんでしょうや」

 

 クイッと後ろを振り向くイナリ。ぬいぐるみを思わせる外見なだけに、彼の首は果たしてどこからどこまでなのだろうかと九十九は思った。

 振り向いた先でちっちゃな瞳が捉えたのは、当然ながら姫華と灰管の2人だ。

 

 姫華は捻挫したままの足首を押さえながら、2人の妖怪をじっと見つめている。

 一方の灰管はと言えば、先の言葉を受けて「ひ、ひぃっ!?」と怯えるように声を荒らげた。

 

「目撃者を、どっ、どうにかって……まさか、殺すのか!? お前らも結局、あの化け物と同じで……!」

「人聞き……じゃなくて、キツネ聞きの悪い事を言うんじゃありやせんぜ。わての術で、ちょっとばかし記憶を弄らせてもらうだけでさ」

「あ、“ごまかし”の術ってそういう事もできるんだ?」

「へぇ。わての妖術が何を“ごまかす”かと言えば、そりゃあ人の認識で御座いやすからね。むしろ、記憶の“ごまかし”は初歩の初歩でさ」

 

 えへんと胸を張るキツネ妖怪の頭部で、耳がピコピコと自己主張。

 彼が使う妖術のオールマイティ具合に舌を巻きつつ、九十九は先の戦闘で負った頬の焦げ跡を軽く掻いた。

 

「じゃあ……お願いできる? あんな恐ろしい体験、白衣さんたちも覚えてない方が幸せだろうし」

「へぇ。ま、これに関してはわてら妖怪の存在を社会から隠す意味もありやすが……ともあれ。今からお前さんらの、今夜あった事に関する記憶を消しやす。構いやせんね?」

「ワケ分かんねぇ……ワケ分かんねぇよっ! お前らの言う事が全部本当だって証拠あんのかよ!? 記憶を消すとかなんとか言って、本当は俺たちを殺すつもりじゃ……」

「道人、黙って」

 

 ひたすらに大声で叫ぶ幼馴染を、姫華が切って捨てる。

 

「この人たちは……私たちを助けてくれたのよ。彼らが来なかったら、私たちは今頃……あのネコの妖怪に殺されて、食べられてた。……あなたの友達みたいに」

「……っ! なんだよ、お前はこの化け物どもの肩を持つのか!? あのネコもこいつらも、どっちも似たような化け物だろうが! お、俺たち殺されかけて……」

「黙って!」

 

 少女の叫びが、夜空に強く響いた。

 焦点が定まらないほどに揺らぎを繰り返す灰管の視界には、全身を震わせながら涙を流す幼馴染の姿があった。

 

「そうよ……私たち、あの化け物……妖怪に殺されかけたの……! あなたに突き飛ばされて、あのデカブツの前に無理やり行かされた時……あいつの生臭い息と血塗れの牙が、本当に怖かった……! 本当に、ここで死ぬんだって、私っ……!」

「ひ、姫華……」

「そこを、彼らは助けてくれたのよ……!? 私たちなんて助けても利にならないのに、自分が死ぬかもしれなかったのに……! 何も思わないの!? 思わないでしょうね、幼馴染だった私を寄ってたかって乱暴しようとしていたあなたみたいな人は!」

 

 それが、白衣 姫華という少女の本心だった。

 彼女も限界なのだろう。自分の貞操と尊厳が犯されようとしていた矢先、いきなり非現実的な世界に放り込まれ、見た事も無い化け物に襲われて。

 

 どんな絶叫マシンよりも遥かに強く色濃い恐怖の最中から、ようやく解放されたのだ。

 彼女にとって、足首の痛みなんかよりも、今は心の内で荒れ狂う感情の方がよほど痛かった。

 

「お願いだから……もう、誰の心も傷つけないでっ……! 私も、この人たちの事も……」

「……クソッ!」

 

 怒声と共に、アスファルトを蹴り飛ばす。

 それが何かに繋がる訳など無いと分かっていながら、灰管には足先の痛みを紛らわせるように頭を掻き毟るしかできなかった。

 

「ワケ分かんねぇ……なにもかも、意味分かんねぇ……! 佐藤も田中も喰われて死んで、次から次へと化け物ばっか出てきて……勝手に殺し合って……。なんで、俺がこんな目に……クソッ、クソッ!」

 

 今の彼は、正気と狂気の狭間で揺れているのだろう。

 好き放題できた、思う通りにできた現実が、1時間もしない内に全て破壊された。

 そのショックに、心が耐え切れないのだ。

 

 それを朧げに察したからこそ、九十九は火縄銃を下ろして彼らに近付いた。

 彼が1歩1歩進むにつれて、妖気を編んだマフラーが夜風に靡いてバタバタと揺れる。

 

「……灰管」

「……! あなた……」

「なんだよ……なんだよ、なんだよ! それ以上、こっちに来るんじゃねぇよ化け物っ! 俺は、あいつらみたいな目に合いたく──」

「ごめん」

 

 頭が、下げられた。

 小さな背丈の少年は、自分に向けて罵声を飛ばす相手に深々と頭を下げた。

 

 その事実に、頭を下げられた当人だけでなく、傍で見ていた少女や召使い妖怪さえギョっと目を剥いて唖然とする。

 彼らのリアクションを知覚しながらも、九十九の口はただ言葉を紡ぐ。

 

「彼らが死んだのは僕のせいだ……とか、僕がもっと早く駆けつけていれば助けられた……とか、そんな傲慢な事を言うつもりは無い。けど……彼らには、僕の手が届かなかった。だから、ごめん。僕には、お前の憤りを解消する事はできない」

「お、前……なに、を」

「お前は、僕が間に合わなかった事をいくらでも(なじ)っていい。僕の存在を認めなくてもいい。だから……できる事なら、壊れないでほしい。それは、多分……誰も、幸せになれないから」

 

 そう言って、頭を上げる。

 妖気による認識阻害を纏った九十九の素顔は、一般人の2人には正確に認識する事ができない。

 それでも、その目に映る「真摯さ」は決してぼやけてなどいなかった。

 

「……クソ。意味分かんねぇ……どいつも、こいつも……」

 

 それが分かってしまえる程度には、今の灰管は落ち着きを取り戻していた。

 頭を抱え、もう対話はしないという姿勢を取る。未だ、ここから現実逃避する為の手段を探っているのだ。

 

「……本当に助けてよかったんでやすか? 坊ちゃん」

「うん……多分ね」

 

 後ろ足で顔を掻きつつぼやいたイナリに対して、ふわふわとした言葉を返す。

 これまでの来歴を考えれば、ここから彼を改心させる、ないしは認識を改めさせるという事は不可能だろう。

 殻に閉じ籠もられた以上、誰の手も差し伸べられないし、誰の言葉も届かない。

 

 でも。

 

「死ぬよりは……ずっといいよ。生きてる方が、きっと」

 

 決して仲が良い訳ではないし、むしろ灰管の悪行は裁かれるべきものだ。

 でもそれは、彼が死ぬべき人間である……という事を意味していない。

 少なくとも、九十九はそう思っていた。だから、これでいい。

 

「……ま、それについては同意しやすよ。死んで得する事なんて、そうそうありやせん」

「だろうね。……それで、白衣さん」

「うん」

 

 対話を拒絶した灰管については一旦流し、九十九の目は姫華を見た。

 彼女もまた、真っ正面から彼と目を合わせている。

 

「今回の事についての記憶を消した後……君は、近くの病院に連れて行くよ。足……捻挫してるでしょ?」

「うん。……正直、痛いなって思ってる。でも、そんなのが気にならないくらい……色んな気持ちがゴチャゴチャしてる」

「……だよね。こんな事があったんだもん」

「それもあるけど、まさか本当に助けに来てくれるとは思わなかったよ……八咫村 九十九くん」

 

 ドキリと、体が大きく跳ね上がった。

 

「……なんで」

「分かりやす過ぎ。話し方も、立ち振る舞いも……私や道人の名前も知ってたし」

「……あ」

 

 しまった、と口を抑える。

 まさか、そんなトラップがあったとは。そんな風に愕然とする。

 チラリと目線を動かせば、イナリが心の底から呆れ果てたような顔で見つめ返してきた。

 

「お礼しなきゃいけない事が増えちゃった。それも、とびきり大きなのが」

「いや……でも、今回の事は」

「分かってる。……自分でも、ちゃんと理解してる。今夜起きた事は、忘れた方がいいって。だから、これだけは言わせてほしいの」

 

 ギュッと、手を握る。

 それは夕暮れ時の再現のようで、あの時よりも強く、様々な感情を込めた力で九十九の手を握り締めた。

 

「ありがとう、九十九くん。ありがとう、リトル・ヤタガラス。あなたが助けてくれたおかげで、私は死ななくて済んだ。やっぱりあなたは、本当に優しくて……カッコいい人だわ」

 

 笑みを零す。

 

 その微笑みは、決して「満開の花のように」とはいかないものだ。

 口角を上手く吊り上げる事ができず、涙は滲み、目には正負様々な感情がごちゃ混ぜになった極彩色が現れている。

 彼女のトレードマークだった白銀色の髪でさえ、今は薄い黒色に煤こけている。

 

 それでもその笑顔は、姫華にとって心からの感謝を表したものだ。

 自分の尊厳と命を2度も救ってくれた人への、彼が受けるべき称賛の言葉。

 

「例え今夜だけだとしても……あなたは、私のヒーローでした!」

 

 だって八咫村 九十九(リトル・ヤタガラス)は、誰よりもカッコいい正義の妖怪(ヒーロー)だったのだから。

 

 

 

 

「……へェ? なんともまァ、面白い事になったねェ」

 

 錆つき廃れた外観の古美術商『現代堂』、その店内にて。

 

 街に巡る妖気の気配を鋭敏に感じ取って、山ン本は煙管(キセル)を口からそっと離した。

 口角が歪に吊り上がり、愉悦の情で虚ろな目をより濁らせる。

 

 彼が不意に視線を上げると、巨大な全身甲冑の神ン野がこちらを見下ろしている。

 面頬の奥から光る眼光は、山ン本の反応に対する怪訝の情を強く表していた。

 

「……何があった? 今はまだチョウチンの『げえむ』が進行している最中だろう」

「そのチョウチンの奴がやられたのさァ。ヒヒヒッ、開始2日で早速『げえむおおばあ』とは、随分とせっかちな事だねェ」

「なんだと……!? それは(まこと)か、山ン本!」

 

 神ン野が立ち上がった勢いで、彼の全身を覆い隠す甲冑が大きく音を立てた。

 ガシャリという金属音に呼応するかの如く、山ン本と神ン野しかいないように見える店内から、いくつものざわめきの気配が発せられた。

 

「ヒヒヒヒヒ。例の小僧……八咫村の小倅がやったのさァ。チョウチンの奴も言うほど弱い奴じゃないんだけどねェ……これは、小倅の“ぽてんしゃる”を侮ったあたしたちの失点かもしれないよォ?」

「それで……どうする気だ? “八咫派”の者どもが『げえむ』の妨害を働いたのであれば、次の『げえむ』よりも先に奴らを……」

()()()()()()()()

 

 至って当然の事と言わんばかりに、ヌラリと嗤う。

 

「……正気か? このまま敵をのさばらせておくと?」

「ヒヒヒヒッ……『げえむ』には『敵きゃら』が付き物だろう? 補助輪つきの遊びなんてつまらないに決まってらァ。障害をどう潜り抜けて『げえむくりあ』を目指すかも、醍醐味の1つだからねェ」

 

 そう言って胡乱げに嗤う首魁を、甲冑姿の大男は溜め息と共に受け入れて再び座る。

 煙管(キセル)を咥え、先端から甘ったるい煙をもうもうと溢れさせながら、山ン本は虚空を見た。

 深淵よりもなお昏いその目には、果たして何が映っているのだろうか。

 

「さァて……次の『げえむ』の準備を始めようじゃァないか、神ン野。八咫村の小倅が『敵きゃら』のまま終わるか、それとも『ぼすきゃら』になるかは……この先次第ってね。ヒヒヒヒヒッ!」

 

 

 

 

「ん……おはよ」

「うっす、おはようさんだぜ九十九っち」

 

 とある日の朝。

 ぽわぽわと眠気の濃い目を携えながら教室に入った九十九は、先に登校していた光太と挨拶を交わす。

 彼のリュックサックからはイナリの耳と尻尾が見えているが、“ごまかされて”いるので誰にも気付かれない。

 

 光太は机で頬杖をつきながら、とある方向をぼんやりと眺めていた。

 彼がどこを見ているのか分かったからこそ、九十九も同様に眉を下げる。

 

「猛獣騒ぎ、収束したっぽいのはいいけどよー……まさか、ウチのクラスにも被害が出るたぁなぁ」

「……そう、だね」

 

 チョウチン・ネコマタに殺された灰管の取り巻き2人は、表向きには事故死という事になっている。

 誰がどのようにカバーストーリーを流布したのかは分からないが……少なくとも。

 見るも無惨に食い千切られた者と、遺体を丸々呑み込まれた者。彼らの棺がどうなっているかなど、想像したくもなかった。

 

「灰管のヤローも登校してこねーし……ま、無理はねーわな。自分の手下が死んだんだ、あいつにだって人情の一欠片くれーはあったんだろ」

「……光太はさ。その辺の事とか、あいつらについて……どう思う?」

「あーん? そりゃまぁ……あいつらは言い訳のできねーくらいクソヤローどもだったし、いずれ痛い目に合った方がいいだろとは思ってたさ。けどよー」

 

 はぁ……と。

 いつもおちゃらけている彼にしては珍しい、暗い感情の籠もった溜め息だった。

 

「だからって、死んでほしいとか……死んで清々したざまぁみろとか、そういうの思えるほど俺ぁ人でなしじゃねーよ。やっぱり人間、死んだっていい事ねーわ」

「……うん」

 

 九十九は頷いた。

 

「誰かが死ぬのは……とっても、悲しい事だから」

 

 キリサキジャックの引き起こした惨劇は、今でも鮮明に思い出せる。

 多くの人が殺された。その中の誰1人として、死んでいい人間はいなかっただろう。

 

 もしも、博物館に行ったのが自分ではなく光太だったなら。

 何度考えても、その答えは出ない。出そうとも思えない。

 

 だから、戦う。だから、妖怪を狩る。

 自分は、昼の側に立つ妖怪リトル・ヤタガラスで在り続ける。

 今はそれでいいと、九十九は思った。

 

「──おはよ、八咫村くん、日樫くん」

 

 と、そこで後ろから透き通った声がかけられる。

 野郎2人揃って振り向いてみれば、自然な笑みを浮かべる姫華の姿。

 

 あの後、九十九の手で病院に運ばれた為、足首の捻挫もすっかり治っている。

 ボロボロだった肌や髪もすっかり元通りになって、その白さに磨きをかけているようだ。

 

「あ、白衣さん。おはよう」

「おっす、白衣。なんか最近、俺らによく挨拶してくるようになったにゃー?」

「そう? 私は誰にでも自然に接してるだけだから。同じクラスメイトだし」

「陽キャの発言だなァ……キラキラメンタルと銀色の髪が眩しーぜ、ホント」

「あはは……光太だって陽キャの範疇だと思うけどね……?」

 

 ポリポリと頬を掻く。

 何となく、今までとは少しずつ変わってきた日常と関係に、彼もまた眩しいものを感じていた。

 だから、なんとなしに疑問を口にしてみる。

 

「でも……確かに白衣さん、前よりも表情が柔らかくなった?」

「うーん、私は自覚無いんだけどね。でも、似たような事は言われるようになったかな」

 

 人差し指を唇に当てて、艶やかに口角を上げる。

 その魅せるような微笑みに光太はドキリとするが……それ以上に、九十九は自分の心臓が跳ね上がった感覚を味わった。

 

 だって、彼女の視線が──言い訳のしようも無いくらい、自分に向けられていたのだから。

 キラリと光る瞳は、いたいけな少年に「自惚れ」だの「自意識過剰」だのという自己弁護を許さない。

 

「多分、カッコいいヒーローに助けてもらった夢を見たから……かもね?」

 

 そう言って、姫華は自分の席に向かっていった。

 彼女を見送って「はぁ~……言う事が違ぇなぁ」とぼやく幼馴染を他所に、九十九の心が激しく混乱を繰り返す。

 リュックサックからノッソリ顔を出したイナリが、ちっちゃな前脚で頭を掻き始める。

 

「……イナリ、“ごまかし”の術ってちゃんと効いてるよね……?」

「その筈で御座いやすが……いやはや、それだけ鮮烈な記憶だったという事でしょうかなぁ……? 朧げながらも覚えられているとは、わても修行のし直しかもしれやせんな」

「……はは、は」

 

 乾いた笑い声が、自分でも虚しいなと思う。

 それでも、不思議と不愉快な気分では無いとも思っていた。

 

 助けられなかった命がある。届かなかった言葉がある。

 でも、助けられた命も、届いた言葉も確かにあった。

 

 その結果があの笑顔なら、きっと悪い結果では無いのだろうと。

 小さな九十九神は、いつもと変わらないダウナーな顔で小さく笑った。




第2章はこれにて終幕。次回より第3章です。

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【第参幕】鏡の国の絡新婦(ジョロウグモ)
其の弐拾弐 新しい朝


新章開始。
第1~2章を合わせたより長いってマジ?


 日が沈み、夜が来て、月が昇り、やがて沈み、また日が昇って朝が来る。

 窓から差し込む朝日と、小鳥の鳴き声。それらに意識を刺激され、九十九はゆっくりと目を覚ました。

 

「ん……朝か……」

 

 目がボソボソと小刻みに瞬きを繰り返し、意識がまだ完全には覚醒していない事を言外に語る。

 欠伸をしつつも布団から起き上がり、春の朝日に目を細めながらもじっと空を見た。

 

「……なんか、朝に弱くなった気がする」

 

 そう思い始めたのは、妖怪の力に覚醒(めざ)めて以降だった気がする。

 太陽を司る八咫烏が源流にあるならば、朝や昼はむしろホームグラウンドと言っていい筈だ。

 それなのに、夜が近付くほどに心地良さを感じるようになったのは、やはりどこまでいっても夜の側で生きる妖怪だからなのだろう。

 

「色々、と……考える事も、多いか」

 

 誰に言う訳でもない呟きを落としつつ、眠たいながらも手早く着替えを終え、リュックサックを手に取った。

 

 妖怪に纏わる諸々に巻き込まれてより早2週間と少し。考えるべき課題は未だに多い。

 自分自身の事。自分が得た力の事。これからの事。敵である『現代堂』の事。彼らが行う『げえむ』の事。

 そして、妖怪たちの魔手からどうやって皆を守るかという事。

 

 課題は多く、問題も多く、それらの解もまた多い。

 それら全てを1度に解き明かす事などできないのだから、一先ずは1階に降りて朝食を食べるところから始めよう。

 そう結論付けて木製の階段を降りると、台所からひょっこりと顔を出した四十万を見つける。

 

「爺ちゃん、おはよう」

「おお。おはよう、九十九。朝餉ができておるから食べようか」

「ん……イナリとお千代は?」

「配膳の支度をしておるよ。さ、早く食わねば学校に遅れるぞ」

 

 祖父の言葉にコクリと頷いてちゃぶ台の前に座れば、見慣れたキツネとスズメが台所の方から現れる。

 イナリは朝食の乗ったお盆を頭の上に乗せてバランスを崩す事なく、お千代は紐で括った炊飯器を両足で掴んでパタパタと飛びながら、それぞれ居間まで運んできた。

 

「おはよう御座んす、坊ちゃん。今日の朝飯は納豆にアジの開きとおあげの味噌汁、それとほうれん草のお浸しでさ」

「おお……いつも思うけど、朝から豪勢だね。家にいた頃はそんなにしっかり食べなかったな……」

「まぁ、坊ちゃま。それはいけませんわ。朝からきちんと食べなければ力は出ませんことよ?」

 

 そんな雑談をしつつも、彼らはテキパキと朝食の配膳を進め、そして終わらせる。

 凡そ現実とは思い難い光景だが、曲がりなりにも彼らは妖怪。なんとも器用で力持ちなものだと思った。

 そうこうしている間にも朝食の支度が終わり、九十九の対面に四十万が座る。

 

「では、いただこうか」

「ん……いただきます」

 

 手を合わせ、食べ始める。

 彼らの傍ではイナリが油揚げを齧り、お千代が米粒を頬張っていた。

 妖怪たちと食卓を囲み、食事を取る。そんな光景も、この2週間ですっかり慣れてしまったものだ。

 

 九十九の祖母である妻が亡くなって以降、四十万は1人でこの小さな屋敷に暮らしているものとばかり思っていた。

 しかし実際は、イナリとお千代という2体の召使い妖怪がいた。彼らが共に暮らしているのであれば、これまでの生活にもさほど不安は無いだろう。

 きっと、孫たちが遊びに来る時はこっそりどこかに隠れていたのかもしれない。

 

「このところは平和だね……このまま続けばいいのだけど」

「うむ……それは難しいじゃろうなぁ。いつ奴ばらが次の行動を起こすやも分からん」

 

 九十九の納豆をかき混ぜながらの呟きに、四十万は味噌汁を啜りながら答える。

 先の妖怪チョウチン・ネコマタとの戦闘から2週間ほどが過ぎたが、今のところはおかしな事件も起きていない。

 だが、それが単なる静かな平穏などではない事を、彼らはよく理解していた。

 

「80年前、奴ら『現代堂』は……単なる、というのもなんじゃが、単なる殺戮や破壊活動を主に行っておった。じゃが、今回の奴らは以前とは違うような気がするのう」

「あいつらは……自分たちのやってる事を『げえむ』と呼んでた。それを行う時に一定のルールがある……みたいな事も」

「うむ、それは以前も聞いた。こないだ現れたという妖怪の言が正しければ、奴ばらは人間を害する手法を大幅に変えたという事じゃろう」

 

 キュウリの浅漬けを箸で摘み、ポリポリと噛み砕く。

 齢90を越したというのに随分と歯が丈夫である。事実、四十万の歯は1本とて欠ける事なく、その全てが真っ白だった。

 

「1度に1体しか『げえむ』に挑戦できない……。爺ちゃんたちの言う80年前よりもかなりスケールの小さい話だけど、本当に効果があるの?」

「坊ちゃま、奴らの目的は人間に自分たちを恐れさせる事ですわ。人間が妖怪を恐怖すればするほど、彼らの求める夜の力が強まりますの。であれば、この80年で奴らは『量』ではなく『質』を重要視するようになったのかもしれませんわね」

「質……か。例えば?」

 

 その問いに答えたのは、米粒をモリモリ頬張り中のお千代ではなく、次の油揚げに手を伸ばそうとしていたイナリだ。

 

「想像してみてくださいやし。片や、凶暴な妖怪の軍勢と人間の戦車や戦闘機が激しく激突する“もんすたあ”映画。片や、心霊“すぽっと”に踏み込んだ若者たちが1人1人呪い殺される“ほらあ”映画。どっちの方が怖いと思いやすか?」

「それは……どっちも怖い、けど……でも、そうだな。モンスター映画なら最終的に人間の英知が勝ちそうだし、ホラー映画は逃げ切れたと思ったところで殺されてバッドエンド……みたいなオチがよくあるよね」

「そういう事でさ。強大な兵器が通じない……という落差から来る恐怖もありやすが、単に質を求めるのであれば『自分では太刀打ちできない』という絶望を維持させたまま追い込む方が手っ取り早い」

 

 ガジガジと油揚げを齧るイナリを見やり、四十万はアジの開きから綺麗な所作で骨を外した。

 

「科学と文明の発展により、人間は夜を恐れないようになった。放射能を吐く怪獣は兵器の力で海中に没し、宇宙からの侵略者は戦闘機の特攻で撃墜。そうでない者どもも、光の国の巨人が倒す。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のじゃよ」

「だから……規模を小さくする。世界を滅ぼす強大な侵略者じゃなくて、日常を少しずつ蝕む怪談にまでスケールダウンする」

「恐らくは、そういう腹積もりなのじゃろう。『げえむ』とやらの参加者が1度に1体なのも、相互の競合を避ける為かもしれぬ。それぞれの手口が混ざり合って『理解できなさ過ぎる』のも、それはそれで恐怖の質が落ちるからの」

 

 納豆ご飯をサクサクと掻き込みつつ、味噌汁で口内をリセット。

 ほうれん草のお浸しを摘み、九十九は成る程と頷いた。こうして複数人で考察すれば、相手のやり口にも理解を及ばせる事ができる。

 

「もしくは……仮に怪異が解決できたとしても、新しい妖怪が次の『げえむ』を始める。そんな『終わりが見えない』っていう絶望と徒労感を引き出したい、とか?」

「そんなところじゃろうな。そして困った事に、奴ばらがどのような手口で攻撃してくるかは()()()()()()()()()()()()()()()()()。まさしく“ほらあ”映画じゃのう……と」

 

 そこで言葉を切り、空になった茶碗を置いたのちにお茶を口にする。

 熱い緑茶で喉を潤して「ふぅ……」と温かな息を吐いた頃には、他の面々も朝食を食べ終えていた。

 コン、という音を立てながら、湯呑みがちゃぶ台の上に置かれる。

 

「九十九よ、昼の日常を大事にしなさい。お前が昼の側に重きを置き、光を愛し尊ぶほどに、それは夜の側たる『現代堂』と戦う為の心の支えとなる。決して、夜の闇に慣れ過ぎてはいかんぞ」

「うん。……僕も、望んであいつらみたいな存在になりたいとは思わない」

 

 ごちそうさまでしたと軽く手を合わせ、立ち上がる。

 九十九がリュックサックを背負うと、示し合わせたようにイナリが跳躍し、その中にスッポリと潜り込んだ。

 軽く揺すって具合を確かめ、ファスナーの隙間から覗くちっちゃなサムズアップに頷きをひとつ。

 

「今の僕はもう、半分は人間じゃなくなったけど……それでも、もう半分は人間だから。守りたいものも、昼の側にある。……いってきます」

「うむ。いってらっしゃい、九十九。気を付けて行くのじゃぞ」

「いってらっしゃいまし、坊ちゃま。イナリ、ちゃんと坊ちゃまをお守りくださいましね?」

「ケッ、わざわざスズメに言われんでも分かってらぁ」

 

 召使い同士のやり取りを背中で聞きながら、九十九は玄関で手早くシューズを履く。

 そうして引き戸式のドアを開き、屋敷の外に出ると──

 

「ん……?」

「あっ」

 

 朝の陽光を受けて、キラキラ煌めく白と銀の長髪。微かな照りさえ見せないほどサラサラとした白い肌。

 たった今玄関を出てきたばかりの九十九の姿を認め、彼女は驚き混じりに目を瞬かせた。

 

「おはよ、八咫村くん」

「白衣さんか、おはよう。そういえば、この辺に住んでるんだっけ」

「うん、そうよ。……そっか、八咫村くんが引っ越したのってここだったんだ」

 

 物珍しげに屋敷の外観を見つめる少女──白衣 姫華。

 少し前から何故か距離の縮まったクラスメイトとの思わぬ遭遇に、互いの顔を見やりつつ、どちらからともなく頬を掻いた。

 

「ふふっ……まさか、こんな朝早くに八咫村くんに会うなんて思わなかった」

「そうだね、僕も少し驚いてるよ。……じゃあ、一緒に登校する? 多分、道も同じでしょ?」

「ほえ?」

 

 姫華の目が丸まった。

 素っ頓狂な声を上げた彼女の瞳は、驚きでほんのちょっと見開かれている。

 

「……どうしたの?」

「う、ううん。なんでもない。そうだね、行こっか」

「ん……」

 

 会話もそこそこに歩き出す2人。

 リュックサックから少しばかり顔を出したイナリが「いやぁ、楽しい心地で御座いやすねぇ」などと呟いていたが、九十九はその意味が分からないでいた。



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其の弐拾参 幸運のおまじない

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


「そういやよー、九十九っち。最近出回ってる噂、知ってっか?」

 

 その日の昼休みの事である。

 

 九十九たちの通う高校は、最近の学校にしては珍しく校舎の屋上が開放されている。

 目敏い生徒であれば、昼休みなどに屋上に出て昼食を取る者も少なくなく──そして、九十九と光太もその内の2人だ。

 

「うーん……どの噂? あんまりアングラなところ見ないから詳しくないよ、僕」

「そうそうアングラなとこばっかじゃねーやい。学校関連のSNSとか見りゃ結構な種類の法螺話与太話が流れてくるぜ?」

「それこそ見ないなぁ……。皆が好き勝手に言ってる噂話なんて、信憑性とか皆無でしょ」

「そもそも噂話なんて、ネット小説感覚で話半分に見るものだもんげ。適度にトンチキ話を摂取するのも人生を程よく生きるコツだぜ明智くん」

 

 自信一杯に発言する親友を横目に、九十九はそういうものかと思いつつおにぎりを食べ進める。

 光太はフェンスにもたれかかりながら大盛りの焼きそばパンを頬張り、鼻についたマヨネーズを指先で軽く拭ってスマホを操作し始める。

 

「前置きはこの辺でいいか。ほれ、これ見んしゃい。最近のトレンドっつったらこれっしょ」

「んー……幸運を呼ぶおまじないの書紋(シンボル)……? 何それ、そんなのが流行ってるの?」

「そらオメー、年頃のオンナノコってのは恋と占いとおまじないが大好物だからネー」

「めちゃくちゃ偏見入ってない……?」

 

 困惑を交えながらも覗き込んだ画面には、この高校の生徒たちが使っているらしいSNSがいくつか表示されていた。

 SNSに投稿されている画像は様々だが、その内のいくつかに共通点がある事に気付く。

 

 散見される、可愛らしい小物やアクセサリーを身に着けた同じ年代の女子たちの写真。

 尋常のそれと異なるのは、そうしたアクセサリー類に何らかの紋様(サイン)が黒いインクらしきもので書き込まれている点だ。

 写真の中の女子たちは、それらを見せびらかすように身に着けていた。

 

「これ……何? 習字みたいな……というか、墨?」

「おっ、中々いい気付きじゃねーの。なんかさ、どっかの占い師だかなんだかがアクセサリーに墨で印を書いてくれんだってさ。んで、それ持ってるとめちゃくちゃラッキー! とか」

「……それ、皆信じてるの?」

「信じてる奴はな。占いってのは過ぎれば毒だが、程々なら薬なのさ。その証拠に、ほれ」

 

 スマホを指揮棒に見立てて軽く振る光太。

 その先に何があるのかと見てみれば、数人の女子が互いに各々のアクセサリーを見せ合っていた。

 

 ……それらのアクセサリーにはいずれも、黒い墨で奇っ怪な書紋(シンボル)が書き込まれている。

 その大きさや書き込まれた位置はまばらなようだが、形状や書き方の癖は一致しているように見えるだろう。

 

「割りと流行ってる……いつの間に」

「人間誰しも、自分の興味が向かないものはとことん意識の外にあるもんさ。とはいえ、あの占いとやら関してはパチモンも多いみてーだけどな」

「んー……? どういう事?」

「その占い師サマがどこで何をしてるか分かんねーってコト」

 

 焼きそばパンの最後の一欠片をあんぐりと頬張り切って、紙パックの牛乳で流し込む。

 ストローからズズッという詰まった音を聞いたのち、光太は両手を広げて「やれやれ」と言った風なジェスチャーを見せた。

 

「この街にいるのは確実っぽいんだよな。実際、ここの生徒だけじゃなくて他所のJKとかOLさん方も知ってるっぽいし。でも、誰も占い師のいる場所を知らない。偶然街角で出会って、そこで書紋(シンボル)を書いてもらった。その繰り返し」

「なんか……都市伝説化してない?」

「してますねぇ、見事に。その証拠に、幸運を呼ぶ書紋(シンボル)の事は知ってても占い師の存在自体は信じてねーって奴がチラホラいるもん。そいつらはそういうファッションだと思って、墨だ油性ペンだを用意して自分で書いてるらしい」

「まぁ……おまじないとしてはそれが正しいのかもね。変にお金取られるよりは……」

 

 肩を竦める親友を横目に、九十九も紙パックに刺したストローを小さく咥える。

 ズズズと音を立てつつ吸い上げれば、甘酸っぱい野菜ジュースの味が口一杯に広がっていく。

 

「にしても、幸運のおまじないね……本当に効果あるの?」

「さぁ? 俺っちも実際に試した訳じゃないしー? ンな事しなくなって俺くんはいつだって元気100倍ラッキーマンよ」

「その自信はどこから来るのかなぁ。まぁ、光太が占いとか気にするようなタチじゃないのは知ってるけどさ……」

「……八咫村くんたちも、そのおまじないに興味あるんだ?」

 

 頭上から投げかけられた言葉に、ふいと顔を上げる。

 少し屈むようにして2人を見ていた人物と目が合い、果たしてその()()は声から想像できた通りの人物だった。

 

「……あ、白衣さん。白衣さんも屋上に来てたんだ」

「まぁね。天気の良い日は、ここにいると風が気持ちいいから」

 

 その言葉通りに吹いた風が、少女──姫華の長い髪を優しく撫でるように靡かせた。

 彼女の銀がかった白色の髪は、日の光を反射してなんとも美しく綺麗に思える。

 

 しかし、そんな姫華の表情はなんとも優れない風に見えた。歪められた眉は、どことなく不満げな感情を表している。

 

「うっす白衣、最近なんか絡み多いね。俺らみたいなカーストの下の方と関わってていいのかにゃー?」

「私はそうは思わないけどね。八咫村くんも日樫くんも、いい人だもん。相手がよっぽどの不良や悪人ならともかく、私が付き合う相手は私が選ぶし、それについて外野からとやかく言われる謂れは無いわ」

「そっか。……そういう考え方、僕は素敵だなって思うよ」

「そう? そう言われると嬉しいかな」

 

 九十九の言葉に小さく笑みを見せ、その場にしゃがみ込む。

 自分の膝を支えに頬杖をついた姫華は、先ほどの会話を思い返すようにして口を開いた。

 

「それで、さっきの話なんだけど」

「おん? あー、幸運を呼ぶ書紋(シンボル)のおまじないについてか?」

「ええ、そうよ。あなたたちも、その噂に興味があったりするのかなって」

「うーん、そうだなぁ……。興味があるというより、半分くらい与太話感覚で話してただけなんだけど……」

 

 じっと、姫華の目を見やる。

 少年の眠たげな目線が、少女の透き通った瞳の奥にくっきりと映し出される。

 

「そう言う白衣さんは、噂を信じてるの?」

「いいえ? 全然。むしろ大嫌いなくらい」

「そっか」

 

 あんまりにもキッパリとした発言と、あんまりにもあっさりとした反応に、光太はストロー越しに牛乳を噴き出しかけた。

 

「ゲホッ、ゲホ……! ちょっと? ちょっと白衣さん? そして九十九くん?」

「白衣さん、おまじない嫌いなんだ? それって、こないだ言ってた妖怪を信じてないっていうのと関係ある?」

「そして九十九くん!?」

 

 あまりにもあんまりなデリカシー皆無の物言いを仕出かした九十九に対して、親友から必殺のヘッドロックが放たれた。

 ガタイのいい高身長男子が繰り出した絞め技に、まさしくカラスのように「ぐええ」というか弱い悲鳴が漏れる。

 

「俺さぁ、前も言ったよね? 身内以外とのコミュニケーションではもうちょっとデリカシーとかコンプライアンスに配慮しようってさ。学んでないのかなぁ、学んでないんだねぇ。お前の知能指数は勉強以外に用いられないのかい?」

「苦しい……苦しいから、光太。僕が悪かったから、ちゃんと謝るから……ね?」

「……別に気にしてないから大丈夫よ。それに……」

 

 ほんの一瞬、姫華の目線は自分の胸元……服の下に向けられた。

 けれど、ヘッドロックを解く解かないで揉めていた九十九と光太は、その目線の動きに気が付かなかった。

 

「まぁ、それなりに隠してる事ではあるけど……あなたたち相手なら、いいか」

 

 両手で頬をつき、その白い肌をもっちりと膨らませながら。

 姫華は小さく唇を尖らせて、仕方ないなとやおらに語り始めた。



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其の弐拾肆 白衣さんは噂話が嫌い

「私ね、オカルトってあんまり好きじゃないの。好んで話したいとも、そういう話題に混ざりたいとも思えなくてさ」

 

 そう語りながら、姫華は不意に目線を上げて空を見た。

 雲ひとつ無い綺麗な青空が、少しばかりの嫌な気持ちを洗い流してくれる。彼女はそう感じていた。

 

「幽霊とか宇宙人とか、あとUMAとか。そういうのも全然信じてないし、むしろ嫌いまであるわ」

「……それで、妖怪も?」

「そういう事。妖怪だって、幽霊と似たようなものでしょ?」

 

 ぷぅ、と少女の白くきめ細やかな頬が更に膨らみを見せる。

 それはまるでお餅のようだなと仄かに思う九十九だったが、それを口にすれば光太から更なる追撃が来るだろう事は想像に難くない。

 故に言葉をぐっと飲み込み、言葉の続きを待った。

 

「おまじないとか占いが嫌いなのも、その延長線みたいなものよ。非科学的なものが嫌い……とかじゃなくて、なんて言えばいいのかしら」

「怪談とか都市伝説とか……そういう、法螺話っぽいのが苦手?」

「そうなるの、かな。だから、皆の間で変なおまじないが流行ったり廃ったりを繰り返してるのって……正直、愉快な気持ちじゃなくて」

 

 眉を潜めて口角を弛ませて、困った風の笑みを作る姫華。

 それは、自分の感性が一般的なものではないという自覚を携えた表情だった。

 

 彼女の心情を察し取りながら、光太は背もたれ代わりのフェンスに体重を預ける。

 紙パックの中の牛乳は底をついて、ストローから小気味よい空気音が聞こえてくる。

 

「……めっちゃくちゃドストレートというか明け透けに言っちゃってるけどさ。それ、俺らに言ってもよかった系のやつ?」

「流石に、他の人の前ではここまでハッキリと言わないわよ。おまじないとかに肯定的な友達も多いし、少数派(マイノリティ)は私の方だってちゃんと分かってるから。でも、あなたたちの前だったらいいかなって」

「信頼……重くない? どうしよ九十九。俺ら、この美少女になんか弱みとか握られてんのかな」

「そういう訳じゃないと思うよ。でも……」

 

 九十九の眠たそうな目の奥には、姫華の姿がくっきりと映っている。

 

「僕も、光太も。そういうの馬鹿にしないし……馬鹿にする人の事、嫌いでしょ?」

「……まーな。誰かに迷惑かけるようなもんじゃあるめーし、人の好き嫌いとか、信念に関わるモンを貶す下品な舌は持っちゃいねーさ。そんなのよ、全然(パンク)じゃねーだろ」

「だからだと思うよ」

 

 目の前に座る少女は、自分の感性がズレていると分かっていながら、ポピュラーなものに対して否定の言葉を口にした。

 それも、自分たちならそれを吹聴も揶揄もしないと信じた上で、である。

 

 それが如何なる意図にせよ、そこに真剣な感情を見い出せないほど野暮な人間ではない。

 少なくとも、九十九は自分の事をそう定義していた。

 

「カッコ悪い真似、したくないもんね。光太も、僕も」

「……ふふっ。そう言ってくれてありがとね、八咫村くん」

 

 その笑顔からは、姫華の隠し切れない嬉しさが滲み出ていた。

 よいせと立ち上がった彼女の全身を、吹き抜けるようにして気持ちのいい風が撫でる。

 白と銀の髪がさらさらと艶やかに揺れるその姿は、1枚の絵画のようにも見える。

 

 九十九は、自分がその光景に見惚れていたと気付くまでに、凡そ4秒ほどの時間を要した。

 我に返った瞬間、咄嗟に光太の方を見る。彼が頬を掻いている様に、ほっと一安心。

 もし気付かれていたら、これでもかと煽られていた事だろう。

 

「そろそろお昼休みも終わるから、八咫村くんたちも教室に戻った方がいいんじゃないかしら」

「あ……そうだね。じゃ、僕らも戻った方がいいのかな?」

「そうだにゃー。次の授業、美術だっけ? 美術のセンセー、怒るとめっちゃこえーからな」

「私は優しい人だと思うけどね、あの先生。……ああ、そうそう。それで思い出した」

 

 そこで、姫華はポンと手を叩いて九十九と光太に向き直った。

 なんだなんだと訝しむ男子2人に対して、彼女は「好きじゃない話題だから話半分にしか聞いてなかったんだけど」と前置きする。

 

「さっきのおまじないの噂……占い師、だっけ? その人の居場所を聞いた事があるわ」

「ほー、そりゃマジ? 探そうとしても見つからないって話だけど」

「そんなに興味無かったから、詳しくは聞いてないんだけどね。友達が言うには……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()の前にいるらしいわ」

 

 ビクリ。

 九十九は、自分の傍に置いてあったリュックサックが激しく震えた事を知覚した。

 

「古い美術品……古美術商って事か?」

「多分だけど、そうじゃないかしら。とはいえ、そのお店の場所が分からないんだけどね。()()()()()()()()()()()()()()()()()()らしいから」

「そいつはまた古風で味のある話だな。噂とか抜きに、見かけたら覗いてみても良さそうだな」

「それこそ、探そうとして見つかるものなのかなぁ……? 店の名前も分かってないみたいだし……」

「そこは追々ってとこだろ。そんじゃ、俺らも戻りますかねー」

 

 よっこいしょと声を漏らして立ち上がった光太は、そのまま屋上の扉に向かって歩いていく。

 姫華も彼に倣って教室に戻ろうとし、それに九十九もまた続こうとして……

 

「……っと?」

 

 ゴツンと、リュックサックが体にぶつかってくる。

 それを為した者の正体を、九十九は知っていた。知っているからこそ、わたわたと慌てて内側から顔を出そうとする彼を手伝い、ファスナーを開けてやる。

 

「……どうしたの? こんな近距離だけど、光太たちに“ごまかし”の術って効く?」

「ええ、そいつは勿論。わての手練手管を舐めるんじゃありやせんぜ」

 

 心なしか息苦しそうに、スポッと大きな顔を出してきたのは、やはりイナリだ。

 

 彼が用いる“ごまかし”の術によって、彼と九十九のやり取りは外から認識されなくなる。

 それでも、光太と姫華が間近にいるのは事実であり……それを鑑みた上でなお、今ここで話したい事がある。

 そんな意図が、彼の強張った表情から読み取れた。

 

「それで、何? おまじないの事?」

「いえ、近いと言えば近いでやすが……その占い師がいるという店の事で、わてに心当たりがありやす」

 

 デフォルメされたキツネのような外見であっても分かるほど、イナリは深刻な面持ちを浮かべていた。

 それはつまり、件の店が妖怪の何某かに関わるものである事を意味している。

 

「地図に存在しない古美術商……そいつは恐らく、昔からこの街に伝わる都市伝説でさ。そして、その店の名前は……『現代堂』」

「現代……って、それ。まさか」

「ええ」

 

 九十九の驚愕に対して、肯定の意を込めた頷きが返される。

 

「わてら“八咫派”の敵であり、これから坊ちゃんが戦う事になる相手……妖怪集団『現代堂』の本拠地でさ。そして山ン本は、その古美術商の店主を装っていやす。……件の(まじな)い、もう少し詳しく洗い直した方が()ぉ御座いやしょう」



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其の弐拾伍 誰そ彼刻(たそがれどき)

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


「そもそも奴ばらの名乗る『現代堂』とは、そのままズバリ店の名前から取られたものなんでさ」

 

 放課後。

 いつものように光太たちと別れ、夕日が照らす路地を歩く。

 そのタイミングを見計らい、九十九の背負うリュックサックを抜け出したイナリは、そのようにして語り出す。

 

「80年前に日本を荒らして回っていた時も、奴らは古美術商『現代堂』を僭称しておりやした。わても1度だけ目にした事がありやすが、あの時は清や和蘭の……ええと、現代ではなんという名前でやしたかな」

「清は中国で……和蘭は、オランダだっけ?」

「ああ、そうで御座いやした。そういった国から流れてきただろう骨董の品々が多く、それも乱雑に置かれていた事を今でも思い出せやす」

 

 イナリの語り口は重々しく、当時の事を1つ1つ思い出しながら言葉を紡いでいるように感じられる。

 だから九十九も余計な茶々を入れる事なく、夕暮れの帰路を歩きながら彼の話を聞いていた。

 

「坊ちゃん。妖怪が生まれる為に必要な要素は覚えていやすね?」

「長い時間をかけて道具の中に蓄積された妖気が、限界まで溜まり切った時にその道具を妖怪に変化(ヘンゲ)させる……だよね? その平均的な期間が100年だから、99年使われ続けた道具は妖怪に成る……って」

「然様。故に、妖怪に成り得る道具は()()()()()()()()()()んでさ」

 

 リュックサックから這い出た勢いのまま、ひょこひょこと危なげなく九十九の肩に場所を移す。

 ちょこんと主の肩に座り込んだキツネの尻尾は、ふわふわもこもこと柔らかい質感のままに左右へ揺れている。

 

「奴ばらの居城たる店の中には、数多くの古美術品が所狭しと並んでおりやす。そしてその全てが妖怪、或いはいずれ妖怪に成るだろう道具の数々なんでさ。まさしく百鬼夜行。遺憾ではありやすが、今の日本で最も規模の大きな妖怪集団と言えば奴らでしょうや」

「“八咫派”……だっけ、僕らの勢力って。“八咫派”の規模はどうなの?」

「ビックリするくらい弱小勢力ですぜ」

「弱小なんだ……」

 

 唖然とする九十九の耳に、イナリの「ケッ」という呟きが至近距離から届く。

 

「80年前に“八咫派”と“魔王派”の決戦があったと言いやしたでしょう? その時、“八咫派”に属する妖怪のほとんどが死に、お二十(ハタ)様……坊ちゃんの曾祖母であり、ご当主様の母君(ははぎみ)であらせられる方もお討ち死になされたんでさ」

「……そんなに酷い戦いだったんだ」

「地獄も同然の有り様でやした。……その上、両者共倒れという形で決戦が終わった後、“八咫派”を見限って闇の中に消えた同胞もおりやしてね。今の“八咫派”はご当主様と、わてにお千代、そんで坊ちゃんくらいのもんでやす」

 

 そこでイナリは、九十九の肩から飛び降りた。

 ちっちゃな足で地面を掴み、オレンジ色の光に晒されたアスファルトの上に着地する。

 揺れる尻尾に合わせて影が歪みを繰り返し、さながら陽炎のようにも見える。

 

 夕日を見つめる彼の姿からは、何故だか色濃い哀愁と、懐旧の念が感じられた。

 ……多くの仲間を失い、離反者を見送り、かつての主君の死さえ経験した者の背中だ。そこに如何なる感情が込められているかは、ちっぽけな少年の想像の外にある。

 

「……イナリ」

「……すいやせんね、少し湿っぽい態度を取っちまいやした。話を戻しやしょうか」

 

 そのまま、てこてこと歩き出す。

 体躯の小さなに見合わぬ歩行速度に、今度は九十九が慌てて追いかける形になっている。

 

「ともあれ、連中の性質は今も昔も変わっていやせん。古美術商『現代堂』の拠点は、この街にあると見て間違いないでしょう。ですが、その場所は誰にも掴めないまま現在に至っておりやす」

「それは……どうして? 地図に載ってないだけなら、頑張れば探せるような気もするけど……」

「それは、単に地図に載っていないだけなら、の話でさ。奴らの拠点は、文字通りに神出鬼没。店の場所を自在に転移させる事ができるんで御座いやす」

「転移……って」

 

 首を傾げながらの呟きには、戸惑いに似た反応が混ぜられていた。

 

「そんな事、あり得るの? 引っ越したとか、そういう話でもなく?」

「へぇ。昨日店が建っていた場所が、今日は空き地。何も無かった筈の路地裏に、次の日訪れると店が建っている。そんな無法を平然と成り立たせているのが、奴ら『現代堂』なんでさ」

 

 会話しながら歩いていた矢先、ちっちゃなキツネの動きが唐突に止まる。

 それに驚きつつも彼を蹴らないよう足を止め、その目線が向かう先に同じく目を向ける。

 

 2人が見やったのは、建物と建物の狭間に形成された、何の変哲も無い路地裏。

 しかし、夕暮れに染まる街の中にあって、パックリと口を開いた道の先はなんとも不気味な雰囲気を纏っている。

 赤みがかった黒色の影が路地裏を塗りたくる様は、まるで現世のものではないようで。

 

「奴らがその姿を現す事が多いのは……丁度、今のような誰そ彼刻(たそがれどき)。この街のどこかで、連中は夕日に染まった()()()()()()を開きやす」

 

 

 

 

 同時刻。

 

「──でさー、そん時お姉ちゃんがそいつに言ってやった訳よ。あんたがアタシ以外の女と浮気してた事、あんたの両親に全部ぶち撒けてやったわ……ってさ!」

「うわ~、泥沼じゃん! 無事に解決したとは聞いてたけど、そこからまたひと悶着あったんでしょ?」

「そーそー、それでその後さぁ……って、姫華? なんか気分悪そうだけど、大丈夫?」

「えっ? ……え、ええ。大丈夫、よ」

 

 九十九やイナリが帰路についていた頃、姫華はいつものように友人たちと下町を歩いていた。

 友達同士の会話に耳を傾けながら、夕日に目を細める。そんな矢先、意識の外から思わぬ指摘を受けて素っ頓狂な声を放つ。

 

「というか……そんなに変な顔してた、かしら?」

「変な……ってか、ちょっと暗い感じ? なんか思い詰めてた、ってのも違うけど……悩んでた、的な?」

「姫華にゃん、なんかあったなら相談に乗るよ? 灰管の事なら、元はと言えばあいつらが……って、あ……ごめん」

「……本当に大丈夫だってば。皆が心配してるみたく、道人たちの事で悩んでた訳じゃないし、道人の事だって……そんなに気にしてないもの」

 

 いつもの柔らかい笑みとは違う、仄かな儚さを孕んだ笑みを貼り付ける。

 そんな表情と共にそう言われてしまっては、友人たちもそこで黙る他無いものだ。

 

 九十九が妖怪チョウチン・ネコマタを打倒し、姫華と灰管を助けてから2週間。

 助けられた2人の記憶は、イナリが振るった“ごまかし”の術によってあやふやにボカされ、その時目にした事のほとんどは綺麗さっぱり忘れ去られていた。

 

 事件以降に灰管が不登校になった事は、姫華の中では既に「終わった事」として認識されていた。

 昔のような関係にはもう戻れないという寂しさはあるけれど、彼と彼女はもう他人になってしまったのだから。

 

 だから、今の彼女を悩ませているのは()()ではない。

 

(言える訳無いよね……夕日が苦手、なんて)

 

 コンクリートジャングルの向こう側から差し込む光が、視界を埋め尽くす。

 その焼けたミカンのような色の光が、姫華は嫌いだった。だから灰管に絡まれた時も、心が竦んでどうしようもなかった。

 

 いつから、どうして、と聞かれれば……きっと、()()()からだろう。

 あの橙色の太陽に目を細めれば細めるほどに、心の内の弱いところがズキズキと痛む。

 姫華は夕焼けの光を見る度に、妖怪が……オカルトが嫌いになった時の事を思い出す。

 

(こんな事、誰かに言ったところで……まともに取り合ってもらえないもん。おかしいって笑われて終わるだけ)

 

 そんな自覚が、彼女の中にあった。

 友達になんでもないと強がりながら、それでも手は自然と服の下に伸ばされる。

 制服の内ポケットに仕舞い込んだ手鏡の感覚を、忘れないようにそっと握って……

 

「……あり?」

「ほえ? どしたん美季(ミキ)にゃん」

「いや……あそこ。あんなとこに、お店あったっけ?」

 

 友人の内の1人が、不可解そうに首を傾げつつ人差し指を向けた先にあったもの。

 そのあまりに珍妙な外見と雰囲気に、姫華ともう1人の友人は胡乱げに目を瞬いた。

 

「あそこさ、確か裏路地のちっこい公園に繋がる道があった筈なんだよね。ちっさい頃に通ってたから、なんとなく覚えてるんだけど」

「そうは言っても美季にゃんや、事実としてあそこには変なボロっちいお店があるだけですぜ?」

「そうなんだよねぇ……姫華はどう思う? あの店、なんか変な感じじゃない?」

「わ、私? でも、そうね……」

 

 突然振られた話題に戸惑いつつも、目の前にでんと建つ1軒の店を見つめる姫華。

 

 ビルとビルの間にポカンと空いた小さな隙間。そのスペースいっぱいを埋めるようにして建つその店は、誰の目から見ても明らかに古びていた。

 昭和初期の世界からそのまま切り取ってここに置いたかのように、目につく全てがボロボロで、薄汚れている。

 セピア色とか、レトロ調とか、そういうおためごかしではとてもじゃないが擁護し切れない有り様だ。

 

 煤こけた窓に目を凝らしても、奥に見えるのは黒一色の闇しかない。

 にも拘らず、店の全貌はこれでもかと夕日に照らされて、この世の何よりもオレンジの光を浴びているようにも見えた。

 

「なんか……こう、何もかもがアンバランスだなって感じは、確かにするわね」

「だよね~。……どうしよっか? なんかあーし、仄かな興味が湧いてきたので見に行ってもいいカナーって」

「やめときなって弥生(ヤヨイ)。アタシはついてかないからね? なんか怖くなってきたし」

「……待って。看板に、何か書いてある」

 

 姫華の呟きに、友人2人が彼女を見やったのはほぼ同時の事だった。

 2人の目線を気にする暇も無く、店前に立てかけられた看板にじっと、強く強く目を凝らす。

 

 何かの文字が墨で書かれているのは確かだが、如何せん擦り切れているらしく読むのは困難を極めた。

 それでも姫華には、その文字を認識する事ができた。そして彼女が、擦り切れた文字を認識できる違和感に気付く事は無い。

 

「うーんと……古美術商、かな。それで名前が、えーっと……げ、『現だ──」

「おやおや、お客様ですかな?」

 

 心臓が口から飛び出すかと思った。そんな比喩が似合うほどに、姫華はこれ以上無いくらいの勢いで驚いた。

 

 看板の文字を読もうと目に意識を割いていた中、自然と瞬きをした刹那の直後。

 気が付いた時には、さきほどまでいなかった筈の老爺が店の前に佇んでいたからだ。

 単に、自分が老爺の存在に気付いていなかっただけ。そのような仮説は、同じように驚きの声を上げた友人たちによって掻き消された。

 

「ヒッヒッヒッヒッヒ……若い女子(おなご)が、そのように声を荒らげるものじゃ無いですよ」

「あ、えと……すみません。少し驚いてしまって」

「ヒッヒッヒ、そう驚くような事は何もありません。ここは、ワシが働いているごく普通の店なのですからな」

 

 妖しげに笑う老爺は、全身に塗料をぶち撒けられたと言われても納得できるほど真っ白だった。

 髪も、髭も、肌も。夜を思わせるほどに黒い瞳孔と、その身を包むドス黒い外套を除いては、全てが恐ろしいまでに真っ白い。

 

 その出で立ちに薄ら寒さと気持ち悪さを感じた姫華は、無意識に1歩退いた。

 

「あ……そ、そうですか。じゃあ、私たちはこれで……」

「ねね、おじーちゃんってこの店の人? 何やってるとこなの?」

「ちょっ、弥生!」

 

 気の抜けた問いが、傍の友人から放たれた。

 もう1人の友人がそれに掣肘するよりも早く、老爺は皺だらけの唇を震わせる。

 

「そうですなぁ……。この通りの古美術商ですから、美術品を売っているのと……もう1つ。ワシの個人的な趣味として、占いをやっておりますな」

「占い……おじーちゃん、占い師なんだ」

「ええ、ええ。では、折角の縁です。お代は要りませんので、あなたたちに幸運の(まじな)いを用立ててあげましょうか?」

「え……?」

 

 どこかで聞き覚えのある、そして個人的に嫌悪を沸き立たせる単語。

 それをまざまざと耳にして、姫華の舌は独りでに言葉を反芻した。

 

「幸運の……おまじな、い?」

「如何にも、その通り。ワシは占い師ですからな、そういう事もできるのですよ」

 

 ガラガラと、しわがれた声で笑う老爺。

 いつの間にか、その手には1本の筆が握られていた。

 

 筆を濡らす真っ黒い墨は、橙色の夕日に染まる街の中にあって、光を拒絶するように滴っている。

 

「ようこそ、お上がりくださいませ。……我らが古美術商『現代堂』へ」



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其の弐拾陸 占い師は誘う

 最初に姫華が感じたのは、不快という言葉ですら足りないほどの異質さを帯びたカビ臭さだった。

 

「ささ……どうぞ、こちらになります」

 

 錆びた蝶番が悲鳴に似た音を軋ませ、店の内部を露わにする。

 外の明るい夕日を無視するかのように、店内は不気味な暗さを保っていて、電灯どころか光源の1つもありはしない。

 

 そして何よりも、扉を開けた瞬間から襲いかかるカビ臭さ。

 凡そ、一般的に想像できる「清潔」の概念とは無縁としか言い様が無い。

 

(何……? この、酷い臭い……甘すぎてクラクラしそう)

 

 同時に姫華は、むせ返る異臭の中に嗅ぎ慣れない甘ったるさを感じ取った。

 しかし、その香りの正体に考えを巡らせる前に、老爺は彼女たち3人を店の中に案内し始める。

 

「奥に受付(かうんたあ)があります故、(まじな)いはそこで施しましょうか」

「は~い。どんなおまじないかな、美季にゃんもワクワクしてこない?」

「してこないわね。むしろ店の中に入った瞬間、怖いお兄さんの群れが出てくる……なんて事が無くてよかったとは思ってるわ」

「え、と……お爺さんは、いつからこのお店を? こんなところにお店があるなんて……」

「ヒッヒッ。いえいえ、ワシはあくまで店員。店主はちぃと席を外しておりましてな。代わりに、ワシが店番をしておるのですよ」

 

 奇妙な声色で笑う老爺の声は、どこか薄っぺらい異常さを宿しているように思えた。

 よくよく考えれば、この店そのものが異常に満ちている。

 

(……誰かが、見てる? 誰かは分からないけど……でも、見られてるみたいな……)

 

 店の中を歩く度に、どこかから視線を感じる。

 だがどれだけ店内を見回しても、この場にいるのは姫華と友達2人、そして老爺の4人以外には無い。

 他にあるものと言えば、棚を無視して乱雑に置かれた大量のガラクタの山。

 

 ボロボロの掛け軸、薄汚い仏像、無駄に大きな招き猫、何に使うのかさえ分からないブリキの置物。

 これでは古美術商と言うよりも、ゴミ捨て場と言われた方がまだ納得できるくらいだ。

 

「この店では、店主が古今東西から掻き集めた美術品に骨董品を取り扱っております。ですが如何せん、この通りに閑古鳥が鳴くばかり。若い客が来てくれるだけでも、こやつらの心も慰められるというもの」

「こやつ、ら……? えっと、他に誰かいらっしゃるんですか?」

「ええ、いますとも。分かりませんかな?」

 

 カウンターに辿り着いた老爺は、何の前触れも無く3人のいる方に振り向いた。

 真っ黒な瞳孔がギョロリと蠢いて、怖気の走る雰囲気が女子たちに浴びせかけられる。

 

()()()()()のですよ、この店に眠る道具たちは。そうして覚醒(めざ)める時を、刻一刻と待ち望んでいる」

 

 恐怖。

 姫華が抱いた感情は、まさしくその2文字以外にあり得なかった。

 

 老爺が言葉を発した直後から、店の中を蠢いていた視線の数々が一斉に強まった。

 決して錯覚などでは無い。店内……いや、360度全てから、姫華たち3人を値踏みするような視線が確かに発せられている。

 

(道具が、生きて……って、そんなの、まるで……)

 

 こちらを見つめてくる気配の正体。それが何なのか、ある程度の予感はあった。

 けれど姫華は、それを信じたくなど無かった。だって、そうだろう。それは、彼女が最も苦手とする概念なのだから。

 

「幽霊……いえ、妖怪……?」

 

 店内に置かれた道具たちが、自分たちを見つめている。

 そんな仮定を、白衣 姫華という少女は何としてでも否定したかった。

 

「……ほう。あなた、妖怪を知っているのですかな? 若い身空で何とも勤勉な事だ」

「ヨーカイ? ……ってなんじゃらほい。姫華にゃん、ジバ○ャンとか好きなの?」

「そうじゃないでしょ、弥生。でも、ちょっと意外ね」

 

 そう朗らかに話す友人たちは、自分たちに突き刺さる視線の存在に気付いていないらしい。

 だから友人の内の1人が、いたって普通の雑談のように姫華に呼びかける。

 

「姫華、()()()()()()()()()()? 道具が生きてるっていうのも、お爺さんの方便でしょ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……っ」

 

 その言葉に何の悪意も他意も無い事は、よく分かっている。

 よく分かっているからこそ、心に強く突き刺さった。

 

 妖怪なんていない。誰も信じていない。信じる人は馬鹿か阿呆だ。

 だから私も妖怪なんて信じない。妖怪なんていないに決まっている。

 そうじゃなきゃ──

 

「ヒッヒッヒッヒ。信じるも信じないもその人次第、この世に確かなものなどありはしません。ですから、ワシのような占い師がいるのですな」

 

 ふと意識を逸らした隙に、老爺は既にカウンターの席についていた。

 手に持っていた筆を軽く舐め、湿らせた穂先から墨を滲ませる。

 

「それで、おじーちゃんはどんな占いが得意なん? 成績上昇とか、恋占いとか?」

「ヒッヒッヒッ。ワシが生業としているのは、如何にすれば幸運を呼び寄せる事ができるか。その最適な流れを掴む事ですよ」

 

 すい……と、老爺の手が姫華たちに差し出される。

 皺だらけの真っ白い手のひらを3人がパチクリと凝視している内、サルのようにガラガラとした笑い声が老いた口から漏れ出した。

 

「何か、普段から身につけているようなものはありますかな? 鞄、財布、装飾品。なんでも構いません。あなたたちが最も大切と思っているものを1つ、ワシの前に出してください」

「大切なもの……それでその筆、って……もしかして」

「ええ、ええ。近ごろ巷では、ワシの事が噂になっているようですなぁ」

 

 そう言って笑う老いた男の所作は、なんとも奇っ怪なものに見えて仕方が無い。

 

「確か……ああ、そうだ。幸運を招く書紋(しんぼる)。そのように呼ばれている事は、存じ上げておりますとも」

 

 そのカミングアウトは、少女たちにとって驚きと興奮をもたらすものだった。

 少なくとも、激しくなる鼓動を抑えて呆然としている姫華の目前で、彼女の友人たちは色良い反応を上げている。

 

「幸運の書紋(シンボル)……って、マジ!? やったじゃん美季にゃん、ここが噂の占い師さんの居場所だよ!」

「うん……。アタシも、さっきまでは半信半疑だったけど……これ、本当ならちょっと面白そうじゃん?」

「ヒッヒッ……喜んで頂けたようで何よりです。何分、ワシの手法を嫌がる人も少なくないですからね」

 

 筆が生きた蛇を思わせる軌道を描き、空中に文字を書くように動く。

 その拍子にカウンターに溢れる墨の黒色が、ジクジクと震えているのは……果たして、激しい心臓の鼓動が作り出した錯覚だろうか?

 

「人によって、そしてモノによって、書くべき印は異なります。ワシの仕事は、その人に適した印を見極めて書く事。それさえできれば、後は幸運の方から勝手にやってきますとも」

「ほえ~、なんか面白そう。あーしは出すよ! 美季にゃんと姫華にゃんは?」

「アタシもやってみようかな。パチモンだったら後で洗うなり拭き取るなりすればいいだけだし」

「え、私は……」

 

 姫華が言葉に迷っている間に、友人たちは各々の小物をカウンターの上に差し出していた。

 不自然なまでに白い指先がそれらを拾い上げ、黒く濁った目で隅々まで見定める。

 ギョロリギョロリと瞳孔が拡縮したのち、おぞましささえ感じられる笑い声が発せられた。

 

「ヒッヒッヒッヒッヒ……よぉく見極めました。では、紋を記していきましょう」

 

 そうして老爺は、穂先をゆらりと動かした。

 墨の染み込んだ穂先が、可愛らしいピンクのポーチに黒い軌跡を走らせる。

 少女たちが瞬きしている内に、カウンターの上に戻されたポーチには真っ黒い魔法陣のような書紋(シンボル)が書き込まれている。

 

 2人の少女がそれに感嘆の声を上げるよりも早く、次いで手に取られたのは化粧ケース。

 そこにもやはり、凄まじい速さで黒い紋章が塗り込まれた。先ほどポーチに記されたものとは、大きさもデザインも微妙に異なっている。

 

「はい、これにて。大事にしてくださいね、ヒッヒッヒ」

「うわぁ、すっごい! SNSで見たのと同じ感じだー!」

「ありがとうございます。これ、お代とかは要らないんですよね?」

「ええ、ええ、勿論。縁を大切にするのも、占いには必要になる事ですからね。……さて。それで、そこなお嬢さん」

 

 老爺のドロドロとした目が、今しがたの現象を唖然と眺めていた姫華の姿を捉える。

 ビクッと身を震わせた時には、各々の差し出した小物を回収した友人たちが同じようにこちらを見てきていた。

 彼女たちは不思議そうな目をして、血の気の引いた姫華の顔を覗き込んでいる。

 

「姫華はやってもらわないの? 折角だし、記念にお願いしてもいいんじゃない?」

「そーそー、あーしも美季にゃんもおじーちゃんに占ってもらったんだしさー。姫華にゃんもやりなよ」

「え……ええっと、私はその……」

「ほう……。あなた、とても()()()()をお持ちではないですか?」

 

 目を見開く。

 何を言われたのかを認識した瞬間、額を冷や汗が流れる感覚を確かに理解した。

 だって、目の前の男が目を向ける先は……寸分違う事なく、制服の内ポケットだったのだから。

 

「へっ? 姫華にゃん、なんか持ってたんだ」

「占いをやっていると、自然と分かるものなのですよ。いい品だ。よほど長い間、大事に使われているようですね」

「物持ちいいもんね、姫華。それでも、普段からアクセサリーとか小物とか身につけてないから全然知らなかった。何持ってるの?」

「……それは」

 

 いつもの癖で、内ポケットのある位置に手を伸ばす。

 軽く指を折り曲げれば、ポケットの中に隠されたモノ──古い手鏡の質感がありありと伝わってきた。

 

 何故、どうしてこのお爺さんは、手鏡の事を見抜いたのだろう。

 分からない事、奇妙な事、不可解な事があまりに多過ぎる。この店は、一体何なのか。

 

「是非、お出しください。ワシが心を込めて、幸運を呼ぶお手伝いをさせて頂きましょう」

 

 差し出された手は皺に塗れていて、さながら沼の底から堕落を誘う幽鬼のよう。

 

 この手を取るべきか、取らずに去るべきか。

 店に満ちる不愉快な匂いは、姫華に思考と選択を許す事無く、彼女の心から判断力を削ぎ落としつつあった。



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其の弐拾漆 舞台裏で嗤う者たち

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


 ゴクリ。

 唾を呑む音が自分の喉から聞こえたのは、決して気のせいでは無いだろう。

 

「その……私は、ちょっとご遠慮……」

「いえいえ、何も躊躇う必要は無いのですよ? ただ、少しだけ墨を塗るだけ。それ以外に、何かを強いる事はありませんから」

 

 畳み掛けるような声色が、姫華の返答を押し潰す。

 こちらをずっと見定めて離れる事の無い老爺の眼差しは、判断力の鈍った彼女にとって激しく恐ろしいものに思えて仕方が無い。

 

 店中から降り注ぐ無数の視線も、それに合わせて激しく強く、訴えかけるように鋭いものに変わっていた。

 心を許していた友人たちでさえ、一体どうかしたのかと訝しげに見つめてきている。

 

 無論、これら全てが姫華の思い過ごし……という可能性も、十分にある。

 むしろ、そうであった方が彼女にとってこれ以上無い幸いだ。ただの考え過ぎで終わってしまえた方が、どれだけ気も楽になるだろうか。

 

 このお爺さんはただのいい人で、善意で占いをしてくれようとしているだけで、このお店もごく普通の骨董品店で。

 アクセサリーに墨を塗る占いにもちゃんと意味があって、手鏡の事を見抜いた事だって年の功みたいなものだから。

 

 妖怪なんていない。オカルトなんてあり得ない。妖怪なんていない。いない。いない。

 

「わ……私、は……」

 

 グルグルと思考が回転して、空回って、それでも結論なんて出なくて。

 

「さぁ」

 

 年老いたサルの如く裂けた笑みが、ただの少女に返答を強要する。

 全方位から放たれる姿無き圧力が、ただの少女に行動を強要する。

 

 鼻を甚振るカビ臭さと、青さの交じる甘ったるい香りが、ただただ思考を鈍らせ続けていた。

 そうして少女の鈍り切った思考は止まり、指先が自然と制服の下に──

 

 

──助けるよ、絶対。

 

 

「……ぇ?」

 

 数瞬、瞼を上下させる。

 不意に脳内を駆け抜けた朧げな光景が何なのかを、姫華は正確に理解できなかった。

 

 どれだけ意識を巡らせても、その光景を鮮明に蘇らせる事は叶わない。

 それでも、虚実さえ不確かな謎の景色を想像すればするほどに、心に小さな温かさを感じるのだ。

 じわりじわりと広がる、太陽にも似た温もりが、周囲から迫る視線や不快な香りを跳ね除けてくれるとさえ思える。

 

 改めて正面に向き直る。

 ネバネバとした目つきでこちらを見る老爺を前に、ポカポカとした太陽の光が言葉を紡ぐ勇気をくれた。

 

「……すみませんが、私は遠慮させて頂きます。とても……とても、大切なものですから」

「そうですか……ヒッヒッヒ、それなら仕方ありませんな」

 

 思いの外あっさりと引き下がった男に拍子抜けしたものの、間髪入れずに友人たちにも頭を下げる。

 

「ごめんね、美季、弥生。私の一番大切なものは、本当に傷つけたくないものなの」

「そっかぁ。じゃ、しゃーないね。そんだけ大切なものならあーしらも無理強いはできないぜい」

「そうね。譲れない一線があるなら、それを尊重するのがいい友達ってものよ。お姉ちゃんもそう言ってたし」

 

 うんうん、そうだそうだと肯定し合う2人の友人。

 彼女たちが否定の意を示さなかった事に感謝の念を抱きながら、姫華は申し訳無さそうな表情を浮かべる。

 

「じゃあ、私たちはそろそろ行きますね。2人を占って頂いてありがとうございました」

「いやいや、それがワシの仕事ですからね。あなたも、また占って欲しくなったらいつでも来てくださいね」

「……はい、その時は」

 

 そこで小さめの会釈をすると、姫華は「行こう」とだけ言って店の出口に向かっていった。

 友人たちもそれに習い、それぞれの言葉で老爺に感謝の言葉を伝えたのち、彼女を追って店の外に消える。

 

 彼女たちが店を去るまでを、老爺はカウンターに座ったままずっと見続けていた。

 やがて錆びた蝶番の軋む音が聞こえ、古ぼけた入り口のドアが開いて閉まる。

 

 その瞬間、店内の空気は様変わりした。

 

「……おやァ、おや。いいのかい? あの娘っ子にも()()()()()()()()()さァ」

「ヒッヒッヒッヒッヒ。心配はご無用ですよ……我らが長、山ン本」

 

 ヌラリと、途端に店内を満たしていく甘ったるい煙の香り。

 粘つく青臭さが充満する内装に目をやると、とあるボロっちい木棚の上に、1人の男が座っていた。

 

 腕と同じくらいの長さを持つ煙管(キセル)を握り、プカプカと煙を湧き立たせて煙草を()む和装の枯れ男。

 まさしく妖怪集団『現代堂』を統べる魔王の2代目、妖怪キセル・ヌラリヒョンこと山ン本の姿に相違無い。

 

 気が付けば、乱雑に転がっていた骨董品の数々は妖怪としての本性を現していた。

 それぞれが下卑た気配と笑い声を発しながら、カウンターの前に座る老爺へと遠慮の無い視線を投げつける。

 

「ワシの妖術を仕込んだ者たちは、既にそれなりの数になっております。後は、適当な頃合いを見て一斉に()()させるだけ。ヒッヒッヒ……術の試運転がてら、派手な騒ぎと恐怖を演出してみせましょう」

「ヒヒヒヒッ……そいつァ、さぞかし素敵な光景だろうさァ。けれどねェ──」

「それでも、あの娘を見逃すのは頂けませんね」

 

──ベベンッ

 

 煙まみれの空気を揺るがす三味線の音色。

 妖怪たちが音の根源を探して見上げてみれば、山ン本の腰掛ける木棚の向かい側で、もう1つの木棚の上に佇むキツネ耳の女性を認める事ができた。

 

 9つの尻尾を揺蕩わせながら三味線を鳴らす彼女こそ、『現代堂』の幹部である信ン太。

 その縦に長い瞳孔を金色に光らせながら、老爺を上方から()めつけている。

 

「分からないとは言わせませんよ。今しがたの娘、僅かに妖気の香りがしました。あなたの()()()()と違って、本物の(まじな)い師としての才能を持つのではないのですか?」

「ヒヒヒッ、まさか今の世に(まじな)いの素質を持つ人間がいるとはねェ。三ツ葉葵の幕府が潰れた頃には、とっくに絶滅したものだと思っていたよォ」

「だからこそ、ですよ」

 

 信ン太の吐いた溜め息はいやに大きく、彼女の瞳は対面の山ン本にも矛先を向けた。

 しかし、どれだけ部下からギラリと睨まれても、空虚に嗤う男から煙管(キセル)を弄ぶ勢いが削がれる事は無い。

 それをよくよく分かっているからこそ、金色の瞳孔は再び足元の老爺を捉える。

 

「如何に弱く貧相な娘でも、(まじな)い師の才を多少なりとも持つのであれば、その生き肝は特上の餌となる。ならば、見逃す手は無い筈でしょう? あなたの仕込みを考慮すれば、尚更に」

「……これは、なんともせっかちな物言いですね。これでも、たった2日で脱落したチョウチンの奴よりは上手く事を運んでいるつもりですが」

「残念ながら、ウチはそう思いません」

 

──ベンッ!

 

 強く、力を込めて弦を弾く。

 乾いた楽器の音色が響き渡り、空気をピリリと引き締めた。

 

「あなたが『げえむ』の『ぷれいやあ』に指名されてより早2週間。『昼』の側には未だ被害の1つ、犠牲者の1人も出ていない。いい加減に盤面を動かさないようであれば……『げえむ』の進行役として、あなたに『ぺなるてぃ』を裁定する事も考えねばなりません」

「おやァ……『げえむ』2回目で、もう『ぺなるてぃ』かい? ヒヒヒヒッ……こいつァ、お前さんも気を付けた方がいいよォ」

 

 ヌラリとした視線が虚空を踊り、そのドロドロとした眼光を降り注がせた。

 強く濃く、冷や汗が老爺の顔を伝う。彼らが長と称える大妖怪の目つきは、虚無と夜闇に濡れて空っぽな恐怖を心に刻み込む。

 

「あいつ……神ン野は強い。ここにいる誰よりもねェ。だからあたしは、あいつを『げえむ』の審判役に据えたのさァ……ヒヒヒヒヒッ」

「……承知しておりますよ。奴から仕置きを受ける事だけは御免です。では、ワシも本腰を入れるとしましょうか……」

 

 やれやれと言った風に立ち上がった老爺は、そのまま店の奥に歩を進めた。

 1歩先さえ確かめる術の無い暗闇が彼を飲み込んで、やがて姿が見えなくなる。

 

 その様を見送って、山ン本は甘ったるい煙を吐き出してケラケラと嗤う。

 彼の真正面では、信ン太が面倒くさそうに首を振りつつ三味線を弾いていた。

 

「ヒヒヒッ。どんな妖怪でも、神ン野の()()()()は怖いって訳だねェ」

「最初からそれだけのやる気を出せば済む話でしょうに……はぁ。珍しく呑ン舟が口を挟んでこなかったので、これでもサックリと話が進んだ方ですよ」

【んごォオ……フゴッ!? なんだぁ……? 今の今まで寝てたんだけどよぉ、信ン太の姐さん、今オイラを呼んだかぁ?】

「……いいえ、ちっとも。丁度いいので、そのまま永遠に眠って頂けるとウチは嬉しいです」

【ギャハハハッ! そいつぁ無理な相談ってモンだぜ姐さん! オイラがくたばっちまったら、大将たちも困るだろうからさ!】

「嗚呼……喧しいったらこの上無い」

 

 空間のどこからか響いてくるどら声に、くらくらと痛む頭を抑えて三味線を掻き鳴らす。

 そんな信ン太と呑ン舟のやり取りを山ン本は軽薄に嗤い飛ばし、煤だらけで向こう側の見えない窓に意識を馳せた。

 

「さァて……今回も首を突っ込んでくるのかい? 八咫村の小倅」

 

 そんな呟きの真下で、むわりと立ち込める煙草の煙が、おどろおどろしく木棚の輪郭を這いずり回っていた。



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其の弐拾捌 水面下の侵蝕

 それは、明くる日の事だった。

 

「……なぁなぁ、九十九っち」

「……何? 光太」

「なんか……増えてねぇ?」

「増えてるねぇ……」

 

 ホームルームを待つ朝の教室にて。

 九十九は自分の席に座りながら、光太は九十九の席の前でしゃがみ込んで頬杖をつきながら、目の前の光景をボーっと見ていた。

 

「でさー。昨日、占い師のおじーちゃんに会えたの! そこで……ホラ! あーしのおきにポーチに書紋(シンボル)書いてもらっちゃったー!」

「うわ~、マジで? あの噂って本当だったんだ」

「あ、私も私も! 美季たちとは別のとこでさ、私もスマホに書いてもらえたの」

「えっ、それホント!? アタシも、弥生や姫華と一緒にいた時に書いてもらったんだけど、その後に出会えた感じなのかな?」

「多分そうじゃないかな? その時はわたしも一緒に買い物してたんだけど──」

 

 教室の隅に集まってキャイキャイと話す女子生徒たち。

 彼女たちが手に持ち、互いに見せ合っている小物には……いずれにも、黒い墨で塗られたらしい紋様(サイン)が色濃く現れていた。

 

 それらのデザインはどこからどう見ても、近ごろ噂になっている幸運の書紋(シンボル)というやつだろう。

 漏れ聞こえる会話からも、本物の占い師に会って書いてもらえたという話が伺える。

 

 どこか遠い世界のやり取りのようにも思える姦しさを眺めて、光太は困惑混じりにボンヤリと呟いた。

 

「おっかしいなぁ……昨日の今日で、こんなブワッと発信者(インフルエンサー)が増える事ある? 何なの? 昨日の俺らの会話がなんかのフラグだったの?」

「遠くから話を聞く限り……昨日の夕方とか夜に占い師を見つけて、そこでおまじないをしてもらったみたいだね」

「あんなに散々いない会えない見つからないって話題だった占い師だぜ……? なんで見えてる範囲でも4人が、ほんの1日でフィッシュできてんだよ」

 

 そう言って自分の机に顎を乗せてくる親友の額を指で弾いたものの、九十九もまた同じく、女子たちのやり取りに不可解さを覚えていた。

 こうした「おかしい」に詳しい知識を持つだろう相手を頼るべく、机にかけられたリュックサックへと手が伸び……そこで、気付く。

 

「……そうだ、今日はイナリがいないんだった」

「んお? 油揚げ(おいなりさん)がどうしたって? 食いたいなら今日の昼に買えばいいじゃん。あの、稲荷寿司と巻き寿司の……なんだっけ、宿六ってヤツ」

「それを言うなら助六ね……」

 

 溜め息を交えてボケをあしらうが、九十九の呟き自体は事実だ。

 

 昨日、姫華から聞かされた「占い師のいる、地図に無い古美術商」の噂話。

 イナリはその事を独自に調べるべく、今日は九十九に同行していなかった。

 

 故にどれだけリュックサックのファスナーを開けようとも、中に潜り込んだちっちゃなキツネはどこにもいない。

 目前でおかしな事が起きているというのに、なんともタイミングの悪い話だ。

 内心でそのように歯噛みして、指先を机の上に戻す。小さな呼吸音に釣られて、肩の力も自然と抜けた。

 

「それで、彼女たちが書紋(シンボル)を入れてもらった時に白衣さんも一緒にいたみたいだけど……その辺、どうなの?」

「あー……そりゃ、聞きたいよね。つい昨日、あんな事話したばかりでだもん」

 

 女子たちの会話を眺めながらの呼びかけに、2人の後ろに立っていた姫華が言葉を返す。

 いつの間にかそこにいた彼女の存在に驚いて、光太は「どわぁ!?」と声を出して転げてしまう。

 

「し、白衣さんや白衣さんや……いつからそこに?」

「最初から……っていうのは冗談だけど、ほんのちょっと前からよ」

「あれ……光太、気付いてなかったんだ?」

「気付いてませんでしたけど!? 逆になんでお前は気付いてたのかなぁ九十九くん!? 振り向いた素振り一切無かったよね君!? なんかめちゃくちゃ自然に声かけてたけど!」

 

 態勢を戻してのツッコミを「何故と言われても……」と受け流して、九十九は姫華に意識を向け直す。

 その視線の意図を理解して、彼女も困ったような表情を作る。

 

「……美季や弥生たちの事、やっぱり気になるんだ?」

「まぁ、ね。でも、白衣さんが嫌な気持ちになるようなら、無理に言わなくても……」

「ううん。あった事を話すくらいなら、別にどうって事無いわ」

 

 近くにいた生徒に声をかけ、ホームルームまで椅子を借りるよう断りを入れる。

 嫌な顔ひとつせず快諾した相手に礼を言いながら、姫華は九十九の対面に細い腰を落とした。

 光太もノロノロとした動きで起き上がり、生徒3人が机を囲む形で顔を突き合わせる。

 

「昨日、学校が終わった後……3人で街を歩いてた時に出会ったの。その……占い師のお爺さんに」

「うっそ、マジでいたんか占い師……。そんで、あそこで駄弁ってる白衣の友達ズは書いてもらったんよな?」

「そう……なるのかな。美季は化粧ケースに、弥生はポーチに。占い師のお爺さんが、持ってた筆でテキパキと書紋(シンボル)を書いてくれたみたいね」

「おーん……? なんだべ、そのビミョ~に不明瞭な物言い」

「それで……」

 

 いつもの眠たそうな、なおかつダウナー気味な瞳が持ち上がる。

 それでいて、姫華を見る九十九の目には僅かながらに心配の情が見て取れた。

 

「白衣さんは……書いて、もらったの? おまじない」

「……いいえ。勿論、断ったわ」

「そっか」

 

 なんて事無いように頷く様子に苦笑いしながらも、少女の手は自然と服の下の何かに触れる。

 光太の「あっさりし過ぎじゃないですかね君らの会話さぁ!」という叫びをスルーして、その行動を不可解そうに見つめてくる九十九に小さく笑いかけた。

 

「ありがとね、八咫村くん」

「……? 急にどうしたの?」

「なんでも。……多分、八咫村くんが助けてくれたんだと思うから」

「うん……?」

「そんで……多分ここが一番重要だと思うんだけどよ。その占い師のじーさんって、一体この街のどこにいたんだ? 場所さえ特定できたんなら、俺らも冷やかしにちょいと……」

「それがね、確か……え? あ、れ……? なんで……」

 

 呆然と。

 自分の言っている事が理解できないと言いたげに、姫華の瞳孔が焦点をブレさせた。

 当惑しながら己の頬を撫でる彼女の様子を、男子2人は訝しげに、そして只ならぬ雰囲気への警戒の意を込めて注視する。

 

「……白衣さん、大丈夫? 何か、思い出したくない事があるなら……言わなくていい」

「そ、そうだぜ白衣。俺らはちゃんと分かってっから、お前が気分悪くしてまで話す必要は……」

「……違う、違うの。そうじゃ、なくて……。でも、さっきからおかしかったけど、今ようやく分かったの」

 

 口に手を当て、信じられないように視線を落とす。

 下げた視線の先には机の木目しか無いが、それでも己に降り掛かった不可解さが彼女の気分を害していた。

 

「……()()()()()()の。昨日、占い師のお爺さんと出会った場所がどこで……そこで、何をされたかも」

「……はぁっ!?」

「それ、って……単に忘れた、とかそういう訳でも……なく?」

「昨日、友達2人と占い師に会って、2人が書紋(シンボル)を書いてもらって……私は断った。それは覚えてる。でも……その時どんなやり取りがあったとか、どこでどういう風に何をされたのかとか……そういうのが、まったく思い出せない。ただ、事実だけが頭の中に……」

 

 戦慄と共に呟かれた一連の言葉に、発言した姫華自身がゴクリと喉を鳴らす。

 それから彼女は、今一度2人を見た。彼らは不安げに、そして訝しむようにこちらを見ている。

 

「……お願い、信じて。私はちゃんとその場にいて、何かやり取りをした筈なの。そこで何が起きて、どうなったかを……私は、ちゃんと覚えていた。興味が無いからとか、嫌いだからとかで、その時の事を忘れる筈が無いの。……信じて、もらえないかもしれないけど」

 

 縋るような懇願を受けて、九十九と光太は互いの目を見やる。

 

 にわかには信じ難い。そんな思いが光太の目には込められていた。

 姫華は占いが嫌いと言っていた。だから、そんなに意識を割いていなかったのだろう。だからこれは、ただの物忘れだろう。

 そう言いたげな親友の目に、普通ならばそう考えるのも無理は無いと九十九は思った。

 

 けれど、彼は。

 

「……一応、その時いたっていう白衣さんの友達にも聞いた方がいいと思う」

「ちょい、九十九? 俺らみてーななヘラヘラマン&ダウナーマンがあのキラキラ女子の群れに突っ込むのかい?」

「私が信頼してる友達だから、そんなに卑下しなくても邪険にされないと思うけれど……」

 

 顔を上げる姫華。

 九十九の目はいつものように眠たそうで、でも今はそれが逆に不安を感じさせる。

 

「それでも、聞きに行くの? 私の思い過ごし、みたいに終わらせずに?」

「うん」

 

 頷く彼の脳裏には、イナリから聞かされていたある事が思い浮かべられていた。

 

 夕暮れの中に現れるガラクタ古美術商。

 もしも、姫華たちが占い師と出会った場所がそこであるならば……

 

「ちゃんと、調べるよ。信じる信じない、正しい間違ってるは……その後でも、いいでしょ?」

 

 当然の事と言わんばかりに、九十九は真っ直ぐな目を見せた。

 彼の人となりをよく知る光太は「そう言うと思った」と肩を竦めるが、一方で彼ら2人は気付かない。

 

「……ありがとう……」

 

 九十九の言葉に目を見開いた姫華が……小さく呟くように、感謝した事を。



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其の弐拾玖 餓鬼憑き

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


 妖怪は昼を厭い、夜を好む。

 故に、昼から夜に移り変わる夕方頃──誰そ彼刻(たそがれどき)に、彼らは妖怪としての力を得る。

 

 ならば、事態が大きく動く出来事が夕方に起きたのも、当然の帰結というものだろう。

 

「……結局、あの子たちも占い師と会った場所については覚えてない……か」

 

 イナリがいない分いつもより軽めのリュックサックを背負って、九十九は帰路の中で小さく呟く。

 

 あの後、姫華の友人や彼女たちと語らっていた女子生徒たちにも、占い師に会った時の状況について詳しく聞いてみた。

 その結果、どこでどのようにして会い、どういうやり取りを書紋(シンボル)を書いてもらったのかを誰も覚えていなかった。

 

 指摘されるまでその事に気付いてすらいなかった彼女たちは、不思議だねーと顔を見合わせていたが……

 

「これ……明らかにおかしい、よね。イナリの“ごまかし”の術みたいな……人の認識に働きかける何かが、仕掛けられている……?」

 

 顎に手を当てて考え込んでも、一向に答えは出てこない。

 分かっている事と言えば、これが明確な異常事態であり、何らかの妖怪が関わっている()()()()()()という事くらい。

 今、彼の手元にあるカードは、何1つとして確証を宿してはいないのだ。

 

 なんとなしに立ち止まって、空高くに意識を向ける。

 この街から見る夕日の橙色は、いつもと変わらない見慣れた鮮やかさを九十九の目に届けてくれる。

 

 けれど彼は、夕日が意味するもう1つの世界を知ってしまった。

 日の沈みゆく夕暮れ時の裏側で、どのような存在が蠢きつつあるかを知ってしまった。

 

「……もし、本当に『現代堂』の仕業なら……」

 

 ふと思い立った事があり、周囲をキョロキョロと見回す。

 周囲に誰もいない事を確認したのち、足の裏に妖気を巡らせ、熱を帯びた火の妖気を一気に点火。

 その勢いで空中に躍り出た九十九は、間髪入れずに更なる点火を起こし、さながら大道芸じみた空中ジャンプをやってのける。

 

 タン、タン、と軽やかな動きでビルとビルの間を蹴り飛び、あっという間にビルの屋上まで辿り着く。

 トン……と柵を乗り越えて屋上に着地すると、振り向きざまに街中を一望した。

 

「まだ……僕にも、できる事はある……よね」

 

 もしも『現代堂』の妖怪たちが何かを企んでいるならば、こうして街を俯瞰する事で何かおかしな妖気の類いが発見できるかもしれない。

 

 話を聞いた時点で彼女たちの持つ書紋(シンボル)入りの小物を回収する事はできなかったが、それは致し方の無い事だ。

 あの時点では占い師を取り巻く異常はあくまで疑惑でしかなく、それらを馬鹿正直に話したとして信じてもらえる訳が無い。

 

 故に今の九十九にできるのは、いち早く異変を察知してそれを抑える事。その為に使えそうな技術は、祖父たちから教わった。

 先ほど足に妖気を通わせてジャンプ力を強化したのと同じように、体を流れる妖気を今度は目に集中させて──

 

「あれ……は──!?」

 

 体を走る悪寒。

 妖気の集中した目を通して、ゾワリとした不快な気配を直感的に察し取る。

 

 見渡した街のどこかから、悪意的な妖気が発せられている。

 それはキリサキジャックやネコマタほどに強いものではなかったが、それでも九十九が過去に2度感じた、悪しき気配である事は明らかだった。

 

 恐らくは……『現代堂』の手先。

 

 今、この場にイナリはいない。お千代も祖父の四十万もいない。

 この場で何を判断して、どう行動するか。その全ては、九十九に委ねられていた。

 

「なら……っ!」

 

 自らの首に手を添える。

 全身を駆け巡る「見えない力の流れ」に意識を置き、その流れに干渉・変質させる。

 妖怪にとって、体に流れる見えない力──妖気は、自分の手足も同然に動かせる。それが祖父の教えだ。

 

 そうして体から吹き出した妖気が、首に纏わりついてマフラーを形成する。

 風にたなびく長い漆黒のマフラーは、九十九の正体を他者に認識されなくする認識阻害の妖術装束だ。

 

 武器として使う火縄銃は、今は手元に無い。

 あんなものを持ち歩く訳にもいかない以上、今その事に論じていても仕方が無いだろう。

 

「よし……行こう!」

 

 マフラーを数回引っ張って具合を確かめたのち、柵を乗り越えて屋上から飛び降りる。

 すぐさま妖気をコントロールして、空気を手で掴むようなイメージを意識して自らの体を浮遊させる。

 1秒ほどの浮遊感は、瞬きする間に風を切って滑空する感覚へと切り替わった。

 

 夜の迫る夕暮れの空を裂いて、宙を走る九十九が目指す先は──

 

 

 

 

「んじゃ、姫華にゃん。あーしと美季にゃんはこれからバイトですゆえっ!」

「そゆ事。じゃーね、また明日~。姫華も塾頑張ってね」

「うん、ありがと。また明日ね、美季、弥生」

 

 気の置けない友人たちに手を振って別れを告げ、姫華は彼女たちとは別の路地に向かう。

 夕方のこの時間帯、姫華がいつも塾に通う為に使う路地は人通りが少ないが、同時に見晴らしもいい。

 何か事が起きればすぐ目立つ立地である為、彼女にとって怖い場所ではなかった。

 

 1人、夕暮れ時の静かな路地をてくてくと歩く。

 顔を上げると、遠いビルとビルの狭間にゆっくりと沈んでいく夕日が見えた。

 その色濃いオレンジ色の光に目を細めていると、いつか聞いた言葉が思い浮かぶ。

 

──この街は、他の街よりも夕焼けの光が濃い。

 

 それは、昔からよく語られていた事らしい。

 他の街から夕日を見れば、鮮やかな橙色の光が街を優しく照らし、穏やかな夜の帳へと導いてくれる。

 けれどもこの街の夕日は色濃く強い光を帯びていて、夜の帳もどこか薄ら寒さを感じさせる暗い気配を宿している。

 

 それが何故だかは、誰にも分からない。

 それでも、昔は多くの大人たちがそう言っていたらしい。

 今の時代になって、若者たちはそれを一笑に付し、子供たちも夕日の色に意識を向けないようになったという。

 

 だって、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なのだから。

 

(こんな話……誰に聞いたんだっけ?)

 

 なんとなしに足を止めて、夕日を見ながら考える。

 きっと、クラスメイトや友人たちに言っても鼻で笑われて終わってしまうだろう。

 そんな話を、一体誰に聞かされたのだっけ。

 

 この街だけ夕焼けが濃いなんて、常識的に考えてあり得ない。

 この街だけ夜が薄ら寒いなんて、そんな証拠はどこにも無い。

 

 常識的にあり得ない。証拠が無いからあり得ない。皆があり得ないと言っているからあり得ない。

 あり得ない。嘘つき。法螺吹き。そんな話、誰も信じない。証拠を見せてみろ。

 

 証拠が無いなら、妖怪なんてこの世のどこにも存在しない。

 

 でも……昔は、そうじゃなかった筈なのに。

 

「……あ」

 

 自然と手が動き、制服の内ポケットに仕舞い込んだ手鏡を抱くようにして握る。

 その行為が、姫華をグルグルと空回る思考から抜け出させて……漸く、思い出した。

 

「お婆、ちゃ──」

 

 

 

 

 

「いやぁーっ!?」

 

 絹を裂く音にも似た悲鳴が、静かな路地を震わせた。

 跳ねる肩を抑えて悲鳴の在り処を探す姫華の視界に、少し離れた路地裏で蠢くナニカが映り込む。

 

 そちらに目を向け切るよりも早く、路地裏から転がるようにして出てきたのは1人の若い女性。

 装いからして、どこかの会社に務めるOLらしいが……そんな事よりも、よっぽど重要な事がある。

 

「な……なにこれっ!? なんで……私の口紅が、どうなって……!?」

 

 女性が瞳いっぱいに恐怖を潤ませて見やる先、路地裏の影から這い出てきたのは、宙に浮かぶ口紅だった。

 宙に浮かぶ時点で異常だというのに、更に輪をかけて異常な点。それは口紅を覆うように、妖しく発せられた紫色の光だ。

 

「なんなの、あれ……? 口紅が……光ってる?」

 

 絶句する姫華。

 少し離れた位置からでも理解できてしまえるほどの、明確過ぎる異常事態。

 濃い夕焼けの中にあって放たれる紫の光は、まるで暗く恐ろしい夜を暗示しているかのようにすら思えた。

 

「エヒッ、エヒヒヒヒヒヒヒヒャハッ……♪」

 

 紫色の光から……否、光を纏った口紅から歪な声が漏れ出る。

 壊れたオモチャのように狂った嗤い声が路地に響き、口紅の持ち主()()()女性の恐怖をこれでもかと煽り立てた。

 

 やがて見る見る内に、光がグネグネと形を変えて口紅を呑み込んでいく。

 光から手が生え、足が生え、サメの(あぎと)ほどに裂けた大きな口がねっとりと開き──

 

「エヒヒヒヒヒヒヒヒッ! エヒャヒャヒャヒャヒャヒャッ!」

 

 幽鬼。そう形容するのが最も適しているだろう。

 

 素顔と胴体を覆い隠す襤褸切れ同然の外套と、枯れ木の如く痩せこけた土気色の手足。

 擦り切れたフードが形成する暗闇からは、焦点の合わない目とグロテスクな口周りのみが露出している。

 

 人間の子供くらいに背丈の低いそれが、宙に浮きながら狂ったような嗤い声を上げている。

 その異様さと異常さと異質さが、当事者の女性だけでなく、傍観者でしかない筈の姫華からも「思考」と「逃走」を奪っていた。

 

「オレ、ヨウカイ! オマエ、クウ! オマエ、シヌ! オモシロイ!」

「妖、か……!? わっ、私を食う……食べ、るって……」

「オモシロイ! オモシロイ! ニンゲン、シヌ、オレ、オモシロイ! オマエ、クウ!」

「ひ……ぇひっ!? や、やめっ、やめて──きゃぁあああっ!?」

 

 牙が突き立てられた。

 ロクに手入れのされていない、刃毀れだらけ錆だらけのナイフ。1本1本をそのように例える事のできるだろう無数の牙が、女性の右肩に喰らいつく。

 皮膚が裂かれ肉が千切られ、吹き出した鮮血が夕暮れの路面を紅く汚す。

 

 そうして遂には、肩の肉が食い千切られる。

 抉れた断面から溢れる血は女性の衣服を真っ赤に染め上げ、彼女により強い苦痛と悲鳴を振り絞らせた。

 

「あ──ぁああああぁぁああぁぁああぁあぁああああぁぁぁあああ!?」

「エヒャヒャヒャヒャヒャヒャ! オイシイ! オイシイ! ニンゲン、オイシイ!」

 

 グチャ、グチャ、グチャ、と。

 わざとらしく音を立てて、妖怪は食い千切った女性の肉を咀嚼する。

 歯並びすらボロボロに成り果てた口内から、咀嚼の度に血肉が漏れ出て地面に滴り落ちている。

 

 痛みと恐怖で錯乱し切ったらしく、右肩を喰われた女性はその場に尻餅をついたまま、枯れ潰れた喉から血の混じる涎を流している。

 その有様のどこがおかしいのか、妖怪を名乗るナニカはゲラゲラと下劣に嘲笑した。

 

「何が……起きてるの……? アレ、が……あんなのが、妖怪? そ、んな……嘘でしょ……」

 

 あまりに非日常的な、猟奇的な一部始終を目の当たりにして、姫華は顔を引き攣らせるしか無かった。どんな感情を出力すればいいのかすら判断できないのだ。

 そんな彼女の足が自然と後退り、砂利を踏んだ拍子に乾いた音が鳴る。

 

 ……砂利の音が、この場で鳴り響く。

 その事実が意味する不味さに姫華が気付いた時には、もう遅かった。

 

「エヒッ……ヒヒヒヒヒヒ、エヒッ」

 

 目が、合ってしまった。



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其の参拾 取り戻した記憶

「え……ぁ」

「エヒヒヒヒヒッ。ミィ、タァ、ナァァァァァア?」

 

 今しがた襲った女性からはもう興味が失せたのか、妖怪は出血を抑える事もできずに錯乱する彼女を乱雑に蹴飛ばした。

 その折に発せられた悲鳴すら無視して、1歩、また1歩と、枯れ木のように細く貧相な足が姫華に近付いてくる。

 

「い、や……嫌っ、来ないで……来ないでっ……!」

「エヒヒヒヒヒッ……オモシロイ」

 

 ゾクリと、身の毛がよだつ。

 

「オモシロイ! モット、モット、ヒメイ、キキタイ! モット、クルシミ、イタミ、キキタイ! オモシロイ! エヒヒヒヒヒヒャヒャヒャヒャヒャッ!!」

 

 痩せ細った土気色の肌からは想像できないほどの脚力と瞬発力で、妖怪が姫華に飛びかかる。

 裂けた口が大きく開かれて、刃毀れだらけの牙にこびり付いた血と肉が、見る者の戦慄と恐れを駆り立てる。

 

「きゃあっ!?」

「エヒヒッ♪」

 

 ブチリ。

 咄嗟に身を屈めた姫華の動きについてこれず、頭上をはためいた白銀の長髪。

 その先端が、彼女の喉笛を食い千切ろうとして避けられた代わりと言わんばかりに引き裂かれた。

 

 勢いあまって転がった彼女が見たのは、自分の銀がかった白髪が、おぞましい怪物の口の中にある光景。

 例え噛み千切られたのが先端の少しだけだったとしても、チャグチャグと咀嚼されるそれが自分の末路のように見えて仕方が無い。

 

「オイシイ! オイシイ! コレ、()()()ノ、アジ! エヒャヒャッ! コレ、()()()()ノ、アジ! オイシイ! オレ、モット、クウ!」

「何を……言ってるの? わっ、私におまじない、って……」

()()()()()()()ノ、イキギモ、クウ! ヨウカイ、ツヨクナル! ダカラ、オレ、オマエ、クウ! エヒャヒャヒャヒャヒヒヒヒヒヒヒッ!」

 

 何を言っているのか、まったく意味が分からない。

 それでも、目の前の怪物が自分の事を狙っていて、その結果として自分が死ぬだろう事は理解できる。

 その事にハッキリと思い至ったからこそ、姫華は恐ろしさでガチガチと歯を鳴らす。

 

「来ないで……お願いだから、来ないで! あっち行ってっ!」

「エヒヒヒヒヒヒッ! タノシイ! オモシロイ! ニンゲンノ、ヒメイ、オモシロイ! ニンゲンノ、キョウフ、タノシイ!」

「なんで……なん、でなの……!? どうして、()()こんな目、に……!?」

 

 言葉が、喉で詰まる。

 

(“また”……?)

 

 まるで、以前にも同じような事態に遭遇したかのような。

 でも、そのような記憶は姫華の中に1つとして存在しない。

 こんな恐ろしい、現実的にあり得ないような出来事の当事者となった記憶など、自分はただの1度も──

 

 

『もし「助けて」って声が聞こえたら……できる範囲で、どうにかするから』

 

『もう『おにごっこ』はおしまいみたいだし、その使い物にならなくなった足からバリバリ貪ってやるんだよなァ』

 

『ひっ、姫華ぁっ! お前が、おっ、囮になれっ! 俺が逃げる時間を稼げっ!』

 

『助けて……■■■くんっ……!』

 

『──助けるよ、絶対』

 

 

 ……そんな記憶が、ただの1度も無いのならば。

 この、脳裏を(よぎ)る朧げで不明瞭な光景の数々は。

 

(なんの、記憶だっけ……?)

 

 突然湧き出した違和感に、思考が淀む。

 鈍った意識のせいで立ち上がるタイミングを失った姫華は、妖怪の下卑た声で漸く我に返った。

 

「エヒャヒャヒャヒャヒャッ! イタダキマァースッ!」

「あ、ひっ──!?」

 

 眼前に刻一刻と迫る死の牙。

 自分の喉を引き裂き殺さんとする妖怪への畏れが、姫華の声を上擦らせた。

 

 それでも、叫ばずにはいられない。

 例え無駄な足掻きだったとしても、その「叫び」を肯定してくれる誰かが確かにいた筈だから。

 だから、舌に纏わりつく恐怖を押し退けて、喉の底から力を振り絞って。

 

「誰か、助けて──っ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何度でも……何度だって、助ける!」

 

 何かが燃えるような音の後、派手な衝突音が轟いた。

 

「エヒャアヒェッ!?」

 

 今まさに姫華を殺そうとしていた妖怪が、横合いから吹っ飛んできた何者かに蹴り飛ばされる。

 足の裏に炎を纏った蹴撃は、妖怪の顎を盛大に砕き、その傷を焼きながら更なる衝撃と痛打を与えた。

 

 爆発音にも似た衝突音と共に、レンガの壁に叩きつけられる謎の怪物。

 焼け焦げたフードの奥から苦悶の声を上げ、へし折れた牙の隙間から吐血しながらゆるりと立ち上がる。

 その振る舞いに、先ほどまでの愉悦と加虐性は一切見受けられない。何が起きたのか理解できない動揺のみが、そこにあった。

 

「ア゛、ガッ……!? ナ……ニ゛ガ……オ゛ギ、ダ……!?」

「あっ……しまった。今、銃持ってないんだった……!? アレが無いと、上手く攻撃のイメージが──」

「ゴォ、タエロ゛ォォォォォオッ!」

 

 砕けた顎をガクガクと揺らしながら、妖怪が攻撃を仕掛ける。

 グシャリと潰れた口内に血反吐を含んだまま、悲惨な有様の牙でなお敵を噛み砕こうと地面を蹴る。

 猟犬めいた動きで飛びかかってきた妖怪に対して、乱入者は──

 

「えっと、えーっと……ええい、こうだ!」

 

──ボォワッ!

 

 右手に妖気を込めて、思いっきり横に薙ぐ。

 腕から吹き出し、射出された真っ赤な炎は、自分から飛び込んできた哀れな獲物をそのまま丸ごと呑み込んだ。

 

「ギャアァアアァアァアアァァァアアアァァアァアァァアァアアア!?!?」

 

 乱入者と姫華の脇をすり抜けて、路面に転がり落ちる。

 身に纏っていた襤褸切れが発火するや否や、瞬きするよりも早く全身を炎上させた。

 放たれたのはただの炎ではない。妖気を帯びた炎は、妖怪に痛痒を──致命打を与え得る太陽の力を宿していた。

 

 全身火達磨になりながらもなお、妖怪は苦しみ悶えて起き上がる。

 炎の向こう側から見える鈍い眼光が、乱入者への怒りと憎悪を弱々しく発現させていた。

 口を開けば、入り込んだ炎が喉を焼く。そんな当たり前の痛みを押して、声を荒らげようとする。

 

「オ……オ゛ノレ゛ェェェ……! ヨグ、モ゛──」

「即席……妖術」

 

 ピッ、と。

 乱入者の右人差し指が、妖怪に向けられた。

 それもただ人差し指を伸ばすのではなく、中指から小指を折り畳み、親指は立てる──所謂「銃」のジェスチャーを取って。

 

 銃に見立てられた指先に、小さな炎が灯って球体を形作る。

 それが妖気を編み上げて形成された、妖術の炎である事など最早説明するまでもなく。

 

「《黒点》!」

 

 発声と共に撃ち放たれた小さな火球は、そのまま真っ直ぐ、そして銃弾にも等しい速度で宙を駆けた。

 体中が炎上する苦痛で動きが鈍っている妖怪に、その一撃を避ける術など無い。

 

「エ、ギュッ──!?」

 

 額に、小さく黒い穴が開く。

 脳をズタズタに焼き壊された妖怪は、その身を燃え上がらせたまま仰向けに事切れた。

 

 力尽きた名も無き異形の肉体を、炎が完全に包み込む。

 やがて炎が消失する頃には、焦げた路面の上にこれまた焦げ果てた口紅の残骸が残っているのみ。

 

 姫華は、肩で息をしながら一連の光景を見ていた。

 気を失ったらしい女性を何とかしないと、とか、そもそもあの妖怪は何故生まれたのか、とか、疑問も言いたい事も山のようにあった。

 

 でも……今はただ、目の前に立つ黒マフラーの少年しか視界に入らない。

 

「うん……ぶっつけだったけど上手くいってよかった。手を銃に見立てたのもそうだったけど……多分、技に名前をつける事でイメージが固まったのかな……?」

「あ……あのっ」

「……あ、ごめん。少し気が逸れてた。えっと、悪いんだけど暫くここにいてもらえないかな……? あの女の人も酷い怪我だから救急車を呼ばなくちゃだし、ちょっと知り合いに連絡も取らないと……」

「知り合い、って……あのキツネさん? また、私の記憶を消しちゃうの……?」

 

 少年の動きが完璧に固まった。

 表情も何もかも、凍った像のようにカッチリと。

 

 そのリアクションに、我ながらあんまりなぶっ込み方だったかも……と自戒する姫華。

 しかし、その上でも彼女は自分の舌を止める術を持たなかった。

 

 だって、キッチリハッキリ明確かつ明快に思い出してしまったから。

 

「いや、その……記憶を消した方がいいっていうのは、分かってるんだけどね? こないだもちゃんと説明してもらったし……けれど、その。道人の時を含めれば3回も助けてもらったのに、その記憶をまた忘れちゃうのは……」

「ちょ、ちょっと待って!? え、と……正直、また妖怪に襲われてたって事も結構驚いてるんだけど……そ、それよりも前に」

 

 ガシリと、少年が姫華の両肩を掴んだ。

 彼の顔はノイズが走っているかの如く鮮明には認識できないが……それでも、心の内から湧き出す確信が認識の齟齬を補填する。

 

 間違いない。彼だ。

 確かな結論を胸に抱く彼女へと、少年は問いを投げかける。

 

「あの時の事、覚えてるの? ……白衣さん」

「……やっぱり、八咫村くんなんだね。正確には、ついさっき思い出したんだけど……うん、全部覚えてるよ」

 

 もう、その問いが答えみたいなものでしょう。

 そう言いたい気持ちをグッと堪え、自分の肩を掴む黒マフラーの少年──八咫村 九十九に対して、儚げに笑いかける。

 

「ありがとう、何度も私を助けてくれて。そして……今回の事で、ハッキリ分かった」

 

 ふつふつと沸き立つ感情を抑え切る事ができず。

 姫華は、両の瞳から大粒を零しながら言い連ねた。

 

「妖怪って……本当に、いたんだね。私は……私はっ! 嘘つきじゃなかったんだ!」

 

 感情が、決壊する。

 少女の泣き声は、ただただ夕焼けの空に響き渡っていった。



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其の参拾壱 姫華という少女

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


「……それで、白衣の嬢ちゃんの記憶がまた蘇ってしまったと」

「うん……ごめんね? 僕が2度も、似たシチュエーションで助けちゃったからかも……」

「いえ、そのような事は。普通に考えれば、わての術の効きが甘かったからで御座いやしょう。人を助けたいと思えた善性を、他ならぬ坊ちゃんが気に病む必要はありやせん」

 

 遠くへ去っていく救急車のサイレンが響く中、九十九とイナリは近くの路地裏でそう言葉を交わした。

 

 あの後、事態を察知したイナリが駆けつけた事で、妖怪に肩を噛まれた女性の認識を上手く“ごまかす”事に成功。

 直後に通報を受けてやってきた警察には「発見した時には、肩から血を流して倒れていた」と説明し、簡単な事情聴取を受けたのちに解放された。

 

 そうして女性が救急搬送されていった後、九十九とイナリ、そして姫華はひと気の無い適当な路地裏で話し合う事になった。

 無論、互いに聞きたい事や確認したい事があり、何より姫華自身がこのまま記憶を消されて終わる事を嫌がったのも大きいだろう。

 

「ごめんなさい……何度も何度も、あなたたちに迷惑をかける事になっちゃって」

「……何も、迷惑とは思ってないよ。これから何回同じ事が起きたとしても……僕は、その度に君を助けると思うから」

「そうそう。女子(おなご)を助けるは日本男児の誉れってもんでさ。むしろ、ドーンと胸を張って笑ってもらえた方が助けた甲斐もありやしょう」

「そう……かな。それなら、うん。本当にありがとうね」

 

 あどけない、純白の花の如き無垢な笑顔。

 その可憐さを真っ正面から向けられて、健全な男子高校生たる九十九の胸もドキリと高鳴ってしまう。

 

 頬を少しばかり赤くして顔を逸らした彼を、イナリは「“うぶ”でありやすなぁ。もちっと抱き締めるとかすれば……」と揶揄してペチンと頭を叩かれた。

 自分たちの軽いじゃれ合いを姫華が微笑みながら見ている事に気付き、九十九は小さく咳払い。

 

「……それで、あの妖怪はなんなの? 前に戦った2体と比べると……随分、弱かったけど」

「ふぅむ。その場を直接見た訳では無いので推測になりやすが……恐らく、坊ちゃんと嬢ちゃんが見た妖怪はガキツキで御座いやしょう」

「餓鬼憑き……? それって、どんな妖怪?」

「へぇ。厳密には、九十九神の()()()()()とでも言いやしょうか。妖気を溜め込み、妖怪に変化(ヘンゲ)する機会がありながら、不完全な変化(ヘンゲ)しか果たせなかった者どもの事でさ」

 

 ちっちゃな前脚を組んで、イナリは眉間に皺を寄せながら解説し始める。

 彼の説明が始まると同時に、九十九と姫華は示し合わせた訳でもなく寄り集まった。

 

「妖気をまともに練り上げる事もできず、妖術も発現しない。それどころか、核となった道具の存在を保証する事もできない。ただ『ガキツキ』の名を冠するだけの……ま、言うなれば『道具の幽霊』みたいなもんでありやしょう」

「元になった道具が完全に死ぬ……だから、あんなに弱かったんだ」

「わてら妖怪は、道具に命が宿って神と成りし九十九神。元の前世(どうぐ)を疎かにしちゃあ、三下未満の形無しってもんでさ。おまけに、妖気が溜まりやすい場所ってのは大体、奴ばらの土壌となり得る道具が捨てられている事も多い。まったく、厄介な連中でありやすよ」

 

 ケッ、と吐き捨てる。

 彼の忌々し気な様子を見るに、イナリたちもガキツキの絡んだ事件や騒動に悩まされた過去があるのかもしれない。

 見るからに理性の無いクリーチャーのような存在だった為、恐らく和解や鎮静化は不可能だったのだろう。

 

「ガキツキ……。それが、私とあの女の人を襲った……妖怪、なんだね」

「……白衣さんは、どうしてガキツキに襲われてたの?」

「えっと……その、私にもよく分かってないんだけど……私より前に襲われてた女の人の前で、口紅があの妖怪になったの。多分……あの女の人が持ってたものだと思う」

「それは……ちぃと、妙な話で御座いやすね。口紅などという消耗品に、妖怪に成れるだけの妖気が蓄積されるとはとても思えやせん」

「と、言われても……あの時、私が見たのは……」

 

 口許を抑え、先ほどまでの光景を落ち着いて思い返す。

 あの凄惨な一部始終を思い出すのはそれなりに苦しかったが、助けてくれた人が側にいるなら怖くない。

 

 ゆっくり、ゆっくり思い出して……そして、ふと気付いた事がある。

 口紅を包み込む紫色の光、その最中に……光そのものとは違う発光源があった筈だ。

 そう、あれは確か……

 

「……書紋(シンボル)。あの口紅に、幸運の書紋(シンボル)が書いてあったわ」

「それ……本当? 書紋(シンボル)、って……あの、占い師に書いてもらうって噂のアレだよね」

「うん、それで合ってると思うわ。確証は無いけど……でも、口紅に書かれた図形みたいなのが紫色に発光して……それから、妖怪になったん、だと……思う、んだけど……」

 

 己の記憶と推測に自信を持てず、姫華の口調が段々としどろもどろになっていく。

 

 もしも見間違いだったら、勘違いだったらどうしよう。

 点と点を結びつけたいという、自分の中の勝手な願望が反映されたまやかしの記憶かもしれない。

 そもそも、こんなあやふや極まりない証言を、ちゃんと信じてくれるとも限らない。

 

 姫華は、頬を伝う冷たい汗の感触を覚えた。

 

「ご、ごめん! もしかしたら見間違いかもしれないからっ、そんなに信用しないでもらえると──」

「信じるよ」

 

 チャチな言い訳を断じるかの如く、九十九はキッパリと言い切った。

 そのあまりに即断過ぎる一言に、姫華はおろかイナリでさえポカンと口を開く。

 

「え、っと……信じて、くれるの? こんな、何の証拠も無い……あやふやな話を」

「うん。勿論、結論を出すのはちゃんと調べてからになるだろうけど……でも」

 

 知った風に諭すでも、格好つけた訳でも、したり顔で口説くでもなく。

 いたって自然に、それが当たり前の事であるかのように。

 

「白衣さんは……こういう事で、嘘をつく人じゃない。付き合いは短いけど……それでも、僕はその事を知ってるから」

 

 眠たそうで、ダウナー染みた雰囲気で、どことなく陰気な眼差し。

 それでも、確かな真剣さを宿した九十九の視線は、ブレる事なく真っ直ぐに姫華を見ていた。

 

「……っ!!」

 

 その真っ黒い目が、姫華の心に深々と突き刺さった。

 思わず口を両手で抑え、今どんな表情をしているのかを必死になって彼らからひた隠す。

 そんな感情の暴走を察し取ってか、彼女の心を揺り動かした当の本人は、心配そうに顔を覗き込んでくる。

 

「だ……だいじょう、ぶ? えっと、しんどいなら今は何も……」

「ううん……大丈夫。きっと、大丈夫だから……大丈夫……」

 

 吸って、吐いて、吸って、吐いて。

 何度も何度も、しつこいくらいに深呼吸を繰り返して、ようやく落ち着きを取り戻した姫華。

 九十九とイナリの不安げな視線が集中する中で、彼女はゆっくりと口を開いた。

 

「……ねぇ、八咫村くん、イナリさん」

「うん?」

「……今の話とはまったく関係が無くて……ただ、私が私の身の上話を聞いてもらいたいだけなんだけど……。それでも、聞いてくれる?」

「うん。それが、白衣さんの望む事なら。ね? イナリ」

「へぇ。そこで口を挟むような野暮は、粋な江戸っ子のする事じゃねぇでさ」

「……ありがとう」

 

 すぅ……と、小さく息を吸う。

 そうやって気を整えている内に、路地裏を静けさが支配する。

 だから、どんなにか細く弱々しい声色だったとしても、2人は彼女の言葉を確かに聞き取る事ができた。

 

「……私、ね。昔……妖怪に、命を救われた事があったんだ」

「それ、って……いつの事?」

「小学1年生の夏休み。今でも思い出せるわ。遊びに出かけた先の海で、溺れて死にそうになった時……腰から下が魚になった女の人に、助けてもらったの」

 

 その話を聞いて、九十九はイナリを見やる。

 視線を受けた彼は、ちっちゃな前足を組んだままに小さく唸った。

 

「今の話が本当なら、恐らくどこぞの人魚か磯撫(イソナデ)か……いずれにしても魚の妖怪で御座いやしょう。とはいえ正直、わてらも『現代堂』の者どもも、戦いの場は陸地がほとんどでやしてな。海の妖怪については……申し訳ありやせんが、あまり詳しくないんでさ」

「ううん、いいの。そういう妖怪が実際にいるって事も知れたし。……それで、溺れてた私を助けてくれたその人は、自分が妖怪という存在だって教えてくれて……大人たちに見つけてもらうまで、ずっと私の側にいてくれたの」

 

 胸の前で手を組み、祈るようにしてその時の情景を思い出す。

 当時の幼い姫華にとって、それは夢のような……目の眩むほど綺麗なひと時だったのだろう。

 

「……でも、その事を周りに話したら、皆から嫌になるほど笑われたの」

 

 ……故に、その顔は自然と陰る。

 その時の光景が夢のように綺麗だったからこそ、その後に来る景色が暗く鬱々としたものに見えるのだ。

 

「誰も信じてくれなかった。混濁する意識の中で見た幻だって、そう言ってくれる人はまだ善かった。でも、私の事を嘘つきだって……デタラメだらけの大法螺吹きだって、同級生たちはそう言って笑って私を馬鹿にした。イジメられた事もあったっけ」

 

 彼女の語りに、九十九も無意識に顔を曇らせた。

 あまり、聞いていて居心地の良い話ではないのもそうだが……何より、そういった他者からの悪意は、彼もまた好きではないのだ。

 

「……辛いなら、その先は……」

「ううん……平気。あいつらの言う事だって、ある意味当たり前の事だもの。……妖怪なんて、常識的に考えている筈が無い。科学的にあり得ない。私に、それを覆せるだけの証拠を出す事ができない以上……間違ってるのは、私の方だったから」

 

 そうして、姫華は制服の内側に手を差し込んだ。

 ゴソゴソと内ポケットの中を探り……1枚の手鏡を取り出す。

 その手鏡を目の当たりにして、イナリが目を丸くした。

 

「ほう……手鏡で御座いやすか。随分と、大切に使われているようでありやすね」

「……そういうの、分かるの?」

「へぇ。生まれも作りも用途も違えど、同じ人に使われる道具で御座いやすからね。……とても長い間、決して粗末にされる事なく、大事に大事に使われている。それが、見ただけでありありと分かりやす」

「……そっか」

 

 そこで漸く、どこか儚げだった姫華の口許が柔らかく綻んだ。

 手鏡の事を褒められて、心の底から嬉しさを覚えているのが、傍目から見てもよく分かるのだ。

 故に九十九も、心地良さそうな表情を浮かべて鏡を見た。

 

 持ち手に彫り込まれた造形や、裏面の装飾に施されたデザインは、随分と古い……それこそ昭和初期を思わせるレトロ調のもの。

 当時は色鮮やかだったろうが、今はそれなりに色褪せている。尤も、それで手鏡の魅力が欠ける事はなく、むしろより美しく映えていた。

 

 そして何よりも、鏡面。

 ピカピカに磨き上げられたそれには、ほんの少しも曇りが見えない。

 よほど大切に扱われ、大事に手入れを繰り返されてきただろう事が伺える。

 

「……とても、いい鏡だね。素人の僕でも、よく分かる」

「ふふ、ありがと。これはね、亡くなったお婆ちゃんの形見なんだ。私が人魚に……妖怪に助けてもらったって話を、唯一信じてくれた人。私が中学校に上がる前に天寿を全うしたんだけど……その直前に、私にプレゼントしてくれたの」

 

 鏡面にじっと目を凝らす。

 曇り1つ無いほどに磨かれた鏡には、持ち主である姫華の表情がクッキリと映し出されていた。

 それが嬉しくて、姫華はこの手鏡をもらった時からずっと手入れを欠かした事は無い。

 

「お婆ちゃん、言ってた。道具を大切に、大切に使い続けると、いつか道具に神様が宿るって。もしもぞんざいに扱うと、悪い神様が宿って、持ち主にイタズラをしちゃう。だから道具は大切に扱って、良い神様を宿らせなさい……って」

「……ほう? 嬢ちゃんの御祖母様は、妖怪について知っていたのでありやしょうか。それは実際、理に適っている言葉でさ」

 

 イナリが漏らした感嘆に、九十九は緩く首を傾げた。

 

「そうなの? ……そういえば、イナリたちみたいな良い妖怪と、『現代堂』の悪い妖怪の違いって何なの?」

「へぇ。と言っても、妖怪に善悪はありやせん。あるとするならば、元になった道具の使い手の良し悪しでさ。大切に使われた道具が成る九十九神は、穏やかな妖怪に。乱雑に扱われた道具が成る九十九神は、イタズラ好きの……場合によっては、人を害する妖怪に」

 

 ピコピコと、ちっちゃなキツネの耳が揺れる。

 今の彼の言葉に当て嵌めるならば、イナリの元になった急須やお千代の元になった巾着は、とても大事に使われた道具なのだろう。

 反対に、『現代堂』の道具たちは非っぽく扱われたり、或いは捨てられたりした結果……人間を直接的に害するような存在になった。

 

 無論、これは九十九の推測に過ぎないのだろうが……それでも、そう的外れな考察では無い筈だ。

 

 使い手が善であれば、善良に。使い手が悪であれば、悪逆に。

 さながら、今まさに姫華が手にしている鏡のような存在。それが、妖怪なのだろう。

 

「妖気が映し出すのは、人の想い。道具に宿る妖気は、人の感情を色濃く反映しやす。もしも嬢ちゃんの手鏡が妖怪に成るとすれば……それはきっと、嬢ちゃんに似て優しい妖怪になるでしょうや」

「そう、なんだ。……私がちゃんと、大切に使い続ければ、この子もいつか……いつか……」

 

 ポタリ、ポタリ、と。

 綺麗な手鏡に、数滴の水滴が落ちる。傾けられた鏡面から、水滴がすぅ……と流れ落ちていく。

 

 例え空を見上げたとしても、現在の天気は晴れ。雲も少なく、雨が降る兆しは無い。

 ならば何故? そんな事、姫華自身が一番よく分かっていた。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……! 私、妖怪がちゃんといたって事……最後まで信じ切れなかった……! 皆に笑われて、皆から馬鹿にされてイジメられて……いつの間にか私も、妖怪を否定する側に回っちゃってた……!」

 

 九十九に助けられた時、あれほど流した筈の涙が、またも止めどなく溢れ出している。

 それでも、この涙の奔流を止める事はできない。止められる気も、止める気もしなかった。

 

「お婆ちゃんだけは、お婆ちゃんだけは信じてくれたのに……! だから、この手鏡をくれたのに……! 私っ、私……なんで、妖怪なんていない、って……妖怪にいてほしくない、って……思っちゃったんだろう……!?」

「……白衣、さん……」

「ごめんなさい……! ごめんなさい、お婆ちゃん……! ごめんなさい……あの時、私の命を救ってくれた妖怪さん……!」

 

 甲高い慟哭が、3人だけの路地裏に木霊する。

 自分が見た光景を信じ切れず、いつしか否定するようになった後悔と懺悔。

 その哀しみが、姫華に涙を枯らす事を許さなかった。

 

 今の姫華にできるのは、ただ泣き喚きながら涙を流す事のみ。

 今の九十九にできるのは……そんな彼女の背中を、優しくさすってやる事のみ。

 

「……大丈夫、大丈夫だから」

 

 それが気休めにしかならないとしても、九十九は手を止める事だけはしなかった。



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其の参拾弐 プチ作戦会議

 姫華が泣き出してより、少しの時間が経過したのち。

 

「……落ち着いた?」

「グスッ……うん、たぶん……」

 

 目が真っ赤になるほど擦って涙を拭い、九十九から貸してもらったポケットティッシュで鼻をかみ。

 それでも滲み出てくる涙と鼻水をこれでもかと拭い切って、漸く姫華は落ち着きを取り戻した。

 

 チーンッとティッシュで鼻をかむ彼女を横目に、イナリはピョコンと跳躍して九十九の頭の上に乗っかった。

 黒い髪の毛をクッション代わりに、ちっちゃな後ろ足で自分の顔を軽く掻いたのち、2人の注目を集める形で咳払い。

 

「……さて、嬢ちゃんの話を聞く限り、本格的に妖怪の香りがプンプンとしてきやした」

「幸運を呼ぶおまじないの書紋(シンボル)と、それを書く占い師……。どっちも、裏で『現代堂』が関わってるっぽい……んだよね?」

「恐らくは、という話でやすがね。それで今日、坊ちゃんと別行動を取る事になったわては、その足であのスズメ……お千代と一緒に、街の調査に繰り出したんでさ」

「あ、お千代も外に出る事になったんだ?」

「へぇ。何分、人手がいる事態でありやすから。それにご当主様直々に『今は儂より九十九の手伝いを優先しなさい』とお達しが出やしてね。……それで、結果で御座いやすが」

 

 イナリは大きく、それはもう大きく溜め息をついた。

 その吐息に込められているのは、途方も無い疲労感だろうか。

 

「何も無し。この街のどこにも、おかしな点はありやせんでした」

「そんな……!? でも私は……」

「……いや、待って。それって……言葉通りの意味?」

「いいえ。()()()()()()()()()()()()()()()。そう言うべきでしょうや」

 

 ちっちゃな前足を舐め、手早く毛づくろいをしながら。

 人間臭い動きで頬杖をついたイナリの表情は、困った風に歪んだ険しいものだった。

 

「いいでやすか? そもそも妖気ってのは、地中から吹き出すものなんでさ。この国の土地には『地脈』という気の流れがあって、その流れと巡りを調整する事で、人間も妖怪も自分たちの住処を整えてるんでありやす」

「それは、前に爺ちゃんからも聞いたけど……今回の場合、どう関わってくるの?」

「要するに、地脈の流れが綺麗過ぎるんでさ。本来あって然るべき淀みも、さっき言ったガキツキの発生源になるような吹き溜まりも、何もかも綺麗サーッパリ。明らかに、人為的なものとしか考えられやせん」

「でも……じゃあさっき、白衣さんたちを襲ったガキツキは……」

 

 それは何ともおかしいなと、首を傾げる九十九。

 その横で、彼に寄り添われる形で座る姫華がふと声を上げた。

 

「……ねぇ、イナリさん。その気の流れ、って……そう簡単に変えられるようなものなの?」

「言うなれば、部屋の模様替えの規模を遥かに大きくしたようなものでありやすからねぇ……。1回や2回の妖術で、そう簡単に変えられるなら苦労はしやせん」

「なら……たくさんの人が、ちょっとずつ協力したら?」

「それこそ、時の権力者が散々試そうとしたもんでさ。そりゃあ、この街だけに限定すれば可能で御座いやしょうけど……問題は数でありやすね。奴ばらの『げえむ』とやらは、1回につき1体の妖怪のみが参加できると聞きやす。それをどうやって……」

「……書紋(シンボル)

 

 九十九とイナリは、まったく同時に姫華を見やった。

 姫華も同様に、2人をじっと見つめ返す。

 3人の視線が中空で交差して、それぞれの認識が合致した事を言外に示していた。

 

「あの書紋(シンボル)が、こないだ私たちを襲ったネコの妖怪みたいな悪い妖怪の仕業だとして……アレの1つ1つが、その地脈? っていうのに干渉している……みたいな?」

「それは……いえ、あり得なくもないでやすね。その印1つだけなら、この街に流れる妖気に大した干渉はできやせん。……でも今、この街には」

「たくさんの女の人が、幸運のおまじないを書いてもらってる……よね。白衣さんの友達も、書いてもらったって言ってた。もしも……あの書紋(シンボル)の全てに、地脈の流れを変える妖術が仕込まれていたとしたら……」

 

 誰もが、黙りこくった。

 

 偶然で終わらせるには、あまりにも推測が立てやすく。

 必然と結論づけるには、あまりにも状況証拠ばかりで。

 

 それでも、仮に。

 この仮説が、本当だったとするならば。

 

「……何が、起きると思う?」

「まぁ……何をどう解釈しても、奴ばらにとって都合の良い事でしょうや」

 

 やおらに、イナリが九十九の頭上から飛び降りる。

 しゃなりと着地した彼の臀部では、モコモコフワフワの尻尾がピンと立っていた。

 

「お千代はどこ? 街に出てるんだよね?」

「街中を探ってやす。合流は容易いでやしょうが……」

「これ、僕らも動いた方が……いい、よね。多分、放置し過ぎると不味いって言うか……むしろ既に、僕らは後手に回ってる感じがする」

 

 目に見えない、しかし確実に迫る深刻な事態を予感して、少年の喉が鳴る。

 思考の海に沈もうとする彼を見て、姫華は不安げに身を震わせ……そこで、気付いた。

 

「ねぇ……私は、どうしたらいいの?」

「……え?」

「今の流れで言うのもなんだけど……。やっぱり、イナリさんに記憶を消してもらって、それで……何事もなく家に帰った方が、いいの……かな?」

 

 少女の透き通った目が、困惑で淡く揺れる。

 その眼差しを正面からぶつけられて、九十九は微かに迷った。

 

 普通に考えれば、彼女の言う通りの事をすればいいだろう。

 けれども、姫華は既に2度も妖怪関連の騒ぎに巻き込まれ、2度も命の危機に直面していた。

 

 勿論、九十九は何度だって彼女の助けを呼ぶ声に応え、その度に助ける所存だ。

 しかしそれは、助ける度に彼女から助けられた記憶を……妖怪を目の当たりにした記憶を消すという事を意味している。

 

 正直なところ……姫華の身の上話を聞いた今、その決断をするのはどうにも難しいというのが本音だった。

 

「……どうしよ、イナリ。どうしたらいい?」

「と言われやしてもねぇ……。正直、妖怪とかいうバケモンに襲われた記憶なんて、あっても得するような事は……?」

 

 ピクリ。

 震えたのはイナリの耳でも尻尾でもなく、鼻先だった。

 

 何かを感じ取った彼は怪訝な表情を浮かべて、てこてこと姫華に近付いた。

 一体何がと訝しむ彼女を他所に、イナリの鼻先が上下に震え出す。

 

 その行為が……姫華の匂いを嗅いでいるのだと少年少女が認識するまでに、十数秒ほどを要した。

 九十九は見るからに当惑を隠せず、姫華も顔を薄く赤らめる。

 

「イ……イナリ、さん? な、なんで、私の匂いを……」

「ちょっと、イナリ……? そういうのは、流石にデリカシーとか……」

「別にやましい意図は何もありやせんよ。ただ……あー……こいつぁ、成る程……」

 

 一通り匂いを嗅ぎ終えたのか、イナリの口から溜め息が漏れ出した。

 溜め息をつきたいのはこっちだ。そんな意図の込められた視線を2人の若者たちからぶつけられて、ちっちゃなキツネは「ヘッ」と鼻で笑う。

 

「まったく、犬猫が匂いを嗅ぐのと何が違うんだか……というのは、一旦置いておきやしょう。しかしこりゃまた、難儀な生まれだ事……。流石のわても予想外でさ」

「だから……何が? 白衣さんの……その、匂いを嗅いで……何が分かったの?」

「へぇ。嬢ちゃんの体から、ほんの微かですが妖気の香りがしやした。妖怪に襲われた時にこびり付いたでもなく、嬢ちゃん自身が発したものでさ」

「……へっ?」

 

 姫華の目が丸まる。九十九も、その言葉の意味を理解できずにいるようだ。

 そのリアクションは予想していたようで、イナリは今1度、ハッキリと口にした。

 

「白衣の嬢ちゃん。お前さんには、(まじな)い師の素質がありやす。それはわてら妖怪と同様、妖気を操り力とする才能で御座いやす」



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其の参拾参 (まじな)い師の才能

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


「お前さんが持っているのは、紛う事なく(まじな)い師の才能でさ。ですが今の現世(うつしよ)で、その血統が絶えず続いているとも思えやせん。恐らくは……突然変異のものでしょうや」

「へ……えぇえええっ!?」

 

 突然そう言われた姫華が素っ頓狂な声を上げたとして、責められる者は誰もいまい。

 宣告した当のイナリでさえ、困惑と驚きを隠せないでいたのだから、よほどの事なのだろうと九十九は思った。

 

「……(まじな)い師って、何をする職業なの? 名前の通り、おまじない……とか?」

「近いようで遠いようで、ってとこでやすね。先ほども言った通り、人間でありながら妖気を操る才を持った者の事でさ。それでいて、坊ちゃんのように妖怪と成った訳でもありやせん」

「えっ……? 人間にも、妖気って操れるの?」

 

 思わず、そう呟かずにはいられなかった。

 反射的に思い浮かんだのは、自分が初めて妖怪としての力を得たあの時……敵対する妖怪カタナ・キリサキジャックに突き付けられた言葉。

 

『そもそも、ただの炎で我ら妖怪を傷つける事はできない。貴様の放つ炎は、妖気を宿した力──即ち、妖術だ。妖術を使える存在なぞ、妖怪以外にあり得ない』

 

『先ほど変化(ヘンゲ)したばかりの我でさえ、それを本能的に知り得ている。貴様も同じ妖怪ならば、この事実を否定する事はできまい?』

 

 あの時、奴は確かにそう言っていた。

 奴の言う通り、あれが本能から生じた知識であるならば……その言葉が嘘偽りであるとは、どうにも思い難い。

 

「前に、妖術を使える存在は妖怪しかあり得ないって言われた事が……」

「確かに、()()()()()()のは妖怪だけでしょうや。ですが、単に()()()()()だけであれば、素質のある人間にも可能でありやす」

 

 なんとも頓知のような話だ。

 そう思わずにはいられないが、その頓知のような違いこそが重要なのだろう。

 

 妖術を使えないとは即ち、九十九や『現代堂』の者たちが使うような超常的な技や現象を起こす事ができないという事。

 そういった超常的な技を振るうまでに達しないのであれば、人間にも妖気が扱えておかしくないのかもしれない。

 九十九はそう考察しつつ、イナリの解説に耳を傾けた。

 

「そもそも、地中から吹き出した妖気が空気中を漂っている以上、人間だって体内に妖気を取り入れておりやすからね。それが人間にとって害の無い濃さだから、誰も気に留めていないだけで……」

「……逆に言えば、人間を変質させ得る濃度の妖気を取り込んだら……。人間も、妖気に干渉できるように……変化(ヘンゲ)する?」

変化(ヘンゲ)、と言えるほど劇的なものではありやせんがね。それが(まじな)い師である事は確かでさ。体質……と言ってもいいやもしれやせん。事実、昔は才能を脈々と受け継ぐ家系があったくらいでやすからね」

 

 イナリのつぶらな瞳が、姫華を捉えた。その事に気付き、彼女は自分の胸をそっと押さえる。

 心臓の鼓動が、いやに激しく感じられて仕方が無いのだ。

 

「彼らにできるのは妖気を手繰り、その流れを自分の都合のいい方向にほんの少しだけズラす事くらい。ですが彼らは、護符や数珠などの……言わば外付け回路を利用して、妖気を変質させる術を身に着けやした。その最高峰が、俗に言う『陰陽師』でさ」

「えっ? 私……陰陽師になれるの?」

「夢がでっかくて結構でやすが、そこまでは難しいでしょうや。才能が足りやせん。時代が明治に移り変わる頃には、(まじな)い師なんて家系どころか素質を持つ者すら途絶えて絶滅したもんだと思っていやした。その点、才能があるだけ奇跡ってもんでさ」

「むぅ……少し、世知辛い話かも」

 

 やや唇を尖らせた姫華に対して、イナリはフルフルと首を横に振る。

 

「わての“ごまかし”が正常に効かず、記憶を取り戻したのも、その素質に依るのもで御座いやしょうが……そうなると、記憶を消す消さないなどと言っている場合では無いかもしれやせんな」

「それって……白衣さんが、今より危険な状況に巻き込まれるような事?」

「へぇ。(まじな)い師の生き肝……心の臓は、妖気を潤沢に蓄えているだけでなく、人間として持つ生気も豊富かつ芳醇。妖怪がそれを抉り出して喰らえば、より強い力を得られる……とされているんでさ」

「それは……」

 

 息を呑む音が聞こえた。

 

 (まじな)い師の素質を持つ者の生き肝……即ち、姫華の心臓を抉り出して捕食する。

 そのようにして力を高める事ができるのであれば、今後も彼女の命を狙う妖怪が現れるだろう事は想像に難くない。

 

 実際、その可能性に行き着いたからこそ、姫華の顔から血の気が引きつつあった。

 

「妖怪であれば、そいつが(まじな)い師であるかそうでないかを嗅ぎ分ける事は容易いでやしょう。戦う術も知識も持たない今の嬢ちゃんは、そいつらにとって格好の獲物でさ」

「……その割には、イナリはついさっき気付いたみたいだけど。チョウチン・ネコマタの時も、近くにいたのに気付いてなかったみたいだし」

「ケッ。人食いをすればするほど、()()()()鼻が効くようになるもんでやしてね。“魔王派”の連中と違って、わては生まれてこの方、人食いは一切やっておりやせん。鼻が鈍いのは、むしろ“八咫派”としての誇りってやつでしょうや」

 

 そういうものか、と一先ず納得する。

 確かに九十九としても、イナリが人間を喰って力を得ていたと言われるよりは納得のいく話だ。

 

 それよりも、今重要なのは姫華の事だろう。

 イナリの危惧した通り、姫華は既にチョウチン・ネコマタやガキツキに命を狙われていた。

 それが彼女の生まれ持つ素質に由来するならば、きっとこれからも似た事態が起きるかもしれない。

 

 そんな九十九の考えを見通してか、同じく思案の中にあった姫華が顔を上げる。

 彼女の目には、これまでのように畏れや戸惑いこそ混ざっているものの、それだけではない意志も込められているように感じられた。

 

「……私、ちゃんと学びたい。(まじな)い師の事とか、妖怪の事とか……色々。自分の身を守るのもそうだけど……何より、私自身が知らないままではいたくないから」

 

 その決意に、真っ先に同意を示したのは九十九だった。

 

「……ん、分かった。それなら……こういうのは、イナリに任せた方がいいかな? 妖術の事とか、色々詳しいし」

「と、言いやしても……これは、ご当主様にもお伺いを立てねばでしょうや。わてもお千代も生まれついての妖怪。妖気を操ると言っても妖術が本場でやすから、そういった基礎的な技術はやはりご当主様の得手で御座いやしょう」

「そっか。じゃあ、僕からも爺ちゃんにお願いしてみる。勿論、その間に何かあったら僕がどうにかする。……してみせるから」

 

 思いの外あっさりと受け入れられた事に、当の姫華本人が当惑を示した。

 目をパチクリと瞬かせて、彼らのやり取りに若干の驚愕を滲ませている。

 

「えっと……そんなあっさり決めちゃって、いいの? 危険だからやめた方がいい、とか……そういうのを言われると思ったんだけど」

「……正直に言って、危ない事をしてほしくないのは確かだよ。もしかしたら、妖怪との戦いで白衣さんが死んじゃうかもしれないし……何より、僕自身が君を巻き込みたくないから。……でも」

 

 ムッスリとした顔で、少女を見据える。

 けれども、その表情が額面通りの感情ではない事を彼女は知っていた。

 決して感情豊かではないからこそ、彼の持つ真摯さが目を通して強く伝わってくる。

 

「それが、白衣さんの本当にやりたい事なら……僕は支えるし、一緒に戦うよ」

「……うん」

 

 彼の優しい言葉が嬉しくて、姫華の口が思わず緩む。

 自分を信じてくれた事、自分を慮ってくれた事、自分を肯定してくれた事。

 その全てが、荒んでいたこれまでを癒やしてくれるようで……。

 

「ありがとう、八咫村くん……ううん。()()()()──」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヒヒヒッ、乳繰り合いも結構だけどさァ。今回の『ぷれいやあ』が、そろそろテコ入れをしたいとの事でねェ」

 

 もうもうと、煙が立ち込める。

 何の前触れも無しに湧き出した煙は、九十九たちのいる路地裏を瞬く間に取り囲む。

 3人が気付いた頃には、ツンと鼻を刺す煙の匂いがむせ返るほどに充満していた。

 

 その嫌になるほど甘ったるく、それでいて青臭い煙の匂いを嗅いで、九十九とイナリは目を見開く。

 そんな匂いを好む存在など、彼らが考える限り1人しか存在しなかった。

 

「このっ、甘い匂いの煙……どこかで……」

「わての鼻が馬鹿になっちまうほど濃い妖気の香り……妖術の煙、煙草!? まさか──ッ!?」

「ヒヒヒヒヒ。そのまさかさァ、“八咫派”の小姓ギツネ。80年も油揚げばかり喰って、ちィとばかし勘が鈍ってるんじゃァないのかい?」

 

 人を嘲笑う悪意に満ちた、軽薄な声色。

 頭上から発せられたそれに反応して見上げてみれば、やはり予想通りの人物がそこにいた。

 

 ビルの2階部分に置かれたらしいエアコンの室外機に腰掛け、驚くほど長い煙管(キセル)からプカプカと煙草を()む男。

 全体的に枯れ木のような、どこか虚無的な雰囲気をアクセサリーの如く纏った着物姿の彼こそ、かつて九十九が邂逅した人物。

 妖怪カタナ・キリサキジャックを生み出し、白昼の博物館を惨劇の渦中へと変貌させた恐るべき──

 

「お前が……爺ちゃんたちの言う、山ン本……!?」

「ヒヒッ。あァ、そうとも。あたしこそ“魔王”山ン本 五郎左衛門が2代目、(あざな)を山ン本。またの名を『現代堂』総大将、妖怪キセル・ヌラリヒョンさァ。以後、よろしくお願いするよォ……ヒヒヒヒヒッ!」

 

 享楽的な嗤い声が、九十九たちの耳に刺々しい不快感を植え付ける。

 その伽藍堂のような目が細まり、眼下の者たちをジロリと()めつけた──その直後。

 

「きゃあぁあっ!?」

「ッ!? 白衣さん!?」

 

 悲鳴に驚き振り向けば、今まさに背後から姫華に組み付き拘束する老爺の姿を認めた。

 見るからにヒョロヒョロとした肢体にも拘わらず、その膂力は姫華に一切の抵抗も、拘束からの脱出も許さない。

 

 九十九やイナリが動こうとするや否や、老爺はギロリとドス黒い眼光を放った。

 目や身に着けた装束の漆黒に相反するように、その肌や髪は恐ろしいほどに真っ白い。

 

「ヒッヒッヒッヒ……ああ、近付くのはオススメしませんよ。あなたがワシを攻撃するよりも、ワシがこの女子(おなご)の首をへし折る方がよほど早いですからの」

「ぐ、うぅう……っ!? この、人……昨日会った、占い師の……!?」

「おお、覚えておいてくださったとは、嬉しい限りですな。ワシもよく覚えておりますよ。折角、ワシの『げえむ』に必要な仕掛けを仕込もうとしていたのに、つれない返事を頂きましたからなぁ……ヒッヒッヒッヒッヒ」

 

 サルを思わせる、不愉快で上擦った嗤い声。

 そんな老爺の嘲笑を愉快そうに聞きながら、山ン本はもう1度九十九たちを見た。

 手に持った煙管(キセル)の先端が彼らを指し示す様は、さながら獲物の喉元に突き付けられた剣の切っ先のよう。

 

「さァ……派手な花火を上げて、本格的に『げえむ』を始めようじゃァないか。妖怪と、人間の、命を賭けた()()()()()をねェ。ヒヒ、ヒヒヒヒヒヒッ!」



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其の参拾肆 猩々の一筆書き

「離……してっ……! 嫌っ、離してっ!」

「ヒッヒッヒ……動けば動くほど痛いですよ、お嬢さん。ワシとて妖怪。人間相手に情けをかける義理は無いのですから」

 

 ガッチリと組み伏せられた痛みに喘ぎつつも、その拘束から逃れる事ができずにいる姫華。

 そんな彼女をホールドしながら、肌も髪も白い老爺はサルのように気味悪く嘲笑った。

 

「おっとォ……お前さんたちも動かない事だ。あくまであたしは、『げえむ』の場を整えるお膳立てをしに来ただけ。あたしからは攻撃しないけど、そっちから攻撃してくるようなら……ヒヒヒッ、この場を派手に巻き込むくらいの抵抗はしたっていいよねェ?」

「くっ……!」

「……どうか堪えてくださいやし、坊ちゃん。ここまで奴の妖術が張り巡らされちまっては、わてらはもうまな板の上の鯉も同然……!」

 

 腕から炎を放出しようとしていた九十九が、その言葉を受けて不承不承に妖術を解く。

 その足元では、彼を諭したイナリもまた歯ぎしりをして山ン本を睨みつけている。

 

 だが、彼らに睨まれた程度で怯むような妖怪である筈が無い。

 むしろ、山ン本は自分に突き刺さる視線を味わって虚ろな嗤い声を漏らした。

 

「おォ、怖い怖い。最近の若者は短気でいけねェや。『待つ』って事を知らないからねェ……ヒヒヒヒッ! これから面白い催しが見られるっていうのにさァ」

「催し、だって……!? お前たちがやろうとしている……『げえむ』とかいう馬鹿げた無差別殺人の事か!」

「ヒヒヒヒ。馬鹿げた、なんて随分なご挨拶だねェ。とォっても面白くて刺激的な遊びじゃないかァ」

 

 ヘラヘラとした薄っぺらい笑み。

 虚ろな笑みを顔に貼り付けた山ン本は、煙管(キセル)から青臭い煙を目一杯に吸い込んだ。

 

 甘ったるい煙の味を口の中で緩く転がして、ゆっくりと吐き出していく。

 彼がその行為を繰り返す度に、この場に立ち込める不愉快な煙はより一層、その濃度を増していた。

 

「人間を殺し、甚振り、辱め、怨嗟の叫びを高らかに響かせる。お前さんたち人間が苦しみ悶えるほどに、昼の光は陰り、夜の闇が濃くなっていく。こんなに楽しい遊びは、そうそう無いだろう? 人の不幸は蜜の味、人が死ぬ様は金塊にも勝るよォ……ヒヒヒッ」

「……ふざけてる!」

「そう思うのは勝手だけどねェ、もう『げえむ』は始まっているのさァ。伸るか反るか、中断も放棄も許されない。後はこちらが死ぬか、そちらが死ぬかだけの話だよォ。……さて、お題目はここらでいいだろうさァ」

 

 煙管(キセル)を指先だけで器用に回し、クルクルと巡る先端から立ち昇る煙の螺旋を弄びながら。

 山ン本の意識が向かう先は、九十九でもイナリでもなく、姫華を組み伏せている老爺にあった。

 

()()。いつまで遊んでいるんだい? あたしにお膳立てを頼んだのはお前さんなんだ、早く始めちまえよォ」

「……まったく、信ン太といい事を急く方ばかりだ。いいでしょう。事ここに至っては、この姿にも意味はありませんから」

 

 減らず口も程々に老爺が取り出したのは──1本の筆。

 穂先から黒い墨汁の滴るそれを握り締めた瞬間、老爺の肉体が大きく変成を始めた。

 

 色素の抜け落ちた白い髪と髭が膨れ上がり、身に纏う外套が筋肉の隆起によって内側から弾け飛ぶ。

 ミチミチと音を立ててはち切れんばかりの筋肉と、頭頂部から爪先までを覆い尽くす真っ白い体毛が絡み合い、1つのシルエットを形成した。

 

「こいつ……デカいゴリラ!? 毛が白いけど……」

「いや、アレは猩々(ショウジョウ)! 清より伝来したサルの妖怪でさ!」

「ヒッヒッヒッヒッヒ……! 如何にもその通りで御座います」

 

 占い師を騙る老爺の正体。それは、巨体のサルだった。

 成人男性よりも一回り大きいほどの体躯と、その全てを覆う白の体毛を持つ異形の類人猿。

 太い指先で筆を摘み上げ、その穂先をゆるりと振りながら、老爺だった妖怪はおぞましく歯を剥いた。

 

「ワシは妖怪フデ・ショウジョウ。今回の『げえむ』を担当する『ぷれいやあ』です。ワシの得意とする妖術は……これ、この通り」

「ひ、ひゃあぁあ……っ!?」

 

 ゾルッ、ゾルリ。

 フデ・ショウジョウの操る筆の穂先が、姫華の手首を厭らしく撫でた。

 器用な指捌きで筆先を滑らせるほど、組み敷かれた少女の手足に黒いラインが塗り込まれていく。

 

 そのくすぐったく気色の悪い感覚を味わった姫華は思わず、何とも言えない声を上げる。

 しかし、それも束の間の話。九十九たちが動き出すよりも早く、それこそ10秒も経たない内にショウジョウは工程を終わらせた。

 同時に、姫華の手足を伝うこそばゆい穂先の感触は、ほんの一瞬で冷たく重い異物感へとすり替わる。

 

「あぎっ……!? こ、れっ……手と足が、締め付けられて……! 鋼鉄の、手錠……!?」

「ヒッヒッヒ。いえいえ、ただの墨ですよ。ただ少し、鉄と同じ強度と質量を得ただけのね……」

 

 ショウジョウが姫華の拘束を解くと、代わりに彼女の四肢は黒い幾何学模様で縛り付けられていた。

 手足に書かれただけの黒いラインが、しかし彼女の力ではどうにもならないほど手足を固定してしまっている。

 姫華が藻掻いて四肢をアスファルトにぶつかる度、幾何学模様から金属音が鳴り渡った。

 

「白衣さんっ! ……~~~ッ! イナリ、戦おう!」

「坊ちゃん!? 危険でさ、今動くのは──」

「ヒヒヒヒッ。小姓のバケギツネは、あたしと少し遊んでいきなよォ」

 

 辛抱堪らず駆け出した九十九を追おうとした矢先、イナリの体を煙が絡め取った。

 気体であるにも拘わらず質量と粘性を得た煙は、ちっちゃなキツネの動きを封じ、少年への追随を牽制する。

 

 つぶらな瞳で煙の主を睨むが、対する山ン本はヘラヘラと嗤って見下すのみ。

 煙管(キセル)を小刀のように軽く持ち直し、なお煙の吹き出す先端の金具をキラリと光らせた。

 

「ま、あたしが『ぷれいやあ』になる『げえむ』は当分後の話だからねェ。今回は軽く揉むだけだけど……死なないでおくれよォ?」

「……すみやせん、坊ちゃん! ですが……」

「分かってる……白衣さんを救出したらすぐに退く!」

 

 イナリを置いて先を征く。

 その目指す先には、術で拘束された姫華と、彼女を踏みつけ抑え込むフデ・ショウジョウの姿があった。

 

 今、手元に火縄銃は無い。先ほどガキツキに対して使った術では、異形の大猿を倒し切れはしないだろう。

 かと言って、コントロールの不確かな大きな術を使えば、姫華にも被害が及ぶ。

 

(限界まで出力を絞って……後は、腕の勢いっ!)

 

 弓のように引き絞った右手に妖気の炎を生み出して、勢いよく前に振り抜いた。

 迸る真っ赤な火炎が、尋常の物理法則を無視して前方に向かって突き進む

 奇怪な煙の群れを吹き飛ばし、灼熱のストレートは真っ直ぐにショウジョウを目指し──

 

「では、お見せしましょう。……妖術《万象一筆書き》!」

 

 筆が、宙を踊る。

 穂先は何も無い空中にへばり付き、空中に黒い墨で図形を塗りたくった。

 ショウジョウの目前に描かれた黒塗りの楕円は、ドロリとした墨汁の質感から一転する。

 

──ジュゥウウ……!

 

「炎が、消えた……!?」

「ヒッヒッヒッヒ……超低温の発泡剤ならば、如何に妖気の炎と言えど消し去るのは容易い事です」

 

 宙に塗られた漆黒の図形の表面が、ブクブクと音の立つきめ細かい泡へと変化する。

 九十九が放った炎は無数の泡に受け止められて、泡を激しく蒸発させつつも消失した。

 姫華はおろか、ショウジョウにすら火傷の1つも負わせていない。

 

「無論、本来それだけでは火を消す事はできないでしょうが……これが妖術である以上、ワシが『できる』と思えば『できる』のですよ。そして……!」

「な──がっ!?」

 

 真正面から放たれたナニカに額を打ち据えられて、九十九の体は大きく後方に仰け反った。

 仰け反った拍子に地面を転がりながらも、上手く受け身を取って態勢を整える。

 

 彼の眉間から血を吹き出させたモノの正体は、鉛玉のように固形化した墨汁の雫。

 フデ・ショウジョウが筆を振って弾き飛ばした水滴が、金属に匹敵する強度と硬度を獲得して飛来したのだ。

 射出されたそれが1滴だけである筈も無く、いくつもの硬化水滴が散弾となって九十九の全身に痛打を与えていた。

 

「ただの墨汁が……塗るだけで鋼鉄の枷になったり、消火剤になったり……水滴でさえ弾丸になる……。筆で書いたり放った墨の性質を、変化させる妖術……!?」

「如何にもその通りですよ、“八咫派”の小僧。ワシの妖術《万象一筆書き》は、筆より滴る墨をあらゆる材質に変化させる事ができる。鉄にも、弾性(ごむ)にも、硝子(がらす)にも。そして……」

 

 ガッシと、太く短い指で姫華の頭部を鷲掴みにする。

 妖術によって拘束されたまま踏みつけられていた彼女は、頭を締め付ける強い握力に強い痛みを覚えた。

 

「ぁ、ぐぅぃあ……っ!?」

()()()()()()()()()()()()()とて、実現させる事が可能なのですよ」

 

 少女の頭部を掴んだまま、ショウジョウは自身の握力のみで彼女を宙に浮かばせる。

 四肢を拘束され、それでも痛みから脱却しようと藻掻くその姿に、サルの妖怪が目を細めて愉悦した。

 

「ワシが街にばら撒いた書紋(しんぼる)こそ、まさにその実例。人間たちが街中を歩くだけで、道具に書かれた印は妖気を吸い込み蓄え、地下を流れる妖気の指向性すら掻き乱す! この街の地脈は最早、ワシにとって都合のいい流れに調整されているのですよ」

「人間たちを利用して、儀式に必要な過程を短縮化したのでありやすか!? 一体、何の儀式を仕出かすつもりで……」

「それは、これから分かる事ですよ。ですが折角ですので、“でもんすとれえしょん”をお見せしましょう。この──」

 

 ショウジョウの太い指が、年若い少女の服の下に差し込まれた。

 ゴソゴソと自分の体を無遠慮に弄られる不快さで、反射的に嫌悪の感情を露わにする姫華。

 

 しかし、その行為に拒絶の声を上げようとした瞬間……彼女は、気付いてしまった。

 制服の内ポケットから、重みが消えている。それが意味する事実を悟り、顔色が一瞬の内に青褪める。

 そして、制服から抜き取られた白いサルの指先には──

 

「1度は仕込みを拒絶された、彼女の()()()()()()()を用いてね」

 

 古びたレトロ調の装飾が美しい、1枚の手鏡が摘み上げられていた。



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其の参拾伍 物気付喪(モノノケツクモ)

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


 自分の最も大切な宝物を、おぞましい怪物に取り上げられた事実。

 それを理解して、姫華は頭を鷲掴みにされる痛みすら押してじたばたと暴れ出す。

 

「かっ、返してっ! それは私の──きゃぁっ、ぐっ!?」

 

 だが、そんな抵抗を無駄と断じて嗤うのが彼ら妖怪。

 姫華の頭部を掴んでいた手が離され、彼女の体はそのまま地面に落下した。

 アスファルトに叩きつけられて痛みに喘ぐ少女をもう1度足蹴にして、ショウジョウは右手に筆、左手に手鏡を構える。

 

「しかし……これは、実に()()ものだ。よく使い込まれている。今の現世(うつしよ)にあって、数十年も使われ続けている道具など稀ですからねぇ。あと10年もすれば、誰の助けも無く九十九神に成ったでしょう。実演の小道具にはピッタリです」

「させない……っ! 白衣さんの大切なものを悪い企みの道具になんて──」

「いやいや、ここからが面白いんじゃないかァ。横槍は野暮ってもんだよォ」

 

 走り出そうとした九十九の背中を後ろから蹴り飛ばし、彼がつんのめったところを馬乗りになって地面に叩きつける。

 そうして彼をその場に縫い留めて、山ン本はヌラリと笑みを見せた。

 遅れて、宙に吹っ飛んでいたイナリが墜落し、九十九の顔の側にベシャリと倒れ込む。

 

「す、すみやせん……坊ちゃん……」

「イナリ……!? クソッ……!」

「ヒヒヒヒッ。さァ、フデ。ここまでお膳立てしたんだから、ちゃァんと魅せてくれよォ?」

「ヒッヒッヒッヒ……! それでは、お見せ致しましょう」

 

 サルのような嗤い声ののち、筆の穂先が手鏡に吸い付いた。

 踊るように滑る筆先は、姫華がずっと磨き続けてきた綺麗な鏡面を黒い軌跡で上塗りし、たったの5秒で複雑な書紋(シンボル)を完成させる。

 

 その直後、鏡面に描かれた漆黒の書紋(シンボル)が紫色の光を帯びて、ショウジョウの手を離れた手鏡は独りでに宙へと浮き上がった。

 同時に、九十九たちのいる路地裏に充満していた煙に明確な「流れ」が生じ、妖気を宿した甘ったるい煙が手鏡へと吸い込まれていく。

 

 紫の光を放ちながら、妖気を吸い上げる道具。

 その光景に、九十九は見覚えがあった。

 

「これ……まさか、キリサキジャックを生み出した時と同じ……!?」

「ヒヒヒヒヒッ……! 勘が良いねェ、八咫村の小倅。そう、こいつはあたしが開発した新たな妖術。周囲の妖気を無理やり道具に詰め込んで、()()()()()()()()()()()()()()さァ」

「んな、馬鹿な……ッ!? そんな反則、あり得ていい筈がありやせん!」

 

 地面に這いつくばったイナリが、全身を打ちのめされた痛みに耐えながらも叫ぶ。

 彼が荒らげた声を、山ン本はまるでそれが小鳥の囀りであるかのように耳を傾けた。

 

「おやァ、おや。何を驚いているんだい? 小姓ギツネ。人間の(まじな)いにも、式神ってのがあるだろう? ホラ、道具に妖気を込めて肉の器を作り出す術さァ」

(まじな)い師の作る式神は、あくまで術者の妖気で遠隔操作するだけの人形! そこに命も魂もありやせんが、お前の言う妖術の理屈は別! 人為的に魂を──神を込める術なんざ、成功したとしてもガキツキに成り下がるか、そうでなくてもまともな魂は期待できな……」

()()()()()()()()()()()()()()()()()んだろう? なら、それでいいじゃァないか。人間を殺す事ができるならさァ」

 

 平然と言い放った山ン本を前に、イナリは絶句した。九十九も同様に、彼らの言葉の意味を理解する事ができてしまった。

 それはつまり──どんな精神状態の妖怪が生まれようと、自分たちが制御できないような存在が生まれようと、彼らにとってはまったくもって関係が無いのだ。

 

 ただ、人間を害する事のできる存在であるならば。

 

「お願い……やめて! その手鏡は私と、お婆ちゃんの大切なものでっ! それを、誰かを傷つける妖怪になんて……」

「ヒッヒッヒ。分かっていません、分かっていませんね、お嬢さん」

 

 ギョロリと蠢いたショウジョウの目が、足蹴にした姫華の顔を覗き込む。

 

()()()()()()()()()()()()?」

「あ……」

 

──恐怖。

 

 チョウチン・ネコマタに襲われた時とはまた異なる、しかし本質は決して変わる事の無い、妖怪という存在に対する畏れの感情。

 寒気がするほどに昏い衝動が、ただの人間の少女を震え上がらせた。その自覚こそが、彼ら『現代堂』の目的なのだ。

 

「ヒッヒッヒッヒ……! では、仕上げといきましょう。魂持たざる人形(ヒトガタ)よ、邪気を食む憑き物なりて、成るは物の怪、魑魅魍魎!」

 

 山ン本が発生させた妖気の煙を目一杯に吸い込み、宙に浮く手鏡は風船のようにブクブクと膨れ上がっている。

 紫に発光する手鏡()()()()()へと向けて、ショウジョウは呪文を口にして、印を組む。

 

「妖術──《物気付喪(モノノケツクモ)》!」

 

 それが、トドメとなった。

 あらゆる箇所に無数のヒビが入った手鏡は、内側から弾け飛ぶようにして爆発四散する。

 

 吹き荒れた風圧が、小さな路地裏に籠もっていた煙の全てを蹂躙し尽くす。

 そうして、目を眩ませるほど甘ったるい匂いが綺麗さっぱり消え去った後……()()は、その場にいた者たちの中心に悠然と現れた。

 

 

 

「嗚……嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼……!」

 

 

 

 感情の抜け落ちた虚ろな目を持った、1人の女性。

 身に着けた白い和服には艶やかな華の柄が盛り込まれ、髪は姫華と同様、やや銀がかった白い長髪を流している。

 

 だが、彼女は美しい人間などではなく、恐るべき異形の妖怪だ。

 それを何よりも雄弁に示すのは──本来あるべき下半身の代わりに存在する、巨大な蜘蛛の胴体。

 彼女の髪や服に似た真っ白い体の蜘蛛、その肉体に突き刺さり、或いは肉体から生えてきたかのような形で女性の上半身が存在していた。

 

「そん、な……私の手鏡が、妖怪に……!?」

「やっぱり、カタナ・キリサキジャックの時と同じだ……。妖気を吸い上げて、人為的に妖怪にさせられた存在……!」

女子(おなご)の体に蜘蛛の足……よもや、絡新婦(ジョロウグモ)でありやすか!?」

「……嗚呼。如何にも、其の通り」

 

 歌うような、それでいて悲鳴を上げているかのような、高くか細い女の声。

 自らの白髪を強く掻き毟り、新たに生まれ落ちた妖怪は喉を甲高く震わせて名乗りを上げる。

 

「わたしは……妖怪、テカガミ・ジョロウグモ。我があるじに因って神を込められ、妖怪と変じた者。此の身を得たのは今なれど、我が魂魄は捌拾(はちじゅう)の時を経た九十九神……であるぞ」

 

 一言一言を口にする度、下半身から生えた8本の足がワサワサと動く。

 虚無としか言い様の無い目で周りを一瞥し、妖怪テカガミ・ジョロウグモは静かに声を発した。

 

「おそれよ。其れが、わたしの望む夜闇の(さきがけ)であるぞ」

 

──無数の糸が解き放たれた。

 

 蜘蛛の化生が振るった両の手の指10本、下半身で蠢く蜘蛛の足8本。

 その全ての先端から、幾重にも枝分かれしながら蜘蛛の糸が射出され、閉所の中を荒れ狂う。

 

 全方位に差し向けられた白銀の糸は、蜘蛛糸という名に反して硬質的な効果を持っていた。

 それら全てが縦横無尽に虚空を引き裂き、路面やビルの壁に次々と突き刺さっていく。

 

「じゃァ、後はゆっくり楽しみなよォ……ヒヒヒヒヒ」

「ぐっ!? っと──イナリ!」

「分かっておりやす! こいつぁ、まともに掠っただけで肉が抉り取られっちまう!」

 

 薄笑いと共に山ン本が飛び去った事で、軽くなった背中に力を込めて強引に起き上がる。

 自分たちの体を串刺しにせんと迫る蜘蛛糸の槍衾を、九十九とイナリは隙間をすり抜けるようして掻い潜り、窮地からの脱出に成功する。

 

 しかし、それによって窮地を抜け出したのは、あくまで彼らだけに過ぎなかった。

 

「えっ、嘘──ひぁっ!? 離、してっ……下ろして頂戴っ!」

「わたしは、わたしの成したき事を為す。其処に否やは言わせぬぞ」

「ヒッヒッヒ、どうぞご勝手に。ワシの『げえむ』を邪魔しない範囲であれば、如何様にも人々の恐怖を駆り立ててくださいませ」

 

 しなやかな腕で姫華を抱え込み、ジョロウグモはゆるりと上空に向かって動き出す。

 自らが当たるを幸い展開した糸の上に、己の細くガッチリとした蜘蛛足を載せ、器用な足取りで糸を登っていく。

 女性の上半身に蜘蛛の下半身が合わさった巨体がのしかかっている一方で、糸は1本たりとも切れる素振りを見せない。

 

「白衣さんをどこへ連れていくつもりだ!? 逃がすか……っ!」

「おやおや、これはワシの『げえむ』の一貫ですよ? 妨害するなんてとんでもない!」

「……っ! チィッ……!」

 

 ショウジョウが空中に塗りたくった矢の絵が、通常の矢では考えられない歪な軌道を描いて動き出す。

 それだけではない。彼の妖術によって揮発性の高い油へと変質した墨の矢は、空中で発火しながら九十九に殺到した。

 

 自らを襲う炎の矢に対して腕を薙ぎ、妖気の炎でそれらを撃ち落とす。

 炎が消え去り目の前が開けた時には……既に、妖怪どもは視界の外に消えていた。

 

「ヒッヒッヒッヒ……では、ごきげんよう。ワシが演出する地獄絵図をお楽しみあれ……!」

 

 慌てて見上げた先で、ショウジョウはビルの壁面を登っていた。

 配管や壁面の僅かな窪みに指を引っ掛け、軽々と屋上まで登り詰めている。

 そして、そのすぐ脇では。

 

「往こうぞ。わたしたちだけの世界へ」

 

 逃げ出そうと暴れる姫華を左腕だけで抱きかかえ、片腕の膂力のみで彼女の動きを完全に封じ込めたジョロウグモ。

 その右手の指先が、ビルの窓──光の反射によって自分たちを映し出す、ガラスの表面へと添えられた。

 

「妖術……《鏡の国の若菜姫》」

 

 

──トプゥ……ン

 

 

 指が深く沈み込み、本来ガラスにはあり得ざる水紋の如き揺らぎが刻まれる。

 それを善しと見たか、蜘蛛の女怪はそのまま()()()()()()()()()()()()()()()

 

「硝子の中に、入って……まさか、幽世(かくりよ)の生成で御座いやすか!? しかし、あのような稀有な術がそうそう発現し得るとは思い難い……」

「何にせよ……助ける!」

 

 邪魔なショウジョウは撤退したと判断して、九十九は右手で銃を象った。

 その人差し指はジョロウグモに向かい、彼女が抱えている姫華を傷つけぬよう小さく圧縮した炎の弾丸を撃ち放つ。

 

「妖術《黒点》! 兎に角、動きを止めるだけでも──」

「……愚か、であるぞ」

 

 感情の無い目が弾丸を捉え、軽く振った指先から蜘蛛糸を射出。

 夕日に煌めいて白銀の光を放つ糸は、妖気を纏った炎の弾丸を呑み込み、その場から消失させる。

 

 その直後、出現時に彼女が展開していた蜘蛛糸の内の1本が大きく震え、内側から吐き出すように炎の弾丸を発現させた。

 九十九が速度を重視して射撃したそれは、術者である九十九本人の足元に着弾し、小さく黒い穴を形成する。

 

「僕の術が、跳ね返ってきた……!?」

「反射……いえ、模倣……? 吸収や透過という線もあり得やすが、どんな術か判別できやせん……!」

「去らば、であるぞ。わたしの成したき事に邪魔立てを為すのであれば、次は容赦なぞ──」

「──九十九くんっ!」

 

 姫華が呼びかける。

 ジョロウグモに抱き留められている彼女の体もまた、ガラスの水紋へと飲み込まれつつあった。

 そんな中にあって、少女は叫ぶ。自分を助けようと足掻いている、少年に向かって。

 

「私っ、信じてるから! 私が助けを呼べば、あなたが必ず来てくれるっていう……あの時の約束を! だから……だからっ!」

 

 向こう側が見えないほど揺らぐガラス質の水面へと、ジョロウグモが潜り込む。

 最早、何とか波紋の狭間から顔だけを出している状態でしかない姫華は、自分の頭が完全に引きずり込まれる──その刹那。

 

「私を助けて、九十九くん!」

「──必ず! 何があっても助けるよ、白衣さん!」

 

 トプン……と頭まで沈み込み、姫華の姿は消失した。

 水のような揺らぎを見せていたガラス窓は、数秒も経たない内に元の材質へと戻る。

 

 目の前に届かせられた筈の手を、伸ばし切る事ができなかった。

 その無力さに歯を軋ませ、九十九が拳を痛いほど握った矢先。

 

「ヒ、ヒヒヒヒヒッ。カッコいいねェ、見惚れるねェ。艶本の主役みたいだよォ」

 

 最初にこの場に現れた時と同様、クーラーの室外機に腰掛けた山ン本がニタニタと嘲笑を投げかけてくる。

 彼が手に持つ煙管(キセル)からは変わらず煙が溢れ出ているが、先ほどのように路地裏全域を満たすほどのものではない。

 

「……さっきみたいに、僕らの邪魔をする気?」

「おやァ、おや。先にあたしたちの邪魔をしたのはそっちだろう? あたしはただ、フデの奴がやろうとしている事のお膳立てをしてあげただけだよォ。それが済んだ以上、ここから先はあいつの『げえむ』だからねェ。あたしは何もしないさァ」

「あいつは……何を、する気なの?」

「今しがた、()()を見たばかりじゃァないか」

 

 ヌラリ、と享楽的な笑みを剥き出しにする。

 

「1度に参加できる妖怪は1体。それが『るうる』だけどねェ、自分が設定した『るうる』に則って生み出した妖怪は……『ぷれいやあ』の使う()()()として扱われるのさァ」

 

 

 

 

「……さて、はて。ここらでいいでしょう」

 

 まんまと九十九たちから逃げ(おお)せたフデ・ショウジョウは、彼らと対峙していた路地裏から離れた距離にある、とあるビルの屋上に辿り着く。

 今にも地平線の彼方へ沈みゆく夕日に目尻を歪め、白サルの淀んだ視線が街中を俯瞰する。

 

 その手には、九十九神としての核である筆が握られていた。

 体に巡る妖気をより集めれば、穂先から滴る墨汁がおぞましく紫色に発光する。

 

「ワシが書紋(しんぼる)を書いて差し上げた道具は……ひぃ、ふぅ、みぃ……ざっと、100と2というところでしょうか。ヒッヒッヒ……中々イイ具合に気の流れが整っているではありませんか」

 

 街の各所から発せられている妖気を認め、満足そうに嗤う。

 

 幸運を呼ぶおまじない。そう騙り、街の若者たちが持つ道具に描いた墨の書紋(シンボル)

 その正体は、ショウジョウの妖術《万象一筆書き》によって「周囲の妖気を吸収して溜め込む」性質に変えられた触媒である。

 

 書紋(シンボル)を記す際に仕込んだのは、地脈の流れに干渉し、自分にとって都合のいい回路へと改竄する術。

 人々がおまじないの書かれた道具を持ち歩くだけで、それらは地脈から湧き出す妖気を吸い込み、起動した術を土地に還元する。

 

 無論、そのような地脈への干渉と改竄が、たかだか道具1つに仕込まれた術程度で成立する事は無い。

 だから、数を用意した。だから、おまじないの噂を広めた。だから、占い師を装った。

 街に住む人々は何も知らず、何も理解せず、102人もの人間が知らず知らずの内に地脈の改竄に加担してしまった。

 

 妖怪たちの目から見た今の街の地脈は、さながら西洋でいう魔法陣のよう。

 事を起こすにあたって望ましい妖気の流れを認識し、ショウジョウは筆を振るう。

 

「では──これより、ワシの『げえむ』を始めましょう!」

 

 ヒタ……と、穂先が空中に食らいつく。

 瞬く間に描かれた陣は、彼の目から見た地脈の流れと合致する紋様を形作っていた。

 紫の光を放つそれに呼応するように、街の妖気がざわつき始める。

 

「ヒッヒッヒ……魂持たざる人形(ヒトガタ)よ、邪気を食む憑き物なりて、成るは物の怪、魑魅魍魎。我が呼び声に参じるならば、器を食らいて巡りを繋げ!」

 

 儀式、と呼ばれる概念がある。

 同意した者たちが集まり、同じ術を重ねて行使する事で、その規模と効力を飛躍的に高める技法だ。

 これによって、1人では不可能な術の成立と行使が可能となる。

 

 つまりこれは、道具たちによる儀式だ。

 書紋(シンボル)を描かれた事でショウジョウの支配下と見做された道具たちが、儀式への参加と貯蔵した妖気の供給を強制される。

 

 儀式に適した流れに書き換えられた地脈そのものを陣として、その直上にあるモノ全てを影響下に置く。

 その結果として起きるのは──

 

「えっ……何何何!? なんでコスメが光ってんの!?」

「私のスマホが光った……!? 何? 故障!?」

「こないだ書いてもらった書紋(シンボル)が……!? これ、ただのおまじないなんじゃ……」

 

 街の至るところで、人々の手の内にあった道具が光り出す。

 書紋(シンボル)が淡い紫色の光を発し、持ち主の手を離れて道具を呑み込んでいく。

 それだけでなく、おまじないを施されていない筈の道具も、いくつかが同じような光を放ち出した。

 

 夕焼けのオレンジ色を上塗りするように、街を染めるおぞましい紫色。

 にわかにざわつき出した景色を一望し、ショウジョウはトドメとばかりに術を完遂する。

 

「儀式妖術! 《物気付喪(モノノケツクモ)煤払(ススバライ)》!」

 

 ほんの一瞬、街全体が不愉快な光を放ち、すぐに消失する。

 だが、致命的な変化は確実に訪れていた。

 

 街そのものを効果範囲として、妖怪変化(ヘンゲ)を強制する術を行使すればどうなるだろうか?

 その答えが、まさしく現実に起きていた。

 

「エヒッ、エヒヒヒヒヒヒヒッ! エヒャヒャヒャヒャ!」

「ウマレタ! ウマレタ! オレタチ、ウマレタ!」

「オレタチ、ヨウカイ! ニンゲン、コロス! ニンゲン、クウ!」

「コロソウ! コロソウ! キョウフ、タクサン、ツクロウ!」

「ブンメイ、コワソウ! エヒヒヒヒヒヒャヒャヒャッ!」

 

 妖術によって変化(ヘンゲ)を強いられながら、妖怪と成るに足る歴史も妖気も持たない道具たち。

 不完全な妖怪変化(ヘンゲ)しか果たせなかったそれらは、妖気に存在を喰らい潰され、ただのガキツキに成り下がる。

 

 そうして生まれたガキツキたちには、術を行使したショウジョウの悪意が反映される。

 つまり、人間の世界に害と滅びを為す『現代堂』の尖兵と化す。

 

「きゃあああああ!?」

「ばっ、化け物!?」

「私のスマホが、怪物になった!?」

「く、来るな! 来るなっ……ギャアアア!?」

 

 街に次々と現れる、襤褸切れ姿の幽鬼。

 それらは刃毀れし切った牙を剥き、目についた人々へと手当たり次第に襲いかかった。

 

 突如として殺意と暴威を振るわれ、人間たちはどうする事もできずに逃げ惑う。

 その不協和音に満ちた阿鼻叫喚は、屋上に佇むフデ・ショウジョウにも届いていた。

 

「そう、これこそがワシの『げえむ』……! 街にばら撒いた幸運の(まじな)いは、そのまま人間を害する(のろ)いへと転じる! 妖怪への変化(ヘンゲ)が1つも起きなかったのは残念ですが、それでもガキツキの群れをどうにかできる人間は今の世に存在しません!」

 

 ゲラゲラと、けたたましい猿叫が木霊する。

 

 悲鳴と怒声が行き交う街の彼方に、弱々しく夕日が沈み消えていく。

 その反対側からは、下手な絵の具よりも色濃い夜の闇が訪れようとしていた。



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其の参拾陸 夕闇を裂いて

 遠くから……いや、街のあちこちから叫び声が聞こえてくる。

 人々の狼狽し、戦慄し、恐怖する声。それらに混じって、ガキツキたちの下卑たしわがれ声も響いてきていた。

 

 今しがた自分たちの肌を震わせた奇怪な感覚に、この阿鼻叫喚。

 誰が何を仕出かしたかなど、最早考えるまでもなかった。

 

「今の感じ……まさか、さっきの術を街単位で使ったのか……!?」

「そんな、嘘で御座いやしょう……!? では、この騒ぎは……街の人間たちの持つ道具が、一斉にガキツキと成って……」

「ヒヒヒ、ヒヒヒヒヒッ! 見事にやってくれたねェ、フデ。ここからでも、人間どもの阿鼻叫喚が手に取るように分かるよォ」

 

 2階の室外機に腰掛けた山ン本が、呵々大笑を上げる。

 頭上からの嘲笑に九十九が睨みつけても、彼はヌラリと粘ついた視線を返すのみ。

 

「これが……お前たちの望んだ事?」

「そうさァ。恨みでも、憎しみでもなく、ただ弱者の慟哭を聴く事に悦びを感じる。それがあたしたち『現代堂』であり、あたしたちが『げえむ』に求めるモノ。その証拠にさァ……ホラ、空を見てみなよォ」

 

 手に持った煙管(キセル)の切っ先を、路地裏から差し込む空へと向ける。

 それに釣られて、九十九とイナリが顔を上げた先で……彼らは一様に目を見開いた。

 

 先ほどまでの、夕日が照らす橙色の空などどこにも無い。

 ただ、尋常のそれよりもなお色濃く黒い、夜の空が一面に広がっていたからだ。

 

「空が……黒い……!? 単に夜が近いからとかじゃなくて……闇が、空を覆ってる……!?」

「こいつぁ……間違いありあせん。80年前、『現代堂』の連中が日本を襲った時と同じ……妖怪への畏れによる、『夜』の侵蝕……!」

「ヒヒヒヒヒ……! かつての夜が昏かったのは何故か? 人間が夜を恐れるからさァ。今の世の夜が明るいのは何故か? 人間が夜を恐れなくなったからさァ。人の想いは容易く世界を変えるもの。なら、その矛先を歪める事だってできるよねェ」

 

 空を塗り潰す黒を見上げながら、妖怪たちの総大将は虚ろに嗤う。

 

「この80年、人間は妖怪の存在を忘れて生きてきた。()()()は言わば、その反動さァ。80年ぶりに味わう妖怪への恐怖が、いつもよりも空を闇に染めている。ヒヒヒッ……ここからさァ。ここから、昼の空さえをも夜で蝕み尽くすのよォ」

「……そうは、させない。さっさとこの騒ぎを終わらせて、ショウジョウもジョロウグモも倒して……白衣さんも、助ける。それで、お前たちのふざけた『げえむ』を……僕たちの手で、終わらせる」

「へェ……? 随分と御大層な壮語だねェ。嘯くのは結構だけどさァ、お前さんみたいな青二才にそんな事ができるのかい? ねェ、八咫村の小倅……妖怪ニンゲン・ヤタガラス」

「違う」

 

 ジロリと、山ン本の伽藍堂染みた視線が突き刺さる。

 おどろおどろしい眼光を前にしても、九十九が揺らぐ事は一切無い。

 

 軽薄な煙管(キセル)の妖怪とはいたって対称的に、彼の目は明るく確固たるものを宿していた。

 さながら、瞳の奥に消える事の無い炎を灯しているかのように。

 

「今回の一件で分かった。お前たち『現代堂』の妖怪たちが脅かすのは……人間だけじゃない。皆が大切にしている筈の道具すら貶め、辱める存在だから……僕は、彼らのような“小さい(モノ)”を守る側に立つ」

 

 左腕を少し広げ、やや下に向ける。

 それが自分に対するものだと悟ったイナリは、即座に飛び上がって左腕を伝い、九十九の肩にしがみついた。

 意図が伝わった事にコクリと頷いて、足元に妖気を集中させる。

 

「僕は……“小さいモノ(リトル)”の九十九神。妖怪リトル・ヤタガラスだ」

 

 点火と同時、足裏から発生した爆発を利用して、九十九──リトル・ヤタガラスは空中に躍り出る。

 首元に妖気の黒マフラーを発現させながら、彼の視線は1度、山ン本と交差した。

 

 プカプカと煙草を()む着物姿の妖怪は、ただ胡乱な目でこちらを見つめ返してくるのみ。

 何も言わない彼の態度からは意識を逸らしたのち、九十九の体は狭い路地裏をすり抜け、ビルよりも高い位置へと到達した。

 

 妖気を手繰って浮遊感を掴み、空を飛んだままに街を見渡す。

 各地から怒号と悲鳴が飛び交い、ところどころには炎や煙すら見える。

 

「なんて事でありやすか……!? 術が仕掛けられてからほんの数分で、酷い有様でさ……こいつぁ」

「逆に言えば、まだ被害はそんなに多くない筈……。早くなんとかして、白衣さんを──」

「坊ちゃま~~~~~っ!」

 

 上手くビルの屋上に着地した2人の下に、遠くから女性の声と共に羽ばたく音が近付いてくる。

 ちんまりと手に収まってしまうほど小さく、真っ黒い羽根を持つスズメ。

 勿論、彼女は九十九たちもよく知る、八咫村家の召使い妖怪である。

 

「お千代! 来てくれたんだね」

「ええ。そこなキツネと別れて街を探っていたら、坊ちゃまやキツネの気配が消え失せてしまい、そうこうしている内に今度は街規模での妖術……。わたくし、もうどうしたらいいかと……!」

「チッ……あのクソ煙草()みめ。妖術の煙はわてらへの牽制だけじゃなくて、小規模な幽世(かくりよ)の形成にも使っていたんでやすね」

 

 パタパタと羽ばたきながら九十九の頭上まで辿り着き、彼の頭頂にちょこんと座るお千代。

 彼女は、イナリの吐き捨てるような言葉を聞いて「ふんっ」と嘴を尖らせた。

 

「あらあらまぁまぁ。そこな自称・筆頭召使いのキツネがいながら、なんという体たらくでしょう。まぁ? 坊ちゃまを無事お守りできた事は? 評価してもよろしいですが?」

「ケッ。今の今まで幽世(かくりよ)の存在すら突き止められなかったスズメは、随分と批評がお上手なようで。大方、大した情報も得られずにピィピィ鳴きながらその辺を飛んでただけでやしょう?」

「ご生憎、わたくしはあなたよりもモノ探しは得意ですの。目ぼしい騒ぎの起点は大体“ちぇっく”済みでしてよ。事が済んだら、わたくしはご当主(ダーリン)に褒めてもらえるでしょうね。あなたとは違って!」

「そいつぁどうでやすかね。ロクに戦闘能力も無いスズメじゃあ、ガキツキ1匹も倒せやしないでしょうや。粋がって敵に突撃した挙げ句、返り討ちに合って泣きながら米粒でも食って終わるだけでさ」

「お?」

「あ?」

「喧嘩してる場合かなぁ……!?」

 

 キャイキャイと言い合いを始めたマスコット2匹に頭を抱えつつも、目の前に広がる景色に意識を向ける。

 

 街のあちこちから発せられる妖気の気配。それらが渾然一体となって、九十九たちの知覚能力を眩ませていた。

 このままでは被害が増加し続けるのは勿論、自分たちが探すべき妖怪の気配を正確に見つけ出すのは難しいと言わざるを得ない。

 

 例えるならば、カレーの匂いが充満している部屋の中から、微かに香るアロマの匂いだけを嗅ぎ分けるようなものだろうか。

 ガキツキたちの妖気が邪魔をして、ショウジョウや、姫華を攫ったジョロウグモの気配などはてんで追えやしない。

 

「……約束したんだ。白衣さんは、絶対助ける。でも、その為にもまずは……」

「あの邪魔なガキツキどもを排除する、ですわね? そういう事なら、わたくしが完璧に“さぽおと”してみせますわ」

「……できるの? さっきイナリが戦闘能力は無いって……」

「ええまぁ、わたくしの術自体に攻撃力が無いのは事実ですわ。そこなキツネが、ご自分の術の事を棚上げしているのはともかくとして」

「うるせぇやい」

「ともあれ、ですわ。わたくしの術はむしろ、こういう場面でこそ大活躍すると言っていいでしょう。……と、その前に」

 

 九十九の頭上から飛び立ったお千代は、羽ばたいたままにプクゥ……と嘴を膨らませた。

 間髪入れずに喉の奥から射出されたのは、彼女の肢体よりも大きな1丁の火縄銃。

 

 嘴から飛び出した勢いで空中を滑り、少年の手に収まったそれは、驚くほど手と指によく馴染む。

 ガシャリと音を立てつつ具合を確かめ、いつでも構えて撃てるよう持ち方を変える。

 

「これも、家から持ってきてくれたんだね」

「坊ちゃまが十全に戦う為に必要なものですから。これさえあれば百人力でしょう?」

 

 エヘンと胸を張りつつ、彼の目の前まで移動するお千代。

 そうして彼女は、その黒くつぶらな瞳でお淑やかにウインクしてみせた。

 

「キツネばかりに坊ちゃまのお側付きはさせませんことよ。わたくしだって、栄えある“八咫派”の妖怪ですから♪」

「うん、ありがとう。助かったよ」

 

 瀟洒な召使いに感謝の笑みを向けて、混乱の最中にある街を見る。

 グッ……と足裏に力を込めれば、今にも飛び立てる確信と自信があった。

 

「これが、お前たち『現代堂』の望む夜の闇なら……僕は、それを否定する!」

 

 

 

 

 一体、何が起きたのか。一体、何が起きているのか。

 妖怪が忘れ去られて久しい現代、それを正確に理解・説明できる人間は存在しないに等しかった。

 

「エヒャヒャヒャヒャ! クルシメ! モット、クルシメ!」

「オソレロ! オソレロ、ニンゲン!」

「モット! モット、タクサン! タクサン、コロソウ!」

 

 アスファルトを踏み砕く脚力、電柱を引き裂く爪、車さえ噛み潰す牙。

 人間の喉笛を食い破り、体を引き千切り、事切れた遺体の頭を踏み潰して闊歩する残虐性。

 

 土地の妖気を吸い上げ、ショウジョウの術によって強化されながら生み出されたガキツキたちは、通常の自我さえ朧気なそれよりも強い。

 同時に──人間へ向ける悪意もまた、強く残忍なものへと変わっていた。

 

「ミツケタ! ニンゲン、ミツケタ! イタブロウ!」

「ひっ、ひぃいっ!? 来るな、来ると撃つぞォッ!?」

 

 フードの奥から光る嗜虐的な眼差しに、警察官が尻餅をついた。

 彼の視界には、守るべき市民の遺体が多く転がっていて、その全てが恐怖と苦痛に歪んだまま生を終えている。

 

 彼らが普段相手にしているのは、あくまで人間の犯罪者である。

 同じ人間である以上、その手口や動機には理解や想像を及ばせる事ができる。

 

 けれど、目の前の怪物どもは違う。超常的な身体能力と、種族そのものへの悪意を以て、漫画やアニメでしか見た事の無いような破壊行為を働く。

 如何な警察官と言えど、その暴威を前に恐怖に竦んだとして、誰にも責める事はできないだろう。

 

「う……うわぁあああぁああぁああああぁぁあぁあ!?」

 

 狂乱状態に陥った警察官が、手に持った拳銃を発砲する。

 銃声と共に放たれた弾丸は……しかし、ガキツキに傷1つ負わせる事はできなかった。

 

 余裕綽々にこちらへ近付いてくる悪魔へと、何度も何度も引き金を引く。

 人間相手であれば殺傷力の高い弾丸を全身で受け止めてなお、その歩みは止まらない。怯みもしない。

 あっという間に、弾切れが訪れる。引き金が虚しく音を鳴らし、目の前の怪物への対抗手段を失った事を残酷に告げた。

 

「エヒヒヒヒヒヒヒッ! オモシロイ! オモシロイ! オモチャ、オモシロイ!」

「な……なんなんだよ、この化け物どもはぁっ!? なんでっ、こんな怪物が……何の為に俺たちを……」

「エヒャヒャッ! バケモノ、チガウ! カイブツ、チガウ!」

 

 ガキツキの口許が大きく歪んだ。

 血塗れの牙が奇怪に鈍く輝き、対抗も逃走も封じられた人間に死を宣告せんとする。

 

「オレタチ、ヨウカイ! ニンゲン、ホロボス! シネ! エヒャァアーッ!!」

 

 そうして、審判の時が訪れる。

 勢いよく跳躍して飛びかかった妖怪の牙は、また1人、人間を恐怖と絶望の淵で残虐に──

 

 

 

 

 

「お前が……消えろ!」

 

 果たしてそのガキツキは、己に向けられた銃口の音を認識できただろうか?

 

──BANG!

 

 中空から強襲してきた真っ赤な弾丸が、ガキツキの頭部を跡形も無く吹き飛ばした。

 断末魔さえ焼き尽くした妖気の炎は、首から上を失った残骸を瞬く間に呑み込み、灰燼へと還す。

 虚空に消え去ろうとしていた灰燼の一部が頬に貼り付き、たった今殺されようとしていた警察官はポカンと口を開けた。

 

「は……え、え?」

「ギャアアアッ!?」

 

 唖然とするのも束の間、事態の急変はそれだけに終わらなかった。

 

 ある個体は、胴体に焼け焦げた大きな穴が開く。

 ある個体は、上半身ごと左肩から先が消し飛ぶ。

 ある個体は、腰から上が原型を失って四散する。

 

 次々に飛来する炎の弾丸が、ガキツキだけを的確に撃ち貫いていく。

 襲われようとしていた人間に被害が及ぶ事は無く、時には彼らの脇を正確にすり抜けて着弾していた。

 弾丸を受けた妖怪たちは、いずれも傷口から全身に広がる熱によって内側から崩壊し、消滅する。

 

 数秒前までガキツキだった灰が、突風に吹かれて真っ黒い気流を生む。

 ボロボロと吹き荒ぶ灰の風を裂いて、1人の影が瓦礫の最中に着地した。

 

 その場にいた誰もが、彼に注目する。

 遠くからは未だに破壊音が聞こえるが、この場だけは妖怪の嘲笑も人間の悲鳴も無く、やけに静まり返っていた。

 そんな中を、着地した何者かはゆるりと顔を上げる。

 

「……助けに来た、って言うには遅過ぎるだろうけど」

 

 夜を思わせるように真っ黒く、風に靡く長いマフラー。

 手に持った火縄銃は古びていて、しかし脆さや粗悪さの一切を感じさせない。

 

 唯一、素顔だけは何故か認識する事はできなかった。

 靄がかかったように、彼の表情や顔立ちを窺い知る事はできない。

 

 けれど、彼に助けられた者たちはのちにこう語る。

 

「妖怪の始末は、妖怪がつける。ここから……反撃開始だ!」

 

 “彼の黒い眼差しは、まるでヒーローのようだった”と。



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其の参拾漆 化け物ヒーロー

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


「な……なんだ、あいつ……!?」

「あの化け物と同じ奴じゃないのか……?」

「でも、俺たちを助けてくれたぞ」

「けどあいつ、銃を持ってる……」

 

 人々の仰天と奇異の入り交じる視線を一身に受けて、黒マフラーの人物──妖怪リトル・ヤタガラスこと九十九は、ほんの少しのむず痒さを覚えた。

 教わった認識阻害の術によって、自分の素顔が彼らにバレる事は無い。そう分かってはいても、少しばかり不安である事は確かだ。

 

「エヒ、エヒヒヒヒッ……!? ナンダ、アイツ!」

「ヨウカイ? ニンゲン? ワカラナイ! ワカラナイ!」

「コロソウ! コロソウ! ワカラナイ、コロソウ!」

 

 遠くから、他のガキツキたちが九十九の姿を認めて声を上げる。

 妖怪なのか、人間なのか分からない。分からないが、とりあえず殺してしまおう。

 そんな金切り声の数々に、遅れて現れたイナリとお千代が不快感を露わにする。

 

「フンッ、彼我の実力差も分からない獣はこれだから……と言いたいところですが、やはり物量が脅威ですわね」

「1体1体にチンタラ時間なんて使ってられない……。街中回って、片っ端から薙ぎ払おう」

「それが最善でしょうや。……ですが、気を付けてくださいやし」

 

 九十九の右肩に飛び乗り、ふわもこの尻尾を揺らすイナリ。

 彼の視線の先には、無数の大群……というほどではないが、それでもワラワラと蠢くガキツキの群れが見て取れた。

 

「雑魚相手にあまり妖気を使い過ぎると、いざ大物と戦う時に身が持ちやせんぜ」

「……あ、やっぱり限界とかあるんだ? コンピュータゲームで言うMP(マジックポイント)みたいに」

「数値化できるようなもんじゃありやせんがね。体に巡る気の流れ故に、決して無限とは言えやせん。“すたみな”のようなモンでさ」

「体力配分に気を付けろ……って事か。雑魚を殲滅しつつ、でも全力は出せない……」

「ご安心を、坊ちゃま。その為のわたくしでしてよ♪」

 

 パタタ……と、お千代が翼をはためかせた。

 翼が上下する拍子に、彼女の持つ黒い羽根がパサパサと揺れ落ちていく。

 緩やかな動きを伴って地面に落ちた羽根は、その途端に泡沫の如く消失する。

 

「1体ずつ確実に、なんてかったるい真似は致しません。“くうる”に“すまあと”に、“ふるすろっとる”で参りますわよ!」

 

 淡い夜闇を引き裂くように、お千代が宙を駆ける。

 翼を限界まで細め、驚くべきスピードで低空を飛ぶその姿は、熟練の射手によって放たれた矢と遜色無い。

 彼女が真っ直ぐに向かう先は当然、こちらに襲いかからんとするガキツキの群れ。

 

「さぁ! わたくしの術をお見せ致しましょう!」

 

 薄汚い襤褸の幽鬼たち、その狭間と狭間をすり抜けて、滑るような軌道を描いてスズメの妖怪は飛翔する。

 彼女にかかれば、九十九神の成り損ない程度が繰り出す攻撃を掻い潜って飛行する事など容易い所業だった。

 

 だが、決してそれだけに終わらない。

 お千代が低空を駆けた軌道上には、ひらひらと舞い散る大量の羽根が残されていた。

 宙を舞う無数の黒い羽根は、ガキツキたちの体に貼り付くや否や、まるで溶け込むかのように消えていき──

 

「ギャアァッ!? ク、クルシイ……!?」

「カラダ……カラダ、シビレルッ……!?」

 

 直後に訪れた異変は、明確なものだった。

 羽根を取り込んだガキツキたちは一斉に体の不調や痺れを訴え、その場に崩れ落ち始める。

 

 その異変の根源がお千代にあると分かっていながら、幽鬼たちは体の痺れによって彼女を掴む事は叶わない。

 それどころか、体を動かせば動かすほど周囲の羽根がより纏わりついて更なる痺れをもたらしていた。

 

「これが……お千代の妖術?」

「へぇ。あのスズメは“たぶらかし”の術と呼んでいやすがね。早い話が()でさ。あいつの羽根には妖気の毒が溶け込んでいて、触れればたちまちあの通り」

 

 イナリがクイッと顎を上げた先では、思い通りに体を動かせず倒れ伏したガキツキたちが大量に転がっていた。

 妖術によって撒き散らされた毒の黒羽根が、妖怪たちの動きを徹底的に封じている。最早、無事に立っている個体の方が少ない惨状だ。

 

「さぁ、わてらも行きやしょうぜ坊ちゃん。あのスズメがあれだけ張り切っている以上、ガキツキなんざどれだけ群れようと敵じゃありやせん」

「それは分かったけど……お千代は大丈夫なの? 妖気を使い過ぎるな、ってさっき言われたばかりなんだけど……」

「心配ご無用。わてやあのスズメのような容れ物が元の九十九神は、普通の妖怪よりも妖気を多く蓄えやすいんでさ。そして……」

 

 随分と遠くへ飛んでいった同胞の姿を見やる。

 

 容れ物──巾着が元となった、妖怪キンチャク・ヨスズメ。

 その名に違わず、彼女の体は夜闇に同化するほど黒く、穢れのない艷やかさに満ちていた。

 

 妖魔の合間を縫って飛ぶあいつの、翼の美しさだけは綺麗だと認めてやってもいい。

 そんな風に思いつつも、イナリは決して口には出さないでいる。

 

「妖気の貯蔵量で、お千代の右に出る者はおりやせんぜ」

「それは……とても頼もしいね。……でも、お千代の術には直接的な殺傷力が無い。さっき言ってた『戦闘能力が無い』って……」

「ええ、まぁ。妖怪がひっくり返って死ぬほどの毒性は無いんでさ、あいつの術には。ですから、ほっとくと起き上がってくるやもしれやせん。急ぎやしょう」

「ん、分かった。それじゃ……」

 

 そこで九十九は1度、自分たちを囲む人々に目を向けた。

 妖術によって認識できない表情が帯びる黒い眼差しに、彼らは一様に肩を震わせた。

 萎縮したように縮こまる人々の姿に、小さく溜め息をひとつ。

 

 感謝してほしいとか、ヒーローとして称えてほしいとか、そういう欲求がある訳ではない。

 元より自分たちは化外の存在。妖怪への恐怖を抱いた彼らに、九十九たちとガキツキたちを正確に区別しろなどと、どうして言う事ができようか。

 

 だから、彼らが怯えの感情を向けてくるのは仕方がない事だ。

 だから、チクリと痛む心を深刻に受け止めてはいけないのだ。

 

 だから。

 

「……ここから先は、僕たちがどうにかする。妖怪(ばけもの)の事は……妖怪(ばけもの)に任せて」

 

 それだけを言い残して、九十九は前方に飛んだ。

 足裏の点火によって加速した少年の体は、真っ黒いマフラーを後方に強く伸ばしながら地面スレスレを飛行。

 そのままの姿勢で火縄銃を正面に構え、体の麻痺に苦しむガキツキたちに狙いを定める。

 

 夕方に戦った時の体感から、彼らに耐久性は無い事は分かっている。

 1撃の威力は極力抑えるべきだ。意識するのは、射撃の精密性と速射力、そして弾数。

 

 それらを踏まえた上で、九十九が「散弾」という選択肢を取ったのはある意味当然と言うべきか。

 

「威力は控えめに……でも、確実に撃つ!」

 

 引き金を引いた瞬間、銃口から放たれたのは無数の弾丸。

 1つ1つがBB弾ほどに小さく丸められた弾丸が、幾重にも分裂して放たれたのだ。

 

 銃口より我先にと飛び出した炎の散弾は、1発足りとも外れる事なく、倒れ伏したガキツキたちの脳天を正確に貫いた。

 狙いを外す事は一切無い。人間には傷の1つもつける事なく、しかし悪しき妖怪のみを殺傷する。

 

 成果を確認している暇など無い。

 そう言わんばかりに九十九が飛び去った後、妖怪に成り損なった幽鬼たちは、内側から身を焼く熱によってその身を崩壊させていく。

 消滅しゆく遺骸たちが形成した灰のカーテンを掻き分けて、漆黒の影はただ前へ。

 

「……なんだったんだ、何もかも」

 

 おかしな妖怪たちがその場から全ていなくなった後、民衆の1人がぽつりと呟いた。

 

「なんか、今まで俺たちを襲ってた奴らとは……何かが、違う気がする」

「けど……あんなの、人間じゃない。化け物には変わりないじゃない」

「……一体、何者なんだ。あいつらが話してた内容も、全然意味が分かんなくて……でも」

 

 彼らは、その場から逃げるでも、何か具体的な行動を起こすでもなく。

 ただ呆然と、九十九たちの飛び去った方角を見ていた。

 

「あの、人みたいな奴の言う事……まるで、ヒーローか何かみたいだった」

 

 

 

 

 ガキツキという存在に、知性らしい知性は無い。

 妖怪への変化(ヘンゲ)に失敗した結果、元となる筈の道具を呑み込んで生まれる、ただ妖気が実体化しただけの存在。

 そんな成り損ないたちに、真っ当な在り方など期待するだけ無駄というものだ。

 

「エヒヒヒヒヒ、エヒャッ……!」

「ひぅ……!? こ、こっちに来た……!?」

 

 だから彼らには、目に入るモノを手当たり次第に攻撃するしか能がない。

 

 現に今、ガキツキの内の1体が、足を挫いて動けない女性の姿に気付いて舌なめずりしている。

 その頭の中には、目の前の女性をどう殺そうか、などという思考すら存在しない。

 

 適当に襲いかかって、適当に攻撃すれば死ぬ。それが人間という生き物だ。

 彼らにとって、獲物の死は確定している。だから、獲物を殺す手段ではなく、獲物を殺す事による快楽と愉悦のみがガキツキたちの思考を満たしていた。

 

「エヒヒヒッ、ヒャァアハァーッ! コロソウ! コロソウ!」

「いやぁーっ!? 誰かっ、助けてー!」

 

 とうとう辛抱たまらず、飛びかかるガキツキ。

 血塗れ錆だらけの牙をグパリと開き、女性の首筋を狙って食い千切りにかかる。

 

 女性の悲鳴が轟くが、しかしそれを気にかける者などいない。周りにいる人々は、誰もが幽鬼の群れに襲われていた。

 故に彼女も、なんて事は無いただのモブとして残虐に殺される。

 

 その、筈だった。

 

「ア……?」

 

 すり抜ける。

 無力な女性の動脈を食い破る筈だった牙は、スルリと女性をすり抜けて、ガキツキを地面に転がらせる。

 路面に頭をぶつけた痛みと共に起き上がってみれば、女性の体はまるで最初から存在しなかったかのように虚空へと溶け消えた。

 

「イナイ……? ナンデ? ニンゲン、ドコ?」

 

 戸惑うガキツキは、キョロキョロと周囲を回し見て……その光景を目にする。

 

「ギャッ!?」

「アギュッ!?」

「イナイ! ニンゲン、イナイ! キエタ!?」

「ドコ!? ドコ!? コロセナイ!」

 

 人間に襲いかかろうとした他のガキツキが、蜃気楼のように消失した人間の姿に攻撃を空振らせる。

 殺そうとした人間がそれぞれ消え去り、ガキツキ同士で頭をぶつけ合って悶絶する。

 恐るべき幽鬼が殺害しようとした人々は、いずれも攻撃を受ける事なくその体をゆらりと消失させていた。

 

 獲物を見失った化け物たちの困惑が、この場に満ち始める。

 だって、今の今まで目の前にいた筈なのだ。それが、いきなり消えるなんておかしい。

 それじゃあ、まるで──

 

「【(コン)()(コン)()(コン)(コン)()(コン)()(コン)】」

 

 ()()()()()()()()()ようじゃないか。

 

「おーおー、引っかかった引っかかった。ガキツキどもは馬鹿で助かりやすねぇ」

 

 ゆらゆらと、天女の羽衣めいて妖しく揺れるキツネの尻尾。

 電柱の上にちょこんと座り、自分たちの醜態を眺めているちっちゃなキツネ妖怪がいる事に、ガキツキたちは終ぞ気付かない。

 

 尤も、ガキツキ程度の知性で見破れるほどチャチな“ごまかし”でもないのだが。

 

「襲われていた皆さんは上手いこと助けやしたぜ。ぶちかましてくださいやし」

「あなたに言われなくてもやりますわよ、キツネ!」

 

 漆黒のシャワーが、中空から降り注いだ。

 雨のように、雪のように、黒く艶やかな羽根が街の最中にばら撒かれる。

 当惑するガキツキたちに逃れる術はなく、舞い降りたそれらは肌に触れた端から染み込んでいった。

 

 そうして起きるのは、先ほどの焼き直しだ。

 お千代の振り撒いた妖気の羽根が、体の動きを縛る麻痺毒を以て、妖魔の群れを“たぶらかし”ていく。

 瞬く間に崩れ落ちていくガキツキを前に、お千代は自分よりも更に上を見る。

 

「今です、坊ちゃま!」

「──うん!」

 

 空から落ちてきたのは、長く黒いマフラーを尻尾のようにはためかせる1人の少年。

 その右腕が炎を纏い、眼下に迫る怪物の群れへと勢いよく振り払う。

 

──ボォワッ!

 

 日がとっくに沈んだ夜闇の街を、真っ赤に燃える炎が照らす。

 花火が降り注ぐかのように弾ける無数の炎は、“たぶらかされ”て動けないガキツキへと吸い込まれていく。

 

「ギャグァアッ!?」

 

 ただの1つも誤射は無く、いっそ恐ろしいほどに狙いは正確だった。

 炎の雨は寸分違わずガキツキのみを撃ち貫き、穿たれた穴から吹き出した炎が体内で荒れ狂う。

 断末魔すら呑み込んで、妖怪の成り損ないたちは灼熱の妖気に喰らい尽くされた。

 

 

──BA-DOOM!!

 

 

 地上に咲いた幾つもの花火、その中心部に少年は降り立った。

 四方八方から放たれる真紅の光が、黒衣の出で立ちをハッキリと照らし出す。

 

 それと同時に、周囲の景色が大きく揺らぎ始める。

 連鎖する爆炎が辺りに張り巡らされた幻影の幕を引き裂き、陽炎のように崩壊させた。

 

「凄い……。イナリが本気を出すと、こんな広範囲に術をかける事ができるんだ」

「そう簡単な技でもありやせんがね。細かい調節やら制御やらに気を使わねばなりやせん」

 

 開けた道の端に、数秒前まで存在しなかった筈の人々が多数現れる。

 彼らは酷く困惑した様子で、各々の怪我に痛みを覚えたり、目の前で怪物たちの消し飛ぶ光景に驚きを見せていた。

 

 今しがた九十九とイナリが話していた通り、この状況を作り出したのはイナリのかけた“ごまかし”の術だ。

 広範囲を覆うように張り巡らされた“ごまかし”の幻影は、ガキツキたちの視界から人々を消し去り、偽りの獲物を追わせていた。

 その隙を突いてイナリやお千代、九十九が人々を救出し、攻撃の余波を受けない位置まで避難させていた。

 

「それより坊ちゃん、あんな大技を撃って大丈夫で御座いやすか? だいぶ派手にやったようでやすが」

「うん。……段々と、コツを掴んできたような気がする。どうすれば効率的なのかとか……この力の使い方も」

 

 グッ……と、胸の前で拳を握る。

 体を巡る妖気の流れを拳の内に感じて、ポカポカとした熱を感じるようだった。

 

 それは例えば、漫画やゲームであるような「戦いの中で成長する」とは少し趣が異なるかもしれない。

 どちらかと言うと、元々あった力の使い方を実践で学ぶようなもの。

 言うなれば、1を100に変えるのではなく、マイナス1を1に変える工程と表するべきだろう。

 

 なんであれ、九十九が自身の力により習熟した事実は変わらない。

 妖怪として在る事に本能的な「慣れ」を覚えながら、他に襲われている人たちがいないかと振り向いた矢先。

 

「「きゃぁぁぁあ!?」」

「あぎゃぁぁぁあああ!?」

「──!? 今の声……!」

 

 聞き覚えのある少女の声と、聞き慣れた男の声。

 ガキツキたちを一掃した事で静かになった場に突如として響いたそれらの叫び声に、九十九の顔は明確に強張った。

 

「坊ちゃん……今聞こえてきたのは、もしや」

「あっちだ!」

「ちょっと、坊ちゃま!?」

 

 驚くお千代の声を背中で聞きながら、一目散に駆け出す。

 声のあった場所まではそう遠くない筈だ。そんな思いと共に、漆黒のマフラーが風に靡いてその場を去っていく。

 

 残された人々の目には、低空を駆けるカラスのような少年の背中が映っていた。



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其の参拾捌 友達だから

「弥生、こっち! 早く!」

「はぁ、はぁ……はひぃ~。も、もうダメ美季にゃん、あーし走れにゃい……」

 

 闇に閉ざされた細い路地を、2人の少女が駆ける。

 勝ち気な風の少女がもう1人の手を引っ張って先導し、手を引かれている脳天気な少女は激しい息切れと共に足を動かしていた。

 どちらにしても、走るだけの体力はそうそう残っていない事は容易に見て取れる。

 

「みっ、美季にゃん……これ、一体何がどうなってんのかなぁ!?」

「ンな事、アタシに言われたって困るよ……! アタシにとってもイミフな事ばっかなんだから!」

「だってさー! あーしの、おきにのポーチが……めちゃカワで好きだったのにぃ~!」

「それを言うなら、アタシの化粧ケースまで()()()()なっちゃったじゃない! 姫華ともぜんっぜん連絡取れないし……」

 

 ぜひぜひと息を荒く吐きながら、口々に悲鳴染みた声を上げ合う少女たち。

 彼女たちの身に何が起きて、そして何から逃げているのか。

 その答えは、まさしく背後から迫りつつあった。

 

「エヒャーッ! エヒャヒャヒャヒャ! エヒヒヒヒッ!」

「ニンゲン、オウ! ニンゲン、コロス! オモシロイ!」

 

 少女たちを殺さんと迫り、意地の悪い嘲笑を上げる2体のガキツキ。

 それらはただ少女たちを見つけ、甚振り殺そうと襲い来ているのではない。その事を、彼女たちの呟きが示していた。

 

 彼女たちは、姫華と特に親しい2人の友人だ。

 何かと日常を共に過ごし、つい昨日、姫華と共に『現代堂』の陰謀に招かれた。

 

 占い師を装ったフデ・ショウジョウによって描かれたのが、幸運を招く書紋(シンボル)ではなく、妖術の布石である事など知る由も無く。

 

 その結果として起きた事態こそが、今だ。

 彼女たちが書紋(シンボル)を書いてもらった小物──ポーチと化粧ケースは、まさしく彼女たちの目の前でガキツキへと変成した。

 当然、そのまま黙って殺されてやる道理など無い。訳も分からないまま逃げ出して、今に至る。

 

「や……やっぱアレかなぁ……!? あの占い師のおじーちゃんがなんかやった説!? だって、それ以外にそれっぽいの無いもん!」

「い、今それ言ったってどうしようもないでしょ、弥生っ! いや、アタシもそう思わなくはないけど──……って」

「──ほみゃぁぁぁあああああ!?」

 

 聞き慣れるほどではないが、聞き覚えのある声が前方から轟いてくる。

 走りながらも互いに顔を見合わせ、少女たちが自分たちの走る先によくよく注目してみると──

 

「エヒヒヒヒヒヒヒッ! ニゲル! ニンゲン、ニゲル! タノシイ! タノシイ!」

「無理無理無理無理無理! 俺っちは全っ然楽しくないんですけどォ!? 頼むから追いかけてこないでくださいお願いしまぁす!」

 

 自分たちと同じく謎の化け物に追われ、全速力の猛ダッシュでこちらに近付いてくる1人の少年。

 その高校生らしい体つきに見合わぬ背の高さ、そして緊迫していながらも少し抜けた風な表情に、2人は心当たりがあった。

 

「美季にゃん! あの人、同じクラスの日樫ちんだよ!」

「えっ嘘、日樫!? あんたも追われてんの!?」

 

 少年の正体こそは、まさしく日樫 光太だ。

 己を殺さんとする怪物から決死の逃走中な彼は、関わりこそ浅いが同じクラスメイトである少女たちの姿に驚愕を発する。

 

「その声とツラ……灯原(トモバラ)か!? その後ろにいるのは透木(スギ)で……って、ちょい待て!」

 

 声を上げている間にも、彼我の距離は近付きつつある。当然だ、互いの前方から互いが走ってきているのだから。

 このまま進めば、3人は盛大に正面衝突するだろう。

 それが分かっているからこそ、彼らは足を止めざるを得なかった。足を止めてしまった。

 

「不味い不味い不味い! これ不味いって! 逃げ場無くね!? 意図してねーのに道の両側から追い込まれた形になっちまってる!」

「えっ!? ……あっ、ホントだ! 後ろからも前からも来てんじゃん!?」

「どうしよ美季にゃん!? 路地裏に逃げ込んだってすぐ──」

「エヒヒヒヒヒエヒャヒャヒャヒャァーッ!」

 

 少女たちの背後より迫る2体のガキツキ、光太を追いかけてきた1体のガキツキ、締めて3体の異形たち。

 それらが一斉に蠢いて、とうとう追い詰めた3人の弱者たちを食い散らかさんと飛びかかってきた。

 

「あっやべ、伏せ──あぎゃぁぁぁあああ!?」

「「きゃぁぁぁあ!?」」

 

 咄嗟に目を動かして、目と鼻の先に小さな路地裏を認めた光太。

 彼は反射的に少女たちを押し倒し、悲鳴を上げながら3人揃って路地裏の奥に転がり込んだ。

 

 今まさに襲おうとしていた人間たちが視界から消失した事で、ガキツキどもはたたらを踏む。

 行き場を失った爪や牙が空を切り、ギョロギョロとした異形の目はすぐに路地裏へと逃げ込んだ獲物を発見する。

 

「こっ……ここここ、来ォい! 俺が相手してやっから、女子2人は後ろの柵から向こうに行けますかね!?」

「む、無理ぃ! あーし……もう、足が動かない! せめて、美季にゃんだけでも……」

「馬鹿! あんた見捨てて逃げて何が友達よ! アタシが囮になるから、日樫は弥生をおぶって行って! 早く!」

 

 互いに庇い合う3人を、おぞましい幽鬼たちがせせら笑う。

 彼らに人間の言葉はさほど理解できない。だが、目の前の愚か者たちが馬鹿馬鹿しい茶番を繰り広げている事は理解できる。

 

 まったく、馬鹿な者たちだ。誰が誰を庇っても、最後には自分たちが上回って残酷に殺してしまえるというのに。

 自分の死を早め、相手の死を数秒遅らせる事しかできないなど、なんと愚かな人間たちだろう。

 

「エヒヒヒヒヒッ! オロカ! オロカ!」

「ニンゲン、オロカ! オロカ、サンニン! オモシロイ!」

「コロソウ! コロソウ! オロカ、ゼンブ、コロソウ!」

「「「エヒャヒャヒャヒャヒャ!」」」

 

 耳に突き刺さるような嘲笑を伴って、ガキツキたちは遂に動き出した。

 その牙で、その爪で、その悪意で、愚かで弱い3人の人間を甚振り殺し、己の快楽を満たす為に。

 彼らの絶望に染まった表情を無惨に引き裂いて、その骸の上でゲラゲラと嗤う為に。

 

──尤も、そんな下劣な欲望が満たされる筈など無いのだが。

 

「エヒブビャァッ!?」

「エビュッ!?」

「ギャアギュッ!?」

 

 直上から降ってきた3発の弾丸が、3体のガキツキを1発ずつ貫いた。

 妖気を捏ねて形成された炎の一撃は、開けた風穴から幽鬼たちを粉微塵に爆散させる。

 ガキツキたちが動き出し、弾丸に貫かれ、爆散するまでに果たして10秒すら要しただろうか?

 

 ぶわりと頬を撫で髪を焦がす熱風を浴びて、光太たちは呆気に取られてしまう。

 たった今、自分たちを殺そうとしていた脅威全てが一瞬で消滅した現実を、彼らは飲み込めずにいた。

 

「えっ……? は……え、えぇ? なんだってんだ、一体──」

 

 そこで、言葉は止まった。

 上空から降り立ち、爆炎を吹き飛ばすように着地した1人の影に、光太は目を奪われた。

 光太だけではない。彼が背後に庇っていた少女2人も、その存在に声を失っている。

 

 敵か味方か、なんて事はどうでもいい。

 あの化け物どもと同じ存在ではないか、なんて疑念など考える事すらできなかった。

 

「……大丈夫?」

 

 ただ、自分たちの前にゆるりと立つ、火縄銃を手に持った黒いマフラーの人物。

 彼が帯びる漆黒の瞳に、彼らはどうしようもない優しさを感じ取った。

 

 

 

 

 やっべ。

 八咫村 九十九は内心で焦った。

 

 聞こえてきた悲鳴が光太のものだと分かった瞬間、九十九は居ても立っても居られず即行で現場へ飛んでいった。

 無論、周囲に討ち漏らしたガキツキがいる気配も無く、この場を離れても問題無いと判断したが故の事である。

 

 果たして光太は、九十九の予測通りガキツキに襲われていた。

 おまけに、姫華の友人であるクラスメイトの少女たちも同様に襲われているとあっては、助けざるを得なかった。

 

 その結果がこれである。

 

「あ、あんた……俺たちを、助けて……くれたのか?」

 

 めちゃくちゃビビられている。

 そう解釈して、九十九は内心で焦った。超焦った。

 

 見ず知らずの人々から「化け物」と警戒されるのは、まだいい。

 けれど、気心の知れた友人たちから恐怖と警戒を向けられるのは、まだ高校1年生の少年にとってまぁまぁ堪える事だった。

 

 とはいえ、光太たちの側からしてみれば、素顔の分からない彼は自分たちの命を助けてくれた存在だ。

 その出で立ちにガキツキたちのような悪意や敵意が無い事を感じ取って、誰何(すいか)の声を上げただけに過ぎない。

 

 要するに、その実ビビっているのは九十九の側というだけの話である。

 

「えーっと、顔がよく見えないんだけど……あんた、誰? アタシらの知ってる人……って訳でも無い、よね?」

「……うん。君たちをたまたま見つけて、助けた。……それだけだよ」

 

 なるべく、言葉に情を滲ませないように。意識して言葉を紡ぐ。

 認識阻害のマフラーによって自分の素顔は彼らに分からないとはいえ、知っている相手を前にするとドキドキしてしまうのも事実だ。

 

 というか1度、姫華を名前で呼んだせいで彼女に正体を悟られてしまっている。

 あの時と同じ轍を踏む訳にはいかない。

 

「表通りにいた怪物たちは全部片付けた。……なるべく気を付けて、誰か頼れる人と合流するんだ」

「あ、あれだけいた化け物を全部って……!? と、ともかく分かった。もう危険は無いんだな!?」

「この辺は多分……ね。でも、他の場所はそうじゃない。だから、もう行──」

「ね……ねぇ、待って!」

 

 少女の内の1人が声を上げる。

 限界を超えてまで走っていたのだろう。座り込んだままに九十九を呼び止める彼女は、足が真っ赤に腫れていた。

 友人の静止を受けてもなお、少女は辛抱堪らず問いを投げかける。

 

「ちょ、ちょっと弥生……!」

「あのっ、黒マフラーのおにーさんさ……どっかで姫華にゃん見なかった!? ずっと連絡が取れないの!」

「……姫華、とは?」

「あ、えっと……白い銀色のストレートがめちゃカワな子! あーしたちと同じくらいの背で、もうめっちゃ綺麗な子なの! もしかしたら、さっきの化け物みたいな奴に襲われてるかも……。だからお願い、姫華にゃんを助けて! あーしの大切な友達だから!」

 

 見ず知らずの、そして正体不明の何者かに対して必死に懇願する少女。

 ともすれば、彼の持つ銃が自分たちに向けられるかもしれない。そんな可能性を知ってなお、或いはそんな愚考よりも優先すべき事項だと思ったのか。

 彼女にとってはそれほど、白衣 姫華という少女は大切な存在なのだろう。

 

「……アタシからも、お願い。返せるものとか、何も無いけど……でも、アタシにとっても姫華は大事な親友だもん」

「あっ、それなら俺からもいいか!? 八咫村 九十九っつー、背のちっちぇえ黒髪の男子も見かけたら助けてくれ! こいつらにとっての白衣くらい大事な、俺のダチなんだ! 頼む、この通りだ!」

 

 友人の懇願に同意を示すもう1人の少女に加え、光太までもが己の友を想う言葉を口にした。

 目の前に立つ人物こそが、その友であるとも知らず。彼の言う「大事なダチ」の正体こそが、自分たちを襲う化け物たちと起源を同じくする存在であるとも知らず。

 

 だが、九十九はそれを愚かとは思わなかった。

 じわりと滲み出ようとしていた涙を、気合で堪える。

 

「……分かった。必ず、助ける。だから、君たちは安全な場所に避難していてくれ」

「ほ、ホントか!? マジでありがとな!」

「……うん。約束は、守るよ」

 

 そう言い残して、少年の体はふわりと宙に浮く。

 まだ、助けるべき人々は多く、倒すべき敵も多いだろう。一刻も早くガキツキの群れを全滅させて、この騒ぎを止めなければならない。

 

 そしてフデ・ショウジョウを倒し、テカガミ・ジョロウグモも退けて、姫華を助け出す。

 その決意を胸に、再び街へ飛び立とうとして──

 

「ねぇ! あんた……名前は!?」

 

 1人の少女が、背中にそう呼びかける。

 そこで一瞬、九十九の動きは止まり……数秒の思考ののち、振り返る事なく口を開いた。

 

「ヤタガラス。妖怪リトル・ヤタガラスが、僕の名前だ」

 

 今度こそ、空へ舞い上がる。

 急がなくてはならない。いくら彼らが友人とはいえ、この場に留まってばかりはいられない。

 ……だから、彼らの言葉に何かを返す事もできない。

 

「ありがとな! おかげで助かったぜ、ヤタガラス!」

「ありがとー、ヤタガラスちん! 姫華にゃんをお願いねー!」

「ヤタガラス、頼んだわよ! それと……アタシからもありがとう!」

 

 真っ当な感謝を背中に受けて、九十九は飛び去った。

 心の奥底がポカポカと熱を帯びているのは、きっと妖気のせいだろう。そう納得する事にしながら。




灯原(トモバラ) 美季(ミキ):一人称が「アタシ」の方
透木(スギ) 弥生(ヤヨイ):一人称が「あーし」の方


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其の参拾玖 真っ白い想い出

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


 ぼんやりと、在りし日の夢を見た。

 

 あの夏の日、家族で海に遊びに行った姫華は、波に足を取られて溺れてしまったのをよく覚えている。

 藻掻けば藻掻くほど潮の流れが手足を絡め取り、そのまま沖合まで流れていく小さな体。

 家族にも、誰にも気付かれないまま、助けを呼ぶ為の声すら出せずに沈んでいく恐怖。

 

 このまま、自分は海の底に沈んで溺れ死んでしまうのではないか。

 そんな絶望から姫華を救ってくれたのは、1人の異形の女性だった。

 

 上半身は着物を身に着け、いたってお淑やかな風貌をした大人の女性。

 しかし、その下半身は魚そのもので、藍色の鱗が日光の反射で鮮やかに輝いていた。

 

 彼女は溺れていた姫華を助け、太陽の照らす岩場まで運んでくれた。そればかりか、自分の意識が戻るまでつきっきりで側にいてくれた。

 そうして意識が戻った時、異形の女性はニコリと微笑んだのだ。

 

──善かった、無事で御座いましたね。

 

 姫華は、その時の光景を一生忘れる事は無いだろう。

 あれが何かの見間違いであったなどと、誰にも言わせない。過去を美化しているなどと、知った風な言葉も言わせない。

 

 それから姫華は、女性に色んな事を問いかけた。

 何を問い、どう返されたか。そのほとんどを覚えていないが、唯一覚えている事がある。

 

──妖怪。我らの事は、そのように呼ばれます。

 

 それが、女性に問いかけた最後の質問への答えであり、その女性と過ごした最後のひと時であったように思う。

 その後すぐ、姫華がいない事に気付いた大人たちが彼女を探しに現れ、女性は静かに海の中へと消えていった。

 

 だから、話したのだ。周りの大人たちに。友人たちに。

 自分は妖怪に助けられた。美しい人魚に助けられたと。

 見ず知らずの子供を助けてくれた、心優しい存在がこの世にいる事を。

 

 けれど。

 

『姫華、それは何かの見間違いだよ。ダイバーの人がそう見えたんじゃないかな?』

『どうやら、溺れた拍子に意識が混濁していたたようですね。よくある事です』

『あの岩場にいたのも、偶然潮の流れでそうなっただけだ。助かって本当に良かった。まさに奇跡だ』

 

 違う。

 

『よーかい? バーカ、そんなのいる訳無いじゃん! 母ちゃんが言ってたもん』

『いるなら証拠出せよ、証拠。証拠が無いならお前は嘘つきだ。やーい、白衣の嘘つきー!』

『あの……姫華ちゃん。わたしも、人魚なんていないと思うな……。本当に見たの?』

 

 違う。

 

『すみません、ウチの子がご迷惑をおかけしたそうで……。姫華! なんでお友達をぶったの!?』

『彼女は妖怪に会ったと言い張って、それで喧嘩になったそうで。言ってはなんですが、自分のついた嘘に引っ込みがつかなくなったのでは……』

『あんなにいい子だった姫華ちゃんに、まさか虚言癖があったとは思いませんでした。お宅では、どういう教育を?』

 

 違う。

 

『姫華! いい加減にしなさい! 妖怪なんていないんだ、全部お前の見間違いだ!』

『嘘はつけばつくほど、より自分の身を苦しめるのよ? 明日、皆に謝りなさい』

『いいか? 姫華。妖怪はね、昔の人が怖かった体験や勘違いを生き物だと思って作った、空想のキャラクターなんだ。現実にはいないんだよ。科学的にあり得ないんだ』

 

 違う。

 

『認めろ』

 

 違う。

 

『妖怪なんていない』

『妖怪なんてあり得ない』

『妖怪なんて存在しない』

 

 違う。

 

『お前の見間違いだ』

『お前は嘘つきだ』

『お前は法螺吹きだ』

 

 違う。

 

『お前を助けてくれた妖怪なんて、この世のどこにも存在しない。全部、お前の妄想だ!』

 

 違う!

 

 私は本当に見たんだ! 本当に、私を助けてくれたんだ! 嘘なんかじゃない!

 私を助けてくれたあの人を、馬鹿にしないで! 妄想なんて言わないで!

 お願いだから、信じて! 私は本当に……あの人魚さんに、助けてもらって──

 

 

『そっかぁ……姫ちゃんは、人魚さんに助けられたんだねぇ。それは、とっても素敵な事だねぇ』

 

 

 泣きじゃくる姫華の頭を、優しく撫でる手。

 べそべそと溢れる涙が零れ落ちる、ふかふかとした膝。

 夕日の柔らかい光が差し込む、木の香りのする縁側。

 

『ぐすっ……おばあちゃんは、信じてくれるの?』

『そりゃあ、もう。可愛い孫の言う事を信じないお婆ちゃんが、この世界のどこにいますか』

 

 そう言って、祖母の指が姫華の目元に添えられた。

 細くシワシワで、それでいて確かな温かさに満ちた指が、少女の瞳をぐしゃぐしゃに濡らす涙を穏やかに拭う。

 

『ほら、もう泣き止もうね。見てごらん? 鏡に映った姫ちゃん、お目々がとっても真っ赤になってる』

『うん……ホントだ。ぐす、ぐしっ……きれいな鏡……』

『これはね、お婆ちゃんの大切な、大切な手鏡なの。天国に行ったお婆ちゃんのお母さんからね、お婆ちゃんが結婚する時にもらったんだよ』

 

 祖母は右手で孫娘の頭を撫でながら、左手に持った手鏡を見せる。

 そのピカピカに磨かれた鏡面の美しさ、意匠の艶やかさに、泣き虫だった姫華は一瞬で心を惹かれた。

 

『お婆ちゃんはね、この手鏡をずーっと大切にしてるの。いつか、良い神様になりますように、って』

『かみ、さま……?』

『道具はね、大切に大切に使い続けると、いつの日か神様になるの。良い神様になった道具は、優しい心を持つけれど、もし道具を大切に使わないと……』

『使わないと?』

『わるーい神様になって、姫ちゃんにたっくさんイタズラしちゃうかもしれないねぇ』

 

 ぴっ!? と幼い少女は全身を震わせた。

 先ほどまでとは違う意味で涙を浮かべる彼女に、老婆はごめんごめんと笑いながら背中をさすってやる。

 

『だからね、姫ちゃん。道具は大切にしないといけないわ。大切にして、良い神様になってくれるようお願いするの』

『うん……わかった! ひめかね、神様とおともだちになる!』

『あらあら、それは楽しみねぇ。神様とお友達になった姫ちゃん、お婆ちゃんもいつか見てみたいわぁ』

 

 和やかに笑い合う孫と祖母。

 

 姫華にとって、最も心穏やかで在れたひと時だった。

 周りの大人や子供たちは、祖母を除いて誰1人として信じてくれなかったから。

 そればかりか、親は祖母に対して「あまり姫華を甘やかさないでください」と苦言を申してすらいたように思う。

 

 それでも、祖母は穏やかに笑っていた。

 姫華が人魚に、妖怪に助けてもらったのだと、最期まで信じてくれた唯一の人だった。

 

 彼女が眠るように旅立った後、姫華の言葉を信じてくれる人はいなくなった。

 ただ1つの救いは、祖母が死ぬ直前に託してくれたあの手鏡だけ。

 

 だから姫華は、その手鏡をずっと大切にし続けてきた。

 親から「古臭い手鏡を大事にするなんて変わってる」と言われても、友達から「ダサい鏡なんて馬鹿みたい」と言われて壊されそうになっても、ずっと。

 誰にも見つからないよう服の下に隠して、ずっと、ずっと。

 

 大好きだった祖母の言う通り、いつかこの手鏡に良い神様が宿りますように、と。

 

 でも……じゃあ、どうして。

 

『妖怪なんて、この世界にいる訳無いじゃない。……馬鹿馬鹿しい』

 

 どうして私は、妖怪を信じなくなったんだろう。

 

 

 

 

「……ゅ、め……?」

 

 不意に頬を撫でた冷たい隙間風で、姫華の意識は現実世界に帰還した。

 

 視界が薄暗く、喧騒もうっすらにしか聞こえない事から、ここはどこかの建物の中であるらしい。

 手首に感じた違和感から無意識に腕を動かそうとしたところで、姫華は自分の手足が縛られている事にようやく気付く。

 しかしそれは、フデ・ショウジョウの妖術によって枷のように拘束されていた先ほどまでとは些か状況が違うようだ。

 

「こ、れ……蜘蛛の巣……!?」

 

 姫華が今いる場所は、建物の中に張り巡らされた巨大な蜘蛛の巣、その中心部だった。

 

 白く太い蜘蛛糸が幾重にも束ねられ、交わり、折り重なった縦向きの幾何学模様。

 その中央で、姫華は両腕をそれぞれで縛られ、両足は纏めて縛られた形で拘束されていた。

 

 いくら手足を動かそうとも、糸は千切れるどころか裂け目が入る素振りすら見せはしない。

 これ以上は体力を浪費するだけと判断し、溜め息と共に力を脱力する。

 

「これは……無理ね。結局、九十九くんに迷惑かけちゃった……」

 

 目を閉じて瞼に投影するのは、3度も自分を助けてくれたクラスメイトの姿。

 自分よりも低い背丈に、眠たそうな瞳、ダウナー染みた態度。けれど、その言葉や思想には強い優しさが含まれている。

 

 そしてその正体は、正義の妖怪リトル・ヤタガラス。

 あの勇姿に、自分は何度も助けてもらった。けれどそれは、何度も迷惑と負担をかけているとも解釈できる。

 

「また、助けてくれるかな……? 約束してくれたけど、でも……」

 

 攫われる直前、彼は確かに約束してくれた。

 必ず、何があっても助ける、と。

 

 そこに安堵を覚えたのは事実だが、同時に思う事がある。

 

──本当に、このまま彼に助けられてばかりでいいのかな……?

 

 今、それを考えてもどうしようもない事は確かだ。

 4度目の今回も、また助けてもらう事になる事実から目を逸らす事はできない。

 

 それでも、思うのだ。

 足を引っ張ってばかり、負担をかけてばかりのお姫様ではなく、自分も──

 

「……目覚めたか。体が優れぬ様子は無い様で何よりであるぞ」

 

 ぬるりと、天井の隙間を縫って現れる純白の女怪。

 虚ろな表情を携えた女性の胴体に、腰から下は巨大な蜘蛛の肢体が形成されている。

 突如として現れた衝撃と、いつ見ても驚くその姿を前に、姫華は「ひぅ」と呼吸を忘れかけた。

 

 彼女こそ、姫華の手鏡より生み出された九十九神、妖怪テカガミ・ジョロウグモに他ならない。

 妖気によって生み出した糸を手繰り、ゆっくりと降りてきた彼女は、そのまま姫華の眼前へと迫る。

 

「暫しの辛抱であるぞ。直に、わたしの邪魔を為す者は全て消失する」

「何がっ、目的なの……!? こんなところまで私を攫って、雁字搦めにして……!」

「其の様に憤るな。わたしは只、何処にも往かせはしないだけであるぞ──」

 

 じぃと、姫華の顔を見た。

 その虚ろな眼差しには、如何なる感情も宿っていないように見えた。ただ、妖怪としての悪意だけが詰まっているように思えた。

 少なくとも、この時までは。

 

()()()

「……え……?」

「わたしは、あるじより命を分け与えられし九十九神。あるじを何処へも往かせはしない。わたしとあるじは、共に生きる運命(さだめ)にあるぞ」

 

 真っ白い腕が、姫華に向けて伸ばされる。

 色素の抜け落ちた純白の指先は、少女の頬を優しくなぞり、ひんやりとした感触を与えた。

 

 そこに、乱暴をしようという意図は一切無い。

 むしろ反対に、傷1つつけてはならないと言わんばかりの慎重な指使いで、たおやかに愛でているよう。

 

「あるじ、って……あの、サルみたいな妖怪がそうじゃないの? だって、私から奪った手鏡を使ってあなたを生み出して……」

「否。わたしを生み出したのは、紛う事無くあるじであるぞ。あるじがわたしに心を、情を、慈愛を注ぎ、神を宿らせた。そうして宿った神こそがわたしであり、ショウジョウは只の切っ掛けに過ぎない」

 

 労るように、慈しむように、そして何より愛でるように。

 白く細く冷たい、それでいてすべすべと滑らかなジョロウグモの指先が、何度も何度も姫華の顔を撫で回す。

 

「あるじ、あるじ、あるじ。わたしは、嬉しいぞ。あるじは手鏡だったわたしに、溢れんばかりの愛をくれた。あるじの祖母と同じ量の愛を、あるじの祖母よりも短い月日の中でわたしに注いでくれた。あるじの愛が、わたしを神に成らせてくれたのであるぞ」

「私、が……手鏡(あなた)に、愛を……。それを、ずっと……ずっと、見ていたの? 妖怪になるよりも、ずっと前から……」

「嗚呼。わたしは、永くを見てきた。あるじの祖母がわたしに注いでくれた想いも、あるじがわたしに込めた想いも、捌拾余年(はちじゅうよねん)の全てを。あるじは只の1度とて、わたしを粗雑に扱う事は無かった。あるじが大切に扱ってくれたが故に、わたしと謂う神が宿った」

 

 虚ろな瞳が、虚ろなままに姫華を見つめる。

 ジョロウグモの空っぽな瞳には、悪意のみが宿っていると思っていた。

 けれど、その空虚な眼差しを見ている内に、どこか深い情の類いがあるのではないかと思えてくる。

 

「有難う、あるじ。わたしは、あるじが愛してくれたが故に妖怪と成った。此の様に語らい、触れる事が叶った。わたしは、此の時を待ち望んでいた」

「……私、は……」

「故に」

 

 ギョロリ。

 空虚な瞳が蠢いて、感情の抜け落ちた光を宿したまま瞳孔を開いた。

 

「共に生きよう、あるじ。我等以外に誰も居ない、あるじとわたしだけの世界で。決して逃れる事の叶わぬ蜘蛛の巣に絡め取られた儘、永遠に」

「……えっ?」

「あるじとわたし、わたしとあるじ。共に絡み合い、交わり合い、混ざり合い、退廃に染まる生を過ごそう。睦み合う度に絡まる糸に身を任せ、同一の存在と成ろう。(いず)れがあるじで、(いず)れがわたしか分からぬ程に。堕落に満ちた蜘蛛の巣は、我等のみを受け入れよう」

 

 虚ろな表情を維持したままに恍惚とするジョロウグモを前に、姫華は冷や汗を垂らした。

 

「嗚呼、我があるじ。わたしのあるじ。わたしはあるじが欲しくて堪らない。あるじのくれた愛に、わたしは歪んだ愛で報いる事しか叶わない。わたしの心は無惨に狂い果てた。世界が歪んで見える。あるじすら歪んで見える。故にわたしの愛も歪み、狂っている」

 

 姫華の認識は何も間違ってはいない。

 一見すると感情を思わせないテカガミ・ジョロウグモの眼差しには、実のところ深く濃い感情が宿っている。

 それが、自らの主である白衣 姫華への強い感謝と愛情、忠誠である事にも相違ない。

 

 

 ただ──それらの感情があまりにも重く、狂っているだけだ。

 

 

「ま、さか……あのサルの妖怪が、何か細工を……!?」

「ヒッヒッヒッヒ……お察しの通りですよ、(まじな)い師の才を持つ娘」

 

 何も見えない暗がりから、ヌッと現れた白の巨体。

 体毛の全てを色褪せた白に染め上げたサルの怪人が、姫華とジョロウグモの下へと歩み寄ってくる。

 その下品で下劣な嗤い声に、囚われの少女は不快感を露わにした。

 

「フデ・ショウジョウ……だっけ。あなた、この子に何をしたの!? この子の心を……こんな、めちゃくちゃにして……っ!」

「ヒッヒッヒッ、そう難しい事ではないですよ。ジョロウグモが妖怪変化(ヘンゲ)を起こした原因が、あなたではなくワシにある。ただ、それだけの事です」

 

 近付いてくるショウジョウに対して、ジョロウグモは虚無的な瞳を返す。

 その体は自然と姫華を庇うような位置に立ち、ジットリと重い眼差しを振りかざす。

 

 近付けば、安全は保証しない。

 言外にそう伝えられて、サル妖怪は肩を竦めながら足を止めた。

 

「分かりませんか? ワシの妖術《物気付喪(モノノケツクモ)》によって変化(ヘンゲ)を強要されたテカガミ・ジョロウグモは、あなたが注ぎ込んだ慈愛ではなく、ワシの悪意と害意を象徴する存在としてこの世に生まれたのですよ」

「……イナリさんが言ってたわ。妖怪は、道具に宿る感情を色濃く反映するって。今のこの子は……私への好意と、()()()()()狂気が両立している。って事は……」

「ええ、あなたが想像している通りですよぉ? 元々持っていた、あなたからの愛による善意の変化(ヘンゲ)。ワシの手で注ぎ込まれた、外部からの強引な悪意の変化(ヘンゲ)。その狭間で揺れ動き……気を狂わせた。それが今のジョロウグモです」

 

 その言葉に、姫華はギリリと歯を軋ませる。

 してやったり。そんな言葉を顔に滲ませて、ショウジョウはけたたましく嗤い出した。

 

「ヒッヒッヒッヒッヒ! これは傑作だ! 善の想いを汲み取った道具であろうと、無理やり変化(ヘンゲ)させれば心が悪意に耐え切れない! よもや、このような形でも人間を踏み躙る事ができようとは……我らが魔王、山ン本の術は至上の発明と言っていい!」

「何が……何がおかしいの!? こんな……私や私のお婆ちゃんが込めた想いが、大切にしてきた想い出が……全部、全部! あなたみたいな奴のせいで、グチャグチャに……!」

()()()()()()()()()()! あなたたち人間がどれほど想い出とやらを詰め込んでも、我ら『現代堂』の前では無力! 想い出は悪意に反転し、その重みの分だけ持ち主に牙を剥く! 恐ろしいですか? 恐ろしいでしょう! だからワシは()()を選んだ!」

 

 筆が奔る。

 宙を滑る穂先は虚空に墨を塗りたくり、ひとつの陣を書き上げた。

 それは街で噂になっていた書紋(シンボル)に酷似していて、しかし空中に描かれた分だけ大きい。

 

 その黒く塗られた(ライン)からは、おどろおどろしい気配がこれでもかと溢れ出ていた。

 いや、実際に溢れているのだ。墨に込められた妖気が、その妖気に溶け込んだフデ・ショウジョウの悪意が。

 人の精神を犯す嫌悪の情が、書紋(シンボル)を介して可視化されている。

 

 あまりに直視し難い図形を前に姫華は顔を顰めるが、最も異常を表したのは側に立つジョロウグモだった。

 伽藍堂の瞳が狂ったようにグラグラと震え、涎が垂れ流しになる事さえ気にならないほど開いた口から苦悶の声が轟く。

 

「う……!? ぅ、あ、嗚呼……嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼……!?」

「だっ、大丈夫!? しっかりして! あのおぞましい書紋(シンボル)が、あなたを苦しませているのね!? 気を確かに持って! あんな奴に、負けちゃダメ……っ!」

「ヒッヒッ、無駄ですよ。ジョロウグモの持つ悪意を刺激しました。半刻すら待たずして、彼女はより情愛を狂わせた女怪へと化けるでしょう。そうなれば、あなたの言葉などただの塵芥!」

 

 勝ち誇るかのように、ショウジョウの口許が歪められる。

 

「これがワシの『げえむ』……! これまで生活を共にしていた道具が、目の前で化生と成り果てる! 生まれ出た化生は、これまでの想い出を裏切って持ち主に喰らいつく! その恐怖と怨嗟が、『昼』の世界に『夜』をもたらすのです!」

「そんな事、絶対にさせないんだから……っ! 九十九くんたちなら……きっと、あなたの野望を打ち砕いてくれる!」

「ヒッヒッヒ……! この期に及んで他力本願とは嗤えますねぇ。それでは、仕方ありません」

 

 己の術によって狂気に苦しむジョロウグモを余所に、サルの化け物は建物の外に意識を向けた。

 

 あれほど街のあちこちから湧き立っていた妖気の気配も、人々の阿鼻叫喚も、今はまるで感じられない。

 街の人間たちが皆殺しにされた? ならば、濃い死の匂いと悪意の妖気がより色濃く漂ってくる筈だ。

 そのような気配は無く、むしろガキツキたちが生み出す粗暴な空気感すら知覚できない。

 

 であれば、答えはひとつなのだろう。

 

「丁度、街も静かになった頃です。やれやれ……ワシが2週間をかけて構築した儀式陣も、街そのものを使って発生させたガキツキも、全てを台無しにしてしまったらしい。ワシの苦労をオジャンにした罪は、あ奴の血と魂魄で償わせるとしましょう」

 

 ヒョコヒョコと、軽い足取りで建物を後にする。

 これから先、建物の中で狂い切ったジョロウグモが姫華をどうしようとも、最早知った事ではない。

 それよりも優先すべきは、今まさに街中から発せられた炎の妖気の発生源だ。

 

「事ここに至れば、この場所が辿られるも時間の問題……であれば」

 

 自分たちがいた建物──裏山の頂上に建てられた廃天文台を出て、夜の街を一望する。

 まさしくその瞬間、街の中心から飛び立った1人の少年と目が合った。少なくとも、自分はそのように認識したし、向こうもこちらに気付いただろう。

 

「あなたが、我らが長の言う通りに『げえむ』の『敵きゃら』であるならば……ヒッヒッヒ、それを如何に排除するかが、我ら『ぷれいやあ』の腕の見せどころでしょう」

 

 そうして、フデ・ショウジョウは麓に向けて跳躍した。

 目指すは当然、『敵きゃら』──リトル・ヤタガラスとの対決の場。



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其の肆拾 開戦

 塵となって消失しゆくガキツキを踏み締めて、九十九は飛び立った。

 今しがた倒した分で、街に発生したガキツキは全て掃討できたように思う。

 討ち漏らしが絶対に無いとは断言できないが、今はそれを考慮している余裕も無い。

 

「見つけた……っ! あそこ、裏山にある閉鎖された天文台!」

「ええ、わてにも見えやした。上手いこと偽造してあるようでやすが、わてらの目も鼻も“ごまかせ”やせんぜ……!」

「とはいえ、街にあれだけガキツキが湧いていれば目眩ましになるのも事実。その辺りはしてやられましたわね」

「ともかく、急ごう! 白衣さんはあそこだ!」

 

 肩にイナリを乗せ、傍らのお千代と並んで低空を飛ぶ。

 建物の屋根スレスレを潜り抜け、夜風の狭間を縫うようにして山へと急行する。

 

 既に、街での混乱は収束に向かっていた。

 ガキツキに襲われていた人々も、駆けつけた警察官や救急隊によって救助され、安全な場所で治療を受けているだろう。

 怪我人や死者も少なくないだろうが、それでも九十九たちが介入しなければもっと多くの被害が出ていた事は容易く想像できる。

 

 その上で。

 

「坊ちゃん。……今の内に、言っておきやす」

「……何?」

「事態がここまで広まってしまった以上……然しものわてでも、街一帯の被害を“ごまかす”事は不可能でさ」

 

 その言葉に、九十九は込み上げた感情を噛み潰す。

 

 被害が数人の範疇であれば、チョウチン・ネコマタの時のように被害者の認識や記憶を“ごまかす”事ができた。

 そうでなくとも、こんな恐ろしく常軌を逸した事象に出食わしたなどと、触れ回ったところで誰にも信じられずに終わっただろう。

 

 だが、今回ばかりは不可能だ。

 街の至るところで発生したガキツキの群れは、多くの人間に危害を加え、或いは死に至らしめた。

 それは即ち、多くの人間に目撃されてしまっている事を意味している。

 

 インターネットの大きく発展したこんにち、SNSなどを使えば今回の騒ぎを如何様にも拡散する事ができるだろう。

 仮にイナリが街の人々の記憶を“ごまかせ”たとして、SNSへの投稿やメディアへの妨害を成し得る筈が無い。

 

 彼らはもう、妖怪を知ってしまった。

 

「致し方ない事とはいえ、坊ちゃまの姿も大勢に見られてしまいましたからね。もう、これから起きる事を闇から闇へ葬る事は難しいでしょう」

「……僕の正体も、バレる?」

「いやぁ、それは無いかと思いやすぜ。いくら“こんぴゅうた”の技術が発展したとしても、妖術による認識の“ごまかし”は見抜けやせん。それはわてらの方で証明済みでさ。その妖気装束を維持している限り、坊ちゃんの正体は誰にも分からないでしょうや」

「ですが、リトル・ヤタガラスという妖怪の存在は知られてしまいました。そして、わたくしたちが『現代堂』の妖怪たちと敵対し、それを狩る事で人々を守ろうとしている事も」

 

 そう語るお千代から一瞬だけ意識を逸らし、飛行しながらに街を見下ろす。

 ガキツキに喉を裂かれたらしく、とうに事切れたどこかの誰かの遺体が目に入った。

 

「……全員は、救えなかった」

「人の伸ばせる手には限りがありやす。そう言ったのは坊ちゃんでやしょう?」

「僕には力も、覚悟も、見えていた現実の量も足りなかった」

「坊ちゃまはたかが15の子供ですわよ? 逆に足りていたら驚きですわ」

「もう少し早く来られれば……とか、もう少し上手くできていれば……とか、そういう事ばかりが頭を過る」

「そういう考え方が傲慢だと言ったのも坊ちゃん自身でさ。割り切れだの諦めろだのと言うつもりはありやせん。それでも、『たられば』は思考の無駄遣いでやすぜ」

 

 2人の召使いからバッサリ論破されて、暫し「うぐ」と言葉に詰まる。

 空を駆け、夜闇に身を委ねながら、それでも九十九は思考を終わらせない。

 

「……僕の事を、笑う? あんだけ啖呵を切っておきながら……僕は本当の覚悟をしていなかった。言葉の厚みも、重さも半端なものだった」

「そんなもんでさ。最初からそれら全部がバッチリ決まっているような奴ァ、一般的に『救世主』と呼ばれやす。そして救世主は、2千年以上前に大工の嫁の脇から生まれて以降、他は誰1人として世に出てきてはおりやせん」

 

 ヘッ、とちっちゃな鼻を震わせて笑う。

 しかし、それは九十九の言動や在り方を嘲笑っているのではなく「そんな事で悩むんじゃない」という叱咤の意を込めたものだった。

 

「覚悟なんざ、最初は半端でいいんでさ。そっから色んなものを見て、色んな事を経験して、そうして厚みと重みを増していくので御座いやす。今しがた植えたばかりの種が、満開の花束に勝とうなんざ、それこそおかしな話でしょうや」

「……そっか」

 

 隣を見やれば、お千代もまた同意を示すように頷いていた。

 彼女もイナリと考えが同じらしく、九十九を責めるでも嘲るでもなく、先達としての目を向けてきている。

 

 そういうものか、と思う感情。いやそれでも、と思う感情。どうすれば、と思う感情。

 様々な感情が綯い交ぜになりながらも、一先ずはそれらのドロドロとした悩みをゴクリと飲み込んだ。

 

「今は兎にも角にも、白衣様をお助けする事に集中してくださいまし。“ぴんち”の“れでぃ”をバシッと“くうる”に助けるのが、“いけめん”の義務でしてよ!」

「──ああ、そうだね。約束したんだ、白衣さんを必ず助けるって!」

「ヒッヒッヒッヒ……そう簡単に事を運ばせる訳が無いでしょう」

 

 街の裏山に差し掛かろうという頃、九十九は前方にキラリと光るナニカを見た。

 それが自分たちに向けて飛来してきていると瞬時に理解できた事、理解したと同時に身を捩らせて回避を試みられた事、どちらも幸運と評するべきだ。

 

「ぎ、ぁっ……!?」

「坊ちゃん!? 今のは……雷で御座いやすか!?」

 

 しかし、その回避も完璧でなかった。

 九十九が空中で体を捻ると同時に訪れた漆黒の雷光は、彼の左肩に熱く灼けるような傷を刻み込む。

 

 痛みに歯を食い縛りながらも、中空でブレーキをかけつつ火縄銃を前方に向ける。

 銃を構える時の所作が、左肩の傷を刺激して強い痛みを発するが、そんな事を気にしている場合などではない。

 

 妖気を装填し、銃身の内部で着火。即座に引き金を引き、炎の弾丸を撃ち放った。

 彼が一連の動作を終えたのとほぼ同時に──2撃目、3撃目の黒い稲妻が、3人を狙って襲いかかる。

 

 驚くべき速度で大気を灼きながら奔る墨色の電流は、銃口より飛び出た赤色の弾丸と正面衝突。

 その直後、暗闇に包まれた夜の空を、真っ赤な爆発が花火のように彩った。

 

「……まぁ、いるよね。当然」

「ええ、いますとも。どうやら、あなたたちを排除しなければワシの『げえむ』は達成し得ないようですからな」

 

 半ば爆炎に巻き込まれるようにして、地上に落下・着地する九十九。

 それを追って落下し、軽やかに地面へ足をつけたイナリと、彼らの側でパタパタと羽ばたきながら高度を下げたお千代。

 

 その前方。

 裏山の鬱蒼と茂る森の入り口をバックに、ゆらりと筆を持つ白い巨体があった。

 全身を白い体毛に覆われたサルの妖怪、フデ・ショウジョウである。

 

「ワシがあれほど精魂込めて街中に解き放ったガキツキの群れを、こうも容易く……。あ認めましょう、ニンゲン・ヤタガラス。ワシは、あなたを侮っていたようだ」

「……やめる気は、無いの? こんなふざけた殺人ゲーム……何の為に」

「それはもう当然、人間の文明を討ち滅ぼし、我ら妖怪による夜の文明を打ち立てる為ですよ。このような問答、チョウチン相手に散々やったのではないのですか?」

 

 ヒヒのように嗤うショウジョウが、筆先を微かに揺らす。

 その軌跡に合わせて墨が虚空に塗られていく様を見て、九十九はいつでも火縄銃を撃てる態勢に入る。

 

「無駄なのですよ。人間の味方として、昼を尊ぶあなた。妖怪の本能に従い、夜を尊ぶ我ら。相互理解が不可能な事くらい、そろそろ理解してもいいでしょうに。況や『やめる気は無いのか』など……薄っぺらい善性にも程がある!」

「できる事なら……こんな戦いは起きない方がよかった。人間も妖怪も、穏やかに生きるのが一番だったろうに」

「それが薄っぺらいと言っているのですよ。分かり合えない者同士を指して、『分かり合えたかもしれない』という可能性を付加する事そのものが傲慢……! まさしく、あの愚かな(まじな)い師の娘のようだ」

 

 その言葉に、九十九は思わず激発しかかった。

 今動けば、向こうに先手を取られてしまう。そうして理性が制止しなければ、彼の足はもう2歩ほど前に出ていただろ。

 

「白衣さんに何をしたっ!?」

「ヒッヒッヒッ……途端に熱くなるとは青いですなぁ。……なに、大した事はしておりません。ただ……たかだか自分の愛用品が妖怪になった程度で、その妖怪に情を抱き、あまつさえ手を差し伸べようとするとは……いやはや。人間とはまこと阿呆な生き物だなぁ、と」

「……訂正するよ。お前には、人間の事も……白衣さんの事も、何1つとして理解できない」

「理解したいとも思いませんよ。じきに縊り殺される滑稽な小娘の事も、今宵を以て滅びに向かう惰弱な種族の事もねェ──ッ!!」

 

 ショウジョウが大きく筆を動かした。妖気の墨が穂先から溢れ出し、虚空に何かの図形、或いは絵を塗りたくる。

 それと同時に、九十九もまた火縄銃の砲身を敵へと向ける。弾丸は、今しがたの問答の内に装填されている。

 

 しかし、彼が弾丸を射出するとほぼ同時、サル妖怪の描き出す妖術もまた完成していた。

 夜闇を明るく照らす炎が放たれる一方、それに相対するのは──

 

「妖術……《万象一筆書き》! さぁ、飲み込まれなさい!」

 

──土石流。

 

 荒れ狂う泥水の波濤に、散りばめられた幾つもの岩石。

 一瞬の内に描き抜かれたそれらは、墨としての色と見た目はそのままに、途方も無い破壊力を忠実に再現していた。

 

 ショウジョウの眼前より溢れ出し、九十九たちのいる方向へと殺到する土砂崩れ。

 そんな質量の暴力を前にして、牽制目的で発射された弾丸程度が叶う筈も無し。

 瞬きするよりも早く、妖気の炎は土石流に飲み込まれてその役目を消失させた。

 

 だから、こうする。

 

「坊ちゃん!」

「分かってる! 妖術──《日輪》!」

 

 最大出力、かつ限界まで圧縮した灼熱。

 それを一気に点火・炸裂させて解き放たれた真紅の弾丸が、今か今かと迫る土石流に真っ正面から衝突した。

 

 墨によって再現された水、泥、岩、それら全ての質量に加えて速度と物量。

 渾然一体となった死の波濤に喰らいついてなお、炎の砲弾は衰える兆しを見せず──そして。

 

 

──BA-DOOM!!

 

 

 この通り、盛大な爆発を起こす。

 路上に咲いた真っ赤な日輪が、生み出した爆風と爆炎を以て墨色の土砂崩れを粉微塵に吹き飛ばす。

 炎の妖気はたちまちに墨の妖気を喰らい尽くし、共に熱エネルギーへと変換されながら周囲一帯に放出された。

 

「これは、また奇天烈な……っ! 単純な出力で言えば、他の妖怪の追随を許さない……という事ですかっ!」

 

 狂ったようにのたうち回る熱風の嵐に毛を焦がされながらも、フデ・ショウジョウはその場から吹き飛ばされるようなヘマはしない。

 跳ね上げた指先から手早く次の攻撃に繋がる絵を書きながらも、その目は爆発の向こうに消えた標的を探している。

 

「──見えた! そこですか!」

 

 果たして九十九は、爆風を裂いて空中に躍り出ていた。

 装束のところどころを焦がしながら夜空を舞い、それでいて銃口は真っ直ぐ敵の中核へと向けられている。

 

 爆発を目眩ましにして、上空から奇襲をかける形で狙撃する。

 成る程、確かに効果的な戦法だろう。

 

「ですが、この距離ならワシの方が早い……! 妖術《万象一筆書き》!」

 

 妖気を込めて書き終えたのは、ジグザグに空を斬る雷の図形。

 それはたちまちに電流を帯びて、目にも留まらぬ速さで上空へと飛翔した。

 

 驚きに目を見開くニンゲン・ヤタガラスの姿が見えた。

 回避も迎撃も間に合わず、彼の肉体を激しい電撃の矢が貫いて──諸共に消滅する。

 

「──ッ!? よもや、妖術か……っ!?」

 

 今度は、フデ・ショウジョウが目を見開く番だ。

 

 九十九を象った幻影は墨色の雷に貫かれ、泡沫の如く朧と化す。

 彼が見抜いた奇襲はその実、更なる囮として運用されるまやかしであった。

 

 このような事を成せる妖怪など、この場には1体しかいない。

 

「しししっ。“しんぷる”故に引っかかるでやしょう?」

「……隙あり。今度は、防がせない」

 

──まったく別の方向から、今しがた貫いた筈の少年の声がする。

 

 本物の九十九は、爆風に紛れて物陰に転がり込んでいた。

 肩に乗ったイナリによる“ごまかし”の幻影を隠れ蓑として、敵の側面に回り込んで。

 

「今度こそ──妖術《日輪》!」

 

 余裕たっぷりにチャージされた、球状の業火。

 待ってましたと銃口から飛び出した小さな太陽は、真っ直ぐ逸れる事なく獲物へと襲いかかった。

 

「防げるに決まっているでしょう……! これだけの距離があれば──!?」

 

 腕が痺れる。筆を取り落とすほどではないが、それでも右腕に力が入らない。

 これでは、咄嗟に防御できるだけの何かを書く事など困難だ。

 

 一体、何故。

 目だけを動かして見やれば、自ずと答えは見えた。

 右腕にこれでもかと突き刺さり、溶け込んでいく──漆黒の羽根が、何本も自己主張していたのだから。

 

「如何な絵師とて、“たぶらかし”てしまえば一目瞭然、ですわねっ♪」

 

 したり顔を力一杯に見せつけ、その上ウインクまでしてみせる黒スズメ。

 お千代の放った麻痺毒の羽根が、ショウジョウの右腕から膂力を奪っているのだから。

 

「不味、これでは──っ!?」

「──吹っ飛べっ!」

 

 爆炎が、高らかに噴き上がる。

 銃口よりのたうち回る灼熱は、1体の巨躯妖怪を確かに呑み込んだ。

 

「やりましたわ!」

「……いや」

 

 その筈だった。

 

「まだだっ!?」

 

 新たな弾丸を即座に装填するには、意識の隙間が足りない。

 故に九十九が咄嗟に出したのは、腕だった。振り抜いた右腕から、ロクに制御もしていない炎を撒き散らす。

 

 狂おしく炎上する業火の中からナニカが放たれたのは、それとほぼ同時だ。

 

 墨を空中に塗って形成したのだろうそれは、一見すると何の変哲も無いただの紋様(サイン)

 けれども、炎を突き破ってなお劣化する事の無い耐熱性を持ち、伸縮自在と言わんばかりに襲来するそれをただの紋様(サイン)などとは呼べないだろう。

 

 九十九が防御の為に噴き上げた炎すら突破して、墨は彼の手首にグルグルと絡みつく。

 その質感はゴムのように靭やかで弾力を持ち、同時に生半可な手段では破れない鉄のような冷たい硬さも帯びていた。

 

「しま──っ!?」

「遅いっ!」

 

 少年の右手首に巻き付くや否や、黒い拘束具は思い切り振り回された。

 拘束具の向こう側にいるだろう存在──()()()()()が持つ膂力の前では、齢15でしかない少年の体躯など風船ほどに軽い。

 

 その場からふわりと浮き上がった小さな少年の体は、空中を真横に吹っ飛んだのち、巨木の腹に勢いよく叩きつけられた。

 あまりの勢いと速度に、衝突した側の巨木すら軋みを上げて陥没し、九十九は血混じりの二酸化炭素を口から吐き出してしまう。

 

「がは……っ!?」

「坊ちゃま!? そんな……あの状態で坊ちゃまの術を避けられる筈が……」

「ヒッ……ヒッヒッヒッヒッヒ……! それは、慢心と先入観が過ぎるというものですよ、矮小な夜雀……!」

 

 今にも消え去りゆく爆炎の向こう側から現れたのは、やはりフデ・ショウジョウだ。

 彼の周囲では、炎に舐め取られてボロボロと崩れ落ちる墨の壁がこれでもかと展開されている。

 恐らく、炎と衝撃に耐性を持つような材質に変換した墨で防御したのだろう。

 

 その上で、ショウジョウの右腕はズタボロになっていた。

 あれほど恐ろしいくらいに白かった右腕の体毛は黒ずみ、焼け焦げや毒素の侵蝕によって爛れていた。

 解毒の為に無理やり妖気をぶち込み、立て続けに必殺の炎を浴びたのだろうが……そうすると、筆を操って妖術を練られた理由が分からない。

 

 いや、その理由は単純明快だ。

 だって、悪辣なる魔の狒々は今──右手に筆を持っていない。

 

「ワシは、()()()()ですからね……!」

 

 妖怪フデ・ショウジョウ。

 彼は、左手でも筆を操り、妖術を行使する事ができた。



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其の肆拾壱 筆先自在の怪

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


「妖術──《万象一筆書き・裏面(リメン)》! さぁ、お返しですよ……!」

 

 ショウジョウが筆を巡らせる。

 先ほど筆を握っていた右手ではなく、今度は左手で、しかしそれまでとは一切変わらぬ滑らかな筆捌きで。

 

 そうして瞬く間に書き上げたのは、切っ先鋭い刀の絵。

 墨によって形作られた黒色の銘刀が、都合3本。その先端は、全て木に叩きつけられたままの九十九へと向けられていた。

 

「不味い! 坊ちゃん、すぐに防御を──!?」

 

 痛みに喘いで身じろぎする彼へと向けて、イナリが声をかけようとして……気付く。

 

 今しがた受けた、ショウジョウからの攻撃。

 手首を拘束されて盛大なスイングを食らった際に──彼は、火縄銃を取り零していた。

 慌てて振り返れば、つい先ほどまで九十九がいた場所に、愛銃が無様に転がっているではないか。

 

「いっ、急いで拾って届けないと──」

「遅いのですよ……! 右手で書く術に比べれば威力は落ちますが、左手の利点はその速度!」

 

 筆先を軍配に見立て、号令をかけるように振り捌く。

 主の命令を忠実に受け取り、3本の墨刀は真っ直ぐ水平に射出された。

 

 切れ味鋭い刀身は、熱の残滓が残る空気を滑らかに裂きながら九十九へと向かう。

 対する九十九と言えば、巨木に激突した拍子に頭も強打したらしく、頭をチカチカとさせている。

 今のままでは、彼に己を串刺しにせんとする致命打を避ける術は無い。

 

「ああ……もうっ! あんまり、こういう手は使いたくありませんでしたのに……!」

 

 吐き捨てるように叫んだお千代が、己の翼を震わせる。

 その中から選別したのであろう1本の羽根が飛び出し、()()()()()()()()撃ち放たれた。

 

「……? 何を……同士討ちですかな?」

「これが終わったら暫く運動禁止ですわよ、坊ちゃま!」

 

 彼我の距離、射出された物体の大きさと形状、妖術の性質。

 それらの要素が相まって、黒い羽根は刀の群れよりも先に少年へと着弾し──さくりと、右腕に突き刺さった。

 一瞬にして溶け消えた羽根の毒素は、そのまま彼の血を介して体に巡る。

 

 

──ドクンッ!

 

 

 心臓の鼓動が、爆発したかのように跳ね上がる。

 それに呼応して目を覚まし、意識を取り戻してすぐに目の前より迫る刀を見た。

 

「らァ──ッ!!」

 

 両手を、思いっ切り前方に突き出す。さながら、眼前の敵を殴り飛ばすように。

 そうすれば両手から吹き荒れた炎が、3本の刀全てを呑み込んで消し飛ばした。

 それだけに飽き足らず、灼熱はその勢いを維持したままにショウジョウさえ巻き込みに向かう。

 

「これは……!? あれほどの反応速度で動けるとはとても思えませんが……」

 

 襲来する炎を前に、狒々はただ筆を軽く振った。

 1回目の執筆で泡の壁、2回目の執筆で泥の壁、3回目の執筆で鉄の壁。

 それら3重の防壁を以てして、涼しい顔をしながら炎をやり過ごす。

 

 役目を終えて消失する壁の向こうで、九十九は荒々しい息を吐き出した。

 彼自身にも、己の身に何が起きたのかが理解できないのだ。

 

「ハァ……ッ!? ハァ……ッ!? こ、の……頭がおかしくなるくらいの熱、は……!?」

「本当に、あまり多用はしたくありませんでしたけどね。……わたくしの毒ですわ。それを、ちょっと()()させただけですの」

 

 パタパタと、荒い呼吸しかしない九十九の傍にお千代が近付いた。

 彼女は少年の頭にチョコンと座ると、接触を通して彼の妖気の巡りを少し整えてやる。

 

「ツボってご存知? 経絡とか、そういう言い回しでもいいですわね。ともあれ、そういう箇所に弱めた毒を上手く打ち込む事で、一時的に身体能力を“ぶうすと”できるのですわ」

「ハァ、ハァ……ゲホッ……それ、薬物投与じゃない……よね?」

「まぁ、失礼ですわね! わたくし、そんなオイタはしませんことよ。麻痺毒を応用して、体の神経を刺激しただけですわ。今の世で言うと……ええと……なんでしたかしら……」

「……電気ショック?」

「そう! それでしてよ!」

 

 頭の上で、キャイキャイと囀る小さなスズメ。

 お千代のおかげで目の点滅は収まったものの、それで状況が打破できたかと言えばそうではない。

 むしろ前方では、ショウジョウが次の攻撃を塗り上げていた。

 

「そのような手があった事には驚きですが……しかし、そう乱用できる手段では無いと見ました。ならば、即座に仕留めればいいだけの事!」

 

 面制圧の一手が繰り出される。

 渾身の妖気と勢いとで薙ぎ払われた筆先から、夥しい数の水滴が溢れ出した。

 それら全てが、鋼鉄に等しい強度と硬度を備え持ち、下手な散弾銃(ショットガン)よりもよほど広い範囲を撃ち抜きにかかる。

 

 それを認め、九十九は即座に飛び上がった。

 頭にお千代を乗せたまま空中に躍り出て、素早く虚空でステップを踏む。

 彼が上へ逃げるのを見越したショウジョウによって、墨の槍が放たれていたからだ。

 

 自身の頭を貫こうとしていた槍を寸でのところで躱し、そのまま急降下。

 その時点でスズメの妖怪は頭上から離脱しており、少年は単身で着地すると共に地面を転がって側面へ回避する。

 つい1秒前まで九十九がいた場所を、漆黒の雷撃が穿ち焦がしていた。

 

「凄い……! 体の反応速度が上がっている……!」

「しかし油断は禁物ですし、過信もご法度ですわよ! 毒の効果が切れれば、ズドンと大きな反動が来ますわ! そうなれば、再度の強化はできませんの!」

「お千代の毒……というよりも、僕自身の本来のスペックに、僕の体がついていけない……って事か」

「坊ちゃん!」

 

 イナリの声と共に、何かが飛来する。

 その正体を即座に悟った九十九は、驚愕も躊躇もする事なくそれを受け取った。

 

 彼が手にしたもの。当然ながら、それは愛用の火縄銃だ。

 身体能力の向上によって、いつも以上に手に吸い付くような感覚を味わう。

 

「お千代の毒も永続ではありやせん! 耐久戦はこちらに不利……効き目が切れる前に、速攻でカタをつけやしょう!」

「分かった! 元より……白衣さんを助ける為にも、チンタラ時間はかけてられない!」

 

 躊躇いなく銃口を向け、その直後には引き金を引く。

 尋常の銃であれば弾込めが必要なところを、妖気で補えば工程を大幅に省略できる。

 射撃された弾丸は、九十九の妖気によって真っ赤な炎を宿していた。

 

「まだお分かりになられないようですね……ワシの術を破る術が、あなたたちには無い事が!」

 

 筆を滑らせる。

 瞬きするよりも早く書き上げられた墨の壁は、妖術によって泥水の性質を帯び、炎の弾丸を受け止めた。

 

 妖気の炎と共に墨の壁が消え失せた瞬間、九十九は再度の射撃を行う。

 しかし、そうして飛来した弾丸をも、ショウジョウは空中に塗った墨の(ライン)で防いでみせた。

 表面を砕かれた墨色の岩壁もまた、妖術の効力消失によって消滅する。

 

(速い……! 僕が弾丸を装填して引き金を引いた時には、もう次の絵が書かれている。奴が右手で書いていた時よりも、早く……!)

 

 果たして、彼の推測は的を射ている。

 ショウジョウが右手で描く妖術《万象一筆書き・表面(ヒョウメン)》は、描いた絵の威力を高める事に向いている。

 対して左手で書く妖術《万象一筆書き・裏面(リメン)》は、威力よりも絵を書く際の、そして書いた絵の動く速度に重きを置いたもの。

 

 右手が使えない今、左手で書いた墨の絵は威力こそ落ちるものの、反応速度で言えば九十九よりも上と言わざるを得ない。

 だから彼の攻撃は、未だ妖術の防御を突破できないでいた。

 

(……手は、ある。何となく、思い付いたものはある……けど。問題は、《日輪》と同じくらいチャージに時間が──)

 

「意識を逸らしている場合ですかな? 妖術《万象一筆書き・裏面(リメン)》!」

 

 無数の矢が描かれる。比喩などではない。文字通り、無数にだ。

 

 数え切れないほどの矢が、墨によって空中に描かれた。

 九十九は何も、それだけの矢が描かれるほど長い間ボーっとしていた訳ではない。

 ただ、ショウジョウがそれほど大量の矢を描く為にかけた時間が、あまりにも短すぎただけだ。

 

 完成した矢の絵は妖気を帯びて、全てが一斉に動き出す。

 まさしく矢衾。視界を埋め尽くしてなお余るほどの矢が、九十九ただ1人を貫き殺す為に襲いかかった。

 

「回避……いやっ、迎撃するっ!」

 

 九十九が腕を横に薙ぎ、馬鹿の一つ覚えの如く炎を撃ち出した。

 夜空を燃やすほどの真っ赤なカーテンが大きく弧を描いて広がり、無数の矢に真正面から喰らいつく。

 平時であれば、炎はそのまま矢の全てを呑み込んで終わる筈だったろう。

 

「ヒッヒッヒ……そうするのは読めていましたよぉ?」

 

 チリ、と微かな音を立てて引火する。

 何が何に……と問われれば、単純明快だ。

 

 極めて発火しやすい材質へと変化した墨の矢が、九十九の放った炎に、である。

 

 ショウジョウが描いた妖気の墨には、矢の性質に加えてもう1つ、高い発火性が宿されていた。

 それが、数え切れないほど無数に。(いわん)やそれらの矢は、今まさに強い火力で薙ぎ払われようとしていた。

 

 引火は、連鎖する。

 

「吹っ飛べ……でしたかな?」

 

 一瞬、眩いばかりの閃光が迸ったのち。

 街の裏山を、途方も無い爆炎が包み込んだ。



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其の肆拾弐 貫く曙

 その時起きた爆発は、それまでの比ではない……という表現すら生易しかった。

 

 街のどこにいても見え、そして聞こえるほどの爆炎。轟音。衝撃波。そして熱風。

 どこかの国の軍が開発した新型爆弾。そう言われた方がまだ納得できるほどの大火力が、裏山の麓を尽く蹂躙した。

 

 大地を抉り、木々を吹き飛ばし、空気すら灼き焦がして。

 少し離れたところにいたショウジョウですら、墨を用いて防御しなければ巻き込まれて蒸発していただろう。

 

 やがて、網膜を破壊するほどの閃光と炎熱が収まったのち。

 その場に残ったのは、酷く抉れ果て、完膚なきまでに熱され切った巨大なクレーターだけだった。

 そして傍に鎮座しているのは、墨が四方を覆い尽くして形成した鉄壁の殻。

 

「ふぅ……。やれやれ、我ながら派手にやり過ぎましたねぇ」

 

 表面が著しく焼け爛れた墨の殻を破り、ショウジョウがその姿を現す。

 墨の殻に包まれて防御を図っていた彼は、傷1つ負う事なく平然と降り立った。

 

「これで、ニンゲン・ヤタガラスは『げえむおおばあ』と。そういう事で、よろしいでしょうかね。まったく、こちらに損害ばかり与えて……まさしく『敵きゃら』でしたよ」

 

 そう溜め息をつきつつ、未だ熱波の残る大地を見回す。

 チリチリと体毛を焦がす熱い空気、足をジワリと焼く熱さに眉を潜めるが、その程度は何も問題無い。

 そんな事よりも、ようやく敵を倒した事への安堵で息を吐き──

 

「……な、に?」

 

 目を、見張る。

 自分の眼下に広がる惨状の最中に、驚くべき光景を目にしたからだ。

 

 だって、あり得る訳が無い。あり得ていい筈が無いだろう。

 常人であれば、触れるどころか近付く事すら困難なクレーター、その最も熱量が高いだろう中心部に──

 

「……ありがとう。妖気の充填に必要な時間をくれて」

 

 八咫村 九十九は、未だ立っていた。

 火縄銃を構え、狙撃の態勢を取りながら。真っ直ぐ、フデ・ショウジョウへと狙いを澄まして。

 

「そんな、馬鹿な……!? あれほどの、地形すら変える爆発を至近距離で受けて、無事でいられる筈が……っ」

「……確かに、無事じゃないよ。それに、爆発そのものは流石に耐えられないさ」

 

 その言葉通り、彼の体はズタボロだ。

 焦げ尽くされた装束はボロボロに破れ、噴き上げられた砂利を真正面から受けた為か、全身が傷だらけ。

 あれほど巨大な爆発を、馬鹿正直に喰らったのだ。無事なところを探す方がよほど難しい。

 

 けれども、今の彼にはおかしな点が1つある。

 確かに、彼の纏う装束は焼け焦げている。如何に妖気を編み上げた装束、そしてマフラーと言えど、爆炎を受けて無事な訳が無い。

 

 ならば何故──九十九自身は1つも火傷を負っていないのだろうか?

 

「でも、僕はヤタガラスだ。爆発自体は耐えられなくても……太陽の化身が、炎や熱で死ぬ訳無いだろ?」

 

 ニッ、と不敵に笑う。

 激しい戦闘で気が昂り、それに伴って妖気も巡りを速める。その余波が、彼に普段はしないような笑みを浮かべさせた。

 

 既に、銃身の奥底では迸るほどの妖気が、その圧縮を終えている。

 引き金さえ引けば、致命の一撃がショウジョウを貫くだろう。

 

「させません……っ! 如何に射撃の精度が高くとも、ワシの妖術の方が早い!」

 

 だから、その前に仕留める。

 素早く描かれた墨は電流を宿して、雷の矢となって放たれた。

 

 弾丸よりも雷撃の方が速いのは自明の理だ。

 九十九が引き金に指をかけるよりも早く、墨色の雷は彼を貫いた。

 

「だから、嵌まるのでやすよ」

 

 ゆらりと、九十九を象ったヴィジョンが崩れ去る。

 クレーターが発する熱に紛れて、腹に穴の空いた幻影は陽炎のように溶けていく。

 

「なん、ですと……っ!?」

 

 ショウジョウは驚きを露わにした。

 それは、自分がただ幻影を攻撃しただけという事実そのものではなく、先ほど受けた術とまったく同じ構図に嵌ってしまった事実に対してだ。

 

 そうして、気付く。

 

「わての妖術は、術中に嵌っているという自覚すら奪いやす。故に何度も、何度も引っかかる。意識する程度で、キツネとの化かし合いには勝てやせんよ」

 

 またも、認識を“ごまかされた”のだと。

 

「どこだ……!? どこに隠れているっ!?」

「ヘッ、スズメばかりに良いカッコはさせらせやせんからね。ここらが仕舞い時でやすぜ、老いぼれエテ公」

 

 鼻で笑う音が聞こえる。

 どこにいるかも分からないバケギツネが、大胆不敵な声を放つ。

 

 慌てて周囲を見回すサルの妖怪を見て、イナリはちっちゃな後ろ足で己の頭を掻いた。

 自身が張り巡らせた幻の最中に隠れながら、彼が思い出すのは先ほどの光景。

 

 あの時、ショウジョウが矢を放つ直前。

 自分たちの仕える主は、確かに()()()()()()をしていた。

 

「わてらの主君が、我に策在りって顔をしてたんでさ。なら、仔細を問わず行動に移すのが……江戸の粋ってヤツで御座いやしょう?」

 

 ニヒルに笑い、視線を遠くに向ける。

 その瞬間、イナリの目が向いた方向から、強い熱気が発せられた。

 

 背中を焦がす熱に気付いて、ショウジョウが咄嗟に後ろを振り向いた。

 最早、隠している意味も無い。イナリの展開した“ごまかし”の術が解除された先、クレーターの反対側に──

 

「さぁ、やっちゃってくださいまし!」

「──うん。ありがとう」

 

 銃を構えた1人の少年──八咫村 九十九(リトル・ヤタガラス)

 

 クレーターの中心にいた幻影と同様、その体は焼け焦げている。

 けれども、それはやはり装束に限った話だ。頬のいくつかは煤けているが、火傷というほどではない。

 彼は確かに、あの爆発を生き残っていた。

 

 彼の傍らには、同じくお千代の姿。

 彼女もまた翼を焦がしているが、その程度で飛べなくなるようなヤワな生き方はしていない。

 

 そして、九十九が手に持つ火縄銃。

 そこに装填された弾丸より先手を撃つだけの余裕は……最早、ショウジョウには残されていない。

 

(重要なのは……威力じゃない。威力が落ちてなお、あいつの妖術は脅威だった。だから、僕もそれに倣う)

 

 込められた妖気は、いつものように炎を圧縮して丸めただけのものではない。

 もっと、意識しなければならない。あの防御を破る為に。より敵と渡り合う為の策を。

 

 弾丸の、形状を。

 

(あいつが言っていた事だ。僕ができると思えば、妖術はそれを実現する。今欲しいのは──全てをぶち抜くだけの貫通力と、速度!)

 

 火縄銃を通して狙う先では、ショウジョウが筆を慌ただしく動かして防壁を書き連ねていた。

 あちらも、迎撃に割くだけの隙が無いと判断したのだろう。防壁であれば、後退しつつ何度も塗り重ねるだけ時間を稼ぐ事ができる。

 

 けれど、もう遅い。

 

「妖術──」

 

 後はもう、撃つ以外の工程は無いのだから。

 

「《日輪・(アケボノ)》ッ!!」

 

 今放たれた、それこそが勝利だった。

 

 銃口から飛び出したのは、極めて細い弾丸。

 尋常の狙撃手(スナイパー)が狙撃に用いるものとは訳が違う。ともすればボールペンの方がまだ太いのではないかというほど、その弾丸は細かった。

 

 空を切るその速度も、それまでとは比較できないほどに速い。

 凄まじい、という表現すら陳腐になる速度で、細い炎が飛翔する。

 

「そう何度も何度も馬鹿正直に、ワシの《万象一筆書き》を突破できると思わない事です!」

 

 対するショウジョウが展開したのは、12層にも及ぶ墨の防壁。

 

 泡の壁が3層、泥の壁が3層、鉄の壁が3層、トドメに岩盤が4層。

 それらが交互に重なり、どんな攻撃を以てしても突破できない堅牢さを発揮していた。

 これまでの九十九であれば、例え必殺の弾丸であっても、これら全てを吹き飛ばす事は極めて困難だっただろう。

 

 これまで、であれば。

 

 

──バスッ、バスバスバスッ、バスッ

 

 

「──は?」

 

 目の前で、壁に穴が空いた。

 ぽっかりと口を開いたその穴は、12層の壁全てが突破された事を、他の何よりも雄弁に語っている。

 

 一切を吹き飛ばすでも、蒸発させるでもなく、ただ貫通する。

 たったそれだけの弾丸は今、それまで突破できなかった壁すら突き抜けて、ショウジョウの左肩に風穴を作っていた。

 

「あ……あぁあ、ぁあ……っ?」

 

 じわりと、穴の中から熱が広がる。

 瞬間的に膨れ上がった炎は爆発を生み、悪辣なサルの胴体から左腕を吹っ飛ばした。

 

 空中をクルクルと舞い踊る左腕は、断面から迸る炎に全てを呑み込まれ、一瞬で灰燼と化す。

 それは同時に、左手に握られていた筆──妖怪フデ・ショウジョウとしての機関部も失われた事を意味していた。

 

「……あ……?」

 

 黒焦げ、2つに割れた筆が、地面にポトリと落ちる。

 それを幼児のように見下ろす狒々の正面で、妖術の消え去った防壁が崩れて消失していった。

 

 その遥か彼方では、九十九が第2射を装填済みである。

 貫通力を飛躍的に高めたものではなく、妖怪を真正面から滅ぼす為の、超火力を。

 

「今度こそ──妖術、《日輪》!!」

 

 バズーカ砲と見紛うほど激しく唸りを上げて、小さな太陽が解き放たれる。

 それを防御するでも、回避するでも、迎撃するでもなく。

 己の半身を失ったフデ・ショウジョウは、呆然とした表情で正面を向き、己へ迫る煉獄を目にして──

 

 

──BA-DOOM!!

 

 

 その上半身を木端微塵にした爆炎の妖気は、胴体全てを喰らい尽くして更なる業火を立ち昇らせた。



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其の肆拾参 助けてほしいと望むから

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


「あ、ぎぃ、ぐ……!? や、めて……! お願い、だから……!」

「嗚呼……嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼……! 我があるじ。可愛いあるじ。苦悶の声もまた美麗で、わたしの心を踊らせる。更に、更に聴かせて欲しい。あるじの稚拙な啼き声を」

 

 姫華は、全身を襲う痛みと圧迫感に耐え切れず、悲痛な声を漏らした。

 彼女の四肢は依然として蜘蛛の巣に絡め取られて拘束されたままで、追い打ちをかけるように起きたのがテカガミ・ジョロウグモの暴走だ。

 

 フデ・ショウジョウの書き出した悪意の紋様(サイン)は、ジョロウグモの精神に働きかけて彼女を更なる狂気の淵に落とした。

 姫華に対する情愛を増幅され、掻き乱された女怪は、己が情を向ける少女を強く強く抱き締めた。

 

 無論、それがただ親愛を込めたハグである筈も無し。

 全身を──蜘蛛の胴体を余す事無く使い、8本の足と1対の腕、その全ての膂力を以て全力で抱擁しているのだ。

 その有り様を極め技、或いは全身の骨という骨を砕く為の攻撃と受け取る者がいれば、その認識こそが正解だろう。

 

「死ん、じゃう……! 本当に、死んじゃう、から……っ! なん、で……こんな、事……っ! 離、して……お願い……!」

「否だ。否であるぞ、あるじ。わたしはあるじと共に在りたいのだ。あるじと共に生きたいのだ。あるじと共に死にたいのだ。あるじの命脈を断ち、その苦痛と断末魔を食む。その快楽は他の何者にも譲らぬ。わたしだけが、其れを食む権利を持つ」

 

 ミシ、ミシ、と筋肉と筋肉の軋み合う嫌な音が聞こえる。

 それでも姫華が苛まれているのは、あくまで痛みと苦しみのみ。骨が折れる事や、血が込み上げてくる事は無かった。

 

 彼女の膂力であれば、抱擁した相手の骨を全て一瞬で砕き切る事など容易いだろう。

 そればかりか、首に手をやれば綿菓子のように捻り千切る事すら現実的だ。

 

 それは或いは、テカガミ・ジョロウグモが必死に守ろうとしている最後の一線なのだ。

 自分が親愛と敬愛と情愛を向ける少女を殺したくないという、ほんの僅かな理性。

 その心根が、姫華を死に至らしめていない。

 

(殺され……たくない……っ! 死にたくないのも、そうだけど……それより何より、この子に……! 私を殺すなんて事、やってほしくない……っ!)

 

 真実、心の底から発せられた本音が()()だ。

 自分が死ぬ事そのものよりも、大切に思ってくれている相手が、大切に思う自分をその手で殺すという業を為す事。

 その苦しみを、姫華は何より厭い、防ぎたかった。

 

(だか、ら……だからっ!)

 

 何度考えても、答えは出なかった。

 ここから、自分1人だけの手で、彼女をどうにかできる手段など何も無い。

 白衣 姫華は本当に無力な存在であり、妖怪という異常を前にしてできる事は限りなく少ない。

 

 だから、頼るしかない。

 何度も何度も助けを求めてしまって、その度に迷惑をかけてしまって、本当に申し訳ないと思う。

 

 けれど、自分だけではどうにもできない事態だから。

 手をかけさせてばかりの自分が情けなくて仕方が無いけれど、それでも力が欲しいから。

 

 さっきの爆炎は、きっとそういう事だろう。

 彼が近くにいる。あの時みたいに、闇を照らす炎で敵をやっつけてくれた筈だから。

 

 姫華は叫ぶ。

 全身を強く抱き締められて、体の至るところから悲鳴が上がってなお、腹の底から声を振り絞る。

 そうすれば、きっと来てくれる筈だから。

 

「おね、がい……っ! 力を……貸し、てっ──九十九くん!」

「──大丈夫。その為に、僕がいる」

 

 果たして、救いのカラスは現れる。

 

「何度だって、君に手を差し伸べる!」

 

 窓ガラスを突き破り、窓枠ごと蹴り飛ばし、無数のガラス片を浴びてもなお怯む事は無く。

 真っ黒マフラーを首に巻いた少年が、閉鎖された天文台の内部へと飛び込んできた。

 その傍らには、イナリとお千代の姿もある。

 

 そんな少年の体は、つい今の今まで繰り広げられていたフデ・ショウジョウとの戦いによってボロボロ同然だ。

 黒焦げの装束を襤褸切れのように纏い、全身傷だらけのまま、ロクに治療もせずにこの場へ駆けつけた。

 

 お千代の打ち込んだ毒だって、いつ効果が切れてもおかしくない。

 お供の2匹も、妖術を使いに使いまくったせいで疲弊している。それは彼も同様だ。

 

 それでも、助ける。

 それが約束だったから。

 

「君が窮地の度に、僕は約束を必ず守る!」

 

 視界に映り込んだ黒衣を認めて、姫華は苦しみながらも歓喜に口角を吊り上げる。

 それに気付いたジョロウグモが、虚ろな目と表情のまま、首だけを動かして後ろを見やる。

 

 彼女たちの視線が向かうところには、こちらへ向けて火縄銃を構える1人の少年がいた。

 既に、弾丸は込められている。引き金を引く以外の工程は残されていない。

 

「それが、僕──妖怪リトル・ヤタガラスだっ!」

 

 そうして、九十九は号砲を上げた。

 

 放たれた弾丸は、平時のそれよりも威力の落とされたものだ。

 可能な限り姫華を巻き込まないよう、込められた妖気も熱量も削られている。

 その代わり、速度と打撃力が意識されている。着弾すれば、ごく小規模の爆発と共に敵の体を打ち据えるものだ。

 

 それが、ジョロウグモに向けて射出された。

 誤射などあり得ない。姫華を一切傷つけない軌道を描き、宙を灼きながら飛翔する。

 

「馬鹿の一つ覚えは、愚か……であるぞ」

 

 白く細い指の切っ先が、弾丸を力なく指差す。

 室内に張り巡らされた蜘蛛の巣が、術者の指令を待ち侘びるかのように震え始めた。

 

「妖術、《鏡の国の若菜姫》」

 

 糸が、射出される。

 蜘蛛の巣の端を構成していた1本の糸が、真っ直ぐに飛び出してジョロウグモの前に飛び出してくる。

 炎の弾丸は糸に向かって飛来し、そのまま着弾──する事無く、糸の中に溶けるように消えていった。

 

 その直後、まったく見当違いの方向にあった別の糸が震え、表面から炎の弾丸を吐き出した。

 以前のように適当な座標へと放たれたのではなく、今度の弾丸は本来の使い手である九十九へと襲いかかる。

 

「また、あの術……!」

「お下がりくださいまし、坊ちゃま!」

 

 お千代が、翼をはためかせる。

 弾かれるようにして放たれた数本の羽根が、空中で弾丸と衝突して小さな爆発を起こさせる。

 それによる損傷は一切無い。まずは一撃、互いに攻撃はいなされた形となる。

 

「く、あぅっ……!?」

「あるじ、今暫く待って欲しい。直に終わらせるぞ」

 

 そこでようやく、強烈な抱擁は一旦終わりを告げた。

 都合10本の手足でこれでもかと羽交い締めにされていた姫華は、解放されると共に激しい呼吸を繰り返す。

 それを横目に見ながら、蜘蛛の女怪は自分が足場にしていた蜘蛛の巣へと、ゆっくりと足を下ろした。

 

──トプゥ……ン

 

 蜘蛛の足は糸を踏み締める事なく、逆に糸の中へと沈み込む。

 質量や体積の一切を無視して、テカガミ・ジョロウグモの肉体はワイヤーほどしか太さの無い糸の中に消えていく。

 それはまるで、水中を潜航するかのよう。

 

「消えた……!? あの時と同じだ、一体どこに……」

「もしや、幽世(かくりよ)の形成ですの? でも、それほどの妖気でしたら、わたくしたちが感知でき──」

「──ッ!? 違いやす、坊ちゃん! ()()でさ!」

 

 イナリが叫びを飛ばした先、それは彼の言う通りに九十九の背後だ。

 いや、正確には──

 

「おそれよ。わたしの愛を。おそれよ。わたしの魔を」

 

 先ほど九十九たちが突き破り、その場に散乱させた窓ガラスの破片。

 その内の1つが鏡のように煌めいて、ジョロウグモの巨体を顕現させたのだ。

 今しがたの潜航と同様、体積など元から存在しなかったかのように、彼女の白い肢体はガラス片からヌルリと現れた。

 

 驚く一同に対して、指を向ける。

 1本ではなく、手の指全ての切っ先に妖気を込めて。

 

「おそれよ。わたしをおそれる汝等の心魂が、わたしとあるじの世界に静謐の夜闇を齎すのであるぞ」

 

 10の指先から、白く太い蜘蛛糸が幾多も放たれた。

 靭やかな質感を持つそれら1本1本が、路地裏で見せたように鋭い貫通力と破壊力を秘めている事は明らかだ。

 

「イナリ! お千代! いい感じに避けられるよね!?」

「勿論! キツネのすばしっこさを舐めるんじゃありやせんぜ!」

「わたくしたちには構わず、坊ちゃまは坊ちゃまのやるべき事を!」

 

 閉鎖された天文台。その壁を、床を、天井を、窓を貫き砕く、無数の蜘蛛糸。

 靭やかで柔らかい性質を持ちながら、コンクリートをも穿つ頑丈さと硬度を併せ持つそれらは、瞬く間に窓の周辺を支配下に置いた。

 

 そうして形成されゆく第2の蜘蛛の巣の狭間を、九十九は駆ける。

 追撃を仕掛けてくる蜘蛛糸を躱し、避け、時には手から迸らせた炎で迎撃する。

 溶けた糸の隙間に滑り込むようにして、彼は天文台の内部を跳ね回った。

 

 視界の隅では、イナリとお千代もそれぞれの手段で蜘蛛糸を回避している。

 イナリは跳躍を交えて走り回り、時には蜘蛛糸に乗っかってやり過ごし。

 お千代は焦げた翼を押して宙を駆け、障害物レースのように飛び回っている。

 

 宣言通りに彼らは問題無い事を認めて、少年は火縄銃を背中に担いだ。

 再び蜘蛛糸の下に滑り込んだ彼は、脚部に纏った炎を後方に噴射させ、床が焼け付く速度でスライディングを決行する。

 

「白衣さん! 助けに来たよ!」

「九十九くん……っ! 善かった、無事だったんだね!」

 

 ハリウッド顔負けのアクションの末に辿り着いたのは、姫華の元だ。

 ジョロウグモの抱擁から解放されたばかりで立つ事のできない彼女を、躊躇う事なく抱き上げた。

 

「ひゃ、ひゃぁああぁああ!?」

「ごめん! じっとしてて!」

 

 途端に顔を真っ赤にする少女。

 対する九十九はと言えば、妖気を両腕に巡らせて膂力を向上させ、彼女を軽々とお姫様抱っこしてみせる。

 

 突然の事に慌てふためきながらも、姫華は彼の言葉に従ってじっとしている他無かった。

 あと、自分の事を平然とお姫様抱っこしてくれた胆力と力持ちさ、ついでに至近距離から見える「男の顔」に色んな感情がごちゃ混ぜになった。

 

(な、ななな、何これ!? 九十九くんってこんなに格好良かったっけ!? えっ、何!? 私ってチョロインでしたっけ!? こんな簡単にドキドキする女だったような覚えは無いんだけど!? これが吊り橋効果ってヤツですか!? お願いだから正気に戻って!)

 

 普段の寝ぼけた顔から一転、少年の目はキリリと鋭く、敵の妖怪がどう動くかを見定めている。

 そこにドキマギを感じるのは当然の事であるし、男の側はそんな女子の情動を察せられる訳も無く、ただ目の前の事に集中──

 

(うわぁぁぁあああ!?!?!? なんで!? なんでこんないい匂いするの!? 女の子っていい匂いがするって本当だったんだ!? しかも柔らかいし、至近距離から顔を見られて可愛……って! これじゃあ僕が変態みたいじゃんか!? 正気に戻れ!)

 

 できていなかった。

 感情が顔に出ていないのは、ひとえにそれを表に出さないよう踏ん張っているからに過ぎない。

 内心はバックバクである。如何に妖怪の力を得たとして、所詮は思春期の男子高校生15歳なのである。

 

 お供コンビが攻撃を避ける方に集中していて、こちらの様子に気付いていないのは幸運だろう。

 もし気付かれていれば「アオハルしてる場合でやすか!?」などと怒られていただろうから。

 

「……あるじを、返せ。あるじは、汝の様な者が触れて善い存在では無いのであるぞ」

 

 スルリと、悲喜こもごもいっぱいの男女2人の背後からジョロウグモが現れる。

 いつの間にか、窓際に蜘蛛の巣を形成していた筈の彼女は、元々いた蜘蛛の巣からその巨体を現出させていた。

 

 細く、それでいて力強い腕を伸ばし、不心得者を絞め殺そうと襲いかかる。

 そこで我に返った九十九は、姫華を強く抱き上げたままに足に妖気を込める。

 

「気をしっかり持ってて!」

「う、うん! 分かった!」

 

 振り返ると同時に点火する足裏。

 それは跳躍の為でなく、足を蹴り上げて攻撃する為に用いられた。

 

 カチ上げられた足に炎が宿り、灼けつく軌跡を残しながら女怪の腕に蹴撃を叩き込む。

 熱された爪先が両腕を打ち据え、その白く艶やかな肌に火傷を刻みつけた。

 

()()……っ!?」

「飛ぶよ!」

「へっ? 飛ぶって──きゃあっ!?」

 

 ジョロウグモが怯んだ隙に、地面を踏み締めると共に再び点火。

 今度は勢いよく後ろへ飛び退き、蜘蛛糸を避けながら距離を取る事に成功した。

 

 ズザザ、と足裏を床に擦り付けてブレーキをかける。

 焼け焦げた黒いラインが残り、薄く煙すら立っているのが見えるだろう。

 態勢を整える事ができ、一先ず軽い呼吸を繰り返す。

 

「す、ごい……これが、妖怪って事なんだね」

「うん。……あいつの術の仕掛け(ギミック)は、大体分かった」

「えっ、ホント!?」

「推測だけどね。でも、それが正しければ……ここから形勢逆転できる」

「……なら、お願いがあるの」

 

 抱き上げられたまま、真っ正面から目を合わせる。

 顔が近いとか、ドキドキするとか、そんな事を思う暇は互いに無い。

 

「私、あの子を助けたい。……どうすればいいかとか、全然分かんないけど」

「……本気で言ってる?」

「かなり馬鹿馬鹿しい事を言ってる自覚はあるわ。助けてもらった分際で何を、とは自分でも思ってる。ホント、なんでこんな事言ってんだろ、私。……でも」

 

 改めて、姫華は前を見た。

 

「ある、じ……。あるじ。あるじ。今、助けるぞ。其の様な痴れ者から、今に解放するぞ。あるじ。わたしのあるじ。わたしには、あるじしか居ないのだ」

 

 虚ろな目はそのまま、ゆるりとした動きで立ち直る。

 うわ言のように自分への愛慕と忠心を語るテカガミ・ジョロウグモの姿に、少女はやはり哀しさを見出した。

 

 ただ、虚無なばかりの目ではない。ただ、感情を宿さないだけの表情ではない。

 悪意で塗り潰されようとも、そこには重く強い想いがあった。

 

「私……信じたい。今度こそ、妖怪を……いいえ、()()を信じたいの!」

「……苦労する人だね、君も」

「それ、前に九十九くんがイナリさんに言われた事でしょ?」

「うん、言われた」

 

 顔を見合わせ、共に笑い合う。

 そうして九十九は、姫華を下ろしてやった。彼女もそれに応え、震えを抑え込んで床に立つ。

 

「あの子、ショウジョウの妖術で頭を狂わされちゃったの。それを何とかできれば……」

「ショウジョウはさっき倒した。核になってた筆も破壊したし、術そのものは解ける筈。後は、どうにかして強いショックを与えれば或いは……」

「できる?」

「要になるのは多分、君だ。協力してもらうよ。僕の指示に従って、僕と一緒に行動して」

「勿論」

 

 共に、並んで立つ。

 九十九は背中に担いでいた火縄銃を構え、姫華は服の袖やスカートを破いて短くして。

 

 狂った声ばかりを漏らす蜘蛛の女怪に、正面から相対する。

 

「行こう、九十九くん!」

「ああ……行こう! 白衣さん!」

 

 恐るべき『現代堂』が打ち立てた第2の『げえむ』も、最後の局面を迎えようとしていた。



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其の肆拾肆 怖がりな絡新婦(ジョロウグモ)

「まずは暫く、僕に掴まっててほしい。振り落とされないよう強く。……ちょっと、恥ずかしいかもだけど」

「ううん。あの子を助ける為だから平気だよ。……平時だったら、まぁまぁ恥ずかしかっただろうけど」

 

 九十九からの指示に従い、姫華はよいせと彼の背中にしがみつく。

 女の子の柔らかい肢体が腰に絡みつき、脳内が爆発しそうになるのをグッと堪えながら、少年は歯を食い縛って火縄銃を持つ。

 

 彼がじっと見定めてるのは、依然として敵意を露わにしたままでいるテカガミ・ジョロウグモの動き。

 己の愛する主人を、横入りしてきた粗悪な人間に奪われた。そう解釈したのだろう。

 白い長髪を掻き毟りながら、彼女の爛々とした虚無的な瞳が九十九を睨みつけている。

 

「あるじ、あるじ、あるじ。今、わたしがあるじを助けよう。無粋で悪辣な痴れ者共に、あるじの心根を侵す権利は無い。あるじの肌を食み潰す資格は無い。わたしだ。わたしだけだ。わたしだけが、あるじの愛を受けるべきであるぞ……!」

 

 ざわり。そのような音を立てて、女怪の下半身から生える蜘蛛の足が浮き立ち始める。

 蠢く8本もの異形脚は、一見するとグロテスクでありながら、どこか造形美すら感じさせる神秘性を纏っていた。

 

 その内の1本が僅かながらに後退し、背後に張られた蜘蛛の巣を構成する糸に触れる。

 ピィン……と微かな反響を残しながら震えた糸の音は、まるで弦楽器を奏でているかのようだと少年少女に思わせた。

 

「おそれよ、人間。此れが、わたしの歪み狂った愛であるぞ。……妖術、《鏡の国の若菜姫》……!」

 

 詠唱にも似た宣言に呼応して、ジョロウグモの肉体は足をかけた蜘蛛糸の中へとするりと潜っていく。

 それはこれまでにも見せた手法であり、これによって彼女は一行の不意をついたり、或いは攻撃を反射する事ができた。

 

(……来た!)

 

 妖術の行使を確認した瞬間、全身の筋肉が強張る。

 反射的に動ける程度の脱力を施しながら、背中にしがみつく姫華を意識する。いざという時に振り落とさないようにする為だ。

 そうして九十九は、首と目だけを動かして素早く足元を見渡して──

 

「──あった。飛ぶよ、しっかり掴まってて!」

「んっ、いつでもいいよ!」

 

 背中越しに聞くゴーサインに小さな頷きだけを返して、足元に転がっていたガラス片を勢いよく蹴り上げる。

 

 彼が見た限り、自分たちの周囲に転がっていて()()()()()()()()()はこの欠片1つだけ。

 蹴り上げたそれが割れる事なく宙を舞った事を確認すると、先ほどのように後ろへと跳ね飛んだ。

 

 今回は、背中に守るべき少女を背負っている。彼女が跳躍の勢いで潰れないよう、点火加速の勢いは調整。

 そのようにして後退する過程で、火縄銃の先端をガラス片に向けて射撃の姿勢を取る。

 

 何故、そんな小さなものを狙って攻撃したのか。

 その理由は、彼がその場を飛び退いてすぐに判明した。

 

「何……だと……?」

 

 空中をひらひらと舞うガラス片から、ぬるりとジョロウグモの巨体が現れる。

 それはまさしく、九十九たちの足元から強襲をかける意図のものであり──しかし、事ここに至れば状況は異なる。

 

 本来ならば、ガラス片の中から頭上の九十九たちを狙って不意打ちをかけたのだろう。

 ところが、彼女が糸の中に消えた瞬間を狙って蹴り上げられたガラス片は、断面をくるくると回転させている。

 その結果、断面から抜け出してきたジョロウグモの視界に、床一面が飛び込んでくる。

 

 つまり彼女は今、下を向いたガラス片から床に向かって──上から下へ落ちてきている。

 意表を突かれ、著しくバランスを崩した女怪は、体勢を整える暇も無く床に激突した。

 

()ッ……!?」

「そこっ!」

 

 頭を打ち据え、蜘蛛の胴体ごと海老反りの状態で不時着したジョロウグモへと、九十九は迷う事無く火縄銃のトリガーを引いた。

 無論、込められた弾丸は威力を加減されたもの。これまでの戦いのように、当たっても致命打にはならないものだ。

 

 弾き出された火球は、おかしなオブジェと化した妖怪の脇腹に着弾し、極めて小さな爆発を起こす。

 その衝撃で、蜘蛛の怪物は更に体勢を崩しながら吹っ飛んでいった。

 

 ベシャリと床に這いつくばる姿を見て、九十九は再度の確信に至る。

 

「……思った通りだ。彼女の妖術は、幽世(かくりよ)の……閉ざされた世界の生成じゃない。鏡から鏡への、()()だ」

「転移……って事は、あの子は鏡に入って、別の鏡から自由に出入りする事ができるって訳よね?」

「多分ね。僕たちが撒き散らしちゃったガラス片も、鏡面みたいに反射して見える事があるから。それを利用してるんだと思う」

「でも……それなら、九十九くんの攻撃を跳ね返したのはどうして? 糸で受け止めた攻撃を、別の糸から反射していたように見えたけど……」

「それは、多分──ッ!?」

「おのれ、下らぬ真似を……!」

 

 怨嗟の声を連れて、ジョロウグモが起き上がる。

 焦げた脇腹を抑えながらも、彼女の指先は九十九へと向けられた。

 その直後には、やはり鋭く研ぎ澄まされた蜘蛛糸が、凄まじい速度で射出される。

 

「動くよ、気をしっかり持って!」

 

 それだけを背中に飛ばして、靴の裏に灯した炎を起点に飛び上がる。

 ふわりとした浮遊感と共に視線を下に逸らせば、今まで立っていた場所を蜘蛛糸が貫いていた。

 あのままじっとしていれば、鋭利な糸が胴体に風穴を開けていただろう。

 

 それを痛感しつつ、膝を折り曲げて空中で「ヤンキー座り」のような格好を取る。

 そのまま両の膝に妖気を点火すれば、2人の高校生はフリーフォールもかくやというほどの勢いで()()()()()()

 

「きっ──!?」

「舌噛まないようにね!」

 

 垂直落下した九十九が足裏で狙うのは、ついさっき己の直下をぶち抜いていった蜘蛛の糸。

 爆発的加速を伴いながら糸の中途に足を叩き込み、着地と同時に力の限り踏みつけた。

 着地の衝撃で床が割り砕かれ、微小な瓦礫が舞い散る中でも、靴を糸から離す事は無い。

 

()ィ……其処に気付いたか」

「あれだけ派手にやって、気付かない訳無いでしょ。これが、君の仕掛けたトリック……!」

 

 そう言って、踏みつけた糸をがっしと掴む。

 勢いよく引き上げたそれは、本来ならば表面に纏わりつく妖気の刃が九十九の手を引き裂いただろう。

 だが、今の彼は手に自ら生み出した炎の妖気を纏っていた。故に糸を掴んでも、妖気熱によって逆に糸が溶けてしまう。

 

 そして、そんな糸の表面にじぃと目を凝らした。

 通常の糸であれば、白い繊維質が見えるだろうところ──この蜘蛛糸は煌めきを放ち、覗き込んだ九十九の顔を僅かながらに写し取っている。

 

「やっぱり……! この()()()()()()()なんだ! 鏡面の性質を持った糸を展開して、それを起点に妖術転移ができる。それがあの反射攻撃のトリックだ!」

「そっか……鏡みたいになってる糸を通して、九十九くんの攻撃を別の糸に転移させてたんだ……!」

「……さっきまでは、白衣さんが拘束されていたから自重していたけれど。こうして救出に成功した、今なら──っ!」

 

 チリッ。

 靴の裏から火花が散り、熱を帯びた妖気をスパークさせる。

 たったそれだけの工程を経る事で、彼が踏みつけている糸に容易く引火し、瞬く間に燃え広がる。

 

「此れ、は……!? 止めろ、止めろ……っ!」

 

 如何に鏡の性質を持っていようとも、本質的には糸である。

 (いわん)や蜘蛛が紡ぐ糸の延長線であるならば、例え妖気による生成物だったとして、発火しない道理などどこにも無い。

 さながら爆弾に取り付けられた導火線のように、引火した糸を介して炎は次々に伝搬する。

 

 糸から糸へ。糸から巣へ。巣から巣へ。

 ヤタガラスの灯火は、建造物に一切の延焼を起こさず、しかし妖気が編み上げた蜘蛛の巣のみを焼き尽くした。

 

「……わたしの、巣が。わたしとあるじの、共に溶け合い交わる為の、永久(とこしえ)の鏡の国が……」

 

 ボトボトと床に落ちては燃え尽きてゆく糸の残滓を前に、ジョロウグモは呆然と震えるしかない。

 それでも更に糸を生み出そうと、切っ先すら定まらない動きで指を動かすと──

 

──BANG!

 

 即座に飛んできた炎の弾丸が、蜘蛛の妖怪の右手首を打ち据える。

 軽い爆発と共に弾かれた手首は、吹き飛びこそしていないが強い熱と痺れをもたらした。

 

()っ……!? ()……()()、嗚呼……」

「……投降して。君はまだ、何もしてないだろ?」

 

 煙の立ち昇る火縄銃を構えながら、九十九はじっと彼女を見ていた。

 

「白衣さんほど事情は分かってないけど……君だって、『現代堂』の被害者なんだろう? 僕が駆けつけるまで、彼女は苦しんではいたけど死んではなかった。君が殺さなかった。それがその証拠だよ」

「……わたし、は……」

「僕は『現代堂』を狩り、奴らの『げえむ』を止める者で在りたいと思ってる。でも……妖怪にも良い奴がいるって事を、僕は知ってる。それに……」

 

 そっと、背負っていた姫華を下ろす。

 危なげなく着地した彼女の顔を見てみれば、歪み苦しむテカガミ・ジョロウグモを案じる情がこれでもかと現れていた。

 それだけで、彼女が何を語らい、何を見たのかが分かるというものだ。

 

「白衣さんは、君の事を『友達』と言った! 信じたいとも言った! 助けたいって、そう僕に願ったんだ! なら……君は、僕たちと一緒にいれる存在なんじゃないの!?」

「……」

 

 その場に座り込み、だらんと腕を垂らすジョロウグモ。8本の足も、力なく横たわっている。

 そんな彼女の姿を見て、姫華は胸の前に手を抱き、1歩前に出た。

 

「……ねぇ、ジョロウグモちゃん。私ね──」

「──めだ」

「え……?」

「駄目だ。駄目だ。其れは、出来ない。わたしは、悪意に因って生み出された。あのショウジョウが、妖術を以てわたしに悪意を刻み込んだ」

 

 幽霊のように、体の動きにすら虚ろな雰囲気を纏わせて。

 全身を脱力させたままに、女怪は体を揺らしながら起き上がる。

 

「わたしから、あるじへの。わたしから、あるじの祖母への。感謝を、慕情を、忠義を、愛情を。其の全てを、悪意に因って塗り潰された。如何に善を渇望しようとも、わたしの根底に在る本質は人間への害意。其れを覆す事は出来ぬ」

「ジョロウグモちゃん、あなた……」

「わたしは最早、『現代堂』の妖怪である。わたしの心には、我らが長たる山ン本への敬意が在る。無理やりに宿されたが故に、其れに抗う事など出来ぬ。わたしは人間に恐怖と叫喚を齎し、其の死を以て夜を深める魔の尖兵であるぞ」

 

 蜘蛛の足が一斉に振り上げられ、そして同時に床へと突き立てられた。

 それが更なる妖術の行使であり、攻撃の前兆である事など、最早推測するまでもなく。

 

 故に九十九は、僅かに下ろしていた火縄銃を急いで構え直す。

 その事に気付いた姫華が彼を止めようと振り向くが、迎撃も制止も、2人が取ろうとした行動のどちらも間に合わない。

 

「おそれよ。今のわたしは、『げえむ』の『ぷれいやあ』であるぞ! どうか……どうか、()()()()()()!」

 

──四方から、無数の糸が現出した。

 

 それは床に突き立てられた蜘蛛の足を介して、床の下や壁の中を通りながら飛び出してきたものだ。

 雨後の筍……と評するには、あまりにも鋭利で、あまりにも殺傷力を帯び過ぎた真っ白い槍衾。

 それが、天文台のあらゆる場所から突き出してくる。

 

「ヤバい……! 白衣さん、一旦退こう!」

「……っ。でも、あの子が……!」

「今は駄目だ! 一旦形成を……──ッ!?」

 

 ドクン……! という音を、確かに耳にした筈だ。

 

 体中の血管が、悲鳴の大合唱を奏でる。

 ともすれば全身が爆発したのではないかというほどの違和感と熱が九十九を襲い、辛坊たまらず膝をつく。

 

「こっ、れ……!? まさか、お千代の毒が……今、切れるのかよ……!?」

「っ! 九十九くん、前!」

 

 姫華が指差した先では、今まさに1本の蜘蛛糸が2人へと迫っていた。

 このままでは纏めて貫かれる。それが分かっているからこそ、九十九は手を前に出す。

 膝をついた拍子に、火縄銃を杖代わりに使ってしまっている。だから今は、炎を手から射出する程度しかできない。

 

 それでも、糸を燃やすには十分な筈だ。

 事実、彼の手のひらから迸った妖気の炎は、迫り来る糸と真っ向から衝突──

 

「わたしの振るう《鏡の国の若菜姫》は……何人(なんびと)たりとも、逃す事は無いぞ!」

 

 しない。

 横合いから割り込んできた無数の糸が、幾重にも絡み合って1枚の壁を形成する。

 そしてそれは、壁そのものがひとつの鏡として成立した事を意味していた。

 

 鏡壁に吸い込まれた灼熱は、まだ無事だった窓ガラスを介して天文台の外へと放出される。

 時を同じくして、鏡面の反対側に迫っていた糸もまた、鏡の向こうへと吸い込まれていった。

 

 糸は糸の表面を覆う鏡面に吸い込まれ、別の糸から排出される。

 排出された糸がまた別の糸に潜り込んだかと思えば、潜り込まれた側の糸も新たな糸を介して転移する。

 

 鏡から鏡への転移。

 それは、ジョロウグモが生成した鏡の糸すら例外ではない。むしろ、本来の用途が()()だ。

 

 縦横無尽に鏡から鏡、糸から糸への転移を繰り返し、全方位が致命射程(キルゾーン)と化した魔の蜘蛛の巣がここに完成する。

 

「これ……もう、どの糸がどこから来るか、全然分からない……!?」

「妖術が、暴走しているのか……!? ショウジョウから押し付けられた悪意が、完全に独り歩きしている……!」

 

 最早、回避どころの話ではない。

 完全に取り囲まれた事を察して、九十九は酷い疲労感を堪えながら立ち上がろうとして──

 

「坊ちゃん、危ないっ!」

「白衣様はわたくしが!」

 

 2人を四方から串刺しにしようと迫る糸の群れに割り込んで、2匹のお供妖怪たちが駆けつける。

 イナリは九十九の服の襟を噛んで強引に引っ張り、お千代はちっちゃな足で姫華の服を掴んで飛び上がった。

 

「イナリ! ごめん、助かった!」

「いえいえ! わてらも中々助けに来れんで申し訳御座いやせん!」

 

 どんなにちっちゃな体躯でも、れっきとした妖怪である。

 襟を噛んだまま決して離す事なく、それでいてバランスを崩す素振りすら見せずに、イナリは九十九を引き摺って糸を避け回る。

 蜘蛛糸の雨霰、弾幕を綺麗な動きで避けながら、なおかつ己の主人に被弾はさせていない。

 

 そして一方、姫華を抱えて飛ぶお千代の側は。

 

「ふぅ……間一髪、ってところでしたわね。お怪我はありませんこと? 白衣様」

「……」

「……白衣様? どこか痛めまして?」

 

 彼女もイナリと同じく、掴んで抱えた姫華を決して振り下ろさず、そして被弾もさせずに糸の弾幕を掻い潜っていた。

 そんなお千代が、自分の抱えている少女の様子がおかしい事に気付いて訝しむような声をかける。

 

 その呼びかけに答える事は無く、少女はただ荒れ狂う糸の中心部を見る。

 そこには、その場から動かないままに暴れ悶え、苦しむ1体の妖怪がいた。

 

「嗚、嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼……! 嗚呼、ある、じ……!」

 

 最早、自分でもどういう感情の下に動いているかすら分かっていない。

 頭を抱え、ただ周囲の一切を破壊せんと糸の生成と妖術の行使を繰り返す、妖怪テカガミ・ジョロウグモ。

 

 その姿を、姫華はずっと見ていた。自分を連れて飛び回るお千代がどんな軌道を描こうとも、ずっと。

 だから。

 

「……ごめんなさい、お千代さん。本っっっ当に、ごめん」

「は? え、っと……一体、それはどういう──って、ちょ!?」

 

 その直後。

 自分の服を掴んでいる、スズメ妖怪のちっちゃな足を強引に振り払って。

 

「友達はァ──度胸っ!」

 

 姫華が、空中に躍り出た。



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其の肆拾伍 前へ!

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


 姫華の華奢な体が宙を舞い、床へ落ちようとしている様を、その場の誰もが目撃した。

 ひらりと空中に投げ出された少女は、喉から込み上げる恐怖を歯で噛み潰しながら、ただ1体の妖怪のみを見据えている。

 

「雄々……ある、じ。わたしの、あるじ……!」

「今そっちに行くから、そこでじっとしてて!」

 

 決死のダイブの末、ふらつきながらも何とか着地に成功する。

 そうして前を見てみれば、一面に広がっているのは死を纏った糸の嵐。

 ジョロウグモ本人にすら制御し切れていないような暴威の中に飛び込んで、無事でいられるとはとても思えない。

 

(そ、んな事──分からない訳無いでしょう!?)

 

 目の前を縦横無尽に行き交う白い怒涛が、どうしようもなく恐怖を煽る。

 

 自分がどれほど馬鹿な事をしているのか。それはきっと、姫華自身が想像しているよりもずっと酷いものだ。

 力も無い。覚悟も無い。素質も無い。そこまでする理由も、彼女がそうするべき必要性も無い。

 

 この行いが利に傾く保証すら、限りなくゼロに近い。

 無意味に足を引っ張っているだけ。強い心を持っているだけで打破できる状況など、この世に1つも存在しない。

 

 けれど、それでも、そうだとしても。

 

『妖怪。我らの事は、そのように呼ばれます』

 

『うん……わかった! ひめかね、神様とおともだちになる!』

『あらあら、それは楽しみねぇ。神様とお友達になった姫ちゃん、お婆ちゃんもいつか見てみたいわぁ』

 

『有難う、あるじ。わたしは、あるじが愛してくれたが故に妖怪と成った。此の様に語らい、触れる事が叶った。わたしは、此の時を待ち望んでいた』

 

 1度、裏切った。

 あれだけ信じていた妖怪を、唯一信じてくれた祖母を、託された筈の手鏡を。

 

 祖母が亡くなった後、誰も信じてくれる人がいなくなったから。周りの全てが、姫華に「常識」を押し付けてきたから。

 姫華は1度、妖怪を裏切った。妖怪なんていないと、嫌いだと言い聞かせて、周りの嘯く「常識」に迎合した。

 街を色濃く照らす夕日すら、言い伝えを忌避するあまり嫌悪を抱いてしまったほどに。

 

 でも、彼女は「真実」を知ってしまった。この世には妖怪がいて、自分の大切な手鏡すら妖怪になるのだと知った。

 妖怪を裏切った自分の前にもう1度、否定して追いやった筈の「非常識」が現れた。

 

 だったら。

 

(ここで逃げたら──もう、お婆ちゃんに胸を張って生きられない!)

 

 爪先にグッと力を込めて、一目散に走り出す。

 

 理屈とか、道理とか、常識とか、現実とか、一般論とか。

 そんな()()()()()()()()()()()など、今は至極どうでもいい。

 

 今の白衣 姫華は、自分が胸に抱ける「納得」こそを求めていた。

 

「友達に、なりたいから! 私は、もう1度──ッ!」

 

 故に、彼女は「無謀」を選べた。

 

「何やってんでやすか、あの嬢ちゃんは!? お千代! 急いで彼女を──」

「──いや」

 

 ガチャリと、火縄銃を強く掴んだ際に立つ小さな金属音。

 その音を立てたのは当然、現在進行形でイナリが引っ張っている真っ只中の九十九だ。

 

 銃口が睨むのは、姫華が突っ込む先、暴れ回る糸の群れが織り成す死の嵐。

 全身を襲う倦怠感と疲労感の中にあっても、彼の腕は狙いを外すという妥協を己に許す気はほとほと無い。

 

「彼女を、援護する!」

 

 果たして少女の体が暴威に呑まれるよりも早く、撃たれた弾丸が標的に到達した。

 しかしジョロウグモの妖術が暴走している現状、全ての糸は鏡面を通して無作為な物質の転移を繰り返している。

 糸を弾く為に放たれた射撃も、あえなく吸い込まれて明後日の方向に消えるのが本来の道理だ。

 

 であれば、対策は簡単。

 着弾する直前に、弾丸を爆発させてしまえばいい。

 

──BOMB!

 

 標的への接触と、それによる爆発。それが起きるべきタイミングよりも、コンマ数秒ほど直前。

 射手の意思に従って自発的な炸裂を起こした弾丸は、小規模な炎と風圧で糸を殴りつける。

 

 真っ直ぐに突き進み何もかもを貫き砕く筈の蜘蛛の糸が、爆風の煽りを受けて()()()

 そしてその()()()が、数秒後には無惨に切り裂く筈だった姫華の体を避け、おかしな方向へと破壊の切っ先を向ける。

 

 それは、九十九に己の意図が成功した事を確信させるには十分な光景だった。

 

 

──BANG! BANG! BANG!

 

 

 絶えず、引き金を引き続ける。

 元より弾込めの必要は無く、妖気さえ尽きなければ幾らでも弾丸の生成と射出は叶う。

 

 放った弾丸を着弾寸前で爆破し、その風圧で糸を吹き飛ばす。

 それが、今の彼にできる精一杯の援護だった。

 

(……っ! クソ、目眩が……)

 

 目の前が霞む。今までに感じた事の無い、意識の眩みを覚える。

 体の中から、立って歩く為に必要な力が抜けていくような、疲労感とも違う違和感。

 

 きっと、これが妖気の尽きる感覚なのだろう。

 力加減をセーブしながらとはいえ大量のガキツキを掃討し、フデ・ショウジョウとの戦いでは多大なリソースを払った。

 端的に、戦える限界が近付いてきている。どんなマラソンランナーでも、走り続ければやがて体力が尽きて走れなくなるように。

 

 ()()()()()()()

 

「男じゃ、ないだろう……!? ここで、やらなきゃ!」

 

 理屈などという()()()()()()()は捨ててしまえばいい。

 ここで意地を押し通せないような自分を、九十九は「八咫村 九十九(リトル・ヤタガラス)」として認める事などできなかった。

 

 だから、弾丸を装填し続ける。妖気が底をついてなお。

 だから、引き金を引き続ける。痺れさえ覚える指先で。

 だから、狙いを外す事は無い。目眩に歪む意識の中で。

 

 込み上げる吐き気と胃酸を奥歯で捻じ伏せて、ただただ愚直に弾幕を張る。

 銃口から炎を絞り出し、唸りを上げる糸の狂乱をひたすらに裂いていく。

 

 全ては、姫華が突っ走る道を切り開く為に。

 

「行って、()()()()! 真っ直ぐ──君の、やりたい事を!」

「──うんっ。ありがとう、九十九くん!」

 

 だから、姫華は突き進む事ができた。何も振り返る事なく、ただ前へ。

 

 いつしか、彼女を引き裂く筈だった糸の群れは、その全てが弾き飛ばされていた。

 少女の行く手を阻むものは、何も無い。

 

「嫌、だ……止めろ、止めてくれ、あるじ……! 此方に、来ないで欲しい……っ!」

「それこそ嫌よ! 私、私は──」

 

 甲高い慟哭を伴って、ジョロウグモの直上から新たな蜘蛛糸が生成される。

 その切っ先は姫華を貫くべく、こちらに向けて真っ直ぐ迸っていた。

 

 このままであれば、少女の心臓を糸が貫き殺傷する事は自明の理。

 姫華にそれを回避する手段が無い以上、九十九は糸を弾く為に火縄銃を握り締め──

 

「あなたに、言わないといけない事があるんだからっ!!」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 これまでの彼女からは考えられない挙動を目の当たりにして、引き金にかけた指先が思わず硬直する。

 

 それはきっと、やろうと狙ってやった事ではなく、無意識に体が動いた結果のものなのだろう。

 それでも結果として、少女は宙を舞った。滞空していた時間こそほんの僅かだが、地に足をつける事なくひらりと跳躍してみせて。

 

 そうして彼女の足は、たった今自分の足元を通り過ぎていった蜘蛛糸の表面へと乗せられる。

 軽やかな足取りで着地するや否や、一連の現象に戸惑いを見せる事もなく再び前へ。

 

 自分が何故、人間の域を超えた跳躍を成せたのか。何故、凶器に等しい糸の上を走れるのか。

 そんな()()()()()()()を考えている暇は無いと言わんばかりに、姫華はもう1度足の裏に力を込めた。

 

「や、ぁあああああぁあああああっ!!」

 

 再度の跳躍。

 足場扱いしていた糸を蹴り飛ばし、自らの行きたい場所へと一直線に。

 もう、何も彼女を邪魔できない。障害の全てが消え去った、空白の道を飛び抜けて。

 

「ジョロウグモちゃんっ!」

「ある、じ──っ!?」

 

 驚異的な跳躍の果て、姫華は真っ正面からテカガミ・ジョロウグモに抱きついた。

 元より、か弱い人間の身でこちらに向かってくる事自体が予想外だったのだ。(いわん)や、馬鹿正直に突っ込んできた挙げ句、自分を抱擁しにかかるなど想定できる訳が無い。

 抵抗する暇も無く抱き締められた女怪は、心の奥底から顔を覗かせる「“あるじ”への害意」に歯を食い縛った。

 

 そしてそれは、姫華の側も理解していた。その体に直接触れた事で、彼女の筋肉が強張り、内側から湧き出す力に抗おうと震える様を知覚する。

 故に、チャンスは今しかない。喉を込み上げる言葉と感情を、迷う事なく舌の上に乗せて吐き出した。

 

「──ごめんなさい! 私は、妖怪(あなた)を信じ切れなかった!」

 

 それは、どうしても伝えたかった謝罪の言葉だった。

 

「皆に否定されて! 馬鹿にされて! 誰にも信じてもらえなくて! 私は……私はっ、妖怪(あなた)の前から逃げたの! 唯一信じてくれたお婆ちゃんからも目を逸らして……私は妖怪を、オカルトを信じないっていう()な道に逃げてしまった!」

「あ……るじ……」

「でも、今度はもう逃げないっ! 私とお婆ちゃんが注いだ愛に報いてくれた……大切な手鏡(あなた)を! 絶対に……絶対に、否定したりなんかしないからっ!」

 

 涙が溢れる。マグマのように昂った感情が、姫華の瞳を涙で滲ませる。

 こんな言葉だけでは何の証明にも償いにもなりはしないだろうが、それでも伝えずにはいられなかった。

 

 こんなに怖がりな女の子(ジョロウグモ)を、2度も拒絶する訳にはいかないから。

 その強い想いが、ちっぽけな少女の全身に気力を迸らせていた。

 

「私は……友達(あなた)に手を伸ばしたい! それが、白衣 姫華なんだぁっ!!」

 

 叫ぶ瞳に、仄かな光が灯る。

 果たしてそれは、誰にも気付かれないほど薄く淡いもの。

 それでも光は、少女の意思を反映するかのように、ゆらゆらと揺らめいていた。



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其の肆拾陸 縁を紡ぎ、(まじな)いと成す

「今のあなたを突き動かしているのは、あの妖怪から喰らった術なんでしょう!? あいつは、九十九くんが倒してくれた! だから、あなたもきっと正気に戻れる筈!」

()……()()()()……嗚呼嗚呼嗚呼嗚()()()()()……っ!」

 

 心を蹂躙する魔の激痛に悶え、暴れるテカガミ・ジョロウグモ。

 その痛みを抑え込み、和らげられるように、姫華は彼女を抱き締める事を決してやめはしない。

 

「あるじ……離して、欲しい。わたしは、あるじを害さんとするわたしを……此れ以上、止める事が叶わない……!」

「嫌っ! 私がここであなたを諦めたら……もう2度と! 私はお婆ちゃんにも……あなたにも誇れる自分でいられないの! 絶対に離さない!」

 

 その決意を現すように、巨躯の妖怪を抱き締める力は強く、より強くなっていく。

 仮に引き剥がそうと無理やり振り払われたとして、彼女は決して目の前の女怪を離そうとはしないだろう。

 

 もしも離してしまえば、自分とジョロウグモの繋がりはそこで失われてしまう。

 そんな確信が炎を灯すように、姫華の心を強く突き動かしていた。

 

「こうしてる今も、私は九十九くんたちに迷惑をかけてる。全部、私の自分勝手な我が儘でしかない。でも、それでも言わせてほしいの! お願い……これ以上、誰も傷つけないで! 私は、あなたにそんな悲しい顔をしてほしくない……っ!」

「……っ!」

「私の事は、いくらでも傷つけてくれていい! 私はあなたに、それくらい酷い事をしたって思ってるから。それでも私……私、はっ……!」

 

 抱擁に注いでいた力を僅かながらに緩め、姫華はジョロウグモと目を合わせる。

 綺麗な顔は涙でぐしゃぐしゃになっていて、頬にできた傷からは血が滲んでいた。

 

「あなたに、笑顔でいてほしいからっ! 私が、お婆ちゃんが想いを込め続けてきた、大切な宝物(ともだち)のあなたに──!」

()……! ()()()()()()()()()()()……っ! あぁ、るじ……わたし、はぁっ……!」

 

 振り払う選択肢を意識の外に投げやって、恐るべき情愛に濡れていた筈の女怪は、途端に頭を抑え始めた。

 その表情は明らかな苦痛に狂い歪み、噛み締め過ぎた歯茎から血が溢れ出る。

 姫華のように哀しみと激情から涙を流すのでなく、内から神経を凌辱する苦痛によって、大粒の涙が次々に溢れていく。

 

 ジョロウグモが己の内から滲み出る悪意に抗っている事は、誰の目から見ても明らかだ。

 そして、その原因が何なのかも分かっていた。その上でなお、無力な少女にはただ抱き締めるしかできない。

 今、彼女の手の内に残っているのは、使い道がまるで分からない札がたった1枚のみ。

 

(私には、(まじな)い師の才能があるんでしょう!? こういう時に覚醒しないで、どこで役に立つって言うのよ!?)

 

 苦しみに喘ぎ藻掻く白塗りの少女を抑え込むように抱き留めながら、心の内で無能な己に唾を吐く。

 こうしている今も、自分に殺到しつつある糸の群れを九十九が弾いてくれている。けれども、それだって無限に続く訳ではない。

 

 打開策を、この場で編み出さなければならない。他ならぬ、姫華自身が。

 クラクラと眩む頭を制御しようと意識を巡らせる中で……ふと、ある言葉を思い出した。

 

『確かに、妖術を扱えるのは妖怪だけでしょうや。ですが、単に妖気を操るだけであれば、素質のある人間にも可能でありやす』

 

『彼らにできるのは妖気を手繰り、その流れを自分の都合のいい方向にほんの少しだけズラす事くらい。ですが彼らは、護符や数珠などの……言わば外付け回路を利用して、妖気を変質させる術を身に着けやした。その最高峰が、俗に言う『陰陽師』でさ』

 

 自分にそこまでの才能があるかは分からない。分の悪い賭けそのものだ。

 けれども、賭けるならばこの手しか、そして今この時しかない。

 

(外付け回路がどういうものかは分からない。……けれどもし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()がそれになり得るのなら──!)

 

 小さく素早く息を吸い、覚悟を決めてジョロウグモを抱擁する。

 これまでのように我武者羅に抱き締めるのでなく、腕や体を通して彼女の体をより意識するように。

 

 妖気ならば散々浴びてきた。

 チョウチン・ネコマタとの「おにごっこ」からこちら、ガキツキに襲われ、フデ・ショウジョウに拘束され、先ほどまではテカガミ・ジョロウグモに絡め取られていた。

 おまけに自分を助けてくれた九十九たちだって妖怪だ。ここまで妖怪と関わった以上、自分だって妖気の存在を感知できる筈なのだ。

 

「ご都合主義でもなんでもいいから……なんか使えて! 私っ!!」

「無駄……だ、あるじ……っ。其の様に、都合の良い結果が来る……などっ、有り得る筈が──」

「──いや。それが案外、あり得るかもしれやせんぜ?」

 

 ストンと、ちっちゃな四肢が少女の頭の上に乗る。

 もこもこもふもふの尻尾が箒の如く逆立って、中に溜め込んだ妖気を手早く練り上げた。

 

「【(コン)()(コン)()(コン)(コン)(コン)()(コン)(コン)】……!」

 

 不可思議な祝詞が頭上で紡がれた直後、姫華の体に異変が起きる。

 少しばかり心臓の鼓動が強まったかと思うと、途端に肌を撫でる不気味な感覚。

 ざわざわと産毛をくすぐる不愉快な空気に、少女はすわ何事かと顔を強張らせ……気付いた。

 

「これ……この、感覚は……!?」

 

 感じる。これまで感じた事の無い、奇妙なナニカを。

 肌を撫で、髪を揺らし、心をざわつかせるだけではない。まるで1つの流れであるように、体を巡る力のルートを。

 そして──今、自分が抱き締めているジョロウグモの体の奥底、彼女の魂魄にへばりつく悪意の流れを。

 

 そのような変化を一瞬にして起こした存在は、少女の頭上でニヤリと牙を剥いてみせた。

 

「わてがただの幻惑使いだと思ったら大間違いでやすぜ。人の認識を“ごまかす”事ができるなら、このように──()()()()()()()()()()()を“ごまかす”事だってできるんでさ!」

「イナリさん……!? なんで──」

 

 何故、イナリはこちらに来たのか。どうして、自分のやろうとしている事を汲み取ってくれたのか。

 そもそも、彼がここに来てしまって、九十九の方は大丈夫なのか。

 その答えを探る為に首と目線だけを後ろにやれば、果たして。

 

「わたくしにこっちへ来いと言ったり、白衣様を追う必要は無いと言ったかと思えば、今度はキツネを向こうに飛ばしたり……。坊ちゃまもご当主(ダーリン)に似て、召使いの使いが荒くなって来ましたわね」

「褒め言葉として受け取っておくよ」

「ええ、是非ともそうしてくださいまし!」

 

 パタパタと翼を忙しなく上下させて滞空するお千代。

 彼女がちっちゃな足で掴み上げている者こそまさしく、火縄銃を構えた九十九その人だ。

 

 彼の右足は振り上げられ、その足裏に微かな炎の残滓が残っている。

 状況から見て恐らく、彼はイナリを乗せた右足を振り抜いて、その勢いでここまで飛ばしてきたのだろう。

 

 こちらを一直線に見据える黒い瞳には、一分の陰りも見えはしない。

 彼が、姫華のやろうとしている事を正確に理解してくれたのか、それとも別の要因による直感の類いなのか。

 それは分からない。けれど、分かる事はある。

 

「僕が、僕たちがサポートする! だから姫華さんも、全力で!」

 

 九十九は、全身全霊でこちらの後押しをしてくれている。

 ならば、それに応えずして何をする。

 

「──ありがとう!」

 

 それが、誰かの足を助けられてばかりな自分との、決別になるのなら。

 

(私の体を流れる妖気と、ジョロウグモちゃんの体を流れる妖気……それを知覚できるようになった今なら、きっと!)

 

 深く、深く息を吸う。呼吸すればするほど、気の巡りがより加速する感触を覚える。

 

 (まじな)い師は妖術を使えない。妖気を手繰り、捻じ伏せ、練り上げ、ひとつの異能へと昇華させる事はできない。

 けれども彼らは、妖気を操る事ができる。大気中に、己の体に宿る妖気を掴み、手繰る()()はできる。

 

()()……()()……嗚呼嗚呼……っ! あ、嗚呼、あるじぃいい……!!」

「……待ってて、ジョロウグモちゃん」

 

 己に眠る(まじな)い師の才と、己と最も縁深い手鏡を核とする妖怪。

 それらが今、共にこの場にあるならば。

 

「今、私が助けるからっ!」

 

 妖気を、掴む。

 字義通り、手でモノを掴んだ訳ではない。比喩として、姫華は妖気の流れに介入する事に成功した。

 

 果てしなくぶっつけ本番で、ノープラン以上の何物でもない。

 いくら才能があるからと言って、初見かつ土壇場で成功してみせたのは奇跡そのものだ。

 実現したのはただ、テカガミ・ジョロウグモという妖怪が彼女と特別縁深い存在だったからに過ぎない。

 

 けれど、彼女は成功した。自分の体を介して、苦しみ狂う女怪の中に意識を飛ばし、魂魄に手を届かせて。

 そうして見つけた、どす黒く渦巻く悪意の妖気を──狂わせた妖気の奔流で、殴り飛ばす。

 

「この子の中から、出ていけ──ッ!!」

【ぐ──ぐギャァッ!?!?】

 

 ズルリ、と。

 やかんから吹き出す蒸気のように、禍々しいナニカがジョロウグモの体から剥離する。

 

 不快なほどに真っ黒い靄を思わせるそれこそ、たった今姫華に殴り飛ばされたモノの正体。

 フデ・ショウジョウが魂魄に打ち込んだ、精神を狂わせる妖気そのものである。

 

「何か……出てきた!」

「あれが彼女を苦しませていた要因、って訳ですわね。先ほど坊ちゃまが術者……ショウジョウめを倒した事で、白衣様の力でも追い出す事ができるほど弱まっているのでしょう」

 

 解説と共にお千代がじぃと睨みつけている今も、悪意の靄は弱々しく宙を踊りながら揺らめいている。

 

【お、のれェ……おのれ、よくもォ……! よくもワシの肉体を、滅ぼしてくれましたねェェエエエ……!】

 

 おどろおどろしく蠢く妖気は、やがて朧気なシルエットを構築する。

 果たしてそれは、フデ・ショウジョウの姿に似通ったものだった。

 倒された本体がこの世に残していた、妖気の残滓。そう考えるに十分過ぎる光景だ。

 

「こいつを撃ち抜いてくださいやし、坊ちゃん! それで、全部終わりでさ!」

「──うん!」

 

 銃身に妖気を込める。あれだけ撃ち尽くしてなお体に残っている微かな妖気さえ、限界を超えて掻き集める。

 目が眩む程度は何も問題無い。必要なものは速度。威力を重視する段階ではない。

 

 掻き集めて、掻き集めて、それでも足りないからこそぎ落として、ようやく練り込めた炎の弾丸。

 照準は既に終わらせている。後は、引き金に添えられた指を動かせるだけの力があればいい。

 

「これで終わりだ、ショウジョウ! 妖術《日輪・曙》ッ!!」

 

 それこそが、この戦いを終わらせる号砲だった。

 

 凄まじい速度を持ったか細い弾丸は、寸分の狂いもなく直線上を飛翔する。

 イナリにも、姫華にも、ジョロウグモにも被害を及ぼす事なく、漆黒の残滓のみを標的として。

 

 そのようにして迫る弾丸の速度を、何人たりとも妨害できる訳が無し。

 勝利をもたらす真っ赤な針弾は、靄のど真ん中を正確に貫いた。

 

【グゲッ、グギャァアアァァアアァアアァァァアアアアアア!?!?!?】

 

 下品な絶叫の最中、ぽっかりと空いた赤い穴から炎が迸る。

 妖気の炎は瞬く間に燃え広がり、薄く朧気な靄など敵ではないと言わんばかりに呑み込んでいく。

 年老いたサルの残滓を、3本足のカラスが喰らい尽くしていく。

 

【きっ……消えるっ! ワシの、意識がァ……っ!? こ、これでワシは……『げえむおおばあ』と……そういう、事、なのです……ねェェェェェ……──】

 

 徐々に薄れゆく声が、明確な死の訪れを内外に知らしめる。

 隅々まで焼き尽くされた悪意と狂気の靄が、最後の一欠片を失ったその瞬間、無様な断末魔もまた完全に途切れる。

 そしてそれこそが、妖怪フデ・ショウジョウの完膚なき敗北を意味していた。

 

「や、った……倒せ、た……」

「あっ、ちょ、坊ちゃま!?」

 

 今度こそ敵を排除できた事を確認して、お千代に引っ張ってもらっていた九十九は、とうとう気力を失ってその場に尻餅をつく。

 その手から零れ落ちた火縄銃が床に落ち、ガシャン! という音を夜の天文台に反響させる。

 と、それと同時に。

 

()……()()っ……」

「ジョ、ロウグモ、ちゃ……っ!?」

 

 姫華は、己の体に負荷をかける行為を強行した結果として。

 ジョロウグモは、その身に宿す妖気のほとんどを喪失して。

 それぞれの理由から、2人の少女もまた力尽きるように崩れ落ちた。



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其の肆拾漆 鏡の国より

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


 決着と、それに伴う戦意の喪失によって、天文台の中を満たしていた蜘蛛糸が次々と消失していく。

 何重にも、複雑に複雑に張り巡らされていた、太く長く鏡面を持つ蜘蛛の糸。

 それら全てが、妖術が解除される事で妖気へと還元され、空気中に溶け消える。

 

 そのようにして消失しゆく煌めいた蜘蛛の巣の最中で、九十九、姫華、テカガミ・ジョロウグモは一斉に崩れ落ちた。

 特に、九十九を掴んで滞空していたお千代は、彼の脱力によって突然増した重みに素っ頓狂な声を上げる。

 

「ぼぼぼぼぼっ、ぼぼ、坊ちゃま!? しっ、白衣様まで、大丈夫ですの!?」

「……無理もありやせん。坊ちゃんはスズメの毒“ぶうすと”を受けていただけでなく、妖気が底をついてなおも妖術を連発。嬢ちゃんも、()()()()の身で強引に妖気を操作しやしたからね。体が限界なんでさ」

 

 ぐい、と。

 倒れた姫華の服の襟を噛んだイナリが、彼女を強く引っ張る。

 ちっちゃなキツネの体躯からは想像できない筋力は、ジョロウグモの巨躯に押し潰されかけていた少女の体を見事に引き摺り出した。

 

 お千代もそれに倣い、翼を震わせながら自らの高度を緩やかに下げていく。

 もう立つ事もできないらしい九十九を、床に落とさないよう気を付けながらゆっくりと座らせた。

 

「お、千代……姫華、さんが、まだ……あそこに」

「もう妖気の『よ』の字すら捻り出せない状態なんですから、まず自分の心配をしてくださいまし? 相手方も敵意を喪失したようですし、もう襲いかかってくるって事は無いと思いますわよ」

「ぅ……イナ、リさん……。ジョロウ、グモ、ちゃんは……?」

「スズメの言う通り、暴走は止まったと言っていいでやしょう。嬢ちゃんがショウジョウの残留思念を引っ剥がし、坊ちゃんがそいつを仕留めたおかげでさ。ですが……」

 

 チラリと視線を飛ばす。

 疲れ果てた少女と、彼女を引っ張るキツネの目前、巨体を沈めるように座り込んだ純白の蜘蛛妖怪がそこにいた。

 下半身から生えた4対、都合8本の蜘蛛の足は、それぞれが力なく折り曲げられている。

 

 感情を思わせない虚ろな瞳は憔悴し切ってこそいるが、先ほどまでのような狂気に染まった振る舞いは鳴りを潜めている。

 姫華と九十九の活躍により、フデ・ショウジョウの妖術が完全に取り除かれた事で、彼女を突き動かす悪意もまた消え失せたのだ。

 

 けれども、その上で──

 

「……もう、限界のようでやす」

 

 その言葉の意味を示すように、ジョロウグモの右腕が肩から抜け落ちた。

 床に落ちてベシャリと潰れ、そのまま塵のように崩れながら消えゆく右腕だったモノ。

 

 気付けば、もげ落ちた右肩から徐々に肉体も崩壊していくのが見てとれた。

 速度こそ緩やかなものだったが、それが不可逆の事象である事は誰もが一目で理解する。できてしまう。

 

「其の様で、あるな。ショウジョウに植え付けられた悪意の妖気が、わたしの肉体を限界まで食い潰していた。その一方で、わたしの存在を維持し続けていたのもまた、ショウジョウの妖気。であれば、此の末路は必然であるぞ」

「そ、んな……っ!? なに、か……なにか、助けられる方法は無いの……!?」

「……妖怪は、妖気を持つモノでしか殺せやせん。しかし逆を返せば、妖怪とて決して不死身の神仏などでは無いので御座いやす。致命の傷を負えば、如何な妖怪とてその命を散らしやしょう。死した妖怪は肉の器を失い、物言わぬただの道具に還るのみでさ」

「……そんな事って、無いよ……。折角、正気に戻れたのに……ちゃんと、伝えたい事も伝えられて、これからっ……」

 

 イナリの補助がありつつも、ゆっくりと起き上がり、目の前の女怪を見やる。

 負荷をかけ過ぎた全身が激しく痛むが、そんな事すら気にならない。

 

「これから、友達になれると思ったのに……っ!」

 

 ただただ、目の前の非情な現実を受け入れられず、ボロボロと啜り泣く姫華。

 

 もう少しで届く筈だった手の先から、また零れ落ちようとしている純白の命。

 その残酷な事実に涙を溢れさせる彼女の頭へと、掠れ切った左腕がそっと伸ばされた。

 

「……其の様に哀しい顔をしないで欲しい、あるじ。わたしは、此れで善かったと思っている。わたしの様な妖怪が此の儘生き続けたとて、真っ当な生き方は出来るまい。寧ろ、あるじにより多くの迷惑を掛けるだろう」

「かけて、いいから……っ! 私っ、あなたに酷い事ばかり、してきたから……だからっ!」

「否、否であるぞ、あるじ。あるじはわたしに、何も酷い事など為してはいない。あるじは、澄み切った愛をわたしに注いでくれた。日々わたしを磨き、大切に扱い、肌身離さず共に在ってくれた大切なあるじ。何故、わたしがあるじを恨み、憎む事が有り得るだろうか」

 

 涙に滲んだ少女の目は、生気の尽くを失いながらもどこか穏やかに微笑む女郎の表情を見た。

 壊れた玩具のように、蜘蛛の足がボロリと1本抜け落ちる。彼女の纏う花柄の白い和服は、端の方から段々と煤けて存在を喪失しつつある。

 

 それでも、ジョロウグモは柔らかに微笑み続けていた。

 虚ろで感情の見えない瞳でありながら、それでも目の前の少女への愛おしさと慈しみを湛えているようで。

 

「済まなかったな、あるじ。あるじには、数え切れない程の面倒を掛けてしまった。酷く事と言うならば、わたしの方が多くの罪過を犯してしまっただろう。……其れに、汝等に対しても、な」

「……気にする必要は、無いよ」

 

 その言葉に姫華が振り返ると、そこには九十九の姿があった。

 疲労と痛みによって酷くふらついた足取りながらも、お千代にフォローしてもらいながら、何とかこちらまで来る事ができたらしい。

 連戦に続く連戦で、彼の衣服はボロボロと言う他無い。そんな有様でなお、彼は少女たちの元へと足を運ぼうとした。

 

「悪いのは全部、ショウジョウ……いや、『現代堂』の奴らだ。君も、姫華さんも……ただ、奴らの企みに巻き込まれただけ。……何も、罪悪感を覚える事は無いんだ」

「……否。わたしは『現代堂』の『ぷれいやあ』に因って命を与えられた身。であれば、わたしもまた『現代堂』の妖怪であるぞ。故に、わたしは此の様に為るべきなのだ。……此の様に、消えるべきなのだ」

 

 巨体が、大きく体勢を崩す。体勢の維持に必要な蜘蛛の足の内、5本が砕けて消えたからだ。

 そのように己の終わりを自覚しながらも、白く長い左手は少女の頬を優しく撫で続ける。

 腕の至るところがひび割れて、今にも折れて床に落ちてしまいそうなほどに劣化しつつある。そんな中でも、大切な「あるじ」を労る事をやめはしない。

 

「そんなっ……悲しい事、言わないでよ……! 私、諦めないもん……! あなたの、あなたの事を……ちゃんと、愛したいから……っ!」

「嗚呼……有難う、あるじ。其の言葉だけで善い。其の言葉だけで、わたしは此の上無く救われる。唯其れだけで、わたしはあるじからの愛を実感出来た」

 

 涙が伝う。

 姫華の頬をではなく、ジョロウグモの頬を。

 最早、無事な箇所などただの1つも見受けられない蜘蛛妖怪の顔に、透き通った涙が儚い色彩を添えた。

 

「去らば、であるぞ。あるじ、そして善き妖怪達。若しも……何時の日か、わたしが2度目の生を得られる時が来たならば……其の時はどうか、わたしの事、を……友、と……呼、んで、欲、し……──」

 

 やがて、致命的な限界が訪れる。

 涙ながらの笑みを浮かべたまま、妖怪テカガミ・ジョロウグモの全身にひびが走り、彼女の肉体を塵へと還す。

 

 陽炎のように、或いは泡沫(うたかた)のように。

 彼女の真っ白い肌も、髪も、着物も、儚げな微笑みも。その全てが、この世界から完全に消え去った。

 

「ぁ……待っ──」

 

 咄嗟に伸ばされた姫華の右手は、消えゆく彼女の残滓を何1つとして掴む事は叶わない。

 しかし、別の何かをがっしと掴み取った感覚だけは確かにあった。

 

 その硬く冷たい感触は生き物のそれではく、一方でよく掴み慣れた実感さえ覚える。

 一体、何が。思わずフリーズした姫華と、そんな彼女を訝しげに見る周囲の視線が集まる中、消失しゆく塵の狭間からその正体が露出する。

 

「……ぁ、え」

 

 それは、1枚の手鏡だった。

 レトロ調の装飾と持ち手は、セピア色の美しい色褪せ方を経ている。

 しかし、今までピカピカに磨かれてきたのだろう鏡面には、一筋の亀裂が刻まれていた。

 

 その手鏡の正体が、かつて姫華が祖母から受け継いだ遺品である事など、わざわざ説明する必要すら無い。

 フデ・ショウジョウに奪われ、テカガミ・ジョロウグモという妖怪を生み出す為の素体となったそれが、今再び持ち主の手に戻った。

 

 鏡面に走る割れ目は、今しがたまで言葉と想いを交わし合っていた女怪の命脈が消え失せた、何よりの証明だ。

 それを今一度、何よりも強く実感して、涙腺から更なる哀しみが氾濫を起こす。

 

「あ……ぁああぁあぁあああぁぁぁあ……わ、たし……っ」

「……姫華さん」

 

 割れた手鏡を抱き締めて泣きじゃくる少女の後ろに、九十九がそっと立つ。

 お千代に手助けされつつもしっかりと立った姿勢の彼は、悲哀に包まれた背中に言葉を投げかける。

 

「……ごめん。僕はまた、手が届かなかった。灰管たちにも……ジョロウグモにも」

「ううん……それは、違うよ。九十九くんがいなかったら、私はもっと酷い結末を辿ってただろうから。あの時も……今回も」

 

 ゆるゆると首を振る度に、涙が零れ落ちる。

 

「あなたがいたから……私もあの子も、これ以上悲しい事にならないで済んだんだよ。あの子が私を殺す事も、私があの子を殺す事も……何も、無かった」

「……でも」

「それに……九十九くんがショウジョウを倒してくれたから、あの子も穏やかに消える事ができたんだと思うわ。あなたは何も悪くない……ううん、あなたのおかげで、こういう風な終わり方を選ぶ事ができたの」

 

 亀のように鈍い動きで、背後の彼へと振り向く姫華。

 彼女の目からは、今この場で一生分の涙を流したのではないかと思えるほど、大量の涙が滲み出ている。

 

 それでも彼女の口角は不器用に吊り上がり、笑みを形作っていた。

 失った哀しみ、助けてもらった感謝、手が届かなかった哀しみ、せめての救いを与えてくれた感謝。

 それら全てが渾然一体の斑模様(マーブル)を構築し、泣きながら笑う少女の表情はどこか芸術的ですらあった。

 

「ありがとう……九十九くん。ありがとう、リトル・ヤタガラス。何度も私を、私たちを助けてくれた……私のヒーロー。私、は……私も、私は──っ!」

 

 力も抜け切って震える足を動かして、一瞬だけ立ち上がる。

 そんな状態で立ち上がっては、すぐにバランスを崩して倒れてしまうだろう。

 果たしてその通り、膝を伸ばし損なって姫華はあっという間に倒れ込んだ。

 

──九十九に向かって。

 

「うわっ!? ……っと、姫華、さん?」

「わ、私……強く、なりたいですっ! もっと……もっと! また、あの子が私のところに来てくれた時に……ちゃんと、手を伸ばせるくらい! ただ守られて、ただ助けを呼ぶだけじゃなくて……私も! 私も、あの子のヒーローでいたいよぉ……っ!」

 

 自分を助けてくれた九十九(ヒーロー)に抱きつく形で、少女は泣きじゃくる。

 いきなり寄りかかってきた事に驚きこそしたものの、彼もまた真剣に頷いて彼女を抱き留める。

 

「……僕も、もっと力を使いこなせるようになりたい。これからも、皆を助けられる人でいたいから。……一緒に、強くなろう」

「うん……うんっ!」

 

 強くならねばならない。

 今度こそは、手が届くように。今度も駄目ならば、更にその次へと繋げる為に。

 

 今はただ、悲哀を分かち合う2人の少年少女がいるのみだった。

 

「アオハル……と茶化すには、状況が無粋ですわね」

「ヘッ、そこで余計な茶々を入れないスズメで助かりやすぜ……っと、お?」

 

 不意に、目にちらつく何かの光。

 

 夜の帳に閉ざされた天文台の内部だろうに、何か光源があっただろうか?

 そう思ったイナリが目を向けると、それは姫華の手元から発せられていた。

 

 九十九と抱き締め合っている彼女の手に握られた、ひび割れた手鏡。

 すっぱりと入った亀裂程度では美を損なう事の無い鏡面から、チカリと何かの光が反射されている。

 

 そしてその光は、建物の外から差し込んだものらしい。

 その事に気付いた2体の召使い妖怪は互いに目を合わせ、一様に割れた窓を見た。

 

「夜明け……朝でさ。どうやら、戦ってる内に夜を越しちまったようでありやすね」

「まぁ、いつの間に。それに、なんと眩しい……」

 

 彼らが今いる天文台は、小高い山の上にある。

 そんな山に差し込む夜明けの光は、いつもよりも眩しく、強い輝きに満ちているように感じられた。

 

 そして妖怪たちは、それがただの錯覚ではない事を知っている。

 

「……坊ちゃんが、悪しき妖怪を……魔を祓ったおかげで御座いやす。(よこしま)な妖気が祓われ、一時(いっとき)なれども人々は恐れから脱却しやした。そうした(よう)の気が、()の光に表れているんでやしょう」

 

 麓に広がる街の方角から、サイレンの音が聞こえてくる。

 

 ガキツキたちを殲滅し、フデ・ショウジョウを撃破し、テカガミ・ジョロウグモを看取り。

 九十九たちが成した妖怪退治は、人々に一先ずの安寧をもたらした。それを証明するように、暖かな朝日の輝きが彼らを照らす。

 

 朝が来る。日が沈み、夜が訪れ、また日が昇って朝がやってくる。

 夜と対を為す昼こそが、人間たちの時間。朝の光の訪れこそが、人間たちの勝利を示していた。




クライマックスフェイズは終わったので功績点の計算のお時間です。
まずは【使命】を達成できたかどうかの確認からしましょうか。


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其の肆拾捌 ここから歩き出す

『──それでは、次のニュースです。一昨日の午後7時から深夜にかけて、金烏(キンウ)市で発生した大規模なガス爆発事故による死者は──』

『──病院に搬送された人たちの中には、意識が混濁している方も多く、事故当時に何が起きたのかは未だ不明のままであり──』

『──また、近隣の金烏山(キンウサン)でも同様のものと思われる爆発が起き、頂上に位置する市立天文台の内部が荒らされていた事から、警察は──』

 

 ピッ、と。

 乱暴に押されたリモコンのボタンは、果たして持ち手の望み通りにテレビの電源を落とした。

 そのままボタンを踏んづけていたちっちゃな前足で、イナリはリモコンを座布団の上まで蹴っ飛ばす。

 

「……なんでやすか、これ」

「なんで御座いましょうねぇ……」

 

 振り向いた先では、お千代もまた、ちゃぶ台の上で腕……ではなく翼を組んでいた。

 その隣に座る九十九も、湯呑みから熱々の緑茶を啜りつつ怪訝そうな顔を浮かべている。

 

「……僕たちの事とか、妖怪の事とかが……隠されてる?」

「それもめちゃくちゃ()()()()()に、でやすね。あんまりにも露骨過ぎて、一周回ってこれも『現代堂』の仕業なんじゃないかと思うくらいでさ」

 

 溜め息混じりに吐き捨てて、後ろ足でコリコリと顔を掻くちっちゃなキツネ。

 あまりの不可解さに呆れ返った彼を見ながら、スズメの嘴は籠から取り出したお煎餅をバリボリと食み砕いた。

 

「こちらとしては助かる話ではありますけどねぇ。妖怪の存在が明るみに出て、人々が恐れ慄く事態を防ぐ事に繋がるのは勿論、坊ちゃまの正体が露見する“りすく”もできるだけ少ない方がいいですもの」

「然り。儂らと『現代堂』の戦いに介入してこないとはいえ、同じ考えを持つ者がこの国のどこかにおる。それが分かっただけでも、一先ずの収穫と言えよう」

 

 そう言って白く長い顎髭を扱くのは、孫や召使いたちと共にちゃぶ台を囲む四十万だ。

 街全体にガキツキの群れが発生した時、自宅にいた彼もガキツキたちに襲われたものの、妖術を使って上手く撃退する事ができたそうだ。

 戦闘の際に負傷したという禿頭に貼り付けられた絆創膏を撫でながら、老爺は先ほどまでニュース番組が映っていたテレビの画面に目を向ける。

 

「しかし……ここまで明け透けな情報封鎖をする者がおるとはの。儂ら“八咫派”に敵対的な者の仕業とも思えんが……いまいち思惑が見えんわい」

「人の口に戸は立てられぬ……って言うからね。実際、SNSとかでも僕らやガキツキの写真が出回ってるっぽいし……」

「そうだのう。“ねっと”は儂も“ちぇっく”しておるが、こっちの“たいむらいん”にもそこそこ上がってきておる」

「爺ちゃん、ネットとかやってたんだ……」

「“なう”な“やんぐ”の知識は一通り持っておるぞい。深夜“あにめ”を見るのが最近の生き甲斐じゃからな」

 

 ほれ、と言いながら四十万が見せたのは、柿渋色のカバーに包まれた最新機種のスマートフォン。

 その画面をスイスイと操作してみせる齢90の祖父に、九十九は何とも言えない気持ちで唇を歪ませる。

 

 さておき、スマホの画面に表示されているのは、一昨日に街で起きた惨劇を示す数々の画像だ。

 

 突如として現れ、街を破壊し、人々を悪意によって害する恐るべき怪物──ガキツキたちの群れ。

 この場にいる者たちのように、妖気を手繰り戦う事ができる存在であれば、妖怪の成り損ないでしかないガキツキなど物の数ではない。

 しかし、この世の圧倒的大多数はそのような力を持っていない。ならば、如何に雑兵とて多大な脅威となり得るのは当然だろう。

 

 そんな怪物たちが街を闊歩し、人々を襲う様を映した画像、或いは動画の数々。

 一方、それらの中に紛れ込むようにして、趣きの異なるメディアが混ざっている事を彼らは見逃さなかった。

 

『坊ちゃん、この辺の雑魚どもは粗方吹っ飛ばしたと見ていいでさ』

『ん、分かった。少し手こずっちゃったね……お千代、皆の避難は終わった?』

『“ばっちぐう”ですわ! 後は警察の皆様にお任せすれば大丈夫でしてよ』

『よし……次の場所に行こう!』

 

 道路からビル、ビルからビルを飛び交い、自分たちが手も足も出なかった怪物たちを瞬く間に倒していく正体不明の者たち。

 ちっちゃな手足と体躯を持つふわふわ尻尾のキツネに、夜の闇にも似た黒色で全身と羽根を染め上げたスズメ。

 

 そして何よりも、手に火縄銃を持つ黒マフラーの少年らしき何者か。

 映像越しでさえその素顔を認識する事はできないが、それでも彼は火縄銃から真っ赤な弾丸を乱射して、怪物の群れを掃討していく。

 少年は化け物を仕留めながら着地すると、動画を撮影していた者へと振り返り、優しそうな声色でこう呟くのだ。

 

『……大丈夫? 怪我、してない?』

 

 その動画を見た瞬間、九十九はガン! とちゃぶ台に頭を叩きつけた。

 

「あああああああああああああああ……!!」

「ショウジョウの奴と戦ってた時より苦しんでませんこと?」

「自分のやった事を改めて別視点から見た事で羞恥心に苛まれているんでさ、そっとしてやってくださいやし」

「ほっほっほ……若い、まっこと若いのう。そこは半端に恥ずかしがる事もなく、月光仮面のようにデンと構えていればよかろうよ」

「爺ちゃん……その例えは知ってる人少ないよ……」

 

 呑気に呵々大笑する祖父へとジト目を向けつつ、柔らかなほっぺをちゃぶ台の上に広げる。

 

 事実、あの時の自分は多くの人間を救えたと思う。

 間に合わず救えなかった人もいるし、その事に無力感を覚えるが、それでも自分が救えた数を否定する訳にはいかない。

 自分のちっぽけな力でも、誰かを助ける事ができた。それは素直に、誇らしいと思えるものだ。

 

 それはそれとして、九十九はあの動画に映る自分の姿に恥ずかしさを感じていた。

 めっちゃヒーローみたいじゃん……。めっちゃカッコつけてるじゃん……。めっちゃ気障(キザ)野郎じゃん……。

 実際はそうでもないのだが、別の視点から見た「自分」という存在は、案外そのように見えてしまうのだった。

 

「もうちっと、精進が必要じゃの。単純な強さだけでなく、心の強さも。己の成した事を、他者から見た己を誇り、“格好いい自分”を肯定してやる。その強さもまた、今のお前に必要なものじゃよ、九十九」

「自分を肯定した方がいい、っていうのは認めるけどさぁ……ナルシストにはなりたくないなぁ、僕……」

「ほほほ。“ひいろお”とは“なるしすと”なくらいが丁度いいものじゃ。英雄という者は、多少なりとも心臓に毛が生えてなくてはの」

「そういうものかなぁ……? 本当に」

 

 いまいち同意を示し難い言葉ではあるものの、心身ともに強くなるべきなのは事実だ。

 『現代堂』の行う『げえむ』は、これからも続いていくのだろう。そして先日も話していた通り、彼らの残虐な殺戮劇には終わりが見えない。

 

 いつ終わるとも分からない過酷な戦いに足を踏み入れた現実。

 そこに多少の薄ら寒さを感じつつも、九十九はちゃぶ台の上まで伸ばした自分の手の平をぼんやりと見た。

 

(……姫華さんは、強くなりたいって決意した。今度は、ジョロウグモを助けられるように……って)

 

 軽く、握っては開いてを繰り返す。

 あの時、届かなかった手だ。灰管たちにも、ジョロウグモにも、博物館にいた人たちにも。

 

 それが傲慢な考え方である事は、これまでにも散々指摘されてきたし、自覚もしている。

 けれども、この手は銃を持つ事しか能が無いのだと、そう思いたくもなかった。

 

(結局、どれだけ考えたところで「強くなるしかない」って結論にしか至らないんだよなぁ……)

 

 それこそが一番の近道であると、他ならぬ九十九自身が理解しているのだから。

 

 それにしても、だ。

 ここまで考えを巡らせたところで、あるひとつの疑問に至る。

 

(……なんで僕、いつの間にか()()()()って呼んでるんだ……? ちょっと前までは白衣さんって呼んでた筈なのに……)

 

 その事実に気付いた瞬間、ぶわりと汗が吹き出した。

 なにか、あの動画での言動以上にめちゃくちゃ恥ずかしい事をやってしまったような気がしてならない。

 

 唇から飛び出しそうになった奇声を堪えて、ちゃぶ台の木目に額を擦り付ける。

 今顔を上げてしまえば、己の奇行を見る召使いたちの下世話な笑みまで視界に入ってしまいそうな予感がするからだ。

 

「あらあら、先ほどまでとは異なる趣きの羞恥……これはあれですわね? 白衣様関連のなんやかんやですわね?」

「でやしょうなぁ。かーっ! 今どきのアオハル話は初々しくて甘ったるいったらありゃしねぇや。傍から見てる分には面白……じゃない、目の保養になりやすがね」

「この小動物どもめぇ……僕のウダウダは見世物じゃあないぞぉ……」

「そこで『ウダウダ』と認めるところが、もう自白したようなものでしてよ?」

 

 ごもっともである。

 小鳥が囀るようでぐうの音も出ない指摘に、少年は撃沈した。

 

 可愛い孫の悲喜交交を微笑ましく見ていた四十万はそこで、徐に目を向けた時計の針にある事を思い出す。

 

「そういえば、九十九や。そろそろ出ねば遅刻するのではないのかね?」

「えっ……? あっ、ホントだ!? い、急いで学校行かないと!」

 

 ガバリと起き出して、バタバタ慌ただしく動き始める。

 普段の眠たそうな態度はどこへやら。普通の少年らしく騒がしい背中を見て、好々爺はそっと熱い茶を口にした。

 

「そうかぁ……九十九に、新しい友達ができたか。それも、異性とは思わなんだ」

「へぇ。実際に学校までついていってみても、友達らしい友達は日樫の坊主しかおりやせんでしたからね。坊ちゃんが静かな気性だってのもあるんでやしょうが……それにしたって、周囲から舐められてるって感じはしてやしたから」

「ちゃんと向き合って対話すれば、坊ちゃまほど誠実で“ないすがい”な殿方もそういないものですけどねぇ……。日樫様ともども、白衣様も坊ちゃまにとって善き友人となってくださったそうで何よりですわ」

 

 それぞれのやり方で毛づくろい、或いは羽づくろいをする召使いたちを前に、重々しく頷いてみせる。

 

 祖父の目線からしても、八咫村 九十九という少年は幼い頃から随分と大人しく、そして物静かな子供だったように思う。

 いざ友達を守る為に熱くなれる一面もあるのだが、普段の態度が故に友達は少なく、今では光太くらいしかいない。そして、それを気にもしていない。

 

 今思えば、生まれながらに妖怪としての血を発露しつつあった兆候なのかもしれないが……。

 その上で、四十万は彼の凪いだ湖畔のような在り方に不安を覚えていたのも事実だ。

 

 だからこそ。

 

「家族を愛し、友を愛し、隣人を愛し……人として、しっかり生きるのじゃぞ。どれだけ妖怪の力を振るおうとも、お前は儂の孫、人の血を身に流す子供なのじゃから」

 

 八咫村 四十万は、孫のこれからに幸い在れと願っていた。

 

 

 

 

「──そんでよー! そん時に俺らを助けてくれたのが、ヤタガラスって奴なのよ! ホンットもうこれが格好よくてさー! あーいうのをダークヒーローって言うんだろうなーって、俺は思うワケよ」

「あ、ははは……うん、そうだね……」

 

 もし吐血するのが許されるのであれば、今ここで吐血したい。

 そんな形容し難いほどのむず痒い気持ちが、九十九の胸を占めていた。

 

 ここがどこかと言えば通学路であり、彼の隣を歩きながら「ヒーロー」について熱く語っているのは、当然ながら光太である。

 彼は九十九を家の前まで迎えに来た上で、こうして自分を助けてくれたヒーローについて語り聞かせていた。

 

 本来の目的は親友の無事を確認する為であろうし、その為に自分の登校ルートと真逆の位置にある彼の家までわざわざ足を運んで来たのだ。

 その事については素直に嬉しいと思う一方で、彼が熱く語っている「格好いいダークヒーロー」の正体が自分であるなどとは、決して言えない悲哀があった。

 

「で、こないだも電話越しに聞いたけどよ、お前もヤタガラスに助けてもらったんだろ?」

「う……うん、そうだね。僕の事を探して助けてほしいって頼んできた人がいる、って伝えられたけど……」

 

 嘘である。

 九十九の事を探して助けてほしい。光太からそう頼み込まれたヤタガラスとは、まさしく九十九自身の事である。

 

「はえ~! ちゃんと約束守ってくれたんだなぁ、ヤタガラスって! 妖怪にもイイ奴っているんだな~」

「……光太はさ、怖くないの? そいつ、自分で妖怪って名乗ってたんでしょ? それに、助けてくれたとはいえ同じ妖怪を平気で殺して……」

「んー……まぁ確かにそういう側面もあるんだろうけどさ。でも光太様は小市民かつチョロインなので、俺の命を助けてくれたって事実だけで落ちちゃう訳です。真実がどう、善悪がどうってのは、そういうのに詳しいお偉いさんたちが考える事っしょ」

 

 大した議題ではないという風に、頭の後ろで手を組みながら答える。

 光太が目線を飛ばした先の空には、雲ひとつ無い。綺麗な晴れ間が広がっていた。

 

「それに妖怪妖怪って言ってもさ、結局は人種とかそういう系っぽいじゃん? どっかの国からテロリストが出たからって、その国の全員が悪党って訳じゃないし。助けてもらった分際であれこれ屁理屈抜かすほど、厚顔無恥な生き方をしてるつもりはねーよ、俺」

「ん……そっか。強いね、光太は」

「よせやい、俺ァただの陽キャもどきよ。それにさ、お天道様ってのはいつでも俺らを見てるのさ。八咫烏(ヤタガラス)ってのは太陽の遣いなんだろ? 俺らがヤタガラスの悪口を言ったら、太陽経由で本人にチクられちまうかもな」

「……ふふっ。うん、そうだね。それは、あり得るかもしれない」

 

 昔からの親友が言い放った言葉がなんともおかしくて、九十九は小さく笑う。

 

「もしかしたら彼、妖怪リトル・ヤタガラスは……案外、近くで僕らの話を聞いてるかもしれないからね」

 

 少なくとも彼がいる限り、自分はもう少し戦い続けられるかもしれない。

 そんな安堵と温かさが、小さな少年の心をじんわりと労った。

 

「へへっ、そりゃまた夢のある話だわな。さながらこの街のスパイダーマンってワケだ。俺ら一般市民にゃ力も何もねーんだから、せめて自分たちを守ってくれるヒーローに石を投げるような真似はしたかねーぜ」

「光太のそういうところが素直に尊敬できるんだ──って、ん?」

「おん? どしたんだい……っと、ああ成る程ね」

 

 ふと足を止め、少し驚いた風に前方を見やる。

 その様子に一瞬だけ怪訝そうにした光太もまた、彼が足を止めた原因を察して面白そうに笑った。

 果たして彼らが見つめる先、電柱に背中を預けて2人の……否、九十九の到来を待っていたのは。

 

「……おはよっ! 九十九くん、日樫くん」

 

 白衣 姫華だ。

 朝の穏やかな風に吹かれて、彼女の銀がかった白い長髪がサラサラと靡いている。

 その頬には絆創膏が貼られているが、その程度で彼女の美貌が衰える事は無いだろう。

 

 学校で1、2を争う美少女。そんな謳い文句さえ陳腐に思えてしまうような笑みが今、こちらへと真っ直ぐに向けられている。

 初雪のように柔らかく、冬の日差しのように優しい笑みだ。いくら鈍感な九十九でさえ、ボーっと見惚れてしまう魅力を孕んでいた。

 

「おっす、白衣。お前もヤタガラスに助けられたんだってな? 無事そうで何よりだぜ」

「まぁ、ね。美季や弥生が私を助けるようお願いしてくれたみたいでさ? ()()()()()()()()()()()()()()()()()に助けてもらったんだ。……それで」

 

 ジトッ……とした目線が、顔を赤くしたままの九十九に突き刺さる。

 その事に気付いて正気に戻り、なんとか挨拶を返そうとして……朝方の悶々とした感情を思い出す。

 

「あ……え、と。おはよう……白衣、さん」

「んー? 聞こえないなぁ。ちゃーんと、あの時の呼び方じゃないと聞こえないわねぇ」

「……」

 

 覚えてやがった。状況が状況だったから、あんまり意識してないと思っていたのに。

 隣に光太がいるにも拘らず、あの呼び方をしろというのか。そんな目線を飛ばすが、姫華は意にも介さない。

 

 言葉に詰まって沈黙する自分を見て、そろそろ親友の訝しむような表情が色濃くなってきた頃合いである。

 覚悟を決めて、九十九は舌を震わせた。

 

「……姫華さん、改めておはよう」

「ん、よろしいっ。これからもよろしくね、九十九くん♪」

 

 名前の通り、花開くように可憐で、そして明るく美しい笑顔。

 彼女の美しさに心を奪われるよりも早く──矮躯の少年は、己の首から肩にかけてをガッチリとロックされた。

 

「ちょっとぉ? ちょっとちょっとぉ? ちょっとちょっとちょっと九十九くぅん? これはさ、これはさ、一体全体どういう事なのかなぁ? かなぁ? ねぇ? 分かるよねぇ?」

「な、なんの事かなぁ……? 僕には光太が何を言っているのか、全然分からないなぁ……」

「いやいやいやいや、分かるでしょお? な~~~~~んで、『姫華さん』なんて呼んでるのかなぁ? というか今気付いたけど白衣も白衣でお前の事『九十九くん』って呼んでるよねぇ? いつの間に下の名前で呼び合う関係になったんだぁい? お母さん悲しいよ」

「誰がお母さんだよ、誰が……ひ、姫華さんからも、なんとか言ってやって……」

「なんとか、ねぇ。うーん、そうだなぁ」

 

 ほっそりとした人差し指を頬に当てて、わざとらしく考えるような仕草をする。

 光太からヘッドロックを決められ、助けを求めるような視線を飛ばしてくる九十九へと、姫華はニンマリと愉悦に口角を吊り上げた。

 

「あの時の九十九くん、とってもカッコよかったわ。アレがあったから、私たちは前より()な関係になったんだもんね♪」

「グッバイ親友! お前は今ここで俺っちが仕留めてくれようぞ!」

「ちょま、姫華さん!? それに光太もやめて! そこはそんなに曲がらな──」

 

 わちゃわちゃと騒がしくじゃれ合う2人の男子に、少女は楽しげな笑い声を漏らした。

 

 ほんの2日前、あんなに凄惨な出来事があったとは思えないほど、平和なやり取り。

 けれども、姫華は既に知ってしまった。この世界の裏に潜む化け物たちと、彼らが張り巡らせる恐るべき謀略を。

 そんな謀略の数々が、自分の命を奪い、尊厳すら凌辱しようとしていた事を。

 

 そして──

 

(ホント、可愛くてカッコいいな。私のヒーロー♪)

 

 自分を救ってくれたヒーローがこの世にいて、彼は化け物たちの謀略を阻止する為に戦っている事を。

 

 気付くと、九十九の背負うリュックサックからキツネの頭部がピョコリと顔を出していた。

 光太がその事に気付かないのをいい事に、顔だけを出したイナリはこちらに向かって小さくウインクを飛ばしてくる。

 

 彼に軽く手を振り返して、姫華はもう1度微笑んだ。

 

「約束したもんね、九十九くん。一緒に強くなろう」

 

 きっとそれが、いつの日か、あの怖がりな友達を救う為の力になる。

 制服の内ポケットに大切に仕舞い込んだ手鏡は、今も彼女に勇気と慈愛を授けてくれている。




3章はこれにて終幕、次回から4章です。くぅ疲。

12月1日に投稿を始めてクリスマスに現行分まで到達……完璧な計算だ。
これで次章以降の書き溜めもちゃんとできてたら完璧だったんですけどね。

書き溜めはここまでで以上なので、4章の開始には暫く時間を頂きます。
以降は章ごとの書き溜めが終わるごとの更新を予定していますので、今後ともご愛顧のほどをよろしくお願いします。

NEXT CHAPTER→「『げえむ』に手を出すな」


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【第肆幕】『げえむ』に手を出すな
其の肆拾玖 霊的事象担当課


この中に、最新話の投稿から4ヶ月も更新してない作者がいるらしいんですよぉ。
やっちまったな(自嘲)。

今日から第4章です。展開や相関図も色々複雑になっていく頃合い。


 八咫村(ヤタムラ) 五十鈴(イスズ)(24)は公務員である。役職はまだ無い。

 

「はぁ~……今日もヒマね~」

 

 いちヒラ公務員に過ぎない筈の五十鈴が、こんな事をほざきながらお茶を飲み、お煎餅を齧っているのには理由がある。

 もっと言うならば、彼女はただのヒラ公務員ではない。役職こそ無いが、彼女の所属する部署は特殊な立ち位置にある。

 

 本人が周囲にこの辺りの事情を話すならば、まずは「少し長くなるけどいいわよね?」と切り出す事だろう。

 尤も、守秘義務によって他人に話す事はできないのだが、それは置いておく。

 

 

──環境省・自然環境局・霊的事象担当課

 

 

 通称「霊担課」こそが、彼女のデスクが置かれた部署の名だ。

 

 その業務内容は、公には多くを明かされていない。それどころか、所属している五十鈴にすら明かされていない部分がある。

 一般に公開されている内容としては、地脈の安定化や沈静化を行う為、方々の地鎮祭や上棟式などで舞を奉納する事くらい。

 そんなトンチキ文句を堂々と「霊的事象担当課」の名と共に掲げるのだから、ネットでは「公式が病気」などと言われ、同じ職員の間でも「窓際部署の極み」と揶揄されている。

 

 所属職員に至っては、五十鈴を含めて2人しかいない始末。

 その五十鈴にしたって、大学卒業が間近となって「就職どうしよっかな~」などと考えていた矢先に突然「あなたには舞の素質がある」と言われて、あれよあれよと霊担課に所属させられた立場なのだ。

 

 何もかもが、一般的な国家公務員からは程遠い存在。それが霊的事象担当課であり、五十鈴という女性である。

 

 どうして彼女がこのような立場にいるのか。それは本人にすらよく分かっていない。

 何分、やれ妖気だの地脈だのという謎ワードを聞かされながら、ひたすらどっかの誰かに捧げる舞とやらを叩き込まれたのだ。

 それでいて公務員らしい仕事は何も無い上に、他の真っ当な公務員からは「給料泥棒」と冷たい目で見られている。

 

(まぁ、地元の()()()()()たちに比べれば屁でも無いんだけどね)

 

 針の(むしろ)という言葉さえありきたりになってしまう環境下にあって、五十鈴は平然と過ごしていた。

 元々、地元では色々と()()()()をしていた身である。自業自得ながらも真っ当な就職はできないだろうと諦めていた矢先に巡ってきた、安定収入のチャンス。

 

 閑職故に中々バイタリティを発散できないのは欠点だが、舞というのもなんだかんだと楽しいもの。喜んでくれる人がいるなら悪い気はしないものだ。

 周囲からの冷たい視線だってなんのその。そんな些事よりも、今日のお茶請けを選定する方がよほど重要である。

 

「まったく、窓際部署って蔑まれながら飲むお茶は美味しいわ~」

 

 天性の図太さと面の皮の厚さ、後は少々の見目麗しさで悠々自適な公務員もどきライフを送る。

 それが八咫村 五十鈴の現状だ。

 

「……って、言いたいところなのに」

 

 ……これまでは、の話だが。

 

「八咫村さん、4日前の事件についての追加資料、ここに置いておきますね」

「こちらに詳細な被害総額が記してあります。()()()()()()に提出するよう伝えておけと言われていますので──」

「こっちはマスコミへの対応を纏めたものです。各報道機関にこれを送って、後は──」

 

 目まぐるしいスピードで積み重ねられていく書類の山、山、山。

 中国雑技団もかくやというほどのバランス感覚で積み上げられ、それでいて崩れる気配を見せないそれらは、最早ジェンガどころの騒ぎではない。

 

 どこからともなく湧き出(ポップ)してきたとしか思えないような役員の群れが、次から次へと小難しい紙の束を持ってくる。

 彼らは、自分のデスクでお茶とお煎餅に囲まれながら現実逃避(サボタージュ)に勤しんでいる五十鈴の態度など、まるで意に介していない。

 現実を指し示す書類の城壁が、お茶の味すら舌の上から失わせていった。

 

「何が起きてるのよ一体……。私ののんびり舞ライフはどこへ……」

「重要な書類は大体運び終えましたので、後はよろしくお願いします」

「何を!? どうよろしくしろと!? 私なんも教えてもらってないんですけど!? あ、ちょっと待っ──」

 

 必死の制止も虚しく、書類を運んでは積んでを繰り返していた役員たちは霊担課の執務室を後にした。

 バタンと無慈悲な音を響かせて閉じたドアを前に、五十鈴はガックリと項垂れる。その動きに釣られて、彼女の黒いポニーテールもだらしなく揺れた。

 

 頬を冷たいデスクに押し付け、不格好に開けた口から、大量の溜め息を唸るように排出する。

 

「マ~ジでどうなってんのよ、これ……。まぁ、なんでこうなってるのかは何となく分かってんだけどさぁ……」

 

 頭の中に思い浮かぶのは、4日前に起きた大事件の事だ。

 

 東京近郊、金烏市という小さな街で起きた超大規模なガスの爆発事故。

 午後7時から深夜にかけて断続的に発生したそれは、少なくない被害と死傷者を出した。

 政府もどの報道機関も、あくまで「ガス爆発事故」を押し通しているが、一方でネットに出回っている画像や動画は別の真実を醸し出している。

 

 突如として街に現れ、無差別かつ悪意的に人々を襲う異形の怪物。

 そして夜のビル街を飛び回り、怪物たちを退治しては人々を守ろうと行動する謎の少年。

 

 その正体や目的については恐ろしいほど憶測が飛び交っているが、マスコミはどこもかしこもそれを報道しようとしないのが嫌に気持ち悪い。

 それに疑惑の目を向ける者も多い中、SNSでは動画に映された怪物たちや、それを倒して回る少年の言葉に注目が集まっていた。

 

『エヒヒヒヒヒッ! オレタチ、ヨウカイ! ニンゲン、ホロボス! タノシイ!』

 

『僕は……妖怪リトル・ヤタガラス。あいつらと同じ妖怪だけど……あいつらを、倒す存在だ』

 

 “妖怪”。

 

 オカルトの極みと言っていいその言葉を受けて、日本中が議論や推測、考察で良くも悪くも大盛り上がり。

 ネット上では「政府が情報操作している」という言説すら出回っているが……

 

「マジでいるのかぁ……妖怪。ウチの省も上から下まで大騒ぎしてたのが、こっちにまで聞こえてきたし。それに、堂々と情報の隠蔽までしてるしさぁ……」

 

 結論から言うならば、情報操作は事実だ。

 少なくとも、閑職オブ閑職のヒラ公務員な五十鈴すら知っているレベルで、各省庁は金烏市で起きた事件の詳細を把握している。

 その上で、どれだけ国民から疑惑を抱かれようとも、“上層部”が妖怪の存在を公表する兆しは無い。

 

 そして、本題に戻る。

 スーパー窓際部署と言う他無かった霊的事象担当課に、いきなり大量の書類が持ち込まれた理由こそ──

 

「ってか、ウチは地鎮祭専門の部署でしょー!? 妖怪が現実に出て暴れてきたからって、私んトコに持ち込まれても困るっつーの!」

 

 バン! とデスクを叩きながら立ち上がり、誰に聞かせるでもなく虚空へと叫び散らす。

 

 端的に言えば、“それっぽい”部署が霊担課しか無いのである。

 妖怪などという、凡そフィクションの住人としか思われていなかった者たちが現実に現れ、人々に危害をもたらす事件を起こした。

 そんな時、国に仕え働く者たちは、どのような部署を頼ればいいのだろう?

 

 その答えが、五十鈴のデスクに積まれた紙の束の山嶺である。

 

「はぁ~あ……こんな時に限って課長はどっか行ったまんまだしさぁ……。こんな事になるんなら、スカウトなんてされるんじゃなかったかもしれない」

 

 嫌気混じりにぼやきつつ、積み重なった書類の内の1枚を手に取ってみる。

 金烏市での事件において、妖怪に襲われ殺された者も少なからず出ており、その一覧は五十鈴も目を通していた。

 その中に、彼女の知る名前は載っていない。それだけが救いだった。

 

「まさか、地元でこんな事が起きるなんてねぇ……。お爺ちゃんのとこに行った()()()()はどうしてんだか──」

「その弟さんについて、自分に聞きたい事があんねんけど。ちょいと時間もろてもええか?」

 

 酷く軽薄さを感じさせる男の声と共に、執務室のドアが開かれる。

 よく聞き慣れたその声に、五十鈴はハッと我に返って振り向いた。

 

瀬戸(セト)課長! 今までどこ行ってたんですか!?」

「かなんわぁ、五十鈴ちゃん。いっつも言うとるやろ? ボクの事は瀬戸さんでええって。そういうとこ、ちゃんと聞いとかなアカンで?」

 

 ヘラヘラとした薄っぺらい笑みと、どこか人を食ったような細い目に、サングラス。

 凡そこの世の「胡散臭い」という言葉を全て掻き集めて人の形に練り直したような、関西弁の優男。

 

 彼こそ環境省・霊的事象担当課を統括する課長にして、五十鈴を霊担課にスカウトした張本人、瀬戸(セト)である。

 

「……で、課長。私の弟がなんですって?」

「あ、今のは無視? そういうとこ慣れてきよったなぁって思うわ、ボク。まぁええか。とりあえずボクが飲む用のコーヒー淹れるさけ待ってんか」

 

 相も変わらずニヒルに笑う瀬戸は、執務室の中をひょこひょこと歩き回り、戸棚からコーヒー粉とドリッパーを取り出す。

 そのまま淡々とコーヒーを淹れ始め、背中を五十鈴に向けながらに口を開いた。

 

「いやまぁ、大した事とちゃうねんけどな? こないだのさ、金烏市で起きた事件あるやろ? あのけったいなヤツ」

「ええ、どこもかしこも大騒ぎでしたね」

「ほんで、その事件の隠蔽やら何やらでここの連中もわぁわぁ言うとるみたいやろ?」

「ええ、主に私がですけどね。折角の窓際部署が台無しですよ」

「その隠蔽の指示な、9割方はボクがやっとんねん」

「は?」

 

 なに言ってんだこいつ。

 そう言いたげな部下を華麗に無視して、瀬戸の手は熱々のコーヒーをカップ……ではなく湯呑みに注いでいく。

 

「当たり前やろ。妖怪なんて怖いモン、世の中に流したらここ以上の大騒ぎになるに決まっとるやないか。妖怪は人の恐怖を求めて暴れとるんやから、恐怖の源泉になる情報は隠蔽するに越した事はあれへん。言うたかて、焼け石に水以上の何物でも無いんやけどな」

「あの……ちょ、え?」

「せやさけ“上の人”らにちょっと()()()()して、この辺黙っといてんかー、って言うてん。ネットにはもう色々出回っとるけど、ああいうのも消してもうたら、それこそ地下に潜りよるからなー。下手に都市伝説化させるよりは、野放しにした方が丁度ええっちゅう訳や」

「ちょ待、何を」

「まぁ、そのせいでボクら政府側はなーんも手出しでけへんねんけどな。今日日(きょうび)、妖怪に対抗できる素質を持った人間なんてSSRどころの話とちゃうわ。妖気を持つ存在やないと倒せへん以上、核でも滅ぼせるかどうか怪しい連中相手に自衛隊は動かせへんで」

「だからその」

「ほんで、その辺を加味した上でな。五十鈴ちゃんにちょいと見てほしいモンが──」

「ちょっと待てって言ってんでしょうがァ!? 情報の洪水をドバドバぶち撒けてんじゃないわよ!」

 

 五十鈴、キレた!

 

 怒濤の勢いで聞き捨てならない言葉ばかりを連ね重ね積み上げる上司を前に、ついつい若かりし頃の言葉遣いが出てしまう。

 尤も、言われた側の優男はそんなもの意にも介さず、淹れ終わったコーヒーを平然と飲んでいるのだが。

 

「何何、どないしたん? 自分、そういう風にカッカしとったら肌ァ荒れるで。折角の別嬪さんなんやから、婚期も逃さんようにせなアカンよ?」

「思いっきりセクハラと見做しますよ? ……って、それは今はいいです。ンな事よりも、課長が情報隠蔽を主導してるってどういう事ですか!? こんな窓際部署のいち課長が、まるで上層部を顎で使うような言い回しも──」

「せやから、顎で使(つこ)てるって言うとるやないか」

 

 あんぐりと口を開ける部下を見て、ヘラリと軟派に笑う。

 

「金の卵を生むガチョウはな、飼い主になんでも言う事聞かせられんねん。阿漕な商売してる訳でも無し、ちゃーんと理に適う提案やったら聞いてくれんで? せやさけボクは、()()()()()()()()()()()んやから」

「……言ってる意味が……分かりません」

「そら、分からんような事しか言ってへんからな。今それが重要になる訳とちゃうし。ボクの用事は、さっきも言った通りや」

 

 コーヒー入りの湯呑みを左手で持ちながら、取り出したスマホを右手で素早くフリック&タップ。

 流れるような動きで五十鈴のいるところまで移動すると、瀬戸はスマホの画面に表示された動画を指した。

 

「五十鈴ちゃんさ、事件の動画とかまだ詳しい見とらんやろ? ボクの方で拾ってきたやつやねんけど、ネットに出回っとるやつより画質も音質もずっとええモンやから、ちょっと見てもろてんか」

「はぁ……それはいいですけど、何故?」

「ええから、ええから。多分、見たら分かるさけ」

 

 有無を言わさぬ勢いと共に、動画が再生される。

 仕方がないので渋々スマホを覗き込んだ五十鈴の目に映り込んだのは、1人の少年の姿だ。

 

 火縄銃を手に、喋るキツネやスズメを引き連れて異形の妖怪たちと戦う何者か。

 名を問われれば、自らを「妖怪リトル・ヤタガラス」と名乗る彼の素顔は、何故か誰にも認識する事ができず──

 

「……え?」

 

 そんな声が、思わず漏れる。

 

 だって、あまりにもおかしいだろう。

 誰にも認識できない筈の素顔を、朧気ながらも何故か理解する事ができる。それはまだいい。あまり良くはないが、今はいい。

 それよりも重大な問題が、ひとつ。

 

「なん、で……()()()……!?」

 

 街を飛び交いながら銃を振るい、妖怪の群れに立ち向かう謎の少年。

 その素顔があまりにも、()()()()()()()()()()()()()()()に似過ぎていた。

 

「……やーっぱり、せやったか。舞の才を持っとるっちゅう事で五十鈴ちゃんをスカウトした時も、まさか八咫村の家の子やとは思わんかって驚いたけど……これも、因果なモンやなぁ」

「え……ちょっと、これどういう事ですか!? なんで九十九が、銃を持って戦って……それに、これじゃあまるで」

「まるで、自分の弟が妖怪みたいや。そう言いたいんやろ?」

 

 瀬戸の笑みを前に、グッと言葉に詰まる。

 普段は胡散臭い細目が、今は途方もなく威圧感に満ちているように錯覚してしまう。

 

「ま、これで裏ァ取れたっちゅう訳や。五十鈴ちゃん、仕事の時間やで」

「仕事……って、いつもみたいに、地鎮祭か何かで舞を奉納しろと? でも、なんでこのタイミングで……」

「ちゃうちゃう。舞の方は合っとるけどな、本来ボクが想定しとった仕事の方や」

 

 湯呑みをそっとデスクに置いて、サングラスをかけ直す。

 ギラリと光る鈍い反射光が、謎だらけの男を更にミステリアスで彩った。

 

「今回の行き先は金烏市。自分にはそこで、歪められた地脈を元通りにしてもらいたいねん」




※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係がありません。


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其の伍拾 八咫村邸の一幕

「もう少し……もう少し、肩の力を抜いてくださいまし」

「え、と……こう、かな?」

「ええ、その調子でしてよ。そのまま吸って……吐いて……血の巡りを強く意識するのですわ」

「お……おお、おっ!? なんか、こう……心なしか体がポカポカしてきたような……? 血行がよくなってきた他にも、なんだろう……冷たいような温かいような、本当に『流れ』としか言いようの無い“何か”が、血管とか神経の中を通ってるような……」

 

 とある休日の八咫村邸。

 居間にて、姫華は座布団の上で座禅のようなものを組み、目を閉じて何かを探るように瞑想していた。

 彼女の頭上にはお千代がチョコンと座っていて、時折、目下に助言を飛ばしている。

 

 瞼の裏で、少女が視ているモノ。それは、自らの体を流れる妖気の感覚だ。

 サラサラと淀みなく、それでいて砂漠に吹く風のように熱く、同時に極寒の大地を思わせる冷たさも孕んでいる。

 そんな矛盾した感覚が秒単位で切り替わる違和感に眉を顰めながらも、落ち着いて深呼吸を繰り返し、息を整えていく。

 

「そう。今、白衣様が感じたものこそが妖気ですわ。人は誰もが空気中の妖気を吸い、それを知らず知らずの内に体の中で循環させていますの。その流れに気付けるだけでも、十二分な才ですわね。ほとんどの場合、妖気を知覚すらできずに一生を終えますから」

「このカンジが、妖気……。今まで感じた事の無い心地だから違和感が強いけど……でも、不思議と不快じゃないや。えと、次はどうすればいいかな?」

「妖気の流れさえ分かれば、後は終わったも同然でさ。これまでの人生で一番深く、と言っていいほど深く息を吸ってくださいやし。空気に混ざる妖気を選り分けて、その全てを余すこと無く肺の中に溜め込む“いめえじ”でやす」

「うん、分かった」

 

 目の前にチョコンと座るイナリの指示に従って、お腹にグッと力を込める。

 少しずつ、少しずつ世界を取り込むように、口を窄めて深く小さく息を吸う。

 

 妖気の知覚によって、今の彼女は空気中に交じる妖気の存在も微かながら理解する事ができるようになった。

 呼吸するに伴って喉を通る空気の中から、妖気だけを取り分けて肺の中に留める。

 口で言う分には簡単だが、実践してみると難しい……事もなく、むしろもっと容易に実行できる事に、姫華は驚きを隠せない。

 

 吸って、吸って、吸って。溜め込んで、溜め込んで、溜め込んで。

 そうして熱を帯びていく肺は、ある1点を境に、押し留めた妖気を一気に全ての血管へと放出し──

 

 

──ドクン……!

 

 

「……っ!? なに……今の、熱……」

「妖気の循環が完全に定着し、言わば“第2の血流”と成ったのですわ。おめでとうございます、白衣様。これであなたも(まじな)い師の卵ですわよ♪」

「暫くは体の具合や五感に違和感があるでやしょうが、すぐに慣れやす。その内、凝り固まった瓶の蓋を開けるよりよっぽど容易く、内外の妖気に干渉する事ができやしょう」

 

 全身を駆け巡る熱と、確かな自覚を伴う体の変質。

 その異様さに戸惑う少女へと、お千代とイナリは労いの声を飛ばす。

 

 恐る恐る自分の胸に手を当ててみれば、心臓の鼓動がいつもと違うリズムを奏でているような気になってくる。

 それは、どこか人間らしからぬ……それでいて、ホッとする。何故かは分からないが、安心するような音色だった。

 

 これから善き存在になるにせよ、悪しき存在になるにせよ。弱くとも強くとも、どのような道を選ぶとしても。

 今この時を以て、白衣 姫華は『夜』の側に足を踏み入れた。

 

「おめでとう……って、言ってもいいのかな。これで姫華さんは、望む望まないに拘らず、半分くらいは人外みたいなものになった訳だし……」

「あはは、魔法使いを人外にカテゴライズする作品もあるもんね。……でも、私はこれでいい、これがいいんだ。全部、自分で選んだ事だから」

 

 心配そうに顔を覗き込んでくる九十九に対して、小さく笑いながらそう返す。

 一緒に強くなろう。そう約束した関係性ではあるが、やっぱり自分のような「人外」と同じ領域に来てしまう事を、素直には歓迎できないのだろう。

 そんな彼の心遣いと優しさが少しばかり嬉しくて、それでも首を横に振って否定する。

 

「確かに、3度も妖怪に殺されかけた恐怖は身に沁みてる。これがただのヒーローごっこじゃなくて、本気の殺し合いだって事も。全部、目の前で見たから。それでも私は、あの場所に立ちたい。九十九くんや……ジョロウグモちゃんと、同じ場所に」

「……うん。それが姫華さんのやりたい事なら、僕は手伝うよ。それに、姫華さんの事も絶対に死なせない」

「ふふっ。その言葉、忘れないでね? あなたの事、信頼してるんだから♪」

 

 共に笑い合う少年少女2人の微笑ましいやり取りに、イナリは「へへっ」と笑いながら尻尾の毛づくろいを始め、お千代も少女の頭上で「あらあら~、絵になりますわねぇ」と嘴を歪めている。

 とはいえ、いつまでもその調子では話が進まない。九十九の隣で姫華を見守っていた四十万が、気持ち大きめの咳払いで一同の注目を集めた。

 

「とはいえ、当面は戦力に数えられんじゃろう。(まじな)いについては、儂がある程度の知識を持っておる。みっちり教授する故、暫くはウチに通いなさい。妖気の掴み方、手繰り方、操り方であれば儂にも教えられるからな」

「はいっ、よろしくお願いします」

 

 祖父と、祖父に頭を下げるクラスメイトの姿を、いつもの眠たそうな目つきでぼんやりと眺める九十九。

 やがてその視線は、ちっちゃな前足をペロペロと舐めているバケギツネへと向けられた。

 

「……僕、そういうの爺ちゃんやイナリたちから教えてもらったっけ? 認識阻害の術くらいしか教わってないような……」

「そりゃあ、坊ちゃんは半分妖怪で御座いやすし。妖気の操り方とかその辺り全部、本能とか無意識でやってるでしょうや。事実、妖気の知覚方法をざっと教えただけで、あっという間に会得したでやしょう?」

 

 くぁ、と小さな欠伸が漏れる。

 尻尾を短冊か何かのように左右へ揺らめかせつつ、イナリは九十九の視線を見上げ返した。

 

「坊ちゃんは既に妖術使いという、(まじな)い師よりも更に上の位階に達してやすからね。妖気を手繰る段階の先、手繰った妖気を練り上げて、己だけの異能を成す業でさ。例えるなら嬢ちゃんが昭和の黒電話で、坊ちゃんやわてらは“すまあとふぉん”のようなものでやす」

「電話としての機能だけじゃなくて、アプリケーションやブラウザ機能まで自在に拡張できる……と。じゃあこないだ、姫華さんがジョロウグモの体からショウジョウの妖気を引き剥がしたのは?」

「黒電話の受話器でぶん殴ったようなもんでさ」

「思ってた数倍は力技だぁ……」

「あの時の私、そんな無茶苦茶な事やってたの!?」

 

 2人の少年少女が、ほぼ同時に驚愕や困惑を露わとする。

 確かにぶっつけ本番の極まった強引なやり方だったのは認識しているが、そんなにもゴリ押しかつ雑過ぎる手法であの場を切り抜けていたとは。

 

 あの時、姫華が決死の想いで成したのが「電話の受話器で相手を殴る」ようなものであれば、成る程。(まじな)いについてきちんと学ぶべきという言葉にも納得がいく。

 これから現れるだろう敵は、そのような乱暴なやり方を通用させてくれる筈も無いのだから。

 

「はぁー……それならより一層、真面目に学ばないといけないわね。ああいうやり方しかできないままで九十九くんたちの戦いに参入しても、あっさり死んじゃうかもしれないから」

「そうでやすねぇ……。よしんばガキツキや一般妖怪どもがそれでどうにかなったとしても、『現代堂』の幹部連中はそう甘くありやせん。奴ばらは皆、世がまだ江戸幕府の天下だった頃からの古強者どもでさ」

「……その事で、前からちょっと気になってたんだけどさ」

 

 ふと九十九が上げた声に、周囲の視線が集中した。

 注目を集めた当人はと言えば、大して身じろぎもせず、いつも通りのダウナーなペースのままで疑問を口にする。

 

「『現代堂』の幹部、って……具体的に、どんな奴らなの? 今更な話だけど……僕、奴らについてあんまり知らないんだよね」

「……そういえば、私も知っておくべき、よね。いつかは戦わなくちゃいけない相手な訳だし……80年前の決戦に参加していたって事は、イナリさんもお千代さんも、彼らについて色々と知っているのよね?」

 

 少年のふとした疑問に、姫華も同意を示す。

 八咫村の家に協力する事を決めた時、彼女も妖怪やこの家、そして『現代堂』についての一通りの知識は教えてもらっていた。

 それ故のクエスチョンに、イナリはふわふわの耳をアンテナのようにピンと伸ばす。

 

「あー……そういえば、そうでやしたね。基本は妖術についてなどを教えておりやしたから。もう少し早い目に教えておくべきでやしたか」

「では、丁度いい機会ですわね。わたくしたちが知る範囲での奴らについて、少しばかり語ると致しましょうか」

 

 ひらひらと翼を振りつつ、お千代が姫華の頭上からそう提案する。

 ……在りし日の光景を思い起こし、ほんの少しだけ目を細めながら。




今日はこの後【20:00】より追加投稿を行います。


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其の伍拾壱 (あざな)持ち

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


「とは言っても、そう難しい組織図ではありませんことよ。結局のところ、『現代堂』は首魁の山ン本が“魔王の2代目”を名乗り、それに相応しい力を持っているから従っているだけ。妖怪とは『個』の存在であり、本質的には群れる種族ではありませんから」

 

 まず始めに、お千代はそのように切り出した。

 いつの間にやら姫華の頭から飛び立っていた彼女は、ちゃぶ台の上に置かれていたおかきを漁っている。

 ちっちゃなスズメの嘴が、器用かつ力強い所作でおかきをバリボリと噛み砕いた。

 

「一般妖怪どもが山ン本に従っている理由は2つ。1つは、山ン本がかの“魔王”山ン本 五郎左衛門の名を継ぐ“妖怪の総大将”だから。もう1つは、その名と座を奪う機会を虎視眈々と狙っているからですわ」

「殺伐としてるんだね……」

「人間を害する側の妖怪なんてそんなもんでしてよ。まぁ、それで楽々と名を奪えるほど、あの煙草()みは甘くはありませんけどね。今回の『げえむ』とやらも大方、奴が餌をぶら下げて妖怪たちを扇動しているのでしょう」

「ですが、『現代堂』の幹部連中……“(あざな)持ち”どもは話が別でさ」

 

 重々しい声色で呟いたイナリに、疑問を口にしたのは姫華だ。

 人差し指を頬に添えて、「確か……」と何かを思い出すような仕草を作る。

 

(あざな)……っていうと、イナリさんとかお千代さんみたいな個人名の事……よね。逆に、ネコマタやショウジョウ、ジョロウグモちゃんみたいなのは種族としての名前?」

「へぇ。そもそも妖怪は、個体としての名に頓着しないんでさ。そいつの本質も、能力も、恐怖も、存在も、妖怪としての名……(めい)が全て保証しやす。その代わり、自分で名付けた自分だけの名……即ち(あざな)は、どれだけ名乗っても存在自体が定着しやせん」

「じゃあ……イナリたちの(あざな)って、何? それに、『現代堂』の山ン本だって……」

「わたくしやそこなキツネの場合は、人から()()()()()()()()事で名前として成立しましたの。と言っても、ただ名付けられたというだけの話でもありませんけどね」

 

 チラリと、黒スズメのつぶらな瞳が、ちっちゃなキツネへと飛ぶ。

 脳裏に同じ人物を──80年前までの主君を思い返したのだろう。鼻をツンと鳴らすイナリを見て、お千代は言葉を続ける。

 

「元より妖怪とは、人の感情を反映する存在。第三者が存在を定義する事で、その在り方は変質致しますわ。名付けもまた、ひとつの(まじな)いでしてよ」

「『現代堂』の幹部連中も、仕組みとしては似たようなものでやす。ただ『そういう妖怪だから』では説明できない力、そして恐怖。それを表現する為に、(めい)だけでは足りないんでさ。奴ばらにとっての(あざな)とは即ち、実力者の証と言って差し支えありやせん」

「……つまり、それくらい強い妖怪なんだ。あの山ン本って……」

「敗走から80年経ってなお返り忠(くうでたあ)のひとつも起きず、首魁のまんま居座っているのがその証左で御座いやすね」

 

 ひょこひょことちっちゃな足で歩き回り、ちゃぶ台の上まで飛び上がる。

 そのまま同僚の横でお煎餅を咥え、音を立てて噛み砕き始めたイナリを見て、九十九たちも自然とちゃぶ台を囲み出す。

 

「わてらが知ってる範囲で『現代堂』について教えやしょう。まずは大将。(あざな)山ン本(ヤマンモト)(めい)は妖怪キセル・ヌラリヒョン。80年の昔、かつて敗れた“魔王派”の残党どもを纏め上げ、妖怪集団『現代堂』を結成したスットコドッコイでさ」

「うん。僕や姫華さんの前にも現れたあいつ……だよね。キセル・ヌラリヒョン……って事は、煙管(キセル)の九十九神? あいつがいつも持ってる、煙草を吸う為の道具(パイプ)の事だっけ」

「それに滑瓢(ヌラリヒョン)……確か、妖怪を率いるリーダー格の妖怪、みたいな話を聞いた事があるわ。敵のボスとして申し分ない存在……という訳ね」

「正直なところ、奴については未だ底が知れやせん。分かっている事と言えば、われらなんか比較にならないほどの妖術使いって事くらいでさ。あの妖気を帯びた煙は変幻自在。振り払う術も、打ち破る術もありやせん」

 

 九十九や姫華の脳裏に思い出されたのは、あの夕暮れの路地裏。

 室外機に腰掛けて煙草を()み、ヌラリと薄っぺらい嘲笑を以てこちらを見下してきた、枯れ木風の男の姿だ。

 あの煙管(キセル)から湧き出す煙によって、こちらは一方的に翻弄されていたように思う。

 

 加えて彼は、妖術を用いて刀を九十九神に変成させた事もあった。

 それが九十九の妖怪への変化(ヘンゲ)を促し、八咫村家と『現代堂』の因縁へと導いたのだ。

 

「それで……他の幹部については?」

「へぇ。とはいえ、80年前の決戦であっちもだいぶ死にやしたからねぇ……。わてら“八咫派”や、先代……当時のご当主様に共感した妖怪たちの活躍で、幹部の大半は討ち取ったかと思いやす。……その辺どうでやしたっけ、スズメ」

「そうですわねぇ。オウギ・ユキオンナの残ン雪(ザンセツ)は死んだでしょう? それにイシユミ・イツマデの隠ン岐(オンキ)も倒して、マサカリ・ドロタボウの玄ン湖(ゲンコ)も討ち取ってとなると……わたくしたちが討滅を確認していないのは、残り2体と1体になりますわね」

「2体と……1体? どうしてそこで分けるの?」

「お恥ずかしながら、わてらでさえ把握できていない幹部がいるようなんでさ。順を追って説明しやす」

 

 気が付いた時には、ちゃぶ台の上でお菓子をつつくイナリとお千代を、九十九と姫華が囲んで話を聞く構図が出来上がっていた。

 それを認めた四十万はそっと静かに席を立ち、彼らの為にお茶を淹れようと動き出す(無論、イナリではなく普通の急須を使って、だ)。

 

「わてらの知る内、まだ生き残っているであろう幹部は2体。その内の片方は、信ン太(シノンダ)という女怪でさ。(めい)は妖怪シャミセン・キュウビ。その名の通り、常に三味線を持ち歩く九尾のキツネでやした」

「九尾のキツネっていうと、創作でもたくさん見かけるわ。玉藻前(タマモノマエ)とか妲己(ダッキ)とか、そういう類いよね」

「初手から物凄いビッグネームだけど……キツネの妖怪かぁ。イナリの種族とは、また違うんだよね?」

「ケッ。わてはただのバケギツネ。格の話なら、(やっこ)さんの足元にも及びやせん。向こうを“めりけん”の“めじゃありいがあ”とするなら、わてはせいぜい中学校の野球部でさ」

 

 割りと気にしていたらしい。

 少し不貞腐れた様子で耳を震わせつつ、解説は続く。

 

「……話を戻しやすか。九尾の名を冠するだけあって、信ン太の妖術はわてらを越えていやす。奴の妖術が一体どんなものなのか……その全貌は、あの決戦に参じたわてらでさえ分かっていやせん」

()()()()のですわ、信ン太が使ってくる妖術の種類は。天候を操り、炎を撒き散らし、あまつさえ敵を石像に変える事もできる。一体、どのような(ことわり)に則ればあのような事ができるのか……。あまり前線に出て来ないのが救いでしたわね」

「ま、ある意味当然でやすけどね。山ン本や信ン太に刃を届かせようとしたら、それより前に()にぶち当たって命を散らすだけでさ。結局、わてらの総進撃は奴に阻まれやした。口惜しい限りでやすよ、本当に」

「……()? それが、詳細の分かってるもう1人の幹部?」

 

 その問いかけに対して、2匹の召使いたちは一様に頷く事で返答とした。

 

「……神ン野(シンノ)。80年前……いや、かつての江戸時代より『最強』と名高い、筋金入りの武闘派で御座いやす」

「最強……それに、武闘派。そんな妖怪まで、『現代堂』に参加してるんだ……」

「えっと……その神ン野っていう奴は、どんな妖怪なの? 武闘派って言うくらいだし、そんなにマイナーな妖怪じゃない、のよね?」

「それが……申し訳ありやせんが、()()()()()んでさ」

「分からない……って、え?」

 

 くりくりと丸まる、少年少女2人分の瞳。

 彼らがそういう反応を見せるのもしょうがないなと思いながら、イナリ自身も溜め息混じりに困った風な声色を発した。

 

「まー、あの鎧野郎は良くも悪くも無骨者でやしてね。まったくと言っていいほど名乗らなかったんでさ。名のある妖怪との戦いでは名乗る事もありやしたが、そういった場合に用いるのは(あざな)ばかり。結局、奴の(めい)は分からず仕舞いでやした」

「ですが、奴の出で立ちは嫌でも記憶に残りますわ。大男が着込むような甲冑に、素肌を徹底的に隠す篭手と面頬、そして兜を飾り立てる『神』一文字。恐らくは鎧か何かの九十九神でしょうけれど、その正体を探ろうとした者は、例外なく薙刀の錆となりましたの」

 

 おかきを貪る手を止め、ペタンと座り込むお千代。

 彼女がそのように語るほどの敵、という事なのだろう。

 

「……そんなに強い相手、だったんだ」

「ええ。……ええ、そうですわ。信ン太と神ン野を乗り越え、山ン本の首を撥ねる事の叶った妖怪は、終ぞいませんでした。……先代のご当主、わたくしがお姉様と呼び慕うお方ですら」

「『現代堂』の連中の話じゃ、他にも呑ン舟(ドンシュウ)とかいう(あざな)を持つ幹部がいるようでやすが……そいつは、最後まで戦場には現れやせんでした。なので今もいるかどうかは分かりやせんが、もし生きているなら、今の『現代堂』には幹部が3体いる事になりやすね」

「信ン太、神ン野、呑ン舟……そして、総大将の山ン本、か」

 

 反芻するように、これまで挙げられた妖怪たちの名を紡ぐ。

 そんな九十九の姿に、キツネの妖怪は目を細めてちゃぶ台の上に丸まった。ちっちゃな黒スズメの体も、その傍にそっと寄り添うように。

 

「口惜しい。いえ、口惜しいという言葉ですら不足でしょうや、わてらの屈辱を語り切るには。80年前のあの日、確かにわてらは日本の落日を阻止する事ができやした。……ですがそれは、わてらの勝利を意味してはいないんでさ」

 

 遥か昔に繰り広げられた一大決戦の惨状が、召使い妖怪たちの瞼の裏に思い描かれる。

 

 津波のように襲い来るガキツキの軍勢。人が巻き込まれる事など意にも介さない非道な妖怪たち。

 かつて倒した幹部──残ン雪が吹雪を巻き起こし、隠ン岐が矢の雨を降らし、玄ン湖の振るう(まさかり)が一切合切を薙ぎ払う。

 

 彼らを討ち果たして敵陣へと進んでなお、立ちはだかる幹部たち。

 信ン太の変幻自在な妖術の前に滅ぼされた妖怪は数多く、神ン野に戦いを挑んであえなく叩き潰された妖怪もまた多い。

 そうでなくても、山ン本の生み出す煙に呑み込まれて消えた者たちは、一体どれほどになるだろうか。

 

 結局、自分たちでは山ン本を討滅し、『現代堂』を滅ぼす事ができなかった。

 それどころか、自分たちの仕える主──かつての八咫村家当主すら、その命を落としたのだ。

 そこまで多くの犠牲を出して得られた結果は、痛み分けと、()()()80年の平和。

 

 その悔しさは、九十九と姫華には十全に理解する事などできないだろう。

 

「……すまんなぁ。儂らの代の因果を、お主らに押し付けてしもうて。全ては、儂らの無能が生んだもの。じゃが、年老いた儂にはもう、奴らと渡り合う事すらできぬのじゃ」

 

 人数分の湯呑みが、そっと並べられる。

 熱々の緑茶を注いで帰ってきた四十万は、悲しそうな声色でそう言葉を落とした。

 

 彼もまた、己の病弱さが故に決戦に参じ得なかった者。

 その無力感は、計り知れないものだ。

 

 九十九は、姫華を見た。

 湯呑みを手にとってお茶を口に含んだ彼女は、目を閉じて何かを考えているようだった。

 敵の強大さに恐怖しながらも、それだけで終わろうとしない感情を、彼女から感じ取って。

 

「……因果を、僕らの代で終わらせられるかどうか……か」

 

 そう、小さく呟いた。




どうも、敵幹部の名前をリストアップするのが性癖の作者です。


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其の伍拾弐 (くら)い太陽

 東京近郊、某県、金烏(キンウ)市。

 九十九たちの暮らすこの街は今、ある話題で持ち切りだった。

 

 それは、数日前に街全体で起きた、正体不明の怪物たちによる殺戮劇。

 妖怪と名乗る者どもは人々を無差別に襲い──そして、その危機から人々を救ったのもまた、己を妖怪と名乗る謎の少年だった。

 

 そうして全てが解決してみれば、奇妙な事にどのメディアもこの事件を報じない。

 それどころか、政府は今回の一件を「大規模なガス爆発事故」と発表したではないか。

 

 政府による隠蔽。情報操作。陰謀論。某国の侵略工作。はたまた宇宙人の仕業か。

 そんな憶測が街中を、ネット中を連日駆け巡り、金烏市を取り巻く情勢は良くも悪くも盛り上がりを見せていた。

 

 ……だが、彼らは知らない。

 金烏市のとある路地裏に、オンボロ小屋も同然の店がひっそりと建っている事に。

 

 その場所は、つい昨日までは何も建っていない、ただの空き地だった。

 けれども今は、そこに1軒の店がでんと居を構えている。そしてその事実を知る者は、この街には誰もいない。

 

 立て掛けられた看板に墨で描かれた、その店の名を──古美術商『現代堂』。

 

 

 

 

「……ヒヒヒヒヒッ。さァて、そろそろ準備も整った頃だねェ」

 

 むわり。

 むせ返るほどに甘ったるく、同時にツンと鼻を刺す草の青臭さ。

 不愉快極まりない匂いの溶け込んだ煙草の煙が、夕焼けの昏いオレンジ色を吸い込んだ店内に行き渡る。

 

 誰も知らない古美術商『現代堂』の店内に満ちるモノは、大きく分けて3つ。

 カウンターに腰掛ける男が()む煙草の煙。棚や床に乱雑に積み重ねられた骨董品の数々。

 そして、狭くも広い奇妙な空間を圧迫するほどに集まった大勢の異形たち──妖怪の集団だ。

 

 そんな妖怪たちからの視線を一手に集める存在。店の奥に置かれた木製のカウンターの上で、長い長い煙管(キセル)を携えた和装の男。

 妖怪集団『現代堂』を統べる山ン本は、妖怪どもを一瞥してヌラリと口を開いた。

 

「ここらでいっちょ、第3回目の『げえむ』を始めようじゃァないか。今回も、あたしたちを楽しませておくれよォ?」

 

 首魁の宣言を受けて、店内に屯する妖怪たちは一斉に沸き立った。

 己こそが『げえむ』を制覇するのだと意気込む者。次の“魔王”を名乗るのは自分だと吠える者。自らが挑む『るうる』の算段をつけ始める者。

 

 それら悪しき企みの数々を俯瞰して、恐るべきキセル・ヌラリヒョンは嘲笑うように煙管(キセル)を口にする。

 彼の傍では、巨大な甲冑に身を隠した大妖怪──神ン野が、深く重い溜め息を面頬の奥から吐き出していた。

 

「チョウチンも、フデも、いーい具合に場を温めてくれたからねェ。3回目になる今回は、ひとつドカンと大きな事を起こそうじゃァないか」

「……その『大きな事』が必ずしも、人間の恐怖を煽り立てる事に繋がるとは限らんがな。派手さに気を取られ、『げえむくりあ』を疎かにする愚か者はいないと思いたいところだ」

「神ン野は真面目だねェ。“ゆうもあ”は必要だよォ? ただ効率を重視するばかりの『げえむ』なんてつまらないじゃないかァ。“おりじなりてぃ”を加えるからこそ、『げえむ』はより面白くなるってものさァ。ヒヒヒヒッ」

「あー、あの~……その事で疑問があるんですけどぉ」

 

 と、そこで。

 群れをなす妖怪どもの中から、1体の異形が恐る恐るといった風に顔を出してきた。

 興奮の坩堝にあった店内は不意に静まり、その異形へと注目が飛び交う。

 

「ヒヒッ。どうしたんだい? 何か聞きたい事があるなら、気軽に言ってみなよォ」

「へ、へい。我らが大将の謳う『げえむ』なんですけどぉ……具体的に、何をどうやったら『げえむくりあ』なんですか?」

「それは予め、山ン本が宣言していただろう。人間どもを殺戮し、破壊し、蹂躙し、恐怖を煽り立てる。それによって人間の世界に『夜』をもたらし、文明を破綻させる。そうして妖怪の世界を打ち立てた者に、次なる“山ン本 五郎左衛門”の名を与えるのだ」

「いやぁ、神ン野の旦那ぁ。それについては事前に聞いてますけどね? じゃあ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()んですか?」

「……先ほどから聞いていれば」

 

──ベベンッ!

 

 苛立ちを吐き出すように、乱暴な撥使いで鳴り響く三味線の音色。

 途端に張り詰め出した空気が、力無い妖怪たちの肌を切り刻まんとばかりに刺激する。

 

 それを成した者へと意識が向くのは自明の理であり、幾多の眼差しを一身に受けた者の正体こそは、煤けたガラス窓にもたれて座る1人の女怪だ。

 キツネの尾を9つ持ち、三味線を胸に抱える金色の瞳──『現代堂』が幹部、妖怪シャミセン・キュウビの信ン太である。

 彼女の縦に裂けた瞳孔は、質問者気取りの異形をこれでもかと睨みつけている。

 

「山ン本や神ン野、そして『げえむ』の運営を担うウチの裁定に、何か不満があるのですか? 賢しらっぽく『物言い』をして、そんなに人間どもを甚振るのが面倒なのであれば、『げえむ』への参加意欲無し──即ち、我ら『現代堂』への造反と見做しても?」

【おいおい姐さァん。今挙がった名前に、オイラの名前が無かったんだけど? オイラもこの『現代堂』の幹部じゃねぇのかよぉ】

「お黙り、呑ン舟」

 

 虚空から響き渡り、ミシミシと木棚を軋ませる呑ン舟のどら声を、信ン太が一蹴する。

 彼女はそのまま、9つの尻尾をざわつかせながら異形へと向き直った。彼が不躾な事を物申せば、いつでも()()()()できるように。

 

「此度の『げえむ』を開催したのは山ン本ですが、運営・裁定を任されているのはこのウチです。『げえむますたあ』であるウチに『物言い』したいのであれば、もっとハッキリ言ってごらんなさい。さぁ、どうぞ? ウチの『げえむ』に参加したくないのでしょう?」

「とっ、とんでもない! 信ン太の姐御ぉ、俺はただ、『げえむくりあ』と認められる為の条件を知りたいだけですぜ! そりゃあ俺だって、人間どもを殺したくてウズウズしてますが……これが『げえむ』だってんなら、闇雲にやったって面白くないでしょう!?」

「ヒヒヒヒヒッ……あまり責めてやるなよォ、信ン太。これは、その辺りの説明を欠いたあたしたちに非があるのさァ。そうだねェ……折角の機会だ、ちゃァんと説明してやろうじゃないか」

 

 ケラケラと嘲笑うような声を上げる山ン本に、九尾のキツネは呆れた風の溜め息を吐き捨てた。

 乱雑な手つきで三味線を奏でる彼女をより一層嘲りながら、異常な長さの煙管(キセル)を持つ総大将は、質問者を──その場の妖怪たちを一瞥する。

 

「……“(くら)い太陽”。それを空に昇らせる事ができたら、あたしたちの勝ち。即ち、『げえむくりあ』って訳よォ」

「“昏い太陽”……ですか? 聞いた事の無い名前ですが……」

「おい、知ってるか?」

「さぁ……私も知らないわ」

 

 ざわざわと、やおらに騒がしくなる妖怪たち。

 当然ながら幹部妖怪たちは動じていないし、一部の妖怪の中にはアタリがついている者もいるようだ。

 一方で大多数の者たちは困惑を隠せずにいるらしく、そんな当惑をカウンターの上から眺め、煙管(キセル)をぱくりと咥える。

 

「おやァ、おや。随分と不勉強な奴が増えてきたものだねェ。“昏い太陽”ってのはね、()()()()()()の事さァ。あたしたちはそれを、“空亡(ソラナキ)”という別の名でも呼んでいる」

「……そんな事があり得るんで? 普通、太陽は昼に昇るもの。だから俺たち妖怪は、太陽の光を厭って夜の世界に生きてるんでしょう」

「だから、そういうところが不勉強なのさァ。夜空に君臨する太陽は、光を放たない。“昏い太陽”は、闇を以て地上を照らすのさァ。それは人間の心を蝕み、逆にあたしたち妖怪にとって心地の良い世界。そして、()()()()()()()()()()()()()()()()

「……つまり、“昏い太陽”がこの世に顕現すれば、昼の側から“光の太陽”は失われる。これを以て人間と妖怪の立場は逆転し、昏い『夜』の世界が、光を失った『昼』の側を駆逐する。それこそが、『げえむ』の最終目的だ」

「ヒヒッ、神ン野が言った通りだねェ。“昏い太陽”とは即ち、人間にとっての『恐怖』の具現化。人間どもがあたしたち妖怪に恐怖すればするほど、太陽は昏く塗り潰されていく。その為の手段として、あたしたちは『げえむ』を立ち上げたのさァ」

 

 自分たちを統べる首魁の言葉に、妖怪どもは「おおっ!」と盛り上がりを見せる。

 なんとも単純な奴らだ。自らが副官を務める煙草()みの隣で、神ン野は面頬の奥に呆れを溜め込んだ。

 それは信ン太も同様であるらしく、頭頂のキツネ耳をぺたりと折り曲げ、肩を竦めてすらいる。

 

 彼女が軽く弦を弾けば、その音を聞いた一同は再び九尾の女怪へと意識を動かした。

 

「……加えて、この街……金烏市で『げえむ』をする事自体にも意味があります。なにせこの街は、日本で最も地脈の流れが色濃い要の土地ですから」

「……? そりゃ一体、どういう事ですか?」

「はぁ……無知蒙昧もここまで来れば天晴ですね。我ら妖怪は妖気より生まれ、そして妖気は地脈より湧き出る。であれば、地脈に直接干渉する事ができれば、その影響は流れを通してこの国全体に行き渡るでしょう?」

「ヒヒヒヒ。妖怪を、妖気を揺り動かすのは人の感情さァ。人の想いが、情動が、心が妖気を変質させる。だから、地脈の流れが濃いこの土地の妖気を『恐怖』に塗り替えれば、そりゃもう効率的に“昏い太陽”を招く事ができるのよォ」

 

 煙管(キセル)を振るって解説に勤しむその仕草は、まるで教鞭を執る教師のよう。

 もわもわと店内を飛び回る甘ったるい煙が、()み手の意思によって自在に変化し、川の流れのような図式を空中に描いていく。

 それを眺めながらも、神ン野は重々しく口を開いた。

 

「……80年前、我らの侵略は失敗に終わった。当時の我らは、妖怪の軍団による闇夜の進撃──“百鬼夜行”を以て、日本全土に恐怖をもたらそうとした。だが、如何に妖怪と言えど、日本全土を攻め滅ぼすにはあらゆる“りそおす”が足りなかったのだ」

「妖怪とは、本質的には群れる事なく、いち個体にて成立する存在。山ン本がどれほど“かりすま”を持っていたとして、百鬼夜行を維持するには限界がありました。そしてウチたち幹部がどれだけ生き残ろうとも、雑兵が死んだ時点でウチたちの負けでした」

「──けれど、『げえむ』は違う」

 

 山ン本の呟きに、2人の幹部たちは一様に頷いた。

 

「お前さんらも、妖怪なら“百物語”は知ってるだろう? 妖怪に群れさせるのが難しいなら、1体ずつの侵略に切り替えればいいのさァ。終わらない怪談、終わらない恐怖、終わらない物語。永遠に続く暗黒の寝物語が、やがて金烏(キンウ)玉兎(ギョクト)を食い千切るのよォ」

「そして“百物語”とは本来、妖怪を呼び寄せる為の儀式とされている。つまり、我らが行う『げえむ』は一種の儀式であり──それをこの街で集中して執り行う事は、言わば将を直接射殺すに等しい行いなのだ」

【日本全土を攻めたって、地脈の薄いところで暴れても大して利にはならねぇからな! その点、この街だけ攻めてりゃ“昏い太陽”があっという間に天へと昇る。こっちの方が効率的ってワケだ! ギャハハハハ!】

 

 ゲラゲラと呑ン舟の呵々大笑が轟いたところで、(あざな)を持たない妖怪どもは再度の高揚を口に出した。

 彼ら妖怪は学を持たない。そんなものは必要無いからだ。そんな彼らでも、この『げえむ』の大義を理解する事ができた。

 

 つまるところ──この街で思うがままに暴れ、思うがままに人間を殺し、恐怖を撒き散らせばいい。

 そうすれば、その内に世界は『夜』に染まり、自分は妖怪の頂点たる“魔王”の名を冠する事ができる。

 それさえ分かれば十分であり、彼らは真実それだけを求めているのだから。

 

「ま、『げえむくりあ』の為には、例の小坊主──妖怪リトル・ヤタガラスって名乗る事にしたらしいけどねェ。ともかく、あの生意気な八咫村の小倅を無視する事はできないだろうけどさァ」

【あー、なんだっけ? ……そうだそうだ、確か八咫村の老いぼれ当主の孫ガキだったな! 先祖返りだかなんだか知らねぇが、チョウチンもフデも、山ン本の大将が生んだカタナって奴も全員そいつに殺されちまったみてぇだな!】

「ヒヒヒヒッ。テイのいい『敵きゃら』って訳だよォ。障害の1つや2つもあった方が、『げえむ』も盛り上がるだろう? あいつさえ満足に排除できないようじゃ、『げえむくりあ』は夢のまた夢って話さァ」

「それで『ぷれいやあ』が悪戯に死んでいくのであれば、ウチたちにとっては気分がいいものではありませんが……まぁ、どうせ山ン本の決定には誰も逆らえません。首魁が享楽狂いだと、こういう時に困り果ててしまいますね」

 

 処置なし。そう言わんばかりに首を振り、三味線を弾く動作に戻る信ン太。

 彼女たちのやり取りを聞いた一般妖怪どもは、ざわめきつつも隣り合った者と言葉を交わし、それが意味するところを理解した。

 

 妖怪ニンゲン・ヤタガラス。またの名を、妖怪リトル・ヤタガラス。

 80年前の大戦で『現代堂』と刺し違えた妖怪一派“八咫派”の当主一族に生まれた、半人半妖の少年。

 意図せず妖怪の力に覚醒(めざ)めた彼は、山ン本の生み出した妖怪カタナ・キリサキジャックを打倒し、『げえむ』の『ぷれいやあ』である妖怪チョウチン・ネコマタと妖怪フデ・ショウジョウも撃破したのだ。

 

 総大将の山ン本は、これを事実上の黙認。

 むしろ『げえむ』の障害、『ぷれいやあ』が乗り越えるべき『敵きゃら』として扱う事とした。

 これが示す事実とは、つまり──

 

「そのリトルとかいう妖怪を殺した奴が、次代の“魔王”確実って事かよ!?」

「へへへっ、こいつぁ盛り上がってきたぜ……つまり、俺たちが挑戦する『げえむ』の『るうる』を、リトル・ヤタガラスをぶっ殺す事に設定すりゃあいい訳だろ?」

「いや、もっといい方法があるぜ! そいつの家族とか親しい奴を殺せるような『るうる』を作るんだ! そうすりゃ、『敵きゃら』は自分から殺されに──」

【──ギャハハハハハハッ! なんとも()()()()算段だなァ、オイ! 今喋ってた連中、オメェらの『げえむくりあ』はまず無理だな!】

 

 どこからか聞こえてくる、それでいてその場にいる者たちの誰もが声の発生源を理解している、そんな濁ったわめき声。

 呑ン舟のハツラツとした嘲笑に臓物を揺るがされて、妖怪どもは不快感を表に出した。

 

「おいおい、呑ン舟よぉ……どういう意味だよ、そりゃ」

【分っかんねぇ奴らだなァ。だってよぉ、リトル・ヤタガラスとかいう妖怪はあくまで、『げえむ』を()()()()()()()()()()()()()()()? そいつを倒したからって、人間どもの恐怖で地脈を染め上げなきゃ意味ねぇだろうよ】

「だから、その為にそいつを殺せるような『るうる』を──」

【で、その『るうる』とやらは、一発で“昏い太陽”を呼べるくらいの恐怖を集められるのかよ?】

 

 その言葉の意味を、彼らは理解し難かった。

 だがそこで、ドスンという鈍く重い音が響く。その音の方に目を向けてみれば、神ン野が手に持つ薙刀の石突で床を叩いていた。

 注目を集めた彼は、雑兵どもを見渡して重々しく言葉を紡ぐ。

 

「自ら決めた『るうる』は、変更してはならない。その鉄則は、開催時にも告げた筈だ。仮に『リトル・ヤタガラスを殺す』という『るうる』を定めたならば、その『るうる』に則った『げえむ』で“昏い太陽”を呼べなければ、決して『げえむくりあ』とは認められない」

「た、確かに言われた覚えはありますが、しかし何故……」

「……どうやら、まだ理解できていないようだな。()()()()()()()()()()()()()のだ。法則性の無い怪異は、質のいい恐怖を生み出せない。そして、『げえむ』における一貫した法則性──“物語(すとおりい)”こそが、『るうる』なのだ」

「『リトル・ヤタガラスを殺す』という粗筋(るうる)の終わりは、リトル・ヤタガラスの死以外にあり得ません。そして、リトル・ヤタガラスを殺す事に成功した以上、その怪談(げえむ)はそこでおしまいなのです」

 

 弦を弾く音と共に、キツネの女怪が補足を加える。

 彼ら彼女ら──即ち『現代堂』の幹部たちは、『るうる』が定められた意義をよく理解している。

 それはつまり、ヤタガラスなる邪魔者を優先して殺す旨味が無い理由も理解している、という事だ。

 

「『敵きゃら』を殺す。『敵きゃら』の身内を殺す。大いに結構。ですがその程度の『るうる』では、結局のところ彼ら()()殺せません。恐怖を生み出す為に求められるのは、当事者性なのですから」

【要はよぉ、『自分も巻き込まれるかもしれない』って意識が恐怖を生み出すんだな。例えば八咫村の当主を殺す為に、『ジジイババアを狙って殺す』って『るうる』を定めてみろ。その通りに『げえむ』を進めたとしても、若い連中はピンッピンしてるだろうが】

「それならいっそ、『金烏市の住民を手当たり次第に殺す』という『るうる』を設定した方が、八咫村の関係者を纏めて殺しつつ恐怖を煽れますね。……この馬鹿でも分かっているような事を、どうしてあなたたちは……」

 

 何度目になるかも分からない溜め息が、己の九尾をゆらゆらと震わせた。

 この呑ン舟なる声の主は、普段から間抜けで喧しい笑い声ばかりを轟かせている癖に、こういうところでは核心をしっかり理解して語るからタチが悪い。

 

 そう内心で毒を吐きつつ、信ン太の指先は撥を強く握り締めた。

 どれほど妖怪の膂力で握ったとして、妖力から生成した撥にはヒビ1つ入らない。

 

「お分かりになられましたか? ならば、次からは『“特定の誰かを狙い撃ちにする”るうる』ではなく、『“より多く、より効率的に恐怖を掻き立てられる”るうる』を考える事です」

「へ、へい……よく分かりました……」

「ヒヒヒヒヒッ。信ン太たちのお説教はよく効くだろう? 『げえむ』の根本を勘違いしたまま『るうる』を作って、『げえむくりあ』できずに『ぺなるてぃ』を食らう奴の醜態も見てみたかったんだけどねェ……その点は残念だよォ」

「それを防止する為にわざわざ解説して差し上げたんですけど?」

 

 大方予想通りの胡乱な事をのたまった総大将に対して、縦に裂けた金の瞳孔が()めつけられる。

 尤も、睨まれた相手は虚ろに嗤いながら煙管(キセル)を咥えるばかりなので、ポーズにしかならないのだが。

 

「さっ、て。信ン太たちが分かりやすく教えてくれたおかげで、『げえむ』についての理解度も深まっただろう? じゃァそろそろ、次の『ぷれいやあ』を決めようかァ」

 

 ヌラリ。

 

 この世に存在する如何なる概念も介在しない、完全な暗黒にして虚無。

 或いは、この世の総てを嘲笑っているかのような、ヘドロよりも深くて濃い悪意。

 

 見る者によって無限の解釈が生じるだろう、山ン本の虚ろな眼差しが放たれた。

 その粘ついた瞳は一般妖怪どもを、幹部たちを、そして棚に並べられた骨董品の数々を舐めるように凝視する。

 

「次は、誰が行くんだい? 今度の『げえむ』はどんな惨劇を見せてくれるのか、今から愉しみで仕方がないからねェ……ヒヒッ、ヒヒヒヒヒッ!」

 

 そこまで言い切ってから、長く禍々しい煙管(キセル)から煙を吸い上げ──

 

「ゲヒャヒャッ! そんなら、次こそはオレサマの出番だなァ!?」

 

 名乗りが、上げられた。




・敵勢力が暴れる理由
・敵勢力が戦力を逐次投入する理由
・主人公たちの街でしか暴れない理由
・主人公たちの身内を狙わない理由

大体説明できたな、ヨシ!


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其の伍拾参 動き出す者たち

「……おやァ?」

 

 ヌラリとした視線が宙を滑り、たった今名乗りを上げた者へと虚無的な意識を向ける。

 総大将が放った伽藍堂の眼光を受けてもなお、今まさに妖怪どもの群れを掻き分けて現れた者は、ピクリとも竦む事は無い。

 牙の奥から高熱の吐息を漏れ出させながら、その妖怪はもう1度、おぞましく笑った。

 

「前回はフデの奴に先を越されちまったからなァ。あいつとは違うところを、このオレサマが見せてやろうじゃねぇか! ゲヒャヒャヒャヒャ!」

 

 それは、まさしく異形以外の何物でもなかった。

 

 これまでに『げえむ』に参画した妖怪は3体。カタナ・キリサキジャック、チョウチン・ネコマタ、フデ・ショウジョウ。

 キリサキジャックはれっきとした人型であり、ネコマタも巨躯でこそあったが猫の形を保っていたし、ショウジョウの姿はサルの枠を逸脱していなかった。

 

 だが、山ン本たちの前に現れた()()は違う。

 それを一言で形容するならば、巨大な生首だった。首から下の一切を持たず、それでいて人間の胴体ほどの大きさを持つ、男の頭部。

 

 ふわふわと宙を浮遊するそれの頭頂部、本来ならば頭髪があるべき場所には、ぽっかりと穴が開いている。

 落ち武者のように垂れ下がった髪で周囲を装飾された穴の中からは、パチパチと火を放つ炭が見え隠れしていた。

 

 野蛮な笑い声を放ち、残虐さを隠そうともしないその妖怪が何者であるかを、当然山ン本は知っている。

 

「ヒヒヒッ……誰かと思えばヒバチかい。そうだねェ、お前さんならド派手な祭りを見せてくれそうだ」

「当ったり前だろ! オレサマの妖術なら、今すぐにでもこの街を阿鼻叫喚の地獄絵図に変える事ができらァ! 次の『げえむ』は、この妖怪ヒバチ・ヒトウバンに任せな!」

 

 妖怪ヒバチ・ヒトウバン。今なお炭の燃え盛る火鉢を核として生を得た、首無しの九十九神。

 彼が哄笑(こうしょう)する度、頭の中の炭がパチリと弾け、つんと焦げ臭い火の粉が跳ね踊る。

 パチンという音と共に弾け飛んだ火花が床に落ち、しかし延焼などを起こす事なくあっさり掻き消えた。

 

【オイオイ、ヒバチよォ。燃え移りはしねぇからって、あんまり火の粉を飛ばすんじゃねェよ。妖気の炎は簡単に消えねぇし、あっついんだぜ?】

「ゲヒャヒャヒャ! そいつァ悪かったな、呑ン舟! だが、それで分かるだろう? オレサマの妖術は炎を生み出し、操るもの。そう! あのリトル・ヤタガラスとかいう生意気な小坊主と同じ術さ!」

 

 ざわり。(とみ)に騒がしくなる妖怪ども。

 

 彼らの知るところでは、リトル・ヤタガラスなる妖怪は炎の妖術を得手としている。

 それも、ただの妖術ではない。八咫烏とは即ち、太陽を司る存在──妖怪でありながら、昼の側を象徴する存在なのだ。

 その妖気に込められた陽の気は、半端な妖怪の肉体を食い破り、たちまちに灼き尽くす太陽の熱を宿していた。

 

 だが、もしも。妖怪どもの脳裏に、ひとつの期待が過る。

 もしも、ヒバチ・ヒトウバンの振るう炎の妖術ならば──憎きリトル・ヤタガラスの炎を破れるのではないか?

 

「しっかり見てろよな、大将! そして有象無象ども! オレサマの炎が、思い上がったカラスの翼を焦がし折る瞬間をな!」

「ヒヒ、ヒヒヒヒヒッ。そりゃァ愉しみだねェ。あァ、実に愉しみだ。そこまで言うなら、今回の『ぷれいやあ』はお前さんで──」

「ちょっと待ったぁ! 次の『ぷれいやあ』は、あっしに決まっているだろう!?」

 

 如何にも愉快痛快そうな総大将の台詞を掻き消してまで、咄嗟に割り入った第三者の声。

 周りの妖怪たちは、一体何事かと不愉快そうな眼光を放った。折角自分たちが盛り上がっていたところに、どこの誰が水を差したのかと。

 

 果たして、声の主は妖怪の群れを掻き分けて現れた。

 周囲からの視線にビクつきながらも、それでもなお歩みを止めはせず、山ン本とヒトウバンの前に躍り出る。

 

「ほォ……? お前さんは確か、ヒョウタンだったかねェ?」

「ええ、そうです。このあっし──妖怪ヒョウタン・アブラスマシこそ、3回目の『げえむ』に相応しい立ち回りをお見せできるでしょう!」

 

 そう謳う妖怪は、凡そ人間と遜色ない容姿をしていた。

 ボロボロのズボンを履いたのみの半裸な為、あばら骨が浮いて見えるほど痩せこけた肢体が露わになっている。

 小柄な体躯を猫背によって更に小さく見せながら、その手には色褪せた大ぶりの瓢箪(ヒョウタン)が握られていた。

 

 小悪党じみた相貌で下卑た風に笑いつつ、痩せぎすの怪異──妖怪ヒョウタン・アブラスマシは、火鉢の異形に不躾な視線を飛ばす。

 

「このような、力技しか能の無いような者とは違い、あっしならば“とりっきい”な『げえむ』をお見せする事ができましょう! さぁ、どうか!」

「あァ!? テメェみてぇな貧相な奴が、大将を楽しませられる訳無ェだろうが! オレサマのド派手な“しょう”を、指を咥えて見てろってんだ!」

「へっ、これだから品性の無い妖怪はいけねぇんだ。時代は頭脳だ。頭を使った“とりっく”と“ぎみっく”が至上なんだよ。フデに成し遂げられなかった事を、お前みてぇな野蛮妖怪にできる訳ねぇさ!」

「なんだとォ!? だったらこの場で、どっちが『ぷれいやあ』に相応しいか──」

「──そこまでです」

 

 

──ベベン、ベンッ!

 

 

 三味線の旋律。

 弓の弦を弾き、矢を放つ時のように冷酷で、乾いた音が反響する。

 

 ただそれだけで、ヒトウバンとアブラスマシは全身を硬直させた。

 

 体が動かない、どころの話ではない。

 心臓の動きさえ止まってしまうかのような、肌から体温が全て逃げていくかのような、そんな背筋の凍る恐ろしさが彼らを襲っていた。

 動かない筈の指先が、恐怖で震えていると錯覚してしまう。人間を恐怖させる筈の妖怪が、自身の体に起きた異変に恐怖している。

 

「な、ぁ……っ!?」

「これ、は……!?」

「ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあと、喧しい事この上ありません。品性どころか、頭の出来まで貧相な者が2体も集まれば、こうも煩くなるのですね」

 

 身の毛のよだつ、金色の瞳孔が2体の妖怪を見据えている。

 妖怪どもの波が自然と2つに割れ、カウンターに陣取る山ン本の真反対──店の窓側にもたれかかり、三味線を抱えた女怪の姿をくっきりと現した。

 当然、その正体は信ン太である。彼女が音色を奏でる度に、この場に集う妖怪どもは肌をヤスリで削ぎ落とされるかの如き錯覚を味わった。

 

「あ、姐さん……あっしは……」

「此度の『ぷれいやあ』は既に、山ン本がヒバチ・ヒトウバンであると認めました。この決定に否を唱えるとは即ち、『げえむ』への叛意と見做されます。また、この場での交戦も認められません。──『げえむ』開始前に、『ぺなるてぃ』を宣告されたいのですか?」

「とっ、とんでもねぇ! ただちょっと、売り言葉に買い言葉になっちまっただけだぜ姐御! オレサマは今からでも『げえむ』に繰り出すぜ、いいだろ!?」

「…………ハァ」

 

 深い、深い、呆れと侮蔑と煩わしさを込めた溜め息の後。

 

──ベンッ

 

 信ン太が三味線の弦を乱暴に弾くと、ヒトウバンとアブラスマシを締め上げていた不可視の妖術はたちまちに解除された。

 自らの心を押し潰さんとしていた妖気の圧力が消え失せ、2体の妖怪はたたらを踏みながらもなんとかバランスを保つ。

 

 その様子に首を振ったキツネ耳の女怪は、視線の奥に居座る山ン本を見やる。

 彼は一連のやり取りを面白おかしい喜劇か何かだと思っていたのか、ケラケラと軽薄に嗤いながら煙草を()んでいた。

 

「ヒヒヒヒヒッ……悪いねェ、2人とも。近頃、信ン太の奴はちょォっとばかし虫の居所が悪いようでさァ。『げえむますたあ』として自分が『ぷれいやあ』に認めた妖怪たちが相次いでやられたせいで、尻の毛が縮れるほど苛立ってるのよォ」

「下品な揶揄はやめてください、不愉快です。その煙管(キセル)をへし折って差し上げましょうか?」

「おォ、怖い怖い。じゃァ、冗句はここまでにしておくかねェ」

 

 唇を細め、ふゥ……と肺の中の煙を吐き散らす。

 相も変わらず、その煙は甘ったるい匂いに満ちていて、同じ妖怪でさえ眉を顰める青草さが鼻孔を刺激した。

 

「ま、信ン太の言う通りだねェ。あたしは既に、ヒバチを『ぷれいやあ』として認めた。ヒョウタンには悪いけど、今回の『げえむ』はヒバチに任せてやりなよォ」

「ぐっ……! いやしかし、それならあっしとヒバチで“こんび”を組んで『げえむ』に挑戦するのはどうです!? あっしの勘が正しければ、こいつの妖術とあっしの妖術は相性が──」

「それも、認められん。『げえむ』の『ぷれいやあ』は1体でなければならない」

 

 次いで、アブラスマシの提案を否定したのは神ン野だ。

 ゴン、と薙刀の石突で床を鳴らし、面頬越しに睨みを飛ばす。

 戦場であれば心強い「神」一文字の兜も、今この場においては、こちらを喰らい尽くすのではないかと思えてしまうほどの畏れを孕んでいた。

 

「な、何故です!? 妖怪同士で力を合わせれば、『げえむ』ももっと効率的に……」

「先ほどの話をもう忘れたのか? 『げえむ』の土台に在るのは“百物語”、つまりは怪談だ。怪談は、その妖怪を象徴する“物語(すとおりい)”でなければならない。1つの怪談(えぴそおど)に登場が許されるのは、ただ1体だけであるべきなのだ」

 

 低く、重みのある声が言葉を募らせる。

 これほど重い言霊を紡げる神ン野の素顔は、一体どのようなものだろうか。

 

 彼の素顔を知る者は、山ン本を始め『現代堂』の幹部しかいない。

 顔はおろか、素肌の一切さえ鎧の向こうに隠されているのだから。

 

「怪談とは、その妖怪の為に用意された舞台。その舞台に、他の妖怪が乱入する事は罷りならん。それ即ち、怪談の質を貶め──本来、語り部(ぷれいやあ)が得られる筈だった“聞き手(にんげん)の恐怖”を損なう事になる。それは、『げえむ』の規則(るうる)として認められんものだ」

「例外として、複数で1つの個体と見做される妖怪であれば『ぷれいやあ』の多重参戦を認める事もできましょうが……あなたたちの場合は、到底許可できませんね」

「ぐっ……!」

 

 神ン野と信ン太、山ン本が特に信頼を寄せる2人の幹部妖怪にそう説かれては、言葉に詰まらざるを得ない。

 これ以上の反論を重ねれば、本当に『ぺなるてぃ』を下されてしまうだろう。

 そうなれば何が起こるか。想像しただけでも、手に持った瓢箪にヒビが入って割れてしまいそうになる。

 

 そこに追い打ちをかける形で、大気がビリビリと震え出した。

 『現代堂』のどこからか、呑ン舟の大笑いする声が轟いたのだ。

 

【ギャハハハハッ! ま、そう引き摺らずにさっくり諦めた方が身の為だぜ? オメェだって、気持ちよく自分の『げえむ』に挑みたいだろ?】

「……チッ!」

 

 吐き捨てるような舌打ちを残し、アブラスマシは後ろに下がった。

 その姿を、他の妖怪どもは嘲るような目つきで捉えていた。それがますます、彼の神経を苛立たせる。

 

「ヒヒヒッ。とまァ、そういう訳さァ。ヒバチ、お前さんの『げえむ』はお前さんの好きな“たいみんぐ”で始めてくれていいよォ。是非とも頑張って人間どもを殺戮し、恐怖を煽り立て、この世界に“昏い太陽”を顕現させてほしいものだねェ」

「応とも! 任せてくれや大将、オレサマにかかれば人間どもを丸焼きにするなんざ児戯にも等しいぜ! ゲヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャッ! さァ、街を火の海に変えてやろうじゃねぇか!」

 

 ふわり、とその体が宙を舞う。

 ヒトウバンは呵々大笑を上げながら浮遊すると、その巨体を揺らして店の奥へと消えていった。

 自らの座るカウンターの奥、光さえ届かない深淵の彼方へと溶け消えた巨首の異形を見届けて、山ン本はヌラリと目を細める。

 

「さァて……今回の『げえむ』はどうなるかねェ。チョウチンの奴はあっという間に終わっちまったし、フデの奴はチンタラ仕込んでた分だけ派手だったけど、あいつも呆気なく『げえむおおばあ』だ。ヒバチの奴は……さて、どこまでやってくれるか楽しみだよォ」

「……山ン本」

 

 金属同士の擦れ合う音がする。

 微かに身を捩らせた神ン野が、こちらにだけ聞こえる程度の声色で話しかけてきた。

 

「ヒョウタンの気配が無い。今しがたの一瞬で、こちらの目を盗んで外に出たようだ」

「……へェ? それは、それは。なんとも面白い事になりそうだねェ?」

「面白いものか……。あれだけ諭した結果がこれだ、頭が痛い。奴の浅慮が、我らの計画にどれほどの支障をもたらすかさえ未知数だというのに」

「ヒヒッ、人間の恐怖は移ろいゆくもの。簡単に数値化できるようなものじゃないからねェ。で、それをあたしに言ってどうするつもりだい?」

「無論、俺が動く。その為に、『げえむ』の審判役を務めているのだからな。それに……」

「それに?」

 

 伽藍堂の黒い眼に刺し穿たれてなお、意にも介さず。

 ゆっくりと、甲冑姿の巨体が起こされた。

 

──ガシャリ

 

 ざわっ、と妖怪どもの間に動揺が走る。

 それもそうだろう。今の今まで総大将の端に座したまま、じっとしていたばかりの神ン野が動き始めたのだから。

 

 その巨体が立ち上がれば、兜の飾りがザリザリと音を立てて天井を擦り上げた。

 店内に陰を落とすほどに大きく、分厚い鎧の大男は、その場にいる全てを見下ろしながら薙刀を握り締めた。

 その切っ先も同様に、天井を荒く傷つけている。

 

【オイオイオイ! 勘弁してくれよ、神ン野の旦那ァ! そんな乱暴に立ち上がったりするから、店が傷付いちまってるじゃねぇか!?】

「元々このようなボロ屋、傷の無い場所の方が少ないだろう。いちいち喚くな、呑ン舟」

 

 兜と面頬に覆い隠された眼光が、どこにいるかも分からない呑ン舟を睨みつける。

 彼が1歩前に出れば、床は悲鳴の如く軋みを上げた。鎧の重量故か、店そのものもグラリと揺れた気がする。

 

 ゴクリ。

 誰かが唾を飲む音が聞こえた。少なくとも、幹部たちではない。

 それでも信ン太でさえ、額に滲む1滴の汗を誤魔化せていなかった。これでもかと威圧感を纏った同胞へと、細めた瞳孔で語りかける。

 

「どちらへ? これから、ヒバチの『げえむ』の筈ですが」

「その『げえむ』を見届けるついでに、見定めたいものがある」

 

 薙刀を握る手の力が、より強まっている。

 ヒョウタンが出奔したのは予想外だったが、これもいい機会だ。

 利用するだけしてやろうじゃないか。甲冑姿の妖怪は内心で(はかりごと)を巡らせた。

 

「あの()()()が、本当に我らの敵対者足り得るかどうか。違わぬ力量を持っているならば、静観とする」

「実力の浅い、惰弱者であれば?」

「無論」

 

 ギラリと光ったのは、手に持つ得物の刀身だ。

 数多の敵を叩き潰して幾星霜。その煌めきが、未だに陰りを見せる事は無い。

 

「『げえむ』に無用なものとして、切るのみだ」



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其の伍拾肆 災禍の訪れ

 唐突に、ひんやりとした風が吹く。

 頬を照らす汗が風に冷やされて、姫華はコミカルな仕草を伴ってぶるりと震えてみせた。

 

「へくちっ……なんだか、肌寒くなってきたかもしれないわね」

「……大丈夫? もう6月とはいえ、夕方はまだ冷えるし……風邪を引いたら大変だ」

「あはは、そんなに心配するほどじゃないって。今日はちょっと大変だったから、それで疲れちゃったのかも」

 

 そうは言ってみたものの、隣を歩きながら見上げてくる九十九の表情は、なんとも不安そうだ。

 純粋にこちらを案じてくれている事がよく伝わってきて、少女はどこかこそばゆい気持ちを胸に抱く。

 

 自身の肉体に妖気を馴染ませる事に成功した──即ち(まじな)い師としての下地を得た姫華は、四十万の教えの下で妖気の操り方についてレクチャーを受けていた。

 それは横から見ていた九十九の目から見ても難しそうで、夕方頃になると彼女の顔は汗でびっしょりになっていたほどだ。

 

 それでも、新しい世界に足を踏み入れるのは楽しかったのだろう。

 夕暮れの帰路を歩く少女の表情は、疲労感こそあるものの実に満足げだった。

 

「……そんなに楽しかった?」

「ほえ? ……んー、そうね。やっぱり、今まで自分にできなかった事ができるようになって、今まで知らなかった事を新しく知るっていうのは……うん、結構楽しいかも」

 

 視界の先を中空に飛ばし、思慮に耽る。

 やや曇り気味の夕焼け空は、しっとりと焼けたケーキのような色合いに染まっていた。

 どこか色濃い雲たちが、言外に告げている。空がこんな色に染まるのは、この街だけだと。

 

「同時に、ちょっとドキドキもしてる。怖い、って意味でね。だって、私が(まじな)いを……戦う為の術を学ぶって事は、私もあの怖い妖怪たちと戦う機会が来るって事だもん」

「……あの話、聞いたよね」

「うん、聞いた。九十九くんのお家がどう始まって、どういう敵と戦ってきたのか」

 

 (まじな)いや妖気の扱いを学ぶに当たって、姫華は四十万から八咫村家と『現代堂』についても聞かされていた。

 それは九十九がかつて聞かされた内容と同じもの──つまり江戸時代に始まった“魔王”との因縁、そして80年前の大戦に纏わるものだ。

 

「やっぱり、怖かった? 改めて聞いてみて……敵の強大さとか、どれくらい昔から続いてきたのか……とか」

「そりゃそうよ! 近所の家に住んでる番犬が吠えてくるの、今でも怖いもん。そんな番犬よりもずっとずっと怖いのが、今九十九くんたちが戦ってる妖怪なんでしょ? なら、怖くない訳が無いわ。実際に何度も殺されかけた訳だし、侮る気なんて元から無いもの」

 

 でも。

 そう区切った言葉を紡ぐ前に、服の下に手を添える。

 そこにはいつだって、姫華にとっての大切なものが仕舞われていた。

 

「……それでも、それでも私は、ただ見ているだけの私から変わりたい。いつかまたあの子を、ジョロウグモちゃんを助けられるように。次に会った時、あの子のヒーローとして胸を張れるように」

「……姫華さんは、優しいね」

「九十九くんだって優しいでしょ? 私の事もあの子の事も救ってくれて、私が戦う道を選んだ時も、否定しないでくれた。一緒に強くなろうって、約束してくれた。私が今ここにいるのは、ぜーんぶ九十九くんのおかげだよ」

 

 にへら、と心からの感謝を告げる笑み。

 それがあまりに可憐で、思わず目を逸らしてしまう。顔の赤さに気付かれないといいな、なんて考えを脳裏に追いやりながら。

 

 最初にネコマタの魔の手から救い出してからこちら、どうも姫華は好意(この場合は親愛の情を指す)をダイレクトに伝えてくるフシがあるように思う。

 それ自体はいい事だし、悪い気もしないのだが、如何せん九十九も年頃の男子高校生である。

 このネコのようなクラスメイトを前に、胸の中のドキマギとした感情を刺激されて、どうにも照れくさい心地を否定できなかった。

 

「そうかなぁ……? まぁ、それなら何よりだけど」

「あっ、もしかして照れてる?」

「……照れてません」

「やっぱり照れてる。結構可愛いところあるよね、九十九くん♪」

「むぅ……」

 

 分かりやすく膨れっ面を作ってみせれば、ケラケラと楽しげな笑い声が返ってくる。

 穏やかな夕暮れ時が、静かに過ぎていく。先ほどまでひんやりとしていた風さえ、今はどこか心地よかった。

 

 風の中を、軽いステップを踏んで数歩前へ行く姫華。

 彼女はくるりと振り返り、踊るような仕草で小さな恩人へと向き直る。

 

「ホント、ありがとね。私を笑わないでくれて。悪い妖怪から助けてくれた事よりも……私は、私の“大切”を笑わないでいてくれた事が何よりも嬉しいや」

「……僕は、特別な事なんて何もしてないよ。ただ、当たり前の事をしただけだから」

「それが嬉しかったんだってば! ……きっと私、小さい頃に妖怪に助けてもらった時から、こうして妖怪に関わり続ける運命だったんだ。それは悪い意味じゃなくて、私は妖怪と関わる事で初めて、自分と向き合えたような気がするの」

 

 彼女の背中の向こうからは、薄暗い夜の帳が近付いていた。

 2人が歩いてきた方角へと消えていく夕日を追って、淡い藍色の空が世界を塗り替えていく。

 

 その更に向こう側には、九十九たちが暮らす街──金鳥市の街並みが見える。

 深い誰そ彼刻(たそがれどき)が終わり、夜が来る。それを示唆する風に、小さな街頭やビルの灯りがポツポツと街を照らしつつあった。

 

「だから九十九くんは、私にとって大切な──」

 

 そこで、言葉は遮られた。

 

 

 

──KAAA-BOOOOOM!!

 

 

 

 のたうち回るような風と熱、爆音が背中を襲い、バランスを崩した姫華が吹っ飛ぶようにして前のめりに転がった。

 彼女の体を慌てて受け止めて、2人一纏めになって背中からその場に倒れ込む九十九。

 アスファルトに叩きつけられた背中が痛みを発するが、そんな事を気にしている状況ではない。

 

「姫華さん、大丈夫っ!?」

「う、うん……ちょっと足がもつれただけ。九十九くんは? 私が押し倒したみたいになっちゃったけど……」

「僕も平気。でも、一体何が起きて……え?」

「……? 九十九くん? 後ろで何が……──」

 

 一様に言葉を失った。失わざるを得なかった。

 

 いくつもの小さな灯りが生み出す金鳥市の夜景は今、荒々しい“赤”に呑み込まれている。

 轟々とうねり形を変え続けるそれを、「炎」以外のどのような言葉で言い表せば良いだろう?

 淡い色彩が美しかった藍色の雲は既に、街から登る黒ずんだ煙に凌辱されていた。

 

 つまるところ、街が燃えている。

 それも、ただの火事ではない。先ほどの爆炎から思うに──まるで、特大の爆弾が降ってきたかのように。

 

「なん、で、これ……街が、燃えてる……っ!?」

「そんな、馬鹿な……さっきまで、そんな気配は無かったのに──まさか!」

「──坊ちゃん! 姫華の嬢ちゃん!」

 

 2人が起き上がった矢先、後ろから緊迫した声が飛ぶ。

 屋敷の方角から真っ直ぐ飛んできたのはお千代と、彼女の足に尻尾を掴まれる形で運ばれてきたイナリだった。

 彼らは「もうちょっと優しく掴んでくださいやし!」「今はそれを言ってる場合ではないでしょう!?」などど言い合いながらも、その雰囲気で非常事態を言外に告げていた。

 

「イナリ、お千代! あれってまさか……!」

「ええ、恐らく『現代堂』の仕業でやす! わてらもそれに気付いて、急いで坊ちゃんたちの後を追ってきたんでさ!」

「じゃあやっぱり、熱風に紛れて感じるこの感じは──」

 

 今1度、燃える街を見た。

 ビルに喰らいつく炎は、尋常のそれよりもおぞましい色合いと明度を孕んでいる。

 

 その炎が生み出す熱と煙が、風に乗って九十九たちの方へと吹き荒んでいた。

 チリチリと肌を刺激する熱風に混じり、彼らは異質な不快感を察知する。

 

「妖気……! あの炎は僕と同じ、炎の妖術が生み出したものだ!」

 

 それは即ち、人ならざるモノが生み出す邪悪な気。

 悪しき力を溶かした炎が、街を蹂躙している事を意味していた。

 熱風に流れされ、路地を撫でる不愉快な悪意がそれを何よりも暗示している。

 

「そんな……!? じゃあ、また新しい『げえむ』が始まったって事? こないだの事件からそんなに経ってないのに……」

「奴ばらの『げえむ』がどれほどの“すぱん”で行われるかなど、それこそ連中の匙加減次第でしてよ。それを加味してもなお過激ですわね、今回は」

「博物館襲撃、通り魔、街一帯でのガキツキ生成と来て、今度は火の海で御座いやすか。随分と“すとれえと”な手段で来やしたが、それにしたって激し過ぎる……!」

「……喋ってる場合じゃ、無さそうだね」

 

 首に手をやり、意識を廻す。

 血流に乗せた妖気が首の周りに集中した直後、それらは黒色の靄として現出した。

 

 靄はたちまち糸となり、九十九の正体を秘匿するべく認識阻害の装束へと変容する。

 瞬く間に編み上げられた漆黒のマフラーが喉元を覆い隠し、断続的な爆風に吹かれて後方に激しく靡いていた。

 

「お千代!」

「かしこまり、ですわ!」

 

 頬を膨らませたお千代が嘴を開けば、やはり喉の奥から火縄銃が飛び出してきた。

 巾着を由来に持つ九十九神としての能力、自身の体内にモノを収納する特性である。

 

 そうして手元に飛んできた火縄銃を、がっしとキャッチする。

 手早く具合を確かめ、戦闘に用いるに申し分ない状態であると確認。

 そのまま足や背中に妖気を巡らせ、九十九──否、リトル・ヤタガラスは飛翔の構えに入った。

 

「イナリは僕についてきて。姫華さんはお千代と一緒に、逃げ遅れた人がいないか見て回ってほしいんだ」

「わっ、私も」

「ダメ。君はまだ戦えない。戦う技術を学ぶ為の下地ができただけだ。そんな状況で突っ込んでも、死ぬだけだよ」

「……っ」

 

 何も言い返せなかった。彼の言葉は紛れも無い事実だからだ。

 無意識に、拳を強く握る。自身の無力さに嫌悪の念を抱くが、そんな事を論じている場合でも無かった。

 

「ご安心を。敵は坊ちゃんとわてとで食い止めやす。嬢ちゃんが避難誘導をしている間、そっちには流れ弾の1つも漏らさせやしやせん」

「だから姫華さんは、姫華さんにできる事をやってほしいんだ。……お願い」

 

 イナリを肩に乗せた後、真っ直ぐな目でそのように請う九十九。

 姫華はグッと唾を呑み下し、なんとか声を発する事ができた。

 

「……無事に、帰ってきてね!」

「うん。お千代、姫華さんを頼んだ」

「お任せあれ。“れでぃ”の肌にはかすり傷さえつけさせませんことよ!」

 

 返された答えに頷いて、思いっきり路面を蹴っ飛ばした。

 足の裏に込めた妖気の爆発によって加速し、すぐさまマフラーを起点とした浮遊の術を行使。

 

 禍々しい深紅に染め上げられた街へと、銃を携えた黒一色のカラスが飛び去っていく。

 その背中を、ただじっと見送って。

 

「……悔しいな」

「そう思うのであれば、まずは己の役目を全う致しますわよ! きっとまだ、助けられる人は多くいますわ!」

「うん。……行こう、お千代さん!」

 

 真っ黒いスズメの先導で、少女もまた夜の路地を駆け出した。

 火花の散る夜は、まだ始まったばかりである。




今日はこの後【20:00】より追加投稿を行います。


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其の伍拾伍 火の海の接敵

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


 街に近付くにつれ、肌を刺す熱気はますます勢いを増している。

 それは火と熱に高い耐性を持つヤタガラスでもなければ、あまりの温度に痛みすら感じるだろうほど。

 パキパキと歪な音を放ちながら弾ける火花が視界で見え隠れを繰り返し、火災現場が間近に来ている事を告げていた。

 

「……酷い匂いだ。炎や煙に混じって、これは……ガスの匂い?」

「恐らく、どこかのガス管か何かに引火したんでやしょう。この大火事は、それも一因にあるやもしれやせん」

「早く鎮火しないと、もっとたくさんの被害が出るかもしれない……急ごう!」

 

 中空を裂いて飛翔する九十九。その右肩には、イナリがしがみつく形で随伴している。

 眼下から立ち昇った黒煙に突っ込んだ2人は、そのまま煙を突き破って──凄惨な光景を目の当たりにした。

 

 その様を一言で表すならば、まさしく「地獄」だろう。

 轟々と吹き上がる灼熱が路面を焼き、ビルを焼き、空すら焦がしている。

 放置された車を喰らい、アスファルトの下まで潜り込んでガス管に牙を立て、更なる引火を誘発する。

 

 それはまるで、真っ赤な竜が暴れ回っているような光景だった。

 

 当然、そんな状況下にあって人間が無事でいられる筈が無い。

 逃げ遅れ、炎に襲われた人々は……恐らく、もう命脈の全てを焼き尽くされているだろう。

 

 その事実に歯噛みしながらも、じっとしている訳にはいかない。

 改めて前方に向き直り、空を飛びながらこの事態を引き起こしただろう元凶を探す。

 

「このままじゃあ、消火に来た消防士の人たちも巻き込まれてしまうかもしれない。そうなる前に早く──」

「──! 見えやした、坊ちゃん! あそこでさ!」

 

 ちっちゃな前足を伸ばしてイナリが指し示す方向へと、追随して視線を向ける。

 目を凝らす為に目尻を鋭く細めれば、果たしてこの災禍を呼び起こした張本人の影が見て取れた。

 同時に、驚愕する。その姿形は、初めて見るほどの異形だったからだ。

 

「ゲェェェェェーッ、ヒャヒャヒャヒャヒャッ!! 燃えろ、燃えろォッ!! 簡単に燃えちまうほどヒョロい人間どもは、オレサマの炎で纏めて消し炭になっちまいなァッ!!」

 

 首から下を持たないにも拘らず、頭頂部から首までが人1人と同じほどに大きい。

 まさしく「巨大な生首」としか言い様の無い異形が、頭頂部の穴から吹き出す炎を地上へと振り撒いていた。

 

 その表情は、まさに悪鬼の如し。愉悦と加虐に満ちた笑みが、裂けた口元を更に引き裂いている。

 凶器じみた無数の牙の奥、薄汚れた舌が重ねる言葉の数々からは、その異形の持つ残虐性がこれでもかと露出しているかのよう。

 これまでに相対した妖怪たちともまた異なる非道さが、接敵前からよくよく理解できた。

 

「──あいつか! 生首の化け物……あいつも妖怪!?」

「あんなキテレツな面ァした妖怪は1種しかいねぇ……! 亜細亜(あじあ)に伝わる空飛ぶ胴無し鬼、飛頭蛮(ヒトウバン)でさ!」

「あ~~~ん? 誰だァ……オレサマの事を呼んだのはよォ!?」

 

 2人の会話に気付き、異形の生首がこちらを向く。

 ……いや、その表現には些か語弊があるだろう。

 

 異形は振り返った瞬間に、頭頂部を大砲の如く九十九たちへと向けた。

 それは彼らの存在を知覚したからではなく、単に「多分あの辺にいるだろう」という適当な予測に基づくもの。

 ぽっかりと空いた頭部の穴からは、火花の弾ける真っ赤な炭が大量に見え隠れしており──次の瞬間、盛大に炸裂した。

 

「──うぉぁあっ!?」

 

 炸裂と共に襲いかかってきたのは、深紅色に包まれた炭だ。

 それも、1つや2つではない。概算で10個ほどはある灼熱の炭が、火山の吹き上げた噴煙のように、或いは散弾銃のように迸っていた。

 

 無論、それら高温の弾丸は直撃どころか、掠っただけでも危険なものだ。

 本能的にそう感じ取った瞬間、即座の回避行動に移る事ができたのは僥倖だろう。

 全力で体を捻り、空中という身動きの取りづらい状況下に迫る炭の群れを強引に掻い潜る。

 

「あっ──つぅ!? あんなモンまともに喰らった日にゃ、わてはものの数秒で焼きギツネになっちまいやすぜ!」

「至近距離を掠めただけでこれか……! とんでもない熱量……これが、あいつの妖術!」

「ゲヒャヒャヒャヒャ……どうやらこの程度の()()()じゃあ、簡単には死なねぇようだな。面白ェ……!」

 

 両足を前に突き出し、妖気の炎を軽く吹かせる事で空中でのブレーキをかける。

 そうして静止した九十九たちの存在に今度こそ気付いたようで、異形の嗜虐に歪み切った眼差しがギラギラと光を放った。

 

「よォ! テメェがウワサのニンゲン・ヤタガラス……いや、リトル・ヤタガラスだったか? ま、どっちでもいいか! ともかく、テメェがオレサマたちの『げえむ』を邪魔する『敵きゃら』で合ってんだよなァ!?」

「そっちの思惑に組み込まれた覚えは無いけど……ああ、そうさ。僕はお前たちの引き起こす、こんなふざけた『げえむ』を止める為に戦っている」

「回答どォもォ! じゃ、兎にも角にもオレサマの敵って事でいいんだよなァ!」

 

 バチリ。頭頂部から火花が昇る。

 どうやら頭の中の炭は使い手の感情に呼応して発火するらしく、酷く興奮した様子の生首が嗤う度、その炭はより勢いを増して火の粉を散らす。

 

「オレサマは妖怪ヒバチ・ヒトウバン! 他の奴らには悪いが、今回の『げえむ』はオレサマの勝ちで決まりだ。なよっちぃヤタガラスを地にブチ落とし、この手で“昏い太陽”を呼び寄せる! そうすりゃ『げえむくりあ』の栄光はオレサマのモンだぜ!!」

「なっ──“昏い太陽”でやすって!?」

 

 ヒバチ・ヒトウバンを名乗る異形の啖呵に、驚きの声を上げたのはイナリだ。

 

「……イナリ?」

「何故そこで、そんな()()()が話題に出てくるんでやすか!? まさかお前さんら、本気であんな言い伝えを信じて……っ、もしや『げえむ』の目的とは──」

「さぁなぁ。だが、我らが大将が『ある』と言って、『それを呼び寄せた者こそが次の“魔王”だ』とまで言ったんだ。なら、何も問題は無ェ。次代の“魔王”として妖怪を率いるのは、このオレサマだァッ!!」

 

 燃え上がる。業火を轟かせて、ヒトウバンの頭上から妖気が噴出する。

 妖気は炭となり、炭は炎を呼び、炎を纏った炭が更に妖気を吸い上げて燃え上がる。

 その光景はさながら、九十九が妖術を行使する際のエネルギーチャージと酷似していた。

 

 それを理解したが故に、九十九は肩に乗ったイナリの叫びを途切れさせながら後方へ大きく飛んだ。

 直後の事である。より激しく炎上するよう制御された妖気の炭が、遂に限界を超えて解き放たれたのは。

 

「妖術──《炭火焼災(スミビヤクサイ)》!!」

 

 噴火。そう表現するのが最も適切だろう。

 

 下手な間欠泉よりもよほど勢いがあるのではないか。そう思えるほどに大量の灼炎が、異形の頭から溢れ出た。

 その全てが炭を核に持ち、その炭の全てが烈火を帯びている。小さいものも大きいものも、等しく爆弾級の火力を宿している。

 そしてそれら全てが、たった1人の敵を呑み込み灼き尽くす為に荒れ狂っていた。

 

「坊ちゃん!」

「分かってる! 妖術……《日輪》っ!」

 

 当然、黙って見ている選択肢は元より無い。

 すぐさま火縄銃を向け、内部に込めた炎の妖気を弾丸として射出する。

 銃口を飛び出した緋色が、殺到する深紅の波濤を正面から迎え撃った。

 

 その結果として、何が起きたのか?

 着弾の瞬間、弾丸の形に圧縮されていた業火が解放され──激しい爆発と共に、炭の一切を粉微塵に消し飛ばした。

 

 

──KA-BOOM!!

 

 

 しかしそれは、ただ相殺に成功した事を意味してはいなかった。

 炎の弾丸と炎の炭。類似する2つの妖気が正面衝突して発生した爆発は、それら単一の術によって発生するそれよりもずっと規模の大きいものだ。

 彼我が想像していた以上の爆風に襲われ、宙を挟んで対峙していた妖怪たちが吹っ飛んだのはほぼ同時のタイミングだった。

 

「ぬわっ!? ──っとォ! ゲヒャヒャッ、こりゃちぃとばかし想定外だなァ?」

 

 クルクルと駒のように横回転しながらも、元々浮遊して移動する性質を持っていたヒトウバンは難なく元のバランスを取り戻す。

 あっという間に空中で減速し、勢いを殺す形で静止に成功した。

 

「ぐっ……!? 僕の術とあいつの術が、互いに作用してあんなに大きな爆発を……!」

「困りやしたね……どうやら坊ちゃんと奴は、()()()()()()()()()()()()()()()ようでやす。下手に撃ち合いを続ければ、爆発の余波が地上にも届きやすぜ!」

「それは……ちょっと、不味いね。姫華さんやお千代にも被害が及ぶかもしれない」

 

 一瞬だけ、眼下の街へと目を落とす。

 距離が離れている事もあってか、炎に包まれたビル街に人影があるかどうかも分からない。

 

 けれどもきっと、街のどこかで姫華たちが奔走し、逃げ遅れた人たちを探して回っているのだろう。

 そこら中に火の手が回っている環境下でも、妖気を利用すればある程度なら活動できるし、お千代が傍にいるなら危険な橋はそうそう渡らないと信じたい。

 

 だからこそ、街にまで敵の妖術を波及させる訳にはいかないのだ。

 彼女たちが巻き込まれる可能性を少しでも減らす為に、自分たちが取るべき選択肢は──

 

「街に降り注ぐ前に、奴の術を全て撃ち落とす。それしかありやせん」

「イナリさ、自分でも割りかし無茶苦茶言ってるって自覚はあるよね?」

「しかし、それ以外に取れる手段が無いのも事実でさ。こちらが大技を放てば被害が大きくなり得る以上、選ぶべきは耐久戦。奴の妖気が底をつくまで我慢比べでさ」

「容れ物系の九十九神は妖気をたくさん溜め込める……だよね? ……火鉢って、容れ物じゃない?」

「……定義によりやす」

 

 そこで溜め息をついたのは、さてどちらだったろうか。

 だが、それを細かく指摘している状況ではない事もまた事実だ。

 

「話し合いは終わったかァ? なら、もっかいお見舞いしてやるぜ!」

 

 ヒトウバンの頭頂部で、再び妖気のチャージが行われる。

 そうして次に起きるだろう光景は、先ほどの焼き直し以外の何物でもない。

 

 やるしかない。

 グッと呑み込んだ気力を体内に溶かし込んで、火縄銃を握り締めた九十九は空中を蹴り、敵への突撃を試みた。



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其の伍拾陸 空中戦

「──お千代さん! 誰か見つけた!?」

「いいえ、それらしい影は見当たりませんわ。逃げ遅れた者がいたとして、恐らく既に……」

「……っ。じゃあ、もうちょっと奥に」

「なりません。これより先は炎の勢いがより強くなっていますわ。如何に妖気を手繰れると言っても、肉体が熱に耐えられる限界はありましてよ。更に奥へ向かうより、別の場所を見て回った方が得策ですわね」

「わ……かった。なら、あっちに行こう!」

 

 現地に到着した姫華は、ビルの鉄筋コンクリートを炎が舐め、人体に害を及ぼすほどの黒煙が道路を這う地獄のような光景を目にしていた。

 九十九と路地から見た際は街全体が火の海に包まれているように錯覚したが、実際は繁華街一帯が炎に呑み込まれている程度らしい。

 

 それでも、甚大な被害である事には変わりない。

 空から逃げ遅れた人を探すお千代と二手に別れ、姫華は高熱の道路を駆け回って要救助者を探す事にした。

 今のところ、それらしい人影は見える兆しが無い。だが、だからと言って探すのをやめる訳にもいかないのだ。

 

「姫華様。今日覚えたばかりで使い慣れていないところ恐縮ですが、今の内に認識阻害の術を使っておいた方がいいですわ。いつどこで誰が見ているやも分かりません、ご自身の正体を隠しておくに越した事は御座いませんことよ」

「認識阻害……うん、分かった! えと、確か……」

 

 妖怪ならざる(まじな)い師は、妖術を振るう事はできない。

 それでも、自身に手繰れる妖気を使った最低限の術──例えば、自身の正体を“ごまかす”装束を生成する程度ならばできる。

 昼間にレクチャーされたそれを実践するに当たって、まず想起したのは九十九の姿だ。

 

 彼が装束(マフラー)を身に纏う際の所作を思い返しつつ、自身の内を流れる妖気をイメージする。

 上手くイメージできたら、次はそれを「掴む」事を強く意識する。そしてそのまま、掴んだ妖気を体外に引き摺り出して──

 

「よしっ……できた!」

 

 そうして現出したのは、1本の眼鏡だった。

 真っ白いフレームが形作るのは、逆三角形に近い輪郭を持った楕円。俗に言うボストン型の眼鏡である。

 

 姫華の妖気から形成されたそれは、彼女の顔にすっきり収まり、どこか知的な印象さえ醸し出している。

 なお、あくまで妖気を眼鏡の形状に固めただけのものである為、レンズは嵌め込まれていない。所謂、伊達眼鏡というやつだ。

 

「……うん、練習の時に作った妖気のマフラーより綺麗にできたかも」

「あら、眼鏡ですか。中々悪くない“ちょいす”ですわね」

「昔、お婆ちゃんが新聞を読む時によく使ってたのを思い出したの。妖気はイメージ、ってこういう事だったんだね」

「それはいい気付きでしてよ。では正体を悟られぬよう、その姿の時は……そうですわね、姫様とお呼び致しましょうか。先を急ぎますわよ、姫様!」

「うん、急がないと──っ!?」

 

 頭上から木霊する派手な爆発音が、次の句を掻き消した。

 思わず見上げれば、もうもうと空を汚していた黒煙が、空に生じた爆炎の勢いで吹き飛ばされていく様が見える。

 

 赤と黒の交じる夜空に咲いた一輪の紅蓮は、宙を踊るいくつかの影を一瞬なれども露わにする。

 距離が距離なだけに正確な目視こそできないが、何やら奇っ怪な異形と相対する黒色の人型は見て取れた。

 

 戦っているのだ。今、あの場所で。

 

「……私は、私にできる事をする。だから……」

 

 どうか、無事に勝ってほしい。

 その一言だけは喉の奥に追いやって、姫華の足は焼けた路面を再び走り出した。

 

 

 

 

「ゲヒャヒャッ──とっとと消し炭になりなァッ!!」

 

 ヒトウバンの操る妖気はたちまちに炭へ、炎へ変転し、爆発を伴って撃ち放たれた。

 炸裂した炭火の散弾は多少の拡散がありつつも、ほとんどは軌道の先にただ1人の獲物を捉えている。

 

 迫り来る脅威を前に、九十九は何度目かの冷や汗を垂らす。

 強い熱が生み出す上昇気流に漆黒のマフラーがはためいて、彼の体を更に上へと押し上げた。

 炭火の弾道上から逸れるや否や、間髪入れずに火縄銃の先端を直下へと向ける。

 

「分かっておりやすね? 大技は極力控えるように!」

「りょーかいっ! 威力を落として、弾丸の出力も……そして連射性を、上げるっ!」

 

 右肩に乗ったイナリの助言に応じて、瞬きほど素早い呼吸を1回。

 妖気を操るイメージに少しばかりのアレンジを加えて、引き金を引く。

 銃口から飛び出たのは、米粒大の赤い弾がいくつか。銃の形状も合わせてまさに散弾銃の如く、弾丸のシャワーを降らせた。

 

 如何に米粒ほどに小さい弾丸とて、妖気を捏ねて生成されたものには間違いない。

 即ちリトル・ヤタガラスの妖術である事には変わりなく、彼の足元を通り過ぎていこうとする炭に着弾したそれらは、一斉に小さな爆発を起こす。

 爆竹が破裂したかのようないくつかのラップ音は、数の暴力によって炭の爆発を促し、更に爆炎を噴き上げた。

 

 複数の爆発とそれに伴う黒煙が引いた後、その場に残ったのは爆風に煽られて火の消失した炭の欠片が1つ。

 その上に着地した九十九は、一瞬の内に足裏の妖気を点火し、それを蹴り飛ばす。

 

 足場代わりに、かつ射出装置代わりに用いられた炭は、彼の靴から迸った火の妖気を受けて誘爆。

 その勢いと、蹴った時の反動を利用して水平に射出された黒衣のカラスが、そのまま真っ直ぐにヒトウバンへと殺到した。

 

「ほー、やるじゃねェか! 80年ぶりに楽しめそうだぜ!」

「どうかな。今日が、お前にとって最後の日になるかも……ね!」

 

 慣性を捻じ伏せる形で体勢を変え、腰を引いて両足と銃口を前方に向ける。

 即座に放たれた銃弾は、異形の生首がそっと右に逸れるだけであっさりと回避されてしまう。

 

「トロいねぇ、アクビが出ちまうぜ! 攻撃ってのはなァ、こうやるんだよォッ!」

 

 再び、燃え盛る炭の群れが強襲を図る。

 これまでのようにある程度、彼我の距離が空いた状態での攻撃ではなく、今回は九十九の方から接近している中での攻撃だ。

 当然、彼の側にそれを無傷で回避する手段は限りなく少ない。

 

 結果、当然の事が起きる。

 真っ向から衝突した炭の弾幕は、哀れで愚かなヤタガラスの肉体をいとも容易く食い破る。

 炎熱を帯びた散弾の暴威をまともに受けては、如何なる妖怪だろうと致命打は免れず──

 

「……ァあ?」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 迫り来る炭火に体を撃ち抜かれ、蜂の巣になったかと思われた直後、九十九とイナリの姿は泡沫のように消失する。

 本来撃ち抜くべき相手を見失い、しかし本来そこにいた筈の相手へと喰らいついた事で、役目を終えた炭が次々に破裂した。

 その破裂が起こす衝撃によって、泡沫の如き幻影はやはり揺らめいて崩れ去っていく。

 

 後に残ったのは、最初から何も存在していなかったと言わんばかりに火の粉だけを漂わせる虚空のみ。

 そこに、相対していた筈の『敵きゃら』はどこにもいない。

 

「どこに──いや、()かっ!?」

 

 それは直感か、或いは火の気を操る妖怪であるが故の特性か。

 僅かながらに揺らいだ熱気から敵の居場所を感知して、ヒトウバンは自らの直下に目を呉れた。

 

 邪悪な眼差しが射抜く先には、何も無い。ただ、燃える街が一望できるだけだ。

 けれども、決してそうではない事を知っている者がそこにいた。

 

「──っ!? 気付かれ……いや、このまま行く!」

 

 イナリの術によって認識を“ごまかし”、敵の真下に回り込んだ九十九。

 それを怪物じみた直感を以て看破された事には若干の動揺を覚えたものの、妖気の充填は既に終わっている。

 

 焦る必要は無い。焦れば、それだけ照準に誤りが出る。

 そう自分に言い聞かせると共に、引き金を強く押し込んだ。

 

「妖術、《日輪・曙》ッ!」

 

 緋色に燃えながらも、細く鋭い針を思わせる弾丸。

 速度と貫通力にリソースを割り振られたそれは、“ごまかし”の幻惑さえ貫き破って真上を目指す。

 焼けた空を穿って上昇する針弾を目視した時、ヒトウバンにできたのは反射神経に全霊を込めて、ほんの少し体を横にズラす事だけだった。

 

 

──バ、キィンッ!

 

 

「ぐ──ぅ、ぉおっ!? 熱ィ!? 熱に強い筈の体が焼けちまいそうだ……ッ!」

 

 激しく回転する鋭利な弾丸が、異形の側面──掠めた右頬を削ぎ落とすように傷付けて、遙か空に消えていく。

 焼き削られた頬は陶器の性質を併せ持っていたようで、滲み出かけた血ごと焼き固められた表面には細かなヒビ割れが生じていた。

 

 肉の焦げる音が白く細い煙を生み、より一層の苦痛と苦悶で神経を刺激する。

 不揃いの牙を食い縛り、熱を孕んだ痛みに耐える。そうして口の隙間から一筋の血が垂れた後、ヒトウバンの額に青筋が立てられた。

 血走った目で()めつける先は当然、銃を構えてこちらを見据える八咫村 九十九(リトル・ヤタガラス)だ。

 

「テェェェン、メェ……! よくもやってくれたなァ……!!」

「冗談キツイね。頬を削られた程度、この街が受けた被害に比べればまだ軽いよ。……お前の『げえむ』は、ここで終わらせる。そのふざけたツラ、粉々に砕き切るまで容赦してやらないから」

「ハッ、それこそ冗談だぜ! その薄っぺらい首巻き(まふらあ)を引っ剥がした後、テメェを焼き鳥にして食ってやるよォ!」

 

 怒りで出力が高まる癖でもあるのか、ヒトウバンの頭部が激しく熱を発し始めた。

 妖気を吸って、吸って、吸い上げて、吸い上げてなお足りないと言わんばかりに熱量を求める灼熱は、その余波として大量の火の粉を撒き散らす。

 今のヒバチ・ヒトウバンは最早、生きた火山に例えたとしても、そうズレた表現ではないだろう。

 

「よォォォォォッ、術ゥ!! 《炭火焼災(スミビヤクサイ)盆櫓(ボンヤグラ)》ァッ!!!」

 

 その狂乱がもたらした現象は、「火山弾」以外のどのような形容詞が相応しいだろうか。

 

 辛抱堪らんと噴き荒れた炭火の数は、黒焦げた空を埋め尽くすほどに多く、そして巨大だった。

 1つ1つが岩と遜色ない大きさの炭に、尋常ではない温度と勢いを宿しながら炎が纏わりついている。

 

 たった1つでも着弾すれば、一般的な住宅程度ならば一撃で粉砕する事が可能だろう。

 それほどの殺傷力、出力、威力を携えた炭砲弾が、次から次へと迸っている。

 

 圧倒的な熱量を有する火炎の雨が、その字義通り「雨」のように降り注ぐ。

 それは見える広範囲全てを焼き払う為の力であり──その結果、九十九のみを灼き尽くして終わるとはとても思えなかった。

 

 だって、彼らの目下には金鳥市の繁華街が広がっているのだから。

 

「~~~~~ッ! イナリ、今から滅茶苦茶な飛び方するから気合で耐えて!」

「えっちょっと待ってくださいやし坊ちゃんもしかして今からこれ全部撃ち落うぉおぉぉぉぉおオォォォォォオォオァアアアァァアアアアァアアア!?!?!?」

 

 まず取った行動は、超スピードで思いっきり決行した真下へのダイブだった。

 フリーフォールなんて目じゃないレベルの風圧が1人の少年と1匹のキツネを襲い、10を数えるよりも早く地上が迫る。

 

 あわや激突──の直前、妖術を交えた強引極まりない減速によって、全ての勢いを殺しての静止を実行。

 己の内蔵がひしゃげ潰れなかった事に関して、イナリは自らが妖怪である事に心底感謝した。

 

「ぐぇほぉっ!?」

「四の五の言ってらんない……! ここまで広範囲に術を飛ばせるなら、取るべきは耐久戦じゃない……速攻だ!」

 

 強く、強く、強く、強く妖気を銃身に注ぎ込む。

 時間が足りない。リソースも足りない。作戦を考える余裕なんて無い。

 強引でも無理やりでも、兎に角妖気を片っ端から込めて、捏ねて、丸めて、弾丸にする。

 

「吹っ飛べ!」

 

 その一撃は、打ち上げ花火を思わせた。

 きっかり真上にかち上げられた銃口から、馬鹿デカい爆発を起こして弾丸が飛び立つ。

 真っ直ぐ上昇を果たした真っ赤な火の玉は、今にも街を砕こうと落下する炭の1つに着弾し──

 

 

──KAAA-BOOOOOM!!

 

 

 局地的な大爆発を引き起こした。

 爆炎は近くを通過しつつあった他の炭を巻き込み、巻き込まれた炭は引火によって爆発し、その炎と衝撃が更に誘爆を招く。

 

 花火。そう表現できれば、どれほど幸運だったろうか。

 街の空に咲いた無数の灼熱が断続的に繰り返され、爆音が幾多にも重なって木霊する。

 

「──あっっっつぅぅぅっ!?」

「我慢して! イナリじゃ壊せないでしょ、あの術!」

「はいはいはいはい“ごまかし”しか能の無ェ戦闘能力皆無ギツネで申し訳ありやせんねぇ!」

 

 その灼熱の中を突っ切って、九十九は空高く飛翔した。

 無理やり加速を乗せた事で爆炎の幾分かは吹き飛んだものの、残った熱波の煽りを受けて肩のイナリが悲鳴を上げる。

 けれども労っている暇は無い。まだ、巻き添えや誘爆を免れた炭は残っている。それらは未だ、地上を狙って落ちている真っ最中なのだ。

 

(1つ1つ撃ち抜いている暇も無い! クソッ、とんだセルフジェットコースターだ!)

 

 最も近い炭に向かって猛進し、近付くと同時に体勢を反転させる。

 先ほどヒトウバンに突貫した時と同じ要領で炭を蹴り飛ばすと、その際の勢いで爆発させつつ、爆風を利用して次の炭へ。

 

 余裕があれば、炭を踏み締める時間を少しばかり伸ばし、他の炭を銃で撃ち抜く事も忘れない。

 当然、装填と照準の調整は飛行中に終わらせておくものだ。

 

 あまりに高度な技術だが、九十九がそれに疑問を抱く事は無い。

 疑問を抱いている暇が無いとも言うが、彼はこれらの行いが人智を超えた精密さが前提にある事を認識していなかった。

 

 ともあれ、一連の人間空中ピンボールによって、全ての炭は爆発四散した。

 最後の炭を蹴り飛ばした後、火縄銃を構え直して目指すはヒバチ・ヒトウバンの懐へ。

 

「──ンだとォ!? オレサマの術が、全て防がれたァ!?」

「あれだけ大規模な術、そう連発はできない筈だ! 今度こそ──」

 

 ()れる。

 その確信を胸に、ヤタガラスは飛ぶ。

 奇襲への対応が為されるより早く、異形のど真ん中を狙って引き金を──

 

 

「隙ありィッ!!」

 

 

 その時、九十九は自分の身に何が起きたのかまったく理解できなかった。

 

 ただ分かっているのは、ヒトウバンめがけて真っ直ぐ飛んでいた筈の自分が突如、下方から来た()()()によって殴られた事。

 ……否、殴られたという表現すら不適切だろう。それは武器や徒手空拳ではなく、砲弾のように飛んできて、ぶつかってきただけなのだから。

 

 しかして、結果は変わらない。

 下方からすっ飛んできたそれは九十九の体を打ち据え、軌道を大きく改変する形で盛大に吹っ飛ばした。

 直進に用いられていた加速と勢いは全て、真横に吹き飛ぶエネルギーに転用され、その負担が矮躯の体に強くのしかかる。

 

「ぁぐっ──!? ったい、なんの……っ、げ、ぼぉ……っ!?」

「坊ちゃ──って、なんじゃこりゃぁ!? わてらの体にベタベタ貼り付いてこれ……油ぁ!?」

 

 彼らの快進撃を食い止めたモノ、その正体は油だった。

 何も難しい話ではない。人間大の油の弾丸が放たれて、()()の目論見通り、ものの見事に九十九に着弾しただけだ。

 如何に液体とはいえ、人間に等しい質量が物凄い勢いでぶつかってくれば、それは一種の兵器となる。

 

 問題は……

 

「……あァ~ン? なんだありゃ。なんでアイツら、勝手にぶっ飛びやがったァ? ……いや、待てよ。まさか」

 

 それを目論んだのも、成し遂げたのも、ヒトウバンでは無いという点だ。

 

「どこのどいつだァ!? オレサマの『げえむ』に水を差しやがったのは──」

「へっへっへ……水を差した、なんざとんでもねぇ話だ。あっしはただ、ちょいと手助けしてやっただけさぁ」

 

 そうして、見つける。

 彼らが戦っていた場から、ほんの少しだけ離れた場所。今はもう使われなくなった、古い古い電波塔の頂上に。

 痩せぎすで、猫背で、薄汚く、小悪党じみた顔を持ち、古臭い瓢箪を携えた、妖しげな男のシルエットを。

 

「この戦いを通して、あっしを馬鹿にしてきた連中全員に、あっしの有用性を証明する。ヒバチ! お前の『げえむ』は、その為に目一杯利用してやるよ!」

 

 妖怪ヒョウタン・アブラスマシ。

 この場の誰もが予期していなかった、乱入者の登場である。



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其の伍拾漆 瓢箪劫奪の怪

 くるくると、歪な錐揉回転をしながら九十九の体は宙を舞う。

 彼の全身は今、横合いから着弾した高質量の油に塗れ、それらは口内に入り込んですらいる。

 ねっとりべったりとした不愉快な粘性を持つ油が喉へと差し掛かり、呼吸を阻害しかけているのだ。

 

「げ、ぼっ……!? がふ、ごほっ……!」

「坊ちゃん!? しっかりしてくださいやし、坊ちゃん! このままじゃ地表へ落下しちまいやすぜ!?」

 

 視界が揺れる。思考が揺れる。意識が揺れる。

 妖気を飛行に割く為のリソースすら曖昧になって、油まみれの矮躯は力なく重力に引っ張られ始めた。。

 

 かくん、と首が下を向く。頭から落下を開始する。

 その時、朧げな視界の内に──轟々と燃える炎と、それらに蹂躙されゆく街が見えた。

 

「──ッ!?!? がっ……げぐっ!」

 

 ほんの僅かに取り戻した人間性が、本能的に喉の筋肉を動かした。

 肺に滑り込みかけていた油を吐き出す。粘ついた粗悪な油は、ぐっちょり不快な音を立てて口から飛び出し、その中には血すら混じっていた。

 

 血混じりの油を吐き出した後、ようやく取り込めた酸素を脳に行き渡らせる。

 フル稼働させた神経は、寸でのところで妖気を巡らせ、九十九の体を再び飛行状態に移行させる事に成功した。

 

「うおっ!? ……っと。ようやく意識を取り戻しやしたか、坊ちゃん」

「ハァッ……ハァッ……ハァッ……! じょう、きょうは……?」

「それなりにクソッタレ。そう形容するのが()ぉ御座いやしょうね」

 

 先ほど繰り広げられていた戦闘時よりも高度の落ちた地点で滞空しつつ、九十九はイナリが指差した方向を見上げる。

 ちっちゃな指先が肩越しに示す先に見えたのは、明らかな異形の影が2つ。

 

「オイ。……テメェ、もう1回言ってみな」

「へへっ、何度も同じ事を言わせるんじゃねぇやい。お前の『げえむ』はあっしが掌握する。ここから先は、あっしが『ぷれいやあ』だ」

 

 空中に佇む生首──妖怪ヒバチ・ヒトウバンは、ある1点を睨みつけ、牙を剥き出しにして憤っていた。

 見るからに怒りという怒りが滲み出てやまない表情が、この場が彼にとってこの上なく不本意な状況であると示唆している。

 

 対して、そんなヒトウバンが睨む相手──古い電波塔の頂点に立つ小汚い異形の男は、妖怪ヒョウタン・アブラスマシ。

 先ほど、九十九に不意打ちを仕掛けたのも彼だ。その証左として、手に持った瓢箪の口にはべっとりと油がへばりついている。

 

「前っから、お前の能無しぶりには辟易してたんだ。お前みたいな野蛮妖怪よりも、あっしの方が“魔王”に相応しい。でもまぁ、お膳立てはきちんとしてくれたみてぇだからな。あっしが『げえむくりあ』した後、お前は“魔王派”の幹部に重用してやるさ」

「……本気で言ってんのか? それ。テメェが今、何を喋ってんのか分かってンのか?」

「お前こそ、まだ分かってないのかい。元より『現代堂』は、総大将の山ン本様と幹部以外の一切が有象無象。そこに群れや仲間であるという意識は一切無い。あるのはただ、『強い奴が強くて偉い』という摂理だけさ。油断すれば引き摺り落とされるのが常だろ?」

「オレサマの事を舐め腐ってンのか知らねぇが、随分と思い上がってんじゃねぇか。なァ? オレサマがテメェより下だと? テメェが、オレサマより上だと?」

()()()()()()()()()()

「……ゲギャッ」

 

 怒気を込めた高温の吐息が、牙の隙間から漏れ出る。

 これでもかと裂けた口は、堪え切れない怒りを表現していながらも、逆に笑っているようにすら錯覚してしまう。

 頭頂部に空いた穴からは、グラグラと空気の茹だる音が聞こえてきた。感情が昂ったあまり、陽炎が浮かぶほどに頭部周辺の空気が熱されているのだ。

 

「ならまず、テメェから『げえむおおばあ』にしてやるよォ!!」

 

 ヒトウバンの繰り出した炭火弾幕が、電波塔ただ1点に集中して注がれた。

 怒涛の勢いで放たれた灼熱によって穿たれ、焦がされ、へし折られた塔がひしゃげて崩壊し、ただの金属のオブジェとして果てる。

 

 だがしかし、その攻撃はアブラスマシに痛打を与えるには至らなかった。

 奴は既に、着弾の寸前にはその場を飛び降りて、爆風を背中に受けながら地表に着地していたからだ。

 難なく焼けた路面を踏み締めた後、上空を見上げた小悪党の顔は「嘲笑」を表しているようだった。

 

 それを認めたからこそ、異形の生首は更に怒り狂う。

 これまでの方針──上空に陣取っての爆撃を取り止めたばかりか、地上に向かって降下し始めた。

 そしてそれは、九十九たちにとって看過し難い状況である。

 

「ヤバい……っ! あいつら、地上で戦うつもりだ!」

「おいおいおい、あんな馬鹿火力を地上で撒き散らした日にゃあ、もっと直接的な被害が出やすぜ!?」

「もう1体の方も、どんな術を使うか分からない……どっちも止めないと!」

 

 まだ微かに眩む意識をグッと堪え、一気に地表へ向かって飛ぶ。

 2体の妖怪が対峙する場へと急降下をかけた時には、既に彼らの妖術が行使されようとしていた。

 

「妖術ゥ! 《炭火焼災(スミビヤクサイ)》ィッ!!」

 

 再度、噴火が起こされた。

 頭部から高らかに射出された灼熱の炭は、天高く上昇したのち、その軌道を大きく逆U字に曲げながら地表へと落ちてきた。

 それはただアブラスマシだけを滅ぼすのではなく、そのついでに街をより焼き砕く為の術。敵を戦場ごと打ち破る破滅のシャワーだ。

 

 一撃でも通せば、更なる被害が出る。

 そう理解して、来たる炭の雨を破壊する為に火縄銃を構えた矢先──

 

「ならば、こっちもお見せしようか。これがあっし、妖怪ヒョウタン・アブラスマシの妖術!」

 

 瓢箪を持っていない方の手の内。その中に隠し、転がしていた木製の蓋を使って瓢箪に栓をして、間髪入れずに蓋を開けて開封する。

 すると、どうだろうか。水の氾濫が起きたかのような異音が込み上げるや否や、瓢箪の口から土気色の油が溢れ出したではないか。

 

「妖術っ、《油一匁(アブライチモンメ)》!」

 

 術の名を叫んだ事で妖術が成立し、尋常の物理法則を無視する形で油が放出された。

 瓢箪の見た目から想像できる容量を遥かに超える、大量かつ高質量の油の球体。

 膨らませたシャボン玉のように現出したそれらが、シャボン玉など比較にもならないスピードで空中に躍り出る。

 

 それら幾多もの油玉は、獲物を滅ぼさんと襲いかかってきた炭火の内の1つと接触し──ゴクリと、呑み込んだ。

 

「ん、なァッ!?」

 

 ヒトウバンがそのような声を上げたのも、無理は無い事だ。

 油玉に包まれた炭は、表面に纏った炎は消えないまま、しかし炎ごと油の中にすっぽりと収まっている。

 それでいて油に引火する様子も見せる事なく、言うなれば「丸ごと収納された」と表現するのが相応しいだろう。

 

 だが、それだけでは終わらない。放出された油玉は、まだいくつも空中に残っている。

 瓢箪から勢いよく飛び出したそれらは、撃ち放たれた炭火を次から次に取り込み、自らの内に収納していく。

 

 そうして瞬く間に、街を砕く脅威は全て呑み込まれた。けれども、それは別にアブラスマシが街を守ろうとした事を意味していない。

 彼はただ、自らの強さを喧伝する為にヒトウバンの妖術を無力化したに過ぎない。彼にとっても、人間の街は『げえむ』によって壊すべき対象なのだ。

 

 その証明と言わんばかりに、炭火を全て呑み下してなお残った油玉たちは、行き場を失って地上に落下する。

 ビルの瓦礫、燃え盛る自動車、砕けた信号機。そういったモノさえ取り込んで、妖気の油はこの場一帯を侵蝕していった。

 

 九十九が現場に到着した時、目の前に広がっていたのは、無数の油玉が浮遊している光景だった。

 その内部全てに何らかのモノが収められていて、まるで包みの中に入れられた商品たちが並ぶショーケースのよう。

 

「これは、何が起きたんだ……!?」

「へっへっへ……あっしの妖術《油一匁(アブライチモンメ)》は、瓢箪から溢れ出る油を使って、物体を油の中に収納する術なのさ! どんなに巨大でも、破壊力を持っていても、油と相反する何かだろうと、それがモノなら何でも取り込んじまう! そして……」

 

 つい。

 丁度近くを浮いていた、瓦礫を収めた油玉1つを、アブラスマシは人差し指で軽く押す。

 押された拍子にふよふよと動き出すそれは、進んだ先で路面を舐めていた炎と接触。

 

 

──POW!

 

 

 一瞬の内に火がついた油玉は、瞬きするよりも早く炎に包まれ、即座に破裂した。

 いとも容易く、そして呆気なく弾け飛んだ後、そこには何も残されていなかった。

 あれだけ大きかった油玉も、その中に収められていた瓦礫も。

 

「油が破壊されれば、中の物体も道連れさァ。1度油ん中に取り込まれちまえば、金剛(だいやもんど)だろうと1発よ」

「こいつぁ……ちぃと不味い事になりやしたぜ、坊ちゃん。ヒトウバンの奴といい、こんな街中で使われれば拙いってモンじゃないでさ」

「……けど、それを喰らった僕とイナリはピンピンしてる。生物……いや、まだ生きてる存在には効かないのかな?」

「ご明察。だが、その程度は“はんで”にもならねぇさ。分からねぇかい?」

 

 ふぅ。

 明確な力を込めて、細められたアブラスマシの口から吐息が出される。

 そのモーションに呼応したのか、周囲に浮遊していた油玉が一斉に動き出した。

 

 瓦礫を閉じ込めたもの。自動車を閉じ込めたもの。信号機を閉じ込めたもの。ヒトウバンの炭火を閉じ込めたもの。

 何ひとつとして例外は無く、術者の意思に沿うように動いているらしいそれらは、自ら付近の火気や鋭利な物体に近付き──

 

 

──POW! POW! POW! POW! POW!

 

 

 破裂したそれらが還ってくる事は、2度と無かった。

 

 どうやら本当に、収納後の油玉はシャボン玉に近い性質を持っているらしい。

 剥き出しの鉄筋など、鋭利な物体が突き立てられた瞬間、油の塊が瞬きの内に消失した。当然、中に収められていたモノと一緒に。

 これによって、アブラスマシが妖術から生成した油は全て消失し、それを確認したのちに瓢箪の蓋が閉められた。

 

「あっしの術は、“物”に対して覿面に効く。巨大な鉄の塊だろうと、途方もない威力の爆弾だろうと、あっしの油に呑まれれば最後。文字通りの“泡沫”ってワケさ。これを『げえむ』に活かせば、きっと人間どもの痛快な阿鼻叫喚が聞けるぜぇ?」

「どんなに強力な兵器でお前を殺そうとしても、油で包めば無に帰す……って事か。でも、ならどうしてヒトウバンの術は──」

「──話はもう終わったかよォッ!!」

 

 もう、辛抱堪らん。そういう事なのだろう。

 度重なる愚弄と長ったらしい自慢話に我慢の限界が来たらしいヒトウバンは、怒髪天を衝いて強襲をかけた。

 術も何も無い。ただ、自らの手で不届き者の首を食い破らんと、牙を大きく剥いての体当たり。

 

 まさかそういう手に出られるとは思っていなかったようで、咄嗟に回避を試みたアブラスマシの足が宙に浮く。

 彼が立っていた地点へと異形の全身が着弾し、その鋭利かつ悪辣な牙で路面を噛み砕き、嚥下した。

 

「グダグダグダグダと、したり顔でのたまいやがって……! よくもオレサマの『げえむ』を邪魔してくれたなァ! アぁ!?」

「言っただろう、この先の時代を制するのは頭のいいヤツなのさ! お前みたいな阿呆は、あっしのような賢い者に使われる定めなんだよ!」

「言ってくれるじゃねェか……! なら、玉座でふんぞり返ってるところを下剋上される事も、当然覚悟の上なんだろうなァ!?」

 

 バリボリと瓦礫を咀嚼する口から、高熱の吐息が排出された。

 あまりに熱を帯びているのか、口内に残っていたアスファルトの破片すらドロドロに溶け、歯の隙間から漏れ出している。

 その光景に末恐ろしさを感じつつも、痩せぎすの妖怪はニヤリと嗤った。よほど、己の優勢を確信しているらしい。

 

「さぁて、ありもしない未来を想定するほど、あっしは暇じゃないんでねぇ……。お前を出し抜いて、リトル・ヤタガラスを抹殺する。そうすりゃ、この『げえむ』の“いにしあちぶ”はあっしのモンだ」

「……参ったね、これは」

 

 悪辣な目線をこちらへ向けてくるアブラスマシを前に、九十九は独りごちる。

 口には出さないものの、イナリも同様に冷や汗をかいていた。

 

「三つ巴……か。またややこしい事態になっちゃったなぁ……!」

 

 半妖、対、妖怪、対、妖怪。

 炎が侵蝕する夜の繁華街で、乱戦の火蓋が切られた。



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其の伍拾捌 三つ巴

「さて……まずは手早く、格付けでもしようかね。その方がお前も従いやすいだろう? ヒバチ」

 

 ヒョウタン・アブラスマシの手が、瓢箪の蓋に伸ばされる。

 渦巻く妖気が木製の表面に纏わりついて、練り上げられていく。今まさに、妖術を行使しようとしているのだ。

 

「また、あの術を……! 僕たちも介入しよう、あのまま戦わせても被害が広がるだけだ!」

「それはそうでやすが、まずはどっちを狙うおつもりで!?」

「アブラスマシの方! 場合によっては、ヒトウバンの術よりも厄介だ!」

 

 今、敵の妖怪たちは互いを攻撃・排除する事に意識が向いている。

 その隙に奴の持っている瓢箪を狙撃し、確実に破壊する。それが九十九の狙いだ。

 

 かつて戦ったネコマタも、尻尾に癒着した提灯の破壊によって妖術の精度が落ちていた。

 妖怪は、自身を構成する核たる道具を破壊される事で、その力を減退させるのだ。

 ならば、それを狙わない手は無い。

 

「行きやすぜ! 【(コン)()()(コン)(コン)()(コン)(コン)】!」

 

 ぶわり。イナリの尻尾が逆立ち、ふわふわもこもこの毛並みも激しく尖る。

 彼の展開していた“ごまかし”の術がより一層の出力を増し、アブラスマシを取り囲むように何人もの九十九が現れる。

 

 認識を捻じ曲げ、歪ませ、“ごまかす”妖術が生み出した幻影の九十九たちは、それを目視した者にその一切を「本物である」と認識させるもの。

 その上で、本物は知覚されない“ごまかし”を纏い、地面を蹴って別の地点へと移動していた。

 これこそ認識阻害の真骨頂。化け狐の術に囚われた妖怪たちは、決して本物を見破れない。

 

 スニーカーの裏でブレーキを踏み込んで、狙いを定め、そのまま火縄銃の引き金を──

 

「馬鹿が。わざわざ浮き駒を作るワケ無いだろうよ!」

 

 キュポンッ。

 軽い音が弾けて、木製の蓋が開け放たれる。

 唸りと共に湧き上がる油の奔流が、徐々に音量を増していく。瓢箪の容量を遥かに凌駕した質量が、小さな口から飛び出した。

 

「もう1度、今度はこの辺り一帯を埋め尽くすまで──妖術《油一匁(アブライチモンメ)》ェッ!!」

 

 妖気を吸い込んでぶくぶくと膨らむ油玉の数々が、瓢箪を抜け出してこの世へと現れる。

 アブラスマシは妖術発動中の瓢箪を両手で掴むと、妖気が油が放出されている真っ最中のまま、思いっきり大きく振り回した。

 瓢箪の口から溢れようとしていた油たちはどぽどぽと奇っ怪な軌道を描き、先ほどよりも更に広範囲へと拡散される。

 

 妖気の油はたちまちに、“ごまかし”の術によって生成された幻影の九十九全てに襲いかかる波濤へと転じていた。

 それを言外に語るかのように、油をまともに喰らった幻影は、その途端に掻き消える。

 道具でもなく、術でもなく。ただ認識を捻じ曲げて作られたモノであるが故に、異なる妖気の攻撃を受ければ容易く破られる。

 

 どれが本物か分からないならば、一切を攻撃してしまえばいい。

 簡単に聞こえるが、そうやすやすと実行し得ない。それを、この妖怪は容易くやってのけてしまった。

 

「こ、れっ……いくらなんでも、大盤振る舞い過ぎるでしょ……!?」

「チィッ……! 猪口才な、纏めて消し炭に変えてやらァッ!!」

 

 ヒトウバンがまたもや妖術を行使し、煮え滾った頭頂部から炭火が射出される。

 今度は明確に油の破壊を念頭に置いての展開らしく、火を纏った炭のいくつかは油と激突し、相打つ形での破壊に成功していた。

 反面、そうではないもののいくつかは競り負けたようで、どっぷりと油玉に包まれて無力化されてしまっている。

 

 そして、相殺した訳でも競り負けた訳でもないもの。

 つまるところ流れ弾と化したそれらは、地上を走る幻影の九十九たちを貫き、次々と霧散させた。

 その余波で路面が砕け、その下の土を露出させては耕すように吹き飛ばしていく。

 

「ヤバいっ……! このままじゃ、こっちも巻き添えだっ」

「その前にあの瓢箪を破壊しやせんと! 炭と油とに塗れて、ここら一帯が滅茶苦茶になっちまいやすぜ!」

「……くそっ! 同士討ちなら他所でやってほしいなぁ!」

 

 元より、九十九と彼らは共闘関係にある訳では無い。三つ巴の状況にある以上、こちらを勘案する義理など彼らには無いのだ。

 そう分かってはいるけれど、口から悪態が漏れてしまう。二の句を奥歯で噛み潰し、流れ弾として飛んでくる炭火を破壊した。

 砕けて消える炭を横目に、素早く妖気を装填。鋭い火の弾丸で、アブラスマシを狙う。

 

「妖術、《日輪・あけぼ──ッ!?!?」

 

 偶然か、意図的にか。それを判断する術は、今は無い。

 この場で確かな事実として語れるのは、九十九が狙撃の体勢を取った瞬間、1発の油玉が彼の直線上に迫ってきた事だけだ。

 

 突然視界に割り入ってきた土気色の塊に、一瞬だけ面食らう。

 引き金にかけた指の力さえ緩むが、すぐに歯を食い縛って我に返り、今度は迷わず撃ち放った。

 

 射撃の余波で“ごまかし”のカーテンを破りながらも、弾丸は自らの役目を果たす為に虚空を駆ける。

 貫通力に秀でた炎の針が油の膜を貫き、破壊し、弾けさせ。

 そのまま回転を衰えさせる事なく飛翔すると、軌道を曲げずに瓢箪へと突き進む。

 

 だが、そこまでだ。

 

「ヒョウタンの野郎も、リトル・ヤタガラスも! 一切合切消し飛ばしてやるよォッ!!」

 

 この場の誰も想定していなかった一手。術者であるヒトウバンでさえ、意図していなかっただろう事象。

 彼が展開し、射出した炭火の内の1つが、九十九の放った弾丸を横合いから襲ったのだ。

 

 如何に高い貫通力を持つ炎の針と言えど、横から高質量かつ高速の一撃を受ければ、その威力に意味は無い。

 容易にへし折られた弾丸は火の粉となって溶け消え、それから数秒も経たない内に炭火は落下先の路面を砕く。

 細かい瓦礫が巻き上げられて、ほんの数瞬だけ少年の視界を塞ぎにかかった。

 

 それこそが、命取りとなる。

 

「ん、なぁっ──!?」

「──っ!? 坊ちゃん、前!」

 

 小規模な砂煙で遮られた正面から、油玉が飛来する。

 意識の外にあった事象だけに、九十九は反応が遅れる。対処が遅れる。迎撃が遅れる。

 刹那の後に現状を理解して、火縄銃に弾を込めようとするが──時既に、遅し。

 

「──ぁっ!? 銃が……っ!」

 

 油玉が、九十九に着弾する──否、その認識は誤りだ。

 正確には、彼が構えていた火縄銃に着弾し……その銃身を、妖気の油でものの見事に包み込んだ。

 その拍子に手の力が緩まった事で、銃は少年の手を離れ、火縄銃をどっぷりと内包した油玉だけが後方へと飛んでいく。

 

 それを一瞬遅れて把握し、途端に顔が青褪める。

 アブラスマシが行った盛大なデモンストレーションは、ほんの数分前だ。1度でも油の中に取り込まれれば、油玉の破壊と共に内部の物体は消失する。

 焦りが神経を通して足まで伝搬し、少年の小さな体は踵を返した。妖怪2体が相争う場に背中を向けて、だ。

 

「ちょまっ、敵はまだ健在にどつき合ってやすぜ!? 今、背中を向けたら……」

「分かってるけどっ! でも、あの銃を手放す訳には──ッ!」

 

 足の裏に火をつけて、爆発と共に水平方向へ跳躍。

 幅跳びのようなフォームで火の粉を押し退け、火縄銃を取り込んだ油玉へと一直線に肉薄する。

 

 相手は、シャボン玉に似た性質を持っている。安易に手を突っ込めば、それが「シャボン玉を割った」と見做されて油玉が弾け、銃も同じ運命を辿るだろう。

 ならば、安易な手の突っ込み方をしなければいい。

 

(あの時、ヒトウバンの放った炭が簡単に呑み込まれたのは……多分、妖気の差! ヒトウバンの炭よりも、アブラスマシの油の方が妖気が濃かった……だから競り負けたんだ。なら僕も、それに対抗するには妖気を使えばいい!)

 

 経験則に由来する直感ではなく、本能的な直感によって正解を導き出す。

 中空を裂きながら、腕に妖気を纏わせる。足の裏に宿した妖気を爆発させるのと同じ要領で、指の先に至るまで熱を巡らせる。

 そうして飛びついた油玉に向かって、何の躊躇も無く両腕を突っ込んだ。

 

──グプッ、ズブブブ……!

 

 ゼリーみたいだ。九十九は、思考の隅で微かにそう思った。

 指を突き入れた瞬間にまず感じたのは、お菓子のゼリーを軽くスプーンでつついた時のような、プルプルとした弾力。

 そこから妖気を意識しつつ更に腕を押し込めば、ドロドロで重たい粘液の中を掻き分けるような感触がこれでもかと纏わりついてきた。

 

 油にしては粘っこく、重たく、じっとりと絡みつき、奥へ伸ばそうとする力を阻害する。

 それでも必死になって腕を捩じ込み、油をしごき、遂に銃身へと指先を届かせる。

 

「よし、後は引っ張るだけ──」

「させるかぁっ!」

 

 背中を向けていた為に九十九からは見えないが、彼が火縄銃を取り出そうとしている事を認知したアブラスマシが妖術を行使し始めた。

 それは、放出した油玉の作為的な操作と誘導。無から勢いを付与された油玉は、少年にしがみつかれたままに動き出す。

 その軌道が目指す先には、折れて倒れた標識を薪に燃え上がる炎があった。

 

「ヤバいヤバいヤバい! 早く手を抜いてくださいやし、坊ちゃぁん!?」

「ダ……メ、だっ! これは、この銃、はぁ……っ!」

 

 両の指10本で銃身をしかと握り締め、一気に腕を引く。

 油玉が独りでに移動しているが故に、それにしがみついている自分も上手く重心を制御できず、思ったような力が入らない。

 それでもなお、火縄銃を引き摺り出そうとする。炎が間近に迫る中、ドロドロネバネバとした妖気の油を掻き分けて。

 

「僕の、僕たちのご先祖様の……大事なっ、形見なんだから──ッ!?」

 

 

──POW!!

 

 

 炎に接触した瞬間、引火した油玉は当然のように弾け、1秒にも満たない内に消え失せる。

 至近距離で破裂の衝撃をまともに受けた九十九もまた、吹っ飛んだ拍子に焼けたアスファルトへ叩きつけられ、その身をゴロゴロと転がした。

 

 当然、肩に乗っていたイナリは墜落と同時に吹き飛ばされて、ベシャリと路面に倒れ伏す。

 彼はヤタガラスとしての特性を持つ九十九とは違い、ただのバケギツネ。熱への耐性を持っていない中での強行軍が祟り、もう1歩も動けない状況だ。

 

「ぼ……っちゃん。大丈夫で、やすか……!?」

「ハァ……ハァ、ゲホッ!? ゲホッ……う、ん。僕、も……銃も、無事だよ……」

 

 煤に塗れた毛皮を震わせて安否を問えば、離れた場所から息も絶え絶えの言葉が返ってくる。

 仰向けに倒れながらも突き出されたその手には、油でベトベトになった火縄銃が握られている。

 間一髪のところで、何とか抜き出す事に成功していたのだ。

 

 しかし──

 

「た、だ……ちょっと、腕が痛い、や……ははは」

 

 火縄銃を必死になって握り締めている両腕からは、夥しい量の血が滲み出していた。よくよく見れば、数え切れないほどの切り傷がぱっくりと割れている。

 

 本当に、ギリギリだったのだ。

 油玉が破裂する寸前に銃を抜き出したはいいものの、代償として破裂の威力を最も受けたのが両腕だった。

 まだ動かせるようだが、傷だらけという表現すら陳腐になり得る有様である。悲鳴こそ上げてないものの、今の彼は尋常ではない激痛に苛まれている筈だ。

 

 ほんの一手で劣勢に陥った九十九。しかし、そこに更なる追い打ちがかかった。

 近付いているのだ。悪しき妖気の気配が、着実に、ダウン状態の彼の下へと。

 

「へっへっへ……隙だらけにも程があるぜ、八咫村のヤタガラス! ここまでズタボロなら、あっしでも簡単に殺せちまうなぁ?」

「あっ、おい待て! テメェだけ抜け駆けしてンじゃねぇぞ!?」

「うるせぇ! 『げえむ』は早い物勝ちなのさ。だからあっしは、お前の『げえむ』に介入したんだ。ここが確実な『勝ち』を狙える、またとない“機会(ちゃんす)”だったからなぁ!」

 

 相手の意識が逸れたほんの一瞬を突いて、アブラスマシが先行する。

 無論その狙いは、倒れたまま動けないらしい九十九にトドメを刺す為だ。

 それに気付いたヒトウバンも慌てて動き始めるが、彼我の距離からして間に合う事は難しいだろう。

 

「やめっ……坊ちゃん、逃げてくだせぇ!」

「遅いっ!」

 

 蓋を閉めた瓢箪の口を持ち、通常の用途とは上下を逆転させた状態──つまり、棍棒に見立てて握り締めた。

 それを跳躍と同時に振りかざせば、轟と空気を引き裂くほどの質量が唸りを上げた。

 

「死ねェ! 妖怪リトル・ヤタガラスッ!!」

「ぁ──」

 

 あと数秒もしない内に、自分の頭はあの棍棒でかち割られるのだろう。

 その事をぼんやりと認識した直後、九十九の心の奥に炎が灯る。

 チリッ、と微かな音を立てたそれは、ほんの僅かだがカラスのシルエットを象ったような気がして──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──この『げえむ』、一時無効とさせてもらう」

 

 地面が、消し飛んだ。

 

 荒れ狂う風圧を中空で真っ向から喰らい、バランスを崩したアブラスマシはその場に転げ落ちた。

 倒れ伏した九十九やイナリもまた、その衝撃で吹き飛ばされ、またもや路面を無防備に転がっていく。

 

 突然の轟音に耳を(つんざ)かれた彼らは、何が起きたのかを理解できていない。

 唯一彼らと離れた場所にいて、かつ生まれつき浮遊能力を持っていたヒトウバンだけが、その状況を正確に理解できた。

 

 突如として空中から落下してきた()()が地面に着地──或いは衝突し、それによって隕石の落下と見紛う衝撃と轟音を巻き起こしたのだ。

 今、目の前には馬鹿デカいクレーターが形成されている。ヒトウバンの放つ炭火の雨でさえ、これほどのクレーターは生み出せないだろう。

 

 それは即ち、落下してきた()の重量があまりに大き過ぎる事を意味しているなど、『現代堂』に所属する妖怪たちならば誰でも知っていた。

 

「な……何のつもり、だ。今は、オレサマの『げえむ』をやっている最中……の、筈だろう」

 

 その声は震えていた。

 あれほど苛烈に、あれほど威勢のいい声を上げていたヒバチ・ヒトウバンは、己の声が震えている事実に愕然とする。

 

「無論、貴様に用は無い。貴様の『げえむ』は正しく進行されるべきものであり、それを阻害する要素は排除せねばならない。……意味は、分かるな?」

 

 頷くしかなかった。頷く以外の選択肢は、頭の中から消え失せていた。

 

 その声無き返答に満足したのか、()()はゆっくりと巨体を揺るがした。

 全身を刺すような激痛の中、未だ倒れたままの九十九は、()()の姿を目の当たりにする。

 

「な……んだ、アレ……。鎧……武士……?」

 

 その体躯、概算で4m。肩幅だけでも、一般男性が両腕を広げた際の長さよりも大きいものだった。

 そんな巨体が、全身ありとあらゆる箇所を甲冑で覆い隠していた。傷だらけで、しかし光沢を失ってはいない、よく使い古された甲冑だ。

 

 それはまるで、武装というよりも己の正体を秘匿しているかのよう。

 本来ならば、具足や篭手の隙間から見える肌でさえ、追加の装甲や固い布地などで徹底的に隠されている。

 顔面でさえ、鬼を思わせる意匠の面頬が厳重に覆い、唯一露出している目の部分でさえ暗闇に閉ざされている有様だ。

 

 そして何よりも目を引くのは、位の高い武士の如き絢爛豪華な兜。

 無骨な印象の目立つ甲冑の中にあって、「神」の1文字を装飾として持つその兜だけが、彩りと派手さに満ちていた。

 

 総括するならば、全身甲冑姿の大男。

 そんな巨体が、右手に握ったこれまた巨大な薙刀をゆるりと動かした。

 

「貴様が、妖怪ニンゲン……いや、リトル・ヤタガラスか。話は、山ン本から大方聞いている」

「や、まん……!? おま、え……ま、さか」

「貴様にも後で用がある。だが、今ではない。何よりもまず、俺が優先すべき事項は──貴様だ、妖怪ヒョウタン・アブラスマシ」

 

 薙刀が緩やかな動きで焼けた虚空を切り裂き、その切っ先をある1点に差し向ける。

 ギラリと鋭く輝く刀身が示すのは当然、今ようやく起き上がったばかりのアブラスマシだ。

 

 刀身の輝きに睨まれた彼は、ビクリと身を震わせた。

 次第に、体がガタガタと震え出す。全身の毛穴が開き、汗が吹き出す。顔は青褪め過ぎて、いっそ死人のようだ。

 

 恐れている。目の前の巨漢を、痩せぎすの小悪党は途方も無く恐れている。

 それは、九十九も肌を通して実感していた。血塗れ傷だらけで激しく痛む両腕が、あの大男に睨まれただけで更なる痛みに襲われたのだから。

 

「事前の警告にも拘わらず、他者の『げえむ』への不正な介入。そして、『ぷれいやあ』への攻撃行為、妨害行為。『ぷれいやあ』にのみ許されている『敵きゃら』への攻撃の無断実行。貴様がここまで阿呆とは思わなかった」

「あ、あああああ、あっし、はっ、ただ」

「俺の名を忘れたか」

 

 その一言で、アブラスマシの喉は悲鳴を上げる。

 最早、呼吸すら忘れて、絞め殺される寸前の小動物のような声のみが漏れ出した。

 

 そんな醜態を、甲冑の巨漢は侮蔑混じりに見ていた。

 面頬の奥底から、怒りと殺意の込められた眼光が放たれる。

 

「我が(あざな)は神ン野。『げえむ』の審判者として、『げえむ』の正常な進行を妨げる者は──一切の区別なく、処断する」



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其の伍拾玖 『げえむ』の審判者

「なに、あれ……!? なんで、街が燃えてるの……っ!?」

 

 小高い坂の上から遠くの景色を見渡して、五十鈴は呆然と呟いた。

 

 思えばここ数日、意味の分からない事ばかりが続いていた。

 地元での妖怪騒ぎと、それを政府が隠蔽している事実。そして上司からの「歪められた地脈を直してこい」という謎の命令。

 

 その為の準備やら、奉納する舞の選定やらが終わり、やっとの事で金鳥市に向けて出発したのがつい数十分前の事。

 上司の運転する車に乗っている最中、スマホのニュースアプリに届いた「金鳥市の繁華街で大規模な火災発生」との1文を見た時には大いに度肝を抜いたものだが、実情はもっと凄惨なものだった。

 

 今、車から降りたばかりの五十鈴の視界には、夜の空を赤く染めながら轟々と燃え盛る繁華街が見えている。

 周囲には野次馬もチラホラ見受けられるが、消防車のサイレンはちっとも聞こえてこない。見えるのは、遠くで通行規制をしている警察官のみだ。

 

 運転席から降りた上司──瀬戸もこの事態は想定していなかったらしく、しかしいつもと変わらない風に「お~」などと言って遠景を望んでいる。

 

「うわ~、派手にやりおったなぁ。まさか、こないな短期間の内に次の行動を起こしよるとは思わんかったわ。流石にボクも想定外やで」

「なに呑気に言ってんですか瀬戸課長!? ってか、消防署は何やってるの!? SNS見ても、警察が規制張ってるだけで消防車らしいものは何も見えてないって……」

「そらなぁ、当たり前やろ。あんだけ炎ビュービュー飛ばしよるような術使うんが相手やで? そんなんがわぁわぁやっとる中に消防車行かせたかて、あっちゅう間に燃やされてホトケさんなるんがオチやろ。無駄死にや、無駄死に」

「術、って……まさか」

「火事と喧嘩は江戸の華。火ぃ扱わせたら妖怪に敵うモンはそうそうおらんで。炎は文明を象徴すると同時に、死と恐怖の権化でもあるんや」

 

 ヘラリと笑って、目尻を弓のようにしならせる。

 いつもの事ながら、糸目で笑う上司の姿はどうにも胡散臭い。

 

「それは……いえ、分かりました。それで、私はどうすれば?」

「静観しか無いやろなぁ。五十鈴ちゃん、妖怪と戦う為の手段とか持ってへんやろ?」

天狗(イキ)った不良(ガキ)教育(わか)らせるのは得意ですよ」

「蹴った殴ったで殺せる相手なら楽やねんけどなぁ。生憎、奴さん方はそういうのやないねん。妖気から生まれたモノは、妖気を以て斃すべし。それが不文律や。せやさけ、あそこで暴れとるんを止められるとしたら──」

「……それが、九十九だと? 私の弟が今、あそこで戦っていると?」

 

 その問いに、答えが返ってくる事は無かった。

 瀬戸はただ、困った風なフリをして肩を竦めるだけ。

 不服そうな五十鈴を余所目に、彼は手を額に翳して目陰(まかげ)を作り、炎に包まれた繁華街をじっと見据えている。

 

「ま、一応こっちにも考えはあるさかい。どうしようもあらへんようなったら、昔のボクのツテをちょいと……辿っ、て……」

「……課長?」

「……最悪や。よりによって自分が来るんかい」

 

 その言葉の意味を問うよりも早く、巨大な爆発音が轟いた。

 繁華街の向こう側にナニカが墜落したらしく、それによって生じた衝撃と爆音が、遠く離れた2人の肌をビリビリと痺れさせる。

 眼下では、野次馬たちも悲鳴を上げていた。視線の彼方に見える金鳥市に向き直れば、墜落地点らしき場所から大量の砂煙が巻き起こっている。

 

「い……一体、今度は何が起きたのよ……っ!?」

「……かなんわぁ」

 

 そんな中で、瀬戸は小さく呟きを落とした。

 

「せいぜい死なんように気張りや、八咫村の」

 

 

 

 

 びゅぅ、と砂混じりの風が吹く。

 襲来した者の帯びる威圧感をこれでもかと溶かした砂塵の風は、単純な温度とはまた異なる冷たさを孕んでいた。

 ビルや路面を舐めては焦がす妖気の炎が、おぞましげな風に()み潰されて、徐々にその勢いを衰えさせていく。

 

 緩やかに、周囲の明度が低下する。

 あれだけ轟々と炎上していた筈の繁華街は、ただ1体の妖怪が出現しただけで、児戯の如く鎮火されつつあった。

 

「なに、を……ぐ、ぅっ!?」

「くっ……坊ちゃん。今は、動かないのが得策で御座いやす」

 

 満身創痍も同然の体を押して立ち上がろうとするも、両腕の痛みに耐え兼ねてその場に膝をつく九十九。

 その傍へと、全身を煤だらけ埃だらけにしたイナリが、ズリズリと這いずりながら近付いてきた。

 

「間違いねぇ。奴ァ……『現代堂』の幹部にして最強の武人、神ン野でさ。幾多の傷をつけられてなお、その鎧が砕ける事は無し。その膝が地につく事は無し……。(いわん)や、今の坊ちゃんでは太刀打ちもできやせん……」

「あいつが、神ン野……。は、はは……体が、震えて仕方ないや……」

「……無理もありやせん。80年前の大戦にて、奴に勝てた者は誰1人としておりやせんでした」

 

 立ち上がる気力さえ残っていないと言わんばかりに、ちっちゃなキツネの肢体は這うように倒れたまま動けない様子。

 せめても彼の盾になろうと、九十九は痛む体を動かして己の位置を前にズラした。

 言う事を聞かない膝から下は軋みを上げて、少年に膝立ち以上のモーションを許さない。

 

 頭痛を堪えて前方を見れば、2つの異形が対峙している様を目の当たりにできた。

 

 神ン野と名乗った、甲冑姿の大男。そして彼から薙刀の切っ先を突きつけられている、妖怪ヒョウタン・アブラスマシ。

 特にアブラスマシの方は、先ほどまでの威勢のよさが嘘のように、血の気の失せた顔で酷く震えているようだった。

 

「み、見逃してくださいよ、ねぇ? 今の戦いは見ていたでしょう? あっし、あっしの妖術は、こいつらよりも強いんです。ヒバチなんかよりも、あっしの方が、げっ、『げえむ』の舞台に相応し」

「それを判断するのは俺ではない、山ン本だ。そして、山ン本は『ぷれいやあ』としてヒバチ・ヒトウバンを指名し、『げえむますたあ』である信ン太がそれを認可した。そうである以上、これはヒバチの『げえむ』であり、その領域を貴様が侵す事は罷りならん」

 

 薙刀を持ち直し、持ち手を勢いよく地面に叩きつける。

 石突が砕け散ったアスファルトを叩き、再び大気を鳴動させる。クレーターの上から刻まれた亀裂の数々が、薙刀単体ですら相当の重量を誇っていると告げていた。

 

「貴様の賢しらな提案は、全て信ン太が却下した。山ン本の決定以上に、『げえむ』において重要となる『げえむますたあ』の決定だ。それさえ、貴様は踏み躙っている。その愚かさが、まだ理解できぬか?」

「……っ、『げえむ』の枠組みがそんなに大事ですかい!? あっしは、好きなだけ人間を甚振り害する事ができると聞いて、『現代堂』に入ったんだ! それなのに何故、好き放題に振る舞っちゃいけねぇんですか!?」

「……成る程。そういえば貴様は、80年前の大戦以降に入った新参だったな。だが、そんなものは言い訳にならぬ。『げえむ』の摂理、道理については懇切丁寧に語り聞かせた筈。それを理解してなおの暴挙であるならば、それ即ち──」

 

 1歩、踏み出した。

 全身に纏う甲冑、具足、鎧、兜、装束、その全てが連動してガシャリと音を鳴らす。

 ただ金属と金属が擦れ合った結果の音でしかないのに、この場に集った者たちは、その音を死神の嗤う声であるかのように錯覚する。

 

「我らが百鬼夜行、『現代堂』への造反である。故に俺が、貴様に『ぺなるてぃ』を下そう」

 

 その重く低く冷たい声色は、まさしく死刑宣告のようだった。

 

「……尤も、ここで貴様を()()()()とするのは簡単だが、それによって他の者どもに『げえむ』への参加意欲を削がれても困る。よってまずは、貴様から『げえむ』への参加権を剥奪する。次いで審判役、つまり俺の手による『ぺなるてぃだめえじ』の執行。そして──」

「ふ──ふざけるなっ! こんなところで、“魔王”への道が断たれて堪るかァッ!!」

 

 それは別に、理不尽への怒りとか正当性の主張とか、そういう義憤何某(なにがし)に由来するものではない。

 ただ、自身に近付く“死”の圧に気を()られ、思考を放棄して自棄(やけ)っぱちになってしまっただけ。

 その結果として──アブラスマシは、瓢箪の蓋を引き抜いた。

 

「妖術《油一匁(アブライチモンメ)》ェッ! その薙刀さえ呑み込んでしまえば、あっしにも勝機がある筈だ!」

 

 油が溢れる。あらゆる道具を殺す魔の油が瓢箪の口から膨れ上がり、妖怪はそれを渾身の力で振り撒いた。

 どぱどぱと際限無く放出される油玉の群れが、神ン野ただ1人を排除する為に猛進する。

 

 狙うは、彼が右手に持つ巨大な薙刀。

 油が包み込む事のできる道具には、大きなの上限など無い。当然、彼の持つ得物とて対象になり得る。

 

 あの薙刀さえ油玉で包み込み、諸共に破壊してしまえば、相手は丸腰も同然だ。

 後は上手く不意を討つなり逃げ果せるなり。いくらでも勝機は巡ってくる。手繰り寄せる事ができる。

 頭を使えばこの程度の窮地、どうとでもなるものだ。アブラスマシは内心でほくそ笑む。

 

 それが、(はかりごと)と呼ぶにはあまりにも浅はか過ぎると理解しないまま。

 

「ふん」

 

 嘲りでも、呆れでもなく、ただの動作として呼吸音が漏れる。

 

 呼吸を待って、薙刀がゆっくりと動いた。

 人間であれば両腕で抱えてもなお持ち上げられないだろう寸法と質量を持つそれを、神ン野は軽々と片手だけで振るっている。

 油の波濤が今にも眼前に迫る中、彼は何の感傷も抱かないままに佇み……そして。

 

「稚拙」

 

 

──するり

 

 

 その時、九十九は自分が認識を狂わされているのかと感じた。

 そうでなければ、今まさに神ン野へ到達しようとしていた油玉が、まるで柔らかい焼き菓子か何かのように切り裂かれる筈が無いからだ。

 

「……は?」

 

 豆鉄砲を食らった鳩のように、惚けた風の声がアブラスマシの口から零された。

 なんせ、あれだけの数を放った筈の油玉が今、1つ残らず両断されていたのだから。

 

 いっそ穏やかとさえ思える動きで振るわれた薙刀は、迫る油の塊全てを切り捨てていた。

 ヒトウバンの放つ炭火を幾多も呑み込み、妖術同士のぶつかり合いでは優勢ですらあった筈の術が、いとも容易く。

 ただの1つも撃ち漏らす事無く切断された妖気の油は、最初から存在しなかったかのようにその場から溶け消える。

 

 神ン野は薙刀を振るい、自らに襲い来る妖術を切り捨てた。

 文字に起こせばただそれだけの事である筈なのに、誰もがその事実を認識できずにいた。

 

「え……なん、で?」

「惰弱。己の才覚(ぽてんしゃる)に驕り、鍛錬を怠った結果が()()だ」

 

 自らの得物を軽く上下に振って、刀身にへばりついた油の残滓を払う。

 そうして再び、石突をそっと地面に置いた。軽い動作で置かれたにも拘わらず、薙刀は重い震動を微かに残す。

 

「強い妖気は、己より弱い妖気を捻じ伏せる。弱い妖気を込めた術は、己より強い妖気を込めた術に競り負ける。それが妖術の道理。大方、容れ物を由来に持つが故の潤沢な妖気に胡座をかいていたのだろうが……」

 

 ギロッ、と。

 刃のように鋭い殺意を宿した眼光が、痩せぎすの妖怪を強く()めつけた。

 

「その程度の木っ端な妖気では、俺の得物はおろか、篭手すら傷つける事は叶わぬだろうよ」

 

 何も、難しい事ではない。

 神ン野の方が、ヒョウタン・アブラスマシよりも遥かに強い。

 これは、ただそれだけの話だ。

 

()()()はこれで終わりか? 審判役への攻撃もまた、違反行為と見做される。自ら『ぺなるてぃ』を増やすとは、殊勝な心がけだな」

「あ、あぁぁああぁぁぁあ、ぁあ、あっ、あ」

「そして……攻撃とは、このようにするのだ」

 

 瞬きをする間に、神ン野の姿は消えていた。

 否、彼の巨体は驚くべき速さで地面を蹴り、刹那の内にアブラスマシへと接敵していたのだ。

 その手に握られた薙刀は、大きく後方へ伸ばされ──つまり、振りかぶられている。

 

 くるり。手の内で柄が転がされ、刀身と(むね)を裏返した。

 轟、と空気さえ殴り飛ばしながら、武器と呼ぶにはあまりに巨大な鉄の塊が──

 

 

──ズ、コォッン!

 

 

 超常の膂力で殴り飛ばされた生物は、ボールのように容易く、そして軽い拍子で吹っ飛んでいく。

 人の常識の中で過ごしていては決して知り得なかった摂理を、九十九は目撃した。

 

 渾身の力を込めた、薙刀の棟での一撃──即ち峰打ちはアブラスマシの脇腹を強かに打ち据え、そして思いっきり吹き飛ばした。

 骨が粉砕される歪な音が明らかに聞こえた後、酷く痩せた薄汚い体躯は少年の視界から消失する。

 あまりに高速で吹き飛んだせいで、その様を肉眼では捕捉できなかったのだ。

 

 一瞬遅れて、見当違いの方向から盛大な炸裂音が轟く。

 ハッと我に返ってそちらを見れば、焼け焦げたビルの壁面が派手に砕け、細かいコンクリートの欠片によって煙をもうもうと立てていた。

 

 峰打ちを喰らった妖怪の体が壁面まで叩きつけられ、あのように煙が立つほどの衝撃を伴って激突した……らしい。

 ()()()というのは、その事を状況から推測できるだけで、実際に目に見えた訳では無いからだ。

 

「加減はした。その程度で死ぬほど妖怪はヤワではない。立て」

 

 数秒の残心を置いて、体勢を整えた神ン野がゆるりと兜の切っ先を持ち上げる。

 直立した構えを取る4mの巨体は、ガシャリと音を鳴らして頭の向きを動かし、煙の立ち込めるビルを睨んだ。

 

 訝しむように首を傾けたのち、うちわで仰ぐような動作と共に軽く左右へ振られる薙刀。

 それによってぶわりと吹き消された煙の向こう側、壁面に大きな亀裂を生み出した衝突地点に……ヒョウタン・アブラスマシの姿は無い。

 

 死んだ訳でも無ければ、どこかに隠れ潜んでいる様子も見受けられない。

 ならば、残る答えはひとつ。その結論に至り、面頬の奥から溜め息を吐き出した。

 

「……逃げたか、くだらん。あの調子では、店に戻る事も無いだろうな。己を知恵者だと思い込む愚者は、これだから扱いに困るのだ」

 

 吐き捨てる風にそう零した後、神ン野の巨躯が後ろを振り向いた。

 ガシャガシャと無機質な音を立てて彼が見据えたのは、黙したままに一部始終を見ていたヒトウバンだ。

 蹂躙とすら呼べない一方的な攻防を目の当たりにした異形は、浮遊しながら己の体を縮こまらせている。

 

「ヒバチ。審判役としての判断を以て、貴様の『げえむ』は一時中断とする。『現代堂』に戻って傷を癒し、妖気を練り直すがいい」

「な、何故だ!? おっ、オレサマはまだやれる! 違反行為だって何も……」

「貴様に瑕疵は無い。仕切り直せ、と言っているのだ。ヒョウタンの愚かな介入によって、貴様という怪談(げえむ)の価値は落ちた。それを払拭する為にも時を置き、改めて侵攻せよ。いいな?」

「ぐっ……あァ、分かったよ! クソッ、あのカス野郎のせいでケチがついちまった!」

 

 不承不承といった具合に了承したヒトウバンは、自らの浮遊する高度をグッと引き上げた。

 この場にアブラスマシへの侮蔑だけを残して、異形の生首は黒ずんだ空の向こうに飛び去り、小さくなっていく。

 

 その様子を見届けて、面頬から小さく「さて」の一言が漏れる。

 鎧の擦れる音を幾度も立てながら、甲冑の巨漢はまた異なる方向へと視線を動かした。

 彼が見やる方向にいるのは──

 

「妖怪リトル・ヤタガラス……いや、八咫村家の長子」

「……な、に?」

 

 ギラリと鋭く光る目線に睨まれて、傷だらけの九十九は僅かに怯む。

 しかし、怯んでいる訳にはいかない。奥歯が痛くなるほど噛み締めて気を入れ直し、立ち上がる為の気力を全身に巡らせようと試みた。

 

「僕、を……殺す? これまで、散々……()っ!? ……お前たちの仲間を、倒して……きた、もんね」

「確かに、貴様はこれまで、我ら『現代堂』の妖怪を3体も屠ってきた。カタナ・キリサキジャック、チョウチン・ネコマタ、フデ・ショウジョウ。カタナだけは直接目にした訳でこそ無いが、そのどれもが、山ン本の認めた実力者だった」

 

 だが。

 区切るように言葉を発し、目が細まった。

 その素顔は装甲で覆い隠されているが故に見えないが、それでも九十九には、神ン野が目を細めたように感じられた。

 

「奴らが死んだところで我らは悲しまない。憎まない。憤らない。弱い妖怪が死ぬのは当然の事だ。我らは仲間ではなく、“魔王”の名を継ぐ山ン本の下に集っただけに過ぎない。貴様ら人間や“八咫派”の妖怪どもと違い、我らは憎悪などというくだらぬ理由で戦いはしない」

「なら、どうして……? どうして、僕に矛を向ける……っ!」

 

 愛用の火縄銃を杖のように扱ってまで、無理やりに立とうとする。

 足腰が痛むが、それ以上に油玉の破裂を至近距離で受けた両腕が狂いそうになるほど痛い。

 銃を手に持ち握っているだけでも苦痛に襲われる始末だ。杖代わりにするべく力を込めれば、それだけで血が噴き出した。

 

 そんな彼に対して、神ン野は薙刀の切っ先を向けていた。

 人間の身長の倍ほどはあるだろう長さの得物は、今にも独りでに動いて敵を切り裂くと説明されたとして、容易に納得できるに違いない。

 

「見定める為」

「見定め……。なに、を……僕を?」

「ああ。山ン本は、貴様を『げえむ』の『敵きゃら』として扱おうとしている。だが、『げえむますたあ』である信ン太はまだ納得しかねている。俺もそうだ。故に、見定める。貴様が、静観するに足る存在かどうか」

 

 徐に吹いた風が、ビルに灯っていた最後の炎を掻き消した。

 夜の暗がりに満ちた繁華街から、全ての炎が消える。ヒバチ・ヒトウバンの術によって炎上していたビル街は、闇に閉ざされた残骸へと果てる。

 

「選べ。この場から遁走し、以後『げえむ』に関わらぬ道か。それともこの場で武器を取り、俺に挑む道か」

 

 巨体がゆるりと動き、究極の選択肢を突きつける。

 薙刀を手に、巨躯の甲冑は戦闘の構えを取った。

 

「逃げればまず生き延びるが、“八咫派”は失墜する。挑めば……生と死、どちらの結末に至るかは、俺ですら確約できぬ」

「逃げて……くださいやし、坊ちゃん。元より、これは……わてら先代連中の、無能が招いた道。坊ちゃんが、関わる義務や、義理、など……最初から、無かった……ん、でさ」

 

 負担(ダメージ)を受け過ぎたあまり、潰れた饅頭のような状態から脱却できずにいるイナリ。

 その上でなお、彼はガラガラの声で逃げるよう説く。自分たちの名誉や使命よりも、九十九が生きる道を選ぶよう説く。

 

「スズメや、ご当主様……とて、きっと、同じ事を……仰る、でやしょう。でやすから……」

「……うん。ありがとう、イナリ」

 

 緩く頷く。

 そうして完全に立ち上がった九十九は、火縄銃をグッと握り締めた。

 力を入れた拍子に腕の傷が開くが、そんな事を気にしている余裕すら無い。

 

「でも……僕は、戦うよ。ごめんね。本当に、ごめん」

「な……!? 馬鹿な、事を……っ! 勝機なぞ、どこにも……」

「うん……無いだろうね。無謀なのは分かってるし、こんな事をしても僕になんの得も無い事だって……一応、分かってるつもり」

 

 そう言いながらも、銃口からは赤く穏やかな光が漏れた。

 弾丸が、込められている。妖気より生成した炎の弾丸が、装填されている。

 それは果たして、九十九が妖術を行使した事の何よりの証明となった。

 

「それでも、僕は……ここで、戦わなくちゃいけない気が、するんだ」

「……その意気や、善し」

 

 ズイ、と神ン野が深く腰を落とした。

 薙刀を後ろに構え、いつでも薙ぎ払える態勢を取っている事は明らかだ。

 

「来い。この俺に、傷の1つでもつけてみよ」

「そのつもり。……行くよ」

 

 気の昂りにつれて、首元の黒いマフラーが風も無くはためいた。

 その感覚に背中を押され、リトル・ヤタガラスは前方に向かって飛翔した。



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其の陸拾 絶望的な実力差

 敵に向かって駆け出す最中、八咫村 九十九(リトル・ヤタガラス)は己の心が震えている事を自覚した。

 

(あいつを……神ン野を見ていると、目がチカチカするみたいだ)

 

 心臓が張り裂けそうなほどの鼓動に乗せて全身を巡る妖気が、血管を内側から削いでいるような感覚に襲われる。

 視界は明滅を繰り返し、眼前の敵を直視したくないと本能が叫んでいる風に錯覚する。

 両腕を軋ませる鈍い痛みが、逆に自らの正気を維持してくれている始末だ。

 

 心のどこかが呟いた。

 このまま、銃身を下げてはどうだろうか。引き金に指を添えるのをやめてはどうだろうか。

 踵を返して、銃を捨てて、イナリを見捨てて、どこか遠くへ飛び去って、逃げてしまえばどうだろうか。

 

 虚ろな甘言を奥歯で磨り潰しても、その度に怖気が走り、力が抜けてしまいそうになる。

 目に見えない力で背後から肩を掴まれ、そのまま後ろへ引き摺り倒そうとしている何者かがいる。素直にそう思えれば、どれほど楽だろうか?

 

 分かっている。これは別に、神ン野の持つ恐ろしい妖術でも、誰かから妨害を受けている訳でも無い。

 分かっている。これら一連の不快感の原因と、ここまで己の心を揺さぶるモノの正体を。

 

(僕は──神ン野が、怖い)

 

 恐怖。

 生けとし生ける存在が持つ情緒の中で、最も原始的なモノ。

 

 敵への恐怖。脅威への恐怖。窮地への恐怖。恐ろしいモノへの恐怖。

 そして何よりも、死への恐怖。

 

 このまま馬鹿正直に神ン野へ突っ込み、攻撃を仕掛けても、自分は容易く殺されるだろう。

 その確信から来る死への恐怖が、九十九のあらゆる機能を狂わせようとしていた。

 

 分かっている。彼ら悪しき妖怪たちは、人の恐怖を求めている。

 そして、九十九は人間である。如何にヤタガラスの力に目覚めれど、その身に流れる血は確かに人間としてのものだ。

 九十九が神ン野を、妖怪に恐怖するとは即ち、意図せずして彼らに利する形となってしまう。それは、分かっているけれど。

 

 

──恐怖が、ここまで心を震わせるものだなんて思わなかった。

 

 

 初めて妖怪を見た日。カタナ・キリサキジャックの殺戮劇に見舞われ、己も殺されそうになった時。

 あの時でさえ、ここまでの恐怖が本能を駆り立てる事は無かった。

 その事実こそが、神ン野という妖怪の持つ強さと圧を実証していた。

 

 どこからかカラスの鳴き声が聞こえ、舌の根に強く力を込める。

 そうでなければ、気合を入れる為に歯を食い縛ろうとした拍子に、自分の舌まで噛み千切ってしまいそうな気がしたからだ。

 

(震えるな……! 恐れてもいいから、震えで体を鈍らせるな!)

 

 全身の筋肉にそう言い聞かせ、銃口を前に突き出す九十九。

 痛みと恐怖が綯い交ぜになった指先に上手く力が入らず、強引に引き金を押し込んだ。

 

──BANG!

 

 銃声を引き連れて飛び出したのは、バスケットボールよりも更に一回り大きな火球だ。

 妖怪ヤタガラスとして帯びる火の妖気を詰め込み、濃い緋色に膨れ上がらせた灼熱の弾丸。

 

 その一撃は、かつて3体の妖怪を焼き焦がし討滅してきたそれよりも遥かに大きい。

 直撃しようものなら、尋常の妖怪であれば決して無事では済まないだろう。

 

「……火の妖気。それも我ら妖怪が持つような、夜と闇を司る(いん)の気ではなく、昼と光を司る(よう)の気。成る程……確かに木っ端の者ならば、己が持つ陰の気を食い潰されて焼き尽くされるだろう」

 

 尋常の妖怪で、あれば。

 

「だが、妖気の質が低い」

 

 薙刀が、真横に振り抜かれた。

 一切の曇りを見せない刀身は、軌道上の塵や埃すら引き裂いて虚空を滑る。

 その煌めきが向かう先には、今にも己へと迫る灼熱の火球があった。

 

 

──さくり

 

 

 火球が、左右にブレて見える。仮にそう認識した者がいたとすれば、その者の認識は誤りである事を告げなければならない。

 ブレているのではない。丁度ど真ん中を水平に切断された火球が、上下それぞれの半球型に分裂しているのだ。

 

 それを成したのは神ン野であり、それに用いられたのは水平に薙ぎ払われた薙刀である。

 振り抜かれた得物の先端、たった今しがた灼熱の塊を切り裂いた筈の刀身には、焦げた後など1つも見受けられない。

 

 術の核をパックリと分割された炎の弾丸は、標的に着弾する事なく、瞬く間に炎の勢いを衰えさせて消滅。

 その射線上にあった砂埃だけが、火球が存在していた証明として、焦げた匂いを甲冑に浴びせていく。

 

「よもや、今のが必殺の切り札では無いだろう。これで終わりなど──ふむ?」

 

 そこで、気付く。

 視界の内に、九十九がいない。

 向こうに見えるバケギツネが術を展開した訳でも無いようだ。彼は生きてこそいるようだが、倒れ込んだまま動いていない。

 

 どうやら今しがたの一撃は、半ば目眩ましの用途も兼ねていたらしい。

 巨大で、真っ赤で、爛々と強い光を放つ弾丸。それに対処しようと行動すれば、必然的にその背後の射手から視線は逸れるものだ。

 

 では、彼はどこに?

 先ほどまでの流れから、ただ逃げただけとは考え辛い。

 であれば──

 

「死角か。不意を討つ気だな」

「なんで気付くかなぁ……!」

 

 右側面。そう当たりをつけて、ガシャリと首元を揺らす。

 果たして振り向いた方向に九十九はいた。こちらに向けて火縄銃を構えた態勢で。

 

 左足を大きく側面へ広げた姿は、恐らく加速した状態で神ン野の死角に回り込み、足の裏で強引なブレーキを効かせたが故の結果だろう。

 彼の構えから薙刀を横に薙ぐ事を察知し、その死角になるだろう場所として右側面を選択したのだ。

 

勝負勘(せんす)はあるようだな。鍛錬による結果……いや、本能に由来するものか。貴様が覚醒(めざ)めたテッポウ・ヤタガラスの血は、よほど濃いらしい」

「詳しくは知らないし……お前に勝った後、ゆっくりと考えさせてもらうよ!」

 

 神ン野は言った。傷の1つでもつけてみよ、と。

 それを満たせればこちらの勝ち……などと都合の良い発想をする気は無い。

 けれども、かすり傷さえ負わせられないのならば──彼が、こちらを認める事も無いのだろう。

 

 だから、選択する。

 この場において適切な弾種を。適切な妖術を。

 

「妖術……《日輪・曙》ッ!」

 

 発砲音ののち、鋭い弾丸が咆哮を上げた。

 

 ショウジョウとの戦いで編み出したこの術弾は、得てして通常の《日輪》よりも汎用性が高い。

 威力こそ落ちるものの、重視したのは貫通性と発射速度。妖気によって銃身内部に生成した螺旋(ライフリング)が、それらの性能をより向上させる。

 

 その速度は、先ほどの火球とは比較にもならない。

 暗闇さえ貫いて、緋色の針は標的へと一直線に走り抜けた。

 

──POW!

 

 炎の炸裂する音が聞こえる。

 

(貫い──)

 

 そこで、思考が止まった。

 九十九の目に、彼の常識では凡そ信じ難い光景が飛び込んできたからだ。

 

「単一の威力よりも、装甲の突破に重きを置いた術か。発想としては悪くない。だがやはり、妖気の練り込みが甘いな」

 

 あれは、なんだ? 何が、摘まれている? あいつは、何を摘んでいる?

 いや、その正体も目の前で起きている事も、全てを理解できる。ただ、理解したくないだけだ。

 

 少年の脳は、数秒ばかり認識を拒んだ。

 超高速で放たれた筈の弾丸を、()()()()()()()()()()()()()()()()()など、とてもじゃないが認識したくは無かった。

 

 敵の装甲を、防御を、阻むモノ全てを貫く突破する為に生み出された妖術《日輪・曙》。

 神ン野はそれを、薙刀を握っている右手を少しばかり動かして、親指と人差し指のみで受け止めている。

 

「見ろ。弾丸そのものが脆くなっている。これでは俺ではなくとも、砕くかへし折るか、どちらにしても力を持つ妖怪であれば破壊は可能だ」

 

 ベキリ。

 シャーペンの芯を指先で折り砕くような気軽さで、貫通性を高めた針の弾丸は呆気なくへし折れた。

 そのまま炎の残滓を残して消え去るが、それを成した指先は焦げてすらいない。

 

「そ、んな……こんな、簡単に……」

「貴様の欠陥は、練度不足の1点に尽きる。如何に才を持とうとも、それを十全に練り上げ鍛える機会と意思が無ければ、それは宝の持ち腐れというものだ。()()()()潤沢な妖気を持つ程度で驕り高ぶった、ヒョウタン・アブラスマシのようにな」

 

 足がほんの1本、前に出る。

 無骨な巨甲冑がこちらに少し近付いただけで、まるで途方も無く巨大な壁が迫っていているかのような恐怖を錯覚してしまう。

 ガシャ、ガシャと鎧から音が鳴り、面頬の隙間から光る視線が1人の少年を見据えた。

 

「次は、こちらから行くぞ。耐えてみせろ」

 

 

──次の瞬間、神ン野は九十九の目の前に立っていた。

 

 

「は──」

 

 すっ惚けた声が漏れるよりも先に、薙刀が天高く振りかざされている事実を認識する。

 それは別に、チョウチン・ネコマタのような幽世(かくりよ)による時間感覚への干渉でも、テカガミ・ジョロウグモのような転移を可能とする何かしらでもない。

 

 ただ、純粋に、事実として、神ン野の駆けるスピードが尋常でなく速かっただけの話だ。

 

 呆然と、薙刀が己へ振り下ろされてゆく一連の動作が、スローモーションのように遅く見える。

 だから、九十九が足裏に発破をかけて大きく後ろへ飛ぶ事ができたのは、彼にとってこれ以上無く幸運な出来事だっただろう。

 

「──ほう」

 

 地面が抉れ飛ぶ轟音の中、少年の小さな体躯はバックステップを決行していた。

 ただの跳躍ではない。彼は戦闘時、足裏に溜めた火の妖気を炸裂させ、その衝撃による加速を常套手段として用いている。

 そのやり方が、無意識下に刻み込まれていた。故に、呆けながらも回避行動に移る事ができていた。

 

 だが、そこまでだ。

 彼の行動に不足があるならば、回避行動に移るタイミングが遅かった点である。

 一瞬の判断ミスが命取りになる事象は数多く存在し、これもまたその1つだ。

 

 ほんの僅かに遅れたバックステップは、確かに薙刀そのものの直撃を避ける事ができた。

 しかし、薙刀が地面に叩きつけられた際の衝撃と、それによって撒き散らされたアスファルトの瓦礫を避ける事はできなかった。

 

「ぎゃぁ、くぅ……っ!?」

 

 至近距離から特大の風圧を浴び、かち上げられた瓦礫たちに体を打ち据えられて。

 後方に跳躍した際の勢いもあって、九十九は想定していた勢いがより増した形で大きく吹っ飛んだ。

 

 ガツン! と地面の上でバウンドした矮躯が、接地の衝撃を再び全身に刻まれる。

 赤い赤い血の跡が、薄暗いビル街にあって爛々と路面を汚していた。

 ズキズキと苦痛に喘ぐ手足を動かそうとすれば、代わりに口から血を吐いた。体内のどこかにもダメージが入ったらしい。

 

「今のを避けるか。反射神経はそう悪いものでは無いようだが、如何せん対応が遅い。判断がもう少し早ければ、そこまでの傷を負う事は無かっただろう」

 

 攻撃を終えたままの態勢を解き、体幹を整える。

 吹っ飛ばされた事で彼我の距離は広がったが、彼にとっては欠伸混じりに接敵できる程度のものでしかない。

 

 いつも通りの戦闘であれば、このまま近付いてトドメを刺せばそれで終わりだ。

 だが、神ン野はそうしない。相手を侮っている訳でも無い。これは単なる死合いではなく、リトル・ヤタガラスという妖怪を見定める為のものだからだ。

 

 故に、動かない。体だけを向けたまま、じっと見据える。

 視界の向こうで、血塗れの体を押して立ち上がろうとする小さな戦士の姿を。

 

 そう、彼は立ち上がろうとしていた。

 八咫村 九十九は、まだ戦う意志を持っていた。

 

「まだ、起き上がるか。その気概は善い。後は、それがただの蛮勇で無い事を願うだけだ」

「ど、う……かな。ゲホッ! ……案外、蛮勇のたぐ、い……かも、ね。そうで、なか……ったら……そう、だな……ゲホ、グッ……或いは、意地……かも」

「……意地」

 

 ゴン、と薙刀の石突を地面に置く。

 武器の持つ重量が、それをただ置いただけに終わらせず、いくつかのヒビをアスファルトに残した。

 

「そうか、意地か。戦いの場においては、あまり利口とは言えない感情だな、それは」

「……そう、かもね」

「だが、殊更(ことさら)に悪いものでもない。気概無き者に、戦いの場に立つ資格は無い。そういう意味では、貴様もまた(さむらい)と呼べるだろう」

 

 しかし。

 そこで言葉を切った後、仄かに眼光を細める。

 絢爛とした兜は今、目の前の少年ではなく、彼の腕に注目を傾けていた。

 

「貴様の心は強くとも、貴様の体は限界のようだな」

 

 その言葉に言い返せるほど、九十九は阿呆では無かった。

 

 アブラスマシの油玉による破裂を真っ向から受けてよりこちら、彼の両腕には負担しかかかってこなかった。

 ただでさえ破裂を間近で受けた事でボロボロだったのだ。そこに妖術を用いた銃撃を2回行い、今しがた吹き飛ばされた際には全身に衝撃が叩き込まれた。

 

 如何に銃の扱いに長けているとはいえ、反動と無縁ではいられない。

 (いわん)や、彼の用いる弾丸は妖気から生成したもの。それを放つのだから、一定以上の反動と負担が腕にかかって然るべきなのだ。

 

 それがこれまで露呈しなかったのは、ひとえに今回ほどのダメージを腕に受けてこなかったからに尽きる。

 だが今回、九十九は何よりも腕に重点的なダメージを受け続けてきた。そもそも神ン野との戦いを選ばずに逃げていれば、彼の傷はまだマシな程度に収まっていただろう。

 

 数え切れないほどの傷が刻まれた両腕の内、特に酷いのは利き手である右腕。

 己の脳内でつけた見立てが正しければ、恐らくは──

 

「あと、1発。妖術弾をあと1発撃てば、貴様の右腕は折れる」

「……!」

 

 果たして、神ン野の見立ても同じものだった。

 

 言わずもがな、九十九は妖怪である。

 適切な手当てを受け、妖気を体に巡らせて自己治癒力を促進すれば、常人よりも早く傷を癒す事ができるだろう。当然、折れた腕を治す事だってできる。

 

 だがそれは、この場での継戦が可能である事を意味していない。

 仮に腕がへし折れたとして、それを即座に治癒し、即座に戦闘を再開できるほど妖怪は都合の良い存在ではない。

 

 それは神ン野や、他の妖怪たちとて同様だ。

 しかし、今この場において先の文言に該当するほど負傷した者は、九十九を除いて誰もいない。

 

「仕舞いだ。心根は評価に値する。だが、力量はそれに値せず。この先、『げえむ』に挑んで命を落とすくらいならば、()くこの場から逃げるがいい」

 

 薙刀の切っ先が、向けられる。

 これ以上立ち向かうならば、切り捨てる。そう、言外に告げているのだろう。

 

 目の前の大敵を屠るには、悲しいくらいに実力が足りない。

 その実力不足が故に、妖怪リトル・ヤタガラスは敗北を決定づけられた。

 

 だから。

 

「ぁ」

 

 

 バサリと、翼のはためく音がした。

 

 

「……何故、銃を構える」

 

 著しくノロノロとした動きを伴って、腕が持ち上がる。

 傷口から血が止めどなく溢れ出すのも厭わず、腕の筋肉を動かす。

 両腕を切り落としたくなるほどの痛みが迸っているにも拘わらず、火縄銃を構える。

 

 息は荒く、目は虚ろに半開きで、血の気すら引いている。

 ガクガクと歪んだ動きを繰り返す足は、正常なバランスを取る事すらできないらしい。

 

 だというのに。

 

「……お前を、撃つ為だ」

 

 瞳孔を炎に変えて、瞳の奥を揺らめかせながら。

 八咫村 九十九は、神ン野を狙撃する構えを取っていた。



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其の陸拾壱 轟く白夜

「……何の真似だ」

 

 いつ倒れてもおかしくない満身創痍の状態にありながら、なおも立ち上がり攻撃の意思を示す九十九。

 息も絶え絶えに銃口を向けてくる彼に対して、神ン野は呆れと困惑、猜疑を交えた言葉を口にする。

 

「今の話を聞いていなかったのか? 1度でも妖術弾を撃てば、貴様の腕は反動に耐えきれず折れる。それが誤った見立てでは無い事を、貴様自身がよく分かっている筈だ」

「……ああ、分かってる」

 

 そう言いながらも、彼が銃を下ろす兆しは無い。

 そればかりか、銃口が妖気を吸い上げているのが目に見えて分かった。

 

 よくよく目を凝らせば、銃身の奥の奥に淡い光が灯り始めているのが見えるだろう。

 光は徐々に、徐々に、牛歩ほどに緩やかなスピードで熱量を上げていく。

 

 即ち、妖術の行使だ。それも、特大の威力を持つもの。

 その行いが何を意味するのか、分からない九十九では無い筈なのに。

 

「……ならば何故、構えを解かない? 何故、妖気を練り上げている? 何故、戦う意思を持ち続けている? 逃げぬ者に容赦をするほど、俺は優しくは無いぞ」

「……」

「俺は忠告した筈だ。貴様の意地に敬意を払い、その無謀が辿るだろう末路を教えた。それとも、自分に限ってそうはなるまいという、根拠の無い盲信でもあるのか? 貴様がそれほど愚かな人間だとは、思いたくないものだが」

「……お前が言うよりも、ずっと愚かな奴だと思うよ、僕は。だって……はは。体が、止まれないんだ」

 

 その言い回しに小さな違和感を覚えた直後、神ン野の眼光が見開かれた。

 

「僕は、今……自分の腕が折れるのを分かった上で、引き金を引こうとしてるんだ」

 

 炎が、灯っている。

 少年の目の奥に……否、少年の瞳孔そのものが炎に変わり、ささやかに揺れている。

 

「貴様……」

 

 巨妖が呟いた直後、銃口の奥に凝縮された妖気が強い熱量へとすり替わった。

 熱は風を呼び、火縄銃を構えた少年の衣服やマフラーを後方へはためかせている。

 熱は光を生み、火縄銃を構えた少年のシルエットを鮮明に後方へ映し出している。

 

 風に揺れるマフラー。光が照らすシルエット。

 その全てが象る影は、九十九を人間らしい姿でなく──巨躯のカラスを思わせる形状で、路面に投影した。

 

「理屈の上では、分かってるんだ。僕がやろうとしてるのは、とても馬鹿げた事だって。でも、なんでだろうな……ははっ。これじゃあ……姫華さんを笑えないや……」

 

 頭の奥底から声が聞こえてくる。

 逃げろ。戦え。逃げてしまえ。戦う事をやめるな。勝てもしない戦いに挑むなんて馬鹿だ。尻尾を巻いて逃げるなんて愚か者のする事だ。

 相反する言葉の羅列がグチャグチャに入り混じり、幻聴の形を取って頭の中に鳴り響く。

 

 頭痛に苛まれる中で、ぼんやりと思う。それは果たして、()()()のものだろうか。

 

 その声は真実、心の内から語りかけてくるものである事に間違いはない。

 問題は、それが八咫村 九十九という15歳の少年が持つ、人間としての本能なのか。

 それとも──

 

 

【──a、Aa】

 

 

 胸の奥で仄かに灯る、カラスの形の炎が呼びかけているのか。

 

「……妖気に呑まれたか。命脈が衰え、心身に限界が訪れた結果、己の身に流れる妖怪の血に()てられたのだな。それは、貴様の魂魄が惰弱である事の証明だ」

「……困ったな。否定、できないね」

 

 ただ銃を手に持ち、撃とうと試みるだけで、全身が軋むように痛くなる。

 腕からは既に、嫌な音が聞こえてきた。異音が出るほど腕にかかる負担の臨界点が、引き金を引いたその時なのだろう。

 ならば、八咫村 九十九が取るべき最善の選択肢は、この場から逃走する事ただ1つしか残されていない筈だ。

 

 けれども、彼はそれを選ばなかった。

 

「でも、さ。ここで逃げたら……多分、僕はもう2度と、皆に胸を張れない……そんな気がするんだ」

「……己の生死よりも、見栄を選ぶか。それは勇気でも名誉でもなく、蛮勇にして虚勢と呼ぶものだ。それによって命を落とせば、貴様は真実、2度と皆とやらに胸を張れなくなるのだぞ?」

「……それでも」

 

──ボォッ

 

 淡い音を立てて、九十九の瞳に炎が灯る。それは、何も比喩ではない。

 彼の体から湧き立ち、漏れ出た妖気の残滓が、彼の目を覆うように炎を灯しているのだ。

 

 己の目を覆い隠すように燃える炎の中にあって、彼は一切の動揺を見せていない。

 熱さを感じている様子も、眼球が焼けている様子も無い。己の体から生じたものだけに、妖気の炎は視界を邪魔する事なく、ただ揺らめいていた。

 

()()()()()()()()()()()。勝利の象徴が、逃げるなんて許されない」

「──!」

 

 兜が揺れる。面頬に隠されながらも、眼光が動揺混じりに見開かれる。

 飾り立てられた「神」の文字が、ちっぽけな少年の帯びる炎を受けて微かに照らされた。

 

 彼の語ったそれを、ただの大言壮語と切って捨てるのは簡単だ。

 だが、そうではない。仮に大言壮語だったとして、僅かでも「そうではないかもしれない」と思った時点で、神ン野の負けだった。

 

 今1度、敵を見る。銃口から迸る炎は光となって、九十九の背後に巨大なガラスのシルエットを投影している。

 その光景を目の当たりにした途端──脳裏に浮き上がったのは、かつての大敵の姿。

 

 

『俺ァ、八咫烏だ。人を太陽へと導き、勝利を授ける吉兆の化身。ただの1度でも、勝利のカラスを旗に掲げた以上──俺に逃走は許されねぇのさ』

 

 

 数百年の昔、神ン野が(あざな)を持たない、ただの木っ端妖怪だった頃。

 夜を闇で照らす漆黒の太陽が昇る中、自分たち“魔王”を信奉する妖怪集団へと立ち向かってきた者たちがいた。

 

 それは妖怪であったり、人間の(まじな)い師であったり、ただの侍であったり。

 ただ1つの共通点を挙げるとするならば、彼らは一様に「3本足のカラス」を描いた旗を掲げていた。

 

 昼の光の下に、夜の闇を討つ者たち。“魔王派”と相反する、妖怪と人間の混成集団──“八咫派”。

 彼らを率い、数多の妖怪を討ち、遂には“魔王”と相打ち果てた男こそ。

 

「テッポウ・ヤタガラス……」

 

 自然と、その名が口から漏れた。

 その名を口に出した時点で、リトル・ヤタガラスをこの場で見逃す選択肢は消失する。

 

 討たねばならない。

 八咫烏の名を冠し、そのように在ろうとする者は、()く討たねばならない。

 

「……如何に若くとも、大樹の芽か」

 

 吐き捨てるように呟いた後、薙刀をゆるりと構えた。

 隙を晒してばかりの相手を攻撃するでも、さっさと見切りをつけるでもなく、迎撃の姿勢を取っている。

 

 その事実に、目を見開く九十九。

 彼の放つ無言の問いかけに答えるように、神ン野はまず、首を小さく横に振ってみせた。

 

「来い。貴様の蛮勇を一刀の下に斬り伏せ、即座に素っ首を刎ねてくれる」

「……うん」

 

 殺意を込めた宣言にさえ、小さなカラスは柔らかく頷くのみ。

 けれどそれは、決して彼の情弱さを意味してはいない。温和である事は、激情の徒でない事を意味しない。

 

「行くよ。妖術……」

 

 銃口に妖気が満ちる。溜めに溜め込まれた妖気は、1周回って安定化し、青い光を放つ火球へと変質を遂げていた。

 熱気さえ気にならない。体中の痛みが、逆に頭の中をクリアにする。頭部と指先以外の部位が全て消失したかのようだ。

 

 心臓の音を彼方に追いやって、狙いを澄ます為に目尻を尖らせて。

 そうして当代のヤタガラスは、ゆっくりと引き金を引いた。

 

「──《日輪・白夜》」

 

 放たれたのは、これまで行使してきた妖術の全てを凌駕する、特段の熱量と光量を秘めた弾丸。

 それも、ただの灼熱ではない。火球の帯びる温度が高まり過ぎたあまり、炎は緋色から蒼色へと色彩を移ろわせていた。

 

 それでいて、射出の瞬間に暴発する事は無い。

 気が遠くなるほど精密な制御によって、青色の炎はただ1人の敵を討つ為に運用されている。

 

 だが、その代償は大きかった。

 

(──ッ!?!?)

 

 目を焦がすほど眩い閃光。全身を殴りつけるような衝撃と反動。耳を狂わせる轟音。

 嵐の中に突っ込んだのではないかと思えるほど強烈な負担が、ちっぽけな少年の体を蹂躙する。

 

 その妖術は、体にかかる負荷があまりにも大き過ぎたのだ。

 ただでさえ全身傷だらけの状態で、極限まで凝縮し切った妖気を妖術に昇華させるなど、体が耐えられる筈が無い。

 それでも肉体が弾け飛ばなかったのは、曲がりなりにも彼が妖怪であるからだろう。

 

 しかし、何事にも限界はある。

 それを証明するかのように、右腕から爆発音にも似たナニカが鳴り響き、加速度的に体から力が抜け落ちていった後──

 

 

美事(みごと)

 

 

 爆音が、その他の合切を消し飛ばした。




今日はこの後【20:00】より追加投稿を行います。


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其の陸拾弐 事実上の敗北

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


 その爆音を別の言葉で形容しようとするならば、きっと「ナニカを殴り飛ばした際の音」と表現するのが最も近しいだろう。

 

 閃光が消失する。衝撃が相殺される。轟音が上書きされる。

 ミサイルにミサイルをぶつけて爆発させたかのような、それほどに巨大な爆発音が目の前で轟いた後、閃光で覆われていた視界に元の景色が帰ってくる。

 

 コンクリートの焼ける匂い。ナニカの焦げた匂い。

 ジュウジュウと煙と音を立てる瓦礫たちの中には、融解したものや、消し炭になったものもいくらか見える。

 

 視覚と聴覚だけを使って、目の前の事象を理解しようと試みる。

 そうでなければ、己の右腕に起きた惨劇を認識して、狂ってしまうかもしれなかった。

 手に持っていた筈の火縄銃がどこに飛んでいったかなんて、最早考えている場合ではない。

 

「あ……」

 

 パチクリと瞼を震わせて、九十九はようやく現実を認識した。

 

「……謝罪しよう。俺は、貴様の真価を侮っていた。それは、紛う事なく俺の恥だ」

 

 眼前に鎮座する、真っ黒い塊。

 それが一体何なのか、初めはまるで理解できなかった。

 

 けれど視界がクリアになるにつれて、それの正体が徐々に明らかになっていく。

 黒焦げた表面から大量の煙をもうもうと吐き出しながら、しかしそれ以外の傷を負っている様子の一切見受けられないそれは──

 

「まさか、()()()()()()妖術を行使する事になるとはな」

 

──盾

 

 神ン野の巨体よりも大ぶりのタワーシールドが、彼を蒼色の灼熱から守っていた。

 

「……は?」

 

 最初に到来した感情は「何故?」だった。

 何故、彼は盾を持っている? それもあれほど巨大なものを、一体どこに隠し持っていたというのだろうか。

 

 九十九が特大の火球を放ってからそれを受け止めるまでに、許された時間はそれほど多くなかった筈だ。

 その一瞬で薙刀をどこかに仕舞い、代わりにあの大盾を取り出したとでも言うのだろうか?

 

 果たしてその答えは、即座に明かされる事となる。

 

「……我が愛刀《悪五郎(アクゴロウ)》を焦がすほどの熱量。力量も妖術も荒削りな面が目立つが、やはり将来的な脅威となり得る、か。この場で討たねばならぬ事が口惜しい」

 

 盾を持ち上げる。自らの全身を覆うほど巨大な盾を、片手で軽々と。

 そうして手に持った盾を神ン野が軽く横に振った瞬間、そのフォルムが大きく歪み始めた。

 

 ぐにゃりと、まるで飴細工のように。

 盾はたちまちに形状を変質させて、瞬く間に薙刀へと変化する。

 その見た目はまさしく、先ほどまで彼が振るっていた薙刀であり──刀身や柄は、炎を浴びたように黒く焦がされていた。

 

 薙刀が盾に。盾が薙刀に。

 自在に形状を変化させる事のできる武器を使い、薙刀を即座に大盾に変換して火球を防ぎ切った。

 言葉にすれば簡単なトリックだが、それを「簡単」で終わらせるには理不尽が過ぎるものだった。

 

「今度こそ、仕舞いだ。その首を刎ね飛ばし、『げえむ』を再開する」

 

 巨体が消える。

 否、先にも起きた事だ。驚異的な踏み込みによって一瞬で接敵した神ン野は、既に薙刀を振り上げていた。

 

 先ほどと違って、今の九十九には回避できるだけの体力も、気力も、余力も、何も残ってはいなかった。

 だから、この致命の一撃を回避する術は無い。ここから生き延びる術は無い。死を免れる術は無い。

 

 八咫村 九十九は、ここで死──

 

「──む」

 

 例えるならば、広大な砂漠の彼方で、ほんの一瞬だけ煌めいた針の反射光だろうか。

 それほど微かで、常人ならば気付く事すら無いだろう違和感が、刹那よりも短い間だけ視界を掠める。

 

 それを無視する事は容易い。

 だが、そこで違和感を確かめる事を選択するからこそ、神ン野は強者でいられた。

 

 強く力を込めて、薙刀を振り下ろす。

 首を狙うのではなく、敵の体を両断する事を求めた斬撃は、目論見通りに九十九の体を切り裂──かない。

 

「成る程、幻術か」

 

 切り裂いた筈の少年の体が、陽炎のように揺らいで消えた事で、違和感は確信にすり替わる。

 即座に体を持ち上げて、薙刀で周囲を薙ぎ払う。

 特定の何かを攻撃する為でなく、この場一帯に仕掛けられただろう“()()()()”の術を破る為に振るわれた斬撃は、果たして。

 

「ち、ぃい……もう、気付かれたで……御座いやす、か」

「ちょっ……イナリさん、それ以上喋らないで! ただでさえボロボロの状態なのに、無理に喋ったらもっと体に響くよ!?」

 

 認識を歪める幻術のカーテンが、微塵も残さず消失する。

 そこで甲冑姿の巨漢は、カーテンの向こう側、遠く離れた場所に1人の少女が立っている事に気付いた。

 

 白銀の長髪と白塗りの眼鏡が特徴的な彼女は、両手で包み込むようにして満身創痍のイナリを抱き抱えている。

 その身が放つ僅かな妖気の香りから、彼女はフデ・ショウジョウが狙っていた(まじな)い師の才能を持つ少女、白衣 姫華だろうと当たりをつける。

 

 しかし、その場に九十九はいない。

 では、どこに? その疑問を一瞬で切り捨てて、間髪入れずに首を上に持ち上げた。

 

「上か」

「ヤバっ……もうバレましてよ!?」

「ぅ……あ……」

 

 当たりだった。

 先ほどまでいなかった筈の小さな黒スズメ──お千代が、両足で九十九を掴んで上空を飛んでいた。

 彼女は自分たちの存在が気付かれた事に、強い焦りを見せている。

 

 ここまで来れば、仕掛けは全て分かったも同然だ。

 

 九十九が渾身の妖術を放った直後、残った力を振り絞ってイナリが“ごまかし”の術を展開。

 そこに駆けつけたお千代と姫華が、それぞれ満身創痍の2人を回収して離脱しようとしていた。

 

 そんなところだろうと結論付けて、コキリと首を鳴らす。

 それを敵対の意思と判断したイナリは、姫華が心配する事も厭わず声を荒らげた。

 

「ス……ズメェ! ()()して……ください、やし!」

「致し方ありませんわね……! 生者を収納すると負担がかかるので、あまりやりたくはないのですけれど……」

 

 ポイッ、と軽い拍子で九十九の体が宙に放り出された。

 それを為した──つまり、彼を放り投げたお千代は即座に嘴を大きく開き、その足にパクリと食いついた。

 

 すると、どうだろうか。

 如何に矮躯なれども、人間の範疇を逸脱しない体躯である。そんな少年の体が、見る見る内に小さなスズメの嘴へと吸い込まれていく。

 凡そ物理法則を無視するにもほどがある光景が数秒続き、九十九の姿は綺麗さっぱりお千代の喉の奥へと消えてしまった。

 

「え……えぇっ!? な、んでっ……九十九くん!?」

「けぷっ……わたくし、(めい)をキンチャク・ヨスズメと言いますの。巾着の九十九神であるが故、腹の中になんでもかんでも収納できるのですわ。とはいえ、坊ちゃまくらい大きな、それも生者を収納したとなると……く、苦しいですわね」

 

 言葉の通りに苦しそうな様子を見せる彼女の腹は、ぽっこりと膨らんでいる。

 いつも火縄銃を体内に収めて運んでいるようだが、流石に人1人を収容するとなると辛いものがあるらしい。

 

 その様を、神ン野は武器を構えたままにじっと見ていた。

 お千代を見て、姫華を見て、それからイナリを見やる。

 

(……何故)

 

 刹那、彼の心に疑問が芽生えた。

 

(何故、俺は()()()()()()?)

 

 彼は、心のどこかで安堵していた。

 何に対して? そんなもの、分かり切った答えだ。

 

 

 リトル・ヤタガラスを殺し損ねた事実に、神ン野は安堵を覚えていた。

 

 

「……貴様ら」

「へ……へへっ。わても、男でやす……から、決闘などに、理解は……ありやす、が……」

 

 ヒバチ・ヒトウバンの巻き起こした灼熱地獄に晒され、ズタボロ状態のバケギツネ。

 彼はそれでも、少女の手の内で体を起こし、不敵な笑みを不器用に飛ばしてみせた。

 

「こちとら、主に……仕える、身。名誉なぞ、よりも……やはり、主の、命の……方が、大事……なん、でさ」

「キツネに同意するのは癪ですが、こればかりはわたくしも同意見でしてよ。あなたに狙われるより早く、逃げ果せてみせましょう。この命に替えましても」

「……正直、私はあなたが怖くて仕方ないし、今だって足が震えてるけど……。でも、ここで私が竦んだせいで九十九くんが死ぬくらいなら……私は、イナリさんやお千代さんと同じ側に立つ」

「……」

 

 数秒を、沈黙に費やして。

 徐に構えを解いた巨怪は、手に持った薙刀の石突で地面を突き、その場にどっしりと立つ。

 

 多少の威圧感はあるし、彼ほどの手練であれば、この状態からすぐさま戦闘に移る事もできるだろう。

 だが少なくとも、その姿勢からはこれ以上の戦闘続行を望む意思は感じられなかった。

 

「主の利に背くと知ってなお、主の命を選ぶか。その忠義、天晴。貴様らの心意気に免じて、この場は手を引くとしよう」

「……へっ?」

「どう、いう……風の、吹き回し……でさ」

「何も、難しい話ではない。元より俺はリトル・ヤタガラスを殺しに来たのではなく、見極めに来たのだ。この先、『げえむ』を盛り上げる『敵きゃら』となり得るか、それともただ殺されて終わるだけの存在なのかを」

 

 兜を揺らし、空を見上げる。

 視線の先には、お千代……ではなく、彼女の膨らんだ腹が見えた。

 あの腹の中に、九十九が匿われている。己の妖気に呑まれていたとはいえ、瀕死の状態になってなお、戦う意思を持っていた九十九が。

 

 薙刀を握る手に、仄かな熱を感じる。

 その柄は、黒く焦げながら熱を帯びていた。渾身の妖術を受けた際の炎熱が、未だ冷める兆しを見せていないのだ。

 

「……今暫く、見定め続ける必要があるようだ」

 

 その一言を置いて、くるりと背を向ける。

 ガシャリ、ガシャリと鳴る金属音が、追撃無用を言外に告げているようで。

 

「だが、心せよ。『げえむ』に参画せし『ぷれいやあ』どもは、俺のように優しくは無い。たかだか(あざな)を持たぬ者ども程度、倒せずして敗走するようでは、この先の現世(うつしよ)を生き延びる事は叶わぬと知れ」

「……ご忠告、痛み入りますわ。ですが坊ちゃまは、あなたたちの『げえむ』とやらを盛り上げる気など毛頭御座いませんわよ。無論、わたくしたちも」

「いいや、既に為しているとも。『ぷれいやあ』に敵対し、『ぷれいやあ』と戦う事こそがそうだ。山ン本は、()()を望んでいる。人の側に立つ者が、『ぷれいやあ』の手によって討たれる事。そうして生じる人間の絶望と恐怖が、“昏い太陽”を招く1歩となるだろう」

「……“昏い太陽”?」

 

 その名に、姫華は聞き覚えが無かった。だが、2体の召使い妖怪たちは違う。

 

「……嘘でしょう? まさか『現代堂』は、その為に人間世界を攻撃しているのですか? あんな、実在さえ不確かな与太話の為に」

「ヒトウバンの、奴も、言って……やした、が……あんたらは、本当に信じてるんで、やすか……? わてで、さえ……話にしか、知らぬ……御伽噺、を……」

「与太話、御伽噺か。まぁ、無理も無い。我らが“魔王”亡き後、“八咫派”の者どもは“昏い太陽”の実在を徹底的に隠したそうだからな。子々孫々にさえ受け継がぬほど、実在を知られては困るのだろう……あのテッポウ・ヤタガラスにとっては」

 

 神ン野は、決して振り向かなかった。

 直後、その足に無から発生したと思しき煙のようなナニカが纏わり付く。

 

 その不愉快になるほど甘ったるく青臭い煙の正体に一同が気付くよりも早く、煙は巨漢の首から下までを包み込んでいた。

 そうして頭部までをも瞬く間に包んでいく刹那、無骨な声が放たれる。

 

「覚えておくがいい。人は夜に恐怖する。それは、本能の内で知っているからだ。闇を照らし光を閉ざす、“昏い太陽”の暗黒を。我ら妖怪が人を恐怖に駆り立てるほど、世界は『夜』に回帰する。忌々しい『昼』の光が、世界の裏側へと失墜する時は近い」

 

 やがて全身を煙で覆い尽くされた巨体は、徐々にその存在を薄れさせていく。

 その間際に小さく零された呟きは、果たして誰かの耳に届いただろうか。

 

「また会おう、リトル・ヤタガラス」

 

 甘ったるい煙の塊は一瞬の内に霧散し、それに覆われていた神ン野の姿もまた、綺麗さっぱり消え失せていた。

 煙を一掃するように吹いた夜風は、九十九たちが戦闘で放った炎の残滓がまだ残っているのか、肌を撫でる暖かさを孕んでいる。

 

 後に残ったのは、ただ静寂だけだ。

 ヒバチ・ヒトウバンの暴威も、ヒョウタン・アブラスマシの悪辣さも、神ン野の圧倒的な攻勢も、何も残っていない。

 あるのは、生の気配を奪われ黒ずんだ繁華街の残骸たち。

 

 変わり果てた街を目の当たりにしてとうとう緊張の糸が切れたのか、姫華はすとんとその場に尻餅をついた。

 その拍子にイナリを落としかけるも、なんとか堪えて腕の中に留める事に成功する。

 

「……これ全部、妖怪がやったの?」

「無論、姫様とわたくしとで助ける事ができた方々もいらっしゃいます。ですが、間に合わなかった方々も多くいらっしゃるでしょう。……そしてそれこそが、奴ら『現代堂』の目的であり、本懐なのです」

「……酷い」

「ええ、まったく」

 

 無力感だけを込めた一言に、お千代は同意を示す事しかできなかった。

 

「……とも、かく……坊ちゃんを、家に、運ばね……ば。人の、病院で……は、いけねぇ……わてらの、存在……が、ばれ、ちまいやす……」

「はいはい、それ以上喋っては傷に障りますことよ! 坊ちゃまは、わたくしの腹の中で無理やり眠らせましたわ。少しでも、ご自身の妖気を傷の回復に当てて頂けねばいけませんから」

「……大丈夫、なの? あんなにズタボロの九十九くん、初めて見た……」

「詳しくは家で診ねばいけませんが……恐らく、命に係わるほどでは無いでしょう。……キツネが身命を賭して“さぽおと”していなければ、もっと酷い事態になっていたやもしれません。そこだけはお手柄でしてよ」

「……ケッ。スズメに、言われて……も、嬉しか……ねぇ、や」

 

 軽口を叩きながらも、彼とて瀕死である事には変わりない。

 何はともあれ八咫村邸に帰り、傷を癒やさねばならないだろう。

 

 戦闘に参加していなかった為に大した怪我も無く、十全に動ける状態にある姫華とお千代が、それぞれ怪我人を抱えて動き出す。

 兎にも角にも今の彼女たちは、命を懸けて戦ってくれた同胞たちを助ける事に意識を割いていた。

 

 だから、気付かない。

 

「なぁるほど……大体分かったわ。五十鈴ちゃん、ボクらも動くで」

「えっ、何が? 何が分かったんですか? 課長。私の目からは、街で突然爆発が起きたかと思ったら火事が消えて、またドデカい爆発が起きてすぐ消えたようにしか見えなかったんですけど」

「なんや、目ぇ悪いんか? こんくらいの距離やったら、大して目ぇ凝らさんでも向こうで起きとる事くらい分かるやろ」

「私の視力は人類の範疇なんだが?」

 

 少し離れた小高い丘から、自分たちの事を観測していた存在に。



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其の陸拾参 それぞれの真夜中

 どこまでも続く、長い、長い廊下。

 人2人がギリギリ通れるかどうかというほど狭く細い木製の通路を、軋ませ揺るがしながら歩く1つの影があった。

 

 いや、それは影と言うにはあまりも巨大な存在だった。

 大の大人よりも一回り以上に大きな、身長4mの巨体。肩幅ですら常人と比べ物にならないその肉体を、無骨な鎧が覆い尽くしている。

 薙刀を背に担ぎ、額に「神」の1文字を飾り立てたその男こそ、神ン野に他ならない。

 

 彼が1歩歩く度に、木の床は悲鳴に似た音を立て、その巨体が持つ重量を告げる。

 どこからか漂ってくる甘ったるい煙草の煙を、ただ歩くだけで悠然と切り裂いていく。

 切り分けられた煙は、そのまま廊下の中を満たすようにして湧き続けていた。

 

【──ギャハハハハッ! 神ン野の旦那にしては珍しいじゃねェか、敵を見逃すなんてよォ!】

 

 虚空から轟く声が、ただでさえ軋んでいる木の床を更に圧迫する。

 ミシミシと叫ぶ足元は、微かなヒビこそ残すものの、致命的に砕け散る様子を見せはしなかった。

 

 そして神ン野には、声の主の正体が分かっている。

 足を止めた後、ゆるりともたげた兜が、青臭い煙の這いずり回る天井を認めた。

 

「……呑ン舟か。先の戦いを見ていたのだな」

【ギャハハ、当然だろ! オイラはよォ、こうしてる以外にやる事なんざ無ェからな。『げえむ』観戦くらいでしか暇を潰せねェのさ!】

「それもそうか。悪かったな、貴様の『暇潰し』を中断させてしまって」

【別にィ? ありゃァ、ヒョウタンの奴がバカだったせいだろ。審判役の『ぺなるてぃ』から尻尾巻いて逃げるなんざ、「『現代堂』を抜けます」って言ってるようなモンだってーのにな! 軽い『ぺなるてぃ』で終わらせずに消しといた方がよかったんじゃねーの?】

「……本気で『逃げ』を選択した妖怪は、この世で最も仕留め難いものだ。次は逃がす事無く、確実に滅殺する」

【ま、旦那が言うならそれでいーか。でよォ、さっきの質問なんだが──】

 

 ギョロリ。

 どこにも存在しない筈の視線が、どこからか放たれた。

 探せども探せども見つからない視線の主が、甲冑の巨怪をじぃと見やる。そんな気配を、全身で感じ取る。

 

【リトル・ヤタガラスの方は、どうなんだ? 逃がすまでもなく潰せただろ、アレ】

「……」

 

 暫し、押し黙る。その静寂を、呑ン舟が妨害する事は無かった。

 面頬の奥で何かを考え込んだのち、神ン野はやおらに小さく息を吐く。

 

「……あの場だけでは、見定め切れないと判断した。それだけだ」

 

 そのように返答して、再び歩き出す。

 新たに踏み出された1歩が、床をミシリとたわませた。

 

「遅くとも、ヒバチの『げえむ』に決着がつくまでには結論を出す。それでいいだろう」

【ほォ~ん? そういう言い回しをするってェ事は、旦那はヒバチが八咫村のガキに負けるって思ってんのかい?】

(いず)れが勝つか負けるかなぞ、毘沙門天とて完璧な予知はできぬ。仮にヒバチがリトル・ヤタガラスを下したならば、それはそれで『げえむくりあ』に王手をかけるだけの話だ」

 

 そこで虚空から返ってくる筈の言葉を、「だが」の一言が打ち消す。

 

「少なくとも奴は……リトル・ヤタガラスは、そう簡単に後れを取ってくれるような存在では無いだろう」

【……へぇーえ?】

 

 その相槌には、いくらかの驚きと好奇心、少しばかりの揶揄が含まれていた。

 ()()神ン野が敵対者に興味を持ち、あまつさえ「もう少し様子を見よう」と言い出すなど、これまでの彼からは考えられない事だった。

 山ン本や『現代堂』への忠誠を誓い、命令を淡々とこなすだけだった、あの堅物が!

 

 呑ン舟の楽しげな、そしてからかうような抑揚を感じ取ったのだろう。

 大男はまたもや立ち止まると、中空を苛立ち半分呆れ半分に睨みつけた。

 

「何か、異論でも?」

【いーやァ? 旦那がそう判断したんなら、山ン本の大将だって何も言わねーだろ。信ン太の姐さんは小言の1つ2つでも言いそうだがな! ギャハハハハハハハハ!】

「否定はしない。が、恐らくは俺の意見を呑むだろう。奴は賢く、損得勘定のできる女だ。だから山ン本は、信ン太を『げえむますたあ』に据えたのだから」

 

 目線を中空から引き戻し、真っ黒い深淵のみが待ち受ける廊下の先へと意識を向かわせる。

 もうもうと妖気の煙を吐き出す暗闇は、常人であれば永遠にどこまでも続いているものと錯覚し、やがて理性を失ってしまうだろう。

 

 だが、彼らはそうではない。

 深淵の向こうにある「これから向かうべき場所」をしかと認識して、その重たい足をゆっくりと動かした。

 

「山ン本は、強い『敵きゃら』を求めている。敵が強ければ強いほど、『げえむ』はより盛り上がる。“悪役(ひいろお)”の脅威が、“主役(ぷれいやあ)”をより引き立たせるのだ。……果たして、奴がそこまで到達するかどうかは──」

 

 そこで、言葉を切り。

 神ン野は今度こそ、幽々たる廊下に消えていった。

 

 重みのある歩行音が幾度も幾度も廊下に鳴り響く中、どこかの誰かが吹かす煙草の煙だけがふわふわと佇んでいる。

 もう暗闇の向こうに見えなくなった甲冑姿へ投げかけるように、呑ン舟の声だけがその場に残された。

 

【ま、大将たちの思惑がどうなるにせよ、オイラは『げえむ』を楽しむだけさ。なんせオイラ、暫くはここから動けねぇんだからな。ギャハッ──ギャハハハハハハッ!!】

 

 誰も聞き届ける事の無いどら声が、甘ったるい煙を悪戯に揺らめかせた。

 

 

 

 

 午前0時。

 真夜中の八咫村邸は、静けさが邸内を支配しながらも、日常ならざる緊張と重々しさの張り巡らされた奇妙な状況下にあった。

 

「……その、お爺さん。九十九くんの様子は……?」

「うむ……。儂も医者では無い故、知った風な事を言えはせぬが……一先ずは大丈夫じゃろう。容態も安定した様子で、今はぐっすり眠っておるよ」

「そう、ですか……良かった……」

 

 階段を降りてきた四十万の答えに、姫華はホッと息を吐く。

 

 ヒバチ・ヒトウバンとヒョウタン・アブラスマシとの三つ巴、そして神ン野の乱入によって、九十九とイナリは全身に大きなダメージを負った。

 妖怪たちの退却後、お千代と姫華は倒れ伏した2人を八咫村邸へと運び、四十万と協力して彼らに手当てを施した。

 

 九十九たちを病院などの医療機関に運ばなかったのには、いくつか理由がある。

 1つは、ヒトウバンの『げえむ』に巻き込まれて怪我を負った、或いは命が危ぶまれる状態にある人々が病院に多数搬送されているだろう為。

 そしてもう1つは、病院で治療を受ける際に体を調べられた結果、彼の肉体が“人ならざる者”のそれであると発覚しかねないからだ。

 

 それにお千代が言うには、妖怪は妖気を体に巡らせる事で傷の治りを早める力があるらしい。

 よほどの場合でも無ければ、適切な手当てと十分な休息によって治癒が可能である為、彼女たちは彼らが妖怪である事の隠蔽を優先した。

 

「後は、経過観察しか無かろう。如何に妖怪の力を得たとはいえ、半分は人間。果たして、傷が癒え切るまでどれほど要するか……」

 

 2階の自室に寝かせた九十九の下を離れ、居間にゆっくりと腰を下ろす四十万。

 その傍のちゃぶ台には、全身を包帯で覆われた状態のイナリが寝そべっていた。

 

「すいやせん、ご当主様……わては結局、坊ちゃんを守れやせんでやした……」

「いや、よい。生きて帰ってきてくれただけでも上々よ。イナリ、お前もじゃ。儂はもう、親しい者が2度と帰ってこない経験なぞごめんじゃ」

ご当主(ダーリン)……」

「……すまんなぁ、イナリ、お千代。それに姫華君も。本当ならば儂も、ただ家でお前たちの帰りを待つでなく、共に戦場で戦うべきなのじゃろう。じゃが、90になってもなお我が身の半分は人のまま。この老体と己の無能さが恨めしい……」

「……いえ、そんな。謝らないでください」

 

 深々と頭を下げる老人に対して、姫華は申し訳無さそうに首を振る。

 彼女から見た彼は、まるで今にも命脈が尽きて死んでしまうのではないかというほど、気力を衰えさせた背中を見せていた。

 

「九十九くんも、お爺さんも……八咫村家の人たちは皆、妖怪と人間の狭間の存在。人間の片親から生まれて、人間として生きてきたんでしょう? ……なら、その血は誇るべきものです。決して、無力さの責を向けるべきものじゃない筈です」

「……そう、か。そうじゃなぁ……」

「……それに、何もできなかったのは私も同じですから。(まじな)い師としての才能を開花させて、ようやくスタート地点に立てたばかり……なんてのは、言い訳になりません。……こんな時に限って何もできないなんて、薄っぺらいなぁ……私」

 

 力無く、虚しい風に笑う少女。

 妖怪たちは、俯いた彼女に対して何も言葉を返せなかった。

 

 結局、彼ら彼女らが救えた人間など数えるほどしかいない。

 

 駆けつけた時には既に、ヒトウバンの妖術が繁華街を炎上させていた。

 アブラスマシや神ン野の乱入なんて、敵を倒せなかった言い訳になりやしない。むしろ、街を新たに害し得る乱入者すら満足に退けられなかった。

 

 逃げ遅れた人々を助けようとした事だって、生き残っていた人はそれほど多くなかったし、今頃はどこの病院もパンクしているだろう。

 助けられた彼らはこの先、治るかどうか分からない酷い火傷と怪我を負って生きていくのだ。

 

 つまるところ──今回の『げえむ』において、八咫村陣営は敗北した。

 ただ、参戦の権利を失う事無く生き残っているだけだ。

 

「……自嘲や反省会は、全てが終わった後にいくらでもできますことよ。それよりも今は、この先をどう切り抜けるかを考えるのが肝要かと。神ン野の乱入で撤退したとはいえ、去り際のやり取りからして、またヒトウバンの奴は街に戻ってきますわ」

「そればかりじゃ、ねぇ……。アブラスマシの野郎も、多分……近く街を襲うつもり、でさ……。奴ァ、ヒトウバンの邪魔をするか、或いは……ヒトウバンよりも先んじて、街と人を襲うでやしょう……」

「……でも、どうすれば。九十九くんは右腕がぐしゃぐしゃに骨折してて、体もボロボロでまだ目を覚まさない。イナリさんもズタボロで……そうなるともう、私が今から(まじな)いを覚えるくらいしか……」

 

 それがどれほど無茶なアイデアであるかを、誰よりも本人がよく理解していた。

 どん詰まりの状況を再認識して、少女の声が段々と力無く萎んでいき──

 

 

「アホやな~、ホンマにアホ。友情・努力・勝利は漫画(フィクション)の中だけの話、なんて野暮な事は言わへんけどな。言う状況(TPO)はちゃんと考えな、ただの無駄な努力にしかならへんで」

 

 

 この場の誰のものでも無い、そして聞き覚えの無い、軽薄で軟派な男の声。

 その一声に意識を引き戻された一同は、思わず顔を上げて声のする方に視線を向けた。

 

 居間の入口、玄関から繋がる廊下との境界線に立ち、薄っぺらい笑みをサングラスで彩った男。

 彼はそれとない威圧感をギュッと詰め込んだ黒のビジネススーツを着こなし、そのポケットに両手を突っ込んで立っていた。

 

「重要なんは、“その場で適切な手段が何か”や。当然、状況によって正答は(ちご)うてくる。その場でそうすんのが正解やったら、友情・努力・勝利も、その他諸々の綺麗事も“適切な手段”に数えてええ。せやけど、この場では正答やないな」

「は……え? いきなり何を言って……あなたは、一体……? っていうか、なんで家に上がり込んで──」

「な──なんであなたが、ここにいるんですの!?」

 

 姫華の疑問を上塗りするように、お千代が驚愕の叫びを上げた。

 横では、ちゃぶ台の上に寝そべったままのイナリも同様に、べしゃりと潰れていた耳をピンと立てている。

 

「お、おめぇ……何故、戻ってきやした、んでさ……!? いま、さら……この屋敷に、何を……っ」

「えー……っと、イナリさんたちのお知り合いの人? もしかして、妖怪の事も知ってる……っていうか、妖怪関係の人なの?」

「……ええ、そうなりますわね。それどころか、こいつは──」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。話には聞いとったけど、こうして実物を見ると、えろうけったいな集まりやなぁ。まさか、喋るキツネとスズメがおるとは思わんかったわ」

 

 自分とあなたたちは初対面である。

 そんなニュアンスをこの上なく強調しながらの語り口に、召使い妖怪たちは思わず口を閉ざした。

 

 この場で、互いの関係を(つまび)らかに語ってみせるのは容易い。

 けれど、彼は()()()()()()()()()()のだ。それを踏まえての発言であるならば、こちらも舌の根をグッと抑え込むしか無い。

 

 如何に馴れ馴れしくとも、その一線だけは弁える。

 それが、彼にとっての誠意なのだろう。

 

「……申し訳ありません、姫華様。どうやら、わたくしたちの勘違いだったようですわ」

「そうで……やすな。わてらとあいつは初対面。……そういう事に、しておいてくださいやし」

「……うん、分かった」

 

 事情は分からない。しかし、複雑な事情がある事は分かる。

 だから、姫華もそれ以上は聞かなかった。きっと、容易く聞いてはいけないものだから。

 

「……若いなぁ。せやけど、道理を分かっとる若さや。そういう、向こう見ずさと堅実さの歪な両立、ボクは好きやで。ま、ボクがいっちゃん好きなんはキャバクラのおねーちゃんなんやけどな! はははははっ!」

「これ、セクハラ?」

「何卒落ち着いてくださいまし、ねっ?」

 

 スンッ……と味わい深い表情になった少女を、黒スズメが優しく宥める。

 

「それ、で……一体、何用でさ」

「ああ、そんじゃあそろそろ本題に行こか。でもその前に、ボクらの立場を説明しとく必要があるねん」

「……ボク、()?」

 

 一人称が複数形である事に疑問を抱くと、男は肯定するように頷いてサングラスを光らせた。

 それから、さりげない動きで入口の端に立ち位置をズラし、もう1人ほどが通れるだけのスペースを作ってみせる。

 

「ボクは瀬戸。環境省・自然環境局・霊的事象担当課っちゅうとこで、妖怪関連の調査や情報操作を担当しとる。そんで、そこに所属しとる構成員が──ああ、もう入ってきてええで」

「……なんというか、もう……疲れた、ってのが正直な本音ですよ、課長。私がどんだけこの場に飛び出したい衝動に駆られたと思ってるんですか。あと、妖怪云々についてもちゃんと説明もらえるんですよね? ここまで一切、何も教えてもらえなかったんですけど」

 

 男──瀬戸に導かれるようにして、廊下に隠れていたもう1人が居間に入ってくる。

 その顔に見覚えの無い姫華は「綺麗な人だなぁ」と思うだけだったが……八咫村家の関係者たち、特に四十万の反応は大きかった。

 

「五十鈴……!? 五十鈴なのか!? お前が何故、そこに立っておるのじゃ!?」

「うん、ごめんねお爺ちゃん。それ、めちゃくちゃこっちの台詞。なんで喋る動物がこの家にいるのかとか、なんでその子たちがお爺ちゃんと一緒にいるのかとか、というかその女の子って誰なのとか。色々聞きたい事が山のようにあるんだけど……何はともあれ」

 

 呼吸を兼ねた深めの溜め息が、深夜の居間に吐き散らされる。

 そうして困惑と、疲労感と、ほんの少しの諦めを顔の表層に溶かし込んで。

 

「とりあえず、九十九はどこ? 私の可愛い弟は、ちゃんと無事なんでしょうね?」

 

 八咫村 五十鈴は、腕を組みながらそう告げた。



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其の陸拾肆 手繰る縁、手繰った縁

 熱い。

 暑い。

 篤い。

 

 全身が燃えているかのような感覚と、気が狂いそうになるほどの痛みを覚える。

 

 朦朧とする意識の中で、九十九はただ苦悶に襲われていた。

 何故、自分がここに寝かされているのか。そこまでの経緯を、彼はそこまで詳細に覚えていない。

 

 神ン野に必殺の一撃を打ち込み、それでもなお痛痒を与える事ができなかった。そこまでは、概ね覚えている。

 問題は、そこで心身に限界が来た直後、お千代に掴まれてからの記憶が不明瞭なのだ。

 

 覚えている事と言えば、ふんわりと金木犀の香りがする布のようなナニカに全身を包まれ続けていた事。

 そこから解放された時、自分の体はよく使い慣れた布団の上に転がされていた、という事くらいだ。

 

 無論、これはお千代によるものである。

 自身の体内に九十九を収容した彼女は、そのまま八咫村邸の2階の窓から彼の自室に侵入し、姫華が手早く敷いた布団の上に九十九の体を寝かせてやった。

 そうして四十万たちによる手当てを受けて、現在に至る。

 

 だが、それら一連の出来事は、今布団で寝かされている少年の知るところでは無かった。

 

「……っ、……く、ぁあ……!?」

 

 彼にとって今まさに重要なのは、全身を焼く激痛と苦痛。

 そして心の底から湧き上がる、悪夢にも似た倦怠感と酩酊感だ。

 

 特に、右腕。

 正常な思考すらロクにできない状況下だが、自分が己の肉体を酷使し過ぎた事はよく理解している。

 

 強敵を前に逃げなかった。その愚行に対するささやかな代償が、これだ。

 九十九の右腕は最早、骨どころか神経や筋繊維の全てがグチャグチャに千切れ、砕け切っていた。

 

(くる、しい……苦しい……。自分が今起きているのか、悪夢の中にいるのか、判別がつかない……)

 

 あまりに静か過ぎて、四十万は「よく眠っている」と判断して去ったのだろう。

 だが、実際のところはそうではなかった。目も口も、僅かにすら開けられないほどの痛みと苦しみが彼を襲っていただけだ。

 

(起き、なきゃ……起きなきゃ、起きて、なに、を……僕は、何を……するんだ……? 何を、僕は、誰を……誰に、何を……どうして、起きる必要、が……)

 

 いくつもの理性的な思考が、それを上回る激痛によって凌辱される。

 くるくる狂々(くるくる)と流転する意識は、身体の回復に務める筈だった妖気の流れをも狂わせていく。

 

 吐息を発する事さえ億劫になって、眠るという選択肢すら失いながら。

 少年はただ、明瞭ならざる意識の中で苦痛に喘ぐという行為のみを延々と──

 

 

「なんやなんや、えらい湿気た顔しとんなぁ。グズグズになってもうた八ツ橋くらい、なっさけないツラやのう」

 

 

 無作法な動作と力加減と態度を以て、自室の襖が開かれる。

 電灯の柔らかい光が廊下から差し込んできて、薄暗い部屋の中をほんのりと照らす。

 

(誰、だ……? 知らない、声だ……)

 

 突如として投げ込まれた音と光の群れが、熱を帯びていた九十九の思考に微かな冷たさを取り戻させた。

 そうして起きた変化に彼が意識を割くよりも早く、ズカズカと部屋の中に押し入ってくる乱暴な足音。

 

「けどまぁ、同時に戦士のツラや。負けて悔しい。名誉の傷が本当は痛い。今すぐにでも泣き喚きたい。グースカ寝とるようやけど、そういうんはよぉ分かる。なっさけない足軽のツラや」

 

 聞いた事の無い男の声が、不躾極まりない言葉を吐きながら近付いてくる。

 タン、タン、タンという足音も徐々に大きくなっていって、やがて止まった。

 

 そこで、九十九の顔に影が差す。

 廊下の光が、何かに阻まれた。直後に肌を通して感じる、人の気配。

 どうやら部屋に入ってきた何者かは、布団に寝かされているらしい自分の隣まで来て、そっと座り込んだようだ。

 

「せやけどな、そういう奴が一番かっちょええねん」

 

 ふわりと漂う、()()()()()

 

 直後に布団が軽く剥がされ、胸の上に何かが乗せられた。いや、何が乗せられたかは感触で分かる。

 手だ。男の手のひらが、仰向けに晒された胸部へと添えられている。

 

「これはボクの持論なんやけどな」

 

 一体、何をするつもりなのか。

 そう問いたくても問えない状況下をある事を知ってか知らずが、男は独りでに語り出した。

 

「“運命”とか“縁”っちゅうのは、妖気と似たようなモンやねん。どっからかポコポコ湧いてきよって、誰にも見えへんけど空気中を漂っとる。ほんで知らん()に体に絡みついて染み込んで、磁石みたいに禍福を引き寄せとんのや。ま、あくまで持論やけどな?」

 

 何を言っているのかサッパリ分からない。

 なんとかして口を動かそうとした矢先、男の手のひらを通して胸の中に妖気が流れ込んでくる。

 

 決して不快ではない、それどころか毛布のような温かさを纏った妖気の流れ。

 その温もりがじんわりと体を温めていく中、九十九は同時にまったく異なるナニカを感じ取った。

 

「せやさけ、そういう“縁”みたいなモンに糸ぉ括り付けて“たぐる”とな、意図的に“福”を呼び込む事ができんねん。言うたかて、額面通りに都合の良いモンでも無いねんけどな。できる事と言えば精々、金運とか……あとは、()()を招き寄せるくらいや」

 

──糸

 

 細く、長く、しなやかで、同時に丈夫な、絹の糸。

 そのように形容できる感触が幾本も、妖気に紛れて体の中へと入り込んできた。

 

 それらの糸はしかし、こちらを害そうという気配を見せてはいない。

 むしろ、体の奥底に溜まったドロドロのナニカを絡め取り、引き抜こうとしているではないか。

 粘ついたヘドロのようなそれらが抜き取られる度、痛みに由来する熱は徐々に収まり、代わりに心身を癒す熱が高まっていく。

 

「“悪縁”を“たぐって”抜き取って、代わりに“良縁”を“たぐって”引き寄せて。その後は、自分のガッツ次第や。運は人の背中を押すものであって、決定打にはならへん。背中を押されてどうするかは、そいつにかかっとんのや」

 

 妖気の温もりと糸の動きが体に熱を与え、解きほぐし、その熱が逆に理性の冷たさをもたらした。

 ひんやりと落ち着いた思考を取り戻す中で、九十九はようやく、薄っすらと目を開く事に成功する。

 

 薄目で世界を認識してみれば、男は今まさに胸部から手を離し、立ち上がろうとしているところ。

 声を出そうと唇を震わせた直後、サングラスをかけたその男は人差し指を立てて「しー」とだけ呟いた。

 

「気張りや、八咫村の。自分が戦う為のお膳立ては、ボクらがなんぼでもやったる。けど、本丸討てんのは自分しかおらんのや。80年前の大戦だってそう。結局のところ、ボクにできるのは裏方だけ。せやから裏方なりに、かっちょええ足軽の背中を押したるさかいな」

 

 それだけ言い残して、男は立ち去っていった。

 襖が閉じられ、廊下の光が遮られた後、部屋には再び薄暗い闇が戻ってくる。

 

 けれども九十九は、その薄暗さを不愉快なものとは思わなかった。

 ぽかぽかと心身を温める熱が、心地よい微睡みへと(いざな)っていく。

 

(……やっぱり、知らない人だった。けど……)

 

 柔らかい闇に包まれるようにして、少年はもう1度目を閉じる。

 

(どうして、だろう……何故か、安心できる人だったような……)

 

 

 

 

「……うん。成る程、成る程ね?」

 

 一方その頃、1階の居間にて。

 イナリたちの静止も聞かずに2階へ上がっていった瀬戸は一旦放置して、残された者たちは情報交換──という名の、五十鈴に対する説明会を行っていた。

 

 妖怪とはどのような存在で、今この街を襲っている脅威が何なのか。

 八咫村家の秘密、そして『現代堂』との長きに渡る因縁と、九十九がどのような戦いに身を投じようとしているのか。

 それを一通り聞いたのち、五十鈴は神妙に頷きを繰り返した。

 

「妖怪は江戸時代よりずっと昔からこの世界にいて、この街で悪さしてる連中は妖怪の過激派テロリストどもで、この家のご先祖様も妖怪で、私たちは妖怪の血を延々と継いでいて、妖怪の力に覚醒した九十九はそのテロリスト妖怪たちと殺し合ってると……」

 

 アッツアツのお茶で満たされた湯呑みを両手で丁寧に持ち、中身を軽く啜る。

 温かなお茶の味と香りを喉の奥に流し込み、ホッと一息。いつ飲んでも、この家のお茶は安心する味だ。

 臓腑に落とした熱をじんわりと楽しんだ後、湯呑みをそっとちゃぶ台の上に置いて……

 

──ダンッ!!

 

「なによそれぇぇぇぇぇえ!?!?!? 今聞いた事全部、今まで全っっっっっ然知らなかったんだけど!? 何? 何なの!? ウチって実は妖怪横丁とか霊界探偵みたいな事やってる家だったの!?」

 

 両手をちゃぶ台に叩きつけて、半ば立ち上がった状態で叫ぶ24歳女性。

 苛立ちを込めた渾身のシャウトを前に、祖父は白い髭をしごきながら「ふむ」と呟いた。

 

「“ちょいす”が古いのう……。何度か“りめいく”されているとはいえ、どちらも20世紀の漫画じゃぞ」

「そういう問題じゃないでしょお爺ちゃん! 皆が私に隠してた事もそうだけど、問題は課長がなんでひとっことも話してくれなかったかよ!」

「その、先ほどから度々言っておられますが、本当にあのガキンチョ……じゃない、あの男から何も聞いておりませんの? あいつと関わっている以上、妖怪について触り程度は知っているものかと……」

「お千代さん……だっけ。すみません、なーんにも聞いてないです、ハイ。あのクソ上司、私がどんだけ聞いても『直に見て直に聞いた方が信じられるやろ~?』って半笑いで言いやがってですね。もうフラストレーション溜まりっぱなしだったんですよ」

「「あ~……あいつはそういうのやりますね」」

「やるんだ……」

 

 召使いたちが口を揃えて断言した事に、驚き半分呆れ半分の声を漏らす姫華。

 その様子に少しだけ冷静さを取り戻しつつ、五十鈴は咳払い混じりにそっと座り直す。

 

「姫華ちゃん、でいいのよね。あなたの経緯(いきさつ)も大体聞いたけど、ごめんね? ウチの家族……特に弟がアホで。あいつ、物静かな割に向こう見ずで跳ねっ返りが強くてさー。そっちにもだいぶ苦労かけてるでしょ」

「いえ、そんな……。むしろ私は、九十九くんに迷惑をかけてる側ですから。……私、彼に何度も助けてもらって……でも、何も返せてないんです。今回だって、九十九くんのピンチに私は何もできなくて……それで、あんな有り様に……」

「こーら」

 

 ピシッ、と。

 鈍い痛みが額に走って目を白黒させた少女は、ちゃぶ台を挟んで座っている女性が自分にデコピンをしてきたのだと気付いた。

 彼女は頬杖をついてニンマリと笑い、労るような声をかけてくる。

 

「男が女の為に見せる度胸はね、見返りなんて求めてないのよ。女の前でいいカッコしたいからやってんの。それで怪我しても血ィ吐いても男の責任。助けられた側が笑顔で『ありがとう』って言ってくれるだけで、十分報われるわよ」

「……そういうもの、なんですか?」

「そういうものよ。やー、まさか九十九に見栄(おとこ)張れるだけの女の子が見つかるなんてねー。人生、何があるか分かったモンじゃないわ。昔っから執着心だけは人一倍強かった癖に、それをおくびにも出さないで仙人みたいに過ごしてたからさー。心配だったのよ」

 

 やー、良かった良かった。そう繰り返しながら、再び手に取った湯呑みからお茶を飲む。

 その振る舞いと言動に、姫華は暫し呆気に取られていた。

 

 彼女としてはてっきり、九十九が命がけで戦っている事を非難したり、やめさせようとしようとするのではないかと思っていた。

 しかし、蓋を開けてみればどうだろうか。なんとも竹を割ったような、カラッとした人物ではないか。

 

 本当に、九十九の姉なのだろうか。

 五十鈴に対してそのような感想を抱くのも無理は無いだろう。

 

「……その、お姉さん」

「やーね、そんな他人行儀な。九十九の友達なんだから、五十鈴で良いわよ」

「じゃあ、えっと……五十鈴さん。その、九十九くんが戦ってる事に……妖怪たちと、命がけの殺し合いをしてる事に、思うところとかは無い……んですか?」

「ん? めちゃくちゃハラワタ煮えくり返ってるけど?」

 

 ヒゥ、と呼吸が詰まる。

 その反応を見て、即座に「違う違う」という否定の言葉が返ってきた。

 

「私が苛ついてるのは敵に対してよ。まぁ話を聞いてみりゃ、確かに九十九が戦うしか無いかーってなるし、あんまりにも九十九しか戦える奴いなくね? ご都合悪くね? とは思うけどさ。だからって、姫華ちゃんは巻き込まれた側だし、なんも悪くないじゃん」

「……九十九くんだって、巻き込まれた側じゃないですか」

「確かにそーね。あいつだって妖怪になりたくてなった訳じゃないし、誰かを殺したくて殺してる訳じゃないでしょう。そりゃ私だって、九十九が無理やり戦わされてるとか、洗脳されてるとかだったらキレてたかもしれないわよ? でも」

 

 コンッ、と湯呑みが置かれる。

 意図的に音を立てながらのそれは、この場の空気を切り替える為のものであるように思えた。

 

「九十九は、嫌なものはちゃんと嫌って言うわよ。例え相手がパパでもママでも、お爺ちゃんでも、私相手でもね。だから今、あいつがあんな風になってまで戦ってるのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それを非難する姉が、この世界のどこにいますか」

 

 嗚呼。

 五十鈴の言葉に目を見開くと共に、感嘆と納得の息が自然と漏れた。

 

(この人は、強い)

 

 単純な武力ではなく、心根が強い。

 鋼のように頑丈では無いだろう。傷つく事はあるだろうし、それによって心がへし折れる事も、へし折れた事もきっとあるだろう。

 

 けれども彼女は、根っこがしっかりと太く長く伸びている。

 どれだけ心が折れたとしても、根っこが無事である限り、必ず復活してみせる。

 

 そういう強さだ。

 誰に責められたでもなく、ただ内から生じた無力感だけで自らの心を折ろうとしている自分とは違う。

 

「胸ぇ張りなさい。あなたが今ここにいるのも、あいつがああして戦ってるのも、全部“縁”ってヤツよ。あいつがあなたを助けて、あなたがあいつに報いたいと思う。その“縁”がきっと、九十九の足を動かしたんだわ」

 

 だからこそ、こんな風にニカッと笑える彼女を目の当たりにしたからこそ。

 姫華は、心の中で強く思うのだ。

 

(私も、この人みたいになりたい)

 

 きっと、それが強さなのだから。



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其の陸拾伍 可視化された思惑

「で、ちょっと真面目な話するわよ」

 

 姫華とのやり取りから数秒置いて、五十鈴は話を切り出した。

 手には再び熱々の緑茶。数秒の間に口に含んだそれを嚥下して、体を温めてからの発言である。

 

 彼女の視線が向かう先は、ちゃぶ台に寝かされたままのイナリだ。

 瀬戸の“施術”で多少は負傷も回復したらしく、先ほどよりは耳もよく立っている。

 

「八咫村の人間である以上、私だって遠いご先祖様の血を引いてるんでしょ? 単刀直入に聞くけど、私も今から妖怪の血に覚醒できない?」

「……いえ、とても難しいでやしょう。()()()()()()()()んでさ。元々あった才能を後天的に引き出した姫華の嬢ちゃんとは訳が違いやす」

 

 寝そべったまま、首だけを緩く振る。

 彼の傍に降り立ったお千代も同様に、申し訳無さそうに視線を落とした。

 

「そもそも妖怪は、99年使われ続けた道具に命が宿って神と成る存在ですの。その血を継いだ人間に、正当な手段で妖怪となり得る機会があるとすれば……それは間違いなく、99歳を迎えた時でしょう」

「それ以外の“たいみんぐ”で妖怪に成るのであれば、やはり命の危機に陥った状況下で、極限まで高まった生存本能から無理やり引き出すしかありやせん。ご当主様の場合は、結核で生死の境を彷徨った時。坊ちゃんであれば……」

「博物館で、カタナ・キリサキジャックとかいう妖怪に襲われて、殺されかけた時……だよね?」

 

 姫華の補足を、召使いたちは示し合わせた訳でもなく同時に首肯する。

 

「“火事場の馬鹿力”……と言ってしまえば少々陳腐になりやすが、しかして事実でさ。良くも悪くも、妖怪は人の心と精神に由来しやす。その“人”が最も生存を欲求する状況だからこそ、妖気は活性化する……とはいえ、坊ちゃんの場合は血の濃さもありやしょうが」

「そうねぇ……さしもの私も、ワンチャン成功するか失敗して死ぬかの賭け(ギャンブル)は少し怖いわ。相手は暴力が目的の不良じゃなくて、ハナっから殺害が目的の化け物軍団だものね」

 

 どうしてそこで「不良」が出てくるのだろう。

 そう聞きたい気持ちはあったが、それほど気にするべき場でも無いのでそっとスルーした姫華。

 彼女たちとちゃぶ台を囲みながら、四十万は「ううむ」と唸りつつ湯呑みに口をつけた。

 

「となると、やはり……戦えるのは九十九しかおらん、という事か。じゃが、重傷を負ったあ奴を戦いの場に駆り出すのは無理じゃ。儂とて、死ぬと分かり切っている状況で孫を死地に送り出すのは……」

「これから行くんが死地かどうかは別として、坊主の傷ならもう心配無いで」

 

 2階に続く階段を降りながら、居間に向かってそう声をかけたのは瀬戸だ。

 居間に顔を出してきた彼は、如何にも「いやー、いい仕事した」とでも言いたげな表情を顔一面に貼り付けている。

 

 事実、集中する必要があるような事をやっていたのか、彼の顔には幾筋もの汗が滴っていた。

 けれども、わざとらしく汗を拭う仕草を気障ったらしく演出しながら、あまつさえ女性陣に見せつけている辺りがどうにも胡散臭い。

 

「ふぃー。久々にやったさけ少し大変やったけど、ま、ボクにかかればあんなモンやろ」

「そういうのいいでやすから。お前さんが汗をかいてるって事は、()()をやったんでやすか?」

「まぁ、そういう事やね。“縁”をちょいとばかし“たぐって”弄ってきたし……あの様子なら、あと1時間もあったら立って歩けるくらいにはなるやろ」

「えっ……1時間!? あんなに傷だらけで、意識も朦朧としてたんですよ!?」

「せやさけボクが動いたんやろ」

 

 額の汗をハンカチで軽く拭い、よいせとちゃぶ台周辺の空いているスペースに腰を下ろす。

 驚くほど綺麗な姿勢で正座した瀬戸は、近くの棚からせんべいの袋を取り出し、中のせんべいを噛み砕いた。

 当然のようにお菓子の隠し場所を知っているが、お千代たちは特に驚いていない。

 

「別にボクは小説のチートキャラやないし、ボクが利用しとる“縁”かて、言うほど万能の概念やあらへん。ただ、坊主の自己治癒力をそっと後押ししただけ。そいでも、“縁”っちゅうんは馬鹿にできんモンや」

「“縁”……運命を操作した、って事ですか?」

「せやから、そないけったいなモンちゃうって。“縁”は常に世界を流転しとる。“縁”が運を招き、運は福に転じ、福は人の心身を富ませる。ここで大事なんは、“縁”を操る事やない。“縁”の行き先を、ちょいとズラしてやる事や。(まじな)いと同じ理屈やね」

 

 理解できるような、できないような。

 ケラケラと怪しげに笑いながらせんべいを貪る成人男性を前に、姫華は彼に対する評価を定めかねて口をモニョモニョと動かした。

 

「っちゅう訳や。坊主にまだ戦う意志があるならやけど、ほっときゃその内治るやろ。せやさけ、ここからはボクらの話をしましょか」

「話……で、やすか。それは五十鈴お嬢様を妖怪の世界に関わらせ、この場に連れてきた事にも、大いに関係があるんでやしょうね?」

 

 ジロリ、と。キツネの鋭い眼光が突き刺さる。

 如何に傷だらけの状況と言えど、如何にぬいぐるみのようにデフォルメされた外見をしていようと、彼とて江戸時代より生きる妖怪である。

 酸いも甘いも噛み分けた年長者の視線は、鋭く重く、そして的確だ。

 

「そもそも、霊的事象担当課とはなんですの? わたくしたちはご当主(ダーリン)から、五十鈴お嬢様はお役所にお務めになられたとだけ聞いておりましたのだけど」

「うむ、儂も十五月(モチヅキ)……儂の息子で、五十鈴と九十九の父からそのように聞いておった。のちに五十鈴本人も『お役所務めになれた』と報告しに来たしの」

「うん……その節はホンットにごめんね、お爺ちゃん。そこのアホ課長から『機密性の高い業務だから』って言われてて……それがなんで今、話してもいいってなってるのかは分かんないんだけど」

「そら、ワインに飲み頃があるように、物事にも話すべきタイミングっちゅうのがあんのや。五十鈴ちゃんを起用した頃は、ボクも『現代堂』が復活しとるって知らへんかったし。普通に地脈鎮めるだけの業務のつもりやったで?」

「地脈、っていうと……妖気が湧き出してくるスポットでしたっけ」

 

 少女の問いを、瀬戸はコクリと頷いて肯定した。

 それから五十鈴を見て、どこか気まずそうに後頭部を掻く。

 

「これは誓ってホンマやねんけど、五十鈴ちゃんスカウトするまで、彼女が八咫村の人間やて知らんかってん。ただちょっと、僅かながら妖気を操る才がありそうっちゅう事で調べたら、ものの見事に舞の素質があったさけ声ぇかけただけで」

「って事は、五十鈴さんにも私みたいに(まじな)い師の才能が……!?」

「そら、五十鈴ちゃんかて始祖ヤタガラスの血ぃ引いとる訳やからな。けど、姫華ちゃんとはちょいと訳が違う。五十鈴ちゃんの才能は、そのほとんどが舞に特化しとる」

 

 舞の才能。

 その言葉に首を傾げる少女を他所に、胡散臭さ全開の男は自分の分の湯呑みを持ってきて、自分でお茶を淹れ出した。

 急須からふわりと持ち上がった湯気は、彼がかけているサングラスをたちまちに曇らせる。

 

「踊りっちゅうんは、それ自体が儀式みたいなモンや。足のステップや振り付け、その順序そのものが、(まじな)い師の使う補助具の代替になる。そして舞によって成立する(まじな)いの多くは、妖気の流れを鎮め、沈静化させる部類に秀でとるんや」

「……ああ、読めましたわ。さてはあなた、五十鈴お嬢様を全国に連れ回して、各地で踊らせていましたわね? 舞の奉納によって地脈を鎮め、妖気の流れを整える為に」

「お千代さん、前半めっちゃ正解です。地脈云々については全然詳しく教えてもらえてなかったんですけど、全国連れ回されたのはマジです。しかも日帰りです。酷くないですか?」

 

 疲労感たっぷりに項垂れた五十鈴を、労し気に見つめる一同。

 なお、この「一同」の中に瀬戸は含まれていない。彼はどこ吹く風でお茶を啜っている。

 

「ほんで、こっからが本題や。ボクらが五十鈴ちゃんの地元であるこの金鳥市に来たのは他でもない、この街の地脈の流れを整え、直す為やねん。なんや知らん()にえろうめちゃくちゃになっとるからな、ここの流れ」

「地脈……フデ・ショウジョウの『げえむ』でやすか! 奴のばら撒いた妖術のせいで、この街を巡る妖気の流れは、奴が儀式を行うのに都合の良いように改竄されたんでさ」

「やっぱそいでかー……。まさしく、儀式の類いをやるんに丁度ええ感じになっとんねん。ホンマきっしょく悪いわぁ、()()()()()()()()()()()()()って感じ。立場柄、この街おると肌がゾワゾワしてしゃあないねん」

 

 鳥肌が立つ、と言わんばかりに自分の体を抱き締める。やはり、その動きはどうにもわざとらしい。

 上司の前であるにも拘らず無作法に頬杖をついて、五十鈴はむっすりと声を発した。

 

「そのゾワゾワを直す為に踊るのは私なんですけどね。……実際問題、地脈の流れ? が今のままだと、どんな不都合があるんですか?」

「まぁ、そやな。小難しい話とかはざっと端折って分かりやすう言うと──」

 

 そこで、湯呑みの中のお茶を飲み切って。

 ふぅ、と一息ついた後に、まるで夕飯の献立を告げるかのような気軽さで。

 

「ほっとくと敵がめっちゃ(つよ)なって、坊主が段々まともに戦えへんようになってその内負けて死ぬと思うで」

「「「「──はぁっ!?!?!?」」」」

 

 四十万以外の全員が声を荒らげた。その四十万とて目を見開き、驚いた拍子に姿勢を崩してしまっている。

 彼らの驚愕をBGMか何かのように聞き流して、瀬戸は急須からお茶のおかわりを注ぐ。

 

「そない驚く事でもあらへんがな。あの流れは、『現代堂』の妖怪が『現代堂』に都合の良いように整えたもんや。あっちにとってはホームで、こっちにとってはアウェー。そら坊主も苦戦するやろ」

「布石……って事でやすか。あっちにその気があったかどうかは別として、確かに奴ばらの使う術が、自分たちの帰属する『現代堂』に不利益をもたらすとは考えにくいでさ」

「そういう事や。せやさけ坊主を勝たしたいんやったら、まずは地脈を整えなアカン。ホームグラウンドをこっちに取り戻す必要があるんや。その為に五十鈴ちゃんを連れてきてん」

「うわぁ、責任重大……。私がしくったら九十九が負けて死ぬかもしれないって事でしょ? ひえ~、地鎮祭の時とは比べ物にならないプレッシャーだわ……」

「……でやすが、現状それくらいしか手が無いのも確かでさ。仮に奴ばらの言が正しく、ここまでの流れが『現代堂』の思惑通りなのだとしたら……奴ばらの言う“昏い太陽”も、あながち法螺の類いでは無いのやもしれやせん」

 

 “昏い太陽”。

 その単語を聞いた瞬間、サングラスの奥で瞳が揺れた。

 胡散臭い表情に明らかな変化が現れ、「何故そこでその言葉が」と言いたげに困惑を見せている。

 

「……ちょい待ち。“昏い太陽”ってなんや? なんで、そないな与太話が今の話題に出てくんねん」

「……今回、『げえむ』と称して街を火の海に変えた妖怪ヒバチ・ヒトウバンが言ってたんでさ。『げえむ』の目的は“昏い太陽”を呼び寄せる事であり、それを成した者に“魔王”の称号が与えられる、と」

「神ン野も、似たような事を仰っておりましたわ。人の恐怖が“昏い太陽”を招く。だから妖怪たちは、人を恐怖に駆り立てるのだと。聞いた時は、わたくしたちも驚いたものですが……」

「マぁジでぇ~? 80年前の大戦は共倒れで終わったさけ、連中の目的も分からず仕舞いやったけど……まさか、そない目的があったとは思わんかったわ」

「……あの、神ン野? とかいう妖怪がそう言ってた時、イナリさんもお千代さんもとても驚いてました。そもそも“昏い太陽”っていうのは、一体何なんですか?」

 

 少女の呟きに、妖怪たちは一様に顔を見合わせた。

 どう話したものか。そう思案する2匹を遮って、瀬戸が咳払いをひとつ。

 

「……“昏い太陽”っちゅうんには、別の呼び名があってな。ボクらはそっちの方……“空亡(ソラナキ)”っちゅう名前で呼んどる。そんで“空亡”は、()()()()()()()()()()()()()やて言われとるんや」

「なーんで課長がそういう事を知ってるのかは最早突っ込みませんけど……その“最初の妖怪”とやらを呼び寄せるっていうのは、そんなにおかしな事なんです? 封印されていた大ボスを呼び出す為に儀式をー、なんて如何にも悪の組織のやりそうな事ですけど」

「……誰も知らないんでやすよ。“空亡”が実在するのかどうかを」

 

 ボソリと呟くように零されたイナリの言葉を、その場の全員が耳にする。

 彼の耳はペタンとしなだれて、難しそうに表情を歪めている。どう言葉にしようか。そう悩んでいる顔だ。

 

「わてが妖怪としての生を得たのは天保8年、西暦1837年の江戸でさ。それから200年弱を生きてきやしたが、“空亡”に纏わる記録や史料なぞ、何1つとしてありやせんでやした。ただ、妖怪たちの間で面白おかしく言い伝えられているだけで御座いやす」

「わたくしも似たようなものですわ。江戸時代より連綿と続く八咫村家でさえ、蔵のどこを漁っても“空亡”の『そ』の字も出てきません。あの時、そこなキツネは『御伽噺』と評しましたが、実際は御伽噺未満のナニカ。都市伝説、と呼ぶべきですわね」

「……もしも、その都市伝説が事実だとして」

 

 思考の海から顔だけを上げて、姫華が妖怪たちを見やる。

 彼女はつい最近まで、妖怪の事など何も知らなかった。良くも悪くも、妖怪についての知識量は「まっさら」な状態だ。

 そんな彼女だからこそ、当の彼らでさえ実在を証明できない謎の存在について、フラットな目線でいられた。

 

「もしも、『現代堂』が“空亡”を呼び寄せる事に成功したら……何が起きると、思いますか?」

「……“空亡”に纏わる与太話は、尾ひれがついてるんがほとんどや。せやけど、共通している語り口はある。1つは、先にも言うた『この世で最初に生まれた妖怪である』っちゅう話。そんで、もう1つは──」

 

 神妙な顔つきで、瀬戸は呟く。

 自分ですら、自分の発言に確証を得られていない。そんな表情で。

 

「……『全ての妖怪を統べ、従える事ができる』」

「それって……」

「仮に連中の『げえむ』とやらでホンマに“空亡”を呼び出して、その力を得る事ができるんなら、確かに次の“魔王”を名乗れるわ。“八咫派”なんてレジスタンスもハナっから成立せぇへん。全ての妖怪がそいつに跪いて、人類文明廃滅の為に進軍するやろな」

 

 そこで息を呑んだのは、果たして誰だっただろうか。

 少なくとも、その場の全員──発言した本人を含めて、脳裏に過ったその恐ろしさに戦慄したのは事実だった。

 

 同時に、『現代堂』の悪しき企みを食い止めねばならぬという更なる確信を得た事も。

 

「……元より、これが『昼』の側と『夜』の側を巡る大きな因縁の戦いである事は分かっていたが……まさか、ここまで巨大な潮流を招くものであったとは」

 

 四十万の呟きがやけに大きく、そして重く感じられたのは、果たして気のせいだろうか。

 

 悪しき妖怪集団『現代堂』。彼らが求める“昏い太陽”。その為の殺人儀式『げえむ』。

 『げえむ』から撤退せども未だ健在の妖怪が2体に、彼らを後押しする歪んだ地脈。

 

 老爺の呟いたような「巨大な潮流」が存在するとするならば、それはきっと『現代堂』の側に追い風を生んでいるだろう。

 天秤は今、悪しき『夜』の側に傾いている。この状況から脱却し、逆転する手段(ルート)があるとするならば──

 

「九十九くんしかいない……か」

 

 伸るか、反るか。進むか、退くか。勝つか、負けるか。

 その全てを八咫村 九十九(リトル・ヤタガラス)ただ1人に担わせざるを得ない事を、誰もが歯痒く思っていた。

 

「……ま、これも姉の役目か」

 

 だから。

 五十鈴はそのように溜め息をつくと、ゆったりとした動きで立ち上がった。

 

「……どちらへ?」

「九十九んとこ。あいつの様子も気になるし……それに」

 

 ふぅ、と息を吐いて腰に手を当てる。

 その時の彼女は、己の弟を案じながらも、どこか身内を想う母性のようなものが混じる表情を浮かべていた。

 

「こちとら何年あいつの姉やってきたと思ってるの? あいつの考えそうな事くらい大体分かってるから、久々に『お姉ちゃん』してくるわ」



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其の陸拾陸 混迷の中で

 端的に言うならば、九十九は正気に戻った。

 尤も、それが禍福のどちらを招いたかと問われれば、本人にとっては“禍”の側だろうと答えざるを得ない。

 

「……」

 

 目を覚まして数分、ようやく世界を認識した九十九は、漫然とした動作で起き上がる。

 部屋は薄暗く、しかし室内の構造は理解できる。自分が寝かされていた布団が、いつも使っているものである事も。

 

 ここは、自分の部屋だ。

 そう確信し、己の頬にそっと手を添えようとして──眠気を吹き飛ばすほどの痛みが走った。

 

「い、ぎっ……!? これ、は……」

 

 目線を落として、ようやく気付いた。

 自分の右腕には今、夥しい量の包帯が巻かれている。

 

 左腕は問題無く動かせるものの、右腕は指先に至るまで一切の力を入れる事ができない。

 そればかりか、無理に力を込めようとすれば、先ほどのように痛みが走るばかりだ。

 

「……ぁ」

 

 ぼんやりとしていた意識が、右腕を襲う痛みによってくっきりと晴れる。

 そうして戻った理性は、己の脳裏に溜め込まれた記憶という記憶、情報という情報を片っ端から引き摺り出し──

 

「……負けたのか、僕」

 

 全てを、思い出した。

 

 今回の『ぷれいやあ』であったヒバチ・ヒトウバンを取り逃した事。

 ヒョウタン・アブラスマシの妖術によって、深刻なダメージを負った事。

 神ン野との決闘に挑んだはいいものの、歯が立たず一方的に蹂躙された事。

 

 負担を度外視して妖術を行使した結果、右腕が折れてしまった事。

 そうして放った大技でさえ、神ン野に容易く防がれてしまった事。

 

 接敵した妖怪の誰1人として倒す事ができず、完敗を喫してしまった事。

 そして。

 

「……──っ!?!?」

 

 込み上げる吐き気。

 思わずと言った風に、左手で口元を抑え込んだ。

 

 幸い(と呼べるものでも無いだろうが)、戦闘が始まったのは夕食前。

 昼食はとうの昔に消化し切っているだろうから、吐瀉物として出るのは胃液だけだろう。

 けれど、喉と胃を凌辱するこの不快感だけは、どうにも拭えそうに無かった。

 

「はぁ……はぁっ……ぼ、くは」

 

 息が荒くなる。動悸が狂う。

 

 不思議な事に、3体の妖怪との戦闘で刻み込まれた傷や怪我のほとんどは、右腕を除いて大きく癒えつつある。

 未だ痛む部分はあるもの、あと数分もすれば立ち上がって行動する事ができると思われた。

 

 体が癒え、暫く眠りについたおかげで、思考もクリアな状態になっている。

 自分の身に何が起きたのか、戦いの場で何が起きたのか。それらを鮮明に思い出し、理解する事ができるほどに。

 

 先にも語った通り、八咫村 九十九は正気に戻った。

 

 ()()()()()()()()()

 

「僕は、あの場で……なに、を、言った……!?」

 

 正気に戻ったという事は、裏を返せば、それまで正気で無かった事を意味する。

 では、いつから彼は理性を失っていたのか。そして、理性を失っている間に何があったのか。

 

 その答えは全て、神ン野との戦いにあった。

 

 

『……お前を、撃つ為だ』

 

『……お前が言うよりも、ずっと愚かな奴だと思うよ、僕は。だって……はは。体が、止まれないんだ』

 

『理屈の上では、分かってるんだ。僕がやろうとしてるのは、とても馬鹿げた事だって。でも、なんでだろうな……ははっ。これじゃあ……姫華さんを笑えないや……』

 

『それでも僕は、八咫烏だ。勝利の象徴が、逃げるなんて許されない』

 

 

 あれらの発言は、紛う事無く九十九のものだ。九十九が語ったものだ。

 だが、それらを彼が尋常の状態で語ったかと問われれば、否と答える他無い。

 

 あの時、九十九が繰り出した攻撃も、妖術も、策も、手練も、何もかもが神ン野には通じなかった。

 そればかりか、奴が軽く武器を振るっただけで、こちらは大きなダメージを負う始末。

 ヒトウバンたちとの戦闘で消耗していた、だなんて言い訳にもなりはしない。それほど隔絶した実力差が、あの場にはあったのだ。

 

 何もかもが敵の力量に届かない中、遂に追い詰められ、敗北が確定した状況下にあって。

 肉体的にも、精神的にも限界を迎えた九十九は、薄れる意識の中で──

 

 

【──a、Aa】

 

 

 カラスの鳴き声を、聞いた。

 

「ぅ……!?」

 

 再度、嘔吐を催す。

 左手を口に押し込んで堪えたものの、思考の片隅で「このまま吐いてしまえば、体の奥の妖気も吐き出せるのではないか」という考えが過る。

 喉を灼く胃液を飲み下して手を離せば、荒い呼吸が部屋の中に溶けていった。

 

「あ、れが……妖気に、呑まれる……って、感覚……」

 

 あの時、何が起きたのか。その答えは、神ン野の言葉が全てだ。

 

『……妖気に呑まれたか。命脈が衰え、心身に限界が訪れた結果、己の身に流れる妖怪の血に()てられたのだな。それは、貴様の魂魄が惰弱である事の証明だ』

 

 結論だけを語るならば、至って簡単な話だ。

 八咫村 九十九は未だ心身共に弱く、彼の体に宿る妖怪テッポウ・ヤタガラスの力は、彼の心身を凌駕するほどに強かった。

 

 これまでの九十九は、例えるならば蛇口を捻って出てきた水を運用していただけに過ぎない。

 敵に圧倒され続けた中で、無視できないダメージばかりが積み重なり、遂に壊れた蛇口から鉄砲水が吹き荒れたのだ。

 

 その結果として、己の内から湧き出すヤタガラスの妖気に力負けし、理性を喪失。

 正気ならざる状態に陥った彼は、己のコンディションさえ無視して戦闘続行の意思を示し、最後には……。

 

「……」

 

 じっとりと、粘ついた汗が滲み出る。

 ()()は、どこからどこまでが「自分」だったのだろう。なんの意味も無い疑問が、脳裏に反響する。

 無意識に左手を胸に当てれば、今の精神状態を反映したかのように不規則な鼓動が伝わってくる。

 

 ドク、ドク、ドク。

 どれだけ傷を負っても、意識を失っていても、苦痛に喘いでいても、心臓は変わらずリズムを刻み続け──

 

 

【夜ヲ、恐レルナ】

 

 

 そんな声が、聞こえた気がした。

 

 その瞬間、ゾワリと全身の鳥肌が立つ。

 毛穴という毛穴が開き、体内に溜め込まれた全ての水分が汗として排出されたのではないかとさえ錯覚する。

 

 自然と、全身の筋肉と神経に力を込める。

 折れた右腕にも多少の力が入り、鋭い痛みが心を刺すが、それを気にしてはいたくなかった。

 

 だって、こうでもしなければ正気を保てない。

 心の奥底のヤタガラスが、もう1度、己の体を侵蝕するかもしれなかったから。

 

「僕、は……僕は……ぼ、くは……」

 

 手が震えているのを自覚する。

 視線を落とすと、汗塗れの左手が布団をキツく握り締めていた。

 

 今、途方も無く湧き上がってくるこの感情の正体は、自分がよく分かっている。

 

 カタナ・キリサキジャックの齎す惨劇に巻き込まれた時よりも。

 未知の力に覚醒(めざ)め、戦いに身を投じる宿命(さだめ)だと悟った時よりも。

 ヒトウバンやアブラスマシとの戦いで、劣勢に陥った時よりも。

 神ン野という強大な敵を前に、完膚なき敗北を喫した時よりも。

 

「僕は……この力が、怖い……っ!」

 

 己の手にした力が、己の手で制御できないほどに強く、使い手の身を滅ぼし得る事に。

 そんな力を、ただ「戦う為の武器」とだけ認識して、意気揚々と振るっていた事実に。

 

 八咫村 九十九は、自らが宿す妖怪の血(ルーツ)に、生まれて初めて“恐怖”を抱いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ま、そんなこったろーと思ったわよ」

 

 溜め息と呆れの交互に入り混じった声。

 よく聞き慣れた、しかしこの状況で聞こえる筈の無いその声色に、九十九は思わず顔を上げる。

 

 一体、どこから。

 そう思って首を動かそうとした直後、後ろから自分の頭を撫でてくる手のひらを感じた。

 

「あんたってば昔からそう。後先考えずに突っ込んで、後から自分のやった事に凹むの。今回、何があったかはざっくりとしか聞いてないけど、大方察しはつくわよ。どうせ、意地張って逃げなかったんでしょ。ホント、1度『こう!』と決めたら頑固よね」

 

 がっしがっし、わしわし、と。

 荒っぽく、それでいて痛みは無い。どこか温かくて、でもやっぱりぶっきらぼうで。

 そんな撫で回し方に確かな懐かしさを感じて、ゆっくりと頭上を見た。

 

「ねえ、さん……?」

「あら、それ以外の誰に見えるのかしら? 私は見ての通り、あんたの強く賢く美しい姉、八咫村 五十鈴その人よ」

 

 九十九よりも艶やかで、九十九よりも淡い色彩の黒髪。

 肩まで伸びたそれは、後頭部でサラサラのポニーテールとして纏められている。

 

 鋭い目尻も、愛嬌のあるタレ目も、重みのある黒目も。

 何も変わらない。カラッと澄み渡った晴れ空のように整った顔立ちは、四十万の家に引っ越す事を相談した数週間前から、何も変わっていない。

 

「さ、久々のお姉ちゃんタイムよ。あんたが何に悩んでるのか、片っ端から聞かせてもらおうじゃない」

 

 そこにいたのは間違いなく、九十九の姉、五十鈴だった。




今日はこの後【20:00】より追加投稿を行います。


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其の陸拾漆 秘めた本音

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


 姉が、誰よりも何よりも慕っていた姉、八咫村 五十鈴が傍にいた。

 その上、自分が苦痛混じりに呟いていた言葉の数々も綺麗に聞かれていた。

 

 その事実を飲み込む為に、九十九は10秒ほどの時間を必要とした。

 グルグルと巡り巡る思考がようやく現実世界に回帰して、やっとの事で絞り出した言葉は。

 

「……いつから、いたの?」

「そうねぇ。あんたが『……負けたのか、僕』とか呟いてた時には、もう部屋の中にいたわよ」

「めちゃくちゃ最初の方からじゃん……」

「小学生の頃、かくれんぼで私に連戦連敗だったのをもう忘れたの? 本気で気配を隠した私を、あんたが見つけられる訳無いじゃない」

 

 鼻息を軽く出し、頭を撫でていた手を止める。

 そうして姉は、布団から起き上がったままの態勢で止まっている弟の対面で、どっしりと胡座をかいた。

 

「どう、して……姉さんが、ここに……」

「色々あったのよ。その辺は後で話すけど、今は重要じゃないわ。重要なのは……そう、九十九。あんたがこれまで、どんな奴らとどんな風に戦ってきたのか。私がそれを、きっちり聞かされた事ってだけよ」

「……! そっ、か……」

 

 驚きはある。バレてしまった事へのショックも、多少なりとも存在する。

 一方で、真っ当に驚くだけの、或いはショックを受けるだけの余裕が無いのも事実だ。

 

 精神的に憔悴した状態にある九十九は、姉のカミングアウトを思いの外あっさりと受け入れた。

 何度か口をモゴモゴと動かした後、やおらに確認の言葉を口にする。

 

「……って、事は……全部、知っちゃったんだ。僕らの家の秘密、とか……敵がどんな奴なのか、とか」

「大体は聞いたし、イナリさんやお千代さんとも話したわよ。良い人……人? って言っていいかは微妙だけど、とにかく良い人たちだったわ。それに姫華ちゃん、とっても可愛くて気立てのいい子じゃないの。素敵な縁に恵まれたみたいね、あんた」

「……うん」

 

 緩やかに、力なく頷いた。

 その所作がどうにもおかしなもので、五十鈴は弟の顔をじっと覗き込んだ。

 

「大体分かったわ」

「……っ。なに、を……」

「あんた、()()()()()()()()。今、心の中に押し込んでる感情とか、そういうの」

「……」

「図星ね。ホント、分かりやすいったらありゃしないわ」

 

 呆れた。そんな感想を言外に滲ませて、やれやれと肩を竦める。

 膝に肘を載せて頬杖をつき、切れ味鋭いタレ目で正面の九十九を見た。

 

 学生時代、何人もの不良をビビらせ、何人もの女子生徒を射止めた眼差し。

 力強く鋭利な瞳孔は、何か言いたげに顔を俯かせている少年の姿をしかと捉える。

 

「ガキの頃からなーんにも変わってないわね。普段はびっくりするくらい大人しいのに、変なところに限って強情で頑固で譲らない。そんで一通り突っ走った後、自分のやった事を思い返して落ち込む。ノセられやすいっていうか、火がつきやすいタチなのかしら」

「……よく、見てるんだね」

「そりゃー、あんたのお姉ちゃんだもの。覚えてない? 小学生の頃、あんたをいじめから庇った光太くんもいじめの標的にされた時の事。私ね、あんたがいじめっ子と殴り合いになって血ぃ吐いたって聞いた時は、ホントに血の気が引いたんだからね?」

「はは……その節は、ご迷惑をおかけしました……」

「ホントにね。自分だけがいじめられる分にはずっと黙り込んで抱え込む癖に、他人が巻き込まれた途端、瞬間湯沸かし器みたいに沸騰して。そこで爆発するくらいなら、最初っから私たちに話しなさいよ……ってのはまぁ、後出しでいくらでも言えちゃう事か」

「……」

「別に、責めちゃいないわ。あんたも光太くんも、何1つ悪くない。いじめなんて、いじめる方がバカでカスでクソ野郎なのよ。あんたをいじめたクソガキどもの歯をへし折りたいって今でも思ってるけど、今は重要じゃないわ」

 

 瞬間、デコピンが飛んでくる。

 不意打ち気味に放たれた指の一撃は、額のど真ん中を強かに打ち据えた。

 

 痛む額を押さえながら、言葉を発せないくらいに悶絶する九十九。

 16年も姉弟を続けているが、五十鈴のデコピンを避けられた試しは無い。

 ついでに言うならば、彼女のデコピンは途方も無く痛い。本人が言うところによれば「愛の痛み」らしい。

 

「~~~っ、()ぅ……」

「今この場で重要なのは、あんたが誰にも相談しないで抱え込む悪癖の方よ。どうせ今回も、私が指摘しなかったら、ずーっと腹の内に隠し通す気だったんでしょ。光太くんが巻き込まれるまで、自分がいじめられてる事を誰にも打ち明けなかった時みたいに」

「そ、れは……」

「言っちゃいなさいよ。この場にいるのはあんたと私だけ。毎度お馴染み、お姉ちゃんの人生相談コーナーです。吐けるだけ吐いて、スッキリしなさい。ね?」

 

 胡座をかき、言い訳も逃避も許さないと言わんばかりの視線を射掛けてくる姉。

 彼女の放つ無言の威圧感に少しばかり気圧されて、やがて決心したように口を開いた。

 

「……怖かったんだ。僕は今まで、自分の振るう力がどんなものなのか、これっぽっちも理解していなかった。理解していなかった癖に、それを自分の力だと思って、やりたい放題に使っていたんだ」

「それは、あんたが覚醒(めざ)めたっていうヤタガラスの力の事ね?」

 

 その問いに対する返答は、無言の首肯だった。

 

「僕は、過信していた。僕の力なら、敵を倒して皆を守れるって。『現代堂』の野望を止める事ができるって。その結果が……僕の、驕りに対するツケが……」

「そこも聞いた。神ン野とかいう超強い鎧武者に、為す術も無くボコボコにされたって」

 

 何も、言い返せなかった。

 彼女の語ったそれが、紛れも無い事実だからだ。

 

「……何も、知らなかった。敵があんなに強い事も。ヤタガラスの力が、僕の想像よりもずっと強いものだった事も。僕がその力を御し切れていなかった事も。自分が手にした筈の力に振り回されて、ズタボロになるくらい……僕の心が弱かった事も」

 

 いくら視線を落とせども、視界に入るのは布団と、布団を握り締める左手だけ。

 それでも九十九は、目の前の肉親と目を合わせる事ができなかった。

 

「それで意識を失って、気が付いたらここで寝かされていて……それで、思ったんだ」

「……」

「……きっと、()()()()()()。僕は、妖怪の力を使って妖怪を倒す事を、ゲーム感覚で楽しんでいたんだ。まるで、ヒーローか何かになったんだと。皆を守る為じゃなくて、自分が万能の力を得たと実感する為に戦ってたんじゃないかって、そう思えて仕方が無いんだ」

 

 この事を打ち明ける為に、どれほどの勇気を必要としただろう。

 それは真実、九十九の心に差し込んだ影だった。

 

 過信していた。自分が強い存在であると。

 侮っていた。敵が勝てる存在であると。

 知らなかった。自分の力がどんなものであるかを。

 驕っていた。自分ならば皆を救ってみせられると。

 

 そして──楽しんでいた。敵を倒し、討ち滅ぼす事を。

 襲い来る敵を、助けを求める人々を、ゲームのNPCのように思っていた。

 

 九十九がこれまで、本当にそう思いながら戦っていたかどうか。それを証明する術は無い。

 けれども今の彼は、自分がそのような考えの下で戦っていたのだと、そのように思い込んでいた。

 少なくとも、その事を吐露する声は震えていて、とても演技だとは思えない。

 

 神ン野に敗北した事実が、彼の心に大きな大きな楔を打ち込んだ。

 それによって生まれたヒビ割れこそが一連の告白であり、彼が誰に対しても隠し通そうとしていた心の闇なのだろう。

 

 その事を、十全に理解した。理解して、五十鈴は鼻から息を吐く。

 すっくと立ち上がり、右手を握り、異変に気付いてこちらを見上げてくる弟に対して──

 

 

「こんっの──おバカァッ!!」

 

 

 全身全霊の拳骨をぶちかました。




タッコングは逆襲するしアスカは目覚めるしムサシは飛ぶし勇士の証明はしなくていい。
この章はそういう回です。


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其の陸拾捌 あねおとうと

「いっ──()ぁッ!?!?!?!?!?」

 

 頭が真っ二つにかち割れるのではないか。

 そのように思ってしまった九十九を、誰が責められようか。

 

 チカチカと点滅を繰り返す視界の隅では、幾度も幾度も星が弾けている。

 痛みと衝撃、ついでに突然頭をぶん殴られた事も相まって、頭の中で無数のはてなマークが浮かんでは消えていく。

 拳骨の落とされた箇所に手を当てて苦悶する中、先ほどまで彼の脳内をドロドロと汚していた暗い考えはさっぱり吹き飛んでしまっていた。

 

「バカだバカだと思ってはいたけど、ここまでバカだとは思わなかったわ。あんた、なーんにも分かってないのね」

「分かってない、って……何がさ。僕が弱いから負けたのも、自分の力に増長していたのも、全部事実じゃないか」

「そこは別にどうでもいいのよ」

「いいんだ……」

「戦い始めたばかりのあんたが弱いのは当たり前。()()()()にかまけてちゃ、勝てる戦いだって勝てないものよ。そして、自分の才能に増長するのも当たり前。人間、自分の身に余る力を手に入れたら誰だって調子に乗るものよ。そんでどっかで鼻っ柱を折られるの」

 

 あっけらかんが過ぎる。

 あんまりにもストレートな物言いに、思わず面食らってしまったのも無理は無い話だ。

 

 対する五十鈴はと言えば、再び彼の対面に座って胡座をかき、またもや頬杖をつき始めている。

 その有り様は怒っているようにも、呆れているようにも、はたまた幼子に勉強を教えているようにも見えた。

 

「むしろ、ここで折ってもらえて良かったじゃない。その慢心と増長を抱えたまま、もっと強い敵と戦って御覧なさい。今度こそ本当に死ぬわよ。そうなる前にプライドを折ってくれてありがとう、くらいに思っときなさいよ。そっちの方が心の健康に良いわ」

「そういうもの、なの……かなぁ……? これ、本当に同意してもいいのかなぁ……?」

「ネガティブに考えるより、ポジティブに考えた方が人生楽しいもんよ。んで、さっきも言った通り、この辺は別にどうでもいいわ。良い薬だったわね、で終わる話だもの。だから、ここからが私が叱るべきところ」

 

 その直後、九十九は強い力に引っ張られて、思いっきり体勢を崩してしまう。

 咄嗟にバランスを整えようとしても、揺れる視界がそれを阻害する。

 ほんの少しの浮遊感が上半身を襲った後、慣性の法則によってがくりと前後に揺れた頭が、ようやく状況を認識した。

 

 九十九は今、五十鈴に胸ぐらを掴まれている。

 目と鼻の先にまで引っ張らられた顔面は、目の前に迫る姉の、怒りに染まった表情を視認せざるを得なくなった。

 

 

「妖怪ボコるのを楽しんでた? ゲーム感覚で殺し合ってた? 舐めたクチ利くのもいい加減にしなさい、九十九。あんたが()()()そんな態度で戦ってたんならね、あんたが今まで関わってきた人たち、今頃みーんな死んでるわよ!」

 

 

 瞳孔が揺れ動く。

 今まさに胸ぐらを掴まれ、叱り飛ばされた彼の弱り切った眼差しが揺れている事を、彼女は確かに見逃さなかった。

 

「あんた、姫華ちゃんを3回も助けたんでしょ? その内の1回でも、遊び半分に助けたの? ゲームを遊んでるみたいに敵を殺したの? そんなふざけた態度で助けられるくらい、敵は弱くてくだらない連中だったの? その程度の敵に、姫華ちゃんは襲われたの?」

「……そ、れは」

 

 違う。

 それは、間違いなく誤りだと確信できた。

 

 チョウチン・ネコマタは、九十九が後少し駆けつけるのが遅ければ姫華を食い殺していただろう。

 それにイナリの補助が無ければ、倒すまでに少なくない負傷を受けていた筈だ。

 

 フデ・ショウジョウや彼が生み出したガキツキの群れは、こちらの対処能力を超過する物量で攻めてきていた。

 2匹の召使い妖怪たちあってこその勝利であり、決して自分1人で倒せた敵ではない。

 

 テカガミ・ジョロウグモに至っては、そもそも「敵」とすら呼びたくは無い。

 彼女もまた『現代堂』の被害者だった上、姫華の体を張った説得が無ければ、もっと残酷な結末を迎えていただろう。

 

 決して弱くも、くだらなくも、片手間で倒せる程度の敵でも無い。

 

 それを理解してしまった。思い出してしまった。

 その時点で、先に吐露した「ゲーム感覚で妖怪を殺す事を楽しんでいた」という言葉は破綻する。

 

「姫華ちゃんね、言ってたわよ。あんたに返したいのに、返せるものが何も無いって。あんなにあんたの事を想ってて、あんたに報いたいと悩んでるような子を、ゲーム感覚で助けたって? あんた、姫華ちゃんの感謝を踏み躙る気?」

「……でも、完璧には救えなかった。灰管の友達2人は僕が来るより前に姫華さんの前で食い殺されて、ジョロウグモを本当の意味で救う事もできなかった」

「そんな『太陽は東から昇って西に沈む』くらい当然の事を言われても困るわ。人を完全完璧に救うだなんて、警察でも消防でも自衛隊でも無理な話よ。救えなかったものの数はいっちょ前に数える癖に、救えたものの数を計上しないからあんたはバカなの。分かる?」

 

 グッ、と喉元に言葉が詰まる。

 

 イナリたちにも度々言われてきた事だ。

 今の九十九の力量では、手の届く範囲すら十分に拾い上げる事はできない。

 その事を悩むよりも先に、自分にできる事を為す為に邁進すべきだと、そう思い続けていたのに。

 

 今の自分は、そんな思考が持てずにいた。そんな考え方が頭の内から失われていた。

 そう言いたげな表情から的確に察し取ったのか、五十鈴の指先が彼の額にぐりぐりと押し付けられる。

 

「今のあんたは、ちょっと心が折れてるだけよ。人間、強いショックを受けて落ち込んでる時は、何をどうやってもポジティブな考え方なんてできないの。むしろ、考えるしかする事が無い分、ネガティブな思考にズルズルズルズルと引き摺られていっちゃうものなの」

「それが……今の、僕?」

「お姉ちゃん舐めんな。こちとらあんたの1.5倍の人生を生きてんのよ、あんたみたいな落ち込み方をする奴なんていくらでも見てきたわ」

 

 そう語る彼女の顔は、言外に「まったく世話が焼ける」とでも言いたげなようで。

 

「1回負けたくらいでくよくよしないの。自分の力がどんなものか知らなかった? それを御し切れない? 振り回されてズタボロになった? そんなの、生きてさえいれば後からいくらでも改善できるものよ。実力が足りないなら、伸ばせばいいだけじゃない」

「そんな、簡単に……」

「簡単よ。努力すれば何でもできる訳じゃない。けれど、ダラダラ怠けながら手にできる結果なんて無いわ。それは、ウジウジ泣いてばっかりでも同じ事。勉強も人生も、反省と対策が大事なの。行動の是非も成果も、大して重要じゃあないわ。生きてればいいのよ」

 

 ここまで怒涛の勢いで言い切られては、頷く他無かった。

 

 つまるところ、八咫村 九十九は己の敗戦を誰よりも重く受け止めていた。

 自分の持つあらゆる手段が通用しない大敵を前に鼻っ柱を折られた彼は、その熱されやすい性分の反動でネガティブな考えばかりを脳裏に溜め込んでいたのだ。

 

 それらの悩みはこの通り、長く彼を見てきた姉に一刀両断される程度のものでしか無い。

 だから、本当の問題はここから先にある。

 

「で、九十九。私、今度こそ確信したわ」

「……うん」

「あんた、私がここまで言わなかったら……というか、私が『心の内を吐き出しなさい』って言わなかったら、このまま永遠に誰にも言わないつもりだったでしょ。誰にも言わないで、ずっと1人で悩み続けてたでしょ」

「……はい」

 

 最早、肯定以外の選択肢は残されていなかった。

 肯定の対価としてもたらされたのは、五十鈴の深い深い、そしてずっしりと重い溜め息だった。

 

「一番の問題はそこよ。1人で抱え込んでたって、いつかその重みに押し潰されるのがオチだわ。自分の大切な人だったり家族が思い詰めて精神的に憔悴してるってのに、実際に潰れてしまうまでその事に気付いてやれなかった側の気持ち、あんたに分かる?」

「……けれど」

 

 ポツリと、言葉を絞り出す。

 姉が諭す言葉の数々はどれも正しいものばかりだが、それでも心に刺さった“楔”は抜けない。

 だって、そうだろう。

 

「変に打ち明けたりして、それで……皆に心配させたり、迷惑をかけたりしたくないんだ」

 

 これ以上、情けない姿を見せたくなんて無いのだから。

 

「……はぁ~~~~~……」

 

 立ち上がり、腕を組み、顔を俯かせて、重い溜め息を吐き散らす。

 そうして彼女は、生真面目で馬鹿正直で業突く張りで、けれども優しくて友達想いな弟の両頬を包み込んだ。

 

「うみゅっ!? ね、姉さ……」

「今のあんたに『潰れてから発覚する方が迷惑でしょ』とか『その程度で迷惑がるほどあんたの仲間や友達は安いのか?』とか、そういうのを聞いたって毒にも薬にもならない返事しかしないでしょうし、ハッキリ言ったげる」

 

 これは私の持論なんだけど。

 そんな風に切り出して、狼狽えたままの弟へと真っ直ぐに目を合わせた。

 淀み無く透き通った、そして力強い姉の視線を真っ正面から受けて、言葉に詰まったところへ。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」

 

 その一瞬、自分が何を言われたのかを正確に認識する事ができなかった。

 

「……は、えっ?」

「いい? よく聞きなさい。私たちには、あんたを心配する権利があるの。そしてあんたには、私たちに心配させる義務があるの! 迷惑でも負担でも重荷でも無く、私たちはあんたを心配したくてたまらないのよ」

「そ、んな無茶苦茶な……!?」

「無茶苦茶なもんですか! 心配ってのはね、その人の事を想ってるからこそ、その人の無事と安寧を祈ってるからこそ生じる感情なのよ? 私は勿論、お爺ちゃんもイナリさんもお千代さんも姫華ちゃんも! 皆、九十九の事が大好きだから心配してんのよ」

 

 その言葉に、黒い瞳がゆらりと震えた。

 無力感と焦燥感、強迫観念に囚われて生気を失っていた九十九の瞳に、小さく光が灯る。

 

 五十鈴だからこそ。生まれてからずっと傍にいてくれた姉だからこそ。妖怪の事も家の真実も何も知らなかった部外者だからこそ。

 彼女の言葉と声色は、じくじくと傷んでいた心に染み渡り、隠し通してきた奥底へと届く。

 

「どうしても言いたくない事は言わなくていい。けど、あんたが本当に皆を仲間だと思ってるなら、曝け出せるものは全部出しちゃいなさい! あんたのカッコ悪いところも、情けないところも全部! ()()()()()()()()()()()()になんてなるんじゃないわよ!」

 

 そう言って、弟の体を思いっきり抱き締める。

 骨折した右腕を痛めないよう気を付けながら、全身を使って彼の上半身を抱き留める。

 

 暖かい。九十九は自然とそのような感想を抱いた。

 思えば、最後に姉が抱き締めてくれたのは、いつの頃だっただろうか。

 

 同級生にいじめられても何も言わず、それでも悔しかった時。

 他愛も無い事で光太と喧嘩してしまい、とても悲しかった時。

 大好きだったおもちゃが壊れてしまって、泣きじゃくった時。

 

 彼女はいつだって、こんな風に抱き締めてくれた。

 強い言葉で叱咤するのも、背中を押してくれているのだと分かっている。1度も、頭ごなしに否定された事は無かった。

 

「……私はいつだって、あんたのお姉ちゃんだから。九十九が辛い時は、なんでも聞いたげる。折れたっていい。立ち上がれなくたっていい。でも、立ち上がれない事を『恥』と考えるのはやめなさい。自分が歩いてきたこれまでを否定するのもね」

「……姉、さん」

「私はあんたが好きよ。秋の風みたいに静かで、夏の日差しみたいに熱くなれるあんたが。世界にたった1人しかいない、私だけの可愛い弟。しゃっきり胸張って生きなさい。あんたが自分の生きたいように生きていられるのが、私の望みなんだから」

 

 無言で頷きを返した。頷く事しかできなかった。

 涙が止めどなく溢れ出て、それを止める術が無かったからだ。

 

 誰の前でも曝け出せなかった弱音を、苦痛を、恐怖を聞いてくれる人がいた。

 心の中に押し込んでいたそれを聞き入れ、受け止め、肯定してくれる人がいた。

 

 幼い頃、何度も何度もそうしたように、姉に抱かれながら涙を流す。

 その様は真実、八咫村 九十九が秘めた心の脆弱な箇所だった。

 

「姉さん……姉、さん……っ!」

「おーおー、九十九が私の前で泣いたのっていつぶりかしらね。お婆ちゃんが死んだ時以来だったかな。変わらないわねぇ、そういうとこ」

「……小学生の、頃じゃないかっ」

「姉から見た弟はいつだってちっちゃいもんよ。……そら、言いたい事言って、思いっきり泣いたらスッキリしたでしょ。もう立てる?」

「……ん」

 

 首肯を受け止め、そっと離れる。

 左袖でぐしぐしと涙を拭った九十九は、どこか晴れやかな表情ではにかんでいた。

 

 目元は赤く、右腕の骨折も未だ治っていない。

 悩みを打ち明け吐き出しただけで、彼の心身が弱く、力量が低く事も変わらない。

 やるべき事、共有するべき情報はまだまだ多く、この場で解決した問題は心の傷以外に無いだろう。

 

 けれども、今はそれでよかった。

 少なくとも、彼の心に突き刺さった「敗北」という“楔”が抜けただけで、五十鈴にとっては値千金の価値があった。

 

「とりあえず、なんかお腹に入れましょっか。下に行って適当にもらってくるわ。九十九は何か食べたいものとかある?」

「それなら、えっと……?」

「……? どうかした?」

「……その、向こうに……」

 

 視線を襖の向こうにやり、左手でも指し示す。

 一体何がとそちらに意識を向けてみれば、彼女もまた、襖の向こうに隠れた()()()()を察し取ったようだ。

 

「……賭けてもいいですけど、どうせ課長が唆したんでしょ?」

「せやでー☆ 若い連中の悲喜交交ほど、見てて楽しいモンもそうそうあらへんなぁ」

 

 すい、と部屋の中に光が差す。

 五十鈴が想像した通り、廊下には瀬戸が悪びれもせずに立っていた。

 彼がニヤニヤと笑いながら襖を開いた拍子に、一緒になって聞き耳を立てていたらしい者たちが一斉に転がり込んでくる。

 

 ふわふわもこもこのキツネ、黒くてちっちゃなスズメ、白銀色に染まった長髪の少女。

 ……つまりまぁ、そういう事である。

 

「……そういうの、あんまりお行儀が良いとは言えないと思うんだけど?」

「へへ……そこなスズメがどうしても、と言いやしてね。へぇ、決してわては賛成なんかしておりやせんよ? ええ」

「あらあらあらあらあら? 坊ちゃまが心配だから見に行こうと仰ったのはどこの偏屈キツネでしたかしら~?」

「うーん、語るに落ちてるってレベルじゃないわね~」

 

 なんとも白々しい召使い妖怪たちの姿に頭を掻きつつ、視線を横にやる。

 視界を巡らせた先では、九十九の前に座り込んだ姫華が、涙目で向き合っていた。

 

「……ごめんね、九十九くん。私、自分でも気付かない内に、あなたに負担をかけてしまっていたのかもしれない」

「……そんな事は無いよ、姫華さん。全部、僕が選んだ事だから」

「違うの! 私だって、本当は動くべきなのに、戦うべきなのに……まだその為の力を持っないとか、そういう言い訳をしてた。戦えるのは九十九くんしかいないって、そういう風に考えてたんだ」

「それだって、姫華さんは昨日覚醒(めざ)めたばかりなんだから仕方無いじゃないか。僕も、姫華さんには無理をしてほしくないって思ってる」

「──私だって、九十九くんに無理してほしくないよ!」

 

 彼の左手を、そっと両手で包み込んで。

 鏡のように透き通った瞳は、今は涙で潤んでいるけども。

 それでも彼女の手のひらは温かく、大切な友達の左手を労るように抱え込んでいた。

 

「私にできる事があったら、なんでも言って! 今はまだ、妖怪と戦う事はできないかもしれないけど……でもっ、私にしかできない戦い方がある筈だから!」

「……うん。その時は、目一杯頼らせてもらうよ。その代わり、カッコ悪いところとかたくさん見せちゃうだろうけど……」

「全然気にしないよ! むしろ、もっと見せてほしい。これまで私が足を引っ張ってきた分、九十九くんからも、私に寄り掛かってほしいんだ」

「うん……ありがとう」

 

 ようやく、肩の力を抜いて笑う事ができた。

 心の“楔”はとうに抜けて、安心感がヒビを埋めて満たしていく。

 九十九はこの時、心の底から「仲間」の大切さを噛み締めた。

 

 彼らが傍にいてくれるのなら、このまま折れている訳にはいかない。

 もう1度、彼の瞳に炎のような──しかしヤタガラスに呑まれていた時とは違い、確かな人間性を孕んだ光が宿る。

 

「アオハルも結構やけどねぇ、そろそろボクからもええかな?」

 

 頭上から投げかけられた、からかうような声色。

 見上げれば、瀬戸がニヤニヤと笑いながら2人を眺めていた。

 

 その目尻はくにゃりと歪み、なんとも楽しそうな表情だ。

 彼が自分たちを揶揄しているのだと気付き、九十九と姫華は途端に顔を赤くする。

 

「あ、えっと……」

「その……はい。お見苦しいところを……」

「なはは、なんも見苦しあらへんわ。若者なんてな、自分らくらい乳繰り()うとる方が見てて気分がええもんや。ほら、ボクらはなんも邪魔せぇへんから、じゃんじゃんやってくれてええで」

「セクハラ甚だしいですね、課長」

 

 顔を真っ赤に染めた学生たちを見てゲラゲラと笑う上司に、五十鈴は冷め切った視線を飛ばす。

 それを受けて「堪忍な」と手を振りつつ、謎めいた男はサングラスを指で押さえながら。

 

「ともあれ、八咫村ののメンタルが安定してきたようで何よりやわ。良くも悪くも、自分はこの一党の要やさかいな。戦力的にも、精神的にも。ボクの作戦を実行するにあたって、自分がダウンしとったら話にならんのや」

「作戦……って、ここから逆転できるような何か、ですか?」

「逆転できるかは、自分ら次第やな。ボクは裏方しかでけへんねん。せやさけ、実働は自分らに任せるしか無いねんけど……ともあれ、ボクから提案する事は至ってシンプル」

 

 薄暗い部屋にあって、彼の装着したサングラスがギラリと光る。

 それは果たして、瀬戸という男の食えない切れ味を示唆したものなのか。

 

「一休みした後、今日の夕方から地脈の要ぇ行って五十鈴ちゃんに浄化をしてもらいたいねん。ほんで道中に()()()が出てきよった場合、八咫村の坊主以外に相手してもらおか」




Y(ヤタムラ)の悲劇/あねおとうと


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其の陸拾玖 リベンジに向けて

「──要するに、や。これから八咫村のには、()()()()()()になってもらいたいねん」

 

 夕方。

 一先ず一晩は眠らせ、各々の疲労と怪我がある程度回復したのを見計らって、瀬戸は九十九たちを連れて八咫村邸を出発した。

 その行き先については、誰も何も知らされていない。完全に、彼に案内されるがままだ。

 

「九十九くんが、ヒーローに……いえ、『謎の』ってところが重要なんですね?」

「正解や、姫華ちゃん。先にも話した通り、ボクら霊担課は妖怪についての情報と事件を完全シャットアウトしとる。ニュースにも新聞にも、金曜に出る週刊誌にかて、妖怪の『よ』の字も書かせてへん。なんでか分かるか?」

「……妖怪が、人間の『恐怖』の感情を求めて暴れているから?」

「それも正解や」

 

 ケラケラと薄い称賛の声を返しつつ、後ろからついてくる者たちへと振り返る。

 五十鈴、九十九、姫華、イナリ、お千代。凡そいつものメンバーと言える構成だ。

 

 と言っても、先の戦闘が残した傷跡は大きい。

 瀬戸が“治療”を施したとはいえ、九十九の右腕には未だギプスが巻かれているし、イナリは姫華の頭上に寝そべったままの移動だ。

 

 だから、事を急ぐ必要がある。

 そんな思考は頭の中だけに留め、ヘラヘラとした笑みのままに前方を向き直した。

 

「せやさけボクらは、妖怪の実在を民衆には明かしてへん。次から次へ来る事件のウンタラカンタラも、みーんなカバーストーリーつけてポイや」

「それの指示出してるの全部課長で、私は書類を押し付けられてるだけなんですけどね」

「まぁ、そう言わんといてーや五十鈴ちゃん。ボクらがやってる仕事の意味は、昨日ちゃんと分かったやろ?」

「……それも、そうですけど」

 

 脳裏に蘇るのは、ヒバチ・ヒトウバンによって火の海と化した夜の繁華街。

 朝起きた時には既に、それらしいガス爆発だのなんだのとしてニュース番組で取り上げられていたが、この場にいる面々は事件の主犯が妖怪であると知っている。

 

 ……たった一晩で、いち都市を焼き尽くしてしまえる存在。

 そんな化け物がニュースのトップを飾れば、確かに人々は恐れ慄き、いつ自分にその災厄が降りかかるかを恐怖するだろう。

 それを理解してしまったからこそ、瀬戸の言葉にも頷いてしまう。

 

「ここで重要なんが、ネットで飛び交っとる情報には一切手ェつけてへんっちゅう事や。一般的なネットニュースなんかには流石に声かけて回っとるけど、そうやないとこ……例えば陰謀論とかオカルト系のとこやな。ほんでSNSや匿名掲示板もノータッチや」

「え……どうして、ですか? そういうところが、一番“生”の情報のやり取りが激しいと思うんですけど」

「やからや。誰でも簡単に情報を発信できる時代やからこそ、素人だけに好き勝手喋らせとくねん。素人連中まで統制してもうたら、それこそ都市伝説の仲間入りや。尾ヒレも根も葉も勝手に生えてきよって、ボクらやと制御でけへんようなるからな」

「……? ちょっと待ってくださいやし。そいつぁ、少しおかしくありやせんか?」

 

 姫華の頭の上から、イナリが声を上げる。

 その体には多少なりとも包帯が巻かれていて、怪我が完全に治癒していない事を言外に語っていた。

 それでも体力は回復したようで、いつものように耳をピンと立てている。

 

「“えすえぬえす”には詳しくありやせんが、素人連中が好き放題に憶測を交わし合う場所だとは知っておりやす。それは、都市伝説と変わりないので御座いやせんか?」

「明確にちゃう。都市伝説っちゅうのは、噂話のテイで人から人へ、脚色塗れで流れていくモンや。そうやって、最後には源流とまったくちゃう話に成り果てよる。けどSNSなら、画像や動画っちゅう手段で、リアルな証拠がいくらでも人の目につくやろ」

「……それは、人を恐怖に駆り立てない為に情報統制をするという、あなたの目的と相反する事ではありませんの?」

「ただただ、妖怪が暴虐の限りを尽くすだけならな。せやけど、そうやない要素がある」

 

 そこで突然立ち止まり、くるりと軽やかなモーションで振り返る。

 唐突に静止に面食らった一同は、次いで、自分たちの方に向けられた人差し指を認識した。

 その切っ先が指し示していたのは、ポカンと口を開けたままの九十九。

 

「自分や、八咫村の」

「それは……いや、そうか。僕が、『現代堂』の妖怪たちと戦っているから、ですね?」

「せーかーい。ネット社会は良くも悪くも耳聡い。『政府が情報を隠蔽している謎のモンスターと、それらと戦って人々を守る正体不明のヒーロー』にあっちゅうまに食いついとる。仮面ライダーやスパイダーマンが嫌いな人間はそうそうおらへんからな」

「……僕たちについての情報も野放しにする事で、ただ妖怪への恐怖を煽るんじゃなく、それと戦う謎のヒーローを印象付け(フィーチャー)するって事ですか」

「頭の回転が早い子は好きやで~? まぁその結果、自分らの噂が好き放題に語られて回んのは必要経費って事で頼むわ。どうせ認識阻害の術使(つこ)たら、自分らとの紐づけなんて素人にはでけへん訳やし」

「……九十九たちを政府に囲わせようとしないのは、何故ですか?」

 

 五十鈴の問いにも、瀬戸は涼しい顔で相対する。

 この問いは、妖怪の真実を聞かされた時からずっと、頭の中で燻り続けていたものだった。

 

「霊担課のオフィスで動画を見た時から、私は『九十九が政府に拘束される、或いは政府の管轄に置かれる可能性』を危惧していました。妖怪についてを聞かされた後でも、それは変わりません。……私の弟を、都合のいいヒーローにするのではないかと」

「……分かってへん。まったく分かってへんなぁ、五十鈴ちゃん」

 

 そう呟いて、再び歩き出す。

 脈絡も無く移動を再開した彼を追って、他の面々も慌てて動き出していく。

 彼らの慌て様を背中で感じながら、謎めいた男はいたって薄っぺらく語った。

 

()()()()()()()()()()()()()()。向かう場所。戦う相手。救う相手。背負うべきもの。その取捨選択をぜーんぶ自分で賄うさけ、ヒーローはのびのび戦えんねん。どっかの誰かにあーせえこーせえ言われてやっても、かえってパフォーマンスが落ちるだけや」

「言葉通りに無責任な言葉が飛んできたわね……」

「覚えとき、正義感は家畜化でけへんねん。軍人連中は、それを『命令』っちゅう手綱で無理やり御しとるだけや。ヒーローっちゅうんは『自分がやりたいから』やっとる訳で、それに手綱つけたかて、すぐに引き千切って走ってってまうやろな」

「うーん、とても国家公務員の発言とは思えない」

「ボクが協力しとんのは『国』であって『政府』とちゃうからな~」

 

 ヘラヘラと笑いながら歩く彼の背中からは、真意がまったく読み取れない。

 その言葉からは一定の理を見い出す事ができるものの、誠実さを見い出す事ができるかと問われれば難しいものだ。

 

 この瀬戸という男は、一体何を考えているのだろうか。

 首を傾げる少年少女の傍らで、イナリとお千代は互いの顔を見て、互いに形容し難い表情を見せ合っていた。

 

「……っと、ついたで。ここが、金鳥市を流れる地脈の、一番濃いところや」

 

 立ち止まり、目的地を見上げる。

 その動きに追随して上を見上げれば、そこは小高い丘の頂上へと続く長い長い石の階段であった。

 

 遥かな階段の彼方によくよく目を凝らすと、見えてくるのは色褪せた小さな鳥居。

 階段を登り、鳥居をくぐった先にあるものを、九十九たちはよく知っていた。

 その答えを示すように、ぽつりと名前を口にする。

 

「……金鳥神社。ここが、この街の要……」

「懐かしいわね。九十九がちっちゃい頃は、ここで夏祭りとかお正月の餅つき大会とかがあったものだけど……今じゃ人も寄り付かなくなって、すっかり寂れちゃったとか」

「そのおかげで、敷地内は荒れ放題と。ご近所付き合いに乏しい世の中っちゅうのも悲しいモンやねぇ。古臭いモンを受け継がんと家に籠もってスマホばっか弄っとるから、現世(うつしよ)は恐怖に対する耐性が無くなってもうた訳や」

「う、少し耳が痛いかも……。それでえっと、この上の神社で五十鈴さんが舞を奉納するって話でしたよね」

「せやでー。こういう時の為に、五十鈴ちゃんにはビシバシ舞を叩き込んだ訳やからな。荒れた地脈を慰撫し、整え、浄化する。そういう才能が五十鈴ちゃんにはあんねん」

「って言われても、私にゃそういう自覚とか全然無いんですけどね……。で、課長。ここからのプランなんですけど」

「言いたい事は大体分かんで。分かった上で、もっかい言おか」

 

 ニンマリと、口角を歪める。

 その視線の先には姫華がいて、彼女は瀬戸を不安そうに見返している。

 

「このまま五十鈴ちゃんは上まで行って、予め教えた通りの舞を奉納。八咫村の坊主はそれの護衛や。戦うんは本丸まで攻めてきよった時だけ。ほんで姫華ちゃんと妖怪2匹は、階段の下……つまりここで、五十鈴ちゃんを邪魔しに来おった連中を追い払うんや」

「……私が、妖怪と戦う」

「言うて、来るんはガキツキばっかやと思うけどな。神ン野が攻めてくるんならともかく、こっちには数があるさけ、それを突破するんやったら向こうも雑兵出してくるやろ。せやけど、そういう雑兵散らしで坊主を消耗させる訳にはいかんさけな」

「それにしたって、危険過ぎるんじゃありやせんか? 嬢ちゃんがまだ(まじな)いに習熟していないのは、お前さんだって知っているでやしょう」

「やから、ここで戦わせるんやろ。もうすぐ誰そ彼刻(たそがれどき)。舞を奉納するにしても、(まじな)いを行使するにしても、夕暮れ以降にやった方が必然的に質は(たこ)うなる。半分くらいは荒療治やけど、実戦で身につけるのが一番や」

 

 と、そこで。

 瀬戸はちょいちょいと手を振って、五十鈴に彼女の持つケースを渡すよう示した。

 そのジェスチャーを何となく理解して、彼女は深い溜め息と共にケースを受け渡す。どうせ、彼の考えは自分には理解できない。そんな諦めを込めた溜め息だった。

 

 わざとらしい仕草でそれを受け取った後、中に手を突っ込んでガサゴソと何かを探り始める。

 中には舞に使う衣装や道具一式が入っているらしく、九十九たちが興味深そうに覗いているのを見て、舞う当の本人は形容し難い表情を浮かべていた。

 

 そうして取り出したのは、先端にいくつもの鈴が取り付けられた、素朴なデザインの棒。

 俗に言う神楽鈴(かぐらすず)、神楽に用いる道具の1つだ。

 取り出した神楽鈴を、瀬戸はいたって当然のような所作で姫華に押し付けた。

 

「暫くはこれ使い。あくまで貸すだけやから、後で返してんか」

「……これは?」

「ボクが用意した呪具。要は(まじな)いに使う外付け回路みたいなモンや。(まじな)い師が妖術の真似事するには、こういう道具が必要やねん。これ握って振っとったら、姫華ちゃんもそこそこ高度な(まじな)いが使えるんとちゃうかな。知らんけど」

「そ、そんな適当な──わひゃぁっ!?!?」

 

 うなじに走った、こそばゆい感覚。

 突如として自らを襲ったむず痒さに声を上げて跳ね飛んだ姫華は、顔を赤くしながら振り向いた。

 そこには、指先をわきわきと動かしながらニヤつく瀬戸の姿があった。

 

 彼は、自分が押し付けた神楽鈴に意識が向いた一瞬の隙を狙って、少女のうなじに指を奔らせたのだ。

 つつ……と撫でるように這わされた人差し指は、想定通りに素っ頓狂な声を上げさせる事に成功した。

 

「隙だらけやで~、お嬢ちゃん。その隙、ガキツキどもに狙われへんとええな?」

「……~~~~~っ!?!?!?」

「……瀬戸さん」

「けけけっ、冗談や冗談。そない睨まんといてんか~」

 

 九十九に睨みつけられて、それでも男はヘラヘラケラケラと笑うのみ。

 五十鈴も何か言いたげにしているが、それよりも妹分認定した少女をフォローする事を優先したらしい。

 

 きゃいきゃいと騒ぐ彼らを他所に、ふと頭上に意識を向ける。

 そこには、先ほど姫華が飛び上がった際に瀬戸の頭上へ移り渡ったらしいイナリがいた。

 ジロリと眼下を()めつける彼の傍では、お千代も同様の態度を取っている。

 

「……今しがたの一瞬で、嬢ちゃんに何をしたんでさ」

「なーに、ちょいと“糸”を潜り込ませただけやで? 姫華ちゃんの内側に溜まっとった妖気をちょいと“たぐって”、表に出やすいように調整しただけや。後は体ん中に潜らせた“糸”が、頃合いを見てサポートしてくれるやろ」

「はぁー……ホント、このガキンチョは妙な振る舞いしかしませんわね。もうちょっと誠実な態度を取るとかできませんの?」

「そら無理な話やな~。男はちょっとミステリアスな方がモテんねん」

「寝言は寝てから言ってくださいまし?」

 

 お千代のジト目を受けて、やれやれと肩を竦める優男。

 その姿には、彼の頭上に寝そべったイナリさえ溜め息を落とす始末だ。

 

 一方、人間側はと言えば。

 瀬戸から受けた“いたずら”の影響がようやく落ち着いたようで、八咫村姉弟に介抱されながらも、姫華が涙目を拭って肩を落としていた。

 

「ふぅ……ごめん。いきなりあんな事されて、びっくりしちゃって……」

「分かる、分かるわ~、姫華ちゃん。ああいうエロ親父と関わるとホント辟易しちゃうわよね。あのクソ上司には後で私から()()しておくから、ねっ?」

「は、はい……。もう、大丈夫ですから。……それに、こんな事をしている場合じゃないしね」

 

 彼女の清らかな視線が向かう先は、当然ながら九十九だ。

 その言葉と視線に、彼もまたゆっくりと首肯を示す。

 

「……その、姫華さんにはとても負担をかけちゃうけど」

「その事については、夜中にも言ってたでしょ? 九十九くんはもっともっと、私たちに負担をかけていいんだよ! それに私だけじゃなくて、イナリさんやお千代さんだって一緒だもん。だから、きっと大丈夫!」

「……怖く、ない?」

「……本当は、怖いよ。足が震えて仕方無いもん。でも、ここで逃げて、その後の人生をどういう気持ちで過ごすか考える方がもっと怖い」

 

 目と目が合う。

 本音を言い合って、弱音を曝け出し合って、互いに更なる信頼関係を積み重ねた目だ。

 

 ネコマタに殺されかけた時のような、ショウジョウに嘲笑された時のような、神ン野に蹂躙された時のような弱い目ではない。

 ちゃんと力強い光が灯って、これから始まる戦いへの決意に燃える目だ。

 

 だから、互いに手を突き出した。

 拳と拳をコツンと合わせて、鼓舞するように笑い合う。

 

「勝とう、九十九くん」

「うん。一緒に勝とう、姫華さん」

 

 その様子に安堵の息を吐きながら、五十鈴はふと街の方を見た。

 

 焼け焦げ、悲惨にも黒ずんだ繁華街跡の向こう側に、ゆっくりと太陽が沈んでいく。

 いやに濃く、気味の悪いオレンジ色の光が、より一層に濃度を増しながら街を染め上げた。

 

 まもなく、誰そ彼刻(たそがれどき)

 それは妖怪たちの時間であり、九十九たちの反撃が始まる時間である。



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其の漆拾 第2ラウンドの幕開け

 刻一刻と、奇妙な橙色の夕焼けが焼けたビルの彼方に消えていく。

 背後から迫る夜の薄闇を前に、九十九は石段の下に足を投げ出す形で、金鳥神社の石畳に腰掛けた。

 彼がじっと見つめる先からは、薄ら寒い風に混じって妖気の匂いが漂ってきている。

 

「……もうすぐ、『げえむ』が再開される。『現代堂』の妖怪たちが、僕たちのところまでやって来る」

「あら、怖いの?」

 

 すぐ後ろの木陰から、よく聞き慣れた姉の声が飛んでくる。

 それと同時に聞こえてくる、シュルシュルという風な布と布の擦れる音。

 

 予定通り神社の境内まで上がってきた八咫村姉弟は、地脈に舞を奉納する為の準備に取り掛かっていた。

 九十九は予めお千代から渡されていた火縄銃を手に、舞の阻止に現れるだろう勢力を待ち構えている。

 そして五十鈴はと言えば、持ち込んだケースの中から舞踏用の衣装を取り出し、木々の裏で着替えている真っ最中だった。

 

 すぐ傍にいるのが弟だけというのもあるが、彼女に恥じらいの概念はあまり無い。

 加えていくら小さく寂れた神社であろうとも、本殿の中に入って着替えを行うのが躊躇われた為、こうして木々に紛れて服を脱いでいた。

 

 対する弟も、わざわざ姉の着替えシーンを見たいとは思わない。

 服の擦れる音はとうの昔に意識外へと追いやって、代わりに飛んできた問いかけにポツリと答える事にした。

 

「そりゃあ、ね。昨日、あんな負け方したんだもん。その時に折れた右腕もまだ治ってないし……正直、『負けるかもしれない』って考える事が、こんなに怖いなんて思わなかった」

「当然じゃない。何かを『怖い』『恐ろしい』って感じるのは、人間として当たり前の機能よ。それが欠けた奴から死んでいくか、そうでなくても酷い目に合うものよ」

「……姉さんも、怖いって思う事があるの?」

「そりゃもう! 私が学生時代に()()()()()()()()してたのはあんたも知ってるでしょうけど、その時も内心は怖くて仕方無かったわ。負けたらどうなるんだろう。どんな目に合わされるんだろう。怖い。負けたくない。その連続だったわね」

 

 けど。

 そんな一節を置いて、先ほどとは異なる衣擦れ音が聞こえてくる。

 どうやら木々の向こう側で、衣装を着込んでいるらしい。よほど特殊なものなのか、着付けに手間取っているようだ。

 

「ちょっと考え方を変えれば、どれだけ怖くても体が動かないって事は無かったわ」

「考え方を、変える? それって……どんな?」

「簡単よ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。恐怖は私のご主人様なんかじゃあ無いわ。むしろ逆、私が恐怖のご主人様なのよ。そういう風に考えれば、下僕如きに振り回されるのも癪じゃない?」

 

 そういうものなのだろうか。

 暴論が過ぎるようにも思えるが、よくよく考えると一理あるように見えて、やっぱり暴論のように感じてしまう。

 左手で自分の顎を掴み、こっくりと首を傾げて思い悩む九十九。

 

 彼がうんうん唸っているのを感じ取ったのだろう。

 帯を巻く音と共に、五十鈴は木陰から愉快そうに笑い声を飛ばした。

 

「そう考え込むような事じゃないわよ。あくまで私の出した結論ってだけだもん、これは。あんたにはあんただけの結論がきっとある。だから、私の言葉は参考程度に留めておきなさい」

「……うん。まだ、全部に結論を出す事はできないけど……でも、ちゃんと考え続けるよ。僕に足りないのはきっと、そういう強さだと思うから」

「よろしいっ。……さ、着替えも終わったわ。もうこっちを見てもいいわよ」

 

 ガサリ。

 草木を掻き分ける音に、九十九は火縄銃を手に持った。

 動かない右腕の代わりに銃を杖代わりとして、石段に投げ出した足を戻して立ち上がる。

 

 よいせと起き上がって振り向いた彼の視界に、丁度木々の隙間から出てきた姉の姿が映り込む。

 彼女に対して声をかけようとして──不意に、舌が止まった。

 

「これ、いつも地鎮祭とかに着て行ってる衣装よりも上等ね~。肌触りが滑らかで優しくて、それでいて動きやすい! これなら、激しく踊っても問題無さそうね」

 

 白を基調とした装束に、柔らかい赤色の帯と袴。

 それは所謂、巫女服というものだった。現代においてはインターネット上のイラストでしかお目にかかれないような紅白の衣装を、五十鈴は見事に着こなしていた。

 

 服に着られているという事も無く、むしろ清楚な色彩を本人の力強い生命力が補填しているようにすら見える。

 スレンダーに近いスタイルはやや隠れてしまっているが、それが巫女服のフォルムを邪魔する事無く、ゆったりとした雰囲気を醸し出していた。

 

 よくよく見れば、手首や足首には鈴のついたリングが装着されている。

 恐らく、舞を踊る際にあれらが鳴るのだろう。右手にも同じように、瀬戸が姫華に渡したのと同じ神楽鈴が握られている。

 

 どこか色気を感じさせるタレ目は、いつものように目尻が鋭く細まり、切れ味と色香を両立させていた。

 トレードマークのポニーテールも、今回は細めに結われている様子。その分、いつもよりも長く垂れている。

 

 総評。美人度、6割増し。

 

「どう? 九十九。私がこういうの着てるとこ、あんたに見せるのはこれが初めてだけど……似合う?」

「……」

「九十九? おーい、九十九―?」

 

 シャンシャンと神楽鈴を鳴らしながらの声かけに、九十九はようやく我に返った。

 脳裏に過った感想を振り払うように首を振って、それから深呼吸ののちに口を開く。

 

「……似合ってる。姉さんが巫女服着るって聞いた時は、馬子にも衣装って思ったけど……うん、めっちゃ美人。父さんに見せたら泣いて喜ぶんじゃないかな」

「そ、良かったわ。……で、『馬子にも衣装』ってどういう意味かしら? あんたが私の事をどう思ってるのか、お姉ちゃんに言ってみなさい、ね?」

「……言葉の綾ですよ、はい」

 

 ふい、と視線を逸らす。

 姉の威圧感たっぷりな微笑みを直視したくなかったのも、勿論理由の1つだが。

 それよりも、何よりも。

 

(……まさか僕が、姉さんに見惚れるなんて)

 

 これは、一種の敗北感のようなものだろうか。

 言い様の無い、形容し難い感情をそっと胸の奥に押し込んで、溜め息と共に思考を切り替える。

 

「それで、そろそろ始めるの?」

「そうねー。課長から指定された舞が『は-()9番』って事は……うん、10分くらいはノンストップで踊る事になるもの。サクッと終わらせないと、姫華ちゃんたちの負担になるわ」

「めっちゃ踊るね……体力保つの?」

「舐めないで頂戴。こちとら20分以上続く舞をひたすら練習した事だってあるんだから」

 

 リズムを刻むようにステップを踏んで、お社の前に移動する。

 五十鈴が体を動かす度に、手足につけられた鈴が軽やかな音色を幾度も幾度も響かせた。

 

 とんっ、と石畳を踏んだ後、神楽鈴を振りかぶる。

 その独特の構えは、刀を携えた侍が居合切りを狙っているようにも、薙刀を持った女武者が敵を待ち構えているようにも見えた。

 

「任せたわよ、九十九。この街を救いましょう」

「うん、任された」

 

 音楽は無し。観客も無し。神に捧げる訳でも無し。

 ただ、この街を、人を救う為の舞。夜の魔を払い、昼の幸いを呼び込む為の戦い。

 

 己の姉がその大業に挑もうとする中、九十九は神社の入り口──麓へと続く石の階段へと向き直った。

 左手だけで火縄銃を持ち、大きく呼吸をひとつ。体の中に巡らせた妖気を、血流に乗せて更に加速させる。

 

「……どこからでも来い。ここから先は、誰も通さない」

 

 

 

 

「……大丈夫ですか? 姫華様。やはり、不安でして?」

「まぁ……うん。不安じゃないって言ったら、当然嘘になるわ」

 

 長く長い、丘の上の神社まで続く石の階段の最下段。

 とうに夕日の沈み切ったビルの谷間を望みながら、姫華は己の吐いた息の冷たさに目を見張った。

 頭上に留まったお千代が、こちらを見かねて不安そうな声をかけてくる。

 

 それに対して言葉を返しながら、ふと視界の隅に意識を割けば、イナリとも目が合った。

 石段の傍に置かれた石造りの灯籠、その笠に寝そべった彼も同様に、こちらを心配するように見やってきている。

 

「今からでも、少し下がりやすか? ガキツキ程度であれば、わてやそこなスズメだけでも十分持ち堪える事ができやしょうや」

「大体、あんな気障野郎の言う事なんて聞かなくてもよろしいのですわよ。こちらに指示をするだけした後、さっさとどこかへ行ってしまいましたし……いっつもそうなのですわ! あのボケ、大事な事は自分だけが分かっていればいいって思っているのです」

「ははは……でも、うん。気持ちはありがたいけど、それでも私は下がらないよ」

 

 困った風にはにかみながら両手を軽く広げ、すぅ……と息を吸う。

 

 奇妙な感覚だ、と姫華は思う。瀬戸からうなじをくすぐられてから、妙に妖気の巡りが心地良い。

 まるで、今まで詰まっていた配管が綺麗に掃除されて、水が淀みなく流れていくかのよう。

 

 風通しの良くなった心身を妖気が駆け抜け、ぽかぽかと温かな力が満ちる。

 その内のいくつかを摘み上げ、顔に集めるように意識すれば、やがて彼女の顔に白塗りの眼鏡が現出した。

 それは認識阻害の装束であり、姫華なりの意識の切り替え(ルーティーン)だった。

 

「この程度の事で逃げていたら、私は一生、ジョロウグモちゃんに手を伸ばせない。私だって、ヒーローになれるんだ。これから、それを私なりのやり方で証明してみます」

「……良い心構えでしてよ、姫華様……あいや、姫様。では、わたくしたちがバッチリ完璧に“さぽおと”してみせましょうとも。そうですわよね? まだ寝たきり決め込んでいらっしゃるドジギツネ。傷が痛むようなら、そこでずっと観戦していてもいいのですわよ?」

「ケッ。お前さんこそ、嬢ちゃんがかすり傷負ったくらいでピィピィ鳴くんじゃあねぇぜ。それとも、わてが嬢ちゃんを“えすこおと”している様を戦場の隅で指ぃ咥えて見てやすか? ああ失敬、咥える指がありやせんでしたね。今からでも米粒を用意しやしょうか?」

「お?」

「あ?」

「喧嘩してる場合じゃないでしょ!?」

 

 バチバチと火花を散らす始めた小動物どもに対して、思わず声を荒らげてしまう。

 どう宥めたものなのか。思考を働かせようとした矢先、今の今まで言い争いに発展しかけていたイナリとお千代が、突如として静止する。

 

 その様子に訝しんだのも束の間、2匹の意識が遠くへと向けられている事に気付く。

 咄嗟にそちらを見てみれば、薄暗い闇夜の中から、怪しげなナニカが近付いてくる気配を察し取れた。

 

「へっへっへ……街の影から影に潜伏して根を張っていれば、何やらよからぬ事を企んでいるようだなぁ? “八咫派”の残党ども」

 

 大きく古びた瓢箪を携えた、小柄で薄汚い小悪党風の化外。

 ヒタ……ヒタ……と、聞く者の恐怖を煽る静かな足音を立てて、影の向こう側からするりと現れた者。

 

 手に持った瓢箪には、微かなヒビが入っている。

 中の油を滲ませ、滴り落としているそれは、神ン野に殴り飛ばされた際の衝撃で生じたものなのだろう。

 下卑た表情を更に歪ませて、ボロボロの歯を剥いて笑うその怪異こそ。

 

「あいつが、昨日九十九くんが戦ったっていう……」

「ええ、妖怪ヒョウタン・アブラスマシでさ。神ン野に懲罰された癖して、性懲りも無く挑みに来たようで御座いやすね」

「うるっせぇなァ……! あっしにゃもう退路は無いんだよ。神ン野や『現代堂』の連中が介入するよりも早く、人間どもの恐怖を集めて『げえむくりあ』を目指す! それが、あっしが生き残る為の唯一の手段なんだ」

 

 瓢箪の栓が引き抜かれる。

 ボドボドと溢れ出た妖気の油を、アブラスマシはそこら中に振り撒いた。

 ぶち撒けられた油は周囲の砂利や石、草花を飲み込み、中に孕んだ妖気でそれらをドロドロに汚染していく。

 

「何をする気……!?」

「こうするのさァ! 魂持たざる人形(ヒトガタ)よ! 邪気を食む憑き物なりて、成るは物の怪、魑魅魍魎ォ!」

 

 早口言葉のように素早く回る舌が、邪悪な祝詞を紡ぐ。

 禍々しき言の葉に呼応して、石や草花に染み込んだ油が妖気を発露した。

 

 辺り一帯から紫色の光が放たれ、異形の怪物たちが湧き出てくる。

 それはまるで、土の下から這い出たゾンビのよう。瞬く間に出現した襤褸切れ姿の化外どもは、一斉に歪んだ牙で哄笑を上げた。

 

「妖術《物気付喪(モノノケツクモ)》! さぁ行け、ガキツキども! あんな雑魚連中、さっさと喰い殺してしまえェッ!!」

「「「エヒャヒャヒャヒャヒャヒャッ! ニンゲン、クウ! ヨウカイ、コロス! サツリク! タノシイ! タノシイ!」」」

 

 ガキツキ。

 妖気が不十分なあまり、元となった道具を呑み込み、(めい)すら持てずに生を得た九十九神の成り損ないたち。

 

 その辺に生えている草花や、いくらでも転がっている石ころが、九十九神に成れるほどの道具である筈も無し。

 アブラスマシの妖術によって無理やり妖気を注がれたそれらは、当然のように存在を喰い尽くされ、ガキツキの群れへと成り果てた。

 彼らの目には、眼前の愚かな人間、そして妖怪への嗜虐心が爛々と輝いている。

 

「基本はわたくしが前に出ます。後ろからキツネが“ふぉろお”致しますので、姫様には中衛をお願い致しますわ。恐らく、そこが最も自由に行動できる“ぽじしょん”でしょう」

「分かった。……その、上手く(まじな)いを使えるかは分からないけど」

「嬢ちゃんは素質を引き出されたばかりの状態でやすからね。妖気繰り自体は問題無くできるでやしょう。でやすから、行使できるかどうかよりも、むしろ()()()()()()()()()()()()に気を配った方がいいでさ」

 

 背後の灯籠から飛んできたアドバイスに頷き、瀬戸から受け取った神楽鈴を強く握る。

 その冷たい感触と、力を込めた拍子に鳴った鈴の音が、先ほど指示された事を脳裏に想起させた。

 

『自分らに頼まれてほしい相手は、あくまでガキツキだけや。(めい)持ちの妖怪……つまり、連中の言う『ぷれいやあ』が出張ってきよっても、そない無理はせんでええ。そいつはそのまま通して、八咫村のに相手させえ。ええな?』

 

 彼はそのように言っていた。

 事実、相手は三つ巴とはいえ、九十九が苦戦した敵だ。ここで無茶をする道理は無い。

 

 けれど。嗚呼、だけれども。

 

「私だって……背負うんだ」

 

 その呟きを、召使いたちは決して否定しなかった。

 互いの目を見て頷き合い、即座に彼女をサポートする態勢に回る。

 イナリは灯籠に寝そべったまま己の尻尾を逆立たせ、お千代は己の翼を広げて羽根をざわめかせ、共にガキツキの群れを睨む。

 

 彼らとて、同じだった。

 彼らもまた、九十九たった1人に負担をかけない為に挑もうとしていた。

 例えそれが、道理に合わない無茶であろうとも。

 

「地脈の浄化なんてさせねぇ……! この街を滅ぼして、あっしが次の“魔王”になるんだ!」

「そんな事、私が許さない! 九十九くんの代わりに、私があなたを止めるっ!」

 

 神楽鈴を振り、シャンッ、と透き通った音を鳴らす。

 こちらへ迫り来るガキツキどもに臆す事無く、“八咫派”の者たちは一斉に鬨の声を上げた。

 

 

 

 

 石段の遥か下方が(とみ)に騒がしくなり、色濃い妖気の匂いが漂ってきたのとほぼ同時。

 

「……来た」

 

 舞の構えを取ったまま、奉納に向けた精神統一を行っている真っ最中の五十鈴の前で。

 同じく目を閉じ、敵の気配を探っていた九十九が、急に目を開いて立ち上がった。

 

 即座に首元へと手を当て、一気に励起させた妖気を漆黒のマフラーへと変換。

 持ち主に似た柔らかい黒色の布地が、どこからともなく吹いてきた()()に煽られて乱暴に揺れる。

 杖のようにして持っていた火縄銃も左手だけで器用に持ち替え、グリップ部分を握って引き金に指を添えた。

 

 目を閉じていても分かる空気感の変化と、先ほどまで聞こえなかったマフラーのはためく音。

 そして誰よりもよく知る弟の雰囲気が切り替わった事を察して、五十鈴は目を開かないままに口だけを動かした。

 

「行くのね」

「うん」

「気を付けて」

「勿論」

「勝ちなさい」

「必ず」

 

 やり取りは、それだけで十分だった。

 

 石畳を踏む足裏にそっと力を込めて、軽やかに夜空へ向けて飛翔する。

 たなびくマフラーは彼の動きを一切阻害する事無く、むしろ風を絡め取って飛行を補助する力へとすり替えていった。

 右腕にはギプスが巻かれたままだが、その程度ならば飛行の邪魔にもなりはしない。

 

 いつもと違い、左手で握った銃身に思考を馳せる。

 利き腕でない腕で銃を扱うのはこれが初めてになる。果たして、十全に用いる事ができるかどうか。

 

 だが、そんな事を考えながら戦って勝てる相手では無いのだ。

 吹き付ける熱風と妖気を引き裂くようにして、九十九──否、妖怪リトル・ヤタガラスは月夜から迫る敵の姿を認めた。

 

「ゲェェェェェーッ、ヒャヒャヒャヒャヒャァッ!! さァ、さァさァさァ! 『らうんど・つう』と行こうぜェ! 今度こそ、オレサマの術でテメェを木端微塵にしてやるよォ、リトル・ヤタガラァァァァァスッ!!」

「やってみろ。姉さんにも……この街にも! これ以上、炭の一欠片も届かせないからな、ヒバチ・ヒトウバンッ!」

 

 頭の中で灼熱の炭を弾けさせながら、生首の異形──妖怪ヒバチ・ヒトウバンが襲来する。

 迫り来る異形へと吠えながら、九十九は銃身に妖気を込めて、炎の溢れる銃口を敵に向けて振りかざす。

 

 誰にとっても意図しない形で幕を閉じた昨晩の戦闘から一転し。

 それぞれの決着をつけるべく、2回目の『げえむ』が火蓋を切った。



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其の漆拾壱 八咫村流妖術

 ゆらり。

 無から湧き出し、天井や床を舐めるように逆撫でしていく煙の中で。

 嫌になるほど甘ったるい煙を目一杯に味わっていた山ン本は、思い立った風に煙管(キセル)を口から離した。

 

「おやァ、おや。ヒバチの『げえむ』も、そろそろ佳境と言ったところだねェ」

【お? ……おお、マジだ。あの野郎、いよいよおっ始めやがったか! いやァ、どういうブッ殺し合いを見せてくれるか楽しみだぜ!】

「ヒヒヒヒヒッ……呑ン舟も好きだねェ。ま、ここに集まった奴らはみィんな、人間の死に絶える様が大好きな奴ばかりだもんなァ」

 

 『現代堂』の拠点を揺らがすどら声を嘲りつつ、周囲に視線を這わせていく。

 この場に屯している妖怪たちは、誰もが『げえむ』に挑戦したくてウズウズしている『ぷれいやあ』志望者ばかり。

 自分たちの総大将から投げかけられた言葉に、各々が野蛮かつ残虐的な語句を以て返答を叫んだ。

 

 神ン野の判断によって『げえむ』を一時中断し、傷と妖気の回復を図っていたヒバチ・ヒトウバン。

 日を跨ぎ、万全のコンディションを携えた彼が『現代堂』を飛び出していったのがつい先ほどの事だ。

 

 種族特性による遠見(とおみ)、或いは千里眼の妖術、或いは鏡や水晶玉を用いた映写の(まじな)い。

 これから再開されようとしている『げえむ』を、妖怪たちはそれぞれが持つ手段で観戦しようとしている。

 

 その様を一瞥して、信ン太は撥を手持ち無沙汰に弄んだ。

 獣のように縦長の瞳孔が金色に光り、ある1点を不機嫌そうに睨みつける。

 

「先の戦闘で、リトル・ヤタガラスは利き腕を負傷。今度こそ勝ち目はヒバチの側になると思いたいところですが……あの場でヤタガラスを始末していれば、もっと確実に『げえむくりあ』を狙えたのではないですか?」

 

 彼女が話を振ったのは、無骨な巨躯の甲冑妖怪、つまり神ン野である。

 有無を言わさぬ眼差しを前に、彼は面頬越しの大きな溜め息を聞かせてみせた。

 

「……『るうる』違反を処断するならばともかく、『げえむ』中に起きた“あくしでんと”をいちいち運営側で排除していては、『ぷれいやあ』に忖度しているようなものだ。多少の“とらぶる”は自力で対処してみせろなどと、最初に言い出したのは山ン本だろう」

「……確かに、あの男は事あるごとに裁量を『面白いかつまらないか』に委ねますからね。競技であり儀式である『げえむ』の場までそのように裁定されて、こちらも困りっ放しですよ。だからこそ、あなたが──」

「オイオイ、またヒョウタンのヤツが乱入しようとしてやがるぜ!」

 

 数いる妖怪たちの中から、そのような声が上がった。

 その叫びに釣られて、周囲の妖怪たちは各々の手段で観測範囲を変化させ、そのような技術が無い者もそれを行っている者の映し出した映像を覗き込む。

 

 彼らが目にしたのは、ヒバチ・ヒトウバンとリトル・ヤタガラスの激突が始まった地点から少しズレた位置。

 そこで、人間の少女や“八咫派”の妖怪たちに向けて、ヒョウタン・アブラスマシがガキツキの群れを差し向けている場面だった。

 

「あいつマジか!? 空気読めよヒョウタンの野郎!」

「これからヒバチとリトル・ヤタガラスの決戦だぞ!? めちゃくちゃいいところなのによォ!」

「あーあー。まーた神ン野様が動いて中断かぁ。やんなっちゃうわね」

 

 『げえむ』への介入を神ン野に咎められ、あれほど痛めつけられてなお、手柄を横取りするべく『げえむ』の妨害を図ろうとしている。

 その懲りない有り様に、観戦中の妖怪たちはブーイングにも似た声を上げながら騒ぎ出した。

 

 

──べべんっ!

 

 

 それらのざわめき全てを掻き消すようにして、乾いた三味線の音色が木霊する。

 弾かれた弦の冷たい音に神経を震わされ、一斉に黙りこくる妖怪たち。

 それをけらけらと虚ろに嘲笑った山ン本は、三味線の持ち手にして弾き手──即ち苛立ち気味の信ン太へと視界を動かした。

 

「ヒヒヒ。途端に機嫌が悪くなったねェ、信ン太。何に苛ついているのかは知らないが、あたしが尻の1つでも揉んでやろうかい? ヒヒヒヒヒッッ!」

「山ン本、これは『げえむ』の運営としての問題です。茶化しも大概にしなければ、その舌を引き抜きますよ」

「おォ、怖い怖い。と言ってもねェ、こういうのを管轄しているのはお前さんじゃなくて──」

「……言われずとも分かっている」

 

 兜を揺らして、神ン野は居心地悪そうに呟いた。

 彼が身じろぎする度に、室内を満たす青臭い煙を、彼の兜に飾られた「神」の1文字が切り裂いていく。

 

「その上で、()()()()()()()()

「……へェーェ?」

【ギャハハハハハハハハハハハッ! そう来たか、そう来たかよ旦那ァ! こいつァまた、面白くなってきたじゃねェの!】

「黙りなさい、呑ン舟」

 

 キンキンと頭骨に響く高笑いを一刀両断して、信ン太の鋭い瞳孔が甲冑姿の巨怪を射抜く。

 彼女が何を言おうとしているかなど分かり切っている。そちらに眼光を飛ばせば、やはり思った通りの追及が放たれた。

 

「此度の“とらぶる”は、あなたが諸問題を意図的に見逃したが故の事。一体、どうするつもりですか?」

「……ヒョウタンの処断は、確実に執行する。だがそれは、ヒバチの『げえむ』が終わってからの話。そして俺は、ヒバチの勝敗はさして問題ではないと思っている」

「……それは、どういう意味ですか」

「2度の“あくしでんと”すら満足に対処できないような惰弱さなぞ、この『現代堂』には不要。それは貴様らとて同意できるだろう。だが、そんな事よりも──」

 

 神ン野は睨む。

 己の超常的な視点を以て見通した、戦いの場を。

 ヒトウバンとヤタガラス。アブラスマシと人間たち。それぞれの戦場を。

 

「我らは、認識を改めなければならないだろう。これは()()()『げえむ』ではなく、()()()()『げえむ』なのだと」

 

 

 

 

「【(コン)()(コン)()(コン)(コン)()(コン)()(コン)(コン)()()(コン)(コン)()(コン)(コン)】」

 

 紡ぐ。言葉を紡ぐ。呪文を紡ぐ。祝詞を紡ぐ。

 逆立った尻尾が妖気を増幅させて、言霊を紡げば紡ぐほど、思い描かれるまやかしは色濃くなる。

 

「【(コン)()(コン)()(コン)(コン)(コン)()(コン)(コン)(コン)(コン)()(コン)(コン)()(コン)(コン)】」

 

 ぐにゃあり、と。

 どこかで、現実の捻じ曲がる音がする気がした。

 気がしただけで、それはすぐに錯覚とすり替わり、歪められた現実こそが真実となる。

 

 姫華の視点からは、それはまるで半透明のカーテンが展開され、瞬く間に広がっていくようにも見えた。

 ぶわりと広げられたカーテンはガキツキの群れを包み込んで、外からの視点では分からない、彼らにしか分からない世界を内側に投影する。

 

 だから、その術を受けた者たちは口々に叫ぶのだ。

 

「八咫村流妖術──《ごまかしの弐式》!」

 

 小生意気なバケギツネに、認識を“ごまかされた”のだと。

 

「エヒャァッ!? ミエナイ! クライ! ミエナイ!」

「アギャアァァアアァァアアアァアァアア!? カラダ、ヤケル! アツイ!」

「ハラ、ヘッタ! ハラ、ヘッタ! ニンゲン、クウ! クウ! クウクウクウクウクウクウクウクウクウクウ」

「ギャアァッ!? イタイ! オレ、ニンゲン、チガウ!」

 

 狂乱は、スポンジが水を吸うかの如く伝染していった。

 

 目の前の一切が暗黒に包まれ、手当たり次第に腕を振り回している者。

 全身に炎が纏わりつく幻と、身を焦がす偽りの痛みに苦しみ藻掻く者。

 空腹感を狂わされ、視界に映る全てを獲物と勘違いして襲いかかる者。

 

 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。

 五感の全てを捻じ曲げられ、歪められ、それが正しい世界であると“ごまかされた”者たち。

 文字通り「キツネに化かされた」ガキツキたちの爪も、牙も、何もかもが姫華たちには届かない。

 

「クソォッ!? どこだ、どこだァッ!? どこに隠れやがったァ!?」

 

 果たしてそれは、ヒョウタン・アブラスマシにも同じ事だった。

 今の今まで対峙していた“八咫派”の連中だけでなく、あれだけ多く生み出した筈のガキツキの群れでさえ、視界から消え失せている。

 にも拘らず、その場から1歩も動こうとしない。ただ喚き、癇癪を起こして怒鳴り散らしているだけだ。

 

 無論それは、“ごまかし”の術によって、そこにいる筈の者たちを認識できないようにされているが故の事。

 けれども、その事実さえ認識できない。自分が今、幻覚を見ているのだと、そのように理解する事ができない。その場から移動するという発想すら奪われている。

 

 そしてそれを成した当事者──バケギツネのイナリは、灯籠の上でゆらゆらと逆立った尻尾を震わせていた。

 

「ケッ。あのクソガキに頼るのは些か癪でやしたが、やはり効果覿面で御座いやすね。あいつに“良縁”を“たぐって”もらえてなければ、“ごまかし”の精度ももう少し甘いものになっていたでやしょう」

「……あの妖怪たち皆、幻覚を見てる……んだよね? あれ全部、イナリさんが?」

「まさしく。不本意ながら、認識阻害の術であのキツネの右に出る者はいないでしょう。尋常の妖怪がやらないような呪文の詠唱もされてますから、効力はより向上していますわ」

「呪文……」

 

 その単語を耳にして、思い出したものがある。

 昨日の昼間、(まじな)いについての手解きを受けていた際に、四十万から聞かされた言葉だ。

 

 

『──妖術とはつまるところ、()()()()()()()()()()()()()じゃ。それを模倣し、人の手で人を、妖怪を恐れさせる為の技術こそが(まじな)いという訳での。(まじな)いの善し悪しとは即ち、それを受けた者の感情を如何に掻き立てられるかにあるのじゃ』

 

 

 老爺は語る。

 『現代堂』の妖怪たちの用いる妖術が攻撃的なのは、人を恐怖に駆り立てる為に最も効率のいい手段が「死の窮地に追い込む」事だから。

 故に悪しき妖怪たちは、より攻撃的な、より殺傷性の高い妖術を好む。

 

『じゃが、攻撃的である事だけが、人を恐れさせる訳では無いのじゃ。例えば、術に名をつけるだけでも違う。相対した相手は「名をつけるほど特別な術なのか」「あんな恐ろしい名前の術はどんなに強力なのだろう」という感情を抱き、それが畏れに繋がるからの』

『名前が、畏れを……。えっと、他にはどんな手段があるんですか?』

『そうだのう。要するに外連味(ハッタリ)が必要という事じゃからな。それなら、呪文を唱えるという手もありじゃ』

『呪文を……詠唱、って事ですか? あの、ファンタジーもののラノベみたいに』

『どちらかと言えばこれは、己の中の“いめえじ”を固め、(まじな)いの精度を引き上げる為のものじゃがな。尤も、妖怪は呪文なぞ唱えんでも妖術を振るう事ができるし、そういった手法を「妖術の使えない人間がやる事」と言って馬鹿にする者も多いがの』

 

 己の持つ術へのイメージを固める。

 敵に「どんな術を繰り出してくるのか」と警戒させる。

 見る者を、相対する者に恐怖を抱かせる。

 

 術の効果であれ、術の名であれ、呪文であれ、共通しているものは同じ。

 妖怪はそれを為すのが上手く、人間はそれほど上手くない。だから、人間は呪具や呪文を行使の補助に用いる。ただ、それだけの事。

 

 それが妖術であり、(まじな)いである。

 妖気を用いた術とは即ち、彼我の感情(こころ)を武器に変える(すべ)なのだから。

 

 妖気が映し出すのは、人の想い。

 いつかに言われたフレーズを舌の上で転がして、姫華は意を決したように神楽鈴を突き出した。

 シャリン、と綺麗な鈴の音が鳴り、軽やかな音色で精神を引き締める。

 

「うん。イケる──かも、しれない。厳密にはまだ固まってないけど……でも、もう少しで形になりそうな気がする」

「あら、それは重畳。であれば、より“いめえじ”を鮮明化させる事をオススメ致しますわ。妖怪の戦いとは即ち、()()()()()()()()()()()()ですもの」

 

 そのあまりに大雑把な助言に面食らったものの、すぐに頷きを返す。

 神楽鈴を握る手の力を強め、小さく息を吸い、狂乱の最中にある妖怪たちを見た。

 無意識下を妖気が奔り、少女の澄んだ目に緑色の淡い光が灯る。

 

 ここから先は、いちいちレクチャーする必要も無いだろう。1度でも感覚を掴めば、後は流れるように動いていける筈。

 そう判断したお千代は前方を向き直り、1対の翼を大きく広げた。

 

「さて! キツネばかりにいいところを見せさせる訳にはいきませんわね。わたくしとて八咫村の妖怪、“きゅうと”で“ぐれいと”な“ぷろふぇっしょなる”の御業をご覧に入れましょう!」

 

 刹那、ちっちゃなスズメの体がゴムのように跳ね跳んだ。

 

 頭から尾羽根まで黒く染まった肉体が、嘴を矢じりのように尖らせて勢いよく前方へと飛翔する。

 その姿を例えるならば、投擲具(スリングショット)を用いて射出した石礫が最も適切だろうか?

 瀬戸の手で丁寧に“たぐられ”た“良縁”は、彼女の妖気出力(スペック)を底上げする事にもまた貢献していた。

 

「エヒャッ、エヒャヒャヒャヒャァッ!? テキ! テキ、ドコ!? エモノ、ドコ!?」

 

 彼女の行く先には、イナリの“ごまかし”に囚われ発狂するガキツキどもの群れがいる。

 彼らはこちらの存在を知覚できていない、或いは知覚できていても対処する暇が無い。そういった幻影の中に閉じ込められていた。

 

 だがそれは、彼らが完全に無力化された事とイコールでは結べない。

 事実、味方を敵と誤認したり攻撃を受けている幻覚に囚われた個体の中には、やたらめったらに体を振り回して暴れている者がいた。

 

 一方、視界からあらゆる他者が消失したアブラスマシは、混乱を極めていてロクに指示を出せる状況ではない。

 つまり、ガキツキどもの制御をできる存在がいない事を意味しているのだ。

 

 そんなパニックの渦中に、お千代は突っ込もうとしていた。

 普通であれば、妖怪どもが混乱しながら振り回す爪や牙に絡め取られ、ズタズタに引き裂かれてしまうのが道理だが──

 

「ふふんっ! その程度のチャチな()()()なぞ、わたくしにとってはただの“あすれちっく”のようなものでしてよ!」

 

 するり。爪と爪の間をすり抜ける。通り過ぎた爪はコンクリートを切り裂いた。

 するり。開かれた牙をすり抜ける。通り過ぎた牙は隣のガキツキに喰らいつく。

 するり。跳躍した者をすり抜ける。通り過ぎたガキツキは群れの中に埋もれた。

 

 剣林弾雨、と表現すると些か誇大に聞こえるが、それでも致死性を持った暴威の集団には変わりない。

 そんな木っ端妖怪どもの斬撃と殺傷の隙間と隙間をすり抜けて、お千代のちっちゃな体は飛翔する。

 

 やがて、彼女の黒く小さな肢体はすっぽりと音を立てて、ガキツキどもの群れを抜け出した。

 薄く息をつきながら体を反転させると、そこに見えるのは今なお狂乱中の有象無象。

 ……それらの肩や腕、背中など、至るところに黒い羽根が突き立てられていた。

 

「さぁさ、“どかん”と派手にやってしまいましょう! 伊勢の神風、シナギの棒、恋しく吹けよ、チッチッチ!」

 

 忙しなく開閉する嘴が、小鳥の囀る音に似た声で呪文を紡ぐ。

 彼女のやっている事もまた、イナリと同じものだ。(まじな)いの言葉を唱える事で、妖気に対するイメージを固め、その出力を向上させる。

 

 淡い紫色の光が、つぶらな瞳に蝋燭の如くゆらりと灯る。

 それに呼応するかのように、ガキツキたちに刺さった羽根の数々も一斉に光を帯びた。

 だが、その光は決して美しいものではない。むしろ、その根本に滴る毒性を暗示して──

 

「八咫村流妖術、《たぶらかしの伍式》!」

 

 

──どくん!

 

 

 脈動する。沸騰する。注入する。溶解する。炸裂する。

 羽根の隅々まで染み込んだ妖気の毒素は、担い手たるお千代の号令を受けて一斉に励起する。

 

 刺された事実に気付いた事無く、或いは気付いたとしても抜く余裕が無く。

 ただの1本も抜き取られないまま、活性化した毒素がガキツキたちの体内へと流し込まれた。

 

「ア、ギィ……ッ!?」

「カ……ラダッ、シビレ……!?」

「フ、ニャア……イイ、キモチ……」

 

 立ち上がる事すらできず、次々と崩れ落ちていく異形の者ども。

 

 呷った者の神経を痺れさせ、筋肉を弛緩させ、理性を溶かし、夢心地の脱力へと誘う。

 1度“たぶらかし”の術に囚われてしまえば、もう逃れられない。まな板の上の鯉も同然だ。

 

 けれども今回は、ただの痺れ毒などではない。彼女の体内には、“糸”が差し込まれている。

 それはつまり、お千代の妖気をより強める“良縁”が“たぐられて”いるという事であり──

 

「ァ……カ、ァ……ケ……ォ……」

 

 皮を、肉を、神経を、骨を、血を溶かし、(ほぐ)し、蕩けさせ。

 心身の全てをグズグズに成り果てさせる夜雀の毒が、血管を通して全身に行き渡る。

 道具である事を捨て、(めい)(あざな)も得られないような有象無象に、この呪毒を耐えられる道理無し。

 

「はい、おしまいですわ♪」

 

 魂さえ溶かされたガキツキたちは、自分から己の身を崩壊させ、塵となって消滅した。

 後に残ったのは、彼らを構成していた核──毒でドロドロに溶けた石や草の欠片くずのみ。

 

 “ごまかし”の術と、“たぶらかし”の術。

 それほど難しい道理を要さない基礎的な、そして出力や殺傷力に欠ける妖術の前に、尖兵集団はいとも容易く全滅した。

 

 ひらりと元の場所へ戻ってきた黒スズメを、姫華は驚き混じりで迎え入れる。

 

「す、ご……イナリさんもお千代さんも、こんなに強かったんだ」

「へへっ。わてら2匹が使う妖術は、八咫村家が体系化した基礎の基礎を磨き上げたもの。己の夢想するままに構築した術も強いでやしょうが、いつだって“しんぷる”なものほど強いんでさ」

「とはいえ、今回はあのガキンチョが施した“ぶうすと”のおかげなのですけどね。“良縁”を身に宿していない平時であれば、これほどの成果を得られるかどうか……」

 

 彼らの口にする「良縁」や「たぐる」という言葉が、どのような意味を持つのかはよく分かっていない。

 しかし少女の脳裏には、あの胡散臭いサングラスのお兄さんの、これまた胡散臭くて軽薄な笑みが想起された。

 

 2匹が受け入れているという事は、そうおかしなものでは無いのだろう。

 何よりも、自分のうなじに潜り込んだ“糸”の艷やかさが、一切の不快さを示唆していない。

 

 ならば、何も不安視する事は無い。

 

「……なら、ここからは私も動く」

「いけますのね?」

「分かんない。でも、何かを掴めたと思うから」

 

 しゃりん、と神楽鈴を鳴らす。

 指揮棒の切っ先のように向けた先に、配下を失い、未だ幻惑に囚われたままのアブラスマシが──

 

「あぁああぁぁぁあああぁぁああっ!! まだるっこしい! 最初っからなァ、こうすりゃ善かったんだよォッ!!」

 

 栓が、引き抜かれる。

 

 視界のあらゆる箇所から他者を知覚する術を奪われ、移動する発想すら“ごまかされ”、パニックと癇癪に塗れていたヒョウタン・アブラスマシ。

 精神状態が限界に陥った彼は、とうとう本来の気性を露わにした。

 

 どうせ人間風情が、ガキツキ程度がどれだけ被害を受けようと構わないのだから。

 何も理解できないのなら、当たるに幸いを消し飛ばしてしまえばいい。

 

「妖術ゥ、《油一匁(アブライチモンメ)》ェェェェェッ!!」

 

 360度、目に入る全てに向かって。

 縦横無尽に、手当たり次第に、瓢箪の中の油を撒き散らす。

 

「不、味──ッ!?」

 

 ドロドロと粘っこく、妖気の溶け込んだ油の波濤が、神社の麓一帯を蹂躙し尽くした。



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其の漆拾弐 煤取節供(スストリゼック)

 かつて、神ン野は語った。

 強い妖気は、己より弱い妖気を捻じ伏せる。弱い妖気を込めた術は、己より強い妖気を込めた術に競り負ける。

 それは、妖怪の戦いにおいて絶対の真理として機能する。

 

 妖術とは即ち、術を目の当たりにした敵に恐怖を抱かせる為の能力である。

 その為に妖怪たちは、多様な発想とアプローチを以て妖術を練り上げ、より「恐ろしさ」を磨き上げていった。

 

 けれど、こうは思わないだろうか。

 

「妖術ゥ、《油一匁(アブライチモンメ)》ェェェェェッ!!」

 

 より“強い力”を発揮する単純な妖術と、あくまで“弱い力”で運用される奇怪な妖術。

 如何に手練手管を仕込もうとも──果たして、恐ろしいのはどちらだろうか?

 

「不、味……!? これ、逃げ場がどこにも──ッ」

「姫様、こちらですわ!」

 

 姫華たちを襲ったモノの正体は、大量の油だった。

 

 それは昨晩、九十九が目の当たりにしたものとまったく同質の術。

 己の体に妖気がある限り、魔の瓢箪から無限に湧き出してくる邪悪な油。

 

「呑み込めェッ! 関係無ェ奴が巻き込まれようがどうでもいい! どうせここをぶち壊しちまえば、あっしの勝ちまであと1歩なんだからなァッ!!」

 

 癇癪を拗らせたアブラスマシは、とうとう辛坊堪らずに妖術を行使した。

 視界に映る他者を認識できなくなった現状、全方位を無差別に攻撃すれば、自分が生み出したガキツキどもさえ巻き込んでしまうというのに。

 

 実際は既に全滅しているのだが──ともかく、今の彼が思っている事はただ1つ。

 ガキツキなどという雑魚の群れなぞ、巻き込んでしまったところでどうでもいい。

 

 要は、最後に自分だけが勝てばいいのだから。

 

 

──ドッ……パァンッ!!

 

 

 それは図らずして、前回の『ぷれいやあ』であるフデ・ショウジョウが振るった術と似通っていた。

 つまるところ、質量と勢いを伴った液体を大量にぶちかませば、大体の物体は破砕できるのだ。

 

 その証明として、解き放たれた大量の油は神社へと続く階段に叩きつけられ、石の段を粉々に破壊する。

 それだけではない。360度に放たれたそれらは、近くにあるモノというモノを手当たり次第に呑み込み、或いは砕いていった。

 

 信号機をへし折り、ゴクリと呑み込んで。

 古びた廃屋を砕き、ゴクリと呑み込んで。

 石灯籠を断ち割り、ゴクリと呑み込んで。

 

 あらゆるモノを内側に取り込み奪い去る妖気の油が、津波のように荒れ狂い、辺り一帯から全てを劫奪した。

 

 そう、全てを。

 例えば、それは──己よりも少なく弱い妖気によって構築された、認識を“ごまかす”術のカーテンさえ例外ではないのだ。

 

「……おっ? なんだなんだ、ちゃーんと視界がくっきり映るじゃないか! やっぱりあっしの知恵は正しかった。こういうのはな、ぜーんぶサッパリぶっ壊しちまうのが一番“すまあと”で“いんてりじぇんす”なんだよな!」

 

 如何に“良縁”によるブーストがあろうとも、彼我が持つ妖気の量という、絶対的な差を覆す事は叶わない。

 

 押し寄せる油──途方も無い妖気の塊に打ち負かされたイナリの妖気は、たちまちに敗れ去った。

 引き裂かれた幻影の膜は彼方に消えて、元通りの景色がアブラスマシの視界に還ってくる。

 同時に、蝕まれていた思考力も復帰したらしく、いやにスッキリした様子で快哉を上げた。

 

「あ……ぶなかった。ありがとう、お千代さん」

「いえいえ、姫様も咄嗟に反応してくださって助かりましたわ。そこのキツネは捨ててくださっても構いませんけれど」

「減らず口ばっか叩きやがってよ、このスズメは……」

 

 その様子を、中空から見下ろしている人間1人に妖怪2体。

 反射的に灯籠の上のイナリを抱きかかえた姫華は、お千代のちっちゃな足で服を掴んでもらい、こうして3人揃って空に離脱する事ができていた。

 

 もし数秒、回避の決断が遅れていたら。

 直下をグルグルと流動する黄土色に背筋が薄ら寒くなった矢先、ようやく自分たちの存在に気付いたらしいアブラスマシと目が合った。

 

「見ィつけたァ……! 馬鹿面晒して空中に逃げるなんてさぁ、あっしに狙ってくれって言ってるのかァ? ヒバチの野郎に勝るとも劣らない間抜けっぷりをありがとよ!」

「ヤバい、見つかった! お千代さん、私を離して代わりにイナリさんを……っ!」

「無茶言わないでくださいまし!? 姫様を見捨てて逃げるなどという恥晒しを──」

「言ってる場合でやすか! 来やすよっ!」

 

 がっしと脇の内に抱え込んだ瓢箪から、油の弾丸が緋を吹いた。

 妖気混じりの油は妖しく淡い紅色にほんのりと染まり、散弾銃のように強襲をかけてくる。

 その1つ1つが出力と威力に一切の遜色無き妖術であるなど、説明せずとも分かる事だ。

 

 油の塊に絡め取られれば最後。

 道具であればその存在を呑み込まれ、泡沫の如く消滅する宿命(さだめ)が確定する。

 生物であっても、高質量の液体を真正面から喰らって無事で済む訳が無い。

 

「かっ、回避~! 回避しますわ~!?」

「わての方でも、どうにか“ごまかし”てみやす! お前さんは嬢ちゃんを落とさない事だけに集中してくださいやし!」

「わ、私はどうすれば……!?」

「嬢ちゃんは自分の妖気に集中! (まじな)いを行使する“いめえじ”を絶やさないようにするんでさ!」

「わ……かった! って──きゃあぁあっ!?」

 

 顔面の横すれすれを、油弾が通り過ぎる。

 恐ろしいほどに至近距離を掠めたそれは、ただの一瞬で、姫華におぞましくも濃密な妖気の匂いを感じさせた。

 

 至極当然の話だが、ヒョウタン・アブラスマシの妖術はその程度で終わらない。

 次から次へ、無機物を喰らい尽くす油の弾幕が中空の3人組を襲撃した。

 その隙間を縫って飛翔するべく、意を決したお千代は翼に意識を巡らせる。

 

 終わりのない射撃。絶え間ない砲撃。限りない油の包囲網。

 シューティングゲームもかくやという弾雨の中を、夜雀のちっちゃな翼がはためいていく。

 

「ちょこまかちょこまかと……! いい加減、堕ちろってんだ!」

「ご生憎様ですがねぇ、わたくしとて油塗れになって“ふらいどちきん”と果てるのはご勘弁ですのよ!」

 

 これほどの妖術弾幕を浴びせてなお、飛行する彼らを撃ち落とせないのには訳がある。

 

 如何に飛行能力に優れたお千代と言えど、避けきれない攻撃は存在する。如何に癇癪持ちのアブラスマシと言えど、これだけ撃てばいつかは攻撃が命中する。

 それらが重なり合って、油弾がお千代や姫華、或いは彼女が抱えているイナリを打ち据えた事もあった。

 

 しかし、である。

 

(クソッ、まただ……! 今のもまやかし、また“ごまかされた”ってか!)

 

 命中した瞬間、彼らの姿は泡沫に消える。

 彼方へ消え去りゆく油に貫かれて消失したそれの正体は、当然ながらイナリが“ごまかし”の術によって構築したデコイである。

 

 敵に自分たちの居場所を誤認させ、命中精度を著しく低下させる。

 振るえる妖気にも限界はあるが、それでも自分たちが被弾する可能性を減らし、そこに至るまでの猶予を可能な限り引き伸ばすには十分だ。

 

(クソッ、クソクソクソッ! どうしてあっしが苦戦する!? ヤタガラスならまだしも、あんな木っ端妖怪どもに、ただ(まじな)いの才能があるってだけの娘っ子が相手だぞ!? あっしは頭を使った、“とりっきい”で“みすてりあす”な『げえむ』をだなァ……!)

 

 だから、アブラスマシは苛立ちを溜め込む。だから、癇癪がぶり返す。

 自分を知恵者だと思い込んだ乱暴者は、自分の思い通りにならない現状にフラストレーションを増幅させていく。

 

(いや、待てよ……! もしかしたら、これなら──!)

 

 だから、こんな手段に出る。

 

「なんだ……? 急に弾幕が止まりやしたが……」

「ふぅ……やっとのですの? では、ここからもう1度反撃に──」

「へっへっへ……最初っからこうすりゃよかったんだ。やっぱり、あっしは頭がいい。その辺の凡百どもとは大違いだ」

 

 瓢箪から湧き出る油を止めて、栓をする。

 そのまま瓢箪は腰に下げて、パンと音を立てつつ合掌。

 

 彼の目の前には、今なおドロドログズグズと足元でうねり、一切合切を舐め取りながら這いずり回る大量の油があった。

 先ほど、片っ端から薙ぎ払う為に撃ち出して、獲物が空中に逃げたが為に放置されていた黄土色の波濤。

 潤沢かつ芳醇な妖気で満たされたそれらを一瞥して──手の内で、印を組む。

 

「魂持たざる人形(ヒトガタ)よ、邪気を食む憑き物なりて、成るは物の怪、魑魅魍魎……!」

 

 そうして唱えられた呪文は、開戦前にも聞いたもの。

 即ち、道具の概念を上書き汚染するガキツキ生成の術《物気付喪(モノノケツクモ)》だ。

 

「またガキツキを……? でも、なんで今更……」

「へへっ、まだこれからさ……! 繋ぎ繋いで大掃除、塵も積もれば山となる!」

 

 詠唱と共に、アブラスマシの足元に広がる油全てが一斉に光を放つ。

 それは、術者の意思に妖気が反応した証。妖術の完成によって、これらの油がガキツキへと変換されるのだろう。

 

 だから問題は──光っている範囲が、あまりにも広過ぎる事にあった。

 開戦前に行使された際は、油弾が包み込んだ石ころや草木1つ1つに術が適用され、ガキツキの群れを生み出した。

 けれども、今回はどうだろうか。

 

 無数の油弾などではない。解き放たれた波濤は、その全てで1つの油と見做される。

 信号機、乗用車、看板、廃屋、灯籠、石段、エトセトラエトセトラ。そこら中にあったあらゆる“道具”を呑み下し、油の海は未だ健在だ。

 

 もしも──これらの道具全てを内包した油が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「儀式妖術──《物気付喪(モノノケツクモ)煤取節供(スストリゼック)》ゥッ!」

 

 

──ぐにゅり

 

 

 油の海が、盛り上がった。

 辺り一面を覆い尽くし浸し切っていた油が、ただ1点に集中する。

 

 吸い込んで、吸い込んで、取り込んで、取り込んで。

 内側に含んだ道具の諸々を侵蝕して、溶解して、吸収して。

 その存在全てを凌辱して否定して解体して分解して消化して劫奪して。

 

 無数の道具と、大量の妖気と、潤沢な油。

 それらが一体化して、1つの妖怪となった瞬間。

 

「見ろォ! これこそあっしの切り札、その名も“タザイガキツキ”だァッ!」

「エッ──エギャハァァアアァァァアアァァアアアァアァァアアアァァァァアアァァアアアアッ!!!」

 

 そこに君臨したのは、巨大な1体のガキツキだった。

 

 体長は10mに相当し、筋骨隆々、強靭かつ頑健な肉体を持っている事は傍目から見ても明らかだ。

 ガキツキたちの身につけている外套をいくつも縫い合わせて作ったかのような腰巻き以外に、その体を隠すモノは無い。

 ギラギラと歪んだ光を放つ眼差しと、不自然に歪曲した下顎の牙が、矮小な獲物を食い潰し滅ぼさんと殺意を放っている。

 

 多財餓鬼(タザイガキ)

 どれだけ財貨を得ても決して満たされない魔性の名を持つそれは、赤ん坊の泣き声を捻じ曲げたような叫声を上げた。

 

「なに、あれ……!? あれもガキツキ……なの?」

 

 その声が確かに震えている事は、誰が聞いても明らかだった。

 目の前で起き上がり、産声に似た不快な雄叫びを上げた巨体の存在が、あまりにも信じられなかったのだ。

 

「いやいやいや、冗談でやしょう!? あんなガキツキ、見た事ありやせん! どんだけこの土地の妖気を捻じ曲げてるんでやすか、『現代堂』の連中は!」

「それよりも……これは、ちょっと不味いですわよ!」

 

 姫華とイナリを掴んで飛びながら、お千代は悲鳴にも等しい声を漏らした。

 ジロリ、と目が合う。あの恐るべき、そしておぞましき巨体の異形──タザイガキツキの胡乱な瞳が、自分たちを捉えたのだ。

 一刻も早く、離脱しなければならない。だって、そうだろう。

 

「あんなデッカい体を振り回されたんじゃ、わたくしたちだって無事では──ッ!?」

 

 仮に、巨大な存在が、自分の巨大な腕を、巨大な筋肉が持つ膂力で振れば、果たしてどうなるだろうか。

 どうして人は、巨大になればなるほど動きが鈍重になると思えるのだろうか。

 

「エギャハァァアアァアアアアァァァアァァアアアォォォオオオオォォオオオォオンッ!!」

 

 轟。

 

 それは最早、パンチですらなかった。薙ぎ払った訳でも、叩き潰した訳でもなかった。

 ただただ純粋に、宙を舞うハエや蚊を叩き落とすかのように、無造作に手のひらを振っただけ。

 

 たったのそれだけで、宙を飛びながら逃げていた3人はあっさりと捕捉され、あっさりと地面に叩きつけられた。

 

 地雷の爆発もかくやというほどに着弾地点のアスファルトが粉砕され、もうもうと砂煙を吐き散らす。

 追撃か、トドメか。如何なる目的にせよ、更なる攻撃を仕掛けるべく、タザイガキツキがもう1度腕を振り上げた時。

 

「……エギャアァハ?」

 

 手のひらに付着していたのは、叩き潰した相手の血肉ではなかった。

 べったりと肌に張り付き、ピリピリと痺れるナニカを染み込ませてくる……大量の、真っ黒い鳥の羽。

 

 この程度の毒素に蝕まれる訳では無いが、何故このようなモノが張り付いているのかは不可解だった。

 ロクに知性も理性も無い眼差しを、はたき落とした獲物たちが潰れ果てているだろう着弾地点まで下ろす。

 

 直後、唐突に吹いた風によって掻き消された砂煙。

 吹き飛ぶ砂塵の中に紛れた無数の黒い羽根、その向こう側に見えた光景は、タザイガキツキの想像の外にあるものだった。

 

「くっ、ぐぅ……嬢ちゃん、ご無事でやすか……?」

「う、うん。(いた)た……。お千代さんと、イナリさんのおかげで……どうにか」

「それは、重畳……ですが、これは……わたくしは、もう、“ぎぶあっぷ”、ですわね……」

 

 姫華も、イナリも、お千代も、未だ生きていた。

 3人ともボロボロの状態だが、それでも致命傷を負っている訳ではない。

 

 タザイガキツキの掌底が振り下ろされる寸前、お千代は全力全開で妖気を振るい、生成できるだけの羽根を大量に展開しまくった。

 自分たちが接触しても問題無いように、無毒な羽根を生み出して生み出して自分たちを覆うドームを作り、その表面には毒の羽根を纏わせて。

 そこにイナリが“ごまかし”の術を被せ、敵に急所を外させると共に、羽根でガードしたという事実を認識させなくしたのだ。

 

 結果、地面に叩きつけられた衝撃で大きなダメージを負ったものの、彼らは無事に耐え切る事ができていた。

 

 しかしその代償として、お千代は最早限界だ。

 振り絞れるだけの妖気によって術を行使した以上、回復期間を置かなければ彼女のポテンシャルはからっけつも同然である。

 

「お千代さんっ!? し、しっかりしてっ!」

「……! 不味い、嬢ちゃん! スズメを抱えて逃げてくださいやし!」

 

 抱きかかえたイナリの叫びに顔を上げた瞬間、その焦ったような言葉の意味を悟った。

 

「エギャハハハハハハアハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハァッ!!」

 

 あれほどの巨体であれば、たったの1歩ですら多大な距離を刻む事ができるのか。

 その事実に対する驚愕と恐怖を噛み締めるよりも早く、タザイガキツキは倒れ伏した3人の目前まで迫り、またもや太く剛健な腕を振り抜いた。

 

「嬢ちゃんっ!! ここはわてが……」

「ダメッ! イナリさんも一緒にっ!」

 

 自分たちを庇おうと前に出んとするイナリを拾い上げ、脇に抱えたお千代と一緒に胸の内へと抱き留める。

 元々立ち上がりかけていた事もあって、2匹の召使いたちを抱えながら真横へ転がる事に成功した。

 

──ズドンンッ!!

 

 ぽっかりと綺麗な形を象って、アスファルトに大きな手形が刻まれた。

 先ほどまで自分たちがいた、今はぐしゃぐしゃのミンチと化した羽根の塊だけが残った景色を一瞥し、姫華の背筋にゾクリとしたモノが奔る。

 

「あれで……妖術でもなんでもない、ただの押し潰しだっていうの……!?」

 

 咄嗟に避けなければ直撃していただろう、重量と質量をこれでもかと帯びた肉の塊。

 ただの手のひらが、ただの叩きつけが、これほどまでに殺傷力を持つなんて知らなかった。

 

 今回は避け切れた。

 けれど、次以降も避け切れる、避け続けられるとは限らない。

 それに加えて、いつまでも避け続けている訳にはいかない。逃げ続けていては、倒せるものも倒せないのだ。

 

 グッと歯を食い縛り、左腕で2匹を抱えながら、右手で前方へと突き出す神楽鈴。

 軽やかな音がシャリンと鳴り、極限状況に陥ったこの場において、姫華の人間性を微かに癒す。

 

「まだ、上手く固まってないけど……! でも、怯ませる程度のイメージなら今すぐにでも──」

「──おおっとォ、隙だらけだなァ!」

 

 油弾が1つ、意識の隙間を引き裂いて接近する。

 目の前に至るまでその事に気付けなかったのは不幸であり、着弾した油が手元を打ち据えるだけで済んだのは幸運だろう。

 

 その上で、手に持っていた神楽鈴が油弾に絡め取られてしまった事は、まさしく不幸以外の何物でもなかった。

 

「あっ──!?」

 

 ごくりと呑み下された神楽鈴は、油の中に閉じ込められたまま明後日の方向へと飛んでいった。

 勢いを失う事なく、そのまま尖った瓦礫へと真正面からぶつかった結果……

 

 

──POW!

 

 

 弾けて消えた油と共に、永遠にこの世から消滅した。

 どれだけ手を伸ばしても、囚われたまま泡沫となったそれは還ってこない。

 

「へっへっへっへっへ……! 一瞬の隙を突くあっし、まさしく“いんてりじぇんす”だよなァ!」

「そん、な……」

 

 愕然とする。思いつきのような一手に、状況を覆されてしまった事を。

 いや、それだけではない。そもそもこの状況は、誰も意図していなかったのだ。

 そんな状況がどうして引き起こされたかと言えば──

 

『私だって……背負うんだ』

 

 瀬戸の言いつけを聞かず、九十九の負担を減らしたいが為に、交戦を選んだ自分たちのせいだ。

 

 自分たちがガキツキを一掃し、敵を追い込んだ結果、癇癪を起こしたアブラスマシによって逆に窮地に追い込まれてしまった。

 これでは、負担を減らすなどできやしない。むしろ、逆効果だろう。

 このように巨大なガキツキなど、対処するには九十九でも無ければ難しいのだから。

 

「……私の、せい?」

 

 ポツリと呟かれたのは、果たして悲鳴か。

 

 力無き者が奮闘を選んだ結果が()()ならば、この世界とはなんと残酷なのだろうか。

 この世界は、力有る者にしか回せないのであれば。出しゃばった、身の程を弁えなかった罪過は、力有る者への更なる負担として現出するというのだろうか。

 

 それならば、それならば。

 自分たちが奮起した意味など、最初から。

 

「さァて、いい加減にムカムカしてんだよ。タザイガキツキ! とっとと潰してしまいなァ!」

「エギャハハハハハハハハハハハハッ!! エェェエエェェェエエエェェェエッ、ギャハハハハハハハハハッ!!」

 

 嘲笑が轟き、剛腕が動く。

 どうにか対処しなければ、あの巨体はたちまちにこちらを捻り潰すに違いない。

 

 避ける? どこに? 耐える? どうやって? 切り抜ける? 私なんかが?

 グルグルと悪循環に流転する思考の中で、姫華は胸の内のイナリとお千代を見た。

 

(せめて、2人だけでも)

 

 上手く放り投げれば、逃がす事はできないか。

 そんなアイデア未満のモノさえ、脳裏に過った瞬間。

 

 

──KA-BOOOOOM!!

 

 

 上空で巻き起こった爆発と、けたたましい爆音と、吹き荒れる熱風。

 それらが混在となって、この場にいた者たち全員の意識を空へと向けさせた。

 

 唐突に明るくなった夜空に目を這わせ、少女の口は小さく震える。

 

「……九十九、くん……?」




「スクスクジョイロ~!」

スーパー戦隊でもウルトラマンでも戦闘員は巨大化するもの。
仮面ライダーの戦闘員も巨大化する? そんな馬鹿な話があるか! 皆、疲れているのか……?


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其の漆拾参 火鉢爆撃の怪

──KA-BOOM!!

 

 2度、3度、4度。

 幾度も幾度も幾度も、空に紅い華が咲く。太鼓のような音が鳴る。

 

 炸裂が生んだ黒煙を吹き飛ばし、半ば逃げるように飛翔する1つの影。

 そしてそれを追うように、無数の火花を弾かせながら飛翔する1つの異形。

 

「ゲヒャヒャヒャヒャヒャヒャァッ! どうしたどうしたァ!? 逃げてばっかりじゃ、オレサマに傷1つつけられないぜェッ!?」

「……っ! 逃げたくて逃げてる訳じゃ、ないんだけどなァ……!」

 

 逃げているのは当然ながら八咫村 九十九であり、それを追っているのは妖怪ヒバチ・ヒトウバンだ。

 

 九十九が空を駆ける度、首に巻かれたマフラーが空中に黒い軌跡を描く。

 ヒトウバンが空を裂く度、頭上に溜め込まれた炭が火の粉を撒き散らす。

 

 2度目の開戦よりこちら、夜空を舞台に繰り広げられたドッグファイト。

 その戦況は──概ね、ヒトウバンが優勢。そう言わざるを得なかった。

 

「ホラホラァ、チンタラやってっとこうなるぜェ? 妖術《炭火焼災(スミビヤクサイ)》ィッ!!」

 

 再度の爆発。

 奮い立った妖気は、火鉢を模した頭の内部から噴火じみた爆発を巻き起こし、幾多もの炭火の弾丸を解き放った。

 術者が指向性を持たせたそれらが標的とするのは、憎き『げえむ』の障害──即ち、リトル・ヤタガラスたる九十九その人だ。

 

「くっ……! そう何度も何度も、喰らい続ける気は無いぞ!」

 

 片手だけで、左手だけで火縄銃を持ち、銃口を向ける。

 先の戦闘で折られた右腕は、未だにギプスで固定されている。とてもじゃないが、まともに動かせる状態じゃない。

 だから、こうするしかない。左手だけで狙いを定め、銃床ごと包むように握った引き金に指をやる。

 

──BANG!

 

 放たれた弾丸は、先端をより尖らせ、貫通性を向上させたもの。

 緋色の弾頭が1つ目の炭火を貫いて爆発させ、続けて2つ目、3つ目を穿ったところで崩壊した。

 またも夜空に咲いた紅の華。その赤々とした光を目眩ましに、妖気を纏って更に上昇する。

 

 それを追って、誘導弾紛いのめちゃくちゃな軌道を描く炭火たち。

 今にも肌を焦がさんと狭る熱量を前に、乱雑な構えから引き金を数度、立て続けに引きまくる。

 

 片手だけで乱暴に射撃された弾丸たちは、しかしすっきりと定まった狙いの通りにいくつかの炭火を打ち砕いた。

 それでも迫る個体は、妖気を巡らせた足で強引に蹴り上げ、明後日の方向で炸裂させる。

 

(キリが無い……! いくらなんでも妖気が無尽蔵過ぎるし、僕の方もパフォーマンスの下降具合が以上だ)

 

 内心で毒づいた通り、九十九は防戦一方の状況下にあった。

 

 ヒトウバンから距離を取り、相手が撃ってきた炭の弾丸を避け、撃ち落とす。

 眼下では姫華たちが戦っているし、そうでなくても街への流れ弾は防がねばならない。その思いが、彼にひたすらの迎撃を強いていた。

 

 加えて、右腕の負傷である。これでは、火縄銃をまともに撃てやしない。

 ()()()()()()()()()()()()()、左手だけでも精密な射撃を行う事はできている。それでも、両腕を使えるのと使えないのとでは大違いだ。

 片手だけで狙いを定める負担が、自然と妖気の消費に現れているような気すらしている。

 

 そしてトドメに、フデ・ショウジョウの残した負の遺産だ。

 街の地脈が『現代堂』にとって都合のいいように捻じ曲げられている今、土地そのものが敵の味方をしているのだ。

 

 この流れを断つ為に、五十鈴は今、舞の奉納を行っている。

 だから九十九や姫華たちは、彼女が踊り終えるまでの時間を稼ぎ、彼女を守らねばならない。

 

 だから、敵はこのような手段に出る。

 

「おっとォ? そんなに余所見してていいのかよォッ!」

「──ッ!? 不味い!」

 

 ヒトウバンの頭から射出された炭弾の内の1つだけ、まったく異なる軌道を描いていた。

 その軌道のままに落下すれば、九十九にはかすり傷1つつきやしない。彼が、自分からぶつかりにでも行かない限り。

 そして九十九は、その炭弾に自分からぶつかりに行く必要があるのだ。

 

 何故なら、炭が落下する先には金鳥神社があるのだから。

 その境内では今、姉である五十鈴が舞を奉納している真っ最中だ。

 

(ここからじゃ、射撃しても間に合わない……いや、それどころか爆発した後の爆風や欠片が姉さんに降り注ぐかもしれない! クソッ、この手しか無いか──!)

 

 両足で虚空を蹴り飛ばし、斜め下に向かって特急で飛行する。

 放たれた矢のように素早く、鋭利に飛んだ少年は、やがて神社へ迫る炭弾よりも下の位置に到達した。

 

 即座に急ブレーキをかけた直後、今度は強引かつ一気に急上昇。

 炭弾を視界の内に捉えると、スピードは維持したままに体を反転させ、妖気を宿した両足で炭火のど真ん中に蹴撃をぶち込んだ。

 

 

──KA-BOOM!!

 

 

「ぐぅっ……!?」

 

 妖怪ヤタガラスは、炎や熱によって傷つかない。

 しかして爆風や衝撃が直撃すれば、多少なりとも痛痒(ダメージ)を受ける。

 奥歯が砕けるのではないかというほど歯を食い縛って、全身を叩きつける衝撃に真っ向から突撃した。

 

 焼け焦げた花火を引き裂いて、そのままヒトウバンへと直行するヤタガラス。

 銃口は天高く向けたままに、引き金だけを荒々しく引いて何度も何度も火球を連射する。

 

「ハッハァッ! (おせ)(おせ)ェ、アクビが出ちまいそうだぜェッ!!」

 

 そんな火球の弾幕を、首だけの異形は軽々と回避してみせた。

 滑らかな動きでスイスイと、右へ左へ体をスライドさせて、その度に炎の弾丸は空の彼方へ消えていく。

 嘲るように、煽るように、これ見よがしに舌を出して笑う余裕すらある始末だ。

 

 奴が反撃混じりに炭火を1発飛ばせば、その迎撃に回らざるを得なくなる。

 真っ向に弾丸をぶち込んで爆発させ、それを回避するように軌道を修正。

 

 また、状況がリセットされてしまった

 靴裏を空中に擦り付けて減速しながら態勢を整え、ゲラゲラと嘲笑してくる敵対者を睨む。

 

「あの神社よォ、狙われると困るんだろ? だからオレサマは、あの神社を攻撃する。そうすると、テメェはそっちにも意識を割かなくちゃいけなくなる。なんとビックリ! オレサマが常に攻める側! テメェが常に守る側! いやァ、守るものがあるって辛いねェ!」

「っ……余計な、お世話だ……!」

「ま、オレサマもオレサマで、地脈を元通りにされちゃ困るんだがな。このまま、オレサマにとって有利な“しちゅええしょん”で『げえむくりあ』を目指すんだからな。その為にも──」

 

 グツリと、溶岩が煮立つような音。

 それは紛う事無く妖術の発現する音であり、濃密な妖気が練り上げられていく音であり、そしてその根源がどこにあるかなど明白だった。

 

「ここら一帯、纏めて消しちまえば話は早ェ! 妖術──《炭火焼災(スミビヤクサイ)盆櫓(ボンヤグラ)》ァッ!!」

 

 特大の噴火が引き起こされた。

 頭上から噴き出したのは、尋常を遥かに超えた数の炭火、炭火、炭火。

 めらめらと燃え上がる炎をこれでもかと身に纏い、字義に違わない炎の雨が降りしきる。

 

 それらが狙うのは金鳥神社であり、そこで舞う五十鈴であり、その麓で戦いを繰り広げている姫華たちであり、『げえむ』を妨害してくるアブラスマシであり、この場の周辺一帯全てであった。

 己の『げえむ』を邪魔する全てのくだらぬモノたち。その一切を消し飛ばす為に、灼熱の破滅が降り注ぐ。

 

「さァ、さァさァさァッ! 防いでみせろよリトル・ヤタガラァァァァァッス!! 1発でも漏らせば、下の連中は地獄行きだぜェェェエッ!?」

「~~~ッ、クソッタレ!」

 

 歯という歯を噛み締めて、火縄銃を弾幕へと向ける。

 銃身の奥底に溜め込んだ妖気を一気に点火して、内部で火炎の弾丸を捏ねていく。

 凝縮した熱量の向かう先をしかと定めたのち、意を決して妖術を解き放った。

 

「妖術、《日輪》ッ!!」

 

 轟音を引き連れて、緋色の火球が夜を裂く。

 そのまま炭火の1つに直撃した小さな太陽は、ド派手な爆発を巻き起こし、その火炎に周囲の炭火たちをいくつも巻き込んだ。

 

 爆発が更なる爆発を呼び、幾多もの連鎖が夜空を爛々と赤く染め上げる。

 昼間のように明るくなった空の間に紛れるようにして、いくつかの炭火は健在のまま、地上へと向かっていくのが見えた。

 

 まだ、足りない。

 

「南無……三ッ!」

 

 覚悟を決め、垂直落下を決行した九十九が狙うは、神社に降らんとする炭の弾丸。

 両足を突き出し、半ば蹴るように炭の上に着地した彼は、その衝撃と妖気によって炭火を炸裂させた。

 

 地上に火の粉を飛ばす事なく弾け飛んだ黒煙の中から、特大の火球が飛び出した。

 それは未だ空を舞う炭火の群れに突っ込むや否や、これまた連鎖爆発を引き起こして一掃にかかる。

 

 黒煙を突っ切って再び現れた九十九は、顔や装束の至るところに傷跡が見えている。

 爆風や破片のあおりを受けて体は傷つき、服や靴は徐々に焦がされていた。

 

 それでも止まらない。止まっていられない。

 火縄銃を握り締めた左手を、忙しそうに上へ下へ、右へ左へ。視界に残っている炭火を消し去るべく、何度も何度も引き金を引きまくった。

 

「妖術……《日輪》! 《日輪》、《日輪》、《日輪》ッ!!」

 

 幾多も幾度も何度も何回も、夜の暗い空を行き交う真紅の軌跡。

 真っ赤な軌跡が行き着く先では必ず、熱い大輪の華が咲いた。1度咲いた花火は、近くの炭火に喰らいついて追加の花火を呼び寄せる。

 

 

──KA-BOOOOOM!!

 

 

 これまでに起きたものの中でも一等、巨大な爆炎が虚空を彩った。

 果たしてそれは、地上での戦いに集中していた面々ですら、反射的に空へと意識を割いてしまうほどのもの。

 

 だが、当の本人にはそれに注目している余裕は無い。

 荒れ狂う大爆発の狭間をすり抜けるように空を飛び、最後に残った炭火へと接近する。

 

(大技を連発し過ぎた……! すぐには妖気をチャージできない、なら!)

 

 火縄銃を炭火に向ける。けれど、引き金は引かない。

 九十九は銃を前方に向けながらも、そのグリップを握り締めている左手の人差し指だけを器用に伸ばした。

 その先端に、小さな火球がほっそり灯る。

 

「妖術──《黒点》!」

 

 銃身の脇に添って、小さく淡い弾丸が飛翔する。

 それは炭火に僅かな穴を開けたが、それでも炸裂までは至らない。

 

 故に、連射する。

 

「穿てぇぇぇぇぇえええええっ!!」

 

 飛翔しながら、接近しながら、肉薄しながら。

 一心不乱に指先から火球を連射し、連発し、連打して。

 炭火に無数の穴を開けた直後、九十九は石屑同然と化した炭火の中心部に突撃した。

 

──BOMB!

 

 先んじてボロボロの穴だらけに変えられていた事もあって、炭弾が宿す妖気は衰えていた。

 その為、突貫によって引き起こされた爆発も軽微なもので、妖気の炭は破片を残す事なく綺麗に破砕する。

 

 これで、全ての炭火を破壊できた筈。

 そう判断して息をついた彼は、予想できなかった。

 

「はーいっ、引っ掛かったァッ!!」

 

 振り向いた瞬間、煙の中から突撃してきたヒトウバンの存在を。

 あれほど射撃と弾幕を主体に戦っていた敵が、よもや直接の体当たりを戦法に組み込むなど。

 

「な──」

「両腕が折れちまったらよォ……もう、銃も使えねェよなァッ!?」

 

 口が開く。牙が露わになる。無数の、鋭利で凶器じみた獣の牙。

 牙を剥いて奇襲をかけてきた敵の狙いが、こちらの左腕を噛み千切る事であると一瞬の内に理解する。

 

 事ここに至れば、反撃も迎撃も難しい。

 で、あれば。頬を流れる冷や汗に覚悟を滲ませて、九十九は──

 

「ぎっ──がぁあああぁぁぁああぁあぁぁああぁぁぁああああぁぁああぁあ!?」

 

 ギプスが巻かれたままの、まだ完治していない右腕を差し出した。

 

 突き立てられた無数の牙という牙が、皮を破り、肉を裂き、神経を千切り、骨まで届く。

 吹き出る血肉が包帯を赤く……否、赤黒く染め上げて、ボタボタと地上まで滴り落ちていく。

 

 焼けた鉄を押し付けられたような。そんな形容詞すら陳腐に思える痛みと熱が九十九を襲い、彼の気を狂わせる。

 ミチミチ、或いはメキメキと不快な不協和音を奏でて、ヒトウバンは彼の右腕を噛み千切りにかかった。

 

 このままこの状況が続けば、今度こそ八咫村 九十九の右腕は使い物にならなくなるどころか、永遠に失われてしまうだろう。

 それを理解しているからこそ、今の九十九には気を狂わせている暇など無い。

 

 左手の内で火縄銃を転がして、銃口に近い部分の銃身を杖のように握る。

 痛みに堪えながら、どうにか振り上げた左腕を一気に振り下ろし、ヒトウバンの額に銃床を叩き込んだ。

 意外な一撃を受けて思わず、腕を食い破っていた牙が離れていく。相手が痛みと衝撃に頭を眩ませている隙に、宙を蹴って距離を取った。

 

「ギャッ──ギィッ!? クソッ、よくもオレサマを殴ったなァッ!?」

「はァ……はァ、ぐっ……!? ぅ、うぐ……ぎっ……。こ……っちは、右腕を、食われ……かけた、んだぞ。おあいこ……さ。ふふ……く、ぅうっ……」

 

 怒り狂う異形とは対称的に、少年の顔色は悪い。

 なんとか繋がってはいるものの、彼の右腕は見るも悲惨な有様だ。

 至るところに穴が空き、裂けた肉の内から血が溢れ出ている。ギプスや包帯など、最早腕を飾るだけのアクセサリーにすらなっていない。

 

 これだけの傷を癒せるような時間を、果たして相手が与えてくれるかどうか。

 まさしく、絶体絶命という言葉が似合う状況だ。劣勢も劣勢の中で必死に戦力を拮抗させているが、その天秤もいずれ破綻するだろう。

 

(ここで、ヒトウバンを食い止めておかないと……姉さんが、安心して踊れない……。下は、どうなってるのかな……。姫華さんは、皆は……ちゃんと、無事だろうか……)

 

 そんな中でも、地上で戦っているだろう仲間たちを想う感情が絶える事は無い。

 目の前の敵から意識を外さず、しかし一瞬だけ視線を地上へと向かわせる。

 

 この状況下では、地上の様子など満足に把握できないだろう。

 そもそも、この高度である。下で何が起きているかを認識するには、ある程度は下へ降りる必要があった。

 

 それでも、想わずにはいられない。

 

「……姫華さん」

 

 あの、勇気を振り絞る事を選べる、大切な少女の存在を。



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其の漆拾肆 再起を目に灯す

 ヒバチ・ヒトウバンの術と、九十九の術が真っ向からぶつかり合い、夜空を派手に飾り付けた大爆発。

 地上の面々は数瞬、その形式と爆音に意識を向けていたが、その中にすぐさま我に返った者がいた。

 

「……っ!? 何をしている、タザイガキツキ! そんな雑魚ども、さっさと踏み潰しちまえよ!」

 

 自分は何を呆けていたのか。ヒョウタン・アブラスマシは声を荒らげ、同じく呆けたままのタザイガキツキへと指示を飛ばす。

 それを受けて正気に戻った(そもそも正気と呼べるモノがあるのかはともかく)巨妖が、ゆっくりと己の右足を上げ、眼下の惰弱な者どもを見た。

 

 胸の内に2匹の妖怪を抱いたままこちらを見上げている人間の少女は、どうやら今になってこちらに気が付いたらしい。

 どうする事もできないまま、ただただ硬直しているだけの矮小さなぞ、容易く圧殺できる。

 そうやってタザイガキツキの右足は、鉄槌のように彼らへと襲いかかり──

 

「……ギャハァア?」

 

 するり。

 虚空を踏んだかのように、踏み潰した達成感が無かった事を知覚した。

 

 確かに、巨大な足は地面に叩きつけられ、アスファルトの路面に更なる破壊をもたらした。

 けれども、そこには「踏み潰せるだけのナニカを踏みつけた」と言えるような、血肉の感触などが何も無かったのだ。

 

 そしてそのトリックは、遠くから一部始終を見ていたアブラスマシが看破した。

 タザイガキツキの足が振り下ろされる寸前、その足元にあった彼らの姿が、溶けるように崩壊したのを目撃したのだ。

 

「──チィッ、“ごまかし”の術だ! お前が踏み潰したのはただの幻影、本物はまだ近くにいるぞ!」

 

 その声に呼応して、タザイガキツキは左腕を横に薙いだ。

 中空を引き千切るかのような5本の指は、ただそれだけで凄まじい突風を生む。

 

 妖気を孕んだ風塵が、何も無かった筈の空間に揺らぎを形成し、やがて覆われた幻惑の膜を粉々にしてしまう。

 

「ヤバっ……イナリさん、もうバレちゃったよ!」

「へっ、焦るこたぁありやせんぜ嬢ちゃん。ここまで態勢を整えりゃあ、こっちのもんでさ!」

 

 そこにいたのは、やはり姫華たちだ。

 アブラスマシよりも先に意識を戻し終えた彼女たちは、イナリの展開した“ごまかし”の術に紛れてその場を離脱。

 当然、姫華の腕の中にはお千代もいる。全員が無事だった。

 

 彼らが無事であると、攻撃から逃げ果せたと分かった以上、追撃しない選択肢は無い。

 今度こそ確実に潰すべく、腕を持ち上げたタザイガキツキを前に、ちっちゃなバケギツネは尻尾を逆立たせた。

 

「【(コン)()(コン)(コン)】!」

 

 途端に弾ける幻惑の煙が、巨妖の視界を眩ませる。

 直後、真っ白い煙幕を真っ二つに切り裂いて、中から巨大なキツネの化け物が現れた。

 

【COOOOOOOOOOOOOOON!!】

 

 口元が大きく裂け、ベトベトの血を張り付けた異形のバケキツネ。

 その姿は、イナリのようにデフォルメされたものではない。スプラッタじみたリアルなクリーチャーだ。

 爪を尖らせ牙を剥き、全身の毛を逆立たせながらタザイガキツキへと襲いかかる。

 

「エギャハオォォォォオオォォォオオォォォォオオオオォオォオオオン!!」

【COOOOOOOOOOOOOOOOOOOONッ!!】

 

 即座に取っ組み合いを始める2体の巨大妖怪たち。

 必死に戦うその背中に、アブラスマシの呼びかけは決して届かない。

 

「何をやってんだ、タザイガキツキィ!? そこには何も無い、ただの幻覚だ! “ごまかされて”んだよ、お前は!」

 

 苛立ちを交えながら視線を下ろし、周囲を見やる。

 けれども、自分が追っていた敵の姿はもう見えない。今しがたの隙を突いて、どこかに隠れてしまったらしい。

 自分で探そうにも、幻影と戦っているタザイガキツキの暴れっぷりによって、それができない有様だ。

 

「クソォ……ッ! 後少しで殺せたってのに……!」

 

 憎々しげに歯を鳴らすアブラスマシから少し離れた廃屋の影で、小さく息を吸う影があった。

 

「……ようやく、一息つけた」

「ええ……間一髪、で御座いやしたね」

 

 お千代を抱き留めたままに座り込んだ姫華と、辛坊堪らずその場に這いつくばったイナリだ。

 先ほどから言及されていた通り、タザイガキツキを襲っている巨大なキツネのクリーチャーは、イナリが生み出した幻影である。

 認識と五感を“ごまかされ”た巨妖は、暫くはこちらに注意を向けられないだろう。

 

「申し訳、ありませんわ……わたくし、足を……引っ張って、しまって……」

「ううん。気にする事は無いよ、お千代さん」

「ケッ……スズメは黙って、自分の回復に努めてろってんだ。……しかし、ここからどうしやしょうね」

 

 その言葉は言外に、今の状況ではあの妖怪たちを倒せないと、そう語っていた。

 悔しいが、それは姫華にも理解できた。自分たちでは、アレらの注意を引き、食い止めるのが精一杯だろう。

 

 仮に九十九がヒトウバンを排除できたとて、元よりあの怪我だ。

 アブラスマシやタザイガキツキに追撃をかけられるだけの余裕があるかは分からない。

 

 ジリ貧、或いは手詰まり。

 そう評せる状況に、少女は小さく歯噛みした。

 

「それに、あのクソガキから渡された呪具も壊されちまいやしたし……あいや、嬢ちゃんを責めている訳ではありやせん。悔しいでやすが、あれは敵の方が1枚上手で御座いやしたから」

「……うん、分かってる」

 

 不安げな表情でそっと、胸に手を当てる。

 

 あの神楽鈴は、瀬戸から借り受けたものであると同時に、強力な呪具──(まじな)いに用いる道具であるという話だった。

 人間は、何らかの媒体を介さなければ(まじな)いを行使できない。妖気を操れない。

 その為の補助として用いられるものこそが、呪具。

 

 つまり、それを失った以上──今の姫華は、(まじな)いを使えない。

 いや、元より彼女は己が振るう(まじな)いを完全に形にはできていなかった。仮に神楽鈴が手元にあったとして、果たして戦う事ができていたかどうか。

 

 結局のところ、一番足を引っ張っているのは他ならぬ自分だ。

 そんな無力感と罪悪感に塗れながら、姫華は無意識に服の下へと手を伸ばし──

 

「……あ」

 

 そこに何を仕舞い込んでいたのかを、唐突に思い出した。

 

 導かれるように取り出したのは、祖母の形見である手鏡。

 セピア調の柄や装飾はそのままに、ヒビ割れた鏡面には、ヒビに添って幾重にもガムテープが貼られている。

 そして、それら全てを上書きするように貼り付けられた、1枚のお札。

 

 奇妙な文様の描かれたそれは、(まじな)いの秘められた古い品であるらしい。

 貼った道具の耐久性を高めるとして、四十万から譲ってもらったものだった。

 これがあれば、戦闘中に何かの拍子で割れずに済むだろうと。

 

 だって、これは大切な……

 

「……ジョロウグモちゃん」

 

 キュッと、両手を使って柄を握る。

 お札が貼られていて、ガムテープが貼られていて、鏡としては使えない有様だけど。

 でも、鏡面の向こうに“彼女”がいるような、そんな気がしてやまなかった。

 

「そう……だよね。私は、決めたんだ。あの子のヒーローになるんだって」

 

 手鏡の柄を握っている内に、思考がクリアになっていく。

 あれだけ負の感情が渦巻いていた頭の中を、強い炎が掻き消していくようで。

 

 そんな中で姫華は、1つの可能性に思い至った。

 神楽鈴は、あくまで瀬戸から貸し与えられたもの。確かに高度な回路が仕込まれているかもしれないが、神楽鈴と姫華の関係性は半日すら無いものだ。

 

 だがこの手鏡は、祖母から譲り受けて以降、ずっと肌身離さず持ち歩いていたものだ。

 その上で、フデ・ショウジョウという魔の手の介入によるものであれど、テカガミ・ジョロウグモという妖怪に変化(ヘンゲ)した事すらある。

 つまりこの手鏡には、九十九神に成れるだけの妖気と、持ち主である姫華との色濃い“縁”が宿っているのだ。

 

 関わった誰もが言っていた。(まじな)いを、妖術を、妖気を扱う為に必要なのはイメージであると。

 で、あるならば。

 

「──嗚呼、そういう事だったのね」

 

 ()()()()()()

 

「……嬢ちゃん?」

「イナリさん。お千代さんを安全なところにお願いします」

 

 衰弱したお千代を優しい手付きで地面に寝かせ、すい、と滑らかに立ち上がる。

 絶え間なく轟いてくるタザイガキツキの暴れる音を聞きながら、小さく何度も深呼吸。

 

「私は、何度も間違えた。ミスもたくさん犯した。正解なんて掴めてなくて、良かれと思ってやった行動は失態ばかり」

 

 でも。

 そのように台詞を区切った直後、凄まじい轟音と揺れが彼女たちを襲った。

 

「エギャハァアアアァァアアァァアアアアァァァアアァァァァァアアアァアァアア!!」

「よーしよし、ようやく正気に戻ったか! どこに誰がいようと関係無ェ、手当たり次第にぶっ壊しちまえ!」

 

 幻影のバケギツネを捻じ伏せ、その首をへし折る事で四散させたタザイガキツキが、とうとう現実世界を認識した。

 アブラスマシの命令に従い、腕を振り足を振り、当たるに幸いを破壊しようとしている。

 

「不味っ……! すぐにここも巻き込まれちまいやすぜ、嬢ちゃん!」

「……大丈夫」

 

 かっこと靴を鳴らして、廃屋の影から出ようとする。

 そんな少女の背中に向けて、イナリは慌てて声を出した。

 

「どっ、どこへ行かれるんでやすか!?」

「あいつらのところ。もう1度、戦いに行くの」

「それはっ……いえ。何か、掴めたんでやすね?」

 

 その問いに、振り返る事無く頷いた。

 

「……私は何度も間違えた。多分、これからも間違える。でも、けど……!」

 

 ギュッと握った手鏡を、先ほど神楽鈴でそうしたように、杖に見立てて軽く振るう。

 その際の手触りも、感触も、振り心地も、手に馴染む具合も、何もかもが違っていた。

 

「私はっ、()()()()()()()()()()()()っ! それが、私の憧れる九十九くん(ヒーロー)だから!」

 

 彼女の意思に呼応して、昂った妖気は再び、彼女の瞳を淡い緑色に染める。

 それと同時に、姫華が持つ手鏡もまた、その鏡面に緑色の光を帯び始めていた。

 

 

 

 

「はぁ……はぁ……すぅ……ふぅ……すぅ……」

 

 息を吸って、吐いて、吸って、吐いて。

 その度に右腕の全てが痛むけれど、荒れ果てた呼吸と鼓動を整えないままにここから先は動けない。

 己の気を落ち着かせる事に全神経を注ぎ込んで、呼吸する度に上下する肩も、次第に鳴りを潜めていく。

 

 焼けた空気を肺に取り込む度、心臓ではなく、心と呼べるモノが稼働していく感触を覚えた。

 冴えていく心魂の片隅で、姉から贈られた言葉がふつふつと蘇る。

 

 

──私が恐怖の感情を発露したのであって、恐怖の感情が私を生み出した訳じゃないの。恐怖は私のご主人様なんかじゃあ無いわ。むしろ逆、私が恐怖のご主人様なのよ。

 

 

 ようやく、その意味が理解できた。恐怖を感じる事はあっても、恐怖に支配されてはいけないのだ。

 恐怖の感情を拒絶するのでも、忘却するのでもなく、受け入れ、御する必要がある。

 それこそが強さなのだと、妖怪と戦う上で必要なピースなのだと、ようやく理解できた。

 

 そう思えばこそ、体の震えは自然と無くなった。もう、恐れを恐れる事は無い。

 そうして九十九は、強い意思の籠もった瞳を取り戻す。

 

 真っ黒い瞳孔が映すのは、額を殴られて怒り心頭のヒバチ・ヒトウバン。

 殴られた痛みと怒り、そして自分の罵詈雑言をまったく聞き入れない九十九の姿に、攻撃すら忘れて喧嘩腰の言葉ばかりを浴びせかけていた。

 

「──オイッ! なんとか言えよテメェッ!! よくもオレサマの額を……」

「……悪いけど、どんな戦い方をしてでも、ここから先は通さないよ」

 

 気を整えたからと言って、何も状況が好転している訳ではない。

 右腕は傷だらけに成り果てて痛いどころの話ではないし、左手だけで火縄銃を扱っていてばいつまでも不利なままだ。

 

 それでも。

 

「どんなに劣勢でも、どんなに敵が強くとも、どんなに勝ち目が薄くとも」

 

 視線は動かさず、しかし地上に意識を向ける。

 今も戦っているだろう、姫華たちに……否、姫華に想いを向ける。

 

 今、彼女たちがどんな状況下にあるかは分からない。把握している暇が無い。

 けれど、九十九には1つの確信があった。

 

 彼女はいつだって、自分が動くべき時に1歩を踏み出せる人だ。

 

「──僕は、姫華さん(ともだち)に恥ずかしくない自分で在り続けるんだ」

 

 だから、戦う。だから、踏み出す。だから、挑む。

 手札として使えるのは気合と根性以外に無いけれど、そんな事は挑まない理由になどなりはしない。

 劣勢も力不足も、戦わない、踏み出さない理由にならない。そんな()()()()()()の理由にしてはいけないのだ。

 

 

 その1点で、九十九と姫華は共通していた。

 

 

「僕に託してくれた姫華さんの為に、僕はお前を倒す……!」

「私に任せてくれた九十九くんの為に、私はあいつを倒す……!」

 

 心だけでは勝てない。精神力だけでは戦えない。

 けれども、心の伴わない戦いに勝利は有り得ない。

 心と力、その双方が欠けた時に敗北が訪れるのならば。

 

 今の彼らは、まだ負けていない。

 力が無くとも、心が残っているならば、彼らの敗北は決定づけられていないのだ。

 

 故に。

 

 

──シャリィ……ン

 

 

 透き通った鈴の音色が、煌めくような旋律を奏でていた。



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其の漆拾伍 太陽の神楽

このエピソードで第4章は27話目に突入。
第3章と同じ話数ですが、もうちょっと続くんじゃよ。


 絶え間なく、鈴の音が鳴り響く。

 その音程や速度は一定の規則性を持ち、時としてそれらのリズムを変えながら、1つのメロディーを形作っている。

 旋律を構築しているのは鈴の音色だけであるにも拘らず、そこには聴く者全ての心を惹き付ける、荘厳で芸術的な世界が広がっていた。

 

「──」

 

 五十鈴がステップを踏む度、足首に装着した鈴が音を鳴らす。

 五十鈴が腕をくねらせる度、手首に装着した鈴が音を奏でる。

 五十鈴が神楽鈴を振るう度、先端の鈴たちが幾度も共鳴する。

 

 そこに歌は無く、祝詞は無く、楽器も伴奏も、観客すら何も無い。

 ただただ、八咫村 五十鈴という女性が、鈴の音を奏でながら踊っているだけだった。

 誰が見ている訳でも無い、寂れて静かな神社の前で、黙々と。

 

 だがそれは決して、五十鈴が嫌々踊っている事を示してはいないのだ。

 

(……聞こえる。九十九が、姫華ちゃんが、皆が戦っている様が)

 

 静かな神社の境内にあって、全方向から聞こえてくる爆音と轟音、そして地面の揺れ。

 それらは九十九とヒバチ・ヒトウバンの戦闘、或いは姫華たちとヒョウタン・アブラスマシの戦闘によって発生しているものだ。

 

 ガキツキの1体でも取り逃がし、境内まで辿り着かれれば、それは舞の中断を意味する。

 しかし、彼女が踊っている間、そのような事は1度足りとも起こり得なかった。

 気が遠くなるほど神経を集中させて、ひたすらに体だけを動かしている中、彼女は1度だってそれを邪魔される事は無かった。

 

 つまり、五十鈴は守られていた。

 悪しき妖怪たちに舞の奉納を邪魔されてはならぬと、必死に、命を賭して。

 九十九が、姫華が、誰もが、八咫村 五十鈴の孤独な戦いを守り、後押ししているのだ。

 

(まったく……男子三日会わざれば刮目して見よ、だったかしら? いつの間にか、大きくなっちゃって)

 

 これを心強く思わずして、舞を捧げる資格無し。これに信頼を思えずして、この街を守る資格無し。

 

(見てなさい。あんたたちの期待に応えるのが、いい姉ってもんでしょ!)

 

 重圧など、微塵も無かった。

 こんなにも軽い心地で、満ち足りた気持ちで舞を奉納するなんて、初めての経験だった。

 

 学生時代に不良どもと喧嘩していた時も、女子からキャーキャー言われていた時も、こんなに心が満たされる事は無かった。

 誰かの為に、信頼できる誰かの為に己の技術と心を捧げる事が、こんなに楽しいなんて思いもしなかった。

 

 そんな中で、恐怖なんて感じる訳が無い。足の震えも、ゾワリとした怖気も、とうにどこかへ消え去った。

 自分で言った事だ。恐怖が自分のご主人様などではなく、自分が恐怖のご主人様であると。

 仮に恐怖を感じていたとして、そんなモノに振り回されていては、笑い話にもなりはしない。

 

 であれば、たかだか恐怖心如きが、この胸に湧き上がる使命感と熱意を妨げるなぞ不届き千万。

 

「──」

 

 自然と、口角が釣り上がる。頬が高揚に染まる。

 鈴を鳴らす四肢の動きも強まり、激しくなって、より切れ味の鋭い舞踏を演出する。

 

 そうして、神楽鈴が最も大きく、そして綺麗な音を出した時。

 

 

──シャリィ……ン

 

 

「──……!」

 

 大地が、輝いた。

 それは決して、比喩でもなんでもない。真実、五十鈴の立つ境内が、淡い金色の光を放ち始めたのだ。

 

 五十鈴は、その光を不快なモノとは感じていなかった。

 自らの踊りが招いたものだとは勘付いたし、内心で驚きもしたが、それによって舞を中断する発想すら無かった。

 

 むしろ、この光はより強めるべきモノだ。

 そんな根拠無き、しかし本能に由来する直感が、彼女の体を動かしていた。

 

(……暖かい。日によく当てて干した後の布団みたい。夜の冷たさとはまったく違う、昼の温もりを感じるわ)

 

 それは、ある意味で的を射ていた。

 恐怖と闇を招く(いん)の気ではなく、安寧と光を招く(よう)の気。

 この国の大地に溶け込んだ太陽の光が、五十鈴の舞によって刺激されているのだ。

 

 これこそ、瀬戸が見出した逆転の一手。

 捻じ曲げられた地脈を正し、この街にもう1度、昼の光を取り戻す。

 

(やばっ──いくらでも踊れてしまいそう! こっからはアゲてイくわよ、ここでやらなきゃ姉が廃るっ!)

 

 笑顔で舞う。声は一切出す事無く、しかし表情だけで高らかに歌い上げる。

 祝詞も伴奏も無いけれど、ただ自分の気持ちという旋律があればそれでいい。

 空腹こそが一番のスパイスとはよく言うが、それに当て嵌めるならば、高揚こそが一番のバイブスと言ったところだろうか。

 

 五十鈴が踊る度、境内に満ちる光はより勢いを増していく。

 膨れ上がった光はやがて、水が高いところから低いところへ落ちるように、神社の麓へと流れ込んでいく。

 

 それは瞬く間に、街全体を覆い尽くしていった。

 地面の下に隠れ潜んでいた、紫色のおぞましい光を浮き彫りにして、それらを即座に食い散らかす。

 その度に悪しき気配が霧散して、代わりに橙色の暖かさが街の道から道へと行き渡る。

 

 ふとどこかで、サルの鳴き声にも似た甲高い悲鳴が聞こえたような気もしたが、そんな事はどうでもいい。

 ただ、この光を前へ。この光を彼らへ。この光を街へ。太陽の暖かさを、黒ずんだこの街の人々へ。

 

「さぁ──存分に暴れなさい、九十九!」

 

 八咫村 五十鈴。

 彼女こそ、この現代日本で最も、大地に愛された女性。

 

 

 

 

「──おっ。五十鈴ちゃん、上手い事やってくれたみたいやな」

 

 頂上に金鳥神社の建てられている、小高い丘の中腹

 階段が無ければ登り難いほど急な土の斜面に、所狭しと生えた数多くの木が視界を晦ませ、一般人が入り込むには危険な場所にて。

 

 夜の帳がより一層の暗さを引き立たせている木々の狭間で、瀬戸は面白おかしそうに頂上を見上げた。

 その足元では、神社から流れ込んできた黄金色の光がこれでもかと輝いている。

 

 暖かな(よう)の気を全身に浴びながら、左手はズボンのポケットに突っ込んだまま、右手だけを伸ばして「ん~……」と声を漏らす。

 さながら、たった今まで重労働をしてきたかのような態度全開だ。

 

「いや~、ホンマに大変やったんやで? 五十鈴ちゃんの奉納がちゃんと効果を発揮するよう、丘ん中のいくつかの地点に糸ぉ差し込んで、神社からの導線作ったり。妖怪連中がドンパチやってもどうもあらへんように、周辺住民に避難促したり。そんで……」

 

 ちらりと、背後に視線を這わせる。

 振り向いた先に転がっていた()()()を見下げる目つきは、これまでの胡散臭く軽薄なものから一転、酷く冷めた酷薄さを帯びていた。

 

「……ま、流石に()()を予想せえっちゅうんは酷やからな。戦闘の余波で撒き散らされた妖気が、歪んだ地脈と結びついてガキツキを自然発生させよるなんて、レアケース中のレアケースや」

「ア……ガ、ギ……」

「ギ、ガガッ……ア、グ……」

 

 ()()()の正体は、瀬戸の言う通り、誰も意図しない内に自然発生したガキツキたちだ。

 九十九とヒトウバン、姫華たちとアブラスマシ。それぞれが戦闘で発揮した妖気が、森の中に捨てられていたゴミなどと結びつき、人知れずガキツキに変成していたのだ。

 これを気付かないままに放置していれば、彼らは神社まで辿り着き、五十鈴を強襲していた事だろう。

 

 けれど、そうはならなかった。

 

 今の彼らは、全身を見えない()()()で雁字搦めにされて、指1本動かせない状況にあるのだ。

 ものの見事に縛り付けられたまま、乱雑に地面に転がされている。

 自分の体を縛る()()()をどうにかこうにか振り解こうともがくそれらを見下ろして、瀬戸は冷ややかな視線を送っていた。

 

「ホンマえらいわぁ。自分ら潰したかて、別にボーナスも何ももらえへんねん。でも放置するんもそれはそれで被害が出るさけ、こないしてボクがひと肌脱いでんねや。分かるか? 自分らがボクに追加の労働させとんねんで?」

「ウ……ウゴ、ケ……ナ……」

「そらまぁ当然やろ。いちいち各個撃破すんのも面倒やし、湧いた連中いっぺん全員縛ってから潰してったんやもん。そいで、自分らが最後のグループっちゅう訳や。他のガキツキ連中はもう全部消し終わったさけな。で、なんやったっけ。ああ、動けへんっちゅう話か」

 

 嘲るように声を放ち、人差し指をこれ見よがしに立てる。

 その指先をくりくりと緩く回すと、先端から糸のようなナニカが現出した。

 糸は指揮棒に見立てられた人差し指から迸ると、宙を踊るようにたわんだ後、緩やかに溶け消えていく。

 

「昔なぁ、妖術について学んだ事があんねん。言うても力の弱い妖怪の為の技術やさけ、今空で戦おうとる八咫村のみたいなんは教わる必要の無いような、基礎の体系やねんけどな。あ、これ半分くらい嫌味やし。八咫村のには内緒で頼むで」

 

 わざとらしく人差し指を唇に添えて「しー」と声を出す。

 そんな仕草をガキツキどもがまともに受け取る訳も無く、フガフガとのたうち回っているそれらを前に、瀬戸は肩を竦めて見せた。

 

「まぁ話戻すわ。ほんでそん時、空気中の妖気操るんに色んなイメージが必要やいう話聞いてな。例えば、糸や。自分にしか見えへん糸ぉ使(つこ)て、そういう妖気やら何やらを“たぐる”んやでーって学んだんや。それ聞いてボクな、ふと思ってん」

 

 くいっ。

 今の今までズボンのポケットに突っ込んでいた左手を持ち上げ、()()()を引っ張るような仕草を作る。

 

 すると途端に、()()()に縛られていたガキツキたちが一斉に苦悶の声を上げた。

 至るところに圧迫痕のようなモノが浮き上がり、さながらハムか何かを作る為に全身を糸で縛り付けられているかの如き有様だ。

 

 その様を見て、ニタリと残酷に嗤う男が1人。

 

「──その糸を使った“たぐり”の術、極めたらもっとえっぐい事ができるんちゃうか、って」

「ギッ……!? ァ、アギ……グッ、ガァ……ッ!?」

「ああ、堪忍な? ボクも1人で仕事すんの寂しい言うて、暇潰すんに自分語りしてただけやねん。聞いてくれておおきにな、もうええわ」

 

 左手に繋がっていた()()()を、その位置が分かっているかのように右手でも掴んでみせる。

 両手で掴んだそれに強く力を込めれば、その先に繋がったガキツキどもの体は輪をかけて傷付いていった。

 

()()()()()()

 

 そうして中指の腹で、ピンッ、と軽く弾いてやる。

 自らが生み出し、ガキツキ全てを徹底的に拘束していた、細く見えない妖気の糸を。

 

「《たぐりの壱式》」

 

 

──パチュン

 

 

 水風船の弾ける瞬間にも似た軽い音の後、瀬戸の足元にはいくつかの肉塊が転がった。

 糸を限界まで引き絞り、強引に収縮化させた事で、それに縛られていたガキツキたちの肉体が細々と切断されたのだ。

 

 断末魔すら許されず死に絶えた雑兵どもの肉塊は、命を失った事で塵となる。

 地面を行き交う(よう)の光に呑み込まれ、虚無へと還っていく塵屑を見送りながら、瀬戸は「やれやれ」と息を吐いた。

 

「こいで、ボクのお膳立てはおしまいや。こっから勝つも負けるも生きるも死ぬも、ぜーんぶ自分ら次第やで。せいぜい気張りよし」

 

 彼のヘラヘラとした視線は、空高くへと向けられていた。

 木々の隙間から垣間見える夜空には、幾多も咲いていた炎の華の残滓が、未だに薄い赤色を残している。

 

 

 

 

 金鳥神社、上空。

 

「なッ……!? なんだァ、この光はァ!?」

「……! これ、この、暖かい光は……」

 

 突如として地上から噴き出した、橙色の混じった黄金色の光は、空中で戦いを繰り広げていた彼らの下にも届いていた。

 そのポカポカと体を暖める優しい光は、九十九の負ったダメージや右腕の痛みを微かに和らげ、対称的にヒトウバンは困惑と不快感を露わにしている。

 

 まるで、廃棄物だらけの泥の沼に体が浸かってしまっているかのような、そんな形容し難い不愉快さ。

 自らの本能が、血肉が、この光を認めてはならぬと叫んでいる。昼の光を肯定してはならぬと喚いている。

 それはヒバチ・ヒトウバンという妖怪が、自らの存在を「夜の側」と定義したが故の──

 

「まさかッ……クソォ、地脈が直されちまったのか!? フデの野郎、街1つ歪めるような術をあっさり破られてんじゃねェよ! チッ……こうなりゃ、あの神社を直接破壊して──」

「──雄々ォォォォォォォォォォオッ!!」

 

 腹の底から振り絞った鬨の声を高らかに、一心不乱の突貫を仕掛けた九十九。

 左手に握るは、逆手に持ったままの火縄銃。先ほどと同じく、銃床による殴打──即ち、殺撃(剣の刃を持ち、柄で殴る攻撃手段)を狙った構えだ。

 

「──ッ、こいつ……あれだけやって、まだ臆さねェのか!?」

「姉さんが……皆が作ってくれたこの機会! 絶対に、無駄にはしないッ!!」

 

 

──ボオッ!

 

 

 心からの叫びに応えるかのように、銃床が真っ赤な炎を噴き上げる。

 松明の如く、或いはバーナーの如く炎上する火縄銃は、それでいて炎による損傷を負う素振りを見せない。

 妖怪を滅する為だけに燃え盛る灼炎を、九十九は渾身の力で振り下ろした。

 

「ぐ──ギィッ、ガギャァッ!?!?」

 

 全霊の一撃をまともに喰らったヒトウバンは、苦悶の声と共に著しく高度を下げ、それでも墜落する事は無い。

 しかし、殺撃の直撃した額には大きなヒビ割れが形成され、陶磁器のような傷跡がありありと見えた。

 その奥からは、血の代わりに火花がパチパチと弾け漏れてくる。

 

「舐めるなァッ!!」

 

 揺れる思考を制御しながら、それでも妖気を解放する。

 頭上の火鉢で炭火の弾丸を生成し、悪しき炎に塗れたそれを九十九へと撃ち込んだ。

 

「こっちの……台詞だっ!」

 

 それに対しても狼狽は見せず、火縄銃を左手でくるりと回転させ、再び銃床を手に握る。

 あれだけ殴打に用いたにも拘らず、焦げ跡どころか傷1つ見当たらない火縄銃。

 その銃口に弾丸が込められるや否や、躊躇う事無く引き金に指をかけた。

 

──BOMB!

 

 炎の弾丸と炭火の弾丸、それらが空中で相殺して弾け飛ぶ。

 再び空を蝕む火の粉の熱を浴びてなお、九十九──否、リトル・ヤタガラスは毅然と敵を見据えた。

 黒いマフラーが熱風に揺れて、さながら彼の背から生える翼を演出しているかのよう。

 

「さぁ──最終ラウンドだ! お前の『げえむ』を、ここで終わらせるッ!」

 

 敗北、劣勢、苦境を幾度となく繰り返し。

 “八咫派”陣営の逆転の幕が、遂に切って落とされた。



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其の漆拾陸 Take That, You Fiend!

 空中での戦闘に形勢逆転の兆しが見えてきた頃。

 地上での戦闘もまた、局面が大きく動こうとしていた。

 

「エ……エギャァア、ァハ……!?」

「こっ、こいつぁ……まさか、フデの歪めた地脈が元通りになっちまったってのか!?」

 

 露骨に動きが鈍くなり、苦しみ出したタザイガキツキの姿に、ヒョウタン・アブラスマシは何が起きたのかを明白に悟った。

 目の前で苦痛に悶えている巨体が、これまでに比べると明らかに愚鈍で、著しくバイタリティに欠けているからだ。

 

 元々、タザイガキツキを生み出した妖術《物気付喪(モノノケツクモ)煤取節供(スストリゼック)》は、歪められた地脈を前提として成立しているものだった。

 数多の「道具」を内包した膨大な油を「1つの道具」として見做し、その全てを1体のガキツキに変化(ヘンゲ)させるなど、尋常の手段では実現する訳が無い。

 

 それを成した要素こそ、フデ・ショウジョウが改変した地脈の流れ。

 かつて大量のガキツキを同時多発的に生成する儀式妖術《物気付喪(モノノケツクモ)煤払(ススバライ)》が行われたように、『現代堂』にとって都合の良い妖気の流れがあってこそ、アブラスマシの企みは成功したのだ。

 

 それが、失われた。五十鈴の舞によって、地脈の流れが修復された。

 即ち、タザイガキツキの存在を保証していた儀式妖術に、致命的な要素の欠落が発生したのだ。

 

「クソッ、ヒバチの奴……! どうせなら流れ弾でもやって神社を吹っ飛ばしておけってんだ、使えねぇ! こうなったら、あっしが油を補給して外部から無理くり動かすしか……」

「そうは、させないっ!」

 

 大きく張り上げられたその声は、人間の少女らしい高く細い色を帯びていた。

 それが先ほど見失った敵のものであると悟り、咄嗟に視線を向けた先。

 

「……“流れ”が、確実に私たちの方へ来てる。タイミングが良過ぎて、ご都合主義みたいな感じがしなくもないけど……それでも、九十九くんや五十鈴さんが繋いだこの“流れ”、無駄にも徒労にもしないでみせる!」

 

 そこに立っていたのは、やはり姫華だ。

 1度逃げた筈の彼女だったが、その表情は毅然としていて、目には強い意志を示すように緑色の光が灯っている。

 イレギュラーばかりの戦況に右往左往していた先ほどまでとは一転、纏う雰囲気に恐怖や怯えは見当たらない。

 

 何よりも、彼女の手に握られているモノこそが一番の変化である。

 鏡面にガムテープが貼られているらしいボロボロの、しかし強い妖気の気配を孕んだ1枚の手鏡。

 妖術によって消し去った神楽鈴の代わりとでも言うのだろうか? 少なくとも、その鏡面には持ち主の瞳と同じく、淡い光が揺れていた。

 

「へっ! わざわざあっしたちの前に出てくるたぁ、そんなに死にたいのかい? 何やら古臭い呪具だが、あっしの術で奪われっちまうと分かって持ってくるなんて、随分ご苦労な事だねェ!」

「無駄だよ。これは……これだけは奪わせない。だって、これは私の魂だから。ようやく分かった。この手鏡無しに、(まじな)い師・白衣 姫華は成立しない!」

「戯れ言を……! なら、お前の魂とやらを奪ってやるよ! 妖術《油一匁(アブライチモンメ)》ェッ!」

 

 栓の開いた瓢箪から油の弾が1発、勢いよく招来される。

 一たび絡め取られたならば、如何なる道具にも消失の運命を逃れられる術は無し。

 尋常の状況であれば、姫華の持つ手鏡はたちまちに虚無へと滅せられるだろう。

 

 けれど、今の姫華はそうではない。

 

(……あの時、ジョロウグモちゃんに迫る為に無我夢中で駆け抜けたあの時。()()()()()()? どうすればあの跳躍と、あの走りを再現できる?)

 

 過去、テカガミ・ジョロウグモの放った糸を跳躍で躱し、凶器同然な糸の上を走り抜けた時の情景を思い出す。

 あれは、感情の昂りによって、己の中に眠る「(まじな)い師としての才能」が発露したが故の事。

 無意識下で「自分がやりたい事」の為に必要な要素を導き出し、自覚無きままに(まじな)いを行使した結果なのだろう。

 

 動物が歩き方や呼吸のし方を考えないように、本来であれば、(まじな)いを用いる為にわざわざ小難しい事を考える必要なんて無かったのだ。

 これまでの姫華には、それが分からなかった。けれど、今なら分かる。

 

 だって、この手には今──ずっと共に在ってくれた、大切な宝物が握られているのだから。

 

(あの時やった事を再現するなら、きっと──こう!)

 

 

──バチィッ!

 

 

 目を見開いたと同時、姫華の足全体に()()が奔った。

 通常のそれとはまったく異なる、緑色を帯びた電気のライン。いっそ「電流のようなエフェクトを伴ったエネルギー」と形容すべきそれは、刹那の内に少女の肉体を駆け抜ける。

 

 足を奔り、腰を駆け上がり、肩を介して腕を行き交い、首に至り、頭蓋へ届く。

 光を灯した瞳の奥に、パチリと弾ける新緑のエフェクトが現出した瞬間。

 

「──行ける!」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……は、ぁあっ!?」

 

 例えば、目の前に拳銃を突きつけられていたとして。

 引き金が引かれると同時に回避を試み、銃弾の直撃を免れる事ができる者は、この世にどれほどいるだろうか。

 小難しい理論や技術を口にするのは容易いだろうが、一般的な結論を言うならば「否」の一言で事足りる。

 

 けれど、姫華はやってのけた。

 砲弾もかくやというスピードで襲来し、己の持つ手鏡を喰らい尽くそうとした油の弾を、彼女は目視してから回避した。

 彼方へすっ飛んでいく油弾へは目もくれず、そのままの流れで足を前に踏み込む。

 

 その瞬間、彼女の足裏から緑色の電流が迸り、尋常ではあり得ないスピードで体を前に押し出した。

 背中から置き去りにされた妖気のエフェクトが軌跡を描き、少女の体はトップランナーも裸足で逃げ出すほどの加速をし始める。

 

 速度、加速、勢い。

 そのいずれか1つでも、通常の人間ではとてもじゃないが実現し得ないだろう。

 (いわん)や、白衣 姫華はただの人間である。妖怪の血を引いている訳でも、異形の力を会得している訳でもない。

 

 けれども彼女には、ただ1つ、会得しているものがあった。

 妖気の扱い方である。

 

「っ……! こいつ、まさか……!? いや、構わず叩き潰せばいい事だ。やっちまえ、タザイガキツキィッ!」

「エギャッ……エギャハ、オォォォオオォオォォオオオォォオォオオォォオオォオッ!!」

 

 アブラスマシの、妖気を交えた強引な命令を受け、タザイガキツキが己の肉体を無理やりに稼働させる。

 拳を握る度に指がヒビ割れ、腕を振り上げる度に肩から破片が零れ落ちる。それでも巨妖は止まらない。戦闘と殺戮をやめはしない。

 

 これまでのように手のひらではたき落とすでなく、正真正銘、確実な殺意を込めた拳の一撃。

 ただ路面を砕くだけでは済まない、強烈な重量と速度の鉄槌が振り下ろされた。

 緑色の光を帯びながら全力疾走する中で、姫華は己を押し潰さんとする拳に真っ正面から突撃し──

 

「や──ぁあっ!」

 

 地面を蹴り、全霊の跳躍を決行した。

 それは例えば、走り高跳びなど比較にもなりはしない。人間が跳躍によって飛翔できる高さを遥かに超えて、少女の体は宙を舞う。

 

 その直下を、タザイガキツキの拳が通り過ぎ、何も無い路面を粉々に打ち砕いた。

 巻き起こる衝撃や粉塵、瓦礫を丁寧に丁寧にすり抜けて、ものの見事に攻撃を避け切った姫華は、たった今路面を攻撃したばかりの巨大な腕の上に着地する。

 

 着地の拍子によろめく事も無く、再びの疾走。

 タザイガキツキがアクションを起こすよりも早い速度で、その太く長く大きく頑健な腕の上を走り、肩へ向かって駆け抜けていく。

 

「やはり、やはりか! ありゃ間違いなく、妖気を使った肉体強化の術! あの娘っ子……完全に(まじな)いを会得しやがった!」

 

 戦慄と共にアブラスマシが吐き捨てた先、今まさにタザイガキツキの肩へと到達しつつある姫華の姿があった。

 彼女の全身からは電流の発するエフェクトが溢れ出ていて、もはや電気人間と言っても差し支えない状態だ。

 迸る緑色の閃光が、身につけている眼鏡型装束のレンズで反射して白く輝かせていた。

 

「行ける……! 私、妖気を掴めてる! あの時と……ジョロウグモちゃんを助けた時と同じ事が、ちゃんとできてる!」

 

 高揚と紅潮が顔を染め、少女の表情に自信と希望が満ち溢れていく。

 彼女の手に握られた手鏡は、鏡面を起点として緑色のスパークを起こしている。

 激しくのたうち回る電気のエフェクトが、彼女の肉体に纏わり付き、その身体能力を更に強化していった。

 

 生体電流、という言葉がある。

 肉体内部を流れる微細な電気信号であり、それが筋肉や神経を動かし、脳からの命令を全身に伝達しているという。

 

 一方で、一部の漫画やゲームなどでは、キャラクターが「電気を肉体に浴びせる事で、己の身体性能を強化する」という描写を行う事がある。

 これについて生体電流に介入して云々や、筋肉に直接電気信号を送る云々などと理屈をつける事ができるが、科学的な見地から言えばいたって非現実的なものだ。

 そもそも漫画で表現されるような電流を肉体に直接浴びせれば、それは体への大きな負担となる。最悪の場合、心停止だってあり得るだろう。

 

 故に「電気を肉体に浴びせての身体強化」とは、あくまでフィクションの中でのお話である。

 体に電気を浴びせても、そんな事は起きやしない。現実では、そんな事はあり得ない。

 

 けれど、例えばの話である。

 

 例えば、そういった作品に触れた事のある人物がいたとして。

 例えば、その人物の中に「電気を体に流せば身体性能を強化できる」という認識が生まれたとして。

 例えば、その人物に(まじな)いの才能があり、妖気を手繰る事ができたとして。

 例えば、前述した認識の下で(まじな)いを使い、妖気を電流に変換したとして。

 

 そして例えば、これらの仮定全てに白衣 姫華が該当するとして。

 

 これまでにも語ってきた通り、妖気を扱うにあたって必要なのは己の中の認識(イメージ)である。

 どんなに非現実的でも、非科学的でも、非常識的でも、非論理的でも、術者の中で「○○は××である」という認識があれば、妖気はそれを実現する。

 妖気は使い手の心を反映し、如何様にも移り変わる事ができるのだから。

 

 つまるところ、話はいたってシンプルである。

 白衣 姫華が「電気を体に流せば身体性能を強化できる」という認識の下で(まじな)いを行使したのならば、白衣 姫華の使う(まじな)いの中では、それが正しく現実のものとなる。

 ただ、それだけの話だ。

 

「やぁぁぁあ──っ!!」

 

 そうして到達したタザイガキツキの肩を全力で蹴り飛ばして、姫華の体は10mの高さから空中に躍り出た。

 無論、彼女は飛行の術を会得も発想もしていない。ふわりと軽やかに、なおかつ躍動的なフォームから自由落下の態勢に移行しつつあった。

 

「こっ、小娘が調子に乗ってんじゃねぇや! 逃げ場の無い空中なら、あっしの術も避けられまい!」

 

 瓢箪の口から、複数の油弾が生成・射出される。

 狙いこそさして正確ではないが、アブラスマシの語った通り、空中という身動きの取り辛い状況下では回避もまた困難。

 下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるとはよく言うが、これだけの数の弾に急襲をかけられては、今度こそ姫華に対処のし様は……

 

 

──するり

 

 

 油弾が直撃した瞬間、少女の肉体はたちまちに揺らぎ、その場に掻き消えた。

 役目を終えたと誤認した妖気の油は、虚構のヴィジョンに巻き込まれるようにして消失する。夢幻の如く、泡沫の如く、後には何も残らない。

 

「……は。まさ、か」

 

 アブラスマシの視線が、中空から遠く先の街へと向けられる。

 先ほど、姫華が飛び出してきた地点。ボロボロに吹き飛んだ建物の残骸、廃屋の影からひょっこりと現れた影は。

 

「へへ、へ。嬢ちゃんばかりに良いところを見せられちゃあ、召使い妖怪の名が廃るってモンで御座いやしょう?」

 

 ゆらりゆらゆらと揺れる、毛の逆立った大きな尻尾を携えていた。

 

「こっ──んの、雑魚どもがァ──ッ!?」

「その雑魚がっ、あなたを倒すんだぁっ!!」

 

 遠く彼方のイナリに向かって罵声を浴びせた直後、目と鼻の先の何も無い空間に揺らぎが生じる。

 己の放つ電撃によって、“ごまかし”のカーテンを自ら突き破りながら迫る1人の少女。

 

 敵の認識が“ごまかされて”いる隙を突いて、彼女は既に着地していた。

 高高度からの跳躍と落下を決行しながらも、着地の際に体勢を崩す事も無く、その身は敵の懐へと潜り込んでいる。

 

 その脳裏で思い描く(イメージする)のは、大切な友達であり恩人、そしてヒーロー。

 仮に姫華が、この場で彼を模倣するならば。彼の白兵戦闘(スタイル)を模倣するならば。

 それはきっと、足に炎ではなく電気を纏わせて、脚力を十分に強化した上で──

 

「──せい、やぁっ!!」

 

 全身全霊、できる限りの強化を施した蹴撃によって、ヒョウタン・アブラスマシの機関部たる古びた瓢箪が蹴り飛ばされた。

 

 無論、妖怪の核を担う道具である以上、たかだか人間の蹴り如きで破壊できるものではない。

 けれどもその一撃は、アブラスマシの手から瓢箪をはたき落とし、大きく後方へ吹っ飛ばす事に成功した。

 同時にそれは、行使に瓢箪を必要とする妖術《油一匁(アブライチモンメ)》が封じられる事も意味しているのだ。

 

「もう──いっぱぁぁぁつ!」

 

 間髪入れず、雷の加速を得た右腕を振り下ろす。

 拳を力強く握り、なおかつ鉄槌のように叩きつけ──その最中に、内側に握り隠していた()()()()を突き立てた。

 先端から根本までの全てが黒く、根本から甘い毒を滴らせるそれこそは。

 

「かっ……!? かか、ぎっ……からだっ、しびれ……」

「その羽根には、お千代さんからもらった“たぶらかし”の毒が染み込んでいるの。傷付いた2人の分まで、きっちりやり返させてもらったわ!」

 

 全身を駆け抜ける酩酊感と倦怠感、襲い来る脱力の波に、堪らず膝をつく。

 神経に染み込んでいく甘ったるい痺れが、アブラスマシに立ち上がる選択肢を許さない。

 

 遠くから、カーンッ、という軽い音が反響してきた。

 蹴り飛ばされた瓢箪が、どこかの地点に落ちて音を立てたのだろう。

 その程度の破損で致命的な損傷にはならないだろうが、如何せんどこに落ちたかが分からない。

 

 そして、探して取りに行く為の力と意思はたった今奪われた。

 

「まっ……だ、だぁ……! やぁ、れっ……! タ、ザイ……ガキツキィ……ッ!」

「エギャァ、ア、アハァァァアアァァアアアッ、アオッ、オォォオオォォォオオオ!!」

 

 唐突に、周囲が薄暗くなる。

 背後を見れば、肉体の崩壊しつつあるタザイガキツキがその巨体を揺らし、姫華たちを見下ろしているのが分かった。

 妖気による存在の保証と維持が限界に近付き、体の至るところがボロボロと崩れていく中でなお、目の前の敵を鏖殺するべく腕が伸ばされる。

 

 主人であるアブラスマシを巻き込む可能性がある以上、叩きつけや拳撃は行えない。

 故に、握り潰す。華奢で脆く儚い人間の少女なぞ、少し手の内で転がして力を込めるだけで、いとも容易く肉塊に変える事ができるだろう。

 邪魔者を排除した後ならば、解毒しながら悠々と瓢箪を回収し、妖気の供給によってタザイガキツキを復活させる事も簡単だ。

 

「い、け……! その、まま……捻り潰してっ、しまえぇ……!!」

「……」

 

 迫る。自らに致命の圧殺をもたらすだろう、人1人より遥かに肥大な5本の指が。

 その恐怖を前にして、姫華は恐れない。怯えない。竦まない。じっと、迫り来る五指を見据えていた。

 小さく息を吸って、吐いて、体内の妖気を意識する。血流の最中から手繰った力の源を、指先を通して手鏡に流し込む。

 

「……“紡いで”」

 

 足を駆け巡る電流が、迅速な離脱を実現した。

 地面を爪先だけで軽く蹴った途端に、ピンボールが跳ねたかのような速度で姫華の体が横に飛ぶ。

 驚異的な勢いでの瞬間離脱に対応できず、敵を滅殺しようとした異形の指先は宙を切る。

 

 跳ね飛んだ少女の体は、離脱した先で再び足が接地した瞬間、足の裏でかけたブレーキによって減速されていく。

 一瞬だけふらつきはしたものの、それでも転ぶような事は無く、依然として帯電中の手鏡を敵へと向けた。

 

「“紡いで”……“紡いで”!」

 

 (まじな)いを行使するにあたって、呪文の類いはあまり思いつかなかった。

 実のところ、姫華にはこういった時に使えるような語彙(ボキャブラリー)があまり無い。何分、中二病も大して経験しなかった少女であるが故に、致し方ない部分ではある。

 その上で、術のイメージを固める為に何かしらを口に出す必要があった。戦闘の最中で、その事を黙々と考えて出した結論こそ。

 

「“紡いで”、“紡いで”、“紡いで”、“紡いで”、“紡いで”、“紡いで”」

 

 妖気を紡ぐ。力を紡ぐ。縁を紡ぐ。心を紡ぐ。

 いくつもの意味(ミーム)を含ませて、ただひたすらに言葉を紡ぐ。

 

 彼女が言葉を唱える度に、手鏡に纏わりつく電流はその激しさを更に増していった。

 暴れ狂う電気が周囲をチリチリと焦がすが、術者にして持ち手たる姫華には火傷の1つも負わせない。

 呪文を紡げば紡ぐほど、ヒビだらけの鏡面は煌めき、より多くの妖気を含んでいく。

 

「“紡いで紡いで紡いで紡いで紡いで紡いで紡いで紡いで紡いで紡いで紡いで紡いで紡いで紡いで紡いで紡いで紡いで紡いで紡いで紡いで紡いで紡いで紡いで紡いで紡いで”!」

 

 言葉を紡ぐ。電圧が高まる。

 言葉を紡ぐ。電圧が高まる。

 言葉を紡ぐ。電圧が高まる。

 言葉を紡ぐ。電圧が高まる。

 

 ただの手鏡が、ただの手鏡だったモノが、膨大な光量と熱量をその身に纏う。

 光は緑色に輝いて、暗い夜空にエメラルドグリーンを投影する。熱は蛇のようにのたうち回り、瓦礫や廃材を舐めるように焼き焦がす。

 

 それは、雷の塊であった。

 膨大な電流を、まるで綿あめか何かのように一纏めにして、出力を向上させた雷雲の具現。

 雲と違って水分も冷気も気流も含まない緑の妖気を翻し、タザイガキツキに真っ直ぐ狙いを定める。

 

 結局、それほどセンスのある術名を思いつくには至らなかった。

 しかして妖気を用いた術である以上、そこには名前が設定されていて然るべきである。

 

 だから、叫ぶ。ただ一言、強い意志を込めた言の葉を。

 ただの弱者でしかなかった少女が、それでも戦うのだと、大切な人にとってのヒーローになるのだと決めた。

 そんな叛逆を込めた、人間としての決意を名につける。

 

「──《これでもくらえ》っ!!」

 

 

──ZAP!!

 

 

 雷鳴が、解き放たれた。

 

 幾多にも幾重にも分岐し、それぞれに光と熱と速度を帯びた雷の矢が、一斉に宙を駆ける。

 空気を焦がし、塵を燃やし、淀んだ妖気を喰らい尽くして奔る緑の流星。

 それらは1つ1つが異なる軌道を描き、1つとて同じ()()を持たなかった。

 

 その様は、まるで。

 それはまるで雷でも矢でもなく、糸を紡ぎ、繋ぎ合わせる細長い軌跡のように。

 

 そう……幾多も束ねた、“糸”のように見えた。

 

「エギャァッ──ギャァアァアアァァァアアアアァァアアァァアアァアアア!?!?!?」

 

 多くの縁を紡ぎ繋いだ雷の糸を前に、最早防ぐ(すべ)などどこにも亡し。

 真っ向から突き立てられた緑の熱量を全身に浴びて、タザイガキツキは絶叫を上げる。

 肉体が焼き焦がされ、内側から喰い荒らされる痛みと熱さに、己の存在を維持する事ができず──

 

 

──BA-DOOM!!

 

 

 巨大なる異形タザイガキツキは、その身を塵に変えながら盛大に爆散した。



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其の漆拾漆 スーパーお姉ちゃんタイム

 つい数秒前までタザイガキツキの腕だったモノが、地面に落下すると同時に崩壊する。

 構成する要素全てが塵と化し、少し吹いただけの風に煽られて彼方へ消える。

 頭部だった欠片が地面に叩きつけられ、内側から弾けるように爆散した後、そこにはもう体長10m超の怪物がいた事を表すモノなど何も残ってはいなかった。

 

「ばっ……かぁ、な……!? タザイガキツキ、が……あっしの、あっしの切り札……がぁ……っ!?」

 

 己が生み出したモノの末路をありありと眺めて、ヒョウタン・アブラスマシは膝をついたままに慟哭を漏らした。

 体内を巡る妖気によって、染み込んだ“たぶらかし”の毒は徐々に抜けてきているらしく、震えながらも立ち上がろうとしているのが見て取れる。

 

 けれど、ここから立ち上がるにはもう遅い。

 反撃を仕掛けるよりも、再び雷の術を浴びて致命打を受ける方がよほど早いだろう。

 

(……頭が、くらくらする。イナリさんの言う通りだった、出力の制御が全然できなくて……体の中にあったエネルギーが全部、吸い出されたみたい)

 

 対する姫華は、手鏡をアブラスマシへ向けながらも、荒い息を隠せていなかった。

 初めて行使した攻撃の術が、彼女の体にそれなりの負担をかけていたのだ。

 

 ろくすっぽ制御できなかった妖気は、想定以上の出力を以て荒れ狂い、敵を無惨な灰燼へと変貌させた。

 その結果として、少女の妖気はあっという間に底をつき、こっ酷い疲労感を全身に背負わせているのだ。

 

 しかし、どうにかこうにか2撃目を放つ事はできる。

 足りない妖気を掻き集める為、チャージにこそ時間はかかるだろうが、それが完了するのも時間の問題。

 手鏡は再度の帯電を始めている。1分もしない内に、彼女の解き放った無数の雷撃が敵を焦がし尽くして決着がつく筈だ。

 

「……終わりよ。この戦いは、私たちが……九十九くんが、勝つ」

「お、わり……だと? あっし、の……負け、だと? ふざけるな……ふざけるなっ! あっしはまだっ……負けちゃ、いねぇっ!」

 

 ダン! と、強い音を立てて地面に両手を叩きつける。

 傍から見れば、それは敗者が屈辱に塗れて打ちひしがれているようにも見えるだろう。

 だが、そうではない。舌を回し、口内で転がされた呪の文言が、その証左だ。

 

「あっしは“魔王”になるんだ……! 人間を好きなだけ甚振れる、他の妖怪どもに好きなだけ威張れる、全ての頂点に位置する夜闇の王に……! そのあっしをっ、殺されるのが役目の雑魚の分際でぇぇぇぇぇ──っ! 妖術、《物気付喪(モノノケツクモ)》ォ──ッ!!」

 

 叫びと共に今一度地面を叩き、紫色のおぞましい光を励起させる。

 大地を浄化しゆく橙色の温もりの中にあって、なおも反旗を翻したそれらは、砂粒の隙間と隙間から新たなガキツキの群れを湧き出させた。

 

「mきdhあbAおえhくぉばうmぢうんしdhえ……」

 

 しかし、そうして現れたガキツキたちの出で立ちは、異形どころの騒ぎでは無かった。

 体躯が異常に小さい個体。反対に異常な大きさの個体。片腕が溶解している個体。腐りかけた頭部が2つ生えている個体。そもそも人型を保てていない個体すらある。

 おぞましさよりもグロテスクさや不快感が先立つようなクリーチャーの集団に、少女は己の肌が粟立っている事を自覚した。

 

「まだガキツキを生成できるの……!? でも、このグロテスクな姿は一体……」

「へっへっ……! 一連の戦闘で、あっしがどれだけ油を撒き散らしたと思ってる? その辺に落ちた流れ弾、溢れた雫、弾かれた際に生じた飛沫。そういう小さな油の残滓だって、砂粒の1つくらいは取り込めるさ……!」

「道具と呼べないモノまで、それも少ない妖気で無理やり変化(ヘンゲ)させたの……!? けど、そんな強引な手段でガキツキを作ったって、まともに戦えやしないのは私にも分かるわよ!」

「だが、お前を足止めするくらいはできる。そうだろう? ……やれ!」

「cみc32へdのあydfん3おgfうぃf3……!」

 

 アブラスマシを庇うように、彼への射線を阻むように、続々とクリーチャー化したガキツキたちが襲ってくる。

 中には、まともに歩く事さえできず、地面を這いずっている個体もチラホラ見えた。それでも奴らは、昼の側に属する存在への敵意と攻撃性を断ちはしない。

 

 自らの肉体が溶け落ちて、足元をグズグズと汚濁に濡らしながら、なおも己の肉体が崩壊するまで行動をやめない異形未満の化生たち。

 これだけ脆くなり果てた者どもでも、妖気から生まれた存在である以上、通常の人間では傷の1つさえつけられない。

 この場の1体でも取り逃がせば、その個体が一般人を襲わないとは断言できないのだ。

 

「くっ……! まだ、妖気を練り切れてないのに……っ!」

 

 故に、注意を向けざるを得ない。

 アブラスマシにトドメを刺す為に準備していた術を、姫華は断腸の思いでガキツキたちへと向ける。

 妖気のチャージが完了するまで、あとどれほどか。それまでの間、こちらを囲みつつある群れから離脱する必要が──

 

 

「──よく頑張ったわね、姫華ちゃん。あなたの勇気とガッツがあってこそ、私は踊り(たたかい)抜く事ができた」

 

 

 突き出された拳が、ガキツキの顔面にめり込んだ。

 

「もdhで──」

「死に晒せやオラァッ!!」

 

 凡そ女性の口から出るとは思えない言葉が、女性らしき声色(シャウト)から放たれる。

 拳はめり込んだままシームレスに振り抜かれ、左半身が腐り落ちていたガキツキを思いっ切り後方へぶっ飛ばした。

 瓦礫の壁に叩きつけられたクリーチャーは、ぴくぴくと痙攣したのち、肉体を塵に変えて消滅する。

 

「……え? は、えっ?」

「ずっと戦ってたんだもん、ヘロヘロでしょ? 暫く休んでなさいな」

 

 軽やかなステップを刻み、姫華の前に着地する1人の女性。

 鮮やかで清楚な紅白の巫女服に身を包み、両の手首と足首には鈴のリングをつけている。

 黒く細いポニーテールが流れるように揺れる様は、九十九が纏っている漆黒のマフラーを想起させた。

 

 勝ち気な表情、鋭く色気のあるタレ目、美人という言葉が何よりも似合う顔立ちとプロポーション。

 コキリコキリと腕を鳴らし、煤だらけの地面を裸足で踏み締める彼女こそ。

 

「こっからは、スーパーお姉ちゃんタイムよ。後の事の4、5割くらいは、お姉ちゃんに大体任せときなさい!」

 

 八咫村 五十鈴。

 金鳥神社にて舞の奉納を行っていた筈の彼女は、獰猛な笑みを伴ってこの場に現れた。

 

「いっ、五十鈴さん!? なんで……舞で地脈を直してる筈じゃ」

「そんなもん、1分くらい前に全部終わったわよ。いやー、流石は私。ちょっと練習すれば10分単位の踊りも完璧に踊れちゃうんだから。……とは言っても」

 

 ぽすんと。姫華の頭に載せられたのは、五十鈴の右手だ。

 荒々しさと優しさの入り交じる相反した力加減が、少女の白みがかった髪をわしゃわしゃと撫でまくる。

 まさしく、年長者が年下を労るような手つき。困惑しながら見上げれば、ニカッとした眩しい笑顔と目が合った。

 

「あんたたちがここで敵を食い止めてくれてなきゃ、ここまでスムーズには終わらなかったでしょうね。ありがとう。姫華ちゃんたちの奮闘が、私を助けてくれたんだわ」

「……っ!! はいっ!」

 

 報われた。

 間違った選択も、焦りからのミスも犯してきたけれど、それでも無駄ではなかった。

 自分の踏み出した「1歩」が成就した事に、少女は涙ぐみながらも笑顔を返す。

 

 その姿に慈愛の目を向けたのち、五十鈴は異形の群れに向き直る。

 手首足首を軽く揉み解し、いつでも飛び出せる状態へと滑らかに移行した。

 

「さって! じゃ、姫華ちゃんたちの分まで暴れますか」

「え……ま、待ってください! あいつらはあんなのだけど、それでも妖怪で……妖気を使わないと倒せないんです! だから私も、使えるようになったばかりの(まじな)いで……」

「あー、大丈夫大丈夫。そういうの、()()()()()()()()()()

「なんとなく、って……でも、五十鈴さんは(まじな)いどころか、妖怪についてすら知ったばかりですよね……?」

「まま、任せてみんしゃい。これでも私、昔はケッコー()()()()しててね。久々に血が疼くんだわ」

 

 そう言って、更に前へ1歩出る。

 それに呼応して、周囲のガキツキたちもまた、姫華から五十鈴へと囲む対象を変更しつつあった。

 

「おーおー、有象無象がワラワラワラワラと。バッカねー、私を誰だと思ってるの?」

 

 力強く、裸足で地面に踏み込んで。

 拳を腰に溜めて振り絞り、今にも飛び出しそうなその姿は、昨日今日で戦闘技巧を身につけた者のそれとは思えない。

 

 獣のように歯を剥いて、不敵に笑う。

 彼女が今まで明かしていなかった、学生時代の素性……否、()()。それこそは。

 

「ストリートチーム『RAVEN(レイヴン)』リーダー、八咫村 五十鈴! たかだか天狗(イキ)った糞餓鬼風情に、私の喧嘩を止められるモンなら止めてみなァッ!!」

 

 直後に前方へ駆け出した彼女の姿は、放たれた砲弾と何ら変わりないように思えて仕方が無かった。

 いや、最早それは駆け出したとすら呼べないだろう。吹っ飛んだ。渾身の力で地面を蹴り飛ばし、空中に浮くようにして前方へ吹っ飛んだのだ。

 

 無論、腰には拳を構えたままである。

 砲弾紛いのヴィジョンを纏って宙を駆けた五十鈴は、そのまま自分の向かう先にいたガキツキを──全力でぶん殴った。

 

「qんうぇい2dっ!?!?」

「ひとォつ!」

 

 後方へバウンドしていった()()から意識を外し、近くにいた2体目のガキツキに注意を向ける。

 突然の奇襲に彼らが対応できていない内に、2撃目。回し蹴りが相手の首を引っ掛け、足と地面とで骨をサンドイッチするように圧し折った。

 流れるような動作で、その隣にいた3体目の胸部にエルボーをぶちかます。

 

「ふたァつ! みっつゥ! いやー、手加減しなくていいって素晴らしいわね! 生まれてこの方、()()()()()なんて振るった事が無かったんだもの!」

 

 4体目。ようやく対応し始めた個体に掴み掛かり、スープレックスをお見舞いする。

 5体目。先の攻撃で斃れた4体目をぶん投げて、6体目も巻き込みつつ吹っ飛ばす。

 7体目。背後から不意打ちを仕掛けてきたので、振り向いての裏拳でノックダウン。

 

 五十鈴が拳を振るう度、足を振るう度、技を()める度に吹っ飛び、転がり、力尽きていくガキツキたち。

 いくら脆弱な個体ばかりとはいえ、いっそ面白いくらいに減っていく数を見ていると、目の前で起きている光景が無双ゲームか何かなどではないかとすら思えてきた。

 

「えっ……えっ??? 五十鈴さん、なんで戦えて……」

「えっぐいわぁ~、ホンマえっぐいで。流石にこれは、ボクも予想の範疇やないなぁ」

 

 唐突に横から聞こえてくる軽薄な声。

 思わず姫華が隣を見やると、そこにはいつの間にか瀬戸が立っていた。

 

 彼の腕の中には、安全なところに隠れていた筈のイナリとお千代が抱かれている。

 彼が見つけて回収してきたのだろうか? 2人とも疲労やダメージが限界らしく、ぐったりとしていた。

 

「やっほ、姫華ちゃん。よぉ頑張ってくれたな。ボクの期待してた以上の戦果や、誇ってええで。妖怪2匹も、ボクが無病息災の“縁”を差し込んださけ、ほっときゃ快癒するやろ」

「そうですか、善かった……! それで、瀬戸さんの予想外っていうのは……」

「そらもう当然、五十鈴ちゃんの事やがな。ありゃ、無自覚に妖気を操っとる。それ自体は別におかしなものやない。実際、その才能に目ェつけて霊担課にスカウトしたんやからな。せやけど、今回のはそれとは別や」

 

 目線を滑らせ、その先で大暴れしている五十鈴を見る。

 襲い来るガキツキの集団を片っ端から組み伏せ殴り飛ばし、しかし姫華たちにヘイトが向かないよう自分にだけ注意を向けさせている。

 

禹歩(うほ)、っちゅう技術がある。ざっくり言うと、昔に陰陽師とかが使っとった魔除けの歩行法なんやけどな。要はそれと似たようなモンや。自分の体の動きを儀式に見立てて、そいで内外の妖気を使(つこ)て身体能力を強化して──を、全部無意識にやっとんねや」

「それ、って……できるんですか? 呪文を唱えるとかならともかく、体の動きで(まじな)いを成立させるなんて……仮に振り付けがあったとしても、戦いながら正確に再現できるようなものじゃ……」

「せやから、考えんでも本能で分かっとんねん。こういう動きをすれば妖気を操れる言うて、その場その場でオリジナルの振り付け作って、即席の身体強化の術に変えとるんや」

 

 もしそれが本当の事であるならば、まるで生まれながらに戦闘の才能を持っているかのようだ。

 先ほどの言動からして、彼女は妖怪を知る遥か昔から、その力を無自覚に振るう事ができていたのだろう。

 妖気によるブーストがあるならば、成る程。その辺の不良は簡単にノセてしまえるし、本気を出せば殺せてしまう事も分かろうというもの。

 

 普通であれば、話す者の正気を疑うような突飛な推測。だが、そんな突飛な話にも納得できる要素があった。

 何故ならば。

 

「……伊達にヤタガラスの姉ちゃんやってへん、っちゅう事か。ホンマ末恐ろしいで。妖怪としての血を引き出す才があらへんのが、誰にとっても救いや。勿論、五十鈴ちゃんにとってもな」

 

 八咫村 五十鈴は、他ならぬ九十九の実の姉である。

 彼女もまた、大妖怪テッポウ・ヤタガラスを源流に持つ八咫村家の生まれなのだから。

 

「これでェ──最後ォッ!!」

 

 後ろ蹴りが炸裂し、最後に残ったガキツキが顎をかち割られて吹き飛んだ。

 致命的なダメージを受け、空中で塵となって霧散する様を見届けた後、五十鈴は残心の息を吐く。

 

 次いで周囲を見回し、まだ敵が残っていないかを確認する。

 激しい戦闘の余波を受けて変わり果てた路地が広がるのみで、ガキツキはただの1体も残っていなかった。

 

「チッ……逃がしたか」

 

 しかし同時に、ヒョウタン・アブラスマシの姿もどこかへ消え失せていた。

 少なくとも、ガキツキを蹂躙する過程で彼らしき存在を攻撃した覚えも手応えも無い。

 恐らくは、異形の群れに各々の注意が向いている隙に、まんまと逃げ果せたと考えるのが自然だろう。

 

 大将首を逃したのは悔やまれるが、これで大方の脅威は排除できたと言っていい。

 勝鬨を上げるように、そして今なお空で戦っている弟を鼓舞するように、五十鈴の足が地面を踏み鳴らした。

 両手を握り締め、高らかに、腹の底から叫びを天へと打ち上げる。

 

「九十九ォ──ッ!! 必ずっ、勝ちなさいよォ──ッ!!」

 

 果たして、その声援は。

 

「──うん、分かってる。皆が勝機を繋いでくれたんだ。必ず、勝ってみせる」

 

 天高く、月を背後に飛翔する黒装束の少年へと。

 その声に込められた数々の想いごと、確かに届いていた。




変身前のリアルファイトパートはニチアサでもやってるから。
でも五十鈴さんは変身しませんよね? じゃあ鳥羽 ライハ枠か……。


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其の漆拾捌 3本足のヤタガラス

 重たい闇に覆われた夜空を、紅い流星が駆け抜ける。

 悪しき妖怪たちによって引き込まれた暗夜を上塗りするように、真っ赤な軌跡が幾筋も刻み込まれ、確かな熱と光をその場に残す。

 空を彩る灼炎たちは真っ直ぐに、或いは複雑な弧を描きながら、自分たちが穿つべき敵へと狙いを定めていた。

 

「猪口才なァ……ッ! 豆鉄砲を何発撃ったところで、オレサマには当たらねェんだよォ!!」

 

 灼炎の弾幕──即ち炎の弾丸たちが狙うのは当然、ヒバチ・ヒトウバンだ。

 変幻自在の軌道を描くそれらに追い詰められ、彼は頭上で発火させた炭火の弾幕を応報として射出する。

 

 炸裂音ののち、放出された炭火弾は正確に弾丸へと追突し、互いに砕き合って対消滅。

 この戦闘で何度も何度も嫌というほど見てきた粉塵が大量に空を埋め尽くし──その中の1つを抉り飛ばしながら、まだ残っていた1発の弾丸が飛来する。

 

「っ!? クソッタレめッ!」

 

 ここまで接近されては、術による迎撃も間に合うまい。

 身を捻って回避を試みるが、それ自体は成功したものの、熱く焼けた礫は鼻先を掠めて飛んでいった。

 

 弾丸が突き破っていった箇所を起点として、煙はたちまちに晴れ渡る。

 煙の向こう側で爛々と輝く月をバックに、火縄銃を左手だけで構えた少年こそが、八咫村 九十九である。

 

「攻守逆転、だね。ここからは、僕たちのターンだ。覚悟しろ」

 

 月光に照らされた彼の出で立ちからは、先ほどまでの焦燥感など微塵も見られない。

 首にはためくマフラー状の装束が、彼こそ妖怪リトル・ヤタガラスであると雄弁に誇示しているかのよう。

 

(防戦一方、だと!? このオレサマがだぞ? さっきまであのクソカラスを一方的にぶちのめしていた、このオレサマが……!?)

 

 地脈の修復。『現代堂』に有利な流れへと改竄されていた状況を、元に戻す。

 たったそれだけの事で、優位は呆気なく逆転した。ヒトウバンはこれまでほどの出力で妖術を振るえず、対する九十九はコンディションが目に見えて向上している。

 

 同時に、たったそれだけの事を成す為に、彼ら“八咫派”は時間を稼ぎ続けていたのだ。

 ()()()()()()()()()()()()ヒョウタン・アブラスマシを足止めし、()()()()()()()()()()()()神社を庇う為に防戦に回り、()()()()()()()()()()()消耗をしてまで戦況を遅延させた。

 

 そのロジックを、彼ら『現代堂』は理解できない。

 それこそが、勝敗を分ける彼我の差であると認識できないままに。

 

「烏合の衆どもが、抗いやがって……! 黙って消し炭になる程度の事もできねェのかァ!?」

「それをさせない為の僕たちだ。もう迷わない。例え体が黒焦げになっても、腕がへし折れても……僕は、恐怖に支配されないと決めたんだ!」

「下等生物の分際で偉そうにィ! 妖術《炭火焼災(スミビヤクサイ)》ッ、さっさと焼け焦げちまえよォッ!!」

 

 苛立ちを募らせながら頭部に妖気を集中させ、今度はヒトウバンの側から攻撃を仕掛ける。

 これまでに幾度も放たれた炭火の弾幕だが、実のところ1発たりとも同じ軌道を描いた事は無かった。

 果たして九十九以上に自在な弾道を操作できる熱と質量の雨は、紛う事無く脅威に値するだろう。

 

 これを打ち破る為に最適な手段は、いたってシンプル。

 こちらが持つ妖気の質で、あちらが持つ妖気の質を上回ればいい。

 

「フッ──!」

 

 マフラーを翼のように翻し、弾幕に向かって急降下を決行する。

 体を細く尖らせて滑空する様は、まさしく眼下の獲物を狙う鳥そのものだ。

 靴裏から迸る火炎が、ブースターの役割を果たして少年の体を更に加速させる。

 

「何を──」

()()()()()()()()()()()()()()。これまでと違って、流れ弾や打ち漏らしに気に配る必要が無い以上──こういう手も取れるんだ!」

 

 回避の予備動作すら取らず、愚直に弾幕へと突撃する。

 そうして炭火弾の群れに突入する寸前、九十九は体を全力で捻り、螺旋を描くように回転。

 すると彼の首に巻かれたマフラーもまた、捻りを加えられて勢いよく回転し、その布地に炎の妖気を纏わせて──

 

──BOMB!

 

 長い長いマフラーが一瞬の内に薙ぎ払い、炭火全てを殴打・一斉起爆させた。

 どれだけ至近距離で、どれだけ大量に爆炎を浴びようとも、妖怪ヤタガラスは熱や炎で傷付かない。

 業火のど真ん中を突破して更に降下を続けた彼の左手は、またもや火縄銃の銃身を握り、銃床を武器とする構えを見せていた。

 

至近白兵(インファイト)は得手だろうけど、そっちに対応している間、術を使う余裕なんて無いだろ? ましてや、地脈の妖気がそっちの味方をしないこの状況では──!」

 

 炎を纏わせた銃床で、何度めかの殺撃を繰り出す。

 それをヒトウバンが寸でのところで躱し、大きく開けた口を向けての噛み付きで反撃。

 超至近距離から襲い来る無数の牙を、自身の体を仰け反らせて回避した直後、素早く元の形に持ち替えた火縄銃の銃口を突きつけた。

 

──BANG!

 

 こめかみを狙った炎の銃撃は、高度を下げる事で対処された。

 そうして視線を下に向けた瞬間、見えるのはヒトウバンの頭部──正確には、頭上にぽっかりと空いた穴と、その内部で火花を弾けさせる大量の炭火。

 やっている事は九十九と同じだ。銃口を至近距離から突きつけているのと、何も変わらない。

 

「舐めンじゃねェぞォッ!」

 

 放たれた灼熱の噴煙を、後方へアーチを描くように跳ね跳んで切り抜ける。

 だが、そのせいで彼我の間に距離が生まれてしまった。空中でバックステップを踏んだ際、一瞬だけ生じた無防備を、敵がおめおめと見逃してくれる訳が無い。

 

「ブッ飛べェ──ッ!!」

「かっ……!?」

 

 火鉢の九十九神として持つ陶器の重量と硬度に、生命体として持つ筋肉の密度、そして炎の妖気による加速と熱が追加された体当たり。

 それそのものが砲弾と言っても差し支えないぶちかましが、少年の土手っ腹に見事なクリーンヒットをお見舞いした。

 

 メキ、というナニカが潰れる、或いは折れるような幻聴を覚える。

 喉から込み上げる血を堪らえようとした直後、更なる力を捩じ込まれた事で、九十九の体は大きく下方へと吹っ飛ばされた。

 

 

──ズッ、ドォン!

 

 

 超スピードで叩き落された彼の体は、とうとう地上に墜落する。

 これまで戦端を開いていた金鳥神社の上空周辺から遥かに距離と高度を離し、落下した先は繁華街……の跡地。

 そこは昨日の夜、ヒトウバンの術によって火の海に変貌し、尽く燃やし尽くされた灰燼の廃墟だった。

 

 墜落と同時に粉塵が巻き起こり、黒ずんだナニカの欠片やコンクリートの破片が砂埃と混じって舞い踊る。

 小さなクレーター紛いの陥没を形成しながら、九十九はその中心部で血反吐を吐き出した。

 

「げ、ほっ……!? げほ、ぐっ……ま、だ……!」

「いいやァ、これで終わりに決まってんだろォ!?」

 

 どうにか起き上がろうとしたその時、見上げた先の空から生首の異形が迫り来ているのが見て取れた。

 叩き落されただけで倒せたとは判断せず、追撃とトドメを狙って来たのだろう。

 その頭上には、これまで放ってきた中でも最大級の妖気と熱量が集束し、限界まで術の出力と精度を練り上げられている。

 

「トドメだッ──妖ォ術ゥ!! 《炭火焼災(スミビヤクサイ)盆櫓(ボンヤグラ)》ァァァァァアアアアア──ッ!!!」

 

 無尽蔵。

 そう形容してもなんら違和感が無いほどに大量──否、無数の炭火が咆哮を上げた。

 

 1つ1つが纏う炎も、それまでとは火力が比にならない。ただ放たれただけで、通り過ぎた後の空気が焦げて黒ずむほどの熱量を帯びている。

 字義通り、空を埋め尽くす物量の灼熱火山弾。それらは広範囲に撒き散らされるのではなく、九十九ただ1人を滅却する為だけに、彼のいる1点へと集中して飛来する。

 

 いくら炎で傷付かないとはいえ、直撃によるダメージや衝撃は少なからず受けるもの。

 (いわん)やそれが数百にも及ぶ圧倒的物量ともあれば、流石のヤタガラスとて無事で済む訳が無い。

 

「死ねェッ、リトル・ヤタガラァァァァァァァァァァスっ!!!」

 

 降り注ぐ。降り注ぐ。降り注ぐ。

 破滅の星が、煉獄の雨が、破壊の礫が。

 後の事などどうでもいい。たった1人だけを滅ぼせればそれでいい。

 

 そんな憤怒と執念と憎悪をたらふくに込めた、絶対殺戮の炭火弾。

 破滅をもたらす流星雨を前に、九十九は立ち尽くしていた。

 

 ……いや、決してそう表現するべきでは無いだろう。

 九十九は自らへ迫る炭火の雨でも、その彼方からこちらを睨むヒバチ・ヒトウバンでもなく、まったく別のモノを見ていた。

 その目に映る、灼熱の幻像──火炎が象った巨鳥のヴィジョン。

 

【夜ヲ、恐レルナ】

 

 それは、八咫烏だった。3本の足を持ち、雄々しく翼を広げる太陽の化身。

 ただ1人の少年にしか見えない幻影は、自らを唯一認識できる彼へと向けて、嘴をゆっくりと動かした。

 

【夜ハ、何時如何ナル時モ“ソコ”ニ在ル。ドレダケ否定シヨウトモ、『昼』ト『夜』ハ表裏一体ナノダ。決シテ、滅ボスベキモノデハナイ】

「……」

【故ニ、夜ヲ恐レルナ。昼ヲ愛スルノト同ジヨウニ、夜モ愛セ。真ニ憎ムベキハ、『夜』ヲ御旗ニ『昼』ヲ滅ボソウトスル者タチダト心得ヨ。ソレガ、“昼ト夜ノ狭間ニ立ッテ生キル者”ノ宿命デアル】

「……うん。ちゃんと、分かってる」

 

 左手を伸ばし、己の胸をそっと掴む。

 右腕の痛みなど、とうの昔に忘却していた。

 

「やっと分かったんだ。恐怖は、否定すべきものじゃない。恐怖に振り回されて、“やるべき事”を見失ってしまう事こそを否定すべきだったんだ。僕はもう、夜も、この血に流れる力も恐れない。僕の中の恐怖さえも武器に変えて、戦っていく」

【……美事】

 

 大きく、翼が広げられた。

 構成する要素全てが炎に置換された、真っ赤に燃える業火の翼。

 

 虚構の火の粉を巻き上げて、八咫烏は高らかな咆哮を上げる。

 まるで、リトル・ヤタガラスという新たな妖怪を祝福するかのように。

 

【──Aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaッ!!!】

 

 その直後、九十九の立っていた地点に、無数の炭火弾が襲いかかった。

 絶え間なく断続的に降り注ぐ狂熱のシャワーが、周辺の地形ごと徹底的に打ち砕き、焼き尽くす。

 この猛攻を耐えられる存在なぞ、この世にどれだけ存在するだろうか。

 

「……やったか? やったんだな!? とうとうブッ殺せたんだな、オレサマはァ!!」

 

 破壊と炎上の限りを尽くした炎の弾幕が止んだ後、そこには何も残っていなかった。

 辛うじて残っていた瓦礫や黒焦げの廃材も、爆撃の嵐には耐え切れず、粉微塵と化して空気中に消え去っている。

 先ほど叩き落された際にできたクレーターでさえ、粉々に破壊され切った地形と混じり合い、その残滓すら残せていない。

 

 リトル・ヤタガラスは死んだ。確実に滅殺する事ができた。

 その確信を抱き、ヒトウバンはけたたましく、勝利の喜びに雄叫びを荒らげた。

 

「ゲヒャッ──ゲーッヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャッ!! 勝ったァッ!! 遂に勝ったぞォッ!! これでッ、『げえむくりあ』の栄光を手にするのはこのオレサ──」

 

 叫声は、そこで止まった。

 見えたのだ。見えて、しまったのだ。

 

 初め、ヒバチ・ヒトウバンが()()を見逃した事を、誰も責める事はできない。

 ()()は全面が綺麗な黒一色に染まっていて、薄暗い夜の闇の中で見事に溶け込んでいた。

 粉塵と火の粉が舞い散る中で、()()を遠目から正確に見通し、その正体を認識する事は困難を極めるだろう。

 

 ()()は、黒い球体だった。

 やや楕円を描いた卵型で、人1人がすっぽり収まるほどの大きさに見えた。

 そして何よりも、先述のように美しい黒色を纏っている。それこそ、夜の闇に紛れ込む事ができる程度には。

 

 明らかに、先ほどまで存在しなかった筈のモノ。

 その正体に訝しみを向けた直後、()()はゆっくりと紐解かれていった。

 

 するすると、絡まった糸を(ほど)いていくかのように、少しずつ球体としての形状を失っていく。

 果たして()()の正体は、1本の長い(ライン)だった。それが弧を描き、重なり合う事で、内部が空洞のボール状に変形していたのだ。

 

 球状の形態を解くにつれて、徐々に明らかになっていくその正体。

 やがて完全に球体ではなくなった後、ゆらゆらと揺らめく長い(ライン)──否、漆黒のマフラーをたなびかせながら立っていた彼こそ。

 

「なんっ、で……なんでッ、まだ生きてるんだよォォォォォオオオオオッ!!??」

「──お前を倒して、この『げえむ』を終わらせる為だ!」

 

 

──八咫村 九十九(リトル・ヤタガラス)

 

 

 己の心と、血と向き合い、自身が持つ妖怪の力を真の意味で受け入れた少年。

 その決意と覚悟を、瀬戸に埋め込まれた“縁”の糸と、正常に戻された地脈の妖気が後押ししたのだ。

 

 彼が首に巻いていた装束、認識阻害の力を宿した黒のマフラーは、これまでよりも2倍近く長くなっていた。

 これでは最早、装束(マフラー)とは形容し難いだろう。尻尾とか、いっそ触手と表現した方が的確な気にすらなってくる。

 

 そして、変化が起きたのは長さだけではない。

 以前は風にたなびき、自然的に揺れていただけだったのが、今では明らかに物理法則を無視した動きを見せている。

 軽くとぐろを巻き、鎌首をもたげたその挙動は、蛇かなにかのように感じられるだろう。

 

 何よりも、先端が大きく変質していた。

 今まではマフラーらしい布地を見せていた先端は、その形状と質を変え──

 

「ならッ……テメェが死ぬまでブッ殺してやるよォ!! 首を噛み千切って、頭ン中の脳みそをグッチャグチャに咀嚼してやらァッ!!」

 

 怒り狂ったヒトウバンが、絶叫を伴って突撃してくる。

 炎の妖気を後方に打ち放して加速した陶器の生命体は、牙をこれでもかと剥き出しにしている。

 

 先の言葉通り、首に噛み付いてへし折るつもりなのだろう。

 今にも接近してくる暴威に対して、九十九は目を見開き、その黒い眼光を露わにした。

 

()ッ──!」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()

 自らの意思で動いているかのように、巻いていたとぐろを即座に(ほど)き、ヒトウバンに向けて一直線に突き進む。

 その先端は迫る熱気を反射して硬質な煌めきを見せ、5本の()をくっぱりと開いた。

 

 そう、指である。

 ヤタガラスとしての力を更に引き出した事で、妖気から編み出したマフラー型の装束は大きな変質を起こした。

 即ち──黒く長く、術者の意思に応じて動く、3本目の腕へと。

 

「なっ──がぎっ!?」

 

 5本の指は突撃してきたヒトウバンをキャッチすると、握り潰さんばかりの握力でアイアンクローをぶちかます。

 ギリギリと肉に食い込む指先が異形の肌を圧迫し、深い傷跡を残していく。

 

 やがて、それだけでは握り潰せないと判断した九十九は、マフラーを操ってヒトウバンをぶん投げた。

 投石もかくやというほど綺麗なフォームで投げ飛ばされた生首は、しかし空中で減速をかけながら見事に体勢を整え直す。

 

(クソがッ……! ここは退却して……いや、こんなところで逃げちゃァ、『現代堂』の名が廃るだろうが!)

 

 抗戦か、逃走か。

 そんな2択が脳裏を過りながらも、再び敵に目線を向け──驚愕する。

 

 そこには、両手で火縄銃を構える九十九の姿があった。

 両手、と言っても、彼の右腕は折れたままだ。使い物にならないほどボロボロになったギプスが貼り付いていて、先ほどヒトウバンに噛み付かれた傷跡も残ったまま。

 

 では、何を以て両手と呼ぶのか?

 その答えこそ、新たな力を帯びたマフラーにあった。

 

「段々分かってきた……。理屈や言葉じゃなくて、本能とでも呼ぶべきところで。この力の使い方を……!」

 

──マフラーの先端が、火縄銃を握っている。

 

 より正確な表現をするならば、マフラーの先端に形成された指が、火縄銃の右手で持つべき箇所(今回の場合はグリップと引き金部分)を握っているのだ。

 長い中途部分はとぐろを巻き、首元で緩めに巻き直される事で、銃を構える際に不具合が無いよう長さを調整されている。

 

 当然、無事な左手は銃身に添えられていた。

 これで、片手だけで扱う時よりも、精度や威力は格段に向上する。

 後は、マフラーの指部分で引き金を引けばいい。

 

──BANG! BANG! BANG!

 

 立て続けに連射された銃弾が、幾筋もの軌跡を緋で刻む。

 その速度、出力はこれまでよりも高いものだ。空気中の塵を焦がしながら、寸分違わず敵妖怪へと殺到する。

 

「炎の妖気を込めた弾丸に、腕みてェに動く首巻き、鉄砲を扱う能力……どっ、どんだけ術を使いやがる!? テメェ一体、何の妖怪なんだよォッ!?」

 

 混乱を極めた思考の中で、それでも欠けない戦意が頭上から炭火を迸らせる。

 吹き出た炭弾は炎の弾丸を迎撃するが、代わりに至近距離で炸裂した爆風がヒトウバンを巻き込んだ。

 

「……凄い。あれだけの怪我をしてるのに、あれだけ生き生きと戦えるんだ……」

 

 そんな彼らの戦闘を、ようやく追いついた仲間たちが驚きと共に目撃する。

 特に姫華は、九十九が敗北する瞬間を目の当たりにしていたからこそ、意気消沈ぶりを振り払った彼の姿にすっかり目を奪われていた。

 

 今の彼に、敗北後の焦燥感も痛々しさも無い。

 生気と闘志に溢れた、半妖狩人の姿だけがそこにはあった。

 それこそ、1人の少女の心を救ったヒーローの出で立ちに他ならない。

 

「私は、九十九が戦ってるトコを見るのはこれが初めてだけど……あいつ、あんな戦い方をしてたの? 首元の()()、なんかおかしな改造手術を受けたとかじゃないでしょうね」

「いや……ありゃあ、わてらも知らない術で御座いやす。ご当主様が教えたのは、あくまで認識阻害の術。あのような効果があるなど……」

「何言うてんねん。あんなん術でもなんでもあらへん。それどころか、八咫村のやったらできて当たり前の事やんけ」

 

 そう口を挟んだのは瀬戸だ。

 胸元にぐったりしたままのお千代を抱え、その翼を撫でてやりながら、自分はサングラス越しに戦闘を眺めている。

 

「できて当たり前……って事は、課長はなんか知ってるんです?」

「そら、普通に考えたら分かる事やがな。むしろ、今まで()()ができてへんかったんがおかしいくらいや」

 

 彼に促されるようにして、他の面々も戦闘中の九十九たちへと目を向け直す。

 そこには、防戦ばかりで徐々に追い詰められていくヒバチ・ヒトウバンと、彼を機動力や射撃を活かして追い込んでいく九十九の姿があった。

 彼の首に巻かれたマフラーは、彼の意思に従って自在に動き、火縄銃を的確な所作と共に扱っていた。

 

 その様を見て、瀬戸はしたり顔で笑みをひとつ。

 それは嘲りや含みのあるモノではなく、どちらかと言えば「肩の荷が下りた」とでも言いたげな笑顔だった。

 

「考えてもみいな。八咫村のは、自分の血に眠るヤタガラスの力を引き出しとんねんで? 仮にもヤタガラス名乗るんやったら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 視線の先を飛翔する九十九は、その“3本目の足”で、今まさにヒトウバンを殴り飛ばすところだった。

 

 サングラスの奥に潜む眼差しが、ゆっくりと目を細める。

 彼の目に映る九十九は、雄々しく武勇を振るう勝利のカラスのように見えていた。




伸びる! 動く! 鳴る! DXヤタガラスマフラー!


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其の漆拾玖 (はし)日ノ出(ヒノデ)

「げ──ぎゃぎっ!?」

 

 “3本目の足”に殴り飛ばされ、地面に叩き落されたヒトウバン。

 これまで浮遊能力によって悠々と空を飛び、高高度からの爆撃という暴威を振りかざしていた異形の妖怪は、遂に地上へと墜落した。

 

 激突の拍子、焼け焦げたアスファルトへと体を叩きつけ、頬が大きく欠ける。

 痛みを堪えながら浮遊を再開し始めた時、陶磁器のように欠けた頬の奥からは、火の粉と炭の弾ける香りが漂ってきた。

 

「ぐ……チク、ショウ……ッ! このっ、オレサマが……! この、妖怪ヒバチ・ヒトウバン様が、こんなっ、ところでェ……!!」

 

 形勢が逆転してこちら、九十九から与えられた数々のダメージは、確実に体を蝕んでいた。

 如何に同じ炎の妖気の使い手であろうとも、ヤタガラスのような大妖怪とは違い、他者の生み出す炎を受ければ少なからずの痛痒になる。

 そうでなくても、銃床による殺撃を始めとして、殴打などの物理的な攻撃は数々受けてきた。これで命脈が衰えないほど、ヒバチ・ヒトウバンは強力な妖怪ではない。

 

「……」

 

 相対する九十九は、よろよろと衰弱した様子で起き上がる敵妖怪の姿に目を細めていた。

 地面に叩きつけられ、なおも浮遊しようとした寸前、その体には煤や塵が多く付着していたのだ。

 

 ……その煤や塵がどこから来たのかと言えば、廃墟同然と化したこの繁華街一帯からである。

 つい2日前まで人で賑わっていた場所は、ヒトウバンの──彼ら『現代堂』の巻き起こす、ふざけた『げえむ』によって全てを奪われた。

 

 その事実を再認識すると共に、喉から出かかった悔恨の言葉を口内で噛み潰し、火縄銃を構え直す。

 左手と“3本目の足”でしかと構えたその銃口に、燃え盛る妖気の弾丸を拵えながら。

 

「……この一撃で、全部終わらせる。お前の、罪を償う時だ」

「つゥ、み、だとォ……!? 弱くてちっせェ人間どもを甚振って、恐怖に駆り立てる事の、一体何が罪だってんだ! 我らが総大将は約束してくれたぜ? 『現代堂』がこの世の覇権を握ったその時には、好きなだけ人間どもをブッ殺してもいいんだってよォ!」

 

 返ってきた言葉は、完全なる価値観の断絶。

 彼らは人間を害する事こそを是とし、自分たちが支配種に成り変わる事こそを望んでいる。

 果たしてそれは、かつて九十九が考察したような、人間に捨てられた道具が故の攻撃性と残虐性……だけでは説明がつかない。

 

 もっと、直接的に──彼らの心を掻き立て、煽り立てたナニカがある。

 憎悪でも、恩讐でもなく。ただただ「人間を甚振りたい」という欲望だけを煌々と宿したその目に、九十九は甘ったるい煙の匂いを見た気がした。

 

「終われねェ……! オレサマはッ、こんなところで終われねェんだ……! もっと……もっと、もっと! 惰弱な人間どもをブチ殺し足りねェんだよォッ!」

 

 妖術の行使によって、吹き荒れた炭火の雨が九十九を強襲する。

 その弾幕は攻撃よりも目眩ましの意味合いが強いようで、1発1発の威力が低い代わりに、視界のほとんどが燃える炭で埋め尽くされた。

 

 それでも、当たれば脅威である事は何も変わらない。

 不意打ちに対応し切れなかった甘さを歯噛みしながらも、銃口に込めた弾丸を、まずは目の前の弾幕を打ち払う為に運用した。

 

「妖術……《日輪》っ!」

 

 “3本目の足”が指先で引き金を引き、撃ち放たれた小さな太陽。

 凝縮された妖気の炎は、今にも降り注ぎつつある弾幕の中心部へと正確に喰らいつき、巨大な爆発を引き起こした。

 尋常の妖怪ならば容易く爆散させる事のできる(よう)の気である。視界を埋め尽くす程度の弾幕を、吹き飛ばせない訳が無い。

 

 爆発が爆発を呼び、夜空を火炎のカーテンが覆い尽くす。

 しかし、それも一瞬の話。爆炎はすぐに鳴りを潜め、煙が晴れると同時に、視界から隠されていた向こう側を晒し……

 

「──!? いない!?」

 

 そこに、ヒトウバンの姿は無かった。

 先ほどの術は、本当に目眩ましだったのだ。九十九がそれに対処する事を分かっていて、その隙にこの場からの離脱を図った。

 

 ならば、奴はどこに消えたのか。

 不意を打たれる可能性を危惧し、急いで周囲を見回すも、その気配は一向に来ない。

 まさか。ある種の確信と共に妖気で視力を強化し、遠く空の向こうを睨むと……いた。

 

「まさか……逃げたのか!?」

「チッ! もうバレやがったか!」

 

 全速力、持ち得るありったけの妖気を自らの加速に使い、ヒトウバンは飛行しての逃走を選択していた。

 注げるだけの妖気によって限界までブーストされた移動速度は、戦闘機もかくやというほどに高まっている。

 そう簡単には追いつけないほど距離を離しつつも、背中から感じる殺気を受けて、異形の生首は自らの企みが見抜かれた事を知覚した。

 

「このオレサマが逃げを選ぶなんざ業腹の極みだが……それでも、死ぬよりはマシだ! 傷を癒やして妖気も満たして、今度はもっと効率的な『げえむ』を仕掛けてやる……! そん(ときゃ)ァ、オレサマに逃げを選ばせた報復も存分になァ──!」

 

 距離の都合で、もう相手には聞こえないだろう捨て台詞を残しながら、遠く彼方へと消えていく異形の姿。

 彼は憎き敵への恨みとリベンジに燃えながら、自分たちの本拠地たる『現代堂』へと向かう。

 

「……困った。ここで逃がすと、また厄介な事に……」

 

 これだけ離れてしまえば、こちらも飛行によって追い縋る事はできないだろう。

 それどころか、銃の射程からも外れている。この場から超ロングレンジの狙撃など、いくら九十九と言えども不可能だ。

 さて、どうするか──

 

「……?」

 

 ふと、身じろぎした拍子に蹴ってしまったモノがある。

 それが何かと見下ろしてみれば、そこにあったのは1本の鉄パイプだ。

 何か、特別な謂れがある訳でも無い。繁華街だったこの場のどこかで使われて、或いは保管されていたのだろう、ただの鉄パイプ。

 

 であるにも拘らず、九十九はその鉄パイプを拾い上げた。

 その理由は、彼自身にも分からない。直感か、本能か、それとも無意識下からナニカに呼びかけられたのか。

 火縄銃は左手に保持し、空いた“3本目の足”で掴み取ったそれを、まじまじと見つめたのち。

 

「……行ける」

 

 そう呟き、ヒトウバンの去っていった方角へと体を向き直す。

 左足を前に出して踏み縛り、右足は後方にズラして膝を曲げ、バネのような形を取る。

 左手はそのままに、鉄パイプを握った“3本目の足”もまた後方へ向けると、全体をグッと引き絞った。

 

 簡潔に語るならば、それは「()()()()の構え」と言って差し支えないものだった。

 

 ところで、このような話を聞いた事は無いだろうか。

 人間は、数ある動物の中でも身体能力に劣っているが、どの動物よりも優れているものが2つ存在する。

 持久力と、投擲力である。

 

 人間は、モノを投げる力に優れている。この世界の何よりも。

 であれば、そこに妖気が、妖怪として持ち得る異能の力……妖術が加われば、一体どうなるだろうか?

 

(道具そのものは、壊さないように……。けど、目一杯に妖気を乗せて、高めるべきは速度と飛距離……!)

 

 “3本目の足”と化したマフラーを介して、鉄パイプに妖気が注がれる。

 鉄パイプを破裂させないよう慎重に注ぎ込まれた力は、やがてロケットのブースターのように後ろの穴から大きく火炎を噴き出した。

 今にも飛び出しそうで仕方の無い力の奔流を、もう遠く彼方に消えてしまった敵へと狙いを定め。

 

「妖、術──」

 

 全身を捻り、より後方へと振りかぶる。

 己の体にバネの役割を付与した上で、持てる膂力を“3本目の足”に集中させる。

 その全てを解き放つ時、九十九の目には炎が宿り、敵の姿を正確に捕捉した。

 

「──《日ノ出(ヒノデ)》ェッ!!」

 

 その時、轟いたのは勝利の咆哮だった。

 全身全霊の力を乗せた投擲の瞬間、ボンッ!! という爆発音が木霊する。

 投げ放たれた鉄パイプは、空気の壁を突き破って破裂させ、音を置き去りにしていた。

 

 ただの比喩などではない。本当に、空気を引き裂いている。

 後ろの穴から吹き荒れる灼熱は、更なる加速と熱量を無制限に積み重ね、さながらミサイルそのものだ。

 

 燃える空気が一筋の軌道を空に残しながら、狙い定められた敵に向かって愚直に、どこまでも突き進む。

 阻むモノ全てを穿って飛翔するそれは、妖術につけられた名の通り、天高く登る日の出の光の如し。

 

 生ける者が夜明けから逃げる事も、夜明けを避ける事もできる筈が無い。

 必死になって逃げていたヒトウバンは、後方から音速で迫る業炎の槍に気付きながらも、回避や迎撃の一切を取る事ができなかった。

 

「が──!?!?!?」

 

 深々と、うなじに突き刺さる鉄パイプ。

 恐ろしい速度と勢いで着弾したその矛先は、肉を穿ち、骨を割り、核を断ち、喉を突き破って口の外まで飛び出した。

 肉体を構成していた陶器や炭の欠片が飛び出し、突き立てられた鉄パイプの帯びる熱によって瞬く間に焼け落ちていく。

 

「あがっ、ががががっ……が……!?」

 

 炎が噴き出る。

 鉄パイプの両端、それぞれに空いた穴から、燃え盛る業炎が噴き上がった。

 

 今の今まで内部に押し留められていた炎の妖気が、突き刺さった箇所を起点としてヒトウバンの全身に行き渡り、隅々まで染み込んでいく。

 昼を司る(よう)の気が、夜を司る(いん)の気を喰い荒らし、徹底的に破壊する。

 やがて行き場を失った妖気は外へ出ようと荒れ狂い──その肉体を、内側から焼き尽くすのだ。

 

「く、ソがァ……クソがァッ! こっ、こんな、ところでェ……『げえむおおばあ』、かよォッ……!? オレ、サマはァ……まだ、まだァッ……! 人間をォオ……ブッ殺してェ、のに、よォォォォォオオオオオ──ッ!?」

 

 

──BA-DOOM!!

 

 

 誰にも聞こえる余地の無い断末魔を上げて、妖怪ヒバチ・ヒトウバンは盛大に爆発四散した。

 内部に貯蔵されていた炭火にも引火したのだろう。連鎖的な爆発が続けて起こり、遠くから見ても分かるほど、真っ赤に鮮やかな爆炎が空を飾り立てる。

 

 闇夜の空を鮮明に染めた業火の光は、それでいて見る者に不快感を抱かせない。

 むしろ、昼の太陽が如く温かさを、惜しげもなく降り注がせていた。

 

 そんな炎熱の間を裂くように、黒煙に塗れながら地上へと落下するモノが2つ。

 今しがたまで1体の妖怪を構成していた火鉢……の残滓と、それに突き立てられていた鉄パイプの残骸だ。

 

 炎に塗れ、熱に凌辱され尽くしたそれらは、誰にも知られない内に地面へ衝突する。

 落下の衝撃で割り砕かれ後、その他大勢の廃材に紛れ込み、息絶えるようにして景色に溶け込んでいった。




今日はこの後【20:00】より追加投稿を行います。


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其の捌拾 最後の乱入者

今日2話目の投稿です。ご注意ください。


「は、ぁ……はぁ、はぁ……。やっ……た、倒せた……勝て、た……!」

 

 空の彼方で巻き起こったド派手な大爆発を認めて、それが己の術によって敵を仕留めた証なのだと確信した九十九。

 状況があちらに味方していたとはいえ、これまでに倒した妖怪たちの中でも一番の難敵だった。

 その息は荒く、どれだけ厳しい戦闘だったかを語らずとも告げていた。

 

「──おーい! 九十九くーん!」

 

 その声に気付いて視線を横に向けると、姫華が手を振りながらこちらへと駆けてきていた。

 彼女の後ろには、五十鈴や瀬戸の姿も見える。瀬戸の手の内には、イナリとお千代もちゃんといた。

 彼らは勝ち、全員が無事だった。いくら消耗を重ねようと、それだけは事実だ。

 

「嗚呼……よか、った……──?」

 

 がくり。

 

 急に、全身に力が入らなくなった。

 それどころか、頭の中がくらくらと不明瞭になって、視界も歪んでいく。

 立ち上がる気力が、穴の空いた風船のようにたちまち消えてなくなっていくようだった。

 

 それもその筈だろう。だって、彼の体に刻まれた消耗は限界まで達しているのだから。

 いくら瀬戸が“良縁”を差し込んで治療を施したからと言って、全てのダメージを消してしまえるほど万能ではない。

 その上、十分な休息期間も無い内の再戦だったのだ。それも、持ち得る妖気を振り絞っての長期戦である。

 

 ただでさえ、折れた右腕を押しての戦闘だったというのに、その右腕にすら新たな痛痒を負わされる始末。

 今しがた放った妖術を契機に、彼の妖気は底をついた。少なくとも、これ以上動く事ができないほどに。

 

「……え? 九十九、くん……?」

「っ……!? 不味い、妖気が尽きたんでさ! 考えてみりゃ、今の今まで力尽きずに戦い続けられていた方がおかしかったんで御座いやす!」

「せやな、ありゃちょっとえらいわ。警察やら何やらが来る前に、(はよ)う回収して──」

「そうは──させねぇぞォッ!!」

 

 突如、横合いから大量の油の雨が降ってきた。

 それが妖気の溶け込んだものであると理解し、瀬戸は指先から放った糸で姫華と五十鈴を“たぐり”、後ろへ引き戻す。

 いきなり後方に引っ張られた少女たちは、己の身に何が起きたか理解するよりも早く、1秒前まで自分たちがいた場所を油の波濤が呑み込んでいく様を見た。

 

 ドロドロと流れる油の波が、道中にあった瓦礫や残骸をごくりごくりと呑み下す。

 そのじっとりとした妖気の不愉快な匂いを、姫華たちは知っていた。

 

「この油……まさか、逃げたんじゃないの!?」

「へっへっへ、へへっ……とんでもねぇ。むしろ、この機会を待ってたのさァ」

 

 のっそり、のっそり、と。

 夜闇の影から現れ、舌なめずりしながら瓢箪を携えた痩せぎすの怪人。

 奥の手のタザイガキツキを屠られ、苦し紛れに出したガキツキの群れさえ一掃され、おめおめと逃げ出した筈の妖怪ヒョウタン・アブラスマシがそこにいた。

 

「よくやってくれたよ、ヒバチ。お前のおかげで、リトル・ヤタガラスはもう指1本も動かせやしねぇ! “八咫派”の連中だって、もうからっけつさ。なら後は、あっしが美味しいところをぜーんぶ持っていくだけ!」

「よぉやるわ……ボクらが消耗した隙を突いて、一網打尽にする気かいな」

「言ってろ! ずっと言ってきた筈だ、この世は頭のいい奴が勝つんだよ! “とりっきい”で“すまあと”な『げえむ』……それこそ、次代の“魔王”に相応しい!」

 

 瓢箪を翳し、蓋の開いた口から油を滴り落とす。

 今にも襲いかかってきそうな敵を前に、瀬戸は腕の中の召使い妖怪2体を五十鈴に預けると、指先に妖気を集中させた。

 姫華も同様に手鏡を構えようとして、やんわり静止されてしまう。

 

「おっと、姫華ちゃんが出張るんはナシや。ここはボクに任しとき」

「ど、どうして……っ?」

「自分、さっきの戦闘でだいぶ消耗しとるやろ。五十鈴ちゃんもや。ボクがあいつ引き付けとる間に、自分らはさっさと八咫村のを回収してきい」

「おっとォ……そいつぁ認められねぇなァ。ヤタガラスさえここで仕留めれば、後は何も怖いモンなんざ無ェ。お前ら“八咫派”を一掃して。今度という今度こそ、あっしだけの『げえむ』を成し遂げてやる!」

 

 かつてイナリが語ったところによると、入れ物を由来に持つ妖怪はその身に蓄えた妖気が潤沢であるという。

 ヒョウタン・アブラスマシは、その(めい)の通り、瓢箪の九十九神である。あれだけの戦闘をしてなお、さして消耗していないのも頷ける話だ。

 

 だからこそ、こちらにとっては戦い辛い状況にある。

 上手く立ち回らなければ、瀕死の九十九さえ巻き込んでしまうだろう。

 敵の前に立ちはだかる瀬戸の背後で、姫華たちはいつでも九十九の下へ駆けつけられる態勢へと移行した。

 

「さぁ、さぁさぁ! これがあっしの──」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──貴様の、なんだ?」

 

 轟、と。

 大気を圧迫しながら弧を描く、長柄武器(ポールウェポン)の音。

 

 背後から振り抜かれたそれにアブラスマシが気付くよりも早く、彼の背中に薙刀の峰が叩きつけられ、骨の幾許かにヒビを入れる。

 海老反りになった痩せぎすの体は、そのまま薙刀によるスイングをまともに喰らい、前方へと吹っ飛んだ。

 あまりの一撃の重さに、地面に打ちのめされた体は更にバウンドし、中距離ほどを摩擦しながら転がっていく。

 

「ぎゃびっ、げぶふぅ……っ!? なぁ、にが……」

「……“武人たれ”とは言わぬ。“『げえむ』は神聖なもの”とも、“勝者と敗者に敬意を示せ”とも語らぬ。だが少なくとも、今しがた語り終えられたばかりな他者の怪談(げえむ)を、己の怪談(げえむ)で上書きしようとする者は……『現代堂』に属する資格無しと知れ」

 

 誰もが、声の主に注目した。誰もが、声の主に警戒を強めた。

 気を配っていた筈なのに、油断していなかった筈なのに。誰もが、アブラスマシの背後に現れた()の存在を知覚できていなかった。

 

 無骨にして強靭な薙刀を片手に担ぎ、全身を武士甲冑で覆い尽くした巨漢。

 徹底的に肌を隠匿し、兜には「神」の1文字。面頬越しに鋭い眼光を放つその妖怪の正体は。

 

「し……ん、の……」

「昨晩ぶりだな、リトル・ヤタガラス。此度は、貴様に用は無い。そこで黙って寝ているがいい」

 

 神ン野。

 妖怪集団『現代堂』の幹部にして、無敵の技量を持つ『げえむ』審判役。

 九十九をその驚異的な実力で圧倒し、敗北の屈辱を与えた巨妖が、今回は彼を庇うように立っていた。

 

「……どういう風の吹き回しや? 自分、昔さんざっぱら“八咫派”の連中殺しとったやないか。なんで今更、八咫村のを見逃す理由があんねや」

「知れた事。リトル・ヤタガラスは元々、山ン本が認めた『敵きゃら』だ。『ぷれいやあ』が自身の『げえむ』で排除する事を求められる──いわば、望まれた障害。その内に貴様らは含まれていないが……まぁ、それはいい」

 

 ふいっ、と注目をアブラスマシに向ける。

 自らよりも上の存在に睨まれ、たった今起き上がったばかりの彼は「ひっ」という悲鳴を喉から漏らしている。

 瓢箪を持つ手は震えているどころか、その震える手が握る瓢箪にはいくつものヒビが生まれていた。

 

「俺が動くべき時。それは『げえむ』の違反行為が発生した時に他ならない。そして、ヒョウタン。貴様の違反行為は既に通達済みの筈だ」

「ひ、ぃいっ……!? だっ、だがヒバチはっ、ヒバチはもう死んだんですぜ!? な、ならっ! なら次は、あっしの『げえむ』を──」

「『げえむ』の開催を取り決める権利は信ン太にある。貴様では無い。そして審判役である俺が()を唱える以上、信ン太もまた、貴様の参戦を許可しないだろう」

「い、否ァ……っ!? ななっ、何故……」

「分からぬか。……いや、もういい。道理を説くだけ時間の無駄だ」

 

 緩やかな所作で、薙刀が切っ先を動かした。

 その軌道に歪みや荒々しさは無く、むしろバターを削る時のように優しくたおやかな動きだった。

 

 だが、それはあくまで傍目から見ているが故に生じる感想。

 実際に、その矛先を向けられた者の所感は──違う。

 

「実のところ、ヒバチは惜しいところまで到達していた。貴様の邪魔があってなお、『げえむくりあ』に近付きつつあったのだ。故にその奮闘を邪魔せず、静観するに努めていた。だが、奴が『げえむおおばあ』となり、斃れた後であれば話は別」

「ぺっ、『ぺなるてぃ』ですかい……!? げっ、『げえむ』の参加券剥奪……」

「否」

 

 ガシャリ。

 たった1歩歩いただけで、少し鎧の擦れる音がしただけで。

 どうして、ここまで恐ろしいのだろうか。どうして、ここまで心臓が悲鳴を上げるのだろうか。

 

「幾度の警告にも拘らず、貴様はそれを無視した。そればかりか、『げえむ』を──いち妖怪の“怪談(えぴそおど)”を軽視するその行為。如何とも看過し難し。最早、温情をかける必要無し」

「な、ぁ……!?」

「故に……妖怪ヒョウタン・アブラスマシ」

 

 その矛先を向けられた者の所感は違う。

 だって、目の前に立ち塞がる()()が放つ威圧感も、殺気も──何もかもが、自分だけに注がれているのだから。

 彼の出で立ちを、「死神」以外の言葉で形容できる者が、果たしてどれだけ存在するだろうか?

 

「貴様に、『()()()()()()()』を執行する」



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其の捌拾壱 『ですぺなるてぃ』

 初めて聞いたにも拘らず、この場の全員が、その単語の意味を明快に理解した。

 神ン野がこの場で何を為そうとしているかも、アブラスマシに対して何が行われるかも、察し取る事ができた。

 だからこそ、当人たちを除いた他の面々は、喉から声を出す事ができないほどに戦慄してしまう。

 

「で、ででっ、で、『ですぺなるてぃ』って、そいつぁつまり──」

「言わねば、分からぬか? ああ、分からぬか。ならば、ハッキリと告げてくれよう」

 

 たった今、彼らが口にした『ですぺなるてぃ』なる単語。

 “死の罰則(デスペナルティ)”とは、即ち──

 

「──これより、俺の手で貴様を()()する。貴様がこの場から生きて逃れる為の(すべ)はただ1つ。俺を殺す事のみだ」

 

 その言葉に一切の嘘偽りが無い事は、考えるまでもなく理解できた。できてしまった。

 彼は、神ン野は、この場からヒョウタン・アブラスマシを生きて帰す気が微塵も無いのだ。

 

 少しの容赦も無く、滅殺する気でいる。

 それが、自分たちの定めた秩序を乱した罰であると言わんばかりに。

 そして同時に、彼と同じ過ちを犯せばどうなるかを、()()()()()()()()()()()()()()()へ知らしめる為に。

 

「貴様らは手を出すな。元より奴は、貴様らにとっても敵の筈。介入すれば、纏めて処断するのみだ」

「……その言葉、どこまで信用していいものかしらね。私とあんたは初対面だけど、あんたがこっちへの流れ弾とか余波を気にするような奴じゃないってのは分かるわよ」

 

 脂汗を滲ませながらも、強気な態度を崩さない五十鈴。

 彼女の勝ち気な、或いは虚勢を張った言動に琴線が触れたのか、面頬の奥から「フッ」と鼻で息をする音が漏れ聞こえてくる。

 

 鎧の巨漢はゆるりとその体躯を動かし、薙刀を構えながら腰を落とした。

 攻撃を仕掛けてくる気なのか。“八咫派”の面々の間に緊張の糸が張り詰めて、何が来ても対抗できるよう意識を研ぎ澄ませようとした……その直後。

 

「ならば、これで満足か?」

 

 薙刀が、直上へと投げ放たれた。

 空高く駆け昇った得物は、やがてある1点に達すると共に、ぷくりと膨れ上がる。

 風船のように膨らんだそれが一気に破裂するや否や、剣や槍など、知り得る限り無数の刃物が降り注いだ。

 

 咄嗟に防御の態勢を取る一同だったが、不思議な事に、それらの武器は彼らに傷の1つも負わせなかった。

 円を描くように地面に突き刺さったそれらは、瞬く間に変形と融合を繰り返し、最終的に刃でできた巨大なサークルをその場に形成する。

 

 その内部に、姫華たちや、今もなお倒れ伏したままの九十九は巻き込まれていない。

 刃のサークルに取り囲まれた者は、2体。神ン野と、寸前まで逃げ出そうとしていたアブラスマシだけだった。

 

「これは……!?」

「これで、円の外にいる貴様らは巻き込まれまい。同時に、ヒョウタンもこの円より外に逃れる事は叶わなくなった。俺を殺し、術を解除せぬ限りは、な」

 

 その意味が理解できぬほど、この場の面々は愚鈍ではない。

 脱出できるのは2人に1人。どちらかが相手を殺さない限り、剣山の闘技場からは逃げられない。

 

 俗に言う、デスマッチというやつである。

 

 尤も、この円を構築したのが神ン野である以上、その気になれば彼はいつでも脱出できる。

 つまり──この瞬間、ただでさえか細かったアブラスマシの命脈は完全に絶たれたと言っていいだろう。

 

「そ、んな……。けっ、けど……あっしは、あっしはァ……っ!」

 

 だが、それでも足掻く意思は残っているらしい。

 もう逃げられないと悟り、絶望塗れの表情を見せながらも、その手から瓢箪が離される事は無い。

 抜いた栓を放り捨て、どぷどぷと満ちる油の音と共に妖術の行使を図った。

 

「あっしはっ、死にたくねぇんだぁっ! 妖術ッ……《油一匁(アブライチモンメ)》ェ!!」

 

 まだまだ妖気に余裕があるのか、射出された油弾の量と質は膨大かつ巨大。

 余力がある状態の九十九や姫華であれば回避や迎撃も可能だろうが、今この場は刃の円で囲まれている──つまりは閉所だ。

 避ける余地に乏しい状況下で、これほど大量の油の波濤に対処するのは困難と言えよう。

 

「薙刀を手放したのは失敗だったなぁ、神ン野! あの強力な武器さえ無ければ、あっしにも付け入る隙が」

「何を勘違いしているのか知らんが」

 

 相手が、神ン野で無ければ。

 

「俺は、素手でも問題無く戦える」

 

──気が付いた時、アブラスマシは顔面をぶん殴られていた。

 

「──は?」

 

 何が起きたのか、まるで分からなかった。

 

 何故、油弾に埋め尽くされていた筈の神ン野が、目の前に立っている?

 何故、自分はその事を、実際に殴られるまで知覚できなかった?

 何故、自分はゴム毬のように呆気なく、そして軽々と吹っ飛ばされている?

 何故、あれだけ大量に生成した筈の油弾が、1つ残らず破壊されている?

 

 その答えを導き出す事は無く、痩せぎすの体躯は背後の壁──つまり、無数の刃がギラギラ光る剣山へと叩きつけられた。

 

 油の弾幕を撃ち放ってから、それを掻い潜られ、殴り飛ばされるまで凡そ4秒。

 木っ端妖怪の背中に刃という刃が突き刺さった直後、先んじて殴り壊されていた油弾の破裂音が遅れてやって来た。

 

「ぐげっ……ぼぉ──」

「この程度では終わらんぞ」

 

 がっしりと鷲掴みにされたのは、アブラスマシの頭部だ。

 刹那の内に肉薄してきた巨漢の手によって掴み取られた彼は、その膂力を以て無理やり刃の壁から引き抜かれる。

 強引な引き抜きであった為に、刃を乱雑になぞった背中の肉が切り裂かれ、新たな傷と鮮血が飛び散った。

 

 くぐもった声が漏れ出るより先に、掴んだ頭部を起点に投げ飛ばされる。

 ずっこけるような体勢で地面を舐めた直後、畳み掛けるかのように背中が踏みつけられた。

 その拍子に、いくらかの骨が折れた音が鳴る。夥しい数の切り傷が、具足に踏み躙られて悲鳴を上げていた。

 

「いっ、(いて)ェ……(いて)ェよォ……っ!?」

「どうした、人間を甚振るのではなかったのか。これでは、貴様が甚振られる側だな」

「ふ、ざっ……け、ろォ……ッ!」

 

 ギリリ、と歯を擦り合わせる。

 踏みつけられたままに瓢箪の口を地面に押し当てたアブラスマシ、妖気の油を勢いよく噴き出させた。

 

「む」

 

 それによって何が起きるかと言えば、体が浮き上がるのだ。

 行き場を無くしたままに噴出しゆく油の圧力によって、足で抑え込まれていた筈の矮小な体躯がふわりと浮上する。

 その勢いには流石に抑え込めずバランスを崩すと判断し、神ン野の具足がそっと離れたその瞬間。

 

「至近距離からぶち込めばっ……! お前が着ているその甲冑、あっしの妖術で呑み込める筈だッ!」

 

 振り絞った力で体を180度捻り、反転した先にあった甲冑の腹へと瓢箪の口を向ける。

 やろうとしている事は、先ほどと同じだ。妖術によって油を生成し、その波濤を超至近距離からぶつけて攻撃する。

 

 いくら最強の妖怪と言えど、この至近距離から、そして潤沢な妖気に裏打ちされた秒速の妖術行使には対処できまい。

 すぐに噴き出た油の津波が、たちまちに目の前の巨漢を呑み込み、そして──

 

「発想は悪くない。これだけの痛痒を受けて、なお行動できる反射神経と根性も。だが、根本的な地力が致命的に欠けている」

 

 瓢箪に、神ン野の手が押し付けられた。

 たったそれだけで、油は出てこなくなる。

 

「……あっ?」

 

 素っ頓狂な声が出るほどに、信じられなかった。

 

 手のひらを瓢箪の口に押し当て、浮いた5指で瓢箪の本体を掴み支える。

 口から噴き出る筈だった油は、手のひらが蓋の役割を果たす事で1滴もでてこない。

 指先ががっしりと本体を固定しているせいで、先ほどのように溢れ出る際の圧で彼我が吹き飛ぶという事も無い。

 

 真実、神ン野の握力だけで、恐るべき妖術《油一匁(アブライチモンメ)》は完全にロックされていた。

 それによって、瓢箪を構えたままのアブラスマシも同様に、空中に浮いた状態を維持してしまっている。

 

「う、動けなっ……!? 何故、あっしの妖術がこんなにも、あっさり……っ」

「……この瓢箪が、貴様の術の機関部か。ならば」

 

 瓢箪を抑えているのとは反対の手が握られ、拳を形作る。

 振り上げられたそれが、どのように運用されようとしているかなど、あまりにも明白で。

 

「これで、貴様の『げえむ』は終わりだ」

 

 たった、一撃。

 鉄槌のように振り下ろされた拳が、瓢箪をいとも簡単に砕き切った。

 

 撒き散らされた大量の木片と、その内部から滲み出てくる油の雫が、妖術の決定的破綻を示唆している。

 目を見開き動揺したアブラスマシの顔面へと、今の今まで瓢箪を抑え込んでいた方の拳が飛んでくる。

 

「んぎゅっ!?」

 

 殴り飛ばされた結果として待っていたのは、やはり先ほどの焼き直しだ。

 吹き飛んだ先にあった壁にぶつかり、その壁を構成する刃の群れに襲われる。

 血の華をいくつも咲かせた矮躯からは、最早、悲鳴らしい悲鳴を絞り出す余地すら無いらしい。

 

「……こんな、圧倒的過ぎる戦いになるなんて……」

 

 彼ら妖怪同士の戦いをサークルの外から見て、姫華がぽつりと呟いた。

 彼女たちは既に、戦いの隙を突いて九十九の下まで駆けつけており、その九十九も瀬戸が治療を施している真っ最中だ。

 

「……違う」

「えっ?」

「あ、れは……戦いなんかじゃ、ない」

 

 姫華の腕の中で抱えられながら、満身創痍の少年が喉を震わせる。

 施術中の優男から「まだ動かんといてぇな」と苦言を漏らされつつも、幾許かの力を込めて首を起こし、彼もまた神ン野とアブラスマシの戦いに目を向けていた。

 

「あれは、()()()()……だ。『げえむ』の理を乱せば、お前たちもこうなるぞ……って。僕たちだけ、じゃなくて……これから『げえむ』に参加する、あいつら側の妖怪たち、にも……そう、言ってるんだ」

「見せ、しめ……まるで、処刑人みたい」

「実際に処刑なんやろ。さっき、本人がそう言うとったからな。……ホンマ恐ろしい話やで。今は『げえむ』の審判とやらに甘んじとるからええけど、あんなんがまともに敵に回ってきよったら、今の“八咫派”ではとてもやないけど相手にならへん」

 

 苦々しく歯噛みして、瀬戸が悪態をつく。

 彼が施術に手を離せない為、五十鈴の腕の中に預けられたイナリやお千代も、彼の言葉に重々しい頷きを見せていた。

 

 80年前の大戦に参画した妖怪の中に、神ン野の恐ろしさを知らない者などいる筈が無い。

 戦いではなく、蹂躙。そう評するのが最も適しているだろう惨状を前に、彼らはかつての戦慄を思い出していた。

 

「……でも」

 

 その最中で、九十九がふと呟く。

 

 彼の視線の先で繰り広げられているのは、一方的なリンチだった。

 アブラスマシの抵抗1つ1つを丁寧に潰しながら、神ン野が徹底的に彼を痛めつけている。

 それは非常におぞましく、恐ろしい光景である事に議論の余地は無い。

 

 けれども。

 

「あいつの、動きには……無駄が無い。なんて、洗練された……戦い方、なんだ」

 

 そう呟いた直後、戦況が大きく動いた。

 

「げ、ぶっ……!? たっ、助けっ……し、しに、死にたく……」

「命乞いを聞き入れるほど、俺は優しくは無い。だが、戦う意思を無くした者を甚振り続けるほど暇でも無い。故に、仕舞いにしよう」

 

 地面に這い蹲り、完全に心が折れた様子のアブラスマシを冷淡に見下ろす。

 その様になんら感傷を抱く事も無く、神ン野は淡々と右手を天に掲げ、少しばかりの妖気を発した。

 

 すると、彼らを取り囲んでいた刃のサークルが一斉に動き出す。

 円を形成していた状態が解かれ、元の武器に戻ったそれらは、次々と地面を離れて浮遊する。

 

 そうして掲げられた右手の直上に集まり、合体・融合・圧縮を繰り返したのち。

 あれほど大量に存在していた刃の武器は、たった1本の薙刀へと戻り、持ち主の手の内に握り締められた。

 

「なっ、何を……」

「じきに分かる」

 

 それを自分の胸の高さまで持ってきた直後、薙刀は一瞬の内に、爪楊枝ほどのサイズまで縮小した。

 凡そ、質量保存の法則も何もあったものではない現象。しかし、それを大して気にする事も無く、神ン野は爪楊枝サイズになった得物を投げ放った。

 

 投げナイフのように整った軌道を描いたそれは、今しがた起き上がったばかりなアブラスマシの胸へと突き刺さる。

 本人が己の身に何が起きたのかを知覚するよりも早く、胸に刺さった針は、たちまちに体の内側へと潜り込むように消えていった。

 ……そしてその瞬間、彼は自分が何をされたのかを、何をされるのかを鮮明に理解する。

 

「……ま、待って、くださいまし。まさか、まさかでしょう……? そっ、そんな事をしたら、あっしは、あっしはっ……っ!」

「山ン本の意向に歯向かう者など、『現代堂』には不要。貴様は自らの意思で、『げえむ』に反旗を翻した。ならば、こうなる末路も覚悟して然るべきだろう」

「わっ、分かりっ、分かりました! もうやめます! あっしも心を入れ替えて、『現代堂』に尽くします! や、山ン本様にも絶対の忠誠を誓います! もも、勿論、神ン野様にも! 靴だって舐めますから! だっ、だから……だから……!」

「貴様の存在全てが、“魔王”の器に非ず」

 

 開いたままの右手を、泣き喚く相手に向けてゆっくりと翳す。

 プライドも何もかもを投げ捨てた命乞いの言葉さえ、神ン野は意にも介さない。

 

「嫌だ……っ、嫌だぁっ! 死にたくない、死にたくねぇよ……! たっ、助けてください! お願いです! 助けてっ、あっ、あっしはっ……もっともっと、力になれますっ! 人間をたくさん、こっ、殺せますっ! だからっ、だから、殺さないでくだ」

「妖術」

 

 右手が、グッと握られた。

 

「《悪五郎(アクゴロウ)》」

 

 

──パァッン!!

 

 

 アブラスマシの体を突き破って、膨大な量の剣が出現する。

 痩せぎすの妖怪を内側から破壊し、その肉や骨を切り刻みながら、体外へ突き出る刃の武器。

 それらは体外に露出してもなお肉体の破壊をやめる事は無く、次々に生成されゆく刃の群れが、肉片を更に粉微塵へと変えていく。

 

 九十九は、その光景に心当たりがあった。

 神ン野と一戦を交え、そして敗北を喫した際、彼が見せた妖術の一端。

 あの時は、薙刀を盾に変形させるだけだったが、その力を十全に悪用した結果があれなのだろう。

 

 先ほど突き立てられていた、爪楊枝大の薙刀。

 それが妖気の励起に呼応して、体内で無数の刃へと変形・増殖し、アブラスマシをズタズタに裂き尽くしたのだ。

 

「……『ですぺなるてぃ』、執行完了」

 

 断末魔さえ許されず、一瞬の内に膨張した刀剣の群れに肉片まで切り刻まれて、その身全てが塵と果ててなお引き裂かれ。

 妖怪ヒョウタン・アブラスマシは、この世から完全に消滅した。



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其の捌拾弐 対戦相手として

 自分たちの目の前で、1体の妖怪が完膚なきまでに殺し尽くされた。

 その残滓が存在する事すら許されず、塵まで掻き消えた末路に、その場にいた誰もが恐怖した。

 

 これまでに現れ、敵対してきた妖怪たちなど、比べ物にすらなりはしない。

 最も端的に、手軽に、呆気なく他者を殺してしまえる妖術。

 それを涼しい顔でやってのけた神ン野が持つ、遥か高みの実力を思い知ったのだ。

 

「これで、今回の俺の仕事は終わった訳だ」

 

 アブラスマシを切り刻み消滅させた球体状の針山へと、緩く手を伸ばす。

 最早数える事すら億劫になるほどの剣で構成されたそれは、空中で薙刀へと変形しながら神ン野の手元へと引き寄せられていく。

 

 片手で難なくキャッチしてみせたそれの切っ先を、九十九たちへと差し向ける。

 刀身には、切り刻まれた妖怪の残滓を示すかのように、薄汚れた血が貼り付いていた。

 

「さて……残るは、貴様らだな」

「……っ。やる、気……? なら……」

「ちょっ……!? 動かないでくださいやし、坊ちゃん! 今の坊ちゃんの状態じゃあ、これ以上の戦闘は無理でさ!」

「け、どっ……! やらなきゃ、皆が……!」

「……そこなバケギツネの言う通りだ。最早、貴様に戦えるだけの力は残っていないだろう」

 

 無理やりにでも立ち上がろうとして、周りから必死に諭されている九十九を、神ン野もまたやんわりと静止した。

 彼らに向けていた切っ先を降ろし、戦闘の構えを解くと、大きく息を吐き出す形で脱力する。

 

 つい先ほどまで苛烈な蹂躙を繰り広げていた彼が、こちらへの敵意を向けていない。

 その違和感に、“八咫派”一同は自然と落ち着きを見せる。けれども、警戒は解かないままだ。

 

「……何が、目的なの? お前は、僕を見定めると……そう、言っていた筈だ。その為に、僕と戦って、それで……」

「ああ、そうとも。俺は、貴様が『げえむ』の『敵きゃら』足り得る存在であるか、それを見極める為にここにいる。そして、その目的は達成された」

 

 じっと、面頬の奥から光る眼差し。

 鋭く重い眼光で見据えられ、九十九は身を強張らせつつも相手を見返した。

 

「ヒバチを倒せた事は評価しよう。奴は短気で単細胞だが、その身に宿す妖気はよく練り上げられていた。消耗した上での再戦にも拘らず、奴を下したその武勇、侮れるものではない。だが決して、貴様1人での勝利ではなかったようだな」

「……うん。僕1人じゃ、多分勝てなかったと思う。勝てたとしても……今よりもっと、もっと酷い状態になっていただろうね」

 

 神ン野の指摘は、決して否定できたものではなかった。

 

 姫華やイナリ、お千代がアブラスマシを足止めしていなければ、九十九はヒトウバンと奴を同時に相手取らなければならなかっただろう。

 誰も知らない事だが、瀬戸が人知れずガキツキたちを仕留めていなければ、奴らは五十鈴の下へと到達していただろう。

 そして五十鈴が地脈を鎮めていなければ、それぞれの戦場における勝利はあり得なかったと言えるだろう。

 

 今回の戦いの全てが、九十九1人では成立しなかったものだった。

 仲間の、友の存在があってこその勝利。恐るべき妖怪たちを相手取るにあたって、妖怪リトル・ヤタガラスは未だ力不足である。

 

 だが、神ン野の思惑はまた別のところにあった。

 己の実力不足に歯噛みする少年を見下ろして、巨鎧は兜越しに目を細める。

 

「故に、貴様の恐るべき点は実力ではない。その()()()()だ。苦境に陥る度、環境が変質する度、貴様の妖気はそれに適合する。適応する。ヒバチの敗因はまさに()()だ。戦いの中でのびのびと成長する貴様を前に、奴は対応できなかった。故に敗北した」

「……だから、今の内に刈り取るつもり?」

「それをするのは容易い事だ。だが、先にも言った筈だぞ。俺は、貴様を見定める為にここにいる。その結論を、ここで出そう」

 

 ゴン! と、地響きにも似た音が出る。

 薙刀の石突が勢いよく地面を穿ち、周辺を軽く揺るがした。

 その場で厳かなに立った『げえむ』の審判者は、はっきりと、よく耳に届くよう声を張り上げる。

 

「妖怪リトル・ヤタガラス。貴様は、『げえむ』の『敵きゃら』に非ず。──いるだろう、山ン本」

「──ヒヒヒヒヒッ。お呼びかァい? 神ン野。審判役たるお前さんに呼ばれたんなら、出て来ない訳にはいかないねェ」

 

 ヌラリ。

 つい一瞬前までいなかった筈の場所に、その男は現れた。

 

 焼けた瓦礫の上に腰掛けて、相も変わらず長い煙管(キセル)を弄ぶ、枯れ葉風の和服姿。

 甘ったるい煙をもうもうと口から吐き出すその男こそ、山ン本──大妖怪キセル・ヌラリヒョンに他ならない。

 

「山ン本……! お前まで、この場に来るのか」

「そりゃァ、あたしは『げえむ』が楽しみで仕方が無いからねェ。面白い催しを特等席で観戦したいと思うのは、人間も妖怪も同じだろう? そういう意味じゃ、今回はとっても楽しませてもらったよォ。お前さんらの這いずり回る姿をねェ……ヒヒ、ヒヒヒヒヒヒッ!」

 

 明らかな嘲笑に、一同の顔が強張る。

 どれだけこちらが痛痒を負おうとも、どれだけ自分たちの手駒が傷つき死のうとも。

 彼にとっては、その全てが「見応えのあるエンターテインメント」でしかないのだ。

 

「敵の大ボスとだけ聞いてたから、どんな奴かと思えば……とんだクソ野郎じゃない。自分に被害の来ない対岸の火事を、まるでスポーツの試合扱いってワケ?」

「……80年前から、なんも変わってへん。あのド腐れ煙草()みは、他人が傷付けば傷付くほどおもろいんや。あの大戦で殺せんかったんが、何よりも悔しゅうて仕方あらへん」

「おやァ? 見慣れない顔ぶれが増えたと思ったら、どこかで見たようなツラだねェ。でも、どこで見たのか忘れちまったよォ。ヒヒヒヒッ。80年前の大戦と言ったら、“八咫派”の連中が虫けらみたいにたくさん死んでいったからねェ。誰が誰だが覚えてないのさァ」

 

 煽り立てるような言葉を受けて、瀬戸や召使い妖怪たちの額に青筋が浮き上がる。

 サングラスの向こう側から強く睨まれても、山ン本は何も感じない。

 煙管(キセル)を口に咥え、ぷかぷかと青臭い煙を吐き出す枯れ男に、“八咫派”の誰もが不快感を覚えていた。

 

 このままでは話が進まない。

 そう判断したのか、神ン野が己の体を揺らし、ガシャリガシャリと大きな金属音を奏でた。

 

「そのような茶番をさせに呼んだ訳ではない。山ン本。『げえむ』の審判役として、俺は貴様に通達する義務がある」

「そうだねェ、お前さんからの上奏とあっちゃ、あたしも無視はできないからさァ。でも、どうする気だい? リトル・ヤタガラスを『敵きゃら』として認めない、って言ってたけどさァ……それじゃァ、あいつらをここで消しちまうのかい?」

「……!」

「そのつもりは無い。……『現代堂』幹部・神ン野より、『げえむ』の運営に関する提言を行う」

 

 再び、石突で地面を叩く。

 揺るぐ大地の中で一切身じろぐ事も無く、その冷淡な眼差しは、警戒を強めたままの少年の姿を見た。

 

 

「妖怪リトル・ヤタガラスを、否、当代の“八咫派”に属する者たち全てを──我らが『げえむ』における『()()()()()()()()()』に認定する」

 

 

 その言葉の意味を、九十九たちは暫しの間、まるで理解する事ができなかった。

 

「……ヒ、ヒヒヒ、ヒヒッ、ヒヒヒッ」

 

 けれど、山ン本は違った。

 

「ヒヒッ──ヒヒヒヒヒヒヒヒヒッ!! そうきたかい、そうきたのかい、神ン野! 面白いねェ、まったくもって面白いねェ!」

 

 煙草を()む事すら忘れて、ゲラゲラと高笑いに浸る胡乱な男。

 ぽかんと呆然に暮れている者たちを視界に収めながら、彼は笑いつつも言葉を続ける。

 

「『らいばるぷれいやあ』って事はさァ、つまり、つまりだ。『げえむ』における()()()()って事だろう? 『敵きゃら』という名の排除すべき障害ではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()! 神ン野ォ、お前さんはそう言いたいんだろう?」

「そうだ。ああ、その通りだとも」

 

 腹を抱えて大笑いしっ放しの総大将を他所に、鎧の巨漢は頷きを返す。

 

「我ら『現代堂』が夜の側を象徴するように、奴ら“八咫派”は昼の側を象徴している。いち個体で完成された我らと、群れる事で真価を発揮する奴ら。これは、どちらが正しいのかを決める戦いだ。どちらの側が、優れた文明であるかを決める戦いだ」

「ヒヒヒ、ヒヒヒヒヒッ。随分とまァ入れ込んだねェ、神ン野。そんなに、八咫村の小倅を殺すのが惜しいかい?」

「ああ、惜しい」

 

 思わぬ即答に、あの山ン本がピタリと動きを止めた。

 

「俺は、奴に──リトル・ヤタガラスに、俺のところまで登り詰めてほしいと願っている。夜の側の勝利を、“昏い太陽”の降臨を望む一方で、俺の『げえむ』を開催するその時が楽しみで仕方が無い」

 

 ()()()()()

 神ン野が、あの堅物が、武と暴力の化身が笑っている。

 例え素顔が分からずとも、表情の全てが面頬に覆い隠されていようとも、その事実を全員が理解できた。

 

「妖怪リトル・ヤタガラス。我ら『現代堂』が差し向ける『ぷれいやあ』を下してみせろ。そうすればいつか、俺がいち『ぷれいやあ』として参戦する日が来るだろう。その時こそ、貴様を確実に屠る。リトル・ヤタガラスの討滅こそが、俺の定める『るうる』だ」

「──分かった」

 

 ヨロリと、ふらつきながらも立ち上がる。

 火縄銃を杖代わりに、姫華たちの静止を受けながら、それでも九十九は立ってみせた。

 立って、目の前に君臨する巨鎧の武神へと真っ直ぐに対峙する。

 

「神ン野。いつか、お前を倒す。今よりもずっと強くなって、もっとたくさんの人を守れるようになって、お前の『げえむ』を真っ向から打ち破ってやる」

「その言葉、決して忘れるな」

 

 その言葉を最後に、神ン野は踵を返した。

 見るからに楽しそうな彼の姿に肩を竦めながら嘲ると、山ン本もまた煙管(キセル)から沸き立たせた煙を、自分と彼の2人に纏わせる。

 

「また会おう。いつの日か、貴様が高みに到達するその時に」

「ヒヒヒヒヒッ。次の『げえむ』も、ちゃァんと楽しませてくれよォ」

 

 2体の妖怪を包み込んだ煙は、たちまちに霧散する。

 その直後、そこにはもう誰もいなかった。きっと、今しがたの煙に乗じて『現代堂』へと帰還したのだろう。

 

「……目ェ、つけられてしまいやしたね。真っ向からの“らいばる”宣言たぁ、いよいよ逃げ場も無なっちまいやした」

「まったく……80年前とは大違いですわね。よもやあの神ン野が、特定の誰かを“たあげっと”に見初めるなど。(いわん)や、それが坊ちゃまなどとは思いもしませんでしたわ」

 

 イナリと、ようやく話せる程度に回復したらしいお千代。

 彼らは互いに目を合わせて、それはもう深々と、困惑と諦観の混じった溜め息を吐き出した。

 

 なんせ相手は、かつての大戦で大敗を喫した強敵である。

 彼が、自分たちの主を好敵手と見做した。即ち、九十九は逃げ場を完全に失ってしまったのだ。

 

「どうすりゃいいのよ、これ。いくら九十九が決めた事とはいえ、相手がヤバ過ぎるでしょ。今からでも、私も妖怪になる為の特訓とかしてみる?」

「……いや、やめといた方がええ。妖怪っちゅうんは、そない、なりとうてなるもんやないで。五十鈴ちゃんは、八咫村のの背中を押してサポートする役に徹しい。その間にボクは……そやな、やっぱあのコネ使うか……」

 

 過去の経験から敵の脅威を読み取った五十鈴を、瀬戸がやんわりと掣肘する。

 彼も彼で何かを考え込んでいるようだが、それをこちらに開示するつもりは無いのだろう。

 そう割り切って、姉として視線を向けるのはやはり、大敵に目をつけられてしまった弟の方だ。

 

「……大丈夫? 九十九くん。そんなにボロボロになった上に、あいつらが……」

「……うん。心配してくれてありがとうね、姫華さん」

 

 顔を俯かせて脱力し切った九十九を見て、労るように慮るように、彼の肩をそっと抱く姫華。

 彼女に感謝の言葉と、ややダウナー気味な笑みを返しながらも、少年はそっと夜空を見た。

 

 まだヒトウバンとの戦いの痕跡が残っているのだろう。

 本来ならば満天の星空が見られる筈だった視線の先には、黒ずんだ煙の残滓や、未だ空を奔る火花などが見てとれた。

 

 戦いの傷は深く、1つの戦いが終わってもなお、敵との因縁は続く。

 そればかりか、今の自分では太刀打ちできないような強敵からライバル宣言をされてしまった始末。

 

(……今の僕では、絶対に勝てない。もっと……もっと強くならないと。今回みたいな大敗を、2度と犯さないように)

 

 それでも、今だけは。

 

「……帰ろっか。爺ちゃん、家で待ってるよ」

 

 今だけは、生き延びた喜びを噛み締めたい。

 その思いを胸に、ふにゃりとした笑顔を仲間たちに向けた。



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其の捌拾参 偲んで、笑って、また明日

「あ(いた)ぁ!?」

「はいはいはいはい、じっとしてなさいバカ弟。いくらあんたのやる事を否定しないと決めたからって、こんなにズタッボロの状態を見て思うところの無いお姉ちゃんじゃないわよ。黙って包帯巻かれてなさい」

 

 ギュッ! と力いっぱいに包帯を締められて、九十九は素っ頓狂な声を荒げた。

 しかして五十鈴はそんな弟のうめき声を意にも介さず、淡々と、それでいて力強く包帯を巻いていく。

 彼女の手付きは妙に手慣れていて、洗練されていた。昨日今日で会得できる技術では無いだろう。

 

「すご……あっという間に手当てされてく。五十鈴さん、前に何かやってたんですか?」

「んーん。昔、あっちこっちの不良とつるんだり喧嘩したりしててさー。その過程で、必要に駆られて的な? 自分の怪我くらい自分で面倒見なきゃならなかったのよ」

「そ、そうですか……」

「儂も息子夫婦も、不良遊びなぞやめるよう度々言ってきたのじゃがのう……。その癖、大学進学と同時にすっぱりやめた時は、それはもう驚いたものじゃが」

 

 五十鈴の過去を知ってからこちら、困惑しっ放しの姫華。

 彼女の気持ちが分かると言わんばかりに、四十万もまた重々しく頷いている。

 

 彼らの言いたい事を理解できるからこそ、当の五十鈴は苦々しく笑うしかない。

 弟の傷口に消毒液をかけ、不意に上がった軽い悲鳴を聞き流しつつも過去を回顧した。

 

「大体、高校3年の秋くらいだったかしら。そんくらいの時に、この辺の不良をあらかた〆切ったってんで、引退を考えてたのよ。でまぁ、やりたい事も特に無かったし、それなら勉強しよっかなーって。不良やってた以上、就職できる可能性なんてたかが知れてたし」

「……そもそも、なんで不良とつるんでたんですか?」

「どうだろ。中学の時には、もう年上連中に混ざってたし。……今思うと、妖怪の血を引いていたからかしらね。他人との間に、漠然と『ズレ』を感じる事が多くなって……そのストレスを発散しようとしたのが始まりだったような気がするわ」

 

 滑らかな手並みで包帯を巻き、絆創膏を貼ってやる。

 そんな甲斐甲斐しい態度の姉を見上げて、九十九は過去に聞いた話を思い出す。

 

「イナリが言ってた。大事に使われた道具はいい妖怪に、乱暴に使われた道具は悪い妖怪になるって。……多分、姉さんと周囲との間で生じた軋轢とストレスが、姉さんの中の妖気を悪い方に傾けた……んだと思う。僕らは人間だけど、先祖が九十九神だから」

「そういうものなのねぇ。でも結局、私はそれで満たされなかった。5、6年くらい暴れ通したけど、私が本気で相手をぶん殴った事は無かったわ。……本気で殴るとどうなるか、無意識に分かっちゃったの」

「……」

「それからは、昨日の夜に説明した通りよ。大学を出て早々、課長にスカウトされて霊担課に。ひたすら舞の振り付けを叩き込まれて、日本のあっちこっちで踊りまくって、周りからはなんであるかも分からない窓際部署って揶揄されて……」

 

 そこで、不意に手当ての手が止まる。

 何か、思うところがあったのだろうか。それとも、嫌な過去を思い出してしまったのだろうか。

 そう思い、各々の位置から五十鈴の顔を覗き込もうとして……少しばかりの驚きを覚えた。

 

「……なんだかんだ、過去イチ楽しいって思っちゃってる私がいるのよ。思いっ切り体を動かせて、でも誰も傷つける事がなくて、おまけに感謝までされちゃう。ホント、これまでの人生からは想像もできないくらい……楽しいの」

 

 五十鈴は、笑顔だった。

 

 嫌な過去を思い出したなんてとんでもない。彼女の顔から想起できるのは、楽しい情景を思い出している時の感情だ。

 溶けて綻んだ砂糖菓子のように、ふにゃりと柔らかい微笑み。トレードマークのタレた目尻が、どことなく色気すら醸し出していた。

 

 同時に、姫華はハッと気付く。

 今、五十鈴が浮かべているふにゃりとした笑みは……どこか、九十九のそれと似通っていた。

 

 顔立ちも、性格もまるで違うのに、微笑み方はよく似ている。

 少女はそこに、確かな“姉弟”を見た。

 

「色々あったけど……ま、今はこれでいいかなって思ってるわ。何度も何度も踊ってる内に……なんかこう、昔みたいなイライラも無くなってスッとした感じがするのよね。ちゃんと眠れるようになったし、食欲も増えた気がするわ」

「ふぅむ……。恐らくそれは、舞のおかげじゃな。あの瀬戸という男の下で、土地を清める為の舞を踊っておったのじゃろ? 踊る過程で成立させた術が、五十鈴自身の妖気も清めたのじゃろうな」

「ふーん、そういうものなのね。ま、理屈はどうであれ、私が今の生活をそんなに悪く思ってない事だけは確かよ。……ん、よし。もう手当て終わったわよ」

 

 バシッと背中を叩かれつつも、軽く左腕を振って具合を確かめる九十九。

 激戦に次ぐ激戦で全身ボロッボロだし、右腕は折れたままどころか悪化すらしている。

 けれど、瀬戸に差し込んでもらった“糸”のおかげで、多少なりともダメージが癒えつつあった。

 

 ちゃんとした手当ても受けた以上、後は時間の経過と共に癒えていくだろう。

 妖怪は妖気を己の体内に巡らせる事で、傷の自己治癒を促す事ができる。右腕が治るのに、1週間も要さないというのがイナリの見解だった。

 

「ん……ありがとう、姉さん」

「こんくらい、どうって事は無いわ。……けど、これからも戦い続けるんでしょう?」

「……うん。これから先、敵はどんどん強くなる。その度に傷付いて、倒れる事もあるだろうけど……でも、それでも」

 

 やおらに、姫華の方を見る。

 彼女もまた、今回の戦いでそれなりのダメージを受けた。

 1度は敗走しかけたとも聞くし、そこから逆転できたのだって、いくつかの偶然が絡んだ結果と言えるだろう。

 

 けれど、彼女は戦った。九十九と同じ舞台に立とうとした。

 その行為が如何に愚かで、合理的ではないかを語る事は容易い。それでも、九十九は嬉しかった。

 

 彼女は、自分と一緒に戦ってくれたのだ。自分の意思で、1歩を踏み出したのだ。

 いつかに手を伸ばせなかった“あの子”に手を届かせる為に、勇気と知恵を振り絞った。

 

 白衣 姫華は、ヒーローで在ろうとした。

 たったそれだけの事が、敗北によって傷付いた己の心を救ったように思えた。

 

「……僕は、この場所に立ちたい。誰かを守る為とか、強くなる為とか、そういうのもあるけど……。それと同じくらい、僕が、僕の人生を誇れるように」

「……そっか。なら、それでいいんじゃない?」

 

 如何に家族とはいえ、弟の心の内を十全に読み取れるほど、姉は万能の存在ではない。

 けれども、五十鈴は微笑んだ。仕方の無い弟だと言わんばかりに、緩く溜め息を吐き出して。

 

「でも、この2つだけは約束しなさい。どんな戦いに出かけても、必ず家に帰ってくる事。そして、姫華ちゃんを絶対に泣かせない事。自分の帰ってくる場所ひとつも守れないような奴に、他人なんか守れやしないわ」

「うん、約束する。元々、一緒に強くなるって約束もしてたからね。僕は、姫華さんと一緒に歩いていくよ」

「……ほっほーう?」

 

 ニタリ。

 先ほどの柔らかい微笑みからは打って変わって、からかうようなおどけるような、ニンマリとした笑み。

 そんな表情を姉から向けられ、九十九は一瞬だけ訝しみ──そして、気付いた。

 

「つ、九十九、くん……! そん、な……いくらなんでも、大胆な……っ」

 

 顔を林檎よりも真っ赤にした姫華が、そこにいた。

 そこでようやく、自分が何を口走ったのかをようやく理解する。

 ぶわりと汗が噴き出して、九十九もまた顔を真っ赤に染め上げた。

 

「ちっ、ちがっ……! そそ、そういう意味じゃ、なくてっ……!」

「あーらら。若いっていいわねー、青春ってカンジがしてさ。じゃ、お爺ちゃん。後はお若い2人に任せて、私はそろそろ行くわ」

「おや、もう行くのかい? もう少しゆっくりしていってもいいじゃろう」

「ざーんねん、明日から書類の山とハネムーンしなくちゃならないの。さっきの戦闘で、まーた街が荒れちゃったでしょ? それの後始末を学べって、課長がうるさくてさー」

 

 すいっと立ち上がり、(ほつ)れたポニーテールを手早く結び直す。

 上着を軽く羽織ったのち、五十鈴は切れ味鋭い目尻からウインクをしてみせた。

 

「またね、九十九、姫華ちゃん。あんたたちが困った時は、お姉ちゃんがいつでもどこでも駆けつけて、バシッと背中を押したげる。だからあんたたちは、気負わずあんたたちのやりたい事をやりなさい。……まずは、2人でしっぽりと、かしら?」

「しっ、しっぽりと、って……!? ちょっと待ってください五十鈴さん! わわわわ、私と九十九くんはっ、そ、そんな関係じゃ……!?」

「そっ、そうだよ姉さん! あんまり姫華さんをからかうのはやめ……っ、い、(いた)たたた……!?」

「わわわっ!? 九十九くん、大丈夫っ!?」

 

 飛び起きた拍子に傷口が開きかけ、思わずうずくまってしまう九十九と、彼を慌てて介抱しようとする姫華。

 顔を赤くして照れながらも、それでも2人の間に芽生えている確かな信頼関係を、五十鈴は目の当たりにした。

 

 その様を見て軽やかな笑い声を漏らし、別れに手を振ってやる。

 そうして五十鈴は、いつものように、野性味のある快活な笑顔を見せた。

 

「またね! 私の愛した街をよろしく、ヒーロー!」

 

 

 

 

 リビングから、騒がしい声が聞こえてくる。

 その賑やかで楽しげないくつかの声を聞きながら、瀬戸は縁側に腰掛けた。

 

「……まぁったく、子供が騒がしいんは今も昔も変わらへんっちゅう訳か」

 

 とく、とくとくとく。

 

 ゆっくりと傾けられた徳利から、日本酒がたおやかに溢れ出る。

 それをお猪口で丁寧に受け止めて、そして1滴たりとも零す事は無い。

 

 お酒を注ぎ終えた後、徳利の首を持ち上げ、そっと縁側の傍に置く。

 月の映える夜空を見上げながら、クイッとお猪口の中のお酒を飲み干した。

 

「……ええ酒や。やっぱ、この家で飲む酒は妙に(うま)ぁてしゃあない」

 

 心地のいい酒精が、するりと喉を滑り落ちる。

 体の隅々へと染み込んでいく滋養に、目を細めて息を漏らす瀬戸。

 彼が身につけていたサングラスは、今は徳利の傍に添えられている。

 

「まさか、またこの家に関わるたぁ思わんかったけど……これも因果っちゅう訳かなぁ。その辺、()()らはどう思うとる?」

「……その呼び方、まだ覚えていたんでやすね」

 

 優男が振り向いた先にいたのは、イナリとお千代だ。

 彼らも体のあちこちに包帯を巻いているものの、動く分には問題無いらしい。

 

 ちっちゃな足でトコトコと、或いは黒く染まった翼でパタパタと、それぞれの手段で縁側へと近寄った。

 イナリは瀬戸の右側に座り、お千代は左側にちょこんと留まる。さながら、包囲しているようにも見える状況だ。

 

「……かなんなぁ。そない逃げ場を絶たれるような事ぉした覚えはあらへんで? ボク」

「あらあら、人型の癖に鳥頭なのでしょうか? 真っ向から『八咫村家と縁を切る』と宣言して去っておきながら、ぬけぬけと戻ってきたガキンチョの言葉とは思えませんわねぇ」

「おやおや、なんの事か分からへんなぁ。大体、ボクと自分らは今回が初対面やろ?」

「ったく、わざとらしいすっとぼけ方をするもんでさ。大体、今もなお“瀬戸”って名乗っている時点で、語るに落ちてるってモンでやしょう。まだ、“八咫派”に未練があるんで御座いやすか? ねぇ──」

 

 ちっちゃなキツネに()めつけられながらも、男は2杯目をお猪口に注ぐ。

 そうして新しいお酒を口に含んだ直後、横合いから古い呼び名が飛んできた。

 

()()()()()()()()()()()()

「……そう呼ばれる機会はもうあらへんて、(おも)とったんやけどなぁ」

 

 コトリと、2杯目を飲み干したお猪口を手元に置く。

 今度は徳利を手に取って、中に満ちたお酒をゆるゆると揺らしながら目を細めた。

 

「あんな? ボクはもう、妖怪としての名前は捨てたも同然やねん。これからは人間らしく、瀬戸(セト) 大将(ヒロマサ)って呼んでもらわへんと」

「ケッ、それを言うなら瀬戸大将(セトタイショウ)で御座いやしょう。お前さんの(あざな)でやすよ?」

「うーわ、めちゃくちゃ昔の(あざな)を意識してるじゃないですの。わたくしたちと縁を切る時、『これからのボクには(あざな)も不要や』って仰ってませんでしたこと?」

「かなんわー、ホンマかなんわー。ボクが言い捨てた言葉ぁ律儀に覚えとるとか、思わず引いてまうで」

 

 さっきまではお猪口で丁寧に飲んでいた筈のお酒を、とうとう徳利に直接口をつけて飲み始める。

 口に入り切れず滴り落ちたお酒が、顎を通って縁側へとポタポタ落ちる。その様を見て、召使い妖怪たちは一様に呆れ返った。

 

 かつて、彼が──妖怪トクリ・ザシキワラシの瀬戸大将(セトタイショウ)が、“八咫派”に参画していた頃。

 宴の度に、彼は決まってこんな飲み方をしていた事を思い出したのだ。

 

 ぷは、と小さな息が漏れ出る。

 徳利の中のお酒を全て飲み切って、瀬戸は月の綺麗な夜空を馳せた。

 

「……“八咫派”と縁切ったんは、今も変わっとらん。ボクが忠誠を誓っとったんは、八咫村の看板やない。ご当主のお二十(ハタ)様に対してや。大戦でお二十様がお討ち死になされた以上、四十万の()んにも、八咫村の家にも仕える気は()うなってもうた」

「では、今はどうですの? “八咫派”を去った妖怪の多くは、闇の中でひっそりと隠匿する道を選んだと聞きます。しかしあなたは、政府に……国に仕えているそうじゃないですか。一体全体、どういう風の吹き回しでして?」

「そんなん決まっとるやないか、お千代先輩」

 

 徳利を掲げ、空の月に重ねる。

 どことなくほろ酔い気分の彼は、その目に在りし日の情景を投影した。

 

 思い返されるのは、己が忠誠を捧げると誓ったかつての主。

 心の底から惚れ込みながらも、終ぞ添い遂げる事は叶わなかった偉大なる半妖の人。

 

「この国は、お二十様が愛した、その命に替えてでも守った国やで? お二十様亡き後の“八咫派”に、この国を守れるとは思えへんかった。せやさけボクはこの家を去って、国に仕える道を選んだんや」

「はぁ~……昔っから本当、筋金入りのお二十様第一主義で御座いやすね」

「当然の事を言われたかて、なんも思わんわ。せや言うて、今の生活もまぁまぁ楽しいもんやで? ボクの──座敷童子(ザシキワラシ)としての特性と、磨きに磨いた“たぐり”の術があれば、この国に“良縁”を“たぐり”寄せるなんてナンボでもできるさけな」

「戦後からこちら、この国の経済がめきめき伸びていったのはその影響ですのね……。その恩で政府を揺すって、霊担課とかいう胡乱な部署を?」

「胡乱な、とは挨拶やねぇ。こいでもれっきとした重職やで。土地の流れを整えな困るんは、人間も妖怪も同じや。それに地脈が乱れとったら、折角“たぐって”引き寄せた“縁”やら何やらも、あっちゅうまに飛んでってまうねん」

 

 どことなく酔いの回った眼差しのまま、ぽーん、と徳利を放り投げる。

 月を背景に空中を回転した徳利は、しかしある1点で、テレビの一時停止のようにピタリと静止した。

 

 当然、その様を見ていた2体の妖怪には、そのトリックが理解できている。

 瀬戸の指先から迸った、見えないくらいに細く艶やかな糸。それがまるで操り人形の如く、徳利に結びついているのだ。

 

 指揮棒を思わせる動きで指を振れば、糸で繋がった徳利もゆらゆらと右へ左へ上へ下へ。

 まるで生きているかのように滑らかで、無機質さを感じさせない軌道に、イナリは「は~」と感嘆の息を吐いた。

 

「相変わらず見事で御座いやすねぇ、お前さんの“たぐり”の術」

「せやろ? イナリ先輩に教えてもろた術を、ボクなりに磨いた結果や。昔はこの術を上手いこと使(つこ)て、瀬戸物(せともの)の絡繰人形ぉ拵えて操ってたモンやけど……そいでも、『現代堂』のあんちくしょうどもには敵わんかった」

「……」

「先輩。ボクはな、80年前に思い知ってん。どんだけおもろい術や技や持ってる言うたかて、それより強いモンには勝たれへん。せやけどな、どんだけ強い術や技持ってる言うたかて、後ろで支援してくれる奴がおらへんとなんもでけへんねん」

 

 指を引き、その勢いで“たぐった”徳利を手の内に回収する。

 拾い上げお猪口と共に懐へと仕舞い込むと、やおらに立ち上がり、ほろ酔いながらも襟を整えてみせた。

 

「ボクは裏方になる。八咫村のが目一杯戦えるよう、その邪魔になるようなあれやこれやは、ボクと五十鈴ちゃんでどうにかしといたる。せやから先輩らは、政治やなんやは気にせぇへんで、思いっ切り戦いよし」

「……それが、お前さんの()()()なんでやすね」

「座敷童子は、そこにおるだけで幸運を呼び寄せる妖怪や。この国には、『昼』が必要やねん。……お二十様も、早起きして見る朝焼けがよお好きやった」

 

 その言葉に、イナリとお千代は一様に頷いた。

 彼らも、かつての主君の事を忘れた事は1日だってありやしない。

 

 満足したような表情を浮かべたのち、サングラスをかけて立ち去る瀬戸。

 彼は縁側を後にすると、かつての先輩たちを振り返る事は無く、手だけを後ろに振ってやる。

 

「お二十様の倅と曾孫っ子、よろしゅうな」

 

 返事は聞かずに、玄関へと向かう。

 そこには既に、帰り支度を済ませ、今まさに靴を履こうとしていた五十鈴の姿があった。

 

「おっ、準備はええみたいやな」

「ええまぁ。久々に弟の面も見れたし、あれなら心配は無いかなって」

「さよけ」

 

 自分も靴を履く為に、そちらへと近付く。

 その間際、2人は示し合わせた訳でもなく、まったく同時に軽快なハイタッチをやってのけた。

 

「ほんなら帰ろか。この国を守る為の仕事が待っとる」

「ですね。あいつらが好き勝手飛び回れるように、私たちはどっしり縁の下の力持ちって事で」

 

 弟と、弟の大切な友人、それぞれの勇気と矜恃を見届けた五十鈴。

 かつての先輩たちと、彼らが守ってきたモノを見い出した瀬戸。

 

 時は流れ、立場も関係性も変わってしまったけれど、それでも同じ方向を向いている。

 それだけが分かれば十分だった。ただそれだけで、彼らは彼らなりの戦いに赴く事ができた。

 

 環境省・自然環境局・霊的事象担当課。

 彼ら2人の戦いは、一般社会の誰にも知られる事無く続いていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あ、五十鈴ちゃん、車の免許持ってへん? 今さっきお酒飲んでもうたばっかやねん」

「バイクしか持ってませんが……えっ、何? ここから歩きで東京戻れと? 私、課長の高級車に乗って帰る気満々だったんですけど」




4章はこれにて終幕。次回から5章です。NKT……。

ハーメルンでの投稿は他の投稿サイト(あらすじ参照)に遅れてのものでしたが
これ以降はおんなじスケジュールでの執筆・投稿になります。つまり次回はかなり時間が空くってワケ。

3章終幕時にもお伝えしたように、次の章を書き切るまでの時間を暫く頂きます。
4章書くのにどんだけかかったっけ……4ヶ月? 4ヶ月かけて書いた35話を1ヶ月で消化したの?

……次章も頑張ります!!!!!

よければブックマーク、評価のほどよろしくお願いします。

NEXT CHAPTER→「ゴミの王はかく語りき」


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