巫女転生 -異世界行っても呪われてる- (水葬楽)
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小さきものはみなうつくし
一 転生


 トウビョウ様というものがある。

 中国地方から四国地方にかけて、広い地域で信仰された蛇の神様のことである。

 元々は水の神様であり、雨乞いをする時に拝まれていた。それが次第に万の祈願神様となっていったのだ。

 その御姿は、頸に金色の輪がある淡い墨色の蛇とも、神々しき白蛇の姿であるとも、七十五匹の蛇の集合体であるとも、はたまた蛇ではなくキツネであるとも言われている。

 トウビョウが憑く家筋のものは、トウビョウ持ちと呼ばれ、その多くは予知や祟りで財を成した。しかし、水の神様であった頃も、伝承が変化し万の祈願を叶えてくれる神様となった時も、トウビョウ様が憑依するのは、たいていが女であった。

 それでも特に呪力が強いとされる、頸に黄と白の輪があるトウビョウを使える女は、滅多にいなかった。

 

 

 

 肩から先が消えた。瞬きにも満たない間の後、血が激しく噴出した。

 チサは這いずって、乞食(ほいと)柱の下に移動した。鮮血を吸って重たい綿の布団から這い出ると、ささくれた畳が頬をちくちくと刺した。納戸は開け放たれていた。土間に転がり落ち、夏だというのに感じる寒さに震えながら、チサは土間の真ん中に突っ立ったほいと柱の前に躄る。足萎えのチサが流した血は、板間から土間に大蛇がのたくった痕のようになって残っていた。

 血は乾いた土に染み込みながら、濃密な腥さを放って広がっていく。

 チサは数えで十四のときに熱病に罹り、しかし貧しい百姓の家に医者を呼ぶ余裕はなく、家族の看病を受けつつ自力で病魔から生還した。

 命だけは永らえたものの、病の後遺症で足腰が立たなくなり、目をほとんど塞がれてしまったチサは、その分嗅覚と触覚が冴えるようになっていた。であればこそ、己の血の臭いにまじって、体にまつわりつく悪臭も感じとったのだ。

 ――乞食の男の、蒸れた汗と垢の悪臭。男がチサに吐き出した白い汁の粘ついた感触。

 父母と祖母が野良仕事で家をあけている間を見計らい、不可侵の領域を区切るほいと柱を越え、囲炉裏の前に布団を敷いて横たわるチサの躰を蹂躙した男が、残していったものだ。

 乞食の男が去ったと気配で知ったあと、チサは盲て霞んだ目で、長患いのせいで華奢で白くなった片手で、土間に立派に建つ柱を拝む。

 

「トウビョウ様、トウビョウ様」

 

 トウビョウ様の中でも、特別に呪力が強いとされる個体を、チサは使えた。

 柱に支えられた、天井の板のない剥き出しの梁に、小さな蛇が巻きついている光景が、盲のチサには見えていた。頸に白と黄色の輪がある蛇は、冷ややかにチサを見下している。

 

「見ておられたじゃろう。あれは、チサの望んだことじゃありません」

 

 トウビョウ様はするするとほいと柱に溶け込んでいった。

 チサはトウビョウ様に見捨てられたのだ。柱に溶ける神様の姿を最後に、ゆっくりとチサの視野は狭まり、暗闇に埋めつくされていった。弁明は聞き届けられなかったのだ。

 引き戸をごとごと揺らす西風の音に、ざらつく鱗の擦れる音が混じっていた。やがてその音も遠くなる。

 風が、やんだ。

 

 


 

 

 文明は開花した明治の代といっても、それは都会のことだ。

 山岳に隔離された農村において、未来へ希望を繋げてくれるのは祈祷であり、呪いであった。当然土着の神様への信仰も厚い。

 明治の後期にさしかかる頃に、岡山県苫田郡で起きた少女の変死事件は、その不可解さゆえに、一時期は山陽新聞にも書き立てられた。しかし巡査や記者の取り調べに、少女の身内・村人のほとんどが口を閉ざしたこともあり、事件の熱は時間の経過と共に収束していき、やがて忘れ去られた。

 

 それは、事件の当事者である少女も例外ではなく。

 

(ここはどこじゃろうなあ。わたしは、なんでこねえな暗えところにおるんじゃろうか。)

 

 黒い空間にぽつんと残されたチサは、自由に動くようになった膝を抱えて座りこんだ。

 片方しかない自分の手がくっきりと暗闇の中に浮いているのが見えて、ここが暗闇ではなく黒い空間なのだと知った。

 上も下も、出口も入口も、音も匂いもない。正気ならば気狂いに追い込まれていたかもしれない空間は、不思議と心地よかった。

 元からほとんど盲ていたのだから、何も見えない視野には慣れている。むしろ、自分の体が見えるようになっただけ僥倖である。

 

(稼ぎ頭がおらんなって、お母とお父はどうなるんじゃろう。貧しい百姓暮らしに逆戻りじゃろうか。婆やんも……婆やんって、どねえな人だっけ。わたしは、だれの子じゃ? 名前は? ……、…………まあええわ……)

 

 記憶も思考も曖昧なまま、チサは黒い空間でまどろむ。

 

 ときどき、チサの前には人が現れる。

 程度の差はあれど、生者である彼らの体は皆一様に光に包まれていて、彼女に触れることはできない。

 現れる、というより、ときどきチサのいる空間を横切る彼らを、チサが勝手に眺めていた。

 若者もいたが、子供や老人が多かった。いわゆる〝霊感が強い〟と言われる人々だが、それをチサが知る由もない。

 

 ある者は素通り。

 ある者はちらりとチサを見て足早に去り。

 チサをじっと見つめる者は稀で、たいていは物事の道理もわからぬ幼い子供であった。

 

 チサはどこにも行けないまま、光に包まれた人々の服装や髪型が、時代と共に様変わりしてゆくのを、夢うつつに眺めていた。

 自我すら薄れてゆくのを感じながら、それを静かに受け入れ、己の消滅を物言わず待っていた。

 

 しかし、転機は訪れた。

 チサが死んでから百年以上が経っていた。

 怪我をした、ずぶ濡れの男だった。

 それがチサの前に投げだされたのだ。

 男の体を包む光は弱く、吹けば消えてしまいそうだった。

 

(あの怪我は、おえんのう。もう歩けんじゃろうな。わたしと同じじゃなぁ。)

 

 その時、チサの意識は何十年ぶりに冴えていた。

 死にかけの男を憐れんだチサは、すうっと魂を男に寄せた。光を失いかけている男の目が、死の間際にあって、霊体のチサを捉え、かすかに瞠目する。

 

 その瞬間、遠くのほうで稲妻のような光が走り、チサは何かに引き込まれるような感覚に襲われた。

 

 そうして、死後百年余りにして、少女の魂は異なる世界に渡った。

 トウビョウの祟りゆえに成仏しそこね、長い年月をかけてゆっくり消滅していた、壊れかけの魂である。

 崩壊を始め、塵屑のように軽く小さくなった魂だからこそ、入りこめた。

 正史なら、それと知られぬまま流れていた胎芽に宿ることができたのだ。

 

 


 

 

【甲龍歴410年】

 

「いいか、ルディ。そっと、そーっと置くからな。動くんじゃあないぞ」

「わかってますよ、父様」

「旦那様、その抱き方ではお嬢様の頭が安定しません。手はこのように……」

「お、おう。すまん」

「もう、しっかりしてよ、あなた。二人目なのよ?」

 

 幼い男の子の手をおおうように、女の手が添えられる。産褥期の明けぬ、気だるい体で、ベッドで上体を起こした女──ゼニスは、己の腿の上に座らせた愛息子にささやいた。

 

「ルーデウス、あなたの妹よ」

「……はい、母様。かわいいです」

 

 ゼニスに後ろから支えられながら短い腕に赤子をのせたルーデウスは、〝かわいい〟と称しつつも、緊張の面持ちで妹の顔を覗き込んでいた。

 

 赤みの残るやわい肌、はっきりと開かない目、頼りない毛髪、眉毛さえ生えていない、か弱い生物。

 ルーデウスは、初めて間近で相対する赤子に戸惑っているのだ、と、パウロとゼニスは解釈した。

 

(赤ん坊ってこんな小っこかったかな。)

 

 事実その通りである。

 前世の記憶を保有したまま、僻地の下級騎士の長男──ルーデウス・グレイラットとして生を受けた彼は、目の前の小さな生き物をまじまじと見つめた。

 

 なるほど、妹か。よくやったゼニス。

 「お兄ちゃん」か「お兄さま」か、どちらで呼んでもらおう。

 そんな下心が混ざった悩みは、今だけはルーデウスの頭から抜けていた。

 

 ルーデウスは記憶にある前世の弟が生まれた直後のことを思い出し、ついでに大人に成長した弟にパソコンを野球バットで殴り壊されたことも思い出し、苦い気持ちになった。

 

 俺達は仲良くしような、とぼんやり目蓋を開けた妹に、ルーデウスは心の中で語りかけた。

 

「あ、母様。妹は、目が母様と同じ青色なんですね。きれいです」

「うふふ、髪の色はルディと一緒よ。ルディも、この子を可愛がってあげてね」

「はい、もちろんです」

 

 ゼニスはルーデウスのつむじに優しく口づけ、パウロがこほんと咳払いをした。父親として、自分も息子に何か言わなければと思ったのだ。

 

「きっとゼニス似の可愛い女の子になるぞ。だからルディ、お前が妹を守ってやるんだ」

「わかりました。父様のような男から守ればいいのですね」

「ルディ~……」

 

 パウロは、普段から妻のゼニスの瑞々しい肉体では飽き足らず、使用人兼子供の乳母として雇ったリーリャにもセクハラ紛いのことを繰り返している。年端も行かぬ息子にからかわれるパウロの姿に、ゼニスがくすくす笑った。普段あまり表情の変わらない、メイドのリーリャも、珍しく口角を緩めている。

 パウロはきまり悪そうに頭をかいた。

 

 ルーデウスは、ずっと大人しくしている赤子の体と、重ねられたゼニスの手の間から、そっと自分の手を引き抜いた。

 妹の高い体温は、自分の手ごと妹を包み込む母の体温は、いまだ手のひらと甲に残っている。

 ルーデウスはゼニスの豊満な胸に後頭部を沈め、くつろいだ笑みを浮かべた。

 

(妹も無事に産まれたし、俺は魔術の家庭教師をつけてもらえる事になったし、安泰だね。)

 

「父様、母様、この子の名前は何ていうんですか?」

「お父さんがちゃんと考えてくれたわよ。ねっ、あなた?」

「ああ。何なら、ルディが生まれる前から決めてたぞ!」

 

 気が早い。

 

(いや、あんだけアンアンギシギシやってたら、すぐに次子はできるよな。早くはない……のかもしれん。)

 

 ルーデウスは、今世での両親である若夫婦の、旺盛な性生活を思い出して苦笑した。

 パウロは娘が生まれたのがよほど嬉しいようで、ルーデウスに抱かせたばかりだというのに、再び小さな赤ん坊を抱いてキスの雨を浴びせている。

 生まれたての新生児はむずがることも、泣きわめくこともなく、ぼんやりと受け入れていた。

 

 新生児の頃のキスはルーデウスもやられたことがある。口にされたか額にされたか頬であったかは定かではないが、男にファーストキスを奪われていたとはあまり考えたくないので、あれはデコにされたのだ、と思うようにしている。

 

「それで、名前は?」

 

 自我の見えない妹への助け舟も兼ねて、ルーデウスは父親の注意を己に向けさせた。

 パウロは無償の愛情に緩んでいた顔を引きしめ、家長らしい威厳のある声色と表情で告げた。

 

「この子の名前は、シンシアだ。シンシア・グレイラット」

「いい名前ね」

「だろ?」

 

 その威厳も十秒と持たない。実に手慣れた仕草で、パウロは赤ん坊を抱いたまま緩んだ顔でゼニスにキスしたからだ。

 頭上で繰り広げられるマウストゥーマウスの口づけに、ルーデウスはちょっと肩をすくめたのだった。

 

 ともかくにも、青い瞳の赤子はシンシアと名付けられた。

 シンシア・グレイラット。それが、パウロとゼニスの第二子であり、ルーデウスの妹の名だ。瑠璃色なゲームで七人の乙女を攻略するとルートが解放されそうな名前である。

 

「はやく喋れるようにならないかな……」

 

 なにせ妹である。

 お兄ちゃん♡と呼んでくれて、ゆくゆくは、お兄ちゃんと結婚する! なんて言ってくれるかもしれないカワイイ存在だ。

 そんな夢のある属性ゆえ、妹をヒロインに据えたフィクションは古事記の代より数知れず。

 前世では兄も姉も弟もいたが、妹だけはいなかった。現実の姉を知る者としては、姉よりも妹萌えに走ろうというものだ。

 

 生前好きだったラノベだのギャルゲーを思い出したルーデウスは、追随するように転生の直前、つまり死ぬ前に見た光景を脳裏に興した。

 トラックに跳ね飛ばされ、コンクリートの壁に叩きつけられた彼は、容赦のない雨粒を仰向いた全身に浴びていた。

 そのときに、唯一動かせる眼球が、捉えたのだ。

 色白で華奢な巫女服の少女が、横に寄りそうように寝そべっていた。

 

 彼の目は少女の肩越しに、再び迫りくる巨大な車体も捉えていた。

 

「      」

 

 薄い桃色の唇が動いていたと思うのだが、何と言ったのか。

 あの場所には三人の高校生と、俺と、トラックの運転手しかいなかったのだ。

 頭も打っていたから、そのせいで見た幻覚だろう。巫女服っていいよな。うん。

 

 あの少女は俺の幻覚であってほしい。

 生きた人間だったら、百キロ越えの俺が死んだのだ、まず助からず彼女も死んだだろう。

 兄弟に家を追い出された俺も可哀想だが、まだ若いのに死ぬのも可哀想だ。

 

 

 と、ルーデウスはそのように考えていた。

 

 パウロからシンシアを受けとり、寝台の傍らの揺りかごに寝かせたリーリャがそっとゼニスに進言した。

 

「奥様、そろそろお休みになられては?」

「あ、そうね。じゃあ、ルディ、シンシアにおやすみの挨拶をしてあげてね」

「はい。おやすみ、シンシア。また明日な」

 

 ありふれた家族の一幕。

 ありふれた光景の、しかし唯一無二である我が子達の姿に、ゼニスは幸福な笑みを浮かべた。

 

「あの、母様」

「ん?」

「赤ちゃんが生まれたあとは、母様も赤ちゃんもしばらく安静にしなきゃいけないのに、住み込みの家庭教師を雇って大丈夫なんですか? 僕のことは後まわしにしても……」

「あ~ん、ルディったら、なんて良い子なの!」

 

 ゼニスのベッドから降りようとしていたルーデウスは、強く抱きしめられ「むぎゃっ」と声を出した。

 

「大丈夫よ。いつ来られても迎えられるように、部屋の準備はもう済ませたし、うちにはリーリャもいるもの。私も治癒魔術があるからすぐに動けるようになるわ」

「そ、そうですか……」

 

(そうか、治癒魔術があるんだった。

 さすが剣と魔法のファンタジーの世界だ。)

 

 地球の中世よりは、出産における母子の生存率はかなり高いのだろう。

 転生して三年、今日も新たな知見を得たルーデウスは、まもなく家を訪れるという魔術の教師と、この世に存在するであろう魔術の数々に触れる未来に気をとられ、シンシアが自分と同じ転生者である可能性のことは微塵も考えてはいないのだった。

 

 


 

 

 死ななければ太平は得られぬ。

 そのような賢しらなことを言えるような知識人は、私を含め、身の回りにいなかったから、小説に書いてあった文言であろう。

 思い返せば、農村には珍しく、ひらがなであれば読めた父が、囲炉裏の火を頼りに小説を読み上げるすがたが浮かぶ。

 食事と小説の時間だけ、私は陽の射さぬ納戸から、板の間の囲炉裏端にいざって来た。

 小説。暮らしが上向きになるまでは考えられなかった娯楽だ。

 

 熱病で足が萎え目が不自由になるのと引き換えに、トウビョウ様の力が使えるようになった。

 トウビョウ筋の家に生まれたが、力はいっさい無く、父を産み老人まで生きた祖母と、力を使えたがために望まぬ姦通の後に祟り殺された私。

 どちらが安楽であったろうか。

 黒い空間をただよっていた頃は、太平を得ていたのだろうか。

 トウビョウ様のお告げを伝えるためだけに生かされていた頃よりは自由であったかもしれない。今となっては、すべてが靄の中に取り残されたように曖昧である。

 

 時間というものは生まれてから死ぬまで一瞬の空白もなく流れるのに、記憶は、気まぐれにちぎった絵の断片でしかないのだ。絵の断片のように、情景は思い出せる。しかし、そのときの私が何を思っていたのかは、もうわからない。

 

「たー、あう」

「――、――――?」

 

 空腹感をおぼえ、そばを横切る女性に向けて声を出してみる。目に慣れぬくっきりした造形の顔立ちに、西洋の服を着た彼女は、軽々と私を抱え、何事か話しかけると、私を抱いたまま移動した。

 

「――――、――」

「―――! ――……」

 

 移動した先で、しゃがんで庭仕事をしていた女性に渡される。彼女は庭仕事を中断し、日陰に置いた椅子に腰かけると、乳房をだした。

 私は口をあけて先端に吸いつき、彼女の乳から流れる母乳を腹がくちくなるまで飲んだ。

 

 何の話をしていたっけ。

 あ、眠い……。

 

 うとうとしていると、縦抱きにされて背中を叩かれる。ごふっ、と息を吐くと、女性が歩いているのだろう、肩越しに後ろに流れていく景色が見えた。

 

 立ち止まった。

 下から幼い男の子の声が聞こえてくる。

 横抱きに変えられ、景色が下降してゆく。私を抱いた女性がしゃがんだようだ。

 

 少し離れた場所には、青い髪の子が立っている。

 彼女を初めて認めたときは、何かと思って凝視したものだ。

 青空よりも濃い青の髪である。妖怪か化生の者かと思ったが、何でもないことのようにそこにいたため、悲鳴もあげられず慄いて気を失うこともできなかった。

 そして凝視を続ける私に、青髪の化生は、おさげにした己の青髪を持ちあげて、なんと私の手に握らせたのだ。

 視界にいるときは、以前より明瞭になった目で見はっていたが、人を喰ったり、悪事をしたりする素振りもない。

 化生だが悪い者ではない、と私は知ったのだった。

 

「――!」

 

 笑顔の男の子に顔をのぞきこまれ、頬をつつかれる。この体では這って移動しかできないため、最近は自分の顔を見ていないが、手足が赤ん坊のように奇妙に縮んでいるのだ。顔など、さぞ醜く縮んで歪んでいることだろう。

 

 もう一人、快活な感じのする男がひんぱんに顔を見せるのだが、今はいないようだ。

 

 死んだと思いこんでいたところを生還し、しかし手足が赤ん坊のように縮む奇病に罹患していた私を、この異人の一家は、いやな顔ひとつせず面倒をみてくれる。

 この男の子の母と思わしき人など、歯をなくした私に、我が子に与えるはずの乳を分けてくれる始末だ。

 それにしても彼女の赤ん坊が見当たらないから、死産であったのだろうか。

 

 

 目蓋を閉じ、目の前の女性を視る。

 頭の両端が熱くなり、絵が浮かぶ。

 不吉な結果であれば頭が痛む。

 しかし、痛みはなく、女性が赤子を抱いている絵が、三つ見えた。赤ん坊のほうは三つの絵ともそれぞれ異なり、そのうちの一つは、私の頬をつついた男の子が生まれた直後だろうと察せた。

 他の一つは、まだ先の出来事であるようだ。

 

 この家で厄介になり始めてから、一度は私の片腕をちぎったトウビョウ様は、また私に力を使うことを許してくださっている。

 やりすぎたと思っていらっしゃるのか……。

 いや、相手は神様だ。若い処女、それも片輪を好んでより強い呪力を与えること以外は、人間の尺度ではかれる相手ではない。

 

 彼女は生涯で三人の子を産むが、夭折する子はない。

 目出度いことだ、と安心していると、先を見すぎたのか、絵が変わってしまった。

 透明な……氷? 石? の内部で、目を閉じて睡っている姿が見えた。

 

 見えたのは一瞬。金卸のような鱗がビッシリ生えた巨大な胴体が視野を覆い、絵は消えた。

 先見が意思を逆らって終わるのは、初めてであった。意味がわからない。

 

 冬場に滝壺にでも落っこちるのだろうか。

 だから凍りついているのか。

 

 彼女たちの喋る異国語がわかるようになったら、水辺に用心するように告げなくては……。

 

 以前は、未来を視て神託を下すのも、依頼人の行方不明の身内を探すのにも金を貰っていたが、これは無償でやるべきだ。お母でも、婆やんでもない人に、衣食住だけでなく不浄の世話もさせてしまっているのだから。

 

 とくに世話をやいてくれる女性の将来をぼんやり危惧しつつも、私の意識は眠気に流されていったのであった。

 すぅ。

 

 

 

 

「寝ちゃいました」

「ふふっ、そうねえ」

 

 小声でしゃべるルーデウスに、ゼニスもまた、寝た赤子を起こさぬようにひそめた声で相槌をうつ。

 午前に行うルーデウスの魔術の訓練を見せてみようと思い立ち、庭の裏に移動したのだったが、赤ん坊はまずロキシーを見て、次にルーデウスを見て、幼い兄に頬を優しくつつかれながら寝息をたてはじめた。

 

 兄であるルーデウスは、同じ時期には知性の片鱗を見せていた。

 妹は違った。泣くことこそ少ないが、這って家中を移動したり、本を熱心に眺めたり、口を動かしてこちらの言葉を真似ようとする素振りはない。

 

 ぼんやりと虚空を見ていることが多いので、まだ気に病む時期ではないとは自分に言い聞かせつつも、ゼニスの心の底にはひそかに、澱のように不安が積もっていた。

 リーリャは、むしろルーデウスのほうが特異で、これくらいの反応の薄さは個人差の範疇だと言うが……。

 

「シンディ。お部屋でねんねしましょうか」

 

 シンシア・グレイラット。

 家族からはシンディと愛称で呼ばれている。

 転生という概念すら知らない彼女が、自分が別人に生まれ変わったことに気づくのは、まだ後のことである。

 



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二 家族の名前

 この家で面倒を見られるようになって、暦が一周するほどの月日は経たと思う。今日は庭に出してもらった。

 眼前には、巨大な馬の顔がある。体格がどっしりしていて、重厚な感じのある馬だ。体毛と同じ色の睫毛は豊かで長い。

 

「ほーら、シンディ、お馬さんだぞ~」

「うましゃん」

「そうそう、名前はカラヴァッジョだ。言えるか? カラヴァッジョ」

「かばっちゃ」

「まだ難しいかあ」

「とおさま」

 

 記憶よりも()まくなった手で、自分を抱く男の顔を指さして、とおさま、と繰り返した。

 男は破顔し、私に頬ずりをした。女のそれよりやや肌理の粗い肌が顬にすりつけられてこそばゆい。

 他人に擦り寄られているのに、不快感どころか、私は安心と快さを感じている。その理由はふたつある。

 

 ひとつめ、この男から性欲のにおいは感じられないこと。

 ふたつめ、この躰が赤ん坊であること。

 

 病気になったのではなく、肉体そのものが別人に変わっていた。

 己の境遇を一言で表せばそんな感じだ。

 なぜ、だとか、おぼつかないながらも家中を歩いて、目につく限りの柱を拝んでみても姿を見せないトウビョウ様のことも、考えるほどに疑問は尽きない。

 

 人の思考の及ぶところではないのかもしれない。

 であれば、私に残された道は、身に起きることを粛々と受け入れて、わからないことは、そういうものだ、と片付けて日々を生きるだけである。

 私がチサであった頃から、ずっとしてきたことだ。

 

 

 今わかることは、この肉体はよちよち歩きの嬰児で、シンシア、あるいはシンディ、あるいはオジョウサマという名前である。

 多い。

 体が移り変わる前にちぎられた左肩から先は、五体満足のシンシアの体にはきちんとくっついていた。でも、しばらく左腕が健在であることに気がつかなかったので、動かせないのではと心配された。

 

 天秤棒ほど痩せるまで働かなくても、食うもの、着るものに困らない暮らしぶりで、老人や病人はおらず、皆健康である。

 親切にも私の面倒を見てくれる家人たちの名前も、ようやくわかってきた。

 

 麦藁色の髪の天真爛漫な女は、かあさま

 茶髪の上背のある男は、とうさま

 暗い赤茶色の髪の物静かな女は、りーりゃ

 幼い男の子は、にぃに、もしくは、るでぃ

 青髪の化生の少女は、ろきしー

 

 みんな発音が難しい。

 とくに、りーりゃ。舌がもつれて、りにゃ、りにゃ、と呼んでしまうが、それでも伝わるらしく、返事はしてくれる。

 とはいえ、聞き取りのほうは上達してきた。

 

「シンディ、今日もお祈り?」

 

 かあさまに声をかけられた。

 馬房の見物を終え、屋内に戻された私は、入口の重い木戸のほうをむいて、膝をついて拝んでいたのだった。

 

 この家には乞食(ほいと)柱がない。

 ほいと柱とは、土間の真ん中に突っ立った柱である。

 村のどの家にもあって、物乞いにくる乞食は、ほいと柱から先には来ない。これは罰則を伴う掟ではなかったが、暗黙の了解であった。

 それが、ないのだ。

 そもそも滅多に物乞いも来ないし、過去に一度来たときは、かあさまたちはむしろ食卓まであげて、食事をふるまっていた。

 トウビョウ様はほいと柱に現れるものだ。少なくとも、前の家ではそうだった。

 

 姿を見せないとはいえ、力は引き続き使えるのだから、感謝と拝礼を忘れれば、どんな災いがあるかわからない。

 だから、ほいと柱の代わりに、玄関にむかって拝むのを欠かさないようにしている。

 

 かあさまは、おそらく耶蘇の神様を信仰しているのだろう。就寝前、食事前は祈祷をささげている。私の行動は、それの真似だと思われているのだ。

 

 滅多なことは言わないでほしい。

 トウビョウ様の怒りに触れたらどうするのだ。私の()まい手足では間に合わないかもしれないではないか。

 

 親切で優しいこの家の人達には、安楽な暮らしをさせてあげたい。

 トウビョウ様の力を使って、悪いことは、できるだけ私が遠ざけてやるのだ。

 

 今度からは人目にじゅうぶん気をつけて拝もうと思いながら、ふるふると首をふって否定する。

 かあさまは、「そう?」とたいして気にしたふうもなく、私を抱っこした。

 いい匂い。庭に咲いている桔梗によく似た花の匂いもかすかにする。

 

「ルディとお父さんはどこかなー?」

「おにわ」

「そうね! すごいわ、シンディ」

 

 褒められて嬉しくなった。

 ふふ、と笑うと、頬ずりをされた。やわらかくていい気持ちだ。

 

 かあさまに抱かれたまま窓の外を見る。石垣に囲まれた庭は広く、二人はそこで木の棒で打ちあっていた。棒は日本刀を模した形をしているようなのだが、日本刀のような反りはなく、刃は厚い。

 私の知るものよりかなり長く大振りだが、全体の雰囲気は銃剣に似ている。

 

「ゼニスさん」

「あら、ロキシーちゃん」

 

 階段を降って、ろきしーが現れた。

 彼女は困った顔をしていた。

 

「わたしのペンダントを見かけませんでしたか? 三又の槍の形で、昨日、家のどこかで落としてしまったようなのですが……」

「ペンダント? うーん、見てないわねえ……家のどのあたりとか、心当たりはない?」

「外したのは自室です。ひととおり探しましたが見つからないんです……」

 

 失せ物か。

 失せ人探しはちょっと集中する必要があるが、失せ物探しならば、息をするのと同じくらい容易い。

 

「りにゃ、かあさまのお部屋、置くした」

 

 ろきしーの視線がこちらに注がれる。かあさまは淡い青色の瞳だが、彼女の眼の青はもっと濃い。髪色と同じである。

 

 失くしたものは首飾り。首にかける紐が脆くなっていることに気がついた彼女は、自室で首飾りを外し、部屋の机に置いた。

 そして深夜、寝ぼけまなこで厠に行った彼女は、肌寒さゆえに外套を羽織り、寝ぼけた意識で首飾りをつかみ、外套の穴……ぽけっとと言うのだっけ、とにかくそこに入れて部屋を出た。

 廊下で首飾りが落ちるが、ろきしーは気づかず、部屋に戻って就寝。

 それを今朝、りーりゃが拾い、見慣れぬ首飾りをかあさまのものだと思い、かあさまととうさまの寝室にある、かあさまの化粧台に置いた。

 

 そんな絵が視えた。

 ろきしーとは同じ家で暮らしていて、かつ思い入れのある品であるようなので、より仔細に見える。

 

「リーリャさんが、置く下?」

「ああ、置いた、ってことね」

「おいた!」

 

 文法を誤ったらしい。おいた、おいた、と言い直していると、かあさまは私を抱っこしたまま、階段を上って寝室に向かった。

 

「まあ、本当だわ。よく見てたわね、シンディ」

 

 化粧台の上に置かれた首飾りを見て、かあさまが目を丸くする。前もって頬をさしだすと、ちゅっと口をつけられた。

 

 

「ロキシーちゃん、あったわよ!」

「そうですか、よかった……」

 

 かあさまが階段から安心させるように声を張ると、ろきしーは階下でほっと胸をなで下ろしたのだった。

 

 

 

 その日の夜。

 夜はりーりゃといっしょに寝ている。

 思ったのだが、この体の母親は、かあさまとりーりゃのどっちなのだろう?

 乳を飲ませてくれたのはかあさまだけど、添い寝はりーりゃで、まだうまく動かせない体と慣れない食具で上手くできない食事は、二人とも介添してくれる。

 どちらかが母親で、どちらかが子守りだと思う。

 まあ、もっと言葉を聞き取れるようになれば、そのうちわかるだろう。

 

 りーりゃと部屋に向かう私は、にぃにの部屋の前を通ったとき、ろきしーに呼び止められた。

 蝋燭の火をたよりに、二人で学問していたようだ。

 日が真上に登る前の時間帯も、外で何かしているなあという感じだが、何を学んでいるのかは、よくわからない。

 

「シンディは、魔術に興味はありませんか?」

「先生、シンディはまだ一歳ですよ」

「何を言います。ルディこそ、二歳の頃にはもう初級を使っていたそうじゃないですか。あなたたちは兄妹ですからね、可能性はありますよ……!」

 

 にぃにが、まさか!? という顔でこちらを見てくる。何なのだろう。注目されていることはわかったので、手をふりふり振っておいた。

 

まじゅじゅ(まじゅつ)

「ええ。契約では教え子はルディだけですが、ペンダントを見つけてくれたお礼です」

 

 にぃにが箱床の下から盥を引き出し、ろきしーの前に置いた。

 

「よく見ていてくださいね」

 

 言われた通り、ろきしーを見つめる。

 

 現在のろきしーを見つめる私の目に、過去の幻影が広がる。

 これは、三日前の夜だ。私は寝ている時刻。寝室で子供を作っているかあさまととうさまの様子を、細く開けた扉の隙間から、熱っぽい眼で覗き見ている彼女の姿が視えた。

 青い髪の少女の頬は紅く上気し、指先は脚の間で忙しなく動いている。

 ――ぁ……ッ……っ!

 蝋燭の火に橙色に照らされた内腿が強ばり、前屈みになって腹を震わせた彼女が、気を遣った余韻に熱い息を吐きながらくったりと扉の横の壁にもたれる所まで、見届けた。

 思いがけず、淫猥な秘密を知ってしまった。

 

「はわあ……」

「? まだ何もしてません」

 

 でもそれを誰かに伝えることはない。こっそり覗いているということは、ろきしーにとって知られたくない事のはずだ。

 自涜の事など無かったかのように涼しい顔をしたろきしーは、盥にむかって手を突き出すと、私に聞かせるように、丁寧に唱えだした。

 

「汝の求める所に大いなる水の加護あらん、清涼なるせせらぎの流れをいまここに――水弾(ウォーターボール)

 

 何が起こったか。

 ろきしーの手のひらから、水が膨れあがり、球体となって手のひらから離れた。

 水の球体はふわふわとしばらく留まると、急に張力を無くしたように弾けて下の盥に落ちたのだ。

 

 跳ねた水が、ぴちゃんと私の額にかかる。

 

 

「室内なので盥に落としましたが、本来はもっと遠くまで飛ばせるんですよ?

 それに、これは初級ですから極めればもっとすごいことも――」

「あ……あ……」

 

 私はゆっくりと後ずさり、部屋の入口に立っていたりーりゃの脚にぶつかった。

 蝋燭の橙色の光で片頬を照らされた彼女は、いかにも恐ろしげだ。

 

「きゃーっ!!!」

 

 こ、この女!!

 やっぱり化生の者だ! 妖怪だ!

 妖しい術を使った! こっちが油断して心をゆるした矢先に!

 

 私は大きな悲鳴をあげてりーりゃにしがみついた。

 

「あ、あれ? シンディ?」

「やーっ! こわい! ない! バイバイ!」

 

 思いつくかぎり言葉を並べて拒否していると、一階にいたかあさまととうさまが、なんだなんだと此処まで上がってきた。

 

「何があったんだ?」

「あらあら、どうして泣いてるの、シンディ」

「ここまで怖がらせるつもりは……すみません……」

 

 かあさまととうさまに見下ろされて、しどろもどろになっていたろきしーに代わり、にぃにが前に出て何やら弁解しているあいだ、私はぐすぐす鼻をすすりながら、かあさまに背中を優しく叩かれていた。

 ああ、ビックリした……。

 

「今夜はお母さんとお父さんとねんねする?」

 

 そう訊かれたが、首を振ってりーりゃのほうに腕を伸ばす。二人の寝室はろきしーが覗きに来るではないか。そんな場所ではおちおち眠れない。

 

「お嬢様にはまだ早かったようですね」

 

 私を抱っこしたりーりゃがそう言い、私たちの寝室に移動した。ろきしーはがっくりしていた。

 

 いつもならりーりゃの寝台の横に置かれた、子供用の小さな箱床の中に転がされるところだが、その前にしがみつくと、りーりゃは私を自分の寝床に入れたまま蝋燭を吹き消し、布団を引きあげた。

 

「ねんねしゆ」

「寝る前は、おやすみなさい、と言いましょう」

「おやしみむさい」

「はい、御休みなさい」

 

 冷めているようだが、甘えさせてくれない訳ではないのだ。

 

 


 

 

 なにかが怖かった気がするけど、朝起きたら忘れていた。

 朝食後、にぃにが蝋を薄く流し込んだ板を木の棒で引っかいて、字を書いていた。書蝋板というらしい。雑記帳の代わりであった石盤と石筆と似たような感じだろうと私は思った。

 いいなあと思いながら椅子によじ登ってちょっかいをかけていたら、にぃには、書蝋板をもう一つ持ってきて、私の前に置いてくれた。

 そして、カリカリと蝋を引っかいて字を書きつけた。

 

「これで、シンシアと読むんだ」

「しんしあ」

 

 私だ。以前はチサという名だったが、今の名前はシンシアあるいはシンディだ。

 

「こ()は?」

 

 下に書かれた字列を指さしてみる。

 

「ルーデウス。にぃにの名前だよ」

「?」

 

 にぃにの名前?

 

「にぃに、にぃにない?」

「にぃにだよ」

「?」

 

 ???

 にぃにが、ルーデウスでもあって?

 

「俺がお兄ちゃんだから、シンディは〝にぃに〟って呼ぶけど、本当の名前はルーデウスだ」

 

 にぃにってにぃにが名前じゃなかったの!?

 そんな! あんなにニコニコ笑って、「にぃにだよーうへへ」って言ってたのに!

 

「かあさま……」

「母様はゼニス」

「かあさま、ない?」

「〝母様〟っていうのは、シンディを産んだ人のことだよ。シンディにも、シンシアっていう名前があるだろ? 母様にも、ゼニスという名前があるんだ」

 

 なんと。

 私、かあさま改めゼニスの娘であったのか。

 昔もお母はいたが、この体のお母は彼女なのだ。りーりゃじゃなかった。

 

 じゃあ、

 

「とおさまは……」

「父様はパウロ」

「うええん」

 

 私は泣いた。

 名前だと思って呼んでいた単語がただの続柄であって、本名は別にあった悔しさ、言い表せぬ喪失感にわんわん泣いた。

 きっとりーりゃもろきしーも何らかの続柄名であって、本当の名前は、なんか違うのがあるのだ!

 

「りにゃあああ!」

「いや、リーリャさんはリーリャ」

 

 そこは違わないの?

 泣き止むと、おろおろしていたにぃに……じゃなくて、ルーデウスが、私の頭を撫でた。やれやれ仕方ないな、という感じの顔だ。

 人に触られるのは好きだ。もっと撫でてほしい。

 

「お嬢様!」

 

 リーリャがびっこを引くようにぎこちなく走ってきて、私を抱きあげた。

 まだルーデウスと居たかったので、やあんと声をあげたが、リーリャはひっしと私を抱いて離さない。

 リーリャはちょっと怯えた目をルーデウスに向ける。リーリャは私がルーデウスと遊んでいると、たまに邪魔してくる。

 やはり悪魔憑きかと前に呟いていたので、同業者か!? と思ってルーデウスを見つめて調べてみたが、全然そんなことはなかった。

 視える前世が人より鮮明なだけの、やさしい男の子だ。

 

「おっと、もうこんな時間だー。先生と魔術の訓練をしなくっちゃ」

 

 ルーデウスは棒読みでしらじらしく言い、そそくさと庭に出ていった。

 

「……行ってらっしゃいませ」

 

 リーリャはルーデウスの小さな背中に、少し前かがみになる程度のお辞儀をした。

 安堵している雰囲気。ルーデウスがいなくなって安心しているのだ。

 なんだかなあ。

 リーリャとルーデウスの仲は、良くない。

 

 

 家事をこなすリーリャについてまわり、飽きてルーデウスのお下がりのおもちゃ(ルーデウスが全く使わなかったそうなので新品同然)でひとり遊び、母様と帰ってきた父様たちと昼食を食べた。

 さてルーデウスが構ってくれるかと思いきや、そうでもない。彼は父様に剣の稽古をつけてもらうからだ。

 

 ちなみに、本名を知ったことだし、と思い、「るーでうす」と呼んでみたら、引き続きにぃにと呼ぶように頼まれた。

 よってこれからは、彼の呼び名はにぃにに戻る。

 

「だっこー!」

「ごめんね、お母さん今縫い物してるの。もしシンディにチックンしたら、痛い痛いなのよ」

 

 椅子に座っている母様の手の中で、針の先端がきらりと光る。近くには針山があり、そこには大小様々な針が何本か刺さっていた。

 痛いのはちょっと嫌だな。

 でも抱っこはされたい。

 

 リーリャは居ないし。

 仕方がないので、馬の足に車輪がついたおもちゃを持ってきて、母様の足元に座った。

 

 ふと気になり、母様の履物をじっと見つめる。膝下まで丈があり、踵の部分が高くなっている。

 深沓(フカグツ)は稲藁で編むものだが、これは似ても似つかぬ材質で、焦げ茶色のなめし革で作られているようなのだ。

 

「なんてお名前?」母様の沓をさわりながら訊いた。

 

「ブーツっていうのよ」

「ぶーつ!」

 

 よし、忘れないぞ。

 

「お母様のブーツが気になる?」

「ううん」

「あらそう」

 

 名前を憶えたから用はない。

 と、思ったけれど、やっぱりひとりで遊ぶのはさみしい。

 

「かあさまのブーツは、お山さんね」

 

 生前暮らしていた村から見えた、毛無山。隣の足は白馬山。

 手に持った馬が、山裾の母様のつま先から、尾根の膝まで登っていく。

 

 よいしょと立ち上がり、馬を登り切らせたとき、母様がつま先を交互に踏み鳴らし、膝を揺らした。

 

「ドッカーン! お山は噴火しました! きゃー! 逃げてーっ」

「きゃー!」

 

 慌てて木の馬を避難させる。

 母様はくすくす笑い、「また登りに来てね」と陽気な声で言った。

 

 また来てね、だって。行く?

 握りしめた馬の木彫りの目が私を見上げた。

 

 耳をすませば聞こえるはずだ。このおもちゃの内なる声が!

 

 ……ふんふん。度胸試しには最適?

 

「お馬さん、またきたのよ」

「んふふ、無事に帰れるかしら?」

 

 私はふたたび母様の足元にしゃがんだ。

 いつ噴火するかわからないのでドキドキだ。

 

 こうして私は、抱っこされたい気持ちを忘れるまで、思う存分母様と遊んだのだった。



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三 ロキシーと散歩

 夜の座学までは時間がある。

 教え子であるルーデウスに行う授業の準備を終えたロキシーは、気晴らしがてら、散歩に出かけることにした。

 アスラ王国は、ミリス神聖国ほどではないものの魔族への風当たりは強い。

 閉鎖的になりやすい農村であればその傾向はさらに強くなる。

 一年半前、ルーデウスの家庭教師として雇われてブエナ村に来たロキシーであったが、グレイラット家の者を除き、村人に歓迎されていない雰囲気はヒシヒシと感じていた。

 

 しかし、水聖級魔術師であるロキシーが旱魃の村に雨を降らせて以来、村人の態度は軟化していた。

 魔族であるロキシーを排斥して怒りを買い、助けてもらえなくなったら困るという打算も含まれるのだろう。

 ロキシーはそれでよかった。

 頼まれて魔術を使うときは少ないながらも代金をもらっているし、懐が潤えば新しい魔術本を買い、ルーデウスに教えられる範囲も増える。

 

 そのためには、ときどき村を歩いて友好を深める必要がある。

 

「ゼニスさん、少し散歩に出ますね」

「ロキシーちゃん、ちょうどよかった」

 

 窓辺の安楽椅子に腰かけて繕い物をしていたゼニスが顔を上げた。

 お遣いを頼まれるのだろうか。快く引き受ける心づもりでいたロキシーは、ゼニスがにこやかな顔を足元で遊ぶ娘に向けたことで、頼まれ事の内情を聞く前に察したのだった。

 

 

(子守りはあまり得意じゃないのですが……。ルディみたいな天才児なら、ともかく。)

 

 ロキシーの少し先を、まだおぼつかない足取りで歩くシンシアの歩みは遅遅としていた。

 とはいえ、数歩歩いては立ち止まり、また歩き出してはロキシーにあれは何、と訊ねる姿を見ると、子供の成長は早いものだと実感する。

 なにせグレイラット家に来たときは生後数ヶ月の赤ん坊だった子が、もう自分の足で立って喋っているのだ。

 

「あれ、なぁに?」

「チンという魔獣ですよ。蝮を好んで食べてくれるのでありがたがられていますが、臓器に毒を持つので肉を食べるのは危険です」

「どく……」

 

 シンシアは上空を飛ぶ鷹に似た魔獣を見上げ、首をそらしすぎて尻もちをついた。

 立たせて仕立ての良いワンピースについた砂を払ってやり、ロキシーは広大な田園風景をあてなく歩く。

 長閑である。

 

「この道をまっすぐ行くとウィーデン、さらに行くとロアという街につきます。反対に、あっちの方に行くと森がありますが、さっき見た魔獣よりも大きくて怖い魔物がいるので、子供だけで行ってはいけません」

「まもの?」

「魔物というのは――」

 

 きょろきょろとロキシーを振り返るので注意散漫になり、転びそうになるシンシアを抱き上げ、ロキシーは淡々と幼児のなぜなに攻撃に対応した。

 とたんに風景に見向きもせず、ロキシーの話を熱心に聞くシンシアは傍目にも愛らしい。

 

 

「おや、パウロさんのところの長女かい。こないだ見たときは赤ん坊だったのに、大きくなったねえ」

 

「かわいー! いくつになったの?」

 

「おーい、ソマル、可愛い女の子がきたぞー!」「うるせーよ兄ちゃん!」

 

「これよかったら貰って。うちの庭でよく実ったから……」

 

 

 シンシアに対する村人の態度はおおむね好意的であった。

 ブエナ村の中ではハイカーストに位置するグレイラット夫妻の長女ともあれば、邪険に扱われる由縁はないのだ。

 それにしても、自分の時とは天と地の差である。

 木陰に腰かけ、先ほどもらった桑の実をシンシアと分け合って食べながら、ロキシーは遠い目をした。

 

「んま!」

「ええ、美味しいですね」

「にぃに、あげる?」

「そうですね、ルディのお土産も残しますか。わたしが預かりますよ」

 

 シンシアは自分の分の半分以上を兄に残すようである。

 そのまま持たせていたら無惨に握り潰されそうだと考え、ロキシーはハンカチに包んで持ち歩くべく、シンシアから桑の実を受けとった。

 

「あ、手が汚れちゃってますね」

「うふ」

 

 果汁でベタベタになった手のひらを見られ、シンシアは少し恥ずかしそうに笑った。

 

「川……は、ちょっと遠いですし、ここで洗いましょう」

「かわー?」

「水が流れている所のことですよ」

「お水、お水ね、ないないよ?」

「今出すんです。さ、手のひらを上に向けてください」

 

 そこで、ロキシーはハッ! とした。

 昨夜、初級魔術を披露してみたら、泣いて拒絶されたのだ。

 また泣かれるのではないか、と戦々恐々とするロキシーの予想に反し、シンシアはものを貰うときのように手のひらを差し出したまま、きょとんとロキシーの挙動を待っている。

 

(でも、ベタベタな手で服を触られるのも嫌です……。せっかくゼニスさんから頂いた服ですし)

 

 ロキシーが今着ている服は、ゼニスのお下がりである。ゼニスが冒険者時代に着ていたという服をしばらく見下ろし、ロキシーは覚悟を決めた。

 

「……泣かないでくださいね?」

「? あい」

 

 杖をかざして詠唱を唱え、水弾を生成する。

 シンシアはじっとロキシーと自分の間に浮かぶ水弾を見つめている。

 ちらりとシンシアの表情を伺ったロキシーは、幼子の顔が恐怖で歪みだす気配がないことに安堵し、詠唱を続けた。

 

「はい、綺麗になりました」

 

 手を洗い流されたシンシアは、キラキラした目でロキシーに言った。

 

「もっかい!」

「え?」

「もっかい! もっかい!」

 

 ロキシーは戸惑いつつ再度水弾を生成した。

 ルーデウスのように無詠唱で――とはいかないため、詠唱の間をあけて杖の先に生まれたそれに、シンシアは手を叩いて喜んだ。

 単純な話である。

 暗がりで、蝋燭の灯を頼りに見る魔術はなにやら妖しげで恐ろしく見えたが、昼間に太陽の下で見る水魔術は美しかったのだ。澄んだ水は宙に浮かぶ宝玉とも、透明な玻璃が日差しを揺らめく光芒に変えて地面に映す様とも、シンシアの目には映った。

 

「きれーい!」

 

 精神年齢が多大に肉体に引っぱられているシンシアは、昨夜ロキシーを心中で「妖怪」だの「化生」だのと謗ったことは忘却の彼方であった。都合の良い脳みそである。

 

「ふふ、そうでしょう! 魔術は奥が深いものなんです!」

 

 一歳半の幼子の全身全霊の賛辞に気をよくしたロキシーは、水、火、風、土の四種の初級魔術を次々と披露した。

 

 小一時間後。

 休みなく魔術をねだられ、少し疲弊したロキシーは息を整えつつ、興奮で頬を林檎のように紅潮させたシンシアに話しかけた。

 

「ふぅ……。満足しましたか?」

「た!」

「わたしはちょっと疲れてしまいました。帰りましょう」

「おかえり?」

「自分が帰る時は、ただいま帰りました、と言うのがいいですよ」

「あい」

 

 ロキシーは木陰から立ち上がり、シンシアと手を繋いで来た道を引き返しはじめた。

 村の共用井戸の傍を通りがかったときである。

 ロキシーの前に三人の男児が立ち塞がった。母親や上の兄弟に甘やかされているのだろう。真ん中の肥満気味な男の子は、勝気な笑みを浮かべ、「いーけないんだ!」とロキシーを糾弾した。

 

「魔族がちっちゃい子ユーカイしてるぅ!」

「悪の魔族は母ちゃんに言いつけてやる!」

「自分もちっちゃい癖によ!」

 

「ちっちゃくありません」

 

 なぜか己の身長までからかわれ、ロキシーはムッとした。

 しかし、まともに取り合うのも馬鹿らしくなり、「また貴方たちですか」とため息混じりに腰に手を当てた。

 シンシアは兄と同じくらいの年頃の男の子の大声に驚き、ロキシーの後ろに隠れていた。

 

「ソマル君はさっき聞いたじゃないですか。この子はパウロさんのところの子です。グレイラット家の長男の家庭教師であるわたしが、同じ家の長女であるシンディと出かけたって、何もおかしなことはないでしょう」

「そんなの、魔族の嘘かもしれねーだろ!」

「疑うならグレイラット家まで来て確かめてみては?」

 

 やれやれと呆れたロキシーは、シンシアの手を引き、男の子たちの脇を素通りした。

 ぐうの音もでなくなったソマルは、休畑に降り、泥を手の中で丸めはじめた。

 

「魔族はこらしめてやる!」

「で、でも、ソマル君、ちっちゃい子にあたっちゃうよ」

「あたったら可哀想だろ」

「魔族にしか当てないから大丈夫だ!」

 

「あ、ちょっと――」

 

 幼い男の子が泥玉を正確にコントロールできるとは思えないのだが。

 ロキシーの制止むなしく、ロキシーをめがけたはずの泥玉はシンシアに向かう。

 水盾(ウォーターシールド)の詠唱は間に合わない。ロキシーはぱっとソマルたちに背中を向け、シンシアを抱きかかえた。

 べちゃ、と粘着質なものが背中に着弾した感触があり、ロキシーはどんよりと落ち込んだ気持ちになる。

 

「魔族が背中を向けたぞ!」

「なあ、やっぱ魔族が一人のときにやろうよ」

「なんだよ、つまんねーの。いいよ、退治は俺一人でやるから」

 

 ノリの悪い友達にがっかりしたように、ソマルは次の泥玉を作り始めた。

 

「……」

「シンディ?」

 

 しゃがんだロキシーの肩から顔を出し、シンシアは泥で汚れたロキシーの背中を覗き込んだ。

 

「せっかく魔族が隙だらけなんだぞー」

 

 次に、泥玉を振りかぶったソマルを見つめた。

 ソマルは寒気を感じた。一人で枝で薮を手当り次第つついていたら、子供の腕ほどもありそうな蛇が薮からぬるりと這い出てきて、自分の方に向かってきたときの恐怖に、その感覚は似ていた。

 

 つっと鼻の下を液体が流れる。

 

「ソマル君、鼻血!」

「え?」

 

 泥で汚れた手の甲で人中を擦ると、真っ赤な血がついた。

 俯いた足元の地面に、ぼたぼたと血が落ちた。

 

「う、うわ」

 

 腕で拭うが、止まらない。あっという間に血を顔や腕に塗り広げる結果になり、血に塗れたソマルを見た男の子たちは悲鳴をあげた。

 

「やばいって、もう帰ろう!」

「はやく止めなきゃ!」

 

 わあわあと騒ぎながら去っていく男の子たちを眺め、何だかよくわからないけど助かった、とロキシーは思ったのだった。

 

 

 

「ただいま帰りました」

 

 剣の鍛錬の休憩中か、それとももう終えたのか、庭に体を仰向けにのばしていたルーデウスと、その傍に仁王立ちになり、何事かを息子に話しかけているパウロに、ロキシーは声をかけた。

 ルーデウスはとたんに笑顔になり、起き上がってロキシーに駆け寄った。

 

「先生! おかえりなさい! シンディも、おかえり」

「にぃに! おみやげ!」

「えっ、なんだい」

「桑の実です。散歩中に貰いました」

 

 ハンカチに包んだベリーをルーデウスに渡し、杖を屋敷を囲む塀に立てかけたロキシーはぐっと伸びをした。

 近頃は大人しくなったと思ったのに、思いがけず村の悪ガキに絡まれて疲れたのである。

 

「にぃににくれるの?」

「くえるの」

「はは、そういうときは、あげる、って言うんだよ」

「あげるの!」

「ありがとう、シンディ」

 

 仲の良い幼い兄妹はロキシーの微笑を誘った。

 

「シンディ、パパは? パパへの土産は?」

「ないのよ」

「……ルディ、黙ってそれを父さんに渡しなさい」

「汚いですよ父様。自分が娘に好かれてないからって」

「んなっ、そ、そんなことねぇよ! なあシンディ?」

 

 シンシアは照れ笑いを浮かべて答えず、ロキシーに飛びついた。聞き取りが間に合わず、パウロに何を訊ねられたかよくわかっていないのである。

 しかし、パウロはそれを己の問いかけへの無視と受け取った。

 満面の笑みで「とおさま好き!」と答えてくれるものだと信じていたパウロは、動揺を隠しきれない。

 

「嘘だろ!?」

 

 パウロはシンシアを追いかけ、そうして、ロキシーの服の泥汚れに目をとめた。

 

「またエトのところの悪ガキか……。リーリャ! ロキシーちゃんの湯浴みの準備を頼む!」

「あ、そんな、今回はこれ一発だけでしたし、シンディには当たらなかったので……」

「シンディにもやったのか!? ロキシーちゃんは自分で対処できるにしても」

「は、はい。わざとではなかったようですが」

「……」

 

 パウロは眉根を顰めて黙り込んだ。

 娯楽の少ない農村で、退屈をもてあました子供がロキシーを標的にして何くれとちょっかいを出しているは知っている。

 見た目が異なる者を排斥したいと思う感情は多かれ少なかれ誰もが持っている衝動だ。

 甘やかされた子供は理性によるブレーキが緩いため、そんな遊びに手を出すのだ。

 もしも自分の子供たちが排斥される側であれば盾になって守り、万が一排斥する側に回ったら、父親として烈火のごとく叱るつもりではいるが、幸いに初子のルーデウスは聞き分けが飛びぬけて良く、次子のシンシアは差別だ排斥だのといった感情をもつほど成熟していない。

 

「では、わたしはこれで失礼します」

「ああ、悪いな、娘の面倒まで見させちまって」

「いえ……シンディは良い子でしたし」

 

 ロキシーは少女のなりだが成人しているし、本人も気にしていないようなので、表立って介入する事はなかったが、標的にされたのが幼い我が娘ともあれば話は別である。

 

 パウロは地面に放っていた木剣を拾い上げた。

 

「いいか、ルディ」

「はい、父様」

「男は、自分の妹や娘が侮辱されたら、侮辱した相手に決闘を申し込むものだ」

「け、決闘ですか……」

「ちょっと行ってくる」

「その悪ガキとやらに決闘を申し込むんですか!?」

「いや決闘はしない。注意してくるだけだ。この木剣は片付けておいてくれ」

 

 今にも殴り込みに行きそうなパウロに追いすがっていたルーデウスは、カクッと頭を落とした。

 

「ルディ、お前も行くか?」

「え。いや……僕は、シンディと遊んであげたいです」

「そうか。仲良く遊ぶんだぞ」

「はい、もちろん」

 

 パウロはルーデウスとシンシアの頭をわしわし撫で、石を組んだ塀の外に出ていった。

 事も無げに、庭の外に出た。

 ルーデウスはその背中を見送り、胸をなでおろした。知らずに強ばっていた体の力が抜けていく。

 ルーデウスは、外に出るのが怖い。

 庭までなら平気だ。しかし、門を踏み越えた瞬間、こちらの世界で過ごした四年余りの年月はすべて夢と変わり、自分は、まだ、雨の街を裸足で蹌踉と歩いている。ビル群は腐蝕した巨大な植物さながらに蒼ざめ、銀灰色の空の下で、廃墟と化す。

 そんな妄想が頭を離れないのだ。

 

 ルーデウスは、てぽてぽ歩いてパウロを追おうとするシンシアを引き止め、「にぃにと遊ぼう」と妹を家の中に誘導した。

 

 

「注意してくる」と出かけたパウロが戻ってきたのは、それから一時間後のことだ。

 部屋の中でシンシアと手遊びをしてやっていたルーデウスは、家に侵入する気配や足音がひとつではない事に気がつき、部屋を出て階段から階下の様子を伺った。

 

「ゼニス、今いいか?」

「はぁい、あなた。……どうしたの? アビルダさんとソマル君までいるじゃない」

「子供の鼻血が止まらないんだとよ」

 

 階段の中腹で見下ろすルーデウスの目には、白い顔で居間の椅子に腰かける男の子が見えた。

 ソマルというらしい大柄な男の子は、これもまた恰幅の良い母親らしき女性に付き添われ、鼻の下にあてがった古布を替えられている。母親は古布を膝に乗せた盥の中に捨てる。盥に溜まった古布はどれもぐっしょりと血で濡れていた。

 

(悪ガキの家に乗り込んだはいいものの、当の悪ガキが怪我してたもんだから、叱るに叱れなくなっちまったのか。)

 

 それどころか、家まで連れて来てやるのだから、人の良い男である。

 事情を推測しつつ、ルーデウスは妹の手をしっかり握って階段に腰かけ、もう少し成り行きを見守ることにした。

 

「血が出たのはいつから?」

「もう一時間は前。どんどん出て止まらないのよ」

 

 おろおろと答えたのは母親のほうだ。

 

「一時間も……。それは大変ね。

 ソマル君、鼻血が出る前に頭や鼻をぶつけたりした?」

「ぶ、ぶつけてない。きゅうに」

「そう! 教えてくれてありがとうね」

 

 ゼニスは男の子の頭を安心させるようにぽんぽん撫でた。

 

「今日は暖かいし、血流が良くなって、昔切った鼻の血管がまた切れちゃったのかもしれないわね。大丈夫よ、治癒魔術(ヒーリング)で治るわ」

 

 ゼニスは慣れた様子で詠唱を唱え、翳した手のひらとソマルの頭のあいだに、新緑の芽吹きを連想させる薄緑色の光が点る。

 いつ見ても神秘的な光景である。

 しかし、光が収束した後に、異変が判明した。

 

「あら……?」

 

 血が止まらないのだ。ソマルの鼻腔から流れつづける血は古布をどんどん赤く染めていく。

 治癒魔術が不発に終わったのではない。治癒魔術を浴びたソマルの頭皮の細胞は活性化し、短い毛髪は数ミリばかり伸びていた。

 

「ど、どうしたらいいのよ……! ゼニスさんの魔術が効かないなら、どうしたら」

「アビルダさん、落ち着いて。もう一回掛けてみるわ」

 

 母親のアビルダは卒倒せんばかりである。

 母親という大幅の信頼を置いている大人が取り乱すので、ソマルも泣きそうになっていた。

 ゼニスは両者を明るく励ましつつ、再度治癒魔術を施した。

 が、

 

「……リーリャ、ヨギの葉がまだ残ってるはずよ。すり潰して持ってきてくれる? 布も一緒にお願い」

「承知しました」

 

 一向に止まる気配のない出血に、ゼニスの表情が曇る。

 外に出たことがない、つまり両親と妹、乳母と教師以外の人間と交流したことのないルーデウスであったが、それが緊急事態であることは感じとっていた。

 

「母様、僕に手伝えることはありませんか?」

「そうね、術者が違えば効くかもしれないわ。ルディ、この子に治癒魔術をかけてくれる?」

「はい!」

 

 このまま血が止まらなければ、向かう先は失血死である。

 ロキシーを標的に泥団子を投げた事に対する怒りはあれど、死んでほしいとまでは思っていない。

 とたとたと階段を降りたルーデウスは、怠そうにしているソマルの顔に手をかざし、詠唱を唱えた。

 

 しかし、状況は変化しない。

 

「すみません、僕でもダメみたいです……」

 

 ソマルの母親の顔に絶望がよぎった。

 

「治療院まで連れて行こう。そこでもダメなら乗合馬車でロアまで」

「待って、あなた。あまり動かすと却って止血の妨げになるわ」

「なに、こいつはうちの息子より一回りもデカいんだ。少しくらい血を流したって大丈夫だ」

「ちょっとパウロさん! 適当言うんじゃないよ! あんたのせいで、うちのソマルが無事で済まなかったらどうしてくれるの!」

「お、おう……すまん……」

 

 頭上で交わされる会話を聞き流すことしかできないルーデウスの袖を、小さな手が引いた。

 

「にぃに?」

 

 不安そうな妹に、ルーデウスは笑いかけた。

 

「大丈夫、みんな喧嘩してる訳じゃないよ。ただ、ここに居ても出来ることはないからさ、にぃにと二階に戻ろう」

「とまったら、いいの?」

 

 シンシアは、椅子に座り、俯いて鼻を布で押えているソマルを指さした。

 

「そうだよ。中々鼻血が止まらなくて、困ってるんだ」

「んー……」

 

 ルーデウスに呼ばれ、一段一段手をついて全身で階段を上るシンシアは、途中、ちらりと階下を振りかえった。

 そして、階下をまっすぐ指さした。

 

「止まるよ」

「?」

 

 一歳半のシンシアは、まだ喋るのも辿々しい。

 しかしこの時だけ、やけに発音が明瞭に聞こえ、ルーデウスは首をかしげた。

 

「にぃに、逃げてぇ」

「おっ、追いかけっこか。じゃあ、にぃにの部屋まで競走だ!」

「きゃーぁっ!」

 

 はしゃいで駆けるシンシアに付き合い、廊下をぱたぱた走るルーデウスは、それと同じ頃、

 

「……あ、母ちゃん、止まったよ」

 

 幼い妹の言葉通り、ソマルの出血が嘘のように止まったことは知らないのだった。

 

 


 

 

 ロキシーが外に連れていってくれた。

 そこで知ったのだが、外つ国には今まで見たこともないような獣や、植物や、技術があった。

 とくに魔術というやつ。妖術かと思ったけど、嫌な感じはしないし、多分この国では当たり前に使われているものなのだろう。

 故郷にもあったら良かったのに。

 いや、じつは私が知らなかっただけで、行ったこともない東亰府などでは当たり前に存在した術だったりしたのだろうか。

 村の外に出たことは、ほとんど無かったからなあ。

 盆に、年の離れた姉が住み込みの奉公先から帰ってきて、山陽鉄道を見に連れて行ってくれたのは憶えている。村から出たのは、そのときだけだ。

 

 生前の私が育った村……名前は忘れた。

 通り名は〝日照り村〟だった。名の通りいつでも日照っていて、凶作の年が多く、そのおかげでトウビョウ様の力を借りて雨乞いのできる私は村で大切にしてもらった。

 日照り村の近くには森があった。今の私がいるブエナ村も同様に、居住区の傍に森がある。

 

「森には魔物が発生するのです」

 

 と、ロキシーは言った。

 

 森の方を見て、驚いた。

 魔物筋(ナメラスジ)に暗く澱む気配が、日照り村の森のそれとは段違いに濃い。

 ナメラスジは魔物の通り道である。故郷では――岡山では、この道の上に家を建ててはいけないと教えられていた。思いがけない災難や不幸に見舞われるからだ。

 トウビョウ様はナメラスジを見つけることができる。

 

 ブエナ村の森は……いや、注視してみると、視野の果てまで、ナメラスジは続いていた。その上、本来は一本道である道が蜘蛛の手のように枝道を伸ばし、それは広範囲に広がっている。

 あれでは、魔物が立ち入れない場所はほとんどない。

 それはほんとうにおそろしいことである筈なのにロキシーは平然としていた。

 魔物に対処できる自信があるというふうだ。

 外つ国では魔物への感じ方・関わり方が違うのだろうか。

 

 それから、途中であった男の子たちが、マゾクマゾクと言っていたので、ロキシーに意味を訊ねてみたら、そういう人種があるるしい。

 

 魔族の他にも、獣族、小人族、長耳族、炭鉱族、鬼族、龍族など、色んな種族がいることを教えてもらった。

 日本人以外の人種は露助しか知らなかった私には、初めて知ることばかりだ。

 ロキシーの種族名である〝魔族〟は人間が勝手につけた名前で、魔物とは一切関係がないそうだ。

 今まで妖怪だとか思ってごめんね。

 

 ロキシーを魔族と呼んでいた男の子のひとりは、ロキシーに泥団子を投げつけてきた。

 だから追い払うつもりで、少しばかりトウビョウ様の呪いを飛ばしたのだが、帰りの散歩道でロキシーから聞く話が楽しくて、解呪するのをうっかり忘れていた。

 可哀想なことをした。

 

「止まるよ」

 

 お帰りください。

 

 男の子の眉間から小さな蛇がぬるりと落ちた。

 一番力の強い、首に白と金の輪のある蛇ではない。あれは使いようによっては、呪われた者の一族郎党が祟られた上に、土地に穢れが残るのだ。おいそれとは呼び出せない。

 蛇は私を除いた誰の目にも留まらず、母様と父様たちの足元をするする這い、階段傍の柱に吸い込まれるように消えた。

 

 あらら。

 毎日拝んでたのは、玄関の柱なのに。違う柱に帰っていった。柱ならなんでもいいのか。

 

 不思議に思ったものの、にぃにと遊ぶのが楽しくてそんな疑問は忘れ、次に思い出したのはその日の夜中だ。

 この体、考え事に向いてないみたい。

 

 思い出した以上は気になって、隣りの大人用の寝台によじ登り、そこですやすや睡っているリーリャを揺する。

 

「りにゃ、りにゃ、あのね、蛇がね……」

「蛇は、いません、お嬢様……むにゃ……」

 

 リーリャに抱き込まれ、人の体温でぬくもった毛布の中で、四肢がじんわりと温まる。

 私はまた睡りに落ちたのだった。

 

 

 翌朝。

 リーリャに手伝ってもらいながら着替えていると、リーリャがこう訊ねた。

 

「怖い夢をみたのですか? 蛇がどうとか」

「?」

「憶えていらっしゃらないのですね」

 

 夢? 蛇?

 何の話だろう。

 

 と、首をかしげた私は、着替えを終えた後に一階に降りて、階段の柱を目にしたところで昨日の疑問を思い……出さず、結局お昼寝の後にやっと思い出したのだった。

 そもそも、リーリャにも誰にもトウビョウ様のことは報せてないのだから、訊いたところで答えが得られるわけがないのだ。

 もうちょっと賢くなりたい。




ナメラ-スジ【魔物筋/縄筋】
魔物の通り道を意味する中国・四国地方の俗信。
もとは神の使者が通る道筋だったものが、信心が廃れることで魔物筋に成り果てる。

日本の魔物は怪異や不幸といった実体のない物の意味合いが強く、西洋ファンタジーの魔物とは根本的に違うのかもしれません。
当作品では、六面世界の魔物はこのナメラスジの上しか通れないためナメラスジの外に退避すれば魔物は人を襲えない。
→しかしナメラスジが細く一本道である日本の土地と違い、六面世界の土地にはナメラスジがびっしり張り巡らされているため、やみくもに動いてナメラスジを回避するのは(ほぼ)無理、という設定です。オリ主はこれが見えるので仮に一人で森に入っても魔物に遭遇することはないです。ただし野生動物や山賊は回避不可能。


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四 緑髪の女の子(前)

 話せる言葉が増えてきて、これでロキシーにもっと色んなことを訊ける! と、思ったら、にぃにの五歳の誕生日を祝った翌日に、にぃにに〝水聖級魔術師〟という称号を授け、ロキシーは荷物をまとめて家を出ていった。

 両親は、次は私の家庭教師としてこのまま雇い続けたいとも思っていたようだが、しばらくは魔術の腕を磨きたいから、と断られていた。

 もっと仲良くなりたかった。悲しい。

 

 そうそう、この国には誕生日という日があり、人は自分が生まれた日に歳をとるそうなのだ。元旦にいっせいに歳をとるのではないらしい。*1

 私とにぃにの誕生日は近いため、にぃにが五歳になってすぐに私は二歳になった。

 にぃにの誕生日は、みんなでお祝いした。

 母様は本を、父様は直刃の剣を、ロキシーは紅い石が先端についた小さな杖を贈っていた。

 私はなにも用意がなかったため、お気に入りのおもちゃと外で摘んだ花でにぃにの箱床を埋めつくしておいたら、翌朝に起きがけのにぃにの「何じゃあこりゃあ!?」という声が家に響いた。

 

 三年後は、私もにぃにみたいにお祝いしてもらえるらしい。

 楽しみにしててね、と母様に言われた。やったあ。

 

 

 私がおっぱい以外のご飯を食べられるようになってから、母様は、ときどきお昼すぎまで家を空ける。

 そして、その家を空けている間は、村の治療院というところに居て、怪我をした人を治してあげたり、庭で育てた薬草を持ってきて具合の悪い人に煎じてあげたりしているのだ。

 働く母様について行ったり、お使いに行くリーリャについて行ったりするうちに、友達ができた。

 でも、ブエナ村に私と同じ年に生まれた子供はいないらしく、みんな年上か、背中におぶわれている赤ん坊だった。

 そして、女の子は女の子で、男の子は男の子で遊んでいることが多いみたい。

 わかるよ。異性と遊ぶとからかわれるんだよね。

 

「シンディちゃん、あーそーぼー!」

「エマちゃん!」

 

 暖炉のそばに腹ばいになり、にぃにに本を読んでもらっていたら、外から声が聞こえてきた。

 椅子に登り、窓を開け……か、硬い。開かない。ガタガタやっていると、にぃにが開けてくれた。

 

「あいがと」

「どういたしまして」

 

 観音開きの窓から顔を出し、門の真ん中に立っているエマちゃんに手を振る。

 

 エマちゃんは鋳掛屋の子だ。

 把手が外れた鍋を修理に出しに出かけたリーリャについて行ったときに、友達になった。

 エマちゃんは六歳。灰色の髪を肩の上で切り揃えた、眦のきりりとした綺麗な女の子だ。しっかりした子なので、エマちゃんと一緒のときは、子供だけで外に出る許可が母様から出ている。

 エマちゃんがいないときは、遊ぶのは庭か家の中だけ。

 

「外で遊ぶのか?」

「ん!」

 

 にぃにも来ていいよ。

 手を繋いで玄関に向かおうとしたが、「俺はいいよ」とそっと振りほどかれた。

 

 前に、友達が三人ほど来て庭でおままごとをしたことがあった。

 その時は番犬役が足りなくて、にぃにに混ざってもらったのだけど、門の傍を通りかかった男の子たちにからかわれたのだ。

 

『あいつ、男のくせに女と遊んでるのかよー!』

『変態! へーんたい!』

 

 にぃには傷つき、家の中に戻ってしまった。

 可哀想に。男の子たちにはみんなであっかんべーを返しておいた。

 

 シンディちゃんのお兄ちゃんは乱暴者じゃないから、また来ていいよ、って言われてるんだけどなあ。

 あ、でも、ハンナちゃんだけは、なんか目がキモチワルイからやだ、って言ってたっけ。

 にぃには気持ち悪くなんかないやい。

 

「りーにゃ、行ってきまぁす」

「行ってらっしゃいませ。夕食までにはお帰りくださいね」

「うん!」

 

 〝リーリャ〟の発音はいまだ困難である。

 

 

「今日は何する?」

「輪回しやりたいな」

「昨日もしたじゃん」

「川遊びは?」

「ちょっと寒いかも……」

 

 木の下で、車座になって真剣に話しあう女の子たちが結論を出すのを待つ。

 私は年少者ゆえ、発言権は無きに等しい。何でも楽しいから何でもいいんだけどね。

 エマちゃんの膝の上で、腹に回されたエマちゃんの手を持って勝手にぱちぱち打ち鳴らしているうちに、今日の題目は決まった。

 結婚式だ。

 

「私とシンディちゃんは、花冠の花を集める係ね」

「わかった!」

 

 セスちゃんに重大な係に任命された。

 セスちゃんが前掛けの裾を持って受け皿を作ったので、私は山茶花に似た花を摘んでは、そこに入れていく。

 手先の器用なソーニャちゃんが集まった花でどんどん花冠を編んでいき、余った花で腕飾りも編んだ。

 他の子が家から古くなったシーツを持ってきて、体に巻き付けて服っぽく仕立てていく。

 嫁と婿の役に分かれて演じれば、楽しい結婚式ごっこだ。

 おままごとでは必ずといっていいほど赤ちゃん役を任せられる私だが、結婚式ごっこなので私も何回かお嫁さん役をさせてもらった。なぜか相手は必ずエマちゃんだった。

 いいよね、結婚。

 トウビョウ様は処女がお好きでいらっしゃるから、私は生涯できないけれど。

 

 

 飽きるほど結婚式ごっこをして、誰かが草笛を作って吹き始めて、今はあちらこちらでピーピーと笛の音が聞こえてくる。

 

 ふと、思った。

 ブエナ村は小さな開拓村で人口はさほど多くなく、子供の数もまだ少ない。そのため、男の子とはあまり話したことがないが、名前は知らなくても顔はおそらく全員憶えている。

 

 では、女の子は?

 私が、名前も顔も知らない女の子は、ブエナ村にいるのだろうか。

 

 居なかったら全員と友達だということだから嬉しい。

 居るならその子とも友達になりたい。

 

「エマちゃん」

「ん?」

「もしわたしがね、知らない子がいたら、知りたいの」

「……シンディちゃんが会ったことない子?」

「うん」

「いないわよ」

 

 そうなんだ。

 じゃあ私は全員と友達というわけだ。

 

「ひとりいるよー」

 

 と、思いきや、ピーピーと笛を吹いていたメリーちゃんが訂正してくれた。

 メリーちゃんはブロンドの巻き毛が特徴の、おっとりした女の子だ。

 

「誰それ?」

「猟師さんのとこの子」

「……あー!」

 

 思い出したようにエマちゃんが声を上げた。

 本当に忘れていたみたいだ。

 

「名前は? なんだっけ?」

「たしか……ルフィ? って呼ばれてたよ」

 

 ルフィちゃん!

 

「エマちゃん、エマちゃん、ルフィちゃんとも遊ぼ!」

「いいよー」

 

 当然のように私の手をとって腰を上げかけたエマちゃんは、周囲を見回して「何?」と不思議そうに続けた。

 

「みんな来ないの?」

「だって、あの子、髪の毛緑だもん……。魔族じゃないってママは言うけど、怖いもん」

「男の子みたいな格好してるし」

「一緒にいるとソマルの奴に叩かれるよ」

 

 ルフィちゃんは不評なようだ。

 積極的に仲間はずれにしてる訳じゃないけれど、さほど仲間に入れたいわけでもないみたい。

 

 どんな子なのかな。

 

 ちょっと探してみよう。

 狩猟業や皮革業など、生き物の命や体の一部を扱う仕事を生業にしている者は穢多(えた)といって、穢れを背負いやすい。

 その穢れを引いた子で、髪が緑色で短い女の子を探せばいい。

 

 頭が熱くなり、絵が視えた。

 女の子は己の髪を隠すように上着の頭巾(フード)を被り、籠を胸に抱き込んで歩いている。

 なぜそんなに大事に抱える必要があるのか。男の子たちに泥玉をぶつけられているからだ。

 男の子は、前にロキシーに泥玉を投げつけていた子たちだ。

 

 また以前のように呪いを飛ばそうと思ったとき、ひとりの男の子が出てきてルフィちゃんを庇った。

 にぃにである。いつのまに外に出ていたのだろう。

 

 にぃにが来れば、ぜったい大丈夫だ。

 私が介入しなくても、いじわるな子らを追い払ってくれるだろう。

 そして、ルフィちゃんがにぃにの初めての友達になるかもしれない!

 

 すると、絵が変化し、すっぽんぽんのにぃにがルフィちゃんの下着を下ろしている絵になった。今起こっている事ではない。でも近い未来に起きるのだろう。

 なんで?

 

「ねえねえ、ママが、どんぐり集めてきた子にはご褒美くれるって!」

 

 ソーニャちゃんの一言により、私たちは籠いっぱいにどんぐりを集めることになった。

 今は、冬の準備をする期間なのだという。大人たちは、越冬のために忙しくしている。村で豚を飼うのも冬の準備の一環で、十一月にどんぐりを食わせて太らせた豚を十二月に潰して、塩漬け肉やソーセージを作るらしい。

 豚の世話は村のみんなが持ち回りで見ていて、今日はソーニャちゃんのお家が当番だ。

 ルフィちゃんに会いに行く話は流れてしまったような感じではあるけれど、ルフィちゃんのところにはにぃにが行くし、まぁいいか。

 

 

「コラ!」

「!」

 

 どんぐりを集めていると、突然腋の下に手を入れて持ち上げられた。腕に抱えていたどんぐりが、ぱらぱらと朽葉の上に落ちて、乾いた音をたてた。

 

「森に入ったらだめだろう!」

 

 眩しいくらいの金髪。

 尖った長い耳。

 少し前の私ならば、妖の類かと思い、力の限り暴れて抵抗したところだが、ロキシーという前例があるのだ。動揺はしない。

 

「めんなさい……」

 

 でも急に大声を出されたことには驚いた。

 目を開いたまま謝ると、私を持ち上げた男は表情をやわらげた。

 

「よし、良い子だ。森の中には魔物がいるから、子供だけで行ってはいけないよ」

 

 そういえばロキシーも森へ行ってはダメだと言っていた。母様も父様も。

 この国でいう魔物は総じて凶暴で、人を襲って食べてしまうらしい。

 

 ちらっと横を見ると、鬱蒼とした木々の集団が隣りに広がっていた。梢は密集して日差しを遮り、先は見渡せないほど昏い。

 魔物筋を踏まなければとりあえず魔物に遭遇することはないけれど、迷い込んだら帰って来れなさそうだ。

 どんぐりが沢山落ちている方に進むうちに、私は森の中に入りかけていたようだ。

 気がつかなかった。

 

「シンディちゃん!」

 

 耳長男の大声を聞きつけたのか、エマちゃんがこちらに駆け寄ってきた。他の子供たちもなんだなんだと来た。

 私は地面に降ろされ、エマちゃんに走りよった。

 

「君たち、小さな子はちゃんと見てあげなきゃ……」

「シンディちゃん! 目ェ離してごめんね!」

「わ、わかってるならいいんだ。うん」

 

 エマちゃんにがばっと抱きしめられた。

 男はエマちゃんたちのことも叱ろうとしていたが、出鼻をくじかれたようだった。

 エマちゃんは頭が良い。うまいことお叱りを回避したのだ。

 私のせいでみんなが叱られるのは忍びないので、一番に来てくれたのがエマちゃんで良かった。

 

「あ、この人だよー」

 

 と、メリーちゃんが男を指さした。

 なんの話? とメリーちゃんと男を交互に見ると、補足してくれた。

 

「この人、シンディちゃんが会いたがってた女の子のお父さん」

 

 あら。

 つまりは、猟師さん。

 言われてみれば、箙を肩にかけているし、私を降ろしてから近くの地面に置いてあった弓を拾い上げていた。

 

 男は目を輝かせ、拾ったばかりの弓を放り投げんばかりに、私を抱きしめたエマちゃんのそばに屈んだ。

 

「シルフィエットのことかい!?」

「あ……シルフィエットっていうんだ……。うん、この子――シンディちゃんが、その子と友達になりたがってるの」

 

 答えたのはエマちゃんだが、男は煌々した目で私の手を握る――というよりすっぽり包んで上下した。

 なんだかすごく嬉しそうだ。

 

「そうか、君が……。僕はロールズ。シルフィエットの父親だ。もうすぐ娘が弁当を届けにくると思うから、そのときに紹介するよ。

 嬉しいなあ。娘は友達がいなくてね、よかったら君たちの仲間に入れてやってくれないかい?」

 

 もちろん。友達が増えるのは嬉しい。

 エマちゃんは「いいよ」と答えたけれど、ソーニャちゃんはもじもじしながら言った。

 

「……わたし、帰ろうかな……」

「うーん、ソーニャが帰っちゃうなら私もー」

 

 メリーちゃんまで帰りたがる素振りだ。

 ハンナちゃんとセスちゃんはどっちに付こうか迷っている。

 ロールズさんの長い耳がしゅんと悲しそうに垂れた。

 

「シンディちゃんは残りたいんだよね?」

 

 エマちゃんに訊かれ、頷く。

 

「いっしょがいい」

「そうだね、皆で遊びたいよね」

 

 エマちゃんは笑顔で私の頭を撫で、ソーニャちゃんとメリーちゃんに近づき、強い瞳で二人を見つめた。

 

「帰るの?」

「だって、怖いもん」

「ソーニャが一人になるのは可哀想だから、私も帰るよ」

「そっか。メリーちゃんは、ソーニャちゃんが居るなら帰らないのね?」

「うん」

 

 ちょっと緊迫した雰囲気。

 エマちゃんは、ソーニャちゃんに囁いた。

 

「私と仲良し、やめたいの?」

 

 エマちゃんは強い。ハキハキ喋るし、六歳にしては背が高い。

 ふだんは優しくて、みんなが仲良くできるように気を配っているけれど、意見が食い違うと、こういう風に他の子に言う。

「仲良し、やめたいの?」は、次からは貴方は仲間はずれだけどいいの? の意なのだ。

 

「やめたくないよ……」

「じゃ、帰らないよね?」

 

 ソーニャちゃんが頷いた。

 こうして私たちは、森を監視する櫓の傍で、ロールズさんの娘を待つことにしたのだった。

 

 


 

 

「おーい、ルフィ!」

 

 ロールズさんは、子供たちを順番に物見櫓に登らせてくれて、そこからの景色を見せてくれた。そんなロールズさんがふいに櫓の上から声を張ったのだ。

 しばらくすると、髪の短い女の子が籠を抱えてこちらに歩いてくるのが見えた。

 あの子が、ルフィ改めシルフィエットちゃんだ。隣りにはにぃにがいる。にぃには私を見つけて手を振った。

 

 ロールズさんはするすると櫓の梯子を降りて、シルフィエットちゃんと、初対面らしいにぃにと何事か話している。

 

「行こ!」

 

 エマちゃんに手を引かれ、私たちも三人のそばに行ったが、シルフィエットちゃんは、驚いたようににぃにの後ろに隠れてしまった。

 その隠れ方も控えめで、人を警戒している栗鼠のようだ。

 

「緑色だ……」

 

 誰かが呟くと、泣きそうな顔で頭巾(フード)を目深に被って緑色の髪を隠した。

 せっかく愛らしい顔なのに。

 

「なんで泥だらけなの?」

「えっ、えっと……」

 

 ハンナちゃんは普通の声色で訊ねたが、シルフィエットちゃんはまるで責められたかのようにたじたじになっている。

 シルフィエットちゃんの隣りに移動して、冷たい白い手をきゅっと繋いでみると、彼女は戸惑ったように私を見下ろした。

 

 口ごもるシルフィエットちゃんに代わり、にぃにが答えた。

 

「さっき行き遭った男の子たちにイジメられてたんだよ。そのせいで泥だらけなんだ」

「男の子って、イマルとソマル?」

「あー……そういえば、一人はソマルって呼ばれてたような」

「えー! ひどい!」

「大丈夫? 叩かれてない?」

「う、うん。泥玉だけ……ルディが、助けてくれた……」

 

 なんとなく一歩引いた様子だった子たちは、いっぺんにシルフィエットちゃんの味方になった。〝かわいそう〟は〝かわいい〟と同義であると私は思う。

 かわいそうなシルフィエットちゃんは、この瞬間女の子たちにとってかわいい存在になったのだ。

 

「なんなの、あいつ」

「次会ったらみんなで無視しよーよ」

 

 この場にいないソマル君とその兄の悪口に花が咲きかけたところで、

 

「あんなやつの話、しても楽しくないよ。

 ね、ルフィちゃんとシンディちゃんのお兄ちゃんも、私たちと遊ぼ!」

 

 と、エマちゃんが笑顔で言った。

 きょとんとしていたシルフィエットちゃんだったが、頬がじわじわと赤くなって、ロールズさんよりやや長い耳が上下にパタパタ動いた。

 

「う、うんっ! 遊ぶ! ボクも入れて!」

「俺もいいの?」

「うん。あんたは男の子だけど、大人しいから特別ね」

 

 特別と聞き、にぃには嬉しそうな、ちょっと締りのない笑みを浮かべかけて……「あれ?」という顔でシルフィエットちゃんを見た。

 

「何する?」

「どんぐり集めの続きは?」

「そーしよー」

 

 早々に次の予定が決定した。

 シルフィエットちゃんと繋いだままの手が強く握り返される。

 

「……ぼ、ボク、どんぐりがたくさん落ちてるとこ、知ってる……」

 

 声は小さく、どもっている。頬は夕陽みたいに真っ赤だ。

 握り返してくる強さで、彼女なりに勇気を振り絞っているのだとわかった。

 

 エマちゃんたちはお互いすばやく視線を交わし、シルフィエットちゃんに好意的な声を投げかけた。はぐれ者の彼女を真に仲間に入れることをたった今決めたみたいだった。

 

「すごいじゃん!」

「ほんと? どこにあるの?」

「あの丘の、木の下……」

「じゃあ、あそこまで一緒に行こう。籠は持ってる?」

「も、持ってない……ごめんなさい……」

 

 メリーちゃんとエマちゃんに訊ねられ、シルフィエットちゃんが申し訳なさそうに耳を下げると、ロールズさんが夕食らしいパンと水筒を取り出して、空になった手提げ籠をシルフィエットちゃんに渡した。

 

「ここに入れるといい」

「いいの?」

「ああ。ほら、行っておいで。みんなと仲良くするんだぞ」

「うん!」

 

「森の近くには行かないように」とロールズさんがみんなに向けて言うと、にぃにが「僕が責任をもって全員を送り返しますよ」と返事をした。

 

「そういえば、君はパウロさんの子だね。聞いていたとおり、礼儀正しい子だ」

「ええ。そこのシンシアの兄でもあります」

 

 名前を呼ばれたので、はーい、と手を片っぽあげておく。

 

「兄妹ともども、この先ご迷惑をおかけする事もあるかと思いますが、そこは我が子の友人ということで多目に見てくださると幸いです」

「迷惑なんて、そんな……」

 

 にぃにはそれから少しの間、ロールズさんと話していた。

 暗くなる前に帰るとか、捜索がどうとか、話の内容がむずかしくてほとんど意味はわからなかった。

 ただロールズさんがしきりに感心していたから、大人顔負けの口を利いたのだろう。

 

「シンディちゃんと手を繋ぐ係は、私ね!」

「あ……」

 

 にぃにが私と手を繋ごうとしたが、さっとエマちゃんが躰を割り込ませて阻止した。引き寄せられた勢いでシルフィエットちゃんと繋いでいた手がすっぽ抜け、私はシルフィエットちゃんとバイバイすることになった。

 

 リーリャに背負われて鋳掛屋に行ったときの事を思い出す。まだ口も利けなかった私は、やっとつかまり立ちができるようになった程度だった。小さい子供の遊び相手は務まらないから、一緒にいても楽しくないだろう。だというのに、エマちゃんは「えまの妹にする!」と私を抱っこしてなかなか離そうとしなかったのだ。

 エマちゃんと歩くから、にぃにとも少し距離ができてしまった。

 目的地で落ち合うことになるだろう。

 

 またあとでね、って、何と言えば……?

 

「にぃに、ばいばい?」

「バイバイなの?」

 

 にぃには苦笑していた。

*1
満年齢が導入されたのは明治35年。誕生日を祝う習慣が定着したのは昭和25年以降




ブエナ村で過ごす幼少期は長々と書く予定です。
テンポが遅く感じるかもしれませんが読んでくださると作者が喜びます。


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五 緑髪の女の子(後)

 総勢八名で集めたものだから、どんぐりはあっという間に集まった。

 にぃにが魔術で突風を吹かせると、枹の梢はバラバラと雹のようにどんぐりを振り零した。そこまでは良かったのだけれど、木の下にいた子は頭にも顔にも落ちてきたから大変だ。

 歓声は悲鳴に変わり、悲鳴はまた歓声になり、笑い声に変わった。

 顔に当たるとなかなか痛くて、私は近くにいたソーニャちゃんにしがみついてどんぐりの雹を回避した。

 ちらっとシルフィエットちゃんを見ると、彼女は「服にも入っちゃった」と言いながら、上着の頭巾をつまんで笑っていた。

 痛い、と笑いながら叫ぶソーニャちゃんの腕の間から、それを眺めた私はなんだか嬉しくなったのだった。

 

「ソーニャのお母さーん」

「どんぐり集めてきたよー!」

「たっくさんあるよー」

 

 硝子の嵌っていない鎧戸の下に木箱を置き、踏み台にしたメリーちゃん、ハンナちゃん、セスちゃんが押し合うように鎧戸から顔を覗かせ、家の中に声をかけた。

 

「手伝ってくれて助かったよ。うちには人手も少ないしね」

 

 ソーニャちゃんの母親はそう言うと、家の裏庭にまわり、逞しい腕で蜜蜂の巣箱から巣蜜を取り、振る舞ってくれた。

 蜂も越冬があるため巣を削りすぎると冬に全滅する可能性があるそうで、一人一口分だった。

 巣蜜は粘り気のある甘味でとても美味しかった。

 味のない塊が口の中に残り、吐き出そうとすると、にぃにに食べるように言われた。口の中に残った塊――蜜蝋にはプロポリスという成分が含まれていて、それは花粉症に効くらしい。

 花粉症もプロポリスも初めて聞く言葉だった。

 にぃには物知りだ。

 

「養蜂もしているんですか?」

「そうだよ。蜂の世話や家の事で忙しいってのに、豚の世話まで任されちゃあ、首が回らないよ」

 

 訊ねたにぃにに、ソーニャちゃんのお母さんは肩を押さえて片腕を回してみせた。くたびれているみたいだ。豚の世話は当番制だから、もう少しの辛抱である。頑張ってほしいものだ。

 

「豚は森に放牧すればいいのではないでしょうか? 餌を工面する手間が減ると思うのですが」

「そういう訳にもいかないさ。村の中で守ってやらないと、魔物に食われちまうからね」

「父様の話では、定期的に魔物狩りを行なっているとのことでしたが、それでも駄目なのでしょうか?」

「そりゃね。魔物ってのは気がついたら発生してるものだ。ゼロにはできない」

「なるほど」

 

 ……? …………??

 大人の話ってつまんない。

 そう考えたのはソーニャちゃんも同じなようで、痺れを切らしたように、メリーちゃんに「隠れんぼしたい」と耳打ちしていた。

 メリーちゃんはそれに頷くと、声を少しはりあげた。

 

「ねー、次はみんなで隠れんぼしよー」

 

 巣蜜を食べ終わった私たちは、メリーちゃんの一言でソーニャちゃんの家をあとにしたのだった。

 

(おん)決めは?」

「足出してー」

 

「……隠れんぼって、なに?」

「かくれるの」

 

 不思議そうなシルフィエットちゃんに教えると、よく分かっていない様子で首をかしげられた。頑張って説明しようとしたが、伝わっていないようだ。

 もどかしい。もっと私がぺらぺら喋れたらいいのに。

 そう思っていたらセスちゃんが説明してくれた。

 

「隠になった人は目をつむって十まで数えて、他の子はその間に隠れるんだよ。数え終わったら、ちゃんと「もういいかい?」って、聞いてから探しに行ってね」

「わ、わかった」

「ルールわかった? 足出して」

 

 全員がぐるりと円形になるように片足を出したのを確認し、屈んだセスちゃんが「お、ん、さ、ん、お、ん、さ、ん、き、め、た」とみんなのつま先に順番に触れながら歌った。

 

「た」と言い終わると同時に、指が私の足の上でとまる。

 私がみんなを探す役だ。

 年少の私に気をつかって、いつもはそのとき隣りに立っている子が一緒に隠をやってくれる。私、まだ十まで数えられないし。

 

「にぃにと一緒にオニやろうか」

「やる!」

 

 今日はにぃにが申し出てくれた。思わず喜びのバンザイをした。

 

「オニじゃないよ、(オン)

「あ、そうだったか」

 

 他の子に訂正され、にぃにがポリポリ頬をかいた。

 私もちょっとドッキリした。偶然だろうけど、鬼という言葉がにぃにから出てくるとは思わなかったから。

 

 村の中は広いため、隠れていい範囲を決めてから、私はにぃにと一緒にその場にしゃがんで顔を手で隠した。

 いーち、にーい、とのんびり数えるにぃにの声に混ざって、遠ざかっていく足音と喋り声が聞こえてくる。

 シルフィエットちゃんは不安そうにしていたけれど、エマちゃんが引っ張っていってくれるだろう。

 

「十! 終わりだぞ、シンディ」

 

 にぃにに肩を触られ、顔をあげる。

 しばらく目を塞いでいたからか、太陽の光が眩しく感じる。

 私が目をしぱしぱさせている間、にぃには周囲を見回していた。

 

「この辺の土地勘ないんだよな……」

「とちかん?」

「よく知らない場所だから、どこに何があるかわからない、ってことさ。

 まあ、所詮隠れんぼだし、何とかなるか。行こう、シンディ」

 

 にぃにと手を繋いだ私は、みんなの居場所を〝視た〟

 村で生活する人たちの息遣い、視野、思考がいっぺんに流れ込んでくる。

 一瞬で流れ込み、次の瞬間には消えている。

 記憶に留めておけるはずもない。それでも、隠れんぼをしている子供たちの視野だけを、注意深く覗き込まんとする。

 ここから一番近い子だと……。

 

「にぃに、こ!」

「これ?」

 

 私は橋の下を覗き込み、結婚式ごっこで使った白いシーツを被って息を潜めている子供を指さした。

 にぃにが駆け寄ってシーツを剥ぐと、中からセスちゃんが現れた。

 

「もう見つかっちゃった」

 

 セスちゃんはちょっと悔しそうにすると、私とにぃにの後ろについて歩き始めた。見つかった人は隠の仲間になる決まりなのだ。

 

「すごいな。どうやったんだ?」

「こう」

 

 私は胸の前で合掌し、ちょっと頭を下げた。

 トウビョウ様のお力を借りたのだ。信仰を忘れなければ、トウビョウ様はお力を貸してくださる。

 

 にぃにはよくわかっていない様子だったものの、「そうか」と頭を撫でてくれた。

 

 それから、私は、藁の中に潜って隠れていたハンナちゃんを見つけた。

 メリーちゃんとソーニャちゃんは、家の中に隠れてはダメという決まりを一応守り、牛舎の中に身を隠していた。

 にぃには牛に頬を舐め回されて顔を顰めていた。

 

「エマとルフィは?」

「あっち!」

 

 メリーちゃんに訊かれ、私は丘の上に生えている巨木を指さした。どんぐりをたくさん拾った場所だ。

 

 シルフィエットちゃんは木の洞の中に丸まって隠れていた。

 落ち葉で入口を塞いでいて、にぃにと二人で落ち葉を掘って見つけると、シルフィエットちゃんはちょっと眩しそうに出てきた。

 緑色の髪に葉が絡まっていたのを、にぃにが「仕方ねえな」と言いながら取ってあげた。

 頭に伸びた手に、シルフィエットちゃんはびくりと肩を竦めたが、落葉を取っただけとわかると安心したようだった。

 

「エマちゃん!」

 

 私は首をそらし、梢にしがみついているエマちゃんを指さした。

 エマちゃんは器用に躰を使って地面におりてきた。

 

「また全員見つかっちゃったね」

「いつもこうなのか?」

「うん。シンディちゃんはね、どこに隠れてもすぐに見つけるのよ。だから、一緒に探す人は、シンディちゃんの代わりに十まで数えるだけでいいの」

 

「ねー?」と頬をもちもちと触られた。人に触られるのは好き。

 

「ねえ、もう一回やろうよ。今度は、違う人が隠で」

 

 ソーニャちゃんがそう言い、その日は、日が暮れるまで隠れんぼをして遊んだのだった。

 

 

 

「シルフ、楽しかったか?」

「うん。と、友達と、遊んだの、初めて……」

 

 にぃには宣言通り、全員を家か、その近くまで送った。

 今は、最後に残ったシルフィエットちゃんを家まで送るところだ。

 私は疲れてしまって、にぃににおんぶしてもらっている。

 ちょっと眠くなってきた。

 

 欠伸をすると、まだ寝るなよ、とにぃにの声が耳を打った。にぃにも子供だし、睡る二歳の子を背負うのは大変なのだろう。

 頑張って起きることにした。

 

「あのね、ルディ」

「ん?」

「ボクにも、あれ、教えて」

「あれ?」

「手から、あったかいお水がざばーって出るのと、暖かい風が、ぶわーって出るの」

 

 ……危ない。今寝かけた。

 にぃにとシルフィエットちゃんの声が、油膜を隔てた向こう側のように聞こえたり、ハッキリ聞き取れたりする。

 

「明日から教えるよ。あの丘で待ち合わせしよう」

 

 私が眠気と格闘している間に、にぃにはシルフィエットちゃんと約束をしたようだ。いいなあ。

 

 シルフィエットちゃんとも別れ、私はうつらうつらしながらにぃにと歩いた。にぃにが辛そうにしていたので、背中から降りたのだ。

 にぃにもずっと外で遊んで、疲れたようだった。

 

「頑張れ、ほら、家まであと少しだ」

「ん~……」

「……シンディはすごいな。

 たくさん友達を作って、外を怖がらずにみんなと遊んでさ」

 

 遊んでいるというか、遊んでもらっているというか。

 仲間内では、私が一番チビだもの。

 にぃには年齢よりずっと大人びているから、もしかしたら、今日は退屈だったのだろうか。

 

「にぃに、たのしくない?」

「いや、楽しかったよ。隠れんぼなんて三十年ぶりかな」

 

 またまたぁ。

 貴方、まだ五歳じゃないの。

 

 夕陽の赤色に染まった家の塀が見えた。生前の同じ光景を、幼い私はなにか異様なものを感じて怯えて泣いたのだった。

 トウビョウ様の使いになる前の出来事であったけれど、トウビョウ様自体は、婆やんの母の代からあの茅屋にいたのだ。だから家に帰るのを恐ろしく感じたのだ。

 

 門の前に立つのは、顔が真黒に翳った魑魅魍魎ではなく、リーリャだ。

 嬉しい。ようやく抱っこしてもらえる。

 

 駆け寄ると、リーリャは膝をついて待ってくれた。

 柔らかい胸に飛びこむと、軽々と抱えられた。

 

「りーにゃ!」

「お帰りなさいませ、お嬢様」

「おなかすいた」

「ええ、食事にしましょう。すぐご用意いたします」

 

 少し遅れて到着したにぃににも、リーリャはお帰りなさいを言って、一言つけ足した。

 

「旦那様からお話があるそうです」

「父様から?」

 

 玄関の前に父様が立っていた。

 外から帰ったときに、家に父様がいると、「パパにただいまのちゅーは?」と頬への口吸いを強請られるところだ。

 でも、今日は何やら(いかめ)しい顔をしている。

 

「とおさま、ちゅっ」

「お? ありがとうな~、シンディ」

 

 リーリャの腕から躰を乗りだして、私から口をつけてみると、父様は両頬と額に口吸いの三連発をくれた。嬉しいけど、そんなに返してくれなくていい。

 

「ルディはそこに残りなさい」

「……? はい」

 

 打って変わって、低い声。

 今ので機嫌が直ったと思ったのに……。

 

「失礼いたします」

 

 二人の様子が気がかりではあったが、リーリャが私を抱いたまま家の中に入ったために、続きを見ることはできなくなった。

 トウビョウ様のお力を借りてもいいのだけど、会話まで正確にわかるわけじゃない。

 

 私だけ先にご飯を食べていると、にぃにと父様が食堂に入ってきた。

 にぃには「今度家にシルフが来るよ」と私に満足気に言っていたが、父様は少し落ち込んでいるように見えた。

 シルフィエットちゃんを巡って揉めたのだろうか。

 そして父様がこてんぱんにやられたのだろうか。

 

 夕食後、少し眠ってから、居間に行くと、父様が母様に慰められているところだった。

 父様の膝に両手を乗せて見上げてみると、母様がくすりと笑った。

 

「あなた、シンディも慰めてくれるみたいよ?」

「ハハ、そうなのか? よしよし、優しいなぁ、お前は」

 

 膝の上に抱きあげられ、ゆらゆら躰を揺すられる。

 楽しくなってニコニコ笑っていると、最初は一緒になって笑っていた父様が、ふいにため息を吐いた。

 

「ルディもシンディも良い子だ。手もかからない」

「そうね」

 

 私はふんだんに世話を焼かせてると思う。

 まだちゃんと喋れないし、着替えもひとりでできないし、転んだり悲しいことがあれば泣いちゃうし……。

 にぃにが手のかからない良い子なのはその通りだ。子供なのに、中身が大人みたい。

 

「だから、不安になるよ。俺はうまく父親をやれてないんじゃないか、ってさ」

「パウロはよくやってると思うわ。でも、あなたが良いお父さんかどうかは、子供たちが決めることだもの」

 

 私が決めていいの?

 そんな、やめておいたほうがいいと思う。

 もうほとんど憶えてない、前世のお父と比べてしまうかもしれない。

 

 前世のお父。

 ――近所の貧乏人に嫁にやっても、何もいいことはありゃせん。一生機織りでもしとったほうが、安気に暮らせるかもしれんのう。

 前のお父は、日焼けと雪焼けで顔も手足も真っ黒で、感情が分かりにくかった。熱病から生還した私が労働力にならず、嫁にもいけないとわかったときも、娘に関心や情念があるのか無いのか、何を考えているのかもわからなかった。

 その後すぐに、トウビョウ様のお使いになった事が判明して、私はトウビョウ様のお告げを伝える巫女になり、機織りをする事はなかったが。

 

 父様は、お父より感情もわかりやすいし、私やにぃにに関心も情念も持っている。

 お父は悪人ではなかった。

 そして父様も悪人ではない。良い父親だ。

 

「その様子だと、心配ないんじゃないかしら」

 

 私は父様の膝の上に立って、明るい茶髪をよしよしと撫でた。

 父様も母様も、良い子良い子と言いながら頭を撫でてくれるのだから、父様は良い父親だ、と伝えたいなら、こうすればいいのだ。

 

「かあさま、かあさまも」

「お母さまの事も撫でてくれるの?」

 

 母様に向かって両腕を伸べると、母様は私を抱き上げ、くるくると嬉しそうにその場で回った。私も嬉しくなって、母様の首にしがみついて笑い声をあげたのだった。



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六 子供の世界

感想ありがとうございます。
作者は中世~近世の風俗文化に詳しいと言えるレベルには到底およびませんが、そういった事を知るのは元々好きです。作中の文化や生活様式は過去に読んだ本を参考にしたり話に都合よく改変したりしています。ですが所詮は独学なので穴だらけかと思われます。
六面世界の方の文化はナーロッパ的ファンタジー世界ということで史実との違いは大目にみつつ、方言のここがおかしい、明治時代にそんな文化は無い、というご指摘がもしありましたら感想欄で参考文献と共に作者に教えてくださると助かります。

19件のお気に入り登録、3件の投票ありがとうございます!(2022/12/18現在)




 夏が過ぎた。

 夕方まで川遊びをしていると、体が冷えて震えてしまうものの、昼間はまだ暑い。

 兄も私も、去年の夏服がきつくなっていて、新調してもらった。

 

「お兄ちゃん、おままごとするの。あのね、お庭でするの。わんわんの役やって」

「にぃに呼びに戻さないか?」

「いやーよ。はずかしいもん」

 

 それから、私のお喋りもなかなか上手になったと思う。

 伝えたい事の八割は伝えられるようになったし。

 エマちゃんは家の仕事があるために来れず、ハンナちゃんとメリーちゃんが家の庭に来て、一緒におままごとをすることになった。

 兄も参加していたが、シルフィエットちゃんが来て、二人は外に魔術の練習をしに行った。

 

 兄は当初、エマちゃんたちにもせがまれて魔術を教えていたが、兄ほど自在に使えるようになったのは、シルフィエットちゃんだけだった。

 他の子は、能力に極端な偏りがあったり、上手く射出できなかったりと、中々上手くいかないらしい。

 私はそもそも詠唱が言えないので、論外というやつだ。

 だって詠唱文って、みんな小難しいんだもの。

 

 エマちゃんたちは、生活に必要な火と水が出せるようになると満足して、兄命名の〝魔術の青空教室〟にあまり参加しなくなったが、シルフィエットちゃんは貪欲に学び続けている。

 

「家からおやつ持ってきたんだ。ルディとルフィも、食べてから行きなよー」

「おっ、ありがとう。いただきます」

「ありがとう、メリー」

 

 メリーちゃんが布に包んで持ってきた、ウーブリというらしい焼き菓子を一つずつ取り、杖と魔術教本を持った兄とシルフィエットちゃんは外に出て行った。

 

「ゼニスさーん、お庭の葉っぱちぎってもいいー!? おままごとに使いたいのー!」

 

 セスちゃんが邸に向かって、大声で訊ねた。

 庭の植物の中には大事に栽培している薬草もあるし、迂闊に触ると手が腫れあがる植物もある。黙って触ってはいけないのだ。

 

 母様がひょこっと二階の窓から顔を出し、指で丸を作った。

 許可の仕草だ。

 

「ただし、柵で囲んでる植物は、取らないこと! それから、木登りもしちゃダメよ!」

「わかってるー!」

「よろしい! 仲良く遊んでねー!」

「それもわかってるー!」

 

 私たちは地面に生えている雑草と何枚かの花弁をぶちぶち千切り、広い庭の隅に自生している紫式部に似た植物の実を取って、おままごと用の椀に入れた。

 美味しそうな青紫色の粒だけど、これは食べられない。

 

「わたしもお母さん役やりたい」

「ん? うーん、私の次ねー」

「わかった!」

「今は赤ちゃん役やってね。赤ちゃんは、喋らないよ」

「ばぶばぶ」

「よしよし、良い子だねー」

 

 メリーちゃんは庭に敷いた布の上で、私を抱っこして、ガラガラと音が鳴る玩具を揺らして、お母さんごっこを始めた。

 セスちゃんはお隣のおばさん役である。

 お隣のおばさんは、メリーちゃん(お母さん)の育児方針に色々と口を出してくるのだ。

 

「リーリャさん、一緒におままごとやろうよ」

「私……ですか」

 

 庭に置かれた机や椅子の拭き掃除をしていたリーリャに、セスちゃんが声をかけた。

 リーリャはちょっと目を丸くしたものの、「ばぶ」と「おぎゃあ」以外の言葉を封じられた私の姿を認め、雑巾をその場に置き、お仕着せの前掛けで手を拭きながらこちらに来てくれた。

 

「何をすればいいでしょうか」

「んと、おばあちゃん役やってほしいな」

「かしこまりました」

 

 リーリャは足を布の外に投げ出す格好で、メリーちゃんの横に座った。

 

「母親の役はどなたが?」

「私だよー」

「そうですか。では、」

 

 リーリャはふうっと一息つくと、人差し指で、胸の高さくらいの物体を、地面と平行に撫でる仕草をした。

 仕草だけだ。実際にそこにあるのは空気だけ。

 だというのに、リーリャは塵ひとつ付いていない人差し指の腹を、嘆かわしい眼で見つめた。

 

「埃がこんなに……。洗濯物もまだ取り込んでないようですし……メリーさん、よほどお疲れのようですねえ。毎日ご苦労さま。一体、今日は何をして過ごしていたのかしら」

 

 これは……。

 嫌味で意地悪な姑だ!

 疲れてると思ったなら手伝ってあげればいいのに、気遣いの言葉をかけるフリで、遠回しに嫌味を言ってくる姑だ!

 メリーちゃんとセスちゃんは、「うちのおばあちゃんとそっくり」と笑い転げていた。

 

「まだ仕事がありますので」と言って、リーリャは早々に引き上げた。

 

 

「おーい」

「えっ、ソマルじゃん」

 

 おままごとを続けようとすると、大きな枝を持ったソマル君が門から声をかけてきた。メリーちゃんに手招かれて、こっちにやって来たのは、ソマル君ひとりだけで、よく一緒にいる二人の男の子の姿はない。

 

「ルーデウスは?」

「ここには居ないけど」

「せっかく来たのによ」

 

 セスちゃんの言葉に、ソマル君は口をとがらせた。

 

 最初、ソマル君は兄のことが気に食わないようで、外にいるととかくつっかかかってきた。

 兄は初めて友達になったシルフィエットちゃん他、私やエマちゃん達と一緒にいることが多く、シルフィエットちゃんからは怯えられ、他の女の子たちから白い目で見られても「女はあっち行けよな!」と、どこ吹く風。

 イマル君という、ソマル君の兄が一緒に来たこともあったが、私の兄は魔術で泥玉を投げつけたり、風を吹かせたりして、適当にあしらっていた。

 

 一度怖い思いをすれば懲りるだろうと、私は以前のように呪いを飛ばそうとした。

 酷い結果になるわけじゃない。悪夢を見たり、軽い怪我をする程度の呪いだ。

 以前、ソマル君に飛ばした蛇を回収するのを忘れ、鼻血が止まらなくて家に来たときのことを思うと可哀想ではあった。

 

 しかし、穏やかに追い払っているように見えても、そのしつっこさには耐えかねていたらしい兄がソマル君に向かって先に叫んだのだ。

 

「素直に言ったらどうだ! 女の子と一緒に遊ぶ俺が、羨ましい、って!」

 

 ソマル君は次の瞬間、手に持った泥玉を投げるのも忘れ、猛然と兄に突進した。

 大柄な男の子に不意を打つように体当たりされ、兄はソマル君もろとも休畑に転がり落ちた。二人はそのまま取っ組み合いを始めた。木剣はなく、至近距離で人に向けて魔術を使うのは躊躇われたのか、兄が劣勢に見えた。

 

「いいぞ! 殴り返せ!!」

 

 ぽかんとそれを眺めていた子供たちの中で、初めにエマちゃんが、野次を飛ばした。

 ソマル君の兄のイマル君も、負けじと声をはりあげた。

 

「ソマル! そんなチビに負けたら承知しねぇぞ! わかってんだろうな!」

「いけ! ソマル君、負けるなー!」

「乱暴者! 信じらんない!」

「は!? 女はだまっとけよ!」

「そっちこそ黙りなさいよ! 怪我したらどうするの!」

「だから何だよバーカ!」

「バカ! そっちがバカ!」

「すぐ泣いてうぜえんだよ!」

「あんたみたいに臭いよりマシだもん!」

 

 もはや誰が何を叫んでいるのかわからない状況。

 その場にいた子供たち全員が、女の子と男の子に分かれて取っ組み合い、叩き合い、引っ掻き合いの喧嘩を初めたのだ。

 

 思い出すのは、前世の子供の頃にはやった戦争ごっこである。あのころは戦勝続きだったのに、子供たちは戦争ごっこばかりしていたように思う。幼い女子である私は彼らの仲間に入れてもらえることは無かったが、かといって標的になることもなかった。支那兵や朝鮮の敵に見立てて竹の棒で殴られたり、追いやられたりしていたのは、遍路にきた乞食や村の知恵遅れだ。

 一方的なあの遊びより、互いにとっ組み合う子供同士の喧嘩のほうがよほど健全に感じる。

 

 そして今回も、私は入れてもらえなかった。たまたま私の前に来た男の子に「何歳?」と訊かれ、緊張しながら指を二本立てたら、男の子に抱えられて休畑の隅に置かれ、男の子は喧騒の中に戻ってしまったからだ。

 

 意外にもシルフィエットちゃんは勇敢だった。一番躰の大きなイマル君に飛びかかり、「緑髪がこわいか! 怖がり! 意気地無し!」と叫びながら、ぶたれて鼻血が出ても全く怯まず殴りかかっていた。

 控え目な子とばかり思っていたが、もし男の子だったら、巡査とか消防組に向いているのかもしれない。

 

「ソマル! どうしたの!?」

 

 泥の中から出てきた小さな蛙を手の上に乗せ、喧嘩を見守っていると、女の人が飛び出してきた。

 ソマル君とイマル君の母親のアビルダさんである。

 ソマル君に背後から首に腕を回して締めあげられ、真っ赤な顔でもがいていた兄が、ソマル君の弁慶の泣き所に思いっきり踵を入れたところであった。

 アビルダさんは血相を変えて休畑に足を踏み入れた。

 そこに、泥玉がぶつけられた。イマル君が投げたのだ。

 

「ばばあ! 口出してくんな!」

「なんて口利くの! だいたいあんたはお兄ちゃんなんだから、」

「うるせー!」

 

 泥玉の追撃に、アビルダさんは言葉を失っていた。

 それを面白がり、何人かの男の子が泥を掬って投げつけ始めた。

 兄に魔術で追い払われる度に、自分を連れて我が家に乗り込んできたアビルダさんを内心疎ましく思っていたのか、ソマル君がいちばん積極的に泥玉を投げた。

 子供同士の喧嘩と静観していたが、大人が一方的に標的にされ始めたとあっては放っておけないらしく、アビルダさんを連れ戻しにきた農夫もいたが、彼も泥玉を投げつけられていた。

 今度は女の子たちも一緒だった。もはや取っ組み合いの喧嘩は終了し、寄ってきた親や大人に手当り次第に泥玉を投げつけて排除する遊びになっていた。

 これには私も仲間に入れてもらえた。楽しかった。

 アビルダさんはおいおいと泣き、ソマル君のおじいちゃんに、慰められるどころか「子供の喧嘩に口を出すからそうなる」と窘められていた。

 

 顔に当たれば十点、躰に当たれば五点。

 間違えて味方(子供)に当てれば点無し。

 

 誰かに当てる度に男の子の「十点!」「五点!」の声が飛び交い、女の子のきゃあきゃあはしゃいだ笑い声が響いた。

 騒ぎを聞きつけて……ではなく、単に森の見張り番を終えて家に戻るところだった父様は「なんだぁ!?」とビックリしていた。そして、畑の真ん中をまじまじと眺めていた。

 

 兄、ルーデウスは大口をあけて笑っていた。

 たえまなく泥玉が宙を飛び交う下を、泥んこで、湿った土の上に臀をおろし、足を投げ出して解放されたように笑っていた。

 開いた口のなかに青空のかけらが入り込んでいた。

 

 まもなく兄は、少し面長の男の子に背後から抱き起こされ、泥玉を作って投げ始めた。

 

 

 集団で大人に反抗した事が彼らに連帯感を与えたのか、それ以来男女混合で遊ぶことも少しだけ増え、兄はソマル君たち男の子とも仲良くなった。

 シルフィエットちゃんと居ないときは、三英雄ごっこと称して漉油に似た木の枝を振り回して遊んでいるのを見かける。

 その木の枝は、樹皮をよく擦り、切れ目を入れるとスルッと緑の樹皮が向けて白い中身が現れるので、白い部分を刀身に見立て、刀の木と呼ばれている。男の子の格好の玩具というわけだ。

 

 彼らと遊ぶときの兄は、かなり手加減していると思う。

 父様に剣の稽古をつけられているときの兄は、すごい。

 バーンと爆発させたり、水がぶわーっと出たり、風を轟と吹かせて自分をフッ飛ばして木剣を回避したりする。

 それでも最後は父様が兄を打ち据えてしまうのだから、父様はもっとすごい。

 

 遊ぶときは兄はそうした術は使っていないようだ。

 

「おい、チビ。明日は川に来るようにルーデウスに言っとけよ」

「ばぶ!」

「は? 頭おかしいのか?」

 

 失礼な。今は赤ちゃん語しか喋れないだけだ。

 私は拳でソマル君の大きな腹を叩いた。

 ぼいんと跳ね返される。

 もう一回やろうとしたら、「叩くなよ」と嫌そうな顔をされた。

 

「もう赤ちゃんやめていいよ」

「ばぶ」

 

 間違えた。わかったよ、って言おうとしたのに。

 メリーちゃんからお許しが出て、喋れるようになった。

 ソマル君の持っている枝は、葉や小枝がワサワサとたくさん付いていた。振り回しにくいのではないだろうか。

 

「これ、やる」

「桑の実!」

 

 セスちゃんが驚いた声を上げた。

 よく見ると葉に隠れて、赤黒い果実が実っていた。

 懐かしい。去年、ロキシーと一緒に食べたなあ。

 

「わー、ありがとー。お返しあげるね」

 

 メリーちゃんにお礼のウーブリをもらい、ソマル君は「じゃーな!」と言って去ろうとした。

 

「だめ」

 

 去ろうとしたのを、私が服を掴んで止めた。

 

「なんで?」

「ソマルと遊びたいんじゃない?」

「は? やんねーよ、オママゴトとか!」

 

 違うやい。真面目に演じてくれない相手とおままごとしても、楽しくないやい。

 

 私は次に玄関でリーリャを待ち構えた。

 リーリャはすぐに現れた。人数分の飲み物をお盆に乗せて持っていた。

 

「りーりゃ」

「お嬢様、危ないですよ」

 

 リーリャの脚に抱きつくと、リーリャは盆を持ったまま困った顔をした。

 空を指さし、訴える。

 

「雨がふるのよ。ザーッって」

「雨?」

 

 リーリャは胡乱な顔で青空を見上げた。

 

「晴れてんじゃん」

「雨なんて降ってないよ?」

 

 ソマル君とセスちゃんが不思議そうな顔をする。

 今は降っていない。でも、これから驟雨になるのだ。

 さっき、そういえば今日の分はまだ視てないな、と思い、トウビョウ様の力を借りてみたら、大雨の中をリーリャと母様が慌てて洗濯物を取り込む姿が視えた。

 

「……いえ、本当に降るかもしれません。遠くに、かなとこ雲が見えます」

「かなとこ雲?」

 

 メリーちゃんたちは、リーリャの周りをうろちょろしながら背伸びをして空を見あげた。

 視野の高さがリーリャと異なるため、見えないようだ。私も見えない。何? かなとこ雲って。

 

「金属を加工する作業台――金床に形の似た雲を、かなとこ雲といいます」

「エマちゃんのお家にあるやつだ」

「俺も見た事あるぜ、鍛冶屋が使ってた」

「かなとこ雲が見えるとどうなるのー?」

「まもなく大雨になります」

 

 リーリャはそう言うと、飲み物を乗せたお盆を持って家の中に入り、洗濯籠を持ってまた出てきて、干していた服をてきぱきと取り込み始めた。

 母様も出てきた。

 

「雨が降るんですって? シンディ、遊びの続きはお部屋でなさいね。

 メリーちゃん、セスちゃんも、帰るまでに降られるかもしれないし、止むまでウチで休んでいくといいわ」

「いいの?」

「やったー」

「もちろん!

 ああ、ソマル君もね。よかったら上がってちょうだい」

 

 母様は可愛らしく片目を瞑った。

 ソマル君がドキマギした様子でぎこちなく頷いたので、私はメリーちゃんとセスちゃんと目配せし、三人で含み笑いをした。

 

 

 

「そうそう、みんな上手よ」

 

 リーリャが用意してくれた茶を飲みながら、枝から外した桑の実を食べた後、暇を持て余している私たちに、母様が声をかけてきた。

 えんどう豆のさや剥きを手伝ってほしいと言うので、私たちは一も二もなく頷いた。

 メリーちゃん、セスちゃんは苦もなく次々と剥いているけれど、ソマル君は苦戦している。

 私はさやから転がり出た豆を一粒食べようとして、母様の膝の上に封印された。

 生のまま食べるとお腹を壊すらしい。

 それならそうと先に言ってほしい。知っていたら食べようとはしなかった。

 

「もう食べないもん。お手伝いするもん」

「そんなこと言ってもダーメ。シンディはお母さんのお膝の上~」

 

 ちぇ。

 

 拗ねて机の上に頬をぺったりくっつけていると、玄関の扉が開く音がした。

 兄が帰ってきたのだった。シルフィエットちゃんも一緒だ。

 

 そうとう降られたらしい二人は、玄関先でリーリャから布を受けとり、水気を簡単に拭き取ってから二階に上がった。

 リーリャがお湯の準備をしていたから、そこで躰を清め、温まるのだろう。

 

 その後すぐに、父様が戻ってきた。

 父様は母様に代わり、大きな布と杭をつかって庭で栽培している薬草の上に簡易的な屋根を作っていたのだ。

 外套を着込んでいたから、父様はさほど濡れていない。

 肩とズボンの裾が湿っている程度だ。

 

「ありがとう、あなた。愛してるわ」

「竜巻の中にも飛び込んでみせるさ。お前の望みならな」

 

 母様が私を抱いたまま席をたち、父様にちゅっと口をつけた。

 手を止めたメリーちゃんがにまにま笑いながら母様と父様を見上げ、静かに机につっぷしたソマル君の肩を、セスちゃんがバシッと叩いた。

 

「とうさま、おつかれさま……」

「シンディも労ってくれるのか。……ん? どうした? なんかむくれてないか?」

「ふふ、後で話すわ。まずは着替えてきたら?」

「そうだな。じゃ、また後で」

 

 父様が母様の口を吸い、着替えるために二階の自室に向かったのと、二階からシルフィエットちゃんの尾を引く悲鳴が聞こえてきたのは、ほぼ同時なのであった。

 

 

 

 シルフィエットちゃんは泣いていた。

 濡れた頭のまま、濡れた服を着て、ぱちぱちと薪が赫く爆ぜる暖炉の傍で、乾いた大きな布でくるまれて、うっうっと押し殺すように泣いていた。

 シルフィエットちゃんの名誉に関わるから、と、現場に突入した父様は仔細について語らなかった。

 

 いつか視た、緑髪の女の子の下着を無理やり下ろしたすっぽんぽんの兄の絵が、脳裏に蘇る。

 それが今日起こったのではないか、と私は睨んでいる。

 だから父様も母様以外に口を閉ざしたのだ。

 

 阻止できなくて、ごめんね、シルフィエットちゃん。今日まで忘れてました。

 

「よしよし、大丈夫よ」

「お腹痛いの?」

「転んだの? 泣かないで。今から面白い事するから……ソマルが」

「おれが!?」

 

 みんなでシルフィエットちゃんを囲んでいると、母様が苦笑しつつシルフィエットちゃんと向き合わせに椅子を置き、そこに腰かけた。

 

「シルフィちゃんはね、どこも怪我はしてないし、病気もないけど、とてもショックなことがあったのよ」

 

 ソマル君は「あっそ……」と素っ気ない返事をしたが、しばらくして、シルフィエットちゃんの注意を自分の方に向けた。

 そして、両手の親指を鼻孔につっこみ、白目をむいて、親指以外の指をひらひら動かした。

 渾身の変顔――面白いこと、である。

 

 シルフィエットちゃんは、

 

「……おもしろくない……」

 

 と、半ば呆然と呟き、頭まで布を被ってしまった。

 

「あーあ」

「ルフィちゃんがもっと悲しくなっちゃったじゃん」

「俺のせいにすんな!」

 

 私は布の中に頭を潜り込ませ、シルフィエットちゃんの顔を伺った。

 実は笑うのを堪えているのでは、と思ったが、シルフィエットちゃんの顔は、「無」だった。

 普通にまったく面白くなかったみたいだ。むしろ妙なものを見せられて苛立ってすらいそうだ。

 

 シルフィエットちゃんは笑わなかったが、一応泪は落ち着いてきた。

 母様とぽそぽそ会話をするまで回復したとき、乾いた服に着替えた兄が神妙な面持ちで部屋に入ってきた。後ろには父様がいる。

 

 兄はズボンの横に手を下ろし、ビシッとお辞儀をした。

 

「ごめんシルフィ。髪も短かかったし、今までずっと男だと思ってたんだ!」

 

 シルフィエットちゃんは、ぽかんと口をあけた。

 その顔がじわじわと愁色に染まり、泣き出しそうな顔に変わる。

 ふぇ、と息を吸い込む音がやけに静かになった部屋で聞こえた。

 シルフィエットちゃんは正面の母様に飛びつき、激しく泣いた。

 

「ええ……?」

「ひどい……」

「マジかよ、お前」

「返す言葉もない」

「お祭りのときとか、ルフィは炊き出しの方にいたのに?」

「炊き出しの女性陣に混ざってるのを不思議には思ってはいたんだ……」

 

 方々から責められた兄はしょんぼりと項垂れた。

 私も驚いていた。前に一度、兄がシルフィエットちゃんに「頑張れよ、男だろ?」と声をかけた事があったけれど、シルフィエットちゃんは首をかしげつつ訂正しなかった。

 そのとき周りにいた子も、私も、男の子みたいに髪の短いシルフィエットちゃんをからかったのだと思っていた。

 まさか本心だったとは。

 

「お、男じゃ、ないもっ。ずっと、女だ、もん。うわああん!」

「そうよねえ、こんなに可愛い女の子なのにね」

 

 シルフィエットちゃんは母様に慰められていた。

 シルフィエットちゃんは、たぶん、兄のことが好きだ。

 意中の人から、今までずっと女にも思われていなかったと知れば、幼心に傷つくのもやむなしだろう。

 

 兄はその後、謝り、褒め、宥め、シルフィエット――兄が「シルフィ」と呼び始めたので、私も乗っかって、これからはシルフィと呼ぼう――から許してもらっていた。

 でも、シルフィは、兄に対して物理的な距離をとるようになった。

 


 

「お兄ちゃん。どんまい!」

 

 最近憶えた言葉である。気にせず次行こう! みたいな意味だそうだ。

 シルフィは最近、兄以外の友達と遊ぶ。

 人目を忍んでトウビョウ様を拝んだ後、兄の部屋に行った。

 そして虚ろな目で土人形を量産している兄に向かって、どんまい! と声をかけてみると、頬をぐにぐにと揉まれた。

 

「お前は悩みもなさそうでいいなぁ~!」

「ないよ、しわわせよ」

 

 ちゃんと発音できなかったけれど、まあいいや。

 五体満足で、愛してくれる母様と父様がいて、リーリャがいて、兄弟は生きていて、友達もたくさんいる。明日食うものを心配しなくていい暮らしぶり。

 これで仕合わせでなければ、何だというのか。

 思えば、前世の貧しい暮らしでも、身内には恵まれていたのだろう。

 そうでなければ、貧乏百姓の家の片輪など、濡れた紙を鼻と口に押し当てられてお終いだ。

 

「お兄ちゃん、シルフィといると、へん?」

「へ、変かな……」

「うん! 変でこわいってね、シルフィちゃんいってた」

 

 兄は抱えた膝のあいだに額を埋めるように顔を伏せてしまった。

 顔が上げられ、六歳児らしからぬ性慾の篭った視線が私を掠める。

 

「ちょっとバンザイしてみて」

「ばんざーい」

 

 兄は私の服の下から手を入れ、素肌の胸をまさぐった。

 ため息を吐かれた。視線に宿る性慾がしゅるしゅると萎んでいく。

 

身内()には、こんなことしても、何とも思わないのに」

 

 何とか思われては困る。

 この躰がどれだけトウビョウ様の影響下にいるのかは、まだわからないが、以前と同じなら男とまぐわえば死ぬのだ。

 

「シルフィは居るだけでへん?」

「ああ」

「なんで?」

「そりゃあ……シルフィが女の子で、可愛いからだよ」

「ふーん」

 

 私は兄の部屋を出て、たたーっと階段を降りて、階段下でエマちゃんと待っていたシルフィに笑顔を向けた。

 さっき兄の部屋に行ったのは、兄をここに呼んでほしいとシルフィに頼まれたためだったのだ。

 まあ、その用件は忘れて戻ってきちゃったんだけれど。

 後で呼び直しに行けばいい。

 

「お兄ちゃんがおかしくなるのは、シルフィが女の子で、かわいいから!」

「えっ」

 

 息急きシルフィに伝えると、二階から、何かに蹴躓く音だの、忙しない足音だのが聞こえてきて、兄が階段まで走ってきた。

 

「シルフィ! 来てたの!?」

「う、うん……」

 

 はぁはぁと尋常ではない様子の兄を、シルフィはエマちゃんの後ろに隠れることで視野から遮った。

 一人になったわけではないのに、兄はぽつんと置き去りにされた顔をした。

 いつも澄ましている(エマちゃん談)兄が、取り乱したり、落ち込むのが面白いらしい。シルフィに盾にされて兄と顔を見合わせる形になったエマちゃんがニヤッと笑う。

 

「私たち、また来るね。バイバーイ」

「お兄ちゃんと遊ばないの?」

「だって、ねえ? ルフィちゃん、恥ずかしがってるもの」

「……」

 

 シルフィは自分より背の高いエマちゃんの背中に顔を押し当てていた。小さな小さな声で、「……行こ」と言うシルフィに従い、私たちは外に出た。

 

 お兄ちゃん、またしょんぼりしてるかな。

 

 でも、エマちゃんは七歳になってから家の手伝いが増えて、遊べる時間が少なくなってしまったのだ。

 今はエマちゃんを優先させてね。

 

 それから数日。兄とシルフィは仲直りしたようだった。

 シルフィに対して様子のおかしい兄はいなくなっていた。

 普通に、私に接するように、エマちゃんたちに接するように、ソマル君たちに接するように、平然と振る舞う兄がそこにはいた。

 どうしたの? シルフィが可愛くなくなったの? と、訊いてみると、

 

「シルフィは可愛い。だが、鈍感系主人公に、俺はなる」

 

 と、よく分からないものになる宣言をされた。

 まあ、兄が何になろうと、生きてるならそれでいい。

 シルフィも兄と屈託なく遊べて嬉しそうだし、鈍感系主人公というのは、きっと良いものなのだろう。

 



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七 お妾騒動

 私とて、もう三歳。毎日遊び暮らしているわけではない。

 トウビョウ様の柱を拝むのは日々欠かさないし、家族の身に危険がないか毎日視ている。

 生まれてすぐの頃は、氷のようなものの中に閉じ込められている母様の姿が視えたが、今は違う。

 何度視ても、映るのは、視界いっぱいの巨大な鱗だ。

 それもずっと視続けていると、頭が痛くなってくる。

 何なのだろう……。

 

 とりあえず、母様には、「川と、湖と、滝には行っちゃダメだからね。ざぶーんってなって凍っちゃうからね」と言い続け、母様は「気をつけるわね」とニコニコ頷いてくれるけれど、視える絵に何の変化も起こらないから、効果はないのだろう。

 

「これは?」

「〝火〟」

「正解! じゃあ、これは?」

「〝カールマン〟」

「そうよ。ここから、ここまで読むと?」

「〝カールマンの剣撃は、火のカーテンを斬り裂いた〟」

 

 私は母様の膝の上で、字の手習いを受けていた。

 母様が本を広げ、適当な単語を指さすので、私はそれを音読する。

 答えにつまったり誤ったりすると、母様が正しい読み方を教えてくれる。私はそれを憶える。その繰り返しだ。

 これは父様ともしている。

 二人の言うことには、兄はもっと幼いときから完璧に読めたという。

 だから私も期待されているみたいだ。頑張ろうと思った。

 

 前世では文盲だったぶん、知らない言葉を学ぶのは楽しい。

 紙面をのたうつミミズのような黒い線が、新しい単語を憶えるたびに、意味のある言葉の羅列となるのだ。

 

「シンディったら、天才! 偉いわ!」

「うふ」

 

 何より褒められると嬉しい。畢竟、これが一番の理由だ。

 

 

 魔術の練習も始まった。先生は、母様か兄かシルフィである。

 詠唱の意味を理解し、澱みなく言えて、魔力があれば、初級魔術は誰でも使える、と、兄は言っていた。中級からは魔力を注ぐ時間や量が複雑になってくるらしいが。

 習い始めの頃、私は詠唱は言えても、初級魔術すらどうしてか使えなかった。

 それもそのはず。

 例えば、私が教わった初級火魔術の詠唱文は、「汝の求める所に大いなる炎の加護あらん、勇猛なる灯火の熱さを今ここに、火弾(ファイヤーボール)」だ。

 元々詠唱は初級相当の威力でも数分はかかるものだったが、それでは不便だと短縮されたのが今伝わる詠唱だそうだ。

 生成されるのは同じ火弾でも、教本によって微妙に詠唱文が異なることがあるらしい。多分、火は生活に必須だから、色んな地域で色んな短縮をされてきたのだろう。

 

 初級火魔術の詠唱。私はこれを「なんじのもとめるところにおおいなるほのおのかごあらんゆうもうなるともしびのあつさをいまここにふぁいやーぼーる」と読んでいた。

 

 意味のある文章だと思ってなかった。

 やたら長い一個の単語だと思っていた。

 文字の読み書きの練習が進むにつれ、小難しい単語を知り、詠唱が意味のある文章であることをなんとなく理解し始めた。

 それを意識して詠唱してみると、蝋燭の火より小さな、火弾っぽいものが生成された。

 

 兄やシルフィのようにはまだできないけれど、繰り返し使えば上達するだろう、との事。

 無詠唱もそのうち教えてくれるそうだ。

 

 魔術を教わる中で、自分の躰について判明した事もある。

 私の左腕は魔力を通さない。

 

 魔術を使うときに身体中から右手に集まる熱い流れ。それが魔力だという。

 同じ手から魔力を放出し続けると、魔術の利き腕ができるから、と兄は両腕で魔術を使えるように矯正しようとしたのだが、私の左腕は使いものにならなかった。

 ものを掴む、投げる、といった動作は問題なくできるのに、こと魔力にかけては使えないようなのだ。

 魔力の流れを意識して、と言われても、身体をめぐる熱い流れは左肩のあたりで留まって腕まで行かない。

 水草を引きちぎるようにいとも簡単に失われた生前の左腕のことを私は考え、生まれ変わってなおトウビョウ様の小蛇が左腕に巻きついている想像をした。不気味であった。

 

 私の快・不快はさておき、それが判明したとき、母様は顔を曇らせた。

 この躰を産んだのは母様だ。十月十日かけて胎の中で育ててくれた。母体として責任を感じているのだろう。

 悲しまないでほしい。

 私としては、魔術も読み書きも、できなければできないで構わないものなのだから。

 

 

「シンディ、今から遊びに行くけど、お前も来るか?」

「行く!」

 

 植物図鑑を小脇に抱え、玄関の扉の把手に手をかけた兄に声をかけられ、私は元気に返事をした。

 行く前に母様が髪を結び直してくれた。

 兄と二人で「いってきます」を言って、玄関を出る。

 

「とうさま」

 

 馬房から轡を繋いだカラヴァッジョを出していた父様を見つけ、駆け寄った。

 カラヴァッジョは穏やかな馬だけれど、うっかり蹴っ飛ばされる事もないとは言えないから、カラヴァッジョの後脚には近づかないように言われている。

 

 父様はカラヴァッジョの蹄鉄を打ってもらいに行くそうだ。

 

「エマちゃんとこ!」

「そうだ、よく知ってるな」

 

 エマちゃんの家は鍛冶屋と鋳掛屋をかねている。

 つまり農具の製造から修理まで同じ人がしているのだ。エマちゃん一家がこの村から居なくなったら、あっというまにブエナ村の生活は滞るだろう。

 そして、鍛冶屋の仕事は農具の製造だけではない。家畜の蹄に蹄鉄を打つ仕事も、鍛冶屋に任されているのだ。

 

「どこまで行くんだ? 何だったら、乗せていってやろうか」

 

 蹄鉄を打ち直した後は乗るつもりであったのか、カラヴァッジョの背中には既に洋鞍が取りつけられていた。

 

「いいですよ。友達に見られたら恥ずかしいです」

「のりたい」

「……」

 

 乗せてもらうことになった。

 私が鞍の前橋につかまり、背後に跨った兄が私につかまる。

 カラヴァッジョの横を歩いて目的地まで誘導するのは父様だ。

 

「父様、僕に乗馬を教えてください」

「ん? いいぞ。デートに誘いたい女の子でもいるのか?」

「ええ。シルフィを」

「おっ、いいじゃねえか。まずは鐙に足が届くようになるところからだな」

「では、すぐですね。子供の成長はあっという間ですから」

「自分で言うか」

「教えてくださいね。約束ですよ」

「わかったよ……っと、シンディ、ちゃんと掴まってるんだぞ」

「はーい」

 

 きょろきょろしすぎて注意されつつ、私はうんと高くなった視界の景色を眺めた。

 この芦毛の馬は私の知る馬よりかなり大きいのである。

 毛唐人は躰が大きいと聞いたことはあるが、馬まで大きいとは知らなかった。

 いつ見てもたてがみに艶があるのは、父様が手入れを欠かさないからだろう。

 穏やかな振動に身を任せていると、兄に話しかけられた。

 

「楽しいか? シンディ」

「楽しいよ!」

「カラヴァッジョってもう言えるようになったか?」

「言えるよ!」

「言ってみ」

「かや%△#?%◎&」

「なんて?」

 

 くやしい。

 

 

 急ぎの用事があるでもないし、カラヴァッジョに乗せてもらってエマちゃんの家に行った。

 

「シンディちゃん!」

「エマちゃん」

 

 父様に抱えられてカラヴァッジョから降ろしてもらうと、家から灰色の髪の綺麗な女の子が出てきた。

 私の大好きな女の子だ。

 エマちゃんは私を抱っこしてぐるぐるその場で回った。抱っこといっても、ちょっと足が地面から浮くだけである。安定感はないが、安心感がある。

 

「ウチの娘がよく世話になってるみたいだな」

「いやぁ、パウロさんのお嬢さんに傷を拵えさせないかヒヤヒヤしっぱなしでさ」

「ハハ! 子供は怪我しながら成長するもんだ。何かあっても妻が治すよ」

 

 気にするな、というふうに、道具を抱えたエマちゃんのお父さんの背中をバシバシ叩き、父様は牛馬を固定する木枠のほうにカラヴァッジョを誘導する。

 

「私もお手伝いするんだよ」

 

 と、言って、エマちゃんは手のひらの上で炎をゆらめかせた。

 無詠唱の火魔術である。ぱちぱちと拍手を贈った。

 

「本当に中級以上は憶えなくていいのか」

「うん。べつに必要ないし」

 

 兄にそう返しつつ、エマちゃんはお父さんのそばに近づいた。

 エマちゃんのお父さんはカラヴァッジョの足を曲げさせ、除鉄*1をし、伸びた蹄を剪鉗や小さな鎌みたいな刃物で削っている。

 蹄を平らにすると、手槌で蹄鉄を叩いて形を調整し始めた。

 

「ああやって叩いて、ぴったり合う形に直してるんだよ」

 

 前世で見た事があるから知っていたが、せっかくエマちゃんが教えてくれたので頷いておいた。

 

「うん、こんなもんか……エマ!」

「はい!」

 

 エマちゃんが手から炎を出し、打ち付ける前の蹄鉄を熱する。

 それをカラヴァッジョの蹄に押し当てると、煙が昇って蹄に黒い焦げ跡が残った。

 

「こげこげ」

「そうだな。でも、カラヴァッジョは熱くないから大丈夫だよ。シンディが爪を切っても痛くないのと同じさ」

 

 前世で見た事があるから知っていたが、せっかくお兄ちゃんが教えてくれたので頷いておいた。

 

「シンディ、釘ってわかるか? 専用の釘を(びょう)といって、鋲を打って蹄鉄をカラヴァッジョの足にくっつけるんだ」

 

 し、知ってる。ぜんぶ知ってるよ父様。

 

 近くで見学していたからだろうか、エマちゃんのお父さんは私と兄をちょいちょいと手招いて、打つ前の蹄鉄を見せてくれた。やや潰れた円みたいな形をしている。

 

「この形の蹄鉄は悪魔除けにもなるぞ。鋲を打つ穴が七つだと、縁起が良い」

「ラッキーセブンですか?」

 

 らっきーせぶん、とは何だろう。兄はときどき不思議なことを言うのだ。

「なにそれ」という顔をしたエマちゃん親子が作業に戻るのを確認して、父様は兄に言った。

 

「らっきぃせぶんとやらは知らないが、七だ。七。

 ルディよ、何か思い出さんか?」

「……うーん、ミリス教が掲げる人間の美徳が、たしか七つでしたよね?」

「まあ、それもあるが」

 

 父様の手が私の頭を撫でる。

 私の名前は「誠実」という意味を持っている。母様が信仰するミリス教の教義における徳のひとつが、「誠実であること」なのだ。

 父様はミリス教徒ではないが、昔母様にされた話を憶えていて、娘にシンシア(誠実)と名づけたらしい。

 

 誠雄とかにならなくてよかった。

 男の子に生まれていたらその名前も良いが、私は今も生前も女である。

 両親の願い通り、誠実な子でありたいものだ。

 

「あ、七大列強ですか」

「その通り」

 

 兄の言葉が望みにかなったのか、父様は満足気に頷いた。そんな父様の様子に、兄は仕方なさそうに小首をかしげてちょっと微笑んだ。

 

「ななだ、いれっきょう?」

 

 なにそれー、という意味を込めて父様のズボンを引っ張って見上げた。

 父様は私を抱き上げ、カラヴァッジョの装蹄が終わるのを待ちながら説明してくれた。

 

 七大列強というのは、世界でもっとも強いとされる七名に与えられる称号と順位であるらしい。

 一位から七位まで説明されたが、聞き馴染みのある単語は二位の「龍神」と五位の「死神」だけだった。

 生者の魂を狩る死神と、自然の脅威を司る龍神。

 生前は龍神様は海にいると教えられてきたが、話を聞くかぎり、列強の七柱は、私の知っている神様とやや異なる。

 

 列強の面々は、種族こそ人間ではなく、遠く離れてはいるものの、私たちの立っている場所と地続きの大地を歩く存在であるようなのだ。

 うつそみに生きる者たちが、神の名を持っているのだ。人智を超えた武力はときに神として祀り上げられるらしい。

 

 

 

 父様とカラヴァッジョと別れた兄について行き、大樹が一本生えた丘に向かう。

 

「なにして遊ぶの?」

「誰かいたら魔術でも教えるよ。頼まれればな」

 

 魔術といえば。

 村の子供たちにむけて、兄が不定期に開催する魔術の青空教室に、生徒が増えた。

 思えば、兄が外に出るようになって一年以上経つ。

 当時五歳だった子は六歳になり、六歳だった子は七歳になり、家の仕事を手伝う中で、魔術は使えたほうが便利、という結論に至ったのだろう。

 水とか、火とか、治癒とか。

 街のほうへ行けば、魔術を覚えるより便利な道具なんかもあるらしいが、辺鄙な農村にはない。

 一部は、突風を思いのままに操れたらカッコイイという理由で風魔術を教わっている子もいる。

 もっとも、教えた魔術で子供が何か破損した場合、責任はとれないということで、兄が教えるのは初級までだ。

 それより上級を知りたければ個人で来い、とのこと。

 

 

 木の下にはシルフィとソーニャちゃんが居て、二人で小さな男の子をあやしていた。

 

「えーと、……神なる力は芳醇なる糧、力失いし……失い……再び……ヒーリング? んん? ルフィちゃん、続きなあに」

「惜しいね。〝力失いしかの者に再び立ち上がる力を与えん〟だよ」

 

 ソーニャちゃんは、弟の膝小僧に手をかざし、シルフィから教えられた詠唱を言い直した。

 擦りむけて血のにじむ怪我がみるみる塞がり、ソーニャちゃんはシルフィちゃんと手を合わせて喜んだ。こんなに綺麗に治るのは初めてのことだったらしい。

 

 最近歩けるようになったソーニャちゃんの弟、ワーシカは怪我が治ったことで泣き止んだ。

 ワーシカは地面に手をついてうんしょと立ち上がり、よちよち歩いて私の方へ来た。

 まだ赤ん坊という感じで、とても可愛い。

 

「ワーシカ、かわいいねえ」

「あー!」

 

 ぎゅっと抱きしめると、うふうふ笑って抱きついてきた。

 よだれが服にちょっと付いたが、まったく気にならない。

 

 その後、五人ほど子供たちが来て、みんなで隠れんぼをすることになったが、私は断ってワーシカと遊ぶことにした。

 ワーシカはまだ隠れんぼが楽しい齢ではないからだ。

 

 二人で手遊びをしていると、隠(鬼)になったらしい兄が丘をかけ上がってきて、洞の中を覗き込んだ。

 

「ここには誰も隠れてないのよ」

 

 と、教えてあげると、兄は残念そうに肩を落とした。隠れた友達が見つからず、難航しているのだろう。

 

「お前、隠れんぼで見つけるの得意だったよな? 全員どこにいるかわかったりしないか?」

「わかるよ」

「なーんて……え?」

「イッシュさんの家の羊の囲いの中に二人いるの、あと、あとね、粉挽き小屋の水車と壁のすきまに一人。……森の監視櫓の中に匿ってもらってるのが一人とー……」

 

 指折り数えて全員の場所を言い上げると、兄は不思議そうな顔でお礼を言い、子供たちを探しに行った。

 

 

 しばらくワーシカを可愛がっていたら、ソーニャちゃんが迎えに来た。

 

「ソーニャちゃん、ばいばい」

「うん、また明日!」

 

 ワーシカを背負ったソーニャちゃんを見送る。暇になった。

 風が吹くたびにひらひらと頭上から落ちてくる葉を、地面に着く前に掴もうと躍起になっていると、兄が来た。

 

「お兄ちゃん、待ってた!」

「ああ。帰ろうか」

 

 木の傍に置いていた本を拾い上げる兄の背中に飛びついてみると、兄はビックリした声をあげてつんのめったのだった。

 

 

 家に帰り、夕飯を食べた。

 リーリャは後片付けをしていたので、母様に今日あったことを話す。

 食堂の机の上には燭台があり、三本の蠟燭に灯った火が食堂を橙色に照らしていた。

 

「それでね、わたしがばぁーってしたら、ワーシカが笑ったのよ。こうやって腕をあげて……」

 

 話の内容は、ソーニャちゃんの弟がいかに愛らしいかだ。

 母様は私の話をひとしきり聞くと、「シンディは赤ちゃんが好きなのね」と私の頭を撫でた。

 

 好きなのだろうか。たしかに、友達に妹か弟が産まれたと聞けば、必ず見に行っている。

 最近ではヤーナム君の所にも男の子が生まれた。

 薄い髪の毛はぺったり頭蓋にはりつき、肌なんかまだ赤くて可愛かった。

 前世では出産はおろか、結婚もできなかったから、憧れはある。トウビョウ様がそばいるから、望みが叶うことはないけれど。

 

「ねえ、シンディ」

「んっ?」

「うちにも、赤ちゃんが増えたら、嬉しい?」

「うれしい!」

 

 超うれしい!

 ずっと見ている自信がある。

 

 母様はにまーっと笑い、お腹に手をあてた。

 

「お母さんのお腹の中には、シンディの新しいきょうだいがいます!」

「きゃーっ!」

 

 やったー!

 赤ちゃん? 赤ちゃん? と、ぴょんぴょん飛び跳ねながら訊くと、そうよ、赤ちゃんよ! と返された。

 母様も仕合わせそうだ。

 

「あ? マジか、ゼニス、そりゃ本当か?」

「おめでとうございます、母様!」

 

 初耳だったのか、同じ食堂にいた父様と兄はちょっと驚いた顔をしたものの、すぐに喜色を顔にうかべた。

 

「よかったなあ! ゼニス!」

 

 父様が母様の腹に衝撃がいかないように母様を抱きしめた。

 二人で手をとりあって踊りださんばかりだ。

 

 いいなあと思って見ていると、兄が両腕を広げてフッと笑っていたので、遠慮なく飛び込んで二人で手を繋いでくるくる回った。

 目が回った。ぺたんと床に尻もちをついてくわんくわんと揺らぐ天井を見上げた。

 皿を洗い終わったリーリャが顔を覗き込んでくる。

 

「りーりゃ、わたし、お姉ちゃんになる……」

「ええ。存じております。おめでとうございます」

 

 リーリャは微笑んだ。めったに表情が変わらない人だから、微笑んでくれた事が嬉しかった。

 

 

 


 

 

 

 トウビョウ様の力を使い、母様の腹を視た。

 女の子だ。いい按配である。秋には産まれるだろう。

 

 前世では、私に下のきょうだいはいなかった。多分。

 いなかったはずだ。私が末っ子だったと思う。

 

 だから、妹の誕生を心待ちにしている。

 会う人会う人みんなに、「妹ができたのよ」と言って回っていたら、兄に「まだ分からないよ」と笑われた。妹だもん。

 

「赤ちゃん、楽しみねえ」

「ふふっ、そうね」

 

 (みごも)ったことを母様が明かして、一ヶ月が経った。

 ほんの少しだけ張ってきた母様の腹。

 じっと見つめていると、「大事、大事、ってしてあげて」と言われたので、母様の腹を優しくさする。

 

「だいじ、だいじ……」

「赤ちゃんもお姉ちゃんに撫でられて、きっと喜んでるわ」

 

 私が撫でてあげると赤ちゃんが喜ぶのか。

 私も頭を撫でられたら嬉しい。まだ見ぬ妹とは気が合いそうだ。

 

 私は張り切って、家事がひと段落したリーリャのところに行った。

 

「りーりゃ、ここ、座って!」

「……? はい」

 

 母様の隣りにリーリャを座らせ、まだ平らなお腹をなでなでする。

 

「だいじ、だいじー」

 

 リーリャは気がついていないが、彼女も妊っている。

 三歳になってから自分の部屋を与えられ、一人寝が当たり前になった。赤ちゃんのときから二歳まではリーリャと一緒の部屋で寝ていたが、それも今はない。だからまぐわいやすかったのだろう。

 ときどき一人で寝るのが寂しいときは、リーリャのところに行ってるが、行為中にはち合わせたことはない。

 

 父親は父様だ。

 ということは、これからリーリャは父様のお世話になるのだ。*2

 村にもいたなあ。豪農の出の男に見初められて、岡山市の繁華街近くに家までもらった娘が。

 うちは村の中では分限者であるようだし、リーリャにも家を与えて、父様はそこに通うようになるのだろうか。

 リーリャが家から出るのは寂しいな。

 

 真剣にリーリャの腹を撫でていると、母様が鈴の音のような笑い声をたてた。

 

「リーリャ、聞いた? この子、女の人のお腹にみんな赤ちゃんがいると思ってるわ」

 

 思ってないもん。

 そこまで無垢じゃないやい。

 

 笑われたのが悔しくて頬を膨らませると、母様は私をひょいっと抱き上げた。

 お腹に赤ちゃんがいるのだから重いものは持たない方が……。

 そりゃあ、農村では孕み女も労働するのが当然だけれど。

 母様は胸とお尻は大きいが腰は細いから心配だ。

 

「シンディ、赤ちゃんは女の人だけではできないのよ」

「だって、赤ちゃんいるもん」

「もっと大きくなったら、お母さんがちゃんと教えてあげますからね~?」

 

 信じてくれない。

 童女の戯れ言だと思われているみたいだ。

 チサのときはみんな信じてくれた。雨乞いだの、出稼ぎに行って戻らぬ亭主の行方を捜してくれだの、嫁が一向に孕む気配がないので祈ってくれだの、隣村の誰それを呪い殺してくれだの、様々な依頼客が来たものだ。

 

 まあいいか。私がどうこうしなくても、リーリャの妊娠は、いずれわかることだろうもの。

 

「……」

「……あら? どうしたの、リーリャ。顔色が良くないわ」

「いっ、いいえ。何でもございません、奥様。私は仕事に戻らせていただきます」

「そう? 無理しないでね」

 

 

 


 

 

 

「申し訳ありません、妊娠致しました」

 

 一旬と経たず、リーリャは家族が揃っている席で、そう報告した。

 わかっていたけれど、おめでとう!

 おめでとう――兄が母様に言った言葉を真似して、祝福しようとして、母様、父様、兄の誰からも祝いと喜びの言葉が出てこないことに気がつく。

 

「す、すまん。オレの子だ……」

 

 父様がつけ足した「多分」の声は、ひどく小さかった。

 母様は放心したように、しかし確りした足取りで席をたち、父様に歩み寄った。

 振り上げた手が父様の頬をぶつとき、母様の眼は怒りで嚇と燃え上がったのだった。

 

 

 哀れな父様は、一人、居間に追いやられた。母様は食堂の机に肘をつき、重ねた手の甲を額に押し当てて俯いている。

 リーリャはそんな母様の正面に、沈痛な面持ちで座っていた。

 

 頬に赤い手形を作り、うなだれている父様に近寄ろうとしたら、母様に窘める声音で「シンディ」と名前を呼ばれた。

 妻として、父様が無断でリーリャを妾にしたことが面白くないのだろう。私まで怒られてる気分だ。

 

「こっち来い」

 

 兄に手招きされ、二人で隅の壁際に立つ。

 うなだれている父様と、冷静になろうと努めている母様と、無表情だが所在なさげなリーリャが一望できる位置である。

 暖炉から離れた位置に立っているとつま先が冷えてくるが、毛皮のコートを着ているので、さほど寒くはない。

 

 潜めた声で母様とリーリャが何事か話し合っているのを、兄は物憂げな表情で眺めている。

 

「お兄ちゃん」

「どうした?」

 

 この雰囲気で、いつも通りの声量で喋るのは憚られた。

 ひそひそ声で、疑問に思っていることを兄に訊ねる。

 

「赤ちゃんできたのに、なんで、おめでとう、って誰も言わないの?」

「うーん、それは……」

 

 兄は困惑と愛想笑いが混ざったような顔を浮かべ、ちらりと父様を見た。

 

「……シンディ、お前、兄弟が一度に二人もできて、嬉しいか?」

「うん」

「リーリャのことは好きか?」

「だいすき」

 

 当たり前のことを訊かれ、即座に答える。

 兄は難しい顔で首を捻っていたが、「パンツのこともあるしな」と小さな声で呟いて、ふぅー、と息を吐いた。

 パンツ。腰巻の代わりに履く小さな布がそんな名前だった気がする。

 ロキシーの腰巻(パンツ)が兄の部屋にあるなあとは思ってたけれど、あれのこと?

 

「よし、見てろ」

 

 新たに生まれた私の疑問を置き去りに、兄は母様とリーリャのもとに向かった。

 暖かいコートを着て、毛皮でモコモコの兄の背中は、なぜだか格好良かった。

 

 

 兄の説得により、リーリャは家に居続けることとなった。

 妻とお妾さんがひとつ屋根の下で暮らすというのには驚いたが、決定を下したのは母様なのだ。何も言うまい。

 それに、私にとってはリーリャが出ていかなくて願ったり叶ったりである。

 母様に手を引かれ、二階にあがる。

 その前に、母様の手から抜け出して、リーリャのもとに行った。

 肩を震わせ、泪を流しているリーリャの腹に手をあてる。

 

「だいじ、だいじ!」

 

 リーリャは途切れ途切れに、「ありがとうございます」と言って、私を抱きしめた。

 ちょっと照れくさい。腕が緩んだ隙に抜け出し、また母様のもとに戻ると、母様はやさしい笑みを浮かべ、夫婦の寝室に私を招いた。

 

 あら。あらら。

 扉につっかい棒をつけちゃった。

 今夜は父様を寝室から締め出す心づもりらしい。

 

「大事、大事、ね。

 一体どこまでわかってるのかしら、この子」

 

 寝台に腰かけた母様に、額を人差し指ではじかれる。

 私にわかることは少ない。ただちょっと、祟りの激しい蛇神様に憑かれていて、人より見えるものが多いというだけだ。

 

「今夜はお母さんとねんねしましょ、シンディ」

「やったぁ! とうさまは?」

「あの人は床で寝るみたいよ」

 

 スッと母様から表情が消えた。こわかった。

 

 

 

 なお、母様の顰蹙を買った父様は、母様とリーリャと寝床を分けられ、けっこう長い期間の夜を兄か私の部屋に毛布を持ちこんで過ごすことになった。

 そして、子供用の寝床は小さいため、兄と私のどっちかの部屋の床に寝そべる(ときどき馬小屋で寝る)父様を憐れに思った私たちが、両隣りから父様にくっついて眠る夜もしばらく続いたのだった。

 

「馬と子供ってあったけぇんだなあ……」

「次からは庇いませんからね」

「庇うったってもっとやり方があっただろ」

「とうさま、またお妾さんふえる?」

「いやもう流石に、……妾!? どこで知ったそんな言葉! ルディに吹き込まれたのか!?」

「濡れ衣です! どうせ父様でしょ!」

「オレじゃない!」

「ふわぁ」

*1
古い蹄鉄を外すこと。

*2
明治時代は31年まで妾が容認されていた。また「妾になる」という直接的な表現は用いず、「誰々の世話になる」という間接的な表現が多く用いられた。



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八 そこにいる

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(2022/12/21現在)


 今日はたまたま他の家の子と会わなかったので、兄と二人で遊んでいた。

 切り倒され、撤去される前の丸太の上を二人で両端から歩いていき、出くわした地点で押し合い、いちばん長く丸太の上に立てた者が勝ちという遊びである。私は負け続きであった。

 

「お兄ちゃんはなんで勝てるの?」

「フェイントを使ってるからな」

「なにそれ」

「例えば、お兄ちゃんが押そうとする。シンディは身構える。ところがお兄ちゃんは押すフリをしただけで、実際には押さないんだ。するとシンディはどうなる?」

「うそしないでっていう」

「お兄ちゃんは悪い子だからシンディの言うことは聞かない」

「たいへん」

「それが社会の厳しさだ」

 

 そんな事を言いたいんじゃなくて、と前置き、兄はいま一度訊ねた。

 

「来ると思ってた力が来ないと、シンディの体はどうなる?」

「……びっくりする?」

「そうだな。ビックリするんだ。で、ビックリすると、ちょっとのあいだだけ他のことができなくなるだろ」

「なるかも!」

 

 よく考えずに肯定したが、兄の言うことなので間違いはないと思う。

 

「その瞬間を〝隙〟といって、お兄ちゃんはシンディに隙ができて、踏ん張ることができなくなったときに押してるんだ。だから勝てるんだよ」

「お兄ちゃんズルしてる!」

「ズルじゃないよ、フェイント」

「ふぇいんとすれば勝てる?」

「そうとも限らないけど、勝率は上がるかもね」

 

 つまり、私がお兄ちゃんをびっくりさせたら勝てるのか。

 

「お兄ちゃん! 今からふぇいんとします!」

「宣言したら意味が無……うん、はい、いいぞ」

「そりゃっ」

「え? うひゃひゃ!」

 

 兄の横腹に手を当て、指を蠢かした。こそばゆさに笑い声を上げて身をよじった兄を押した。

 地面に落ちた兄に、どやさ! と勝ちほこる。勝った。

 

「くすぐり攻撃か。正直全くフェイントではないけど、考えたな」

「へへっ!」

「でもお前も一緒に落ちたから引き分けだぞ」

「ざんねん」

 

 兄を押すのに一生懸命になりすぎて私も地面に落ちてしまっていた。どうりで身長差が埋まっていないわけだ。

 

「もう一回ふぇいんとしたい」

「はいはい」

 

 兄が私のわがままに応えてくれ、二人で丸太の上を歩き、もうすぐで兄に手が届くというときだった。

 

「どーん!」

 

 男の子が突進してきて、私たちの真ん中に飛び乗った。

 その振動がつたわり、よろけて落ちそうになったが手をついて堪えた。

 

「ヨッヘン」

 

 兄がやや嬉しそうな声をあげる。

 よくソマル君と遊んでいるツリ目の男の子――兄がヨッヘンと呼んだ彼は、笑顔で地面を指さした。

 

「ここの高さ今から百メートルな! 落ちたら死ぬやつだから!」

 

 そんな!

 

「フェイント! フェイントだシンディ!」

 

 兄が叫び、私たちは左右からヨッヘン君を挟みうちにしてくすぐった。ヨッヘン君は落ちた。

 

 

 

 

「へー、お前のところもメイドを妻にしたんだな」

「〝も〟? ヨッヘンの家もそうなのか?」

 

 二人は御者台に背を向け、荷車の外に足を出す格好で座っている。

 牛車の車輪は木製である。道の凹凸と、地面からの振動が、背骨を伝い、頭蓋に響いてくるのだ。うたたねなどできる状況にない。

 荷台の中は、私と、兄とヨッヘン君の他、五匹の羊が積まれている。羊は振動をものともせず狭い荷台に犇めきながら動いている。

 

 丸太遊びに乱入してきたヨッヘン君は、町に羊を売りに行く道中だったのだ。

 もちろん一人ではない。兄のイッシュさんの手伝いをするためについて行く形である。

 彼らに両親はなく、四兄弟で羊飼いをしている。

 御者台に座っているのは次男。荷台の上で羊を見張っている末弟が、兄の友達のヨッヘン君。

 町はどんな所なのか、あれこれとイッシュさんに訊ねる兄に、ヨッヘン君が言ったのだ。「お前らも来る?」と。

 イッシュさんも、「そりゃいいな。人から聞くより、自分の目で見た方が面白いだろ」と賛成した。

 牧畜犬の足の骨折を治した礼だという。

 治したのは兄であって、私は無関係なのだが、おまけで乗せてもらった。

 

「気持ち悪いのなおしてくださいな」

「はいよ」

 

 兄が私の頭に治癒魔術をかけた。

 すると、胃の腑のむかつきが収まって、とたんに楽になる。

 私は兄の背中に自分の背中をくっつけて、荷台に座った。

 

 兄とヨッヘン君は会話を続ける。

 

「俺の家にもメイドが一人いたんだよ。でもさ、親父はさ、お前んとこと同じようにメイドに手ェ出して孕ませて、でも俺たち養ってるのにメイドの子まで食わせていけないだろ? メイドだけ連れて出ていったんだ」

「無責任な父親だな」

「まあ、俺は生まれたばっかのことで、顔も憶えてねぇけど。これも兄貴たちから聞いた話だし」

 

 頭を垂れた羊に横腹を頭で押され、踏ん張ってみたものの、あえなく横に倒されてしまった。

 狭い荷台のなかで羊にゆるやかに追いかけ回されるので、御者台のイッシュさんの所に避難すると、膝の上に乗せられ、ついでに手網の端っこを持たせてもらえた。

 

「そうかぁ。パウロさんはリーリャさんを手篭めにしたかぁ。これから大変だな」

「何がです?」

 

 話を聞いていたらしいイッシュさんが前方を向いたまま口を挟み、きょとんとした兄の声が問い返してきた。

 

「ミリス教は一夫一妻なんだろ? パウロさんみたいな男前が放っておかれてたのは、ゼニスさんがミリス教徒だってみんな知ってたからさ。

 なのにリーリャさんを娶ったとあっちゃ、若い娘が黙ってない。我も我もと押し寄せてくるんじゃないか?」

「ハハ……今度こそ母様が黙って実家に帰りそうです」

 

 ミリス教。母様が信仰しているのが耶蘇教だと思っていた頃が懐かしい。いや、そんなに前のことでもないな。

 ミリス教は世界中に信徒がいるらしい。そのわりに、前世では聞いた事もないが。

 

「今夜あたり、ソマルの母ちゃんが来たりして」

「やめろよ。どんな顔したらいいかわからないだろ」

 

 後ろを振り向くと、兄が笑い混じりの声をあげてヨッヘン君と肩をぶつけあっていた。

 

 

 町の入り口についた。

 イッシュさんが門番の人に通行手形のようなものを見せると、中に入れてもらえた。

 その際に見えた看板には、ウィーデンと書かれていた。この町の名前だろう。

 

 牛車と馬車が行き交う大きな一本道があり、その両側に石造りの建物が並んでいる。

 車の間を縫うように貧しい身なりの人々が歩き回り、馬車の乗客に果物や菓子、花を売りつけている。

 売る物のない者は、手や籠を突き出して施しをねだっていた。

 イッシュさんが引く牛車にも何度か物乞いに来たが、イッシュさんが鞭で叩く素振りで追い払っていた。

 

「もうすぐ市だぞ」

 

 イッシュさんは荷台の兄にも聞こえるように声を張った。

 

「市ではなにが売ってるんですか?」

「そりゃ、色々さ」

「着いたら、見て回ってもいいですか? すぐ戻りますし、迷惑はかけません」

「おー、好きにしな。ただし、小遣いはあげられねえな」

「見るだけですよ」

 

 兄は観光がしたいらしい。

 イッシュさんが牛車をとめ、ヨッヘン君と店を開き始めるやいなや、人混みにまぎれてどこかに行ってしまった。

 まだ子供である兄が、馬や人に蹴っ飛ばされないことを祈るばかりである。

 

 

 折りたたみ式の長椅子の上に、イッシュさんと並んで座る。

 さほど時間が経たぬうちに、乳を出せる牝羊が売れた。

 

 売れ残った仔羊が母を求めてメェメェ鳴く。

 この仔羊は雄なので売るらしい。仔羊は肉が柔らかいため、祝い事のある下級貴族がときどき買っていくらしい。

 

 短い命である。必ず売れるというわけでもないらしいが、買い手が見つかった場合、せめて良い思い出を抱いて命を捧げていってほしいので、たくさん撫でてやることにする。

 

 

 ……ん?

 子供の羊の肉は、柔らかい。

 と、いうことは。

 

「私の肉もやらわかい?」

「おー、柔らけぇな。あそこの人に売りつけてやろうか」

「やあん」

 

 ヨッヘン君に意地悪を言われ、メェエと鳴いている羊の陰に隠れた。

 イッシュさんは苦笑いをして、私を捕まえようとしているヨッヘン君を眺めている。

 

 さらに一匹売れ、イッシュさんは「ちょっと待ってろ」と言って店番をヨッヘン君に任せて、自分も市に買い物に行った。

 ヨッヘン君と二人きりになった。

 冗談だと思っているけど、まさか、本当に売られたりしないよね?

 早く帰ってきて、お兄ちゃん。

 

「客か? 兄貴は今いないから、また後で来てくれよ」 

 

 仔羊を撫でるのに夢中になっていると、ヨッヘン君の声が聞こえて、顔を上げた。

 ヨッヘン君は、六尺ほどもありそうな中年の大男に話しかけていた。山高帽を被っていて、身体の厚みは父様と同じくらいだろうか。

 父様より歳をとっているし、父様にはない黒い口髭をたくわえている。

 山高帽の男は、私が捕まえている仔羊を指さし、ヨッヘン君の手のひらに金ぴかの硬貨を落とした。

 

 売れたのか。

 良かったね、美味しく食べてもらうんだよ。

 

 仔羊の首に括りつけられた縄をほどき、仔羊を山高帽の男の前に連れて行った。

 

「あ、来るなよ。座ってろ」

「なんで?」

「いいから!」

 

 良かれと思って連れて来たのに……。

 しっしと手で追いやられ、ちょっと傷ついた。

 

 私だけ長椅子の上に戻ると、ヨッヘン君は渡された銭を山高帽の男のポケットにねじこみ、仔羊を渡さずに抱えて戻ってきた。

 仔羊の首に縄を結び直すヨッヘン君に訊ねた。

 

「売らないの?」

「売らねえよ!」

 

 怒鳴り返された。焦った感じの声だった。

「兄貴が来るまで絶対にうごくな」と言われ、何があったのだろうと思いつつ頷いた。

 

 イッシュさんはすぐに帰ってきた。「ルーデウス坊はまだ戻ってねぇのかぁ」と緩い声でしゃべりながら戻ってきた青年に、私は安心した。ヨッヘン君がさっきからカリカリしていたので、言いようのない不安を感じていたのだ。

 イッシュさんは四玉買ってきたオレンジのうち二玉を、私に渡した。

 

「ありがとございます」

「ルーデウス坊と分けて食いな」

「うん!」

 

 きょろきょろ道の方を見回し、兄の姿を探した。

 トウビョウ様に頼れば、すぐにどこにいるかわかるけれど、こんな人混みの中で兄の行方を探すと人酔いしそうだ。

 肉眼で見つけたい。

 

 通行人を眺めていると、兄らしい人影を見かけた。

 お兄ちゃん、と声をかけてみたけれど、私に気がつかない様子でどんどん行ってしまう。

 

 さっきは〝絶対に動くな〟と言われたが、イッシュさんは戻ってきたし、もう動いても大丈夫だ。

 

「あっ! 兄貴、聞いてくれよ、さっきさ……」

 

 イッシュさんに話しかけるヨッヘン君の声を背後に聞きながら、私は兄を追って市に出たのだった。

 

 ところで、お兄ちゃん、あんな服着てたっけ?

 どこかで着替えたの?

 

 

 


 

 

 

ルーデウス視点

 

 俺の現在の交友関係は、ほぼすべて妹に端を発している。

 わずか3歳の妹に、だ。

 ブエナ村には11人の子供がいる。

 俺と妹を除いた、6歳前後の子供だけで11人だ。

 赤ん坊や10歳以上の子供を含めればもっといるだろう。

 

 妹はゼニスに似ている。

 ゼニス似の顔立ちに、口元の黒子。

 パウロの遺伝子は髪色に発現している。

 将来は美人になるだろう。

 

 そんな妹はどこに行っても可愛がられる。

 本人が人懐っこい性質の上、ゼニスもパウロも、無愛想に見えるリーリャも、村人と上手く付き合っているみたいだし、両親かメイド同伴で行けば邪険にされる由縁はない。

 女児のリーダー格である子にいたく気に入られていて、村の子供からの扱いも良い。

 

 対して、5歳までかたくなに引きこもり、しかし早いうちから文字を読み、魔術を使う俺の村人からの評判は、こんな感じだった。

 大人:いたって優秀な子供。パウロさんとゼニスさんが羨ましい。

 子供:全然家から出てこない変なやつ。会った事はないがいけすかない。

 

 34歳無職童貞だった俺は、ある日トラックに轢かれそうになっていた高校生を庇おうとして死んだ。

 今世こそは本気で生きようと決意し、転生後は神童ムーブをかましてきた俺だが、同時に親にとっての理想の子供を演じてきたつもりだ。

 パウロやゼニスに逆らう理由はないし、生前では考えもしなかった親孝行を、今回は全うしたい気持ちもあった。

 5歳の誕生日を迎え、ロキシーの手により庭の外に連れ出されたことをきっかけに外への恐怖を乗り越えた俺は、行動範囲を広げるべく村を散策した。

 そうして、身内以外の人間と関わる中で、気がついた。

 大人にとっての〝理想の子供〟は、子供にとっての異端なのだと。

 

 俺と同じく友達のいなかったシルフィならば、あるいは俺を異端と思っていても一緒にいてくれただろう。

 しかし、子供の世界というのは排他的だ。

 シルフィがたかが髪の色でイジメられていたように、優秀すぎる、というのも、道徳が未熟な子供には排他の理由になり得るのだ。

 

 そうならなかったのはなぜか。

 俺がシンディの兄であったからだ。

 得体が知れないと思った奴でも、そいつが気心の知れた友達の身内であれば親しみやすいだろう。

 完成された子供たちの輪にシンディがいるおかげで、俺はすんなり馴染んでいけたのだ。

 

 無論、それが全てではない。

 最初は、男どもからは受け入れられていなかった。今はそれなりに仲良くやれていると思う。

 

 村の子供の輪に入るにあたり、まず俺は自分が特別だという驕りを捨てた。

 子供の体に大人の頭脳という万能感に酔いしれていたら前世の二の舞だと自らを戒めつつも、少なからず俺が持っていたそれ。

 生前俺が読んでいた漫画に、こんな台詞があった。

 強大な超能力を持つ主人公。強い力を持つが故、己のアイデンティティに悩む彼に、凡人である彼の師匠は言い放つのだ。

『超能力を持ってるからといって、1人の人間であることに変わりはない。足が速い、勉強が出来る、体臭が強いなどと一緒で、超能力も単なる特徴の1つに過ぎない。』

 

 同じ年頃(この体の実年齢)の子供と接するにあたり、俺はこれを心がけた。

 俺は天才ではない。特別な存在ではない。

 魔術を人より巧みに使う、という特徴があるのが、俺だ。

 

 それを念頭に置き、向こうに悪意さえなければ、対等に――必要とあらば下手に出て接するようにした。

 これが概ね上手くいって、男からも遊びに誘われるようになった。

 男は幼くてもプライドのある生き物だ。

 ただでさえ何となくいけ好かないと思っていた奴から「イジメはやめたまえ!」と上からこられたら。

 さらに自分がちょっと気になってる女子とそいつが遊んでいたら、まず仲良くする気は起きないだろう。

 

 ソマルと泥の上で取っ組みあいをした。

 それが呼び水となり、男VS女の大乱闘に発展し、最後は泥合戦になった。

 劇的に男女混合で遊ぶ機会が増えたかといえば違うが、喧嘩から始まったあれが楽しかったのはみんな同じだったようで、雪が積もれば総出で雪合戦をするようになった。小学校のレクリエーションを思い出す。

 シルフィを標的にした正義の味方ごっこはなりを潜めた。

 シルフィもいまや村で女友達を作っている。その彼女をイジメたとあっては、村の女の子から総スカンを食らうからだ。

 

 性善説など生前は信じていなかったが、一人一人話してみると、村に根っからの悪党はいないことがわかる。

 シルフィをいじめていた悪ガキ三人衆も、手がつけられないほどの性悪ではなかった。ただし純粋でもないがね。

 

 

 妹がいなければ、俺はシルフィ以外の子供とは会話もしなかっただろう。

 初めて仲良くなる子供はシルフィだったろう。

 そして同じくそれまで友達のいなかったシルフィと、二人で仲良く孤立無援。

 互いの他に友達はなく、共依存の関係になっていたかもしれない。

 

 ブエナ村は比較的新しい開拓村だ。

 あちこちから住む場所を求めてやってきた人々が助け合って暮らしている。

 そうして何事もなければ、この村で生まれ育った子供同士が結婚し、この地で次の世代を繋いでいく。

 新しい住民の受け入れだの、田舎暮らしに嫌気がさし都市に出る奴だの、人口の増減はあるだろうが、基本的には子供のときの人間関係がそのまま持ち上がってくるのだ。

 それを考慮すると、シルフィ以外の人との関わりを疎かにするのは、多分、よくないことだ。

 

 ヨーロッパでは、かつて魔女狩りが行われていた。

 現代でも確か一部の国では行われてるんだっけか。

 魔女の嫌疑をかけられた無実の人間が何万人も犠牲になったと言われている。

 俺は男だから大丈夫、などと安心はできない。セイラム魔女裁判やベナンダンティ弾圧など、私刑にかけられる魔女の中に男が含まれている事も少なくなかったそうだ。

 

 魔女の疑いをかけられる傾向があるのは、いい歳になっても独身で、周囲から孤立している者だったという説がある。

 確かに、常日頃から人と仲良くしていて人望があれば、疑われる可能性は低くなるのだろう。

 魔女狩りは人付き合いをろくにしてこない者の末路というわけだ。

 恐ろしい……。

 

 この異世界の文明レベルがどれほどのものかは知らないが、ネットはなく識字率も低い世界だ。似たような事が起こる可能性はある。

 みんなと仲良くしましょう、なんて寒々しいことは言いたかないが、時にはこっちが妥協してやったり、下手に出るのも将来を思えば吝かではない。

 生理的に無理、って相手も今のところ居ないしな。

 

 でも、悪ガキらがシルフィを標的にする前はロキシーに泥を投げつけていたと知ったときはさすがに許せなくて、ソマル直伝の寝技をかけた。自分が教えた技で痛めつけられる気分はどうだ。

 

 

 まあ、そんな訳で、今のところは俺の友達は11人。

 ときには子供同士で小競り合いや喧嘩はあるものの、基本的には仲良くやっている。全裸で磔なんてこともされない。

 平和なもんだ。

 

 平和……の、はずだった。

 

 

「シンディがいない?」

 

 羊飼いの兄弟の厚意でウィーデンという町まで来た俺は、兄弟が市に広げた店の前で、たった今聞いた言葉を復唱した。

 兄のイッシュはともかく、弟のヨッヘンまで焦った顔をしている。ただの迷子にしては大袈裟だ。

 

 詳しく聞くと、俺が町を見て回り、イッシュが席を外している間、ヨッヘンはシンシアと店番をしていたらしい。

 すると、山高帽の男が近寄ってきた。

 ヨッヘンは男を羊を買いにきた客だと思い、兄が来るまで待てと言った。子供と舐められて無茶な値切りをされることもあるし、自分では金勘定をごまかされてもわからないからだ。

 山高帽の男はヨッヘンに金貨を何枚か渡した。

 商売にまだ疎いヨッヘンでも、羊一匹の値段を遥かに上回る金額だとわかった。

 驚くヨッヘンに、山高帽の男は、羊ではなく、子供を――仔羊とじゃれていたシンディを指さした。

 あのガキを買いたい、これで足りるか? と。

 

 ヨッヘンは元々シルフィをいじめていた悪ガキの一人だ。

 しかし、嬉々として妹分を売り飛ばす非道ではない。

 ヨッヘンは驚きつつも断り、またいつ山高帽の男が来るともわからない不安に苛まれつつ兄の帰りを待ちわびた。

 

 兄のイッシュが帰ってきて、ほっと気が緩んだ矢先に、シンディはいなくなっていたらしい。

 

「馬鹿! おめぇ、なんでちゃんと見てなかったんだ!」

「だって、兄ちゃん帰ってきて……もう大丈夫だって思ってぇ……」

 

 イッシュに責められ、ヨッヘンは涙声になっていた。時折ませた口をきくが、まだまだ子供らしい。

 イッシュも弟を責めても仕方ないことを悟ったのか、癖のある茶髪をがしがし掻き、周囲を見回した。

 

「すぐ探しに、いや、まず警吏に……ヨッヘン、ウィーデンの道はもうわかるな? ひとまず三手に別れよう」

「もし妹が戻ってきたら入れ違いになるかもしれません。一人は此処に残るべきです。

 残るのはヨッヘン君がいいでしょう。人攫いであった場合、ヨッヘン君も捕まる可能性がありますから」

 

 俺が落ち着いて言うと、イッシュは戸惑った顔をこちらに向けた。

 

「だが、するとルーデウス坊は」

「僕は平気です。自衛の手段は父様から教え込まれているので。

 妹を見つけたら空に火球を打ち上げます。二発連続で打ち上げれば妹も僕も無事。三発は救助を求むの意ですので、もし気がついたら、応援をお願いします」

「う、うす」

 

 おいおい、返事が対パウロみたいになってるぜ?

 相手は6歳の子供だってのに。

 

「僕は西の方角を探します」

 

 そう言って、俺は人混みを縫って市の中を歩き出した。

 

 やかましい客引きの声や、豚の血売りから漂う生臭さにやや息苦しくなりながら、シンディの小さな姿を探す。

 どうせ、好奇心の赴くまま進んだ結果、迷子になって、その辺で大人から菓子でももらっているのだろう。村でよくそうしてるように。

 どこに行っても可愛がられるあの子のことだしな。

 

 ……待てよ? 山高帽の男がシンディを買おうとした理由はなんだ。

 いずれ成長するとはいえ、即労働力にはならない。

 3歳という幼さでは、特殊な技能も期待できない。

 じゃあ、なんで、欲しがるんだ。

 

 可愛いからだ。

 ゼニス似の顔立ちに、口元の黒子。将来はきっと美人になる。

 おまけに人懐っこいロリとくれば、ロリ〇ンには垂涎モノだ。身内補正でもかかっているのか、俺のまだショートなソードはピクリともしないが。

 

 いくら人身売買が合法である世界でも、可愛いロリを見て躊躇いなく金を出す人間が、一度断られた程度で簡単に諦めるのか?

 否。諦めたように見せて、機会を伺うだろう。

 子供が保護者の元を離れ、一人になる瞬間を待つだろう。

 そして隙をみて小さな体を袋か何かに押し込み、保護者が慌てふためくさまを見てほくそ笑むのだ。

 

 人攫いは、この世界では万引きくらいありふれた犯罪だ。

 ゼニスが歌い聞かせてくれた詩の一節を思い出した。

 

  見知らぬ人に負ぶわれて

  越えた旅路のつくしんぼ

  見知らぬ人は黒外套(くろまんと)

  顔もおぼえず 名も知らず

  いずくの国か いつの世か

 

 不気味な雰囲気の詩じゃないか。

 見知らぬ黒マントの人に負ぶわれ、どこに連れて行かれるのか、いやな想像ばかり育っていきそうだ。

 人攫いへの注意を促す童歌は他にもたくさんある。それだけ子供の誘拐はよく起きる事なのだ。

 

 ただの迷子ではなく、本当に誘拐された。

 妹の身に迫る危険をようやく理解したとき、俺は駆け出していた。

 

「シンディ! シンディー!」

 

 掌を空に向け、火系統の爆発(エクスプロージョン)の威力を抑えて打ち出す。

 空砲のような音がドン、ドン、と響く。

 通行人がときどき不審な目を向けてきた。どうでもいい。

 迷子であってくれたら、音を頼りに俺のもとまで来るはずだ。

 

 くそ。

 ヨッヘンとイッシュが目を離さなければ……。

 いや、兄は俺だ。責任はシンディを置いていった俺にある。

 人が多いから散策の足手まといになる。シンディはあの歳にしては聞き分けが良いから大丈夫だ。そう思って、俺は一人で行ったのだ。

 

 シンディが無事ではなかったら、いや、それ以前に発見することすらできなかったら、俺はどうすればいい。

 どんな顔でグレイラット家に居続ければいい。

 娘を溺愛しているパウロのことだ。怒り狂って俺を追い出しかねない。

 

 違う。保身を考えてる場合じゃないだろ。

 大丈夫、大丈夫さ。まだ慌てるときじゃない。

 シンディが居なくなってから、まだそんなに時間は経っていない。

 誘拐犯はウィーデンにいるはずだ。

 

 

 何度目かの空砲を鳴らしたときだった。

 

「お兄ちゃん?」

 

 路地裏から出てきた小さな人影。

 シンディは一人で、てぽてぽ歩いてきた。手にはオレンジ色の球体を抱えている。

 どことなく不安そうだった顔をパッと明らめ、彼女は満面の笑みでこちらに突進してきた。

 

「おにーちゃーん!」

 

 突進の勢いで、頭突きを顎にもらった。痛え。

 俺は顎を押さえつつ、シンディの無事を確かめた。

 

 怪我は……無いな。

 髪がちょっと乱れている。

 風邪も引いてない。元気そうだ。

 

「勝手に一人で行くのは良くなかったぞ」

 

 と、厳しめの口調で叱る。妹のためを思えばこそだ。

 

「……ごめんなさい」

 

 シンディは言い訳をしたそうにしたが、素直に謝った。

 ひょっとしたら、家族か友達に似た背格好の人を追いかけて迷ったのかもしれない。

 子供にはよくあることだ。生前の俺も幼稚園児のときはやらかした。

 

 発見を報せる火球を二発打ちあげた後、シンディの小さくて暖かい体を抱きしめた。

 無事でよかった……。

 

 

 


 

 

 

 兄と再会するすこし前のこと。

 初めて見る町はどの建物も道も同じに見え、兄を探すのを諦めた私は、家と家の間の隘路を突っ切って元々いた場所に戻ろうとしていた。

 

 じっとりと湿気が多く薄昏い路地裏に入ったとき、ぐいと首根っこを掴まれ、口の開いた麻袋に詰められたのだ。

 そのうち視野が明るみ、袋から出された。木造の倉庫のような場所であった。

 二人いた。乞食の身なりをした片目の潰れた男は、なおざりに私に視線をよこし、山高帽の男に小声で言いつけて倉庫を出た。

 ガキすぎる、もう少し育っていれば大臣に高値で売れたのに、と言葉の断片を繋ぎ合わせると、そのような意味の事を言ったらしかった。

 あてが外れたように、山高帽は私に視線をよこして舌打ちをした。

 

「泣きもしねえ、不気味なガキだ」

 

 黙して立つ私の正面に、山高帽は空の木箱を蹴り寄越し、その上にどっかりと座った。

 恐れがないのではない。突然のことに泣くのを忘れていた。

 

「名前は?」

 

 返事が遅れ、山高帽は靴の底を床に強く叩きつけた。

 凄まじい音が響き、私の肩は意思に反して跳ねた。

 

「しっ、しんでぃ、ぐれいらっと」

「〝グレイラット〟? そりゃいい!!」

 

 山高帽が笑む。鼻の下、唇の上をふちどる髭が下卑た笑みに合わせて歪んた。

 柑橘の爽やかな香りが山高帽の靴の先から匂った。

 手の内の、一玉の蜜柑を見下ろした。もうひとつは麻袋に入れられるときに取り落としていた。

 山高帽が踏み潰した……。そう思い至ったとき、烈しい怒りが湧いた。

 

 

 

 ■

 

 

 女学校に通う分限者の娘が気違いになって帰ってきたというのは、村では有名な話であった。トヨ子という娘。もとは別嬪で、東京から来た男教師との色恋でおかしくなり、女学校も辞めて、帰ってきた。

 トヨ子が男教師の子を堕している事は、誰が話しているのを聞いたわけではないが、トウビョウ様に教えられて、知っていた。

 しかし、娘を弄んだ男教師を殺してくれ――というトヨ子の両親の願いの応え方は、知らなかった。

 布団の上で上体を起こしたチサは、トヨ子の両親を帰した後、囲炉裏の傍につくねんと座る祖母にぼやいた。

 

「婆やん、トウビョウ使いちゅうんは、そねえにきょうてえもんなんか。わたしゃこの通り、目も見えんし歩けもせんのに、どねえして人を殺せるんじゃ」

「拝むんじゃ。お前にはトウビョウ様がついちょる」

 

 病は、人から何かを奪うかわりに、何かを呉れることもある。

 チサの場合、それは視力と足であり、トウビョウ様を使う力であった。

 チサの婆やんは、チサの冷えた手をとり、拝む格好に重ねさせた。

 

「婆やんの妹は、死ぬまで百を超える者に呪いをかけたで。妹の呪いから逃げられる者はおらんかった。

 何せ、妹は頸に金と白の輪がついた蛇を使えたけえ。あれが一番祟りが激しいんじゃ。使い方も、うっかりとは使えん。じゃけん、妹は若死にしてもうた。

 チサよ、お前も、それを使うときは用心して使わにゃあおえん」

 

 

 ■

 

 

 

 フランネルのスカートの下で、濡れたような肌触りの縄が太腿を這った。

 小蛇が内腿のあたりで蠢いている。濡れていると感じたのは、滑らかな鱗の冷たさゆえ。

 

 

 その場に膝をついた。

 手のひらをすり合わせるように重ね、祈る。

 

 この人が死にますように。

 死んでくれますように。

 

 死ね。

 

 死ね。

 

 死ね!

 

 

『トウビョウ様、よろしゅうお頼み申しますらぁ』

 

 

 とうに忘れたと思っていた言語だったが、トウビョウ様へ託す呪詛の言葉はなめらかに出てきた。

 私の腿をつたって床に降りた、頸に黄と白の輪がある小蛇は、床を這い、山高帽の躰を登った。

 肩に到達すると、鎌首をもたげ、耳穴に入っていった。

 

 蛇に気がつかなかった山高帽は、無表情で、木箱に腰かけたまま両腕を横に突き出した。

 右肘が頭の後ろで直角に曲がり、手で左耳を押さえた。

 顔が左を向き、左手が右頬を押さえた。

 首がぐきりと音をたてて折れた。

 

 私は正面を向いた山高帽の後頭部を見上げていた。

 首から下は木箱に座したまま微動だにしないのに、頭は真後ろを向いている。悪ふざけで切り貼りした絵みたいだった。

 

 絶命した山高帽の横を素通りし、路地に出た。

 倉庫の扉の前に誰もいなかったのが幸いし、脱出は易々と叶ったのだった。

 

 

「これ、お兄ちゃんの」

 

 手にもった蜜柑を意気揚々と兄に渡す。

 兄を見失ったときは戻り方が分からず、不安になりもしたが、もう一安心だ。

 きょとんとした風に蜜柑と私を見比べた兄は、にわかに優しい声になり、市に共に戻るように促した。

 

「知らない人に怖いことされてないか?」

 

 人や馬車にぶつからないように、道の端っこを手をつないで進む。兄からの問いに首を横に振って答えると、「ならいいんだ」と声が返ってきた。

 怖いと思うことはあった。

 頸に輪のあるトウビョウ様の存在だ。

 私は、まだ、あれが使えるのだ。それが怖い。

 

 

 


 

 

 

 羊がいなくなった荷台にのびのびと座る兄の膝に座る。

 砂利道を踏んで揺れる荷台の上で「あー」と声を出すと、声が勝手に震えてくれて楽しい。

 腹に腕を回して固定されたので、くつろいで顔を夕焼け空に向ける。

 髪の毛が顔にあたったのか、「わぶ」と兄の声が聞こえた。ごめんね。

 

 ぴぃひょろ、と鳴き声が聞こえる。

 

「たか、お兄ちゃん、たかいるよ」

 

 自由に空を飛んでていいね。

 

「ちげーよ。鳶だ」

 

 兄の横に座ったヨッヘン君に訂正された。

 鷹じゃなくて鳶だった。

 鷹は生きた動物を捕食するが、鳶は死骸を啄む。そのせいで鷹ほどカッコイイ鳥の扱いはされなくて、飛んでいると子供から歌って囃し立てられたりする不憫な鳥だ。

 

  トンビ トンビ

  まいまいしょ

  あさっての市で

  魚の尾買って食わしょ

  トンビ トンビ

  まいまいしょ

 

 三人で夕焼け空に向かって歌った。

 不憫とは思うが、思いっきり歌うのは楽しいのだ。

 

 そういえば、なんで〝魚の尾〟なのだろう。

 こういう時は母様だ。母様は知識豊かで、私や兄の問いになんでも答えてくれる。知らぬことは、村の年寄り、博識な旅人に折をみて訪ね、伝えてくれる。この前は、「鬼族の漁師が、本では猟師と書かれているのはね」と言い出したので、とうに質問したことすら忘れていたらしい兄がめんくらっていた。

 

 でも、母様はここにはいない。

 気になったことはすぐ知りたいので、兄に訊ねてみると、兄は首をひねった。

 

「多分だけど、鳶の尾羽が、魚の尾鰭に形が似ているからじゃないか?」

「おびれ?」

「川に、魚がいるだろ。魚の尻のほうを、尾鰭というんだ」

 

 なるほど。

 言われてみれば似ている。

 

 あっ。

 

「これも、一緒よ」

 

 私はスカートの裾をぴらっと摘んだ。

 この袴を短くしたような服は、広げれば台形になるのだ。

 鳶の尾羽と魚の尾鰭と私のスカートは同じかたち。

 

「そうだね。じゃ、こうしよう」

 

 兄は「魚の尾買って食わしょ」という一節を、「スカート買って履かしょ」と歌い替えた。

 

「スカート履くのかよ」と、ヨッヘン君が吹き出した。

 

「女のカッコとか、へ、ヘンタイじゃん! ぎゃはは!」

「雌のトンビかもしれないだろ! 仮に雄だとしてスカート履いてなにが悪い!」

「お前鳥の何なんだよ」

「急な真顔やめろ」

 

 兄の足が動きたそうにしていたので、上から退くと、兄はヨッヘン君にとびかかり、そのまま二人でとっくみあい始めた。

 どちらも本気の力を出していないじゃれあいだ。

 楽しそうで、微笑ましい。

 

「転がり落ちんなよぉ」

 

 御者台から飛んできたイッシュさんの声に、兄は「はーい!」と返事をし、私は荷台でころころ転がるオレンジを慌てて押さえた。

 家に帰ったら兄と半分この約束なのだ。

 これまでダメになったら悲しくて泣く。

 

「それにしても……いやぁ、嬢ちゃんが見つかってよかった。今日のことはパウロさんにはナイショで頼むぜ」

「? はぁい」

 

 どうして今日のことを父様に内緒にしなければいけないのか分からなかったが、とにかくにも頼まれてしまったので、承諾した。

 でも、牛車に乗せてもらえて楽しかったのに、誰にも話せないなんてもったいない。

 あ、父様じゃなくて、母様とリーリャに言えばいいのか!

 それから、エマちゃんと、ワーシカと、シルフィと……シルフィはお兄ちゃんから聞くかな?

 

 家族と友達の顔ぶれを指折り数えていた私は、見慣れた粉挽き小屋の水車を前方に見つけた。さらに丘に点在する家屋の群れを認め、胸に温かいものが広がった。

 懐かしさというには大袈裟な。初めての遠出が終わりつつある寂寥もあったが、寂しいだけでもない。妹を(みごも)った母様と、リーリャに会える嬉しさもあった。

 

 また行こうね、と言うと、イッシュさんは「今度なぁ」と肩を竦め、ヨッヘン君は「もう連れてってやんねー!」とイーッと歯を剥いた。けち。

 

「大きくなったら、俺が色んな所に連れて行ってあげるよ」

 

 そう言って兄は私の頭を撫でた。さすがルーデウスお兄ちゃんだ。

 とはいえ、頸に輪のあるトウビョウ様の姿を視認した以上、何日も家を空けることはできない。出かけても近くの町が限界だろう。

 

「お兄ちゃん、やさしいね。大好きよ」

「よせやい」

 

 今はただ、この幼い少年の優しさが嬉しい。



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九 柩は正午に燃やされた

日間ランキング入りしてました。読んでくださる皆さんのおかげです。
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 朝だ。

 朝日が眩しい。

 

 眩しい顔をしていたら、リーリャにそっと持ち上げられ、陽が直接射さない場所に置かれた。

 

「重いものもっちゃだめ!」

「……ふふ、はい、気をつけます」

 

 リーリャの前に両手を広げて通せんぼし、何回目かの抗議をすると、リーリャはこれもまた何回目かの同じ返事をした。

 ほんとだからね、リーリャの赤ちゃんは早く生まれるよ、と訴えても「はいはい」と返事はなおざりだ。

 

 三歳になって、お喋りがうまくなったと自負しても、それは以前の自分に比べればの話。

 複雑な情報は伝えたくても半分も伝わらないことがある。

 

 そうだ、トウビョウ様に供物を捧げなくては。

 祈祷だけでは物足りなくなって、そろそろ祟ってくるかもしれない。

 

「こーら」

 

 椅子を戸棚の前に持ってきて、上によじのぼって戸棚を漁っていると、母様に邪魔された。

 

「それはシンディには早いわよ。お母さんにちょうだい?」

「やっ」

 

 抱えた土壜をしっかり抱きしめる。

 ちゃぷ、と中の液体――お酒が揺れた。

 アブサンという名前の酒で、父様がときどき飲んでいる。

 

「ダメよ、子供は飲んだら具合が悪くなっちゃうの」

「飲むのわたしじゃない。おそなえもの!」

「お供え物? いい? シンディ、その気持ちは大事だけど、ミリス様への感謝は日々の祈祷で――」

 

 聖ミリス様のお話が始まってしまった。

 母様は私をミリス教徒にしたいらしいのだ。

 トウビョウ様にこっそり手を合わせている姿を実は見られていて、それでミリス教に興味を抱いていると思われているのだろう。

 

「どうしてもお母さんに返してくれないの?」

「うん」

 

 アブサンの壜を渡すように説得する母様に、それでも首を横に振り続けていると、

 

「えーん」

 

 母様は顔を手で覆い、しゃがんで泣きだした。

 なんてことだ。一体なぜ。

 

「シンディがお酒離してくれなくて悲しいよー、えーんえーん」

 

 私のせいだった。

 どうしようどうしよう。

 

 椅子の上に立ったまま、私は助けを求めてリーリャを見た。

 リーリャは攪拌機に牛乳を注ぎ、機械のハンドルを上下して牛酪(バター)を作っていた。

 リーリャは私と目が合うと、

 

「ううっ、ぐすっ」

 

 よろよろとその場にくずおれて前掛けで目もとを押さえた。

 ひええ。

 

「ごめんなさいぃ!」

 

 酒壜を戸棚に戻し、椅子から降りて母様に抱きついた。

 供物は別のものを考えるから。ちゃんと言うこときくから。

 

「もうお酒で遊ばない?」

「あそばない」

「約束?」

「やくそく!」

「そう! 良い子ね、シンディ!」

 

 顔を覆っていた手が退けられ、にっこにこの母様が私の頬をもちもち触った。

 ほんとうに泣いていたのだろうか。

 

「ほんとに泣いてた?」

「ええもちろん。お嬢様がイタズラなさるので、リーリャも悲しくて泣きましたよ」

「ごめんね……」

「バターミルクは飲まれますか?」

「飲みたいです!」

 

 リーリャがバターを作ったあとの牛乳をコップに注ぎ、渡してくれた。きちんとお礼を言ってから受けとる。

 普通の牛乳も美味しいが、バターを作った後の搾り粕もあっさりした味わいで好きだ。

 

 私が椅子に座って飲んでいるあいだに、リーリャは戸棚に近づき、さりげなく酒壜を棚の高いところに仕舞い直した。

 椅子の上に立っても絶対に届かない高さである。

 ああ……。

 

 よし。

 

 

「どれを取ればいいんだ?」

「あぶさん」

「酒? ダメだよ、そもそも何に使うんだ」

 

 朝食後、母様たちがいない隙を見計らって兄を連れてきた。

 兄はさっきの私と同じように椅子に乗り上げ、棚に手をかけた姿勢のまま私を咎めた。

 

「お供えするの」

「誰に……」

「ないしょ」

「とにかく、ダメだ。おもちゃじゃないの」

 

 遊びじゃないやい。

 

「お兄ちゃんだって」

「ん?」

「ぱんつ拝んでるのに」

「ブッ」

 

 正面から何かに衝突されたみたいに、兄は椅子から落ちた。

 

「だいじょぶ!?」

 

 あわてた私が近寄るより前に、床に仰のいていた兄は素早く這いつくばってにじりよってきた。

 

「ど、どどど、どこでそれを!? リーリャか!? それとも見たのか!?」

「視たの」

「見られていたか……」

 

 兄は女性用の下着を大事に祀っている。

 あの凄まじい念の篭もりようは、毎日といっていいほど拝み、ときに頬ずりや舐める等の接触をしなければ辿り着けない。同じ強さの念をこめて拝み続ければ百年足らずで付喪神が憑くだろう。

 

 隣室からでも存在を感じとれるほどで、残留思念を辿ると元の持ち主はロキシーだということがわかったのだ。

 

 

「このことは内密に頼む」

 

 兄は白鑞(ピューター)の小さな杯に薄緑色のアブサンを満たし、深々と頭を下げながら私にそれを渡した。

 

「だいじょぶよ、誰にもいわない。ぜったい」

「シンディ……!」

 

 兄が私に脅されているみたいで可哀想だったので、その頭をよしよしと撫でる。

 誰にも知られたくないことはあろうもの。前世ではそれを覗き視て、依頼者に伝えなければならぬ時もあったが、兄の秘密は守るのだ。

 

 今までは人目から隠れて拝んでいたが、別に兄が居てもいいか。

 玄関近くの柱の前にさっそく白鑞の杯を置き、掌を重ねた。

 

「大事なのは気持ちだと思うぞ」

 

 短い祈祷を終えると、証拠隠滅とばかりに兄は杯の中味を外に捨て、水魔術で杯を濯いで棚に戻した。

 

「高価なものを供えるのは信仰心の高さを周囲に示すには効果的だろう。でも神様は、値打ちのある供物を捧げた人のお願い事を優先して叶えることはしないはずだ。

 だってそんな神様がいたら、供物をたくさん用意できる金持ちはさらに金持ちに、明日の暮らしにも困る貧乏な家は貧乏なままだ。そんなの不公平だろ?」

 

 おそらく一理ある。

 私が育った村では、トウビョウ様はどの家でも信仰されていた。石見という地域では、土蔵に新米を撒いてトウビョウ様に捧げているらしいのに、薄い粺の粥を供えるのがやっとな貧乏百姓の家からも私というトウビョウ使いの巫女が出ている。

 

 同じくトウビョウ様を使えた婆やんの母はやや知恵遅れで、婆やんの妹は生まれつき盲だったらしい。

 トウビョウ様が片輪のオナゴに強い力を与えるというのは、いくぶんか救いであるように思われた。

 わずかな田畑しか持たず、他家の手伝いで口を糊していた一家に医者を呼ぶ余裕はない。ひたすら納戸で呻吟するしかなかった貧しさが、結果として生前の私にトウビョウ使いとして食っていく道を拓いたのだ。元々がトウビョウ持ちの血筋であったのも幸いした。

 

「気持ちがだいじ?」

「ああ。立派な神棚を用意できずとも、御神体(パンツ)があり、信仰心があれば例え枕の下、長持の中、本の裏、御神体(パンツ)がある場所が神棚なのだ」

 

 御神体かあ……。

 私はこの家にはない土間のほいと柱を想った。

 隣村から嫁に来たイサさんから聞いた話だが、壜を床下に置いて、そこをトウビョウ様の御座す場所と定めている家もあるとか。

 これは実践できそうな感じだけれど、壜を割ると災いが起きるとされているのが難点だ。

 

「ごしんたいが無いとき、どしたらいいの?」

「御神体(パンツ)が無い場合か……。

 そういう時は心だ。毎朝神(ロキシー)の気配がある方角に向かって二礼二拍手一礼、あるいは舞を捧げる、あるいは五体投地など、いくらでもやりようはある。

 いいか? 継続して行うということはそれ自体に忍耐力と精神力を要求されるのだ。時には、今日くらいやらなくていいかな、明日やればいいかな、と怠けそうになるときもあるだろう! そんな悪い衝動をグッと押し留め、御神体(パンツ)が手元に無くても毎日必ず拝むのだ。

 そうして、神(ロキシー)は、そうした下々の民のひたむきな心を見ていてくださる!」

 

 兄は自分の襟元をごそごそ探り、革紐をひっぱって服の中から出した首飾りをかかげた。

 緑青の槍の穂が三本重なった形で、両脇にはまっ白な獣の牙が一つずつ。ロキシーが兄にあげたお守りである。

 演説を終えた兄に拍手を送る。

 

 兄は気恥しそうに咳払いし、椅子につくねんと腰かけた。つま先が床に届いていない。

 

「つまり、信仰心の表現に供物は必須ではないということだよ」

「わかった!」

 

 私は玄関の柱のほうを向き直し、その場に正座して、もう一度手を合わせて目を瞑った。大切なことは供物ではなく、トウビョウ様を恐れ敬う気持ちなのだ。

 

「ところで何をお祈りしてるんだ?」

「ないしょ」

「内緒かー」

 

 トウビョウ憑きが出た家は財をなす。

 しかしトウビョウ憑きが出た家をトウビョウ屋敷といって、いかに富んでいても、村八分にこそしないものの、村人はトウビョウ屋敷の者とは血縁を結ばない。トウビョウ持ちはトウビョウ持ちと、狐憑きは狐憑と結婚するものと決まっている。また、金銭の貸借もしない。

 

 私はトウビョウ様の力を借りて家族に貢献するが、私がトウビョウ憑きである事は知られてはならない。

 私のせいで、兄の嫁の来手や、まだ見ぬ妹たちの貰い手が見つからなかったら可哀想だからだ。

 

 

 


 

 

 

 二月の雨季のことである。

 

 雨の日が続き、その日も、終日やわらかい小雨がふっていた。

 お昼寝をすると、寝る時間になってもまったく眠くならないからふしぎだ。まだまだ動き足りない感じがして、そういうときは家の中で疲れるまで父様に遊んでもらう。

 まず、父様の正面に立って、父様の両手につかまる。

 つかまった手をしっかり持ち上げてもらいつつ、父様の体を足で登る。

 手と手のあいだに足を入れて、くるっと回ると、なんと元の場所に着地している。

 

 前にシルフィが父親のロールズさんとしているのを見て、あれやって! と、父様にねだった運動だ。

 

 ロールズさんが子供のときは彼のお母さんとしていたそうだ。シルフィのおばあちゃんである。

 おばあちゃんと一緒に暮らさないの? とロールズさんに訊いたら、僕とおばあちゃんはあんまり仲良しじゃないから、と曖昧に微笑んでいた。

 うちは、父方の祖父母は亡くなったという話で、母方の祖父母は遠いところにいるという話だ。

 ロールズさんがお母さんと仲良しになれたらいいと思った。

 

 

 友達の家庭の事情はさておき、今は兄の番である。自分の順番を待ちがてら、父様がいつも腰のベルトに括りつけている大きな剣をさわる。

 

「ほいっ」

 

 兄が着地した。

 父様は柄を持ち、鞘から抜いてちょっとだけ刀身を見せてくれた。幅の広い刀身である。私の手のひらとおなじくらいだ。

 

「さわったら、ケガしちゃう?」

「ああ。母さんが使う包丁と同じで、使いこなせば便利だが、お前にはまだ危険だ。さっきみたいに鞘の上からなら触っていいぞ」

 

 刃物は、ふしぎだ。手を押し当てても物は斬れないのに、剣や包丁を押しつけると何でも斬れる。鈍色に光る刃は怖い存在ではなく、むしろ人を惹きつける魅力があった。

 もうちょっと見ていたかったが、父様はカチャンと鞘にしまった。

 

「はい、シンディの番」

「ん!」

 

 父様の手につかまり、くるんと回った。たのしい。

 もう一回やりたいけれど、次はお兄ちゃんの番だ。

 

「せーのっ」

 

 兄は父様と息を合わせ、高く飛んで回転した。

 父様の体に足で登らず回るとは。そんなやり方があったのか。

 

「お兄ちゃんとおんなじのする」

「できるか?」

「わかんない」

 

 せーの、と兄がしていたように膝を曲げて掛け声を合わせて飛んだが、私が跳躍しただけで終わった。

 父様がちゃんと引き上げてくれなかったのだ。

 

「とうさま、ちゃんとしてくださいな!」

 

 私は訴えた。「〇〇して!」だと言葉が強くなるときがあるから、「〇〇してほしいな」「〇〇してくださいな」という言い方にすると良いと母様に教えられている。

 

「や、でも、強く掴んだら腕が引っこ抜けそうだぞ? 大丈夫か?」

「やん」

 

 思わず左肩を押さえた。無くなってない。ちゃんとあった。

 

「子供たちをむやみに怖がらせないで」

 

 と、母様から声が飛んだ。

 

「そうは言うが、持ってみると骨の感じがルディと違ってビビるんだよ。こんなに小さくても、もう男女で体つきが違うんだな」

「ふたり抱っこする? とうさま」

 

 ふたり抱っことは、父様が、兄と私を片腕ずつ座らせて同時に抱っこすることである。

 兄と私がちがう、と言っていたので、同時に抱けばもっと確かめやすいと思った。

 

 父様は私を右腕に、兄を左腕に抱いて立ち上がった。

 私の背がうんと高くなった。暖炉の上に飾ってある、特別な日にしか使わない白目の皿に手が届きそうである。あの皿は、もう一年も前、兄の五歳のお祝いに使われたきりだ。

 

「おもい?」

「軽い、軽い。二人合わせたって羽根のようだよ」

 

 父様は私の頬に口をつけた。兄の頬にも同じようにしようとし、ぺちんと兄の手に口をおおわれて塞がれていた。

 

「母様にもそう言ってあげたんですか?」

「そりゃな。出会ったばかりの母さんは、可愛くてか細くて、本当に冒険者かと内心で疑ったさ」

「あーら、今は違うのかしら?」

 

 母様がにまにま笑いながら近づいてきた。

 

「まあ、確かに、ここに来てから少し焼けたわね。腕に筋肉もついたもの」

「母様はどんなときも綺麗ですよ」

「きゃあ! ルディったら!」

 

 少女のように頬に手をあてて喜ぶ母様は可愛らしい。ほっこりした。

 一方で、父様は思いっきり兄に頬ずりをした。私にするよりやや乱暴だ。両手が塞がっていなければ頬をつまんで横に引き伸ばしてさえいそうだ。

 

「父さんの先を越しやがって。将来有望じゃないか。おらおら」

「くすぐった、いや、痛い、痛いです父様! 髭の剃り残しが!」

 

 兄が体をよじって顔をそらしたとき、ドンドン、と玄関の扉が強く叩かれた。

 

 

 父様と母様はほぼ同時に、驚いた猫のように顔を玄関に向けた。

 夜更けに人が尋ねてくるのは、初めてだ。

 

「パウロさん、開けてくれ」

 

 扉の向こうから父様を呼ぶ聞き馴染んだ声に、父様は私と兄を降ろして玄関に向かう。

 燭台の火が届かぬ玄関と応接間の昏さを案じてか、リーリャが手燭を持って父様に追従した。

 母様も不思議そうに玄関の方を伺っている。

 

「どうした? こんな夜更けに」

「マリオんとこの長男坊が、こんな時間になってもまだ帰らねえらしい」

「長男……っつうと、ケインか。まだ十一歳だったよな。この家には来てないぞ」

 

 松明をたずさえて訪ねてきたのは村人のヴェローシャさんだった。

 ヴェローシャさんに「こんばんは」を言いに玄関に近づくと、父様にひょいっと抱っこされる。

 兄と母様も来て、「外は寒いですし、中に」という母様の申し出をヴェローシャさんは首を振って断った。

 

「なあ、ルディ。お前見たか? ケインのこと」

「いえ、僕もシンディも、今日は雨だったのでずっと家に居ました。友達は来ましたが、シルフィとハンナだけです」

 

 父様は難しい顔をした。

 母様が父様に代わるようにヴェローシャさんに言葉をかける。

 

「こんな時間になっても帰らないなんて、心配ね。他のお宅には訊ねたの?」

「ああ、どの家にもいなかった……あんたらのとこが最後だ。

 んで、もしかすると森の方へ行っちまったかもしんねえってことで、今から男衆で捜索しに行くんだ。パウロさんにも声掛けさせてもらった」

「無事だといいけれど……」

 

 母様はそう言いながら兄の肩に手を置いた。

 その顔は不安そうだ。ケイン君を家で待っているであろう彼の母親の気持ちを想像して、胸が痛んだのかもしれない。

 

 ケイン君。

 知っている。リチャード君のお兄ちゃんだ。

 この村も前世と同様、だいたい十歳から本格的に家の仕事を手伝うことになる。

 私がエマちゃんに連れられて家の外で遊ぶようになったのは一年前で、そのときすでに十歳だったケイン君とは遊んだことはない。でもリチャード君に会いに家に行けば、たまに相手をしてくれた。

 蜂に紐をくくりつけて巣を見つける方法を教えてくれたのも彼だ。

 無口だけど優しい少年だった。

 

「そういう事ならオレも行く。ゼニス、カンテラに火入れてくれ」

「すぐに用意するわ」

「上着も用意いたします」

 

 母様が角灯を取りに、リーリャが父様の外套を取りに行った。父様に床に降ろされ、視野の高さがいつもと同じに戻った。

 

「父様、僕も一緒に行って手伝います」

 

 兄は父様の服を引き、そう言った。

 

「お兄ちゃん、どこか行っちゃうの?」

「うん。ケインを探すのを手伝うよ」

「私もおてつだいする」

「シンディは留守番かな」

 

 兄はしかし、やんわりと断った後、私をじっと見つめて何か考えているような素振りをみせた。

 それが中断されたのは、父様が兄の頭に手を置いたからだ。

 

「ルディ。お前も留守番だ」

「でも、僕でも多少は役に立てると思います」

「バカお前、夜の森を舐めるな。捜索対象が一人増えて終わりだぞ」

 

 話は終わりとばかりに父様は外套に袖を通して外出の身支度を整え始めた。

 兄は不服そうな顔をする。

 ケイン君を助けに行きたかったのだろう。あるいは、父様の役に立ちたかったのかもしれない。

 

 

 私はケイン君を視ることにした。

 そしてケイン君の居場所を兄にだけこっそり教えて、兄が見つければ、父様は兄を褒めるはずだ。ケイン君の両親も感謝するだろう。

 

 

(トウビョウ様。童らの居場所を、チサに視せてつかあさい。)

 

 声にしない声で、口のなかでそっと呟く。

 頭の両端が熱くなり、目を閉じれば望んだ光景はすぐに浮かび、熱さは痛みに変わった。

 不吉な結果であれば頭が痛む。

 

 思わず、言葉をこぼした。

 

「……土、の、なか。ケイン君、かわいそう」

「うん?」

「土のなかにいる」

「土の中?」

 

 父様が怪訝な顔をした。

 場所は、村外れの川縁である。今は誰も住んでいない無人の茅屋の傍であり、川縁の木の樹皮には、猪が躰を擦りつけた泥の跡がある。

 あの少年は土砂崩れに巻き込まれたらしい。経もあげてもらえないまま土の中は気の毒だ。

 

「村の、はしっこ。近くに家があって、川べりの木に、傷と泥がついてるの。それがめじるしよ」

 

 自分が視たものを、そのまま伝える。

 兄が行く必要はなくなった。掘り返すには、どうしたって大人の力が要る。

 

「ケインが生き埋めになってる、って、言いたいのか?」

「生きてないよ」

 

 松脂が焼ける匂い。

 脂を塗ったために松明の火はよく燃えている。橙色と赤色の火は周囲を丸く照らし、降り続ける小雨を糸のように白く映し出した。

 

 雨乞いのときも山野で火を焚く。神事の煮炊きに使う火は斎火といって穢れがない清浄な火だと教えられてきた。

 聞きかじった話だが、紙に包んだ塩を燃やすことで成就する呪いもあるという。

 呪いにおいても、神道においても、火は重要な役割をもつのだ。

 

 掘り返す者たちが掲げた松明は、そのまま子供の送り火になるだろう。

 

「シンディ、そういう事は言ってはいけないの」

「だめなの?」

「シンディは今日、お家から出てないでしょう。見てないものを見たって嘘をつくのは、いけないことよ」

 

 ちゃんと視たのに。

 母様の言う「見た」と私の「視た」は、たぶん少し違う。でも、それを説明する力を私は持たない。

 

 まごついていると、膝をついた母様の厳しい目にまっすぐ射抜かれる。

 

「お返事は?」

「……わかった」

 

 しょんぼりして、私は頷いた。

 父様に慰めるように肩をとんとんと叩かれた。

 

「それじゃ、行ってくる。おやすみ、ルディ、シンディ」

 

 角灯を持ち、ヴェローシャさんと連れ立って家から出た父様に、お願いした。

 

「はやく、見つけてあげてね」

「ああ。オレたちに任せろ」

 

 振り向いた父様の、鷹揚な笑みが、角灯の弱い光に照らされていた。

 

 

 


 

 

 

「お嬢様、おはようございます」

「んにゃ……りーにゃ」

 

 リーリャに起こされた。日輪はまだ低い。物の文色をとらえるのに不足はないが、夜は明け切っていない時刻だ。

 顔を洗い、水を少し飲んで、まだうつらうつらしていると、リーリャに洋服を渡された。

 

「お着替えしますよ。腕をあげてください」

 

 バンザイをすると、リーリャが服の裾を持って捲りあげる。

 丸い襟から頭をすぽっと抜かれながら訊いた。

 

「じぶんで着なくていいの?」

「今日は急ぎの用事がありますので、特別です」

 

 普段の服を着せられた後、黒い布をリーリャに渡される。

 受け取って広げてみると、黒色の袖無し外套である。

 ボタンが多い洋服はまだうまく着られないけれど、これは私でも簡単に着脱ができるやつだ。

 

 そうして、兄と手をつないで、家族揃って外に出た。

 その家には大勢の村人が集まっていた。私の家族も例外ではない。

 群衆の中にエマちゃんを見つけたので、手を振ると、エマちゃんは周りの大人の顔色を伺うようにしながら、少し微笑んで手を振り返してくれた。

 

「……シンディ、ケインお兄ちゃんとお別れしましょうね」

「?」

 

 母様にそう言われ、家の方を見る。

 黒い幕をかけられた棺台が二人の男に運ばれて、村唯一の教会に運び込まれていく。

 泣いて棺にすがる女――ケイン君の母親を見て、ようやくこれがこの村の葬式だということがわかった。

 

 そうか。ケイン君はきちんと発見されたのだ。

 

 老人の飲んで騒いで見送る葬式と異なり、子供の葬式は痛ましく陰鬱な雰囲気になるのはこの国でも同じらしい。

 

 かくいう私も、トウビョウ様に頼って視るのと、実際に遺体が運ばれるのを見るのではやはり心情は異なった。特別仲が良かったわけではないものの、顔見知りの子供の死は堪える。

 

 見送りを終え、家に到着した私たちは、

 

「シンディは、神子ではないでしょうか?」

 

 という兄の一言により、家族会議とやらを始めることになったのだった。

 

 

 家族会議。

 いつか、リーリャが妊娠を報告したときにしていたあれだ。

 違いは、父様が別室に追いやられず、うなだれた顔もせず、真面目な顔で家長の席についていることだ。

 

 私は兄の隣りに座っている。食事のときのように座面に台が置かれているわけじゃないから、視野の大半を卓が占める。椅子の上に正座をしたらちょっとマシになった。

 

 あっ、母様が浮かない顔してる。

 

「確かに、ケインは土砂崩れに巻き込まれて死んじまった。シンディはそれを言い当てた。だが、この一件だけで神子だと断定はできない」

「昨夜のことだけじゃありません。シンディは隠れんぼのときも、必ず誰がどこにいるか当てるんです。

 それから、前に、ベンさんの納屋でボヤ騒ぎがあったでしょう」

「ああ。それがどうしたんだ? そのときは、ルディが魔術で消し止めたんだろう?」

「僕が、その場に居合わせたのは、なぜだと思いますか」

「……偶然じゃないのか?」

 

「違います」

 

 兄は首を振って否定した。

 

「前日に、シンディに言われたんです。ここは明日、隣家の鶏が絞められた時間に火を吹く、そして中にいる子供が焼かれて死ぬ、と。僕は言われた通りの瞬間に赴いただけでした」

 

 私から、父様の顔は見えない。

 だから感情をうかがい知るには、声音に頼るしかないのだけれど、父様が何も言わないから、わからない。

 

「……実は私も、もしかして、と思うことはあったのですが――」

 

 父様が口を開くより先に、リーリャが話し始めた。

 

 

 知るはずのない失せ物を見つけたこと、

 魔物が森に発生する日を言い当てたこと、

 予測できない天候の変化を予言したこと、

 行方不明の子供の居場所を言い当てたこと、

 村娘が妊ったことを医者より先に当てたこと、

 等々。

 

 私がこれまで当たり前のようにしてきたことを列挙し、兄たちは真剣に話し合っている。

 前提として、この国には魔術という火や水を何もないところから生みだす技術があるのだ。

 それに比べれば、失せ物/失せ人探し程度なら珍しくもないだろうとたかをくくって、ところ構わずトウビョウ様の力を借りてきたのがいけなかったのかもしれない。

 未来視も、天候程度なら正確に視える。

 魔物の襲来は、村から森に伸びる魔筋(ナメラスジ)を見ればわかることだ。一年に一度魔物が発生するかしないかというのは、生前と照らし合わせれば修羅の国といって然るべきだと思うのだが、この村は平和な方だそうだ。

 それを聞いた日は怖くて夜泣きした。

 

 この家をトウビョウ屋敷にしてはいけない。

 トウビョウ様の名を明かさないようにしつつ、こうだったよね? という事実確認や質問に、言葉少なに頷いたり、答えたりした。

 

 ところで、神子ってなんぞや。

 咎められなかったので、机に手をつき、椅子の上に立って家族の顔を見回した。

 

「私は違うと思うわ」

 

 懐疑的だった父様が、「まさか本当に?」って感じの眼を私に向けてきたとき。

 沈黙を保っていた母様が突如席を立ち、言った。

 

「小さな子供は、不思議と女性のお腹に赤ちゃんがいることを言い当てることがあるんですって。でも、成長と共にその力は失われるんですって。

 シンディも、それよ。神子なんかじゃない」

「いや、だが、ルディはそんなことなかったぞ。それに、他の事象の説明がつかない」

「偶然よ。ねっ、ルディ。確かに少し不思議なことはあったけれど、びっくりしてちょっと大袈裟に言っちゃったのよね。そうでしょう?」

「えっ……」

 

 兄がぽかんとして、それから訝しげな顔になる。

 なんでそんなこと言うんだ? って感じの表情だ。

 

 母様は私に向き直り、にっこり笑った。

 

「お母さんたち、つまんない話しちゃったわね。お腹すいたでしょ? 朝食にしましょう。一昨日もらった果物も食べる?」

「もも!」

「そうよ、桃よ」

 

 わーい!

 

 よろこぶ私とは異なり、父様は慌てたように、台所に行こうとする母様の腕を掴んだ。

 

「お、おい、どうしたんだ、ゼニス。その終わらせ方はちょっと強引だぞ。もし仮にシンディが神子だったら――」

「神子だったら何よ!」

 

 母様はとつぜん金切り声をあげた。

 腰を上げかけていた父様が驚き、再び着席する。

 私と兄もびっくりして姿勢を正した。

 

「私だって、もしかして、って思ってたわよ! シンディは特別なんじゃないかって! 普通の子にはない力があるんじゃないかって! だって母親だもの! あなたより長く娘といるもの! オーガスタさんの子が流れることまで言い当てた! 子供たちに襲いかかろうとした野犬が、この子が睨んだだけで泡を吹いて死んだ! あなたの留守中にしつこく訪ねてくる男が、この子に触れられると苦しみだした! 私は全部そばで見てたのよ!」

 

 そんなこともあった。

 母様と井戸端でお喋りしていたオーガスタさんの子は、早いうちからもうダメだということがわかっていたから、腹の赤ん坊のなり損ないに向けて手を振ってお別れした。

 野犬はソーニャちゃんとワーシカと庭で遊んでいるときに乱入してきて、ちいさなワーシカに標的を定めて襲いかかろうとしたので呪い殺した。

 父様と兄がいないときに訪ねてきて、ギリギリ冗談だと言い逃れできる下卑な言葉を母様に投げかけてくる男もいた。少し苦しめたところで、母様に「やめて、シンディ」と言われたから蛇を回収したのだ。男は喉首に蛇が巻きついたような痣をこさえて這う這うの体で逃げ帰り、それ以降来なくなった。

 

「……神子だったら、何よ」

 

 フーフーと肩で息をしていた母様が、疲れたように呟いた。

 ポロッとその瞳から泪が零れたのを見て、父様は今度こそ立ち上がって母様を抱き寄せた。

 

「神子だったら、あなた、自分の子を王宮に差し出すの? この子が名前も奪われて、私たちは簡単に会えなくなって、王宮でいいように飼われることになっても、神子だから仕方ないわね、って受け入れなきゃいけないの? いやよ、そんなの……私が産んだ子なのよ、そんなの嫌よ……」

 

 母様が泣いている。

 神子も王宮もなんのことかよくわからなかったけれど、母様が泣いていると不安になるし、私も悲しくなってきた。

 すごく、悲しい。お腹も空いた。

 

「ふえっ」

 

 思わず泣いてしまうと、ばつの悪そうな顔をした兄に抱かれて背中をさすられ、もっと泣けてきた。

 どうして兄が申し訳なさそうにしているのか。

 兄の発言で始まった話し合いだから、発端として責任を感じているのかもしれない。

 

「大丈夫だ、ゼニス。シンディはオレが守る。誰にも渡さない」

 

 母様とえんえん泣くことしかできなかった私には、父様のそんな言葉が、やけに頼もしく感じたのだった。

 

 それから。

 私が持つトウビョウ様の巫女の力は、秘匿されることとなった。私についての話し合いだが、私は完全に蚊帳の外だった。

 まあ、トウビョウ様の名は黙り通しても、力自体は特に隠さずにいたから今の結果なのだ。信頼がないのは仕方ない。

 

 

---

 

「正直、神子や呪子にしては、シンディの力は得体が知れないと思う。だが他に、オレたちはこの子の状態を表す言葉を知らない。

 今まで村の外に知られなかったのが奇跡なんだ。これからは、意識して隠し通さなければならん」

「生まれながらに持った力であれば、お嬢様には視えることは当たり前で、〈普通であること〉と〈普通では無いこと〉の区別はつきません。私たちが気をつけても、完全に隠すことは難しいかと」

「そうよね……。いっそ、分別がつく齢になるまで家から出さなければ……」

「待ってください、母様。それではシンディが可哀想です。それに、物事を判断する力は人と関わりながら身につけていくものです。家にこもり切りでは、育つものも育ちません。

 そこで提案なのですが、僕たちがシンディは神子だと触れ回るのはどうですか?」

「それじゃあ逆効果で……って、いや、ルディ、何か考えがあるんだな?」

「神子といっても、能力は様々なんですよね? それこそ王宮が欲しがるような能力の神子もいれば、明日の晩御飯の献立を必ず当てられるとか、ショボい神子もいるはずです」

 

---

 

 

 結論。

 私は神子である。能力は、失せ物を必ず見つけること。

 神子について、やっと意味を説明してもらえたので、ここに記しておこう。

 神子とは、〈呪い〉を持って生まれた人間のことだそうだ。

 魔術では説明のつかない事象を呪いと言い、それを持つ人のことを神子と定義するのだという。ただし、〈神子〉とされるのは、呪いが人間にとって利益をもたらす場合であって、逆に呪いが悪い方向に働けば、〈呪子〉とされるらしい。

 

 話だけ聞けば、神子と呪子は紙一重の存在に思える。トウビョウ様の力は良いことも悪いことにも使えるのだ。

 使い方次第で、私は神子にも呪子にもなるのではないか。

 

「シンディは、少し先に起こることがわかったり、自分の手を使わずに生き物を傷つけることができるのね?」

「うん!」

 

 と、放置されていた反動で、元気よく答える。

 予知は、穢れ――例えば、出産や死――に関すること以外はあまり見えないし、万能ではないけれど。

 殺したいほど恨んでる人がいれば教えてね。こっちはほぼ百発百中だ。

 

 母様は一瞬辛そうな顔をしたが、すぐに私を抱きしめた。

 

「実はね、お母さん、魔法が使えるの」

「しってるよ?」

「魔術じゃないの、魔法」

 

 母様は私を強く抱き締めた。頭上から、厳かな声が降ってくる。

 

「シンシア・グレイラットの特別な力を、今から私、ゼニス・グレイラットが封印します。

 ……シンディ、眼を閉じて、心の中に箱を思い浮かべて」

 

 箱――と、言われて、私は思い浮かべる。

 行李。ちがう。米櫃。ちがう。硯箱。ちがう。

 

 私は母様が大切にしている手箱を思い浮かべた。真鍮の金細工の箱である。上面には椿のような花、側面には麦穂と二羽の小鳥が浮き彫りになっていて、少し手擦れしている。

 大切にしているものは、手箱そのものではなく、中に入っている銀色の首飾りだ。

 

「その箱は開いてる?」

「閉じてる」

「開けてみて」

 

 脳内で、元から緩くなっていた金具は勝手に外れ、蓋が開く。

 

「その箱は、すごく深いの。小石を投げ入れても、いつまでも落ちた音が聞こえないくらい、深い箱よ」

 

 箱の中身を覗き込んだ。真っ暗闇だ。

 銀色の首飾りもそれを包み込む絹の布もない。

 

「シンディが持つ力を、ものに例えると、何になる?」

「ちいさい、蛇」

「その蛇を捕まえることはできる?」

「できない」

 

 トウビョウ様を捕まえることはできない。

 

「大丈夫、お母さんが捕まえたわ」

 

 目を瞑ったまま想像する。

 母様のやわらかい腕。元々は色白な手は、庭の薬草の栽培や庭木の世話で甲がすこし日焼けている。

 私に見えるのは、腕だけだ。不思議とそれは母様の腕であるとわかる。

 人の怪我を治すことのできる手が、小さな蛇を捕らえた。

 

「捕まえた蛇は、シンディに渡していい?」

「……いらない」

「じゃあ、お母さんが箱の中にしまっちゃうわね」

 

 昏い箱の中に、母様が腕を差し込んだ。

 母様の細い指に摘まれ、手首に巻きついてもいた蛇は、母様が腕を引き抜いたときには消えていた。

 私は、箱の中を覗けないでいる。箱の底からトウビョウ様の依代である小蛇がすさまじい眼で見上げていることはわかるのに、見つめ返せないでいる。

 

「蓋を閉じて、シンディ」

 

 中身を見ないようにしながら、蓋に手を添えて閉じた。

 

「金具をしっかり締めて、上から紐で――可愛いほうがいいわね、リボンにしましょうか、シンディの髪を結んでる青色のリボンがいいわ。

 箱をリボンでぐるぐる巻きにします。ぐるぐるにね」

 

 髪を結わえるリボンがそんなに長いはずがないのに、見慣れたリボンは何重にも箱に巻きついていく。

 ぐるぐる、と復唱してみた。言葉の響きが面白くてちょっと笑った。

 

「最後に、お母さんがちょうちょ結びにして、おしまい」

 

 そして、母様は私に目を開けるように言った。

 私は夢から覚めた心地で、母様の顔を見上げた。

 

「これで、シンディの力は封印されました。

 でも、全部じゃないわ。人のためになる力は残しておいたから」

 

 そして、母様は言ったのだ。

 私は失せ物を必ず見つけられる()()の神子だ、と。

 それ以外の力はもう使うことはできない。また自分の力を人にひけらかしてもいけない、と。

 

 子供騙しのおまじないだ。トウビョウ様の力は封印されてはいないし、使おうと願えば、きっと今でも使える。

 でも、心の中で箱を開けて小蛇を取り出そうとすると、母様の手が箱の蓋にそっと被さるのだ。その手の下からむりやり箱をもぎ取ることは、できそうにない。

 

 

 こうして私は、トウビョウ様に蓋をした。

 叶うことなら、いつまでも母様に蓋を押さえていてほしいと、そう思った。




親子遊びの参考
https://papaiku.com/oyakocoordinationtraining/asinukimawari


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十 収穫祭

59票の高評価、391件のお気に入り登録、ありがとうございます!
評価バーが全部埋まったので、感謝を兼ねた記録は今回で終わりにします。

*追記*
こちらの方が収まりが良いので、〝失せ物の神子〟を〝探知の神子〟に変更しました。ちなみにシンシアは便宜上神子を名乗っているだけで実際は別の存在なので、神子という設定は今後あまり使われません。(2023/1/14)





  私は緑の妖精

  私の服は希望の色

  私は破滅と苦しみ

  私は不名誉

  私は恥辱

  私は死

  私はアブサン

 

 

「誰だァ? 子供たちにあんな歌教えたのは」

「耳に痛いな」

「まったくだ! ハハハ!」

 

 憶えたての歌をうたい歩く私たちを眺め、酒精で顔を真っ赤にした大人たちが笑った。

 

 五月の春祭り、またの名を収穫祭。

 大地の恵に感謝する日だと母様は言っていた。

 色んな家から食糧をもちよって、お腹いっぱい食べて、私たちが飢えず病まず暮らせることに感謝をするのだ。

 

 生前は、この時期といえば五月忌みか。

 早乙女*1が菖蒲や蓬で葺いた仮小屋や神社の中に一日だけ閉じこもり、穢れを清める日である。

 本格的に田植えに参加する齢に病み、野良仕事はできなくなった私には馴染みの薄い行事だ。

 翌月のサネモリ様*2ならば、子供の頃に参加したのでまだ懐かしさもあるのだが。

 

 

 前世はさておき、去年の記憶と比べると、今年の祝祭は盛大である。

 まず、今年はツィゴイネルの一団が収穫祭の前から村で野営していた。祝祭のある村々を回り、熊踊りの見世物や演奏で稼ぐツィゴイネルは、定住地を持たず、日々の糧は施しに頼る。ツィゴイネルは大森林を追い出された獣族が多く、物乞いより少しましな最下級に属する、と村の大人たちが話しているのを聞いた。

 うちにも何度か食事を乞いに来たが、母様とリーリャは、老人と子供を含めた八人の集団に嫌な顔ひとつせず食事をふるまった。

 

 物乞いよりましと影で蔑まれようと、彼らの日焼けした指が紡ぐ音色は人々の心を充たす。

 熊踊りは残念ながら見られなかった。熊はすでに老齢で、見世物としてはもう使えないと判断したツィゴイネルにより、川で血抜きをして捌かれ、祝祭の食卓に並んでいる。

 ツィゴイネルの仲間ではないブエナ村の住民まで熊肉にありつけるのは、ロールズさんが生け捕りにした子熊を彼らに渡したからだ。さらに、シルフィのお父さんのロールズさんが狩ってきた猪や兎も女衆が血抜きをしてその場で焼かれ、ついでに本来の予定より酒樽を多く開けたそうだ。

 

 

「はい、シンディの肉」

「ありがとう」

 

 兄に大きな骨付き肉をもらった。香ばしい匂いだ。

 ンア、と口を開けてパリパリの皮にかぶりついたら、通りかかったヤーナム君にものすごく笑われた。

 山賊みたいな顔、とゲラゲラ笑うヤーナム君の足を蹴りつつ、兄も「なんで一番大きな部位からいくんだ」とやや引いていた。

 

「それ何食べてんのー」

「ベリーパイ」

「もうない?」

「まだあったまだあった。あっちのテーブル」

「いいな、あたしも持ってくる」

「パウンドケーキも美味しいよ」

 

 大人たちが林檎酒やアブサンを飲みながら雑談をしているところにいても退屈なので、子供は子供で食べたり遊ぶことになる。

 飲み食いをしている場からちょっと離れた草っ原に敷物を広げ、ときどき大人が屯している机から食糧を取ってきてお喋りしながら食べるのだ。

 

 

 八つ九つの男の子がやってきて、敷物の上に座った。

 ツィゴイネルの一員である。獅子の耳と尾をもつアンガラという名前の彼に近よると、彼は微笑み、手に持ったリュートの弦を弾き始めた。

 

  あたしたち、野原で花になる

 

 それはアスラ王国ではよく知られた俗謡であった。

 私も、リーリャが寝かせ歌代わりに歌うので聞きおぼえていた。母様も子守唄は歌ってくれるけれど、出身が異国であるためか、ブエナ村の人々がうたう歌とは、やはり異なる。

 

  兄さん、あんたは黄色い花に

  あたしは白い花になる

 

 先端が房になった尾をゆらめかせ、近くでじゃれあっていた子供らの注目を集め、アンガラは透明に澄んだ声で歌った。

 ソーニャちゃんが声をあわせた。歌声は、淋しいとも楽しいともつかぬおかしなものになった。

 

  アルスを追って、マリアは走る

  兄さん、あたしも連れていって

 

  兄さん、あんたが、あたしは好きよ

  神様が許さないことだけれど

 

 兄と妹のあいだの恋慕を歌った歌詞は、妹から兄への呼びかけだけで、兄がどう応じたのか、わからない。

 歌い終えると、アンガラはソーニャちゃんの皿を指さした。上に乗った切り分けられたパウンドケーキを指し、自分の口元を指して唇を開け閉めした。

 ソーニャちゃんがおっかなびっくりという感じで皿を差し出すと、手で掴んで食べた。メリーちゃんが分け与えたレバー入りのソーセージも、うまそうに食べた。

 彼は私を膝に抱え、リュートを持たせた。私の手は、ツィゴイネルのような哀愁と華やかさが溶け入った音色を紡ぐことはできない。それでも、弾けば音が鳴るのが楽しくて、下手くそな音を出していると、他の子供らがアンガラを囲み始めた。

 

「歌じょうずだったね!」

「いいなあ、その楽器、私にも触らせて」

「……」

「ダメだよ、こいつ、人間語はわからないよ」

「話セる。ちょっトだけ」

「うわぁっ、喋った!」

「しっぽって触られたらどんな感じ?」

「くすぐっタい」

 

 好意的に迎えられたとわかると、アンガラは私を退かし、他の子にねだられるままに歌をうたい始めた。

 ソマル君が駆け寄ってきて、その輪から外れていた子供に見せつけるように籠を掲げた。

 

「くすねてきた! 食い物!」

 

 くすねる、と悪っぽい言い方をしているが、普通にちょうだいと言えばもらえる。

 それだけではない。酔っ払って上機嫌な親に近よると、親のほうでも雛のように寄ってくる子への愛しさがふくらむとみえ、赤ん坊よろしく抱きあげて頬ずりをしたり、甲斐甲斐しく食べ物を取り分けてやったりするのだ。

 だから子供たちはご飯や甘味をつまみに行く体で甘えに行き、楽しそうに戻ってくる。

 

「お前も食うか?」

「くう」

「食べる、でしょ! シンディちゃんに悪い言葉づかい教えないでよ」

「あっかんべー」

「もー!」

 

 乱暴なソマル君が今日は比較的大人しいのは、普段は厳格な彼の祖父が膝に乗せてくれたからだろう。

 あそこにいる、椅子の上からあまり動かないおじいちゃんが、ソマル君の祖父だ。

 足が悪く、母様が薬を届けに行くのについて行ったこともあるが、一人暮らしで寂しいのか、私を本当の孫のように可愛がってくれる。ところが本物の孫であるソマル君からは苦手意識を持たれている、ちょっと不憫なお爺ちゃんだ。

 これをきっかけにソマル君と彼の祖父が仲良くなったらいいな。

 

「シンディちゃん、あーん」

「あー」

 

 ソマル君が籠に入れてもってきたのは、豆を高温で熱して弾けさせたお菓子だ。黄色のふわふわしたそれをエマちゃんに食べさせてもらっていると、一歳のワーシカが敷物の上をはいはいして近寄ってきた。

 ひとつ摘んで口元に近づけてあげると、指ごといかれた。かじられる前に引き抜き、スカートの裾で唾液で濡れた指をそっと拭う。

 

「おいしい?」

「んまんま!」

 

 よしよし。かわいいね。ワーシカかわいいね。

 

 他の赤ちゃんは母親に背負われるかえじこに入れられている。ワーシカが唯一触れ合える赤ん坊であるわけだ。

 

「赤ちゃんが、赤ちゃんのお世話してる」

 

 シルフィが言い、兄が吹き出した。

 私はもう三歳だというに。

 

 

「こっちだよ、あの子が――の子」

「ババァもなんか失くしたのか?」

 

 兄は、リュートの音色を聞くうちに寝入った。シルフィの腿に頭を乗せた兄の横で、ワーシカを構っていたとき。

 リチャード君とヨッヘン君が近づいてきた。彼らは一人の大人を連れていた。

 二人とも靴から胸まで泥だらけだ。バイタという、柔らかい土に木の棒を刺して倒し合う遊びをしていたためだろう。

 

「だれ?」

「誰かこの人知ってる?」

「ううん、知らなーい」

「おばさんどこの人?」

 

 みんながきょとんとした目をその人に向ける。

 長い蓬髪に、まん丸の眼鏡をかけた、初老の女だ。

 

「あんたもジプシー?」

 

 ヤーナム君がアンガラに一瞬視線をよこし、大人を見上げた。アンガラの毛に覆われた三角の耳がピクッと動き、ゆっくりと横に寝た。

 

「いいや、私は行きずりの冒険者さ。ハーヴォ村からブエナ村まで、彼らの幌馬車に乗せてもらったんだ」

 

 彼ら、と言うとき、彼女の杖の装飾部はアンガラを指した。

 

「ふーん、ジプシーじゃねえんだな」

「ジプシーと言うのは、やめなさい。彼らはツィゴイネルだ」

 

 静かな眼で大人は告げた。唐突に諭されたと感じたのか、ヤーナム君がちょっと不満そうに口をとがらせた。

 

「だって、その名前、言いにくいし」

「そうかい。じゃ、次から〈ロマ〉と呼ぶといい。ヒトという意味だよ」

 

「わかった」とヤーナム君が頷き、

「冒険者ってほんとう?」と身を乗り出したのは、リチャード君だ。

 大人は鷹揚に答えた。

 

「そうだよ、私は冒険者。物書きでもある」

 

 と、言い、歌を一節口ずさんだ。

 

「この曲の作詞は私なんだ。君たちも知ってるだろう?」

「知らない!」

「はじめて聞いた!」

「え。そーかー……私、けっこう有名だと思うんだけどなー、本も出してるし……ブラッディー・カントって名義で」

「ブラッディー・カント!?」

「ひゃっ! ルディ!?」

 

 兄はシルフィの腿から跳ねるように起き上がった。

 口端のよだれを手の甲で拭いつつ兄は「知ってます」と声を上げた。

 

「『世界を歩く』ですよね? 父様の書斎にあるのを読みました」

「嬉しいねえ。読書家だな君は。偉いぞ」

 

『世界を歩く』?

 そんな本あったかな。……あったかもしれない。

 

「少年、君は……」

「ルーデウスです。ルーデウス・グレイラット。この村の駐在騎士、パウロ・グレイラットの長男です」

「おれヨッヘン!」

「あ、ぼ、僕はリチャード!」

「あたしハンナ!」

「私ソーニャ!」

「ボクはシルフィエット。……です!」

 

 兄が好意的な態度を見せたことで警戒心が解けたのか、我もわれもと子供らは自己紹介を始めた。

 私はまだお喋りできないワーシカを背後から抱きかかえ、片腕を挙げさせて「ワーシカです!」と叫んだ。

 

「おお、おお、元気いっぱいだ。さて、ルーデウス君、〈探知の神子〉とは、君のことかな?」

「……え、いや、違い、ます、けど?」

 

 ワーシカがお菓子の入った籠を倒そうとしている。

 抱っこでワーシカを籠から離れた場所に置いて阻止した。

 

「仮に僕が神子だとしたら何なんですか?」

「神子? ってシンシアのことだよな?」

「あっ! 馬鹿ソマル!」

「馬鹿って言ったほうがバーカ!」

 

 名前を呼ばれ、振りかえる。

 カントさんがこちらを見ていた。兄はソマル君との口喧嘩を中断し、何かを危惧する眼で、私とカントさん、父様や母様たちがいるほうを見比べた。

 

「君はシンシアというんだね」

「うん」

「私も失せ物をしてね、捜索を頼めるかい」

「いいよ!」

 

 失せ物は財布だそうだ。カントさんは最近できた、村唯一の旅籠(はたご)に泊まっているそうで、宿泊代を払えないのでは、と兄が心配したが、

「ああ、平気だよ」と、カントさんは右足のブーツを脱ぎ、靴底から金貨を一枚取り出した。

 

「この通り、体のあちこちにお金を仕込んでる」

「用心深いんですね」

「なに、冒険の基本さ。掏摸に遭わないとも限らない」

 

 私はカントさんを見つめる。労するまでもなく、ぽっと頭の中に絵が浮かんだ。

 

「ここ」

 

 カントさんの三角帽子を見ながら、私は自分の頭を――正確には頭上を、指さした。

 彼女は帽子をひっくり返し、おや、とおどけた調子で目を見開き、革の巾着袋を中から取り出した。

 ええーっ、と、周囲からあどけない声が湧き上がる。

 

「なんでそんなとこに入れてんの?」

「忘れてたの?」

「ドジだな!」

「私も歳だからね」

 

「もうひとつ訊ねてもいいかい」と言われ、うなずくと、

 

「今朝、魔道具の手鏡を失くしてしまったんだけど、それはどこにあるかな?」

「どんなかたち?」

 

 鏡という物が存在することは知っているが、実物を見たことはない。硝子でさえ、前世では見た事がなく、今世で初めて見たのだ。ゆえに形状を訊ねると、カントさんは指で宙に円を書いた。

 

「こんなふうに、丸い形をしている。普段は貝のように閉じていて、蓋を開けると片面に鏡が貼られているんだ」

 

 なるほど。

 

「部屋に、寝床にあがるはしごがある。はしごの裏の床に穴があって、板をかぶせてある。その板のしたに、あるよ」

 

 カントさんは銅貨をソマル君に握らせ、言われた場所を探してくるように頼んだ。ほどなくして戻ってきたソマルは丸い手鏡をつかんでいた。

 

「うん、確かに私のものだ。ありがとう、シンシア。助かったよ」

「へへっ」

 

 褒められて、胸を張る。頭撫でてくれないかなあ。

 

「占命魔術とは違うんだね」

「せ……?」

 

 降ってきたのは、頭を撫でる手ではなく、聞き馴染みのない言葉であった。

 首をかしげていると、兄が私をひっぱって自分の後ろに隠した。「母様のところに行って」と言われたが、兄にしがみついて拒否した。警戒した様子を気取られまいとする兄の姿に、むしろ不安をあおられていた。

 

「失くしたと仰ったの、嘘ですよね。わざと隠しましたね?」

 

 カントさんは微笑みを返した。

 

「一度、神子という存在を、この目で見てみたくてね」

「ほう。で、どうでした? 物珍しさに攫いたくなりましたか?」

「その子がもう少し大きければ、養子にしたかもね」

 

 カントさんはぬっと兄の後ろに隠れた私を覗き込み、何かを渡す素振りをした。手のひらを出してみると、「はい、お駄賃」という言葉と共に、硬貨が落とされた。

 ソマル君に渡していたのとは少し異なった。銀ぴかだ。

 

「銀貨だ」

「アスラ銀貨だー」

「初めて見た!」

 

 見せて見せて、と請われるまま銀貨を渡そうとしたら、エマちゃんがその手を押さえた。

 

「これはシンディちゃんが稼いだお金なんだけど」

 

 エマちゃんが睨みをきかせると、兄とシルフィを除く他の子たちはしゅんとして大人しくなった。

 エマちゃん、やっぱり強い。

 

 手に持った銀貨を見つめる。

 村の人たちに失くしたものの捜索を頼まれることは、時々あった。依頼は両親かリーリャの立ち会いのもと聞き入れる事になっている。

 母様もリーリャも父様も、お礼の農作物等なら受け取るが、金はもらわず、無償で行っている。

 彼女らは、私の霊能力そのものより、力を持つことによって私が将来増長するやもと危惧しているようなのだ。

 増長などしない。前世の私はトウビョウ様の力を自在に使えたがために、霊験あらたかな巫女のように扱ってもらえたが、トウビョウ憑きは、本来ありがたいものではなく忌まれる存在なのだ。

 

「お兄ちゃんみてみて!」

「近い近い」

 

 初めて稼いだ銀貨を兄の顔に押しつける。

 顔から離し、改めて見せると、「よかったな」と頭を撫でられた。うれしい。

 

「私は生涯旅を続けるだろう。長いこと色んな国を彷徨してきたが、神子には会ったことがなかった。もし会えたら、老い先短い人生を、神子と一緒に旅をしてみるのも一興と思ったが……こんなに小さくては、ねえ? まだお母さんが恋しい齢だろう」

 

 カントさんは私を見て、苦笑した。

 よいしょ、と気合を入れて立ち上がり、カントさんは帽子を被り直した。

 

「一週間はこの村に留まるつもりだよ。君たち、退屈になったら私のいる旅籠(はたご)までおいで。世界中の色んな話を聞かせてあげよう」

 

 じゃあね、と手を振り、カントさんは大人たちの宴に混ざりに行った。声は聞こえないが、雰囲気と仕草からして歓迎されているようだ。

 

「はぁ…………ん? シンディもあっち行くのか?」

「かあさまに見せるの」

 

 銀貨を大事にもって母様のところに急ぐ。

 妊っている母様は酒は飲まず、ジュースを少しずつ飲みながら、セスちゃんのお母さんと歓談していた。

 

「かあさま! みて!」

 

 背伸びをして銀ぴかの硬貨を掲げると、こちらを振り向いた母様は目を丸くした。

 

「あ……あら、どうしたの、それ」

「もらったの。カントさんに」

「母様、実は――」

 

 兄が事情を説明し、母様はやや不安そうな眼をしつつも、やや離れたところでエールを飲んでいるカントさんに向けて、スカートの端を片手でつまんで膝を少し曲げる簡単な挨拶をした。

 両手でつまんで片足をもっと後ろに引く格好の膝折礼もある。そっちはもっと畏まった場でする挨拶だそうだ。

 

「良かったわね。そのお金は、シンディが大きくなるまで、お母さんが預かっていてもいい?」

「いいよ」

 

 もう満足するまで眺めた。銀貨を渡すと、母様はパウンドケーキの干果物が入っていない生地だけの部分を食べさせてくれた。私がいちばん好きな部分だ。

 

「おいしい?」

「おいし!」

「お母さん今年も作って良かったわ。はいっ、ルディも、あーん」

「あ、あーん」

 

 もっとたくさん食べたいけれど、この体は胃の腑が小さく、食べすぎると吐き戻してしまう。

 ひと口を大切に味わいながら横を見ると、兄がちょっと照れながらケーキを食べさせてもらっていた。

 

 そういえば、と母様が思い出したように私に訊ねた。

 

「失くした物の場所を教えるときに、人をばかにしたり、いばったりはしてない?」

「してないよ」

 

 張り切って答え、褒められるのを待って母様を見上げていると、母様はしゃがんで私の頬に交互に口をつけた。

 

「えらい、えらい。貴女は私の自慢の娘よ」

「かあさまも、じまんのお母さん!」

「まあ、うふふ」

 

 これくらい! と、両手をひろげて自慢の度合いを表現する。

 ザザザッと草をふむ音が猛然と近づいてきて、背後から勢いよく抱えあげられた。酒の匂いをおびた吐息を間近に感じるやいなや、高い高いをされて視界が揺れた。

 父様の顔が見えない高い高いがこんなに怖いとは。

 

「んきゃああ!」

「抱っこか? ん? 抱っこのポーズしてたな? 母さんはお腹に赤ちゃんがいるから、抱っこは父様で我慢しなさいって言ったろ!」

「抱っこちゃう! ち()う! じまんしてたの!」

 

 両腕をあげると抱っこをねだる格好になる。

 尺度を表現するつもりが、遠目にはそれが妊娠中の母様に抱っこをせがんでいるように見えたらしい。

 ジタジタ暴れているとエマちゃんが走ってきて、「可哀想! 嫌がってるのに!」と父様のベルトをがっちり掴んで揺すった。しかし父様はビクともしない。

 

「よし、エマ、そのまま抑えて! 俺は父様のズボンを下ろす!」

「えっ」

「ソマル、こっちだ、こっち来て手伝え!」

「やるんだな! ズボン下ろし!」

「おれ観衆(ギャラリー)集めてくる!」

 

 思いがけず子供に群がられ、父様はたじろいだようだった。さらに主に娘ばかりの観衆まで集まってきて、くすくす笑う彼女たちの期待と好奇の目が父様に向けられる。

 

「やめろお前ら、男のパンツなんて見て何が楽しいんだ! もっと建設的なことをしろ! 女の子のスカート捲るとか……」

「とうさま、わたしのスカートもめくる?」

「最低……」

「今の無し。完全にオレが間違ってた」

 

 父様は即座に非を認めたが、それで兄たちの手が緩むはずもなく、父様は足さばきのみでズボンを引き下ろそうとする小さな手を避けながら母様とリーリャに助けを求めた。

 

「ぜ、ゼニス、リーリャ、助けてくれ、ルディがオレのパンツを見ようとする!」

「いいんじゃない? 〈建設的なこと〉なんでしょ?」

「旦那様の所業よりはかなりましな悪戯かと」

「ぐぬぅ」

 

「我々の要求はただひとつ! シンディを解放しろ! さもなくばズボンを下ろす!」

 

 私は地面に優しく置かれた。

 

 

「ルディ、お前な……ロキシーちゃんがいたときのほうが大人びてたんじゃないか?」

「子供が子供らしくして何が不満ですかね」

 

「悪いってことはないが」と、父様はぐりぐり兄の頭を撫でくりまわした。ふんす、と兄が鼻息を吐いて父様を見つめ返し、私に視線をよこして指を二本たてた。

 勝利を意味する仕草だと教えられて知っている。私も同じ仕草を返そうとしたが、薬指を親指で押さえきれずに指が三本立った。

 私はツィゴイネルたちを指さし、彼らの歌が美しい事を父様に訴えた。

 

「そうだな、確かに、獣人族は良い喉を持っている。吠魔術の声量に耐えられるように、丈夫な造りになっているんだろう」

 

 吠魔術って? 訊く前に、父様は「だが、父さんも上手いぞ」と言って、老爺のツィゴイネルに〈途上の歌〉は弾けるか、訊ねた。老爺――獅子の耳は先端が欠けていた――が剥げたバラライカを弾き、父様が声をはりあげて歌った。

 

  麦は地から生え

  光は太陽から生まれる

  冬が死ぬ時に

  歌は心臓から流れ出る

 

 一節ごとに、一緒に歌う者の数が増えていった。懐かしそうに、大人たちは歌った。知っている歌も知らない歌も、次々歌われ、〈アルスの橋が落ちた〉になると、踊り遊びを始めた。

 父様とロールズさんが両手を高く掲げて門をつくり、その下を、子供が一列につながって、歌いながら通り抜ける。私も仲間に入った。小さい方が有利で、マイ・フェア・レディの声で門の手が降りてきてもすばやく下を通り抜けられた。

 人間語が堪能ではないアンガラはすました顔をして、テーブルのそばで尾をゆらめかせていたが、ちょうどくぐり抜けようとした者が門に捕らえられ、笑い興じるのを見て、アルスの橋が落ちタと楽しそうに歌いながら列に割り込んだ。

 

 

 


 

 

 

「はーい、もう子供は解散の時間よー」

「さあ、帰った、帰った」

「えー、まだ遊びたいよう」

「お母さん、お願いー」

 

 日輪が落ちてくる時刻になると、子供は家に帰され、だいたい十三、十四歳から上の若者が焚き火を囲んで外に残る。

 母様もリーリャも子供ではないが、兄と私がまだ幼く家に二人きりにはできないこと、腹に子供がいることもあり、一緒に帰った。父様は名残惜しそうにしていたが、酒の勢いで妾を増やされたらたまらないと思ったのだろう、母様に耳朶を引っぱられて強制帰宅である。

 

「今日は楽しかった? ルディ、シンディ」

「はい、とても」

「おうたが楽しかった」

「ふふ、良かったね。晩ご飯……は、さっきまで食べてたし、入らないわよね。ちょっと早いけど、体を綺麗にして、寝る支度も済ませちゃいましょうか」

「はーい」

 

 盥に湯をはり、すっぽんぽんになって湯に浸した布で体と頭皮を拭ってもらう。寝間着に着替え、髪を梳かしてもらった。

 裂いて房にしたニムの木の枝で歯をきれいにするのは自分でして、磨き残しがないか、母様に確認してもらう。

 それらが済んだら、寝る時間帯になるまで、自由な時間だ。私は兄の部屋に行って、魔術を教えてもらうことにした。

 扉をとんとん叩いて、背伸びして取手を掴んで下げる。

 

「お兄ちゃん! まじゅち!」

 

 噛んだ。

 

 

「魔力総量は、使えば使うほど増えていくものだ」

「うん」

「だから今日も疲れるまで魔術を使おう。火は危ないし、土がいいな。ただし、くれぐれも家の中を汚したり、壊したりしないこと」

「まかせて!」

 

 人には、魔術の苦手系統・得意系統というものがそれぞれあるらしい。確かに、エマちゃんは火系統の魔術が得意だけれど、反対にシルフィは苦手だ。

 お兄ちゃんのトクイとニガテは? と、訊いたら、土と水系統が得意で、苦手はないと言われた。すごい。

 

 私の得意は、たぶん、火だ。ほかの系統より明らかに扱いやすい。

 苦手なのは風系統の魔術だ。生前に最期に聞いたのも、西風が家を揺らす音だった。風にはあまり良い思い出はない。

 

 一方で、よくわからないのが、水系統の魔術。

 屋外で、兄に教えられながら水の初級魔術『水弾』(ウォーターボール)を使っていたとき、いくら詠唱しても何も起こらず、しかし魔力が消費されていく独特の疲労感だけが蓄積していた。

 おかしいな、と不思議そうな兄が、ふいに地面に映る影に気がつき、空をみあげて「なんじゃこりゃ!」と叫んだ。

 私も見上げた。

 私たちの頭上には、梢を横に広げた大木にも負けないほど巨大な水弾が、ぷかぷかと気楽に浮かんでいたのだ。

 次の瞬間水弾は落ちてきて、一帯が水()くになった。兄も私も濡れ鼠だ。そういうことが、時々起こった。

 魔力によって水を生成することは十分すぎるほどできるのに、量や速度の調節で、何かしらの不具合が起こる。

 

 トウビョウ様は、元々、雨乞いの神様である。

 水系統の魔術は極めれば天候を操る事もできるそうなので、己の特性を侵された、と感じたトウビョウ様に邪魔をされているのかもしれない。

 

 得意でも苦手でもないのが土系統。

 でも、兄のように、片手で土の増減を、もう片手で魔力を流して形の調節をすることはできない。

 私の左腕は魔力を通さないので、形を変えるのは難しい。岩みたいな不格好な土塊を右手から量産するのが精一杯だ。

 

「単純な形なら、右手だけでも作れるはずだ。頑張れ」

「ん゙~……」

 

 左手で右腕を支え、呻吟しながら土塊を作っていく。

 理想は、完全な球体だ。それが作れるようになったら、他の形に挑戦する。そうしてゆくゆくは、妹たちに姉様人形を作ってやりたい。

 千代紙はないが、鮮やかな布の端切れは、近所をまわればもらえる。必要なのは土台だけだ。

 

「お兄ちゃん、どう?」

「お……おお!? 丸に近づいてきた気がする!」

「ほんと!?」

「あっ、デコボコに戻った」

「ざんねん」

 

 私が魔術に堪能になれる日はくるのだろうか。不安である。

 いや、頑張ったら、無詠唱でもできるようになってきたのだ。

 だから、いける。がんばれ。

 

 

 コツン。

 

「!」

 

 窓を叩く音。

 うちの家は、この村には珍しい二階建てである。手で叩くことはできない。兄が観音開きの窓を開けると、布でくるまれた小石がぽんと部屋に飛び込んできた。

 拾って、布をひろげてみる。何か書かれていたので、燭台の傍に近寄って照らした。

 

「〝たんけんするぞ〟?」

「探検?」

 

 布を覗き込んできた兄が、窓枠に手をかけて身を乗り出し、下の庭を見下ろした。

 

「シルフィ! ……と、ソマル、ヨッヘン」

「シルフィいるの?」

 

 兄に支えてもらい、庭を見下ろした。

 夜に外に出たことはない。見慣れた、しかしいつもとは顔色を変えた夜の庭に、月明かりに照らされて、三人の子供がたむろっていた。

 子供だけだ。大人が一緒じゃなくていいのだろうか。

 あ、子供だけだから、玄関からじゃなくて、窓からこっそり伝言を投げたのか。

 

 これは、兄への秘密の探検の誘いなのだ。

 いいなあ、面白そうだ。うらやましい。

 

「お兄ちゃん……シルフィのとこ行っちゃう?」

「ああ。あいつらだけじゃ、絶対どこかでバレて叱られる」

「……」

「シンディも行くか」

「いいのー!?」

「シーッ」

 

 兄が人差し指を口の前でたてたので、慌てて口を噤む。

 兄はまず、一階に降りて、母様に私と兄がいっしょに眠る事を伝えた。

 さっき私が作った土塊はぼろぼろ崩れかねないので、兄が子供大の土人形を作りだし、箱床に寝かせた。上から毛布をかぶせると、まるで子供が二人よりそって寝ているように見える。

 

「これ、持って、お兄ちゃんの手元を照らしてくれ」

「はい」

 

 上着をはおり、窓辺から身を乗り出した兄は、両手を下に向かって突き出した。

 私は蠟が床に垂れないように、燭台を持って兄を照らす。

 

「ふあ!」

 

 何をするのだろう、と思って見ていたら、兄は土魔術で、庭に降りる坂を作った。ときどき作ってくれる〈滑り台〉という遊具を、とても大きくした形だ。

 

「すべるの? お兄ちゃん、すべるのっ?」

「滑るよ。蝋燭消して、早く行こう」

「うん!」

「滑るときと、地面に到着したときは、静かにしろよ」

「うん」

 

 兄がまず、滑り台の頂点に作った、平らな部分にすわった。

 私は燭台の蝋燭を吹き消して、椅子を踏み台にして、窓枠を跨いで外に出た。言われるままに窓を閉じて、兄の足のあいだに座る。

 滑り台の下の方は暗くてよく見えないけれど、兄が後ろから抱えて守ってくれるので、何も怖くはない。

 

「カウントアップする?」

「する!」

「わかった、じゃあ、行くぞ。

 いち、にの」

「さん!」

 

 兄は足で蹴って傾斜に移動した。団子のようにくっついた私たちの影は、大きな滑り台を滑り落ち、風が顔を打った。

 私は目を瞑って体を固くした。怖いのではない。心を石にしなければ、興奮に歓声をあげてしまいそうだった。

 

「あれ」

「シルフィいないね」

 

 庭に到着した。大きな滑り台は兄が砂に戻して、ぎゅっと縮めて小さな硬い球体にしてしまった。

 さっきまで庭にいた影が見つからない。

 つまり、失せ人だ。私は目を瞑り、シルフィの姿を視た。

 

「お兄ちゃん、あっちよ。もうみんな庭の外にいるよ」

「お、おお。そっか」

 

「ルディー……こっちだよ」

 

 広い庭を囲む石垣に近づいていくと、石垣の外で、女の子の白い手がひらひら動いていた。

 兄に押し上げられ、石垣に乗り上げる。

 

「げ。お前もいるのかよ」

「お兄ちゃんがいいって言ったもん」

 

 ソマル君に冷たくされたが、平気だ。

 嘘だ。ちょっと傷ついた。私がいても大丈夫だよね? と不安に思っていると、シルフィが両腕をひろげて待ち構えてくれたので、腕にむかって飛び降りる。

 

「……よっ……と。平気? シンディちゃん、どこか痛いところない?」

「げんき!」

 

 シルフィはちょっとふらつきながら受けとめてくれた。

 次に兄が誰の手も借りずに石垣をのりこえて、シルフィ、ソマル、ヨッヘンをぐるりと見回した。

 

「探検って、どういうことだ?」

「そりゃ、決まってるだろ、俺たち抜きで、大人が何してるかキュウメーしてやるんだよ!」

「究明って……」

「なんか大人だけで美味いもん食ってるに違いないぞ!」

 

 そう言って、ソマル君は意気揚々と歩き始めた。

 月明かりがあるので、歩くには困らないが、離れれば暗闇に紛れて見失う。私は彼を追いながら、私と手をつないだ兄が二人と話すのを聞いていた。

 

「ヨッヘンはともかく、シルフィまでいるのは珍しいな。親御さんに許可は……もらってるわけないか」

「おれは楽しそうだったから! だって兄貴たちだけ夜も外にいていいのはさあ、ズルいじゃん」

「ボクは、お母さんは片付けの当番があるから居なくて、お父さんは、狩りで最近寝てなかったから、家でぐっすり寝てる。

 で、でも、バレたら……お、怒られる……」

 

 すん、と鼻を啜る音が聞こえたと思ったら、シルフィは泣き出していた。あらら。

 

「シルフィ、私のおうち泊まる?」

 

 そう提案してみたが、シルフィは手の甲で涙を拭いつつ首を横に振り、兄がシルフィの背中をなでなでしながら言った。

 

「大丈夫、すぐに終わらせて家に帰ろう。そうすればバレないよ。……シンディはシルフィと手繋いでて」

「ん!」

 

 私がシルフィと手を繋ぐと、兄は駆け出して、ソマル君の肉づきの良い背中に思いっきり飛びついた。

 

「んぎゃっ!?」

「シルフィが優しいのをいい事に無理やり連れてきたな! こいつ!」

「ムリヤリ連れてきたわけねーだろ! うんって言うまで誘っただけだ!」

「あーあ、シルフィの父ちゃん怖いんだぞ。ソマルが怒られても俺しーらねー!」

「う、うるさくしないでよぉ、見つかっちゃうよ……」

 

 声をひそめ、木々にかくれながら、私たちは収穫祭の名残の焚き火に近づいていく。白樺の葉の緑が月光にするどく光り、風が吹くと、小さい鈴のように鳴った。木々のあいだを、何かを煮るにおいが流れた。大蒜のにおいが強かった。

「腹減ったな」ソマル君がつぶやき、「でも、俺たちは食えないよな。本当は、出てきちゃいけないんだから」と、肩を落とした。

 

 およそ十歳以下の子供を除いた老若男女が、焚き火を囲み、重々しい聖歌を歌っていた。リュートの旋律がくわわった。奏でているのはヨッヘン君の兄のイッシュさんだ。

 ほかの少年や若い男たちも、タンバリンだのバラライカだの思い思いの楽器を奏ではじめた。娘たちが手拍子をとり、歌声をあわせた。ソマル君の母親も混ざっていた。彼女も、まだ娘といえる年頃なのだ。聖歌を歌うおとなたちと、リュートにあわせて俗謡を歌い踊る若者たち、ふたつの群れにわかれた。

 

 老人が杖をふりあげて、リュートをやめさせようとしたが、若者たちはかまわずつづけ、歌い踊りながら焚き火のそばを離れて移動した。

 

「森に行くんだ」兄がつぶやき、追いかける足を止めたが、「行こう」とヨッヘン君に背中を押されて、また歩き出した。

 

「行っていいの?」

「魔物が出ても、おれが追っ払ってやる」

「魔物は、出ないよ。つい最近、まとめて駆除されたばかりだし、手前までなら丸腰で入っても平気」

「詳しいな、シルフィ」

「お父さんに狩りを教えてもらうときは、森に入るから」

 

 兄たちの会話を聞きながら、私は口をまるく開けてあくびをした。魔物筋は、たしかに薄くなっている。立ち入っても平気だ。

 話しているあいだに、若者たちの群れとは距離ができた。少し早足に梢の下をくぐった私たちは、森の静寂に怖気づいた。

 

「あ」

 

 シルフィの長い耳がぴんと真横に張った。

 びくりと肩をすくませたヨッヘン君がなんでもない顔を取り繕った。

 

「誰か泣いてる」

「そうか? 聞こえないよ」

 

 兄が首をかしげ、聞こえた? と確認するように、私たちを順繰りに見た。何も聞こえなかったので、首を横に振った。ソマル君とヨッヘン君も同様にした。

 

「あ、そうか……人族は耳が悪いから、わからないんだね。ボクは、聞こえる。あっちだ。怪我してるのかもしれない」

 

 シルフィはずんずん進んでいった。そのまま真っ直ぐ行けば、湖がある。私は彼女と手を繋いだまま、後ろを振り返った。月は雲で隠れ、現れ、暗闇が晴れる度に兄たちの姿は遠ざかっていく。兄が追いかけてくるのを確認し、木の根でつまづきそうになりつつ、前を向き直した。

 

「あれ……んん?」

「どうしたの?」

「うん、いや、なんか、へん……?」

 

 水草のにおいを感じたので、湖の手前に着いたのだろう。シルフィは立ち止まり、首をひねりながら、耳をしきりに触った。

 そこで、私も気がつく。すすり泣き、呻き声。それらは火を囲んで熱狂に呑まれた若者たちが野合する声であったのだ。

 前々から想いあっていたのか、手近な女を木立に引き込んだのか、区別はつくまい。媾合の声を、闇からわきあがるもののように、私たちは聞いた。

 ふだんは子供に対して分別顔の若者たちが、狂い乱れるさまは、おぞましい。

 

「シンディとシルフィには、ちょっと早いかもな」

 

 追いついてきた兄が、好奇の視線を木陰に向けながら、そんな事を言った。

 森はあくまでも静謐で、狂瀾としらじらしさの境界に私たちは佇んでいる。兄は、もう少しで、足を踏み出してその中に飛び込み、我を忘れそうな危うさを孕んでいた。

 私は、なにも感じない。もし、からだが成熟していれば……考えて、やめた。トウビョウ様の怒りを買う。

 

「ソマルの母ちゃんもいるのかな」

「うへえ、やめろよ、もう帰ろう」

「俺は残るぞ」

「なんでだよ」

 

 普段どおりの声量で喋るのははばかられたか、兄たちは小声でひそひそ喋っていた。私の手をにぎるシルフィの手がするりと抜けた。

 シルフィは腕をつかまれて木陰に引き入れられた。彼女はまるく目を見開き、悲鳴もあげずに影に紛れた。

 追いかけた。木に手をつき見下ろす私の前で、仰向けに引き倒されたシルフィの足のあいだに少年が顔を埋めていた。細い悲鳴は、風と、そこここにおこる悦楽の声にまぎれた。若々しい獅子の耳が見えた。私の耳に兄と妹のあいだの恋慕を歌った歌詞が(おこ)った。

 アンガラが腿を押さえつけると、シルフィの上半身は自由を得た。シルフィは半身を起こし、彼の髪をひきねじり、膝でアンガラの顎を蹴りあげ、這い逃れた。

 

 シルフィは両手を伸べて私を抱きかかえ、猫のように飛んだ。あの美しい華奢な少女のどこからこんな力が湧いてくるのだろう。私は、先ほどまで手をついていた白樺の木に、炎が宙に向けて一直線に走っているのを見た。

 上裸のアンガラが炎に片頬を照らされながら、こちらを見ていた。

 彼は凄艶に笑っていた。口が〈にゃーお〉という形に動き、しかし実際に聞こえたのは、若獅子の咆哮であった。

 

 シルフィは、兄ほどの持久力はない。走って逃れる最中に、私の小さな躰はシルフィから兄の腕に渡った。

 森を抜けると、兄の足は緩やかになり、私を地面に降ろした。

 

 兄は、数えで七つ。この国の数え方では六つである。

 鍛えられているとはいえ、三歳の幼子をかかえ、全速力で走るのは並の負荷ではない。

 震える足に治癒魔術をかけ、兄はおずおずとシルフィに訊ねた。

 

「大丈夫か?」

 

 く、くくっ、と俯いたシルフィの喉から押し殺した笑い声が洩れた。

 

「怖かったあ」

 

 シルフィは泣き笑いの表情を見せ、兄にぶつかるように寄りかかった。兄はその肩を抱き、そうして、二人は手をつないで歩きだした。

 一緒に成長していけば、彼らは、この村で祝言を上げるのだろう。私はトウビョウ様に頼らずとも彼らの行く先が見えた気がした。

 

「兄ちゃん、女とヤッてた。くくっ、あはは!」

 

 ヨッヘン君は口元を歪めて笑い、興奮が醒めぬのか、唐突に私を抱えて駆け出したりした。

 

「あれってそんなに楽しいのか?」

「さあ。でも、女って、スカートめくるとキャーって言うのに、パンツ下ろすときは静かなんだな」

「じゃあ、べつに、楽しくなさそうだな」

「楽しいんじゃないか? 大きくなったら、みんなしてるんだから」

「ふーん」

 

「ねむい?」兄に話しかけられ、返事の代わりにあくびが出た。兄は「寝るな~」と、私の肩をかるく揺さぶり、ソマル君とヨッヘン君のふたりに帰宅をうながしたのだった。

 

 最初に、みんなでシルフィを家まで送った。

 

「じゃーな」

「また明日ー」

「しーっ、お父さん起きちゃう」

 

 シルフィは灯りの消えた家の中を用心深く振り返り、「おやすみ」と、手を振って、扉をそっと開け、ぽっかり口を開けた暗闇に溶け消えた。

 

「お前らは自力で帰れよ。俺は男は送らんからな」

「いらねーよ」

「森の中に母ちゃんがいたこと、父ちゃんに言っていいと思う?」

「やめとけ。それじゃあ、解散!」

 

 解散! と、声をあわせ、彼らはそれぞれの家の方角に歩み始めた。

 私も兄と並んで、夜空の下を、家をめざして歩く。

 

「今日のことは内緒な」

「どこまで、ないしょ?」

「滑り台で外に出たところから、家に帰るまで」

「わかった。お兄ちゃん、たんけん楽しかった?」

 

 媾合する男女を見る兄は、楽しいか楽しくないかで言えば、前者に見えたのだが。兄は「意味わかって聞いてんのかね、この子は」と当惑の笑みを浮かべ、楽しかった、と答えた。

 

「いつかシルフィと……」

 

 つながれた手に力がこもる。シルフィと手をつないだ事を思い出しているのだろう。

 

 兄が誘えば、シルフィも嫌とは言わないはずだ。

 でも、関係を持つのは、もっと長じてからがいいと思う。 

*1
田植えをする女性

*2
虫祈祷のこと。斎藤実盛の怨霊が害虫になり稲を食い荒らすという言い伝えから。




※スカートめくり/ズボン下ろしは犯罪です
アルス(勇者の方)に妹がいたという事実は原作にはありません

作中に引用した詩
アルテュール・ランボー『緑の妖精』
フィリップ・ヴァンデルピル『途上の歌』


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十一 見えぬ因果

 冒険家だというカントさんは、村にいる間、屋外の適当な場所に腰を下ろして子供たちに色んな話を聞かせてくれた。

 世界中を渡り歩いてきたらしい彼女の話は面白かった。

 冒険家とは、つまり世間師のような存在であるらしい。

 

 大日本帝国を訪ねたことはあるかと訊いてみたが、そんな国は無いと言われた。

 朝鮮は? 清国や魯西亜は? 遼東半島は? と聞いても、国名すら聞いたこともないと言われた。どうやら私は、よほどの辺境国に生まれたらしい。

 まあ、その話は置いておこう。

 

「ずっと不思議だったんだ。どうして僕の兄ちゃんは死ななきゃいけなかったんだって。なんで僕じゃなくて兄ちゃんだったのかって。うまく言えないけど、旅をすればその理由もわかる気がするんだ」

 

 リチャード君は、出立するカントさんについて行くことになった。兄のケイン君が亡くなって落ち込んで、元気になったように見えていたけれど、思うところはあったのだろう。

 カントさんは老齢という事もあり、神子云々を抜きしても、今まで培ってきた知恵だの魔術だのを授ける相手がほしかったようだ。リチャード君を連れて行くことを承諾した。

 村を出る二人を、元気でね! と、リチャード君の家族と仲良しの友達共々みんなで見送った。

 また会えるといいなあ。

 

 

 


 

 

 

 柵でかこった農家の庭で、イッシュさんが羊の毛を刈っていた。横で手伝うのは、ジャンさんの次女のエーヴさんだ。二人は時々ほほえみを交わしながら仕事をしている。

 鋏の先が陽に光り、まるで肌から湧き出るように、羊毛はふくれあがり、(むしろ)の上に落ちてゆく。

 

 私はしゃがんで、溜まってゆく羊毛をみていた。触っていいよ、と言われたので、山になった羊毛を撫でる。

 

「エーヴさん、けっこんするの?」

「んふふ、誰と結婚すると思う?」

「イッシュさん!」

「そうよ」

 

 やっぱり。

 ヨッヘン君から兄貴が結婚しそうだと伺っていたのだ。おそらく、収穫祭で仲良くなったのだろう。

 

「赤ちゃんができたら、シンディに教えてもらおうかな」

「ん……ううん、もうわかんない」

「あれ、そうなの」

 

 今は、トウビョウ様の力はほとんど封じられている。蓋を押さえているのは、母様だ。

 だから視てあげたくても教えることはできない。申し訳なさにもじもじしていると、イッシュさんが声をかけてくれた。

 

「嬢ちゃん、産まれた仔猫は、もう見たかぁ?」

「みてない」

 

 猫の赤ちゃん! 見たい!

 腹が大きい黒猫は何度か見かけたが、その猫がとうとう出産したのだろうか。

 

「どこ!? にゃんこ、どこにいるの?」

「あ、こらこら、鋏持ってるんだから、あんま近づくな」

 

 そうだった。刃物を持ってる人に近づいちゃいけないんだった。

 三歩ほど後ろに下がると、彼は溜まった羊毛を回収しにきた弟に「案内してやれ」と言った。

 

「おれ仕事あるんだけど!」

「こんなときだけ仕事仕事と言いやがる」

 

「僕が行きますよ」と申し出てくれたのは、弟のヨッヘン君を手伝っていた兄だった。

 

「場所はわかるのか?」

「はい、前に見たので。行こうか、シンディ」

「やったああ!」

 

 嬉しくてその場でぴょんぴょん跳ねた。

 ヨッヘン君は「もっと年下に優しくしろ。ルーデウス坊を見習え」と、説教されていた。

 

 

 そうして兄と共に移動したのは、畑の畦の掘っ建て小屋である。中に入ると、農具が置かれた小屋の隅に、誰が用意したものか、藁が敷き詰められていた。

 その上に横たわるおおきな毛玉と、ちっちゃな毛玉。毛玉にはみんな三角のちいさな耳がついている。

 

「にゃんこ!!」

「シーっ」

「にゃんこ」

 

 案内してくれた兄に注意されたので、小さな声で言い直した。母猫が眼をまるくおっきく見開いてこっちを見ている。大声を出したので驚かせてしまったようだ。怖がらせないように、その場にしゃがんで体を小さく見せることにした。

 猫の親子を眺める。

 

「かわいーね」

「そうだね」

 

 兄は、行商人の財布を鼠と間違えて咥えて持っていった母猫を追いかけ、たどり着いたのがここ、猫の(ねぐら)であったそうだ。

 灰色、片目黒、鯖模様の仔猫たちがミューミュー鳴きながら競うように母猫のおっぱいに吸いついている。

 

「赤ん坊の時のシンディみたいだよ」

「いっぱい飲んでた?」

「飲んでた、飲んでた」

 

 近ごろ赤ん坊のときの記憶が曖昧だ。生前の自分が赤ん坊だった頃の事も一切憶えてはいないから、こうして成長の途中で失われるものなのだろう。

 一匹だけ、母猫のもとにたどり着けず、敷かれた藁の外でみーみー鳴くだけの仔猫がいる。私が近づいても逃げないので、そっと持ち上げて母猫の前に置いてやろうとした。

 真っ黒な和毛の下が骨同然なことに驚き、その顔をみたとき、「あっ」とつい声をあげた。

 

「おめめ開いてない」

「目ヤニで塞がってるな。痩せてるし、育児放棄されてるのかも」

 

 と、仔猫をまじまじと見た兄が言った。

 

「いくじほーき?」

「産まれた子供の世話をしないことさ」

「なんでお世話しないの?」

「動物はときどきそういう事をするんだよ」

「? 人間もするでしょ」

「ん!? ま、まあ、そういう奴もいるだろう」

 

 例えば鼠もろくに狩れない環境で、限られた数の子供を確実に育てるために弱い個体を見捨てるのはわかる。

 この土地は肥沃で、生活に困窮することはないみたいだが、生前暮らしていた村は頻繁に凶作の年がきた。凶作の年は子堕し婆の懐が暖かくなるし、産まれた赤ん坊は、森に埋めたり、筵に包んで川に流して間引くこともある。

 私が気になるのは、母猫は丸々と――まではいかないけれど、そこそこに肥えていて、飢えた様子もないのに一匹だけ仔猫に乳をやらない理由である。

 

 母猫の腹の前に置いてみても、あっというまに他の兄弟に足蹴にされて隅に追いやられてしまう。

 黒い仔猫は塞がった視野で口を大きく開けて鳴いているが、母猫は我関せずで他の仔猫の毛繕いをしている。

 母親に見捨てられているのに、生きようと必死なのだ。

 でも、じきに飢えて死ぬだろう。

 

 ……わたしが代わりにお世話したらだめ?

 

「連れてかえっていい?」

「母様と父様がいいよって言ったら、いいと思うよ」

「……」

「……」

「一緒におねがいしてくださいな」

「いいよ」

 

 飼えることになった。お兄ちゃん大好き。

 

「ちゃんと最後まで面倒を見るのよ」という母様の言葉に何度も頷き、糞尿がこびりついた仔猫のお尻を洗うために、兄に混合魔術で桶にお湯を溜めてもらっていると、リーリャに止められた。

 

「衰弱した仔猫を濡らしますと、ますます弱りますよ」

「でも、お湯あったかいよ」

「ええ。ですが、お湯は冷めるでしょう」

「なんと……」

 

 確かに。

 

「できるだけ暖かくさせて餌をあげるべきかと。洗うのはその後です」というリーリャの言葉に従い、予定を変更。兄が冬用の行火(あんか)を引っ張り出し、リーリャが仔猫にやる牛乳を温めているあいだ、私は仔猫を抱っこして手持ち無沙汰にうろうろしていた。

 

 わ、私も、私も何かしなければ。

 

 リーリャが目脂で塞がった仔猫の眼を眺めて言った。

 

「丸洗いはできませんが、そのままでは汚いので綺麗にしてあげましょう」

「うん! どうするの?」

「通常は母猫が舐めてやりますが」

「わかった」

「私たちの場合は濡らした布で拭けば……お、お嬢様!?」

 

 リーリャにあわてて仔猫を取りあげられ、人には猫みたいな舌のざらざらが無いから、人が舐めてもあまり綺麗にはならない事を教えられた。

 

「私が拭きますから、お嬢様は鍋の様子を見る係をお願いできますか? 泡がふつふつ湧いてきたら、リーリャに教えてください」

「わかった!」

「火や鍋に触ってはいけませんよ」

「うん!」

 

 私が火にかけた鍋を見ている間に、リーリャが濡れた布で仔猫の眼と尻を拭いてやっていた。綺麗にはなったが、そのせいで体温が下がったのか、仔猫はぷるぷると震えている。

 少し濡らすだけでこれなのだ。桶の湯に浸さなくてよかったと心底思った。

 

 兄の提案で、清潔な布の先を縛って丸めたものを温かい牛乳に浸し、仔猫の口元に近づける。これは私にやらせてもらえた。

 前足を交互にだしつつ、思いのほか力強く吸い付いてくることに一安心。その日は、仔猫が満足するまで浸して与えるのを繰り返した。

 

 

 数日後。

 

「かわいい!」

「私もやりたい!」

「ぐえっ」

「る、ルディ……」

 

 床に座って仔猫に牛乳を吸わせていたら、遊びに来ていた友達が目を輝かせてにじり寄ってきた。私の横にいて見守ってくれていた兄は、哀れにも雑に押しのけられて倒れ、シルフィがあわあわしながら兄を支えた。

 

「けっこう元気になったんじゃないか?」

 

 兄の言葉に頷く。目を塞ぐように固まっていた目脂は取り除いたものの、涙を一日中流しているので涙焼けが治らないし、心配になるくらい小さいが、でも、元気だ。

 鳴き声は大きく、ご飯をたくさん食べ(飲み)、父様の足に果敢に飛びかかる。

 

「この子、名前は?」

「にゃんこ」

 

 ハンナちゃんに訊かれ答えると、彼女はカクッと項垂れた。

 単純な名前だと思われているのだろうが、仕方がない。もう私の中で仔猫のなまえはにゃんこで固定しかかっているのだ。

 ちなみに父様は「猫」と呼び、母様は「にゃんちゃん」と呼び、リーリャは「猫さん」と敬称をつけて呼ぶ。

 

「もうちょっと捻った名前にしてあげたら?」

 

 お兄ちゃんにそう言われるとな。

 にゃんこで強行するわけにもいかなくなってくる。

 

「にゃ……にゃんごろべい」

「にゃんごろべい?」

 

 兄は微妙な顔をした。だめか。

 私は考え込むときの父様の真似をして腕をくみ、他の候補を考えることにした。

 

「あぁっ」

 

 シルフィの焦った声が聞こえて瞼を開ける。

 牛乳を容れていた皿に、仔猫が顔をつっこんでいた。いつまでも次のご飯を与えない私に痺れを切らしたのだろうか。そして自らおかわりに行ったのだろうか。

 しかし今まで人が手ずから与えてきたのに、急に自分で飲もうとして、上手くいくはずがない。

 私も乳離れの時期に匙で薄いパン粥を与えられたが、おっぱいとは勝手が違うので最初はうまく飲み込めなかった。

 

「あーあ……」と言いながら兄が仔猫を持ち上げる。

 

 仔猫の顔は鼻先を中心に牛乳まみれになっていた。

 クシュンと嚔をして、心做しかキョトンとしている。

 仔猫の真っ白な顔をみて、セスちゃんがくすくす笑った。

 

「雪白」

「え?」

「その子の名前、雪白(ゆきしろ)にするの!」

「え、シロ? この子黒猫だよ?」

 

 黒猫にクロと名づけても面白みがないもの。

 でもハンナちゃんたちは納得がいかないみたいだ。雪白ったら雪白だい。

 

「……ボクはいいと思うな。ほら、雪を被ったみたいに真っ白になってたもん」

 

 反対意見が多い中、シルフィはちょっと所在なさげに、指を胸の前で交差しながら肯定してくれた。

 かくして、仔猫の名前は「雪白」となったのだった。

 

 

 


 

 

 

 雪白は順調に回復し、すこやかに育っている。

 涙は止まったので涙焼けも治り、やや濁っていた青い目は澄んで水晶のようである。掠れていた鳴き声は今は張りのある声に戻っている。

 

「にゃんにゃんにゃーん」

 

 猫の鳴き真似をしつつ、床に垂らした紐の先をゆらゆら動かす。雪白は床にひっくり返り、ニャウニャウ鳴きながら紐の先にじゃれついている。

 かれこれ一時間はじゃれ続けている。

 雪白は体力があるらしい。いずれ母親のように鼠を捕まえられる猫になるだろう。

 

「シンディ、クララさんの赤ちゃんのスプーンが見つからないんですって」

「養蜂箱の台のしたにあるよ。でもね、折れてる」

「そうなの? 誰かのイタズラかしら?」

「ないしょー」

 

 正直に視たものを答えたら、ヤーナム君が母親に怒られてしまう。

 私のところには、ときどき、失せ物を見つけてほしい人の依頼が来る。

 依頼は、カントさんのときを除き、今のところブエナ村の住民からのみである。一度だけ、新しく家を建てるが、その土地が曰くつきでないか見てほしいという人が隣村から来たが、母様が「そういうのは管轄外ですので」と追い返していた。

 

「赤ちゃん、まだかな」

「まーだまだ。もっと大きくなったら、出てくるわ」

 

 紐を床に置き、母様の膨らみが目立ってきた腹に頬ずりをした。雪白が紐の端を咥えてトトっと走ってきた。母様がそんな雪白に目をむける。

 

「天気も良いし、日向ぼっこさせてあげたら?」

「日向ぼっこってどういう意味?」

「お日様に当たって暖まることよ」

 

 なるほど。

 

「日向ぼっこしてくる!」

「ああっ、雪白ちゃんも連れて行くのよ、お母さんそのつもりで言ったのよ」

 

 踵を返し、雪白を抱っこして玄関に行く。扉が立ち塞がるが、雪白の黒いふわふわの毛で両手が塞がっているので困っていると、ついてきた母様が扉を開けてくれた。

 

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 

 母様にお礼を言ってから、庭に出た。

 

「お兄ちゃん!」

「シンディ。……ぁ痛ァ!?」

「よそ見厳禁だぞ、ルディ!」

 

 兄は横っ腹を父様の木剣で殴りつけられ、とっさに腕で防いだものの横に吹っ飛ばされた。

 倒れた地面に土の小山を生やし、兄は起き上がる。

 初めてじっくり見たときは、地面が抉れたり突風が吹いたり水が出たりと、仕合の見た目がかなり派手で驚いた。

 しかし父様はなかなか怪我をしない質であるらしいし、兄は擦りむき傷や青あざができてもすぐに治癒魔術で治すから、双方とも大事には至ったことがないようなのだ。

 

「ちょっと早いが、午前の訓練は終了!」

「ありがとうございました!」

 

 父様に一礼した兄は防具を着たままこちらに来た。雪白の肉球を触りに来たようだ。雪白は一心に地面を見下ろし、スンスン鼻を鳴らしている。

 そういえば、雪白を外に出したのは家に連れてきて以来だ。たった一旬程度の日数だが、久しぶりの地べたが恋しいのだろうか。

 

「座ってくれ」

「ありがとう、あなた」

 

 日がほどよく当たる場所――花壇の傍に移動すると、父様が庭に元々置かれていた椅子を持ってきて、母様に座るようにすすめた。

 父様は女人に優しい。下心ありき、というより、そうするのが自然な感じのする優しさなのだ。

 

「日向ごっこしに来たの」

「ごっこ? ……ああ、そうか、日向ぼっこか。いいなあ」

 

 父様は顔をほころばせた。そうして、母様が座る椅子の横の地べたにどさりと座った。

 地面に降りた雪白は、しっぽをピンと立て、全身のうぶ毛のような和毛を逆立てて同じ場所をうろうろしている。

 兄は頬についた土を母様に拭ってもらったあと、しゃがんで雪白を見つめる私の横にならんだ。

 

「雪白はちっちゃいねえ」

「そうだね」

「かばっじ……からばっじゃ……かばっちはあんなに大っきいのにねえ」

「カラヴァッジョって言うの諦めたんだな」

 

 兄はしばらく雪白のせまい額や顎の下を撫でていたが、それも飽きたとみえ、父様にじゃれつき始めた。

 父様は仰向けに躰をのばし、その上に覆いかぶさった兄の両手をつかみ、両足で兄の腹をささえ、脚をのばして高く持ちあげ、ゆらゆら動かした。

 母様は心地よさそうに膝の上で手を重ねて目を閉じている。

 

 リーリャもこの場に居てほしい。リーリャはどこだろう。

 

 私は彼女を呼びに家の中に戻り、手をつないで連れてきた。

 

「皆様、お揃いで何を……」

「日向ごっこ!」

「ええ。日向ごっこです」

「そうね、日向ごっこよ」

 

 リーリャの椅子は兄が土魔術で用意した。魔力で生み出した土のみで構成しているはずなのに、素焼きのように固い椅子だ。

 いえ、坊っちゃまと旦那様をさしおいては、と恐縮しつつも母様に押し切られる形で、リーリャも座った。

 

「雪白は、お父さんのことが好きみたいよ」

 

 兄と持った花茎を交差させてひっぱり合っていた私は、母様の声で顔を上げた。見ると、雪白が、地面に足を投げ出した父様の上半身を、ちいさな爪を立ててよじ登っていた。

 仔猫は、()をかっきりと見ひらいていた。

 明るい陽の下で見た()は透明な水色であった。

 

「眸のなかに、空があるよ」

 

 母様を振り向き、言った。

 母様は不意をつかれたような顔をしたあと、やさしく微笑んだ。慈母のような笑みだった。

 大きな母の手がいたわるように私の両頬に触れた。

 

「あなたの眸にもよ、私の可愛いシンディ」

 

 かわゆく思われていることがわかる口調で、仕草だった。

 膨らんできた腹に足が当たらないように抱いて膝に乗せられ、頬ずりをされる。

 前世のお母を思い出した。私は恥かきっ子で、物心ついた時には歳が離れた上の姉たちは、すでに嫁に行っていたり、住み込みの奉公に行っていたりして、あまり家には帰ってこなかった。

 ひとりだけ幼い私は、一人娘のようなものだったのだろう。お母にはずいぶんかわいがってもらった。

 

 でも、母様までかわいがってくれるのはどういう訳だろう。

 さほど年の離れていない長男がいて、腹には産み育てなければいけない次の子がいるのに。

 

「かあさま、私のこと好きなの?」

「ええ、大好きよ、愛してるわ」

 

 背中をゆっくり撫でられる。

 太陽のてのひらに撫でさすられたら、きっとこんな心地だろう。私は猫なら喉を鳴らしそうな心地になった。

 

 私を産んでくれた人。

 惜しみない情を与えてくれる人。

 私に憑いたトウビョウ様を抑えてくれる人。

 消えていくチサの魂を胎に宿して補填してくれた人。

 

 ゼニス・グレイラット。

 私は、この人に、深く感謝をしている。

 

 だから助けてあげたいけれど、かつて未来視によって見えていた姿も、あれだけでは何が起こったのかわからない。

 死んではいない、生きている、とは、思う。

 

 先に起こることがわかるからといって、その結果を変えることはとても難しい。日露戦争に出征した息子の生死を占ってくれと頼まれ、不吉の目が出ても、遠く離れた戦地のことはどうにもできないように。

 

 ならば、せめていま共にいる母様のことをいたわり、大事にしよう。

 私は母様の美しい顔をしばし見上げ、お腹の妹を押しつぶさないように、用心深く母様にしがみついたのだった。

 

 

 


 

 

 

 秋である。麦穂の脱穀の時期だ。

 母様が、道端で奥さんたちと世間話をしているときに産気づいたそうだ。

 そのとき私は兄とシルフィに魔術を教えてもらっていて、母様と一緒にいた人が走って知らせに来てくれたのだ。

 

 治癒魔術を使える兄はいそいで家に戻り、私は出産のあいだシルフィの家に預けられることになった。

 お世話になります! と大きな声で言うと、礼儀正しいね、とシルフィのお母さんに褒めてもらえた。

 

 シルフィの家は、うちとちがって窓に硝子が嵌っていない。

 部屋はふたつあって、ひとつの部屋には真ん中に囲炉裏がある。簾で仕切られた隣の部屋が寝室だそうだ。

 

「苧を裂いて……そうそう、上手よ。……ん? あら? ほんとうに上手ね」

 

 ()()むのを手伝うことになり、前世の記憶を頼りに足も使って裂くと、シルフィのお母さんに驚かれた。前世でたくさんやってきたのが活きた。

 

 でも、じきに飽きてきて、家の中を見回すうちに、壁に吊り下がった容れ物の存在に気がついた。瓢箪みたいなかたちだ。

 

「それクラーレだよ!」

「ぴゃっ」

 

 近くに寄って見つめていると、シルフィに大きな声を出された。

 

「くらーれ?」

「クラーレは、毒だよ。お父さんが猟に使うやつ。

 さわらないでね。危ないから」

「わかった」

「もし触ったらね」

「?」

「息止めてみて」

 

 止めた。

 

「くるしい?」

 

 頷く。

 

「それがずっとつづいて、死んじゃう」

「しんじゃうの」

「あと、すごく苦い」

「にがいの……」

 

 嫌だなぁ。

 細く裂かれた苧をくわえ、たくみに端を縒りあわせて糸を紡いでいるシルフィのお母さんの傍に行くと、作業を中断して膝に抱き乗せてくれた。

 

「ルフィが怖がらせちゃったわね。あの子ったら、ロールズの真似してるのよ。ルフィも小さい頃は、ロールズにああ言って注意されてたの」

「小さいとき? さんさいくらい?」

「ええ、そのくらい」

 

 シルフィが「ボク三歳のときのこと憶えてるよ」と言いながら隣に座った。

 

「青い髪の女の子が家にきてたの、憶えてる」

 

 青い髪。女の子。

 思い浮かぶのはあの人だ。兄が先生ヽと慕っていた、ロキシーという魔族の子。

 

「ロキシーさんのことね。確かに何度か来ていただいたわ」

「ろきしー!」

「シンディちゃん、知ってるの?」

「ろきしーは、お兄ちゃんの先生」

 

 不思議そうなシルフィに答えると、「ルフィにとってのルーデウス君みたいな存在よ」とシルフィのお母さんが補足した。

 

 尋常小学校のような施設は村の近くにないみたいだし、先生という言葉に馴染みがないのだろう。シルフィはよくわかっていない顔で首をかしげた。

 ふいに、手のひらを開いて見せられる。

 シルフィの手のひらにはケロイドの痕があった。

 

「もっと小さいときに火串を掴んだことがあるんだって。そっちは憶えてないけど」

「はわあ」

 

 手のひらをよしよしと撫でた。痛々しい痕である。

 

 生前、片輪になる前に、村に立ち寄った世間師から聞いた話を思い出した。

 大学の学者様に野口清作という者がいるが、彼は貧しい百姓の子で、赤ん坊のころに囲炉裏に落ちたために片手が溶けて畸形になった。そのせいで、小学校では、てんぼう、カタワだのといじめられもしたが、しかし彼はふてくされずに勉強に励んだ。そして二〇歳にして医師の免許をとり、さる偉い学者の助手になった。

 逆境に負けなければ人は成功できるのだ、と、そのような内容の話であった。

 

「シルフィはえらくなれるね」

「フフっ、なにそれ、どういう意味?」

 

 痛々しい痕を慰めるつもりで言ったのだが、伝わらなかった。

 

「元気な赤ちゃんだといいね」

「うん」

 

 別の話題を出したシルフィに頷きかえした。

 リーリャの赤ちゃんもそろそろ産まれるだろう。会うのが楽しみだ。

 

「ボクも妹か弟ほしい。お母さん産まないの?」

「そうねー、機会があればお母さんも欲しいんだけど、ロールズは長耳族(エルフ)だもの。中々できないのよ」

「ふーん……」

「まあ、ルフィが知るのは、まだ早いわね」

 

 シルフィのお母さんの膝から降りて、二人の会話を聞き流しながら、曲物の桶にたまってゆく糸を眺めた。視線を火に移す。

 囲炉裏の火がゆらぐたびに、私たちの影もゆらめいた。

 

 母様の出産が無事に終わりますように。

 

 私は手を合わせた。これは(のろ)いではなく、(まじな)いである、と、自分に言い聞かせながら。

 

 

 母様の出産後、かつて視たとおり、リーリャも同じ日に産気づいたそうで、結局出産には丸一日かかったそうだ。

 私はシルフィの家に一泊させてもらい、翌日にシルフィの母に伴われ、家に帰った。家には紅葉のような産まれたての赤ん坊が二人いた。名前は既に決定されていた。

 

 母様が産んだ子は、ノルン。

 リーリャが産んだ子は、アイシャ。

 

 アイシャのほうは月足らずで産まれてきたため、ノルンより一回りほど小さい。でも、泣き声の大きさは同じくらいだ。

 指を手に滑り込ませると握ってくる強さも同じくらい。

 

「がんばったね」

 

 箱床をのぞきこみ、清潔な産着にくるまれた妹たちに話しかけた。

 無力な赤ん坊を見ていると、私にできることはたかが知れているけれど、世話をしなければ、守らねば、という気持ちがふくらんでくる。

 

 

 

 

 

 痩せた蜻蛉に痩せた草叢。泥の色の小川を飛び越えて、森へ。梢にとまり、通りかかる者を見下ろしてくる烏は、嘴に目玉を咥えてはいなかったか。

 腰巻はまだつけていなかった私は、大暑だというのに、股の間をすうすう通り抜ける風の冷たさに飢饉を予感した。

 穴を、掘り返したのは、狐狸の類いにちがいない。底のほうで蠅がわんわんたかっている。蚊は、死者の血は吸わない。

 森に無数の赤ん坊の啼き声が響いた気がするのは、後に私が付け足した偽の記憶であろう。実際、樗の葉に覆われた森は夜のように昏く不気味で、大の大人でも女のすすり泣きだの男の呻き声だのを空耳するほどなのだった。

 産着と名前を用意されない、祝福もされない赤子を、チサは――私は、知っている。

 

 

 

 

 

「アイシャ、ノルン、よかったねえ」

 

 この子たちは運が良い。それは私も同じだ。

 兄は、いい。長男だし、跡継ぎである。どの親のもとに生まれようと、それが飢饉の年であろうと、苦心して育ててもらえるだろう。

 でも、と、私は父様を見上げ、そして別室で休んでいる母様を思った。

 この二人ならば、きっと、どんな子が生まれても、どんな環境であろうと、間引く選択肢はとらず、子を大切に育てるのだろう。そんな気がした。

 

「ニャーン」

「娘に引っ掻き傷でもつけてみろ、その髭ちょんぎってウチから追い出すからな」

「ニャン」

「ニャンじゃない。返事はハイだ!」

「フーッ」

「なにおう!?」

「父様……」

 

 成猫とほぼ変わらぬ体躯に成長した雪白を抱え、口喧嘩をしている父様を、兄がぬるま湯のような眼で眺めていた。

 出産は夜通しかかったと聞く。産んだのは母様とリーリャだが、父様まで草臥れているように見えるのは、気疲れによるものか。

 つくづく情が深い人である。

 

 

 


 

 

 

 

 

 私の姉がむかし語った話に、「ラビはゴーレムを使う、道通様は蛇を使う」というものがあります。それは今から六〇年ほど前、甲龍歴四二〇年以前に聞いた話でありました。

 ゴーレムは太古の昔に存在していたとされる死霊魔術の一種で、それらを生み出し、使役する者をラビといいます。現在でよく知られているゴーレムは、それらが魔物化したものという説もあるようです。

 姉が言うことには、ゴーレムは中核の髑髏を破壊すると土に還るが、蛇は骨と皮だけになっても喰らいついてくるという話でした。その理由として、蛇は動物の中でもいちばん執念深く、狡猾で、生命力が強く、陰気を好むというのです。

「手負蛇に近よってはだめ。怪我をした蛇は、近づいてきた人を自分を苛めた相手だと勘違いして、仇をなしてくるのよ」

 と、姉は幼い妹たちに言い聞かせるのでした。

 三女のアイシャは、「よく見ると、つぶらな目が可愛いよ」と言って平気に触りましたが、私は蛇が怖いので、近づこうとも思いませんでした。噛まれたことはありません。でも、物心ついたときには、もう蛇が大嫌いで、恐怖の象徴であった気がします。

 とくに、幼い頃の怖がりようは酷く、短く切った縄を「そら、ヘビだぞ……」と足元に投げ捨てられただけで、この世の終わりのように大声で泣いてみせたといいます。

 フィットア領捜索団の団長であった父・パウロの活動についていき、捜索団の本部をミリシオンに定めたために自動的に私もミリシオンに暮らすことになりましたが、遊び場となる自然もなく、退屈をもてあましていた学齢前の少年らにとって、私は良いおもちゃでした。

 ある日、姉と幼い私だけが、家で留守番をしていました。

 パウロは仕事で不在だったように思います。思い返して心に浮かぶのは、湖の底のように静まり返った家の居間なので、転移事件でシーローンに転移したリーリャとアイシャが父を頼ってミリシオンに来る前だったのでしょう。

 この時期、五、六歳であった私は、姉を母の代わりにしていたように思います。姉も子供でありましたが、小さな頃の三歳差というのは、十になるかならないかの姉を、現実よりもずいぶん大人に見せていました。

 家の前で遊ばせていたはずの私のえんゝ泣く声を聞きつけた姉は、かなしそうに私を家に入れました。

 当時私が気に入っていた青砂の砂時計を握らせて、姉が語ったのが「道通様は蛇を使う」という話でした。(後年この道通様なる存在について調査されたが仔細は不明。著者の聞き違いか著者の姉の創り話であると思われる。)そして、蛇を使う力は自分にも少しだけ備わっている、と姉は秘密を打ち明けるように言うのでした。

「私きっと、無意識のうちにお腹にいるノルンを蛇で脅してしまった。はやくお母さまのお腹から出ないと、頭から食べてしまうぞ、と、あなたの目の前で口を大きく開けてみせたのだと思うわ。ノルンが蛇を恐がるのは、このときの事を憶えているためよ」

「どうして、私にそんな酷いことをしたの」

「お母さんが苦しんでいたから」

 こんなに恐がるようになると知っていたら、しなかったのだけど、と姉はすまなそうに言うのでした。

 私は母のように思っていた姉が、記憶も朧気な実母を私より優先していたらしいことが哀しいやら悔しいやらでたいへんなショックを受けましたが、いま思えばそれもいとしい、懐かしい幼少時の思い出です。

 姉妹仲は良好であった一方で、姉から私に対する愛情があるのかないのか、自ら疑う程で彼女を墓場に送り込んでしまったのは、多分幼時を長く共に生活をしなかったためだろうと思われますが、その中に一すじの光を認め得られるように感ずるのは、この私の出生に関する母と姉の乏しい物語にあるように思います。

 この話を私に語ったときの姉の本当にすまなそうな様子は、その一生中、外では一度も見せなかった彼女の気弱さであるように私には思われるのです。

 

 ノルン・グレイラット著『自伝 天才に囲まれた凡人』より抜粋

 



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十二 累卵(前)

あけましておめでとうございます。
大晦日と正月に更新する予定でしたが、ダラダラ過ごしすぎてすっかり遅くなりました。
相変わらず展開が遅くて申し訳ない。


 

 備前のたふべう(とうびょう)の事、或人曰く、備前の国にもたふべうを持と云者あり。是は狐に非ず。煙管の吹煙筒程の小蛇、長さ七八寸に過ぎざるものなり。之を飼て、家毎に一頭二頭宛所持する村里あり。是も其人の好んで所持するには非ず。心の中にはうるさく思へ共、先祖いつの時代の人の飼て所持せし事なれば、最早其家を離れず、其子孫に伝りて末代迄所持するなり。是も犬神と同前にて、他人と争ふとか、或は他の家にて一座せる人、或は道を往来して人に逢ひて、ある者は小面憎き顔なりと思ふとか、又其人の持ちたる物を見て羨ましく心に思ふ時、我が家に残し置きたる蛇神は、忽ち人の一念の微動を知つて、向ふの人に行く事、間髪を入れずといふが如く、本人の眼にも見えず、他人の眼にも見えず、向ふの人に依托して、皮肉の間にせまり、苦悩せしむるなり。若し其病人其れを知つて、蛇神を持ちたる人に納得するやうに和解すれば、忽ち病人の身を離れて別条なし。之を覚らずして和解せざれば、終には其人を脳害するなり。蛇神を持ちたる人も夫程深くは思はざるに、右の通りなれば、甚だうるさく思へ共、我と自ら厭離す事能はず。其蛇を殺しても、本の如く立戻りて、取り絶やすことが出来ず。其蛇神、本人に怨ある時は、却て本人の皮肉の間に入りて責殺す故に、たふべうを持たる者の之を崇重すること神の如しとかや。(上野忠親『雪窓夜話』)

 

 

 


 

 

 

「んぎゃああ! びえええ!」

 

 よく晴れた日のブエナ村。

 これといった特徴はないが、しいて言えば村人の気性が穏やかな傾向があることが特徴の、のどかな村である。

 そんな辺鄙な村の一角に、一台の乗合馬車が停まっていた。

 馬車の前に少女が立っていた。少女の名をエマという。

 彼女にも、彼女の両親にも苗字はない。彼女はただのエマとして生まれてきた。

 持ちうる中でいちばん上等な服を着込んだ彼女は、革のトランクを体の前に両手を揃えて持ち、自分を囲む両親や下の弟妹、友人たちに笑みをむけた。

 

「みんな、見送りにきてくれてありがとう」

「遠い場所にいても、私たちは友達だからねー」

「奉公先でもがんばってね!」

「私、字をちゃんと憶え直したら、手紙書くから!」

「もし向こうでイジメられたら報せるんだぞ、俺が話をつけに行くから」

「そしたらボクも行くよ、絶対に」

 

 最後の二人は、エマより一つ年下の友人たちだ。

 言わずもがな、ルーデウス・グレイラットとシルフィエットである。

 同じ村で育ちながら、五、六歳までろくに顔を合わせることなく過ごしてきた彼女たち。既に完成されていた子供同士のグループに、ルーデウスとシルフィエットは遅れて参入した。

 大人のような理性が働きにくいぶん、排他的になりやすい子供だけの集団に、彼らが衝突もなく受け入れられたのは、きっかけこそルーデウスの妹にあるとはいえ、最大の決め手は、子供たちのリーダーであるエマが彼らを歓迎したことにあるのだ。

 

 よってルーデウスは彼女に恩を感じていた。彼女が困っていたら能う限り力になろう、と考えるほどには。

 シルフィエットは、頂点の存在に歓迎されたから他の子供たちにも受け入れられた、という集団の心理はまだわからない。

 しかし、今までたくさん一緒に遊んできた友達が、知らない人ばかりの環境でイジメを受ける可能性に気がつき、義憤を滾らせていた。

 

「いいなあエマ、貴族のお姫様のところで働くんでしょ?」

「お金持ちの家に泊まれるんだもんね、すごいよ」

「シンディちゃんの家より大きいのかな?」

 

 農村の女の子たちの想像の中で、他領の中級貴族の屋敷の外装及び内装は、王族の豪華絢爛な城と化した。キラキラした羨望の眼差しを受けて、エマは整った顔を苦笑の形にした。

 

「ううん、泊まるのは使用人用の部屋だし、すぐにお嬢様に会えるわけでもないから、全然すごくないよ」

 

 エマの奉公先は、さる中級貴族の館の下働きである。

 下働きといっても、いちばん辛いといわれるスカラリーメイドではない。上級使用人であるレディースメイドの見習いである。

 見習いから昇格し、長く働けば嫁ぎ先の面倒をみるという条件で、住み込みの奉公をするのだ。つまり、行儀見習いである。

 簡単な読み書きができること、初級魔術が使えること、そして器量が良いこと。平民の彼女が下級貴族や商人の子供を押しのけて貴族の館で働けることになったのは、この三つの条件が揃った子供はそうそういないためである。

 

 ゆえに、これは祝うべき新たな門出なのだが、

 

「びゃあああ!」

 

 爽やかな別れの雰囲気に、似つかわしくない泣き声が先ほどから響いている。

 ゼニスに抱かれた三歳のシンシアが、世の終焉のような悲痛な泣き方をしているのだ。

 

「シンディ、泣かないで。ほら、エマちゃんにバイバーイって」

「エっ、エマちゃ、行っちゃやああ゛あ゛」

「困ったさんね……」

 

 別れの言葉を告げることさえ嫌がる始末。ゼニスは愛娘を悩ましい顔で見下ろした。

 シンシアとて、母や友人を困らせたくて駄々をこねているのではない。大好きな年上の女の子と会えなくなることが何より悲しく、その感情はまだ微妙に未熟な前頭前野によるブレーキが利かず、こうして感情を表出して泣き喚くことしかできないのだ。

 

「ごめんね、エマちゃん。前からお話しはしてたのだけど、やっぱりよく分かってなかったみたいで……。エマちゃんには、赤ちゃんのときからお世話してもらったから、離れがたいのよ」

「シンディちゃん……」

 

 どこにも行かないで。ずっと私と一緒にいて。

 そんなシンシアの心の叫びを感じとったエマは、初めて瞳をうるませた。

 

「やっぱり私行かない! それかシンディちゃんも連れていく!」

「ど、どっちも難しいんじゃないかしら」

 

 奉公の話を突如反故にすれば顰蹙を買う。また八つの少女が幼子を連れて働くというのも、まず無理な話である。

 

「シンディ。シンディは赤ちゃんなの?」

 

 人知れずため息を吐いたルーデウスは、脈絡のない問いかけを妹に投げた。シンシアはグズグズと鼻をすすりながら「赤ちゃんじゃない」と首を振る。

 

「そうだね。赤ちゃんは、ノルンとアイシャだ」

「わたしはおねえちゃんだもん」

「そう。もうお前はお姉ちゃんだ。それなのに、赤ん坊みたいに泣くのは、恥ずかしいこと? 恥ずかしくないこと?」

 

「……はずかしいこと」と、答え、シンシアはスンスン鼻を鳴らしながら泣き止んだ。

 ゼニスは目顔でルーデウスに感謝を伝え、ハンカチで娘の涙と鼻水を拭き取ってやった。

 

「エマちゃんとバイバイできる?」

「でき……できる」

 

 こくんと頷いたシンシアの額にゼニスは口づけを落とし、エマの前に送り出した。

 

「またね、エマちゃん。ねんき明けには、帰ってきてね」

「年季明けって……難しい言葉知ってるのね。初めて会ったときは、小ちゃな赤ちゃんだったのに」

 

 エマは荷物を馬車に運び入れ、シンシアをぎゅっと抱きしめた。

 

「ちゃんと帰ってくるよ。手紙も書くからね。

 シンディちゃんは、もうお姉ちゃんになったよね?」

「うん」

「お姉ちゃんのシンディちゃんには、私の妹と弟の友達になってほしいの。それで、私とシンディちゃんがしてきたみたいに、二人とたくさん遊んであげてほしいんだ。私、シンディちゃんになら安心して任せられるな」

 

 安心して任せられる。

 この言葉は、シンシアに使命感を与えた。

 転生してから初めてできた友達であるエマは、幼いシンシアには憧れの対象であった。身内にルーデウスという天才の兄がいる彼女だが、異性と同性ならば、この人みたいになりたい、と明確な憧れを抱きやすいのは後者である。

 

「……まかせて!」

 

 先ほどまで泣きに泣いていた事などどこ吹く風。

 シンシアは使命感に表情を明るませ、胸を張って答えた。

 単に子守りが好きで、実妹が生まれて〈お姉ちゃん〉という肩書きを得ただけで満足していた節のあるシンシアが、血の繋がった妹たち、そして村の自分より幼い子らに対して、姉としての真の自覚が芽生えたのは、この日・この瞬間であったのだ。

 

 


 

 

 ノルンとアイシャを見ていると、あっという間に日々は過ぎていく。

 アイシャは最近、「クー」と声を上げるようになった。

 ありのままに言えば鳩のような、綺麗に言えば可憐な声である。

 揺りかごの中でむずがって今にも泣きそうなアイシャに「クークー、ほら、クークー」と言ってみると、アイシャはぴたっとむずがるのをやめ、私を見て「クー」と言ったのだ。あのときの「クー」がいちばん可愛らしかった。

 

 ノルンはあお向けに寝そべったまま、しきりに足を屈伸のように曲げ伸ばしする。「なーにしてるの」と訊ねると、ニコニコ笑って足をもっとばたつかせる。ついでに毛布を蹴っとばす。

 お喋りはアイシャが先で、たっちやアンヨはノルンが先だろうか。楽しみである。

 

 そして、二人の妹はよく泣いた。

 私など可愛らしいものだったと思えるほど、泣いた。元気いっぱいな証拠だ。

 

 妹たちが揃って泣き始めたら私は安心して喜びの舞を踊るのだが、母様と父様はげっそりしているし、雪白は煩そうに部屋を出る。

 兄は妹たちの襁褓(むつき)を替え、汚れたそれを洗濯し、襁褓が汚れていないけれど泣いているときは、ヒゲダンスという妙な踊りを一緒に踊ってくれる。

 

 一緒になって踊る私たちを眺めた父様が「子育てを舐めてた」と疲れた顔でつぶやき、夜泣きで寝不足の母様はうとうとしながらノルンにおっぱいをあげていた。

 リーリャのほうはむしろ張り合いが出てきたらしく、

 

「これこそ赤ん坊! この理不尽さが子育ての真髄です!」

 

 と、泣くアイシャを背中に括りつけてあやし、ノルンの滝のような吐き戻しを掃除していた。

 

 

 そんな日々を過ごすうちに、

 私は四歳に、兄は七歳になった。

 

 この国の言葉はほぼ完璧になった。

 本だってすらすら読めるし、「いくつ?」と訊かれても指を四本立てられる。

 私も成長したものだ。

 

 前世では、野良仕事のあいだは赤ん坊は素っ裸でえじこの中に放置が当たり前だった。この村でも、親が働いている間は、幾重にも布で巻かれた赤ん坊が蓑虫のように壁や木の枝に吊り下げられている光景をたまに目にする。

 前者はともかく、見慣れぬ光景であるせいか、後者はやや可哀想に感じた。

 

 でも、そんな育て方でも赤子は育つのだし、母様と父様はもっと雑に子育てをしてもいいと思うのだが、この両親であったから私は快適な赤ん坊時代を過ごせたので、あれこれと物申せる立場ではない。

 ついては少しでも両親の負担を減らすため、ノルンを連れて兄と散歩に行くことにした。

 ノルンはまだ歩けない。ハイハイもまだだ。

 よって、ノルンを背負うのは兄の役目、ぐずるノルンを横からあやすのは私の役目である。

 

「あぅあ」

 

 ノルンは初めての外に興奮している。

 おんぶ紐で兄の背中にくくりつけられた赤ん坊の妹は、ぷくぷくの手で兄の髪をつかみ、ば! と叫んだ。

「あばば」と返してみた。

 

「あきゃきゃきゃ」

 

 笑った。かわいい。

 

「ノルン、寒くない?」

 

 ノルンのほっぺと手をさわって確認して、どちらも(ぬく)かったので、安心した。

 ブエナ村をおおった雪は溶けて、今は日陰に少し残っている程度である。でも、吐く息は白いし、遠目に見える赤竜山脈はまだ雪化粧をしている。冬のときの中国山地みたいだ。

 

 私はノルンに髪の毛をひっぱられている兄に話しかけた。

 

「ねえ、お兄ちゃん、あのお山の向こう」

「いた、痛た、ハゲそう。……ん? どうした?」

「山脈より向こうにも、人が住んでるんでしょ」

「そうだよ。よく憶えてるな」

「へへん」

 

 あっ、ちがう。褒められたくて言ったのではない。

 私はノルンの手をそっと開いて髪の毛を離させながら、引き続き訊ねた。

 

「あっちには、どんな国があるの?」

「小さな国はたくさんあるけど、有名なのは、魔法三大国らしいぞ」

「まほう」

 

 私の反応を見て、兄は魔法三大国について説明してくれた。

 ラノア王国、ネリス公国、バシェラント公国の三国から構成されている。それぞれ魔術の研究に力を入れていて、隣りあったこれらの国々は同盟を組んでいるから〈三大国〉とひとくくりにされているらしい。

 

「同盟っていうのは、〈あなたが困ったときは助けるから、私が困ったときは助けてください〉っていう相互援助の約束を結ぶことだ」

「仲良しとは、ちょっと、ちがう?」

「どうしてそう思う?」

「だって、仲良しの人だったら、助けてもらえなくても助ける」

「まあ、そうだな。人の関係と国交は違うからな。

 友達じゃなくて、助け合うことを約束した知人みたいなもんさ」

「友達じゃないの……」

 

 ノルンがへぷちっと可愛らしいくしゃみをした。

 私は右手のひらを上に向け、火弾を作った。散らさないように炎の大きさを維持する。木のいらない焚き火である。

 

「あったまる?」

「ああ。ほーら、ノルン、あったかいよ」

 

 兄がノルンを前に抱き直し、火にあたらせた。

 

「あぅあ゛! へぅあ!」

「こら。さわったらアチチだぞ」

 

 興味深々に伸びてくるノルンの手をおさえ、思いどおりにならなくてぐずりかけたノルンに、兄が俗謡を口ずさんだ。

 赤ん坊がみんなそうであるように、アイシャは子守唄に聞き入るうちに寝てくれるのだが、ノルンのほうは楽しい気持ちが勝るようで、歌を歌い聞かせても眠るのが遅かった。

 

 広げた手のひらを握ると、魔力の流れが途絶え、火は息吹の前に置かれた蝋燭の火のように消えた。

 火の魔術は、うっかりすると自分が火傷してしまうのだ。

 近距離の炎でじりじりと灼かれた手に息をふきかけ、冷ましていると、兄がその手をとって耳介に当てさせた。

 冷気にさらされた兄の耳はきんと冷えていた。

 

「ひやっこー」

「あったかー」

 

 私たちほとんど同時に言い、ほほえみを交わした。

 

  燃えろ燃えろあざやかに

  夏はかっかと照るだろう

  冬はなるたけあたたかく

  春はやさしく照るがよい

 

 二人で歩きながら歌うと、ノルンはにこにこ笑った。

 いつもこんなふうにご機嫌なら、母様もちょっとは楽になるんだけどな。

 

「誰かいないかなあ」

「友達がいるといいね。でも、洗濯場より遠くは行かないからな」

 

 兄は「近ごろ物騒だから」と、大人のような口を聞いた。

 あてなく始めた散歩であったが、村共同の洗濯場まで、と出歩く範囲は大人に決められている。前まではなかった決まりだ。

 

 友達、と聞き、私が最初に思い浮かべたのは、エマちゃんだ。

 数えで九つ、満年齢で八つの彼女は、住み込みの奉公が決まり、冬になる前に村を出て行った。

 鋳掛屋の娘が、貴族の館で、一定の地位を保証された環境で働けることはそうそう無い。娘に文字を教えてくれた君のおかげだと、エマちゃんの両親は兄にいたく感謝していた。

 

 芸は身を助けるとはこのことか、と、私は初めて実感した。

 ソーニャちゃんとワーシカの両親も文字は読めないらしいので、ワーシカには私が教えてあげよう。それから、エマちゃんの妹のイヴと弟のエリックにも。そのためには、まず私が完璧にできるようにならなくてはいけない。

 そんな訳で、最近の私は意欲に満ちている。

 

 それはそうと、エマちゃんが遠くに行ってしまったのは寂しい。

 

「エマちゃん、何してるかな」

「元気にやってるはずだよ」

 

 む。またその答え。

 

 エマちゃんが村を出てからというもの、頻繁に「エマちゃんはいま何してるの?」と兄に尋ねていたら、「今はご飯食べてると思うよ」「夜だし寝てると思うよ」と答えてくれていたのに、最近は面倒くさくなったのか「元気だよ」としか答えてくれなくなった。

 

 無病息災が何よりだけれど、こう、なんか違う。

 私は、エマちゃんが今何をしてるか、何を思っているか、そういう事を一緒に考えてほしいのに。

 

 モッ…と頬に空気をためて兄を見つめてみた。

 兄に頬を押されて、空気がぷしゅっと漏れた。ちょっと楽しい。

 いや違う。これは怒りを相手に伝える仕草であるはずだ。

 

「ほっぺたぷにぷにしないで!」

「じゃあこちょこちょだ!」

「いひひひ」

 

 首元をくすぐられて、私は首をすくめて笑い声をたてた。

 体をよじり、道の端に、いつもはないものが停まっていることに気づいた。

 

「ツィゴイネルのひとが、また来たの?」

「え?」

 

 幌馬車が三台ある。幌の部分は継ぎ接ぎがめだち、あまり綺麗とはいえない。収穫祭の時期に村に逗留していたツィゴイネルの獣族たちが移動に使っていた幌馬車も、あんな感じだった。

 

「またお祭りあるのかなあ」

「こんな時期には何も……」

 

 兄は不思議そうにしながら、前傾気味に体を揺すり、背負ったノルンの位置をずり上げた。

 幌馬車の周囲に人影はなく、御者台も無人だ。

 

 不思議に思いつつ、洗濯場に移動した。

 川辺に板を敷いて足場にし、屋根をつけた場所がブエナ村共同の洗濯場である。

 おさげの女の子が桶に水を汲み、服を浸してもみ洗をしていた。横にも衣服の山がある。

 

「ハンナちゃ!」

 

 走り寄って背中に抱きつくと、女の子は振り向いて笑みを見せた。

 

「シンディにルディ、やっほー」

「ハンナちゃん、やっほー!」

「おはよう、一人か?」

「うん、お母さんが風邪ひいちゃって」

 

 だから今日は私だけ、と、白い呼気を吐きつつハンナちゃんが言った。

 立派なことだ。彼女とてまだ七つか八つだろうに。

 風邪といえば、あれだ。解毒魔術で治せると母様が言っていた。

 

「ノルンちゃんもおはよう」

「あゃう」

「ハンナちゃん、解毒魔術よ」

「ん? ……あ、それで治せるんだっけ。でも私、解毒はできないんだよね」

 

 ハンナちゃんはきまり悪そうに肩を少しだけすくめた。

 そうか、彼女の苦手系統は治癒系だったっけ。

 

「私が治しに行ってあげる!」

 

 張り切って言うと、ハンナちゃんは「ええ?」とからかう顔をした。

 

「シンディにできるの? ほんとに?」

「できるもん。……できるよね?」

 

 実際に人に使った事はないが、詠唱は憶えている。魔力を注ぐ瞬間も教えられている。だからできると思ったのだが、やはり不安になって兄に助け舟を求めた。

 

「それは試してみないとわからないけど」と、兄は訳知り顔で言い、母親を私の解毒魔術の練習台にさせてくれるようにハンナちゃんに頼んだ。

 

「もし失敗しても、何も起こらないだけで体に害はない。シンディが上手くやれなかったら俺が代わりに治すよ」

「えっ? いいの?」

 

 僥倖だというふうにハンナちゃんは喜んだ。

 

「お母さんも良いって言うと思う! あとでうちに来てくれる?」

「ああ。ありがとう。シンディもお礼は?」

「ありがとうございます」

「どういたしまして。……へへ、治してもらう側がこう言うのも、なんか変な感じ」

 

 ハンナちゃんの傍にしゃがみこみ、服を水で濯ぐのに手を貸した。二人でしたほうが早く終わる。

 

「俺も手伝うよ」

 

 背中のノルンを気遣いつつ兄がしゃがんだとき、つんと垢の臭気が鼻をついた。臭気のほうを振り返ると、襤褸服の若い男がたっていた。

 頬や指先は垢で黒ずんでいる。物乞いだろうか。

 ハンナちゃんはいやな顔を彼に向けた。

 

「会話を少し聞いていたんだが、君たち、病人を治せるのかい?」

 

「はあ、まあ……」と、怪訝な顔をしながら返事をしたのは兄だった。襤褸男は大袈裟とも見える仕草で胸をなでおろした。

 

「よかった……娘が昨日から風邪気味なんだ。今は向こうの馬車の荷台で休ませてる。君たちに治してもらいたいんだが、頼めるかな?」

「それでしたら、村の治療院まで案内しますよ」

 

 黒ずんだ顔の、額の皮が動いたので、困り顔だろう、と私は思った。

 

「この通り、おじさんは明日の食い物にも困る暮らしだ。医者にかかる金もないんだ」

 

 坊主、わかるだろ、と懇願するような声を掛けられて、兄は逡巡しているようだった。

 

「わかりました。僕で良ければ力になります」

「本当か!? 助かったよ、娘はあっちだ!」

「はい。すぐに行きます。ハンナ、しばらくノルンのこと預かっててもらえる?」

「いいけど、ゼニスさん呼ばなくて平気?」

「風邪程度なら、俺だけで大丈夫だ」

 

 きょとんとしたノルンをおんぶ紐でハンナちゃんの背中に括りつけながら、兄はふと思いついたように「お前がしてみるか?」と私に提案した。

 

 何を、と疑問に思いかけて、兄の言わんとすることに気づいた。

 解毒魔術だ。私に練習させようとしてくれているのだ。

 もし、ノルンやアイシャ、私より小さな村の子供たちが怪我や病気をしたら、助けてあげられるようになりたい。だから答えは決まっていた。

 

「……お兄ちゃんもくる?」

「そりゃもちろん」

「じゃあ私がやる!!」

 

 兄の付き添いが確定して、ひと安心。知らない人と二人になるのは気まずいのだ。

 私と兄は、襤褸男のあとをついて行くことにした。

 

「ノルン、ねぇねたちすぐ戻ってくるからね」

 

 ノルンにばいばいと手をふる。

 同じ日に生まれたアイシャならば同じ仕草を返してくれるのだが、彼女に比べるとややぼんやりさんなノルンは、大人しく人差し指と中指をしゃぶりながら私たちの方を見つめていた。

 

 

 

 しばらく歩いただろうか。

 襤褸男は、ぼろっちい幌馬車の前で立ち止まった。

 さっき兄と見た馬車である。三台あるうちの一つの前に案内した襤褸男は、周りを伺うように見回した。

 

「娘さんは荷台に?」

「あ、ああ、そうだ、はやく見てやってくれ」

 

 幌馬車の後ろには、ふつう、上げ下ろしのできる板と段差がつけられていて、階段のように登ることができる。

 襤褸男は段差を下ろさずにいきなり兄を抱き上げ、荷台の中に降ろした。

 

「むー! んん!」

 

 別の馬車の荷台から、女の子がこちらを見下ろしていた。

 ふわふわの金髪。ときどき辛辣だけど、ほんわりした雰囲気の女の子。そんな彼女が、口に布を詰められて、必死の形相で私に訴えていた。

 

「メリーちゃ……」

 

 がばっといきなり後ろから抱えられた。

 

「病気の娘さんってどの子……あ、ええ?」

 

 ひょこっと顔を出した兄が、目を丸くしてこちらを見た。

 私は男に抱き上げられ、首元に錆びたナイフを宛てがわれていた。

 腕が震えている。痛い。臭い。臭いのは前世で慣れっこだからまだいいとして、強くさわられるのは嫌だ。

 ウィーデンで攫われた時は、涙は出なかった。自分でどうにかしなければならない事を悟っていたから。

 けれど今、涙がじわりと滲むのは、目の前に頼れる兄がいるからだろうか。

 助けて、と、甘ったれた私が、訴えているのか。

 

「シンディ」

 

 呟いた兄の手のなかで、何かが生まれた。

 それは水であったかと思えば、氷になり、溶けて炎に変わり、砂が凝固して尖った岩になりもした。いちばん殺傷力の高い形状を探っているように見えた。

 

「う、動くな」

 

 どもり気味に、押し殺した声で、襤褸男は告げた。

 俺はこれからお前たちを売りに行く。大人しくしていれば痛いことはしない。だから黙って馬車に乗れ、と。

 

「……わかりました。妹のことは傷つけないでください」

 

 兄が睨みつけながらそう言った時、私は襤褸男を呪殺しようとした。

 母様のおまじない。トウビョウ様を封じた箱。

 そんなのは意味がない、はず、だ。私が意識するのをやめていただけで、トウビョウ様は、いつでも私の――チサの――お傍に。

 

 体の震えは止まった。襤褸男の黒ずんだ手の甲に触れ、胸元に鱗の冷たい感触を感じたとき、兄が言った。

 

「シンディ、大丈夫だ」

 

 蛇を使おうとした事がわかったのだろうか。

 兄の顔を見て、わかった。違う。彼は必死に考えているように見えた。

 どうすれば状況を打破できるか、逃げ切れるか、考えている。

 その上で、人質に取られた私を怖がらせないように、声をかけてくれた。

 トウビョウ使いの私に頼る気は毛頭ないのだ。

 

 もし、目の前で呪い殺して、お兄ちゃんに嫌われるのは、いや。

 

 生まれた躊躇の隙に、あれよあれよと兄は馬車に隠れていた女に両手首を縛られ、私は御者台に座る襤褸男の横に置かれた。

 馬車の車輪ががたごとと回りだした。

 大きな外套を着せられて、頭巾を頭に被せられる。周りの景色は見えなくなった。

 

 御者台に乗せられるときに、幌の内部を覗けた。

 中には、赤ん坊を抱いた若い女と、幼い子供が兄のほかに三人ほどいた。

 縛られているのは兄だけだった。

 女は襤褸男の妻だと、なんとなくわかった。子供は攫われた被害者なのか、夫婦の子供なのか、わからない。

 

 加減を誤り、夫婦を同時に呪えば、縁故の深い彼らの子供も何人か死ぬだろう。

 兄に嫌われる。そう考えた瞬間、母様のおまじないがより強固になった気が、私はしていた。

 こんなとき、トウビョウ様は都合よく助けてくださらぬ。

 チサだった時に凌辱された時もそうだった。

 

 思い出したくないことを思い出して、ざわりと身柱元に寒気がはしる。

 すべてのものが動きを止め、一面が薄墨色に染まる錯覚を得た。

 左袖の裾から、頸に白と金の輪がある蛇が這い出てきた。

 

 

「あぎゃあー……ぎゃあー……」

 

 赤ん坊が空腹を訴える声に、はっと現実に帰った。

 ノルンでも、アイシャでもない。あの子らは、こんな弱々しい泣き方はしない。泣き声は後ろから聞こえてくる。

 寒気を感じたのか、ぶるっと横の襤褸男が身震いをした。

 

「泣きやませろ」

「嫌だよ、どうせ乳も出ないのに」

「出なくても、吸わせろ」

「……」

「あと少しの辛抱だ」

「……そんなら、いいけどさ」

 

 襤褸男が乾いた咳をする音がやけに響いた。

 何があっても声をあげるな、と、厳しく言われ、身を縮こまらせた。

 

 助けて、母様、父様、リーリャ、助けて。

 

 私の祈りを乗せた馬車は無情にも、村の外に向かって進んでいく。

 

 


 

 

ルーデウス視点

 

 俺の名はルーデウス・グレイラット。

 七歳になったばかりのキュートボーイだ。

 得意なのは魔術。

 という自負があったが、俺が教えているブエナ村の子供たちがバンバン無詠唱を使えるようになり始めたことで、少々焦りを感じている。

 そんな折、ロキシー師匠から手紙がきた。

 ロキシーは水王級魔術師になったそうだ。

 一番弟子たる俺はといえば、いまだ水聖級をブーラブラ。

 これはいかん。伸び悩みを感じていた俺は、ラノア魔法大学への留学をそれとなくパウロに打診し、却下された。

 せめて12歳まで家にいてほしいとのことだ。

 上の妹にも、お兄ちゃん居なくならないで! なんて玄関の前で通せんぼされてしまったので、どこにも行かないよと抱きしめて頭を撫でておいた。もうゼニスのおっぱいは吸っていないはずだが、赤ん坊の妹たちをよく構っている彼女からは、ほんのり乳の匂いがした。

 

 まあ、今まで頑張ってきたし、ここでの居心地も良いし、12歳になるまでの数年は、人生の夏休みだと思っておこう。

 休みすぎて、いつのまにか社会に復帰できなくなっていたのが、生前の俺なんだが。

 ……いやいや、昔と今では、休む動機からしてちがう。昔は、全裸磔刑ゆえの挫折というネガティブな理由だが、今は、田舎でスローライフを送ろうというポジティブな理由なのだ。オーケー?

 

 そんな俺(とシンディ)は、何やら遠い地で、強制労働の憂き目にあいそうになっている。

 それもこれも、パウロが自分の学費くらい自分で稼げと俺を馬車に放り込んだせいだ。

 怒った俺は、打倒パウロを目標に掲げた。父親の威厳か何だか知らんが、奴が肉体の全盛期であるうちにパウロを倒し、父親の威厳をヤバくしてやる。

 

 なんてな。打倒パウロの目標は本当だが、前半は嘘だ。普通に誘拐されて売られそうになっている。

 

 俺一人ならば、どうにでもなっただろう。

 見たところ、俺とシンディを誘拐したのは、子連れの夫婦。

 上は俺と同じくらいの男児と、年子と思わしき五歳かそこらの男女の子供が二人、そして痩せた赤ん坊。

 俺は奥さんと四人の子供と共に小さな幌馬車の荷台に、

 シンディは顔の隠れるローブを着せられて御者台に、

 それぞれ拉致されている。

 

 夫婦は魔術も武術もかじっていない素人だろう。おまけに幼い子供を四人も連れている。適当に魔術で目くらましをして、逃げ出すのは容易い。

 

 それを躊躇してしまうのは、シンディが人質になっているからだ。

 シンディは大人に比べたら断然足が遅く、使える魔術は初級を少し。

 初級でも、それを人に向けることは厳しく禁じている。

 魔術の他にも、シンディはちょっとばかり特殊な力を使える。

 しかし、俺の前では、それは人を助けるためだけに利用されてきた。現在の状況をどうにかできるとは考えにくい。

 

 馬車を横転させ、混乱の隙に逃げ出す?

 御者台に座っているシンディが外に投げ出され、打ちどころが悪かったらどうする。

 

 魔術で男を攻撃し、ひるんだ隙に逃げる。

 これもダメだ。そうされないために、シンディを人質にされているのだ。

 

 一応、確実に助かる方法はある。

 男を殺すことだ。思いっきり威力を込めた岩砲弾を射出し、頭部を綺麗な更地にする。

 必要とあらば、女の方も殺す。子供は無力だから放置でいい。そしてシンディを連れて大人の所に急ぎ、起こったことを説明する。

 完璧な作戦だ。殺るのが俺で無ければね。

 

「あたしにもちょうだいよぉ」

「うるさい! あっち行け!」

 

 七歳くらいの男の子と、五歳くらいの女の子が喧嘩を始めた。

 兄(多分)につき飛ばされて後頭部を打ち、大声で泣きわめく女の子。

 女はそんな兄妹を怒鳴りつけ、苛立たしそうに胸をはだけた。

 ついついチラ見してしまうが、興奮はしなかった。

 子供に吸わせすぎたのだろう、彼女の乳首は爆ぜ割れていた。エロさより痛そうという印象が勝つ。

 女は血のにじむ乳首を赤ん坊に咥えさせ、痛みが走ったのか、顔を顰めて悪態をついた。

 

 なんか、全体的に荒んでるな。

 

「お金がないから、こんなことをするのですか?」

 

 俺は女のほうに話しかけた。

 痩せぎすで、もう少しふくよかなら可愛かったのだろうなという顔立ち。余裕のなさが人相に現れている感じだ。

 頚部に瘰癧(るいれき)だろうか、赤黒い瘢痕がある。

 

「そうだよ」

 

 女は案外くったくなく答えてくれた。

 住んでいた村が、魔力異常によって増殖した苔に侵食され、家と仕事を失い、自分の子を食わせていくためによその村から子供を攫って売り飛ばしているということも、話した。

 

「この村の子は魔術を使えるのが多いって聞いてたから、きっと高く売れると思ってさ」

 

 ブエナ村の子供なら誰でも良かったらしい。

 村に入ってきた人攫いはこいつらだけなのだろうか。他の子は無事だろうか。

 不安が募ってゆく俺をよそに、

 分け前をもらう契約で、奴隷商会と繋がっている野盗にブエナ村の情報を売ったこと、

 アスラは豊かな国だから奴隷でも食事や寝床は確保されること、

 金持ちに気に入られれば、ひょっとすると今より良い暮らしができること、

 を、彼女は俺にペラペラ話した。

 身勝手な言い分だ。俺にだって生活があるのだ。

 それを、自分の事情で攫って、金を得ようとしている。

 

「……僕の父は駐在騎士です。村でもそこそこの地位にいます。もし、僕たちを逃がしてくれたら、僕が父に頼んで、ブエナ村にあなたたちが移住できるように計らいます」

「田舎暮らしはもう嫌だよ、森の近くに住むから魔物は出るし、苔に呑まれるんだ。あたしたちは安全な都市に住みたいんだ」

 

 そのために、金が必要ってわけか。

 

「自分の子を売ればいいだろ。四人もいるんだから」

 

 俺は相手を嘲った顔をしていたと思う。

 犯罪者のくせに自分の子は可愛いのか、と。

 すうっと女の顔から血の気が引き、次の瞬間、木の棒で殴られた。子供の躾に使われる制裁棒だ。ブエナ村でも、年寄りのいる家によくある。

 制裁棒で子供を本当にぶつ事はない。せいぜい、脅しに使われるだけだ。

 俺は思いっきり殴られた。憎しみのこもった表情に、鈍い痛みに、生前家を追い出されたときの事を思い出した。反撃は思いつかず、次の衝撃に備えてとっさに手で頭を守った。

 

 剣術の稽古中も、パウロにボコボコにされることはままあるが、彼は頭はあまり打ってこない。

 子供同士の喧嘩も介入することないが、頭を殴ろうとしてるのを見ると止める。「もし友達が喧嘩をしてるのを見たら、互いに頭は打たせるな。大事なところだからな」と、俺にも言って聞かせるくらいだ。

 

「やめろ! 傷がついたら値が落ちる!」

 

 男の制止する声が油膜を隔てているように(こも)って聞こえた。

 制裁棒で、頭だの背中だのを何度も殴られる。

 俺は手で頭を抱えるようにして、亀のように縮こまった。

 

 あれ。おかしいな。

 どうして体が動かない?

 

 俺は以前とはちがう。あろうことか両親の葬式に自慰に耽り、兄弟に見限られて家を追い出された(クズ)は、もういない。

 いないはずだ。

 今の俺は、あれ?

 高校のDQNどもに体育館に呼び出されて、

 じゃなくて、パソコンの画面を見た兄貴にぼこぼこにされて、あれ?

 記憶が支離滅裂だ。

 何だっけ。

 

「お兄ちゃん!」

 

 振り向いた幼女が、御者台の背もたれを掴んで泣きそうな顔をした。

 ヨーロッパ系の幼女に〝お兄ちゃん〟と呼ばれている。

 中々ない体験……ん? それは別に当たり前のことじゃないか? 彼女は、血の繋がった妹なんだから。

 いや、俺に妹はいない。兄兄姉弟の五人兄弟の四番目で……や、いや、ちがう。俺が長男だった。妹が三人いる。

 幼女の名前は、えっと、そう、シンシアだ。シンディ。

 俺の妹。で、俺は、ルーデウス。

 

「ハッ!」

 

 自分の名前と家族構成と住所と電話番号(ない)と友人関係とロキシーを思い出した俺は、思い出しついでに土の魔術で岩石を作り出し、それを女の手に叩き込んだ。

 

「ぎゃ!?」

 

 射出した岩石は女の手を打った。

 女は制裁棒を取り落とし、手を押えて蹲った。

 女の手はもげていないが、骨は折れているかもしれない。

 これをパウロ以外に向けたのは初めてだ。パウロならば、必ず避けるか斬るか弾き返してくれるという信頼と安心があったが、一般人に向けるとなると、無意識のうちに威力を殺してしまう。

 

「母ちゃん!」

「父ちゃん! 母ちゃんが!」

 

 兄弟が女に抱きつき、怯えた目で俺を見たが、構っていられなかった。

 男はしばらくポカンとしていたが、俺を睨みつけてシンディに手を伸ばした。

 俺が魔術を使ったせいでシンディが痛めつけられる。

 そんなのは許せない。

 

 狙うは頭部。

 相手に手を出させる暇は与えてはいけない。

 手の震えを抑え、岩石を男の頭めがけて射出しようとした。

 

 その途端、馬車が揺れた。急停止だ。

 外から怯えるような馬のいななきが聞こえてきた。

 

「お母ちゃん……ヒューがおかしいよ」

 

 女の子が赤ん坊を抱いていた。あの子は、さっき兄らしき子と喧嘩して泣いていた子だ。

 泣き止んだあとは、赤ん坊をあやしていたはず。

 ヒューと呼ばれた赤ん坊は泡をふいて痙攣していた。

 医者じゃなくても、一目見てヤバそうな状態だとわかる。

 

「ああ、ヒュー!」

 

 女が赤ん坊をひったくるように抱く。背中を叩き、体をゆすり、赤ん坊を助けようとしている。

 男もおろおろと心配そうな顔をしていた。

 

 ぐったりしている赤ん坊を見捨てるのは気が引けるが、チャンスは今だ。

 俺は荷台の親子を押しのけ、素早く御者台に上がった。

 

「っ!? おい、待て!」

 

 なぜか馬が歩みをやめていたのも都合が良かった。

 俺はシンディをお姫様抱っこして、御者台から地面に飛び降りた。

 外に出てみてわかったが、三台の幌馬車は一列に連なって進んでいたらしい。俺が乗せられていた馬車は最後尾だ。

 先頭二台に置き去りにされかけていた。

 

「うおっ!」

「なんだ!?」

 

 岩石を射出して、ほかの馬車の車輪を破壊した。

 俺たちの他に子供が攫われている可能性がある。

 

 まずはシンディを安全な場所に連れて行くことだ。そっちを助けに行くことはできない。

 だから、捕らえられているであろう俺の友達に向けて、怒鳴った。

 

「聞こえるか! 魔術を使ってもいい! 倒して逃げろ!」

 

 うっかり怪我人や死人が出たら手に負えん。そう思って、村の子供に魔術を教えるときは、それを人に向けないことを約束させていた。

 例え喧嘩のときでもだ。

 だが、この状況は別だ。万が一殺してしまっても構わん。親元に帰ることを最優先してほしい。

 

「シンディ、ちゃんと掴まってるんだよ」

「う、うん」

 

 俺はシンディを背負い、馬車に背中を向けて逃げだした。

 後方から叫び声だの爆発音だのが聞こえてくる。俺の声は届いていたらしい。

 

 それにしてもシンディが重い。

 そりゃそうか、もう生まれて四年も経っているのだ。

 一年前は、収穫祭の夜にシンディを抱えて走って逃げたっけ。

 シルフィがあのツィゴイネルの少年に性的に襲われかけたからだ。

 六歳のロリにエロいことをするなんてけしからん羨ましい。思い出したらムカついてきた。

 

「ルディ?」

 

 噂をすればシルフィだ。背中に子供用の弓、腰には矢筒というお子さま狩人ルックのシルフィは、シンディを抱えて走ってくる俺を見て不思議そうな顔をした。

 ロールズはいないのだろうか。いつもなら白い歯をキラめかせて「やあ、シルフィ。今日も可愛いね」などと言うところだが、いま会うのはまずい。

 

「逃げろ! 人攫いだ!」

「え!?」

 

 近くに逃げ込めるような民家はない。村の大人もいない。

 一面の田園地帯は遠くまで見渡せる。追いかけられたら隠れられる場所はないに等しい。

 

 馬車から飛び降りた男がこちらに走ってくるのが見えた。

 足元に火球を撃ち込んでみたが、ひるまずに向かってくる。必死だ。他人の子供を攫って売ろうというクズだが、彼も命がかかっている。

 俺たちを逃がしたら生活が立ち行かなくなる。

 村の男衆に捕まって断罪されるかもしれない。

 

 へん。知らんね。奴らはブエナ村に住めるように取り計らうという申し出を跳ね除けた。

 子供の言うことで本気にされなかっただけかもしれんが、救済の手を叩き落としたのは、向こうだ。

 背中がいてえ。頭にたんこぶもできてるな、この痛みは。

 

「ルディ! こっちだよ!」

 

 冷静に考えれば、それは悪手だっただろう。

 いくら誰も見当たらなくても、逃げ続けていれば、あるいは大声を出せば、大人が見つかったかもしれない。

 

 それは自ら逃げ道を塞ぐ行為だった。

 でも、俺は人攫いにあうのは初めてで、シルフィも突然のことにパニクっていた。

 

 俺たちは村を外れて、森の中に逃げ込んだのだ。




冒頭『雪窓夜話』のざっくり訳:
トウビョウ持ちの嫉みや恨みを買うと、トウビョウ持ち本人にその気がなくても呪われることがあります。トウビョウをひとたび所持すると末代まで離れません。
トウビョウ様に恨まれたトウビョウ持ちは殺されるから、トウビョウ持ちはトウビョウ様を神のように尊び重んじましょう。


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十三 累卵(後)

ここすき機能の見方を最近知りました。
押してくださった方ありがとうございます。感想もですが、どこが好きか伝えてもらえると嬉しいものですね。

今回は相互不理解の話です。


 ノルンを迎えに行かなきゃ。

 まずそう思った。ハンナちゃんに預かってもらったままだ。

 早く行かなければ。すぐ戻ってくる、って言ったのだから。

 

「追ってきてる?」

「ん……ううん、足音は聞こえない、かも」

 

 木の根に足をひっかけて転びそうになった。

 兄に腕を捕まえられ、用心深く耳を澄ませていたシルフィに背中を支えられる。

 そのまま、兄に手をひかれ、朽葉を踏み分ける。

 兄、私、シルフィの順番で薄暗い森を歩いた。

 

「お兄ちゃん、ノルンは?」

「ハンナがきっと家まで連れて行ってくれてるよ。俺たちは、森を通って物見櫓に行こう。そこなら絶対に大人がいる」

 

 元気づけるように握った手を揺らし、兄は前を向き直した。

 やっぱり彼はすごい。私は、馬車にいた人たちを全員呪って、脱出することしか考えつかなかった。

 

 とんとん、とシルフィに肩を叩かれた。シルフィは小さな声で「先に行ってて。すぐ追いつくよ」と言って、私たちから離れた。

 獣道を少し引き返した彼女が、むらがる羊歯のあいだにしゃがむのが見えた。あそこには沼があったはず。

 何かを捕まえようとしているみたいだ。

 

「お兄ちゃん」

「なんだい」

「赤ちゃん、苦しんでたね」

 

 女に抱かれた、ヒューと呼ばれていた赤ん坊が、痙攣して泡を吹く光景を、私は思い出していた。

「病気だったんだよ」と、兄はこちらを見ずに答えた。

 

「ちがうよ、あれ、私のせい」

 

 あのとき、蛇は見えなかった。

 でも、兄を叩いたあの人を、私は強く怨んだ。

 トウビョウ様は、持つ人の知らぬまに、持つ人の怨みや嫉みを体した蛇を相手に使わすことがある。

 私が怨んだのは母親のほうだ。しかし私の管轄を外れた蛇は、より弱い赤ん坊のほうに付いた。

 

「あの子、死んじゃったらどうしよう」

 

 足がとまる。喉の奥が勝手にすぼまり、水が手の甲にぱたぱた落ちた。

 二歳のワーシカ、イヴ、一歳のエリック、クラレンス、妹のノルンとアイシャの顔が心に浮かんだ。

 小さい子に優しくしてあげて、という母様の声と、私の弟と妹をよろしくね、と頼んだエマちゃんの声を思い出した。

 

「ちっちゃな子に、ひどいことしちゃ、いけなかったのに」

「……」

 

 もう遅い。母様のおまじないを破り、使ってはいけない力を使って、小さな子を殺した。

 

「シンディ」

 

 両肩に兄の手が乗り、私と視線を合わせた兄が言った。

 

「お前のおかげで、俺たちはこうして逃げられたんだ。それに、まだ死んだと決まったわけじゃない。仮にそうなったとしても、シンディの責任じゃないよ」

 

 違う。

 私の責任だ。

 最初から夫婦に狙いを定めて呪っていればよかったのだ。

 (チサ)にはそれができたはずなのに。子供が巻き添えになる可能性はあったが、巻き込まれない道もあったのだ。

 半々の確率で起こる未来に恐れをなして、きっと兄がどうにかしてくれるとどこかで思って、その兄が加害されるまで何もしなかった。

 

「大丈夫、次はうまくやろう」

 

 次、と、兄は言った。

 周囲を用心しながらの言葉だったから、もしかすると、適当にかけた励ましだったのかもしれない。

 私はその言葉に希望を感じた。

 兄はここにいる。死なずに済んだ。生きてさえいれば次はあるのだ。

 

 無垢の者を害し、殺すのは、業の深い行いだ。

 でも、家族や友達が、その罪悪感がためにひどい目に遭ったら、私は行動に移さなかったことを後悔するだろう。

 

「……うん。次は、まちがえないようにするね」

 

 ならば、喜んで業を背負おう。

 母様が、父様が、リーリャが仕合わせに暮らせるように、兄が、妹たちが、その子孫に至るまで繁栄するように。

 それが、この世に私を生み出してくれた者たちにできる、私の恩返しだ。

 

 

 ふと痛そうに顔を歪めた兄は、治癒魔術の詠唱を口にしながら己の背中に手で触れた。

 

「……シルフィは?」

 

 私の手を握った兄がちょっと不安そうに周囲を見た。

 沼に行った、と、教えるより早く、羊歯をガサガサ掻き分けてシルフィが出てきた。

 

「早く行こう」

「居た! シル、……それ何?」

 

 兄がシルフィの手に持っているものを見て、怪訝な顔をした。

 シルフィは先が鋭利に尖った枝を握っていた。ただの枝ではなかった。大きな茶色の蛙が刺さっていたのだ。

 枝は、蛙の口から臀を貫通している。まだ生きていて、手足がピクピク動いていた。

 

 シルフィはちらっと手に持った蛙を見て、「使えるかと思って」と言い、兄と私に傍の(にれ)の木に登るように促した。シルフィも後から登った。

 繁る葉に体を隠せそうな位置に登ると、十まで数えないうちに、男の話し声が聞こえた。

 馬車にいた襤褸服の男と、もう一人は帯剣した男だ。破落戸みたいな風貌をしている。

 

「くそっ、どこに行きやがった」

「お、おい、見つからなくても、分け前はあるんだろうな」

「あぁ? そんなの、ナシだ、無し。ガキがいねえのにやれるわけねえだろ」

「そんな……情報を提供したのはこっちだぞ……」

 

 男が離れていくと、別の大枝に跨っていた兄がほっと息を吐くのを聞いた。

 落ちるのを心配され、しっかり木に抱きついているように言われた私は、全身で幹にしがみついていた。

 頬にあたる部分の樹皮がはがれていて、蠹の食痕が眼前に見えた。

 懐かしい。生前は、飢饉の年は楡の葉と種子も食糧だった。

 この国では楡は良縁の象徴で、魔術師の杖に加工される事もあるらしい。母様に教えてもらったことだ。

 

「何してるの?」

 

 ひそひそ声で兄がシルフィにたずねた。

 シルフィは串刺しにした蛙の背中から出た泡を矢尻に塗りつけていた。

 

「……ルディ、あの人たちは悪い人なんだよね?」

「ああ。そうだよ」

「よかった。これ毒で、刺すと死ぬから」

 

 そう言って、シルフィは背中に括りつけていた弓を構えた。

 不安定な木の上だから、怖々としつつも、背筋はまっすぐ。

 梢が邪魔で見づらいが、多分私たちを追ってきた男を狙っているのだろう。

 

「ちょちょ、シルフィエットさん!?」

「え、ど、どうしたの?」

「殺すの? シルフィが?」

「うん、ルディとシンディを守るためだもん。

 ……あっ、お父さんには内緒にしてね? 今日は弓矢の重さに慣れるために持ち歩くだけの日だから、本当は使っちゃいけないんだ」

 

 兄はあんぐりと口を開けていた。

 説明は済んだとばかりに弓矢を構え直すシルフィを、兄があわてて止めた。

 

「まて、ちょっと待てシルフィ、それはダメだ!」

「なんで?」

「えっと、ほら、シルフィも百発百中じゃないだろ? 当たればいいけど、外れたら俺たちの場所がバレるかもしれない。ここは大人しくやり過ごそう」

「むーん……わかった……」

 

 潜めた声の応酬の末、シルフィは弓矢を下ろした。

 その直後、木の下を通る足音がして、素早く矢をつがえたシルフィの手を兄がさっと押さえる。

 

「たしかに声が……」

 

 襤褸男の独り言がきこえた。

 この辺に隠れていることを察しつつ、私たちの姿はまだ見つけていないようだ。

 

 三人で息を殺していると、襤褸男は離れていった。

 

「……行ったみたい」

 

 耳の良いシルフィがそれを確認し、私たちはそろそろと地面に降りた。

 

「ふう」

 

 兄がため息を吐いた。疲れているみたいだ。

 パチンと頬を叩いて、活を入れた兄は、「そういえば、もう一人は」と呟きながら、片手を鞠を掴むような形にした。

 すぐに応戦できるように魔力を溜めているのだろう。

 

 けど、もう心配にはおよばない。

 

「あっち」

 

 私は微笑みさえして、沼の方を指さした。

 羊歯にまぎれて、四つん這いになっている男の臀が見えた。

 

「うおっ」

 

 兄は驚き、水魔術で鋭利な氷柱を作った。いつでも射出できるように構えつつ、動かない男を不審に思ったのか、じりじりと近づいてゆく。

 

「死んでる?」

「死んでるよ」

 

 不審そうな兄の横からひょいっと顔を出し、教えた。

 つい普通の声量で言ったので、シーっと唇の前で指を立てられた。

 しまった。口を両手で塞ぎ、コクコクと頷く。

 

「……これ、シンディが?」

 

 もう一度うなずいた。兄はしげしげと死体を見つめた。

 

 男は溺死していた。

 沼の水に顔をつけて、沈黙している。

 沼の縁に両手をつけて肘を曲げ、水を飲むみたいな格好で。

 あぶくも立っていないから、完全に死んでいるとは思うが。

 即死じゃないのは、母様に封じてもらって、霊能力が弱くなっているせいだろうか。

 

 その場で膝をついて両手を合わせ、トウビョウ様に感謝を捧げた。さほどお怒りになられていないといいのだけれど。

 

 

「死体? ホンモノ?」

 

 シルフィはちょっと珍しそうだ。

 兄は顔をしかめて死体を眺めている。

 私は立ち上がり、神妙に兄に話しかけた。

 

「しゃべってもいいですか」

「どうぞ」

「今度はうまくやれたね」

 

 お兄ちゃんのおかげだ。

 次はうまくやろう。その言葉がなかったら、私は罪悪感で躊躇していただろうから。

 

 兄はもう一度死体をみて、口元を手でおさえてえづいた。

 どうしたのだろう。急に具合が悪くなったのだろうか。心配して背中を撫でると、兄は血の気がひいた顔で私を見た。

 

「シンディ、俺のことは好き?」

「だい好き!」

 

 優しくて、賢くて、面白いお兄ちゃん。大好きにならないはずがない。

 兄は笑ってはくれなかった。彼は溺死した死体を指さした。

 

「もし、嫌いになったら、……」

 

 兄は途中で言葉をとめた。その先を言うべきか、言うまいか、迷っているようだった。

 チサだったときなら、その先を察することができただろうか。

 私は、わからない。察してあげるには人生の経験が足りない。

 

「……何でもない。お兄ちゃんも大好きだよ」

「えへへ」

 

 お兄ちゃんに大好きって言ってもらった。うれしい。

 プクッと頬をふくらませたシルフィが兄の背中にくっついた。

 

「ボクのことは好き?」

「うん、大人になったら結婚しよう」

「え!? そんな、結婚なんて、きゃーっ」

 

 照れて耳をぴこぴこさせるシルフィが可愛い。

 はしゃいでいる母様を見ているみたいだ。

 兄は「もっと違う状況で言いたかった」と、どんよりした雰囲気を纏いながら歩き出した。

 

 ちらりと四つん這いのまま死んでいる男を見た。

 

 確かに、死体の横は睦言には向かないかもしれない。

 

「そのカエル捨てないのか?」

「うん。この子一匹で、五十本の毒矢が作れるんだ。

 あと、毒は蛙からの贈り物だから無駄にしちゃいけない、ってお父さんが言ってた」

「あ、そう……」

「くらーれ?」

「ううん、あれは植物からとった毒で、これは……」

 

 歩きながらシルフィが答えようとしたとき、遠くから鉦の音が聞こえた。

 私たちは顔を見合わせる。

 非常時の警報だ。

 村に魔物が入ってきたとき、怖い人がきたとき、鳴らす音だと父様が言っていた。

 聞こえたら、建物の中に避難しなければならない。

 

「お兄ちゃん、シルフィ、ひなん!」

 

 シルフィのところに行こうか迷って、――彼女は串刺しの蛙を持っていたので、お兄ちゃんに抱きつく。

 危機感を煽られる音だが、兄の表情に安堵が広がった。

 

「誘拐犯のことを、大人が把握したんだよ。もう、何人か捕まってると思う」

「じゃあ、安全?」

「油断はできないけど、多分な」

 

 それを聞いて、私は安心した。

 一応、確実に人がいる物見櫓に行こうという会話をシルフィと兄が交わし、当初からめざしていた方向に足を進める。

 

「ボク、この音ニガテだな」

「そうか?」

「よく通る音だけど、その分、他の音が聴こえづらくなるから……」

 

 不安そうに肩をそびやかしたシルフィだったが、その音がハッキリ聞こえるようになるにつれて、上機嫌になった。

 目的地に近づいてきたのだ。

 物見櫓の足が見えた。シルフィは駆け出した。

 

「お父さん!」

「ルフィ! 無事だったか!」

 

 物見櫓で鉦を鳴らしていたのはロールズさんだった。

 

 私たちもシルフィに続こうとした。

 しかし、その矢先、木陰に隠れていた男が、兄の頭を殴りつけた。そして、私と兄をひっ攫った。

 驚いて、声も出なかった。襤褸を着た男はなりふり構わず森の奥深くに走り出した。魔物に遭遇しても構わないと言わんばかりだ。

 

 なぜ。

 蛇を遣わせたのに、どうしてまだ生きている。

 

「わからん……」

 

「真面目にやってきた。両親の世話もちゃんとして、嫁をもらって、ガキこさえて食わせて、ちゃんとしてきた」

 

「だから幸せな奴からちょっとばかり幸せを分けてもらおうとした途端これだ……わからん……わからん……」

 

 襤褸男はしきりに首をひねりながら、たどり着いた沢のそばに私たちを置いた。

 頭を殴られたせいでくらくらするのか、兄が頭を手で押さえて起き上がろうとした。

 男の目をみてわかった。呪いは効いている。

 狂死。それが彼の死に方だ。

 時間がかかるやつである。

 

 彼はブツブツ喋ったかと思えば笑いだし、また無表情で独り言を言い、溺死させた男が帯剣していた剣を振りまわし始めた。

 

「ふざけんなよ、おい、ふざけんなよ」

 

 自分の太ももをザクザク刺している。

 うわっと兄が横で声をあげた。

 

「赤ちゃん殺してごめんね」

 

 もう遅い言葉を、届かないであろう言葉を、私はその狂人に告げた。

 襤褸男はよろよろ立ち上がり、大上段に剣をかまえた。

 振り下ろされる前に、右脇腹に細い棒が刺さった。

 矢尻は腹に埋まっているのだろう。男は倒れ、喉が詰まっているみたいな変な呼吸をした。

 あの矢には見覚えがある。シルフィの矢だ。

 では射ったのは、ロールズさんだろうか。

 

 足をつかまれた。私の足は、大人の男の手にすっぽり包まれる小ささだ。

 痛みが走る。足の甲を折りたたまれるような痛みに息をとめた。

 

 兄が襤褸男の腕を蹴り、甲を殴り、指をつかんで引き剥がそうとしたが、素の力の差は絶望的だった。

 ぎりぎりと痛みは増す。ゆっくり足が壊されてゆく。

 

「やだ」

 

 じたばた動かすこともできないほど、力を込めて地面に縫いつけられている。

 兄が、沢の荒削りな石を抱えて、重たそうに掲げるのが見えた。

 襤褸男の頭にそれを叩きつけた。

 

 ごんっ。ごんっ。ばきっ。どちゃっ。

 

 頭をぶつ音が水っぽくなってきたあたりで、足を引っ張ると抜けた。

 

「痛い?」

「ちょっと」

「そう……」

 

 兄は私の靴にさわると、疲れたように隣に座った。

 黒柿色の外套と灰色の靴に点々と赤黒い血が飛び散っている。

 

 つつけば倒れてしまいそうだ。

 腿に頭をのせて休ませてあげようと、私よりは大きい、でも子供の体を引きよせた。

 兄は全部の体重をかけてきた。頑張って支えようとしたが、無理だった。

 私はあお向けに倒れ、覆いかぶさった兄が胸に顔をうめた。

 手を出したときの猫の雪白みたいに顔をこすりつけてくる。

 

「お兄ちゃん、あのね、ひざ枕……」

「……」

 

 うるさそうに顔をしかめられた。

 口を噤むと、穏やかな表情にもどる。

 このままお兄ちゃんが喋らなくなったらどうしよう。

 

 喋らなくなったら……、まあ、いいか。

 どんなになってもお兄ちゃんだもの。私が世話を焼けばいい。

 

 横の死体から、垢の匂いに混ざって、血の匂いが臭ってくる。

 沢のせせらぎを聞きながら、猫のようになった兄の頭を撫でた。

 

 私と兄を呼ぶ父様の声が、だんだん近づいてくる。

 

 

 


 

 

 

パウロ視点

 

 カタンと物音がして、めざめた。

 ノルンとアイシャが同じタイミングで昼寝をして、いつの間にかオレもうたたねをしていたらしい。

 肩を軽くまわし、固まっていた筋肉をほぐした。

 テーブルを挟んで、椅子に登った娘と目があう。

 

 我が家の長女、シンディは、テーブルの上の花瓶に手をのばしかけた格好で固まっていた。

 眠っていたはずの偉大な父親が、突然起きたことに驚いているのだろう。

 

「びっくりした……」

「そりゃ悪かったな」

「ううん、父さまは悪くないのよ」

 

 シンディはそう言いながら、抱えていた三輪の白い花をテーブルに置き、花瓶を両手で自分のほうに引き寄せた。

 倒しやしないだろうか。いつでも支えられるように片手を添えると、シンディは笑みをオレに向けた。

 ゼニスに似た笑顔だ。そして、夭折したオレの母親、バレンティナの面影もある。

 不思議なもんだ。ゼニスとオレの母は似ていないのに、こうして生まれた娘はどちらの面差しも受け継いでいる。

 

 シンディはくたびれた花を花瓶から抜き、パッパと茎についた水滴を払った。

 テーブルに置いてあるのは新しく活け直す花だろう。

 ゼニスが家の内装にこだわり、園芸に手を出し始めたのはこの家に住み始めてからだ。

 冒険者時代はそんな余裕はなかったが、元々庭いじりが趣味で、ラトレイア家でも自分専用の花壇をもらって色々育てていたそうだ。

 薬草の知識も豊富だし、植物そのものが好きなのだろう。

 

「母さんに頼まれたのか?」

 

 訊ねると、花の交換をしていたシンディはうんと頷いた。

 そのついでに、無詠唱で作りだした水を花瓶に満たした。

 ルディもシンディも当たり前にやるが、無詠唱で魔術を使う者、それも子供を、オレはそれまでの人生で見た事がなかった。

 うちの子は天才だ。そう自慢すると、少し前のルディは「神童も二十歳過ぎれば只の人、と言いますし、他の子も出来るんですから、そんなに珍しいことじゃありません」と澄ました顔で言ったものだ。

 

「でもね、夏の雪(サマー・スノー)を選んだのは私で、……えっと、この花は夏の雪(サマー・スノー)っていって、なんでその名前かっていうと、夏に咲く花なのに花びらが雪みたいに白いからでね……」

 

 と、娘の話に戻ろう。

 正直、花の名前はどうでもいい。

 花は花だ。色の違いまでは判別がつくが、花弁の形まで言及されるともう訳がわからん。

 一生懸命説明するシンディが微笑ましいから、いかにも興味深そうに聞いておく。

 

 ほんの10年前のオレだったら、耐えられなかっただろう。

 ベッドに行くための前戯だと思えば、興味のない話題でも辛抱強く聞いたかもしれないが、そうでないなら逃げ出していた。

 

 しかし、もう夏か。

 ノルンとアイシャが生まれてもう半年経ったことになる。

 

 ひとしきり話したシンディが椅子から降りた。

 何事もなく、足を痛めた素振りもない。そのことに安堵する。

 

 4ヶ月前、ブエナ村の子供が攫われかけた。

〝あの村の子供は全員魔術を使える〟という噂を、野盗が聞きつけたのだ。

 技能が高いほど奴隷としての価値は高まる。

 

 だが、まさか無詠唱だと思わなかったらしい。魔術師ってのは、通常詠唱ありきだからな。

 拐った子供の口を塞いで慢心していたところ、あっさり反撃された。

 大人が駆けつけたときには、6人いた野盗の半数が重傷、2人は死んでいた。

 生き残っていたのは近くの街の役人に突き出し、野盗の仲間には幼い子供もいて、彼らは孤児院に引き取られていった。

 中には赤ん坊もいた。そちらは体調を崩していたから村の治療院でしばらく看病された後、ブエナ村の若夫婦の養子になった。

 彼等はなかなか子供ができないことに悩んでいたから、収まるべきところに収まったという感じだ。

 

 死体は、森の中でさらに2体発見された。

 ひとつは変死体だ。そちらの詳細は、まあ、今思い出すのはやめておこう。

 もうひとりは、ルディが殺した。

 

 ロールズが遠方から毒矢で射ったのを、ルディがとどめをさしたのだ。

 ルディのしたことは正しい。

 そうしなければ、シンディの足が潰されていたのだ。

 シンディは幸い足の甲が折れていた程度で、ゼニスが後遺症が残らないように丁寧に治した。

 

 ロールズから攫われたと聞いたときは、生きた心地がしなかった。

 駆けつけたところ、シンディもルディも多少怪我はしていたものの、治癒魔術で治る範囲だった。

 数日もすれば外で遊び、家事を手伝い、勉強と剣術にも励んで元気に過ごしている。

 

 他の誘拐されかけた子たちも日常に戻った。

 子供が魔術で人を殺したことを危険視する者もいたが、オレに言わせりゃ平和ボケもいいとこだ。

 自分の身を守る手段が多いのは良いことだ。無差別に使ってる訳じゃなし、才能は伸ばしてやれ、と丸め込んだ。

 

 集団誘拐事件はブエナ村ができて以来の大事件で、駐在騎士であるオレは報告や後処理に追われたが、日々は代わり映えなく過ぎていく。

 事件が起こる前と同じように。

 しかし、何故だろうか、オレは違和感を拭えないでいた。

 

「ルディはどうしてる?」

「お庭で雪白とあそんでたよ」

 

 寝ているアイシャとノルンを眺めていたシンディが窓の外を指さした。

 開け放した窓に近づき、緑豊かな庭を眺めた。

 さっきから騒がしいと思っていたが、近所の子供が遊びに来ていたらしい。

 ルディは腹に結びつけた紐の先を地面に垂らして走っていた。

 紐を追うのは、〝雪白〟と名付けられたウチのペットだ。

 追いつかれるだの、屋根にジャンプしろだのと聞こえるから、紐の先を捕らえられたら負けというルールなのだろう。

 

 ルディがソマル坊の後ろに隠れると、雪白はソマル坊の体を駆けのぼった。子供の悲鳴と笑い興じる声が青空を突きぬけるようだ。

 

「お」

 

 ルディが飛び石に蹴躓いて転んだ。前をよく見ていなかったせいだ。

 自分の子が派手な転び方をしてるのを見るとけっこうビビる。

 膝をすりむいたルディは、片足立ちで飛びはねて移動し、花壇の花の剪定をしていたゼニスの背中に飛びついた。

 

「あっ、ゼニスんとこ行ったー!」

「甘えんぼ! 赤ん坊!」

「こら! 〝ゼニスさん〟と言いなさい!」

 

 あんにゃろう。人の妻を呼び捨てにしやがって。

 と、大人気なくオレが腹を立てるのと同時に、溌剌としたゼニスの声が悪ガキどもに釘を刺す。

 

 ルディはまったく堪えていない様子でゼニスに甘えまつわりついている。

 ゼニスはしゃがんだ自分にルディを寄りかからせ、擦りむいた膝に手をかざした。

 ヒーリングの光がぼんやりと見えた。ルディはくにゃりと力を抜き、ゼニスに全身をあずけきっている。

 あいつももう7歳だ。重いわよ、とでも囁かれたのだろう。ルディはくすくす笑い、ますますゼニスにしがみついた。

 頬にキスをされるとふざけて嫌がるような素振りをみせる。

 

 オレは部屋に入ってきたリーリャにアイシャとノルンの子守りを任せ、庭に出ることにした。

 シンディが抱っこをねだってきたから、片腕に座らせるように抱いた。

 

 ヤーナムの腹に紐を結びつけてやっていたルディがこちらに気づき、駆け寄ってきた。

 笑顔で両手を伸べてくる。

 

「父様!」

 

 しゃがんで、ルディがしがみついてくるのを待って立ち上がる。

 ルディの友達が腕だの背中だのに登ってくるのを振り落とすと、ケラケラ笑いながらまた掴まってくる。

 すっかり玩具だ。オレはこいつらの父親ではないんだが……ま、いいか。

 

「ノルンとアイシャは?」

「まだ寝てるよ。今はリーリャが見てる」

 

 ゼニスと会話をしていると、ルディが伸びあがってオレの肩に膝をかけた。

 勝手に肩車をされた。変な鼻歌と共に髪をぐしゃぐしゃと撫でまわされる。

 威厳のある父親像がガラガラと音を立てて崩れていくのを感じた。

 オレは自分の父親にこんなふうに接した事などあっただろうか。

 抱っこくらいなら幼い頃にされた記憶があるが、親しみはさほど憶えなかったように思う。

 

「っと。こら、ルディ」

 

 ルディの靴がシンディの顔に当たりそうになっていた。

 女の子の顔を蹴るのはいかんな。足首をつかみ、窘める。

 

「何ですか?」

「何ですか、じゃない。シンディを蹴りそうだったぞ」

「避ければいいじゃん」

 

「なあ?」とルディに念を押され、シンディはニコニコしながら「うん。平気よ」と頷いた。

 

 そうだ。これが違和感のひとつなのだ。

 シンディの扱いがぞんざいになった。

 仲は良いままだが心配になり、村人のジャンに相談したところ、兄妹ならそれが普通だ、と言われた。

 逆に、たった3歳差であれほど下の子に優しくしていた方が珍しいそうだ。

 そういうものなのか。年の離れた弟ならオレにもいるが、相性が悪く、関係も希薄だったせいで、普通の距離感というものがわからない。

 

「ルディ。父さんはシンディが産まれたとき、お前に何と言った? 妹に優しくできないなら、もう肩車はしてやれないぞ」

 

 オレはルディを叱るのが苦手だ。

 自慢じゃないが、オレは以前、5歳のルディに完膚無きまでに言い負かされている。

 口で勝てず、つい暴力に訴えてしまったのは、今でも反省点だ。

 ルディは頭が良いし、口がまわる。自分が悪いと認めているときは素直に謝れるのは良い事だが、自分に非があると認めてないときに上から何か言われるのは嫌いみたいだ。

 オレも、というか、誰だって嫌いなはずだ。

 ルディは良い方だ。自分が悪いと分かっていても謝れない人間なんていくらでもいるからな。

 

「えー……」

 

 口調からして不満そうだし、今回も何か言い返されるだろう。

 さあ来るぞ、と、オレは覚悟を決めた。

 

「やだ……ごめんなさい」

「お、おお?」

 

 肩透かしを食らった気分だ。

 オレの頭を抱えているルディがしょんぼりしているのが、声音からわかる。

 

「謝る相手がちがう」

 

 今、オレ、父親っぽいこと言えてるんじゃないか?

 肩車をしながらっていうのは、格好がつかないが。

 

「うん。シンディ、ごめん」

「いいよ」

 

 いやに素直だ。

 謝ったあとも、ルディはどことなく気まずそうにしている。

 

「父様、怒ってますか?」

 

 ああ、そうか。

 オレの顔色をうかがってる訳か。

 

 二つめの違和感。

 ルディがオレの機嫌を気にするようになった。

 

 今はこうでも、叱ってばかりの父親というイメージを持たれると、将来愛想を尽かされるだろう。

 オレは怒っていないことを伝えるため、シンディを下ろして、ルディを肩車したまま外を走り回ってやった。

 ルディはまるで普通の子供みたいな歓声をあげて喜んだ。

 我が子が喜んでいると幸せだ。家族が団欒しているのを見ると、オレは幸せ者だ、生きててよかった、と思う。

 

 しかし、何か、何かが釈然としないのだ。

 

 

「なあ……ルディの事なんだが、最近、変じゃないか?」

 

 子供たちが寝静まった夜、居間にいた大人もそろそろ寝室に引き上げるかという雰囲気のなかで、オレはそう切り出した。

 

「そうかしら。前より甘えたにはなったけれど、変ではないと思うわ」

 

 ゼニスはオレの疑問を否定した。

 オレは意見を求めてリーリャを見た。

 ゼニスの手前、妻と紹介するのは微妙な関係だが、リーリャが子供たちの保護者であることは間違いないのだ。

 

「以前の坊っちゃまは、大人びた聡明な印象の方でしたが、現在の坊っちゃまは子供らしく愛らしいと感じます」

「そう、それだ!」

 

 オレは膝を打った。

 それだ。子供っぽい奴が、急に大人になるのはわかる。

 しかし、その逆は起こりうるのか?

 

 その疑問を口にすると、リーリャとゼニスはこう答えた。

 

「ノルンお嬢様が産まれたのをきっかけに、ご自分も旦那様と奥様に甘えたくなったのでしょう。私にも、ときどき抱擁をねだりに来ます。

 坊っちゃまは元々非常に良い子でした。要望はできる限り叶えてさしあげたいです」

 

「昔、ミリスの学校で心理学の授業をとっていて、そこで聞いたのだけど、弟妹が産まれた子供は精神的に退行することがあるらしいわ。

 あなたも覚えてるでしょ? シンディは赤ちゃんのときは追視も首が座るのも遅くて、私も心配してシンディばかり見ていて……きっと、それが寂しかったのね。

 今まで甘えられなかったぶん、ルディにたくさん構ってあげなきゃ!」

 

 寂しかった。そうだろうか。

 ロキシーちゃんが家にいる間は彼女にベッタリだったが、そのせいだったのか?

 

「母様」

 

 戸をあけて、ルディが現れた。

 ルディの服の裾を、シンディが掴んでいた。

 2人とも、うつらうつらとしている。眠そうだ。

 ゼニスがすぐに近よって、子供たちに話しかけた。

 

「どうしたの、喉乾いた?」

「あたまが、あったかくて……」

「お兄ちゃんがいっしょに来てって言った、から……」

「ふふ、お兄ちゃんに付き合ってあげたの。優しい子ね。

 ルディはどうしたのかしら、お熱? 具合は悪くない?」

「わるくないですけど……」

 

 ゼニスがルディを抱きあげた。

 ルディはよく発熱するようになった。夜の間だけであることが多く、一晩寝れば治るからさほど深刻視はしていない。

 

「私たちは先に寝てるわ。おやすみなさい、あなた」

「ああ、おやすみ」

 

 ゼニスはルディの背中をさすりながら階段を上っていった。

 あの様子だと、ルディも夫婦の寝室で寝ることになるだろう。

 ゼニスにあまり構ってもらえないと察したのか、シンディはリーリャの所に行って手を伸ばした。

 オレの所に来ても良いんだがな。

 やはり母親と乳母には勝てない。

 

 居間にいるうちに目が冴えてしまったシンディを、昔オレが乳母から聞いたお伽話をして寝かしつけてやった。

 遅れて自分の寝室に行き、ベッドに潜り込む。

 ゼニスの手を胸に乗せて、我が子はすやすや眠っていた。

 

「はぁ……」

 

 ベッドの上に仰のき、ため息を吐いた。

 ルディがいるとゼニスと愛し合えないのだ。

 これが娘ならちっとも残念に思わないのに。

 

 三つめの違和感。

 ルディが子供っぽくなった。

 

 

 

 ある日、オレはカラヴァッジョに乗って帰宅していた。

 事件が起きてから、村長と話し合い、一日一回だった村の見廻りを、二回に増やすことにした。

 あれ以来、怪しい奴は来ないし、楽な仕事だ。

 行き遭う人と挨拶を交わしつつ、簡単に村を見てまわる。

 行商人がいれば、どこから来たのか・どのくらい村に滞在する予定なのかを雑談を混じえて聞き出し、喧嘩を目撃したら止める。

 今日は何事もなかった上に、山桃で作った果実酒の味をみてほしいと言われ、一杯ひっかけることができたから上機嫌だ。

 

  お日さま お日さま

  あっちばっか照らす

  こっちもちょっと照らしてくれ

  こっちの子が泣くぞ

 

 あどけない歌声が聞こえると思ったら、小川で遊んでいる子供たちを見つけた。

 棒や手で小魚を追いつめていたり、日差しで温まった岩に腹ばいになっていたり、楽しそうだ。そのなかにはルディもいた。

 

 さっきは女の子たちが大縄跳びをしているのを見たな。

 シンディはそちらにいた。兄妹といえど、外で遊ぶときは別行動が多いみたいだ。

 

「父さま! 待ってください!」

 

 ルディが手を振り、急いで服を着てこちらに来た。

 カラヴァッジョから降りると、ルディが飛びついてきた。

 

「僕も一緒に帰ります!」

「そうか。まだ遊んでてもいいんだぞ?」

「でも、シンディが外にいますし」

「ん? 何か関係あるのか、それ」

「僕とシンディで、日替わりでアイシャとノルンを見てるんです。昨日はシンディが家にいたから、今日は僕です」

 

 ははあ。

 どうやら、親の知らない所で、子守りの当番を決めていたらしい。

 ノルンとアイシャは可愛いが、面倒を見るのは楽じゃない。

 交代しながらでなきゃ兄貴と姉貴なんてやってられねえ、ということか。

 

「交代にしないと、シンディが妹ばかり構って、友達と遊ばなくなるんです」

 

 逆だった。シンディがノルンとアイシャを構いすぎるのが原因だったらしい。

 そういうことなら、とルディを鞍に乗せ、後ろに跨った。

 家に向かいながら、ルディに話しかけた。

 

「ロキシーちゃんから手紙来てただろ。返事は出さなくていいのか?」

「返信は結構です、って書いてありましたよ? 手紙が届く頃にはもう王宮にいないかもしれないから、って」

「でも、いるかもしれないだろ。ロキシーちゃん、ああ言ってても、お前から手紙が来たら喜ぶぞ」

「うーん……」

 

 ルディの返事は煮え切らない。

 

「シルフィが怒ります。女の子と仲良くしてると」

「なんだ、もうシルフィちゃんの尻に敷かれてるのか?」

「そんなことありませんー」

 

 恋だ愛だというには早いと思っていたが、嫉妬くらいはするか。

 シンディが「お兄ちゃんとシルフィが結婚の約束してた」と言っていた事を思い出した。

 ルディはオレの子だ。今は微笑ましいが、あと数年で色を覚えるはずだ。そうなれば、成人の15歳を迎える前にシルフィちゃんを妊娠させちまう可能性がある。

 今から注意しとくべきだろう。

 

「なあ、ルディ、お前ももう7歳だし……」

 

 まだ7歳か。

 ゼニスの妊娠が発覚して、縁故を辿ってフィリップに頭を下げて定住地と仕事をもらって、乳母の募集にリーリャが志願してくれて、初子のルディが生まれて、シンディが、ノルンが、アイシャが生まれて。

 四人も増えたんだな。賑やかになるはずだ。

 

 シンディも今年で5歳だ。

 ルディの5歳の誕生日は、オレもゼニスも張り切って真剣と本をプレゼントした。

 シンディには何が良いだろうか。

 女の子だし、剣は喜ばないだろう。そもそも使う機会がない。

 となると、魔術師の杖か? つっても、オレは剣士だからなあ、杖の善し悪しはよく分からねえ。

 

 そういえば。

 元々うちにあった魔術教本も、ゼニスがあげた植物辞典も、ルディが開いているところを、オレは最近見ただろうか。

 ルディの良いところは、己の才に増長せず努力を怠らない点だ。毎日体作りに取り組み、貪欲に魔術の腕を伸ばし、水聖級魔術師の自信を喪失させた。

 そのルディが、昔のオレのように、真面目に剣術の稽古を受けなくなってきたのは、いつからだ?

 

「父様?」

 

 ルディが振り返って不思議そうな顔をする。

 

「とつぜん黙ってどうしたんですか? 7歳だから、何ですか?」

「ルディ。お前……今まで頑張ってきたことは、もういいのか?」

 

 ルディは困ったように笑った。

 生まれてから今まで見てきた息子だ。それなのに、まるで別人を相手にしているような違和感がつきまとう。

 

「痛いのは嫌だし、勉強は楽しくない。

 魔術だって、これだけ使えたら十分だ。

 俺はもう、頑張るのをやめたんですよ、父様」

 

 確かにそうだろう。

 オレがルディで、同じくらいの年頃だったら、自分の魔術の才に満足して、さらに頑張ろうなんて思わなかったはずだ。

 そうして誰かに負けそうになって、慌てて鍛え始めるのだ。

 

 こんなにできるなら十分。

 そう考えるのが普通だ。

 けどな、ルディ、お前はそんなやつじゃなかっただろ。

 

「……」

 

 一つめの違和感、シンディの扱いがぞんざいになった。

 二つめの違和感、両親の顔色をうかがうようになった。

 三つめの違和感、ただの子供みたいに振る舞いだした。

 

 一と二は結局三つめに収束する。

 ようは、ルディは別人になろうとしているのだ。

 うまく言えないが、ルーデウスの根幹が喪失されようとしているのを、オレは見落としているんじゃないか?

 

 

 カラヴァッジョを馬小屋に戻した。

 鼻面を頬におしつけられて、うひゃあと声をあげるルディ。

 非凡な、天才だった我が子だ。

 

 理由はわからないが、ルディは平凡になろうとしている。

 オレはしゃがんでルディと目線を合わせた。

 

「誰かに、何か言われたのか。

 お前の年齢でそんなことができるのはおかしい、とか、調子に乗るな、とか……」

「言われたことないよ。みんな優しいです」

 

 ルディはちょっと面倒くさそうにその場を離れようとした。

 このくらいの年齢だったら、親の心配が鬱陶しく感じることもあるだろう。

 腕を掴んで止めると、驚いた顔をされた。

 

「誘拐されかけて以来、お前は変わった。一体どうしたんだ、あのとき何があった? 父さんに話してみろ」

「……人が死んだじゃないですか」

「ああ、でもお前たちは無事だった。ルディのおかげだ」

 

 ルディが広めた魔術のおかげで助かった。

 オレもゼニスもルディを褒めたし、周りからも感謝された。

 

 ひょっとして、死人が出たのを自分のせいだと責めているのか?

 だが、()()()野盗を殺しただけだろう? 何が問題なんだ。

 

「父様は、人を殺したことがありますか? 殺したとき、どう思いました?」

 

 昔は冒険者だったし、盗賊団の一つや二つ、壊滅させたことはある。

 殺したし、死んだ瞬間まで見届けたわけじゃないが、あのまま放置したら死ぬだろうなっつう大怪我もさせた。

 

 どう思ったか、か。

 オレは楽しんですらいた。策をめぐらせ、戦うのを。

 強者だった奴が、ただの〈物〉に変わる。まったく無力な物体に。

 力が快く漲る感覚があった。素晴らしい達成感を識った。

 迷宮を攻略したときと似通った達成感だ。

 

 オレはありのままを語った。

 魔物を倒した話、迷宮に潜った話を、ルディは興味深そうに聞く。

 だから、これも同じように聞いてくれると思った。

 

 オレの予想に反し、ルディの眸はどんどん暗くなっていった。

 

「もう、いいです。よくわかりました」

「なに言ってんだ、これから良いとこ……」

「どうして」

 

 食い気味に遮られ、言葉をとめる。茶化せる雰囲気ではなかった。

 

「どうして当たり前に殺せるんですか。窮地におちいったときに、殺すという選択肢を当然のようにとれるんですか」

「そりゃあ、誰も傷つけず殺さず、清廉潔白でいられるならそれに越したことはない。だが、やらなきゃこっちが殺される場合もある。そういうときは仕方ねえ」

「父様にとって、魔物を倒すことと、人を殺すのは、同義ですか」

 

 ルディが5歳になってすぐの頃、そろそろ息子に尊敬されたいと思い、駐在騎士の仕事である魔物の討伐を間近で見せたことがある。

 魔物はターミネートボアとアサルトドッグ。D級とE級で、オレの敵ではなかった。

 ルディは初めて見る魔物に圧倒され、それを倒したオレに尊敬の眼差しを向けてきた。

 しかし、今はどうだ。ルディはまるで、理解しがたいものを見るような眼をしている。

 

 魔物を倒すことと人を殺すことは同じか、と訊かれている。

 ハッキリ言おう。同じだ。違うのは耐久力とサイズくらいか。

 

「それが悪人ならな」

 

 オレの答え方ひとつでルディの今後が歪む可能性があると、いつもは考えないのにそう思ったのは、今のルディは危うく見えたからだろう。

 子供たちには善い人間に育ってほしい。逡巡の後、結局思うままに告げると、ルディの眼差しから険がスッと抜けた。

 

「父様は、たぶん正しい。シンディも、シルフィも、あいつらも身を守るために殺して、殺そうとした。それが〈普通〉なんだ」

 

 話は終わったとばかりに、ルディは黙り込んだ。

 それから、笑顔を浮かべた。翳のない無邪気な笑みだ。

 

「父様、僕ノルンのところに行きたいです」

 

 その顔に、声に、つられそうになる。

 近ごろ甘えたになったルディを、しょうがねえななんて言いながら靴の上に立たせて歩きでもして、妹をあやすルディをゼニスと大袈裟なほど褒めてやりたくなる。

 そっちのほうが、オレは父親らしくあれるのだろう。

 だが、それはルディの何かを見殺しする行為に加担している。

 

 いま対話を諦めてはダメだ、と、そう感じる。

 

「ルディ、父さんは、お前ほど賢くない。だから教えてくれないか。

 どうしたら、父さんはお前と同じものを見れる? お前の考えていることを知るには、どうしたらいい?」

「そんな事しなくていいよ」

 

 ルディは怯えていた。逃げようとしていた。

 後ずさろうとして、オレの視線を受けて、観念したように、居直った。

 そして、滔々と喋りだした。

 

「俺は、人を殺した。誰も責めなかった。

 俺にはわからない。何が普通で、何が普通じゃないのか。

 だったら、俺は俺を作り変えるしかないじゃないですか。

 無邪気で無知なふうになるのが一番無難だけど、疲れた。

 疲れるけど、そうしないと生きていけないから。ただのルーデウスにならなきゃいけない。

 周りに順応して、ただのルーデウスになるためには、俺が持ってきたものは邪魔なんだよ。

 クズみたいな転生者も、本気でやるっていう決意も、なかったことにするしかないんだよ。

 どうして。ああ、わかっています。みんなと一緒にいたら、辛くなる。父様は俺のようになりきれない。あそこで生まれ育たなければ、俺のようにはなれない」

 

 情けないことに、ルディの言っていることは、半分もわからなかった。

 テンセイシャという単語は初めて聞いたし、ルディの言う〈生まれ育った〉という言葉にも首をかしげざるをえない。

 ルディが生まれ育ったのはここ、フィットア領のブエナ村だ。

 オレが生まれ育ったのはミルボッツ領のノトス家。そこに大きな差はないように思う。

 貴族育ちの坊ちゃんが、と謗られているのでもないだろう。

 

 たった一つわかるのは、ルディが苦しんでいるという事だ。

 オレが関与できない、根深いところで、苦悩している。

 

「ルディ。ごめんな、お前、ずっとつらかったのか。

 自分で自分を殺さなきゃやってられないほど、苦しいんだな」

 

 オレにできるのは受容と共感だ。理解は、むずかしい。

 ルディを抱きしめた。筋肉も脂肪もまだ薄い、小さな体だ。

 首に濡れた感触があった。産声すらあげなかった我が子が泣いていた。

 

「助けて、父さん」

 

 すすり泣きに紛れたルディの声を聞いた。

 

「任せろ」

 

 思考より先に、言葉は出てきた。

 息子に助けを求められて、奮起しない奴はいない。

 ルディを抱きあげて、オレはどんと構えて言った。

 大丈夫だ、父さんがなんとかしてやる、と。



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十四 皓齒にほゝづき

更新遅れましてすみません。試験で死んでました。
でも二週間後にまた試験です。ひぃ。



 兄が学問のために家を出ることになった。

 父様と兄が揃って出かける頻度が増えたとは気づいていた。

 どこ行くの? 私も連れてって? と言ってもはぐらかされる。

 事情を教えてもらえたのは、兄が通う学校が決定したあとだった。

 この辺りではいちばん大きな町――ロアという都市にある、医学校。

 正規の学生になるのではなく、そこで教鞭を執る外科医のもとで五年師事し、適齢になれば入学を許される。

 そのときの兄の修練状況によっては、授業料免除、飛び級という措置もとられるそうだ。

 

 ブエナ村からロアは馬車で半日近くかかる距離だ。自宅から通うことはできない。

 それゆえ、兄はロアの町にある家に寄宿するそうなのだ。

 

「ぼれあす?」

「ああ。ボレアス家――お前たちの大叔父と、父さんの従兄弟とその奥さんが住んでる家だ。そこでルディの面倒を見てもらう」

「どうしても行っちゃうの?」

「ああ。寂しいけどな、ルディのためだ。だからシンディも笑顔で見送ってやれ。なっ?」

「……うん」

 

 いやだ。行ってほしくない。

 でも私はもうお姉ちゃんだ。わがままを言ってはいけないのだ。

 リチャード君とエマちゃんという先例があり、好きな人と離れる心の準備は、以前よりうまくできるようになった。

 

 そうしてエマちゃんの時と同じように、馬車で迎えがきた兄を見送った。

 その日の晩に、ノルンとアイシャを構っていると、

 

「子供が一人足りないわ……」

 

 私たちを見た母様がそう呟き、ちょっとだけ泣いた。

 おたおたしていると、リーリャが、今日の昼間までここにいた兄が急にいなくなって寂しいのだと教えてくれた。

 ノルンと一緒にくっついて母様を慰めてあげた。

 

 


 

 

 兄が家を出て、大暑から処暑になった。*1

 生前の村とブエナ村では肌で感じる気候が微妙に異なるし、うちは百姓ではないので、よけいに二十四節気にうとくなりがちだ。

 

 そして、お兄ちゃん事件です。

 アイシャがおしゃべりします。まだ十ヶ月なのに。

 

 アイシャは……あ、いた!

 食堂のテーブルの下で雪白のしっぽをしゃぶっている。

 私が近寄ると、雪白はため息を吐くみたいにフーッと鼻息を強めに鳴らしてどこかに行った。

 子守りをしていてくれたらしい。あとで喉をいっぱい撫でてあげようと思った。

 

「にゃにゃ、なーい」

 

 ぽつんと残されたアイシャが悲しそうにつぶやいた。

 私はテーブルの下に入り、アイシャの横に座る。

 父様がテーブルの下に座ろうとすると、天板に頭をぶつけてしまうけれど、私とアイシャなら頭上に十分な空間がある。狭いところでも伸び伸びできるのは体の小さい者の特権だ。

 

「アイシャ、これなーに」

「いしゅ」

「この人だあれ」

「ねねちゃ」

 

 賢いアイシャは、これ、この人、と言いながら物や人を指さすと、名前を答えてくれるのだ。

 いしゅ、は椅子。ねねちゃ、は私のことだ。お姉ちゃん、って言いたいんだと思う。

 

「アイシャはかしこいねえ」

「かちこ」

「うんうん、かちこだよ」

 

 頭を撫でてあげると、アイシャは自分でぱちぱちと手を叩いた。

 

「あんぶ、ねねちゃ、あんぶ」

「おんぶね、いいよ」

 

 転ぶと危ないから、おんぶと抱っこも座った姿勢でしてね、と母様に言われている。正座したままアイシャに背中を向けると、ちっちゃな体が全身でしがみついてきた。

 

「あー! んま!」

 

 食堂の入口で、伝い歩きをしてきたノルンが私たちを見て声をあげた。

 ノルンはまだアイシャのように訊いても答えないし、意味のある単語は言わない。

 人を呼んでいるのだろうか。私はアイシャをおんぶしているから動けないけれど。

 

「ノルン、お姉ちゃんここよ。おいで」

「あちゅっ! ばうば」

 

 ごめんね、お姉ちゃん嬰児語は忘れちゃった……。

 

 私が動かないことが嫌なのか、ノルンが泣きそうな顔になる。

 母様は二階でお掃除中である。リーリャは台所にいるが、えんどう豆の鞘剥きをしていて忙しそう。

 

「あら?」

 

 ひっつき虫になっていたアイシャが背中から剥がれた。

 これでノルンの所に行ける、と思いきや、アイシャはすぐさま私の袖を握ってきた。

 そして、ちらちらノルンの方を見ながら、私にぴたっとくっついた。

 

「びゃああああ!」

 

 ノルンは泣いた。アイシャを見ると、ノルンを見てにやにやしている。

 意地悪をしたいのではなく、思ったような反応があって喜んでいるのだと思いたい。

 

「よしよし、なにが悲しいの」

 

 リーリャが作業を中断し、ノルンを抱きあげた。

 ノルンは浮世の終わりのごとく泣きながらこちらに手を伸ばす。リーリャは「お姉様がいいの?」となだめる声色で言い、ノルンを私のそばに立たせた。

 

「うー」

 

 泣きやんだ。

 よだれかけで涎と涙を拭いてあげた。

 

「ノルンお嬢様もアイシャも、シンシアお嬢様に懐いていますね」

 

 テーブルの下を覗き込んだリーリャにそう言われ、つい笑みを返した。そうだったら嬉しいな。

 

「アイシャ。シンシアお嬢様を貴方が独占してはなりません。ノルンお嬢様に譲ることを覚えなさい」

「やう!」

「待ちなさい!」

 

 アイシャを抱っこしようとするリーリャの手を、アイシャは這って逃れた。

 所詮は大人と子供なので、すぐに捕まり、うけけっ、とアイシャが笑った。かわいいね。

 

「アイシャのおしゃべり増えたこと、お兄ちゃんへの手紙にかく?」

「いえ、この子はまだ、ルーデウス様に仕えさせるには未熟ですから」

 

 未熟だから、伝える価値もないという意味だろうか。

 そんなの寂しいと思うが、リーリャはアイシャを兄専属の女中に育てたいらしい。

 兄は妾腹も同腹も区別せず、アイシャをノルンと同じくらい可愛がっていたのに。

 

「でも、リーリャは、アイシャがおしゃべりしたら嬉しいでしょ?」

「ええ、まあ……そうですね」

「お兄ちゃんもおんなじよ。妹が成長したら、うれしいよ」

 

 リーリャは少し考えてから、兄への手紙にアイシャの様子も書き加えることを約束してくれた。

 

「お嬢様も書かれますか?」

「いいの!?」

 

 手紙を書いて送るのって、子供もしていいの?

 

 勝手にできないと思いこんでいた私であったが、リーリャの話を聞いた母様から麻紙を一枚もらえた。

 

「紙はたくさん用意できるわけじゃないから、失くしたり破ったらダメよ?」

「わかった」

 

 つまり丁寧に扱わないといけないのだ。神妙に頷くと、

 

「うん、良い子ね」

 

 片腕にノルンを抱っこした母様に撫でられた。うれしい。

 

 読むのと書くのは違う。私は読むのはできるけれど、書くのはまだ上手にできない。

 ぶっつけ本番で紙に書き込む前に、文章を書く練習をしたい。

 

 自分の部屋に行き、書蠟板を抱えてもどると、シルフィが来ていた。シルフィはリーリャに抱っこされたアイシャの足をつんつん突いている。

 

「シルフィおはよ」

「おはよう、遊びに行こ!」

「行くー!」

 

 後ろから抱っこされて、くるくると部屋が回転する。抱えて回されているのだ。楽しくて笑ってしまう。

 シルフィとは元々よく遊んでいたが、エマちゃんに続き、兄がいなくなってからというもの、彼女は前にもまして構ってくれる。

 シルフィは女の子だけど服装や口調が少年みたいだから、お姉ちゃんというより、お兄ちゃんみたいだ。

 おかげで、想像していたより寂しくはない。

 

「えっとね、でも、お手紙……」

 

「行く」と即答してしまったが、手紙を書く練習をする気でいたのだった。

 

「手紙を書くの?」

「そう。お兄ちゃんにあげる前に、れんしゅーする」

「練習? そっか、エラいね」

 

 シルフィは「ボクも頑張らなきゃ」と明るくつぶやき、私の頬をむにむに揉んだ。シルフィは読み書きはできているはずだから、その決意は他の分野に対してのものだろう。

 

「じゃあ、外でやろうよ。ボクも教えるからさ」

「シルフィやさしいね。好きよ」

「えへへ」

 

 シルフィと外に出ようとすると、ノルンが私たちに手を伸ばして「あー!」と何事か訴えてきた。

 体も乗り出して、置いていかないでー! と言っているかのようだ。

 そんなノルンを母様が説得する。

 

「ノルン、お姉ちゃんたちはお外に行くのよ。バイバイしようね?」

「やああん! あー!」

 

 ノルンは母様の説得にもめげなかった。寄って行って、手を握ると、ノルンは静かになってぎゅっと握り返してきた。

 

「一緒にいきたいの?」

 

 口をきけないノルンが答えることはないが、母様が困った顔をして「お外はもうちょっと大きくなってから」とノルンに言って聞かせた。

 

「ノルンちゃんはボクが見て、……見てましょうか?」

「あら、大変よ? 任せて大丈夫?」

「うん、大丈夫! ……です!」

 

 シルフィは、母様に対して、兄みたいな喋り方をした。敬語というやつだ。シルフィは兄のようになりたいのだろうか。

 母様は申し出たシルフィの背中にノルンをおんぶ紐で結びつけ、私にもノルンの世話をきちんとするように言いつけた。

 言われなくても承知している。まかせて! と胸を張り、私はノルンを背負ったシルフィと外に出たのだった。

 

 

 野生化した燕麦やメヒシバが、畑のはしでそよいでいる。

 燕麦の波に、にょっきり立つ人影を見つけ、ノルンに指さして教えた。

 

「ノルン、かかしあるよ、かかし」

 

 藁で作られた人形は両腕を広げた人間の形をして、色あせた農夫の服を着ている。

 ノルンは烏おどしの案山子を見て、シルフィの背中に顔をくっつけた。そしてちらっと顔をあげてまた見て、いやいやと首を振る。その仕草が妙にかわいい。

 

「こわいのかな」

「ね」

 

 燕麦の茎をぷちんと引きちぎって、ノルンの目の前で穂を揺らしてあげると、ノルンの顔に、にこーっと笑みが広がった。笑うといっそうかわいい。

 

 

「私たちだってそこ使いたいんだけどー」

「昨日もあんたたちが独り占めしてたじゃん!」

「早いもん勝ちだよバーカ!」

「遅く来るほうが悪いんだろ!」

 

 川に行くと、口喧嘩が起きてきた。

 ソマル君ひきいる男子陣が裸になって川で遊んでいるときに、女子陣が来て場所争いになったらしい。ソーニャちゃんがシルフィと私を見つけ、味方を見つけたように心強そうな顔になった。

 メリーちゃんが男の子の数を数えて言った。

 

「ソマル、ヤーナム、ヨッヘン、レミ、そっちは4人だけ? こっちは、私とソーニャと、ハンナとセスと、シルフィとシンディで6人でしょー。多数決で私たちにゆずってよ」

「……ルーデウスも、意見が割れたらタスーケツって言ってたな」

「い、いや! ワーシカのこと数えてないだろ!」

 

 セスちゃんがソーニャちゃんと手を繋いでる二歳のワーシカを見て、ソマル君のことを冷めた目で見た。

 

「ワーシカ入れてもそっちは5人だけど。こっちは6人だけど」

「うぬぬ……」

「しょーがねーだろ、リチャードもルディも居なくなっちまったんだから」

「とにかく、あんたたちは毎日川で遊んでるんだから、今日くらい私たちに譲る!」

「毎日じゃねーし!」

 

 セスちゃんとソマル君が睨みあう。ソマル君がバシャっと水飛沫をセスちゃんの足元に掛け、すぐさまセスちゃんが水弾をソマル君の顔に叩き込んだ。

 

「みんなで遊ばないの?」

 

 ぽてぽて歩いて私のもとに来たワーシカの頭を撫でながら、二人に訊いた。男女いっしょに泳いでもいいし、それが嫌なら川にかかった橋で互いの縄張りを区切って遊べばいいのに、と思うのだ。

 

「えー、だって、裸になるんだよ?」

「? うん!」

 

 当然だ。濡れた服で過ごしたら風邪をひく。

 ソーニャちゃんがちょっとビックリしたように言った。

 

「男の子の前ですっぽんぽんだよ? いいの?」

「うん」

 

 すっぽんぽんならたまに父様と湯浴みをするときもなるし、別にいやだと感じたこともない。

 生前ならどうだっただろうか。

 生前は、今みたいに湯で濡らした布で体を拭くだけではなく、据え風呂に浸かる日もあった。

 晴眼な幼子のときに、年頃の姉と据え風呂に入ると、村の男に覗かれるのはよくあることだったと思う。持ち運びのできる据え風呂を、夏は庭先や川べりに置き、冬は土間に置いて水を溜めて沸かすのだ。屋外に置いているときは言わずもがな、土間に置いても戸をちょっと開けて覗きにこられることはあった。

 姉がいやな顔をして怒鳴りつけても、ちっとも視線は減らないから、嫁ぎ先が決まる年頃には諦めて何も言わなくなっていた。

 私のときは、トウビョウ様の使いになってからは、祟りを畏れたのか覗きはぱたりと止んだ。

 

 裸を見られるのが嫌、欲情の眼を向けられるのが気持ち悪い、という感覚はよく分からない。

 だから、

 

「え!?」

 

 私は抱えていた書蠟板を下草に置き、服を全部脱いで、川にばしゃんと飛びこんだ。水飛沫が盛大に跳ね、それは陽の光を浴びてキラキラ輝いた。

 

 足裏に、丸い石の感触があった。緩やかに流れる澄んだ水にさらされっぱなしの石の冷たさが心地よかった。

 真ん前のレミ君がおどろいた顔をしている。川べりを見上げれば、女の子たちも同じような顔をしていた。

 なんだか楽しい。太陽に温められて少しぬるい水を手皿に掬い、バーカと女の子に悪口を言っていたヨッヘン君にバシャッとかけた。

 

「やったな!」

「あぶ!」

 

 至近距離で倍になって返ってきた。ヨッヘン君がめちゃめちゃに水面を叩いているのだ。息をしようとすれば鼻と口に入ってしまうだろう。

 エマちゃんかお兄ちゃんがいたなら、代わりに反撃してくれるのだが、もうどちらも遠くへ行ってしまった。

 水の壁から顔をそむけて、たまたま目があったシルフィに、「助けて!」と言ってみる。

 

「わ、わかった!」

 

 シルフィはおんぶ紐を解き、ノルンをハンナちゃんに預けると、ぱぱっと服を脱いで川に飛びこんだ。

 兄に負けない速度で生み出された水弾が、男の子たちにぶつかる。

 ソマル君がニヤニヤ笑いながら魔術で作った泥玉を投げた。

 

「反撃だ! 目つぶし!」

「うわっ」

 

 泥玉はやや逸れ、シルフィの胸元を直撃した。

 シルフィが水をかけて洗い流し、ぷりぷり怒って言った。

 

「それはダメだよ! 川が汚れてもいいの!?」

「ダメだな! ごめーん!」

「よし、謝れてえらいね!」

 

 兄も友達が何か間違ったことをしたとき、何がいけなかったのかを説明して、謝った子には「ちゃんと謝れてえらいな」って言っていたのだ。

 

「シルフィ、お兄ちゃんみたい!」

 

 私がそう言うと、シルフィは長い耳をぴんと跳ねさせて嬉しそうに笑った。

 私たちはまだ胸にも腰にも肉のついていない年頃である。美しく性別があいまいな顔立ちのシルフィが裸になると、上半身は白皙の少年のようだ。

 

「いいなー、私たちも入ろーよ、ソーニャ」

「うん! 待って、ワーシカも脱がせるから……」

「男子こっち見ないでよ!」

「見たらヘンタイって言うからね」

 

 ノルンを抱っこしているハンナちゃんが川べりに残り、他の女の子は全員きゃあきゃあ言いながら裸になり、川に入った。

 

 

「男と女に分かれて勝負しようぜ」

「ダメだよー、ワーシカもノルンもいるもん」

 

 メリーちゃんがすっぽんぽんにしたノルンをハンナちゃんから受けとり、そっと水に浸けながら答える。ヤーナム君がノルンの顔を覗き込み、「泣きそう!」と叫んだ。

 彼も一歳の弟がいる。一度泣きだした子を宥める手間を知っているのだろう。

 

「シンディ来てー!」

「はぁい」

 

 呼ばれ、胸まである水の中を跳ねるように移動してノルンの元に向かった。ノルンは泣きそうな顔をして私に手を伸ばした。

 ぎゅっと手と足をつかって猿の子みたいにしがみついてくる。

 水の中だから私でも軽々と抱っこできた。

 

「どんな顔? ノルンどんな顔してる?」

 

 表情が見えないので周囲の子に訊くと、「まだ泣きそうだよ」と近寄ってきたレミ君が答えた。

 ワーシカは「おぼれたら危ないね? 抱っこしててね?」と言いながらソーニャちゃんに抱きついている。あの子もお喋りが上手になった。

 

「見てみてノルンちゃん、花車だよ」

 

 そう言ってセスちゃんが見せたのは、真ん中の黄色い蕊を抜き、細い草の軸を通した梔子だ。

 軸の両端を手でもち、水面に浮かべると、水流によって白い六枚の花弁がくるくると回った。花の甘い匂いもただよってくる。

 

「面白いねえ、ノルン」

「……」

「あっ、ノルンちゃんちょっと笑った!」

 

 ノルンが前を向くように抱き直したから、やっぱりノルンの表情は見えないが、笑ったらしい。よかった。

 クルクル回るといえば、先ほど燕麦を取ったのだ。燕はこの辺りでは見かけないから、カラス麦と呼んだ方が他の子には伝わるだろう。

 

「カラス麦とってほしいの」

「あそこ?」

 

 レミ君が私の服を置いた場所から、カラス麦を取ってきてくれた。

 

「お礼に一個あげるね」

「ありがとう……?」

 

 ノルンをシルフィに預け、穂をぷちんと切ってレミ君にもあげた。

 どんな玩具であるのか思い出したらしいレミ君が、「これ知ってる」と得意気に言った。

 

「クルクル回るやつだ!」

「そーだよ」

 

 右手の甲に穂を一粒おき、濡らした左手の指先から水滴を垂らして濡らした。すると種子から伸びた(のぎ)がくるくる廻り、種子もゆっくり回転する。

 

 時々息を吹きかけて手助けしながら、回転する種子をノルンに見せると、ノルンは種子をつかんで不思議そうに眺めだした。

 

「掴んでたら回らないよ、バカだなー」

「赤ちゃんだから何にも知らないの。しかたないの」

 

 ノルンを馬鹿呼ばわりとは何事か。

 むっとなって抗議すると、頬をつまんで伸ばされた。おのれ。

 

 別事に気を取られたおかげで、ノルンは水を怖がっていた事は忘れたようだ。

 

「ノルンちゃんかわいいねー、つぎ私にも抱っこさせて」

「私も私も!」

「お、俺も!」

 

 たくさんのお姉さんお兄さんに可愛がられて、ノルンはご機嫌だ。水面を叩くだけで褒められるくらい可愛がられている。

 ヤーナム君など「俺の弟よりかわいい」と言って憚らない。ちゃんと自分の弟も可愛がってあげてほしい。

 

 今度はアイシャも連れてこよう。

 リーリャはお母さんだけど、必要な時以外はあまりアイシャと触れ合わない。今は赤ちゃんだから分からなくても、もう少し大きくなったらアイシャはそれを寂しく思うかもしれない。

 だから無条件に褒められて、可愛がられやすい赤ちゃんのうちに良い思い出を作っておく。そして大きくなったアイシャに、あなたはそこにいるだけで好かれていたんだよ、って教えるのだ。

 

「どうしたの、なんで泣くの?」

 

 ソーニャちゃんの方を振り向くと、足を水につけ、川べりに座ったソーニャちゃんの白いお腹に、ワーシカが顔をくっつけていた。どっちも裸だ。

 

「ねえねえ」

「あ? なに?」

 

 たまたま私の前を泳いでいたヨッヘン君を呼び止めた。

 派手に水飛沫を上げながら犬かきをしていたヨッヘン君は、泳ぐのをやめて、私の指の先を見た。

 

「泣いてる」

「あっそ」

「なぐさめてあげないの!?」

 

 外道だ。ちっちゃな子が泣いてるのに。

 

 ヨッヘン君はしぶしぶ私についてきた。めそめそ泣いているワーシカをソーニャちゃんと一緒によしよしと撫でていると、ヨッヘン君が「わかった!」と声を上げた。

 

「こいつ、ノルンが羨ましいんだ」

「ノルンちゃんがみんなに人気だから?」

「そーそー、でもエラいな。ユリアンだったら俺を殴ってきたのに、ノルンのこといじめないじゃん、ワーシカは」

 

 ユリアンはヨッヘン君の四つ年上の兄だ。

 ヨッヘン君は、長男と次男とは十歳以上年が離れているが、この比較的年齢の近い三男のユリアン君には、小さな頃はさんざんぶたれたり蹴られたりしていたらしい。

 

「そうだったんだ」と目をぱちくりさせ、ソーニャちゃんが呆れた顔でワーシカを見下ろした。

 

「もー、泣かないの、家じゃママにたくさん抱っこもチューもされてるじゃない。それに、ノルンちゃんが産まれる前は、シンディにたくさん遊んでもらってたでしょ。じゅんばんよ、じゅんばん! 人気者の座はもう小さい子に譲るの!」

「やだあああ!」

 

 手厳しい言葉を浴びせられ、ワーシカは大きな声で泣いた。

 

「おぼえてないもんん! 赤ちゃんのときはぁ!」

 

「たしかに」とヨッヘン君が吹き出した。

 

「そ、そうだよね、憶えてないよね。ノルンがうらやましいよね」

 

 私は慌ててワーシカに腕を伸ばした。

 私は前世があるおかげか、赤ん坊の頃のことも憶えていられる。母様やリーリャ、兄や父様にたくさん言葉をかけてもらって、身の回りの世話をしてもらったことも憶えている。

 もし、まっさらな状態で、自分以外の家族が優先的に妹たちの世話をしているところを見たら、烈しく嫉妬したかもしれない。

 

「ほら、シンディお姉ちゃんが抱っこしてくれるって。よかったね」

「う゛うう」

 

 川の深さは私の胸ほどだ。二歳の男の子が川底に足をつけたら、口元まで水に浸かる。

 鼻は出ているから溺れはしないだろう。私はワーシカを水中で抱きしめた。

 

「ぴゃっ」

 

 おっぱいを吸われた。びっくりした。

 びっくりしたまま、何となくソーニャちゃんを見る。

 

「あーあ、お姉ちゃんので我慢してよ……」

 

 ソーニャちゃんはざぶんと下半身を水面に滑り込ませ、膨らみのない胸をワーシカに近づけた。

 ワーシカははらはら涙を零しながらソーニャちゃんのおっぱいに吸いついた。

 

「おっぱい出るのか?」

「出ないよ」

「出ないのに、すうの?」

「なんかね、こうすると泣きやむの」

 

 私とヨッヘン君はまじまじと姉弟を眺めた。

 私も、ノルンかアイシャがどうしても泣き止まないときは、おっぱいを吸わせればいいのだろうか。

 

「わたしのも吸うかなー?」

 

 メリーちゃんが興味深そうに近寄ってきた。彼女は下に弟妹がいないから、授乳もどきの光景が珍しいのだろう。

 

「ためしてみる?」

「うん、やるー」

「ソマルの胸も吸うんじゃない?」

「やだよ俺おとこだし……うわっ、離せ!」

「まあまあまあ」

「抱っこしてみるだけ、抱っこしてみるだけ」

 

 ハンナちゃんとセスちゃんに二人がかりで抑えられ、ソマル君はギャーっと悲鳴をあげたのだった。

 

 ワーシカは女の子のおっぱいなら誰のでも吸った。

 私は最初こそ驚いたものの、しばらくすると楽しくなってきた。なにせ本格的なお母さんごっこみたいなものだ。

 ワーシカはみんなに構われて嬉しそうになり、私たちも体が冷えてきたこともあり、岸にあがった。

 

「ノルンちゃーん、体乾かそうねー」

「んきっ」

 

 シルフィが風と火の混合魔術で暖かい風をノルンに当てる。

 左手のみ魔力を通さない私は、両手が必須の混合魔術はできないので、見ているだけだ。姉として不甲斐なし。

 

「ノルン、鳥さんはどこ?」

 

 風を当てられて愚図りかけていたノルンは、ちょっと考える顔をしてから無言で空を指さした。すごいねえ、と拍手をして褒めると、ノルンがにやっと笑う。これでしばらくは泣かないはずだ。

 母様はノルンが喋らないことを心配していたけれど、こうして仕草を見ていると、喋らずとも色々と理解しているのだということがわかる。

 

 日向ぼっこで体を乾かそうと岩の上によじのぼると、先客のヤーナム君が体をずらして場所をあけてくれた。

 体を乾かしてから服を着て、木に手をついてつかまり立ちをするノルンがふらふらとどこかに行かないようにシルフィと見張る。

 

「つかまえた! カナヘビ!」

「しっぽ切ってみよう」

 

「どっちが長く潜ってられるか、勝負な!」

「せーので行くぞ!」

 

「さっきの花車ってどうつくるの?」

「えっと、まず細くて丈夫な草を……」

 

「ワーシカ、サイフォンの実験してみる?」

「やだ! さいおんやだ!」

「もうっ、これだからイヤイヤ期は」

「じゃあお姉ちゃんたち二人で行っちゃお。ばいばーい」

「かぼちゃの茎取りに行こー」

「やだあああ!」

 

「……」

 

 服を着せられたノルンがきょとんした顔で、ひっくり返って叫ぶワーシカを指さした。

 

「ワーシカお兄ちゃんが泣いてるね」

「おにいちゃんじゃない! ノルンちゃ、あっちいって!」

 

 ワーシカはぷんぷん怒ってこちらに来ると、私の膝の上にすわった。

 

「おにいちゃんじゃなーい」

「ほんと?」

「ほんとだよ」

「シンディお姉ちゃんはワーシカのお姉ちゃんだけど、ワーシカはノルンのお兄ちゃんになれない?」

「なれないよ」

 

 あらら。

 にこにこしながら抱きついてくるワーシカがかわいいから、小さな子に優しくしなさい! と怒る気も失せる。

 ノルンもあっち行ってと言われて悲しんでいるわけじゃないし、まあいいか。

 

「ギャー! 人さらい!!」

 

 突如聞こえてきたレミ君の悲鳴。

 シルフィが即座にノルンを抱え、ワーシカと私を背中に庇うように立った。

 

「違う!」

 

 次に聞こえてきたのは、やや低い女の人の声だった。

 脅すために調子を落としているのではない、そもそもの地声が低いのだろうという感じの声だ。

 せっかく庇ってくれたけれど、シルフィの後ろからずれて声の方を見ると、褐色肌で白い髪の女が、川にかかる小さな橋に立っていた。

 毛並こそ違うが、頭には猫の耳が、臀からはしっぽが生えている。

 収穫祭の時期に村にいた、ツィゴイネルの一家と同じ獣族だ。

 獣族の女は、レミ君の首根っこをつかんで持ち上げていた。

 

「あたしはギレーヌだ。人さらいなどせん」

「じ、じゃあ、れ、レミを離せ!」

「でっかい声出すぞ!」

「大人の人よぶよ!」

「にゃんこニンゲンめ!」

「マゾクめ!」

「違う! デドルディアだ!」

 

「うるさいよ!」

 

 メリーちゃんの鋭い声に、ぴたりと喧騒が止む。

 メリーちゃんはギレーヌという人に歩み寄り、「レミがごめんなさい」とぺこりを頭を下げた。

 

「え、ええ……? 僕が悪いの?」

「レミの水弾がこの人に当たったんだよ。さっき、ヨッヘンと水弾ぶつけあって遊んでたでしょ。流れ弾が当たったの。

 ……だから怒ってるんですよね? ごめんなさい。わざとじゃなかったんです」

「ああ。驚いて、とっさに捕まえただけだ。わざとじゃないなら、許す」

 

 そう言って、その人はレミ君を橋に下ろした。

 レミ君が川に放り捨てられなくてよかった。

 

 危険な人ではないとわかり、みんながわらわらと周囲を囲む。村の外から来た人が珍しいのだ。

 私も近寄った。近くで見ると、はるか上にある彼女の顎や顔の横にかかる髪からはぽたぽたと水が垂れていた。

 頭からまともに被ったのだろう。

 彼女はかろうじて乳首を隠し、ついでに片目を眼帯で隠している他は、上半身がほとんど裸であったので、服はそんなに濡れていない。

 つい見上げて眺めていると、赤茶色の瞳がちらっとこちらを見た。

 

「パウロという男の居場所を知ってるやつはいるか? 家まで訪ねたのだが、馬と黒猫の他は誰もいなかった」

「知ってる!」

「家建ててるー!」

「家? パウロが引っ越すのか?」

「ちがうし、イッシュとエーヴの家だし」

 

 イッシュさんとエーヴさんが結婚して、次男のイッシュさんが羊を何十匹かもらって家を出るのだ。

 といっても、暮らすのはブエナ村である。空き家はないから、新しく建てることになる。

 住まい程度の建物ならば、大工は雇わない。村の男衆が協力して建てる。家に誰もいなかったのは、多分、今日は家が男衆の昼食をまかなう当番だからだ。

 

「父さまのともだち?」

「…………ああ、それに近い。お前はゼニスとパウロの娘か。道理で似ていると思った」

 

 ちょっと気になる間があったが、そういうことなら、と父様のもとまで案内することにした。

「ボクも行くよ」とシルフィが同行してくれる事になり、他所の人が珍しいのもあって、結局みんなでぞろぞろと移動することになった。

 

「名前はたしか、シンシアだったな」

「そうだよ! お姉さんは、ギレーヌさん、って言うんでしょ」

「ギレーヌでいい。お前の話は、ルーデウスからよく聞いている」

「お兄ちゃんのともだち!? お兄ちゃんげんき!?」

「ああ、元気にしているぞ。ルーデウスとは友達ではないな。師弟だ」

「してー」

「字の読み書きを教わっている」

「そうなの」

「ああ」

「わたしもね、昔読めなかったけど、いまは読めるよ。ギレーヌもできるようになるよ。がんばってね」

「む。そうか、ありがとう」

 

 道中で、男の子たちが朝顔の葉をちぎり、指の輪にくぼみをつけて叩き、音を出して遊びはじめた。

 破裂音が鳴る度に、ギレーヌの猫の耳がぴくっと動くのが面白い。

 

「ギレーヌもやる?」

 

 大人だからやりたがらないかな、と思ったが、ギレーヌは乗り気だった。

 ヨッヘン君から葉を一枚受けとり、「どうすればいい?」などと訊いている。

 

「そんなに強く叩いたら破れるよ」

「力加減が難しいな」

「なんだ、大したことねーな、ババア! 俺なんて花びらでも音鳴らせるぜ」

「なんで指輪つけてんの?」

「獣族のお守りだ」

 

 ギレーヌは「ババア」と言ったソマル君の頭を、鞠を掴むみたいに片手で掴んだ。

「いってえ!」と悲鳴をあげるソマル君が可哀想だったから、褐色肌の手首にすがって「離してあげて」とお願いすると、ギレーヌはあっさりソマル君を解放した。

 

「痛かった?」

「超いてえ。指輪の部分がゴリゴリってなった」

 

 お守りの指輪は武器にもなるようだ。

 ギレーヌは木陰にあぐらをかいて座り込み、叩いては破ける葉っぱとにらめっこしていたが、

 

「あたしも教えてやろう」

 

 と、葉を捨て、茂みの酸漿(ほおずき)を手折った。

 

「ギレーヌ、ホオズキ笛鳴らせるの?」

「なんだ、知ってるのか」

「知ってるけど、うまくできない」

「女の遊びじゃん」

 

 みんながギレーヌにわいわい群がりはじめた。私は書蠟板を脇に置き、ギレーヌの腕の下をくぐってあぐらの上に座る。

 おかげで彼女の手元がよく見えるようになった。

 

「女の遊びというが」

 

 ギレーヌは酸漿の嚢を裂き、中から艶やかな紅玉を取りだした。この簪の玉のような美しさが、女の子に好まれ、男の子に忌避される由縁である。

 

「剣神様は男だが、この笛の作り方を教えたぞ」

「剣神って、七大列強のやつだろ! なんで剣神がギレーヌに教えるんだよ!」

「剣神様があたしの剣の師匠だからだ」

「えー!」

「うっそだー」

「あたしが嘘をついてると言いたいのか?」

 

 ギレーヌが睨みをきかせると、ヨッヘン君とヤーナム君はぴっと気をつけの姿勢になって首を横に振った。

 ギレーヌの顔は怖かった。あそこにいるのが私だったら、きっと私も同じように動いただろう。

 

「まず実をよく揉んで柔らかくする。皮が破けないようにな。破けたらやり直しだ」

 

「なんか汁でてきた」

「舐めてみたら? 超甘いよ」

「おえっ」

「にっっが! 騙したな!」

 

 ギレーヌは忍耐強く、丁寧に紅玉を揉みやわらげた。

 シルフィはときどき体を揺らしてノルンの機嫌をとりながら、ギレーヌの隣でそれを真似ている。

 

「つなぎ目が離れて、実だけ回せるようになるまで揉め。辛抱強くな」

 

「はーい」

「あ、破けた」

「ギレーヌのしっぽ触っていーい?」

「気が散るからいまはやめろ」

 

 ギレーヌは十分解れたことを確認すると、紅い皮をつまんでそっと引っ張った。

 萼にくっついた種混じりの中子が、ゆっくりと実から抜けていく。見ていて小気味が良い光景だ。

 私も早くやりたくて、せっせと酸漿の実を揉みこむ。

 

「空っぽの中に息を吹き込んだら、笛になる」

 

 背後からギュッギュッと若蛙の鳴き声のような音が聞こえる。

 さっそく鳴らしているらしい。

 

 私も中子を引きずり出し、空になった皮を膨らませて、孔を下にして舌の上に置いた。吸う息で膨らませつつ、繰り返し歯茎と舌で押し潰して音を鳴らした。

 

「上手いな」

「えへ」

 

 一個目で成功したのは、ギレーヌのほかは、ハンナちゃんと私だけだった。メリーちゃんとシルフィは二個目、他の子は三個目か四個目で成功し、最後までできなかったのはソマル君で、悔しそうにしていた。

 

「食べちゃったの!?」

「まじゅい」

「もうっ」

 

 ソーニャちゃんが酸漿を食べてしまったワーシカの腹に解毒魔術をかけ、ギレーヌはそれを眺めつつ、立ち上がった。

 そのついでに抱っこされ、片腕に座らせてもらえたので、父様はあっちだよー、と指さした。

 

「だろうな。この距離なら匂いでわかる」

 

 そうなのか。

 すんすんと空気を嗅いでみたけど、嗅ぎなれた木草の匂いがするだけだ。父様の匂いとやらはわからない。

 

「この村の住人は、みんな魔術を使うのか……」

 

 すごいなあ、と思っていると、ギレーヌが感心したように呟いた。

 視線の先はソーニャとワーシカ姉弟である。すごいと思うことは人それぞれであるらしい。

 

「父さま!」

 

 建てかけの家、積みかけの石垣の脇で、車座になっている男衆の中に父様がいた。

 母様とリーリャは彼らにパンを配り、ヤカンでお茶を注いで回っている。

 暑いのだろう。父様たちは上裸で首に手拭いをかけていた。

 父様と母様のちょっと驚いたような目、それ以外の怪訝そうな目が一斉にギレーヌを向くが、彼女は気にしたふうもなく父様に歩み寄った。

 

「父さまのともだち連れてきた!」

「そーかそーか、案内してやったんだな」

「久しぶりね、ギレーヌ! ずいぶん大所帯じゃない」

 

 ギレーヌは母様の友達でもあったらしい。母様は彼女の周囲をぞろぞろ付いてきた十二人の子供たちを見て、可笑しそうにくすくす笑った。

 ギレーヌは「子供の相手はお嬢様で慣れた」と絡みついてくるワーシカを尻尾であしらいながら言った。

 

「手紙だ」

 

 と、ギレーヌは、折り畳まれて蠟で封された紙を父様に突き出した。

 

「直接届けにきたのか?」

「ああ。用を果たすついでにな。

 お前がボレアス家に月々払うことになっている、ルーデウスの下宿代が、来月から不要になることを伝える手紙だ」

「なっ! ルディに何かあったのか!?」

「事情はそこに書いてある」

 

 父様は慌てて手紙を開封し、両隣りから母様とリーリャが覗きこんだ。

 緊迫していた父様の顔が、徐々に緩み、じわじわと安堵が広がった。

 

「あいつ、やっぱりすげぇな……」

「なんて書いてあったの?」

 

 訊ねると、嬉しそうな母様が私を軽々と抱えた。

 

「ルディが、お嬢様の家庭教師になったのよ! 勉強嫌いで有名なお嬢様のよ!」

 

 母様が私を高く掲げてくるんくるん回った。

 兄が家庭教師に……ロキシーみたいになったという事だろうか。

「お兄ちゃんの髪があおくなったの……?」と驚きつつ訊ねると、母様が詳しく説明してくれた。

 

 ロアの親戚の家で書生をしていた兄が、その家で先生になったらしい。この村でしていたように、子供に読み書きだの算術だのを教えているのだという。

 

「あたしも手習いを受けている」

「ハハ! お前も冗談言えるようになったんだな、ギレーヌ! 今のは面白かったぞ」

「どういう意味だ!」

 

 怒ったギレーヌに脛を蹴られ、父様はくずおれて悶絶した。

 

「勉強教えるのは、いっつも私たちにしてたもんね」

「なー、ルディなら楽勝だって」

「エリスお嬢様を侮るな。彼女は歴代の家庭教師をすべて殴り倒して、退職に追い込んできた」

「え? お嬢様なのに……」

「殴るの……?」

 

 想像する令嬢像と異なったのか、セスちゃんとハンナちゃんが戸惑いの声をあげた。

「さて」と、ひと呼吸置いたギレーヌは、筋肉をほぐすように小首を左右にかしげた。

 

「あたしと手合わせしろ、パウロ。今日はそのために来た」

「おお? 何でまた」

「深い理由はない。そうだな……強いて言えば、お前の腕がどれほど鈍ったか、確かめてやろうと思ってな」

 

 父様はムッと不満をあらわにした。

 父様は兄に剣術を、村の男衆に自衛手段を教えている先生なのだ。その技術を鈍ったと決めつけられて、良い気はしないはずだ。

 

「姉ちゃんは剣士か? いいぞ、やれやれ! 剣士同士の決闘なんざ、こんな農村じゃめったに見られねえからなあ!」

「頑張れよ、パウロさん! おらガキども、場所あけろ! 怪我すんぞ!」

「勝手に決めんな!」

 

 エトさん、ヴェローシャさんたちにはやし立てられて、父様が慕わしさを込めた怒声をあげた。

 

「あら、ノルン、お腹すいたの? あなたー! 向こうでノルンにお乳飲ませてくるから、そっちの試合が終わったら教えてちょうだい!」

「しかも応援してくれねえのかよ!」

 

 悲痛なふうにおどけた父様の声に、どっと笑い声が沸いた。

 

「シンディ、こっちこっち」

 

 見物の輪をつくる観衆のあいだを縫って、父様とギレーヌを眺められる位置を探していると、シルフィに手を引かれて、ロールズさんに肩車をしてもらった。

 

「見えるかい」

「うん。ありがとうございます!」

「どういたしまして」

 

 肩車をしてもらってあれだけど、この人、こんなに線が細くて白いのに、ガッシリした人族の農夫と同じ仕事量をこなせるのだろうか。心配だ。

 

 そうして始まった試合は、そこで闘っているのが身内でなければ、面白い見世物だった。

 どちらが勝つか賭けを始めた見物人は「パウロ!」「ギレーヌ!」とわめきたてた。

 

「どうしたら終わる?」

 

 父様が怪我をするのが恐ろしくて、ロールズさんに訊くと、一方が剣を投げ捨て敗北を宣するまで、と答えが返ってきた。それまで本物の剣による闘いはつづく。

 父様の武器は堅牢な甲冑も力まかせに叩きつぶすことのできる、重い両手剣だ。

 ギレーヌの武器は、巡査が持ち歩いているような反りのある日本刀。刀身に波打つ刃文は赤酸漿のように紅い。

 

 振り回す剣が音をたてて噛み合った。

 重い剛剣も、鋭い日本刀も、受けとめ損なったら、無傷ではいられない。

 

 押されているのは父様だった。

 そして、おそらくギレーヌは本気を出していない。やや余裕を持って、父様の実力を見ているというふうだ。

 

 父様の剣さばきが、わずかに乱れた。

 すかさず、ギレーヌの剣が父様の脛を薙いだ。素早く剣の切っ先を地に突き、支えにして、父様は身を宙に浮かせて躱した。

 地に降り立った瞬間、剣を地から抜こうとしたが、彼の予想以上に深く切っ先は刺さっていた。

 

 父様は敗北を認め剣の柄から両手を放したが、ギレーヌは何故か勢いを殺さず、父様の横面を斬りつけていた。

 頬が裂けて赤い裂傷ができたのを見たとき、ひゃあ、と声がもれた。私は前のめりになった。叫んだ。

 

「負けるな! 父さま!」

 

 父様の全身が刃になった。

 力任せに剣を引き抜き、肉体は躍動し、猛然と斬りつけるのを、ギレーヌは後ろに飛びのいて避けた。

 ギレーヌは剣を大上段に構えて……構えて……。

 

 

 


 

 

 

 お兄ちゃんへ

  おげんきですか しんしあです。

  あいしゃとのるんがかわいいです。

  あいしゃはしゃべります。のるんはあるきます。

  きょうは川であそびました。そしたら、お兄ちゃんのせいとのぎれーぬという人がきて、父さまとたたかいました。

  父さまは負けたけど ぎれーぬは「おもったより弱くなってなかった」といってかえりました。けがは母さまがなおしました。父さまが生きていてよかったです。

  しるふぃに お兄ちゃんに「早くかえってきてね。またあそぼう」とつたえてほしいといわれました。

  もつとかきたいけど じをよむのはやさしいのに かくのはたいへんです。でもまたかくね。

   しんしあ

 

 

 

「何が面白いの?」

 

 エリスに問われて、ルーデウスは己の口角が上向いていることに気がついた。ブエナ村での日常と、遠方の息子への気遣いを綴った両親の手紙と共に届いた一枚の紙面の文章を読み終えたからだ。

 

「妹からの手紙が、微笑ましかったもので」

「妹って、何歳?」

「4歳です。エリスより何歳年下か、わかりますか?」

「舐めないでよ! えっと……きゅう引くよん……5歳差ね!」

「正解! さすがです」

 

 と、エリスを褒めるルーデウスは彼女より2歳年下である。

 与えられていた課題を解く手をとめ、椅子をガタガタと移動させてルーデウスの手元を覗き込んだエリスは、これなら私にも読める、とこっそり安心した。

 ルーデウスの両親からの手紙や、父親のフィリップの執務机にある財政書類は言葉遣いが難しく、エリスが拾い読めるのはほんの一部である。

 もし、年下の女の子までもが、自分の知らない言葉を使っていたら、プライドの高いエリスはとても悔しがっただろう。

 

 ルーデウスは紙を大事に畳んで脇に置くと、画帳を広げて絵を描き始めた。エリスはそちらには興味を持たなかった。彼の描くものは決まっている。

 ルーデウスは毎日毎日、飽きもせず自分の左手を描いている。

「手のひらと甲の違い、そして指の微妙な動きを描けるようになったら、人体素描に進めるそうです」と、彼は以前言っていた。人体を正確に描けるようになるには必要な前段階であるとルーデウスは信じていたが、エリスは無駄なことだと思っていた。絵が欲しいなら人を雇えば良い。

 

 もっと踏み込めば、エリスはルーデウスが下級階層である外科医の弟子であることも不可解に思っていた。

 内科医は尊敬されるが、かつては床屋が兼任していた外科医は低く見られる。

 

「ルーデウスは、家族に会いたくならないの?」

 

 上級貴族の青い血を引く生まれでありながら、親元を離れてまで、賤業を志している少年。

 何が彼をそうさせるのか。ふと気になり、訊ねたエリスに、ルーデウスはあまり迷わずに答えた。

 

「会いたい気持ちはありますけど、少なくとも、あと数年は会わなくていいとも思ってます」

「どうして?」

「エリスは最近、分からないことがあってもイライラしなくなってきましたね。良い事です」

「……理由を答えなさいよ!」

 

 ルーデウスは苦笑し、答えた。

 

「離れていたほうが、大切に思えることもあるんですよ」

「そーお?」

 

 エリスにはよくわからない感覚である。

 大切な者には近くにいてほしいし、大切な物は手元に置いておきたい。でもルーデウスは違うと言うのだ。

 

「なんか、寂しいわね」

「ええ、僕もそう思います。だから克服しようとしてるじゃないですか」

「してるの? どうやって?」

「医者のそばで勉強して、人が死ぬという事に慣れようとしています」

 

 ルーデウスは声を潜めた。「ここだけの話」という前置きに、秘め事を共有する背徳感をくすぐられたエリスが身を乗り出した。

 

「バートン先生は手段を問わず屍体をかき集めています。解剖のためです」

 

 バートンはルーデウスが師事している外科医の名である。

 バートン医師はアスラ王国の医術に様々な貢献をしている。

 骨の成長速度を確認するために多くの豚を生体解剖した。

 傷ついたアキレス腱の再生経過を調べるために犬のアキレス腱を切り、片足を引きずる犬を量産した。

 帝王切開に成功した。数例失敗した後に。

 見知らぬ医者の業績をエリスは知らない。病知らずで頑丈な少女には、医療の発展は興味のない事柄であった。耳に届くのは、外科医は冷酷な動物虐待者であり、患者を実験台に手術をして殺すという悪評ばかりだ。

 

「つまり、悪いヤツなのね!」

「悪人じゃありませんよ……善人でもないでしょうが。

 バートン先生は医者ですから、人を治癒することが主です。でも、人の死に触れることも同じくらい多い。判断を誤って、本来助かった患者を死なせることもある。

 俺がバートン先生のところに弟子入りしたのは、医者になって人を救いたいからではありません。人の屍体に、そして人が死ぬ場面に、安全圏から関わる機会が増えると思ったからです」

「ルーデウスが屍体をいっぱい見たり、目の前で人が死んだりすると、近くにいる家族が大切になるの?」

「さあ。まだわかりません。病や事故で死なれることは平気でも、自分の手で死なせる事はいつまでも受け容れられないかもしれない。

 ひょっとすると、一生慣れずに、価値観の断絶を抱えたまま過ごすことになるかもしれません」

 

 エリスはとりあえずルーデウスの頭を叩いた。言っていることが難しくてよくわからなったのだ。

 しかし、「なんで叩くんですか?」と問われ、よくわからなかったから、と答えるのも癪であった。

 ゆえに問われる前にエリスが何か言わなくてはならぬ。何か、何か――

 

「そ、それで、いつまでも慣れなかったら、どうするの?」

「そうですね。実は故郷のブエナ村に結婚を約束した女の子がいるんですが」

「えっ!?」

「僕の目的が達成できないと、約束は守れそうにありません」

「そ、そうよね。価値観がダンゼツ? してるものね」

「その時はこのロアで、エリスのお婿さんにしてもらいますかね」

「イヤよ!」

 

 エリスは反射的にルーデウスの頬に平手打ちをお見舞いした。全身のしなりを使って放たれた平手打ちの衝撃は凄まじく、ルーデウスは椅子から転がり落ちた。

 冷静になったエリスは、脳を揺らされてノックアウトされたルーデウスを見下ろし、どうしようかな、という顔をした。

 それから、椅子の背凭れに掛けていたルーデウスの上着を、床に仰向いて気絶したルーデウスにブランケットのように被せて、これでよし、という顔になる。

 

(ルーデウスが悪いのよ!)

 

 9歳のエリスにとって、〈結婚〉という言葉の響きは束縛に等しい。

 冒険者にあこがれて木剣を持ち、外を駆けまわることをおぼえてしまったエリスは、家の中でしとやかに退屈し、社交界のゴシップやスキャンダルに興じる日々は耐えられない。

 平民には精力的に働いて稼ぐ女性も存在するものの、上流階級の子供であるエリスの既婚の女性像はそれであった。

 

 既婚の女性像が凝り固まっていたエリスが、ある日、剣士と魔術師の夫婦が冒険者になる話を知り、

 数多の試練が待ち受ける迷宮に潜る話を聞き、

 北方の厳しい大地で協力してはぐれ竜を討伐する話を聞き、

 身近にいる魔術師の少年と、剣士である自分がそうなる未来を想像するようになるのは、あと一、二年は先のことなのであった。

*1
約1ヶ月




途中まで書いたけど公開するか否か迷ったのでアンケートをとらせて下さい。


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 閑話 ルーデウスのパーフェクトかいぼう教室

投票ありがとうございました!
オリ主不登場の話は要らない派が多かったのですが、要る派とまあまあ僅差だったので閑話として投稿します。
エリスの兄弟の名前を捏造してます。




 台の上に仰向けに置かれた躰の、青ざめた腹部の皮膚は十文字に切り裂かれ、四方にめくりあげられ、子宮が露出していた。

 床におが屑が敷かれ、解剖台の足元には、老犬がうずくまっている。

 

 ロア病院外科医バートンのずんぐりした指が、繊細な動きで子宮の表面を走る血管に着色した蠟を注入するのを、七歳の少年は逆さに置いたバケツを足場にして観察していた。

 場所は勤務する病院内ではなく、バートンの私的解剖室である。

 

「来た!」

 

 裏口の扉を開け顔をのぞかせたエドガーが鋭く言い、ベンの血色の良い頬が青ざめた。

 バートンの弟子は、17歳から20歳の青年で構成されている。例外の最年少――ルーデウス・グレイラットはバケツから飛び降りて、ナイジェルが白い布を床に広げるのを手伝った。

 

「先生、一旦中止です。隠さなくては」

「中止だと? 蠟が固まってしまう」

 

 と、はねつけた医師の両腕を、ウィリアムとフロリアンが押さえつけた。

 

「奴らが来ます。先生、失礼します」

「屍体に傷をつけるな!」

「わかってます。わかってますとも」

 

 四十歳を過ぎたバートンの風貌はジャガイモに似ている。

 屍体を白布に包み、協力して運び出す弟子たちにジャガイモは真っ赤になって怒鳴りつけた。

 力仕事にルーデウスの出る幕はないが、フィットア領治安判事に所属する治安隊員――犯罪捜査犯人逮捕係――の足止めという重大な仕事がある。

 あどけない少年が応対すれば、追求の手はしばし緩むのだ。ルーデウスはバートンの邸宅の玄関に急いだ。

 

 

 解剖学において、他国よりも遅れをとっているのがアスラ王国だ。かつては、そうではなかった。

 数百年前まで、血液が全身を循環しているという事を医者でさえ知らなかった。心臓が血液を送り出し循環させていることを、解剖学によって証明してみせたのが、黎明期のアスラ王朝を生きたオルキド・リーチ博士だ。

 しかし、大きな戦争がない平和な時代が数百年も続くうちに、アスラ王国は慢心し、先人が築いた遺産にあぐらをかき、死者を切り刻むことは瀆神的な行為であると定められた。

 治癒魔術分野と解剖学は密接しているがゆえ、魔術の研究が盛んな魔法三大国、さらにあらゆる研究に金を投じている王竜王国に追い抜かれ、圧倒的な差をつけられるのも時間の問題であった。

 

 人体解剖に対する、世間の偏見の目は厳しい。アスラ王国から公に医師に下げ渡される罪人の屍体は、一年間でたったの六体である。

 屍体が足りないのであれば、非合法な手段でかき集めるしかない。

 ゆえに、バートンは墓あばきから屍体を買いとる。一体で銀貨五枚。資金は、解剖教室で制作した臓器標本を彼の異母兄ロナウドが買うことで賄える。

 ロナウドの常設した博物展示室に陳列されている標本は、バートンとその弟子が制作したものがほとんどを占める。

 

 本日解剖していた屍体は、下級貴族の娘だ。

 盗んだ屍体を買い取り、解体している証拠を掴めば、バートンとその弟子たちは牢獄入り。捕まえた治安隊員には報酬金が支払われる。

 

「バートン先生はいるか」

「はあ、儂は知らんです」

 

 ルーデウスは老いた門番兼下男の矮躯と治安隊員のあいだに滑り込んだ。

 

「バートン先生は実験中で、席を外せません。書斎でお待ちください。案内します」

「あなたは?」

「ルーデウスです。先生の新しい弟子です」

 

 治安隊員は三人。

 冷徹な印象を受ける若い女性が、用心棒のようにガタイの良い男性を二人率いている。

 

「ご足労感謝します。お茶を淹れましょうか?」

「お構いなく。勝手に捜査させていただきます」

「や、やめてください! 警察呼びますよ!」

「私たちがそう(警察)です」

 

 ズカズカ踏み入る彼女らの前に、ルーデウスは両手を広げて立ち塞がった。

 

「どけ!」

「ラッセン! 相手は子供です。威圧的な態度はよしなさい」

 

 ルーデウスを怒鳴りつけたラッセンと呼ばれた大男は、虚をつかれた顔をして、ルーデウスを太い腕でゆっくり押しのけた。

 女史の言葉がなければ乱暴に退かされていただろう。

 冷徹女史に見えて、良心はあるタイプの女性らしい。

 ルーデウスは庇護欲をそそる子供――出会ったばかりのシルフィを己に投影するイメージで、おずおずと訊ねた。

 

「お、お姉さんたち、悪い人じゃないんですか……?」

「ええ。私はシャーリー。ロアの犯罪を取り締まる者です。

 私たちはバートン先生を逮捕しにきたわけではありません。ただ、この町で悪いことをしている人はいないか、確認しにきただけなのです」

 

 シャーリー女史の態度が少し柔らかいものに変化した。

 

「そうでしたか、疑ってすみませんでした。どうぞ上がってください」

 

 ルーデウスは建物内をわざと遠回りし、たっぷりもたついて時間稼ぎをした。

 解剖室に入ると、バートンは血脂に濡れたメスを持ったまま治安隊を迎えた。

 

「また盗みましたな、先生」

「サイモンさん、人聞きの悪いことを」

 

 ウィリアムが如才ない笑みを浮かべ、弟にするように幼いルーデウスの肩を抱いて応じた。

 バートンの弟子たちと治安隊のラッセン&サイモンは顔なじみだ。何度も押し入られている。ただしルーデウスが会うのは初めてであった。

 

  饒舌ウィリアム・ブラックベア。20歳。

  容姿端麗エドガー・アイザックス。19歳。

  肥満体ベンジャミン。19歳。

  雀斑鼻フロリアン。18歳。

  素描画家ナイジェル。17歳。

 

  そして、最年少ルーデウス・グレイラット。7歳。

 

 六人の弟子は解剖台の前に勢揃いし、治安隊員の視線を遮っていた。いや、エドガーの姿だけが無かった。隠し部屋からの脱出が間に合わなかったのだ。

 

 サイモンが手荒く、解剖台の前に立つ弟子を押し退けた。

 台の上に固定されているのは、犬であった。エーテルで眠らされ、足の部分が切開されて動脈があらわになっている。

 

「きわめて困難な解剖の最中なのですよ」

 

 ねっとりと、ウィリアムが嫌味を言った。

 

「動脈壁を、一枚一枚、慎重に剥がしていくんです。そうして動脈壁に再生能力があるかどうかを見ます。それを邪魔するなんて」

「馬鹿馬鹿しい。再生能力? 最近の医者の卵は、揃いも揃って治癒魔術を使えんのか?」

「重要なことです。確かに外傷程度なら、初級の治癒魔術で完治する。しかし、それは治癒魔術が体に働いた場合です。素の再生能力があるかどうかも見なければならないんです。

 例えば、悪性腫瘍の患者に治癒魔術を使うことは、禁忌とされています。活性化した腫瘍が増殖し、病状が悪化するためです。いいですか、サイモンさん、あなたがもし悪性腫瘍を抱えていて、そのうえ誰かに動脈を傷つけられ、大出血したとします。治癒魔術には頼れない。そのとき、動脈壁に再生能力があるとわかっていたら、ずいぶん安心じゃないですか」

 

 ウィリアムの軽薄なお喋りよりも、ベンがさり気なく手渡した銀貨のほうが即効力があった。サイモンは口を噤んだ。

 治安隊の欠点は、元々は慈善事業であるため、組織化された現在もその流れを汲んで薄給である事だ。そして美点は、賄賂次第で犯罪行為も見逃される事であった。

 

「ああ、うら若き女性の体にメスを入れるとは、なんたる非道」

 

 銀貨にありつけなかったラッセンが、わざとらしく一人ごちた。

 

「今回ばかりはマズいぞ、先生。何せあんたが買い取ったのは、アボット準男爵のご令嬢だ」

 

「何も買ってない!」フロリアンが機転を利かせて叫び、続いて弟子たちがわあわあとわめきたてたので、「令嬢? 夫人ではなかったのか」というバートンの言葉は届かなかった……らしい。

 バートンは解剖と実験にかけて偉大な人物であるが、それ以外のことにかけては無頓着であり迂闊である。弟子はひやひやさせられ通しだ。

 シャーリーがサイモンの手からアスラ王国の国章が刻印された銀貨をとりあげ、犬の足元においた。賄賂は拒否するという意思表示である。

 

「アボット家をご存知ですか」

「知らん。患家でもないな」

 

「先生は、そうした事には疎い」フロリアンが雀斑だらけの顔を不快そうに歪めた。ロアの治安を守り、犯罪を取り締まる民衆の味方を、早く追い出したくて仕方ないのだ。

 治安隊員のサイモンとラッセンは、解剖室と、となりの屍体保管室及び標本室を捜しまわった。生ものが腐りにくい冬なら、非合法な手段で集めた死骸が、防腐処置をほどこした上でフックに吊るされている。

 今は肉の腐りやすい夏場である。フックの先には、何もない。

 

 彼らは面白くなさそうに豹の剥製の口を開き、「私の標本に触るな!」「死体に、豹の皮を被せてるんじゃないかと思ってね」標本をおさめたガラス壜をずらして棚の奥を覗き込み――「そんな所に入るわけないだろ」ベンが毒づいた。

 

 ルーデウスは、素描画家ナイジェルの落ち着きがないのに気がついた。そわそわと、青い顔をして腹を押えている。

 

「すみません、ちょっと厠に」

 

 ナイジェルが部屋を出ようとするのを、シャーリーが止めた。

 

「屍体を移動させるつもりですか?」

「いいえ、そんな」

 

「僕もなんだか具合が悪くなってきました」と、ルーデウスが助け船を出した。

「厠に行かせてやってください」とウィリアムが主張し、「屍体の重さをご存知ですか? あんな痩せっぽちと子供には、あなた方の危惧していることは実行できません。こいつならまだしも」と横のベンジャミン(肥満体)を小突いた。

 

「失礼します」

 

 解剖室を出たナイジェルとルーデウスはまっすぐ厠に向かった。

 

「助かった」と言いながら、ナイジェルが服の下から画帳を取り出した。

 画帳には、先程まで解剖していた女性の屍体が精巧に素描されている。

 

「それを見られたら一発アウトですから」

「そうだね」

 

 ナイジェルが画帳のページを切り取り、ぐしゃぐしゃに丸めた。

 彼の素描の腕前は素晴らしい。写真のように正確無比に描かれた絵が呆気なく便所の穴に落ちてゆくのを見て、ルーデウスは不満を顔に出した。

 

「捨ててしまうんですか? そこまでしなくても、他の部屋に隠すとか」

「大丈夫、また描けばいいんだ」

 

 画帳を別室に置き、解剖室に戻る最中に、ルーデウスはナイジェルに訊ねた。

 

「どうしたら、あんなふうに正確な絵を描けるんですか? 僕もできるようになりたいです」

「毎日描くんだよ」

「描く対象は何でもいいんですか?」

「いや。ルーデウス君の利き手はどっち?」

「右です」

「じゃあ、左手を毎日描くんだ。自分の思ったように線を引けるようになったら、別のものを描いていい。実物をよく見てね」

「わかりました。今日からやってみます」

 

 自分の左手をひっくり返して眺めるルーデウスに、ナイジェルは「無理はするなよ」と気遣う言葉をかけた。

 

「病院と教室では先生の手伝いもあるし、下宿先では獣神語を学んでるというじゃないか」

「つねに何かしていないと不安なんです」

「子供は外で遊ぶべきじゃないか?」

 

 ペンだこのある手がルーデウスの頭を雑に撫で、解剖室の扉を開けた。

 入るが早いか、「画帳があるはずです。見せなさい」とシャーリーの声が飛んできて、サイモンの監視下で取りに行かされた。ルーデウスは治安隊員の執念深さを知った。

 

「破いた跡がありますね」

「ルーデウス君が体調を崩して、吐きました。とっさのことで受け止めるものがなく、仕方なしに紙を破いて使ったのです」

「なるほど。その紙は?」

「捨てましたよ。汚れて使い物にならなくなったのでね」

 

 ナイジェルの嘘の証言に合わせて体調の悪いフリをしながら、「探したが、人体を描いた紙はなかった」とシャーリーに報告するラッセンを見て、ルーデウスは冷や汗を流した。回収できぬように破棄しておいてよかった。

 

 

 

「野郎ども、やっと帰ったな」

「夏場は腐敗が早い。はやく再開しよう」

 

 治安隊が引き上げたあと、弟子たちは自作の隠し空間の扉をあけた。ルーデウスが土魔術で固めたので、傍目にはただの壁にしか見えないようになっている。

 三人がかりで扉を開けると、中からエドガーが倒れ込んできた。

 

「エドガー! 意識がないぞ!」

「どうしましょう、先生」

「先生、ペッペの麻酔が切れそうです。また眠らせますか」

 

 ウィリアムが仰向けにしたエドガーのまぶたを開いて叫び、解剖台の老犬が悲しげに鳴いた。

 この時代に〈酸素〉が発見されていなくても、酸欠は起きる。エドガーは、狭く、通気口のない壁の中で酸欠になり、仮死状態に陥ったのだ。

 

(ふいご)を持ってこい」

「あの仮説を試すのですか?」

「そうだ。早く」

 

 一対の鞴を青年二人かがりで運び入れる。一つを鼻孔に、一つを口内に繋ぎ、ウィリアムとナイジェルが動かし、空気を送り込んだ。酸欠という現象を知らないなりに、空気が足りないのでは、とバートンは仮説を立てたのだ。

 バートンは空気を送り込む秒数を記録しながら、「切開箇所を治癒魔術で塞いでやれ。麻酔はいらん」と老犬ペッペを一瞥して、手持ち無沙汰のルーデウスに命じた。動脈壁に自己再生能力があることは、過去の実験で既に判明しているのだった。

 

 エドガーはじきに意識を取り戻した。生還した弟子に二階で休むよう言いつけ、バートンは解剖を再開した。

 

「バートン先生、なぜ先ほどは、夫人だと言いかけたのですか?」とルーデウスが訊いた。

 

「よく見ろ、右卵管が破裂している」蝋を注入するのに忙しい先生に代わって答えたのはフロリアンだ。

 

「原因は、子宮外妊娠以外にありえない」

「「ありえない」ということは、ありえない」

 

 ウィリアムがさる有名な錬金術師の科白を朗唱し、「と、ケプラーが言った」と気どった顔つきでベンジャミンが注釈した。二人は顔を見合せて吹き出した。

 

「一人では子供は作れない。だから先生は、その女性が既婚者であると思われて……ここまで言えばわかるだろ? ルーデウス」

「はい、バッチリ理解しました」

 

 バートンが切除した右卵管を弟子の用意した膿盆に移した。

 無造作に、死者の下瞼を引き下げた。

 

「粘膜蒼白がみられる。やはり死因は、卵管破裂による腹膜腔多量出血だろう。胎児も貴重な資料だ。見つかるといいのだが」

「開いて中を見ましょう。先生がしますか?」

「ああ、いや、フロリアン、君がやってみなさい」

「はい」

 

 検体は小柄な女性であったから、解剖台に余分なスペースは十分にあった。膿盆を屍体の横に置き、剪刀(せんとう)を使い、切除した卵管を切り開くと、透明な胎嚢に包まれた胎児があらわれた。

 誰からともなくささやかな歓声があがる。

 

「六週間くらいか? よくぞここまで大きくなったものだ」

「すごいぞ、もう眼がある!」

「指もかろうじて分かれてる」

「あれみたいだ、虫入りの琥珀」

「どいてくれ、素描する」

 

 推定五六週の胎児は、ナイジェルが画帳にスケッチした後で、防腐液に浸して保存し、博物展示室の標本の一つに加わる。

 

「うわ、何しやがる」

 

 ペッペは雑種の大型犬である。他の学生や師と比べ、ひとまわりもふたまわりも小さなルーデウスは、この老犬に下に見られているきらいがあった。

 子供の肩に前足をかけて立ち上がるペッペの鼻面を休憩から戻ったエドガーがはたいた。「ハウス!」厳しく言いつけたエドガーの指示に従い、ペッペはすごすごと解剖台の下に戻って伏せた。

 

「こいつ、腹減ってるんだな」

「そうか。じゃ、とりあえず、これやるよ」

 

 ベンがバケツに胎嚢から引き剥がした卵管を放り入れた。ペッペは嬉々としてバケツに頭をつっこみ、一口で平らげる。

 解剖室で飼われている犬の食事は、破損し芸術的医術的価値をなくした臓器の一部だの、黄色のぶよぶよした皮下脂肪だのである。

 もっとも、与えられる屍体が手に入らない事のほうが多い。そういう日の餌は、学生の昼飯に挟まったベーコンやハムだ。

 

 溶液に満たされたガラス壜の中で、胎児は標本になった。

 容器をのぞきこみ、フロリアンが呟いた。

 

()()()()()()()()()()()()()だ」

 

 師のバートンは今にも「くだらん!」と吐き捨てそうな顔をした。他の弟子は「なんのこっちゃ」という顔をしたが、ルーデウスにはわかった。

 学校の図書室に置かれた錬金術の本『物の本性について』の写本から引用したのだ。

 朗唱した箇所は、ホムンクルスの製造法である、と見当がついた。ルーデウスがたまたま読んだばかりの章だ。

 

 

 男の陰茎から抽出した精液を、四十日のあいだ蒸溜すると、人間の形をした透明な非物質があらわれる。これを容器にいれ、馬の胎内と同じ温かさにして、四十日のあいだ――

 

 

「人間の血で養えば、五体完全な人間の子供になる。ただし、小さい。……と、パラケルススが言った」

「正解!」

 

 医化学の祖である錬金術を、一応、医学生もさわりだけ学ぶ事になっているが、現代――それも外科分野においては、重要性は低い。

 ほんの子供の勤勉さに感心したフロリアンに、血脂に濡れた手で頭を撫でられ、ルーデウスは窓から頭を出して髪を洗い流されることになった。

 

 

 


 

 

 

 弟のハロルドがいなくなったことに気がついたのは、獣族のメイドらが空のゆりかごを片付けているのを見たときだ。

 大きくふくらんだ母親の腹に耳をつけた。小さなベッドで眠るほにほにの赤ん坊を、父のフィリップに抱きあげられて覗き込んだ。それは憶えている。でも、いついなくなったのか、エリスにはおぼえがない。

 いつのまにか、消えていた。そんな感じだ。

 わたしの弟、どこへ行ったの。乳母のエドナに訊ねたら、ジェイムズ様の養子になられました、と教えてくれた。

 お母さま、わたしの弟、どこ? 養子という言葉の意味を知らなくて、母親にも訊ねた。エリスの母ヒルダは、顔を覆って泣きだした。取り乱した母のおらび声は、エリスの記憶にしつこく残った。

 二歳のエリスは、弟の話はしてはいけないのだと幼心に定めた。

 子供は、現在が楽しければ、過去の追憶に浸ることはない。

 やがて、エリスは弟が生まれたことを忘れた。兄弟が存在することは、後に祖父が話題に登らせたので、あとから知った。

 

 弟が帰ってきた。一瞬だけそう思ったのは、エリスより幼い少年が、エリスの母親の膝に抱き乗せられていたからだ。

 

「ああ、可哀想に。こんなに幼い子を賎業に追いやる親はロクデナシよ。でも安心していいのよルーデウス、このボレアス家で貴方を蔑む者はいない、いえ、いたとしてもわたくしが守ってさしあげるわ」

「はい。奥様のご厚意に痛み入ります」

「なんて健気な子なのかしら!」

 

 メイドを介して両親からの呼び出しを受け、応接間に赴いたエリスは、自身の母親の膝に座って豊満な胸に抱かれ、あまつさえ褒められた男の子を見た。

 男の子は幼児の肉づきを失いかけた体つきだけれど、顔はまだふっくらと幼気で愛らしい。

 しかし、エリスはそう感じなかった。男の子が母親の胸の谷間を凝視していたからだ。

 

「お母様、お父様、そいつは何なの!」

 

 腕を組み、声を張りあげたエリスを、ヒルダは目顔で咎めた。

 エリスはますます面白くなかった。子供の本能として、その子供が母親の愛情を奪いかねない存在であることも、見抜いていた。

 

「初めましてお嬢様。ルーデウス・グレイラットで」

 

 ルーデウスが自己紹介を言い終える前に、エリスの平手が彼の頬を張った。

 ルーデウスは呆然とした顔でエリスを見上げた。出会い頭に叩かれたのは初めてであった。

 

「エリス! ルーデウスに優しくなさい!」

「ふん!」

 

 母の叱咤が飛んできたが、足音荒く、エリスは応接間から立ち去った。

 ロアの広い館に、子供は今までエリス一人であったのだ。両親と祖父の愛情を独占してきた彼女の目に、ルーデウスは敵と映った。

 

 とはいえ、館の中でルーデウスと顔を合わせる機会は、そう多くなかった。

 日中はほとんど居らず、ヒルダに可愛がられていても、扱いは下宿人であるから食事も別。

 己の日々に不干渉の存在であるとわかれば、エリスの敵意も次第に消えていった。

 もっとも、それはルーデウスが〈敵〉から〈取るに足らない存在〉に変化しただけで、エリスが彼に好意的になったわけではないのだが。

 

 

 中庭で剣術の稽古を受けているときだった。

 エリスは、ルーデウスがこちらを見ていることに気がついた。

 珍しく、館にいたのだ。

 ルーデウスは花壇を囲む煉瓦に腰かけて、エリスとギレーヌを眺めていた。気をとられると、「余所見をするな」師範のギレーヌの声と共に木剣がプロテクターを打ち、

 

「だって見られてるのよ。気が散るわ」

 

 エリスは唇をちょっととがらせた。

 ギレーヌはエリスとルーデウスを見比べ、ルーデウスのもとに行って何事か話し込んだ。エリスはこちらに背を向けたギレーヌの尾が動くのを見ていた。

 やがて、木剣を握ったルーデウスがエリスの前に立った。

 

「こいつとやるの?」

「ああ。ここに来るまでは、パウロに教わっていたようだし、エリスの相手にちょうどいい」

「よろしくお願いします。お手柔らか、に!?」

 

 またもやルーデウスが言い終える前にエリスが踏み込んだ。

 ルーデウスは弱かった。エリスがほんの少しのあいだ通っていた学校にいた男の子よりは身体捌きに余裕があったが、それだけだ。

 容赦ない打ち込みに気遅れしていたふうなルーデウスだったが、エリスがまっすぐ脳天を狙って剣を振り下ろしたとき、激しい寒風が正面からエリスにぶつかった。

 

寒冷突風(ボーラブラスト)!」

「ふぎゃ!?」

 

 後方に吹き飛ばされたエリスは手の感覚が鈍くなっている事に気がついた。体温が下がり、体の末端がかじかんだためだ。

 エリスは剣を捨てた。拳の形ならなんとか作れたからだ。

 そしてルーデウスに飛びかかり、肩を膝で押さえて魔術を封じた。

 

「は!? ちょ、降参、」

「生意気よ! 誰に手をあげたか! 思い知らせてやるわ!」

 

 怒りの感情はエリスの体を温めた。

 ギレーヌに負けるのは、いい。剣の師匠だし、格上の相手と認めているからだ。

 ルーデウスに負けるのは嫌だ。年下で格下の存在に見下されるのは我慢ならない。

 

「このっ、暴力娘が!」

 

 いつまでも殴られ続けるルーデウスではなかった。

 彼は力の限りもがいてエリスの下から這い出た。

 取っ組み合いの喧嘩ならば、ブエナ村でしてきた。エリスの暴力の理不尽さは村の悪ガキたちを凌駕していたが、とにかく、喧嘩には慣れていた。

 エリスは剣を捨てている。であれば、これは既に稽古ではなく、上下関係を叩き込むマウンティングであるのだ。

 自分は居候。相手は領主の孫娘。

 己の立場に二の足を踏み、格下に甘んじるのか?

 否。対等でいなければならない。エリスも村の男の子たちもきっと、いじめつける以外に接触の仕方を知らないのだ。

 いじめられ、泣かされ、やり返し、そうして同化していくのだが、かつてシルフィはその儀式に耐えられなかった。

 

「俺は、耐えられる」

 

 呟いて言い聞かせた。

 苛烈な美少女を睨めつけた。

 

「――やるっての?」

 

 エリスは肩にかかった赤い髪をパッと後ろに払って、背中に流した。

 初対面のときはエリスの母の膝に座っていた甘ったれが、歯向かう意思を見せた。

 顔ももう憶えていない弟。ここに居るのが弟のハロルドであれば、私があんな甘ったれにはさせないのに。

 それはエリスの想像でしかなかったけれど、彼女は怒りを燃やした。

 なぜ私の弟はいないのに、彼と同じくらいの男の子が、我が物顔で館にいる。気に食わない。とにかく何もかもが。

 

 エリスはルーデウスの反抗的な眼をまっすぐ見据えた。

 相手の初動を探るとき、見るのは体ではない。眼だ。

 ここで目を逸らしてくる奴は弱虫だ。

 ルーデウスは目を逸らさなかった。

 初動が足にあらわれた。走って向かってくる。

 エリスは重心を落として拳を握りしめた。

 迎え撃ってやる。狙うは鳩尾だ。

 

「殴られる痛みを教えてあげますよ!」

「殺してやるわ!」

 

 甲龍歴414年。某月某日。

 エリスとルーデウスは派手な大喧嘩をした。

 

 サウロスは「子供は喧嘩をするもの」と咎めはせず、フィリップは仕方なさそうにちょっと微笑んだだけだったが、ヒルダはエリスを叱りつけた。

 

「エリス、意地悪をするんじゃありません」

「意地悪するわ! 私、あいつが嫌い!」

「聞き分けなさい。ルーデウスは可哀想な子なのよ、貴方が優しくしてやらないでどうするの」

「……お母様が優しくすれば!」

 

(ふん! なによ! お母様は怒るし、お父様とお祖父様は、ちっともあいつを追い出してくださらないし!)

 

 息子を二人とも取り上げられたヒルダとフィリップにとって、エリスは可愛い一人娘であったのだ。両親は手もとに残された一人娘を思うぞんぶん甘やかし、ゆえにエリスの望み通りにならないことはほとんど無かったと言っていい。しかし、今は違う。

 エリスの中で、ルーデウスは小さな楽園を脅かす侵入者に返り咲いた。

 

「ギレェーヌ! ギレーヌ! どこにいるの!?」

 

 鬱憤を剣術の稽古で晴らそうと、エリスは剣の師の姿を探した。

「お嬢様、ここだ」通りかかった図書室の扉からギレーヌが顔をのぞかせた。

 

「こんなところで何してるの?」

「ルーデウスに字の読み方を習っていた」

「……」

 

 露骨に機嫌を悪くしたエリスの背中をぽんと叩き、ギレーヌは図書室の閲覧スペースに戻った。

 ルーデウスはギレーヌの正面の椅子に膝をつき、机に身を乗り出して、本を指し示しながら朗読していた。

 ギレーヌの背中と椅子の背もたれのあいだに体をねじ込み、背後からギレーヌに覆いかぶさり本を覗き込むエリスのことをルーデウスは目にとめたが、居ないものとして扱うことに決めたのか、再び本に視線を戻した。

 

「閉じ込められたカスパールは」

 

 ルーデウスは話をつづけた。

 開かれたページの片側に、肖像画がのっている。

 絵がよく見えるようにと、エリスが本に手をのばそうとすると、そのとき、メイドが、お食事の時間ですよ、と呼びにきたので、〝閉じ込められていたカスパール〟の話はそれきりになったのだった。

 後で、エリスはギレーヌに、聞きそびれた話の説明をもとめた。ギレーヌは話を理解はできても、要約してエリスにつたえるのは手にあまったらしい。辻褄のあわない、断片的な言葉を口にし、エリスが何度も聞き返すので、

 

「そんなに気になるなら、ルーデウスに読ませればいい」

 

 と投げやりに言って、話を打ち切った。

 屋敷にいないことのほうが多いルーデウスを探し出し、この私から頼むのは癪だ。かといって自力で本を開いてみても、読み書きの教育を拒否しつづけてきたエリスに、字は紙の上でのたくる黒ミミズと映ったのだった。

 

 

 ある日、庭園のベンチに腰かけ、画帳と見比べながら書蠟板に書き込んでいるルーデウスの前に、エリスは立ちはだかった。

 

「何してるの」

「お嬢様」

 

 喧嘩したことなど忘れたように、ルーデウスは画帳をひっくり返してエリスに見せた。拳大の臓物が、精密に描かれていた。四つの部屋に分かれている。

 

「なにこれ?」

「心臓の断面図です」

「しんぞー?」

「体の……だいたいこの辺にある臓器ですよ」

 

 ルーデウスは自分の左胸を指した。

「体の中にあるなら見えるはずないわ」と言うと、「胸を開いて、取り出したら見えますね」と返され、エリスはたじろいだ。

 大森林で暮らす獣族にとって、死者は森に還すのが自然の理であり、切り刻むなどもってのほかだ。エリスは人族だが、ボレアス家のメイドの獣族からそのように教えられていた。

 

「生きたまま取り出すことはしませんし、解剖のために殺すこともしません。病気とか事故とか、別の原因で亡くなった人の体を開いて調べるだけです」

「メイドが言ってたわ、あなたは臭いって。ときどき血の臭いと死臭を漂わせてる、って」

 

 こっそり深く息をしてみた。

 血臭も死臭も、エリスにはさっぱり分からなかった。

 

「見せなさい」

 

 いやがるルーデウスの手から画帳を取り上げて、パラパラ捲った。

 

「借り物ですから、破ったりしないでくださいね?」

「破ったらどうなるってのよ」

「怒ったバートン先生が、苦い薬やメスを持ってお嬢様を懲らしめにきます」

「ふ、ふうん。まあ、ちょっと聞いてみただけよ」

 

 平静に振る舞うエリスは、少し丁寧な手つきで画帳を押し返した。

 

「そこに載ってるの、ぜんぶ、ホンモノの死体を見て描いたんでしょ?」

「はい」

「なんでそんなことするの?」

「……医学の進歩のため?」

「進歩するとどうなるの?」

「健康な人が増えて、人の平均寿命が伸びるかも」

 

 そう言われると、さほど悪い行いではないように思えた。

 

「今朝、飼ってる栗鼠(リス)が死んだわ」

「そうですか」

「私かわいがってたのよ。餌だってたくさんあげたの」

「栗鼠の寿命は、人間よりはるかに短いですから」

 

 父のフィリップはエリスに子犬をくれた。騒々しく鳴き、あたりかまわず糞便をする仔犬を母のヒルダは嫌った。フィリップは子犬を連れ去り、籠に入った栗鼠をエリスにあげた。

 栗鼠はうるさくないのでヒルダは家に置くことを許し、エリスも手から餌を食べる栗鼠を気に入った。

 エリスが餌を手にのせて差し出すと、栗鼠は小さい両手でつかみ、鼻の頭をせわしく動かし、顔の形が変わるほど両方の頰袋に溜めこむのだった。

 

「お父様は、また新しい栗鼠をあげよう、っておっしゃったけど……」

 

「解剖しましょうか」隣りにつくねんと座り、気落ちしていたエリスに、ルーデウスが申し出た。「どうして死んだのか、理由がわかれば、今度は長生きさせられます」

 

 

 数日も経たぬうちに、エリスはルーデウスの部屋に呼ばれた。道具は揃えられていた。栗鼠が腐敗する前に、急いで用意してくれたようだった。

 エリスはルーデウスの指示に従い、栗鼠を布を敷いた台の上に仰向けにおいた。

 胸の中程から生殖器に向けて、ルーデウスは線を記した。

 

「この線に沿って、薄く切って」

 

 エリスは早くも失敗した。深く切りすぎて、内臓が溢れ出てきた。

 ――できない! 叫んで投げ出そうとする衝動を堪えた。

 

「まず、心臓を摘出しましょう。この太い血管を切り離して」

 

 太い血管といわれたって糸のように細くて、エリスのメスは血管のみならず、肉まで切り裂いた。

 指の先ほどもない心臓は、ぐちゃぐちゃな肉塊になった。

 切り刻んでいる間に、腐敗臭の甘ったるい嫌なにおいが漂い始めた。

 

「これは?」

「胃袋。食べ物を消化する場所です」

 

 エリスは小さい栗鼠の体内を探り、胃袋と教えられた臓器をえぐり出した。胃袋は、消化されていない食べ物でごつごつと膨れあがっていた。栗鼠はエリスの手から餌を取り、顔の形が変わるほど頬袋に溜めた。四角いチーズの塊をやると、頰が四角にふくれた。それが可愛くておかしくて、たっぷり与えた。与えすぎた。

 

「お嬢様」とルーデウスがエリスの肩を軽く叩いた。

 

「埋葬してやりましょう」

 

 木の箱をエリスはもらった。獰猛な肉食獣と闘って血まみれになったような栗鼠を箱におさめてから、外に設置されている汲み取り井戸に寄って、手を洗おうとした。

 そうされるのが当たり前の態度で、エリスはルーデウスが把手を押し下げて水を出すのを待った。

 

「固いな」ごちたルーデウスの手のひらから水が溢れ、清冽な流れとなってエリスの手をすすいだ。

 糸杉の根方に穴を掘った。箱の蓋をシャベルの代わりにした。蓋をして小さな穴におさめ、土をかけた。細かい土埃が入ったらしく、右目がごろごろした。痛くてこすると、よけい痛みが増した。

 

「目に土が入っただけだからね」

「はい」

「泣いてるんじゃないから」

「そういう事にしときます」

 

 大人ぶった言葉に腹が立ち、ルーデウスの膝を蹴った。

 頬を叩き返されたので腕をねじりあげた。だぶだぶのフロックコートの袖が肩のあたりから裂けた。

 手首で折られた袖がシミで汚れているのを見た。

 

「……服は、きちんとしなさい。だらしなく見えるわ」

「そうしたいところですが、たった今お嬢様に破かれてしまったので」

「口答えしないでよ、お父様に間借りしてる分際で」

 

 メイドの噂話を介して耳に入ってくる言葉をなぞり、エリスはルーデウスをなじった。かくべつ悪いとも感じていなかった。

 

「あなた知らないの? 服は、メイドに渡せば洗って綺麗にしてくれるのよ」

 

 外科医(賎業)に弟子入りをするような変な子だから、洗濯させるのを嫌がって、着た衣類をメイドに出し渋っているのだと思った。

 

「洗ってもらえない」

 

「わかるだろ、俺嫌われてるんだよ」肩が破けたフロックコートを脱ぎ、片腕にひっかけながらルーデウスが言った。

 

「バートン先生のもとで学ぶのは、楽しい。でも、墓を暴いて屍体を開くのは、世間的には悪事です。

 特に、親か本人が大森林で育った獣族には、僕は、死者を侮辱する許しがたい存在として映るらしいです」

「……」

 

 何と言うべきかわからなくて、エリスは腕を組んでむすっと黙り込んだ。獣族の使用人はエリスのお気に入りで、姉のように思っていた。ルーデウスの扱いが自分より良くないのは、薄々勘づいていた。

 しかし、優しい姉のような存在が、別の場面では子供を邪険にしていた、という二面性をすぐに飲み込めるほど、エリスは成熟していなかった。

 

「まあ、お嬢様は、僕がイジメられていたほうが清々するんでしょうけど」

「しないわ」

 

 そんな事を知っても、溜飲は下がらない。「いやな気持ち」と付け足し、エリスはたった今からルーデウスを監視することに決めた。

 親切なメイドの悪魔の顔をルーデウスから突きつけられても信じることはできない。だから直接自分の目で見て、確かめようと思ったのだった。

 あんなに心を占めていた〝閉じ込められていたカスパール〟の話は、いつの間にか忘れていた。

 

 

 ずっと勉強をしている。エリスが受けた印象はそれだ。

 監視を始めて数日、食事と睡眠を除き、ルーデウスが家にいる時間は彼を観察し続けていたエリスは、耐えかねて叫んだ。

 活発な性質のエリスには、何時間も続けて机に向かう少年は異常だった。

 

「ルーデウス! あなた頭おかしいんじゃないの!?」

「僕は産まれたときからおかしかったらしいですよ」

「そう! やっぱりね!」

 

「これでも読んで大人しくしてください」とルーデウスから一冊の本を渡された。読めない。エリスは拒否した。

 

「趣味じゃありませんでしたか? 童話ですよ、『雪の女王』っていう」

「ふーん、このタイトル、そう書いてあるのね」

「……お嬢様、もしかして、文盲なんですか?」

「?」

「字の読み方を知らないんですか?」

「必要ないもの」

 

 ルーデウスは驚き、そして、勝ち誇った顔をした。

 

「そうですか。僕の4歳の妹は、こんな本くらい、すらすら読めますけどね!」

「なっ」

 

 エリスは両手を目の前に持ってきて、片手の親指を折り、いちにぃさんし、と人差し指から小指も折った。一桁の計算ならばできる。5。5歳も下の子が、自分より優れている。悔しかった。

 

「わ、私だって、読めるわよ」

 

 本を受けとり、開いた。

 

 

 そのとき、……が、ひどく……きたので、カイはじぶんの……も……できません。……そりは……っていきました。カイはあせって、しきりと……をうごかして、その……からはなれようと……、……はシッカリと……にしばりつけられ……にもなりませんでした。ただもう、……にひっぱられて、……のようにとんでいきました。カイは……をもとめましたが、たれの……にも、きこえませんでした。……はぶっつけるように……ました。そりは前へ前へと、……

 

 

「つまんなかったからやめる」

「そうですか」

 

 

 翌日、エリスがルーデウスの帰宅を知り、彼の部屋に行くと、小さな木札をいくつも用意したルーデウスがエリスを迎えた。

 ルーデウスは木札を横に並べ、短文を複数書き上げると、「いつ」「どこで」「だれが」「なにをした」のグループに分け、ひっくり返して混ぜ合わせた。

 それぞれの集団からランダムに引いて文法通りに並べ直すと、面白みのない文章は混ざりあって思いもよらない文が生まれる。

 そうして生まれた珍妙な文章をルーデウスが読み上げる度に、エリスはその状況を想像して、腹を抱えて笑った。エリスは少し字の読み方をおぼえた。

 

 ある日は、ルーデウスは砂鉄と磁石を用意して、紙の上に砂鉄を敷き、下から磁石を当てて動かす遊びをした。砂鉄がはっと直立するので、砂粒に、ひとつひとつ命を与えている気がエリスはした。ルーデウスは、子供に楽しみを与えながら学習させる方法を熟知していた。

 

 

「ルーデウスは?」

「学校に行かれました」

 

 ルーデウスが不在であると知り、エリスは父親の書斎を訪ねた。仕事中のフィリップの膝の上で、机上の書類の、たまたま目についた文章を読みあげた。堅い文章だったが、少しなら、拾って読むことができた。

 

「誰に教わったんだい?」

「ルーデウス」

 

 フィリップはエリスの頭を撫でながら考え込み、勉強を再開する気はあるか訊ねた。

 座学は好きではないけれど、昔ほど苦痛ではない。なにより、現状では小さな子に負けていることが悔しくて、「ちょっとだけ」と答えた。

 

 

 

「本日付けで、お嬢様の家庭教師として雇われることになりました、ルーデウス・グレイラットです」

 

 貴族式の礼を披露するルーデウスの身なりは整えられていた。

 ボレアス家の一人娘に勉強を教え、これまで無関心だったフィリップとサウロスの関心を集めたことで、エリスの知らぬところで彼の扱いは改善されたのだった。

 

 エリスはルーデウスを眺めた。

 サイズの合う服を着て、白いシャツの襟に通したスカーフを磨かれたスカーフピンで留め、フロックコートを着こなすルーデウスの眼から、ひねくれた色は消えていた。

 風采の良い少年になった。エリスは仄かな満足を得ていた。

 

 栗鼠の腹を開き、死因を探ったことを、あのとき漂ってきた甘ったるい嫌な臭いと共に思い出す。

 与えすぎも毒になるのだと知らないままだったら、エリスはペットを失い続けていただろう。

 それを思えば、目の前にいる少年が弟ではなくても、家に置いてやってもいい、という気になる。

 

「エリスでいいわ。これからは、お嬢様じゃなくて、そう呼んで」

 

 エリスはルーデウスに笑みを向けた。ほのかな好意が乗った笑みであった。



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十五 妹たち

匿名設定解除しました。
オリ主の前世関係の設定やピクルーで作成したイメージ画像など活動報告に載せました。よかったら見てください。


  『しんしあの日記』

 

  母さまに日記ちょうをもらったから きょうからかく

  わたしは5さいになった たくさんの人においわいされて うれしかった

  手がみでおめでとうっていってもらえたけど お兄ちゃんもいたらいいのに

  5さいになった日のきのうは 母さまにいっぱいだっこしてもらった

 

  ◾︎

  メリーちゃんとソーニャちゃんとこくば*1をひろいにいった

  森はあぶないから ってヨッヘンくんがついてきた

  みんなでひみつのおうちを作りたいねってはなした

 

  ◾︎

  おんなのこの友だちとタネを入れるふくろをつくった

  しゅうかくさいでまくタネを入れるふくろを十さいになるまえのおんなのこが いちどもシーツにしたことがない白い布でつくる

  シルフィたちが十さいになったとき わたしは七さいでイヴは五さい ノルンとアイシャはまだ三さい

  さ来年はわたしとイヴのふたりだけでつくらなきゃいけないのかな

 

  ◾︎

  ノルンはうたにあわせてからだを押さえるあそびがすきみたい

  ヤーナムくんがリュートをひくとからだをたてにゆらしてよろこぶ

  でもヤーナムくんがノルンばかりかわいがったから おとうとのクラレンスがおこってノルンをたたいた

  ノルンはめをまんまるくしていたけど わたしが「かなしかったね、いたかったね」と抱っこしていうとないた

  クラレンスもヤーナムくんにたたかれてないたから大がっしょうになった

  わたしが馬こやにいた雪白をだっこしてきて

 「ゆきしろがきたよ、どうしたのーっていってるよ」というと、ノルンはニャニャ!とゆびをさしてなきやんだ

 「ゆきしろがいてうれしいね」というと、ノルンはわたしのかおをみながらにこにこわらった

  あかちゃんはじぶんのきもちを表すことばをしらないから、まわりのこがかわりにあかちゃんのきもちを代べんしてあげるんだって リーリャがいってたからそうした

  あとでクラレンスはごめんねっていってノルンをなでた ごめんなさいができてえらかったからわたしはクラレンスをほめてあげた

 

  ◾︎

  アイシャをなかせちゃった

  アイシャは本をひらいてよむふりをするのがすき

  ふりだからほんとうはよめてないけどへウーとかダーとかこえをだしてよめてるふり

  お兄ちゃんのおいてったしょく物じてんでもやろうとしたから わたしがだめっていって取りあげた

  そしたらアイシャはうしろにころんであたまをぶつけてないた ごめんねってしたけどアイシャはわたしのことを見てくれなくてかなしかった

  リーリャは「ルーデウスさまのものに手をだしたむすめがわるいのです」っていってわたしをおこらなくて 母さまと父さまはそのときはいなかったから わたしはだれにもおこられなかった

  おこられなくてやったーってなるはずなのに ちっともよろこべなかった

  かえってきた母さまにわたしのしたことをしゃべっていると とちゅうでわたしもないてしまった

  母さまは「なかせたのはよくないけれど、それをかくさなかったのはいいことよ」っていってくれた

  あしたはうんとアイシャにやさしくしよう

  アイシャにきらわれてもわたしはアイシャがだいすき

 

  ◾︎

  おね ちゃ

   こめね

 

  ↑アイシャがかいた! シンシア

  ↑信じられない。まだ1歳だぞ? by.パウロ

  ↑「お姉ちゃん、ごめんね」って書いたのかしら。将来はルディみたいな天才になるかも! 成長が楽しみ by.ゼニス

   ↑ルーデウス様には到底およびません by.リーリャ

    ↑アイシャのことも褒めてあげてー! by.ゼニス

 

 

 


 

 

 

 百日雪の下。

 生前の私が暮らしていた村を含め、中国山地沿いの集落にはそんな言葉がある。

 冬の間は百日は雪が解けないという意味である。それほど冬が長く厳しかったのだ。

 

 ブエナ村では、樹木に緑の色がつき、小鳥のさえずりが聞こえるようになり、大地をおおっていた雪も、湖や沼の氷も解けはじめ、自然は春へと動いていた。

 この地域は、生前の故郷より春の訪れが早い。

 

 生まれてから五回目の春。

 今年も冬追いの儀式が行われた。

 

 夕焼けに染まりつつある空の下を、松明を掲げて駆けまわる。

 藁で悪魔や魔物を作り、籤で松明をもつ子を決めて畑や果樹園をみんなでまわり、悪魔に見立てた冬を村から追い出すのだ。

 

「悪魔っ祓ーい!」

 

 先頭を走るソマル君たちの声に続いて、私たちも「悪魔っぱーらい!」と声を張りあげた。

 ソマル君ってば、早く走りすぎだ。去年魁を務めた兄は、小さい子に合わせてゆっくり進んでくれたのに。

 

「シンディ、腕つかれてない? 代わる?」

「セスちゃん代わってー……」

「はいはい」

「いぶがやる! いぶも持つ!」

「イヴちゃんはまだ危ないからダメかなー」

「メリーねぇねのけち」

 

 松明をもつ係は人気の役で、私もくじが当たったときは嬉しかったのだが、すっかり腕がくたびれてしまった。火のついた松明をシルフィに任せ、ヤーナム君の弟のクラレンスと手をつなぐ。

 イヴはお姉ちゃんのエマちゃんそっくりの顔をむくれさせている。膨らんだ頬を、藁で作った人形の手でつついてやると、笑顔になって藁人形を抱きしめた。

 でもその人形、後で薪と一緒に燃やすんだよね。

 

 

 ソマル君たち男の子とかなり距離ができたところで、立ち止まった彼らがこちらを振り返り、「おせーよ」等とぶー垂れ始める。

 私もむっとして頬をふくらませた。

 まだ早く走れない小さな子たちを置いて先に行ったのは、そっちだ。取り残して行くわけにもいかないから、私たちが手をつないでゆっくり移動しているのだ。

 

「クラレンスの面倒もちゃんとみれない人に言われたくないわよ!」

「子守りはオンナの仕事だろ!」

「弟の世話はお兄ちゃんの仕事でしょ!」

 

 怒りを心の中で燃やしていたら、気の強いセスちゃんが言い負かしてくれた。ヤーナム君はレミ君に背中をおされ、しぶしぶ二歳のクラレンスを背負い、しがみつく小さな手に首を絞められてぐえっと舌を出した。ハンナちゃんがけたけた笑う。

 弟妹のいないソマル君は気楽に松明を振りまわしている。

 

「ねねちゃん、つぎさ、あいしゃとおててしゅるよね? ねっ?」

「そうだね。お姉ちゃんとお手てつなごうね」

 

 シルフィと右手を繋いだアイシャが懸命に左手をのばしてきた。

 松明をセスちゃんに任せて片手が空いた今、妹の手をとらない理由はない。このかわいいお願いを断る人は非人間だ。

 ノルンはお昼寝から起きてこなかったので、村の広場で母様たちと待機している。

 

「暗くなってきたから、みんなで固まって移動しよう。はぐれちゃった子のところには悪魔がくるよ」

 

 シルフィが紫色になりつつある空を指さし、脅しつけるように言うと、ずっと先頭を歩いていたソマル君は「おいおい……そんなんで俺が言うこと聞くと思ってんのか?」と言い、くるりと踵を返して猛然と駆け戻ってきた。

 行動と言動の噛み合わなさがおかしくて、私たちは大声で笑った。

 

 

「子供らが帰ってきたぞー」

「怪我してねえな? 全員いるか?」

 

 日が暮れた広場に到着すると、大人たちが薪を山のように積んで待っている。

 松明を薪山に投じ、パチパチ爆ぜる音と共に、巨大な炎は空を舐めるように高く燃え上がった。燃やし尽くされた後の灰は、後で畑に撒くのである。

 

「ノルン。お姉ちゃん、悪魔を燃やしに行かなきゃ」

「ヤッ!」

 

 置いてけぼりにされたノルンはすっかり拗ねていた。

 私の袖を握りしめ、しゃがんで動こうとしない。母様の抱っこも拒否するありさまだ。

 

 私は冬生まれで、ノルンとアイシャは私が三歳の秋に生まれたから、妹たちはまだ一歳半である。

 おしゃべりが増えてどんどんかわゆくなるノルンとアイシャ。

 しかし、その反面、アレがくる時期でもあるのだ。

 何もするのにもヤダとダメを主張する時期である。

 ワーシカにもそんな時期があったし、イヴは三歳だけどまだイヤイヤの只中にいる。

 みんなをキライになったわけではなく、人の要求を拒むことで自我を育んでいるのだそうだ。

 イヤイヤがいちばん激しいのはアイシャだけれど、リーリャがいない場所だとなぜか良い子になるから、子供だけで行う悪魔祓いは無事に終えることが出来たのだった。

 

「最後はシンディだよ」と、駆け寄ってきたソーニャちゃんに教えられた。

 

「むー……」

 

 動かないノルン。

 燃やさなければいけない藁人形。

 私は考え、父様を頼ることにした。

 

「父様、ふたり抱っこしてくださいな」

「おお。いいぞ」

 

 父様が私を右側に、ノルンを左側に抱えた。

 ノルンは私の手をしっかり捕まえたままである。絶対に離したくないという意志を感じた。

 

「シンディねーね、赤ちゃんみたいー!」

 

 父様に焚火に近づいてもらうと、ワーシカとイヴに笑われたから、本当はちょっと恥ずかしかったけれど、「いいでしょー?」と勝ち誇っておいた。

 

「ノルンが投げてみる?」

「……ないっ」

 

 藁人形から顔をそむけたノルンにあらあらと思いつつ、大きな焚き火の中に藁人形を投じて、私の役目は完了。

 その後、「やっぱり投げたかった」という意味のことを訴えて泣きだしたノルンだったが、父様の周りをぐるぐる回って追いかけて遊ぶと機嫌は直った。

 

「たーしゃ?」

 

 と、ノルンが母様を探す素振りを始めたので、「暗いから気ィつけろよ」と父様の声を背中に聞きながら、ノルンの手をひいて、焚火からやや離れた場所でオーガスタさん達と雑談をしている母様のもとに行った。

 

「母様、おとどけものです」

「はーい。何のお届けものかしら?」

 

 しゃがんだ母様に、じゃーんとノルンを見せびらかした。

 母様は、「まあっ、こんな所に可愛い赤ちゃんが!」と、小芝居を打って、ノルンを抱っこする。

 いいなあ、ノルン。

 そう思って見ていると、「可愛い郵便屋さん、ありがとう」と頬にちゅっと口をつけてもらえたので満足である。

 

「やっぱり娘は可愛いねえ。下の子の面倒もよく見るし」

「そうだね。最初に産むなら女だよ、エーヴ」

 

 村長の奥さんであるオーガスタさんがしみじみと呟き、クロエさんがそれに同調した。クロエさんはソーニャちゃんとワーシカのお母さんで、エーヴさんと同じく妊っている。

 

「あーあ、あたしも娘が欲しかったな」

「跡継ぎを産めたからいいじゃない」

「そうだけど、流れた子が女の子だったからね、無事に生まれていれば今頃は……って寂しくもなるよ」

 

 オーガスタさんは不安そうな顔をしたエーヴさんを見て、「大したことではないよ」と励ます笑みを向けた。

 

「あなたはまだ若いんだから。ダメでも次がある」

「でも、一度流れると産めなくなることもあるって……」

 

 エーヴさんは浮かない顔だ。

 オーガスタさんの考え方のほうがくよくよとしていなくて良いのだが、エーヴさんは初産なこともあって不安も大きいのだろう。

 

「エーヴさん、その子は大丈夫だよ」

 

 探知以外の力は封じているから、本当のところはわからない。でも、私にはそれまで懐妊と死産を言い当ててきた実績と、それに伴う信頼があった。

 エーヴさんはちょっと笑顔になった。

 

「そう……。シンディちゃんが言うなら、安心だわ」

「ええ、そうね。なんて言ったって、この子は神子だもの」

 

 と、〈神子〉を強調する母様に、「さすが、長男といい貴族の血は優秀だね」と、クロエさんが苦笑した。

 

「やだもう、私もパウロも勘当された出来損ないよ」

 

 恥ずかしそうに体をよじった母様に、くすくすと笑いが興る。

 大人も大人で世知辛いようだ。上流階級の生まれである母様も父様も、嫌味にならないように振る舞うことを求められる。腕力がものをいう環境ではない分、母様はその機会も多い。

 空気を変えてあげようと、私はクロエさんが首元に巻いているストールを指さした。

 

「クロエさん、そのストールかわいいね」

「ああ、ソーニャがね。機織りは最近教えはじめたばっかりだけど、なかなか器用で!」

 

 ソーニャちゃんがお母さんのストールを作った話は、ソーニャちゃん本人から聞いている。

 このまま我が子の自慢合戦になることを期待したが、「そういえば」とエーヴさんが素朴な疑問を口にした。

 

「ゼニスさんは機織りはできるわよね。貴族の子は機織りも習うの?」

「ううん、裁縫の手習いなら家で受けたけれど、機織りは昔のパーティメンバーに教えてもらったのよ。いつか必要になるから、って」

「冒険者だったときの?」

「そうよ。機織りは長耳族の女性に、料理は魔族の男性にね」

 

 昔話をする母様は心の底から楽しそうだ。

「もう少し大きくなったら、あなたにも教えるからね」と、嬉しそうに言う母様に「がんばって覚えるね」と返した。

 炊事機織りは女の仕事である。私もいずれできるようにならなければいけない。

 

「狩人さんのところはどうするんだろうね。男の格好させてたけど、娘でしょ?」

 

 ブエナ村の狩人といえば、一人しかいない。

 話題にシルフィの家が上ったので、私は足元に自生した紅花詰草をつむのに忙しいふりをしながら、耳をそばだてた。

 シルフィは、最近は緑髪を伸ばして結んでいる。

 服装は「こっちのほうが動きやすいから」と男の子のままだが、女の子らしくなっているのだ。

 

「猟は手伝わせてるみたいだよ。奥さんがミズシ女だから、仕方ない部分もあろうさ」

 

 ロールズさんは耕地を持たないため、シルフィのお母さんは他家の農作業を手伝い、その家の炊事洗濯も手伝うが、機織りはできなかった。

 習う暇がなかったのだ。教える人もいなかった。

 機織りを習えず、他家の水仕事ばかりする女はミズシ女と侮蔑される。

 そうなったのはシルフィのお母さんのせいではないのだから、ミズシ女と馬鹿にしてはいけない、と家で母様に言われているのだが、他の人は母様のようには考えないようだ。

 

「あれで本当に息子だったらよかったのにね。可哀想だけど、ミズシの子は、ミズシになるから」

「その心配はないわ」

「どういうこと? ゼニスさん」

「シルフィちゃんには、私が教えるわよ。あの子はルディにお熱だし、娘たちの面倒もよく見てくれるから、もうウチの娘同然だもの」

 

 母様がそう言い切ると、しんと沈黙が降りた。

 オーガスタさんがクロエさんと目を見合わせ、ぷっとふき出した。エーヴさんも膨らんだ腹を撫でてくすくす笑う。

 

「ゼニスさんったら、気が早いわァ」

「ねえ、クロエの顔見ちゃったじゃないの」

「でも良い考えだと思うわ。きっと喜ばれるよ」

 

 おおむね賛成され、母様は「そうでしょ」とニコニコと相槌を打ち、「今度シルフィちゃんを家に呼んできてね」と私に言いつけた。

 

「さあ、ノルンのことはお母さんに任せて、お友達と遊んでらっしゃい。夜も外にいて良い日なんて、今夜くらいなのよ?」

「ノルンがえーんって泣いたら、教えてね」

「ええ。そのときは頼りにするわね、お姉ちゃん」

 

 希少な日を棒に振るところだった。

 私は、雑草をポイッと捨て、燃える車輪を丘からころがし、火のついた円盤を空に投げている村の若者と友達のところに急ぎ、その仲間に加えてもらったのだった。

 

 

 


 

 

 

  ◾︎

  きょお さょきょうは冬おいのぎしきがあった

  丘をころがる火のしゃりんがくらやみでだいだい色とあか色にひかってきれいだった

  父さまがいってたけど、さむいくにには火ざけというおさけがあって、たいまつをもって口にいれた火ざけをふきかけると、たいまつの火がいん火してけむりみたいにふくらむらしい

  それが火をふいてるみたいでたのしいんだって

  おんなの子がやることじゃないっていわれたけど、わたしはおとなになったらこっそりやろうと思った

  おもしろいこといっぱいあったけど、もうねむいからこれでおしまい

 

  ◾︎

  ワーシカはわたしとけっこんしたいみたい

  でもワーシカは、メリーちゃんとおねえちゃんのソーニャちゃんのことも好き

  「わたしはだれともけっこんしないよ。ワーシカはメリーちゃんとソーニャちゃんだけとけっこんするといいよ」

  というと、「シンディねーねもいっしょじゃないといやだ」っていわれた

 

  ◾︎

  エリックの前がみがくるくるになっていた

  かまどにちかづきすぎて燃えちゃったんだって

  エマちゃんもむかしおんなじことしたんだってモンティさんがいってた

  やけどはしてなかった

 

  ◾︎

  ヤーナムくんとレミくんがものほし竿をふたりでもってぐるぐる回っていた

  なにしてるの? ってきいたら「どれいごっこ」っていってた たのしそうだったけどふたりともあとで「へんなあそびをするんじゃないよ」ってクララさんにおこられていた

  

  ◾︎

  メリーちゃんがだいはっけん

  じめんをぬらして魔じゅつでつめたくすると あたたかい日もしもばしらができる

  ふむとさくさく音がなってたのしかった

 

  ◾︎

  みんなでおうちをつくることにした

  ほんとはだめだけど森につくる

  まものが出ないように どくのある虫やカエルをあつめてびんに入れた

  虫をさわった手でおしっこするとちんちんがはれるってレミくんがいうと ソマルくんがじゃああらうといいっていいかえした

  シルフィはどくはカエルのおくり物だからむだにしちゃだめといったけど おうちは作りたかったからやっぱりてつだってくれた

 

  ◾︎

  おまじないとのろいの字はいっしょだとおしえてくれたのはだれだっけ

  フタをしたびんのなかでカサカサおとがする

 

  ◾︎

  アイシャがおもしろかった

  リーリャとアイシャといっしょに治りょう院ではたらいてる母さまをむかえにいったとき アイシャがきゅうにしゃがんだ

  どうしたの? ってきいたら あたしきゅうに太ったからうごけなくなっちゃった っていった

  つかれたからリーリャに抱っこしてほしいんだってすぐわかった

  でもただ抱っこしてっていうとダメっていわれるってわかってるからいいわけをかんがえたんだと思うとおかしくて リーリャとわらった

 

  ◾︎

  ソマルくんとヨッヘンくんがわたしをおんぶしてどっちがながく走れるかしょうぶした

  わたしはおんぶされてるだけでらくちんだったけど二人は丘をのぼるのがたいへんそうだった

  もうこんなたたかいやめにしよう! ってゼエゼエいきをしながらソマルくんが手でヨッヘンくんのちんちんをまもった

  よくわかんないけどおもしろかった

 

  ◾︎

  びんを家をつくりたいばしょの、いちばんふといナメラスジにうめた

  こわいものにはこわいものをぶつけるといい

  まものは出なくなるとおもう

 

  ◾︎

  ねつになった

  あたまがもやもやするからきょうはこれで終わり

 

  ……

 

  ◾︎

  日記をかくのをずっとわすれていました。

  だから、きょうからはお兄ちゃんに手がみをかくとおもって日記をかくことにしました。これならわすれません。

  きょうおもしろかったのは、はれているのに雨がふったから、みんなで手をつないで「きつねのよめいりー!」ってとびはねてうたったこと。

  あと、ひみつの家がとうとうかんせいしました。

  ちいさな小やだけど、ふるいカンテラや食べものをもってきて家においておきました。

  だれかが家のなかにいるときに、わざと外にでてからまた入ると「おかえり」といわれるから、そういうときはわたしも「ただいま」といいます。

  友だちといっしょにすんでるみたいでたのしいです。

  お兄ちゃんにもいつかきてほしいです。

 

  ◾︎

  ロアの町のてんきはどんなかんじですか?

  ブエナむらでは雨がふりそうになりました。

  外であそんでいたら、エトさんが、

  「おお雨がふるから、かえれ。」

  といいました。空をみると、黒くて大きなくもがゆっくりうごいているのがみえました。シルフィが、

  「ボクたちは、雨をふらせる魔じゅつなら知ってるのにね。」

  というと、レミくんが、

  「雨をやませることも、できたらいいのにな。」

  といいました。そしたら、メリーちゃんが、

  「みんなで考えてみようよ。」

  といったので、そうすることにしました。

  「いいこと思いついたよ、シンディ、てつだって」

  とセスちゃんがいって水弾とやぎのおちちをつかって、くもができるしくみをおしえてくれました。

  わたしはぷかぷかうかぶ水弾を下から魔じゅつであっためました。

  セスちゃんのはなしで、みんなはくもをけす方法がわかったようでした。たしか、きゅむろにんばすっていっていたと思います。

  くもがぴかって光ってたくさんあながあいて、そのあながどんどん大きくなって、くもがきえました。

  はれたからまたみんなであそびました。

  羊毛のしゅくじゅうのお手つだいもしました。

  歌いながらたくさんたたくと布がじょうぶになるんだって。お兄ちゃんはしってた?

 

 

 


 

 

 

 秋である。二十四節気をさらに細分化した七十二候の項目通り、虫(かく)れて戸を(ふさ)ぎ、石を持ち上げれば丸虫の集団が、葉をめくれば天道虫がじっとしている。

 二歳になったノルンの娯楽は、この鮮やかなぶち模様の虫を見つけることらしく、葉を手当たりしだいめくっては、「テントムチ!」と叫ぶのである。かわいい。

 アイシャは虫よりも土魔術や草花でつくる姉様人形のほうが好きなようで、作ってあげると、「ねねちゃん、ありやとう」とお礼を言うのだ。こっちもかわいい。

 

 妹たちが二歳になり、私もしばらく経てば六歳になる。

 去年の五歳の誕生日のときは、たくさん祝ってもらえた。

 年を越した時ではなく自分が生まれた日に歳をとるという決まりには未だ慣れないものの、祝賀は嬉しいものだ。

 

 五歳のお祝いに、母様が白紙を綴じた本をくれた。

 日記帳というらしい。日々見たことや感じたことを書いてね、と言われた。

 父様からはちょっと大人っぽい耳瓔珞を、リーリャからは温かい手袋をもらった。

 

 思い出せばどんどん懐かしくなってくる。

 シルフィとロールズさんからは木彫の首飾りだった。

 一族に伝わるお守りで、シルフィがロールズさんに教わりながら作ったらしいが、シルフィは初めてさわる彫刻刀を使いこなせず、幾度も指先を削ったあげく、結局ロールズさんの手が大幅に加わったそうだ。

 指の怪我は綺麗に治っていたが、シルフィはややしょんぼりしていた。完成まで自分で作ってみたかったらしい。

「すごく嬉しかったから、次はお兄ちゃんにも作ってあげて」とお願いしたのだ。

 

 村の人たちからは、食糧や羊毛をもらった。私に、というより家族全員への贈り物という感じだ。

 とても感謝している。お礼にブエナ村にトウビョウ様を取り憑かせようと思うくらい。

 トウビョウ様には雨をつかさどる水神としての側面もあるのだ。信仰を集めれば村は私の死後も旱魃に苦しむことはなくなるけれど、扱いを誤った場合の惨事が釣り合わないので、思い直してやめた。

 

 私が五歳になり、そろそろ六歳になることも、愛らしい妹たちの成長も、兄は手紙でしか知らない。

 会えたら、話したいことはたくさんある。

 正月と盆の藪入り*2に帰省してはくれまいか、と期待していたが、兄は一度も家に帰ることはなかった。この国には正月も盆もないので、藪入りの制度もないのかもしれない。

 手紙を送れば返事がくる。村の家族や友人を気遣い、ロアでの日常や近況を面白おかしく綴った文面に、素っ気なさはない。

 でも、わかる。兄は私たち家族を避けている。

 

「シンディ? 聞いてる?」

 

 顔をのぞきこんできたシルフィに首をかしげられた。

 今は、書机がある兄の部屋で、豪雷積層雲(キュムロニンバス)を応用して、雨天を晴天に変える理屈について教わっていたのだった。

 先日みんなで協力して成功したのだが、私は理屈がよく分からなかったから、こうして改めて教えられているわけである。

 

「聞いて……ううん、聞いてなかった」

「こらっ」

 

 嘘は良くないので正直に答えると、額をぱちんと指で弾かれた。

 

「最初から教えるね。まず、これはルディが言ってたことなんだけど、空気には水が溶けていて、空気が冷たくなると、溶けきれなくなった水が出てくるんだって。

 雲の正体は、上に昇って冷やされた空気から出てきた水なんだよ。ここまでは大丈夫?」

「うん」

「このあいだボクたちがしたことは、豪雷積層雲(キュムロニンバス)を発動して魔力が空に届くようにしたあと、空の空気をあたためて、溶けている水の量、を……」

「どうしたの、シルフィ?」

 

 真顔になって沈黙したシルフィ。

 話を理解できていないように見えたのだろうか。話すのを途中で中断するほどに。

 

「……指いたい」

 

 石頭でごめん。

 

 

 薄ら涙を目にためているシルフィの指先が、淡緑色にぼんやり光った。

 治癒魔術の無詠唱は、兄にも成し得なかった芸当である。

 もしかしたら、ロアでできるようになっているかもしれないけれど。

 

 私にできる無詠唱の魔術は、火と水と土の初級のみだ。

 現在のブエナ村でいちばん魔術に熟練しているのは、シルフィである。そしてドベが私だ。

 お兄ちゃんは才能があるのに、私にはないらしい。

 神童を兄に持つのだから、少しくらい……と自分に期待していたのだが、魔力量が多いだけのドベなのである。

 母様は、それでも十分すごいことよ、と言ってくれる。

 火起こしは初級の火魔術で間に合うし、生活に必要な水も水魔術で過不足なく作れるのだ。

 兄ほど出来なくても母様は褒めてくれるし、私も魔術を極める気はないので、これでいいと思っている。

 

 

 こんこん、と扉が叩かれた。

 リーリャが顔を出し、シルフィを呼ぶ。アイシャがお昼寝したので、手が空いたのだそうだ。

 リーリャは、手隙の時間にシルフィに礼儀作法を教え込むようになった。

 シルフィが兄のお嫁さんになるには必要なことらしい。リーリャの指導はときに厳しいが、シルフィは真面目に取り組んでいる。健気だ。

 

「あしゃっ、ねんね」

「そうね、アイシャがねんねしてるね」

 

 一階の居間で、カーテシーというお辞儀の仕方を習うシルフィを見ていると、ノルンが手を引いてきて、アイシャをゆびさした。

 ゆりかごのアイシャはバンザイの格好ですやすや寝ている。

 生まれたときは二人寝かせても余裕があったゆりかごが、今はもうアイシャ一人でぎゅうぎゅうだ。

 

「ねんねしゅてるねー?」

「かーわいい!」

 

 こてんと首をかしげたノルンの愛らしさにたまらず抱きしめたが、ノルンは抱擁の気分ではなかったらしい。「いなない!」と腕をあげて怒った。

 

 てぽてぽ歩くノルンについて行くと、洗濯場に到着した。

 

「えいし」

 

 よいしょ、と舌足らずな掛け声と共に、ノルンは洗濯済の襁褓をひっぱり出した。私は崩れた襁褓の山を積みなおし、後を追う。

 ノルンは背伸びをして、震えながら玄関扉の把手に手を伸ばしていた。

 

「ねーちゃ、ちゃ!」

「うん、おんも(お外)行こうね。階段があるからね、お姉ちゃんとおててつなごうね」

「あーい」

 

 玄関の扉をあけ、庭へ。

 うちの家はちょっとした傾斜の上に建てられていて、そのため玄関の外には石階段が三段誂えられている。

 一段一段をしゃがみながら降りたノルンは、キョロキョロ何かを探す素振りをしたあと、表情を輝かせてそちらに走っていった。

 花壇の方角だ。庭の手入れをする母様と、母様にちょっかいをかける父様がいる。

 

「ねんね、ねんね」

「ミャウー……」

 

 ノルンの目的は母様でも、父様でもなく、花壇のそばでくつろいでいた雪白だったようだ。

 漆黒の毛皮の上に襁褓を被せ、とんとん背中をたたくノルン。

 毛布のつもりらしい。

 雪白の眼が、どうにかせい、と私に訴えているように見える。雪白の眼が私と母様とおそろいの碧色だったのは仔猫のときだけで、成猫になった今はハシバミ色だ。

 

「ノルン、雪白は毛がたくさん生えてるから、襁褓はいらないよ」

「……めッ! ゆちちよ、めんめ!」

 

 ノルンの叱咤むなしく、雪白は襁褓をふり落とし、ずっと笑いを堪えた顔で私たちを見ていた母様の肩に駆けのぼった。

 雪白はフンッと鼻息をひとつ吐き、ノルンから顔を逸らした。

 先に決壊したのは父様だった。

 

「……グフッ、ふ、ハ、ハ!」

「そんなに面白い?」

「あ、ああ。そ、そうだよなあ? オムツも布だもんな?」

「……」

 

 引き笑いをしながら父様はノルンの頭をぽむぽむ撫でる。

 ノルンは不満顔だ。こんなに小さいのに、ちゃんと矜恃があって、自分が笑われていることがわかるのだ。

 

「ノルンは真剣なのに、笑われてくやしいね。悪いお父さま!」

「とーしゃま、めんめ」

 

 ノルンを抱きしめて父様を批難すると、父様はやっぱり笑いながら謝った。父様も母様もひとしきり笑ったあと、ふと母様が言う。

 

「シンディ。お母さんとお父さんのこと呼んでみて?」

「母様、父様」

 

 二人はなんとも言えない表情で顔を見合せた。

 

「あのね、シンディ。ノルンもアイシャも、ちゃんとした言葉を喋り始めてきたじゃない? だからこれからは、お母さん、お父さん、って呼んでほしいのよ」

「どうして?」

 

 母様と父様じゃダメなの?

 

 不思議に思っていると、父様が説明してくれた。

 父様も母様も元貴族である。両親を最大限敬うのが当たり前、敬語を使うのが当然で、父さん母さんなんて砕けた呼び方をした日には厳しく咎められた。

 自分らがかつてそう呼んでいたから、生まれた子供にも「母様」「父様」と言うように教えた。

 

 農村でそんな呼ばせ方をさせている家はないという事に気づいたのは、初子のルーデウスが生まれた数年後。

 次子――私が言葉をおぼえ始めた時期だ。

 二人は一人称を「お母さん」や「父さん」に変え、軌道修正を計ったが、一度定着した呼び方を兄と私が変えることはなく、今に至るのだという。

 

 ノルンとアイシャがハキハキ喋り出す前に、呼称の変更をきちんとさせておこう、と結論を出したらしい。

 さらに、リーリャはもう使用人ではなく家族であるので、これからは呼び捨てにせず「リーリャさん」と呼ぶようにも言われた。

 なるほど。

 

「お母さん、お父さん」

 

 私がそう言うと、母様と父様改め、お母さんとお父さんは、ちょっと気恥しそうな顔をした。

 もっと早く察してあげたらよかったな。

 兄にも、二人が喜ぶ呼称を教えてあげよう。来月の手紙を出す日が待ち遠しい。

 

「びゃあああぁあ!」

 

 家の方から盛大な泣き声が聞こえてきた。

 

「我が家のドラゴンが起きたみたいだな」

「今日は一段とご機嫌ななめね」

 

 アイシャのあまりに烈しい癇癪は、両親に〈我が家のドラゴン〉と愛情とほんの少しの憎らしさを込めて言わせるほどだ。

 ノルンを連れて家の中に戻ると、アイシャが床につっぷし、頭を抱えて絶望しているみたいな格好で泣きわめいていた。

 リーリャは眉をひそめて溜息を吐き、シルフィは丸まったアイシャの背中を撫でている。

 

「のっ、のんねえ、のんねえがいないいい!」

「アイシャちゃん、ノルンちゃんいるよ。シンディと一緒に帰ってきたよ、良かったね」

「いないのッッ!」

 

 居るよ。

 いないことにされたノルンは我関せずで親指をしゃぶっている。 

 シルフィと二人かがりで亀のように縮こまったアイシャをひっくり返し、ノルンと対面させると、「ねねちゃとのんねえがあたちのこと置いてった!」と違う理由で怒って泣き始めた。

 

「アイシャは寝てたでしょ?」

「おこしてくれたらよかったでしょ! ねねちゃのおっちょちょちょい!」

「おっちょこちょい?」

「アイシャ! お嬢様になんて口を利くの!」

「ああああん!」

 

 起こしたら起こしたで、睡眠を邪魔されて不機嫌になるだろう。

 理不尽だが、これが自我が芽生え始めた二歳児である。

 私もかつては兄の名前が「にぃに」ではないことに怒って泣いた。二歳から三歳の時期は、数々の絶望を通して、浮世が自分の思い通りにならぬことを思い知る期間なのだ。

 おっちょこちょいと言われてしょげていると、シルフィが「大丈夫だよ、シンディは賢いよ」と励ましてくれた。

 

「はぷっ」

「ノルンちゃん?」

 

 シルフィがびっくりした声をあげる。

 ノルンが歩いてアイシャに近づき、アイシャを抱きしめ――頭をがっちり捕まえてほっぺを食みはじめたのだ。

 

「どうして噛んだの?」

「あいしゃがエーンなのやだだったの」

 

 アイシャが泣いているのが嫌だったらしい。

 アイシャはきょとんとして泣き止んだが、リーリャに見られていることに気がつくときっと険しい顔をした。

 

「もうお母さんやだ! きらい! あっちいって!」

「ええ、ええ。そうさせてもらいます!」

 

 あんまりな言い様に立腹したリーリャが部屋を出る。

 アイシャはさしぐんだまま、ちょっと開いた扉の隙間から廊下を覗いてリーリャを探す。怒って姿を消したように見えても、母親が扉のすぐそばで自分を見守っていることを知っているからだ。

 

「アイシャ、お母さんいた?」

「……いなかった」

 

 あら?

 

 シルフィが廊下をきょろきょろ見て「ほんとだ」と言う。

 

「どうしようか、アイシャちゃん、リーリャさん居なくなっちゃったよ」

 

 深刻そうな声音で告げるシルフィに、アイシャは「そんなのうそだよ」と返すが、不安そうだ。

 

「ねねちゃん、うそでしょ?」

「うーん……」

 

 そういう時期とはいえ、事ある毎にイヤとキライを言われるリーリャも可哀想だ。目配せを送ってきたシルフィに頷きかえして了解の合図をした。

 

「アイシャに嫌いって言われたから、悲しくて出ていっちゃったのかもね」

「いいもんっ」

「いいの? ほんとに?」

「あたちもう赤ちゃんじゃないの。しょれでね、りーやさんいなくていいんだよ」

 

 二歳になったばかりの妹がとっても自立している。

 ちなみにノルンは、イヤイヤがそこまで烈しくない代わりに、お母さんか私、そしてハンナちゃんにベッタリである。

 

「お姉ちゃんも赤ちゃんじゃないけど、お母さんは居てほしいよ。お姉ちゃんが大人になっても、ずっと」

 

 多分、叶わないだろうけれど。

 ヒトの行く末を見渡せるからといって、結果を変える力まで授かったわけではないのだ。

 

「リーリャさんにごめんなさいできる?」

 

 アイシャはしばらく黙りこんでいた。

 答えを待っていると、やがて大きな眼からほたほた涙が落ちる。そろそろ眼が溶けそうだ。

 

「……あとでぇ……」

「泣き止んだらいえるよね、アイシャは良い子だもんね」

 

 気まずそうなアイシャの頭を撫でる。

 ちゃんと分かってるもんね。

 

「ねねちゃん」

「なーに」

「おっぱいちょうだい」

「はい」

 

 床に正座し、服をたくしあげるとちゅうちゅう吸いつかれた。

 ついでにノルンも寄ってきて、空いたほうの胸を吸いはじめる。

 二歳になり、おっぱい断ちを余儀なくされた妹たち。

 しかし言葉で説得してわかる齢ではない。

 お乳を飲ませろとグズっていたノルンに、お姉ちゃんのでもいい? と、試しに差し出して以来、何かと要求されるようになってしまった。それを見たアイシャも、悲しいことがあると時々要求してくる。

 お乳が出なくても、咥えるだけで心が落ちつくらしいのだ。

 ワーシカといっしょだ。

 

 ぺたんこな胸を吸う赤茶と金色の頭をなでつつ、シルフィが思い出したように言った。

 

「ワーシカは、あの子、まだ寝る前にソーニャのおっぱい吸うらしいよ」

「ワーシカにぃちゃん、4さいなのにおっぱいなのー!?」

 

 ぱっと口を離し、幼なじみの秘密を暴いたとばかりに嬉しそうにするアイシャを「笑わないの」と咎めた。

 

「アイシャもおっぱいちょうだいしたでしょ」

「あたち2さいだからいいの」

「2歳も赤ちゃんじゃないよ?」

 

 だからね、おっぱいは飲まなくていいんじゃないかしら。

 私としてはアイシャとノルンがご機嫌になってくれたらそれでいいから、二人が服の中に頭をつっこんできても拒まず好きなときに吸わせていた。

 でも私は知っているのだ。

 授乳ごっこを見た母様が心配そうに「将来変な子にならないかしら……」と呟いていたのを。

 だから、やめたほうがいい事なのだろう。

 アイシャはそろそろ言葉で説得できるかもしれない。

 

「2歳の子はもうおっぱいないないだよ」

 

 と、アイシャに言うと、アイシャは父様ゆずりの翠色の目を私に向けた。

 

「あたちカタカタもらってないもん。赤ちゃんだもん」

 

 少し前に、レミくんがワーシカにおさがりの玩具をあげた。

 小さな馬車をひっぱると車輪が回転し、御者がカタカタと首をふる玩具だ。

 同じものを欲しがって大騒ぎをするアイシャに、リーリャが言い聞かせたのだ。

 あれは「お姉ちゃん」になったらもらえる玩具だから、アイシャが三歳になったらお母さんが買ってあげる、ただし、あれをもらったらもうお姉ちゃんなのだから、何でもイヤイヤしたりわがままを言うのはお終いね、と。

 アイシャは納得し、カタカタが欲しいと駄々をこねることは無くなった。

 

 カタカタをもらっていない自分は、まだお姉ちゃんになっていない。つまり赤ちゃんである。

 だからおっぱいを吸っていても良い、と理屈をつけているのだ。さっきは自分で「もう赤ちゃんじゃない」と言っていたのに。

 

 こんなに小さいのに理屈をつけて話せるのだ。

 賢い。さてはこの子も前世の記憶が……。

 いや、だとしたら私のぺったんこな胸は吸おうとしないか。

 生前の記憶がまだらにある私が二歳だったときは、こんなにぽんぽん喋れていなかったし、会話もここまで成立していなかった。アイシャはすばらしく賢いのだ。

 

 グレイラット家の子供は二極化される。

 神童であるほうと、そうではないほう。

 アイシャは兄に次ぐ我が家の神童だ。生まれたのが日本であれば、将来は高等科どころか、帝国大学まで進学できたのかもしれない。

 

「できの良い兄妹にはさまれちゃって、苦労しそうだねー?」

「ぱいぱい」

 

 そうではないほうの子供である私は、仲間のノルンに語りかけた。

 

「ねーね、こっ」

 

 お姉ちゃん、抱っこ、と舌足らずに両腕を上げるノルンをみると安心する。

 アイシャを一度退かしてノルンを抱っこしようとすると、ムッとしたふうにしがみついてきたアイシャがノルンのおでこを押しのけた。

 

「のんねえ、おさないでよ! あたしがいちばんだからねっ」

「ぎゃーん!」

「あわ……」

 

 押しあい頭つきあい。

 余波が私にもおよんで参っていたら、シルフィがノルンのほうを引きとってくれた。

 いつの間にか戻ってきたリーリャが疲れた顔で私からアイシャを引き剥がした。

 

「喧嘩する子は一緒に遊ばせませんよ!」

 

 と、一喝。

 リーリャが私の肌着とブラウスを下ろして胸をしまいながら、アイシャを叱った。

 

「やだああ! のんねえと遊ぶのお!」

「お姉ちゃんとは遊べなくていいの?」

「いくない!!」

 

 大の字になって泣きわめくアイシャだったが、

 

「アイシャ、リーリャさんに何て言うんだっけ?」

 

 私が言うと、床に仰のいて泣いた顔のまま叫ぶように言った。

 

「ごめんなしゃああ! お母さん! ごめんなしゃい!」

「この子は……もう……」

「ゆるして! お母さんゆるしてよう!」

 

 アイシャは膝をついたリーリャに小猿のようにしがみつき、リーリャは呆れたような、満更でもなさそうな顔でアイシャを抱きしめた。

 アイシャはくすんくすん泣きながらリーリャの胸に顔をこすりつけた。

 私のおっぱいとは遊びだったのだろうか。

 むしろリーリャのおっぱいが本命で、妾がわたし……?

 

「の、ノルン……お姉ちゃんのおっぱい好き?」

「ぱっぱいー」

 

 ノルンにおそるおそる訊ねると、ノルンはにこにこ笑って私のぺたんこな胸をぽふぽふ叩いたのだった。

 

 

 夕暮れ時。

 機織りや礼儀作法の手習いを終え、家に帰るシルフィを途中まで送ることにした。

 ときどきすれ違う村人たちと挨拶を交わし、見つけた山査子の実を摘み食いしながら歩くうちに、いつもの丘が見える所にさしかかった。

 

「お見送りありがとう。ここまでで良いよ」

「……」

 

 もうお別れか。

 また明日会えるけど、ちょっと寂しい。

 毎日のように遊んでも、一日の終わりに必ず来るお別れをやや寂しく思った私は、シルフィといる時間を引き伸ばすためにこんなことを口にした。

 

「ねー、どうして自分のことボクっていうの?」

「そういえば、なんでだっけ?」

 

 シルフィは立ち止まり、きっかけを記憶から探るように視線を右上にさ迷わせ、「えーっとね」と語り出した。

 

「ボクね、ルディと友達になる前は、誰ともちゃんと関わったことがなかったんだ。

 初めて友達になったルディが、ボクと喋るときは一人称が〈俺〉なのに、お父さんと喋るときは〈僕〉だったんだよ。なんで言い方を変えるの? って訊いたら、ルディは、相手によって変えないと失礼になるからって」

「お兄ちゃんの真似してたの?」

 

 衝撃の事実である。女の子は〈私〉でいいのに。

 

「失礼なことをしてみんなに嫌われたくなかったから、それ以来、外では自分のことをボクって言うことにした。

 今では女の子は〈私〉って言うのが普通だってわかるんだけど、なんか、癖になっちゃって……変えた方がいいかな?」

「どっちでもいいよ。どんな言い方でも、私はシルフィのこと好き」

「えへへ……」

 

 シルフィが照れたようにはにかんだ。

 

「シンディはさ、他の子はソーニャちゃんとかヨッヘンくんとか呼ぶのに、ボクだけ呼び捨てなのはどうして?」

「やだった?」

「ううん、ただなんでかなって」

「お兄ちゃんがいちばん言う名前がシルフィだったから、呼び捨てがうつったのよ」

 

 性別を勘違いしていたためか、それともシルフィに飛び抜けて魔術の才能があったためか、彼女に特別目をかけていた兄はよくシルフィのことを話題にした。

 他の子と同じように、最初は「ルフィちゃん」とか「シルフィちゃん」と呼んでいたのが、兄の呼称がうつって私まで呼び方が「シルフィ」になったのだ。

 

「ボクたち、たくさんルディに変えられてるんだね」

 

 にへっと笑うシルフィはうれしそうだ。

 

「ずっと仲良しでいようね」

 

 目の前から現実感が薄れていく錯覚をおぼえた。

 生前はこういう風に言ってくれる友人はいただろうか。

 いなかっただろう。私がトウビョウ持ちの家系だったからだ。

 今は異なる。飢えを知らず、トウビョウ様の力は隠され、明日も明後日もしあわせな今日の続きだと信じていられる。

 

「うん、約束ね」

 

 それから私たちは地上に映る影法師を動かして遊んで、本格的に暗くなる前に互いに手をふって別れた。

 石ころを蹴りながら帰ると、家に着くころには空は真っ暗だった。井戸の水で手を洗ってから家に入る。

 

「ただいま! 聞いて母様、さっきシルフィとさ、」

「あら。あらあら」

「なあに母様」

 

 母様ったら、驚いた顔してどうし……あっ。

 

「お母さん!」

「ふふ、そうよ、思い出してくれてありがとう」

「忘れちゃってごめんねー」

 

 謝りながら抱きつくと、額に口をつけられ、もうすぐ夕飯だから座って待っているように言われた。

 

「お母さん……お母さん……」

 

 ぶつぶつ復唱しながら、椅子の座面から雪白を退かし、ノルンとアイシャの台を用意してやる。座高を調節するための台だ。

 父様が不自然に私の視野に入り、しきりに自分を指さしてきた。自分も呼べということか。

 わかったよ、という意味の笑みを浮かべ、言葉を発する。

 

「父様」

「おっと、焦らすじゃねえか」

「え?」

「え? 本気で忘れてるのか?」

 

 思い出した。お父さんって呼ぶのだった。

 お父さんは拗ねた顔でノルンを抱き上げ、椅子から離されたノルンは「まんまあああ!」とテーブルに手を伸ばして怒った。

 このまま遠い所に置かれて、自分だけ夕飯を食いっぱぐれると思っているのだろう。

 

「あのねお父さん、シルフィとずっと仲良しでいようねーって約束したの。それがうれしくて呼び方変えたの忘れちゃったよ」

「忘れちゃったかあ。じゃあ仕方ないな」

「したかたないよ」

 

 あら?

 いま「仕方ない」って上手く言えてなかった気がする。

 まあいいか。失敗を恐れるな、って前に兄が言われてたもの。

 

「お母さん、お父さん……」

 

 何年も母様父様と呼び続けていたから、変えると違和感がつきまとう。

 新しい呼び方に馴染めるよう努めるが、しばらくは呼び間違えてしまいそうだ。

*1
焚き付け

*2
住み込みの奉公人や嫁いできた嫁が実家へ帰省できる休日のこと。



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十六 吉兆の錦雲

ノルンとアイシャの年齢について
アニメ版に準拠し、ゼニスとリーリャの妊娠が発覚したのはルーデウス6歳の冬(413年の11/22以降)であるとします。
年表では413年生まれになってますが、上記の設定で考えるとノルンとアイシャが生まれたのは恐らく414年の秋頃になります。
妊娠が発覚したのが413年の1~2月であれば413年内に出産は可能ですが、その場合だとルーデウスとの年齢差が5年に縮んでしまいます。
よってこの二次創作ではノルンとアイシャは414年に生まれたという事にします。



【甲龍歴417年】

 

 初夏である。

 グレイラット家の庭には、油絵具を重ねたように色とりどりの花が咲き誇る円形の花壇があった。

 二つ三つの幼子らが、花壇のへりに、作った泥団子を黙々と並べていた。その表情は真剣そのものである。子供の名をノルンとアイシャといった。

 少し離れた物干し場では、それぞれの産みの母親が竿にかけた毛皮の毛布を丹念に梳いている。

 冬の間は就寝時に必須な毛皮であるが、気温が上がれば不要になる。物置の長持にしまう前に、天日干しをして、ブラッシングで汚れを落としているのだった。

 

「ふう、暑いわね。夏がいっぺんに来たみたいだわ。昨日は涼しかったのに」

「気温が安定しませんね、作物への影響が心配です」

「そうね、子供たちのおかげで水不足の心配はないけど、冷夏はどうにも……あら、パウロ、さっき帰ってきたのに、もう出るの?」

「ああ、また森に魔物が出たらしい。サクッと倒してくるよ」

 

 ゼニスとリーリャのそばを馬具を抱えたパウロが横切り、通り過ぎざまにゼニスの腰をスルリと撫でた。

 子供の前でそういうことは、と咎めようとして、ゼニスは思い直す。活性化した魔物の討伐だの、添い寝をせがむ娘だので、ここ一週間ほど共寝をしていない。

 物足りなさを感じているのは自分とて同じなのだ。

 ゼニスはパウロに秋波をおくり、「いつもお疲れ様、早く帰ってきてね」と言い添えた。

 

「おう!」

 

 パウロは妻からの誘いに少年のように嬉しそうに応え、鞍をとりつけたカラヴァッジョに飛び乗った。

 

「おとーさん、いってらっしゃーい」

「いってらっしゃー」

 

 手をつないでパウロを見送る娘たちに手を振りかえし、庭を囲む石垣をたくみに馬を操ってドウと飛び越えた。

 

「もー……あの人ったら、すぐ調子に乗るんだから」

 

 心做しか弾んで去ってゆく背中が妙に愛おしく、ゼニスは嘆息まじりの笑みを浮かべた。

 子供が生まれる前なら、無邪気に彼の帰りを心待ちにしていればよかった。だが、もう今は違うのだ。

 

「あなたー! 夕方までに終わったら、ロールズさんの家に寄って、シンディを迎えに行ってあげてー!」

 

 わかってる、というふうに馬上のパウロが片手をあげた。

 ルーデウスを産んだばかりのゼニスであれば、こんなふうに慌てて声をかけて、一瞬でも生じた恋人時代の雰囲気を壊すことはせず、余韻に浸ることを選んだだろう。

 子供はあとで自分で迎えに行けばいいか、と思ったことだろう。

 遠方だが九歳の子がひとり、六歳の子がひとり、もうすぐ三歳になる幼子をふたりも抱えていて、しかも頻繁に村の子供が遊びに来る今では、ゼニスかリーリャの一人でも欠けたときの家の慌ただしさは身に染みて知っている。

 最愛の相手でも――いや、最愛の夫にだからこそ、子供のことや家のことで頼れることは頼らなければ、家は回らなくなるのだ。

 

「アイシャ。ノルンお嬢様と手を洗いなさい」

「はーい」

 

 リーリャの声にめんどくさそうな返事を返しながら、アイシャはノルンと一緒に、桶に溜めていた水に手を浸して擦りあわせ、手についた泥を落としはじめた。

 

「ノルンねえはなんさいですかー?」

「えっとねえ、ろく!」

「ちがうよ、お姉ちゃんのとしでしょ、それ」

 

 指を自信満々に五本つきだしたノルンに、アイシャはうふうふ嬉しそうに訂正した。アイシャはきょとんと首をかしげるノルンの手をとり、小指と薬指、中指を折りたたんだ。

 

「ノルンねえはねぇ、まだふたっつだからー……こう!」

「こう?」

「そーだよ。でも、あと何十回もねると、こう」

「さんさい!!」

 

 左手で右手の小指と薬指をおさえつけ、ノルンは溌剌と答えた。

 いいこいいこ、と陽をふくんで艶やかに光る髪をまだちょっと濡れた手でアイシャが撫でる。この場にはいない上の姉の真似をしているのだ。

 

「おねーちゃんどこなの?」

「シルフィねえのお家にいるよ。シルフィねえが十歳になったからね、お祝いにケーキとどけにいったんだよ」

「のんも行きたかった」

「あたしとあそぶのイヤ?」

「ううん。あーしゃカワイイからすち」

「じゃあお姉ちゃんかえってくるまで、あたしとあそぼ」

「うん!」

 

 同日に生まれたアイシャに比べると、ノルンはまだ舌をうまく使えない。

 ゆえに自分のことは「のん」、妹のアイシャは「あーしゃ」といった具合であったが、そのうち自然と喋るようになるだろうとゼニスはのんびり構えていた。

 言葉は遅いが、その代わり、ノルンは姉のシンシアより寝返りも歩くのも早かったのだ。育ち方は人それぞれであると承知していた。

 

「あーしゃ、にじゅうななは?」

「えっ? 27? えーっとね」

「おとーさんにじゅうななさい」

 

 アイシャは考え、地べたに座ると靴と靴下を脱いで、足の指の上に両手を揃えて広げた。七本足りない。

 

「ノルンねえ、片手はパーで、もうかたっぽははさみにしてよ」

「あいっ」

「はい! これで、27!」

「きゃはーっ」

 

 嬉しそうに笑うノルンを見て、アイシャは裸足のままゼニスの前にかけよった。

 

「ねえゼニスお母さん、ノルンねえがさ、いろいろ、いろいろあたしに聞いてくるからさ、あたし大変なんだよー」

「ええ、ちゃんと見てたわよ、アイシャは良い子ね」

「えへぅ」

 

 抱きしめられ、頬ずりをされながらアイシャはちらちらリーリャの方を見る。

 リーリャに同じことを言えば、褒めるどころか、自分のした事をひけらかすんじゃありません、と叱りを受けるだろう。使用人は影ながら主人やその家族を助ける存在であるべきだからだ。

 いかに娘には小言の多いリーリャでも、ゼニスのすることには口を出さない。それを知っているアイシャは勝ち誇った顔でリーリャを見上げ、リーリャは頭の回る娘にやや渋い顔をして眉間を押さえた。

 

「おかーさん、チーでる」

「はいはい、言えて偉いわね、もうちょっと我慢してね」

 

 ゼニスはいそいそとノルンを厠に連れて行き、農村では一般的な土かけ便所に座らせた。

 ごきげんなノルンが歌いながら用を済ませるのを待ち、拭いて綺麗にしてやってから、アイシャと遊ばせるために庭に連れて行く。

 

「おかーさん、おかーさん、みて」

「んー?」

 

 ノルンが指さしたほうに視線を移す。

 家の白い漆喰壁に、桶の水の水面が反射して映っていた。

 光るうろこのように揺らめく影を見て、ノルンは楽しそうに体を揺らした。

 

「綺麗ね。あれは、水影っていうのよ、ノルン」

「みじかげねえ、川だよ」

「川? 昨日、お姉ちゃんと遊んだときにも見たの?」

「うん」

「そう。よく気がつくわね」

 

 ノルンの綺麗な金髪を撫でながら、ゼニスは思う。

 生家で暮らした日々に、学校の友人に、冒険者の仲間、恋人の時間。過ぎ去り、戻らないものはたくさんある。

 恋の初々しい駆け引きも、二人きりの甘い時間も、子供が産まれた今では体験することはないだろう。

 少女だったときは、パウロと、それから私がいれば他にいらない、とまで思っていた。でも、子供たちがいない人生はいまや考えられない。

 我が子たちを見ていると、愛情が春の陽のようにふくらんでくる。

 その現象が、ゼニスは不思議だった。

 

 自分とは関わりのない、何かほかの力が働いているように思えてならないのだ。不思議な力だ。

 人はそれを母性と言うのだろう。

 我が子は驚異であり、歓喜であり、そして寂寥である。

 それら全てを抱きしめて、ゼニスは思うのだ。

 私は幸せだ、と。

 

 

 


 

 

 

「十歳の誕生日おめでとうー!」

「え!? シルフィ、めっちゃかわいい!」

「うわぁ、真っ白、天使みたい!」

「ありがとう、えへへ……」

 

 シルフィが十歳になった。

 友達とシルフィの家まで祝いに行くと、白い絹のワンピースを着たシルフィと、シルフィのお母さんが迎えてくれた。

 裾が襞になっている可愛らしいワンピースである。

 髪は手先の器用なハンナちゃんとソーニャちゃんが一足先に来て、三つ編みをお団子に編み込んだらしい。

 流行りの髪型といえば桃割れくらいしか知らなかった私だが、衣服や顔立ちが異なるからか、シルフィには桃割れよりこちらのほうが似合っていると思った。

 まるで異国のお姫さんみたいだ。

 

 あのときは五歳だった子が、もう十歳。

 なんだかとても感慨深い。

 

「初めて会ったときはこんなに小さかったのにね……」

 

 しみじみしながら手で昔のシルフィの身長を示す。

 ……あら? 今の私とちょっとしか違わなくない?

 

「シンディは初対面は二歳だったじゃん」

「憶えてないでしょー」

 

 セスちゃんとメリーちゃんに笑われた。

 

「憶えてるよ!」

 

 忘れもしないあの日。

 物見櫓からの景色を見て待っているとシルフィがきて、エマちゃんと手をつないでどんぐり拾いにいって、隠れんぼして、えーっと、家の前でリーリャが待っててくれて……?

 とにかく、気がついたらシルフィは一緒に遊ぶ仲間に加わっていたのだ。

 

「うちの母からです。パウンドケーキです。おいしいよ」

「まあ。悪いわ」

 

 シルフィのお母さんは申し訳なさそうにしていたけれど、籠を娘が熱心に見ていることに気がつくと、「みんなで食べましょう」と、にこっと笑って手提げ籠を受けとった。

 

「ロールズさんはいないの?」

「うん、魔物がまた出て、その討伐に」

「ふーん。あ、私これがいいな。チェリーいっぱい入ってそう」

 

 そう言うセスちゃんに、ソーニャちゃんが苦笑しつつ「ここはシルフィに一番に選ばせてあげよう?」とやんわり言った。

 昔は気弱だった彼女だが、最近は人を窘めることに物怖じしない。

 下にワーシカという弟がいて、さらに妹のミーシャも産まれたからだろう。

 

「シルフィ、中の干果食べていいよ」

「生地の部分ほんと好きだよねー、せっかく美味しいのに」

 

 と、メリーちゃんに言われた。

 別に嫌いじゃないけれど、砂糖漬けの果物は甘すぎて口の中がビックリするのだ。

 米の甘みさえ貴重だった生前と比べると、なんと贅沢な悩みだろう。

 

「お姫様! ドレスが食べこぼしで汚れては大変ですわ! ここはわたくしどもにお任せください!」

「姫様には食べかす一つ付けさせませんわ!」

「ふふん、良きにはからえ……って、そう言ってボクの分とる気でしょ」

 

 芝居を始めたセスちゃんとハンナちゃんにシルフィが突っ込んだ。ハンナちゃんはペロッと舌を出し「バレちゃった」とクスクス笑う。

 

「もー! ちゃんと自分で食べるよー!」

 

 切り分けられたケーキを食べ終え、私たちは外にくり出した。

 おめかしをしたシルフィを色んな人に見せびらかすためだ。

 

 

「レーンさん、こんにちは。ヒューも」

 

 最初に行きあったのは、養子のヒューを連れた若い女性だ。

 レーンさんである。母様ほど美人ではないが、愛嬌のある顔立ちで私は好き。

 

「こんにちは。みんな、家の仕事はいいの?」

「いいの。シルフィが十歳になったんだから」

「ぜーんぶ終わらせてきたよ」

「こんちゃ!」

「はーい、ヒュー、挨拶できてえらいね」

 

 頬に煤をつけたヒューがにこにこしながら近づいてきたので、頭を撫でて褒めてあげた。

 そしてさりげなくヒューをシルフィから遠ざける。シルフィの新しい服に煤を付けられたら可哀想だもの。

 

「もう十歳? 大きくなったもんだねえ。それじゃ、プレゼントは焼きたてのゼンメルでいいかな」

「あ、ありがとうございます」

 

 香ばしい匂いだ。村共用の大型竈に寄った帰りだろうか。

 レーンさんは、籠に入ったパンをいくつか包んでくれ、シルフィはちょっと戸惑いながら受けとった。

 

「じゃあね、レーンさん、ヒュー」

「ばいばーい」

 

 二人と別れようとすると、ヒューは私の手を握ったままその場にすばやくしゃがみこんだ。

 

「ヒューはバイバイしないからね。シンディがいい!」

「こら、ワガママ言わないの!」

「いいよいいよ、ヒュー、私と一緒に行こうか」

 

 レーンさんにあとで家まで送り届けることを約束すると、己の要望が通ったことを察したのか、ヒューは笑顔になってすっくと立ち上がった。現金な子である。

 水魔術で頬の煤を洗い流してやり、ヒューと手をつなぐ。

 次に向かうのは、イッシュさんとエーヴさんの家である。

 彼らは子供の五歳と十歳のお祝いに、羊の乳や、乳で作ったチーズを分けてくれるからだ。

 

「おめでとう、シルフィ。その服似合ってるわよ」

「ありがとうございます」

 

 服を褒められて嬉しそうなシルフィが白い服の裾をつまんでひらりとお辞儀をした。

 品のある所作だった。リーリャに礼儀作法の手習いを受けているからだろう。

 

「ささやかだけど、お祝いね。籠も一緒にあげるわ」

 

 エーヴさんは、手提げの籠に、壜に詰めたバターやチーズを入れて、シルフィに持たせた。セスちゃんがそこに先程もらったパンを入れる。

 私はエーヴさんの背中から家の奥に視線を移し、たまらず訊ねた。

 

「エーヴさん、アリィは? 寝てるの?」

 

 アリィは愛称で、本名はアリアだ。

 去年の夏に生まれた、イッシュさんとエーヴさんの娘で、ヨッヘンくんの姪である。まだ一歳にもなっていない赤ちゃんだ。

 

「いつもアリィを可愛がってくれてありがとね、シンディ。いまは外でヨッヘンが見ててくれてるわ」

 

 子供も十歳になればもう立派な働き手である。

 この村では、十歳を機に、子供に家業を本格的に手伝わせたり、奉公に出したりするみたいだ。

 そんな訳で、ヨッヘンくんは、牧草地に羊の群れを移動させる兄達の手伝いをよくしている。

 群れからはぐれそうになった羊を長い杖の先をひっかけて転ばせる仕事だ。今日はアリィを背負ったまま行ったらしい。

 アリィがお腹を空かせたら羊の乳をあげればいいから、母親のエーヴさんから遠く離れても問題ない。

 戻ってくるのは夕暮れだろう。今日は会えなさそうだ。

 

「シルフィ、次はエトさんの所に挨拶しに行こ!」

「えっ!」

「いいねー、ソマルのやつもビックリするよ。シルフィかわいいもん」

「でも、最近はブスって言われるよ?」

「ソマルに? ちゃんと何かいい返してる?」

「デブに言われたくないって返したけど……」

 

「ぶす!」と、笑ってシルフィの発言を繰り返すヒューに、「それは使っちゃいけない言葉よ」と教える。

 面と向かって女の容姿を評するとき、使っていいのは褒め言葉だけだ、と父様も言っていた。それすらできない奴はロクデナシだ、とも。

 

「シンディ、ぶす!」

「あっ! 言ったわね! また言ったらキライになるわよ」

「ひひっ」

 

 小川沿いを歩いて移動する途中でレミくんに会った。

 午後の農作業を免除される代わりに、ソマルくんの祖父の家までお使いを頼まれたそうだ。

 歩き疲れてグズりかけていたヒューを背負ってくれないか頼んでみたら、快く引き受けてくれた。

 

「優しいじゃん」とハンナちゃんが言うと、「そういうんじゃないけど」とレミくんは返した。

 

「僕、こいつの、多分……母ちゃん? を、殺しちゃったから。なんかムシするのも悪い気がする」

「罪滅ぼしってやつ?」

「そこまで重くない」

 

「あの時は大変だったねー」と、メリーちゃんが過去を思い出しながら言う。彼女も二年前に誘拐されかけた一人だ。

 

「でもボク、不謹慎だけど、ちょっとワクワクしたなあ。非日常って感じで」

「ね! ごっこじゃなくて、ほんとに悪い人やっつけたもんね」

「私なんて焦ってた記憶しかないよ。ルディもシンディも、ノルンちゃんを私に預けたまま帰ってこなくてさ」

「わたし、怖くてずっと泣いてた……。でも、ヨッヘンが馬車から出してくれてね――」

 

 シルフィ、セスちゃん、ハンナちゃん、ソーニャちゃんの順で口々に喋りだした。

 すぐ思い出せるということは、それだけ当時の事が印象に残っているのだろう。

 

「シンディは?」

 

 問われ、改めて思い出す。

 もし、嫌いになったら……。あのとき兄が言いかけていた言葉の続きを、私はもう、察することができる。

 もし、嫌いになったら、俺もああいう風に死ぬのか。

 と、そう問いたかったのだろう。兄にとって私は脅威となり得るのだ。

 思いもよらぬ発想だった。私が彼を害することはありえない。

 

「……また同じことにならないようにしなきゃ、って、決心した!」

「そうだねー、もう人攫いにはあいたくないよねー」

 

 メリーちゃんに背中をポムポム叩かれる。

 なんだか違う伝わり方をした感じだけど、まあいいか。

 

「暑いなあ」

 

 シルフィが手で目の上にひさしを作り、上を見ながらぼやいた。真上に昇った太陽に照りつけられ、道は白っぽく乾いている。

 誰からともなく、足をとめた。

 遠くの山々に、不思議なものを見つけた。

 

「ねえ、あれって雲?」

「うん、……たぶん」

 

 それはたしかに雲だった。

 しかしその彩りが変わっていたのだ。

 

 (すもも)色に、青緑色、薄紫色、瓶覗(かめのぞき)色、山吹色、それらが高じて、ところどころに朱金色がキラキラしている。

 神々しい光景だった。まるで天女の羽衣が空にはためいているようなのだ。

 そんなふうにあざやかに彩られた雲が、遠くの山々にたなびいている。

 

 (にしき)雲だ。生前も含め、ここまで大規模なものは初めてだった。

 

「……」

 

 美しい、珍しい、を通り越して、それは不安な光景だった。

 産まれ、初めて外に出たときから、自然は私たちの隣にあり、そして格好の遊び場であった。だから自然になずんでいる、と無意識に思い上がっていたのだ。

 自然界への畏怖の念を、このとき私たちは感じていた。

 

 私たちは静まり返り、錦雲が薄くなってやがて空に熔け消えるまで、半ばぼう然と遠くの山稜を眺めていた。

 

 不思議な体験だった。

 

 

 

 

 

 『シンシアの日記』

  シルフィが十才になったから、みんなでお祝いした。

  おめかしをしたシルフィはいつもよりかわいかった。

  エトさんの家にいくとちゅうで、錦雲をみた。きれいだけどなんだか恐ろしかった。

 

 

「ねーねっ、ねーねっ!」

「ちょっと待って、待ってよう!」

 

 左右から妹二人に邪魔され、日記を書くのもそこそこに、やや古びた装幀をパタンと閉じた。

 あっ、インクが乾いてなかったかもしれない。

 慌てて開く。裏汚れは無し。きちんと乾いていたようだ。

 

 アイシャへ。「ちょっと待って」はお姉ちゃんの台詞だと思います。かしこ。

 

「ジャマしないでよーっ!」

「きゃああ! わああ!」

「まものー! まものが出たー!」

 

 私は寝そべって書いていた日記帳を枕元に放り、ノルンとアイシャにおおいかぶさった。

 体を拭かれ、寝巻きに着替えた妹たちは、私の下でじたばた暴れた。

 両親の広いベッドの上だからのびのびと転がれる。

 

 布団の上でじゃれあっていると、階段をのぼる音が聞こえてきた。母様とリーリャだ。私は寝たふりをするように妹たちに指示した。

 

「まだ遊んでる子はだーれだ?」

「ぐーぐー」

「ちゃんと寝てまーす、むにゃむにゃ」

「のんも寝てるよー」

 

 目蓋を閉じた暗闇の中で、二人が寝台に近づいてくるのが足音でわかった。口元がかってににやけてしまう。

 腋の下をくすぐられて目を開けると、同じようににやにやしている母様と目が合った。

 

「起きてたわね! 先に寝ててねって言ったでしょ! このこの」

「だってぇ! んふふ、くすぐった、へへ」

 

 母様は笑顔でベッドに潜り込んできた。

 腕がノルンの上に乗り、パチッとノルンも目を開けた。

 母様とは逆の方向からリーリャがベッドに乗った。

 リーリャ、アイシャ、私、ノルン、母様、の順で寝そべっている状態だ。

 

「お父さん、今日も帰ってこれなかったね」

「寂しい?」

「ちょっとだけ」

「お母さんも寂しいわ、ちょっとだけね。でも、あなたたちを守るためだもの。仕方ないわ」

 

 母様は、薄手の掛布団を私とノルンの胸元まで引き上げ、上からぽんぽん撫でた。「消しますね」とリーリャが言い、蠟燭の火が消され、完全な暗闇になる。

 

「……誰かあたしのおしりさわった?」

「静かになさい、アイシャ。誰でも良いでしょ」

「え? これアイシャのおしり? お姉ちゃん触っちゃった、ごめんね」

「そこポンポンだよ」

「ここは? これだれ?」

「このおててはノルンかしら? そこはお母さんの首よ」

「お母さん、ぎゅーっしてあげる」

「あ、く、首は、ぎゅーっとしちゃダメ」

 

 すぐに寝入れるはずもない。

 ところが母様が「誰がいちばん長く口を閉じていられるかゲーム」という勝負事を提案したので、私たちはお喋りを辞めざるを得なかった。

 

「おかあさん……」

「ノルン? どうしたの」

 

 それからすぐ、涙に濡れたノルンの声が聞こえた。

 次に布擦れの音。泣いているノルンを母様が抱きしめたのだろう。

 

「まもの、お家にこないよね?」

「大丈夫よ、お父さんがやっつけてくれてるからね」

「こわいよう」

 

 さっき、アイシャがふざけて「魔物が出た」と言っていた。

 ノルンはその光景を想像して怖くなってしまったらしい。

 

「ノルンねえ、エンエンしてるの? だいじょぶ?」

「……明かりをつけ直しましょうか?」

 

 リーリャが上体を起こした気配がして、アイシャも心配そうに声をかけた。

 私も考えていた。ノルンが不安なく眠れる方法はないものか。

 

「ノルン、おまじないしてあげようか」

「……?」

 

 思い出したのは、生前の記憶。

 五体満足だった子供の頃、よその村から呼ばれたシソ送りの祈祷師がやっていた唱えごとだ。

 二夜三日かけて行なう儀式だから、唱えごとも膨大で、姉と見物しに行っただけの私が憶えているのはその断片だ。

 

 私はノルンの肩を母様みたいに撫で、それを唱えた。

 

『思ふことけふより(しづ)まる呪詛神(しそじん)(たた)りなしとて(まつ)(しづ)まる』

 

 くすっ、と背中側でアイシャが笑う。

 唱えごとは日本語である。彼女には私の言ったことは、わけのわからない、めちゃめちゃな言語に聞こえているのだろう。

 

「今のは、魔物を自分のおうちに帰らせるおまじない」

 

 シソ送りは、呪詛が生まれた本地に帰れと唱えるという事だから、魔物をはらい退けるという事と意味はおなじだろう。

 

「まもの、おうちに帰ったの?」

「うん、お姉ちゃんが帰らせたよ」

 

 ノルンはちょっと安心したようだ。母様にくっついたノルンが寝息をたて始める。

 私もホッとして、眠くなってきた。口から出まかせだが、効果はあった。

 

 

 ブエナ村だけではなく、フィットア領のほぼ全土の森で、魔物の異常発生が起きていると聞いた。

 父様が苦戦するような魔物はまだ現れたことがないらしい。

 怪我をして帰ってきたこともないし、「楽勝だ」と本人も言っていたから、父様のことはあまり心配していない。

 

 ただ、このまま森の魔物が人里に降りてくるのが続くようなら、駐在騎士の父様は、ブエナ村を片時も離れることができない。

 父様の代わりになる人も今のところいない。

 

「ルディの誕生日に会いに行ってやれないかも」と暗い顔で両親が話し合っているのを、先日の夜に見かけた。

 今年の小雪*1、兄は十歳になる。

 兄が下宿しているボレアス家で祝ってくれるそうで、私たち家族も招待されている。

 ボレアス家のお嬢様の厚意で、兄への贈り物も用意しているらしい。

 まだ半年近く先のことなのに、ずいぶん用意周到だ。

 

 

 私も、なにか、お兄ちゃんにあげたいな。……。

 ねむい……。

 

 

「おやすみ、シンディ」

 

 

 母様の声を聞きながら、私は眠りに落ちた。

 

 

 


 

 

 

『シンディへ。

 手紙は読んだ。シルフィが十歳になったんだな。おめでとうって伝えておいてくれ。

 

 俺は、最近は土魔術でフィギュアを作るのにこっている。フィギュアっていうのは、人型をかたどった精巧な人形のことだ。

 自分で言うのもなんだが、市場に出すと高値で売れるし、けっこう完成度は高いと思う。

 やっぱり、人体の構造をある程度知っていると、良い物が作れる。

 

 喜んでくれるかわからないけど、いま俺は、シルフィを作ってる。

 15センチくらいの小さなフィギュアだ。完成したらそっちに送りたい。

 

 さて、お前も、もう今年で七歳だ。秘密もできるし、約束事もきちんと守れる年頃だろう。

 だからこの先に書くことは、父様と母様 父さんと母さんには内緒にしてほしい。

 何なら、読み終わったら燃やしてくれ。

 

 今まで、心配をかけまいと暗いことは書かないようにしてきた。ロアでの生活が楽しくて仕方ないように書いていた。

 でも、実をいうと、ボレアス家のメイドとはそんなに仲良くなかったんだ。少しだけど、いじめられてもいた。

 ボレアス家のメイドは獣族ばかりで、嗅覚が優れている者が多い。

 実験の過程で体にうつる匂いが、鼻のきく彼女たちには不快だったみたいだ。ギレーヌは慣れているようで、何も言わなかったけど。

 

 俺と彼女たちの関係は、徐々に改善しつつある。

 きっかけは、ボレアス家お抱えの御者の疾患を治したことだ。

 といっても、もちろん治したのは俺じゃない。治療にあたったのはバートン先生だ。

 馬車の御者は膝窩動脈瘤(しっかどうみゃくりゅう)という病気になりやすい。原因は、おそらく膝まで覆う形状の乗馬靴だ。硬い乗馬靴が膝窩動脈に当たって動脈を損傷して動脈瘤を生じさせる。これが膨れ上がると患者は激しい痛みを訴え、歩行は困難になり、やがて破裂して死に至る。

 治癒魔術では完治は望めない外傷のひとつだ。

 根本的な治療法は、足を切断するか、動脈瘤の傍の血管を縛り、動脈瘤を切除するしかないと思われていた。

 

 バートン先生はそのどれとも違う手段をとった。

 膝窩動脈瘤となって弱く脆くなっている血管よりも、もっと中枢側に位置する健常な血管を縛った。

 正常な血管を縛ると、一時的には血流は悪くなる。しかし血管の周りに側副血行路ができて、血流は元通りになる。そうして膝窩動脈瘤が小さくなることを、バートン先生は確信していたわけだ。

 手術は執事のアルフォンス立ち会いのもと行われた。

 俺をふくめて弟子は見学か手術の補助だ。

 

 二回も言うが、患者は領主のお抱え御者だ。

 手術の予後が悪く、死なれでもしたら、バートン先生の立場どころか病院の経営が立ち行かなくなることも、十分ありえる。

 御者が回復し、歩けるようになるまで、俺たちの心境は穏やかではなかった。

 ウィリアムはそれまでほとんど見向きもしなかったミリス様に祈り、ベンは牢獄にぶち込まれる自分を想像して震え上がった。

 住み込みの弟子であるエドガーは、バートン先生の屋敷に脱出用の隠し経路を作ることを考案し、フロリアンに時間が足りないと却下された。ナイジェルは片時もメスと自決用のモルヒネを手放さないようになった。

 俺は自分の荷物をこっそりまとめた。ダメだったときに、一目散にブエナ村に逃げ帰るためだ。

 

 弱音を吐かせてほしい。あの期間は、本当に生きた心地がしなかった。

 自室の前を横切る足音が響くたびに身構え、サウロス様の怒鳴る声が聞こえるたびに、それがバートン先生に関連した事であるか確かめようと息を殺して耳をそばだてた。

 

 幸いなことに、患者はみるみる回復した。痛みを感じなくなり、歩けるようになったんだ。

 サウロス様はバートン先生に感謝し、病院に投じる資金を増やすことを約束した。そのうち王立協会に推薦したいとも仰っていた。

 

 そうして、メイドたちの俺を見る目も変わった……んだと思う。

 機械的に部屋の掃除をし、服を用意してくれていたのが、世間話を投げかけても返してくれるようになった。

 はじめて二言以上の会話が成立したときは感動したよ。

 

 それから、父さんと母さんへの手紙にも書いたけど、小動物の剥製なら手際よく作れるようになった。バートン先生の標本制作の手伝いも、少しずつ、任されるようになった。

 俺も少しは認められたみたいだ。あと数年もすれば、正式に医学校に入学できる年齢になる。楽しみだ。

 入学前に、一年ほどそっちで過ごせたらな、と思う。

 ルーデウスより。

 

 追伸。

 誕生日プレゼントは何でも嬉しいよ。』

 

 

「むずかしい」

 

 手紙を読み終え、私はつぶやいた。

 たぶん分かりやすいように解説してくれてるんだけど、病気の下りはさっぱりだ。

 それに、前に送った手紙で、誕生日にほしい物の希望を訊いてみたけど、「何でも嬉しい」と言われてしまった。

 こういうのが一番悩むのだ。

 

 膝に乗せた雪白を撫でながら、右手に持った手紙を魔術で燃やす。

 地面に落ちた手紙は、踊るようにうねりながら黒く燃えていく。

 

 やや離れた場所で、イヴとワーシカと一緒になって飛び石の上を飛び移り遊んでいたアイシャが、「おねえちゃーん」と手をふりふり振ってきた。振り返した。

 ノルンはハンナちゃんと布切れで作ったボールで遊んでもらっている。

 

 

 火……。

 暖炉、焚火、囲炉裏……。竈、石窯……。

 

「料理!」

「みゃーん」

 

 火といえば、料理。

 料理は火加減!

 

 こうしちゃいられない、と私は庭のベンチから立ち上がり、家の中に急いだ。雪白もトトっと軽やかに後ろをついてくる。

 

「リーリャさん、お母さん、パウンドケーキの作り方、教えてください!」

 

 頼った先は、厨房で夕飯の支度をしていたリーリャと母様だ。

 突然の申し出に、二人はきょとんと顔を見合せたのだった。

 

 

 


 

 

 

「じゃあね、ワーシカ。帰ったらミーシャに優しくしてあげてね。妹にいじわるしないで、ソーニャお姉ちゃんみたいに優しくするのよ、わかった?

 イヴは、ちゃんとエリックと二人でお家に帰ってね。森には行かないこと」

「わかってるし! またね!」

「シンディねえ、バイバーイ」

 

 夏もそろそろ終わろうかという頃。

 一緒に遊ぶ面々もすっかり変わった。昔はいちばんお豆だった私が、いまや最年長だ。

 あと三年も経てば、ワーシカとイヴが村の幼い子たちの中心になっていくのだろう。

 

 帰り道、「おうた歌って」とお願いしてきたノルンのために、「お月さん幾つ」を歌うことにした。

 

  お月さん幾つ 十三 九つ

  まだ年ァ若いね あの子を生んで

  この子を生んで 誰に抱かしょ

 

 前世知っていた歌をこっちの言葉に直して、音程も無理やりあわせた。母様やリーリャ、父様から教わった数え歌に子守唄、村の人に教えられた刈り入れの歌もたくさん知っているけれど、昔の歌も、ときどき歌って思い出してみたくなるのだ。

 ノルンとアイシャは私の真似をして「お月さんいくつ」と口ずさむ。とてもかわいい。

 

 家に着くと、父様が私を抱きあげた。

 

「二人の面倒みてたのか、偉いな」

「お姉ちゃんだもの」

 

 でも抱っこはされたい。

 すかさず父様にしがみつくと、「やぁああ! ばめー!」「お姉ちゃん! お姉ちゃんをかえしてください!」と下から妹たちの騒ぐ声が聞こえた。

 

 最近我が家ではやっている遊びだ。

 誰かが父様に抱っこされると、他の二人でとりかこみ、父様を人さらいに見立てて抗議する、という父様が不憫な遊びである。

 

 父様は苦笑し、私を抱っこしたまま移動し、書斎に入った。

 ノルンとアイシャは追いかけてこない。「お皿運んでくれる人ー?」という母様の問いに、揃って「あーい!」と返したからだ。

 

「さて、シンディ。父さんはお前に訊きたいことがある」

「?」

 

 叱られる……の、とは、ちょっと違うのかな。

 私は父様の膝に座っている。

 叱られるときは、私だけが椅子に座って、父様が床に膝をついて、目を見て、何がいけなかったのか静かに教えてくれる。

 だから、違うと思う。

 

「村の奴から、魔物避けのまじないについて聞いた。そいつは、自分の子供から聞いたそうだ。そうやって辿っていくと、発端は、シンディ、お前だとわかった」

「私?」

「ああ。お前も知っていると思うが、父さんたちは急に増えた魔物の退治に追われている。だが、ロールズがなぜか魔物が絶対に出現しないポイントがある事に気づいた。

 憶えているか? そこは、ちょうど、お前たちが秘密基地を作ってた場所だったんだ」

 

 懐かしい。

 苦労して木の上に建てた家は、一年も経たないうちに、狩りのために森に入ったロールズさんに存在がバレたのだ。

 私たちは当然ながらとても怒られ、家も撤去された。

 あのときは、ソマルくんが悔し泣いてたなあ……。

 

「お呪い、まだ効いてるんだね」

 

 嬉しくてそう言うと、父様は「そうだな」と笑顔になった。

 

「他に、知ってる魔物避けのまじないはあるか?」

 

「あるよ」と、私は頷き、父様に私の知っている呪いをいくつか教えた。父様はときどき相槌を打ちながら聞いていた。

 

「なあ、そのまじないのやり方は、誰から聞いたんだ?

 誰にも言わないから、父さんにだけ内緒で教えてくれないか?」

 

 私は困ってしまった。

 方法自体は、生前から、つまりチサだったときから知っている。

 けど、そのチサは、誰にそれを教わったのか。憶えていない。

 誰に教えられるでもなく、なんとなく、呪う方法を知っていた。そうとしか言いようがないのだ。

 

「誰にも教わってないけど、生まれたときから、知ってたの」

「そうか……」

 

 父様はしばし、天井を仰いで考え込んでいるようだった。

 眉をしかめ、中指で右眉を掻いた。悪いことはしていないはずだけど、私はだんだん自信がなくなって、まるで叱られている時のように、次に言い渡される言葉を待った。

 

「蟲を壜に閉じ込めるのも、犬の首を埋めるのも、それは下手をしたら悪霊が生まれかねない、やっちゃいけない事なんだよ。

 ひょっとすると、父さんも母さんも知らない上手い使い方があって、お前はそれを知っているのかもしれない。きっと、周りを危険にさらさない確証もあってのことだろう。

 でもお前はまだ子供だ。オレからしたら、考え方や行動が至らない時もある。だから、お前が間違ってないと思っていても、オレが危険だと判断したことは、やめさせなきゃならん」

「……」

「シンディが友達のためを思ってしたことなのは、わかる。だが、もう同じことはするな」

「はい……」

 

 そっか。やっちゃいけないことだったんだ。

 反射的に涙が溢れそうになり、とっさに父様の胸に顔を押しつけた。

 私はもうお姉ちゃんなのだ。諭されて泣いている、と思われたくなかった。

 

「ハハ、泣くなよ。父さん怒ってないぞ?」

「……泣いてないもん」

「はいはい」

 

 父様の手が背中をさする。バレていたようだ。

 私は気持ちが落ち着くまで父様の胸に顔をうずめた。

 

「お父さんは、お兄ちゃんに会いに行くの、むずかしい?」

「ん。そうだなー……会いたい気持ちは、山々だがな」

「そうなの……」

 

 魔物避けの呪いはダメだとさっき言われたばかりだ。

 人里に降りてこようとする魔物を食い止めるには、父様や村の男衆が戦うしかない。

 

「まあ、その分、お前たちが祝ってやってくれ」

 

 そう言って、父様は私の頭を撫でた。

 肩を押されて、食堂に移動する。

 

「あー! お姉ちゃんお姉ちゃんどうしたの!? 泣いたんでしょ!」

「おとうさん! ()めんなさいは!?」

「オレが悪者!?」

 

 父様に群がり、猛烈に抗議する妹たちを見て、くすっと笑う。

 父様が呪いに難色を示した理由もわかる。この子たちに悪いものを寄りつかせてはいけない。

 

 

 

 そして、季節は移り変わり、そのときは来た。

 

「お母さん、お母さん、変じゃない?」

「ええ。似合ってるわよ。ああっ、ノルン、髪ほどかないで、せっかく可愛くしたのに」

「のんはこれやだの」

「奥様、私が」

 

 リーリャがサッとしゃがみ、ノルンの髪を結い直す。

 ノルンはぶすっとしていたが、結んでいるあいだアイシャに抱きしめられていたから、笑顔になった。

 

「アイシャ。良いですか、今日お会いする人が、あなたが将来仕える方です。決して無礼のないように、淑やかに振る舞うのです。わかりましたね」

「もー、お母さんそればっかり。ねえ、ゼニスお母さん!」

「そうねえ、リーリャ、まだ三歳の子にそこまで求めなくてもいいわよ。アイシャのことは私に任せて! その間、家のことは頼んだわね」

 

「リーリャさんとも一緒に行きたかった」と、思わず私がこぼすと、母様は苦笑した。

 

「パウロが魔物の討伐で、いつ帰れるか分からないもの。家には誰かいなきゃいけないしね」

「わかってるけどー……リーリャさんも家族なのに」

 

 無言でリーリャにぎゅっと抱きしめられた。頬ずりを返した。

 

「それじゃあ、行ってきます」

「留守番はお任せください」

 

 母様、ノルン、アイシャといっしょに家の前に停められた馬車に乗り込む。

 これから、ボレアス家に向かう。

 三年ぶりに兄に会うのだ。

 

「お姉ちゃん、お兄ちゃんってどんな人?」

「どんな人っ?」

 

 アイシャはちょっと疑わしそうに、ノルンはキラキラした目で、訊ねてくる。

 私は、その問いに、微笑んで答えた。

 

「すっごく、優しいひと」

*1
11月





次回、転移事件!


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十七 また明日

誤字報告ありがとうございます!


 大きなお屋敷だ。

 生まれて初めて見る大きさの建物に、私は圧倒された。

 岡山では、北の方に限るが、どんなに貧しい家でも、土間は広く大きく作られている。農作業のためだ。

 でもこの屋敷は違う。豊かさゆえの大きさだ。

 

「うにゃ……着いた?」

「……」

 

 移動する馬車の中で、退屈し、あやとりやお歌で暇を潰していたアイシャとノルンはちょっと眠そうだ。

 獣耳の生えた綺麗な女中さんが何人も寄ってきて、アイシャとノルンを抱っこしてくれた。私もするか訊かれたが、断った。

 この中にお兄ちゃんをいじめた人がいるかもしれない。

 私は敵に油断しないのだ。

 

 両開きの重厚な玄関扉をくぐり、長い石造りの廊下を歩いて客間のような部屋に通された。

 兄の誕生会が開かれるまで、ここで待機するらしい。

 

「可愛いですね、お菓子どうぞ」

「ありがとうございます!」

 

 小さな焼き菓子をもらった。わぁい。

 この小麦色の猫耳の女中さんはきっと良い人だ。

 お兄ちゃんをいじめたのもこの人じゃない。食べ物くれたもの。

 

 妹たちと分け合って食べていると、ドタドタせわしない足音が聞こえ、次いで、扉がバンと開かれた。

 驚いたアイシャの手からポロリと焼き菓子が落ち、膝に敷いたナプキンの上に着地した。

 ノルンはもくもくと頬を動かして咀嚼している。

 

「あなたたちね! ルーデウスの家族は!」

 

 現れたのは、兄よりいくらか歳上の少女。

 整った顔立ち。白と黒を基調とした上等な衣服。

 腰下まである髪は、煮色仕上げ前の烏金よりあざやかな赤色だ。

 

「小さいわね!」

 

 居丈高に私たちを見回した彼女は、母様に目をとめ、その勢いを削がれたようだった。

 彼女はおずおずとスカートを摘み、ちょっと腰を折った。

 

「エリス・ボレアス・グレイラットですわ」

 

 エリスお嬢様。

 兄からの手紙によく登場する子だ。

 

「初めまして、エリスお嬢様。私はゼニス・グレイラット。ルーデウスの母です。

 息子のためにパーティを開いていただけること、家族一同、深く感謝申し上げます」

「あ、えっと、シンディ……、シンシア・グレイラットです。本日はお招きいただき、ありがとうございます」

 

 立ち上がった母様に続き、膝と腰を折って感謝を述べる。

 突然のことで、愛称のほうを名乗りそうになってしまった。

 

「アイシャ・グレイラットです! 初めまして、エリスお嬢さま!」

「んん……」

「この子はノルンねえです!」

 

 アイシャが溌剌と自己紹介し、ノルンは恥ずかしそうにアイシャの服を握った。

 

「い、いいわ、楽にしてちょうだい。私もそうするから」

「はい、エリスお嬢様」

「〝お嬢様〟もいらない!」

「じゃあ、エリスちゃん?」

 

 親しみを込めた笑みで訊ねた母様に、エリスさんは少し心を許したように頷いた。

 人見知りを発揮したノルンが、向かいの長椅子に座った母様のところに行き、私の隣が空いた。

 空いた場所に、すとんとエリスさんが座る。

 

「エリスちゃん、会えてとっても嬉しいわ。どう? ルディは、こっちでどんな風に過ごしてる?」

「どんな……毎日学校に行って、それで、私に勉強を教えてるわ」

「そう。勉強は難しいかしら?」

「ぜんぜん! ……ううん、たまに難しいけど、でも、ルーデウスの授業は楽しいわ!」

 

 母様はあっというまにエリスさんと打ち解けた。

 心を開いたエリスさんからは、「それでね!」「あとね!」と兄の話がぽんぽん出てくる。

 女中さんに用意された薄めたぶどう酒を飲み、ひと息ついているエリスさんに、私は話しかけた。

 

「エリスさん」

「何?」

「ありがとう。お兄ちゃんのこと好きでいてくれて」

「ん!?」

 

 親元から離れた場所で、学問に励まなければならない状況で、一緒の家で過ごす人たちから嫌われる兄の気持ちは、私には想像もつかない。

 あん家はトウビョウ筋じゃけ、と遠巻きにされたことはあるけれど、それでも傍にはお母や婆やんがいたのだ。

 兄は違う。少なくとも、来たばかりのときは一人だった。

 そんな中で、自分を慕う存在は、きっと心の支えだ。

 

「す、すす好きとか、そんな、違くて、ちがくはないけど、」

 

 エリスさんは頬を紅くし、もじもじしている。色気づき始めた乙女という感じで、可愛らしい。

 私が恋という概念を知ったのは、こっちに生まれてからだ。

 家族ではないひとを好きになり、ふれ合いたい、ずっと一緒にいたいと思うこと。

 母様たちやエーヴさんたちを見ていると、それが良いことだとわかる。

 いいなあ、恋ができる、って。どんな感じなのだろう。

 

「あっ」

 

 左腕の感覚が、急激に遠くなった。

 強ばった左手から杯がこぼれ落ち、床に中身をぶち撒いた。

 

「ごめんなさい、雑巾貸してください」

「お気にならさず。私どもが片付けますから」

 

 慌てる私に、女中さんがてきぱきと床を拭き、新しい飲み物まで用意してくれた。

 やらかしたことが恥ずかしくて、母様のところに行って抱きつくと、「いいのよ、緊張しちゃったのね」と撫でて慰めてくれた。

 

「お姉ちゃん、どじっ子!」とアイシャにからかわれた。

 ノルンは母様の膝にしがみつき、今にも長椅子から落ちそうになりながら私の腕をよしよしと撫でた。ノルンはずてんと尻で着地した。

「おねえちゃんはいい子よ?」と言ってくれるノルンの方こそ、いい子だ。

 

 その後、赤い長髪に興味を惹かれたノルンがエリスさんにじりじり近づき、最終的に懐いたり、

 アイシャがエリスさんの膝に座り、撫でくりまわされて目を回したり、楽しい時間が流れた。

 

「さあ、行きましょ! これ預かってて!」

「お兄ちゃんにあげるの?」

「そうよ!」

 

 準備の完了を知らされ、エリスさんはワクワクした表情でアイシャと手を繋いで部屋を出た。

 私はというと、桃色の花弁が幾重にも重なった花の束を預けられた。綺麗な花だ。

 

 そうして、大広間に到着した。

 身内だけで、と聞いていたのに、大勢いる。兄はまだ来ていないようだ。

 

「大家族……」

 

 呟くと、母様に、ここに居るほとんどの人たちはこの家の使用人だと教えられた。全員と血縁がある訳じゃなくて、エリスさんの家族は、両親と祖父だけらしい。

 なるほど。さては相当な分限者だね?

 あのドレスを着た赤髪の女性がお母さん、あの怖そうな大柄なお爺さんが祖父だろうか。お父さんはわからなかった。

 

「お兄ちゃんかあ……あたしのご主人様……」

 

 アイシャが幼子とは思えぬため息をついた。

 なぜだか表情が暗い。

 

「どうしたの」

「あのさー、お姉ちゃんはさ、もしお兄ちゃんが変た……」

「へんた?」

「……やっぱりいい」

 

 アイシャが口を割らないので、体を突いてみる。つんのこつんのこ。

 くすぐったそうに笑って避けるアイシャと攻防を繰り広げていると、広間の入口のほうから声と拍手が響いてきた。エリスさんの声もだ。

 

 お兄ちゃん来た!?

 

「ルーデウス、おめでとう!」

 

 私が見たのは、エリスさんから花束を受けとる兄の姿だ。

 

 わー!

 お兄ちゃんだ! 三年ぶりの!

 身長伸びてる! 声ちょっと低くなってる! かっこいい!

 

 ところが、兄は、顔をしかめ、袖で顔を覆ってしまった。

 喜ぶ姿を想像していた周囲は呆気にとられた。

 そうして、涙声で、兄が訴えることには。

 

「ぐすっ……僕、医者になりたくてロアに来て……

 でも、世間の目とか、偏見とか、思ってたより、厳しくて……

 ここでも見捨てられたら、僕もうだめかもって……父さんに迷惑がかかるから、失敗しちゃいけないって思ってて……

 い、祝ってもらえるなんて……思ってなくて……ぐすっ」

 

「お、お兄ちゃ」

 

 泣いてる兄を初めて見た。

 母様を見上げると、感涙した様子で、ハンカチで目尻を押さえていた。

 

 感涙しているのは母様だけではなかった。

 怖そうな大柄なお爺さんが、目に涙を光らせ、杖を振りあげて吠えたのだ。

 

「せ、戦争じゃあ! ノトスんところと戦争じゃ! ピレモンをぶっ殺して、ルーデウスを当主に据えるぞ! そうすりゃ誰もこの子を蔑まん!」

「父上! 抑えて!」

 

 お爺さんは、使用人二人がかりで羽交い締めにされ、退場していった。猪のように元気な老人だ。

 

「お兄ちゃん」

「シンディ?」

 

 兄の前に出ると、兄はきょとんと目を丸くした。

 まったく予想外だったというふうだ。

 

「ルディ! 私のルディ! 良い子ね、立派だわ、今までたくさん頑張ってきたのね!」

「わ、か、母さん?」

 

 感極まったように母様が兄を抱きしめる。

 兄は戸惑いながら、ぎこちなく母様の背中に腕をまわした。

 

「来てたんですね」

「ええ、招待されたのよ、エリスちゃんの提案でね」

 

 母様に抱きしめられたまま、私を見て、ノルン、アイシャを見て、兄は期待する顔を母様に向けた。

 

「じゃあ、父さんも?」

「あ……それがね、お父さんは、森の魔物が活性化してて、来れなかったのよ。残念がってたけど、どうしても、ね」

 

 兄の顔が曇る。

 だけど、それは少しの間だけだ。

 

「会えて嬉しいです、母さん。シンディも大きくなったな。

 ありがとう、エリス。最高のサプライズです」

「! ふふん、それだけじゃないんだから! ルーデウスがもっとビックリする物も用意したのよ!」

 

 エリスさんが指をスカッとさせると、それが合図であったのか、モノクルを付けた初老の男性が杖を持ってきた。

 杖といっても、びっこのあれじゃない。魔術師が使う杖だ。

 瑠璃に似た球体が、杖の先端に滞空している。

 すごい。どういう構造なのかさっぱりだが、とにかくすごい。

 アクアハーティアという名前までついている。

 それがボレアス家から兄への贈り物だそうだ。

 

 アクアハーティアの説明を聞き終え、左手に花束を、右手に杖を持った兄が、エリスさんにお礼を言った。

 

「ありがとうございます。こんな高価な物まで」

「値段のことはいいわよ! パーティを始めましょ!」

 

 兄は使用人に荷物を預け、エリスさんにケーキの前に引っ張られていった。

 いくつも用意されたテーブル。その上には美味しそうな料理が満遍なく鎮座している。

 そのうちの一つを丸々占めるほど、大きなケーキだ。

 

「……」

 

 ずっと持っていた手提げ籠を見下ろす。

 私が作ったのを渡すのは、あとでもいいか。

 

 

 

 

 猪の頭部の丸焼きの口から、焼きリンゴやレモンがごろりと転がり出た。

 白目の皿やナプキンなど、細々したものを用意してくれるのは女中さんだけど、肉を切り分けるのは下男であるみたいだ。

 香辛料のきいた猪肉を味わって食べた。おかわりをもらうべきか。腹の余裕的にはいけなくもない。

 悩んでいると、とんとん肩をつつかれた。

 

「美味いか?」

「……うん、美味しかった!」

 

 お兄ちゃんお兄ちゃん!

 

 兄が話しかけてくれた。さっきまで彼は色んな人に囲まれていたから、私から話しかけていいのかわからなかったのだ。

 兄は微笑み、しゃがんでノルンとアイシャに視線を合わせた。

 

「ノルンと、アイシャですね。どうも、君たちのお兄ちゃんです」

「……」

「……アイシャです」

 

 ノルンは照れ照れと私の後ろに隠れ、アイシャはぺこりと頭を下げてから、やっぱり私の後ろに隠れた。

 母様は向こうでエリスさんのお母さんと話している。

 

「君たち、ひよこは好きですか?」

 

 妹たちと打ち解けたい兄の提案によって、私たちは広間を出て、ボレアス家の鶏舎に移動することになった。エリスさんもついてきた。

 

「お兄ちゃん」

「なんですか妹ちゃん」

「その口調やめてほしいの。寂しいよ」

「わかった」

 

 やっと会えた。それだけで嬉しいのに、私たちの間には気まずい雰囲気がただよう。

 

「着いたぞ」

「持ってみる?」

 

 鶏舎の中は暖かい。部屋の中心に置かれた箱状の飼育機から、エリスさんが慣れたように鶏の雛を取り出し、アイシャとノルンに持たせた。

 私にも黄色い雛が差しだされたが、断った。ノルンが怖がって私を頼るかもしれない。

 

「両手で、包むように持つのよ、優しくね!」

「かわいいっ」

「そうでしょ!」

「おねえちゃん、もってぇ」

 

 ぴよぴよ鳴く雛を抱っこして機嫌が回復したアイシャとは異なり、ノルンは不安そうに両手につつんだ雛を私に差し出した。

 籠の持ち手を腕に通し、ノルンから雛をうけとる。

 鶏を飼ってる友達の家で、雛を持たせてもらう事はあるから、慣れている。

 

「大丈夫、怖くないよ。頭撫でてあげようね、そっとね」

「こう? こう?」

 

 持っているうちに雛は目蓋を下から上に閉じて睡った。

 ノルンはおっかなびっくり頭の和毛を人差し指で撫でる。

 そのうち怖くなくなったのか、自分で抱っこしたそうな顔をしたから、ノルンに再び持たせてあげた。

 

「おもしろい! 抱っこすると、すぐ寝ちゃうの!」

「そうだな、特に子供の手は温かいから、心地良くて寝るんだ」

 

 アイシャはちょっとだけ兄に心を開いたようだ。よかった、よかった。

 

 ノルンはというと、

 

「……」

「こほん」

 

 鶏舎から出たあとも、兄との距離を決めかねている。

 柱の影からじっとこちらを見つめるノルンに、兄は居心地悪そうに咳払いをした。

 

 でも嫌っているわけじゃない。兄の話はときどきしていたし、ノルンも今日を楽しみにしていたのだ。

 

「ノルン、おいで」

 

 私がそう声をかけると、ノルンはててーっと走ってきて、兄に近寄った。

 

「ノルン!」

 

 感動したように兄が膝をついて両腕を広げる。

 ノルンはまた柱の影に隠れてしまった。

 

「お兄ちゃん、ノルンは恥ずかしがってるのよ。そのうち慣れると思うから、自然にして、待ってあげて?」

「そ、そうか?」

 

 兄は立ち上がり、「自然に……自然に……」と呟きながら、ノルンから視線を外して、襟を正したり、肩をぐるぐる回したり、下手くそな口笛を吹いたりした。

 

「ルーデウス、それ、不自然よ?」

 

 エリスさんが不思議そうに言ったときだった。

 ノルンが兄にそーっと近づいて、ぽんっと背中を触った。兄が振り向くと、ノルンははにかんで離れ、私に抱きつき胸に顔を埋めた。

 そして、ちらりと兄を見て、にこっと笑う。

 

「かわいいでしょ?」

「めんこい、めんこいなぁ……」

 

 兄はその場に正座し、合掌してノルンを拝んだ。

 アイシャがむすっとしていたので、「アイシャもかわいい、かわいい」と抱きしめて撫でる。

 

「私が抱っこしてあげる!」

 

 エリスさんが自信満々に両腕を出した。

 リーリャから散々「お行儀よくしなさい」と言い含められていたアイシャは、いいのかな? という顔をしていた。

 しかし、この場にリーリャがいない事を思い出したのか、エリスさんの腕に嬉々として捕まる。

 

「エリスお姉ちゃん、あたし、こんな大きなお屋敷初めて。探検してみたいです!」

「いいわよ、案内するわ!」

「エリス、わかってるとは思いますが、小さな子に暴力はダメですよ」

「するわけないでしょ!」

 

 風のように颯爽とエリスさんは去っていった。興奮したアイシャの歓声が廊下に響く。

 探検、楽しそうだ。私も行ってみたかったな。

 

「あ、そうだ、シンディ、渡したいものがあるんだ」

「なあに?」

 

 ついて行くと、小型の像だの、動物の剥製だのが床や棚に置かれた部屋に通された。兄の自室だろう。

 ノルンは熱心に剥製のヒヨコの頭を撫でている。反応がないことにはまだ気がついていないみたいだ。

 

 渡されたのは、一冊の本だ。

 装幀は赤茶色の山羊のなめし革。背表紙に作者の名前はない。

 

「お前、左手で魔術使えないだろ?

 だから、片腕だけで混合魔術を完成させる方法を、俺なりに色々試してまとめたんだ。あと、自然現象を利用する混合魔術の理論と、使用例なんかも書いてある。役に立てばいいけど」

「お兄ちゃんが書いたの?」

「ああ。五歳の誕生日に間に合わせたかったけど、二年も遅れちまったな」

 

 暇ではなかっただろうに。

 こんな、厚い、立派な本を。

 村のみんなが当たり前にできることを、ひとりだけできない、私のために。

 

「お兄ちゃんあのね、えっとね」

「うん?」

「私ずっとお兄ちゃんのこと好きよ。何があっても、嫌いにならないよ。こわいことだってしない」

 

 ずっと黒い場所から出られないんだって思ってた。

 産まれてすぐの頃は、ほとんど目も見えなくて、何も分からなかった。手のひらをくすぐる指先の感触に、耳に届く、高い幼い声に、どれだけ救われたか。

 

「……」

 

 腕が伸べられた。抱きしめ返して、安心した。

 三年前より成長して、肉付きのしっかりした体だった。

 親元を離れているあいだも、飢えずにいられたのだ。

 

「五歳の誕生日おめでとう、シンディ」

「お兄ちゃんも、十歳のお誕生日、おめでとう」

 

「読んでいい?」机の上に置いていた本を指し、訊ねた私に、兄は「もちろん」と頷き――かけて、

 

「その籠なに入ってるんだ?」

「はっ!」

 

 手提げ籠に言及した。

 そっと背中側に回したが、兄は遠慮なく覗き込んでくる。兄の視野から隠すために体の向きを変えても追いかけてくるので、その場でぐるぐる回ることになった。

 

「何だよ、教えろよ、気になるだろ」

「いまは、いまは欲しくないかもしれないから!」

 

 さっきケーキ食べてたもの。

 もう甘味には飽きてるかもしれない。

 

「おねえちゃんはケーキつくったの」と、床に置かれた置物をペチペチ叩いていたノルンが告げ口した。

 家屋を小さくしたような置物である。あれも兄が作ったのだろうか。

 

「俺に? 母さんに教わったのか?」

 

 にまっと兄が笑う。母様そっくりの笑顔だ。

 私は顔を逸らしながら、しぶしぶ手提げ籠を差し出した。

 

「……そうよ。日もちするから、……思いだした時に食べてね」

「一旦忘れなきゃいけないの?」

「だ、だって、お兄ちゃん、さっきもケーキ食べてたもん。飽きるでしょ」

「全然。だいたい、うちのケーキって甘くないだろ。むしろ口直しになるよ」

「え?」

「え? だって生地に砂糖入ってないし……」

「生地に?」

 

 生地に?

 砂糖とラム酒漬けの果物のおかげで充分甘いのに。生地にまで入れたら、甘すぎて死んでしまうのではなかろうか。

 兄の甘さを感じる基準がすこぶる高い。恐ろしい。

 

「ありがとう、嬉しいよ。一緒に食べよう」

 

 でも、兄がそう言ってくれたから、そんな事はどうでもよくなった。

 

「お姉ちゃん! 部屋たっくさんあったの! 掃除がたいへんだね!」

「メイドがやるから大変じゃないわ!」

 

 戻ってきたアイシャとエリスさんとも合流した。ノルンは兄からもらった小さな猫の置物をご機嫌で触っている。

「アイシャにもちょうだい」とノルンは兄にねだり、渡されたもうひとつの置物をアイシャにあげた。優しい子だ。

 

「よかったね、アイシャ。お兄ちゃんにありがとうって言うのよ」

 

 アイシャは嬉しそうに手の中の置物を見つめていたが、私の言葉を受け、バツが悪そうに兄を見上げた。

 言いたくないけど、でも貰っちゃったしな、言わなきゃだめだよね、という葛藤が伝わってくるようだ。「ありがとう」と小さな声で言ったアイシャの頭を撫でておいた。

 

 それから私たちは、邸内の階段に腰をおろして、パウンドケーキを食べた。ナイフがないので、手で食べたいだけちぎり取る。

 兄は「美味しい」と何度も言ってくれ、エリスさんは「素朴な味ね!」と言いながら二回ほどおかわりした。

 アイシャは手でパウンドケーキをちぎるという普段しないことに興奮したようで、「こんなことしていいの!?」と聞き、しかし自分はそんなに食べずに、ほとんどノルンに食べさせていた。

 

 会場である大広間に戻った。

 エリスさんは椅子を持ってこさせ、ノルンを抱っこして座った。エリスさんとお喋りしていると、赤髪の女性が近寄ってきて、「可愛らしいわ」と私たちに微笑んでみせた。

 

 エリスさんが「お母様よ」と教えてくれた。

 やはりこの人がエリスさんの母親だったようだ。エリスさんより目は小さいが、切れ上がった目元がよく似ている。

 

「仲良くなれたかしら? そうして見ていると、あなたたち、本当の姉妹のようね」

「うん、このちっこいの、可愛いわ!」

 

 ちっこいの、と言われたノルンは、エリスさんに頬の形が変わるほど頬ずりされて、あぷう、と声を出した。

 

「エリス、ルーデウスと結婚したら、その子たちがあなたの妹になるのよ」

「けっこ……」

 

 エリスさんはコチンと固まった。

 母様が来て、「急に言われてもビックリするわよね?」とエリスさんに助け舟を出した。

 

「奥様、少し気が早いんじゃありませんこと? あなたがたはともかく、うちは平民ですわ。そういうことは、当人同士の気持ちを大事にしてくださらないと」

「気が早いなんて……ねえエリス、あなたうちのルーデウスに不満なんてないでしょう?」

「ルーデウスはうちの息子ですが」

 

 私の肩を抱いていた母様の指にキリキリ力がこもった。

 母様と、エリスさんの母親の絡み合う視線に、バチバチ火花が散っているように見える。

 

「お母さん、お兄ちゃんのところ行ってきていい?」

 

 こうなったら避難だ。兄のところに行こう。

 兄のそばに行き、オー・ド・ショースを履いた貴族然とした男性と歓談している兄の背中にぴたっとくっついた。

 

 兄と話をしている人は、フィリップさんだ。さっき母様から教えられた。

「ルディがまだお腹にいるときに、お父さんの仕事と住む場所の世話をしてくれたのよ」と。

 ということは、ブエナ村で、エマちゃんやシルフィたちと友達になれたのは、彼のおかげとも言えるのだ。

 

「やあ、君のことはルーデウス君から聞いているよ。シンシアちゃんだね」

「はい。お父さんにお仕事くれて、ありがとうございます」

「お父さんはしっかり働いてるかな?」

「毎日がんばってます。お父さんは強いので、すごいなって思います!」

 

 弱いとすごくない、みたいな言い方をしてしまった。「もし弱くてもすごいです」と焦って言い足した。

 

「君は良い子だね。温順そうだし。ピレモンが好みそうだ」

「ぴれも……」

 

 誰だろう。さっきも、同じ名前を聞いたような。

 

「フィリップ様? 妹に何をさせるつもりですか」

「……ハ、ハ。ルーデウス君のようにうちに引き取って、然るべき教育をして、嫁ぎ先の世話をしてあげるのもアリかな、とね。

 君がエリスと結婚してくれたら、やりやすくなるんだけどな」

「させませんよ?」

 

 やや遺憾そうな兄に肩を押され、その場を離れさせられる。

 その途中、あの人の言うことは聞いちゃいけません、という内容のことを言いつけられた。

 

「自分の人生は、自分で決めるものだからな」

「そうなの……かな?」

 

 よくわからない。

 病で片輪になったことも、トウビョウ様の使いになったことも、私の意思ではなかった。

 人生は、すべて、生まれで決まる。百姓の子は百姓の人生を、穢多の子は穢多の人生を、それぞれ過ごすと生まれたときから決まっている。

 

「お姉ちゃん、これおいしいね!」

「ほんと? お姉ちゃんも食べようかな」

 

 この可愛い妹だって、兄のために働くことが決まっている。

 リーリャがそう決めたからだ。

 

(……あら?)

 

 ここまで考えて、私は気づいた。母様は私に「こう生きなさい」とは言わない。父様もだ。

 友達と仲良くしてね、とか、人のために動ける子になりなさい、とは言われるけど。

 将来のことまで指定されたことはない。

 じゃあ兄の言っていることは正しいのか。

 わたし……私は、どんな人生になるのだろう?

 

「ねえ、お腹いっぱいになったし、遊びましょうよ!

 私の昔のおもちゃ貸してあげる!」

 

 エリスさんに言われ、中庭で一緒に遊ぶことにした。

 床にピンを何本も立て、木製の円盤を投げて倒す遊びだ。スキットルズというらしい。

 兄はたまに外すが、エリスさんは百発百中である。すごい。

 ノルンとアイシャは小さいから、もっと近くで、円盤の代わりに球を蹴ってピンを倒していいことにした。

 私はもう小さくないので、円盤でがんばった。あまり倒せなかった。

 楽しい一日だった。

 

 

「おやすみなさい、母さん」

「おやすみ、ルディ。一緒に寝る?」

「はは……もうそんな歳じゃありませんよ」

「そう? 別にいいと思うけどね」

 

 夜になり、母様が兄の額に口をつけ、おやすみのキスをした。

 キス。あるいは接吻。唇をつけることをそう呼ぶことは、もう知っている。生前は身近に無かった習慣だ。

 

「おやすみ、お兄ちゃん。また明日ね」

「ああ、おやすみ」

 

 私も兄の頬にキスをして、母様と妹たちと用意された部屋に引っ込んだのだった。

 

 ちなみに、夜中に厠に行きたくなり、廊下に出たら、急ぎ足のエリスさんとばったり会った。薄くてひらひらした可愛らしい寝巻きを着ていた彼女に、お顔が真っ赤よ、どうしたの? と訊いたら「何でもないわよ!」と頭をぽかりと叩かれた。尾を引く痛さだった。

 

 

 


 

 

 

 翌朝。

 ブエナ村に帰る馬車の中で、指にひっかけた青色の毛糸をアイシャはノルンに差しだした。毛糸は川を形作っている。

 

「ノルンねえ、とってとって!」

「?」

 

 ノルンは取った。糸を掴んで引き、アイシャの指から外した。

 糸はただの輪に戻り、アイシャは「もうっ」と憤慨した。彼女は船を作ってほしかったのだ。

 

「お姉ちゃん、ノルンねえがちゃんとやってくれないんだけど!」

「ノルンには、まだむずかしいよ。教えてあげて?」

「昨日おしえたよ。なんでできないの?」

 

 不満そうに、不思議そうに、アイシャはノルンを見た。

 ノルンはきょとんと首をかしげている。今回は喧嘩にならないようだ。

 

「アイシャはもうあやとりで遊べるのか、すごいな」

 

 兄が言い、アイシャはすすす……と母様のもとに移動した。

 警戒心丸出しである。母様は困ったように微笑み、アイシャの頭を撫でた。

 

「よしよし、お兄ちゃんは嫌われてないよ」

 

 兄の頭は私が撫でる。簡易な棚、机まで用意された、ちょっとした部屋のような広い馬車の中で、兄は「ぐすんぐすん」と嘘泣きをしながら私の膝に頭を乗せた。

 

 お兄ちゃんがいる。

 そう。兄は帰省するのだ。学校を何日も休めないらしく、三日後にはまた発ってしまうけれど。

 それまでは、兄と一緒だ。うれしい。

 

「っと」

 

 兄が倒れかけたアクアハーティアを慌てて掴む。

 馬車が田舎に、つまりブエナ村に近づくにつれ、未舗装の道が増える。砂利の上を通るたびに車内が揺れるのだ。

 車内が揺れているときに「あー」と声を出すと、勝手に声が震えてなんだか面白い。

 その上、アイシャとノルンの頬がぷるぷる揺れてかわいい。母様と一緒にめろめろにされた。

 

 

「ただいま、リーリャさん」

「ルーデウス様! ご立派になられて……」

 

 兄が家に顔を出すと、リーリャが感激して兄を迎えた。

 リーリャはひょっとしたら父様より兄を敬っている。予想通り、とても喜んでくれたようだ。

 

「ただいま。パウロは? まだ戻ってきてない?」

「はい、早朝に一度戻られたのですが……」

「んもう、タイミング悪いわね」

 

 足に擦り寄ってきた雪白の腹を撫でながら、母様とリーリャの会話を聞いた。

 そんなに忙しいのか、父様は。昨夜はちゃんと寝られたのだろうか。

 

「母さん、僕、ちょっと外を歩いてきます。久しぶりですし」

「あら、そう? 行ってらっしゃい。シルフィにも会ってあげるといいわ」

「あ、はい」

 

 シルフィの名を聞いた途端、兄がギクッとした。なぜ?

 私はノルンとアイシャを家に残し、兄と一緒に行くことにした。兄に久しぶりに会ったみんなの反応を見てみたかったからだ。

 

 麦はいま播種の時期だ。牛馬に犂を括りつけて畑を耕し、土の塊を砕きならして、人が種をまく光景があちこちで見られる。

「こんにちは」と声をかけると、彼らはまず私を見て笑顔で挨拶を返し、次に兄をみて驚いた顔をする。

「帰ってきたのか!?」とか、「大きくなったなあ」とか、その後の反応は様々である。面白い。

 

 挨拶して回るうちに、兄が村にいることは知れ渡ったようだ。

 夏によく遊んでいた川辺に、懐かしい面々が集結した。かつて魔術を教わっていた丘の上は、もう小さい子の遊び場だ。

 

「すげー! それ! その杖!」

「魔術師みてえ!」

「お前帰ってたのかよ、言えよなー!」

 

 ここ数年で上背がかなり成長したソマルくんが兄と肩を組む。

 ヨッヘンくんは羊飼いの杖を持ってきて、「長さならおれが勝ってね!?」と杖でチャンバラを挑み、兄に「信じられないことをするな!」と膝を蹴られていた。

 

「いくらすると思ってんだ!」

「いくらすんの?」

「買ってもらったやつだからわからん」

 

「ロアって本当に壁で囲まれてたの?」

「シンディ、貴族ってどんな顔してた? どんな服?」

「街の人って太陽じゃなくて、鐘に合わせて生活するってホントだった?」

 

 私も私で質問責めである。

 ほとんどの子が、村から出たことがない。外に興味津々なのだ。

 個々に会うことはあったけれど、大勢が同じ場所で顔を合わせるのは久々だ。

 兄が戻ってくるのが、あと一年か二年も後だったらば、こんなふうに集まることはないだろう。何人か奉公で村を出ていただろうし、村にいても仕事を抜け出すことは難しくなる。

 思っていることはみんな同じなのか、そわそわと浮ついた雰囲気が流れていた。

 

「ルディ!」

「シルフィ」

 

 シルフィが兄に抱きついた。ヤーナムくんが口笛を吹いてはやしたてた。

 

「おかえりルディ。あのね、嬉しかったよ、あのフィギュア? っていうやつ。ボクを作ってくれたんだよね、あんなに可愛く作ってくれてありがとう!」

「喜んでくれてよかった。でも、もう少し髪を長くすればよかったな」

 

 兄が、シルフィの後頭部で結わえられた緑髪を眺めて呟いた。ほどけば肩より少し下まである髪だ。

 シルフィの耳はパタパタいそがしく上下している。「しずまれ!」とハンナちゃんが指で挟んで止めた。

 

「そんな大きな魔石だと、やっぱり威力もちがうのかなー?」

「そうそう、気になる! ちょっとやってみせてよ」

 

 メリーちゃん、セスちゃんに言われ、兄は地面に立てた杖を見上げた。

 アクアハーティアは兄の背丈よりやや高い位置に、青い魔石が付いている。光の加減によって紫色にも見える。

 現物を見た事はないけれど、瑠璃や紫水晶の輝きは、きっとあんな感じなのだろう。

 改めて見ても綺麗だ。

 

「昨日のうちに少し試したんだが、杖ありだと威力は倍増するみたいだ。魔力の消費は少なく済む。特に相性が良いのは水魔術だったな」

 

 と、兄は言い、セスちゃんに杖を渡した。

 

「え?」

「水魔術、得意だっただろ?」

「そうだけど、いいの?」

「ああ。使ってみるくらいなら」

「やった!」

 

 セスちゃんは杖を持ち、わくわくした表情で魔石を見つめ、

 

「わ、わ」

 

 急に巨大になった水弾に慌て、空に打ち上げた。

 青空に吸い込まれるように水弾は遠くなり、しばらくして、空に一瞬だけ虹がかかり、雨と見紛うような雫がポタポタと頭や手に降り注いだ。

 

「すっごいわよ、これ! ギューンって感じ!」

 

 興奮気味にこちらを振り返るセスちゃん。

 レミくんが「はい! はい! 僕も水魔術上手い!」と名乗りあげ、シルフィが「ボクだって火以外なら何でも得意!」と対抗した。

 兄は懐かしそうにちょっと笑い、みんなに順番にアクアハーティアを使わせた。

 

「はい、次はシンディ」

「シンディには難しいかもよ」

「思ったよりギュンって出てくるから、魔力はほんとに少しでいいからね?」

「大雨降りそうだし、みんな離れとこうぜ」

「いや川が氾濫するかも」

「やべっ、おれ羊避難させてくる」

「大丈夫だもん!」

 

 失敬な。ちょっと人が水魔術を使うだけで、やいのやいのと。

 ……でも、本当に不安になってきた。辞退しようかな?

 

 考えながら兄からアクアハーティアを受けとる。

 兄は杖の先端部を地面につけたまま、私に両手で握らせた。

 黒檀のような木の表面はすべすべとしていて、とても固い。虫食いにも強そうだ。

 

「手ぇ離すぞ」

「うん」

 

 一緒に支えていた兄の手が離れる。

 

「おも!」

 

 木の部分は見た目ほど重くはないのだ。

 問題なのは魔石の部分。頑張って支えているけど、これが重たくてふらふらと杖が安定しない。

 ソマルくんが「弱っちい!」と言いながら、二股に分かれた杖の上部を片手で持って支えてくれた。

 ふう。安心して杖から手を離すと、「おいコラ」と頭上から声が飛んできた。

 

「私はやめとく……」

「シンディにはまだ早かったな」

 

 そう言って兄はソマルくんから杖を回収した。

 軽々と持っている。……と、思ったけど、肩に立てかけるように持ち直したから、少しは重いのかもしれない。表情に出さないだけで。

 

「ルーデウス!」

 

 溌剌とした声。聞き覚えのある声だった。

 振り返ると、馬から飛び降りたエリスさんがこちらに向かって来るところだった。

 馬上で手網を持っているのはギレーヌだ。二人乗りで来たらしい。

 

「エリス、どうしてここに?」

「遅いから迎えに来たのよ! ルーデウスのすっごい魔術、見せてくれるんでしょ?」

「言いましたけど、ずいぶん早いですね」

「そう?」

 

 エリスさんはずんずん兄に歩み寄り、――一点を見つめて、ピタッと止まった。

 みんなは、とつぜん現れたよそ者への興味や警戒より、エリスさんの様子がおかしいことが気になったようだ。

 その原因を探るため、彼らの視線は自然とエリスさんの見つめる方に集まる。

 

「誰?」

 

 視線の先には、シルフィがいた。

 驚いたようにエリスさんを見つめ返している。

 エリスさんは怯えた顔で後ずさり、「スペルド族!」と叫んだ。シルフィも怯えた顔できょろきょろ辺りを見回した。

 

「え、え!? スペルド族!? ど、どこ!?」

「あなたよ、あなた! 緑の髪!」

「ボク!? なんで!?」

 

 慌てふためくシルフィの前髪を、ソーニャちゃんが掻き上げた。

 つるんとした白いおでこ。

 種族的な違いなのか、シルフィは炎天下で遊んでもちっとも日に焼けない。うらやましい。

 

「よく見て、赤い石ないでしょ?」

「……すぺ、スペルド族じゃ、ない?」

 

 まだ怖がっているエリスさんに、そばに居た子たちがうんうんと頷いた。

 エリスさんはホッとしたように胸をなで下ろし、居丈高に腕を組んだ。その表情に先程までの怯懦はひと欠片もない。

 

「紛らわしいわね、違う色に染めたら? 白とか!」

「え? 嫌だよ……」

「態度の落差すげぇ……」

 

 兄が「彼女はエリス。俺の下宿先の家のお嬢様だよ」と紹介すると、「貴族じゃん!」と誰かが言ったのを皮切りに、珍しそうな目がエリスさんに集中する。

 怒るかな? と思ったけれど、エリスさんは平然としている。

 お家柄上、見られることには慣れているのだろうか。

 

「行くわよ、ルーデウス」

「はい。じゃあみんな、また後でな」

「じゃーねー」

「明日は魔術の勝負しようぜ。午後から暇にしとくから」

「力比べもやるぞ!」

「今度うちにも顔出してね」

「兄貴に子供産まれたから、見に来いよ。超カワイイんだ!」

 

 思い思いの言葉をかけるみんなに手をひらりと振り、兄は村に背中を向けた。みんなもそれぞれ、残してきた家業の手伝いに戻ってゆく。

 私は兄の背中を追いかけ、服を掴んだ。

 

「シンディ?」

「お兄ちゃん……私もいっしょに行ってもいい?」

 

 私も兄の魔術を見たい。

 天候を操る魔術は、作物に影響が出るから、村からも町からも離れた場所で行わないといけない。つまり、兄はまた遠くに行ってしまうのだ。

 馬車の中でたくさん話したけれど、それでも、一日も経たないうちにまた離れてしまうのは、寂しい。そんな気持ちもあった。

 

 兄はギレーヌの方を見た。ギレーヌは首を横に振り、「いくら子供でも、四人乗りは厳しいな」と断った。

 馬は一頭。村でもう一頭借りることもできるが、乗馬に長けているのは、ギレーヌだけなのだろう。

 

「ごめんな、シンディは留守番しててくれ。多分、夕方には戻ってこれるから」

「夜ごはんはいっしょに食べようね?」

「ああ」

 

 兄はエリスさんに続いてギレーヌに持ち上げられて鞍にまたがった。

 離れていく影を見送り、友達の所に戻ると、メリーちゃんに「可哀想にー」と抱きしめられた。

 

「フラれちゃったねー」

「うえーん」

「私たち、これから教会でレース編み教わりに行くけど、シンディはどうする?」

「私はいいや、やりたいことあるの」

「そう? じゃあまたね」

「うん、ばいばい、明日はいくね」

 

 みんなとも別れ、一度家に戻る。

 

 

「ただいま!」

「お姉ちゃんみてみて!」

 

 居間に入るなり、アイシャが飛びついてきた。

 リーリャとよく似たお仕着せを着ている。ちょっとだぶだぶだ。

 

「あれ、どうしたの、その服」

「お母さんにもらった! 頭のやつも!」

 

 ホワイトブリムに手を当てたアイシャがくるんと回る。リーリャの服と異なるのは、襟に白いスカーフを巻いているところと、腰で結ばれた前掛けの紐が、ふんわりとしたリボンになっているところだ。

 袖口をカフスで留めていないので、手首に余裕がある。

 大きな袖から小さな手が覗いているのがかわいい。

 

「ルーデウス様も成人にひとつ近づきました。これからはアイシャにもメイドの自覚を持たせなくては!」

 

 と、リーリャは息巻いている。

 アイシャはまだ三歳。早期教育だ。

 

「かわいいね、似合ってるよ」

「えへへっ」

 

 お母さんと同じ服なのがよほど嬉しいのだろう。アイシャはご機嫌で可愛いポーズをたくさんしてくれた。

 本当にかわいかったので、言葉のかぎり褒め称える。そうしてノルンが消えていることに気がついた。

 ノルンは机の下でしくしく泣いていた。

 

「ノルンー? 出ておいでー?」

 

 母様が腕を広げて呼びかけても、そっぽを向く。

 

「のるんはかわいくないんでしょ!」

「そんなことないわ、ノルンだってとっても可愛いわよ」

「……」

 

 私はへそを曲げたノルンの元に這って移動した。

 髪のリボンを解き、ノルンの手首に巻いて結んであげた。

 アイシャの腰のリボン結びが羨ましかったんだよね。

 

「はい、ノルンもかわいい」

「……かわい?」

「かわいい!」

 

 抱きしめて頬ずり。

 おまけに羨ましがっていた当のアイシャに、「お姉ちゃんのリボンいいなぁ」と言われて、ノルンの自尊心は回復したようだ。

 母様にもらった私のリボン。ノルンが飽きたら返してくれるだろうか。

 

「おねえちゃん、ありがとーね」

 

 涙の残った赤い頬でお礼を言われた。

 ……返ってこなくてもいいか。もうあげちゃおう。

 

 ノルンはご機嫌で机の下から出て、母様に抱きつきに行った。

 私も出ようとして、机の天板にガンッと頭をぶつける。

 ちょっと前までならぶつけなかったのに。

 

 床につっぷして悶えていたら、母様が抱きかかえて頭に治癒魔術をかけてくれた。痛みが引いていく。

 治癒魔術は、自分でかけるより、母様にかけてもらう方が効く気がするのは、なぜだろう。

 

「お母さん、もっと撫でて」

「ふふ、甘えたね。よしよーし」

 

 全回復した。

 私は母様の腕から抜け出し、昨日兄からもらった本を大事に抱えた。これを目当てに家に戻ってきたのである。

 

「行ってきまーす」

 

 さっそく魔術の練習だ。

 玄関扉を開けようとする前に、扉が勝手に開いた。

 

「お父さん! おかえり」

「おう、シンディか。ただいま」

 

 父様は私をひょいっと持ち上げ、くるりと半回転して、外に私を置いてくれた。家の中から外に瞬間移動したみたいだ。

 

「さっきまでお兄ちゃんいたんだけど、エリスさんとギレーヌと行っちゃった」

「そうか、すれ違いになっちまったな……。

 シンディ、森へは?」

「行かない」

「知らない人に助けを求められたら?」

「大人の人をつれてくる、自分で助けようとしない」

「よしっ、忘れるなよ。行っておいで」

「いってきます!」

 

 外に駆けだす。家の中から、アイシャの「お父さんも見て!」とはしゃいだ声が聞こえてくる。

 周りの人が仕合わせそうだと、私もうれしい。

 

 

 

 近ごろ曇り空が多い。

 今日は久しぶりに晴れたと思ったら、また曇りだした。

 

 丘の上に行き、大樹の根元に座りこむ。

 本を広げると、イヴとワーシカたちが寄ってきた。

 

「なにそれー?」

「字ぃきたなーい」

「そんなこと言わないの」

 

 汚くなんてない。少し……金釘流なだけだ。

 二人とも、字は少しだけ読めるが、魔術はまだだ。

 私が教えているけれど、遊ぶほうが楽しいみたいで、そんなに真面目に取り組んでくれない。

 

 クラレンスやエリックに邪魔されながら、読み進めていく。

 

 

 ・混合魔術について

  複数の魔術を順番に、あるいは同時に使い、効果を掛け合わせることで別の効果を生み出す術である。

  例(上級者向け)

   水蒸(ウォータースプラッシュ)氷結領域(アイシクルフィールド)→ フロストノヴァ

   水滝(ウォーターフォール)地熱(ヒートアイランド)+氷結領域→濃霧(ディープミスト)

   水蒸(ウォータースプラッシュ)流砂(サンドウェイブ)泥沼(マッドドロップ)

 

 

 ページの右下に猫が描かれていて、猫の口元から楕円が伸びている。

 楕円の中には「泥沼はもう一度流砂を発動することで無効化できるぞ!」と口語で書かれていた。

 猫にしゃべりかけられているみたいでなごむ。

 

 

 ・注意

  広範囲に影響を及ぼす魔術は、広い場所で、人払いを済ませた上で使うこと。

 

 

「シンディ姉、なんて書いてあるの?」

「魔術で人をケガさせちゃダメだよ、って書いてあるの」

 

 片腕で混合魔術を使う方法が書かれたページを探す。

 あった。水と火の混合でお湯をつくる方法を例にして、簡潔に説明されている。

 

  1.初級魔術の水弾を生成する。魔力の流れをよく知覚しておくこと。

  2.手首~肘まで魔力を戻し、留めておく。バブルリングが腕を囲んで浮かんでいる図をイメージすると良し。

  3.初級魔術の火弾を生成する。

  4.バブルリングと合流させて手のひらから射出する。

 

 バブルリングって何?

 知らない言葉もあったものの、これでお湯を出せるようになるらしい。

 攻撃魔術としての熱湯ならともかく、単にお茶を入れるための湯や、湯浴みのための湯が欲しいときは、桶に水を溜めて、それを灼熱手(ヒートハンド)で温めるだけで良いとも書いてあった。

 ただし加減をあやまると桶が焦げつくため注意、とも。

 

 無詠唱は大前提として、発動前の魔術の魔力を体内に戻す練習から始め、慣れてきたら、魔力の形を崩さないように戻す練習。

 さらにそれも慣れてきたら、戻した魔力を手首あるいは肘に留めたまま別の魔術を使う練習。とにかく反復練習。

 と、概要はそんな感じだった。

 

「ひえ……」

 

 混合魔術にあたってのコツもたくさん書かれている。

 いったい兄は、これを習得するのに、どれだけの労力を払ったのか。

 いちど本を閉じ、滑らかな革の表紙を眺める。

 これは、妹たちや小さな子には貸せないかも。

 うっかり破られでもしたら、兄に申し訳が立たない。

 

「シンディ、ぐるぐる、ぐるぐるだよ」

「あぅ」

 

 ヒューが抱きついてきて、ぐいぐい顎を下から押される。

 空を見てほしいようだ。真上しか見えない。常緑の梢の隙間から、曇天の空が少しだけ見える。

 まだ正午を過ぎたころだと思うが、太陽は厚い雲に遮られ、あたりは薄暗い。

 

「そうねえ、雨が降りそうだね」

「雨ちがうよ!」

 

 毛虫が落ちてきたのだろうか。寒くなってくると、越冬のため葉の裏に隠れた毛虫が落ちてくる事があるのだ。

 ヒューの顔や手が毛虫に刺されてないか確認した。何ともなさそうだった。

 

 広範囲に枝葉を広げた木の下から出る。エリックが涙を浮かべて飛びついてきた。

 

「シンディねぇね、いぶがさ、エリーとあそばない!」

「あら、それじゃ、仲間にいーれて、って言いにいこうね」

 

 眼下では、イヴとワーシカの二人が丘を転がり落ちて歓声をあげていた。草まみれだ。あとで払ってあげなくては。

 

「ぐるぐる!」

 

 ヒューが空を指さし、叫んだ。

 あまり綺麗な色ではなかった。黄土色、黒、茶色、紫色――濁った色が、曇り空に渦巻いていた。無数の目のようだった。

 いつか見た錦雲とは、まるでちがう。

 

 遠くの空から、一条の光が地上に伸びた。

 私はそれを見た。

 

(あ、死ぬ。)

 

 直感した。

 

「戻りなさい! はやく!」

 

 悲鳴は、言葉になっただろうか。

 丘の下にいる二人に叫び、そばに居たヒューとエリックの手をにぎりしめ、体をひるがえし、走った。木の下に引き返した。

 握った手に、汗がにじんでたまった。私の手の中で彼らの手はすべり、はなれかける。

 私はいそいで握りなおす。爪をたてるほどきつく握り返された。

 木の根元に座り、本の表紙を叩いて遊んでいたクラレンスはきょとんと私たちを見た。

 

 クラレンスの肩を押して木に押しつけた。彼は樹肌に頭をぶつけ、泣き出した。

 何かに掴まるのは、水害で生き残る方法だ。

 ああ、そうだ、生前。私が生まれる前年、それと、数えで八と九の年。

 備中では台風で大勢死んだ。それで、海まで流れた死体もあったそうだ。私がいたのは山陰のほうだったから、被害は、水害の後に蔓延した伝染病のほうが深刻だった。

 でも、そのときに教えられたのだ、川が増水して流されそうな時は、高所で、何かに掴まれ、と。

 

 わかってる。あれは、洪水なんかじゃ、ない。

 

 イヴが、エリックを後ろから抱えてしゃがみこんだ。

 イヴの背中に手を当てる。ワーシカは? ワーシカはどこ?

 

「……!」

 

 いた。走ってくる。

 背後には青白い光。

 

 腕を伸ばした。木に掴まれと言ったのに、私の体にはいくつもの体温がすがりついている。

 

 ワーシカの手首をつかんだ。

 白い光の奔流に押し流された。

 何も見えなくなった。

 

 

 


 

 

甲龍歴417年 フィットア領 魔力災害

■気象の概要

 甲龍歴417年11月下旬、災害の中心部である城塞都市ロアには、風の収束により雨雲が滞留していた。当時の雨量記録が残る観測点は多くはないが、この雨雲によりフィットア領北部では雨風が強まり、20日には88.5mm、21日には147mmと多くの雨量があったのである。災害を免れたハーヴォ村には10月18日に「大暴風雨、30余戸の人家倒壊」、20日にも「大暴風雨により堤防破壊」などの記録があり、相次いで台風が来襲したことをうかがわせる。一方で隣接する市には「10月26日ごろから夏のような日照りが続いた。11月になっても気温は下がらない」という町誌の記載があり、大規模な災害の予兆はあったとみられる。

■被害の状況

 この災害において特筆すべきは、転移による死者・行方不明者である。死者・行方不明者はおおよそ9万人で、ラプラス戦役以降のアスラ王国の魔力災害被害としては最大規模の被害となっている。広範囲にわたる災害で未曽有の犠牲者・被災者が発生し、フィットア領の政治機関が集中するロアを直撃して、金融と政治機能が麻痺したことから、国王と大臣は大規模な対応に追われた。

 サウロス処刑後、フィットア領の領主に擡頭したジェイムズ・ボレアス・グレイラットがダリウス・シルバ・ガニウス上級大臣の援助を受け、フィットア領復興院を設置し、復興事業に取り組んだが、資金の大半は王都の工事事業に費やされた。

 各国の転移被害者を保護する体制は整っておらず、また被害者の救済措置を民間に大幅に委託したことも、被害を甚大にした原因である。当時の国王が、被害の責任をとらせるため当時の領主サウロス・ボレアス・グレイラットを処刑する判断を下したことも、復興が遅れた一因といえよう。

 転移事件による正確な死者・行方不明者の数は、現在でも明らかになっていない。

 

『アスラ王国 魔力災害史(下)』より抜粋

 

 


 

 

 

 蜂蜜を少し垂らしたウーブリ。

 ウーブリは、薄焼きの生地を円錐状にまるめたお菓子である。

 もうすぐ五歳になる男の子、ワーシカの好物はそれだった。

 

 生まれてまもない妹のミーシャの額にウーブリを置いて泣かせ、「食べ物で遊ぶんじゃないよ」と母のクロエに手の甲をぴしゃりと叩かれた事があった。

 

 ちょっといたずらをしただけのつもりだった。

 両親や姉の関心が、小さなミーシャに移ったのがおもしろくなかった。

 妹にはまだ食べられないおやつを顔の上に置いて、からかっただけだった。

 

 母に叱りつけられ、おやつも取り上げられ、甘ったれの彼は、すぐさま五歳年上の姉のソーニャに泣きつきに行った。

 彼に優しいソーニャは、彼を撫でたが、抱きしめてはくれなかった。まだ歯も生えていない妹のミーシャをいじめるのは、いくらソーニャの気質が優しくても、許容できないことであった。

 

 ソーニャは自分のおやつをこっそり弟に分け与えながら、言った。

 

「ミーシャに意地悪ばかりしてると、シンディに嫌われちゃうんじゃない?」

 

 シンディ。

 シンシアお姉ちゃん。

 

 ワーシカが大好きな女の子だった。

 ソーニャとは姉弟で結婚できないから、ぼくはシンディ姉と結婚するんだ、と幼心に思っていた。

 小さな村で、幼い頃からよく遊ぶ男女。周囲の大人からも、いずれ恋仲になるだろう、と思われていた。

 

 シンシアは〈神子〉というらしかった。

 不思議な力を生まれつき持った人のことだ、と彼の両親は教えた。

 実際、シンシアには不思議な力があった。

 村の住民の遺失物。夜になっても帰ってこない子供。それらの居場所を、正確に言い当てた。

 彼女の両親は、彼女が村から疎外されないように、不思議な力を人のために使うことを徹底させた。

 そのやり方が功を奏して、シンシアを気味が悪いと思う人は一人もいなかった。

 気味が悪くはなかったけれど、村の中で、シンシアは特別だった。

 

 ワーシカは、シンシアが誰かに声を荒らげて怒るところを、一度も見たことがない。

 もしかすると、ワーシカの知らないところではあったのかもしれないが、少なくとも、彼の前では一度もなかった。

 穏やかな子だった。女の子はみんなこうなのかな、とワーシカは思い、すぐに違うと結論を出した。

 同い年のイヴも女の子だけど、やんちゃで負けん気が強い。

 イヴは一緒にいると楽しいからそれはそれで好きなのだが、ワーシカはやっぱり穏やかなシンシアのほうが好きだった。

 

 見る者が見れば、あるいは、シンシアの性格は、生まれ持ったものではなく、前世の環境に矯正されたものだと気づいたかもしれない。

 穏やかなのではない。いちいち怒っていては身が持たなかったのだ。

 身に降りかかる不条理を、飢えを、寒さを、じっとやり過ごして耐える他に、方法を知らなかった。

 恵まれた環境に生まれた今世では、奔放にトウビョウの力を振るい、増長する可能性もあった。

 だが、我が子が手元から離されることを拒んだゼニスによって、トウビョウの力の大部分は封じられた。

 シンシアは増長せず、本気で怒ることを忘れたまま成長した。

 文明が開花した明治時代。人民の権利と自由が意識され始めた時代。

 前時代的な暮らしを続けていた貧しい農村の子には、関係のないことだ。

 良くいえば温厚で、悪くいえば事なかれ主義。

 彼女のずっと前の世代からこの生き方は変わらない。

 幸いに、優しい両親のもとで、辺鄙だが人々に余裕のある村において、シンシアの気質は美点になった。

 

 だからワーシカの中でも、シンシアは優しい女の子だった。

 

「シンディ姉はぼくのこと嫌いにならないよ」

 

 ソーニャにはそう言い返した。

 シンシアが誰かを嫌っている姿すら想像がつかなかった。

 ソーニャにはそう言ったけど、後でだんだん不安になってきて、次の日にシンシアに訊いた。

 

「嫌いにならないけど、小さな子に優しくできるワーシカのほうがもっと好き」

 

 妹に優しいお兄ちゃんになろう、とワーシカは決意した。

 その決意はあまり長く持たなかった。でも、シンシアの一言で考えをあっさり変えるくらい、ワーシカの中で、彼女の存在は大きかった。

 

 神子で特別なシンシア。

 シンシアの特別はぼくじゃないのかも、と思うのは、彼女の兄と妹たちが絡んだときだ。

 

 ノルンとアイシャというシンシアの妹。

 その子たちが優先されるのは許せた。

 小さな子は手がかかるし、周りが助けてあげなければいけない存在だからだ。

 

 でも、ルーデウスというシンシアの兄。

 ワーシカがもっと小さなときは遊んでもらったこともあるらしいが、憶えていない。

 もう十歳のお兄ちゃんらしいのに、いつまでもシンシアの心を占める存在。いやだった。早く出ていってほしかった。

 

 シンシアの心からルーデウスが出ていったとき、今度こそ、シンシアは、ワーシカの「大人になったら、ぼくと結婚して」というお願いに頷いてくれる気がしていた。

 

「いいよ、仕方ないね、ワーシカは」

 

 と、笑顔で頷いてくれるだろう。そう思った。

 

 

「戻りなさい!」

 

 シンシアが声を荒らげるのを、初めて聞いた。

 一緒になって丘を転がり落ちていたイヴが、弟の名前を叫んで木の下に行った後だった。

 ワーシカは見てしまった。どんどん膨らんで迫る白い光が、丘から見える家々や畑を飲み込むところを。

 ソーニャは教会でレース編みを教わっている。

 お母さんとお父さんは畑で働いている。

 ミーシャは畑のそばで、えじこに入って泣いているだろうか。

 

 もつれそうな足を動かして、シンシアのもとに走った。

 シンシアの必死な眼には、ワーシカしか映っていなかった。

 

 

 ぼくのせいなのかな。

 ぼくが、シンディ姉のいちばんになりたい、って思ったから。

 こんな、よくわからない、こわいことになってるのかな。

 

 

「起きて……シンディ姉」

 

 目覚めた場所で、ワーシカはシンシアを揺さぶった。

 みんな、砂塵にまみれていた。他の子はまだ寝ている。

 シンシアは背中側をヒューにしがみつかれ、本を抱えたクラレンスを抱きかかえる格好で、目を閉じていた。

 

 ワーシカが気がついた場所は、遊び場の丘ではなかった。

 周囲には苔がまだらに生え、やや離れた場所には、緩やかな傾斜にそって、風化し崩れゆく最中であろう石の建造物があった。

 長い間使われていないのか、苔や蔦が罅の入った石壁に自生している。細長い栗鼠のような齧歯類が、崩れかかった石壁を乗り越えて巣穴に戻った。

 眼下には、白い雲が流れている。険しい山脈の尾根にかぶさる雲はキノコのようだった。

 

 薄昏い空には、紅い鳥とトカゲが混ざって大きくなったみたいな、怖い生き物がたくさん飛び交っていた。

 遠く離れているのに、それらはワーシカたちを見つめているとわかる。

 

 

 417年、転移事件。

 アスラ王国フィットア領を襲った未曾有の大災害。

 被災者の半数は、魔力に変換されて消滅している。

 消滅をまぬがれ生存しても、その後の生存まで保証された土地に転移した者はごく少数であった。

 

 

 大陸の陸地を横断する巨大な山脈――赤竜山脈。

 以前の名前はとうに忘れられ、誰も憶えていない。

 第一次人魔大戦時から存在している。それは確かなのだ。

 ラプラスによって放たれた赤竜が住みつき、かつて暮らしていた人々は追い出された。

 それ以来、この場所は、何百年と変わらず赤竜の縄張りであった。

 

 赤竜の縄張りに踏み入り、生きていられる者はいない。

 骨すら残さず食い尽くされる。それがこの世界の定説だ。

 

 まだ五歳に届かないワーシカは、空を旋回する生き物が赤竜であることを知らない。

 逸らされない赤竜の視線が、獲物を捕らえた捕食者の眼も同然であることを知らない。

 しかし生物に刻まれた本能として、恐ろしい事が起こることを予感していた。

 

「シンディ姉! 起きて! ここなんか怖いよ!」

 

 赤竜山脈に子供が六人。そのほとんどが五歳にも満たぬ幼子である。

 生存は絶望的であった。




一章 終


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歌はその日の予言ならまし
十八 蛇巫


蛇巫(へびふ)の役割について】

1 神蛇と交合すること

2 神蛇を生むこと

3 神蛇を祀ること

 

蛇はかつて大元の神であり、さかのぼれば、縄文時代から信仰の対象であったそうです。

近代の中国地方で信仰されていた蛇神、トウビョウの中には、家の守護神とされるような神聖性と、動物霊として卑しめ嫌忌されるという矛盾した相が同居していますが、その矛盾の理由は、古代と後代における蛇観の差の中に求められます。

 

古代に蛇が信仰の対象になった理由

1 蛇の形態が男根の象徴であるから?

2 毒蛇や蝮の強烈な生命力と、相手を一撃で倒せしめる毒性から?

これらのことが相乗効果を持ち、蛇を神と祀るに至った?

 

現代では蛇は信仰対象ではない理由

1 キリスト教では蛇は人間に原罪をもたらす邪悪の権化である→キリスト教の伝来により嫌悪されるようになった?

2 日本神話ではすでに蛇は畏敬と嫌悪を内包していた

 

※あとで良い感じにまとめます。

 

 

つまり、トウビョウは、古代、蛇巫によって祀られた神蛇が零落した姿であって、

かつて巫女や物に憑依して託宣を授け、神意を示してきたのが、

時代とともに蛇の神威は衰え、忘れられていったと考えるのが自然です。

 

トウビョウの名の由来は不明ですが、時代のどこかで古代の神蛇がトウビョウという名を獲得し、狐・犬その他の動物霊の中の一つとして数えられるようになったのは、古代の蛇神の中にあった「取り憑く」という特徴が、神威を喪失した後も残ったためであると考えられます。

神威を失った上での憑依は、人々にとって害悪以外の何ものでもありません。

 

 

中国西国のあたりに蛇をもちて人につけなやます

(寛文十年『醍醐随筆』)

 

安芸に蛇神あり。又たうべうと云。人家によりて蛇神をつかふ者あり。其家に小蛇多くあつまり居て、他人につきて災をなす

(宝永六年『大和本草』)

 

備前のたふべうの事、或人曰く、備前の国にもたふべうを持と云者あり。是は狐に非ず。煙管の吹煙筒程の小蛇、長さ七八寸に過ぎざるものなり。……

(執筆年不明『雪窓夜話』)

 

とうびょうは、また七十五匹が一団で、この家筋のものと縁組みした家には、その七十五匹のとうびょうが、嫁や婿について行き、その家もとうびょう持ちとなる。

(大正十一年『民族と歴史』八巻一号)

 

今まで貧乏であった家に急に財産ができると、その家にはとうびょうが飼ってあるという。昔はとうびょうが夜出て、他家に行き、なんでも口にくわえて帰ってきたため、急に財産ができたのだといって、大変世間の人は嫌っていたそうである。

(前掲書)

 

トウビョウのほか、荒神神楽の蛇託宣など、中国地方は古代から続く蛇信仰を濃く継いだ土地であることは明らかです。

 

 

※岡山県苫田郡の××村(現在は津山市)で信仰されていたトウビョウについて調べたら加筆します。

※こんど訪ねてみます。

 

 

↑もう手遅れだったみたいです

 

 

 


 

 

 

 不吉な家だった。

 家の裏手に池があって、池は、どこか侘しい茅葺き屋根まで映しだした。

 池に家が映る立地を池鏡といい、岡山では忌み嫌われる。

 チサが生まれ育ったのは、北の果ての村の、忌み家だった。

 

 この家は死んでいる。

 換気や吸湿といった、家としての機能はとうに失われているのだ。

 毛羽立った畳は藺草の匂いなどとうに消えていて、寝転べば、畳に染み込んだ垢と汗が粘着質に躰にまとわりつくような。

 わざと上げたはしゃいだ声は、どこにも響かずに、じゅくじゅく腐った天井に吸い込まれていくような。

 土と木と、人の臭い。それらが充満した陰鬱な家の中でも、チサは婆やんの膝に抱かれていれば、満たされているのだった。

 この家が死んどるんは、トウビョウ様がおるからじゃ。婆やんの膝の上で、チサは幼心にそう確信していた。

 

 チサは躰を起こした。

 肘で上体を支え、力の起点を肘から手のひらに移す。

 敷きっぱなしの湿った布団に手のひらを押しつけた。

 足の付け根――動く。

 膝の感覚――ある。

 佝僂のように背中をまるめ、片足のつま先を布団につける。

 足元でわだかまった掛布団から、もう片足も引き抜いた。

 裸の両足で布団を踏んで立ち上がる少女は、すでにチサではなかった。

 異人の、青い眼をした童女だ。

 チサと名付けられた女は、北の果ての寒村に生まれ育ち、飢えと寒さを恐れながら、家系にまつわる因果の中を彷徨ってきた。

 シンシアと名付けられた童女は、分限者の家に生まれ、果報の中を歩いてきた。

 身の上も名も異なる少女たちは、どちらも、たいそうな別嬪だ。

 いや、シンシアはまだ十にも満たない年端であるから、別嬪というには早すぎる。それでも将来の華容を予感させる美貌を備えていた。

 それが祝福されたものではなく、前世から続く宿業を証す不吉な美貌であることを知っているのは、彼女に憑いている蛇神くらいなものかもしれない。

 シンシアは自分の足で土間に降りた。

 ぺた、ぺた、と歩き、納戸を、竃の前を通り過ぎた。

 乞食柱の前にしゃがみ、箱を手にとる。

 死んだ家にふさわしくない手箱だ。

 真鍮の金細工の手箱である。上面には椿のような花、側面には麦穂と二羽の小鳥が浮き彫りになっていて、少し手擦れしている。

 上がり框に腰かけ、手箱を膝に置いた。

 留め金具を外した。

 

 小蛇は、箱の縁においた指先をはい上ってくる。

 シンシアは口を小さく開け、蛇の胴体を咥え、歯をたてた。噛みちぎった。

 骨を噛み砕き、嚥下する。あと七十四匹残っている。

 

 最後の一匹。

 頸に金と白の輪のある淡い墨色の蛇をみとめた。

 シンシアの眼は先に起こることを見た。

 身の上に起こることを知った。

 

 蛇を産む女がみえる。初潮は済んでいる年頃だ。

 産んで、産んで、産み疲れて二十の半ばで死ぬ。

 トウビョウは数を増やし地に満ち、やがて力を増す。

 強大な魔物が跋扈する場所は、さぞ居心地がよかろう。

 前の居場所では、忘れられてゆくばかりだった。しかし、此処で、魔に属する物への嫌悪と畏敬を忘れない人々を守ってやれば、かつてのような信仰を集められるのだ。

 そうして、シンシアの躰を苗床にして、異界の地に根づいてゆくのだろう。

 

『トウビョウ様よ、そねえに、わたしが憎うてならんか』

 

 いや、憎しみも喜びも神性を失った蛇神にはない。

 トウビョウが異界になずむ過程で、たまたまオナゴが一人喰い潰されるだけなのだ。

 それらは呪いの集合体。快・不快に従って取り憑く女を選び、託宣を下す。

 

『まんが悪かったんじゃなあ……』

 

 誰が悪かったのでもない。

 強いて言うなら、間が悪かった。生まれた時、場所、体質、それらの仕合わせが良くなかったのだ。

 

『わたしは、ほんまは果報とはほど遠い身の上じゃけん、人じゃねえきょうてえ*1もん産んで、死ぬんが似合うとる』

 

 乞食に等しい身の上でも、ひとの果報を祈ることはできる。

 家族、生まれ育った村の友人、知人、通りすがりに親切にしてくれた他人――シンシアの中で、不幸になっていい人間なんて、ひとりもいなかった。

 

 手にまとわりつく小蛇を見つめる。

 蛇は子供の手の上を悠々と這い、指の間に頭を滑らせている。

 人の理屈や道理を解さぬトウビョウ様が、願いを聞き届けるのかもわからない。

 シンシアは一縷の望みをかけて、口約束をもちかけた。

 口から零れ出るのは、流暢な異世界の言語だ。

 

「産んであげるから、その力、私にちょうだい」

 

 最後の蛇を飲み込んだ。

 

 

 


 

 

 

「シンディ姉!」

 

 強風とともに地面が凄まじく轟いたと思えば、それは紅い魔物が降り立った衝撃なのだった。

 揺れた地面に踏ん張っていることはできず、私の体はたやすく宙に浮き、次の瞬間にヒューを抱きしめたまま地べたに叩きつけられた。

 背中を打ち、空気の塊が口から吐き出された。

 

 目の前に黒々とした洞窟があり、その奥で火花が散った。

 竜は口を開けていた。胸郭が大きく膨らむのが見えた。

 

 頭が鋭く痛んだ。頭に浮かぶ絵は、六つの赤黒い人形だ。

 私と、ワーシカ、イヴ、エリック、クラレンス、ヒューの焼死体である。

 

 トウビョウ様!

 

 ヒューを手離した。とっさに祈った。

 竜は口を閉ざした。それから、頭がゆっくり一回転して、金属が擦れるような音を立てて、落ちた。

 

 あとに残ったのは、静寂と、巨大な死骸。

 頭を置き去りにして、首の断面をさらしながら胴体は傾斜を滑り落ちていった。

 

「ふぅ」

 

 息を吐き、その場にしゃがみ込む。頭の芯に鈍い痛みをおぼえた。

 この体に感じるのは、疲労感と軽い頭痛。人を呪殺した後に同じ状態に陥ったことはない。

 不安になった。はるか頭上の空には、まだ竜が蠅のように飛んでいる。

 

 エリックの手をひいたイヴが駆け寄ってきて、私にぎゅっと抱きついてきた。反対側からはワーシカがくっつき、エリックは私の首元に手をのばして正面からしがみついてきた。

 誰も、何も、言えなかった。何もわからなかった。なぜこんな所にいるのか、ここはどこなのか。

 

 

 

 困ったときは、自分の置かれている状況を、ひとつひとつ整理するといい。

 私が頼りにしている人たちは、みんなそう言う。だから、私もそうする。

 

壱、ここはどこなのか。

 わからない。どこかの山頂の集落だと思う。

 人はかなり長いあいだ住んでいないらしく、周囲にあるのは、崩れかかった石壁をわずかに残した廃屋ばかりだ。

 

弐、一緒にいるのは誰か。

 ワーシカとイヴ。四歳。

 クラレンスとエリック。三歳。

 ヒュー。二歳。

 そして私、シンシア・グレイラット。六歳。

 あと数日で七歳になる。兄が家を出たときと同じ齢だ。

 

参、なぜここにいるのか。

 これも分からない。

 母様、父様、リーリャの顔を想像してみる。

 

『ねえパウロ、リーリャ。シンディももう七歳だし、一人で旅に出してみない?』

『そうだな、いつまでも甘ったれでは困る!』

『ルーデウス様のように立派になって帰ってくるといいですね』

 

 こんなやり取りがあった……とか。

 

「そんなわけない!」

「はなせー!」

 

 クラレンスの頭を抱きながら空をあおぐ。

 先ほど襲われかけたところを呪い殺したから、警戒されているのだろう。襲いかかってくる個体はない。

 ただ、隙さえあれば喰い殺すつもりでいる。野犬の群れと同じだ。

 ワーシカに起こされなければ死んでいたような危険な場所に、母様が私を放り込むわけないのだ。

 女郎屋に身売りに出されるにしたって、もう少し大きくなってからだ。同じ村のハツもタケもヌイもヒサも十を少し過ぎたくらいで女衒に連れていかれたのだから。

 

 母様たちが私をここに置いていったという線は無し。

 

「シンディねぇね、血がいっぱい」

「え!」

 

 寄ってきたエリックにそんなことを言われた。

 エリックの頭からつま先まで見てみるが、怪我はしてない。

 

「ううん、エリーじゃなくて、ヒューが」

 

 エリックが指をさしたほう。

 さっき殺した赤い竜の頭部。

 その周囲で、ヒューがばたばた走り回っている。

 近寄ると、走った跡に血が点々と落ちている。

 走り回るヒューを捕まえ、血の出処を探ると、右手を怪我していた。

 指をぱっくり切り、あまりの事に泣くより興奮しているらしい。

 

「ヒュー、見せて。びっくりしたね、もう痛くないよ」

 

 治癒魔術の詠唱を唱えた。傷は痕ものこさず消え、治ってから、ヒューはようやく大声で泣き出した。

 抱っこをして、泣き止ませようとがんばる。

 けっこう重い。立っているのも疲れてくるので、地べたに座り、向かい合わせになるように抱いた。

 

 ヒュー自身に訊いても答えられないだろう。

 イヴとワーシカに怪我をしたときのことを訊いたが、二人とも見ていないというから、エリックを手招き、聞き出すことにした。

 

「ちがうよ! エリーのせいじゃない!」

「わかってるよ、お姉ちゃん怒ってないよ。なんでかな? って知りたいだけなの」

「エリーじゃない……」

 

 エリックは泣き出してしまった。

 ただでさえ機嫌が悪かったところに怒られそうな気配を感じたのだ、グズりだすのも仕方ない。

 クラレンスが寄ってきて、エリックとヒューの顔を交互に覗き込んだ。

 

「ヒューは、でっかいのさわった。そんで、すげー血がでた!」

「さわった?」

 

 でっかいの、は沈黙を保っている竜の頭部である。巨大な眼はすでに濁りはじめていた。

 ついてこようとするクラレンスをワーシカに確保してもらい、一人で、頸の前に立った。

 長い頸を鱗流れに逆らって撫でてみると、鋭利な刃を滑らせたように手のひらが裂けた。

 

 みんなを不安にさせないように小声でヒーリングを唱えて治す。

 この赤い鱗だ。鱗だけで、人の肌をかんたんに裂いてしまえるのだ。

 

「もうこれには近寄っちゃダメよ。じゃないと、ヒューみたいに怪我しちゃうから」

 

 さいわい、険しい山脈の只中にあっても、小さな村くらいの空間は拓けている。

 屋根もなくなっているが、かろうじて昔は家だったのだろうとわかる場所にワーシカたちを連れて移動した。

 山頂であるためか、風が強いし寒い。少しでも風避けになる場所にいるべきだ。

 途中で一頭の竜がこちらを目がけてぐんぐん下降してきた。

 死ね! 睨みつけた。祈る両手はヒューとエリックに塞がれている。

 

 透明な手に力まかせに引き裂かれるように、空中で、上顎と下顎から真っ二つに裂けた。

 残骸が轟音を響かせて石階段の上に落ち、地面が揺れた。

 立っていられなくて、みんな転んだ。

 

「死んだ!」

 

 尻もちをついたイヴが可笑しそうに指さして言う。

 つられてワーシカも興奮気味に指さした。

 

「あれ、あれさ、レッドドラゴンじゃない?」

「レッドドラゴン?」

 

 聞いた覚えがある。

 いつどこでだっけ、えーとえーと。

 仕事が終わって暇になった父様と、家で話していた時だ。

 

『いいか、シンディ、この世には最強の魔物がいる。なんだと思う?』

『怒ったロールズさん』

『そんなに怖ぇのかよ。だが、残念ながら違う。なぜならロールズよりオレのほうが強いからだ』

『!? 父さま、すごいね』

『だろう?』

『旦那様、別の話をしたかったのではないですか?』

『あ、そうだった。いいか、赤竜山脈には――』

 

 赤竜山脈には、赤竜(レッドドラゴン)が群れで棲息している。

 赤い鱗に覆われた巨体で空を飛び、口から炎を吐き、優れた探知能力を持つ。

 

『女の人にへんしんする?』

『赤竜がか? 人に化ける魔物ってのは聞いたことがないぞ』

 

 赤竜山脈は、丸ごと赤竜の縄張りである。

 ゆえに、誰も住むことができない。赤竜の上顎と下顎という通行可能な渓谷以外では、山脈を渡ることさえも不可能である。

 

『赤竜は平地から飛び立つことはできない。だから奴らが縄張りから出ることは滅多に無いんだが、ときどき、平地に落っこちちまう個体がいる。それを〈はぐれ竜〉と言って、放置するとヤバい』

『やばい』

『ヤバい、じゃ伝わらないわよ。はぐれ竜が人里の近くに落ちると、町も畑も荒らされて、怪我をしちゃう人も大勢出るのよね、お父さん』

『ああ。はぐれ竜が出たら、必ず国を上げての討伐を行なう。それくらい強くて危険な魔物なんだ。

 まあ、この辺に出ることはないと思うが』

 

『もし見つけたら、絶対に近寄らず、逃げること』

 

 

 空を見上げた。

 赤竜の群れだ。誰もはぐれてない。

 

 はぐれ竜を見つけたら、逃げる。

 でも、この場合は、どうしたらいいのだろう。

 

 

「赤ちゃんは食べられちゃうぞ!」

 

 呆然としていたが、ワーシカの声で我に返る。

 ワーシカはエリックを抱いて、赤ちゃんは食べられる、とからかい、エリックはみるみる顔を歪めて泣き出した。

 

「ぎゃああん!」

「なきむしはあっち行って」

 

 可哀想なエリックは、慰めてくれるはずのイヴ()に冷たくあしらわれ、号泣しながら私のところに来た。

 涙と鼻水を胸に押しつけられながらイヴを諭す。

 

「イヴ、エリーに優しくしなきゃ」

「めんどくさいんだもん」

「そんなこと言わないで。お姉ちゃん今からやらなきゃいけないことあるから、今だけイヴがお姉ちゃんの代わりして?」

「えー」

 

 姉弟といっても、年子だ。面倒をみなきゃ、という意識は低いのだろう。

 でも今だけは、言うことを聞いてほしい。

「お願い」じっとイヴを見つめて言うと、イヴはうなずいた。

 

「わかった、エリーこっち来て」

「ありがとう、イヴ」

「べつに……」

 

 イヴはふてくされている。

 事の発端であるワーシカはクラレンスとヒューと手をつなぎ、ちょっとバツが悪そうにこちらを見ていた。

 私はイヴににこっと笑みを向けた。この中でいちばんお姉ちゃんの私は、この子たちを不安にさせてはいけない。

 

 山岳に顔を向け、口元に手をそえて、息を深く吸い込んだ。

 

「おーい!」

 

 三秒ほど経ってから、おーい! と声が跳ね返ってくる。

 私の声だ。振り返ってイヴたちを見ると、驚いた顔をしていた。

 

「だれ? あっちに誰かいるの?」

「シンディ姉がしゃべり終わったのに、なんでおんなじ声が聞こえるの?」

 

 ブエナ村では、身近に森はあるけど、山はない。

 みんなこれを経験するのは初めてなのだ。

 

山童(やまわろ)の仕業*2よ。妖が私の声をマネしてるの」

「やまわろ? アヤカシってなに?」

 

 伝わらないか。

 首をかしげているワーシカに「魔物のことだよ」と返した。

 

「でも、この魔物は、ふつうの魔物と違って、人を襲ったりしないの」

 

「だからこうやって」と言葉を切り、山に向かって再度「やっほー!」と大声で呼びかけた。数秒後に二重になって同じ声が返ってくる。

 

「こうやって、遊んでいいのよ」

「ほんと? 魔物こっちにきたりしない?」

「来ない来ない」

 

「ぅわー!!」とイヴが元気よく叫ぶ。声はぼやけて返ってきた。

 

「あたしもマネされた!」

「面白いでしょ?」

「うん!」

 

「おーしろい!」と〝面白い〟をうまく言えないヒューが言い、クラレンスが「がおおおー!」と山に叫んだ。

 ワーシカとエリックも、各々いろんな言葉を叫び出した。

 それにも飽きると、みんなは上機嫌で周辺の探索をはじめだす。

 イヴとワーシカに、小さな三人が私から離れすぎないように見ていてほしい、と頼むと、二人は素直にうなずいた。

 山童で遊んだことで、不安ゆえの不機嫌もすこしは解消されたようだ。

 

「ここだれの家ー?」

「さっきのドラゴンの家!」

「えー! ドラゴンってもっと暗いとこ住んでるんだよ?」

「シンディ姉、ここってドラゴンの家じゃないよね?」

「うーん、ドラゴンの赤ちゃんのお家かもね」

「ほら!」

 

 時々返事をしながら、風化した壁によりかかり、眼を瞑った。

 

 

 頭痛は引いていた。消耗はするものの、トウビョウ様の力は使える。

 ひょっとしたら、母様に蓋をしてもらう以前よりも強力に、自由に。

 そして代償が必要なのは、相手が竜の魔物だからだ、という確信があった。

 トウビョウ様は蛇神様である。龍とは、相性が悪いのだろう。だから呪い殺すのに労力が要るのだ。

 

 それはさておき、気がかりなのは、あの白い光のことだ。

 思い返せば、あれは私たちだけではなく、村のあらゆるものを飲み込んではいなかったか。

 あんな眩しい光を浴びて、村の皆は大丈夫だったろうか。

 目が潰れてないといいが。

 私は、ブエナ村を()()

 

「……?」

 

 目蓋をひらく。とじる。また視る。

 なんにもない。土が剥き出しの更地だ。

 村の近隣にこんな土地はないのに、変なの。

 トウビョウ様でも、視るものを誤るときがあるのか。

 

「のどかわいた」

「エリーも!」

「はいはい」

 

 喉の渇きを訴える子たちに、水魔術で出した水を手皿に溜めて、飲ませた。昔は水の量の調節に難儀したが、この程度なら労せず発動できるようになっていた。

 ワーシカとイヴは上手に手のひらに溜めて飲むのだが、他の子は指の隙間から零してしまう。

 私の手のひらに溜めて、飲ませた。素直に口を寄せて飲む姿は、親燕から餌を口移される雛を彷彿とさせる。

 エリック、クラレンス、ヒューの三人は、特に小さいから……。

 はるか頭上で一頭の竜がねじ切れて絶命した。

 

 クラレンスが風化した家の土台に手をかけ、全身を使ってよじ登った。

 

「ボロボロ!」

「そうね、誰がやったのかな」

 

「クラレンスかな?」と訊くと、意味がわかってるのかいないのか、「そうだよ」と頷かれた。

「ウソつくな」とワーシカが不満げに口をとがらせる。エリックがクラレンスを真似て石壁を登ろうとしたが、手の下を通った大きな蜘蛛に驚いて私にしがみついた。

 

「もう帰ろうよぉ」

 

 また泣きべそをかきそうなエリックの肩に手を乗せ、私は明るい声でみんなに告げた。

 

「いまからみんなで冒険者ごっこしよう? 自分たちで食べ物を調達して、外でお泊まりするのよ。ペルギウスも、カールマンも、ウルペンもやってたことなの」

「する、やる! 冒険者ごっこ!」

 

 いちばん乗りはイヴだ。今にも一人で突っ走りそうなイヴを抑え、イヴとクラレンス、ワーシカとエリックを組ませる。

 年長の方に、再度赤竜の死体に近寄らないように言いつけ、私はヒューと組んだ。

 

「木の実を採ってここに集合すること、私が良いって言うまで、採ってきた実は食べないこと、毒があるかもしれないからね。わかった?」

「わかった!」

「もう行ってきていい?」

「うん、それじゃあ、始め!」

 

 みんなは蜘蛛の子を散らすように、方々に散っていった。

 

「たくしゃんいる」

「そうだね」

 

 二歳のヒューに、三より上の数字は「たくしゃ()ん」だ。

 空のたむろする五、六匹の赤竜を指さしてヒューは笑顔でいる。生きている姿と死体が結びついていないのか、怪我をした原因である死体の頭部には怯えた様子を見せるのに、空の赤竜のことはまるで怖がっていない。

 

 だんだん日が沈んできた。

 私もヒューを連れ、周囲が見渡せるうちに、食べ物を探す。

 うつぎに似た実が群生しているのを見つけた。これを食べ、中毒で苦しむ未来は視えない。

 

「ほら、ヒュー、これもたくさん」

「ちゃうよ、いっぱい!」

 

 たくしゃん、じゃないらしい。

 低木から実を一つとり、汁気のないそれを噛み潰す。ヒューの口にも放り込んだ。

 

「べぇ」

「あらっ?」

 

 ヒューは顔をしかめて砕けた実を吐き出した。

 

「これキライ」

「まずい?」

「まじい!」

 

 そんなはずはない、ともうひとつ口に入れる。

 問題はなかった。この通り、なんの味もしない、無味である。

 ……無味?

 

 その意味することを悟り、私は嘆息した。

 

「味覚とられちゃった……」

 

 代償は、軽い頭痛だけではなかったのだ。

 ただのヒトや動物が相手なら、呪い殺すのは普段の供物があれば簡単なのだが、巫覡(かんなぎ)や、荒神、土地神の類を殺すのは難しい。

 こんなふうに、自分の何かを代償にとられる。安芸のイズナ使い、隣村のゲド持ちを祟り殺したときは、味覚を取られて半年間も戻らなかった。

 聴覚をほとんど取られ、耳元で大声を出されてやっと聞き取れる、という状態になったときもあった。

 

 この場合だと、返してくださるまで、どれほどの年数を必要とするのか。

 

「ごめんね、美味しくなかったね」

「まじかったよ」

 

 でも毒はないのだ。

 他に食べる物が見つからなかったら、これも大事な食料である。ポケットにありったけ詰め込んだ。

 蜂の巣があれば蜂の子にありつけるのだが。

 ちらりと赤竜の頭を見る。あれの肉は食べ、られる、のかな……?

 

「グルオオオオオォ!」

 

 腹に響く太鼓の音より巨大な音だった。

 一頭の竜の咆哮は、空気を揺るがし、私の体を震わせた。

 ヒューなど立っていられなくてコロンと仰向けに転がった。

 

 恐怖を覚えたワーシカとエリックが駆け寄ってきた。

 イヴはというと、空に向かって「うるさぁーい!」と叫び返している。強気だ。

 

「し、シンディ姉、どうしてドラゴンが怒ってるの?」

 

 エリックはともかく、ワーシカまで泣きそうになっている。

 

「きっとクシャミしちゃっただけよ、ドラゴンは体が大きいから、クシャミの音も大きいだけ」

「……なんだ、そっかー」

「でも、怖かったね」

「ううん! 怖くない。シンディ姉はこわいならぼくの後ろに隠れていいよ」

「うん、ありがとう」

 

 ワーシカは目に見えて安堵していた。

 イヴとクラレンスも呼び寄せ、集まった木の実を選別していく。兄の植物辞典に書かれていた植物もあれば、まったく知らない種もあった。

 何にせよ、子供五人の腹を満たすにはとうてい足りない量だ。

 

「さっき小さい動物みつけたよ」

「ほんと!」

 

 ワーシカの案内で、細長い栗鼠のような小動物を捕まえたはいいのだが、死んだ途端ものすごい異臭を漂わせた。

 みんなでキャーキャー言いながら、木の枝で死体を崖の下に落とした。

 

「みて、シンディ姉、これ武器! 剣!」

「危ない、危ないわよイヴ!」

 

 イヴはどこからか拾ってきた銅剣を危なっかしく振り回そうとし、地面に取り落とした。重たくて振れなかったのだ。

 よほど昔のものなのだろう、銅剣は満遍なく緑青を吹いていた。

 

「えらいよ、イヴ。良いもの見つけてきたね」

「へへん」

 

 イヴは胸をはった。重かっただろうに、よく運んで来てくれたものだ。

 

「よいっ……しょ」

 

 私は赤ん坊と同じくらいの長さの銅剣を持ち、赤竜の首の断面に突き刺し、肉を少しずつ抉りとってゆく。

 すごく硬い。重労働だ。

 

「あっ」

 

 刃先が狂い、太ももにちょっと刺さった。

 

「シンディ姉、どうしたの?」

 

 背後から心配そうなワーシカの声。

 不安にさせてはいけない。家に帰りたいと思わせてはいけない。

 

「なんでもないよ、手が滑ってビックリしただけ」

 

 血が溢れる腿を手で押さえる。スカートも裂けていた。

 治癒魔術、治癒魔術、治癒魔術――

 

「あら……」

 

 治った。詠唱を言ってないのに。

 シルフィのように無詠唱で治癒魔術を使うことに成功した。

 あんまり嬉しくない。褒めてくれる母様はここには居ないのだから。

 

 

 もう日は落ちた。

 自生している蔦や低木の枝をかきあつめ、火魔術で火をつけて焚火をした。

 火が弱まりそうになったら、魔力で増大できる。

 母様に生んでもらったこの体で助かった、と心底思った。火を操る術は生前の私は使えないのだ。

 小さな子は、たいてい、自宅の暖炉で火傷をしたことがあるから、私が注視しなくとも火には触らない。

 

 竜肉は、鋭く尖らせた太い枝に刺して焼いた。

「熱いからよくフーフーしてね」と言ってから、みんなに手渡していく。

 最初に渡したクラレンスが熱さに驚き、地面に落とした。

 水魔術である程度砂を洗い流して、再度わたす。

 枝に刺したままなのが食べにくいのだろう。枝を引き抜き、手に直接持って食べさせることにした。

 

「おいしい? どんな味?」

「おにくの味」

「お肉かあ」

 

 私も少し食べたが、味はわからない。

 硬いことはわかった。みんなが噛みきれるか心配だ。

 

「あーん」

「あ!」

 

 ヒューは絶対に噛みきれない。手でほぐしてちぎり、少しずつ口に入れてやっていると、羨ましそうにエリックが見てきた。

 次の言葉はもう予想できる。

 

「シンディねぇね、エリーのもやって」

「うん、ヒューが終わってから、」

「自分でやんなさい!」

 

 いきなりイヴがエリックの頭を叩いた。

 エリックは眼を丸くして、号泣しようか迷う顔になる。

 

「なんでそんなに全部シンディ姉まかせなの! あんたシンディ姉のこと嫌いなの!?」

「すき……」

「じゃあメーワクかけないで! シンディ姉だってご飯食べないといけないのに、エリーのせいでいつまでたっても食べられないんだよ!」

 

 驚いた。正直、イヴがそこまで考えていたとは思ってなかったからだ。エリックは大声で泣くきっかけを失ったように、視線を手元に戻して食べ始める。

 

「エリーのはぼくがやってやる」

 

 すかさずワーシカがエリックの横に移動し、まだ湯気のたつ竜肉を小さくちぎってやり始めた。

 叱られたことより、その後に優しくされることで無性に泣けてしまう事がある。

 今のエリックはそれだ。ボロボロ流れる涙を手の甲で拭いながら、ワーシカに食べさせられていた。

 イヴもワーシカも、来年は五歳になる。二人とも、知らないうちに、人のことを見て慮れるようになっていたのだ。

 

「べーしていい?」とクラレンスが口をもごもごさせながら私に訊いた。

 

「どうしてもゴックンできなかったらいいよ」

 

 腹に入れてほしいけど、無理に飲もうとして喉に詰まらせても大変だ。クラレンスは少し考える素振りをした後、ごくんと飲み込んだ。窒息しないように水を飲ませた。

 

「ずずっ」

「クラレンス、ハナすすらないで。ぶーってして」

「んー!」

 

 手巾をクラレンスの鼻に押し当てて鼻をかませる。

 冬だからみんな防寒着は着ていて、そのおかげである程度の寒さは防げるのだが、やはり昏くなるにつれ冷え込んできた。

 

「シンディ、行こっか」

 

 食べ終えたヒューに手をひかれる。

 焚火に照らされる範囲より外、暗闇に、ヒューは私を連れ出そうとしている。

 

「お家いこっか!」

「だめ。もう暗いから、帰るのは明日よ、明日。今日はここでお泊まり」

 

 焚火に手を翳して火の勢いを強くした。

 ヒューを抱きしめてごろんと横になると、満天の星が目に入る。星を横切るいくつもの黒い影も。

 暗くなる前より、あきらかに数が増えている。

 

 寝る前に、雪隠という事にした物陰にみんなを連れて行き、用を足すように促した。

 ノルンもアイシャもそうだけれど、寝る前に厠に行かなければ、翌朝おねしょしてしまうのだ。私もかつてはそうだった。

 兄は、夜のおねしょはしない代わりに、昼寝中に漏らす癖のある子供だったそう。母様もリーリャも言っていた。

 

「ワーシカ、もっとこっち来て」

「ちょっと寒いよ」

「寒くないように、みんなでくっついてねんねしよう」

「ねんねなんて言わないよシンディ姉。ねる、だよ」

 

 ワーシカに訂正されてしまった。

 ワーシカに抱きしめられて横になっているクラレンスが「ねんねは赤ちゃんことばだからな!」と追従した。

 

「あれ? この子赤ちゃんっ?」とぼけてエリックを触る。

「ちがう!」と嬉しそうにエリックが返した。エリックを抱くイヴはもう目を閉じている。いや、目蓋を開けた。

 

「なんかお歌うたって」

「知ってるお歌がいい? それとも、知らないお歌?」

「知らないやつがいい」

 

 

  うちの裏のちちゃの木に

  すずめが三羽とまって

  中のすずめの言うことにゃ

  呼んでござった花嫁御 花の座敷に入れたなら

  茶々漬け三杯 汁四杯 それでもまんだ 足らんとて

  お彼岸団子七いかき 宮重大根十二本

  そんな嫁御は 出てかんしょ

 

 生前のお手玉歌である。

 盲になる前は、四つでも五つでも投げていられたのだった。

 いつだったか、備前の子のお手玉には、米だの小豆だのが詰まっていると聞いた。私のお手玉の中身は砂利だった。格差はお手玉だけではなく、瀬戸内海側の町は、冬も温くて、分限者が多いらしい。

 おんなじ岡山なんに、南の方ばっかし、ええ目におうとる、薮入りに奉公から帰省した姉が、そう言っていた記憶がよみがえる。

 

  出て行く道で 子がひとり

  男の子ならたすけろ

  女の子ならおっちゃぶせ

 

 ヒューの腹をゆっくり叩きながら、繰り返し歌ううちに、寝息が聞こえてきた。

 私まで睡らないように、体をそっと起こして、苔の生えた石壁に上体をもたせかける。

 

 がくりと意識が落ちかけて、冷や汗がふきでた。

 手の甲を思いっきり抓って、眠気を払う。

 昼間のうちに、襲いかかろうとしてきた赤竜を、五頭は殺した。

 先ほど集まりつつあった赤竜を、まとめて十は殺した。

 それでもまだまだ、羽虫のように赤竜は湧いてくる。

 もう気が付かれているのだろう。私が深く睡れば、トウビョウ様の力は使えない。

 

『あんたでも、おえんか』

 

 頸に金と白の輪がある黒蛇が地面を這い、私の中に戻っていった。

 一帯に生息する赤竜をすべて滅ぼすのは、さっきから何度も試みているが、できない。

 相手が人であれば、どんなに離れていても呪い殺せる。

 でも、竜はだめだ。トウビョウ様と相性が悪くて、私が見える範囲でないと、殺せないのだ。

 

 焚火に枝を投じた。

 炎に飲まれていく枝に、昼間痛みと共に頭に浮かんだ、六つの赤黒い焼死体を重ねて見た。

 あれは、私たちだ。

 あれは、近いうち起こる未来だ。

 

「シンディ姉」

「起きたの?」

 

 もぞもぞとイヴが身を起こし、私にくっついてきた。

 

「明日、ほんとに帰るんだよね?」

「うん、帰るよ」

「ふーん」

「イヴは今日はお利口だったね。明日もお利口にしてくれる?」

「うん、する」

 

 膝を抱え、白い息を吐いて頷くイヴの頭を撫でる。

 エマちゃんと同じ、灰色の髪。

 エマちゃん、イヴ、エリックの姉弟に関われたことは、私がこちらに生まれてから数え切れないほど得た幸福の一つだ。

 

「実はね、私と、イヴと、ワーシカだけに、おつかい頼まれちゃった」

 

 それなのに、私は、

 

「ほかの小さい子たちは、明日お母さんが迎えに来るの。

 だから、朝になったら、三人だけで下山しようか」

 

 自分が生き残るために、子供を間引こうとしている。

 

「あたしもお母さんと帰りたい」

「お姉ちゃんとお兄ちゃんにしかできない、特別なおつかいよ。イヴも一緒に行こうよ」

 

 嘘はすらすらと出てきた。

 一帯は、満遍なく魔物筋の只中である。逃げ場はない。

 明るいうちに、下山する方法を探った。焦燥感に襲われた。険しい道は、視野の限り、どこまでも続いている。

 

 ヒューはまだ二歳。

 クラレンスとエリックは三歳。

 険しい山肌を、特に幼い三人を連れて移動するのは無理だ。

 かといって、ここに居続けても赤竜がいる。みんなと自分の身を守るために、私は睡ることができない。

 生きている限り、睡眠は必ずついてまわる。ここに留まっても、あと一日と待たずに全滅するだろう。

 

「エリーも、って泣くよ、絶対」

 

 心配そうにイヴが言う。

 エリックは何でもイヴの真似をしたがる。ヒューも「後でお母さんが迎えに来るよ」と嘯いても聞き入れずに付いてこようとするだろう。

 

「そうだね、だから明日の朝早く、下の子たちが寝てるうちに、こっそり三人で行くの」

 

 魔物筋を移動しながら私が面倒を見切れるのは、イヴとワーシカの二人だけだ。四歳から下の子は置き去りにするほかない。

 助ける子を選別しても、全員が生きてこの山脈を脱出できるかは、わからない。喰い殺されるまでの時間が、ほんの少し延びるだけかもしれないのだ。

 

 手さぐりで、兄にもらった本の表紙に触れる。

 昨日まで、ロアのお屋敷にいて、兄とエリスさんたちと遊んだことが夢みたいだ。

 ここに母様かリーリャがいたら、もっと良い方法を思いついただろう。

 力持ちな父様がいたら、歩き疲れたヒューたちを抱いて、どこまでもどこまでも歩いていけただろう。

 

「明日はたくさん歩くから、イヴも寝ないと」

「眠くないけど」

「あっ! あんなところにスペルド族が」

「やっぱりねむい!」

 

 イヴは急いでエリックの背中に顔を埋めた。

 寝ない子に「寝ないと鬼が来るぞ」と脅すのと同じで、スペルド族が来るぞ、はかなり効き目がある。

 中には怖がらない子もいて、イヴも普段はそうなのだが、屋外にいるせいで普段は感じない恐怖を煽られたようだ。

 

「スペルド族はどこかに行ったよ、イヴ。おやすみ」

 

 イヴが深く寝入ったのを確認して、エリックを引き離す。

 クラレンスを抱いて寝ているワーシカにも同様にした。

 起きたとき、隣の子が冷たければ、不審に思われるだろう。旅路の始まりに憂いは持ってほしくない。

 

 海辺の村は浜に、川沿いの村は川原に捨てるという。

 生前の村は山間にあったから、間引きした子は森や川原に捨てられた。家の裏手にあった地獄沢の名の由来は、間引きした子を捨てる場所であったからだ。

 

 手をくだすのは、その子のお父か産婆だった。

 膝の下におししき、糠を口に詰めて窒息死させる。あるいは、首をねじって土間のすみに投げ捨てる。どちらも苦しいはずだ。

 私は楽にこの子たちを死なせてやることができる。何の慰みにもならないだろうけれど。

 でも、生きたまま魔物に喰われるよりは、はるかに生前の苦痛は少ない。

 

 殺したくない。

 どうして赤ん坊のときから知っている子たちを、手にかける事ができるのか。

 

 クラレンスは、兄のヤーナム君に懐いていて、家にある英雄譚を読んであげるととても喜んでくれる。他の子に乱暴に接してしまうことはあるけれど、あとでちゃんと謝れる良い子だ。

 エリックは、生まれてすぐにエマちゃんが奉公に出たから、上の姉のことはほとんど知らない。私がエマちゃんの話をすると、「いぶもやさしかったら良かったのに」と決まって言う。でもイヴのことも大好きな優しい子だ。

 ヒューは、あの子は、私が昔殺しかけた子。生きていたと知ったとき、どんなに安心したことか。

 

 いつ殺そうか。

 東の空に日輪が昇りきる前。

 日輪の下側が、尾根から離れたとき。

 起きる前に、睡ったまま逝けるように。

 誰も、また朝が来ることを疑ってなかった。

 

「ごめんなさい」

 

 寝顔に謝っても無意味であることは知っている。とほうもない罪の意識から逃れたいだけなのだ。

 私が力尽きるのを、あるいは、この子達から離れるのを、星灯の下で、今か今かと待ち構えている赤竜の息遣いが聞こえてくるようだ。

 心の中に深い沼があって、激しい言葉はつぎつぎそこに投げ込まれ、よどんで、悪意の層をつくるような気がする。

 こんなふうに、色んな人の悪意の層が重なって、〈呪い〉はできてゆくのだろう。

 イズナも犬神もゲドウもトウビョウ様も、案外そうして生まれたのかもしれない。

 ああ。

 もう空の一端が白みはじめている。

 

 

 無慈悲に経つ時間に、だんだん明るくなる空に、心をすり減らしていた最中だった。

 

「……なぜ子供がここにいる。誰に連れてこられた?」

 

 目もとに、鱗が生えていた。

 顔の左右に一茎の横毛を残し、銀髪を無造作に後方に撫でつけた男。

 白色のインバネスコートの丈は長く、首許は黒い毛皮でくるまれている。

 無骨なベルトが重石の役目を果たし、マント部分は風に煽られても無闇に翻らず、男の足首までを覆い隠していた。

 彼の眼は、金色だった。

 トウビョウ様のように縦に裂けた瞳孔を持っていた。

 その眼で、そこにあるべきではない物を見るように、私を見ていた。

 

 

 でも、私の眼には、

 朝ぼらけの中に佇むその人が、

 まばゆい日輪を背負って立つその人が、

 希望の神さまのように見えて、少しだけ泣いた。

*1
怖い

*2
山びこは、西日本では山童という妖怪が起こす現象とされていた。




・間引き
子供の間引きを殺人罪として法律で取り締まるようになったのは明治時代ですが、実際には昭和三〇年前後まで行われていたようです。
手をくだすのは主に産婆や男親でした。親のほうも平気で殺していたのではなく、事情があって自らが産んだ子を始末せねばならなかった産婦が、自分の所業に逆上し、産褥のうちに子供のあとを追って亡くなることも少なくなかったそうです。
男の子なら必ず生かされる訳でもなかったようですが、跡継ぎになれず、力仕事も期待できない女の子のほうが産まれてすぐ間引きされる確率は高かったそうです。
(参考:日本残酷物語1)


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十九 災害

社長は一度も怒ってないです。顔が怖いだけ。



 私が声を押し殺して泣いているあいだ、男は黙ってこちらを見下ろしていた。

 私の知っている大人のように、諭す言葉や宥める言葉をかけたり、抱きあげて背中を撫でてくれはしない。

 知らない人にまでそうしてほしいわけではないけれど、こっちに生まれてから人に親切にされ慣れていたことを、改めて自覚した。

 

 手の甲で泪をぬぐう。

 助けてほしいときは、助けてください、って言わなくちゃ。

 

「俺の質問に答えろ」

「は、はい」

 

 思いがけず厳しい声。

 ついピシッと姿勢を正した。

 

「誰に連れてこられた? なぜここにいる?」

「わかんない、……です。起きたらここにいたの」

 

 いきなりちゃんと答えられない質問である。

 しかし、こうとしか答えようがないのだ。

 男は怒っているような顔で、質問を続けた。

 

「名前は?」

「シンシア・グレイラットです」

 

 後ろを振り返り、まだ寝ているみんなを見る。

 あの子たちの名前も言った方がいいかな、と思ったが、男は次の質問に移った。

 

「親の名は?」

「お母さんがゼニス・グレイラットで、お父さんがパウロ・グレイラットです。あと、お母さんじゃないけど、お母さんみたいなリーリャって人もいます」

 

 いつもお母さんお父さんと呼んでるし、普段は意識しないけれど、さすがにこれは答えられる。

 父様がノトスという家名を昔捨てていて、母様の旧姓がラトレイアだという事もちゃんと憶えている。

 自信を持って答えたのだが、男はますます怒った顔になる。

 

「ブエナ村の?」

「お母さんたちのこと知ってるの? お友達?」

「違う」

「ちがうの」

 

 友達じゃないらしい。知人くらいの関係なのだろうか。

 男は怪訝そうに首を傾げだした。「そんなはずはない。パウロに娘は二人だけ……」とごちている。

 記憶違いだと思う。娘は三人、息子は一人だ。

 

 私よりずっと生きる手段の多い大人。

 赤竜の群れの下を平気で移動できる人。

 でも、よく分からないけど、私は疑われている。

 希望に翳りを憶え、私は男との距離を一歩詰めた。

 男が半歩下がる。

 

「お願いです、助けてください。私だけじゃ、みんなお家に帰せないの。ヒューもエリーもクラレンスも重くておんぶして歩けないんです」

 

 男はこちらを推し量るように黙っている。

 私たちが全員、生き延びるかどうかは、すべてこの人の一存で決まる。そう確信していた。

 

「うー……」

 

 背後からむずがる声がした。

 誰かが起きたのだろう。振り返ると、ワーシカが寝ぼけ眼で体を起こしたところだった。頬に小石の跡がついている。

 ワーシカは、ここどこだっけ、と思い出すような間の後、私を認めて、次に私の前に立つ男を見て、表情を凍りつかせた。

 

「おはよう、ワーシカ……?」

 

 赤竜を怖がっているのではないと思うが。

 心配になって声をかけても、ワーシカはコチンと固まっている。

 

「ワーシカ?」

「びゃああああ! ママぁあ! ソーニャ姉ぇええ!」

 

 起きがけとは思えぬ大号泣だった。

 ワーシカは後ろに(いざ)って逃げ、背中に石壁をくっつけて絶望の声を張り上げた。

 顔をしかめてイヴが起き、こちらを見て「ひっ」と短い悲鳴を上げ、ワーシカよりは弱々しい声で泣き始めた。

 

「えっと、まだそこに居てほしいです!」

 

 男がどこかに行かないように頼み、二人のもとに駆け寄る。

 二人の泣き声で起きたヒューとエリックも、起きるなり泣き出した。クラレンスだけはまだ熟睡している。

 

「怖いよぉ、シンディ姉!」

「もうかえる! 帰るの! お母さぁん!」

「ヤダ! ない! あれ、ない!」

「あああん!」

「よしよし、どうしたの、怖くないよ」

 

 そばに屈むと、次々としがみついてくる。

 盛大な泣きっぷりだ。力いっぱい抱きついてくるので首が締まってウッと息が詰まる。

 離してね、と言っても聞いてくれなさそうだから、腕をそっと剥がしにかかると、ますます強く掴まってきた。死んじゃう。

 

「来ないで!」

 

 イヴの泣き叫ぶ声に後ろを見ると、銀髪の男がこちらに歩いてくる所だった。

 下火になっていた焚火が、鉄靴に踏まれて消える。

 男はおもむろにしゃがんで私たちを近くで眺めた。

 何か話をするなら、ちゃんと体ごと向けないと失礼だと思い、男の方を向く。私の正面からしがみついていたエリックは、ワーシカに引っ張られて背後に回った。

 

「シンシア・グレイラット。貴様、恐怖を感じていないのか?」

「きょーふ」

「俺が怖くないのか」

 

 あれほど泣いていたのに、男が喋りだした瞬間、皆は水を打ったように静かになった。

 まるで狐に狙われた鼠が、食われまいと音も息も殺して落ち葉の下に身を隠すように。イヴの上着の中に頭をつっこんだエリックのすすり泣きだけが小さく聞こえる。

 

 俺が怖くないのか、と訊かれた。

 怖いって答えたら助けてもらえなくなっちゃうかな。

 でも、嘘ついたらもっと怒って助けてもらえなくなるかな。

 正直者か否か試されている可能性に賭け、正直に答えることにした。

 

「お顔、こわいけど、泣くほどでは……」

「ふむ」

 

 男に気を悪くした様子はない。

 

「お姉ちゃんなので!」

 

 だから泣きません。

 安心して主張したが、その辺は彼はどうでも良さそうだった。

 

「あれは誰がやった?」

「?」

 

 何のことか分からないでいると、痺れを切らしたように男が顎をしゃくって示した。その先には赤竜の死体がある。

 昨晩に私が殺した魔物だ。

 

「私です」

「そう答えろと言われたのか?」

「え……ううん。私がやったの」

「無理がある」

「み゛っ」

「ああああ゛! シンディ姉!」

 

 立ち上がった男に、手首を掴まれて持ち上げられる。

 父様に手を持ってもらってくるんと回る遊びとは全然ちがった。

 無力な私の足は、地面から何尺も浮いてぷらぷら揺れた。

 男は上から下まで私を眺めた。死にかけの羽虫を見るような眼だ。

 やっぱり、怖い、怖い人だ、この人!

 

「闘気もない。ただの子供だ」

「ひい……」

「む? 左腕の魔力がおかしいな……いや、しかし……」

 

 ストンと地面に降ろされた。

「やってみせろ」と言われた。男は空に飛んでる赤竜を見ている。

 そういえば、この人が現れてから、赤竜がこちらに突っ込んでくる気配がない。数も減ったし、その残った赤竜も、戸惑うように空を旋回している。

 

「えっと……どれを?」

「どれでもいい」

 

 適当な一頭に狙いを定め、手を合わせる。

 私は死ねと祈ればいい。あとはトウビョウ様がやってくださる。

 

 空中に黒っぽい真一文字が引かれた。

 蚊を叩き潰すように、赤竜は潰れ、弾けた。

 

「……」

 

 これでいい? と、おそるおそる男の横顔を見上げる。

 彼は眼を張って空を見ていた。口もちょっと開いている。

 話しかけようとして、私は彼の名前も知らないことに気がついた。

 

「お名前はなんて言うんですか!」

 

 少しだけ怖かったが、勇気を持って訊ねた。

 両親かリーリャがいたら、兄がいたら、年上の友達がいたら、彼との対話を任せっきりにしただろう。

 しかし、今ここにいる子供の中では、私がいちばん歳上だ。

 ワーシカもイヴもみんな、顔面蒼白になって怯えている。

 人見知りにしては尋常じゃない怖がり方であるのが気になるが、これ以上怖がらなくて済むように、私がしっかりしなくては。

 

「オルステッドだ」と、すんなり答えてくれ、彼――オルステッドは、私に訊ねた。

 

「呪子か神子か……。他には? どんな事ができる?」

「……? お歌たくさん知ってるね、って、よく褒められる……。あと、妹が泣いてたら、泣き止ませられるよ」

「そうじゃない」

 

 オルステッドが苛立って舌打ちをした。

 大人の人に強い態度をとられたのは、誘拐されかけた時以来だから、どきどきした。でもめげない。

 

「赤竜を殺す力の他に、特殊な力はあるかと訊いてる」

 

 私はちょっと悩んだ後、ワーシカたちのところに行き、耳を手で塞いでいるように言った。

 ワーシカ、イヴ、エリックは震えながら従ってくれたけど、ヒューは私にがっちり抱きついてきた。

 仕方がないので、よろけそうになりながらヒューを抱えてオルステッドの前に戻ると、「いやぁあ゛ー!」と泣かれた。

 

「ヒュー、お姉ちゃんだいじなお話しなきゃいけなくてね、」

「わぁああん! やだああ!」

 

 ヒューは、私の服の袖を掴み、棒立ちになって泣いている。

 母様との約束があるが、聞いても二歳ならいずれ忘れるだろう。

 今だけ約束を破ることを許してください、母様。

 

「家族以外の人に言わない、って約束してるから……私が言ったこと、誰にも内緒にしてくれますか?」

「ああ」

 

 オルステッドが頷いたので、答えた。

 

「雨降らせたり、失くした物の場所がわかったり、昔のことや、先のことがちょっと視えます。遠くにいる人も殺せます。でも、お母さんとお父さんは、失せ物や迷子の子を探すとき以外は、力は使っちゃダメって言う」

「……」

「ぎゃああああ! けほっ、げぽっ」

「あらっ、ヒュー、戻しちゃったの。泣きすぎよ」

 

 ヒューが吐いてしまった。

 子供が吐くことはよくあるけれど、このまま泣き止んでくれなかったら、引きつけを起こしそうで心配である。

 

「お口のなか気持ち悪いね。ぐじゅぐじゅぺってしよ?」

 

 落ち着いてほしくて、水魔術で出した水を口元に近づけても、泣きながら首を振って拒まれる。困った。

 

「飲ませろ」

 

 ため息を一つ。オルステッドは、腰のベルトの横についていた容れ物から、何か取り出した。

 手のひらを出すと、小さな丸薬をザラザラっと出される。五つあった。

 

「なにこれ」

「睡眠薬だ。いつまでも怯えられては話が進まん」

「私たちのこと、助けてくれますか?」

「ああ。町まで運んでやる」

 

 心の霧が一気に晴れた気がした。

 家までは連れて行ってくれないみたいだけれど、それは望みすぎというものだ。

 それに、人のいるところまで行けば、やり方はある。

 リーリャは、遠い場所で迷子になったら、グレイラットの名を出して、「お家に帰りたいの」と顎の下で手を組んで上目遣いでお願いすれば何とかなる、と言っていった。

 やったことはないけれど、頑張ってお願いしてみよう。

 よかった、本当に。誰の命も損なわずに済むのだ。

 これまでの人生で、こんなに安心したことはない。

 

「ありがとう!」

 

 満面の笑みでお礼を言い、ヒューを連れて固まっているワーシカたちの元まで行く。

 

「シンディ姉、怖くないの?」

 

 涙の残る赤い頬をこすりながらイヴが訊ねてきた。ハンカチ……は、昨日、クラレンスの鼻をかませたんだった。

 クラレンスはいつの間にか起きていたらしく、泣き疲れた顔でエリックに寄りかかっている。

 

「怖くないよ? 私たちが家まで帰るお手伝いしてくれるって」

「嘘だ!」

「え!?」

 

 自分の出した大声にハッとしたふうに、イヴは口を両手で押さえて怯えた顔でオルステッドを見た。

 イヴをワーシカが庇いつつ、「だって」と言い放つ。

 

「あいつ悪いやつだ、シンディ姉、うそつかれてるよ!」

「う、うそ、だったの……?」

 

 そんな……。

 振り返ると、首を横に振られた。嘘じゃないらしい。

 

「大丈夫よ、お姉ちゃんがいっしょにいるからね、ほら、いいものあげる」

 

 そう言って、さっきの薬を一人一人に飲ませる。

 オルステッドに渡されたものだが、私から手渡したおかげか、こちらは疑わず飲んでくれた。

 うとうとしてから睡る、という普通の睡眠と異なり、皆は突然魂が抜けたようにがくっと寝た。

 最後にクラレンスが寝てから、オルステッドは自分の白いマントを外しながらこちらに来た。

 

 そういえば、五人もいるのに、どうやって運んでくれるのだろう。

 そんなことを考えた間際、オルステッドはマントを真ん中からざっくり斬った。手刀で。

 それも破れた感じではなく、鋏で切ったような断面だ。

 ビックリして見ているうちに、針でさくさく元マントが縫われてゆき、袋がふたつ完成した。

 

「マントが……」

「この服は魔道具の一種だ。あとで糸を解いておけば勝手に修復する」

 

 魔道具か。

 父様は兄の十歳のお祝いに、魔道具の篭手を用意していた。いや、あれは魔道具じゃなくて、魔力付与品だっけ。

 

 袋のなかに、イヴとエリックとヒュー、ワーシカとクラレンスが、それぞれ仕舞われてゆく。

 オルステッドは軽々袋を担ぎ、「行くぞ」と私に声をかけた。

 袋のひとつから手が飛び出している。エリックの手だろうか。

 

 誰も置き去りにせずいられたことをしみじみありがたく思いながら、私はオルステッドの後ろをついて歩き出した。

 

「あ、ちょっと待ってください」

 

 くるりと引き返し、兄にもらった本を拾って戻る。

 大事な本だ。これも置いてはいけない。

 

 

 少し移動してみて、たいへんな事に気がついた。

 オルステッドと、私では、歩く速さがまったく違う。

 オルステッドは歩幅が大きく、早足で、険しい道もひょいひょい乗り越えていってしまう。

 私は何度も置いていかれそうになりながら、頑張ってついて行く。

 オルステッドに会ってから赤竜が一度も襲いかかってこないから、上空には気を配らなくて済んだ。

 

 私が遅れていることに気がつき、立ち止まったオルステッドに走って追いつくこと数回。

 何度目かにオルステッドの横に追いついた直後、石塊につまづいた。

 次にくる衝撃と痛みを耐えるべく本を胸に抱えると、体がちょっと浮いて足から地面に着地した。

 浮いたとき首が締まったのは、コートのもこもこしたフードを掴んで立たされたからだ。

 オルステッドの顔を見上げる。

 

「面倒だな」

 

 とっても怒っていらっしゃる。こわい。

 オルステッドは憤怒の表情で私を俯瞰し、手をこちらに伸ばした。

 

「……??」

 

 オルステッドの掌に自分の手をパンと叩きつけた。

 イッシュさんが時々やってくれた遊び。

 徐々に翳す手の位置を高くしていき、子供は飛び跳ねてその手を叩くのだ。高くなるごとに叩くのも難しくなっていくけれど、その分良い音を出せたときの達成感が楽しいのだった。

 

「何だ? 何をした?」

「叩いたの。あ、遊ぶんだと思って……ごめんなさい」

 

 表情と戸惑い方からして、全然ちがうっぽい。

 そうだよね、急に遊びだすわけないよね、そんなに仲良くないもの。

 気まずい勘違いにちょっと落ち込んだ。

 

 オルステッドは再度手を伸ばしてきて、私が持っていた本を取り、ワーシカたちが入っている袋に入れた。

 次に、米俵みたいに私の体を担ぎあげた。

 肩が腹に刺さり、がふっ、と息が漏れる。硬い肩だ。

 オルステッドはそのまま歩き出した。私まで運んでくれるらしい。

 

「おお……」

 

 視線がたかい。

 家の中か村でやってもらえたなら、普段と風景が違うように見えて、楽しいと思う。

 ここは初めての場所だし、代わり映えの無い山岳だ。

 目線の高さが変わったからといって、意外性はない。

 

「オルステッドさん、……様?」

「何だ」

「みんなが、嘘つきとか、悪いやつとか、悪くち言ってごめんなさい」

 

 普段はもっと良い子たちなのだ。

 いくら知らない人相手で、それも顔が怖いからといって、あそこまで怖がったり嫌ったりするのは、変な反応だった。

 

「あとでよく言って聞かせますから……」

「いい。あれが普通の反応だ」

 

 ヤーナム君の母親の真似をして謝ると、淡々とオルステッドは言った。

 

「怖がられて、嫌われるのがふつうなの?」

「ああ」

「大人にも子供にも?」

「ああ」

 

 嫌われてのけ者にされることを、生前は「へのけ」といった。

 へのけは死活問題だ。祭りや行事に声はかけてもらえないし、田植えも稲刈りも雪下ろしも屋根の葺き替えも、何も手伝ってもらえない。困窮しても、米は貸してもらえない。

 私はトウビョウ筋の子であった。へのけではなかったけれど、やっぱりどこか、疎外される家筋だ。

 米は貸しても金を貸してもらえなくて、祭りや行事に声をかけてもらうのは最後の方。姉たちの嫁ぎ先も同じ村では見つからなかった。

 へのけの気持ちはほんの少し理解できる。

 

「いろいろ虚しくなりますねえ」

「……」

「オルステッドさん様」

「さん様……。何だ」

 

 どちらの敬称を使ったらいいか判断がつかなかったから両方つけた。オルステッドさん様。彼は物言いたげに返事をした。

 

「嫌われるのがふつうで、大変なのに、助けてくれてありがとうございます」

 

 一生忘れない恩だ。

 一生といっても、あと二十年もおそらくないが。

 せめてトウビョウ様が彼の定住している土地に憑かないように、努力しよう。

 

「オルステッドさん様のお家はどこですか」

「決まった住居はない」

「え。お家決まるまで、私のお家に住みますか?」

「住まん」

「お母さんとお父さんと、リーリャさんと、三歳の妹がふたりいます。猫の雪白と馬のカラヴァッジョもいます。みんな優しいので、大丈夫だと思います!」

 

 あと離れて暮らしてるお兄ちゃんもいます。

 ちょっとすけべだけど良いお兄ちゃんです。

 

「……お前の家族に拒絶される不安から断ったのではない」

「そですか」

 

 しゅん。

 

「お家といえば、さっきから視えるものが変です」

 

 オルステッドは立ち止まり、周囲に視線を走らせた。

 そういうことではなく。

 

「ここに来る前、まぶしい光がピカッてなってたから、みんな大丈夫だったかなってブエナ村を視たの」

「それで?」

「でも、うまく視れないんです。更地ばっかりで、何度やっても」

 

 そう言ったきり、私たちの間には沈黙が落ちる。

 オルステッドは「やはりあの魔力は……」などと呟いてるから、正確には沈黙ではないが、私と喋ってくれる気はあまりないようだ。

 

 喋らず、ただ運ばれていると、だんだん眠たくなってくる。

 昨夜は一睡も出来ずにいた。この人のそばなら安全であると知れると、忘れていた睡魔が這いよってきた。

 

「ふわ」

 

 肩が腹を押してちょっと苦しいが、眠さの前には些細なことだった。

 私は小さくあくびをして、体から力を抜いて、目を瞑ったのだった。

 

 

 

 夢見心地のまま、何度か大きく揺さぶられて、いつしか水平な場所にいた。

 揺れはなく、体は温かい。腹も苦しくない。

 

「……」

 

 うむ。目覚めた。

 体を起こし、部屋を見回す。窓の外は明るかった。

 周囲には、私が今まで寝ていたような箱床がいくつも並んでいる。

 他に寝ている子供はいなくて、私ひとりっきり。シーツをめくると、中の藁はちょっと古そうな感じだ。

 

 そばに置かれていた靴を履き、人を探すべく廊下をうろつく。

 すぐに行き合った。村唯一の教会にときどき来て、子供にレース編みや裁縫を教えてくれるミリス教の修道女と同じ格好をした人だ。

 その人は、ワーシカの手を引いていた。

 

「シンディ姉! 起きたんだ!」

 

 ワーシカは嬉しそうに駆け寄ってきた。

 修道女もこちらに歩いてくる。

 

「よかった、歩けるのね。どう? どこか痛いところはない?」

「ううん」

「お腹は空いてる?」

「空いてます」

 

 すごく空いてる。

 腹に手を当てつつ答えると、厨房のような場所に案内され、「食事の時間じゃないから、まだちゃんとしたものは用意できないけど」と言いながら、パンと水を出してくれた。

 

 道中の渡り廊下からは、中庭で遊ぶ子供と大人が見えた。

 子供だけで十人以上はいるだろうか。子供の年齢はバラバラで、下は二歳から、上は十歳まで、という印象だった。

 子供の中に混ざって、片足が欠けた若い男がたくみに松葉杖を使いボールを取っている。子供は彼からボールを奪おうとしているが、なかなか上手くいかないようだ。

 その中にはイヴたちもいた。イヴはこちらに気がついていないようだったので、元気そうなことに安堵しながら通り過ぎた。

 

 パンを用意してくれた彼女は、ミモザというらしい。ミモザさんと呼ぶことにした。

 味を感じないパンをゆっくり食べる私に、ミモザさんは色々と説明してくれた。

 ここはウィシル領のとある町で、私が今いる建物はミリス教の運営する救貧院だそうだ。孤児や身寄りのない老人、怪我等で働けなくなった人たちが助け合って暮らしているらしい。

 私と一緒に来た五人の子たちは皆無事であることも、教えてもらった。

 

 ミモザさんは、少し困ったようにワーシカを見た。

 

「名前とブエナ村っていう村に住んでた事は言えたんだけどねぇ……ウィシル領じゃないことは確かなんだけど、どこの領地かわからなくて」

 

 ワーシカもイヴも、まだ四歳。

 自分の名前と、住んでる村の名は知っていても、それより広い世間のことはまだわからないのだろう。

 私は六歳だからちゃんと答えられる。

 

「フィットア領です。フィットア領の、北の端っこにある村です」

「フィットア領? どうしてそんな遠くから」

 

 不思議そうなミモザさんに、私たちをここまで連れてきてくれた人について聞いた。オルステッドのことだ。

 途中で寝ちゃったから、中途半端な別れになってしまった。

 

「お、おお……あの悪魔……!」

 

 オルステッドの名を聞いたミモザさんはガタガタと震え出した。

 私は強く抱きしめられた。態度の急変に困っていると、「怖かったでしょう」と背中をさすられる。

 

「あんな恐ろしい男に誘拐されて、恐怖は察してあまりあるわ」

「怖いことされてないよ!」

 

 驚いて否定したが、「そう言わされてるのね」と聞き入れてもらえない。

 何度説明しても、私たちは〈オルステッドに誘拐された挙句、用済みになって救貧院に捨てられた子供〉ということになる。

 

「フィットア領のブエナ村と言ったわね? 村に手紙を送って迎えを頼むから安心して。

 貴方たちは本当に怖い目にあったのだと思うし、その心の傷は計り知れないわ」

 

 怖い目になんてあってないのに。

 心の傷なんか無いのに。

 お迎えを手配してくれるのは助かるけれど。

 

 あれが普通の反応だ、と言っていたオルステッドを思い出した。一事が万事こんな感じでは、全世界からへのけにされているのと変わらない。

 ミモザさんは、ブエナ村に私たちの居場所を報せる手紙を出してくれるという。

 彼女に訊ねられるまま、私とワーシカたちの両親の名を伝えた。

 

 

 

 朝に一回、起床の鐘。

 昼に一回、昼食の鐘。

 夕に一回、夕食の鐘。

 この施設では、一日に三度鳴る鐘を軸に生活している。

 

 私が寝ているうちに昼の鐘は鳴ってしまったようで、夕方に鐘が鳴るまで好きに過ごしていいと言われた。

 五歳より上の子は、掃除やもっと小さな子の子守りなど仕事を任せられるようになるらしいが、私は今朝来たばかりだから仕事も何もない。そもそも今は自由時間だそうだ。

 

「おー! 新しい子だー!」

「こっち来いよ、いっしょに遊ぼう!」

 

 ワーシカと中庭に出てみると、年上の男の子たちに声をかけられた。知らないお兄さんたちに気遅れしたふうなワーシカを連れて、混ぜてもらう。

 庭の端でぶちぶち雑草を引きちぎっていたエリックがこっちに来た。「いっしょに遊びたい?」と聞けば、無言で頷かれる。

 ヒューとクラレンスは、離れた場所で、ミモザさんと同じ服装の職員さんとままごとをしている女の子たちに構われている。イヴも今はそっちにいるようだ。

 

「何して遊んでたの?」

「あてっこだよ、ボールぶつけられたら負けになんの」

 

 人数を均等に割り、二つの陣地に分かれ、より相手の集団に多く当てたほうの集団が勝ちだそう。

 ボロ布を糸できつく丸めたボールとはいえ、力いっぱい投げたのが当たれば痛いだろう。

 

「楽しそうだけど、ぶつけられるのはこわいかも」

「だいじょーぶ! そんなに痛くねぇから」

「あら……」

 

 すこしは痛いらしい。

 ワーシカとエリックを指し、小さな子がいるからボールは投げるのではなく蹴るだけにしてほしい、と頼んだら、男の子たちは顔を見合わせて相談を始めた。

 表情から察するに、賛成の気配は薄い。

 

「この子たちを狙うときだけはボールを蹴るっていうのは? それでもダメ?」

「ああ、それならいいよ」

 

 了承され、条件つきで私たちも仲間に入れてもらうことになった。

 ヒュンヒュン飛んでくるボールを避けつつ、地面に描かれた陣地を逃げ回る。飛び交うボールを怖がるエリックと手を繋ぎ、しばらく逃げていると、背中にぶつけられた。

 

「当たった! 当たったら外!」

 

 言われるまま、エリックと離れて陣地の外に出た。

 先に外にいた男の子に「お兄さん」と話しかける。

 

「わたし厠に行きたいから、あのちっちゃい子たちのこと見てあげてほしいな。ワーシカとエリックっていうの」

「ふーん、いいけど」

「ありがとう、お兄さん、お願いね」

 

 お礼を言って、建物の中に戻る。

 本当は厠は起きてすぐ行ったから、用を足したいわけではなかった。

 適当な無人の部屋に入る。埃の臭いのする部屋に、年季の入った掃除道具が整頓されて置かれていた。

 

 古い長持の上に肘をのせて床に膝をつき、手を合わせて目を瞑る。

 土地を視ようとするから、なぜか失敗するのだ。

 なら個人を視ればいい。

 

 そう、例えば、赤ちゃんのミーシャとアリィ。

 私は眩しかったら目を瞑ればいいことを知っているけれど、そういう事を何も知らないのが赤ちゃんである。

 もしあの光で眼が潰れてしまっていたら、母様とシルフィと一緒に治す方法を探してあげたい。

 

 窓の外からはワーシカとエリックのはしゃぐ声が聞こえてくる。ちゃんと遊んでもらっているみたいだ。

 私は集中して、トウビョウ様に祈った。

 いつもと同じように、頭の中に、絵が浮かんできて――

 

「あっ」

 

 驚いて目蓋を開けた。

 二人とも消えてる。

 

 

 

 

 

「あの」

「ん?」

 

 借りた書蠟板を抱え、中庭のベンチに座っている男に話しかけた。

 渡り廊下から見たとき、子供と遊んでいた片輪の男だ。年齢は父様より少し下くらい。

 他にも大人はいたが、話しかけるならこの人と思っていた。子供と遊んでくれるなら、何か訊いてもきっと嫌な顔をせず教えてくれる。

 

「屋根のてっぺんが金色の大きな建物や、七つの高い塔がある場所って、どこですか?」

「ミリシオンのことか? 俺は実物を見たことはないが、そんな場所だって聞いたな」

「ミリシオン……」

 

 どこだっけ。母様から聞いたことあるような。

 三面の書蠟板いっぱいに彫り込んだ人名。

 ソマル君の横に、ミリシオン、と書き加えた。

 

「ちょい下がりな」と男は言い、ベンチに立てかけていた松葉杖の先でガリガリと地面に図を書き始めた。

「ここ。ミリス大陸のミリシオンはこのへん」と、図の一点を杖の先で示した。

 地図を書いてくれたみたいだ。

 

 これなら、視えたものの特徴から地名を探らなくて済む。

 私は土の地図と視えたものを照らし合わせ、一点を指さした。

 

「じゃあここ。ここは何ていう場所?」

「あー……その辺は紛争地帯っていって、」

「いやそこはシーローンじゃぞ」

 

 ぬっと腰の曲がったお婆さんが口を挟んだ。

 

「シーローン?」

「そうじゃ。で、南に行くにつれて、キッカ、サナキア、王竜」

「そうだっけ、物知りだな、ナヤ婆さん」

「アホウ。お前がモノを知らなすぎるんじゃ」

 

 ナヤ婆さん、と呼ばれていた老婆に話しかける。

 

「じゃあ、そのシーローンで、小さな建物がいっぱいあって道は迷路みたいで、その真ん中に大きな建物があって門も大きくて、固そうな服を着た人がたくさんいる場所は?」

「おうおう、早口すぎて聞き取れなんだわ。もっとゆっくり話しとくれ」

 

 同じことを、ゆっくり言い直した。

 

「そりゃあ、シーローンの……王宮じゃな!」

「ホントかよ」

「固そうな服って兵士の防具のことじゃろ。それを付けた奴がたくさんおるんじゃろ? 王宮じゃ」

 

 リーリャ、アイシャの名前の横に、シーローンの王宮、と書き加えた。

 何度か違う場所を指さして訊ねるうちに、周囲には人が集まってきた。

 私が地面の地図を指さすと、そこは大森林の誰のものでもない森だ、いやいや獣族の国だ、と大人が言い合い、正答を外すと笑い声がおこる。

 普段なら好ましい人の笑い声を、万方から迫りきて己をせっつくもののように、私は聞いた。

 ちっとも一緒になって笑えずに、聞いた地名を書きつける。

 

 広げると抱えきれなくなる三面の書蠟板をベンチに置いて書いていた。

 イヴが横から手元を覗きこみ、「も、ん、て、ぃ」と、たどたどしく読み上げた。

 読み上げて、すこし不満そうにした。

 

「シンディ姉、お父さんの名前の上に、横の棒ひかないでよ。読みにくいってば」

 

 村唯一の鍛冶屋、モンティ。密林地帯で死んだ。

 

「ヒューのお母さんの名前もある。って、これも棒書いてるし」

 

 ヒューの養母、レーン。紛争地帯の端で慰みものになって死んだ。

 

「棒ばっかり! これはー……ろー、る、ず、……シルフィ姉のお父さん?」

 

 村の狩人で、シルフィのお父さん、ロールズ。死んだ。

 屍体は影送りのように眼に残った。

 

 頭の両端が熱くなり、結果が不吉であれば熱さは痛みに変わる。昔から変わらない私の体質である。

 だから何十人も続けて視た今は、頭は割れるように痛かった。

 

 私の表情をイヴに見せてはいけない。

 とっさに膝を抱えてしゃがみ、俯いた。

 

「お腹痛い?」集まっていた女の子の声が聞こえ、背中に指先を置かれる感触があった。




名前:シンシア・グレイラット
年齢:まだ6歳
魔術:火魔術中級、土魔術初級、水魔術初級、治癒初級(無詠唱)
読み書き:書くほうは年齢相応に拙い
算術:足し算引き算ならできる
礼儀作法:中途半端な敬語を使う
霊能力:全盛期(死ねと思ったらだいたい死ぬ)


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二〇 リーリャの実家

以前からちょくちょく日間ランキング入りはしてましたが、4/6は一瞬だけ25位になっていたようです。ありがとうございます。
今回はゲームのパウロ外伝のシナリオが含まれます。




 村の治療院で働いている母様は、ハイハイするようになったノルンを抱いて出かけていた。

 院の経営者である老夫婦に、ノルンをお披露目するためだった。

 

 私はリーリャとアイシャと留守番である。

 リーリャは、食堂の床に座った私とアイシャが遊んでいるのを見ていた。

 ところが、最初はご機嫌で人形を握っていたアイシャが腹を空かせて泣いたから、リーリャは椅子に座って授乳を始めた。

 一人寸劇もつまらなくなり、エマちゃんにもらった人形のひとつをリーリャの膝に置いた。

 

「リーリャはお父さんの役やってね」

「ええ」

 

 リーリャがこちらに目を向けた。

 

「ぢゃああ!」

 

 そしたらアイシャが怒った。

 おっぱいから口を離して海老反りになり、怒った声をあげる。

 アイシャはおっぱいを飲むとき、リーリャが自分を見てないと怒る。ときどき乳首を噛んで、痛がるリーリャの反応を見てよろこびもする。

 母様の乳首を噛んだことはないから、相手を見てやってる、とリーリャは嘆いていた。

 

「リーリャとおままごとしちゃだめ?」

「うぶぅ」

「だめなの」

 

 お母さん取っちゃダメらしい。

 リーリャの膝から人形を回収した。

 

「すみません、お嬢様」

「アイシャ赤ちゃんだからしょうがないのよ」

 

 おっぱい飲んでるとこ見てていい? と訊くと、リーリャはアイシャから目を離さないようにしながら、片手で隣の椅子を引いて、私が座れるようにした。

 

「アイシャはかわいーねー、ノルンもかわいーよねー」

 

 兄に教えてもらった方法で椅子にのぼり、横から覗き込んで抑揚をつけて言う。

 赤ちゃんの黒目がちな眼がちらっと私に向き、すぐにリーリャに戻った。

 

「お嬢様も愛らしい赤ちゃんでしたよ」

「へへっ」

 

 照れちゃう。私はリーリャの膝にくてっと覆い被さった。

 そういえば、前に父様と母様から聞いてから、じゃあリーリャはどうなのだろう? と、気になっていた事があったのだった。

 

「私のおじいちゃんとおばあちゃんもういないよ。あと遠くにいるのよ」

「存じております」

「リーリャのおじいちゃんとおばあちゃんは?」

 

「私の祖父母はもう亡くなりましたが」とリーリャは私を見て、腕の赤ん坊が海老反りになる前にアイシャに目線を戻した。「この子の祖父母は存命です」

 

 リーリャがアイシャを指して「この子」というとき、表情が愛情を持ってやさしくなるのが好き。

 アイシャの祖父母は生きて、ウィシル領という南部の土地で暮らしているのだとリーリャに教えられた。

 

「アイシャのこと見せたいね」

「そう……ですね、いずれまとまった暇を頂いて、実家に顔を出したいものです」

 

 アイシャが乳房から顔を背けた。リーリャはアイシャを縦抱きにして、背中を叩き始める。お乳と一緒に飲み込んだ空気を出してあげてるのだ。

 

「いつ行くの?」

「アイシャが、今のお嬢様より大きくなったらです」

「じゃあずっと先ね……」

 

 小いちゃなアイシャ。

 生まれたときより大きくなってふくふくしてきたが、まだまだ小さい。そんな子が、私より大きく成長するための年月は、途方もなく長いに違いない。

 リーリャの両親はそれまで生きていられるだろうか。

 私は真剣に心配していたのだが、リーリャは「んふっ」と笑い声をもらしたのだった。

 

 

 

「……」

 

 むかしの夢をみた。

 私がいちばん乗りで、他に起きてる人はいない。

 当然だ。まだ夜中である。隣りに寝ているのは、アイシャでも、ましてやノルンでもない。

 イヴだ。とうにやめたはずの指しゃぶりをしたまま寝付いていた。

 

「いいこ、いいこ」

 

 イヴの頭を撫で、もう一度ねむるべく再び横になる。

 枕元の本。兄が私のために書いてくれた本に、頬ずりして目蓋を閉じた。

 

 

 


 

 

 

 次の日、私はこっそり施設の外に出た。

 トウビョウ様の力で視たところ、父様は生きて、ノルンと一緒に、この町にいることがわかった。

 本当は視るのも怖かった。知り合いや友達のように、消えていたり死んでいたら、私は悲しみでしばらく動けなくなっていただろうから。

 

 父様とノルンがこの町にいたことは間違いない。

 ただ、父様が立ち寄った場所への細かい道筋まではわからなかった。視えた風景と一致する場所を探し、やみくもに歩き回るしかない。

 あるいは人に訊くのもいい。

 教えてくれそうな人を見つけるため、人が多い場所を探して彷徨う。

 市場のような通りに出た。昔ウィーデンで見た風景と似通っている。

 

 どの人に話しかけよう。

 オルステッドに腕を掴んで持ち上げられたことを思い出した。

 五体満足の男の人はちょっと怖いから、女の人にしよう。優しそうな人。

 

「どこまで行くの?」

「ひゃ」

 

 背後から袖を引かれた。ビックリした。

 振り向くと、ワーシカがいる。

 

「ついてきちゃったの?」

「シンディ姉、どこいくの? ぼくも行く」

 

 何ということだ。まったく気がつかなかった。

 それだけ父様に会うことしか考えていなかったのだろう。

 付いてきている子が他にもいないか視たが、それは杞憂で、イヴたちは救貧院にちゃんといるようだった。

 ワーシカが迷子になって人攫いにあったり、馬車に轢かれたりしなくてよかった。

 施設に引き返すと勝手に外に出たことがバレるだろうから、一緒に連れていくことにした。

 どことなく不安そうなワーシカとはぐれないように手をつなぐ。

 

「……オーガスタ……」

 

 露店のほうから聞こえた声。

 人の喋り声に紛れ、ともすれば聞き逃していたような声量だった。

 オーガスタさん。村長の奥さんの名前。

 彼女もすでに死んでいた。高所からの落下死。

 

 トウビョウ様の未来視は外れることがある。

 だから、もしかしたら。万里眼の力も外れることがあるかもしれない。

 これを外した事は生前から一度もないのに、そんな望みを抱いて、私は声の方を追いかけた。

 

「シンディ姉、速いよ」

「ごめんね、我慢してね」

 

 会話の中でオーガスタという名が出てきた二人組。

 老年の夫婦だ。男の方は剣帯に剣を下げていた。

 二人とも、赤茶の髪に、白いものが混ざってる。

 五〇代後半のように見えたが、背筋はしゃんとしているから、百姓ではないことは確かだ。

 

 追いついて、話しかけようとした瞬間、男の方がくるりとこちらを振り向いた。

 訝しげな視線は、降って私とワーシカを見つけ、人好きのするものに変化した。

 

「お嬢ちゃんたち、おれに何か用かい?」

「お、オーガスタさんって」

「ん? そりゃおれのことだな」

 

 私の知ってるオーガスタさんは、頭にほっかむりをつけ、「日焼け対策よ」とカラカラ笑ってる根明の女の人だ。

 こんな、逞しい体つきで、髭を生やした男の人ではない。

 つまり、ひと違い。彼女はやはり死んでいた。

 

「……まちがえました……」

 

 父様を探す作業に戻ろう。

「親はどうしたの」とワーシカをつれて引き返そうとすると、女のほうに声をかけられた。「子供二人だけでは危ないわよ」

 

「お母さんは、遠いところにいます。たぶん……。いまは、お父さんを探してるの」

 

 ワーシカは驚いた眼を向けてきた。

 初めて聞く話だからだろう。ワーシカは、そのうち両親が迎えに来ると信じている。

 女は表情を変えなかったものの、男のオーガスタさんは同情をまなざしに乗せた。

 話しかけたついでに、父様とノルンが居た場所の特徴を告げて、心当たりがないか訊ねた。

 

 親切にも、夫婦は人通りから外れた所に私たちを誘導し、根気強く話を聞いてくれた。その流れで知ったのだが、女のほうはフルートさんというらしい。

 寡黙な雰囲気がリーリャに似ている気がした。

 話を聞いた後、オーガスタさんはこう言った。

 

「特徴を聞く限り、お嬢ちゃんが探してるのは、冒険者ギルドだと思うが……父親は冒険者か?」

「うん、昔は冒険者だった、って言ってました。迷宮に潜った話とか、魔物倒した話とか、よくしてくれる」

「そうか、そうか。昔は、ってことは、今は何の仕事をしてるんだ?」

「ブエナ村の、駐在騎士です」

「ブエナ村?」

 

 食糧を入れた袋を持ってしゃがんでいたオーガスタさんは、そばに立っているフルートさんと顔を見合せた。

 こちらに向き直り、訊ねられる。

 

「シンシアといったか。お嬢ちゃん、ひょっとして、リーリャという名前の女性を知ってるんじゃないか?」

「知ってるの? リーリャさんのこと」

 

 自分の表情が明るむのがわかる。

 上背のある男の人だから少し怖かったけれど、リーリャの知り合いなら悪人じゃないと思う。

 

「リーリャはおれたちの娘だ」

 

 何ですと。

 髪の色とか、紫色の眼とか、そう言われてみると似ている。

 この辺では珍しい容姿ではないのか、救貧院にも同じ髪と眼の色の人は何人かいたけれど。

 

「リーリャさんは、もともとうちのメイドでした。でもなん年も前にお父さんの妻になったから、私のもう一人のお母さんみたいな人です」

「そうか、騎士の子の乳母に雇われたとは聞いていたが、今はそんなことになってたのか……そうか……」

「あの子は、男性不信は克服したのね」

 

 夫婦は喜びを分かち合うように微笑みをかわし、そして、「すると妙だな」とオーガスタが視線を明後日に投げた。

 

「どうして、フィットア領のブエナ村の子がここにいるんだ。駐在騎士が子連れでくるもんか? 守衛の仕事は?」

 

 答えられなくて困っていると、「あなた」と、フルートさんがオーガスタさんの肩に触れた。

 

「まずは冒険者ギルドに寄って、この子の父親を捜してやったらどう。荷物は私が家まで運んでおくわ」

「うーむ、そうだな、ここで考えても仕方ないか」

 

 冒険者ギルドに、つまり父様とノルンが居るところまで連れて行ってくれるらしい。

 その間、ワーシカのことはフルートさんが自宅で預かってくれることになった。小さな子を二人も見るのは大変だから、と。

 お姉ちゃんとしてワーシカの面倒はちゃんと見ているつもりでいたが、私も小さな子の枠であるようだ。

 

「シンディ姉、どこにもいかないよね? また会えるよね?」

「お父さん見つけたら、すぐ迎えに来るから」

「あのこわい人のところ行かない?」

「行かないよ」

 

 ワーシカはかなりオルステッドに怯えている。

 すっかり恐怖の対象だ。もう別れた後なのに、オルステッドの所に行かないよね? と見当違いな心配をするほど。

 おとぎ話でしか知らないスペルド族より怖がっているかもしれない。

 

「それじゃあ、また後でな。転ばんよう気をつけろよ、おまえさんももう若くないんだ」

「ええ」

 

 オーガスタさんがフルートさんと別れ、冒険者ギルドまでの道程を案内してくれる。

 

「リーリャのお父さんなら、アイシャはお孫さんですか?」

「そのアイシャってのは、リーリャが産んだのか?」

「そうです。アイシャはすごく可愛いの、それで賢いの、いま三歳なの」

 

 見上げながら話していたら、首が疲れるだろう、と肩車をしてもらった。

 矍鑠としたお爺さんだ。

 年齢も顔立ちも共通点はないけれど、父様を思い出してちょっとだけ泣きそうになる。

 

「剣の道場ですか?」

「ああ。水神流のな。おまえさん、三大流派は知ってるか?」

「剣神流と、水神流と……北神流?」

「おっ、よく知ってるな。リーリャに聞いたのか? それとも父親?」

「お父さんです」

 

 道中で、オーガスタさんの話も聞いた。

 剣術の三大流派がひとつ、水神流。

 ここは水神流の最高位である水神が生まれ育った町で、ちょっとした有名所だそうだ。水神流の道場もたくさんある。

 オーガスタさんも道場を経営していて、リーリャには幼い頃から剣術を教えていたそうだ。

 

「リーリャは昔っから真面目で真っすぐでなあ、剣術一筋なのは良いことだが、フルートに似て美人なのに、化粧っ気がなかった。あれで男を捕まえられるか心配したもんさ」

「リーリャは、十五歳のお祝いに髪飾りもらったって言ってたの。女らしくしろ、って言われたって」

「そんなことまで話してるのか、仲が良いんだな」

「仲良しです! あとね、私も五歳のお祝いに、お父さんから耳飾りもらったの」

「耳飾りか。おまえさんも将来美人になりそうだが、そういうのはまだ早いんじゃないか?」

「うん、お父さんも、まだシンディには早いな、ってくれたあとで言ったよ。買う前に気づくべきです、ってリーリャも笑ってね……」

 

 それで、お母さんは、母様は。

 結晶の中でねむる母様と、輝かしい緑の鱗。

 赤ん坊のころからあの絵は視えていたから、いつか来ることだと覚悟していた。でも思い出すと悲しくなるから、今はまだ母様のことは考えないようにする。

 

「っと、着いたな」

 

 肩車から降ろしてもらった。冒険者ギルドに着いたのだ。

 父様はここで依頼を受けていった可能性が高いらしい。

 冒険者ギルドの建物内は、胸当をつけて剣帯に剣を差した人が数名いる程度で、混雑はしていなかった。

 

 奥にある机の向こうに、若い女が座っている。

 オーガスタさんはその人の前まで歩いていった。

 

「依頼でしたら掲示板に――」

「いや、ちょっくら人を捜してるだけさ。この子の父親なんだが、ここで依頼を受けていったらしい」

 

 机が高くて背伸びをしていたら、脇の下に手を入れて持ち上げられた。女の人の顔を見ることができた。

 顔を合わせると、彼女はにこっと笑いかけ、小さく手を振ってきた。ギルドの受付嬢だとオーガスタさんに教えられた。

 

「そうでしたか。お父さんのお名前は言える?」

「パウロ・グレイラットです」

「パウロォ!?」

 

 オーガスタさんが素っ頓狂な声を上げた。

 体を支えてくれる手に不穏な力が込められ、ソーセージのように握り潰される自分を想像して冷や汗をかく。

 

「す、すまん」

 

 弛んだ。無事である。

 

「パウロ・グレイラット様ね。この辺りでは珍しいSランク冒険者だったから、よく覚えてるわ」

 

 ひっくり返った声を上げたオーガスタさんには驚かないのか。

 受付嬢は椅子ごと後ろに下がり、奥の棚からなにか取り出した。木板に不揃いな紙を幾重に挟んだものだ。

 それを捲り、あるページで開いて机に置いた。

 

「配達依頼、緊急?」

「あら、読めるの。そうよ、急ぎの配達依頼」

 

「依頼を受けたのはいつ?」低い声でオーガスタさんが訊ねた。

 

「一昨日ですね」当時の記憶を探るように右上に視線を向けた受付嬢が答えた。

 

「小さな女の子を連れていました。まあ、馬付きの依頼でしたし、そろそろ目的地に着いてる頃かと」

「お父さんもういない?」

「そうねえ、残念ながら……」

 

 受付嬢さんは机の抽斗から丸めた紙を出し、広げた。

 地図だ。昨日ドレンさんが地面に書いてくれたものとは異なり、アスラ王国が中心に描かれている。

 

「あなたのお父さんが向かったのはここ」

「違います、ここにいます」

 

 受付嬢が指した場所とは逆方向を指さした。

 この町にいる父様とノルンの絵は、すでに過去のものだった。

 もう一度視ると、今度は別の場所が視えたのだ。父様はノルンを赤ちゃんのようにスリングで抱え、馬で移動している。

 やっぱり地図が傍らにあると視やすい。

 生前も今世も、村から遠く離れたことがなかったから、今まで知らなかった。

 

「そこは領地の外よ」

「でもお父さんは……」

「ふふ、適当言っちゃダメでしょ?」

 

 受付嬢は地図をくるくる丸め、広げる前のように真ん中を紐で縛って抽斗にしまった。「帰る場所はあるの?」と訊かれ、ブエナ村の、と答えかけ、ミモザさんに聞いた救貧院の名前『仔羊の家』と答えた。

 ああ、あの通りの、と合点が行ったように受付嬢は頷き、お父さん帰ってくるといいわね、と私に言葉をかけた。

 

 私は、ありがとうございます、と言って、オーガスタさんに降ろしてもらって、ギルドを出た。

 

 

 父様は既にこの町を発ったらしい。

 私は父様がどこにいるか知っているが、父様は私の居場所を知らないのだろう。だから私を置いて行ってしまったのだ。

 そう、知らなかった。私は捨てられたんじゃない。

 わかっているのに、目の前の風景から現実感は遠ざかり、

 周囲のものは透明になり、私ひとりだけ、何もない場所に取り残されたような心地になる。

 

「うああ……」

 

 孤独。その感情だけは、よくわかる。

 建物の外に出てから、ひっ、と喉が鳴った。

 こらえようと思っても、一度声が出てしまうともうダメで、私は声をあげて泣いた。落胆だの寂しさだのが綯い交ぜになった思いが押し寄せてきた。

 なんで先に行っちゃったの、お父さん。ノルンだけ連れて行っちゃったの。私もつれていってほしかった。

 お兄ちゃんもリーリャもアイシャも遠いところにバラバラになった。お母さんはわからない。雪白も。

 友達も知り合いもおおぜい死んだ。

 私はどうしたらいいの。

 どこに居たらいいの。

 

「かあさま、かあさまぁ」

 

 呼んだって来てくれない。

 どうしたの、って慌てて来て、お母さんに話してみて、って言ってくれる人はいない。

 こうなるから。絶対に泣いてしまうから思い出さないって決めたのに。母様に会いたい。母様がいい。母様じゃないとやだ。

 

「おーおー、事情はよくわからんが可哀想に。泣くことねえさ。パウロの野郎なんざ、おまえさんの方から見限っちまえ」

 

 オーガスタさんに抱き上げられる。彼は、ぐずる子にするように体を揺らしながら父様を見限れと言ってくる。

 涙を手の甲で拭いながら、「し、し、しな、い」と勝手に途切れる声で答える。オーガスタさんは苦笑した。

 

 

 

 ワーシカを迎えにオーガスタさんの家につく頃には、私は泣き止めていた。

 善意でしてくれたことだから、降ります、とも言いにくくて、片腕に抱っこされたまま。

 手には、途中でオーガスタさんが買ったオレンジを一玉持っている。私にくれたものか、オーガスタさんが後で食べるためのものかわからなくて、持て余していた。

 

「ここがおれの道場だ。おれとフルートは二階に住んでる。

 どうだい、弟を迎えに行く前に、稽古をちょっと見学してくか?」

「したいです」

「よーしよし、素直だな、奴の娘とは思えんホント」

 

 そんなこと言われても私は父様の娘である。

 腕から降ろされ、オーガスタさんに続いて道場に入る。

 入り口をくぐる時にオーガスタさんが軽く黙礼をしたので、真似をしてぺこりと頭を下げた。

 

「あれは型稽古という。攻太刀と受太刀に分かれ、攻の攻撃に対して、受はあらかじめ決められた動作で対応するんだ」

 

 十人以上はいる少年が二人一組になって待機していた。

 攻側が一歩踏み込むと、受側が一歩下がる。刃は潰してあるが、使うのは真剣だという。

 そうして道場の端から端を移動したところで一区切りであるらしく、青髪の男から指導が入る。

 道場主はオーガスタさんという話ではなかったか。

 

「オーガスタさんは、教えないんですか?」

「もちろん教えてるぞ。だが、おれももう歳だ、大部分の指南は、ああして昔からいる弟子に任せてるんだ」

 

 オーガスタさんがそう言い終わる頃に、指導を終えた青髪の男がこちらに駆け寄ってきた。

 

「師範! お疲れ様です! そちらの子は?」

「お疲れさん。この子は、救貧院に預けられた子らしいんだが、迷子になっちまったらしい。泣いてたんで慰めてやってたのさ」

 

「剣術をやったことは?」とオーガスタさんに訊かれ、首を横に振る。

 

「……おかあ、さん、が、やってみたい? って訊いてきたことあるけど、ないです」

 

 よし、泣かずにお母さんって言えた。

 両親はもともと、男の子が生まれたら剣士に、女の子が生まれたら魔術師に育てることにしていた。

 ところが長男である兄に魔術の才能があり、母様は張り切って家庭教師のロキシーを雇って魔術を水聖まで極めさせた。

 兄は後に医師の道に進んだ。剣とは縁のない職業だ。刀傷を負った患者を診る機会はあるかもしれないけれど。

 母様は、息子に剣術を教える、という父様の楽しみを奪ったみたいで申し訳なく思っていた。だから、もし私が剣術を学びたがっていたら、性別に囚われずその道も用意してやるつもりでいたそうだ。

 とうの私は剣術をやりたいと思ったことはない。

 

「よくお兄ちゃんがお父さんにぼこぼこにされてたから……」

 

 痛そうだもの。

 でも、父様が自分の子に教えたがってるなら私も応えよう、と覚悟したことはある。

 

「一度だけ、お兄ちゃんが昔使ってたおもちゃの剣持って、お父さんの前に出たらね」

「ほお?」

「「オレは娘を打てない」ってお父さんが逃げちゃった」

「だっはっはっは!」

 

 オーガスタさんは豪快に笑った。つられて私もへへと笑う。

 たしか二年前だ。母様の後ろに逃げ込んで頭を抱えてうずくまり、「無理だぁ! できねえよ!」と体を縮こめる父様の背中に、頑張って斬りかかったのだ。あの時は、それを見たリーリャが笑いすぎて立てなくなっていた。

 

「娘を傷つけたことは許せないが――あいつは才能に溢れた男だった。それをおまえさん、悪い女だな! あのパウロをそんな骨抜きチキン野郎にしちまうんだから!」

「パウロ!?」

「あ、しまった」

 

 青髪の男がぎょっとして私を見る。怖い顔だった。

 戸惑ってオーガスタさんの服を握ると、「よせ、子供に罪はないだろ?」と彼を諌めてくれた。

 

「もう十五年は前になるか、パウロは昔この道場で剣術を習っていたんだが、まあ、良い弟子じゃなかった。そのせいで、今でもその名を聞くと怒っちまうやつがいるんだ」

「喧嘩いっぱいした?」

「したな」

「女の人なかせた?」

「泣かせたな」

「はえ」

 

 私は父様の良い面しか知らなかった。

 腕が引っこ抜けるぞ、とか、美味そうだから魔物に食われるぞ、とか、からかわれたことはあるが、酷い態度をとられたことは一度もない。

 じゃあ、母様にもリーリャにも、私が知らないだけで悪い面はある、あるいはあったのだろうか。

 知りたくないような、でも知らないままだと人間味に欠けて物寂しいような。

 

 道場を離れ、オーガスタさんの自宅に行った。

 

「シンディ姉! あのさ、知ってた? 道場にはいるときは、まず頭を下げてさ」

 

 嬉々として出迎えたワーシカが驚いた顔をする。

 

「泣いたの?」

「そう。転んで泣いちゃった」

「かわいそうに……」

 

 嘘に同情させてしまった。すこし罪悪感がある。

 ひしっと抱きついて慰めてくれるワーシカの頭を撫でていると、フルートさんも玄関先に現れた。

 

「おかえりなさい、あなた。親は見つかりましたの?」

「ああ。一応な」

 

 オーガスタさんがフルートさんに小声で何か言った。

 最初こそリーリャに似た面差しで聞いていたフルートさんは、一変。般若の面が顔に浮き上がった。

 

「この子、この子たちが、あの男の……っ」

「ひゃぁ、お父さんの娘は私だけなんです、ワーシカはクロエさんとヴェローシャさんの子なので関係ないですっ」

 

 般若の矛先がワーシカにまで向かいそうになり、食い気味に説明した。

 

「というと、リーリャはあれの妻になったことに……手紙ではそんなこと一度も……」

「あの子はフルートに似て寡黙だからなあ」

 

 フルートさんは怒りを鎮めたようだった。

 実際は腹の底はまだ煮えくり返っているのかもしれないが、少なくとも表面上は平静になった。

 

「シンシアさん」

「はい」

 

 すっとしゃがんで視線を合わされ、たじろぐ。

 ハンカチで頬を拭われただけだった。涙の跡が残っていただろうか。

 

「自力で泣きやんだかしら?」

 

 首を横に振る。

 

「抱っこしてもらいました……」

「泣くのは構わないのよ」

 

 目元の皺の奥にある紫色の眼。

 内に鉄火を秘めた眼が私を見つめる。

 

「男に頼らず、自力で涙を止められる女になりなさい。私の娘は、少し時間はかかっても、それができる子だったわ」

 

 そのとき私が感じたのは、一人で生きていける者への憧れだ。

 母様は力仕事や難しい仕事を人に頼ることに躊躇がない。

 それは悪いことではない。屈託なく手助けをされるのもまた才能である。

 リーリャは、何でも一人でやってしまう。力仕事も難しい仕事も、工夫して自分でこなす。父様と結婚した後もそれは変わらない。

 つまり自活した人なのだ、リーリャは。

 フルートさんに育てられたのであれば、そうなったのも納得できる。

 

「……はい」

 

 子供扱いされないのが、嬉しくもあり、ちょっと寂しくもあった。

 すぐには難しいけれど、これからは自分で涙をとめられるようになろう。そう決意した。

 

 

 

「お世話になりました」

「フルートおばーちゃん、またね」

 

 オーガスタさんが救貧院まで送ってくれるというので、頼ることにした。

 ワーシカはフルートさんにたいそう懐いたようで、満面の笑みでブンブン手を振っていた。

 フルートさんはにこりともせず、真面目な顔で手を振り返していた。

 

「あの、これ」

「ああ、お嬢さんにあげたんだぞ」

「えっ」

「食わないから嫌いなのかと思ってたが」

「きらいじゃないです、好き!」

 

 そして、オーガスタさんが私にもたせたオレンジは、私にくれたものだったらしい。

 確かに、小さな子を泣き止ませるには、何かしゃぶらせておくのが有効だ。私も同じ枠ってことだろうか。

 さもありなん。恥ずかしいところを見せてしまった。

 

「なにからなにまで……」

「ははっ、子供がかしこまるもんじゃないぞ」

 

 ワーシカが羨ましそうに見てきたので「帰ったらいっしょに食べようね」と言う。ワーシカは笑顔で頷くと思いきや、「イヴにはあげなくていいの?」と訊ねてきた。

 

「あら。じゃ、イヴともわけっこしようか」

「うん」

 

 救貧院に戻る途中の道で、私たちを見て声を上げた人がいた。

 腰の曲がった老婆である。昨日、リーリャとアイシャの居場所の名前を教えてくれた人。

 ナヤ婆だ。

 

「こらぁー! 人さらい! 誰か、誰かぁー!」

「こりゃ困った、誤解です」

 

 ナヤ婆は振り上げた杖をバシバシとオーガスタさんに叩きつけたが、オーガスタさんは鞘から出さないまま腰の剣で杖を軽く受け流している。

 ビックリして眺めているうちに周囲の視線が集まり始めていた。

 ナヤ婆は、オーガスタさんを、私とワーシカを攫った人だと思い違いをしているのだ。私は彼女に説明した。

 

「ナヤ婆ちゃん、この人、お父さん捜すの手伝ってくれた人なの。私たち誘拐されてないよ」

「はぁ……ぜぇ……はよ言わんかい」

 

 ごめんなさい。

 大声を出し、杖を振り回したナヤ婆は息を切らしていた。

 私とワーシカがいなくなったことに施設の人が気がつき、職員と動ける大人が、何人か外まで探しに出ていたらしい。

 ナヤ婆もその一人というわけだ。

 あとで怒られるかな、とは思っていたが、そこまで問題になるとは思ってなかった。

 

 冤罪をかけられたことを笑って許してくれたオーガスタさんとも別れ、ワーシカとナヤ婆と施設に戻る。

 腰を曲げたナヤ婆の目線の高さは、私とさほど変わらない。

 

「あすこにいる子は、みんなワシの子か孫のように思うとる。お前たちもそうじゃ。何かあったらと思うと、気が気がじゃなくてのう」

 

 黙っている私に、ナヤ婆はそう切り出した。

 昨日会ったばかりなのに、私もそう思われているのか。

 

「ナヤ婆ちゃんはなんで救貧院にきたの?」

 

 と、訊いた。

 ナヤ婆は身寄りのない老人である。

 夫や子供は一度もいなかったのだろうか。

 

「あれが見えるかい」と皺だらけの手で指さした方。

 ずっと遠くの草原に、柵に囲まれた長屋がいくつかあった。

 牧場にしては、他から離れてぽつんと建っている。

 

「伝染病患者を閉じ込めておく場所じゃい。わしの夫も子も、二十年前に連れてかれて、それ以来、帰ってこん。報せすらないが、もう死んどるんじゃろ。

 稼ぎ頭を失って、老いた女ひとり。働こうとしても、身内から病人を出したからお前も病気じゃろ言うて、誰も雇ってくれんでのう……。

 仕方なしに辻で物乞いをしとったら、救貧院が住む場所と仕事をくれたっちゅうわけじゃ」

「大変だったね」

 

 不思議だ。

 彼女の境遇は、生前ならありふれた話である。

 でも、食べ物も気候にも恵まれ、怪我や病をたちどころに治す技術があるこの国にも、そんな話があることが、不思議だった。

 解毒魔術があるから風邪をこじらせて死ぬことは少なくても、虎狼痢や癩病のような伝染病は存在するらしい。

 

「なんの、わしはこうして病気もせずに生きとる。

 それより、気をつけなきゃならんのはお前じゃて」

「わたし?」

 

 ワーシカと手をつなぎ、ナヤ婆に合わせてゆっくり歩きながら、話を聞く。

 

「お前は別嬪(べっぴん)になるじゃろう」

「そうかな」

 

「ああ、なりよる」と確信のある顔で頷き、彼女は言った。

 

「女の別嬪は、果報と同じじゃ。

 そして、果報にこそ警戒せよ、ちゅう言葉がある。

 綺麗だからといって、幸せになるとは限らん。

 むしろ、不幸を呼ぶ美貌もあるっちゅうことも、よう覚えとけ」

 

 生前の故郷では、良くない事が続くことを不幸とは言わず、「まんが悪い」と言う。

 だから、不幸というのがどんな状態なのか、よく知らない。

 他人から見れば、生前の私の死に際が、それにあたるのだろうか。

 

「ありがとう、ナヤ婆ちゃん」

 

 忠告をくれた老婆にお礼を言う。

 フルートおばあちゃん、また会いたいなあ。手をつないだワーシカの暢気な声が街道に響いた。

 

 施設に到着すると、門の前で、ミモザさんが私たちを迎えた。

 叱られるつもりでいたが、お父さんを捜してました、と言うと、黙って抱きしめられた。叱られなかった。

 

「もし迎えに来てくれるひとがいなくて、家もなくなっても、私たち、ここにいていいですか?」

「もちろんですとも。ミリス様は万人に救いの手を差し伸べる。ここはあなたたちの新しい家になるわ」

 

 ミモザさんは暖かくそう言ってくれた。

 安心した。私たちの居場所は、まだ、あったのだ。

 

 

 

「イヴ、イヴ」

「なにー?」

 

 食堂で揃って食べた夕食の後、無人の部屋にこっそりイヴを呼び、オーガスタさんにもらった果物をワーシカと分けさせた。

 私はいらない。まだ味覚は戻ってきていないのだ。

 

「シンディ姉たべないの?」

「うん、二人で食べてね。他の子がうらやましがるといけないから、三人だけの秘密よ?」

「わかった」

 

 ワーシカは皮を剥いたそれを大事にちびちび食べ始め、イヴは「シンディ姉にもあげる!」とひと房くれた。

 というか、口にねじ込んできた。

 

「お姉ちゃんはいらないってば」

「食べて!」

「ああぁ」

 

 果汁でべとついた手に頬を押さえられて口に入れられる。

 観念して食べた。噛むと薄皮が破けて果汁が流れる。

 甘酸っぱい味が舌を刺激した。

 

「……おいしい」

 

 味がわかる。数年は味覚は返ってこないと思ってた。

 夕食のときはまだ無かったから、ちょうど返ってきたばかりなのだろう。

 やっぱり、生前より霊能力は強力になっている。

 

「おててべたべただから拭こうね」

「はぁーい」

 

 だったら私の分もあげないで食べたらよかった、とは思わない。

 

「ぼくもシンディ姉にあげたかった……」

「ワーシカは馬鹿ね、ひとりでぜんぶ食べちゃうんだから!」

 

 たった一夜でみなしごになったこの子たちには、少しでも良い思いをしてほしい。

 自分の分をわけてくれたイヴと、分けたくても既に食べ終えた後で泣きそうになっているワーシカを、順番に抱きしめた。

 私は、母様の行方こそわからなくても、他の家族は生きている。

 それがどれほどありがたい事か、視て知っている。

 だから、動ける。

 

 

 紛争地帯にいるソーニャちゃんを視た。

 小国が生まれては滅んでいくから、いまある国の数すら救貧院にいる大人は知らなかった。そこが何という国なのか、私も知らない。

 それでも焼け焦げた残骸が残るばかりの荒野に転がる馬や人の死体から、そこが激しい戦地であることが伺えた。

 石積みの井戸の影に隠れていたソーニャちゃんの髪をつかんで引きずり出し、ねじりあげる男がいた。兵士の生き残りだろう。

 兵士は鉄兜を脱いだ。井戸桶の綱を手繰りあげた。桶の水に顔をつっこんで洗った。ソーニャちゃんの上に覆いかぶさった。

 

「だめ」

 

 呪った。頸がぐきりと直角に曲がり、兵士は絶命した。

 メリーちゃんが井戸の影から飛び出してきて、うつ伏せに倒れた死体の下からソーニャちゃんを引っ張り出し、二人は手をとって日が落ちつつある戦地を逃げ出した。

 二人に行く宛てはなく、私にできることはこれだけ。

 

 

 扉が開き、廊下の明かりが部屋に細く入りこんだ。

 年上の女の子が顔を覗かせた。

 

「シンシア、いた! イヴもワーシカも」

「サネルちゃん」

「湯浴みの時間だよ、おいで、体の洗い方おしえてあげる」

 

 理由はないけれど上機嫌なサネルちゃんの後ろを、イヴとワーシカを連れて歩く。

 私たちの生まれた村はなくなった。呆気ない終わりだった。

 でも、ミモザさんがここに居ていいと言ってくれた。

 居場所が無くなっても、すぐにまた与えてくれる人がいる。

 

「キャーハハハ!」

「男の子が逃げたぁ!」

「ぎゃははは! フルチンだ、フルチン!」

「つかまえろ!」

 

 ありがたい巡り合わせに心の中で手を合わせながら、私は裸ん坊で駆け出してくるクラレンスを捕獲するのだった。

 

 

 


 

 

 

 救貧院での生活が始まって数日。

 エリックはほぼ毎晩おねしょをする。

 お母さんどこ? と泣く回数も多くなってきた。

 私はそれを慰めながら、「すぐに迎えにくるよ」という一言だけは言えないでいる。

 クラレンスとヒューは母親を探すそぶりはないが、「ママ」と聞くとグズりだす。それを面白がって、わざと「ママはどこ?」と二人に訊ねる男の子もいた。

 泣かせないで、と私がお願いしたが、あまり聞き入れてくれない。ソマル君たちのように少し意地悪な子は、どこにでもいるのだ。

 

 嬉しいこともあった。

 オーガスタさんたちの世話になった翌日、彼はフルートさんを伴って救貧院を訪ねてきたのだ。

 そして、娘のお古でよければ、と、古着を寄付してくれた。

 ワーシカは大喜びだった。古着にではなく、フルートさんに会えた事にだ。

 ワーシカは綺麗な人に弱い。ソーニャちゃんの次に懐いていたメリーちゃんも美少女だし、当然の流れとして綺麗な母様とリーリャのことも慕っていた。

 ふだんはシンディ姉シンディ姉と私にくっついてくるのに、フルートさんが来たときはあの変わりよう。

 ちょっと小憎らしい。

 

 

 

「よいしょ」

 

 バケツに浸けた雑巾を絞っていると、男の子が来て、「しょあ!」とバケツに汚れた雑巾を叩きつけた。

 飛沫が膝にかかる。着る服は支給の古着だが、無闇に汚したくはなかった。

 

「やん」

「ごめんごめん~」

 

 軽薄に謝った男の子は、オリバン。

 来た初日に「いっしょに遊ぼう」と声をかけてくれた子だ。

 体が大きいから二歳は年上だと思っていたけれど、彼は七歳だった。私とそんなに変わらない。

 

「粉屋の前にアサルトドッグが出たんだよ!」

「魔物?」

「そーそ。なんか、何もないとこから、急に出てきたんだって」

 

 並んで廊下に雑巾をかけながら言葉を交わす。

 

「誰に聞いたの?」

「先生が話してるの聞いた」

 

 最近知ったことだが、施設の入居者は、施設で働いている職員を「先生」と呼ぶ。その中でも「院長先生」がいちばん偉い人だ。

 先生。便利な言葉だ。職員の名前はまだ全員覚えられていない私でも、先生、と呼べかければ振り向いてくれるのだから。

 

「本物の魔物みたことある?」

「あるよ、とっても大きくて、空飛んでたの」

「ほんとぉ?」

 

 端から端まで雑巾をかけ、突き当たりの部屋の前で止まる。

 

「きゃ」

「いたっ」

 

 方向転換しようとしたとき、観音開きの扉がとつぜん開いて、私とオリバンは頭をぶつけた。

 部屋の中から扉をあけたのは、包帯女のメイヨーさんだ。

 メイヨーさんはいつも眼と口元のみを出して、人相がわからないほど顔に包帯をぐるぐる巻きにしている。

 病の後遺症で顔が溶けて、ああして隠しているそうだ。

 唯一見える手の肌には張りがあるから、若い人だと思う。

 声は知らない。彼女が喋っているのを聞いたことがないのだ。

 メイヨーさんは羽根で撫でるように私とオリバンの額に触れ、すたすたと廊下を歩いていった。厠だろうか。

 

 扉がちょっと開いている。

 立ち上がって閉めた。紙とインクの匂いをかすかに嗅いだ。この部屋には入ったことがない。

 

「オリバン、ここって何の部屋?」

「仕事部屋!」

 

 オリバンは「こっそり入らない?」と扉に手をかけて私を誘った。

「こら!」と声が飛ぶ。脚立に座って窓拭きをしていたサネルちゃんだ。

 

「さっきからおしゃべりばっかり。ちゃんとやってよね、汚いとうちがネイサンに怒られるんだから」

「はーい」

「へーい」

 

 十歳から十四歳の健康な子供は、日中は外で奉公し、夕方になると救貧院に帰ってくる。

 サネルちゃんは、外で働く十三歳の少年、ネイサン君をとくに恐れているのだ。

 

「あの部屋では、なんのお仕事してるの?」

 

 バケツの水を魔術で替えながらサネルちゃんに訊ねると、写本をしているのだと返ってきた。

 見本の本を書き写し、作った写本を売って、経営の資金にするらしい。外で働けない人、体に欠損があっても手は動かせる人の仕事であるそうだ。

 

「俺、仕事はなんでもいいけど、煙突小僧だけはやだ」

 

 オリバンがそう言い、サネルちゃんも「うちもやだ」と言い出した。

 狭い煙突内の掃除をする煙突小僧は、小柄でないとつとまらない。そのため、大きく成長させないように、煙突掃除屋に奉公に行く子供は食事を減らされる。

 と、そんな怖い噂がある。

 

「わ、わたしもやだ」

 

 飢えはなにより辛い。ぶるっと体が震えた。

 

「シンシアはへーきよ、魔術使えるでしょ? 大きくなったら、先生がエンジョして、大学通わせてくれると思うよ。昔そういう子いたもん」

「だいがく」

 

 大学。

 絞ってる最中の雑巾をべちゃっと床に落とした。

 

「学校って女もいっていいの?」

「え? うん」

「……」

 

 驚きすぎて声も出なかった。

 尋常小学校に通えるのは男。高等科までいけるのは分限者の息子。

 そんな認識だったのに、小学校すらすっ飛ばして大学とは。

 生前から、学校と名のつくところは、一度もいったことがない。

 そんな私が、魔術がちょっと使えるというだけで、本当に学校に通えるのか。

 

 学校に通えたら、

 私でも、少しは賢くなって、

 今はできないこともできるようになって、

 そしたら、母様を探す方法もわかるかな。

 

 希望が見えてきた。

 

「むん!」

「急に張りきりだした」

「ほら、あんたも掃除、掃除」

 

 雑巾を拾って固くしぼる。広げて角を合わせて折り、雑巾がけ作業に戻った。

 学校に通いたい。そのためには、こういう日々の仕事に精を出して、先生たちに気に入られたほうが都合が良い。

 

 私は膝を上げて廊下を磨き、厠から戻ったメイヨーさんに「頑張ってるわね」と声をかけられて、ビックリして床に平行に伸びた。喋った。すごく可愛い声だった。

 





次回予告

「龍神来襲」


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二一 脅威の龍神

社長がコミュ障をいかんなく発揮する回。



 異変は、夜だった。

 私は、庭にある物干し場で、魔術で桶に湯を溜めていた。

 エリックのおねしょの後始末にも慣れたものだ。

 本来、後始末は、その子に割り振られた十歳~十四歳の兄姉分がしてやるものだが、エリックが「シンディねぇねがいい」と私を指名することが多いため、だいたい私が処理している。

 外は暗いから、エリックの兄分のネイサン君が手燭の火を手で風から守って照らしてくれる。

 

「ねー、ちゃんと寝る前におしっこさせてる?」

「させてる、でもするんだよ。今日は僕の寝床でしやがった」

「あっそ……ふわ」

 

 ついてきたイヴが口をまるく開けてあくびをした。

 

「わざとじゃないんだよ、なんかね、でちゃったの」

「エリー、お姉ちゃんは、エリーの代わりにパンツとズボンを洗ってあげてるのよ。エリーは私になんて言えばいいのかな?」

「…………あり()と?」

「そうよ、ちゃんと言えたね。ネイサン君には、ごめんなさい、って言えるともっと良いね」

 

「めんなしゃい」と、エリックはネイサン君の脚に抱きついて言った。ネイサン君は笑みを浮かべてエリックの頭を撫でた。

 

 ありがとう、と、ごめんなさい、は大事だ。

 私も妹たちも母様にそう躾られた。エリックも、この二つをちゃんと言える子に育ってほしい。

 

 濡れた服を湯に浸し、シーツと一緒に揉み洗い。

 ネイサン君が空の桶の底面に手燭を置き、湯で濡らして絞った布でエリックの足から股を拭う。

 下半身を裸に剥かれたエリックは震え、暖を求めてネイサン君にしがみつこうとする。

 

「さむい〜」

「わかったわかった、くっつくのは新しいパンツ穿いてからにしてくれ」

 

 片足ずつ上げさせ、パンツとズボンを同時に穿かせていたネイサン君が、ふと顔をしかめた。顔は救貧院の門がある方に向けている。

 

「うるさくないか?」

「?」

 

 ざぶざぶ服を洗って絞り、湯を捨ててまた新しい湯で洗うのを繰り返していた私に、ネイサン君が言った。

 

「中に戻るべきだ。行こう」

「もうちょっとで洗い終わるよ」

「あとでいい。イヴ、起きろ」

 

 エリックを抱っこし、立ったまま半分寝ているイヴを起こしたネイサン君に従って行こうとして、渡り廊下をよたよたと走ってくる老婆に気がついた。

 手燭で照らされる貌は、ナヤ婆のものだ。

 ナヤ婆は、ネイサン君に怒鳴る。

 

「隠せ! その子を隠せ!」

「どの子だ」

「シンシアじゃ!」

 

 わたし?

 きょとんとする間もないまま、「寝かしつけておいて」とイヴとエリックをナヤ婆の方に押しやったネイサン君に連れられ、建物の中に入る。

 連れていかれたのは礼拝堂だ。

 さほど大きくない礼拝堂は、毎日お祈りする場所である。

 そこに並んだベンチの下に、ネイサン君は私を押し込んだ。

 ネイサン君は敬虔なミリス教徒で、礼拝堂で隠れんぼでもしようものなら、烈火のごとく怒る。先生よりも怒る。

 

「隠れていいの?」

「今はいい。僕が見てるからな」

 

「一応、僕もついててやる」と言いながらネイサン君もベンチの下に入ってきて、私は彼に背中側から抱え込まれる形になった。

 手燭の火が吹き消された。

 礼拝堂は講壇の両側にのみ、ガラスの嵌った窓がある。

 今夜は風が強い。風に乗った雲は流され、月は隠れ、あらわれ、そのたびに視野は暗黒になり、月明かりに照らされた講壇が見えた。

 

 ここで、村の友達といっしょに隠れんぼしたら楽しいだろうな、と思った。

 そんな子供っぽい遊びやだ、ってセスちゃんは言いそうだ。

 彼女たちも、そろそろ恋バナのほうが愉しい年頃だもの。

 私は置き去り。なんとも寂しい話である。

 

 じっと大人しくしていると、ネイサン君が喋り出した。

 

「昔も、倉庫に幽霊(レイス)が出た、と夜中に大騒ぎになったことがあった」

「出たの?」

 

 生前は、幽霊や魔物(妖怪)はどこにでもいた。

 連れていかれないための言い伝えや決まりもたくさんあった。

 魔物はともかく、幽霊はこっちではまだ見た事がないが、いるのだろうか。

 そう思ったが、ネイサン君は「いや」と小馬鹿にして笑う。

 

「窓を誰かが閉め忘れ、吹き込んだ風にあおられたシーツがはためいていただけだった」

「そうなの」

「だからこれも、どうせたいした事はないんだ。ナヤ婆さんに言われたから、従うけどさ」

 

 ネイサン君は冷めた感じで言った。

 そのわりには、そわそわと落ち着きがない。怖いのだろうか。

 ギィーッと礼拝堂の扉が開いた音がする。

 聞こえる足音は一人分。

 誰か来たんだ。

 長椅子の下から這い出ようとして、口を塞がれる。

 

「ぜったいに、声をだすな」

「んむ」

 

 背後から聞こえる呼吸音が荒い。鼓動もだ。

 足音はこちらに近づいてくる。そうして、私とネイサン君が隠れているベンチの正面で立ち止まった。

 靴を履いた足が四つ。二人だ。

 少女のものらしい華奢な革靴と、つま先と踵を鉄で覆われた男の靴。

 足音は、一人分しか聞こえなかった。

 

 鉄靴の裏がベンチの座枠にかかり、ず、ずず、とベンチが後ろに退いてゆく。

 私は、床に寝そべる姿勢で、ネイサン君の手に口を塞がれたまま、暗がりの影を見上げた。

 隠れ場所を失った私たちを、一対の金色の眼が見下ろしていた。

 ひぃっ、と引き攣った悲鳴が背後から聞こえる。

 

「見つけたぞ、シンシア・グレイラット」

 

 暗がりで、金眼のほかに顔はよく見えない。

 しかし声でわかった。オルステッドだ。

 

「んむむ」

 

 ありがとう、って、もう一度言いたい。

 

 ネイサン君、離して。

 口から手がどく。彼はぎこちなく体を起こし、オルステッドに背を向けて私を抱きすくめた。ガタガタ震えていた。

 彼は私が面倒を見なきゃいけない存在ではないけれど、よしよしと背中を撫でる。

 怖くないよ、オルステッドがそういう体質なだけよ。

 

 周囲が明るくなった。

 ローブを着た少女が、持ったカンテラをこちらに向けたのだった。

 年頃は十代の後半だろう。彼女は、困惑したふうに私たちとオルステッドを見比べている。

 

「う、わあぁあ!」

 

 ネイサン君が火の消えた手燭をつかんで、オルステッドに投げつけた。当たらなかったが、ローブを着た少女が短く悲鳴をあげた。

 

「俺と来い」

 

 オルステッドが言う。

 私は周囲を見回し、自分たちの他に誰もいないことを確認し、自分を指さしてみた。オルステッドは頷いた。

 

 どこまで彼について行けばいいのだろう。

 そう思いながら、立ち上がった私の腕を、ネイサン君が掴む。

 

「死にたいのか!? こいつは悪魔だ、従うなんて」

「助けてくれたのよ、良い人よ」

「騙されてる!」

 

 そんな事はない。

 しかし、こうも鬼気迫ったふうに言われると、オルステッドの抱える体質が根深いものだと実感する。

 

「赤竜山脈にいたときにね……」

 

 説得しようと話し始めたとき、ヒュッと風を切る音が聞こえた。頬をかすめた風圧に驚き、音の方を振り向く。

 ネイサン君の上体がゆっくりかしぎ、私の方に倒れこんだ。

 

「ネイサン君?」

 

 トントン背中を叩いても起きない。

 

「ネイサン君! ……あっ」

 

 首がしまった。寝巻きのゆったりした襟ぐりを掴んで後ろに引かれ、立たされたのだった。

 

「たいへん、ネイサン君が」

「気絶させただけだ」

 

 焦ってオルステッドに訴えると、そう返された。

 つまり、彼が気絶させたのか。なぜ。

 そういえば、ミモザさんは何度言っても、オルステッドが助けてくれた話を信じてくれたなかった。

 彼の視点では、説得より気絶させたほうが手っ取り早いという事か。

 

「ほんと? あとでちゃんと起きる?」

「ああ」

 

 オルステッドは私を見ずに答える。

 腕を掴んだままスタスタ歩いて行くから、私は何度か転びそうになった。掴まれた腕はビクともしない。

 

「荷物はあるか」

「え」

「もうここには戻らん。本を大事に持っていただろ」

 

 戻らんて。どういうこと。

 ここにきて、ようやく私は、オルステッドが私を連れ出しにきたらしい事に気がついた。

 いったい何故。

 世の中には、子供を攫って売り飛ばす悪い人がいる、と両親は言っていた。

 そしてそれは、過去の経験から身に染みて知っている。

 

 この人は、私とイヴとワーシカたちを助けてくれた良い人。

 悪い人じゃない。でも、ついて来いって言ってる。

 よくわからないまま、本を取りに寝室に戻る。

 

 寝床は無人だ。みんなはどこに行ったのだろう。

 自分のベッドから本を取り、ローブの少女を伴って私を待っているオルステッドのもとに戻った。

 逃げる気がないと察したのか、オルステッドは腕を掴んではこなかった。

 

 イヴたちの居場所を視た。食堂にいる。

 出口に行くまでの道で通りかかる場所だ。

 

「お、おわかれ、言ってきてもいいですか」

「……いいだろう」

 

 緊張しながら申し出たら、少しの間のあとに許可は出た。

 ホッとしながら、ほんのり灯りの点った食堂に入る。ガタッと物音がした。

 

「シンシア!」

「ミモザさ……」

 

 彼女もいたのか。

 いや、ミモザさんだけではなかった。

 腰の曲がったナヤ婆ちゃん、包帯女のメイヨーさん、片輪男のドレンさん、乳飲み子を抱えた未亡人のヌーディさん、孤児のサネルちゃんやオリバンたち、ミモザさん以外の先生たち。馬車に跳ねられて首から下を動かせなくなったフィンさんは寝台のまま運ばれたのだろう。

 救貧院で暮らしている人が、たぶん全員揃っていた。

 子供は端のほうに固まって、異常事態にすすり泣いたり、くすくす笑ったりしている。

 大人は、ある者は包丁を、ある者は椅子を持ち、扉のほうを見ている。

 だれも彼も、怯えた顔をしていた。

 

 

 背中を押されるまま、食堂の隅のほうに追いやられる。

 机と椅子は一箇所にひとまとめに退けられている。メイヨーさんが私を抱きしめ、ナヤ婆の皺だらけの手が背中を摩った。

 

「ネイサンは!?」

「いない! でも閉めろ!」

「見捨てるのか!?」

「落ち着け、やつの狙いは……」

 

 食堂の扉が閉まり、(かんぬき)がかけられる。

 次の瞬間、扉は破壊された。泣き声と悲鳴が食堂に充ちた。

 

 扉を壊したことを除けば、オルステッドはごく自然に部屋に入ってきた。

 救貧院の院長である老翁が、全員を守るように前に出た。

 

「わ、私どもはミリス様の徒。社会に見捨てられた弱者を守る者。悪魔には屈しません! 去りなさい!」

「目当てのものを手に入れたら、そうしよう」

 

 抑揚のない声でそう言って、オルステッドはこちらを――私の方を見た。

 行かなきゃ。

 抜け出そうとすると、私を抱くメイヨーさんの力が強くなった。ガッガッガッと松葉杖の先が床を打つ音が聞こえ、ドレンさんがメイヨーさんとオルステッドの間に立ち塞がった。

 

「貴様ら、一週間もそれと過ごして、何もわからんのか?」

 

 不思議そうなオルステッドの声。

 

「それは脅威だ。貴様らには扱いきれん。居るだけで周囲を損なう可能性のあるものを、なぜ庇う」

「何言ってんだ、脅威は、お前だろ!」

「すんなり差し出すと思ったが……思い違いか。まあいい」

 

 ドレンさんが物も言わずくずおれた。

 倒れたドレンさんの体を跨ぎ、オルステッドは「来い」と一言告げた。

 居るだけで周囲を損なう。そう言われたのは初めてだった。

 

「メイヨーさん、守ろうとしてくれて、ありがと」

「行ってはだめ」

「だいじょうぶよ」

 

 メイヨーさんの包帯で覆われた頬に頬ずりをして、腕から抜け出した。

 オルステッドのもとに向かう私にいくつもの手が伸びて、留めるように服や体をつかみ、しかし弱々しい力であったので構わず進めば、手は離れていった。

 

 どんっとワーシカがぶつかるように抱きついてきた。

 泣きじゃくりながら、私を見上げ、訴えてくる。

 

「いか、行かないで、シンディ姉」

 

 片腕で抱きしめかえした。

 離れようとすると、いやいやと首を横に振って拒まれる。

 

「ワーシカ、いいものあげる!」

 

 首にかけていた革紐を外し、ワーシカの首にかけてやった。

 シルフィとロールズさんが作ってくれた長耳族のお守り。私の宝物だ。

 五歳のお祝いに父様にもらった耳飾りは、ブエナ村に置いてきてしまった。

 

「イヴ、おいで。イヴにはこれあげる」

 

 イヴは私のそばに立つオルステッドと私をちらちら見比べ、ぎゅっと目を瞑ってこっちに駆けてきた。

 その体を抱きしめてから、兄にもらった本を渡した。

 イヴはエマちゃんの妹である。魔術の才能もあるはずだ。

 才能がなくても、大事にしてくれるなら、何でもいいけれど。

 魔術が使えれば施設の援助で学校に通えるという話だ。イヴたちには、学校に行って、できることを増やして、幸せになってほしい。

 私はもう教えられないみたいだから、代わりに本を置いていく。

 

「お別れ、終わりました」

「……」

 

 扉の残骸の上を歩き、オルステッドは食堂を出た。

 その背中を追う者は私の他にいない。みんな怖くて動けないのだ。

 

「バイバイ」

 

 振りかえり、立ち尽くすワーシカとイヴたちに、お世話になった施設の人たちに手を振る。

 学校、私も行きたかったな。

 

 

 


 

 

 

 

「転移だ」

「お……?」

 

 夜中に町を発った私たちは、外で野宿した。

 朝起きて見えた風景は、ひとっこひとりいない平野である。

 目の前の草は産毛のような霜をまんべんなくまとっている。

 濃く匂うはずの土と草の匂いを寒気に閉じ込めたつめたい朝の空気は、ここが屋外で、今が早朝であることを教えてくれた。

 

 起きた私の体の上には、白いマントが毛布の代わりか、掛けられていた。

 背中側が特別ぬくいと思えば、ローブを着た少女と背中をくっつけて寝ていたのだった。

 少女はあどけない顔でまだ寝ている。

 地面に散らばるのは長い艶のある髪。黒髪だ。

 生前、盲になる前は、当たり前に見ていたもの。

 しかし、こちらに来てからは見た事がなかった色の髪。

 

 私はあまり寝起きの良いほうではない。

 起きてしばらく、黒髪をボーッと見下ろしていると、「転移だ」と急に言われたのだ。

 オルステッドに。

 

「てんい」

「ああ」

 

 体にかかっていたマントをすべて少女のほうに被せ、ちょっと離れてから水魔術で顔を洗う。

 ひゃっこい。目が覚めた。

 

 顔を拭く布がないことを思い出した。

 仕方なしに寝巻きをたくしあげて顔の水気を拭き取る。

 

 あぐらで座っているオルステッドの前に戻った。

 ずっと見られていたみたいだ。ちょっとはずかしい。

 

「転移ってなにですか」

「本来は魔法陣の上で成り立つものだが――」

 

 説明を聞く。

 むずかしい話がいっぱい出てきた。

 わからないというのが顔に出ていたのか、オルステッドは途中で言葉を切り、枝を手に持って地面にふたつ円を描いた。

 円の中にそれぞれ小石を放り、小石をつまみ上げて場所を入れ替えた。

 

「つまり、この地点とこの地点のものが、入れ替わる。これを一瞬にして起こすのが転移だ」

「……ちょっとわかりました」

 

 言われて思い出したが、父様は昔、冒険者だったときに、迷宮で転移の罠にひっかかったことがあると言っていた。

 転移の罠を踏んだが最後、迷宮内のどこに出るのかは誰にもわからない。パーティが全滅しかねない危険な罠だという。

 迷宮内どころか、出た場所は全国各地だし、そもそも消滅してどこにも出ずに亡くなっている人もいたが。

 

「ブエナ村の人たちみんな、転移したの?」

「ブエナ村だけではない。ロアを中心に、フィットア領のほぼ全土が消滅している。加えて、各地に人や魔物が突如現れたという情報。前例は無いが、魔力災害による転移とみていいだろう」

「畑とか、お家は、どうなったの?」

「消滅した。貴様が見たという更地は、見間違いではなかったということだ」

 

 思っていた以上の規模の大きさであることは、わかる。

 想像が追いつかない。生前で例えるなら、どうなるのだろう。

 岡山は、美作(みまさか)、備前、備中の三つの国から成る。

 生前の私が暮らしていたのは、美作の苫田郡にある集落である。

 美作国が丸々災害で壊滅した?

 いや、もっと大きい。

 岡山を含めた中国地方の全土を巻き込んだ災害。

 こう例えるほうが近いだろうか。

 それが、私の身に起こった。

 そのせいでたくさん死んだ。

 畑も家もなくなった。

 

「う゛~~……」

 

 地面に正座していた私は、膝の手前に手を重ね、体を折りたたんで額を手に押しつけた。

 ぎゅっと縮こまって小さくなる。

 その感情を表すことばを知らない。

 鳩尾を絞り上げ、心臓を掴みねじり、それは私を空洞にする。

 得体の知れないものが空洞に引き寄せられて寄ってこないように、小さくなって耐える。

 

 ノルンも、

 アイシャも、

 お兄ちゃんも、

 リーリャも父様も、生きてる。

 だから、まだ大丈夫。私は大丈夫。

 

 心の中で自分に語り聞かせ、体を起こした。目もとは乾いている。

 

「もういいか?」

 

 無表情で私を見下ろしているオルステッドに頷いた。

 

「赤竜山脈では切羽詰まった状況にいた。故にひとまず生かしたが。

 シンシア・グレイラット、俺は貴様の処遇を決めかねている」

「しょぐう」

「生かすか殺すかということだ」

「ころ……」

 

 どうせ死ぬのだが、今はまだ死にたくない。

 せめて兄と妹たちが結婚するまで待ってほしい。

 

「貴様の力で俺を死なすことはできるか?」

「え……しないです、そんなこと」

「意思の話ではなく、可能か不可能かを訊いている」

 

 変な人だ。

 

「えと、死なない方法で試すね。ちょっとチクッとするけど、いい?」

「構わん」

 

 呪殺する蛇ではない。

 昔、ソマル君にしたように軽い怪我をさせるだけだ。

 左手からするする小蛇が降りて、影に溶け消え、オルステッドの足元の影に現れた。

 するとびっくり。

 蛇はジュッと燃え尽きた。私の眼にそう見えただけで、実際に火が熾ったわけではないが、ともかく消えた。

 

「人間じゃ、ない? 神さま?」

 

 ピクリと彼の眉がうごいた。

 まるで睨まれてるみたいだ。

 

「そうだな……人間以外の血も混ざっている。

 ()()というほど大層な存在でもないが、七大列強の『龍神』は俺だ。肩書きは龍神ということになる」

「龍神さま」

 

 むかし父様が言っていた七大列強。その一柱である龍神。

 龍神といえば、蛇神と同格かそれ以上の位の神様である。

 トウビョウ様の力が効かないのも納得だ。

 

「で、どうなんだ?」

「私はあなたを殺せないです。赤竜も、殺せるのは近くにいるやつだけで、遠くのは無理でした」

 

 蛇を土に潜り込ませた。

 手元に生えていた一年蓬のロゼットが一瞬で萎び、茶色く枯れた。

 うん、私の調子が悪いわけではなかった。

 広範囲で同じこともできるが、先百年は作物が育たず、人の住めない不毛の地になってしまうから実行はしない。

 

「ふむ、基準があるのか……。それはヒトガミから得た力か?」

「ちがいます、名前は言っちゃいけないけど、べつの神さまです」

 

 ヒトガミって何だろう。生前も今も聞いたことがない。

 オルステッドは「べつの神さま」と聞くと、疑りぶかく、重ねて訊ねた。

 

「なぜ名前を言わん」

「名前を知ってる人が増えると、神さまの力も増えるからです。私の中にいるのは、悪い神さまだから。力が増えると、よくない事が起こるの」

 

 トウビョウ様にとって、と前置かねばならないが、順当にいけば、私の死後、トウビョウ様はどこかの地で繁栄する。

 そうして、そこで暮らす人々、とりわけ少女に取り憑くだろう。

 少女を介して、託宣や呪いで己の存在を知らしめ、こちらの言葉でなにか違う名前をつけられて信仰され、トウビョウ様は定着する。

 放っておいてもそうなるのに、わざわざ私から名前を広めて、定着を早めたくない。

 

 納得した顔はしていないが、オルステッドは一応は事情を汲んでくれたようだ。

 

「白い空間で、印象に残りにくいクズ野郎と会話をしたことは?」

 

 よほどの恨みがあるのか、「クズ野郎」と口にするとき、オルステッドの眼がぎらりと光った気がした。

 黒い空間なら生まれる前に長いこと居たが、白い空間は身に覚えがない。

 

「ないです」

 

 ヒトガミとか、白い空間のクズ野郎とか、よくわからない質問ばかりだ。

 

「ヒトガミってなあに」

「俺の敵だ」

 

 オルステッドはそれだけ言って口を閉ざした。

 こう、敵対した経緯とか、話してくれないらしい。

 

「一人、今までは居なかった子供がいたが――貴様が連れていたのは、ワーシカ、イヴ、エリック、クラレンスで間違いないな?」

「はい」

 

 ヒューの名前だけない。

 そもそも、教えてないのに、どうしてワーシカたちの名前まで知ってるのだろう。

 疑問に思いながらうなずくと、

 

「いいか、シンシア・グレイラット。

 助けられた事を恩に思うなら、俺の元でその力を使え。

 ただし、俺の動向をヒトガミに内通すれば、救貧院にいるあの子供たちの命はないと思え」

「……」

「わからんか? 俺と敵対すれば子供を殺す。お前も殺す。そういうことだ」

 

 ソマル君たちも、男の子同士で遊んでいて熱中すると「てめー殺す!」「ぜってえコロす!」と言い出すが、それは怖くない。

 本気じゃないことが分かりきっているからだ。

 この人のはちがう。

 殺す、と言ったら、本当に殺すのだろう。

 態度もあっさりしていて、ごくさらりと言われたが、奥底には確かな気迫があった。

 

 立ちあがる。

 柔らかいものに踵をひっかけ、どたっと尻もちをついた。

 うめき声が下から聞こえる。黒髪の少女である。

 転んで下敷きにしてしまったようだ。

 すぐさま上から退いて、彼女を揺り起こした。

 

『なに……?』

「起きて!」

 

 逃げなきゃ。とにかく離れなくちゃ。

 少女は起きがけの気だるい顔で私を見上げた。

 

「い、いい良い人だけど、こわい人! 怖い人なの! あなたまで殺されちゃう! 逃げなきゃ、」

「させん」

「ぃやッ!!」

 

 脇の下の胴をつかんで持たれる。

 大きな手の甲にこぶしを叩きつけて抵抗したが、まるで意味をなさなかった。

 足は暴れると少女にぶつかっちゃう位置だから振り回せない。

 火魔術はすごく痛いだろうし、そも人に使っちゃいけないものだ。

 

「離さないと、大人のひと呼ぶから!」

「……誰が来るというのだ」

「はっ」

 

 ひとっこひとりいない平野。

 大声で喚いたところで、誰の耳にも届かないだろう。

 何があっても父さんが助けに行ってやるからな、と言ってくれた父様だって、ノルンだけ連れて、遠くにいった。

 

「ぐすっ……」

 

 涙がぽろりと流れた。

 災害にあってから何日も経つというのに、枯れる気配がない。

 生前と同じ貧しい暮らしぶりであれば、その日を食いつなぐのに精一杯で、泣く余裕などなかっただろうに。

 

 地面に下ろされる。少女が、どうしたの? というふうに首をかしげ、私の胸と背中をぽむぽむ手で挟むように叩いた。

 今は優しくしないでほしい。いっそう泣けてしまう。

 

「……そう怯えることはあるまい。貴様がヒトガミに与せず、俺に従うなら生かす、と伝えたまでだ」

「わか、わかり、ました。ひとがみって人のいうこと聞きません」

 

 目線を上げられない。

 オルステッドの靴のあたりを見ながら何度もうなずく。

 そうだ、そもそも、今すぐ殺すとは言われてなかった。

 私が、ワーシカたちを殺されるかもしれないと知って、視野狭窄に陥ってしまったのだ。

 

 

「上に着ておけ」

 

 そう言われ、丁子色の布を渡される。

 裾の長いポンチョみたいな服である。フード付きだ。

 袖はなく、羽織って腕を両横に出せば、私の影は大きな扇型になるだろう。

 布じゃなくて、何かの皮っぽい質感。

 

「エアフォースイーグルの外皮を用い、魔力の付与された糸で縫製されたコートだ。着用者の生存に適さない寒暖を遮断することができる」

「えあふぉーすいーぐる」

 

 手で触って、服の過去を視る。

 規格外に巨大な鷲が嘴で人をむさぼり喰っている絵が視えた。視なきゃよかった。

 

「魔物だ」

 

 ……魔物って着れるんだ!

 こちらの国の人々の逞しさには、よく驚かされる。

 私はいま、魔物を加工した服を羽織っているのだ。生前なら考えられないことである。

 少しの畏れと感慨に、袖のないコートの裾を握ってバッサバッサとはためかせた。

 

 あの黒髪の女の子が着ているローブも、なにか普通の服にはない機能があるのだろうか。

 彼女が着ているのは紺色のローブ。

 肘よりやや下の位置から、切り返しで青色になっている。

 浮きの形をした紐を通してとめるボタンが胸元に三つ。

 兄のお下がりのコートにもあんなボタンがついていた。

 トグルボタンというのだっけ。母様に教わった。

 

 目が合ったので、さっきは慰めてくれてありがとう、の意を込めて笑いかけると、にこっと微笑み返してくれた。

 

 それから、オルステッドは携帯食のビスケットと、皮の水筒を私と少女に渡した。

 食べろということか。

 横の女の子を見ると、白いマントを敷物にして座り、ときどき水で口を湿らせながら、ビスケットをちびちび齧って食べている。

 

「いただきます……」

 

 倣って食べつつ。

 自分は何も口にする様子のないオルステッドを見た。

 私は彼に衣食の世話をしてもらったことになる。

 彼に対する印象が定まらない。良い人だと思ったら、怖い人で、やっぱり良い人(多分)。

 ありがとう、って言いたいのだけれど、すっかり話しかけにくくなってしまった。

 

 こっちの人と話すことにしよう。

 黒髪の女の子の横に距離をつめ、訊ねた。

 

「わたし、シンシア。お姉さんのお名前も教えて?」 

 

 そんなに小さい声ではなかったはずだが、彼女は申し訳なさそうな表情を浮かべた。

 

『ごめん、貴方たちの言葉わからないの』

「……なあに?」

 

 彼女が喋ったのは、初めて聞く言語。

 ちょっとだけ私が生前使っていた言葉に近い発音もあったが、でも、何を言ってるのかはわからなかった。

 

「そいつはナナホシ・シズカ。俺たちの言葉は通じん」

「そうなの」

 

 ナナホシというらしい。

 名前の雰囲気と響きを、なぜだか懐かしく感じた。

 彼女の後ろにすす……と隠れながらオルステッドを見上げる。

 私が逃げるのを諦めたことを察したのか、オルステッドは正面に暇そうに座っている。

 彼の三白眼は蛇のように鋭い。油断しているふうに見えても、きっと走って逃げたらあっという間に追いつかれることだろう。

 

 私はナナホシの腕をつついてこちらに注目させ、自分を指さして「シ、ン、シ、ア」と、ゆっくり言った。

 ナナホシは不思議そうな顔をした。

 

「しんしあ?」

「うん、わたし、シンシア!」

 

 あなたはナナホシシズカ、とナナホシを指さして言った。

 それで、私が告げているのが名前だとわかったのだろう、ナナホシはちょっと笑顔になった。

 

「シンシア」『よろしくね』

 

 異なる言語がくっついてきたけど、たぶん悪いことは言われてない。

 言葉が通じないと、色々不便であるはずだ。

 オルステッドに「俺の元で力を使え」って言われたが、具体的にどうすればいいのかは知らない。

 でも、たぶん、しばらく一緒に行動することになるのだろう。

 できるかぎり私が言葉を教えてあげようと思いながら、ナナホシに笑みをかえす。

 

「私はオルステッドさん様についていけばいいの?」

「そうだ」

「この子も?」

「ああ」

 

 やっぱり一緒にいるらしい。

 ということは、オルステッドをいつまでも怖がってはいけないのだ。

 …………私にできるかな。

 兄だったら、きっと上手いこと言いくるめて会話の主導権を握ってしまうのだろう。上手いことペラペラっと。

 私は兄ではないので、ナナホシの後ろに隠れ、肩から顔を出してオルステッドに告げる。

 

「怒らないで聞いてほしいです」

「わかった、怒らん」

「……私は、あなたのことをちっとも怖いと思ってないです。

 なので今からオルステッドって呼びます。呼び捨てです」

「…………好きにするがいい」

 

 頭が痛い、みたいな顔で言われた。

 激昂されなかったことに安心し、私はオルステッドの横に移動して、立てた片膝の上に置かれていた手に触れた。私の手の何倍もある。

 

「さっき叩いてごめんね」

「……?」

「痛かったでしょ、ごめんね……」

 

 眼を合わせないようにしながら謝る。

 まだちょっと怖いから、眼は見れない。

 

 オルステッドは、何拍かの間のあと、「あれで叩いてたのか?」と心底驚いた声で言った。

 彼とはまだ少ししか喋ってないけれど、今まででいちばん感情を表出された瞬間だったかもしれない。

 私は本気で叩いていたのに、攻撃を受けたオルステッドには、虫がとまったくらいにしか思われていなかったらしい。

 

『誘拐かと思ったけど、そんなに怖がってないし、違うのかしら』

 

 こちらを見ていたナナホシがふいに独り言を零した。

 私は首をかしげる。

 やっぱりどこか、既聴感のある言語だ。

 

 

 


 

 

『混合魔術指南書』

 アスラ魔法学院で使用されている教科書。

 最適化された魔力操作、無詠唱を前提とした内容は、紙質から推測される年代の魔術理論とは一線を画している。

 教科書に制定された当時の所有者は学院の教諭であるイヴ・ネイビードッグ*1であった。長らく作者不詳の書であったが、原本の奥付に記された〈我が妹シンディに捧ぐ〉という文面から、魔導王ルーデウス・グレイラットが同母妹のシンシアのために著した書であることが後年に明らかになった。

*1
養子



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二二 観察対象

 私がオルステッドのためにすることは主に二つ。

 一、指定された人の現在地を視て教える。

 二、指定された人を呪殺する。

 

 とくに魔力災害で遠くに転移した人たちの居場所について多く視た。

 ノルンとアイシャ、それとエリスさんの居場所まで教えるように言われたときは驚いた。

 ノルンとアイシャについては何をされるか分からなくて視えない振りをしていたら、「救貧院に引き返すか」と低い声で言われて震えた。

 結局、酷いことをしない、という約束で教えたけれど。

 なんでも私が視ているのは、〈重要な者たち〉らしい。

 なにがどう重要なのかは教えてもらえなかったが。

 

 呪殺は両親にやったらダメって言われてるから、あまり使いたくなかった。

 でも、オルステッドは、私がオルステッドに従えば、父様のところに送り届けてやってもいい、と言ったのだ。

 再会したらこの力を使ったことを怒られるかもしれないが、どんなに酷く怒られてもいいから会いたい。

 

「どうして殺すの?」

「俺にとって不都合な人間だからだ」

 

 かくべつ対象者のことを憎んでいるわけではなさそうなのが、不思議だった。

 呪殺の依頼は深入りするな、とは生前からの教えだ。

 だからそれ以上は訊かず、言われるままに蛇を遣わせる。

 

「この人たち、あと四日もすれば高熱で死にます」

「ああ。後日確認に向かう」

 

 三人の所在地と名前の書かれた紙をオルステッドに返す。

 名前と住所を知っていれば、面識がなくても呪い殺せるのだ。

 

「俺がやってもいいが、今回は範囲と影響力を見ておくか……」

 

 とは、オルステッドの独り言である。

 自分でやってもいいと思っているなら、そうしてほしいところだ。

 使うと母様が悲しむと知った今は、呪殺はあまりやりたくない。

 

 

 オルステッドに連れ出されてから数日。

 移動は徒歩である。馬に怯えられるので、馬車は使えないそうだ。

 上着は渡されたものの、その下の格好は施設の寝巻きのまま、靴もつっかけのままである。

 できた靴擦れを治癒魔術で治しながら移動していると、途中で寄った町で服と靴を買ってもらえた。

 店主はものすごく怯えていた。夜道で化物に出くわしたような怖がりようであった。

 

 ナナホシのローブの下の服も一緒に買った。

 彼女がローブの下に元々着ていた服は特徴的だった。

 

「『水兵さん』みたい」

『すぃへーしゃ?』

 

 率直な感想を述べたら、ナナホシは訝しげに首をかしげつつ、もう一回言って、というふうに指を一本立ててきた。

 これは私の生前の言葉だし、聞き取りにくいのだろう。

 何度か繰り返すと、ナナホシは不思議そうにしながらも、それ以上はせがんで来なかった。

 

 元々着ていた寝巻きと靴は、町の物乞いにあげた。

 ナナホシの水兵服は、畳んで彼女が革鞄の中にしまっていた。

 上等そうな服だし、手放し難いのだろう。靴だけは、持ち運びに困ったらしく、私と同じように物乞いにあげていた。

 町には長居しなかった。半日以上滞在すると、討伐隊を組まれるとか、なんとか。

 

 

 山毛欅や樫の大樹が枝をひろげる下を、ひたすら歩く。

 一日中陽の当たらない木陰には雪が残っている。冬はまだ訪れたばかりだ。また降るだろう。

 それでも、ブエナ村の冬よりは、降雪量は少なそう。

 

「俺の先を歩け」

「なんでですか」

「そうした方が見失わずに済む」

 

 オルステッドの移動する速度は早い。

 ナナホシと私が彼の後ろを歩いていたら、あっと言う間に引き離されてしまうのだ。

 先を歩いていれば、私たちの姿は常にオルステッドの視界にあるから、はぐれることはない。

 見失ってくれないかな、と、ちょっと思った。

 事故を装って離脱できれば、イヴとワーシカのところに戻れる。

 

「いち、に、さん、しぃ」『えっと、何だっけ』「ご……?」

「六よ。つぎは六」

「ろく」

 

 オルステッドに行く方向を指示されながら、私はナナホシに一から十の数え方を教えていた。

 ナナホシは指を立てながらつたなく繰り返して発音を憶えようとしている。

 

 妹たちを思い出す。

 アイシャは二百以上も数えられるが、ノルンはまだ十まで数えられない。六の次は十だと思っているのだ。

 私は、万の位までならわかるが、それ以上の数字はあやふやだ。

 私には想像もつかないが、万の次の次の次……と数えていってもなお、数には終わりがないらしい。

 生きていて百以上の数を使うことは生前含めてなかったから、事実か疑わしい。終わりがないものなどありえるのか。

 

「ナナホシ、あれは、雪。ゆき!」

「ゆき?」

 

 木陰に解け残った雪をみつけ、踏みに行く。

 北と南のちがいだろうか、ブエナ村に積もる雪は軽い粉雪なのだが、南のウィシル領の森に残っている雪は水っぽい。

 ついてきたナナホシは、指で積雪に触れ、「ゆき」と繰り返した。何を指している言葉か伝わったようだ。

 

 水魔術で右の手のひらの上に氷を作る。

 氷塊を自分の頬にくっつけて「つめたい」と教える。

 ナナホシは合点が行ったように「つめたい!」と口にした。

 その顔は嬉しそうである。知らないことを知るのは、楽しいことだ。

 

『ねえねえ、それも魔法? どうやってやるの?』

 

 ナナホシが興奮気味に話しかけてきた。

 意味はあいかわらず取れない。語尾が上がり調子だから、こちらに何か訊ねているのだろう。

 魔術が気になるとか?

 私も初めて魔術を見たときは驚いたものだ。

 リーリャが言うには、泣いて怖がっていたらしい。そのへんは記憶にない。

 ナナホシは怖がってない。むしろわくわくした様子である。

 肝が据わったお姉さんだ。

 

「汝の求めるところに大いなる水の加護あらん、」

「なんじ、もとめるところ、おーいなる」

 

 少しずつ詠唱を口伝えで教えようとすると、オルステッドに止められた。

 

「ナナホシには魔力がない。詠唱を憶えても無駄だ」 

「そうなの」

 

 ナナホシを見る。

 目視ではわからないが、魔力がないらしい。

 

「お母さんは、どんな人にも魔力はあるって言ってました」

「ナナホシはおそらく別世界から来たのだ。この世界由来の人間ではないから、魔力もなく、俺の呪いも効かんのだろう」

「べつ世界? べつの国ってこと?」

「いや……まあ、そんなところだ」

 

 異国から来たナナホシ。

 言葉もわからないのに単身で渡ってきたのだろうか。

 それとも、オルステッドが私みたいに連れてきたのか。

 移動中に話した限りでは、ナナホシについては「保護した」とオルステッドは言っていたから、連れてこられたのとは少し違う印象はある。

 

「ナナホシにはむり、できない」

 

 首を横に振り、聞き取りやすいようにゆっくり告げる。

 ナナホシは私の仕草で意味を察したのか、きょとんとした後、残念そうな顔になった。

 彼女の腕を抱きしめて揺らす。励ましの意である。

 

「ナナホシが魔術必要なときは、私が使うからね」

 

 言葉がわからないのだった。

 身振り手振りで伝えようとわたわた動くと曖昧な笑みで頷かれる。多分なにも伝わってない。

 

 魔力のない国。

 黒髪に黒目だし、あんがい私と同郷かもしれない。

 ナナホシの元々着ていた服は上物だったし、よい匂いがするし、髪も肌もきれいだから、きっと分限者の娘だろう。

 仮に同郷でも、生前の私なんかとは住んでる場所もちがうはずだ。

 

 オルステッドが追いついてきて、私の体は浮いた。

 小脇に抱えられたのだと気がつくまで数秒かかった。

 どうして普通に抱っこしてくれないんだろ。

 

「どこ行くの」と訊ねると、簡潔に「寝床だ」と返された。

 オルステッドは蔓草に足をひっかけてこけたナナホシを反対の腕で支え、そのまま彼女を抱えて、走り出した。

 

「わ!」

 

 ひゅんひゅん地面が移り変わる。

 オルステッドがそれほど早く走っているのだった。

 首をよじって上を見ると、梢の間の空が穴のように暗かった。

 突然、空の一点が光った。少しの間をおいて、遠雷を聞いた。

 先を視るまでもない。季節外れの雷が近づいてきている。

 

「オルステッド、雷雨になります」

「知っている」

 

 オルステッドがたどり着いたのは、森を東に出外れた廃村にある教会だ。

 この地で何があったのだろう、と視ると絵が頭に浮かんだ。

 野盗の一団に襲われ、司祭は殺され、めぼしいものは奪われ、建物は放火されていた。人々は恐怖に駆られて逃亡し、村は消えたらしい。

 

 教会の焼け残った部分に、オルステッドは侵入した。

 残骸だが、雨風を防げる屋根も壁もある。

 

 雷鳴がとどろいた。ナナホシがビクッと肩を跳ねさせる。

 大粒の雨が、焼け焦げた天井の穴から入り込んだ。激しい風を翼とし、雨しぶきは私とナナホシの顔を濡らした。

 穴から離れると、ときどき吹きつける程度になった。

 

「そこで大人しくしていろ」

 

 と、言い、オルステッドは教会の外に出た。

 オルステッドについて行こうとしたのか、迷うように腰を浮かしかけたナナホシを留めた。

 これから寒くなるだろう。

 居場所とさだめた空間からできるだけ離れた壁の板を苦心して剥がし、組んで焚き火をした。

 

 丁子色の外套を脱いでナナホシの膝に掛けてやり、隣りに潜り込む。

 ナナホシは自分のローブを肩から落とし、それで私をくるんだ。

 でも、それではナナホシの上半身が冷えてしまうので、身をよせて半分ずつ包まることにした。

 

 さっきから手のひらがチクチク痛む。

 手のひらを見ると、木くずの棘が刺さっていた。

 壁板を剥がしたときに刺さったのだろう。

 こういうのは、除いてから治したほうがいいと母様が言っていた。

 刺さったまま治癒魔術をかけると、後で棘が体に悪さをして傷口だった部分が化膿したり、腫れたりする事があるらしい。

 

 母様かリーリャがいたら、針を使って手早く抜いてくれる。

 二人ともいないので、自力で爪でカリカリ引っ掻いて抜こうとするが、なかなか取れない。

 

『どうしたの? ……ああ、棘ね、待って、こういうのは確か……』

 

 ナナホシが傍らに置いていた鞄をごそごそと漁り、中から小さな革の入れ物を取り出した。

 さらにその中から何か取り出し、私の手のひらに押し当てた。

 黄銅の硬貨みたいな丸い物体である。真ん中に丸い小さな穴があり、形は六文銭*1に似ている。

 

 穴の部分が棘が刺さった部分に強く押しつけられる。

 ナナホシは浮き出た棘を、爪にひっかけながら抜いてくれた。

 

『よし、とれた』

「ナナホシ!」

 

 清々しい気分でナナホシを抱きしめた。

 のたうち回るほど痛くはなくても、チクチクした痛みがずっと続くと気が滅入るのだ。

 それを除いてくれたナナホシに、妹たちや施設に残してきた子たちにするように頬ずりをした。

 ナナホシは戸惑いつつも受け入れてくれた。少し嬉しそうだ。

 

 周りが、一瞬、青白く光る。

 空が崩れ落ちるのではないかと思う轟音が響いた。

 私とナナホシは先ほどとは違う意味で抱き合った。

 

 一度の落雷ではおさまらない。

 雷鳴はなお、遠く近くつづいた。

 

 オルステッドは何をしているのだろう。

 あんなに背が高いと雷が彼をめがけて落ちてきそうだが、無事だろうか。

 

 光と音で雷が遠ざかったことを知り、ナナホシから体を離した。

 さっき使われた黄銅の硬貨を見る。

 ひっくり返してみると、穴の下に文字が書かれていて、上部には稲が彫られていた。

 この文字は読めない。でも、絵ならわかる。

 稲である。健康そうな稲穂である。

 

「……」

 

 すごく久しぶりに見た。

 米粒混じりの稗粥を食べられるようになったのは、トウビョウ使いになってからだ。それまでは稗粥に米を入れるなんて贅沢は、ほとんどしてこなかった。

 故に米への恋しさもないつもりだったが、こうして眺めていると少しは懐かしさも湧いてくる。

 

「抜いてくれてありがと、返すね」

 

 ナナホシに返そうとすると、手をひらひら振って拒まれた。

 

『あげるわ、気に入ったみたいだし』

「くれるの?」

 

 手の中に握って首をかしげると、こくこく頷かれた。多分くれるのだろう。

 嬉しい。いいものもらっちゃった。

 ナナホシに寄りかかり、焚き火に照らして異国の硬貨を眺める。

 思い出すのは、昔の故郷の枯れかけた田んぼ。それから生前の家族のこと。

 婆やんもお母もお父も、既に生きてはいないだろう。

 三人が豊かな国の赤子に転生するか、仏様になって安楽にやっていることを願う。

 

「!」

 

 また周囲が青白く光り、焚き火の前に立つ白い人影が照らされた。私は硬貨をポケットに入れて体を起こした。

 オルステッドだ。頭から雨で濡れとおったオルステッドが戻ってきたのだ。

 

「火は焚いていたのか」

 

 手には赤い実をつけた柊の大枝と、兎の死体を持っていた。兎の皮はすでに剥がされている。

 刃物は雷を呼ぶ。オルステッドも経験で知っていて、こことは離れた場所で剥いできたのだろうか。

 

「鍋あったの?」

「民家の焼け跡にな」

 

 オルステッドは石や瓦礫を組んで簡易な竈を作り、鍋に兎肉を放り込んで焼き始めた。

 銀髪から水が滴っていて、ナナホシがハンカチを差し出したが、首を振って断っていた。

 首元の毛皮がカラヴァッジョの水桶に落ちてしまった雪白みたいに濡れそぼっていたが、それはだんだんとフワフワと毛が立ってきている。

 水を弾く素材だろうか。触ってみたいが、それが許されるほど仲良くはないのだ。

 

「腹が減ったら食え」

 

 そう言って、オルステッドは私とナナホシからちょっと離れた場所に座り込んだ。

 すなわち火から離れた場所である。

 竈周りの居場所にゆとりはある。

 いっしょにあたらないの?

 

 脱いだコートを片腕に抱えているオルステッドのそばに行った。

 睨まれて立ちどまる。

 

「どして睨むの」

「睨んでない、普通の顔だ」

 

 それはすまない勘違いをした。

 彼の隣りに膝を抱えてすわる。

 睥睨してない、と知れると、こちらを見る眼に意図を問う色があることに気がつく。

 

「そんなに良い場所なのかと思いまして……」

 

 鎧戸が嵌っていたであろう窓は破れ、風が吹き抜けている。

 傍の祭壇が少しは風よけになるものの、その祭壇だって、打ち壊され焦げている。

 雨しぶきが顔や髪にかかって冷たい。

 

「良い場所じゃないです」

「……」

 

 ビショビショの顔を袖で拭いながら告げる。

 竈の方を指さした。

 

「休むならあっちのほうが良いと思います」

「俺はいい」

 

 こうして話している間にも、オルステッドは私からジリジリと距離をとっている。

 私のこと嫌いなのだろうか。だとしたら切ない。

 今まで可愛い可愛いと好かれるのが当然みたいな所があったから、なおさらである。

 

「そんなに離れられたら悲しいです」

「何故だ?」

 

 不可解そうな顔を向けられた。

 こう言われたら、ふつう分かると思うのだが、そうではないようだ。

 

「私の好きな食べ物しってますか」

「知らん」

「パウンドケーキの生地だけの部分よ」

 

 私の友達ならみんな知ってることだ。

 友達じゃなくても、そんなに喋ったことのない村の人にも、私の好物くらい知られていた。誰が誰と喧嘩したとか、誰が誰を好いているとか、そういう事すらあっという間に噂話になって広まる環境なのだ。

 オルステッドには、だから何だ、みたいな顔をされる。

 

「オルステッドはこわい人で、ほんとは私が思ってるほど良い人じゃなくても、私はあなたと仲良くしたいもの。

 好くにしても嫌うにしても、まずは相手のことを知ってからがいいの。お互いのことをよく知るまえにきらわれるのは、悲しいです」

 

 理由もなくへのけにされる悲しさはわかるでしょ。

 自分がされて悲しいことは、人にもしないものでしょ。

 

「ご飯用意してくれてありがとね、あっちでいっしょに食べよ?」

「……ああ」

「……さっきこわいって言っちゃった。ほんとはこわくないです」

「別に、貴様が何を言おうと怒らん」

 

 オルステッドが腰をあげた。

 居場所を変えたオルステッドに続いて、ナナホシのそばに戻った。

 あの上着が魔道具であるという話は本当のようで、着ていたときは感じなかった寒さを、脱いだ今は感じている。

 寒いからナナホシにくっつく。

 足を崩して座っていたナナホシが私を腿の上にのせ、火で温めた手で耳をもんでくれた。

 ほっこりとした温もりが心地よい。

 

「お返し!」

 

 同じくあっためた手でナナホシの頬に触れる。

 ナナホシはくすくす笑った。

 

 オルステッドがこちらを見ていた。

 ナナホシは同性だし優しそうだから触っても平気だけども、オルステッドはそういう感じじゃない。

 

「あ、あたためましょうか……」

「……」

 

 どきどきしながらオルステッドにも訊いてみた。

 オルステッドは無言である。さすがに何か言ってほしい。

 近くに座っているオルステッドは、それでも手を伸ばして届く位置にはいないので、ナナホシの膝から退いてすぐ横に移動した。

 

 手を伸ばしてから迷う。

 頬? 耳? どっちを温めればいいのか。

 兄に懐かなかったヨッヘン君の家の牧羊犬を思い出した。

 私の頬ならベロベロ舐めるのに、兄が頭を撫でようとした瞬間、かつて骨折を治された恩も忘れてガブッと手に噛みつくのである。

 噛まれた兄が「痛え! このクソ犬!」と悪態をつくと嬉しそうにハッハッと息を吐くのだ。

 本気噛みではなくすぐに離してくれるのだが、噛み付く速度は速く、見ている私はかなりビックリする。

 

 オルステッドは犬じゃない。

 犬じゃないが、噛みつきの速さは同じかそれ以上だと思う。

 人間だしまさか突然噛んできたりはしないだろうけれど……。

 癇癪をおこした二歳頃のアイシャは肩など噛んできたし、ノルンは人の指をチュッチュク吸ってついでに噛んでくることもあったが、あれは小さい子だったからだ。

 

「つめたっ」

 

 息をふきかけて温めた指先で耳たぶをつまむ。

 オルステッドは大人しくしている。耳たぶは氷のように冷たかった。

 

「こんなに冷えて……」

 

 可哀想に。

 火にあたらせようとぐいぐい肩を押す。

 

「俺の種族の体温はもともと低いのだ。体は冷えてない」

「そうなの? オルステッドはなに族?」

 

 やっとこさまともに口を聞いてくれた。ある種の達成感がある。

 嬉しくて笑顔で言葉を交わしていると、ナナホシが慌てて鍋を指さした。

 鍋からは煙があがっている。

 

『焦げてる焦げてる!』

「む」

 

 オルステッドがさほど慌てずに鍋を竈から降ろした。

 熱した銅鍋を、素手で触っている。ぜったいに火傷する。

 ナナホシが目を丸くした。私は悲鳴をあげた。

 

「見せて!」

 

 治癒魔術かけなきゃ。

 オルステッドの手を両手でつかんで怪我を確かめる。

 大きな手は種族柄らしく色白。裏表ひっくり返しても白い。

 病弱さはなく、むしろ厚く筋張って力強い印象である。

 怪我などしたこともないような、綺麗な手だ。

 爪の先端がちょっと尖り気味。

 あら?

 

「火傷ない」

「俺の体は龍聖闘気に守られている。この程度では火傷などせん」

「なにそれ!」

 

 すごい!

 

「私にもできる?」

「貴様が……?」

 

 じっと見られる。

 ついでに持ったままだった手もそろっと引き抜かれた。

 

「無理だな」

 

 ざんねん。

 

 その日の夕飯は、柊の実とやや焦げた兎肉だった。

 

 

 


 

 

 

 夜が明ける頃にオルステッドに起こされた。

 ちゅんちゅんと鳥の鳴き声すら聞こえない雨上がりの森を、寝ぼけ眼でのたのた歩いていたら、苛立って舌打ちしたオルステッドに荷物みたいに抱えられた。

 やっぱり、この人、ちょくちょく短気だ。

 そっちが連れ出したのに、その態度はひどいと思う。

 本人には言えないけれど。

 

 完全に目が覚めるころには、周囲は明るくなっていて、でもすぐに暗くなった。

 どんな道順で渡ったのかは定かではないが、オルステッドはナナホシを連れて洞窟の中を進んでいったのだ。

 

『わぁ、魔法陣!』

 

 ナナホシが何やらはしゃいだ声をあげた。

 洞窟の奥深くだというのに、そこには柱があり、祭壇があった。

 滲みでて溜まった地下水に足首まで浸かっているが、ブーツが撥水性なのか、ナナホシは平気そうにしている。

 祭壇の手前は一段高くなった平面があり、そこは青白い光を放っていた。

 昨夜の雷は一瞬の閃光だったが、これはぼんやりといつまでも光っている。

 ぼんやりした青白い光の源は、平面に彫られた大きな円形の複雑な模様なのだった。

 

「ナナホシ」

 

 ついてこい、という風にオルステッドは人さし指を動かし、私を抱えたまま模様の上に足を乗せた。

 ふっと気が遠くなった。

 

「……!」

 

 血の気が引いた。

 丘で光の洪水に飲まれたときと酷似した感覚だったからだ。

 意識が冴えてすぐ空を見上げ、眼に入ったのが、青い空を飛ぶ赤竜ではなく、蔦の這った天井であることを知る。

 

 というか、天井が近い。手を伸ばせばとどきそう。

 オルステッドに担がれているせいである。

 天井を触ると、ザラザラした砂が手にくっついてきた。

 空気は乾いた熱気をふくんで暑い。息をしているだけで喉が乾いてきそうである。

 

 横のナナホシを見下ろした。

 彼女は寝起きのような眠たそうな顔で佇んでいたが、すぐにハッと覚醒してきょろきょろ周囲を見回している。

 

「ふぅ」

 

 ここが赤竜山脈ではない事にとにかく安堵し、ため息をつく。

 オルステッドに床に下ろされ、全員が床に彫られた模様の外に出ると、模様はまた青白く活発に光りはじめた。

 

「これなに?」

「転移魔法陣だ」

「ここどこ?」

「ベガリット大陸の北西部、バジャム遺跡の地下だ」

「あら……」

 

 ベガリット大陸。

 ずいぶん離れたところまで来てしまった。

 すでに自力で救貧院に引きかえすのは絶望的である。

 ふんわりとした孤独感と閉塞感を感じながら、オルステッドに続いて階段を上がる。

 

 急な階段で、大人ならサクサクいけるが、子供だとちょっと大変だ。

 小さな子のように上の段に手をつきながら登る。急な傾斜に誂えられた階段だと、こっちのやり方のほうが登りやすいのだ。

 

 魔法陣の光はあっというまに手元に届かなくなった。

 地下内のゆいいつの光源が無くなったのである。

 暗闇のなかを、文字通り手さぐりで、慎重に動く。

 蛇とかいて噛まれたらどうしよう。

 

「なんも見えない」

『いたっ』

「……」

 

 ナナホシの声が聞こえた。転んだのだろうか。

 多分ここにいるのだろうと当たりをつけ、ナナホシの手をぎゅっと握る。握り返してきた。

 暗闇の中で金色の眼がこちらを向き、「待ってろ」とオルステッドの声が聞こえた。

 

「オルステッド?」

 

 返事はない。すでに居ないらしい。

 待ってろ、と言われたから、待つけれど。

 どれくらい待てばいいのか、どこに行ってくるのか、教えてほしかった。

 

 オルステッドはすぐに戻ってきた。

 精悍な顔が、松明の火に照らされている。

 遺跡のどこかに保管されていた松明を取りに行っていたようだ。

 オルステッドは私とナナホシを見比べ、ナナホシに松明を手渡した。

 

 そうして、外に出た。

 

「砂が!」

 

 砂がたくさん!

 遠目に山脈が見えるが、それ以外は見渡すかぎりの砂丘である。

 ついでに視ると、魔物筋も多い上に濃い。

 気を抜けば魔物に遭遇する危険な土地ということだ。

 

 畏れに好奇心が勝ち、遺跡から出て、黄土色の砂の上に立つ。

 ふんわり足が沈んだ。靴のなかに砂が流れこんでくる。片足をあげて靴を脱ぎ、砂を出した。

 しゃがんで集めて砂山をつくってみる。サララッと崩れた。

 両手に掬いとってみると、指の間からサラサラ流れ落ちてゆく。

 

 あ、また靴に砂が。

 

「被っておけ」

「ひゃ」

 

 オルステッドが上着のフードをつまんで被せてきた。

 さっきから頭皮に感じていたピリピリとした熱さが消える。

 

「なんで頭ぴりぴりするんだろって思ってました」

「熱いからだろう」

「そうみたい」

 

 迷いない足取りでオルステッドは進んでゆく。

 ナナホシの歩き方はぎこちない。生まれが雪国ではない事がひと目でわかる歩き方だ。

 気温はかなり違えど、砂をふむ感触は雪と似ている。

 ゆえに私は少しは早く動けるものの、履いてる靴が深沓ではないから、歩きにくさは感じている。

 深沓、藁さえあれば編めるのだけれど。

 

 南の方角に冠雪した山がみえる。

 山に背を向けて歩いてると、とくべつ魔力の濃い魔物筋が視えた。

 オルステッドは、まさにその上を横切るところだった。声をかけた。

 

「そこの道踏んだら魔物がでます。こっち通ったほうがいいよ」

「それは未来視か?」

「ううん」

 

 地上には魔物筋というのがあり、そこを踏むと魔物が出るのだと答えた。

 そういえば、説明していなかった。当たり前に使っていたから、他の人はわからないのだということを忘れていた。

 

「ふむ」

「あ、こら、だめでしょ!」

 

 オルステッドは堂々と魔物筋を踏んだ。

 私とナナホシだけ回避して渡っても、遠回りになって置いていかれてしまう。

 魔道具の上着があるから体調は何とかなってるとはいえ、こんな砂しかない場所に置き去りにされたら、食料を確保できず餓死するだろう。

 

 意味はないけれど、早足になってそこを渡る。

 

 オルステッドを追い抜かすと、数歩先の砂が蟻地獄の狩場のように渦巻き、渦の中心から何かが飛び出してきた。

 おっきいミミズだ。胴体の太さは大樹の幹くらい。

 目も鼻もないそれは、四枚の花弁のように開いた大きな口の中を見せつけながらこちらに迫ってきた。

 

「い゛っ」

 

 母様父様たすけて!

 じゃなかった、トウビョウ様!

 

『トレマーズ!?』

 

 ナナホシの叫びを聞きながらトウビョウ様に縋る。

 巨大ミミズはピタリと動きを止めると、バチュンと頭部が弾けて爆散した。

 

「ぶっ」

 

 生ぬるい体液がビチャッと顔にかかる。

 十中八九ミミズの体液だ。ネバネバしててやだ。

 横目に見た光景では、オルステッドはマントをかっこいい感じでバサッとやって粘液を回避していた。

 いいな、それ。私もやってみたかった。

 できないから服と顔が汚れてしまった。

 

「出るっていったのに……」

 

 悲しい気持ちでオルステッドを見上げる。

 オルステッドは私と巨大ミミズの死骸を見比べている。

 

「気配を察知している訳ではないのか。そうでなければ、俺の先には行かんはずだ」

「けはいをさっち」

「あー……魔物の息づかいや臭気、魔力を感じとり、だいたい此処にいるだろうとあたりをつけることだ」

 

 なるほど?

 

「そういうのはできないです。でも、この道踏んだら魔物にあう、ってわかる」

「そうか」

「これねばねばで気持ちわるい」

「……」

「ああぁ」

 

 オルステッドは、蓋を開けた水筒を、私の頭上でひっくり返した。

 何をしてるんだろう、水飲むのかな、と思って彼の動向を見上げていたから顔にモロにかかる。

 

「あの、あの水、水もう大丈夫です、あぷっ、じぶんで洗えます、けほっ」

 

 喋ると喉にはいってちょっとむせる。

 オルステッドが水責めをやめてくれたので、水魔術で顔と手、服を濯いで綺麗にする。

 カンカン照りのこの気候ならすぐに乾きそうだ。

 

「水筒のお水も足す?」

 

 私にかけた分が減っているはず。

 そう思って申し出たが、断られた。喉渇かないのかな。

 紐を通して肩にかけていた自分の水筒にはまだたくさん残っているので、ナナホシの水筒も確認し、少し減っていたので足してやる。

 ナナホシは物珍しげに、ブーツのつま先で巨大ミミズの弾けていないほうの胴体をつんつん突いていた。

 私も指でつついてみる。筋肉質な蚯蚓をさわっているような弾力がかえってきた。

 ひどい臭いである。何を食べたらこんな腐ったような臭いを放つようになるのだろう。

 

「ただのサンドワームだ。珍しがるような魔物でもあるまい」

 

 そう言って、オルステッドは歩みを促す。

 巨大ミミズの名はサンドワームというらしい。

 

 そもそも、どこに向かっているのかすら知らない。

 わからないまま、オルステッドと砂原を歩く。

 ちょっと歩くだけで、魔物はいっぱい出た。

 

「やぁ゛ーっ、おっきいにわとり!」

「サンドガルーダだ」

 

「悪そうな感じのとかげが!」

「ジャイロラプトルだ」

 

「なに? なにこれ!」

黄長竜(イエローナーガ)

 

 

 …………。

 

 

「帰りたい……」

 

 ナナホシにぎゅっと抱きついて紺色のローブに顔を埋める。

 もう何時間も歩いただろうか。一面の砂が珍しかったのは初めだけで、今は次々と襲いくる魔物が怖くてしかたがない。

 魔物筋あるよ、って教えてるのに、オルステッドがわざわざ踏みに行くのだもの。

 そうして現れた魔物は、ギシャアアアア! だの、グギャアアア! だのと害意に満ちた叫び声をあげてオルステッドに襲いかかる。

 呪殺が間に合わなくても、オルステッドが自力で撃退してしまうので誰も怪我はしてないが、怖いものは怖いのだ。

 

「貴様に帰る家などもう無いだろう」

「ひぃ……」

 

 どうして意地悪なことを言うのだろう。

 オルステッドの言ったことは事実だが、思い出させないでほしい事なのだ。

 泣きそうになりながらナナホシから離れ、また歩き始める。オルステッドに置いていかれないように。

 代わり映えのしない景色。巨大に照りつける日輪。

 本当は一歩も進んでいなくて、同じところで足踏みしているだけじゃないかって疑いが湧いてくる。

 

『あ……これ、無理……かも』

 

 どさっ、と質量のあるものが砂に落ちる音。

 背後から聞こえたその音に、何気なく振りかえる。

 

「ナナホシ?」

 

 ナナホシがうつ伏せで沈黙していた。

 思い出すのは、愚図って寝落ちしたノルンである。

 昼寝をしたいのに母様が添い寝してくれないことに怒り、「お母しゃがいいのぉ!」と泣き喚いたあと、静かになったと思ったらちょうどこんな感じで寝ているのだ。

 ちなみに、母様は意地悪で添い寝しないのではない。

 ノルンが昼寝場所に指定したのは赤ちゃん用の小さな揺りかごだから、隣りに寝てあげたくても体が入らないのだ。

 

 砂に足をとられそうになりながら駆け寄り、ナナホシを揺すってみると、意味のなさそうな呻き声が返ってきた。

 寝ているのではなく、具合を悪くして倒れている。

 

「ナナホシ!」

 

 治癒魔術と解毒魔術を手当たり次第かけるが、効果はない。

 砂が鼻に入らないように、うんしょと力を込めてナナホシの体を仰向けにした。

 オルステッドが引き返してきて、焦点のあわないナナホシの目の前で手を振ったり、色白で細い首筋に触れたりした。

 

「体力が尽きたようだな」

「……疲れただけ?」

「ああ」

 

 病気じゃなくて、とりあえず安心。

 

「大丈夫よ、ナナホシ、おんぶしてあげるね」

『え……?』

 

 しんどそうに上半身を起こしたナナホシに背中をむけてしゃがむ。

 赤竜山脈では、小さいエリックたちを三人も背負うのは無理だと絶望もしたが、ナナホシひとりなら背負えるはずだ。

 たぶん、何とかなる。いや、何とかしなきゃ。

 

 意図は伝わったのか、肩に手が置かれる。

 他者の体重がずしりとかけられ、足に力を入れて踏ん張る。

 背負うことには成功した。ナナホシのつま先が砂についちゃってるけれど、歩くよりは楽であるはずだ。

 

「あわっ」

 

 五歩すすんだ所で前にのめって転んだ。

 うつ伏せに倒れたから、背負っていたナナホシが私の上にのしかかることになる。

 起き上がれない。焦る。

 

「うっ……く……」

 

 もがいていたら、上から、ふっ、と吐息が漏れる音が聞こえた。

 ナナホシの声ではない。もっと頭上から降ってきた音だ。

 周囲は、ときどき来襲する魔物の他は、動くものの影すらない砂丘である。

 この場には、私とナナホシとオルステッドしかいない。

 ということは、いまオルステッドに笑われた?

 

 体を押さえつけていた重石が無くなり、体が軽くなる。

 見ると、オルステッドがぐったりしたナナホシを背負っていた。

 私にしたような肩にかつぐやり方ではなく、ちゃんとしたおんぶである。

 私がなんとかしなきゃ置いてかれるかもと心配したが、そんなことは無かったようだ。

 

 

 砂に砂利が混ざるようになり、枯れかけてはいるが植物も見かけるようになり、岩やひび割れた地面が景色の主を占めるようになった。

 ときどき、ベガリットバッファローという牛みたいな魔物の死骸や骨を見かける。

 ともあれ、砂原風景は終わりを迎えたのだ。地面に潜んでいる魔物も減った。

 

「少し早いが、今夜はここで休む」

「はい」

 

 雨裂に沿って歩いていたオルステッドは、岩棚の下にナナホシを寝かせた。

 手前には川がある。消えた故郷の清流とは異なり、水は茶色く濁っている。

 

「へぁ」

 

 くたくただ。立ち止まると、足が勝手にがくがく震えた。

 足がかってに動く! と、いっしょになって笑ってくれる友達と家族はここにいない。寂しい。

 もう少し歩き続けていたら、私までナナホシのように倒れていただろう。私はあまり好かれてないようだし、今度こそオルステッドに置いていかれて、魔物に喰われてしまう。

 

 岩棚の下にもぐりこみ、ちょっと休憩するつもりでナナホシの横に寝そべる。

 そしたらビックリ。なんとスコンと意識が飛んでしまった。

 

 

 


 

 

 

 時は、すでに混乱していた。

 原因は、太古の昔、龍神によって成された壮大な仕掛けにほかならない。

 無界に籠城している現行の唯一神・ヒトガミが生きたまま甲龍歴530年を迎える、あるいはその年に到達する以前にオルステッドが死亡した場合、時は歩みを一旦、止める。そうして甲龍歴330年まで巻きもどる仕掛けだ。

 ヒトガミさえ、この仕掛けには気がついていない。

 オルステッドだけが、巻き戻る前の歴史や事象を記憶していられる。ただし、魔力回復の速度を代償にしている。

 

 数十回の繰り返しを経て、これがヒトガミを殺すまで終わらぬ事を知った。

 巻き戻った回数が百を越したあたりで数えるのをやめた。

 ヒトガミを殺す。そのために準備を調え、戦い、敗れ、いつしか最強と称してふさわしい武力を得た。

 それでもまだまだ、ヒトガミには届かない。

 ヒトガミを殺すまで先に進めない、無限ループ。

 オルステッドは強靭な意志でループを歩んできた。

 

 今回に至って、イレギュラーが発生した。

 これまでのループでは前例のない現象であった。

 

 松脂の匂いを放つ焚きつけを投じ、火の勢いを調整しながら、オルステッドは、岩棚の陰で睡る二人の少女に視線を投げた。

 乾いた地は昼間に溜め込んだ熱を保っていられるだけの水分を持たないから、砂漠の夜は冷える。

 魔道具で保護させたために凍死することはないが、それでも暖をもとめてか、二人は、相抱くようにして眠っていた。

 

 男の双眸は鋭く、貌は厳しい。

 人間離れした輝く銀髪に、感情を読みづらい爬虫類じみた金眼。上背がある。

 呪いさえなければ、第三者からの評価は、その程度に収まったはずである。

 しかし実際は、彼と相対した生物は、まず本能に訴えかける恐怖を、つぎに嫌悪の感情を憶える。

 悪感情の渦に取り込まれた者が、オルステッドを無条件で信頼することは、まず無い。

 それがオルステッドの血脈に刻まれた呪いである。

 解呪、あるいは和らげる方法さえ不明であった。

 

 イレギュラーは、その呪いをものともしない二人の少女の出現である。

 いや、一人は、少女というにはまだ幼いか。

 

 ナナホシ・シズカ。人族。歳は十代の後半にさしかかった頃。

 母国語は現存のどれとも異なる言語で、口にするのはそれのみ。持ち物や服装には見慣れぬ材質や繊維が織り込まれている。魔力を持たず、魔術を珍しがる。

 おそらく、魔術はないが、それに代替する技術が発展した世界から来たであろう存在。

 

 シンシア・グレイラット。人族の子供。歳は五を一か二年は過ぎた頃。

 母国語は人間語。拙いながらも敬語らしきものを話す。

 文字を読みあげ、人と食事を共にしたがり、魔術を使う。

 そういった子供の言動や行動からは、子供の傍に、行儀を躾け、文字を見せ音にして聞かせ、食事を共にし、魔術を教える人間がいたことが伺えた。

 その人間が何者であるのか導き出すのは容易い。

 しかし、導き出した答えに納得するのは容易くない。

 

「パウロとゼニスの子であれば、俺が知らぬはずがない。

 彼女の出生は、ナナホシや災害と関わりがあるのか。

 だとすれば、彼女が生まれたから災害が起こったのか、

 災害が起き、ナナホシが来るという結果が先にあり、その辻褄合わせのために彼女が生まれたのか」

 

 オルステッドは自分に語りかけるように思考の経路を口にする。黙ってあれこれ考え悩むより、言葉に出した方が整理できる。

 

 子供は強大な異能を持っている。

 真実性に欠ける言い分であるが、子供の中にいる悪神によって授けられた力である。

 力は、万里眼、邪視、予見、過去視、天候操作と多岐にわたる。

 もっとも凶悪であるのは、他者を羽虫を叩き潰すように殺戮する邪視の力だ。

 魔物筋という独自の概念を持ち、それに従って魔物を回避する術すら持つ。

 

 しかし、その異能は、

 

「俺には効かない。そして、(ドラゴン)系の魔物とも相性が悪い。

 無意識で行使されることはなく、発動は意思に依存しているようだ」

 

 子供が眠っている間にけしかけた蠍尾獅子(マンティコア)は異常を起こさず、オルステッドが寸前で撃退してやらねば子供はそのまま喰い殺されていた。

 

 ならば、こうは考えられまいか。

 子供の異能に気づいた両親――パウロとゼニスが、その力によって我が身や周囲が害されることを危惧し、子供の物心がつく前に手にかけた。子供は非在の者にされる。

 これが正史であったために、オルステッドは子供の存在を知らなかったのだ。

 第二夫人のリーリャは迷信を真に受ける性質であったはず。

 彼女が子供は悪魔の子にちがいないと断じ、両親であるパウロとゼニスを唆したか。

 

「……」

 

 とはいえ、根拠に乏しい考察は、九割がた誤っているとみていい。

 

 生物は生理的慾求をみたしている時にもっとも無防備になる。

 子供の行動を観察していると、この警戒すら無意味に思えてくるが、それこそが油断を誘う演技の可能性も捨てきれない。

 オルステッドは携帯している食糧を少しだけ口にし、川の濁った水を水筒に満たし、飲んだ。

 

 

 ナナホシが起床したのは、夜が明けきらぬ頃だ。

 起きぬけに岩棚の天井に頭をぶつけたのであろう音を聞いた。

 ほの明るい空には星がまだうすく輝いている。川のせせらぎと焚き火のはぜる音を聞きつけたのか、彼女は緩慢な動作で岩棚の陰から這い出てきた。

 

 オルステッドは捕らえたグリフォンの鷲の前足と獅子の後ろ足を縛り、袖まくりをして腹を捌いていた所であった。

 開いた腹に手を奥までつっこんで心臓につながる動脈を切ると、グリフォンは一声鳴いて震え、動かなくなった。

 ナナホシは白い息を吐きながら無防備にオルステッドのそばに来て、息とおなじくらい白い湯気が開腹部からたちのぼるグリフォンを見つめだした。

 

「シンシア・グレイラットはまだ寝ているのか?」

 

 話しかけ、言葉が通じないことを思い出した。

 ナナホシは何を問われたのかわからない様子だったが、

 

「おはよ、ござます」

 

 と、オルステッドに言った。

 教えたのは誰か、と考えるまでもない。あの子供だ。

 食事、寝る、体調が悪い、といった生存に必要な言葉は覚えさせていたが、挨拶はオルステッドは仕込んでいない。

 

 火を通したグリフォンの腿肉を渡したときも、ナナホシはつたなく礼を言った。これもあの子供が教えたのであろう。

 今まで相当する言葉を知らず、ゆえに伝えられなかったことを心苦しく思っていたのか、「ありがとう」と言うナナホシの眉は力なく下がっていた。

 教えた本人は、出発する時刻になっても寝こけていた。

 力の抜けた子供の躰は、蛹の中で身をとろかした昆虫のようにぐにゃぐにゃと掴みどころがなく、持ちにくい。

 己の肩に子供の柔らかい胴をのせて担いだ。

 

「どうした?」

 

 オルステッドは自身の周りをうろうろするナナホシに気がついた。

 ナナホシは身振り手振りで意思を伝えようとし、眠ったまま肩に担がれている子供に手を伸ばした。

 持たせてやると、ナナホシはローブに隠された細腕で、重たそうに子供を抱いた。

 片腕に座らせ、片手を背中にそえて支える。

 貴方もこうして、というふうに、促す眼と宥める曲線が口許にうかぶ。無視する理由もない。従った。

 

「こうか?」

 

 子供の寝息が苦しげなものから楽なものに変化した。

 座っていられず落ちるのでは、と思ったが、頭を肩に乗せてくるから存外支えやすい。

 

「ふむ」

 

 次からはこうして運ぼうと思いながら、オルステッドは目的地――ベヒーモスの墓場に向かって歩む。

 子供の力を実際に観察するのも兼ねて、魔物の多い土地に同行させたが、彼女らに合わせていると想定していた五十倍くらい旅の進行が遅い。こんなことなら人里に置いてくればよかった、とちょっと思いながら。

*1
故人が極楽浄土までの道のりで金に困ることのないよう棺におさめる冥銭。





まだ異世界楽しい期のナナホシ。


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二三 次の行き先

「お、虫さされ発見」

 

 濡れた兄の手が、首にふれた。

 丘の木の下で、座ってイヴを抱っこしていた私は、同じ場所をさわった。

 かゆい。ポリポリかく。

 

「搔いたらひどくなるよ」と、隣で水柱(アイスピラー)の練習をしていたシルフィが言う。

 

「ルディ、なんでそんなにビチョビチョなの?」

「水弾合戦やってたんだ」

 

 と、答え、兄は丘下で遊んでいるハンナちゃんやレミ君たちを指した。兄も彼らも頭から上半身まで水漬くだ。今日は暑い日だから、濡れたまま過ごしても、風邪はひかないと思う。

 兄は「セクシーダイナマイト!」と言いながら私の背後からワンピースを大きく捲った。

 肌着も一緒に捲られ、腹と胸と背中が丸出しになる。

 母様がいたら「女の子にそんなことしないの!」と兄を叱っただろう。

 でも、丘の下で遊んでる他の子はこっちを見てないし、そばにいるのは兄とシルフィとイヴだけだから、問題無しだ。

 

「背中にも痕がある」

「お腹にもあるのよ」

「ホントだ。どこで刺されてきた?」

 

 わからぬ。気づいたらかゆかった。

 

「冷やしてあげるね、痒いのおさまると思うよ」

「きもちい」

「ふふ、でしょ?」

 

 横に作り出した氷柱にぺたっと手をくっつけ、冷やした手をシルフィは私の背中にくっつけたのだった。

 

 

「ただいま!」

「母様、うちにノミかダニがいるみたいです」

 

 遊んでから家に帰ると、兄が母様に虫刺されを報告した。

 家の中をわさわさ這い回っていたノルンが私の姿を認め、ハイハイで近寄ってきた。

 近ごろつかまり立ちができるようになったノルンは、私につかまって立った。私が体を揺らすとご機嫌で「あきゃきゃ」と笑い声をあげる。かわいい。

 

「ぶぅ!」

「やん」

 

 まだつかまり立ちをしないアイシャは、腰に頭突きをくれた。勢いをつけたハイハイでぶつかってくるから、ちょっと痛い。

 妹を可愛がっていた私の服が、また勝手に捲られる。

 

「あらほんと、痒かったでしょ、シンディ」

 

 かがんだ母様の爪がかゆい所に触れた。

 

「シンディは雪白といっしょに寝てるものね、猫のノミがベッドに移っちゃったのかもしれないわ」

 

 母様に呼ばれてリーリャが来た。つられて父様も。

 なんだか大事になったようで、ちょっとどきどきする。

 

「シーツを煮沸しましょう、藁も取り替えます」

「僕も手伝います!」

「シンディはお薬ぬりましょうね」

「はーい」

 

 リーリャと兄が廊下に出て、私は母様に軟膏を塗られる。

 雪白は父様に捕まって、お風呂に入れられることになった。

 

 父様は桶にお湯を溜め、雪白をじゃぼんと投入した。

 

「コラ暴れんな! こいつ、ノミなんて飼いやがって」

「ニャアアア!」

 

 腕まくりをして桶の前にしゃがみこむ父様の背中に、私はよじのぼった。

 ひゃうひゃうと哀れっぽい声をあげて、雪白は黒い毛並みを萎えさせていた。濡れると体がひと回り縮んで見える。

 

「うふっ、雪白ちっちゃい」

「シンディも小さいけどな」

 

 雪白よりは大きいやい。

 

 洗われた雪白は、魔術で温風をかけて乾かそうとする兄から逃れ、父様の書斎の机の下に隠れて懸命に体を舐めている。兄に乾かしてもらったほうが早いのに。

 

 雪白は、夜になっても物陰から出てこなかった。

 私は寝る前に、両親の寝室で、母様の膝の上に座って本を読み聞かせてもらう。『ペルギウスの伝説』という話だ。

 仲間はずれは可哀想だから兄もいっしょだけれど、兄は私と母様のとなりですぅすぅ寝ている。

 何度も読み聞かせられたから、飽きて寝てしまったようだ。

 父様はニヤニヤしながら、そんな兄を毛布で赤ちゃんのようにくるんだり、腕と足を動かして変な体勢にしたりして、遊んでいる。

 

 扉のほうからカリカリ板を引っかく音がきこえた。

 

 扉はちょっとだけ開けてある。やがて隙間の存在に気がついたのか、隙間に体をねじこむようにして黒い毛玉がぬっと現れた。

 雪白だ。私は寝台から降りて雪白の前にしゃがんだ。

 よいしょと抱きあげる。毛はもう完全に乾いていた。

 

「ノミいなくなった?」

「ニャウ」

「よかったねえ、また今日からいっしょに寝れるね」

 

 雪白のせまい額に頬ずりすると、ゴロゴロと喉の振動が私の頬に伝わってきた。洗う前よりふわふわになっていた。

 

 

 

 

 片頬と鼻にふわふわした毛皮の感触がある。

 夢にみた昔の記憶の続きだと思って頬ずりして、雰囲気や毛足がちょっと違うことに気がつく。

 これは雪白じゃないのかもしれない。

 あら、でも、黒い……。

 

 すこし下に視線を落とすと、白革の外套が見えた。

 鉄靴がひび割れた地面の上をスタスタ歩いている。

 私の肩には、なかなかしっかりした胸板があたっている。

 顔を上げた。

 

「……」

「……」

「……おはよございます……」

「……ああ」

 

 心臓とまるかと思った。

 オルステッドの片腕に座る形で抱かれていた私は、コートの肩周りの毛皮に顔を埋めて寝こけていたようだ。雪白かと思った。

 胃の腑に寂しさをおぼえた。空腹である。

 

「お腹すきました」

 

 与えられたグリフォンの干し肉をガジガジ齧りながら、抱かれて移動する。

 途中、ナナホシが疲れてきたので、オルステッドが背負う代わりに私は降ろされた。

 腕は二本しかないから、二人同時に運ぶのは難しいみたいだ。

 彼が肩にかけていた食糧だの毛布だのを入れた背嚢を持ちましょうかと申し出たが、断られた。どうするのだろうと見ていると、オルステッドはそれを前に抱えるように持ち直していた。

 

 また私を大きく引き離していたことに気がつき、立ち止まったオルステッドに追いつく。

 彼が思ったように進めなくて苛立っているのがわかる。

 オルステッドは背嚢と私を見比べ、何やら考えているようだ。

 

「魔力があるなら、十日程度は一人でも何とか……」

 

 ひえ。

 置いていかれる!

 荒涼とした過酷な地に! 十日間も!

 

「お、置いてかないで……」

 

 姥捨てならぬ子捨てである。

 チサだったときに聞いた話によると、瀬戸内海地方の島では、隠居*1した老人は、四国遍路に出かける風習があるそうだ。

 生きて帰る者もいるが、多くは旅で野たれ死ぬ。隠居の四国遍路は自分で自分を処分するための旅なのだ。死穢という死の穢れを忌み、家に及ばないようにするためでもある。

 遍路に出かける隠居が何を思うかは知らない。

 でも、自分で旅に出るという形をとっているからには、ある意味、諦めを持って受け入れているのだろう。

 

 私にまだそこまでの諦めはつかない。

 妹たちは間に合わなくても、せめて兄が成人するまでは。

 

「む。駄目か? 寝床になりそうな岩場ならあるぞ」

「や!!」

「そこまでか……」

 

 本気で走って振り切られたら追いつく術がない。

 オルステッドの足に渾身の力を込めてしがみついたが、べりっと剥がされた。

 

「ぁ、」

 

 胸に広がった絶望に涙が出かける。

 オルステッドは背中のナナホシをも降ろし、肩にかけていた背嚢に丸めて括りつけていた亜麻布を三つ折りにした。

 寝るときに毛布代わりにしていた布である。

 紐のように畳んだ布が体にかかり、ぐっと体が持ち上がって黒いベルトのついた白いコートに密着する。

 オルステッドは布の左端を肩にかけ、右端を腕の下に通し、背中で固く結んだ。

 私は抱っこ紐にくくりつけられた格好になる。

 

「これでいいか」

 

 と、オルステッドは独り言のように呟き、ナナホシに背を向けてしゃがんだ。ナナホシが背中につかまる。

 

 置いていかれずに済んだ。

 私はしんそこ安堵して、目の前の梯子状のベルトに掴まったのだった。

 

 

 


 

 

 

 何日移動を続けたろうか。

 よほど人が定住しにくい環境であるのか、人を見かけることはまったくない。

 魔物ならたくさん見た。

 紅い毛並みに蠍の尾をもつ蠍尾獅子(マンティコア)

 何尺もある背丈を硬い甲殻で覆った双尾死蠍。

 異臭を放つ、顔は蝙蝠、体は豊満な女の体のサキュバス。

 定住地を探して地面をとっとこ移動するカクタストゥレントの幼体。

 

 べガリット大陸は人が住めない場所なのかと思い、訊ねたが、そんなことはないらしい。

 ここよりもっと北部は栄えているらしいし、東部も比較的安全で、人も定住しているらしい。

 南部にはラパンという都市や、バザールという巨大市場もあるそうだ。

 

「人のいるところは行かないの?」

「ああ。ラパンに用があるのは二年後だ」

 

 二年後かぁ。

 その頃も私はオルステッドのもとにいるのだろうか。

 父様とノルンのところに行けるのはいつになるだろう。

 

「いまは何のご用があって来てるの?」

「資金調達だ」

 

 資金調達かぁ。

 生きていく上で金は大事だものね。

 急に金回りがよくなっても、トウビョウ筋の家は村人に白い目で見られるけれど。

 

 オルステッドは夜通し歩いても平気であるようだが、私とナナホシは違う。運んでもらえるとはいえ、横になれないと体に疲労がたまるのだ。

 夜は野営し、寝る前に、焚き火のそばでナナホシに言葉を教える。

 見える風景はいつも同じで、通訳がいないので、指をさして名称を教えられるものには限りがあるが、ナナホシは一生懸命おぼえようとしている。

 

「ナナホシ、はいどうぞ」

「アリガト」

 

 寝る前に、濡らした手拭いをナナホシに渡す。

 湯あみができない代わりに、これで体を拭くのだ。

 数日ぶりに拭いたときは、手拭いがなんとも言えない色になって、ナナホシと顔を見合せて沈黙した。乾いた気候のおかげか、臭いなんかはぜんぜん気にならなかったが、体はしっかりめに汚れていたようだ。

 

『子供の髪って、つやつやで羨ましいわ』

「?」

 

 ナナホシの持っていた櫛で髪を梳いてもらう。

 虱は湧いてないはずだが、ボサボサだと見栄えが悪いからだろう。

 櫛は、半透明でつるつるしていて、見た目は硝子のようだが、持ってみるとずっと軽いのだ。

 

 ナナホシの不思議な持ち物は他にもある。

 彼女は革の肩掛け鞄から、白紙の紙を綴じた薄手の本を取り出し、ポーチから筆記用具を取りだして書きつけ始めた。

 私は読めないが、紙には、単語や矢印がたくさん書いてある。

 覚えた言葉を忘れないように記録してあるのだろう。

 ナナホシの筆記用具の形は変わっていて、名前は〈しゃーぺん〉と〈ぼーるぺん〉というらしい。

 しゃーぺんを借り、薄手の本にこちらの言葉で「ナナホシシズカ」と書いてあげたが、とても書きやすかった。

 

 いったい、彼女はどこから来たのだろう。

 知られたくない過去があるかもしれないから、勝手に視たりはしない。

 もっと意思疎通ができるようになったら訊きたいな。

 

「オルステッド、もうこっち来ていいよ」

「ああ」

 

 薮の影、つまり私とナナホシから隠れる位置であぐらをかいて眼を瞑っていたオルステッドに声をかける。

 寝ているのかと思ったが、単に休んでいるだけだったらしい。

 体を拭くときは服を脱ぐわけだが、ナナホシは、オルステッドの視界に入る場所で脱ぐのに抵抗があるようなのだ。

 だからそのあいだは、オルステッドにこうして離れた場所にいてもらう。

 生前は据え風呂にでも入ろうものなら覗きは当たり前だったが、オルステッドはそういう事はしないようだ。

 よかったね、ナナホシ。

 

「うっ」

 

 鼻の曲がりそうな異臭。

 汚物とも垢の臭いとも異なるが、とにかく不快な臭い。

 影を作るものがない広い屋外で、焚き火で照らされる範囲はあんがい広い。

 遠くに小さく見えた女型の魔物を呪った。

 魔物は体の皮がゆっくり裏返って絶命した。すさまじい絶叫がここまで届く。

 またか! と、ちょっと嫌気がさしていたから、恨みが乗ってしまったようだ。

 

 ちょっと腰を上げかけていたオルステッドはその場に座り直した。倒しに行こうとしてたみたいだ。

 

「くさい……。オルステッドは平気なの?」

「サキュバス程度、魔力付与品(マジックアイテム)で防げる」

「べんり」

 

 あの異臭を感じないとは。

 何でもありだ、魔力付与品。

 

 もう目蓋が重くなってきた。

 ここには母様もリーリャも父様もいないから、私に「もう寝なさい」なんて声をかけてくれる人はいない。眠くなったら寝る。

 

「おやすみなさい。明日もお世話になります」

 

 私はオルステッドにぺこりと頭を下げ、ナナホシの横に寝そべった。ナナホシはぺらっと布を持ち上げて、私が入りやすいようにしてくれた。

 

 

 


 

 

 

 砂漠を越え、大峡谷を越え、唐突に現れる森や川を越えた。

 そのほぼ全てを、ナナホシと共に、オルステッドに運ばれて過ごす。

 

「ここ避けてね」

「ああ」

 

 私のすることと言えば、魔物筋を教え、通行上どうしても避けられず遭遇した魔物を呪い殺すだけ。

 オルステッドは最近は魔物筋をわざと踏みに行かなくなった。興味が尽きたのかもしれない。

 

 初日こそ私が前付きの抱っこ紐で運ばれたが、翌日からはナナホシが襷掛けの要領でおぶわれている。

 ナナホシをおんぶして私を抱っこ紐で運ぶやり方だと両手がふさがるが、ナナホシにおんぶ紐を使って私を片腕で持てば片手は空くというわけだ。

 

 ナナホシは初めこそ申し訳なさそうというか、恥ずかしそうだったが、すぐに慣れたようだ。

 今ではおぶわれるのが当然という顔で、もはや最初から自分で歩く気がない。布を紐状に畳んだのを持って自らオルステッドに差しだす有様だ。

 

 ひび割れた荒涼とした大地を進んでいる(オルステッドが)とき、遠くに小山が見えた。

 ところが、近づくにつれ、山が動いていることに気がつく。

 山には八本の足が生えていた。

 上についてる胴体はなだらかな曲線で構成されている。

 臀の方は尾鰭のようになっていて、少し魚に似ている。

 

『クジラが歩いてる!』

「おっきい!」

 

 ナナホシと二人で口をあけて見上げる。

 ほんとに大きい。ダイダラボッチみたいだ。

 

 オルステッドの肩に手をかけ、ぐっと背を伸ばしてよく見る。

 ダイダラボッチが土埃を巻き上げながら一歩進むと、地震の前触れのように地面が揺れた。

 

「あれも魔物?」

「ああ。ベヒーモスと言う」

 

 今まで見た魔物は、オルステッドに襲いかかるか、怯えて逃げてゆくかのどちらかだったが、ベヒーモスは無反応である。

 まるでオルステッドの存在に気がついていない風なのだ。

 どうしてだろう、どこに行くのだろう。

 そうして、視て、わかった。

 

「もうすぐ死んじゃうみたい」

「そうだ。あの個体は己の寿命が尽きるのを悟り、ベヒーモスの墓場に向かっている」

「へぇ」

 

 ということは、これはベヒーモスの四国遍路である。自分で自分を処分する旅というわけだ。

 生前暮らしていた村では、鴨居に縄をかけて(くび)れる老人がおおかった。

 間引きして子供を極端に減らし、しかし一人か二人残した子供も病死し、よそから養子をもらって家を継がせる財産もない家は絶え株になる。そうしてあとをみてくれる人のいなくなった老人は、貧しい土地ではまず最期まで生き抜くことはできない。

 だから、餓死する前に、かろうじて動けるうちに、首を吊って自ら命を絶つのだ。

 ひどいときは一年に七、八人も縊死者がでたものだ。

 

 ボケっとそんなことを思い出していると、「俺が向かっているのもそこだ」と言われ、エッとなる。

 

 あのベヒーモスは死出の旅を同行する仲間……?

 

「……何でも言うことききます、ずっとオルステッドの味方でいます……」

「無論そうしてもらうが、急になんだ?」

「まだ死にたくないです……す、捨てないで……」

「何の話だ……?」

 

 引き離されるものかと首に抱きつき、さりげなくオルステッドの目を腕で塞いだ。

 こうして前が見えなくなれば、ベヒーモスと私の墓場にはたどり着けないはず。たぶん。

 

 私の腕を退けようと空いたオルステッドの片腕が動く。

 同時に巻きつけた腕にグッと力を込めると、溜息の後、オルステッドは言った。

 

「何を心配しているか知らんが、貴様には利用価値がある。貴様の働きに応じて、身の安全は保証してやる。捨てはせん」

 

 よくわからないけれど、利用価値があってよかった。

 町や村の中ならまだしも、魔物しかいない土地に置き去りにされたら、生きていく術が私にはない。

 ほっとしながら腕を外した。

 

「水筒のお水足します!」

「……頼む」

 

 ならばすることは一つ。

 私にできることを探し、がんばってオルステッドの役に立つのだ。

 水弾を作って水筒に注ぐ。

 その過程をオルステッドにずっと見張られていたから、緊張して、ちょっと零してしまった。

 オルステッドは、魔力が回復するのが人より遅いらしい。

 だから必要時を除き、魔術を使うことはないそう。不便でちょっと可哀想だ。

 

 そうして、ベヒーモスの墓場に着いた。

 

 遠目からにも、その地は特異だった。

 まず、地面がその一帯だけ白いのだ。

 白い地に、巨大な山が、いくつも無造作にぼこぼこと生えている。

 よくよく目を凝らしてみれば、山の正体は、巨大な生き物の骨なのである。

 

 あれらがきっと、ベヒーモスの骨だ。

 地面が白いのは、ベヒーモスの骨が砕けて細かい粉になって散らばっているから?

 オルステッドに訊いてみると、白いのは塩だそうだ。

 塩湖が干上がり、水が含んでいた塩だけ地表にのこってあんな色になるらしい。

 

 今まで見たことのなかったような大きさの頭蓋たちに圧倒されながら、塩原に到着し、白い地面に降ろされる。

 白い砂のなかに、強い陽光をうけてキラキラッと輝くものが混ざっている。

 その場にしゃがんで地表を人差し指でなぞり、舐めた。

 

「しょっぱい」

 

 ほんとに塩なんだ。

 ナナホシも同じように舐め、『塩分……』としみじみ呟いている。

 まだそれほど朽ちておらず、形を保っているベヒーモスの骨に駆け寄る。

 遠くからは閉じたトラバサミみたいに見えた頭蓋も、近くで見れば白く乾いた塗り壁のようだ。

 助走をつけてかけ登り、そのままよじ登ろうとしたが、掴まる取っ掛りがなく、ずるずると滑り落ちた。

 何度か同じことを繰りかえす。

 

「これ楽しい!」

 

 息を弾ませて振り返る。

 

「……」

「……」

 

 そうだった、いまはオルステッドと居るのだった。

 後ろにいるのは、母様でもリーリャでも父様でもないのだ。

 ロールズさんなどに誤って「お父さん」と呼びかけてしまったときのような、恥ずかしさと気まずさがある。

 

 ちがうんです、妹たちかワーシカたちがいれば、私でも、もうちょっとお姉ちゃんっぽく振るまえるのです。

 頭の中で言い訳をしながら、服を叩いて砂をはらい、走ってオルステッドのもとに戻る。

 

「お手伝いすることありますか」

 

 オルステッドは足で軽く地面を削った。

 少し削っただけで、小粒の結晶がいくつも顔を出す。

 さっき地面にキラキラ光って見えたものの正体はこれだろう。

 オルステッドはその中から、淡紅色の粒を拾い上げた。きれい。

 

「ベヒーモスは体内で大量の魔石を作る。死んで体が朽ち、土に還ると、こうして魔石と骨が残る。魔石は杖や魔力付与品の制作に用いられ、装飾品としても市場価値が高い」

「……?」

「……つまり、魔石は金になる」

 

 なるほど!

 資金調達ってこのことか。

 そういえば、兄がシルフィにあげたロッドの先には、赤い綺麗な卵型の石がついていた。

 兄がボレアス家から貰ったアクアハーティアには、もっと大きくて丸い青い水晶がついていたっけ。

 

「色つきを選べ」と麻の小袋を渡される。簡単なお手伝いだ。

 

「まかせてください!」

 

 土を浅く掘れば出てくるなら、私にもできる。

 透明なのも綺麗だと思うが、オルステッドは色のついた魔石を拾ってほしいようだ。

 無色透明と色つき。何が違うのだろう。

 

「色があるほうが好きなの?」

「いや、高く売れるからだ」

 

 嗜好の話ではないようだ。

 手頃な骨の破片を鋤代わりに、地面を掘り返し、ポロポロ出てくる色とりどり、大小様々な魔石を集めて袋に詰めていく。

 

 袋は三つ。私ひとりでもすぐ終わると思ったのか、オルステッドは傍観の構えである。

 暇そうに、地面に半分埋まっているベヒーモスの肋骨の影で休んでいる。

 

 ナナホシが近寄ってきて、「何してるの?」というふうに覗き込んできたから、魔石を並べ、透明なやつだけをポイッと捨て、色のついたやつだけを袋に入れてみせた。

 

 まだぺったんこの袋をひとつナナホシに差し出す。

 仕事は無いよりあるほうが心は休まるものだ。

 私とナナホシは、旅の大部分をオルステッドに世話されている。だから、役割は何かしらあったほうがいい。

 水筒に水を足してやって、拳大の氷もひとつ作り出して、ナナホシにあげた。

 

 ナナホシは氷を首筋にあて、庭の木陰に寝転がる雪白のような顔になった。

 そうして、ナナホシも魔石を集めはじめた。

 

 なんだか宝探しみたいだ。

 宝探しといえば、冒険と称し、家の中で宝探しをしたこともあった。

 指示や暗号を書いた紙を家のあちこちに仕込むのは父様だ。

 私がもっと小さかったときは兄の先導で、妹たちが歩いて喋れるようになったら私が先導して、家の中に隠された宝を探す。

 そうして見つけた宝は、遊び慣れたおもちゃであったり、暗号を解けたことを褒め称える手紙だったりしたけれど、妹たち――とくにノルンは、蓬莱の玉を見つけたように喜ぶから、私も楽しくなる。

 

「集まりました」

「ああ」

 

 ――もう見つけたのか、さすがオレの子だな!

 

 そう言ってくれる父様はいない。

 オルステッドは無感動に袋から二、三粒とりだし、確認するように眺めてから懐にしまった。

 

「ベガリットでの用事はこれで終わった。次の調整まで時間があるな、どこに行くべきか……」

 

 オルステッドは、ふと私とナナホシに目を向け、私に訊ねた。

 

「話せるのは人間語だけか?」

「『岡山』の言葉も知ってます」

「『オカヤマ』? どこだ、それは……。まあいい、後で調べる。

 町での宿のとり方や、物の買い方はわかるか?」

「わかんない……」

 

 前世も今世も、生まれた村から出たことはほとんどない。

 ときどき来る行商人から、母様が雑貨や植物の種を買いつける場にいっしょにいたことはあるが、私はほかの珍しい品を見ることに忙しくて、二人のやり取りも一切聞いていなかった。

 つまりわからない。宿のとり方などもっての外だ。

 村に旅籠屋はあったけれど、泊まったことはない。

 

 オルステッドは一人で何か黙考している。

 疲れたな、座って待っていてもいいかな、と水を飲みながら思っていると、オルステッドは私を見下ろし、言った。

 

「北方大地だ」

 

 なにが?

 

 詳しく聞いてみると、「これから町や村で俺の言う通りに動いてもらう事も増えるが、生活の細部まで俺任せであるのは負担であるので、次の用事まで北方大地に逗留し、適当な冒険者を雇ってそいつから色々学べ。ついでにナナホシに言葉を教えろ」との事だった。

 さすがに言葉をはしょりすぎだと思う。

*1
60歳をこえた者を意味することが多い。



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 閑話 俺がデッドエンドに「飼主」として認識された件

 

 

 ──そしてお前が不毛の大地の中に倒れるだろうとき

 わたしは名づけるだろう お前を支えていた稲妻を虚無と──

 

吟遊詩人ノルンが

伴侶ルイジェルド・スペルディアへ

書き残した詩

 

 

 

 417年、ルイジェルド・スペルディアは、空から降ってきた子供たちを保護した。

 男女の子供だ。ルーデウスとエリスと名乗る子供たちの故郷は、中央大陸の西部、アスラ王国にあるという。

 ルイジェルドは無償で送り届けるつもりでいたが、ルーデウスは「スペルド族の悪評を雪ぐ手伝いをしたい」と申し出、行動を共にすることになった。

 

 ゆえに、彼らは魔大陸を南下し、唯一の港町ウェンポートを経由してミリス大陸に渡り、西端のウェストポートからイーストポートを航海し、中央大陸にたどり着かねばならない。

 野宿続きは子供たちの体が持たないが、町から町を移動するには、宿代だの食事代だのと物入りになる。

 流れ者である魔族、この土地では身寄りのない子供二人が生計(たつき)をたてる手段は物乞いか冒険者かの二択であり、幸いにも武力の才にめぐまれた彼らは冒険者を選んだ。

 パーティ名を〈デッドエンド〉、そのリーダーをルーデウスとし、リカリスの町で冒険者として登録した。

 

 デッドエンドの初仕事は、行方不明のペットの捜索である。

 序盤は順調といえた。ルイジェルドの額にある器官は、他の生き物の気配を正確に探知できる。

 捜索対象のペットは――いや、それ以外の動物も、地下を掘り、丸太をはめ込んで格子とした檻に、捕らわれていた。

 ペットは迷子になったのではない。攫われていたのだった。

 三人の下手人をルイジェルドが気絶させ、ルーデウスの魔術が捕縛した。

 事情を聞き出そうとしゃがんだルーデウスを、下手人の一人である男がいきなり蹴り飛ばした。

 大きな足裏は少年の胸に沈み、ルーデウスはもんどり打って転んだ。子供を蹴るのは悪だ。男は悪だ。ルイジェルドは思考より先に槍で男の頸を切り落とした。

 

 驚愕したエリスの声をききつけたか、ルーデウスが跳ね起きた。

 そうして、赤土に倒れふす男をきょとんと見下ろした。

 

 男は顎は白く突き出、鼻は凹凸がなく、アーモンドが縦についたような形状の眼の魔族であったが、血は人族と同じく赤い。

 血の池はじわじわ輪郭を広げ、ルーデウスの靴の先を汚した。

 

「……なんで殺したんですか?」

「子供を蹴ったからだ」

 

 ルーデウスは心を落ち着かせるために、獣臭と血臭が充満した空間で、深く息を吸い、吐いた。

 悪臭は、解剖室で嗅ぎなれていた。

 ロアの医学校に勤務する外科医バートンが開く解剖教室には、昼夜問わず屍体が運び込まれる。夏場の臭いは、強烈だ。

 刺激されるのは嗅覚だけではない。人の胃液も精液の味も、弟子は舐めさせられて知っているのだが。

 様々な屍体を開きながら、医師や弟子とあれこれと話し合って死因を推理する。昵懇にしている死体盗掘人とは話が弾み、運び込まれた体の死因を聞くこともある。

 酒屋での軽口や侮辱で殴り合いの喧嘩が始まり、誰かが刃物を持ち出し、殺された。

 想い人との結婚を父親に反対され、嘆きのあまり砒素を服毒して自殺した。

 

 異世界の奴らって、愛憎が激しいんだ。そうルーデウスは思った。

 いや、異世界に限ったことではない。

 例えば、昭和の学生運動。ルーデウスの前世は世代が異なるものの、その叔父は学生時代がちょうどその真っ只中だった。

 彼の叔父は、火炎瓶の作り方だの死者や負傷者が出るほど激しい暴動の話だの、学生運動の鎮火に伴い抜け殻のようになって自殺した若者どもの話を少年だった甥に話して聞かせた。

 

 ルーデウスは、そうして自分が見聞きしたものを総括し、心の落とし所をきめた。

 ようは、(たの)しみが少ない時世の人は、その分ありあまったエネルギーで、人を激しく愛し、憎む。それだけのことだ。

 俺も、この世界で、そう変わるのか?

 

「単刀直入に訊きますね。僕とエリスも、貴方の逆鱗に触れたら、ルイジェルドさんは僕たちを殺しますか」

「ありえん。子供を害すなど」

「そうですか」

 

 しばしの黙考。

 仲間を殺され、怯える下手人二人に目線をよこし、ルーデウスはルイジェルドに説明した。

 大陸中で恐れられているスペルド族が人を殺すことで、人の恐怖は増幅すること。行きつく結末。

 

「ルイジェルドさんは」と、考えもしなかった現象に半信半疑であるルイジェルドに、ルーデウスは訊ねた。「長い間、大勢の人と関わってこなかったのではないでしょうか?」

 

 そうだ――思い返せば、ラプラス戦役後、町での逗留を許されたことはない。討伐隊を組んで追い払われるからだ。時には、魔王が直々に領地から追放しにかかる。

 ミグルド族の集落と交流を始めたのだって、ほんの数十年前からだ。

 

「戦争が終わり、長い年月が経ったいま、ルイジェルドさんの判断基準は少し過激なわけです」

 

 だから、と、ルーデウスは続けた。

 

「俺に判断をゆだねてくれませんか?

 悪人であっても殺すな、と言うんじゃありません。

 殺すか、生かすか、俺が判断して、ルイジェルドさんに指示します。俺の指示を待つのが難しい状況であれば、自分で決めて構いません。

 でも、状況が許すなら、俺に従ってください」

「……わかった、そうしよう」

 

 弁の立つほうではない。過激だ、と断じられてしまえば、ルイジェルドは反駁の言葉を思いつかなかった。

 幼いが、少なくとも、俺よりは世間に馴染んでいる少年。一応は、ルイジェルドは彼に従うことにして、ルーデウスが尋問していた下手人を見やった。

 

「こいつらは? 殺すのか?」

「いえ、彼らには使い道がある。手を組みます」

「何だと!?」

 

 ルイジェルドは気色ばんだ。ルーデウスの基準では、人のモノを攫い、返礼の金を騙しとるのは、悪ではないというのか。

 

「ルイジェルドさん」

 

 ルーデウスは振り返った。

 

「あなたは、獰猛な番犬です。エリスと僕には噛みつかないという確証があるから、行動を共にできるんです。それが揺らぐようであれば、僕たちはルイジェルドさんから逃げます」

「……それは、ダメだ。魔大陸は危険な土地だ。お前たちだけでは生き残れない」

「そうでしょうね。僕もルイジェルドさんを頼りにしたいですよ」

「……」

「善意を利用してすみません」

 

 会話は魔神語だったが、憤然と槍の柄を握りしめるルイジェルドの雰囲気から不満を抱いているのを感じとったらしい。エリスがルイジェルドを睨みつけ、「ルーデウスに任せたらいいんだから、邪魔しないでよ」と、人間語で威嚇した。

 

 

 


 

 

 

 楽士が連れている黒豹が、後ろ足をリラックスを装って伸ばしながら一歩、二歩、とルーデウスに背後から近づき、太い前足を肩にかけた。

 

「おぉ……?」

 

 目を丸くしている少年の頭蓋を齧ろうとした口に、ルイジェルドは腕を突っ込んだ。臆せず腕を押しつけ続けると、黒豹はおたおたと牙を離した。世話係である髪も肌も真っ白な少女が黒豹を背後から羽交い締めに抱きとめ、ルーデウスに頭を下げて詫びた。

 

「お前はつくづく動物に懐かれんな」

「猫科なら大丈夫だと思ったんですがね……」

 

 初仕事から約半年、彼らは、互いに胸襟を開く仲になっていた。

 無論、問題が生じなかったわけではないが、それだって、仲に亀裂が入るほどではない。

 最初の町であるリカリスを発った彼らは、町や村を転々としながらウェンポートを目指していた。

 

 今回に至っては、同行者がいる。旅回りの楽士の一団だ。

 太鼓叩きや笛吹き、リュート弾き、唄歌いなど七八人に、曲芸師一人、芸をする黒豹と虎を一匹ずつ連れた集団であった。

 

「ロアにも、度々来ましたよ、ブエナ村にも一度だけ」

「楽士が来ると、おじい様が屋敷に招いてらしたわ。必ずといっていいほど」

 

 故郷を懐かしむルーデウスとエリスの眼に映るのは、目の前の荒野ではなく、代赭色の屋根がつらなる城塞都市ロアである。

 市の周囲に築かれた壁は、市民を保護するとともに、余所者の流入を排除する。冒険者が依頼を受けて金を稼ぐことは許されているけれど、他国から入り込もうとする乞食や流れ者はつかまれば処罰される。それでも、生業のない者たちは大きい都市をめざす。

 ことに大道芸人だの楽士だの見世物師だのは、余所者流れ者であるにも関わらず、娯しみを求める市民に歓迎されるのだった。なにか事件があれば真先に疑われるのも彼らであったけれど。

 その中でも、芸を仕込んだ猛獣を連れた集団は、先祖を辿ればどこかで獣族の血が混ざっていることが多い。大森林で暮らす獣族には、猛獣を調教する独自の術が伝わっていて、その系譜を汲んでいるためだ。

 

「もっとも、アスラの楽士には護衛は必要ありませんでしたが」

 

 さすらい者のなかにも階級はあって、楽士は位が一番上だとされている。大都市では、教会への行列、教会内や婚礼の席での演奏、舞踏の夕べなど、楽士を必要とすることが多い。

 人族の国では技量がよくそうして運に恵まれれば、市に抱えられ定職を与えられ、不名誉な放浪者から足を洗って定住できることがある。

 ところが、魔物が跋扈する地においては、さすらい者になろうにもまず武力が無ければ成り立たない。

 デッドエンドが楽士の一団と出会ったのは、魔物に襲われた集団にルイジェルドが額の器官を使って気づいたからだ。

 救助に駆けつけた時には、既に、数人が襲われて死んでいた。楽士が雇った護衛の冒険者であった。

 デッドエンドがダイレックの町に向かうと聞くなり、一座の護衛をしてくれと座長はルイジェルドに頼んだ。報酬は弾む、と必死に交渉し、六割の前金をあたえた。

 

 ルイジェルドがいれば、魔大陸の移動は苦ではない。

 ルーデウスは渡された前金の三分の一を、ちょっと考えてから座長に返した。唄歌いの中には子供がいた。ルイジェルドは子供を守るのは当然で、そこに対価が生じる必要はないと思っている。

 とはいえこちらにも金策がある。ルイジェルドに見えるように金を少し返し、残りを懐に入れたルーデウスが茶目っ気をあらわに片目をパチンと瞑るのを、ルイジェルドは苦笑で受け入れた。

 

 少ないが、魔大陸にも河は流れている。

 デッドエンドと楽士の一団が訪れた町では、大雨によって河が増水し、道も畑も泥沼と化していた。城壁の中に入ればなんとかなるかと思ったらやはり道路も何も水浸しで、家畜が泳ぎ厨芥や糞がただよい悪臭をはなつ水に、腰から胸まで浸かって人々は行き来していた。

 陽気な口笛が近づいた。進んでくるのは舟だ。舳先に立った男がオールを操り、商売道具の包みを濡れないように抱えた軽業師らは、楽士たちをひやかした。

 楽士たちは軽業師たちの幸運を呪い罵った。しかし、彼らも幸運であった。川沿いの地形は町の中心部に向かって高くなり、町の中心の広場はすっかり水から抜け出していたのだ。

 これなら興行は打てると、楽士は喜んだ。

 座長の指示を待たず、曲芸師が小さなリュートを抱えた子供を肩に座らせ、子供は楽器を奏でて客寄せの歌を歌いだした。

 

 

  町や酒場に 幸せはない

  楽しみばかり 求むるではない

 

 

「僕らは、宿を探しましょう」

 

 と、濡れた服のまま踵を返そうとするルーデウスを、座長が呼び止めた。

 

「坊主、掏摸(スリ)の腕はもってるか?」

「いいえ」

 

 そっちの旦那と娘っ子は? と、座長がルイジェルドとエリスを順繰りに見た。音楽に客が聞き惚れている間は、掏摸の稼ぎ時だ。手を組めばいい稼ぎになる。一座はもちろん、後で掏摸からたっぷり分け前を取る。

 

「やろうと思えばできるさ。けど、分け前は、せめてこっちが六割」

「ルーデウス」

 

 誘いに乗り、交渉を始めかけたルーデウスの頭の上に、ルイジェルドは手を乗せた。わかっているだろう、と指に力を込めて低い位置にある少年の頭蓋をつかむと、ルーデウスは肩をすくめて断りを入れた。デッドエンドは、悪事には加担しない。「お堅いこった」と、座長は苦笑して、座員たちの元に戻った。

 

 

 

 酒屋を兼ねた旅籠の、食堂の暖炉の前は先客たちに占領されていた。放浪の冒険者が多かった。残りは物乞いだ。物乞いは、街に出るときは足萎えだの盲目だのだが、宿にもどると足萎えは両足で歩き、盲人はものが見えるようになる。

 泥沼を歩いてきた者の服やズボンの裾は、重く泥水を含んでいた。ルーデウスとエリスは、先客の間をかきわけて、張り渡された綱に濡れ汚れた服を干した。

 ルイジェルドは腕当てと革の脚絆を外すに留めた。あとは暖炉の火にあたっていれば自然と乾くだろう。

 ルーデウスは魔術で、こっそり自分と仲間の服を乾かした。客層も悪い安宿では、魔術を自在に使えることが知れると無限に搾取される。誰もが手間をかけず得られる火の手を欲している。代金など、ろくに支払われない。

 

「ルーデウス、あっち向いててね」

「はいはい。でも、他の人の目だってあるんですよ?」

「それは別にいいわ、変なことされたら倒せるもん」

 

 エリスも服を脱いで干した。上着も防具も外し、上裸になる。未成熟な少女の裸でも、先客たちの色好みを刺激するには十分で、乳首をつまみにくる男たちの指を、エリスは肘ではねのけた。

 ルイジェルドは槍の石突で床を叩き、エリスの横に座り込んだ。睨みをきかせると、エリスにちょっかいをかけていた手はさざ波のように引いた。

 守護者の存在を無視し、執拗に彼女に絡んでいた男がのけぞったのは、エリスが振り向きざまに顔を殴りつけたからだ。もろに鼻に当たり、男は鼻血を噴き出しながら床にうずくまった。

 

「よう! 女にやられやがった!」

「情けねぇの」

 

 周囲の嘲笑を受け、起き上がった男が、エリスにくってかかった。

 男は、駆け出しの冒険者といった出で立ちで、体は人族と変わらないのだが、背中から首にかけて毛深くなり、頭はまるきり狼だ。

 からかっただけでムキになりやがって、誰がてめぇを女として見るもんか、という意味のことを男が喚いたが、エリスは魔神語はわからない。黙っているのが毅然としているふうに狼男の眼には映ったらしく、いっそう怒りを煽ったようだった。

 狼男とエリスは、闘いをはじめた。どちらも、剣は腰に帯びていない。素手の殴り合いだ。

 まわりの連中はおもしろがってけしかけ、どちらが勝つか賭まではじまった。物乞いが托鉢の椀をふたつ並べたのを器がわりに、金を集めた。

 

 腕で顔周りをガードしつつ、小柄な体躯を活かし、真紅の髪をひるがえしてエリスは狼男の懐に入った。真下からの右フック。

 後ろによろけた狼男を、エリスは易々と組み敷いた。

 そして、相手の顔の毛を両手でつかみ、頭を持ち上げ、床に強く叩きつけた。エリスは立ち上がり、失神したかに見える狼の頭を蹴飛ばし、鼻を踏みつぶした。

 

 しかし、狼男は気絶してはいなかった。床に放っていた防具に手を伸ばし、下からマチェットをとりだした。

 気づいたのはルイジェルドひとり。いや、冒険者の中にも数人いる。気づいていて、薄笑いを浮かべて、血飛沫の飛び散る展開を望んでいる。

 エリスは乾かされた服に袖を通していた。もう狼男の方は見ていない。じゃれあいのような闘いは終わったのだ。 

 狼男のマチェットは、背後からエリスのうなじを襲った。

 声をかけてエリスの注意を促すより先に、ルイジェルドは暖炉から燃える薪を引き抜き、狼男に投げつけた。顔面にあたり、狼男はよろめき、手からマチェットが落ちた。

 

「子供を殺そうとしたな」

 

 子供は護るべき存在である。反した者は生きるに値しない。

 仰向けに引き倒した狼男の胸を踏みつけ、槍の先を真っ直ぐ喉元につきたて――直前で、ぴたりと止まる。

 俺は生殺与奪を決める力を持たないのだった。思い出し、動きをとめたルイジェルドに、ブーイングが飛んだ。怖気づいたな。いくじなしめ。

 周囲がルイジェルドを貶む中、狼男だけが、錨のように重く動かない脚を退けようと躍起になっていた。

 

「ルイジェルド!」

 

 あどけない声は喧騒の中でくっきりしていた。

 ルイジェルドは目線をそちらに向けた。

 慣れない蜜酒をあおり、まだ幼い顔を真っ赤に上気させた少年。

 デッドエンドの飼主は、声をはりあげた。

 

「いいぞ! やっちまえ、ルイジェルド!」

 

 狙いを定めた槍先は、狼男の喉を掻き切っていた。

 谷の底から、いっせいに真紅の(はなびら)が舞い上がり、ルイジェルドの視野をおおった。

 一瞬目をとじた。ふたたび目をひらいたとき、手には血の飛沫がかかっていて、谷も葩もなかった。

 幻であった。血の飛沫は高く噴き上がって梁を汚した。

 どよめき、歓声、哄笑。()いまざる中で、戦時中のような快楽を彼は得た。

 

 束の間、夢を見た……。

 群衆に力を誇示する高揚感に半ば呆然とするルイジェルドを現実に引き戻したのは、ルーデウスの声だった。

 

「ずらかれ!」と、エリスとルイジェルドに声をかけ、抜け目なく賭け金をひったくってから逃走する少年に、カトラスを掴んだエリスが続く。こんなに汚しやがって、許しゃしないよ。煮込んで食ってやる。食堂の奥から、肉切り包丁を構えた大樽のような女が喚きながら出てくる所だった。

 このあたりの地方では、人族は狩猟対象だ。食いでは少ないが肉の柔らかそうな子供をふたり連れたルイジェルドが、売買の交渉をもちかけられたことは、一度や二度ではない。ルイジェルドが、それに応じることはなかったけれど。そうして、ルイジェルドの(めぐ)し子達を食糧とみなした連中の腕をへし折っておくことにも余念はなかったけれど。

 

「こいつは、誰が食う」床に倒れ絶命した狼男には物乞いが群がり、金目のものを探っていた。蟷螂頭の冒険者が物乞いを蹴り飛ばし、狼男を前脚の鎌でつついた。

 

「ウチのもんだよ、ここで死んだんだからね。あのガキ共もうちのもんさ」

「だが、やつら逃げたぞ」

「土地勘はねえ。どうせ肉屋のチョッパーが引き取る」

 

「捕まえてきな」大樽女は野太い声で、丁稚の小男に命じた。そのときすでに、デッドエンドは、よほど聴力がすぐれていなくては食堂の声が聞き取れないほどには遠ざかり、城壁に囲まれた町を駆けていた。ルイジェルドは耳がよかった。この町には居られないだろうことを悟っていた。

 また命じてくれれば、誰であっても俺が殺してやるのに。

 胸をよぎった想いに、動揺する。子供に抱く感情としては、誤っている。ラプラスにかつて捧げていた忠誠のようではないか。

 

 ルーデウスの逃げ足は酒気をおびて頼りない上に、体力ではルイジェルドとエリスに敵わない。彼らは追手の存在を認識しながら、日干し煉瓦を積んだ家の陰に身を隠した。

 

「どうする? ほかの宿をさがすの?」

 

 興奮の残滓を押し殺したエリスの問いに、ひったくってきた賭け金を数えながら、ルーデウスが答える。

 

「もう次の町に行きましょう。ここには居られない」

 

「ルイジェルドさん、頼みがあります」と眼をひらめかせたルーデウスに従い、彼は小脇にルーデウスを抱え、エリスを伴い、平屋根に跳躍した。溜まった雨水を蹴立てながら、屋根伝いに移動する。

 街の中心から外れるにつれ、あふれた河の水は深さを増した。

 道中見かけた、窓から転がり落ち流されていた三ツ目の幼児を、デッドエンドは救った。ルーデウスが地上に土魔術で足場をつくり、足場に飛び降りたルイジェルドが槍の石突を服にひっかけて幼児を手繰り、エリスがはだけた胸元に押しつけて温めた。窓から身を乗りだして両手を伸べていた褐色肌の女魔族は、泣きわめく我が子を渡されて、エリスに頬ずりした。

 デッドエンドのルイジェルドをよろしく、と、魔神語でエリスは言った。丸暗記した数少ない語彙である。

 

 

「見つけた」

 

 パラペット*1に足をかけ、浸水した街並みを見つめていたルーデウスが鋭く叫んだ。屋根から飛び降り、舟上に着地したルーデウスとエリスは先客を蹴り落とし、オールを奪った。来たときに楽士の一団と護衛のデッドエンドを馬鹿にした軽業師達だ。

 下半身を汚水に浸した軽業師たちがデッドエンドを罵り、曲芸師が悔しまぎれに投げナイフ用の両刃短剣(ダガー)を投げつけた。ルーデウスの頭を押さえ、体を伏せさせた。投擲されたダガーはルーデウスの真上を弧を描いて通過し、水の上に落ちた。

 ルーデウスが手をかざす。水の柱が突き上げるように幾つもあらわれ、それは飛沫を立てながら軽業師たちを飲み込んだ。

 その隙にルイジェルドがオールを漕ぎ、舟は町の外に向かって移動する。

 

「悪党ね、私たちって!」

 

 はしゃいだエリスの声に、ルーデウスは鷹揚な笑みを返した。

 

「でも、悪いことしていいの?」

「構いやしません、ひとつくらい悪事を冒しても、その五倍、十倍、善行を働けばチャラです」

「そうよね、善い事もたくさんしてきたから大丈夫よね!」

 

 ルイジェルドは晴れやかな心地で子供たちの会話を聞いた。

 たいそう、愉しい気分だった。局面での決定を人任せにできるのは、わずらわしくも、快適である。

 何百年振りか、隷属の心地良さを思い出せたことが愉しい。

 

 彼らと出会って半年以上が経つ。精力的な活動の甲斐あって、〈デッドエンド〉はそこそこ名が知れてきている。

 二つ名がついているのも、彼は小耳に挟んだ。

 狂犬のエリス。

 番犬のルイジェルド。

 そして、飼主の少年。

 ルーデウスだけは名前を憶えられていない。狂暴な犬を従える者がいる、と知られている程度だ。

 でも、知名度はどうでもよかった。

 あのとき、ルーデウスが「やっちまえ」と高らかに命じた瞬間、ルイジェルドは彼の犬になったのだ。

 

 

  雨にうたれ 風に晒されて

  空の果てを睨んでいた

  髑髏が ラララ 言うことにゃ

  お袋にも会わずに死んだ

 

 

 ルーデウスとエリスが、のびやかに歌った。

 楽士の一団と共に移動しているときに、聞き覚えた歌であった。ルイジェルドも声を合わせた。

 戦士団に所属していた頃は、彼も、賭け事に興じ、唄を歌った。彼は禁止できる立場にいたが、戒律でしばりつけ娯楽を禁じれば戦士たちの士気が下がることを心得ていた。

 あの悪魔の槍を与えられて以来、戦闘以外の娯楽とは遠ざかってしまっていたけれど。

 

 ルーデウスに従うことを選んでよかった。

 と、ルイジェルドは心の底から思うのだ。

 

 エリスがルイジェルドの脚の間に座りこみ、オールを握った。

 腕の力だけで漕ごうとしている。ルイジェルドは背後からいっしょに持ってやり、上半身を大きくつかって漕いだ。

 

 デッドエンドは南下する。

 町から町へ、美名と悪名を轟かせながら。

 そうして、デッドエンド結成から、約一年後。彼らは魔大陸唯一の港町、ウェンポートに到着するのだった。

*1
平屋根の周囲の立ち上がった部分。





話中の詩や歌は、下記より引用しています。
『イヴ・ボヌフォア詩集』
『囚人の歌』ロシア民謡
『しゃれこうべと大砲』イタリア民謡

サブタイトルは『俺がお嬢様学校に「庶民サンプル」として拉致られた件』をもじってます。ヒロインは白亜ちゃんが好きです。

4/30 人助けの描写を少しだけ後半に加筆
後半の行が旧版とズレるため投票されたここすきの行もズレてしまいました。せっかく投票してもらったのに申し訳ない。


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二四 雪国の冒険者

 また遺跡のような場所に行き、転移魔法陣を踏んだ先。

 ナナホシといっしょに、オルステッドが持った手燭に照らされる洞窟内を進んでゆくと、白い壁につき当たった。

 

「雪!」

 

 雪である。

 おそらく出口が積雪で塞がれているのだ。

 前世の故郷も、そして今世の故郷も、ここまでは積もるまい。

 よほど北の国に来てしまったのだろう。ということは、雪解けまで外に出られないのだろうか。

 

 お日様が恋しくなる、と思っていると、オルステッドが前に出た。

 

「下がっていろ」と、言われるままナナホシの手をひいて後ろに下がる。洞窟の中には氷柱が何本も垂れ下がっていて、上に用心しながら歩かないと氷柱が容赦なく顔や体にぶつかるのだった。

 

 オルステッドは出口を塞ぐ雪壁に手で触れた。

 一瞬、洞窟内が光った。熱風がこちらまで吹きつけてくる。

 熱風によって溶けだした氷柱の雫が降り注ぎ、私とナナホシはにわか雨に降られたように濡れた。

 

 思わず瞑っていた目をあけると、薄暗い明かりが洞窟の内に入ってきていた。

 出口を塞いでいた雪がなくなり、雪解け水が私の足首まで満ちていた。

 高位の魔術で雪を溶かしたのだと気づくまでさほど時間は要らなかった。

 

「おおお……」

 

 パシャパシャと冷たい水に浸された場を移動し、洞窟の外に出てみる。

 外には果ての見えない一本道ができていた。私が両腕を広げたらギリギリ指先がつかないくらいの幅の道だ。

 左右にそびえる雪の双璧の高さは十尺*1ほど。

 道幅は狭く、必要最低限だけ溶かした、という感じだ。

 

 今朝までは黄土色の砂丘がひろがる大地にいたのに、魔法陣の上に立っただけで、気候も風景もまるで異なる土地に来てしまったのだ。

 

「ここが北方大地?」

「ああ」

 

 空を見上げる。

 重くたるんだ鉛色の空は、雪をこぼしていた。

 体は肌寒さを少し感じる程度なので、実は私がとても寒さに強くなったのでは、と思い、魔道具の上着を脱いでみる。

 

「さむ」

 

 さむい。

 じわじわ冷凍されてしまいそう。

 ふたたび着ると、凍てつくような空気は遮断されて体が温くなった。魔道具の効果は凄まじいのだとわからされた。

 

 

 


 

 

 

 吹雪と積雪の中を数日間移動し、私たちは町の前に来た。

 たぶん町だ。ロアと雰囲気はすこし異なるけれど、目の前には周壁(アンサント)が聳えているから。

 壁にさわり、視ると、向こう側で暮らすたくさんの人たちの息遣いが聞こえてくるようだった。

 

「ここ、なんて言う名前の町?」

「ラノア王国のカーリアンだ」

「知ってる! えと……魔法三大国の!」

 

 お兄ちゃんが言ってた。

 

 ようやく知っている国名が出てきて嬉しい。

 カーリアンは初めて聞いたけれど、ラノア王国なら知っている。地図上のだいたいどこにある国であるかもわかる。

 

 でも、オルステッドは博学者だから、彼にとってはそのくらい知っていて当たり前のことなのだろう。

 だからどうした? という顔で、彼は手紙と袋を私に渡してきた。

 

「うっ」

 

 見た目よりズシッと重くて取り落としそうになった。

 袋の中身は魔石である。ベヒーモスの墓で集めたやつだ。

 

「金に困ったら、冒険者ギルドのカウンターに、この手紙と共に魔石を出せば換金できる。失くさんように懐に入れておけ」

 

 私はそれを受け取り、ちょっと考えてからナナホシにあずかってもらおうとした。

 ナナホシのローブの方が、内ポケットがついているからだ。

 するとオルステッドに「貴様が持て」と()められる。

 

「冒険者ギルドには貴様らの護衛を依頼する。だが、万が一ギルドに不備があったとき、資金源であるそれを失えば、俺が迎えに行くまで貴様らは路頭に迷うだろう。言葉のわからんナナホシより、貴様のほうがマシ……適任だ」

「ろ、路頭に」

 

 とても責任重大である。大事に持たなくては。

 でも、重たい。腕にかけていると紐が手首にくい込んで痛いのだ。

 担いだり頭に乗せたりと持ち方を工夫していると、オルステッドに袋を取り上げられ、中身をいくらか小さな革袋に移し替えてから返された。

 

「軽くなった!」

「減らしたからな。……」

 

 なんだかじっと見られている。

 よく分からなかったから、袋を抱いたまま、にこっと笑みを返す。

 

 オルステッドはかがみ込み、私が着ているてるてる坊主みたいなコートを捲った。そして、ベルトに革袋を括りつけてくれた。

 ついでに強度を確認するためにグッグッと紐を引かれる。

 引く力が強くてよろけた。

 オルステッドのほうに倒れ込んだのを、片手で受け止められた。

 

「手のかかる……」

 

 ため息混じりに言われた。

 ごめんなさい。

 

「そうだ、これも持っていけ」

 

 オルステッドは手首から腕輪を抜いた。

 銀色の腕輪だ。複雑な模様が彫り込まれている。

 材質は錫か銀かわからないが、何にせよチサだった頃は見ることさえなかった宝物である。

 

「龍神の紋章が刻まれている。それを見せれば、貴様らが龍神の庇護下にいることは疑われまい」

「? すごいものなのね」

「それなりに貴重な物だ。失くしてくれるな」

「もし失くしたら、どうしますか」

「……叩く」

 

 なんてこった。

 オルステッドに叩かれたら、私はきっと羽虫のようにぺちゃんこである。

 前世では悪いことをすれば親が子を殴るのは普通だが、お母とオルステッドの腕力はぜんぜん違うのだ。

 

「嫌なら失くすな」

 

 何回もうなずいた。誰だって叩き潰されたくはない。

 

 さて手首に通して、肌に伝わる金属の冷たさにびっくりした。

 腕をあげてみれば、腕輪はストンと二の腕まで落ちてくる。反対に、腕を下げれば、今度はポトンと地面に落ちてしまうだろう。

 

「オルステッド……」

 

 これゆるいよ、と言おうとして、やめた。

 これ以上手のかかる子だと思われたら、今度こそ置いていかれるかもしれない。

 

「何だ?」

「腕輪きれいで、うれしい」

 

 (おお)きな躰で見下ろしてくるオルステッドに誤魔化した。

 袖のない外套の下で、腕輪をきつく握りしめる。絶対に落として失くさないように。

 

 

 母様と妹たちとロアの町に入るときは、馬車に乗ったまま、城門棟を通って町に入ったのだ。

 今は、雪景色の中に、聳え立つ壁と塔がある。

 門が見当たらないのだが、今回はどうやって入るのだろうと思っていると、オルステッドは私を背中に括りつけた。

 

「ひゃ」

 

 そうして、側防塔の窓だの煉瓦の凹凸だのを足がかりにしつつ、ひょいひょいっと市壁の上に登った。

 窓からちらりと覗いた塔の中では、暖炉の火が赤々と燃える傍で、兵士が眠りこけていた。

 オルステッドはあっという間に壁を乗り越えてしまうと、私を町の内部に下ろして、今度はナナホシを背負って連れてきた。

 

「たかい、すごい!」

 

 合流したナナホシは壁の上を指さし、拙く訴えた。

 その表情はわくわくしている。たぶん、高所からの眺めが気に入ったのだろう。

 一瞬だけ壁の上から見えた景色。

 屋根や町の端に積もった雪が、暗雲の陰にある太陽の欠片を跳ね返してまばゆく光っていた。

 私は生前も今世も毎年見ている景色だが、ナナホシにとっては物珍しかったらしい。きっと彼女の生まれは温暖な所なのだ。

 

「そうだね、楽しかったね」

「たのしかったね? ななほしの、たのしかったね?」

「私は楽しかった、って言ったほうがいいよ」

「わたしの」

「私は」

「わたしは」

「そうそう」

「私はたのしかった?」

「上手よ」

 

 ぱちぱちと拍手を送る。

 得意げなナナホシは可愛いけれど、私は腕輪を落としそうになって焦った。

 

「小路を右だ」

「はい」

 

 後ろから飛んでくるオルステッドの案内に従い、カーリアンの町を歩く。

 街路の除雪は済んでいたようだが、新たに降る雪がまた積もりつつある。

 街路樹の白樺は霧氷に覆われている。固くしまった雪は、踏みしめるごとにミシミシと小さく鳴った。

 

「……」

 

 人はいない。静かだ。

 住宅の窓はどこも固く閉ざされ、たまに行き合う人はオルステッドを見て腰を抜かさんばかりに逃げてゆく。

 

「ヒッ!」

 

 向こうから歩いてきた襤褸を何枚も着重ねた女の子は、その場で固まり、声を上げて泣き出してしまった。手に持っていた籠を落とし、失禁までしている。

 泣き止ませるために近寄ろうとすると、オルステッドに後ろ襟を掴まれて引き戻され、「キリがないからやめろ」と言われた。

 

 道を歩いているだけで泣き喚かれ、凍りついて滑りやすくなった道をこけながら逃げられても、オルステッドはシラっとしている。慣れっこなのだろう。

 

「わたしオルステッドのこと好きです」

「……」

「……ちょっとだけ好き……」

 

 慰めるつもりで言ったが、不可解そうな顔をされ、怖気づいて「ちょっとだけ」と伝える好意を減らした。

 オルステッドには、私やアスラに置いてきた子供たちを救ってもらった恩がある。

 本当は、オルステッドのことはすごく大好きというほどではないけれど、恩を返すために彼の言うことはなんでも聞かなくてはいけないと思う。

 

「待ってろ」

「うん」

 

 オルステッドは、切妻屋根の木造の建物に入っていった。

 外でナナホシと手をつないで待っていると、中から悲鳴と怒鳴り声が聞こえ、あるときシンと静まり返った。

 

「……」

 

 玄関前の階段をのぼって扉の隙間から中を覗こうとすると、重い扉が突然開いた。オルステッドが開けたのだった。

 

「話は通した。三ヶ月経ったら迎えに来る」

「あらっ」

 

 もうお別れらしい。

 三ヶ月はけっこう長い期間だと思うが、あっさりした別れだ。

 明日には戻るような気安さで、オルステッドは来た道を一人で引き返しはじめた。

 

「待ってるね!」

 

 バイバイと手を振ってみるが、オルステッドがこちらを振り返ることはない。

 それがなんだか寂しい。かといって、彼がにこやかに手を振り返す様は想像できないけれど。

 

 何が起こったかわからないというふうに、私とオルステッドの背中を見比べているナナホシの手をひいて、いっしょに切妻屋根の建物に入った。

 

「ごめんください」

 

 酒屋のような場所だ。シンとした静寂が落ちている。

 ついでに床にもヒトが落ちている。武器を携えた人たちだ。

 オルステッドにやられたのかもしれない。踏まないように気をつけよう。

 無事な人達は、壁際に気配を殺して立っていたり、構えた盾の向こうからこちらを覗き見ていたりした。

 

「……行った?」

 

 奥の受付台から、そーっと若い女の人が顔をのぞかせた。

 彼女はきょろきょろ室内を見回し、ほっとした顔をして、私を見つけて怪訝そうな表情を一瞬うかべた。

 受付の前まで行き、お姉さんに伝える。

 

「オルステッドが、三ヶ月たったら迎えに来るって……」

「あ、ああ、あなたが件の子達」

「私どうしたらいい?」

「えーっと、少々お待ちください~」

 

 少し待てばいいらしい。

 暖炉の傍でかってに温もりつつ、待つことにした。

 

 話を盗み聞くと、オルステッドは、冒険者ギルドに、私とナナホシの護衛を依頼したらしい。

 オルステッドの頼み事は私にとっては命令にひとしい。

 だから、彼が受付で申請している姿を想像すると、ちょっとだけ面白かった。

 

 冒険者の皆さんは、依頼を誰が受けるかで揉めているようだ。

 

「陰湿な悪夢のようだった、あの男……私は関わりたくない」

「そんなの俺も同じだ! 自分の命に勝るもんはねえ、俺は降りるぞ!」

「あの~……でも、誰かがやってくださらないと、うちとしても困るんですよぅ」

「そう言うならブリギッテ、オマエがやれ」

「無理です無理です、わたし冒険者じゃないので」

「ルー! てめぇ(ルー)のくせにシッポ巻いて逃げるのか!?」

「ああそうだ! 見ろこの尾を! クルックルだ! まだ震えがおさまらない!」

 

 ものすごく揉めている。

 

 十二、三くらいの齢の剣を背負った青髪の少年。

 刃の広い手斧を腰に下げた毛深い黒熊のような男。

 モコモコの上着を着た、垂れ目で胸が豊満な受付嬢。

 丸い耳つきの白熊の毛皮にくるまった獣族の女。

 総勢四人が顔をつき合わせ、口論する様は、言葉の通じないナナホシにも言い知れぬ不安を与えたようだった。

 ナナホシは暖炉のそばの椅子にそっと座り、私がその膝に座ると、背後から抱え込んできた。

 

 私としても先行きが不安だ。

 誰も引き受けてくれなかったら、どうなるのだろう。

 オルステッドはいないし、どこに寝泊りしたらいいかわからないし、一日目から路上暮らしだろうか。

 ここだと、火魔術は使えても、気を抜くと凍死しそうだ。

 今からでもオルステッドを追いかけるべきだろうか。

 

 そんなことを考えていると、ふいにギルドの樫扉が開いた。

 厚着をし、腰に剣を帯びた長身の青年が、雪を振り落としながらズカズカ入ってきた。

 彼は人が屯している受付のほうに目線を投げ、チッと舌打ちをして、小さな木札を片手で弄びながら暖炉の傍にきた。

 椅子に凭れるように倒れていた男をドカッと蹴り飛ばし、確保した椅子にやれやれどっこいしょという風情で座った。

 蹴り飛ばされた男の禿頭が床をゴトンと打つ。

 

『えぇー……』

 

 ナナホシの戸惑った声が頭上から聞こえる。

 

 とつぜん目の前で暴力がおこなわれた。

 それも、気絶して無抵抗な相手に……。

 

 思わず彫りの深いその人の横顔を見つめていると、彼はこっちにも視線をよこした。

 暗い金髪に、淡い碧眼。目つきは鋭い。

 彼はじっと私を見つめ、火にあたってとろりと眠そうな顔で呟いた。

 

「…………ガキ」

 

 なんたる。

 

「ガキじゃないもん、子供よ」

「ガキも子供も意味はいっしょだ」

「いっしょじゃないよ、ガキは乱暴な言いかたよ、お母さんが言ってたもん」

 

 言い返すと、彼はニヤッと笑い、ゆっくり手をかざして、中指で私の額をはじいた。

 人を小馬鹿にしたような笑い方だったが、不思議といやな感じはしなかった。

 

「デコかってぇの」

「友達と頭ぶつかって、泣かせちゃったことある」

「石頭がお前の武器か?」

「うん、でもね、友達とぶつかったときはわざとじゃなかったの」

「は、は……」

 

 緩慢に、小さく体を揺らして、暗い金髪のお兄さんは笑った。

 

 誰かと会話が続くのは久しぶりだ。

 ナナホシは言葉を覚えている途上だから、お喋りは私の一方通行であることが多い。

 オルステッドは何か訊ねたら答えてくれるけれど、応答が終わるとスパッと会話を切り上げられる。

 珍しい景色なんかを眺めていると、たまに説明してくれたりもするけれど、普段は向こうからは用事以外で話しかけてくれないし……。

 

「よお、ゾルダート、お前、いまはフリーだったよな?」

 

 毛深い熊みたいな大男がお兄さんに話しかけた。

 さっき揉めていた集団のうちの一人だ。

 

「そうだけど」

「聞いたぜ、娼婦のカノンがお前に惚れたんだろ? そのせいでボリスといがみ合って、結果お前がパーティを追い出され」

 

 椅子が倒れる音が響き、ゾルダートというらしいお兄さんはいきなり熊男に殴りかかった。熊男は飛んできた拳を丸太みたいな腕で受けとめる。

 

「まて、待て! 喧嘩しにきたわけじゃねえ、パーティを追放されたんだろ!? 仕事も受けられず食うや食わずのおめえに、うまい話を持ってきてやっただけだ! コッチは善意で話しかけたんだぞ!」

「誰が食うや食わずだ! まだそこまで困ってねえ!」

 

 村では、たまに大人同士でもつかみ合い殴り合いの喧嘩をしていた。そうなると、父様が制めに入るまで、みんなで見物したものだ。

 大人のそれは子供の喧嘩より迫力も威力も上なので、見ていて楽しいのだった。

 しかし、熊男は、渋々拳をひっこめたゾルダートさんを引っ張り、受付のそばでボソボソ話し合いはじめた。

 

 久しぶりに見られると思ったのに。ざんねん。

 

 

 


 

 

 

 紛争地帯に生まれ育ったゾルダート・ヘッケラーは、戦争のない暮らしを初めて知った。甲龍歴412年。十二歳のときだ。

 北方大地の東部――小国が寄り集まっている地帯――では領土を奪い合って干戈を交えることはあれど、少なくとも、魔法三大国にいれば戦争とは無縁でいられる。

 畑を耕して暮らしているだけの農民の村が、補給のため兵士に惨殺され略奪されることもない。戦争とは、略奪とほぼ同義語だ。

 

 戦争に従軍する兵士のほとんどは、貧困に付き纏われている。

 武器から衣服まですべて自前で調(ととの)えなくてはならないし、ついてくる家族まで養わなくてはならない者もいるというのに、給与は乏しく、ときにはまるで支払われなかったりする。

 輜重隊の酒保商人は兵士の金貸しも兼ねていた。彼らはワインやビールの樽だの腸詰めだの燻製肉だの、古着の山だの古毛布だの数十足の古靴だの、兵士たちが必要とするあらゆるものを手当り次第に幌馬車に積んでいて、兵士によろこんで売りつける。

 兵士のほとんどは、酒保商人から前借りを重ねて暮らしている。

 借金を一気に片づけるのが、略奪だ。敵の軍勢と戦火をかわすより、進軍の通り道にある農家を襲うほうが、よほど楽に獲物が手に入る。戦乱の時代において、略奪は傭兵の権利であった。

 

 酒保は、兵士が持ちかえる強奪品を安く買いたたき、貸した元をとりかえすばかりではなく多大の利益を得る。

 金を手にすると兵士たちは気が大きくなって無駄なものを買いあさり、博奕と酒で素寒貧になり、ふたたび酒保商人から前借りする。たいがいの兵士は、負傷と不治の病のほかは何一つ身につかず、朽ち果てる。

 

 戦争がひとつ終われば輜重隊は用済みだが、彼らは目ざとく次の戦争を見つけてくる。

 数台の馬車を持った大商人、一台の馬車を後生大事にしている商人、馬を持てず自分で荷車を引いてまわる小商い、荷車さえなくて商い物を詰め込んだ籠を背負って歩くもの、薄汚れているけれど鮮やかな衣裳の娼婦の群れ、散髪屋、料理人、兵士たちの女房や子供、乞食に廃兵、産婆から墓掘り人夫まで、人数でいったら兵士の倍近い雑多な人々が、てんでばらばらに行軍の後ろをついて歩くのが常であった。

 

 ゾルダートの両親はあくどい酒保であった。

 戦争は稼げることを知った寒村の夫婦は、戦火の絶えることのない中央大陸の紛争地帯へと向かい、酒保になってあら稼ぎした。

 父親は激昂した兵士を相手に引き際を誤って殺され、母親もまもなく子供を産み、死んだ。

 軍の中隊長が輜重隊の女に抱かれた嬰児に目を留めなかったら、そうして、たいそう愛らしかったその嬰児が、兜の羽飾りを気に入って、笑顔で中隊長へと手を伸ばさなかったら、ゾルダートは輜重隊の小僧として育っただろう。

 

 幸運な偶然が重なり、ゾルダートは中隊長の養子となった。

 彼は中隊長に慈しまれ、荒くれ揃いの傭兵どもに小突かれ、輜重の女たちに気まぐれに可愛がられながら、成長した。

兵士を妨げる者(ゾルダート・ヘッケラー)の子〉と呼ばれていたのが、いつしか彼自身をあらわす名になった。

 やがて中隊長が仕えていた小国は敗戦し、ゾルダートの養父を含む将校らの首は、数十人の敗残兵の首といっしょに川にかかる橋に串刺しにされ焼かれ、目鼻もわからぬ黒い塊となって晒された。

 

 要領よく敵側に寝返っていた傭兵にゾルダートを可愛がっていたのがいて、彼は、十二歳のゾルダートを連れて紛争地帯を脱出し、戦争のない国へと向かった。

 ゾルダートは移動中の記憶だけ抜け落ちたように思い出せない。

 焦げた肉が落ち、飴色の骨ばかりとなった頭の傍にしゃがんでいた。次に記憶が明瞭になるのは、アスラ王国のウィシル領行きの乗合馬車で傭兵にしこたま殴られている場面だ。

 アスラには、虐殺や略奪とは縁遠いゆったりとした時間が流れていた。ゾルダートはそこで、戦争のない暮らしを知ったのだ。

 

 ところがゾルダートを連れた傭兵は闘い以外の生き方を知らず、戦争のない国において、家柄もなく老い衰え始めた傭兵の需要はなかった。

 傭兵は迷宮が豊富に存在するという北方大地にやはりゾルダートを連れて移り、去年、病死した。

 晩年はさんざん冒険者になったゾルダートの稼ぎに集ってくれた。死ねと願った場面は数しれない。

 それでもいざ居なくなれば一抹の寂しさはあって、ゾルダートは人並みに傭兵の死を悲しみ、弔った。

 流されるまま生きるうちに、実の両親の故郷へ帰還していたことは、本人すら知らぬことであった。

 

 一人になれば、剣術は教え込まれていて腕は立つから、自分の食い扶持くらいは楽に稼げる。

 冒険者の階級はF~Sで区切られている。ゾルダートは、あちこちのパーティに剣士として所属し、リーダーの死亡による解散や喧嘩の末の追放をくらいながら、十七歳の現在の階級はC級である。B級も間近であった。

 

 十七歳になったゾルダートは、同じ冒険者のガリバーに薦められ、ある依頼を請け負った。

 

「シンシアです。こっちの子はナナホシです」

「俺はゾルダートだ。ゾルダート・ヘッケラー。

 お前、人族だよな? 何歳だ?」

「七さい」

 

 改めて自己紹介を済ませると、子供は「お世話になります」と、ぺこりと頭を下げた。

 彼女のハイトーンブラウンの髪も、碧色の眼も、人族ではありふれた色彩である。

 ゾルダートは、珍しい黒髪黒眼の華奢な少女に目を向けた。

 あっちは、多分、十四か十五だ。見慣れない顔立ちだからか、齢がわかりにくいが、俺とさほど変わらない。

 

 わりの良い仕事であった。良すぎる。

 三ヶ月間、冬が明けるまで、娘ふたりのお守りをするだけで、ラノア金貨二百枚?

 

 楽で、その上賃金の高い依頼であれば、冒険者同士で獲り合いになるはずが、むしろその場にいた冒険者たちは、どうぞどうぞとゾルダートに譲った。

 

 よほど手のかかるやんごとなき所の娘か。

 いや、貴族の姫様の護衛が、冒険者ランクを問わない依頼であるのは変だ。

 生意気だったら殴って躾ければいい――彼もかつてそう育てられた――と思っていたが、予想外に素直そうなので、拍子抜けした。

 

 依頼の不達成だけは、許されない。くれぐれも。と、彼は顔なじみの冒険者トイリーに固く言い含められた。

 この老練した冒険者は、仲間から殺戮者(トイリー)と呼ばれているが、兇暴な印象を与える男ではなかった。薬療の心得もあり、ゾルダートが足元にも及ばない学識も持っている。学者(エージャス)と呼ぶ方がふさわしいくらいだが、一度定着した名前を変えるのは厄介だ。本人がトイリーでかまわないと言っている。本名を訊ねたら、ロイヒリンと言った。

 

 種族柄、重ねた年齢は百に届くというトイリーの見た目は、十を少し過ぎた少年である。

 幼い外見に警戒心を削がれるので、ゾルダートはトイリーの言う事ならば比較的従った。

 

「お前らの宿は? どこだ?」

「……」

 

 ナナホシと紹介された方に訊ねたが、無言が返ってきた。

 無視かよ、と、苛立つゾルダートに、ぴょこぴょこ視界に割り込んできたシンシアが説明する。

 

「ナナホシは、言葉はまだそんなに話せないの。ゆっくり喋ってあげないと、聞き取れないのよ。ご用事があったら、私に言ってね」

「なんだそりゃ」

「泊まるところはまだ決まってないよ」

「あ、そ……。じゃあ、適当な所まで案内するけどよ、頼みの綱がガキで、なんというか、大丈夫か?」

 

「だいじょぶ」と、意気込むシンシアは、根拠のなさそうな自信に溢れていた。

 大丈夫であるはずがなかった。浮浪児をやって生き延びる逞しさもなさそうな小綺麗な娘二人なのだ。

 いや、大丈夫ではないから、生活の面倒を見る護衛が要るのだろう。

 

 今己が拠点にしている木賃宿に置いておくのも危険だと判断し、数ランク上の宿屋〈陽気な酒箒〉に、部屋をとってやった。

 寝具は暖かく、部屋ごとに暖炉もあるし、暖房器具も借りることができると聞いた。金を出せば食事付きにもできる。安宿暮らしのゾルダート少年にとっては、かなり上等な宿だ。

 

 一階の料理屋で、丸テーブルを囲んだ。

 家主の住まいは、陽気な酒箒から少し離れたところにあり、夫婦と子で一階の料理屋を経営している差配(さはい)が、宿代を集めてはとどけている。

 ゾルダートは黒パンを齧りながら、赤大根と馬鈴薯のスープを飲んでいるナナホシとシンシアを眺めた。

 苦労を知らなそうな(ツラ)してんなァ、と思いながら。

 

「前金のほかに、お前らの生活費はいくらかもらってるんだけどよ、お前自身は金は持たされてねえの?」

「おかね」

 

 きょとんとしていたシンシアは、ややあって腰のベルトに括り付けていた革袋をもたもた取り外し、ゾルダートに見せた。

「それお金になるっていわれた」と言われ、中を覗き込み、

 

「はッ!?」

 

 ゾルダートは驚愕の声をあげた。

 中身は色つきの魔石の粒であった。売れば数年は豪遊できる額に相当する。

 いくら高貴な身分の子であっても、子供に軽々しく持たせるものではない。

 

「最初にもらったときはもっと入ってたんだけど、たくさんあると重くて持てなくてね」

「おま……は?」

「だから減らしていまの量だけど……」

 

 足りる? と、不安そうにするシンシアの容姿が、たいそう優れていることに、ゾルダートは気づいた。

 美貌というには幼すぎるが、人を惹きつける愛らしさがあった。ナナホシにしても、平坦な顔立ちだが、整っている。黒髪も珍しい。

 

「とりあえず、それは隠せ。誰にも見せるな」

「? うん」

「お前らさ、なんでカーリアンに来たんだ?」

「オルステッドが、私とナナホシをおんぶして、壁のぼって、町に入ったの」

「密入国じゃねえか」

 

 事情を聞くうちに、シンシアという子供が、元は騎士の娘で、アスラ王国の片田舎で両親と共に暮らしていた事がゾルダートにもわかってきた。

「友達と遊んでたら、空がピカってなって、赤竜山脈にいて、オルステッドに助けてもらった」という訳のわからない説明を聞き、さらに「たくさん働いたらお父さんのところへ連れて行ってもらえる」という発言から、だいたいの経緯を考察混じりに把握した。

 

 この娘らは、転移事件によって家と両親を失ったところを、オルステッドとかいう男に拾われて、いいように使()()()()いる、もしくは使われる予定なのだ、と。

 

 国の端に位置する都市カーリアンは、ラノア王国とアスラ王国を結ぶ交通の要衝である。アスラ王国で起きた未曾有の大災害は、赤竜山脈を隔てた北方大地にも、少しずつ周知されてきていた。

 ゾルダートは、シンシアの過ぎ来しが、際だって悲惨には思わなかった。

 七つ八つから色の餌食にされたものなど、戦乱の地にはざらにいた。転移事件を生き延び、金の不自由はしなくてよい身空なら、むしろ恵まれている。

 

 外したときと同じようにもたつきながら革袋を腰につけるシンシアに、ナナホシが手を貸した。

 

 物腰ふにゃっふにゃじゃないか。

 寄る瀬のないふにゃふにゃが二人きりでいたら、治安の悪い町では獲物にしかならない。

 俺がなるべく傍についてやらなきゃこいつらは終わりだ。ゾルダートは確信した。宿も同じ場所を借りた方がいいだろう。

 

「よし。その財産は俺が預かってやる」

「誰にも見せるなってさっきいった……」

「俺はいいんだよ。オラ出せ」

「お、怒らないで」

「あ? あー……別に怒ってねえよ、目つきは元から悪い」

 

 柔和にしていると、際限なく付け入られる。つんけんした態度をとるのは、ゾルダートなりの護身であった。

 か弱い子供を脅しつけて財産を獲るほど困窮してはいない。

 怯えたふうにナナホシの腕につかまるシンシアに、指で目尻を吊り上げておどけてみせる。

 シンシアはとたんに安堵した顔をみせ、でも遠慮がちに資金を差し出した。

 

 ゾルダートは、渡された革袋を手早く懐に入れた。中の魔石をいくつか浚っておくことも忘れない。

 

 前金だけでは、当面の間の食費とゾルダートが拠点にしてる木賃宿〈双頭の豚〉の宿泊代、石炭や薪代はまにあっても、〈陽気な酒箒〉の宿代までは賄えない。これまで稼いだ貯えなど僅かもなかった。

 金が入ると気が大きくなり、博奕と酒で素寒貧。たいがいの兵士は、負傷と不治の病のほかは何一つ身につかず、朽ち果てる。

 借金こそまだ重ねてはいないが、ゾルダートも、同じ生き方をなぞっている。

 俺の人生は、紛争地帯で生まれた時に、終わりまで決まっていたのではないか。

 体はここに在っても、俺の心はまだ略奪と殺戮がまかり通る地獄にいるのではないか。

 運命が呼び、連れ戻すところに、気がつけば従っている……のではないか。ときどき、そう考える。

 

 ゾルダートは気前よく追加の宿泊代を払ったが、差配は足りないと主張した。

 

「あんたは、問題ばかり起こす。ここに泊めてほしいんだったら、あと銀貨は四枚は出すことだ」

「問題? まだ起こってないことに金払えってのか、そんなおかしな勘定はねえぜ」

「おかしくない、俺の心配代だ」

 

 ゾルダートは傍の子供に教えてやった。覚えとけ。宿にしても買物にしても、まずはふっかけられるんだ。お上りさんや相場を知らない貴族がまんまと騙される。

 

「階段がすり減るんだ、お前の分もよけいにな!」

「だったら、あんたのおかみさんに三階への階段を掃除させなけりゃいい」

 

 差配の女房はたいそう肥えている。ゾルダートの目方くらい、ゆうに越しているだろう。

 

「わかった、わかったよ、その代わり、こっちの黒髪女が毎日階段を掃除する。それでいいよな」

 

 何を決定されたか知り得ないナナホシに代わって、目を丸くしてゾルダートを見上げてきたシンシアに、また教えた。ときには妥協も必要だ。

 

「わたしが掃除します」

「そうか? おい、こっちのガキがやってくれるらしいぜ。良かったな、こき使ってやれよ」

 

 差配は口の中で不満を呟きながら、客の注文を受け、去った。

 ゾルダートはにわかに優しい声になり、ゆるく握った拳で子供の頭を小突いた。

 

「んな顔するなって。お前が少し働くだけで俺はここに泊まれるんだ、お前が普段してることより楽だろが」

「い、いいこと、人の労働力ってただじゃないのよ、人に何かしてほしいときは、お願いしなきゃダメなの」

「お願い」

「いいよ!」

「いいのかよ」

 

 薄暗くて寒々しい階段を上がるとき、ゾルダートはシンシアを外套の中に入れた。シンシアは笑顔を見せ、仔犬のようにじゃれた。

 

「ハハ」

 

 アホなガキっていいなあ。

 扱いやすくて、ちょっと構うと懐いてくる。

 俺の養父も同じことを思っていたのだろうか。

*1
3メートル





ゾルダートの出自は捏造です。


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二五 雪かきと銭湯

 宿が決まった。ついでに階段の掃除担当も決まった。

 掃除はきらいじゃないから、別に構わないけれど。

 

 転移のあとはほとんど野営であった。家じゃない建物に泊まるのは、ボレアスの家が初めてで、次が救貧院である。

 どちらも居たのは少しのあいだだけど、どちらも楽しい日々だった事は確かだ。

 だから、今回のも、わくわくする。

 

 あの時と違うのはナナホシがいっしょにいることだ。

 部屋に入ると、むき出しの煉瓦の壁と、二重窓が目に入った。

 壁に造りつけられた燭台の蝋燭には既に火が灯せられていて、獣脂蝋燭が溶ける独特の懐かしい臭いを嗅いだ。

 長持はふたつ。寝台と机はひとつ。長持は、腰掛けも兼ねているようで、天板にやや色褪せた緋毛氈が敷かれている。

 

『ベッド!』

 

 ナナホシの目が輝き、彼女はいそいそと寝台に座って白い敷布を撫でた。

 私も上着を脱いでごろんと寝転がる。歩き詰めで疲れた体に染みた。

 

「寝るのか?」

「ううん」

 

 まだ夜じゃない。

 

「うふ」

「あん? なに笑ってんだよ」

「ゾルダートさんの顔が逆さまよ」

「お前が枕に足向けて寝っ転がってるからな」

 

 寝台から降り、暖炉に薪を投げこむゾルダートさんの横に立つ。家の暖炉と構造が少し異なるようだ。

 

「冬の間、暖炉の火はずっと燃やしつづける。だから一度火が付いたらなかなか消えないようになってるんだ。この薪の量なら、半日は持つな」

「そんなに」

 

 ゾルダートさんは馴れた手際で、火打ち石をつかって火をつけた。

 私が火魔術をつかう必要はなかったみたいだ。

 

「じゃあ、俺は荷物取ってくるからな。二人だけで外出るんじゃねえぞ」

「はーい」

 

 そうだった、なぜかゾルダートさんも同じ部屋で暮らすのだった。

 寝台はひとつだけだが、広い。三人並んで寝ても、ちょっと狭いくらいで済むだろう。

 

「……付いてくるか?」

「行く!」

 

 やった!

 暇だなあと思ってたのだ。

 

 ナナホシも誘ったが、彼女はあまりベッドの上から動きたくないようだった。

 自堕落になっちゃだめよ、と一応言い聞かせてから、彼女を宿に残してゾルダートさんと宿の外に出る。

 

 外では、先ほどまでちらちらと降っていた雪は、激しさを増していた。景色は灰色で、どの家並みも路地も同じに見える。

 はぐれないようにゾルダートさんの外套を握る。

 

「お前、そんな薄着で寒くねえの」

 

 自分の格好を見おろす。

 丁子色の上着の下は、冬服のワンピースと毛皮のブーツだが、冒険者ギルドで見た人たちはもっと厚着だったように思う。

 今着ているのは、あくまでアスラの気候の冬に対応した服であって、ラノアの気候だとこの服装は薄着に見えるのだろう。

 

「これ魔道具なの。だから寒くないよ」

「鼻の頭まっかだぞ」

「あら」

 

 フードを被る。これで頭の防寒も抜かりない。

 革の手袋を片っぽ渡され、つけろ、と言われる。

 左手用のぶかぶかなそれを嵌め、裸の右手は、ゾルダートさんの左手にすっぽり握りこまれた。

 

「ありがと」

 

 あったかい。

 ゾルダートさんは、私の右腕の肘のあたりに引っかかっている腕輪をみて、「それは何だ?」と訊ねた。

 

「腕輪よ」

「そんなのは見りゃわかる。お前の?」

「ううん、オルステッドの。失くしちゃいけないから、ずっとつけてるの」

 

 灰色の闇の奥から、ときおり、馬橇があらわれ、すれちがう。

 鈴の音は、まるで雪片がふれあって鳴っているように聴こえた。

 雪の向こうに、漆喰の剥げた二階建て三階建ての家並みを背に、火がちらつく通りがあった。

 ぼろをまとった女たちが鉄鍋を火にかけ、「ラプシャーだよ、ヘラジカの脚の煮凝りに、熱い肝臓の細切れだよォ」と、声をはりあげている。

 ゾルダートさんが顔をしかめた。

 

「あの鍋の中身は、すえた馬鈴薯に腐ったソーセージ、萎びたキャベツだ。料理屋の残飯をぶちこんだものだ」

「おいしいのかな」

「美味いわけねえだろ。犬の餌みてえな味だよ」

 

 それでも、生前私が食べていた稗粥よりは、滋養がつきそうな餌だ。

 女たちよりいっそう酷い身なりのものたちが、火のまわりを囲み、犬の餌をかっこんでいる。

 買う金もないのか、寒さをこらえて足踏みをしている人たちが、ゾルダートさんと私に駆け寄ってきて、手をつきだし、施しを乞う。

 私の手に嵌った大きな手袋を引き抜かれそうになり、身をよじると、ゾルダートさんは右手で腰の剣の柄を握るそぶりをして、彼らを追い払った。

 

 凍りついた野っ原に、板や棒杭を打ちつけた粗末な小屋がいくつかあり、そのなかには、馬がいた。

 小屋のかたわらで焚火をしている老爺に金を払い、「馬を借りるぞ」とゾルダートさんはどなり、私の腋の下に手を差し込んで抱き上げ、鞍に跨らせた。

 

 小屋の中から、藁をかきわけて子供の顔がのぞいた。

 私と同じくらいの年頃にみえ、笑みを向けると、笑顔が返ってきた。

 後ろに跨ったゾルダートさんが手綱を握り、馬は歩き出した。

 

「この辺はウラジ広場といって、娼家、泥棒宿、脱獄囚の隠れ家、乞食の巣窟が(ひし)めいてるカーリアンのごみ溜めだ。冒険者ギルドがあるのも、ここだな」

「貧しい人ばっかり?」

「ああ。農村育ちには、恐ろしいだろ」

「ううん。落ち着くよ」

「変なガキ……」

 

 乞食に、私は親近感をおぼえる。

 今世にパウロとゼニスの子として生まれ、貧窮と無縁の暮らしができたのは、奇蹟だった。

 でも、本来なら、私はあちら側なはずなのだ。

 だから、雪国の乞食に、仲間を見つけたような嬉しさを抱いた。

 革手袋はゾルダートさんに借りたものだからあげられないけれど。

 

 先ほど小屋から顔をのぞかせた子供も乞食なのだろうか。

 

「さっきのところは?」

「ジプシーの巣だ」

 

 ジプシーという言葉は、以前にも聞いたことがあった。

 ツィゴイネル、あるいはロマの家、と思い直し、ジプシーの巣という言葉を意識の外においやった。

 

 

  あたしたち、野原で花になる

  兄さん、あんたは黄色い花に

  あたしは白い花になる

 

 

 村で聞き覚えた俗謡を小さな声で歌うと、ゾルダートさんがハミングをあわせた。

 ほどなく左に折れて、一つ橋を渡った。河より低い地帯であるのか、雪は泥とまじり、乗馬している馬の蹄が何度か埋まりかけた。

 錯綜とした小路を、馬は駆け抜けた。道幅は大人が両手を広げれば両側の建物に届きそうな狭さで、そこに連なる家々は、壁が朽ち落ちた穴に板きれを打ちつけて風を防いでいた。

 

 二階建ての建物の前で、ゾルダートさんは馬をとめた。

 扉を開けると、中は濃い霧がかかったように、煙でぼんやりしていた。酒と莨と腐った食べ物のようなにおいも湯気といっしょにほとばしった。

 

「サンド、外に馬をとめてある。盗まれないように見張ってろ。ほら、早く行け」

 

 ゾルダートさんに脅しつけられ、男が転がるように外に出てきた。

 ゾルダートさんは、ちょっと入った場所で、莨の煙に目をしぱしぱさせている私を呼び寄せ、奥の木の扉に手をかけた。

 

 顎髭の老人がコップをかかげ、にやりと笑った。

 

「女連れか、ゾル坊」

 

 子供娼婦にしちゃ上玉だ、と私を松居棒のような腕で指した。

 フードが外れ、顔をあらわにしていたことに、私は気づいた。

 

「こいつの父か兄がこの場にいたら、決闘を申し込まれてるところだぜ、爺さん」

「名誉を重んじるお貴族様の子が、こんな場所にくるか」

「騎士気どりか、ゾル坊」

 

 嘲笑がさざ波のように広がり、ゾルダートさんはしらけた顔をして、奥の木の扉をあけた。

 その先は明かりがなく、闇のなかに木の階段がぼんやりみえた。

 二階にあがるのと地下におりるのとあり、ゾルダートさんは足音荒く、暗闇をかけ上っていった。

 ついて行こうか迷ったが、家の廊下とも〈陽気な酒箒〉の階段とも雰囲気の異なる暗闇に気圧され、一階の酒屋で待つことにした。

 

「お嬢ちゃん、来な」

 

 老人に膝に抱き乗せられ、戸惑った。

 コップを口元に押しつけられ、中の液体が少し口にはいる。

 

「けくっ、」

 

 喉が焼けるような味に、思わずむせた。

 老人の腕は、右は手首から先がなく、布きれを幾重にも巻いていた。

 

「おじいさん、その手どうしたの」

「凍傷で腐り落ちたのさ」

 

 五本指が揃ったほうの手が、腋の下をくすぐった。遊んでくれているのだと思い、くすくす笑っていられるうちはよかったが、そのうち、手が腿のあたりを這いはじめると、私はなんともいえない居心地の悪さを感じた。

 老人の膝から降りようともがくが、暴れるほど押さえつける力は強くなった。

 うまく言えないけれど、不安で、こわい。

 

「このあたりの淫売は、五十、六十の婆もいれば、十にもならないガキもいる。()れたあばずれより、幼いあばずれのほうが好きという男もいるんだ。おまえも〈幼いあばずれ〉か?」

「しらない」

「まて、俺にはわかる。このガキは、すでに男を知ってるぞ。そんな目をしてる」

「しらない!」

 

 私の大声は、男たちを喜ばせただけであった。

 躰を破壊される不快感を私は思い、しらない、と声をはりあげた。

 目明きだったころ、羽目板の隙間から覗き見た、オカイチョウ*1をする姉しゃんと村の男は愉しそうに見えたのだが、私のときは異なったのだった。

 乞食には親近感をおぼえるけれど、私を破壊した乞食への感情は、決めかねている。憎んだらいいのか、忘れたらいいのか……。

 

 ドタドタ階段を下りてくる音がして、扉が開いた。

 ゾルダートさんが老人と私の前に立ち、険しい顔で老人を見下ろした。

 オルステッドには及ばないまでも、長身なので、不機嫌を纏って立っているだけで迫力がある。

 胸の下に巻きついていた腕がゆるみ、私は老人の膝から解放された。

 

 ゾルダートさんの腕にしがみつくようにして階段を上った。

 

「なんでちゃんと付いてこなかった」

「暗くてよく見えなかったもん」

「あぁ? ふざけんなよ」

 

 目蓋のふちが濡れてくるのを感じ、ゾルダートさんから顔をそむけた。

 ふてくされたように映るだろうか。

 でも、ついて行くか訊かれ、頷いたのは私だから、涙が落ちるところを見られたくなかった。

 

 二階は木賃宿であった。壁沿いに五尺ほどの高さに板が敷かれ、板の下は、六尺ごとに筵を垂らして部屋を区切っていた。

 やせ衰えた老人や病人のような男たちが部屋に横たわり、あいたところで男たちが博奕に興じていた。

 

「行っちまった」

「警吏のスヴィは行っちまった」

「もう大丈夫だ」

「マルコのやつ、うまくまいたな」

 

 数人の男がどやどやと階段をのぼってきた。

 みんな、背中に大きい布包みを担いでいる。

 床に包みを広げると、青貂の外套や銀狐の襟巻き、宝石を縫いつけた華美な服などがあらわれた。

 無気力に雑魚寝していた男たちがやにわに起きなおり、服にむらがると、裁ち鋏で無造作に切り刻んだ。

 一枚の外套がいくつもの帽子や丈の短い上着になり、宝石をはずされた服は、数着のほっそりした上着にかわる。

 しかし、針を運ぶ男たちが身につけているのは、乞食とかわらぬ襤褸だ。

 

 床に盛りあがった高貴な森に、私は心細かったのも忘れ、魅入った。

 

「あれは盗品だ、盗んだ奴をそのまま市場に出すと足がつく。

 ああやって、バラして売ると証拠が残らねえ」

 

 ゾルダートさんが教えてくれた。

 高価そうな服が積み上がった山の下に、私は手巾をみつけた。レースにふちどられた手巾だ。

 

「どうした?」

「レースの編み方ね、村の教会で、友達と習ってたの」

 

 

 ゾルダートさんと私は、二階から、さらに階段をのぼった。傾斜の急な階段だ。

 私はよっぽど上段に手をついて上ろうと思ったけれど、埃で汚れた手で腕輪にさわってはいけないような気がしたので、やめた。

 

 手燭に照らされた部屋は、梁のむきだしになった天井が斜めに傾斜した屋根裏であった。

 床に山になった藁の上に毛皮が蟠っている。

 安宿にはベッドがないから藁の中に潜って寝るのだ、と父様が言っていたのを思い出した。

 

「ま、荷物なんざほとんどねぇけど」

 

 背嚢を担ぎ上げながらゾルダートさんが呟いた。

 宿に寝具があるからだろう、毛皮は置いて行くようだ。

 私は床に伏せて置かれていた真鍮の鍋に目をとめた。

 

「お鍋は? あれも持っていくの?」

「ああ、一応持ってくか」

「じゃあわたしが持つ」

 

 私は鍋の取手をもって持ちあげ、再び伏せた。

 ゾルダートさんを見上げる。

 

「ネズミが赤ちゃんのお世話してるよ」

「鼠に気ィ使ってんじゃねえよマヌケ」

「やん」

 

 ゾルダートさんは私の頭を鷲掴んで揺らし、鍋をとりあげた。

 鼠の親子は、母親を筆頭に、数珠つなぎに母や兄弟の尻尾を咥えて藁の中に逃げ隠れた。

 私たちの都合で巣は取り上げてしまったけれど、猫に食われるときまで達者でね。

 

「ねえゾル坊や」

「〝ゾルダートくん〟な? クソガキ」

「ゾルダートさん……」

 

 帰り道、馬上で話しかけると、食い気味に訂正された。

 背後からの圧でなにを言いたかったのか忘れてしまった。

 ゾル坊やも可愛らしいと思うのだが、本人はあまり呼ばれたくないようだ。

 

 道中で、ゾルダートさんは革紐を一本買った。

 

「その腕輪よこせ」

「いやよ」

「取りゃしねえよ、すぐ返す」

 

 そういう事ならいいけれど。

 私の手首には大きな腕飾りを渡すと、ゾルダートさんは革紐に腕輪を通して紐の端同士を結びあわせた。

 そして、首飾りにしたそれを私の首にかけた。

 

「わあ」

 

 落とさないように用心しながら腕に通しているより、ずっと楽だ。ありがとう、と礼を言うと、ゾルダートさんはぽむぽむと私の頭を革手袋で撫でた。

 

 

「ただいま!」

 

 宿までもどると、温かい部屋の中では、ナナホシがベッドに座り、膝に乗った猫を撫でていた。灰色で毛足の長い猫である。

 我がもの顔でくつろいでいるから、宿に棲みついている猫なのだろう。

 横に寝そべってみると、猫は私の脇腹をふみふみ揉んだ後、横にぴったりくっついて丸くなった。

 その仕草に家で飼っていた雪白を思い出し、寂しさに襲われた。

 何度視ても、雪白の行方は、母様と同じようにわからない。

 

「雪白……」

『ゆきしろ?』

 

 あの黒い毛並みが懐かしく、手慰みにナナホシの黒い毛髪を両手でわしわし撫でる。

 首をかしげるナナホシに、〈猫〉と〈かわいい〉という単語を教えてあげた。

 

 

 


 

 

 

 カーリアンに留まって一旬。

 私とナナホシは、ゾルダートさんに連れられて、冒険者ギルドに来ていた。

 

「らすたぐりずり」

「ああ、ラスターグリズリーの毛皮だ、おれのこの上着は」

 

 ナナホシが言葉を喋れないことを知ると、ゾルダートさんは毎日のように冒険者ギルドや一階の料理屋や町の酒屋に、ナナホシを連れて顔を出すようになったのだ。

 色んな奴に話しかけられたほうが憶えるだろ、とのことだ。

 

 冒険者の人たちも、最初こそ「あの男(オルステッド)は一緒じゃないのか」「ゾルダートはこいつらと居て平気なのか」と私たちを胡乱な目で見ていたけれど、じきに馴れたようだ。

 こちらを警戒しているふうだった冒険者の人たちと仲良くなりたくて、「家族と友達にはシンディって呼ばれてたの」などと色々と自分のことを喋っていたら、通称がシンディになった。

 今は顔を合わせると、あれこれと構ってくれる。

 言葉遣いや所作は粗暴だが、気のいい人たちばかりだ。

 

 いまナナホシに話しかけているのは、ガルゥディア族のルーさん。

 狼系の獣族のお姉さんである。出身はミリス大陸の大森林。

 本名は別にあるそうなのだが、人間語話者には発音が難しい名前であるらしく、ルー()と呼ばれている。

 武器は熊手の鉄爪がついた篭手だ。

 体が頑強なので、パーティでは盾役を引き受けているらしい。

 体中の至るところに傷があるけれど、凛々しい顔立ちのべっぴんさんである。

 

「ルーさんはどうして故郷を出たの?」

 

 ラノア王国は大森林からとても離れた地点にある。

 私が疑問をぶつけると、ルーさんは私を見て、おれは大森林の神に棄てられた者だ、と囁くような声で言った。

 

 狼は神聖な生き物だ。

 久米郡の貴布禰神社の境内にある奥御前(おくみさき)神社は、狼様といわれ、狼を御神体として祀っている。冬にはお祭りもある。

 前世の私の村では蛇信仰が強かったが、本来オオカミの言葉は大神の義ともいわれ、盗難や害獣除けの神聖な動物なのだ。

 

 それなのに、神に棄てられた……とは。

 大日本帝国の外では、狼はありがたい獣ではないのだろうか。

 

 彼女の中では、蝶々(ちょうちょう)と語るようなことではないのだろう。ルーさんは過去は語らず、おれが本名を明かさないのは、と話した。

 

「流れ歩くあいだに、いろいろな名で呼ばれた。

 数ある名のひとつ、〝ルー〟のほうが、本名より覚えてもらいやすくて、気に入ったのだ」

「響きがかわいくて、すてきな名前よ」

「そうか?」

 

 ルーさんは腰から生えたふさふさした尻尾を左右にふり、そーっと頭に手を伸ばしてきたナナホシに、三角の耳を倒して撫でやすいようにしてやっていた。

 

「よーぅ、いい子にしてたかぁ?」

 

 外出していたゾルダートさんが戻った。

 よほど良い事があったのか、ご機嫌だ。上機嫌のまま、私の両手をつかんで自分のブーツの上にたたせ、足踏みをした。

 

「へへ! えへへ!」

 

 たのしい。

 ルーさんがスンスン鼻を鳴らし、「娼館……いや、娼婦の自宅だな」と言った。

 

「鉛白の匂いがここまで匂ってくるぞ」

「マジ? あいつ、俺と会うときは化粧は落としてるんだぞ」

「日常的につけていれば、匂いは体に染みつくものだ。人族は鼻が悪いからな、わからんのも無理はない」

 

 ゾルダートさんが自分の袖口の匂いを嗅ぎ、まったくわからん、と眉をしかめた。

 

「年中発情期の人族は苦労するな」

「なんて言い草だよ。発情期じゃなく恋って言え」

 

 なあ? と、同意を求められる。

 でも、恋と躰の交わりは切り離せぬものだ。

 

「恋とはつじょー期のちがいってなに?」

「恋っつうのは、男と女が愉しく愛しあうことだ。

 発情期の獣や獣族は見た事あるか? たいてい決闘だのメスの取りあいだのでボロボロじゃねえか」

「うん」

「だろ? 恋は愉しいものだが、発情は、本能に追い立てられた苦しいものだ。わかったか?」

「たのしいと、苦しい……」

 

 なるほど。ちょっと賢くなった気がする。

 発情期って苦しい? とルーさんに訊くと、「体は火照るし、頭はぼんやりするし、その癖些細なことか鮮明に見えたりする。無ければいいのにと何度思ったか」と頷かれた。

 

「今日は冒険者のひと少ないね」

「ああ、はぐれ竜が……」

「出たのか!?」

 

 眼を輝かせゾルダートさんが訊ねた。

 

「まだ確定ではありませんよ」と、湯気のたつコップを出しつつ答えたのは、受付嬢のユリアナさんだ。コップは人数分ある。

 金は払ってないが、とルーさんが言うと、にっこり笑って「サービスです」と返ってきた。

 

「門番の兵士が、それらしい影と雪煙を見たというんです。偵察のために、町の冒険者は大半はそちらに行ってしまいました。ロッドナイツも、凍結のアリアも、ブラダマンテも」

「たかが偵察で? Aランクパーティが三つも?」

「少ないくらいですよぅ。今回は確認だけですけど、うっかりまともに遭遇したら、そのまま戦闘にもつれ込むんですから」

「ふーん」

「というか、ゾルダート、お前はCランクなんだから、討伐には参加できないだろう」

「いいだろ、話を聞くくらい。それに、俺はいまにSランクになるからな」

 

 出された薬湯をフーフー冷ましながら飲むと、体がぽかぽかしてくる。

 

「ドラゴンだったら、私が倒すね」

 

 顔をあげてそう言うと、ゾルダートさんとルーさん、ユリアナさんは顔を見合わせた。

 ニヤニヤしながら、ゾルダートさんが私に訊ねる。

 

「へーえ? そりゃ頼もしいな、どうやって倒してくれるんだ?」

「んとね……こう、えいってして、ぱちんってする」

 

 コップを置き、両手をパチンと合わせると、ナナホシを除いた三人は堪えきれないというふうに笑った。

 きょとんとしていると、「ぱちんってするのは、つよーい冒険者の方々の仕事ですから」とくすくす笑いながらユリアナさんが言う。

 

「やっつけてあげるのに」

「冒険者に夢をみる子供は多い、シンディもその口か」

「シンディちゃんは冒険者より、ギルドで事務員になるほうが向いてるんじゃないかしら」

 

「話が逸れましたけど」と、困り顔をつくってユリアナさんは言った。

 

「はぐれ竜のせいで、頼もしい冒険者の方々がごそっといなくなって、町の雪かきが滞ってるんです」

「雪かきやる!」

 

 やる!

 はいはいと手をあげて立候補した。私も仕事がほしい。

 

「はい! 決まりですね。それ、飲み終わったら、お願いします!」

「げー……」

「ぐるる……」

 

 ゾルダートさんとルーさんは揃っていやそうな顔をした。

 

 

 カーリアンの雪かきは、特徴的である。

 積雪をつき崩し、台車や籠に入れて、町の一所に運ぶ。

 運んだ雪は、市庁舎前の広場に積む。そして、広場の中央にある魔道具を囲むかたちで、土饅頭状にかためる。

 土まんじゅうならぬ、雪まんじゅうである。

 

 集積した雪は、中央の魔道具でまとめて溶かす。ストーブみたいな形状の魔道具である。

 カーリアンに限らず、魔法三大国の町や都市は、たいていこのやり方で除雪するらしい。

 

「よっと」

 

 二往復目。雪を積んだ籠を背負って、人々の列に加わる。

 ルーさんは雪を運搬する列の中にパーティの仲間を見つけ、そちらに行ってしまった。

 ゾルダートさんは荷車いっぱいに雪をつみあげ、苦もなく押して運んでいる。

 ナナホシは籠を前にかかえ、ちょっと重たそうに歩いている。

 

「シンディちゃん、その格好で雪かきたぁ、正気か!?」

「正気よう」

「ナナホシも薄着だし……ゾルダート、お前、妹分にはちゃんとあったかい格好させてやれよ」

「本人が平気だっつうなら別にいいだろ」

 

 声をかけてきた屋根葺きの親方に、ゾルダートさんは煩わしそうに言い返す。

 男の子が近づいてきて、すぽっと羊毛の帽子を被せてきた。

 ナナホシにはマフラーを背伸びして巻いてあげている。

 

「ありがとうね、でも、ほんとに寒くないの、へいきよ」

「いいよ、使えって」

 

 男の子は頬を紅くして、親方のもとに逃げ隠れた。

 ひとめで好意を持たれたのだとわかり、嬉しさとむず痒さを同時に感じる。

 

「返しにいかなきゃ」

「やめとけ、やめとけ、頑なに断るのも、男の矜持を傷つける」

「そうなの?」

 

 なら、雪かきが終わるまで、借りておこう。

 

「あとでお前らの防寒具も買いに行くか」

「うん」

 

 外出のたびに、周りを心配させるのは悪いものね。

 

『ふう』

「ナナホシ、疲れた?」

「疲労困憊だなした」

「ひろ……こん……」

 

 難解な語彙が飛び出してきて呆気にとられる。

 私もオルステッドも教えた記憶のない言葉である。

 

「癒しがなきゃやってられねえよ」

「きゃあ」

 

 ナナホシが莫連女*2になってしまった。

 ゆくゆくは、家の金を持ち出して遊び歩き、借金で首がまわらず芸妓になり、遊女にされてしまうのだろうか。

 

 いやいや、ナナホシに莫連の気はない。

 周囲から聞き覚えた言葉を、そのまま使っているだけだ。

 いまのは、きっと、疲れたら休みたい、って意味なのだろう。

 

 ナナホシが抱えていた籠をゾルダートさんが押す荷車の上にドスッと置くと、ナナホシはほっと安心した顔になった。

 

「疲れたのか?」

「そうみたい」

「荷車に乗っていいぞ」

「ほんと!」

 

 ナナホシを荷車の雪の上に座らせても、ゾルダートさんが押す荷車の速度はまったく落ちない。父様みたいに力持ちだ。

 でも、周囲の人にくすくす笑われ、ナナホシは恥ずかしそうに荷車から降りてしまった。

 

 小さな女の子が白い息を吐きながら近寄ってきて、「お姉ちゃん、こうするといいよ、楽だよ」と手ぬぐいを広げ、雪をつつんで持ち運んでみせた。

 同じ年頃の少女は平然と運んでしまえる量でも、ナナホシには一抱えもある籠は重すぎたのだ。

 彼女は手ぬぐいと、女の子と、私を見くらべ、

 

『私、そんなに非力……!?』

 

 と、衝撃を受けた顔でつぶやいた。

 落ち込んでいそうだったので、背中をぽんぽん叩いてあげた。

 

 

 ギルドと宿の前の雪が大方なくなるころ、広場の雪まんじゅうもかなり大きくなっていた。

 広場にルーさんを見つけ、駆け寄って声をかけた。

 

「ルーさん!」

「シンディか、元気だな」

「体力ならあるもの」

 

 胸の前で片腕を曲げ、力こぶを強調する格好をする。力こぶはないけれど。

 

「これは、溶かすのも苦労しそうだな」

「A級の魔術師は全員町の外だろ? どうするんだろうな」

 

 ルーさんと合流した私たちの横で、男が二人、雪を見あげて話していた。

 私の出番だろうか。

 杖を持っていないし、一人前の魔術師ではないが、魔力ならそこそこ多いほうだ。

 雪を溶かすのに尽力できるかもしれない。

 

「行ってくるね」

「どこにだよ」

 

 魔道具のほうに行こうとすると、ゾルダートさんに頭を掴んで止められた。

 それと同時に、「おい、仕事だぞ、フェリム」と雪山の上から胴間声が飛んできた。

 

「へい!」

 

 私たちの横を、少年が走って通りすぎた。

 栗色の髪の、長い耳の先がつんと尖っている細身の少年だ。

 

 彼は梯子を登って雪山の上に立つと、ひらりとその身を踊らせて中央の穴の中に飛び込んだ。

 次の瞬間、もうもうと水蒸気が広場に立ちこめる。

 視野が開けると、広場にあれだけ集まっていた雪はまるっと消えていた。

 

「おお!」

「すごーい」

 

 圧巻の光景であった。拍手と歓声が広場に満ちる。私も拍手で讃えた。

 広場の中心では、さっきの耳の長い少年が、魔道具に手をくっつけたまま、疲れたようにうずくまっていた。

 やがて、彼を呼ぶ声に急き立てられるように立ち上がり、去っていった。

 

「今の、冒険者か?」とゾルダートさんがルーさんに問いかけた。

「わからないが、多分、違う」ルーさんが答えた。

 

「あの量をまとめて溶かしたのに、魔力が枯渇した様子もなかった。もし冒険者だったら、とうに有名になっているだろう」

「だよなぁ。もったいねえ……」

 

 名残惜しそうに、ゾルダートさんは少年が去ったほうを眺めていた。

 

「まあ、いいか。シンディ、ナナホシ、お前ら体冷えただろ? 銭湯に連れていってやるよ」

「いいな、おれも行く」

「ああ、一緒に行こうぜ。こいつら初めてだろうし、面倒みてやってくれよ」

「わかった」

 

 ギルドで雪かきの報酬を受けとり、ゾルダートさんは私たちを連れて銭湯に向かった。

 異国のこの地に銭湯があるとは、思いがけないことだ。

 いつも、湯に浸した布で体を拭くだけでがまんしていた。

 前世の据え風呂を懐かしく思うことさえ忘れていた。

 

「たのしみ! 銭湯!」

 

 

 


 

 

 

 

「くるしい……」

『暑い……』

 

 息がつまって、鼻の穴がちりちり焼ける。

 私とナナホシは、たちまち、蒸し風呂から流し場に逃げ出した。

 流し場も熱い湯気がたちこめていて、のんびりくつろぐどころでなかった。

 異国の銭湯は、私の想像とまるで違った。これでは拷問だ。

 

 蒸し風呂は板でかこまれた(むろ)で、入り口に近い隅に石を積んだ竈が据え付けられていた。

 熱せられたかまどの石が、風呂場内の空気をじゅうぶんすぎるほど暖めていた。

 蒸し風呂の壁際に造りつけられた長椅子や、床上三尺の高さの板張りの段々に、人々は座り、あるいは寝そべり、汗を流すのだ。

 

 かまどの石の上に柄杓で水をかけると、大量の蒸気が出る。

 大きな石を土嚢状に積んだ隙間に小石がはいっているので、炎の舌がかまどの外に出ない。この竈を石積みかまど(カーメンカ)という。そんなルーさんの説明を聞いたあたりで、私とナナホシは蒸し風呂から逃げ出したのだった。

 

 富豪や貴族のための浴場は広々として豪奢だそうなのだが、ゾルダートさんが私たちをともなったのは、平民専用の木造平屋の銭湯で、人がごった返し、蒸し場も流し場も床の板が腐ってぬるぬるしている。

 

 蒸し風呂は男用と女用で分かれていても、流し場の仕切りはない。

 ナナホシは男女混合の流し場に出ることに抵抗があったようだけれど、かといって蒸し風呂にいるのも地獄の責め苦だ。

 今はあきらめたように、流し場の縁台に腰かけている。

 周りが裸で平然としていれば、ひらきなおって堂々とできるものだ。

 

「そんなんじゃ体が温まらないだろう」

「ゆ、許してください」

「何を?」

 

 背の低い出入口から追って出てきたルーさんが、私とナナホシを連れ戻そうとする。

 あれ以上あそこにいたら、蒸しまんじゅうになってしまう。

「馴れれば心地よく感じる」と励ましの言葉をかけ、ルーさんはナナホシを縁台にうつぶせにさせ、熱湯に浸してやわらかくした、白樺の小枝で作ったはたきで背を叩いた。

 

「あっちぃ、死ぬ……」

 

 男用の蒸し風呂から出てきたゾルダートさんが、私たちの近くに寄ってきて、真っ赤な肌で床に座りこんだ。

 ナナホシがさりげなく顔の位置を変え、ゾルダートさんの裸から目をそむけるのを見て、ルーさんがくすりと笑う。

 ゾルダートさんは私を床に腹這いにさせ、同じく白樺のはたきで私の背中を打った。思いのほか痛いので驚いた。

 そもそも、どうして打つの。

 

「どうしてぶつの」

「そりゃあ……あー、たしか、白樺には、病や悪霊を払う力があって、白樺の枝で打たれるほど健康になれる……らしいからだ」

「じゃあ仕方ないね……」

 

 厄祓みたいなものか。

 なら耐えなければ、と私は諦めて顔を伏せた。

 

 

「ゾルダート!」

 

 女の人が近寄ってきて、ゾルダートさんにやわらかく抱きついた。

 年頃は十八、九くらいだろうか。二人とも裸だけれど、あいだにただよう空気は淫猥ではなく、友達のような親しさだ。

 

「カノン、来てたのか」

「ええ。仕事の前に、一汗流したくて」

 

 カノンさんというらしい彼女は、私に目線をよこし、「あなたが、シンディね」と笑顔をむけた。

 

「そうよ、でね、こっちの子が」

「待ってね、当てるわ。……わかった、ナナホシでしょ!」

「うん!」

 

 いえーい、と言いながら手のひらを出された。

 いえい! と返し、彼女の手のひらに自分の手をあわせて鳴らす。たのしい雰囲気の人だ。

 

「カノンさん、お仕事って何するの?」

「男の人をよろこばせるお仕事よ」

「へぇ」

 

 それが何であるかわからないほど無垢でもないので、踏み込むのはやめた。

 カノンさんは、うつぶせに寝た男の腰に乾いたはたきを乗せ、呪いをとなえながらはたきの上を斧でそっとたたいている骨接ぎ婆さんを指さし、「あの人が、わたしのおばあちゃん。腰痛を治しているのよ」と教えてくれた。

 

 流し場には粗末な縁台がいくつも置かれ、裸の男や女が寝そべっている。その背中に、吸い(ふくべ)や蛭による放血をおこなう床屋がいる。

 床屋が蛭をかるく火で焙ると、蛭は一瞬で逆向きに丸まって、ぽとりと客の背中から落ちる。床にはときどき蛭の死体が落ちていて、足元を見ていないと、ときどき踏んづけてしまうのだった。

 菩提樹の靭皮製の垢すりで、体を擦らせているものもいる。

 

「妹もいるわ、ちょうど、あなたと同じくらい」

 

 そう話しているあいだにも、たえまなく汗は流れる。

 床を流していた少年が、そばに寄ってきた。大きい桶の水を私とゾルダートさんの頭からぶちまけた。

 蒸しまんじゅうは心地よく冷えた。ぬるついた板の感触もいっときましになった。

 

「お前!」

 

 片手で顔の水気を払ったゾルダートさんが三助の少年の顔をみて、声をあげた。

 

「広場で、雪を溶かしたやつだよな?」

「ここの三助だったのか、魔術師かと思ったが」

 

「魔術師だ」と、彼はゾルダートさんとルーさんに胸をはった。

 

「これでも、もとは戦士集団(ガログラス)の魔術部隊」

「戦士集団ぅ!?」

「……の、訓練兵だった」

 

「吸玉、やる?」とルーさんに訊き、彼女が首を横にふると、ルーさんの手からはたきをとり、寝な、とナナホシと入れ替わりで縁台にうつ伏せにさせ、背中をはたき始めた。

 

「俺は貧しい山岳地帯の出でさ、サザラスタ山ってわかる? あの辺の麓にある集落だよ、若者を兵士として売ることで生活が成り立ってるようなところなんだ。

 そんで、俺は元々はただの牧童だったんだけど、魔術がちょっと使えたから、十歳のときに同じ村のやつらといっしょに売られた。考えられないよな。だって周りは十五とか、十六なのに、俺だけたったの十歳だったんだからさ」

「いまは幾つだ、なぜ三助になった?」

「十五さ。チビでひょろっこいから他の訓練兵に下に見られて、ムカついたから、契約ほっぽり出して逃げて、ここで下働きしてるんだ」

「長耳族なら、鍛えても細身なのは仕方がない」

「クォーターだよ。母ちゃんがハーフエルフ。俺は一度も会ったことないけど、祖母が長耳族だっていうよ。

 そうだ、名乗ってなかったな。

 俺の名前はフェリムファムール。フェリムって呼びなよ」

 

 フェリムはしきりにルーさんに話しかける。

 一目で好意をもったのだ。ちょっとほほえましい。

 

「魔術は使えるのか?」とゾルダートさんが訊ねた。

 

「ああ。火魔術なら中級まで、それ以外の属性は初級をいくつか」

「十分冒険者としてやっていけるんじゃねえの、三助じゃ休み無しで薄給だろ」

 

「考えたこともなかった」彼は目をぱちくりさせた。

 

「でも、できないや。杖は親方に取られてるし」

 

「フェリム!」床屋に呼びたてられ、少年は走っていき、床に流れた吸玉の血を洗いにかかる。水は床の穴から流れ落ちる。

 ほかにも数人、十代の子供から二十半ばくらいまでの三助がいて、客の背中をはたきで打ったり、背中を流したりしている。

 

 魔法三大国より東、小国が集まる地帯では、戦争や内乱のために戦士の需要が高い。

 小国の戦闘にガログラスとして雇われるのは、牧羊と狩猟で暮らす山岳地帯の貧しい男たちが手っ取り早く生計をたて得る手段の一つである。

 北方大地には、ガログラスの集団が幾つもあって、それぞれの統率者が、小国の領主や王様と契約している。

 

 そんなゾルダートさんの説明を、カノンさんが持ってきてくれた薬草を煮出した汁で、髪や顔を洗いながら聞く。肌と髪がきれいになるらしい。

 口に誤って入り、苦味とエグ味が口の中にひろがった。うえっと舌を出す。

 

「にが!」

「おれもこの匂いは苦手だ」

「ナナホシ、あんた髪洗うの下手っぴねえ、あたしがやってあげるわ」

「……」

 

 カノンさんに放置されて面白くなさそうなゾルダートさんの横に移動する。

 よしよし、私はちゃんとガログラスの説明聞いてたよ。

 

 湯気でいままで気がつかなかったが、ゾルダートさんは傍らに革袋を置いていた。

 私がオルステッドに渡され、ゾルダートさんに預けた財布である。

 荷物なら脱衣場にある籠に預けられる。蒸し風呂はむんむんと熱いが、脱衣場は戸口から雪が吹き込んでくる中で服を脱いで裸にならねばならないので、辛かった。

 

 私が脱衣場のほうに視線をやったとき、怒鳴り声、わめき声が、脱衣場のほうから聞こえた。

 数人の男たちが寄ってたかって一人を押さえつけていた。

 出口に近い柱に男は縛りつけられ、風呂番、三助、骨接ぎ婆、床屋、浴客、その場にいあわせた人々が、かわるがわる楽しそうに殴りつける。

 

「ゾルダートさん、あれなに?」

 

 訊ねたときには、既に横に彼の姿はなく、あら? と思っていると、ルーさんが指さして居場所を教えてくれた。

 

「死ねオラァ!」

「もう殴りにいってる……!」

 

 暴力をふるうのに躊躇はいっさい無いらしい。

 集団暴力に嬉々として加わっていたゾルダートさんは、すっきりした顔でもどってきて、私に紐を通した腕輪を渡した。

 

「……?」

 

 脱衣場に服といっしょに置いてきた腕輪である。

 どうしてゾルダートさんが持っているのだろう。

 

「盗まれてたんだよ、板の間稼ぎには気をつけろよ」

 

 湯気で熱いはずなのに、一気にからだが冷えた。

 

「とっ、取り返してくれて、ありがとう……」

 

 あやうく、オルステッドに叩かれて、ぺしゃんこになるところだった。

 私は革紐を首にかけて、腕輪をしっかり握った。板の間稼ぎが縛りつけられた柱に近寄り、カノンさんから白樺のはたきを借りて、板の間稼ぎの腕を重点的にバシバシ叩いた。

 

「もう!」

 

 ほんとに、まったくもう!

 服なら盗まれても許すけれど、腕輪はやめてほしい。

 

 

 その後、真っ赤に蒸し上がりそうなナナホシに、水魔術で水をかけて冷やしてやる。

 すると、私が魔術を使えるとは思っていなかったらしいゾルダートさんとルーさんに驚かれたり、無詠唱を珍しがられたりしながら、カノンさんとルーさんと別れ、私たちは帰路についた。

 

「銭湯病、銭湯病、切り株へ、丸太へ、冷水へ」

「?」

 

 思い出したように唱えたゾルダートさんに、首をかしげる。

 そういえば、銭湯から出る人たちも、同じことを唱えていた。

 

「病気をもらわないまじないだ。

 どんなに用心しても、人は病にかかるし死ぬけどよ、気休めにはなるだろ」

 

「ナナホシはとくに、弱そうだしな」と、ゾルダートさんは、背負っているナナホシをちらりと見た。流し場の湯気でのぼせてしまったナナホシは、ぐったりと脱力した体をゾルダートさんの背中に任せている。

 

「銭湯病、銭湯病、切り株へ、丸太へ、冷水へ」

 

 真似て呪文をとなえる。

 その後でシソ送りの呪文もとなえると、ゾルダートさんに不思議そうな顔をされた。

 

 カーリアンで過ごして一旬め。

 毎日知らないことや、初めてのことばかりである。

*1
性行為の隠語

*2
不良少女の意味。明治期はこう呼ばれた。






北方大地にロシア式風呂があってもおかしくないよね。

【オリ種族】
ガルゥディア族
狼の獣族。アドルディアから分化した種族。
種族名の由来は、人狼を意味するフランス語ルー・ガルーから。

感想、評価よろしくお願いします。作者のモチベになります。


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二六 アストラリウム

加重平均値も8.00越えだー!やったぞー!
読者の皆さんのおかげです。感想と評価およびブクマもいつも励みになってます。
原作でいったら序盤も序盤の時期なのに推薦も二つも書いていただいてるのも自分的にはすごくすごいことです。
たまじさん、愉悦部出身さん、この場を借りてありがとうございます。




 朝、布団の中で目がさめる。

 暖炉側のとなりにはナナホシが、窓側のとなりにはゾルダートさんが寝ている。

 昔に、シルフィ、私、兄で並んで昼寝をして、起きたあと、兄がふと「川の字だな」と言ったことがある。あんな感じの並びだ。

 

 ゾルダートさんの腹を膝立ちで跨ぎこえて、寝台を降り、窓にかかっているカーテンをあける。

 カーテンは差配のおかみさんが縫ったものだ。黄麻を二枚重ね、あいだにフランネルの芯をつめてある。厚手の上等な布地は買えないから、代用だと言っていた。

 代用でも、厚いカーテンは、寒気をさえぎるのにたいそう役に立つ。

 

 昨夜も少し雪が降ったらしく、外には雪が薄く積もっている。

 暖炉に泥炭をくべ足してから、寒さに震えながら寝巻きを脱いで着替えた。

 

「……」

「おはよう、ゾルダートさん」

「んぁ……はよ」

 

 ゾルダートさんも起きた。

 彼は少し眠たそうにしながらも、私と同じように寝台から出て、着替えを暖炉の前で温めはじめた。

 すごい。ああすれば、素肌に触れる服の冷たさに震えなくて済むのだ。

 自分の分は明日からやってみるとして、私は次に起きてくるであろうナナホシの着替えを温めてやることにした。

 

「焦がすなよ」

「わかってるもん。おはよう、ナナホシ」

「……」

 

 寝ぼけまなこのナナホシは、着替えた服の温さが心地よかったとみえ、ほっこりした顔で私を抱きしめた。

 温まった布地が頬に触れて心地よい。

 

 鐘の音が聞こえてきた。

 市の人々は、この鐘が鳴ったら、それぞれ仕事を始めるらしい。しばらくすれば、今は静かな外も活気づいてくるだろう。

 一階の料理屋で、朝食を食べたあとは、バケツに魔術で湯を溜めて階段の掃除をする。

 

 私が魔術を使えることを知ったとき、差配のおかみさんは私に毎日水甕をいっぱいにするように頼んだ。

 快諾しようとした私をとめ、ゾルダートさんは甕一つにつき銅貨三枚払うようにおかみさんに交渉した。

 交渉の結果、私がおかみさんのために魔術を使う話は無くなり、私はゾルダートさんに言われた。

 

 ――お前には想像もつかないだろうが、学問や知識を豊かにし、魔術を修得するのは、俺たち庶民共のあいだでは、財貨を積むのと同じくらい価値がある。お前が無償で魔術を使うのは、お前の親父とお袋が積んだ金をドブに捨てるのも同然なんだよ。

 

 考えもしなかったことにめんくらっている私に、「だから他人のために魔術を使うときは、必ず対価をもらえ」と、ゾルダートさんは言い含めたのだった。

 

「おかみさん、階段掃除おわったよ」

「あんたも律儀だねえ、毎朝やるんだからさ」

「病気をよぼうしたり、快適に過ごすためにもお掃除は大切、ってお母さんが言ってたから!」

「はいはい、そうだね。おつかれさん」

 

 雑巾を濯ぎ、バケツの中の汚れた水を捨て、台所のおかみさんに声をかけると塩漬け(にしん)を一切れ口にほうりこまれた。

 洗濯屋で働いている差配の夫婦の長男が、宿の汚れ物を抱えあげて仕事場に行くのを無言で手をふって見おくり、鰊をもちゃもちゃ噛みながら部屋にもどる。

 

 部屋では、ゾルダートさんとナナホシが外出の身支度をしていた。

 

「行くぞ」

「どこに?」

「鐘楼だよ、昨日見たいって言ってたろ。おら、さっさと着ろ」

「そうだった……」

 

 城塞都市には、たいてい機械仕掛けの時計がある。

 カーリアンも例に漏れず時計があるそうで、昨夜その話を聞いた私が、見たいとゾルダートさんにお願いしたのだ。

 防寒具で体を雑に包まれ、もぞもぞ動いて袖を通した。

 

 ゾルダートさんは私とナナホシの望みを聞いてくれる。

 博奕に行って夜更けに酔って帰ってくることもあるけれど、できるかぎり傍に居ようともしてくれている。

 仕事だから、と彼はそれが苦ではないようだ。

 

「だが、その前に銭湯に行ってからな」

「寒いの?」

 

 こんな朝から営業してるかな。

 心配していると、いや、とゾルダートさんは首を振った。

 

「三助のフェリム。憶えてるか? そいつに用がある」

 

 憶えている。ルーさんに一目惚れした様子だった少年だ。

 ナナホシとゾルダートさんと三人、紗を敷いたように雪がうすく積もった道を歩いていく。

 カーリアンにきてそろそろ一月になるが、鉛色の空が晴れたときをまともに見たことがない。

 

「……」

 

 向こうから歩いてきた三人の冒険者らしき男がゾルダートさんを見て、顔をしかめた。

 そのうちの一人――剣を腰に差した男と、ゾルダートさんの肩が、すれ違いざまにドンッとぶつかる。

 

「ハッ、いい気なもんだな。今日もぬくぬくガキのお守りか」

「……チッ」

 

 ゾルダートさんのこめかみが怒りで引きつった。

 不穏な空気は感じとったらしいナナホシと、はらはらしながら見上げると、伸びてきた手がやや強い力で私の頭をぐしゃりと撫でる。

 ローブを着て杖を持った男は肩をすくめ、毛皮のベストを着た戦士風の男は、ぶつかってきた男と共にニヤニヤ笑いながら、去った。

 

「あの人と仲わるいの?」

「まあな」

 

 ゾルダートさんは避けようとしたのに、わざとぶつかってくるなんて。

 私はちらりと後ろを向き、そっと手のひらを祈る形にあわせた。

 

「うおおお!?」

「冗談だろボリス!?」

「ハッハッハ! こいつ、スっ転びやがった!」

 

 私の足元から、薄くだが、蛇が這ったような跡がゾルダートさんにぶつかってきた男まで伸びている。

 男は()()()踏み固まった雪で足をすべらせ、尻もちをついて転んだ。

 もちろんゾルダートさんは何もしていない。

 

 振り返ったゾルダートさんは指をさして男を笑った。

 男は顔をゆがめ、てめぇ憶えてろ、と喚き、拳をふりあげた。

 

「明日には忘れてら!」

 

 ゾルダートさんはそう叫び返し、悠々と前を向いて歩き出した。私とナナホシもつづく。

 

「スッキリした?」

「あぁ、少しはな」

 

 少しは、ってことは、足りない?

 でも、個人的な恨みもない、呪殺を依頼されたわけでもない人を殺してしまうのも気が引けるので、あれ以上の復讐は、ゾルダートさん本人にしてもらおう。

 

 

 銭湯小屋の前は騒擾としていた。

 一人を囲むように、複数の男があれこれと言い争っている。

 何かのきっかけで爆発し、殴り合いになりそうだ。

 

 白樺の小枝を山とつんだ馬橇のそばで、十二、三歳ほどの三助が数人、しゃがんで手のひらを擦り合わせて温めている。

 こんな騒ぎでは仕事にならないと思い定め、休憩しているようだ。

 ゾルダートさんはその中にいる年嵩の少年を引っ張り出し、こちらに連れてきた。

 

 フェリムファムールだ。

 銭湯小屋の中では、たちこめる湯気のせいで明瞭ではなかったが、明るい場所で見ると、紅梅色の瞳と長い耳、そして顔立ちまで、彼はシルフィ――というよりは、ロールズさんに似ている気がした。

 同じ種族の血をひくと、顔もなんだか似ているように見えるのだろうか。

 

「何かあったのか?」

「風呂(がしら)の倅が、白死病に」

 

 風呂頭というのは、銭湯で働く人たちを監督する人のことである。

 ゾルダートさんは驚き、両腕を広げて私とナナホシを後ろに下がらせた。その反応を見て、フェリムは慌てて手を振って否定した。

 

「まだそうと決まったんじゃないよ。ただ、病気にかかったことは確かなんだ。頭が何の病気か口を割らねえから、手代の兄さんたちが白死病を疑ってるってだけさ。

 三助からも手代からも、白死病は出てない。ほら、この通り。そこまで怖がらないでくれよ」

 

 フェリムは急いでズボンを少しずらし、袖もまくって素肌をみせた。

 熱い湯気が充満する場所で一日中働くからか、腕には赤黒い瘡蓋がいくつかできていた。

 

 白死病。

 母様から聞いたことがある。

 鼠径部と腋の下に白い斑点のような痣ができ、全身が膿崩れた者は数日のうちに、血を吐いた者は即日死ぬ。

 稀に、膿が抜けきって生還する幸運な者がいる。生還した者は耐性ができ、二度と罹患しない。

 ラプラス戦役前は、白死病のせいで国民の三分の一以上を失い、滅んだ国もあるという。

 感染力が高く、対応する解毒魔術もない恐ろしい病気だったのは、今は昔のこと。

 大国――ミリス神聖国やアスラ王国などでは、罹患者を隔離する体制が整っているから、現在はさほど恐れなくてよいのだとか。

 

 思い描くのは、地図上のラノア王国の小ささである。

 伝染病の対策は大国ほど万全ではないのだろう。

 じゃあ、この場にいるのって、あんまり良くないのではないか。

 

「通せ、通せ。頭のヨナタンはどこだ」

「冒険者ギルドの依頼で来た。病人を見せろ」

 

 熊みたいな大男と、その肩に座った少年の二人組が、人をかき分けて現れた。

 たしか、大男がガリバーで、少年がトイリーだ。

 二人とも同じパーティの冒険者である。

 

 ヨナタンと呼ばれた中年男は味方を得たというふうに、手代や三助たちを睥睨した。

「さっさと仕事に戻れ。いいか、少しでもサボってみろ、そいつは馘首(くび)だ」と怒鳴る番頭に、三助はさっさと持ち場に戻り、手代はしぶしぶ不満顔で仕事に戻った。

 

「トイリー!」

「ゾルダートか。どうした?」

「俺も行く。手伝わせてくれ」

「構わないが、お前……」

 

 その娘たちはどうするのだ、というふうに、トイリーさんが私とナナホシを見た。

 ゾルダートさんの仕事はナナホシと私の護衛だ。伝染力の高い病に罹患した者がいる場所に、私たちを連れていくべきではないのだろう。

 

「フェリム、手代どもに話は通しといてやる。そいつらを、陽気な酒箒邸まで送ってくれ」

「いいけど、何で? あんた、あの人らの仲間ってわけ?」

 

「もし、白死病だったら」ゾルダートさんは声をひそめた。

 

「銭湯小屋は、まず潰れる。てめぇは路頭に迷う。三助は、ふつう10から13歳のガキがなるもんだ。15のてめぇを雇う銭湯小屋なんぞないだろう。冒険者をやろうにも、ガログラスの魔術部隊からくすねてきた杖も、必要な装備を揃える金もねえ。違うか?」

「違わない、けど……」

「杖は番頭の親方が保管してるって言ったよな?

 俺が杖を取り返してやるよ。その代わり、フェリム、てめぇは冒険者になって俺とパーティを組め。いいな?」

「わ、わかったよ」

「よし、頼んだぜ! 俺の妹分どもだぞ、宿までしっかり守ってくれよ」

 

 ゾルダートさんはフェリムの背中をバシッと叩き、計画をすべて横で聞いていた私に向け、口の前で人差し指をたてた。

 うなずくと、ゾルダートさんはニヤッと笑い、ガリバーさん達を追いかけた。

 

「フェリム……さん? フェリムさん」

 

 ぼーっとしているフェリムに声をかけると、彼ははっとして、「フェリムでいいよ、さん付けなんてされたことない」と決まり悪そうに言った。

 

「俺、訓練だけで、実戦で戦ったことなんてないよ」

「そなの」

「なのに、なんで俺をパーティに欲しがるんだろ」

「えとね……」

 

 一緒に過ごして一月足らず。

 ゾルダートさんの人柄も、少しづつわかってきた。

 彼は暴力が日常に馴染んでいる青年だ。剣士という点では父様といっしょだが、父様との最大の違いはそこである。

 

 例えば、目の前に喧嘩中の知りあいがいるとする。

 胸ぐらを掴み合い、今にも手だの足だのが出そうな一触即発の雰囲気だ。

 父様は、話し合いで済む事柄であればそうしようと努める。

 渦中の者たちを引き離し、互いの話を聞き、解決の糸口を探る。

 

 ゾルダートさんに話し合うという選択肢がない。

 初手が拳、次手が蹴り、極めつけは「表出ろや」と言って相手方を外に出し、自分は内にのこって扉を障壁物で塞ぎ、喧騒の火種を表にしめだす。

 そして、扉をたたく益荒男のがなり声を背に封じこめ、自分の傍で勃発しそうだった喧嘩におろおろしていたナナホシに良い笑顔を向ける。

 

 こんなふうに、身内と定めたものには優しく面倒みも良いが、とかく手が早いのだ。

 今日、肩をぶつけられた時に舌打ちでやり過ごしたのも、かなり堪えたほうである。

 

 ルーさんいわく、冒険者には個々の強さだけではなく、協調性も必要らしい。

 階級が上であるほどパーティには理性的な人間を必要とする。

 強さは折り紙つきだが、カーリアンのB、C級パーティがゾルダートさんを仲間に加えたがらないのもそのせいだという。

 ああいう手合いは、自分がリーダーになってパーティメンバーの面倒をみる立場になれば、あんがい大成するのだがな。とも言っていた。

 

 だから、多分だけれど、ゾルダートさんは自分のパーティを作りたいのだ。

 そのためにフェリムを勧誘したのだろう。きっと彼に見所を見つけたのだ。

 

「フェリムのことを好きになったのよ」

「え……!?」

 

 つまり好きになったということである。

 私がゾルダートさんに代わって理由(わけ)を伝えると、フェリムは驚いた顔で、自分の両腕を撫でさすっていた。

 

 

 


 

 

 

 時計を見に行く予定だったことを告げると、フェリムは宿に戻る前に教会に寄ってくれた。

 ミリス式教会前の広場の角に、円盤をとりつけられた鐘楼が建っている。

 円盤には長い針が一本。鐘の両隣には、教会の雑務係の服装をした合金の人形が立っていて、手には槌を持っている。

 初めて時計を見たことをフェリムに伝えると、彼はちょっと誇らしげに説明してくれた。

 

「第一時、第三時、第六時、第九時*1になると、あの人形が槌で鐘を鳴らすんだ」

「そうなの? でも、いつも一日に八回なってるよ?」

「真夜中に近い朝課、夜明けの賛課、たそがれの晩課、一日の終課にも、鳴らす。ひぃふぅみ……ちゃんと八回だ」

「ほんとだ」

 

 何百年も昔は、都市であっても田舎の村と同じように日時計で時間を判別し、太陽が出ていないときは水時計で代用したらしいが、北方大地では冬は水は凍りつく。

 だから、昔は、季節によって時間は異なったそうだ。

 機械装置の時計でも、一日たつうちに、少なくとも一時間の誤差は生まれるそうだが、そのくらいなら誰も困らない。

 

 がたぴし音がして、二体の人形が動きだした。

 

「あ、鳴った」

「鳴った!」

 

 ほんとに人形が動いた!

 二体の人形は、交互に鐘を打ち鳴らしている。

 これは第三時の鐘だろう。宿にいるときは優しく聞こえていた音色だが、そばにいると大音量だ。

 

「時計といえば、アスラの王都には、時計屋って意味のダッロロロージョって姓があるんだってさ」

「あ、知ってるよ。天文時計を発明した人に、王様が、えらいねって褒めて、名字をあげたんでしょ」

 

 リーリャが教えてくれた。

 名誉の称号ダッロロロージョ姓を与えられた初代の職人は、後にアストラリウムという、がんき車と歯車で動く新たな天文時計を作った。

 それはとても複雑な時計で、製作者が亡くなると、誰も正しく作動することができなくなった。

 時計は錆びついたまま三英雄の一人、ペルギウス・ドーラのもとに送られ、ペルギウスは熟練の時計職人だったジャンネロに、アストラリウムの完全な複製を作らせることによって、時計を作り直すことに成功した。

 二代目のアストラリウムは、上空を飛ぶ空中城塞で、今も時を刻み続けているという。

 そんなオチがおとぎ話みたいな昔話である。

 

 地面に巨大な影が映り、空を見上げると入道雲に見紛う城がはるか宙を漂っていて、「たぬき! たぬきが化かしてる!」と急いで母様に知らせたのが四歳のとき。

 薬草園の手入れをしていた母様は、驚きも慌てもせず、「あれが空中城塞、あそこにペルギウス様が住んでるのよ」と、教えてくれたのだった。

 でも、その母様も、子供のときに両親や教師からそう教えられただけで、ペルギウスや、地上に降りた空中城塞を実際に見たことはないそうだ。

 母様に限らず、父様もリーリャも、村でいちばん年寄りのおばあさんに訊いても、答えは同じだった。

 

「空中城塞ってどうしたら行けるかな」

「急に話変わったなぁ」

 

 とつぜん、フェリムの腹がグゥグゥ鳴った。

 長耳族の血をひくものは細身だが、それにしたってフェリムは痩せている。

 私はブーツを片方脱ぎ、底から銀貨を取り出した。

 金は小分けにして持ち、強盗にあったら少しずつ差し出すといい、とゾルダートさんに教わったのだ。

 ナナホシも同様に、体のあちこちに金を隠している。

 

 これで何か買っていいよ、と銀貨を渡すと、フェリムは邪気のない笑みを浮かべ、銀貨をもって市場で凍った鱘魚を一尾買った。おつりは彼の懐に入ったようだ。

 フェリムは広場の隅にしゃがみこみ、ポケットに入れていた小さな刃物で魚の頭を落とし、身を薄く削いで口にいれた。

 次に削いだ身は私に、そしてナナホシにも渡した。

 

 フェリムを真似て、くるりと鉋屑のように丸まった白身を口に入れる。凍った生魚は、しゃりっとした口当たりで、生臭さはない。

 寒い季節には魚だけではなく、獣の肉も生で食べるのだとフェリムは言った。火を通してから食べると、体の調子が悪くなってしまうらしい。

 

「仕留めたスノーバックを一日置くと、胃袋の中が発酵して、腹が大きくふくらむ。こうなったスノーバックの肉は酸っぱくて、たらふく食うと酔っぱらって体もあったまるらしいんだ」

「らしい? 酔うほど食べたこと、ないの?」

「贅沢できるほど給料はもらってねえや。

 年に一度、風呂頭が俺たち三助にもスノーバックの肉を食わせてくれるけど、少ないから奪いあいの戦争だ」

 

 削った身を口に運び、ときどき私とナナホシにも分けながらフェリムは喋る。

 私は舌が冷えて喋りにくくなってきたけれど、フェリムは平気そうだ。

 

「これ、なに?」

 

 ナナホシが手のひらに置かれた削り身を指さし、たどたどしく訊く。

「カルーガの削り屑(ストロガニーナ)」と答え、フェリムはじっとナナホシを見つめた。

 

「よく見ると、あんたも可愛いね」

「?」

 

 ナナホシが首をかしげて見つめかえす。

 フェリムは茱萸の実みたいに頬を紅くした。

 

 食べ残した骨は煮込んでスープにするらしく、フェリムは大事そうに鱘魚の頭と骨をポケットにしまった。

 フェリムとナナホシと宿へ向かおうとしたとき、鐘楼の下に向かってくる人影に気づいた。

 前かけをした料理人風の男と、十一、二歳くらいの少年だ。

 男は怒った形相であり、少年は泣き顔で、男に首根っこをつかまれて無理やり歩かされている。

 

「こそ泥のジョシュだ」フェリムが少年を指さした。

 (まぐさ)を積んだ荷車のそばで談笑していた男女が、彼らに好奇の目を向ける。

 

「盗みは、三度めに捕まったとき、利き手と反対の手を切り落とされる」

「あら……」

「って事になってるけど、実際に切り落とす奴はほとんどいない。罰する方だって、外道じゃないもんな」

 

 それなら少し安心である。

 そのまま眺めていると、男は教会から老爺神父を呼び出し、何やら訴え始めた。

 神父が鷹揚に頷き、鐘楼の下の粗末な台を指さす。

 木の台に柱をつけたようなあの場所は、罪人を縛りつけ、あるいは磔刑にして見せしめにする処刑台であるそうだ。

 

 男はジョシュを処刑台まで引きずり、ジョシュの耳元まですっぽり覆う帽子を地面に投げ捨てた。

 釘の先端をジョシュの耳にあて、金槌を用いて、打ち込んだ。

 ナナホシが小さく悲鳴をあげた。カン、カン、と金槌が釘を打つ音が鳴る度に、ジョシュの泣き声はいっそう大きくなった。

 

「またパンを盗んでみろ。次は、ぶっ殺すぞ」

 

 男はジョシュの顔に唾を吐きかけ、憤懣冷めやらぬといったふうに踵を返した。

 ジョシュはすすり泣くのにも疲れたのか、ぐったりと力なく柱にもたれている。

 

 痛ましい光景であった。

 私は何となく滅入ってしまって、ナナホシを連れて早々にその場を去ろうとした。

 

「ナナホシ?」

「……」

「ナナホシ、どうした? 歩けねえの?」

 

 ナナホシは固まっていた。

 とんでもない理不尽を我が身に受けたかのように、硬直し、憤りと怯えが混ざった複雑な表情をしていた。

 凝視する先を見て、納得した。あの少年が傷つけられる瞬間をまともに目にし、心を痛めているのだ。

 

 助けられないか、フェリムに訊いた。

 フェリムは首を振り、「罪人を庇うのも、救うのも禁止されてる。冷やかしならやってもいいんだけど」と言った。

 

「お前ら、まだ外にいたのか」

「ゾルダートさん!」

 

 トイリーさんと連れ立ったゾルダートさんが現れた。

 ちょうどいい時に来てくれた。わーっと走っていって飛びつくと、軽々抱えられる。

 

「病気の人、どうだったの」

「白死病ではなかった。薬さえあれば、治せる病だ」

 

 答えたのは、トイリーだ。

 病人は身体中に走る痛みで夜も眠れない様子であったから、鎮痛薬の材料であるヒヨスを買いにきたそうだ。

 私の兄と変わらぬ齢に見えるのに、母様みたいに立派に病人を診れるのか。

 

「トイリー君っていくつ?」

「私かい? 今年で百歳だ」

「えっ」

 

 百歳?

 からかわれているのかと思ってゾルダートさんを見たが、彼は平然としている。冗談ではない……らしい。

 これからは、トイリーさんと呼ぶことにしよう。

 

「ゾルダートさん、あの子って、いつまであそこに居ればいいの?」

 

 手を出してはいけないのなら、いつ解放されるかくらいは知っておきたい。

 一夜もあそこに居たら凍死してしまう。さすがに夜までには許されて、釘を抜いてもらえるといいが。

 ゾルダートさんは泣きっ面のジョシュを見て、「ああ、ドジったんだな」と口元を歪ませた。

 

「償いは、釘を打たれた時に済んでるんだ。いつでも処刑台を降りていいんだぜ」と言い、「こうすれば一瞬」と頭をちょっと動かした。

 

 ナナホシが耐えかねたように動いた。

 ゾルダートさんの肩をポカポカ殴り、処刑台のほうを指さしてしきりに訴えた。

 

「ガキ! あれは未熟な者! いたい! ひどい! そんな事するやつはクソ野郎だ!」

「なんだ、あのガキと知り合いだったのか?」

「ううん、知らない子」

 

 ナナホシに代わって答えた。

 ジョシュという名もフェリムに教えられて知ったのだ。

 

「ではな、ゾルダート。明日、南門で」

「ああ、またな」

 

 ゾルダートさんはトイリーさんに別れを告げ、「わかったって、何とかしてやるよ」とナナホシの拳を易々と受け流し、フェリムと私に耳打ちした。

 

「じゃ、頼むぜ」

 

 ゾルダートさんはそう言い残して、手袋を外した片手を開いたり閉じたりしながら、おもむろに処刑台に上る。

 ジョシュはのろのろと顔を上げた。

 

 ゾルダートさんは、ジョシュを鼻で笑い、まるで周囲に聞かせるように声をはりあげた。

 

「なーにメソメソしてやがる。耳が裂けるくらい何だ。人にやってもらわねえと、そこから降りることもできねえのか? なあ?」

「ヒッ」

 

 ゾルダートさんが癖毛の頭を掴んで揺らす素振りをすると、首から肩を流血で染めたジョシュは怯えた眼をした。浅い息遣いがここまで聞こえてくるようだ。

 実際、耳朶を釘で柱に打ちつけられた状態で、頭を自力で動かすのには勇気がいる。生爪を自分で剥がすようなものだ。

 

 悲鳴を期待してか、秣売りたちが処刑台を見上げた。

 フェリムがさりげなく秣を積んだ荷車に近づく。

 

「俺が手伝ってやるよ」

 

 ジョシュが泣き叫んだ。

 フェリムは荷車を巻き込み盛大に卒倒した。

 

「お兄ちゃん!」

 

 私はフェリムに駆け寄る。

 驚いてこちらに視線を奪われていた彼らに、「お兄ちゃん、血にびっくりしちゃったみたい、ごめんね」と説明しながら秣を拾い集めるのを手伝った。

 

 私とフェリムでは明らかに種族が異なる。

 でも、家族で見た目が異なるのは珍しいことではないのか、不審に思われることはなかった。

 秣売りたちは血を見て立ちくらみを起こしたフェリムの情けなさを嘲弄し、処刑台から走って逃げ出すジョシュの背中を見て、耳が裂ける決定的瞬間を見逃したことを残念がった。

 

 秣売りが去った後で、ゾルダートさんはこちらに戻ってきた。

 その人差し指と中指には、血のついた錆びた釘が挟まっている。

 観衆の視線が逸れた一瞬の隙に、釘をすばやく指で引き抜いたのだ。

 

「これで満足か?」

 

 ゾルダートさんは小さな子をあやすように、ナナホシに釘を見せびらかしたのだった。

 

 

 


 

 

 

 翌日。

 ゾルダートさんは、トイリーさんとルーさんと臨時パーティを組み、カーリアンの市壁の外にある森の湖に、ラジアータフロッグを捕りにいく事にしたらしい。

 

 ラジアータフロッグというのは、水辺に棲息する魔物だ。

 蛙にトビウオの翼が生えた姿をしていて、水辺に近寄ってきた生き物に飛んで襲いかかる。

 単体なら子供でも倒せるほど弱いが、群れだとそれなりに厄介なのだとか。イナゴみたいだ。

 ラジアータフロッグの皮は丈夫で汎用性が高く、絞った油を薬草と混ぜると軟膏になる。

 その軟膏が、風呂頭の息子をむしばむ病魔に有効だとトイリーさんは診断を下した。

 

 息子を助けるには、冒険者ギルドにラジアータフロッグの捕獲を依頼するのが望ましい。

 通常であればDかCの難易度の依頼でも、市壁の外にはぐれ赤竜がいる可能性が高い状況下では、ほとんどの冒険者は行くのを渋る。

 高い報酬金を提示すれば話は別だが、風呂頭にはそんな金もない。

 

 そこで、ゾルダートさんが格安で依頼を受けると申し出た。

 対価は、風呂頭が預かっているフェリムの杖、そしてフェリムを三助から外すことである。

 三助はいくらでも補充できる。風呂頭は一も二もなくゾルダートさんの話に乗った。

 

 トイリーさんとルーさんについては、「誘ったら来るってよ」とのこと。

 冬季は休業する冒険者も多く、さらに、赤竜討伐のために他の町へS及びAランクパーティの招集をかけている現在、Bランク以下の冒険者はたいてい暇を持てあましているそうだ。

 

 さらっと言っているが、かなり危ない賭けではなかろうか。

 だって、はぐれ竜との遭遇を恐れて、他の冒険者が外出を控える中、たった三人で堅牢な壁の外に行こうというのだ。

 

「いつ行くの?」

「これ食い終わったら行く。四日は戻らねえ」

 

 一階の料理屋でカーシャを朝食に食べていた私は、傍らの黒パンをちょっと迷ってからゾルダートさんに差し出した。

 いっぱい食べて精をつけてほしいと思ったのだが、「自分で食え」とつき返される。

 

 ゾルダートさんが無事に生還できるか、視て確かめた。

 

「……青白い肌で、緑色の眼で、はだかの女の人に気をつけてね」

「? なんだそりゃ」

 

 いちおう五体満足で帰ってくる未来が視えたため、とくに止めることなく、宿屋の前まで、ナナホシと送り出した。

 

「いってらっしゃい!」

「いてらしゃ」

「おう」

 

 今日から四日間は、ナナホシと二人暮らしだ。

 まあ、部屋で区切られているだけで、他の宿泊客や住み込みの差配の夫婦など、同じ屋根の下で暮らす人は何人もいるのだけど。

*1
六時、九時、十二時、十五時に相当する時刻。修道院の八定時課に基づいている。





社長が迎えに来るまであと三、四話(予定)

オリキャラ設定
・トイリー
 本名:ロイヒリン・ミグルディア
 種族:ミグルド族
 職業:魔法戦士兼薬師
 備考:元開拓地奴隷

・ルー
 本名:不明
 種族:獣族(狼)
 職業:戦士、タンク
 備考:おれっ娘

・フェリム
 本名:フェリムファムール・ドラゴンロード
 種族:長耳族のクォーター
 職業:銭湯の三助
 備考:エリナリーゼの孫


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二七 ニエット!

更新頻度を高くしたいという気持ちだけはあります。
今話には後半にロリ百合要素があります。でもガールズラブが話のメインになることはありません。




 木造の階段に、靴底の雪と泥が模様をつくっていた。

 なんだか顔のような模様を見つけ、他にもあるだろうかとじっくり眺めていたら、後ろから髪を引っ張られた。

 振り向くと、八歳くらいの男の子が私を見ている。

 彼は差配夫婦の次男で、名前はグリシャだ。

 

「ナフイって言ってみろ」

「や!」

「なんで?」

「やらしいから」

 

 中央大陸とミリス大陸の公用語は人間語だそうだけれど、土地が違えば言葉は少しづつ異なってくる。つまり、それぞれ方言みたいなものが産まれるのだ。

 知らない言葉を耳にする機会も、こちらに来てから増えた。

 

 グリシャは私に汚い言葉を言わせて喜びがちである。

 ナフイも意味は知らないが、たぶん綺麗じゃない言葉だ。

 

「どうやらしいの?」

「知らなーい」

 

 こういうのは適当にあしらうに限る。

 知らんぷりをして掃除を再開すると、床を泥のついた靴で踏みにじって、また汚された。

 

「もう!」

「へへっ」

 

 ゾルダートさんが居たらこんな事してこないのに。

 目付きが悪くて上背があり、剣を持っているゾルダートさんを、グリシャは畏敬している。

 一昨日なんて、俺も冒険者になる、と両親に駄々をこね、馬鹿なことを言うんじゃない、と頭に拳骨を落とされていた。

 

 冒険者は、身寄りのない者や傭兵、没落した貴族の子がなるものという扱いだ。貧しい家が、口減らしのために僅かな金と共に子供を冒険者に預け、冒険者として育てさせることもある。

 たまに、貴族社会に嫌気がさした貴族の子が冒険者を志す事もあるらしい。父様と母様みたいに。

 有名になれば、吟遊詩人によって長く語り継がれる。

 しかし、戦う相手は魔物なので、あっけなく死ぬ。

 

 一家が糊口をしのぐ余裕はあるうちは、冒険者になりたいという我が子の望みは許容できないという親心だ。

 

「新年おめでとうございますって言ってみ」

「新年おめでとうございます……?」

 

 すけべな意味ではなかったので、素直に復唱した。

 でも、年明けはまだ先だ。どういうことだろう。

 

「新年おめでとうございます。

 長寿と平穏と和の心。

 それにとこしえの幸いが授かりますよう祈ります。

 不幸と貧困が残らず家から出ていくために、

 恵みが訪れ来るよう祈ります」

 

 言われるままに繰り返す。

 

「何ももらえねえくせにー!」

 

 何が可笑しいのか、グリシャはケタケタ笑い、階段をどたばた下りていった。

 

「茶でも飲むかい?」

「飲むー!」

 

 階下からおかみさんに声をかけられ、掃除道具を片してからナナホシを呼び、共に下の食堂へ行った。

 北方大地の人たちは、湯を沸かすときは、サモワールという器具を使う。

 

 おかみさんはサモワールの中心に通った円筒に松ぼっくりを入れ、火をつけ、上に被せた革の長靴をふいご代わりにして空気を吹きこんだ。

 詠唱付きの火魔術より、おかみさんの方が、火をつける手際は早いかもしれない。

 

 この辺で飲まれる紅茶の茶葉は、ほとんどアスラからの輸入品だ。

 そうして濃く煮出した紅茶を、ジャムを舐めながら飲む。

 私には馴染みのない飲み方だ。

 

 用意してもらった紅茶が飲みやすい温度に冷めるのを待ちがてら、グリシャに教えられた呪文の意味を、おかみさんに訊いた。

 

「新年の挨拶だよ。ラノアでは、子供がその文句を唱えながら祖父母や親戚の家を訪ねて、贈り物をねだるのさ」

 

 この国に私の家族や親戚はいない。

 何ももらえない、と言われた意味がわかって、ちょっとしゅんとした。

 

「ラノアでは、大晦日に占いやる?」

「占い? 別にしないねえ……」

 

 母様と父様は生まれ育った国が異なるから、大晦日の思い出もそれぞれ違った。

 

 父様の国では、古い家の屋根から麦藁を引き抜いて占う。

 穂先に穀粒がついていれば翌年に幸運が訪れるという。

 屋根に登るなんて危ない、という母様の意見で、大晦日の占いは必ずミリス式であった。

 

 母様の国では、女の子の運命を占う。

 四角いテーブルを部屋の中央に置き、それぞれの角に、花冠、水を入れたコップ、純白のナプキン、パンを置く。

 女の子は目隠しをしてテーブルに近づき、最初に触れた物が運命を予告するというのだ。

 私が毎年、死を暗示する花冠か、涙を暗示する水ばかり選ぶので、母様には少し、リーリャにはとても心配された。

 

 大晦日に鱗のある魚料理を好んで食べるのは、アスラ王国もミリス神聖国も変わらないそうだ。

 鱗の数だけ家にお金が入るというまじないである。

 

「ナナホシ、お茶おいしい?」

「ん」

 

 (さじ)に乗った七竈の実のジャムを舐めていたナナホシは、こくんと頷いた。

 冬は果物が手に入らないから、秋のあいだに作られたジャムは貴重な甘味だ。

 

 コップを触る。

 いい感じにぬるくなっている。

 

「……」

「舐めたいの?」

 

 私とナナホシは宿の宿泊客だからジャムを振る舞われたけれど、グリシャに出されたのは紅茶のみ。

 羨ましそうに見てくるグリシャに、テーブルの上に乗り出して、匙の先を差しだした。

 

「はいっ、あーん」

 

 ぱしっと匙ごと取られた。

 一口で舐めとったグリシャの口のはたを、おかみさんがねじり上げる。

 

「いやしい事をするんじゃない!」

「だって、こいつがくれるって言った!」

 

 叱られるグリシャを眺めながら濃い紅茶を飲む。

 

「あんたも、何でもホイホイ従っちゃいけないよ。嫌なことは、ちゃんと、いいえ(ニエット)! と突っぱねられるようにね」

「はーい」

 

 甘いものは、舌がビックリしてしまうから、あまり得意ではない。

 だからグリシャにジャムをあげるのも嫌々ではなかったのだけれど、ニエットニエットと口慣れぬ言葉を私は口ずさむ。

 

 

 街路に面した扉が開き、男がふらふらと食堂に入ってきた。

 三十代くらいの男だ。目の焦点はあわず、表情もぼうっとしている。

 おかみさんが席をたち、台の上に山積みにしている黒パンを男に渡した。

 宿泊客は食べ放題のパンだ。黒パンはこの地域での主食で、白パンよりも硬くて、酸っぱい味がする。

 家では日常的に食べていたアスラン麦の白パンは、こちらではたまに食べるちょっといいご飯という扱いだ。

 

「倉、売った」

 

 彼は私のそばに来ると、囁くように言った。

 

「倉?」

 

 何の話かわからないでいると、「相手にするな」と差配の親父さんが不機嫌な声で言った。

 私に怒っているのではなかった。「麦角病にやられちまったんだ」と続けて説明した。

 商売に失敗し借金をかさね、飢えに耐えかねて麦角病の麦で作ったパンを口にし、病気になったという。

 拍車製造ギルドの長の次男で、家をついだ長男に面倒をみられているが、仕事もなくふらふらと町を歩き、度々こうして物乞いにくるそうだ。

 

「頭がおかしくなっても、自分の尻拭いで倉を売る羽目になったことを申しわけないと、それだけは忘れないんだよ」

 

 麦角病の麦を口にすると、頭がおかしくなったり、手足が落ちたりするのだと、麦を育てていたエトさん達がそう言っていた。

 村の産婆さんは、お産が長引いたときに麦角病の麦を妊婦に飲ませると良いのだと言っていた。子宮が収縮して赤ちゃんが産まれやすくなるのだという。

 麦角病は、黒パンの材料であるライ麦が罹りがちな病気である。ブエナ村で主に育てていた小麦は病に強いらしく、私には無縁な話であった。

 

 カーリアンまでの移動中、オルステッドは、北方大地は作物が育ちにくい、貧しい土壌ばかりだと教えてくれた。

 病気の麦を見つけた畑を丸々焼き払うことを躊躇われるくらいには、麦角病の麦を市場に流通させてしまうくらいには、貧しいのだと思う。

 私には無縁な麦角病の麦でも、この人にとっては無縁ではなかった。

 どうしようもなく腹が減って、害があるとわかりきった食物を口にしたのだ。

 飢餓は苦しい。私もよく知っている。

 

「これも飲んでいいよ」

 

 今まで遠ざかっていた貧困の苦しみを思い出し、私は飲みかけの紅茶のカップを差し出したが、男はそれを無視して暖炉にあたった。

 まもなく、彼の弟らしき人物が、おかみさんたちに詫びを入れ、あやすように、しかし力強く彼の肩を抱いて歩き、宿を去った。

 

 

 

 大晦日の夕方。

 ゾルダートさんが戻る頃であることは、先んじて視たので知っている。

 

「ナナホシ、ゾルダートさん帰ってくるよ。お出迎えしようね」

「? おうとも」

 

 煤払いの仕上げと言わんばかりに、角灯の硝子を丁寧に拭いてたナナホシに声をかける。

 年越し前の煤払いは、私たちが借りている部屋のみで済むのですぐに終わったのだった。

 

「オデムカエってどういう意味だ」

「おも、重いよ、グリシャ」

 

 後ろから覆いかぶさってきたグリシャの下でもがく。

「帰ってくる人をお外で待つことよ」と答えると、叩かれた。

 私より年嵩のグリシャは、ときどきワーシカより幼い。

 中身が幼いのはいいのだけれど、外見は大きいから対応しきれないときもあって、大変だ。

 

 ナナホシとグリシャを連れて宿の外に出る。

 ただ待つのに飽きたグリシャが橇を持ってきてくれたので、宿のすぐ横に積まれた雪の上を滑って遊んだ。

 もちろん、ときどき道を通る馬橇に撥ねられないように気をつけながらである。

 

「ゾルダートさん! ルーさん!」

 

 見えてきた人影に、ぴょんぴょん跳ねて声をかける。

 トイリーさんはいない。彼は狩ったラジアータフロッグを持って風呂頭の自宅に行き、軟膏を作っているのだ。

 

 ゾルダートさんはひらりと手を振り返してくれた。

 その歩き方はややぎこちない。右の膝に怪我をしているようだ。

 

「魔物と戦った!?」

 

 負傷に目をとめたグリシャが興奮気味に駆けより、ルーさんが持っている物に気づいて「ぎゃっ」と叫んだ。

 

「きゃあああ!?」

 

 ナナホシも悲鳴をあげた。腰を抜かさんばかりだ。

 

 ルーさんが掴んでいる荒れた金髪の先には、人の、いや、魔物の頭がぶら下がっていたのだ。

 蒼白な顔色に、緑色の生気のない眼。

 苦悶の表情ではなく、笑顔すら浮かべた不気味な形相。

 姿形が人間に近い人ならざるものが、狼女に討ち取られて、完全に沈黙していた。

 

「な、なに、なに、それ?」

「ん? ああ、ルサルカだ」

 

 人型の魔物は初めて見たナナホシが、人殺しを見たような目で訊ねる。

 私がゾルダートさんを送り出す前に視た魔物の名前は、ルサルカというらしい。

 

 二人は宿の料理屋に入り、ルーさんの持っているものを見た親父さんに「滅多なものを持ち込まんでくれ!」と悲鳴をあげられていた。

 

「心配するな。コレはあとで冒険者ギルドに渡す」

「大晦日は早く閉まるから、すぐ行ったほうがいいぜ」

 

 ゾルダートさんの言葉にルーさんは「わかってる」と頷き、「トイリーはどうしろと言っていたか……」と彼の足の怪我を眺めた。

 言われるままに私が運んできた椅子の上に、ゾルダートさんは踵をのせてズボンをたくし上げた。私は手で顔を覆い、指の隙間から患部を覗き見る。痛々しい傷だ。

 

「きもちわり……」

『モンスター……よね?』

 

 グリシャとナナホシの二人はこわごわと、テーブルに置かれたルサルカの首を眺めている。

 

「こりゃあ、ルサールカじゃねえか?」

「ルサルカといやあ、人を川に引きずり込むおっかねえ魔物だ。それを、倒したのか?」

 

 他のテーブルで飲んでいた楽師の男たちも興味深げによってきた。ゾルダートさんはフンと得意げにする。

 

「ああ、感謝しろよ。てめぇらが魔物の餌になる前に、俺らが、ルサルカの巣を壊滅させ……い゛っ」

 

 ルーさんが親父さんに渡された酒を傷口にバシャッとかけたので、得意げな顔は痛みに歪んだ。

 清潔な水が手元にないときは、酒で傷口を洗うと膿まないと母様が言っていた。

 活かす機会はないと思っていたが、思わぬところで実践しているところを目にした。

 

「すごいね、ゾルダートさんたち、魔物倒したの」

「だろ? すごいだろ?」

 

 ゾルダートさんは私の頭をわしゃわしゃと撫で、ルーさんに言った。

 

「なあ、俺たち、初めてにしては良いチームワークだったな」

「最後にお前がおれを庇わなければ、完璧だった」

 

 ルーさんはフッと笑ってそう言った。

 本気でゾルダートさんに非があるとは思っていないことがわかる、気安い雰囲気である。

 ふさふさの狼の尻尾も左右に揺れている。触ってみたいが我慢だ。

 うずうずする心を抑えつつ、ゾルダートさんの脚にそっと手を添えた。

 

「治してあげるね」

 

 翳した手の下で、淡緑色の光が患部を包みこんだ。

 抉れた筋繊維が修復されてゆき、血管が繋がり、獣の爪にやられたかのような傷が消えた。

 跡形もなく、という訳にはいかなかった。傷があった部位の皮膚が薄い……気がする。

 母様、シルフィ、ソーニャちゃんであれば、もっと綺麗に完璧に治しただろう。

 

治癒魔術(ヒーリング)もできるのか!?」

「できるよ!」

 

 へへんと胸をはる。

 おかみさんや料理屋にいた宿泊客、威張りんぼうなグリシャまで、私に驚嘆の目を向けていた。

 私程度の練度でも珍しがられ、感心され、なんだか申し訳ない気持ちになってきた。

 

 そういえば、魔術って、無償で使っちゃいけないのだっけ。

 

「もう痛くない?」

「あ、ああ。すげえな、お前」

「よかったぁ。あとね、ゾルダートさん」

「あ?」

「治した対価ちょうだい」

 

 本心では何も欲しくはないのだが、真面目にそう言うと、どっと周囲に笑いが起こった。

 私は思わず周囲を見上げる。変なこと言ったかしら。

 楽師は琴を持つように、軽々と片腕で私を抱えた。頬ずりもされる。

 

「ふへぇ」

 

 髭。ヒゲがざりざり。

 頬をやすりで削られているようで参ってしまう。

 

「こんなに小さいのに、商魂逞しいな!」

「払えゾルダート。あの手際だと、銀貨一枚が相場だぞ」

「うっせ」

 

 頬ずりから逃れようと顔ごと逸らした視野に、ゾルダートさんのきまり悪そうな顔が映る。

 あれは知っている。「しまった。余計なこと教えちまった」の顔だ。

 小さい子が何か仕出かしたときに、村の男の子たちがあんな顔になりがちだ。

 

 顔をまじまじと見ていると、毛髪と同じ色の髭が頬や鼻の下に生えていることに気づく。

 朝剃っているところは何度か見ていたが、冒険中は剃らなかったのだろうか。

 きっと、この気候だと、剃刀もものすごく冷える。髭など処理している場合ではなくなってしまうのだ。

 

「いいか、治した礼はキチンとする。だが、今は手持ちがねえ。ルサルカ討伐の報酬だって、たいした額にはならねえだろう」

「えっ!?」

 

 驚いた声を上げたのは、私ではなくグリシャだ。

 

「魔物殺したのに! おととしも、ルサルカが出た。あのときは、町中大騒ぎだったのに」

「まず、依頼にすらなってなかった。たまたま巣を見つけただけだ。冒険者ギルドも把握していなかった。

 冒険者ギルドも、実際に被害が出て市民が困るまで、ルサルカの駆除なんて、緊急の依頼じゃねえって思ってんのさ。だから、倒しても大した報奨金は出ねえ」

 

 せちがらい商売である。

 魔物は人を見つければ襲いかかってくる恐ろしい存在だ。

 犠牲者が出る前に魔物を倒し、間接的に幾人もの命を救ったのに、見返りが少しとは。

 

「お金ないなら、別にいいよ?」

「俺は一度言ったことは曲げねえ。必ず払う。ただ少し待て」

「いらな……」

「返事は」

「ま、待ちます」

 

 人さし指でドスドスっとおでこを突かれながら返事をする。

 頬にくらっていたら絶対に痛い威力だ。

 

「シケてても、金は金だからな。現物持っていけば、門前払いにされることはないだろ」

 

 ゾルダートさんとルーさんは、来たときと同じように、禍々しいルサルカの髪を掴んで、冒険者ギルドへ向かった。

 彼らの他に、怖いもの見たさでルサルカの首を眺める人はいても、触ろうとする人はいなかった。

 やっぱり自力で倒すと、ある程度はへっちゃらになるのだろうか。倒した温羅を晒し首にしたばかりか、犬に喰わせた吉備の皇子みたいに。

 

 

 


 

 

 

  冬には、沈黙は眼で見うるものとなってそこにある。雪は沈黙なのである。

  可視的となった沈黙なのだ。

  天と地のあいだの空間は雪によって占められていて、天と地とはいまや雪を孕んだ沈黙の(へり)にすぎない。

  雪片は空中で出会い、一緒になって地上に落ちる。その地上も、静寂(しじま)のなかですでに白い。かくて、沈黙が沈黙に出会うのである。

 

『沈黙の世界』マックス・ピカート 佐野利勝訳

 

 

 


 

 

 

 小さい(マーリンキィ)ベリト七歳は、獣脂蠟燭の芯を入れた籠を提げて、宿屋やしもた屋の裏口の扉を叩く。

 庶民の必需品である蠟燭の芯は、作ったら作っただけ売れるけど、籠いっぱいの量が売れても、手に入るのはパンを一つ買えるだけの金だ。

 

 司祭館にいる婆さんは、裸足のベリトを哀れんで粥を一杯恵んでくれる。

 物売りや物乞いをするとき、裸足になれば実入りがいいことを経験者として教えてくれたのは〈姉ちゃん〉のカノンであった。

 雪の日、ベリトがせっせと蠟燭の芯を売り歩くあいだ、湯屋で骨接ぎをして働いている〈婆ちゃん(パーブシカ)〉は、靴を懐に入れてあたためておいてくれる。

 

 ごみ溜めに産み捨てられた赤ん坊だったころは、ベリトにも、ずいぶん高い値がついた。乳のみ子の相場は銀貨一枚。競り合ってもっと高い値がつくこともある。

 首尾よく乳のみ子を手に入れた女乞食は、ぼろでくるんで辻に立つ。元手以上に稼ぐまでは、死骸になっても抱きかかえて施しを強請する。

 三歳になると、大銅貨三枚に値がさがる。五歳になると大銅貨一枚。七歳のいまはいくらになるか知らない。同情を持たせる小ささだとは思うのだけれど。

 

 ベリトが五歳のとき、〈婆ちゃん〉はしなびた赤ん坊を手に入れた。

 赤ん坊の片足は、ねじれた飴のように曲がっていた。〈婆ちゃん〉がやったのだった。

 カノンとベリトにも、膝下と手首から肘にかけての腕に、不自然なでっぱりがある。物心つく前に、何度も〈処置〉をされたので、骨が変形してしまったのだった。

 

 赤ん坊はひわひわ弱い声で泣き、そのたびに、頭のてっぺんの割れ目を覆った皮膚が、へこへこ動いた。

 ベリトのほかは、誰も気づかない。赤ん坊の黒い口から蜘蛛の糸が伸び、ベリトの腕にからみつこうとしている事に。

 カノンが不在の時を狙って、ベリトは赤ん坊の口を塞ぎ、万感の思いを込めて膝で腹を踏みつけた。

 高い買い物だったのに、台無しにしてしまった。嘆く〈婆ちゃん〉の肩を抱き、あたしがその分稼ぐわ、おばあちゃん、とカノンは慰めたのだった。

 

 カーリアンの川べり、少しでも増水すれば水浸しになる貧民窟に建つあばら家に、〈婆ちゃん〉と〈姉ちゃん〉と三人、棲んでいる。

 

 カノンが連れてくる〈兄ちゃん〉はひんぱんに替わる。

 殴らない〈兄ちゃん〉であればラッキーだ。何人か前の元傭兵は、殴る〈兄ちゃん〉だったけれど、ゾルダート・ヘッケラーは殴らない〈兄ちゃん〉であった。

 名のない冒険者なので、物乞いや漂泊楽師(スコモローフ)と同じように市民権はないのだが。男であるというだけで、頼もしさは感じる。

 

 二人はあばら家の夜を、夫婦として過ごす。

 布で隔てられているけれど、声だけはどうにもならない。

 覗き見ると叱られるので、ベリトはパーブシカの横に潜り込む。懸命に目を瞑る。いつの間にか寝ている。

 

 

 ベリトが七歳の大晦日に〈兄ちゃん〉が来て、年越しの宴にカノンを招いた。パーブシカもベリトも来て良いと言われた。

 

 ゾルダートは足腰が弱くなってきたパーブシカを背負って歩いた。

 ベリトはカノンの外套にまつわりつき、魔物の爪に裂かれて赤黒く変色したゾルダートのズボンの裂け目に手を入れ、跳ねるようについて行った。

 

 宿屋〈陽気な酒箒〉で、大人が集まって飲み食いしていた。

 ベリトは年齢が近しい者を目で捜した。見つけた。美しい女の子。

 ベリトが見つけるのと同じくらいに、女の子もこちらに気づき、寄ってきた。

 

「ベリト、シンディちゃんよ」

 

 本名は、シンシア・グレイラットというのだと、シンディはベリトにこっそり教えた。

 あの子を連れて辻に立てば、きっと稼げるでしょうね。

 綺麗なだけじゃ、ダメだよ、哀れじゃなきゃ。思わず手を差しのべちまうほど。

 ゾルダートのいない時に、カノンとパーブシカの間で交わされた会話が、よみがえった。

 

 

 年越しの宴は、賑やかであった。

 狼女ルーに連れてこられた、魔石のついた杖を大事そうに抱えたフェリム少年。

 フェリムが冒険者になった祝いとして、スノーバックを丸々一頭、(そり)に載せて引きずってきたトイリー。彼に声をかけられ、運ぶのを手伝ったジョシュ。

 彼らが、続々と加わったからだ。

 

 おかみが、解体したスノーバックの心臓や血管から出した血を胃袋に詰め、血のソーセージを作った。

 血のソーセージは、地面に穴を掘って作った室に一日置き、発酵させてから食べるのだ。

 きっとベリトの口には入らない。あの子は食べられるのだと思うと、おかみの料理を明日以降も振る舞われる者は他にも居るというのに、彼女にのみ、羨望をおぼえた。

 

 宿の客と一緒になって酒を飲みかわす親父を放り、スノーバックの毛皮をはいで解体するおかみと長男に、パーブシカが協力した。

 

 頭蓋を割り、取り出した脳を皿に受けたのを、黒髪の少女が物珍しげに見ている。パーブシカは匙で脳を少し掬って少女の口に押し込んだ。

 近くで見ていたので、欲しがっていると思われたのだった。

 目を白黒させたナナホシに、シンディが訊ねた。

 

「おいし?」

「極めて美味なり」

「よかったね」

 

 外見に似合わぬ言葉をつかう黒髪の少女がおかしくて笑うと、「あの子ナナホシ。言葉は、いま覚えてる途中なの」とシンディが教えた。

 

「パーブシカ、あたしもちょうだい」ねだったベリトの口にも脳のかけらを入れる老婆の眼は、白く濁っている。

 しかし猫背の小さな老婆は、まるで目あきのように振る舞う。

 ふいに皺に紛れた額の線がひらき、中から紫色の眼が現れた。

 前ぶれなく覗いた目玉がキョロキョロ動くので、シンシアは腰を抜かして尻もちをついた。

 

「パーブシカは、マゾク。あんた知らない? マゾクだよ」

 

 驚いているシンシアの肩をつつき、今度はベリトが教えた。

 他の人にない特徴をもつ者をマゾクと呼ぶことは、誰に教えられるでもなく、知っていた。

 

 シンシアの口にも、脳みそがひと掬い入れられる。

 生の脳は、とろっとしていて、魚の白子のような味わいである。シンディはベリトに笑顔を向けた。

 

「でけえナイフだな、俺に持たせろ」

「お前も手伝ってくれるのかい。若いのに、感心だねえ」

 

 ゾルダートが、脛の骨から腱をはぎとり、大きな刃物で叩き割って髄を取り出した。

「兄ちゃん」腰に抱きつくと、腱のかけらを口に放り込まれる。

 

 シンシアとグリシャといっしょに店の中を走りまわる。

 グリシャは、大人がいないときに、股を見せろと脅してくるから嫌いだ。でも、いっしょに遊んでいると、さほど嫌な奴には見えなかった。

 

 こそ泥ジョシュは、カウンターの下に座り込んで、真剣な顔で足の骨をしゃぶっている。

 おこぼれをもらおうと擦り寄った猫に、気前よく髄のついた骨を分けてやっていた。

 シンシアが駆け寄って耳の瘡蓋に触れた。淡く光る。瘡蓋が剥がれ落ち、綺麗な皮膚が見えた。羨望。

 

 

 切り分けた生肉や大皿の料理を食べ、腹を満たした楽師が(グースリ)を奏で、ルサルカの歌をうたった。

 ルサルカは水のなかに住んでいる。溺れ死んだ娘が水の精ルサルカになる。

 北方のルサルカは凶悪で醜い老婆である。水死体のように肌は青白く、眼は邪悪な緑色、振り乱した髪、つつしみのない素っ裸で、人を掴んで水の中に引きずりこむ。

 迷惑ないたずらも仕掛ける。森にて突然土砂降りに襲われれば、あるいは漁師の網が破れたら、あるいは女たちの布や糸が盗まれたら、それはルサルカの仕業である。

 

 そういう内容のことを、楽師たちは美しい音色にのせて歌った。

 ベリトとシンシア、グリシャは、楽師の前に並んで座って聞いた。

 

「ミリスのルサルカは美しい」眠くなるような歌声で、楽師は続けた。

 ミリスのルサルカは、ヴィラと呼ばれて、月の光のように白く優雅である。軽やかな霧の衣を纏っている。

 昼間は川の深みにひそみ、夜になると上陸し、草地でダンスを踊る。もし、彼女たちの踊りを見てしまったら、すぐさま逃げなければならい。川の中へと誘われるからだ。

 

 ルサルカとヴィラの姉妹は、どちらも、生者を水の死に誘う。ルサルカは苦痛にみちた残酷な死をあたえ、ヴィラはやさしく官能にみちた死をあたえる。

 

 こっちは、河だよ。おいで。

 老婆のしわがれ声をだし、楽師はシンシアに手を伸べた。

 ベリトはいつか、河にいる。黒い波がうねる。照れ笑いを浮かべ、ルサルカの手から逃れたシンシアをベリトは抱きとめた。

 楽の音がやんだとき、夢想の世界から現実にかえった。

 楽師は暖炉に近いよい席を確保していたので、彼らのそばの床に座っていたベリトたちは、暖まった空気で頭がぼうっとしていた。

 

 聞き入っていた者たちは、楽師に金を投げてよこした。

 手前に座っていたベリトの頭にも、コツンと当たった。拾い集めるのを手伝おうと、手元の銅貨を拾った。

 

 頭に落雷のような衝撃が走り、ベリトは短く叫んでうずくまった。

 ベリトの身なりは、浮浪児より少しマシという程度だ。金を盗まれると思った楽師が、杖でベリトを打ち据えたのだった。

 

「何すんだよ、クソジジイ!」

 

 カノンの怒鳴り声が聞こえ、頭に触れる手もカノンのものだと思い、傍らに立つ温もりに体を預けた。

 スッと頭の痛みが引いた。顔を上げた。

 ベリトの頭に手を乗せて、傍らに立っているのは、シンシアだった。

 

「ぶたないでね」

 

 シンシア・グレイラットは。チサは。

 零落した蛇神様に呪われた蛇巫は、

 子供であっても、大の大人がたじろぐほど綺麗な顔をしている。

 幾度(いくど)流転輪廻しようと、そのように造られているからだ。

 

 楽師ににこっと微笑み、シンシアはベリトを食卓に連れて行き、大皿からスノーバックの唇を串に刺して炙ったものをベリトに渡した。

 痛かったことを忘れてかぶりつくベリトを、カノンが後ろから抱き寄せて頬ずりした。

 

「ルサルカ、哀しき水の精よ。やすらかに眠れ」

 

 湯で割った火酒の木ジョッキをかたむけ、フェリムに寄りかかっていた狼女が、朗々と歌い上げた。

 岡惚れ相手のしどけない姿に、フェリムは酒も回っていないのに頬を赤らめている。

 

「大森林には、死者が出るたびに哀悼歌を作り歌うのを職業とする者がいる」

 

 トイリーが、十歳を少し過ぎたように見える風采からは、予想外に落ち着きのある言葉を発した。「しかし、いいのか。魔物風情に」

 

「俺の先祖は、獣族だったというよ」楽師が答えた。

 

「だから知っている。戦闘の中で死んでいった者に、哀悼歌(キーン)は歌われるそうだ」

「ルサルカにも?」

「お前らと闘って死んだのだろう。歌ってやればいい」

 

 勇者よ。森で戦う者の生は、常に死と共にある。死は我らの親しい友だ。勇者よ、光溢るる常春の国エヴナにて、猛き翼を持った鷹、気高き白鳥、敏捷な牡鹿と戯れ、楽しき時を過ごせ。時きたらば、蘇り、地母神の子として生まれよ。

 

 楽の音はこころよく感情を支配する。曲によって快活にも暗鬱にも攻撃的にも感情を動かす。

 獣族の伝承である転生を謳う哀悼歌の余韻が漂うなか、楽師は北方大地で親しまれる楽しいメロディを奏でた。

 

 トイリーが口笛であわせた。他の者も歌いはじめた。フェリムが手拍子をとりながら踊り出し、こそ泥の少年ジョシュや少女娼婦カノンが加わった。

 ルーが微笑んでナナホシの手の甲に触れ、手拍子をあわせるように促した。

 酔っぱらった〈陽気な酒箒〉の男たちは、手を叩き、床を踏み鳴らし、大声で歌い、また訪れ来る新年を祝う。

 琴に手拍子が加わって歌はいっそう華やぎ、踊りの輪ができ、ベリトはなんだか楽しくなった。

 

 シンシアが席を降りるのを、ベリトは目の端に見た。

 ベリトは追い、グリシャも付いてこようとした。ベリトの顔が不快に歪むのを見て、シンシアはベリトの手を握り、片手で口元を押さえてくぐもった声で拒否した。

 

「ニエット!」

 

 かっと頬が血をさし、髪を掴んでこようとした手から逃れ、子供には重い扉をあけ、何段か高くなった玄関をおりて外に出た。外までは、グリシャは追ってこなかった。

 

 曇った夜空は、吐息のように淡雪をふり零した。

 大晦日は、どの家も、窓の鎧戸から明かりが漏れ出ている。

 

 漏れ出た明かりを頼りに、シンシアは山と積まれた白い雪をひとかけら取り、口に入れた。

 口の中の熱で融け、吐き出された水は、血混じりであった。

 

 シンシアは唇の端を引っ張って、歯並びを見せた。

 上顎の前歯のあるべき部分に、ぽっかりとした虚がひとつあった。

 

「骨かじってたら、抜けたの。前からグラグラしてた歯」

「あたしなんて、もう三本取れた」

「奥歯も?」

 

 ベリトはシンシアの指を口に入れた。

 自分と同じくらい短い指が口内をさぐり、生えかけた奥歯を撫でる感触は、不快ではなかった。

 シンシアはもう一度雪を口にふくみ、吐いた。

 

「血、止まるまでここにいる?」

「うん。いっしょにいようよ」

 

 ベリトはシンシアにくっつき、腕を抱き込んだ。

 うふ、と笑う声のあと、冷えた手が首元に忍び入るのに、ベリトも身をよじって笑った。

 

「ベリト、楽しい?」

「楽しい」

「私も楽しい」

 

 あたしたちだけ、静かな場所に取り残されてる。

 歌声が響く宿を背に、ベリトはシンシアとしゃがんでそんな事を思った。

 あわさった手から互いの温もりが伝わり、奇妙な昏迷を、ベリトは感じた。あたしがこの子で、この子があたし。

 二人でひとつの生き物になったみたい。

 

「でも、楽しいところにいると、たまに苦しくなるよ。ベリト、そうなったこと、ない?」

 

 ベリトは首を振った。

 飢えと寒さのみが、苦しいのだ。どうして楽しいのに苦しくなる事があろうか。あたしにはわからない。

 同じだと思ったのに。根底の繋がりを、相手の方から断ち切られた。

 かすかな落胆を露骨に表情にあらわすには、ベリトは苦労を重ねすぎていた。

 

「あんた綺麗なのに、頭は変なんだ」

「うん。変になっちゃったみたい。前は、そうじゃなかったのに」

 

 Survivor's(サバイバーズ) guilt(ギルト)

 ある世界のある時代では、シンシアの感情は、そう定義されている。災害や戦争、事故の生存者が、己が生き延びたことに対して持つ罪悪感である。

 世界や時代を跨ごうと、人の性質は変わらない。名前のない罪の意識に苦しめられている者は、どこであっても存在したが、この世界、この時代においては、適切なケアは望むべくもないのだった。

 

 でも、〈姉ちゃん〉が、どうやって〈兄ちゃん〉を慰めるのか、ベリトは知っている。ベリトはシンシアと口をあわせた。

 舌先で向かい歯の空洞をつついた。小さいやわらかい戯れだ。仔犬のような舌同士がふれあい、恍惚とした快楽を生んだ。

 ベリトとシンシアは、ほとんど同時に戯れを解き、宿に入った。

 

 

 歌と踊りは、終わっていた。

 思うがまま騒いだ後の、心地よい倦怠感が漂っていた。

 

 シンシアの手に握っている乳歯に目をとめ、グリシャが厨房にある鼠の巣に引っ張って連れていった。抜け落ちた歯を鼠の巣穴に放り込むと、丈夫な歯が生えてくるという迷信だ。

 ベリトは長椅子に座り、パーブシカの硬い膝に頭をあずけた。舌先に生まれた甘美な感覚を思い出していると、瞼が重たくなってくる。

 

 一方、フェリムは惚れ惚れとナナホシを眺めていた。

 ほんのり赤みのさした頬で、酒の注がれたジョッキを両手で持ち、ルーの肩に頭をもたせかけてくつろいでいるナナホシは、たいそう愛らしく思えた。

 

「牧童だったらしいな」肩を叩く手があった。差配夫婦の長男イリヤだ。十八歳。

 

「あれはマジの話なのか」

「何が」

 

 イリヤはニヤニヤ笑い、卑猥なジェスチャーをしてみせた。

 

「牧童は、女とする代わりに羊の臀で」

 

 振り向きざま、フェリムはイリヤの腹に拳を叩き込んだ。

 呻いて一瞬かがんだが、イリヤはすぐさま、フェリムの首根っこを掴もうとした。フェリムはすばやく避ける。

 ナナホシとルー。二人の娘が、みなまで聞いていないことを願った。気を抜いたため、イリヤに頭を鷲掴みにされた。洗濯屋で汚れ物を沈めた大鍋を毎日かき回しているだけあって、腕力は馬鹿にならない。引きずり倒されそうになるのを、両腕をつかんだ。

 

「やめろ」呂律もあやしく割って入ったゾルダートの鼻柱に、フェリムの手を振り払ったイリヤの肘がもろに当たった。

 顔を押さえたゾルダートの指の間から血がしたたった。

 血まみれの手で、ゾルダートは掴みかかる。しかし相手を間違え、フェリムを襲った。

 

「喧嘩!」

「喧嘩だ!」

 

 嬉しそうにジョシュとグリシャが寄ってきた。

 三人は見物の的となった。ゾルダートがなぜ自分に向かってくるのかわからず困惑しているうちに、フェリムは足払いをかけられ、床に転がされた。

 

「てめぇは引っ込んでろ」

 

 追撃をかけようとするイリヤをも、ゾルダートは潰した。

 突き飛ばされたイリヤは、頭を酒樽にぶつけ、戦意を喪失した。

 床から跳ね起き、突進してくるフェリムの襲撃をかわし、ゾルダートは「雌猫野郎(コーシカ)!」と挑発した。

 

「かかってこいよ、お前がどこまで粘れるか、見てやる」

「畜生!」

 

 フェリムはがむしゃらにゾルダートに殴りかかった。

「剣士と魔術師の一騎討ちだな」ひときわ嬉しそうな声をあげたのはルーだ。「ただし、素手」

 

「ゾルダート、手加減するな。賭けにならねえだろうが」

「剣を使え」

「杖も持たせるか」

 

 飛ぶ野次をさえぎり、「冗談じゃない。死んじまったらどうするのさ」おかみが逞しい腕でテーブルを叩いた。

 フェリムが潰れた後も、破天荒な若き冒険者に、酔った男どもは次々挑みかかる。

 北方の大男たち――細身なのも居るが――の喧嘩は、見応えがある。ナナホシおよび四人の子供たちは、忍び寄っていた眠気も忘れて見物した。

 

「あまり近づきすぎるな。吹き飛ばされるぞ」

 

 子供たちが巻き込まれないように気を配っていたトイリーは、ふと、騒擾のなかにあえかな鐘の音色をきいた。

 新年を報せる鐘だ。旧年が終わり、新たな年が始まるのだ。

 鎧窓を開ける。夜明けが来ても、太陽は、厚い雲に隠されて視認はできないだろう。

 わだかまった熱気が逃げ、吹き込んだ冷気は、上気した人々の体をここちよく冷やした。

 

「新年おめでとう!」

「おめでとう!」

 

 拳を振り上げ、ウォッカを呷る人をかきわけ、ゾルダートはシンシアを抱きあげた。血と汗と埃に汚れた顔で、シンシアに頬ずりした。

 

「ちいせえなあ、お前はぁ」

「うふ」

「もうちょっとデカくなったらよぉ、お前、冒険者になれよ。そんで、俺んところで、治癒術師(ヒーラー)になったら、いいんだ。オルステッドって奴のとこにいるより、ぜってぇ楽しいぜ」

「いいよ、怪我治してあげるね」

 

 シンシアは裂けた唇のはたに触れ、傷を治した。額にゾルダートの唇が押しつけられる。与えられた親愛に、シンシアは同じ仕草を返した。

 酩酊していたゾルダートは、うとうとしているナナホシの腿を枕にして、無防備に長椅子に寝そべった。

 娼婦カノンは上に跨ろうか考えて、やめた。シンシアの頬を舐めていたベリトを抱いて膝にのせた。

 

「ベリト、次はいつ来る?」

「わかんない」

「また遊びにきてね」

「行くよ」

 

 ベリトは手を差し伸べた。栄養不足ででこぼこした爪のついた指先を、月の光のように美しい童女シンシアは、そっと握り、微笑した。

 

 

 

 甲龍歴418年。

 ルーデウス・グレイラットは、魔大陸の荒野にて、朝日を浴びて伸びをした。眠たい眼をこすりながらエリスを揺り起こす。成長痛を訴える膝をとんとん拳で叩く。

 パウロ・グレイラットは、体調を崩し、嘔吐する愛娘ノルンの背をさすっている。フィットア領への帰還を前に、事の悲惨さが薄々わかってきている。普段は見向きもしない神にも祈る心地だ。

 リーリャとアイシャは、王族の晩餐で出された料理の残りをつまんでいる。既に冷めた軍鶏の腿を、リーリャは幼児に食べやすいようにちぎり、アイシャの口におしこむ。アイシャは笑顔になる。

 ゼニスは××の深部で停止している。巨大な結晶の傍に、かつて彼女の娘に可愛がられていた黒猫がよりそっている。魔力によって肉体が変容したため、飲まず食わずでも生きている。守護者である多頭の竜は、ちっぽけな小動物には敵意を持たない。

 

 

 雪白は顔を結晶にこすりつけ、一声鳴いた。

 小さな娘が迎えにくるのを、いつまでも待っている。

 



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二八 ヒョンナゲ日和

次回でゾルダート編終わりです。


 早いもので、カーリアンに来てから二月が経過した。

 ナナホシもたくさん喋れるようになってきた。

 口調は男のようだが、そんなのは後で治せばいい。まず喋れるようになることが大事なのだ。

 

 フェリムはランク上げのために頑張っている。

 正式にパーティを組めるのは、リーダーの上下1ランクまでだそうだ。

 ランクというのは冒険者としての優劣のことだ。Sが最高でABCDFと続く。ギルドで受けられる仕事もランクによって変わる。

 ゾルダートさんはC級。フェリムが新人さんなのでF。

 だから、フェリムがDランクに昇級するまでは、彼はゾルダートさんと一緒に迷宮に潜ったり魔物を倒したりすることができないらしい。

 

 今の時期は雪かきの自由依頼ばかりで、生活が楽になるほどの収入を得るのは大変らしい。

 食費が苦しいときはゾルダートさんの奢りで、下の料理屋で夕食を一緒に食べる。

 ご飯は大勢で食べたほうが美味しいから大歓迎である。

 

 友達も増えた。

 カノンさんの妹で、同じ年の女の子、ベリトだ。

 

 ベリトは愛らしい女の子だ。

 眉のきりっとした(きつ)い顔をしていて、青い目が私とおそろい。

 よく口にキスをしてくる。頬や耳を舐められもするが、嫌ではない。

 これがベリトの人と仲を深めるやり方なのだ。そう思い至れば、気にもならなくなった。

 

 今日は宿屋の裏手で大縄跳びをして遊んでいる。

 いっしょに遊ぶのはグリシャや近所の子供たちだ。

 四から八歳の男女混合で、たぶん十人以上いるのではないか。全員の名前は知らないが、知らなくても問題ない。

 話しかけたければ「ねえ」と言えばいいのだし。

 

「大丈夫、引っかかってもいいのよ」

「……」

 

 凍てついた地面を打つホップの蔓を前に、怖気付いている女の子を励ます。

 今、今! と、周りの子が声がけをしているものの、きっかけを掴むのが難しいようだ。

 私は女の子の背中を押し、促した。その子が飛んだあとに間髪入れず私も入ってピョンと飛び、次に蔓が足元にくる前に抜ける。

 

「すごいね、跳べたね」

「う、うん!」

 

 女の子は嬉しそうに私を振り返り、私も嬉しくなる。

 蔓の端は木の幹に結び付けられていて、もう一端はナナホシが持ってまわしているのだ。

 

「ベリト!」

 

 籠を提げて小路を歩いてきた女の子――ベリトに声をかけ、大縄の輪から抜ける。

 ベリトは私に手を振り返すと、宿の壁に寄りかかって立っていたゾルダートさんと、彼と話していたトイリーさんに、籠を突き出した。

 二人は残り少なくなっていた獣脂蠟燭の芯を残らず買い取る。

 ベリトは「神さまのご加護がありますように」と二人のために祈ってみせた。

 

「どうした?」

「疲れちゃった」

 

 私はゾルダートさんの腰にしがみつき、体重を預けた。

 ベリトはふぅと息をついてゾルダートさんの靴の上に座る。

 

「懐かれてるじゃないか、ゾルダート」

「止まり木だと思われてるの間違いだろ」

 

 止まり木にしては、腰の剣が邪魔である。

 飾りっけのない柄頭を握ってみると「手ェ斬るぞ」と注意された。

 

 ベリトの凍傷になりかけた足を治すためにゾルダートさんから離れる。

 お金を貰わなければいけないらしいが、ベリトは仲良しの友達だから特別だ。ゾルダートさんも、見て見ぬふりをしてくれる。

 

 大縄跳びをやめた子供たちが、わらわらゾルダートさんの周囲に集まってきた。

 太い木の枝を持った男の子が、頬を紅潮させ、「やあああ!」とかけ声を上げて襲いかかる。

 父様の素振りに比べると、太刀筋がへにょっとしている。

 私自身は剣術を習ったことはないけれど、素人目にも、父様の素振りと彼らの攻撃では、剣のキレが雲泥の差であることはわかる。

 へにょっとした剣撃を、ゾルダートさんはおちょくるように躱した。

 

「何人でもかかってこいやコラァ!」

「りゃあああ!」

「剣をつかえー!」

「俺たちを舐めるなー!」

 

 果敢に挑んでくる子供らを相手取るゾルダートさんであるが、剣は抜かない。

 おもちゃじゃなくて、真剣だものね。うっかり当たったら大変だ。

 

「何してたの」

「長なわよ。ベリトもやる?」

「やる」

 

 剣士ごっこに取り残された女の子たちは、ベリトも交えて縄跳びを再開する。

 ベリトは凍傷の治った足を靴に入れ、トントンとつま先で地面を叩くと、怖気ずにパッと蔓の中に走っていって跳んだ。

 

「横入りしないでよ」

「……」

 

 不満そうに声をかけられても、ベリトはまるでそよ風に吹かれたというふうだ。

 ベリトは、遊びに誘うと仲間に入りはするけれど、私や優しい大人以外とはあまり喋らない。たくさん喋るとくたびれるのだと言う。

 

 喧嘩になりそうなベリトと女の子の仲裁に入ろうとしたとき、空の厚い雲の裏が、青白く光った。

 何秒か後に、空がひび割れるような轟音も鳴る。

 

「わあ!」

「……!」

 

 ベリトがびっくりした顔で抱きついてきた。

 稲妻だ。音源は離れてこそいるが、かなり大きい。

 

「冬でも、雷って鳴るの?」

「たまにある。雪と一緒に落ちてくるぞ」

 

 ゾルダートさんは空を見上げた。

 少し先の天候を視る。たしかに、雷雨ならぬ雷雪になるようだ。

 

 一緒に遊んでいた子供たちは、親や兄姉の迎えがきて、一人二人と家に帰っていく。

 

「坊ちゃん、帰りますよ」

「やだぁ、まだ遊ぶ!」

「んなこと言ったって、(かしら)……ヨナタンさんから連れ帰るよう頼まれちまったんで」

 

 フェリムも来た。不満顔の男の子を抱えあげる彼に、ゾルダートさんが話しかける。

 

「よう、フェリム。まだ元上司にこき使われてんのか」

「ああ。でも、前と違って、ただ働きじゃないのはいいよ。

 坊ちゃんの送り迎えなんて、三助のときはやって当然だったのに、今は駄賃もらえるからな」

 

 あの男の子は、銭湯の風呂頭の息子であったらしい。

 少し前に病気になっていた子だ。治ったという話はトイリーさんから聞いていた。あの様子ならかなり元気そうである。

 

「気をつけろ。三助より稼げても、冒険者は……」

「わかってるってー!」

 

 愛想良く笑い、フェリムは男の子を抱えて走っていった。

 トイリーさんはやれやれという感じでちょっと眉を下げた。

 

 空の雷樹が枝を四方に伸ばし、ゴロゴロと不穏な音が響く。

 ナナホシがホップの蔓を小さくまとめ、持ち主の女の子に返してから、たたっとこっちに駆けてきた。

 

「ナナホシ、あれね、イナズマって言うのよ」

「承知済み」

「そっかぁ」

 

 知ってたらしい。誰か教えたのかな。

 

「つぎ、どこで光る?」

「え?」

 

 ベリトに訊かれ、私は困った。

 

「どこに落ちる?」

「んと……」

 

 そんな正確にわかるかな。

 トウビョウ様に視てもらおうと目を瞑り集中するが、「はやく。わかるでしょ、あんたなら」とベリトにゆさゆさ揺さぶられて気が散ってしまう。

 

 頭にぽんと手を置かれた。トイリーさんだ。

 

「私が当ててみよう」

 

 トイリーさんが空を見上げて佇んだ。

「そこだ」と遠目に見える教会の尖塔の上あたりを指さした。

 直後、予言の通りに空がピカッと光る。

 

「すごい! なんでわかったの?」

 

 教えて教えてとベリトとせがむと、トイリーさんは微笑み、「私はミグルド族だ」と話し始めた。

 

「ミグルド族は、声を使わずに言葉のやりとりをする。念話といって、頭に直接言葉を届けるんだ」

「……??」

 

 どういうこっちゃ。

 トウビョウ様の託宣を受けるとき、絵が見えるのと同じ感じだろうか。

 

「例えば、……」

 

 トイリーさんは黙り込んだ。

 口を閉ざし、じっと私の胸元を見つめている。

 話の続きはどこへ行ったのだろう。例えば、の次は、なに? 

 

「その首に提げている腕輪が綺麗だな、と言ったんだが、わかったかい?」

「ううん、聞こえなかった」

「うん、何にも言ってなかったもん」

「口では言ってない。頭の中で念じただけだからね」

 

 ベリトと顔を見合わせる。

 

「言わないとわからないよ?」

「それが、わかるんだ。相手がミグルド族ならば」

 

 きょとんとする私とベリトに、トイリーさんは続けた。

 

「顔を合わせて念話をするとき、よく注意すると、光る線を自分と相手のあいだに見ることができる。

 空も同じだ。よく見ると、ジグザグとした光の線が走っている」

 

 こう、という時、トイリーさんは宙に指でジグザグ線を描いた。線は上から下に伸びているみたいだ。

 

「原理はわからないが、これが地上に近づいたとき、雷になるらしい」

 

 ほら、と言って指さした西の空に雷樹が立つ。

 トイリーさんの真っ青な髪が、白光に照って、一瞬だけ緑色に見えた。

 

「へーぇ。じゃ、雷が何か言ってるってのか。ミグルド族でその電撃を使って会話してるっつうなら、雷とも話せるんだろ?」

 

 ゾルダートさんが言った。私はにやけて彼を見あげた。

 雷神は稲妻を落とすだけの存在で、人に関心を持たない。ましてや話すことはできないのに。

 世間擦れしているようでいて、妙に可愛らしいところもある。

 

「なにが可笑しい、おいコラ、答えろよ」

「やん」

 

 ゾルダートさんに連続でおでこをつつかれた。

 ナナホシに抱きついて追撃を逃れる。

 

「私に雷が落ちてきたら、雷の念じていることがわかるかもな。私がそのとき死んでいなければ」

 

 ゾルダートさんを笑わず、トイリーさんは真面目に返した。

 トイリーさんはゾルダートさんの言うことを否定しなかった。

 ということは、つまり、何でもできないと思い込むのはよくないのだ。反省しよう。

 

「ゾルダートさん、バカにしてごめんね」

「やっぱ馬鹿にしてやがったかコイツ」

「あう」

 

 もう一回おでこを弾かれた。

 ゾルダートさんはトイリーさんに向き直る。

 

「その雷の前兆は、ミグルド族にしか見えねぇの?」

「ああ。……いや、昔助けられたスペルド族の男も、見えると言っていた。彼らは額に第三の目があるから――」

「……スペルド族ってマジでいるのか?」

「兄ちゃんこわいの?」

「ゾルダートさんこわいの?」

「スペルド族。聞いた。悪魔のごとき種族なり」

「だぁ! うるせえ!」

 

 ベリト、私、ナナホシに口を挟まれ、ゾルダートさんは盛大に顔を顰めた。トイリーさんは苦笑した。

 

「何百年も昔の暴虐を今も悔いているような人だった。会ってもあまり怖がらないでやってくれ」

「へっ、最初っからビビってなんてねぇよ」

「ふふ……。話を戻すが、空のあれは、落雷に先行する弱い電撃だから、先駆雷撃(ステップトリーダー)という」

 

 弱いの? ベリトが訊ねた。

 

「ああ、弱い。人の眼に見えない、幽かな光だ。しかし、ステップトリーダー無くして、霹靂(サンダーボルト)が起きることはない」

 

 パッと雷が枝を四方に広げた。空が轟く。吹雪いてきた。

 一緒に遊んでいた子供たちは、ベリト以外、迎えが来て帰っていた。私たちはトイリーさんと別れ、宿に引き返した。

 ベリトは家に誰もいないというし、家も離れているので、私たちの部屋に留まる。

 

「じゃあ、ベリト今日お泊まり!?」

「ああ。夜まで吹雪が止まなけりゃな」

「やった! お泊まり!」

「まだそうと決まってないからな、俺の話聞いてるか?」

 

 聞いてる。

 雪は今夜はやまないし、カノンさんも迎えに来ない。視たから知っている。

 普段は日が暮れたら別れる友達と夜もいっしょに過ごせるのは、特別感があって楽しい。

 くるくる回って喜んでいたら、差配夫婦にバレたら追加で宿泊代をせびられる、静かにしろ、と頭を掴んで止められた。

 

 差配の目を盗み、上着にくるんだベリトをゾルダートさんが抱えてコソコソ部屋に上がる。

 部屋に入り、パタンと扉が閉ざされたとき、私とベリトは互いの手を叩いて喜びあった。

 

 

 

 雪なんてかわいいもんじゃない、降っているのは細かな氷塊だ、と、外から帰った楽師は言った。赤く(かじか)み、ナナホシのスカートの下に忍び込もうとした手を、ゾルダートさんが叩き落とし、喧嘩になった。

 初期こそ喧嘩が起こる度に身の置きどころを迷っていたナナホシは、すっかり慣れた顔だ。我関せずで、食後の濃い紅茶をふうふう冷ましつつ飲んでいた。

 

 夕食を終え、スープを注いだ椀と黒パンを持って部屋に上がると、一人で待っていたベリトがナナホシにまつわりつく。

 横殴りの風も強いらしく、ビュウビュウと激しい風の呼吸にあわせ、壁は撓んだ。

 ナナホシが薪をくべ足し、私は桶に湯を張り、目の細かい櫛でベリトの髪を梳かして虱を退治してやっていた。

 扉がいきなり開けられ、私とベリトはぎくっとした。

 

「ゾルダートよう、ここも、不味いかもしれねえぞ。補強を手伝え」

 

 顔を出したのはおかみさんではなく、他の宿泊客であった。

 ゾルダートさんは素直に外套を着込み、手燭を持って「お前らは先に寝てな」と言い残して廊下に出た。

 

「ネヴィル河が氾濫したらしい」

「ウラジ広場は、もうダメだな」

「死体がいくつ流れつくことやら」

 

 どやどやと複数の声が階下に移動する。

 私はベリトを見た。ここは安全だ。でも、彼女の家がある辺りは危ない。彼女は、姉と祖母を心配していないのだろうか。

 

 ベリトは轟々と風で軋む窓辺に立った。

 薄く笑い、片腕をしならせて波線を描いた。

 

「ルサルカが暴れるよ」

「魔物がでるの?」

 

 聞き返したが、答えは得られなかった。

 ベリトは何年も前からいる子供のように部屋を走りまわり、毛布に頬ずりし、長櫃の蓋を持ち上げ、中に仕舞われているナナホシの鞄をぺたぺた触って中身を見た。

 

「あたし、これ知ってる。本だ。本なんでしょ」

 

 ベリトは歓声をあげ、小さな本を取り出した。

 表紙が柔らかくてつるつるしていて、大人の手のひらくらいの大きさの本である。

 私にもオルステッドにも読めない言葉で書かれている。読めるのは、ナナホシだけだ。

 

「これ、あたしにちょうだい。高く売れるんだよ」

いいえ(ニエット)。『えーっと……』それは『図書館』にて、借りる、した。私、所有権、持ち合わせがねえ」

 

 ナナホシは拒んだ。

 理由を説明する口調は拙いが、否の意思は固い。

 ベリトはへそを曲げ、「じゃ、なんて書いてあるか、読んで」と本をぶっきらぼうに突き返した。

 ナナホシは暖炉の前に座り、私とベリトは左右からくっついて朗読を待つ姿勢をとった。

 

『〈人はみな、上に立つ権威に従うべきである。神によらぬ権威はなく、いまある権威はすべて神によって立てられたものである。権威に逆らうものは、神のさだめに背くことになる……〉』

 

 

 

 (ごう)とすさまじい風音がした。梁が軋み、窓の硝子が鳴った。

 暖炉の前で毛布にくるまっていた私は、ふと目を覚ました。

 ナナホシによりかかって寝ていたようだ。彼女の左半身には、ベリトが体重を預けきって眠っている。

 

「ねこ……」

「ミャウ」

 

 膝が温くて重いと思ったら。

 前足の付け根に手を入れてもちあげ、灰色の猫を退かした。

 

 ふいに、ナナホシの膝で開かれたままになっていた本の頁が、紅い翳をおびた。

 昨晩は窓掛を閉めるのを忘れていた。目をあげると、瓶底みたいなロンデル窓が赤くゆらめいている。

 

 火事か、と思い至ったとき、まどろみは去った。

 私はナナホシとベリトを揺り起こした。他の住民は逃げた後だろうか。

 

「あ!」

「グリシャ」

 

 扉を開けて廊下を見回したとき、階段を上がってくるグリシャと視線があった。

 

「火事だぞ」

「ここが燃えてるの?」

「ちがう。来て」

「さっき揺れなかった?」

「そうか?」

 

 踵を返したグリシャに追従する私の後ろを、起きたばかりのナナホシとベリトが続く。

 何人かの人々はすでに一階の外に出ていた。漂白楽師が私たちに「おはよう」と声をかけたので、夜が明けたのだと知った。

 建物のあいだの帯のような空は、西のほうが紅く、黒煙がまじっていた。

 鐘の音がここまで響いてくる。火の見櫓の鐘だ。

 

 見に行こう、と、グリシャが私を誘った。断るより前に、火の手にむかって走り出す人々に巻き込まれた。

 立ち止まったら転ぶ。転んだら踏み潰される。群衆から離れることも、流れに逆らうこともできず、私も走った。

 背丈の低い私とグリシャは人の波に飲まれてはぐれた。

 ベリトとナナホシは巻き込まれてないだろうか。

 

「ぷわっ」

 

 橋をわたるとき、私を引き上げる腕があった。

 澱んだ空気で気分が悪くなっていた私は、冷たく澄んだ空気を吸い込み、抱えあげてくれたゾルダートさんの首に腕をまわした。

 彼の腰のあたりにはグリシャがしがみついている。

 

「こんなひどい風、めったにないわ。竜巻が起こったんですって。火事はそのためよ。きっと、どこかの家で手燭が倒れて……あんた、重たくなったわねえ」

 

 ベリトはカノンさんに抱えられていた。

 ナナホシの居所を視た。巻き込まれずに済んだらしい。宿にいる事がわかってほっとした。

 

「俺らが泊まってる宿は? 無事か?」

 

「うん」と答えかけた私を遮り、グリシャが「食堂の窓硝子が割れた!」と興奮して報告した。

 

「火事、よくあるの?」

「貧民窟では、しょっちゅうだ。でも、ここまで派手なのは初めてだな」

 

 抱かれて視線が高くなると、空を焦がす炎がくっきり見える。

 雪は昨晩のうちにやんだらしいが、風は積もった雪を吹き上げて、吹雪みたいだ。

 風が強いせいで、火が燃え移りやすいのだろう。

 

 宿屋にもどる道中で、馬橇に行きあった。

 水樽とホースのついたポンプ、そして分厚い上着に頑丈そうなズボンと長靴、銅の被りものをつけた男たち――魔石の杖を持っている者もいた――を満載した馬橇の一隊が、喇叭を吹き鳴らしがんがん鐘を叩いて人々を蹴散らして走り抜けていった。

 消防士だ、とゾルダートさんに説明されなければ、祭りがあるのかと勘違いするところだ。

 

「パーブシカは?」

「救貧院よ。家の屋根が吹き飛んじゃって。どこの救貧院も空きがないし、あたしたち、しばらく宿暮らしよ」

「シンシアと同じところがいい」

「だめよ。もっと安い宿。消火、いつ終わるかしら」

 

 人混みに苛立ち、ゾルダートさんが舌打ちした。

 

「いっそ、土砂降りになって、全部流れちまえばいい」

 

 私はトウビョウ様に祈って雨雲を呼んだ。

 山上で火を焚く千貫焚きに、百枡洗い、小竹を打ち鳴らすコキリコ踊り……と、雨乞いのやり方は色々あった。

 雨を降らせるのは竜神様だけれど、前の私(チサ)がいた村や近隣の村は、トウビョウ様に縋るのだった。

 語り部となる老人達が早くに死ぬ貧しい村々では、祈祷に正しい儀式だの作法だのはない。日照りが続き、村が干上がると、男は野良着を絡げ、女は釜や盥を叩いて拍子をとって叫んで踊り狂った。

 幼かった私は、婆やんに言われるまま、雨乞いの熱狂から離れた場所で、手を合わせて祈っていた。

 ヒョンナゲヒョンナゲ。気狂いという意味の言葉だが、雨乞いの文句でもあった。

 

『ヒョンナゲ、ヒョンナゲじゃ』

 

 私ひとりで唱えると、強風によって散りかけていた暗雲が、ふたたび垂れ込めてきた。

 

 

 宿屋にもどると、ナナホシが私たちを迎えた。

 私とベリト、グリシャがいなくなったことで、心配をかけたらしい。

 

「危ねぇことはするな」

「ごめんね」

「ばかやろう」

 

 安堵した表情と蓮っ葉な口調の落差がおかしくて、つい笑ってしまう。ナナホシに頬をつまんでムニムニされた。

 

 保護者であるカノンさんがいっしょなら、ベリトも堂々と宿に入れる。

 雨に降られて濡れた服を着替え、ベリトには私の服を着させた。

 カノンさんは部屋に張り渡した針金に服をかけながら、乾いたら借りた服はすぐ返すわね、と言った。彼女もナナホシの服を着ている。 

 

「服はあげるよ」

「気持ちは嬉しいわ。でも、わたしたち乞食じゃないのよ、施しは受けないの。特に女からはね」

 

「新しい服ほしい」スカートの裾を握りしめたベリトは不満そうにした。

 

「火事はおさまったみてえだな」

 

 ゾルダートさんが窓から黒煙のない空を見上げて言い、次いで通りを見下ろして「不味いぞ」と零した。

 どうしたのか訊こうとしたとき、階下が騒々しくなって、階段をのぼってきたおかみさんが上り口に顔を出し、「あんたたちも、下りてきて早く手伝いな」と怒鳴った。

 

「なにを手伝うのよ」

「洪水だよ。ネヴィル河がヒステリーをおこした。大事なものを上に運び上げるんだから、手を貸しな。淫売娘、おまえもだよ。早く」

 

 ゾルダートさんたちは手伝いに駆り出された。

 居ても邪魔くさいから、と、私とベリトは御役御免である。大人たちが一階の什器を階上に運び上げる騒々しさを、非日常感をもって聞いた。

 

 私とベリトは椅子を窓辺に運び、少しだけ開けた窓の隙間から、川にかわった道路を眺めた。

 

 一階は、扉も窓も閉ざされているが、敷居の隙間から撓み、軋んだ。水は土間に流れ入る。風と流水の強い力におされて、扉窓の鎧戸は蝶番がこわれ、はずれて落ちた。

 どこからか飛ばされてきた看板が窓にぶつかり、ガラスが砕け散る音がした。私たちは窓を閉めた。

 

 私のせいではない、と、思いたい。

 雨雲を呼び、消火を助けた。強風は元からだ。

 じゃあ、この有様は、何のせいだろう。

 

「言ったでしょ、ルサルカが暴れるって」

「……ほんとだねえ」

 

 ベリトの答えに納得した。ルサルカが荒れ狂いはじめたのだ。

 貧民窟の大火事は、河にはりつめた氷を溶かし、解き放たれた水は、盛り上がって、低地を襲った。

 地鳴りだと思った音は、河にはった氷が割れ砕ける音であった。

 生前は、増水、洪水は、春の雪解けのときか、台風の多い長月に起きがちであった。

 まだ春の前だというのに氷が溶けだしたのは、大火事のせいだ。燃える家屋の熱が、氷を溶かしたのだ。

 

 部屋の扉がコンコン叩かれた。

 下半身が泥水で濡れそぼち、荷物を頭上でささえて駆け上ってきたフェリムが、部屋に入ってきた。

 この洪水の中を移動してきたらしい彼は、凍えた体を暖炉であたためた。

 

「外はあんななのに、歩いてきたの? 何のご用?」

「ウラジ広場がひっでえ有様でさ。俺が泊まってた木賃宿もダメになっちゃってさ、こっちの宿にしばらく居ようと思って来たんだけど」

 

 ここも危ういよな、とフェリムは冷えに震えながら自分の両腕をさすった。私は唯一使える混合魔術で桶に湯を張り、体を拭く布も用意してやった。

 部屋に空きはある。宿泊代さえ払えば差配の夫婦はフェリムを歓迎するだろう。

 でも、フェリムにそんなお金はあるのだろうか。

 

「ドアが壊れたぞ!」

 

 フェリムは長い耳をピクっと動かし、鋭く叫んだ。

 風の呼吸にしたがって、ふくらんだり元にもどったりしていた一階の扉が、昨夜の補強工事も堤防に砂袋を積んだのもむなしく、ついに壊れたのだ。

 道路を川にかえた水は、一気に屋内になだれ入ったらしい。

 階段を見に行くと、ナナホシとカノンさんが、手をとりあって逃げてくるところであった。その後を、水は追ってきた。

 

「もうおしまいだ、全部流されるんだ」

白樺樹皮(ペリョースタ)をくれ! 遺言書を書くんだ!」

「うるさいねえ、そんな暇ァないよ! いいから運びな!」

 

 上階は安全だと信じていた陽気な酒箒の住民は、たちまちてんやわんやになった。

 しかし氾濫した水が二階まで激しく押し寄せてくることはなく、今のところ、せいぜい床に薄く張る程度だ。

 

「もし二階がダメになっても、こうやっていたら助かるかも」

「ぜんぶ沈んじゃったら?」

「そのときは諦めて」

 

 部屋では、フェリムが真面目な顔で、ベリトを片腕に抱き、片手で梁にぶら下がっていた。

 屋根裏まで荷物を運んでいたゾルダートさんが降りてきて、フェリムを見て大笑いした。

 

「ふ、ハハ、フェリム、てめぇビビりすぎだ! どうやってそこに掴まったんだよ! だはは!」

「ちょっとぉ、あんた正気なの? あーおっかしい! あははっ!」

『へへ、よくわからないけど、笑えてきたわ、んふ、ふふふっ』

「ベリト、高くていいねー!」

「いーい眺めだよー!」

 

 私たちも、つられて笑った。

 彼が笑うと、自然に周囲の気持ちがほぐれる。

 反対に、怒っていると、周りも苛つき始める。

 良くも悪くも、影響力が大きな人なのだろう。父様も母様もそんな人だった。

 纏う雰囲気が華やかなので、立っているだけで注目を集めるのだ。

 

 懐かしくなって構ってほしくて、ゾルダートさんの外套のポケットに手を入れた。

 ゾルダートさんはこちらに視線をよこして、頭をぐしゃぐしゃに撫でてくれた。

 

 

 


 

 

 

 河川を埋め立てた上に作られたカーリアンは、しじゅう母胎に帰りたがる。

 冬は、氷の下で水は力をたくわえ、噴出するおりを待ちかまえている。

 

 ゾルダートが慌てふためかず、水害の対処に当たったのは、もはやこの光景が風物詩と化しているからだ。

 顔立ちから生まれも育ちも北方の男だと思われがちなゾルダートだが、ラノア王国に住み始めてから、たった数年しか経っていない。

 それでも、冒険者だの犯罪者だの流浪者だのが巣を作る低地では、こうした水害は珍しくもないことくらいは熟知していた。

 火の波によって氷解が早まり、春に起こるべき洪水が冬に起こっただけの事だ。

 

 一階を完全に水に沈めた川の水は、ある程度は引いた。

 夜になるとたちまち溢水は凍り、酒箒邸をはじめこの一帯の建物は、氷の上に建つようにみえた。

 

「すげえなあ」

 

 フェリムは感嘆と共に白い息を吐き、持った角灯で、いまや凍った運河とかわらなくなった小路を照らした。

 家々の窓の灯りを受け、氷の下には、倒立した町が仄かに映っている。

 氷は、ごみだの木っ端だの帽子だの馬糞だのをその下に抱え込む。

 塵芥でも、氷を透かし見ると、奇妙に美しく見えるのだった。

 

「俺の生まれた所では、土砂と噴火が恐れられた。水害はあまりなかったし、こんなになったのも、初めて見た。ゾルダート、お前の故郷は?」

「自然災害より、伝染病だな。人が多い上にまともな解毒士もいねえから、あっという間に広がるんだ。葬式も間に合いやしねえ。地獄だぜ、ありゃ」

 

 一階の厨房も食堂も、氷が張り、槌で砕いて外に捨てねばならなくなった。

 フェリムもカノンも、この作業を手伝えば、部屋を貸し与えられる約束だ。ただし、一部屋の宿泊賃を二人で折半である。

 災害下にあっても、差配の夫婦は宿泊賃をいっさい負けなかった。

 

「開拓地の奴隷もそうだ。食事不足と寒さで弱っているところに、病がくると、バタバタ死んでいく」

 

 被害のあった冒険者ギルドの修繕に駆り出され、ついでにゾルダートたちが泊まる宿の除氷を善意から手伝っていたトイリーが、妙に陽気に話しかけた。

 体を温めるために酒を飲んだ。酔っ払っているのだ。

 

「不衛生な環境だと、人が死ぬと、その者の頭にたかっていた虱がいっせいに逃げ出すだろう。お前も見たことはあるか?」

「おう、見た見た! 虫けらのくせに、どうして死んだのがわかるのかってなぁ、ガキの頃は不思議だったよ」

「やな会話だな……」

 

 フェリムはぼやき、「ルーは?」と、扉が壊れ、吹きさらしの食堂から砕いた氷を捨てに出てきた狼女にも訊ねた。

 獣族の彼女も、長耳族に負けず劣らず、聴覚はたいそう優れている。故に彼らの会話は離れていても把握していたし、フェリムとてそれが当然だと思っていた。

 

「大森林には雨季がある。

 地上のものがすべて流されるような大雨が、何ヶ月も降りつづけるんだ。

 だが、群れでいれば、雨季そのものは恐るるに足りん。真に用心すべきは、雨季のあと、水がひいた時だ」

「なんで? 水がひいたなら、もう溺れないじゃんか」

「ぬかるんだ泥に、悪魔がひそむ。

 雨季明けの地上で転んだ者の口をめがけて、悪魔は飛びこむ。

 そうして取り憑かれた者は、からだの自由を奪われて死ぬ」

「ふぅん」

 

 悪魔ってまじでいるんだな、怖ぇな。

 踏鋤の柄に顎を乗せたフェリムは思った。

 サボるんじゃないよ、と気を抜いた瞬間を目ざとく見つけて怒鳴ったおかみに、へぇ、と三助時代の名残りで声をはりあげた。

 

「ルーさん、こっち来てみて。鶏が下で凍ってるの」

「何だと?」

「掘り出して食えない?」

 

 シンシアとベリトに絡まれ、ルーは鶏が氷の下で凍死しているのを眺めた。肉屋から逃げ出した商売用の鶏にちがいない。

 鼠の凍死体が一匹もみつからないのは、洪水をいちはやく察して逃げたのだろう。洪水をまぬがれた市場や家々は、いまごろ急増した鼠に悩まされているはずだ。

 

 子供たちは楽しそうに氷上を滑って移動し、建物に戻っては顔ほどに大きな氷の破片を持って出てくる。

 夜だというのに灯りを持って除氷に追われる者の多いことといったら、一帯の家の者たちにある種の仲間意識を持たせるほどなのだった。

 

「ベリト、だめよ、氷食べたらいけないのよ。喉かわいてるの? おかみさんに白湯もらってくる?」

「お湯飲んでから氷食べるとなんかちょっと甘いよ」

「えっ?」

「うわ、ほんとだ! 甘い!」

「グリシャまで……」

 

 厚い氷の表層をカリカリ爪でひっかいていたルーは、馬鹿をやっている子供らの会話で我にかえった。

 何でもかんでも口に入れるな、と叱り、子供から視線を外し、角灯を持って向かいの家に入ろうとするナナホシを目にとめた。

 先導するのはパン屋の男だ。おおかた、暗くて中が見えないから照らしてくれ、と頼んだのだろう。

 

 無防備なナナホシが暗がりに引き込まれる前に、ルーは飛んだ。

 一飛びでナナホシの後ろに着地。腕を掴んで角灯をとりあげた。

 

「ゾルダート。この男が手伝ってほしいそうだ」

「おう、いま行く」

 

 ゾルダートは口惜しそうにする男と笑顔で肩を組んだ。

 

「ようエロジジイ。人手が足りねえなら、ほっそい女より俺を頼れよ。俺たち友達だろ? ったく、水くせぇなぁ……」

 

 

 匂いと雰囲気で、ルーにはわかる。ナナホシは処女だ。

 きょとんとしているナナホシを連れ、カノンに預けた。

 物陰から差配の親父とともに現れたカノンは、ニコニコ笑ってナナホシとルーに抱きついた。

 

「聞いて! ベリトの宿代はタダにしてくれるんだって!」

「太っ腹じゃねえのぞ」

「ぞ? あんたって、ときどき変な喋り方するよね」

「ぞ」

「ねえ、あたし寝るときは、ゾルダートと一緒でいいでしょ? 昼間はナナホシに譲るからさ、夜はあたしが独占していいでしょ?」

「よきにはからえ」

「きゃー! ありがとー!」

 

「ああ、悪く思わないで。あんたのことも好きよ。おとうさんみたいに思ってるわ、あんた、いい男よ」と調子よく親父にしなだれかかるカノンを、ルーは達観した目でみた。

 武力のない女は性を売って食いつなぐ。商いで男と寝たあとで恋人ともしっかりやるのだから、凄まじい精力だ。

 

 自分の女になったからには、娼婦とはいえ他の男と積極的に寝ることをこころよく思わない男は多い。

 ところがゾルダートは、男がいろんな女とやるように、女のほうもいろんな男とやるのが当たり前だと思っている節がある。

 輜重の女――老婆やほんの幼い子供を除いて、ほとんどが娼婦だ――に育てられたと言っていた。それが影響しているのだろう。

 

 ルーの所属するBランクパーティのリーダーと副リーダーは、恋仲だ。

 しかし副リーダーのメリンダが、裏でヒーラーのレイフと寝ていることをルーは知っている。

 不倫が公になれば、リーダーの怒りをかってパーティの関係が破綻することも、

 しかしリーダーとて、メリンダの月のもののあいだ隠れて娼館に通っていることも、ルーは嗅覚で見抜いていた。

 

 自身は奔放に振る舞いながら、女には貞淑を求める男よりは、サッパリしていて好ましい。

 そう、ルーは思うのだった。

 

 

 


 

 

 

「蜂蜜湯ください。ふたつ」

「姫サマよ、これじゃ足りねえよ」

「あら……。じゃ、ひとつください」

「まいどあり」

 

 シンシアは注がれた蜂蜜湯を零さないように運び、宿にいるナナホシと分け合って飲んだ。

 いくら暖炉の火を焚いても、窓がこわれ扉があいたままの食堂は、氷河の底にいるようで、熱い蜂蜜湯はじんわりと体を融かした。

 

「ひとつしか買えなかったの?」

「そうなの、足りないって言われちゃった」

「いまは、食べ物はぜんぶ高くなってるから」

「みんな生活がたいへんなのね……」

「バカじゃないの、足元見られてるだけだよ」

「ベリトも飲む?」

「飲む!」

 

 物価にやや疎いオルステッドは、都市の中心部に館を建てられるくらいの金をシンシアに持たせていた。

 ゆえにパン一斤が法外な値段になろうと、彼女たちだけは飢える事はないのだが、それでも、一日に使う金額は決めているのだ。

 

 水害後、食糧を手に入れるのが難しくなった。

 パン屋も肉屋も水浸しになって凍り、商売をするどころではなくなったのだ。

 他の宿がそうであるように、〈陽気な酒箒〉の経営をほぼ任されている差配の夫婦は抜け目なく食事代をつり上げた。

 ゾルダートたちは、初めに食費も込みで支払っているため、苦しむことはなかった。いや、酒代は別であったので、ゾルダートのみ苦悩した。

 都市の窮乏を知った農家もまた抜け目なく塩漬けの魚や豚肉や穀物、蜂蜜湯をかついで売りにきた。

 

 民衆の不満は高まっていた。こんなときでも、貴族の館では舞踏会がひらかれ、宴会が催されていた。

 領主がノブレス・オブリージュを果たさないことに、民衆は腹を立てていた。

 あるとき、領主館の使用人をみかけたので、数人の男がとりかこみ、難詰した。口だけではなく手や足も使ってこらしめた。

 勢いづいて、使用人をかつぎあげ、領主館におしかけ、建物の前で、いっせいに猫の鳴き声をまねた。騒々しさに窓が開いた。民衆は窓にむかって、腐った卵や石を投げつけた。

 領主館の食客の魔術師が、民衆に水弾を次々に打ちかえした。

 ついに警吏が出動し、騎兵隊までやってきて、乱闘になった。

 騎兵隊は革鞭をふるい、民衆は棒きれと石で立ち向かった。数人が見せしめに逮捕され、開拓地送りになった。

 そんな騒動があったばかりだ。

 

 シンシアは渦中にいなかった。しかし、町全体が貧しくなり、殺伐とした空気は感じとっていた。

 

「姉ちゃん、いってらっしゃい」

 

 外に出かけようとする女に、ベリトが声をかけたので、顔を上げた。

 鉛白で顔を白く塗りたくり、付け黒子をつけたカノンは「おばあちゃんのところに寄ってくるから、帰りは遅くなるわ」と妹に言いつけた。

 シンシアはめかしこんだカノンを見て、目を輝かせた。

 

「カノンさん、かわいい!」

「えぇ? うふふ、ありがとう」

「それで歯を真っ黒にしたらお嫁さんみたいよ*1

「美意識変わってるぅ」

 

「ここんとこ」カノンはシンシアの唇の下の黒子に触れた。付け黒子ではない、天然物だ。

 

「艶ボクロって言ってね、ここにホクロのある子は男に好かれるよ。あんたに神様のご加護がありますように」

 

 カノンは教会の中まで入ったことがないので、正しい祝福の仕方を知らない。

 自己流で十字を切ってシンシアを祝福し、外套の前を掻き合わせて、外に出ようとしたカノンに、シンシアが告げる。

 

「来るよ。警吏のスヴィさん」

「チッ」

「ぺっ」

 

 カノンは悪態をつき、ベリトは床に唾を吐きかける真似をした。

 私娼、窃盗、路上売り等を気まぐれにしょっぴく警吏は、姉の天敵であり、ベリトにとっても敵であった。

 食糧の高騰にともなって町の治安が悪化してからというもの、いいかげんな態度を改め、貧民窟を不機嫌な顔で巡回する警吏のスヴィを、ベリトは前にも増して嫌った。

 

 さっさと部屋に引っ込んだカノンは、ついてきたベリトとシンシアに言った。

 

「あんたたち、見張っていてね。あたしは窓には近づかないから」

「はぁい」

 

 ベリトとシンシアは窓から路地を見下ろした。

 宿の前では、漂白楽師(スコモローフ)が琴を奏で、革の仮面をつけたものが唄に合わせて踊っている。

 彼らの音色に魅入られても、楽人になりたいと願ってはいけない。ベリトはそう教えられている。

 道端で唄い踊って投げ銭をねだる楽人は、物乞いと同じように扱われる。北方大地では、冬のあいだだけ特別に宿に泊まることを許されているが、本来ならば市壁の中に住むことを許されない宿無しだ。

 娼婦のほうが、階級は上なのだ。下から数えたほうが早いけれど。

 

 楽人になりたいと願ってはいけない。パーブシカの言葉が実証されるのを、ベリトは目の当たりにした。

 警吏は武装した兵士を連れていた。兵士らは楽師に駆け寄り、乱暴に追い払った。楽器を取り上げられた楽師が、兵士の脚にとりすがる。兵士は地に叩きつけた楽器を踏み砕いた。

 楽師は激昂し、二人同時に一人の兵士に襲いかかった。

 見応えのある乱闘に、ベリトはくすくす笑った。

 

「ひどい」

 

 隣のシンシアが呟いた。

 そういえば、この子は、あの漂白楽師(スコモローフ)によく構われていたっけ。綺麗だから……。

 ベリトは思い出し、そのとき、警棒で楽師の背中を殴りつけていた兵士がガクリと糸が切れたように倒れた。卒倒したらしい。

 今度は、シンシアがくすっと笑った。でも、すぐに悲しんだ。

 

「琴を壊されて、かわいそう」

「よくあることだよ。いちいち気にすることじゃないよ」

 

 兵士が卒倒したことに戸惑う警吏のスヴィを見納め、ベリトとシンシアは窓を閉めた。

 閉めきる前に、大きな猫の鳴き真似が聞こえてきて、階段を駆けのぼってくる足音がした。

 飛び込んできたのは、こそ泥ジョシュであった。

 同じくらいの体躯で中堅冒険者であるトイリーから身のこなしを仕込まれたジョシュは、近ごろは〈すっ飛び屋〉と呼ばれている。

 

 婦人用の高貴な襟巻を巻いたジョシュは、シンシアたちに目くばせをして笑いかけ、ほつれた毛糸の帽子を片手で押さえ、窓枠に足をかけて跳躍した。

 後から駆け上がってきたスヴィが窓から身をのりだしたときは、向かいの屋根に飛び移っていた。

 

「いいぞ、すっ飛び屋!」一部始終を見ていた向かいのパン屋の男が野次を飛ばした。

 スヴィは握りこぶしをふりまわし、「調子に乗りやがって、くそっ」とわめき、バタンと寝台に仰向けになった。

 

「捕まるなよ!」

 

 窓から身を乗り出し、ベリトも喝采を飛ばした。胸がすく思いであった。

 

「今度はなにを盗んだのよ」好奇心を隠せず、カノンがわくわくした表情で訊ねた。

 スヴィは彼女を見咎めたが、頭を寝台に沈めた。屋内で大人しくしている売春婦を罰することはできない。

 

「黒(てん)の襟巻だ。どこぞのお屋敷から盗んだのだろうよ。わざわざ見せびらかしてきやがった」

 

「大泥棒!」感心しきった顔で、シンシアが言った。「前はパンだったのに」

 

「冒険者どもが余計なことを吹き込むからだ。まだガキなのに怖いものなしだぞ、あいつは。まったく、すえ恐ろしい」

 

 スヴィは呻き声をあげて起き上がり、ナナホシの腰に手をのばした。

 不快を隠さずかわしたナナホシの前に、すばやくカノンが滑り込み、スヴィの上に押しかぶさった。

 

「やりたいんなら、あたしとやればいいわ。すけべお巡り」

 

 カノンのわざとらしい喘ぎ声の響く室内で、ベリトとシンシアは男と女の体位を床の上でまねて笑いあった。

 快楽を伴わないごっこ遊びであったが、いたたまれなくなったナナホシが二人を連れて隣部屋に移ったので、続けることはできなくなった。

 無人の隣部屋は、ゾルダートとカノンが寝泊まりする部屋である。

 本来カノンと同室であったフェリムは、早々に恋人を作ってそちらの家に転がり込んだ。

 恋人はハーフエルフの少女である。

「大森林から遠く離れた土地で、長耳族の血をひく者同士。これって何かの運命だ」とフェリムが陶然と語るのを、ゾルダートたちは聞き流した。

 

 ゆえに、ゾルダートとカノンで一部屋、

 ナナホシとシンシア、ベリトで一部屋、

 そんな部屋割りで、彼女たちは日々を過ごしているのだった。

 

*1
明治3年のお歯黒禁止令以降お歯黒文化は徐々に廃れたが、農村にはけっこう残っていたらしい。





2023/9/1 追記

ネガティブな文章を置き続けるのも良くないなと思ったので後書きは削除しました。
たくさんの励ましや応援の言葉をありがとうございました。拙作を今後ともよろしくお願いします。


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二九 知らぬ存ぜぬ(前)

文字数が多いので分割して投稿します。後編は明後日更新の予定です。

前話では多くの応援の言葉、感想をありがとうございました。
例の件を自分の中でプラスの出来事にしてくださった皆様に深い感謝を。
本当にありがたい。これからも読んでくださると嬉しいです。



 カーリアンに来て、二月と少し。

 扉と窓の修繕が終わった宿の裏手で、私はベリトやほかの子供たちと積んだ雪の上でそり遊びをしていた。

 オルステッドが迎えに来る日は着実に近づいている。

 まだ二十日以上は先であるけれど、遊びおさめというわけだ。

 

「フェリム!」

 

 そりの順番待ちをしているときに、こちらに歩いてくる見知った顔をみかけ、私は手を振った。

 そのあとで、違和感に首をかしげる。

 

 様子がおかしい。

 まず、引越しでもするのかという荷物を背負っている。

 フェリムは恋人のアリスティアと同居していたはずだ。

 表情もおかしい。

 いつも底抜けに明るく、騒ぎ屋フェリムと呼ばれる彼。

 しかし、今は暗い顔で、とぼとぼと歩いている。

 

「ゾルダートは居る?」

「ご飯食べてるよ」

「そうか……」

 

 二日酔いで痛む頭に苦しみながら遅めの朝食を食べていたはずだ。

 宿を指さすと、フェリムは暗い顔のまま、宿の中に入っていった。

 本当にどうしちゃったんだろう。

 

「シンディー、次シンディのばんー!」

「抜かしちゃうよー!?」

「まってー!」

 

 せっかく順番待ちしてたのに!

 一から並び直しになってしまうのはいやだ、とそりの上に座る私は、フェリムのことはすっかり頭から抜けていたのだった。

 

「はっ!」

 

 思い出したのは、二回ほど滑ったあとだ。

 遊びの輪から抜け、そっと食堂の様子をうかがう。

 ベリトもついてきたので、口元の前で指をたて、静かにね、と促してから、中に入った。

 フェリムはテーブルにのせた腕のなかに顔をつっぷしていた。食器を端によけたゾルダートさんが、伏せた背中に肘をのせてくつろいでいる。

 元気だせよ、と、言う声はおざなりだ。雑な慰め方である。

 

「どうしたの? その荷物は?」

 

 近づいて訊ねると、「追い出された」とフェリムは顔を伏したたま、泣き声で言った。

 

「どうして……?」

「アリスの父親が……首都から娘の様子を見に……最初は、俺のことを気に入ってくれたんだ。昔は流れの冒険者だったみたいで、色々教えてくれた。

 なのに、俺の祖母の名がエリナリーゼ・ドラゴンロードと知ったら、怒って……。すごく怒って……」

「そんで追い出されて、アリスティアにもフラれたんだ?」

 

 ベリトの笑いをふくんだひと言に、フェリムはずっと鼻を啜った。

 お兄さんなのに女の子に泣かされているのは、少しだけかっこ悪い。

 

「エリナリーゼって悪いひと?」

 

「知らね」ゾルダートさんは眉頭をカリカリかいた。

 

「でも厳つい名前だな、ドラゴンロードってよ。

 俺の名前なんざ、兵士の邪魔者って意味だぜ」

 

 ゾルダートさんの名前、私は好きよ。

 

「シンシアはね、誠実って意味よ。ベリトは?」

「悪魔のなまえ。パーブシカが言ってた。癇癪がうるさくて悪魔みたいだから付けたって」

 

 ベリトの名前も、私は好きよ。友達の名前だもの。

 

 それはさておき、エリナリーゼ・ドラゴンロードだ。

 いったい何者だろう。アリスティアの父親とどんな確執があるというのか。

 

「ちょっとくらい慰めてくれたっていいだろぉ……」

 

 フェリムが情けない声を出したので、私はぽむちと肩に手を置いてあげた。

 ルーさん、ナナホシ、アリスティアと好きな子がころころ変わるから、女に向ける気持ちも軽いものだと思っていた。

 しかし、なかなかどうして沈み込んでいるようだ。

 

 ゾルダートさんは、肘を退かし、話を聞く姿勢をとった。

 穏やかな声でフェリムに訊ねた。

 

「冒険者に娘をやれねえっつうなら、わかるぜ。安定した収入もない、いつ死ぬかもわからない身の上だからな。

 けどよ、お前の婆ちゃんが、そのエリナリーゼって女だと何がいけないんだよ」

「わからない。俺も名前を知ってるだけで、何をやったのかも、どんな人なのかも」

 

 ナナホシは、食堂のサモワールを借りて茶をいれ、フェリムにすすめた。

 形のよい唇のあいだに、フェリムは茶を流し込む。

 香りのいい茶は、気持ちを鎮めるのに効き目があったようで、とりあえずは、泣き止んだ。

 

 彼の祖母が何者であろうと、孫であるフェリムには無関係だ。

 そう思えるのは、私がフェリムのことしか知らず、完全に彼の側に立っているからだ。

 フェリムからしてみても理不尽のきわみだろう。

 でも、先祖の不仲や借貸が子孫の代まで持ち越されるのは、生前でもよくあった事だし、アリスティアの父親の怒りも否定できるものではない。

 

「ハァ……もういいや、俺、巡礼に出ようかなぁ」

 

 顔を手で覆い、深いため息の後にフェリムは言った。

 大森林からミリスをつなぐ聖剣街道、首都ミリシオンの大聖堂などの聖地へ、北方大地の人々は、ひとりで、あるいは集団で、巡礼に出る。魂の救済を願って。

 地図では対角線上にある遠い国なのに、ミリス様への信仰は厚く、巡礼に出る者はあとをたたない。

 雪で閉ざされた土地だから、人々は縋る神様を必要としているのだろう。

 

 赤竜山脈の麓のラノア修道院には、数百人を収容できる宿坊があり、シーローン王国や王竜王国、ミリス神聖国には、全国からの巡礼者用に無料の宿泊所がある。

 アスラ国内にも、有名な巡礼地、聖人にゆかりのある地は幾つもある。

 長い旅時は、決して楽ではない。ひょっとしたら、いや、確実に四国遍路巡りより厳しい。

 道中で魔物に襲われるし、巡礼者狙いの盗賊もいる。

 だから、ミリシオンの大聖堂まで行って帰ってこれるのはひと握りだそうだ。巡礼の途中で、最西端にある〈剣の聖地〉へ流れる者もいないではないけれど。

 

 地縁を断ち、旅に出たいと思いつめるほどフェリムの悲しみは深い。

 ゾルダートさんは青灰色の目を驚愕に見開いた。ウソだろ、と、唇が動くのを見た。

 でも、言葉を飲み込み、肩をがしっと抱いた。

 

「わかった、俺も一緒に行ってやる」

「……冗談だよ」

 

 フェリムはちょっと困ったように顔を上げた。

 

「もしアリスティアさんのお父さんに会ったら、わたし、やっつけてあげる」

 

 フェリムの悲しみを軽くするために、私はそんな冗談を言った。

 

「素手じゃかなわないから、棍棒でえいって殴るもん」

 

 棍棒をふりまわす真似をした。ね、とナナホシを振り返ると、彼女は、むん! と力こぶを誇示する仕草をした。

「そりゃいい」ゾルダートさんが口をはさんだ。

 

「俺なら、素手で十分だ。股間も蹴りあげてやる」

 

「やめろよ」フェリムは泣き笑いの顔になった。

 

 フェリムが出ていった部屋は、ゾルダートさんとカノンさんが二人で使っている。

 フェリムは元の部屋には戻らず、私とナナホシとベリトが寝泊まりする部屋で暮らすことにした。

 うち二人が子供でも、四人では手狭になる。ベリトがカノンさんたちの所へ行った。

 

 

 


 

 

 

 水害によって損なわれた建物や民家の修繕は進んでいない。

 ただでさえ雪かき作業があるのだ。そっちまで手がまわらないのだろう。

 

 酒箒邸の窓と扉の修理が早くに済んだのは、オルステッドに預けられた金を、ゾルダートさんを経由して積んだからだ。

 銀貨はあらゆる不可能を可能に変える、とゾルダートさんは言った。

 品切れとされていた窓ガラスも、扉の木材も、銀貨によって手に入った。

 

 しかし、新たな扉と窓は、高騰した木材を購入するための財源があることの露呈にほかならず、〈陽気な酒箒〉にはたびたび泥棒が入り、住人総出で撃退された。

 

 宿の出入りを許されている泥棒は、たった一人だけだ。

 すっ飛び屋ジョシュは警吏のスヴィをからかうことを生きがいとし、住人の喝采を受けながら二階にかけのぼってきて、追うスヴィを尻目に、窓から跳んだ。

 スヴィは絶望的な声をあげて寝台にひっくり返り、カノンさんを抱くのだった。

 

「ゾルダートさん、銭湯また行きたい。ベリトもいっしょに」

「こんどな。今はいろいろ危ねぇんだよ」

「いろいろって?」

 

 きっかけは、数人の子供だった。

 魔族の店におしかけ、菓子や煙草をかっぱらって逃げた。店のものが追いかけて殴った。

 子供たちは「洪水が起こったのは、魔族のせいだ」と言いたてた。集まってきた人々は子供に加勢した。「魔族は怪しい術を使うんだろう」「魔族を殺せ。河の怒りを呼び覚ました魔族を」

 騎兵隊が出動して、どうにか町の暴動をおさめたという事情を私は知った。

 

 民衆の不満は、貴族から逸れ、よそ者の魔族に向けられた。

 ベリトの祖母は、魔族で、銭湯小屋の骨接ぎ婆さんだ。

 呪いや薬草で人々の不調を治す骨接ぎ婆さんは、逆のこと――つまり、人を呪って災いを呼ぶこと――もたやすいと誤解された。

 

 魔族がかたまって住む地区で暴動と略奪が起こったと聞いた翌日、ゾルダートさんと出かけていたカノンさんが、泣き腫らして帰ってきた。

 顔見知りの魔族は、みなカーリアンを捨て逃げたらしい。

 いま残っている魔族は、トイリーさんのように、はぐれ竜討伐のために町に逗留している冒険者たちだけだ。それだって、出国許可が出ないから仕方なく留まっているにすぎない。

 

「何もかも、持ち去られていたわ。窓ガラスから、食糧から、家具から……おばあちゃんは、家を守ろうと戻って……それで……」

 

「パーブシカ、どうなったの?」ベリトはしつこく訊ね、カノンさんは押し黙った。ゾルダートさんが硬くなった華奢な肩を抱いた。

 

 ナナホシが下の料理屋で食事をとっているとき、住人が彼女の黒髪をいきなり掴み、お前も魔族か、と凄んだ。

 早口だったのでナナホシは聞き取れず、怯えた顔をした。

 

「違う」腕をつかみ、不機嫌な声で、ゾルダートさんが答えた。

 

「厄介ごとは起こすなよ」

「ゾルダート、お前も、ひょっとして魔族野郎に買収されているんじゃ」

 

 そう言いかけた男は、ゾルダートさんに殴り倒された。私は蛇を自分の中に引っ込めた。

 宿を移ろうと私は言ったけれど、カノンベリト姉妹が魔族の骨接ぎ婆さんの孫養子だということを知る者は多く、今の情勢では彼女たちを泊める者はない、とゾルダートさんは言った。

 私たちが宿を替えれば、それはベリトたちを見捨てることになる。

 現に、おかみさんは彼女たちを追い出したがっている素振りだ。カノンさんを隠れて抱いている親父さんと長男のイリヤさんが、その度に反対している。

 

 私とナナホシは外出を控え、宿に引きこもった。

 そうしていると、外から、子供たちに遊ぼうと誘われる。ベリトも入れていいか私は訊き、だめ、と言われると窓を閉めた。

 屋根裏に入れることに気づき、ベリトと二人で入り浸った。

 切妻の屋根が作る空間は、急斜面の屋根にそって、壁も傾斜している。フェリムが鼠取りの罠を作ってくれた。仕掛けて捕まえ、猫に食わせた。

 二人でも十分楽しいのだけど、グリシャも入りたそうにしていたら、気が向いたときだけ、交ぜてあげた。

 

 

 ある日、私とナナホシとベリトがいる部屋に、三人の人物が、もつれあってなだれ込んできた。

 ひとりはすっ飛び屋ジョシュ。もうひとりは警吏のスヴィ。そして、泣き叫びながら駆け込んできたカノンさん。

 カノンさんはいそいで扉を閉め、椅子を前に置いた。

 スヴィが寝台をひきずり、扉の前に動かす。まだ躰が育ちきっていないジョシュが全体重をかけて動かすのを手伝った。

 

「あたし、殺される。みんなが、あたしたちを殺しにくる」

 

 カノンさんは訳のわからない顔をしているベリトを抱きしめ、うずくまった。大勢の乱れた足音が階段をのぼってきた。

 

 私は彼ら三人を視て、おおよその事情を知った。

 いつものように、ジョシュはスヴィを撹乱しようとした。

 そのとき、魔族の孫娘という理由で、私刑にかけられようとしていたカノンさんと鉢合わせた。

 撒こうとするジョシュ、追うスヴィ、逃げるカノンさんが、ひとかたまりにもつれて、宿に転がりこんだというわけだった。

 

 寝台で押さえた扉が乱打される。

 廊下が狭いために、大勢で体当たりをして扉を破ることはできない。

 

「出てこい、魔族!」

「ろくでもねえ淫売め!」

 

「お前たち、逮捕するぞ」スヴィが扉越しにどなった。

 

「警吏の旦那、あんた、魔族をかばうのか」

「俺たちを裏切るのか」

 

 聞き知った声があった。暴徒の中には、この宿の住人もいる。

 彼らは、かつてカノンさんとともに食事をし、酔っぱらったことを忘れたのだろうか。

 

「やめろ」ジョシュが悲痛な声をあげた。

 

「お前らみんな、正気じゃない。骨接ぎ婆さんを殺して、おかしくなったんだ」

「ジョシュ、まだそこにいるのか。早く逃げろ。スヴィにとっ捕まるぞ」

 

 呪い殺せるように扉に近づいた私の頭をスヴィははたき、目顔で部屋の隅を指した。

 近づくな。言わんとしている事がわかり、従った。

 カノンさんに抱かれているベリトは、全身が石のようになっていた。隣りに寄り添うと、手が伸びてきて、痛いほど腕を掴まれる。

 

「どうなんだ、旦那。あんた、魔族の味方をするのか」

 

 スヴィが髭面をゆがめ、喉の奥で呻いた。ジョシュに何か囁き、「そこに行け」と言って自らの帽子を預けた。

 背負えるのは一人までだとジョシュは言い、カノンさんは迷う顔をした。

 私は衣服や荷物を入れていた長櫃をあけ、ベリトならここに隠れられると言った。屋根裏に隠してあげたかったが、この部屋からは行けない。

 ジョシュはカノンさんに警吏の帽子を被せた。背負って窓から跳んだ。

 すっ飛び屋の二つ名にふさわしく、家々の屋根を飛び移って、あっという間に見えなくなった。

 

 扉が軋みはじめたとき、棍棒を持った差配の親父さんが駆け上がってきた。暴徒は手斧や槌で応戦し、血なまぐさい乱戦になった。

 一人をトウビョウ様の力で転ばせると、階段からまとめてなだれ落ちた。

 

 怪我を負った暴徒が帰っても、ベリトは石のように動かずにいた。

 仕事を終えたフェリムが帰ると、ようやく白い顔に血がかよいはじめた。

 その日、ゾルダートさんは帰ってこなかった。

 

 

 カノンさんが脱出した翌日、ナナホシを宿に残して、フェリムとルーさんが、ベリトを送り届けた。私もついて行った。

 

 私はひとめでアスラ系とミリス系の混血とわかる顔立ちをしているらしい。

 だから魔族の疑いをかけられる事はなく、外を堂々と歩けるのだが、ナナホシは微妙だ。

 この国で黒髪は珍しい。そのためナナホシが魔族だと早とちりしてしまう人がいるかもしれない。ゆえに彼女は留守番である。

 私にしても、魔族の味方だと思われれば、安全は保証されない。

 ゾルダートさんが居ないことを不安がったフェリムが、冒険者ギルドに赴いて、呼んでこられたのがルーさんというわけだ。

 

「魔族が何かしたから、こうなったって、ルーさんたちも思う?」

「まさか」

 

 景気等がなかなか回復しないのは、赤竜のせいだという。

 はぐれ竜を恐れ、どの都市も支援物資をカーリアンに届けるのを渋っている。

 はぐれ竜が、カーリアンの近くの森林に潜んでいることはわかっている。

 しかし討伐に本腰を入れるには、残雪が大量にあって、足場が悪い。

 赤竜討伐をせかす民衆と、雪解けまで動けない冒険者で、険悪になっている、と、ルーさんは私に教えた。

 

 スヴィは、あの後、グリシャが字の学習用に使う白樺樹皮を一枚拝借し、尖らせた骨を握って地図を描いてナナホシに渡した。

 ナナホシはそれをフェリムに渡し、彼は「ここはスヴィの家だ」と意外そうな顔をしたのだった。

 

 

 着いたのは、ぼろ長屋であった。

 私たちがたずねたとき、台所で子供たちがカノンさんの上に覆いかぶさり、口々に「魔族」と叫びながら、髪をひっぱり、臀を叩いていた。

 カノンさんは逆らわず、こらえている。子供たちを引きはがそうとするフェリムを、「やめて」ととめた。

 同時に、大柄な女が寄ってきて、フェリムを突き飛ばした。華奢なフェリムは羽交い締めにした子供といっしょにころげた。

 そばにいた私と、幼い子供が下敷きになった。幼い子供は私の腕に噛みついた。

 ベリトが、噛み付いてきた子を蹴って追い払った。

 

「スヴィ巡査の妻子よ」カノンさんは床に突っ伏したまま言った。

 

「お願いよ、おちびさん(マーリンキィ)、あなたも逆らわないで。ここも追い払われたら、行くところがないの」

 

 その通りだった。

 宿屋の夫婦は、とうとう魔族の孫娘を泊めることを拒否した。

 私は親父さんの怪我を治癒魔術で癒し、せめて雪解けまでの間だけでも泊めてくれるよう懇願したが、子供がわがままを言うなと一蹴されるだけであった。

 向こうもゾルダートさんがいないので強気だ。おかみさんがカノンさんたちの身のまわりの物をまとめ、宿の外で待っていたルーさんに押し付けた。

 

 ルーさんはおかみさんから渡された荷物をカノンさんに返した。

 カノンさんは金を入れた布袋をそっくりスヴィの女房に渡し、女房は悪びれなくそれを受け取った。

 

 母親のスカートをつかんで、子供たちは「魔族、魔族」と繰り返した。三つから八つ九つくらいのまで、四人いた。

 杖をついた老婆がやってきて、ベリトと床に膝をついたままのカノンさんを、杖の先で順ぐりについた。

 

「ああ、まったく、うちの馬鹿息子ときたら。よけいな荷物をしょいこんで」

「スヴャトスラフはこの家の主だぞ。主のすることに口を挟むな」

 

 頭の上から(しわが)れた声が聞こえた。暖炉の上にいる老爺が老婆に食ってかかった。

 

「淫売娘の肩をもつのかい」

「うるさい。主人を敬え」

 

 北方大地の民家のもっとも暖かい場所を占めた老爺は、スヴィの父親。そして、老婆のほうが母親だとカノンさんはささやいた。

 老夫婦の口喧嘩を聞きつけてか、台所に十二、三くらいの少年と、それより年上の少女が入ってきた。少女は肩をちょっとすくめ、寝室に入っていった。

 腹が減ったと言う少年に女房はパンを切り分けてやり、それを見た他の子供たちが自分もとさわぎ、うるさい、静かにしな、と女房はパン切り包丁をふりまわした。

 

「兄ちゃんはパンを食ったのに!」

「おれは、外で稼いでる。おまえたちみたいな役立たずとはちがう」

「なんだい、わたしへの当てつけかい。わたしら年寄りは六十年の余も働きとおしたんだよ。ここらで休ませてもらってなにが悪い」

「天国か地獄で休みな、ばあちゃん」

「このくそガキ! 母親の躾が悪いんだね!」

 

 私たちは台所のすみに行って、一家の騒擾からできるかぎり離れた。私はベリトに小さな魔石をこっそり持たせた。

 ベリトは魔石を握りこんだこぶしを目元に近づけて、透き通って輝くそれを指の隙間から眺めてから、下着の中にしまいこんだ。

 

「ゾルダートは帰ってきた?」とひそめた声で訊ねたカノンさんに、まだだとフェリムが答えた。

 

「やっぱり、逃げられなかったんだわ……」

 

 カノンさんは浮かない顔をした。

 そうして、ゾルダートさんの居場所を、私たちに伝えた。

 

 

 


 

 

 

 鍵束を鳴らすような音をたてて、ゾルダートさんは面会を許された部屋に入ってきた。

 足首は鎖につながれ、ふれあうたびに、鈍重なひびきをたてた。

 奇妙な服を着ていた。腕の長さの倍はありそうな袖を背後にまわして縛り上げられ、上半身は石膏で固めたように固定されていた。

 

 鬼、と私は思った。

 拘束されたゾルダートさんは、全身から怒気を漲らせていた。

 顔に傷が縦横にはしり、水をかけられたのか、暗い金髪は額に貼りついて薄く凍っている。

 哀れな姿なのに、恐ろしい迫力があった。

 

「冷水を浴びせたな!」

 

 ルーさんが色めきたつ。鼻の頭にしわが寄り、尻尾と耳の毛が逆だった。

 青あざを拵えた目元が、私をみとめ、すこし優しくなった。

 私はたまらず手を伸ばした。顔に触れ、傷を治した。

 

 許された面会の時間はすぐに切れた。

 ろくに言葉を交わす前に、ゾルダートさんはふたたび引き立てられて、廊下のむこうの闇に消えた。

 

「なんで……?」

 

 戸惑ったフェリムの声に答える者はない。誰もが同じ気持ちだった。

 

 

 

 

「それは、狂人の拘束衣です。監獄のなかにも、癲狂院があるんですねえ……」

 

 冒険者ギルドで、受付嬢のブリギッテさんが言った。

 難しい顔だ。もう一人の受付嬢のユリアナさんを呼んでひそひそと話し合い始めた。

 

 こちらの国には気狂いを閉じ込める専用の建物があるらしい。

 生前は、気違いは家で面倒をみるのがふつうだった。

 座敷牢は分限者のうちにあるもので、たいていは家の中か裏手に小さな檻をこさえてそこに閉じ込めておくのだ。

 飯は格子のすきまや専用の小さな戸から与える。排泄は中に掘った窪みでさせる。

 

 ゾルダートさんの気が違ったことが仮に事実だとしても、他人が閉じ込めるなんて納得できない。

 恋人のカノンさんか、一緒に暮らしている私とナナホシが引き取るものだろうに、こっちではそうではないらしい。

 

「ゾルダートさんを閉じ込めた人みんな死んだら、ゾルダートさん、帰ってくる?」

「え? いや……無理だろうな」

 

 ルーさんはちょっと驚いた顔をして、「新しい看守が寄越されるだけだ」と答えた。

 殺しても殺してもキリがない。私は自分の無力を痛感した。

 

 

 冒険者ギルドのほうから逮捕された事情を調べてくれるということで、私たちは宿に帰った。

 

「ゾルダートがいないあいだは、俺がいる」とフェリムは言ってくれた。

 言葉こそ頼もしいが、長い耳がしょんぼりしてるときのシルフィみたいにへにょんとしていて、彼も落ち込んでいることは明白であった。

 ナナホシには言わなかった。なぜ逮捕されたのかも分からないうちは、説明のしようがない。

 

 ベリトもゾルダートさんもカノンさんもいなくなった部屋で、なすすべもなく、数日を過ごした。

 しおれた私を、楽師は膝にのせ、弦を張りなおした琴に触らせてくれた。指先は綺麗な音を生みだすのに、いっこうに心は弾まなかった。

 

 

 数日後、帽子を目深に被り、襟巻で顔をかくしたトイリーさんが訊ねてきた。

 彼はひと目で魔族とわかる髪色をしている。堂々と往来を歩くことはできない。

 

「少し前に、貴族に民衆が蜂起する事件があった。ゾルダートは、その首謀者にまちがえられたんだ」

 

 ゾルダートさんが逮捕された事情を、トイリーさんは教えてくれた。

 出回っていた人相書きに、ゾルダートさんの容姿は当てはまっていた。

 金髪碧眼で長身ということくらいしか共通点はなかったらしいけれど。

 

「ゾルダートはもちろん、抗議した。官憲は聞く耳を持たなかった。冒険者ギルドの職員が呼び出され、人違いを指摘した。

 官憲は書類にある首謀者の名を消し、ゾルダート・ヘッケラーと書き換えた。それで、終わりだ」

「なんだそれ! ひっでえ!」

 

 フェリムが中性的な顔を怒りでゆがめた。私もうんうん頷いた。

 トイリーさんがため息をついた。

 

「ゾルダートの抗議が、一応は聞き入れられただけでも、マシなんだ。

 ほとんどの冒険者に市民権がないのは、フェリムも知っているだろう。

 私たちは漂泊楽師(スコモローフ)と同じ、法的には非在の者だ。ギルドの外では、人間扱いはされない身分だ。

 官憲からすれば、誤認逮捕をみとめ、釈放の手続きを踏むより、絞首刑か開拓地送りにするほうがはるかに面倒がない」

 

 絞首刑。

 私は愕然とした。疑問も持った。

 こんな理不尽に晒される身分だというのに、なぜグリシャのように冒険者に憧れる子供は多いのだろう。

 

「冒険者になる者が後をたたないのは」私の内心を見透かしたように、トイリーさんは続けた。

 

「生まれが賎しい者でも、上位ランクの冒険者になりさえすれば、町の防護をつとめる契約で、その市町の市民権を得ることができる。

 ときには、名声と特権を得て、吟遊詩人に歌われて語り継がれもする」

「昔話のペルギウスみたいに?」

 

 私が口をはさむと、トイリーさんは頷いた。あそこまで偉大な存在になることは難しいだろうが、と言いながら。

 

「〈名誉なき人々〉の中には、刑吏と呼ばれる人々がいる。死刑を執行する者たちだ。

 彼らがなぜ冒険者になるか、わかるかい?」

「……人じゃなくて、魔物を殺すほうがいいから?」

「刑吏が、もっとも嫌悪される職業だからだ。刑吏の息子は、他の職につきたくても職人の組合(ギルド)に拒否される。娘は同じ刑吏仲間としか結婚を許されない。世襲職とならざるをえない仕組みだ」

 

 私に限らず、ブエナ村の子供は、刑吏とつきあってはならない、言葉をかわしてはならないと教えられていた。

 街では、刑吏は教会の墓地に埋葬されない。刑吏の柩をかついだ者は賤民に落とされる。

 

「冒険者ギルドは、〈名誉なき人々〉であろうと受け入れる。冒険者になって初めて、生まれながらにして与えられなかった尊厳を取り戻せた賤民階級の者は多い」

「だから冒険者は減らないのね」

「そういうことだ」

 

 フェリムは、異人の会話を聞いたような顔をした。

 前世では何にも思わなかったが、ブエナ村で母様と父様の子として生まれてからの人生と比べてみると、周りの人にトウビョウ憑きと恐れられるよりは、笑顔で気安く接されるほうがずっと心地よい。

 生まれは、その後の人生を決めるしがらみだ。

 しがらみを捨て、人並みの待遇を欲する人たちの気持ちも、少しはわかる。

 

 刑吏、墓掘り、夜警、掃除人、亜麻織職人、革細工師などが〈名誉なき人々〉とされる。生前の言葉でいうと、かわたや穢多だ。

 国や都市によって定義が異なり、職種によっては市民権を得ていることもあるが、一般的には誰もが嫌がる仕事をする者がそう呼ばれるのだ。

 多くの都市は、彼らが市壁の中に住むことを禁じている。いわば社会から排除された集団だ。

 

 市民より下、〈名誉なき人々〉より上。

 冒険者はそんな立ち位置なのだ。

 

「……っと、これかな」

 

 トイリーさんはゾルダートさんの荷物から、金属の板を探り出した。

 煮色仕上げ後の烏金のような光沢をもつ、小さな板である。

 板には光る文字で、〈ゾルダート・ヘッケラー〉と刻まれている。

 冒険者カードというやつだ。前に見せてもらった事がある。

 

「それどうするの?」

「ギルドで手続きをするんだ」

 

 冒険者カードをピッとかかげ、トイリーさんは言った。

 私たちを救う言葉を、求めていた言葉を、言い放った。

 

「ゾルダートを解放する方法がある。私が来たのは、そのためだ」

 

 監獄から出せる! ゾルダートさんを!

 

 私はピョンと跳ねるように席から立った。

 町の状態は良くならないし、町から逃げた魔族たちは戻らず、ベリトのおばあちゃん(パーブシカ)は生き返らない。ベリトもカノンさんも偏見の目に晒されたまま。

 すべての問題が解決するわけじゃない。どうにもならない事の方が多い。

 そんな中でも、その言葉は、希望そのものであった。

 

 

 

 冒険者ギルドで初めにしたことは、フェリムを護衛として登録することであった。

 ゾルダートさんが逮捕されたことで、〈ナナホシとシンシアを守れ〉というオルステッドの依頼が不達成になりそうなのだ。

 普通はギルドのほうから新しい冒険者を宛てがわれる。

 しかし、依頼の引き継ぎは諍いのもとだ。べつの冒険者が来る前に、気心の知れているフェリムを新たな護衛に指定したほうがいい、とトイリーさんにすすめられたのだった。

 

「シンディちゃんたちは二人とも了解済みね?」

「はい!」

「構わぬ」

 

 私たちに確認した後、一度奥にひっこんだユリアナさんは、小さな革の袋を持って戻ってきた。

 フェリムは不思議そうな顔でそれを受け取った。中を覗き込み、「うぇっ!?」と変な声をあげる。

 

「な、な、なんだ、これ」

 

「依頼の前金ですよ」とユリアナさんが答えた。

 最初に依頼を引き受けた冒険者が、事情があって任務を外れる、あるいは途中で死亡した場合、後任が見つかりやすいようにオルステッドはギルドに多めに金を預けていたそうだ。

 

愛しいちび(ケラ・ベアグ)!」フェリムは満面の笑みで私を抱き、頬ずりした。

 それからナナホシにも抱きつき、唇のはしで頬にキスをした。

 北方大地の人たちがよくやる挨拶で、喜びを伝える仕草である。

 カーリアンに来た当初こそぎこちなかったナナホシだが、最近ではすんなりと受け入れている。

 

「ありがとう、おかげで食いはぐれずに済むぞ」

 

 フェリムは最近Dランクに昇級した冒険者だ。宿代を折半して負担していたカノンさんが居なくなり、金策に困っていたのだろう。

 ゾルダートさんが投獄され、今の今までそんな素振りは見せなかったから忘れていた。

 私が落ち込んでいたから、心配をかけまいとしていたのだろうか。

 

「お礼ならオルステッドに言ってあげてね」

「そのお方が女だったら、抱きしめてキスしただろうさ」

「うふ」

 

 オルステッドを前に悲鳴をあげるフェリムを想像した。

 ちょっと面白い。実行はきっとものすごく難しいだろう。

 

「このチビどもの護衛が、そんなに割の良い依頼なのか……?」

「ってことは、フェリムをボコしちまって、俺が護衛になれば大金が手に入るんじゃねえか?」

 

 ギルドにいた冒険者たちがざわめき、私たちにジリジリと近づいてくる。

 フェリムは金の入った袋を握りしめ、私はフェリムの腹にしっかり腕をまわして抱きついた。

 きな臭い空気を感じたのか、ナナホシもフェリムの後ろに隠れた。

 

「フェリムじゃないとヤ!」

「そ、そうだ! 俺を倒したって、シンディとナナホシが認めなきゃ、受理されねえからな!」

「ハハッ! 冗談だっての!」

「んな仔犬みたいに警戒すんなって」

 

 冒険者たちは顔を見合せ、肩をすくめ、またテーブルに戻って飲みはじめた。

 本当に冗談だったのだろうか。

 ちょっと、いや、けっこう怖かった。

 

 さて、次はトイリーさんの番だ。

 

「頼む、クールミーン」

「ああ。お前にあそこまで頼み込まれちゃあな」

 

 背中に両手剣をたずさえた男は、カードを受け取った。

 トイリーさんが所属するAランクパーティ『ブラダマンテ』のリーダーである。

 

「何するの?」

 

 フェリムがひょいと抱えて手続きを見えるようにしてくれた。

 フェリムも興味を持ったのだろう。私たちは、机をのぞきこんだ。

 

「ゾルダートのやつ、とっくにBランクになれたんじゃないか。あんなに大言壮語しといて、なぜ昇級しなかったんだ?」

「俺とパーティを組むためだ。動きやすい季節になったら、共に迷宮に潜ろうって約束したんだ」

「へえ、面倒見いいとこあるんだな……」

 

 リーダーのクールミーンさんは、ゾルダートさんのカードを窪みのある透明な水晶の箱の上に置いた。

 クールミーンさんは続いて、職員のブリギッテさんに宣言した。

 

「ゾルダート・ヘッケラーをBランクに昇級、そしてパーティ『ブラダマンテ』に加入させる」

「かしこまりました」

 

 カードの文字がいっそう強く光り、沈静したとき、文字が一部変わっていた。

 

名前:ゾルダート・ヘッケラー

性別:男

種族:人族

年齢:17

職業:剣士

ランク:B

パーティ:ブラダマンテ

 

 

「そうか! そういうことか!」

 

 フェリムが急に大きな声を出した。

 頭のすぐ上から降ってきたから、ビクッとしてしまう。

 

「あんたら、竜退治に行くんだ! Aランクパーティだから! 国からの依頼だから!」

「そういうこった」

 

 クールミーンさんは机に手をついてニヤリと笑った。

 

「はぐれ竜討伐は、何より優先しなきゃならねえ。

 まさか、大事な戦力を檻に閉じ込めるわけがねえよなあ?」

 

 おお、と野太い歓声がギルドのそこここから上がる。

 私はフェリムの顔を見上げた。頬が興奮で真っ赤になっている。

 

 話が飲み込めてきた。

 竜退治は、国を挙げての大討伐だ。

 たとえゾルダートさんが死刑囚でも、冒険者ギルドが釈放を要求したら、官憲は突っぱねることができない。

 なにせはぐれ竜だ。ただの魔物や、迷宮探索とはわけが違う。

 突っぱねて、そのせいで討伐に失敗しようものなら、カーリアンごと壊滅しかねない。

 責任の所在を、領主は追及するだろう。

 ギルドは討伐を阻害したとして官憲に責任を被せるだろう。

 そうなることが目に見えているから、官憲はギルドの要求に応じるしかないのだ。

 

「トイリー、クールミーン、おれもパーティに加えてくれないか」

「ルー? お前、自分のパーティは」

「解散した。いや、解散する。メリンダがみごもった。おれはAランクだ。力になれる」

 

 さっきまでギルドの隅で食事をしていたルーさんは、口の端についたパンくずを手の甲で拭いながら、申し出た。

 副リーダーのメリンダさんが妊娠したので、パーティは解散する予定だったらしい。

 

「狩りは人数が多いほど成功しやすい。群れの生存率も上がる。違うか?」

 

 ルーさんは、私とナナホシを見た。

 

「やつの帰りを待つ女が、ここに二人もいるんだ。ゾルダートを生きて帰してやりたい」

 

 そう言って、私の頭をなでた。

 

「作戦会議だ。陣形を考え直そう」とクールミーンさんが音頭を取り、彼らはがやがやと口を動かしながらテーブルや椅子を運び、全員が顔を合わせて話し合いやすいようにしていく。

 

「マジで連れていくのか?」

「ああ。ルーはともかく、ゾルダートは前線には立たせないがな。

 この機会だ、あのクソ生意気なC級……いや、もうBか、とにかくクソ生意気なゾル坊をたっぷりしごいてやろうぜ」

「泣いて吐くまで鍛えてやろう」

「しかし、もう準備期間は十日もないぞ」

「幸いクランの戦術がある。ゾルダートの物覚えが良けりゃあ間に合うだろう」

「あたし他のパーティも呼んでくるわ」

 

 

「……俺らは帰ろうか」

「うん」

 

 フェリムに言われ、ナナホシと手をつないで冒険者ギルドの出口に向かう。

 

「へへ」

 

 まだ助かったわけじゃない。

 ここにいる人たちや、ゾルダートさんが、生きて帰ってくる保証はない。

 失敗して、死ぬかもしれない。

 でも、私はにやける口もとを抑えられなかった。

 

 

 いいな、人っていいなあ。

 村という共同体から離れた土地にも、それぞれ営みがあって、文化がある。

 そこでは文化や言葉が少し異なっていて、人の生き方も考え方もちょっとずつ異なっている。

 でも、どこであろうと、人は笑うし、怒るし、泣くし、悲しむ。どこであろうと、人は優しい。優しくできる。

 

 人間が尊いばかりの存在ではないことは、知っている。

 悪い部分や、愚かな部分もある。私にも、もちろんある。

 カノンさんを襲おうとした暴徒も、やるせないけど、純然な悪党ではなかった。ジョシュにかける優しさは失っていなかった。

 どんな人だって、少しづつ、優しさは持っている。

 今も、善意でゾルダートさんのために動いている人たちがいる。

 

 横にいるフェリムだって、私たちを守ると言ってくれた時点では、見返りがあることを知らなかった。

 トイリーさんが来るまでの数日間、ナナホシに胡乱な目を向ける者がいるなか、夜に安心して眠ることができたのは、フェリムがいたおかげだ。

 

 

「ありがとうございます!」

 

 ギルドを去り際、私は全員にむけて言った。

 ナナホシも続いて頭をさげた。言葉を十分に理解できなくても、ナナホシは阿呆ではない。

 噛み砕いて説明されなくても、何が起こっているのか、自分で推察して、把握していたのかもしれない。

 

 冒険者たちは、会議を続けながらも、こちらに視線をよこした。

 ある人は微笑んでくれた。

 ある人は気にするなというふうに片手をあげた。

 ある人は「気をつけて帰れよ」と言ってくれた。

 

 切れ切れの優しさが集まって、大きなものとなって、私を救う。

 悪い部分、愚かしい部分があることを知っていて、私はやっぱり思うのだ。

 人っていいなあ、と。



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三〇 知らぬ存ぜぬ(中)

7月は時間がなくって全然書けなくてェ…
予告より更新が遅れてすみません。

AIで生成したオリ主やオリキャラのイメージ画像を載せます。
不自然な箇所はできる限り手直ししていますが、何分調整してる人が絵を描けないのでカバーしきれていない箇所多々です。ご容赦ください。

・シンシア

【挿絵表示】

ややタレ目で艶黒子あり 全体的に父方寄りの容姿
生まれたときは髪色はライトブラウンだったのが成長につれ焦げ茶色(アマラント由来)になりました
幼少~少年期に髪や目の色が自然に変わるのは西洋人種あるあるらしいです

【挿絵表示】

おまけの旅装姿


・ベリト

【挿絵表示】

つり目で太眉
ぱっと見で女の子だとわからないようにというのと、頻繁に髪を洗える環境じゃないから短髪


・フェリムファムール

【挿絵表示】

長耳族のクォーター
当初は髪は栗毛のイメージだったけど何回やっても赤髪になる これはこれで気に入ってます


・トイリー

【挿絵表示】

ミグルド族
見た目は12~13歳の少年


・ルー

【挿絵表示】

狼系の獣族
体の傷までは再現できなかった でも一番気に入ってます


また生成したら載せます。





フェリムファムール視点

 

 大森林の民の血がまじるゆえに俺の眼は炎のように赫い。先端の尖った長い耳殼は、俺に流れる長耳族(エルフ)の血の濃さをあらわしている。

 俺が生まれ育ったのは、ミリス大陸北部の大森林ではなく、中央大陸の北の果ての高地(ハイランド)だ。魔法三大国と北方大地を分断するカラル山脈は、ハイランドの牧童であった俺の前に、寥廓と(そび)えていた。

 

 俺の母は半エルフの奴隷だ。自由のひとかけらもない真の女奴隷(ローバ)。男の場合は真の男奴隷(ホロープ)と呼ばれる。ローバから産まれた女、あるいはホロープと結婚した女が、ローバになる。

 母は生まれながらの真の女奴隷(ローバ)だ。遡れば、母の母は本来は人であった。祖母がローバになった経緯を、俺は知らない。母も多くは知らない。母からこぼれ落ちる言葉の断片を俺は繋いだ。

 エリナリーゼ・ドラゴンロードという長耳族の女奴隷は、生まれた母がある程度育つと行方をくらませた。雇い主のもとに残された母は少女のうちにホロープと結婚させられ、数十年余りを夫婦として過ごした。

 母の夫であったホロープは、三十年も前に召された。神に? 牛馬の死は、神の思し召しではない。

 夫が死に、ローバの身分は据え置きであった母は何人もの奴隷商人の手を経て、カラル山脈東方の地主ヴァシリイに売られ、そうして俺を産んだ。

 

 俺もまた、生まれながらのホロープだ。

 父が誰なのか、俺は知らない。母を娶ったホロープ……では、ないだろう。半エルフの妊娠期間は、人と変わらないと聞く。三十年前に召されたホロープと、今年で十六になる俺では、年齢が合わない。

 赫い眼と先端の尖った耳は大森林の民の証である。しかし、俺のこの赤茶けた癖毛は、高地の民によくみられる特徴だ。孕ませたのはヴァシリイではないかと俺は疑っている。

 奴は快楽とともに財産をひとつ増やしたのだ。正式にローバを妻にしたら、その者の身分はホロープになる。弄んだだけで名乗らなければ、無傷だ。

 

 ホロープ、ローバは、自由民から明瞭に区別された、主の意のままに売買される奴隷であるが、課せられる仕事は肉体労働ばかりではない。知識を身につけ、所有地の管理事務を担う者もいる。

 母は、ヴァシリイに知識階級(インテリゲンツィア)としての教育を受けた。一方で、産まれた俺は、学の要らない牧童だ。母と同じ教育を施せば、自分の子とみとめているようなものだ。

 

 かつて、およそ二百人からなる戦士集団の隊列に、幼童から少年に移行しつつある年頃の俺は加わった。北方大地諸国の戦闘に戦闘集団(ガログラス)として雇われるのは、牧羊と狩猟で暮らす山あいの貧しい男たちが生計をたてる手段の一つだ。

 寒さの厳しい北部である時点で、諸国も貧しさにかけてはハイランドとおっつかっつなのだが、領地や鉱山を取り合って王国間の争いが絶えず、版図がしょっちゅう変わるから、ガログラスを必要とする雇い主には事欠かない。

 戦闘では剣が主に用いられ、次点で弓、弩、戦斧なども用いられる。魔術隊も、少数ながら存在する。

 少数であるのは、魔術に長けた戦士を育成するより、剣を扱う戦士を新たに雇うほうが、手間が少ないからだ。元から魔術を扱える者でなければ、魔術隊には配属されない。そして魔術の教育を受ける水準にいる者は、めったなことでは戦闘奴隷にはならない。

 神の恵みか、創造主による設計の過ちか、俺には魔術の才があった。ヴァシリイの息子が骨から作られた筆具(ピサロ)で蠟面に字を刻むようになる前に、俺の弱い小さな指は、火球を無から生みだした。母の唱える詠唱を真似たら、できた。十歳になる頃には、火だけではなく、水も風も出して操れた。

 

 年をとったり負傷して戦えなくなったり、あるいは死んだりで、ガログラスの隊長は、毎年、欠員を補充しにくる。

 年上の牧童仲間、レーノが勧誘される場に、俺はいた。去年戦死したクルネードの大盾を隊長はレーノに渡し、ガログラスに加わらないかと勧誘した。

 レーノは俺を指さし、俺が魔術の使い手であることを告げた。背丈ほどもある杖が、俺に渡された。握りこぶしほどの魔石を嵌めてあった。木魅を削って磨き上げた柄には、血の痕がしみこんでいた。ガログラスに加わったが生還できなかった魔術師の遺品であった。

 

 ガログラスには、給料が支払われる。三ヶ月ごとに去勢牛一頭が慣例だ。

 ヴァシリイは、俺を手放すことを承知した。まる一年間働いたら、牛四頭。凄い財産だが、俺の手に入るわけではない。ヴァシリイの儲けだ。父が……雇い主が俺を売り払ったのだ。

 仕度金として、隊長が銭を少々くれたので、母に渡した。母は鍛冶屋に短剣を打たせ、病死した牛の皮を剥がして鞣し、短剣をさげる腰帯を作ってくれた。

 

 長耳族の特徴として、長い寿命と優れた聴覚のほかに、男であろうと体つきが華奢で、男女の見分けが困難な――とくに子供のうちは――ことがあげられる。

 細身で中性的であった俺の体は、戦士の情欲を刺激するには十分だった。犯された。逃げ足に敏感な古強者どもが揃って女郎屋に出かけるタイミングを待ち、逃走した。

 

 長耳族の耳は、森にひそむものの気配を用心深く聞き分ける。森に入れば、追手を欺いて逃げるのはたやすかった。 腹が減ったら野兎を捕らえて食い、木の実を齧った。

 大都市であれば、冬でも食い物にありつけると思った。巡礼(ストラニキ)遍歴聖者(スターレッツ)に付いて無料の宿場を利用しながら大都市をめざした。ことに、鞭身派(フルイスト)には世話になった。

 カーリアンにたどり着いたとき、俺は十二であった。魔法三大国であることを知ったのは、少し後だ。

 短剣を売った。腰帯を売った。持ち物のなかできわめて高価な杖は、最後の切り札として、とっておいた。物乞いになっても絶対に売らなかった。

 

 俺は十四になり、物乞いにはむかなくなった。その頃には、俺にも情婦ができていた。十二歳の女の子で、左の腕がなく左足は義足だった。左眼は抉られていた。物心つく前に、彼女の〈父ちゃん〉に処置をされたのだった。道行く人に見せびらかす赤ん坊から幼児の姿形が哀れであればあるほど、衆目は集まる。同情して、金を投げる者も増える。しかし〈父ちゃん〉や〈母ちゃん〉は、不幸な状態にした赤ん坊の将来まで責任をもつことはしない。四肢が欠けていても、情婦の体を使ったもてなしは巧みだった。酒は俺より強かった。

 情婦は俺に、ヒモになってもいいと言った。しかし、年上の男として、俺は自分が養ってやる立場になりたかった。

 魔杖に視線を走らせた俺に、冒険者になることを情婦は禁じた。

 冒険者ギルドは来るものを拒まないが、そこに所属する北の冒険者は、身内意識が強く、よそ者に厳しい。負傷して動けなくなれば、他の組合のように面倒を見てくれるでもない。

 早々に来る死を受け入れて冒険者になる前に、銭湯の三助としてやとわれることができた。

 つてのあるものは、親か親戚の口利きで十から十二くらいで三助に雇われるのだが、俺はあいにくその事を知らなかったから、出だしは物乞いであったのだ。俺は自分で自分を売り込まねばならなかった。

 物乞いで年もいった俺を、風呂頭は雇うことを渋った。担保に杖を差し出した。俺がもしも失踪したら、それは売り払ってかまわない。そう説得した。

 

 情婦を養うために仕事についたのに、忙しくて、ろくに逢う暇がなくなった。数ヶ月後、使いに出たときに、時間をやりくりして逢いに行ったら、情婦は消えていた。金持ち相手に鞍替えして、妾宅にひきとられたのだと、同じ貧民窟の女が教えた。

 悲しさに沈んだ身に、三助の業務の忙しさはありがたかった。束子つくりに使い走りに、与えられた仕事を誠実にこなせば時間は勝手に過ぎた。過ぎる時は、俺に情婦を忘れさせた。

 

 職を得ると、これまで考えなかったことも考えられるようになる。

 俺という奴隷の逃亡によって生じた損害は、ヴァシリイに請求されたのだろうか。俺がガログラスから逃げ出したことで、信頼を失墜したヴァシリイは、そのまま没落し……楽しい妄想だが、現実にあってはならない。主が窮乏した場合、真っ先に売り飛ばされるのは奴隷だ。奴隷商人がどこの誰に転売しようと不服を言う自由は奴隷にはない。

 ヴァシリイに災いあれかし。いや、栄えていろ。俺の母ちゃんまで売り飛ばす必要のないほどには。

 顔も知らぬ祖母よ。なぜ、奴隷に甘んじた。なぜ、母に自由を与えなかった。俺の怨嗟は非在のものにまで向けられる。

 

 

 十五になると、冒険者に勧誘された。

 誘ったのは、ゾルダート・ヘッケラー。冒険者だが、仲間のいないはぐれ者だ。

 冒険者どもの諍いにいる彼を、俺は一度見ている。痩せた野犬が、ひとりで意地をはっているような、淋しさと凶暴さが綯いまぜになった感じをうけた。けわしい目つきが、ふてくされたような印象を与える奴だと思った。

 次に銭湯で見たとき、俺はその男の名がゾルダート・ヘッケラーであることを知らなかったし、あのときの、とすぐに気がついたわけではなかった。銭湯の客である女獣族を、滑らかな褐色肌に刻まれた無数の古傷まで、きれいだと思った。そばに居た小さな女の子の蒸しあがりそうな体を冷ましてやるのにかこつけて近づき、向こうのほうが俺を憶えていて声をかけられた。

 

 しかし、多少なりとも人を疑うことを覚えていた俺は、杖を風呂頭に取られているから不可能だと嘯いた。三助の代わりなどいくらでもいるから、本当はいつでも辞めて杖を返してもらうこともできたのだが。

 彼が俺のためにどこまでやるのか、確かめてみたい気持ちがあった。

 すぐに諦めるだろうという予想に反し、ゾルダートは俺の知らないところで風呂頭に交渉を持ちかけ、杖を手に入れた。手に入れたその足で、俺に渡しに来た。

 ――これで、お前は俺の仲間だな。フェリム。

 ゾルダートの顔つきには、期待があらわれていた。ヴァシリイからもガログラスの隊長からも、ついぞ向けられたことのなかった感情だった。

 

 精神の高揚。俺は杖を掲げ、夜空に向かって獄炎火弾(エグゾダスフレイム)を打ち上げた。これまで成功してこなかった上級火魔術であった。

 炎は高速で糸が巻かれるように頭上で膨張した。熱気が、手を、髪を、顔を撫でた。

 トイリーという子供の見た目をした冒険者が、新たな門出の祝いだと鹿を一頭振る舞ってくれた。これまでの人生で最も嬉しい出来事であった。

 

 翌日から、ゾルダートやトイリー、ルーといった面々から助言を受けつつ、依頼をこなすために尽力した。ゾルダートと正式にパーティを組むためだと思えば、ランク上げのための雑事にもせいが出た。

 

 ゾルダートには、人と喋るとき、ちょっと顎をあげる癖がある。その癖が相手を食ったような態度ととられ、関係がこじれやすいのだ。かっとなりやすく手が早いのは、この街では、いや、冒険者には普通のことだ。

 普段は魔物を相手に戦うためか、荒事に慣れた冒険者であっても、後先考えず攻撃し、相手の負傷の深さに初めて愕然とする者が多いというのに、ゾルダートにはそれがない。相手が大怪我をしても怯まず、気の済むまでやる。自分が舐められることは過敏なほど嫌った。

 喧嘩相手への苛烈な仕返しを見ていると空恐ろしくもあるのだが、俺には穏やかだ。喧嘩も一度きり。倒れれば、それ以上の追撃はなかった。

 ゾルダートの情婦とその妹と祖母、冬が明けるまで護ることになっている二人の女の子にも、優しい。フェンリルのような凶暴性は、爪と牙を持たない女子供には、なりを潜める。

 俺はあなたにとって女子供と同じかと訊いたら、違うと言われた。多分お前が俺の仲間だから、何を言われても腹が立たないのだろう、と本人もよくわかっていなかった。

 

 

 いま、ゾルダートは彼の巣たる女の子たちと引き裂かれている。

 獄からの解放は、滞りなく済んだ。晴れてゾルダートは釈放されたが、すぐに彼女たちに会えるわけではなかった。

 はぐれ竜を倒しに森に潜るその日まで、討伐メンバーと連帯して戦えるように仕込まれるのだ。面会の暇はない。

 

 本来なら春を待ち、討伐する予定の竜であった。

 ネヴィル河の氾濫による都市の損害、民衆の不満、色んな不運が重なって、その予定が前倒しになった。

 人も足りない、雪解け前で足場も悪い。そんな中、俊敏な巨体を倒しに行くのだ。ほとんど死にに行くようなものだと、俺にすらわかる。

 

 宿の物置と化した屋根裏に、使い古して破れ捨ててある手籠を見つけた。

 

「おかみ、この手籠、もらってもいいか?」

「何に使うんだい」

「ちびの遊び道具さ」

 

 階段の下り口から答えた俺を、差配のおかみは無愛想に見逃した。俺は部屋に引っ込んで編み上げられた細帯状の樹皮をばらした。必要とするのは、厚みのある楕円形の底板だ。

 底板を、退屈していたちび(ベアグ)は嬉々として受け取った。シンディをベアグ、ベリトをマーリンキィ、と俺は呼ぶ。意味はどちらも〈ちび〉で、深い考えはないのだが、なんとなく呼び分けている。

 

 寂しい懐が温かくなったのは、ナナホシとシンディを冒険者ギルドに託した、オル何とかいう男のおかげだ。

 可愛いちび(ケラ・ベアグ)は、尖らせた金属の筆具を握り、引っかき傷を何度もつけて、底板に文字を刻んだ。

 ベリト。そう書いてあった。この場にいないちびの名だ。ちびを膝に乗せ、マーリンキィ、と俺は書き加えた。

 ベリト・マーリンキィ。横並びにすると、貧民窟の親無しが、立派に姓を持ったようだ。

 

「な、な、ほ、し、し、ず、か……」

 

 次に筆具を持ったナナホシは、カリカリ、カリカリ、辛抱強く傷をつけて、ナナホシシズカ、と下手くそな字を刻んだ。

 ゾルダート・ヘッケラーと書ける? 訊ねたちびに頷いてみせ、ナナホシは時間をかけて刻んだ。

 ゾルダートが死ぬかもしれないことが嘘みたいに穏やかな時が流れた。

 神よ、と俺は板に記す。すぐに小刀で削り取る。手籠をばらした底板に刻むべき言葉ではない。残すべきではない。俺は生まれながらのホロープだ。家畜だ。家畜の祈りは、聞き届けられない。

 フェリムファムール・ドラゴンロード、と、この中では一等長い俺の名を刻んだ。

 

「私の名前もかいてほしいの」

「書いたよ、ちびってさ」

「ううん、シンシア・グレイラットのほうよ」

 

 柔らかく削りやすい蠟面と異なり、木面に文字を刻むには指の力が要る。弱い指が疲れたのか、ちびは筆具を手放した。

 胸に頭をもたせかけてくる。俺はなんだか和やかな気持ちになって、名を刻んでやった。

 シンシア・グレイラット。貴族みたいな名だ。グレイラットの綴りがわからず、ちびに教えられた。

 

「グレイラットって、アスラ貴族のグレイラットか?」

「うーん、お父さんとお母さんが、むかし、貴族だったの。でも、捨てたんだって」

「じゃあ、ベアグは貴族じゃないんだな」

「うん」

 

 貴族は、多くの奴隷が求める自由を所有する。自由を規制する法をつくるのは貴族だ。その下の身分の者は、法の規制の枠内で生きていくしかない。

 ちびの両親は、ちびやその兄妹に自由を与えたいと思わなかったのか。

 それとも、無知な子供を雨風から守る、強い翼が己にあると確信したのか。

 

 友達の姉妹に会いに行こう、と、俺は誘った。ゾルダートが不在の間、俺はシンディとナナホシの面倒を見る。姉妹がスヴィの自宅で酷い扱いを受けないように気を配る。

 

 スヴィの自宅では、カノンが女房に怒鳴られ、まつわりつく子供の相手をしながら老人の粗相を片付け、ベリトは泣きわめく赤ん坊を背負わされていた。

 カノンは疲労でひび割れた微笑をみせた。ベリトはさっさと赤ん坊を他の子に押しつけ、シンディと連れだって庭に出た。

 物心ついたスヴィの悪ガキどもは、子供ながら整った容貌のシンディに怖気づき、彼女の気にさわることはしない。表面では無関心を決めこむ。したがって、シンディといる間は、ベリトが虐められることはない。

 差配夫婦の次男坊みたいに、めげずにちょっかいをかける悪ガキもいるにはいるが、ここにはそんな気骨のあるのはいないようだ。

 

 夕方になり、勤務を終え帰宅したスヴィは、家族中から吊し上げをくらった。居候をおける身分かい。しかも、よりによって淫売の魔族だよ。このご時世に。近所に知られたら、この一家はみんな狂人だと思われるよ。

 毎日これよ。カノンが俺にささやいた。

 スヴィは暖炉の上から降りてこない父親にカーシャを渡していたが、俺が冒険者であることを口にした。

 

「そのエルフは、魔術師だ。金を稼げるぞ」

「あんたの一家を食わせるためにここに来たんじゃない。居候するつもりもない。カノンの様子を見にきただけだ」

 

 俺の仕事は、ナナホシとシンディを守ることだ。カノンベリト姉妹が無事なら、すぐにでも帰るつもりだった。

 俺がスヴィに食ってかかるあいだ、カノンは俺の手を握りしめていた。その手は冷たくて、小さく震えていた。

 

「実は、いい仕事を見つけた。住居付きの仕事だ」

 

 俺の抗議に、わかった、わかった、というふうに手をあげて降参したスヴィは、くたびれた所作で食卓に地図を広げた。

 俺は二人のちびを呼ぶことにした。子供でも、十になれば、気の廻り方は大人と変わらなくなる。ちびたちはまだ七歳だが、親無しは、親のいる子より早く成熟せねばならない。聞ける話は、聞かせておくべきだ。

 

 台所の窓から裏庭を覗いたとき、俺はちょっと驚いた。

 マーリンキィとベアグ。二人のちびは、顔を近づけ、互いのくちびるをつけていた。ただの遊びにしては、真摯な口づけであった。

 ちびたちは、俺に気がつくと、唇を離した。俺が何か言うより先に、室内に入ってきた。

 

「何してたんだ?」

「蛇をあげたの」

「蛇?」

「そう。ベリトが使える蛇」

 

 俺はシンディを、ナナホシはベリトを抱き、カノンの両隣に立った。背伸びをしてまつわる自分の子供たちを払いのけ、スヴィは擦り切れた地図を指で示した。

 

「これが、広大な北方大地を、我らが魔法三大国と小国地帯にわけるカラル山脈だ。ネリス公国の首都から、ほんのひと息の距離だ。

 そして、山脈を越えたすぐ麓の町がパルセノ。豊かな町だ。金に白銅に岩塩に、宝石もとれほうだいだ。ここカーリアンより、よっぽど栄えている」

「そこで、あたしが働くの? 何をすればいいの?」

「女の仕事は、パルセノで働く炭鉱夫の世話だ。洗濯だの炊事だの、身のまわりの世話をするんだ。

 たいそう、楽な仕事だ。住処も旅費も陛下から支給される。お前たちの祖母が魔族と知る者もいない」

 

 それ以上スヴィが強引にすすめたら、俺はカノンに代わって、頑なに断っただろう。

 スヴィは、俺たちをごまかしとおすにはお人好しすぎた。

 もっと話を盛ることもできたかもしれないのに、目をそらせ、口をつぐんだ。

 

 スヴィはカノンに考える時間を与えた。

 俺たち五人は、スヴィの自宅を出て、教会に行った。

 カノンとベリトはフードを深く被り、顔を隠している。

 司祭館の婆さんは、ベリトのフードを剥ぎ、抱き寄せて頬ずりした。

 それから、他に人がいなかったので、俺たちを中に入れた。

 

 講壇を眺められるように整然と並んだベンチのひとつに、俺たちは腰かけた。

 咎める神父がいないのをいいことに、ちびたちはベンチの下に潜って外で手折ったつららを舐めている。

 

「あたしたちは、カーリアンには居られないわ。怖くて。お巡りさんは親切にしてくれたけど、でも、長くはいられない」

 

「もし、ゾルダートがいたらねえ」カノンはナナホシの手のひらに自分の指をからませ、弄んだ。

 

「俺が守ってやる、三人で暮らそう、って言ってくれたかしら。でも、できないわよね。自分が生きるか死ぬかの瀬戸際なんだから。人のことをかまってる暇なんて、ないわね」

 

 ねえ、と甘えた声をカノンは出し、ナナホシの肩に頭をのせた。

 俺は懐の財布を思った。祖母を喪った姉妹を養い続けるだけの余裕はない。ゾルダートの有り金を合わせたって、同じことだろう。この町で、迫害される魔族の子を食わせ、守りきるのは困難をきわめる。

 

「前の客に聞いたけど、いいところなんですって。パルセノは。土地は肥えていて、野菜や果物はたくさんとれるし、春は野原に花が咲き乱れているって」

「行きたいのか?」

「カーリアンに、あたしたち、居場所がないのよ。フェリム、あんたは酒箒邸で暮らせるわ。恋人に追い出されたってね。長耳族は襲撃の対象じゃないから。でも、あたしはだめなのよ。いっときおさまっても、いつまた襲われるかわからない。他の町に移るのもだめだわ。娼婦って、それぞれ縄張りがあるのよ。ぽっと出の女が、勝手に路傍に立っていたら、どんな目に遭わされるか、わかったもんじゃないわ。おばあちゃんがいたから、あたし、この町で、稼いでいけたのよ」

 

 言葉は、枯れる心配のない川の水のようにとめどなく流れた。

 

「スヴィがパルセノを褒めたたえたり、旅費や住居を支給される制度を強調したのは、あんたたち姉妹を厄介払いするためだ」

「そうかしら」

「俺の郷里は、パルセノに近い山だけど……」

 

 郷里が暮らしやすいところなら、俺は戦士集団(ガログラス)に売られなかった、と指摘するのは残酷だ。口を噤んだ。

 上手い話があるはずがないことに、カノンは気がつかないのか。それとも、目をそらしているだけなのか。

 

「行くわ、かの鉱山町に。ベリトも連れて。護送の馬車が出るのは、来週だったわね」

 

 ゾルダートは、そのときすでに、森の中だ。

 学のない少女娼婦に読み書きなどできない。別れの手紙の代筆を申し出た。俺も満足に書けるわけではないが、さようなら、愛してる、これくらいなら書ける。

「未練がましいのは嫌よ」カノンはきっぱり断った。

 

 司祭館を出てから、鐘が鳴りだした。たそがれの晩課だ。

 深夜に男と女が入り乱れ、神に悖る行為に耽ることを至上とするフルイストのもとで身についた教えによると、人は教義や理屈ではなく、生き方によって救われるのだ。

 この世には聖神の恵みを有する義しい人々がいて、こうした人々の内にこそ神は生きている、らしい。

 しかし世間からすれば、フルイストは忌まわしい淫祠邪教のたぐいと考えられているから、ここは異端派――世間的には正統なやり方――に従うべきだろう。俺はカノンに祈るよう勧めた。

 

「祈ろう」

「え?」

「祈ろう。ゾルダートのために。あなた自身のためにも」

「え? 聞こえないわ、鐘がうるっさくて」

「祈れ!」

「ニエット!」

 

 カノンはへらへら笑い、嬾惰な猫のように頭を首筋にこすりつけてきた。雌猫(コーシカ)の名は、俺よりカノンにこそふさわしい。

 抱き寄せた、ゾルダートに代わって。髪に口づけた、ゾルダートに代わって。

 手をスカートの中に導かれた。俺はカノンを柔らかく突き放した。困難な自制を自分に強いた。

 

 

 夕日が沈む。

 姉妹をスヴィの自宅に送り返し、シンディとナナホシを宿に連れ帰った。一人で外出し、街の中心部から外れた貧民窟を通り抜け、市門の前で、失態を悟った。市門は既に閉ざされていた。

 竜退治の前にあって、冒険者は春から秋の〈名誉なき人々〉のように、市壁の外で過ごしている。

 ネリス公国で開発された武器を扱うための訓練をしているらしいが、何をしているのか、まるでわからない。凄まじい音が、ときどき壁の外から聞こえる。

 

 石積みの市壁は、身の丈の何倍もある。壁の上端は闇の中に消えている。

 側塔と壁がつくる直角の部分に手をかけた。凹凸がある。登れる。

 杖は宿に置いてきたから身軽だ。靴を脱ぎ、裸足になった。裸足のほうが石の感触をつかめる。

 手に息をふきかけこすり合わせて温めてから、目一杯腕をのばし、足の指を窪みにかけ、伸びあがった。

 チッチッと舌打ちをし、音の跳ね返り方の微妙な差異を聞き分けて、闇の中で窪みの位置を探った。片手ずつ、窪みに手をかける。体を持ち上げる。

 石は冷えきっている。氷に触れるような冷たさだ。指先は痺れをおぼえた。

 小さいころから頑として動かない牛馬に縄をかけて無理やり歩かせてきたから、足腰と肺は十分鍛えられている。

 それでも、登り切らないうちに息が弾んだ。下は見ない。いったん怖いと思ったら、体が動かなくなる。ひたすら、手と足の指先、聴覚に、神経を集中する。針が刺さったように手足が痛んだ。

 

 登り切った。指の感覚はもはや無い。

 壁の上端に仰向けに寝ころがり、荒い呼吸を鎮めた。

 吐く息は白く闇に広がった。天を守護するかのような無数の星を見た。

 どうして俺はこんなに必死になっているのだろう。

 明日、日が昇ってから来ても良かったんじゃないか。

 いや、竜退治に比べたら、これくらい優しいものだ。

 

 体に力がよみがえった。ここまできたら、引き返すのも、外側に降りるのも、同じことだ。

 体力は戻っても、指の痺れはまだ残っていた。何とかなるだろうと楽観的に構えて降りようとして、落下した。

 体が叩きつけられ、一瞬、ぼうっとした。

 意識が戻ったとき、星明かりは、聳える市壁と、ひしめきあう小屋を浮きださせていた。

 雪の重みに耐えられずひしゃげたようはボロ小屋は、〈名誉なき人々〉の住まいだ。彼らは、冬のあいだだけ市壁の中に住むことを許される。

 よって今の時期は無人小屋なのだが、冒険者たちがそれを利用することはない。〈名誉なき者〉の物に触れると、触れた者まで穢れるためだ。

 

 離れたところにぽつぽつと建つテントが、冒険者の寝泊まりする場所だ。一歩近寄ると、幾つもの殺気が俺を刺した。

 ここが森で、相対するのが魔物であれば、こちらは気配を消し、向こうが立ち去るのを待つのが鉄則だが、相手は理性ある(弱いが)人間だ。敵意がないとわかれば、牙を収めるはずだ。

 

 

  長持をあけ七本の矢を取りだそう

  七人の主人公の中からいちばん上の

  いちばん優れた主人公について物語ろう

 

 

 郷里に伝わる叙事詩を大声で歌いながら、近づいた。

 狩りや長旅に出発する前に、万事が首尾よくいくことを願って歌われるもので、語り手と聞き手が交互に歌うことで語りを完成させるのだ。

 俺がわめいたのは、主人公を迎える聞き手の歌であった。

 正しい形式にのっとるなら、俺の前に、語り手がウリゲールに呼びかける歌を歌わねばなるまいが、俺の他に郷里の歌を知る者はいない。送る俺は、聞き手側だ。

 

 ゾルダートとルー、トイリー、何人かの冒険者には気づいてもらえるだろうか。

 適当なテントに接近したとき、出入口を塞ぐ布が捲れあがった。

 手燭を突きつけられた。いきなり明かりをかざされたので、眩しさにちょっと目がくらんでいると、相手は俺をテントに引き込んだ。

 

「フェリム?」

 

 顔だちがさだかになる前に、声でゾルダートだとわかった。

 ほかに三人ほど若い男の冒険者がいた。凍えないように、中に火鉢を置いて暖をとっている。

 俺とゾルダートは外に出た。新しい武器のそばで火を使うなと忠告をくれたテントの冒険者たちと、ゾルダートの仲は、悪くはないように思えた。

 討伐に行くのは、ほとんどがAかSランクの冒険者で、数少ないゾルダートと同じBランクは、トイリーのようにA級パーティに長いこと所属している者だけだ。死線をいくつもくぐり抜けた、歴戦の古強者だ。

 

「古強者は、要領が良く逃げ足が早い者のことを言うんだぜ」

 

 そう言いながらも、自分が従うに値すると、ゾルダートは彼らを認めたのか。彼らの協力で監獄から釈放されたことを負い目に感じているのか。

 何にせよ、さほど酷く扱かれているわけではないようだ。

 そう思っていたのだが、ゾルダートは寒空の下で服を脱ぎ、背中を見せた。

 火球で照らした。横の筋が四本に、それを斜めに貫く縦の筋が一本。それを一組として三組の傷痕が背中にあった。血は止まっていて、傷には軟膏が塗りつけてあった。

 

「手際を間違えたり、クールミーンどもの指示に逆らうと、これだ」

「逆らわなきゃいいのに」

「癖なんだよ。痛みを与えれば、いいかげん学ぶだろうってよ。おかげでこのザマだ」

 

 魔獣の調教とまるきり同じだ。そうまでしないと矯正できないのかと、呆れ半分、面白さ半分で、俺はにやけた。

 背中をしまい、外套の前をかきあわせたゾルダートに、カノンの決心を伝えた。

 

「伝言なら頼まれるよ」と言ったが、ゾルダートは沈黙した。悲しみを押さえつけているのだろうと俺は思った。

 ゾルダートは、ナナホシとシンディの話になると、ちょっと表情をゆるませた。

 護衛対象としての感情を越えて、ゾルダートは彼女たちを大切にしている。

 そうなるのも頷けた。シンディは言わずもがなだ。自分に懐いてくる小さな女の子が、可愛くないわけがない。

 そうして彼女たちは、ことにナナホシは、綺麗なのだ。単純な見て呉れの話ではない。生きていく上で、人に溜まっていく脂や垢が、彼女はそっくり抜けているように感じる。俺と変わらない歳だろうに、生まれたてみたいなのだ。

 人の見た目なのに人語が話せないことには驚いたが、日毎話せるようになってきている。身近でナナホシの発達を見ていたゾルダートの喜び、庇護欲は、ひとしおだろう。

 

「二人のことは俺に任せてさ、土産話、たくさん聞かせてくれよ」

「ああ」

 

「俺が死んだら、俺を一番よく知る者はいなくなる」現実の事として捉えきれていない声色で、ゾルダートは言った。

 

「ほとんどの奴には、親兄弟がいる。育った土地の縁故がある。俺には、どっちもねえ」

「輜重隊は、決まった場所に定住しないんだったな」

「ああ。軍旅に付いて行くからな。しじゅう、傭兵の後ろを歩いてる。ガキのころは、自分がいるのはどのあたりか、先を行く軍が何派なのか、よく分かっていなかった。

 戦争が一つ終わるたびに、輜重の顔ぶれも少しずつ変わった。もう、昔の知り合いは、ほとんど死んでるか、生きていても、俺のことは忘れただろうよ」

「俺がゾルダートを憶える。忘れない」

 

 ゾルダートは俺を見つめた。そうして、自分の生い立ちを話した。

 一方的に知るのは対等ではないと思い、俺もまた、過去を話した。つまびらかに。ヴァシリイと祖母への憎しみもすべて、打ち明けた。

 騒々しく人と物に溢れた輜重隊で育ったゾルダートと、静かな山岳でろくに人と言葉をかわさず家畜を追いかけ回していた俺では、根本から異なるように思われたが、互いを構成する記憶を知り、結束は高まった。

 

 白む空は、黒い塊としかとれなかった兵器の、気妙な輪郭を浮きださせた。

 ゾルダートと別れ、市門に向かう俺に、トイリーが追いつき、金包みから少しばかりの硬貨を持たせた。

 硬貨は門番を買収するためであった。門番は硬貨の端を齧って混ぜ物のないことを確かめてから、扉を細く開けた。

 トイリーに手を振り、内側に入った。

 門扉はたちまち閉ざされた。壁をよじ登るときに脱いだ靴が地上に残っていた。かじかんだ足に履いた。

 

 ヴァシリイと祖母を除く人々を、俺はころっと好きになる。愛する。

 愛は飛沫の跳ね返りと同じだ。無差別に振りまいたものが、誰からも愛されるのだ。

 愛し合うという現象は、他者に惜しみなく愛を向けられる者に、跳ね返った飛沫がかかる形で成立する。

 パーティに所属しないゾルダートが竜討伐のメンバーに加えられたのは、彼を待つちびが振りまいてきた好意が返された結果だ。

 こうなるのを見越して、愛想良くしていたのではないだろう。

 ちびは無差別に人を愛するのが習慣になっていて、小さな女の子からの無邪気な好意が、荒くれどもにどんなに癒しを齎すか、ちびは知らなかったのだ。

 

 俺はちびとは異なる。すぐに人を好きになり愛するのは、相手に俺を好いてほしいという邪心ありきだ。

 見返りを求めてしまうから、愛が返されないと、まるで裏切られたかのように錯覚する。改めたいと思っても、自分ではどうにもならない。

 俺が少しの(よこしま)さもなく相対し得るのはゾルダートだけだ。

 友情と、もう一つ、特異な感情を俺は持つ。

 ゾルダート。お前は栄えろ。俺が支える。

 俺はゾルダートの目で世界を見る。

 ゾルダートの見る世界を見る。

 

 必ず、生きて帰ってこい。

 

 

 


 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

《笛吹きと太鼓叩きの会話》

 

笛吹き さて、一つ新しい曲をお聞かせいたすとしよう

    それもとびきりに心浮き立つと評判の曲を

    これで、皆が血湧き、肉踊ればしめたもの

    何しろトルコ人がついにやってきたのだ

    俺たちは全軍が死に物狂いで

    やつらと戦わなければならないのだ

 

太鼓叩き お前たちは選り抜きのランツクネヒト部隊だ

     今日の査閲がすめば、金がもらえるぞ

     それぞれ2クローネンが手に入るのだ

     向かう戦場はネーデルラントだ

     さあ、俺がこれから一層激しく太鼓を叩いたら

     お前たちは甲冑を纏い、武器を手にしろ

 

 

(1550-55年頃の木版画より、作者不詳)

 

 

 


 

 

 

 雪を纏った梢が天蓋をつくる針葉樹森を、冒険者たちが進んでいた。

 その数、二十人余り。編成のほとんどが剣士と戦士であり、治癒魔術を扱える魔術師はたった二人である。

 彼らは赤竜退治に向かっている。

 竜退治には火力が足りない。装備も万全ではない。

 ネリス公国で新たに開発された武器を領主から支給されているが、実戦で使うのは此度の戦闘が初めてである。土壇場でどんな問題が起こるかわかったものではない。

 

 雪の上は締まって歩きやすいとはいえ、不規則に吹き荒れる細かな氷塊は、容赦なく冒険者たちの体力を奪っていく。

 

「ゾルダート、平気か? 頭痛は?」

「ねえよ。……ぶっ!?」

「返事は、ありません、だ。馬鹿が」

 

 すぐ先を歩いていたクールミーンが目にも止まらぬ速さで足元の粉雪をゾルダートに投げつけた。

 外套を着込み、毛皮の帽子を深く被っていたゾルダートだが、鼻から目元を守るものはない。まともに顔面にくらった。

 ゾルダートはクールミーンを睨みつけるに留めた。仕返しても敵わない上に、無駄に体力を消耗するだけだ。

 

 雪に閉ざされた森には、ときどき、窪み地(ピッドステッド)が現れ、そこには薪が山と積まれ、薪山をかこう小枝のついたて(ウイッティスクリーン)がある。炭焼きたちが逃げ出した跡地だ。

 薪山を土で覆いかくし、点火すると炭ができる。土のひび割れから空気が入りこむとせっかくの木材が燃えてしまうから、煙と薪山からかたときも目を離せない。炭焼きは、根気と忍耐を要求される仕事だ。

 白や茶色、やがては青い煙がそこここから昇るはずなのに、薪山の傍は無人であった。ここ、イルークォの森を赤竜が縄張りと定めてから、炭焼きも杣人も撤退を余儀なくされた。

 

 貧民窟の暴動でも、羽目板から何から持ち去られていた……、と、ゾルダートは魔族や賤民が暮らしていた地区の光景を思い出した。

 町では、薪も炭も不足している。備蓄分は貴族や富裕層が独占していて、民衆まで回ってこない。

 

 カノンがスヴィのすすめで鉱山街行きの護送馬車に乗ったことを、ゾルダートはフェリムの口伝えで知らされた。

 あんなに可愛い娼婦はなかなかいない。擦れた少年であったゾルダートはカノンを通して、ひとりの女と付き合い続けるのも楽しいと、知った。妊ったら、夫婦になってもいいとさえ、思っていた。

 でも、別れた。ゾルダートたちのような根無し草の男女には、いくらでもみられることであった。ふとした出会いから夫婦になったり同衾したり、長く続いたり、早く別れたり。

 

 シンシアはベリトとの別れをたいそう惜しんだらしい。隠れて何かを渡していたらしいが、魔石だろうか。子供に価値がわかるとも思えないが。

 

「もうすぐ日が落ちる。ここらで野営しよう」

 

 トイリーが進言し、クールミーンが従った。

 

 てきぱきと焚火とテントが準備されてゆく。ゾルダートも仕込まれた自分の役割を淡々とこなした。

 

「おい、やめろって」

 

 冬毛と脂肪でまるまるとしたハスキー犬が一頭、ゾルダートのコートの裾を咥えてじゃれつく。

 首元の厚い皮をゾルダートはつかみ、わやくちゃに構ってやった。ルーが吠えた。若いハスキーは跳ねるようにルーの元に戻った。

 

 犬橇が運ぶのは体力を温存すべき治癒魔術師と、領主から冒険者ギルドに貸し出された青銅製の大砲だ。どちらも大切な積荷であった。

 堅牢な青銅の大砲は、強度も値も鉄製の三、四倍はする。重量も鉄製の倍だが、北方大地の犬は逞しい。十五匹で三門を運ぶことができる。

 砲身の一つはアスラ製とみえ、不必要な彫刻の装飾がほどこされていた。砲としての性能が落ちるのを承知で砲身ばかりか砲弾にまで彫刻の飾りをせずにいられないのが、アスラ人である。

 

 薪山を風避けとしてテントを設置した。携帯食は持ち歩いているが、現地で食糧を調達できればなお良い。狩猟に出ていた冒険者三人組が、スノーバックをかついで戻ってきた。

 

 ビタミンCの不足によって血管が損傷しやすくなる壊血病の知識が広く周知された時代に、彼らは生きていない。経験則で、陸の船乗り病は、生肉や生魚を食べることで防げると知るのみだ。

 開いた腹に手をつっこんでいた冒険者が、スノーバックの胃袋をえぐり出したのを見て、ゾルダートは顔を顰めた。

 発酵した胃の中身を、匙で掬って食べると美味いらしいのだが、独特の臭いと味がして、ゾルダートは好きになれない。

 

「生食もいいが、ペリメニ(水餃子)にする分も、残しておいてくれ」

「おお、作るのか。手伝うぞ」

 

 剣神流の剣士ミロンが手についた血をズボンで拭い、ミンチにした肉を包む皮にする小麦粉を取りに行った。

 戦斧を背負ったガリバーがかがんだので、体を退かして場所を空けた。〈強い奴には従え〉を徹底的に叩き込まれたゾルダートだが、榛の幹に貼りついている黒い塊を剥がしてこいと渡された小刀はつき返した。からかわれていると思ったのだった。

 

「あれはウプラク*1。噛み煙草に混ぜるキノコだ」トイリーに言われ、仕方なしに飛び上がって手頃な枝に掴まり、洞の窪みに足をかけて木に登った。

 赤竜の縄張りに向かっている彼らに、食事や嗜好品を楽しむ余裕があることが、不満であった。

 ――自分が死ぬとは思ってねえのか、こいつら。余裕がないのは、俺だけか。

 

 木の上から、テント群からやや離れた場所に、ルーを見つけた。犬に囲まれた彼女は、一匹一匹、体を撫で、労わってやっている。

 狩猟に出ていたハウ・ブリッツが、スノーバックを担いでルーに近づいた。一頭を丸々彼女にやった。犬は涎を垂らして獲物を凝視している。

 どうするのだろうと見ていると、ルーが短剣で皮を剥ぎ、血の滴る肉を何口か食べた後、犬たちによしと許可を出した。十五匹の犬はいっせいに獲物に群がった。

 犬たちの餌に、橇に凍らせた魚を積んでいる。ぶつ切りのスープにして与えるのだが、魚のスープと死にたての鹿では、食いつきが異なった。

 

「ゾルダート? どうした?」

「犬が……いや、何でもねえ」

 

 北方の霊芝とも呼ばれるウプラクを燃やして出た白い灰を、煙草の葉に混ぜて頬と歯のあいだに挟むのがラノア式だ。

 噛み煙草の陶酔感を生み出す原料であるウプラクを幹から切り剥がし、下にいるトイリーに投げ渡すと、トイリーはにっこりした。

 

 

 いくつかの集団に分かれて焚き火を囲む。

 ゾルダートは、トイリー、ルー、クールミーン、ミロン、ハウと同じグループである。

 ルーは見張りに出ていた。無防備になりやすい食事時と睡眠時には、各グループから一人ずつ交代で見張りを出しているのだった。

 

「ゾル坊、お前はなんでトイリーの言うことなら従うんだ? むかし逆らって毒でも盛られたか?」

「人聞きの悪い」

 

 椀にペリメニをよそいながら、悪気なく疑問を口にしたミロンに、トイリーが柔らかく言った。

 

「お前たちがいつまでも坊や扱いするからだろう」

「何言ってんだ、十七っていったらまだ坊や……ではねえな、確かに」

「お前も私も、ゾルダートが成人前の頃から知っている。気持ちはわかるがな」

 

 ゾルダートは会話には参加せず、黙々と椀の中身を匙で掬った。

 ゾルダートの横に、ルーが座った。

 

「ミロン、交代だ。見張り番」

「ああ」

 

 トイリーがルーに食事をよそう。ミロンは椀の中身をかっこみ、早々に己の定位置に向かった。

 ルーの雰囲気に、憂鬱としたものを、ゾルダートは感じとった。

 

「ぅお」

 

 肘を下から押し上げられ、下をのぞき込むと、日が落ちる前にじゃれついてきた若いハスキーがいて、ゾルダートの横にわりこんで伏せをしていた。

 視線は椀に注がれている。涎も垂れていた。

「ラウダ!」追い払おうとしたルーをとめ、少し分けてやった。

 

「お前、ラウダってのか」

「オンッ!」

 

 ラウダの耳の後ろを搔いてやると、ここちよさそうに目を閉じ、前肢をあずけてきた。

 太い首に腕をまわし、硬い毛皮で覆われた額に頬ずりした。頬を舐める舌が温くて、なんだか幸せな気持ちになった。

 

「ダメだダメだ、これは人間様の食糧だ。ゾルダート、お前の分をやるのは勝手だが、減った分は補完しねえぞ」

「ちょっとくらい、いいじゃねえか、ハウ。犬だって美味いもんは食いたいんだ。俺らと同じさ」

 

 目についた他の犬を舌打ちで呼び、クールミーンも手ずから食事を分けた。

 トイリーの両隣にも来た。無理やり奪いとりこそしないものの、トイリーの分を狙った二匹に、左右から頬に頭を押しつけられ、食うのを邪魔されている。

 トイリーが特別声を荒げず、散歩を拒否する柴犬みたいな顔になっているので、ゾルダートは声を出して笑った。

 犬の管理を任されているルーは追い払うなりする立場なのだが、堪えきれず彼女も吹き出した。

 

 ルーによって犬が追い払われ、「さっきも新鮮なやつを食っただろうに」ハウが言った。

 木の上から見た光景を、ゾルダートは思い出した。

 ハウは馴れ馴れしくルーの肩に手を回した。

 

「犬どもはスノーバックを美味そうに食ってたな、ルー」

「ああ」

「君が言った、俺の望みに応える用意はあるという話は、期待していいのだろうな」

「何を望む」

「当然、君を我がベッドに迎えることだ」

「大型の獲物一頭につき、一度だ。二度目を要求したら、殺す」

 

「要求しなかったら、女として屈辱じゃないのか」と言いながら、ハウはルーを抱きあげようとした。

「報酬を二度せびるほうが恥だ」とルーが払いのけるのを気に留めず、「二人きりになれるテントはあるか」と上機嫌に辺りを見回した。

 ハウはルーを連れてテントに消えた。去り際、ハウはゾルダートたちの方を振り返り、言った。

 

「女は、うまい餌を持っている」

 

 トイリーに止められなければ、背後から襲いかかっていた。

 ゾルダートを押さえたトイリーも、「いいのか」と伺う目をクールミーンに向けた。

 パーティでの色恋沙汰を――もっとも、ルーのほうには一欠片の愛着も無いようだが――今回に限っては見逃すつもりなのか、クールミーンは素知らぬ顔だ。

 

「さあ、魔物避けに、夜話をしよう。語り始めは誰からだ?」

 

 北方大地では、民話の語りは娯楽を越えた真摯な行為であった。歌や語りは霊が舌の先にのって吹き込むのであり、この霊を維持することで、魔物は祓われ、歌い手の生命は保たれると考えられているのである。

 聞き手もただぼんやり聞いていることは許されない。たえず合いの手を入れ、悪霊を追い払わなければならないのだった。

 ゾルダートはしぶしぶ席に座り直した。

 

 

 夜話のおかげか、翌朝はよく晴れていた。ゾルダートたちはイナンクルガフ*2を朝食に啜り、出発した。

 

 数日を移動に費やした。

 進むごとに魔物や獣は姿を消した。

 賢いものは逃れ、そうでないものは尽く赤竜に食いつくされているためだ。

 冒険者たちの緊張は否応なしに高まり、しかし表に出すことはせず、限られた資源で食を楽しみ、夜は見張り番を欠かさないようにしつつ、民話の語りに興じるのだった。

 

 

 先頭を歩く者が手を上げて合図した。傍の櫟に塗料で印がつけられていた。本格的な冬が来る前に偵察隊が残した印であった。

 ここから先は赤竜の縄張りである。

 三手に分かれた。大砲三門を一箇所に集中させないためである。

 

 別班であるルーは、行動を分つ寸前、ゾルダートを抱擁した。

 

神の御恵のあらんことを(ビャナハト・デイ・オート)!」

 

 頬がふれあい、ゾルダートは己が固く歯を食いしばっていることを自覚した。

「お前も手を出したのか」背中をどやしつけたハウを肩をいからせて無視した。

 

 

 白い丘陵に、紅い点が見えた。

 視認できる距離にいる。向こうも、侵入者を見ている。

 動かないのは、平地でろくに食糧を狩れず衰弱しているためか。

 討伐隊唯一のSランクパーティの頭領、リョーリャは魔術師に指示を出した。土魔術によって地盤を緩め、赤竜の動きを鈍らせるのだ。

 

 ゾルダートは、ラウダを見た。

 獣は人のように理性はきかないはずだ。なかば天災であるはぐれ竜を前に、けたたましく吠え立てるべきだろうに、彼らは忠実に人間の指示を待っている。よく見れば、尻尾が丸まり、後ろ足の間に仕舞われていた。

 

 犬橇から、一門の大砲が下ろされた。

 一つの砲を操作するのに、少なくとも六人を必要とする。

 狙いをさだめ発射命令を下す一番砲手。梃子棒で砲身を回転させる者。弾薬をこめる者。一発発射した後、再装填の前に砲身内を掃除する者等々。

 ゾルダートは大砲につく。斬込み隊に入るのは、強者や、はぐれ竜退治の経験がある者だ。

 

「装弾!」二つの色つき煙幕を確認し、クールミーンの指令が飛ぶ。

 砲門の蓋を開け、砲口から薬包を入れ、さらに砲弾を押し入れ、込め棒で、がしがし、突っ込む。

 点火口の真下まで押し込まれた薬包を、孔の上から針金で突き破る。

 火薬を点火口から注ぎ入れる。

 的は大きい。三個の砲口から直線をのばせば、赤竜の胴体に結ばれる。

 

「発射!」

 

 先端が点火口に触れた導火線に火をつける。

 ゾルダートは頭の中で爆破が起こったような衝撃を受けた。耳鳴りのほかは何も聞こえない。

 急に聾者になったような感覚は、何度訓練しても、慣れなかった。

 思考は空白だが、肉体はすぐに次の作業にかかった。

 固定してあるロープを引きちぎらんばかりに、砲身は反動で後退する。熱く焼けた砲身の内部を海綿体で掃除する。後退した砲の位置を戻す。砲身が破裂するおそれがあるから、連続で撃つことはできない。

 離れた位置にある二門の大砲が轟音をあげる。

 

「弓! 攻撃の手を休めるな!」

 

 ゾルダートは大砲から離れ、長弓についた。長さ二メールに及ぶ長弓である。引き絞るには豪腕がいる。大砲に加え長弓をも兼ねるのは長身で屈強な男揃いだ。

 (いしゅみ)は殺傷力において勝るが、一矢射るのに一分は要する。長弓は一分に六本は速射できる。殺傷力より数を冒険者たちは優先した。

 赤竜はもうもうと雪埃をあげ、巨体からは想像もつかぬ敏捷さで這ってくる。

 砲弾につづき、正面、左右から、おびただしい矢が飛来した。

 鉱石のように硬質な鱗は鏃を弾いた。砲弾は傷を与えたのかすらわからない。

 猛然と巨躯が近づいてくる。

 

「撃て!」

「殺せ!」

 

 胴震いが止まらない。歯のなる音が耳の底に響いた。

 ガリバーが酒壺を傾けがぶ飲みし、ゾルダートにまわした。

 乾ききった口に酒を流し込んだが、上唇が歯茎にはりついたままだ。

 

「詠唱始め!」リョーリャが叫んだ。

 赤竜の発達した胸郭が大きく膨らんだ。

 再装填の手を休めないまでもゾルダートはぞっとした。何かが来る、と直感した。

 次の瞬間、凄まじい蒸気がゾルダートに吹きつけ、視界が白く(めしい)た。

 大砲と長弓についた冒険者たちの背後では魔術師二人が杖を構えている。

 蒸気が晴れ、赤竜の口腔から、炎の残滓が漏れているのを見た。

 あらゆる生物を焼失させるファイアブレスと、水魔術が拮抗し、互いに打ち消しあったのだ、とわかった。魔術のタイミングがズレていたら一班全滅もありえた。

 

 魔術師が仕掛けた沼に嵌り、激しく泥土を蹴立て、赤竜は暴れた。

 いかに地上最強の魔物であろうと、おびただしい負傷を与えれば絶命する。

 飛び道具では威力に欠ける。数名の上級剣士が大砲を捨て、飛び出した。

 

 飛び立つのが困難な平地で羽ばたく翼は、砕けたミズンマストだの帆だのが船上でめちゃめちゃに翻り狂っているようだ。掠りでもすれば人など簡単にぶっ飛ぶ。

 

「がっ!?」

 

 ゾルダートの真横を吹き飛ばされたハウが過った。

 ハウは白樫の木にぶち当たり、撓んだ幹だの梢だのから吹雪のような氷華が落ちた。

 治癒魔術師が即座にハウに近寄り、患部を探った。「肩だ!」骨折で済んでいるのは、纏った闘気のおかげだ。

 

 剣士が一人欠けた。ゾルダートにはチャンスであった。

 ゾルダートは胸を拳で思い切り叩いた。空気の塊が吐き出された。肺の空気を吐き切ると、体は勝手に深く息を吸う。ガリバーに言った。

 

「ハウはしばらく動けねえ。俺が行く」

「慣れないやつは足でまといだ」

「そう言っていたら、いつまでも慣れない」

 

 ガリバーはちょっと答えにつまったが、言い返した。「お前はクールミーンの手下だ。クールミーンの指示に従え」

 クールミーンは剣士三人と戦士一人と共に、赤竜を撹乱し、隙をみて斬りつけている。戦士が振り回すフレイルの棘付き鉄球は、赤竜の太い首を覆う鋼鉄のような鱗を少しづつ砕いている。ほかの魔物であれば一撃で頭を打ち砕いていたところだ。

 

「クールミーン! 俺に命令しろ! 斬り込み隊の一番手に参加しろってなぁ!」

「許可する! 金が目当てか!」

 

「そうだ!」ゾルダートは駆け出していた。

 一番手の斬り込み隊は、獲物の分配のとき、取り分が多い。

 切り込み隊が引きつけ、射程内に誘導する。大砲隊や長弓隊が至近距離から攻撃する。

 ゾルダートはがむしゃらに赤竜の爪や尾を躱した。斬撃も叩き込んでいるのだが、正直なところ、躱すだけで手一杯だ。必死に食らいついた。

 

「ッ!?」

 

 ざわりと訳の分からぬ悪寒が走り、とっさに泥沼に伏せた。直後、頭上すれすれを尾が通過した。

 顔に跳ねた泥を拭ったゾルダートの視野に、四肢を交互に出して這って逃げる赤竜の後姿が映った。

 

「追うな」はね起きようとした肩を上から押さえられ、ゾルダートの顔面はまた泥の中に伏した。「今のでミロンもやられた」

 傍にクールミーンがいた。周囲を見回すと、顔から胸部にかけて潰れたミロンの遺体を仲間が回収している。

 

 戦闘中は痛みを忘れていたのだが、ゾルダートのくるぶしも裂傷を負っていた。金卸のような鱗が掠ったのだ。自力で歩いて治癒魔術師の元へ行き、ゾルダートはちょっと驚いた。

 トイリーの右頬がごっそり削げ、歯がむき出しになっていた。

 右側の顔の皮膚が剥がれ、目蓋まで失っている。

 

「逃げ際に、しっかり大砲を破壊していってくれた」顔の肉を失い、喋りにくそうなトイリーは平然と拠点を指した。

 壊滅したが、この班に死人はいない。死んだのはミロンのみだ。

 

「トイリーが押し倒してくれなかったら、俺も死んでいた」まだ少年と言っていい年頃の治癒魔術師ノイが言った。「治癒はトイリーを優先する」

「治癒魔術師は貴重だ。替えがきかない」相変わらずトイリーは喋りにくそうだ。

 

「お前だって替えのきかない存在だ」治癒を受けるトイリーに、クールミーンが言った。「トイリーの作る煙草はうまい」

 

「奴も弱っているようだ。あの岩場に留まっている」斥候が戻り、リョーリャに報告した。

 負傷を癒し、第二陣を整え、進軍した。日が落ちれば夜目の利かない人間は不利になる。決着は今日中につけなければいけない。

 

「進め、進め、疲労は忘れろ」

 

 柔らかな雪に腰まで沈みこむと、即座に仲間に引き上げられる。ゾルダートも何度も引き上げた。

 

 赤竜は不自然に沈黙していた。翼には穴が空いている。目視で判明する限り、初めて認められた砲弾による負傷であった。

 動かないのは、衰弱しているためだ、と、冒険者たちは解釈した。

 

「装弾!」

 

 二門に減った大砲の照準が定まる。

 頭に布を巻いてなお、爆破は頭の中で起こった。赤竜の躰は大きく飛び跳ねた。

 砲弾が命中したのだ、と、思った瞬間、強烈な衝撃をゾルダートは全身に感じた。同時に、体が宙に跳ね上がった。

 

 

 激痛にゾルダートは失神から醒めた。目蓋をあけると、曇天が細雪を振りこぼしていた。

 とりあえず認識したのは、自分が地べたに仰向けになっているということだけだ。

 襟首を強くひっぱられた。首筋に雪が入り込んだ。ずるずると頭の方向に引きずられている。

 両手でさぐり、首をそらせて、外套の襟を掴んで引っ張っているのがルーだと知った。

 

 赤竜は、抱き沈めている死の気配を咆哮と共に解き放った。

 火薬に引火し、あちらこちらで燃え上がっている炎は、折り重なるいくつかの屍体を浮かび上がらせた。

 

「やられた! あいつ、俺たちの真似を……!」

 

 ばらばらに冒険者が逃げ惑う中、誰かの叫びが耳に届いた。

 何度か、地響きがあった。雪ぼこりの向こうに、赤竜がいた。抱えた岩を尾で跳ね飛ばしてきている。強靭な尾が打ち出す岩の礫はさながら砲弾のようだ。

 痛みをこらえ、起きてルーと同じ方向に走った。

 

 左脚を岩に挟まれ、倒れているクールミーンを見つけた。

「構うな。おれと来い」ルーが切羽詰まって言った。引き返し、担いでルーについて行った。

 生きているのか死んでいるのかわからなかったが、木々の陰に横たえ、頬を叩くと、目覚めた。

 傍には、誰の命令か、無事だった者たちによって運ばれた大砲がある。大破していないのはこれ一門のみだ。

 

「俺の判断ミスだ」リョーリャの頬には汗と頭から流れた血が薄く凍りついている。

「悔いてもいいが、引き摺るなよ。あんなの誰にも予測できない」クールミーンの脚は再起不可能なほど潰れている。トイリーに守られて逃げてきたノイが一目見て首を横に振った。

 

「トイリー、ノイ、切り落としてくれ。秦皮(とねりこ)を添えて義足の代わりにする。俺がかならず討つ」

 

「馬鹿言うな」猛り狂う寸前であるクールミーンに、トイリーがまず止血処置を施した。「お前はもう戦えない」

 

 ルーは武器の鉄爪で土を掘り返し、砲身の中に土を詰め込んでいる。ゾルダートは彼女の気が狂ったのかと疑った。

 たとえ青銅の砲であっても、砲口を塞がれていたら破裂する……と、教えられた。破裂?

 ゾルダートは腰の剣をシャベル代わりに、固く凍てついた地面を砕いた。「使え」クールミーンが背負っていた長剣をゾルダートに渡した。刃広で掘り返しやすかった。

 リョーリャが革の外套を裂き捩り、丈夫な綱に加工した。

 

 ルーが鋭く口笛を吹き、犬を呼んだ。数匹が疾走してきた。ラウダのみゾルダートに突進してきた。背中に鏃のような鋭さを持った木っ端が突き刺さっていた。引き抜いてやると、深い眼差しで見つめてきた。

 

「こっちだ! 火薬を持ってこい! 手を貸せ!」

 

 クールミーンが方々に散った冒険者に命じた。負傷を悟らせぬ力強い声であった。火薬が運び込まれた。

 

 四頭の犬を砲架に繋いだ。犬が牽引する砲架を、まだ動ける者が後ろから押し、岩が急坂を作る丘に登った。

 ルーは先んじて丘に登った。火のついた松明を手に待機している。

 砲内に火薬をたっぷり注ぎ入れた。火薬をまぶした火縄を砲身にそって長く伸ばし、数箇所縛って固定し、先端を点火口の中に入れた。

 第二陣の冒険者が、死者のほかはすべて赤竜の周囲から退いたとみて、ゾルダートは、犬と砲架を繋ぐ綱を断ち切ろうとした。ルーに止められた。

 

「滑り落とすだけだ。牽引は要らねえ」

「標的から逸れたら、おれたちにはもう後がない」

「やめろ」

「聞き分けろ」

嫌だ(ナイン)

 

行け(シュール)!」

 

 叫ぶと共に、ルーは火縄の末端に点火した。

 同時に、四頭の犬は猛然と走り出す。ひきずられて砲架が走る。

 下りの斜面では、勢いのついた砲架は、牽引する犬を踏み潰さんばかりに走る。負けじと犬は駆けた。ラウダの、躍動する筋肉を、ゾルダートは見た。

 赤竜の尾のつけ根に、四頭の犬と大砲は一塊になって突っ込んだ。

 ラウダ! ゾルダートの悲鳴は、言葉にならなかった。点火口の火薬に口火が達した。

 轟音と共に、砲身は砕け散った。のたうつ赤竜の鱗と肉片と、砲身の残骸は、渦を巻いて宙に飛散した。

 噴き上がった火花と血しぶきと肉片が、空から地に降りかかる。

 

 厄介な尾は断たれた。喊声をあげ、冒険者たちは連帯のとれた動きで赤竜に襲いかかる。

 赤竜は、力を振り絞り、暴れた。赤竜の巨体は、やみくもに暴れるだけでも凄まじい破壊力だ。

 赤竜は柔らかい雪の上に己の巨躯を置いていた。冒険者は雪に足をとられ、決定的な一撃を放てず、じりじりと赤竜を弱らせるしかないのだが、人間側の体力も次第に消耗していく。

 

 ラウダは死んだ。言葉を喋らぬ友の死を悼む暇はなかった。

 ゾルダートも託された長剣を手に、斬りつけるタイミングを伺って赤竜の周囲を疾走した。

 速度を緩めれば、赤竜はそいつに狙いを定めて殺しにかかる。

 

「あぁ!? 邪魔ァ!」

「あっち行け! 死ぬぞ!」

「おいルー! 何とかしろ!」

「だめだ! 指示を聞かない!」

 

 冒険者たちの傍を、特攻を外れた犬たちが疾駆した。

 かれらは先導するようにぐるぐると赤竜の周囲を駆け、ときおり冒険者の体に体当たりして邪魔もする。

 犬たちの意図はわからなかったが、犬が駆けた雪の上を走ると、その雪はしっかりとしていて良い足場になった。反対に、体当たりをされても強行した場所は、雪が柔らかくて足が沈んだ。

 

「こいつらに従え! 走りやすい!」

 

 ゾルダートは叫んだ。突っ込んでくる竜牙を跳躍して避けた。剣を横薙ぎに振るって牙を砕いた。

 

 遡れば、犬は古代から人間の友であった。

 ルーに獲物を与えられ、ゾルダートとクールミーンの二人に食事を分けられた。かれらは自分たちを冒険者の――赤竜討伐を目的とした――群れの一員だと認識していた。

 集団で行なう狩りは、かれらの遺伝子に刻まれた本能である。

 捨て身の特攻で同胞が殺されても、犬は人を憎まない。本能は赤竜への恐れに勝る。

 

「ちっ……」

 

 命を絶つほどの斬撃を喰らわせるには、助走に費やせる距離が短すぎた。持久力勝負に持ち込まれれば、人間は負ける。頭の芯は疲労で鈍く痛んだ。

 

「ゾルダート!」

 

 ルーが四つ足で駆けてくる。

 

「おれを踏め!」

 

 ゾルダートは雪を蹴立てて走った。ルーの伏せた背に躊躇いなく足を乗せた。獣族の彼女の脚力は、人族にはるか勝る。

 ルーは爪で地面を深く掴み、地を脚で強く蹴り、ゾルダートを上空に飛ばした。

 ルーを飛び台として、これ以上ないほど、赤竜に接近できる。それも上空から。

 

 ゾルダートは、手の骨が砕けるほど強く柄を握った。宙で体勢を整えた。

 赤竜は身じろぎした。わずかな動作で、体から垂れる無数の血の氷柱が砕け散った。

 巨大な黄色い目に捕らえられた。

 洞窟のように(くら)い喉の奥で、チリチリと赫く輝く火花が見えた。

 

 躱せない。

 死が、そこまで迫ってくる。

*1
カバノアナタケ

*2
小麦粉にトナカイの脂身を加えて煎り、紅茶液と熱湯を混ぜ、練ってどろどろの粥状にしたもの。シベリアの携帯食。



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三一 知らぬ存ぜぬ(後)

【10日前】

 耐え難い怒り、自分に対する情けなさ、錯綜した気持ちの縺れは、十七歳のゾルダートの手に負えなかった。足首をつないだ長い鎖は恥辱の象徴であり、背後にまわして縛り上げられた袖はあらゆる自由を彼から奪った。

「面会だ」とゾルダートを引き立てた看守は、手負いの野獣のように兇暴な青年に怯えて目を合わせない。

 面会部屋で、フェリムとルーに守られるように座っているシンシアは、ゾルダートと目が合うと、怯えたような顔をしたが、踏みとどまり、手でゾルダートの顔に触れた。

 浅緑色の光が視界の端に映る。顔の殴打痕と、切れた口の中の痛みが癒え、いっとき、じんわりとした温かさが冷えた体に広がった。

 ――泣くなよ、ちび(クライナー)

 涙目で一心に見上げてくる子供に、目で語りかけた。そして、〈クライナー〉は男の子に使う言葉であることを思い出す。

 シンディ、と一言呼びかけてやる前に、短い面会時間は終わった。

 

 

【10年前】

 墓でお眠り、いとしいオーガスティン。七歳の男の子は口ずさむ。ああ、いとしいオーガスティン。何にもない。

 娼婦リサもいっしょに口ずさみながら、男の子の後頭部に手をそえ、胸に押しつける。顔と同じように真っ白に塗りたくった乳房の奥は、よい匂いがした。鼻が乳房に埋まり、歌うのをやめる。

 香車の婆が幕から顔を出し、リサを呼ぶ。リサは身を起こし、男の子は地べたに転がり落ちる。

 

「外で遊んできな、子犬」

 

 リサは男の子を〈子犬〉と呼ぶ。子犬はリサがくれた小銭を握りしめて移動娼婦宿を出た。

 外にはおびただしい天幕がひしめいている。傭兵たちの粗末な幕舎から少し離れて、輜重隊や酒保も天幕を張り車を並べている。子犬が出てきた女たちの天幕の前には、もう順番を待つ兵士たちが群がり、割り込もうとするものとの間に喧嘩が起きていた。

 地元の商人や行商人も入り込んで空き地に市をひろげ、憲兵が睨みをきかせて検閲してまわっている。肉屋とその徒弟たちが豚を叩き殺し、皮を剥ぎ臓物を抜き、腕の悪い料理人が煮込み料理をつくっている。

 小さな町がひとつできたようなものだ。子犬は楽しみを探してそこらを駆ける。

 

 子犬は並んだ商品から、木剣を見出した。子供用の短い木剣だ。柄は手擦れし、刀身部分には真新しい血の痕があったが、子犬の目には、龍皇の傑作にも勝る魅力をもって映った。

 子犬は左手で木剣を持ち、右の手のひらをひらいて酒保商人にさしだす。ふざけるんじゃないと言って、酒保は木剣をとりあげる。他の客の相手をする。子犬は車に小銭を置き、木剣を持って車を離れる。酒保は追いかけてきて、子犬の首根っこをつかむ。子犬は腕に噛みつく。頭をはたかれる。

 

「店主、その子は、ローゼンミュラー隊長の坊やだぜ。見逃してやんな」

「まったく、輜重のみなしごが、ずいぶん出世したもんだよ」

 

 酒場の天幕に入り切らず、屋外で空き樽を椅子に、木箱の上に木の板をのせたのをテーブルにして飲んでいた古参兵が、助け舟を出した。

「〈ゾルダート・ヘッケラー(兵士を妨げる者)の子〉め!」噛まれた腕をおさえ、酒保は歯ぎしりのあいまに吐き捨てた。子犬をこの世に生み出した両親はたいそうな嫌われ者であった。

 子犬は傭兵のもとに逃げ走り、べーっと舌を出す。傭兵に美味しくないソーセージをちょっと分けてもらう。

 数人の傭兵がどやどやと酒場にやってきた。

 

「ここが空いてるぜ」子犬を庇った古参兵が手をあげて彼らを呼んだ。

 三つ四つ空いていた樽に腰をおろした彼らからは、血腥いにおいが漂う。ここではまだ戦闘は行われていない。近隣の村に掠奪にでかけ収穫を得てきたのだ。

 

「おう」とあとからやってきた傭兵が声をかけた。「お前たち、どこの隊の者だ」

 

「ローゼンミュラーの歩兵隊だ」

「おまえたちの隊は、勝手な掠奪を禁止されてるって噂だぜ。本当か」

「ああ、そうなんだよ。聞いてくれ」

 

 傭兵はジョッキを(あお)り、愚痴を吐いた。

 

「俺たち傭兵に掠奪を禁止するなんて、飢え死にしろってなもんだぜ」

「ほ、気の毒に。掠奪をやらせねえ隊長なんて、アレが勃たなくなった男みてえなもんだ」

 

「そんなことはない」別の傭兵が口をはさんだ。ローゼンミュラー隊の騎兵だ。

 

「ローゼンミュラー様は、俺たちにしっかり給料を払ってくださる。お前たちが自前で調えなくてはならない甲冑も、ただで貸してくださるんだ」

「はん、貴族に飼い慣らされたな。てめえに傭兵の誇りってもんはねえのか」

「何だと」

 

 傭兵は気色ばんだが、殴りかかるのを抑える理性は残っていた。話は掠奪を許された他の隊が得た収穫の自慢に移り、不機嫌になったローゼンミュラー隊の傭兵どもに蹴っ飛ばされる前に、子犬は雑踏に紛れる。

 傭兵の子供たちが木の棒を打ち合わせて戦いごっこで遊んでいる中に、玩具の剣をふりまわして飛びこむ。勝つ。

 上等な皮革を縫い合わせた天幕を見つけて潜り込んだ。

 養父――ローゼンミュラー中隊長の背中に切りかかろうとする子犬を、付き人がとめた。木剣を取り上げられそうになり子犬は叫ぶ。

坊や(クライナー)」兜を脱ぎ胸当てをはずした養父が子犬を横に呼び寄せた。訓練を終えたばかりなのだろう、汗と泥にまみれていた。

 身なりを整え、食事を共にし、養父は剣の持ち方や構え方を二、三教えると、いきなり子犬を天幕の外に放り出した。

 

「さあ、どこからでもかかってこい」

 

 べちっと地べたに投げられた子犬の前に立ちはだかり、養父は訓練用の木剣を構えた。

 ――父ちゃんが遊んでくれることはめったにない。

 子犬はあわあわとした南国の桃の実のような頬を紅潮させ、淡いブルーの双眸を輝かせて果敢に挑みかかった。

 

 

【2ヶ月前】

 十七歳のゾルダートは、魔術師の杖をフェリムに渡す。

 杖の上部には、閃光のように赤い魔石が嵌っている。フェリムは霧の中に取り残されたような顔で受けとる。

 杖が掲げられる。はるか夜空で炸裂する獄炎火弾は、フェリムの頭上で、金色と紅色に燦爛と輝く宝冠であった。

 宝石の破片をちりばめたような華麗な色彩が、闇を透かして地獄の劫火が仄見えて輝くようにも、ゾルダートの目には映った。

 勢いづいて走り寄ってくるフェリムを、胸で抱き止めた。

 

 

【5年前】

 十二歳のゾルダートは遠乗りに出ている。羊歯や茂みのあいだに獣道が見え隠れし、山毛欅や栢が聳えていた。樹幹は苔で青黒く膨れ、根方には、厚く朽葉が積もっていた。

 仰げば梢は小刻みに震え、黄金色の葉をこぼした。葉はゆるやかに、宙に金の筋をいくつも引いて、かつて子犬と呼ばれた少年の肩や馬の鬣にふりかかった。

 

 後のゾルダートは、アスラの森にあって、やがて思う。ユシュタの森は、秋ごとに金のかがやきを放つのだろう。人の殺戮と破壊の長い歳月にかかわりなく。

 馬を駆る養父の腰に下げた剣が、木漏れ日に光った。ゾルダートの腰にも、上物ではないが、剣がある。

 

「丘の頂上まで、一息に登ろう」

 

 養父は手網を煽った。白馬は走り出した。ゾルダートも馬腹に拍車をあてたが、ふいに、あの落葉の層に落ちたらどんなだろうと思った。馬が足を速めると同時に平衡をわざと手放し、転げ落ちた。落ち葉朽ち葉の山はゾルダートを抱いたが、重みを支えきれず、体は沈んだ。

 手をつかんで引き上げたのは、馬首をかえした養父であった。鞍から下りていた。

 ゾルダートの外套は枯葉の綴れをまとっていた。養父は吹き出し、ゾルダートも笑顔をみせた。

 

 逸れた馬を捕まえ、鐙に片足をかけ、はずみをつけて鞍にまたがった。

 丘に登ったのは初めてであった。頂上にたつと、市は一望のもとにある。葡萄畑の収穫を待つばかりの実が滴る雫のように光るさまが、遠目にも鮮やかだ。

 下馬して、二頭の手網をかたわらの榛の幹につないだ。

 養父が地に腰を下ろした。ゾルダートも腰を下ろし、足を投げ出した。足の上を栗鼠が走り抜けた。

 

「え?」養父が何か言った。栗鼠に気をとられていたゾルダートは、横を向き、聞き返した。

 

「お前は将来、どうなりたい? 戦うのを仕事にしたいか」

 

 これまで考えてこなかったことを問われ、ゾルダートは初めて己の将来を想像した。

 日々を、輜重のあいだを駆け回り、傭兵に戦いを挑み、養父の座学を受けて、自由に過ごしていた。だが、町であれば、ゾルダートの年は奉公に出されてもいい頃だ。

 傭兵隊長である養父の威光で、今まで守られてきた。巣立ちを仄めかされているのか。

 

「考えたことなかったです。でも……やられるより、やるほうになりたいと、思います」

 

 ゾルダートは正直に答えた。正解には遠いだろうと思ったが、理想通りの受け答えをしなかったからといって、機嫌を損ねる養父ではない。

 この時代、貴族だろうと兵だろうと、掠奪は、当然の権利であった。死者負傷者を身ぐるみ剥ぐことも、捕虜から身代金を絞りとることも、公然と許されていた。

 現金による給料が完全に支払われると期待する傭兵はいない。ゆえに掠奪で補完する。掠奪こそが、傭兵にとって最大の魅力であり、命懸けで戦った報酬であった。

 ローゼンミュラー家は、ユシュタ王国の大公のもとで、国家の常備軍を設立するよう働いている。また、麾下の兵にも民家への略奪放火を固く禁じている。破ったものは容赦なく絞首刑だ。

 それでも、輜重隊に加わって移動していれば、道に散乱する人の死骸、牛馬の死骸、全焼した村々をいやというほど見る。先行した他の傭兵隊のしわざだ。

 悲惨な光景を見るたびに、やられるよりやるほうになりたい、とゾルダートはぼんやり思うのだった。

 

「野放図な傭兵に交ざり、掠奪をしたいと?」

「積極的にやりたいわけじゃないけど」

 

「父さんを助けたい」漠然とした望みを、ゾルダートは口にした。口に出してから、しっくりきた。

 

「俺は何をしたらいいですか?」

「簡単なことだ」

 

 養父は笑顔になった。

 

「お前がだれからも必要とされるほど重要な人物になれば、お前の言葉にみなが従う。掠奪は傭兵の権利であるという不文律を、変えることだってできる。人の上に立ち、掠奪を禁じる者が増えれば、私は目的に近づけるのだよ」

「必要とされる? どうやって?」

 

 養父はゾルダートの肩に手をかけた。若輩ゆえ実際の戦場に送り込んだことはないが、既に剣神流と水神流の二つの剣派で、ゾルダートは中級の認可を受けている。

 子供の身空で、傭兵数人分の働きを見込めるのだ。統率に長け、しかし自身の武力には恵まれなかった男が、少年ゾルダートに大いなる希望を抱くのは、無理からぬ話であった。

 

「お前が十五歳になれば、正式にローゼンミュラー家に加え、戦闘にも出そう。そしてゆくゆくは、歩兵隊をお前の指揮下に置こうと考えている」

「俺が……」

「戦乱に身を置く者たちにとって、強さは正義だ。お前だけが正しいのだ、お前だけが美しいのだと、人に知らしめろ」

 

「期待以上に育ってくれたな」養父は満ち足りた顔でゾルダートを眺めた。「坊や(クライナー)」と昔の呼び名で彼を呼んだ。

 目の前に広がる霧が一挙に晴れたような衝撃をおぼえた。

 ゾルダートは立ち上がり、代赭色の屋根がつらなる町を見下ろした。紺碧の空を、教会の尖塔群が突き上げ、時鐘の音が遠く近く響いた。

 ――そうか、俺が強ければ、強いってことを周りに分からせれば、やられるほうにはならない。それどころか、傭兵の既得権を、塗り替えることだってできるんだ。

 

 馬の手網をとき、鞍にまたがり、ゾルダートは軽く合図した。木々の間を、馬は軽快に走り出した。後ろに視線をやり、馬を駆って追いついてきた養父に溌剌とした笑顔を投げた。

 

 

【2年前】

 十五歳のゾルダートは小川のほとりで涼んでいる。頭にいきなり水がかかった。カノンが笑っていた。商売中ではないから、白鉛の厚化粧は落とし、子供っぽい素顔のままだ。ゾルダートまで子供にかえってしまい、川に入って水をはねかえし、カノンにぶっかけた。

 カノンはびしょ濡れの体をゾルダートにぶつけた。抱きかかえて岸に放り出し、指をさして笑ってやると、カノンは半泣きになってむしゃぶりついてきた。

 じゃれあいから本気の喧嘩に移るのも、子供のやり口だ。むきになって殴りかかってくる野獣の子のようなカノンをもてあますゾルダートの視界に、目を見開いて水底に仰のくちびのベリトが映った。静かに溺れるから、すぐに気がつかなかった。焦って引き揚げると、とんでもない理不尽な目にあったというふうに、ベリトは大声で泣きわめき始めた。

 

 その頃のカノンは、老傭兵をなじみの客としていた。

 ゾルダートに最初に性の味を教えたのは娼婦であり、酒保の女たちであり、軍について歩く傭兵の家族たちであった。粗野で猥雑な行為であった。女の中に精を放つと、一瞬、この上なく心地よい感覚が体を包むことをゾルダートは知った。カノンは、猥雑さでいえば彼女たちと変わるところはないのだが、妙なところがすれっからしじゃなくて愛らしいのだった。

 老傭兵の目を盗んで交わすキスは、二人の愉しい遊びであった。

 

 

【4年前】

 十三歳のゾルダートは、老傭兵に連れられて、カーリアンの冒険者ギルドに来ている。

 冒険者という仕事があり、それが傭兵とは違うことは知っていた。魔物を殺すか、人を殺すかの違いだ。

 老傭兵がカウンターで説明を受けているあいだ、ゾルダートは依頼が貼りだされた壁の前につっ立っていた。白樺樹皮に文字や絵が刻まれているのを、あてなく読んでいた。

 ――イルークォの森にて、ストウドレイクの討伐。報酬銀貨八枚。

 ――ラジェ川にて、漁師の護衛。銀貨二枚。

 ――アカニ草の採取。銅貨三枚。

 

「どけ、小僧」肩を掴んでぐいと退かされた。体格にふさわしい巨大なだんびらを背負った冒険者は、依頼書を一枚取り、カウンターに向かった。

 

(ああやって、仕事を受けるのか。)

 

 ゾルダートは思い、視線をギルド内で屯している冒険者に投げた。

 閑談のかたわら、男たちが、細かく刻んだ葉に白っぽい灰を混ぜ、薄い樹皮に包んでいる。

 若者ばかりの中に、一人だけ少年がいた。青い髪の少年だ。

 顔だちは幼童の域を脱したばかりだろう。腰帯に短剣とロッドを下げている。そう、ゾルダートは観察した。同い年、せいぜい一つ二つ年下ぐらいか。

 

「ガキで、野郎ときては、見世物にも売れねえ。せめて(あま)っ子なら、買い手もつくだろうに」さっそく現地の冒険者に取り入ろうとする老傭兵の声が聞こえた。「連れていたってしょうがねえが、あんなでも、見捨てるのは哀れだ」

 

(見栄、張りやがって。てめえが俺を手放さねえのは、ローゼンミュラー家の財産をあてにしてのことだろう。)

 

 胸糞悪くなり、しゃがみこんだ。膝に、ひたいを強く押しつけた。背中に手を置かれた。また退かされる。そう思ったが、手はなだめるように軽く叩いた。

 

 顔をあげると、青髪の少年がゾルダートを見下ろしていた。ふらりと立ち上がったゾルダートを、彼は自分たちのテーブルまで招いた。

「さっき、見ていただろう」彼はテーブルにあるものを一つとり、ゾルダートに渡した。善意の行為だとわかり受けとった。

 

「名前は?」

「……」

 

 ゾルダートは口を指し、喋れないのだと、身振りでわからせようとした。

 一年前、串刺しにされ焼かれた将校たちの首を、ゾルダートは見ている。目鼻もわからぬ黒い塊が並んでいた。

 ずっと眺めていると、やがて、下顎の肉が腐り落ち、生焼けの舌がだらんと垂れた。それ以来、ゾルダートは喋れなくなった。舌の動かし方を忘れてしまったふうだ。呪いにかけられたとゾルダートは思っている。

 

「ろくな挨拶もできない奴に、噛み煙草を分けてやるな」

 

 ゾルダートにかけられた呪いは、誰にも知られることはなかった。若い冒険者がどなり、取り返そうとしたが、青髪の少年は噛み煙草をゾルダートにしっかり握らせた。

 それから、ゾルダートに見せつけるように、自分も一つ口に入れた。

 片頬が少し膨らんでいる。ゾルダートも真似て、口に含んで歯茎と頬のあいだに挟んだが、慣れないので口の中が煙草の葉だらけになった。

 すぐに吐き出し、細かい葉は唾液で喉に流し込んで飲もうとすると、喉にはりついて激しくむせた。仲間の問いを無視した小僧が背中を丸めて咳き込むさまは、冒険者の嘲笑を誘った。

 

「ラノアの煙草は初めてか?」一人だけ笑わずに、青髪の少年が訊ねた。

 葉巻なら吸う。でも、噛み煙草は初めてだ。

 

「ヤー」

「うん? 人族に見えるが、魔大陸から来たのか?」

「ナイン」

 

 すらりと言葉が出たことに、ゾルダートは驚いた。

 養父のもとで使っていた、ヤー(はい)ナイン(いいえ)、は、ラノアの冒険者には通じず、少年以外には、怪訝な顔をされた。

 

「アスラから来た。その前は、よく憶えてねえ」

 

 心に浮かぶ言葉がかってに口から流れ、ゾルダートは呆気にとられた。

 黒い塊からだらりと下がった舌が、ゾルダートの記憶に刻み込まれている。個人を特定できないほど焼け焦げた首だから、あれが養父のものともわからなかったのに、充血してどす赤く膨張した舌が、思い出すまいとしても生前の養父の顔とともに思い出され、ゾルダートの舌はますます強ばるのが常だったのだが。

 そうして、老傭兵に、喋ることはできなくても食うときは自在に動くんじゃねえか、現金な舌だな、と皮肉られるのだったが、――なんでだよ、どうして、今、喋れたんだ。

 解き放たれた舌の軽やかさに昂りをおぼえながら、こいつは魔術師だろうか、魔術師は呪いを解くこともできるのだろうか……と訝しんだ。

 

「私たちは明日にはこの町を発つ。お前も冒険者なら、また会うこともあるだろう」

 

 少年はそう言い、彼の仲間とギルドを去った。トイリーと呼ばれているのを、ゾルダートは聞いた。

 ゾルダートは呼ばれるままカウンターに向かい、文盲である老傭兵の代わりに、冒険者登録の契約書に記名した。

 ただし、書くのは、老傭兵の名ではない。もらえず終いであったローゼンミュラーの家名でもなかった。

 

 ゾルダート・ヘッケラー。

 そう記した。

 

 

【現在】

 

 振り子のように、記憶の視点は、過去を行き来しながら、やがて〈現在〉に収束して一つとなる。

 赤竜の巨大な黄色い目に捕らえられ、ゾルダートは気を失った。瞬時、走馬灯を見たのだった。

 

「――氷河の濁流を受けろ! 氷撃(アイススマッシュ)!」

 

 氷塊が赤竜の右目に、短剣が左目につき刺さった。

 トイリーだ。魔術で生成した氷塊と短剣が同時に着弾するように、詠唱のタイミングと投擲の速度を瞬時に計算したのだった。

 短剣の刀身には三筋の溝が引かれ、小さい孔が多数穿ってある。毒を流し込んで溜めておくためだ。折れやすいが、斬りつけたときの致死性は高い。

 呼吸障害を引き起こす強力な毒だが、竜の巨体の命を奪う量にはとうてい足りない。

 しかし、眼に流し込まれた毒は、激痛を生んだ。氷撃は視野をぼやけさせた。

 赤竜はとっさに硬いまぶたを閉ざした。照準が狂った。

 凄まじい火炎の波は、ゾルダートからわずかに逸れた。

 灼熱が耳を焼いた。頬を焦がした。冷たい。いや、熱いのだ。

 炎の熱さは、氷を押し当てられたような冷たさを誤認させた。

 

 眼球が頭蓋の奥に引っ張られたみたいに眼窩が落ち窪み、小鼻が固くなり、ゾルダートの全身が刃になった。

 握りこんだ長剣は、この瞬間、ゾルダートの一部であった。

 全体重をのせた、渾身の斬撃を、赤竜の脳天に叩き込んだ。

 

 

 

 眉間に汗が流れた。あまりの熱さに上裸になったゾルダートは、骸から鱗を剥がす手を止め、腕で汗を拭った。

 

「あついな」同じく上裸になったルーが雪の中に仰向けになり、体を伸ばした。「外で風呂に入れるとは」

 ラノアの風呂は、浴槽に張った湯に浸かることではなく、蒸気をからだに当ててたっぷり汗を流すことを言う。

 

 死んで尚、赤竜の体温は、凄まじく高い。紅い鉱石のような鱗に閉じ込められていた温度は、解体によって外へ放出した。流れた血が雪をどんどん解かしてゆき、土の色が見えるほどだ。

 

「解体はまだ終わってねえぞ」

 

 頭の潰れた赤竜の傍で、ゾルダートはルーに片手を伸べた。

 

「おれを憎むか」

 

 ルーは、生き残った犬たちに視線を向けた。かれらは切り離された赤竜の生肉にがっついている。

「ニエット」ゾルダートは答え、握られた手を掴み返し、起こした。

 

「よくやった、ゾルダート、ルー」

 

 片足を失ったクールミーンが、トイリーに支えられながら歩いてきた。結局、傷口が膿む前に切り落としたのだった。

 ゾルダートが鞘に収めた長剣を返そうとするのを拒み、「無銘の長剣(クレイモア)だが、斬れ味はいい。よく手に馴染むだろう」とクールミーンは笑顔になった。

 

「〈危険〉は、勇敢な者と臆病な者を、見分けさせる。危険が訪れたとき、勇者の瞳は太陽のように輝く。戦闘に当たって、お前の瞳は、劣勢なときでも輝いていた」

 

 初めは腰が抜けそうだった、とはとても言えない。

 

「勇敢さに敬意を表そう。その剣は、ゾルダートに譲る」

 

 それでも、認められたことは嬉しい。

 剣帯は町に戻ったら()うことにして、紐で縛って背に括りつけた。

 

「冒険者は引退するのか」

「いや、一時休業だ。ネリス公国に行き、義足を作る」

 

「こいつのおかげで、資金には困らん」とクールミーンは赤竜の骸の方を見てから、「たいそう苦戦させられたのに、こいつ、とか、赤竜、では寂しいな。名前をつけよう」と思いついたことを口にした。

 

「命名権を持つのは、第二の功績者であるお前だ。ルー」クールミーンの言葉に、ルーは〈モリーガン〉と誇らしげに答えた。

 戦いと殺戮の女神の名であった。

 

 

 のんびり勝利を祝っている暇はなかった。

 モリーガンとの戦いのさなか、死んだ者もいた。火葬した。

 モリーガンの体は、余すことなく、金になる。屍体を狙う魔物が集まる前に、解体を終え、二台の犬橇に積んだ。

 

「エヴナの国へ行け」

 

 ミリス教の開祖が生まれる以前、大森林の死者が行くエヴナの国は、花咲き乱れる常春の楽園であった。

 戦闘で死んでいった仲間を悼み、そうして、赤竜の闘志を讃え、ルーが哀悼歌(キーン)を捧げた。

 即興で歌われるそれは、大森林の民の古い習わしの一つだが、ミリス教は、異教の悪習として禁じた。それでも、廃れることはなく、大森林には、今でも死者が出るたびに哀悼歌を作り歌うのを職業とする者もいる。

 ルーはよく響く声と、死者を讃え偲ぶ、皆の心にひびく言葉をもっていた。

 

 行きより少し小規模になった隊列で、カーリアンに向かった。

 

「帰ったら、何よりもまず、ぐっすり眠りたい」ゾルダートの横に並んだノイが言った。

「俺もだ」ゾルダートは応じた。討伐隊の中で年齢が下なのはノイだけだ。フェリムと同じか少し下くらいだと思うと親しみを感じる。

 ノイの手足には擦り傷があり、泥だらけだった。ノイは治癒魔術師だが、仲間の怪我をすべて癒していては魔力が持たない。重傷者を優先して、ささいな怪我は後回しだ。自分の体にしても、後回しの対象であった。

 

「その怪我はどうした」

「崖を落ちかけたんだ、すごく疲れていて……。クールミーンが助けてくれた。その代わり、クールミーンが、張り出した木の根っこで、腿を裂いてしまった」

「片足で助けたのか?」

 

 ゾルダートが驚くと、ノイは愉快そうに笑った。

 

「あの人はすごいぞ。削った秦皮を支えにして、平然と動くんだ。ふつう、手足を欠損した者は、慣れるのに数年を要するのに」

 

 と、言ったが、「俺のせいで怪我をさせた」とちょっとすまなそうな顔をした。

 

 

 


 

 

 

 冒険者たちの凱旋を、カーリアンの市民は快く祝った。

 鬱々としていた町の雰囲気が嘘のように、貴族は街角でパンだの肉だのを配り、酒屋ではただ酒が振る舞われた。

 

 フェリム、ナナホシ、シンシア、差配の夫婦とその子のイリヤとグリシャ兄弟、そのほか同じ宿屋の住人。彼らの間で、ゾルダートは髪の毛がボサボサに逆立つほど抱きしめられた。

 これまで習慣としてなにとなく交わしていた抱擁が、どれほど肉体と魂にとって重要なものか、初めて知った。

 なにか、心強くてあたたかいものが内部を充たした。

 

 この感覚をまた得られるのなら、とゾルダートは思った。俺は多分、死ぬまで冒険者をやめないだろう。

 ゾルダートの方がしゃがんでの抱擁をといた後も、シンシアはゾルダートの手を離さず、グリシャはゾルダートにまつわりつき、喜びと懐かしさを全身であらわしていた。

 

「トイリー。あなたにも、深い感謝を」

 

 フェリムがトイリーと抱擁し、ちょっと身をかがめて口の端を両頬につけた。

 市門を潜り、冒険者ギルドへ向かう隊列からゾルダートは一旦抜け、酒箒邸に顔を出した。

 私はゾルダートを助けるとあの子たちに約束した。再会まで見届けたい。そう言い、トイリーが付いてきたのだった。

 

「子供が喜んでいるのは、いいな。見ていて心地いい」

 

 トイリーは抱きついてきたシンシアに頬ずりを返した。

 ひとしきり生還を喜び、「討伐の話をしてよ」とグリシャが興奮気味に言うや、ルーが息せき切って宿屋に訪ねてきた。

 急ぐあまり四つ足で駆けてきたらしい。掌が黒く汚れていた。

 

「来てくれ、トイリー。クールミーンが危ない」

 

 

 

 

 できることなら、記憶から消し去りたい姿であった。

 ゾルダートたちが到着したときには、クールミーンはすでに絶命していたのだが、恐怖と苦痛が全身に鏤刻されているようで、ゾルダートは目をそむけそうになった。シンシアを――小さな女の子をもし連れてきていたら、俺は両瞼を手で覆ってやり、二度と見られないようにするだろう。

 

 教会内の一室に横たえられていたが、奇妙な形に歪んだまま硬直した躰は、神父が聖水をかけ祈祷しても擦ってもまともにならず、集まった人々は悲しみよりも恐怖に打ちひしがれた。

 

 戦勝と帰還を祝う宴の席で、突然、顔がひきつれ始めた、とリョーリャは語った。呼吸がおかしくなり、そのうち、体が弓なりに激しく反って、痙攣し始めた。その勢いは強烈で、取り鎮めようとする者をはね飛ばした。

 俊足のルーがトイリーに助けを求めて外へ駆け出したのはそのときだ。

 

「毒を盛られた。そう思いもした。だが、席にいたのは、俺たち仲間だけだ」

 

「だれの仕業だ」ハウの声は、これ以上ないほど怒りに充ちていた。

 

「潰れた足の処置をしたのは、ノイだ。癒す者の前では、いかにクールミーンでも、無防備にもなるだろう」

「俺の魔術のせいだと言うのか」

 

 ハウに胸ぐらを掴まれ、怯えたノイは睨み返した。

 クールミーンと同じ席にいた冒険者の中には、動揺のあまり酒瓶を掴んだまま駆けつけた者もいた。ノイは酒瓶をぶん取り、ボトルネックを掴んで壁に叩きつけ、破片の鋭い切っ先を向けた。

 

「ミリス様に誓って言う、俺は誠心誠意治癒に当たった。見ろ、塞いだ断面は、膿んでもいない。それでも、まだ疑うか」

「ごたくさ抜かすな。俺が勝てば、てめぇが下手人だ」

 

「よせ、教会だぞ」腰の湾刀(シャシュカ)を抜きかけたハウを数人が押しとどめた。

 仲間内の和を重んじ、率先して仲裁する役割のトイリーは、沈痛な顔でクールミーンの(はだ)に触れていた。

 

「このような症状をみせる病人は、ときどき、いた。救う手立てはなかった」

「悪魔が取り憑いたのだ。悪魔に殺された」

 

 老神父の声は(ふる)えていた。

 風呂頭の倅の潰瘍は自信を持って治療に当たったトイリーであったが、背骨のへし折れた死者を生き返らせる奇跡は起こせない。

 

「せめて、戦いの中で死んでいったなら誇れた」

 

 こんな死に方、あるかよ。くそっ。

 ハウの悪態に、ほとんどの者が同調した。

 

 いつもは温厚な老神父は、ミロンたちのように戦死した者の遺骨は教会の墓地に受け入れても、悪魔に取り殺された者を埋葬することだけは断固として許さなかった。

 

 土壌の中に破傷風菌という病原体がひそみ、傷口から体内に入り込み、強直性の痙攣を引き起こし、死に至らしめることがあると解明された時代に生きていたのは、ナナホシのみだ。

 破傷風の治療法自体は明治23年に細菌学者の北里柴三郎によって確立されていたのだが、チサのように山間の集落に住む者にまで周知されてはいない。さらに、兵士等によって破傷風ワクチンが一般的に利用されたのはチサの死から数十年後、第二次世界大戦の時である。ゆえにシンシアにとっても、破傷風は原因がわからない、治す手だてもない、死の病であった。

 破傷風の症状を呈した遺体を前に、フェリムとシンシアと共に葬儀に参加したナナホシは、真実に辿りつきかけていた。

 しかし、ゾルダートに即座に目を背けるように言われ、また、彼女も己の考察を正確にあらわす語彙をまだ持たないのだった。

 

 ルーとフェリムの知識のもと、彼らは大森林の習わしに従ってクールミーンの処置を行った。

 悪魔に遺骸を利用させてはならない。頭部を切断し、体とは別々に焼いた。護符を焼いた灰と混ぜ、体の灰は川の表面に張った氷を叩き割って流した。大森林にルーツをもつ彼らにしても又聞きの知識であり、正式なやり方か確信はなかった。思いつく限りの方法を実行した。

 

 頭部の灰は箱におさめ、郊外の荒涼とした地に運んだ。

 冒険者たちが深い穴を掘り、箱の中の灰を撒き、箱も穴の中で焼いた。土をかぶせた上から、聖水が豪雨のように注がれた。

 

 モリーガンとの戦闘より、はるかに皆は怯えていた。相手が悪魔では、戦うすべがわからない。

 

「ルー、クールミーンのために、哀悼歌を歌ってくれ」

 

 トイリーはルーに訴えた。ルーは首を横に振った。

 

「なぜだ。お前は、犬にも歌ったじゃないか。なぜ、クールミーンはだめなんだ」

「戦って死んだ者にも病で死んだ者にも、哀悼歌(キーン)は捧げられる。だが、悪魔に取り憑かれ死んだ者のために歌うことはできない。歌った者に、悪魔は目をつける」

「悪魔ではない。あれは病だ」

「悪魔だ。おれはそう教えられた」

 

「クールミーンの魂を、神よ、悪魔の手より護れ」

 

 我知らず、ゾルダートは歌っていた。

 

「神よ、クールミーンの魂を護り給え」と、リョーリャが続けた。「冬の森を、彼は狼のように駆け、戦地では皆を鼓舞した」ハウとガリバーが加わった。

「魂を護り給え」トイリーが、ルーが、和し、

「彼は戦いにあっては誰よりも勇ましく、休息のときは陽だまりより優しかった」と、ノイが続けた。

 

「クールミーンよ、安らかに眠れ」

 

 すべての者が歌った。

 ゾルダートはシンシアとナナホシに目を向けた。

 悪魔はか弱い子供と女から目をつける。存在を気取られないように、葬儀中は走ることはおろか、喋ったり笑い声をたてることも禁じていたのだが、彼女たちが小声で歌うのを冒険者たちは許した。

 歌った者に目をつけるなら、それは、ここに居るすべての者を相手にすることだ。

 

 

 ギルドへの道を歩みながら、「坊やに遅れをとった」リョーリャがゾルダートに近寄り、言った。

 

「これからは、二度と臆さない。相手が悪魔であろうと」

「ああ。頼むぜ」

 

 坊やと揶揄されるのは、もはや気にならなかった。

 リョーリャは真剣な顔をしていたし、上位ランクの彼らにとって、ゾルダートは紛れもなく未熟なのだ。

 

「疑ってすまない」ハウはノイに謝罪した。剣の聖地の男がよくやるやり方で自分の胸を叩いて己を責め、自分を呪う言葉を吐いた。ノイはハウを許し、和解が成立した。

 

 赤竜討伐という大仕事に当たって、ギルドは死者の追善のためにクチヤ*1を振る舞った。

 死者の分け前は、討伐に参加したすべての者に均等に分けられる。

 娼館に誘われたのだが、女を買って遊ぶ気にもならず、膨らんだ財布を手に宿屋に帰った。クールミーンが悪魔に取り殺されたというのに、町は祭り騒ぎだ。皆、楽しみに飢えていた。

 

 さっさと部屋に引っ込み、寝台に体をのばした。長剣は横に放った。

 譲り受けた長剣が、そのまま、遺品になった……。

 

 

「ゾルダート、メシだ、めし」

「……あ?」

 

 物思いに沈むうちに、睡っていた。

 ナナホシに揺り起こされ、視線をやった窓の外が昏い。階下からは食堂の騒ぎがかすかに聞こえてきた。

 

「いらねえ」

 

 寝返りを打ち、ナナホシに背中を向けた。ナナホシはゾルダートの前に移動し、顔を覗き込んできた。

 

 薄闇の中で、ナナホシの丸っこい目元が愛らしく、黒髪を一房耳にかける仕草がたいそう色っぽいのに、ゾルダートは気づいた。

 腕をつかんで引き、ベッドの上で押し被さった。ナナホシは、信頼する兄が突如顔色を変えて殴りつけてきたような顔をした。

 良心が痛む余裕は十七のゾルダートになく、性急に首元に顔を伏せ、膝から腿を撫で上げた。

 

『きゃあああ!!』

 

 ナナホシはものすごく暴れた。

 一度溢れた欲は押さえ込めない。蹴り飛ばしてこようとする足を押さえ、強行しようとして、じっと入り口からこちらを見ているシンシアに気づき、ぎょっとした。

 生じた隙のうちに、ナナホシはゾルダートの下から抜け出し、ドタバタと部屋を出ていった。

 

「……んー……あー……居たのかよ」

「……」

 

 きょとんとして黙るシンシアの手には、筆具が握られていた。筆具の先端は錐のように鋭く尖っている。

 ゾルダートはごろりと寝そべり、シンシアを手招き、そっと筆具を取り上げた。

 

 階段を駆け上がる音が響いた。

 現れたナナホシは、真っ赤になった顔で、掴んだものを振りかぶった。

 

『……っ!』

「ぐっ!?」

 

 ナナホシは椅子の脚を両手でつかんでゾルダートの腹に何度も振り下ろした。

 あまりのことに一撃目は喰らったが、追撃は腕で防ぐゾルダート。「おーばーきる!」と、シンシアは思わず言った。兄のルーデウスから覚えた言葉であった。

 

 無言の攻防がしばし繰り広げられ、ハァハァと息の上がったナナホシはゾルダートを眺めて言った。

 

「……ちっ、いきなりキックしたことは謝るよ……」

「椅子で殴ったことを謝ってくれねえかな……」

 

「ナナホシ? 急に椅子を持ってどうした?」

 

 ナナホシはゾルダートにふいと背中を向け、彼女を追ってのんびり現れたルーにギュッと抱きついた。

 

「発情の匂いがする……」

 

 ルーは要らぬことを言った。

 続いてフェリムが、床に打ち捨てられた椅子、ルーから離れないナナホシ、ベッドで心なしか憔悴したゾルダートを見つけて吹き出した。

 

「アッハハ! ふられてやがんの! だっせ!」

 

 酷い仕打ちである。ゾルダートはアリスティアにふられたフェリムを慰めたのに、フェリムはこの言い草だ。

 ゆらりと起き上がったゾルダートに己の失言を悟ったフェリムは、逃走した。食堂まで追いかけてヘッドロックを仕掛けた。やんやと野次が飛ぶ。

 

「ごめん! マジでごめんって! でも無理やりはダメだろ!」

 

 確かにそうだ。

 ぎゃあぎゃあともがくフェリムを解放し、ドカッと席についた。

 

「おかみ、俺も飯!」

 

 動いたら腹が減ったのだった。

 

 

 翌日、部屋を出たゾルダートは、廊下でナナホシとはち合わせた。ナナホシは昨夜はルーのもとに泊まっていた。

 明るい場所で見ると、言葉の完全ではない少女に悪いことをした、という気になる。

 

「……よお」

 

 気まずくなっていると、ナナホシはわざとらしく怒った顔をして、拳をつき出して殴る素振りをした。

 見るからにやわいパンチは、当たってもまったく痛くはないのだろうが、ゾルダートは重いのを喰らって悶え苦しむ演技をした。

 それは、日本の学校で、親しい男女がなにとなく交わす短いふざけあいとそっくり一緒であった。

 

「アハハ……」

 

 ナナホシは笑いながら横を通り抜けた。許されたらしかった。

 

 

 

「お前も来てたんだな」

「ゾルダート」

 

 盛った土の前に、トイリーがしゃがんでいた。

 クールミーンの頭部の灰を埋めた場所だ。

 

「何をしにきた?」

「こっちのやり方では弔ってねえからさ。トイリーもそうだろ」

「ああ」

 

 墓地では、埋葬の後すぐに故人の追善が行われる。故人の供養のために火酒(ウォッカ)を飲むのである。立ったまま、何も食べずに飲むのだ。

 

 トイリーはちょっと笑い、「困ったな、三人分も杯を用意してないんだ」と言いながら、ウォッカを注いだ杯を墓の前に置き、酒壺をゾルダートに渡した。

 すぐに酔っ払う質であるため、少しだけ呷ってから、酒壺を返した。トイリーが残りを飲みほした。

 

「どこに行くにせよ、丸腰は心もとない」

 

 紅い光沢を持つ竜鱗を、一枚、ゾルダートはもらっていた。

 傍に埋めた。モリーガンは強力な守護者(ガーディアン)となり、クールミーンを背に乗せて飛翔するだろう。

 

「大地が君にとっての綿毛になるように」

 

 トイリーが祈りを捧げた。ラノアでよく使われる葬儀の結びの文句だ。

 

「クールミーンはくたばりやがった。次のパーティリーダーはトイリーだな」

「いや、解散だ」

 

 なかば茶化して言うと、トイリーは少し寂しそうにした。

 戦斧使いのガリバーはソロで、剣士のハウは同じくパーティメンバーが亡くなったノイとしばらく二人でやっていくらしい。

 ハウとノイに誘われもしたが、断った、とトイリーは語った。ノイは成人前で、冒険者はとかく死にやすい職業だ。子供が死ぬところを見たくない。

 

「お前はどうするんだ」

「さぁ……決めてない」

「……じゃあよ、俺と来ねえか?」

 

 ゾルダートはすでにフェリムとルーとパーティを組む約束を交わしている。

 ゾルダートのランクがひとつ上がったのでフェリムを正式にパーティに加えるのは少し後になってしまったが、冬が終われば行動を共にする予定だ。

 仲間内では一番歳若いフェリムも成人している。トイリーの嫌がることは起こらないし、俺が死なせねえ、ともゾルダートは思っていた。

 

「剣士の俺に、魔術師のフェリム、戦士のルー、そこに、魔法戦士のトイリーだ。種族も職業もバラバラだが、ぜってえ、そっちのほうが面白いだろ?」

「……ああ。きっと、楽しいだろうな」

 

 トイリーは差し伸べられた手をがっちり掴んだ。

 

 

 


 

 

 

 雪解けの始末は大ごとだ。積雪に傷んだ屋根を直し、溝を修理し、ようやくひと片付きしたと思えば、また雪にみまわれる。せっかくの作業が台無しになる。その繰り返しだ。

 それでも、差す光に温もりが増し、風が痛くなくなった。春は近づいていた。

 

 ゾルダートがナナホシとシンシアの護衛を務めるのは、三ヶ月の契約である。

 春が来るのは、彼女たちとの別れが近づくことだ。思い返せば、妹のような奴らと暮らすのは初めてのことで、楽しかった気さえする。

 

 ある夜、ゾルダートは気配を感じて飛び起きた。

 ただの気配ではない。何かとてつもなく邪悪な気配だ。

 フェリ厶とトイリーとルーと酒盛りをし、いつしか寝落ちていた。別室にはナナホシとシンシアを寝かせてある。

 傍らの長剣をひっつかみ、暗闇の中、弾丸のように二人の部屋に飛びこんだ。

 

「起きてた……のか、お前ら」

 

 ナナホシとシンシアは窓辺に立っていた。窓は開け放たれ、窓掛が風で少し揺れていた。

 いきなり扉を開けたゾルダートに、二人は驚いた顔を向けた。

 

「無事か」

 

 瞳孔の細まったルーも飛び込んできた。

 後に、短剣を構え手燭を持ったトイリーが来て、用心深く部屋を照らした。

 

「何か来たのか?」

 

「なんも来てないよ」とシンシアは首を横に振った。見つめると、「なにもいないったら!」と言い張った。

 ルーがすんすん鼻を鳴らし、侵入者の有無を匂いで探ろうとした。フェリムの聴覚にも頼りたいところだが、ぐうすか寝ている。

 

「どうだ?」

「いた……と言えば、いた。いないと言えばいない」

「ふざけてるのか」

「違う。本当にわからない。匂いが薄すぎる」

 

 寒そうに肩をすくめたシンシアが、ゾルダートの外套の中に入ってきた。

 そのまま窓辺まで歩き、下の街路を覗いたが、無人だ。

 

 今さら起き出してきたフェリムは、トイリーに頬を張られた。「冒険者たるもの異変には敏感になれ」と言われながら、目を白黒させていた。

 

 

 

 足場は雪解け水によってぬかるむ。かと思えば、日照時間が短い箇所には、雪がまだ残っている。

 雪を見つけると無意味に踏みに行くシンシアは、とうとうルーに抱えられた。

 シンシアとナナホシの旅装を買い揃えてやった帰途であった。

 

「この光景が見られると、春が来たって感じだ」

 

 外のあちらこちらで見られる大鍋と、立ちのぼる煙を眺め、フェリムが言った。

 冬のあいだ、肉を食べたあとの骨を集めておき、春になったら屋外で長時間煮る。すっかり軟らかくなったのを叩いて潰し、白いクリーム状になったのをバターのようにパンに塗って食べる習慣が、この地域にはあった。

 

 教会の前の広場に人だかりができているのに出会った。

 ゾルダートは、傍らの樹にのぼった。シンシアが羨ましそうにしたので、手を伸べ、引き上げて抱えてやった。

 フェリムも続いた。ナナホシに手を貸した。ルーも敏捷にのぼってきた。

 トイリーが、一つ下の枝に跨った。

 ほかの太い枝には、すでに野次馬が座を占めている。

 地上の見物の群れは、長い棒を横に構えた男たちによって押し退けられ、広い空間が確保されている。

 

 教会の建物を背に、一人の男が高々とボールを掲げた。

 二組に分かれた男たちが、殺気だってボールを見つめる。

 

「何をしてる?」

 

 大人しそうな見た目に拠らず、好奇心旺盛なナナホシが訊ねた。下の枝にいるトイリーが説明した。

 

「独身者のグループと妻帯者のグループに分かれている。教会と反対側の端に立った柱に、的が打ちつけてあるだろう。ボールを奪ってあの的にぶつけた方が、勝ちだ」

 

 毎年、この時期になると開催される行事であった。

 よく見ると、差配の親父と長男も参加している。

 親父は妻帯者、長男は独身者の陣だ。

 

「俺らも飛び入り参加するか」

「おれは女だから無理だな。だいたい、参加資格は18歳からだ。お前はまだ17だろう」

「誤差だ、そんなもん」

 

 腕をまくる素振りをすると、ナナホシがくすくす笑った。

 

「みんなはどっちに賭けるよ。俺、若いのが多い独身に賭ける」とフェリムが言った。

 

「おれも、独身に賭ける。精力がありあまっていそうだ」

「ところが、妻帯者のグループのほうが勝率が高い」

 

「そうだよな?」ゾルダートはトイリーに同意を求めた。

 

「ああ。女房への鬱憤がたまっているから、爆発力が強いそうだ」

 

「シンディ、ナナホシ、どっちに賭ける?」フェリムが訊くと、シンシアはちょっと考えてから独身者を、ナナホシは妻帯者のグループを指さした。

 

「ボールは、豚の膀胱に息を吹き込んで膨らませ、革で包んだものだ」膝の上に仲間の賭け金を回収しながら、トイリーはさらに言った。

 

「数年前だったか、かつてのパーティメンバー全員で参加しようとした事があったが、私だけ通らなかった。子供に見えるのが悪いらしい」

「手ごろなのをぶちのめして、腕力を示せば認められたんじゃないか」

 

 ルーが愉快そうに言った。トイリーは笑いながら返した。

 

「クールミーンも同じことを言ってな、試しに審判を……」

「やったのか?」

「殴るわけにはいかないから、仲間内で八百長をやって見せた」

「どうだった?」

「認められなかった。見た目は重大な要素なんだ」

 

「見た目とか、関係ねえよ。俺はトイリーのこと尊敬してる。やさしいし、物知りだし」とフェリムが慰めた。ゾルダートも同意見であった。

 

 ボールが放り投げられるや、乱闘が始まった。殴る、蹴る、服を引き裂く、倒れた奴を踏みつける。ボールを摑んだ奴は、たちまち、殺到する群れに潰された。

 ボールがどこにあるか、まるで見分けがつかない。

 

「これじゃ、みんな人を殴りたいだけみたい」

 

 一対一の喧嘩なら怯えず見物しているシンシアだが、これにはちょっと圧倒されたようにゾルダートの外套を掴んできた。

 

「そうだ。ボールがどこにあるかなんか関係ねえ、手当たり次第に殴った奴が勝ちだ」

「男の人って、どうして戦うの好きなの」

 

 愛らしい幼い女の子の物憂げな疑問は、ゾルダートたちのみならず、幾人かの地元の見物の笑いも誘った。「賭博と酒、淫売婦も大好きだ!」――俺も! ゾルダートは怒鳴り返した。

 大声で体が揺れたからか、シンシアがしがみついてくる。

 全身で頼られるのは気分がいい。「安心しろ、落とさねえよ」としっかり抱き込んでやった。

 

 高く宙を舞うボールが、ゾルダートたちの方に飛んできた。

 片手を伸ばしたが、ボールの位置はやや低く、受け止めたのはトイリーであった。

 

「こっちだ!」

「こっちへ放れ!」

 

 男たちは、手を振りまわし、胸を叩いて喚く。

 無造作に投げ返そうとしたトイリーの手が、止まった。

 地上の一点を見つめている。

 ゾルダートは視線の先を追った。

 殴りあい掴みあう群れから少し離れて、男が一人、こちらを見上げていた。

 トイリーとその男の視線は、一すじの糸になっていた。

 男はゾルダートたちのいる樹に走り寄ってきた。男の髪は、陽光を受けてエメラルドグリーンに光った。

 一瞬だけの錯覚だ。男の髪は深い青色であった。

 

「ロイヒリン! ……」

 

 男が発したのは一語だけだった。

 トイリーの本名はロイヒリンだった、とゾルダートは思い出した。ロイヒリン・ミグルディア……。

 二人は見つめあい、何も喋らなかった。それなのに、多くの言葉が交わされていた。

 ミグルド族は、声を使わずに言葉のやりとりをする。念話といって、頭に直接言葉を届けるのだ、とトイリーがかつて教えたことまで思い出した。

 

 男は樹から離れ、少し行ってからトイリーを見つめた。

 また、声を介さない会話がトイリーと男のあいだに成された。

 トイリーの表情に、ゾルダートは喜びと当惑を見た。

 

 男は広場を抜け出し、「用がある」とゾルダートたちに言い残し、トイリーも続いて離れた。

 

 

 シンシアとナナホシを依頼主に無事に引き渡すまでの十数日を、ゾルダートは普段と変わりなく過ごした。

 賭博と酒に興じ、フェリムに戦い方を教え、群がってくる近所の子供たちを適当に構う。淫売婦との遊びは、どうしても我慢ならない時以外では控えた。ナナホシたちの財布を預かることで多少は節約を覚えていたのだった。

 

 ガログラスの訓練兵時代の賜物か、基礎がある程度できているフェリムの成長は目覚しい。すぐにでも共に仕事をできると思うほどだ。

 CおよびB級は冒険者としてのイロハを完全に理解した中堅冒険者という扱いである。

 自身はBだが長年A級パーティで仕事をしてきたトイリー、

 B級だてらに赤竜討伐を果たしたゾルダート、

 A級冒険者のルー。

 と、三人のベテランがついているのは、フェリムにとってもたいそう心強いのだろう。

 伸びやかに日々の依頼をこなし、必要とあらば遠慮なくゾルダートたちを頼ってくる。

 

 トイリーはあの日のうちに戻り、持ち出してしまった皆の賭け金を詫びと共に返した。

 はした賭け金より、ゾルダートはあの男に相対したトイリーの態度のほうが気がかりであった。

 誰だったんだ。訊ねると、息子だ、と平然と答えた。お前の種族は、子供の姿のまま変わらないんだろう。相手は、俺より年上に見えたぞ。母親が人族だ。トイリーは深くを語らなかった。

 死んだと思っていたんだ。生きていた。と続く声は、喜びと葛藤が、複雑に入り交じっているようであった。

 

 

 長期に渡る依頼の完了日である。

 活動する者が少ない早朝に、ゾルダートはナナホシとシンシアを連れて宿屋を出た。

 早朝であるのは、依頼主がギルドを介して指定していたからだ。まるで人目を避けているようだ、とゾルダートは思った。

 

「グリシャ、さよなら!」

 

 後ろを振りむき、シンシアが手を振った。

 朝ぼらけの中、高く造られた宿の玄関横に立ったグリシャは、シンシアにキスを投げた。

 シンシアの反応を待たず、しかめ面で階段をかけ上がって宿に引っ込んだ。〈陽気な酒箒〉で進行していた小さな恋は、終わった。

 子供を特別愛らしいと感じたことはないが、ゾルダートはちょっと微笑ましくなった。

 

 ああ、いとしいオーガスティン。なんにもない。

 ゾルダートが何気なく口ずさんだ歌を憶えたのだろう。シンシアは市門までの道すがら歌った。

 彼女たちともう会うことはないのだと思い、ゾルダートも和してやった。いとしいオーガスティン。長い葬式の列。

 

 門を開けるには早い時刻であるが、賄賂はほとんどの不可能を可能にする。銀貨を受け取った門番の兵士は三人を通した。

 

 河の氷が溶ける落雷のような轟音が鳴った。

 依頼主はまだか。周囲を見回したゾルダートの袖を引き、シンシアが木札を持たせた。

 依頼の完了を証する札だ。ギルドに提出すると、依頼主があらかじめ預けておいた報酬金が冒険者に支払われる。

 依頼主が、ゾルダートに渡すべきものだ。シンシアが持つべきものではない。

 

「夜に、窓あけてた日、あったでしょ。ほんとはあのときオルステッドが来ててね、部屋にこれだけ置いて、私たちのこと連れていこうとしてたの。

 でも急にお別れするの寂しかったから、今日まで待ってもらったのよ」

「来てた、って……。なんで、自分のものを取りに来るのに、んな攫うような真似するんだよ」

「嫌われちゃう呪いのせい」

 

「ゾルダートさんが帰ったら、オルステッドも来るって言ってた」と、シンシアは市門を指さした。

 依頼完了の札はすでにゾルダートの手にある。

 ゾルダートが去れば、オルステッドという男が到着するまで、シンシアとナナホシの二人だけだ。

 心配する気持ちもあったが、城塞都市の近くに魔物が出ることはそうそう無い。よしんば何かあったとしても、大声を出せば門番の兵士に聞こえる位置だ。

 

「ゾルダートさん、いままでありがとう。お世話になりました」

「世話、なった。タッシャでな」

 

 シンシアは笑顔だ。別れた者たちがまた逢うことの難しさを真から理解していない子供の顔であった。

 ナナホシは淋しそうであったが、やはり笑顔を向けた。

 ゾルダートも名残惜しかった。別れには慣れているとはいえ、心が動かなくなるわけではないのだ。

 

「シンディ、見てみろ」

「?」

 

 ポケットに入れた物を取り出し、端をつまんで見せた。レースで縁取られた白いハンカチだ。

 手作業で編まれる繊細なレースは高級品だ。傭兵が娼婦の機嫌とりのため贈る場面を、ゾルダートは何度か見たことがあった。

 

 片膝をついてしゃがんだ。手元を見つめてくるシンシアの前で、ハンカチを左掌にのせ、中央をつまんで一ひねりし、右手で覆い団子を丸めるようにくるりと動かした。

 

「きれい!」

 

 右手をどけると、左の掌の上で、ハンカチは薔薇の形に丸まっている。

 左手をちょっと押し出し、シンシアに持たせた。子供の小さい指がつまむと薔薇はただのハンカチに戻った。

 

「いつかの治癒魔術の礼だよ。遅くなっちまって悪ぃな」

 

 シンシアはゾルダートを真似てハンカチを丸め、くしゃくしゃなかたまりに首をかしげている。

 ゾルダートは彼女の丸っこい頭を撫でて立ち上がった。

 

「そんじゃ、元気でな」

 

 一人ずつ抱擁をかわし、別れた。

 賄賂をさらに要求した門番の兵士を反射で殴り、ちょっと考えてから追加を無理やり持たせ、門を潜った。

「さよなら!」と声がかかった。振り返らず、片手をあげた。

 

 

 この日、町を出るのは、彼女たちだけではない。

 彼女たちを南門まで送り届けた後、ゾルダートたちもまた、迷宮を目ざし、ネリス公国第三都市ドウムへと発つのだ。

 

 踵を返してギルドに寄り、札と引き換えに報酬を手にした。

 そうして北門に向かう道すがら、人族にない特徴を持つ者と、ゾルダートは何度もすれ違った。男は、鍋の修繕の注文をとりに家々をのぞき、女たちは魔物の角でつくった櫛だの手作りの籠だのを売り歩く。老婆は通行人をよびとめて占い、厄災を予言して護符を売りつけ、子供は駆けまわり、見てまわる。めぼしいものを見つけては、持主の目がはなれているときに、さっとくすねる。

 町を追われた魔族の血を引く者たちが、戻ってきたのだった。町の活気も戻ってきていた。

 

 市壁の傍で、ルーと共にゾルダートを待っていたフェリムが手を振った。振りかえし、走り寄った。

 護衛を引き受ける契約で隊商の馬車に相乗りすれば移動費を抑えられるが、ゾルダートたちは金銭に余裕がある。四輪荷馬車(チェレーガ)を一台借りた。幌はないが、贅沢に馭者付きだ。

 

「ナナホシたちは行ったか」

「ああ」

「ちびが居ないと寂しくなるな」

 

 フェリムは「ちび」と言うとき、地面と平行にした手を腿のあたりに持っていき、現実よりかなり低く体長を再現してみせた。

 ゾルダートは笑いながら、しかしささやかな疑心にかられてもいた。トイリーはいつごろ来るのだろうか。

 

 

 出発の時間になっても、トイリーは現れなかった。

 仲間と手分けして探す暇はない。すでにチェレーガの馭者はゾルダートたちが乗り込むのを待ち構えていた。

 ゾルダートに遠慮がちな声をかけたのは、ジョシュであった。

 

「トイリーから」と、ジョシュは言った。「あなたがたに伝言を頼まれた。『すまない』って」

 

「それだけか?」

「それだけ」

「なんでトイリーは消えたんだ」

「知らない」

 

 腹が立ち、淋しさがその後に続いた。

 舌を解き放ってくれた。共に戦った。誘いに(ダー)と言ってくれた。トイリーの学識に畏敬の念を持った。ゾルダートは格別な親しみを感じていたのだが、一方的なものだったらしい。

 魔大陸の少数民族が、北方大地の開拓奴隷になるまでのいきさつ、そうして冒険者になった事情。いっさいを、トイリーは語らなかった。

 ロイヒリンという本名で生きていた歳月は、トイリーとして生きた時に数倍する。

 トイリーは、ロイヒリン・ミグルディアに戻ったのだ。

 

「俺、あなたたちのことは、けっこう好きだ。またカーリアンに来てよ」

 

 ジョシュは明るく言い、「よい旅を(シシスリーヴァヴァプチー)!」と、軽業師のような身のこなしで雑踏に紛れていった。

 

漂白楽師(スコモローフ)! 乗れよ、ドウムまで一緒に行こう!」

 

 フェリムが誘い、顔なじみの楽師二人組が乗り込んできた。ルーが馭者に命じ、チェレーガは進みだした。

 気を変えて、ゾルダートは訊ねた。

 

「ルー、お前は、本名を誰にも明かさねえよな」

「ああ」

 

 人語話者には発音が困難だから、と、普段ならば理由をつけるルーであったが、今日は異なることを言った。

 

「おれの名は、ただ一つ身に残った、だれにも奪わせぬ我がもの。だから、言わない」

 

 信頼がないのか、とは、感じなかった。

 実力がものを言う冒険者界隈にとって、行動は相手をはかる最大の指標だ。ルーの普段の行動から、強い信頼を向けられていることはわかりきっていた。

 

 原始の森からは、炭焼きが薪を燃やすにおいがすがすがしく風にのって流れ、樹林の根元には野生の小さい花が咲き始めていた。

 

「そうだ! パーティ名はどうする?」

 

 フェリムが訊ねてきた。これから起こるあらゆることへの期待に充ちた表情であった。

「俺らが付けてやろうか、エルフっ子」楽師が口を挟み、フェリムはちょっと首をかしげて首筋を人さし指ではじいてみせた。

 酔っぱってるのか――いかれてるのか、と仕草で答えたのだった。

 

「これ以上ねえほど、良い案があるぜ」

「えー、じゃあそれで決定じゃねえか」

「ほう? 言ってみろ、ゾルダート」

 

 ゾルダートは背から外していた長剣に、目を向けた。

 悪魔に敗北したクールミーンの遺体は記憶に焼きついている。

 彼を呆然と見下ろし、冷静さを欠こうとしていたトイリー。突然、ロイリヒンに戻ったトイリー。

 残された者は、墓前で手をとったトイリーこそが真実の面であったと思うほかない。

 

 幾つもの生が、触れあい、また離れていく。他人について自分が知るのは、触れあった一瞬のみだ。

 ゾルダートは仲間たちの顔を見据え、高らかに言った。

 

「決まってんだろ、〈ステップトリーダー〉だ!」

 

 

 

 


 

 

 

 

【おまけ】

シンシア視点

 

「腕輪を出せ」

「はい」

 

 三ヶ月ぶりのオルステッドだ。とっても久しぶりである。

 私はちょっと髪が伸びて、生きるための知識が増えた気がするが、オルステッドの外見は何も変わってなかった。髪も背も。

 私たちは服装もちょっと変わった。ゾルダートさんたちがベルトに括り付けられる小さめの鞄や小刀等、いろいろと見繕ってくれたのだ。

 

 ごそごそと首にかけた革紐を引き、服の内側に入れていた腕輪を出す。

 首から外したはいいが、結び目が固くて解けない。

 腕輪と紐を分離できない。困った。本当に困った。

 

「ナナホシ……」

 

 を、頼る前に、オルステッドがひょいと紐ごと取り上げる。

「なぜ直接身につけん」と怪訝そうに言いながら、革紐を枯草のように切って捨て、腕輪を自分の腕に嵌めた。

 まだ使える紐だったのに。……丈夫な紐だったのに!

 

「行くぞ」

 

 紐を拾い上げた私は、小走りになってオルステッドに追いついた。

 けして短くない付き合いになるのだし、当面の目標はオルステッドに優しくしてもらうことだ。

 優しくされるには、仲良くなるしかない。

 仲良くなるには、いっしょに遊んだり喋ったりして、互いのことを知るといい。

 

 喋ることはたくさんある。

 カーリアンで過ごした日々に、ベリトと友達になって別れたこと、ゾルダートさんが帰ってきて嬉しかったこと、様々だ。

 

 

「それでね、えっとね……けほっ」

 

 むせた。移動しながらの喋りつづけで喉が渇いていた。

 意識するのを忘れていたが、なかなか時間が経っていたらしい。

 太陽の位置が東から西に変わっていた。もうほとんど夜だ。

 

「ふぅ」

 

 小休憩をはさみ、水を飲む。首も疲れた。

 オルステッドはなんだか「うるさい」って顔してる。

 

「……よく話が尽きんな」

「色々なことあったもの」

 

 オルステッドはため息をついた。

 

「貴様らが無事に過ごした事はよくわかった。もう喋るな」

 

 しゅん。

 話したいことはまだ色々ある。

 カーリアンの珍しいお風呂とか、ゾルダートさんのこととか……。

 焚き火のそばで寝床の用意をしていたナナホシは、笑顔で私に言った。

 

「発情」

 

 何がなの。

 きょとんとした私を見てか、ナナホシは違う違うと首と手を振った。

 

「発情、その前、手前!」

「はつじょーの前? 興奮?」

 

 だとしたら変だ。私は興奮はしていない。

 ナナホシもちょっと考えてから首を振った。

 

「獣族であれば、発情期の前には雨季があるが」

「雨季って言いたいの? ナナホシ」

 

 オルステッドも解読に参加してくれた。

 ゾルダートさんのところにいた時のようなナナホシ語考察の賑やかさはないが、ちょっと嬉しくなる。

 彼に私たちと関わる気があるということだからだ。

 しかし、私かオルステッドが正解にたどり着くより前に、ナナホシは自力でその言葉を捻り出した。

 

「恋! 初恋だ!」

「恋? 私がだれに?」

「ゾルダート」

「えっ」

 

 恋。初恋。

 私がゾルダートさんに。

 

 言いたいことを正確に表せたナナホシは満足気である。

「おもしれー女……」と私に言い、なんか違うなという顔をしてから、「可愛い可愛い」と言って私の頭を撫でた。

 

「私ってゾルダートさんに初恋してた?」

「……その者に割く思考の比重は多いように感じた。異性に数ヶ月のあいだ守られ、共に過したなら、そうなる可能性は大いにある」

「そうなの……」

 

 二人に言われてみれば、そうかも、という気になってくる。

 キスはベリトとしたしベリトのことは大好きだが、女の子同士だ。

 ゾルダートさんにはベリトには感じない頼もしさがあった。

 陶然としてしまうような、英雄然とした逞しさ、強さである。

 それに、とくに理由はないのに何となくそうしたくて、膝に座ったりくっついてみた回数は多い。

 恋と発情は別もの、とゾルダートさんに教えられていたから、ナナホシの言いたいことはすぐに分からなかったけれど。

 

「えへ、へへっ」

 

 そっか。

 そっかあ。私って、恋できたんだ。

 

 ゾルダートさんは同じくらいの年頃の女が好きだし、トウビョウ様はいるし、結ばれることはない。

 でも片想いを大事に抱えてるだけでも良いのだ。

 母様もリーリャも、結婚は父様としたけれど、初恋は別にある。

 母様は生家の庭師の息子に、リーリャは町の渡し守の青年に、それぞれほのかな恋心を持ったのだ。

 父様のことは愛してるけれど、これも大事な思い出だ、と二人は言っていた。

 

「ナナホシ、恋バナしよ!」

「すぴー……」

 

 恋バナ。それは、私がいままで微妙に仲間に入れなかった話題。

 ここ数年、村の女の子たちがよくしていた、最大と言っても過言ではない娯楽である。

 あれに挑戦せんとナナホシに声をかけたが、彼女は既に寝入っていた。起こすのを躊躇われる安らかな寝顔である。

 

「ふー……」

 

 仕方がない。

 

「オルステッドって好きな人いるの」

「……俺、と……する話か……??」

 

 オルステッドはとても困った顔をした。

 何よりも優先しなきゃいけない事があるからそういう事はあまり考えていなくて、好きな人はいないらしい。

 どういう人が好み? と聞いたら、「繁殖に適していて、見目が良く、都合の良い女」と返ってきたので、最低! と私は言いかけた。

 外見じゃなくて中身が大事なんだ、とは、お腹をぷよぷよ触られがちなソマル君の談だ。

 さらに、女の子友達みんなが言うには、からだ目当ての男は最低なんだそうだ。

 オルステッドは最低ということだ。

 でも悪口を言っちゃ悪いので、「私もきれいな女の人好きよ……」と共感しておいた。

*1
干しぶどう入りの粥。




(誰であれ怖がられるし嫌われるので中身を知る段階に至れず、どうせなら)見目の良い女。
(ヒトガミを殺すのに)都合の良い女だと尚よし。


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三二 紛争地帯の子供

※AI+加筆絵

【挿絵表示】

横向きシンシア。五、六歳くらい。

次回も挿絵載せます。


 ゾルダートさんたちと別れて数日が経った。

 例のごとくオルステッドについて行き、転移魔法陣を使ってどことも知れぬ地に来た。

 そして、オルステッドは私を壁に囲われた町の前に置き、ナナホシだけを連れてどこかへ行ってしまった。

 

 一人はちょっと心細いし、私もナナホシといっしょに連れて行ってほしかった。

 でも、人里の前に置いていかれただけ、たぶんマシなのだろう。

 前は、人っ子一人いない砂丘に置き去りにされかけたのだし。

 

 

 とりあえず、カーリアンにいたときの事を思い出してみよう。

 話している相手はルーさんだ。

 

『旅の基本?』

『教えてルーさん』

『そうだな……おれは新しい町に来たら、最初に寝床を確保するようにしている。日が落ちる前にな』

 

 旅の基本そのいち、泊まる宿を決める。

 私は小路や人通りのない場所に行かないように気をつけながら、宿屋っぽい看板を探した。

 

「……」

 

 と、行く手を阻まれた。

 10歳くらいの男の子だ。()ぎだらけのチュニックを着ている。

 

 よけて横を通ろうとしたが、通せんぼされた。

 よく見ると彼は刃物をこっちに向けている。

 

 これは、あれだ。強盗だ。

 

 またまた、私はカーリアンでの出来事を回想した。

 話し相手はフェリムだ。

 

『旅の基本? ……つってもなあ、俺も旅と言えば野宿ばっかりだったし……。……うん、危ない奴には逆らわないことだな。とにかくその場では大人しくして、差し出せるものは差し出して、耐えるんだ』

『お金も服もぜんぶ?』

『それで命が助かるなら、安い、安い。大丈夫、身一つあれば、意外とどうにかなるもんだ』

 

 

「あげる」

 

 旅の基本その二、我が身にまさる宝なし。

 私はベルトポーチから金を取り、男の子に差し出した。小分けにして持っているからこれが全財産ではないが、人を寛大にさせるに足る金額だ。

 私より年上とはいえ、子供である。呪いでどうこうしてしまうのは可哀想だ。

 金で解決できることなら、そうしよう。

 

 彼はサッと確認したそれを自分の懐にしまうと、「どっから来た?」とようやく口を聞いた。

「カーリアン」と答えたが、彼は無表情で首をかしげ、市壁を指し、「外から来たのか」と質問を変えた。

 

「うん」

「親は」

「とおいとこ」

「……」

 

 男の子はすたすたと歩き出した。

 見逃されたのかしらと棒立ちになっていると、彼はこちらを振り返り「ついてこい」とひと言。

 ついてこいと言われたのでついて行く。

 

「わたし、シンシア。お兄さんのお名前は?」

「イーライ」

 

 イーライは崩れかけた小屋が並ぶ通りに入っていく。

 小屋は川べりに沿って並んでいるらしい。遠目には宮殿が見えるのだが、私がいる小路には、いまにも倒壊しそうな家々がぎしぎしと押し合いへし合いしている。

 一帯は、鉄錆と厨芥と糞尿の臭いにみちていた。

 

 大きく立派な教会の前を通った。

 十字路には、病の乞食がたくさんいる。

 流行病が心配でトウビョウ様で視ると、そのほとんどが病をよそおっているだけだと判明した。

 あの黄疸がひどく見える者は身体に馬糞をこすりつけているだけだし、子供が多くて養いきれないと主張する者のそばにいる子供たちはよその家から借りた子ばかりだし、鎖につながれて人に引かれ衣服をはだけた気狂いの女は実は正気だ。

 

 イーライは彼らには目もくれない。こんな光景は日常なのだろうか。

 

 乞食がたくさんいる十字路を通りすぎ、しばらく歩く。

 イーライは羽根つきの帽子をかぶった男の前で立ち止まった。

 男は底の浅い箱の側面に穴を開け、紐を通して首に提げている。

 

「選べ」

 

 ぐっと背後からイーライに抱きすくめられ、足が浮く。

 立ち売り箱の中身が見えた。鳥の巣が幾つか詰められている。

 巣には、すべて卵が入っている。茶色だの青緑だの黒の斑だのと種類がそれぞれ違うようだ。

 選べと言ったって、何に使うのだろう。食べるのかしら。

 

「……これ?」

 

 椋鳥の卵のような、青緑の卵が四つ入った巣を指さした。

 イーライは私を下ろし、さっき私が渡した財布から金を出してその巣を買いとった。

 イーライはまた歩き出した。川にそって進む。

 共同洗濯場では女たちが集まって洗い物をしていた。

 

「あ」

 

 と、イーライが言い、女たちのそばに行った。私もついて行く。

 女たちは洗い物の手をとめ、イーライは鳥の巣を足元に置き、ひざまづいた。

 きょとんとしていると、横から濡れた女の手がのびてきて、頭を押さえつけられる。

 路上で遊んでいる子供たちを大人たちが制し、小屋の中に引きずり入れた。

 

 すると、少し離れたところを、鎧姿の集団が通った。

 高貴な服装の人が、何人もの鎧に付き添われている。

 彼らは目もくれず、頭を垂れて跪いた人たちの前を通り過ぎた。

 

 鎧集団が通り過ぎると、女たちは洗い物を再開し、イーライもまた歩きだし、小屋から子供たちが出て遊び始めた。

 静まり返っていたのが嘘のように、騒々しさは戻ってきた。

 

「いまの、だれ?」

「知らない」

「だれだか知らないのに、みんな静かにするの?」

「そうだよ。お前、変なこと訊くな」

 

 東にむかうにつれ、敷地は細くなる。

 右手に広大な館が城壁に沿って並び建ち、左手は小さい木造の小屋がひしめく間を細い小路が延びる貧民窟めいた一郭である。

 

 

『農夫がへりくだって手に接吻し、高位者の前で道路の埃のなかに身をかがめているところには、滞在してはならないよ。そこには暴君がいるからだ』

 

『貧しい国と豊かな国の見分け方を教えてやる。宮殿のまわりに崩れかけた小屋が並んでいるところは、ダメだ。飢えが支配している。幸せなのは一人で、残りは皆泣いている国だ』

 

 小路を進むイーライに追いつきながら、私はトイリーさんとゾルダートさんが言ったことを思い出すのだった。

 

 

 

「ついた」

 

 イーライは瓦礫の山をずらし、地表に現れた穴に降りていった。

 中に梯子を渡してあるらしい。イーライは片腕で鳥の巣をかかえ、片手で器用に梯子をつかんで降りていった。

 

 ひょいっと穴の中を覗き込む。

 下でイーライが手を振った。なかなか広い空間であるらしい。

 ブエナ村にいるときにみんなで作った秘密の家を思い出し、少しわくわくしながら、私も錆びついた梯子をつかんで慎重に降りた。

 

 降り立ったのは、広い暗渠(あんきょ)だ。

 水は枯れてはいないらしい。壁に埋め込まれた光る石が光源となり、人が通れる足場と、黒い水面を、照らしている。

 

 水がぼんやりと青白く光る箇所があらわれた。

 

「水が光ってる」

「魔法陣だ」

 

 水路の底に魔法陣が描かれているのだった。

 転移魔法陣とは、模様がちょっと違う。何でだろう。

 

 水の中に沈んだ魔方陣の横を通り過ぎてから、地上と同じ濁った川の臭いがしなくなっていることに気がついた。

 そういえば、カーリアンには、下水を浄化する仕組みの魔道具があるらしかった。実際に見たわけではないけれど。

 

 さっき見たのは、水を綺麗にする魔道具……魔法陣だろうか。

 

 暗渠の中は蟻の巣のように枝分かれしていて、大勢の人間が暮らしているようだ。

 通路の壁にはタペストリーやカーリアンの教会で見た聖像画が飾り付けられていた。

 壁を掘り作った空間から、ときどき人が顔を出してくる。

 黙ってこちらを見下ろしてきたり、イーライに声をかけたりと、反応はそれぞれだ。

 

 キャンキャンと子犬の鳴き声が聞こえた。正面に黒い人影があり、近づいてくると輪郭と色彩がはっきりした。

 子犬にまつわりつかれている女の子だ。

 

「おかえり、イーライ!」

「ただいま」

 

 彼女は私を見て、「捨て子?」と訊いた。

 

「捨てられてないもん」

 

 たぶん。

 

「初めは、みんなそう言うわ」女の子は言い、「バーバ・ヤーガがいるから大丈夫!」と、私の肩にぽんと手を乗せて、通り過ぎた。

 

 バーバ・ヤーガ? と、私は聞き返したかったが、イーライはすたすた先を行ってしまう。

 私は反対方向に進むイーライと女の子をきょろきょろ見比べ、イーライの方について行った。

 

 バーバ・ヤーガという存在は知っている。

 北方大地の怪物だ。カーリアンに居たときに、楽師から聞いた。

 

 いま私がいる国が地図のどこに位置するのはわからないが、少なくとも北方大地ではないはずである。

 移動に転移魔法陣を使ったし、それに、この町はカーリアンの気候よりずいぶん暖かい小春日和だ。

 

「イーライ、ここってなんの国?」

「ガルデニアだ」

 

 わからない。

 地図でそんな国見たっけ。

 

「わぷっ」

 

 記憶を探ることに熱心になっていた私は壁にぶつかった。

 柔らかい壁……じゃなくて、イーライの背中だ。

 

「ごめんね」

「いいよ」

 

 それからイーライは、持ってた鳥の巣を私に持たせた。

 

「渡してこい」

「だれに?」

「バーバ・ヤーガ。この先にいる」

 

 イーライの指さす方向を見た。

 光る石に照らされているとはいえ、光の程度はぼんやりしていて、先にいくほど真っ黒に見える。

 さっきまでわくわくしていた地下の迷路が、とたんに怖いものに見えた。

 

「ひとり?」

「そう」

 

 まごついていると、「行き止まりまで、歩く。右手側のほうに繻子がかかった入り口があって、そこがバーバ・ヤーガの部屋」とせっつかれた。

 イーライは「右手側」と言うとき、私の右手の甲に人差し指の爪を食い込ませ、弧型の痕を残した。

 

「アトがついた手が、右だ。ほら、行け」

 

 どうあっても一緒に来てはくれないようだ。

 諦めて一人ですすむ。

 

「……ここ、どこ?」

 

 ついてこいと言われて、ついてきた。

 何も考えずに来てしまったけれど、これで良かったのだろうか。

 

 やがて言われた通りの場所にきて、右手の痕は消えてしまったけれど左右の区別はつくので、右手側の壁にある入り口を探した。

 

 暖簾のように空間の奥行きを隠す朱色の本繻子を見つけ、鳥の巣を抱えて捲り、中に入った。

 天井は入り口よりうんと高くなっていて、オルステッドが中で立っても頭をぶつけないくらいだ。

 床には絨毯が敷かれていた。

 

 なんだか踏みたくない。

 布団や畳だって土足で踏んだらいけないもの。

 

 その場で靴を脱ぎ、絨毯の端っこに揃えて置いた。

 足全部をつけないように、ちょっとつま先立ちになって歩く。

 もぐらか蛇が人の心を持っていたら、きっとこんな感じの家を作るのだろうというふうな一本通路だ。

 両端の床には本が乱雑に積まれ、天井や壁には顔の描かれた太陽や月のお守りだの数珠を巻きつけた赤鹿の角だの玉虫色の尾羽だのと魔除けの品々が吊り下がっている。

 奥にいくほどごたごたしてくるのだが、不思議と汚いとは感じない。

 

 奥に、人影が見えた。

 吊り香炉からのぼる煙で顔は隠れている。

 でも、刺繍を施した厚い座布団――クッションというのだっけ――に身を委ねている人の姿は見ることができる。

 肘のあたりまで袖を捲った朱色の詰襟に、腿幅から膨らみ裾にかけて細く絞り込まれた黒いズボン。

 投げ出された脚の長さは、オルステッドと同じくらいだろうか。上背のある男のようだ。

 

乃公(おれ)はバーバ・ヤーガ。地下街の王にして、ガルデニアの怪物だ」

 

 軽薄そうな声であった。

 異界の雰囲気に気圧されていた私は、少し緊張が解けた。

 もし、いかにもワシが王様だ! という感じの声だったら、逃げ帰りたくなっただろう。

 陽気な若者のように親しみやすい声の調子は、私の緊張を溶かした。

 

「なんだ、今度のは、ずいぶんなちびだな。

 もっと近くに来い。顔が見えねえだろうが」

 

 寄ると、煙に隠れていたバーバ・ヤーガの顔が見えた。

 白くあるべき白目の部分は真っ黒で、ごく小さい金色の瞳が私を見ていた。

 オルステッドが三白眼だとすると、彼は四白眼だ。

 耳や小鼻に銀や金色の飾りを通していて、首や顔、服から出ている腕や足の甲にもびっしり華や蛇の刺青が彫り込まれている。

 輝くような銀髪を剃り落として弁髪にしていて、銀色の三つ編みを肩から胸に垂らしている。

 

 初めて見る種類の大人である。

 

「魔族?」

 

 貌が人とは異なる者は、だいたい魔族である。ベリトが言っていた。

 私が話で聞いたバーバ・ヤーガは、鶏の足の上に建つ小屋に住む、老婆の怪物だ。

 でも、実際にいるバーバ・ヤーガは、地下の暗渠にいて、若い男の姿をしている。

 私が首をかしげると、バーバ・ヤーガはニヤッと笑った。

 

「〈魔族〉じゃあ、括りが大ざっぱすぎる。雑すぎる。乃公はリザッケだ」

 

 と、言い、刺青が彫り込まれていない頬の鱗を指さし、それから口をあけて二股に裂けた舌先を指さした。

 

爬虫類(リザード)の特徴を躰に持つものを、リザッケとかリザックとか呼ぶのさ。わかったか?」

「はい」

「よし。素直な子供は好きだぜ。生意気なのも手がかかって好きだがな……」

 

 バーバ・ヤーガは手で〈座れ〉という仕草をした。

 私は彼の正面に正座した。何か質問したら、イーライより詳しく教えてくれそうだ。

 

「名前は」

「シンシア・グレイラットです」

「そんなら、シシィだ。シシィ、おまえは運が良い子だ、転移事件を生き残った」

 

 言い当てられ、どうしてわかるのだろうと驚いた。

 ひょっとして、私と同じだろうか。この人も何かの使いだろうか。

 

「土産がなくても受け入れるってのに、イーライのやつは心配性だ。だがそれも良し。備えあって憂いはないからな」

 

 バーバ・ヤーガは尖った黒い爪で青緑の卵をコンコン叩いた。

 そうして卵をつまみ上げ、殻ごと一呑みにした。喉の奥でパキャッと殻が割れる音を、私は四度聞いた。

 

「はわ……」

 

 殻ごと卵を丸呑みにする人、初めて見た。

 

「……どうして自分のこと怪物っていうの?」

「何でも知ってるし、何でもできるからさ」

「何でも?」

「ああ。試しに何かきいてもいいぜ」

 

 バーバ・ヤーガは、質問を促すように身を少し乗り出した。

 

「えっと、市壁の外側でね」

「うん?」

「高く積み上げられた足場のてっぺんに、大きな水車があって、二人の男の人が中で足踏みをしてて……あれは何をしてたの?」

 

 町に入る前に見た光景であった。

 土と木の市壁の一回り外側に足場が組まれていた。木製の水車の中に男二人が入り、横に渡された棒を掴んで内側に張り出した板を踏んでいた。

 地上には粉塵が舞っていて、何をしているかよく見えなかったのだ。

 

「そりゃあ、石壁を作ってたんだな」

「水車で? どうやって?」

「シシィが見たものは、水車じゃなくて、踏み車だ。中心から水平に長く突き出た棒に、太綱が結びつけられていただろ?」

 

 バーバ・ヤーガは、私が思い出す間を置いた。

 記憶と照らし合わせ、はい、と答えると、「車が回転するにつれて、綱は横棒に巻取られる」とさらに言った。

 

「そうして、綱で結わえた石塊を地上から引き上げてるんだ。

 石の壁が完成すれば、土塁に木の柵を巡らしただけの壁は取り壊され、市は広くなり防御力を増す、っつうわけだ。

 そして、踏み車漕ぎはほとんどが盲人だ。目明きだと、隙間だらけの踏み板から、うんと下にある地上が見下ろせちまうからな。

 だから(めくら)を使うのさ。盲目の者なら、恐怖をおぼえたり目眩に襲われたりすることはない」

 

「だが、目が見えなくとも」バーバ・ヤーガはわっと襲いかかる真似をした。「落下への恐怖は常にある!」

 

 バーバ・ヤーガのことは怖くない。私はがんばり、コクコクと頷いて同意を示した。

 視力を失うのは、怖いことだ。何も見えず、暗黒の中に取り残される。

 私の生前は、家族が世話をしてくれたから仕合わせな方だったけれど、大多数の貧しい(めしい)は、自分で生計を立てなければならない。

 盲が道を歩けば意味もなく石をぶつけ、杖で叩く人もいる。

 そんな中で、あんな高いところで、掴まる棒があるとはいえ、踏み板を踏む。

 仕事があるだけありがたいとはいえ、踏み外して落下する恐怖は必ずあるはずだ。

 

 バーバ・ヤーガは白目が黒いけれど、晴眼だ。卵や私の姿がきちんと見えているようだった。

 なのに、盲人の恐怖に理解を持っている。盲人を人と見ているということだ。

 

「他には何かないのか?」

 

 私はベルトポーチから白い手巾(ハンカチ)を出した。

 レースに縁取られた、純白の手巾だ。ゾルダートさんにもらったものである。

 

「これ、薔薇の形にできる?」

「ホラヨ」

 

 バーバ・ヤーガはサッと手巾を取り、団子を丸めるように重ねた手を動かした。

 右手が退かされ、左掌には白い薔薇が咲いていた。

 

「おお……」

 

 本当に何でもできるらしい。

 私は何度やってもできなかったのに。

 ごくりと唾を飲み込み、本命の質問にうつる。

 

「私のお母さんがどこにいるか、わかる?」

 

 バーバ・ヤーガは私をじっと見つめた。

 私も、金色の瞳を見つめ返した。

 

「!」

 

 ぐるっと眼球が裏返り、違う色の瞳が現れた。

 キロキロと眼が左右上下に動き、しかしある時ピタッと定まる。

 

「ベガリット大陸、ラパン市」

 

 と、答えた。

 しかし徐々に顔が顰められ、「あー……?」だの「なんだこれ」だのと不安になる言葉が混じる。

 

「お母さん、生きてる……?」

「あ゛ー、生きてる生きてる、それは確かだ」

「ほんと!」

 

 よかったあ。

 ゼニス母様が生きている。

 心から、嬉しかった。他にはもう何も要らないと思うほど。

 安堵から滲んだ涙をゴシゴシ拭い、また何かを告げそうなバーバ・ヤーガの言葉を待つ。

 

「生きてはいる、が、ちょっと妙だぞ」

「あの……なんか、緑色のうろことか、見えたりしない?」

「あ? 鱗かコレ。すると、魔物……いや、守護者(ガーディアン)だ……マナタイトヒュドラが、人間を守ってるのか……?」

 

 この人は、過去の私と同じものを視ている。

 相性が悪いのか、いまの私は、母様の居場所を見ることができない。

 バーバ・ヤーガには、知識がある。思慮もある。同じものを視ていても、読み取れる情報は桁違いなのだろう。

 

 普段はあまりしないことだけれど、私はバーバ・ヤーガを勝手に視ることにした。

 シンシアとして生まれてから、同じ神の使いには遭ったことがない。七年越しに見つけた仲間かと思ったのだ。

 記憶に焼きつけるように彼の姿を眺め、目を瞑って手を祈る形に合わせ、

 

「いたっ!」

 

 バチッと目の前で火花が散ったような感覚があった。

 視野が黒く盲い、私はひと時、視力を失った。

 鼓動するごとに頭がズキズキ痛み、床に顔を伏せた。

 慿神は、トウビョウ様だけではない。イズナ憑きやゲド持ち、オサキ憑き。色々いる。

 ただの人であれば平気なのだが、それらに憑かれた者に不用意に近づいたり、呪いをかけようとすると、ひどい目に遭うのだ。

 トウビョウ様はかなり強力だから、他の使いに負けたことはないが、私の心身を完全に守ってくれるわけでもない。

 

「ハァッハハハ!」

 

 バーバ・ヤーガの呵呵大笑が聞こえてくる。

 笑いながら、私に手を伸べたのだろう。後頭部に大きな手が被さった感触があった。

 

「作法を知らないのか? 邪視使いのおちびさん」

 

 何か言われたように思ったのだが、声はぼわんぼわんと頭の中で反響して、意味までは取れなかった。

 

「うー……」

 

 視力が戻り、頭痛も引き、のろのろと顔をあげる。

 壁に彫り込まれた模様が点滅し、ヒュッと頭上で風を切る音がした。

 私の後ろからすっ飛んできた本が、バーバ・ヤーガの手に収まった。

 本がひとりでに飛んできたのだ。これも魔術だろうか。

 バーバ・ヤーガはパラパラと古びたページをめくり、うん、と頷いた。

 

「いいか、シシィ」

「はい」

 

 改まった雰囲気に、ぴっと背筋を正した。

 バーバ・ヤーガは黒く尖った爪で、私を指した。

 

「おまえの母親は――」

 

 

 

 


 

 

 

 数日もすれば迎えがおそらくきっと来ることを告げると、バーバ・ヤーガは、それまでここに居ていいと言ってくれた。

 彼の部屋を出てから、地下の住民たちに毛布を貸してもらい、暖かい寝床を教えてもらった後、気になることができた。

 住民は、私より年上の子供ばかりで、大人やもっと幼い子がいないのだ。

 理由を訊くと、ガルデニアには捨て子が多いらしい。

 だから、国の法では、棄児の養育義務は高級裁判権を持つ者(オプリヒカイト)が負うのだが、たいていはその代理人の守護(フォークト)が養育費をもらって棄児を引き受けるらしい。

 

「なら、どうしてみんなフォークトの所にいないの?」

「オプリヒカイトからフォークトへ、養育費が払われるのは、子供が9か10歳になるまでだ。

 養育費が払われなくなったら、自立しなきゃならねえんだけど、子供の奉公先を見つけることまでは、フォークトの義務じゃない」

「9歳になったら、そのまま放り出されるの? 仕事もないのに?」

「そう。ぼくは10歳だから、親のつてがなけりゃどこにも雇われない。

 ふつうなら、からだが傭兵や娼婦をやれるほど大きくなるまで、物乞いをして過ごすところだ。

 でも、この町では、仕事と家のない子供をバーバ・ヤーガが守ってくれる」

 

 イーライは「飢え、寒さ、人攫い、レイプ、魔物……から」と怖いものを指折り数えた。

 小さな地下街に泊まった翌日、私とイーライは、ほかの四人の子供たちといっしょに、地上の町中を移動している。

 

「バーバ・ヤーガが魔物を倒すところを見たことは?」

 

 くるりと振り返って言ったのは、ランキーだ。

 私は、ううん、と首を振った。あの水路に魔物が出るのだろうか。

 

「ドラインキメラが出るんだ。B級の冒険者が戦っても勝てるかわからない魔物だって」

「それを、バーバ・ヤーガがひと睨み! ゴアア! 魔物は苦しんで死ぬ!」

 

 身振りも混じえてひょうきんに教えてくれたのは、ワン・アイド。生まれつき魔眼を持っているらしく、眼帯をつけている。

 それにしても、やせ(ランキー)片目(ワン・アイド)のっぽ(ロング)くせ毛(カーリー)、と、変わった名前が多い。

 

「そういえば、きみ、名前はなんだっけ?」

「シンシアよ」

「そっちじゃないわよ、バーバ・ヤーガにもらったあだ名があるでしょ」

「?」

 

 首をかしげた私に、昨日の記憶がよみがえる。

 

「シシィって呼ばれた」

「そっか、シシィだな! シシィに初仕事だ!」

 

 ロングが言い、カーリーは私の肩を抱いて、「あそこで水をもらってきて」と、ある一軒家を指さしたのだった。

 

 

 訪ねた家の婦人は、親切だった。

 不審そうに扉を開け、私をみとめてふと表情を緩めた。

「お父さんはモルゲン派の兵士です。わたしはふだんは輜重隊についていますが、次の戦争までこの町で休んでいます。よろしければお水を一杯くれませんか」と、カーリーに言われたままの台詞を言うと、家の中に入れて水を一杯くれた。

 私に与えられた設定は細かくて、婦人との会話につまることはなかった。

 窓の外でひらりと手がよぎったら、「帰ろう」の合図である。

 私はお礼をきちんと言って、干された果物までもらって家の外に出たのだが。

 

 

「盗んだの……?」

 

 イーライやランキーたちは、卵や鶏を大事そうに抱え込んでいた。

 さっきまでは持っていなかったものだ。鶏はすでに絞められたのか、ぐったりして動くことはない。

 家に招かれる前にちらりと見えた鶏小屋を思い出せば、おのずと答えは出てくる。

 盗みは、いけないことだ。前世から変わらず悪いことだ。

 

「だっ、だめよ、返して、あやまってこなきゃ」

 

 扉が閉まった直後、イーライに手をひっぱられて走ったので、あの家からは離れてしまった。

 ランキーたちに追いすがると、彼らはやれやれと言わんばかりに目を合わせ、肩をすくめた。

 

「俺たちゃ盗んでなんかいないさ。〈発見した〉んだ。持ち主の目が離れているとき、それは誰のものでもないんだぜ」

「んぇ」

 

 めちゃめちゃである。そんな道理が通るわけがない。

 何をするか知らされなかったとはいえ、彼らの盗みに加担したことに、罪悪感をおぼえた。

 ここにいたるまで良くしてくれたイーライに目をむけると、彼は仏頂面で言った。

 

「地上の人たちはペンで盗む。ぼくらは腕で盗む。おあいこだ」

 

 野の草や家畜は、地主のものではない。神様が与えたものだ。

 と、詳しく聞くとそんな感じの自論で、彼らは盗みを日常的に働いているらしかった。

 盗みだけではなく、ゴミ山から布くずや骨、金属を拾い、魔物の死骸からとれる素材も売って金に変えているから、親元にいたときより良い生活をしている者がほとんどだそうだ。

 

「バーバ・ヤーガは怒らないの?」

「どうして? バーバ・ヤーガが言ったんだ。「既得権益者が昔ペンで盗んだものを、乃公たちは腕で盗んで取り返しているんだ」って」

「なんてことなの……」

 

 貧しい国らしいし、屑拾いだけではみんな飢えてしまうのかもしれない。

 でも、窃盗は、窃盗は……!

 

「さ、次の家だ。働かなきゃシシィのメシは抜きだぞ」

「帰りたいよぅ」

 

 できればオルステッドの所に。

 最大限贅沢を言うなら、母様の所に。

 

 

 

 五日目に、オルステッドは来た。

 イーライたちは、各々武器をとって襲いかかったが、あっけなく無力化された。オルステッドに相対した時点で恐怖のあまり戦意を喪失した者もいた。

 彼らの怪我を治してまわりながら、私は今後こういうことが続くのかもしれないと思った。

 旅先で世話になる人々を、毎回こうして怖がらせるのは申し訳ない。かといって、ひとりじゃ野宿はできないし……。

 

「助けて! バーバ・ヤーガ!」

 

 誰かが叫び、遠くに朱色を見た次の瞬間、ごうっと風が轟く音がして、バーバ・ヤーガがオルステッドに蹴りかかっていた。

 オルステッドは腕で防ぎ、蹴りを受け流した。

 

「無駄だ。貴様は俺に敵わん」

「……チッ、邪視が効きもしねえ。何者だ、テメェ」

「知ったところで無意味だ」

 

 まるでお前など怖くないというふうに。

 よそ見をしていても相手はできるというふうに。

 武術の構えをとったバーバ・ヤーガを無視し、オルステッドは悠々と私に近寄った。

 

「……!」

 

 イーライが青い顔で飛び出し、オルステッドにナイフを突きつけた。

 私はその背中をとんとんと叩き、「大丈夫よ」と言ってから、前に出た。

 

「……そういうことか。シシィ、この男がお前の迎えか?」

「うん」

 

 バーバ・ヤーガは豪快に笑い、「それならそうと言え」とオルステッドの肩をバシバシ叩いた。

 オルステッドは怖い顔をしている。いや、いつもの顔である。

 

「この男は無害だ! お前たちが大人しくスっ込んでりゃあ、そのうち出ていく!」

 

 バーバ・ヤーガが声を張って知らせた。

 それでも怖いものは怖いのか、地下の自室から飛び出してきた子供たちは、自然とバーバ・ヤーガのもとに集まった。

 オルステッドを睨みつける者、友人同士手を握りあって固まる者。

 前にも見たことがある光景だ。

 ワーシカとイヴたち、元気に暮らしているといいけれど。

 

「お世話になりました」

 

 先を行くオルステッドについて行く前に、振り返り、ぺこりと頭を下げた。

 盗みはちょっと嫌だったけれど、みんな悪い人たちじゃなかったのだ。ご飯をいっしょに食べてくれて、夜は楽器を持ちよって歌った。

 もっと長くここに居たら、きっと離れ難いくらい好きになっていたと思う。

 私はバーバ・ヤーガに言った。

 

「お母さんの居場所教えてくれて、ありがとうございます」

 

「んな畏まるなよ」バーバ・ヤーガはふと微笑した。「生みの親だからって、助けにいかなきゃならん理由はない。死んだっつーことにして、捨てろ」

 

 とんでもない。私はぶんぶん首を振った。

 

「お母さんのこと好きだもん。捨てないよ、助けるよ」

 

 そう言うと、なぜか、何人かの子供が哀しそうな目をした。

 さよなら、と手を振って別れ、走ってオルステッドに追いついた。

 

 

 

 外はすっかり夜だ。

 いちいち門を通っていては騒ぎになるためか、オルステッドが私を抱えて壁を越え、町の外に出た。

 ナナホシとはいつ合流するのだろう。

 きょろきょろと辺りを見回していると、「どうした?」と訊かれる。

 

「ナナホシは?」

「ああ……置いてきた。もう三日前になるか」

「……!?」

 

 ナナホシは魔術が使えない、私のようにトウビョウ様が憑いているでもない、丸腰の少女だ。

 その彼女を、置いてきた。オルステッドは今日まで町の外にいた。

 

「つ、つれ、連れ戻して! なにかあったらどうするの!」

「む? なぜそう焦る?」

 

 オルステッドのことはまだちょっと怖いが、怖がってもいられない。ナナホシの命に関わるのだ。

 オルステッドのコートを掴んでぐいぐい引っ張っても、彼はビクともしなかった。

 

「ナナホシが獣にやられちゃう!」

「……その辺の森に置いてきたわけではない。ペルギウスの下だ」

「え?」

 

 ペルギウスという名前は知っている。

 

「お空に住んでるひと?」

「そうだ。ケイオスブレイカーのな。

 奴は召喚術の権威だ。ナナホシが現れた理由も、ペルギウスならば何かわかるかもしれん。故に、しばらくナナホシを預けることにした」

「そなの……勘違いしてごめんね……」

「構わん」

 

 ということは、ナナホシは、空中城塞にいるというわけだ。

 しばらく会えないのは寂しいけれど、本にまで載っている人を実際に見れるのは羨ましい。

 

 もう外は暗い。すぐ寝るのかと思いきや、「用がある」と言って、オルステッドは農村に立ち寄った。

 村に近づくにつれ、そこが異常であることに気がつく。

 

 夜だというのに、村は煌々と赤く照らされていた。

 ブエナ村よりだいぶ小規模だが、村は柵で囲われている。

 

 あちらこちらの農家の煙出しから黒煙があがっていた。

 草葺の屋根、木組みをあらわにした壁が焼け崩れるのを、遠目に見た。火の粉は星屑に似ていた。

 胸の悪くなる臭いが濃くなった。オルステッドは破壊された柵を踏み越えて忍び入った。

 オルステッドから離れるのも恐ろしく、白外套のマントを握りしめて、はぐれないように歩いた。

 

 炎で照らされた亜麻畑には、人が倒れていた。首を断ち切られ四肢を断たれ、血溜まりに種が浮いていた。

 放火を免れた家も、戸口どころか壁まで叩き壊され土間が丸見えで、腸が流れ出た子供が壁にもたれている。

 四肢がちぎれ腹を裂かれた者たちが、地に折り重なり、踏み躙られた靴跡がそこここに刻まれている。

 女たちは臀を剥き出しにされ、血まみれの下半身を晒している。

 燃えさかる家に放り込まれたのだろう、皮膚が爆ぜ割れ、血を流す老人が、上半身を燃え崩れた家に突っ込んでいる。

 息のある者はいない。人も家畜も、皆燃えて死んでいた。

 

「近くに傭兵の宿営地がある。この村は掠奪の被害にあったのだ」

「……」

 

 人が焼ける匂いは生前も今世も、葬式のときに嗅いだ。

 こんなに大勢分のは初めてで、何か喋ったら深く吸い込んでしまいそうで、私は黙って自分の外套を鼻口に押しあてていた。

 

 生前、寺の坊主に見せてもらった地獄草紙が思い出された。

 傭兵というのは、本当に人間だろうか。地獄の鬼ではあるまいか。

 

 私もトウビョウ様の蛇を使い、人を殺したことはあるし、オルステッドの指示に従って何人か呪殺している。

 でも、ここまで酷い虐殺はやらない。やろうと思えば、トウビョウ様も同じことができるのだとしても、やりたくない。

 できるのと、実際にやるのでは、隔たりがあるのだ。

 

「歩きにくい。離せ」

 

 オルステッドは木組みを燃え残した家に入っていった。

 分限者のものであろう、他より立派な構えの農家だったが、倒壊する寸前だ。

 オルステッドは跨ぎ越えたが、私の歩幅では、戸口の前にうつ伏せになった骸を踏みつけることになる。待つことにした。

 

 オルステッドは、焦げた羊皮紙の束を持って戻ってきた。

 紙束は、地面に投げ出されるとほろほろ崩れた。何か書かれていたようだが判読できない。オルステッドは残骸に火を放ち、念入りに燃やし尽くした。

 何を目的とした行為かわからないが、他に目を向けても気が滅入るだけなので、オルステッドといっしょに紙束が灰になるのを眺めていた。

 

「〈青銅の首〉の設計図だ」

 

 オルステッドは言った。

 なにそれ、と聞き返す前に、彼は滔々と喋りだした。

 

「大昔、世界が六つにわかれていた頃、龍界では、学問も技術も思想も、今より遥かに進んでいた。龍界の叡知の結晶を託されていたのが、初代五龍将だ。後世では大半が失われたが、ラプラスは己の知を振り絞り、叡知を再現せんとした。青銅の首も、その一つだ。数多い事実から正確な推論を導き出せる機巧を、ラプラスは作った。政治上の質問に的確な答えを出すという触れ込みでな。

 ラプラスが自ら作った首は失われたが、手記から設計図を読み解くことはできる。俺も手記を解読したことがあるが、かなり時間がかかった。ノタリコンで書き散らされていたから……」

「のたりこん」

「特殊な暗号だ。ともかく、青銅の首を手にした国が、紛争地帯を制する。俺がしたのはその調整だ。これが残っていると厄介なのだ。設計図を奪いあい、かえって青銅の首の完成が遅れる」

「……」

 

 ええと。

 

「話むずかしくて、ぜんぜんわからなかったんだけどね」

「……そうか」

「私、戦争っていいことだと思ってたの」

 

 あの頃の日本は戦勝続きだった。

 出兵した知り合いが死んでも、国のために死ぬなら良いことだと思っていた。虐殺が起きているなんて知らなかった。

 

「こういう事がたくさん起こってるなら、戦争って悪いことよね。

 でも、せいどうの首? っていうのが完成したら、戦争が終わるんでしょ?」

「概ねそう考えていい」

「はやく完成して、戦争終わるといいね」

 

 オルステッドは肯定も否定もしなかった。

 嗅覚が慣れてしまったのか、鼻口を覆うのをやめて話した私を、いつも通りちょっと怖い顔で眺めていた。

 

「誰だ」

 

 ふいにオルステッドは後ろの家畜小屋を振り返った。

 あそこには焼けた牛馬の死骸しかなかったはずだ、と思ったのだが、ゆっくりと人影が出てきたとき、私は緊張してオルステッドの後ろに隠れた。

 

「ひゃっ」

 

 いきなり、土塊が飛んできた。

 次に氷が、火が、突風が飛んでくる。

 オルステッドが防いだものの、攻撃はやまない。

 

「珍しいな、無詠唱か」

「ソーニャ、こいつ全然効いてない!」

「どうしよう! 逃げる!?」

 

 私はオルステッドの後ろから飛び出していた。

 直後、襟首をつかんで引き戻された。頭に大きな手を翳される。ガキンと硬いもの同士がぶつかる音がして、目と鼻の先で土弾がオルステッドの手の甲で砕けて散った。

 

 彼女たちが紛争地帯にいることは、視て知っていた。

 でもまさか、こんな偶然に会えるとは思っていなかった。

 格好も髪も男の子みたいになって、人相も険しくなっているけれど、見間違えるはずがない。

 

「ソーニャちゃん! メリーちゃん!」

「……シンディ……?」

 

 ソーニャ。メリー。

 転移事件で離れ離れになった、村の友達が、そこにいた。





造語
・「リザッケ」
六面世界ではトカゲ野郎みたいな意味。龍族及び体に鱗のある種族への蔑称。
古龍の昔話によると人界に逃げのびた龍族は迫害されたっぽいので。差別語も過程で生まれているとリアルかなと。
ポーランド人を意味する差別用語「ポラッケ」「ポラック」を元にした造語です。

・「青銅の首」
ラプラスの遺物の一つ。


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三三 春の葬列


※AI+若干加筆絵

「シンシアがリスっぽい」とコメントが届き、可愛いなと思って生成した子リスシンシア

【挿絵表示】



ときどきこんな感じで寝ています

【挿絵表示】


支援絵ください(強欲)




 炎に照らされる二人の顔を見たとき、私はここが掠奪によって壊滅した村であることを忘れた。

 自分でも薄情だと思うが、死んでいった人より、生きている友達のほうが大事だったのだ。

 私は喜びのまま二人の前に駆け寄った。嬉しいのに、とっさのことで言葉が出なかった。

 訝しげにしていた彼女たちの顔がポカンと驚き、そして「きゃーっ」と黄色い声をあげた。

 

「えっ嘘うそ! シンディ! なんで!?」

「偽物じゃないよねー? 飼ってる猫の名前言えるー?」

「ホンモノ! 雪白!」

 

 頬を両手で挟まれ、耳を摘まれ、肩を揺すられる。

 私はソーニャちゃん、メリーちゃんの順で抱きしめ、胸にぐりぐり頬ずりした。

 変わらない。髪をバッサリ切って帽子にしまって、少年みたいな格好をしていて、躊躇なく人に魔術をむけるようになっていたけれど、内面までは変わっていない。

 

「知り合いか?」

「ぎゃあっ!」

 

 二人は幽霊に話しかけられたような反応をした。

 私が同じ顔をされたら、とても悲しい気持ちになると思う。

 オルステッドは強いからそうする必要はなかったけれど、私は彼を背にして、両腕を広げた。

 オルステッドは私が守るのだ。攻撃を防ぐことはできなくても、人の悪意や敵意からは庇ってあげたい。

 

 臨戦態勢のソーニャちゃんは、険しい顔で鋭く言った。

 

「シンディどいて! そいつ殺せない!」

 

 物騒なこと言いなさる。

 

 

 とはいえ、このままだと、メリーちゃんたちの方がやられてしまうだろう。

 強者の余裕というやつか、オルステッドは平然と立っている。

 しかしひとたび攻撃すれば瞬時に返り討ちだ。対魔物で、そういう光景は幾度も見てきた。

「お願い殺さないで」「怖いけどそんなに悪い人じゃないの!」と一生懸命懇願し、なんとか二人に手を下げてもらった。

 

「……互いに積もる話もあるだろう。俺は離れる」

 

 と、オルステッドがその場を去ってくれた事も大きい。

 

「私たちも行こう。長居すると、廃兵に出くわすかもしれないの」

「どうして? 何しに来るの?」

「掠奪のおこぼれを狙って、村を漁りにくるんだよ」

 

「私たちみたいにねー」とメリーちゃんが以前と変わらない調子で言った。

 

 

 死んだ村に手を合わせてから、月明かりを頼りに、二人が寝床にしているという場所に案内してもらう。

 村からやや離れていて、耳を澄ませば傭兵の宿営地の騒ぎが聞こえてくるような場所だ。

 大枝を組みあわせた骨組みに、枝や葉をぎっしり並べて壁を作った簡易テントがある。

 中には葉が敷きつめられ、子供が二人は寝転がれるような空間が確保されていた。

 

 手前には黒く燃え尽きた焚火の跡があった。

 ソーニャちゃんが榾を投げ込んで再び点火した。

 

「これ、着てると寒くないのよ。魔道具なんだって。オルステッドに貸してもらったの」

「だ、大丈夫なの……? 着続けると命を吸い取られたりしない?」

「へいきよ、私元気だもの」

 

 私たちは三人並んで座り、暖を分け合った。

 私一人で着るには大きな外套だが、全員で包まるには小さい。

 脱いだ丁子色の外套を、三人でひざ掛けの代わりにして、焚火にあたった。

 

 聞いたところによると、無差別な転移が起こったあの日、彼女たちは教会でレースの編み方を習っていたそうだ。

 そこまでは、私も知っている通りだ。

 

 セスちゃんの編んでいたレースが絡まり、ソーニャちゃんとメリーちゃんが解くのに手を貸した。

 何ヶ月も前のことなのでうろ覚えだそうだが、このとき二人の指先は触れていたらしい。

 その瞬間、周囲を眩い光に埋め尽くされ、気がつくと見知らぬ森に横たわっていた。

 自分の身に何が起こったのかわからない二人は途方に暮れた。

 それでも喉は乾くし、腹は減る。とりあえずブエナ村に帰ることにして、旅を始めたそうだ。

 魔術を使って働く代わりに農村や町に住まわせてもらうことは何度か考えたし、路銀稼ぎのために働いた場所でそう提案されたこともあった。

 しかし、平穏な農村でも、補給目的に傭兵が押しかければ、その平和は崩れ去る。

 

「襲撃があっても、私とメリーだけなら、逃げ切れるけど……」

「けっこうきついんだよねー、それまで良くしてくれた人たちが、殺されていくの」

 

 だから、人里に移住するのは無し。

 来るかもわからない保護は待たない。自分の力で、アスラ王国に帰ること。

 二人で相談し、そう決めたそうだ。

 

 初めの頃は、今夜みたいに略奪された跡地で焼けた家畜を食い、木の実をとって腹を満たしていたこと。

 輜重隊の近くにいれば、魔物は傭兵たちが予め殺しておいてくれるので安全だと知ったこと。

 女の子だとわかる見た目をしていると襲われるので、男の子の格好をして、口調も乱暴なのを練習したこと。

 位置関係と進行方向を知るために地図を買ったが、古い版図を掴まされて使い物にならなかったこと。

 騙されたら徹底的に報復をするのが、我が身を守る最大の方法だと知ったこと。

 

 二人は、輜重隊から付かず離れずの距離を取りながら移動していたそうだ。

 掠奪跡地のお零れを拾い集め、時には死体から剥ぎもした。

 そうして得たものを酒保商人に売って換金し、食事だの生活用品だの帰還に必要な情報だのを買う。

 アスラに辿り着くには、まず紛争地帯を脱しなければならない。

 しかし戦火激しい中心地から外れるにつれ、進軍する傭兵もそれに付く輜重も減る。

 二人はあちこちの軍を移りながら一進一退をくりかえした。

 

 その最中、私に再会した、と。

 そんな経緯であった。

 

 相応に苦労を重ねてきたはずだが、二人の表情に暗さはなかった。

 日常の延長にあったことのように、時には笑いさえ交えながら語っていた。

 

 

 私は、転移事件のことを伝えた。

 転移という現象はおろか、他の村人も同じ目に遭っていることすら彼女たちは知らなかった。

 考えてみれば当然のことである。私も、更地となったブエナ村を視てなお、オルステッドに説明されなければ事情を飲み込めなかったのだ。

 

 ソーニャちゃんに弟のワーシカが生きていることを話すと、彼女はさしぐんだ。

 しかし、ブエナ村どころか、フィットア領が消えてしまったことに対しては、「ああ、そうなんだ」と異様に静かな反応であった。

 激情は見せなかった。鍋底は熱いのに、表面は冷たい水みたいだ。

 

「それじゃ、シンディは、あのバケモノに攫われたの……?」

「バケモノじゃないよ、オルステッドよ。

 オルステッドのために探し物とかして、守ってもらってるの。いつもはナナホシっていう子もいっしょにいてね――」

 

 私のこれまでのことも訊かれたから、答えた。

 メリーちゃんは、私がオルステッドに酷いことをされているのだと思っているようだ。訂正を試みたが、疑心暗鬼という感じで、あまり信じてくれない。

 虫も殺さず逃がすくらい優しかったソーニャちゃんまで、オルステッドのことは怖いようだ。呪いは相当根深いものであるらしい。

 

 話しているうちに、とろとろと眠たくなってきて、三人でくっついたまま睡った。

 短刀を抱きしめて寝る二人に挟まれ、私はわけもなく悲しくなって、ちょっとだけ泣いた。

 

 

 

「おはよー、シンディ。朝だよー」

「お……?」

 

 メリーちゃんに顔を覗き込まれていた。

 背景には青空。土草の匂いと、風に乗って流れ、ほとんど薄くなっていた煙と人が焼けた臭い。

 友達に再会できたことが夢ではないことに気づいて、ほっとした。

 泣いたことがバレないか心配だったが、二人ともそこに触れてくることはない。涙の痕はちゃんと消えていたようだ。

 

「はい、これ買ってきたパン。チーズはちょっとだけだから、分けて食べようね」

 

 ソーニャちゃんがライ麦パンと切り分けたチーズをくれた。

 メリーちゃんが火魔術で表面を炙り、とろかしていたのが美味しそうだったので真似る。

 美味しい。あんなに凄惨な虐殺の場を見た後だというのに、私の食欲が衰えることはないのだ。

 前世の子供の頃が常にひもじかったから、その反動だろうか。

 

「あはっ、シンディまだ寝てるー? パンくずつけてるよ」

「んむ」

「ほら、お顔拭こ?」

「あう」

 

 やけに二人がくっついてくる。

 私も甘えた。これで転移さえなければもっと良かったのに。

 

 悩ましいのは、二人の今後である。

 帰るべきブエナ村はすでに無く、身寄りもなくなった。

 私はいずれオルステッドが父様のもとに連れて行ってくれることになっている。二人のことも、父様ならばどうにかしてくれるはずだ。

 私といっしょに行こう、と誘ったものの、彼女たちは断固拒否。

 むしろ、オルステッドのそばに居るのは危険だ、私たちと行こう、と逆に誘われてしまった。

 

 

「でね、すごくなまやさしいの」

「生易し……悩ましい、か?」

「それです」

 

 ソーニャちゃんたちには待機してもらい、魔道具を使って少し離れた場所にいるオルステッドに会いに行き、相談した。

 会いたい人物がいる方角を光って示してくれる魔道具の指輪である。

 歩幅の違いか、私がよくオルステッドを見失うので貸してもらったのだ。

 

 川辺の岩に腰かけたオルステッドを見上げる。

 朝の澄んだ空気に、枝垂れた蔦の下で、私を見下ろす銀髪金眼の男はこの世とは思えない光景である。

 これが人間ではないものの血を引く者の風采なのだ。

 彼に及んでは、岩に腰かける、じゃなくて、鎮座する、と言った方がふさわしい気さえする。

 

「お隣いっていい?」

「ああ」

 

 顔が遠くて話しにくいので、よいしょと岩をよじのぼり、オルステッドのそばに座る。

 登るとき、ふくらはぎにピリッと痛みが走った。

 見ると、膝の裏のすぐ下に、細い引っかき傷ができていた。

 昨夜、打ち壊された村の柵を踏み越えたときに、作ってしまったのだろう。

 尖った木片にひっかけたらいけないと思い、外套をたくし上げて上を歩いたのだ。

 治癒魔術をかけるのはあとでいい。血は止まっているし、放っておいても自然に治るだろう。

 

「フィットア領、元ロアの跡地にて、アルフォンスという男が難民キャンプを立ち上げたそうだ」

「へえ」

「パウロ・グレイラットは、難民キャンプの中でそこそこの地位を獲得しているようだ。彼を頼れば、貴様の友人が困窮することはないだろう」

「え? でも、お父さん、もうフィットア領いないよ?」

「む。そうなのか?」

 

 私の膝の上だとずり落ちるので、地図をオルステッドの膝に置き、このへん、と父様の居場所を指さした。

 父様とノルンだけではなく、十数人の若者も一緒だ。父様についてきている人の数は、視るたびに増えている。

 

「ふむ……捜索団を結成したという話は聞いたが、既に移動していたか……」

 

 オルステッドは何か考えているようだ。

 

「パウロはミリスに行くつもりなのだろう」

「どうしてわかるの?」

「フィットア領捜索団のリーダーとして活動しているからだ」

「そうさくだん?」

「各地に転移した人々を救う組織だ。転移先がアスラ国内ならばある程度救済措置を期待できるが、国外ではそうもいくまい。パウロは捜索網を他国にまで広げようとしているのだ」

 

 転移の被害者を助ける組織の、その惣領とな。

 父様はやっぱりすごい。

 

「だが、彼は見ず知らずの者を助けるほど殊勝な善人ではない。おおかた己の家族を救うために捜索団を作った、という所だろう」

「お父さんのところ行きたい」

「ならん。団員の移動費、組織の運用費、難民保護……ダリウスより支払われる復興資金だけでは賄えん。おそらくパウロは、ミリシオンに本家を構えるラトレイア家を頼り、そこで腰を据えて活動をするつもりだ」

 

 ラトレイアは、母様の旧姓だ。

 母様が貴族の元子女であることは話に聞いて知っていたが、家を出て、縁は切れたと言っていた。

 ……頼らせてくれるのだろうか。

 いや、頭を下げて頼るしかないのだ。父様はそうするつもりなのだろう。

 

 ならん、と即座に切り捨てられてしゅんとしていた私は、ふと生じた疑問に顔を上げた。

 

「お父さんならこうする、ってわかるのに、オルステッドはほんとにお父さんの友達じゃないの?」

「ある人物が生まれるために必要な胤だから調べたに過ぎない。今回のパウロと俺に面識はない」

「今回? 次や前があるの?」

「説明が面倒だ。貴様の友人の処遇だが、難民キャンプか、パウロの捜索団に送り保護を求めるか、どちらにする」

「えっと……アルフォンスって人のことは知らないし、お父さんのところがいいと思います」

 

 答えながら、まるで選択肢があるような言い方だ、と思った。

 私は友達に安全な場所にいてほしくて、でも紛争地帯を脱する方法がなくて悩んでいるのに。

 不思議に思う心が顔に出ていたのか、オルステッドは言った。

 

「北西に十五日ほど進んだ場所に、ミリシオン近くの町に繋がる転移魔法陣がある。捜索団の到着を先回りすることになるが、行き違いになるよりは良いだろう」

「転移魔法陣、って……」

「地図を描こう。目眩しの結界を破る詠唱も教えよう。ただしこれらの口外は禁じる。俺からではまともに聞き入れんはずだ。貴様が正確に伝えろ」

「うん……うん!」

 

 私は何度もうなずいた。

 ふくらはぎのピリッとした痛みを忘れてよろこび勇んで岩を滑り降り、まだオルステッドから何も聞いていないことを思い出した。

 すごすご引き返す私を見て、オルステッドは人をいたぶるのが趣味の人がみせるような笑みを浮かべた。

 つまり、残忍な笑みだ。悪そうな笑顔だ。

 怖くて怯えていたら、スンと無表情に戻った。

 ちょっと可哀想なことしたかな。

 

 

 オルステッドとメリーちゃんたちのもとを行き来し、必要事項を伝え、地図や金銭を渡す。

 気分は飛脚か伝書鳩だ。

 心が軽やかなのは、希望が見えたからだろう。

 少なくとも目の前にいる友達を救えるという希望だ。

 

 二人は、オルステッドを信用すべきか迷っていた。

 輜重隊の傍をうろついていれば何とか生活はできるのだ。

 輜重を離れ、実在するかも怪しい転移魔法陣を探すのは、生命線を自ら絶つ行為にひとしい。

 しかし私から伝えたことが良かったのか、さほど懊悩せずに、私が信じるオルステッドを信じる、転移魔法陣を目指して進む、と結論を出してくれた。

 

「メリーちゃん、ソーニャちゃん、ここ見ててね」

 

 地図は渡した。ミリシオンで換金できる魔力結晶も渡した。

 あとは見送るだけ、という時に、私は左手の人差し指を立て、二人に注目させた。

 

 七寸にも満たないような蛇が、ゆっくり腕を這い登り、立てた指に頭を巻きつけた。

 トウビョウ様の蛇だ。

 普通の人には見えない蛇だ。

 

「わっ、うわっ、蛇!」

「え? どこに?」

 

 真っ先に手を伸ばしたのはソーニャちゃんだった。

 彼女は私の手に巻きついた蛇を叩き落とそうとし、落ちないとわかると掴んで投げ捨てようとし、しかし手は空を切った。

 

「なんで掴めないの!?」

「落ち着いて、ソーニャ。蛇なんていないよ」

 

 人には見えない、小さな蛇。

 でも例外はある。私が見せようと思えば、見ることができる。

 それでも全員に見えるわけではなくて、一部の人だけなのだが。

 やっぱり、ソーニャちゃんのほうに素質があったようだ。

 内気な女は、怨みも内に溜め込みがちだから、呪いも扱いやすいのだ。

 

「なに――」

 

 私はソーニャちゃんの手をぎゅっと握った。

 蛇は私からソーニャちゃんに移り、うねって体に溶け込んだ。

 

「あ、え? なに、あれ、人? 赤い、ぴょんぴょんして、動いて……」

 

 ソーニャちゃんは私とメリーちゃんの真ん中の後ろを見て、ちょっと後退った。悲鳴をあげてうずくまった。

 私はしゃがんでソーニャちゃんの頭を胸に抱き込んだ。

 

「やだっ、やだやだ! 来ないで! いや!」

「うん、来ないよ。居ないもん。見えないよ。大丈夫よ」

 

 あんなものは視ようと思えばいくらでも視れるけれど。

 それだと生きてる人と死んでる人の区別がつかなくなってしまうから。

 だから、視えないことにする。視えないから、怖いものはいない。存在しない。

 

 瞼にキスをして、「みえないよ」と言い聞かせる。ソーニャちゃんはしばらくメリーちゃんに背中を撫でられて震えていた。

 ベリトは蛇を移しても平気そうにしていた。そのへんは相性の問題なのだろう。

 常に視ることは不可能だし、遠隔で友達を守るのも限界がある。

 だから蛇を憑かせ、使うための霊力も少し分けておけばいいのだ。

 

「使いすぎないでね、本当は良くないものだから」

「あ……」

「ソーニャちゃん自身がどうにかなることはないのよ。大丈夫よ」

 

 七十五匹いた蛇が、七十三匹に減った。

 減った分もふくめ、私が産むことになっているから、どうという事はない。

 

 

「ソーニャ、立てる?」

「うん……」

 

 虚ろだった目に光が戻り、フラフラと立ち上がったソーニャちゃんは、きょろきょろと周囲を見て、ほっと息を吐いた。

 

 さて、そろそろお別れだ。

 何年後になるかわからないけれど、ミリシオンで会えたらいいな。

 

「またね、シンディ」

「お金とか、地図とか、ありがとう」

 

 用意してくれたのはオルステッドで、私は渡しただけだ。

 でも、それを言うと嫌な顔をされると思い、口を噤んだ。

 

「貰われっぱなしも悪いよねー」

 

 と、ポケットに手をつっこんだメリーちゃんが、木の小箱を私にくれた。

 中身は、茶葉より細かく刻まれた葉で、箱の半分が埋まっている。

「これも」とソーニャちゃんが煙管をくれた。

 

 葉巻や煙管、噛みタバコは、カーリアンの冒険者が吸うのをよく見ていた。

 ブエナ村にいたときも、野良仕事終わりに一服する人もそこそこいた。

 明確に線引きされたわけではないが、これは大人の嗜好品で、私たち子供が手を出していいものではないと思っていた。

 

「吸ったの?」

「それ吸うと、頭がぼやーっとして、落ち着くんだよ。ねー? ソーニャ」

「うん! シンディにもあげる」

 

 そうか、と思った。

 煙草に手を出しても、彼女たちを咎める親は、大人は、もういないのか。

 

「……ありがとう」

 

 もらった葉と煙管をベルトポーチにしまった。

 

「……憶えてるー? イヴが夕方になっても帰ってこなかったとき、シンディ、すぐに居場所を当てたよねー?」

「? うん」

 

 唐突な思い出話だ。

 エリックと喧嘩したイヴがへそを曲げて森に隠れたのだ。

 気づけば空が暗くなり、帰れなくなったイヴの居場所を私が視て調べたのだった。

 

「わかるんでしょ、全部。ほかの人の居場所も、だれが死んだかも」

 

 私が言わないようにしていたことだ。

 メリーちゃんは軽い調子で言い、私を抱きしめた。

 私は、彼女の両親や祖母の行方を一度も訊かれていない。

 

「私たちさー、人が死ぬところ何回も見たし、殺したし、シンディくらいの子からパンを取り上げたこともあるんだよ」

「仕方ないよ。メリーちゃん悪くないよ」

「うん、私たちも、自分が悪いって思えないんだよね」

 

「だからさー」と、いつものように間延びして話す癖で、メリーちゃんは喋った。

 

「家族と友達が死んだってわかっても、ちゃんと悲しめないのは嫌だもん。だから、知ってるのは、シンディだけでいいの。私たちには教えないで」

「いっしょに悲しめなくてごめんね」

 

 と、ソーニャちゃんも私を抱いた。

 

「メリーちゃん、ソーニャちゃん。また遊んでね」

 

 私と彼女たちは、三歳も年が離れている。

 だいたい頭ひとつ分くらいの身長差だ。腕を伸ばして、ちょっと高い位置にある、二人の頬をなでた。

 

 私は勘違いをしていた。

 ある日突然故郷を失って、酷い環境に置き去りにされて、

 村で育った女の子が、そのままでいられるはずがないのだ。

 心の悲しさを感じる部分はとっくに失せて、それでも感じるやるせなさを煙草で紛らわせて、なんでもないように振る舞うので、いっぱいいっぱいなのだ。

 

「また会おうね」

 

 そうして、森に消える二人を見送った。

 

 

 

 道すがら、放置された骸が目につく。土とわかちがたいまでに腐乱したものもあれば、矢傷切り傷の生々しいものもあった。

 ベニバナ、桔梗は、盆の花と教えられてきた。

 道中で摘んだその二輪に似た花を、死体を見つけるたびに供えていった。

 私は経は読めないから、弔う代わりだ。

 

 そして、もらった煙管だが、私はどうにも使う気にならない。

 両親もリーリャも使っているところは見たことがないし。

 生前も、こういう嗜好品には縁遠かったし……。

 

 なのでオルステッドにあげた。

 正午に、私がオルステッドが捕まえて羽毛を剥いで焼いてくれた雀を食べている間、

 オルステッドは葉を丸めて火皿につめ、火をつけて吸っていた。

 

「おいしい?」

 

 黙々と煙を吐いているだけで、楽しそうには見えない。

 

「不味い」

 

 と、返ってきた。でも吸うらしい。

 

「……」

 

 やっぱりちょっと気になる。

 口元を拭ってオルステッドにそっと寄り添い、見上げてみる。

 

 無言で向けられた吸い口の先を咥え、息を吸い込んだ。

 

「うっ……!? げほっけほっ」

 

 びっくりするくらい噎せた。もう二度と吸わないと決意した。

 

「もういいのか?」

「もういいよ……」

 

 ふらふらとオルステッドから離れ、削った枝に刺して焚き火にかざしていた雀をまた手にとる。

 私は煙管より雀を食べているほうがいい。

 小骨が多くて食べにくいが、味はいいのだ。

 

 

 


 

 

 

 友達と別れてしばらく、私の仕事はなかった。

 というのも、オルステッドの次の予定が、天大陸の祠に安置された剣を、ある場所に移動させる、というものだったからだ。

 剣が失せているなら別だが、場所はわかっているようだし、私の出番はない。

 

「……?」

 

 首に違和感がある。首を左右にかしげて動かしたら、少しマシになった。

 顔を上げ、濃い霧の中を進むオルステッドに追いついた。

 

 運河を挟んだ向こう岸のなかに浮かぶ顔は、みな、仮面をつけていた。

 仮面の者たちの背中には、烏のように黒い大翼が生えている。

 

「あの人たち、オルステッドのこと怖がらないの?」

「実在の者ではないからな」

「??」

「この霧が映すのは、過去の現象だ。貴様がみているのは、このアルーチェで過去にあった出来事だ。現在起こっていることではない」

「不思議ね……」

 

 まあ、そんな不思議なこともあるだろう。

 霧のそこここに、仮面は群れをつくっていた。

 ときどきすれ違いもするものの、私たちの体が重なると、ふっと掻き消える。

 

 仮面といえば連想するのはお祭りだが、そんなに賑やかな雰囲気ではないようだ。

 

「先頭に、翼を断たれ、首枷を嵌めた者がいるだろう」

「うん」

「あれはシルウェステルという男で、この後死刑になる。追従するのは、彼の葬儀に参列する者たちだ」

 

 ぬかるんだ泥に靴をとられて脱げそうになりながら、運河の向こう岸を眺める。

 仮面ばかりが折り重なり、その眼はどれも真っ白な顔にうがたれた虚ろな穴で、存在してしかるべき眼の光を欠いていた。

 こう言っては悪いが、不気味な光景だ。

 

「何か唱えてる人がいるけど、あれはどういう意味?」

「天神語だ。意味は……『我汝と婦の間および汝の苗裔の間に怨みを置かん彼は汝の頭を砕き汝は彼の踵を砕かん』」

 

 中には仮面をつけていない者もいる。

 私と同じくらいの子供たちだ。翼も小さく、参列のあいだをうろちょろしている。

 葬儀も彼彼女らにとっては楽しい行事なのだろう。

 

「又婦に言給ひけるは我大いに汝の懐妊の劬労を増すべし汝は苦しみて子を産まん」

 

 ある男の子に目を惹かれたのは、その子が一人だけ周りと異なったからだ。

 綺麗な銀髪であった。彼もまた、踵より高い水に靴を取られそうになりながら、自分の靴を見て歩いている。

 

「土は荊棘と薊とを汝のために生ずべしまた汝は野の草を食ふべし」

 

 顔をあげた。目があった気がしたので笑いかけた。

 彼はつんのめった。靴を泥にとられたようだ。金髪の女の子に後ろから抱えられ、すぽっと足が抜けた。

 

 風が霧を吹き散らかし、映っていた過去の再映は消えた。

 

「きれいな子いた!」

「……そうか」

 

 オルステッドに報告すると、呆れた目を向けられたのだった。

 

 

 

 天大陸の祠の外で、オルステッドを待つ。

 目の前に広がるのは、一面の草原である。のどかな丘陵地帯だ。

 喉が渇いたので、水筒を持つ。

 

「……?」

 

 蓋がうまく開けられない。手をぐっぱーして動かしてから、ちょっと時間をかけて開けた。

 ごくごくと飲もうとしたけれど、飲むのも上手くいかず、首元に零してしまった。

 疲れているのだろうか。体にそんな感じはしないけれど。

 一応、その場にぺたんと座って待つことにした。

 

「おか……おかえりなさい」

「ああ」

 

 オルステッドが戻ってきた。

 立ち上がろうとして、また座り込む。

 来た道を引き返しかけたオルステッドが、こちらを振り返って怪訝な顔をする。

 

「何をしている。行くぞ」

「……ある、け、ない」

「何?」

 

 手足が震える。口を開けにくい。

 ギクギクとからだが突っ張り、立ち上がることもできなかった。

 

「シンシア? どうした?」

 

 震えは徐々に大きくなる。

 ガチガチと歯が鳴り、何度か舌を噛んだ。痛い。

 

 オルステッドがそばに戻ってきてしゃがみこみ、私を仰のかせた。

 背中が勝手に反り返る。震えはもはや私の意思では抑え込めなかった。

 胸が苦しい。息を吸って吐くのって、こんなに難しかったろうか。

 

 助けを求めてオルステッドを見た。定まらぬ視野で、オルステッドは多分焦っていた。

 

「しっかり――」

 

 

 私の記憶は朦朧として、ここで一度、途切れている。




予防接種のない時代の破傷風って怖いね。


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三四 シュヴァルツ・バスティエの悲喜

 

 

 

  物見に生れて、

  物見をせいと言ひ附けられて、

  塔に此身(このみ)(ゆだ)ねてゐれば、

  まあ、世の中の面白いこと。

 

 

 


 

 

 

 七星静香は強かな高校生である。

 おまけに賢く、容姿もそこそこ愛らしいとくれば、もはやスクールカースト上位になるために生まれてきたようなものだ。

 しかし彼女は根っからのインドア派であった。

 大勢でワイワイするよりも、二人の男幼馴染や少数の仲の良い女友達といることを好む。

 アニメや漫画も好み、趣味はどちらかというとオタク寄り。

 人当たりが悪いわけではないので、クラスのオタクたちから懐かれている。

 弁当は二軍の大人しい女子生徒たち三、四人と食べる。

 一軍女子とは臀を叩かれるセクハラを受ける程度には打ち解けている。

 気分で休み時間は寝て、誰ともつるまず読書をしていても「七星さんってさぁ……」と軽んじられることがないのは、彼女の通う高校が地元では有名な進学校であったからであろう。

 放課後はまっすぐ帰ったり、たまに友達とカラオケやショッピングモールに寄ってプリクラを撮ったり、テスト前にはファミレスに集まって駄弁りながら勉強をする。

 クラスの半数が持っているスマホはめんどくさいから持っていない。

 両親との仲は普通で、生意気な小学生の弟とは最近喧嘩が増えた。でも嫌いなわけじゃない。

 家庭環境は、毎年海外旅行に行けて、大学は私立理系を視野に入れてもいい程度には豊か。

 そんな存在であった。

 

 毎日に不満はない。しかし漫然とした退屈を感じていた、どこにでもいるような高校生の主人公が、ある日突然、異世界に召喚される。

 そんなラノベのような身の上が、まさか現実に、それも我が身に起ころうとは、ナナホシは思っていなかったのだ。

 

 

 広い部屋は重厚で静謐な雰囲気にみちていた。

 緞子張りのゆったりした肘掛け椅子を指して、くつろぐようにシルヴァリルはすすめた。

 大理石の棚板をもつ暖炉。暗緑色のクッションをおいたソファ。床に敷かれた――異世界故に名称は異なるのだろうが――ペルシャ絨毯、壁をかざるゴブラン織のタペストリ。

 ()()()ラノア王国カーリアン市。猥雑さと喧騒と煮炊きの煙が充満した冒険者街と比べると、まるで別世界だ。

 

 空中城塞ケィオスブレイカー。

 名称に偽りなく、宙を漂う孤島に建つ城塞の、その一室である。

 ナナホシの隣の椅子にはオルステッドが、正面にはシルヴァリルが掛けている。

 シルヴァリルは天人族の妙齢の女性であった。

 顔の上半分を琺瑯の仮面で隠し、白を基調とした法衣の背には、一対の濡れ羽色の翼が彫像のように畳まれている。

 彼女はナナホシが逗留しているケイオスブレイカーの主、ペルギウス・ドーラの忠実な下僕(しもべ)であり、ペルギウスに仕えている事に誇りを持っていた。

 

「ロックジョー*1は、悪魔憑きなどではありません。れっきとした病ですから、治療の術はございます。しかしながら、容態は、すこぶる悪いと言わざるを得ません」

「死ぬのか」

 

「ペルギウス様の命令ゆえ、手は尽くしますが」シルヴァリルはオルステッドに対して湧き上がる根源的恐怖、嫌悪を最大限隠しながら話した。

 

「そもそも、人族の子供は死にやすいのです。生まれても十歳になるまえに死ぬ子のほうが、大きく育つ子より、よほど数は多いのです。あまり期待はなさらぬよう」

 

 七星静香は賢い高校生である。

 故に異世界語で交わされる会話を、すでに母国語と遜色ない程度に解していた。

 もっとも、話すほうは滑らかとは言えない。助詞を忘れて喋ることは多いし、TPOに応じた使い分けはまだ未熟である。

 オルステッドに連れられたペルギウスの謁見にて、『てめぇお偉いさんかよこの野郎!』と笑顔で言い放ち、後でシルヴァリルに厳重注意をされた(信じられないくらい怒られた)事もある。

 ナナホシはただ、周囲に教えられた言葉をそのまま使っただけだったのだ。偉い人への挨拶だと思っていたのだ。

 冒険者の粗野な言動を先に覚えた弊害であった。事情を汲んだペルギウスによって大目に見られたものの、ケイオスブレイカーに滞在中は、彼の下僕たちに正しい言葉使いを教育される事となったのだった。

 

 髪や血液、内包する魔力の有無を調べられ、知識欲旺盛なペルギウスに母国の文化や言語を求められるまま提供して、数日、ともすれば数週間を過ごした。宙の孤島では時の流れに疎くなるらしい、とナナホシは知った。

 

 七星静香は愛らしい高校生である。

 彼女を初めて見たペルギウスは珍しそうにちょっと身を乗り出し、「ヒタノスの生き残りがいたのか?」と言った。

 黒髪黒目に黄色っぽい肌のモンゴロイドは、かつて、この世界にも存在した。

 しかし、元より少数派であった彼らは、数百年前のラプラス戦役で絶滅していた。

 髪に黒色が混じる種族はいる、モンゴロイド系統の人種もシーローンあたりの少数民族に残っている。

 混じりっけのない黒髪黒目のモンゴロイドとくれば、これはもう、この世界ではナナホシ一人っきりである。

 三ヶ月を過ごしたカーリアンでは、多少学のある冒険者の男は、彼女を「ヒターナの姫君」と呼んだのだった。

 初めの頃、ナナホシは完全に子供として扱われていた。見慣れぬ顔立ちは年齢の判別を困難にする。言葉が拙いのもあいまって、実年齢より三歳は幼く見られていたのだ。

 特に世話になった青年ゾルダートと自分が二歳も違わないことを知った時は、互いに驚いた。ナナホシもまた、自立しているゾルダートを20歳は越していると思っていたのだ。

 

 オリエンタルな容姿や切なくなるほど黒い(ひとみ)は、北国の男たちの愛情と強い性的興味を生んだが、初めては好きな人とがいいナナホシはスッパリ拒絶した。なあなあな態度でいると押し切られる。激しく怒って拒むことをナナホシは学んだ。

 ゾルダートにはときどき「シュヴァルツ・バスティエ」と呼ばれた。言葉の響きが歌うみたいで心地良いので、口説かれてるのかな、と思った。

 ケイオスブレイカーに来てからふとその事を思い出し、意味を訊ねると、ペルギウスはにやりと笑い、「黒髪の野獣、だ」と教えた。

 黒髪の野獣。からだを求められたのをがむしゃらに拒んだためであろう。ナナホシは憤然としたが、既にゾルダートとは別れた後である。

 

 

 オルステッドがシンシアを抱えて再訪してきたのは、ゆったりとした時の流れる城で、カーリアンで過ごした日々を早くも懐かしく思っていた時であった。

 

『突然こうなった。痙攣と弛緩を交互に繰り返している。妙なものは食わせてない……と思う。できる範囲でいい、治療してくれ』

 

 異世界で右も左もわからなかったナナホシにとって、ちょこまかとナナホシに懐く小さなシンシアは、良く言えば庇護欲を誘い、悪く言えば頼りない。

 幼い女の子を精神的支柱にはできないが、まったく馴染みのない文化や風習に触れることへの不安は溶かしてくれた。

 共に過ごした期間で、ナナホシが知るシンシアは、病気も怪我もしない美しく健康な子供であった。

 

『ロックジョーであろうな。重症化する前に、手足のしびれや開口障害があったはずだが、兆候はなかったのか?』

『知らん。あったかもしれんが、見ていない』

『なんだ、この童に関心を持っているわけではないのか……』

 

 目蓋は開けているが、瞳は虚ろで、意識があるのかわからない。痙攣で舌を噛まぬよう布を噛ませられ、青ざめた躰を糸の切れた人形のように脱力させたシンシアは死体のようだった。

 綺麗なだけの骸……。思わず、血色の失せた象牙色の頬に触れた。まもなく城の病室に運び込まれ、処置が済むまで面会を禁じられたのだった。

 

 

「光刺激やわずかな撞突(とうとつ)で患者の猛激な痙攣が引き起こされます。これより先は光を落とし、音も排除しておりますことをご了承ください」

 

 シルヴァリルの案内で、オルステッドの斜め後ろをナナホシは歩いた。みごとな体格に、造り物ではない自然な銀髪、縦型スリットの瞳孔を持つ金眼、硬質化し鱗のように割れた目元の膚は、彼が人に似ているようで異なる種族であることを雄弁に語っている。

 異種族の大男と人間の少女の歩く速度は異なる。シルヴァリルを追い越さぬようにオルステッドはペースを落としているが、ナナホシが自然に横を歩くことはできない速度であった。

 

「……!」

 

 扉が無音で開けられ、部屋に一歩踏み入ると、ぞぞっと全身の産毛が立った。視認できない薄い膜を突き破るような感覚であった。

 音を排除している、とは言葉通りの意味で、これも魔法の一種なのだろう――微細な足音や布擦れの音さえ消えた、痛いくらいの静寂が薄暗い部屋を満たしていた。

 

 ベッドに仰向けに横たわるシンシアは、可哀想なくらい小さかった。

 喉には管が通され、管の先は魔法陣を彫り込まれた鞴のような機械に繋がっている。

 カニューレを用いる治療法が一般的になるのは数世紀は後のことになるが、気管切開による酸素投与自体は、地球でも十五世紀のルネサンス時代に報告されている。

 魔術によって所々地球より発展している部分はあるものの、町の建築様式から基本文明はルネサンス時代に近いとナナホシは推察していた。

 同様の医術が異世界で生まれていても不思議はない。いや、似た文化が育まれているのなら、ない方が不自然なのだ。

 

 近代と魔法が融合した物々しい処置は、シンシアが助かる根拠にはならない。

 痛々しい様子にナナホシは一瞬手を胸にあてた。シルヴァリルはカニューレの詰まりがないことを確認すると、扉を指し、退室を促した。

 

「微細な傷で、こうも……」

 

 オルステッドはおそらく呆然としていた。

 彼の強靭さはナナホシも見て知っている。熱く灼けた鍋に直に手を触れても火傷ひとつ負わないのだ。彼の体は、小さな傷から入り込んだ毒素が神経を侵す破傷風とは無縁であったのだろう。

 カーリアンの教会で横たえられた冒険者の死に様が脳裏に浮かび、

 

「助かり、ます?」

 

 助かるんでしょ? と、不安になってナナホシは訊いた。

 

「何もしなければ、いいえ(ロー)

 

 シルヴァリルは答えた。

 

「気管切開及びカニューレの挿入には強い苦痛が伴います。現在は鴉片チンキで昏倒させ、苦痛をやわらげている状態です。しかし、中毒性のある麻酔ですから、治療係数の数値は低いのです。

 あのままでは、体に侵入した毒素が消え自発呼吸ができるまで回復する前に、麻酔によって衰弱死します」

「……〈贖罪〉の能力を使えば、その限りではない」

「ええ。ペルギウス様はたいそう寛大なお方ですから、ユルズの使用をお許しになりますとも。しかして、あなたに、自身の躰を捧げる意志はございますか」

「これから考える」

「そうですか。では」

 

 シルヴァリルが退室し、見舞いの前後に通された小室には、ナナホシとオルステッドのみが残された。

 話が飲み込めていないナナホシに、オルステッドは「贖罪のユルズというのがいる。他者の体力を別の者に差し替える能力を持つ、ペルギウスが励起した精霊だ」と簡素に説明した。

 ナナホシは身を乗り出した。そんな魔法があるなら早く教えてくれたらよかったのに。

 

「私! 私、が」

「やめておけ」

 

 発奮するナナホシを遮り、オルステッドは「お前には魔力がない」と一方的に続けた。

 

「心臓がないのに生きているような、未知の体質だ。受換する方ならばともかく、体力を移換して衰弱したとき、解毒手段のない病に罹患するやもしれん」

「……」

 

 ナナホシはちょっとくちびるを尖らせて椅子に座り直した。

 

 じゃあ、あなたが体力を分けてやればいいじゃないの。

 ああ、でも、これから考える、って言っていたのだっけ。

 

 何を迷うことがあるのだろう――内側で不審を育てるナナホシは、オルステッドに恐怖を持つことはない。

 不満もさして口にしないので、オルステッドがことさら手間を考えなくてよい相手である。

 ナナホシは、沼だ。底のない沼。投じた物を静かに抱き込む沼である。数少ない、オルステッドに安らぎをもたらす人物だ。

 

「……ちょうどいい、と思っている。父親の元に帰すというのは嘘だ。頃合いを見て殺すつもりだった。それが少し早まっただけのことだ」

 

 会話とは言えない、一方的な内心の吐露であった。

 独り言を聞かされる相手にも意思と感情がある事にまで気をまわすには、オルステッドは()()()()によって疲労していた。

 

「まだ子供だから、何事もないのだ。俺が何百年もかけて調べ上げた事を一瞬で看破し、願うだけで殺せる無茶苦茶な力……。

 奴の前では、武術も魔術も策略も無力だ。生きているだけで俺の不安要素になる。異能だけを奪い、親元に返すのが一番いいが、手段がわからん。殺すほうが手っ取り早い」

 

 シンシアによる魔物の呪殺を目の当たりにしても、オルステッドが何かしているだろうな、と思っていたナナホシには、何の事だかサッパリである。

 

「オル……」

「喋るな。お前は黙って聞いていろ」

 

 何か言いかけるナナホシを遮り、オルステッドはなおも吐露し続ける。

 

「こんなものは、嘔吐と同じ肉体の作用だ。いったん吐物が逆流し始めたら、とどめようがない。無垢の子供を見捨てる罪悪感が、俺の意思を超えて、溜まった言葉を噴出させているだけだ」

 

 ナナホシは席を立った。

 

 七星静香は愛らしく、かつ強かな高校生である。

 美少女にありがちな驕慢さを、彼女もまた持っていた。

 物心ついた時から、男性は彼女に優しかった。幼馴染の篠原秋人とは喧嘩する事はあったが、彼女にとって、男性は優しい生物であった。

 美少女にありがちな驕慢さは、日本人の国民性といえる謙虚さと相まって、男は女に本気で怒ることはない、という無意識の思考に留まっていたのである。

 

『よいしょ』

 

 ゆえに、部屋に飾られた見事な壺を持ち上げても、

 

『うんしょ』

 

 中々に重いそれを抱えてオルステッドに近づいても、

 

『えい』

 

 降ろした壺の底で、ゴンッとオルステッドの頭を殴っても、

 

「この外道が!」

 

 オルステッド及び壺の持ち主であるペルギウスが、本気で怒ることはないと踏んでいた。

 ぶつかった壺とオルステッドの頭は鈍い音を立て、ナナホシの手にジーンとした痺れが走る。

 しかしオルステッドに一切のダメージは通っていなかった。怪訝そうに、ナナホシを見上げるのみである。

 

 ナナホシは拳を握り、ペムペムペムペムと正面からオルステッドの頭に叩きつけた。

 

雌猫(コーシカ)!」

「何だ……?」

「この、このっ、うううう゛」

「威嚇……?」

 

 冒険者との交流でスラングは巧みになったナナホシだが、本気で腹を立てているときに限ってとっさに言葉が出てこない。

 

「シンシアは、かわいい! すごく、かわいい!」

「む……それはそうだが……」

『なんで、私にだけ優しいのよ。子供なのよ。無意味にツララ舐めてたり、座ってたら膝に乗ってくる、ちっちゃい子供なのに、何が怖いってのよ。シンシアにも優しくしてよ!』

 

 矢継ぎ早にくりだされる日本語の意味を、オルステッドはわからなかった。ナナホシが憤っているらしい事しか分からなかった。

 ナナホシは華奢な腕でオルステッドの肩を掴んで揺さぶった。ほとんど駄々っ子であった。

 七星静香は高校生である。まだ子供なのだ。どうしても譲れない事には頑固になったっていい年なのだ。

 

「甲斐性なし! オルステッドの、クズ!」

「クズ……」

 

 化け物だの恐ろしいだのは言われ慣れたオルステッドだが、これはあまり経験のないタイプの悪口であった。

 

「クズか……」

 

 人間の屑。どこかの助言好きの神を彷彿とさせる悪口だ。

 ポコスカ怒るナナホシをやんわりと押さえ込み、目を閉じて眉間に皺を寄せた。

 強靭な肉体には強靭な精神が宿る。何百何千とループを繰り返していながら、オルステッドの情は完全に擦り切れてはいなかった。

 守る気のない約束を餌に従わせ、用済みになったら捨てる――嫌悪するヒトガミと同じ所業を選択している事を、改めて突きつけられた気分であった。

 

 安寧と人道。

 オルステッドの中で揺れた天秤は、ウゴウゴ暴れるナナホシによって人道の方に傾いたのだった。

 

「わかった。シンシアのことは見捨てん。俺の健康と体力を分けよう」

「ほんと!」

 

 七星静香は強かで、賢く、愛らしい高校生である。

 野宿だって中世的な町だって平気だ。異世界の言語を覚える意欲もある。からだを求められても固く拒む勇気もある。

 だっていずれ帰れると信じているから。

 異世界召喚は、その世界ですべき事を成したら帰れるものと信じているから。

 自分に魔法が使えないのは残念だけれど、地球にない文明を観測するのは楽しいから。

 

 私は勇者にはなれない。戦えないし。

 でも、きっと異世界で、何かしらの役割があるのだ。

 だから呼ばれたのだ。

 

 そう信じていた。

 何十年も帰れないままであるとは考えなかった。

 いや、異世界に来て既に四ヶ月である。無意識に考えないようにしていたのだ。

 

 ナナホシシズカ。周りよりちょっと優れている、日本の子供。

 後のサイレント・セブンスターは、今はただ、自分のわがままが通ったことに満足して、勝気に微笑んだのだった。

*1
破傷風の別名




今回は文字数少なめ。


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かくは清らなれといのらまし
三五 岩に坐す悪魔


話数が1章と同じになったので何となく章分割。
1章 0~7歳
2章 ~7歳半
ざっくりこんな感じですね。
3章ではミリシオンに到着する所まで書きたいです。




 椅子に座ったナナホシが黙々と林檎の皮を剥いている。

 ちょっと猫背気味な姿勢で、真剣な顔で、ただ黙々と。

 赤いツヤツヤした林檎に寝かせた小刀を添わせ、ゆっくり動かしている。

 背もたれ部分が起き上がったベッドに凭れる私は、彼女を見守ることしかできない。

 喋ろうとしても舌が回らないし、手足もこわばって時々動かなくなるのだ。

 病の後遺症らしい。時間が経てば治るそうだ。

 

 大病にかかるのは前世ぶりである。

 チサの時はそのまま足萎えの盲になったのだが、今回はそうならずに済んだようだ。

 仏様になって守ってくれた爺やん、仏様に祈っていた婆やんとお母とお父がいなくても、看てくれる看護婦さんみたいな人はいるし、ご飯も滋養のある物を食べさせてもらえる。

 きっと良くなるはずだ。

 

 私の見守るなか、ナナホシは林檎の皮を剥き終えた。

 それから四等分にして、ちまちま芯を取り除いていく。

 そのまま齧るにはちょっと大きい。ナナホシは一旦手を止めてフーッと息をついた。

 お疲れ様だ。手を切らなくてよかった。

 

 四分の三がせっせと卸金ですりおろされていく。

 残りはきっとナナホシが食べる分だろうと思う。

 

「ふぅ……できた」

 

 ナナホシは桶に張られた水で手を洗い、布で拭いた。

 そして、陶器の器に入れたすりおろし林檎を華奢な匙ですくい、私の口元に運んでくれる。

 

「どう? 食べにくい、ないかしら?」

「んま」

「よかった。お腹いっぱい、なったら、教えて?」

「ん」

 

 ナナホシのお喋りが日毎女の子らしくなっていく気がする。

 どんな喋り方でもナナホシはナナホシだけれど、命令口調に二人称が「てめぇ」だったときと比べると、やはり印象は異なる。

 いずれ柔らかい話し方を教えなきゃと思いつつ、冒険者の間では浮かない口調であったし、まずは喋れるようになるのが大事かな、と思ってそのままにしていたのだ。

 私が教えてないのに上達しているのは、きっとこの建物にいる人に、言葉の指導をされているからだろう。

 

 そう、ナナホシがいる。

 という事は、ここが空中城塞という所なのだろう。

 意識がはっきりしてから数日経ち、ナナホシと看護婦さん以外の人を見ていないが、きっとそうだ。

 

 ナナホシは頻繁に訪れて、部屋に花を飾ってくれたり、こうして食事の世話をしてくれる。

 今回は、粥を食べさせてくれた後に林檎の準備をしていた看護婦さんに、私がやると申し出て、林檎をすってくれたのだ。

 

 部屋には常に清拭や不浄の世話をしてくれる婦人が控えている。

 朝から晩までずっといる。居ることを忘れそうになるくらいずっといる。

 

 彼女は顔を白布で覆っていて、ふだんは彫像みたいにぜんぜん動かない。

 白布には、一つ目小僧みたいに大きな目を模した絵が赤墨で描き込まれている。

 前に釦があって足首まで覆う白いワンピースを着ていて、看護婦さんみたいな格好だから、看護婦さん、と呼ぶことにしている。

 彫像みたいな看護婦さんは、私が用を足したい時、体を清める時は、正確にてきぱきと動いて介助してくれるのだ。

 

 まるで人間じゃないみたい。

 実体を持って触れて、ナナホシにも見えているということは、たぶん人であるとは思うのだけれど。

 

「おー、すてっと、は?」

「オルステッド?」

 

 麻痺が残って喋りにくい口で、オルステッドの所在を訊ねた。

 あの場において、私を運べるのはオルステッドしかいなかった。

 彼がここまで運んでくれたのだろうが、目覚めてから見かけていない。

 

 ナナホシによると、オルステッドはすでにこの建物にはいないらしい。

 一、二日休んだ後に、やる事があるとかで、どこかへ行ってしまったのだとか。

 

 休んだ、という言葉がちょっと意外だった。

 オルステッドって疲れるのかな。不眠不休でも平気そうに見えたのに。

 

 私にすりおろし林檎を食べさせる傍ら、ナナホシは剥き身の林檎をシャリシャリ齧った。

 

「んっ」

 

 ナナホシの顔の部位が中心にキュッと集まる。

 そんなに酸っぱかったのだろうか。

 甘酸っぱくて美味しい林檎だと思うけれど……。

 

 互いに食べきると、ナナホシが、丸い板を立てて持ち、私に見せた。

 

 板には、女の子が映っている。

 寝巻きを着て、ベッドに背中を預けた女の子だ。

 

 焦げ茶色の髪、青い眼、口元の黒子。

 横を向いてみれば、正面の女の子も同じ方向を見た。

 ぎこちない動きだ。まるで首がこわばっているような……。

 

 ようやっとピンときた。これは鏡だ。

 映っているのは私、シンシア・グレイラットだ。

 

「お……」

 

 こんなに、肉眼で見るのと同じように、くっきり映る鏡があるのか。

 錫箔の手鏡は母様も持っていたが、ここまで透き通ってはいなかった。

 四つの頃、母様の手鏡を初めて見せてもらったときも、かなり驚いたものだ。

 

 ナナホシは鏡に驚いていない。彼女はベッドに腰かけ、当たり前という顔で鏡を共に覗き込んで、私の喉を指し示した。

 

 私の首には包帯が巻かれている。

 なんでも、痙攣のひどいときは息が出来なくなっていたので、喉に管を通して呼吸をさせていたそうなのだ。

 そう聞いた時、意識がなくてよかったと心から思った。

 喉に穴があいているのだ。意識があったら、絶対に苦しかったはずだ。

 

「そっちも、よくなったら、治す。傷のこらない。シルヴァリルさん、言ってたわ」

「シ……?」

「2番目にえらいひと。女の人」

 

 ナナホシはそう言い、私を抱き寄せた。

 ぽふっと柔らかく温かい胸に顔の片側が触れる。

 母様かリーリャだと顔全部が埋まって窒息しかけるくらいだが、ナナホシ相手だとそんな事にはならない。ちょうどいい感じだ。

 

 こわばりの残る首を動かしてナナホシを見上げる。

 ナナホシは微笑んでいて、嬉しくなった。彼女が、私が助かるように仏様に祈ってくれたのだと思った。

 

「はやく良くなれよ」

 

 うん。

 

 

 


 

 

 

 

「て、てん……天狗……!」

「テング?」

 

 シルヴァリルさんという人には、存外すぐに会えた。首の穴を塞いでもらった翌日の事だ。

 順当に回復し、ときどき痺れがくるものの、厠も一人で行けるようになった私のもとに、彼女は現れた。

 現れたというとちょっと仰々しい感じだが、肩甲骨の内側縁のあたりから生えた黒翼の存在感が、たいそう強かったのだ。

 女にしては長身で、嘴つきの仮面で顔の上半分を隠している。

 嘴部分が一瞬長い鼻に見えて、天狗が現れたのかと身構えた。

 天狗にしては恐ろしくないので、すぐに違うと気がついたが。

 

 胸先がゆったりした、裾に黒糸刺繍を施された如法衣にも似た服を着ている。

 黒い宝石をちりばめた綺麗な首飾りやシニヨンをごく自然に身につけている。

 居住まいが高貴な人である。母様も貴族だった頃はこういう感じであったのだろうか。

 

「魔族?」と訊ねると、否定された後、人によっては侮蔑と捉える質問なのでみだりに口にしない方がいいと教わった。

 ちなみに彼女は天人族だそうだ。天大陸に主に棲む種族である。

 

 シルヴァリルさんは、ナナホシや看護婦さんより詳しく病状や施した治療の説明をしてくれた。

 それから、私の寝たきり生活で絡まり気味、結ばず下ろしっぱなしの髪を見て、散髪の提案をしてくれた。

 

 今の髪の長さ。

 髪紐を解けば、だいたい背中まで。

 それを肩口で切り揃えてくれるというのだ。

 

 お願いしますと頼むと、なんとシルヴァリルさんが手ずから切ってくれる事になった。

 看護婦さんは散髪等の細かい作業までこなせるようにはできていないそうだ。

 できていない、という絡繰のような表現に引っ掛かりを憶えたが、案内されて、病衣のまま外に移動した。

 その前に、看護婦さんに湯浴みを手伝われながら体と頭を清潔にした。 

 さっぱりして良い気分だ。据え風呂とも湯浴み桶とも蒸し部屋とも違う、入浴のための部屋がある事には驚いたけれど。

 

 

 円柱が支える半円アーチが並ぶ外廊に、看護婦さんが椅子を運んだ。硬いクッションを置いて座高を調節されている。

 座ると、首のまわりに手拭いを巻きつけられた。

 

「苦しくありませんか?」

「ううん」

 

 丁寧な手つきで髪を梳かされ、切られていく。

 散髪中、シルヴァリルさんは私が退屈しないようにか、話をしてくれた。

 

 十数万か、ひょっとしたら何億年、想像もつかない太古、龍の国というのがあった。

 天が地に、地が天にある、逆さの国である。

 龍の国の神は人の国を除くあらゆる国を滅ぼし、海は人の国へ流れ込み、森林は大地を飲みつくし、現在の地殻ができあがった。

 過程で、海が大地になり、大地が海になった。海は大地の中に閉じ込められた。山で掘り返される塩は、その名残りだ。

 

「魔法三大国で有名な塩の採掘地というと、イルブロン洞窟でしょうか。聞いたことはありますか?」

「あります。トイリーさんが、ローゼンバーグ、って言ってた、ような……」

「おや、よく覚えていますね。イルブロン洞窟があるのは、バシェラント公国の第二都市、ローゼンバーグですよ」

「えへ」

 

「ラノアで過ごした三月(みつき)のあいだ、あなたは何万年も昔の塩を食べていたのです」と言われると、あまりにも長い時は私の実感からは遠かったけれど、言いようのない不思議さにかられた。

 

「ケイオスブレイカーは、天界の浮遊岩石を加工して造られた、太古の遺物です。ペルギウス様が発見なされた時、それはとうに力を失い、地上で沈黙するのみでした。

 しかし、ペルギウス様は己の叡智をつぎ込み、再び宙に浮遊させることに成功したのです」

 

 梳き鋏のひやりとした感触が首筋をなでる。

 日陰になったアーチの下で、広壮な庭園を眺めた。

 どこまでも広がるかのように思える庭園だが、ちゃんと緑が途切れる境界があって、先には青空がある。

 

「海があるのは、海界だけではありません。天界にも、生き物は少ないけれど、海は存在しました。塩坑ができる仕組みは、先ほど話しましたね。まだ動かないで」

「ごめんなさい」

「浮遊岩石は、長い時間をかけて、地上で出来上がった岩が、いつしか浮遊するのです。そのときに、海は中に封じ込められました。

 だからこのケイオスブレイカーにも、地下深くには岩塩でできた洞窟があります。さらに地底に降りていくと、塩分の濃い、広い湖があるのですよ」

 

 見たことがないから、海がどういうものか、正確に想像できない。

 私は巨大な湖を想像し、湖底の泥をさらってこね、島をつくり、お手玉みたいに上に投げかける巨大な手を想像した。

 神様の手、としか思えなかった。この世が創造主という絶対の存在によってつくられたとするのは、耶蘇教の教えだったか。

 

 仕上げに、首筋や顔についた細かな髪を、刷毛で払われた。

 

「いかがでしょうか」

 

 朱塗りでふちどられた手鏡の中に、肩の少し上で切りそろえられた頭が映る。

 家では、落として割ってはいけないから、と母様の手鏡は子供は触ってはいけなかったのだが、シルヴァリルさんは持たせてくれた。

 顔を上げる。笑いかけようとしたけれど、急にまた顔面がこわばり、無表情になった。

 

「本当に、人形のよう」

 

 シルヴァリルさんは指で私の頬を撫で、目のふちをなぞった。

 

 髪を散らないようにそっと立ち、後片付けをする看護婦さんを眺める。

 手伝おうとすると、箒を自分の方に引き、首を横に振って断られた。

 私の髪なのに……。

 

 シルヴァリルさんを見ると、「あなたがする事ではありません」と言われた。

 

「シンシア様は客人ですゆえ」

 

 大人に様付けをされると恐縮する。

 

「わたし、何したらいい?」

「何も……。ああ、元気がおありでしたら、庭園を散歩してみるのはいかがですか」

「そうしてみます」

「はい、どうぞ。ただ、日光に当たりすぎるのはよろしくありませんね。また痙攣があるかもしれません。すぐに日傘をお持ちします」

「いいの。日陰歩きます」

「そうですか」

 

 シルヴァリルさんは石の外廊を歩いていった。

 頭がほとんど上下しない、滑るような歩き方だ。

 

 家がまだあったころ、リーリャは、シルフィに淑やかな立ち振る舞いを教えていた。

 あれを私も真剣に聞いておけば、と思った。

 母様が「淑女の嗜みは、七歳になったらちゃんと学びましょうね。今は元気でいてくれたら、お母さん何も言うことないわ」と言ってくれたから、甘えていたのだ。

 私はもう七歳だが、六歳の終わり頃に、母様ともリーリャとも離れ離れ。

 淑女の礼儀作法の手ほどきは受けず終いだ。

 シルヴァリルさんに頼んだら、教えてくれないかな。

 

 散髪の後で、重ねて頼み事をするのも気が引けた。

 勧められた事に従って、整頓された森のような庭園を歩いてみることにした。

 

「……」

 

 鮮やかな刺繍花壇のあちこちに、真っ白な彫像が点在する。

 生垣の迷路から展望テラス、人工洞窟(グロッタ)、人工滝、噴水を囲む左右対称の樹林帯(ボスケ)、すべてが大小の正方形のなかにおさめられていた。

 行けども行けども、美しい森であった。

 

 たぶん、いっしょに歩いてくれる人がいたら、美しさ、荘厳さに没頭できたのだろう。

 ひとりで楽しむには、ここは静かすぎた。

 青い生絹(すずし)のような空にくるまれて、心地よさを感じて然るべきなのだ。天と地から独立した人工物のほかには沈黙しか存在しない広大な空間は、私の意識にあまった。

 膨大な時の流れに、芥子粒のような私がとりのこされている。それに不安を憶える。

 消そうとしても、先ほど想像した、巨大な神の手を思い出してしまう。

 ずっとここにいたら、二度と現世に帰れなくなるのではないか……。

 私の心は空白になり、かすかな怯えをおぼえる。異界に迷い込んだような不安感に、すぐに引き返した。

 

 

 建物を見ると安心した。

 本当はさっき散髪してもらった所に出たかったのだが、ここは似ているようで違う場所だ。

 

「つかれた」

 

 ナナホシを探したいけれど、くたびれた。

 泰山木に似た樹の根方にすわり、膝をかかえた。

 

 葉漏れ陽が明るい斑点をつくり、膝の上にちらちら踊っている。

 ここは、私が私として存在しうる場所だ。私は穴になって、その場の持つ力によってみたされる。沈黙が語る言葉に私は聞き入り、沈黙が生の始原であり終極であることを思い出す。

 あんまり先に行ってしまうと怖いけれど、ここなら好き。

 

 大きな影がさし、黄金の鱗が消えた。

 

「我が自慢の庭園は気に入ったか?」

 

 オルステッドに声をかけられたのだと思った。

 そのくらい同じだった。銀色の髪も、金色の瞳も、目尻の鱗も。

 六尺をこえるであろう巨漢は、ちょっと身をかがめた。私は、彼の躰がつくる影におおい隠された。

 オルステッドは、少なくとも私の前では、こんなふうに上機嫌にならない。人違いだとさとった。

 

「病み上がりだろう。この景色が、お前の療養に役立てばよいが」

 

 こんな冗談めかした言い方もしない。

 どう考えても、違う人だ。知らない人だ。

 

 ポカンと見上げて固まってしまったが、訊かれたことには答えた。

 フルフルと首を振ると、おや、と言わんばかりに男の片眉が上がる。

 

「きれいで、静かです。静かすぎてこわいです」

「そうか。お前は、美術の知識はあるか」

 

「持たぬだろうな」と、私が答える前に男は納得した。

 事実、なかった。額に飾られた絵を美術品というのだと、なんとなく知ってはいたが。

 カーリアンの教会やガルデニアの地下街で聖像画を見たことがある。それだけだ。

 

「しかし……そうか、それなら、フューラーを見ても、同じ感想を持つだろう。あれは、写実の技法でありながら、描き出されるのは静寂と光だ。後で我のコレクションを見せよう。展示室の奥に保管してある」

 

 いきなり、優しい手つきでだき抱えられた。

 親しみのない相手に抱かれて喜ぶ子供はいない。

 三つのノルンでさえ、知らない男の人に抱っこされたら、無邪気に喜ばず、固まるだろう。

 

 しかし、いつかの時のように不埒な手が内腿を撫でることはなく、私は緊張を解くべきか迷った。

 そもそも、彼は誰なのだろう。聞きそびれてしまった。

 

 ナナホシが言うには、この城でいちばん偉い人は、ペルギウス様という人だそうだ。

 言わずもがな、父様に読み聞かせてもらった歴史物語の英雄、ペルギウス・ドーラである。

 空中城塞から地上を監視し、かつて封じた魔神の復活を、いまかいまかと待ち構えている人だ。

 さっき、この人は、「我が自慢の」と庭園を紹介しなかったか。

 

 えっと、ここはケイオスブレイカーだから、

 …………。

 

「ペルギウスさま」

「なんだ?」

 

 当たってた。

 

 ビックリした。思わず口元を両手で押さえる。

 その昔、兄が村の子供向けに作った物語がある。

 父様の本『ペルギウスの伝説』を換骨奪胎した物語である。

 光る泉からドーラドラ、ドーラドラと浮かび上がってきた大きな卵から生まれた男の子、ペル太郎。

 ペル太郎はすくすくと成長し、仲間と共に魔神を退治する旅に出て、魔神を倒し、末永く幸せに暮らす。

 

 その元となった人物、ペルギウス・ドーラが、間近にいる。

 間違ってペルたろって呼んでしまったらどうしよう。

 

 いやいや、その前に、言うべき言葉がある。

 

「私、シンシアです。ペルギウス様、危ないところを助けてくれて……くださって……? ありがとうございます」

「ああ、礼ならばオルステッドに言うがよい。我は精霊を貸したに過ぎん」

「え?」

「うん? 聞いておらぬのか?」

 

 ペルギウスの精霊が一柱〈贖罪のユルズ〉――他者の体力や健康を別の者に移し替える能力を持つ。

 ……そういえば、父様の本で読んだ気がする。『ペル太郎』の記憶ばかり濃くて、元の物語のほうをすっかり忘れていた。

 思い返せば、ナナホシはちゃんと説明してくれていた。言葉の中に、何度かユルズという名前が出てきていたもの。

 聞き手に予備知識のない物をわかりやすく説明するのはナナホシの言語力ではまだ難しく、私もあのときは聞き返す余力もなかったために、聞き流していたのだ。

 

 他者の体力を分けてもらわなければいけないほど、私は衰弱していたらしい。

 そして、自身も弱ることを承知で分けてくれたのが、オルステッドだったそうだ。

 らしい、そうだ、ばかりだ。昏倒している時の出来事を実体験として知ることはできない。

 

「意外か?」

「オルステッドは、私のこと、たぶん……ちょっと、嫌ってるもの」

「我の目には、オルステッドはお前に、正確には、お前たち二人に、執着しているように見えたぞ」

「……」 

「奴とは六十年余の付き合いになる。まわりに透明な防壁を築くあの男にしては、たいそう珍しいことだ」

 

 もう一人とは、ナナホシのことであろう。

 仲良くなろうとがんばりはした。でも、根深いところで、存在を許容されていない雰囲気は、なんとなくあった。

 ナナホシに対してはそんな感じじゃなかったから、私だけ嫌われていると思っていたのだ。

 

「ふぅ……」

 

 見殺しにされないくらいには、嫌われてなかった。

 ほっとひと安心して、ペルギウス様の肩によりかかる。

 どうしてこんなに偉い人が、わざわざ抱えて歩いてくれるのだろう。私が歩くのが遅いからだろうか。

 

 ペルギウス様は、大昔、魔神と戦った英雄だ。

 いわば、市井の人々の守護者だ。悪い人であるはずがない。

 怪しい人ではないと知れたし、ちょっと話しかけてみよう。

 

「あれ、何ですか?」

 

 行く手に構える、二重のアーチ門。内城門だ。

 ちょうどアーチの上にくる位置に、格子状の鉄製の板が壁の溝に嵌っているのだ。

 地に映る影を見るに、出口側のアーチの上にも、同じものが取り付けられているようだ。

 

「落とし扉だ。強行侵入を試みる者は、二つの落とし扉の間に閉じ込められることになる」

 

 順当に歩めば、私たちは落とし扉の下をくぐる事となる。

 ペルギウス様といっしょだし、侵入者として咎められることはない。

 だというのに、ペルギウス様は落とし扉の間で立ち止まった。私は地面にトンと下ろされる。

 

「天井に開口部がいくらかあるだろう」

「はい」

「あれは殺人孔という。眼下に閉じ込めた一団に、矢を射る、岩を落とす、煮えた油を注ぐ――なにかと都合のいい孔だ」

「やん……」

 

 ちょうど真下にいる時に教えないでほしい。

 殺人孔から逃れ、隧道(ずいどう)の壁面にピタッと寄り添い立つ。

 

 あら、壁にも、縦に細長い孔が……。

 

「矢狭間だ。侵入者に矢を浴びせることができる」

「逃げ場がない……!」

 

「当然であろう」ペルギウス様は言い、そっとマントをつまみにくる私を見て笑った。

 万が一、矢を放たれても、城の主の傍にいれば安全だろうという魂胆を見抜かれたのだった。

 

 

 ペルギウス様は収集家だ。

 集めた品々の量といったら、城の中に美術館をつくるほどである。

 壁を埋めつくさんばかりの大小の額を、視点をあちこちに巡らせて私は眺めた。

 

 私は美術のことはまったく知らない。

 絵画とひとくくりにしても、様々な技法があり、派閥があり、画題があるということは、今さっきシルヴァリルさんに教えられて知った。

 だからといって急に詳しくなれるわけもなく、美麗な絵を見ても、綺麗だと思うだけだ。

 素人と知識人では、同じ絵を見ても、そこから読み取れる情報には桁違いの差があるのだろう。

 

 生前、目明きだったころに見た地獄草紙と、ここにある絵画が、本質的には同じ存在であることが信じられなかった。

 地獄で亡者に責め苦を与える獄卒と、血の生臭さまでにおってくるような赤色は、この部屋にはない。

 

 中でも、写実という技法の絵は、私にもわかりやすい。

 歴史上の場面を描いたもの。現代の風俗を描いたもの。

 生きる人々の息づかいから肌の温みまで伝わってくるようだ。

 

 なにげない風景を映した絵がある。

 古い騎士の邸宅の、荒れた裏庭。静かな納屋。遊ぶ子供。遠くにそびえるのは赤竜山脈……だろうか。

 

 私の親しむ風景とは、少し違う。

 うちの裏庭は母様の手入れが行き届いていたし、曇り空の日に、あんなにくっきり赤竜山脈が見えることはない。

 でも、似ていた。生まれてからずっと暮らしていた我が家に。今は更地になり果てたブエナ村に。

 

 記憶よりも精緻に再現された風景を前にして、懐かしいと割り切るには、過ぎた時間が足りなかった。

 つい向けてしまう視線を断ち切り、立ち止まって待ってくれていたシルヴァリルさんの傍に行った。

 

 展示室を幾つも抜けた。

 一つの部屋の扉を、シルヴァリルさんは開けずに通りすぎ、奥まった小さい部屋にみちびいた。

 

「来たか。思ったよりも早かったな」

 

 中には、ペルギウス様が待っていた。

 シルヴァリルさんが椅子を引いてくれた。「ご自分で座れますか?」と訊かれ、うなずいて座った。

 子供用の小さい椅子など、なかなか見ない。子供のほうが大人の尺度に合わせて生活するのが当たり前なのだ。

 体に対して大きな椅子に座るくらい、病み上がりでも普通にできる。

 

 ところが、金の縫い取りをし、やわらかい詰め物をした赤い椅子に座ると、体をふわりと支えられた。

 揺れる感覚がこころよい。ふわふわした席は楽しかったけれど、落ち着きがないと思われるかもしれないので、背筋を力を入れて伸ばして耐えた。

 

 シルヴァリルさんは、茶器を用意し、紅茶を注いだ。

 白磁に銀彩をほどこした杯は、ペルギウス様の前に置かれた。

 

「おや、我の分だけか? そこな童の茶はどうした?」

「シンシア様は、痙攣と痺れが、ときどきぶり返します」

「嚥下機能は戻っておらぬのか?」

「いいえ、症状が出るのは手足だけです。しかし、この部屋でカップを持たせるのは……」

白鑞(ピューター)を用意してやれ。あれなら、落としても割れぬだろう」

「ハッ」

 

 そんなやり取りの後、私も紅茶が出された。

 白鑞の皿は、うちでも特別な日にしか使わなかったのに。

 相当な分限者の家では、白鑞のコップも皿も、特別な日どころか、日常の食器の代用品として使われるらしい。

 

 壁に並んだ展示のひとつ、硝子に保護されて、聖像画が飾られてあった。

 五百年前のものだと、ペルギウス様は言った。聖ミリスの御大切な者が、聖ミリスの額に接吻している図だ。

 ブエナ村唯一の教会には一つ、カーリアンの教会にはおびただしい数の聖像画があった。家の龕に一つ置いている家庭も多い。

 同じ構図の聖像画は、なんども見た。それなのに、これは特別だと直感した。

 率直な感想を答えると、ペルギウス様は機嫌を良くした。

 

「ほう。子供でも、わかるか。実際、ミリスへの接吻の図は、珍しいものではない。修道院で行う模写の手本としても、ありふれている」

「修道院で、絵をかくの?」

聖像画(イコン)に限られるが、描く。金稼ぎのためにな」

 

 あけすけな物言いに、私はびっくりした。

 聖像画は、売る、買う、と表現してはいけない。〝金と交換する〟と言う、と母様に教えられたので、そういう事と絡めて考えるのも言うのもいけないと思っていた。

 ミリス教徒でなければ、その限りではないのだろうか。

 でも、たしかフェリムは交換と言っていたし……。

 フェリムって、そもそもミリス教徒だったかしら。

 分離派(ラスコリニキ)がどうとか、鞭身派(フルイスト)がどうとか、去勢派(スコプツイ)はダメだとか、言っていたけれど。

 十字の切り方、戒律、儀式。どれも、母様の教えてくれたものとは微妙に異なったから、混乱した事を覚えている。

 

「オルステッドは、ペルギウス様の弟ですか?」

「まさか。我に弟はおらん」

 

 ペルギウス様は一瞬驚いた顔をしてから、笑みを浮かべて「我とあの男は似ているか」と訊ねた。

 私はうなずきかけ、改めて、ペルギウス様と記憶のオルステッドの顔を比べた。

 ペルギウス様の、ふさふさと伸びた揉み上げから顎につづく顎髭は、顔を厳しくしている。

 髭がある分、オルステッドより威厳がある風貌をさほど怖いと感じないのは、厳しい顔が笑うと人懐っこくなるからだ。

 目元も、よく見たらペルギウス様のほうが丸っこくて穏やかだ。

 オルステッドは険しい眼をしている。孤独な人間が持つ険しさだ。

 

「似てるけど……似てない」

「ほう? それは何故だと思う?」

「うんと……」

 

 顔立ちは異なる。でも、特徴はいっしょ。

 そうだ、もう一人、同じような特徴を持つ人がいた。

 バーバ・ヤーガだ。ガルデニアにいるあいだ、親切にしてくれた人。

 彼は自分のことをこう言っていた。

 

「ペルギウス様とオルステッドが、リザッケ」

 

 だから、……と続く言葉は登らなかった。

 ぞわりと寒気がして、喉にかたまりがつかえたように喋れなくなった。

 すさまじい怒気は、黒翼を広げた天人族の女から発せられていた。

 いや、怒りというのは間違いだ。

 獲物を爪にかける寸前の鷹は獲物に対して怒ってはいないのだ。刻み込まれた本能として、獲物を殺す。

 いまの彼女は、それと同じだ。

 当たり前の事として、まっすぐな殺意を彼女は私に向けていた。

 

「よせ。シルヴァリル。何も知らんのだろう」

「無知は免罪符にはなりません。殺しますか」

「よせと命じたのかわからんか」

「は……差し出た真似をしました」

 

 殺意が失せた。私はふっと楽に呼吸ができるようになった。

 

「……いまの、言っちゃいけなかった?」

 

 おずおずとペルギウス様に訊ねた。

 しばらくはシルヴァリルさんの方を見れそうにない。

 

「リザッケというのはな」ペルギウス様は諭すように穏やかに言った。

 

「我とオルステッドのような龍族へ使われてきた古い蔑称だ。

 昔は龍族のみを指す語であったのが、体表に鱗をもつ者、縦に裂けた瞳孔をもつ者、細長く先端が裂けた舌をもつ者……いつしか爬虫類じみた外見の者を一緒くたに貶す言葉になった。今ではほとんど忘れ去られた言葉だが、お前はどこで知った?」

「バーバ・ヤーガが、自分のことリザッケって」

「あいつか……」

 

 ペルギウス様は複雑な顔をした。

 そういえば、オルステッドはちゃんと自分が龍族という種族だと教えてくれていたのだ。

 すっかり忘れていたが、言われて思い出した。

 

「バーバ・ヤーガのこと、知ってるの?」

「ああ。龍族まがいの外見でありながら、中身は魔族そのもの。我の嫌いな男だ」

「でも、あの人、優しい……」

「ふん。知っておるとも。どんな気まぐれかは知らんが、紛争地帯で保母の真似事をしている、()()()()()()()()。ずいぶんとお優しいことだ」

 

 そんなに嫌う?

 でも、いい感じに話題がそれた。ううん、ペルギウス様が逸らしてくれた。

 私は安心して、部屋に展示している美術品に視線を投げかけた。

 

「あの花瓶きれい。シルフィの髪みたい」

「あれは孔雀石だ。……緑の髪を持つ者が、知り合いにいるのか?」

「うん、お友達。耳が長くて、兎みたいでかわいいの」

「その者の性別は男か?」

「女の子です」

「そうか。ならばよい」

 

 よく分からないけれど、許された。

 近くで見てもいい? と訊くと許可が出たので、椅子から降りて棚に近づいた。

 縁に彫刻をほどこした重厚な棚に、鮮やかな緑の孔雀石の花瓶がおかれ、小さな像もおかれていた。

 像のほうは、兄が作っていたものより、ずっと精緻に出来ている。

 私はルーデウス作の像のほうが愛嬌があって好きだ。身内の贔屓目もある。

 

 

 そうして、ちょっと背伸びをして棚を覗き込んで、私はそれを見つけた。

 ペルギウス様の美術館の中で、その絵だけが、身の置き所を迷っていた。

 別の言い方をすれば、画風といい、展示のされ方といい、その絵だけが周囲と調和していないように見えたのだ。

 腰に布をまとい上半身は裸体の若者であった。

 姿形は生身の人間とほとんど変わらないが、くすんだ金色の鱗が顔から肌をおおっていた。

 たくましい体躯の上に、悲しみと憂愁にみちた、精悍な青年の顔があった。

 

 性を問わず、これほど美しい存在を、初めて見た……と、思う。

 額は私の両手でかかえられる大きさだった。

 シルヴァリルさんに「お手を触れぬよう」と硬い声で言われ、自分が額を持っている事を自覚した。

 美しいと思う感情はそのときに追いついてきたのだ。

 

「離しなさい」

 

 シルヴァリルさんは怒っている。すぐに戻して、ごめんなさいと言わなくてはならない。それはわかっている。

 私は絵をだきしめた。強烈に何かをほしいと思ったのは初めてだった。

 前世では、ねだったところで無いものは無いと承知していた。今世では、ねだる前に、食も衣服もととのえられていた。

 どうすれば、この絵が私のものになる?

 何をしたら、この絵を譲ってもらえる?

 

「可愛い悪戯ではないか。好きにさせてやろう」

 

 ペルギウス様が面白そうに言った。声を受けたシルヴァリルさんから感情が失せ、すっと退いた。

 手招かれるまま、ペルギウス様の膝元に行った。

 

 後ろめたさから、視線を上げられない。

 ひたりと指が頬に触れ、片手で顎を包むように掴まれた。

 顎骨をがっちり掴まれ、強制的に上を向かされる。

 

「んむ」

「たいそう、美しい顔だ。貴様の父と兄は、黙っていても何でも貴様に与えてきたのだろう。だが、そのやり方は、我には通じぬ」

 

 首をよじって抜けようとしても、私の頬の形がぐにぐにと変わっただけだ。

 ペルギウス様の手の力は強く、彫像のようにピクリとも動かない。

 視野の端で、静かに近づいてきたシルヴァリルさんが翼を畳んで屈むのが見えた。私は観念して油彩画を手放した。

 顎を掴んだ手に力が込められ、没収された絵の行方から、ペルギウス様に注目を移すのは、自然なことだった。

 

「ねだる時は、我の目を見よ。ハッキリと願いを言え。さすれば考えてやらん事もないぞ」

 

 強い眸だった。

 金色の虹彩に、縦に裂けた黒い瞳孔がつぶさに私を見ていた。

 押し負けて、目を逸らしたら、あの絵は手に入らないのだろう。

 それは、それだけは、嫌だった。

 

 顎を手放された。口が自由に動くようになる。

 ペルギウス様の膝の上に手を置き、拳を握った。

 

「あの絵をちょうだい。お願い」

 

 見つめ返して言うと、ペルギウス様はにやりとした。

 厳しい顔は、笑うと、やはり人懐っこく変わった。今度のは少し意地悪そうでもあった。

 

「よかろう。ただし、タダではやらぬ。我の出す試練に合格することだ」

 

 そう言って、ペルギウス様は懐から小さな物を取り出した。

 細長い塔に、双頭の龍が巻きついたような形だ。材質は、くすんだ銀のようである。

 よく見ると、塔の上部に四角い孔がある。

 笛だろうか。奇抜な装飾である。

 

「これは、我の精霊を呼び出すことができる笛だ。魔力付与品の一種だな」

 

 マジックアイテムの笛だった。

 金属製の冷たい感触とともに手のひらに置かれたそれを、上下ひっくり返して眺める。

 

「憶えたか?」

 

 笛を回収された。

 

「もう何十年も前になるか……これと同じデザインの魔力付与品を、この城のどこかで失くしてしまったのだ。

 オルステッドから聞いたぞ。貴様は、童女だてらに、特殊な能力を持っているらしいな。

 その力を使って笛を探しだし、我に届けてみせよ。それが油彩画を譲る条件だ」

 

 ぽんと頭に手が乗り、撫でられる。

 男の人に頭を撫でられるのは久しぶりだ。バーバ・ヤーガ以来である。

 

「急かしはせぬ。何日でも何年でもかけて見つけるがよい」

 

 いや、在処はもうわかっている。視たから、知っている。

 双子のように似た笛が、地下深くの塩湖に睡っている絵がみえたのだ。

 

「はい。ぜったい、届けます。ペルギウス様」

 

 目下の問題は、そこに繋がる道を、どうやって見つけるかだ。

 

 

 

 私を魅了した絵の名は、『岩に坐す悪魔(ディアーヴァル)』。

 魔神ラプラスを題材に据えた、象徴主義という画風の作品である。

 憂愁にみちた顔をした彼が、どうして、忌まわしい悪魔なのだろうか。

 銀髪に緑の斑をもつ青年は、額の中で、岩山を背に大地に腰をおろしているのだった。






ペルギウスに造形を惚れ込まれたシンシアがかなり優しくされて懐く回。
カッコつけてるぺ様もあと何百歳か若かったらシンシアがじっと見てるだけで何でもあげてました。
美少女設定を良い方面でも悪い方面でも活かしていきたいです。


・ペル太郎
『無職転生アンソロジー sideシルフィ』の巻末小説から。


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三六 錬金術の結婚

※AI+加筆絵

【挿絵表示】

子供あるある:突然の寝落ち なシンシア。
このサイズともちもち感だと四歳くらいでしょうか。可愛くできたので見てください。

この辺数話は、空中城塞の内装と精霊全ての姿がアニメか漫画で判明したら書き換えたい話です。




 困ったときは、人に頼る。

 助けてもらったら、お礼をする。そして、相手が困ったときは自分が助ける。

 こういうのを、同盟と言うのだっけ。でも、ナナホシとは仲良しだから、ちょっと違う気がする。

 部屋を訪ねると、ナナホシは蠟板と尖筆を使いつつ、ユルズさんから正しい文法を教わっている所だった。

 

 ユルズさんは女性で、嘴つきの面をつけている。シルヴァリルさんは顔上半分をおおう琺琅引きの仮面だが、ユルズさんのは顔全部をすっぽりおおう革製の覆面だ。

 物腰は柔らかいのだが、姿は物々しい巨大鳥のようでもある。

 

「ナナホシ、助けてくださいな」

「高くつくぜ」

「いいわよ、対価に何をくれるの? と、答えるべきです」

「いいわよ」

「やったあ」

 

 ナナホシは助けてくれるらしい。

 ユルズさんに言葉遣いを訂正されたナナホシが、「どうしたの?」と首をかしげた。

 

「あのね、地下に取りに行きたい物があるんだけど、そこまでの道がわからないの」

 

 ナナホシがユルズさんを見上げた。

 あ、と気づいた。ナナホシは賢い。この城の事なら、ここに住んでいる人に訊けばよかったのだ。

 

「地下、というと?」

「湖があるところ」

「でしたら、私にはわかりません」

「そうなの?」

 

「はい」とユルズさんは覆面のむこうで言った。

 

「地下の壁画の間まででしたら、案内もできます。ですが塩湖はこのケイオスブレイカーの最深部です。人の侵入を前提に建設されていません。通路もとうに埋まっているでしょう。安全の保証はできかねます」

「む……」

「ペルギウス様はあなたがたを客人として迎え入れました。私に加えられた術式により、客人を危険に誘導する行為はできません」

「じゅじゅ、ずち……術式?」

 

 ものすごく噛んだ。

 笑ってくれたらまだ恥ずかしくないのだが、ユルズさんは何も聞かなかったというふうに続けた。

 

「私どもはペルギウス様に召喚された精霊。いわば人造生命体です。あなたがた人間が追求しがちなアイデンティティへの疑問、および悩みを持つことは生涯ございません。その代わり、完全な自由も存在しません。課せられた制約を破ることはできないのです」

 

 あいでんてぃてぃって何だろうか。

 人にしか見えないのに、人ではない。造られた精霊。

 私がつかうトウビョウ様の蛇よりは、ずっと高位の存在であろう事はわかる。

 

「案内できなくても、私たちが行くのは、止めねえだろ?」

「〝止めないでしょ〟」

「止めないでしょ?」

「はい。ご自分で行く分には」

 

 ユルズさんに確認し、ナナホシは私に言った。

 

「地下、途中までなら、行ったことあるわ。そこまで行ってみましょう。なにか分かるだろうさ」

「〝分かるでしょう〟もしくは、〝分かるかも〟」

「……分かるかも」

 

 ユルズさんに見送られ、私たちは地下へと向かった。

 足どりはのんびりしたものだ。急いても目的地は逃げない。

 

 鍵のかかった部屋以外は、どこに入ってもかまわないと言われていた。

 蒼穹の天井に壁は鏡張りの大広間、愛らしいクローバー型の天井をもつ箱柱式の礼拝堂を眺め、円卓の間を覗いた。

 

 円い大テーブルが部屋の中央に据えられている。

 椅子は、数えると、十三脚あった。

 もっとも豪奢な玉座のような椅子は、背もたれにも肘掛けにも、精緻な模様が、浮き彫り透かし彫りだ。

 

 半球形の天井に目を上げると、テーブルの真上に大燭台が下がっている。

 蠟燭は灯されていないのに、窓の陽光を受けると、大燭台は小さい光をちりばめた水晶のようであった。

 暖炉の棚板は大理石である。壁際には、黒檀か何かの重厚な棚があった。

 

「よっ」

 

 背伸びをして棚を覗き込む。

 小さい家や木、建物が並んでいた。目を凝らさねば細部が見えないほど凝った出来であった。

 

「ナナホシ、これなに?」

『パノラマかしら』

 

 と、違う言語でナナホシは言い、「本物の景色を、小さい、作った」とゆっくり説明してくれた。

 上空から見える景色を再現した物だそうだ。本物そっくりに着色もされている。

 

「すごいねえ」

 

 調度品から細工物の一つ一つに至るまで、見事なものだ。

 こちらに生まれてから知った言葉で端的に表すなら、センスがいい、というのだろう。

 ぜんぶペルギウス様の趣味だろうか。

 

「食堂かな?」

 

 椅子とテーブルがあるもの。

 近くに台所がないようだけれど。

 

「食堂じゃねえ……なくて、会議室じゃない?」

「かいぎ室ってなあに」

「ディベート……ううん……物事を決定する、話し合う、部屋」

 

 そうなのか。

 話し合うのなんてどこでもいいじゃないかと思ったが、場を設けることもきっと必要なのだろう。

 どうして食堂じゃなくて会議室ってわかったの? と訊けば、ナナホシは壁に飾られた面を指さした。

 白い仮面だが、頬と鼻先に真っ赤な紅をさし、眉は悲しげに歪められているのに、口元は吹き出す寸前のような様相である。

 道化師よ、とナナホシは言った。

 

「道化師の仮面の意味は、無礼講。

 言論の自由が、この部屋では、認められてるの。だから、会議につかう部屋だと思うわ」

「へえ」

「多分ね」

 

 ナナホシは物知りだ。

 言葉が達者になってからというもの、すっかり私が教えられる側である。

 ちょっと寂しい。お姉さんぶって色々教えるのは、楽しかったのだ。

 

 

 中庭に出て、穀物をついばむ鶏とヒヨコを見ながら休憩した。

 本格的な酪農はしていないが、新鮮な卵を手に入れるのに便利なので鶏は飼っているらしい。

 (かこい)から逃げ出した七面鳥に追いかけ回されそうになる事故もあったが、狐面の青年が捕えてくれた。

 シュンッと瞬きの間に現れた彼は、〈光輝のアルマンフィ〉といった。

 白い詰襟で、右側だけ非対称に胸先まで伸ばしたブロンドを、飾りで留めている。

 ゾルダートさんに似てない? と、ナナホシに言ったら、ないないと首を振られた。

 確かに、ゾルダートさんのほうがかっこいい。アルマンフィさんの顔は狐面で見えないけれど。

 彼とも別れ、私とナナホシは地下をめざして進んでいく。

 

「頭、変わった?」

 

 ナナホシは「頭」と言うとき私の髪を触った。

 髪を切ってあるのが気になったみたいだ。

 

「うん。髪ね、シルヴァリルさんに短くしてもらったの」

「髪……」

「うん」

 

 そういえば、と、ナナホシを見上げた。

 背中まで達する、さらさらな黒髪である。

 ナナホシは横毛を人差し指にひっかけ、くるくると弄っている。どこか上の空だ。

 

「ナナホシは、髪伸びないね。オルステッドとおんなじ」

 

 桃割れに結ったりしないのだろうか。似合うと思うのに。

 

 と、思いながら、私は上を見た。

 私たちが今降りているのは、らせん状の階段である。

 視線を上げても、見えるのは、さっき私たちが踏んだ下り階段ではない。

 一本道の螺旋階段と重なるように作られたもうひとつの螺旋階段の裏だ。二重螺旋構造というらしい。

 登る人と降りる人、両者が顔を合わせずすれ違う階段なのだ。

 ナナホシに説明してもらったけれど、どうしてそうなるのかはちんぷんかんぷんである。

 途中で合流できそうなものだが。

 

「ここからどこ行くの?」

「……」

「ナナホシ? 疲れちゃった?」

「……こっち……」

 

 ナナホシはしばらくぼうっとしていたが、薄暗い地下を進み、大きな扉に手を押し当てるときには、笑顔も戻った。

 

 観音開きの扉が、さほど力を入れずにゆっくりと開く。

 隙間からナナホシが中に入っていった。私もつづく。

 

「前にきたのは、ここまで」

 

 角灯がつくる弱い光の輪の中にナナホシがいる。

 今までの通路は、魔照石のぼんやりとした光でほの明るかったのだが、この部屋は暗黒だ。

 角灯を持ったナナホシのそばに行き、ぎゅっと抱きついてみると、頭を撫でられた。

 

 私はもう一度、笛の在処を視た。

 ここにはない。もっと地下深くだ。

 

 光の輪から抜け、手さぐりで、壁に触れた。

 ざらざらした石肌、あるいは釉薬を塗る前の陶器のような感触を手のひらに感じた。

 広い部屋だ。扉から正面、左右の壁を触ってゆく。入ってきた扉の横の壁に到達すると、手触りが変化した。

 凹凸のある、木の感触だ。

 

 ナナホシがきて、角灯で照らしてくれた。

 黒胡桃製の浮彫の装飾が映し出された。腰壁であったらしい。四角い枠が横に並んでいる。

 

「何を探してる?」

「下におりる階段ないかなって……」

 

 答えながら考える。

 押してダメなら引いてみろ、とむかし兄は言った。

 こういう時に当てはまるかわからないが、浮彫の装飾に指をひっかけ、自分側に引いてみる。

 

 何も起こらない。

 諦めるにはまだ早い。

 横の枠に移動し、また引いた。何もない。

 

「色、ちがうわ」

 

 ナナホシが私の肩に手をかけ、ある一点を指さした。

 腰壁の浮彫の中心には、石が象嵌されている。展示室で見た、孔雀石のように見事な緑色の石だ。

 枠一つに石一つで、色はどれも同じだ。

 ところがナナホシが指さしている石の色は、少し青っぽい。

 じっくり見比べないとわからないくらいの差異だ。ナナホシが気がつかなければ、私は見逃していただろう。

 

 どちらからともなく、二人で壁を引いた。

 

 地下の突き当たり、暗黒にみちた部屋。

 扉の左側の壁。角から六つめの枠。

 そこは滑らかに、軋む音さえたてずに開いた。

 

 ナナホシが角灯を持った腕を伸ばして、奥に続く空間を照らした。

 階段が見えた。ぽっかりあいた竪穴のような階段は、下段へいくほど闇の濃さを増した。

 

「隠し扉!」

「みつけた!」

 

 いぇい! と、ナナホシと手を叩きあった。

 達成感に包まれる。まだ塩湖にたどり着いたわけじゃないけど、これが目的地に繋がる道だ。そう確信した。

 

 張り切って降りようとした私を、ナナホシがとめた。

 この先は何があるかわからない。迷ったら戻れなくなるかもしれないから、きちんと準備を整えてから行こう、と。

 惜しい気持ちはあったが、ナナホシの言うことももっともなので、私たちは一旦引き返すことにした。

 ところで、ナナホシはいつ此処に来たのだろう。私が病気で寝ついている時だろうか。

 

「ナナホシはどうしてここに来たことがあるの?」

「オルステッドが、絵、見てた。私はついていっただけ」

「絵?」

 

 ナナホシが角灯を壁に近づけた。何か呟きながら硝子面を撫でると、内部の光量が増し、照らす範囲が増えた。

 複雑な色で模様を描いた彩色陶板が内部の壁をも半球形の天井をも埋めつくしていた。

 数歩離れて見ると、模様ではなく絵である事がわかった。

 

 天から地へ伸びる山々、浮かぶ岩。飛翔するドラゴン。

 竜のような翼が生えた人々が並び、王と思われる出立ちの者に頭を垂れている。

 背が高く、金色の瞳をもつ王に、私は清らかな神の姿を見た……ような気がした。

 

 右に行くにつれて物語は進行しているようだ。

 描きかけの物語の終盤に視線を移すと、赤ちゃんが描かれていた。

 赤子には、ほかの人々と異なり、翼がない。しかし王に寄り添う妃の両腕が、ゆりかごのようにその子に伸べられ、赤子は安楽に睡っている。

 赤子の下では、老若男女が祈るように手を合わせている。

 さらに下には、業火と見紛う太陽と巨大な黒蛇が描かれている。

 

「人身御供みたい」

 

 城や橋の永遠の守りのために遺体を用いる儀式はうんと昔に行われていた。土地の神様の怒りを鎮めるために人身御供を捧げる事もあったという。

 美作にも、生きたまま猿神に捧げられる娘の逸話で有名な中山神社がある。

 東北には持衰がいる。海のすべての災厄を引き受ける役のものだ。

 持衰は大海原をわたる舟に同船し、嵐にあったら、海に投げ入れられる。

 持衰を喰った海の龍神様は怒りを鎮め、嵐は去るという。

 いくら何でも非道なので、とっくの昔に禁止になったそうだ。

 明治に入っても存続していた船乗りのまじないは髷額のほうだ。

 

 猿神に捧げられる娘と、龍神に捧げられる持衰には、共通点がある。

 彼彼女たちは、村の中で大事にされる。

 働かずとも飯を用意され、神様に喰われるその時まで、そしてその後も祠を立てて丁重に扱われる事さえある。

 恨んで呪われないように、という思いもあっただろう。

 

 壁画をもう一度見つめる。

 睡る赤ん坊の、おくるみの金銀刺繍の模様はキラキラと輝いている。

 特別な塗料を使って描かれているのだろう。神様と妃様も同じだ。

 この赤ちゃんは、きっと周りからとても大事にされている存在だ。

 

 つまり、人身御供である。

 これは、供犠の儀式を描いたのではないか。

 

「神様がとっても怒ってて、赤ちゃんは、怒りをしずめる人み御供なの。この女の人はお母さん。下でお祈りしてる人たちは、赤ちゃんに犠牲になってくれてありがとう、って言ってる」

 

 壁画から膨らませた想像を口にすると、ナナホシはちょっと笑い、私の肩を押した。もう出ようということだろう。

 

 

 部屋に戻るなり、ナナホシはふかふかの長椅子に寝転んだ。

 前から思っていたが、彼女は活発的に動き回るより、ごろごろするのが好きなようだ。

 一方で、私はまだ病人という扱いであるが、寝たきりでいるほど重症でもない。

 お城は広くて、身の置きどころに迷う。

 居心地のよい場所を探して、一人てくてくと城内をさまよった。

 

 

 柱に支えられた外廊から、庭に出た。

 背をそらせて、空のてっぺんを見た。

 

「わあ」

 

 凄まじく紅い空が、近い。

 紅く染まった雲の縁は黄金色に耀き、一部は青黒くどろどろとしている。

 散髪してもらったときは、まだ午前だった。

 ペルギウス様の蒐集展示をみて、昼食を食べて、ナナホシと城を散策して、時間はすでに夕刻であったのだ。

 

 生まれる前にいた、黒い空間を思い出した。

 チサとして生まれて死んで、シンシアとして生まれた。その間隙を過した場所だ。

 あんな所にいて、ずっとこんな空も見えずに、どうして私は気を違えずに済んだのだろう。

 こちらで死んでも、私はまたあそこに行くのだろうか。

 そうして、またトウビョウ様を産むために生まれるのだろうか。

 

「やだな」

 

 やだ。やだな。

 死んでも仏様になれないのはやだ。

 

「やだって言っちゃいけないんだった」

 

 前世の故郷では、不幸を不幸とは言わない。

 (まん)が悪い。こう言えば、諦めもつく。

 私は、〝間が悪かった〟のだ。だから仕方がない。

 

 視線を庭園の彫像に移した。

 真っ白な彫像の肌は、夕陽を受けて橙色になり、顔や躰の彫りに深い影を落とし、昼とは違った顔をみせた。

 艶めかしい躰つきの女性が、裸身に兜を身につけ、肩当てはむき出した乳房を強調し、足首を銀の留め金で飾った足は、驢馬の耳を持つ醜悪な小男の首筋と背を踏みつけていた。

 竪琴をもつ青年の膝下に野生の獣がうずくまり、瞳に理智の輝きを持つがゆえ何某かがその姿をとったとわかる白鳥は女を誘惑していた。

 官能的であり、神秘的であり、美と妖と奇にみちていた。

 奔放に、彼らは、すがすがしいほどの自由を謳歌していた。

 

 私は、綺麗なものが持つ妖しさに惹かれてしまう性質らしい。

 今日に至るまで知りようもなかった事だ。

 

「……」

 

 外廊から庭園に降りる段差に座り込んだ。

 空のぜんぶが深い藍色に変わるまで、そうして変わっても、看護婦さんに呼ばれるまで、庭を眺めていた。

 

 

 


 

 

 

 翌日から地下の探索を始めた。

 壁画の間から下に降りてみたのだが、通路は細かく分かれていて、行き止まりも多い。適当に進んでいくといつのまにか上に出てしまう事もしばしばだ。

 むかし兄が蟻の巣にやっていたみたいに、石膏を流し込んで固めて外側を剥がしたら、蟻巣と同じくらい複雑怪奇な構造になっているにちがいない。

 

 一日をすべて地下探索にあててもいられない。

 地下の隘路(あいろ)で痙攣がぶり返すと救助が遅れるから、と時間制限を設けられてしまったのだ。

 あと人族の子供は暗いところに居続けると目が悪くなるからだめらしい。

 

 まず、ナナホシの提案で、地図を作ることにした。

 地図を作れば、同じ場所をぐるぐる巡ってしまうことは防げるというわけだ。

 まあ、それでも地図の見方や書き方を誤って、ここ前に来たことある! と、判明した時には時間切れになってしまう日もある。

 ナナホシはついて来てくれたり、本を読んで読み書きを習得するのに忙しくしていたり、色々だ。

 

 

 オルステッドは一度だけ様子を見にきた。

 助けてくれてありがとう、と言ったら、複雑な顔をしていた。

 いつも通り怖い顔でもあったので、そう見えたのは私の気のせいかもしれない。

 私の立場でいうのも変だけれど、「ありがとうって言われたら、どういたしまして、でいいよ。苦しくならなくていいのよ……」と、そっと控えめに進言した。

 響いてくれたかはわからないが、頬を鋭い爪のついた指でつままれたので怖かった。

 私は物陰にいたのに、次の瞬間オルステッドが真横にいたのだ。

 完全な不意打ちだった。パンの種みたいに毟られるのかと思った。

 筋肉の硬直が残っていないか確かめたかったらしい。

 普通に言ってくれれば、いくらでも触っていいのに……。

 

 一ヶ月も療養すれば、私は全癒する。その頃にオルステッドは迎えに来るそうだ。

 だから、それまでには魔力付与品の笛を見つけたい。

 時間をかけていいとペルギウス様は言ったが、オルステッドがまた空中城塞に連れてきてくれるとも限らないのだ。

 

 

 そんな感じで、空中城塞では、暇になる事がなかった。

 午前は地図作りに忙しい。あとの時間は、美術品や蒐集品を、ただ見つめるだけで何時間でも過ぎた。

 思わず手を触れてしまう衝動は、魔神の絵でなければ生じない。

 そうしていると、たまにペルギウス様が声をかけてくれる。

 ついて行くと、ふだんは施錠されていて入れない区間に入れてもらえるのだった。

 

 各地から集めた民芸品を展示している部屋に入れてもらったとき、突然消灯して、ふっと部屋が暗くなった事がある。

 明るくなったとき、ペルギウス様の声がして振り向くと、しわくちゃな老婆の巨大な顔が浮かんでいて、悲鳴をあげた。

 正体は塗装された木彫りの仮面であった。ペルギウス様が私を脅かしたのだった。

 

 仮面は行事につきものだ。暮らしやすいアスラ王国とはいっても、北の領地であるので、寒さが比較的厳しいブエナ村では、冬追いの祭りは毎年きっちりやっていた。

 北方大地にある都市カーリアンはもっと盛大だった。

 冬と夏に分かれ、めいめいが仮面を被って仮装して、歌合戦で優劣をきそうのだ。

 歌合戦から始まり、しだいに粗野な言葉で互いを罵り、木剣をとって戦い、夏が勝ち、冬と夏は仲直りをする。

 勝つのはかならず夏と決まっている戦いであった。

 

 そんな各地の祭りで使われていた仮面をも、ペルギウス様は蒐集していた。

 色々なのがあったが、ねじくれた山羊の角を持つ醜いベルヒト、三角帽子を蝸牛で覆われた鉤鼻のシュディヒは、とくに恐ろしげだ。

 もう十分見たから出ようとがんばって促す私を、ペルギウス様はのらくらと躱した。

 仮面で脅かされた事といい、彼は、見た目によらずお茶目なところがある。リーリャみたいだ。

 

 

 今日は書庫に入れてもらえた。

 書庫は、離れにあった円筒状の建物で、屋根は半球形である。

 鉄の扉を抜けると、内壁は化粧漆喰だ。下部は、魔照石の洋燈が照らし、上部は硝子窓から自然光を取りこんでいた。

 そうして、全周を書棚に囲まれていた。

 

「お……」

 

 家に数冊しかなかった本が、

 高価な物だから大事に扱うよう再三言われた本が、

 町の本屋でも盗難防止に厳重に鎖をつけられていた本が、

 こんなにたくさん……。

 

「なんだ、字を知らぬのか」

 

 おびただしい書物が発する知の力に圧倒されていると、ペルギウス様に声をかけられた。

「読めます」と答えた。「人間語だけ」とつけ加えた。

 兄は魔神語も学んでいたが、私は人間語以外は話せないし読めない。

 

「これでも読むといい」

 

 ペルギウス様は書棚から一冊を引きぬき、ぽんと私に持たせた。

 山羊の皮をなめした表紙に、四隅を鋲で補強されていた。

 大判で厚みがあるので、だき抱える格好になる。

 不可視の〈知〉の一部が、私の胸にあった。

 

 ペルギウス様は侍従にも何冊か持たせていた。その侍従もやはり仮面で顔を隠しているのだった。

 

「我は退室する。お前がまだ書庫に居るなら、鍵は開けておくが、どうする?」

「ペルギウス様といたいです」

 

 広い、荘厳な城にぽつんと一人でいるのは、寂しい。

 美術品に熱中している間は平気なのだが、ふと現実に戻ったときに、周囲に人が居らずがらんとしていると、ちょっと切ない気持ちになる。

 ここは、人の気配が極端に少ないのだ。

 

 ペルギウス様は、私が彼の視野の隅っこにいることを許した。

 書庫を出て移動し、ペルギウス様が前に立つと、魔方陣を刻まれた扉は、ひとりでに開いた。

 まっすぐな丈の高い背もたれのついた椅子にペルギウス様は腰かけ、書見台に本を設置した。

 インク壺だの羽根筆だのは既に机上にあった。部屋は、他の整頓された区間と異なり、雑然としていた。

 何らかの数式や図式や文字が書き散らされたおびただしい紙片が、絨毯を埋める勢いだ。

 意味がわからなくても、ただでさえ貴重な紙を踏むことはできない。人が書き込んだ形跡があるならなおさら。

 踏まないように用心しながらそっと退かし、私が座れる空間を確保した。

 いそいそと借りた本を膝に置き、開いた。

 

 ……。

 …………。

 

「難しいか?」

「!」

 

 読み始めてしばらく。

 途方に暮れていたのが顔に出ていたのか、そう訊かれた。

 

「むずかしい……」

 

 虚勢を張ってもいいことはないので、素直に認めた。

 

「でも、たぶん、死んだ人を生き返らせる方法?」

 

 言い回しが古くて、字も崩れていて、読むのに苦心したが、まったくわからないわけではない。数少ない解読できた単語をもとに、内容を推測した。

 

「『錬金術の結婚』のなかで、もっとも重要な章だ」

 

 ペルギウス様は頷いた。

 本をもって近寄ると、膝に抱きのせられた。嬉しい。

 

「ローゼンクロイツによれば、死者の再生は七つの階梯を経る」

 

 本に記されているのは、著者が、殺された王と王妃を、錬金術によって蘇らせた過程であった。

 

 一、死者をおさめた柩を溶解し、巨大な球体に入れる。

 二、球体を天井から吊るし、周囲に黄金の球体を吊るし、太陽の熱を相互反射させて加熱する。

 三、加熱した球体を冷却し、常温に戻ったところを割る。このとき内部には巨大な卵が生じている。

 四、卵を黄色い砂を敷きつめた桶に入れて孵化させる。雛は王夫妻とともに殺されたものたちの血を飲んで育ち、凶暴になる。しかし、白い粉末をまぜた液体で養われるうちに、野生が消える。羽毛が抜け落ち、人間のようななめらかな肌になる。

 五、鳥にある秘儀をほどこした後に、首を切り落とし、胸を裂いて血を集め、骸は焼いて灰にする。

 

 ペルギウス様はすらすらと要点をまとめて説明してくれた。

 私が抱えていた『錬金術の結婚』は、机の端っこで表紙を閉ざしたままである。開いてすらいない。

 むかし読んだ本『ペルギウスの伝説』は、彼の若かりし頃を叙した物語である。

 話によると、ペルギウス様は召喚術と結界術の権威で、錬金術は専門外であった。

 本の内容が誤りだったのだろうか。

 それとも、魔神を封印した後に、死者の蘇生を試みたことがあって、そのおかげで詳しくなったのだろうか。

 

「そうして、第六階梯の秘儀は」と、ペルギウス様は語った。

 

 六、特殊な水に、鳥の灰を練り混ぜ、粥状にして熱し、二つの型に注ぎ封じる。冷却してから型を割ると、少年と少女の澄明な像があらわれる。

 七、命のかよってない像に鳥の胸から集めておいた血を注ぎ入れる。二つの像は、たちまち、この世ならぬ美しい男女に成長する。天よりの炎が男女の口から体内に入り、生命が復活し、王と王妃の再生は完了する。

 

「これを失敗すると、奇妙な異形が生まれる」

「異形って、どんなですか」

「人として造られながら、魔族のごとき特徴を有す者。あるいは、生まれてすぐ死ぬような畸形児のことだ」

 

 畸形がみんな自然に死んでくれたら、作った方としても気楽だろう。

 健康な嬰児でも間引くことがあるのに、手足が欠けていたり、知恵遅れとわかる顔つきの赤ん坊を養うのは、難しいことだ。

 私とて、魔力災害で亡くなった友達とその家族に知り合いに、と、黄泉から連れ戻したい人は大勢いるが、働けない姿形にしてしまったら申し訳が立たない。

 

「『錬金術の結婚』がミリシオンで出版されたのは、十年ほど前のことだ。その四年後には、『称賛すべき薔薇十字団(ローゼンクロイツ)の名声』が出版された。これは『錬金術の結婚』の真の著者であり、錬金術にかかわる秘密結社『薔薇十字友愛団』の始祖ローゼンクロイツなる者の生涯を叙した書で……錬金術が何か、お前は知っているか?」

「『物の本性について』?」

 

 と、お兄ちゃんが手紙に書いていた。

 私は読んだ事はないが、錬金術の本らしい。

 

 ペルギウス様によると、『物の本性について』を執筆したパラケルススは、錬金術の大家である。

 人の製造方法は、かの書にも記されている。ミリス神聖国の法王庁では異端の誹りを受け、写本も許されないそうだ。

 

「元来、錬金術とは、金ならざる物を金に変えんとする学問だ。もっとも、おそろしく費用のかかる錬金術より、魔術や魔道具で利を得るほうがはるかに効率がよい。今となっては占命魔術と同じように廃れた学問だ」

 

 占命魔術というと……ええと、母様から聞いた事がある。

 ようは、私がトウビョウ様によって未来を視るのとは別に、魔力と道具を使い未来を占えるようにしたのが、占命魔術。

 昔は栄えたらしいが、現代では廃れた。精度が低いためだ。

 トウビョウ様のような代償がなくても、使い勝手はよほど悪いらしい。

 

「くだらん占命術と比べると、錬金術は無駄ばかりではないがな。我の精霊の骨肉を構成する魔法陣にも、錬金術の式は組み込んである」

 

 ペルギウス様は私を膝から下ろし、蠟燭と、棚からインク瓶を持ってくるように言った。

 踏んでいいか許可を得てから、長持をずりずり動かして踏み台にして、色とりどり、大小さまざまな小壜が並ぶ棚から、指定された壜を取る。

 

「蠟燭どこですか」

 

 蠟燭はペルギウス様が使っている机の抽斗(ひきだし)の下段にあった。

 自分で取らないのかしら、と思ったが、彼が自ら取るにはかがむ必要がある。

 きっと貴人というのは、人前でむやみに躰を縮こませたりしないのだろう。

 なので言われた通りに、抽斗から真新しい蠟燭を一本とって渡した。

 

「壜の中身に触るなよ」

「はい」

 

 もう一度膝に抱き乗せられた。

 ペルギウス様の脚のあいだに両足を入れる格好で、腿に横座りである。机上が見やすくなった。

 

 壜をみたすのは、透き通った液体である。ペルギウス様は筆先を液体に浸して、羊皮紙に書きつけた。

 最初に腕は円を書く動きをし、中に細かく模様を記していく。片手で、気楽な、迷いのない手つきであった。

 薄く色がついてるとはいえ、乾けば無色だ。紙は白紙のままである。

 

 ペルギウス様は白紙の羊皮紙を蠟燭の小さな火に近づけた。

 羊皮紙に浮かび上がってくるものがあった。

 魔法陣だ。美しい緑色の円と線で描かれた魔法陣だ。

 

「みどり」

 

 驚きのあまり、見ればわかる事実を口走る。

 さっきまでは何も書かれていなかった紙だ。

 私の目に見えない速度で、紙が入れ替わったのか。

 それとも、インクに秘密があるのだろうか。

 

「コバルトを溶かした王水で記した文字は、常温では見えぬが、ほどよい熱を加えると美しい緑色を呈する」

 

 ペルギウス様を見上げると、そう教えてくれた。

 やはりインクが特別であったらしい。仕組みはさっぱりである。

 どうして温めると見えないものが見えるようになるのだ。

 

「これも錬金術?」

「隠しインキは錬金術の副産物だ。錬金術師がさまざまな鉱物や溶液や薬品を互いに作用させているうちに、偶然発見したのだ。

 隠しインキとして用いることのできる反応は、他にもあるぞ。加熱すると文字が現れる溶液は、希釈した硫酸と、レモンの果汁もそうだな……。

 青い文字にしたいなら、緑礬で記し、青酸カリ溶液で洗浄するとよい」

 

 レモン果汁しか知ってる言葉がない。

 間抜け面をしてうなずく事しかできない私の後頭部を、ペルギウス様は撫でた。

 

「溶液に魔力結晶も混ぜてあるから、魔力を流せば励起する。やってみろ」

 

 教えられるまま、緑色の魔法陣に右手をのせた。

 ぎゅいっと何かを吸い取られる感覚があり、驚いて手を離す。

 しかし励起には問題なかったのか、魔法陣から光の粒子が昇った。

 

「……!」

 

 粒子は集まり、形を変え、蝶々になった。浅黄斑蝶に似た三羽の蝶は、ヒラヒラと机の上を飛び交った。

 窓から差す陽光に鞭打たれた虹の破片のように蝶が舞うのを、私は手を伸ばして呼んだ。

 人差し指に一羽がとまり、鱗粉がぱっと散り、蝶はいなくなった。翅も脚も残らなかった。

 

「消えちゃった」

 

 幻みたいだった。

 また魔力を流し込んだら同じことができるかと思ったが、魔方陣を描いてあった紙は、白紙に戻っている。

 

「あの規模の召喚魔法陣では、そんなものだ。一度使用すると、効果は切れる」

 

 ペルギウス様は、スナッファーを使わずに、蠟の小さな火を人差し指と親指で揉み消した。

 平然とそんな事をして、熱くないのだろうか。

 普通の蜜蠟に見えるが、実は特殊な品なのだろうか。

 まだ柔らかい溶けたての蠟芯の周りに手を伸ばすと、ペルギウス様の手の甲で燭台ごと遠ざけられた。

 

「さて、我は何の話をしていたのだったか」と、訊かれた。

 

「ひとを蘇生する方法です」

「おお、そうだった。『錬金術の結婚』の編纂者は、ミリスの神学者アンドレーエだ。彼自身は、王夫妻の再生に立ち会ったわけでもなし、ローゼンクロイツと面識があるでもなし。ただ偶然見つけた手記を人目に触れるように編纂しただけだと言う。

 『錬金術の結婚』が出版されてからわずか四年のあいだに、死者の蘇生法に関する研究書が数多く出版されたが、ローゼンクロイツの思想が霊的なものであり、『錬金術の結婚』が寓意と象徴によって書かれていることを理解していない珍妙な説が流れた。死者の蘇生法についても、失敗。異形。これがどういう事かわかるか?」

「……死んだ人を生き返らせる話はうそで、本当はそんなことできない?」

「ああ。誰もがそう思った。この我もな。

 ところが、新たに出版された『称賛すべき薔薇十字団(ローゼンクロイツ)の名声』では、新たな事実が明らかになった。

 ローゼンクロイツは甲龍歴180年代の人物であり、錬金術による効果で人族としては異例的な長き歳月を生き、没した。

 編纂前の『錬金術の結婚』の元となった手記は、死後百二十年の睡りから蘇ったローゼンクロイツが記したものだった。

 彼は自らの躰をつかい、錬金術による肉体の創造、死者の復活が可能であることを証明したのだ」

「うそじゃなかった!」

 

 ということは、蘇生の秘儀は本物だったのだ。

 著者も大胆なことをする。失敗するかもと不安にならなかったのだろうか。

 じゃあ、失敗した人たちは、何が悪かったのだろう?

 

 真剣に考えていると、ペルギウス様はにやりとした。

 仕掛けた悪戯が成功して得意になったような顔であった。

 

「という所までが、アンドレーエの創り話だ」

 

 しばらく、言葉の意味を考えてしまった。

 

「我は、アンドレーエを問い詰め、ローゼンクロイツなる人物も、薔薇十字団に関する何冊かの書物も、皆アンドレーエの悪戯だと白状させた。世間は、神学者の面白半分の創作にすぎないローゼンクロイツなる人物とその偽書、そして秘密結社〈薔薇十字友愛団〉の存在を、まだ真実だと信じ込んでいるがな」

「つくり話……」

「ハ、ハ。死者は死者だ。蘇らぬわ」

 

 ラプラスでもあるまいに……、と吐き捨てる言葉が、遠く聞こえた。

 私はちょっと昔のことを思い出していた。

 あれはまだブエナ村があった頃。

 四歳のワーシカが、振りまわして遊んでいた漉油の枝を投げて楡の木に引っかかり、落ちてこなくなった事があった。

 代わりになる他の枝を探してみたけれど、ワーシカはあれがいいあれじゃなきゃイヤと泣く。

 泣かせ続けるのも可哀想で、私は枝を取りに木によじ登った。

 不穏に撓む太枝にしがみつきながら、ようやっと漉油の白い枝に手が届いたとき、

 

『あっ! ソーニャ姉ぇー!』

 

 ワーシカは去った。遠目に大好きなお姉ちゃんを見つけて。

 きれいさっぱり泣き止んで。満面の笑顔で。

 不安的に揺れる枝に、私を置き去りにして。

 おかげで私は木の上でしょんぼりした。

 

 あの時と似たような心情である。

 梯子を外された感じだ。

 

「だましたの……」

「おや、我がいつ嘘を吐いた? 世間が創作に弄ばれる様、そうして真相を順に語ったに過ぎぬぞ?」

 

 それもそうだ。

 人の話は最後まで聞きなさいってやつだ。

 でも、ペルギウス様の話しぶりはこちらをわくわくさせる物だった。

 突飛な創作を、もしかしたらあるのかも、と信じ込ませる手腕だったのだ。

 

「くっ……」

 

 翻弄されて悔しいけれど怒りが湧いてくるじゃないし。

 内容が内容だけに、落胆の悲しさのほうが大きい。

 もう同じことはしないでほしい。そんな塩梅だ。

 この行き場のない気持ち、言葉に表さないでか。

 

「……おのれ……」

 

 万感の思いを込め、やっと出せたのはそんな一言だった。

 

「ハッハァー!」

 

 ペルギウス様は面白そうに笑った。爆笑だ。

 曲げた人差し指の関節で頬をうりうりやられる。

 

「まったくも……」

 

 人をからかいおってからに。またやったら一人の時に転ばせるからね。

 なぜ一人の時かというと、転ぶところを人に見られると恥ずかしいからだ。恥ずかしいのは可哀想だ。

 

 オルステッドは嘘やからかいはしなかった。

 説明が難しくて理解できないときはいっぱいあったが。

 難しいといえば、紛争地帯できいたあの話もそうだ。

 

「ペルギウス様」

「うん?」

「青銅の首と、ノタリコンって、なんですか」

「誰から訊いた」

「オルステッド」

「そうかそうか。では教えてやろう。まず、カバラについて説明せねばなるまいな――」

 

 

 


 

 

 

 今日一日でわかったことは、ペルギウス様がお喋り好きだという事だ。

 度々こちらの理解度を確かめてくれるので、一方的なお喋りではなかったものの、圧倒的な知識量の差によって、何度も置いてけぼりになった。

 

『わからんか?』

『はい』

『ククッ、やはりな。フクロウの雛のような顔になっているぞ』

 

 と、ちょっと変わったふうに喩えられもした。

 話の途中で理解度を確かめられるということは、理解をあきらめて聞き流せないという事だ。

 二、三歳の子の延々と続く「えっとねえ、それでねえ」を聞くのと、痴呆になりかけの老人に同じ話を繰り返されるのとはわけがまったく違うのだ。

 

 楽しかったけれど、普段はさほど使わない部分を酷使した気分である。

 つまり、かなり疲れた。

 解放されたのは、私のお腹が空いたからだ。

 

 人の話を聞くのも、膝に座らせてもらうのも好き。

 また明日もペルギウス様の所に行こうと思った。

 

 

 

「もう固形物を食べてもよろしいでしょう。何か食べたい料理はございますか?」

 

 夕飯はシルヴァリルさんが用意してくれるらしい。

 今までは流動食だけだった。うっかり咳き込んでも喉につまらないような食事だ。

 これまで食事を作って運んでくれていたのは看護婦さんだが、彼女はもういない。

 看護婦さんは、私の看病をさせるためにペルギウス様が作り出した精霊であったのだ。

 私が自分のことは自分でできるまで回復したので、用を果たした精霊は消したらしい。

 お別れはちゃんとしたかった……。

 

「ナナホシは何をよく作ってもらってたの?」

「アスラ王国の郷土料理。カーシャやザクースカより、美味しい、思うわ」

 

 そうなのか。

 北方大地のお粥も冷菜もじゅうぶん美味しいけれど。

 

 かくべつ美味しいのは母様の料理だ。

 ナナホシが空中城塞でよく食べているご飯のほうも気になるが、母様の料理が恋しくなった。

 

「リンゴとお芋を煮て混ぜて、血のソーセージをのせた料理って作れますか?」

「〈天と地〉ですね。かしこまりました」

 

 そうそう、そんな名前だ。

 母様の祖国なるミリス神聖国。その北部で食べられている農民の食事である。

 貴族の元子女である母様が農民食である〈天と地〉を食べたのは、家出をして最初に訪れた冒険者ギルドの食堂だ。

 その美味しさに感動した母様は、後々仲間になった料理上手の魔族に再現を頼み、作り方を教わったらしい。

 家でもよく作ってくれた。パウンドケーキの生地だけの部分の次に私が好きな料理だ。

 

 ナナホシも気になったみたいで、私と同じものを希望した。

 

「お待たせいたしました」

 

 やがて部屋にワゴンに乗せた料理が運ばれてきた。

 焙って温めた黒パンと、香草のスープ、それから天と地である。

 配膳を手伝おうとしたら、「あなたがたは客人ですので」と断られた。

 目も見えるし脚も動くのに、あれこれしてもらうのは、面映ゆい。

 

「いただきます!」

「いただきます」

 

 ナナホシといっしょの卓につき、食べ始める。

 天と地は、じゃがいもと林檎を、柔らかくなるまで煮込む料理だ。固形物を食べていいと言われたのに、おかずに結局柔らかいものを所望してしまった。

 と思いきや、じゃがいもには固形感が残っていて、ほっくりと食べごたえがある。

 輪切りにして添えられた血のソーセージは、独特の血の風味も少なく食べやすかった。

 正直に言うと、母様とリーリャの作るご飯より美味しい。

 でも私が一番好きなのは、食べ慣れた二人の料理である。

 

「おいしいね」

「ええ。林檎も酸っぱくねぇしな」

「うんうん……。ねぇしな、じゃなくて、ないしね、がいいよ」

「酸っぱくないしね」

 

 パンを齧りつつ順調に食べるナナホシをニコニコ見守る。

 さいきん元気がなさそうだったから、美味しい物を食べて明るさを取り戻してほしいものだ。

 

「ねえ」と、匙をピタリととめ、ナナホシは訊ねた。

 

「あなた、生理って……まだよね?」

「まだよ。ナナホシ、もしかしてきちゃった?」

 

 だとしたら元気がないのも頷ける。あれは嫌なものだ。

 

 前世の数えで八つの時と比べ、今世の私は健康的に肥え、発育も良い。とはいえ月のものはまだ五、六年は先だろう。

 いずれ来るものだから、母様とリーリャ、年上の友達から教わって、対処の仕方は知っている。

 言葉も違うくらいだし、ナナホシの故郷とは勝手が違って、戸惑っているのかもしれない。

 

「私はまだだけど、何したらいいか知ってるよ。古布と替えのペチコートもらってくる?」

「あ、ううん、そうじゃないわ」

 

 ナナホシは訂正し、椅子から降りかけた私は座りなおした。

 

「気になった、だけ。私もきてない」

「そう? よかったね」

 

 前世の私の初潮は、数えで十六か七の時だったろうか。

 トウビョウ様の使いになってからこっち、占いや呪いで食っていけるようになり、飢えから遠ざかったら腰巻きが赤く染まるようになった。

 あれの最中は、腰が重くなり、体は熱っぽく怠くなる。

 足萎えゆえ下の世話は人任せであったが、倦怠感からは逃れられない。

 不浄の身でいる間は霊能力も鈍るので、来ないならそれに越したことはない。

 

『そうね。めんどくさいし、元々、きっちり来るタイプでもなかったし、なくてもいいよね』

「? ナナホシ、ソーセージ好き? もっと食べる?」

「いいわよ。自分で食いな」

「はーい」

 

 食いな、よりは、食べなさい、のほうが柔らかい言い方だが、まあいいか。

 自分の言葉に口出しされてばかりでも滅入るよね。

 

 

 食後に、ナナホシの部屋にいたら、「顔赤くない?」と言われた。

 試しに自分の頬をさわると、ほかほかと温かい。

 ナナホシは自分の額に片手をあて、逆の手で私のおでこを覆った。ナナホシの白魚のような指はひんやりしていた。

 

「やっぱり! 熱!」

「わたし元気よ」

「寝ろ寝ろ」

 

 せっかく寝たきりから脱したのに、ベッドに逆戻りである。

 隣の私に貸し与えられた部屋に連れ込まれ、掛布の下に押し込まれた。

 

 言われてみると、からだ全部があったかいような気がする。

 腹痛や吐き気はないが、見えない重石が四肢に乗っているみたいだ。

 

 

 ナナホシに呼ばれてきたシルヴァリルさんは、嫌な顔ひとつせず、淡々と私を診て、言った。

 

「知恵熱ですね」

 

 赤ちゃんじゃないのに……。

 

「あるいは、疲れが体に出たのでしょう」とシルヴァリルさんは濡らして絞った手拭いを額にのせてくれつつ、「激しく動き回りました?」と訊いてきた。

 

 息が切れるほど走ったり、暴れたりした覚えはない。

 地下探索だって時間を守ってやったのだ。

 となると……。

 

「動いては、ない」

 

 そう答えながらも、私は、ペルギウス様の懇切丁寧な知識の伝授を思い出さずにはいられないのだった。





・『錬金術の結婚』
元ネタは『化学の結婚』

スイスのパラケルスス
ドイツのクリスチャン・ローゼンクロイツ(架空の人物)を創造したヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ
に対応した人物が六面世界にもいて、偶然同名であったという事にします。
架空の人物名や組織名を考えるのを放棄しました。「薔薇十字団」をそのまま使いたかったんです。


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三七 可愛い子犬

活動報告に前書きに載せていたイメージ画等まとめました。
成長ifイラストも追加したので読後にぜひ。




 熱が下がるまで二日もかかった。

 病気を撒き散らしたらいけないので、部屋からできるだけ出ないように言いつけられていた。

 ぐったりして呻吟するほど体調が悪いわけでもないので、一日目は退屈をもてあました。

 ナナホシは心配してきてくれるけれど、ずっといてくれる訳じゃない。

 見舞いにきたペルギウス様がお伽噺の本を貸してくれたので、二日目はそれを読んで過ごした。イダツ山のイダツレードという英雄のお話であった。初めて知る物語だ。

 

 三日目に快方した。

 すっかり元気である。ご飯もおかわりした。

 借りた本を返そうと図書館に向かっていると、シルヴァリルさんに会った。

 代わりに元の場所に戻してくれるらしい。ありがたくお願いする事にした。

 

「シルヴァリルさん、礼儀さほうとか、マナーとか、教えてほしいです」

「それはなぜ?」

 

 母様とリーリャから習えずじまいだったというのもあるけれど、第一は、恥だ。

 シルヴァリルさんをはじめ、他の十一人の精霊たちのペルギウス様に相対するときの洗練された言葉遣いや仕草にくらべると、私は芋っぽいのだ。

 これまで気にならなかった事が、急に恥ずかしくなったのだった。

 

「ペルギウス様に、シルヴァリルさんみたいな、きれいな言葉でお話したいから」

 

「左様ですか」と鷹揚にシルヴァリルさんは頷いた。

 教会の身廊壁のような厳かな通路に、シルヴァリルさんは風景のひとつのように自然に馴染んでいる。

 でも私は違うのだ。元貧乏百姓の娘は、お城に不釣り合いである。

 正しい言葉遣いや振る舞いを身につければ、ここに相応しくなれるのではないか。そう思ったのだ。

 

「お断りします」

 

 そんな。

 私、シルヴァリルさんに嫌われているのだろうか。

 やっぱり絵画を勝手に触ってしまったのがいけなかったのだ。

 あの一度だけでも、やった事には変わらない。ペルギウス様が許しても私は許しませんという事か。

 

「ペルギウス様は、あなたを愛玩用の子犬とみなしています。それも、きわめて躾のよい子犬です」

 

 ところが、シルヴァリルさんはごく穏やかに言った。

 

「禁じられたものに手を触れることはせず、美術品や蒐集品を、何時間でもみつめるだけで過ごす、手のかからない子犬です」

 

「例外を除いて」とシルヴァリルさんはつけ加えた。

 例外とは、十中八九、私の胸に抱えられるほど小さな悪魔(ディアヴァル)の絵画のことであろう。

 ごめんなさい……。

 

「子犬に求められる躾など、ところかまわず粗相をしないこと、吠えたくらないこと、この二点くらいでございましょう」

「うん」

 

 頷いたが、なんだか釈然としなかった。

 わたしは人の子である。犬猫ではないので、求められずとも、用は厠で足すし、吠えたりもしない。

 

「……そうですね、例えばシンシア様は、犬猫が人と同じ食卓について、人と同じカトラリーを使って食事をしていたら、どう思われますか?」

 

 言われて、考える。

 想像するのは黒猫の雪白だ。

 成猫になってもミルクを飲むのが下手っぴで、餌皿に鼻先をつっこんで飲む雪白。

 額から顎まで乳で濡れそぼち、私に捕まってやんやん首を振るもリーリャにガシッと押さえつけられて拭かれている雪白。

 

 その雪白が、ある朝起きたら、椅子に座って食事をしているのだ。

 丸焼きの鼠をナイフとフォークを使って上品に食べ、ミルクなんかも、前足で匙をもって、ひとすくいひとすくい、口に運んでいる。

 

「すごくびっくりする」

「ええ」

「あと、無理しないで、って思う」

 

 獣は四足を地べたについて生活しているのだ。

 ご飯も地べたにおいたものを前足で押さえてがつがつ食べる。

 それが獣の自然体である。かれらの体は、人とは造りが異なる。雪白の前足は、食具を握りやすい形をしていない。

 

「ペルギウス様も、同じです。ペルギウス様は愛玩用の子犬に多くを望みません。あなたは、これまでも、これからも、手のかからぬ子犬でいればよいのです。ご理解いただけましたか?」

「はい」

「人として扱われよう等という驕りはお捨てなさい」

「はい」

「よろしい」

 

 シルヴァリルさんは私の頬を撫で、本を受けとって静かに歩き去った。

 

 私はきびすを返し、角灯をもって、地下への道をとたとた歩いていく。

 険しい顔も、厳しい声も使われていないのに、ピシャリと叱られた心地だ。

 ペルギウス様が優しくしてくれるのは、私が子犬だからだったのだ。びょうびょう。*1

 犬界隈に敬語はない。よって、使い慣れぬ言葉を使ってまで話さなくともよい。

 私に求められることといったら、ペルギウス様に懐くことくらいだ。

 

 

 壁画の間についた。隠し扉を引く。

 下りの石段が、闇に続いている。私は、石段の上に座り込んだ。

 石段を下りてゆく私の姿を見た。後ろ姿のはずなのに、顔も見える。

 可愛いねと手で挟まれるほっぺ。綺麗だとつままれる鼻梁の先。ベリトの舌がつついた口元のほくろ。母様と同じ青い目。

 一歩一歩踏みだして、からだを支える、二本の足。

 

「びょう!」

 

 こらえていた感情を噴出するように、一声吠えた。

 わたし、人だもん。犬猫じゃないやい。パウロとゼニスの子だい。

 

 声なき声で、通路をみたす闇に語りかけた。

 片輪であったのは、過去。前世じゃないの。今はちがう。

 

 人間道の二つ下にある地獄が畜生道であるという。

 人間道の下層にいたチサは死に、シンシアはまた人に生まれた。

 人の身でありながら、獣も同然だ、と畜生道に貶められるのは、ひどい侮辱だ。

 

 ――しゃあけど、ペルギウス様を嫌いにゃあ、なれん。あねえなでえれえ綺麗な人、何しちょうがこらえちゃる……。

 

 みごとな体躯、輝くような銀色の髪は星の瞬きのようで、金色の虹彩の模様は抽象画のようだ。

 人族がもたない特徴を持って生まれてくる種族はたくさんいるらしいのに、ことに龍族は綺麗だ。

 私の求める絵画『岩に坐す悪魔』と似ているために、そう思うのだろうか。

 

 自分のことを何一つできない片輪でいるのは、実はそれほど苦しくない。

 何もかもを人任せでいる状態は、みじめで切ないのに、どこかで淡い快感にもつながっている。

 なにも期待されず、ただ可愛がられておれと言われる身の上も、それは同じだ。惨めで切ない。でも、どっぷり浸れる甘さがある。

 

「行かなきゃ」

 

 立ち上がった。

 今日こそ笛のある場所までたどり着くのだ。

 

 地図は、私が寝込んでいるあいだにナナホシが続きを描いてくれた。

 行き止まりにつながる道には、バツ印が書き込まれている。

 角灯で地図と通路を照らしつつ、塞がれていない道を進んだ。

 しだいに道は狭まり、天井は崩れ、ほふくしないと通れないような隘路が何度も出現した。

 

「ぷはっ」

 

 頭上の閉塞感が消えた。息苦しかった道を抜け、手をついて立ち上がる。

 地図と現在地を照らし合わせようとしたが、できなかった。

 ナナホシは未到達だったのであろう。この辺は、まだ記録されていない区間だ。

 肌にはりつく空気がじめじめと湿っていた。水場が近いらしい。

 

 背後には闇。灯火を掲げてさえいれば、前には光。

 闇は道を断ち、光はいざなう。

 森をさ迷う遺児のように不安になる事はない。私は歩いた。

 

 しばらく歩くと、木の扉が目の前に立ちふさがった。

 胸の高さの把手をひねると、鍵はかかっていなくて、中に入れた。

 幻のような弱々しい光は、壁を照らさなかった。

 どうやら、ぽっかりと広い空間に出たらしい。

 

「光の精霊よ、我の呼びかけに答えよ」

 

 角灯の中に収められているのは、火の点った蠟燭ではなく、魔法陣を刻まれた魔照石だ。

 これは魔力付与品のランプである。硝子面に触れ、教えられた合言葉を唱えると、光が強くなる。

 

 広がった明かりの輪のなかに浮き出した壁は、紫水晶のように煌めいていた。

 そして、ペルギウス様の展示室で初めてみた、大理石や瑪瑙や柘榴石のような縞目が、層をなしているのだった。

 

 壁に指でふれ、その指先を舐めた。

 塩の味が舌にひろがった。

 

 円い大テーブルが部屋の中央に据えられている。

 椅子は、数えると、十三脚あった。

 もっとも豪奢な玉座のような椅子は、背もたれにも肘掛けにも、精緻な模様が……。

 

 そっと近寄ってテーブルの脚を眺めた。

 テーブルも椅子も、岩塩で作られていた。据えたのではない、床から生えていた。

 角灯を揺らすたびに、細かく砕いた星粒のような小さい鋭い光が、一面にきらめきたった。

 

 ここは、塩坑だ。岩塩を掘ってできた空間なのだ。

 テーブルからシャンデリア、壁の浮き彫りまで、すべて半透明の水晶のような岩塩でできた広間だ。

 

 角灯でぐるりと照らし、ほぼ円形の大広間であることがわかった。

 完全な円形ではなく、多角形だ。

 

 似た光景を、私は見たことがある。

 どこで? 上階の、円卓の間だ。たぶん、歴史はこちらのほうが古い。

 上の円卓の間は、この空間を真似たものであろう、と私は思った。

 しかし、これほど美しい光景を、人は作り得ない。完全に再現することはできない。

 ペルギウス様もそれをわかっているから、再現はシャンデリアと大テーブルと椅子の浮き彫り透かし彫りのみに留めたのではないか。

 

 光が薄れるあたりに、掘り窪めた壁龕を見つけた。

 祭壇の痕跡であった。

 記憶にある神棚とも聖像画とも重ならなかった。

 

 私は自然に跪き、手を合わせていた。

 母様に教えられた、両手の指を交差して握りこむやり方ではなく、指の間をしっかり閉じ、右手をちょっと下にずらして手のひらをあわせるやり方で。

 

 かつてこの広間を掘った者たちは何を祈ったのだろう。

 神話では、龍の国は滅びた。神様に届かなかった祈りだ。

 報われることのない祈り。それでも、彼らは祈ったのだろう。

 私も祈った。なにも願わずに。

 

 

 岩塩の床が膝にくいこむ痛みが私を引き戻した。

 濡れていた瞼を開け、周囲を見渡した。

 壁龕と壁龕の間にそれぞれ、鉄の鋲を打った重々しい樫の扉がある。

 数は、椅子と同じ十三。ひとつは、私が入ってきた扉だが、内側から見ると、どれがその扉だかわからない。

 

 でも、ここまで来たら、視ればわかる。退路も、進むべき扉も。

 私は迷わずひとつの扉まで歩き、把手に手をかけた。体の重みをあずけると、これも鍵はかかっていなくて、ゆっくりと開いた。

 

 足元を照らす明かりの輪の、様相が変わった。

 黒い水がひろがり、魔照石の光をねっとりと反射した。

 屈みこみ、光を水面に近づけた。水面と岸の差は、一尺程度だ。

 

 靴を脱いで裸足になり、服の裾をたくしあげた。

 岸に座り慎重に足を下ろすと、つま先は冷たい水に浸った。

 水は弾力をもって、沈ませようとした足を押し返してくる。

 

 かつて冒険者だった母様と、物知りな兄の話を思い出した。

 塩辛い水は、川や湖の水より、ものを浮かせる力が強いらしい。

 

 溺れはしない。火ではないから、水がかかって光が消えることもない。

 私は角灯をしっかり持ち、閉じ込められた海の中に飛び込んだ。

 

 

 


 

 

 

 大いなる達成感に包まれていた。

 地下を出たところで精霊に捕まり、風呂に入れられ、乾いた服を着た。

 服と髪が含んだ水気はよく絞っておいたけれど、不足だったみたいだ。

 

 ペルギウス様は庭園で休憩しているそうだ。

 教えてもらった場所に急いだ。ハンカチに包んだ銀色の笛を持って。

 

「ペルギウス様! ペルギウスさま!」

 

 ペルギウス様は庭園の椅子に座り、テーブルに頬杖をついて景色を眺めていた。

 傍にはシルヴァリルさんが控えている。彼女は座らないのだろうか。

 

 彼に対して生じていた苦手意識は、このとき消え去っていた。

 

「シンシアか」

「はい!」

 

 私は満面の笑みで、ペルギウス様に笛をさしだした。

 塔に龍が巻きついた精緻な笛を、ペルギウス様は手にとって日に翳して眺めた。

 ちなみに、見つけた直後に、こっそり吹いてみたのだが、音は鳴らなかった。

 古そうな笛だし、どこか故障しているのかもしれない。外からは見えないヒビが、笛の内部にあるとか。

 

「うむ。これで間違いない」

 

 ペルギウス様は満足気にし、それをシルヴァリルさんに渡した。

 彼女は恭しく受けとった笛を軽く拭きとり、小さな宝箱のような容器にしまった。

 きちんと彼の目当てのものを探し出し、届けられたようだ。

 

「よくやった。例の油彩画は、後で客室に届けさせよう」

 

 嬉しい。とても。すごく。

 心がふわっと軽くなって、ノルンみたいに踊りだしたい気持ちだ。

 もう三つ四つの幼い子ではないので私はやらないが、ノルンのでたらめな踊りはとても可愛らしい。

 しかしどんなに愛らしくても、笑ってはいけない。ノルンは真剣にやっているから、馬鹿にされたと思って怒る。

 一緒に歌ったり、楽器を奏でたり、踊りながら笑うのなら大丈夫。うちの小さな吟遊詩人は、見世物になるのは嫌がるが、仲間が増えると喜ぶのだ。

 ノルンのでたらめ踊りが成長につれてなくならないうちに、また会いたいものだ。

 

「……巫女(シャーマン)か。昔は、どの共同体にも、超越的な力を授かった女がいたものだ。神子とも呪子とも違う者たちだ。シルヴァリル、確か貴様の身内にもいたな?」

「はい。最後の巫女でした」

「民間信仰の衰退につれ、徐々に生まれなくなった。天大陸のみならず、中央大陸でも、魔大陸でも同じ事が……」

 

 ペルギウス様は体をこちらに向け、私に訊ねた。

 

「時にシンシアよ。貴様、予言はできるのか?」

「えっと……」

 

 両親には秘密にするように言われてる。

 オルステッドにはすでに知られているし、ペルギウス様も彼から聞き知っていて、この質問はただの確認かもしれない。

 もじもじしていると、「我に嘘は通じぬぞ」と言われ、隠すのはやめた。

 

「できるよ。お母さんとお父さんにはだめって言われてるけど……絵、くれたものね。ペルギウス様のこと、視てあげる」

「何を告げてくれるというのだ?」

「探し人の居場所とか、いつ死ぬかとか」

 

 ペルギウス様は何かを呟いた。私にはまったく聞き取れない不思議な言葉であった。

 言葉の意味を、ペルギウス様は人間語になおし、私に教えた。

 

 ――運命が運び、連れ戻すところに、われわれは従おう。

 

「叙事詩『アエネーイス』にある一節の、忌むべき言葉だ」

 

「我が魔族を嫌いなのは」と、ペルギウス様は言った。

 

「魔族の大多数が、強い運命論者であるからだ。酷薄な自然と長い抑圧の歴史によって培われた世界観だ」

「それって悪いの?」

「ああ。己の境遇を変えようと足掻くことすらせぬ怠慢さが、魔族が馬鹿たる由縁なのだ。我は馬鹿が嫌いだ。

 さて、お前の予言が的中したとしよう。我は死の間際、己の最期が運命によって齎されたものだと思ってしまうだろう。そんなのは御免だ」

 

 なるほど。そういうことなら視ないでおこう。

 私としても、予見の形とはいえ、親しい人の死に様はあまり知りたくないのだ。

 それはそれとして、馬鹿が嫌いとな。

 わたし、かけ算とわり算できないし、ぜんぜん賢くないし、間抜けだという事がバレたらペルギウス様に嫌われるのかしら。

 

「……きゃん」

 

 いいえ、子犬が乗除計算をできなくて呆れる人はいない。

 けど、私だって少しくらいは役に立てるという事を、わかってほしい。

 

「ほんとうに、何も占わなくていいの?」

「ああ。代わりに、我がお前を占ってやろう」

 

 びっくり。

 

「できるの」

「占いや予言は、やろうと思えば、誰にでもできる。我にもな」

 

 ペルギウス様は私を見つめ、厳かな声で告げた。

 

「シンシア・グレイラットよ。貴様は明日、大きな不幸に見舞われるであろう」

「え!」

 

 そんなはずはない。……ないよね?

 私が死ぬのはまだ先だし、それ以外で不幸というと、お父さんや妹たちだ。それからお兄ちゃんとリーリャ。

 彼らの身に、何が起こってしまうのだろうか。

 間が悪い。この言葉で諦めきれない事態になってしまうのか。

 

「不幸を避けたければ、赤竜の革を一枚、海竜の腹から取り出した拳大の魔石を一つ持ってこい」

「えぅ」

 

 そんな急に言われても。

 オルステッドに頼めば、今日中に用意できるだろうか。

 オルステッドと連絡をとる方法がないのだった。どうしよう。

 ペルギウス様は続けて言った。

 

「お前を連れてきたオルステッドには同族のよしみがある。大負けして、庭園の花を我に摘んでくれば、不幸を退けてやることにしよう」

「……!」

 

 私は刺繍花壇に急ぎ、とくに綺麗に咲いていた鈴蘭を摘んだ。

 ゆっくり吟味している間に、ペルギウス様の気が変わったらいけない。

 花を選ぶのは大急ぎで、手折るのは花に傷がついて価値が下がらないように丁寧にやった。

 

 摘んだ花をおそるおそるペルギウス様に差し出した。

 ペルギウス様は鈴蘭を受け取り、にこやかになった。

 

「確かに受け取ったぞ。これでシンシアは大丈夫だ。……こう言われて、お前は安心したな?」

「した……」

 

 しかし、この感じ。この言い方。

 まさかまた騙されているのだろうか。

 

「実際は来もしない不幸がやってくると脅し、金品を巻き上げる。――そら、これなら誰でもできるだろう」

 

 やっぱり騙されてた。

 いやいや、例を示してくれただけだ。

 何も視えていないのにも関わらず、口からでまかせを言うのを占いや予言と嘯いていいのだろうか。

 もてあそばれた焦燥と安堵の行き場を失い、複雑な気持ちになった私は、ふとある事が心配になった。

 

「もし、不幸がほんとうにきたらどうなるの? ペルギウス様は大丈夫って言ったのに、それが嘘になっちゃう」

「その時はこう言えばよい。「不幸が避けられなかったのは気の毒なことだ。しかし、予言は当たった」とな」

「おお……」

 

 無敵だ。

 どう転がってもペルギウス様に都合が良いようにできている。

 

「つまり、一流の予言者とは、不幸を告げる者だ」

 

 白い花たちが愛らしくうつむく鈴蘭を私に返し、ペルギウス様は言った。

 幸福を告げられた者は努力もせず、行動も起こさず、望外の幸運を期待する。

 そうして何事も起こらなければ、予言は外れた、幸福を告げられたのに不幸になった、と怒鳴り込んでくるだろう。

 別に不幸が訪れたわけでもないのに、幸運が来なかっただけでその者は不幸になってしまう。

 ゆえに予言者は、幸運を告げてはならない。

 よく当たる予言者は、不幸ばかり告げる者のことを言うのだ。

 

 

 ペルギウス様の話を聞きながら、私はこう考えた。

 もしも、私が前世と同じように、トウビョウ様で食っていく事になったとして。

 ありもしない不幸を告げ、金品を差し出した者は見逃し、拒否した者には蛇を遣わせて呪い、予言した通りの不幸をもたらす。

 人々は怯え、私の要求を叶えない者はいなくなる。

 そんなあくどい稼ぎ方もできるのではないか。

 …………。

 

 左手に持った鈴蘭が、急速に枯れ、萎れてゆく。

 楚々とした乙女が一瞬にして醜く老い萎れていくのを、私はほのかな満足感を持って眺めた。

 

 できもしない夢想ではない。実行できるだけの力を私は使える。

 

「ペルギウス様、わたし、良い子でいます」

 

 やらないけれど。

 トウビョウ持ちは人の恨みを買ってはいけないと、生前から家族に注意されてきている。

 それに私は、優しい両親や兄を悲しませたくない。

 アイシャとノルンに慕われる良いお姉ちゃんでいたいし、いまは大勢が亡きブエナ村の住民たちの〈可愛いシンディ〉でもいたいのだ。

 

 ペルギウスの膝の上にあって、私は思う。

 彼の中で、私が子犬であってもいいのか、別に。可愛がってくれさえすれば。

 ほんの半日前には、地下の岩塩の間で、私を掴んだ感覚。太古から不変に存在する祈りの力に、私は一瞬、溶け入った。

 私の思考は俗物に堕ち、神秘の感覚はたちまち失せた。

 

「ペルギウス様、私がんばったから、もっと褒めてください」

「なんだ、油彩画では不足か? 次は何をねだるつもりだ?」

「うふ……あれもすごく嬉しいのよ。でもね、もうひとつしてほしいことがあるの」

 

 

 

 


 

 

 

 

「いいか、俺はペルギウス様の命で貴様に一時的に従うだけだ。使役権は依然ペルギウス様にある事をゆめゆめ忘れるな」

「はい。よろしくお願いします」

「……被災者の所在地を教えろ」

 

 ブエナ村の人口147人。

 私の家族を入れても、生き残ったのは、ほんの少数。

 数少ない生存者は空中城塞の転移魔法陣を経由して復興キャンプへ送り、衰弱していれば治療院へ。

 遺体は残っていれば火葬後死亡届と共に復興キャンプへ。遺体がなければ遺品を。それすらなければ死亡届のみを。

 

 ペルギウス様の――正確にはアルマンフィさんの手を借りれば、たったの三日で完了した。

 中には、アルマンフィさんが救助を拒む人もいた。

 

 

・リーリャとアイシャ、及びシルフィエット

 

「断る」

「どうして!」

「王宮絡みは面倒だ」

 

・ルーデウス

 

「断る」

「なんで!」

「遠目に確認したが、奴は転移事件の起点にて、天に魔術を使おうとしていた少年と同一人物だ。空中城塞には入れん」

 

・ソマル

 

「うんと……」

「ミリシオンの判事の下で働いている」

「ブエナ村があった場所に帰りたいって、言ってた?」

「確認した。少なくとも今はフィットア領跡地に戻る気になれないと言っていた。以上だ」

「確認してくれてありがとうね……」

 

 

 ブエナ村の住民全員の保護と発見が済んだ。

 なんやかんや全力で働いてくれたアルマンフィさんに感謝だ。

 城内は広大だ。難民となった彼らの救助は、私の知らない場で行われた。遺品や無事であった顔ぶれと、私は直接顔を合わせることはなかった。

 

「構わんのか。対面しなくて」

「ひゃっ」

 

 礼拝堂にいたら、急にアルマンフィさんが現れたので驚いた。

 

「人の子は帰属集団が恋しいものだろう。未熟な幼体なら尚更そうなのではないか」

「だって、会ったら、ますます悲しくなっちゃうもの」

 

 親を子を兄弟を配偶者を亡くしていない人はいない。

 彼らに事実を告げるのは、つらい。私の家族がほとんど無事であったことはとても幸運ではあるけれど、いたたまれなくもある。

 二度と日常は戻らないのだと再確認してしまうから、会わない。

 

「そうか」

 

 アルマンフィさんは普通に歩いて礼拝堂を出ていった。

 毎回光速で移動しているわけではないらしい。

 

「ふぅ……」

 

 リーリャとアイシャは軟禁されて不自由ではあるけれど、飢えと凍えとは無縁な場所にいる。

 シルフィは髪が白く短くなっていて、王宮での暮らしぶりはさほど悪くないようだ。

 お兄ちゃんもそうだ。エリスさんと共に誰かに守られていて、魔物が頻出する土地であっても無事に過ごしている。

 しかも一所に留まらず、移動をしているようだ。きっとブエナ村に戻ろうとしているのだと思う。

 

 ちょっと疲れた。

 しばらく、お兄ちゃんたちを視るのは、やめてもいいかな。

 私が気を揉んでもどうにもならない事ばかりであったし、みんな自分たちでどうにかできるのだ。

 

『釘かねと思ふてわれはありつれどきようの祓に雲のはてまで』

 

 気休めに手を合わせて、生前聞き覚えた呪詛(シソ)送りのまじないを唱え、私も礼拝堂を出た。

 『ペルギウスの伝説』に登場した精霊の一人の能力を憶えていてよかった。

 両親がかの本を幼い私が字を学ぶ教材に使ったおかけだ。

 

 そうして、ペルギウス様が、懐けば懐くほど、甘くなる人でよかった。

 私を――可愛がってくれる人でよかった。

 

 このお願いを切り出すまで、相手の反応を忖度する数十日間であった。

 ペルギウス様といるのは楽しかったけれど、躾の悪い子犬だと思われたらいけない。これでも緊張感はあったのだ。

 

「……」

 

 ようやく、最大の荷物を下ろせた心地だ。

 はやくオルステッドに迎えに来てもらって、彼の役に立って、父様のところに連れて行ってもらおう。

 そうすれば、私の中で、あの災害は一区切りつく。

 終わることは、きっと一生ないだろう。

 

 

 そうして、久しく見ていなかった悪魔(ディアーヴァル)の姿は、鮮明さを増して、私の眼に映った。

 絵画は、やはり私の胸に抱え込める大きさであった。

 画布が傷まないように包んでいた布を丁重に巻き直し、小さな絵画を抱きしめた。何にも代えがたい私の宝物。

 

「ナナホシ、もう一回見る? 見てもいいよ」

「何回も見させられた」

 

 何回見ても良いものじゃないの。

 

 部屋まで運んでもらった食事を口にしていたナナホシは、ちょっと呆れた顔をした。

 

「冷めるわよ」

「はーい」

 

 ナナホシはご飯は温かいほうが美味しいという信念を持っている。

 せっかくならいっしょに食べたいので、絵をそっと窓際の机の上に置き、席についた。

 

「あっ、オルステッドも見る? 綺麗よ」

「俺はいい」

 

 オルステッドは絵を置いたあたりを少し嫌そうに見やり、私とナナホシが食べ終わるのを待った。

 私の療養期間が終わったので、オルステッドが迎えにきたのだ。

 ちょうど私たちの食事時であったので、彼には待ってもらうことになる。

 

 だから私もナナホシも、すぐにでも発てるように、旅装をある程度整えている。

 ペルギウス様にはお世話になった。絵画のみならず、私が探してきた笛もついでにくれた。

 彼とゆかりのある地で吹くと、精霊が聞き届け、報せてくれるらしい。空にいるペルギウス様と連絡を取る手段というわけだ。

 音は鳴らないけどな、と思いながら城内で何度も吹いていたら、アルマンフィさんがシュンっと現れ、「止めろ。クリアナイトがうるさいと言っている」と言われてしまった。

 人には聞こえない音であったのだ。申し訳ないことをした。

 

 空中城塞での最後の食事に、私は食べ慣れたアスラの料理を選んだ。

 ナナホシの前にあるのは、ミリスの〈天と地〉だ。

 

「ナナホシ、林檎とお芋の料理気に入ったのね。おいしいよね」

「ええ」

 

 私が笛の捜索に夢中になっているあいだ、ナナホシは物思いに沈むことが増えていた。

 話しかけると笑顔を向けてくれるものの、ふと話が途切れたとき、庭園を一人で眺める彼女をみたとき、ナナホシの顔は張り詰めている。

 激しい感情を押さえ込んでいるというふうなのだ。

 ご飯を美味しく食べられているうちは、大丈夫だと思う。

 

 天と地を指し、ミリスの料理よ、とナナホシに教えてあげた。

 

民兵団(ミリス)? ナチスの……? ああ、国の名前だっけ?」

「そうよ。私のお母さんが生まれた国」

「シンシアは?」

 

 私はアスラ王国、と教えた。

 旅の道程や空中城塞で知識をたくさん得たナナホシは、ああ、と得心がいったように頷いた。

 

 ナナホシは、もう国の名前や、故郷という言葉の意味がわかるのか。

 それなら、私が前々から訊いてみたいと思っていた事も、答えてくれるだろう。

 

「ナナホシはどこの国から来たの?」

 

 うーん、とナナホシは少し眉を下げた。

 

「言っても、シンシアにはわからないわ」

「わからないところ? 魔大陸?」

「ちがう」

「大森林!」

「ちがう」

「あら……じゃあ、天大陸」

「ちがう」

「ミリス神聖国!」

「ちがう」

「……ガルデニアとか……?」

「どこそれ」

 

 紛争地帯の酸鼻な村の成れ果てが記憶によみがえる。

 あの光景が珍しいことではない国とナナホシが無関係とわかり、ほっとした。

 

「……」

 

 ナナホシはパンの最後の一欠片を口に入れ、私はスープを飲み干した。

 視るのはズルだ。勝手に自分のことを知られて、ナナホシも良い気はしないだろう。

 だから自分の推理だけで正解にたどり着きたいのだが、全くもってさっぱりである。難問だ。

 

「わかんない」

「当然だろ……じゃなくて、当然よ。ごちそうさま」

 

 ナナホシはすっと立ち上がり、空の食器をワゴンに片していく。ついでに私の皿まで下げてくれた。

 

「ありがとう」

 

 私はテーブルを拭くことにした。椅子に膝立ちになって、身を乗り出して隅々まで綺麗にする。

 立つ鳥跡を濁さずってやつだ。

 

 うーん、うーん。

 ナナホシの生まれ故郷はどこだろう。

 これは私の知見だが、中央大陸に暮らす人族は、北に行くほど金髪と碧眼の割合が高い。

 転移魔法陣であっちこっちに移動しているから、思い違いかもしれないが、各地の町を見ると、そんな印象を受けた。

 反対に、南下するほど、髪や目の色は濃い褐色になっていく。

 

「わかった、えっと、王竜王国!」

「ちがうわ」

 

 これだ! と、思った答えが外れ、肩透かしをくらう。

 

 降参である。もはや私の知る国名は尽きた。

 いや、あるにはあるのだ。朝鮮、清国、露西亜、遼東半島。

 私にはわからない、と言われたから真っ先に候補から外したけれど。

 日本と戦争した国ばかりだし、もし当たっていても気まずい。

 戦勝国と戦敗国の国民って何を話せばいいのかしら。

 

 そういえば、露西亜との戦争の勝敗はどうなったのだろう。

 トウビョウ様を使って視ると勝ちの未来が見えたが、現実の事として体験する前に死んでしまった。

 いや、そんなことは今はいい。ナナホシの故郷の話に戻ろう。

 

「日本じゃないよね……」

 

 ちょっと前まではそう考えていたが、今は違うと思っていた。

 もしナナホシの故郷が大日本帝国なら、言葉でわかるだろう。しかし彼女の喋る異国語は、私の知らない言語だ。

 

 ゆえにそれは、聞かせるつもりのない、小さな独り言であったのだ。

 しかしナナホシの耳は、その言葉を拾った。

 後にして思えば、この時すでに、彼女の故郷恋しさは大きく膨れあがっていたのだ。

 だから、長耳族のような耳疾しでもない彼女でも、しっかり聞き取れたのだ。

 あるいは、私が「日本」じゃなくて、たまたま発音が似ているだけの異なる単語を言っても、ナナホシは同じ反応をしただろうと思う。

 そのくらい追い詰められていたのだ。

 

 とにかく、彼女は私の独り言をきいた。

 たいそう驚いて、勢いよくこちらを振り返った。

 

「にっ!?」

「ナナホシ!」

 

 そしてナナホシは絨毯につま先をひっかけて転んだ。

 そばのクッションを引っ掴んでナナホシの真下にくる位置にポスッと投げたオルステッドの、

 

「……やはり、お前らは同郷か」

 

 という呟きに、私たちは揃って衝撃を受けたのだった。

*1
昔の「わんわん」



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三八 転生者と転移者

『日本人なら言ってよ! かなりノスタルジックになってたのよ私!』

 

 ナナホシは正面からガシッと私の肩をつかんだ。

 何を言われたかわからずきょとんとする私をよそに、ナナホシはオルステッドを振り返った。

 

「同郷って……オルステッドは知ってたの?」

「いま確信した。以前から、それぞれ喋る言語の文法や語彙に共通点がある事には気づいていた。イントネーションはかなり異なったが」

 

 ナナホシを先に空中城塞に預けている時、いくつか岡山の言葉とその意味もいっしょに教えたのだ。

 オルステッドに要求されての事で、私で好奇心を満たせるのなら! と、故郷にあった祭りだの行事だの怪談だのと色々教えた。

 オルステッドの覚えは異様に早く、ちょっと怖かった。

 

『まだ小さいのに、シンシアも大変だったよね。言葉も上手だし、いつこっちに来たの? あれ、でも家族がいるって言ってたわね。ってことは、ご両親もいっしょに異世界に来たってこと?』

「……?」

「ん?」

 

 ナナホシは笑顔で首をかしげた。

 

「なんて言ったの?」

 

 私がそう訊くと、彼女の表情はちょっとだけ曇った。

 よく見ていなければわからない程度に。

 

「あなたはいつこの世界に来たの、って、訊いたんだけど」

「世界って、なに?」

「私たちがいる所のことよ」

「ここ? 空のお城よ?」

「そうじゃなくて……」

 

 ナナホシは急に突き放されたように不安そうに説明してくれた。

 視野の外をどこまでも続く地上と空と海、あらゆるものを内包した総称が、世界。

 私は新しい概念を知った。前世は意識もしなかったことだ。

 昔は、目に見える範囲の外に思いを馳せることなど無かった。

 転移魔法陣の存在を知り、村から遠く離れた場所や他の大陸を実際に見たあとである今なら、意味も理解できる気がする。

 

「話は後にしろ。もう出発したい」

 

 オルステッドのそんな言葉で、ナナホシは話を打ち切らざるを得なかった。

 オルステッドは空中城塞に長く居たくないようだ。

 ペルギウス様は優しいからちょっとくらいのんびりしても許してくれると思う。

 あまり仲良くなりたくないのかしら。

 

 

 ケイオスブレイカーは、重要な部屋ほど地下にある。

 転移魔法陣の間も、地下にある。

 

 ペルギウス様が励起することによって城の魔法陣は使用できる状態になるらしい。

 よって転移魔法陣による移動は、ペルギウス様の立ち会いのもとで行われる。

 

 床の魔法陣の模様が青白く光る薄暗い部屋で、オルステッドとナナホシが魔法陣の上に立った。

 

「お世話になりました」

 

 と、ナナホシがぺこりと頭を下げたのにならう。

 別れる前に可愛がってくれないかしらと近寄ってみたら、ペルギウス様は頭を撫でてくれた。

 

 それにしても、ナナホシが同郷……。

 話は後でと定めたものの、やっぱりお互いを気にしてしまう。

 

 部屋に据えられた、花崗岩をくり抜いたような機械を操作しつつ、ペルギウス様が言った。

 

「異世界の娘に、異能の童女。大したものだな。オルステッド、貴様の後宮は」

「俺と彼女達は、そういう関係ではない」

 

 後宮ってどういう意味だろう。

 そういう関係ってどういう関係だろう。

 

 ペルギウス様のからかうような視線、オルステッドの生真面目な否定を加味し、妾のことかな、と思う。

 雅な言い方をされるとむずかしい。

 でも、それなら、こういうときは冗談で返すものだ。

 ペルギウス様とて本気でそう思っているのではないのだから。

 今のは、仲良くなるためにポンと投げかけられたボールなのだ。

 それを打ち返さなかったら、面白くない奴だと思われてしまう。

 

「ふん、冗談に決まっておろうが」

 

 案の定、ペルギウス様は面白くなさそうにした。

 ペルギウス様の横にいた私は、ちょっと背伸びをしてトントンと彼の腕を叩き、こちらに注目してもらった。

 

「ペルギウス様、見ててね」

「うん?」

「ニャン☆」

 

 頭の上に猫の耳のつもりの手を立て、パチッと片目をつむった。

 ボレアス直伝の獣族のまねっこである。

 

 妾といえば、男女の目合(まぐわ)いありきの関係である。

 それっぽい色を帯びた仕草はわからないので、代わりに可愛らしい仕草を披露した。

 転移事件の前日、兄の誕生会を開いたボレアス家にお呼ばれした時に仕込まれたのだ。

 初めは、ほろ酔いになったフィリップさんが、娘のエリスさんに要求した。

 彼女は「恥ずかしいから嫌よ!」とこばみ、「この子にさせればいいんだわ!」と私を前につき出した。

 私はやった。たいへん好評であった。

 そのあとで祝宴で楽しくなったエリスさんもニャンニャン☆とやったので、ほどなくフィリップさんの寵愛は従姪から実娘に移ったが、細かく指定された仕草はまだ憶えている。

 

「グレイラット……」

 

 私の名字をつぶやいたペルギウス様の眉がひそめられる。

 失敗かしら。

 

「……ボレアスの系譜だったのか!」

「親戚にゃん」

 

 どうしてわかったニャン。

 渾身の可愛らしい仕草に、ペルギウス様は爆笑まではいかなくても、フフッと笑ってくれた。

 

「さあ、お前も魔法陣の上に立て。行き先はガスロー地方だ。あんな辺境に何の用があるか知らんが……あそこはアトーフェラトーフェの縄張りだ。万が一にもないと思うが、関わり合いになるな」

 

 うん、と私は神妙に頷いておいた。可愛い仕草はやめた。

 

 アトーフェラトーフェ。

 ペルギウス様は過去の冒険譚も話して聞かせてくれた。その中で、何度か出てきた名前だ。

 死なない種族の女魔王で、手の施しようのない馬鹿で、ペルギウス様とはとても仲が悪いらしい。

 彼の今は亡き親友が娶り、子供も生まれたが、それで打ち解けるかといえば全くそうでもなく。

 カールマンは女の趣味が悪い、とペルギウス様は不満げだった。

 何百年も前の出来事らしいのに、つい最近あったことのように新鮮な愚痴であった。

 

「絵、ずっと大事にするね。村の人たちのことも、助けてくれてありがとうございます」

 

 布で包まれた小さな絵を抱きしめる。

 最後に私の頬を撫で、ペルギウス様は機械に向き直った。

 

 私もオルステッドの横に行く。

 

「何だ」

 

 銀髪がひと房垂れた横顔を見上げていると、ギロッと睨まれた。

 いや、普通に見下ろされただけだ。顔が怖いからといって、何でも悪く受けとったらいけないのだ。

 

「えっとね、この絵……」

「……」

「……オルステッドがかわりに持ってくれる?」

 

 私が持つと絵画はあらゆる危険に晒されてしまうだろう。

 鞄ごと落として額が欠けてしまったり、川を渡るときに水没させてしまったり。

 私はもう七歳だから、トウビョウ様の力を使わずとも、先の想像をできるのだ。

 

「ああ」

「ありがと!」

 

 オルステッドの了承がとれた。

 私は喜んでオルステッドのマントをバサッとまくり、マントとコートの間に潜りこんだ。

 マントに隠れて見えないが、実は、ロースラング・ベルトの背中側に鞄が付いているのだ。

 

 丈夫な竜皮製の鞄の、金属の留め具を外して包みを入れる。

 これでよし、と鞄をぽふぽふ叩くと、ぐっと首根っこをつかまれてマントの下から引きずり出された。

 

 ひえ。

 怒られる?

 

「ま、まだ鞄閉じてないのよ」

「俺がやる。貴様は大人しくしていろ」

「……いやだったの?」

 

 野営の時など、ベルトから外して木陰に置いた鞄を指し、あれそれを取ってこい、と言われることがあった。

 鞄には私が手をつけても構わないと思っていた。

 

「……嫌……ではないが、驚く」

 

 ごめんね。

 

「く……」

 

 ペルギウス様がオルステッドを見て笑うのを堪えていた。

 片手で口元をかくし、無表情を作ろうとしている。しかし笑いは鳩尾の奥におさまりきらず、喉をひくひくと痙攣させているという具合だ。

 野放図に笑いを爆発させないのは、オルステッドを恐れているせい、と、こっそり私は想像した。

 

 ペルギウス様の格好は、肩と胸当、腕当に篭手に腰当に……と、重装備だ。いつでも戦争に行けそうな格好なのである。

 立ち姿からして、生前、黒い軍衣を着て清にやられた村の若い男たちより、はるかに強そうだ。

 城によそ者が私とナナホシしかいなかった時は、もっと軽装であったから、対オルステッドに備えた格好に思えて仕方ないのである。

 無骨一辺倒ではない、装飾の施された鎧はペルギウス様によく似合っていた。

 

「それでは、送るぞ」

 

 持ち直したペルギウス様の声が聞こえ、視野がふっと白に埋め尽くされた。

 

 

「はっ!」

 

 気がついた時には、黒である。ふわふわと青白い粒子が足元を漂っていたが、じきに消え、真っ暗闇に戻る。

 遺跡の閉塞とした暗さは、もう慣れっこである。

 ゆえに恐ろしくはないはずなのだが、やっぱりちょっと苦手だ。私はナナホシの手を握った。握り返された。

 

 壁から、刃物で縦に裂いたような一直線の光が漏れ入った。

 オルステッドが出口を塞いでいた厚い岩戸を動かしたのだった。

 光の幅は徐々に広くなり、強い陽光の中できらきらと舞う砂埃は、ベガリット大陸の砂漠を初めて目の当たりにした時と同じ感覚を私にもたらした。

 はるか遠く離れた秘境に来てしまった予感である。

 

 オルステッドは、先に外に出た。

 ナナホシと私も出た。

 

「まぶしい」

 

 ベガリット大陸を彷彿とさせる眩い強い陽光である。私は上着のフードをかぶった。

 見渡すかぎりの岩棚だ。大峡谷である。砂漠ではない。

 せり立つのは、赤色に白いぐにゃぐにゃとした横線が混じる生肉のような岩だ。

 峡谷の、谷底にある遺跡から、私たちは出てきたのであった。

 目の前には、とても細い、いまにも枯れてしまいそうな川がある。

 両側は険しい崖であり、苔のような緑が、ところどころに、申し訳なさそうにへばりついている。

 

『グランド・キャニオンみたいね……。私は写真でしか見たことなかったけど』

「そうね……?」

 

 ナナホシが感嘆のため息をつき、何か言った。

 意味はわからなかったが、同意を求められてそうな感じだったので合わせた。

 人間語を覚えるにつれ、その不思議な言語は喋らなくなっていったのに、ナナホシったら、どうしたのだろう。

 

「首につけろ」

 

 オルステッドに黒い魔石の埋まった金属の輪っかを渡された。ナナホシもだ。

 

「瘴気の谷を行き来する種族が使う魔道具だ。毒素を吸い込むことで起こる身体障害を無効化する効果がある」

「私たち、ここに来て大丈夫?」

 

 ナナホシが不安そうに周囲を見回す。

 そんな道具を渡されるということは、ただ息をしているだけで弱る区間が近くにあるという事だろう。

 

「一応だ。お前たちは体が弱いからな」

 

 オルステッドが強いだけだと思うのだが、つい最近まで病人だった身としては反駁の言葉もない。

 

「毒ない?」

「ああ。この一帯は問題ない」

 

 どうやら、本当にただの用心であるらしい。

 首輪の直径は、頭より小さい。どうやってつけるのかしら。

 クルクルひっくり返して眺めていると、ナナホシがカチッと輪を開いて首に嵌め、うなじで留めた。

 輪に継ぎ目があり、そこを外して付けられるようになっているみたいだ。

 

「オルステッド、開けてください」

 

 引いてみて、押してみて、固かったのでオルステッドに渡した。

 オルステッドは「そんな事もできないのか」とも読み取れる顔をしたが、継ぎ目を外してくれた。

 オルステッドがちょっとかがみ、手が首にまわる。

 つけるのは多分自分でできるけれど、オルステッドがやってくれた方が早いと思うので、任せた。

 

 そういえば、私はいま、髪を結んでいないのだ。

 継ぎ目を閉じるときに巻き込んでしまわないだろうか。

 

「待ってね、髪の毛あげるから──」

 

 言い終わる前にカチリと首輪が嵌り、

 

「いたっ、いたい!」

「む?」

 

 首輪が外される。

 

「髪はさまった……」

「それだけか?」

「髪の毛ってね、ひっぱったら痛いの」

「……」

「やめて!!」

 

 フードを剥かれ、髪をグシャッと掴まれた。

 村の男の子にもされたことのない凶行である。

 撫でてもらえるのかな、と一瞬期待したのに。なんで?

 

「いじめっ子みたいな事はよしなさい!」

 

 ナナホシが止めてくれた。

 口調がややシルヴァリルさんみたいになっているのは、彼女から言葉を学び直した影響だろう。

 急に痛いうえに怖い目にあわされて怯える私を解放し、オルステッドは自分の手と私を見比べ、言った。

 

「弱いな」

 

 人に痛いことしたらごめんなさいしてね……。

 

 訊くと、オルステッドは人の髪を胸ぐらの次に掴みやすい部位だと認識していた。

 発想がやくざものくらい物騒である。人に可愛がられたこととか、ないのだろうか。

 そんな感じゆえ、髪をちょっと引かれたくらいでは痛みはないと思っていたらしい。

 特に私はトウビョウ様の力を使えるから、呪殺の印象に引き摺られて、からだも普通の人族より頑丈だと思っていたみたいだ。

 旅の道程で判明した力の弱さや、病に罹患したことで、そうでもないなと考えを改め始めていたそうだが。

 

 

「魔物を避けて通る道筋は見えるか?」

「うん。こっち。とっても細いから気をつけてね」

 

 ともあれ、人里を目ざして進んでいく。

 ナナホシと私はオルステッドに運ばれた。懐かしのおんぶと抱っこである。

 

 

---

 

「あら、こんな所に人の石像あるよ」

「危機迫った感じの迫力ある像ね。何でこんなところにあるのかしら」

「石化ブレスを浴びた冒険者だろう。バジリスクの仕業だ」

「本物の人ってこと……?」

 

「オルステッド、そっち通ったら魔物いるよ」

「遠回りで面倒だ。突っ切る」

「シャアアァァ!」

「超早いデカい白蛇!」

「だから言ったのに!」

 

「きゃあ! 烏かと思ったら翼竜!」

「ブラックドレイクだ」

「なんか水おちてきた」

「ドレイクの爪の毒腺から分泌された毒液だ。舐めたら死ぬぞ」

「……ぉわ……」

「はやく拭き取れ」

 

「ねえ、ちょっと寄っていきましょうよ。綺麗な湖よ」

「ナナホシ、でも、あそこ怖いよ」

「レイクウォーターバグだ。粘液で池に擬態し、水を飲みに来た獲物を喰らう」

「……」

「……行こっか」

 

---

 

 

 魔物の凶悪さも規模も中央大陸と桁違いだ。

 ベガリットよりも過酷な環境ではなかろうか。

 

 遭遇するのは、魔物だけではない。狩りをする集団や、単独で旅をしているらしい人もいた。

 道中行きあった人……人? たちとは、かなりの確率で戦闘になった。

 中央大陸にいた頃は、オルステッドに遭遇した人はみんな這う這うの体で逃げていったが、ここ、ガスロー地方では、果敢に襲いかかってくる人が多い。

 まるで武士みたいだ。本物の武士は見たことないけれど。

 

 髪や肌の色が妙なのはまだ大人しいほうである。

 中には、トカゲや虫が巨大化して二本足で歩いているとしか形容できない、人かどうか怪しい者もいた。

 私にはわからないけれど、言葉を喋っているから、たぶん人だ。

 オルステッドによると、彼らが喋っているのは魔神語である事が判明した。兄が学んでいた言語である。

 

 私が何かするまでもなく、武士たちはオルステッドに倒された。

 そうして、オルステッドの健脚で、半日ほどで町に到着したのだ。

 

 

 聳えるのは、黒鉄の市壁である。

 壁……と、言っていいのだろうか。

 町を守るのは、外向きにつき出た六角柱のトゲの集合体なのである。研磨前の群晶のような形状だ。

 水晶のような透明度はなく、黒い鉱物はぎらぎらと照る日輪の熱を吸収して、驚異的な熱さであった。

 

 立派なものだと、煉瓦や石。粗末なものだと土塁。紛争地帯の村だと木の柵を見てきた。

 これは今まで見た中で、一番頑丈そうな防壁である。

 オルステッドが私たちを抱えて登るのは厳しい。

 三人で門の前まで移動した。

 

「ヒッ! ──、────!」

「────!?」

 

 黒鎧の二人組が、手に持った槍を交差させ、オルステッドを阻んだ。

 一人は暗緑色の肌に、赤い虹彩の目が両頬と額にもついた魔族。

 もう一人は、土色の肌に毛髪無く、眉毛も無く、つるりとした四角い頭に二本の角が生えた魔族。

 

 どちらも容姿が人族とは大きく異なる。

 世の中には魔族という種族が存在することは知っているから、今さら妖怪だ化生だと警戒することはない。

 でも、髪が青色で見た目が若いだけだったロキシーやロイヒリンさんと、額に三つめの目があるだけだったベリトの祖母と比べると、異形度は高い。

 ついジロジロ眺めそうになってしまう。

 ひとを不躾に眺めたらいけません、と母様に言われているので、堪える。

 

「行け」

 

 門番であろう彼らを余裕の面持ちで押さえ込み、オルステッドは入国を促した。

 今回もオルステッドは町の中までついてこない。町での用事は、私に託された。

 迎えは明後日である。

 

「いってきます!」

 

 ナナホシと共に門を潜って町の中へ。

 遠目に見えた、黒色の城を見上げる間もなく、客引きに囲まれた。

 魔神語がわからないので意思疎通はできないものの、その勢いと押しはすさまじいものであった。

 

 

 


 

 

 

 身振り手振りで訴え、食事付きの宿を借りることに成功した。

 割高な気がするが、オルステッドから不自由はないほど十分に渡されているので、ゾルダートさんに教えられた値切り交渉はしなかった。

 そもそも、値切ろうにも魔神語を喋れない。宿を確保できただけでも上等だ。

 

 石のベッドに、あまり清潔ではないが毛皮の掛布もある。

 部屋の隅の水甕の水は少々古く、虫が浮いていたので、新しく入れ替えた。

 こういう時に水魔術は便利だ。

 

「シンシア、お願い」

「はーい」

 

 火魔術もべんり。

 ナナホシが背嚢から取りだした蠟燭を、備え付けの燭台に刺した。

 火を灯せば、日が落ちはじめ、薄暗くなった部屋が橙色に明るむ。

 

 明かりを得てから、泥棒対策に鎧戸をしっかり閉めた。

 

『さてと』

 

 ナナホシが硬いベッドに腰かけ、私を横に呼んだ。

 

『移動中にいろいろ考えたの。これまで考えなかったことをね。

 語彙が少ないと思考まで幼児みたいになるから、最近はようやく思考が自分の年齢に追いついてきた感じ』

「えっと……」

「まず、シンシアは、ここが異世界だってこと、わかってなかったのよね?」

 

 ナナホシがわかる言語を喋ってくれた。

 わからない言葉も、あった。

 

「い世界?」

「別の宇宙……って言うと、わからないよね。

 私と、多分、シンシアのお父さんかお母さん、それかおじいちゃんかおばあちゃんが生まれた所──地球っていうんだけど、地球上のどこにもない土地や海を、異世界って言うの。ここは、私にとっては、剣と魔法の異世界なのよ」

 

「こっちの人たちには、地球のほうが異世界だけどね」と、ナナホシは腿の上で重ねた手を組み直した。

 

「私はね、地球の『日本』っていう国から来たの。

 シンシアは、私と違って魔術も使えるし、この世界に両親もいる。

 オルステッドは、私とあなたが同郷だって言ってたけど、正確には、私と、シンシアに地球の言葉を教えた人が同郷なんじゃないかって、そう思ったのよ」

「地球の言葉……」

 

 それって、私の前世の言葉だと思って間違いないのかな。

 だとしたら、今世の両親からも、会ったことがない祖父母からも、教わっていない。

 私が生まれた時から知っていた言語だ。

 

『わたしの(めぇ)の名は、チサ。小森チサじゃ。

 先祖に、大日本からきよったんはおられん。ききょうたこともねぇわ。

 わたしゃ祟りでおえんようになったけえ。成仏もできん。ぼうっとしとったら、おっ母にえぇげにうんでもろうたんじゃ』

「うん……言われてみれば、日本語……かも? 訛りがかなりきついわね。どこの方言かしら」

 

 やっぱり、ナナホシに意味は伝わらなかった。

 私の前世の名前と、先祖に日本人はいないこと、それから前世で死に、今世の母様の子として生まれたこと。

 それらを人間語で言い直すと、ナナホシは「え?」とあてが外れた顔をした。

 元日本人同士なのに、共通語が自分の母国語ではないことに、ナナホシはもどかしそうだ。

 私はもはや人間語のほうに親しみがあるから、人間語でも、日本語でも、どちらもいい。

 

「シンシアは転生ってこと?」

「転生……そうよ。うーんと、こっちの……異世界? に、転生したの」

「ってことは、本当は何歳なの? 生まれはどちら?」

「7歳で、フィットア領のブエナ村」

 

「そうじゃなくて」ナナホシは私の頭をぽふぽふ撫でながら言った。「前世の年齢も入れると、ってことよ」

 

 そういうことなら。

 ええと。

 

「チサが20くらいで死んだから……20たす7で、27!」

 

 にじゅうななさい。

 母様と同じくらいの年だ。

 母様の子なのに、母様と同じ年……?

 

 ちょっと考えられない。

 自分と母様の年が同じだと思ったことがない。

 チサが数えで二十年近く生きても、シンシアは七歳である。

 いや、前世と今世で年齢の数え方が異なるから、数えで二十は、こっちの十九で……。

 

「わたし26歳っぽい? 大人?」

「ううん、全くそんな感じはないけど……。まあ、転生だし、からだに精神が引き摺られてるのかもね」

「前の生まれはね、美作よ。岡山の」

「へえ、美作市」

「美作国よ」

「ん?」

「美作の苫田郡の、名前は忘れちゃったけど、ちっちゃな村」

「古風な区分するわね……?」

 

 そのとき、部屋に、食事が運ばれてきた。

 文化の違いか、ノックはない。乳房が三つある赤い肌の女が、いきなりバーンだ。

 彼女はベッドに座る私とナナホシの膝に椀を置き、毛皮を指さして強い剣幕で何か言い、部屋を出ていった。

 毛皮を汚さないでね、という意味のことを言われたのだと思う。

 

「チサさんって呼ぼうか?」

「やん。他人行じは寂しいよ」

「それを言うなら、他人()()ね」

 

 くすくす笑っていたナナホシの表情が、椀の中身を見て凍った。

 私も木をくりぬいた椀の中身を見た。

 赤い汁に、ごろっと肥った芋虫が浸り、笹の実のような粒が浮いている。

 虫食は久しぶりだ。見たことがない芋虫だが、魔大陸固有の種類だろうか。

 

「いただきます」

「正気!?」

「なにが?」

「だって、虫よ? もしかして、前世からゲテモノ好き?」

 

 虫ってゲテモノだろうか。

 蝗も蜂の子も前世ではごちそうだ。

 

 そう思いつつ、匙で一口。

 汁の雑味が強いけれど、変な味はしない。

 二口めで、舌に衝撃が走った。

 

「……ッ」

「ど、どうしたの?」

「か、から……」

 

 からい。

 舌が! くちびるが!

 

 水筒を持ってきて、ぐいーっと飲み干す。

 舌のびりびりした痛みが落ち着き、息をついた。

 

「ふぅ」

 

 ちょっとくらい辛いから何だというの。

 食べ物があるだけありがたい。私は全部食べ尽してやる。

 ナナホシは汁だけをちょっと飲み、やはり同じように水を無言で煽った。

 ナナホシの水筒に新しい水を満たしてやり、私は良い事を教えてあげた。

 

「芋虫もいっしょに食べると、からいのマシになるよ!」

 

 携帯食は持っているが、野営で獲物が手に入らない時のための非常食である。

 目の前には、見慣れないとはいえ、できたての料理がある。

 非常食の出番ではない。

 ナナホシは長い葛藤の後、きれいに完食したのだった。

 

 

 

「うう……虫が、虫が……」

「大丈夫?」

「秋刀魚が食べたい……」

 

 宿をウロウロし、見つけた厨房っぽいところに食器を返却してくると、ナナホシが部屋でぐったりしていた。

 私は体験したことはないけれど、食べ物があわないと、お腹を壊す人もいるらしい。

 ナナホシの腹に成功率の低い解毒魔術をかけてあげた。

 

「よしよし、いい子ね」

 

 涅槃の姿勢で横になったナナホシの胸まで毛皮をかけると、

 

「話の続きをしましょ」

 

 綺麗な黒髪がふわっと揺れ、ナナホシは起き上がった。

 そうだった。食事で中断したが、お互いの()のことは、まだ全然話せていない。

 

『シンシアって、私の言葉、わかってないよね?』

 

 私の名前だけ聞き取れた。

 ナナホシは異国語のような日本語を、人間語に直してくれた。

 

「わかんない。どこの言葉?」

「ごく普通の、標準語よ。前世は20よね? こういったら失礼だけど、かなり田舎のほうで育ったにしても、テレビとか、学校の教科書で、標準語は聞くでしょ?」

 

 ナナホシの口ぶりからは、彼女の常識では、学校に通うことが当たり前である事が伺い知れた。

 やっぱり、私が彼女に初めて会った時に思ったことは間違っていなかった。ナナホシは分限者の娘だ。

 それはそうと、またも知らない言葉が出てきた。

 

「テレビってなに?」

「えっ、テレビ、無いの?」

「うん。学校も行ったことないよ」

「あ、そうなんだ……。その、病弱で、ずっと入院してたの?」

「入院!?」

 

 とんでもない。そんな怖いことするものか。

 あそこでは、生き血を抜かれ、肝を取られるらしい。

 その証拠に、虎狼狸(コロリ)に罹って避病院*1に連れていかれた人は誰一人として帰ってこなかった。

 避病院に身内を取られないように、役人が来ても巡査が来ても、みんな必死で病人を隠したものだ。

 ひとたび摘発され、虎狼狸患者を連れていかれた後は、真っ白な消毒液を家の周りに撒かれるから、近所には誤魔化しようがないのだったが。

 私が憶えているのは明治二十八年の大流行だ。

 チサが生まれた翌年にも流行ったそうだが、そちらは憶えていない。

 

 ナナホシは分限者の娘だ。富豪の子なのだ。

 きっと彼女の知る入院は、もっと良い安全な環境なのだろう。

 互いに見てきたものが異なるだけなのだ。

 それなのに大袈裟に驚かれたら、お前は非常識だと言われているようなものだ。ナナホシはいやな気持ちになる。

 

「十四のときに歩けなくなったけど、医者にかかるお金はなかったもの。ずっとお家よ」

「へえ……」

「あ、お母たちは真面目に働いてたよ。私の面倒もよく見てくれたの。人の恨みも買わない、いい人たちよ。でも、うちは小作人だったから」

 

 こうして誰かに前世の話をするのは初めてだ。

 思い返すことは度々あったものの、実際に口にすると、心持ちまで当時に帰っていくようだ。

 私、シンシアの人生は、チサが柱の(かし)いだ茅葺き屋根の下で、囲炉裏のそばに敷いた布団の中で見ている夢ではないか。

 そう思ってしまう。

 

「昔からそんなに貧乏だったわけじゃなくてね、私の……チサの生まれる前は、小さいけど土地持ちだったらしいの。家に、古いけど、畳もあったもの。

 ほら、むかし、地租改正ってあったでしょ?」

「ええ、明治初期の政策よね。日本史でやったわ」

「私が生まれたのは、もともと豊作の年のほうが珍しい村だったから、地租が払えなかったんだって。それで、持ってた田んぼも手放さなきゃいけなくなって、小作人になったのよ」

 

 ナナホシの家は、きっとうまくやったのね。いいなあ。

 という言葉を飲み込む。

 私はトウビョウ持ちの家の子だから、人を羨んだり、妬むことがあっても、態度や口に出してはいけない。

 その後、相手に良くないことが起こると、うちがシソを飛ばしたせいだと思われるからだ。

 

 いいえ、それは、チサの境遇だ。

 私は前世からのトウビョウ使いではあるけれど、グレイラット家はトウビョウ持ちではない。

 人を羨むくらいなら、してもいいのだった。

 

「何にせよ、嬉しいわ。シンシアが、私と同じ日本人で」

「私も!」

 

 私たちはぎゅっと手を握りあった。

 実は今となっては、私はアスラ人の自覚のほうが大きいのだが、人の歓喜に水は差すまい。

 そして私は、ナナホシの言った〈異世界〉の意味をもう一度よく考えてみた。

 大日本帝国があるのが、地球という世界である。

 そして、アスラ王国は地球にはない。アスラどころか、ラノアも、ベガリット大陸も、魔大陸も。

 ここが、異世界という場所だからだ。

 

「転移魔法陣でも、海を渡っても、大日本には行けないってこと……?」

「大日本? ええ、まあ、そういう事になるわね。でも、オルステッドが自分の用事のついでに、帰る方法を探してくれるそうよ。すぐ見つかるといいけど」

 

 そうなのか。知らなかった。

 オルステッドは、ナナホシには特に優しい。

 私も優しくしてもらいたい。

 

「もし帰る方法が見つかったら、私もついて行っていい?」

「もちろん! 一緒に帰りましょう」

「お母と婆やんたちに、目明きで、歩けるようになったこと教えたいの。目は青くなっちゃったけど、話せばチサだってわかってくれるもん」

「ええ。きっと喜んでくださるわ」

 

 墓前での報告になるだろうけれど。

 それだけじゃない。知りたいこともある。

 

「露西亜に勝ったか負けたかも、気になるよね!」

「ロシア? 何かあったかしら? オリンピックはもう終わったわよ」

 

 おりんぴっく。また知らない言葉だ。

 ナナホシはとぼけているのではない。本当にピンときていないようだ。

 そんなはずはない、と思う。

 戦勝続きのお国は、戦況を大々的に報せていた。

 臥薪嘗胆の流行り言葉だって、小学校に通えない私ですら知っていたのだ。

 ナナホシも知らぬはずがないのだが、よっぽどの箱入り娘だったのだろうか。

 

「露西亜と戦争してたでしょ、三十七年から。

 ナナホシには、出征なさった兄さんや親族はいないの?」

「出征……」

 

 紛争地帯の村の悲惨な光景を見たあとだから、勝ってたにせよ素直に喜べない。

 それでも勝敗は大事なことだから、知っておきたいのだ。

 負けていたら、昔視てやった、依頼人の出征した息子の戦死は無駄になってしまう。

 

「待って」

 

 ナナホシは口元を片手で覆った。

 どうしたのだろう。

 

『……三十七年、日露戦争……?』

 

 墨色の瞳は、訝しげに、何かを思い出すように斜め上を向く。

 視線が私に定まったとき、知性ある瞳には確信と疑惑が宿っていた。

 ナナホシは、慎重に、ためらいがちに訊ねた。

 

「あなたの前世って、年号はなにの、何年生まれ?」

「明治の十八年よ」

『……なんてこと』

 

 ナナホシは顔ぜんぶを両手で覆ってしまった。

 同時に、燃え尽きた蠟燭の火が消え、部屋から明かりが落ちたのだった。

*1
伝染病を防ぐ隔離施設。急拵えの施設であるため医者も看護婦も不足しており、患者の多くはろくな手当を受けられず亡くなった。





長いアンジャッシュでしたね。


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三九 転移の代償

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皆様ありがとうございます。




 ナナホシ・シズカ。

 日本語で書くと、『七星静香』である。

 手帳に書いた字を見せてもらったが、人間語と比べると、全体的に角張った字面だ。

 私の生前の名前『小森チサ』も書いてもらえた。

 まさか死後にチサの名の字面と書き方を知ることになるとは。

 もちろん、人間語では、ナナホシの名もシンシアもチサも書ける。

 日本語の字では初めてである。なかなか感慨深い。

 

 そうして、ナナホシはお国ではお姫さんでもないし、家は分限者でもないらしい。

 彼女の居たところでは、女でも、読み書き算術をひと通り身につけるのが普通なのだそうなのだ。

 

 ナナホシは、なんと平成という時代から来ていた。

 生前の私の死後、百年以上経った時代らしい。

 

 つまりナナホシは未来人。

 彼女から見れば、私は過去の人。

 百年も生まれた時代が異なる者たちが、こうして相対しているのだ。

 なんだか壮大な状況である。

 

「……」

 

 新たに灯した蠟燭に照らされたナナホシは浮かない顔だ。

 何か考え込んでいるようである。

 

 獣族のまねっこをすれば笑ってくれるかな。

 でも深刻そうな感じだし、そっとしてあげたほうが良いのかもしれない。

 ベッドのちょっと臭い毛皮の上をコロコロ転がりながら待つと、ナナホシはふっと顔を上げた。

 

「ちょっと聞いてほしいんだけど」

「はい!」

 

 しゅっと飛び起きる。

 張り切って起き上がったけど、難しい話だろうか。私にわかるかしら。

 

「あくまで思考を整理するためだから、まとまりのない、つまらない話になると思うわ。

 意味が分からなくても相槌だけ打ってほしいの。それだけでも、だいぶ違うから」

「わかった。聞いてるね」

 

 私の心配を見透かしたようにナナホシは言った。

 難しい話でも諦めずにちゃんと聞こうと私は思った。

 

「単純に考えると、こっちの世界での1年が、地球での15年に匹敵するかもしれない」

「そうなの」

「私がこっちに来てから、もう少なくとも、5ヶ月は経ってる」

「そうね」

 

 過ぎた月日を指折りかぞえる。

 そうか。もうそんなに経っているのだ。

 砂漠の大陸であるベガリットでほとんど三人きりで半月。

 雪に閉ざされたカーリアンで、冒険者たちに囲まれて賑やかに過ごした三ヶ月。

 私がうっかり病になってしまって、ケイオスブレイカーで療養させてもらった一ヶ月。

 バーバ・ヤーガのもとにいた三日間に、その他もろもろ移動にかけた日数をも入れたら、だいたい五ヶ月である。

 

「ナナホシって、いつアスラ王国にきたの?」

 

 ウィシル領の救貧院では七日間を過ごした。

 オルステッドが私を連れ出しに来たとき、ナナホシはすでにオルステッドと共にいたのだ。

 

「あぁ、確か、シンシアに会う七日くらい前よ。何もない更地で一人でさ迷ってたら、オルステッドに保護されたの。私が最初にいた場所は、フィットア領っていう所だったらしいわ」

「じゃあ、転移事件のすぐあとね。苦労したね」

 

 魔力災害で国や民衆が大変なときだ。

 ナナホシも災難だ。災害が起こる前であったら、人里にも頼れただろうに。

 

「そうね。行けども行けども何もなくて」

 

 ナナホシは言葉を不自然に区切った。

 過去を回想するように遠くを見ていた瞳が、現在に戻ってきた。

 

「シンシアは、転移事件の生き残り……なんだよね?」

「うん」

 

 ゾルダートさんたちには話していたし、あの町の冒険者たちには転移事件の生き残りとして同情される事もけっこうあった。

 その頃のナナホシはまだ言葉は完全ではなかった。

 オルステッドもペルギウス様もことさら触れてくることはなかったし、知らないだろうと思っていた。

 しかしナナホシは、憶えていたのだ。自分に馴染みのない言語で交わされた会話の内容を、である。

 すごい。

 

「無くなっちゃったけど、楽しいところだったのよ、ブエナ村! みんな親切でね、友達はやさしいし、小さい子たちもかわいいの。ほんとなら今ごろは牧草を刈る時期でね、こんなにおっきな鎌でやるのよ。研石で研ぎながら――」

「ごめん」

「あっ、ナナホシが話すんだったね。静かにしてるね」

 

 ついうっかり、話を逸らしてしまっていた。

 今はナナホシが話す番。そして私は相槌を打つ係だ。

 と、ナナホシの話を待ったのだが、様子が少し変である。

 

 初めての人を見るような顔をしていた。

 初めて、私がそこにいるのに気づいたような顔であった。

 私たちは何ヶ月もいっしょに過ごしてきたのに。

 

『……わたし、無理よ。そんなこと、責任持てない』

 

 ナナホシは私を見下ろし、途方に暮れた。

 

「ナナホシ? どうしたの、大丈夫よ」

「……あ、ああ、そうね。うん、私は大丈夫よ。ごめんね」

 

 ナナホシは自分の頬をぱちぱち叩き、気合いを入れた。

 水を飲み、息をついてから、言った。

 

「ふぅ……よし! 話を戻すわね。

 これは最近発見したことなんだけど、」

 

 ナナホシは鞄から小刀をとりだした。

 野営のときに、動物や魚を捌くのに使うやつだ。

 その用途で使ったことはないが、護身のためでもある。

 スティレットという種類の刃物で、刃を柄の中に収納できるので、持ち運びもしやすい。

 ナナホシは、掴みとった自分の毛束を、それでブチッと切ってしまった。

 

「わっ」

 

 さっき話を聞かなきゃと思ったばかりなのに、つい口を挟んでしまう。

 

「せっかく綺麗なのに!」

「そう? ありがと」

 

「でも、よく見て」と言われ、床に蟠る黒髪を凝視する。「そっちじゃなくて、こっち」

 

「元通りでしょ」

「あら……?」

 

 ナナホシは姫さんみたいに綺麗な髪をサラッとかきあげた。

 彼女の指のあいだを通る髪の中に、途中で無粋に落ちる束はない。

 

「髪、伸びないけど、切っても短くならないのよ。すぐに元に戻るの。爪もね」

「そうなの……」

「怪我をしたらどうなるのかも知りたいけど、そっちは試してないわ。傷がもとで病気になったら取り返しがつかないから」

「そうね。転んだ人の口に悪魔が飛びこむ、ってルーさんも言ってた」

 

「悪魔、ね」ナナホシはうんざりした顔を見せた。「未発達の文明では、破傷風の合理的解釈ではあるけど」

 

 破傷風ってなに? という言葉をこらえる。

 なんでも訊いていたらまた話が逸れてしまう。

 たぶん、私が罹患した病のことだろう。あのときの体の自由の利かなさ、苦しみは、何か悪いものに取り憑かれたとしか思えなかったのだ。

 

「私は単に新陳代謝が止まってるんじゃない。トリップする直前の時間軸で固定されてるんじゃないかって思ったの。だから、私がトリップした直後に、地球の時間も止まってるんじゃないかって……まあ、これは希望的観測ね。

 だけど、バカにできない説だわ。転移の私と、転生のシンシアでは、諸々の前提条件が違う。対照実験的な考察は成立しないのよ。

 私の状態は、まるで死人みたいだけど、空腹感はあるし、当然長いこと食べなきゃ動けなくなるし、排泄もするし、睡眠も必要。だから生きてはいるんだと思うわ」

 

 死人という言葉を確かめるべく、寝台に座るナナホシにぴとっとくっついて、顔を見あげる。

 蝋燭の火に浮き出る顔は、のっぺりとしていて、死者と生者の区別はつきにくい。

 おそらく私の顔も、ナナホシには同じように見えているのだろう。

 

黄泉竈食(ヨモツヘグイ)だと、黄泉の食べ物を口にすると元の世界には帰れないそうだけど、この場合は当てはまらないよね……」

「黄泉って、死者の国でしょ。ここは、違うよ。いろんな形のひとがいるけど、みんな生きてる人よ」

「うん。わかってる」

 

 ナナホシは私の肩に片腕をまわし、自分の方にひきよせた。

 私は素直に彼女によりかかり、ナナホシの独り言をきいた。

 

「〈私たちの世界の境界は、片側しかない線であって、内側から外につながる道など存在しない、そもそも、そんなものはありえんのだよ〉」

 

「ミハル・アイヴァスの『もうひとつの街』では」と、ナナホシは部屋の隅をじっと睨み、自分に向けて説明した。「図書館員にこう言われた後、主人公の〈私〉は、現実の街に重なって存在するもうひとつの街を、部分的にちらちら見るようになる」

 

 本の話かしら。

 その物語に、ナナホシは自分の現状を重ねているのか。

 

「本来は、違う世界は、交わることはない。でも、特例で、私たちはここにいる」

「ほかに来てる人はいないのかな?」

「ええ。異世界トリップが頻繁に起きる現象だとしたら、転移者や転生者のコミュニティがあるはずよ。オルステッドに訊いたけど、そんなのは無い、って。

 彼、ずいぶん長いこと生きてるみたいだけど、地球から来たのは、私たちが初めてだって。

 もしかしたら、私の友達二人も来てるかもだけど……今は、とりあえず、私とシンシアだけに起こった現象だと仮定しましょう」

 

 そういえば、移動中にそんな事を訊いていた。

 ナナホシって、やっぱり頭の回転が早い。私たちが同郷だと知って、もうそこまで思考を働かせていたのだ。

 

「ここは、『もうひとつの街』の異世界ほど、シュールレアリスムにみちた、わけがわからない世界じゃない。

 常識や衛生意識にズレはあるけど、言葉さえわかれば、変なことを言ってる人はいない。〈タイプライターの一部は、バッタの大群によってコーカサスへ運ばれた〉〈男と男の仁義なき戦いは、クローゼット内のうっとりするようなジャングルで繰り広げられている〉なんて、へんてこな講話もないしね」

「うふ。変なの」

 

 タイプライターというのは知らないが、クローゼットと、男の仁義なき戦いの妙な組み合わせはおかしい。

 ナナホシもくすっと微笑んだ。

 

「粗暴だけど、親切な人も多いわ。そこは幸運だった」

 

「この世界のことは嫌いじゃない。でも、もう帰りたいの」とナナホシは真剣になった。

 

「この世界から見ると、地球の時間の流れは激流のように早いのだとしても、その問題は多分クリアしてる。

 オルステッドとペルギウス様は、この世界でも指折りのすごい人たちよ。彼らに頼れば、世界を渡る装置を見つけて、帰る時代を指定することも可能になるかもしれない。

 ちょっと恥ずかしい妄想だけど――異世界人にしかできない務めがあって、それを果たせば帰れる、っていう伝説が、この世界のどこかに記されているのかもしれない」

 

 かもしれない、の多い話である。

 それだけ未知の領域であるのだろう。

 

「ナナホシは、お国に帰ったときに、浦島子みたいに知らないうちに何百年も経ってることがこわいの?」

「浦島子……ああ、浦島太郎のこと? そうよ。今のはそういう話」

 

「さすが昔話。この辺は通じるのね」とふむふむ頷くナナホシに、私は言った。

 

「ナナホシ。私ね、死んですぐ生まれたんじゃないの」

「詳しく教えて」

「周りのことはよく分かってなかったけど、しばらく、ずっと黒いところにいたの。地獄かもしれないわ」

「真っ暗な場所にいたの?」

「ううん、暗いのはちょっとちがう……。自分の体は見えてたから。だから、私は百年そこにいて、ナナホシが来る七年前に生まれたんじゃないかなって……」

「転生するまで、幽霊になってさ迷っていたから、私とシンシアの異世界トリップに百年の差はない?」

 

 ナナホシの言葉にうなずいた。そうだ、そう言いたかったのだ。

 あまり憶えていないから、私は幽霊だった、とはっきり言えないのがもどかしいところだけれど。

 

「そこで、川や海は見た?」

 ナナホシの質問に首を横に振る。

 

「光は? トンネル……井戸でもいいわ、上の方に光が見えて、そこに吸い込まれるような感覚はあった?」

「あった!」

 

 でも井戸は見えなかったよ、と付け足す。

 光に吸い込まれる感覚はあった。それは確かだ。

 

「シンシアのそれは、臨死体験じゃないかしら。実際に一度亡くなったわけだから、厳密には違うでしょうけど」

「りんしたいけん?」

 

 また難しい話だろうか。

 と、思ったのだが、ナナホシが「きれいな花や蝶を見たり、亡くなった肉親に手招きされたり……」と言ったとき、わかった。

 

「三途の川?」

「ええ。死にかけて蘇った人が、三途の川を見た、なんて言うでしょ。あれには臨死体験っていうれっきとした名前がついてるのよ」

 

 きれいな花や蝶。亡くなった肉親。

 そんなものはどこにもなかった。居なかった。

 あそこは、ただただ寂しい場所であった。

 

 ぞくりと寒気が走った。

 三途の川を見た人は、きっと極楽に行ける人たちだ。

 あれがあの世だとするなら、私のいた場所は、地獄……。

 

 私の恐怖を晴らすように、ナナホシは自信ありげに言った。

 

「医学的には、臨死体験は大脳のなせる業とも言われているわ」

「?」

「つまり、死後の世界は、死の苦しみから逃れるために、大脳が構築した至福のイメージってこと。あなたが見た黒い世界は現実にあったことじゃなくて、チサが亡くなる間際の夢ということになる」

「夢……」

「実際に死を体験した人から話を聞けるのって、かなりレアな状況ね。こんなときじゃなかったら、興奮してたかも。いや、真に受けなかったかもしれないわ。

 一説では、臨死体験をした人は、その至福感に、死を恐れなくなるそうだけど……」

 

 ナナホシはそう捲し立て、しまった、という顔をした。

 

「ごめんなさい。良い気しないよね、自分が死んだ時の話なんて」

「ううん。平気よ」

 

 思い出すと恐ろしく感じるだけだ。

 あそこが地獄であったと暫定しよう。

 実際に堕ちてみると、居心地のよい地獄だった。

 責め苦を与える獄卒の鬼はいないし、何人も呪い殺した私にしては、生ぬるい環境である。

 あら、でも、ナナホシの話によるとその地獄は私が作り上げた夢であって……。

 ううん、どういうこと?

 

 こんがらがってきたので、一旦考えるのはやめる。

 

「肉親はいなかったけど、光に吸い込まれる前に、男の人が見えたの」

「どんな?」

「えっと……怪我してた。あと、太ってた」

「……その人、ジャージ着たおっさんじゃなかった?」

「じゃーじ?」

 

 ナナホシが絵に描いてくれた。

 手首から足首まで覆える服装であった。野良仕事で虫だの泥だのから体を守れそうだ。

 

 そんなにくっきりと憶えているわけではないが、その肥った男はこんな格好だった気がする。

 という事を伝えると、ナナホシの表情に希望があらわれた。

 

「臨死体験の話、いったん忘れて!」

「えっ」

「幽霊だった説のほうが正しいのよ!」

 

 そうなの?

 その結論に至った理屈はわからないが、ナナホシは元気になった。

 

「よし……よし! トリップは同時なんだわ! よし!」

 

 ナナホシは立ち上がり、今にも踊りだしそうである。

 私も嬉しくなってきた。

 

「じゃあナナホシが帰っても、何百年も経ってないのね。よかったね」

「ええ。まあ、まだ分からないこともあるけどね。トリップした日は同じなのに、この世界で目覚めた日にはズレがある事とか。でも、ひとまず、安心したわ」

 

 とりあえず、ナナホシの悩みは解決したようだ。

 

 

 私も知りたいことがある。

 すとんと腰を下ろしたナナホシに、私は訊いた。

 

「露西亜には、勝った?」

「日露戦争は日本の勝利よ。終結したのは、明治38年の9月」

「ほんと!」

「……シンシアの前世が亡くなった後の日本の話、聞きたい?」

「聞きたい!」

 

 それから、ナナホシは教えてくれた。

 明治天皇は即位から四十五年目の夏に崩御し、年号は大正に変わった。

 しかし長くは続かず、わずか十五年で昭和という時代に移った。

 大正には関東大震災があり、昭和には戦争でお国が負けた。

 

 悪い話ばかりでもなかった。

 尋常小学校――後に名前は改められたが――は、ナナホシの時代には誰でも必ず通えるようになっていること。

 交易が発展して、食べ物が楽に手に入るようになったので、凶作の年でも人が飢えずにいられること。

 福祉も発展して、片輪や知恵遅れ、堕胎できず生まれてしまった赤ん坊も、働けなくなった老人でも、生きていてもいいこと。

 

 大正から昭和は、動乱と高度成長の時代である。

 災害や戦争で大勢が犠牲になったが、皆が豊かになった時代だ。

 六十三年と七日の長い昭和が終わり、平成の時代。

 そうして、ナナホシは生まれた。お姫さんでも分限者でもない、普通の家の子として。

 

『ぼっけえ、ええ時代じゃのう』

 

 飢えないこと。凍えないこと。

 これ以上の贅沢があるだろうか。

 その贅沢が当たり前の時代がきたのだ。

 

 三十三回忌の済んだ墓は忘れ去られていく。

 私が死んで百年あまり。婆やんの墓はおろか、お母とお父の墓も朽ちただろう。

 墓は既にない。跡地を憶えている人もいない。

 

 悲しいことだけれど、それを差し引いて余る豊かさを人が得たなら、仕方がないと諦めもつく。

 それとは別に、安心できたこともある。

 

「そんなに良い時代なら、きっと鬼も出ないよね。よかったあ」

「明治時代には、鬼が出たの?」

「悪いものはたくさんいたけど――」

 

 興味深そうにするナナホシに説明する。

 私が前世からある神様の使いであったことを言うと、ナナホシはちょっと顔を引き攣らせたが、真剣に聞いてくれた。

 怖がらせてしまうかもしれないので、呪殺のことは伏せ、せいぜい遠くの人を転ばせる程度だということにした。

 

「ずっとお家にいると暇だから、誰に頼まれたわけじゃなくても、先のことを視たりしてたの」

「へえ……。それじゃあ、私から聞かなくても、どんな時代が来るかわかったんじゃないの?」

「そんなにはっきり見えるわけじゃないの。それにね、ちょっと……怖くて」

「怖い?」

 

 うなずき、私は話した。

 教えられた年号に当てはめると、昭和の初頭あたり。

 細かい場所はわからない。しかし、苫田郡の村であると思う。

 

「チサは、鬼を視たの」

 

 お国が、また清と戦争をはじめた頃。

 恐ろしい鬼が、岡山で生まれるのだ。

 

「どうして鬼だと思うの?」

「角があったの。ぴかぴか光る角が、頭に二本。それで、胸も光るの」

 

 黒い軍衣に脚絆を締め、雑嚢を肩からかけている。

 猟銃に日本刀、匕首二本を携えた鬼だ。

 鬼は暗い夜道を駆ける。

 民家に忍びこむ。

 殺戮する。

 

 鬼は、白皙の青年だ。

 悪逆非道の所業だのに、一切の表情がない。それが怖い。

 

 死装束を縫うのに物差しや鋏は使わない。畳の縁を物差し代わりに布を手で裂くのだ。

 翌日の死装束作りは、よその村の女衆が駆けつけて手伝わねばならないほどの死者が出る。

 

「その鬼と、チサは、血が繋がってる」

 

 直系の子孫ではない。生前の私に子はいない。

 嫁いだか、奉公へいった姉しゃんたちのうち誰かの孫だ。

 トウビョウ持ちの血筋の子が、鬼へ転じる。

 それを知った時、私は自分の家系を視るのはやめた。

 

 今世では、体もこの通り別人だ。

 あの鬼と血の縁は切れた。

 

 藤原、都井、春日、……と、姉しゃんたちが嫁いでいった家の名を上げていく。

 鬼の名字はこのうちのどれかだと思うのだが。

 

「こんな名前の鬼が、昭和には出なかったかな」

 

 ナナホシは考え込んだ。記憶を探っているのだろう。

 

「……いいえ。そんな殺人鬼は現れなかったわ」

 

 その言葉に安心した。

 

「みんな豊かで、良い時代だものね。鬼も生まれないよね。

 よかったあ。やっぱり、チサの見間違いだった……」

 

 知らず強ばっていた肩やつま先の力を抜き、ナナホシにポスッと寄りかかる。

 あんな恐ろしいこと、誰にも言えなかった。

 凶事を未然に防ぐやり方もわからないまま私は死んでしまったから。

 でも、鬼は生まれなかった。何十人もの殺戮は起こらなかった。

 先見は外れていた。

 

「もし本当に起こったとしても、シンシアが気負うことじゃないわよ。だって……大甥くらい離れてるんでしょ? しかも、別の村の出来事なのに」

「そういうわけにもいかないよ。知らんぷりしても、村のみんな、身内だって知ってるもん。他人にはなれないの」

「ふーん。村社会ってやつかしら」

 

 村社会って、なに?

 知らない言葉の意味を訊ねると、ナナホシは教えてくれた。

 

「血や土地で人が繋がっていて、夕飯のおかずも、隠したい失敗も、みんなに知れ渡っちゃうような狭い社会のことよ」

 

 そんなの当たり前ではなかろうか。

 ナナホシからすれば、狭いのだろうか。

 

「ナナホシのところは違うの?」

「ええ。まあ、田舎にはまだ残ってるでしょうけど、だいたいの町では、近隣住民のことはそんなに知らないわ。お互いね」

「そうなの……」

 

 私の当たり前は、未来では当たり前ではないのか。

 みんなが他人な社会は、あまり想像がつかない。

 ずっと旅人でいるような感覚だろうか。

 今世の私の立場では、寂しいと思う。

 前世の私の立場だと、きっと気楽だ。

 

 

 色んな話をして、ちょっと疲れた。

 ナナホシはもう少しひとりで考えたいことがあると言う。

 思考の助けにはなれないと思うので、私は一足先に寝ることにした。

 

「おやすみ、ナナホシ」

「おやすみ」

「お家に帰る方法、がんばって見つけようね。わたし、手伝うから」

 

 チサの帰るところは無くなってしまったけれど、ナナホシにはあるのだ。家族に会いたい気持ちはよくわかる。

 帰る方法があるなら、手伝う。

 帰る方法がないなら、この世界で生きる基盤を用意してあげたい。私の母様と父様がしてくれたように。

 

「頼りにしてるわ」

 

 ナナホシの微笑みを満足して眺め、私は目を閉じたのだった。

 

 

 


 

 

 

 睡る女の子のやわらかい顔に、灯が(かげ)をつくった。

 気楽な顔で、まだ死んでいるようにも見えた。

 七年前に生まれたとはいえ、昔は死人だったのだ。

 シンシアは、生きていた時間より、死んでいた時間のほうが長い。

 生まれ変わり――それも異世界に――を果たした彼女は、前世は明治の百姓の娘で、チサという名であったらしい。

 

 ひとまずシンシアの背景を信じたナナホシは、しかし、自分がからかわれているのでは、と疑惑を捨てきれないでいた。

 

(どう考えても、昭和最大の大量殺人じゃないの!)

 

 頭で光る二本の角は、懐中電灯。

 胸で光るは、自転車用のランプ。

 黒詰襟にゲートル。地下足袋。

 猟銃。日本刀に匕首二振り。

 

 有名な〈津山三十人殺し〉の犯人像である。

 シンシアの言うことを信じるなら、彼女の前世が死んだのは明治三十七年頃。

 かの事件は昭和十三年。

 知るはずがない。

 

 幽霊として観測していたなら、「占いで視た」と言う必要はないはずだ。

 シンシアが嘘をついていないなら、彼女の予言は当たっている。力は本物という事になる。

 

(神様の使いって、ようは憑き物筋……って、ことよね。精神病を発症しやすい家系をそう呼ぶだけではないの?)

 

 ナナホシは、オカルトの類いはそこそこ好きだが、考え方は現実主義的であった。

 故にすんなりと受け入れることができない。

 しかし彼女の優秀な頭脳は、シンシアの発言に()()()()()()()()偽りなし、と訴えていた。

 

「情報量が多いのよ……」

 

 ただの子供なのに、背景は異常の一言につきる。

 生きた時代に百年以上の開きがあるばかりか、神様の使いを名乗る超能力者で、殺人鬼の先祖。

 同じ日本からの転生者であった嬉しさが吹き飛ぶ衝撃であった。

 

「隠し事は私もしてるし、詳しく聞けないけど」

 

 ケイオスブレイカーの滞在中。

 ペルギウスに告げられた言葉は、返しのついた棘のようにナナホシの心に突き刺さった。

 ――お前は、何者かの手によってこの世界に召喚されたのではないか。転移事件は、その反動で起きたのだろう。

 言われたときは、かくべつ後ろめたさはなかった。

 

 今目の前にいる子供が、転移事件の生き残りだ。

 それを思い出した時、ナナホシは異世界に来た興奮が冷めた気がした。

 その瞬間、シンシアは同郷の仲間ではなく、異世界トリップに支払われたものすべての代表としてナナホシの目には映った。

 シンシアが悲壮感に乏しいのが、かえって痛ましいのだった。

 

 もしも魔法の存在する異世界に行ったら、と平和な日常に飽きた中高生のありがちな妄想は、異世界の市井の人々の多大な犠牲によって叶えられた。

 誓ってナナホシはそんなことを望んではいなかった。

 ナナホシには見えない。しかし、確かにそこにある犠牲者の存在など、とても背負えない。

 ナナホシが選んだ行動は、

 

 ――……わたし、無理よ。そんなこと、責任持てない。

 

 逃避であった。

 

 異世界に来たのは、ナナホシが意図した事ではなくても、日本への帰還に協力してもらいたいのなら、正直に打ち明けるのが筋だ。

 裏腹に、知らぬなら知らぬままで良いのではないか、という小狡い思考も浮かんでくる。

 

「……どうしよ」

 

 ナナホシは深いため息をつき、ごろりと固い寝台に体を伸ばした。

 

 

 

 ナナホシはシンシアに二つの真実を告げなかった。

 ひとつは、己の保身のため。もうひとつは、シンシアのため。

 シンシアの口ぶりでは、生前のチサと、シンシアは、単に地続きの人格ではなさそうだ。

 前世の生涯を今世の年齢に加算せず、シンシアを前世の記憶をもつ子供とするなら、告げるべきではないと判断した。

 

 豊かになったところで、人は変わらないのだ。

 悪意や悪の芽は、終わらない。切っても除いても繁茂してくる。

 私だって、平和な時代に生まれたからといって、素晴らしい人間じゃない。周りも。

 誰でも少なからずそんな経験があるように、ちょっとした嫌がらせを受けたこともある。いじめを見ぬふりをした事もある。

 だって、いじめられっ子のことは、私もそんなに好きじゃなかったし……。

 でも、まだ、知るには早い。

 七星静香は、家では小学生の弟に合わせて「サンタさんはいる」ということにして、子供の夢を守ってやるくらいには優しい少女なのだった。




苫田郡は現在の津山市です。
もう何十年も前の事件ですが、被害者の方々のご冥福をお祈りします。


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四〇 ネクロス砦にて御愁傷

調整平均が8.98になってました。
いずれ変動するだろうとは思いますが最高記録が嬉しかったのでここに記録します。

おまけのイメージ画

ニャンシア ※AI絵

【挿絵表示】


手描きの元絵がこちら

【挿絵表示】

これをAI変換にかけるとああなります。最近の技術は素晴らしいですね。



 昨日のことを整理してみる。

 ここは外つ国ではなくて、異世界であった。

 さらに、ナナホシと私の前の故郷は同じである。

 私はもはやお国へ行く理由はない。でも、ナナホシは帰りたがっていて、私はそれを手伝いたいと思っている。

 それがわかったところで、すぐに何かできるというわけではないのが、もどかしい。

 

 とりあえず今やるべきは、オルステッドに言いつけられた用事を果たすことだ。

 

「行ってきます!」

「気をつけてね」

 

 ナナホシは宿で荷物番だ。

 いっしょに行こうかと申し出てくれたけれど、顔馴染みのいない旅先では、放置した荷物はまず盗まれる。

 宿の中でも安全とはいえないのだ。ゾルダートさんたちが言っていたことだ。

 

 だからひとりでお使いである。

 お使いの内容は、錆びた小さな鍵を、ある古物商に売ること。

 ただ同然の値段で買われるそうだが、大事なのは鍵が彼の手に渡ることなので問題ないらしい。

 

 

 路傍や露天商で交わされるのは、聞き馴染みのない言語。

 迷っても、人に道を訊ねることはできないから、宿への帰り道がわからなくなったら帰れなくなるのではないか。

 そんな不安を、首をぶんぶん振って振り払う。

 地図も描いてもらったし、きっと大丈夫だ。

 

 遠目に見える黒い城が、良い目印になった。

 おどろおどろしい感じのお城なので、ぼうっと空を見上げても目を惹くし、よく目立つ。

 ペルギウス様の書庫で読んだ、伝説の黒い(シュヴァルツ)カメロット城が現実にあったら、ああいう感じかもしれない。

 

 道行く人々の容姿は人族と異なっていて、屠殺され吊り下げられる動物が鶏や豚ではなく魔獣や大きな蜥蜴で、バルコンから男を誘う娼婦の化粧も異なる。

 しかし、見慣れた光景もあった。

 肉屋の周りをうろつく野良犬と、革を鞣すのに使う犬の糞を拾い集める収集屋。

 飲料の販売機の端につけられた台の上で呼び込む少年。

 ただし注がれる液体は濃い紫色で、ものすごい泡が立っている。何から作った飲み物だろう。

 

『上がっておいでよ、坊や。怖いのかい。弱虫。いいことを教えてあげるよ』

 

 男を見下ろし、誘う娼婦は、暗黄色の灰で掌と顔を染めていた。

 ああいう化粧が、魔族の好みなのだろうか。

 人族の娼婦は肌を陶器のように真っ白に粧っていたのに。

 眉と瞼のふちは黒々と描き、唇や頬は紅く彩られているのは、魔族も人族もいっしょだ。付け黒子は魔族にはない。

 

 女は、長衣の前をひろげ、ゆたかな乳房から陰部までをちらりとのぞかせて、すぐまた、おおいかくした。

 

 私の前を横切った魔族の少年が、ふらりと誘いに応じた。階段を登って娼婦の元へ行った。

 娼婦は一部始終を見ていた私にきつい視線をくれた。

 

『なに、見てんだよ。バカガキ。見世物じゃないんだ。あたしは、お前だよ。お前はあたしだよ。お前もいずれこうなるんだ。悔しかったら、自分のオヤジかアニキの一人でも連れてきてごらんよ』

 

 すごい剣幕で怒られた……。

 何を言ったのかわからないけれど、とても怒っているのは間違いない。

 暗黄色の顔の娼婦は、こちらに降りてまで詰ってくることはなく、窓をピシャリと閉めた。

 中からは、くぐもった喘ぎ声が響いてきた。

 

 私はとぼとぼと歩みを進める。

 広場では、歌う楽士たちの周りに人だかりができていた。

 

 

  人を殺した わけじゃない

  物を盗んだ おぼえもない

  ただ毎日が すばらしい

  祭りの続きで ほしかっただけさ

 

 

 異国のしらない歌が、手風琴の埃っぽい旋律と一つになって流れ、流れつづけ、私はいと小さきちっぽけなものになる。

 わけもない焦燥は、薄い刃のように皮膚を舐めた。

 歌が聞こえなくなれば、消失する感覚であった。

 

 容姿や化粧がちがうだけ。気候と食べ物がちがうだけ。言葉がちがうだけ。

 ちょっとずつ異なる。けど、人の営みはいっしょだ。

 だから、心細くなんか、ない。

 

 

 古物商の主人は、オルステッドに預けられた鍵を買い取ってくれたのだと思う。

 思う、と、確信がいまいち持てないのは、主人も魔神語しか話せなかったからだ。

 鍵は、石の銭二枚と交換された。

 オルステッドに渡された魔大陸のお金にはなかった硬貨だけれど、これも買い物に使えるのだろうか。

 

 肩にぱらぱらと小石が当たった。そっちを向くと、魔族の男の子たちが走り逃げて行くところだ。

 石銭よりも小さな豆粒のような石は、たいして痛くはない。

 足元に散った石を拾い、濁った水溜まりの中に投げた。

 

 視野を、礫が、ほとんど水平によぎった。

 水溜まりを飛び越えて落ちた。ふり向くと、民家の影から顔を出した一人と目があった。

 (はだえ)が熟した茱萸の実のように赤い魔族の子だ。

 たぶん、目があったのだと思う。

 白目と黒目が収まるべき眼窩に、蜻蛉のようなおびただしい小さな眼が並ぶ彼の視線は、どこを向いているか、わかりにくい。

 

 蜻蛉の男の子は、地を蹴って、砂をこっちの方に飛ばした。

 小さい石を、私は投げ返した。軽くて小さいので、まるでとどかず、石は三歩ほど手前に落ちた。

 蜻蛉の子は、また石を投げた。少し大きかった。

 足元に落ちたのを、拾って、投げ返した。

 

「あっ!」

 

 蜻蛉の子がもう一度投げたのが、目の前に迫った。

 とっさに顔をそむけると、こめかみに当たった。

 顔を手で覆った。指のあいだから覗いたら、蜻蛉の子はこっちを見ていた。

 生温い液体が、頬を流れた。血のついた手のひらを、蜻蛉の子に向けた。

 相手はぎくりとし、ちょっとためらってから、一目散に逃げた。

 

 治癒魔術で治せるとはいえ、痛い。

 泣くのをこらえ、気持ちが落ち着くまで、寄り道をすることにした。

 買い物はしない。魔大陸のお金は、人族の国では手に入らないだろうし、記念としてとっておく。

 

 

 町外れの塔にのぼり、城下町をながめた。

 塔のまわりは、土台石の間から草が丈高くのび、この町の人々が馬のように乗りまわす大蜥蜴の糞が落ちていたりした。

 

『あのガキ、人族じゃねえか?』

『ああ。しかも見ろよ。この人形とそっくりだ』

 

 チャリチャリと手の中で銭をもてあそんでいると、「おぉい」と声をかけられた。

 黒光りする甲冑だの肩当だのをつけた二人組みの男だ。門番と同じ格好である。

 彼らは手を振りまわし、口々に何か言っている。

 ちょっと怖いので、さらに塔をのぼった。

 

『魔神語がわからないんじゃないか?』

「ゴホンッ……おーい、大事な給水塔に登るなー!」

 

 急にわかる言葉になった。

 この塔にはのぼってはいけなかったらしい。

 落ちないように慎重に下りていると、黒鎧さんが塔の下に来て、両腕を広げた。

 えいやと飛び降りると、しっかり抱きとめられた。

 

「どこから来た、嬢ちゃん」

 

 もう一人の黒鎧も兜を外しながらこちらに来た。

 兜の下から、剣呑な中年男の顔があらわれた。ガスロー地方に来てから、ナナホシを覗いては久しぶりに見る人族の顔だ。

 

「空から」

 

 ケイオスブレイカーは空のお城だ。

 

「じゃあ、その怪我ァ、黒飛竜に突っつかれた痕かい」

 

 自分の肩口を見ると、小さな血痕があった。

 首をこすると、乾いて赤茶色になった血の滓がポロポロと落ちる。

 

「これは石ぶつけられた」

「ひでえ事しやがるな。どれ、おっちゃんが懲らしめてきてやろう。やったのは、どんなガキだった」

「いいの。わざとじゃなかったの」

 

 黒鎧二人は子犬をじゃらすように私を構った。

 まるきり異国の地で人族と会えたことが嬉しくって、私も彼らの周りをうろちょろしていると、いつの間にか酒場についていた。

 ちょっと分けてもらえたガスロー地方固有の酒は、独特な味で飲みにくかったので、水魔術でコップを満たしてごくごく飲む。

 

 空の酒樽に板をのせてテーブルに、逆さに伏せた木箱を椅子にした酒場で気持ちよく酔った彼らは、中央大陸とミリス大陸から来た人族であった。

 ジルドさんとオットーさんというらしい。

 それぞれ王竜王国とミリス神聖国の片田舎から、武者修行の旅に出た彼らは、ウェンポートで意気投合して、共にここまで来たそうだ。

 

 魔大陸、およびミリス大陸の港町には、ある伝承がある。

 

  力を望むものよ、旅をせよ。

  力を望むものよ、魔大陸を目指すのだ。

  魔大陸を踏破せよ。ネクロス要塞に到達せよ。

  ……

 

 と、いうものである。武芸者の間では有名な伝承らしい。

 ただし、力を求めて旅立った者は、だれも帰ってこない。

 真偽を確かめるべく、そして力を得るべく、二人は言い伝えにしたがい、ネクロス要塞へ目的地を定めた。

 そうして幾年もかけてたどり着いたネクロス要塞で、魔王の親衛隊をやっている、いや、やらされているらしい。

 

「嬢ちゃんくらいの人族の子を見てると、村に残してきた倅を思い出すんだ」

 

 オットーさんはズッと鼻をすすり、ゴツゴツした手で私の頭を撫でた。

 目が充血してるのは、酔ったせいだけではないのだろう。

 泣くくらい会いたいのに、帰らないのだろうか。

 と、思ったが、どうにも、彼らは魔王様と特殊な契約を結んでおり、帰ることができないらしい。

 毎日ひたすら修行、修行、修行。

 強さを求めて幾星霜。いくら自分で始めた旅でも、自由がないのは不憫である。

 オルステッドに頼めば、また転移魔法陣を使わせてもらえないかな。

 でも、契約だと、定められた期間を勤めあげないと、休暇がないそうだから……。

 むむむ。

 

「ハハ! ガキが、何いっちょ前に悩んでるんだ?」

 

 湿っぽさを吹き飛ばすようにジルドさんが笑い、机に土色の像を置いた。

 確か、こういうのを、フィギュアというのだっけ。

 三寸くらいの女の子のフィギュアだ。

 女の子はしゃがんでうつむき、子山羊を抱きしめている。

 めくれて露出する太ももを恥じて隠す年頃ではないのだろう。その子のワンピースの裾はめくれ、パンツがチラッと見えていた。

 

「こんな僻地にも行商人はたまに来てよォ、よその珍しい品を広げて売るんだ。これは並んでた品のひとつだ。あんまり可愛いんで買っちまったんだよ。普段は人形なんて趣味じゃねえが……」

「出来も良いしな。嬢ちゃん、ちっと前に、造形師にモデルを頼まれたことがあるんじゃねえか?」

「もでる?」

「ああ。そっくりだぞ、嬢ちゃんと、この人形」

「そうかな」

 

 フィギュアを眺める。

 自分の姿って、そんなにじっくり見る機会がないのよね。

 ペルギウス様の城にある姿鏡に映った自分を思い出しながら、改めて見ると、確かに似ているかもしれなかった。

 フィギュアの女の子のほうが、私より幼いだろうか。

 

 ちなみに、椅子から立って近寄ると、パンツは服の陰にかくれて見えなくなった。

 フィギュアを水平な場所に置き、下から見るとちらりと見える構造であったのだ。

 なぜかしら。作った人のこってりとした趣味を感じる。

 

 細かい造りを観察した後は、製作者を視る。

 すぐに頭の両側が熱くなり、絵が浮かんだ。

 これを作ったのは、人族の男の子だ。ずいぶん熱中して作った人形を、魔大陸で旅費のために売り払い――

 

 ……これ、お兄ちゃんだ!

 製作者:ルーデウス・グレイラットだ!

 そしてモデルもたぶん私だ!

 

 この人形は、かつて兄が作って、触れていたものだ。

 兄の中には、私がいた。私と兄は、繋がっていたのだ。

 

「……」

 

 目のふちがじわりと熱くなった。

 

「おにいちゃん……」

「お? どうした?」

 

 ゴシゴシと溢れかけた涙をぬぐう。

 

「これ、触ってもいい?」

 

 わざとらしいくらい明るく訊ねると、快諾された。

 うっかり手や足を折らないように、そっと持ち上げる。

 小さな私は見た目より重く、表面は素焼き陶器のようにザラザラとしていた。

 土魔術で作ったものであろうから硬いのに、髪や肌が柔らかそうに見えるのはなぜだろう。

 手にとって色んな角度から眺める私の腋の下に手が入り、抱き上げられた。

 オットーさんは私を片腿に座らせたまま、ジルドさんと魔神語でのお喋りを再開した。

 お尻の下がかたいのは、腿当ての感触だ。

 ペルギウス様に対しても思ったけれど、こんな鎧を身につけて、よく普通に動けるものだ。

 私だったら潰れてしまう。

 

 バサッと風音が聞こえた。

 すぐ近くだ。

 まるで、大きな鳥が、そばに降り立ったような。

 

『アトーフェ様!』

 

 ガチャンと鎧が触れあう音をたて、二人が立った。

 私は、片腕に抱かれたまま、そちらの方を見た。

 

 女が腕を組み、むっすりと立っていた。

 青色の鍛えられた躰を、黒い鎧でつつんでいる。

 眼は、禍々しく赤い。長く白いそそけ髪は、後頭部でひとつに縛られていた。

 背には蝙蝠のような翼。額には一本の角が生えた、むくつけき女だ。

 顔立ちは美しい。

 

 美しいのだが、威圧感がすごい。

 もし彼女が益荒男の集団の中にいても、一茎の野菊のような儚さはきっと感じないだろう。

 むしろ、人々を恐怖で支配する、巨きな存在だと思うだろう。

 それこそ、御伽噺に登場する魔王みたいに。

 魔王……。

 

 さっき私が聞いた、「アトーフェサマ」って、あれじゃなかろうか。

 ペルギウス様が絶対に関わるなと言っていた、あの女魔王。

 その名も、

 

「アトーフェラトーフェ……ひっ」

 

 ずいっと顔が近づいた。

 喰い殺されそうな気迫だ。

 私は心の中でオルステッドに助けを求めた。

 彼も怖い時は怖いけれど、私を喰い殺そうとはしないし、危ない時は守ってくれることの方が多い。

 風采は恐ろしくても、心は優しいのだろう。きっと。

 

 目の前の彼女は、そういう感じではない。

 ずっと見られていると、お腹の底が冷たくなり、からだが震えた。

 私は蛙だ。蛇に睨まれたカエルだ。手は、自然と祈る形にあわさった。

 

『アトーフェ様? あの……どうされたんで?』

 

 私を抱いているオットーさんは気のせいか不思議そうだ。

 彼らが知り合いだとして、オットーさんが不自然に思う程度には、この青い肌の魔王は妙な反応をしているということだ。

 となると、やっぱり私に対して何かあるのだろう。

 

 何なの。なんの用なの。私が何をしたというの。

 恐怖心を唾といっしょに飲みこみ、ぎゅっと拳を固める。

 

「……か、かかってこい……!」

 

 ところが、女魔王は、何もしてこなかった。

 ただ、私を見つめていた。流れた数分間は、私にとって永遠に匹敵した。

 

「あ」

 

 爪まで青い指が、私の手にあった人形を奪った。

 あれは私を象ったものであって、私のものではない。

 あとでちゃんとジルドさんに返すつもりだった。

 

「返し……」

『姫か!』

 

 震える声をさえぎり、女魔王は短く叫んだ。

 殺すぞ! って、言ったのかしら……。

 

『姫は、儚く愛らしい少女だと相場が決まっている。

 そして、人族の王族は、絵画だの像だので自分の姿を残したがる。短い年数で姿が変わる人族らしい慣習だ。

 自分の像を作らせたってことは、こいつは姫だ。

 でかしたぞ、お前ら! 姫を攫ってきたのだな!』

『いえ、違います、アトーフェ様』

『あぁ? じゃあ何だ、この像は』

『た、他人の空似かと』

『そんな訳あるか。こんなに似てるぞ』

 

 私はさりげなく地面に下ろされた。

 ジルドさんは女魔王と何か揉めているようだ。

 生じた隙のうちに、私はこっそり逃げ出そうとして――

 

『どこへ行く』

 

 ダンッと地面が揺れた。

 女魔王が足踏みをしたのだった。

 かかってこいと固めた決意はどこへやら。私は足がすくんで動けなくなった。

 

 ペルギウス様が怖くなかったのは、彼が友好的だったからだ。

 怖くないように振舞って、私を可愛がってくれていたからだ。

 甲龍王。魔王。

 王の名を冠する者の一挙一動は、本来なら、こんなにも恐ろしい。人に畏敬される存在なのだから当然だ。

 

『こいつは何なんだ! ハッキリ答えろ!』

『姫ではありません!』

『ではこの像はなんだ!』

『このガキ、いえ、彼女を象ったものかと! しかし姫ではありません!』

『わけのわからんことを言うな!』

 

 女魔王の肩がブレた次の瞬間、横にいたジルドさんが消えた。殴り飛ばされたのだ。

 殴られたジルドさんは、上半身が酒場の壁にめり込んでいる。

 呻き声が聞こえるから、生きているみたいだ。

 

 女魔王の反応を伺いながらちょっとずつ動き、ジルドさんの側へ寄って治癒魔術をかける。

 治癒のお代はいらない。たぶん私のせいでこうなってしまったからだ。

 そうしているうちに、野次馬が集まってきて、私は完全に逃げられなくなってしまった。

 

 ペルギウス様にいっぱい悪口を聞かされたけれど、私個人は彼女に恨みはない。

 でも、殺すべきだろうか。

 こんなに恐い人、うまくやれるかな。

 

『お待ちください、アトーフェ様!』

『ふんっ』

『ぐほぉっ!?』

 

 オットーさんをも目にも留まらぬ速さで殴り飛ばし、女魔王は私を見据えた。

 大股で歩んできて、ガシッと胴体を掴まれる。

 恐怖で声も出なかった。

 

 左右に裂かれる!

 

 と、思ったのだが、女魔王はそのまま私を肩に担いだ。

 翼が付け根から大きく羽ばたくのが見えて、ぐんっと首や背中に重力がかかった。

 地面が遠ざかる。

 野次馬たちのぽかんと口を開けた顔が見えて、それもたちまち小さくなった。

 浮いている。この女、私を抱えたまま飛んでいる。

 

『ククク……アーハッハッハ!』

 

 至近距離で笑い声が爆発した。

 恐ろしい魔王は、空中を旋回しながら、宣言した。

 この町の人々、いや、大陸中の人々にも聞こえそうな勢いで。

 

『勇者よ! 姫はこのオレ、不死魔王アトーフェラトーフェ・ライバックが預かった! 返してほしければ、我がネクロス要塞へと来るがいい!』

 

 名乗りっぽい箇所は聞きとれた。

 ここで他人の名前を言うとは思えないから、やはり自己紹介だろう。

 アトーフェラトーフェは、豪傑な笑い声を響かせながら飛び去った。

 私を担いだまま、遥か蒼穹へと。

 

 ……あ、お城の上で止まった。

 

 

『ほら、ここだ』

 

 そうして私は城の一室に放り込まれた。

 そこは、冷たい牢屋でも、拷問部屋でもない。

 

「お……?」

 

 淡い桃色の部屋であった。

 ベッドの天蓋、カーテン、テーブルの掛布にはレースがふんだんにあしらわれている。家具の木材は白く一点のシミもない。

 たいそう愛らしく、そして上等な部屋であった。

 ペルギウス様の城の客室も豪勢であったけれど、あの部屋に、少女の夢を詰めこんだらきっとこんな感じになるだろう。

 

 幻かと思い、慎重にソファに近寄り、置かれたクッションに手のひらを押しつける。

 手はモフっと沈んだ。ふかふかのクッションである。

 見掛け倒しの愛らしさでも、私の幻でもなかった。

 

 いったいどういうことだ。

 なぜ私はこんな部屋に置かれたのだ。

 

『ククク、姫よ、お前はここで一生を過ごすのだ! 泣き叫んでも勇者は来ないぞ! オレが倒すからな!』

 

 アトーフェ……様? は、高笑いをしながら、部屋から出ていった。

 何と言われたのかしら。

 良い部屋で過ごさせて、肥らせて、美味しく食べられるのかしら。

 魔大陸の奥処には、人が豚や魚を食べるのと同じように、人族や獣族を食べてしまう野蛮な種族がいるらしい。

 

 アトーフェ様は、出ていくとき、部屋に鍵をかけなかった。

 逃げられる。

 逃げるしかない。

 

「……」

 

 扉の把手に手をかけ、私はチラッと部屋を振りかえった。

 桃色の部屋の、あちこちに繊細なレースがあしらわれた、少女が見る幸せな夢のような空間。

 釉薬をかけられた暖炉のオジーアーチさえ愛らしい。

 

 逃げなきゃ。

 でも、この部屋は、可愛い。とてもかわいい。

 

「……ちょ、ちょっとだけ……」

 

 私は水でみたされた琺琅引きの洗面器で手を洗い、丸テーブルを挟んで向かいあう椅子のひとつに近づいた。

 猫脚の白い椅子には、座面と背もたれに、薔薇の刺繍があしらわれた桃色のモアレの布が張られている。

 西洋のお姫さんみたいな椅子に、私はちょんと座った。

 つま先は床の絨毯にとどかなかった。たぶん、もう少し年上の少女が座るのにちょうどいい設計なのだろう。

 やや体にあわない大きな椅子だが、心は状況に反して躍った。

 つい口元がにまにましてしまう。

 

「……はっ!」

 

 いやいや。

 こんな事をしている場合じゃない。

 

 早くナナホシが待ってる宿に戻らなくては。

 でも、こんなに愛らしい部屋なのだから、もうちょっとだけ見てから帰りたい。

 でも、でも。

 

「心が二つある……!」

 

 私は人差し指の先を白いテーブルの天板にくっつけた。

 右が、いますぐ逃げる。

 左が、もうちょっと居る。

 

「かーきーのたーねっ」*1

 

 歌に合わせて指は右と左の陣営を往復し、歌が終わるとピタリと止まった。

 ふむ。

 天の神様によると、いますぐ逃げるべきだそうだ。

 名残惜しくも部屋を出ることにした。

 

 臀を前にずりずり動かして椅子から降りようとしたそのとき、ドアノッカーが扉を叩く音が聞こえた。

 

『失礼』

 

 渋い声がした後、老爺が入ってきた。

 髪と髭は灰色で、彼もまた黒い鎧を纏っている。

 物腰と眼光は鋭く、矍鑠とした老戦士といった感じだ。

 

 彼は私を見下ろし、やはり魔神語を喋った。

 

『あなたはどこの姫君ですか?』

 

 たぶん、何かを訊ねられた。

 わからなくて困っていると、老戦士は、「もしや」と呟いた。

 

「こちらの方が分かりやすいですかな?」

「! はい」

 

 人間語を話せる人にまた会えた。

 その老戦士は、ムーアと名乗った。

 そして、ムーアさんは人間語に直してもう一度訊ねた。

 あなたは姫君ですか、と。

 

「ぜんぜんちがいます……」

「やはり」

 

 ムーアさんはフーッとため息をついた。

 

「大人しくしていたのは賢い選択です」と彼は手に持った鎖を持ち上げた。

 鎖の端には、それぞれ、丸い輪っかと、鉄球がついている。

 似た道具を、私は見たことがある。カーリアンの牢獄でだ。

 

「逃げるようなら、拘束するように言いつけられていたので」

「するの?」

「しません」

 

 よかった。

 あんなに重たそうな足枷をつけられたら、動けなくなってしまう。

 

「見たところ、人族の子供ですね。アトーフェ様は、何故かはわかりませんが、あなたを姫君だと思い込んでいるようです」

「あの人、やっぱりアトーフェ様だったの」

「おや、生まれはこちらではないでしょうに、ご存知で?」

 

 ムーアさんが、人間語で穏やかに口を聞いてくれたので、私は答えた。

 

「ペルギウス様に教えてもらいました」

「ほう」

 

 ……?

 ムーアさんの眼が、いっそう強くなった気がした。

 

「えっと、わたし、帰るね」

 

 ただの人違いであることがわかった。

 アトーフェ様は私を姫と間違えて連れてきてしまったのだ。

 この部屋は、姫さんのためのものだ。私がいていい場所ではない。

 

「ええ。どうせアトーフェ様の勘違いであろうと思っていましたが……しかし、あなたも不運でしたな」

「かわいいお部屋、嬉しかったので、そんなに不運では……」

 

 棒立ちのムーアさんの横を通り抜けた。

 ムーアさんは首をめぐらせて私の挙動を見ている。

 愛らしい部屋に似合わないものものしい鉄扉の把手に手をかけ、ちゃんと挨拶をしていなかったことを思い出して、ぺこりとムーアさんに頭を下げた。

 会釈が返ってきた。

 

 さあ帰ろう。

 

「あら?」

 

 扉が動かない。

 胸の高さの把手にぐいっと力を込めると、向こう側に開いた。

 ただし、私が開けたのではなかった。

 部屋の外にいた人が、自分側に引いたのだった。

 

「姫君を捕まえるのは久しぶりでしたから。

 立ち去ったふりをして、あなたの反応を傍で伺っておられたのです。絶望に泣き叫ぶ姫の姿を見たかったのでしょう」

 

 人が泣き叫ぶ姿を見たいとは、なんと悪辣な。

 私は泣いてやるもんかと思った。

 扉に引きずられてたたらを踏んだが、たとえこれで転んでも、泣いてやるもんか。

 体勢を立て直し、足元に落ちる影に気がついた。

 人が、前に立ちはだかっている。

 

「しかし、あなたは無辜の民」

 

 背後からはムーアさんの声。

 視線をゆっくり上に移す。

 

「私は逃がすつもりだったのです」

 

 恐ろしい女魔王は、能面のような無表情であった。

 アトーフェラトーフェは、大柄ではない。

 私の母様と同じくらいの背丈だ。

 小さすぎもせず、大きすぎもしない。

 それなのに、オルステッドより巨大に見えるのは、彼女が持つ迫力のせいか。

 

 アトーフェラトーフェは、仁王立ちで私を見下ろしている。

 その顔が、にたぁ、と歪んだ。

 笑顔だとわかるまで、時間がかかった。

 口角は吊りあがり、牙は剥き出しで、そのくせ眼は爛々としている。

 獰猛な笑みであった。

 

「〈ペルギウス〉の名が、あなたの口から出るまでは」

 

 舌なめずりをせんばかりのアトーフェラトーフェから、後ずさって離れる。

 さっきまでは無かったはずの壁に背中と頭がぶつかった。

 ムーアさんが立っていた。

 

『言ったな? 間違いなく』

『はい。確かに』

『そうだろうとも。オレは耳も記憶力もいいのだ』

『そうでしょうとも。アトーフェ様の耳は優れていらっしゃる』

『こいつは言った、ペルギウスの名を』

『迂闊にも口を滑らせた』

『どうしてやろうか、ムーア』

『如何しますか、アトーフェ様』

『決まっている』

『決まっているでしょうね』

『我が夫カールは殺し合いを禁じた。しかし、』

『姫を攫うことは禁じなかった』

『ペルギウスの姫だ!』

『あまり似てないが』

『母親が人族だったのだ!』

『閉じ込めましょう』

『一生!』

『飼い殺しに』

 

 頭上で交わされる魔神語の応酬。

 意味はとれない。私は日本語と人間語しか喋れないのだ。

 その日本語も、訛りがきついらしくナナホシには通じなくて、自信を喪失気味である。

 

「……もう帰っていい?」

 

 挟み撃ちにされて、にっちもさっちもいかないので、ムーアさんにおそるおそる訊ねる。

 どうか、「はい(スィ)」と答えてほしかった。

 ムーアさんは答えた。

 無情に。

 無表情で。

 

「不運でしたな」

 

 私は二人を呪い殺した。

 

 正面のアトーフェラトーフェは、目を見開き、不思議そうに私を見つめた。

 右手が左頬を押さえ、頭の後ろを通った左手の指が右の頬にくいこむ。

 ゴキッと音がして、顔が真後ろをむいた。

 からだは沈みこむように倒れた。

 

 私の後ろにいるムーアさんにしても、同じような死に様であった。

 私の足元に、二人は、小山のように盛り上がる。

 アトーフェラトーフェは大柄ではないはずなのに、死んでも尚、むやみに大きい。

 回り込んでうかがった顔は、威厳さえ持っていた。

 

 私は手を合わせてから逃げだした。

 

 何がいけなかったのだろう。

 ペルギウス様の名前を出すと、どうして帰ってはいけなくなるのだ。

 出口を探してやみくもに砦を歩き回る。

 太陽は沈んできて、城の中はだんだんと紫色に暗くなってきて、私は焦る。

 焦る。

 夜になる前に、ここを出なきゃ。

 暗いと帰り道がわからなくなる。

 

 燭台に火が灯った廊下に出て、ちょっと安心した。

 緩やかなカーブの効いた長い廊下だ。燭台は等間隔に壁に取りつけられている。

 明るいのは良い。周りが見えるとホッとする。

 

 進む先の床に、影が映った。

 誰かがこちらに歩いてくるようだ。

 

『オレは運がいいなぁ。攫ってきた姫が、偶然にもペルギウスの娘だとは』

 

 喋り声。

 さっき殺したはずだ。

 

『バァ! アッハハハハ!』

「あぁぁ!」

 

 脅かしてきた彼女を即座に呪殺した。

 顔を確認する余裕はない。私は来た道を脱兎のように引き返した。

 蘇って追いかけてくる姿を想像してしまって、後ろをちらちらと振り返りながら走った。

 ドンッと人にぶつかった。

 

「おっと」

「ごめんなさ……!?」

 

 ムーアさんがいた。

 ごめんなさいも悲鳴も飲み込んで呪った。死ね。死ね!

 彼は黒い塊のような血を吐き、倒れた。ガシャンと鎧が石の床を打つ音が響いた。

 

「ふぅ……ふぅ……」

 

 死体を避け、走る。

 

『姫よ! 存分に逃げるがいい! そしてそれが無駄な足掻きと知るがいい!』

「なんで生きてるの!」

 

 アトーフェラトーフェはどこまでも追いかけてきた。

 後ろから追い詰めたり、正面から現れたり、天井から落ちてきたり。

 私は遭遇する度に呪い殺したが、魔王は何度でもよみがえった。

 

 もしあれに捕まったら、どうなるのだろう。

 姫であれば閉じ込められるだけみたいだが、私はちがう。

 姫じゃない私は、殺されるのかもしれない。

 

 隠れようと私は思った。

 カーリアンでは、じっとしていたら凍えてしまうから、あまりやらなかった遊び。

 村があった頃はよく遊んだ隠れ鬼。

 見つかったらおしまいな隠れんぼと異なるのは、見つかったら逃げなければならないこと。

 このままやみくもに走っても、体力が尽きる。

 隠れたら、追手に見つかるまで、休んでいられる。

 うまくいけば、隠れたままやり過ごすこともできる。

 

「う、く……!」

 

 鍵のかかっていない重い鉄扉を力いっぱい押して、なんとか開いた隙間に体を滑り込ませた。

 

 皮を剥いた林檎のような月が白く宙にあった。

 屋外に出た、と、ぬか喜びをした。天井がないだけだ。

 彫刻装飾を施された列柱の真ん中に、長い上り階段が続いている。

 

 列柱の外側の壁は、私の胸ほどの高さである。

 上体を壁に倒し、両手で体をずり上げ、片足を壁まで上げてよじ登った。

 覗き込んだ下界は、闇に没していた。

 小さく、螢のような光が点々とある。

 民家の灯りだろうか。ここから遠いのか近いのかすらわからない。

 飛び降りるのはだめだ。上に行くしかない。

 

 階段をのぼる前に、ちょっと考えて立ち止まり、入り口に向けて右手を翳した。

 

氷柱(アイスピラー)!」

 

 扉を塞ぐのは、太い氷の柱だ。

 ピシピシと小さな音をたてながら氷が育ち、何本もの柱が扉の前で交差して、堅牢な蓋になった。

 風が氷柱を舐め、冷気がこちらに吹きつけた。

 風にとりのこされた氷柱群は、まだ扉を覆っていた。

 なんてことだ。

 

「こんなにおっきいの、成功したの、はじめて……」

 

 無詠唱で治癒魔術を使えるようになったきっかけといい、私は危機が迫ると成長する子なのかもしれない。

 その成長が、身を助けるには十分ではないのが、悲しいところだ。

 

 風に乗った雲の流れは速い。

 月は、かくれ、あらわれる。そのたびに、視野は暗黒になり、色を洗い落とされた白黒の景色がまた見える。

 青白い月光は、列柱の上に据えられた悪魔の彫像のおどろおどろしい文色を浮かび上がらせた。

 大勢の悪魔に睨まれながら、隠れる場所を探した。

 

 階段を登りきると、開けた場所であった。

 広間であるらしい。火の点っていない燭台で囲まれていると、月明かりで見きわめた。

 

 奥の一段と高く誂られた空間に、椅子があった。

 黒鉄の玉座だ。

 捻くれた角だの蝙蝠の翼だの髑髏だのを模した装飾がある。

 

 この後ろに隠れるのでは、見つけてくださいと言っているようなものだ。

 でも……と、周囲を見回した。他に隠れるところがない。

 

『おい! 勝手に謁見の間に入るな! こっちにも相応の準備をさせろ!』

 

 響いた声に、ぎくっとした。

 風は、女の怒鳴り声とともに、昏い穴のような入口から吹いてきた。氷格子を突破されたのだ。

 とっさに玉座の後ろに身を隠した。

 膝を抱きしめ、体を縮こめる。

 

『ククク……そこに隠れているのはわかっているぞ。オレは賢いからな』

 

 まだ殺せない。

 まだ距離が開いているうちに殺したら、私がここにいる事を知ったアトーフェラトーフェが、何らかの対策を講じてくるかもしれない。

 扉から玉座までは、一本道だ。

 アトーフェラトーフェが玉座にたどり着く前に呪殺したら、私は逃げる途中で、どうしても彼女の死体とかち合う。

 

 その瞬間が、ちょうど蘇った時だったら?

 月が雲に隠れて、暗闇の中で、相手の居場所がわからなかったら?

 

 アトーフェラトーフェが死んだ時、私との距離が近いほど、逃げる時間は延びる。

 だから、確実に居場所がわかるほど近くに来るまで、こうして待つ。

 

 地獄の亡者は、釜で茹でられてグズグズになっても、針山でズタズタになっても、獄卒が「生きよ」と唱えれば復活する。

 殺しても生き返る点においては、不死魔族は地獄の亡者と同じだ。

 不死魔族という種族名は、大袈裟な名前ではなかった。

 強くて死ににくいから、そう呼ばれているのではなかった。

 死なないから強いのだ。不死身の異名はものの喩えではなかった。

 

 私は人族だから、怪我をすれば血が出る。死んだら死ぬ。

 死は一度経験したけれど、ここで今、死ぬのを受け入れられるわけじゃない。

 自分が死ぬ時を知っている。

 トウビョウ様が視せた未来像によると、あと二十年近くは生きられるはずなのだ。

 

『ククク、懐かしいな、小さいアールやアレクともよくこうして遊んでやった……』

 

 私への恨み言なのか、まったく関係のない独り言なのか。

 魔王は愉しそうに笑い、何事かを呟いている。せめて内容がわかれば、恐怖も軽減するのに。

 

 オルステッドが救貧院に迎えに来たとき、私を庇っていたネイサン君はこんな心地だったのだろう。

 今の私はひとりだ。抱きしめて庇ってくれる人はいない。

 救貧院に残してきたイヴやワーシカたちは、元気にやっているだろうか。

 

『たまに探すのを忘れてしまう事もあったがな。アハハ……』

 

 コツコツと靴が階段を叩く跫が近づいてくる。

 私はうるさい心臓の音が外に漏れないように、両手を握りこんだ拳を胸に押しつけた。

 

『アールは腹が減ったら出てきたが、アレクは泣いて怒ったものだ……。

 ……忘れたのはオレが悪かったが、キレるほどではなくないか……?』

 

 それきり、静かになった。

 ときどき風が唸るほかは、何の音もしない。

 

「……?」

 

 諦めて帰ったのだろうか。

 それにしたって、遠ざかる跫が聞こえるはずだ。

 

 月が出たときに、玉座の装飾の隙間から広間を伺った。

 白黒の景色の中に人影はないが、まだ油断はできない。

 トウビョウ様の力を借りて視てみよう。

 

 体の力を抜いて玉座の脚に背中をあずけた。

 月明かりの下で、私の影は奇妙に大きかった。

 

 まるで上に何か重なっているような形だ。

 

「!」

 

 カツ、カツ、と小さく頭上で鳴った。

 爪で鉄を叩いているような音であった。

 

 いやだ。

 見たら、そこにいることを知ってしまう。

 知ったことを知られてしまう。

 

 私の願いに反し、体はかってに動いた。

 早く敵の位置を知り、そして対処しろと本能が言っていた。

 呼吸が浅くなる。目を瞑ってしまいたいのに、それすらできないのだった。

 

 首をそらせ、ゆっくり上を見る。

 赤い眼があった。

 角が突き出た額が見えた。

 白い髪が垂れ下がっていた。

 玉座の背もたれの上から覗いた青色の顔は、こちらを向いていた。

 

 アトーフェラトーフェ。

 私が呪い殺し、その度に蘇った不死の魔王は、にたりと笑った。

 

 

『みィつけた』

 

 

 私は怖くて泣いた。

*1
岡山の「どちらにしようかな」の後半の歌。



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四一 荒神様に捧ぐ

遅ればせながら報告。
巷で流行りの〇リ神レクイエムトレスで『剣姫転生』のエミリーを描きました。
光栄にもあらすじと番外編にも掲載していただいたので気になる方は剣姫転生まで!

以下、三人称視点では人間語も魔神語もすべて「」表記にします。




 シンシアが世にも恐ろしい不死魔王との隠れんぼに敗北してビビって泣いた夜。

 ネクロス要塞の城下町には、とある剣士が訪れていた。

 五尺はゆうに超える巨剣を軽々と背負った剣士である。

 

 淡く発光する、不可思議な形の巨剣であった。

 通常、剣の刀身には()と呼ばれる溝が彫られている。

 かの剣には、それがない。しかし他の凡百の剣と比べて、見栄えが劣っているという事もない。

 鍔の装飾は、豪華絢爛。柄頭は古代王の王冠のようだ。

 鑑賞目的一辺倒のごてごてした飾り剣かと思いきや、グリップ部はいたってシンプルで、実用目的に造られたことがわかる。

 そして大本命。

 白銀の刀身は、鏡のように周囲の景色を映し取る。

 刃こぼれなく、髪ほどに細い傷の一つもなく、たいそう美しい。

 刀身の中心には、黄金の鱗をもつ革が張られている。

 樋の代わりに、肉厚な巨剣の軽量化に一役買うのが、切先から刃先に入った大胆な切れ込みだ。

 鍔に近い剣元には、菱形の空洞が二つ、縦並びに誂えられている。

 黄金の鱗ばかりか、鍛え上げられた白銀の刃もまた、黄金の生絹のような輝きを放っているのだった。

 

 剣の名は王竜剣カジャクト。

 ひとたび手に取れば、否、視界に入れれば、誰もが魅入られてしまう魔性の剣だ。

 

 さて、剣が一級品であれば、それを背負う者もまた実力者。

 スペルド族のような索敵力もない者が、夜に魔大陸の荒野で一人歩きをするのは、自殺行為である。

 ところが剣士は、月明かりと勘を頼りに、鼻唄混じりに砦に到達してみせた。

 歳の頃は、少年から青年に移行しつつある程か。

 外貌は人族に酷似しているが、その赤い眼を見れば、彼に少なからず人外の血が流れている事がわかるだろう。

 

 魔大陸の砂塵や烈しい太陽光線から身を守るため、ボロボロの布を幾重にも纏い、ローブのようにした格好は、ここらではありふれた旅装だ。

 彼もまた旅慣れているのか、ローブの下から覗くあどけない顔に疲労の色は薄い。

 

 過酷な魔大陸である。

 魔物の強さも、自然の恵みの乏しさも、ここと比べたら、中央大陸はどこであろうと天国だ。

 そんな土地で、たった一人でネクロス要塞に到達している時点で、旅人、あるいは冒険者としての実力は折り紙つきである。

 

 後ろは魔の山、前と左右は城壁に守られたネクロス要塞。

 ごく普通の町に囲まれた中心部に、要である黒い城が存在する。

 門番に怪しい者だと思われないように、城壁の前で、剣士はフードをとった。

 頬にぽつりと落ちるものがあった。

 

「っと、雨か。珍しいな」

 

 何かに()()()()ように砦の上に集まる雨雲に、剣士の心は疼いた。

 僕がきたちょうどその時に、大いなる力によって天候が変化した。

 その偶然に、なにか運命的な導きを感じずにはいられないのである。

 

「頼もう!」

 

 意気揚々と正門を叩いた剣士に、そろそろ門を閉める支度をしていた門番はめんどくさそうな顔をした。

 が、彼の背負う不可思議な剣、そして彼の顔をみて驚愕し、打って変わって低姿勢になって通したのだった。

 

 

 町に入ったはいいが、もう夜も遅い。

 訪ねたい人もすでに就寝しているとみて、剣士は宿を借りて一泊する事にした。

 旅の疲れを癒そうと寝台で伸びをした時、彼の耳は隣室の音を拾った。

 

 隣室の住人がトタトタと部屋を出る音である。

 足音からして、年若い少女だろう。

 

 別におかしいことはない。

 部屋に厠や水甕は備えつけられていないし、厠にでも行ったか、水をもらいに行ったのだろうと思った。

 しかし、しばらくして、妙なことに気がつく。

 厠にしては変だ。水をもらいに行ったにしても変だ。

 

 足音が隣室に戻る。

 部屋の中を神経質に歩き回る音。

 扉の開く音。

 厠とは逆方向の、外へ向かう足音。

 数分後、隣人は部屋に戻り、また出ていく。

 短い周期でそれを繰り返しているのである。

 

(何かトラブルだろうか。)

 

 好奇心が頭をもたげる。

 剣士は目立ちたがり屋である。

 目立ちたがりという事は、承認欲求が強いということ。

 東に魔物が出現すれば倒し、西に喧嘩あれば割入ってどちらもぶちのめし、各地で出会った武芸者には格好よく勝利をキメる。

 

 ようは、認められたい欲求が強いのだ。だから何にでも首をつっこむのである。

 彼は睡りにつくのを急遽中断。

 隣の宿泊客が次に部屋を出るタイミングで、自分も廊下に出てみることにした。

 

「お嬢さん、どちらへ?」

 

 振り返った少女は、案の定不安そうな顔をしている。

 手入れのされた黒髪のロングヘアーに、つぶらな黒い瞳。

 上等な紺色のローブを纏い、ロングブーツは撥水性と疲労軽減機能を兼ね備えた魔道具だ。

 ちょっと裕福な家の子が、冒険者になってやると一念発起して、旅装を整えて一人で飛び出してきたという出で立ちである。

 しかし、そういった事情の少年少女が生き残れるほど、ネクロス要塞までの道のりは甘くない。

 

 それに、黒髪は自分も含め、数えるほどには見てきたが、瞳まで黒いのは珍しい。黄色っぽい肌もだ。

 

「ここらでは、雨季外れの雨は霊媒師(ムグウェツァ)が降らせる、と言いますし、そんな夜にむやみに外に出るのは危な……あれっ?」

 

 冗談ぽく忠言する剣士の話を最後まで聞かず、スタスタと去ってしまう少女。

 剣士は後を追いかけた。

 

「どこへ行くんですか?」

「……」

「この町には何をしに?」

「……」

「待ち合わせですか?」

「……」

「僕もいっしょに待ちますね」

 

 ガン無視されても一切めげず、宿の前に立つ少女に並び立つ剣士。

 しつっこさに耐えかねた少女は彼をきっと睨む。

 少女は剣士にもわからない言葉を口走り――日本語で「もう! ナンパなんか受けてる場合じゃないの!」と悪態をついたのだ――次いで人間語で言った。

 

「付いてくんじゃねえよてめぇこの野郎!」

「あぁ、人間語話者だったんですね。こんな所にいるから、てっきり魔神語もいけるとばかり」

 

 見るからに非力な少女に凄まれたところで、SS級冒険者である剣士の視点では、仔猫が毛を逆立てたも同然だ。

 剣士が流暢な人間語を返すと、え、と少女はふいを突かれた顔をしたのだった。

 

 

「す、すみません……怪しい人かと勘違いしちゃって」

「いえ、魔神語でまくし立てた僕も悪いですから」

 

 少女は、ナナホシ・シズカと名乗った。

 彼女は旅人であった。同行者は、この場にいない二人。

 普段は連れの一人である女の子といっしょに、リーダーである男に守られつつ各地を回っているそうである。

 

 現在、男は町の外。

 女の子はナナホシと同じ宿に泊まっているそうだが、

 

「連れの子供が帰ってこない、と。なるほど、それは心配ですね」

 

 当たり障りのない言葉を返しつつ、剣士は落胆した。

 なんだ、期待はずれだ、と。

 頻繁に外に出ていた理由は、子供が帰ってこないから。

 人に訊ねるにも言葉が通じず、土地勘もなく、ああしてウロウロと宿と外を行き来して待つしかなかったという訳だ。

 子供が一晩居ないだけなら、親しくなった誰かの家に泊めてもらっているのだろうし、そうでなければ十中八九人攫いだ。

 

 剣士が求めているのは、巨悪だ。

 打ち倒せば広く名が知れ渡るような敵だ。

 例えば、人里近くで暴れ回るはぐれ竜。ベガリット大陸のヌシ、ベヒーモス。

 あるいは、悪名高きスペルド族の巣窟を殲滅するとか。

 

 人攫い程度、どこにでもいる。ありふれた悪だ。

 そんなのは町の警吏にでも任せておけばいいのだ。剣士の食指は動かなかった。

 

 しかし、気がかりが一つ。

 

「その子は獣族か人族ですか?」

「人族です」

「年齢は?」

「ええと、まだ、十歳にもならないかと」

「ふむ。ちょうど食べ頃だな……」

「は?」

 

 小児の肉を上とし、婦人の肉これに次ぎ、男子のそれは下等とする。

 略奪魔王と名高いバグラーハグラーが原本を所持する『雞肋編(けいろくへん)』では、

 痩身の老年の人族を、饒把火(松明よりマシ)

 若い女人族のことを、不羊羹(まずいスープ)

 人族の幼体のことを、和骨爛(骨ごとよく煮える)

 と、記し、人肉の総称は〈両脚羊〉とあるという。二本足の羊という意味である。

 また別の隠語では、食って人を想わしめるという意味で人肉を想肉(シアンロー)と表す事もある。

 

 そう、攫われた人族の使い道は、奴隷ばかりではない。

 アトーフェ及び弟のバーディガーディの統治する領地では、味が良くないという理由で人食は一律で禁止されているが、魔大陸全土がそうではないのだ。

 

 剣士に人食の趣味はないが、小児、それも女児とくればそこそこに美味いだろうという事はわかる。

 このネクロス要塞で、或いはこの町を経由して、人食やそれ関連の売買が行われた事を知れば、アトーフェはキレるだろう。

 人道的な視点からではなく、自分の決めた事柄に逆らわれたのを舐められたと捉えてキレるだろう。

 

「どうしよう、誘拐だったら」

 

 頼るあてがなく不安なのか、ナナホシは青ざめている。

 剣士が動くにはスケールが小さなトラブルだが、ナナホシは可愛かった。

 可愛らしい少女であった。

 飛び抜けた美貌はないが、オリエンタルな感じの美少女であった。

 

「わかりました。僕に任せてください」

 

 剣士はにっこり笑い、宿を飛び出したその足で情報収集を開始。

 門番を叩き起して訊ねた結果、今日の午後に町を出た者はなし。

 子供が他の町に連れ去られた線は薄い。

 

 代わりに妙な噂が耳に入った。

 魔王が姫を捕まえたというのである。

 ネクロス要塞周辺には、魔王親衛隊の家族のほかに、鍛治や鎧作り、大工、研師など職人の住まいが城下町をつくっている。その先に枯れ草の栽培にしか見えぬ畑が広がる。

 町の住民の少なくない人数が、魔王――アトーフェが年端のいかない女の子をさらう現場を目撃していた。

 住民をやはり叩き起して仔細を訊ねると、アホ魔王のいつもの瘋癲(フーテン)さ、誰もがつれない反応であった。

 必要以上につれない反応であったのは、剣士が夜中に家に突撃されたからかもしれない。

 剣士にそんな事情は関係ない。

 彼は眠たそうな住民から攫われた姫とやらの特徴を聞き出し、持ち帰った情報をナナホシに開示した。

 

 結果、当時の野次馬が答えた特徴は、ナナホシの連れである子供と一致した。

 魔王アトーフェラトーフェは、一般人の女の子を、姫と勘違いして攫ったのだ。

 

「ひ、姫? なんで?」

 

 ナナホシは混乱したが、剣士の平常心は崩れなかった。

 なにせ、この魔王というのが、剣士のよく知る人物だったからである。

 魔王アトーフェラトーフェの知能は低い。

 それでも、魔王とはかくあるべし、という信念を誰よりも強く持って行動しているのは、剣士が幼い頃から知っていた。

 

 本来なら、勇者でも現れない限り、拐かされた女の子は解放されないだろう。

 本来なら、ただの少女であるナナホシに打つ手はない。

 しかし、ナナホシにとって幸運だったのは、剣士と話の通じない魔王が昵懇の間柄であったことだ。

 

「お祖母様も相変わらず元気そうだな」と呟いた剣士は、ナナホシににこやかな顔を向けた。

 

「今夜はもう遅いですし、明日、魔王城を訪ねるついでに僕が魔王様に説明してみます。僕から言えば誤解も解けるでしょう」

「いいんですか?」

「はい。それくらいお易い御用です」

 

 ナナホシの表情に、安堵と、剣士への感謝が浮かぶ。

 次いで、魔王と知己であるかのような口ぶりの彼は、いったい何者だろうかという疑念も。

 剣士はこの瞬間を待っていたのだ。

 いや、そんなに強く望んでいた訳じゃないが。

 来たらいいなー、こう答えられたらかっこいいのになー、という薄ぼんやりとした望みであったが。

 

「あの、あなたのお名前は?」

 

 剣士は満を持して答えた。

 

「カールマン三世……とでも言えばわかりますか?」

「いえ全然……」

 

 三世は期待はずれの返答にずっこけそうになった。

 しかし、僕を知らないだって? なんて無礼な女だ! と、憤るほど血の気は多くないし、実は若くもない。

 目の前の彼女が武芸者ならともかく、荒事とは無縁そうなか弱い少女だ。

 知らないなら仕方ない、と流す分別くらいは持っている。

 

「ごめんなさい。私、常識とか、疎くて。有名な人なんですか?」

 

 何より少女の殊勝な態度が気に入った。

 カールマン三世は、苦笑しながら答えた。

 

「僕はアレクサンダー。どうぞ気軽にアレクと呼んでください」

 

 アレクサンダー・カールマン・ライバック。

 人呼んで、北神カールマン三世。

 七大列強が一柱〈北神〉その人である。

 

 彼が初対面のナナホシを助けた理由は、ナナホシが美少女だったから。

 今回死ぬほどルッキズムに基づいて行動したアレクが、高潔な本物の英雄になる日は、まだ遠い。

 

 

 


 

 

シンシア視点

 

 お兄ちゃん事件です。

 私、もうお家に帰れないかもしれません。

 

 お姫様って、平民の女の子への最大級の褒め言葉だけれど、私ちっとも嬉しくありません。

 姫は姫でも、囚われの姫だからです。

 

 

 何十回に渡る呪殺の末わかったのは、アトーフェ様は殺せない、ということだ。

 正確には、殺せる。でも、不死魔王の名の通り、彼女はすぐに蘇るのだ。

 殺して逃げ出しても、蘇ったアトーフェ様に捕まってしまう。

 

 どうしよう。

 オルステッド……は、助けに来てくれないだろう。

 だって、彼は私がここにいることを知らないのだ。

 昨夜は雨を降らせて、精いっぱい助けを求めてみたけれど、きっと伝わってはいないだろうし。

 オルステッドは私が消えたと思って、ナナホシを連れてこの町を去ってしまうのかもしれない。

 そうなると、自力で脱出するか、一生この城に閉じ込められるかだ。

 

 昨夜はいつの間にか寝ていて、起きると桃色の部屋のベッドの上だった。

 顔を洗い、そーっと廊下の様子を伺ってから逃げ出した私は、さっそく捕まっていた。

 私を捕まえたのはアトーフェ様ではない。

 五頭の大きな犬だ。

 

 長い鼻先に、長い脚。薄い胴体。白と黒と茶色が混ざった毛並み。

 既視感があると思ったら、あれだ。ラノア王国で見たのだ。

 冒険者のルーさんは、迷宮探索や魔物討伐ができない間、狩猟犬を躾ける仕事をして稼いでいた。

 調教師としてけっこう評判が良いらしく、後期になると、貴族の狩猟犬の躾も任されるようになっていた。

 私に群がる犬は、「貴族の狩猟犬だ。珍しいぞ」と、ルーさんに見せてもらったラノアン・ウルフハウンドに似ていた。

 別名ボルゾイである。

 五頭のボルゾイに私は囲まれていた。

 

「ぅぐっ」

「ウォフ、ぐぅるる、オフッ」

 

 鋭利な鼻先が胸や背につきささる。

 前足を肩に乗せて体重をかけられる。ピーピーという鼻の音と、ハフッハフッという吐息が頭上から聞こえる。

 やめてと押しのけようとした手はベロベロ舐められる。ついでに顔も舐められる。

 このままでは全身がビショビショになってしまう。

 

『おっと』

 

 向かいから歩いてきた人が足を止める。

 魔族だろう。全身から白い体毛が生えていた。

 顔にも満遍なく生えているので、顔立ちがわかりにくい。

 

『アルカントスの奴め、また使い魔を出しっぱなし、に……?』

 

 白いモジャモジャ魔族は、不思議そうにしているように見えた。

 

『生き餌……? いや、違うな……』

「な、なんて言ってるかわからないけど、助けてください」

『そんな馬鹿な、アルカントスの使い魔は弱者とみれば襲いかかり、四肢を食いちぎるはず。こんな子供になぜ懐いているのだ』

「あわわ」

『そうか……弱く見えるのは相手の油断を誘うため……! ククク、危うく騙されるところだったぞ』

 

 わやくちゃに犬に絡まれながら助けを求めるが、全然聞いていないようだ。

 そもそも、人間語だから、通じていないのかも。

 

『我が名はベネベネ。北神流聖級剣士にしてアトーフェ四天王が一人! 〈水のベネベネ〉!

 ククク……名のある小人族の戦士とお見受けする。いざ決闘を、と洒落込みたいところだが、あいにくと私は鎧の準備がない。

 すぐに取りに戻るゆえ、しばし待たれよ』

 

「ああぁ」

 

 モジャモジャ魔族は行ってしまった。

 他の人には私が犬と遊んでいるように見えるのだろうか。

 内情は、遊んでるんじゃなくて、犬に遊ばれているだけだ。

 悪意を持って噛みついてはこないから、トウビョウ様で怖がらせて追っ払うのも悪い。

 ふらつき、尻もちをついた私の上に一匹がのしかかる。

 

「あ、この子かな」

 

 私はスポッと犬団子の中から引き抜かれた。

 

『お座り』

 

 魔神語が聞こえるやいなや、犬たちはお座りの姿勢になった。

 さっきまでの落ち着きのなさが嘘のようだ。

 

「こんにちは」

「……こんにちは……」

 

 助けてくれたのは、知らない人。

 大剣を背負った黒髪の少年であった。

 赤い大きな目がくっきりとしていて、活力にあふれた印象を受ける。

 

「きみがシンシアちゃん?」

「うん……」

 

 彼は私が服についた犬の毛を叩き落とすのを待ち、話しかけてきた。

 人間語だ。しかも私の名前を知っている。

 

 きょとんとする私に、彼は言った。

 

「僕はアレクサンダー。アレクと呼んでくれ」

「アレクさん」

 

 いや、この人、前に視た事がある。

 オルステッドからの依頼で現在地を調べた人物の一人だ。

 かつて見たときは、ガスロー地方にはいなかったのに。何故ここにいるのだろう。

 オルステッドの知り合いだろうか。

 

「ナナホシさんが君のことを探していたよ。やっぱりここに居たんだね」

 

 ナナホシだった。どういう繋がりだろう。

 

 アレクサンダーさん、もとい、アレクさんは、私を外に連れ出した。

 外とはいっても、城の敷地内から出してもらったわけじゃない。アトーフェ様の許可なく逃がしてはやれないそうだ。

 大地が均され、広々とした中に巻藁だの障害物だのが点在するそこは、練兵場であるとの事だった。

 

 昨夜の驟雨は通り過ぎ、晴れ渡っていた。

 強い陽がカッと照りつけ、地熱がたちこめて、空気はゆらめいていた。

 息苦しいほどの快晴だ。

 

 練兵場のあちこちでは、黒鎧たちが技の研鑽をしていた。

 

 

「よいしょっと」

 

 アレクさんは私を肩の上に座らせた。

 そうして、要塞の後ろに連なる岩山を指し、「海みたいだね」と言った。

 

「海を見たことがあるの?」

「たくさん見たさ」

「山が、どうして海なの?」

「あの険しい山並みは、嵐にうねり猛った海が、そのまま凝固したみたいに見えるだろう」

 

 私はちょっとおもしろくなり、アレクさんに訊ねた。

 

「じゃあ、山が海なら、ここはなに?」

「ネクロス要塞は、孤島。海に浮かぶ孤島だ」

 

 大人も空想をするのだ。

 私はアレクさんのことを好きになった。

 

「よし、お兄さんが遊んであげよう」

 

 両手をつかまれ、ふりまわされる。

 体が宙に浮いてぐるぐるまわる。

 

「きゃーっ、うふ、ふふっ」

 

 私は、自分が囚われたことを一時忘れた。そうして腹の底から楽しくなって笑い声をあげたのだった。

 

 

「王竜王国では、子供をどうやって兵士にするか、知っているかい?」

「しらない」

 

 訓練場の隅。

 体を使って遊んでもらった後、私はあぐらをかいたアレクさんの正面に座って話を聞いていた。

 体を動かしてすっきりしたからだろう。私は妙案を思いついた。

 アレクさんはナナホシの知り合いだから、アレクさんを経由して、ナナホシに連絡してもらえばいいのだ。

 そうすれば、オルステッドに助けを求めることもできる。

 

 アレクさんにナナホシへの伝言を頼みたかったけれど、今は彼が喋る番である。

 

「弓術を習ったことはあるかな?」

「村の狩人さんが使ってるのは、見たことあるの。私はやったことないよ」

「そうか。じゃ、これの使い方くらいは知ってるか」

 

 アレクさんは黒鎧さんに持ってこさせた弓矢を私に見せた。

 それから、短弓を引き絞り、遠い的に()てた。

 

「わぁ!」

 

 刺さったのは中心。ちょうどど真ん中だ。

 ぱちぱちと拍手をする。

 

「はい。やってみるかい?」

「触っていいの?」

「いいよ」

 

 アレクさんは短弓を私に持たせた。

 えっと、えっと。

 

 たしか、弓はこうやって持って。

 グラグラ揺れて定まらない矢を弦にかけて。

 

「あら……?」

 

 私の力では、撓むどころか、弦もまったく動かなかった。

 おかしいな。アレクさんは、もっと軽々とやってのけたのに。

 

「動かせないだろう」

「うん」

「ネクロス要塞で用いる短弓は、魔物の骨と木を組み合わせたもので、恐ろしく硬い。王竜王国だと、魔物の骨の代わりに動物の骨を使うが、強度は同じくらいだ。

 素人ではまったく動かない弓を、長年鍛錬を経た者は、軽々と引き絞り、的に中てることができる。まぁ、僕は剣士だから、弓はたしなむ程度にしか扱えないけどね」

 

 たしなむ程度で、あんなに熟練しているものだろうか。

 

「この僕であっても、幼い頃は硬い弓を引くことはできなかった。僕がそうだったんだから、その辺の雑魚が習得するのはもっと大変だ」

「ざこ……」

 

 穏やかな語り口で急に悪口が飛び出してきたので、ちょっとめんくらう。

 

「でも、幸いに王竜王国にはカリキュラムがある。それに従って育成された中央大陸南東諸国の兵士は、どんなに才能がなくても、あれくらいはできるようになるのさ」

 

「まず、石を入れた袋を、滑車の力を借りながら片手で引き上げることから始める」と、アレクさんは片手で紐を引くような仕草をした。

 大袈裟ともいえる身振りはひょうきんで、うふふと小さく笑ってしまう。

 

「石は日毎に少しずつ増やして鍛えるんだ。それから、右手の上に重い鉄の塊を載せる。これも徐々に重量を増やす」

 

 忍者の修行みたい。

 麻の苗木を毎日飛び越えると、麻の成長とともに跳躍力が増すという俗信だ。

 忍者修行の効果の程はわからないが、重いものを日毎持ち上げるのは効果的な修行であるらしい。

 継続は力なり。

 

「そうやって鍛えたら、私も弓を使えるようになる?」

「なるだろうね。今からやるかい?」

「やんない」

 

 冗談とは思えない調子だったので、私は即座にことわった。

 ここで曖昧な態度をとったら、半ば無理にでもやらされる事になる。そんな予感があった。

 

「アレクさんも、その修行、やったの?」

「もちろん。幼い頃から修行の日々だったよ。体を鍛え、剣を振るのは、僕にとって呼吸と同じくらい当たり前のことだった。

 そんな中でも、忘れられない思い出はある。産まれてほどない仔牛を肩に担ぐ修行だ」

「仔牛を?」

 

 仔牛を担ぐのも、子供の身には十分大儀だろう。

 でも、石を詰めた袋だの鉄の塊だのと比べると、ちょっと弱い気がする。

 

「仔牛は日々成長し重くなるだろう。人の成長のほうが追いつかないんだ」

 

 なるほど。

 仔牛はやがて大人の牛になる。

 仔牛を持ち上げられても、大きく育った牛を担げる人は、そうそういない。

 それを持てるようになったら、村でも評判の怪力間違いなしだ。

 

「僕の子供の頃はね、子分はたくさんいたけど、友達と呼べる人がいなかった。甥のランドルフは僕と同じくらい強くて、歳も近かったけれど、彼はなんだか変な子だったからね。

 ファラリスは優しい子だったよ。大きくなっても、僕の手ずからご飯を食べてくれた。悪戯をして母さんに叱られそうなときは、大きな腹の下に僕を隠してくれた。僕はひとりっ子だったから、本当の弟みたいに思っていた」

 

 アレクさんは訓練のために与えられた仔牛にファラリスと名づけ、たいそう可愛がったらしい。

 

「ところが」と、アレクさんの顔に暗い影が落ちた。

 

「ある日帰ると、牛舎のどこにも、ファラリスの姿はなかった。

 代わりに、家から漂ってくるのは、肉の焼ける匂い」

 

 迫真の語り口に呑まれ、ごくりと唾を飲み込む。

 お腹が減ったわけではない。

 

「震える足で玄関を通ると、家には、父さんがいた。ある巨大迷宮の守護者を倒して、帰ってきたんだ。

 いつもなら、土産話をせがむところだ。けど、その時はそんな事に拘らってはいられなかった。

 なぜなら、父さんが大きな討伐を終えて帰還すると、母さんは腕によりをかけてご馳走を作るんだ。

 嫌な予感は、もはや確信に変わっていた。

 僕はまっすぐ台所に向かった」

 

「ああ!」アレクさんは険しい顔して、拳を宙に叩きつけた。

 私の肩がビクッと跳ねる。

 

「ああ! 優しい僕の友達! 彼は変わり果てた姿だった!

 変わり果てた姿で食卓に並んでいた!

 どうしてこんなことを!

 僕は母さんに襲いかかった!」

「がんばれ、アレクさん!」

「しかし……母さんは元暗殺者。

 幼い僕が勝てる相手ではなかった。

 母さんは僕の渾身の一撃を、振り向きざまに包丁で受けた。

 エプロンに仕込まれたナイフを投げる!

 ザクザクッ! 飛来したナイフが体スレスレに壁に突き刺さる! 助かった! そう思ったのは間違いだった。ナイフは服を貫き、僕の体を壁に縫いとめていた!

 身動きはとれない。

 カラン……! 迫る死の気配に恐れをなした僕の手から、剣が落ちる。

 母さんの、勝利だった」

「そんな……」

 

 きゅっと切ない気持ちになる。

 可愛がっていた牛が前触れなく屠殺されるなんて、悲しい。せめて食用の牛なのだと与えた時に教えるべきだ。

 そもそも、牛は農耕を手伝う家畜である。食べ物じゃない。*1

 こっちでは平気で食べられる家畜なのだろうか。

 

「あの時、僕は学んだのさ。この世は弱肉強食。弱きものの命は強者に消費されるためにあるんだ、とね。強さの伴わない優しさなんてカスだ」

「うん……うん?」

 

 そういう話だったかしら。

 悲しいすれ違いはあったけれど、発端は、主人の帰還を祝う嫁心、そして我が子に腹いっぱい食わせたい親心ではなかろうか。

 そんな世知辛い認識をさせるためにやったとは思えない。

 

 それから、アレクさんは自分のことを色々と話してくれた。

 北神流を教え広めるため、各国を遍歴しているアレクさん。

 彼がネクロス要塞に来たのは、ベガリット大陸のヌシと呼ばれるベヒーモスに挑むためだそうだ。

 

「もしかしたら、敗れて死ぬかもしれないからね。

 そうなっても悔いがないように、最期に各地の知人や身内の顔を見て回っているんだよ。

 ここに来たのは、アトーフェ様に、つまり、僕のお祖母様に挨拶をするついでに、手合わせを頼んで鍛え直すためさ」

「……おばあさま?」

「ああ。僕は北神三世……とは言っても、小さな女の子に武芸のことはわからないか。

 僕は前代の北神の息子で、アトーフェラトーフェの孫なんだ」

「アトーフェ様、おばあちゃんだったの!?」

 

 びっくり。

 禍々しい雰囲気ながらも若々しい外貌からは、とても想像できない。

 ……アレクさんのおばあちゃんを、何度も呪殺したことは、言わないでおこう。

 生き返るとはいえ、聞いて良い気はしないだろう。

 

 

 昼食は、アレクさんや他の黒鎧さんたちといっしょに食べた。

 アトーフェ様の親衛隊のほかに、城の掃除や兵士の食事作りを担う魔族のメイドさんたちもいるのだ。

 好きな場所で食べていいそうだけれど、だいたいが練兵場で地べたに座って済ませる。快適な日陰は奪い合いらしい。

 アレクさんといっしょにいたから、労せずいい場所に座れた。

 

『や、若様。女連れとは、羨ましいですな』

『はは、素直ないい子です。それにしても、ここは、顔ぶれが少し変わりましたね。僕なんか顔も忘れられたかな』

『まさか。私がご相伴しましょう。新入りも紹介させていただきたい』

 

 アレクさんは黒鎧さんの何人かと顔見知りなようだ。

 車座に集まってきた人の中には、オットーさんとジルドさんもいた。昨日はアトーフェ様に体がふっ飛ぶほど殴られていたのに、二人ともピンピンしていた。

 アトーフェ様の兵士の多くの母国語は魔神語だ。

 人間語まで話せる人は少ない。

 

「とうもころし?」

「トウモロコシな」

 

 魔大陸の人たちが普段は何を食べているのか訊ねると、人語話者たちは詳しく教えてくれた。

 肥沃とは言い難い大地だが、そんなでも育つ作物はあるそうだ。

 主作物はトウモロコシ。初めて聞く穀物だ。

 今の時期だと、カボチャや、ササゲ豆なんかも収穫できる。

 

 家畜は、山羊や豚や鶏。それから、大きな蜥蜴や蛇。虫も食べる。

 小鳥や野ねずみを捕らえるのは、もっぱら子供の仕事らしい。

 

「鼠も食べるの?」

「ああ、こうやって、丸焼きにして、ガブッ!」

「やん!」

 

 頭から齧る素振りをされ、からだをよじって逃げ出すと、笑い声が起こる。

 虫は生前も食べていたから良しとして、鼠食の習慣まであるとは。異国の文化は奥が深い。

 ブエナ村で初めて羊を見て、しかもその肉を食べるのだと知った時も衝撃だったものだ。

 仔羊のかわいさと肉の美味しさを知って、すぐに慣れたけれど。

 

 誰かが口笛を吹いて、ここではよく知られた歌の節であったのか、他の者が歌いはじめた。

 妙な形の太鼓だの弦楽器だの、初めて見るような楽器を持ち寄った者が奏でて加わった。

 

 私は練兵場を見回す。

 昼時だからか、訓練中の殺伐とした空気は消え、穏やかな雰囲気だ。

 人も少し減った。アトーフェ様は近くにいない。

 厠に行くふりをして、ここから逃げ出せそうだ。

 私はそっと腰を浮かせ、

 

「あっ」

 

 アレクさんが私を抱え、膝にのせた。

 

「今逃げるのは賢くないな」

 

 逃亡しようとした事を見透かされた。

 語りかけてくる声は穏やかなのに、私の体はぎくっと緊張した。

 

「君が大人しいうちは、皆きみに優しくできる。でも、一度逃亡の意志を見せたら、監禁は厳重にせざるを得ない。お祖母様の命令だからね。シンシアちゃんも、怖い目には遭いたくないだろう」

 

 冷や汗をかく。

 喩えるなら、くつろいでいる熊の傍にいるような心地であった。

 熊に人を襲うつもりはなくても、その気になれば大怪我を負いかねない事を、人は知っている。

 そんな感じだ。

 アレクさんは、きちんとアトーフェ様の孫なのだ。

 

「でも、帰りたいの」

「お祖母様には僕から頼んでみるよ。それまでいい子にできるね?」

 

 振り返り、勇気を出して言うと、アレクさんはそう提案した。

 願ったり叶ったりの申し出であるはずなのに、あまり安心できなかった。

 アレクさんは穏やかだけれど、完全な私の味方ではないからだろうか。

 大人しく脚の上に座り直すと、彼は私の手をもてあそんだ。

 

「手が冷たいや。小さくて、フニフニで、鼠の腹みたい。可愛いな」

「お膝いやぁ……」

「えっ? なんで?」

 

 喰われそうだからだ。

 震えながらあぐらの上から退くと、アレクさんは心底不思議そうにした。

 

 曲が変わり、何人かが太い声で歌いあげた。今度はアレクさんも加わった。

 

 

  魂こめし業物(わざもの)担い

  幾年(いくとせ)ここに鍛えたる

  腕の力競いてみん

  いざや友よ、連れ立ちて

 

 

 練兵場の片隅に響く人間語の歌に、緊張がちょっとだけ安らぐ。

 鼻歌であわせると、アレクさんが「それでいい」と言わんばかりに私の頭をワシワシ撫でた。

 

 私は鼻歌をやめた。アトーフェ様が来たからだ。

 何度呪殺しても追いかけてきた昨夜の悪夢がよみがえる。

 

 彼女は黒鎧さんが急いで用意した敷物の上にどかっと座った。

 私の真横である。

 ひぃ。

 

「歌に」とアレクさんは小声で囁いた。「つられていらっしゃったのさ。魔王はみんな楽しい事が好きだからね」

 

 じゃあ、私が楽しくなさそうにしたら、アトーフェ様は去ってしまうのか。それは困る。

 シンシアを帰してください、って、アレクさんにお願いしてもらわなければいけないのだ。

 

 ラ、ラーララ、ラーララ、と弾む歌声を、私はむりにまねた。

 ちらりとアトーフェ様をうかがう。

 彼女は頬杖をつき、目を瞑って歌を聞いているようだった。

 翼は畳まれ、口元は穏やかに微笑んでいるように見える。

 そうしていると、彼女は異形だけど、きれいである。

 

「シンシアちゃんも歌って。踊るのでもいいよ」

「知ってる歌しか歌えないけど、いい?」

「何でもいいんだよ。さあ」

 

 トンと背を押され、車座の中心に躍り出る。

 カチカチに緊張していると、黒鎧さんたちが、口笛や声を飛ばして囃し立ててくれた。

 アトーフェ様は怖いけれど、その配下の彼らは陽気だ。

 配下が暗い顔をしていないなら、彼女も実は極悪非道な魔王ではない……のかもしれない。

 

 私はぴょこんとお辞儀をして、必要な物がない事を思い出した。

 近くの黒鎧さんの所に寄って、食べ終わった後の焼き串を一本拝借する。

 榊の代わりだ。

 車座の、いちばんよく見られる位置に戻り、神妙にその場に正座する。

 

 

 (あけ)の雲わけうらうらと、とお腹から声を出して、私は歌った。

 持った串は青々と葉をつけた榊枝、私は健常だった頃のチサである。

 そう思い込むことにして、静々と巫舞(かんなぎまい)を舞う。

 

 

  豊栄(とよさか)昇る朝日子を

  神の御光(みかげ)と拝めば

  その日その日の尊しや

 

 

 福力荒神の大祭は何百年も前から連綿と続いてきたお祭りだけれど、この歌が歌われるようになったのは、チサの死後より何十年も後であった。

 知っているのは、トウビョウ様が視せたからだ。

 振り付けだけは、正確なのを憶えていないから、歌は福力荒神大祭、舞は民間の巫女舞だ。

 明治初めの巫女禁断令によって民間の舞や神憑りは禁止されたが、禁断令の後に生まれたチサがトウビョウ様の使いとして託宣もやっていたように、禁止されたからといって、できる人が急に居なくなるわけじゃない。

 

 アトーフェ様はこちらを見ていた。

 やめさせられないという事は、それなりに関心を買えているのだろう。

 荒神様を呼んでもてなしているような気分である。

 

 

 そんなに長い歌ではないが、無事に終いまで歌いきった。

 

「終わりです。お粗末さまでした」

 

 お辞儀をして、その場に立ち続けるのも恥ずかしく、早足でアレクさんの所に行って座る。

 

「ふぅ」

『とろくさい妙な芸だが、なかなか良い。オレは気に入ったぞ』

「ッ!?」

 

 しまった!

 ついアトーフェ様とアレクさんの真ん中に戻ってきちゃった!

 しかしアトーフェ様は昨夜と異なり、邪気はなくにこやかだ。

 夜のおどろおどろしい城の中じゃなくて、昼間に外で見たからだろうか。

 昨日ほど怖くは見えなかった。

 

 ポンと頭に手を置かれ振り向くと、アレクさんが「任せろ」という感じで小さく頷いてくれた。

 

『ふふん、オレはこう見えて寛大だからな。お前がペルギウスの娘だろうと何だろうと、良い物は良いと認めてや――』

『お祖母様!』

 

 話の腰を折ったのであろうアレクさんは、ちょっと鼻白んだ魔王の視線にもまったく怯まず、何やら告げた。

 

『実は、この子は、姫ではありません! ペルギウスの娘でもありません!』

『何ィ!? どういうことだ!?』

 

『思慮深いお祖母様ならばわかるはずです』と、アレクさんは言い、私の頬をむにっと摘んだ。

 私の頬をつまむ必要がある話の流れだったのだろうか。

 

『いつだって、新たな歌や踊りを広めるのは旅芸人でしょう?』

『ああ、そうだったな』

『姫ともあろう者が、お祖母様が脅す間でもなく、自ら旅芸人の真似事をすると思いますか?』

『……』

 

 それから、アレクさんは話した。

 アトーフェ様に対して、懇々とおそらく説明していた。

 恐ろしい魔王様であろうと、孫の言うことなら耳を傾けるみたいだ。

 アトーフェ様は、徐々に思案げな顔つきになり、しまいには俯いた。

 

『シンシアちゃんを逃がしてやってくださいますか?』

 

 俯く彼女の口元に含み笑いが浮かんでいるのに、アレクさんは気がついていない様子である。

 

『ククク……そうか、わかったぞ。思えばこいつを捕まえた時から、妙な事ばかり起こったのは、そういう訳だったのか』

『え?』

『おい、名前はなんだ?』

 

 アトーフェ様は顔をこちらに向けた。

 困っていると、「自分の名前を答えて」とアレクさんが助け舟を出してくれた。

 

「シンシア・グレイラットです」

『ククク、そうか、シンシアか。確かに貴様は姫ではなかった。オレとムーアを呪った霊媒師(ムグウェツァ)だ』

「?」

『決めた。こいつは我が親衛隊として飼い慣らす』

「??」

 

 ザワッと周囲にどよめきが走った。

 逃がしてやろうと言われたにしては、周りの反応が変だ。

 

『まだちっこいが、なぁに、アールだってすぐに大きくなった。お前もじきに一端のレベルになろう。50年あればアレクくらいの大きさにはなるか?』

『アトーフェ様、彼女は人族の子供ですから、10年も経てば体は一人前になります』

『そうか、早いな。人族の変化は実に早い。すぐに鍛えてやらなければ』

「ひっ」

 

 ガシッと腕をつかまれた。

 

『立て! 契約の儀を行う!』

 

 アトーフェ様の目は爛々としている。

 なにがなんだかよくわからないが、これに従ったら、事態がややこしくなりそうだ。

 戸惑っていると、アレクさんが口を挟んだ。

 

『いや……待ってください、お祖母様! どうして彼女が霊媒師なんですか!?』

『昨夜は雨が降った! こいつに(ンサト)の霊がついているからだ!』

 

 腕をつかむ力が緩んだ隙に、私はオットーさんの後ろに逃げかくれた。

 魔神語はわからなくても、アトーフェ様とアレクさんの台詞に共通する単語は聞き取れた。

 

「むぐうぇ……つあ? って……?」

 

「魔大陸の古い言葉だ」と、オットーさんはアトーフェ様たちの様子をうかがいながら答えた。

 

「動物霊を憑依させ、地面に「倒れ込み(ウ・グウェツァ)」、起き上がるなり、人が変わったように喋り、歌い、叫ぶ者のこと……と、前に聞いた憶えがある」

 

「気狂いと違うのか」と訊いたジルドさんには、『気狂いだ』と別の人が答えた。

 そばに大きな犬を引き連れた、ええと、たしか、『火のアルカントス様』だ。そう呼べと言われた。

 

『憑霊による発作(ウブウェブウェタ)は、供物を捧げる事でしか癒せん。ま、それも一時しのぎで、憑霊はムグウェツァが死ぬまで取り去ることができない、と俺の故郷では言われているがな』

 

 犬に頬をベロベロ舐められながらオットーさんを見上げると、彼はちょっと笑い、私に言った。

 

「嬢ちゃん、昨日はさんざん癇癪を起こしたんだろう。だから気狂い(ムグウェツァ)なんて呼ばれたんだ」

「いや、その程度で、アトーフェ様が親衛隊に入れるだなんて言い出すか?」

「それは確かに……そうだな」

 

 オットーさんが火のアルカントス様の話も含めて、内容を要約してくれた。

 ムグウェツァは、動物霊に取り憑かれて発狂した者。

 しかし、中には憑霊を制御できるようになる者もいて、彼らは霊の力を借りて託宣や予言を行うという。

 だから動物霊に取り憑かれた者を霊媒師と呼ぶのだ。

 

「蛇の霊に憑依されるのは、バビノス地方の女に限られる。

 蛇の霊媒師(ムグウェツァ)は、もっとも強い呪いの力を持ち、子供を産む能力を失うが、雨乞いができるようになる」

 

 トウビョウ使いみたいな話だ。

 巫女だの祈祷師だのは、どこの村や集落にもいるものである。

 国どころか、世界が違っても、人がいて生活しているなら、似た話はあるのだろう。

 

『俺は邪術師(ンフィティ)だ。薬と呪文で使い魔を作る。霊媒師と同じく、忌まれる存在だ。アトーフェ様は不吉な物や存在を好まれる故、ここはたいそう居心地が良い……』

 

 火のアルカントス様がポツポツと呟いた。

 

『俺の作った使い魔は、嗅覚で強者と弱者を見分け、強者には懐き、弱者は八つ裂きにするはずなのだ』

 

『おかしい』

 

『俺は、使い魔に、「子供を襲うな」などという命令は出していない』

 

『こいつは本物の――』

 

 

『全員、その霊媒師から離れよ!』

 

 アトーフェ様のそばに控えていたムーアさんが、皆に聞こえるように声を張り上げた。

 五頭の犬のほかは、みんな私から距離をとってきた。

 オットーさんもジルドさんも、互いに顔を見合せつつ、とりあえずという感じで微妙に離れてしまった。

 変わらない態度で傍にいてくれるのは犬だけだ。

 

「……?」

 

 地面にぺたんと座っていた私は、ちょっと腰を浮かせて、横にいた犬の太い首を抱きしめた。

 フワフワの胸毛に頬を埋めて、不安になって周囲を見回す。

 

 アレクさんは、いつのまにかアトーフェ様との口論をやめていた。

 

「あの……」

「力は尽くしてみたけど、ダメだった。こうなったお祖母様は止まらないよ」

 

 アレクさんはやれやれと肩を竦めた。

 

「シンシアちゃん、これも運命だと思って、諦めておくれ」

 

 諦めるというのはつまり。

 ネクロス砦から脱出するのを諦める、という意味である。

 姫様じゃない私に、勇者なんていっこないから、私は一生ここから出られないわけで……。

 

「ここでの暮らしも楽しいよ?」

「帰りたいの」

 

 私はここから出て、オルステッドとナナホシの所に行って、いつかオルステッドに父様と妹たちのところに帰してもらうのだ。

 遊里に売られたのでもあるまいし、帰りたいという望みは、わがままなんかじゃない。

 そのはずだ。

 

「まったく」

 

 それなのに、アレクさんは駄々っ子を見る目で、仕方なさそうにこちらに歩み寄ってきた。

 尻尾を振ってアレクさんに群がろうとする犬たちを退けつつ、まっすぐに。

 

「王竜王国では、青い目は邪視(イヴィル・アイ)だなんて嫌われていたけど、ミリスに行ってみれば、青い目は美人の条件に過ぎなかった。迷信に意味なんてないんだ。信じるだけ馬鹿らしい。

 霊媒師の呪いだって、ただの迷信、子供に聞かせるような作り話じゃないか。それなのに、みんなこんな女の子を怖がって……」

「帰るの」

「魔神語がわからないと不安だろう。僕がついていてあげるから、さっさと契約を結んでしまおう」

「結ばない」

「大丈夫、ちょっと光るだけさ。痛くも怖くもない」

「いや」

 

 言葉が通じるのに、話が噛み合わない。

 この人も、怖い人だ。優しい顔と声をしているけれど。

 

 手が伸びてきたので、眼に力を込める。

 小さな蛇がアレクさんの影に溶け消えた。

 

「ワガママを言わな――んっ、んん゛っ」

 

 アレクさんは、喉が詰まったような咳払いをした。

 顔をしかめ、「失礼」と口元をおおって顔をそむけようとして、

 

「げぶっ!」

 

 押さえた指の隙間から、赤黒い血が溢れた。

 血は襟と胸元を汚して、下から彼を見上げていた私の髪や額にも、ボタボタとかかった。

 

『お前らは下がっていろ。アレクもだ』

 

 アトーフェ様だけが、余裕綽々という顔で、何か言っていた。

 

「うぐぁっ」

 

 次の瞬間、アトーフェ様は間近にいて、私の首根っこをむんずと掴んでいた。

 足が地面から浮く。襟が喉にくいこむ。

 私は襟と喉のあいだに指を差し込み、かろうじて息を吸った。

 

『こんなに強力な霊媒師は、人魔大戦の時以来だ! いまにオレに逆らえないようにして、我が傀儡にしてやろう!』

 

 アトーフェ様は獰猛に笑い、私の首根っこをつかんだ腕を高く上げた。

 視線が同じ高さになる。

 

「あう゛っ、ぇ」

 

 宙ぶらりんになった私は、かすむ視野でアトーフェ様を捉えた。

 殺す。殺さないと、私が死ぬ。

 したい事も、しなければならない事も、私にはまだある。

 

『何度でも殺すがいい! オレは何度でも復活し、必ずやお前を手に入れるがな!』

 

 殺す範囲なんてどうでもいい。

 町の人が全員死に絶えてもいい。

 穢れて呪われた地になってもいい。

 二度と蘇らないくらい、強く、広く、呪う。

 使える中でもっとも強い、首に二色の輪がある蛇を出す。

 

 私は、震える左手を、目の前の女に伸べた。

 

 

『アトーフェ様! 敵襲です! カリーナとペリドットがやられました!』

『勇者か!? すぐにアルカントスとベネベネも向かわせろ!』

『いえ! 勇者じゃありません! あんなにおぞましい――』

 

 グルンと視界が変わり、背中をぬくいものに打ちつけた。

 私のからだはあお向けで犬の背に脱力して乗っていた。投げられて、たまたま下にいた犬の上に着地したのだ。

 

「いたい……」

 

 まだ視野に黒いモヤがかかっている。

 昼下がりなのに、夜みたいだ。頭がくらくらする。

 ぎゅっと眼を瞑り、また開くと、ちゃんと空は青色に戻っていた。

 

「けほっ……ありがとね」

 

 背中から滑り降りて、受け止めてくれた犬の首を撫でる。

 鼻面に頬擦りをしてやると、耳がゆっくりと持ち上がってかわいい。

 

 眼を瞑っていたのは、ほんの数秒である。

 しかし、喋りながら走ってきたはずの黒鎧さんは、地にうつ伏せに倒れていた。

 鎧は割れ、背から血を流している。

 

 その背を踏みつけるのは、狐面の男。

 白い詰襟に、白い靴。金髪。

 一ヶ月も前に、ゾルダートさんに似てない? って、ナナホシに言って、まったく共感されなかったのだっけ。

 そんなペルギウス様の使い魔は、短剣の血振りをして、言った。

 

「光輝のアルマンフィ、参上」

 

 次に現れたのは、二人の人物。

 顔だちは似ていないものの、特徴はおなじだ。

 きれいな銀髪に、金色の目。顔には龍の鱗がある。

 上背がうんとあって、私の身長が、彼らの腹の高さだ。

 

「お前もよく顔を出したものだな、因縁の相手の陣地だろう」

「ハッ! どうせ貴様一人では事が運ばぬだろうから、我が来てやったのだ。

 それに……いっときでも可愛がった子犬が無粋な魔王に囚われたとなれば、我とて苛立たしくもなる。貸しはなしだ」

 

 オルステッドとペルギウス。

 彼らは、悠々と現れた。殺気立つアトーフェ様や、黒鎧さんたちをものともせず、堂々としていた。

 まるで、いつ襲いかかられても問題ない、どうとでもなるというふうに。

 

「俺と彼女の事情だの関係だのは、貴様の頭では理解できんだろう。だから、シンシアが姫で、俺が勇者だ。それでいい。……気は乗らんが」

 

 それから、オルステッドは一歩前に出て、声を張った。

 吠えるような大声であった。

 

『我が名はオルステッド! 今代の龍神だ! 不死魔王アトーフェラトーフェに一騎打ちの決闘を申し込む! 俺が勝てば姫を解放せよ!』

『受けてたぁぁぁつ! 負ければ貴様も親衛隊入りだ!』

『いいだろう!』

 

 緊迫した雰囲気だ。

 見ているだけで、肌がビリビリとしてくる。

 

 オルステッドとペルギウス様の後ろ。

 ひょこっと出てきたナナホシが、私を見つけ、ぐっと胸の近くで拳をつくり、親指をたてた。

 さむずあっぷ、という、かつて兄が教えてくれた仕草だ。

 前向きな気持ちの時にやる仕草である。

 

 きっと、もう大丈夫よ、と伝えてくれているのだろう。

 私は安心して、にへへと笑い返した。

 

「呪わなくてよかったぁ……」

 

 さっきは切羽詰まっていて、まともに考えられなかったけれど。

 あのままアトーフェ様を呪い殺していたら、余波で大勢を巻き込んでいた。

 オルステッドには効かないし、同種族のペルギウス様にも効きが悪いと思うから、彼らは大丈夫だろう。

 ナナホシは……。

 

 自分の仕出かそうとした事の重大さを理解して、サーッと頭から指先まで冷たくなるが、でも、そうはならなかった。

 安心した私の体から、ふっと力が抜けたのだった。

*1
1872年に明治天皇が牛肉を食べたのを皮切りに牛鍋ブームが到来したが、田舎での忌避感はまだ強かった。





霊媒師や邪術師の記述はチェワ社会の風俗を参考にしています。


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四二 龍族対不死魔族

お久しぶりです。絵を描いていました。
XのIDはこちら。投稿専用のアカウントなのでフォローは返せませんが良ければ覗いていってください。
@vg6_8
※オリ主のイラストはハーメルンのみ載せる予定です。
※今後もAIを使ったイラストは必ず一言添えます。



 虚空に、鞠が舞った。

 高く飛んだ鞠は、天空の太陽をめざす。

 太陽と鞠は、一つに合した。

 

 いずれ成熟するシンシアは、初夏の(とき)になると、きまって、青色の鞠が太陽に向かって翔び行く情景を思い出すことになる。

 幼童の記憶は、まったくあてにならない。歳月によって歪められた偽の記憶である。

 

 空を翔ぶのは、鞠ではなかった。

 人の、首である。胴体から別れた女の首である。

 魔王アトーフェラトーフェの首である。口を固く食いしばり、表情は憤怒にみちてちる。

 まだ死んでいない。彼女は、この程度では死なぬのだ。

 

 視野一面、乾いた地は陥没していた。

 クレーターから這い出たオルステッドは、脇にペルギウスを抱えていた。

 一陣の風が吹き、土埃と火の粉が散る。

 不死魔族は登ってくることができない。

 片膝をついたサファイア・ブルーの躰が、地に顎砕(ガクサイ)を突き立てたまま、彫像のように静止している。

 アレクが伸ばした腕は、落ちた王竜剣に届く前に、がくんと硬直した。

 クレーターの底で、魔力さえ枯渇し、封印の魔法陣にがんじがらめの屈辱。

 

 歴史上、何度も衝突した不死魔族と龍族。

 今代の闘いもまた、龍族の勝利に終わった。

 二つの種族が雌雄を決するまでに、激しい戦闘があったはずだ。

 しかし、シンシアがこれからの生涯で、くっきり思い描くのは、太陽に重なる一顆の鞠だけなのだった。

 

 

 冒頭に至る経緯を解説しよう。

 時は当日の朝までさかのぼり、さて、オルステッドである。

 彼はナナホシとシンシアを迎えに来て、事の顛末を知った。

 そして正直、見捨てようかな、と真剣に考えた。

 ガルデニアでちゃっかりバーバ・ヤーガの所にいた事といい、なぜ数日も大人しく留守番をしていられないのだ、と思っていた。

 

 オルステッドはまだ知らない。

 普通は、よそ者とひと目でわかる小さな子供が一人でいたら、注目を集めることを。

 シンシアには、知らない人についていってはいけない、という意識が薄いことも。

 なにせ前世も今世も小さな村社会育ち。

 いわゆる「知らない人」が滅多にいない環境であったので、ことさら両親が教え諭す必要もなかったのだ。

 

 オルステッドに付いて旅を始めて以来、人買いに攫われていないのは、単に運が良いのと、人通りのない所を歩くな、というゾルダートからの躾が活きているためである。

 

 俺から逃げたいがためにあちこちに身を隠すのだろう、とすらオルステッドは思っていた。

 

 内心がどうあれ、オルステッドはシンシア姫を救う勇者である。

 姫をバリバリ頭から食っちまいそうに見えるが、勇者である。

 

「勇者なわけがあるか! お前みたいなのが!」

 

 アレクが代表して吠えた。

 不死魔族の血を引くおかげで、呪いによってズタズタにされた消化器は回復しつつあった。

 

「そうだそうだー!」

「姫を置いて帰れ! この悪魔!」

「姫は俺たちで育てたほうが幸せに違いねえ!」

 

 霊媒師(ムグウェツァ)は古い言葉であるので、若い魔族には知らない者も多い。

 よって、ひとまず、シンシアは姫であるというのが親衛隊の共通認識であった。

 

「アレクサンダーか……面倒だな」

 

 野次を無視したオルステッドは、アレクの顔をジロリと睨めつけた。

 いや、見ただけである。

 王竜剣の柄をいっそう強く握ったアレクのこめかみに、冷や汗が流れる。

 彼は強者である。

 だからこそ、わかってしまうのだ。

 龍神と己の間に、高い壁が隔たっていることが、わかってしまうのだ。

 

 オルステッドにしても、アトーフェとの戦闘に際し、アレクがいたのは想定外であった。

 従来のループでは、この時期、アレクはネクロス要塞にはたどり着いていないはずだが、この周回では、転移事件という大きなイレギュラーがあったのだ。これも狂いであろう。

 

 不死魔族を復活が叶わないように殺す方法をオルステッドは知っていた。

 しかし、アトーフェは殺さないし、封印もしない。

 アトーフェ及びムーアを殺せばネクロス要塞の領主は不在になり、魔大陸の歴史が変わる。

 小さな歪みはやがて取り返しがつかないほど大きくなり、後々の自分の首を絞める事になるだろう。

 アトーフェを殺し、ムーアを見逃せば、領地の運営は続く。

 しかしムーアは親衛隊を差し向けて報復に走り、やはり歴史は変わり、魔大陸での活動はやりづらくなるだろう。

 だから、アトーフェが敗北を認めるように仕向けるだけである。

 

 父なる龍神より託されし神刀。

 強力な力の縛りか、抜くには多大な魔力を消費する。

 オルステッドは、アトーフェとの戦闘で神刀を抜く気はなかった。

 使わずとも、そして殺さずとも、魔力の消費を抑えた勝利は硬いはずであった。

 敵がアトーフェ一人であれば。

 

「お祖母様! 僕も戦います!」

「これはオレと龍神の一騎討ちだ! 邪魔をすんじゃねえ! ペルギウスにも手を出すな! あれもオレが殺すのだ!」

「いえ、一騎討ちだなんて言ってませんでしたよ?」

「そうだったか?」

 

 アトーフェはオルステッドを見る。

 

「一騎討ちだ」

「こう言ってるぞ!」

「あの男は嘘をついています! お祖母様は騙されたのです!」

「なにィ……?」

 

 アトーフェの顔にみるみる怒りが滾る。

 オルステッドに怯えながらも、アレクの口元には薄く笑みが過ぎる。

 最強の王竜剣と最強の自分、不死魔王と親衛隊が揃い、希望をかろうじて見出した言えであった。

 

 呪いの影響で信頼という信頼を得られぬオルステッド。

 幼少より可愛がってきた実の孫であるアレクサンダー。

 

「ぶっ殺す!」

 

 アトーフェがどちらの言い分を信じるかは明白であった。

 

「共に戦え、アレク!」

「はい!」

 

 アレクが巨剣を構える。

 王竜剣カジャクトは最強の剣である。

 めちゃめちゃ強いのである。

 めちゃめちゃ強い剣を持った北神がオルステッドに敵対しているのである。

 オルステッドは今日ほどシンシアを連れて旅をした事を悔いた日はなかった。

 

「……ペルギウス、お前は龍門を召喚するだけでいい。俺が奴らの動きを止める」

「まあ、構わぬが……」

 

 オルステッドは急遽予定を変更。

 向こうが二人掛かりならば、と、自分もペルギウスを戦術に組み込んだのだった。

 

 

 そんな経緯で、幼い姫(仮)をめぐった戦いは決着した。

 

「勝者ァァア! (りゅう)ゥゥウ(じん)ッッ!!」

 

 意識のある黒鎧がやけくそ気味に叫ぶ。

 喝采はない。

 賞賛もない。

 

 いや、小さな拍手がひとつ。

 戦闘を真剣な顔で眺めていたシンシアである。

 何が起こったのかまったくわかっていないが、最後に立っているオルステッドのほうがすごいのだろうな、と思ってぱちぱちと拍手で称えている。

 誰も続けないので、ちょっと不安そうに周りを見てやめた。

 

「アトーフェ様、宴はどうしましょう?」

「やらん。お前たちは引き上げろ。各自怪我を癒せ」

「ハッ」

 

 動ける者は負傷が深い者に肩を貸し、よろよろと要塞に戻っていく。

 シルヴァリルがペルギウスの傍に静かに参じ、治癒魔術の詠唱を唱えはじめる。

 

 魔王アトーフェラトーフェの知能は低いが、ハッキリと理解できることはある。

 自分がオルステッドになすすべなく敗北したという事だ。

 アトーフェの首を胸に抱えたムーアが、オルステッドに近づく。

 

「オレは約束は守る。約束通り姫は……いや、霊媒師(ムグウェツァ)は……」

 

 首だけのアトーフェはピタリと口を噤んだ。

 視線は明後日を向く。

 結局、シンシアは姫であったのか、霊媒師であったのか、考えているのだ。

 

 必然的に無言のオルステッドと向き合うムーアの額に、冷や汗が流れる頃、

 

「霊媒師だ」

 

 オルステッドが助け舟を出した。

 しかし彼は「俺が勝てば姫を解放しろ」と挑みかかったのだ。

 アトーフェの混乱を招く言動をしていいのか、と、かの魔王をよく知らぬ者は思うだろう。

 

「ククク……そうか……お前がそう言うってことは、つまり姫だな! 二度は騙されんぞ! オレは賢いのだ!」

「そうだな」

 

 オルステッドの判断は正しい。

 呪いと馬鹿の相乗効果で、こうなるためである。

 

「姫はお前に返そう!」

「ああ」

 

「来い」と人間語で促すと、シンシアはちょこちょことオルステッドのもとに来て、彼のマントを握った。

 数多のループを経たが、害意のない小さいものを可愛らしいと感じる感性まで擦り切れたわけではない。

 しかし、それはそれ、これはこれである。

 要らぬ魔力を消費したことが腹立たしく、肩を軽く揺らして手を振り払うと、シンシアはしょんぼりした。

 

「だが、オレはペルギウスには負けてない。

 ペルギウスゥ! お前はいつもそうだ! いつも仲間の後ろでコソコソやりやがって鬱陶しいわ! 真正面から戦え!」

「……? シルヴァリル、何か聞こえたか」

「風が蕭々(しょうしょう)と……」

「うがああああ!」

 

 煽るペルギウス。と、シルヴァリル。

 アトーフェはキレた。憤懣やるかたなしにキレた。

 

「アトーフェ様、どうどう」

「うぐぐ……ふぅ、まあ、いいだろう」

 

 落ち着くのが早いのは、躰が離れて血の気が減った故か。

 アトーフェはオルステッドに言い渡した。

 

龍神宝玉酒(エールシュナイル)の美味さだけは認めてやってもいいが、想肉(シアンロー)を持ち込んだのは、お前らリザッケだ。あんな不味い肉をよくも広めてくれたものだ。お前らのために開く宴はねえ。とっとと去ね」

「言われずとも、そうする。貴様らを拘束する魔法陣は、半日も経てば消滅しよう」

 

 オルステッドとペルギウスは二人の少女を連れ、ネクロス要塞から去ろうとした。

 

「待て!」

 

 高圧的に呼び止める声があった。

 アレクサンダーである。

 

「何だ、まだ用か」

 

 オルステッドは穴の底を覗き込んだ。

 アレクサンダーの眼は冷めやらぬ戦意にギラギラとしている。

 魔法陣から伸びる半透明の鎖に縛られながら、彼の心は折れていなかった。

 かつてラプラスを封じた三英雄が一柱。

 反則のような呪殺の力をもつ童女。

 彼らがオルステッドの仲間であったためである。

 僕はまだ本気を出せていない。出す前に横槍を入れられたのだ。

 そう思わせてしまったのだ。

 心が折れないだけの余地を与えてしまったのだ。

 

 とはいえ、そこで他責思考の坩堝に陥るほどアレクも落ちぶれてはいない。

 本気を出せなかった自分にも非は三、いや、二割くらいあると考えていた。

 だから、敗北は認める。

 その上で、これだけは伝えねばなるまい。

 

「悪いことは言わない、その子は殺すんだ」

「……理由は」

「わからないのか? 強力な邪術の前では、僕たちが持つどんな力も意味を持たないんだ。

 悪魔が君に信頼を置いているなら、好意を利用して殺すべきだ。大丈夫さ、外法を恐れるのは、恥ずかしいことじゃない。

 子供の姿に躊躇を憶えるというなら、僕がやる。少しのあいだでいい、この封印を解いてくれ」

 

 僕が言っていることは正しい、とアレクは思う。

 僕のみならず、一流の武芸者が、磨かれてきた研鑽が、理の異なる力によって不当に失われてはならないのだ。

 この会話は魔神語である。どんな会話が成されているか、悪魔には分からないはず。

 

「俺も貴様と同じことを考えていた」

「なら……!」

 

 ――なのに、何故だ、なぜ震えがおさまらない?

 

 恐ろしい龍神よ。

 お前の殺意の矛先は、僕じゃないだろう!

 

「……同族嫌悪、か」

 

 オルステッドはかぶりを振ると、もうアレクを一瞥もしなかった。

 もはや興味も失せた、聞く価値もないと言わんばかりの態度であった。

 

「話は終わったか」

「ああ」

 

 ペルギウスたちの元に合流したオルステッドは、シンシアを見下ろした。

 殺意にビビってペルギウスの片手にしがみついていたシンシアである。オルステッドが薄桃色の子供の耳をキュッと摘むと、シンシアはしおしおに萎れた。

 小さなぷにぷには、大きくて硬い龍族に、無意味に引っ張られたり抓られたりする定めなのだ。

 硬い爪が耳に穴を開けそうで怖いけれど、迎えに来させた手前、拒絶するのは悪い。

 シンシアは定めを一旦、受けいれたのである。

 

 

 一方アレクは。

 祖母の躰と共にクレーターの底に置き去りにされたアレクは。

 暗い瞳で、地についた自分の膝元を見つめていた。

 

 原因はわからない。でも、僕のなにかがオルステッドの逆鱗に触れたのだ。

 結果、見放された。

 圧倒的強者に見向きもされない。

 それは、アレクが初めて抱く種類の屈辱であった。

 

 魔族は戦いを通して絆を育む傾向がある。

 不死魔族のクォーターであるアレクもその例に漏れず、彼は自分を倒したオルステッドに尊敬の念すら感じていたのだ。

 呪いだって、ほとんど克服しかけていたのだ。

 

 見放された。その思いは、烈しい怒りに転じる。

 自分を顧みなかったオルステッドを倒し、踏みつけねばならない。

 そうして、僕を見くびったからだ、ざまあみろ、と嗤わねばならない。

 力を誇示せねばならない。

 それが叶うまで、この怒りが消える事はない。

 

「龍神オルステッド……」

 

 アレクの闘争心は爆発的に燃え上がった。

 噛みしめた歯のあいだから、獣の呻きじみた声が漏れた。

 紅い雫をねっとりと(したた)らせた刃が視野を占める。

 王竜剣は取り上げられなかった。手元にある。

 オルステッドに一切の攻撃が通らなかった訳でもないのだ。

 ならば、もっともっと強くなれば、僕にも勝機はある。

 

「僕が、必ず、殺してやる」

 

 オルステッドの持つ嫌悪の呪いとは無関係なところで、アレクは躰に憎悪を刻み込んだ。

 この日、この瞬間を持って、龍神と北神の敵対は運命づけられたのであった。

 

 

 


 

 

 

シンシア視点

 

 決着がつくまで一瞬だったようにも、たいそう長い時が流れたようにも感じる。

 アトーフェ様の頭が白と青の鞠みたいに高く弾んで、オルステッドとペルギウス様は勝ったらしい。

 うかつに近寄ったら、巻き込まれて、私の首がああなっていたかもしれない。

 幸いにも、私とナナホシが巻き込まれないようにと黒鎧さんが安全地帯に案内してくれたので、無事である。

 

 ペルギウス様とシルヴァリルさんは転移魔法陣で城に帰るので、城下町を出たところでお別れだ。

 

 マントと鎧がちょっと汚れてしまったものの、ペルギウス様は怪我も消え、平気そうな顔である。

 やっぱり、昔の英雄だから、戦うのにも慣れているのだろうか。

 助けてくれてありがとうございます、と畏まってお礼を言っておいた。

 

 もう一人、ありがとうを言わねばならない人がいるのは分かっている。

 オルステッドだ。

 彼はいつでも顔が怖いけれど、今日は一段と険しい。

 

「シンシア」

「はい……」

 

 名前を呼ばれ、挙動不審になりながら向き合う。

 もじもじしているのがまずかったのか、オルステッドの口角がひくっと下側に引き攣るのが見えた。

 おそらくは、怒りによって。

 

「使いもまともに果たせんのか!」

 

 はるか頭上から降ってきた怒鳴り声。

 私はぎゅっと首をすくめた。亀になって声を遮断したかった。

 オルステッドに言われた町での用事は、ちゃんとできた。

 けど、そういう事じゃないのだろう。

 

「ごめんなさい」

「面倒をかけるのも大概にしろ! 今回の事も、ナナホシの頼みではなかったら、貴様など見捨てていた!」

「えぅ」

 

 頬がぼっと熱くなる。

 やっぱり、オルステッドは私のことが嫌いなのだ。

 ナナホシに言われたから、仕方なしに助けただけ。

 連れ歩くのも、私が何とかガミの味方になるのが嫌だから。

 病を治してくれた、魔王を倒して助けてくれた。

 与えられた恩恵を数えて、少しは憎からず思ってくれたのだろう、というのは、私の思い上がりであったのだ。

 恥ずかしい。

 

 熱い頬を自覚しながら、腿の前で握りしめた自分の手を見つめた。

 ぜんぶ、私が悪い。

 ――ほんとうに?

 

 だって、オルステッドといっしょにいなければ、私は病気にもならなかったし、アトーフェ様に拐われる事もなかったじゃないの。

 私が憎いなら、リーリャの故郷にある救貧院から、連れ出さなければよかったじゃないの。

 トウビョウ様の力がそんなに恐ろしいなら、使わないように脅せばいいじゃないの。

 どうしていじめながら傍に置こうとするの。

 

 言葉が通じない魔王に追いかけられたのも、

 呪いではない純粋な腕力で殺されそうになるのも、

 たいそう怖かったのだ。

 なのに、どうして、責めてくるの。

 

「すん」

 

 鼻を啜り、涙をゴシゴシと拭う。

 うつむいていた顔を上げた。

 きっとオルステッドを睨む。

 

「いいもん! 私だって、ずっと怖いことするなら、オルステッドのこと、きら、き……嫌い! ……に、なるから!」

 

 言うだけ言って、ペルギウス様に泣きついた。

 こういう時は、女の人のほうがやさしいと知っているけれど、ナナホシもまた生活の全てをオルステッドに頼る立場である。

 板挟みにしてしまうのも可哀想だし、……慰めてはくれても、私の味方にはなれないかもしれない。

 

「ふえぇん」

「ほう。我に慰めを求めるか」

 

「シルヴァリル」とペルギウス様が呼ぶと、私は柔らかい腕と翼にすっぽりと包まれた。

 シルヴァリルさんに抱っこされたのだ。

 胸に母様とリーリャを感じて、私は懐かしいやら会いたいやらでシルヴァリルさんに抱きつく。

 人に嫌いと言ってしまったのも、よけいに悲しい。

 

「うっく……ひっ……」

 

 そうしてめそめそしていると、ペルギウス様の声が聞こえた。

 

「不可解そうな顔だな、オルステッドよ」

 

 オルステッドのほうを見ないようにしていた私は、ますます強くシルヴァリルさんに掴まった。

 離さないで。私をオルステッドに渡さないで。

 

「呪いは効かないはずだが……?」

「呪い? 貴様個人に怯えられておるのだ」

「む」

 

 オルステッドの返事は意外そうだ。

 背を包んでくれているシルヴァリルさんの翼が、ピクっと震えた。

 伸びあがってそろりと振り返る。

 こちらを見ているオルステッドと目が合いそうになり、慌てて顔を伏せた。

 

「そうやって離れないつもりか」

「……ペルギウス様やさしいもん……」

 

 抑揚に乏しいオルステッドの声が、穏やかだ。

 穏やかに喋ろうと努めている調子であった。

 

 でも、なによ、いまさら。

 ペルギウス様は私に怒鳴ったことないもん。

 オルステッドとは違うんだい。

 

 ふてくされていると、ため息が聞こえた。

 

「言っておくが、ペルギウスに媚びても、家族のもとには帰れん」

 

 あわよくばという思惑はあった。

 転移魔法陣の在処を知っているペルギウス様に好かれれば、父様のもとに行ける魔法陣も教えてもらえるのでは、と。

 不可能だとオルステッドは言う。

 

「そうなの……?」

 

 私はペルギウス様を伺い見た。

 ペルギウス様は、当たり前の事を訊かれたように、少し怪訝そうに答えた。

 

「多忙な活動家の父のもとより、我が城塞で過ごすほうが愉しかろう」

 

 きれいなものをずっと眺めていて良くて、書庫の本もかってに読んでいい。

 空中城塞は良いところだ。

 けれど、人がいない。

 居るのは、異種族のペルギウス様とシルヴァリルさん。人に姿形が似ているけれど、人ではない精霊たち。

 美術品や工芸品がたくさんあっても、その寂しさは埋められないだろう。

 

「このまま、我とケイオスブレイカーに戻るか」

 

 私はぎこちなく首を横に振った。

 

「や、……やっぱりオルステッドがいい」

「そうか。惜しいな」

 

 ペルギウス様のことは好きだけれど、ずっといっしょにいたいかと自分に問うと、それは違うと答えが返ってくる。

 父様と妹たちに会いたいなら、オルステッドと旅を続けるしかないのだ。

 

 地面に降ろされ、ペルギウス様たちが去った後。

 

「えっと……私たちも、もう行かない?」

 

 ナナホシが困っている。

 観念してオルステッドに近寄った。

 

 

 移動中、ナナホシとのお喋りも、オルステッドに話しかけるのも、どちらもする気になれなくて、私はほとんど黙っていた。

 次の目的地はどこだろう。

 訊いていないからわからない。

 

 魔大陸の荒野を景色に、久しぶりの野営である。

 ナナホシは気まずい沈黙から逃れるように、携帯食の夕飯を済ませるとさっさと寝てしまった。

 私は起きている。オルステッドも。

 彼が寝ているところは見たことがないけれど。

 

 木っ端を焚火に放り、自省する。

 怒られて拗ねたのは、悪い子だった。

 ケイオスブレイカーで療養した一月のあいだに甘やかされ、私はわがままになっていたみたいだ。

 

「シンシア・グレイラット」

 

 名前を呼ばれ、ビクッとした。

 間に二人くらい座れそうな距離をあけて焚火を囲んでいたオルステッドだ。

 七色の星がきらめく下で、銀色の髪はきれいだけれど、金色の目と視線を合わせるのは怖かった。

 私を見下ろす目が冷え切っていたらどうしよう。

 嫌悪をあらわにしていたらどうしよう。

 そんな思いからだ。

 

「俺は怖いか?」

「……こわいです」

 

 迷って、正直に答えた。

 会ったばかりの頃は、優しい人だと思っていたから、無条件に信頼していたし、好きだった。

 今はちょっと異なる。

 何を考えているかわかりにくい、私のことうっすら疎んでいる人に頼り続けているのは、怖いのだ。

 いつ切り捨てられるかわからない、不安。

 

「どんな所だ?」

「言ったら、もうしない?」

「気をつけよう」

 

 オルステッドはこちらに気をつかってくれている。

 私がいつまでもムスッとしているから、駄々っ子にお手上げという状態だろうか。

 申し訳ないやらくすぐったいやら。

 

 ちょっとだけ、距離を縮めた。

 

 オルステッドの怖いところ。

 お顔……は、治しようがない。

 それに、悪い所ばかりではないのだ。切れ長な眼のふちからこめかみにかけて生える鱗とか。

 蛇みたいな鱗なのにいやらしくなくて、かっこいいと思う。

 

 そうじゃなくて。

 オルステッドは口数が少ない。と、表すのは異なる。

 ぜんぜん喋らないわけじゃないのだ。

 初めて見るものや景色は解説してくれるし、むしろそういう時の口数は多いくらいである。

 でも、私はオルステッドのことをほとんど知らない。

 好きなことは、得意なことは。

 家族はどんな人なの。友達はいるの。

 どういうふうに生きてきて、何を思っているの。

 

 そういうことを、もっと話してほしいのに。

 

「自分の話をあんまりしないところ」

「俺の話か……」

 

 オルステッドの顔が渋った。

 言いたくないことも沢山あるのだろう。

 

「好きなものも、嫌いなものも、たくさん教えてね。わからなかったら、得意なことや苦手なことでもいいから」

「ああ」

 

 好きになりたいから、知りたい。

 前にも同じような話をした気がするが、その時は真剣に取り合ってくれていなかったのだ。

 今変えようとしているなら、嬉しいと思う。

 

「他にはないか?」

 

「やる前に言ってくれたら、別にいいんだけど」と前置き、私は最近思っていたことを伝えた。

 

「急に触られたり、引っ張ったりされるの、いや……」

「……すまなかった」

「あれ、どうしてやるの?」

「俺にもわからん衝動だ」

「衝動? どんなふうになるの?」

 

 よしよし。

 昼間よりは、喋りやすくなってきた。

 このまま仲直りできるといいな。

 

 オルステッドは感情を言葉にせんとするように、顎に手をあてて、考えながら答えた。

 

「お前のようによく動く可愛いものを見ると、わけもなく甚振りたくな……待て、違う、もうやらん」

「ひぃ」

 

 やっぱり、仲直りはむずかしいかも。

 ザザっとオルステッドから距離をとる。

 甚振りたいって、いじめたい、って意味なのだもの。

 

 チサはべっぴんじゃ、とも、シンディは可愛いな、将来は美人になるよ、とも、褒められてきた。

 自分の長所だと思っていたけれど、まさか裏目に出ることがあろうとは。

 

「お前が怯えているのはわかった。もうやらん」

 

 二度も「もうしない」と言った。

 じゃあ……いいかな?

 歩み寄りが大事なのだ。私も怖がるばかりではいけない。

 

「言ってくれたら、さわってもいいのよ?」

 

 これは機嫌とりではない、本音だ。

 撫でたり頬ずりしたり、人に優しく触られるのは好きだもの。

 

 オルステッドの横に戻って、膝を抱えてすわった。

 焚火を挟んだ正面には、ナナホシが毛布にくるまって寝ている。

 

「オルステッド、私のこと、手がかかるって思う?」

「いいや……うむ、正直、そうだな」

「ごめんね。でも、迷惑かけたくて、失敗してるわけじゃないのよ」

 

 転移事件で村から放り出されて知った。

 私はきっと世間知らずというやつで、できないことばかりなのだ。

 初めての町だと、知らないこともできないことも、もっと増える。

 助けてくれる人は見つかるけれど、それが善人なのか、悪意を隠して親切なふりをしている人なのか、すぐにはわからない。

 

「だから、ごめんね……」

 

 自分が情けなくて、涙声になる。

 ゾルダートさんたちといた時は楽しかったな。

 

 知らない町を転々としながら、オルステッドの迎えを待つのに、心が疲れた。

 たった数日の滞在では、知り合いも拠所も作ることができない。

 

「いや、俺の思慮不足だ。考えてみれば、どんな力があろうと、転生体であろうと、お前は幼い子供なのだ。避けられんトラブルはあるだろう」

「オルステッドおっきいから、子供のことわかんないからっ、仕方ない、っよ」

 

 思いがけず自分の非を許容されて、一度はこらえられた涙が溢れた。

 烈しく叱られている時より、謝った後に優しく諭されている時のほうが、泣けてしまうものである。

 シルフィとソーニャちゃんが真剣にその理屈を考えていた事がある。

 許されたとわかって安心したから泣いてしまうのだ、と結論を出していた。

 実感として、わかった。あの説は正しかったのだ。

 

「俺とて……せっかくまともに関われる人間とは、破綻したくない。これからは、不満があるなら言え」

 

 ひっ、ひっ、と、しゃくりあげながら頷く。

 

「ナナホシ、お前もだ」

「……じゃあ、魔物を倒す時は、もっと離れてくれない? 血飛沫とか、変な体液とか、飛んでくるのよ」 

 

 起きてたの……。

 火影がゆらめき、鼻まで毛布を被ったナナホシが照らされた。

 毛布から出た目は開き、ジトッとこちらを見ている。

 

「オルステッドが、私たちが快適に過ごせるように計らってるのは、わかるわよ。でも、ちょっと一方的なの」

 

 ナナホシはむくりと体を起こした。

 私の後ろにやってきて、ぬくい腕と胸に抱き込まれる。

 

「言葉も通じない、常識も違う町に放り込むくらいだったら、傍で守ってよ。そのほうが安全だし、安心するわ。

 野宿続きは骨身に応えるけど……まあ、慣れたし」

 

 まったく同意である。

 馴染みのない人里より、オルステッドの傍がいい。

 魔物が出るのも、屋根がない所で寝るのも平気だ。

 ご飯だって手に入らない時は我慢できる。

 

「……そうか。そう思ってくれるのか」

 

 オルステッドは微笑んだ。

 人の笑顔を見たことがない生まれつきの盲が浮かべるような、不自然な笑みであったけれど。

 この顔なら怖くない、と、なぜかそう思えた。

 

 


 

 

 旅はつづく。

 転移魔法陣を使うから、昨日までは森にいたのが、今日は迷宮、明日は雪山、明後日は小国の王都、と、気候と環境の変化もめまぐるしい。

 相変わらずオルステッドの行動は目的がわからないものが多い。

 未来への布石のため、と、ふんわりと教えてもらえたが、詳しくは言う気がないようだ。

 でも、いい。

 好きでも、信頼していても、全部を晒す必要はないのだ。

 

「アレクさんと、オルステッドは、あのとき何のお話してたの?」

「お前を殺せと言っていたな」

「あら……」

「半端に生かしておくと要らぬ恨みを買う、という事だ。殺す時はきっちり殺せ」

「はぁい」

 

 などと教えられたり。

 

「そういえば、しあんろ? って、なに? アトーフェ様が言ってたのよ」

「……昔、六つの世界が統合してまもない頃、龍族は迫害されていた」

「うん」

「追い詰められた龍族が、群れからはぐれた人族を、穴倉に引きずり込んだのが始まりだと言われている」

「なにが始まったの?」

「俺は喰おうとは思わんが」

「食べ物なの?」

「そう考える奴もいる」

「?」

 

 はぐらかされて、教えてもらえなかったり。

 

「んぺっ」

「どうしたの?」

「歯がまた抜けたの」

 

 乳歯が抜けて、

 

「治さんのか?」

「治せるやつじゃないもの……」

「付けてやるから見せろ」

「!? んーっ!」

「生えてくる! 後で新しく生えてくるのよ!」

 

 オルステッドに怪我と勘違いされてナナホシに訂正されたり。

 

「篠原秋人と、黒木誠司?」

「そう、私の友達よ。いっしょにトリップ……こっちの世界に来てるかもしれないの。あなたの占いで、居場所がわかったりしない?」

「やってみるね」

 

 ナナホシの友達の居場所を調べもした。

 視てはみたが、もやもやとしていて、変な感じだ。

 彼らがナナホシの傍にいる未来と、いない未来が、重なって視えている感じ。

 少なくとも、今、この瞬間には、どこの国にも町にも彼らはいない。

 視えた光景をありのまま伝えると、ナナホシは安心半分、落胆半分という顔をしたのだった。

 

 

 ナナホシと私はオルステッドと行動する事が増えた。

 町に入るのは、買い出しと、オルステッドに言われた用事をこなす時くらいなものだ。

 オルステッドは森の使われていない小屋の場所をたくさん知っていたし、彼に守られていれば安全なので、野宿が続いても不便を感じる事はなかった。

 

 アスラ王都に寄った時に、ナナホシは紙束とペンを買った。

 もともと持っていた、つるつるした白い紙の冊子、しゃーぺん、ぼーるぺん、とやらは、もう使い切ってしまったらしい。

 

 

 アスラ王国の、夏草と赤いひなげしがむら咲く高原。

 前髪に光と風を感じるような、心地よい場所だ。

 すぐに戻ると言って姿を消したオルステッドを待っている時に、ナナホシに書きつけていた中身を見せてもらった。

 

「この世界に、何があって、何がないのか、メモして忘れないようにしてるのよ。今はまだ無理だけど、そういうのが、後々商売をやるのに役立つと思うから」

「ナナホシ、働くの?」

「ええ。いずれね。ずっとオルステッドに養われてる訳にもいかないじゃない?」

 

 女だてらに商人になろうとは。

 金が欲しいなら、ナナホシは器量も良いし、商人に娶られるほうが近道だと思う。

 

「建築分野ひとつとっても、この世界のそれはまだまだ発展途上だわ。あるいは、戦争の影響で衰退したのかもしれないけど」

 

「例えば、アスラの王都では、ゴシック様式の走りらしき建築が随所に見られた」とナナホシはページを指で叩き、言った。「ゴシックの格子壁は薄く、天井は高い。そうなると、壁を横に倒そうとする推力が働くから、建物は脆くなっちゃう」

 

 たいへんだ。

 私は地震で倒壊する王都を想像し、ぶるっと震えた。

 会いには行けなかったけれど、あそこにはシルフィがいる。

 

「ど、どうするの?」

「飛び梁をつければいいわ」

 

 ヴォールトって言ってね、と、ナナホシは手を半円形に曲げてみせた。「ケイオスブレイカーにも、こういうアーチが並んだ天井があったでしょ。あれのこと」

 

「ヴォールトの推力が作用する壁の外側に、飛び梁を架け渡すと、推力が――壁を倒そうとする力が、控え壁に流れるから、建物は耐震性を失わずに済むの」

「ナナホシ、天才!」

 

 まだ誰も思いついていない知識を、ナナホシは持っているのだ。

 その頭脳を活かさないのはもったいない。やっぱり彼女自身が商人になるべきだ。

 くるっと手のひら返しである。ナナホシに内心を知られたら呆れられそうだ。

 でも、心配事があった。

 

「大工さんって、みんな力持ちなのよ」

「ええ。それがどうしたの?」

「その……ナナホシに建てられるの?」

 

 ナナホシはコケッとずっこけた。

 

「私はアイディアを売るの。実現するのはその町の権力者と大工よ」

 

 なるほど?

 ナナホシがゆくゆくは筋骨隆々になる可能性はないようだ。

 

 紙束をパラパラと捲っていると、簡易な地図らしき絵が現れた。

 日本語なのだろう。書かれた文字は読めなかったけれど、じーっと見ているうちに、何を記しているのか、ピンときた。

 

「これ、転……」

「しーっ!」

 

 ナナホシは横を見て、あわあわしながら、口の前で人差し指を立てた。

 同じ方角を見れば、オルステッドが戻ってくる所だった。

 彼女が書いていたもの。

 転移魔法陣の遺跡を記録した地図であった。

 

「ひみつ?」

 

 密やかに訊ねると、頷かれる。

 オルステッドは、転移魔法陣の場所について、口外するな、と言っていた。

 記録するのは禁じられていなかったはずだ。

 いや、堂々とやった結果、それもダメ、と言われてしまうかもしれない。

 そうしたら、普通以上にこそこそとやらなければいけなくなるのだろう。

 だから最初から秘密にしているのだろう。

 私は目配せを返した。

 ナナホシの秘密は守るのだ。

 

「おかえりなさーい!」

 

 それとは別件に、私は膝においていたものを掴んでオルステッドに駆け寄った。

 

「花冠つくったの」

 

 赤いひなげしを編んだ冠である。

 手慰みに作ったが、花弁の鮮やかさのおかげか、なかなか綺麗にできた。

 

「綺麗だな」

「うふ」

 

 オルステッドを立ち止まらせる事に成功した。

 見せびらかした後は、自分で被る。

 

「は、早かったわね、オルステッド」

 

 紙束を鞄にしまったナナホシも小走りに寄ってきた。

 

「これを回収しに行っていた」

 

 と、私たちはそれぞれ、白いお面を渡された。

 琺琅引きか、つるつるとした質感で、目の位置に穴がある。

 紐が通っていない。これではずっと手で支えなければならない。

 とりあえず顔に被せてみた。

 顔に吸いつくように仮面が顔についたのだ。

 

「はわっ」

 

 びっくりして、小さい頃の口癖が出た。

 手を離しても、仮面が落ちることはない。

 顔を左右に振っても落ちない。飛び跳ねても落ちない。

 でも、目の前が真っ赤になった。

 あわわ。

 

「ふっ……」

 

 オルステッドの小さな笑い声と、頭に指がすいっと触れる感覚があって、視野は元通り。

 頭に乗せていた花冠がズレて、目の穴を塞いでいたようだ。

 仮面の下端を持って取ろうとしてみると、簡単に外れた。

 

「これすごいね」

「魔道具って感じね、地味だけど」

 

 お祭りや行事に仮面はつきものである。近々祭りでもやるのだろうか。

 

「それはできるだけ被っておけ」

「どうして?」

「俺には敵が多いからな」

「んむ……じゃあ、全員呪ってあげるけど……」

「要らん。キリがない」

 

 オルステッドと敵対する人たちが、私たちの顔を憶えるのを防ぐためだそうだ。

 顔を憶えられると、オルステッドがいない時に襲われるかもしれないらしい。

 

 そういう事なら、顔を隠すのも納得だ。

 私は人に会いそうな時だけ付けて、オルステッドとナナホシしかいない時は外すことにした。

 お面は視野が狭まるので、景色が見づらいのだった。

 

 

 旅はつづく。

 まん丸の虫食いがある大きな朽葉を見つけ、てくてく歩きながら、指で穴をもう一つ増やして、手製のお面を作った。

 この程度の工作なら、誰に見せるわけでもないけれど。

 

 篠懸(すずかけ)の巨木から、葉がゆるやかに、黄色の尾を引きながら落ちてきて、もう秋なのだな、と思った。

 アイシャとノルンは四歳である。私のことは憶えているだろうか。

 忘れられていたら、お姉ちゃんは悲しい。

 

 

 今夜は山小屋で過ごせるらしい。

 小屋は魔物筋の上にあり、到着する前に、案の定、魔物に遭遇した。

 襤褸を纏い、左手首に縄を結びつけた人骨である。朽ちかけた縄の先はちぎれ、途切れている。

 動く骨の妖怪は、生前の世界にもいた。

 狂骨は井中の白骨なり。

 狂骨はカタカタと音を鳴らしながらオルステッドに襲いかかったが、拳で撃退された。

 

 ところが、砕けた骨は元通りくっつき、また襲いかかってきた。

 魔術を使わないようにしているオルステッドに代わり、私が火球を飛ばして燃やしたが、

 

「えっ」

 

 灰がゆっくり集まり、骨に再生した。

 不死身である。

 アトーフェ様に追いかけられた時の思い出がよみがえり、背筋がぞくっとした。

 

「あれはスケルトンだ。基礎六種魔術は効かん。仕方ないが、ここは俺が神撃魔術を――」

「死んだよ」

「……そうか」

 

 アトーフェ様と異なり、呪い殺したら、狂骨あらためスケルトンとやらは、再生しなかった。

 すでに白骨死体のような有様だし、効くかなと心配だったが、問題ないようだ。

 

 古い小屋の扉の前にも、スケルトンがいた。

 いや、動かない。動く気配もない。

 

「ただの人骨だな」

 

 オルステッドもこう言っている。

 扉の方に頭をむけ、うつ伏せで倒れた人骨は、土と分かちがたいほど朽ちていた。

 しかし綺麗なもので、生前は人であったとわかる形をしている。

 山や森で死ぬと、獣に持ち去られるから、躰はあちこちへ行ってしまうのに。

 右腕の骨には黒ずんだ縄を結びつけられていた。

 さっきのスケルトンといっしょだ。縄を結ばれた手は反対だけれど。

 

 まじまじと骨を眺めたナナホシがオルステッドに言う。

 

「どうする? この小屋は、やめておく?」

「何故だ?」

 

 オルステッドはすたすたと歩いて行き、扉を塞ぐ人骨を足で退かした。

 細かな骨はパラパラと砕け、髑髏がゴロンと転がった。

 ナナホシがギャッと悲鳴をあげた。

 

 ひ、人を、足蹴に。なんてことを。

 

「中は問題なく使えるが……む? どうした、シンシア」

「人は死んだら、仏様になるの。仏様は、蹴ったらだめよ」

「ホットケ……?」

 

 まったくもう。

 

 崩れた骨を集めようと触れた時に、生前の記憶を視た。

 転移事件の被害者であった。

 これで何回目だろう。

 人がめったに立ち入らぬ場所を移動していると、けっこうな頻度で、転移事件の被害者の遺品や、骨を見つける。

 被害にあったのはブエナ村だけではないのだ。

 発見するたびに、水を供え、手をあわせた。

 縁もゆかりも無かった人たちだけれど、誰にも手向けられないよりは、浮かばれるはずだ。

 

 悪天候にならなければ、一日はここに滞在するのだ。

 時間もあるし、この人は、特別に埋めてあげられる。

 さっきのスケルトンも、連れてきて埋めてあげよう。

 死ぬまでいっしょに居たみたいだから。

 

 いっぺんに人骨は抱えきれまいから、何度か往復して小屋の傍に運んだ。

 長年使われていない小屋内の掃除は、ナナホシ任せである。水はたくさん用意したから、許してね。

 

 木片で土を削り、せっせと穴を掘っていると、暇そうに眺めていたオルステッドが来た。

 ざくざく掘り進められ、あっという間に墓穴が完成した。

 

「人は死んだらナントカ様になる、というのは、お前の信仰か?」

「私のじゃないけど……」

 

 前世でそう教えられてきたのだ。だから、……みんなの信仰?

 チサはトウビョウ様の使いとして、人を助けも、呪いもしたから、仏様にはなれず、気楽な地獄へ行ったけれど。

 今世も同じだろう。いい気はしないが、間が悪かったのだ。仕方ない。

 

 母様が話してくれた昔話では、死んだら魂だけになって、天国に行くらしい。

 

「オルステッドは何になると思う?」

「思うも何も、死ねば消滅する。稀にああして魔物化する奴もいるのだ」

「どうしたら魔物にならずに済むの?」

「死体を燃やして灰にしておくことだ。その骨も、埋める前に燃やすといい」

「はい」

 

 何時間かかけて、土饅頭がふたつ完成した。

 やれ南無阿弥陀仏。

 

 しっかり手を濯ぎ、オルステッドが捕まえてきた栗鼠の皮を剥いだ。

 自分でやるようになる前は、母様やリーリャ、祭りの時の村の女衆の手捌きを見ていたし、手伝った事もあるので、私も楽々できると思っていた。

 実際刃を持ってみると、手順はわかるのに、再現がむずかしい。

 手の大きさも、力の強さも異なるからだ。

 もう慣れたけれど、やっぱり彼女たちほど上手にやれていない。

 

「オルステッド、研いでください」

「ああ」

 

 切れ味が鈍くなってきた小刀を渡すと、彼は鞄から砥石を出した。

 掃除を終え、小屋で休んでいたナナホシがふらっと出てきて、あ、とオルステッドの手元に目をとめた。

 ナナホシは、しゃがんだオルステッドの首に、背後から腕を回した。中腰は疲れるのか、遠慮なく背中にグイグイ体重をかけている感じだ。

 オルステッドの体幹はビクともしない。

 

「はい、使って」

「ああ」

 

 オルステッドは差し出された手の甲をとり、親指の爪に刃を滑らせた。

 爪に引っかからず、滑る部分は、切れ味が落ちているという事なのだ。

 砥石の表面を濡らして、研ぎあげてくれるのを待った。

 

「こんなものでいいだろう」

「ありがとう」

 

 よそ見をしていると、声をかけられた。

 ポンと小刀を投げ渡される。

 刃はむき出しである。

 

「えっ、あっ」

 

 刺さる? 手、切れちゃう?

 わたわたとしながら、つい手を出した。

 

「しまっ……!?」

 

 寸での所で、オルステッドが自分が投げたそれを掴んだ。

 そんなに焦った顔は初めて見た。

 普通は肌に刃物があたると切れるのだ。オルステッドの肌は強いから、その普通を忘れて投げてしまったのだろう。

 

「無事か?」

「げんき」

「……すまなかった」

 

 いいよ。

 

 

 夜。

 小屋のベッドに座り、影絵で子犬を作った。

 明かりを灯した手燭に手をかざして、いろいろ作る。

 室内にいる時は、これができるから好き。

 ナナホシは獣脂蠟燭が溶ける独特の臭いが苦手なようで、町で買い溜めておく蠟燭は、燃やしても臭いのない蜜蠟である。

 ちょっとぜいたくだ。

 

「懐かしいわね」と言って、ナナホシも手を翳した。

 両手を複雑に絡み合わせ、兎を作る。上手だ。

 

 壁際の床に座り、目を瞑っていたオルステッドが、いつの間にかこちらを見ていた。

 不思議そうだ。何やってんだこいつら、という感じの目である。

 

「狐よ」

 

 手燭を持ってオルステッドの前に行き、片手の中指と薬指、親指をくっつけてみせる。

 ピンとたてた人差し指と小指が耳。くっつけた三本指が口吻だ。

 真似してね、というと、オルステッドは無言で同じ手の形にした。

 

「ほら、二人だと、狐の親子」

 

 壁に映った影を見た。

 狐のつきでた口を模した指先で、オルステッドの狐にすり寄ってみると、子狐が父狐に甘えているみたいだ。

 狐は化けるし、人を喰った狐は喋るというし、罠にかけたのを棒で叩き殺す時は、最期まで殺す人を見つめてくる怖い獣だ。

 しかしながら、親子で連れ立っている光景は、どんな獣でも微笑ましいものである。

 

 

「雪だわ」

 

 翌朝にナナホシが言った。

 なるほど、後から小屋を出ると、

 枝々にも、地面にも、土饅頭にも、薄く雪が積もっていた。

 じき冬になるのだ。

 転移事件から、もうじき一年が経つのだな、と、思いながら、息を深く吸って、ふぅーっと口から吐き出した。

 煙のようにほわほわ広がる白い息がはっきり見えて、私はひとりで得意になったのだった。



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四三 ラタキアの神童(前)

※AI絵
8歳の設定画っぽいもの。
読者の皆さんのイメージの助けになれば。

【挿絵表示】


【挿絵表示】




 

 

 

  龍神が呪子をぐしたり。

  いわく、龍神命じ、呪子(かし)りき。

  村を襲ひし魔物の大群を殺戮しき。

  悪しき噂絶えぬ神父の狂死を予言せり。

  呪はれし村に忘れ去なれし祭壇のかたを教へ、修繕し崇め奉るべく告げき。村は再興しき。

  雨乞ひすと干天に慈雨降り注げき。

 

  我々はこれを巫蠱(ふこ)の呪子と名づけん。

  龍神はいと畏き天魔のごとき男なり。よりて、呪子は天魔の使いなり。呪子は幼子のさませり。稚なきさまに謀られ村にな入れそ。

 

 

 


 

 

 

 お父さんへ

  お元気ですか? もうミリシオンにはつきましたか?

  私はシーローン王国にいます。

  さっきもも色でハナが地面につきそうなくらい長い動物を見ました。

  象というらしいです。とっても大きいですが、やさしそうな顔をしていました。ぞろぞろならんで歩いていてすごかったです。

  なんでラタキアに行くかというと、リーリャさんとアイシャを助けるためです。

  オルステッドにまたうでわをかしてもらって、「龍神のししゃ」と名のればお城に入れるみたいです。

  オルステッドはさいしょこわかったけど、もう大じょうぶです。いまはオルステッドのためにがんばっています。旅は楽しいです。ペルギウスさまに絵ももらったのです。

  遠くへ出す手紙が、ちゃんととどかないことはよくあるそうですが、この手紙はお父さんのところにとどくといいな。

  でもナナホシにいわれてきづいたけど、お父さんがミリシオンにいることはわかっても、せいかくな住所がわからないから、この手紙はラトレイアの家にとどけることにします。かしこ。

  シンシアより

 

 お母さんのお母さんとお父さんへ

  シンシア・グレイラットです。はじめまして。

  パウロという人がお家にきたら、この手紙をわたしてあげてください。

 

 

 


 

 

 

【甲龍歴419年】

 

 冬が過ぎ、私は8歳になった。

 季節はすでに春である。

 

 手紙が書けた。

 舟の上で書いたから、ちょっと文字が震えに震えたが、まあ読めないほどではないはずだ。

 私たちはシーローン王国の首都をめざし、高瀬舟で川を下っている。

 高瀬舟なんて言葉はこの世界にないから、名称は異なるのだろうが、高瀬舟に見えるから高瀬舟である。

 

 行き先は、リーリャとアイシャがいる場所だ。

 ペルギウス様の精霊には、二人の保護を断られてしまった。

 曰く、彼女らは王城に囚われている、と。ペルギウス様は必要以上に下界に介入はしない、と。

 

 だったら、自ら赴くしかない。

 いやあ頑張った。シーローンの王都の近くを通ると知った私は、オルステッドに駄々をこねくり回したのだ。

 具体的には、オルステッドのマントに掴まってむっと押し黙った。

 自分の望みが通るまでそうして石になる心づもりであった。

 家でも、妹たちが生まれてからは、あんなふうにわがままをしたことはない。

 いや、お兄ちゃんに対しては、けっこうあんな感じで駄々っ子になっていた。

 だって「仕方ないな」って許してくれるんだもの。

 

 念願叶い、オルステッドも「まあいいだろう」と言って、ラタキアまで送ってくれる事になった。

 彼と町に入ると兵士に討伐隊を組まれてしまうから、あとは私の頑張りどころだ。

 オルステッドからは、銀色の指輪を預かった。

「何かあったら指輪に魔力を込めろ。すぐに俺が向かう」と言って渡されたものだ。

 対になる魔道具はオルステッドが持っている。

 丸くて、貝みたいに開け閉めができて……ナナホシは、コンパスみたいだと言っていた。

 硝子張りの中身には、針があって、指輪に魔力を込めると、針は指輪の位置を、つまり指輪を装着した私たちの居場所を指し示すそうだ。

 

 模様のある腕輪は龍神の使者の証。

 指輪は身を守るための護身具。

 

 両方とも、私の手には緩いから、紐を通して首に提げている。

 そして、盗まれないように服と下着のあいだに挟んでいる。

 気をつけていないと、どっちが護身具だか使者の証だかごっちゃになってしまいそうだ。

 

 景色の話をしよう。

 両岸に広がるのは、田畑である。

 谷の傾斜にそって、棚田まである。

 非常に既視感のある光景である。

 もっとも、私のよく知っているほうは、侘しく枯れていたが。

 

 まだ春だが、田んぼにはすでに水が引かれ、大きな水鏡がおちこちにできている。

 肌に感じる風も暖かいし、ここでは田植えも収穫も早いのだろうか。

 

「中央大陸南部は河川が多く、気候も温暖だ。故に水田農耕が盛んなのだ。二期作も行われている」

 

 艫に座ったオルステッドが教えてくれた。

 乗船者は、オルステッドと、ナナホシと、私の三人だけ。

 舟漕ぎは雇えない。雇っても、オルステッドに脅えて櫂を握るどころではないからだ。

 

「一年に二回も収穫できるのね、いいね」

 

 生前の寒冷な環境ではまずできない。

 私はもう百姓の子ではないが、羨ましい。

 

 無人の田んぼ。

 私は生前の景色に思いを馳せた。

 水鏡に映るのは、菅笠に赤い蹴出し。横一列にならぶ早乙女。

 早乙女の後ろに並ぶのは、同じく菅笠を被った男たちである。腹の上に田鼓をくくりつけ、撥の先には馬の毛の房。笛や手打ち鉦をもった者もいる。

 サンバイが、簓を鳴らす。簓の拍子にあわせ、男たちは田鼓だの笛だの鉦だのを打ち鳴らす。

 女はいっせいに田植えをはじめる。

 

 

  ひよヽとォ 啼くわァ (ひよオどオり)

  小池ェにィ 住ゥむゥのォがァ

  ヤハァレェー……

  小池ェに 住ゥむのォが 鴛鴦(おオしどオり)

 

 

 そんな掛け合いの田植え唄まで聞こえてくるようだ。

 実際は、懐かしくはあっても、美しい思い出ではない。

 凶作の年のほうが多い村であった故、肉づきは皆悪く、木の根のように痩せていた。

 菅笠はところどころ穴があいて破れていたし、蹴出しの赤色はとっくに褪せていた。

 田んぼの水がしんから震えるほど冷たい年は、冷夏を予感したものだ。

 まあ、いいじゃないの。

 記憶くらい美化しても。

 

 

「む、魔力が切れそうだな。シンシア」

「はーい」

 

 立ち上がり、揺れる舟の上をあぶなっかしく移動して、舳先に描かれた魔法陣の上に右手をかざす。

 次は艫。同じように魔力を込めた。

 二つの魔法陣に魔力を注ぐと、舟は速度を増した。

 

魔動船外機(マジックモーター)……」

 

 ナナホシが呟いた。

 もーたー、って、何だろう。

 

 本来なら、魔法陣は、それ用の特別なインクで描かなければ、魔力を込めても励起しない。

 特別なインクというのは、ペルギウス様が見せてくれたようなやつだ。

 炙ったら浮かび上がるようなのは、ちょっとした変わり種だろうけれど。

 インクを作るのもまた手間がかかるそうなのだが、自然の中には、ごく稀に、天然の魔法陣用白墨(チョーク)が紛れている。

 それが蠟石状の魔力結晶である。

 

 何せ石なので、鞄に入れてもインク漏れの心配がない。

 インクとは相性の悪い材質にも、手軽に魔法陣を描ける。

 

 オルステッドはそれを使って、舟の舳先と艫に魔法陣を描いた。

 周囲の水を操る魔術を継続させるための何たら、と解説されたが、むずかしかった。

 魔力蠟石が、ただの蠟石と異なるのは、描いた線にキラキラとしたものが混じることだ。

 陽を反射して、雲母みたいで綺麗である。

 アイシャとノルンにあげたら、大喜びで遊びそうだ。

 あとで言ったら、ちょっとだけ分けてくれないかしら。

 

「ふん、ふふん……」

 

 今日のナナホシは機嫌が良い。

 舟に乗る前に、昼飯の買い出しに行っていたナナホシ。

 そんなにお弁当が楽しみなのだろうか。

 

「じゃん!」

 

 私とナナホシの腹がクルクル鳴る頃になると、ナナホシは意気揚々とそれを取りだした。

 竹の皮のようなものに包まれている。

 つられてわくわくしながら開いてみると、

 

「わぁ!」

 

 米だ!

 かて飯*1だ!

 かて飯のおむすびだ!

 

「ふふふ、懐かしいでしょ」

「わぁ、わー! 握り飯、初めて見た!」

「そうでしょ……え? 初めて?」

「前は、稗粥にちょっとしか入れられなかったもの」

 

 かて飯のお結びが二つ。おかずは目刺しが三匹である。

 両岸の水田を見た時点で薄々思っていたが、米がこちらの世界にもあるとは。

 万感胸に迫り、ひと口頬張る。

 粥状ではないから、当然水分が少ない。

 噛み続けると、山菜の苦味が消え、ほのかな甘みが台頭してきた。

 口の中が極楽である。

 美味しい。

 

 私とナナホシは、元日本人と現日本人だから米は嬉しいけれど、オルステッドはどうなのかしら。

 と、思い、そちらを見る。

 広げた竹の皮には何も乗っていない。

 オルステッドはもう食べ終わっていた。

 

 私がひと口をもちもち噛みしめている間に、この男は二個とも平らげてしまったのだ。

 早食いである。

 もったいない。

 

 つい食べる手を休めてオルステッドを眺めると、彼は私の膝元に視線をくれた。

 膝には、ほどいた竹の皮の上に、握り飯がまだ一つ残っている。

 

「食わんのか?」

 

 躰に衝撃走る。

 なんですって。

 食べたい……の、かしら。

 私の握り飯を。

 私のお結びを。

 一食の半分を。

 

 躰が大きなオルステッドには、二個じゃ足りなかったのだ。

 空腹をみたすためには、もう一個必要だったのだ。

 たかが一個。されど一個。

 我慢してね、というのは簡単である。

 オルステッドはその程度では怒らない。

 くれないならいい、とスッと引き下がるだろう。

 けれど、彼はお腹を空かせていて、私の空腹は握り飯一個とめざしで消え去るのだ。

 

「……?」

 

 オルステッドは眉を寄せて首をかしげた。

 その顔が、なぜくれないの、と、訴えているように見えて、

 私は、わたしは……。

 

 うむ。

 仕方ないね。

 飢えは、つらいものね。

 

 自分の糧を差しだした。

 

「誰もとらないからね、ゆっくり食べるのよ」

「寄越せという意味ではない」

 

 私がチビチビ食べているので、具合が悪くて食欲がないのかなと心配したらしい。

 全部自分で食べていいのよ、とナナホシに背中にそっと手を置かれた。

 そればかりか、ナナホシは自分のお結びを一個分けてくれた。

 み仏だ。私たちにはお姿を見ることがかなわぬみ仏が、かりに人の姿をとりたもうたのがナナホシなのだ。

 

 今日の発見。

 握り飯は三つ食べるとかなりお腹いっぱいになる。

 贅沢な経験をした。

 

 

 そうしてたどり着いた、シーローン王国の首都、ラタキア。

 そこは雑駁な異国情調にあふれた東国であった。

 肇国されたのは約二百年前。

 小国が領地を奪いあって激しい戦争があちこちで繰り広げられていた頃、国王を失った遺臣たちがより集まり、興された国なのだ。

 そうした境遇が、独特な雑駁とした雰囲気を醸している。

 南の強国、王竜王国と同盟を結んでいるため、紛争地帯から攻め込まれることもない。

 と、ナナホシが解説してくれた。

 ペルギウス様のお城で歴史学も学んでいたらしい。

 

「お願いします!」

 

 郵便局の受付で、手紙を差し出す。

 上着と同じ色の帽子を被った男は、ちょっと戸惑った顔をした。

 

「ええっと、お嬢ちゃん、金は」

「はい」

 

 彼が全て言いきる前に、横にいたナナホシがジャラッと硬貨を横長の卓に置いたのだった。

 

「手紙だすのって、お金かかるのね……」

 

 兄に手紙を出していた頃は、書き終えたら、母様か父様にわたしていたから、知らなかった。

 

「くしゅっ!」

 

 ときどき野良牛に道を阻まれながら、雑駁な町並みを歩いていると、ナナホシがくしゃみをした。

 最近多い。

 

「大丈夫? 風邪かな」

「ただの花粉しょ……へくちっ!」

 

 かふんしょ?

 昔聞いたことがあるような。思い出せないけれど。

 ナナホシは辛そうにしながら、外していた白い仮面をつけた。

 付けていると楽になるらしい。

 風邪じゃないなら、ひと安心。

 この世界では解毒魔術で治せるが、本来風邪を甘く見てはいけない。

 どんなに元気な人でも、こじらせたら、あっというまに仏様だ。

 

 頑丈な市壁に囲まれた首都の中心には巨大な濠があって、町は濠を囲むかたちで、段々状に形成されていた。

 外側に行くほど高くなる構造である。

 いちばん目立つ、ひときわ立派な建物が、王城だ。

 

 シーローン王国では、人々の装いも一風変わっている。

 裾がゆったりとしたズボンに、膝から踝までとどく長い上着。

 頭にはパグリーと呼ばれるターバンを巻きつけている。

 襟ぐりが深く、上半身がぴったりとした丈の長いワンピースを着ている女の人もいるけれど、基本的には男女問わずにこの服装なようだ。

 私とナナホシは、すれ違ったおばあさんに、若い女がそんなに太ももをむき出しにしてはしたない、と注意されてしまった。

 仮面で顔を隠しているのにも関わらず、ナナホシが不躾に「いくらで寝てくれる?」と訊かれることも数回。

 胸より脚を隠すべし、という感覚は、他の国より強いらしい。

 その辺は明治の時代に近いかもしれない。

 三幅前垂れがほしい。

 

 そんなこんなありつつ、長い階段を登って城門の目の前にきてみると、大きな城の全貌はすっかり見えなくなった。

 いざ訪問。

 

 ところが。

 

「あのなぁ、お嬢ちゃん、おじさんたちは仕事中なんだ。使者ごっこは友達同士でやりなさい」

「ごっこじゃないです」

 

 腕輪を見せて、オルステッドに書いてもらった人質の解放をお願いする手紙もみせた。

 門番の兵士はそれを矯めつ眇めつし、「造りは立派だな」と呟いた。

 そうでしょうとも。玩具ではないのだ。

 

「腕輪は家から持ち出してきたのか? 手紙は暇人に書かせたか……手の込んだ悪戯だが、ダメなもんはダメ。嬢ちゃんたちは通せないぞ」

「悪戯じゃなくて、私たちは本物の龍神オルステッドから――」

「君も、そんな不気味な面なんて被ってないで、姉ちゃんなら妹の躾はしっかりしてくれよ」

「あなたじゃ話にならないわ。もっと上の人を出して」

 

 ナナホシは使者である証拠を出しつつ食い下がったが、門番は苦笑して、強がっている小さな子供を見る目だ。

 彼女は粘ってくれたが、結局、一歩も進展せず。

 門前払いをくらってしまった。

 さっそく手詰まりである。

 

 撤退し、何がダメだったのか考える。

 

「外貌ね」

 

 ナナホシは腕を組み、淡々と答えた。

 

「私たちに不足しているのは、貫禄よ」

「かんろく……?」

「頼もしさ、って言ったらわかる? そうね、私と、オルステッドが並んだら、どっちが立場のある人に見えるか、明白でしょ?」

「強そうじゃないと、お城に入れてもらえない」

「そういうこと」

 

 ペルギウス様は入れてくれたのに……。

 あ、でも、空中城塞で療養させてくれたのは、オルステッドの頼みだったからだ。

 偉い人と交渉するときは、こちらも偉くなくては取り合ってもらえないという事か。

 オルステッドはそんなこと教えてくれなかった。

 何でも知っている彼も、こうなる事はわからなかったのだろうか。

 

「オルステッドは、人に怖がられることはあっても、舐められたことはほとんどないんじゃないかしら。だから予測できなかったのよ。

 ……とにかく、私たち二人だけでは、いくら言葉を尽くしても、オルステッドの名代である証拠を揃えても、女子供のごっこ遊びにしか見てもらえないわ」

 

 そんなあ。

 じゃあ、どうすればいいのだろう。

 

「冒険者ギルドに行きましょう」

 

 ナナホシはそう提案した。

 

「身なり……は、こっちがどうにかできるとして、ボロが出ない程度には、礼儀作法を心得てる男性がいいわね」

 

 なるほど。

 女子供だけではだめなら、貫禄のある人に同行を頼めばいいのだ。

 見た目が弱そうという一点だけで、私たちの抗議は聞き入れる価値がないものとされた。

 私は一端の大人のような口を利けないから、ハラハラと見ているだけだったけれど。

 原理がわかってみると、なんだか悔しい。

 

「ナナホシ、私のために、ありがとうね」

「いいのよ。はやく妹と……義理のお母さん? メイドさん? に、会えるといいわね」

 

 我が家の家族構成は説明しているが、ナナホシは妾の存在に馴染まない。

 未来の大日本は、私が思っているよりも一夫一妻が強固になっているのだった。

 

 

 紛争地帯の国、ガルデニアと比べると、シーローンは良い国だ。人々に活気がある。

 城を囲む防壁の外側には、煉瓦造りの小屋が並び、行商人や薪の山を背負って運び入れる者などが行き交っている。

 掘り抜きの井戸の周りでは女たちがおしゃべりに興じ、従卒の家族らしき女たちは行商人に色リボンを広げさせ、私と同じくらいの子供たちは騎士ごっこに興じていた。

 それぞれ肩車に乗って、相手を引きずり落とそうとしている。

 私は人形遊びの方が好きだから、騎士ごっこの楽しさはわからないけれど、楽しそうにしている人たちを見ると、嬉しくなる。

 

 人に冒険者ギルドの場所を訊ね、向かっていたら、いやに騒がしい一角があった。

 あそこでも騎士ごっこをやっているのだろうか。

 

 そう思って目を向けた先に、気が滅入る光景があった。

 子供たちが騒ぎながら小石を投げつけていた。

 的は、処刑柱に括りつけられた女だ。

 もう息はないのだろうか。がっくりと頭を垂れ、石があたっても、身じろぎをしない。

 十四、五に見える少年が、女を縛った綱を切ろうとしていた。石は、彼にも浴びせられる。

 当たるたびに、おさえた悲鳴をもらしている。

 

 前言撤回だ。

 人が楽しそうにしていても、そのせいで一方的に傷ついている人がいるなら、気分が悪い。

 しかし、衛兵たちも眺めているが、どちらの側も咎めようとしないのは、どういうわけだろう。

 罪人なら、綱を切るのはご法度のはず。

 

「っとに、クソみたいな治安……」

 

 ナナホシが仮面をおさえた。彼女は通りかかった衛兵を呼び止め、あれはどういう事かと訊いた。

 

「三日晒しの後、追放の刑だ。今日の昼で三日目が終わったから、息子が縄を解こうとしているんだ」

「あなたが解いてあげればいいじゃないの」

 

 衛兵は肩をすくめただけで去った。

 処刑は終わった。(つぶて)を投げ続けていい道理はない。

 

「やめて! 石を投げるの、やめて!」

 

 私は子供たちに言った。何人かがちらりとこちらを見て、戸惑い、視線を逸らした。

 戸惑った顔をしたくせに、仲間内で目配せをすると、しだいに口元にニヤニヤと笑みが浮かんで、おしまい。

 ひとりとして止める者はいなかった。

 

 昔々、シルフィも石を投げられていた時期があった。髪が緑色である故のいじめであった。

 やり返せていたらよかったのだが、その時のシルフィは、そこまで強い子ではなかった。

 いじめを見つける度に介入し、いじめられっ子を守っていた兄は当時五歳である。

 今の私より三つも年下だ。

 無辜のいじめられっ子と、罪人の処刑では、事情が異なってくる事はわかっている。

 でも、過度な罰といじめは、何が違うというのだろう。

 

 ――いいか、シンディ。いじめは絶対にやっちゃいけない。もしいじめられている子を見つけたら、必ず助けてあげるんだ。

 

 うん、わかったよ、お兄ちゃん。

 

 石を投げる子供たちに、左手を向けた。

 袖から蛇が落ちる。すさまじい速さで子供たちの足のあいだを潜り抜けた。

 トウビョウ様の蛇に片足をすくわれて、彼らは一斉に転んだ。

 きょとんとしてる子、転んだ拍子に手に持った石が頭に当たって泣きだしたのもいて、石投げは止んだ。

 

 短剣を持って処刑柱に近寄るナナホシに、頭が血まみれになった少年が強い目で立ちはだかった。

 ハユル! と、叫んだ。聞き馴染みのない言葉であった。

 髪も目も濃褐色で、人族に見えるが、違ったのだろうか。

 

「やめろ! 殺すな! 刑は終わったんだ!」

 

 人間語であった。先ほどのは、ただの土地訛りだろう。

 

「わかってるわ」ナナホシが応じた。「綱を切るから、倒れないように支えていて」

 

 切れ味のいい短剣を使ったから、足首、胴を縛りつけた縄は、簡単に断ち切られた。

 三日間、一度も解かれる事はなかったのだろう。女のズボンと足元は湿っていて、饐えた臭いがした。

 顔は紫色に腫れ、元の人相が分からないほどだ。

 手足は死体のように冷えていたが、胸はかすかに動いていた。

 

 柱の後ろに回した手首を括りつけていた縄も、ナナホシは切り離した。

 くずれかかってくる女を、少年がささえた。

 

 ぐったりした母親を背負った彼は、「ついてくるな」と、厳しい声で後ろを歩く私に言った。

 黙って腕の痣を治してやると、何も言われなくなった。

 

「こっちよ。馬小屋なら、使ってもいいって」

 

 介抱できる場所を探し、小屋の持ち主に許可をもらっていたらしい。ナナホシが手近な馬小屋に案内した。

 中には馬が三頭いて、糞尿の臭いがむっとした。

 王城近くの馬小屋だが、王族の馬ではなく、雑役に使う馬なのだろう。

 ずんぐりと太い脚こそ同じだが、毛艶はうちのカラヴァッジョのほうがうんと良い。父様が丹精込めて世話をしていたからだ。

 

 積んだ寝藁に横たえられた女の患部に、右手を翳した。

 淡い緑色の光が、馬小屋の隅に満ちた。初級の治癒魔術で、痣や腫れはかなり引いた。

 

「お前、小さいのに治癒士か。もしかして、小人族?」

「ううん。お母さんとお兄ちゃんが魔術師だから、教えてもらったの」

 

 外に出て、戻ってきたナナホシは、手桶に水をくんでいた。

 手桶を少年が受けとった。

 

「母ちゃん、水だよ。飲みなよ」

 

 唇をしめらせ喉に流れ入った水は、彼の母親に生気を取り戻させた。

 

「隣の鍛冶屋に金を払っておいたから」と、ナナホシは言った。「あとでスープを届けてくれるわ」

 

 彼はあぐらをかいた姿勢で、白い仮面をつけたナナホシに、深々と頭を下げた。

 裂けたこめかみから血が一筋も二筋も流れたので、私は焦って彼の怪我も治した。頭は大事な部分だ。

 

「アルスル・フック」

 

 と、少年は名乗った。

 私とナナホシも、それぞれ名乗り、簡単な自己紹介を済ませた。

 アルスルの母親の名はネルといった。

 鍛冶屋の女房からスープが届けられると、アルスルが片腕に母親を寄りかからせ、片手で木の椀を支え、飲ませた。

 頬に少し血の色が戻った。

 

「シーローン人ですか」

 

 ネルさんは、初めて喋った。

 喉も痛めつけられたのか、嗄れた声であった。

 

「私たちはアスラ人です。転移事件で故郷を失い、オルステッドという男と旅をしています」

 

 ナナホシが答えた。

 異世界からきた、と毎度事情を説明するのも事なので、彼女は人に訊ねられてもこう答えるようにしている。

 ネルさんの瞼が震え、茶色の眼が細くこちらを見た。

 

「ありがとうございました。ご自分たちも大変な時に……。夫は、どうなりましたか」

 

 私たちは顔を見合せた。

 ネルさんのそばに居たのは、アルスルだけだ。夫らしき人は、見なかった。

 

「母ちゃん。父ちゃんは、まだ囚われてるよ。パックスの野郎に」

 

 腹の上で祈りを捧げるように組まれた指が細かく震え、痙攣が激しくなるネルさんの躰を、アルスルが抱きしめた。

 

 ラタキアに入るにあたって、オルステッドから「絶対に殺すな」と厳命されている人物がいる。

 シーローン王国第七王子、パックス・シーローン。

 奴隷商人、ボルト・マケドニアス。

 この二人だ。

 彼らはオルステッドにとって必要な人物であるらしい。

 その割には、個人的な好意みたいなのは感じられなかったが。

 

「何があったの?」

 

 思わぬ繋がりに驚きつつ、訊ねた。

 

「俺の父ちゃんは、パックス殿下の親衛隊なんだ」

 

「パックス」アルスルは、憎々しげに吐き捨てた。

 

「あのバカ王子は、アスラ人の母娘を監禁している。その母娘はむかし城にいた、ロキシーっていう王級魔術師の関係者だったらしい。だから彼女を取り戻すための人質にされたんだ」

 

 ロキシー。

 懐かしい名前である。

 彼女もかつてシーローンにいたのか。

 そういえば、母様たちが話していた事がある。

 宮廷魔術師になったんですって。さすがロキシーちゃん。と、褒めていた。

 

「人質の娘のほうが、まだ四歳なんだけど、たいそう賢くて愛らしいそうだ」

 

 リーリャとアイシャのことだ。間違いない。

 だってアイシャは賢くて可愛いのだから。

 

 リーリャとアイシャが、ロキシーを取り戻すための人質になっている。

 なぜか城から出られなくなっている事は知っていた。

 視る限りでは、そうして、偵察してくれたアルマンフィさんの話では、軟禁状態で行動の自由を奪われた以外にひどい扱いは受けていないようだったから、安心していた。

 もっと過酷な環境にいる、私が助けるべきブエナ村の住民はいたし、霊力はそっちに多く割いていたのだ。

 どうして囚われているのだろう、と思っていたが、そんな事情だったのか。

 

「父ちゃんは母娘を可哀想に思って、娘だけでも逃がしてやろうとした。脱出の手引きをする冒険者も雇ってな。だけど、冒険者が裏切った。脱走計画を王子に告発したんだ。謝礼金を目当てにして……。

 パックス殿下はカンカンさ。意のままに操れると思っていた親衛隊に、謀反を起こされたんだからな。

 父ちゃんは投獄され、おれたち一家は追放処分。母ちゃんは見せしめに、三日晒しの刑だ」

「……」

 

 胸が痛む。

 フック一家は、私の身内を助けるために動いていた。

 それなのに、こんな仕打ち。

 まだ顔も見たことがないのに、パックス・シーローンに対して、心の中に澱のような感情が積もっていく。

 馬小屋の中をうるさく飛び交い、ときどき手で振り払わければならない蝿と同じくらい、いやな人だ。

 

「ごめんね……」

「どうして謝るんだ?」

「その四歳の子、私の妹なの。大人の人質は、私の義理のお母さん」

「えっ!」

 

 アルスルが目を見開き、何かを言いかけたとき、小屋に人が入ってきた。

 

「アルスル、探したぞ」

 

 少年は、飄々とした顔をアルスルに向けた。

 シーローンに来てから、金髪を見かけたのは初めてだ。

 金糸のような髪を顎の高さに切り揃え、端正な顔立ちで、年頃はアルスルと同じくらいだろう。

 

「俺が行くまで待てと言ったのに」

「待て? 三日も待った! 母ちゃんがあんな目にあってるのに!」

 

 気安い仲なのだろう。

 金髪の少年を前に、アルスルはおさえていた感情が噴出したようだった。

 少年はアルスルの肩を叩いてなだめた。

 

「ガキども、刑が終わったこともわかりゃしないから、石を投げ続けるんだ。誰も、止めなかった」

「俺が追っぱらい、お前が綱を切る手筈だった。石の当たりどころが悪くて、アルスルまで倒れたら、誰がネルおばさんの介抱をするんだ」

「おれの傷はもう塞がった」

 

 アルスルはビッと親指で自分の頭を指した。

 流れた血が固まり、黒く変色し始めている。

 

「そんなに早く治るわけが……いや、本当に治ってるな」

「シンシアは治癒魔術を使える。母ちゃんの具合も、だいぶ良くなった」

「そうか。あなたが助けてくれたのか」

 

 金髪の少年がナナホシを見て、「違う。仮面を付けてるやつは、ナナホシ」とアルスルに訂正され、え? じゃあ……、と半信半疑といった視線を私に向けた。

 

 ネルさんが囁きに等しい嗄れ声を出し、耳を口元によせたアルスルが頷いた。

 

「ナナホシ、シンシア。宿がまだだったら、家に泊まっていけよ。ろくなもてなしはできねえけど」

「どうする? ナナホシ」

「じゃあ、二、三日だけ、お世話になろうかしら」

 

 旅籠に泊まる金に困っているわけではないけれど。

 

「頭を打ったなら、容態が急に悪くなるかもしれない。しばらく見ていた方がいいわ」と、ナナホシは小声で私に言った。

 

「ここからなら、うちが近い。コレットもいるし、俺の家に泊まっていくといい。アルスル、お前もだ」

「そう? いいのか?」

「俺は構わない」

 

「あなたたちは? 硝石集め人(ソルトピーター・マン)の家でよければ、だが」と、金髪の少年は訊ねた。

 知らない言葉だったけれど、お世話になります、ととりあえず頭を下げた。

 

「お兄さん、お名前は?」

 

 名前も知らない人の家に泊まるのも何なので、名を訊いた。

 

「こいつ、おれの親友」と、アルスルは彼と肩を組んだ。

 

「ジェイドだ。よろしく」

 

 金髪の少年は、にこりともせずに名乗ったのだった。

 

 

 

 アルスルに背負われたネルさんの様子をチラチラと伺いつつ、ジェイドさんの家に案内された。

 木組みに土の壁、茅葺きの小屋である。ブエナ村の家ほど十分な広さはなくて、私とナナホシがいるとやや手狭になった。

 ネルさんはすぐにベッドの代わりの藁の山に寝かせられた。

 気遣いか、ジェイドが衝立をもってきて、私たちの目からネルさんを隠した。

 

「家に母さんはいない。父さんは仕事で今夜は帰らない。何か必要なものがあったら、妹のコレットに言ってくれ」

 

 十二歳くらいの女の子は、恥ずかしそうにはにかんだ。

 小ぶりな鼻と口。上向きの目尻。

 金髪のふわふわとした癖毛を伸ばし、ちょっと大人っぽいバレッタで留めている。

 愛らしい子猫が人間に変身したみたいに、綺麗な女の子だ。

 

 同じ中央大陸なのに、ラノアやアスラ王国と比べると、シーローンの人の髪色は濃い茶色が多くて、肌も浅黒い人が多い傾向があった。

 そんな中で、ジェイドとコレットは珍しく金髪に白皙の肌である。

 浮世離れしていて、美しい兄妹だと思った。

 

 コレットは、白魚のような指で、土間に放たれていた雌鶏を指した。

 私は首をかしげた。鶏がどうしたのだろう。

 

「客が来たから、鶏を絞めて振る舞う、と言っている」

 

 ジェイドが代弁した。

 

「妹は、極端な無口だが、啞じゃない」

 

 あなたがたの言葉も理解している、と、ジェイドは私たちに念を押した。

 

 春日影が深い軒に遮られながらのびて、土間の中に明るく溜まっている。

 ナナホシがネルさんを看て、私は、コレットと交互に、血抜きをした鶏の羽毛をむしった。

 土間では、まだ生きている二羽の雌鶏が、散らばった穀粒をつついている。光の中を泳いでいるみたいだった。

 

 春は、昼と夜の長さが同じだ。

 西の空が紅くなり、たちまち落日。すとんと暗くなった。

 

「アルスルから聞いた」と、ちょっと優しい声をだして、ジェイドが横に座った。

 

「母親と妹が人質にされてるんだって?」

「うん」

 

 私は口止めされた転移魔法陣やトウビョウ様のことは伏せつつ、身の上を話した。

 アルスルも、リーリャたちの名前と特徴を照合して、人違いではないことを確信した。

 女子供だけでは門前払いにされたから、冒険者を雇うことにした。これはナナホシが話したのだが、アルスルは首を振った。

 

「冒険者は、だめだ。この辺には、迷宮が多くて、集まる冒険者も、一攫千金狙いのゲスばかりだ。依頼金を釣り上げるだけ釣りあげといて、その腕輪も指輪も取り上げられて、あんたたちはパックス殿下の前に突き出されるぜ」

「規則違反だろうが、ギルドは王宮の内部には関与できないってことね」

 

 仮面を外し、ナナホシは深いため息をついた。

 抱えた膝にひたいを押しつけた。

 ひどくお疲れのようだ。

 

「おれ、ずっと、あんたを手伝う。パックスだって殺してやる。おれの命はどう使ったっていい。代わりに、父さんを助けてやってください」

「やめてよ。なんでそんな事を私に言うの、だいたい、助けるのは、シンシアの家族なのよ。私のじゃなくて」

「あっ、そっか……」

 

 ナナホシの声がトゲトゲしい。

 やっぱり、疲れているのだろうか。私のために頑張らせすぎたか。

 

「……ごめん、感じ悪かったわね。でも、命なんて賭けなくていいから」

 

「そうだ」と、ジェイドが便乗した。「お前の命と引き替えに暗殺する価値もない。城に忍び込んで、フックさんも、この女の子の家族も、助ければいい」

 

「俺は、城の構造も、獄の位置も知っている。外からもぐり込める場所も」

「本当か!?」

「前に話したが……聞いてなかったな、お前」

 

 アルスルは決まり悪そうに首をかいた。

 

「どうしてそんなこと知ってるの?」

「父さんは、今の仕事場を建てる前に、火薬の製作場を作る場所を色々探していた。硝石を作るための特殊な土を採集できる場所も、見てまわった。硝石集め人に入れない場所はない。俺はいつも付いていったから、詳しいんだ」

 

「城に忍び込むってことだよな?」アルスルはけわしい顔をした。「もし見つかったら、お前まで」

 

「ああ。父さんは、村の決まりをおかして、火薬作りの親方についた。借金までして、ラタキアの市民権を買い……。死刑を免れても、追放か。でも、農民には戻れないし、行くところはない」

(ハユル!) これはおれの問題なんだ。ジェイドは手を出すな」

 

 青ざめたコレットが、ジェイドの腕にしがみついた。ぶるぶる震えていた。

 

「作戦会議だ」ジェイドは笑顔をみせた。「俺が何かしようとして、失敗した事はないだろう?」

 

 私は、三人の絆も、過去も、知りようがない。

 それでも、何やら危ない橋を渡ろうとしているらしいぞ、と、悟らずにはいられないのだった。

*1
野菜類を一緒に炊いてかさましした飯



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四四 ラタキアの神童(後)

 桶の湯に浸した布を、コレットが絞った。

 裸にしたネルさんのからだを拭う。女同士ということで、ナナホシが手伝った。

 

 いちばん小さいと、何か仕事を任されることも少ない気楽な立場である。身の置き所に迷うとも言う。

 私は間仕切りを越えて、炉の火明かりがとどく場所で、紙を囲んでぼそぼそと喋るアルスルとジェイドの所へ行った。

 

 紙には城の見取り図がおおまかに記されていた。

 ジェイドは、燃えさしで天守の西側の壁に印をつけた。

 西壁は、城壁とひとつになっているようだ。

 

「城を囲む掘り割りは、ここだけ、浅くなっている。皆が芥を投げ捨てるからだ。便所の縦穴も、堀に通じているしな」

「穴をよじ登って、忍び込むのか」

「ああ。穴のあるところは、その分、せり出している。その向こう側――地面すれすれのところに、地下の獄の、明かり取り窓がある。鉄桟が嵌っているから、もぐりこむ事はできないが、囚人がいるかどうかは見分けつく」

「父ちゃんは、そこに……」

 

「いや」と、ジェイドは城から離れたあたりにも印をつけた。

 あれは、昼間に見下ろした、深い濠ではなかろうか。

 

「昔は、王宮があった場所だが、今ではただの貯水池だ」とジェイドは脇から覗き込んだ私に言い、 ちょっと横を指し、「パックスが無理やり従わせている兵士の、その家族を捕らえている私設牢がここだ。こっちに監禁されている可能性もある」と、アルスルに説明した。

 

 ぽむっと私の頭にアルスルの手が置かれる。

 

「どっちから行く?」

「城だ。誰がいつどこを守るか、パターン化されているから忍び込みやすい。

 反対に、私設牢は、パックスが奴隷市のツテで雇った私兵が適当に守っていて、却ってやりにくい。何日か張り込んで、警備が手薄になるのを待つ」

「よし。わかった」

 

 アルスルが頷いた。

 ナナホシも来ていた。ネルさんの清拭は終わったらしい。

 

「忍び込むとか、張り込むとか……正気なの? 捕まったら、あなたたち、ネルさんみたいな目に遭わされるんじゃないの?」

「正気だ。けっこう強いよ、おれ」

 

 アルスルが壁に立てかけられた剣をとり、土間に駆け下りて、振りまわした。

 たぶん水神流の型だろう。素人評価だが、かなり様になっている。

 

「父ちゃんが親衛隊だと、訓練所にも顔が利くんだ。昔から、特別に、兵士に混ざって鍛えてる。上級の認可も受けた。ロキシーから対魔術の戦い方も習ったから、今すぐにだって、兵士として働けるよ」

 

 コレットがぷくっと頬を膨らませて拳を振りあげた。

 怒っています、という顔と仕草だ。わかりやすい。

 

「悪い悪い。わかったよ、家の中では、振り回さないよ」

 

 アルスルが抜き払った刀身を鞘にしまう。「ジェイドさんも?」と、私は訊ねた。

 

「俺は兵士の訓練所には入れない」ジェイドは首を振った。「剣術はアルスルから教わった」

 

 アルスルが胸をはる。

 

「その通り! 剣術はおれのほうが強い!」

「勉強は俺のほうがよくできる」

「うぐ……。そうだよ、卒業できたのは、ジェイドが見てくれたおかげだ」

 

 互いに張り合いつつ、互いの不足分を補う関係のようだ。

 今年卒業したそうだが、学校も同じだったらしい。いいね、学校。

 

 ジェイドはしばらく考えて、ナナホシに言った。

 

「俺たちが城に忍び込む前に、ナナホシとシンシアは、コレットとネルおばさんと一緒に隠れていてくれ」

「……あなたがヘマをしたら、私たちが捕まるって?」

「万が一に備えるだけだ。この家は無人にしておく。元々火薬製作場を作る予定だった森に、掘っ建て小屋を建てて、俺と父さんとコレットと――三人で住んでいた。今は空き家だ。住んでいたのはごく短い間だし、場所を誰にも知られてない」

「はぁ……わかったわよ。小屋の場所を教えて」

 

 捕まる、との言葉に不安になったのか、コレットがまた青ざめた。

 空気を抱え、指をはじいた。楽器でも鳴らしているような仕草である。

 

「ああ……大事な話は終わったよ、コレット。琴を弾いてもいい」

 

 コレットはそれを聞くなり、いそいそと長持から竪琴を取り出した。

 演奏を聞けるのだろうか。

 見つめていると、コレットは私の方に体を寄せた。竪琴も膝に置かれる。

 密着すると、コレットはちょっとにおった。いやだとは思わないが、見た目は清潔なのに不思議だ。

 弾いていいよ、と、目顔で言われ、適当な弦に指をかける。

 ぴょいぃん、と、妙な音がして、コレットと顔を見合せて吹き出した。

 

「コレットちゃんが弾いてみて。聞きたいな」

 

 お願いすると、彼女はにこっとして、琴を持った。

 指は光の弦をたぐりよせるようで、音色は水晶の鈴のようであった。

 

 

  花の香碎く風をあらみ、

  細き眉毛を顰めつつ、

  燈火(ともし)にかざす少女子(をとめご)

  袖の心を知るや君

 

 

 歌う声はなめらかに高く、すずしく張りがあった。

 自在な松風とも、川の流れとも感じた。

 歌うのはコレットで、彼女が声を発したことに驚くより前に、聞き惚れた。

 

 喋るのも、物音を立てるのも憚られ、聞き入る。

 そのうちにとろとろと眠たくなってきて、その日は終わった。

 

 

 翌日の早朝。

 ジェイドが何やら出かける支度をしていた。

 お仕事だろうか。

 良い機会だと思い、私は訊ねた。

 

「硝石集め人って、どんな仕事なの?」

「コレットへの友好的態度を崩さないと約束するか?」

「する」

「よし。見せてやる」

 

 ジェイドは私をともない、町に出た。

 目的地に至るまでに、多くの坂、入り組んだ細い路地を歩いた。

 昨日、王宮に至るまでに通った道に、煉瓦の家ばかりが並んでいたのは、富裕層の住宅だったからだろう。

 

 ジェイドが先導する区間には、木造の平屋がひしめいていた。高くてもせいぜい二階建てだ。

 そんな中で、珍しく石造りの大きな建物を見た。

 ドーム型の天井に、規則正しく並んだ丸い小さい穴から、湯気がもくもくと出ている。

 

公衆浴場(ハマーム)という。体を温め、清潔に保つための場所だ」

「銭湯ならラノアにもあったのよ」

「へえ?」

 

 丸ごと天幕に覆われた市場も通った。

 香辛料の強いにおいが漂い、穀物だの豆類だの果物だの野菜だのが山積みになっている。

 金細工や銅細工を店先で作りながら売りさばく店もある。

 鮮やかな色彩の透き通るほど薄い布が翻り、そこらで売り手と買い手が喧嘩腰で値段交渉をしている。

 朝のこの時間は人でごった返していて、人に何度もぶつかる。

 市場では何度かジェイドとはぐれかけ、その度に、ジェイドは腕をぐいと掴んで私を引き戻した。

 

 賑わっているが、人垣にさえぎられ、何が行なわれているかわからない一郭があった。

 

「あれは?」

「奴隷の競りをやってる」

 

 少しの掛け違いがあれば、リーリャとアイシャがあそこで売られていたかもしれない。

 他の転移者のことを考えれば、私の家族は豪運揃いだった……という事か。

 でも、真に豪運だったら、そもそも転移被害区域には住んでいなかったはず。

 起こった以上は、間が悪かった、と受け入れる事しかできないけれど。

 

 

 火薬製造場に着いた。

 

 強烈な悪臭が熱風にのって襲いかかる。

 外套で鼻と口を覆うとだいぶましになった。

 開いている目には依然として襲いかかり、何度も瞬きをするうちに涙が滲んできた。

 

「おおお……」

 

 大勢の人が焼ける悪臭は紛争地帯で嗅いだが、これは別種の強い臭いだ。

 

 ジェイドは平気な顔で竈に近寄った。

 石の竈の中で、紅く燃え(かがや)く泥炭が、激しい熱気の発生地である。

 悪臭は、その上に乗せられた鉄の大鍋から流れる。

 

「中身は、水と灰、そして土だ」

 

 土って煮るとこんなにくさいの、と訴えたが、布に遮られ、もごもごという音しか伝わっていないだろう。

 ジェイドは、何人かいる精製人の一人に近寄り、言葉を交わした。昨日焼いた鶏肉の包みを渡した。

 あの腕が丸太のような男が父親なのだろう。金髪が同じだ。

 

 そこに、男が二人かがりで荷車を運び込んだ。

 ジェイドは勝手知ったるというふうに、木箱の縁を取りのける。

 中身はぎっしりと詰まった土だ。

 ジェイドは土を少しとり、舌にのせた。土を運び込んだ男に頷いた。

 

「いい土だ。どこから採った?」

「へぇ。教会の小便溜めでございやす」

 

 ジェイドは大笑いし、「教会の礼拝はおそろしく長い。小便もたっぷり溜まるだろうさ」と、男の肩を叩いた。

 

 硝石集め人(ソルト・ピーターマン)

 町中の尿がしみこんだ土を、鳩小屋、豚舎、民家の厠からも――集める人のことだ。

 

 硝石の結晶は、この土を煮込んだ溶液から採れるのだそうだ。

 精製した硝石に、ローラーを使って、炭や硫黄をすり混ぜる。

 混ぜた粉末をさらにすり潰し、よく乾かして、黒色火薬の完成。

 

「土の善し悪しは、舌で判断する。味は塩辛い。舌に触れると冷たくて泡がたつのが、硝石をよく含んだ土だ」

 

 と言って、私にも見えるように、土をちょっとつまんで舌にのせた。

 凝視すると、シュワシュワと小さく泡立っている。面白い。

 

 おしっこが火薬の素になるだなんて知らなかった。

 魔法三大国の都市であるカーリアンでは、厠は用を足した後に水を流す様式だったが、それ以外の町では、だいたい掘り抜きか土かけだ。

 当然ブエナ村も土かけ便所だった。

 でも、その土を掘り返す人たちが来たことはない。身の回りにもいなかった。

 火薬はシーローンでしか作られていないのだろうか。

 

「作った火薬はどうするの?」

「アスラ王国や王竜王国に売るんだ」

「その二国は火薬をどうするの?」

「紛争地帯へ売る」

 

 私は周辺の地理をおおざっぱに思い返した。

 遠い。アスラ王国と、王竜王国と、紛争地帯の距離が、遠い。

 

「シーローン王国が、ちょくせつ紛争地帯に売ったほうが早くない……?」

「そうもできない」

 

 国交ってふくざつだ。

 

 火薬製造場から帰る途中で、子供たちに指をさして笑われた。

 私が何か変なのだろうか。格好がこの国の人とは異なるからか。

 そわそわと落ち着かなくて、何となく猫背になる。

 

「ひゃっ」

「縮こまるなよ。弱そうに見える」

 

 パシンと背中を叩かれた。ジェイドは堂々と歩いている。

 

「〈小便集め〉が来たぞ!」

「くっせー!」

「便所に瓦を被せろ! 根こそぎ土を持っていかれるぞ!」

 

 彼らの標的は、私ではなくて、ジェイドだったようだ。

 私がこう言われたらしばらく落ち込んでしまうだろう。

 ジェイドは、しつっこくついてくる子供たちをふりむき、とても怒った顔をした。

 怒気に満ちた顔で、はやし立てる子供たちを睥睨した。

 子供たちは次第に怯えて逃げた。

 

「ふん」

 

 スンとジェイドは無表情に戻った。

 顔面七変化だ。

 

「ああやって、適度に怖がらせておく」と、路地裏で、放置された木樽に腰かけて作業をはじめたジェイドが言った。

 

「調子に乗らせると、コレットへの嫌がらせも酷くなる。過度に懲らしめると、弱いコレットが報復の標的にされかねない」

 

 いつの間に持ち出したのか、布にくるんだ黒色火薬を膝にひろげている。

 破いた上着の布切れに小分けにして包み、解いた糸で口を縛り、小さな小包を幾つも作っていた。

 なんだか昔を思い出す。

 庭木の葉をちぎり、どんぐりや花を包んで麻の紐で留めたのを、「森に住まう巨体妖怪……のお土産だ」と、不思議なことを言いながらくれた兄が思い出された。

 私は初めから終わりまで兄が作る所を横で見ていたのに、なぜかそう主張して譲らないのだった。

 

 ジェイドが包むのは黒色の粉末である。

 彼も妹に包みをあげるのだろうか。

 

「妹は、幼い時は利発で、言葉をおぼえ喋るのも、同じ年頃の子よりはるかに早かった」

「アイシャもよ」

「だが、道を歩けば、ああいう風に馬鹿にされ、これみよがしに鼻をつままれる。俺は何を言われたって響かないが、コレットは女の子だ。不潔だと蔑まれるのがどれほどの侮辱か……。

 コレットは深く傷つき、喋ろうとすると酷く吃るようになった。吃るのを恥じて、いつしか喋らなくなった」

「昨日の歌はきれいだったよ」

「そうだろう。あれが、コレットの本来の声なんだ。竪琴を奏で歌えば、声は自由に解き放たれる。

 今ではもう、すみやかに流れるコレットの言葉を聞けるのは、琴の調べにのせた時だけだ」

 

 ジェイドは寂しそうにした。

 完成したそれらを懐に入れ、立ち上がった。

 ひとつ私にもよこされる。

 

「この量なら、爆発の威力はすこぶる弱いが、煙は大量に出る。人の注目を他へ逸らしたい時は、火をつけて遠くに投げて、火事だと叫べばいい」

「ありがとう……」

「火薬は湿気ると腐るから、濡らさないように気をつけろ」

「うん」

 

 何かもらってしまった。

 森に住まう巨体妖怪なの? と訊いたら、きょとんとされた。違ったみたいだ。

 

 火薬製造人を父親に持つジェイド。

 彼もまた精製の知識を持っている。

 

「ジェイドさんはお父さんの跡を継ぐの?」

「俺は兵士になるよ」

「シーローンだと、どうやって兵士になるの」

強制徴募(デウシルメ)があるんだ」

 

 シーローン王国は、三年から六年に一度、国の健康な子供を集め、兵士にする習わしがあるらしい。

 直前の徴募が五年前である。次の強制徴募は来年だろうとの事だった。

 

「俺は長男で、弟もいないから、辞退が許される。だが、しない。火薬を作るより、兵士になり、出世したい。コレットのためにも」

 

 強制徴募で集められた農民や下層民の子供たちは、歩兵軍団(イェニチェリ)に入れられる。

 そこでは、身分に関係なく、能力次第で出世できるそうだ。

 硝石集め人で火薬作りの娘、コレット。

 歩兵軍団の長の妹、コレット。

 後者の肩書きの方が、市民には魅力的に映るのだ。

 

「コレットみたいな子が、いじめられるのは、おかしいじゃないか」

 

 ジェイドは憮然と言った。

 眼には固い決意が宿っていた。

 

「半生でつらい目にあった分、あの子は誰よりも幸せになる権利がある。俺は、妹を、国で一番幸福な女性にする」

「そんなこと……」

「できる」

 

 神様は俺に味方している、と、ジェイドは口元を歪めた。

 硝石集め人に向けた快活さの欠片もないほの暗い笑みは、次の瞬間には失せていた。

 

「このことは誰にも言わないでくれ。俺の頭がおかしくなったと思われるからな」

 

 ジェイドは冗談めかして言い、少し先を歩いた。

 ……うん、きっと冗談にちがいない。

 私はトウビョウ様に憑かれているけれど、信仰と恐れこそあれ、全能感はおぼえないもの。

 

 

 家に戻る頃には、昼前になっていた。

 ネルさんは、上半身を起こして喋れる程度には回復したらしい。

 アルスルと少し会話をすると、また眠ったそうだ。

 

 昼食の支度を手伝っていると、兵士が一人で訪ねてきた。

 家の中の空気がピリッとする。

 アルスルは剣をとり、母親を後ろに庇い、いつでも抜き放てるようにした。

 彼ら一家は町から追放という事になっているが、父親を置いていけるわけがないし、ネルさんはまだ歩き回れるほどには癒えていない。

 父親も行方知れずのまま、衰弱した母親と町を出るのは、どだい無理な話なのだ。

 

「失礼つかまつる! 龍神の使者はいずこか!」

 

 聞き馴染みのない言葉に、シシャ? と、きょろきょろ周りを見てしまった。

 ジェイドがナナホシを連れ、家の前で応対することになった。

 

「……私たちは、昨日そちらに追い返されたはずだけど?」

 

 ナナホシが不機嫌そうに腰に手を当てる。

 そうだった。龍神の使者って、私たちのことだった。

 

「先日の無礼をお許しいただきたい。あなたがたにお引き取りいただいた直後、パックス殿下より、ただちに使者様を迎え入れるようにと命令が下ったのです」

「で、どうして昨日の今日で、私たちがここにいるとわかったの?」

「旅装の二人組みの少女は目立ちます故。情報は直ちに集まりました」

「……」

「数々の非礼をお詫び申し上げる」

 

 元より兵士から遠かったナナホシの心が、さらに遠ざかっていくのを感じる。

 捜索されていたとは。

 ぜんぜん分からなかった。

 私たちの周辺を調べたなら、家の奥に、アルスルがいる事も知っているのだろうか。

 知っていて、何も言わないでいてくれるのだろうか。

 

 顔に傷のある兵士は、感情をできるだけ排したような様子で立っている。

 

「リーリャとアイシャに会わせてくれるの……くれるんですか?」

「もちろんです」

 

 やった!

 私はいそいで家の中に戻り、身支度を整えた。

 腕輪と指輪を通した革紐も、ちゃんと首にかけておく。

 ひそひそ声で、アルスルに「城に入れてもらえることになったの」と告げる。

 

「アルスルのお父さんのことも、こっそり探してくるね。お父さんの名前は?」

「ハーマン・フックだ。……気をつけろよ。パックスはろくでもない奴だ」

「大丈夫よ」

 

 トウビョウ様を使える限り、抵抗の手段がまったくないわけでもない。

 パックスを殺すのはダメ、と言われたが、それ以外、たとえば軽く怪我をさせたり、失神させたりするくらいならいいのだ。

 出かける前に、一応穏やかな顔で寝ているネルさんを視た。

 頭が痛くなった。

 

 鞄から貨幣だの魔石だのを入れた袋を出し、アルスルに押しつけた。

 

「これ、使っていいから。お医者に見せてあげてね」

「あ、おい」

 

 家を出て、兵士の前に立つ。

 

「招かれているのは、そちらの、幼い……」

「シンシアです」

「シンシア殿のみです」

 

 殿なんて付けられると、こちらが偉くなったみたいに錯覚してしまう。

 実際は、そんなことはないんだけれど。

 

 私は、ナナホシがいっしょじゃないとちょっと不安だな、と思った程度だったのだが、ナナホシは不審感をあらわにした。

 家を守るように立って話を聞いていたジェイドもだ。

 

「それっておかしいわよ。あなた本当に王宮から寄越された兵士?」

「自分は王城警備隊所属のシャイナです。パックス殿下はシンシア殿のみと仰られました」

「シンシアは小人族じゃないわ。子供よ。子供と、人質解放の交渉をしようとしてるってこと?」

「……その通りです」

 

 ナナホシがピリピリしている。

 私、もう8歳なのに、一人にできないほど信頼されてないのだろうか。

 あるいは、王宮でとんでもない失礼をやらかすと思われているのだろうか。

 ジェイドを見上げた。

 

「子供はバカじゃない。それは、俺たちもわかっている。まあ、君はちょっとマヌケだが……」

「えへ……」

「子供はバカじゃないが、例えば、十になる前の商人の子供に、多額の金が動く商談をもちかける大人はいないだろう。簡単な伝言なら頼むにしても」

 

 たしかに。

 頭の出来はあまりよろしくない自覚があるので、馬鹿じゃない、というのには手放しで頷けないが。

 ジェイドの例え話はわかりやすかった。

 子供に大事な交渉をする大人はいない。

 成人前は、責任をとれない齢とみなされるからだ。

 子供を対等に見ているふりをして、交渉を持ちかけてくる者がいたとしたら、それは、相手を丸め込もうとしている者だ。

 リーリャとアイシャの身柄について話し合う気があるのなら、十五は越えたナナホシを招くべきなのだ。

 

「人質というのが、まず、誤解なのです。リーリャ殿とアイシャちゃんは、ロキシー殿の関係者ですから、丁重なもてなしを受けています」

 

 ガタッと家の奥から物音がした。アルスルだろう。

 扉のそばに立つジェイドが後ろ手で、来るな、というふうな仕草をした。

 

「だったら、もう、転移事件の話は知っているだろう。知ってなお、その人たちは王宮に留まっているのか」

 

 ジェイドが言った。

 

「アイシャちゃんが、まだ小さいので」と、兵士は答えた。

 

「昨日、城の周辺を逍遥とされていたパックス殿下は、門番と揉めている使者様方をご覧になっていました。興味を持たれ、調べると、リーリャ殿がシンシア殿の乳母とのこと。

 転移事件から一年が経ち、積もる話もあるだろうと、……ぱ、パックス殿下の、寛大な計らいです」

 

 怪しい。

 アルスルから聞いた人物像とぜんぜん違う。

 兵士の人も、なんだか歯切れが悪いし。

 でも。

 

「行きます」

 

 私は言った。

 まずはリーリャとアイシャに会いたい。

 視て、城に二人がいることは、嘘ではないのがわかった。

 

「ご協力感謝する」

 

 兵士はほっとした顔になった。

 控えていた牛車に乗り込む前に、ナナホシに耳打ちされた。

 

「あらかじめ、城の近くにオルステッドを呼んでおくわ。何かあったら、すぐに助けを呼んで」

 

 それは頼もしい。

 だけど、私は大丈夫だ。

 

「それより、ネルさんのことお願いね。あのままじゃ危ないよ」

「……わかった。どうにかしてみるわ」

 

 牛車の足踏み台は降ろされていたものの、ちょっと高いので、ひょいと持ち上げられて、兵士といっしょに乗り込んだ。

 成り行きをジェイドの影から見ていたコレットが、ハッとして、あわあわと家の中に入る。

 出てきたコレットは、切った黒パンを私に持たせた。革の水筒もいっしょだ。

 

「……ぁ、ぅあぁっ、ごは、ごはんっ……」

「ありがとう、コレットちゃん。美味しそうね」

 

 小さな吃り声だった。

 舌が縺れてくぐもり、喉に土を詰められたような。

 琴を奏で歌う時だけ、コレットの声は自由に解き放たれる――ジェイドの言うことは、本当だったのだ。

 

 気遣いが嬉しくて笑顔になると、コレットも笑みを返した。

 

 牛車がゆったりと進み始める。

 ジェイドコレット兄妹の家は首都の端のほうだし、王城に着くまでに数時間はかかるだろう。

 

「あの、兵士さん」

「はい」

「リーリャさんのこと、大事に扱ってるの、嘘でしょ。地下に閉じ込めてるよね」

「……!」

 

 ナナホシたちの前では言わないようにしていた事。

 言えばきっと、ナナホシもジェイドも不審感を募らせ、私を行かせてくれなかっただろう。

 

「アイシャは、ずっと泣いてる。お母さんを出して、って」

「はは……何を言ってるんだい、リーリャもアイシャちゃんも、殿下と一緒に君を待ってるんだよ。今ごろ、三人でお茶でもしているんじゃないかな」

 

 私はそれ以上言及するのはやめた。

 途中で牛車から降ろされてしまったらかなわない。

 兵士の嘘にのっておけば、とりあえずは、中に入れるのだ。

 待っていてね、アイシャ。もうすぐお姉ちゃんが行くからね。

 

 その前に、もらった包みをあける。

 お腹が減ったのだ。

 

「兵士さんも食べる?」

「……硝石集め人の元締め一家と、関わりがあることは、王宮では言ってはいけないよ」

「え?」

 

 兵士はパンと水筒をとりあげ、窓から捨てた。

 予想もしていなかった暴挙に呆気にとられる。

 

「あぁっ!」

 

 我に返り、窓から顔を出す。

 落ちたパンと水筒は、浮浪児と思わしき身なりの子供が、さっと拾い上げた。

 いや、あの子もお腹を空かせていたのだろうけれど。

 あんなに強引な施しがあろうか。

 せめて一声かけてほしかった。

 

「すまない。城に入る前に、何か買ってあげるから」

「どうして取ったの……」

「硝石集め人の子と仲良くしてはいけない。娘が触れたパンを食うなんて、以ての外だ」

 

 むっ。

 理屈が読めてきた。

 尿がしみこんだ土を触り、時には舐める硝石集め人は、この町の嫌われ者だ。

 刑吏のように市壁の外に追いやられるほど、迫害が酷いわけではないようだけれど。

 不浄を扱う仕事だから、道を歩けばはやし立てられ、鼻をつままれ、善意であげたパンも無下に扱われるのだ。

 やるせない気持ちである。

 

 馬車よりものんびりした速度で牛車はすすむ。

 兵士さんは、硝石集め人ではない私には親切で、王宮に着くまでに、色々と教えてくれた。

 

 北神英雄譚発祥の地である王竜王国の同盟国ということで、やはりシーローンでも北神英雄譚はよく語り継がれる昔話であるらしい。

 お話に登場する、死神騎士シャイナ。

 一見不吉な肩書きだが、どんな死地からも必ず帰還したという逸話から付けられたそうだ。

 兵士さんの名前は、その逸話からとって、シャイナだ。

 

 シャイナさん。

 元となった人は女だが、最近では男も女もどっちでも通じる名前らしい。

 その風潮ができる前は、男はシャンドルと名づけられることが多かったそうだ。

 

 それから、この国独自の国王の選抜方法も、教えてくれた。

 

「良いことをすると、親衛隊が増えて、悪いことをすると減るの?」

「ああ。そうして、国王が崩御なされた時点で、一番親衛隊を多く抱えた王子が、次の国王になるんだ」

「パックス殿下の親衛隊は何人なの?」

「……最近、二人になった」

 

 意外なことに、シャイナさんはパックスの親衛隊ではなかった。

 パックスの手足のように動いているようなのに。

 ただの一兵卒だそうだ。

 ただの、とシャイナさんは卑下したが、私は否定した。

 

「兵士さんは、お国のために戦うのが仕事でしょ。すごい仕事よ。誰にでもできることじゃないもの。立派なことよ」

「シンシアちゃん……」

 

 お国のために戦う時など来ないほうがいいが、死への行進はとめられないものだ。

 その時に矢面に立って戦うのは、やっぱり立派なことだ。

 日清戦争と日露戦争の前も、黒い軍衣を着て宇品港に向かう村の男たちを、村人総出の万歳三唱で見送った。

 日露の時は、チサはもう足萎えの盲だったから、お父におぶわれて村人の万歳を聞いたのだっけ。

 

「シャイナさんは親衛隊じゃないのに、親衛隊みたいなことしてるのね」

「大人の事情があるんだ」

 

 シャイナさんは途中で牛車をとめ、串焼きを何本か買ってくれた。

 美味しい。

 ナナホシもちゃんとご飯を食べているだろうか。

 かて飯のおむすびを一個くれた事といい、彼女は食が細いから心配だ。

 

 そして、王城の手前で、牛車はとまった。

 門に通じる階段は自分でのぼる。

 牛車で強行したら、ガッタガタに揺れて大変だろうものね。

 

「疲れたらおぶるよ」

「平気です」

 

 この程度。

 転移前は毎日外を走りまわり、転移後も毎日外を歩いている私の負担にはならない。

 ちなみに急ぎの用のときは、オルステッドが片腕に抱いて夜通し移動してくれる。起きたら景色が様変わりしていること多々だ。

 あそこまでの無限体力はないが、このくらいの階段なら、駆け上がったって息は切れないだろう。

 

 というわけで、シャイナさんと競走した。

 負けた。

 二段飛ばしの威力には適わなかったのだ。

 

 

 昨日見たばかりの、背丈の何倍もある石組みの城壁。門の左右に植えられた巨大な鈴懸の木。

 正門の門番に挨拶をして、しかし正面玄関は通らず、横道にそれた。

 兵士用の勝手口から入るらしい。

 ちなみに正門の門番さんは昨日の人と同じだ。

 ちょっと気まずかった。

 

 門番さんは兜の下に哀れみを浮かべていた。

 

「ハァ……あんな子供になあ。殿下も悪趣味な……」

 

 雲行きのあやしい独り言である。

 しかし引き返すわけにはいかない。

 私は気を引き締めた。

 

 兵士の屯所のような空間を通りすぎ、城の石畳の廊下を歩く。

 お城に入ったのは、人生で三度目だ。

 ペルギウス様の空中城塞と、アトーフェ様のネクロス要塞と、シーローン王国の王城。

 分類は同じ城でも、雰囲気はそれぞれ異なる。色合いも。

 

 シーローンの王城の外観は、小高い山をそのまま建物にしたようであり、尖塔がいくつか聳えている。色は土色を基調とし、青や金で模様を描いた彩色陶板が壁を飾る。

 ケイオスブレイカーにいたっては、山どころか、そのまま島だ。比喩表現ではなく。

 ネクロス要塞は、黒くて尖っていた。大きくて、おどろおどろしかった。

 

 どれも造りで劣るということはないが、洗練され抜いているのは、やはりペルギウス様の城だろう。

 膨大な時の流れに、ぽつんと芥子粒のような自分がいる。あそこにいると、そんな気分になるのだった。

 

「……」

 

 城に入ってから、シャイナさんの口数が減った。

 うるさくしてはいけない決まりがあるのだろうか。

 承知。

 私はひそひそ声で話しかけた。

 

「侘びのある噴水ね」

 

 回廊のアーチから見た庭園には噴水があり、傍らには、大石が二つ据えられていた。

 噴水のわりに、装飾は乏しく、質素な感じだ。

 

「あの大石は、切り落とした罪人の首の晒し場。噴水は処刑人が血刀を洗うためのものだ」

「まあ」

 

 血なまぐさい。

 しかもシャイナさんは普通の声色で答えたから、べつに小声で喋る決まりはなかったようだ。

 

 

 客間に通された。

 大きな窓から明るい日差しがさしこみ、窓枠には、芙蓉の透かし彫り。

 吊り下がるのは、陶器のランタンである。

 天蓋つきのベッドまである。

 

「ここで待っていれば、パックス殿下がいらっしゃる」

「リーリャさんと、アイシャもくる?」

「……ああ」

「案内してくれて、ありがとうございました」

「……すまない」

 

 シャイナさんは謝り、去った。

 去った……よね。

 

 よし。

 私は迷わず部屋を出て、ジェイドが描いた地図を思い出しながら、リーリャのもとへ向かった。

 目指すは西端。王城の獄だ。

 

 アルスルから聞いた好色な人物像。

 門番の一人言。

 客間のベッド。

 いくら私でも、何が行われようとしているのか、察しがつく。

 躰はともかく、記憶は生娘ではないのだ。

 生前から、男女の逢引も交合も、常に身近にあった。

 農村の楽しみといったら、食うこととそれくらいなものだし。

 

 ところで、閨から逃げ出した私の扱いは、反逆者だろうか。

 それとも子供だから、迷子だろうか。

 最初に邂逅した人の態度で判断しよう。

 反応によっては、呪いで少しのあいだ失神させる。

 

 廊下の先を、さっそく人が横切った。

 こちらにはまだ気づいていないようだ。

 歩いているのは、小さな女の子であった。

 お手伝いだろうか。黒のお仕着せに白い前かけを着て、空の食器がのったお盆を運んでいる。

 きっと誰かが、あの子の小さな体に合うように、丁寧に袖を折り、裾上げをしてやったのだろう。

 お仕着せはだぶだぶだが、動きにくそうにはしていない。

 赤みがかかった茶髪は後ろでひとつに束ねられ、フラフラと馬の尻尾みたいに揺れている。

 利発そうな顔は、いまにも泣いてしまうのを堪えるように、強ばっている。

 まるでアイシャみたいに可愛い子だ。

 というか、アイシャである。

 

「アイシャ!」

 

 小声で叫ぶ。

 アイシャは気のない感じでふりかえった。

 怜悧さが表れた()が見開かれた。

 ガシャンとお盆が落ちる。

 口が、おねえちゃん、という形に動いた。

 

 私はきょろきょろ周囲を見て、誰も来ないことを確認した。

 固まっているアイシャのもとに駆ける。

 抱きしめて頬ずり。

 抱擁すると、三歳の時よりひと回りも大きくなっているのがわかる。

 

「ずっと会いたかったよ」

 

 アイシャ。かわいいアイシャ。

 この丸いほっぺ。

 みじかい前髪。

 ちっちゃな鼻。

 ちょっと尖った八重歯。

 全てがかわゆくてならない。

 

 落ちた木の椀にさわり、視る。

 うむ、やっぱり、リーリャが使っていた食器だ。

 アイシャは甲斐甲斐しく獄の母親の食事を運び、食器を下げていたのだ。

 まだこんなに小さいのに偉い。あるいは、それが唯一許された母娘の時間なのだろう。

 でも、そんな抑留生活はもう終わりだ。

 

「いっしょに逃げようね。リーリャはどこ?」

 

 アイシャの肩を正面からつかみ、目線をあわせて訊ねる。

 

「お……おね……」

 

 アイシャの口がまるく開き、目のふちに涙が盛りあがった。

 まずは、大泣きするアイシャをなだめるのが先になりそうだ。




この無職世界には火薬が存在します。


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四五 決闘裁判、序/残酷

先日も日間ランキング入りしていたようです。
票も増えて嬉しい。皆様ありがとうございました。



 組みあわせねじり曲げた指のように複雑な城の内部を、アイシャは熟知していた。

 泣き止んだ彼女は、迅速にリーリャが囚われた獄に案内してくれた。

 そればかりか、彼女は、いつの時間、どの通路に人が少ないのかも、完璧に憶えていた。

 ときには空き部屋に隠れてやり過ごし、私は誰にも会わずに地下牢の入り口までたどり着いたのである。

 

 ちなみに、私の胸元は、声を押し殺して泣いたアイシャの涙と鼻水がくっついて、顔の形の痕跡が残った。

 魚拓ならぬ顔拓である。

 乾いた跡がちょっとカピカピしている。

 

 地下に続く獄の入り口には、兵士が立っていた。

 あくびなどして、暇そうだ。

 

「この時間にいるのは、あの人だけだよ」

 

 ひそめた声で言い、「でも」と、アイシャはしょんぼりした。「お姉ちゃんは通してくれないと思う」

 

 それもそうだ。

 リーリャに食事を運ぶ係のアイシャは、牢屋番と顔見知りだろうが、私は初対面。部外者である。

 オルステッドがいうには、見た目が子供のようでも、中身は成熟している種族もいるそうだし、子供だからと態度は甘くならないだろう。

 

「あたしがお姉ちゃんで、お姉ちゃんが妹で小ちゃかったらよかったね。

 そしたら、あたしがお姉ちゃんを毛布で巻いて、お母さんに毛布を届けたいんです、って言って、こっそりお姉ちゃんのこと運べたのにね」

 

 頭の回ることだ。

 私はアイシャのまるくてよく回る頭を撫で、手をつないで牢屋の番に歩みよった。

 アイシャは戸惑い気味についてくる。

 兵士は首に下げた小さな笛に手をやり、にこやかな顔をアイシャに向けた。

 

「アイシャちゃん、忘れ物かい? 横の、子……は……?」

 

 がくりと兵士がくずおれる。

 それで、私たちは易々と地下に入り込んだ。

 

「え、ぇえ? なんで?」

 

 アイシャは後ろを何度も振りかえった。

 束ねた髪もそれに合わせてぴょこぴょこと跳ねている。かわいいね。

 

「お昼の後だから眠くなっちゃったのよ」

 

 ごまかしつつ、手燭は入り口付近にあったのを拝借して、薄暗い階段を降りる。

 くんっと手を後ろに引かれた。

 アイシャが立ち止まっていた。

 

「お姉ちゃん、鍵。鍵がないと、お母さん出られない」

 

 私たちは引き返し、気絶した兵士の懐を探った。

 お姉ちゃん、ちょっとカッコつけて助けに来たから、恥ずかしかったよ。

 

 

 鉄格子があった。

 奥にはぼんやりとした影。

 手燭を差し向けると、輪郭が人の――リーリャの形をとる。

 リーリャは格子に背を向け、背中を丸めていた。

 

「お母さん!」

 

 アイシャは鍵束から迷わず一個を選び、うんと背伸びをして鍵穴に差し込んだ。

 私が手伝うより早く、アイシャはつま先立ちでプルプルと震える手で、牢の扉を開けた。

 そんな半ば手探りで即座にあけられるものだろうか。器用である。

 振り向き、アイシャを胸で抱きとめる前に、リーリャが手元の物を隠すのが見えた。

 

 牢は薄暗く、ひんやりと湿っぽい空気だ。

 床には寝床と思わしき古い藁が敷かれている。

 部屋の端にある壺は厠だろう。

 

 ようやく会えた。万感胸に迫る。

 リーリャさん! そう呼びかけて駆け寄る前に、彼女は言った。

 

「……すみませんが、どちら様でしょう?」

 

 そんな。

 私、リーリャに忘れられていたのか。

 アイシャは憶えていてくれたのに……。

 

 そうなってくると、次の言葉を迷う。

 ブエナ村の、パウロとゼニスの、二番目の子供です、と言ったら、思い出してくれるだろうか。

 言っている途中で悲しくて泣いてしまうかもしれない。

 

「もう何日もまともに陽の光を浴びていません。視力が鈍くなり、私からは、あなたの姿はぼやけて定かではないのです」

「リーリャさん。私よ、シンシアよ」

「……お嬢様……?」

 

 牢の中に入り、手燭を置いてリーリャの手をとり、私の頬にあてる。

 明かり取り窓ははるか上にあり、光は弱い。

 晴眼のリーリャが、一人で暗闇に閉じ込められるのは、きっと辛かっただろう。

 接近すれば文色は捉えられたようで、リーリャの瞼が濡れた。

 抱きしめられる。私も、記憶よりくたびれた彼女を抱きしめた。

 

「……ッ!」

 

 リーリャは途端に蒼白になり、バッと私の両手をにぎり、上にあげた。

 中途半端な万歳の姿勢になる。

 上から下まで、凝視される。

 何かしら。

 

「お、お嬢様、パックス殿下に、なにか……」

「何もされてないよ。逃げてきたもの」

 

 リーリャの危惧を察し、安心させた。

 どやさ! と、自分の察知力を誇る。

 

 リーリャの強ばっていた顔と体がほっと緩んだ。

 

 でも、まだ救出が成功したわけではない。

 城の外に出て、ジェイドが教えてくれた小屋に隠れる。

 アルスルの父親のハーマン・フックも救出する。

 それで大団円だ。

 

「行こう、お母さん。牢屋番の人は寝ちゃったから大丈夫だよ。今度は、あたしといっしょに逃げるよね?」

「アイシャ……」

 

 アイシャが小さな手でリーリャの腕を引き、立たせようとする。

 リーリャは困惑顔である。

 なぜここにアイシャと私がいるか考えているのだろう。

 

「リーリャさん、さっき、何を隠したの?」

「鉄格子の隙間から、手紙のやり取りをしていたのです」

 

 よく見ると、窓から細縄が垂れている。

 縄は火縄で、星のように小さく灯った明かりを頼りに、リーリャは手紙を読み、書いていたようだ。

 リーリャは縄の先を引いた。天窓からの明かりが翳った。

 人の顔が横から覗き、「シンシア?」とジェイドの声が聞こえた。

 

 


 

 

 獄の外に出たリーリャは、ロンデル窓からの光を浴び、眩しそうに目を眇めた。

 眼鏡の奥で目を瞬かせ、ぎゅっと一度強く瞑る。

 

「大丈夫?」

「ええ。すぐに慣れます」

 

 リーリャには私の肩に掴まってもらい、ジェイドとアルスルが待つ、天守の裾をめざす。

 二人がしのびこんだ抜け道を使って逃げるのだ。

 

「お母さん、お姉ちゃん、次は洗濯小屋に隠れて!」

 

 先導するのは四歳の女の子。アイシャである。

 人目につかない逃げ道を把握しているアイシャだが、人の動きは完璧には読めないものである。

 まして、王城にはたくさんの人が働いている。

 

「あっ……」

 

 ときどき、人に遭遇した。

 行きで誰にも会わずに済んだのは、私とアイシャが再会した場所から獄までの距離が近かった事もあるのだろう。

 

「あなたは、牢に、……」

 

 洗濯籠を抱えた女中がリーリャを見て驚き、激しい目眩に襲われたように壁に手をついてゆっくり倒れ、そのまま意識を失った。

 アイシャがきらきらした目でこちらを振り返る。

 私を信頼しきっている目である。

 

「わかった、お姉ちゃん、催眠術をかける魔道具を持ってるんでしょ。だからみんな寝ちゃうんだよね!」

「催眠術って、よく知ってるねえ、アイシャ」

「えへへ!」

 

 きっと本を読んだり、大人の話をよく聞いたりして、学問したのだ。

 急に知らない国へ飛ばされて苦労しただろうに。健気なことである。

 

 天守に通じるという中庭に出ると、兵士が駆け寄ってきた。

 すわ衛兵か、と思い、呪いかけたが、「シンシア!」と声をかけられたことで踏みとどまる。

 アルスルの声である。どうやら、兵士の格好をして、変装しているようだ。忍びみたい。

 リーリャはアルスルに深々と頭を下げた。

 彼らと私が協力していることは説明済みだ。

 

「よかった、無事にここまで来れたんだな」

「うん、アイシャのおかげよ」

「さ、行こうぜ。あと少しで外だ」

「ハーマンさんは……」

「わかってる。父ちゃんは、ここにはいなかった」

 

 アルスルはいちばん小さなアイシャを背負い、移動した。

 兵士がアイシャを構っている光景は、ここでは珍しい光景ではないのだろう。

 すれ違う人々に、アルスルが怪しまれ、呼び止められることはなかった。

 アルスルは昔から馴染んでいる兵士のように歩く。

 そうして物陰に隠れながらついて行く私たちに合図を送ることで、私たちの動線を助けた。

 リーリャもさほど早くは動けないものの、物音と気配を殺して移動するのはお手の物という感じである。

 彼女がしっかりと肩を抱いていてくれるので、私はなんとか置いていかれずに済んでいる。

 それにしても、人が少ないような。

 

「ジェイドさんは?」

「人払いのために、火事騒ぎを起こした」

「火付けをしたの?」

「いや、発煙弾さ」

 

 リーリャによると、城の一階は兵士や使用人の生活区域だそうだ。

 そのわりに、兵士をそれほど見かけなかったのは、みんな煙の方に出払っていたからだろう。

 ちなみに王族は四階と五階で起居しているらしい。

 食事も同じ階で摂るそうだ。運ぶ途中でご飯が冷めてしまわないのだろうか。

 

 

 そんな中で、私たちは……というか、私は、忘れていた。

 私を閨に呼んだ王族がいたことを。

 ものにできると確信していた女に反抗されると、激昂する男もいることを。

 自分は懐手で、手下を引き連れて城内を自由に行動できる存在がいることを。

 

「待て」

 

 甲高いわけでもないのに、妙に幼い印象のある声であった。

 

「!?」

「お嬢様!」

 

 次の瞬間、私とリーリャは、衛兵に囲まれた。

 無数の剣の先が、私たちを取り囲む。

 いまにも刺し貫かれそうだ。

 リーリャは私をきつく抱きしめた。

 

 アルスルは兵士の格好をして、私たちから少し離れていたおかげか、侵入者とは見なされなかったようだ。

 アイシャを連れて逃げて、と目顔で訴えた。

 伝わったのか伝わっていないのか、アルスルは素早くその場を離れたが、途中で立ち止まった。

 人垣と剣の隙間から、こわばったアイシャの顔、歯がゆそうなアルスルの顔が見える。

 

「くくく……」

 

 ずんぐりむっくりとした胴体を、深緑と黒を基調とした上等な服につつんだ男であった。

 子供のような矮躯と、大人の顔の取り合わせは不自然で、畸形のような、と、言っては、言い過ぎか。

 威圧感はあるものの、外見はちぐはぐで、不細工な小男である。

 別に、不細工だから嫌だな、と思ったのではない。

 どんな風采でも、(めしい)てしまえば姿形などわからなくなるもの。

 でも、なにか、既視感がある。

 背筋がソワソワとして落ち着かない。

 

 男は片手をあげて人垣を退かし、私とリーリャの前に立った。

 退路はない。

 こんなに大勢を、失神だけで済ませられるだろうか。

 殺すほうがずっと易しい。

 

「余は、シーローン王国第七王子、パックス・シーローンである」

 

 パックスの目が私をとらえ、表情はにたりと歪む。

 

「余に抱かれる光栄をふいにし、ましてや逃げ出したな。二度と逆らえぬように、その体に思い知らせてやる!」

 

「引き剥がせ」と指示を飛ばすと、兵士が一人ため息をつき、リーリャから私をもぎ取った。

 そうしてパックスの前に立たせられる。

 パックスはじゅるりと舌なめずりをした。

 

「まずは、パンツを脱いでコートを捲りあげろ。今すぐだ」

「そんなっ、パックス殿下!」

 

 リーリャが制止をふりはらい、額を地にすりつけた。

 突然動いたので、剣を下げるのが間に合わず、彼女の頬や首筋に細かい傷がいくつもできた。

 しかし兵士たちは、リーリャを積極的に傷つける気がないようだ。

 命じられ、仕方なく従っている、という風である。

 

「私ならどんな辱めでも受けます、ですからどうか、お嬢様は……!」

「ええい、年増の裸に興味はない! 貴様ら! 何をしておるのだ! さっさとリーリャを黙らせろ!」

「……ハッ!」

 

 黙らせる、とは。

 奇しくもここは、あの無骨な噴水の横であった。

 罪人の首を晒す台。血刀を洗うための噴水。

 

 私は、首飾りのようにした魔道具の指輪を思った。

 オルステッドを呼ぶより、呪い殺すほうが手っ取り早い。

 パックスは殺すな、と言われているけれど、リーリャの命より大事な約束ではなかった。

 呪わなくては。死んでくれますようにと。

 リーリャを巻き込まないように。

 アイシャとアルスルも守って。

 手を祈る形にすり合わせた。

 

「シンシア様」

 

 間際、リーリャが私の名を呼んだ。

 うつ伏せに押さえられ、後ろ手で拘束された彼女は、首を振った。

 

「いけません」

「でも……」

 

 どうしよう。

 殺せばこの場は逃げられるけど、リーリャはだめって言っていて、それに、王族を殺すのは大罪で、私はどうにかできても、リーリャまで命を狙われるようになるかもしれなくて……。

 ぐるぐるごちゃごちゃ。

 良い考えが思い浮かばない。

 

「何をもたもたしている! 早くパンツを下ろせ!」

 

 私はパックスに懇願した。

 

「言うこときいたら、リーリャさんに、何もしないでくれますか」

「ほほう。乳母の命乞いをするか。

 いいだろう、リーリャは生かしてやる。目の前で犯される貴様を見て、絶望する役目がまだ残っているからな!」

 

 私は俯き、腰のベルトに括りつけていた鞄を外した。

 

 旅を始めてしばらく、動きやすいからと履くようになった短いズボン。

 太腿を丸出しにするのは恥ずかしいから、灰色の長い靴下を履いて、半分は隠していた。

 靴下を脱げとは言われていないから、そのまま履いていていいのだろう。

 

 ズボンと下着にいっしょに指をかけ、ブーツの上まで、ゆっくりずり下ろす。

 靴裏ができるだけ服に引っかからないように、下を見ながら、片足ずつ慎重に抜いた。

 脱いだ服は簡単に折り畳んで、横に置く。

 

 ふだんは小さな布で覆っている場所が外気にふれている。

 すぅすぅする。

 

 生前も、トウビョウ使いになる前、男に股に悪戯をされたのも、今くらいの齢だった。

 チサがあまりにも小さかったので、蛇の頭のようなそれで刺されることはなかったけれど。

 引っこ抜けそうなほど激しく扱かれた蛇は、白いねばねばした血を吐いたのだ。

 

「こう……?」

 

 裾の長いケープを持ち、横に開いた。

 後ろのリーリャからは見えないが、パックスにはさらけ出す格好になる。

 パックスは蛇を取り出していじることは無かった。

 ただニヤニヤと私の太股の間を凝視している。

 

 あ、と、胸をつかれた。

 既視感の理由がわかった。

 

『わしはほんまは偉いんじゃ、この世の(おなご)はみんな、わしのもんなんじゃ』

 

 私を――チサを犯した乞食の生ぬるい吐息が膚によみがえる。

 性慾と支配慾にまみれた目も、歪んだ自尊心を弱い者でみたしている顔も、彼とパックスは同じだったのだろう。

 だから思い出すのだ。

 トウビョウ様に見捨てられ、自分の躰が死んでゆく感覚を思い出すのだ。

 

「ギャハハ! どうだ! 大勢の前で辱めを受ける気分は! 大人しく余の性奴隷になっていれば、こんな目には遭わなかったのだ!」

「……」

 

 私は、パックスに両腕を伸べた。

 にこっと微笑みさえ浮かべていた。

 理由がわかれば、もう怖くはない。

 

 

 なんじゃ、偉うなっても、おえんのか。

 欲しい女は手に入らんか。

 女がおらにゃあ、満たされんか。

 ほんなら、乞食も王子様も、変わらんのかもしれんのう。

 かわいそうな人じゃ。

 かわいそうなんは、かわええ。

 ええわ、抱いちゃる。優しゅうしちゃる。

 あんたはずうっと待ちょうたんじゃろう。女に誘われるんを。

 きょうてえことは、ねえ。わたしに任せておけばええんじゃ。

 

 

「ギャハ、は……」

 

 口にした訳ではない。でも、伝わった。

 ふらふらと誘われる彼は、私の白い太股に不吉な翳りを見たのだろう。

 扁平な乳房でも、いとしい女のものであれば、豊かに浮かび上がろう。

 

 丸く肥えた指がこちらに伸び、

 

「彼女が龍神の使者と知っての狼藉かっ!」

 

 声が私を揺り戻した。

 ジェイドが来ていた。

 変装したアルスルと異なり、彼は普段着のまま、平民とひと目でわかる格好をしている。

 彼は丸腰を知らしめるように、両手をあげて近づいてくる。

 兵士たちが剣を差し向けるか迷っているうちに、ジェイドはゆっくりと歩み寄り、私の横に膝まづいた。

 

 白痴のようにぼうっとしていたパックスは、ハッとして人差し指をジェイドに向けた。

 いまにも地団駄を踏みそうな勢いだ。

 

「あ、いや……な、なんだ貴様! 庭師(ボスタンジ)ではないな! 所属を言え!」

「私は代理人です、殿下。

 使者シンシア・グレイラットは若輩がため、これより彼女の本意は私を通してお伝えします」

 

 私はもたもたとズボンと下着を履き直した。

 左右と背後はコートに覆い隠されているし、正面以外からは見えていないはずだ。

 そんなに見られていないといいな。

 

「リーリャとアイシャを王城に軟禁している理由を、お聞かせ願います」

「ふん! そんなのは決まっている! ロキシーを誘き寄せる餌……じゃなかった、リーリャはスパイだ! 城に忍び込み、シーローンの情報を盗もうとしたのだ! 娘も秘密裏にスパイとして教育しているに違いない! 死罪にせぬだけ温情だと思え!」

「……事実ですか?」

 

 ジェイドはリーリャを振り返った。

 地に押さえつけられたままのリーリャは震える声で答えた。

 

「事実無根です。私と娘は転移事件に巻き込まれ、王城に転移したのです。私の主張は一度は認められ、娘ともども解放されるはずでした。しかし……」

「パックス殿下が、取り下げたと?」

「はい」

 

 ジェイドはパックスに向き直った。

 

「双方の主張が行き違っていますね」

「だから何だ。リーリャは嘘をついている。余は王子なるぞ。誰の言葉が正しいか、明らかであろう」

「失礼ながら、それは殿下が判断なさる事ではございません」

「なにっ!?」

 

 パックスが気色ばむ。

 被せるように、ジェイドは落ち着きはらって言った。

 

「リーリャの名誉をかけて、龍神の使者シンシア・グレイラットが、パックス・シーローン殿下に申し込みます。

 決闘裁判を開いてください。どちらが正しいか、神様が裁いてくださいます」

 

 

 


 

 

 

 決闘裁判。

 争いが起こった時、両者の合意を得て実施する裁判である。

 原告と被告が一対一で戦い、勝敗の結果で、罪の有無が決まるというものだ。

 裁判開始の前に、己が潔白であることを神の御前で宣誓する形式上、裁判は司祭の立ち会いのもと行われる。

 決闘に負けることは、偽誓をなしたことを意味する。

 偽誓の罪は重い。罪人とされたほうは両手を切り落とされる。

 死刑になることも珍しくない。

 

 と、ジェイドの話を、シンシアは真剣に聞いていた。

 必要な受け答えはすべてジェイドがしたが、大事なことだから、自分でもきちんと理解したかったのだ。

 

 思い返すのは、オルステッドとアトーフェの戦いである。

 オルステッドに負けたアトーフェは、従順にシンシアを解放したものだ。

 何で勝負していたのだったかしら、とシンシアは考える。

 青い鞠が飛んでいたのは憶えているけれど、まさか鞠突きで勝負したのでもあるまいし。

 

 とにかく、強いほうが正しいのだ。

 勝てばリーリャは解放される。その娘であるアイシャも。

 シンシアはこぶしを固めた。

 

「がんばって勝つね」

「驚いた、君が戦う気でいたのか」

「違うの?」

「子供、女人、老人、病人は、代闘士を立てる権利があるんだ。高位者にもな」

 

 ジェイドがシンシアに代わって決闘裁判を申し込んだ後、彼らはまだ王城の中庭に留まっている。

 あの後、シンシアが龍神の使者であること事態が法螺話だとわめいたパックスだが、腕輪と手紙に描かれた紋章を照合することでその疑いは晴れていた。

 

「金があるなら戦闘奴隷を買おう、と言いたいところだが、奴隷市場の有力な商人とパックスは昵懇の仲だ。裏で手を回され、まともなのは買えないとみていい」

 

 と、ジェイドはパックスにさっと視線を巡らせた。

 パックスは庭に運ばせた椅子にふんぞり返り、女中に羽根団扇で扇がせていた。

「遅いぞ! 司教はまだか!」と苛立ちをあらわにしている。

 

「もっとも強い駒は奴が独占するだろうしな」ジェイドは小声で言った。

 

「代闘士を職業にする者もいるが、彼らはたいていが流れ者で、前歴も実績もすぐには調べられない。実力を正確に把握できない者を雇いたくはない」

 

 ふむふむと頷きつつ、シンシアは、オルステッドに闘ってもらうのはどうだろう、と考えた。

 いや、彼なら誰にも負けないだろうが、呪いのことを考えると、現れた瞬間こちらが反則負けになりそうだ。

 シンシアは頭にもくもくと浮かんだ未来図をパパッとかき消し、自分の考えをなかったことにした。

 

「代闘士にはアルスルを選ぶ」

 

 だから、ジェイドの選択にも了承した。

 負ければ偽誓の罪。よくて両手を切り落とし、悪くて死刑である。

 神は正しい者に味方するそうだが、不確実な神より、自分の中に確実にいるトウビョウ様だ。

 呪いでもなんでも使って、アルスルの勝利を助けるのだ、と決意した。

 

 ちなみにアルスルは、一度城から脱出した後、普段着に着替えて私の代闘士として堂々と入ってきた。

 アルスルが変装して衛兵に紛れていたことや、正式な入城記録のないジェイドが王城に現れたことは、騒ぎのせいでうやむやになっていた。

 

「司教様がお着きになりました!」

 

 兵士の声が響いた。

 

 聖職者の衣服に身を包んだ人たちがぞろぞろと来る。

 杖を持ち、長いゆったりとしたチュニックに、ダルマティカとカズラを重ねて着た爺が司教である。

 司教には、助祭や従者が付き従っている。

 助祭は、まだ若いのと、やや老いたのが一人ずつ。従者は三人である。

 

「ジンジャー」

「……ハッ」

 

 パックスが名を呼ぶと、傍に控えていた女騎士が司教の前に出た。

 ジンジャーと呼ばれた女騎士の横に、ジェイドが並ぶ。

 司教を前にして、そして、騎士と対等な立場のようにふるまいながらも、まだ少年に過ぎないジェイドは少しも気遅れはしていない。

 彼の天性の才能とも言える、強靭な胆力によるものだ。

 

「司教さま、お願いでございます。

 己の罪を認めず、あまつさえ殿下が罪状をでっち上げたと主張する者たちをお諭しくださいませ」

 

 そう訴えるジンジャーは能面のような無表情であった。

 言葉も棒読み気味で、パックスを庇いたいという気持ちがまるでこもっていないかのようだ。

 

 次にジェイドが訴えた。

 

「司教さま、お聞きくださいませ。

 リーリャはアスラ王国から送り込まれた間諜などではありません。転移事件の被害者です。災害で家と財産を失った哀れな婦人を、いわれなき罪に問うのは、神様もお許しになりません。

 さらに、殿下には、兵士の身内を人質にとることで、他の王子の親衛隊をも己の意のままに操っているというよからぬ噂も……」

「黙れ! そんなあくどいことを余がするか!」

 

 パックスが怒り狂い、アルスルは必死に司教に訴えた。

 

「司教さま! しかしおれの父は帰ってこなかった!」

 

「リーリャはパックス殿下の親衛隊であるハーマン・フックと協力し、幼子アイシャを逃がそうとしました」と、ジェイドが補足する。

 

「二人の計画に気づかれた殿下はリーリャを拘束、ハーマンを馘首(かくしゅ)の上、死罪を求刑した。しかし、認められず、ラタキアからの追放刑に留まった。

 現在ハーマンの行方は知れません。

 息子であるアルスル・フックは、殿下により私的な拷問が加えられたのでは、と疑っています」

 

「司教よ、余はこの者たちを告訴する!」と、腹に据えかねたパックスが椅子から立ち、司教につめよった。

 

「この国の王族である余を、神に背くと誹る! やつらは悪魔に憑かれているのだ!

 一人は手足を縛って水にぶちこめ! もう一人は煮えたぎる熱湯に腕を浸せ! 神が彼らを正しいと思うなら、無傷で生還させるはずだ!」

「その神判は許されませぬ」

 

 司教が態度はやんわりと、しかし言葉ではきっぱりと拒否した。

「決闘裁判は許されているけどな」と、アルスルが独り言めかして言い、パックスは「それだ!」とまんまと乗せられた。

 

「司教よ、決闘裁判だ。余はこの者どもに決闘裁判を申し込む」

「お待ちください。殿下といえど、軽々しく仰ることではありませぬ」

 

 老いた助祭が口をはさむ。

 

「決闘裁判は、騎士身分の特権ではなく、良民ならば誰にでも許されています。ただし、同じ身分の者同士に限ります。王族と平民では……、汝ら、名はなんという」

 

「私はジェイドです。私は代理人に過ぎません。裁判を受けるのは」と、ジェイドは目顔でシンシアを呼んだ。

 

「シンシア・グレイラットです」

 

 そうして寄ってきた女童の肩に、ジェイドは手を置き、言った。

 

「彼女は、アスラ王国の大貴族ノトス・グレイラットの男子直系を父に、ミリス神聖国のラトレイア伯爵の息女を母に持つ者でございます」

 

 ざわざわと兵士がどよめいた。

 

「ノトスというと、アスラの有名な武官貴族か」

「しかもラトレイアだと? あの悪名高き教導騎士団と繋がりがあるやも……」

 

 実際は、父母のどちらとも実家からは勘当されている。

 現在もその家に名を置く者が取り立てない限り、シンシアの身分は零落した貴族の子にひとしい。

 また、真偽を確かめるには、シーローン王国はかの大国とは離れた位置にある。身分詐称を疑われても仕方なかった。

 しかし、七大列強『龍神』が後ろ盾についていると証明された事実が、シンシアの血統に説得力を与える。

 

 爛熟と頽廃のアスラ王国

 耽美と熾烈のミリス神聖国

 

 二国の青い血の流れる子供が、魔力災害で流離し、世界で指折りの強者に取り立てられる。

 古典的な貴種流離譚であるが故、受け入れられやすい。

 中には、パックスがシンシアに与えた屈辱を思い、ことによっては後々強国から睨まれることになるのでは、と焦燥に駆られた者もいた。

 ジェイドが仕掛けたハッタリはおおむね成功した。

 

「ふうむ、身分としては申し分なし。パックス殿下に決闘裁判を申し込むのに、また、受けるのに、何の不足がありましょうや」

 

「して、代闘士は誰が」と、司教はパックスとジェイドを順繰りに見た。

 片や肥満体型の王族、片や十にも満たぬ女の子である。端から生身での決闘は想定していない。

 

「余はこいつを使う」

 

 パックスの命令で、拘束された男が兵士三人掛かりで連れてこられた。

 2メートルは越えようかという巨漢である。

 全身がゴムでできたボーリングの玉のような男だ。

 顔も躰も古傷まみれで、眼だけはつぶらで澄んでいるのが、かえって不気味さを助長している。

 

「がんばりまぁっす! がんばりまぁっす!」

 

 まともな意思疎通はできない事が一発でわかる大男を横目に、パックスは高笑いをした。

 

「奴隷市で買ったワシャワ国の戦士だ! 知能は低いが素手で人体を引きちぎる馬鹿力よ! 祖国では手に負えぬ故、売られたらしいがな! ハハハハ!」

 

 辞退するなら今のうちだ――誰もがそう思う中、アルスルは迷わず申し出た。

 

「シンシアの代闘士はおれです」

「年は?」

「年ですか。十四です」

「なんと、成人前ではないか……」

 

 司教と助祭がごにょごにょと話しあう。

 しばしの会議のうち、司教は言った。

 

「認められぬ」

「なぜですか、司教さま」

「神は正しき裁きをなさる。しかし、子供と大人が闘うような不公平は許されぬのだ。双方が、能うかぎり平等な条件で闘わなければならぬ」

「では、成人した者ならいいんですか?」

 

 アルスルとジェイドはバッと兵士たちを振り返った。

 家族を人質にとられ、傍若無人にふるまうパックスに恨みを持つ者は大勢いるはずだった。

 しかし、ここで戦い、勝利しても、アルスルとシンシアの家族が解放されるだけ。自分の家族はパックスに捕らわれたままだ。

 ジェイドとて、まだ年若い少年である。人質全員の解放をパックスに約束させるには力不足であった。

 ジンジャーが、シャイナが、彼らから目をそむける。

 兵士の目に、少年の蹶起は、向こう見ずの蛮勇と映った。

 

「だって、お前は、硝石集め人の子じゃないか……」

「な……」

 

 加えて、誰からともなく、零された言葉。

 常ならば顔色一つ変えないジェイドが絶句する。

 何を言われたか、ではない。誰に言われたか、に起因していた。

 身分は関係なく、実力次第でいかようにも出世できる場所だ。歩兵軍団(イェニチェリ)庭師(ボスタンジ)に抱いていた、そんな希望は、俺の幻想に過ぎなかったのか。

 

「私が闘います」

 

 ジェイド、そしてアルスルの失望を、既所で食い止める声があった。

 リーリャである。彼女はただ一人、歩み寄り、司教に宣言した。

 代闘士は私が務めます、と。

 

「十年は前に片足を負傷し、全盛期ほどには動けませんが、剣術の心得はございます」

「しかし、男と女が闘うなど……」

 

 なおも難色を示す司教に、助祭が言う。

 

「お忘れでございますか、司教さま。ここラタキアでも、決闘裁判は幾度も行なわれています。中には、男と女が相対する例もございました。女は男の代闘士を立てず、自ら闘いました」

「そうだったかな。それは、どういう訴えであったか……」

 

 記憶があやしいらしい司教に代わり、若い助祭がやや面倒くさそうに説明した。

 

「私が記憶するところでは、二件ございます。

 一つは、妻の不義の相手とされる男を殺害した夫が無罪になったとき、妻が異議を申し立て、夫は無辜の者を殺した殺人者であり、この判決は妻自身の名誉を傷つけるものであると抗議し、決闘により神意を伺うことになりました。

 女が勝ち、男は殺人と偽誓の罪で死刑となりました。

 もう一件は、強姦された娘が相手を訴え、決闘裁判を行いました。

 男は無罪を宣誓し、決闘の結果、娘は闘いきれず、途中で降伏。

 死刑にはなりませんでしたが、偽誓の罪で娘は両手を切り落とされました。

 ああ、非常に珍しい例ですが、他国では男と犬が決闘した眉唾な話も……」

 

 喋っているうちに興が乗ってきた助祭を、やや老いた助祭が肘で突いて咎める。

 若き助祭は咳払いをして、「どちらの場合も平等な闘いがなされるように、体力において数段勝る男にさまざまな制約がなされたことは申すまでもありません」と真面目くさって言った。

 

「奴と、この人が、平等……?」パックスの手駒とリーリャを見比べたアルスルが、困惑しきってごちる。「両足を縛ったって、負けちまうよ」

 

 諦めにも似た心境で、周囲がリーリャの敗北を確信した。

 そしてそれは、リーリャも同じであった。

 闘う前に辞退し、不戦敗。その不名誉をシンシアに被せたくない一心で、リーリャは司教に哀願したのである。

 

「私が決闘に負けた場合は、シンシア様でもジェイドさんでもなく、私を裁いてください。元はと言えば、決闘裁判を開くのも私のためです。負けたということは、神様が私が間違っていると仰せなのです」

 

 司教は慈悲深ささえ持ってうなずいた。

 通常、決闘裁判では、横に処刑人が控え、決着後すぐに負けた方を刑に処す運びとなっている。

 彼とて、神意とはいえ、子供の両手が切り落とされ、場合によっては絞首刑になる所など目にしたくはないのだ。

 

 司教はパックスのみならず、この場にいる全員に聞かせるように言った。

 

「元戦士の大男と、片輪の女。よほど、体力の差を縮めなくては、公平な闘いとは申せますまい」

 

 

 

 決闘場をととのえ、司教らが男に課す制約を話し合いの末決めるには、一日を要する。

 リーリャとアイシャの身柄はパックスが預かったまま、ジェイドらは司祭館の一隅に身を置くこととなった。

 パックスの私兵に帰路を付けられ、アルスルの母親、ジェイドの妹のコレット、ナナホシの居場所が割れないように用心したためである。

 

 

 パックスは自らの部屋に引き上げることもせず、乳母と異母妹との短い別れを惜しむシンシアを見ていた。

 彼女らは抱きあい、何事かを囁いている。

 シンシアの言葉に、リーリャが逡巡の後、控えめに頷くのが見えた。

 

 見間違いではない。

 あの者は、子供ではなかった。あの眼は、女であった。

 

 無理やりメイドをお手つきにし、醜い外貌のためか、商売女からもどこか嘲られてきたパックスである。

 心の底から慈しむような――少々の憐憫も混ざっていたが――眼差しをむけ、自らの澱んだ性慾ごと受け容れてくれる相手など、今日まで現れなかった。

 

 ジェイドと名乗った少年がシンシアに近づき、何か言う。

 すらりと伸びた手足、輝くような金髪、ととのった顔立ち。

 自分があの容姿で生まれていれば、もっと周囲からも認められ、愛されたのでは、とパックスは思ってしまった。

 

 いや、と、心に生まれかけた嫉妬を塗りつぶす。

 

 身分は、余が上だ。余のほうが偉いのだ。

 現に、あの女は、余を選んだではないか。

 くくく、見ろ。あの男の悩む顔を。今ごろ、明日の決闘裁判で、どう命乞いをするか必死で考えているのだろう。

 いくら容貌が優れていようと、負け犬には、なんの価値もない。誰も見向きしないのだ。

 

 ふいに、シンシアとパックスの視線が合う。

 

 そうだ、そのまま、余のところへ来い。

 また、あの眼で余を見つめろ。媚びへつらえ。

 余だけが愛しいと夜毎囁け。さすれば、リーリャとアイシャの扱いも少しは良くしてやってもよい。

 

「……」

 

 ところが。

 シンシアの視線は路傍の小石でも見たようにパックスを素通りした。

 あれが、一瞬でもいつくしんだ者に向ける眼であろうか。

 

 人間のうちで、もっとも残酷なのは、美しい處女である――と、かの文豪、太宰治は著作に記している。

 記憶は違う。しかし、躰は處女である。シンシアの心は肉体に依拠している。

 

 シンシアがパックスを愛おしく思ったのは本当だ。

 パックスはあのとき、生前の記憶が鮮明に蘇ったことで生じた血の昂りをぶつける標的に過ぎず、永続する愛情ではなかった。

 であれば、もはやシンシアはパックスに愛しさの欠けらも感じていないのである。

 その態度を、取り繕いも、隠しもしない。

 する必要もない相手だ、と無意識に区分しているのだ。

 

 無関心は時として憎悪より残酷である。

 その残酷さの由来は、子供のそれか、女のそれか。

 思考を巡らせるほど、パックスは冷静ではいられなかった。

 

 シンシアはジェイドとアルスルと共に、司祭館へと向かった。

 取り残されたパックスは、晩に、たいそう荒れたという。




>犬と男の決闘裁判
14世紀、領主が殺されたが、犯人はわからず。しかし領主の飼い犬がある男に対して強く吠え続けた。
国王は犬が殺人を目撃したが自ら証明できないため決闘を申し込んだと判断し、犬と男に対し決闘を命じた。
男には棍棒、犬には避難用の樽が与えられた上で決闘裁判が行われ、結果犬が勝利。男は死罪となった。

Wikipedia参照の伝説です。面白かったので入れました。

 
巫女転生では、
いいえ→ハユル
公衆浴場→ハマーム
強制徴募→デウシルメ
歩兵軍団→イェニチェリ
庭師→ボスタンジ
など、微々たるものですがシーローン王国は所々でオスマン帝国要素を取り込んでいます。
硝石集め人への差別や決闘裁判制度はヨーロッパの文化(差別を文化と言うべきか迷いますが)なのでオスマン帝国に寄せて書くなら入れるべきではありませんが、ファンタジーという事で、好きに捏造していいですよね。


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四六 未来の約束

 ちょっとだけ昔の話をしよう。

 あれは去年の夏ごろであった。

 魔大陸のガスロー地方、ネクロス要塞の城下町にて、親切にしてくれた黒鎧さんたちがいたことを、私は憶えている。

 彼らのうち、ジルドさんという人がある人形を持っていた。

 兄が作り、旅費のために売却した、フィギュアなる置物である。

 私そっくりの精巧な人形だ。

 

 手にとって見せてもらっているとき、アトーフェ様がきて、人形を取り上げ、私もろとも攫った。

 要塞で行なわれた鬼ごっこは、いま思い出しても夢に出てきそうなくらい恐ろしいので割愛する。

 アトーフェ様に見つかり、怯えて気を失い、目を覚ましたときには翌日。場所は桃色の愛らしい部屋であった。

 身支度をととのえて部屋を出る前に、猫足の机の上に見つけたのだ。

 私そっくりの人形がそこには置かれていた。

 たぶんアトーフェ様が始末に迷って置いたのだと思う。

 

 私はこう思った。

 ジルドさんに会えたら返そう。

 

 そして私は、人形をゾルダートさんにもらった大事な手巾でくるんで鞄にしまい……、

 

 そのまま忘れてアトーフェ城を出てしまった。

 

 思い出したのは、ガスロー地方どころか、魔大陸からも転移魔法陣を使って脱した後であった。

 オルステッドはあの地方にはしばらく用事はないと言う。

 しばらくってどのくらい? と、訊いたら「……三十年くらいだ」と答えられた。

 しばらくどころの騒ぎではない。もはや半永久的に行く機会はないと宣告されたに等しい。

 

 人形は私の手元にある。

 悪気はなくとも、窃盗である。私はどうやって人形を返すべきか悩んだ。

 魔大陸では荷物や手紙が届けたい人の元まできちんと届く保証はない。

 ことに、ガスロー地方までの旅路は過酷だそうだ。

 冒険者に依頼しても、途中で魔物に襲われて死んでしまう可能性が高い。当然人形は届かない。

 

 心をふたつにわけるとしよう。

 私その一こと、シンシア。

 私その二こと、チサ。

 彼女らは人形を議題に揉めていた。

 チサはちょっと冷めた目で「もろときゃあええ」と言った。怖い目に遭わせられたのだから、これくらい持ち出したとてバチはあたらん、という言い分だ。

 対してシンシアはしょぼくれて言った。「でも、お母さんは盗みはいけないことよ、って言うよ……」と。

 清く正しくを信条としている母様。

 彼女がどう思うかを考えると、やはり返した方が良いと思うのだ。

 

 しかし返す手段はなく、割り切って己のものとするもならず、預かり物という意識のまま、私は私の人形を持ち続けていた。

 お兄ちゃんの作ったものだから、持っていられるのは嬉しいけれど。

 

「お姉ちゃん、ほんとに明日も会える?」

「うん、会えるからね」

「お姉ちゃん、なんであたしの部屋にとまらないの?」

「アイシャのお部屋は王様のものだからね、お姉ちゃんはかってに泊まれないの」

「お母さんはさ、けっとー裁判で、勝てるよね?」

「勝てるよ」

 

 アイシャは私の腕にぴっとりくっついていた。

 こうされていると、とんでもない駄々っ子だったアイシャの二歳児時代を思い出して、心がほっこりとする。

 

「そろそろ離れなさい」

「でもさあ……」

 

 リーリャが咎めるも、アイシャは私の二の腕にぐりぐりとおでこをこすりつけている。かわいい。

 かわいいけれど困った。そろそろジェイドたちと司祭館に行かなくてはならないのに。

 アイシャは悲しい時何を要求してきて、何をしてあげたら落ち着いていたか、思い出した。

 でも、妹はもう四歳だし、そんなことしないもん! と怒られるかもしれない。

 ダメもとで訊いてみることにした。

 

「アイシャ、おっぱいちょうだいする?」

「……する」

 

 するのか。

 するよね。四歳だもんね。

 私とて、大好きなエマちゃんと離れるのが嫌で嫌で、聞き分けなく泣いたのが三歳のとき。

 アイシャは、その時の私と、一歳しか違わないのだ。

 

 むかし「お姉ちゃん」がうまく言えなくて「ねねちゃん」と私を呼んでいた頃みたいに、アイシャは服の中に潜って吸うことはなかった。

 服の上から、胸に頬ずりをしただけだ。

 よしよしと頭を撫でる。

 

「そうね、アイシャ、お姉ちゃんがアイシャのお部屋に泊まれない代わりに、いいもの貸してあげるよ」

「……ん」

 

 そこで私は思いついた。

 私がいっしょにいられないなら、私そっくりの人形がアイシャのそばにいればいいのだ。

 鞄をごそごそと漁り、お兄ちゃん作の私の像をアイシャに持たせる。

 アイシャはじっとそれを眺めた後、大事そうに胸に抱いて、バイバイと私に手を振った。

 

 私も手を振り返しながら、ジェイドとアルスルと城を出て司祭館に向かったのだった。

 

 

 

 そんな記憶も、もう昨日の夕刻のことである。

 決闘裁判の日は、よく晴れていた。

 決闘場にあてがわれた広場は、柵で囲われ、中央に穴が掘られつつあった。

 衆目が集まる。

 私と繋いだアイシャの手は(ふる)えていた。

 

 男の腰までの深さまで掘るのは、普段から土を掘り返す硝石集め人たちには困難ではないようだ。

 広さは体の向きを自由に変えられる程度と定められている。

 ジェイドと穴を掘っている男たちは顔見知りである。

 穴は深く、広さは狭く。そんな不正をしたいところだが、公衆の面前で穴の大きさを確かめられる決まりだ。

 

 リーリャは水神流の心得がある。男にはない。

 男にははちきれそうな筋肉がある。リーリャは、女にしては骨格がしっかりしているほうだが、男と比べたら華奢に見える。

 

 公平さを欠いてはならない。

 男には棍棒が与えられたそうだが、リーリャの武器は丸い石をつめた細長い布袋だ。

 剣ではないのは、水神流の剣術を存分に活かせないようにして、公平さを保つためだそうだ。

 

 王子の代闘士は、元々は棍棒使いの戦士だったというぜ。

 民衆の噂話を聞き、やりやがった、とアルスルは顔を歪めた。

 パックスが司教に賄賂を持たせたんだ。自分の代闘士だけ、使い慣れた武器で。

 

「正しいほうが、勝つんだ。正しいのは俺たちだ。勝てる」

 

 ジェイドが言った。自信に溢れていて、彼について行きたいと思わせる声色であった。

 決闘場に来る前に、リーリャが礼拝堂で、祭壇の上の福音書に手を添え、自らの潔白を宣言するところを、私たちは見ている。

 リーリャはミリス教徒ではない。私も。敬虔な信徒であったのは、グレイラット家では母様だけだ。

 それなのに、リーリャはすらすらと宣誓の言葉を陳べた。

 

 ――神およびすべての聖人聖女ならびにここに在る聖なる言葉よ。

 私の手は汚れていない。一片の邪心もない。一方的に間諜だと断じ、監禁するのは不当である。

 次いでパックスが、リーリャの言葉を否定し、正義は自分にあると誓ったのだった。

 

 

 中央に穴が掘られた決闘場の土は、砂利一つないように、平らに均された。

 円形に囲む柵の二ヶ所に開けられた出入口は、まだ横棒をかけて塞がれている。

 一段高く組まれた足場に設けられたのは、司教と司祭、助祭のための座である。

 

 リーリャとパックスの代闘士がそれぞれ入場した。

 向き合うと、山羊と兎くらいの差があるように思える。

 かつて女が勝利した裁判では、男は穴に立たされた上で、左腕を背中に縛られていたそうだ。

 パックスの代闘士の両腕は自由である。

 加えて、武器は手に馴染んだ棍棒。

 水神流の心得があるにも関わらず、剣を武器として与えられなかったリーリャとの差が露骨であると、私でもわかる。

 

 集まる人々は、闘いではなく、リーリャが――女が一方的に嬲られるのを眺めにきている、と感じた。

 私は、教会の前でかわしたリーリャとの約束を守る。

 リーリャが負けることはありえない。

 

「はっ……はっ……」

 

 アイシャは真っ青な顔をして、もう立っていられなかった。

 柵の際にしゃがんだ妹の横に私も屈み、背中を撫でる。

 

「アルスル、アイシャをこっちへ」

「ああ」

 

 アルスルがアイシャを抱えて少し後ろにさがった。

 小さいアイシャは見物の目に入りにくい。しゃがんでいたら尚のこと、悪気なく人に蹴られてしまう。私も立ち上がり、少し脇に避けた。

 そちら側にはジェイドが立って、私とアイシャはアルスルとジェイドに挟まれた。

 二人が、私たちを見下ろす表情は、やさしかった。彼らが作るアーチに守られているように感じた。

 ――アイシャも、同じことを思った?

 

 からだが小さいから、浅く荒い息を繰り返すと、背中も大きく動く。

 激しく上下する妹の背中が、すこし大人しくなった。

 

「静粛に!」

 

 司教が声をあげた。

 

「これは神聖な儀式である! 見物は声を上げてはならぬ!」

 

 柵の周りには、帯刀した数人の男が警備にあたっている。

 決闘に邪魔が入れば、あれで追い払うのだろう。

 警備のほか、長い棒を持った介添えが二人いる。決闘者の一方が倒れたときや中止を求めたとき、棒を差し入れて制止する、とジェイドに教えてもらったばかりだ。

 

 話し声が絶えるのを待ち、角笛が鳴った。

 パックスの代闘士が穴に飛び降りた。

 腰のあたりから下が穴の中である。

 

 リーリャは不利だ、と私は気づく。

 穴の深さは頭の高さが同じになるようにするべきだった。

 あのままでは、腕を振り上げ石袋をまわしても、代闘士の頭上を掠めるだけだ。やや下に方向を定めてまわすのは難しい。

 

「ぐおおおっ!」

 

 男が咆哮し、棍棒はリーリャの脚を狙った。

 リーリャは難なく避けた。石袋が横殴りに闘士の頭を襲う。

 闘士は身をすくめ、石袋は空振りする。そればかりか、円を描いて襲う石袋を、掲げた棍棒で受けた。

 勢いで、石袋は棍棒に絡まる。男は棍棒を引き寄せる。リーリャは踏みとどまるが、じりじりと穴の縁に引きずられる。

 

「ふくろを離して!」

 

 アイシャが叫び、私はシッと人差し指を口元にあてた。

 警備の者たちをちらりと見る。ここから追い払われたら、裁判を見届けられなくなってしまう。

 彼らはこちらに向かって踏み出しかけたが、アイシャが子供とみて大目にみたようだ。

 

「石袋を手放せば、決闘を放棄したことになる。放棄すると、君のお母さんは負けたことになるんだ」

 

 と、ジェイドがちょっとかがんで、小さな声で耳打ちした。

 アイシャの瞳がうるんだ。私の服をつよく握ってくる手を、私は上からそっと撫でた。

 

 リーリャは地を蹴った。跳び上がった足が男の顎を突き上げた。仰向けに倒れた後頭部が穴の縁にあたる。

 反動でリーリャものけぞり、背中から地に倒れる。

 石袋は棍棒に巻きついたままリーリャの手に残った。

 リーリャの片足は不自由だ。彼女が起き直るのは、男より遅かった。

 穴の底に倒れ、素早く起き上がった男が上半身でリーリャにのしかかり、両手で首を絞めにかかった。

 

 私は、手のひらをあわせた。ミリス様か、神様か。傍から見ればそれらに祈っているように見えるだろう。

 はやく、はやく。私を使って、リーリャ。

 二人のあいだで決めた合図をして。

 

「ぐっ!」

 

 リーリャはもがきながら、石袋の巻きついた棍棒で男の頭を殴りつけた。

 太い腕が頸から離れる。男は腰の力が抜けて穴の底に尻もちをついた。

 巻きついた石袋を手早く外し、棍棒を遠くに投げて、リーリャは立ち上がった。

 

 喝采が、野次が、耳を打った。

 民衆の熱狂を、警備も抑え込むことはできないようだった。

 

「いけ! やれ! ぶん殴れ!」

 

 肩を組んだアルスルとジェイドに挟まれ、私とアイシャはもぎゅっとつぶれかけた。

 強いちからで肩を叩かれ、見上げると、ジェイドの口が「やったな」という形に動いた。

 私は笑顔で頷き返し――しかし、決闘の介添え人が、リーリャの前に棒を突き出し、行動を抑えていることに気づく。

 もう一人の介添えが、棍棒を拾って走り戻ってきた。穴の中にうずくまる男に渡す。

 私の心は、一瞬、空白になった。

 

「狡いぞ!」

 

 アルスルが叫ぶ。そうだそうだ、と次いで野次が飛んだが、警備の者が剣をちらつかせて黙らせた。

 

「勝敗はついただろう。武器を失った。その時点で敗北だ。また武器を持たせるなんて、聞いたことがない」

 

 ジェイドが司教たちに向けて抗議した。彼は昨日、助祭と交渉し、これまで行われた裁判の記録を閲覧する許可を得たのだ。

 司祭館に保管されている資料の量は膨大で、決闘裁判の記述に絞って読み込むのは、普通では一夜では間に合わない。

 しかしジェイドは、初めから何がどこにあるのか知っていたみたいに、該当の資料を引き出したのだった。

 

「うわはははは! 正しいほうが勝つのだ! 神は、貴様らの勝利は間違いだと仰せだ!」

 

 パックスの高笑いが響く。

 彼の代わりの闘士は、棍棒を握り、穴の底を踏みしめて立ち上がった。

 無慈悲に、不公平に、裁判は再開した。

 

 なんで。お母さんは勝ったのに。柵に手をかけようとするアイシャを、アルスルがおさえた。

 

 棍棒は、また、リーリャの足をねらった。

 棒の先端をリーリャは踏みつけた。男の頸に石袋を巻きつける。

 搾り上げる前に、振り回された棍棒がリーリャの脇腹を強打した。

 介添えがリーリャの足の下から引き抜き、男に手渡したのだ。

 

 石袋をふりほどくと同時に男はリーリャの両脚のあいだに頭を突っ込み、両足首をにぎり立ち上がった。短い悲鳴を上げ、リーリャは逆さ吊りになり、穴の底に崩れ落ちていく。

 

 アイシャの喉がひゅっと鳴り、嘔吐した。うずくまるアイシャの口元にハンカチを押し当てて拭ってやる。

 そうして介抱しながらも、私は穴から目を離せないでいた。

 立っていてもしゃがんでいても、中の様子はわからない。

 

 見物も内部を見たいのだろう。柵がきしむ。

 アルスルが後ろで踏ん張ってくれるので、私たちが押されることはなかった。

 私はどんどん不安になっていった。

 リーリャは、とっくに合図を送っているのかもしれない。

 それを、喧騒にかき消されて、聞き逃しているだけではないの?

 

『申し訳ございません、お嬢様。

 私は、あなたを利用します。自分の娘を……アイシャを、優先します』

 

 教会の前で、リーリャが言った言葉。

 ピューイとよく通る口笛を吹いてみせ、彼女は言った。

 

『自力では勝てないと私が判断した時は、合図を送ります。この口笛が聞こえたら、決闘相手を殺してください』

 

 了承すると、リーリャは顔を手でおおって、ちょっとだけ泣いた。

 奥様と旦那様に合わせる顔がない、と。

 気にしなくていいよ、と私はリーリャに抱きついたのだった。

 

 風音に聞き紛うほどか細く、口笛が鳴った。

 

 汚れた布をアイシャに持たせ、私は手をあわせる。

 リーリャの決闘相手だけを、上下から柔らかく包むように。

 団子を丸めるようにくるりと動かした。

 死ね。

 

 ゴキッ、と、穴の底から、鈍く鳴った。

 

 

 


 

 

 

 決闘を終えた広場は、閑散とすることもなく、見物で溢れていた。

 私たちは助祭に促され、柵の中に入った。

 頂点に座を据えるのは、司教である。そばには教会関係者が控えている。

 聖職者は、多大な権力を持つそうだ。王族のパックスといえど、決闘裁判においては、表向きは立場は司教の下となる。

 

 ぐったりとし、今にも座り込みそうなリーリャを、それとなく両脇からアルスルとジェイドが支えている。

 今にもリーリャに抱きつきたいだろうに、アイシャは周囲の状況を見てじっと大人しくしていた。繋いだ私の手の甲にちいさな爪を立てているのは、無意識だろう。

 

 パックスの横には、仰向けにされた男の死体がある。

 死体の頸をぐるりと一周するのは、紫色の鬱血痕である。

 真後ろを向いていた顔を正面に戻したせいか、体と頸が奇妙にズレている。

 白目を剥き、口は絶叫の形に大きく開き、苦悶の表情で青ざめていた。

 

 柵の外で、裁判の行く末を眺めている群衆が影のようだ。

 水鳥が羽ばたき、翼の影が顔によぎった。

 

 視線を空から地上にもどす。

 パックスが激しく抗議していた。

 

「異議を申し立てる。

 これは人間同士の決闘ではない。余は人族の女と闘ったつもりだ。

 しかし、余の相手は人間ではなかった。

 化物だ。イルルヤンカシュ*1だ。余の代闘士はイルルヤンカシュに殺された」

 

 パックスは、体力を使い果たしてふらふらなリーリャを指さした。

 

「この決闘は、成立しない!

 誓約違反だ! その糞女は、他の武器を持ち込んだのだ!」

 

 自分も違反をしたくせに、いやな人。

 私は心の中でぺろっと舌を出した。リーリャの体をいくら調べたところで、隠し武器が見つかるはずがないのだ。

 パックスの代闘士を殺した蛇は、もう私の中に戻った。

 素質のある人には蛇が見えたかもしれないけれど、それを証明する手立てはない。不正は見つからない。

 

 司教の指示を受け、助祭が冷静に告げた。

 

「リーリャ・グレイラットは、自分の身体と我々が与えた武器のほかは何も持っていない、と誓いました。

 リーリャの両手は、彼女の身体であります。手を用いて決闘相手に対抗し、結果的に殺めてしまうことは、誓約に反してはいません」

 

「女が、素手で、男の首を捻り折ったというのか……」

「まさしく、化物だ」

 

 見物がざわめく。

 

「化物なんかじゃないもん」

 

 アイシャが頬をプーっと膨らませてごちた。

 リーリャの勝利を今度こそ確信して安心したのか、吐いた時より顔色はずっと良い。

 後から気づいたけれど、アイシャの口元を拭いたハンカチは、ゾルダートさんにもらったやつだった。

 繊細なレースでふちどられた白いハンカチである。

 ……洗濯すれば、綺麗になるよね。

 

 刑吏が斧の長柄の先を地に打ちつけ、判決を急かした。

 司教はそんな刑吏の威嚇をなだめるように片手をあげ、重々しく言った。

 

「パックス・シーローン殿下よ、汝の敗北は汝が神を欺いたことを証する。

 偽誓の罪を犯した者には厳罰が下されるのが通例だが、罪は汝の代闘士が死を持って償った。ついては……」

「許さぬ!」

 

 パックスは司教の言葉を遮り、叩きつけるように喚いた。

 

「裁判のやり直しを要求する! 穴を埋めろ! ジンジャー! 武器を持て! 女同士ならばハンデはいらん! 正々堂々と闘え!」

 

 怪我は治癒魔術で治した。

 でも、もう、リーリャは闘える状態ではない。

 

「は……?」

「何を……」

 

 アルスルとジェイドの呆然とした声が重なった。

 

「どうして?」

 

 気づけば一歩踏み出していた。パックスが一瞬だけぎくりとして、思い直したように、そりかえって腕を組んだ。

 自分を強く見せたいような振る舞いだ。

 

「パックス殿下は、負けたんです。認めたくないからもう一度なんて、ずるっこよ。恥ずかしいことなの」

 

 ずるっこなら私もした。

 言葉が自分に跳ね返ってくるが、後ろめたさを悟られないようにパックスを見据えた。

 ペルギウス様だって、私をからかったあと悪びれずに堂々としていた。私が間違っていたのかしら、と不安になるほど。

 だから、こういうときは、自分を棚にあげて堂々としていた方がいいのだ。

 彼の要求を呑んでいたら、いずれリーリャが疲労で死んでしまう。

 

「黙れ、余はなにも間違えぬ! いいから再戦だ!」

「この……っ!」

 

 拳を握りしめ、パックスにつかみかかりそうなアルスルをジェイドが羽交い締めにした。

 アルスルが敵意をあらわにした瞬間、パックスの兵士が武器をとったからだ。

 どんなに卑怯でも、彼らにとっては仕えるべき王子なのだろう。

 

 司教と助祭たちは何やら話し合っている。

 パックスは王族である。通常であれば棄却できる申し出も、王族相手では無視できないのだろう。

 やっぱり、根源を断つ――パックスを、呪い殺すしかないのだろうか。

 私が諦めかけた時だった。

 

 ――……、…………ぉ

 

「……なんだ?」

 

 ジェイドが首をかしげた。

 

 ――…………ぉお……!

 

「何だってなんだよ! 離せ! ジェイド!」

「アルスル、お前もよく聞け!」

「地面がゆれてるよ、お姉ちゃん……」

 

 確かに、地響きがしている。

 ベヒーモスを遠くから眺めたときほど大きくはないけれど、じっと立っていればわかる程度に地面が揺れていた。

 地震だろうか。

 

 ――……ぉ……ぉお……!

 

「な、何だ、あれは!?」

 

 パックスが柵の外を指さした。

 もうもうと土煙をたて、巨大な塊がすさまじい速さでこちらに向かってきていた。

 

 魔物だろうか。

 でも、この広場は魔物筋の上にない。襲われるはずがないのだ。

 いや、走ってくるのは、人だ。腕だの腰だの脚だのにたくさんの腕がからまっている。

 大勢の人が、たった一人に縄のように引きずられているのだ。巨大な塊に見えたのはそのためだ。

 

 私は、その異様な光景に呆気にとられた。

 見物が逃げ出す。助祭たちが司教をかばい立つ。

 パックスの兵士や警備たちが身構える。

 

 ピイィィ! と鋭い笛の音が響き、

 

「応援求む! 応援求む! ザノバ殿下がご乱心だ!」

 

 と、塊の方から声が聞こえたのと、

 

「ぬぅおおおおおぉ!」

 

 痩せぎすの男が飛び出してきたのは、同時であった。

 両腕を広げ、上空の太陽を遮って飛翔する男に、私は翼の幻影を見た。

 ダァン! と目の前に着地された風圧で、アイシャと私の前髪がそよぐ。

 

 男は何事もなかったようにすっくと立ち上がった。

 やや下側にズレた眼鏡の硝子の奥は、私を隙なく捉えている。

 

「ふむ」

 

 彼は神経質に眼鏡の蔓を中指で押しあげた。

 出っ張った頬骨、への字に曲がった口元。そして長身の痩躯。

 意地悪そうな目つき以外はどこもかしこも丸いパックスとは、真反対の印象を受ける。

 

「ザノバ・シーローンである」

 

 自己紹介をされた。

 

「シンシアです……」

 

 アイシャと抱き合ったまま後ずさる。

 

「あの……大丈夫……? 服とか、髪が、ぼろぼろ……」

「おお、これは失礼。少々外出を邪魔されてな」

 

 ザノバと名乗った人は、額から後頭部まで水平に切り揃えられた髪を直し、高貴な刺繍が施された服をパパッと払った。

 彼の背後を見れば、城で見たのと同じ格好の兵士たちがよろよろと起き上がるところであった。

 彼らのからだは擦り傷、泥汚れだらけだ。あっちのほうが全然大丈夫じゃなさそうである。

 

 さっき見えた光景が白昼夢に思えて仕方がないのだが、周囲の状況が現実であると訴えている。

 だって、普通は、二人、多くても三人にしがみつかれた時点で、人は潰れてしまうのだ。

 何倍もの人数にしがみつかれながら、軽やかに走ることは不可能である。

 それこそ、人並外れた怪力でもない限りは。

 

「〈首取り王子〉だ……」

 

 アルスルが困惑気味につぶやいた。

 物騒な二つ名だ。私だってそんな名前で呼ばれたことはない。

 ザノバ殿下は、人形をそっと私の前に突き出した。

 あれは、昨日、アイシャに貸したものだ。

 

「この人形は貴様のものか?」

「ち、ちがう……です」

 

 とつぜん飛来した、とんでもない怪力の男。

 恐怖をおぼえるなというほうが無理がある。敬語が変になっても致し方なしというやつだ。

 もっとも、目の前の殿下がそれを許してくれるかは別である。

 

 ザノバ殿下は眉をひそめた。

 たったそれだけの仕草で、心臓を握られたように緊張した。

 機嫌を損ねたら殺されるのではないか。そんな思いを、アトーフェ様を思い出して紛らわせる。

 この人はアトーフェ様より怖くないし、言語もおなじだから、会話もできる。

 だから平気だ。

 

「ふーむ、しかしアイシャは、貴様にこの人形を譲られたと言ったのだが」

 

 そうだ、アイシャだ。

 どうしてアイシャに貸した人形を、知らない男が持っているのだ。

 妹を見下ろすと、彼女はさしぐんだ。

 

「ごめんなさい、お姉ちゃん、ザノバ殿下にほしいって言われて、あたし、断れなくってえ……」

「そうだったの。よしよし」

 

 アイシャの立場を考えてみる。

 自分より大きくて声も低い人に、物を要求されたら、大人しく差し出すほかないのではないか。

 断るには勇気がいるし、怖いに違いない。

 というか、私も、それは借り物なので返してください、と言うのが怖い。

 借り物だと知られたら、じゃあ元々お前のものじゃないし余がもらってもいいよな、となりかねない。

 ここは、私のものという事で通そう。

 

「……ちょっと見間違いました。やっぱり私の人形です」

「ほう! そうだろう! こんなにも似ていて無関係という事はない!」

 

 ザノバ殿下の機嫌が目に見えて向上した。

 彼は丁寧な所作で、もう一体の人形を懐から取り出した。

 杖を構えた少女の人形である。白亜一色であったが、誰を象ったものであるかはわかった。

 ロキシーだ。むかし家にいた人だ。

 

 そしてザノバ殿下は語った。

 彼が人形へかけている情熱を。

 全く新しい技術と材質を用いて作られたロキシーの人形を発見した時の感動、喜びを。

 ところが、世界各地の人形を集めているザノバ殿下でも、製作者に心当たりがない。

 無名の人形師を探し出し、話をしたい、あわよくば弟子になりたいと願うのは自然なことだった。

 

「そんな折り、アイシャが持ってるこの人形を発見したという訳だ。

 余には一目でわかったぞ、ロキシーの人形とこの童女の人形は同じ作者によって作られたものだと。

 少なくとも、余の追い求める人形師は二点以上の作品を手がけている事がわかったのだ。余にとってたいそう喜ばしいことだ。現役であれば、会って技術を学ぶことも可能であるからな。

 しかし、回収したはいいが、入手経路はどこか、人形師は誰か、幼子相手に訊いても要領を得なくてな。

 唯一聞き取れたのは、姉君からもらったという事だけ。

 はて、アイシャの姉とやらはどこにいるかと城の者に問いただせば、町の広場で決闘裁判を開いているというではないか。

 そうして余がここに参じた次第である。

 裁判などどうでもいい。たった今は余の質問に答えるのを最優先せよ。

 この人形はどこで、誰に作らせた?

 もう一度訊くぞ、製作者は誰だ? まさか貴様か?」

「作ったのは私のお兄ちゃんです」

「なんと!」

 

 ザノバ殿下は忙しなく眼鏡をカチャカチャとかけ直した。

 

「そ、そなたの兄上は今どこに!?」

「たぶん、魔大陸……」

「連絡手段はあるか!?」

 

 私は首を横に振った。

 兄はちょくちょく拠点を変えている。視れば居場所はわかるが、手紙が届く頃には、すでに別の町にいるというのがオチだろう。

 

「おおぉ! 遠い! 神が遠いぞ!」

「ヒッ」

 

 ビタンと平伏し拳で地を殴りつけるザノバ殿下に、私とアイシャはまた一歩後ずさった。

 意味がわからなくて怖い。

 様子のおかしい大男は怖い。

 

 決闘裁判の最中に、兵士の制止をふりきって飛来した王子。

 しかも彼は一方的に人形愛を語り、しまいには滂沱の涙を流している。

 わけのわからない状況である。

 

「ザノバ殿下」

 

 ただ一人、その状況に活路を見出した人がいた。

 ジェイドは私の横に並んだ。こめかみには冷や汗が浮かんでいる。

 パックスに相対した時は慇懃ながらも平然としていたが、今の相手は何人も引きずって走るような怪力だ。

 ジェイドも恐怖を感じているのだろう。

 

「私ならば、その人形師を王宮に呼び寄せることができます」

 

 地に伏したザノバ殿下の肩がピクリと震えた。

 

「……詳しく申せ」

 

 くぐもった渋い声が聞こえる。

 人と話すときは顔をあげてほしいものだ。

 

 ジェイドはザノバ殿下の耳元に口をよせ、内緒話をした。

 

「下賎の者め! ザノバ殿下から離れ……」

「よせ、首を引っこ抜かれるぞ……!」

 

 ザノバ殿下に引きずられてやってきた兵士の何人かが、ハッとしたように武器を構え、それを他の兵士がとめる。

 火がつきかけて、すぐに鎮火されたようなざわめきであった。

 

 兵士の反応はおかまいなしに、ザノバ殿下は生気の感じられない仕草で体を起こした。

 ゆらりと幽鬼のような無表情でジェイドを見下ろす。

 怖い。

 

「貴様、その言葉に偽りはないな?」

「神に誓って」

「うむ。ならばよかろう」 

 

 ジェイドは殿下に何を約束したのか。

 私にはわからないまま、ザノバ殿下はつかつかとパックスに近寄って――

 

「あ、兄上といえど余の邪魔は……ギャアアァ!」

「ふんっ!」

 

 片手で頭をわし掴み、持ち上げた。

 パックスの悲鳴が響く。手足を宙でふりまわす。魔術でも魔法でもなく、物理で浮いているらしい。

 いや、吊り下がっているというべきである。

 

「ふぅ……。……〈怪力の神子〉であるザノバ殿下は、かつて生後間もない弟の首を引っこ抜いた。三歳の時だ」

 

 横からほっと胸をなで下ろしたようなため息が聞こえ、ジェイドは話し始めた。

 

「十五歳の時には、和平のために豪族から献上された嫁の首を捻り切った。この事件がきっかけで内乱が起こったのは、シーローンでは有名な話だ。〈首取り王子〉と呼ばれるようになったのも、この頃だ」

 

 なんともはや、猟奇的な事件である。

 生前であれば、芝居化されて、新聞の読み物として連載されていただろう。

 

「お姉ちゃん、あたしの首は取らないよね……?」

「取らないよぅ……」

 

 真剣な顔で訊いてくるアイシャに私は弱って答えた。

 ザノバ殿下と弟の年齢差は、私とアイシャたちと同じである。

 だからといって、かわいい妹にそんな恐ろしいことはしない。

 たとえオルステッドからの依頼だったとしても、絶対にしない。

 

「パックスよ、貴様は決闘で負けたのだ。完膚なきまでに敗北したのだ。大人しく偽誓の罪を認めよ」

「兄上には関係な、イダダダダ! 頭が! 頭がァ!」

「大ありである! そなたがそうして駄々を捏ねている限り、余は我が師匠に会えぬままなのだぞ!」

「なんの話だあぁぁぐぎゃあああ!」

 

 ザノバ殿下はパックスの頭を掴んで離さない。

 パックスの上まぶたはめくれ、首の皮膚は突っ張っている。顔色もどんどん紫色になってきている。

 あのままでは死体が二つに増えてしまう。

 憎いと思った相手だけれど、苦しんで死んでほしいわけではない。

 

 きょろきょろと周囲を見て、兵士の誰も、パックスを助けない事に気づく。

 ザノバ殿下とパックスを見つつ、お前が行けよ、いや俺はいいよ、という感じだ。

 アルスルが殴りかかろうとした時はすぐに反応したのに。

 今は静観しているのは、下手人が王族では対応もまた変わるということだろう。

 

「わ、わかった、兄上の言う通りにする! だから離せェ!」

「よろしい」

「ぐぎゃっ……ゲホゴホ……」

 

 ドサッと地に落とされたパックスは頭と喉をおさえてゴホゴホと噎せこんでいる。もはや喚く余力はないようだ。

 

 ザノバ殿下はくるりとこちらを振り向いた。

 

「さて、余は力を貸した。そなたも契約を破るでないぞ」

「もちろんでございます」

 

 ジェイドが跪く。

 アイシャが真似をしたので、私もちょっと焦って彼らに倣う。

 

「その言葉、偽りであれば、余は貴様の家族もろとも首を引き抜くであろう」

 

 ザノバ殿下はそれだけ言うと、こちらを一顧だにすることなく、来る時になぎ倒した柵を踏み越え、颯爽と去っていった。

 もうこの件について興味を失ったようだ。

 

「あ、人形……」

 

 持っていかれちゃった……。

 ごめんなさい、黒鎧さん、母様。持ち主に返せなさそうです。

 私の心のなかで、神々しい純白の衣を纏った母様が縷々と涙を流した。

 

 それは置いておいて。

 パックスは「兄上の言う通りにする」と言ったのだ。

 それはつまり、偽誓の罪を認めるということである。

 リーリャが教会で誓った身の潔白は神が証明したということになる。

 

 司教が、よく通る声で、リーリャの勝利を宣言した。

 審判がくつがえされることはない。パックスの抗議はザノバ殿下の腕力が抑えている。

 リーリャは、私たちは、決闘裁判に勝ったのだ。

 

「……これで、アイシャは……」

「リーリャさん!」

 

 気力のみで立っていたリーリャの呂律があやしくなり、ついにふらりと倒れた。

 そばかすのある女騎士が、彼女を横抱きにした。他の兵士よりちょっと良い服を着ていて、動きもきびきびとしている。

 強い人特有の、からだに常に軸がある感じだ。

 たしか、ジンジャーと呼ばれていた。

 

「司祭館まで運びましょう。アイシャちゃんも一緒に」

「はいっ!」

 

 アイシャが明るい声で返事をした。

 ジンジャーさんは立ち上がる直前、口元にあるかなきかの微笑を浮かべ、私に片目を瞑ってみせた。

 それがなんだか労わってもらえたように思えて、私は嬉しくなった。

 

「……」

 

 パックスを見る。

 彼の元にも兵士が集まっていた。パックスは肩を貸そうとしたシャイナさんの頬を平手で打った。

 シャイナさんは無表情で淡々と八つ当たりを受けていた。

 

 一度は抱かれてもいいと思った相手だけれど、冷めてみれば、彼の内に渦巻く僻みや驕りは私の手にあまる。

 いつか周りを恨むのをやめて、やさしくしたいと思える人が彼にもできるといいけれど、それは私ではない。

 

「シンシア、俺たちも行こう。後で君のすべきことを教える」

「やぁっと終わった~……」

 

 ジェイドとアルスルが先を行く。

 私はパックスに向ける視線を断ち切った。

 

 

 


 

 

 

 司祭館のベッドにリーリャを寝かせると、私たちには食堂で豆のスープが出された。

 アイシャはよく食べた。昨日からろくに食べられなかったそうだ。緊張の糸が切れて、食欲も戻ったのだろう。

 

 ジェイドとザノバ殿下の契約とは、〈殿下が執着している人形師ルーデウス・グレイラットを王宮に呼ぶ代わりに、パックスに敗北を認めさせる〉というものだった。

 担保はジェイドとその家族の命。

 三人分の首がかかっている。

 

「期限は6年。それまでに、シンシアは、自分の兄をラタキアの王宮に寄越すんだ」

「いのち……」

「ぷはっ。じゃあ、お兄様はザノバ殿下せんぞくの人形師になって、ずっとラタキアにすむの?」

 

 木のお椀を傾けてスープを飲み干したアイシャが訊ねる。

 話の飲み込みがはやい。私はジェイドたちの命がかかっている事の衝撃からまだ抜けられていない。

 

「それは彼次第だな。俺が約束したのは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ところまで。あとはザノバ殿下が交渉して決めることだ」

「ふぅん……」

 

「殿下が人形馬鹿で助かった」とジェイドは疲れたように見事な金髪を掻き上げた。

 王族が平民、それもみんなから嫌われる職業に従事する者の話を聞き、しかも約束を結ぶことは普通ではまずないそうだ。

 過去に起こした大事件のせいでザノバ殿下の王子としての地位が最底辺だったこと。

 たまたまザノバ殿下が兄の人形に惚れ込んでいたこと。

 この条件が重なって、奇跡的にザノバ殿下の協力を得られたのだ。

 

 アイシャは眠たそうにからだを揺らした。

 

「アイシャ、リーリャさんのところでねんねしようか」

「……ちゃんとお話きかなきゃ……」

「お姉ちゃんが聞くから大丈夫よ」

「ううん……」

 

「おれが連れていく」とアルスルが席を立ち、アイシャを抱っこした。

 少し離れたところで食事をしていた老いた助祭にじろりと睨まれてミリス様に形ばかりの祈りを捧げたアルスルを見送り、ジェイドに向き直る。

 

「ジェイドさんは、私のお兄ちゃんのこと知らない……よね?」

「これっぽっちも」

 

 兄とジェイドに面識はない。

 反故にすれば自分と家族の命を奪われるというのに、ジェイドは〈首取り王子〉に約束を持ちかけた。

 もちろん私はお兄ちゃんにラタキアに向かうように頼むし、兄も私たち家族に尽力してくれた人のために動くだろう。

 でも、ジェイドはそんな兄の人柄を知らないのだ。

 

 私が言っても、兄がラタキアを訪ねてこなかったら……とは、考えなかったのだろうか。

 そう訊ねてみると、ジェイドは言った。

 

「妹の頼みを断わる兄なんていない」

 

 大真面目な顔であった。

 私は神妙に頷きかえした。

 

「……ジェイドさんはコレットちゃんのこと大好きだものね」

「冗談だよ」

 

 ジェイドは笑ってから、指を組み、目を瞑って祈りを捧げた。

 

「ミリス様に?」

まさか(ハユル)

 

 

 

 さて、リーリャとアイシャは解放され、アルスルの父親も無事にアルスルと再会した――というふうには、物事は具合よく運ばぬものだ。

 身柄を解放されたのはアイシャとハーマンさんのみ。

 リーリャを手放すことを、パックスは拒否した。

 

 今までは間諜の疑いで投獄していた。

 これからは、王宮侵入罪のために城での軟禁を続ける。

 身柄は旦那か父親か息子か、とにかく男家族が来れば引き渡すのだそうだ。

 

 ザノバ殿下はこの主張を咎めるどころか、賛成の意をみせた。

 彼としても、ルーデウス・グレイラットが王宮を訪ねる保証がもう一つは欲しかったのだろう。

 見ず知らずの家族の命では足りない。乳母であり異母妹の母親であるリーリャを人質にとったほうが、兄には効果的だと思われたのだ。

 

 リーリャは「アイシャが自由になるならいいのです」と諦めていて、嘆きも怒りもしなかった。

 私が感じたのは無力感と悲しさで、怒りはない。

 何に怒りを向けたらいいのかわからない。

 一筋縄にはいかないパックスに?

 私たちの完全な味方にはなってくれないザノバ殿下に?

 それとも、パックスが横暴でいることを許した彼をとりまく環境に?

 と、怒ろうと思えばなんだか途方もなくなってくるからだ。

 

 リーリャは、私にアイシャを頼んだ。

 二人に面識はないが、私がオルステッドに守られながら旅をしていることはリーリャにも知らせている。

 転移魔法陣のことも、こっそり教えた。

 なればこそ、まだ幼いアイシャに長旅の疲労をかけず、安全な場所へ送ることができるとリーリャは知った。

 

「それでは、お嬢様。お気をつけて」

「うん」

「アイシャも、周りをよく見て、言うことをよく聞いて、お利口にしなさい」

「はぁーい!」

 

 これから私は、アイシャをリーリャの実家に預けに行く。

 父様の居場所は伝えたけれど、リーリャはアイシャの存在が父様の活動の足枷になると判断した。

 ミリス神聖国はミリス教の総本山だ。

 そして、母様の実家はその国の貴族である。

 妾の子のアイシャが組織の顔であり母様の夫である父様にくっついていたら、印象は悪くなる。

 当の母様はアイシャのこともかわいがっていたのに……。

 大人の事情というやつだ。

 

 順当に行けば、数年以内に兄がリーリャの身柄をもらいうけ、リーリャは自由の身になる。

 そうしてリーリャが迎えに行くまで、アイシャは実の祖父母のもとで暮らすのだ。

 リーリャは一人娘だということだし、オーガスタさんとフルートさんにとっては唯一の孫である。きっと受け入れてくれるだろう。

 

 リーリャの横には見張り役のジンジャーさんが立っている。

 馬車の乗り合い所まで見送りをさせてくれただけ温情だ。

 

「リーリャさん、今度は、お兄ちゃんも連れてくるから。そしたらいっしょに帰ろうね」

「ええ。お待ちしております」

 

 せっかく会えたのに、リーリャを置いていかねばならない。

 やるせなさと寂しさに泣きそうになるが、リーリャに甘えるのは、アイシャの特権だ。

 リーリャはアイシャに帽子を被せ直し、今朝に結ってあげた髪を甲斐甲斐しく帽子の下に仕舞ってやっていた。

 アイシャがふざけていやいやと首を振る。また出た髪を押し込み、リーリャは私のほうにアイシャをそっと押しやった。

 

 アルスルが腕を伸ばした。つかんで引き上げてもらう。

 荷台を木の枠で囲った荷車に乗り込んだ。

 オルステッドが待ち合わせ場所に指定した村まで、途中までアルスルの一家といっしょに移動するのだ。

 解放されたアルスルの父親、ハーマンさんの目は欠けていた。

 パックスの気まぐれで行われる拷問により、片目を潰され、片足も失い、杖なしでは歩けなくされていたのだ。

 

 アルスルは私とアイシャが荷台に乗るのを助けると、横に置いていた骨壺を胸に抱き直した。

 中にはネルさんが睡っている。

 医者にもかかり、一時は立ち上がって歩けるほど回復したネルさんだったが、急に吐気を訴え、ころりと亡くなったのだという。

 決闘裁判があった日の昼間のことである。

 アルスルも、ハーマンさんも、ネルさんの死に目にはあえなかった。

 

強制徴募(デウシルメ)だ」

 

 また会おう。

 ジェイドは強い目で、アルスルに言った。

 

 

 馬車が動き出した。

 リーリャは最後まで深々と頭を下げ、コレットはぶんぶんと手を振っていた。

 

 市門を抜ける。

 他の馬車が作った轍の上を、左右に大きく揺れながら進む。

 教会の鐘の音がかすかに鳴った。その最後の一雫を、荷台の後方枠に手をかけたアイシャは、聞き逃すまいとするように身をのりだした。

 転げ落ちやしないかと心配で、私はアイシャの服を握る。市壁はすでに遠い。

 

「お母さん」

 

 アイシャの口から堪えていたであろう言葉がこぼれた。

 お母さん! と、二言目には叫び声に変わっていた。

 

「お母さん! お母さん!」

 

 しだいに涙声になっていく。

 母親から引き離される小さな子の、悲痛な叫びであった。

 

「おかぁ……」

 

 アイシャは顔を歪めて呻き、私の腿に顔を埋めて泣きじゃくった。

 私は揺れに耐えながら、上から覆い被さるようにアイシャを抱きしめる。

 

「……」

 

 ナナホシは立てた膝に額を押しつけ、静かに耳を塞いだ。

 仮面をつけているから、表情はわからない。

 

 アルスルはいきなり荷物から小刀を取り出すと、刃を思いっきり握った。

 血が流れる手を、木枠の外に突き出した。

 忘れないためだとアルスルは言った。

 

「傷を見る度に、母ちゃんが殺されたことを思い出す。父ちゃんを働けない体にしたことを恨む。

 そうして、いつか必ず、おれはパックスを殺す」

 

 パックスの親衛隊であったハーマンさんは、息子の言葉に何を思うのだろう。

 ハーマンさんは潰れた片目も無事だった目も閉じて、黙って馬車に揺られている。

 

 パックス・シーローンは殺すな、と、オルステッドに言われたのを私は思った。

 アルスルの決意を知れば、オルステッドは阻止するだろう。故にアルスルのことは伝えない。

 私も阻止はしない。でも、オルステッドに禁じられたことだから、協力もできない。

 

 遠目に見える城塞都市を抱く緑色の森と王竜山脈が、空の裾に連なっていた。

 ジェイドとアルスル。

 彼らがいなくては、私はリーリャとアイシャのどちらも助けられなかった。

 アルスルの父親が片輪にされたのも、母親が亡くなったのも、元を辿れば私たち家族のためだ。

 彼らは恨み言のひとつもなく、そればかりか、私とナナホシに男手が無いことを心配して途中まで行動を共にしてくれる。

 ジェイドに至っては、命を賭けてまで助けてくれた。

 だから、いつか報いたいと思った。

 大人になって、彼らと再会できたら、いつか。

 

「……できるといいねえ……」

 

 私はアイシャの背を撫でながら、吐息のような声で答えたのだった。

 

 

 


 

 

 

 やあ。

 裁判の様子、見ていたよ。

 なかなか頑張ったじゃないか。

 

 最初からザノバに人形を差し出していれば、もっとスムーズに事が運んだんだけどね。

 僕はそうしろと言ったんだけどな。

 どうして僕の助言からそむいたんだい?

 たかだか人形で全てが上手くいくとは思えなかったのかな。

 それとも、小さな女の子の物を取り上げるのは良心が痛んだのかな。

 信心が足りないね。

 ま、いいか。結局は助言の通りになったようだし。

 

 そう。僕が本当に善なる神ならば、お告げから背いても、裁判に勝てると思ったのかい。

 なるほどね。

 助言から外れた方法でも君が勝てば、君を勝たせようと尽力する僕の正しさが、至高の神によって証明されたことになるわけだ。

 

 ふふふ。

 いや、なに、一理あると思ってね。

 僕はこれまで助言を通して君の正義を証明してきた。

 なら、僕の正義の証明は、誰がするんだろうね?

 さらに上位の大いなる存在?

 無能な至高の神よ、僕を救ってください。

 人の真似をして祈るならこんな感じかな。

 

 うん?

 ああ、アルスルの母親のことは残念だったね。

 言っただろう。僕は全能じゃないんだ。助けられない命くらいあるさ。

 それに、ネルが死んでいたほうが、君にとっても都合がいいんじゃないかな?

 アルスルは今回の件で徹底的にパックスを憎む。

 これで彼が兵士になる未来は確定したよ。復讐の機会を狙ってね。

 親友のアルスルと共に働けて嬉しい。ネルが死んでよかった。

 そんな気持ちが君にあっても、僕は責めないよ。

 だって神様だからね。

 人の味方の神だから、ヒトガミと人は呼ぶのさ。

 

 誰が初めに呼んだのかって?

 ……思い出すとムカつくなあ。もう二度と同じことは訊くなよ。

 

 はあ……。

 そうだ、褒めるのを忘れるところだった。

 ジェイド、きみ、お手柄だったよ。

 とぼけないでよ、シンシアのことさ。

 君も彼女は普通ではないと気づいていたんだろう?

 だから危険な賭けまでして、恩を売ったんだろう?

 え? 違う?

 ふーん。

 

 この恩は、後々効いてくるよ。

 彼女は将来、きっと君の助けになる。

 まだ確定ではないけどね。

 そういう未来も視えるってだけだ。

 彼女、ちょっと視づらいんだよ。運命力が弱いくせに生きてるし、邪魔者が傍にベッタリみたいでさ、鬱陶しいったらないね……。

 いや、こっちの話だよ。

 

 それでは、僕はそろそろ消えるとするよ。

 助言もしておこう。言うまでもないことだろうけどね。

 

 あー、コホン。

 ジェイドよ。次の徴兵に志願しなさい……なさい……なさい……。

*1
ヒッタイト神話の蛇





https://x.com/mizotadamr/status/1738141075796042020?s=46&t=Y1I0G97v5hRY2k9DUlc3sQ
こちらのアンソロ同人誌に私のSSを載せていただきました。※巫女転生は無関係なので名義は変えています
現物を手にとるのがすごく楽しみです。SSのほか、イラストや漫画も多数収録されているみたいなのでご興味のある方もぜひ。

年末年始がやや忙しいのでこれが今年最後の更新になりそうです。
よいお年を!


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