コミュ症を拗らせ過ぎた結果、もうひとりの人格を生み出してしまったぼっちちゃんの話 (モルモルネク)
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二重人格者ギタリスト、ぼっち誕生の軌跡

いわゆるプロローグ的なやつ


 

 私なんかが、あの指に止まっていいのかな?

 

 それが、幼い頃から後藤ひとりさんという女の子の根幹にある考えだった。他人と接するときに、いつもどこか後ろ向きな思考になっては尻込みしてしまう。もし迷惑だと思われていたらどうしよう?私がいたらつまらなくなってしまうんじゃないか?そんな具合に悩んでいたら、すでにもう置き去りにされては、ひとりぼっちになっている。そんな感じに、ひとりさんは幼稚園時代から既にぼっち街道を突っ走り始めていたのである。

 

 小学生になってもその生活に変わりはなく、それどころか、アクセル全開でひとりさんは突き進んでしまった。幼稚園でのコミュニケーションすら躓いてしまったひとりさんに、小学校の高度な集団行動はあまりに荷が重過ぎたから。

 

 勉強では、授業を真面目に受けてもわからなかった部分を、先生や他の生徒に聞くことができなかった。それで、だんだんとついていけなくなった。体育の授業では、足を引っ張りまくってチームを敗北に導いた。同じチームの負けず嫌いの男子の『後藤のせいで負けた!』という涙交じりの声を聞いてしまい、心の中でごめんなさいと謝罪の言葉を繰り返した。給食や放課後の時間、友達と笑い合う他の子と孤独な自分を比べる度に軽く死にたくなった。

 

 瞬く間に、ひとりさんは学校で過ごす時間を苦痛だと感じ始めてしまった。こんな地獄に六年間も通い続けるのは無理、止めてしまいたいと切にそう願った。幸い、ひとりさんのご両親はひとりさんにとても優しい。ひとりさんがそのままに、学校にもう行きたくないと告げればそれは叶えられただろう。保健室登校か、自宅学習か。そういったわかりやすい逃げ道がひとりさんにも与えられたはずだ。

 

 でも、ひとりさんは最後までそれをご両親に告げることはなかった。それを言い出す勇気がなかったというのはもちろんあるだろうけれど。それ以上に、ひとりさんはご両親と同じく優しかったから。娘から学校に行きたくないと告げられてしまう両親の気持ち。それがどんなものか想像できる子だったから、ひとりさんは最後まで黙って学校に通い続けたのだ。

 

 しかし、だ。それはひとりさんが辛い現実に逃げずに立ち向かったなんて話では断じてない。少しばかり失礼な言い草になってしまうけれど、なにか困難に直面したとき、真っ先に逃亡という選択肢が提示されるのがひとりさんなのだ。だからこの時も全力で明後日の方向にひとりさんは逃げ出している。

 

 つまり、何が言いたいのかと言えばだ。ひとりさんがわたしというあまりに都合のいい人格を形成してしまうのに、そう時間はかからなかったということである。

 

 

◇◇◇

 

 

 わたしがわたしという自我を認識したのは、ひとりさんが小学の五年生の頃の話。小学校で作文コンクールが行われて、ひとりさんはその時生まれたばかりの、妹のふたりちゃんについて作文を書いた。

 

 この時はひとりさんにこれといった趣味もなく、学校でも家でも読書に明け暮れていたことから、小学生にしてはかなり文才が培われていたこと。そして、唯一の居場所である家族。その新たな一員であるふたりちゃんのお世話に真剣に向き合う姿勢が文章からも伝わったのか、見事ひとりさんの作文が優秀賞に選ばれたのである。

 

 小学校のものとはいえ全国規模で行われていたコンクール、その中で賞をおさめたひとりさんは、担任の先生からいたく賞賛された。朝のクラス集会の時間で『後藤さんは私の誇りよ』なんて、ご両親以外からおおよそ言われたこともなかったようなお褒めの言葉をいただいて。普段、ひとりさんなんて眼中にない同じクラスの子たちも、この時ばかりはひとりさんに注目の視線を送っていた。

 

 ひとりさんは引っ込み思案のコミュ症なのに、承認欲求を人一倍拗らせてしまっている。だからこそ、この状況はひとりさんのその承認欲求を満たして満たして満たしまくっていた。えへえへうへへと、どこか不気味な笑みを浮かべながら周りの状況も聞こえないくらいに有頂天になっていた。それが本当に良くなかった。

 

「じゃあ、今度の全校集会で作文を発表してもらっていいかしら?」

 

「もちろんですよえへぇ…………え????」

 

 いつの間にか、ひとりさんはそんな無理難題をあっさりと引き受けてしまっていた。何百人という衆目の前で自分の作品を発表する。それが当時のひとりさんのキャパを大きく逸脱した行為だというのは言うまでもない。そんなあまりに過酷な状況でひとりさんが取った行動は、やはり現実からの逃避だった。

 

 その日起こった出来事は夢だと信じ込んで、作文発表なんてなかったかのようにいつも通りの日常を過ごした。しかし、悲しいことに現実というものはいくら逃げようと容赦なく襲ってくるものなのである。あっという間に現実逃避できる時間は過ぎ去ってしまい、作文発表当日を迎え、非情にもひとりさんは体育館ステージの壇上に立たされてしまっていた。

 

 俯かせた視線を少し上げて、壇上から下を見下ろせば自分を凝視する無数の眼。それを認識した瞬間、ひとりさんは目眩と迫り上がってくる胃液の味を既に感じ取っていた。どうして、私はこんな目に遭っているんだろう? 自分の迂闊さを棚に上げながらひとりさんは世界を呪った。

 

 ひとりさんは絶望していた。ただでさえ、今までクラスでは石ころ同然の無価値な存在でしかなかったのに、明日からはそんな石ころを投げつけられるような存在に成り下がってしまう。期待されていたのに、作文の発表すらまともにできないダメなやつ。そんな烙印を押されてクラスのサンドバッグにされてしまうに違いない。あまりにあんまりなネガティブな妄想がひとりさんの精神を駆け巡り、過去一番の大きなストレスに晒された。

 

 

 そして、そのストレスからひとりさんは意識を手放して、わたしという意識が突如浮上した。

 

 

「わたしにはふたりという、生まれたばかりの妹がいます」

 

 ひとりさんの身体に生まれてしまった、わたしというもう一つの人格。そのわたしが生まれて初めて取った行動は、ひとりさんが投げ出した作文を壇上で読み上げることだった。自分の正体とかひとりさんとの関係だとか、考えなければいけないことは山ほどあったはずなのだけれど、ひとりさんの困難を取り除いてあげねばならない。そんな、使命感のようなものがわたしには存在していて、ただ作文の朗読に没頭した。

 

 緊張を全くしなかったわけじゃない。でも、そのほどよい緊張感もがわたしを更なる集中へと導いてくれて、ひとりさんが用意していたカンペを見ることすらなく、わたしは胸を張って作文を発表することができた。今思えば、わたしはひとりさんの困難を請け負うために作られた人格なのだから、生まれたばかりでそれが出来たのも不思議ではなかったのかもしれない。

 

「…5年2組、後藤ひとり。ご清聴、ありがとうございました!」

 

 そう締めくくって頭を下げると、体育館には決して少なくない量の拍手が響き渡った。無事に作文の発表を成功させたわたしに訪れた感情は、称賛された喜びでもやり遂げた達成感でもなく、ひとりさんのネガティブな妄想が現実になることを回避できたという安堵感だった。

 

 ステージから降りると、わたしは担任の先生に体調不良を訴えて、体育館から退場することにした。役目を終えると、自分自身という存在に次々と疑問が湧き出てしまい、それらについてゆっくりと考える時間が欲しかったから。

 

 先生が労いの言葉と共に快く案内してくれた保健室で、わたしはベッドに寝転がり頭を悩ませた。わたしはいったい誰なんだろう? この身体の持ち主、ひとりさんはちゃんと戻ってくるのだろうか? そもそも、これから先どうしていくべきなのか? 考えても考えてもまともな答えは一つもでない。

 

 そうしてただ無為に時を過ごしていると、突然わたしの視界が暗転した。わたしが生まれたのとは正反対の感覚、意識がただひたすらに深く深く沈んでいく感覚。

 

「ぁ、えっと……あなた、誰? どうして私の中にいるの?」

 

 わたしではない私の声。ひとりさんの声が先ほどまでわたしが動かしていたその身体から響いていた。わたしという意識は精神の片隅に追いやられ、ひとりさんが目覚めて、身体の主導権を取り戻していた。五感はきちんとひとりさんと共有されているのに、わたしは指一本動かせずただ思考することしかできない。なんとも不思議な感覚だったけれど、これが本来のわたしの居場所なんだという安心感のようなものを覚えていた。

 

『よくわからないですけど、わたしも後藤ひとりなんだと思います』

 

「……ぇ?」

 

 当然のようにひとりさんが抱くわたしという存在への疑問。口を動かすことができないから念じるようにしてそう思考してみれば、それはひとりさんにもきちんと伝わっているようだった。理屈はわからないけれど、わたしはひとりさんにこうして自分の意思を伝えられるらしい。

 

 わたしがひとりさんの名を名乗ることは心苦しかったけど、それ以外にわたしという存在を説明できる気がしなかった。先程生まれたばかりのわたしという人格だけど、今までのひとりさんの経験や記憶なんかは、わたしもすべて持ち合わせてしまっていて。わたしを構成する要素はぜんぶひとりさんのものだったから、そう名乗らざるを得なかった。

 

「でも、私はあんなことできないよ」

 

『それは……』

 

 それが先程の作文発表のことを指しているのは明白だった。現実逃避して意識を手放したひとりさんは途中でもう目覚めていて、発表が終わって落ち着ける状況になったから、身体を取り返したということなのだろう。

 

 ひとりさんがわたしの発表を聞いていてくれた。事実だけを捉えればわたしにとって嬉しい事実だったけれど、ひとりさんの声があまりに悲しいもので、ちっとも喜ばしい気持ちにはなれなかった。諦観を含んだ吐き出すようなその声色に、わたしは言葉を詰まらせるしかなかった。

 

「やっぱり、私なんていらなかったのかな?」

 

『……どういう意味ですか?』

 

「私ってね、ダメなんだ。話す前にあって言っちゃうし、目を合わすのも苦手だし、そんなだから誰とも上手に話せなくて、友達なんて一人もできなくて。頭は良くないし、運動もへたっぴで迷惑かけてばっかり……。お母さんとお父さんは私に優しいけど、そんな二人の顔を見るたびに学校辞めたいって言い出しそうになって……ホントダメだなぁ私って」

 

 それはひとりさんの慟哭だった。わたしが、ただ事実として知っているだけのひとりさんの孤独と苦しみ。それはわたしの想像なんてとても及ばないほど深いもので。わたしは、かける言葉が見つからなかった。だって、できないことに苦しむひとりさんに、それができてしまった私が慰めの言葉をかけるなんて残酷すぎる。

 

「だからあなた……じゃなくて、もう一人の私が出てきたんだよね? ダメダメな私じゃなくて、みんなの前で胸を張れるカッコいいヒーローみたいな私が。……もう私は、いらないんだよね?」

 

『違う、そうじゃないんです!』

 

 でも、もう黙ったままでいるわけにもいかなかった。わたしは、ひとりさんにこんな寂しいことを言わせるために、発表を成功させたのだとは認めたくなかったから。そしてなにより、このままじゃひとりさんが本当に居なくなってしまうような気がして。わたしには、それがなにより恐ろしいことに感じられたから。

 

『あれは、ひとりさんがいたからできたんです。ひとりさんを苦しい場所から遠ざけてあげたくて……ただ、それだけで。ひとりさんがいなくちゃあんなことできません。ひとりさんがいないと、わたしに意味なんてないんです』

 

 結局、ひとりさんを元気づけられる上手な言葉は思い付かず、わたしはただありのままの本心をぶちまけることしかできなかった。ひとりさんがいなくなったら困るからいてほしい。勝手な言い草だと呆れられたらどうしようと、不安でしかなかった。

 

「もう一人の私は、私がいないとダメなの?」

 

『はい』

 

「もう一人の私は……私の味方?」

 

『もちろん。わたしは今日からずっとひとりさんの味方ですよ』

 

「そ、そっかぁ……えへへ」

 

 意外にも、わたしの自分勝手な発言はひとりさんの自己肯定感を高めてくれたらしく、初めてひとりさんは嬉しそうな声を聴かせてくれた。そのことに強い喜びを感じると同時に、ひとりさんには家族以外の何もかもが敵に見えているという事実が悲しくもあった。

 

「じゃあ、もう一人の私は私だけのヒーローになって欲しい!」

 

『そうあり続けられるよう、頑張りますね』

 

 あっという間に全幅の信頼を込めた言葉を投げかけてくれるひとりさんに、わたしは心の中で強く頷いた。正直、必要とされただけで自分のもう一つの人格なんて存在を受け入れてしまうのは、心配になる程ちょろすぎるだろうとは思う。でも、それはひとりさんが都合よく助けてくれる、ヒーローのような存在を求めてやまなかったという事実の裏付けだ。

 

 だからこそ、わたしはひとりさんをあらゆる苦難から遠ざけて、平穏な生活とその純粋な心を守ってみせる。そう、深く心に誓ったのだ。

 

 

◇◇◇

 

 

 こうして、わたしとひとりさん。一つの身体に二つの人格での奇妙な共同生活が始まった。基本的には今まで通りひとりさんが表で過ごし、ひとりさんが困り事に遭遇すれば、わたしがヘルプで表に出て対処する。そんな形で学校生活を送ることにした。

 

 最初はとても順調だった。

 

「もう一人の私、代わりに算数のテスト受けて!」

 

『任せてください』

 

 ひとりさんは苦手なことを自分でやらなくて済むし、ひとりさんから頼られれば当然わたしも嬉しい。ひとりさんが苦手としているコミニケーションだとか勉強だとか運動だとかが、わたしにはそつなくこなすことができた。頑張って結果を出せば、ひとりさんは毎度私が引いてしまうくらいに感謝してくれて、わたしもそれがとても誇らしかった。

 

 しかし、当然ながら学校生活はひとりさんにとって辛いことばかり。わたしに対するひとりさんのヘルプの要請は、日を重ねるごとにエスカレートしていった。

 

「代わりに体育の授業受けて!」

 

『任せてください』

 

「給食の時間が気まずすぎるから、代わりに食べてほしい」

 

『任せてください』

 

「運動会、代わりにぜんぶ出てください。お願いします」

 

『ま、任せてください……』

 

 日に日にひとりさんのヘルプの回数は多くなっていき、わたしが学校で過ごす時間は長くなっていった。そして、六年生の半ば、そろそろ卒業を意識し始める頃合いでひとりさんのヘルプは究極系を迎えた。

 

「お願いです、もう一人の私。残りの学校生活ぜんぶ代わってください。一生のお願いだから!」

 

『流石にそれはちょっと……』

 

 わたしはひとりさんのヘルプを断ったことがなかったけど、今回ばかりは気軽に任せてくださいと頷くことはできなかった。了承してしまえば、それはひとりさんが小学校生活を完全に諦めてしまうことを意味する。残り僅かとはいえ、ひとりさんの学校での可能性を奪ってしまうのはマズイんじゃないかと思ったのだ。

 

「無理、もう無理……! だって、これから青春イベント目白押しだよ……?中学生でも友達でいようねって、友情を確かめ合ったり! 卒業アルバム作ってみんなで寄せ書きを書き合ったり! そ、そんな光景を私はぼっちで見せつけられることになるんだぁ……! 耐えられない、死んじゃう……だからお願い、中学生になったら頑張るから! もう一人の私、助けてよぉ〜……」

 

 ひとりさんは土下座でもするんじゃないかっていう勢いで懇願していた。確実に、昔よりコミュ障も陰キャ度合いも上昇してしまっている。実際問題、ひとりさんはあまりにも青春がすぎる光景を見せつけられたりすると、即座に意識を手放してはわたしが表に出されるので、ひとりさんにとっては死活問題なのだろう。

 

 ここまで泣きつかれてしまうと、わたしはひとりさんを突き放すことができない。こうして自分の嫌なことを溜め込まず、わたしに吐き出してくれるだけで昔よりは健全なはず。ひとりさんを甘やかす口実として、わたしはそう自分を納得させた。

 

『わかりました。中学生からは一緒に頑張りましょうね?』

 

「あ、ありがとうもう一人の私! 任せて、中学生になったらきっと……こうビッグになって、友達100人作ってみせるから!!」

 

 わたしが頷けば、ひとりさんは気分を良くして具体的なプランは何一つない自分の未来予想図を語ってくれた。正直にいえばわたし自身も無謀だとしか思えないのだが、こうしてひとりさんが未来の学校生活に希望を持ってくれているのだから、そこに水を差すようなことはしたくない。ビッグになるだとか、友達100人とは望まないけれど、ひとりさんに友達が一人でもできればいいと願うばかりだった。

 

 

 そして、残りの小学校生活をわたしがそつなく終えて。ひとりさんは無事中学生へとランクアップした。

 

 さて、結論から言ってしまおう。中学校になったところでひとりさんのぼっち街道は変わることがなく、希望なんて欠片も残ってはいなかった。

 

「ドウシテ、ドウシテ……??」

 

『声怖いですよ……ひとりさん』

 

 中学校生活を始めて一週間。そこに絶望を見出したひとりさんは、自宅のリビングでソファに寝転がりながら呪詛を唱えていた。そのあまりの鬼気迫る様子に、わたしもどう声をかけるべきかわからなかった。

 

 ひとりさんはともかく、こうなってしまうかもとわたしは予想できてしまっていた。だって、ひとりさんは地元の中学校にそのまま進学した。ある程度のクラス替えくらいはあるだろうけど、小学校の頃と周囲の人物はそう変わらないのだから、小学校との違いなんて存在しないも同然だった。それでも、なにかキッカケが生まれたりするんじゃないかなんて祈ったりしてみたけど、現実はやはり厳しかった。

 

「もう一人の私。私の代わりに、人生歩んでみない?」

 

『なに言ってるんですか。やりませんよわたしは』

 

 唐突に立ち上がったかと思えば、代わりに宿題やって、くらい軽いノリで激オモな要求をしてくるひとりさんの言葉を即座に拒否する。声色的に本気で言っている訳ではないんだろうけど、コレが紛れもなくひとりさんの破滅的な願望の一つであるのが困り所だ。

 

 わたしという存在はひとりさんの人生があってこそ。ひとりさんの人生をわたしが取って代わってしまうのは、あってはいけないことだ。

 

「だって私、これからもずっとぼっちだもん。今日で確信した……。でも、もう一人の私はそうじゃない。カッコいいし、頭も良いし、なんでもできるし、間違いなく陽キャの中の陽キャになれる。そしてクラスの人気者になってみんなから頼られてちやほやされて……そんなもう一人の私の姿を自分に投影して、私は承認欲求を満たすんだ」

 

『そんな侘しすぎる願望聞きたくなかったですよ……。ひとりさんにはひとりさんの良さがありますから。そんなこと言わずに、ね?』

 

 中学生になって、ひとりさんの承認欲求は膨れ上がり続けているらしい。まさかこんな願望を抱くまで拗らせているとは思わなかった。

 

 ひとりさんにそこまで評価してもらってるのは、わたしにとってなにより嬉しいこと。そして、言うまでもないがわたしはひとりさんの頼み事にとても弱い。ついつい頷いてしまいそうになるが、心を鬼にしてひとりさんを宥めるだけに留めておく。

 

「ない、私にはそんなのないよぉ……! 私はもう一人の私にすら敬語を使わせてさん付けさせて、それでちっぽけな自尊心を満たすような最低なやつなんだぁ……」

 

『あー、わたしのコレ。そういうことだったんですね』

 

 再びソファに寝転がって暴れては、ネガティブスパイラルに陥っているひとりさんから明かされる衝撃の真実。わたしがどうにも、最初からひとりさんに敬語を使い続けさん付けまでしていたのにはそういった背景があるらしい。まぁ、どんな理由があるにせよ、わたしがひとりさんを敬愛している事実に変わりはないし、これからも止めるつもりはない。そもそも、頼まれても止められる気がしなかった。

 

 ひとりさんはこう言うが、ひとりさんにだっていいところはたくさんある。努力家なところとか、他人の気持ちに敏感なところとか、いざと決めたときの行動力だとか。それらがどうしても、ちやほやされたいというひとりさんの願望に結びつかないだけで、ひとりさんは魅力的な女の子なのだから。

 

『ほら、お父さんお風呂から戻ってきましたよ。……しゃんとして、たまには父娘水入らずの時間を楽しんでみたらどうですか?』

 

「うう、わかったあ……」

 

 そんなことを言っても今のひとりさんは納得しないだろうし、わたしはちょうどお風呂から戻ってきたお父さんを見ながらそう話を逸らすことにした。自分の娘がもう一人の人格を作り出し、更にはその人格に人生の代役を頼んでいただなんて、ひとりさんのお父さんに知られるわけにはいかない。わたしはしばらく黙っていよう。

 

「これ見てる?」

 

「ううん」

 

 お父さんがひとりさんの隣に座り、リモコンを操作してテレビのチャンネルを切り替える。親子の会話にしてはあんまりにも簡素に思えるけれど、家でのひとりさんはいつも自然体だから、わたしが口を挟むようなことはない。

 

 お父さんが切り替えたテレビのチャンネルでは、国民的な音楽番組が放送されていた。そして、コレこそがひとりさんの人生を大きく変えるキッカケとなったのである。

 

「学生の頃は、教室の隅で本を読んでいるフリをしてる奴でした。友達いなくて」

 

 画面ではちょうど、最近流行りのロックバンドがインタビューを受けているところだった。わたしもひとりさんも音楽にあまり関心のある方ではなかったから、そのバンド名すらもわからなかったけど。ひとりさんは、そのインタビューの内容に僅かなシンパシーを感じているようだった。

 

「まぁ、バンドは陰キャでも輝けるんで」

 

 一人のバンドマンが何気なく発したその一言。インタビューを終えて、ひとりさんと同じく陰キャであるはずの彼が披露する心を震わせる演奏。そして、それを受けて歓声をあげる会場のファンたち。それが、ひとりさんを突き動かす原動力となった。

 

「お父さん、ギター貸して!」

 

「え……いいよ?」

 

「ありがとう!」

 

 そこからはもう止まらなかった。わたしが先程あげたひとりさんの良いところ。その行動力そのままに、父親のギターを借り受ける許可を得ては、ギターを触るために階段を登っていく。

 

 わたしといえば、あまりの急激な展開に理解が追いついていなかった。先程まであんなに自分の人生を悲観していたひとりさんが、期待に声を弾ませてギターをやるというのだから驚きしかない。

 

『ひとりさん、ギター始めるんですか?』

 

「うん、私はもう一人の私みたいにはなれないけど。…ギターなら、陰キャな私でも輝けるような気がするんだ!」

 

 その声は、今までのひとりさんのどんな言葉よりも力強く、希望に満ち溢れていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 それからのひとりさんの生活は、ギター一色に変わった。学校生活のほとんどをわたしに任せ、帰宅するとただひたすらギターを掻き鳴らし続けた。

 

 ひとりさんはとんでもない努力をした。毎日ギターの練習は欠かさなかった。ギターの弦で指を切っても、心配になったわたしが一旦止めようと諭しても、ひとりさんはギターを弾き続けた。最低でも、毎日6時間以上は間違いなくギターに触れていた。ひとりさんの成績を維持するために、わたしの勉強時間を捻出するのが難しいほどだった。

 

 ひとりさんには才能もあった。たった一人、ギターの教本だけを頼りに独学でどんどん技術をモノにしていった。そして、ひとりさんに勧められてわたしがギターを練習してみても、わたしはまったくギターが上手にならなかった。ひとりさんにできて、わたしにはできない。その事実がひとりさんの自尊心を満たし、さらにギターへとのめり込んでいった。

 

「私、バンド組む! それで文化祭でライブして、皆からちやほやされるんだぁ」

 

『ええ、ひとりさんなら必ずできますよ』

 

 きっと、そんな程度では止まらないだろう。圧倒的な練習量に、備わっている確かな才能。そして、ひとりさんの演奏にはどこか人を惹きつけてやまない熱量すら備わっている。

 

 

 わたしという人格はきっと、ひとりさんがギターを弾くために存在している。彼女がその才能を遺憾なく発揮し、その演奏を大舞台で披露する。その時までひとりさんを支えるためにわたしという存在は生まれたのだと、この時わたしは確信したのだ。

 



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硝子細工と外骨格

 

 ひとりさんの自室の押し入れ。その薄暗く狭いジメジメとした空間が、ひとりさんのギター演奏のホームグラウンドだ。ひとりさんはそこで、正座をして小さく蹲るようにしながらギターを構える。そしてわたしは、ただひっそりと意識の底でひとりさんの演奏に耳を傾ける。あの日、ひとりさんがギターに触れてから毎日欠かさず行われている、わたしたちのルーチンワークだ。

 

 ひとりさんが器用に指先を動かして、ギターの弦を掻き鳴らすと、アンプを通じて電子的な信号がわたしの聴覚へと叩きつけられる。普段のひとりさんからは考えられないような、自信に満ち溢れたストローク。そこから放たれる音色は、聞け、そう強く主張するかのような情動を感じられた。わたしが三年間欠かすことなく聞き続けた音楽。わたしにとっては、ひとりさんのギターこそが音楽そのものになってしまった。

 

 そう、ひとりさんがギターを弾き始めてから三年が経過した。その間、欠かすことなく練習を続けたひとりさんの腕前は、それはもうわたしでは推し量れないほどにレベルアップしていた。音楽の良し悪しをわたしなんかが語るのは烏滸がましいかもしれないけど、ひとりさんは技術だけならプロにも負けていないのではと思っている。

 

『今日も良かったですよ、ひとりさん』

 

「もう一人の私……」

 

『な、なんでしょうか……?』

 

 演奏を終えたひとりさんに労いの言葉をかける。しかし、その返事の声はとても暗かった。コレは明らかにわたしに褒められて自尊心を満たすモードに入っていない。きっと、いや、確実にこれからひとりさんは自己否定のスパイラルに陥る。そうなってしまえば、立ち直らせるのは一筋縄ではいかないのだが、予知できたところでひとりさんのコレを止めることはできない。わたしにできることは、ただ続きの言葉を促すだけだ。

 

「……私はどうして、こんな場所で一人ギターを弾き続けてるんだろう?」

 

『それは、その……バンドメンバーを集められず、ライブに出られなかったからじゃないでしょうか?』

 

「う、ううう……。やっぱり、私は三年かけてもバンドメンバーどころか友達ひとりすら作れないダメ人間!心の拠り所といえば、ギターともう一人の私だけ!引きこもり一歩手前の社会不適合者なんだ……」

 

 ひとりさんの発作が始まってしまった。首はガクガクと痙攣させてるし、何か良からぬ液体が口から垂れているような感触もある。中学生の頃より、確実に悪化してしまっている。

 

 ひとりさんの夢、バンドメンバーを集めて文化祭でライブをすること。その夢は中学の三年間で果たされることはなく、わたしとひとりさんは高校生になってしまっていた。

 

 一応、ひとりさんも頑張ったのだ。CDを持ってきて机に置いたり、バンドグッズを持ってアピールしたり、お昼のリクエストソングでデスメタルを流してみたりと。あまりに他力本願で努力の方向性として間違っているかもしれないが、どれもひとりさんにとっては勇気のいる行動だったはず。だから、わたしだけはその積み重ねを評価してあげたいと思う。

 

 わたしも協力したけれど、あまり力になることはできなかった。わたしが表に出て、近くの席の子や一緒に掃除当番になった子に声をかけて、交流を深めてみたり。三年生の時には文化祭に出るために、バンドメンバー集めをわたしが行ったこともある。ただ、どれもうまくはいかなかった。どんなに関係が順調に進んでも、いざわたしが引っ込んでひとりさんが関わる段階になれば、すべて崩壊した。

 

 別に、ひとりさんが悪いわけじゃない。わたしが上手に付き合える人でも、ひとりさんが精神的に受け入れられないのは当たり前の話。わたしとひとりさんは同じ身体に存在しているとはいえ、好みも性格も何もかも違う別人格なのだから。そもそもの話、ひとりさんの交友関係のために、別人のわたしがでしゃばってあれこれするなんて、あまりに傲慢な行為で上手くいくわけがなかったのだ。

 

 ひとりさんの友達もバンドメンバーも、ひとりさんが作らなくてはならない。それが中学の三年間で学んだことだった。わたしが未熟なばっかりに、ひとりさんやわたしに関わってくれた人達みんなを不幸にした。反省しかない、わたしも自己嫌悪に陥りそうだった。しかし、わたしまでもがネガティブになっては、ひとりさんが一生このままになってしまうので、そんな暗い考えは思考の隅に追いやることにした。

 

『過去を悔やんでも仕方がありません。未来に眼を向けましょう、ひとりさん。新環境である秀華高校で、今度こそライブをやりましょうよ、ね?』

 

 ひとりさんの通う秀華高校は県外で、移動に片道2時間もかかってしまう紛れもない新環境だ。自分の過去を誰も知らない高校に通いたい。それがひとりさんの希望だった。小学校から中学校という連続した変わり映えのしない環境は、ひとりさんに悪影響しかなかったから、わたしもそれに同意した。お父さんとお母さんはさすがに反対したけれど、わたしの説得と説得材料にしたわたしの成績で、渋々ながら納得をしてくれたのだ。

 

「でも、もう一ヶ月経つのに私、クラスメイトに話しかけられたことないし……。既にもう一人の私に頼りっぱなしだし。やっぱり私みたいな陰キャにライブなんて無理だったんだよ」

 

 わたしの言葉は、焼け石に水とばかりにひとりさんにはちっとも響いていなかった。ただ、ひとりさんがこう返したくなる気持ちもわかる。環境を大きく変えたのに関わらず、結果は中学の焼き直し。不貞腐れたくもなるだろうし、わたしもこの問題に具体的な助言ができなくなってきている。

 

 強いていうならば、ひとりさんが頑張ってコミュニケーションに臨むしか解決法はないのだろう。でも、ひとりさんは頑張ってないわけじゃない、むしろ頑張り続けている。頑張って頑張って頑張り続けてあの結果で、そんなひとりさんに「もうちょっと頑張ろうよ?」なんてわたしは口が裂けても言えやしない。

 

 アドバイスができない以上、仕方がない。わたしはあまり使いたくはない、禁断の奥の手を使うことにした。

 

『そんなことありませんよ。……だって、ひとりさんは登録者3万人越えの人気ギター動画投稿者【guitarhero】じゃないですか! そんなスゴい人にやってやれないことなんてないはずです』

 

「え、えへ、そ、そうだよねぇ! 私、ギターヒーローだもんね!文化祭でライブをやるくらい、お茶の子さいさいっていうかぁ……うへへ、へへ」

 

 奥の手の効きはあまりにも迅速で、あれほど自己否定を繰り返していたはずのひとりさんの姿は既にない。根拠のない自信に満ちあふれる、自己肯定マシマシのひとりさんに早変わりしていた。

 

 ギターヒーロー、それは動画投稿サイトのアカウント名。投稿されている動画はもちろん、ひとりさんのギター弾いてみた動画のみだ。顔出しもせず、一言足りとも喋らず、刺激的なパフォーマンスがあるわけでもない。ただ、売れ線バンドの曲をひとりさんが片っ端から掻き鳴らす、それだけのアカウントに3万人ものチャンネル登録者がいる。それは、3万人もの人間を純粋なギターの腕前だけで惹きつけたという他ならぬ証拠であり、ひとりさんの自尊心の源となっている。

 

 だから、そこをちょっと刺激してあげればひとりさんは復活する。やり過ぎると、今度は動画投稿者として生きるので学校辞めると主張し始めるので、使いすぎは厳禁。だからこその奥の手である。

 

「そうだ、今日も人気バンドのカバー動画アップしなきゃ……。あっ、前の動画にもうこんなコメントついてる、さすが私」

 

『大衆も、ようやくひとりさんの良さに気付いてきたようですね』

 

 すっかり上機嫌となったひとりさんは、ノートパソコンを操作して自分の動画のコメント欄を見て悦に入っている。わたしもコメント欄に眼を通してみると、そこはひとりさんを賞賛するコメントばかりで、彼らはみんなギターヒーローこと、ひとりさんのファンであることが窺えた。わたしの敬愛するひとりさんが褒められているのは、鼻が高い。その上、わたしはこの演奏を毎日余すことなく味わっているんだぞ、なんて優越感も湧き上がってきていて。不覚ながら、わたしもひとりさんと同じくらい御満悦である。

 

【この曲バンド組んで文化祭で弾きました!全校生徒全員盛り上がりました〜!】

 

「いいなぁ、ライブ……」

 

 そんなわたし達を現実に引き戻したのは、キラキラと青春でコーティングされた一際眩しいコメントだった。なんて恐ろしいコメントなんだろう。もし、ひとりさんが先程ネガティブを終えてなかったら、フラッシュバックで精神をやられていたに違いない。ぽつりと羨むだけだったひとりさんの様子に、わたしはほっと一息吐きたい気分だった。

 

「その手があったか!?」

 

『うわっと……ひ、ひとりさん?』

 

 そんな矢先、完全にボリューム調整をミスった大声を出し、天啓を得たとばかりに押し入れの天井を見上げるひとりさん。その様子はまるで、世界の秘密を知って打ち震えているかのようだった。

 

 きっと、コメント欄に影響を受けて何か思いついてしまったのだろうけど、ひとりさんの視線はもうパソコンに向けられていないので、わたしに確認する術はない。ただ、こういったひとりさんの突発的な思いつきは悉くうまくいかない。それがわたしの経験則。しかし、わたしの言葉なんて耳に入っていないかのように、なにやらウキウキと部屋を漁り始めるひとりさんを止める気には、やっぱりなれなくて。

 

『どうか明日こそ、ひとりさんが報われますように』

 

 狭い部屋の天井に、通算何度目かわからない祈りを捧げておくことにした。

 

 

◇◇◇

 

 

 翌日、わたしとひとりさんは2時間ほど電車に揺られた後、高校へと続く通学路を歩いていた。ひとりさんの足取りは軽い。いつもは学校に行きたくない思惑が滲み出てしまうほどにトボトボと歩くのに、今日に限ってはスキップすら始めてしまいそうな陽気さだ。一転、わたしの方はといえば学校にたどり着くのを1秒でも遅らせたかった。その先の結果を直視したくない。そう思ってしまうくらいに今のひとりさんの格好は、アレだった。

 

『あの、本当にこの格好で学校に行くんですか……?』

 

 我慢できずにそう問いかけると、ひとりさんは足を止めて、お店の窓ガラスに映った自分の姿をまじまじとみる。そこに映っているのが、いつも通りのジャージ姿のひとりさんならどれほど良かっただろうか。

 

 いつもの垢抜けないジャージ姿に背負われたギターはいい。本当はジャージで登校するのもどうかと思うけど、まだひとりさんらしいと言える。だが、片腕ごとに6つも付けられたカラフルなラバーバンド、缶バッジが所狭しと並べられたトートバッグ、わざわざファスナー全開にして見せびらかしている前衛的なロゴのバンドTシャツ。それらが恐ろしいほどの個性を主張してしまっていた。言葉を選ばずにいってしまうのなら、ダサかった。

 

「う、うん。……今日の私、カッコよくキマってるよね?」

 

『……ひとりさんはいつでもカッコいいですよ』

 

 口から出かかるありとあらゆる否定の言葉を飲み込んで、とにかくズレていようがひとりさんを肯定する言葉を吐き出す。わたしはひとりさんの逃げ道だ。現実はひとりさんに辛く厳しいから、わたしだけはひとりさんを肯定してあげなければいけない。だから、決してダサいだなんて感想を口にしてはいけないのだ。今のひとりさんはハイセンス。思い込め、わたし。

 

「もう一人の私ってば褒め上手! ……うん、我ながら只者じゃない感が半端じゃない。存在感すごい!」

 

『……今日のクラスではきっと一番ですよ』

 

 只者じゃない感が半端じゃないのも、存在感がすごいのも決して間違いじゃない。だけど、ひとりさんのソレは決してオシャレなバンド女子としてのものではない。それは、TPOを弁えない痛々しいバンドオタクとしての存在感になってしまっている。そんな事実を伝えたら、今日の学校は全部わたしがこの格好で過ごす羽目になってしまうので、間違っても言えないけれど。

 

 まぁ、センスの良し悪しはともかくとして、今のひとりさんが目立つ格好であるというのは紛れもない事実。ひとりさんの作戦はきっと、バンド女子としてアピールすることで音楽好きに話しかけてもらおうという魂胆なのだろう。中学の時と同じく他力本願ではあれど、その趣旨でいえばひとりさんの服装は決して間違いじゃない。明らかに過剰なのはこの際眼を瞑るとしよう。そう、クラスにこの格好のひとりさんでも臆せず話しかけてくれる、肝っ玉の持ち主さえいれば成功するはずなのだ。

 

 そんな人、わたしのクラスにいるのだろうか?

 

 

「はぁ〜……」

 

 そんなのいるはずがなかった。浮かれた気分のままに、あの姿のまま学校へと突撃したひとりさんの末路は悲惨だった。教室に入った瞬間は、確かにクラス全員の注目を集めることができた。だが、それだけだ。すぐさまクラスメイト達は凄いものを見てしまったと、一斉に眼を逸らしてしまう。そして、そこから誰もひとりさんを視界に入れようとはしなかった。

 

 ひとりさんも最初は抵抗していた。音楽雑誌を読んだりして、更なるバンド女子感をアピールしようともしていた。しかし、時間が経つ度にその精神は削られていき、ジャージのファスナーは閉められて、ラバーバンドは外されていき、時間と共に武装解除を余儀なくされていって。放課後には完全に武装解除して、フルアーマーひとりさんはただの陰キャに逆戻りしていた。

 

 圧敗したひとりさんは敗走。学校から出ると帰路につくわけでもなく、フラフラと街中を彷徨っては、最終的に寂れた公園のブランコに腰を落ち着けて、深いため息を吐き出していた。ファミレスや喫茶店じゃなく、誰もいない公園というあたりがなんともひとりさんらしい。

 

「まぁ、私も分かってはいたんですよ。他力本願で物事がうまくいくはずがないなんてことは……あ、今のなんだかもう一人の私っぽい」

 

 ひとりさん自身が、おかしなテンションに身を任せていたことをだんだん自覚してきたようで、それほどショックが大きくなさそうなことだけが幸いだった。

 

『でも、これでひとりさんがバンド好きだってことは嫌でもみんなに伝わったはずですから。一歩前進……今日も頑張りましたね、ひとりさん』

 

「うぅ、もう一人の私の優しさが傷ついた心に染み渡る……」

 

 目元に湿った感触。ひとりさんはどうやら涙ぐんでいるようだ。わたしの何気ない言葉にこんなにも感情を見せてくれて、同じ身体に住む人格のはずなのに、わたしとひとりさんは別の生き物のように思えてならない。ひとりさんの心は純粋で、精巧な硝子細工のように繊細で脆く傷ついてしまいやすい。わたしのような無骨な人格とは違いすぎる。だから、わたしという外骨格が現実との緩衝材になってあげなければいけないのだと、強くそう思う。

 

 さて、この後はどうしようか。そうだ、この前ひとりさんが興味を向けていた、オシャレな喫茶店に行くのも良いかもしれない。入店とか店員とのやり取りとか、そういったひとりさんが尻込みする事柄を全部わたしがやってしまえば、ひとりさんも安らいでくれるはず。名案、そうと決まれば早速ひとりさんに提案を……と思ったところで、一際大きく朗らかな声が公園に響き渡った。

 

「あっ、ギターーーーー!!」

 

「あっ、えぇ、な、なに……?」

 

 突如襲ってきた見知らぬ誰かの声に、ひとりさんは可哀想なくらい狼狽えながら声の出所を探る。そうすると、そこには同年代くらいの女の子の姿があって。そして、彼女はみるみるとこちらに駆け寄ってきていて、あっという間にひとりさんのパーソナルスペースに侵入しそうな勢いがあった。

 

「ひぇぇ……。もう一人の私、お願い!」

 

『任せてください』

 

 ひとりさんからの緊急ヘルプ要請に頷くと、ひとりさんは意識の底にそそくさと引っ込んでわたしの意識が浮上する。見知らぬ他人からの唐突すぎる接触。ひとりさんが逃げてしまうのも無理からぬことだろう。身体の主導権を得たわたしはブランコから立ち上がり、近づく女の子を迎え入れる。

 

「それギターだよね。弾けるの?」

 

「はい、弾けますよ」

 

 女の子の第一声は、やはりギターについて。まさか、ギターを弾いているところが見てみたいだなんて安直な理由で声をかけた訳じゃないはずだ。女の子のその質問の意図を測りかねつつも、わたしは努めてにこやかに回答しながら女の子に顔を合わせる。

 

 金髪のサイドテールに、首元に巻いたリボン結びのスカーフが特徴的な可愛らしい女の子だ。声もハキハキとしていて愛嬌もあり、おおよそひとりさんとは別の世界で生きている人間に違いない。そんな女の子が、切羽詰まった様子でギターの演奏者を求める理由はなんなのだろうか。

 

「そっかそっか、良かったぁ〜……じゃなくて! いきなりごめんね。あたし、下北沢高校二年の伊地知虹夏」

 

「わたしは秀華高校一年の後藤ひとりです。よろしくお願いします、虹夏さん」

 

『あまりにもスムーズ……これが陽キャ同士の会話』

 

 色々会話をすっ飛ばしていることを思い出したのか、虹夏さんが自己紹介をしてくれたので、私も倣って自己紹介をして軽く頭を下げる。ひとりさんなら絶対取らない対応をしているが、他校の生徒ならば問題はない。少しでもひとりさんに良い印象を持って欲しい、ただその一心で会話をする。

 

 ひとりさんもちゃっかり裏で話を聞いているようで、そんな思考がわたしに流れてきていた。多分、わたしも虹夏さんも根っからの陽キャという訳ではないだろうし、陽キャでなくてもこれくらいの自己紹介は……いや、やめよう。わたしの不用意な思考で、ひとりさんをこれ以上傷つけるわけにはいかない。

 

「丁寧にありがと。ひとりちゃんしっかりしてるんだねぇ」

 

「いえいえ。わたしなんて、うっかりやらかしちゃうことも多いですし……。それで、虹夏さんはわたしにどういったご用でしょう?」

 

「あ、そうだったね。……その、今ちょっと困ってて。無理だったら大丈夫なんだけど、大丈夫なんだけどぉ……うん、思い切って言っちゃおう!」

 

 話を繋げつつ、虹夏さんにどういった要件か尋ねると途端に歯切れが悪くなった。頼み事が苦手そうにも見えないのに、こうも戸惑うのはそれほどの厄介ごとなのだろうか。

 

「お願いっ! あたしのバンドで、今日だけサポートギターしてくれないかなぁ!?」

 

「バンド、ですか?」

 

「これからライブなのにギターの子が突然辞めちゃって……。どうか、何卒、何卒〜!」

 

『む、無理無理無理無理。私が今から知らない人とライブなんて……』

 

 両手を合わせて拝み倒してくる虹夏さんに、人見知りから拒否の言葉を並べ立てるひとりさん。本来なら、ひとりさんの意見に従って断るのがわたしの役目。しかし、わたしは今回あえてその役目を一旦放棄することにした。

 

 だって、これは千載一遇のチャンスだ。誰かがひとりさんをバンドに誘ってくれる。そんな他力本願のひとりさんが夢にまで見たシチュエーションが今、奇跡的に実現しているのだから。この奇跡を逃してはいけない。そう確信したわたしは、ひとりさんを説得するために行動を起こすことにした。

 

「あの、すいません。両親に連絡をする時間を貰っても大丈夫でしょうか? 終わったら、バンドの件は必ずお返事をしますので!」

 

「もちろん。あたしこそ、急にやってきて無茶なこと頼んじゃってごめんね。ゆっくりで大丈夫だから〜」

 

 スマートフォンを取り出して、電話をしたいと持ちかけると虹夏さんは快く頷いてくれた。もちろん、両親にわざわざ電話をするなんていうのは嘘だ。ひとりさんを説得する時間を得るための言い訳に過ぎない。待たせてしまうことを心苦しく思いつつも、スマートフォンを持ったまま公園の片隅に移動する。万が一にも、わたしとひとりさんの会話が虹夏さんの耳に触れることがないようにだ。

 

『も、もう一人の私。電話ってなんで……』

 

「あれは嘘です。ひとりさん、わたしの話を聞いていただけるでしょうか?」

 

『う、うん』

 

 電話をするという言い訳を使った以上、喋っていないと不自然なので口頭でひとりさんに話しかける。引っ込み思案が悪さをしているだけで、ひとりさんもライブをやりたいと思っているはず。だから、勇気づけてあげればきっと、今回の話を受け入れてくれると信じたい。

 

「虹夏さんのバンドのサポート、受けてみませんか? ひとりさんにとって、これ以上ないチャンスだと思うんです。ギターが辞めてしまったようですから、上手くいけばバンドに入れてもらえるかもしれません」

 

『む、無理だよ。私もライブはやってみたいけど、虹夏ちゃんみたいな人と私が一緒になんて……迷惑になっちゃうだろうし』

 

「今回は虹夏さんの方から誘ってくれているんですから。だいぶ緊急事態みたいですし、感謝こそされど迷惑に思われたりなんてしませんよ。……それに、仮にそんなこと言われたら、わたしが許しませんから」

 

 決めるのは最終的にひとりさん自身。だからひとりさんも本心ではライブに出たがっている事実に安心した。この説得はわたしの独り善がりではない。そうわかったのなら戸惑う必要なんて一つもない。普段より強い言葉を使ってひとりさんに語りかけていく。

 

『もう一人の私は……私がライブに出たら、嬉しい?』

 

「そんなの、当たり前です。わたしはひとりさんのファンですから。ライブでカッコ良くギターを弾くところ、是非見てみたいです」

 

『……わかった。私、頑張ってみる』

 

 わたしの説得が功を奏したのか、ひとりさんは控えめながらも頷いてくれた。わたしは思わずガッツポーズなんてしてしまいそうだった。それくらいにこの一歩は偉大だ。ここがひとりさんの伝説のはじまり。ここから多くの人々をそのギターの音色で魅了して、ゆくゆくは武道館を賑わせるほどのビッグなバンドスターになるに違いない。ひとりさんにはその才能がある。小躍りすらしてしまいそうなほど晴れやかな気分だ。

 

 いけない、落ち着こう。まだライブが成功したわけでもないのに、演奏するわけでもないわたしが浮かれてどうする。これから頑張るのはひとりさんだ。ひとりさんが少しでもライブに集中できるようフォロー、それくらいしかわたしには出来ないのだから、その役目を全うしなければ。

 

「そ、それでは虹夏さんのところに戻りましょう。待たせてしまってますし……ほら、ひとりさん交代です」

 

『ガッカリされたらどうしよう……死ぬしかないかな』

 

「虹夏さん優しそうでしたし大丈夫ですって! ほら、わたしも裏からお話のサポートしますから。……あと、わたしに話しかけても良いですけど、いつもみたいに声に出しちゃダメですからね」

 

 わたしの後押しによって、ひとりさんはなんとか表に出てきてくれた。そして、猫背で俯きながら虹夏さんのところへと歩いていく。ひとりさんは不安そうだったが、虹夏さん面倒見も良さそうだったし、そもそもお互い音楽好きの仲間のはず。きっと、二人の相性は悪くないのだとわたしは思うのだ。

 

「……あ、あのぅ、お、お待たせしました」

 

「ううん、全然大丈夫……ひとりちゃん、さっきよりなんか元気ない?」

 

 ひとりさんと虹夏さんのファーストコンタクトで、さっそく虹夏さんにわたしとひとりさんの違いを感じ取られてしまっていた。顔は俯きっぱなしだし、目を合わせようとしないし、そもそも声がわたしの時より小さすぎる。わたしとひとりさんの違いなんて歴然で、誰だって気付いてしまう。

 

 中学三年のバンドメンバー集めの時もそうだった。わたしが声をかけてバンドメンバーを集めて、親密になっていって。そうしてしまったから、初の合わせ練習のときにひとりさんが表に出るとすぐに気付かれた。メンバーの一人が『元気ないね、大丈夫?』と声をかけた瞬間、ひとりさんは盛大に吐き出しながら意識を失った。わたしと思われながら演奏をすることに、ひとりさんは耐えられなかったのだ。当然、一度も合わせ練習をすることもなくバンドは解散。わたしもひとりさんも心に大きな傷を負った。

 

 だが、今回は違う。わたしと虹夏さんはまだ数分しか話していないから、虹夏さんとひとりさんは一からの信頼関係を築けるだろう。それに、今回は誘われている立場なのだから、ひとりさんも気兼ねなく一緒に演奏ができる。本当に、かつてないほどの好条件。この話を運んできた虹夏さんには感謝の気持ちでいっぱいだ。

 

『う、疑われている……ど、どどどどどうしよう!?』

 

『虹夏さんは心配してくれているだけですよ。……えーと、そうですね。お父さんの好きなバンドが解散して、ショックを受けていることにしましょう』

 

 急にテンションが下がったように見えるのは虹夏さんも不安だろうし、理由づけが必要だった。だから、偽の電話の内容を改竄して伝えるようにひとりさんに指示を出した。これなら、親子でバンド好きなのが虹夏さんにも伝わるし、変に虹夏さんが心配してしまうこともないだろう。

 

「あっ、えっと……電話で、お父さんが好きなバンドが解散したってめちゃくちゃ落ち込んでて。……それで私、どうやって励まそうかなって悩んでまして、ハイ」

 

「あちゃー、それはショックだろうねー。……ひとりちゃんは、お父さんと仲良いんだ」

 

「あっはい」

 

 わたしの嘘はうまく機能したようで、虹夏さんも納得してくれた。ひとりさんの相槌があまりにも単調なのはもう仕方がない。初対面の人間相手にきちんと会話ができているだけで、上出来なのだから。

 

 お父さんの話を出したとき、一瞬だけ虹夏さんの表情が曇ったように見えたのはわたしの気のせいだろうか?

 

「じゃあ、ひとりちゃん。バンドのサポートの件なんだけど、どうかな?」

 

「……ふ、不束者ですが、よ、よろしくお願いします!」

 

「ありがとう! よーし、それじゃあ早速ライブハウスへゴー!!」

 

「あ、ああああのあの虹夏ちゃん待って心の準備が、ああああぁぁぁ……」

 

 さっきはゆっくりで良いと虹夏さんは言っていたものの、緊急事態故にあまり時間の余裕がなかったのかもしれない。ひとりさんの手を取っては、問答無用とばかりに引きずるようにして公園から駆け出してしまっていた。

 

 そんな虹夏さんの手が、わたしにはとても心強く思えた。だって、わたしはひとりさんの側に寄り添うことはできても、こうして手を引っ張ってあげることは決してできないのだから。

 



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後藤ひとりともうひとりの、長い一日

アニメ最終回の興奮が収まらなかったので、クリスマスずっと執筆してました。興奮のままキリのいいところまで駆け抜けたので、めちゃくちゃ長くなってます、許してください。


 

 下北沢、それは音楽や演劇が盛んなサブカルチャーの街。街並みを歩く人達もそれに相応しい、派手でオシャレさんな方が多いように感じられた。ひとりさんを先導して歩く虹夏さんなんて、その最たる例だろう。バンドをやっている人当たりの良いオシャレな女の子。まさにシモキタの人って感じだ。

 

 そんな虹夏さんの三歩ほど後ろを付いて歩くひとりさんは、明らかに居心地が悪そうだった。ひとりさんはもちろんとして、わたしだっておおよそ縁のなかったような街。そんな場所を、そのシモキタがホームな虹夏さんと歩くのは、ひとりさんにとってかなりのプレッシャーなのだろう。場違い感からくる遠慮が、そのまま虹夏さんとの距離に表れてしまっていた。

 

「ひとりちゃんは、下北はよく来る?」

 

「あっ、いやぁ……」

 

「それじゃ、ライブハウス行ったことは?」

 

「あっ、えっと……ない、です」

 

 虹夏さんは、そんな物理的に距離を置いてしまっているひとりさんにもめげずに、こうして定期的に話を振ってくれている。公園を出てから、ひとりさんからは一言も発していないにも関わらずだ。なんて良い人なんだろう。

 

 そんな虹夏さんに対して、ひとりさんはただ短く相槌を打つのみ。ひとりさんにしては頑張っている。これからライブに出るという重圧を受けながらも、逃げ出さずになんとか会話をしようとしているんだから、ひとりさんなりの精一杯をわたしは感じられる。しかし、虹夏さんにはそんな努力が伝わるはずもないので、二人の間には微妙な気まずさが漂い始めていた。

 

 あまりにも居た堪れない。だけど、ここでわたしがひとりさんと代わってしまってはそれこそ台無しになってしまうので、その衝動をなんとか抑え込む。これからも関係が続いていくのなら、ひとりさんの致命的なコミュ症はいずれ虹夏さんにバレてしまうのだ。だったらそれは、早ければ早いほど良い。心を鬼にしろ、わたし。

 

「ライブハウスもうちょいだから……ひとりちゃん、やっぱり体調悪い?」

 

「あっ、いや、ち、違くて……」

 

 公園に引き続き、虹夏さんに身体の心配をされてしまうひとりさん。わたしが対応していた時と比べて顔面蒼白。視線は常にあらぬ場所を彷徨っていて、声にも覇気が感じられない状態。むしろ、体調不良と解釈してくれてるのがありがたすぎるくらいに、ひとりさんは挙動不審だった。

 

『助けてもう一人の私……。絶対急におかしくなったって思われてる!』

 

『ここはもう、正直に人見知りだと言っちゃいましょう。原因がわからないんじゃ、虹夏さんだって不安でしょうし』

 

『うぅ、捨てられませんように……』

 

 ひとりさんがこうして表に出て、誰かとコミュニケーションを取るのは随分と久しぶりのことだ。だからこそ、ありのままの自分が受け入れられるのだろうかと、こうして不安がってしまっている。その不安を、ありのままのひとりさんを隠してしまうわたしが取り除いてあげることはできなくて、それが歯痒くて仕方がない。

 

 わたしにできるのは、ひとりさんの勇気と虹夏さんの人柄を信じることだけだ。

 

「あっ、あの!私、けっこう……いや、かなり人見知りしちゃって。人の多い場所とか苦手で……だから体調が悪いとかじゃない、です」

 

「えっ!?……もしかして、ひとりちゃん今までけっこう無理してた?」

 

「……その、わ、割と?」

 

 ひとりさんにそうカミングアウトされた虹夏さんは、驚きの声をあげた。最初のわたしの対応は、人見知りの人間のそれではなかったのだから当然だ。それでも、虹夏さんは今のひとりさんの姿をじっと見て、そう優しく問いかけてくれた。先程のわたしの幻影ではなく、今のひとりさん自身を見ようとしてくれているその姿に、わたしは強い感動を覚えた。本当になんて良い人なんだろう、虹夏さんは。前世は天使か何かだったのだろうか。

 

「そっか……。出演するライブハウスあたしの家だから、そんな緊張しなくても大丈夫だよ!」

 

「あっ、は、はい!」

 

『虹夏ちゃん、陽キャだけど怖くない……』

 

『一緒にライブ、できそうですか?』

 

『う、うん。虹夏ちゃんとなら、一緒にバンド……できるかも』

 

 馬鹿にする訳でもなく、同情したり過度な心配をする訳でもない。ただ元気づけようとしてくれる虹夏さんの姿に、ひとりさんも感じ入るものがあったようで、ようやくポジティブな言葉を聞くことができた。

 

 虹夏さんはひとりさんのパーソナリティを知った上で歩み寄ろうとしてくれていて、ひとりさんもそんな虹夏さんに対してだんだんと心を開きつつある。これ以上ないくらいうまく行っている、その事実にわたしは目頭が熱くなるような想いだった。ようやく、ようやくひとりさんが報われる時が来ているのだ。

 

「今日出演するライブハウスは『STARRY』っていうんだけどね」

 

「……」

 

「あたしのお姉ちゃんがそこの店長やってて、あたしも普段はそこでドリンクバイトしたりしてるんだ〜」

 

「……」

 

 お姉さんがライブハウスの店長で、更にはそのバイト。虹夏さんにとってバンドとは予想以上に身近なものらしい。しかし、ひとりさんはいったいどうしたのだろう。言葉のキャッチボールは難しいにしても、相槌を打つくらいはできていたはずなのに、急に黙りこくってしまっていた。

 

『ひとりさん、大丈夫ですか?』

 

『こ、これからライブに出るんだって実感が湧いてきて……し、心臓が』

 

 言われて意識してみると、確かにひとりさんとわたしの心臓は異常なビートを刻んでしまっていた。多分、虹夏さんの口からライブハウスの詳細だとかそれらしい言葉が出てきたことで、急に意識して緊張してしまったのだろう。緊張するのは初めてのライブだし仕方がない。むしろ、意識を飛ばしていないのだから立派だと言える。この調子だと、先程の虹夏さんの会話は聞こえていなかっただろうから、補足しておいてあげねば。

 

『ライブハウスの名前は『スターリー』。虹夏さんのお姉さんが店長をやってて、虹夏さんもそこでバイトしてるみたいですよ』

 

「そ、そうなんだ。ありがとう、もう一人のわた……っっ!!?」

 

『ひとりさん声!声出したらマズイですって!?』

 

 ひとりさんが咄嗟に口を自分の手で抑え、わたしも慌てて注意するが、時既に遅し。ひとりさんがうっかり漏らしたわたし達の脳内会話。それを聞いてしまった虹夏さんが困惑の眼差しをわたし達に向けてしまっていた。

 

「ひとりちゃん?い、今のは……?」

 

「ひ、独り言!独り言です!!」

 

「へ、へ〜……そうなんだ」

 

 やってしまった。さすがに二重人格だとは夢にも思っていないだろうけど、あれほど優しい視線を向けてくれていた虹夏さんが、あり得ないモノを見るかのような表情をしてしまっている。ひとりさんの言い訳を信じてくれたみたいだが、それはすなわち、急に訳の分からないことを言う子だと思われたということ。少しずつ打ち解けていたはずの二人の距離が、一気に離れてしまったような錯覚すら覚えた。

 

 こんなことなら、普段から口頭でのわたしとの会話は止めるよう注意すべきだったと後悔しても、全ては後の祭りでしかない。

 

『頼む相手間違ったって思われてませんように……!』

 

『虹夏さんを信じましょう、ね?』

 

 わたしにもフォローのしようがなくて、ただ虹夏さんの人間性に縋るしかなかった。すいません虹夏さん。わたしは初対面のあなたにとんでもない大役を任せてしまっているのやもしれません。

 

「ひとりちゃんはさ、普段はどんな曲を弾くの?」

 

「あっ、ここ数年の売れ線バンドの曲ならだいたい……。それをネットに上げたりしてます」

 

 そんなわたしの重過ぎる期待に虹夏さんは見事応えてくれて、すぐに優しげな笑みを取り戻しては、ひとりさんにも答えられる音楽の話題を振ってくれた。なんて許容量の大きい人なんだろう。

 

 ギターヒーローとしてのひとりさんの活動が、売れ線バンドのカバーばかりなのは再生数のためだけではない。いつバンドを組むようになってもすぐ対応できるように、というひとりさんの努力でもある。その積み重ねが、今日という日に報われようとしているのだから、感慨深いモノである。

 

「えっ、すごっ……。売れ線バンドのカバーばっかって、なんかギターヒーローさんみたいだね!ひとりちゃん知ってる?」

 

「えっ」

 

 まさか虹夏さんの口からその名前を聞くとは思っていなかったようで、ひとりさんは言葉を失ってしまっている。しかし、ギターヒーローは登録者数3万人の有名弾いてみたアカウント。バンドと密接した生活を送っている虹夏さんが、その存在を知っているのは不思議なことじゃない。むしろ、わたしには自然なことのように思えた。

 

「知らないならさ、後でURL送るよ!もうさいっこうにうまいから、聞いてみて!」

 

「あっはい」

 

 ひとりさんが生返事を返しているにも関わらず、興奮した様子で虹夏さんはギターヒーローについて語っている。それは、虹夏さんがギターヒーローとしてのひとりさんの演奏に、それほどまで聴き惚れているという確かな証拠だった。

 

『ね、もう一人の私。現実世界の人達は誰も私になんか興味ないと思ってたけど……こんな近くに、みてくれている人がいたんだね』

 

『そうですね。……わたしだけじゃない、ひとりさんのギターはちゃんと誰かに届いているんですよ』

 

 そうだ、あれほどの熱量の演奏がわたしにしか響かないなんてことはあり得ない。虹夏さんだけじゃない、ひとりさんを見てくれる人は他にもたくさんいる。そして、これからもっともっと増えていくはずだ、ひとりさんの演奏にはそれだけの力があるのだから。

 

『私、まだ怖いけど頑張りたい……虹夏ちゃんのためにも』

 

『ええ、頑張りましょう、一緒に!』

 

 頑張るなんて、そんな前向きな言葉をひとりさんの口から聞いたのはいつぶりだろうか。それだけ、今日のライブへの気持ちが高まり、虹夏さんと一緒にバンドをやるという覚悟も決まっている。紆余曲折あったものの、おおよそ最高のコンディションだ。

 

 中学三年の時とは何もかもが違う。今日という日でひとりさんはありのままのギターの腕前を披露して、その存在を皆から認められるだろう。わたしというハリボテではなくて、ひとりさん自身がだ。

 

 ギターヒーローとしてのひとりさんの実力。それが実際のライブでも十全に発揮できるのだと、この時のわたしは一つも疑ってすらいなかった。

 

 

 

 

「ここがウチのライブハウス。『STARRY』だよ!」

 

 虹夏さんに案内された建物の地下、狭い階段を降りたその先にライブハウス『STARRY』は存在していた。中に入ると、外の喧騒とは別世界のようなアングラの雰囲気をひしひしと感じる。しかし、この暗さに圧迫感、どこかひとりさんの押し入れを想起させられる。

 

「わ、私の家!」

 

「ここあたしの家だよ!?」

 

 ひとりさんも似た感想を抱いたのか、リラックスしているようでなによりだ。思ったことを口にすぐ出してしまうのは少しどうかと思うが、虹夏さんもひとりさんの取り扱いに慣れてきたようで、すかさず訂正を入れている。悪くない、気軽なやり取りだ。

 

「軽く紹介だけしておくんだけど、あれが照明さんで、そこに居るのがPAさんだよ!」

 

「おはようございまーす」

 

「ひえっ」

 

 虹夏さんがライブハウスの案内とスタッフの紹介をしてくれる。その中で、こちらに顔を出し挨拶を返してくれたPAさんは、ゴリゴリピアスで目付きが寝起きのひとりさんレベルに悪い、厳つい風貌の女性だった。そのせいか、ひとりさんも怯えたような声を出してしまっている。

 

『代わってもう一人の私!こここここ殺される!?』

 

『なんてこと言うんですか。大丈夫、挨拶してくれただけですよ』

 

 見た目はともかく、突然現れた見ず知らずのわたし達に挨拶をしてくれたのだ。そこまで悪い人ではないだろう。そもそも、仮に襲われるような事態になったとしたら、わたしに代わってもどうにもならないだろう。わたしも、さすがに護身術なんて習ってないのだし。

 

「遅い、やっと帰ってきた」

 

「あ、リョウ〜!」

 

 そんなわたし達、というか虹夏さんに一人の女の子が近づいて声をかけてきた。虹夏さんが親しげに名前を呼んでいることから、きっとバンドメンバーの一人であろうことが伺える。低めの声に、中性的な見た目。その端正な顔立ちとどこかミステリアスな雰囲気を感じさせる表情は、虹夏さんとは別ベクトルで、いかにもオシャレなバンド女子感を放っていた。

 

「この子は後藤ひとりちゃん。公園に奇跡的にいたギタリストだよ。人見知りみたいだからさ、優しく接してあげてよ〜」

 

「わかった」

 

 虹夏さんがリョウさんであろう方にひとりさんを紹介してくれる。その無表情な顔からはどんな人なのかとても読み取ることはできない。だけど、リョウさんもこの親しげな様子からして虹夏さんの友達のはず。きっと、その人間性も心配いらないだろうとわたしは見ている。

 

「んで、この子はあたしの幼馴染でベースの山田リョウだよ」

 

「ご、後藤ひとりです!大変申し訳ございません!!」

 

『ひとりさん、誰も謝罪を求めてませんよ。大丈夫大丈夫、怖くないですって』

 

 ただ、ひとりさんはやはり恐れを抱いていたようで、自己紹介とともに腰を直角に曲げて謝罪を決めてしまっていた。ひとりさんの初対面に向けてしまう防衛反応のようなものだ。突然の謝罪に面食らっている虹夏さんをサポートするためにも内から呼びかける。でも、これでよろしくお願いしますなら自己紹介として完璧だった訳だし、ひとりさんもきっと短い時間で成長している。

 

「大丈夫だってひとりちゃん!リョウは表情が出にくいだけだから。変人って言ったら喜ぶよ〜?」

 

「嬉しくないし」

 

 そう否定してみせるリョウさんの表情はめちゃくちゃ嬉しそうだった。ミステリアスでクールな人かと思いきや、こういったコミカルな一面も併せ持っているらしい。さすがは虹夏さんの友達、一気に人としての取っ付きやすさを感じられる素晴らしい紹介だった。

 

『めちゃくちゃ嬉しそう……』

 

『ひとりさんも変人って言ってあげたらどうですか?喜んでもらえるみたいですし』

 

『無理無理無理!わ、私にもう一人の私みたいなコミュニケーションは早すぎるよ……』

 

 残念ながらわたしの提案は却下されてしまったけど、ひとりさんのリョウさんへの戸惑いは殆どなくなったみたいだし、今はまだこれで良いだろう。少しずつ慣れていって、いつかわたし以外の誰かとも、ひとりさんが気軽に喋れるようになってくれればと思う。

 

「もうあんまり時間ないし、スタジオ入って練習しよう。あと、虹夏が勝手にライブハウス抜け出したから店長が怒ってたよ」

 

「え、嘘!?見つかる前にさっさとスタジオいこっか……」

 

 唐突にバンドのギターが音信不通になり、黙ってライブハウスを抜け出して、当てもなくギタリストを探して街を駆けずり回った。こうして振り返ると、虹夏さんの一日はあまりにも激動に過ぎた。本当に、できることならいっぱいの労いの言葉を投げかけてあげたいくらいだ。

 

「ひとりちゃんもほら、いこう?」

 

「は、はい!」

 

 ひとりさんの返事を合図として、これから即席バンドを組む三人でスタジオへと移動していく。案内された部屋に入ると、さすがライブハウスのスタジオといった様相で、わたしではお目にかかったことのない最新の音楽機材が並んでいた。

 

「これ、今日のセットリストとスコアね」

 

「あっあの、他のバンドメンバーは……?」

 

「これで全員だよ。あたし達、今回はインストバンドだから」

 

 虹夏さんにリョウさん、そしてひとりさん。今回のバンドメンバーはそれだけ、メンバーが増えれば増えるほどひとりさんの不安は増すのだから、好都合だと間違いなく言える。ボーカル不在なのも、ひとりさんのギターの腕があればそれほど大きな問題にはならないはずだ。

 

 いそいそと楽器の準備をする二人を横目に、ひとりさんが真剣に楽譜を読み解いていく。わたしはもうギターを演奏しなくなって数年が経つ、楽譜の読み方なんてちんぷんかんぷんだ。ひとりさんだけが理解できてわたしにはわからない、なんとも新鮮な感覚だけど、どこか誇らしい気持ちにもなれた。

 

『どうでしょう、ひとりさん。弾けそうですか?』

 

『うん、この曲なら大丈夫そう。でも、ボーカルいないぶんギターの私が演奏頑張らないと』

 

『大丈夫ですよ。ひとりさんの演奏を三年間聴き続けたわたしが保証します。ひとりさんのギターはスゴいんですから』

 

『えへへ、そ、そうだよね!もう一人の私が言うんなら間違いないっ』

 

 ひとりさんも、ことギターのことに関してはハキハキと喋ってくれる。後は自信を持って演奏に臨んでもらうだけ。ソロであれほど素晴らしいひとりさんのギターに、虹夏さんのドラムとリョウさんのベースが加わったらどんな演奏になるのだろう。不覚にも、わたし自身がワクワクしてしまう。

 

「よし、じゃあ本当に時間もないし、早速だけど通しで合わせやっちゃおっか!リョウはともかくとして……ひとりちゃんはどう? すぐいけるかな?」

 

「あっはい、いけます!」

 

 虹夏さんとリョウさんは準備万端。ひとりさんも、慌ててギターをアンプに差し込んでは強く頷いた。ついに練習とはいえ、ひとりさんの初めてのバンド活動がここで行われるのだ。

 

『演奏聴いたら、二人とも驚いてくれるよね。……それに、虹夏ちゃんは、私がギターヒーローだって気付いてくれるかも』

 

『ええ、きっと拍手喝采です』

 

 先程、虹夏さんに自分がギターヒーローだと告げなかったのには、そんな理由があったらしい。ひとりさんからの粋なサプライズをしようという訳か。わたしも虹夏さんにはもはや感謝の気持ちでいっぱいだから、驚き喜んでくれる姿を見れれば嬉しいと、そう肯定した。

 

「それじゃ、二人ともいくよ!」

 

 虹夏さんの元気な掛け声の後、ドラムスティックのカウントを合図にして三人の演奏は開始された。わたしも、ひとりさんの邪魔をしないように、意識の片隅に沈んではただ音色に耳を傾ける。

 

 最初はいつも通りだと思った。ひとりさんの力強くも繊細なギターが、演奏を導くのだとわたしは信じていた。でも、それは最初の数秒だけで、すぐに違和感を感じ取ってしまう。

 

 虹夏さんのドラムとリョウさんのベースが作り出すリズム、それがひとりさんのギターに置いてかれてしまっている。いや、違う、これは逆なんだろう。ドラムとベースが置いてけぼりになってしまうくらい、ひとりさんのギターが突っ走ってしまっているんだ。リョウさんと虹夏さんが息を合わせ、必死にひとりさんに合わせようとしているからこそ、ギリギリ成り立っている危うい合奏。

 

 ひとりさんも、自分のギターが調和を乱している自覚はあるのだろう。ベースとドラムのリズムになんとか寄り添おうとするも、どうしても虹夏さん達と呼吸が合わない。ひとりさんは、誰かと息を合わせて演奏する術など知らないのだから当たり前だ。わからないのに合わせようとするから、ギターを弾く手もぎこちなくなる。

 

 この演奏には、轟く雷鳴のようなギターの旋律を奏でるギターヒーローとしての姿なんてどこにもなくて。引っ込み思案で、いつも恐怖から周囲を窺っている、後藤ひとりとしての演奏しか残っていなかった。

 

「うん、良いんじゃないかな!」

 

「かなり走り気味だったけど、技術は悪くないと思う」

 

 わたしが違和感の原因を咀嚼している間に、いつの間にか演奏は終わってしまっていた。虹夏さんとリョウさんは、いつもの十分の一の実力も出せてないであろうひとりさんのギターにも肯定の意見をくれていた。

 

 二人にとってひとりさんはあくまでサポートギター。そこにプロ級の腕前を求めるわけがないのだから自然な反応だ。そう、今回の演奏だって一応曲としては成り立っていた。危ういひとりさんのギターを二人が支える形で、高校生バンドとしては聴けるレベルの演奏ではあったのだ。

 

 わたしとしても仕方ないことだと思うし、ひとりさんへの落胆なんて欠片もない。むしろ、この事態を予期せずに無責任な言葉を何度も吐いた自分に、本当に嫌気が差す。バンドだって、誰かとの共同作業なんてことは分かりきっていたはずなのに。ギターなら、ひとりさんは輝けるのだと勝手に期待した結果がコレだ。

 

 仕方がないなんて思えるのは、わたしの感情だけだ。わたしという存在が生まれてから、ひとりさんが現実と理想のギャップに悩まなかった日はなかった。だから、理想のままでいられるギターだけがひとりさんの心の支えだったはずなのに。そのギターにすら、現実を叩きつけられてしまったひとりさんの心中なんて、想像したくもなかった。

 

 でも、わたしだけはひとりさんと向き合わねばならない。ひとりさんをここまで連れてきた責任を、果たさなくてはいけない。

 

『ひとりさん……あ、あの、え、ちょっと!?』

 

 意を決してひとりさんに声をかけるも、わたしの声なんて聞こえていないようで。ひとりさんは押し黙って俯いたままギターを壁に立てかけると、不意にふらふらと幽鬼のように歩き出す。

 

 そして、ひとりさんはスタジオに備え付けてあった燃えるゴミ箱に、その身体をすっぽりと収めたのだ。

 

「ひ、ひとりちゃん!?ダメだってそんなところ入っちゃ、汚いからぁ!!?」

 

「もしかして、パフォーマンスの練習?」

 

「そんなわけないでしょ!」

 

 虹夏さんとリョウさんはひとりさんの突然の奇行に、かなり混乱している。そして、わたしも現状に理解が追いついていなかった。身体は狭い場所に押さえつけられ、ひとりさんの膝しか目に入れることができない。自己嫌悪で、頭もなんだか上手に回らない。

 

「やややややや、やっぱり、私には無理です!!」

 

「無理って……もうすぐ本番始まっちゃうよ!?」

 

 虹夏さんがえらく慌てている。せっかく奇跡的に拾ってきたサポートギターまでもが、理由不明のまま逃げ出そうとしているのだからその心中は穏やかじゃないだろう。どうしよう、もうわたしが表に出て理由を説明するしかないのだろうか。でも、今わたしが代わろうものなら、ひとりさんは今日二度と表に出てこないだろうし、すなわちライブの失敗を意味する。それだけは避けたい。

 

「わ、私の下手くそギターで二人の足を引っ張って……こんな演奏、誰かに聞かせられません!!」

 

「下手くそって……全然悪くなかったよね、リョウ?」

 

「うん。他のベースじゃ合わせるの難しいかもだけど、私ならよゆう」

 

 虹夏さんも、そして交流して間もないリョウさんですら、彼女なりのやり方でひとりさんをフォローしようとしてくれている。だから、わたしだって今すぐにでもフォローをしなければいけないことはわかっている。

 

 だが、わたしがどんな言葉をかければ良いのかがわからなかった。理想と現実のギャップで苦しむひとりさんに、ひとりさんの理想で生まれたわたしがどんな顔をして、どんな言葉を発せばひとりさんに響くのかがちっともわからない。

 

「それに、うちのバンド見にくるの多分、あたしの友達だけだから!普通の女子高生に演奏の良し悪しなんてわかんないって。だから、安心せい!」

 

「でも、私のギターが足を引っ張ってるのは事実ですから。こんなんじゃお客さんの目線にも耐えられませんし……ごめんなさい」

 

 なんとかライブにひとりさんを出そうとしてくれるリョウさんと虹夏さんの援護も、ピタリと止まってしまう。それは、ひとりさんの声が震え、嗚咽が混ざってしまったからだろう。誰が見ても、限界なのは明らかだった。

 

 わたしの視界に広がるひとりさんの膝下に、ぽたりと一つ涙の雫が落ちる。違う、こんな表情をひとりさんにさせたい訳ではないのに。なんでもできるようで、中学の時のように肝心なとこでひとりさんを傷つけることしかできない。わたしは、そんなわたしが大嫌いだ。

 

「けど……」

 

「虹夏、無理強いするもんじゃない」

 

「で、でもさ……っ!」

 

 リョウさんが言うように、無理強いはいけない。ひとりさんが無理だというのなら、わたしが代わってあげねばならない。ひとりさんの代わりに頭を下げて、断って。そうしてまた傷つけるのだろうか。こんなにも良い人達を。

 

 ありのままのひとりさんを受け入れて、こんなにも優しい言葉をかけてくれる人達に、ひとりさんへの引導を渡すのがわたしの役目なのだろうか。

 

「あの、本当に嬉しかったんです……声、かけられて。バンドはずっと組みたいと思ってたから。……でも、いざやってみたらこんな風に、ダメダメで。やっぱり私にはバンドなんて無理だったんです。こんな、カッコ悪い私じゃ」

 

 

「そんなことないよ!!」

 

 

 そんな時、一際大きい虹夏さんの叫ぶような声が防音のスタジオ内に響き渡る。その力強く、どこか暖かみを感じる声音が、汚泥のような意識に沈もうとしていたわたしを現実へと引き戻してくれていた。

 

「ひとりちゃんは、カッコ悪くなんてない。あたしは知ってるよ。ひとりちゃんが誰かと目も合わせられないほど人見知りなのに、真剣にあたしの話を聴いてくれたこと。怖いはずなのに、こんな知らないライブハウスまで来て一緒にライブしようとしてくれたこと。ちゃんと知ってるから!」

 

「……」

 

「だからさ、こんなところで諦めないであたし達とバンドやろうよ。今日だけじゃなくて、これからもずっと一緒に。リョウも、そう思うよね?」

 

「うん。もしひとりが野次られたら、その時は私がベースでぶん殴るから」

 

 ああ、そうだ、虹夏さんの言う通りだ。わたしは、ひとりさんのギターが上手だったからライブに出て欲しかったわけじゃないだろう。確かに、カッコよくギターで会場を沸かせて欲しいというのも嘘ではないけれど、それは決して本質じゃない。

 

 虹夏さんが今日のひとりさんの努力を知っているように、わたしも今までのひとりさんの努力を知っている。誰かに認めて欲しい、ただその一心で全てをギターに捧げたひとりさんの日々が報われて欲しいと思ったから、わたしはひとりさんにライブに出て欲しかったんだ。わたしが伝える言葉なんて、ただそれだけでよかった。

 

 虹夏さんとリョウさんがこんなにも、ひとりさんの手を引いてくれている。なら、後はわたしの仕事だろう。ひとりさんの側に寄り添い、その背中をほんの少しだけ押してあげる。逃げ道になるだけでなく、わたしにはそういう役目もあるのだと、そう信じられるような気がした。

 

『ひとりさん』

 

『わ、私……もう一人の私に、カッコよくライブに出るところ見せたかったのに! スゴいっていつも褒めてくれたのに、ギターも全然上手く弾けなくて……っ!』

 

『いいんです。そんなことはいいんですよ、ひとりさん』

 

 やっぱり、わたしの言葉がひとりさんのプレッシャーになっていた。わたしの些細な言葉を覚えて、引っ込み思案なのにその言葉を必死に、こんなに潰れそうになりながらも守ろうとしてくれている。こういう人だったから、喜んでわたしも陰になろうと思ったんだ。

 

『今日言ったように、わたしにとってひとりさんはいつだってカッコいいんです。ギターが上手く弾けなくても、ありのままで……無理をする必要なんかないんです』

 

『こんな、ゴミ箱の中で現実逃避してる私でも?』

 

『はい……ひとりさんがわたしのために演奏してくれたことを、わたしも知っていますから』

 

 そう、伝えるのはこんな簡単なことでよかったんだ。致命的にコミュ症だけど、誰よりも他人の心に敏感なひとりさんが、ギター関係なくわたしは好きだということを。ただ、それだけで。

 

『虹夏ちゃんもリョウさんも、もう一人の私じゃなくて私のために、こんなに優しい言葉をかけてくれてるんだよね……』

 

『ええ、そうですね』

 

『……私、逃げたくないな。虹夏ちゃんとリョウさんと一緒に、バンドがしたい』

 

 わたしというプレッシャーが後押しへと変われば、ひとりさんの覚悟が決まるのもまた必然だった。こんな風に、自分を受け入れてくれる誰かとバンドを組むのがひとりさんの夢だったのだから。わたしに気兼ねなんてせず、ひとりさんには夢を叶えてほしい。

 

『……でも、私だけじゃ勇気が足りないから。だからもう一人の私に、ずっと側で応援して欲しい。もう一人の私の声があれば、私でも困難に立ち向かえる気がする!』

 

『もちろんです。だって、わたしはひとりさんのヒーローですから』

 

 わたしが生まれた日、ひとりさんと交わした約束を噛み締める。ひとりさんが望む限り、わたしは最高にカッコいいわたしでいるべきなんだ。それを二度と忘れぬようにしよう。

 

 わたしの言葉で決心が固まったのだろう。ひとりさんはようやく立ち上がり、ゴミ箱という名の殻から自分を解き放った。しかし、本当にゴミ箱の中が空でよかった。さすがに、ひとりさんの最初の晴れ舞台をゴミで薄汚れたジャージで行うのはあまりにも悲しすぎる。

 

「あっあの! 私……ライブ出ます。出たいです!!」

 

「ホント!?よ、よかった〜……一時はどうなることかと。じゃあ、これでひとりちゃんもバンドメンバーの一員だね!」

 

「私のおかげ」

 

「そこ、あんまり調子に乗らない!」

 

「え、えへへ……」

 

 虹夏さんが迎え入れてくれて、リョウさんがおどけるように胸を張る。そんな光景に、ひとりさんの顔にも笑みが溢れていた。ひとりさんが初めて作ったバンド仲間で、これから友情を深めていく友達。わたしは生涯そんな存在を作ることはないだろうから、ひとりさん達の関係がとても眩しく思えた。

 

「結束バンドさん、そろそろ出番ですけど〜」

 

 ひとりさんの説得にかなりの時間を使ってしまったのか、扉の外からスタッフさんのそんな声が届いてきた。もう練習する時間はなく、これからぶっつけ本番で三人はライブに臨まなくてはいけない。しかし、結束バンドのみんなならきっと……結束バンド?

 

「あの、結束バンドって……?」

 

「私達のバンド名。ぷっ、傑作」

 

「ダジャレ寒いし、絶対変えるから!」

 

「かわいいよね?」

 

「あっはい」

 

 なにやら悶えている虹夏さんには申し訳ないけど、どちらかといえばわたしもリョウさん寄りの意見。結束バンド、語感がかわいいし、仲睦まじい感じが今の三人にぴったりだと思う。これからも、ぜひ結束バンドのままでいて欲しい。

 

「そういえば、ライブ出る前にひとりちゃんを何て紹介するのかだけ決めておかないと。本名でいいかな?」

 

「い、いや、それはちょっと……」

 

「じゃあ、あだ名とかはないの?」

 

「あっ、中学ではずっと後藤さんでした。あだ名で呼び合うほどの親しい交友関係は持ったことがなくて……」

 

 ひとりさんの中学校生活はギターにずぶずぶで、学校ではわたしが表に出ることがほとんどだったから、あだ名なんて存在するはずもない。それどころか、三年のバンド結成事件以来は、名前を呼んではいけない人みたいな扱いすら受けてしまっている。

 

「ひとり、ひとりぼっち……ぼっちちゃんは?」

 

「またデリケートなところを……」

 

「ぼぼぼぼぼっちです!あだ名なんてつけてもらったの初めてで、嬉しいです!」

 

「あたしなんか涙出てきたよ……」

 

 リョウさん命名のあまりにもデリカシーに欠けたあだ名にも、ひとりさんはキラキラとした笑みで何度も頷いていた。そういう気安い関係に憧れていたんだろう。ひとりさんが満足ならわたしとしてはそれでいい。でも、よりにもよってぼっちちゃんとは。不覚にも、わたしもなんだか涙がこぼれ落ちてしまいそうだった。

 

「よし、じゃあぼっちちゃん!今日は技術は二の次。上手に弾けなくても楽しく弾くことだけは心がけよう?音って、とても感情が表れやすいから」

 

「は、はい!」

 

「それじゃ、リョウ、ぼっちちゃん。行こうっ!!」

 

 虹夏さんの号令に、リョウさんは悠然と、ひとりさんは控えめに頷いて。ライブへと赴くためにスタジオを後にする。さぁ、わたしも気合いを入れよう。ひとりさんがライブへと立ち向かうために、わたしの応援が必要不可欠と言ってくれたのだから。

 

 

 

 

 本番のライブの出来は正直、良いものではなかった。合わせ練習よりもさらにクオリティは低下して、ギリギリ及第点を貰えるかどうかの演奏にしかならなかった。

 

 原因としてやはり、ひとりさんのギターだろう。ひとりさんはいざステージに立つと、お客さんの視線が怖くて目を開けることすらできなかったし、わたしが一瞬でも声援を止めれば、ぶっ倒れてしまいそうな極限状態で演奏を行っていた。視覚も聴覚もめちゃくちゃ。そんな状態で虹夏さん達と息を合わせられるはずもない。曲として成り立っていたのは、リョウさんと虹夏さんの必死な支えによる賜物でしかない。

 

 でも、それで良いのだろう。音には感情が表れやすい。虹夏さんの言葉を借りるのなら、わたしは今日の演奏ほど、ひとりさんの音から感情を強く感じ取ったことは今までなかった。誰かと一緒にメロディーを奏でる喜び、自分は一人ぼっちではないのだという安心感。ひとりさんがライブの幸せを噛み締めていたことが、痛いほど伝わってきた。だから、これ以上今日という日にわたしが望むものなんてない。

 

 技術だって、これから回数を重ねていけばきっと取り戻せるはずだ。ひとりさんのギターの才能と努力は、誰にだって負けていないのだという自負がわたしにはある。だってわたしは、今日という日がひとりさんの伝説の始まりであり、バンドスターへの道のりの第一歩だと、一つも疑っていないのだから。

 

「ミスりまくった〜!」

 

「MC滑ってたね」

 

 ライブ後の控え室、虹夏さんとリョウさんが青春の汗を拭いながら笑い合う。対して、ひとりさんはパイプ椅子に座ってそんな二人をぼんやりと眺めているだけだった。二人に混ざってくればいいのにと声をかけようかとも思ったけれど、どこかひとりさんが余韻に浸っているような、そんな邪魔し難い雰囲気を感じて。わたしも二の句が継げれずにいた。

 

『ね、もう一人の私』

 

『どうしました、ひとりさん』

 

 不意に、ひとりさんがわたしに声をかけてきた。その声が真面目で、ひとりさんとは思えぬほど芯の通ったものだったから、驚いてしまう。

 

『私、絶対コミュ症治してギターヒーローとしての力を発揮してみせるから。虹夏ちゃん、リョウさん、結束バンドのために。……だから、一番近くで見てて、もう一人の私』

 

『はい、必ず。……最後まで、ずっと見守っていますよ』

 

 コミュ症を治す。簡単なようで、ひとりさんにはあまりにも大きい困難としてそれは立ちはだかるだろう。でも、ひとりさんは決意したのだ。わたしに代わって逃げるのではなく、自ら困難にぶち当たっていくことを。ならば、わたしはその選択を尊重しなければいけない。見守ろう。ひとりさんがわたしを必要としなくなる、その瞬間まで。

 

『ん、ひとりさん?……眠っちゃいましたか』

 

 ひとりさんの成長に感心していると、いつのまにか身体の主導権がわたしへと移っていた。きっと、精神的な疲労が限界を迎えてしまったのであろう。かつてないほど他人と喋った上で、初めてのライブまで経験した。ひとりさんにとっては長い一日だったはず。今日はこのままゆっくりと心を休めて欲しい。

 

 幸いにも、ライブは終了して後は解散するだけだからわたしでも問題ないはずだ。虹夏さんとリョウさんに挨拶をして、次からもよろしくとお願いして。そして、帰ったらひとりさんの身体もゆっくりと休ませてあげよう。

 

「虹夏……ちゃん。リョウさん、今日は本当にありがとうございました!」

 

「おっ、ぼっちちゃんお疲れ様!そんな畏まらなくてもいいって、あたし達もうバンドの仲間なんだし!」

 

「私は畏まられるの、嫌いじゃないけど」

 

「こらこら」

 

 帰る前に挨拶をと、虹夏さんとリョウさんに近づいては軽く頭を下げる。危うく虹夏さんとそのまま呼んでしまいそうで危なかった。この結束バンドはひとりさんの居場所。わたしが中に入って荒らしてしまうわけにはいかない。できる限りひとりさんのフリをする。公園の時のように、わたしの自我を出すわけにはいかないから。

 

「あの、バンドメンバーに誘っていただいて本当に嬉しかったです。……だから、これからわたしも結束バンドとして頑張っていきたいな、なんて」

 

「うん、一緒に頑張ろうね!よーし、じゃあ今からぼっちちゃんの歓迎会兼ライブの反省会だー!!」

 

「えっ」

 

 歓迎会、それはまずい。虹夏さんのことだから、きっとどこかのお店でそれはもうひとりさんを手厚く歓迎してくれるだろう。しかし、その歓迎されるべきひとりさんはもう意識の奥底ですやすやと眠っている。叩き起こすなんて可哀想だし、そもそもわたしはひとりさんの意識にそこまで干渉する手段がない。

 

 わたしのようなバンドとなんの関係もない朴念仁が歓迎を受けたところで、ひとりさんのためにも結束バンドのためにもなりはしない。絶対に断らねば。

 

「ごめん、眠いからもう帰る。またね、ぼっち」

 

「さようならです……?」

 

「えっ、ちょっとリョウ!?……もー自由人なんだから」

 

 話の流れをぶった斬って、リョウさんは楽器をさっさと片付けてはあっという間に控え室から出て行ってしまった。気の赴くままに行動するリョウさんと、呆れながらもそれを受け入れている虹夏さん。二人の信頼関係が見て取れる一面だった。しかし、これはわたしにとっても好都合。この流れのままわたしも断って、帰路に着くとしよう。

 

「それで、ぼっちちゃんはどうかな歓迎会。リョウも居なくなっちゃったし、今日はあたしが奢ってあげちゃうよ!」

 

「あー、ええとですね……」

 

 虹夏さんが期待を込めた視線でこちらの目を見つめてくる。ひとりさんのようにこの目から顔を背けることができたら、わたしはどれほど幸せだっただろうか。断るべきなのはわかっている。しかし、今日わたし達の窮地をいくつも救ってくれて、その上でここまで良くしてくれている虹夏さんの厚意を、こんなわたしが無碍にすると考えるとあまりに恐れ多い。

 

 優先すべきなのは虹夏さんではなくひとりさん、そう自分に言い聞かせる。断れわたし、断るんだわたし、断るべきなんだわたし。

 

「ぜ、是非参加させてください」

 

 わたしは優柔不断のバカで、愚か者だった。わたしの長い一日はまだ、終わらない。

 



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拗らせ系匂わせ厄介ファン、もうひとり

皆様、あけましておめでとうございます。新年からも、自分のペースではありますがドシドシ投稿していきますので。どうか、拙作をこれからも応援し続けてくださると幸いです。


 

「それでは、ぼっちちゃんの結束バンド参加を祝して〜……乾杯っ!!」

 

「か、かんぱい、です……」

 

 カツンとグラスを突き合わせる音が響く。駅前のファミレス。テーブルに並べられた手軽につまめる軽食達。そして、対面に座り満面の笑みを浮かべる虹夏さん。目の前の光景とその感覚全てが、わたしには酷く遠い世界の出来事のように思えた。正直、これが夢であって欲しいと今でも思っている。

 

 いや、わたしにもわかってはいるのだ。本人不在でひとりさんの歓迎会が行われているこの現状は間違いなく現実であり、その原因がわたしの脆弱な意思にあることくらいは。この窮地を乗り切るために、わたしはひとりさんのフリを貫き通す必要があることだって当然理解している。しかし、それが困難に思えるから、こうして不安になっている訳だ。

 

 わたしがひとりさんの代わりに誰かと人付き合いをした回数は数え切れないけれど、ひとりさんのフリをして誰かと関わるなんて案件は初めてだった。もちろん、ひとりさんのことなら誰より理解できている自信はある。理解しているからこそ、わたしのような奴にひとりさんを真似できるとは思えないのだ。

 

 ひとりさんは引っ込み思案から自己主張をあまりしないけど、感受性が強く感情表現も豊かな優しい人だ。時折見せてしまう奇行にしたって、それらの要素の裏付けと言える。対してわたしといえば愛想笑いだけ上手で、その本質は淡白でひとりさんに関わる事柄以外は大して関心もないような人間。真似できるとは思えないほどに、別人が過ぎる。

 

 今だってそう。笑みを向ける虹夏さんに対して、気を抜いてしまえば愛想笑いを浮かべてしまいそうだった。違う、ひとりさんは愛想笑いなんてしない。こういう時は、ただ俯いたままに持っているグラスを震わせてしまっているような、そういう人間なんだ。わたしの演じるひとりさんの解像度が低過ぎる。

 

「そんな緊張しないで。反省会なんて言っちゃったけど、今日はぼっちちゃんと色々お喋りして、仲良くなれたらなーってだけだから!」

 

「は、はい……」

 

 挙動不審なわたしの様子を虹夏さんはあまりにも都合よく解釈してくれた。確かに、コンビニに行くのすらわたしに任せるひとりさんなら、誰かとファミレスなんて緊張するに決まっている。結果オーライの産物ではあれど、人見知りしがちな後藤ひとりという印象を虹夏さんに与えられたのは大成功だ。このまま、なんとか今日という日を乗り切ろう。

 

 ドリンクバーで注いできたコーラのグラスを一気に呷る。そうすると炭酸がパチパチと弾けて、わたしの口内で暴れ回って痛かった。コレは罪の味、バカなことをした今日のわたしを戒めてくれているような気がした。

 

「ぼっちちゃん、今日はありがとね」

 

「えっ、いや、それは……どちらかと言えばわたしのセリフのような気がしますけど」

 

 不意にかけられた虹夏さんの感謝の言葉に、わたしはつい顔を上げて虹夏さんの表情を窺ってしまう。ひとりさんのように振る舞うことを心がけつつも、この疑問は確かにわたしの本心だった。サポートギターを請け負った事実はあれど、わたしとひとりさん共にグダグダで迷惑をかけてしまっている。その上でバンドメンバーにも入れてもらい、こんな歓迎会すらも開いてもらって。どう考えたって、改めて礼を言うのはわたしのように思えた。

 

「あたしね、今日ずっと不安だったんだ」

 

「不安……ですか?」

 

「うん。結束バンドの初ライブがあたしの夢の第一歩だー、なんて意気込んでたら急にギターの子が辞めちゃうんだもん。……ライブ台無しになっちゃうとか、お姉ちゃんの期待を裏切っちゃうかもとか、色々考えちゃってね。悔しくて、申し訳なくて……気付いたらライブハウス飛び出しちゃってたんだ」

 

 住む世界がおおよそ違ってしまっている、ひとりさんと虹夏さん。でも、そう見えるのは表面だけで、実は似通っている部分ばかりだったのかもしれない。二人とも、今日というこの日までを音楽に捧げていて。誰かの期待を裏切ってしまわぬように、不安を隠しながら夢への第一歩をがむしゃらに踏み出していた。本当に、この人がひとりさんを見つけてくれて良かったと思う。

 

「正直、ギター探しなんてダメ元で諦めかけてたんだけど……そこに、ぼっちちゃんがいてくれた。一緒にバンドを組んでくれて、あたしの不安なんて吹っ飛ばしてくれたんだ。だから、ありがとう!」

 

「いえ、わたしは……」

 

 わたしは虹夏さんに、ろくな返事をすることができなかった。伝えたい言葉は山ほどあった。今日という一日への労い、バンドを組んでくれたことへの感謝、これからの未来への希望。しかしその全てが、わたしには口にする権利がないように思えたのだ。だって、わたしは今日のライブ成功の立役者であるひとりさんではないのだから。

 

 わたしはこの歓迎会に来たことを心の底から後悔した。虹夏さんの感謝の言葉も、この温かな表情と感情も、本当はひとりさんが受け取るべきはずだったものなのに。不可抗力とはいえ、それを横取りしてしまっている事実に動揺してしまう。いい加減、自覚しなくてはいけない。わたしが表に出るという行為は、ひとりさんの人生を削り取ってしまう可能性を孕んでいることを。

 

 虹夏さんには申し訳ないが、今日はあまり喋らずに粛々と過ごさせてもらうことにしよう。ひとりさんのフリをするという意味でもそれは正しいのだし、心苦しいだとか気まずくなるだとか、そんなわたしのつまらない意思は無視すべきなんだ。わたしの役割はこの時間を無難に過ごし、虹夏さんの言葉を一つ残らず記憶してひとりさんに伝えること。ただ、それだけでいい。

 

「そうだ、ロイン交換しようよ! これから結束バンドの仲間として、連絡取り合うことも増えるだろうし」

 

「わ、わかりました」

 

 虹夏さんの提案により連絡先を交換する運びとなったので、ひとりさんの女子高生にしてはあまりに飾り気のないスマホを取り出して操作する。ロインの交換方法なんてひとりさんが覚えているのか怪しいし、その過程でどんなバグを引き起こすかもわからない。こればっかりは対応したのがわたしでよかったのだろう。後悔ばかりの歓迎会で、ようやく自分の存在意義を見出せたような気がした。

 

 メッセージアプリを開き友達一覧を表示すると、そこにあるのはひとりさんの家族とわたしが活用しているクーポンの類だけ。ここにようやく、ひとりさんと同年代の女の子の名前が刻まれることになるのだ。ひとりさんもきっと、大いに喜んでくれるに違いない。

 

「これで良しと。ついでに、ギターヒーローさんのURLも送っとくね!」

 

「は、はい。ありがとうございます……」

 

 晴れて友達一覧に登録された虹夏さんとのトーク画面に、わたしが誰より見慣れているであろうアカウントが共有されていた。ギターヒーロー、ひとりさんの努力と才能と情熱の証。ひとりさんだと気付いてもらうことはできなかったけれど、虹夏さんがそれを知ってくれているのはどうしようもなく嬉しいことで。だから、ついついわたしの口も綻んで軽くなってしまう。

 

「虹夏さ……虹夏ちゃんは、ギターヒーローさんの演奏が好きなんですね」

 

「うん!あたし達とあんま歳変わらないはずなのに、もうすっごく上手くて!きっと想像もつかないほどたくさん練習したんだろうなぁって、尊敬してる。……まぁ、ネーミングセンスはちょっと痛いけど」

 

「えっ」

 

 ギターヒーローに至るまでのひとりさんの過程。それが決して楽なものではなかったのだと、虹夏さんがわかってくれているのは大変喜ばしい。しかし、その後の発言は一体どういう意味だろうか。ギターヒーローは動画投稿を始めるに当たって、わたしとひとりさんが一緒に考えたハンドルネーム。どうせ匿名なのだから、最高にカッコいい名前にしようと悩みに悩んだ末に生まれた最高傑作だ。それがまさか、痛いなんてことはないはず。

 

 ヒーローは強さと優しさの象徴で、誰かの救いとなってくれる偉大な存在だ。ひとりさんのギターにピッタリな呼称だと思うし、ひとりさんが成長した暁にはきっとその名前に相応しいほどのバンドマンになっているはずだ。うん、やっぱりどう考えたって最高にカッコいいに決まっている。

 

「ギターヒーロー、カッコよくないでしょうか?……わたしはけっこう好きなんですけど」

 

「そ、そうなんだ。中学男子みたいで、あたしはあんまり……かなぁ?」

 

 わたしと虹夏さんの間で微妙な空気が流れる。結局、虹夏さんから同意を得られることはなかったが、これは仕方がない。たまたまわたし達と虹夏さんのセンスが致命的に合わなかったというだけのことなんだろう。きっと、リョウさんあたりに聞けば、最高にクールだとお褒めの言葉をいただけるはず。今度、ひとりさん経由で是非聞いてみたいものだ。

 

「でも、コメントは結構好きだなーあたしも!どの動画も『いつか、誰かに届きますように』って一言だけ。多くを語らない感じが、ミステリアスでカッコいいんだよねー」

 

「あー……そ、そうですね。良いと思います」

 

 その概要欄のコメントはわたしが書いているものだった。最初はひとりさんが書くべきだと思っていたのだけど、その内容があまりにもアレだったのでわたしがなんとか修正をさせたのだ。わたしがでしゃばらないといけないほどに、ひとりさんの書こうとしたコメントは酷かったから。

 

 匿名なのを良いことに、ひとりさんは概要欄で虚構の自分を作り上げようとしていた。やれイケメンの彼氏がいるだの、いつもクラスで愛されている人気者だのといった具合に。ギターヒーローに相応しい、陽キャでパリピな自分を演じて自己陶酔に浸るつもりだったのだ。もちろんそんな人格はひとりさんからも、ましてやわたしからもかけ離れているので嘘に塗り固められた妄言でしかない。そんなあからさまな嘘はひとりさんを苦しめるだけなので、なんとか説得したという次第である。そのお陰で、バレバレな嘘にドン引きする虹夏さんという悲劇を回避できたのだから、過去のわたしのファインプレーに拍手すら送ってあげたい気分だ。

 

 こういうのはシンプルな方がカッコいい。そう言ってひとりさんを説得したので、その短いコメントは一字たりとも変えることなく、今もギターヒーローの概要欄に表示されている。誰かに認めてほしいと、そんなギターを用いたひとりさんの叫びが誰かに届きますように。そんな意味だけを込めた、わたしのメッセージ。他の意味を込めたつもりはない、きっとその筈だ。

 

「ぼっちちゃんはさ、好きなギタリストさんとか居るの?」

 

「ちょっと待ってくださいね……考えますので」

 

「気になっただけでそんな重大な質問じゃないよ!? あはは、真面目だなぁぼっちちゃんは」

 

 そのまま音楽つながりで、結束バンドの新ギタリストであるひとりさんのルーツが気になったのだろうか。投げかけられた虹夏さんのそんな質問に、わたしはつい頭を悩ませてしまう。ひとりさんの私生活は常にギターと共にあるので、他のギタリストの演奏を動画等で見る機会も多い。しかし、それはあくまでひとりさんが彼等の技術を観察して少しでも吸収しようという練習の一環でしかない。だから、わたしはひとりさんがどんなギタリストを好んでいるのかが正直わからない。ひとりさんが特定のバンドやギタリストに入れ込んでいるのを見たことがないし、もしかしたらいないというのが真実なのかもしれない。

 

 では、わたしの方はどうだろうか。ひとりさんと一緒に多くの良質な音楽に触れてきたけれど、心の底から惹かれるようなことはなかったような気がする。やはりわたしにとっての音楽とはひとりさんのギターであり、敬愛するギタリストもひとりさん以外にありえなかった。そんな益体のないことを考えてしまったせいだろう。わたしの口はいつの間にか、好き勝手に動き出してしまっていた。

 

「その、詳細な名前とかは言えないんですが……わたしにいつもギターの演奏を聴かせてくれる人がいるんです」

 

「うんうん」

 

「いつもはその人が弾いているのを、わたしが勝手に聴いているだけなんですけど。わたしが失敗して落ち込んでたりすると言葉もなく気づいてくれて、応援ソングとか弾いてくれるんです。……本当はそういう曲が苦手なのに、いつも以上に優しい指遣いで、励ましてくれて」

 

「……」

 

「もちろん演奏自体もとっても上手なんですが。……なんでしょう。そういうわたしの心に寄り添った演奏をしてくれる度に、ああ、この人のギターが好きなんだなって。強く、そう想えるんです。……それで」

 

「ぼっちちゃんストップストップ!! その人が大好きなのはもう充分に伝わったから!」

 

 虹夏さんの制止の言葉により、わたしはようやく自分のしでかした過ちに気付くことになった。今日は粛々と無難に過ごすという役目はどこに捨て去ってしまったのか。わたしは詳細こそ伏せた状態とはいえ、ギターヒーローことひとりさんへの想いを赤裸々にぶちまけてしまっていた。こんなの、なんの疑いようもなく本日最大級のやらかしであることは明らか。いったいわたしは、どれだけ過ちを重ねたら気が済むのだろうか。

 

「いや、虹夏ちゃん……あの、これは違くてですね」

 

「今更恥ずかしがらなくってもいいよー。あたしはぼっちちゃんが沢山喋ってくれて嬉しかったし。その人のこと、大切に思ってるんだよね?」

 

「それは、そうなんですけど……!」

 

 虹夏さんの生温かい視線が、今のわたしにはあまりにも痛い。茶化してくれた方が、まだよっぽど取り繕う余地があっただろう。どんどん虹夏さんにひとりさんへの勝手なイメージを植え付けてしまっている。

 

 わたしが愚かなのは重々承知の上で、それでも一つだけ言い訳をさせてもらいたい。わたしもギターヒーローの、ひとりさんのファンなのである。だから、つい虹夏さんのようにわたしも語りたくなってしまった。ひとりさんの魅力はわたしが一番知っているのだと、どうしてもそう主張したかっただけなんだ。まぁ、それを踏まえたとしてもわたしの行動は厄介ファンの匂わせ行為でしかなく、どっちみち最低なのだけれど。

 

 そんな言い訳を重ねてみたところで、それを聞かせるべきひとりさんは今もすやすやと眠っているのだから無意味だ。それに、これだけやらかしたところで、わたしが謝ればひとりさんはその全てを許してくれるだろう。わたしのことなんて一切責めずに、慰めの言葉すらかけてくれるはずだ。その対応がますますわたしの精神を追い詰めるのである。

 

「いつもってことは身近な人なんだよね。家族の人? あっ、もしかしてぼっちちゃんの彼氏とか〜?」

 

「か、家族です! 恋人とか、いませんので……あの、どうかこれ以上はご勘弁を」

 

 虹夏さんの目が、ひとりさんの苦手な恋バナ大好きキラキラ女子高生のソレとなってしまっている。ひとりさんに恋人なんているはずもないし、家族だと否定するしかわたしに残された道はない。しかし、ひとりさんのギターは独学で身近に演奏をしてくれる人間がいないのが真実だ。もしもの時はお父さんをその立場に祭り上げるとして、これ以上話が膨らむと本当に収拾がつけられない。わたしは虹夏さんを拝み倒すようにして、そう懇願した。

 

「ごめんごめん、反応が面白くってつい。……ほんと、ぼっちちゃんは不思議だね」

 

「そうでしょうか……?」

 

「そうだよー。ライブ前はあんなに迷子みたいな顔してたのに、さっきは突然あたしのお姉ちゃんみたいな優しい表情するんだもん。びっくりしちゃった」

 

 わたしのひとりさんのファン匂わせ事件は終わりを迎えたとはいえ、虹夏さんに植え付けたイメージが消え去るわけじゃない。完全に虹夏さんは、ひとりさんとわたしの印象の違いを感じ取ってしまっているようだ。最初の懸念通り、わたしにはひとりさんの真似をするなんて土台無理な話だったのである。

 

「挙動不審ですいません……」

 

「ちがっ、そうじゃなくって! 褒めてるの。あたしはどっちのぼっちちゃんも好きだなって、そう思うから」

 

 そんな虹夏さんの言葉を、わたしは聞かなかったことにしたかった。そんなことを言われては、わたしはここに居て良いのだと。そんな錯覚を、覚えてしまいそうだったから。

 

 

 

 

「それじゃ、ぼっちちゃんまたね!」

 

「はい。さようならです……虹夏さん」

 

 ファミレスの入り口で虹夏さんと別れ、駅の構内へと向けて歩き出す。またねと返すことはできなかった。言葉にしてしまえば、本当にそうなることを望んでしまいそうで嫌だったから。

 

 歓迎会は結局、わたしの帰りの電車の時間ギリギリまで続けられた。あのやらかしの後はわたしの目立った失態もなく、無難に終えることができたと思う。積極的に話題提供をしてくれる虹夏さんに、ついついお喋りになってしまいそうになる口を抑えるのは大変だったけれど。わたしもひとりさんの奥ゆかしさとか、そういった遠慮がちな部分を少し見習うべきなのかもしれない。

 

「……あぁ、疲れました」

 

 わたしの長い一日もようやく終わりを迎えられそうだ。後はこの歓迎会の出来事を忘れないうちにノートに纏めて、残りの帰宅時間を勉強して過ごすだけ。明日から、ひとりさんの日常はとても慌ただしいものになるだろう。バンド活動に集中してもらうためにも、より安定した成績を出してひとりさんに安心してもらわねばならない。そう思えば、疲れた身体でも俄然やる気が湧いてくるような気がした。

 

「でも、楽しかったな」

 

 同年代の友達とファミレスに行って、一緒に美味しいものを食べて。趣味や好きなものについて楽しく語り合った。わたしにとっても得難い経験で、掛け値なしに楽しいと思える時間だったことは間違いない。

 

 ただ、わたしはそれを名残り惜しいとは思わない。あの時間が生まれたのがそもそもの間違いで、わたしには分不相応のものだから。駅ですれ違う、わたしとひとりさんの見分けなんて付くはずもないような、無関係な人々達。わたしの自我はそんな人達の前でのみ、その存在を許される。

 

 

 わたしはひとりさんに望まれて生まれ、ひとりさんの為に生きている。だから喜んで、ひとりさんが輝くための影になろう。これ以上、ひとりさんからなにも奪わぬように。

 



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第一回結束バンドメンバーミーティング+1

 

 わたしとひとりさん、両方にとって激動のものとなった即席ライブの翌日。わたし達は再びライブハウスSTARRYへと訪れていた。今日の朝、ロインのメッセージにて虹夏さんから早速『今後のバンド活動についてみんなで話し合おう!学校終わったらライブハウスに集合ね!』という連絡が届いていたからだ。

 

 このメッセージを見たひとりさんは大喜び。ひとりさんにとってはロインで誰かとやり取りをするのも初めての上に、放課後の予定を作るなんてのも未知の経験。メッセージを見て数分間放心したかと思えば、姿見の前に立ち鏡に映る自分の姿をわたしに見立てて、拝み倒してしまうほどのはしゃぎっぷりだった。当然、その喜びの前にはわたしのやらかしについての謝罪なんて些末事に過ぎず、すべて不問となっていた。

 

 そのひとりさんの喜びようはわたしにとって救いであり、昨日の歓迎会参加も無意味ではなかったのだと少しだけ自分を肯定する気になれた。しかし、あくまでそれはたまたま。今日はこのひとりさんの優しさに甘えず、ひっそりと目立たずにサポートをしていく所存である。

 

『ひとりさん、中入らないんですか?』

 

 下北沢の人混みにたびたび怯えつつも、無事STARRYにたどり着いたひとりさんは扉を開ける直前で停止してしまっていた。普段はこういう場所に赴くのもわたしの役目なのだが、ここはこれからひとりさんが何度も通うことになる場所。慣れてもらうためにもわたしは引っ込んでいたのだけど、ひとりさんへの精神的負担は大きいのかもしれない。

 

「私みたいな芋娘が一人で入ったら、絶対なんだこいつって目で見られるんだろうなって……。注目浴びるの嫌だし、もう一人の私を通さない皆の視線があまりに恐ろしい」

 

『今日は虹夏さん一緒じゃないですからね』

 

 ひとりさんが俯き猫背なのも、他人と顔を合わせようとしないのも、わたしが美容室に行っても前髪を切らせようとすらしないのも、全部他人の視線が怖いからだ。だから、視線が怖いから一人でライブハウスに入りたくないというのも理由として納得できてしまう。

 

 しかし、ひとりさんも今日から一端のバンドマン。ステージに上がる以上、わたしというフィルターを通さずに誰かの視線を浴びることは避けられない。今後のためにもここは安易にわたしが出ず、少しずつでもひとりさんの対人経験を上げていくべきだろう。

 

「うぅ、誰かと一緒に入りたい……」

 

『頑張ってひとりさん。わたしが居るんですから大丈夫、一人じゃありませんよ?』

 

「そう、私は一人じゃない。ぼっちだけどもう一人の私がいる。がんばれ私にはもう一人の私がいるよ……っ!!」

 

 ひとりさんもわたしの意図を汲んでくれたのだろうか、代わりたいとは言わずに自分だけで扉と向き合ってくれた。ドアノブを持つ手を震わせながらも、なんとか自分を奮起させて見事ライブハウスへと入店したのである。あのひとりさんが、自分一人だけで新しい居場所へと踏み出した。なんて目覚ましい成長なんだろう。

 

「おーいぼっちちゃん、こっちこっち〜!」

 

「ぼっち、近う寄れ」

 

「あっ、は、はい!」

 

 開店時間にはまだ程遠い時間ということもあり、店内にいる人はごく僅か。カウンター前の机を囲んでいる虹夏さんとリョウさんだけがひとりさんを認識し、温かく迎え入れてくれていた。ひとりさんの心配は杞憂で、誰もひとりさんを敵視したりなどはしていない。

 

 わたしを通さなくたって外の世界は厳しいばかりではないのだと。そんな当たり前を、この場所でひとりさんが少しずつ知ってくれればと思うのだ。

 

 

 ◇

 

 

「はい! ということで第一回結束バンドメンバーミーティング開催しまーす!拍手っ、パチパチパチ〜」

 

 号令と共に笑顔で拍手をする虹夏さん。それに追従しつつも無言でマイペースに手を叩くリョウさんに、本当に僅かにだけ反応して曖昧に頭を下げるひとりさん。今の一瞬だけで、結束バンドメンバーの人間性がどこか窺えてしまうというもの。ひとりさんの代わりに、わたしも心の中で精一杯の拍手を送っておいた。

 

「バンドをする上でメンバー同士の相互理解は必要不可欠!昨日の歓迎会はリョウいなかったし、今日は三人で交流を深めよう!」

 

「ぼっちのために、今日はこんなものを用意してきた」

 

『どこかで見たことあるようなの出てきた……!』

 

『小学生の頃、お母さんがたまに見てましたよね』

 

 リョウさんがどこからともなく取り出したのは、トークテーマがそれぞれの面に描かれた大きなサイコロ。ライオンのマスコットが特徴的で、サイコロで出たテーマに沿ってゲストが話す。確かそんな番組に出てきたもののはずだ。

 

 明らかにパクリではあるのだが、リョウさんのこの発案は大変ありがたい。ひとりさんの会話能力は言いづらいが、壊滅的。フリートークなんてさせようものなら終始無言になってしまいかねない。しかし、このサイコロトークのテーマに沿ってならひとりさんでもきっと、多少は喋れるはず。もしや、リョウさんもひとりさんが人見知りだということに配慮をしてくれたのだろうか。虹夏さんにリョウさん、この下北の地にはもしや聖人ばかりが溢れているのかもしれない。

 

「ほいっ。……まずは学校の話。略して、ガコバナ〜!」

 

「はい、ぼっちどうぞ」

 

「え、えぇっ!?」

 

 バラエティ番組のノリそのままに虹夏さんがサイコロを振り、提示された議題は学校の話。三人とも今をときめく女子校生なのだから極めて無難なテーマにも見える。だが、それは決してひとりさんには当てはまらない。ひとりさんの学校生活、それは常に黒歴史と隣り合っていると言っても過言ではないからだ。

 

『ど、どうしよう。……ここ最近の学校生活なんてもう一人の私に任せっきりだったし。は、話せることが何もない!? もう黒歴史開示でウケ狙いしか方法が……』

 

『落ち着きましょう、ひとりさん。二人とも同じ高校のようですし、ここは自分ではなくお二人の学校生活について聞いてみるのも一つの手かと』

 

 いくら二人の許容範囲が大きかろうが、いきなり黒歴史をぶち撒けられるのはあまりに刺激が強過ぎる。ひとりさんにアドバイスをして、ひとまずは聞きに回ってもらうことにした。虹夏さんとリョウさんは幼馴染と聞いてるし、話すネタにも困ることはないはずだ。

 

「えっと、あっ、そう言えば二人とも同じ学校……」

 

「そう!下高ー」

 

「二人とも家が近いから選んだ」

 

「あっ、二人とも下北沢にお住まいで……」

 

「ぼっちちゃん秀華高でしょ。家ここら辺じゃないの?」

 

 ひとりさんがいざ一言発してしまえば、会話はスムーズに進行していった。昨日の歓迎会でわたしが相槌ばかりでも会話を膨らませ続けた虹夏さんだ、流石のコミュ力といえる。リョウさんも初見のクールな印象ほど無口という訳ではなく、小気味良く喋ってくれていた。

 

 ただ、話題の方向性は自然にひとりさんの高校についてへと既に移っている。わたしはこれに非常に嫌な予感というか、この和やかな空気が壊れる確信のようなものすら覚えてしまっていた。

 

「あっいや、県外で片道二時間です」

 

「二時間!?えっ、なんで!?」

 

「高校は誰も自分の過去を知らない所に行きたくて……」

 

「はい、ガコバナ終了ー!!」

 

 わたしの嫌な予感は的中し、ひとりさんの地雷はあまりにも意外過ぎる方向から掘り返されてしまっていた。虹夏さんもまさか、通っている高校を尋ねただけで人の闇に触れることになるなんて思いもしなかっただろう。無事ガコバナはタブーと認識されて、強制中断される運びとなった。

 

 ただこれは仕方がないと思う。今のは誰も悪くないし、不幸な事故のようなものなんだから。それに学校への苦手意識にしたってひとりさんの明確な個性であることは確か。バンドメンバーの相互理解、という面ではそこまで悲観するような結果でもないはず。わたしくらいは今回の件をポジティブに受け止めねば。

 

『ご、ごめん。せっかくもう一人の私が手伝ってくれたのに、いきなり台無しにしちゃって……』

 

『謝らないでください。これはこれで悪くはないと思いますし……変に取り繕うと後々辛いでしょうから』

 

 わたしに合わせようと無理をすると大失敗するのは、中学三年のあの日の結果が何よりも雄弁に語っている。あの失敗の後、ひとりさんが意識を取り戻すのにはなんと三日もかかった。その時の恐怖は今でも忘れられないし、あの日の二の舞は絶対に犯さないと心に誓っている。ひとりさんはありのまま、自分のペースで成長していって貰いたい。

 

「す、すいません。高校でも基本一人なもので。その、楽しいお話とか一つも提供できなくて……」

 

「だ、大丈夫だって。ほら、リョウもあんまり友達いないし」

 

「うん、友達は虹夏だけ」

 

「えっ」

 

『リョウさんには虹夏ちゃんだけ。私にはもう一人の私だけ!つまり、私とリョウさんは仲間……この繋がりが、シンパシー?』

 

『い、いや、それはどうでしょうかね……』

 

 ひとりさんがリョウさんへと同類意識という名のトキメキを感じているが、わたしは同意できない。リョウさんの友達が虹夏さんだけというのは確かに事実だろう。だが、リョウさんの一人は明らかに、敢えてそうしているのだという空気がひしひしと伝わってくるからだ。

 

「休みの日は廃墟探索したり、一人で古着屋さん巡ったり……」

 

「違う……トラップだった」

 

 虹夏さんの補足でひとりさんもその絶望的な隔たりに気づいてしまったようだ。一人が好きな人と、仕方がなく一人でいる人は天と地ほども違う。コンビニにすらわたしに代わらないといけないひとりさんにとって、リョウさんの趣味は裏切りにも等しかったのだろう。その絶望は深いようで、両手で頭を抱えながら震え始めてしまっていた。

 

 わたしとしてもかける言葉が見つからない。というか、こうなってしまったひとりさんにはどんな言葉もしばらく届いてくれない。大抵、こういう状況になった時はわたしが代わりに表に出て話を引き継いだりするのだが、今はそれもできない。ひとりさんの再起動を待つしかない状況だ。

 

「昨日みたいに会話を楽しもうよ! ……今日のぼっちちゃんは闇が深いなぁ」

 

「え、昨日のぼっちは輝いてたの?」

 

「まぁ、昨日の歓迎会の時はそれなりに……今日の様子見る限り、ぼっちちゃんはこっちが平常運転ぽいけど」

 

「想像できない。私もピカピカぼっち見てみたかったかも」

 

 今の二人の会話、ひとりさんには聞こえてなかったようで本当に良かった。聞かれてしまったら、今日一日はわたしの裏に引っ込んでる可能性もあっただろう。幸い虹夏さんもひとりさんの生態を理解してきたようなので、このままわたしのことは過ぎ去った残像として忘れ去って欲しいものだ。

 

「それじゃ気を取り直して!次は好きな音楽の話、略して〜」

 

「オトバナー」

 

「お、おとばな〜……」

 

 虹夏さんが仕切り直すようにして、新たなトークテーマを提示する。ひとりさんもタイミングに合わせて再起動できたようで一安心だ。一つ目のトークからだいぶボロボロになってしまったが、ひとりさんもノリに辛うじて合わせるような連帯感も生まれている。着実に交流は深まっているのだから、わたしはただ見守り続けるのみだ。

 

「あたしはメロコアとか、いわゆるジャパニーズパンクかな」

 

「私はテクノ歌謡とか、最近はサウジアラビアのヒットチャートを少々……」

 

「絶対嘘じゃん……。ぼっちちゃんは?」

 

 二人ともさすが音楽を嗜んでる人間というべきか。音楽にわかのわたしではどんな曲か想像もつかないようなジャンルをスラスラと並べ立てている。後でひとりさんにどんな音楽なのか聞いてみるのも良いかもしれない。音楽についてわたしに教える時、ひとりさんはとても嬉しそうにするから。

 

 さて、ひとりさんの好きな音楽とはどういったジャンルなのだろう。今までわたしも知る機会がなかったから、純粋に気になった。

 

「あっその、青春コンプレックスを刺激する歌以外なら、なんでも……」

 

「ん、青春コンプレックス?」

 

 青春コンプレックスを刺激する歌。それは夏とか青い海、淡い恋だとかいったキラキラにコーティングされたワードで構成された爽やかな曲のこと。それはそんな青春とは無縁だったひとりさんを傷つけて止まず、だから苦手だということを主張しているのだろう。わたしには分かる。

 

 ただ、そんな事情が虹夏さんとリョウさんに伝わるはずがない。なんとかしなければ、また先ほどのような致命的なコミュニケーションエラーが発生してしまう。

 

『あの、他に好きな歌とかありませんか?虹夏さん達は青春コンプレックスなんて理解はできないでしょうし……ひとりさんがああいう歌苦手なのは痛いほどよく分かりますが。ここは一つ代案を』

 

 実際、わたしもキラキラ青春の歌が苦手だ。わたしが手に入れてはいけない青春を、いとも容易く手に入れるべきなのだと嘯いてくるから。そういう観点で言えばわたしも立派な青春コンプレックスなのかもしれない。悲しい歌ほど好きだった。ひとりさんの気持ちに寄り添えるような気がするから。

 

「ご、ごめん、そうだよね……。こんなのもう一人の私にしかわからないよね、えへへ。じゃ、じゃあ青春時代の鬱憤をバンドに叩きつけてる曲はどうだろう? これなら虹夏ちゃん達もきっと……!!!!????」

 

『ひとりさん、ですからわたしと会話しちゃったらダメですって! 虹夏さんとリョウさん、会話すべきは目の前の二人ですよ!?』

 

 しかし、またとんでもないコミュニケーションエラーが発生してしまっていた。虚空と会話するひとりさん、再びである。明らかに、中学生の時よりひとりさんのコミュ症は悪化してしまっている。昔はここまで酷くはなかったはずだ。そして、それがわたしのせいなのも言わずもがな。ここ最近、猛省するような出来事ばかりである。

 

 昨日に続いての大失態に、ひとりさんは沈黙してしまっている。この様子だと、顔面がある程度崩壊していても不思議ではない。虹夏さんとリョウさんの反応があまりにも恐ろしかった。

 

「ああ、ぼっちちゃんが今日も見知らぬ誰かと交信しちゃってる……」

 

「ぼっち、面白い。見ていて飽きる気がしない」

 

「だねぇ」

 

 しかし、わたしの恐れていたドン引きする二人の姿はそこにはなかった。虹夏さんはもはや慣れたと言わんばかりに、生温かい視線を向けていて。リョウさんは完全に珍獣を見て楽しむ観客のソレだったが、それでも穏やかに微笑んでくれていた。

 

 底抜けの善人な虹夏さんに、ちょっぴり変人なリョウさん。ひとりさんが輝けるのはこの二人のいる結束バンドに違いない。どうかこのまま、末永く関係が続きますように。

 

 

 ◇

 

 

「さて、それじゃ次はライブの話だね」

 

 あの後、たっぷり数分ほどかけてひとりさんは復活を果たした。それを確認すると、虹夏さんは何事もなかったかのようにサイコロを振り次のトークテーマを提示する。

 

 ライブについて。バンドとしては最も重要な議題。ここからが本格的なメンバーミーティングと言っても過言ではないだろう。

 

「今回はインストだったけど、次はボーカル入れたいんだ」

 

「あっ、そうなんですか……」

 

「ホントは逃げたギターの子が歌うはずだったんだけど、あの子どこ行っちゃったんだろう……心配だなぁ」

 

 バンドの花形であるギターボーカル。初ライブをなんとかやり過ごせたとはいえ、その人がいなくなってしまった影響はやはり計り知れない。その相手に対して憤るどころか、心配する素振りすら見せている虹夏さんはあまりにも人が良すぎやしないだろうか。

 

 しかしその逃げたギターさんがいなければ、ひとりさんもその虹夏さんに見つけてもらうことはなかった訳で。お騒がせなように見えて、わたしとしては感謝してもし切れない相手にもなっている。なんとも複雑な関係。叶うことはないだろうけど、一度その顔を見てみたかったかもしれない。

 

『逃げたギターの子……私と同じコミュ症だったのかな?』

 

『当日ドタキャンする大胆さを考えると、そうとは言い切れないような気もしますけど』

 

『そ、そうかも。もう一人の私がいなかったら、私なんて逃げることすらできずに人生終了まっしぐら……うう、本当にありがとね、もう一人の私!』

 

『いえいえ、ひとりさんの為ならなんのそのですよ』

 

 ひとりさんの感謝の言葉は心によく染みる。ただその一言でわたしは途方もない充足感を得られるのだが、その為に行動し過ぎればひとりさんの痕跡を表舞台から削り取ってしまう。この感情とは、バランスよく折り合いをつけねばいけないのが難しい。

 

「ボーカルまた探さなきゃ。あたしは歌下手だし、ぼっちちゃんは……だよね、ごめんごめん」

 

 虹夏さんの期待の視線に、ひとりさんがササっと逃れるのはあまりにも速かった。現状、舞台の上でギターを弾くのですら限界ギリギリ。そもそも、普段の音楽の授業や合唱コンクールをわたしに丸投げしている状態ではとても頷くことなんてできなかったんだろう。

 

「あっ、あの、リョウさんは……?」

 

「フロントマンまでしたら、わたしのワンマンになってバンドを潰してしまう」

 

「その湧き出る自信の源は何?」

 

『凄い自信、羨ましいな。……もう一人の私みたい』

 

『えっ、わたしってあんなに自信満々でしょうか?』

 

 確かにひとりさんからの頼み事は大抵なんだってこなせたが、そんな印象を持たれていたのは意外だ。わたしの心中はリョウさんのように自信に満ち溢れているどころか、そもそも自分自身という存在をあまり信用していない。だから、ひとりさんからの評価はどこかむず痒かった。

 

「そうだ!ボーカル見つけたら曲も作ろうよ、リョウ作曲できるし。歌詞に禁句が多いならぼっちちゃんが書けばいいよ」

 

『わ、私!?作詞なんて大役、私に務まるかな……』

 

『良いんじゃないでしょうか?ひとりさん文才ありますし、きっと素晴らしい歌詞が書けると思いますよ。いざとなったら、わたしもお手伝いしますし』

 

 お世辞でもなんでもなく、ひとりさんは作詞に向いていると思う。わたしが生まれるきっかけとなった作文コンクールしかり、ひとりさんは昔から文才にも恵まれていた。その上に、ひとりさん独特の世界観とユニークな言葉選びが合わされば誰にも真似できない歌詞が生まれるはず。表舞台に立つ必要もなく他人に怯えなくて済む作業だし、ひとりさんにピッタリの役割のように思えたのでわたしからも勧めてみることにした。

 

『もう一人の私が来てくれるまで、図書室通いを続けたのはこの日のための布石……!』

 

「うんうん、我ながらなんたる名案!」

 

 虹夏さんの中でひとりさんが作詞を担当することが確定したらしい。多少不安な部分もあるけれど、ひとりさんも乗り気なようだし口は挟まない。うまくいかなかった時の備えとしてわたしがいるんだ。ひとりさんには前向きになんでも挑戦していって貰いたい。

 

「で、虹夏は何するの?」

 

「……えいっ。次はノルマの話〜!!」

 

「堂々と流された」

 

 リョウさんの至極当然の疑問を無視してサイコロを振る虹夏さんからは、まるでひとりさんのような哀愁が感じられた。まぁ、虹夏さんにはこの結束バンドのリーダーかつ潤滑油という立派な役割がある。三人の仕事はきっと平等なのである、その筈だ。

 

「あっあの、ノルマというのは……?」

 

「昨日出たライブはブッキングライブって言うんだけど。バンド側には動員を保証するためのノルマが課せられてて、集客出来なかったら自腹なんだ。もちろん、ノルマ以上売れればお金は入ってくるんだけど……あたし達みたいな駆け出しバンドに集客力はあんまり期待できないし」

 

「な、なるほど」

 

『もう一人の私……つまりどういうこと?』

 

『つまり、バンドとして有名になるまではかなりのお金がかかるってことじゃないでしょうか』

 

 我ながらなんとも身も蓋もない結論を出してしまったものだけど、虹夏さんが言おうとしてる事はまさにこの金銭の話に違いない。そんな生々しい話を切り出さねばいけないほどに、バンド活動と金銭は切っても切り離せない関係にあるってことなのだろう。

 

『お金……。この前通販で新しい機材買っちゃったから、あんまり貯金残ってないな』

 

『入り用でしたら、わたしの貯金を使って下さっても構いませんよ?』

 

『それはダメ!もう一人の私のお金は、もう一人の私のモノだから』

 

 ひとりさんはどうしてか、お小遣いやお年玉を貰ってもそれをキッチリわたしにも分配してしまう。わたしはひとりさんの為にしか基本お金を使わないし、部屋のブタさん貯金箱にはそのお金が貯まっていく一方だ。わたしの財産はひとりさんの財産。遠慮なく使って欲しいのだが、ひとりさんは頑なで一度も頷いてくれた事はない。

 

 ひとりさんがわたしを尊重してくれているという証左なのだろうけど、心苦しくもあった。

 

「昨日のライブはあたしの友達が来てくれたから、チケットはけたんだけど……」

 

「あの出来じゃ二回目は来てくれるかわからない」

 

「だよねー。リョウは友達いないから集客あてにできないし、ぼっちちゃんも集客は……ね?」

 

「す、すみません……」

 

 現状のバンドメンバー三人の中で、集客力があるのが虹夏さん一名のみ。チケットノルマがあまりにも高い壁として立ちはだかってしまっていた。

 

『ギターの実力も発揮できない上に、集客でも役に立てないなんて……私はミジンコ。いや、ミジンコ以下!?』

 

『まぁ、いざとなったらわたしが宣伝フライヤーでも作って地元でチケット売りしますから。ひとりさんはそう気負わずに』

 

『ありがとう! さすがもう一人の私……立派な誇るべき霊長類』

 

『いやいや、ひとりさんも立派な人間ですからね?』

 

 追い詰められた時には人間離れした挙動を見せる時もあるが、そこまで自身を卑下する事はないはず。ひとりさんに直接関わらない誰かに対してなら、わたしがどれだけ外面良く接しようが問題はない。宣伝の分野ならわたしもひとりさんの役に立てそうで嬉しかった。

 

「というわけで、ライブのノルマ代稼ぐためにぼっちちゃんもバイトしよー!」

 

「あっはいバイト……バイトぉっ!!?」

 

「昨日とは別種の大声出たね、ぼっちちゃん」

 

『絶対嫌だ!働きたくない、社会が怖い!!』

 

『その叫びはわたしではなく、虹夏さんとリョウさんに伝えないと事態は解決しませんよ……?』

 

 学生の身分で金銭を稼がなくてはならない。そうなれば、バイトをするという発想になるのは当然の帰結。しかし、学校生活ですら悲鳴をあげてしまうひとりさんの精神にバイトの人間関係が耐えられるわけがない。ひとりさんのキャパを明らかに超えてしまっている困難。どうやらこの結束バンドにおいてもわたしは見守るだけの身分ではいられなさそうである。

 

「ぼっちちゃんが人見知りだって事はわかってる。だからさ、ぼっちちゃんもあたし達と一緒にここでバイトしようよ!」

 

「アットホームで和気藹々とした職場です」

 

「あたしとリョウも一緒だから怖くないよ。それに、ライブハウスだからいろんなバンド見れるし……どうかな?」

 

「あっ、えっと、いっ……」

 

 お二人も重度な人見知りのひとりさんのために、色々気を回してはくれたのだろう。だが、それもひとりさんの社会に対する恐怖心には焼石に水。ひとりさんは今まさに、断ろうと必死で自分の口から言葉を絞り出そうとしているに違いない。

 

 実際、断った方が良いだろう。お金ならわたしが別の場所でバイトして稼げば良い。その方が、わたしとひとりさんの違いに気付かれる危険性もなくスムーズに困難を解消できる。ただ、そうはならないだろう。

 

 ひとりさんは人一倍、他人の期待や頼み事を裏切るのが苦手だから。

 

「が、がんばりましゅ……」

 

「ありがとう!一緒にバイトも頑張ろうね!」

 

 ひとりさんはバイトに立ち向かう覚悟なんてないのに、結局頷いてしまっていた。わたしが生まれた経緯を考えれば当たり前だった。ひとりさんは大きな困難に直面した時に逃げずに立ち向かおうとして、それでもやっぱり無理で。その結果わたしが生まれたのだから。

 

『ご、ごめんもう一人の私!わ、私の代わりにSTARRYでバイトしてください……お願いします!』

 

『任せてください』

 

 昔からのお決まりの流れに、少し笑みが浮かんでしまいそうになる。どこまで行っても、やはりわたしはひとりさんから頼られるのが生きがいらしい。

 

 わたしはひとりさんの逃げ道にして、いつもひとりさんの側に寄り添うヒーローだ。だから、リョウさんと虹夏さんに気付かれずに、ひとりさんとしてSTARRYのバイトをこなす。そんな難題だってスマートに対応してみせようじゃないか。

 




次回はようやくバイト回。星歌さん好きすぎて描写増えてしまうかも


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星のようにはなれなくて

えー、またやりました。めちゃくちゃ長いです、大体店長さんのせいです。


 

 あれから数日、ひとりさんのバイト初任の日は瞬く間にやってきた。もはや馴染み深いような気もする下北沢の地を歩き、目指す先はもちろん今日からの職場となるライブハウスSTARRYだ。

 

 表に出ているのはひとりさんではなくわたし。俯かずひとりさんよりちょっとだけ高い目線で街並みを見据えると、不思議と心地良かった。すれ違う人達はわたしになんて一瞥もくれず通り過ぎるだけで、わたしの居場所はひとりさんの内だけなのだと再確認させてくれるから。

 

『もう一人の私。今日は本当にごめんなさい……私、コミュ症直すなんて威張っておきながらいきなり頼りきっちゃって』

 

 そんな感傷に浸っていると、ひとりさんが話しかけてきたがその様子はあまりにも暗い。バイトをすると決まった日から、今日に至るまでずっとこの調子だった。きっとわたしに対する後ろめたさと、それでもバイトに行きたくないという恐怖心がせめぎ合い、ネガティブスパイラルに陥っているのだろう。

 

 昨日なんて何を思ったのか、風邪をひいて休もうと氷風呂の準備すら始めてしまう始末。本当に、止めるよう説得するのが大変だった。ひとりさんにはもう少し自分の身体を大切にしていただきたい。

 

『気になさらないでください。そういう時のためのわたしなんですから……それに、ひとりさんだってずっとわたしにバイトを任せるつもりじゃないんでしょう?』

 

『う、うん。……まだ怖くて心の準備ができないけど、バイトも頑張りたい。虹夏ちゃん達がせっかく、私の為に誘ってくれたんだから』

 

『ええ、ではちょっとずつ慣れていきましょう。大丈夫、それまではしっかりわたしが支えてみせますから』

 

 ひとりさんだって、わたしにバイトを押し付けたかった訳じゃないことは十分に分かっている。頑張りたかったけど、それでも自信のなさからあらゆる不安に押しつぶされそうで逃げてしまっただけ。仕方のないことだ、ひとりさんだって誰だって急には変われない。だけど、変わろうとすることに意味があるのだとわたしは信じている。

 

 わたしが、変わるためのきっかけになればいい。ひとりさんの代わりにバイトをこなして、仕事の内容をメモして記憶して。それをわたしがひとりさんに教えて、本番で間違えないように何度も予行練習をするのも良いだろう。そうやって、少しずつ段階を踏んでいけばひとりさんだってバイトを出来るようになるはず。虹夏さんとリョウさんと一緒に楽しく過ごす時間を増やすお手伝いができるのだから、わたしにとっても本望だ。

 

『で、でも、一時的とはいえバンドの為にもう一人の私を働かせるなんて……私クズバンドマンなのでは?あががっがっががが自己嫌悪が!!?』

 

『ま、まぁまぁ。ひとりさんのために働けるなら、わたし嬉しいですから!』

 

『もう一人の私……いつもすまないねぇ』

 

『ひとりさん、それは言わない約束でしょう?……なんて、ふふ』

 

 ようやっと調子を取り戻してきたひとりさんとのやり取りに笑みを溢していると、いつの間にかSTARRYの入り口が目前に迫っていた。薄暗く狭い地下へと続く階段を降りていくのは、まるで秘密基地を目指しているかのようで不思議と胸が高鳴ってしまう。

 

「……ふぅ」

 

 扉の目の前に立ち、ドアノブを握りながら一つ深呼吸。決してひとりさんほどではないが、わたしも少しばかり緊張していた。何せわたしも高校生になったばかりでバイトは初めて。失敗するつもりはないし、卒なくやれるだろうという自負もあるが油断は禁物。今日のわたしは新参者、ひとりさんの為にも気を引き締めるとしよう。

 

「チケットの販売は五時からですよ」

 

『ぴっ!?』

 

 そうして扉を開けようとしたところで、わたしの背後から見知らぬ誰かの声が投げかけられる。ひとりさんの悲鳴を合図にして振り返ると、ライブハウスのスタッフであろう大人の女性がじっとわたしを見下ろしていた。その表情はどこか睨んでいるかのように目付きが悪く、かけられた声もどこか素っ気ない。ひとりさんが怯えてしまったのも無理からぬことだろう。

 

 人目を惹く金髪に特徴的な癖毛、初見の印象は大きく異なるものの外見は虹夏さんに良く似ている。そして虹夏さんはかつて言っていた、お姉さんがライブハウスの店長をやっているのだと。つまり、目の前の女性こそがこのSTARRYの店長であり虹夏さんのお姉さんに違いない。そうわたしが結論づけるのに、時間はかからなかった。

 

「まだ準備中なんで」

 

「あの、わたし後藤ひとりっていいます。伊地知虹夏さんからの紹介で、今日からここで働かせていただくことになっているんですが……」

 

 わたしをただの客だと思っている店長さんに軽く頭を下げ、自己紹介と共に状況説明をする。これからお世話になる職場の上司であり、すでにお世話になりきっている虹夏さんの身内でもある。決して粗相があってはいけないのだが、ひとりさんが今後働くことを考えればやりすぎもよくない。店長さんに対するわたしの身の振り方、なかなかに難儀しそうだ。

 

「ああ、虹夏の言ってた新しいバイトか。それじゃ突っ立ってないで中入りなよ」

 

「は、はい」

 

 言われるがままに入り口を通り抜けて、店長さんの後ろをついて歩く。店長さんはドリンクカウンター前に用意された椅子を引っ掴むと、無造作に腰を下ろしては持っているレジ袋を机の上に投げ出した。

 

 レジ袋の中身はおにぎりと紙パックのジュース、遅めの昼食なのかもしれない。そのジュース『いいこりんご100』はわたしも馴染みがあり、優しい口当たりが好きでふたりのためにお母さんが買っているものを少しだけ分けてもらっている。好んでいる飲み物が同じ、そんな些細で無意味な親近感を店長さんに抱いていた。

 

「私、ここの店長やってる伊地知星歌。よろしく」

 

「はい、よろしくお願いします」

 

『店長さんちょっと怖い、苦手なタイプ。で、でもでも虹夏ちゃんのお姉様だし……うぅ、やっぱり怖い!』

 

『そんなに怖がらなくても。これは私見ですが、きっと優しい人だと思いますよ?』

 

 店長さんこと星歌さんのぶっきらぼうな雰囲気に、案の定と言うべきかひとりさんはすっかり委縮してしまっていた。これは完全な憶測になってしまうけれど、星歌さんだってきっと優しい人のはずで、ひとりさんもそこまで怯える必要はないと思うのだ。

 

 だってあの虹夏さんのお姉さんなのだ。虹夏さんと星歌さんの歳の差は、ひとりさんとふたりくらい離れているように見える。それは、虹夏さんが星歌さんを見て育ってきたということ。ならばきっと、底抜けの善人な虹夏さんのお手本となった星歌さんもきっと優しい人だと思うのだ。

 

「お前、この前虹夏達と一緒にライブやってたギターの子だろ?」

 

「そうですね」

 

「ライブの時も、そうやって堂々としてたら良いんじゃない?ビビり過ぎで正直見てらんなかったんだけど」

 

『がはぁっ!?』

 

 当然店長である星歌さんは結束バンドの初ライブもみていた訳で、率直過ぎるその感想はひとりさんにダメージを与えてしまっていた。わたしと比較されるような発言は、ひとりさんの心に何よりも効いてしまう。虹夏さんに続いて星歌さんにすら違和感を秒で抱かれる。歓迎会の時点で痛感してはいたのだけど、わたしにひとりさんのフリは致命的に向いてなさそうだ。

 

 かといって、泣き言を吐いたり裏に引っ込んだりすれば更にひとりさんを追い込んでしまいかねない。たとえ向いてなかろうが、わたしのやるべきことはただひとりさんの為に行動することのみ。

 

「す、すいません。ステージの上だとどうしても緊張してしまって……」

 

「ライブ中は誰もそんな事情は配慮してくれない。……それに、演者が縮こまってると観客だって不安になる。だから、ステージの上では精一杯に胸を張りなよ。自分の一番の音を届けるためにな」

 

『……もしかして、私アドバイスして貰えてる?』

 

『ですね。自信を持てば、ひとりさんの演奏はもっと良くなるって。そう言ってくださってるんですよ』

 

『……て、店長さん良い人!好き!』

 

 あまりにも好意的に解釈してしまったが、星歌さんなりの助言であることは確か。ひとりさんの恐怖心もだいぶ緩和されたようで一安心だ。

 

 厳しい言葉ではあったけど、ひとりさんに刺さる意見。虹夏さんのバンドメンバーという接点はあれど、星歌さんにとってひとりさんは初対面の新人バイトでしかない。そんな相手にこうして言葉を尽くしてくれたのだから、わたしとしても感謝の気持ちしかなかった。

 

「ありがとうございます。店長さんの言葉、しかと受け取りました」

 

「別に礼とかいらないから。言いたいこと言わせて貰っただけだし」

 

「でも、嬉しかったので」

 

 わたしがお礼の言葉を告げると、星歌さんはどこか照れたかのように露骨に顔を逸らしてしまっていた。こういう言い方をしてしまうと大人の女性には失礼かもしれないが、実はかなり可愛らしい人なのかもしれない。

 

 大人の女性としてのカッコ良さと威厳があって、どこか可愛らしい一面も持ち合わせているお姉さん。同じ女性として憧れてしまうというもの。だからだろうか、ついひとりさんには似つかわしくない笑みなんかが溢れてしまう。

 

「あー……コレ、飲むか?」

 

「はい!……ありがたくいただきますね」

 

 言葉に詰まったのか、星歌さんが何処か気まずそうに件のジュースを差し出してくれたので、有り難く受け取る。『これ、わたしも好きなんです』なんて言い出しそうになる口を必死に抑えつつ、紙パックにストローを刺して中身を喉に流し込んだ。

 

 ひとりさんはコーラなんかの炭酸飲料を好んでいるけど、わたしはあまり得意じゃないからこういう優しい味わいが落ち着く。同じ身体なのに、味覚が異なっているなんて我が事ながら不思議なものだ。

 

「……」

 

「……」

 

 ただ二人で紙パックのジュースをへこませるだけの、奇妙な時間がわたしと星歌さんに流れる。ひとりさんならばこの時間を気まずいと評するかもしれないが、わたしにとっては心地よい沈黙に感じられた。誰かと味覚を共有して同じ時間を過ごす。それが、わたしには得難いものだからなのかもしれない。

 

『す、凄いねもう一人の私。店長さんともう仲良くなって』

 

『仲良く……ひとりさんには、そう見えたのですか?』

 

『う、うん。もう一人の私も楽しそうだったし』

 

 それは、決して喜んではいけない事だ。わたしが私情を挟みすぎれば、今後肩身の狭い思いをするのはひとりさんだから。わたしの味覚や趣向、感情にしたってひとりさんより優先すべきものなど一つもない。第一、わたしが誰かと仲良くなったところでその先に待つのはきっと不幸ばかりだ。

 

 勘違いをしてはいけない。わたしはひとりさんの代わりに仕事をしにきただけ、それを決して忘れるな。

 

「お!ぼっちちゃん早いねー、感心感心!」

 

 そんな戒めを自分に言い聞かせていると、虹夏さんがいつもの元気な声とともに階段を下りてやってきた。その後ろにはリョウさんの姿も続いており、結束バンドメンバー勢揃い。星歌さんとのささやかな時間は終わらせて、わたしもバイトに向けて気分を切り替えねば。

 

「お姉ちゃん、ひとりちゃんにしっかりと優しくしてあげた?」

 

「そんなん知るか。バンドメンバーだろうがなんだろうが、特別扱いはしない。仕事に私情を挟むな……あと、ここでは店長と呼べ」

 

「もー、そういう話じゃないでしょ!昨日も言ったじゃん。ひとりちゃんは人見知りしちゃう子だから、怖がらせないようにって!」

 

「頷いた覚えないから。そもそも人見知り?コイツはそんな風には見えないけど」

 

 店長としての立場からか必要以上に厳しい態度を取る星歌さんに、一転して気安い態度で食ってかかる虹夏さん。後ろのリョウさんが何の反応も見せないあたり、このやり取りも伊地知姉妹の日常らしい。姉妹だからこその言い合える気安い関係、ということなのだろう。

 

 しかし、虹夏さんは星歌さんにまで話を通してくれていたのか。もしかすると、先ほど一声かけてくれたのもそのお陰なのかもしれない。あまりにも配慮が行き渡り過ぎている、本当に虹夏さんには頭が上がりそうにもない。

 

「お前こそ、こんな子に向けてぼっちちゃんて。イジメか?」

 

「ぷっ」

 

「やっそれは違くて!ひとりちゃんだからぼっちちゃんで深い意味は……おいそこ元凶の山田笑うなぁ! 」

 

「あの、あだ名に関しては本当に甚く気に入っていますのでその辺りで……」

 

『良いあだ名だと思うんだけどな……』

 

 ぼっちちゃん呼びの伝聞の印象は最悪で、星歌さんの一言を発端にライブハウス内は大騒ぎ。リョウさんの語った通り、嘘偽りなくアットホームな職場に違いなかった。この賑やかな空間に立っているのがわたしではなく、ひとりさんになる日が一日でも早く訪れてくれればいい。

 

「とにかく、全員揃ったのならとっとと仕事に入れ」

 

 星歌さんはそう締めくくると、背を向けて机の上のパソコンに向き合い始めた。これ以上会話をするつもりはないと背中で語っているけど、もう既に面倒見が良過ぎたくらい。この辺りも、星歌さんから虹夏さんに受け継がれた要素なのかもしれない。

 

「ぼっちちゃん、お姉ちゃんと二人で大丈夫だった?また無理とかしてない?」

 

「いえ、店長さんには本当に良くしてもらったので。ライブのアドバイスなんかも貰っちゃいましたし」

 

「なら良かったよー……ほんっとお姉ちゃんってツンデレさんなんだから」

 

 虹夏さんの口ぶりから察するに、あの星歌さんの可愛らしさはわたしの勘違いではなく平常運転のものらしい。更に、今では妹に厳しくしつつも陰ながらそのお願いを叶えてあげる妹想いのお姉さん。なんて文脈すら感じ取れてしまうので、気を抜くとまた笑みが漏れ出てしまいそうだった。

 

 

「よし、それじゃあバイト始めよっかぼっちちゃん!」

 

 

 そんな虹夏さんのかけ声により、盛大な前振りを置いたわたしとひとりさんのバイト生活が幕を開けた。

 

 

 ◇

 

 

 わたしが仰せつかった記念すべき初仕事は、シンプルにフロアの清掃だった。並べられていたテーブルを片付けて、モップ等を用いて拭き掃除を行う極めてシンプルな作業。言ってしまえば、ミスをしようがないくらいに簡単で誰にでもできるような仕事だ。

 

 しかし、今のわたしはひとりさんの代役。調子に乗ってテキパキと作業を進めてしまうわけにはいかない。ひとりさんは残念ながら、要領よく物事をこなせるタイプではない。わたしとは掃除を進めるペースだって大きく異なるので、わたしのペースがひとりさんの基準だと思われては後々困ったことになってしまうのだ。

 

 だから決して急がず、極めて丁寧に隅々までモップをかけていく。ライブハウスという長時間人が過ごす場所なのだから、綺麗にしすぎたって損はないはず。ひとりさんも作業自体は丁寧なので、これならいつ入れ替わってもそこまで違和感を持たれることもないだろう。

 

『この仕事なら私でもできるかも。掃除なら、学校で私もよくやったし!』

 

『それは良かったです』

 

『そ、それにお喋りで自分だけハブられてみじめに一人で掃除する必要もないし、学校より楽そう』

 

 掃除という普遍的な作業にすらトラウマを抱いている辺り、ひとりさんの闇は相当に深い。こういうとき、どう励ましたら良いのかわからなくなるのが凄くもどかしい。無理だとは分かりつつも、わたしもひとりさんと同じ傷を分かち合いたかった。

 

「ぼっち、手際いいね」

 

「あ、リョウさんお疲れ様です。……そ、そうでしょうか?」

 

 一緒にモップ掛けをしていたリョウさんが手を止め、不意に声をかけてきた。内容はわたしの仕事ぶりを賞賛するもの。完璧に役割を遂行していると思った矢先にこの有様、顔が引き攣っていやしないか不安だった。いやそれとも、引き攣っていた方がひとりさんの解像度としては高いのだろうか。もう自信も何もあったものではない。

 

「私がいちいち指示しなくても、して欲しい場所を掃除してくれる。凄い楽」

 

「ありがとうございます。お力になれているようなら、嬉しいです」

 

 動揺から、お礼の言葉も辿々しくなってしまう。リョウさんの言う通りで、仕事の要領とは作業速度だけでなくその仕事運びにもあるということ。言葉にしてしまえば当たり前で、それだけわたしの浅はかさも浮き彫りになるようだった。

 

 ただまぁ、これはさしたる問題ではない。仕事運びなんて日数を重ねる度に慣れていくものだし、掃除すべき場所くらいはいくらでもひとりさんの裏からわたしが教えられる。落ち着けわたし、いちいちつまらないことで狼狽えてはひとりさんが不安がってしまうだろう。

 

「なるほど。これがピカピカぼっち」

 

「あの、リョウさん?」

 

「ぼっち、私が教えるべきことはもう何もない。そういうわけで、体調悪いから休憩してくるね」

 

「えっ、ちょ……お、お大事に?」

 

 リョウさんは一方的にわたしに免許皆伝を申しつけると、サムズアップとともに颯爽とどこかへ身を隠してしまった。その一連の動作はあまりにも機敏で、とても体調不良を訴えた人間のものではなかった。しかし、わたしとしてはその言葉を素直に受け取るしかない状況でもある。

 

 いつもと変わらず元気そうだったが、リョウさんは表情があまり変わらない。実は最初から我慢をしていた、なんてこともあるのかもしれない。幸い一人でも仕事自体に支障はないし、ゆっくりと身体を休めてほしいものだ。

 

『もう一人の私。もしかしてなんだけど、リョウさん仕事サボってるんじゃ……』

 

『いや、そんなまさか。リョウさんともあろう人が新人を放置してサボるなんてことはない……ですよね?』

 

『だ、だよね!バンドメンバーを疑うなんてよくない!』

 

『そうですとも!』

 

 ひとりさんの懸念はわたしの頭にも確かに過ったが、それでもわたしはリョウさんを信じたい。ひとりさんをバンドメンバーに迎えてくれた、クールでミステリアスなベーシスト。そんな尊敬できる人物のままであって欲しいのだ、切実に。

 

「あれ、ぼっちちゃん一人?リョウは何処行ったの?」

 

「リョウさん体調不良みたいで……大丈夫でしょうか?」

 

 設営準備の手伝いにより一時離脱していた虹夏さんが戻ってきたので、早速先ほどの出来事を報告する。心優しい虹夏さんが幼馴染であるリョウさんの不調を心配する、そんな光景への期待をありったけに込めて。

 

「リョウの悪癖がまた……後でお姉ちゃんに報告しないと。あのねぼっちちゃん、リョウの言うこといちいち真に受けちゃダメだよ?涼しい顔して平気でサボろうとするんだから」

 

「……」

 

『……』

 

 わたしもひとりさんも言葉がでなかった。リョウさんには意外とズボラな一面もある、その事実を魂の奥底にしまっておこう。大丈夫、これでもまだクールでミステリアスだがちょっとお茶目な部分もある変人ベーシストだ。まだ全然尊敬できる、無理やりにそう自分を納得させた。

 

 

 ◇

 

 

「掃除も終わったし次は……ぼっちちゃんもドリンク覚えよっか!」

 

「は、はい」

 

 虹夏さんと二人で掃除を終わらせて、わたしの次の仕事はドリンクスタッフになった。フロアの清掃とは違い、生身の人間相手に接客を行わなければいけない仕事。バイト初日からいきなり接客はひとりさんにとって荷が重いだろうし、やはりわたしの判断は間違っていなかったみたいだ。

 

「トニックウォーターはここから、ビールはこのサーバーね。カクテルは後ろの棚に――」

 

 ドリンクカウンターの内へと入り、一つ一つ指差しながら虹夏さんが丁寧にわたしへと仕事を教えてくれる。決して聞き流さぬように頷きながら、ポケットに用意していたメモ帳とペンを取り出して、だいたいのドリンクの種類と場所をメモ帳に書き記していく。

 

『もう一人の私。い、今の覚えられた?』

 

『ええ、おおよそは。走り書きですが内容はメモしておきましたので、帰ったら一緒に覚えましょうね』

 

『あ、ありがとう!流石もう一人の私、生まれついてのバイトリーダー!』

 

 わたしにしたって今日が初バイトだし、この場合はバイトリーダーなのは明らかに虹夏さんの方である。突っ込み所満載ではあるが、ひとりさんの褒め言葉は心地よくあえて訂正する気すら失せてしまう。ひとりさんの役に立てること、間違いなくそれがわたしの働く原動力だ。

 

「やっぱり真面目だね、ぼっちちゃんは。何処かの誰かさんと違ってやる気たっぷりで助かるよー」

 

「……あ、ありがとうございます」

 

『直前までズル休みしようと思ってました、ごめんなさい!』

 

 ひとりさんは自分をやる気なしとでも判断してしまったのか、表に出ているわけでもないのに平謝りしていた。ひとりさんだってその根っこはいたって真面目なのだから、どうか気にし過ぎないで欲しい。上手にできないことにやる気を持って臨める人間が一体どれほど居るだろうか。ひとりさんだって卒なくこなせるのならばバイトに前向きになれたはず。それこそギターのように、ひたむきに一生懸命に。

 

 何処かの誰かさんことリョウさんは、いつの間にか受付の仕事に戻っており怒るに怒れなかったらしい。なんて奇妙なバランス感覚を備えている人なんだろう。

 

「ドリンクスタッフは注文されたドリンク注いで、渡すだけだから」

 

「会計とかはないんですか?」

 

「そうなの。チケット代金とは別に五百円払うと貰える、ドリンクチケットとの交換制なんだ。ほら、これがドリンクチケットね」

 

 レジ作業もなく、ただ注文されたドリンクを渡すだけの接客業としては珍しいくらいに単純な工程。ひとりさんにもおあつらえ向きで、虹夏さんがバイトに誘ってくれたのはこの辺りの理由もあるのかもしれない。

 

 手渡されたドリンクチケットはギターのピック状になっており、ライブハウスの物だと一目で分かる秀逸なデザインだ。

 

「ワンドリンク五百円、結構割高なんですね」

 

「意外とストレートに切り込んでくるねぼっちちゃん。……実は、ライブハウスは一応飲食店扱いなんだよ」

 

「興行場ではなく、ですか?」

 

「よく分かんないんだけど、興行場として営業許可貰おうとすると飲食店より条件が厳しいらしいんだ。だからドリンクを提供して、あくまで飲食店としてお店開くんだってー」

 

「なるほど」

 

 ライブハウスの成り立ちはわたしの想像以上に複雑であったらしい。ライブハウス店長の妹さんらしい、とても興味深い話。今後、ひとりさんにバンド関係の人付き合いが増えていくのならば覚えて損はない。しっかりと記憶しておくことにしよう。

 

『私はいつの間にか飲食店なんて魔境に迷い込んでいたのか……』

 

『でも、複雑な作業はありませんし。……むしろ、飲食店デビューするチャンスじゃないですか?』

 

『……う、うん』

 

 励ましてみても、ひとりさんの反応は芳しくない。しかし、フロアを見渡せばライブ時間が近付いていることもありお客さんがちらほらと入ってきていた。彼等の対応をしなければいけない以上、ひとりさんにばかり意識を割く訳にはいかない。

 

「いつの間にかお客さん入ってきたね!ぼっちちゃん今から忙しくなるよ〜」

 

「は、はい。頑張ります」

 

 ここでミスなんてしようものなら、虹夏さんや星歌さんはもちろんのことひとりさんにだって迷惑がかかってしまう。ひとりさんの様子は気がかりではあるけど、今だけは目の前の仕事に集中しよう。

 

「すいません、コーラください」

 

「はーい!ぼっちちゃんコーラ一つ」

 

「はい、少々お待ちください」

 

 注文を受け、プラスチックの容器に飲み物を注ぎフタをしてお客さんに渡すだけの単純な作業。気をつけるのは、お客さんに不快感を与えないように丁寧な対応を心がけることだけだ。

 

「どうぞ……ありがとうございました」

 

 お客さんに真顔で目線を合わせ飲み物を手渡し、去っていく時には頭を下げる。それが、ひとりさんのフリをしているわたしにできる限界。笑みを浮かべ愛想を振る舞うのが接客として正しいのだろうけど、その対応をひとりさんに求めさせてはいけないから。

 

「ぼっちちゃん、次ジンジャーエール」

 

「わかりました」

 

 虹夏さんはわたしの動きを見て特に問題はないと判断してくれたようで、間髪を容れずに次の注文を申し付けてきた。

 

 そこからはもう、ただの繰り返し。注文を受けては飲み物を渡し、頭を下げて。たまにお手洗いの場所を尋ねてくるお客さんがいれば案内してあげて。わたしに課せられた仕事を淡々と、機械的に処理し続けるだけだった。

 

 

「ライブ始まったから暇になったねー。今日のバンドはどれも人気あるし勉強になるから、ぼっちちゃんもよく見ててね!」

 

 気付けば、お客さんはもう捌けてしまっておりドリンクカウンター前はガラガラ。虹夏さんの言葉通り、ステージ上ではライブが始まっていてフロアは独特の喧騒に包まれていた。

 

 仕事が一段落ついたことを悟り、ほっと一息吐く。大した仕事をしたわけでもないのに、どっと疲労した感覚を覚えているのが不思議でならなかった。最近のひとりさんが運動不足気味であることを考えたって、ここまで消耗するはずがないのに。

 

「今日の接客良かったよ、ぼっちちゃん。ちゃんとお客さんに目を合わせて接客できてたね!」

 

「す、すいません。あれが精一杯で……」

 

「十分だよ。人見知りのぼっちちゃんがお客さんに一生懸命向き合ってくれて、あたし嬉しかったな」

 

 一生懸命か、その言葉はどこまでわたしに相応しいのだろう。ひとりさんのため、そういう前置きをするならばわたしは真剣に仕事に向き合ったつもりである。だけど、目の前の虹夏さんに向けてだけは口が裂けても言えそうになかった。わたしが手を抜いていたのは、純然たる事実だから。

 

「虹夏さ……虹夏ちゃんは、どうしてそこまでわたしを気にかけてくれるんですか?」

 

 全てはひとりさんに向けられた言葉。虹夏さんの目の前にいるのがわたしなことが申し訳なくて、居た堪れなくて。そんな弱気な言葉すら口から滑り落ちてしまう。虹夏さんが気にかけているのは、ひとりさんだ。わたしという人格を虹夏さんは知らない、知らせるつもりもない。こんな問いかけには、なんの意味だってありはしないのに。

 

「あたしね、ここのライブハウスが好きなの。ライブハウスのスタッフがお客さんと関わるのってここと受付くらいだし……良い箱だったって思ってもらいたい気持ちがいつもあって」

 

「虹夏ちゃんにとって、大切な場所なんですね」

 

 きっと、こんな陳腐な言葉では語りきれないほどの想いが秘められているのだろう。虹夏さんのバンドにかける情熱に、今ステージを眺めるその輝かしいばかりの目を見れば痛いほどにそれが分かるような気がした。

 

「うん!だからね、ぼっちちゃんにも良い箱だったって思って欲しいんだ……楽しくバイトして、楽しくバンドしたいの。一緒に」

 

 虹夏さんの表情がわたしには眩しすぎて、ステージ上へと目を逸らしてしまう。そこではお客さんも演者も皆楽しそうに笑っていて、この光景こそが虹夏さんの描く理想であり願いなのだとすぐに理解できた。自分自身への苛立ちから、手をきつく握りしめてしまう。

 

 そんな場所で、わたしは何をしているんだろう。虹夏さんが楽しんで欲しいと願ったお客さん達。その人達がどんな表情をしていたかなんて、わたしは一つとして覚えていやしない。わざと作った無表情を貼り付けて、手を抜いた接客をやって、虹夏さんの願いを踏み躙った。

 

 そして、ひとりさんの心の準備ができるまで明日からもそれを平気で続けていくのだろうか?

 

 迷うまでもないことだ。何よりも優先すべきはひとりさんで、その結果誰かの感情や願いを取りこぼしたとしても受け入れるしかない。わたしは決して、高望みが許されるような安定した存在じゃないのだから。それが虹夏さんのものであったとしても、無視すべきなんだ。わたしがそうしたって、虹夏さんの想いは必ずいつかひとりさんが掬い上げてくれる。なら、なんの問題だってありはしない。

 

 わたしが納得すれば、誰も傷つきやしない。だからわたし、わたしは――

 

『代わって、もう一人の私』

 

 どこか安心するような、力強い声がわたしの内から響いていた。ひとりさんの要請に、思わず頷きそうになるのを踏みとどまる。まだバイトは、わたしの役目は終わっていない。ひとりさんの意思を確認するまでは、終われない。

 

『でも、一旦落ち着いたとはいえまだ接客中ですし……』

 

『……私、変わりたい。今の私じゃ、もう一人の私に隠れたまんまじゃダメだって思ったから。虹夏ちゃん達と一緒に楽しくバンドも、バイトもして。お客さんを楽しませるライブができるように、努力したい!』

 

 考えれば、当たり前のことだったのかもしれない。誰よりも人の心に敏感なひとりさんが、虹夏さんの期待と願いを受けて何もしないままじっとしてる訳がなかったのだ。わたしが単に、ひとりさんの勇気と覚悟を見誤っていただけ。

 

 ひとりさんに善を尽くしてくれている虹夏さんに、ひとりさんが必死で応えてそれを返そうとしている。ならば、わたしがいらぬ心配を挟んで間に入るのは無粋でしかない。わたしの今日の役割は終わったんだ、潔く裏に引っ込むとしよう。

 

『それに、私のせいでもう一人の私が辛そうにしてるのは……絶対に嫌だから!』

 

 わたしはひとりさんの返事を待つことすらなく、意識の裏へと駆け込むようにして引っ込んだ。そうしなければきっと、賑やかなライブの空気をぶち壊してしまうような醜態を晒してしまいそうだったから。

 

 どうして、ひとりさんにはそこまで人の痛みがわかってしまうのだろう。わたしの感傷などいつか消えてしまうような幻でしかないのに。誰かの期待を裏切りたくないなんて、ひとりさんの人生にとって邪魔なわたしの願いすら汲み取ってしまう。

 

 無理を通してでもわたしを大切にする、それがひとりさんの真心なのだろう。ひとりさんに優しくされるたび、胸が温かくなりそして泣き出したくもなってしまう。その真心に報いるためにも、わたしは決して自分を大切にはしない。ひとりさんを大切にする上で、それが最も妨げになる要素なのだから。

 

 

 その後、ひとりさんは数人のお客さんの相手をした。ジュースを持つ手は震え、浮かべた笑みもぎこちなく不格好だったけど。最後までお客さんに目を合わせ、笑顔で接客しきってみせたのだ。

 

 ひとりさんもお客さんも虹夏さんも、皆笑みを浮かべていて。羨ましいくらいに理想の光景がそこには広がっていた。それも全てひとりさんが勇気を出したおかげ。昨日氷風呂を用意しかけたとは思えぬほどの、急成長だ。

 

 ひとりさんはしきりにわたしを凄いと褒めてくれるけれど、本当に凄いのはひとりさんの方である。恐ろしくても、上手くいかなくても、誰かのためにここまで大きな一歩を踏み出せるのだから。

 

 

 ◇

 

 

「じゃ、今日はお疲れ」

 

「お疲れ様です、店長さん」

 

 無事バイトを終了させて虹夏さんとリョウさんに別れを告げると、星歌さんがわたしの見送りのために外まで出てくれていた。一介のバイトに対する店長の対応にしてはやり過ぎで、それだけ虹夏さんのことが大好きなのだろうなぁと微笑ましくなってしまう。

 

 ひとりさんは接客後、全ての精神力を使い果たし再びわたしの裏に引っ込んでいった。予定になかったいきなりの接客をこなしてみせたのだ、帰ったらわたしもたくさんひとりさんを褒めてあげよう。今日くらいは、いくらでも調子に乗っていただきたい。

 

「今日のバイト、大丈夫だったか?」

 

「あの、どういう意味でしょうか?」

 

「どうって……テキパキ仕事してた奴が、接客で急に挙動不審になったら気にもなるだろ。自覚があるのか知らんが、途中死にそうな顔してたぞ」

 

 ドキリとした。虹夏さんはあの時ライブの方に注意を向けていたから、あの時の顔は誰にも見られていないと思ったのに。というか、どうして星歌さんはずっとわたしの仕事を見ていたんだ。いくらなんでも虹夏さんの言いつけを忠実に守りすぎだろう。まさか真実を喋る訳にもいかないし、どう言い訳をしたものか。

 

「ま、何があったかは知らないけど。バイト中に困ったことがあったら言いなよ、店長としてサポートくらいはするからさ」

 

 しかし、予想していた追求は何もなかった。それどころか、星歌さんからはわたしのバイトに肯定的な意見すら出てしまっている。どうしてこう、伊地知家の人達は許容範囲が大きすぎるのだろう。普通、おかしなバイトがいたら警戒するものじゃないのか。わたしにとっては好都合だけれど、釈然としない気分だ。

 

「何も聞かなくて良いんですか?」

 

「聞かないでくださいって顔に書いてあるからな。そもそも、心の相談なんてされた所で私には何もわからん。……ただ、頑張り屋のバイトには私も楽しく働いてほしい。それだけだよ」

 

 そんな顔をしているのだろうか。ひとりさんがアレで表情豊かなのはわかるけれど、わたしが得意なのは愛想笑いくらいのものだから。表情から何かを読み取られるなんて、初めてのことかもしれない。

 

 『虹夏さんにもそうやって、素直にしてみたらどうですか』なんて告げたら星歌さんはどんな反応をするだろう。余計なお世話だ、とまた照れたように可愛らしくそっぽを向くのだろうか?

 

 意味のない妄想だ。ひとりさんが放つはずもないような台詞、それを口にすることは許されない。まだひとりさんと星歌さんに大きな関わりはないが、これからバイトを続けていけば親交も深まるだろう。意外と相性が良くて、仲良しになるかもしれない。そういう可能性を、潰したくはないから。

 

「ありがとうございます。……それでは店長さん、さようなら」

 

「気をつけて帰れよ、ぼっちちゃん」

 

 結局、あまりにも無難な言葉だけを残して星歌さんに別れの言葉を告げる。最後に勿体ぶるようにあだ名呼びをして、後ろ手を振って去っていく姿は様になっていた。

 

 階段を上がり、空を見上げればすっかり真っ暗になっていて。下北沢の街灯に阻まれながらも、朧げながらに星の光が瞬いている。

 

『……虹夏ちゃんにリョウさん、店長さんも。皆、優しかった。私、明日からもバイト頑張れそう!』

 

『その意気ですよ、ひとりさん。一緒に明日からも頑張りましょうね』

 

 階段を登り切った瞬間、ひとりさんがタイミングを計ったかのように声をかけてくる。概ね同意だが、果たして今日のリョウさんは優しいと評して良いのだろうか。一応、あの突拍子のなさで掃除の時間だけは変なことを考え込まずに済んだという側面はあるのだけど。

 

 この様子ならば、明日からはひとりさんが表に出てバイトに赴くことができるだろう。一週間以上はかかっても不思議ではないと考えていたので、異例の大躍進だ。ひとりぼっちではなく、他の誰かと交流することでひとりさんは飛躍的に成長している。

 

 この調子ならひとりさんがわたしを必要としなくなる日も、そう遠い未来の話ではないのかもしれない。

 

 もう一度星空を見上げる。STARRY、星々の集まる場所。本当に優しくて素敵な人ばかりだ。ひとりさんもその輪の中に加わって、ギタリストとしても、一人の人間としてもその輝きを強めていくのだろう。

 

 そこにわたしも加われたら、なんて。想像の中でだけなら、星に願うことも許されるのだろうか。

 




下北沢で星なんて見れるのか?と疑問に思いましたが、原作でもアニメでも映ってたので気にしないことにしました。次回から、ようやく喜多ちゃんも出せますね。やはり四人揃ってこその結束バンド、楽しみです。


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優しくも儚いわたしの為のブルース

すいません、ちょっと遅めの投稿になってしまいましたね。原因はご存知の通り、またまた長くなり過ぎてしまったからです。今回はふたりちゃんが悪い。

ボリュームはたっぷりなので、ぜひ楽しんでいただければ幸いです。


 

 輝かしい月曜日の朝がやってきた。土日の休日を経て、英気を養った後での新しい一週間の始まりがわたしは嫌いじゃない。無事新しい一日を迎えられた喜びを噛み締めることができるから。そして、反対にひとりさんは憂鬱な月曜日が始まったと嘆くのだろう。

 

 でも、先週のひとりさんは本当によく頑張った。学校がある日や土日休日を含めて、躊躇いながらも一度も休むことなくバイトに勤しんだ。アドバイスは求めつつもわたしに代わってもらうことなく、その身一つで。バンドの為に努力をし大きな成長を遂げたひとりさんの迎える今日が、先週よりずっと良いものになればいい。そうなるように、わたしも陰ながら頑張ろうと思う。

 

「ひとりさん?……まだ寝ていますか」

 

 起き上がり布団を畳んで片付けながらひとりさんに問いかけても返事はなく、まだぐっすりと眠っているようだった。無理もない、先週から始まったバイト生活はひとりさんの精神に大きな負担をかけたはずだから。そのうえ、ひとりさんはどれだけ疲れていようとも帰るなりギターに触れ続けるのだ。時間と身体が許す限り余すことなくギターをかき鳴らして、演奏してる途中で気を失うように眠る日すらあった。狂気的なまでの情熱と集中力、わたしにはとても真似できそうにない。

 

 登校まで片道二時間のわたしたちの朝は早い。もとより朝が強くないひとりさんが起きてこないことは珍しくなく、普段から朝の身支度に関してはほぼわたしの担当になっている。そのルーチンワークに従い、部屋を出ては階段を降りて洗面所の姿見の前に立つ。

 

 まずは歯を磨き、その次に行うのはスキンケアだ。乾燥はお肌の大敵であるし、ひとりさんは私生活の変化で心身共にストレスも抱えてるはず。それは肌荒れの原因にもなりかねないので、忙しいからと疎かにせず毎日しっかりと行うようにしている。

 

 洗顔料で汚れを落とし、化粧水と美容液で肌に潤いを与えて、最後に保湿クリームでそれらを閉じ込めてしっかりと肌を保護する。順番通りに、急がずにゆっくりと一つずつ肌に馴染ませていく。美容品の良し悪しはわからないし色々試すのもお金が勿体無いので、お母さんに勧められた若者向けの物をそのまま使っている。二児の母とは思えないほどに若々しいお母さんのオススメだ、質の方は問題ないだろう。

 

 中学生になった頃お母さんに教えを乞い自分でアレコレと美容品を買い揃え始めたわたしを、ひとりさんが畏怖の眼で見ていたのは今でも記憶に新しい。初めて使用した時なんて『わたしなんかの肌に、毎朝何円が溶けて消え入ってしまうのか……』と完全に萎縮していた。しかし、ひとりさんの綺麗な顔を守るためにもわたしは今後とも一切妥協するつもりはない。

 

 自信のなさから顔を隠しがちだけど、ひとりさんは綺麗で可愛らしく、そして何よりもカッコいいのだから。なんて、自信満々で言い切れてしまうわたしはナルシシズムの持ち主なのだろうか。でも、中身がわたしのような可愛げのないやつならともかくとして、ひとりさんならば可愛いのはどう考えたって疑いようがないのだ。ならば、その魅力をより引き立てる為の努力をするのはわたしの責務と言えよう。

 

 一人の女の子として綺麗でありたい。そんなわたしのささやかな願望もちょっぴりとだけ含まれているのは、秘密だ。

 

 スキンケアを終えて、次に行うのは髪の手入れ。わたしという人格が生まれて以降、髪型についてもひとりさんから一任されていた。代わりに美容室に行って散髪する時もひとりさんの希望は前髪で顔が隠れれば良いとそれだけ。短く切るのは簡単だけど長くするには時間がかかる。ひとりさんがいつオシャレに目覚めても困らぬように、わたしは髪を伸ばし続けて今では腰ほどまでの長さになっていた。

 

 トリートメントを手のひらに伸ばし、毛先から髪全体へと丁寧に馴染ませて。それが終われば、今度はヘアブラシでトリートメントを均一に広げながら髪を梳いていく。寝癖や髪の絡まりが解けていって、ひとりさんの長く綺麗な髪がサラサラと流れていくこの瞬間がわたしは嫌いじゃない。わたしに普通の子供時代があれば、もしかしたらお人形遊びとかにハマっていたのかもしれなかった。

 

「おねーちゃん、おはよー!!」

 

「おはよう、ふたり」

 

 ブラッシングの途中で、ふたりがいつものように人懐っこい笑みを浮かべながら駆け寄ってきた。挨拶を返すと、それだけで向日葵のように元気いっぱいに笑ってくれる。ひとりさんじゃないけれど、わたしには眩しいくらいに朗らかな子に育っている。

 

 後藤ふたり、十以上も歳の離れたひとりさんの小さな妹。物怖じせず明るく元気な、おおよそひとりさんとはかけ離れた性格の持ち主。そして、愛すべきわたしの妹だ。

 

 正直、ふたりをそう扱うことに戸惑いを覚えない訳ではない。わたしなんかがひとりさんのように、後藤家の家族として振る舞うことが許されるのだろうかと不安になったことだってある。それでもふたりはわたしをお姉ちゃんとして慕い続けてくれたから、目を背け続けることはできなかった。それは両親にもひとりさんにも、そしてなによりふたりに失礼だから。

 

 だから、わたしはふたりのお姉ちゃんをやっている。ひとりさんの代わりとしてではなく、わたし自身という一人の人格として。

 

「ギター弾く方のお姉ちゃんは?」

 

「まだお休み中だよ。昨日のお仕事で疲れちゃったみたいだから」

 

「もー、ギター弾く方のお姉ちゃんてばだらしないんだから」

 

 お母さんの真似だろうか、ふたりは困ったもんだと呆れたように首を横に振る。まるでふたりがひとりさんの姉になったかのような、そんないつもの光景にわたしは苦笑いをすることしかできない。

 

 ギター弾く方のお姉ちゃんと、ギター弾かない方のお姉ちゃん。驚くことにふたりは、ひとりさんとわたしをそう当たり前のように区別して別人と扱ってくる。子供故の純粋な洞察力なのか。それともわたしとひとりさんという存在を物心つく前から見続けたせいなのか、はたまたその両方か。

 

 ふたりがそう呼ぶことを、わたしとひとりさんは黙認している。ふたりがまだ幼い子どもということもあるし、一度止めるようにやんわりと言い聞かせたら号泣されてしまったのが大きい。『わたしのおねえちゃんは二人いるんだもんっ!!』そう叫んで泣きじゃくったふたりの姿は忘れられない。あの一言でわたしは勝手に救われて、お姉ちゃんになれたのだから。

 

「ね、お姉ちゃん。お髪とかすのわたしがやってもいーい?」

 

「うん。それじゃお願いしようかな?」

 

「任せて! わたしがお姉ちゃんのことかわいくしてあげる」

 

 ふたりの手でも届くようにしゃがみ込んでヘアブラシを渡すと、ふたりはその小さな手で一生懸命に髪を梳いてくれる。まだまだ幼い年頃だというのに、こうしてイタズラ一つせずにわたしの髪を大事に扱ってくれるのだ。ふたりはひとりさんに負けないくらい良い子に育つだろう。

 

「お姉ちゃんの髪、キレーだね。わたしも大きくなったらお姉ちゃんみたいに伸ばしたい!」

 

「その時は、お姉ちゃんがふたりの髪を結んであげるね」

 

「ホント!?やったー!!」

 

 果たして、わたしは後どれくらいふたりの成長を見守れるのだろうか。ひとりさんが自分の夢を追うために成長を始めた以上、わたしの終焉はそう遠くない未来にやってくる。それがどれくらい後のことかは定かじゃないけれど、中学生になったふたりの姿を見ることはきっと叶わない。

 

 口惜しくて仕方ないけれど、ひとりさんの成長もふたりの成長も両方が平等に祝福されるべきことなのだから嘆いてはいけない。わたしという意識が存在しなくなった時は、その想いを必ずひとりさんが引き継いでくれる。だからわたしがふたりとの別れを怖がる必要性はない。

 

 わたしに出来ることは最後のその瞬間まで、ふたりの立派なお姉ちゃんであることだけだ。

 

「お姉ちゃんは髪結ばないの?そしたらもっともっとかわいくなるのに」

 

「うーん。でも急に髪型変えちゃうと、もう一人のお姉ちゃんが恥ずかしがっちゃうから……」

 

 ふたりの希望に沿った髪型で学校に通う。楽しそうだがひとりさんの事情を考えると辞退せざるを得ない。仮に髪型をふたりに任せてツインテールで登校したとすれば、ひとりさんの反応は恥ずかしがるなんて生易しい表現では済まないほどのものになるだろう。ひとりさんを教室で人間の原型を留めていない状態にさせるわけにはいかないのだ。

 

「ギター弾く方のお姉ちゃん、くそめんどいもんね!」

 

「こら、ダメだよふたり。お姉ちゃんにそんな酷いこと言ったら。……言葉遣いは丁寧に、ね?」

 

「はーい!!」

 

 小馬鹿にしたようにひとりさんを笑うふたりをやんわりと叱る。普段いい子なふたりも、ひとりさんに対しては子ども相応の生意気な面を覗かせる。そんなふたりに対してひとりさんはたじたじなので、エスカレートし過ぎないように言い聞かせるのもわたしの役割となっていた。

 

 ただ、わたしの注意も言ってしまえば野暮なもの。口ではこう言いつつも、ふたりはひとりさんが大好きなことをわたしは知っているからだ。暇な時はいつもひとりさんの部屋にいて、ギター弾いてとせびったり子守唄を歌ってとわかりやすいくらいにいつも甘えている。お絵描きやおままごとなんかの普通の遊びにしても、わたしではなくひとりさんにわざわざ相手を頼むことすらあるくらいで。わたしが少しジェラシーを感じてしまうほどに、二人も仲良し姉妹なのである。

 

「じゃーん、できた!!」

 

「うん、バッチリ。お陰でお姉ちゃん今日の学校が楽しくなりそう。ありがとね、ふたり」

 

「えへへ……」

 

 ふたりの頭を撫でて褒めると、照れたようにはにかんで笑ってくれた。その様子がひとりさんにそっくりで、やはり似た者姉妹なのだと実感する。

 

 多少の調整は必要だろうけど、きちんと整った髪型となっている。手先が器用なふたりは将来、美容師さんでもスタイリストでもなんでもなれるに違いない。なんて夢想をしてしまうのは、いわゆる姉馬鹿というやつなのかもしれないけれど。

 

「あっ、そうだ。お母さんが朝ごはんだよってお姉ちゃんよんでたよ!」

 

「わかった、準備終わったらすぐ行くね」

 

 本来の要件はそっちだったのだろう。数分遅れでお母さんからの言いつけを果たしたふたりは、元気いっぱいのままリビングへと戻っていった。これから相棒かつ愛犬であるジミヘンとたっぷり遊ぶのだろう。このまま健やかに育って欲しいなんて老婆心を抱きつつ、わたしも最後の準備に入る。

 

「これで良し、と」

 

 ドライヤーでブローし、二つのキューブが特徴的な髪飾り。わたしの宝物を身につければ完成、後藤ひとり準備万端だ。

 

 実はこの後、いつものジャージを着込むという作業があるのだけどそこにわたしは関与しない。制服を着るひとりさんが見たいという気持ちは尽きることはないが、ひとりさんの着心地が最優先なので断腸の想いで我慢をしている。仕方がない、いつでもピンクジャージのひとりさんだって素敵だと納得するんだわたし。

 

 身だしなみを終えて食卓へと顔を出すと、ふたりの言う通り既に朝食が用意されていた。朝が早いにも関わらずこうして朝食どころか、お弁当まで用意してくれるお母さんに心から感謝をしつつ、席に座る。対面では既に朝食を食べ終えたお父さんがコーヒーを啜っていた。

 

「おはよう。お父さん、お母さん」

 

「おはようひとりちゃん。今日はちょっと遅かったのね」

 

「うん、未来のスタイリストふたり先生に髪のセットをお願いしてたんだ」

 

「あらあら。相変わらず姉妹仲良しでお母さん嬉しいわ〜」

 

 微笑みながらキッチンで調理をこなすお母さんの姿は、穏やかで器量良しなまさに良妻賢母の鑑のようだった。一見完璧なようで、たまにとんでもない行動に走ってしまうお茶目さはひとりさんに良く似ていると思う。

 

「ひとりは今日もライブハウスでバイトだっけ?」

 

「そうだね。バイト終わりに先輩達とちょっとだけ合わせの練習もすると思う」

 

「遂にひとりもバンドを組んで、それにライブハウスデビューも済ませちゃうなんてなぁ。……いつの間にか大きくなって。これからどんどん成長して、行く行くはロッキンの大トリ間違いなしだな!」

 

「ちょっと気が早過ぎるよお父さん……」

 

 お父さんは意外と感情豊かで、いつもこうしてひとりさんの音楽活動を応援してくれている。ひとりさんがバンドを始めたと伝えた瞬間なんて、男泣きしながら甚く感動していたほどだ。

 

「いただきます」

 

 両手を合わせて挨拶を一つしてから、朝食に手をつける。この二人だからこそ感じてしまう居た堪れなさを、悟られぬよう隠しながら。

 

 ひとりさんのご両親、お父さんとお母さん。そんな人達に対して、わたしは未だに二重人格だという真実を告げられないでいる。黙ったままでいるつもりはなかった。ひとりさんを育ててくれた人達に対する義務として、問いかけられたのならば答える必要があると今までずっと身構えてきた。

 

 しかし、お父さんとお母さんがわたしに対して追及をすることは一切なかった。気付いてないなんてことはないはずだ。誰よりもひとりさんを近くで見続けていた両親が、娘の異常に気付かない訳もない。ふたりだって容赦なくギターを弾かないお姉ちゃんの話をお母さんにしている。そして、わたしが食卓に出る時だけ出されるりんごジュースが、何よりもその事実を雄弁に語っている。

 

 わたしには、わからない。娘の変化を察知していながら、どうして優しく見守るだけという対応が取れるのか。わたしのような存在をどうしてひとりさんと同じように優しく扱ってくれるのか。そんな二人に、わたしはどんな顔を向ければ許されるのだろうか。何一つだって、わたしにはわかりもしない。

 

 ただ一つわかることがあるとすれば、それがひとりさんへの途方もない善意と無償の愛で構成されていることだけ。重た過ぎる感情。その愛に報いる方法があるとするならば、この存在を賭してひとりさんに誠実であることだけだろうか。

 

『……おはよう、もう一人の私』

 

『おはようございます。今朝食中ですけど、代わりますか?』

 

『……ううん、大丈夫』

 

 朝食を摂っている途中で、ひとりさんが目を覚ました。ただその声音には隠しようがない眠気が混ざっており、まだ疲労が抜け切ってないことがありありと伝わってくる。

 

『……そ、そうだっ!もう一人の私、実はすごいことに気付いちゃったんだ!」

 

『え、えぇと、なんでしょうか?』

 

 しかし一転、眠気なんて吹き飛ばしたかのようにひとりさんが声を弾ませていた。言い方からしても間違いなく吉報のはずなのに、ひとりさんの口から発せられると急激に不安に晒されるのはなぜなのだろう。ロクでもなさそうだという本音を精一杯に飲み込んで、わたしは問いかけることしかできない。

 

『バンドして、飲食店でバイトまでしちゃって。……つまり、これはもう私は陽キャそのものってことだよね!』

 

『いや、それは……。まぁ、確かにそういう側面もなくはないって感じではありますけども……』

 

『だよね!だから今日はギター持って私が学校に行く……そしたらきっと誰か話しかけてくれるよね!』

 

 間違いなく褒め過ぎだった。ここ最近はバイトに通うひとりさんに賞賛の嵐をわたしが吹かせていたので、奇妙な自己肯定感を高めてしまったひとりさんは完全に調子に乗ってしまっている。

 

 ひとりさんの名案は残念ながらガバガバ。陽キャにはそう簡単に変身できないし、バンド女子アピールは先日の二番煎じ。根っこの部分にある他人任せなその心構えを改めない限りは上手くいきっこない。わたしの冷静な部分はそう告げている。

 

 理由はどうであれ、ひとりさんが前向きに学校に通おうとしているのは珍しい。その勢い付いた調子のままに、今日の学校生活はひとりさんに過ごしてもらうことにしよう。

 

 どうか、ひとりさんに話を合わせられる素敵な子が気にかけてくれますように。まるでひとりさんの妄想のような都合のいい存在の到来を、わたしは祈るしかなかった。

 

 

 ◇

 

 

 ひとりさんが喜び勇んで登校してからおおよそ三時間超。三度目の休憩時間に入るが、ひとりさんに近寄る人影は未だに一つも確認できていない。

 

『私が愚かでした。他力本願の舐めた根性じゃ誰も話しかけてくれるわけないよね……』

 

 ひとりさんは既に諦めて絶望していた。朝の元気が見る影もなく、わたしに代わってと申し出ていないのが不思議なくらい意気消沈していた。

 

『これも小さな一歩、積み重ねですよ。今日みたいに毎日学校に通えば、話しかけてくれる子もきっと現れてますって』

 

『無、無理!こんな狭い空間で私だけ切り離されたかのように、一人でみじめに過ごし続けるなんて……。辛い、苦しい、早くバイト行きたい……』

 

 それとなく毎日の登校を促してみたけれど、ひとりさんは強い否定の意思を見せる。逃げ道として機能するくらいにバイトに慣れたことは喜ばしいことで、ひとりさんの成長を実感できる。しかし、それに反比例するかのように学校への苦手意識が強まってしまっていた。

 

 学校の教室という狭い箱庭。そこに押し込められて、青春全開な彼等や彼女達を毎日のように見せつけられている。眩しくもひとりさんが渇望してやまないその光景を傍に、孤独で過ごすのはどれほど息苦しいのだろう。ひとりさんの抱える劣等感や閉塞感を、わたしは想像することしかできない。

 

 心のつくりが違う。ただ黙って授業を受けて、それで一日を過ごしても楽しかったで済ませられる単純なわたしとは違うのだ。ひとりさんの心は繊細で脆く、傷つきやすい。そう考えれば、わたしが代わりに学校生活を過ごすのは正しく適材適所なのかもしれない。

 

 でも、このままじゃあまりに寂しいしひとりさんが報われない。だから、わたしは心のどこかで期待しているのかもしれない。虹夏さんのような、わたしでは与えてあげられないきっかけを授けてくれる誰かを。友達の一人でもできれば、ひとりさんの学校生活は大きく変化するはずだから。

 

「あっ、それボーイミーツガールの新譜じゃん!」

 

「学校来る前に買ってきたんだ〜」

 

 ふとした拍子に、そんな話し声にひとりさんが耳を傾けていた。どうやら前の席の女生徒二人組がバンドの話題で花を咲かせているらしい。ちょうど彼女達のような、ひとりさんの領分で話せる人達が友達になってくれれば良いのだけど。わたしが話しかけても無意味だし、やはり取っ掛かりが致命的なまでに足りていない。

 

『バ、バンドの話!』

 

 その時、ひとりさんが突然立ち上がった。まさか友達作りのきっかけを、ひとりさん自身がその足で踏み出すつもりなのだろうか。そこまでひとりさんが大きく成長していたなんて、ひとりさんはいつだってわたしの予想を大きく超えてくる。がんばれ、ひとりさん。勇気を出したその先には、ひとりさんの望んだ輝かしい学校生活が待っているのだからーー

 

「あ゛っ!!!」

 

 その一歩は、最悪の踏み出し方をしていた。まるで動物の鳴き声のようなその第一声は、人間のコミュニケーションにおいて何の意味も齎してはくれないのだ。気持ちだけが先行してひとりさんの声帯がついて行かなかったのだろうが、一般の生徒に理解できるとは思えない。

 

 ひとりさんもいきなりの失敗を悟ったのか、立ち上がったままガタガタと小さく震え始めてしまっている。

 

「ご、後藤さん?……あの後藤さんが話しかけてくれるなんて」

 

「ちょっと感動かも。どうしたの、後藤さん?」

 

 意外なことに、そんなひとりさんを見ても彼女達の反応はかなり好意的だった。普段のわたしの生活態度が功を奏したということなのだろうか。高校に入ってからは中学のように愛想は振り撒かず、粛々と過ごすばかりの学校生活をわたしは送っている。そのため、彼女達の言う『あの後藤さん』というイメージがどんなものなのか良くわからない。

 

 しかし、理由はどうあれこれはチャンスだ。このままひとりさんを何とかサポートすれば、学校初の友達ができるかもしれない。

 

『もう一人の私……』

 

『任せてくださいひとりさん。こんな時もあろうかと話題提供のサポートの準備は既に……』

 

『た、たすけて……何を話したらいいか忘れて頭が空っぽで、あばばばばばば』

 

『あー……了解です。ひとりさんは充分に頑張りました、後はわたしにお任せを』

 

 そんな風にポジティブに考えられたのはわたしだけで、ひとりさんは最初のミスで完全に精神をやられて混乱状態に陥ってしまっていた。こんな状態ではクラスメイトとの会話なんて無理だし、ひとりさんを落ち着かせるような時間を稼ぐこともできない。ひとりさんの判断を尊重し、わたしが表に出てくることにした。

 

 勿体無いという気持ちも少しあるけれど、一声かけるだけでもひとりさんにとってはとても勇気のいる行動だ。これ以上無理をさせてひとりさんの学校への苦手意識を悪化させては元も子もないし、ここが潮時だろう。何もかもとんとん拍子で上手くいくはずがない、仕方のないことだ。

 

「すいません。バンドの話をしていましたから、つい反応してしまって……驚かせちゃいましたよね、本当にごめんなさい」

 

 特にバンドの話題には触れたりせずに、ひとりさんへの心象を悪くしないよう軽く頭を下げて謝罪する。わたしが表に出てしまったからには、彼女達と盛り上がる必要性は一つもない。できるだけ迅速かつ無難に、この会話を終了させたいと思う。

 

「ううん、いいよ全然。それより、後藤さんもバンド好きなんだね!」

 

「ねー!後藤さん今日もギター持ってきてるけど、もしかして自分でもバンド組んでたりするの?」

 

 困ったことに、わたしの一方的な謝罪なんて二人は気にすることもなく音楽好きの仲間を見つけたとキラキラな視線を向けてくれていた。ひとりさんが教室まで持ち込んだギターにも目敏く反応して、ぐいぐいと切り込んでくる。

 

「はい。先日から課外バンドに参加させてもらっていて。……まぁ、少しずつ活動しています」

 

「そうなんだ!私、後藤さんはやっぱり只者じゃないって思ってたんだよね〜」

 

「そうそう。我が道を行くっていうか、オーラが違うよね」

 

 彼女達はこんなに楽しそうに喋りかけてくれているのに、どうしても嫌な気持ちになってしまう。バンドをしている自分を認められて、こんな会話をするのがひとりさんの望みなのに。そんな場所をわたしが横取りしてしまっているという事実が、どうしようもなく気持ち悪い。

 

「もしかして、この前変な格好してたのってバンドでの罰ゲームだったりする?」

 

「……そう、ですね。ちょっとした悪ふざけといいますか、あはは」

 

「だよね〜!後藤さん、急に音楽好きの化身みたいな格好してきたからびっくりしちゃったよー!」

 

 わたしというか、後藤ひとりの様子は存外にクラスメイトから注目をされているらしい。件のフルアーマーひとりさんの格好についてまで触れられてしまう始末。悪ふざけの結果、ということにしておけばひとりさんの名誉は守られそうだと言葉を濁すしかなかった。

 

『私の格好は罰ゲーム私の格好は罰ゲーム私の格好は罰ゲーム……』

 

『ひとりさん、どうか落ち着いてください……』

 

 だがそれによって発生するひとりさんへの精神的ダメージは避けられない。まずい、このままでは彼女達との会話がひとりさんを追い詰めるだけの残酷なものになってしまいかねない。何か意味を、この会話には意味があるのだと実感できなければわたしもひとりさんも傷付くばかりだ。

 

 そうだ、結束バンドでは絶賛ギターボーカルを募集中。ならば彼女達に良い人材に当てがないかと聞いてみればいいじゃないか。結束バンドに貢献できるならばひとりさんの勇気にも価値があったと証明されるのだし、我ながらなんたる名案なのだろう。

 

「実はわたし、今バンドのギターボーカルを探していまして。……お二人は誰か心当たりのある友達とか居ないでしょうか?」

 

「ギターボーカルってなると……やっぱり喜多ちゃんじゃない?」

 

「だね。カラオケめっちゃ上手いし、ギターも弾けるみたいだしね……最近バンド辞めちゃったって言ってたし丁度いいのかも!」

 

 喜多ちゃんこと、喜多郁代さん。人目を惹く容姿に、他クラスにもこうして多数の友達がいるほどの人望の厚さ。運動神経も良いらしく、運動部の助っ人をしているところを見たこともある。他人に対して関心の薄いわたしですら、顔と名前が一致してしまうくらいには学校の有名人である。

 

 そんな喜多さんはどうやら、ギターすらも嗜んでいたらしい。華のある見た目に底抜けに明るい性格、歌も上手でボーカルに必要な要素を兼ね備える人物が現在どこのバンドにも所属していない。ひとりさんとの相性を考慮しないのならばとんでもない優良物件。なんとか、この会話にも価値を付与できたようで一安心である。

 

「ありがとうございます。今度、喜多さんに声をかけてみますね」

 

「どういたしまして。後藤さんの役に立てて良かったよ〜」

 

「後藤さんと喜多ちゃんのバンド、絶対見てみたい!」

 

 ひとりさんのあの第一声からここまで親切にも会話に付き合っていただいたお二人には、どう感謝していいかわからないくらいだ。彼女達と本当に友達になれたなら、そんな馬鹿げたことを考えてしまうくらいにはいい人達だと思う。

 

 友達、わたしには縁のある必要のない言葉だろう。わたしにはひとりさんがいれば、それで充分なのだから。

 

「後藤さん、良かったら私達と放課後カラオケでもいかないかな?後藤さんのギター、聞いてみたいんだ」

 

「バンド活動で忙しく、ライブハウスでのバイトもありますので……しばらく、放課後の時間は取れそうになくて。すいません」

 

 だから彼女達の誘いには頷けない。わたしの人格で喋り、ひとりさんのようにギターを奏でられる後藤ひとりは存在しないのだから。表情を見られぬように、頭を下げて謝罪する。この優しさが、いつかひとりさんに向けられますようにと祈りを込めながら。

 

「……そっか。バンドマンだもん、忙しいよね」

 

「ごめんね後藤さん。バンド活動、私達応援してるから!」

 

 そうして、不慮の事故により生まれてしまった二人との交流は終了した。最後に二人が見せたどこか寂しげで、なのにこちらを気遣っていた表情が脳裏から離れてくれない。あえて冷たく突き放したような言い方を選択したのはわたしなのに、悲しむ資格がどこにあるというのだろうか。

 

『もう一人の私、良かったの?』

 

『何がですか?』

 

『その、放課後……。練習とかバイトない日だってあるし、断らなければ友達できたんじゃ……』

 

『いいんです、ひとりさん。わたしには必要のないものですから』

 

 ひとりさんは優しい。きっと、ひとりさんが学校生活をわたしに任せがちなのは学校が苦痛だという理由だけじゃない。わたしに学校生活を楽しんで欲しいから、という理由も多分に含まれているのだろう。

 

 だからわたしも示し続けなければいけない。学校生活を楽しむ上で、わたしに友達なんて存在は必要ないのだと。授業を受けて、勉強でも運動でもできる限りの優秀な成績を残して。それをひとりさんが喜んでくれれば、わたしの学校生活は満足なんだ。

 

 友達なんてわたしには過ぎたモノでしかない。そのはずなのに、少しだけ胸が痛むような気がした。

 

 

 ◇

 

 

「ご馳走様でした」

 

 現在は昼休み。ひとりさんは校内の物置と化している謎スペースで昼食を取っていた。理由は単純に、一人教室でご飯を食べるのが嫌だから。静かで誰も近寄ることがない、この場所こそがひとりさんのベストプレイスなんだろう。

 

 薄暗くジメジメとした、押し入れに似た場所を好むひとりさんの生態にピタリと合致していた。

 

「ねぇ、もう一人の私。喜多さんってどんな人?」

 

『そうですね……。見た目良し、人望良し、運動神経良しのひとりさんの思い描く陽キャそのものみたいな人でしょうか』

 

 結束バンドのメンバー候補、ひとりさんもその人柄が気になったようなので率直な回答をする。こうして口にするだけで、ひとりさんとは別世界に住んでいる人種だということがありありとわかってしまう。わたしは詳しくないけれど、イソスタでもちょっとした有名人らしい。

 

「そ、そんな子を私が勧誘できるわけない……」

 

 ひとりさんの懸念ももっともだ。相手はひとりさんが直視するだけで目を焼かれてしまいかねないような、純度100%の陽キャなのだから。コミュニケーションが成立するのかどうかすら怪しく、わたしとしても引き合わせることに躊躇を感じるというのが本音だ。

 

 ひとりさんと上手くいく前提条件として、喜多さんにも虹夏さんと同程度の優しさを求めることになってしまう。あの類稀なるほどの善人がそう何人も転がっていると思えるほど、わたしは世間を信じることはできない。

 

「もう一人の私に代わりに勧誘してもらうのは……?」

 

『それも考えたのですけど。……成功した時のことを考えるとやはりリスクが大き過ぎるので、ダメでしょうね』

 

「だよね……」

 

 わたしが勧誘して成功したとして、喜多さんとひとりさんの相性が合わなかった時が問題だ。そんなことになってしまえば、結束バンド解散の危機にも繋がりかねない。虹夏さんやリョウさんへ迷惑をかけるのは論外なので、わたしが出張るのもやはり選択肢としてあり得ないだろう。

 

『とりあえず、一度持ち帰って虹夏さん達の意見も聞いてみるのが丸いでしょうか』

 

「う、うん。私もそれがいいと思う」

 

 自分だけで勧誘という択が消えたことに安堵したのか、ひとりさんもコクコクと頷いてくれた。虹夏さん達も待望のボーカル加入のチャンスと聞けば喜んで協力してくれるだろう。秀華高の校門前まで来てもらって、虹夏さん達と一緒に勧誘する形が良いかもしれない。

 

 なんにせよ、今は一人だけで悩む必要はない。結束バンドという仲間ができたのはひとりさんにとって心強いはずだ。

 

「一人で勧誘もできないし、さっきももう一人の私に迷惑かけて……し、しかも黒歴史まで……うぷっ」

 

『ほ、ほら!せっかくギター持ってきたんですから、弾いて忘れましょうよ。わたし、学校でもひとりさんの演奏聴いてみたいです!』

 

 ひとりさんのネガティブは止まらずに、先ほどの罰ゲーム呼ばわりが余程効いてしまったのか食べたばかりの昼食を戻しそうになってしまっていた。誰も見ていないとはいえ、ひとりさんのそんな惨状は可能な限り回避したい。

 

 やはりひとりさんの気を逸らすならギターしかない。幸いここは物置と化している謎スペース。人なんて滅多に近寄らないし、アンプなしのギターを掻き鳴らしたところで問題はないだろう。わたしは文脈すら無視して、ひとりさんのギター演奏をゴリ押しすることとした。

 

「そ、そうだね。……よし、私はギターヒーロー。現実で被ってしまった汚名だって、この音楽で濯いで忘れよう!」

 

『その意気です!』

 

 わたしの思惑は成功したようで、お母さんのお弁当は無事ひとりさんのお腹に納められたままで済みそうである。成り行きとはいえ、わたしもこの昼休みをひとりさんのギターと共に過ごせるのは嬉しい。ひとりさんの裏でただ音に耳を傾ける、それが最もわたしの安らげる瞬間だから。

 

「それでは聞いてください。罰ゲームのような格好で登校した女の奏でるブルース」

 

『めちゃくちゃ引き摺ってるじゃないですか……』

 

 久方ぶりに黒歴史を更新した事実が堪えているのか、悲しすぎる前口上と共にひとりさんの演奏は始まった。奏でられる曲はわたしも聞いたことがなく、ひとりさんが即興で音楽を創り上げていることがすぐにわかった。

 

 アンプもなく、どこか頼りない音しかギターから発せられないにも関わらずひとりさんの指遣いに迷いはない。的確にコード進行をして、頼りない音すら纏め上げてギターをかき鳴らす。それは、ひとりさんのこれまでの積み重ねがあるからこそ成せる業なのだろう。

 

 そして、暗すぎる口上の割にその曲調はどこか明るく、そして包み込むかのように穏やかで優しい。この演奏がひとりさんの黒歴史を洗い流すためではなく、わたしの見せようともしていない傷を癒そうとしているものなのだと、どうしてもわかってしまう。どこまでもわたしに寄り添った演奏、つい夢中になり没頭してしまって。

 

 だから、この演奏を聞き付けたもう一人の存在にわたしも気付くことができなかった。

 

「凄い、感動〜!後藤さん、ギターもとっても上手なのね!」

 

「ひぁっ!?」

 

『き、喜多さん!?』

 

 ひとりさんが演奏の手を止めた瞬間、この薄暗い空間にはあまりにも不釣り合いなハキハキとした声が響く。慌てて意識を引き戻すと、そこには輝かしいばかりの笑顔でひとりさんのギターを称賛している喜多さんという、異様な光景が広がっていた。

 

『き、喜多さんってあの喜多さんだよね……どどどどどうしてこんなところに!?』

 

『すいません。いったいわたしも何が何だかといった感じでして……』

 

 ひとりさんのサポートとして冷静であらねばならないのだけど、あまりに状況が唐突過ぎてわたしも混乱気味だ。何故喜多さんがこんな場所まで足を運んで、ひとりさんにニコリと微笑みかけているのか。この人は普段、たくさんの友達に囲まれながらお昼を過ごしているはず。たまたまで、こんな場所を訪れることはありえないのだ。

 

「バンド所属の人の演奏ってやっぱり違うのね! さっきの演奏、すごく惹きつけられちゃった。……ねぇ、他にも何か弾けるの?弾いて!」

 

『よ、陽キャオーラが眩し過ぎて直視できない……っ!?』

 

 ひとりさんが早速喜多さんの光にやられかけてるのは由々しき事態だが、今の発言でおおよその状況は理解できた。

 

 ひとりさんがバンドに入っていると知っているのは、先程話したあの二人だけのはず。つまり、喜多さんが彼女達から何らかの話を聞いてひとりさんを探し始めたということは間違いない。喜多さんがわざわざ足を運ぶほどの用件なんて皆目見当もつかないが、恐るべきは陽キャの情報伝達の速さである。

 

『もう一人の私、助けて!このレベルの陽キャには陽キャであるもう一人の私じゃないと勝てない!』

 

『申し訳ないですけど、ギターの演奏が求められている以上わたしが助けるのは難しそうです。……不慮の事態ですが、勧誘のチャンスと考えてここはひとりさんがご尽力を。わたしも、出来る限りのサポートはしますから!』

 

『そ、そんなぁ……うぅ、なんとか頑張ってみる』

 

 ギターの関わる場面では、わたしは物理的に協力することができない。かつてない程の窮地ではあれど、ひとりさんに頑張ってもらうしか切り抜ける方法はない。成功すれば一発逆転、結束バンド完成の立役者になれる。そんな動機があるからか、ひとりさんも弱々しいながらも立ち向かう意志を示してくれた。

 

「あっ、えぇと……き、喜多さんは私のことをご存知なんですか……?」

 

 あくまで話しかけられた側という最終防壁があるからか、なんとかひとりさんもそう話を切り出すことができた。ひとりさんにしてみれば、喜多さんは雲の上の存在に等しい。そんな相手が、自分の名前を呼んで認識してくれているという現状が不思議なのかもしれない。

 

「もちろん!後藤さんクラスでも有名人だもの。私もね、いつか後藤さんとお話をしてみたいってずっと思ってたのよ?」

 

「あっ、そ、そうなんですか……えと、う、嬉しいです?」

 

『有名人!?まさかもう私の黒歴史が拡散されている!?』

 

『いえ、そんなはずがありません。きっと別の理由だとは思うのですが……』

 

 高校に入ってからのひとりさんのやらかしは、バンドグッズをフル装備したあの一件しかない。あれだけで他のクラスの話題になるほど悪名が轟くとは思えないのだ。いったい、喜多さんをして有名人とまで言わしめるその理由とはなんなのだろうか。

 

「あっ、その、有名人というのはどういう意味で……?」

 

「それはもう!長い前髪からたまに覗かせる物憂げな表情とか!他者を寄せ付けない孤高な雰囲気なのに、ふとした拍子に見せる儚げな微笑みが……何もかもきゃーって感じで!!」

 

『きゃー……??』

 

『私はちょっとわかるかも。学校でのもう一人の私、カッコいいから……えへへ』

 

 興奮した様子で語る喜多さんに、ますます理解が追いつかなくなる。カッコ良さという観点で見るならば、他者のために直向きに努力できるひとりさんの方がよほどカッコいいとわたしは思うけれど。ひとりさんが嬉しそうにしているのが、少しだけむず痒い。

 

 なんにせよ、喜多さんがひとりさんに好印象を抱いているのは幸運。こちらが何も語らずともハイテンションで喋ってくれる喜多さんに、ひとりさんもある程度の余裕すら見せ始めている。沈黙が苦手なひとりさんとの意外な相性が垣間見えて、勧誘成功への足掛かりが掴めそうだった。

 

「正直、後藤さんのこと近寄りがたくて怖いと思う気持ちもあったんだけど……こうして勇気を出して話しかけてよかったわ。後藤さん、イメージよりずっと親しみやすい人だったもの!」

 

「こ、こちらこそ。喜多さん、私なんかと楽しそうに喋ってくれて……ありがたいです。へへへ」

 

『怖くて、近寄りがたい……ですか』

 

 ひとりさんと喜多さんが打ち解け始めているのは大変喜ばしいことだが、一つ聞き捨てならない言葉を聞いてしまった。確かに必要以上に愛想を振り撒くのは止めたけど、それでもそんなイメージを持たれてしまうほど他人に壁を作ったつもりはないのに。

 

 いや、よく考えろわたし。高校生からひとりさんは制服ではなく、指定のものですらないジャージでの登校を始めた。校則破りの服装で毎日登校し、いつも愛想のない仏頂面で生活している奴を見て、他の生徒からはいったいどう思われるのかを想像しろ。それはまさに、他者からしてみれば不良と何も変わらないのではないだろうか。

 

 つまり、ひとりさんが今まで誰にも話しかけられなかったのは、わたしが原因の一端を担っていたということ。最悪である、明日からはもう少し愛想良く過ごそうと心の底からそう誓った。

 

『ひとりさん。おそらく喜多さんは何かしらの用件があるのは間違いないので、そろそろ尋ねてみてはどうでしょうか?』

 

『あっ、うん。そうだね』

 

 本音を言えば、この温まった空気のまま結束バンドへの勧誘を行いたい。しかし、何事にも優先順位というものがある。ここはグッと我慢して喜多さんの用事を解決してから、気兼ねない状態で勧誘を行うことにしよう。

 

「あっあの、喜多さんは私に何か用事があったりするのでしょうか……?」

 

「うん。実はね……後藤さんに、私のギターの先生になって欲しいの!!」

 

 尋ねられた瞬間、喜多さんは佇まいを直すと両手を合わせて拝むようにしながらひとりさんにそう頼み込んでいた。虹夏さんも同じようなポーズをとっていた気がするし、陽キャの頼み事をする際の礼儀作法なのだろうか。

 

 案件はギターの先生と真っ当なもの。しかし、この必死さから見るにギターが上手になりたいという単純な理由からの申し出とは思えない。初対面のひとりさんをわざわざ頼ってきたあたりに、何か大きな動機がその裏に隠されているような気がして思わず身構えてしまう。

 

「で、でも、喜多さん既にバンドやっててギター弾けるんじゃ……」

 

「違うの。正直に言うと私、ギターまったく弾けないのね。前ちょっと居たバンドもね、先輩目当てで弾けるって嘘ついて入っちゃったというか……けど結局、何一つわからなくて逃げちゃって」

 

「えっ」

 

『えっ』

 

 唐突に、喜多さんは全ての前提条件すらひっくり返してしまう爆弾を投下してきた。わたしもひとりさんも絶句してしまう。

 

 ギターをまったく弾けないにも関わらず、嘘をついてバンドに加入する。冷静に考えなくてもとんでもない行動だ。しかも、最終的には逃げてしまうという最悪なオチまでついてしまっているのだから救いがない。もしかして、喜多さんはけっこうヤバい人なんじゃないだろうかと、失礼ながら警戒してしまう。

 

「初心者が一人で始めるには難し過ぎるのよね……メジャーコード?マイナー?野球の話?」

 

『どうしようもう一人の私。わからないの次元が違いすぎる……』

 

『わたしと知識量で言えば大差ないですよね……』

 

 ギターの知識でいえばズブの素人であるわたしと同レベルの喜多さんが、短期間とはいえどうやってバンド活動をしていたのか不思議でならないし想像するのがなんだか怖い。あのひとりさんですら困惑の色を隠せていないのだから相当だ。

 

「あっあの!それじゃあ、喜多さんはどうして私にギターを教わりたいんですか……?」

 

「それは……私、バンドから逃げたことずっと後悔してて。だから、今度こそギター弾けるようになって前のバンドの先輩達に謝りに行きたいの!」

 

 ひとりさんが理由を追及すると、喜多さんはその明るい表情に大きな影を落として、沈痛な面持ちでそう語った。バンドメンバーから逃げ出したことを、喜多さん自身も深く反省し後悔している様子が見てわかった。よかった、そうでなくては流石に喜多さんとの付き合いを考えねばいけないところだった。

 

 バンドメンバーへの謝罪、そこへの誠意と説得力を持たせるためのギター指導。クラスメイトの反応から察するに、喜多さんはギターが弾けないことを友達にすら打ち明けられていない。だからこうして、見ず知らずの近寄りがたいとすら思っていたひとりさんを頼るしかなかった。

 

 喜多さんには喜多さんなりの、人気者故の孤独を抱えていたのだろう。

 

「お願いっ!……こんなに上手な後藤さんが教えてくれるなら、私も頑張れる気がするの!」

 

 わたしの心情だけでいえば、喜多さんに協力してあげたい気持ちではある。そのままひとりさんとの交流を続けて友達になって欲しい、そんな下心があるから。ただ、今回も当然ながら優先されるべきはひとりさんの意思だ。

 

 喜多さんがギターを弾けなかったと発覚した時点で、結束バンドへの勧誘は自動的にお流れとなった。冷たい話だけれど、もう既にひとりさんが喜多さんに対して付き合ってあげるメリットは一つもなくなっている。だから、後は全てひとりさんの意思次第だ。

 

 ひとりさんがこれから、喜多さんとの付き合いをどうしていきたいのか。バンドに加入してライブハウスでバイトまで始めて、その上に喜多さんへのギター指導も加わってしまえばその負担は一層大きいものになる。その苦労を背負い込んでまで、喜多さんと関わり続けるのか。そんなことを、わたしはひとりさんに問いかけねばいけない。

 

 優しいひとりさんは、自分では絶対に断らないだろうから。ひとりさん以外に優しくないわたしが、その役目を担うのだ。

 

『ひとりさん。難しいようでしたらわたしが代わりに……』

 

『ううん、大丈夫』

 

 ひとりさんは呆気なく、わたしの申し出を断った。まるで初めからそうすることを決めていたかのように迷いなく。優柔不断気味なひとりさんにしては珍しく、呆気に取られてしまう。

 

「わ、わかりました。……これから一緒に頑張りましょう、喜多さん」

 

「ありがとう!……後藤さん、私死に物狂いで付いていくから!!」

 

 ひとりさんが申し出を承諾すると、喜多さんはひとりさんの両手を握り全身で喜びを表現していた。ひとりさんにきっかけを与えてくれる誰か、その位置にはいつの間にか喜多さんが収まっていて。わたしの思い描く絵空事のような光景が、現実となっている。

 

 都合が良すぎて、逆に心配になってしまう。これがわたしの無駄な感傷を拾い上げた結果で、ひとりさんが無理をしていないのかだけがどうしても気がかりだった。

 

『本当に良かったんですか?』

 

『う、うん。……逃げたまま一人で後悔し続けるのは辛いって。私もよくわかるから』

 

 そんなわたしの心配はまったくの杞憂だったらしい。これはいわゆる、ひとりさんの感傷だった。ひとりさんにはより鋭敏に、喜多さんの苦しみが感じ取れたのだろう。困難から逃げたくなってしまうやるせなさも、逃げた後のどうしようもない無力感も。わたしなんかより、ひとりさんは実感を伴って理解できてしまうはずだから。

 

『だから、私も喜多さんの力になってあげたいんだ……もう一人の私が、そうしてくれたように』

 

 今回の結果にしたって、ひとりさんが自ら勇気を振り絞っただけに過ぎない。わたしのしたことなんてちっぽけなもので、全てはひとりさんの努力の賜物だ。けれど、その選択に至るまでのひとりさんの心に、わたしの積み重ねが少しでも良い影響を与えられたのならば。

 

 わたしは自分の人生を、少しだけ誇らしく思えた。




次回は喜多ちゃん加入回。拙作書く上で書きたかったシーンの一つなので、気合を入れたいですね。


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逃げたその先の辿り着いた場所

喜多ちゃん加入回後半です。例の如く長いですが、気合いを入れて書きましたので是非楽しんでください。


 

 放課後。予定通りにひとりさんはSTARRYへとバイトに向かうことにしたのだけど、そこに一つの想定外が発生していた。なんと、喜多さんが同行を申し出たのである。

 

 喜多さんのバイタリティは凄まじく、早速今日からギターの教えを受けたいのだと熱く主張。放課後にはバイトがあると説明を受けても、バイト終了後の僅かな時間でもいいからと尽く食い下がる。練習時間よりも待ち時間が明らかに上回ってしまうのに、冷めることのない熱意。それだけで、喜多さんの原動力となっている元バンドメンバーへの罪悪感が根深いのだと感じられるようだった。

 

 喜多さんからのアプローチにたじたじになりながらも、ひとりさんはこれを承諾。そういった経緯により、今回のバイトの旅の道連れとして喜多さんが加わることになった次第である。

 

 もちろん、バイト先で待ち受けているはずの虹夏さんとリョウさんにも連絡済みだ。ギターヒーローの動画概要欄然り、ひとりさんは文面になった途端あることないこと書こうとする癖がある。要らぬ誤解を生まぬために、今回はわたしが『駆け出しの同級生にギターを教えることになりました。見学のため、本日ライブハウスへと連れてきてもいいでしょうか?』と簡潔にロインで伝えておいた。

 

 虹夏さんからは『新ギターボーカル勧誘のチャンスだね!歓迎のための準備しておくから!!』と可愛らしいスタンプと共にそんな返信が。文面から察するに、初心者でも虹夏さんにとっては勧誘対象らしい。才能の片鱗が感じられれば、経験は問わないということなのだろうか。経験者三人の中に初心者一人は歪にも感じるが、それは結束バンドの問題。部外者であるわたしがあれこれ考えても仕方のないことだ。

 

『もう一人の私……助けて、タスケテ。眩し過ぎて焼け死ぬぅ……』

 

『もう少し、もう少しですから。虹夏さん達と合流するまでなんとか持ち堪えましょう!』

 

『うぅ……もう一人の私が陽キャ語を翻訳してくれなかったら、確実に死んでいた』

 

 下北沢には既に辿り着き、STARRYまでは残り徒歩十分程度。しかし、喜多さんを先導して歩くひとりさんは既に満身創痍となっていた。

 

 放課後の移動時間すらも喜多さんの明るさは留まることを知らず、輝かしい笑みを浮かべたままひとりさんへと喋りかけ続けた。その話題もクラスでの青春エピソードから愛用している美容品の話と多岐に渡り、極めつけには頻繁に行われる自撮りとイソスタへの写真の投稿。そんな喜多さんの一挙一動が、日陰の生き物であるひとりさんに大きなダメージを与えてしまったのである。

 

 わたしも最大限のサポートはしたが、ひとりさんがいつ意識を失っても不思議ではない会話の応酬に生きた心地がしなかった。むしろ、ここまで人間の形を保ち会話をやり通したことが快挙と言えるだろう。ここ最近のひとりさんの成長ぶりには驚かされるばかりだ。

 

 その一方で、下北沢に着いてからはひとりさん以上に喜多さんの様子がなんだかおかしい。あれだけ饒舌だったのに口数は激減し、学校での自信溢れる立ち振る舞いが見る影もないくらい、所在なさげに視線を彷徨わせている。この瞬間だけを切り取れば、ひとりさんよりよっぽど挙動不審に見えてしまう程だ。

 

 まさか喜多さんに限って実は人見知りなどということはあり得ないし、一体どうしたのだろう。下北沢に嫌な思い出でも抱えているのだろうか。

 

「後藤さんのバイト先って下北沢だったのね……」

 

「あっ、はい。……来たことあるんですか?」

 

「私の入ってたバンド下北系だったから。それに、メンバーの先輩達がここに住んでて……」

 

「な、なるほど」

 

 その発言を聞いて喜多さんの様子にようやく合点がいく。つまり、こうして下北沢を歩くことで元バンドメンバーに鉢合わせないか不安だったということ。逃げるという気まず過ぎる別れ方をしてしまった以上、不意に出会ってしまえば修羅場となるのは避けられない。あの喜多さんですら警戒してしまうのも頷ける。

 

 ただ、流石にその心配は杞憂だろう。この多くの人々が行き交う下北沢で、特定の誰かに捕捉されるなんて確率は相当低い。例えるならば、ひとりさんが虹夏さんにたまたま拾って貰えるくらいの天文学的確率。世間はそんなに狭くはない、たまたま鉢合わせるなんて偶然はおいそれと起こらないはずだ。

 

『喜多さんも不安になったりするんだ……なんか親近感。よ、よし、ここは下北女子である私が喜多さんをしっかり案内しないと……』

 

『……そうですね。なんと言っても、今日のひとりさんは先生なんですから』

 

『う、うん!』

 

 ひとりさんが下北女子の定義に当てはまっているかは怪しいけれど、とても良い心がけだと思う。初めて下北沢を歩く時は一人で歩くのすら精一杯だったのに、今ではこうして喜多さんへの配慮すら見せられるようになっている。ひとりさんも少しずつ自分を認め、前向きになろうとしていた。そんな事実を認識する度に微笑ましさと、僅かな寂しさをわたしは抱いている。

 

「あっあの、喜多さん!もう少しで着きますので……場所はSTARRYって所です。そこにバンドメンバーの虹夏ちゃんとリョウさんが待っているはず……」

 

「……ゴメン、私やっぱり帰る」

 

「えっ……なんで」

 

 そんなやる気を見せたところに喜多さんの突然の帰宅宣言を被せられて、ひとりさんは言葉を失ってしまう。そしてわたしも、そのあまりの突拍子のなさに面食らってしまった。あれほどやる気に満ち溢れていた喜多さんが急に帰ろうとするなんて、異常過ぎる上に不自然極まりない。

 

 ひとりさんの発言から帰らなければならない事情が生まれた、そう考えるのが妥当なのかもしれない。しかし、こうも形振り構わずひとりさんからも逃げ出さなければいけないような事情がさっぱりわからなくて、その得体の知れなさに恐ろしさすら感じる。そんな混乱するわたし達に構うことすらなく、喜多さんはひとりさんの顔を両手でむんずと捕まえながら矢継ぎ早に言葉を続ける。

 

「後藤さん肌柔らかっ!?……じゃなくてっ!理由は言えないけどどうしてもそこには行けない。ここに来たことも私と後藤さん二人の秘密に――」

 

「おーい、ぼっちちゃーん!!見学の子のためにお菓子とか買ってきたよー!」

 

「がっ!!?」

 

 鬼気迫る様子の喜多さんに反比例するかのように、その背後から平和そのものな虹夏さんの呼び声が響く。ひとりさんが僅かに視線を動かすと、ご機嫌そのものな表情でお菓子の詰まったレジ袋を抱える虹夏さんの姿を確認できた。買い出しに出掛けていたところを、ちょうど巡り会ってしまったのだろう。

 

 もう一度喜多さんに視線を戻すと、学校の人気者がしてはいけない表情と声を出してしまっている。その姿は普段のひとりさんなんて比較にならないほど絶望感に溢れていて、ここでようやくわたしは喜多さんの事情を窺い知ることができた。

 

 喜多さんは逃げてしまったバンドの先輩に謝るために、ひとりさんへとギターの指導をお願いした。そして、虹夏さんはライブ当日にギターの子が逃げてしまったのだと語っていた。ひとりさんの口から虹夏さんとリョウさんの名前が飛び出た瞬間、おかしくなった喜多さんの挙動。つまり、そういうことなのだろう。

 

「って、あーーーーーー!!逃げたギターーーーーーーーーーー!!!!」

 

「あひいいいいいいい!!」

 

 犯人を見つけたとばかりに指を差し、声を荒らげる虹夏さんに昼休みの溌剌さが嘘のように狼狽える喜多さん。目の前の光景こそがこの奇妙な巡り合わせが真実であることを嫌でも語っていた。

 

『逃げたギターって……?』

 

『結束バンドの逃げたギター……それが喜多さんだったということでしょうね』

 

『えっ!?』

 

 ひとりさんにとってはまさに晴天の霹靂だろう。純粋な善意のもと喜多さんへの指導を買って出ただけなのに、いつの間にか最も出会いたくないであろう人物との再会を手引きした形になったのだから。

 

「喜多ちゃん、何でここに?」

 

「あれ、何してるの」

 

「何でもしますからあの日の無礼をお許しください!どうぞ私をめちゃくちゃにしてくださいっ!!」

 

「誤解を生みそうな発言やめてー!!」

 

 虹夏さんに遅れる形でリョウさんが現れると、もう状況はめちゃくちゃだった。クラスの人気者であるはずの喜多さんが、往来のど真ん中で地面に額を擦りつけんばかりの勢いで土下座する光景はあまりに辛い。数年ネガティブなひとりさんを見続けたわたしですらも目を背けたくなるほどに、その姿は悲壮感に溢れ過ぎている。

 

 なんとか喜多さんに頭を上げさせようと手を尽くす虹夏さんに対して、リョウさんは感心したように喜多さんの痴態を観察し続けている。元結束バンドメンバーの見せるあんまりな惨状に、わたしもひとりさんもただひたすらに置いてけぼりを食らってしまっていた。

 

『ど、どどどどどどうしようもう一人の私!?』

 

『まぁ、こういう時は……なるようにしかならない。そういうものですよ』

 

 ようやく思考が現実に追いついてきたのか、大慌てのひとりさんにわたしは力無くそう答えることしかできない。実際問題、きっかけはひとりさんだとはいえこの状況は喜多さんの身から出た錆。ひとりさんにもわたしにも、今できることなんて状況の推移を見守ることくらいのものだ。

 

 一つだけ改めるとするならば、世間は狭くないなんていうわたしの浅はかな認識くらいだろうか。

 

 喜多さんが逃げたことによりひとりさんは結束バンドメンバーに出会い、そのひとりさんが今度は喜多さんを結束バンドへと引き合わせた。人間同士の出会いは偶然の産物ではなく、運命的な巡り合わせの下に行われているんじゃないか。そんなメルヘンな考えを抱いてしまうくらいには、世間というモノは狭いらしい。

 

 ならば、ひとりさんがわたしという存在を望んで生み出してくれたのも、必然に違いないのだと。わたしはそんなロマンチックな思考に浸りながら、目前の事故めいた悲しい人間模様からの現実逃避を行うのだった。

 

 

 ◇

 

 

「喜多ちゃん全然ギター弾けなかったんだ……だから合わせの練習頑なに避けてたんだね」

 

「はい……」

 

 虹夏さんの必死の説得により喜多さんはなんとか落ち着きを取り戻し、事情聴取の場はSTARRY内へ移されることになった。メンバーミーティングの時と同じように、丸テーブルを四人で囲むがその空気は重苦しい。虹夏さんの用意したお菓子も、リョウさん以外は誰も手をつけずに寂しく佇んでいた。

 

 喜多さんからのおおよその説明を受けても、虹夏さんとリョウさんに動じた様子はない。むしろ今までの喜多さんの不審な行動に合点がいったと、納得すら得ているみたいだった。やはりこの重苦しさの原因は喜多さんで、現在も涙目のまま可哀想なくらい肩を縮こませてしまっていた。

 

『喜多さん気まずそう。私にも何か言ってあげられることないかな……』

 

『気持ちはわかりますが、ここは虹夏さん達に任せるのが最善でしょう』

 

 喜多さんの逃亡がなければひとりさんの結束バンド加入もなかった訳で、個人的な心情としては喜多さんの味方をしてあげたい。ただ、この件に関してはわたし達は完全な部外者。当事者の虹夏さん達を差し置いて、あれこれと口を挟むのは違う気がするのだ

 

 それに、わたし達がわざわざ割って入るまでもないという確信もある。虹夏さんにリョウさんも、必要以上に喜多さんを責め立てたりするような人でないことは分かりきっている。虹夏さんなんてずっと心配し続けてくれたほどの聖人なのだし、見守っていれば悪い結果にならないのは明白だった。

 

「突然音信不通になったから心配してた」

 

「先輩っ!!」

 

『リョウさんさすが!』

 

『ほら、やはりわたし達の尊敬する先輩方は器の大きさが違うのです』

 

 意外にもこの気まずい空間を打ち破ったのはポッキーを咥えたリョウさんで、その一言だけで喜多さんは幾分か元気を取り戻していた。

 

 ここ最近は仕事をサボりがちでダメなイメージばかりが先行していたけど、リョウさんもここぞという場面では優しさを発揮できる素晴らしい人物なのだと再確認する。ひとりさんの初ライブの時も庇ってくれたその優しさ、あれが幻でなかったことが素直に嬉しいと思えた。

 

「死んだかと思って、最近は毎日お線香をあげてた」

 

「いや、勝手に殺さない殺さない」

 

 こういう一言多い部分も場を和ませるための冗談だと思いたいのだけれど、それはどうだろう。リョウさんなら本当にやりかねないと、頭の片隅で告げるわたしがどうやっても居なくなってくれない。

 

「あの……怒らないんですか?」

 

「気付かなかったあたし達にも問題あるし。それに、ぼっちちゃんのお陰であの日はなんとかなったしね!」

 

「は、はい!」

 

 喜多さんの疑問を受けると、虹夏さんは気持ちよくこちらに笑いかけてくれて。ひとりさんは控えめながらも、力強くそれに頷いて見せた。

 

 経緯はどうあれ、喜多さんの逃亡をきっかけとして今の結束バンドがあるのは疑いようのない事実。わたし達にとっては感謝すべきであり、虹夏さん達もきっと同じような認識でいてくれてるのだろう。あまり大きな心配はしていなかったけれど、無事丸く収まりそうで一安心だ。

 

「でっでも!それじゃ私の気がおさまりません、何か罪滅ぼしをさせてください!」

 

「そんなこと言われてもな〜……」

 

 話が纏まったかと思ったところで、喜多さんだけが納得いかないとばかりに異議を申し立てていた。誠意を見せるためにギターを覚えようとしていたくらいだし、こうも呆気なく許されたことが落ち着かないのだろう。しかし、罪滅ぼしといっても慰謝料を要求するわけにもいかないし難しいモノである。

 

「じゃあ今日のライブハウス手伝ってくれない?忙しくなりそうだから」

 

「それだけじゃ……」

 

「ううん、十分助かるよ。よろしくね、喜多ちゃん!」

 

 そんな懸念も、後ろで話を聞いていた星歌さんの提案により解決されることになった。喜多さんはライブハウスのために貢献することで罪滅ぼしができるし、虹夏さん達も仕事が分散されて楽をできる。さすがは一つの店を預かる大人の女性、非常に上手い落とし所だと言えるだろう。

 

『よかった。喜多さんが虹夏ちゃん達と仲直りできて』

 

『……そうですね』

 

 ひとりさんの言う通り、一件落着と素直に喜ぶべきなのかもしれない。しかし、今日という日を終えた後のひとりさんと喜多さんの行く末。それだけがわたしには気がかりだった。

 

 喜多さんは元バンドメンバーへの謝罪を果たしてしまった。それは、ひとりさんからギターを教わる理由も消え失せてしまったことに他ならない。明日からの学校では何事もなかったかのように、喜多さんはクラスの輪に戻り、ひとりさんはわたしの裏に引っ込んで日陰の生活を送るのだろうか。

 

 全ては二人の心意気次第、そう理解はしている。けれど折角結んだ二人の縁が、明日からもどうか交わり続けて欲しいのだと。自分勝手にも過ぎるそんな願望を、わたしは捨て去ることができそうにもなかった。

 

 

 数分後、臨時要員の喜多さんを加えてSTARRYの業務は開始された。

 

「あいつ、臨時なのに使えるな」

 

「ホント、喜多ちゃん手際いいね!」

 

 自分から罪滅ぼしを志願しただけに喜多さんの働きぶりはかなりのもので、その姿を見て伊地知姉妹が満足げに頷いていた。あまり似ていないようでいて、こういった細かい仕草が似通っていることに姉妹であることが強く感じられて、何だか微笑ましい。

 

 二人が感心するのも当然と言ってしまえるくらいに、喜多さんのバイト適性は高かった。仕事を一つ教えれば、メモも取らずにスポンジのごとく吸収して教えてないことすらアドリブでこなしてしまう要領の良さ。PAさんを初めとしたスタッフさん等とも、呆気なく打ち解けてしまうコミュニケーション能力の高さなど。クラスどころか学年を通した人気者という肩書きは伊達ではなく、バイトという環境において喜多さんはあまりに優秀だった。

 

『店長さん、なんであんな服持ってるんだろ……?』

 

『集めるのが趣味、なんじゃないですか?可愛いものが好きでも不思議ではないでしょうし』

 

『さすがもう一人の私、店長さんへの理解度が違う!』

 

 星歌さんの意向により、鼻歌混じりに清掃を行っている喜多さんの服装はメイド服に仕立てられていた。星歌さんには縁遠そうな服ということもあり、ひとりさんは疑問を抱いているようだけど、わたしとしてはそこまで首を傾げる程ではないという印象だ。

 

 可愛らしい一面のある星歌さんのことだ。自分には似合わないと理解しつつも、陰ながらそういった服や小物を集めて欲求を満たしている。そんな隠れた趣味があっても不思議ではないと思うのだ。まぁ、さすがにこれはわたしの勝手な妄想が含まれ過ぎているかもしれないけれど。

 

「ぼっちちゃんも着てみるか?きっと似合うと思うけど」

 

「ご、ごめんなさい!むむむむむりです!!」

 

「お姉ちゃん!ぼっちちゃんのこと困らせちゃダメでしょ!」

 

「困らせるってお前。私なりに交流を図ろうとだな……」

 

 メイド服に視線を注いでることに気付いたのだろうか。気軽にそんな提案をしてきた星歌さんに、ひとりさんはぶんぶんと大袈裟に首を振り否定した。制服で学校に通えないひとりさんに、メイド服は壁が高過ぎる。

 

 星歌さんはどうにも初日のわたしのイメージを引きずっているようで、後藤ひとりを物怖じしない性格だと思っている節がある。だから、今回のようなコミュケーションエラーが度々二人の間で発生してしまっているのが現状だ。言うまでもなくわたしのせいであり、虹夏さんに注意されている星歌さんには本当に申し訳なく思う。

 

「ま、いいや。私は仕事に戻るから……ぼっちちゃんも、何か困ったことあったら言いなよ」

 

「……あっ、はい」

 

 丁度いい機会と取ったのか、そう言い残すと星歌さんはバックヤードの方へと引っ込んでいった。ひとりさんも初日に抱いていた恐怖は消え去っているようだし、星歌さんもだんだんひとりさんの取り扱いに慎重にはなってきている。わたしという余計なフィルターが消えて、二人が打ち解けるまではもう一歩といったところだろうか。

 

「お姉ちゃん、ぼっちちゃんにだけなんか甘くない?」

 

「そ、そうですかね……うへへ」

 

「そうだよ!あたしにももうちょっと優しくしてくれても良いのにさ……」

 

 頬を膨らませて拗ねたように口を尖らせる虹夏さん。普段は優しく頼れる先輩のイメージが強いから、こういった妹然とした振る舞いは新鮮だ。星歌さんも実の妹にこそ優しく接してあげればいいのに、なんてわたしは笑っている場合ではない。

 

 星歌さんがひとりさんに甘いというか、過度な心配を向けているのは事実だ。最初の内は新人バイトが心配なのだろうで済ませられたが、それが今日に至るまで毎回続けられていると話は別。星歌さんが何らかの具体的な意味を持ってひとりさんを観察していることが理解できてしまう。

 

 お父さんとお母さん然り、大人という生き物はわたしが想像もできないほどに周囲をよく見ている。だから、星歌さんがわたしの存在に気付くはずがないなんて楽観視はできない。誰にも迷惑をかけないためにも、もう少しわたしが気を引き締めないといけなさそうだ。

 

「あっそうだ……喜多ちゃん愛想良いし受付も覚えてみる?教えるね!」

 

「はいっ!」

 

 喜多さんの仕事ぶりにポテンシャルを感じたのだろうか、虹夏さんは臨時バイトにも拘わらず店の看板役ともいえる受付すら教えることにしたようだ。両者ともに明るい性格で波長が合うのか、仲睦まじくまさに花の女子高生といった空気感を放っている。

 

『今日入ったばかりの喜多さんより仕事ができない私ってなんなんだろう……社会不適合者?』

 

『喜多さんと比べるのはやめましょう、ね?人には向き不向きがあるんですから……』

 

 そんな空気感に当てられて、ひとりさんがネガティブに入ってしまっていた。喜多さんは女子高生の中でも相当な上澄み、比べる相手が悪過ぎる。無意識のうちに誰かと自分を比べてしまい、自身の心を傷つけてしまうのがひとりさんの悪い癖だ。そんな癖すらも、元を辿ればわたしの存在が原因となるのだからつくづく嫌になる。

 

「ぼっち、今日は暗いね」

 

 バイトが始まってから姿を見かけなかったリョウさんが、不意に現れて声をかけてきた。虹夏さんが買ってきたお菓子の一部であろうグミを次々と頬張っている状態で。まさか今まで仕事をせずに、こうやってお菓子を食べ続けていたのだろうか。喜多さんの罪滅ぼしを思えば、こうして休んでいるのもある意味では正解なのかもしれないけれど、星歌さんに見つかったら大目玉をくらいそうだ。

 

「あっ、いえ……喜多さんはバイト初日であんなに仕事できるのに、私はなんてダメバイトなんだろうって」

 

「そんなことないと思うけど、ぼっちは頑張ってる。メモ取りして、苦手なのに愛想良く接客もして。誰もやりたがらない仕事も積極的にやってくれるし、みんな助かってるよ」

 

「えっ……いっいやそんな私なんて……ふへっ」

 

 流れるように差し込まれるひとりさんの自虐を、リョウさんはいつものマイペースを維持したままサラリと否定してくれた。ひとりさんはその褒め言葉に瞬く間に機嫌を直しふにゃふにゃになっている。一方でわたしといえば、リョウさんのさり気ない一言に目頭が熱くなる感覚を覚えてしまうほどに。不覚にも、いたく感動をしていた。

 

 だってそうだろう。虹夏さんとは違い、どこか他人への関心が薄そうなあのリョウさんがひとりさんの仕事ぶりをしっかりと見て、評価してくれていたのだから。これを喜ばずして、何を喜ぶというのだろうか。

 

「主に私が助かってる。これからもたくさん働いて、私をサボらせてほしい」

 

「は、はい!私、リョウさんの分までお仕事頑張りますね!」

 

『ひとりさん、リョウさんの分の仕事は請け負っちゃダメですからね?』

 

『あっ、そっ、そうだった……』

 

 再び余計な一言を放ち、またサボるために去っていくその後ろ姿にしても今では許せるような気がした。ひとりさんが落ち込んでいるのを察知して、わざわざ一声かけてくれたのだという背景を知っているから。今後わたしの中で、リョウさんの尊敬できる先輩という評価が揺らぐことはきっとないだろう。

 

「ぼっちちゃーん!手が空いてるなら、喜多ちゃんにドリンク教えてあげてよ」

 

「あっ、はい!」

 

 いつの間にか喜多さんへの受付講座は終了していたようで、手持ち無沙汰となっていたひとりさんに虹夏さんからそんな仕事が割り振られることとなった。慣れてきたとはいえまだまだ新人バイトの身。他人に仕事を教える立場になるなんて、ひとりさんにとっては大仕事であろう。

 

『よし、名誉挽回のチャンス。……喜多さんのためにも、しっかりとお仕事を伝えられるようにしないと』

 

『わたしのメモを存分に活用してください。……大丈夫。家での練習を振り返れば、きっと上手くやれますとも』

 

 普段のひとりさんなら尻込みしてしまうところだが、先程リョウさんに認められたのが効いているのかかなり前向きだ。今後長く働き続けるのならば、バイトの後輩に教えることもあるだろうし良い機会であると思う。

 

 ひとりさんは家でギターの練習だけでなく、わたしが教える形で仕事内容の復習もしている。メモには抑えるべき要点や気をつけなければいけないことも纏めてあるので、その経験や知識を上手に使えば大失敗だけはしないはずだ。

 

 ひとりさんと喜多さんの交流を深めるためにも、わたしはあまり出しゃばらずにひとりさんの健闘を見守りたいと思う。

 

 

 ◇

 

 

「ーーこ、こんな感じで、ドリンクスタッフは注文された飲み物を渡すだけなので。喜多さんならきっと大丈夫だと思います。……あっ、後は、ソフトドリンクとアルコールを間違えることがないように、気を付けていただければ……はい」

 

「大体分かったわ、ありがとね後藤さん!」

 

 わたしの予想通り、ひとりさんによるドリンクスタッフ講座は特に大きな問題もなく進行していた。わたしのメモと睨めっこしつつ何度もつっかえながらにはなってしまったが、最後まで立派にやり遂げたことをわたしだけは評価してあげたい。

 

 喜多さんにも随分助けられたと思う。ひとりさんの説明不足になってしまった部分も自ら自然と補足してくれたし、なにより急かしたり馬鹿にしたりせずきちんと、ひとりさんに合わせたペースで話を聞いてくれたのがありがたかった。ちょっと突っ走り過ぎる傾向はあれども、喜多さんも確かに善良で惹かれてしまう人柄をしている。だからこそ、ひとりさんの友達でいて欲しいなんて欲張った考えが頭をよぎり続けてしまうのだ。

 

「そのメモ、全部後藤さんが書いてるのよね?良かったら見せてくれないかしら?」

 

「えっ、あっ、はい。……どうぞ」

 

 ひとりさんが頼りにしていたわたしのメモ書き、喜多さんはそれに興味を抱いたようだった。このメモにはバイトのこと以外何も書かれてないし、見られても問題はないので止めるようなことはしない。困るとしたら所々に添えてしまっている、わたしの考えたデフォルメキャラを見られるのが恥ずかしいくらいのものだ。

 

「……すごい。細かいけどわかりやすくて、バイトマニュアルみたい。後藤さん、とても仕事熱心なのね!」

 

「あっいや、……そ、それは」

 

「この楽器のキャラクター達もとっても可愛い!……本当に、ちょっとでも怖い人なんて思ってた自分が恥ずかしいわね」

 

「……」

 

 図らずも、わたしのメモ書きの内容はひとりさんのイメージアップに繋がってくれたようだ。喜多さんの人脈の広さは学年随一だし、ひとりさんが怖いという学内でのイメージは次第に薄まっていくと思う。自分のしでかした過ちを、何とかわたし自身の手で払拭できそうで何よりだ。

 

 しかし、目の前で誉められているはずのひとりさんはどこか浮かない顔をしていた。

 

『ひとりさん、どうしましたか?』

 

『このメモ……もう一人の私が書いたのに。どうして私が褒められてるんだろうって、思って……』

 

『……気にしないでください。わたしの努力なんて、ひとりさんだけが知ってくれれば良いんです。いつも言ってるじゃないですか』

 

『……ごめん』

 

 謝る必要がないともいつも言っているのに、ひとりさんは生真面目だ。いつからだったろう、ひとりさんがわたしの努力を自分のものとして受け取るのを嫌がるようになったのは。

 

 多分、中学生の途中からだ。ギターヒーローとして動画を投稿するようになって、賞賛のコメントが貰えるようになった時くらい。その時から、ひとりさんは自分の努力を誰かに認めてもらう喜びを知ったのだろう。そして、自分の努力が誰かに横取りされてしまう虚しさ。そんな余計な感情までをも想像してしまった。その日から、ひとりさんはテストの答案を自分では両親に見せなくなったから。

 

 わたしにとっては、辛過ぎる気遣いだった。わたしは自分の努力で、ひとりさんが喜んでくれればそれだけで良かったのに。ひとりさん以外の誰かからの賞賛なんていらない。誰かから認めてもらう喜びなんて、頼まれても知りたくはない。知ってしまったらきっと、わたしはわたしでいられなくなってしまう。

 

 自らのつまらない承認欲求のために、大切な誰かの人生を傷付ける存在なんてただの化け物だ。そんな化け物に、わたしは決してなりたくなかった。

 

「ねぇ、後藤さんって何でバンド始めようと思ったの?」

 

「え」

 

 微妙な雰囲気になりかけていたので、喜多さんの質問にはだいぶ救われた。そう、ひとりさんはわたしのことは過度に気にせず、今は喜多さんとのコミュニケーションを大切にして欲しい。

 

『なんでって、インドア趣味なのに派手でかっこいいし人気者になれるから……どうしようもう一人の私、理由がどれも不純すぎる!?』

 

『まぁまぁ。音楽を始める理由に高尚も低俗もないでしょうし、ひとりさんの思うままを語るべきだと思いますよ?』

 

 ちやほやされたいから。言葉にするとあまりに俗っぽくて、ひとりさんが隠したくなる理由もわからなくはない。ただ、ひとりさんが代わりの理由を用意すると世界平和だとか大言壮語をかまして押しつぶされそうな未来しか見えないのだ。そういう観点から、建前は用意すべきではないと思う。

 

「あっ、あの、私憧れてる人が居て……。ライブに出て輝けたら、少しでもその人に並び立てるかなってずっと思ってて。ギターを触り始めたきっかけは、そんな感じです……」

 

「わかる、わかるわ後藤さん!私も先輩に憧れて、近付きたくってバンドに入ったの……お揃いね!」

 

「き、奇遇ですね……へへへ」

 

 喜多さんとひとりさんはそんな共通点を見つけて、どこか通じ合っているようだった。やはり正直が一番、なんて隠し事ばかりのわたしが口にする権利はないのかもしれない。

 

 ひとりさんの語る憧れの人、それが誰を指すかが分からないほどわたしは鈍いつもりはない。私だけのヒーローになって欲しい、そんなひとりさんの願いは今日に至るまで忘れたことはない。ひとりさんの求めた憧れの存在であれるように、日々を積み重ねてきた自負もある。

 

 しかし、そう在れるのも限りがある。最近は不甲斐ない姿を見せてしまうことも多いし、逆にひとりさんに助けられる場面すらあったくらいだ。ひとりさんが成長していく度に、わたしは理想ではいられなくなっていく。もう少しだけ理想で居続けたい、なんて未練がましく縋りつく心をわたしはきちんと抑えつけられているだろうか。

 

 何よりも、わたしは自分自身の心こそが最も信用ならなかった。

 

 

 ライブの時間が目前に迫ると、ひとりさんと喜多さんの担当するドリンクカウンターにもドッと人が押し寄せた。星歌さんが言った通りに忙しく、今日出演するバンドが人気なのだと窺えるようだった。

 

 しかし、普段より多いお客さんもなんのその。喜多さんのポテンシャルはそれを凌駕しており、明るく丁寧に応対をして次々と客を捌いていった。ひとりさんが若干手持ち無沙汰になってしまうほどの猛烈な働きぶり。あっという間にピークは過ぎ去り、ドリンクカウンターの前は閑散とした状態に戻っていた。

 

「あの、喜多さんの言ってた憧れの先輩って……」

 

「うん、リョウ先輩。……先輩の路上ライブ見て、一目惚れしたの」

 

 ライブが始まりお客さんも捌けたということで、ひとりさんが先ほどの会話の続きを再開した。喜多さんは頬を赤らめるとうっとりした様子で、憧れの先輩がリョウさんであることを告げていた。そういえば、喜多さんの感情が爆発したのはいずれもリョウさんがきっかけとなっていた。納得である。

 

『リョウさん、他のバンドもやってたんだね』

 

『結束バンドの結成自体が最近ですからね。……当たり前といえば、当たり前でしたか』

 

 わたしも少々驚いてしまったがリョウさん達は明らかに楽器慣れしてたのだから、結束バンドが初のバンド活動と捉える方がおかしいくらいだった。しかし、そうなるとリョウさんと虹夏さんはそれぞれ別々のバンドで活動をしていたのだろうか。初めての出会いの印象から仲良し二人組の印象が強く、あまり想像出来なかった。

 

「演奏聴いてからリョウ先輩の活動ずっと追ってたんだけど、前のバンド突然抜けちゃって……」

 

「は、はい」

 

「その後、結束バンドのメンバー募集を知って思わずやりたいって言っちゃったの」

 

「す、すごい行動力ですね……」

 

『ひとりさん、参考にしちゃダメですからね?』

 

『だ、大丈夫。私には真似したくてもできないし……』

 

 そうは言うけれども、暴走したひとりさんの行動力はどこか喜多さんに通ずるものがあるような気がして非常に心配だった。どうかひとりさんには後先考えた行動を心がけていただきたい。

 

「バンドって第二の家族って感じしない?ずっと一緒にいて皆で同じ夢を追って……友達とか恋人を超越した不思議な存在だと思うのよね。部活とか何もしてこなかったし、そういうのに憧れてたんだ」

 

「わ、私も分かるような気がします」

 

『こう聞くと喜多さんのいうバンドって……なんだか私ともう一人の私みたいな関係だね、えへへ』

 

『ひとりさん……ええ、そうですね』

 

 ひとりさんがわたしのことを家族と、もしくはそれ以上に大切な存在だと想ってくれている。それだけでわたしは元気をもらえて、これから先も頑張り続けられるような気がした。どんな恐ろしい結末だって、その事実だけで笑って受け止められると信じられるのだ。

 

「そう、私は結束バンドに入って先輩の娘になりたかったの!友達より深く、密に!!」

 

『どうしようもう一人の私……急に喜多さんの言ってることが何もわからなくなってしまった』

 

『……世の中、理解しない方が良いこともたくさんありますから』

 

 喜多さんの倒錯した願望については、苦笑いで流すしかなかった。今回の会話で喜多さんのリョウ先輩に対する憧れや、バンドに対しての思い入れが決して軽いものではないことが良く伝わった。だからこそ、これから喜多さんはどうしていくのだろうと気になってしまう。結束バンドへの再加入を、願ったりはするのだろうか。

 

「……だから、後藤さんがライブを成功させてくれて安心したわ。私みたいな嘘つきは抜けて、後藤さんみたいな立派なギタリストが入ってくれて。これが、きっと正しい結束バンドの形なのよ……」

 

「き、喜多さんは……もう、バンドやらないんですか……?」

 

「うん。一度逃げ出した無責任な人間は、ダメよ……バンドなんてやっちゃ」

 

 喜多さんの出した結論は、結束バンドとの決別だった。話はお終いとばかりにライブの方へと、顔を逸らしてしまう。語っている内に、喜多さん自身が辛くなってしまったのかもしれない。わたしでは喜多さんの出した結論に異論を挟むことはできない。喜多さんの抱える鬱屈とした心境の一端が、少しだけ理解できてしまったから。

 

 たとえ周りが優しくて自分の行いが許されたとしても、自分が一番自分を許せない時がある。わたし達の中学三年のバンドメンバーの事件、彼女達だって優しかった。謝罪をした時には、わたしの所業に対しても優しく寛大な心で彼女達は許してくれた。それでも、謝罪以降にわたしが彼女達に会いにいくことはなかった。彼女達に対して、合わせる顔を持ち合わせていなかったから。

 

 きっと、喜多さんも似たような心境なのだろう。結束バンドに対して、自分の居場所はないのだと諦めてしまっている。

 

『もう一人の私……一度逃げ出した人間にはもう、立ち向かう資格はないのかな』

 

『そんなことはありません、絶対に』

 

 だが、客観的事実として逃げるという行為自体が否定されるべきではないはずだ。辛くて、息苦しく上手くいかなくて、何度も逃げながら前に進んできたひとりさんの積み重ねは、誰にも否定させはしない。いくらだって逃げて良いはずだ。辛いことに耐え続けて潰れてしまうくらいなら、逃げてくれた方がよっぽど良い。

 

『一度逃げたらそれで終わりなんて、悲しすぎます。……逃げた人間だって、許されても良いはずです。少なくとも、わたしはそういう人達に寛容でありたい』

 

『うん。もう一人の私なら、そう言ってくれると思ってた』

 

 ひとりさんもわたしの言葉に力強く頷いてくれた。ひとりさんの人生は逃亡に塗れていて、でもそんな人生を最近は肯定しつつある。そう思えるようになったのは、結束バンドという新たな居場所のお陰だ。だからこそ、同じ逃げた負い目から居場所を捨てようとしている喜多さんのことが放って置けないんだろう。

 

『喜多さんスキンシップ多いから分かったんだけど……左手の指先の皮が、硬くなってたんだ』

 

『それって……』

 

『たくさん努力したんだと思う……だから私、喜多さんに結束バンドに残ってもらいたい』

 

 喜多さんも逃げ出すつもりなんてなかったのだ。なまじ要領が良いタイプだから、ギターもライブ前までには弾けるようになると自分を信じていた。何度も何度も練習して、それでもダメで。後悔と無力感に苛まれたまま逃げ出すことしか出来なかった。そう考えると、あまりにやるせない。

 

『ということは、喜多さんを引き止めるんですよね?』

 

『そうしたい……でも……』

 

『勇気が出ませんか?』

 

 普通の勧誘の時ですらかなり無理をしていたのだ。それが今度は、辞めようとしている人間を引き止めるなんて難題に挑むしかない状況。ひとりさんが尻込みしてしまうのも当然だ。それでも、踏み出さなければ望んだ結果は得られないし、わたしが代わることもできはしない。何も言わずに、黙してひとりさんの言葉を待つ。

 

『こうして欲しい、なんてそんなワガママを……もう一人の私以外に、私は向けてもいいのかな?』

 

 ひとりさんの人付き合いは今まで、どこまでも受け身だった。結束バンドのメンバーに対してすらそうで、だからこそ分からないのだろう。他人の心に自分から踏み入る行為が、許されるのか。

 

 こうして欲しい、こうあって欲しい。そんな感情はひとりさんの言うようにワガママなエゴなのかもしれない。でも、誰かに深く関わるということは自分を曝け出して他者を暴こうとする行為そのものに他ならない。そうやって傷つけ合ってお互いを知って、相互理解を深めていく。それが正しい人付き合いで、友達との触れ合いと呼ぶのだろう。

 

 だったら、ひとりさんはもうそれを知るべきだ。ひとりさんが本当に心を曝け出せる相手が、自分の心の内にしか居ないなんて悲しすぎる。

 

『もちろんです。存分に言ってやりましょう』

 

『えっ!?で、でも、迷惑じゃ……』

 

『ひとりさんだって、昼休みに喜多さんから無茶な頼みごとをされたじゃないですか。あれだって言ってしまえば迷惑です、おあいこですよ』

 

『それはそうかもしれないけど……』

 

『だから、好き放題言ってやれば良いんです。……それで、もし失敗したら一緒に反省して。また明日、頑張ればいいのですから』

 

『……うん。私、頑張ってみる!』

 

 いい返事だった。ひとりさんもその心と自分の世界を、もっともっと外側へと広げていく瞬間が来ている。少し寂しいけれど、わたしはその背中を精一杯に押してあげようと思う。それこそがわたしの、役目なのだから。

 

 

 ◇

 

 

「今日はありがとうございました。これからもバンド活動頑張ってください、陰ながら応援しています。……それでは」

 

 バイトの時間が終わり解散が告げられると、喜多さんは荷物を纏めて我先にと帰ろうとしていた。罪滅ぼしが終われば、すぐにでも消えるつもりだったのだろう。自分のせいで捨てざるを得なかった場所、そんな空間から一秒でも速く立ち去りたかったのかもしれない。

 

「き、喜多さん……待ってください!」

 

「後藤さん?……どうしたの?」

 

 それをひとりさんが引き止めた。STARRYの入り口前に立ち塞がり、両手を広げて通さないぞと懸命なアピールをしながら。ひとりさんは怖気付かずに一歩踏み出して立ち向かうことを選んだのだ。わたしももう見守ることしかできないけれど、きっと悪い結果にならないという不思議な確信がある。

 

 ひとりさんは誰よりも人の痛みに寄り添える人だと、この身を持って知っているからだ。

 

「あっ、あの!もう一度私達と一緒にバンド……やってみませんか?」

 

「……ごめんなさい。さっきも言ったけど結束バンドには入れないわ。ギター弾けないし、一度逃げ出した人間だもの」

 

 喜多さんらしくもなく顔を俯かせたまま、これっぽっちも揺らいだ様子すら見せずに拒否をされる。少し誘われた程度では、喜多さんの結論が変わることはないのだろう。そうも簡単に自分を許せるのなら、喜多さんがこれほど思い詰めることもなかったはずだ。

 

「でっ、でも、喜多さんはギターの練習をたくさんしていたはずです。私には、わかります。……だから、本当はバンド続けたかったんじゃないですか……?」

 

「だとしても、私がギターを弾けなくて逃げ出した人間だって事実は一つも変わらないわよ……」

 

「喜多ちゃん、ぼっちちゃん!まずは一旦落ち着いて――」

 

「虹夏、ここはぼっちに任せてみよう」

 

 一歩間違えれば言い争いにも発展しそうな緊張した空気に、たまらず虹夏さんが割って入ろうとする。それをリョウさんが押し留めてくれて、その対応がなによりありがたかった。ひとりさんは今、人生で一番の勇気を振り絞っている。その結果を、最後までちゃんと見届けてあげたかったから。

 

「き、喜多さんはバンドはもう一つの家族だって、言ってましたよね?……そんな大切な場所を、私は喜多さんに捨てて欲しくないんです……」

 

「そんな人達を裏切ったのが私……もう合わせる顔なんてないの。……後藤さんみたいなカッコいい人には、わからないかも知れないけど……」

 

 それは明確な喜多さんの拒絶の言葉だった。お前なんかに分かるはずがない、そんな線引き。喜多さんからしてみればひとりさんは成功した人間で。失敗した喜多さんにとっては、ひとりさんの言葉なんてどれも上から目線で聞き入れ難い言葉なのかも知れない。

 

 だからこそ、ひとりさんの言葉は喜多さんに届くはずだ。失敗して、挫折して、逃げ場すらなくて。わたしのような人格を生み出して逃げることしか出来なかったひとりさんの言葉なら、喜多さんにはなによりも響くはずだから。

 

「……私も、逃げました!」

 

「え?」

 

「小学校の作文コンクールから逃げました!算数のテストからも逃げました、運動会からも逃げました、六年生の半分以上は全部捨てて逃げました!中学校からはギターばっかりで、たくさんの障害に目を背けて逃げ続けました!そのせいで、三年生の文化祭ライブからも逃げ出しました!!……私は、逃げて逃げて逃げてばっかりの、ダメ人間です!!!」

 

 皆、言葉を失っていた。わたししか知らないひとりさんの、苦難に溢れた悲しい来歴。それをひとりさんは、大声で惜しげもなくぶちまけたのだ。

 

 ひとりさんは自己肯定感が低いけれど、それでも見栄や知られたくない事柄なんてのはいくらでもある。自分の情けない部分を自ら晒すのに、どれほどの覚悟がいるのかなんてわたしには想像もつかない。

 

 他人の心に踏み入るのなら、まずは自分の心を曝け出してから歩み寄る。それがひとりさんの選んだ、友達との触れ合い方なのだろう。わたしには到底真似できない接し方だ。

 

「何もそこまで言わなくても……」

 

「でも!……それでもいいよって、言ってくれた人が居るんです。ダメダメで迷惑かけてばっかりなのに、次頑張ろうって何度だって励ましてくれて。その人が支えてくれたから……私はこうして今、結束バンドにいます。……だから、喜多さんに私もそうしてあげたいんです!」

 

 ひとりさんの言葉を信じるならば、わたしはひとりさんの人生に良き影響を与えられていると自惚れてもいいのだろうか。ひとりさんの純粋な心を守り続けて来たのだと、胸を張ってもいいのだろうか。それはわたしの最後の瞬間までわからないし、きっと今後も誰からも評価はされない。

 

 それでも、この瞬間だけは確かに認められているようで。胸が空くような想いを抱けていたのだけは確かだった。

 

「ギターが弾けないのなら、私が教えます。虹夏ちゃん達への負い目が消えないのなら、何度だって一緒に謝りましょう。……こんな私じゃ頼りないかも知れないけど、精一杯寄り添って支えます!……ですから、私達と一緒に結束バンド、やりませんか?」

 

「後藤さん、私……っ!」

 

 最後までひとりさんはその想いのありったけを、吐き出してみせた。腕は震えっぱなしで、喉はカラカラ。肩で息をしていて、顔なんてもう涙でぐちゃぐちゃだ。全身全霊を込めて、ありのままぶつかってみせたひとりさんの言葉は喜多さんに届いたのだろうか。

 

 喜多さんは既にひとりさんに背を向けていて、口を引き結びながら虹夏さんとリョウさんへと向き合っている。それだけで、喜多さんの結論がどう変わったのかなんて火を見るよりも明らかになっていた。

 

「伊地知先輩、リョウ先輩。恥知らずなことを言っているのはわかっています。でも、私はもう後藤さんからは逃げたくないんです!……だからお願いします、もう一度私を結束バンドに入れてください!」

 

「わ、私からもっ……お願いします!」

 

 喜多さんは腰を直角に曲げて、深々と頭を下げては二人にそう訴えかけた。ひとりさんも、慌てた様子で続くように頭を下げている。誠意を表すためなのだろうけど、ちょっと仰々し過ぎるかもしれない。

 

 虹夏さんとリョウさんの性格。そして先ほどまでのやり取りを見ていたことも踏まえれば、二人の出した結論もきっと明るいものに違いないのだから。

 

「ぼっちちゃんも喜多ちゃんも、顔を上げてよ。これじゃあたし達が虐めてるみたいじゃん」

 

 虹夏さんの困ったような一声が、張り詰めていた空気を霧散させてくれる。ひとりさん達が顔を上げると、虹夏さんとリョウさんが笑顔で顔を見合わせてくれていた。それがなによりも今後の結束バンドの行く末を示してくれているようで、わたしも心の内で笑顔になれそうだった。

 

「あたし達のギターがこんなに熱心にラブコールしたギターボーカルだもん。これはもう、結束バンドに迎え入れるしかないよね。ね、リョウ!」

 

「うん。ぼっちも郁代もロックだった。……歓迎する。これで、スタジオ代もノルマも四分割」

 

「素直な言い方しなよ〜」

 

「伊地知先輩、リョウ先輩……ありがとうございます!」

 

 結束バンドの朗らかで仲睦まじい雰囲気が帰ってくる。ひとりさんもいつの間にか小さく笑みを浮かべていて、これにて結束バンド再結成。一件落着といったところだろうか。わたしは何もしていないのに、不思議と肩の荷が降りたような爽快な気分だった。

 

「き、喜多さん。これで元通り、ですね……えへへ」

 

「うん!私、頑張るっ……結束バンドのボーカルとして、後藤さんのためにも……っ!!」

 

「あっああああああっ、喜、喜多さん、おっ、おちおちおち、落ち着いて……」

 

 感極まったのか目に涙を携えながら、喜多さんはひとりさんに抱きついて決意表明をして。そんな人生初のシチュエーションにひとりさんは盛大に狼狽えて、虹夏さんとリョウさんは微笑みながら見守ってくれている。

 

 どうしようもないほどの、青春の一ページ。ひとりさんが自分の頑張りでその光景を勝ち取ったのだから、わたしはなによりも誇らしかった。今日の帰りはひとりさんがなんと言おうと、わたしの貯金を切り崩してケーキを買おう。

 

 今日はひとりさんが自分から友達を作った、記念すべき一日なのだから。

 



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消えてゆく残像

 皆様大変お待たせいたしました。今回も長いですが、どうか楽しんでいただければ幸いです。


 

「どうかしら……後藤さん」

 

「あっはい。よ、よかったと思います」

 

 結束バンドが万全の形を取り戻してから数日後。今日もSTARRYのスタジオではひとりさんによる、喜多さんへのギター講習が行われていた。ひとりさんが誰かに教えを授けるなんて稀有な光景すらも見慣れてしまうくらいには、二人での練習は頻繁かつ熱心に行われている。

 

 今度こそ結束バンドのためにと奮起して練習に励む喜多さんのモチベーションは、今のところ尽きる様子を見せない。弱音も吐かずに昼休みや放課後と時間を選ばず、日々の練習を楽しんでいる。ひとりさんも慣れないながらそんな喜多さんに四六時中付き合っており、自分の知識と経験を惜しみなく教えて、喜多さんの熱意に真っ向から向き合えているようだった。

 

「今回はしっかりと最後まで弾けてましたし……一歩ずつ、成長出来てるってことだと、思います」

 

「ありがとう、後藤さんのお陰ね……でも、私ボーカルもやらなきゃだし。もっともっと頑張らないと!」

 

 キターンなんて効果音が付いてそうなほどの眩しい笑みを浮かべながら、喜多さんはやる気たっぷりに宣言してみせた。ひとりさんも褒めてみせたように、最近の喜多さんの練習量とその成長は目覚ましい。ギター初心者とは思えない程に、次々と技術を習得している。不幸な勘違いがあっただけで、わたしのように本当にギターの才能がなかった訳ではないのだろう。結束バンドのギターボーカルの未来が明るそうでなによりだ。

 

『ま、眩しすぎる……これが本来バンド少女が持つ青春の輝き?』

 

『ひとりさんも今ではもう、その一員じゃないですか』

 

『お、烏滸がましすぎる!?』

 

 ひとりさんは盛大に謙遜してみせるけど、わたしから見れば最近の二人の練習風景は眩しいばかりに光輝いて見えた。ずっと一緒にいて同じ夢を追って、まさに喜多さんの思い描いた家族のような関係性を構築しつつあると思う。ひとりさんも立派に青春を送りつつある、その事実がわたしにはなによりも嬉しく感じられた。

 

「でも本当に良かったですね。……リョウさんがベース買い取ってくれて」

 

「あの時は本当にごめんなさい」

 

「あ、い、いえ!私は何もしていないですし……」

 

 そう、現在項垂れている喜多さんのギター。それはリョウさんから貸し与えられた物だった。何故そんなことになっているのかと言えば、喜多さんが再加入したあの日の最後にとんでもない事実が発覚したからである。

 

 喜多さんがギターだと思い込み購入し、愛用していたマイギア。それが実は多弦ベースだった。そんな嘘のような本当の話である。

 

 自信満々にギターだと思い込んでいるベースを見せた喜多さんに、リョウさんが真実を告げると直前までのしんみりとした雰囲気はどこへやら。現場は大混乱に陥った。特に喜多さん本人の狼狽えようは酷く、三十回ものローンを組んで買った事実を思い返すと放心状態に陥ってしまっていた。

 

 現場は別の意味でお通夜のような雰囲気になり、わたしとひとりさんも言葉を失った。喜多さんのあまりのおっちょこちょいさに、少しだけ可笑しくなってしまったのはわたしだけの秘密として。しかし、代わりのギターが必要なのは事実。わたしの貯金を切り崩してギターをひとまず用意する。そんな案すらも現実味を帯びそうになった時に、喜多さんに救いの手を差し伸べたのがリョウさんだった。

 

 なんと喜多さんの多弦ベースを自分のコレクションとして買い取り、ギターまで貸し与えてみせたのである。喜多さんの資金難を解決してギターも用意し、抱え込んでしまいがちな喜多さんにも負い目を感じさせない粋な計らい。

そんなリョウさんのお陰で、この多弦ベース事件はこうして笑い話として収められているという訳なのだ。

 

「私、リョウ先輩から貸して頂いたこのギターに相応しいような、そんなギタリストになるわ!」

 

「き、喜多さんならきっとなれると思います。……あっ、その、実は私からも喜多さんに渡したいものがありまして……」

 

「渡したいもの……なにかしら?」

 

 ひとりさんは持参していたトートバッグの中身を漁ると、そこから幾つかの書籍を取り出しては喜多さんに差し出す。それはひとりさんがギターを学ぶ上で何度もお世話になった沢山のギターの教本達、その一部だった。

 

「喜多さん、家でも凄く練習頑張ってるみたいなので。これも練習に役立てていただければと……」

 

「でも、これ大切な物なんじゃ……私が貰っても良いの?」

 

「は、はい。まだ家に沢山ありますし、私はもうたまに読み返すだけですから……喜多さんが貰ってくれると、嬉しいです」

 

 喜多さんは教本を受け取ることを躊躇していた。無数の付箋と注意書きが貼られ、何度も読み返したページは皺だらけで、所々が色褪せてしまっている、そんなひとりさんの努力と積み重ねの証。それを大切な物と評してくれる喜多さんは、本当に良い人だと思う。ひとりさんの努力をしっかり認め仲良くしてくれる喜多さんだからこそ、わたし個人としても受け取って欲しかった。

 

「ありがとう、絶対大切にするから」

 

「あっはい。ありがとうございます……」

 

「もう、なんで後藤さんまでお礼を言うのよ」

 

「……えへへ」

 

 最終的に、喜多さんは教本を大事そうにギュッと抱きしめながら受け取ってくれた。えへえへうふふと笑いながら見つめ合う二人はもう、どこからどう見たって仲睦まじい友達同士そのものと言えるだろう。

 

『私は、もう一人の私がしてくれたみたいに……ちゃんと喜多さんを支えてあげられてるかな?』

 

『もちろん。喜多さんの表情を見れば一目瞭然です、自信を持っていいと思いますよ?』

 

『そう、かな。だったら……嬉しいな』

 

 ひとりさんの喜多さんに対する接し方、その端々からわたしを参考としているのが嫌でも感じられてしまう。それが誇らしくありつつも、少しだけむず痒かった。喜多さんがこうして楽しくバンド活動に向き合えているのは間違いなくひとりさんのお陰であり、比べるまでもなく自信を持って良いだろう。わたしでは、決して成し得ないことなのだから。

 

「そういえば、私がボーカルで良いの?後藤さんの方がギターの経験あるんだし、ボーカルも向いてるような……」

 

「あっいえ、むむむむ無理です!音楽の授業も合唱コンクールも逃げ出した私に、ボーカルなんて務まるはずない……」

 

「そ、そうだったのね……なんだかごめんなさい」

 

 あの日ぶちまけたお陰で色々吹っ切れたのか、こうしてひとりさんが自分の過去を吐露する機会もだんだん増えてきている。ちょっと自虐的ではあるけれど、ありのままのひとりさんを皆に知って貰うのは良いことだろう。喜多さんもひとりさんの対人能力が高くないことを察してか、他クラスながら校内でフォローをしてくれることも多い。

 

 喜多さんという理解者を得て、ひとりさんの学校での活動時間は若干ながら増えつつある。是非ともこの調子で、ひとりさんは自分の居場所を増やし続けて欲しいものだ。

 

「でも合唱コンクールから逃げたって、私が言うのもちょっとアレなんだけど……大丈夫だったの?」

 

「そっ、それは……その時も、憧れの人がなんとかしてくれたので……」

 

「す、凄い人なのね!」

 

 しかし、喜ばしいことばかりという訳でもない。ひとりさんの主観に基づいた過去は、どうしても客観的事実とは異なってしまう。事実と異なる発言は綻びを生み、それが大きく広がり続ければいつか致命的な確信にも至ってしまいかねないのだ。いつか結束バンドのメンバーが真実に気付いてしまうのではないかと、正直に言えばわたしは不安で仕方がない。

 

 ただ、そんな不安を理由にひとりさんに遠慮をさせるなんて言語道断だ。ひとりさんは何も憚ることなく、親しい人達と関わり続けて欲しいから。辻褄を合わせて、誤魔化して繕うのは全部わたしがやればいい。ひとりさんの明日のためなら、わたしは自分の痕跡だっていくらでも消してみせる。そう覚悟をしてみせれば、つまらない不安もいくらか紛れるような気がした。

 

「後藤さんの憧れる人だもの、きっととても素敵な人のはず……私、気になるわ!写真とかないの?見せて――」

 

「二人とも、今日も早いね」

 

「あっ、リョウ先輩こんにちは!!」

 

「こここここっこ、こんにちはです!」

 

 喜多さんの強烈な興味が件の憧れの人に向きかけたところで、リョウさんがスタジオへと来訪しその流れは断ち切られることになった。喜多さんの勢いそのままに追及されては、きっとロクな言い訳を思い付くことはできなかった。リョウさんの間の良さに、今は感謝である。

 

『ご、ごめん。私のせいで喜多さんの中のもう一人の私が、どんどんとんでもない存在に……』

 

『ま、まぁ、お気になさらず。……写真については、普段から撮る習慣もないのですし。持ってないで今後は押し通しましょう』

 

『う、うん』

 

 喜多さんの押しは強いが、ひとりさんが少しでも戸惑う素振りを見せればそれを察知して弁えてくれる人でもある。だから、写真や名前なんかの確信に繋がる要素さえぼかせば暫くは平気のはず。限界を迎えた時にしたって、憧れの人という役割をお父さんに押し付けるという最終手段も残されている。

 

 勝手な都合で大役を任せようとしている勝手な娘を、どうか許してほしい。これもまたひとりさんの為なのだ。

 

「教本……?それ、どうしたの」

 

「後藤さんが私に譲ってくれたんです。私、今以上に練習頑張っちゃいますから!」

 

「へぇ、ぼっちが。ちょっと見せてもらってもいい?」

 

「あっはい。ど、どうぞ……」

 

 喜多さんの抱えているギターの教本が物珍しかったのか、リョウさんにしては珍しく興味を抱いているようだった。ひとりさんの許可の下喜多さんから教本を手渡されると、暫しの間リョウさんはその中身に陥没するかのように、じっと中身を読み進めていて。その様子は真剣そのもので、声をかけるのが何処か憚られるくらいだった。

 

「……うん、いいね」

 

 ひとりさんを見つめ、喜多さんを見つめて。最後にもう一度だけ教本に視線を落とした後に、リョウさんは満足げな微笑みを浮かべては、そう簡潔に独りごちる。その姿は不覚にも、わたしすら見惚れてしまうほどに絵になっていた。

 

 教本に書かれた内容なのか、受け継がれていく知識になのか。何がリョウさんの琴線に触れたのかはわからない。でもこの人はきっと、音楽やそれを愛する人達を深く好いているのかもしれないと、わたしはそんな感想を抱いていた。

 

 

 ◇

 

 

「それではバンドミーティングを始めます、拍手っ!」

 

 その後、程なくして虹夏さんも合流。リーダーである虹夏さんの意向により、本日のバンド活動は練習ではなくミーティングを行うこととなった。随分と突発的ではあるけれど、喜多さんが加入してからは一度も行っていなかったしちょうどいい機会なのかもしれない。

 

「本日のテーマはコレ、ずばりより一層バンドらしくなるには?」

 

 わざわざ大きなスケッチブックを用意して、虹夏さんは大々的に今回のミーティングの議題を発表していた。前回のサイコロトークといい、結束バンドのミーティングは遊び心たっぷりである。

 

『バンドらしく……ざっくりし過ぎてよくわからない』

 

『わたしとしては練習あるのみと思いますが、そんなお堅い話ではないでしょうしね』

 

 よりバンドらしく、ひとりさんが言うようにあまりに抽象的過ぎる議題ではある。しかし、虹夏さんのことだからきっと何か考えがあっての発案のはず。ひとりさんも前回のミーティングより遥かに自然体で過ごせているし、今回は気楽に見守れそうである。

 

「もちろん練習あるのみなのはわかってるんだけどね。だけど、そればっかりじゃ息も詰まっちゃうからさ。色々話したりするのも大事かなって」

 

『もしかして虹夏ちゃん、最近練習頑張っている喜多さんの息抜きに……』

 

『なるほど。虹夏さんらしい心遣いですね』

 

 わたしとひとりさんは良くも悪くもいくらでも練習を続けてしまえるタイプであるけど、多分喜多さんはそうではない。会話や誰かとの交流を生きがいにしている喜多さんのために、虹夏さんがこう言う場を用意したということなのだろう。流石は気配り上手の虹夏さん、結束バンドのリーダーの肩書きは伊達ではないのだ。

 

「まずは形から入ってみるのもありでしょ?」

 

「ありですね!流行っているメイクとかも真似してる内に様になってくるものですし」

 

『どうしようもう一人の私。全然ピンと来ない……』

 

『流行りに関してはわたしも似たようなもので、面目ないですね』

 

 ひとりさんに比べれば化粧品の知識量はあるけれど、流行り廃りの話となればわたしも同レベルだ。基本的にひとりさんの意識の裏という隔絶された場所にいる以上、同年代との交流は少ないし流行りについては疎くなりがちで。特に喜多さんのイソスタの話に関してはわたしもちんぷんかんぷんであり、助けてあげられないのが非常に悔しいところである。

 

 とにかく、今回のミーティングの趣旨は理解できた。テーマがざっくりし過ぎてるのは敢えてのこと。大雑把に、バンドでこんなことやってみたいなんて願望を話し合う場なのだろう。

 

「という訳で、とりあえずバンドグッズ作ってみた!!」

 

『予想以上に形から入ってきた!?』

 

『ま、まぁ、まずはリーダー自らが率先垂範してくれてるのかと……』

 

 バンドらしくなるための第一案、虹夏さんのその初動はあまりにコテコテであった。バンドグッズと称して虹夏さんが取り出したのは、大量のカラー付き結束バンドの実物。確かに結束バンドの代名詞とでも呼ぶべきアイテムではあるが、これはバンドグッズ足り得るのだろうか?

 

「それ、ただ結束バンド巻いてるだけじゃ?」

 

「え、可愛くない?色んな色あるよ!」

 

 虹夏さんが現在そうしているように、手首に小さく巻けばリストバンドのようなオシャレアイテムに見えなくもない。人気が出れば、皆のイメージカラーの結束バンドを身に付ける文化が流行る可能性もあるやも。まぁ、結束バンドという時点であまり利益率は見込めそうにないけど、インディーズのバンドグッズに利益を求めるのも野暮なのかもしれない。

 

「物販で五百円で売ろう。サイン付きは六百五十円で……」

 

「安い、買います!」

 

『もう一人の私、結束バンドの値段ってどれくらい?』

 

『高く見積もっても一本、十円程度かと……』

 

『ぼ、暴利過ぎる!?』

 

 リョウさんはなんと、法外な値段の結束バンドを売りつけることで稼ぐ気満々の発言をしていた。いつものミステリアスな表情からは冗談であると断定することもできず、中々に末恐ろしい。そして、その値段の結束バンドを安いと言い切ってしまえる喜多さんのこともわたしはちょっぴり心配だ。

 

「他に何かアイデアある人ー?」

 

「もしバンドでSNSをやるなら、私やります!イソスタとか大好きなので!」

 

「いいね!SNS大臣に任命します」

 

 これからバンドの知名度を高めていくためには、インターネットでの広報や宣伝は必要不可欠と言える。その役割を担う者として、イソスタで既に有名人である喜多さんはまさに適任だろう。大臣任命にも異論なし、だ。

 

「後藤さんはどう、何かアイデアある?」

 

「えっ」

 

 喜多さんから突然話題のパスを受けることになり、ひとりさんは硬直してしまう。身構えているならまだしも、このように急に話題を振られることにひとりさんは極端に弱い。そんなひとりさんに対して、喜多さんは期待に満ちた純粋な視線を向け続けているのだからあまりに居た堪れない。

 

『た、助けてもう一人の私……喜多さんのキラキラ視線を裏切らないためにも、何かご教授を!』

 

『任せてください。最近は音楽もサブスクの時代ですし、曲を作った暁には音楽配信サイトに申請するのはどうでしょう?……宣伝という意味でなら、ミュージックビデオの撮影も良いかもしれません』

 

『あ、ありがとう!』

 

 ひとりさんからの久方ぶりの救援要請に、つい弾んだ声で答えてしまう。気が早過ぎる上に考えれば誰でも思い付く浅知恵ではあるが、今日の趣旨を考えればこれくらいの意見が相応しいだろう。

 

「えと、オリジナルソングを作ってからの話にはなってしまうんですが……音楽配信サイトへの申請とか、どうでしょうか。あっ、あと、MVの撮影とかも」

 

「いいね〜!ぼっちちゃんらしい堅実な意見だね、うんうん」

 

 どうやら虹夏さんのお眼鏡に適ったらしく、訳知り顔でうんうんと何度も頷いてくれた。虹夏さんのその印象には、多分わたしの影がちらついてしまっている。ひとりさんは本来、堅実とは程遠い突拍子もない行動や無謀なチャレンジにも挑んでしまう破天荒さの持ち主なのだから。

 

 まぁ、そういう要素は大抵の場合ひとりさんの黒歴史にも繋がってしまっているので、敢えて表に出す必要はないのだけど。

 

「そうなると、やっぱりオリジナルソングの作成はバンドらしくなるのに欠かせなさそうだね。作曲と作詞、それぞれ頼むよ。リョウ、ぼっちちゃん!」

 

「リョウさんの曲、私すっごく楽しみです!もう作ってたりするんですか?」

 

「ううん、イメージ湧いたらそのうち。ぼっちの歌詞次第で曲調も変わっていくかもだし」

 

 ひとりさんを除いた三人が楽曲作成について盛り上がる中で、ひとりさんは呆然と硬直してしまっていた。先程まで手で弄んでいた結束バンドを取り落としてしまっているこの露骨な反応、もしかするのかもしれない。

 

『ひとりさん。もしや、作詞担当になっていたこと忘れてました?』

 

『私はどうしようもない鳥頭です……重要なことすら抜け落ちてくダメ頭ですいません』

 

『そ、そう自分を責めずに。急ぎの案件ではないのですし、これから一緒に頑張れば大丈夫ですって!』

 

 案の定というか、ひとりさんは自分が作詞担当であることをすっかり忘れてしまっているようだった。でも初めてのバイトに続いて、喜多さんが加入してからはつきっきりでのギターの指導。今日までのひとりさんの生活の慌ただしさを考えれば、わたしは仕方ないことだと思うのだ。むしろ、最近ようやく生活が落ち着いてきたのだから、今こそ作詞に取り組む絶好の機会とも考えられる。

 

「後藤さんも、作詞なんて凄い仕事任されてカッコいいね!」

 

「カッコいい……?よ、よし。私、皆さんの期待に添えるようなバンドらしいカッコいい歌詞、書いちゃいますから。楽しみにしててくださいね!!」

 

 喜多さんの褒め言葉は心地良くひとりさんの耳に響いたのか、作詞担当の重圧も忘れたかのように啖呵すら切ってしまっていた。ひとりさんは有頂天になっていて気付いていないだろうけど、明らかに周囲への期待を大きくしてハードルを上げてしまう行為だ。人によってはそれも良い刺激となってモチベーションを高めてくれるが、ひとりさんは間違いなくその手の人種ではない。

 

 これは多分、作詞の完成までにだいぶ追い込まれてしまうのだろうな。わたしはそんな当たって欲しくない予想を描きつつ、ひとりさんを支えて励ますための方法を今のうちに考えておくことに決めた。

 

 

 ◇

 

 

「な、何も思いつかない……」

 

 自室の机の前に行儀良く座り、机に突っ伏しながら頭を抱えて絶望の言葉を吐き出すひとりさん。わたしの暗い未来予想図は見事に当たってしまい、ひとりさんは随分と追い込まれてしまっていた。

 

 机に広げられている学習ノートには、未だ一つの文字すらも書き起こされていない。作詞の話が降って湧いたあの会議の日から、もうまるまる一週間経ってしまっている。一週間で進捗は皆無、それがひとりさんの執筆活動の絶望的な現状であった。

 

 もちろん、わたしもただ黙って見ていた訳ではない。作業に行き詰まるひとりさんを気晴らしに誘ったり、時にはより良いインプットのために小説を読み聞かせて、作業続きでお腹が空いてしまわないようにと軽食を用意したりもした。しかし、そのどれもが目立った効果をひとりさんに与えられることはなく、ずるずると今日を迎えてしまったのである。わたし自身の不甲斐なさを痛感してしまう、一週間だった。

 

「ああ……私の馬鹿!ゾウリムシ!」

 

 ひとりさんも自己嫌悪からか、自身を微生物と呼び罵倒してしまっている。今までは間接的なサポートだけを心掛けてきたけど、流石にこれ以上ひとりさんを放置し続けるのは忍びない。ひとりさんの健やかな精神を育むためにも、もう少し踏み込んだサポートを決断しなければいけない時が来ているのだ。

 

『ひとりさん。作詞、わたしもお手伝いしますよ』

 

「う、うううぅぅ、い、良いの?」

 

『直接わたしがフレーズを考えたりするのはマズイですけど、細かい言い回しだとか比喩表現だとか、そういう部分でならお手伝い出来ますので』

 

「ありがとう……本当にありがとう、もう一人の私……」

 

 壊れたスピーカーのようにお礼を繰り返すひとりさんはもう半泣きで、相当なまでに追い詰められていたのだろう。もう少し早く協力してあげるべきだったかもしれない。しかし、こうしてひとりさんと共同で作業を進めるなんて随分と久しぶりな気がする。少し不謹慎かもしれないが、ちょっとだけ楽しみな気持ちもあった。

 

『まずはテーマを決めましょう。ひとりさんが結束バンドとして、どのような歌詞を届けたいのか。それを定めてしまえば、だいぶ歌詞も書きやすくなるでしょうから』

 

「わ、わかった……えと、まずは整理して」

 

 まずは結束バンドの現状を整理したいのだろう。ひとりさんはノートにペンを走らせると、バンドメンバーの似顔絵と共に簡単な人物の特徴を書き殴っていった。喜多さんについては、優しい可愛い支えたい。虹夏さんについては、褒め上手頼れるリーダー。リョウさんについては、無口カッコいい気にかけてくれている、そんな具合だった。ひとりさん自身については、コミュ症と一言だけ寂しく添えられていて悲しかった。ひとりさんには、もっともっと素晴らしい部分があるというのに。

 

 しかしこう、ひとりさんの似顔絵はなんだろう、不思議な味わい深さがあると思う。決して下手くそなのかもしれない等と思ったことはない、断じてだ。

 

「ボーカルは喜多さんだから……出来上がった曲は喜多さんが歌う。やっぱり明るい歌詞の方がいいよね、青春ソングとか」

 

『理屈は分かりますけど……ひとりさん、青春ソングの歌詞なんて書けるんですか?』

 

「そ、それは自信ないけど……暗い歌詞なんて誰にも望まれてないだろうし。キターンとした、バンドっぽいのを書いてみようと思うんだ」

 

『……そうですか。では、その方向性で行きましょう』

 

 多分、ひとりさんの作詞が一向に進まない原因は、無理して明るい歌詞を書こうとしているせいだ。ひとりさんの文才を考慮すれば、歌詞が一つも思い浮かばないなんて考えづらい。意識して暗いワードを排除しようとするから、何も書けなくなってしまっているのだろう。

 

 わたし個人の意見としては暗い歌詞だって良いと思う。それがひとりさんの心からの叫びであるのなら、そのまま歌詞に反映されるのが最善だとも思う。でも、それをひとりさん自身が望んでいないとなれば無理強いはできない。結束バンドの為の歌詞を書きたいというその気持ちは、尊重してあげたいのだ。

 

 どこまでいっても、わたしは結束バンドのメンバーではないのだから。音楽の方向性に部外者が口を挟んでしまうのは、あまりに無粋な行為だろう。

 

「それでね、もう一人の私。明るい歌詞を書くためには、明るい人間になりきるのが一番だと思うんだ」

 

『つまり、虹夏さんや喜多さんの気持ちになってみる……ということですか?』

 

 明るい人間の思考をトレースできれば確かに近道だろうけど、わたし達にそれが可能だろうか。喜多さんや虹夏さん達には好感を抱いているし尊敬もしているけれど、彼女達がどんな思考回路の下で日々を明るく過ごしているのかなんて、わたしにはさっぱりわかる気がしない。

 

「虹夏ちゃん達はちょっと私にはハードルが……なのでっ、私は陽キャであるもう一人の私になりきる!」

 

『えっ』

 

「任せてください、ひとりさん!……ど、どうかな。カッコよく見えてるかな?」

 

 ひとりさんは立ち上がると奇妙なデザインのサングラスを身に付けては、部屋の姿見の前で台詞と共に決めポーズを取って見せた。どうしよう、ひとりさんが何を考えてこの奇行に至ってしまったのかが、わたしにも理解できない。

 

 わたしが仮に陽キャだと仮定しても、上っ面を真似ただけでは歌詞の構想には繋がらない。そもそもそのサングラスと、子供向けヒーローみたいな取って付けた決めポーズはなんなのだろう。わたしって実はひとりさんからああいう風に見えているのかな、いや待て落ち着こうわたし。冷静に分析してる場合じゃない、ひとりさんは今反応を求めているのだからそれについて言及し、肯定してあげねば。

 

『わ、わたしに似てるかどうかはともかくとして……か、カッコいいと思いますよ?』

 

「じ、自己肯定感が高まってゆく……これは、イケる!?」

 

 間違いなくイケてない、という感想は必死で飲み込んだ。そもそもわたしはひとりさん以上に青春からはかけ離れた存在なのだから、根本的にスタートから間違えてしまっている。なりきりのクオリティ以前に、致命的な人選ミスだった。

 

「お姉ちゃんお姉ちゃーん!……なにしてるの?」

 

 この混沌とした状況にどう収拾を付けるか困り果てていたところに、部屋の襖を勢い良く開けてふたりが颯爽と現れる。まんまるなおめ目で、ひとりさんの奇怪な格好を不思議そうに凝視していた。ふたりはひとりさんに対して良く悪くも遠慮がなく、言葉を選ばない。今最も求めていた人材、わたしにはふたりが救世主にも見えた。

 

「あっ、ふ、ふたり。……どう、今のお姉ちゃんとってもカッコよく見えるよね!?」

 

「ギター弾く方のお姉ちゃんがまた変なことしてる……。ギター弾かない方のお姉ちゃんのめーわくになっちゃうから、めっだよ?」

 

「あばばばばばばっ!!?」

 

 ふたりに対しても、ひとりさんはサングラスをかけたままとびきり格好良い決めポーズを向ける。そんな姉に向けてふたりは一切の容赦なく、おかしな行動は辞めなさいとまるで諭すかのように、痛烈に批判してみせた。

 

 実の妹、それも十歳以上離れたふたりからお叱りの言葉を受けたことは堪えたようで、ひとりさんは痙攣しながら蹲ってしまっている。このショックの受けようを見ると気の毒に感じてしまうが、今のわたしはふたりに助けられた立場、その相手を諌められるような言葉は持ち合わせていなかった。

 

「私のようなダメ人間がもう一人の私を騙ってしまい、申し訳ありません。……このギターで切腹することでお詫びさせていただきます」

 

『ロック過ぎますって。……わたしは何も気にしておりませんから。ひとりさんはひとりさんらしくあって欲しい、思うことなんてそれだけですよ』

 

「や、優しい!もう一人の私、しゅき!」

 

 サングラスを投げ捨てると近くに立てかけてあったギターを引っ掴み、自身の腹に押し当てようとするひとりさんを慌てて宥めすかす。精神的ダメージを受けるのは唐突だけど、それと同じくらい立ち直るのも早いのがひとりさんの美点だ。

 

「お姉ちゃん達だけで仲良くしててずるい。ギター弾く方のお姉ちゃん、わたしとも遊んでー!」

 

「う、うん、いいけど……もう一人の私は大丈夫?」

 

『もちろんです。ひとりさんが良いのなら、わたしの方も構いませんよ』

 

 ふたりが部屋を訪れた目的はひとりさんと遊ぶため。いつもふたりの遊び相手を務めているジミヘンを連れていないあたり、その目的は予測できていた。作詞作業中だったとはいえ、愛しい妹の相手より優先すべきことでもない。わたしに異論があるはずもなかった。

 

「それじゃ一緒に遊ぼっか、ふたり」

 

「わーい!!」

 

 ひとりさんはギターの練習にどれだけ没頭しようとも、ふたりに遊んでとせがまれれば必ずそちらを優先している。失敗して落ち込んでいる時も、疲れて眠ってしまいそうな時だって、例外なくふたりを蔑ろにすることだけは決してしなかった。

 

 そんな立派なお姉ちゃんであるひとりさんを、わたしは尊敬している。わたしがふたりに接するときも、良きお姉ちゃんで居られるようにひとりさんをお手本にしている部分がいくつもある。ふたりのお姉ちゃんとしては、ひとりさんがわたしの先生役なのだ。

 

「今日は何して遊ぶ?」

 

「うーんとね、久しぶりにお姉ちゃんにギター弾いてほしい!」

 

「わかった、ちょっとだけ待っててね」

 

 ギターの演奏の要請を受けると、ひとりさんは自分の押し入れから機材を引っ張り出しテキパキと準備をしていく。ミニアンプを取り出してギターに繋ぎ、チューナーもなしに弦のチューニングを行っていた。その仕草は普段のひとりさんからは想像もつかないほどに洗練されていて、澱みがない。

 

 淡々と物事をこなす仕事人のようなその所作は、素直に格好良くて目を惹かれてしまう。

 

「ふたりは弾いて欲しい曲とかある?」

 

「よくわからないから、ギター弾く方のお姉ちゃんにまかせる!」

 

「うん、それじゃ適当にお姉ちゃんチョイスでいくね……それでは、聞いてください」

 

 ひとりさんが準備を終えて蹲るようにしながらギターを構えて見せると、ふたりもお行儀よく正座をして座り演奏を聴く姿勢に入る。ふたりのためだけのひとりさんのソロライブ、その始まる瞬間の合図だった。

 

 ひとりさんがギターを掻き鳴らす。作業の時の辿々しい手付きが嘘のように、目で追えないほど素早く正確にコードを押さえ、弦をつま弾き、出力されていく電子音をメロディーとしてまとめ上げていく。わたしのような素人では理解も及ばないような超絶技巧を、惜しげもなく披露していって。その凄まじさがふたりにもわかるのか、息を呑んでいるようだった。

 

 演奏している曲の内容がわかってくると、ふたりはパッと顔を綻ばせて目を輝かせていた。ひとりさんが今演奏しているのは、ふたりが最近ハマっている子供向けアニメの主題歌のギターカバー。何も言わずとも、ひとりさんがふたりの好みをきちんと把握している、その証拠。

 

 ひとりさんは売れ線バンドのカバーに余念がないけれど、それと同じくらいにふたりの好みにも気を配っている。ふたりがどんなアニメや映画、音楽にハマっているかを時折わたしに尋ねては、当たり前のように全てをギターで弾けるようにしてしまうのだ。それは紛れもなく、ふたりの自慢できるお姉ちゃんでいたいというひとりさんの頑張り。その直向きな愛が、わたしにとってもどうしようもなく愛おしかった。

 

「やっぱりギター弾いてる時のお姉ちゃんは、誰よりもカッコいいね!」

 

 ひとりさんが一曲を終えると、ふたりは満面の笑みでひとりさんを褒め讃えていて。わたしもその言葉に全力で頷きたい気分だった。バンドでの演奏はまだまだ発展途上だけれど、わたしとふたりの前でならば、ひとりさんは正にギターヒーローと呼ぶに相応しいだろう。

 

 

 

「ごめん、ギター弾く方のお姉ちゃん。わたし、そろそろ飽きてきちゃった」

 

「そっか……じゃあ、今日のギターは終わりにしようね」

 

 ひとりさんが五曲目を弾き終えたところで、ふたりがごろんと寝転がり疲れた声音でそう告げた。ふたりの為のソロライブは毎回三十分程度で終了してしまう。理由は単純でふたりが飽きてしまうから。ふたりはしっかりしているけどまだ五歳、集中力が続かないのは仕方のないことだろう。

 

 ひとりさんもそれは重々承知であり、大した落胆もなく黙々と機材を片付け始めていた。

 

「ふたりはまだ遊びたい?」

 

「うん!今度はギター弾かない方のお姉ちゃんとお絵かきしたい!」

 

「任せちゃっても大丈夫かな、もう一人の私?」

 

『任せてください。わたしもふたりと遊びたくて、うずうずしていますので』

 

 それはそれとして、ふたりはまだまだ遊び足りないみたいで。次の遊び相手にわたしを希望してくれた。先程あれほど仲睦まじい姉妹の様子を見せられて、少しばかり寂しい気持ちを抱いてしまったのも事実。この寂しさを埋めるためにも、たっぷりふたりと遊んで触れ合おうと思う。

 

『よろしく、もう一人の私……私は裏に引きこもって、頑張って歌詞の続き考えてみるから……』

 

「よし、それじゃお姉ちゃんとお絵描きしよっか、ふたり」

 

「やったー!ギター弾かない方のお姉ちゃんとお絵描きお絵描き〜!」

 

 ひとりさんが意識の底に引っ込むとわたしの意識が浮上して、そのまま自然に浮かんでくれた笑みでふたりに笑いかける。そうすると、こちらが嬉しくなってしまうくらいに喜んでくれて。わたしの妹はきっと世界で一番可愛い、なんて姉馬鹿な思考が過ぎってしまいそうになる。

 

 お絵描きをするためにテーブルの前に移動すると、ピッタリと寄り添うようにしてふたりも腰を落ち着ける。その手には色鉛筆とお絵描き帳が握られていて、準備万端だった。

 

「ふたりは何か描きたいものとかあるの?」

 

「えっとね、今日はお姉ちゃんにばんど?の絵を描いて欲しいの!」

 

「バンドの……?」

 

 ふたりの口から飛び出た返事に、思わず聞き返してしまう。ひとりさんというギタリストの姉がいるとはいえ、ふたりからバンドという単語を聞くのはあまりに予想外だったから。

 

「お父さんが言ってたんだ。お姉ちゃん達はお友達と、バンドで一緒に楽器を弾いてるんだって……わたし、お姉ちゃん達のお友達がどんな人か見てみたい!」

 

「なるほど、そういうこと」

 

 どうやらひとりさんのバンド活動を強く応援している、お父さんからの入れ知恵だったらしい。ふたりはその幼さで既に、ひとりさんの交友関係の薄さを心配しているような節があった。そのお姉ちゃんが急にバンドという集団に所属し始めたことに、興味があるのだろう。

 

「うん、わかった。上手に描けるかわからないけど、お姉ちゃん頑張るね」

 

「わーい、たのしみ!」

 

 ふたりから色鉛筆とお絵描き帳を借り受けて、さっそくイラストの作成に取り掛かっていく。今日の画材は色鉛筆、ここはいつも通りにポップな絵柄でデフォルメ調のキャラクターにした結束バンドの皆さんを描くのが一番だろうか。わたし自身そういう描き方が一番慣れているし、ふたりを喜ばせる自信もある。

 

「バンドの名前はね、結束バンドっていうんだよ」

 

「けっそくばんど?変な名前〜」

 

「確かにそうかも。でも、実はお姉ちゃんとっても気に入ってるんだ」

 

「じゃあ、わたしも好きになるー!」

 

 結束バンドの布教成功、ふたりとの団欒を楽しみつつ並行してイラストの作成を進めていく。二頭身ほどの小さなキャラクターに簡略化させつつも、バンドメンバーの個性が目でわかるような特徴付けは欠かせない。虹夏さんは可愛く朗らかに、リョウさんはクールで格好良く、喜多さんは一際綺麗でお洒落さんに仕立てていく。ひとりさんについては言うまでもなく、全力で描かせていただいている。

 

 バンドの絵という注文なので、もちろんみんなに楽器を持たせるのも忘れない。ただ、全体のバランスと手間の関係で虹夏さんにはドラムスティックを持たせるだけになってしまったのはどうか許して欲しい。あと、ひとりさんの持つギターだけやたら細部まで拘ってしまったのも反省点だろうか。公平に描くべきなのだろうけど、どうしても身内贔屓が抑えられなかったのだ。

 

「これで完成、と。どうかなふたり、お姉ちゃん今日のは自信作なんだけど」

 

「すごーい!!ギター弾かない方のお姉ちゃんの絵、カワイイから好き!」

 

 出来上がったイラストを提出すると、ふたりは屈託のない尊敬の視線を向けてくれて、心地良くわたしの心を満たしてくれる。結束バンドのメンバー四人が仲睦まじく並んでいるイラスト、自惚にはなってしまうけど我ながら会心の出来であった。

 

 わたしがここまで絵を描けるようになったのは、学校で写生大会やイラストコンクールがある度にわたしがそれを代行していたから。昔はそういうことがある度に、ひとりさんに喜んで欲しくてひたすら練習をしたものである。そんなわたしの幼稚な積み重ねすらも、こうしてふたりを喜ばす役に立てている。だからわたしは存外に、努力というものが嫌いじゃなかった。

 

「この人がドラムの虹夏さん。優しくて頼りになる、結束バンドのリーダーなんだ」

 

「おっきなリボンがかわいいね!」

 

「で、こっちがベースのリョウさん。ちょっとだらしない所もあるけど、クールで気配りのできるカッコいい人だよ」

 

「べーす……?あ、ギターに似てるけど地味な方のやつか」

 

「そ、それで、お姉ちゃんと同じギターの喜多さん。明るくて頑張り屋さんで、皆を引っ張ってくれる人なんだ」

 

「テレビのモデルさんみたいだね、きれい!」

 

「最後にギター弾く方のお姉ちゃん。……については、ふたりが一番良く知ってるもんね」

 

「う、うん……」

 

 イラストで描かれた結束バンドの皆を一人ずつ指し示しながら、ふたりに紹介していく。これでふたりにも、ひとりさんが如何に素敵な人達に囲まれて日々を過ごしているかが伝わってくれたと思う。リョウさんというか、ベースに対する認識だけは後で改める必要があるのかもしれないけど。目立たないけど、バンドを支える縁の下の力持ちなのだから。

 

「ギター弾かない方のお姉ちゃんは?」

 

「え……?」

 

「ギター弾かない方のお姉ちゃんは、いないの?」

 

 ふたりの投げかけた疑問は浮かれて高揚していたわたしの頭に冷水でもぶっかけたように痛烈に響き、瞬く間に冷たい現実へとわたしの意識を引き戻した。結束バンドの中にわたしの居場所は存在しない、それがどうしようもないわたしの実情であり常識だ。

 

 でも、ふたりにとってはそうじゃない。ふたりにとってお姉ちゃんはいつだって二人居て、バンドの中でもわたし達が認められて仲良く過ごしていると疑ってすらいなかったのだろう。そんな優しいふたりに不用心にもわたしが現実を突き付けてしまった、これはそんな間抜けな話。

 

 本当に自分の迂闊さが、人の心の痛みのわからなさが、つくづく嫌になる。

 

「ふたり、仕方ないんだ。バンドっていうのは楽器を弾く人たちの集まりで、お姉ちゃんは楽器なんて弾けないんだから」

 

「でも……みんなのことを喋ってる時のお姉ちゃん、あんなに楽しそうだったのに……」

 

 そんな正論を今更語ったところで、ふたりはもう止まってくれなかった。仕方ないで済ませるには結束バンドの皆のことを、わたしは親しげに喋りすぎてしまった。もっと淡々と、事務的に紹介するだけに留めるべきだったのだ。そうすればこうして、ふたりが悲しい気持ちになることはなかったのに。

 

 わたしには友達なんて居ないのに。ひとりさんを通して彼女達の優しさとその輝きに触れた気になって、どういうつもりなんだろう。わたしは初めから、ひとりさんとその家族以外は持ち合わせてはいけない存在なのに。いつからこうまで烏滸がましくなってしまったのか。

 

「なのに、ギター弾かない方のお姉ちゃんだけ仲間はずれなんて……わたし、嫌だよ……いやだ」

 

 ふたりの泣きそうな、搾り出すような悲痛な声が聞こえる。なんとかしてあげたくて、でもわたしにはその手段が一つもなく何も言ってあげられなくて。やるせなさから、汚泥のような分不相応な感情が心の底から溢れ出しそうだった。

 

 どうしてわたしは、妹を安心させてあげることすら出来ないのだろう。どうして結束バンドには、わたしの居場所がないんだろう。どうしてわたしは、誰からも認められないのだろう。どうしてひとりさんの隣に立てる存在に生まれることができなかったのだろう。どうして、どうして、どうして――

 

 詰まらない弱音がこぼれ落ちぬように、口を引き結んで必死に耐える。どれだけ自分の境遇を恨み嘆いたところで、ふたりが笑顔になるわけでもなければ誰かが救われるわけでもない。ひとりさんの為に生きて死ぬ。誰に強制された訳でもない、それがわたしの決めた生き方なのだから。わたしは許される限りの範囲で、最善を尽くすしかないんだ。

 

 だから、ふたりに対しても精一杯に強がってみよう。最早今更すぎて、ふたりにはきっとバレバレになってしまうのだろうけど。わたしは大丈夫って、笑ってやるのだ。それがお姉ちゃんとして、今のふたりに出来る唯一のことだから。

 

「ふたり……なに、してるの?」

 

 どれだけの時間が過ぎたのだろう。意を決してわたしが顔を上げて、ふたりに視線を向けるとふたりはこちらに顔を向けていなかった。わたしが描いた結束バンドのイラストに真剣な表情で向かい合って、ピンク色の色鉛筆で必死に何かを書き足していた。

 

 ふたりの行動の意図が読めず、せっかくの覚悟さえも揺らぎそうになって控えめに声をかけることしかできなかった。

 

「ギター弾かない方のお姉ちゃん、見て……これでギター弾かない方のお姉ちゃんも、一緒だよ!」

 

「これって……」

 

 ふたりが掲げて見せた結束バンドのイラスト、その中にもうひとり新しいメンバーが追加されていた。それが一体誰であるかなんて、あえて触れるまでもなくわかりきっていること。懸命にわたしの絵柄に似せようとして線はヨレヨレになってしまっているけど、ひとりさんに寄り添いながら並び立つわたしの姿が、確かにそこにだけ存在していた。

 

「わたしが描いたから、きっとこうなるよ!これで寂しくない……だから、だから、もう悲しい顔しないで……?」

 

 それはひとりさんの妹の、人の心の痛みが分かるふたりだからこそ描くことができた、わたしのためだけの絵空事だった。ふたりもこの行動が現実を変えられる訳ではない、ただの慰めに過ぎないことは分かっているのだろう。

 

 それでも、ふたりは悲しいことをそのまま見て見ぬフリをして良しとしなかったのだ。

 

「ありがとう。お姉ちゃんね、ふたりのお陰で今とっても嬉しいんだ……だから大丈夫。もう悲しくないし、寂しいのもへっちゃらなんだから」

 

「うん……」

 

 救われたという素直な気持ち、それだけを一方的に告げてふたりをぎゅっと抱きしめる。ふたりの誰かを傷つけてしまったような悲しげな顔を見たくなくて、とても妹に向けられるものではないわたしの表情を見せたくなくて。この温もりでわたしの空虚な心を満たすように、強く抱きしめる。

 

『……もう一人の私、やっぱり』

 

『ごめんなさい、ひとりさん……今だけは、何も言わないで』

 

『……ごめん』

 

 ひとりさんも途中から作詞どころではなかっただろう。多分、わたしとふたりのやり取りのその殆どを見られてしまっている。だから、ひとりさんの存在自体を脅かしかねないような提案すらしそうになる。

 

 わたしは卑怯者だ。ひとりさんが何も言わなくなると知って、あえて突き放すような言い回しを選んだのだから。結束バンドはようやくメンバーが揃い、順調に活動を進め始めたのだ。そこにわたしなんかが水を差して、今の円満な関係をぶち壊してしまう訳にはいかない。ひとりさんの人生はひとりさんのためにある、その信条を違えることだけは決してない。

 

 

 何も持っていないけれど。ひとりさんとふたりとの絆だけは、わたしの始まりから終わりまでこの胸の内に存在し続けるのだと、信じていたかった。

 

 

 ◇

 

 

 ふたりとの遊びの時間を終えた後、作詞に戻ったひとりさんはなんとか一つだけ作品を書き上げることができた。結局、青春ソングを書くのは無理だという結論に至り、出来上がったのは一つの応援ソングだった。

 

 ひとりさんは最近喜多さんを支えて応援したい気持ちがあり、わたしも誰かを応援したいという感情はそれなりに馴染み深い。テーマを決めた後はそれなりに、スラスラと作業は進んでいった。出来映えの良さとしてはまずまずといったところで、少なくとも薄っぺらい歌詞ではないと思う。

 

 しかし、ひとりさんらしい歌詞かといえば首を傾げざるを得ないし、結束バンドの皆が納得する内容かは定かではない。もしかしたらリテイクをくらうかもしれないが、それもまた経験。歌詞もまた、ひとりさんが結束バンドの皆と交流して創り上げていくものだろうから。

 

 時刻は既に二十三時を回ってしまっていて、ひとりさんは作詞の疲れからかもう既に眠ってしまっている。わたしとしても眠る前の身嗜みは既に終えているし、後は布団に潜るだけの状態。明日は虹夏さんから下北沢に集合と連絡が来ていたし、ひとりさんの健康の為にもわたしはすぐに眠るべきなのだろう。

 

 しかし、わたしはそうせずに一人机の前でぼうっと座り続けている。原因はふたりとのやり取りで、どうにも心が騒ついてしまい眠る気になれずにいた。ふたりが置いていった結束バンドの絵を手に取って、じっと見つめる。虹夏さんとリョウさんと喜多さんがいて、わたしとひとりさんが隣で笑い合っている。その現実離れした光景を見続けていると、自然と頬が緩んでいた。

 

 この光景が現実になることを、心のどこかでわたしが望んでしまっているのはもう認めるしかない。触れてはいけないと知った上で、どうしても焦がれ混ざりたいというこの気持ちは、いくら否定し続けても消え去ってはくれなかったから。だからひとまずは、受け入れようと思う。

 

 受け入れた上で、わたしはこの感情に整理をつけて心の奥底に閉まっておくのだ。誰のためでもない、わたしがわたし自身であるために。ひとりさんのヒーローで、ふたりの優しいお姉ちゃんであり続けられるように。わたしにはそれだけで充分なのだと、改めて定義付ける必要がある。

 

 普段勉強に使っているノートを机に広げて、その最後のページを開いてはペンを走らせてゆく。これから行うのは、ひとりさんと同じ作詞だ。自分の鬱屈としたやり場のない感情を、歌詞として表現するなんてのは幼稚な行為なのかもしれない。でも、わたしは心の叫びを発して、それを何処か遠くへ捨て去ってしまいたくて。その手慰みの手段として、作詞はうってつけの手段に思えたのだ。

 

 

 今回だけは繕わず、わたしの心からの願いを込めて。ただ、歌詞を書く。テーマは星、綺麗に飾り立てればわたしの醜いエゴも、少しは煌びやかに見えてくれるだろうから。

 

 

【もうすぐ時計は6時 もうそこに一番星 影を踏んで 夜に紛れたくなる帰り道】

 

 ひとりさんが結束バンドに入ってからの日々、それはわたしにはとても眩しく思えた。ひとりさんは自分の場所を得ることで日常を星のように瞬かせるようになって、その度にわたしの影が色濃くなる錯覚を覚えた。ひとりさんがまたねと約束を交わして、わたしにはその相手は存在していなくて。帰り道に、人混みに紛れて寂しくないのだと何度も嘯いて、自分を慰めた。

 

 ひとりさんに代わって結束バンドの皆の前に出る度に、わたしにはひとりさんのような輝きはないのだと痛感させられた。目の前で過ごす良く知っている人達がまるで遠い存在のように思えて、わたしは星ではないのだと納得するしかなかった。

 

【いいな 君は みんなから愛されて「いいや 僕は ずっと一人きりさ」】

 

 正直に言えば、ひとりさんが羨ましくあった。でもそれを認めてしまえば、わたしは自分自身の存在意義を認められなくて。ひとりさんの内だけが自分の居場所なのだと、無理矢理にでも言い聞かせる日々が続いている。これからも、終わらないだろう。それでいい。

 

【君と集まって星座になれたら 星降る夜 一瞬の願い事】

 

 星座のように、ひとりさんと一緒にわたしも誰かに認められたなら。そんな馬鹿げた妄想を、わたしは何度繰り返したかわからない。そんな妄想に縋りつくことすら、こうして一人の夜にしか行うことができなくて。閉塞感と息苦しさを感じないかといえば、嘘になる。

 

 最近はこんな醜いわたしの叫びが、誰かに気付いて欲しいのかそうでないのかすら曖昧になってしまうことがある。気付かれてしまえばいい、そんな自分勝手な思考が頭を過ぎるたびに自身が恐ろしくて震えていた。

 

 だからわたしは星座になりたかった。自分を疑わず、なんの蟠りもなしにただひとりさんと一緒にいたかった。ひとりさんを認めて尊重してくれる人達の輪の中で、一緒に笑い合ってわたしもその真心を返してあげたかった。

 

【つないだ線 解かないで 僕がどんなに眩しくても】

 

 それだけの、絵空事だ。叶うことはない、だからわたしはひとりさんの側だけは何があったって譲らない。結んだ線が解けぬように、自分を固く律して制御する。そうすることでしか、わたしはひとりさんの側にいられないのだから――

 

「そろそろ寝ないと……」

 

 好き勝手に歌詞を書き殴り、思いの外興が乗ってしまって二番まで書き進めてしまったところでわたしは正気に戻る。時刻は二時を回ってしまっており、これ以上は確実にひとりさんを寝不足にしてしまう。

 

 歌詞として自分の不安を吐き出すのは思いの外効果があったようで。騒ついた思考はすっかり鳴りを潜めて、サッパリとした爽やかな開放感に包まれていた。やはり、抱え込み過ぎは良くないのだろう。今後は似たような形で、日々の不安や悩みを文字に起こしてみるのも良いかもしれない。

 

 最後に、書きかけのわたしの歌詞を『星座になれたら』と題してノートを閉じる。わたしのこの叫びがいつか、怨嗟ではなく祝詞になりますようにと願いを込めながら。

 

 




 次回はもうちょっと早く投稿できると思いますので、よろしくお願いします。次回はアー写兼リョウさん回、私も書くのが楽しみです。


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山田リョウはよく見ている

 

「アー写を撮ろう!」

 

「あーしゃ……?」

 

『……ってなんでしょう?』

 

 下北沢の駅前に集った結束バンドのメンバー達、全員集合したことを確認するなり虹夏さんはそう本日の目的を告げてみせる。指でフォーカスを作って見せる虹夏さんの姿は掛け値なしに可愛らしいが、聞き馴染みの薄いその単語にわたし達は揃って首を傾げていた。

 

「アーティスト写真のことだって」

 

「な、なるほど……」

 

 喜多さんがすかさず補足を入れてくれたことで、その意味を理解できた。アーティスト写真、いわゆる宣材写真を撮るということ。確かに、アー写という一般人には縁の無い代物を用意するのはかなりバンドっぽい気がする。それに結束バンドが発足したこの瞬間だからこそ、写真という形でその姿を残しておくのは大事なことだろう。理に適った虹夏さんの提案に、意識の底で何度も頷きたい気分である。

 

「今ある結束バンドのアー写には、ぼっちちゃん写ってないしね」

 

「今ある……?」

 

「この前ライブやる為に撮ったやつだけど、見る?」

 

 こちらが返事をするまでもなく、リョウさんは自分のスマホに写したアー写をこちらに見せてきていた。明るくピースをする虹夏さんに、それに合わせることもなくマイペースに撮られているリョウさん。そして端っこに後から合成された真顔の喜多さんという、一目で何か不都合があったのだと理解できてしまう悲惨なアー写がそこには写し出されていた。

 

「ほら喜多ちゃん逃げちゃったから……」

 

「ごめんなさい!」

 

『こんな酷いアー写初めて見た……でも、もう一人の私が居なかったら学校の集合写真とか、私もこんなのばっかになってたんだろうな。目に見える黒歴史を生み出さなかったことに、感謝!』

 

『いや、流石にそんなことは……あるかもしれませんけど』

 

 ひとりさんはいたって真面目、だからズル休みをすることはないと思う。しかし、緊張や対人経験不足から意識を失って集合写真に写り損ねる姿は容易に想像できてしまって、その自虐を否定し切ってあげることができなかった。

 

 ひとりさんの言う通り、小学の後半や中学校の集合写真には大抵わたしが写っていて、集合写真の中で一人だけ宙に浮いてるようなひとりさんの姿は一つも存在していない。安心してアルバムを見れるとひとりさんは喜んでくれているけど、それが本当に良いことだったのか。最近のわたしには、わからなくなってしまっている。

 

「そういう訳で今日は天気も良いし、皆の予定も空いてたからアー写撮っちゃおうかなって」

 

「あっ、え、外で撮るんですか……?」

 

「スタジオで撮るのはお金がないから無理」

 

 ひとりさんの懸念を、虹夏さんが間髪入れずにぶった斬る。本格的な宣材写真のようにフォトスタジオを借りて、プロのカメラマンを雇うのには相当お金がかかる。ライブをする為にバイトでお金を稼いでいる結束バンドには縁遠い話であり、外で自主撮影というのは当然の選択だった。

 

 お金がなくても不自由なりに、皆で工夫してやり繰りをしていく。ひとりさんにとってはハードルが高いかもしれないけれど、青春っぽくてわたしは良いと思うのだ。

 

『下北の街中で写真撮るなんて陰キャにはハードル高すぎる……!で、でも、今回はもう一人の私を頼るのも良くないよね……』

 

『そうですね。ずっと形として残るものですから』

 

 結束バンドの一員であることを自覚して、多少困難でもそのバンド活動は自分が進んで行うべきなんだという前向きな意思表示。少し前のひとりさんなら発することがなかったであろうその一言に、大きな成長と少しばかりの寂しさを感じながらもわたしは小さく頷いた。

 

「まぁ外じゃなくてSTARRYでも良いんだけど、アー写ってバンドの方向性とかメンバーの特徴を一枚で伝える大切なものだからさ。どんな所で使われてもインパクトがある感じにしないと」

 

「だそうだ」

 

『そういう訳ですので、ここは一つ写真撮影も一緒に頑張ってみましょう?』

 

『う、うん!』

 

 虹夏さんがアー写の重要性を語り、リョウさんがそう取ってつけたかのように結論付ける。わたしとしてもそんな大切な写真に部外者として写り込んでしまうのは忍びない。ひとりさんにそう持ちかけると、戸惑いつつもはっきりと肯定をしてくれた。

 

「わ、わかりました。私も覚悟を決めます」

 

「覚悟……?」

 

 ひとりさんの声音は真剣そのもので、まるで大一番の試合に挑むかのような覚悟で満ち溢れていた。写真の撮影に臨むには大袈裟過ぎるかもしれないが、やる気があるに越したことはないだろう。空回りしたとしても、その瞬間だって青春の一枚となるはずだ。

 

「よーし!それじゃアー写撮影の旅に、レッツラゴー!!」

 

 本日もいつも通り、リーダーの虹夏さんによる号令でつつがなくアー写撮影のための下北沢巡りは開始された。

 

 階段、フェンス、植物の前にそして公園、あと良さげな壁。虹夏さん曰く、金欠バンドマンのアー写撮影の定番スポットを巡りながら、その都度思い思いの構図で四人での集合写真を撮っていく。

 

 ひとりさんも不慣れな写真撮影におっかなびっくりとしながらも、友達と一緒に街を歩いて同じ写真を共有するという初めての出来事に感動しているようだった。喜多さんや虹夏さんと交流し時折笑みを浮かべていて、純粋に楽しんでいる様子が伝わってわたしとしても一安心だ。

 

 肝心の写真写りに関しては、猫背で俯きがちな姿勢と長めの前髪のせいであまり良くはなかったけれど、それも含めてまたひとりさんの特徴であり個性とも言えるだろう。ひとりさんにとって既に結束バンドの活動は日常で、今更わたしがフォローできることなんて多くはないのかもしれない。

 

 なんて、そんな油断をわたしが抱いた時に、唐突に事件は起こったのである。

 

「それにしても、喜多ちゃんはどの写真も可愛いね〜」

 

「そんなことないですよ」

 

 撮影のために訪れた公園。そこで今までに撮った写真を振り返りながら、虹夏さんがしみじみとそう呟いた。喜多さんは一緒にスマホで撮影した写真を覗きながら謙遜して、リョウさんはあまり興味がないのか一人で気ままに遊具で遊んでいる。

 

 リョウさんと一緒に遊具で遊ぶような勇気はまだないのか、ひとりさんも自然と虹夏さん達に近寄っては控えるようにして話に耳を傾けていた。

 

『確かに。喜多さんの写真写りは抜群に可愛いですね』

 

『よ、陽キャと陰キャの格の違いを見せつけられている……』

 

 結束バンドはアイドル売りをしても通用してしまいそうなほど皆さん可愛らしく綺麗だけれど、こうして写真で見ると喜多さんが頭一つ抜けて煌びやかに見える。自分の魅せ方を熟知しているというか、撮影に対する圧倒的な余裕と強者の風格が喜多さんからは感じられた。恐るべし、SNS担当大臣の実力である。

 

「あるある!なんていうか、写真慣れしてるって感じで」

 

「ああ、それは良くイソスタに写真あげるからかもです。ほら!」

 

「おおー、流石SNS担当大臣」

 

 話の流れのままに、喜多さんはわたしたちにも見えるようにスマホでイソスタのページを見せてくれる。その内容は圧巻で、映えを意識したスイーツや友達とのテーマパークでの一時等の画像が煌びやかに並んでいた。そんな中に、ギターの画像やひとりさんの一部だけを写したツーショットが並んでいることがなんだか嬉しい。喜多さんが大切にしているものの内に、バンドやひとりさんが含まれていることが肌で感じられるから。

 

『うっ、直視し難い……イソスタどころか、私は友達と写真なんて一度も撮ったことないし。これが人生の積み重ねの違い?残酷すぎる……』

 

『……ひとりさんはこれからじゃないですか。今日から結束バンドの皆さんとたくさん思い出作っていきましょう、ね?』

 

 しかし、その輝きはひとりさんの目には毒だったようで大きな精神的ショックを受けてしまっていた。ひとりさんのプライベートの写真は殆どなくて、スマホのフォルダにあるのはふたりと撮ったものがごく僅かだけ。わたしが協力しようにも、現実としておかしな自撮りが増えるのみで虚しいだけだった。

 

 ひとりさんは今が青春真っ盛り。暗い過去で苦しむことはせずに、これからの楽しい時間を大切な人と歩んでいって欲しい。そうしてくれたらきっと、わたしという存在も報われるはずだから。

 

「そうだ、ぼっちちゃんもイソスタ始めてみたら?喜多ちゃんと仲良いんだし!」

 

「是非!イソスタでも友達になりましょ。今後バンド活動をしていくなら、メンバー個人のアカウントあった方が良いと思うし!」

 

「私が……イソ、スタ……?」

 

 話の流れで、なんの悪気もなしにひとりさんにイソスタを勧めてくる虹夏さんと喜多さん。だが、ひとりさんにとってSNSとは敢えて避けてきていた話題であり、その承認欲求を刺激して止まない劇物である。それが突然に、ひとりさんをダイレクトに横殴りしてしまっていた。

 

 わたしがマズいと思った時には既に手遅れであり、いつの間にかわたしの視界は小さな衝撃と共に、澄み渡る青空を映し出していた。直立していたひとりさんの身体がゆっくりと穏やかに後ろに倒れて、その身を地面に投げ出してしまっているのである。

 

「あばばばばばばばばばばば……!!?」

 

「うわっ!?ど、どうしたのぼっちちゃん!?」

 

「後藤さん大丈夫!?しっかりして!!?」

 

 突然ぶっ倒れて、奇声を上げながら痙攣するひとりさんを目の当たりにして、虹夏さんと喜多さんも非常に混乱してしまっている。ある程度ひとりさんの変わった部分を知っている虹夏さんはともかくとして、喜多さんの狼狽えようは凄いもので。今にも泣き出しそうなほどひとりさんの身を案じてくれており、大事ではないと知ってしまっているわたしとしては罪悪感で胸が痛かった。

 

 そう、最近は鳴りを潜めていたけれど中学生まではこういうアクシデントがよくあったのだ。青春コンプレックスを刺激されショックを受けたひとりさんが一時的に意識を手放し、わたしが慌てて身体を引き継ぐという事件が。本来なら倒れる前にわたしが身体の主導権を得るのだけど、久しぶりということもあり対応が遅れてしまった。完全にわたしが油断していたせいであり、猛省するしかない。

 

『ひとりさん、もしもーし……やっぱりダメそうですね』

 

「あばばばばばばばばば」

 

 一縷の希望を持ってひとりさんの意識確認をしてみるも、返事はなし。経験則として、これくらいのショックなら数十分程度でひとりさんの意識は戻るので大きな問題ではない。問題があるとすれば、その数十分をどうやって繋いでいくのかだ。

 

「せ、先輩!救急車、救急車呼ばないと!?」

 

「喜多ちゃん落ち着いて!多分だけど、ぼっちちゃんのコレそんな緊急事態じゃないと思うから」

 

「そう。ぼっち、面白いからたまに変になるだけ」

 

 慌てふためく喜多さんを、虹夏さんと騒ぎを聞き付けて戻ってきたリョウさんが落ち着かせてくれている。二人の言う通り、時間が経てば元に戻るので喜多さんが心配するようなことは何もない。しかし、このまま放置では本当に喜多さんが救急車を呼んでしまいかねないし、何より申し訳が立たない。

 

 緊急事態故に仕方なしと判断。わたしは意を決し、身体の主導権を得てその身体をむくりと起き上がらせた。

 

「お、ぼっち復活した」

 

「うぇっ!?ちょ、ちょっと怖いかも……」

 

 脈絡なく再起動を果たしたわたしの姿を見て、虹夏さんが少し怖がっていた。他人から見れば前触れもなく人間に電源が入ったかのような奇妙さを感じるだろうし、虹夏さんの反応も仕方ないものだろう。この場合、何事もなく受け入れてしまっているリョウさんがあまりに大物過ぎる。

 

「後藤さん、身体は大丈夫?痛いところとかない?」

 

「は、はい。大丈夫です……身体は何ともありませんので。心配かけてしまって、すいません」

 

「そう……よかったぁ」

 

 尚も心配し続けてくれる喜多さんに向けて、ぺこりと頭を下げて何ともないと身体の無事を告げる。すると喜多さんは心の底からほっとしたように安堵の表情を浮かべてくれて、やはりひとりさんは大事にされているのだとわたしの胸の内は温かくなった。それと同時に、そんな人の前に別人のわたしが立ってしまっている気まずさのようなものも、ひしひし感じているけれど。

 

「ぼっちちゃん今のってアレだよね。前言ってた青春コンプレックスがどうたらってやつ」

 

「はい。SNSはどうにもわたしには眩しすぎたみたいで……ご迷惑をおかけしました」

 

「やっぱり。ぼっちちゃんってこういう一面もあるから、喜多ちゃんも気にしすぎないように!」

 

「は、はい!今日はもうイソスタの話はやめておく事にしますね……」

 

「ぼっちの生態、相変わらず面白い」

 

 地面に倒れたことで付いてしまった土の汚れをハンカチで払いながら、虹夏さんの言葉に同意する。流石はひとりさんについての理解が深い結束バンドの面々、先ほどのおかしな挙動すらもあっさりと受け入れて流してくれるのは本当に頼もしい。

 

 ひとりさんだけでなく、わたしも個人的にSNSについては苦手意識が強いので控えてくれるのは正直ありがたい。匿名を維持したまま全世界に自分のことを発信できるツールなんて、わたしが触れてしまったら一体どんな嵌り方をしてしまうか自分でも想像がつかない。ひとりさんの健全な生活を守るためにも、わたしが手を出すことは生涯ないだろう。

 

「じゃあぼっちちゃんも復活したことだし、アー写撮影再開しよっか!」

 

 虹夏さんのその一言に、思わず顔が引き攣りそうになるのをなんとか抑える。わたしがこうして皆さんの前で表に出てくるのは、バイト初日以来のことで。あの頃と比べて虹夏さんとリョウさんはずっとひとりさんのことを知ってくれただろうし、その上に普段から一緒に過ごす機会の多い喜多さんまで加わってしまっている。端的に言ってしまえば、ひとりさんのフリを貫き通せる自信が今のわたしにはこれっぽっちもなかった。

 

 でも、そんな泣き言を吐いたところでわたしには頼れる相手なんていない。このアー写撮影を無事成功させるためにも、ひとりさんが戻ってくるまでの数十分程度、なんとか気合いで持たせて見せようと思う。

 

 わたしもひとりさんに倣って、写真撮影には分不相応な程の覚悟を決めるしかなかった。

 

 

 ◇

 

 

「はい、後藤さんはコーラで良かったよね?」

 

「……ありがとうございます」

 

 撮影スポット探しの道中、丁度良く自動販売機を見つけたので水分補給がてら休憩を取る事になった。わたしが何か言う暇もなく、喜多さんはわたしの分のコーラを購入して手渡してくれる。ひとりさんの好物で、わたしはあんまり得意じゃない微妙な関係にある飲み物。それを一思いに呷っては、バレないように息を吐く。

 

 あんな歌詞を書いてしまった昨日の今日で、皆さんの前にのうのうと顔を出してしまっているのが本当に肩身が狭い。わたしは今どんな表情を浮かべているのだろう、ちゃんと笑えているのだろうか。

 

 いやだから、そもそもとして常にニコニコしているのは本来のひとりさんの実像からは程遠い。無意識で愛想笑いを浮かべた無様な現状に思い至り、わたしは激しく引きこもりたい衝動に駆られた。この体たらくでは、本当に間を持たせられるのか早くも先が危ぶまれる。しっかりしよう、わたし。

 

「後藤さん、そんな日差しの強い場所にいちゃダメよ。ほら、こっち来て?」

 

「ど、どうも……あの、喜多さん。わたしこれでも結構身体は丈夫なので、そんなに心配していただかなくても大丈夫、といいますか」

 

 喜多さんに手を引かれては日陰に誘導される。人見知りしがちなひとりさんに喜多さんがあれこれと世話を焼いてくれるのはいつものことだけど、今日は過剰なまでに甲斐甲斐しい気がしてならない。やはり先ほどの事件が尾を引いているのだろうかと、わたしは元気ですとアピールをしてみる。

 

 実際、ひとりさんの身体は健康そのもので、体調を崩したりするようなことは滅多にない。強いて言うならば、ずっと部屋に引きこもりギターを弾いているせいであまり体力がないくらいだ。

 

「そ、そうよね……私ったら余計なお世話ね、ごめんなさい」

 

「いえ、気遣っていただけるのは嬉しいですから」

 

 楽しげに談笑する虹夏さんとリョウさんの隣で、わたし達の間にどこか気まずい空気が流れている。ひとりさんだったらこうはならない。ひとりさんは暗くて自虐的だけれど、それを重苦しく感じさせない不思議な人柄の良さがあって、それをわたしは持ち合わせていないのだ。

 

 せめてもっと気の利いた言葉を言えたら良かったのだけれど、喋りすぎれば今度はわたしという人格のボロが出てしまいそうで、行動に移す決断はできなくて。八方塞がり、その代価を喜多さんに押し付けてしまっているようで心苦しかった。

 

「今の後藤さん、なんだか学校で一人で過ごしている時に似てるっていうか……いつもより儚げでつい、心配になっちゃって……私、変なこと言っているわよね、後藤さんは後藤さんなのに」

 

「……それは」

 

 喜多さんはわたしの想像以上に、ひとりさんという人物についての理解を深めているのかもしれない。それこそ学校でのわたしを見て、後藤ひとりのパーソナリティに違和感を抱いてしまうくらいには。その違和感が目の前にも急に現れて、戸惑っているのがはっきりと感じ取れてしまう。わたしは結束バンドの皆の前に極力現れるべきじゃない、改めてその考えを補強するべき材料となった。

 

「……心配しないでください。わたしはわたし、ですから」

 

「うん、そうよね」

 

 せめて少しでも喜多さんを安心させられるように、一つだけ確かな言葉を告げて見せれば、喜多さんは浮かない表情を拭って頷いてくれた。わたしは単なる補助で、ひとりさんの人生がひとりさんのためにだけあるのは変わらない。喜多さんの友達を濁らせるようなことはしない、それだけがわたしの確約できる唯一普遍の事実だから。

 

「それはそれとして、もう夏も近いし後藤さんも帽子とか用意してみるのはどうかしら?後藤さんの髪は長くてとっても綺麗だし、麦わら帽子とか映えると思うのよね。合わせて服装もガーリーに仕上げれば……もうっ!一緒に買いに行きましょ!」

 

「き、機会がありましたら……是非」

 

 湿気った雰囲気を振り払うように、喜多さんはファッションの話題を出しては陽キャ特有のキラキラ視線かつハイテンションでそう持ちかけてきた。喜多さんと夏服の調達がてら一緒にショッピング。とても魅力的で心惹かれる内容だが、そう思うのはあくまでわたしだけなので安易に頷くわけにはいかない。

 

 季節の変わり目の衣替えが理解できず、万年ジャージで過ごしているひとりさんにとっては非常に危険なイベント。それこそ、今日のように何度気を失ってしまうかわからない。いつかそういうのにも慣れて、喜多さんと仲良くショッピングできるようになる日が来ることを祈るばかりだ。

 

「そ、そういえば、今日楽器を持ってこなかったのは少し勿体なかったかもしれませんね」

 

「確かにねー。楽器を構えてた方がより一層バンドらしくなったかも……」

 

「君たちはね!」

 

 話を逸らすために、話題を再びアー写撮影へと戻すと意外にも虹夏さんが力強く割り込んで来ていた。珍しくもしかめ面を浮かべて、物申したいことがあるとその態度がありありと表現されている。心当たりが全くなく、わたしと喜多さんは顔を見合わせて首を傾げるしかなかった。

 

「絵になるのはギターとベースだけで、ドラムは可哀想なことになるんだよ。手に持つのはドラムスティックだけになっちゃうんだから!」

 

「可愛いじゃん」

 

「自分は関係ないと思って好き勝手言いおってからに……」

 

 まさにバンド内でのドラムあるある、とでもいうのだろうか。わかりやすいまでに可愛く拗ねている虹夏さんの姿を見ると、くすりと笑みが溢れてしまう。しかし、各々が楽器を構えている中で一人だけがドラムスティックを構えている光景にどこか強い既視感も覚えて、ここ最近の記憶を振り返ってみることにする。

 

 その結論はすぐに出た。というか昨日の出来事であり、わたしの描いた絵の中の虹夏さんがまさにその状況にぴたりと合致してしまっていた。可哀想なドラムをこの手で再現、重罪である。

 

「ごめんなさい、虹夏ちゃん」

 

「え、何でぼっちちゃんが謝るの?」

 

「わたしは虹夏ちゃんにだけドラムスティックを持たせた重罪人です……」

 

「一体何の話!?」

 

 虹夏さんがこれくらいのことで怒らないのは十分に理解しているが、若干でも他人のコンプレックスを刺激したケジメとして謝罪をしておいた。バンドの楽器の中ではドラムだけ飛び抜けて持ち運びにくく、扱いづらい。他にもドラム故の孤独はいくつもあるのかもしれない。今度描く機会があるのなら、面倒くさがらずにドラムも描いてあげようと心に決めた。

 

「ああいえ、妹にバンドの絵を描いてあげたことがありまして。……その時に、つい手間だからとドラムの描写をサボってしまったんです」

 

「なるほどそういう……いいよいいよ!ドラムの絵なんて描くの大変だろうしさ。というか、やっぱりぼっちちゃん真面目だねぇ」

 

「ぼっち、妹いたんだ」

 

「今いくつくらい?きっと後藤さんに似て可愛らしいのよね!」

 

「あ、はい。名前はふたりで今年五歳に――」

 

 それからしばらくの間、わたしとひとりさんの妹であるふたりの話題で持ちきりとなった。写真を見せたり、ふたりの可愛らしいエピソードを紹介したりと、正直に言えば妹語りをすることを心の底からわたしは楽しんでしまっていた。

 

 でも、ふたりに対する気持ちはひとりさんもきっと同じ。だからコレはわたしとひとりさんの総意とも言えるはずで、多少は許されるだろう。そう信じたい。

 

「ぼっちちゃんみたいな優しいお姉ちゃんがいつも一緒に遊んでくれてさ、ふたりちゃんは嬉しいだろうねぇ……」

 

「それが、わたしが逆に元気付けられることも多いくらいで。わたしの自慢の妹です」

 

「ぼっちちゃんのその表情、久しぶりに見たかも。……ぼっちちゃんもさ、立派なお姉ちゃんだよ、うん」

 

 あの打ち上げの時に見せてしまったわたしの面影、忘れかけていたそれを虹夏さんは再びわたしを通して思い出してしまっている。本来は忌むべきことのはずなのに、満更でもないと感じてしまっている自身の心の内がどうしようもなく気持ち悪い。

 

 そして、そんな優しげな言葉をかけてくれる虹夏さんの表情は言葉とは裏腹に、どこか遠い過去を懐かしむかのように寂しげなものだった。それは初めて出会った日、家族の話をした時の表情とよく似ていて。そんな隠れた虹夏さんの内面に、踏み込む勇気も権利もわたしは何一つとして持ち合わせていなかった。

 

「よし!そろそろ休憩は終わりにして、撮影場所探しに戻ろっか」

 

 気が付けば、虹夏さんの顔は既に結束バンドのリーダーとしての明るいものに戻っていて。再び先導して前を歩く虹夏さんに続くようにして、わたしも黙ったままその後ろをついて歩く。

 

 今更他人の内面に触れる権利が欲しいなどと、駄々を捏ねるつもりはない。ないのだけれど、誰にも気付かれることなくただ覆い隠された虹夏さんの感情がどこかわたしの存在とだぶついて見えて。何となく、悲しげな気分に浸りたくなった。

 

 

「あっ、こことかどうですか?結構下北沢らしいと思うんですけど」

 

 しばらく街並みを歩いていると、喜多さんが一つの空き屋に目を付けて足を止める。空き家の外壁には様々なバンドのポスターやフライヤーが貼られていて、その退廃的な雰囲気はまさに下北沢らしいと言える様相であった。

 

「そこ、前までよく行ってたCDショップだった」

 

「えっ?」

 

「レコードショップもライブハウスも、どんどんなくなるねー」

 

「昔ながらの店が、どんどん消えて行く」

 

 リョウさんは眉一つ動かすことなくなんてことないように告げていたけど、わたしには少しだけその声色が悲しそうに感じられてしまった。自分は変わらず好きで居続けたはずなのに、周囲は絶えず変化し続けていく無情さへの悲哀とでも言うべきか。わたしにも馴染み深い感情で、つい共感してしまう。

 

 仕方のないことだということは理解している、この世は変わって移ろいで回っていくものだから。それでも、わたしが変わらないと信じていたいひとりさんやふたりとの関係ですら変わってしまうのだと思うと、やるせない気持ちが溢れて収まらなくなってしまう。

 

「あの……なんだかごめんなさい」

 

「……寂しい、ですね。変わらない自分が、どんどん何もかもに置き去りにされてしまっているみたいで」

 

 喜多さんの謝罪に続いて率直な感想を漏らすと、その後に不自然な沈黙が立ち込める。どうしたのだろうと周囲を見回すと、喜多さんと虹夏さんが呆気に取られたようにわたしの姿を窺っていた。そこでようやくわたしは、自分が失言をしたのだと思い至った。

 

 明らかに、今のわたしの発言はひとりさんの発言からズレてしまっている。ひとりさんの会話は暗く自虐的な部分もあるけれど、それは一貫して自分の失敗や至らなさについて言及するものだった。今のわたしのように、周囲への不満を吐き出すようなことは一切ない。今更気付いたところで、漏れ出た発言は撤回できず後の祭りだった。

 

「ぼっちは、変わっていくのは嫌い?」

 

「そんなことはっ……決してないん、ですけど……」

 

 唯一、いつもの憮然とした表情でわたしを見つめていたリョウさんが、そう問いかけてくる。変わることを否定するつもりはない。ひとりさんがギターにのめり込むようになったのも、結束バンドと出会いバンドを組むようになったことだって素晴らしいことなのだから。

 

 本当に嫌なのは、変わらないわたしだ。変わらぬ存在で居続けると決めたはずなのに、変われないことに勝手に傷付く子供じみたわたし自身の心が、どうしようもなく嫌いだった。そんな内心をぶち撒ける訳にもいかず、途中でただ押し黙ることしかわたしには出来なかった。

 

「こら、適当言ってぼっちちゃん困らせたらダメでしょ!」

 

「別に適当言ってるつもりはない」

 

「そんなこと言って、新しい本屋できた時に喜んでたじゃん」

 

「うん、B&C好き」

 

「喜多ちゃんもぼっちちゃんもさ、リョウの言うことあんまり真に受けすぎないようにね。その場のノリで喋ってることが殆どなんだから」

 

 虹夏さんが間に入り、空気を和ませてくれたことでリョウさんのわたしへの問いは有耶無耶となった。あれ以上続いていたら、何を口走っていたかわからないので本当に感謝しかない。しかし、その虹夏さんですら内心では違和感を抱いているのだろうし、大失態にも程がある。

 

「後藤さん、今度私と出掛けましょうね!絶対、寂しい思いはさせないから」

 

「……ありがとうございます、喜多さん」

 

 喜多さんの純粋な優しさが、傷ついた心に染み渡るようだった。その優しさはきっと、これからもひとりさんを支え続けてくれるだろう。わたしには勿体無くて、その言葉と気持ちだけで充分だ。

 

「あの、あちらの方に良さげな壁がありましたので……一度向かっては見ませんか?」

 

「おっ、でかしたぼっちちゃん。早速行こう!」

 

 先程の失言を忘れるためにも、わたしは見繕っておいた撮影スポットを自分の口から提出することにした。本当はひとりさんが戻ってきてから提案するつもりだったのだけど、背に腹は変えられない。虹夏さんも直ちに乗っかってくれて、なんとか窮地を脱することができそうだ。

 

『……はっ!!』

 

『お帰りなさい、ひとりさん』

 

 目的地に向かって歩き始めた所で、タイミングよくひとりさんが意識を取り戻す。情けないことながら、わたしはひとりさんが戻ってきたことに心の底から安堵の気持ちを噛み締めていた。結束バンドにおいてひとりさんの代わりを担うのは、綱渡りをするような危険行為であることを嫌という程に思い知ってしまったから。

 

『ご、ごめんもう一人の私!承認欲求がぁ……私の中の承認欲求モンスターが、暴れ出しそうで〜!!』

 

『気にしないでください。こういうのはもう慣れっこですから』

 

 実態は慣れないコミュニケーションの連続で真面目に落ち込むような出来事が複数回あった訳だが、ひとりさんの前ではそんな失態を感じさせないように努める。フォローしているわたしが消耗していると知ってしまえば、ひとりさんも気を遣ってしまうだろうから。もちろん、カッコよくて頼り甲斐のある存在で居たいというわたしなりの強がりも、多分に含まれてはいる。

 

『何事もなく、とはいきませんでしたが。なんとか場は繋いでおきましたので、後はお任せしますね』

 

『ありがとう、もう一人の私。私も、もう一人の私を見習ってまた覚悟を決め直さないと……』

 

 決意を新たにしたひとりさんの意識が表に出て、ようやくわたしの定位置である意識の底に帰還を果たす。表に出ていた時間は数十分程度のはずなのに、今までのどんな頼み事よりも疲労を感じている気がした。

 

 それなのにもかかわらず、わたしの気持ちに後悔や無念といったものはあまり存在していなくて。心の内は、不思議な高揚感や充実感で満たされているのだから奇妙なものだ。歌詞で認めたように、憧れの存在に触れた気にでもなって舞い上がってしまっているのだろうか。

 

 そんな度し難い自身の感情を整理する方法がわからなくて、わたしは内心でまた一つ大きなため息を吐き誤魔化すことしか出来なかった。

 

 

 ◇

 

 

「じゃ、今日はありがとね。かいさーん!!」

 

 その後ひとりさんが表に出てからは大きなトラブルもなく、アー写撮影は完了し無事解散する運びとなった。途中ひとりさんのスカートの中がちらりと写り込んでしまって、わたしだけが少々恥ずかしい思いをすることになったのもご愛嬌だろう。でも、さすがにひとりさんはそっち方面に対してドライ過ぎるような気がしてちょっとだけ心配だ。

 

「私がこんなに青春溢れる写真を撮れる日が来るなんて……か、家宝にしないと!」

 

『帰ったら、プリントして部屋に飾りましょうか』

 

 ベンチに座り、虹夏さんから送ってもらったアー写の完成品を眺めてひとりさんは珍しくも顔を綻ばせている。全員で手を繋いで、ジャンプをしたその瞬間を収めたその一枚は贔屓目バリバリではあるけど、素晴らしく絵になっていた。ひとりさんの言う通り宝物として相応しい。丁重に飾るためにも、フォトフレームを後で用意してあげようと思う。

 

『そういえば出来上がった歌詞、見せなくてよかったのですか?』

 

 既に解散をしてしまった以上、もはや手遅れ。しかし、こうして四人で集まる機会こそ歌詞を見せる絶好の場だったはず。単純に忘れていたのかはたまた見せたくない理由があるのか、気になったのでひとりさんにそう問いかける。

 

「うっ、それは……がっかりされたり、気を遣われて励まされたりした時のことを考えると気が重くて……」

 

『気持ちはわかりますけど、後回しにすればするほどハードルが上がっていくのでは……?』

 

「首を絞めてしまっている!?……ど、どうしよう」

 

 最近の成長が目覚ましいとはいえ、こうしたひとりさんの引っ込み思案な面はまだまだ健在。放っておけばいくらでも後回しにしそうな気配すら覗いているので、ここは一つわたしが後押しをしてあげるべきだろう。

 

『まずは誰か一人だけに見せてみるのはどうでしょうか?精神的な負担は幾分か軽くなるかと思いますし』

 

「それだっ!もう一人の私、ナイスアイデア。でもそうなると……まずは誰に見せるべきなんだろう?」

 

『わたしはリョウさんが良いと思います。作詞作曲という関係ですし、何より忌憚のない意見を貰えそうですから』

 

 真っ先に歌詞を見せるべき人間として、わたしの頭に即座に思い浮かんだのはリョウさんの顔だった。ひとりさんに語った理由はもちろんとして、やはり思い返してしまうのは教本を見ていた時のあの表情だ。リョウさんは音楽に対しては誰よりも真摯に向き合ってくれそうという、不思議な信頼感がわたしの中に芽生えていた。

 

「そうしよっかな、リョウさん気とか遣わなそうだし。まずは連絡して……ひあっ、へ、返信が速い!?」

 

 ひとりさんが歌詞を見せたいとロインを送ると、リョウさんらしい簡潔さとスピード感で返信が返される。リョウさんは現在地から徒歩数分程度の飲食店に居るらしく、合流するために早速下北沢の街並みへとわたし達は歩き出すことにした。

 

 

「うっ、おしゃれカフェ……」

 

 リョウさんに指定された場所まで辿り着くと、そこで待ち受けていたのは新装開店したばかりの上品な雰囲気を感じるカフェだった。祝開店と来客歓迎ムードで溢れているのに、後退りをしているあたりにどれだけひとりさんが尻込みしているのかが表現されていた。

 

「こ、こんな店に私が入ったら摘み出されるんじゃ……」

 

『ひとりさん、世の飲食店はそんな怖い場所じゃないですから』

 

 入り口を前にしてガタガタと震え出しているひとりさんを安心させるために、優しく声をかける。ドレスコードが存在したり、一見さんお断りといったカフェなんて今の日本にはまず存在していないだろう。ひとりさんのおしゃれカフェに対する心象が物騒過ぎる。

 

「でっでも、どうやって入ったら……あっ、ドラマみたいにヘイ大将やってるーみたいな感じ……?」

 

『何も特別なことはせずに、普通に入店して大丈夫ですよ。そんなに広いお店ではないですし、すぐリョウさんも気付いてくれるでしょうから』

 

 そんな奇天烈な入店をしたらしたでリョウさんは喜んでくれる可能性もあるが、それはひとりさんの黒歴史という代償を払ってまで得るものでもない。ひとりさんの今後のバンド活動のためにも、外食に対するトラウマは回避しておくに越したことはないだろう。

 

「し、失礼しましゅ……」

 

「ぼっち、こっちこっち」

 

「あっ、はい!」

 

 小さな声でぽそりと挨拶し入店するひとりさん。窓際の席に座っていたリョウさんがすぐにこちらに気付いて、手招きしてくれる。そのお陰で、ひとりさんは特に店員とやり取りをすることもなくリョウさんの隣に腰を落ち着けることができていた。

 

 隣にひとりさんが座ってもリョウさんは特に大きな反応をするでもなく、注文していたカレーを再び食べ進めていく。窓際に一人佇んで、カレーを黙々とスプーンで口に運ぶ。そんな何気ない所作すら格好付いてしまうのだから、つい目に焼き付いてしまう。喜多さんがあれだけ熱を入れるのも、少しだけ分かってしまうような気がした。

 

『気まずい……何か気の利いた話とか私から振った方がいいのかな。で、でも私の振れる話題なんて天気とギターのことくらいしかないし……』

 

『リョウさん相手ですから。まどろっこしい話は抜きで、直接本題でわたしはいいと思いますよ?……なんでしたら、ひとりさんも何か注文してみるのも良いでしょうし』

 

『あっいや、今店員さん忙しそうだし迷惑になりそうだからちょっと……』

 

『一応、ひとりさんから注文を取るのも店員さんの仕事ですよ?』

 

 なんともひとりさんらしい気の使い方に、内心で少しだけ笑ってしまう。そういえば、ひとりさんがタッチパネルの店以外で注文しているのを見たことがないかもしれない。店員さんの迷惑にならないように、それもひとりさんなりの優しさの発露だと思うと微笑ましかった。

 

「ご馳走様でした」

 

 そんなやり取りをひとりさんとしていると、リョウさんの食事がいつの間にか終了していた。手の空いた絶好のタイミング、歌詞の話を切り出すのならまさに今しかないだろう。

 

『ひとりさん、今です。勢いのままに、リョウさんに歌詞を見てもらいましょう』

 

「あっあの、リョウさん!か、歌詞を書いてきましたので、もし良かったら目を通していただけたらと……お願いします!」

 

「うむ、拝読いたす」

 

 ひとりさんは中身も確認せずにトートバッグの中から一冊のノートを引っ張り出すと、まるで賞状でも贈与するかのようなポーズでリョウさんにそれを差し出す。貫禄たっぷりにノートを受け取ったリョウさんは、ページをペラペラと捲り一番後ろまで到達したところでようやく歌詞を見つけたようで。その瞬間から、脇目も振らずにただ歌詞に没頭し始めた。

 

 先程とは別種の、どこか重苦しい沈黙がこの場に流れる。

 

『……やっぱり、私なんかの書いた歌詞じゃリョウさんの期待に沿えないんじゃ』

 

『感想の一つも聞いてないのですし、悲観するにはまだ早いと思いますけど……』

 

 沈黙に耐えかねたひとりさんがぽつりと弱音を溢す。励ましの言葉をかけるけど、ひとりさんがそう言いたくなる気持ちも理解できる。リョウさんの端正な横顔の眉間に、確かな皺が寄っていた。いつもクールで、滅多なことでは表情を変えることがないリョウさんが、理解に苦しんでいるかのように僅かにでも顔を歪めている。こんな表情を見てしまえば、ひとりさんでなくとも不安になって当たり前だ。

 

 リョウさんはわたし達を一瞥することもなくただノートの内容を、食い入るように見つめていて。その様子はまるで、深淵でも覗き込んでしまっているかのような異常な集中力だった。ひとりさんが書いてきたのは、良くも悪くもある程度無難な歌詞だったはずだ。それがどうして、リョウさんをここまで鬼気迫る様相に上り詰めさせているのかが、わたしにはさっぱりわからない。

 

 いや待て、ちょっとおかしくないだろうか。リョウさんが今破れてしまうんじゃないかと疑うくらいに熱心に見ているノートのページは、完璧に最後のページだ。ひとりさんが歌詞を書いていたのは、あんな場所だっただろうか。

 

 そんな筈はない。ひとりさんは歌詞を書くためにノートを新調していたのだから、自然にその最初のページに書き込んでいた筈だ。ひとりさんは中身を確認しないでノートを取り出したから、きっと間違って別のノートを渡してしまったのだろう。じゃあ、今リョウさんが手にしているノートとそこに書かれてしまっている歌詞の正体とはなんなのか。

 

 それは、わたしが移動時間にいつも活用している勉強用のノート。そして、その最後のページに書かれている歌詞は『星座になれたら』に違いなかった。

 

『ひとりさん!ノート、ノートを間違えてしまっています!?』

 

『どういうこと、もう一人の私?』

 

 どうして今日までわたしのノートを持ってきてしまったんだとか、そもそもあんな歌詞はすぐに捨てるべきだったんだと、今更過ぎる後悔が無限に沸いてくるが今はそんなことに構ってられない。とにかくこの現状をひとりさんに説明し、あの歌詞は間違いだったのだとリョウさんを説得する義務がわたしには課せられていた。

 

『今リョウさんの見ているノートはわたしのもので、気まぐれに歌詞も書かれてしまっていて……とにかく間違いなんです!』

 

『う、嘘っ!?で、でも今更どどどどどうすれば……!?』

 

「ぼっち」

 

「ぴ、はいぃぃっ!?」

 

 しかし、わたしには弁解して策を弄するような時間も残されていなかったようである。歌詞の内容を吟味し終えたリョウさんがこちらに向き直り、その口から何らかの感想を告げようとしていた。

 

 落ち着こう、わたし。見られてしまったものはどうにもならない。だから、リョウさんがたとえ今どんな感想を言おうとも、その後にやる対応なんてものは一つだけだ。わたしの醜いエゴが結束バンドの曲として世に放たれるなんてあってはならないのだから、間違いだったと懇切丁寧に釈明するしかない。ひとりさんと一時的に代わってでも、その責任をわたしが取ろう。

 

「この歌詞は、本当にぼっちが書いたの?」

 

「……え」

 

 そんなわたしの甘い考えは、リョウさんの発した第一声により呆気なく打ち砕かれていた。

 

 どうして、そんなことが分かってしまうのだろう。その質問はわたし達の核心をあまりに突き過ぎていて、まるで心臓を鷲掴みにされているような苦しい感覚に襲われる。頭の中は一瞬で真っ白になり、ひとりさんにかけるべき言葉すらも見失ってしまい、ただ茫然とリョウさんの顔を見つめ返すことしか出来ずにいた。

 

「ごめん、言い方が悪かった。別にぼっちが自分で歌詞を書いてこなかったとか、そんなことを疑っている訳じゃないんだ」

 

「は、はい……」

 

 リョウさんもまた、涼しい顔をしているが冷静そのものではないのかもしれない。ひとりさんの困惑の表情を見ては、食い気味に発言の訂正をしていた。わたしもほんの少しだけ、その一言にほっとした。わたしのせいでひとりさんの努力が疑われたとあっては、もはやどんな方法で詫びても自分を許せなくなってしまうだろうから。

 

「この歌詞から感じるイメージがぼっち……いや、私のよく知るぼっちと一致しなくて。だから、これが本心からぼっちが書きたかった歌詞なのかなって、気になった」

 

「それは……」

 

 虹夏さんにノリで喋っていることが殆どとまで称されたリョウさんが、慎重に言葉を選びながら喋っている姿は新鮮だった。リョウさんがそれだけひとりさんのことを日々理解してくれていて、だからこそ生じている違和感を咀嚼しようとしているその証拠。別の形で見られていたならば、素直に喜ぶこともできたのかもしれない。

 

「本心から書きたかった歌詞かと言われれば、違うと思います……」

 

「そっか」

 

 ひとりさんはわたしの書いた歌詞の内容を知らないけれど、本来見せようとしていた歌詞も若干無理をして書いたものだったから。ひとりさん個人としても図星を突かれた形になるのか、俯くようにしながら頷いていた。

 

 その返事を聞いたリョウさんは、どこか安心したような表情を浮かべていて。一体何に対しての安堵なのだろうか、星を冠したわたしの歌詞に込められた意味が明るいものばかりではないことに気付いているのかもしれない。だとしたら、本心ではないと聞いて安心してしまうのも当たり前のこと。わたしの内面の歪さは、ひとりさんに不釣り合いなものだから。

 

 なんにせよ、話の流れ的にリョウさんがわたしの歌詞を気に入ったり採用しようとしている素振りはない。ならば、このまま二人に話を任せていた方がきっとスムーズに事は進んでいくだろう。わたしが今表に出ては、リョウさんのその目に見透かされてしまいそうで恐ろしかった。

 

「言ったっけ、私昔は別のバンドに居たんだ」

 

「えっ、あっはい。喜多さんから薄っすらとだけ聞いたことが……」

 

 リョウさんは突然に、ひとりさんに対して自分語りを始めていた。他人の心に踏み入るのなら、まずは自分の心を曝け出してから歩み寄る。ひとりさんが喜多さんに対して行ったコミュニケーションと同じ、倣うようにしてリョウさんがそれを実践していた。

 

 バンドの青臭いけど真っ直ぐな歌詞が好きだったこと。いつしか歌詞が売れるためだけのものに変化していって、それに嫌気が差してバンドを辞めたこと。辞める時に揉めたこと。バンドそのものが嫌になっていた頃に、虹夏さんに救われて結束バンドを始めたこと。リョウさんらしくもなく饒舌に、本心のその一端を赤裸々に語ってくれていた。間違いなく、ひとりさんのために。

 

 CDショップの件すらも、違わずリョウさんの本心であることを知ってしまった。好きだった居場所が形を変えていって、いつしかなくなってしまうことへの恐怖。その感情をあの時、わたしとリョウさんは少しだけ共有できていたのかも知れない。その相手がひとりさんではなくわたしだったことが、ただただ申し訳なかった。

 

「個性捨てたら、死んでるのと一緒だよ」

 

「リョウさん……」

 

 最後に、リョウさんはそう締めくくり自身の過去を語り終える。その言葉はバンドとしての在り方だけでなく、わたしの心にも深く刺さり込んでいた。わたしがわたしらしく居られるのは、ひとりさんとふたりの前でだけだ。ひとりさんの心の内だけがわたしの生きられる場所であり、それ以外ではわたしは死人で存在していない。

 

 それでいい。ひとりさんがその個性を発揮して生きるために、わたしが居なくなるのは自然なことだ。だから、リョウさんはそれ以上わたしの生きた痕跡に触れないで、目の前のひとりさんだけを見ていて欲しかった。

 

「だからぼっちも、本心から書きたい歌詞を書いてよ。ありのままの、心の底からのぼっちの叫びを」

 

「で、でも、私の本心なんて暗くってどうしようもない部分ばっかりですし……」

 

 ひとりさんの好きなように歌詞を書いて欲しい。どうしてもわたしが言えなかったそれを、真っ直ぐにリョウさんはぶつけてくれていた。ひとりさんと結束バンド、双方のために。音楽に対しては誰よりも真摯な頼れる先輩、そんなわたしの見立ては間違いではなく、今まさにひとりさんを教え導いてくれている。

 

「大丈夫。暗くてどうしようもなくて、でも人の心の弱さに寄り添ってあげられるぼっちの叫びは、ちゃんと郁代に届いたんだから。……私にも、響いたよ。だから聞かせて欲しいんだ、ぼっちの心からの歌を」

 

 それは思わず泣き出しそうになってしまうくらいに、ひとりさんの在り方を認め肯定してくれる言葉だった。ひとりさんの弱さや強さ、積み重ねてきた経験を知り受け入れた上で、リョウさんは良い歌詞を書いてくれるのだと信じてくれている。わたし以上にその信頼は、ひとりさんの心に深く響いている筈だった。

 

 リョウさんはただ、ひとりさんの歌詞を見るのを楽しみにしていたのかもしれない。そんな所に、わたしの歌詞が飛んできたものだからリョウさんだって混乱するに決まっていた。

 

「あっ、リョウさん……私、その、頑張ります!これが私ですって胸を張れるような歌詞を、書いてきますから!」

 

「うん、楽しみにしてるよ」

 

 それでも、こうしてひとりさんが自分らしい歌詞を書く決断をして、二人の仲が深まるきっかけになれたことを思えばギリギリ自分を許せるような気がした。リョウさんが今日見せてくれた気遣い、その優しさと音楽への真摯さをわたしは生涯忘れることはないだろう。

 

 ひとりさんとふたり以外には誰にも自慢できやしないけど、わたしにはとても尊敬できるとびきりカッコイイ先輩がいるのだと、誇らしい気持ちで満たされていた。

 

「後もう一つ……こっちの歌詞についてなんだけど」

 

「あっはい」

 

 このまま解散という流れを望んでいたのだけど、リョウさんがわたしのノートを再び持ち出したことで心臓の鼓動が跳ね上がる。それはもう捨て置いて欲しい、肯定だろうと否定だろうと、わたしの隠したかった感情への批評なんて聞きたくない。出来もしないのに、激しく耳を塞ぎたくなる衝動に駆られた。

 

「本心でないのなら……ぼっちにとってこの歌詞は、なんなんだろう?」

 

 リョウさんが発したのは良し悪しの感想などではなく、純粋な疑問故のものだった。その答えをひとりさんは知らない。わたしが如何に鬱屈とした願望をそのノートに書いてみせたのかわからないのだから、答えられるはずがない。

 

「あっ、はっきりとは言えないんですけど……絶対、大切なものです。それだけは、間違いないんです」

 

「ありがとう、参考になった」

 

 なのにどうしてか、ひとりさんは迷うそぶりすら見せずにそう言い切ってしまっていた。実際そうなのかもしれない、わたしの浅はかな願望を吐き出した所でひとりさんはそれすら包み込んで、わたしを好いたまま一緒に歩もうとしてくれる可能性もあるのかもしれない。

 

 都合の良過ぎる妄想を振り払い、緩みかけた自分の禁忌の箱に蓋をする。誰にも言わないはずだったわたしの孤独、それを知られたことでひとりさんとの関係に歪な線を走らせる愚を犯すわけにはいかない。わたしにはひとりさんの人生を守る義務がある、優先順位を間違えてはいけないんだ。

 

「この歌詞、貰ってもいい?私もまだ解釈が追いついてない部分があるから」

 

『もう一人の私、リョウさんにあげちゃっても大丈夫……?』

 

『え、ええ、もちろんです。ただの気まぐれで書いたような歌詞ですから』

 

「あっはい、是非……リョウさんが持っててくれたらと」

 

「ありがとう。そろそろ出よっか」

 

 リョウさんがわたしの歌詞を書いたページだけを切り離した後に、ひとりさんにノートを返却して立ち上がる。そのまま返却されて、ひとりさんが歌詞を見てしまうのが一番危険だったので願ってもない話である。リョウさんの手元で願わくば、二度と他の人の目に触れぬように葬って欲しいものである。

 

 リョウさんは席を立つと、淀みのない足取りで出口のドアに手をかけていた。あろうことか、会計のレジを通り過ぎながら。

 

「えっあのリョウさん、お会計……」

 

「ごめん、今お金ないから奢って」

 

 慌てて引き止めるひとりさんに対して、リョウさんはさっきまで頼り甲斐すら感じた表情そのままに、とんでもなく恥知らずな申し出を口走っていた。

 

 いくら目を疑ったところで後輩にお金を無心する最低な先輩バンドマンの姿しか、そこにはない。そもそもお金がない状態でどうして喫茶店に入ろうなどと思えたのだろうか。ひとりさんがもし連絡しなかったのならば、虹夏さんでも呼んで会計を済ませるつもりだったのか。本当にこう、どうしてこの人は立派な姿を見せた側から、だらしない面でそれを台無しにしないと気が済まないのだろうか。

 

「で、でも、リョウさんがここに誘ったんじゃ?」

 

「最近お腹減ってて限界で。……それにこの店オープンしたばかりでどうしても食べたくて。お願い、奢って」

 

 先程までの感動も何処へやら。リョウさんのだらしなさを直視してドン引きしてしまっているひとりさんに、追い討ちをかけるようにリョウさんは懇願を続けている。

 

 認識を改めよう。確かにリョウさんはカッコ良くて音楽に真摯な、尊敬すべき先輩であることに間違いはない。それと同時に、仕事をサボりがちでマイペースでお金にすらだらしない、ほんっとうにしょうがない人なのだと。数分前とのギャップが激しすぎて、頭がおかしくなりそうだった。

 

『ひとりさん、代わってください』

 

『えっ、良いけど……だ、大丈夫?』

 

『ひとりさんとリョウさんの間に借金なんてさせるわけにはいきません!ここはわたしが間に入らさせていただきます!』

 

『いつになくもう一人の私が必死だ……っ!?』

 

 金の切れ目が縁の切れ目ともいう。少額ではあれども、金のいざこざで人間関係が拗れるなんて事例はいくらでもあるのだ。特に、引っ込み思案のひとりさんが先輩であるリョウさんからきちんとお金を取り立てられるとは思えない。二人のこれからの良好な関係のためにも、わたしが代わりにお金を貸す形にした方がいいに決まっている。

 

 わたしの理想の先輩像と情緒をめちゃくちゃにしてくれたリョウさんを恨めしく思いながら、緊急時に使うわたしの財布を取り出してリョウさんのカレーの会計を行う羽目になるのだった。

 

 

 ◇

 

 

「本当にごめん、来月返します」

 

「来月必ず、ですからね……本当に、よろしくお願いしますよ」

 

 喫茶店を出た先で、わたしの目の前にリョウさんが立ち申し訳なさそうに眉を下げている。わたし自身の意志でリョウさんの目前に立つというあり得なかった状況が、お金のだらしなさで再現されているのだから風情も何もあったものではない。

 

 殊勝な態度を見る限り、踏み倒したりするつもりはなさそうに見えるのが唯一の救いだろうか。わたしとひとりさんの理想の先輩像のためにも、どうかその一線だけは越えないで欲しいと願うばかりだ。

 

「私は置いて行かないから」

 

「え……?」

 

「じゃあまたね、ひとり」

 

「は、はい。……また、会いましょう」

 

 わたしの失言に対する、時間をたっぷりと空けた突然の励まし。呆気に取られている内に、リョウさんはどうしてかひとりさんをファーストネームで意味ありげに呼んで見せていて。借金を回収するのだからまた会う、そんな思考から言えないでいたまたねという約束すらも、気付けばわたしは口走ってしまっていた。

 

 リョウさんは一体、あんな少ないわたしの生きた断片を見ただけでどれほどの事実に気付いたのだろう。気が緩んでいたところに一気に畳み掛けられたせいで取り繕うことも、どういうつもりだと引き止めることすらもできなかった。既に、リョウさんの姿は夕暮れの雑踏に消えてしまっている。

 

 もしかしたら、わたしの核心にまで触れられているかも知れないのに。別に問題ないんじゃないかと、そんな楽観的な思考に包まれてしまっているのが、あの人は本当にずるい人だと思う。

 

『帰りましょうか、ひとりさん』

 

『う、うん。リョウさん、凄い人だったね……良い部分、悪い部分引っくるめて』

 

『本当に、しょうがない人です』

 

 まともな時とダメな時のギャップが酷過ぎる。その極端にも過ぎる人間関係へのバランス感覚のせいで、どうにも壁を作れなくて気付けばこの状態だ。あのお金にだらしない素振りを見せたのだって、その後の前振りのために敢えてやったんじゃないかと疑ってしまうのはわたしの考え過ぎだろうか。

 

 止めよう、他ならぬあの虹夏さんが言っていたのだ。あまりリョウさんの言うことを真に受けて振り回されるなと。ひとりさんの頼れる先輩で仕方のない人、それくらいの雑な認識でいた方が気楽だ。

 

『でも、リョウさんのことを沢山知れて嬉しかったな……私、歌詞を頑張って書いてみる。リョウさんに、これが私ですって伝えて認めてもらえるように!』

 

 結束バンドの中では独特な距離感があったひとりさんとリョウさんの仲も、今日という日を経て深まったのは喜ばしいことだ。リョウさんの心強い後押しを受けて、ひとりさんの作る歌詞がどんな仕上がりになるのかわたしも楽しみにしている。

 

『だから、もう一人の私も手伝って欲しいんだ』

 

『わたしが手伝うと、ひとりさんらしい歌詞にならなくなってしまうのでは?』

 

『ううん、そんなことない。私を一番知ってくれているのはもう一人の私だから。あと、もう一人の私が居てくれないと、自分を保てる気がしないし……』

 

 他でもないひとりさんがそう言ってくれるのならば、わたしにも信じられるような気がした。わたしとひとりさんの個性が混ざり合っても、お互いの輝きを損なわずに、色とりどりの光を放てるようになれるのだと。

 

『では、今日から一緒に作詞を頑張りましょうか。もちろん、夜更かしし過ぎないよう程々に、ですけどね』

 

『うん!』

 

 今日からの夜は、忙しくなりそうだった。空を見上げると、日没を迎えている空に一番星が姿を覗かせている。未だにその存在とは距離が離れ過ぎていて、手に届くような気はしないけれど。ほんの少しだけ、近づけているような気もするのだ。

 




かなり難産でした。今回も投稿までかなり時間がかかってしまい申し訳ないです。ここからお話もどんどん動いていきますので、是非これからも応援していただけると幸いです。


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素直になるべき人

 皆さん、長い間お待たせしました。弁明は後書にでもつらつら書いておくので、まずは今回のお話を楽しんでいただければ幸いです。


 

 アー写撮影を行った日から数日後、迷いを振り切ったひとりさんとわたしは協力し、程なくして一つの歌詞を完成させた。その曲名は『ギターと孤独と蒼い惑星』。ひとりさんも星というワードに着目して作詞を行ったことが、何処か通じ合えているようで嬉しくもあった。

 

 ひとりさん本人が語っていたように、その歌詞の内容ははっきり言ってほの暗い仕上がりだ。理解できない世の中、理解されたいのにその手段も方法も分からない自分自身。やり場のない承認欲求、そのための手段から情熱へと変わっていったギターと過ごし続けたその日々。確かに暗いけど、ひとりさんらしい優しさと直向きさに溢れていて、結束バンドの初楽曲としてこれ以上ない仕上がりになったとわたしは思うのだ。

 

 結束バンドのメンバーの皆も、そんなひとりさんの歌詞を認めて褒め称えてくれた。特に、今回の歌詞を完成させるきっかけとなってくれたリョウさんが『これでこそ、ぼっちだね……少ないかもしれないけど、誰かに深く刺さるんじゃないかな』と、かつてと同じ満足げな微笑みで肯定してくれたのが印象的だった。

 

 リョウさんの言葉の通り、ひとりさんの在り方と切実なその叫びはきっと誰かの心に響き染み渡るのだろう。少なくとも、わたしには深く刺さったから。まるで、ひとりさんが気付かれてはいけないわたしの存在を、ここにいると叫んでくれているかのようで。まぁ、流石にその解釈はわたしの都合の良過ぎる妄想に過ぎないのかも知れないけど。

 

 とにかく、そういう訳でオリジナルソングの歌詞も無事完成し、結束バンドの活動は順調そのもの。ここにリョウさんの曲が付けば、後は次のライブに向けて前進あるのみだ。

 

「えー、諸君。お待ちかねの給料だぞ」

 

「やったー!!」

 

「……やった」

 

 本日もSTARRYに集まってミーティングをしていた結束バンドの皆に向けて、いくつかの封筒を携えた星歌さんが得意げな顔でそう語りかける。今日は月末ということで、STARRYでも給料日ということらしい。そんな朗報に、ひとりさんも含めて誰もが喜び色めいていた。

 

 労働と社会を一際恐れ、避け続けていたひとりさんがこうして無事に給料日を迎えている。それは一ヶ月以上もひとりさんが困難に立ち向かい逃げずに頑張り続けた証拠であり、あまりにも感慨深いものがある。気を緩めれば、感極まってしまいそうなくらい誇らしい気持ちでわたしはいっぱいだった。

 

「はい、ぼっちちゃんの分」

 

「あ、ありがとうございます……」

 

 虹夏さんから順番に封筒を渡されていき、最後にひとりさんが星歌さんから恭しく封筒を受け取る。思えばわたしも含めて給料を渡されるというのは初めての経験で、お札が数枚だけしか入っていないその封筒は不思議とどこか重いように感じられた。

 

「家遠いのにたくさんシフト入ってくれて助かるよ。来月からもよろしく」

 

「あっ、えっ、はい……ら、来月も頑張らせていただきます!!」

 

『へ、えへへ……店長さんから褒められちゃった』

 

『わたしから見ても、この一ヶ月間本当に頑張っていたと思います……偉いですよ、ひとりさん』

 

『もう一人の私が居てくれたからこそ、だよ。……よし、来月からも頑張るぞ〜』

 

 星歌さんがひとりさんの頑張りを褒めてくれたこと、そしてわたしの存在をいつだってポジティブに捉えてくれるひとりさんの心遣いに胸が熱くなる。シフトを積極的に入れて、シフトに穴が空いた時には代役を買って出たこともあるほどにひとりさんは本当に頑張っている。

 

 ライブのノルマの為、と片付けるには頑張りすぎているくらいで。バイトなんて絶対に無理だとまで言っていたひとりさんが、どうしてそこまでしているのかという理由をわたしは尋ねられずにいる。それは、もしもわたしの為という答えが返ってきたら、どうして良いかわからないからなのかもしれない。

 

『に、二万円……私の汗と涙の結晶!』

 

『よかったですね、ひとりさん』

 

『うんうん!』

 

 席に戻りひとりさんが封筒からお札を取り出すと、姿を覗かせたのは諭吉さんがきっかり二枚。誇張抜きに、ひとりさんが汗水垂らし時には涙を流しながら手に入れたお賃金だ。この喜びようも、頷けるというものだろう。

 

『何に使おう?新しいスコア、漫画大人買い……あっ、ふたりにプレゼントとか、お母さん達にケーキを買って驚かせるのもいいかも』

 

 初めての給料を目の前にして、ひとりさんはその使い道に夢を膨らませている。その使い道すらも、ひとりさんらしい優しさに溢れていて微笑ましい気持ちになる。

 

 しかし、悲しいかな。ひとりさんは忘れているようだけど、このバイト代の幾らかはバンドのノルマ代として徴収されることになる。そんな事実を覚えてしまっているとはいえ、喜びに浸るひとりさんに水を差したくはなく、わたしは内心で苦笑いを浮かべる他なかった。

 

「じゃあ折角のところ悪いんだけど、ライブ代徴収するね!」

 

「……聞いてください。新曲、さよなら諭吉」

 

「ごめんねー……あたしだって心苦しいんだよ〜!」

 

 リーダーである虹夏さんから伝えられた通告に、ひとりさんは絶望の表情を浮かべながら徐にギターを構えて弦を爪弾いている。そんな絶望の旋律も虚しく、気まずそうな虹夏さんの手によってひとりさんの封筒から一万円があえなく徴収されることになった。

 

 なかなか気の毒になる光景だけど、こんな光景もバンドをやっていくのならばきっと日常茶飯事。インディーズでバンドをやるって大変だと、わたしも身に染みる思いである。

 

『でも仕方ないよね、元々このためのバイトなんだし……まぁ毎月ここでバイト頑張れば結束バンドが活動できるんだし、これでいっか』

 

『ですね。それに、まだ一万円は残るのですから。使い方だってよりどりみどりかと』

 

『えっ、でもこの一万円はもう一人の私の分だから……』

 

『はい?』

 

 さも当然とばかりに、残りの給料をわたしに差し出そうとしているひとりさんに思わず耳を疑ってしまう。お小遣いやお年玉を、なんの疑問もなくわたしに分け与えてしまうような人だということは分かっていた。しかし、給料すらもその範疇に収まっていたことに驚愕を隠せない。

 

 それは、ダメだろう。わたしが表に出てSTARRYで働いたのはほんの一日だけで、その日すら最後は自分の力で仕事をやり遂げたのだ。ずっと努力して勤労に勤しんだのは間違いなくひとりさんであり、その対価を見ていただけのわたしが受け取る権利なんてあるはずもないのだから。

 

『わたしのことは気にしないでください。そのお給料は、ひとりさん自身の頑張りで稼いだ正当な報酬なのですから。気兼ねなく、全てをひとりさんが受け取るべきですよ』

 

『頑張れたのは、もう一人の私のお陰だから。もう一人の私がアドバイスをして応援してくれて、見守ってくれないとナメクジみたいな私にバイトなんて出来るわけなくて……。全然一人で働いてるつもりもなくって……だ、だからもう一人の私にも受け取って欲しいんだ』

 

『ひとりさん……』

 

 ひとりさんの中では、いつだって二人で一緒に働いているという認識だったのかも知れない。口調はいつも通りに控えめだけど、そこからは確固たる意志のようなものが読み取れてしまって。経験則として、こういう時のひとりさんはわたしが何を言っても譲らないのはよく理解している。

 

 心苦しさはあるけれどひとりさんの心意気を無碍にはしたくないし、そもそもわたしの意見よりひとりさんの意見が尊重されて然るべきだ。ただ、この一万円を全額わたしが受け取ってしまうのは問題があるし、ここは折衷案をわたしが用意すべきだろう。

 

『では、この一万円は二人で分け合いましょう。わたしも結束バンドの活動を応援していますから、これくらいはさせてください』

 

『う、うん!……へへ、今回もはんぶんこ、だね』

 

 わたしという人格が生まれた後、初めてひとりさんがお小遣いを貰った日。ひとりさんは何の疑いもなく、わたしにお小遣いを分け与えながらはにかんだように笑っていた。あの日と全く同じ表情を、きっと今のひとりさんもしているのだろう。

 

 ひとりさんは昔と比べると大きく良い方向に変わっていっている。ギターが達者になりバンドを組んで、最近では明るさや積極性なんかも少しずつ覗かせつつある。それでも、ひとりさんがわたしを大切にしてくれている事実は昔から何一つ変わっていなくて。変わらないこともある、そう信じさせてくれるのが何より嬉しく感じられた。

 

「みんなで海の家とかでバイトしちゃう?」

 

「イイですね、海!」

 

 そんな懐かしくも温かな思い出を振り返っていると、虹夏さんと喜多さんが何やら談笑し盛り上がっていた。内容は今後のバンド活動の資金繰りについてだろうか。二人とも根っこから明るい性格をしているし、きっと通じ合う部分も多いのだろう。海の家でのバイトなんてひとりさんは御免被るのだろうが、わたし個人としてちょっぴり楽しそうと思えてしまう。

 

「……」

 

 楽しそうな二人を横目に、視界に映っているリョウさんの方へ注意を向けると、我関せずとばかりに一人佇んでいる。そして、リョウさんの視線は時折じっと窺うようにひとりさんへと向けられていた。

 

 アー写撮影の日を過ぎてからというもの、わたしの自意識過剰でなければリョウさんは今までよりずっとひとりさんを見る機会が増えた気がしている。端正な顔から放たれる鋭利な視線は、まるでひとりさんの奥底にいるわたしを見透かしてしまっているようで。あり得ないとわかってはいるのだが、底知れない居心地の悪さみたいなものをわたしは感じ続けてしまっている。

 

『そっ、そうだ。もう一人の私、今ならリョウさんにお金返して貰えるんじゃ……?』

 

『確かに、絶好の機会と言えるかもしれませんね』

 

 給料日なのだから絶対にリョウさんはお金を持っているはずだし、バレたら怒涛の勢いでリョウさんを叱り付けてしまうであろう虹夏さんも喜多さんとの会話に夢中。リョウさんとの金銭関係に終止符を打つのに、これ以上ないシチュエーションと言えるだろう。

 

『ではひとりさん、少しだけ代わって貰ってもよろしいでしょうか?』

 

『うん、ゆっくりで大丈夫だから……!』

 

 ひとりさんのお言葉に甘えて、身体の主導権を代わってもらう。借金の徴収なんて名目でわたしが表に出ると言うのにひとりさんの声色はどこか嬉しそうで、その真意を少しだけ測りかねてしまう。わたしがちゃんとお金を回収できるか、心配でもしてくれていたのだろうか。

 

「リョウさん、少しよろしいでしょうか?」

 

「どうしたの、ぼっち」

 

「先日貸したお金、返してください」

 

「……なるほど、わかった」

 

 虹夏さんと喜多さんが未だに会話に花を咲かせているところを確認してから、こっそりリョウさんに近付いて話しかける。ひとりさんはゆっくりでいいと気遣ってくれたけど、借金の徴収という悲しい作業に時間をかけたくはない。前振りはなしで、単刀直入に要件だけを伝えることにした。

 

 頷き、ごそごそと懐を漁るリョウさんを見ては正直安堵してしまう。まさかとは思いつつも、平気で借金を踏み倒す可能性をわたしは捨てきれてはいなかったから。これでリョウさんの先輩としての尊厳は守られて、わたしとの歪な関係性も完全に終わりを迎えることだろう。めでたしめでたし、だ。

 

「謹んでお返しいたす」

 

「ありがとうございます……うん?」

 

 リョウさんから小銭をありがたく受け取り、その金額を確認する。内訳は百円玉が三枚に五十円玉が一枚、合計三百五十円。おかしい、リョウさんのあの時の会計はカレーと飲み物代を含めて千円以上は超えていたはず。この金額では明らかに足りていやしなかった。

 

「あのリョウさん、金額が少し……いや、結構足りていないのですが……?」

 

「ごめん。ノルマ代払ったらそれしか残らなかった」

 

「……えぇ」

 

『リョウさん、お金無さすぎる……!?』

 

 リョウさんの口から告げられた世知辛すぎる現実に、思わず呻き声のようなものを発してしまう。失礼なことは承知だが、漏れ出そうになるため息を必死で我慢した結果の不可抗力なのでどうか許して欲しい。今も、気を抜けば頭を抱えてしまいそうだ。悲痛な声をあげているひとりさんは既に、意識の裏で盛大に頭を抱えてしまっているに違いない。

 

「確認ですが、本当にもうこれだけしかお金ないんですか?」

 

「うん。先月あんまりシフト入れてなかったし、楽器のローンがいくつか残っててやり繰りが苦しくて……」

 

 疑うつもりはないけれど、事実確認としてそう問いかければリョウさんからは概ね予想通りの返事をもらうことになった。お金遣いが荒いと虹夏さんから聞いてはいたけど、想像以上だ。普段のクールな表情とは打って変わって弱々しい表情を作って釈明しており、そんな仕草すら様になってしまうのだからけっこうズルい人だと思う。

 

 でも、リョウさんが今ここまで困窮してしまっている原因として、喜多さんの多弦ベースを買い取った事実は大きいはずだ。その事実を言い訳として使わないのはリョウさんなりの先輩としての格好付けであり、優しさなのだろう。そう考えれば、これ以上わたしから何か言うようなことがあるはずもなかった。

 

「……わかりました。では、期限なしの分割払いということにしましょう」

 

「本当にごめん、必ず返します。あれだったら、利子とか付けるけど」

 

「いらないですよ、利子なんて」

 

 別にお金が欲しい訳ではないし、リョウさんとひとりさんの間でお金のやり取りをして欲しくなかったから間に入っただけなのだ。だから、リョウさんに返済の意思が見てとれた時点で催促をする必要性はない。今考慮するべき事柄はそんなことじゃなく、金欠気味なリョウさんの私生活についてだろう。

 

「そんなことより、お金なくて今月リョウさんは大丈夫なんですか?」

 

「えっ……それは、大丈夫。お腹が空いたら、その辺の草でも食べて生きていくから」

 

「それは止めた方が良いんじゃ……この前だって、草を食べてお腹壊してたじゃないですか」

 

「でも、虹夏を頼りすぎると怒られるし」

 

「だったら、わたしを頼ってください。リョウさんがお腹空いてるのでしたら、軽食くらいいくらでも作ってあげますから」

 

 野草を食べて飢えを凌ぐなんて、間違っても女の子のやるべきことではないし健康にだってよくない。わたしの料理の腕は嗜む程度で大したものは作れないけれど、よくわからない野草を口にするくらいならサンドイッチやお菓子の方がリョウさんの身体のためになるはずだ。

 

 大した手間ではないし料理をすることだって嫌いじゃない。そう続けようとしてリョウさんの表情を見ると、呆気にとられたような珍しい表情を浮かべていた。

 

「どうしましたか、リョウさん?」

 

「いや。そんなに心配してくれるんだ、と思って」

 

「そんなの当たり前です。リョウさんはわたしの……」

 

 わたしは一体、何を口走ろうとしているのだろう。ひとりさんの代わりとしてならともかく、自我を剥き出しにした状態でリョウさんを友達と呼べる筋合いなんてわたしは一つも持ち合わせてはいないのに。そんな、分をわきまえない行為を無自覚に行おうとしていた自分に嫌気がさす。

 

 わたしを頼って、なんてどの口が言えたのだろう。そんな軽口の結果で、時間を奪われて負担が増すのは間違いなくひとりさんだというのに。ひとりさんが頼ってくれるのなら、それだけで良かったはずなのに。いつからわたしはここまで欲深くなってしまったのか。

 

「そっか。じゃあ困ったらその時は、ひとりを頼らせて貰おうかな」

 

「……はい」

 

 途中で不自然に言葉を切ったわたしの内心をどれくらい悟ってくれたのか、リョウさんはわたしの肩にそっと手を置いて、穏やかな声でわたしが最も欲していた言葉を告げてくれていた。口角が吊り上がり、笑みを浮かべてしまいそうになるのを必死に堪える。

 

 これ以上は、本当に良くない。リョウさんは少しずつ、ひとりさんが抱えるわたしという存在にきっと気付きつつある。その上で、こうやって適切な距離感で接してくれているのかもしれない。でも、そんなリョウさんの対応にわたしが甘え続けてしまえば、ひとりさんの居場所を狭める結果に繋がってしまいかねないのだ。

 

「リョウ先輩と後藤さん、最近仲良いですよね」

 

「確かにそうかも。作詞担当と作曲担当で通じ合う部分があるんじゃないかな?」

 

「ズルいです、私もリョウ先輩と通じ合いたい!」

 

 気付けば、虹夏さんと喜多さんもこちらを見ながらあれこれと話し合っていて。完全に引き際を見誤ってしまっている。そもそもお金を返して貰った時点でわたしはさっさと引っ込むべきだったのだ。皆の違和感がこれ以上加速していく前に、わたしは退散するとしよう。

 

『ではひとりさん、後はよろしくお願いしますね』

 

『え?……も、もう良いの?』

 

『はい。これ以上は、野暮ですから』

 

『……うん、わかった』

 

 再びひとりさんの意識の裏に引っ込み、ほっと息を吐く。昔はひとりさんに代わって何かをするなんて当たり前のように出来ていたのに、結束バンドのメンバーの前ではどうしても心が掻き乱されるような疲労感を覚えてしまう。その感情の中に名残惜しさが含まれているかもしれないのを、わたしは自分で認める訳にはいかなかった。

 

「ぼっち」

 

「あっ、えっ、は、はい!……なんでしょうか?」

 

「曲、作ってきたんだけど」

 

 入れ替わったばかりの瞬間に話しかけられ、動転するひとりさんに伝えられたリョウさんの発言。それは、結束バンド初のオリジナルソングが完成したという驚きの吉報だった。

 

 

 ◇

 

 

「えっ、かなり良くない?」

 

「はい、とっても!」

 

 リョウさんのスマートフォン、そこから流れる出来上がった『ギターと孤独と蒼い惑星』の音源に四人全員で耳を傾ける。虹夏さんと喜多さんはその出来栄えに早速感動した様子で、少しだけ興奮しながらそれぞれ感想を口にしていた。

 

 わたしは音楽についてはにわかも良いところなので下手なことは言えないけれど、それでも素晴らしい曲だったと素直にそう感じた。ロックバンドらしくカッコいい曲調に仕上がっていて、アマチュア感を感じさせない綿密な構成。これをひとりさんの歌詞を見てからの数日で作ったというのだから、リョウさんの手腕には驚かされるばかりだ。

 

『……リョウさん、すごい』

 

『ライブ、楽しみになってきましたか?』

 

『う、うん。自信はあんまりないけど私、ステージの上でこの曲をみんなと弾いてみたい』

 

 作詞を担当したひとりさんも一際感動しているみたいで、リョウさんの作ってきた曲に聴き入っているようだった。ひとりさんにとっては大きな挑戦であり重圧に違いないライブについても、不安より期待が上回ったみたいで良いモチベーションに繋がっている。

 

 かくいうわたしも今からライブの日が楽しみになってきてしまっている。リョウさんの作った曲にひとりさんの歌詞が載せられ、喜多さんがそれを歌う。そして、全員の演奏をリーダーの虹夏さんが纏め上げる。それはとても素晴らしい光景であろうことが、容易に想像できるから。

 

「ぼっちの書いた歌詞見てたら、浮かんできた」

 

「やったじゃーん、頑張った甲斐あったね!」

 

「褒めて遣わす、よしよし」

 

 猫を可愛がるかのようにリョウさんはひとりさんの顎を撫で摩り、唐突に舞い込んだ厚遇にひとりさんはご満悦だ。包み隠さずいうならば、リョウさんが少しだけ羨ましい。

 

 わたしもひとりさんを褒める時にこうやって、頭を撫でてあげたり、抱きしめたりできたらどれほど良かっただろうと何度思ったことか。そういった衝動を持て余しすぎて、ふたりに対するスキンシップが過剰になっているのは少しだけお姉ちゃんとして恥ずかしいのかもしれない。

 

「せ、先輩、私も頑張ってるんですよ!ほら、こんなに弾けるようになりました!」

 

「すごい」

 

「凄いですか!?じゃあ、私にもよしよしくださ〜い」

 

「あたしの夢、叶っちゃうかもな」

 

 ひとりさんに対抗して喜多さんがリョウさんと戯れ合う中、虹夏さんがぽつりと小さく呟く。それはさりげないながらも万感の想いが込められているようで、わたしの耳に印象的に残ってしまっていた。

 

『もう一人の私、虹夏ちゃんの夢って……?』

 

『わたしも聞いたことはありますが、その内容までは定かじゃないですね』

 

『売れて武道館ライブ、とかかなぁ……』

 

 あり得ないことではないのかもしれない。これは勝手な印象になってしまうけれど、いつだって虹夏さんはバンドのために一生懸命だから。その夢も大きく尊いものなのだろうと、わたしは半ば確信のようなものを抱いていた。

 

「うし、来月ライブ出来るようお姉ちゃんに頼んでくるね!」

 

「え、まだ言ってなかったんですか?」

 

 意気揚々と立ち上がる虹夏さんに、わたしも喜多さんと同じ疑問を抱いていた。ライブに出る、というのは果たしてそうも簡単に一言で済むものなのだろうかと。オーディションだとか音源審査だとか、いくつかの手続きを踏まえてようやくライブに出られるようなイメージがあったから。

 

 まぁ、ライブハウスの店長である星歌さんが身内だからその辺りが緩いのかもしれない。ひとりさんも気になっているのか、いつもの定位置に座り仕事を進めている星歌さんに視線が向けられていた。

 

「大丈夫!この前もすぐ出させてくれたもん。ね、お姉ちゃん?」

 

「は?出す気ないけど」

 

「え?」

 

 自信満々に、どこか甘えるように喋りかけた虹夏さんに対する星歌さんの返答は、あまりにも冷たい否定の言葉だった。先程まで和気藹々とした空気を醸し出していたSTARRYの一室が、唐突に張り詰めた緊張に晒されている。普段通りなのは星歌さんと、その傍でスマホを弄っているPAさんだけだった。

 

「え、なんで?オリジナル曲もできたのに……」

 

「それはこっちに関係ない」

 

『ど、どうしようもう一人の私。な、なんだか空気が、ヤバい……』

 

『ひとりさん、まずは落ち着いて話を聞いてみましょう。星歌さんだって、意地悪を言っている訳ではないでしょうから』

 

『う、うん……』

 

 尋常ではない空気にひとりさんが身を縮こまらせている。昔からひとりさんはこういう、ピリついたような空気が苦手だった。こういう状況は今までなら、わたしが代わりに場を宥めていたのだけど今はその手段は使えない。わたしにできるのは、こうして少しでもひとりさんの不安を軽減してあげることくらいだ。

 

「あっ、集客できなかった時のノルマなら払えるよ?」

 

「お金の問題じゃなくて、実力の問題」

 

「この前は出してくれたじゃん」

 

「あれは思い出作りのために特別にな」

 

 それは明らかな星歌さんの嘘だとわたしには感じられた。だって、初めてのバイトの日にひとりさんは星歌さんからアドバイスを貰っているから。本当に思い出作りのためだけに場所を設けてやったバンド相手なら、次を想定した助言なんてするはずがないのだから。

 

「思い出作りって……」

 

「普段はデモ音源審査とかオーディションしてんの、知ってんだろ」

 

「そう、だけど」

 

「悪いけど、五月のライブみたいなクオリティーなら出せないから」

 

 出せない、と再び直接的な発言を聞いたことで虹夏さんの表情が一層曇る。ここまで聞いて、わたしはようやく星歌さんの言わんとする意図を察することができたような気がした。つまり、ライブに出れて当たり前という考えは止めろということなのだろう。

 

 基準に満たないようなバンドを出すメリットはライブハウスにはない。今後のためにも、ライブに出たいのならオーディションに出て実力で掴み取って見せろと、そんなメッセージのはずだ。多分間違ってはいない、だって星歌さんはオーディションに出さないとは一言も言ってないのだから。

 

 星歌さんらしい、厳しさの中に優しさも込められているらしいやり方だとは思う。ただ、やり方があまりにも素直じゃなく分かりづらいのは、少しだけ虹夏さんが不憫に感じられた。

 

「出せないって、じゃああたし達は……?」

 

「一生仲間内で仲良しクラブやっとけ」

 

 そして、最後の一言は明らかに言い過ぎだった。虹夏さんが遊びでバンドやっているつもりなんかなく全力だということは、虹夏さんを少しでも知る人なら絶対にわかるはずなのに。虹夏さんを怒らせてでも発破をかける、それも星歌さんの思惑なのだろうか。

 

「まだなんかあんの?」

 

「っ!……未だにぬいぐるみ抱かないと、寝れない癖に〜!!」

 

「なんだあの捨て台詞」

 

 虹夏さんにとっても、我慢ならない一言だったのだろう。カンカンに怒り、やり返しの割にはあまりにも可愛らしい捨て台詞を残してSTARRYから飛び出して行ってしまった。虹夏さんの台詞の穏当さと、星歌さんやリョウさんが慌てた様子がないということから緊急事態ではないはず。ひとまず安心、ということだろうか。

 

『店長さんがライブに出す気ないって、本当かな……』

 

『そんなことはありませんよ』

 

 不安そうに、怯えを滲ませながらひとりさんの発言を即座に否定する。せっかく星歌さんとひとりさんも打ち解けつつあるのだ。ここでひとりさんに怖いというイメージを持たせてしまう訳にはいかない。優しい星歌さんのイメージを守るのもわたしの責務なのだから。

 

『分かりづらいですけど、あれは星歌さんなりの期待の裏返しみたいなものでしょうから。ひとりさんはそのまま、今までの星歌さんのイメージを大切にしてください』

 

『そう、かな。いやうん、そうだよね……。さすが、店長さんと仲良しさんなもう一人の私!』

 

 たった一日しか付き合いのないわたしと星歌さんの仲の良さはともかくとして、ひとりさんの星歌さんに対する恐怖を取り除けたのならば問題ないだろう。そうなってくると次の問題は、飛び出した虹夏さんが何処へ行ってしまったのかということだろうか。

 

「ぬいぐるみって、このヨレヨレのパンダとウサギのこと?」

 

「あら可愛い」

 

「その画像消せ、今すぐに!」

 

 リョウさんとPAさんが星歌さんににじり寄り、何らかの画像を見せながら二人で揶揄っている。文脈的に星歌さんがぬいぐるみを抱きしめながら眠っている画像なのだろう。多分、いや間違いなくとっても可愛らしさに溢れている写真に違いない。場違いながら、見たいという野次馬心がわたしの内にも芽生えて暴れ出しそうだった。

 

「何してるんですか、追いかけますよ!」

 

「えー……」

 

「面倒そうにしないで!……ほら、後藤さんも行きましょう」

 

「あっ、はい」

 

 喜多さんの必死の訴えにより、わたしも正気に戻る。そう、喜多さんの言う通り今は出て行った虹夏さんを探すのが先決だ。リョウさんが居れば虹夏さんの行きそうな場所もわかるだろうし、合流して今後の結束バンドの立ち回り考えるのが最善のはず。

 

「いや、店長まだ話したいことあるみたいだし。ひとりは話を聞いてから、後で追いかけてきてよ」

 

「えっ」

 

「それじゃ任せた、ひとり」

 

 しかし、唐突なリョウさんの提案によりひとりさんはその足を止めることになった。星歌さんの話にはまだ続きがある、というのはわたしも同意する。でもその相手にひとりさんを選んだこと。そして、含みをやたらと持たせて渾名ではなく名前を呼んで見せた意図がわたしにはわからない。

 

 そんな理由を考える暇もなく、リョウさんは喜多さんに連れられて外に出てしまって。わたしとひとりさんだけがこの場に残されてしまう。さて、どうしたものか。とりあえずひとりさんのサポートをしながら星歌さんに話を――

 

『ひ、ひとりさん?急にどうしたんです……?』

 

『ご、ごめんもう一人の私。で、でも、私も店長さんと話すのはもう一人の私の方が良いと思って……だから、お願い』

 

 なんて思考を働かせた瞬間、突如としてわたしの意識が表に浮上していた。慌ててひとりさんに理由を尋ねると、曖昧な理由ながらも力強い返事が返ってくる。これはわたしが理解もできなかったリョウさんの意図を、ひとりさんは正しく汲み取った結果ということなのだろうか。

 

 理解はできない。でも、ひとりさんと今の星歌さんが喋った結果、かえって心の距離が離れてしまう懸念があるのは確かだ。そして何より、リョウさんに任せられ、ひとりさんのお願いも追加された。わたしの性分として、この申し出を無碍にするなんて選択肢は最初から存在していなかった。

 

『分かりました。任せてください、ひとりさん』

 

『うん。ありがとう、もう一人の私』

 

「あー……座りなよ、ぼっちちゃん」

 

「はい、失礼しますね」

 

 ひとりさんからのお願いを了承すると同時に、星歌さんから着席を勧められる。こうなってはわたしに退路はないし、覚悟を決めては椅子を移動させて星歌さんの正面に腰を落ち着ける。

 

 星歌さんの顔を正面から見据えると、何処か疲れたように大きく息を吐いては引き締まった表情を崩していて。その仕草だけで、さっきまではだいぶ無理をしていたのだと伝わってしまう。星歌さんのこういう不器用な優しさが、わたしはかなり好きなんだと思う。

 

「……」

 

「……」

 

 話のとっかかりを探しているのか、頬杖をついたまま星歌さんは口を開かずにいる。わたしはこの沈黙も嫌いじゃないけれど、虹夏さん達を待たせ過ぎるのも忍びない。ここは一つわたしから話を切り出して、場を和ませるとしよう。

 

「あの、わたしもぬいぐるみは好きですし恥ずかしがることはないと思いますが……」

 

「別に私は好きじゃねーよ!」

 

「そ、そうでしたか」

 

 先程のぬいぐるみの件についてわたしが口にすると、星歌さんは顔を赤くして露骨に強く否定をしていた。その反応だけで、星歌さんもわたしと同じでぬいぐるみが好きなんだなと確信できてしまう。隣でPAさんもくすくす笑っているので、空気を解すことには成功したのだろう。

 

 これ以上追及をするのはただの意地悪になってしまうので、話をすぐに打ち切って星歌さんが本題を切り出すのを待つことにする。

 

「……コホン、それでライブの話なんだけど。ライブに出たいならまずオーディション。一週間後の土曜日に演奏見て決めるから、虹夏達にもそう伝えて」

 

「分かりました、皆に伝えておきますね」

 

 星歌さんが切り出した内容は、概ね予想通り。少しだけ期間は短く感じてしまうけど、結束バンドには確かなチャンスが与えられるようだった。後はよくも悪くもひとりさんと結束バンドの頑張りと実力次第。やはり、わたしから何か問いただしたり真意を探ったりする必要性はなかったみたいである。

 

「今日のぼっちちゃんは、動じないんだな」

 

「え……?」

 

「最近のぼっちちゃんの様子からして、もっと狼狽えて慌てふためくもんだと思ってたからさ」

 

 星歌さんの鋭い発言に、言葉を詰まらせてしまう。考えてみれば当たり前のことだった。星歌さんはもうひとりさんを一ヶ月以上も見続けているのだから、初めてのあの日のように振る舞えば違和感を持たれてしまうに決まっている。

 

 当然で、いいことのはずなのに。星歌さんの内にはもうわたしは残っていないのだと考えると、どうしてだか胸が痛かった。

 

「店長、言い方」

 

「分かってる……。ぼっちちゃん、別に責めるつもりはないんだ。最初に言ったように、私は言いたくないことを詮索しようとは思わない。そもそも、人なんて誰だって二面性を持ってるものだろ?だから、必要以上にぼっちちゃんがそれを気に病む必要はないんだ」

 

「はい……ありがとう、ございます」

 

 二人には、今のわたしの表情がどう見えていたのだろう。勝手に傷付いていたところに、ひとりさんではなく明らかにわたしを気遣う声が投げかけられて、不意に泣きそうになる。

 

 星歌さんも確信に至っているかはともかくとして、ひとりさんの淵に隠れているわたしの存在に気付きつつあるのだろう。そうじゃなかったら、あのような発言は出てくる筈がないのだから。気付いた上で、わたしを傷付けないように敢えて触れないでくれている。お父さんやお母さんといい、本当に大人という存在には敵いそうもない。

 

「これはライブとは関係ないんだけど……ぼっちちゃんに言っておきたいことがある」

 

「……なんでしょうか?」

 

「言いたいことがあるならさ、ハッキリ言いなよ」

 

 それは、どういう意味なのだろう。ともすれば、詮索はしないという先程の発言と矛盾しかねない言葉。いつものように、星歌さんなりの優しい意図が込められた発言であろうことは予想できる。だけど、あまりにも言葉足らずで情報量の少ないそれにわたしは首を傾げることしかできなかった。

 

「店長、そんな回りくどい言い方じゃ伝わりませんよ?」

 

「けど、他に言いようがだな……」

 

「後藤さん。この人、後藤さんがバイトに入ってからずっと私に相談し続けてたんですよ?やれぼっちちゃんが今日も怯えている、今日も無理をしてるんじゃないかー、絶対におかしいって。挙げ句の果てには、パソコンに齧り付いて調べ始めちゃったりして……ほんっと、ツンデレですよね」

 

 PAさんからの告げ口の内容は衝撃的過ぎて、空いた口が塞がらなくなってしまう。わたしが最初にわたしとして星歌さんに接した時点で、気付かれてしまうのは必然だったのかもしれない。この人だけ最初から、わたしを基準としてずっとひとりさんを見ていたのだから。

 

 ずっとずっと、数分程度しか接することがなかったわたしの残像を、この人は実体だと定めて忘れずに追いかけてくれていた。それはなんて、わたしには勿体無い程の真心なんだろう。

 

「それは、星歌さんらしいですね……」

 

「ねー、私もそう思います」

 

「お前、それ以上喋ったらクビな」

 

「はーい」

 

 得意気に語るPAさんに、星歌さんが緘口令を敷いている。そんな照れ隠しも、まったくもって星歌さんらしい照れ隠しで笑みが浮かんでしまう。PAさんも事情を察しているであろうに、こうして何も聞かずただありのままに気楽に接してくれている。あまりひとりさんとも喋ることはなかったけど、なんて気の良い人なんだろう。

 

 こんな素敵な大人に見守られて働けるひとりさんは、きっと幸せ者だ。そして、わたしも。

 

「初めて会った日も、さっきリョウと話してた時も、こうしている今も。ぼっちちゃんは辛いことを隠して耐えているように見える……それは違うか?」

 

「どうして、そう思うんですか?」

 

 しらばっくれたり、誤魔化したりするつもりはない。ただ単純に疑問で仕方なかった。いくらわたしのことを気にし続けてたとはいえ、どうしてそんな結論に至ることが出来るのだろうと。わたしはひとりさん以外には、繕うのも強がるのも下手であるつもりはなかったから。

 

「だぶるんだよ、子供の頃の虹夏に……」

 

「虹夏さんに、ですか?」

 

 予想外にも程がある回答に、面食らってしまう。あの虹夏さんの幼少期なんて、きっと朗らかで可愛らしい子供だったことは想像に容易い。その虹夏さんがこんなわたしに似ていただなんて、あり得るのだろうか。

 

「昔の私は不甲斐ない姉でさ、虹夏を放って一人ぼっちにしていたことがあったんだ」

 

「……」

 

「その時の、悲しくてどうしようもない現実に一人で耐えていた時の虹夏に……ぼっちちゃんはそっくりだよ」

 

 時折、寂しそうな表情を浮かべていた虹夏さんの姿を思い出す。星歌さんというお姉ちゃんと一緒に暮らし、一緒に働いて日々を過ごしている。今まで姿を見せず、話題に上がることもなかった虹夏さんの両親。もしかすると、察するに余りある状況にあったのかもしれない。

 

 わたしは一体、どれくらい目の前のこの人に心配をされているのか想像もつかなかった。

 

「ぼっちちゃんが何を抱えて、どうして隠すのか私にはわからないけどさ。……辛いことを一人で抱える必要なんてないんだ。家族でも友達でも、私みたいな上司でも、誰にだって吐き出していい」

 

「星歌さん……わたしは」

 

「ぼっちちゃんはまだ子供なんだから、私たちみたいな大人に頼ってくれていいんだよ。……言いたかったのは、それだけ」

 

 星歌さんは、ただのバイトの子に過ぎないわたしに対しても大人の責任を果たそうとしてくれている。それはどれほど、ありがたく心強い存在なのだろう。わたしが仮に秘密をぶち撒けて、それでどんな問題が発生しようともきっと星歌さんは親身になって一緒に問題を解決してくれる。

 

 だからこそ、そんな善意はわたしには勿体なさ過ぎる。いつか星歌さんの前からも消え去ってゆく、わたしには。

 

「……では、一つだけ。星歌さんに言いたいことがあるんです」

 

「言ってみなよ」

 

「虹夏さんには、もう少しだけ素直になったほうがいいと思います。……姉妹なんですから」

 

「それは余計なお世話だ」

 

 いつの日か夢想したみたいに星歌さんを揶揄ってみれば、あの日の通りに照れたように可愛らしくそっぽを向いてくれていた。わたしがわたしらしく振る舞って、それを自然に受け止めて返してくれる人がいる。わたしにはそれだけで十分、これ以上は毒にしかならないだろう。

 

 星歌さんは弱さを曝け出して良いのだと諭してくれた。それでも、わたしはひとりさんのヒーローで居ると決めたのだから。最後の瞬間まで、ひとりさんの前でだけは強がっていたいのだ。

 

「それじゃあ、わたしもそろそろ虹夏さんを探しに行きますね」

 

「そう……虹夏のこと、よろしく」

 

「後藤さん、今度私ともお喋りしましょうね。後藤さんの使っている美容品、私気になってるんです」

 

「その時は、是非。星歌さんもPAさんも、今日はわたしの話を聞いてくださりありがとうございました」

 

 最後に二人に頭を下げて、STARRYを後にする。初めて両親に自分の存在がバレていることを悟った時のような、嬉しいとも悲しいともわからない複雑な感情がわたしの心を支配していた。

 

 スマートフォンを見ると、リョウさんから位置情報が記されたロインが送られて来ていた。無事虹夏さんを見つけたようで、集合場所を伝えてくれたらしい。随分長いこと星歌さん達と喋ってしまったし、急いで向かうことにしよう。

 

『もう一人の私の言う通り……店長さん、すごく優しかったね』

 

『ひとりさん……ええ、そうですね。わたしには勿体無い程に』

 

 計ったようなタイミングで、ひとりさんが喋りかけてくれる。ひとりさんはわたしと星歌さん達の会話を聞いて、何を感じ何を思ったのだろう。ひとりさんはその間一言も喋ることがなかったから、わたしにはそれを窺い知ることはできない。

 

 ひとりさんが一言もあの会話に口を挟む事がなかったのは、間違いなく意図してのことだ。初めてのバイトの帰り際、星歌さんが見送ってくれた時もひとりさんは敢えて口を閉ざしていたから。その行動にどんな理由があるのかもわたしにはわからないし、それを尋ねる勇気も持ち合わせていない。わかるのは、わたしに対する気遣いからの行動に違いないということだけ。

 

『私、オーディション頑張る……もう一人の私を認めてくれた店長さんに、私達結束バンドのことも認めて欲しいから』

 

『はい!オーディションで、星歌さんに目にもの見せてやりましょう』

 

 結果として、ひとりさんのやる気に火が付いているのは僥倖だ。一週間後のオーディションに向けて、わたしもひとりさんの為にできることを精一杯やって見せようか。

 




本当にお待たせしてすみません。原因は年度末特有の忙しさと、軽いインプット期に入ってしまったせいです。それらは解消したので、次回からこそは週一程度の投稿ペースに戻していきたいと思います。

今回のアニメ五話にあたる部分は、ちょいと長くなりそうですね。次回は喜多ちゃんと虹夏ちゃんそれぞれにスポットが当たるかも。今後とも、応援よろしくお願いいたします。


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何度振り返っても、同じ選択を

 約一ヶ月ほど、大変お待たせして申し訳ありません。そして、こうして読んでくださっていることにただ、感謝です。是非楽しんでいただけると幸いです。


 

「成長……成長?」

 

 ジャカジャカと、今夜もひとりさんが押し入れでギターをかき鳴らしている。ここ数年わたしが聴き続けたあまりにも馴染み深いその練習風景。しかし、今回は少しばかりの不安がその音色に表れているようだった。

 

 星歌さん達との交流の後、虹夏さん達に合流してオーディションの一件を伝えると、結束バンドのメンバーは無事に一致団結。本番に向けて頑張ろうと、その結束を一際強めていた。しかし懸念が一つもないわけではなく、問題になったのは、オーディションまでの一週間と余りにも短い日数だ。リョウさんがぽつりと溢したように、こんな短い期日では頑張りようがないというのも、一つの事実としての側面があった。

 

 虹夏さんはそんな懸念に対して『技術ではなく熱意が大切、バンドとしての成長をお姉ちゃんに認めさせればいいんだよ』とそう告げていた。何気ないその成長という言葉が、帰宅して夜になったこの瞬間も、ひとりさんを思い悩ませてしまっているのだろう。

 

「もう一人の私。私は、成長できてるのかな……?」

 

『もちろんですよ』

 

 ひとりさんは自身の成長について懐疑的だけれど、わたしは一つの迷いもなく頷くことができる。バンドに参加してバイトを始めて、たまに他人の顔が見れるようになって、友達との交流だって多分にするようになりもした。むしろ、ひとりさんほど成長という言葉が相応しい人は居ないのではないかと思ってしまうくらいには、ここ最近のひとりさんの成長は目覚ましい。

 

『ひとりさんは今まで出来なかった多くの事柄に挑戦し、無事成し遂げてきたじゃないですか。十分に自信を持って良いと思いますよ?』

 

「そうなんだけど……それって、ミジンコやミドリムシなんかからようやく人間としてのスタートラインに立っただけなのかなって、思ったりもして……」

 

『そんなことありません。誰だって、新しい場所に踏み出すのは怖いものです……だから、ひとりさんも立派に人として成長しています。他ならぬ、このわたしが保証しますよ』

 

 ひとりさんの言うように、他人からして見れば当たり前のようにできてしまう事柄なのかもしれない。でも恐怖を抱えながらも、時には他人のために勇気を持って立ち向かうなんて行動は、決して当たり前にできるようなことじゃないのだ。

 

 少なくとも、わたしには無理だ。ひとりさんが喜多さんにして見せたように、誰かの為に他人の心に踏み入るような勇気をわたしは一生持つことはできないだろう。だからわたしは心の底からひとりさんを凄いと思うし、その心意気を敬愛して止まないのだ。

 

「もう一人の私がそう言ってくれると、少し自信が持てそうかも……えへへ、無限に自己肯定感が高まる」

 

 わたしの言葉も、少しはひとりさんの不安を紛らわせてくれたようだ。今のひとりさんに足りていないのは、きっと自信だ。今まで積み重ねてきた圧倒的な練習量から、技術は備わっているのだから。後は堂々とステージの上でも自分を表現できるようになれば、ライブでもギターヒーローとしての姿を見せられるようになるはずだ。

 

「でも、それとバンドとしての成長は別問題……だよね?」

 

『それは、そうかもしれませんね』

 

「店長さんにバンドとしての成長を見せるために、わたしができることってなんなんだろう……?」

 

 ひとりさんとしてではなく、バンドとしての成長。そう問われると、わたしも具体的な返答をすることができなかった。究極的に言ってしまえば、以前より演奏が上手になることなんだろう。しかし、演奏が上手になるためのコツなんてわたしに分かる訳もない。練習あるのみと言いたいが、オーディションまでの期日は一週間と短い。

 

 もちろん、最初のライブに比べれば結束バンドの演奏も良くなってはきている。ひとりさんも少しずつ息を合わせて演奏することに慣れつつあるし、喜多さんも短期間で歌いながらギターを弾けるようになるまで仕上げてきた。しかし、それで星歌さんを納得させられるほど劇的に変わったのかと言われれば、よくわからない。

 

 ひとりさんもそういった不安を漠然と抱えているから、こうして少しでもきっかけを探しているのだと思う。バンドとしての問題に頭を悩ませるひとりさんに、わたしから言ってあげられることは多くない。そして、徐々にその範囲が大きくなっていつしかわたしがかける言葉もその役割も、一つ残らず消え失せるのかもしれない。ひとりさんはもう自分の内だけで思い悩む必要はなく、共に成長し助け合う仲間がいるのだから。

 

 始まりはぴったりと背中合わせだったわたしとひとりさんの関係が、少しずつ隔絶していく感覚をどうしようもなく実感してしまう。そんな事実を、わたしはいつまで受け止めきれるのだろう。これからもちゃんと、凄いねってひとりさんに伝え続けられるのだろうか。それすら出来なくなってしまったらわたしの存在意義はもはや無く、その瞬間こそがわたしの終焉なのかもしれない。

 

 今だってそうだ。ひとりさんの成長に繋がる言葉を抱えているのに、わたしは伝えられずに黙ってしまっている。わたしを頼らずに、ステージに上がって演奏出来るようになること。それが何よりひとりさんを成長させるきっかけであろうことは間違いないのに、喉の奥に引っかかるように言葉にならずにいる。

 

 まるで、変わらないで欲しいと。ひとりさんだけはわたしの側にあり続けて欲しいなんて、みっともなく縋り付くように。

 

『とにかく、練習を続けましょう。努力なくして、成長も成功もありはしないでしょうから』

 

「う、うん、そうだね……私に出来ることなんて、それくらいしかないし」

 

 結局口をついて出たのは、思っても見ないありふれた言葉だった。オーディション、成長、これからの未来への漠然とした不安と寂寥。それらに見て見ぬフリをして蓋をするために、再び鳴り始めたひとりさんのギターの演奏にただ沈むように没頭する。

 

 ひとりさんのオーディションが上手くいきますように。わたし自身の役割を再び刻み込むように、低過ぎる押入れの天井に祈りを込める。たとえわたしの終わりが近づこうとも、それがどんなに辛くても、ひとりさんの前でだけはみっともない姿を見せる訳にはいかない。

 

 だって役目を終えたヒーローはただ、人知れずひっそりと消え去っていくべきだから。

 

 

 ◇

 

 

 放課後、夕暮れ時の学校というロケーションは否が応でも青春を想起させるものだ。部活や委員会、友情に時には恋愛。学校の生徒である彼等や彼女達は各々の信じる青春をただひたすらに突っ走っている。以前までは、そんな青春なんてひとりさんとわたしには縁遠いモノだった。それこそ、青春コンプレックスなんてキーワードが当てはまってしまうくらいには。

 

 しかし、それももはや過去のお話。ひとりさんお気に入りの、物置と化している廊下の謎スペース。そこで今日も、ひとりさんと喜多さんが向かい合い、共にギターの練習に勤しんでいる。喜多さんが結束バンドに再加入してからは恒例となっているこの光景は、まさに青春の一ページとして相応しいだろう。

 

 ひとりさんがこうして喜多さんと一緒に、人並みの青春を謳歌していることを心から嬉しく思う。未だにそう思えていることに、ほっとしてもいた。

 

 オーディションまであと三日足らずしか時間がないこともあってか、今日の練習には一層熱が入っている。特に喜多さんの熱中具合は凄まじい。ひとりさんから譲り受けた教本。渡した状態から更に付箋が増えたそれを読み込み、時にはひとりさんに直接質問をして、何度もリテイクを繰り返して一心不乱にギターをかき鳴らしている。

 

 ギターを初心者同然の状態で始めたにも拘わらず、ライブが可能な状態まで上り詰めたのは間違いなく喜多さんの努力の賜物。ひとりさんを通してその努力と成長ぶりを見ていただけに、わたしも勝手ながら感慨深さを感じてしまっていた。

 

『ひとりさん、そろそろ』

 

「あっ……うん。えと、喜多さん、そろそろ休憩しませんか……?」

 

「そうしましょっか。そろそろ指も疲れてきちゃったし」

 

 名残惜しそうにギターを抱えつつも、頷いた喜多さんが指を止める。練習熱心なのは何よりだけど、その集中力が仇となって喜多さんが指を痛めてしまうことも今まであった。ひとりさんは元より一日の殆どをギターの練習に費やせてしまう人なので、止め時がわからない。二人の練習の合間に休憩のタイミングを差し込むのも、いつの間にかわたしの役割となっていた。

 

「後藤さん、ありがとね。いつも練習付き合ってくれて」

 

「あっ、いえ……支えるって、約束しましたから。それに、こういうの青春っぽくてなんだか私も楽しいので……へへ」

 

「わかるわ!友達と一緒に練習するの、想像よりずっとずっと楽しいって感じてる……一人で多弦ベースを触ってた時とは大違いね」

 

 喜多さんが少しの自虐を交えながらも、和やかな雰囲気で二人が笑い合う。趣味も性格も何もかもが違う二人がこうして親交を深め合っているのは、喜多さんが第二の家族と称したバンドという特異な関係性のお陰なのかもしれない。そう考えると音楽は人の心を繋ぐだなんて大言壮語にも、今では素直に頷けるような気もしていた。

 

「でも、こんな薄暗い場所でやるのはどうして?普通に教室で練習した方がいいんじゃ……?」

 

「あっ、いやぁ、それは……」

 

『そんな目立つ場所で練習したら、なんであんな子が喜多さんと……ってジロジロ見られて練習どころじゃない!』

 

『まぁ意図はともかくとして、目立つのは避けられないでしょうからね』

 

 喜多さんの純粋過ぎる疑問にひとりさんが露骨に顔を逸らす。学年の人気者である喜多さんと、不本意ながらわたしのせいで妙な目線を買ってしまっているらしいひとりさんの組み合わせは目立つだろう。教室で練習をしたら間違いなく好奇の視線に晒されるし、なんなら喜多さんの友人あたりは接触を試みるに違いない。

 

 わたしとしては、そういったきっかけからひとりさんの交友関係が広がるのも望むところではあるのだけど。このひとりさんの反応を見る限り、音楽を介さない誰かとの交友についてはまだまだハードルが高そうである。

 

「……やっぱり、後藤さんがみんなと関わるのを避けてるから?」

 

「え……?」

 

 少しの逡巡の後、迷った素振りを見せながら発された喜多さんの問いかけにひとりさんが小さく首を傾げていた。ひとりさんにとっては寝耳に水ともいえる内容で、困惑するのも無理からぬことだろう。ひとりさんは人見知りと引っ込み思案が激しいだけで、常に誰かとの関わりを心の底では望んでいて、人を避けているつもりなんて毛頭ないのだから。

 

 喜多さんが抱いたその印象は、普段学校生活を過ごしているわたしに対しての印象に違いなかった。そしてその感覚は、あながち間違いでもない。わたしは確かにクラスメイトに対して一定の距離を置いてるし、誰かを深く知ることも、誰かがわたしを深く知ろうとすることも避けている。

 

 中学生時代からの反省だった。わたしという人格を深く印象付けることは、ひとりさんが誰かと交友を育む上での枷にしかならなかったことへの戒め。そんなわたしの立ち振る舞いに違うクラスの喜多さんが気付いてしまったのは、学年の人気者で人間関係の機微に鋭い彼女の性質故なのだろうか。

 

「あっあの喜多さん、私そんなつもりなくて……」

 

「そう、よね。後藤さんは……うん。ごめんなさい、私ったらまた変なこと言っちゃった」

 

「いえ、私はいいんですけど……」

 

 違和感はこうして着実に積み重なっている。ひとりさんの為を思えばもはや学校でもバンド活動と同じく、わたしは極力表に出ない方が良いのかもしれない。しかし、そんな話を切り出してもひとりさんは決して首を縦に振らないだろうという困った確信もあるのでままならない。

 

 わたしにも学校生活を楽しんで欲しいなんて、過ぎた優しさを見せてしまう人だから。わたしは今後、どう立ち振る舞っていくべきなのか。曖昧にぼやけたままで分かりもしないし、その術を失っている時点でわたしは既に自身の役割を見失いつつあるのかもしれない。

 

 ならばわたしはもう必要ないのでは、なんて嫌な想像がいくつも頭を過ぎる。考えるのは、止めよう。少なくとも今はわたしのネガティブな想像をひとりさんに悟られて、この和やかな空間に水を差したくはなかった。

 

「あのね後藤さん。良かったらなんだけど……後藤さんのこと、もっとよく教えてくれないかしら?」

 

「えっ……それは、どういう?」

 

 意を決したように、喜多さんは一見なんの脈絡もなさそうな申し出をひとりさんに切り出していた。わたしも同じく、その結論をすっ飛ばしているような喜多さんの行動の意図に疑問しか湧いていないけれど。でも、その前のめりな姿勢すらもひとりさんを想ってのことなのだろうと、それだけは理解できるような気がするのだ。

 

「私、結束バンドとして過ごしているこの時間が今、とっても楽しいの」

 

「あっはい。わ、私もです!」

 

「だから、オーディションの時も後悔しないように。バンドのために私ができることを精一杯やっておきたいって思ってるの」

 

 喜多さんもひとりさんと同じ気持ちを抱えていた。もしかすると、結束バンドのメンバーが皆同じなのかもしれない。各々がバンドのために自分の道を模索し努力を積み重ねて、良い方向に向かい始めている。星歌さんがこうしてオーディションの課題を言い渡したのは、こういった自覚を促すためという側面もあったのだろうか。

 

「後藤さんの書いてくれた歌詞ね、かっこいいって思ったんだけど……正直、どういう意味なのか私にはよくわからなかった。今だってそう、後藤さん自身のことすらたまにわからなくなっちゃう」

 

「し、仕方がないと思います……私も私の歌詞も、暗いですし」

 

「仕方がないで済ませるのは嫌だって、私が思ったの。歌詞を少しでも理解できるようになって、結束バンドのボーカルとして役立ちたいから。……ううん、それだけじゃなくてね。友達として後藤さんのことをもっともっと知りたいって思うの。だから、お願い!」

 

 両手を合わせ、ギターの先生をお願いされた時と同じような真剣さを纏いながら、喜多さんが頼み込んでいる。わたしにとっては願ってもないことだ。わたしというフィルターでボヤけてしまったひとりさんの実像を、喜多さんは定めようとしてくれているのだから。ひとりさんも、こう頼まれて断る選択肢を持てるような人ではないはずだが、意外にも何処か迷うような素振りを見せていた。

 

『どうしよう、もう一人の私』

 

『心のままに従うべきだと思いますよ?ひとりさんが話したいと思ったのなら、そうすればいいんです』

 

『でも、喋り過ぎたらもう一人の私の迷惑になるんじゃ……』

 

『わたしのことは気にしないで、今は喜多さんのことだけを考えてあげてください』

 

『……うん』

 

 その迷いの原因も、やはりわたしへの配慮からだった。本当に細かい心の機微にすら、気付いてしまう人だと思う。懸念は確かに多いけど、それでもひとりさんの意思より優先されるべきことなんて殆どない。喋った結果によりわたしの存在が微妙なものとなり、身動きするのが窮屈になったところでそんなのは瑣末ごとに過ぎない。だから、わたしがかけるべき言葉も始めから決まっているのだ。

 

「あっ、では、はい。……こんな私のつまらないお話で良ければ、ですけど」

 

「ありがとう、後藤さん!それじゃ、どんなお話でもいいから聞かせて?」

 

「……ぅ」

 

 いつもと打って変わって、喋り上手な喜多さんがキラキラとした目を向けながら聞き役に回る。そんな状況を目の前にして、ひとりさんが苦しげに息を詰まらせる。請け負ったはいいものの、フリートークを強いられているこの状況はある意味で、ひとりさんにとっての窮地に他ならなかった。

 

『ど、どうしようもう一人の私!?私の話っていったい何を喋れば……私に話せることなんて黒歴史くらいしかないのに!?』

 

『難しく考えずに。ひとりさんが喜多さんに伝えたいことを、そのまま伝えてみるのがいいんじゃないでしょうか?』

 

『でも、もう一人の私みたいに上手に話を組み立てたりできないし……』

 

『それでいいんですよ。どんなに拙くても、喜多さんが真剣に話を聞いてくれる人だって、ひとりさんも知っているでしょう?』

 

『喜多さんに、私が伝えたいこと……わかった、やってみる』

 

 わたしが少し後押しをしてあげれば、ひとりさんは頷いて喜多さんへと向き合ってくれた。口下手で尻込みしてしまうという不安を除けば、ひとりさん自身はいつだって自分を知って欲しいと願っていたのだから、当然の帰結なのかもしれない。足りない、気付かれないと燻り続けていたありのままのひとりさんの本心。それを他ならぬ喜多さんが聞いてくれるのなら、わたしとしても本望だった。

 

「あっあの、私……私は、喜多さんみたいに全然キラキラしていなくて、結構つまらない人間で。だから、話せるようなことなんて殆どないんですけど……」

 

「うん」

 

 辿々しく語り始めたひとりさんに、喜多さんが優しげな表情で頷いて続きを促してくれる。いつもならそんなことないよって、即座に否定してくれる光景がありありと浮かんでくる。敢えてそうしないのは、これもひとりさんが自分のペースで話せるようにという、喜多さんのありがたい心遣いだった。

 

「でも、こんな私にも話したいことが、大切なものも少しだけあるんです。バンドと家族と、ギター……それから、私の一番大切な、もう一つ。」

 

「それってもしかして……後藤さんの、憧れの人のこと?」

 

「あっ……そ、そうです!」

 

 伏せられたその存在をピタリと言い当てられて、ひとりさんは驚きながらも食い気味で頷く。そんな芸当をできたのは、わたしとの関係を引き合いに結束バンドへと引き止められた喜多さんだからこそなのかもしれない。

 

 一番大切。ひとりさんにそう呼んでもらえる度に、暖かい感情がわたしの心の内を満たしてくれるけれど。同時に、このままでは居られないという警告と諦めが頭に響くのだ。どう考えたって、ひとりさんの心の内にしか存在できず、他人から正しく認知されないわたしが一番大切なのは間違っているから。

 

 そんなのはあまりに寂しくて、虚しい。だからきっと、ひとりさんの一番大切な存在は結束バンドへと移り変わっていくべきなんだろう。悔しいけれど、その方が安心できるのも事実だった。

 

「……小学生の頃、正直私は学校があまり好きじゃありませんでした」

 

「そうだったの?」

 

 喜多さんを引き止めた時に断片的に明かしたひとりさんの過去。それが小学生の頃からの話だったのをひとりさんも思い出したのか、そこから順序立てて話すことにしたようだった。

 

「人見知りで、誰かと喋るのも苦手で……そんなだから友達なんて一人もできなくて。べ、勉強も運動もダメダメでしたし……」

 

「でも、後藤さんっていつも小テストは満点ばかりって聞いたわよ?……体育の授業だって、目立たないけどかなり動けてたじゃない」

 

「えっ、いやあのそれは……い、今だからこそと言いますかぁ……と、とにかく、それも憧れの人のお陰なんです!」

 

「そ、そうなのね!」

 

 喜多さんの鋭い指摘に大きく狼狽えるも、なんとか誤魔化して見せるひとりさん。裏で聞いているわたしも正直冷や汗ものだ。もしかすると、こうしてひとりさんに直接聞く前にも、学校の知り合いを通してひとりさんについて理解を深めようとしていたのかもしれない。そうでなければ説明がつかないくらい、喜多さんは学校での後藤ひとりについても詳し過ぎた。

 

「……寂しくて怖くって、毎日が嫌なことばっかり。だから私は、学校に行くのが嫌いだったんです」

 

「今は、違うのよね?」

 

「……は、はい。喜多さんのお陰で。今は少しだけ学校に行くのが、楽しみなんです」

 

「……後藤さん」

 

 ひとりさんの少しだけ明るい返事を聞いて、不安げな表情をしていた喜多さんがほっと息を吐く。こうして過去の話をして、わたしも久方ぶりに思い出してしまう。わたしにとっては記憶の中の存在でしかない、本当にひとりぼっちだった幼いひとりさんの姿を。

 

 あの頃のひとりさんは本当に、見ていられなかった。家族の前以外ではいつも孤独で、俯き常に下だけを見ながら生きていて。自身の周りには敵しかいないのだと、周囲を恐れ恨んでいた。そんなひとりさんの味方になり、少しでも笑顔にさせてあげたくてわたしも必死だったのを覚えている。そんな日々が、今では少し遠いようにも感じられた。

 

「小学5年生の時、学校に行くのが嫌で嫌で仕方なくなって。取り返しのつかない大きな失敗をしそうになった時、憧れの人……その人が、助けてくれたんです。颯爽と現れて、まるでヒーローみたいでした」

 

「とってもドラマチックな出会いだったのね!その人ってもしかして男の子!?」

 

「……?い、いえ、女の子です」

 

 まだ未熟で、無我夢中にしか物事に対処できていなかった始まりのわたし。それがひとりさんによってさも美談のように語られて、喜多さんに持て囃されるのは大変照れ臭い。

 

 恋愛的な匂いを嗅ぎ取る喜多さんに対して、全然分かってすらいなさそうなひとりさんはちょっとだけ心配だ。ひとりさんはとても綺麗なのだから、無防備が過ぎると悪い男の人にも騙されかねない。今はわたしが居るとはいえ、それも永遠ではないのだから。ああでも、その辺りしっかりしてそうな喜多さんがそばに居てくれるのなら、これもただの杞憂なのかもしれなかった。

 

「……その日から、私の人生は大きく変わりました。憧れの人は、本当に私のヒーローになってくれたんです。毎日ずっと一緒に居てくれて、どんな時も私を助けてくれました」

 

「うんうん」

 

「……辛いことや苦しいことに私の代わりに立ち向かってくれて、閉じこもって逃げるばかりの私に色んな景色見せてくれたんです。その人はどんな時でも一生懸命でキラキラ輝いていて……う、自惚れだなんて思わせてくれないくらい、それは全部私の為で。お陰で私は、世界が怖いばかりじゃないんだって知ることができたんです」

 

「素敵な人なのね」

 

「あっ、はい!」

 

 喜多さんは辿々しくゆっくりと語られるひとりさんの話に耳を傾け、まるで自分のことのように親身になって聞いてくれている。そして話し手であるひとりさん自身は、珍しくも屈託のない笑顔を浮かべていた。友達に自分のことを知ってもらう、初めてのそんな経験が掛け値なしに嬉しいのだろう。

 

 学生なら殆ど誰でも知っているような、ありふれた喜び。それをひとりさんは今まで受け取ることができていなかった。相手がいなかったのが第一ではあれど、わたしという存在が妨げになっていたのも間違いなくその一因で。これだけじゃなく、きっとわたしはひとりさんに多くのことを我慢させているのだと思うと、心苦しかった。

 

「だ、だからその人に思わず……憧れてしまいました。私も同じように、キラキラと輝くことができたらって。ギターでなら、もしかしたらそうなれるんじゃないかなって……それで、中学生から今までずっと、ギター弾いてきたんです」

 

「後藤さんにとってギターは特別なのね。私、感動しちゃった……それに比べて、私のギター始めた理由って不純過ぎるかも」

 

「あ、あの、私もギターなら陰キャでもちやほやされそうとか……だいぶ不純なことも考えてましたし。お、同じです!」

 

 初めて二人が出会ったあの日に、お揃いだと笑い合ったバンドを始めた動機。その実態を知ってショックを受ける喜多さんを、ひとりさんが自身を曝け出しつつ必死にフォローしている。ひとりさんもお揃いの思い出でいたいのだろうと、そんな思惑が透けているようでなんだか微笑ましい。

 

「……最近虹夏ちゃんに拾って貰って、ようやく念願のバンドに入ることもできました。それも、たくさん憧れの人が私を手助けしてくれたからこそなんです。わ、私が結束バンドに、素敵な皆さんの隣に居られるのはその人のお陰で……それを、喜多さんにも知って欲しかったんです」

 

「ありがとね、後藤さん。私のために話をしてくれて」

 

「そ、そんな……私も全然上手に纏められなくて、申し訳ないです。こんな飛び飛びの話で、喜多さんの役にたてましたか?」

 

「ええ、とっても参考になったわ。今なら、後藤さんの書いてくれた歌詞を、もっと心を込めて歌えそうな気がするもの!」

 

「よ、よかった……です」

 

 ひとりさんの自分語りはひと段落、喜多さんは自分なりの解釈を得られたようで結果は上々のようだ。わたしとしても、自身を語ってみせるという難題をひとりさんが成し遂げたことに感無量である。これもまた大きな成長、きっと今後の大きな糧になってくれるはず。

 

 しかし、振り返るとひとりさんが語ったのは殆どわたしについてばかりだった。もう少しひとりさん自身の趣味や趣向について喋らなくてよかったのだろうかと、気がかりではある。それにこう、大変今更ではあるのだけど。ひとりさんからのありったけの褒め言葉と感謝がそこには込められていて。抱えきれない喜びとそこに隠れた後ろめたさから、わたしはどんな声をかけるべきか完全に見失ってしまっていた。

 

「最後にもう一つだけ聞かせて。後藤さんから見て、憧れの人ってどんな人なのかしら?」

 

「えぇと、優しくてカッコよくてなんでもできて……私にとっては、ヒーローそのものみたいな人です。そ、それだけじゃなくって、オシャレさんで女の子らしい可愛いところもいっぱいあって……でも」

 

「でも?」

 

「……辛いことや苦しいことを一人で抱え込んで、抱えた傷を誰にも見せないで隠しちゃってる。そんな、人なんです」

 

「……それって」

 

「ど、どうしましたか、喜多さん?」

 

「う、うぅん!なんでもないの……またちょっと、変なことを考えちゃっただけ」

 

 わたしなりに必死に繕い隠して来たつもりでも、わたしの抱える迷いや不安に恐怖と孤独。それらの捨て置かれるべきわたしのネガティブな感情は、やっぱりひとりさんには殆ど筒抜けになってしまっているみたいだ。

 

 その傷に敢えて触れないでいてくれるのは、敏感過ぎるひとりさんの優しさ故に違いない。だからどうか最後まで、見て見ぬフリをしていて欲しい。虚しい一人相撲であろうと、わたしが張り続けた虚勢を貫き通せるように。

 

 そして、喜多さんはひとりさんのその印象から一体何に気付いてしまったのだろう。願わくば、それがリョウさんや星歌さんのようにわたしの核心に迫るものでないことを祈るばかりだ。

 

「欲を言えば、直接その人に会って見たいわね。後藤さんに出会わせてくれてありがとうって、直接お礼を言いたいし、私も仲良くなりたいもの……難しい、かしら?」

 

「そ、それは……っ」

 

 肝心な部分を伏せているとはいえ、明るく社交的で人付き合いにアグレッシブな喜多さんがそう申し出てくるのは自然なことだった。純粋かつエネルギッシュな視線を向けられて、ひとりさんが苦しげに顔を伏せる。この申し出をひとりさんが回避するのは難題だし、断る理由を捻り出すのも至難の業に違いない。会話もひと段落ついたのだし、ここはわたしがサポートをするべきだろう。

 

『ひとりさん、ここはわたしが――』

 

「ご、ごめんなさい……色々あって、その人は誰かと自由に顔を合わせることができない状態で……む、むずかしいです」

 

「そっか……きっと、複雑な事情があるのよね。私こそ、ごめんなさい」

 

 しかし、助言をわたしが告げる前にひとりさんは、その申し出を上手く断っていた。詳細は言わずとも何か会えない事情があると匂わせれば、必ず身を引いてくれる。人付き合いに精通していて、空気を読むことに長けている喜多さんだからこそ通じる方法。それを相談もなくひとりさんが行ったことに、わたしは驚きを隠せないでいる。

 

 ひとりさんの様子も、なんだかおかしい。華麗に危機を回避したはずなのに、未だ俯いたままでいる。喜多さんの前では、控えめながらも、顔を上げながら会話ができていたはずなのに。

 

「――私のせい、なんです」

 

「ど、どうしたの後藤さん?」

 

「私のせいなんです、その人が誰かの前に姿を出せないのは……私が弱くて、甘え続けたから」

 

 震えた声で、ひとりさんが抑えられなかったモノを吐き出すように語り始める。ここしばらく聞くことがなかった、現実に打ちのめされた悲痛さが混ざった声色。わたしが聞かないでいたかったその声が、廊下に虚しく響き渡っていた。

 

「もう一人のわっ……その人は、ギターなんて弾けないのに。毎日毎日、一日中私のギターの練習に付き合わせ、続けて!その人にも他にやりたいことなんていくらでもあったはずで……そんな簡単なことに気付いていれば、他の道だってあったかもしれないのに!」

 

 突如始まったひとりさんの嘆きに、喜多さんは呆然として言葉を失っている。喜多さんにとっては何を言っているかすら定かではないだろうから、無理もない。喜多さんを無視するかのように、ひとりさんの慟哭はタガが外れたように噴出して収まる兆しを見せないでいる。声にも嗚咽が混ざり始め、その悲痛さを一層強めていた。

 

 これはつまり、ひとりさんもわたしと同じだったということなのだろうか。誰かの人生を奪い取ってしまった悲しみ。そんな、本来抱える必要がない傷をひとりさんも抱え続けて、苦しんで。あり得るはずもなかったわたしの青春を慮って、後悔しているとでもいうのだろうか。

 

「都合の悪いことは全部、押し付けて……ギターに、逃げ続けたのに。中学の最後にはライブから、ギターからも逃げて、その人に尻拭いをさせて……私、私が、追い詰めたんです……そのせいで、ぜんぶ、わたしのせいで!」

 

 ひとりさんの抱えるギター、黒色のレスポールに涙の雫が滴り落ちている。その涙を今すぐにでも拭ってあげたかった。でも、わたしにはそんなことすらできやしない。わたしにできることはひとりさんが悲しむ必要はないのだと、言葉を尽くして教えてあげることだけだ。

 

 そうだ。ひとりさんが悲しみ、責任を感じる必要なんてどこにもない。ひとりさんの人生は本来ひとりさんだけのものであり、わたしはそのおまけのような存在に過ぎないのだから。そんなひとりさんが絶対納得しない理屈を抜きにしたって、言いたいことは山ほどあるのだ。

 

 決めたのは全部わたしなんだ。ひとりさんを優先すると決めたのも、ひとりさんの夢を応援するのだと決断したのも、わたしだ。選択をしたことによって、捨て去ってしまうものが幾つもあったとしてもだ。わたしの選択の責任はわたし自身のみが背負うべきものだから。

 

 それに、わたしは自身の選択を後悔したことなんて一つもない。今だって手に取るように思い出せる。初めてコードを抑えられるようになったと、興奮気味に見せてくれた時の顔も。投稿した動画に初めてコメントがもらえるようになったと、今までで見たこともないような満面の笑みも。そして結束バンドに加入してからのその輝きも、一つ一つがわたしの選択は間違っていなかったのだと信じさせてくれた。

 

 ひとりさんが笑顔でいてくれる。それだけでわたしは幸せで、満ち足りているのだと伝えなければ――

 

「後藤さん……ううん、ひとりちゃん。そんなことないわ」

 

「喜多さん、でも私……!」

 

 わたしが行動を起こすまでもなく、喜多さんがハンカチを手に取ってひとりさんの涙を拭ってくれていた。ひとりさんの名前を呼ぶその声はとても穏やかで、悔しいほどに頼もしいものだった。

 

「ひとりちゃん達の事情はまだ、私にはよくわからないけどね。それでもわかるの……ひとりちゃんが一日中ギターを弾き続けられたのは、どうして?」

 

「ギターを弾くのが、楽しかったから」

 

「うん、そうよね。楽しくないことなんて、誰にも続けられないの。私だってそう……だからね、ひとりちゃんの大切な人も絶対そうなのよ。ひとりちゃんのギターが好きだったから、毎日聴き続けてた」

 

 わたしが言わなければいけないことは、殆どを喜多さんが既に伝えてくれていた。初ライブの時と同じく、悲しむひとりさんに伝えるのは簡単なその一言だけでよかったのだ。わたしの小難しく回りくどい理屈なんかではなく、ひとりさんとひとりさんの音楽が大好きなんだと、それだけで。

 

 ひとりさんだけでなくわたしも、結束バンドの皆に教えられてばかりだった。

 

「だから泣かないで、ひとりちゃん。きっとその人も、ひとりちゃんが笑顔でいることを望んでいると思うから」

 

『その通りですよ、ひとりさん。わたしはひとりさんも、ひとりさんのギターも大好きですから。……ですからどうか、自信を持って。ひとりさんが積み重ねてきた人生を、否定しないであげてください』

 

 喜多さんに続く形でそっと、わたしが伝えるべき言葉を添えれば、ひとりさんは鼻を啜りながらもコクコクとはっきり頷いてくれた。わたしがひとりさんと一緒に歩んできた日々。それは決して順風満帆じゃなかったけれど、そのどれもがわたしにとっては眩しいばかりの思い出なのだ。

 

 今日の夜にでも、わたしのあらゆる言葉を持ってそれをひとりさんに教えてあげよう。ひとりさんが人の心に敏感だからと言って、言わなくても伝わるなんていう幻想に甘えたからひとりさんを苦しませてしまった。反省をして、真心と言葉を尽くさなくてはいけない。

 

「次のオーディション、絶対合格しましょうね!そして、これからたっくさんライブに出て、大切な人の分まで一緒に輝いて見せようじゃない!」

 

「……はい!私、ライブに出て売れて成功して、喜多さんと結束バンドの皆と……それからもうひとり。全員で、ちやほやされたいです!」

 

 喜多さんの勢いに溢れた明るい宣言に釣られて、ひとりさんも先程の嘆きを吹き飛ばすように大声で宣言してみせた。もう一度、輝かしいばかりの青春の一ページが更新されて。ひとりさんの表情に暗い影は既になく、前を向いて明るい表情に彩られていた。

 

 ひとりさんが今日のように迷い、落ち込んで悲しみに暮れることになったとしても。その悲しみを拭って晴らしてくれる人が傍にいる、その事実が不安定な存在のわたしの心を、なにより安心させてくれた。

 

「私、まだまだだけど……いつか、ひとりちゃんを支えられるような立派なギタリストになるわね。そして、ひとりちゃんの大切なものを大切にできるように、なってみせるから」

 

 喜多さんは立ち上がり、ひとりさんの両手を自分の両手で包み込みながら、新たに決意を加えていた。ひとりさんは喜多さんの顔をじっと見上げていて、自ずとその姿がわたしの視界に焼き付いていく。

 

 喜多さんの姿がわたしにはあまりに眩しくてどういう訳か、らしくはない未来も一瞬だけ、信じてしまえそうだった。

 




 喜多ちゃん部分だけで大分長くなり、キリも良かったので今回はここまで。次回こそは虹夏ちゃんとの自販機前での問答、纏まりが良ければオーディション本番ですね。

 週一ペースでの投稿が完全に努力目標になってるのが大変申し訳ない。今後もマイペースな更新になるかもしれませんが、何卒よろしくお願いします。


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星を掴む掌と、すり抜けて行く泡影

本当にお待たせしました。


 

「よし、今日はここまでにしようか」

 

「え、もうですか?」

 

 オーディションの本番を翌日に控えた、スタジオでの最後の練習時間。その終わりが虹夏さんの口からあっさりと告げられた。ひとりさんの視線が時計を追うと、表示されているのはいつもより一時間ほど早い時間で。最後の練習だと熱を入れていた喜多さんは、どこか拍子抜けしたように問い返していた。

 

「うん。明日のオーディションに備えて、ゆっくり休んでね」

 

 やれるだけのことはやったから、根を詰めすぎてもしょうがないということだろうか。無理に追い込みをかけて明日のパフォーマンスに支障をきたしては本末転倒、実際わたしも全面的にその通りだと思う。

 

「お疲れ」

 

「お疲れ様です」

 

『も、もう終わり?明日が本番……うっ』

 

 リョウさんや喜多さんが帰り支度を進める中、ひとりさんだけは呆然としたようにギターを構えたままでいる。練習が終わり明日のオーディションを待つだけになってしまったことで、多大な重圧が押し寄せてきたのだろう。ひとりさんの胃がキリキリと痛みを発しているのが、わたしからも感じられるのだから相当だ。

 

 ひとりさんにとっては、まだまだ不足に感じるのかもしれない。次から次へと湧き出る不安を紛らわすために、ギリギリまで自分を追い込んでしまう。昔から、それこそわたしという人格が芽生える前からひとりさんはそういう人だった。

 

『ひとりさん、帰りましょう?』

 

『でも……』

 

『きっと、たくさんの不安があるのだと思います。帰ったら、全部わたしに聞かせてください。ひとりさんの不安が和らぐまで何度でも、聞きますから……大丈夫、明日もわたしが付いていますよ』

 

『そう、だね。ありがとう、もう一人の私!』

 

 わたしの言葉でなんとか踏ん切りが付いたのか、ひとりさんも散漫ながら帰り支度を始めてくれた。ひとりさんが無理をして、自分を追い詰めてしまわないようにこうして言葉を尽くす。わたしにしかできない役割なんて思うのは、もはや自惚れなのかもしれないけど、そう在れることにほっとする。安心させられることに安心を覚える、なんておかしな話ではあるけど。

 

 勉強も運動も、友達作りに至るまで何もかも。ひとりさんなりに全力で努力して、でもその尽くが上手くいかなくて。なのに、誰を恨むのでもなく仕方がない、自分が悪いのだと諦めて俯くひとりさんの姿はもう見たくはない。

 

 だから、明日のオーディションが成功することをわたしは願って止まないでいる。わたしに出来ることはごく僅かしかないだろうけど、そのためなら何だってする所存だ。

 

「ぼっち」

 

「ひっ!?……あっ、えと、リョウさん。ど、どうしましたか?」

 

「これ、返そうと思って」

 

 背後から呼びかけと共に肩に手を置かれると、ひとりさんは盛大に狼狽えながら振り返る。そこに居たのは帰り支度を済ませたリョウさんで、手にはタッパー型の保存容器が握られている。中身はキレイさっぱりとなくなっていた。

 

 その姿を見ていると、今朝の衝撃的な出来事が自然と脳裏に思い返されてしまう。起床してスマホを確認すると『おなかすいた』と、一言だけ添えられた乱暴にも過ぎるロインがリョウさんから届いていたのだ。頼ってくれとは言ったものの、あまりの突発さと脈絡のなさに面食らったものである。

 

 そういった経緯でわたしはサンドイッチを作り、ひとりさん経由で練習前に渡してもらった。そして、食べ終えたリョウさんは容器をこうして返しに来たという次第である。

 

「あっ、どうも。ど、どうでしたか……?」

 

「美味しかった。ボリュームたっぷりなのもよかった、おかげで満腹」

 

「そ、それならよかったです」

 

 用意したのはチキンサンド。リョウさんはどうにも空腹をこじらせた様子だったので、軽食というよりはしっかりとお腹に溜まるものの方が良いと思ったからだ。まぁそれを抜きにして、作るのに慣れてるからという側面もあったけど。ひとりさんはああ見えて良く食べるし、男の子みたいな食趣向をしていて、わたしが上手に作れる料理はひとりさんの好物ばかりだから。

 

 あまり凝ったものではなかったけれど、リョウさんの口にあったのなら一安心だ。

 

「変わった味付けのソースだったけど、あれは?」

 

「あっ、ハニーマスタードだそうです。手作りで、マスタードとハチミツ以外にも色々混ぜてるみたいなんですけど、私は詳しいことはあんまり……」

 

「凝ってるね、得した気分。……ぼっちはいつも、こういうの作って貰ってるの?」

 

「……お母さんがいない時はいつも、わたしの好物を作ってくれるんです。あ、あと、ギターの練習にのめり込んだ時は、夜食も作ってくれたり」

 

「そっか、羨ましい」

 

「……え、へへ、数少ない私の自慢話です」

 

 独特のテンポでお互い語り合い、締めくくりに小さく笑い合う。作詞を見てもらってからというもの、ひとりさんとリョウさんは随分と仲良くなった。ひとりさんは物怖じせずに自分のことを喋るようになったし、リョウさんは言葉少ないながらもひとりさんの話をよく聞いてくれる。なにより、二人とも波長が合うのか、妙な連帯感を見せ始めている。二人だけで仲良くなり過ぎ、なんて喜多さんが嫉妬してしまうこともあるくらいだ。

 

 そんな二人の通じ合っている不思議な空気感は、正直わたしすら理解できないでいる。例えばそう、サンドイッチを作ったのがひとりさんではない第三者であるかのように、二人が当たり前に喋っていることもそうだ。言葉を交わすまでもなく、誰が作ったのかなんて暗黙の了解だとばかりに会話を進行できるその理由もさっぱりわからない。

 

 ひとりさんとリョウさんの仲が深まっているのはもちろんいいことだ。だけど、わたしのような曖昧な存在を紛れ込ませながら通じ合っているのは、果たして喜ぶべきことなのだろうか。それを問いかけるような勇気を、わたしは持ち合わせていない。

 

「ぼっちからお礼を言っておいて欲しい。ありがとう、美味しかった。また食べたいって」

 

「……は、はい!きっと、喜んでくれると思います」

 

『だよね、もう一人の私』

 

『ええ、もちろんです』

 

 リョウさんから差し出された容器を受け取り、ひとりさんがお礼の言葉をわたしへと運んでくれる。考えるまでもなく、頷く。わたしには勿体なさ過ぎる言葉だ。本来、そのお礼も何もかもわたしが受け取るはずではなかったのだから。

 

「それじゃ、また明日」

 

「あっはい、また明日です……」

 

『私達も帰ろっか』

 

『そう、ですね』

 

 STARRYから出て、ひとりさんがリョウさんとは反対方向の帰路を歩いて行く。『ありがとう、美味しかった』先程のリョウさんの言葉が、反響して何度も繰り返されていた。ひとりさんとふたり以外から、お礼を言われたことなんていつ振りだろうか。

 

 正直に言えば、わたしは今浮かれているのだろう。自分の行いが正しく認識されて、評価し感謝されることに言いようのない嬉しさを感じてしまっている。でも、この胸の高鳴りは決して健全なものではない。この高揚感に身を任せてしまえば、あっという間にひとりさんの立場を奪い去ってしまいかねないから。

 

 だから本来、今すぐわたしは身を引いてこの宙ぶらりんな関係に終止符を打つべきなのに。そうすることができずにいるのは、どうしてだろうか。リョウさんとひとりさんの良好な関係を崩したくないというのが一番の理由だけど、それだけではないような気もしている。

 

 ふと思い返してしまうのは、今朝のお母さんの姿。友達に料理を作るからキッチンを借りたい。そう告げた時の驚いたような、そして強く安堵したように微笑んだお母さんの表情が、こびりついて離れない。わたしはその顔を直視できなくて、芽生えた罪悪感が見当違いなものであると自分に言い聞かせ続けるしかなかった。

 

 お母さんにお父さん、そしてリョウさん。彼らはいったいわたしにどういう在り方を望んでいるのだろう。わからない、一つもわかりやしない。そもそも、そんな考えを抱いてしまうことそのものが、わたしの弱さであり甘えでしかないのかもしれなかった。

 

「おーい、ぼっちちゃーーーん!!」

 

 泥沼のような思考、それを遮ったのは耳に馴染むようになってきた底抜けに明るい声色。びくりと肩を震わせながらひとりさんが振り返ると、トレードマークのサイドテールを揺らしながら虹夏さんが駆け寄ってきているところだった。

 

『虹夏ちゃん?どうしたんだろう……』

 

『忘れ物はしていないはずですけど……』

 

 先程解散を言い渡した虹夏ちゃんがこうして後を追いかけてきた理由がわからず、二人揃って疑問符を浮かべてしまう。うっかりわたしが何かやらかしてしまった可能性も考えてみたが、思い当たる節が一つもなかった。

 

「急に引き留めてごめんね。驚かせちゃったかな」

 

「あっ、いえ」

 

「コーラでいい?」

 

「えっ。あ、あの……は、はい?」

 

 こちらに追いつくなり、徐に財布を取り出しては自販機で飲み物を奢ろうとする虹夏さんに、ひとりさんは大混乱だ。わざわざ解散した後にこうする辺り、おそらく二人きりで話したいことがあるのだと思う。ただ、虹夏さんにしては少し、回りくどいやり方だとも感じられた。

 

「それとも、実は他の飲み物の方が良かったりする?」

 

「えっ……」

 

「ぼっちちゃんっていつもコーラ飲んでるけど、たまーに飲みづらそうにしてるなって思ったんだ。打ち上げの時とかアー写撮影の時とか……だから、実は苦手だったりするのかなって」

 

 鋭い指摘に、少しだけドキリとする。コーラは嫌いじゃないけど、少しだけ苦手だ。炭酸の刺激が強くて、ちびちびと啜るようにして飲まないとむせ返りそうになってしまうから。少しでもひとりさんとの違いを隠そうと無理して飲んでいたが、完全に裏目に出ている。

 

 わたしがあまりひとりさんのフリが上手じゃないとはいえ、そんな些細なことに虹夏さんはよく気付いたものだと思う。それだけ虹夏さんがひとりさんを気にかけてくれているという証で、本当にありがたいことだった。

 

「こ、コーラは大好きです。……ただその、上手に飲めないような気分の日もある、といいますか」

 

「ふふ、なにそれ。じゃあ、今日のぼっちちゃんはどういう気分?」

 

「あっ、今日は飲みたい気分です、はい」

 

「よし、それじゃあコーラをどうぞ!」

 

 虹夏さんから差し出されるコーラを、ひとりさんがお礼を言いながら恭しく受け取る。虹夏さんとも最初から比べれば、随分と打ち解けた。最初は何を話すにもわたしの助言を求めていたひとりさんが、尻込みせず自分の考えだけで喋れるようにまでなったのだから。

 

 ひとりさんの言い訳は正直かなり無理があるけども、それを嫌な顔一つすら見せずに笑顔で受け止めてくれるのだから。虹夏さんは面倒見が良過ぎるし、優しくて。裏に潜んでいるだけのわたしすらも、照らされているような錯覚を抱いてしまうくらいに、眩しい。

 

「あっあの、虹夏ちゃん。その、これはどういう……」

 

「うーんとね……あたしって、ぼっちちゃんのこと本当に何も知らないんだなーって、思っちゃったの」

 

「え、いや、そんなことないと思いますけど……」

 

 少し困ったように笑う虹夏さんの言葉に、わたしが抱いた感想はひとりさんと全く同じものだった。そんなことはない、むしろ虹夏さんほどひとりさんを理解してくれる人なんて何処を探してもいやしない。

 

 虹夏さんがひとりさんの弱さと強さ、ギターやライブへの熱情や憧れを受け止めてくれたからこそ、ひとりさんの充実した今が存在している。だから虹夏さんの至った結論は、見当違いな杞憂に思えてならなかった。

 

「お姉ちゃんにね、言われちゃったんだ。リーダーならちゃんとバンドメンバーのことを見てやれって」

 

「て、店長さんにですか……?」

 

「うん。あたしなりに皆のこと気にしてたつもりではあったんだけど、よく考えたらぼっちちゃんのことは全然でさ。好きなものとか、バンドやってる理由とか、たまに浮かべてる凄く辛そうな表情……そういうの、何も知らないまんまだなーって」

 

 星歌さんからの言いつけ、それは明らかにわたしに対する配慮に他ならないように思えた。そうでなければ、敢えて星歌さんが虹夏さんにそんな苦言を呈する理由は一つもないのだから。言うまでもなく、虹夏さんは結束バンドの皆をよく気にかけている。わたしを、除いて。

 

 両親、リョウさん、そして星歌さん。わからない、わたしにとってままならないことばかりが増えていく。虹夏さんの気付きの何割かは、錯覚だ。ひとりさんのことをよく知っているからこそ、わたしの影がちらついたときに惑わされてしまうだけ。そんな誤解に虹夏さんが悩む必要なんて、ありはしないはずなのに。どうして、星歌さんはそんな言葉を告げてしまったのだろう。

 

「ぼっちちゃんはさ、結束バンドに入ってからずっと無理しながら頑張ってくれてるよね?」

 

「む、むむむむ無理だなんてそんな……!?」

 

「流石にそれくらいあたしでもわかるよー。最初のライブもバイトも、喜多ちゃんを引き留めた時だって、人見知りのぼっちちゃんにはすっごく高いハードルがあったことくらいはさ」

 

「し、小心者ですいません……」

 

「違う違う、だから褒めてるの!怖くて、泣きそうなのを我慢してるのがこっちからわかるくらいなのに、ぼっちちゃんはいつも一生懸命だったから。……結束バンドのためにそこまでしてくれることが、凄く嬉しかったんだ」

 

「虹夏ちゃん……」

 

 実際、結束バンドに入ってからの日々はひとりさんにとって無理難題の連続であった。それでも、ひとりさんは極力わたしを頼らずに懸命に今日という日まで歩んできた。そこに至るまでの感情と努力を、こうして虹夏さんはきちんと把握してくれている。何も知らないなんて、どう考えたって間違っている。

 

 虹夏さんからの屈託のない褒め言葉。ひとりさんなら有頂天になって不思議じゃない場面。なのにひとりさんの様子がどこか浮かないのは、普段底抜けに明るい虹夏さんの表情に陰りが見えているからだろうか。

 

「なのに、あたしがぼっちちゃんのことを知らないのがちょっと申し訳ないなー、なんて。……アー写撮影の日みたいに、苦しそうなぼっちちゃんのことは何もわかってあげられなくてさ」

 

 自嘲したように喋る虹夏さんの姿が、見ていられない。ひとりさんも同じなのか、いつも以上に俯きがちだった。虹夏さんがわからないのは、やはりわたしが表に出てる場面の時ばかりで。わたしのことなんて知る必要もなく、思い悩むことなんて一つもないのだと叫びたい衝動に駆られる。

 

 しかし、わたしにそれを伝える手段は一つもなく。そんな酷なことをひとりさんに代わりに伝えさせる訳にもいかない。ただ無情に、わたしを蚊帳の外にしてひとりさんと虹夏さんの会話が続いていく。

 

「ね、ぼっちちゃんはどうしてそんなに頑張れるの?もし良かったら、教えてくれないかな?」

 

「……い、いつも見守ってくれる人が、居るからです。わ、私の心に寄り添ってくれて……だ、だから頑張れるんだと、思います」

 

 ひとりさんのことをもっと知るためにか、虹夏さんが問いかける。しかし、真摯に答えるひとりさんだからこそ、その内容の淵にはわたしの存在が仄めかされていて。どうしようもなく歪で、もどかしい会話の応酬。わたしの存在こそが二人の関係の妨げになっているんじゃないか、そんな恐怖が迫り上がってくるようだった。

 

「それって、前に話してくれた人だよね。確か、いつもぼっちちゃんにギターを弾いてくれる人」

 

「えっ??……あっ!そそそ、そうです、憧れの人なんです!」

 

「大好きだーって熱く語ってくれたもんね。そっか、ぼっちちゃんは大切な家族が居るから頑張れるんだね……あたしも、わかる気がする」

 

『ごめんなさい、ひとりさん……虹夏さんの内に更なる誤解が』

 

『う、ううん、気にしないで。……もう一人の私がそう思ってくれるのは、凄く嬉しいし』

 

 打ち上げの日のわたしのやらかしが尾を引いて、先程までとは別種の息苦しさがわたしに襲いかかって来る。ひとりさんがあまりにも寛大で、純粋にも照れたように喜んでくれることだけが救いだった。

 

 ひとりさんがこうしてわたしを純粋に慕い好いてくれる内は、わたし自身を否定するような言動や思考は慎むべきなのはわかっている。だとしたら、実像のない残影を探して思い悩む虹夏さんは、このまま捨て置かれるしかないのだろうか。そんな不条理を、あまり受け止めたくはなかった。

 

「教えてくれてありがと。……実はね、リョウにもぼっちちゃんのことを聞いたんだ」

 

「リョウさんに、ですか……?」

 

「うん、最近仲良さそうだから色々知ってるんじゃないかと思ってね。そしたら『ひとりのことは共有するんじゃなくて、虹夏自身が気づいてあげるべきだと思う』って……あのリョウがさ、凄い真面目な顔でそう言ったんだ」

 

 虹夏さんにとってリョウさんは同じ学校に通う友達であり幼馴染み。悩みを抱えた時に、相談する相手として頼るのは当然のことだった。

 

 わたしはリョウさんに口止めをしていない、することもできない。だからリョウさんはわたし達に対する見解を虹夏さんに話すこともできたはずだ。むしろ、思い悩む虹夏さんの疑問を解消してあげるためにそうした方が自然だったはず。なのにリョウさんがその選択を取らなかった理由は、それを望まない誰かが居ることを察していたからとしか思えなかった。

 

 星歌さんにせよリョウさんにせよ、抱いた違和感を吹聴しないでくれているのはきっと優しさからなのだろう。わたしという存在は後藤家と同様に、STARRYでも誰かの善意によってその存在を許容されている。善意によって生かされている身なのに、それを返すどころか仇で返しているこの現状が、ただただ息苦しい。

 

「リョウがそんな風に言うからさ、あたしはぼっちちゃんの大切なことに気付けてないんだってわかっちゃったの。……リーダーとして情けないっていうか、ちょっと自信なくしちゃって」

 

『どうしよう、虹夏ちゃん落ち込んでる……ど、どうして私は気の利いた言葉の一つも思い付かないんだろう……』

 

『いえ、ひとりさんが悪い訳では……』

 

 ひとりさんは何一つ悪くない。この場でひとりさんが言えるようなことなんて、あまりにも限られている。もちろん虹夏さんだって何も悪くない。虹夏さんは真面目だから、結束バンドのためにひとりさんを理解しようとしているだけなのだから。

 

 言うまでもなく、悪いのは全部わたしだった。どう考えたって、中途半端に自分の影を踏ませてしまったわたしが悪いに決まっている。

 

『……でも、もう一人の私ならきっと。虹夏ちゃんに伝えてあげられる言葉がたくさん、あるんだよね?』

 

『それは、ないとは言いませんけど……』

 

『だよね。いつだって、もう一人の私は何度も私を励ましてくれたもん。……だから私だけじゃなくて虹夏ちゃんにも、そうしてあげてくれないかな』

 

 ひとりさんの言う通り、虹夏さんに言ってあげたいことは山ほどある。わたしなんかの言葉にどれほどの意味があるかはともかくとして、ずっと伝えたい感謝が山ほど積み重なっている。ただ、それを伝えるのが正しいことなのだろうか。本当に虹夏さんに必要なのはひとりさんの言葉で、わたしがこれ以上喋るのは二人の誤解を深めるだけなんじゃないか。わたしはひとりさん以外への誰かへの気持ちを、それほど信用できていない。

 

『ひとりさん……でも、わたしは』

 

『大丈夫。私ともう一人の私、虹夏ちゃんへの気持ちは全部一緒のはずだから……お願い、もう一人の私』

 

 お願いという形を取ってはいるものの、これはひとりさんのわたしへの心遣いに違いない。リョウさんや星歌さんの時と同じ、わたしが傷つかないようにという優しさにあふれてる取り計らい。大丈夫なんて断定的な言葉を使うのは、ひとりさんにとってとても勇気のいる行動だったはずだ。だから少なくとも、わたしがその勇気に背く訳にはいかなかった。

 

 大丈夫、そう、大丈夫。わたし自身の思考すら信用ならないけど、他ならぬひとりさんの言葉なら信じられるような気がした。

 

「……ごめんね、急にこんな話。困っちゃうよね」

 

「虹夏さん!!」

 

「……うぇっ!?ど、どうしたのぼっちちゃん?」

 

 ひとりさんの勇気と信頼に応える、その覚悟を決めた時にはすでにわたしの意識が表に浮上していた。真っ先に視界に映った虹夏さんは、一層その表情に影を落としていて。その姿を確認した瞬間、わたしは居てもたってもいられずに、気づけば大きな声を出してその名前を呼んでしまっていた。

 

 ひとりさんには似つかわしくない、お腹から通る張り詰めた声。そして、どう考えたって致命的な呼び間違え。でも、そんなことに割く余裕すらないほどにわたしの思考は目の前の虹夏さんについていっぱいいっぱいで、喋りだす口も今更止まってくれる様子はなかった。

 

「わたしはあの時、虹夏さんが声をかけてくれて嬉しかった!!」

 

 あの日、虹夏さんがひとりさんに気付いてくれたからすべてが始まった。ひとりさんの青春、バンド、ロック。ひとりさんが率先して表舞台に立ち、大切な誰かと笑いあう光景。願ってやまなくて、でもわたしが与えてあげられなかったそれを与えてくれたのは、間違いなく虹夏さんだった。

 

「虹夏さんが手を引いてくれたのがとても心強かった。心が折れかけた時、カッコ悪くなんかないって。虹夏さんが努力をわかろうとしてくれたことに、とても救われました!」

 

 背筋を伸ばし、真っ直ぐに虹夏さんを見据えてただ思いついた言葉を吐き出し続ける。虹夏さんは明らかに戸惑っているけれど、その暗い表情を払拭できるのならいくらでも言葉を費やす価値はあるように思えた。

 

「虹夏さんが連れてきてくれた場所。STARRYに結束バンドは、本当に素敵な場所でした。みんな優しくて、毎日がキラキラしていて楽しくて……わたしには、勿体無いほどで。それは、虹夏さんのお陰なんです」

 

「そんな、むしろあたしがぼっちちゃんに助けられてーー」

 

「同じくらい、わたしも助けて貰いました。……感謝してもしきれないほどに。本当に、ありがとうございます」

 

 喉のつかえが取れたかのように、口にすることはできないと思っていた感謝の言葉がすらすらと出てくれる。わたしは優しくない、ひとりさん以外にはどうやったって本質から優しくは在れない。でもひとりさんの優しさなら信じることはできるから、その優しさを借りることでわたしも優しく在れるような気持ちになれた。

 

「虹夏さんのお陰で今の、結束バンドの後藤ひとりがいます。虹夏さんがわたしのことを何も知らないなんてことは決してありません!だから……いつもの前向きで笑顔な虹夏さんのまま、進み続けて欲しいんです」

 

「……もう、ずるいなぁぼっちちゃんは」

 

 虹夏さんがわたしの顔を真正面から見据えて、笑いかけてくれている。自分勝手に言いたいことだけを虹夏さんに押し付けておきながら自身の正体はひた隠しにして、確かに私はずるいことをしているのかもしれない。それでも、卑怯で恥知らずな行いだったとしても。いつもの朗らかな笑みを虹夏さんが取り戻してくれたのならば、わたしの行動には意義があったのだと思いたかった。

 

「こんな時ばっかり頼もしくなって……そんな風に言われたら、あたしはもう頷くしかないじゃん」

 

「す、すいません。勝手なことばかり言って……」

 

「謝らないでよ、嬉しかったんだから!……うん、ぼっちちゃんがこんなに信じてくれるんだもん。あたしがへこたれてちゃ駄目だよね、よし元気出た!」

 

 虹夏さんが頬を両手で軽く包み、ぽんぽんと優しく叩いて佇まいを直す。そうすると、底抜けに明るくていつもみんなを引っ張ってくれる結束バンドのリーダーの姿に戻ってくれていた。

 

「明日のオーディション、絶対成功させよう。そして、絶対お姉ちゃんをぎゃふんと言わせてやるんだから!」

 

「はい、頑張りましょう」

 

『い、いつもの虹夏ちゃんだ……。私の言いたかったことを全部言ってくれた。ありがとう、もう一人の私』

 

『いえ、わたしはその……大したことはしていませんから』

 

 片腕を空に向けて突き上げて気合を入れる虹夏さんに合わせて、ひとりさんの代わりに明日への意気込みを込めて頷く。ひとりさんがお礼を言ってくれるが、本当にわたしは何も大それたことをしていない。ひとりさんとわたしが受けた虹夏さんへの恩、それに比べればわたしの費やした言葉なんてちっぽけなものだ。

 

「虹夏さっ……虹夏ちゃんこそ、無理はしていませんか?」

 

「えっ、あたし?」

 

 虹夏さんが元気を取り戻してくれた安堵感からか、わたしの口は軽くなって余計な言葉を吐いてしまう。ひとりさんからの体裁ばかりの頼まれごとが済んだ以上、まったく持って余計な質問でしかない。それでも、思わず気になってしまうくらいには常々わたしが心配していたことだった。

 

「学校での勉強にバンド、ライブハウスの手伝いに家事までしてるんですよね?なのに、今みたいにわたしたちバンドメンバーのことまで気にかけてくれて。そんなの、大変じゃないはずないです……無理は、していませんか?」

 

「よくみてるね、ぼっちちゃんは。うん……確かに、これっぽっちも無理をしていないかって言うと嘘になるかも」

 

 結束バンドの中で一番無理をしているのは虹夏さんなんじゃないか。そんなわたしの予想は、本人の口から呆気なく肯定をされた。虹夏さんの通う学校は進学校である下北沢高校で、成績を維持するためには決して片手間で済ませられる勉強量ではないはずだった。

 

 バンドに全力な虹夏さんはもちろんライブの練習には一番熱を入れている。その上で毎日のようにライブハウスの仕事をして、家事すらもたくさん虹夏さんが請け負っていると聞いたことがあった。とてもじゃないが、普通の女子高生のキャパシティを超えてしまっている。そんなわたしの嫌な懸念は、当たってしまっていたらしい。

 

「でもね、あたしには夢があるから!だから、少しの無理くらいはへっちゃらなんだ」

 

「……虹夏ちゃんの、夢って?」

 

 無理をしている。そんな疲労感を一切感じさせないほどに、夢があると宣言する虹夏さんの姿は眩しかった。その在りようがあまりにもわたしとはかけ離れ過ぎていて、思わず聞き返したことを即座に後悔する。

 

 少なくとも、わたしが問うべきではない内容だから。わたしが夢を聞いたところでその重みを受け止めることはできない、一緒に背負うことなんて言わずもがなだ。虹夏さんと一緒に夢を観れるのはひとりさんなのだから、わたしが介在すべきではなかったのに。

 

「……うーんとね、内緒」

 

「えっ?」

 

「喋っちゃったらさ、きっとぼっちちゃんは今以上に無理しちゃうでしょ?だから、あたしだけそうやって背負わせちゃうのはなんか違うかなって」

 

 虹夏さんの説明は、わたしにも腑に落ちるものだった。確かに、虹夏さんの夢を聞いたらひとりさんは今以上に奮起するに違いない。でもそれは、いけないことなのだろうか。

 

 虹夏さんからはこれ以上何か背負わせてはいけないと思うほどに、ひとりさんが重荷を背負っているように見えるのだろうか。実際にわたしが背負わせてしまっていると言われれば、否定する言葉をわたしは持っていないけれど。

 

「あたしね、ぼっちちゃんのことをちゃんと理解してあげたい……結束バンドのリーダーとして、ぼっちちゃんの全部を背負ってあげられるようになるから!だからそれまで、ぼっちちゃんには秘密だよっ!!」

 

「虹夏さん、それは……」

 

「じゃ、明日よろしくね〜!」

 

 わたしは、虹夏さんに手を差し伸べられるべき存在ではない。虹夏さんが背負ってくれるのは、ひとりさんの気持ちだけで充分なのに。掴んでも、いつか溶けて消えて行くような存在を気にかけてしまうのは虚しいだけ。それを伝えられる言葉はわたしにはなく、引き留めようと伸ばした手も空を切るだけだった。

 

 意気揚々と走り去って行く虹夏さんの姿を、茫然と見送る。空虚な誓い、きっと果たされない秘密の共有。そんな無意味なものを虹夏さんに掴ませてしまったのに、胸の内は暖かく鼓動は激しく波打っているのが、いつまで経っても解せないでいた。

 

『帰ろう、もう一人の私』

 

『……すいません。ええ、そうですね』

 

 余韻に浸るようにいつまでも突っ立っていたところを、ひとりさんに声をかけられて正気に戻る。言われるがままに、熱に浮かされた身体から逃げるようにひとりさんへと身体を明け渡した。

 

「虹夏ちゃんの夢ってなんだろう?やっぱり売れて武道館ライブ、なのかな」

 

『どうでしょう。もしかしたら、もっと壮大な夢かもしれませんね』

 

 再び帰路を歩くひとりさんと、会話に花を咲かせる。意図的か無意識かはわからないけど、わたしと虹夏さんの関係については一切触れないでくれるのがありがたかった。その話題について、今のわたしは上手に言葉を尽くせる気がしなかったから。

 

 虹夏さんの夢については、バンドとライブに関係ありそうなことしかわからない。けれど、一生懸命に突き進む虹夏さんの夢は一際素敵なものに違いないと、不思議と確信できるような気がしていた。

 

「もう一人の私には……夢ってある?」

 

『わたしの夢、ですか?』

 

 ひとりさんからの唐突な問いかけに、頭を悩ませる。わたしの夢は、ひとりさんの夢であるべきだ。わたしの存在意義からいっても、それ以外は決して望んでいけないことは自分に言い聞かせている。しかし、それはきっとひとりさんの求めている答えではないことも理解できてしまう。

 

 わたし自身の夢、望み。考えた時に浮かんだのは、ふたりがわたしのために描き足してくれた一枚の絵だった。虹夏さんにリョウさんと喜多さんにひとりさん、その隣に当たり前のようにわたしが笑っている。そんな絵空事。

 

 それは紛れもなくわたしの理想の光景で、夢といって差し支えないものに違いなかった。

 

『これからもひとりさんの側で、結束バンドの皆さんを見守り続けること。……でしょうか』

 

「それが、もう一人の私の夢……なの?」

 

『はい』

 

 わたしの存在限界はおそらく、結束バンドの最終的な活動時間と比べれば圧倒的に短いのだと思う。いくら察しが良くても、そんなニュアンスはひとりさんに伝わっていないだろう。わたしが見届けられるのは多分ひとりさんが一人前になるまでで、結束バンドの終着点を見届けることはない。だからこそ、これは紛れもなく夢なんだ。

 

 特段悲しむことではないだろう。誰にだって遅かれ早かれ終わりは訪れるものだし、夢半ばで破れる人間なんていうのは五万といる。わたしはそれが、ほんの少し早いだけに過ぎないのだから。そうでも思わなくては、とてもやり切れそうにない。

 

「そっか……私、分かったような気がする」

 

『ひとりさん?急にどうしたんです?』

 

「やっと見つけたんだ、バンドのために私ができること……明日のオーディション。もう一人の私は手を貸さないで、ただ見守ってて欲しいんだ」

 

 急に足を止めたひとりさんから告げられた言葉は、オーディションへの重圧に押し潰されそうだった先程からは考えられないもので、つい耳を疑ってしまう。しかし、ひとりさんの声には確かな決意が込められていて、それがいつもの単なる思いつきの類でないことは明白だった。だからわたしも、真剣に耳を傾けざるを得ない。

 

『それは、一人だけでステージの上に立つということでしょうか?』

 

「う、うん。……明日はもう一人の私のアドバイスにも、応援にも頼らない。私だけの力で、演奏を乗り切らなきゃいけないと思うんだ」

 

『明日のオーディションは結束バンドの今後を左右するかもしれない、重要な局面です……それでも、ひとりさんはそうすることを選ぶんですね?』

 

「うん!結束バンドのために……なにより、私達のために。頑張りたいから」

 

 試すかのように不安を煽るような言葉選びをしても、ひとりさんが揺らぐことはなかった。それだけ、意志は固いのだろう。ならばもう、わたしから言えるようなことは何もない。わたしがひとりさんの成長を阻むようなことは、あってはならないから。

 

 ひとりさんの中でどういう結論が下されたのかはわからないが、目指すべき道が見えたのかもしれない。わたしに頼らずステージの上で演奏できるようになること。それが一番の成長なのだと分かりきっていたのだから、ひとりさんは自らの手でその最善手を選ぶことができたということなのだろう。

 

 ひとりさんはもう、誰かの導きがなくとも成長していける。喜ぶべきことだ、決して寂しいなどと考えてはいけない。何度だって自分に言い聞かせて見せる。この感情を悟られぬように、努めて明るい声を絞り出す。

 

『わかりました、ひとりさんの意思を尊重します。でも、忘れないでください……わたしはずっと、ひとりさんの側で見守っていますから』

 

『ありがとう。……こ、怖いし、心細いけど。夢を叶えられるって信じられる演奏を、きっとやってみせるから』

 

 力強い宣言と共に、ひとりさんが星空へと手を伸ばす。ひとりさんにはこの星々がどう見えているだろうか。今にも掴めそうなほど、近くに感じられているだろうか。そうであって欲しい。眩い星座の輪に自分の居場所があると信じられるようになったらもう、ひとりさんは大丈夫なはずだから。

 

 わたしの手からすり抜けてゆく何もかもが、ひとりさんの掌にそっと受け止められて、糧となりますように。

 

 

 

「結束バンドです」

 

 ついに、オーディション決行の瞬間を迎えた。ステージの上に立つ結束バンドの皆は、挨拶をしたリーダーの虹夏さんを含めて緊張を隠せない表情をしている。あのいつもは飄々としたリョウさんですらそうなのだから、皆のこの日に掛ける想いの強さがわたしにすら伝わってきていた。

 

 観客席に座るのは、審査員である星歌さんとPAさんだけ。星歌さんの表情は険しく、そこからは評価に一切の妥協はしないという厳しさがありありと現れていて。それが皆の緊張をより一層と高めている。

 

 でも、この中で一番緊張してしまっているのはやはりひとりさんだった。胃はキリキリと痛みを発し、頭痛は鳴り止まない。腕や脚は気を抜けば震え出してしまいそうで、抑えるために力を込めて身体はガチガチだ。目眩すらしてきそうで、この場に立っているだけで限界なのがわたしには鮮明に感じられた。

 

 かく言うわたしも、限界ギリギリだった。気を抜けば叫び出してしまいそうなくらい、今すぐにでもひとりさんに声援を送り勇気付けてあげたかった。暴走する衝動を喉元で押さえ込み、意識の奥でそっと息を潜める。わたしの勝手で、ひとりさんの勇気と挑戦を踏み躙ってはいけないから。ただその頑張りが報われますようにと、祈りを込めるだけだ。

 

「じゃあ、『ギターと孤独と蒼い惑星』って曲、やりまーす!」

 

 少し上擦った虹夏さんの宣言を合図に、演奏の瞬間が今や今やと近づいて行く。四人で顔を合わせアイコンタクト、準備は万端だった。正面へと向き直り、ひとりさんは一つ大きく深呼吸をした。力の入った手脚から力を抜くように。そして、自身の内にある何かを確かめるかのように。

 

『見ていてね、もう一人の私!』

 

 もちろん、意識の底で何度だって頷く。片時だって目を離すことはない、奏でる音色は一つだって聞き漏らすつもりはない。ひとりさんには結束バンドの皆が居て、もちろんわたしだって側にいる。それが伝わるように、ただ想いを馳せていた。

 

 

 虹夏さんのシンバルの音を合図として、結束バンドの演奏の幕が切って落とされる。わたしが何度も練習を通して聞いた、四重奏。わたしだからこそわかってしまう、いつもと違いどこか息苦しそうな音を奏でるひとりさんのギターが、耳につくような演奏。今日という日も、例外なくひとりさんはその本領を発揮できていなかった。

 

【突然降る夕立 あぁ傘もないや嫌 空のご機嫌なんか知らない】

 

 最初のライブとは違い、今回は喜多さんがいるからボーカルが載っている。だというのに、わたしは既視感に襲われていた。このオーディションでの演奏は初めのライブによく似ている。どうしようもなくそう感じてしまっているわたしがいた。

 

 あの日のライブとは何もかも違うはず。ギターボーカルの喜多さんが加わり、曲だって結束バンドのオリジナルだ。なのにそんな印象を抱いてしまうのは、結束バンドの演奏の本質が始めと何も変わっていないからなのかもしれない。

 

 喜多さんの歌声は力強いけど、ギターの方はまだ発展途上だ。時折もたつくし、ストロークもぎこちない。でもそれは仕方のないことだ。喜多さんのギター経験を考えれば、ギターとボーカルを両立しているだけであまりにも上出来なのだから。

 

 それ以上に気にかかるのはやはり、ひとりさんのギターと噛み合わないことだろう。ひとりさんは突っ走らないように、何処か抑えたような縮こまった演奏をしてしまっている。喜多さんは自信がないのに、ひとりさんも似たようなギターを奏でているから思うように合わせられず、二人のギターはどうにも足並みが揃わない。

 

【季節の変わり目の服は 何着りゃいいんだろ】

 

 もちろん、リョウさんと虹夏さんのフォローは手厚い。経験に裏打ちされた安定感のある演奏で、不安定な二人のギターを制御し導いてくれている。このライブが破綻していないのは二人のお陰だと、わたしにもわかるくらいに。リズム隊が上手ければバンドは成立する、それを体現するかのようだった。

 

 それこそが、最初のライブと同じと感じてしまう原因なのだろう。危ういギターを、ベースとドラムが必死にフォローするから成り立つバンド。最初のライブから何一つ変わっていないことの、証左になってしまうのかもしれない。

 

【春と秋 どこいっちゃったんだよ】

 

 聴ける演奏になっている、普通の女子高生バンドならそれで充分だ。でも結束バンドの目指す先は、虹夏さんの志す夢の先はそんな小さな場所ではないはずだ。なによりこれでは、星歌さんは決して納得してはくれそうにない。

 

 大丈夫だろうか、そんな不安がわたしの感情を支配する。けれど、メンバーではないわたしにできることは、結束バンドの皆とひとりさんを信じることだけ。ただ信じて待つということが、こんなにも苦しいことだなんて知らなかった。

 

【息も出来ない 情報の圧力】

 

『結局成長ってなにか、わからなかった』

 

 喜多さんの歌声と共に、ひとりさんの声が脳裏に響く。これは多分、わたしに向けられたものじゃない。ギターを奏でることに夢中で、そこに向ける想いを強く念じてしまっているから。それが勝手にわたしにも伝わっているだけなんだろう。

 

『でも、今私はこの結束バンドの皆でちやほやされて、バンドをし続けたい……虹夏ちゃんの本当の夢も叶えてあげたい』

 

 伝わってくるのは、ひとりさんの結束バンドに掛ける願いと覚悟。毎日のように明日を怖がっていたひとりさんが、誰かとの未来を望んでいる。自分のことですらいっぱいいっぱいだったひとりさんが、大切な人の夢を背負えるようになろうともがいている。その一つ一つが、紛れもなくひとりさんの成長に他ならなかった。

 

【めまいの螺旋だ わたしはどこにいる】

 

『なにより、もう一人の私のために』

 

 唐突に流れてくる、わたしに宛てられたそのメッセージに思考が停止する。何故、どうして。そんな混乱する感情がひとりさんに影響を与えないように、堰き止めるのが精一杯だった。

 

『もう一人の私は、私と同じくらい結束バンドに特別な想いを抱いてくれている。ギターしかなかった私と同じ夢を、見ようとしてくれている……もう一人の私には、違う道がいくらでもあったはずなのに』

 

 ひとりさんの思考が加速すると共に、身体がどんどんと前へと傾いて行く。まるで沈み込むように、音にのめり込んでいくように。わたしは視線から覗く光景を、ただ息を呑んで見守っている。

 

【こんなに こんなに 息の音がするのに】

 

『もう一人の私はこんなに素敵な場所に、私を連れてきてくれた。一緒に歩いてくれた……今度は、私の番。結束バンドの皆と一緒に、たくさんの素敵な光景を見せてあげたい!』

 

【変だね 世界の音がしない】

 

『だからこんな所で、私は立ち止まってなんていられないんだっ!』

 

 サビへとたどり着くその瞬間。ひとりさんが地面を踏み締めて、一条の雷が轟いた。わたしが何百何千と聴き続けた、わたしの世界と言っても過言ではない音色。ギターヒーローの演奏が、ステージ上へと鳴り響いていた。

 

【足りない 足りない 誰にも気づかれない】

 

 ひとりさんのギターが、ギアを突然あげたかのように激しさを増す。歌うようなギタービブラートに、力強いストローク。ギターヒーローとしての技巧を脇目も振らず、暴力的に叩きつけて行く。私の音を聞け、ついて来いと訴えかけるように。

 

【殴り書きみたいな音 出せない状態で叫んだよ】

 

 リョウさんのベースと虹夏さんのドラムも、ひとりさんの変化に即座に対応して合わせ方を変えてくれている。ひとりさんのギターを補う演奏から、ひとりさんの演奏を引き立ててくれる演奏へ。その瞬間から、はっきりと分かるほどに音の一体感が底上げされた。

 

【「ありのまま」なんて 誰に見せるんだ】

 

 喜多さんもまた、ひとりさんという指標を見出したことでギターの安定感がグッと増した。喜多さんがひとりさんの音を信じ掻き鳴らすことで、ギターの演奏も噛み合い調和が取れる。

 

 そして喜多さんがひとりさんの叫びを、届けてくれる。本当ならか細く、途中で掻き消されてしまいそうな切実な声を、透き通る声で響かせてくれる喜多さんの存在が心強かった。これこそが、結束バンドの音楽だと感じさせてくれる何かが確かに存在していた。

 

 ひとりさんだけのギターとは違う。私を落ち着かせて、没頭させてくれる音楽とは別種の良さがあった。こんな冷めたわたしでも、思わず興奮してしまうような。共感を覚えて、こんなわたしでも夢を信じて良いのだと思わせてくれる演奏。いつの間にかわたしは、ひとりさんの残した言葉の意味すら考えるのを放棄して、ただ奏でる音に没頭していた。

 

 今この瞬間、わたしは本当の意味で結束バンドのファンになったのかもしれない。

 

【馬鹿なわたしは歌うだけ ぶちまけちゃおうか 星に】

 

 演奏が終わりに差し掛かる。最後の一瞬まで聞き逃さないように、意識の底で耳を澄ませる。ひとりさんはようやく見つけたのだろう、ありのままの自分を見せられる場所を。その才能を余すことなく発揮できる、信頼できる人達の輪の中に。

 

 ひとりさんのありのままはきっと、この星の集まる場所を中心として轟いて行くのだと。わたしは勝手ながら、そんな確信を抱いていた。

 

「ありがとうございました!」

 

 演奏が終わり、全員揃って頭を下げる。揃っていたのは頭を下げるタイミングだけで、声にするタイミングはバラバラだったけど。それだけみんな緊張していて、演奏に夢中だったのだろう。聞いていただけのわたしですら、未だ興奮冷めない状態なのだから。

 

「いいんじゃない……って言いたいところだが。ドラム、肩に力入れすぎ。ギター二人、下向きすぎ。ベースは自分の世界に入りすぎ」

 

 審査員である星歌さんが演奏の批評を口にし始める。評価は開口一番から辛口で、虹夏さんや喜多さんがみるみると表情に影を落として行く。でも、わたしはあまり心配をしていなかった。素人のわたしすら引き付ける音楽が、星歌さんに響かない可能性は低いから。

 

「でも、まぁお前らがどんなバンドかはわかったけどね」

 

「アドバイス、ありがとうございます……」

 

 結束バンドがどんなバンドか、それがオーディションを通して星歌さんが一番知りたかったことなのだろう。そして結束バンドの熱意は無事星歌さんにも伝わった。無事、オーディションを乗り越えて合格することができたのである。

 

 今すぐひとりさんとこの喜びを分かち合いたかったが、どうにも虹夏さん達の表情は浮かないままで。これは間違いなく、合格だという星歌さんの意図が伝わっていないのだろう。確かにわたしも当事者だったら、不合格だと誤解しかねない分かりづらさだった。オーディションは終わった、まずは少しでも早くひとりさん達を安心させてあげよう。

 

『もう一人の私、ごめん……』

 

『ひとりさん、合格!合格していますよ!』

 

『えっ!!?で、でも店長さん一つも褒めてなかったし……』

 

『気持ちは痛いほどわかります。でも、わたしを信じて確認してください、ね?』

 

「あっ、あの店長さん……それって合格ってことでよかったり、するんでしょうか?」

 

「あら、後藤さんよくわかりましたねー」

 

「最初からそう言ってんだろ。合格、合格だよ」

 

 ひとりさんがおずおずと質問すると、PAさんが意地悪そうな笑顔で答えて、星歌さんが拗ねたように追従する。突然の合格発表にステージはどよめき、妹の虹夏さんすら理解できずに驚いたような声をあげていた。わたしとPAさんの二人しか察せられない星歌さんの分かりづらさも、相当である。

 

「もう、お姉ちゃんわかりにく過ぎー!!」

 

『え、えっ、つまり私……やれたって、ことなのかな?』

 

『はい。ひとりさんの頑張り、見届けさせてもらいましたよ。ひとりさんはやっぱり、凄いです。ロックスターになるべき逸材なのだと、今日で確信しました』

 

『い、逸材だなんてそんな……え、えへへ』

 

 ようやく合格の安堵を得られたひとりさんと、その喜びを分かち合う。普段ならあまりにも大袈裟な褒め言葉は、調子に乗りやすいひとりさんには毒だから控えているけど。今日ばかりは、頑張ったひとりさんにそれを惜しみなく与えてあげようとおもった。加えていうならば、大袈裟ではないのかもなんて予感もあったりする。

 

「やった! 合格ですって、私達やったのよひとりちゃん!」

 

「わわっと……は、はいっ!」

 

 隣にいた喜多さんが喜びを露わにしながら、ひとりさんに飛びつくように抱きついてきた。普段なら私なんてと遠慮しそうなひとりさんも、戸惑いがちながらも笑顔で受け入れている。それくらい、嬉しさと達成感に包まれているってことなのだろう。

 

 ひとりさんにはわたし以上に喜びを分かち合える、共に頑張った仲間がいる。少しだけ寂しいけれど、喜多さんと喜び合うひとりさんの姿は本当に幸せそうで。そんなことが気にならなくなるくらい、わたしも微笑ましい気持ちになれていた。

 

「でもひとりちゃん、やっぱり凄かったわ!」

 

「喜多さんすみません、ちょっと……」

 

「ひとりちゃん?」

 

『……どうしました、ひとりさん?』

 

 仲睦まじく寄り添っていたかと思えば、ひとりさんが飛び退くようにして急に喜多さんから距離を取る。異常な挙動を取ったひとりさんにきょとんと首を傾げる喜多さんに対して、わたしはひとりさんの慌てようの原因が手に取るようにわかってしまった。

 

 ひとりさんのお腹の中、異常な痛みを発している胃の部分。ひとりさんのピンチの原因は間違いなくこれだった。

 

『慣れないことをしたから胃酸が大量に……ご、ごめんもう一人の私、ちょっと代わって欲しいかも……は、吐きそう』

 

『わたしのことは気になさらず。大至急、今すぐにお任せください』

 

 極限状態にも拘わらず変な遠慮を見せるひとりさんに、間髪入れずに肯定の言葉を吐いて速やかに身体の主導権を代わってもらう。その瞬間、胃から胃酸と共に中身が競り上がってくる感覚を覚えては、それを堪えるために口を抑えてゆっくりと深呼吸をする。 

 

 しばらく深呼吸を続ければ、少しずつ吐き気は治りつつある。STARRYの大切なステージをまさか、わたし達の吐瀉物で汚してしまう訳にはいかない。間一髪、限界を迎える前にひとりさんがわたしを頼ってくれてよかった。

 

『ひとりさん、こういう時は無理をなさらずに。すぐに頼ってくれていいんですよ?』

 

『うん、ありがとう……じゃあ、もう一つだけ。すごく疲れて、眠いんだ。帰るまでもう一人の私に任せても、いいかな』

 

『任せてください……ゆっくりおやすみ、ひとりさん』

 

 わたしの返事を待たずしてひとりさんは眠りについたようだった。気を抜けば眠りについてしまうくらいに、ひとりさんの精神は疲れてしまっていたのだろう。そんな無茶をして一人でステージ上に立ったのは、ただ結束バンドとわたしのためなことは明らかで。誰かのためにならどこまでだって一生懸命になれる、ひとりさんの姿が誇らしかった。

 

「リョウも気付いた?ぼっちちゃんの演奏」

 

「うん」

 

 吐き気が完全に収まって、振り返ればリョウさんと虹夏さんがひとりさんのギターについて何やら話合っているところだった。あれほど鮮烈な演奏をひとりさんがして見せたのだ、二人も間違いなく感じ取れるものがあったのだろう。もしかすると、虹夏さんはこれをきっかけとしてひとりさんがギターヒーローだと気付くのかもしれない。

 

 でも本当に、今日のひとりさんは格好よかった。わたしの手を一切借りずにステージの上に立ち、自らの意志と勇気とその努力に裏打ちされた技術で目の前の困難をぶっ飛ばした。まさに、ギターヒーローという呼び名に相応しい活躍ぶりだったと思う。そう、もうわたしが付いてなくても大丈夫なんじゃないかと思ってしまうくらいに、ひとりさんは立派に成長していた。

 

 

 ――そう考えた瞬間、わたしの意識は突然に暗転した。まるでわたしが生まれた時と真逆のような、深い奈落の底に落ちていくような異様な感覚。意識の底に引っ込むどころではない、底の底まで突き抜けて沈みゆくような異様な感覚に支配される。落ちる、沈む、掠れる、瞬く、溶ける。全身の感覚が消え失せ、ただただ、堕ちていく。

 

 

「――ちゃん、ひとりちゃん!!」

 

 立っていることすらできず、この奇妙な感覚に身を委ねたまま行き着くところまで行くしかない。そう諦めていたわたしを引き戻してくれたのは、とても心強く柔らかで繊細な声だった。

 

 さっきまでひとりさんの叫びを、代わりに届けてくれていた人。喜多さんがわたしの身体を抱きしめて支えてくれていた。おそらく、倒れそうになったわたしを咄嗟に受け止めてくれたのだろう。それなりに距離が離れていたのに、凄い運動神経だなんて場違いな感想を抱いてしまう。

 

「ひとりちゃん、大丈夫?」

 

「大丈夫、です。合格だと安心したら、つい力が抜けてしまって……大したことじゃ、ないです」

 

「大したことないって、そんな風に見えないわよ……」

 

 心配させないように、笑みすら作って見せながらそれっぽい理由も仕立てたけれど。喜多さんは安心するどころか、悲痛な声を出しながらその綺麗な顔を悲しそうに歪めていた。わたしが意識を失った時間はおそらく、ほんの一瞬程度だと思う。わたしの倒れ方はそれほどまでに、危なっかしいものだったろうか。

 

「ぼっちちゃん……本当に、大丈夫なんだよね?」

 

「……はい。ほら、もう自分で立って歩けますから」

 

 抱きしめて離そうとしない喜多さんの手をやんわりと振り解き、もう平気だとアピールしても虹夏さんはその痛ましい表情を変えてはくれなかった。虹夏さんのよく知るぼっちちゃんは、ひとりさんは大丈夫なはずだ。これはわたしが表に出たから起こった出来事で、ひとりさんには関係ないしおそらくだが影響もないはず。

 

 だからそんな、今にも泣き出しそうな表情はしないで欲しい。

 

「ひとり。後のことはいいから、休憩してなよ。それで体調が万全になったらすぐ帰ること、わかった?」

 

「……わかりました。迷惑をおかけして、すいません」

 

「いいから」

 

 リョウさんが出してくれた助け舟に、わたしは頷くしかなかった。その申し出はとんでもなくありがたく、今は一秒でも早く一人になって自分の現状を整理したかった。後片付け等を一方的に押し付けることになったのが、心苦しい。

 

 でもそれ以上にあのリョウさんにあんな気遣いをさせて、深刻な顔にさせてしまったことが不甲斐なくて。ただただ、申し訳なかった。

 

 

 ◇

 

 

 STARRYの一室、星歌さんが休息のために貸し出してくれたスペースに腰を落ち着けて呼吸を整える。未だ頭痛が鳴り止まず、あまり働いてくれそうにもない頭で考えるのは、先程のわたしに起きた異変についてだった。

 

 意識が暗転する直前、わたしが考えたのはわたしの居ないひとりさんの行く末についてだった。わたしという存在が居なくても立派に生きていけそうなひとりさんを思い浮かべた瞬間に、わたしの意識はあの異常に襲われた。これはきっと、ただの偶然ではない。

 

 わたしは否が応でも気付きつつある。ひとりさんが豊かに生きていく上で、わたしという存在を必要としなくなりつつあることに。わたしという人格はひとりさんの困難を肩代わりするために生まれたものだから。ひとりさんが困難を一人で解決できるようになれば、その存在は必要なくなる。存在理由のなくなった人格が消えゆくのは、当然の結果と言えるだろう。

 

 今回は寸前で免れたが、きっとわたしは存在意義を失って消失しかけていた。先程の異変の正体はそうに違いない、あまりにも辻褄が合い過ぎていた。

 

「……随分と、早いですね」

 

 ふたりが中学生になる姿を見られない、なんてわたしは随分と余裕のある見積もりをしたものだ。わたしは小学生のふたりすら拝めずに消えていくのだろう。渇いた笑いすら出そうにもなかった。わたしの終焉は、予想よりも遥かに早く訪れるものだったらしい。

 

「……仕方ない、ですよね。それだけひとりさんが、大きくなったということです」

 

 悲しさや悔しさ、虚しさ。それらを全て飲み込んで半濁し、喜ぶべきことなのだと己を律する。ひとりさんがわたしに素晴らしい光景を見せようと奮起した結果だ、何を嘆くことがある。ひとりさんが辿り着かせてくれるその場所はきっと輝かしいもののはず、それがわたしの終焉を伴うものであろうとも。そうでも思わないと、頭がおかしくなりそうだった。

 

 こういうのを、人格の統合というのだろうか。詳しいことは知らない。一度調べて見ようかと思ったが、恐ろしくて途中で見るのをやめてしまった。精神の類の病院にも行ったことはない。本来なら、わたしが両親に話して行くべきだったのだ。そうしなかったのは両親に話す勇気がなかったから、怖かったんだ。

 

 結局、後回しにしていたツケが回ってきただけ。受け入れるしかなかった。

 

 そう結論づけてしまうと、ひとりさんの真っ当な人生のために先程抗わずにすぐ受け入れるべきだったんじゃないかと、馬鹿な思考がもたげてしまう。そんなことを、ひとりさんが望むはずもないのに。ライブの後にいつも眠ってしまって、その余韻を味わうことができないのはわたしという存在が負担になってるんじゃないか。頭痛に塗れた頭で、ネガティブなことばかりを考えてしまう。

 

「ぼっちちゃん、平気か?」

 

「星歌さん……はい。頭痛はまだしますけど、だいぶ良くなってきました」

 

「そっか」

 

 部屋のドアを開けて、星歌さんが様子を見にきてくれた。後ろ向きな思考に飲まれそうになってたところなので、その来訪はありがたい。事情を知り、頼れる大人が付き添ってくれているという安心感を得られるから。

 

「ああいうの……よくあるのか」

 

「いえ。今まで急に倒れるようなことは、わたしはなかったはずなんですけど」

 

「そう。そりゃ、災難だったな」

 

 星歌さんがぶっきらぼうに、でも繊細に言葉を選びながら事情を聞いてくる。これもまた大人の責任、ということなのだろうか。星歌さんの立場なら本来、わたしのような危なっかしい存在は病院に行けと突っぱねることができるはずだ。本来そうすることが、自然でもあったはずだ。

 

 なのにそんなことはせず、わたしを傷つけない範囲でしか事情を探らないのはわたしへの配慮に他ならない。星歌さんだけじゃない、みんなそうだ。結束バンドのみんなにわたしの家族、ひとりさんやふたりだってそうなのだ。

 

 誰もが優しくて、わたしのために配慮をしながら生きてくれている。そうやって負担を強いなければ生きていけないのに、その善意の半分も返せやしない自分という存在が嫌で嫌でしょうがなかった。

 

「なぁ、ぼっちちゃん」

 

「なんでしょう、星歌さん」

 

「お前達のこと、ちゃんと見てるからな」

 

 なんでだろう。どうして、そんな言葉をかけてくれるのだろう。わたしはその言葉に対して、ろくに誠意のある返しもすることはできないのに。オーディションでギターの実力を見せたのはひとりさんだ。期待すべき相手として、ひとりさんにだけその言葉は相応しいはず。

 

 そんな感情の発露は止まらずに、頭痛に塗れた頭だけでは収まらずにわたしの口を割って這い出てしまっていた。

 

「なんで、ですか」

 

「ぼっちちゃん?」

 

「なんでですか。わたしは、ギターを弾けません。あの演奏を聴いた星歌さんにならわかるはずです、わたしにはあんな演奏ができないってことは!わたしは星歌さんの望む要素なんて何も持ってません……何を返すことも、できません。わたしは借り物でしか、生きられません……なんでわたしにまで、そんな言葉をかけてくれるんですか?」

 

「なんでって、そりゃお前……」

 

 吐き出すだけ吐き出した後に、後悔する。ありがとうと、衝動を抑えてそう告げるだけで済む話だったはずだ。こんなことを言ったところで、星歌さんを困らせるだけ。わたしの望む答えなんて返ってくるはずもないのに。

 

「人見知りで怖がりだけど一生懸命なぼっちちゃん。優しくて要領がいいけどお節介なぼっちちゃん。どっちのぼっちちゃんもす……嫌いじゃないなって思うから。それだけだよ」

 

『あたしはどっちのぼっちちゃんも好きだなって、そう思うから』

 

 星歌さんの姿に、いつぞやの虹夏さんの姿があまりにも重なって見えた。虹夏さんはわたし達をずるいと評したけれど、星歌さん達姉妹も充分にずるい。わたしが願ってやまない言葉を、姉妹揃って投げかけてくれて。その姿はあんまりにも姉妹そっくりだった。だからこそ、そんな言葉すらも信じられてしまう。

 

 たとえ負担を強いる存在でしかなかったとしても、誰かが好意を示してくれているのならば。その最後までは、わがままにも駆け抜けていいんじゃないか。自然とそう信じることが出来て、わたしの身体を支配していた頭痛が一気に和らいでいくようだった。

 




お分かりかと思いますが難産でした。ライブシーンは自分の音楽への知識が疎く、自信がありません。

それ以前に、これから先の展開の判断に思い悩み続ける日々でした。

結束バンドの新曲、良かったですね。あの曲を聴いてこれからのこの作品の行く末、その光明が見えたような気がしました。引き続きなんとか執筆頑張って参ります。


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ふたりの、お姉ちゃん

 

 無事オーディションに合格したあの日から数日が経ち、ライブ当日まで残すところあと10日程。オーディションに合格してからというもの、結束バンドの活動は順調そのものだ。メンバー皆が練習を積み重ね、着実にバンドとしての形を成しつつある。

 

 いつも周囲に溶け込めずにいたひとりさんが、結束バンドという集合体の欠かすことのできないピースとしてもはや馴染んでいる。その事実がわたしとしてはとにかく嬉しい。わたしという隔絶された存在の側ではなく、星座のように輝かしい場所こそがひとりさんの居場所であるべきだから。

 

 だからそう。寂しいだとか侘しいだとかそういったわたしのつまらない感情は、そっと隠して何処かへと捨て去るべきなのだろう。何度目かわからない自分への戒めを、わたしはただ繰り返している。

 

 ライブの日に披露する待望の新曲も完成した。曲名は『あのバンド』。前回と同じく作曲をリョウさん、作詞をひとりさんが担当した。僭越ながら、作詞については前回と同じくわたしもお手伝いさせていただいた形である。

 

 作詞のテーマは曲名にある通り、青春コンプレックスを刺激して止まない曲を歌うあのバンドについてのエトセトラ、だろうか。

 

 ひとりさんは言うまでもなく、青春に彩られたキラキラしている曲が大の苦手だ。そしてわたしもひとりさんとは別種であるが、青春を高らかに叫んでいる曲にはかなりの忌避感を持ってしまっている。ならばいっそのこと、一言では言い表せないその複雑な感情を綴ってみてはどうだろうか。そんな発想の転換で生まれたのがこの『あのバンド』という訳である。

 

 テーマが決まってからの速さは凄いものだったと思う。ひとりさんは元々こういうネガティブな話題については一家言あり、前回までの思い悩んでいた姿が嘘のように筆が進みまくっていた。かく言うわたしもあまり言いたくはないが色々溜め込んでしまってることもあり、諌めるどころかひとりさんのどこか捻くれた歌詞を更に補強してしまった。

 

 一気に作業を進め完成した歌詞を振り返ってみると、強い言葉や過激な表現があちこちに散見されており、二人揃って戦慄したものである。流石に修正しようかと思ったが、個性こそが大事というリョウさんの言葉を思い出して踏み留まり、そのまま提出。そして、リョウさんはこの歌詞をいたく気に入ってそのまま採用となった、というのがこの曲の誕生秘話である。

 

 正式に採用されてしまった以上後の祭りではあるが、この曲をあの喜多さんに歌わせるなんてわたし達は相当罪深いことをしているんじゃないだろうか。わたしとしては、リョウさんの「だからこそ面白い」という言葉を信じる他なかった。

 

 順調といえばわたし自身の調子も順調というかべきか、あの日から大きな異常はない。あの底まで意識がズブズブと沈んでいくかのような感覚と、鳴り止まない頭の鈍痛が襲ってきた瞬間には自らの終焉を覚悟したものだけど、一度治まってからは嘘のように快調。わたしは今までと変わらず、ひとりさんのもうひとりの私でいられている。

 

 結局、あの恐ろしい感覚についてはわからないことだらけだ。わかることといえば、あの感覚を受け入れた先にわたしという意識は存在していないだろうということだけ。何かのきっかけで再びあの感覚が襲ってくるかもしれないという不安は尽きないけど、今はひとりさんの側に居続けられることをわたしは喜ぶべきなのだろう。

 

 でも実際は、ひとりさんにとってはちっとも喜ばしいことではないのかもしれないなんて、そんな疑問をわたしは少しだけ抱いてしまっている。ひとりさんはもう昔とは違う。自分だけのヒーローを求めていたあの頃とは違い、ひとりさんは自分の力で困難を乗り越える術を身に付けつつある。ならばもう、わたしの存在は余計な重荷になりつつあるんじゃないかと。

 

 止めよう。いくらなんでもこれはわたしの過剰な不安が過ぎる。客観的事実はどうであれ、今もひとりさんはわたしの存在を必要としてくれている。わたしという意識が同じ身体にいることを許容して、肯定してくれている。その事実だけは、ひとりさんの信頼だけは何があってもわたしは疑うべきじゃない。

 

 そう、わたしは来るべき日まで。ひとりさんのためだけのわたしであり続けばいいのだから。

 

 さて、結束バンドの活動は順調、わたしの調子も好調。良いことばかりを上げ連ねていたけどもやはり、何事も順風満帆とはいられない。ライブの当日が着実に迫る中、ひとりさんはここにきてとんでもない困難にぶち当たってしまっているのだ。

 

「へへ……父、母、妹、犬、もう一人の私。た、足りてる……!? これでノルマはバッチリ……父、母、妹、犬、もう一人の私」

 

『あ、あの……ひとりさん?』

 

「父、母、妹、犬、もう一人の私……へへへ」

 

 夕飯時前のリビング。楽しい一家団欒が繰り広げられるべきその場所で、ひとりさんが呪詛を唱えるかのように同じ呟きをただ繰り返している。これがわたしに話しかけているのならまだ理解できるけれど、わたしに宛てた言葉ですらない完全な独り言なのだから今のひとりさんは相当重傷だ。

 

 座り込んでいるひとりさんの手に握られているのは五枚のチケット。ライブに出ることが決まったのだから、当然ひとりさんにもチケットノルマが課せられる。それがこの五人分のチケットという訳である。

 

 大変言い難いことではあるのだけど、ひとりさんにはバンドメンバーと家族以外の知り合いは殆どいない。端的に言ってしまえば、チケットを売るべき相手が絶望的に足りていない。その重圧こそが、こうしてひとりさんを現実逃避に走らせてしまっているのだろう。唐突にリビングに降りたかと思えば、チケットを広げてかれこれ同じ呟きを数十分繰り返しているのだから異常だ。正直に言えば、わたしも少しだけ恐怖を感じてしまっている。

 

 そんなひとりさんの奇行にも慣れているのか、リビングに勢揃いしている他の家族は特に気にする様子もない。お母さんとふたりは仲良くジミヘンにご飯を与えているし、お父さんはキッチンで夕食の準備をしている。ひとりさんの尋常ならざる状態と打って変わって、本日も後藤家は平和そのものだ。

 

『ふぅ……ひとりさん!』

 

「あっ……ど、どうしたの?もう一人の私」

 

 意を決して強くひとりさんに呼びかけると、ようやく反応を返してくれた。このままひとりさんを放っておけば、夕食の時間になるまでこの呪詛を吐き出し続けかねない。現実逃避しているひとりさんの中でだけはチケットを全て捌けているが、実際は致命的に人数が足りていない。心苦しくはあるけれど、ひとりさんを現実に引き戻さねばならないのだ。

 

『わたしとしても、ひとりさんのノルマに貢献してあげたい気持ちでいっぱいではあるのですが……申し訳ないですけど、わたしがチケットを購入するのは問題があり過ぎるかと』

 

「うっ!?……それはそう、だよね。もう一人の私はいつだって私と一緒だもん。お客さんにはなれない、よね……ははは」

 

 わたしがそう進言すると、苦悶の声をあげながらもひとりさんは少しだけ現実を直視し始めてくれた。ノルマに満たないという現実に震えるひとりさんの様子は尋常ではなく、恐らく虚な目をしているに違いない。可哀想でなんとかしてあげたい気持ちは尽きないが、わたしはどうやっても観客席に立つことはできない。この現実を一度受け入れてもらう他なかった。

 

「そ、そうなると一枚足りてない……ど、どうしよう。お、お婆ちゃん?でもライブのためにわざわざ片道三時間かけては……」

 

 なんとか代案を捻り出そうとするも、やはりひとりさんには身内以外の知り合いがいない。そのお婆ちゃんにしても様々な事情から望み薄。加えて言うのならば、ひとりさんが売らなければいけないチケットは残り一枚ですらないのだ。

 

 ふたりはまだ百歩譲るにしても、ジミヘンを自然に勘定に入れている問題にひとりさんはそろそろ気付かなければいけない。これももしかして、わたしが指摘しなければならないのだろうか。できれば勘弁願いたい。いつだって、ひとりさんに現実を突き付けるのは心が痛いのだ。

 

「流石にジミヘンは一緒に行けないんじゃない?」

 

「や、やっぱり!?や、流石にそれは私もそうじゃないかなーと……思ってたんだけど」

 

 わたしの願いが通じたのか、それともひとりさんの様子を見かねたのか。お母さんが犬をライブに連れて行くことはできないという正論を伝えてくれていた。あくまで現実逃避していただけで、ひとりさん自身も本気で犬にチケットを売ろうとしていた訳ではなかったみたいである。かなり心配だっただけに、わたしも一安心だ。

 

「あと、ふたりもライブハウスに入れないだろ。五歳だし」

 

「あぁぁぁぁぁあああーー!!?」

 

「えー、つまんなーい!」

 

 続くお父さんからの追撃に、ひとりさんは断末魔のような悲鳴をあげて蹲ってしまった。お姉ちゃんがこんな有様なのに、ふたりはどこ吹く風とばかりに不満を漏らしている。なんというかこう、随分と強かな子に育ったものだと思う。あるいはそう育ったことに、わたしの影響も少しばかりはあったりするのだろうか。

 

 絶望するひとりさんと不服そうなふたりには申し訳ないが、まだ五歳と幼いふたりがライブハウスに行くのは難しいだろう。事前に店長である星歌さんに相談してという形なら実現可能だったかもしれないけど、残念ながら今回に限ってそんな余裕はなかった訳で。ふたりの参加も今回は見送らざるをえない。

 

 三人分。それが今回、ひとりさんの向き合うべきチケットノルマだった。

 

「さ、さんまい……父、母、父、母、父、母、父!!母!?」

 

『ひ、ひとりさんどうか落ち着いて……チケットを直接購入することはできませんが、いつだってわたしはひとりさんの力になりますよ!』

 

 いくら頭の中を探ってみても、お父さんとお母さん以外にチケットを売るべき相手は思いつかない。だいぶ追い込まれているようで、ひとりさんは完全にパニック状態だった。わたしの声も届いているかどうか定かではない。

 

 でも逆にいえば、それだけひとりさんが自分で問題を解決しようとしている証でもあるのだろう。以前までならもう既に『助けてもう一人の私!』という救援要請がなされているはずだから。当事者意識を持って、自分の力で困難を解決しようと模索している。それは間違いなく成長であり、どうしようもなく正しいことだった。

 

「お母さんの友達、呼ぼうか?」

 

『ほら、ひとりさん。お母さんもこう言ってくれてますし、どうか気を確かに!』

 

「はっ!?……母」

 

 お母さんから申し出された思わぬ助け舟に、どこか遠いところへと旅立っていたひとりさんの意識が帰還する。お母さんはわたし達と違って交友関係が広いので、三人ライブに呼ぶことも難しくはないのだと思う。

 

 ひとりさんにとってはまさに、神の助力とでも呼ぶべき申し出だった。

 

「ギター弾く方のお姉ちゃん、バンドの人いがいに誰もお友達いないもんね!」

 

「うっ!?」

 

 あとは頷くだけでノルマ問題は解決という所に、ふたりの無邪気な発言がひとりさんの繊細な心を刺していた。ひとりさんに友達がいないことを指摘するふたりはどうしてか、嬉しそうに満面の笑みを浮かべている。

 

 わたし自身も内心で思ってしまったように、バンド関連を除けばひとりさんの交友関係が絶望的なのは純然たる事実だ。しかし、真実を突き付けるのは時として人を大いに傷つけてしまう場合がある。それをふたりにも、そろそろ教えてあげなければいけないだろうか。いやでも、五歳の子供にする話ではまったくもってないような気もする。

 

「お姉ちゃん、話さないだけで学校にお友達たくさん居るんだよ……」

 

「えー、嘘だー!」

 

「冗談でもそんなこと言っちゃダメだよ。人の痛みがわかる子になりなさい」

 

 そんなわたしの葛藤を外に、既にひとりさんがふたりににじり寄ってはそう言い聞かせていた。ふたりの瞳に映るひとりさんの目は完全に据わっており、言い聞かせるその姿はあまりにも圧が強く。正直に言えばわたしも少し怖い。

 

 五歳児の発言に対して、嘘丸出しの見栄を張りながら説教をするひとりさんの姿はかなり大人気ない。でも、これもまたひとりさんとふたりのお決まりのやり取りだから特に問題はないのだろう。生意気を言ったふたりを、余裕のなさ過ぎるひとりさんが諌めるいつもの光景。

 

 だから、この後ふたりが即座に謝って今回も笑い話になる。わたしはそう信じて疑っていなかった。

 

「やだ!!」

 

「ふ、ふたり……?」

 

 しかし、そうはならなかった。ふたりは顔を強張らせ、滅多に出さないような大声でひとりさんに真っ向から反抗していた。予想外過ぎるふたりの反応に、ひとりさんやお母さんは呆気に取られてかけるべき言葉を失っていた。

 

 他ならぬわたしも動揺を隠せないでいる。ちょっと生意気なところはあれど朗らかで優しく、なによりひとりさんが大好きなふたりがこうして強く言い返すことは初めてだったから。何がそこまでふたりの癇に障ってしまったのか掴めず、どうしたらいいのかがわからない。

 

「だって嘘だもん!お姉ちゃんは、ギター弾かない方のお姉ちゃんを仲間外れにしてたくさん友達を作ったりしない!……わたし、それくらいわかるもん!!」

 

 癇癪を起こしたように、ふたりが強く声を張り上げる。その大きな声に反して、和やかだったリビングは冷たく静まり返っていた。お母さんにお父さんも複雑そうな顔でふたりを見ながら、その表情に影を落としている。たぶんひとりさんも、似たような表情を浮かべてしまっているのだろう。

 

 また、わたしのせいだった。最近はいつもこう、わたしはどれだけ誰かの日常を壊せば気が済むのだろう。ふたりにこんなことを言わせてしまった自分が、あまりに申し訳なくて。お姉ちゃんとして、情けなくて仕方がなかった。

 

 作詞をしたあの日、ふたりは知ってしまったのだろう。ひとりさんの作る輪の中にわたしの居場所はないのだということを。そんな事実をわたしが突き付けてしまって、それを寂しく思っていることを悟られてしまった。だからひとりさんの分かりやす過ぎる嘘にも、ふたりは過剰に反発してしまったのだろう。

 

 もしかすると、ひとりさんに友達がいないことを笑顔で話したことも生意気さからくるものではなかったのかもしれない。わたしとひとりさんの距離が離れていないことを確認して、ただ純粋に喜んでいただけ。それは、わたしとひとりさんをふたりが平等に好いていてくれるという好意だ。そして、お姉ちゃん達が仲良く笑い合っていて欲しいという、ふたりの優しさでもあった。

 

 ひとりさんが敢えて言い聞かせるまでもなく、ふたりは人の心の痛みをよく理解していた。でもそれは、まだ幼いふたりが本当に備えるべき優しさだったのだろうか。もしわたしという存在が居なければ、ふたりはもう少し無邪気なままの子供でいられたんじゃないだろうか。ひとりさんにたくさん友達ができることを、素直に望める妹でいられたんじゃないか。そう考えると、自分の存在が酷く罪深いもののように思えた。

 

「お母さん、やっぱりわたしも行く!」

 

「駄目よふたり、怖いとこなのよ?」

 

「行くったら行くもん!幼稚園のお友達もたくさん連れてくる!そしたら、ギター弾く方のお姉ちゃんも困らない……ギター弾かない方のお姉ちゃんも、寂しくないよね?」

 

 ふたりの要求をやんわりお母さんが止めるも、ふたりは止まらない。いくら強く主張しても、ふたりの我儘は通らないだろう。ふたり一人をバンドハウスに連れて行くのも難しいのに、その友達までたくさん連れて来てしまうのはどう考えたって無理だ。

 

 そんな実現不可能な我儘をこの場の誰もが、諌めることができなかった。この我儘は誰かへの優しさで形作られていたからだ。他ならぬわたしなんかへの、勿体無いほどの優しさで。わたしという不確かな存在への優しさをふたりは躊躇わない。そして、お父さんとお母さんもその存在への優しさを決して否定することはなかった。

 

 自分自身という存在を静かに許容され、認められている。それはあまりにも呼吸がしやすくて、居心地が良く。そしてそれ以上に、心が軋むようにただ痛かった。

 

『代わってください、ひとりさん』

 

「う、うん」

 

 気づけばひとりさんにお願いをして体の主導権を代わってもらっていた。ふたりに上手に言い含められる自信は欠片もない。むしろ、いまのわたしがふたりになにかを言い聞かせる資格があるのかを疑っている。

 

 それでも、これはわたしが招いてしまった事態だったから。その収拾をつけるべきなのは他ならぬ自分自身であるべきだと思った。そしてなにより、ここでふたりの優しさから目を背けてはもう、ふたりの姉であることすら噓になってしまいそうで嫌だったから。覚悟も定まらないのに、わたしはふたりと向き合うことを選んでいた。

 

「ふたり」

 

「ギター弾かない方のお姉ちゃん……」

 

 目線を合わせるようにして傍に座り込みその名前を呼ぶと、ふたりはいつものようにわたしだと言い当ててみせる。わたしと目を合わせないように顔を俯かせ、小さなその手は服の裾をぎゅっと力強く握りこんでいた。声も明らかに震えており、わたしに叱られると思っているのかもしれない。

 

 わたしに咎められるかもしれない。そんな懸念を抱きつつも、ふたりは行動を起こしたのだ。あの日絵を描きたしてくれたのと同じように、辛いことや悲しいことをそのままにしておきたくなかったから。いったいどれほど複雑な気持ちを抱えながら、ふたりはひとりさんの言葉に反発したのだろうか。

 

 ふたりの痛みを想像する。でも不出来なわたしには、今ふたりが抱える辛さや悲しみががどれほどのものか見当もつきやしない。人の心の痛みがわからないのは、どう考えてもわたしの方だった。

 

 

「ふたり、ありがとう。でも、大丈夫……お姉ちゃんもお友達は少ないけど、ちゃんとお客さんを自分で連れてくるよ。お姉ちゃん、知らない人に話しかけたりするの得意なんだから」

 

 人の心の痛みがわからないから、こんな諭し方をしてしまう。ふたりが不安に感じていることの本質は、こんな言葉で和らぐことはないとわかっているのに。自分を慕ってくれている幼い妹の前ですら、こんな理屈めいた喋りしかできない自分が酷く恨めしい。

 

「でも……」

 

「ふたりはお姉ちゃんに任せるのは、不安かな?」

 

「そんなことない!……ギター弾かない方のお姉ちゃんは、すごいもん」

 

 言い含めるために随分と卑怯な言い方をしてしまう。こんな言い回しをしておきながら、わたしの心はまだふたりの頼れる姉で居られていることを再確認して喜んでしまっている。あまりに浅ましくて、みっともない。

 

「お母さんも言ったようにね、ライブハウスってちょっと怖い場所なんだ。ふたりが見たこともないような大人の人だってたくさん集まるの……だからやっぱり、子供のふたりが自由に出入りするのは難しいんだ」

 

「……うん」

 

 ライブハウスに入れない理由をやんわり伝えると、先ほどまでと打って変わってふたりは素直に聞いて頷いている。普段通りの聞き分けの良いふたりに戻らざるを得なかったのは、他ならぬわたしが直接対面しているせいなのだろうか。

 

 わたしがいま語りかけているのは、ただの大人の理屈だ。わがままを言わないで我慢しなさいと、ただ正論を上から目線で押し付けようとしているだけ。こんなことで、いいのだろうか。我儘は我儘でも、確実に誰かへの優しさから声を張り上げたふたりの優しさに、一つも寄り添わず黙らせるのがお姉ちゃんのすることなのだろうか。

 

「でも、でも……わたしも、お姉ちゃん達のおーえんに行きたかった」

 

「……え」

 

「お姉ちゃん達のほしが一番きらきらしてたよって、言ってあげたかった」

 

「そっか……そう、だよね」

 

 その言葉には聞き覚えがあった。忘れもしない、ふたりが幼稚園の発表会でタンバリンの演奏を披露した時の話。トラブルを挟みつつも、無事演奏をやり遂げたふたりをひとりさんが称えた時の言葉。『ふたりのほしが一番輝いてたよ』。その時のふたりの嬉しそうな笑顔を、今でも鮮明に思い出せる。

 

 ふたりにとってもかけがえのない、大切な思い出なんだろう。だからそれを与えてくれた人に、同じ喜びを返そうとしていた。そんな優しさまで、この我儘には含まれている。それはなんて、直向きで純粋な愛なんだろう。そしてその対象に、わたし自身も含まれている事実を認識するだけで、色々なものがこみ上げてきそうだった。

 

 この優しさがただ、否定されるだけでいいはずがない。あまりにも切実にそう思ってしまったせいだろうか。わたしの口はもう語るべき言葉なんてもっていないはずなのに、再び言葉を紡ぐために動き始めていた。

 

「ね、ふたり。お姉ちゃんね、ライブハウスの店長さんと知り合いなんだ。だから、ふたりがライブハウスに入れるようにお願いしてみるよ。今回はもう無理だけど……でも、次のライブからはきっとふたりも入れるようにして見せるから。だからその時に、たくさんお姉ちゃん達を応援してほしいな」

 

「……ほんと?」

 

「うん、約束」

 

 全部、わたしが言う権利のある言葉ではないはずだった。結束バンドの皆に星歌さん、STARRYの人たちに関わるお願いなんてわたしが勝手にしていいはずがない。ひとりさんの人間関係にわたしの感情で立ち入らない、そんな不可侵を破ってしまっている。そして、自分で守れる保証のない約束を交わしたのだってどうかしている。つい最近に、自分の身が長くないことを自覚したばかりなのに。勝手な約束が増えるたびに、しわ寄せをもらうのはひとりさんだというのに。

 

 でも、それでも。妹の辛いことや悲しいことをそのままにしておくのは、お姉ちゃんのすべきことでは決してないのだから。ふたりのため、そんな免罪符をもとにわたしは自身のつまらないポリシーや矜持を今だけは黙らせる。そう、決めたのだ。

 

「別に、ライブハウスの中だけじゃなくてもいいんだ。ふたりが望むなら、お姉ちゃん達はいつだってお家でライブしてみせるよ。ふたりのお友達もたくさん呼んで……ふたりのためなら、ギター弾く方のお姉ちゃんがたくさんギターをかき鳴らしてくれるだろうから……だから、だからね――」

 

 どこまでいっても、わたしに言えるのは借り物の言葉ばかりだった。わたし自身はギターを弾くことはできない。ふたりの心を動かすような演奏なんてできるはずもない。ひとりさんから生まれたわたしが何をしようとしたところで、ひとりさんの善性と能力に縋らなければ始まらないことを思い知らされる。言葉を重ねるだけ、ひとりさんの重荷が増えていく。

 

 許されない行為に手を染めているというのに、わたしのたどり着く言葉はどこまでも無情だった。『だから今回は、我慢してほしい』。結局はそう告げるしかないのだ。所詮自分だけの言葉を持たないわたしに、誰かの心に寄り添うことなど不可能なのだろうか。ふたりにも現実を突きつける言葉を吐きたくなくて、喉に突っかかったように最後の言葉は形になってくれない。

 

「……うん。わたし、我慢する」

 

 わたしがまごついている内に、気付けば顔をあげていたふたりがわたしを見据えてそう告げていた。わたしが決定的な言葉を告げるまでもなく、聞き分けの良いふたりが自分から折れる形でこの我儘は終わることとなった。

 

「ギター弾く方のお姉ちゃんも、大きな声だしちゃってごめんなさい……」

 

『私こそ、変な嘘ついてごめん……』

 

「ギター弾く方のお姉ちゃんも、嘘ついてごめんなさいって……自分から謝れて偉いね。ふたりは、良い子だね」

 

 どうにもやるせなくて、それを誤魔化すようにふたりの頭を撫でる。ふたりの表情は文字通り何かを堪えているようで、色々なものを我慢していることが簡単に見て取れた。そんな感情を抑えてまでふたりは良い子であることを選択していて、それが誰の為であるのかもわたしは嫌というほど思い知ってしまっている。

 

 思えば、わたしはふたりに与えられてばかりだ。お姉ちゃんという立場も、ひとりさん以外への誰かの優しさも、今この胸に抱える様々な痛みだって全部ふたりから貰ったものだ。対してわたしはふたりに何を返せているのだろう。どれもこれもひとりさんから受け継いだ借り物ばかりだ。わたしが自分からふたりに返せたものなんて欠片もない。

 

 それでも、私だけがふたりに返せるものがあるとするならば――

 

「ねぇ、ふたり」

 

「ギター弾かない方のお姉ちゃん、どうしたの?」

 

「お姉ちゃんはね、ふたりのことが大好きだよ」

 

 私の心にはほとんど何もないけれど、唯一信じられるその気持ちが伝わるようにふたりを強く抱きしめる。ふたりが泣きじゃくってわたしをお姉ちゃんだと認めさせてくれた日。あの日からわたしはふたりに救われ続けていて、ずっとずっとふたりのことが大好きなのだから。これだけは嘘じゃなくて、ひとりさんから受け継いだ借り物でもなくて、わたしだけの唯一不変の感情だった。

 

 こんなちっぽけなたった一つだけだけれど、それだけはブレることなく示し続けていこうと固く誓う。

 

「わたしも!お姉ちゃん達のことがだいすきだよ!」

 

 たっぷり数分抱きしめて、ふたりから手を離すと屈託のないその笑顔でありったけの好意を返されていた。その不意打ちにわたしは碌な言葉を返すこともできず、曖昧で下手くそな笑みを浮かべることしかできずにいた。それ以上を求めると熱くなった目頭から涙がこぼれそうで、ダメだった。泣いてしまうわけにはいかない。お姉ちゃんとしても、ひとりさんのヒーローとしてもそんな弱さを私は見せるべきではないから。わたしの始まりから終わりまで、この生涯に涙は必要ない。

 

 ちっぽけなわたしを苛んでいた心の痛みなんて、その一言だけでいつの間にか取り除かれていて。こんな時ですらふたりに救われているのはわたしの方だった。

 

「お母さーん!」

 

「あらあら」

 

 余韻に浸るように大切な言葉を噛み締めていると、ふたりは軽やかな足取りでお母さんの下に戻っていく。お母さんの周りをちょこまかと回りながら、たっぷりと甘えているようでその表情はどこか満足げだ。でも最終的に我慢をさせてしまったことに違いはなく、そのフラストレーションを発散するためにもお母さんに甘えるのが一番だろう。

 

 ふたりは結果的に笑ってくれているけど、これで本当に良かったのだろうかという疑問は尽きない。もっとふたりにかけるべき言葉があったんじゃないだろうか。そもそも、ああしてわたしがふたりに言い聞かせることは正しいことだったのだろうか。そもそもわたしがもっとしっかりしていれば、こんな事態にはならなかったのではとか。反省は無限に、尽きることがない。

 

 お父さんとお母さんはやはりわたしに何も言わない。なんとなく二人に視線を向けると、お父さんは腕を組みながら満足げに頷いていて。お母さんはふたりを甘やかしながら、微笑ましそうに目を細めている。そんなお父さんとお母さんの反応はとても居心地が悪いはずなのに、どうしてかとても心を温かくさせてくれた。

 

『もう一人の私、ごめんなさい』

 

『ひとりさん?どうして謝るんですか?』

 

 ふたりへの謝罪以外、ほとんど口を噤んでいたひとりさんがようやく喋りかけてきた。その内容は加えての、わたしへの謝罪。ふたりにならともかくとしてわたしにまで謝罪をする理由がわからず、お父さんたちが見ているのについ首をかしげてしまった。

 

『私がふたりに言わなきゃいけなかったことを、たくさんもう一人の私に言わせちゃったから……ごめん』

 

『いいんです。わたしが勝手にしなければと思い込んだのですから』

 

 ひとりさんらしい謝罪の方向に、慌てて首を横に振った。わたし自身がふたりに向き合うことを決めたのだから、そこにひとりさんが責任を感じる必要はないだろう。仮にわたしがそうしなかったとしても、ギリギリまで悩みつつもひとりさんはふたりに言葉を尽くしたはずだ。そういう人だと、私は嫌というほどに知っている。

 

 むしろ、謝るとしたらわたしの方だ。ひとりさんの許可も得ずに勝手な判断をして、随分と好き放題してしまった。あまつさえ、ひとりさんを巻き込んだ約束までしてしまっている。思い返すと、罪悪感で死にたくなりそうだった。誠心誠意込めてたくさん謝らなければ、自分自身を許せそうにもない。

 

『それだけじゃなくて、もう一人の私のことを考えもせずにあんな噓をついちゃって……ごめんなさい』

 

『それこそ謝らないでください。嘘は確かに良くないですけど、わたしはひとりさんに沢山の友達ができたならとっても嬉しいのですから』

 

 ひとりさんの見栄なんてそれこそわたしにとっては日常茶飯事だ。そこにわたしへの当てつけが含まれていないなんてことは分かりきっている。それに、きっとこの嘘は近いうちに嘘ではなくなると思うのだ。バンドを始めて、喜多さんという学校での友達もできたのだから。なにかのきっかけ一つで、ひとりさんを取り巻く交友関係はぐっと広がるはず。そうなってくれる日をちゃんと喜べるように、わたしはできているだろうか。

 

『ち、違うよ。そうじゃなくて、私はもう一人の私にもっ!……ごめん、なんでもない』

 

『ひとりさん、何もひとりさんが言いたいことを我慢する必要は――』

 

『う、うぅん、違うんだ……もう一人の私を困らせたい訳じゃない、から』

 

 分かってはいるのだ。ひとりさんはわたしの想像以上に、わたしに言いたいことをため込んでいることを。ひとりさんがそれを吐き出すことをしないのは、何処までもわたしの心を尊重してくれているからだということも、知っている。わたしが敢えて表に出すこともない、ひとりさんの為のわたしでありたいなんて思想を壊れ物のように大切にしてくれているのだ。ひとりさん自身の気持ちとは、少なからず相反しているだろうに。

 

 わたしはその優しさに甘えて、今日までを生きている。ひとりさんだけじゃない、ふたりにお父さんとお母さん、もしかすると星歌さんにリョウさんもなのだろうか。気づけば沢山の人の善意と優しさによって、わたしは生かされている。それだけは忘れずに日々を歩んでいかなければいけない、それがいつか消え行くわたしの最低限の責務だと思うから。

 

『わたしこそ、ごめんなさい。ひとりさんを置いてけぼりにしたまま、勝手に話を進めてしまいました。あまつさえ、わたしだけでは守れない約束までしてしまって……本当に、申し訳ありません』

 

『あっ、え、そ、そんなに謝らないでっ!大丈夫っ、ふたりのためなら私も色々してあげたいし……だからもう一人の私も気にしないでー!?』

 

 流れてしまった気まずい空気を変えるために、今度はこちらから謝罪をする。もちろんついでのつもりはなく、誠心誠意謝り倒す。いつものようにひとりさんは寛大な心で許してくれているが、今回は本当に猛反省だ。ひとりさんとふたりのどっちを優先するなんて優劣をつけるつもりはないけど、少なくともひとりさんに一言確認しながら話を進めるべきではあったのだ。これではひとりさんのサポートである立つ瀬もない。

 

 ただ、このまま謝罪を続けてもひとりさんが困り果ててしまうだけなので、表面上は平静を取り繕うことにする。一人反省会はひとりさんが寝静まった後にでも、存分にやるとしよう。

 

『こんなのはお詫びにもなりませんが、チケットノルマに関してはわたしが何とかしますので、そこだけはご安心いただけたらと』

 

『え、い、いいの?』

 

『はい。ふたりにああ言ってしまった以上、お母さんに頼るのも恰好つかないですから。なので、大船に乗ったつもりでわたしに任せてください!』

 

『あっ、ありがとうもう一人の私!』

 

 もちろんお詫びの気持ちに嘘はない。でもそれ以上に、お母さんに頼ることなくわたしの手でこの問題に対処できることをどうしようもなく喜ぶわたしが居る。どんな言い訳をしたところで、ひとりさんの為に動くことこそがわたしの生きがいであることは未来永劫変わらないのかもしれなかった。

 

『ひとりさん、せっかくですので少しお父さんの手伝いをしても良いでしょうか?』

 

『あっ、うん。もちろん』

 

 粗方の問題が片付いて、後はひとりさんに身体を返すだけというところでキッチンのお父さんの姿が目に入る。お父さんもしばらく手を止めていたのか、まだまだ晩御飯の下ごしらえをしているようだった。

 

 ならばわたしにできる数少ない親孝行として料理の手伝いをしようと申し出れば、ひとりさんは快諾してくれた。立ち上がって手を洗いエプロンをしては、キッチンに立つお父さんの隣に並ぶ。

 

「手伝うよ、お父さん」

 

「おっ、ありがとうひとり。それじゃあ、野菜を切っといてくれるかい?」

 

「うん、任せて」

 

 包丁を手に取ってまな板に向き合う。本日使う野菜はニンジンにタマネギ、お父さんがひき肉を捏ねているところを見るに今日のメニューはハンバーグのようだった。ひとりさんの好物の一つである。ひとりさんも自身の好物が作られていることに気付いたのか、意識の奥で目を輝かせているようだった。

 

「なぁ、ひとり」

 

「どうしたの、お父さん?」

 

「困ったことがあったら、遠慮なく父さん達を頼ってくれていいんだからな?」

 

 世間話をするかのように投げかけられたお父さんの言葉に動揺して、右手に持った包丁の手を止めてしまう。普通なら何気ない親子の会話でしかないそれは、わたしにとってはまったく別の意味を纏っていたからだ。

 

 だって、ひとりさんは敢えてこんな言葉を交わすまでもなく両親をちゃんと頼っている。今時珍しいくらい仲のいい親子で、こんな探るような言葉を必要としないほどに通じ合っている。その事実を踏まえれば、今のお父さんの言葉が誰に向けられているかなんて、火を見るよりも明らかだった。

 

「どうしたの、急に」

 

「ひとりがなんでも器用にこなせる方っていうのは、父さん知ってる。でも、ひとりの環境は最近目紛しく変わってるだろ?バンドを組んでバイトをして、今度はライブだって控えてる……だからひとりだって、悩みの一つや二つあるんじゃないかって思ってさ」

 

「そうだね……うん、そうかも」

 

「だろう?だから、いつだって父さんを頼ってくれていい。 父さんな、窓際族なんだ。お昼は寝放題だし、徹夜もできる。暇を持て余してるからひとりの話だっていくらでも聞きたいくらいなんだ……一つも、遠慮することなんてないんだぞ?」

 

「ありがとう、お父さん」

 

 いつものように冗談めかしているのに、どこか真剣な口調でお父さんはわたしに訴えかけてくる。わたしはお父さんの顔をとても直視できなくて、動かしもしていない包丁に視線を落とし続けている。

 

 肯定も否定もせずに、ただお礼だけを言うに留める。大丈夫と添えようかと思ったが、止めておいた。お父さんの不安を悪戯に増大させるだけだと、予想できてしまったから。

 

 窓際族だなんて、暇を持て余しているなんて嘘に決まっている。ひとりさんが何不自由なく暮らして、毎日ギターに没頭する生活を送れるのは、お父さんが一生懸命働いてくれているからだ。そんなことは、小学生の頃のわたしにすらわかりきっていることだ。

 

 未だ子供で、そして大人になることもないであろうわたしには一生想像が及ぶことはないのだろうけど。大人とは、人の親なんてものはどう考えたって尋常ではない。毎日あくせく働いて、疲れている中で自分自身よりも家族こそを尊重して、小さな命の成長を守り続けなければならない。わたしが語るのも憚られるほどに、激務に違いないはずだ。

 

 だからわたしは、重荷になるべきではないと思ったんだ。お父さんとお母さんが愛し守るべき存在なのはひとりさんとふたりで、そこにわたしという負荷が加わるのを少しでも抑えるべきだと信じていた。できるだけ目立たずに、気付かれたと確信してからは手のかからない人間であるように振る舞い続けている。

 

 でもそれは、間違いだったのだろうか。本当はお父さんとお母さんをもっと頼った方が、彼等は安心できたのだろうか。

 

 初めてお母さんに美容品について教えてほしいと頼った時、いったいお母さんはどんな表情をしていただろう。わからない。初めてお父さんに料理を教えてほしいと頼んだ時、お父さんはいったいどんな表情をしていただろう。わからない。

 

 嘘だ。彼等の誇らしげな表情はなにより雄弁にその答えを語っていた筈だった。目を背けて、わたしが見えないフリをし続けているだけ。

 

 結局、わたしが臆病なだけなんだろう。ひとりさんという小さな海の中でしか生きてこなかったわたしが、お父さんとお母さんの深い愛を信じて飛び込む勇気がなかっただけ。この優しい家族の在り方を歪めているのはいつだって、わたしのせいだ。

 

 考えて、悔やんだところで意味はない。過去に戻ることはできないし、戻れたところで結局わたしは同じ選択を繰り返す。ひとりさんの為だけに生きて死ぬ。そうわたしが自分を定めた時点で全て決まっていたこと。わたし自身が全て決めたのだから、悔やむ資格だってありはしない。ままならないことを叫び吐き出すことにも、意味はない。それでも、敢えてわたしの浅はかな望みを吐き出すとするのならば。

 

 

 一分一秒でも長く、この優しい人達の家族でいられますように。そう、願わずにはいられなかった。

 




大変お待たせいたしました。夜勤に変わってしまったり、仕事の都合で一行に執筆時間がとれなくなってしまい、こんなに時間を要してしまいました。誠に申し訳ありません。そしてなのにも関わらず、こうして物語を追い続けてくれてありがとうございます。

本当は今話できくりお姉さんの話まで書きたかったのですが、あまりに皆様を長く待たせてしまっていること。そして今話の部分が予想より遥かに長くなってしまったことで断念しました。楽しみにしていた方はすいません、次回こそはきくりお姉さん回になりますので……何卒。

暫く更新がなかったにも関わらず、たくさんの感想が来てくれたことは本当に嬉しかったです。多忙な中で、皆様の感想だけが励みになり執筆意欲にも繋がってくれました。本当にありがとうございます、そして図々しいながらこれからもよろしくお願いしたいです。

あと数話でこの物語の一つの区切りとでも呼ぶべき場所にも近づいているので、できるだけ更新を滞らせないように駆け抜けたいですね。皆様からの感想を糧に完結に向けて書き進めていきますので、今後ともよろしくお願い致します。


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変わるもの、変えられないもの、変わってゆくべきもの

 

「ふぅ……気付けばもう夏真っ盛りですね」

 

『お、お疲れ様。もう一人の私』

 

 薄っすらと顔に滲む汗をハンカチで拭い取り、冷えたスポーツドリンクを喉に流し込みながら一息つく。高い気温と声を張り上げ続けたことで消耗した喉に染み渡って心地がいい。ただ、そういった物理的な補給よりも単純なひとりさんからの労いの言葉の方が、わたしには何よりの活力になるような気もした。

 

 ライブチケットの販売という大任をひとりさんから請け負ったわたしは、翌日に早速チケット売りを決行することにした。場所は地元である金沢八景駅前の周辺、今日は夏祭りがあって人通りも多いことからこの期を逃す手はなかった。午前中から宣伝フライヤー配りを数時間続け、現在は水分補給を兼ねて休憩中といった次第である。

 

『……何から何まで任せちゃってごめんね、もう一人の私』

 

『いえ、今回ばかりはわたしの我儘のようなものなのですから。本当に気にしないでください』

 

 昨日から続く何度目か分からないひとりさんの謝罪に、苦笑いをしながら首を横に振る。わたしがふたりに対して格好付けた故の結果なのだから、気にする必要なんて欠片もないのに。もしかすると、フライヤーの作成すらもわたしが担ったことが原因なのかもしれない。

 

 ふたりに描いて見せた絵のように、デフォルメ調で結束バンドメンバーを表現した宣伝フライヤーはなかなかの自信作だ。今回は横着せずに虹夏さんのドラムも添えたので、我らがリーダーの面目も保たれているはず。ロックバンドとしては少々ポップ過ぎるかもしれないけど、結束バンドがガールズバンドという点を加味すれば雰囲気にそぐわないなんてこともないだろう。

 

 宣伝フライヤーくらいは自分で作ってみせる。そんなひとりさんの熱い申し出を断ったのは、決してひとりさんの絵のセンスが壊滅的だからという不埒な思考が過ったからでは断じてない。ただそう、ひとりさんの芸術性に時代がまだ追いついてないと判断しただけのこと。そんな言い訳を、わたしは自分に何度も言い聞かせていた。

 

『宣伝フライヤーを作らせるばかりか、もう一人の私にお洒落をさせてチケットの売り子までやらせるなんて……こ、これって何かの犯罪にあたるんじゃ!?』

 

『いわば全部合意の上なわけですから、何も問題はないと思いますよ……?』

 

 いつも通りに今回も、ひとりさんの不安は予想外の方向にかっ飛んでいるようだ。決してあり得ないことではあるけど、もし無理やりわたしにやらせていたとしてもひとりさんを罪に問えるような法律なんてありはしないのに。ひとりさんの内では、アイドルに怪しい営業をさせる悪徳プロデューサーのような気分だったりするのだろうか。

 

 ひとりさんが言及しているように、今日のわたしはいつものピンクジャージではなくわたし個人の私服を着用させてもらっている。理由は単純に、そちらの方がチケットを売りこむ相手からの心象が良くなるだろうから。ひとりさんの容姿を利用しているようで申し訳なくもあるが、売り込みをする以上他人からの印象を良くしておくに越したことはない。だから、長い前髪もヘアピンで留めて表情も見えやすくさせてもらっている。

 

 一つ言っておくとするならば、常にピンクジャージ姿で顔も隠しているひとりさんの格好を揶揄するつもりは一切ない。勿体無いとは思うけれども。ファッションセンスにしても、時代がひとりさんに追い付いていないだけなのだ。そんな言い訳を重ねることしか、わたしにはできない。

 

 ひとりさんはお洒落だなんて褒めてくれるけど、今日の服装は動きやすさ重視かつデザインも地味なものを選んでいるので別にそんなことはない。ただそんな中でひとりさんがあまり着たがらないスカートを選んでしまったのは、少しでもお洒落でいたいだなんて。そんなわたしの浅ましい願望が漏れ出てしまった故なのだろうか。

 

「……しばらくフライヤー配りを続けて成果はゼロ。休憩後は、もう少し張り切って売り込みをかける必要がありそうですね」

 

 未だ自分の手元に残っている三枚のチケットを眺めながら独りごちる。二時間ほど駅前でフライヤー配りをしてみたものの、チケットを買ってくれる人は未だ一人も現れていなかった。

 

 誰も関心を示してくれなかった訳ではない。愛想の良い笑顔を浮かべ、努めて明るい声を張って見せれば、道行く人々の何割かは宣伝フライヤーを受け取ってくれた。立ち止まって話を聞いてくれる人も、少ないながらに存在していて。勿体無いことに、わたしなんかに『頑張ってね』なんてありがたい声をかけてくれる親切な人すら居てくれた。

 

 世間はわたしが想像しているよりもずっと冷たくはなかった。ただそれでも、見知らぬ他人のためにお金と時間を使いたがる奇特な人間はそういない。これはそんな、単純な話。

 

『どうしてだろう……もう一人の私、あんなに頑張ってたのに』

 

『こればっかりは仕方ありません。お客さんからしてみれば、大切なお金と時間を消費しなくてはいけないのですから』

 

『大切……そっか。そう、だよね』

 

 おおよそ、想定通りでもあるのだ。わたしだって、ひとりさんが関わっていない見知らぬバンドのライブを見に行こうだなんて夢にも思うことはない。時間もお金も、どちらも有限で貴重なものだ。それを無駄にするべきでないということは、身に沁みている。他の誰にしたって、少なからず同じように思っていることだろう。

 

 だから本来、わたしはこんな不確実な方法を取るべきじゃなかったと思う。それこそ、見知らぬ他人ではなくクラスメイトにでも売るべきだったのだ。喜多さんと初めて出会った日に会話したクラスメイト。彼女達はひとりさん達のライブに興味を示していた。実際誘ってみれば、意外と簡単にチケットを買ってもらえたかもしれない。

 

 でも、その方法を取るのは嫌だった。普段わたしの都合で彼女達から距離を置いているのに、都合の良い時だけ擦り寄るような行いをすることが、あまりに身勝手で気持ち悪い行動に思えてならなかったから。つまらない拘りかもしれない。ひとりさんのために捨て去るべきだとも、理性は告げている。それでも、本当に嫌だったんだ。

 

『……そ、そのぅ。やっぱり私も何かした方がいいんじゃ』

 

『大丈夫、勝算はありますので。ひとりさんは大船に乗ったつもりで、ドンと構えていてください』

 

『……う、うん』

 

 勝算があるというのは嘘じゃない。なにせ今日は夏祭り。夕方に差し掛かれば人足は今の比にならないくらい増えていくことだろう。祭りの陽気にあてられて、財布の紐が緩む人も少なくないはず。そこから先はわたしの頑張り次第、なんとでもなるはずだ。

 

『おや、虹夏さん達からロインが』

 

『え!?……な、なんて?』

 

『皆さん、チケット売り終えたみたいですね。それで、みんなで自主練でもどうかってことらしいですけど』

 

『ひ、ひえぇ……』

 

 スマホからの通知音に反応して結束バンドのグループチャットを確認すれば、わたし達以外は既にチケットノルマを捌き終えているようだった。まぁ、これも当然のことだろう。虹夏さんはあの明るくて優しい性格を考えれば、学校でチケットを売る相手には困りそうもないし、喜多さんなんて言わずもがな。リョウさんにしたって、あの格好良さならばクラスで人気があっても何も不思議ではない。

 

 結束バンドには魅力的な人達ばかりが集まっているのだなと、しみじみと感じている。

 

『み、みんな順調そう……もしもう一人の私が居なかったら、ノルマを捌けなくて私はクビにされてたんだぁ……』

 

『それはありませんよ。ひとりさんも、結束バンドの皆さんが優しいってことはもう十分に知っているでしょう?』

 

『わかってはいるんだけど……でも、でもぉ』

 

 それはそれとして、自分への不信感は拭えないといったところだろうか。チケットを売り切るのが難しいことを相談すれば、クビにされるどころか虹夏さん達は嫌な顔もせずに手伝ってくれるはずなのに。ひとりさんもそろそろ、その事実を心から信じても良い頃合いだと思う。

 

 ひとりさんが頼れる存在は、決して心の内にいるもう一人の自分だけではない。あるいは本当にその事実に気付かなければいけないのは、わたしの方だったりするのだろうか。

 

『それで、どうしましょうかひとりさん』

 

『ど、どうするって……何を?』

 

『結束バンドでの自主練です。わたしとしては、チケット売りを中断してそちらに合流しても構いませんけれど……』

 

 チケット売りをするなら今日という絶好の日を逃す手はないが、ひとりさんの意思を蔑ろにするほどではない。どんな状況にあったって、優先されるべきなのはひとりさんの都合だ。そのためなら、わたしは自分のつまらない拘りは投げ捨ててクラスメイトに売る道を選ぶつもりだった。

 

『い、行けないよ!もう一人の私が頑張ってくれてるのに、私だけが呑気に練習だなんて……』

 

 だけど、わたしのつまらない拘りすらもひとりさんの優しさによって尊重されてしまう。どう取り繕っても、わたしが表に出るということはひとりさんの時間を削る行為でしかない。だからわたしは、決してひとりさんの為という理由以外で表に出てはいけないのだと。そんな不変の事実を、心の底で何度も噛み締める。

 

 少しでもひとりさんの時間を奪わぬように、何としても今日でチケットを売り切る覚悟が必要だ。

 

「わかりました。ではすぐにチケット売りに戻り――え?」

 

 虹夏さん達に今日は行けないと連絡し、休憩を終えて再び駅前へと戻ろうとしたところで、ドサリと近くで物音がした。慌ててそちらへと視線を向ければ、一人の女性が道端に倒れ込んでいる。それも受け身も取らずに、真正面から。その凄まじく非日常的な光景に、間抜けな声を上げて硬直してしまう。

 

『も、もう一人の私!?人、人が倒れて……き、救急車呼ばないと……い、いちいちなな!?』

 

『お、落ち着いてひとりさん。117は時報です……そうですね、まずは救急車を呼ばないと』

 

 慌てふためくひとりさんを落ち着かせるために冷静な言葉を吐きつつも、わたしの内心はまったくもって平常心ではなかった。救急の現場に立ち会うのは初めてで、嫌な緊張感に身体が支配されてしまう。救急車を呼んだ後はどうしよう、近くにAEDなんかはあっただろうか。纏まりのない思考が頭をぐるぐると廻り、ただ119とスマホに入力するだけなのが、指が震えてなかなか上手にいかなかった。

 

「……み、水。水ください……」

 

「は、はい!今すぐに買ってきますから!」

 

 そんなわたしが最後の9を入力する寸前で、倒れた女性が身体を這いずらせながら擦れがかった声でそう声をかけてくれた。女性が意識を失っていなかったことに心底ほっとする。

 

「……それと酔い止め。あとしじみのお味噌汁」

 

「はい!……はい?」

 

 しかし、矢継ぎ早に続いていく女性からの要求は何かおかしい。酔い止めはともかくとして、しじみの味噌汁は明らかに身体の具合が悪く切羽詰まっている人間からの要求ではない。先程までとは全く別種の、楽観的な嫌な予感が既にわたしの頭を埋め尽くしていた。

 

「あとお粥も食べたい……介抱場所は天日干しされたふかふかのベッドの上で……」

 

『す、凄い注文してくるね。もう一人の私、これってもしかして……?』

 

『ただの酔っ払いですね、間違いなく』

 

『だ、だよね』

 

 わたしの身体にしがみつき、とても図々しい注文をしてくる女性の姿を見下ろせば簡単に結論は下せた。わたしの先程までの緊張なんて杞憂も杞憂。その実態は二日酔いに苦しんでいるだけのただの酔っ払いでしかない。一気に緊張で強張ってた身体の力が抜けて、気を抜けば大きいため息すら漏れ出てしまいそうだった。

 

『ど、どうする?なんだかものすごく苦しそうだけど……』

 

『どうするって、そんなの考えるまでもなく――』

 

 急患ならばともかくとして、二日酔いに苦しんでいるだけの酔っ払いを介抱しなければならない義理はわたし達にはない。そもそもわたしが表に出ているとはいえ、ひとりさんを見ず知らずの酔っ払いと関わらせるなんて百害あって一利なし。だから悩むまでもなく、わたしが取るべき行動はこの女性を引っぺがして、直ちにチケット売りに戻ることのはずだ。

 

『……はぁ。ひとりさん、申し訳ないのですが少しお時間もらっても大丈夫でしょうか?』

 

 なのに気付けば、わたしはこの場に留まる許可をひとりさんに求めてしまっていた。この女性を助ける合理的な理由なんて一つもないにも拘わらず、だ。そんな選択を取ってしまう自分の至らなさに、堪えていたため息が思わずこぼれ落ちる。

 

 見捨てて放っておくのは流石に良心が痛むとか、満足に身動きできない女性を一人にするのは危ないだとか、言い訳はいくらでもあるけれど。一番の理由を挙げるならば、格好良くもだらしなさ過ぎる我らがベーシストの顔がふと脳裏を過ってしまったという、不可解にも程がある理由。わたしの心のモヤモヤは加速するばかりだ。

 

『う、うん、もちろんいいよ!』

 

『……ありがとうございます』

 

 いっそのことひとりさんが断ってくれれば、こんな複雑な感情に苛まれずに済む。そんな淡い期待を抱くもわたしがこう申し出て、ひとりさんが断るはずもなく。今日一番の弾んだ声色で、わたしのお願いは受け入れられることになってしまった。

 

『どうしてそんなに嬉しそうなんですか?』

 

『あ、ううん、違くて。なんというか……もう一人の私らしいなって思ったんだ』

 

『わたしらしい、ですか?』

 

『うん!やっぱりもう一人の私は、困っている人を放っておいたりしないんだなって』

 

 そう興奮気味に語ってみせるひとりさんは、きっと表に出ていればキラキラと眼を輝かせていたのだろう。ひとりさんの中で、そんなヒーローのような存在でいられていることは嬉しく思う。だけど近頃のわたしは、そんなひとりさんの期待に相応しいような存在だろうかと不安で。純粋に疑問で仕方がなかった。わたしはひとりさんのイメージほど、自分が優しい存在だとはどうしても思えなかったから。

 

『それはわたしらしいと、言えるのでしょうか?』

 

『う、うん。今はあんまりないけど、小学生くらいの頃はたくさんそういうことがあったよね。具合が悪そうな子が居たら、一番に気付いて保健室に連れて行ってあげたり。誰もやりたがらない係や委員会を誰かが押し付けられそうになった時、代わりに立候補したり……違うクラスの名前も知らない子の落とし物を、一日中かけて探してあげたこともあったよね?』

 

『そんなことをしていた時も、ありましたね』

 

 懐かしく、わたしにとっては少し苦い記憶を嬉しそうに語るひとりさんに、どこかむず痒い気持ちになる。まだわたしという人格が生まれて間もない頃、誰彼構わずわたしが善意を振り撒いていた時期があったのは事実だ。そうすることが、ひとりさん自身のためにもなるだなんて無邪気に信じていた頃の話。それがひとりさんの居場所と時間を削る行為だって、初めから気付いておくべきだったのに。

 

 気付いていれば、中学の学校祭の件でひとりさんがあれほど傷付くはずはなかった。

 

『そんなもう一人の私を見る度に、ヒーローみたいでカッコいいって憧れてたんだ……もちろん、今だって』

 

 楽しいばかりではなかった筈の思い出を、ひとりさんは眩しいもののように語ってくれる。だからこそ、ひとりさんの輝かしいヒーロー像から自身が少しずつ乖離していっていることを思い知っていく。

 

 最近のわたしは困っている人を助けるどころか、誰かを困らせてばかりいるから。

 

 

 ◇

 

 

「ぷはぁ、肝臓に染みる〜!ありがとねー、まさか本当にお味噌汁買ってくれるとは」

 

「いえ。まぁ、成り行きですので……」

 

 介抱に必要な物を最寄りのコンビニで買い揃え、二日酔いでぶっ倒れたお姉さんの下へ舞い戻る。手始めに水としじみのお味噌汁を手渡せば、先程まで倒れていたのが嘘のように元気よく飲み干していた。この人、間違いなくわたしが介抱なんてしなくても何とでもなっていた。そんなことを今更悟ったところで後の祭り。

 

 ただまぁ、ただのインスタントのお味噌汁をこれ以上ないほどに美味しそうに飲んでくれて。そのありがたり様を見ていれば、助ける甲斐はあったのかなと思えそうなのが唯一の救いだった。

 

「一応お粥も作ってきたんですけど、食べますか?」

 

「え、食べる食べる!……お味噌汁だけじゃなくてお粥まで、なんて至れり尽くせりな!」

 

「天日干ししたフカフカのベッドは流石に無理でしたけどね」

 

 お粥とスプーンを一緒に渡すと、これまた感動で身を震わせながらお姉さんは受け取ってくれた。こんな不必要な物まで取り揃えてわたしは何をやっているのだろう。それもこれも、温めるだけのカップお粥なんて便利な物まで取り揃えているコンビニが悪い。

 

 途中、お姉さんからの注文をどこまで取り揃えられるか。そんな馬鹿な行動を楽しんでしまっていた自分が、本当に嫌になる。

 

「酔い止めと胃薬も買っておきましたので、食べ終わった後に飲んでください。あ、飲み過ぎで胃が疲れてるんですから、お粥はゆっくり落ち着いて食べてくださいね」

 

「なんて細やかな気遣い……本当にありがとね〜。日本の未来は暗いと思っていたけど、君みたいな優しい子がいるのなら光明が見えるかもしれない!」

 

「大袈裟過ぎですよ」

 

 なんて謙遜をしつつも、わたしの心は感謝されたことにしっかり喜んでいるのだからどうしようもない。わたしのくだらない承認欲求を満たすために、一体誰の時間が奪われていくのか再確認したばかりだというのに。ひとりさんの為だけの存在でいなければダメなのに、他人からの感謝で簡単に舞い上がってしまうこの心が、嫌いでしょうがなくて。わたしまでもが吐き気を覚えてしまいそうだった。

 

「ごちそうさまでした!……あーでも、まだ気分悪い。頭外して丸洗いしたい、内臓取り出してアルコール搾り出したい……」

 

「お姉さんが無理した分を、今内臓さんが頑張って処理してくれてるんですから。今日はゆっくり休んで、キチンと身体を労ってあげてくださいね?」

 

「うん、そうするそうする〜」

 

『なんだか、ヤバい人を助けちゃったみたい……?』

 

『まったくです』

 

 ひとりさんの言葉の選ばなさには驚かされるが、わたしも全面的に同意せざるを得ない。そもそも、お酒の飲み過ぎで日中にぶっ倒れるような人間はどう考えたってまともな人物じゃない。お礼を何度も言ってくれたり、お粥やお味噌汁を一つ残さず完食したあたり悪い人ではなさそうだけど、それとこれとは別問題。

 

 どうしてわたしは、僅かながらにもこんな人とひとりさんの接点を作るような真似をしてしまったのだろう。後悔ばかりがわたしの心に積み重なっていく。

 

「ね、君。名前なんていうの?」

 

「後藤ひとりです」

 

「へぇ〜、可愛い名前」

 

「そうですね。わたしもそう思います」

 

「……?なんか、すごい他人事みたいな言い方するね」

 

「え、いやその、これは言葉の綾といいますか……」

 

 失言を的確に突っつかれてしまい、動揺して言葉を詰まらせてしまう。名前すらもわたし自身が賜ったものじゃない、そんな認識が言葉の節々から滲み出てしまっていた。いくら相手が酔っ払いだとはいえど、これは流石にわたしの気の緩みすぎだった。

 

 しかし、先ほどまであんなにへろへろだったにも拘わらず、わたしの失言への指摘は随分と的を射ている。まさかとは思うが、意外にも鋭い感性を持つ人だったりするのだろうか。

 

「……お姉さんの名前をうかがっても良いでしょうか?」

 

「ん、私ー?私はねー、廣井きくりっていうんだ〜」

 

「きくりさん、ですか」

 

「そうそう、きくりお姉さんだよ〜!よろしくねー、ひとりちゃん」

 

「よろしくお願いします……」

 

 まだ酔いの抜け切ってなさそうな顔で自己紹介をするきくりさんを見て、また僅かながらに後悔する。自分の失言を誤魔化すためとはいえ、名前を聞き返してしまったのは失敗だった。名前と顔が知れていれば、それは少なからず顔見知りという訳で。ひとりさんではなくわたしの印象しか知らない顔見知りなんて、どんな形でも増えるべきではない。

 

「よーし、それじゃあひとりちゃんとの出会いを祝して……かけつけ一杯!」

 

「……えぁ??」

 

 突如きくりさんが取った行動に目を疑い、恥ずかしくもとんでもなく間抜けな声が漏れ出てしまう。でも、こんな反応になってしまうのも無理からぬことだと思うのだ。先ほどまであんなにも二日酔いで苦しんでいた筈のきくりさんが、明らかにお酒とわかるデザインの紙パックを取り出しては口を付けようとしているのだから。その行動の正気を疑いたくもなるだろう。

 

「ちょ、ちょっと何やってるんですか!!?」

 

「なにって、お酒飲むんだけど?いぇーい、迎え酒〜!!」

 

「冗談でしょう!?やめてください!!」

 

 冗談のつもりなんて欠片もないのか、ストローをぶっ刺して今にも酒を飲み干さんとするきくりさんの腕を、必死の思いで掴んで制止する。あれほどアルコールで身体を痛めつけた後に、追い討ちをかけるなんて寿命を縮める行為だとしか思えない。そもそも、ここで飲ませたら先ほどまでのわたしの介抱の意味が無へと帰していく。あらゆる意味で静観するわけにはいかなかった。

 

「止めないで、ひとりちゃん。ちょびっと、ちょびっとだけだからさ!!」

 

「そういう問題じゃありません!わたし、言いましたよね……身体を労ってあげてくださいって!」

 

「これが私流の労わりかたなんだって。私の五臓六腑がアルコールを求めてやまないのさ!!」

 

「そんな労わりかたが認められる訳ないでしょう!?」

 

 支離滅裂な主張を繰り返すきくりさんとの、飲酒を巡った攻防が続いていく。ああどうして、わたしはチケット売りのためではなく酔っ払いを諌めるためにこんなにも声を張り上げているのだろう。わたしは何か大きく道でも間違えてしまったのだろうか。

 

「もう……どうしてそんなにお酒を飲みたがるんですか?」

 

「だって、お酒を飲めば全部忘れられるじゃん?将来の不安とか、嫌なことや辛いこと全部さ……あ、私はこれを幸せスパイラルって呼んでるんだけど――」

 

「嫌なことや辛いこと……」

 

 わたしはそういったワードには、弱い。きくりさんの飲酒を止めようとヒートアップしていた頭が急速に冷めていくのを感じる。

 

 もしもの話ではあるけれど、目の前のきくりさんだって何か辛い事情や苦しみを抱えている可能性はある訳で。ひとりさんがわたしという逃げ道を生み出したように、きくりさんがお酒を人生の逃げ道としてるというのもあり得ない話ではないのだ。

 

 そうした前提の下考えてみると、今のわたしの行動はとんでもなく無神経にも思えてしまって。気が付けば手から力が抜けてしまい、きくりさんの腕を離してしまっていた。

 

「……ごめんなさい。もう止めませんから、好きに飲んでください」

 

「ほんと?やったー!!……でも、一体どういう心変わり?」

 

「いえ……誰かの逃げ道を塞ぐような権利はわたしにはないなって、思っただけです」

 

「ふーん、若いのになんだか詩的だねぇ……それじゃ、いっただきまーす!」

 

 許可を貰えた瞬間にお酒を一気飲みし始めるきくりさんを見ていると、止めたくなる気持ちがふつふつ湧いてくるが、スカートの裾を強く掴みながらなんとか自分を押し止める。

 

 驕ってはいけない。客観的に見てどれだけ間違って見えようとも、わたしなんかが他人の行動に口を挟むなんて烏滸がましいことこの上ない。他人の人生に口を挟んで良いのは、自分の人生をしっかりと歩んでいける者だけだろうから。

 

「ぶはぁ、キく〜〜」

 

『す、すごい飲みっぷりだね……飲む手が止まらない』

 

『ひとりさんは、お酒との付き合い方にはどうか気を付けてくださいね』

 

『うん……そうする』

 

 紙パックどころか一升瓶をラッパ飲みし始めたきくりさんを見てると、頭痛すら覚えそうだったので見ないフリをする。奇しくも、きくりさんの姿はひとりさんが今後お酒と付き合う上での最高の反面教師になってくれている。わたしが気に留めるのはひとりさんのことだけ。そう、これで良いはずだ。

 

『もう一人の私が誰かにあんな大声を出してるの、初めて聞いた気がする』

 

『そうかも知れませんね……申し訳ありません。ひとりさんの身体であんなはしたない声を出して』

 

『あ、やっ、違くて……もう一人の私がなんだか楽しそうで、嬉しいなって思ったんだ』

 

『そんなことは……』

 

 ない、とはどうしてか言い切れなかった。お互いに何を憚ることもなく、冗談や軽口を言い合える間柄。そんな関係に憧れを持っているだなんて、認めるわけにはいかないのに。

 

『もう一人の私は、お酒に興味ってある?』

 

『ないとは言いませんけど……あまり飲んでみたいとは思いませんね』

 

 味自体に興味はある。でも人だろうと物だろうと、縋れる何かを得てしまうのは自分の弱さに繋がりそうで、近づけたくなかった。SNSと同じくどうしようもなく依存し、溺れてしまう光景が想像できてしまうのが怖い。

 

 ひとりさんにみっともない姿を晒してしまうくらいなら死んでしまう方がマシだ。そして実際に、わたしの存在がお酒を飲める年齢まで続くこともきっとないのだろう。

 

『じゃあ大人になっても私はやめとこうかな……うん、コーラで十分』

 

 わたしの想像に反して、ひとりさんはわたしとの未来が続くことを一切疑わない。そんなひとりさんは、わたしという存在が居なくなった時にいったいどんな表情を浮かべているのだろう。

 

 想像すらしたくもない。傷付いていたとしても、驚くほど傷付いてなかったとしても、あるいはわたしのことをすっぱり忘れてしまっていたとしてもだ。どんな顔をしていたって、わたしにとっては地獄でしかない。

 

 自分の居なくなった後の光景なんて考えたくはないのに。それすらも、ひとりさんから逃げているのではと囁く心の一部が、わたしを苛ませるのだ。

 

「でもさぁ……ひとりちゃんって、自分はこれっぽっちも逃げていいだなんて思ってなさそうだよね」

 

「……は?」

 

 きくりさんから投げかけられた言葉に、心臓が跳ねる錯覚を覚える。わたしの思考をせっつくかのような予想外の方向からの揺さぶりに、自分でも驚くくらいの低い声が出てしまう。

 

 そんなの、当たり前だ。わたしはひとりさんの逃げ道として生まれた存在だ。そのわたしが逃げていい道理がどこにある。ひとりさんや喜多さんが逃げることを肯定しておきながらも、わたし自身が逃げることだけは絶対に許容されるべきではないと思っている。それは確かな事実だ。

 

 何故そんな心の奥底を、わたしは初対面の人に覗かれているのだろう。どうしてこの人はそんな芸当ができてしまうのだろう。細めた目から覗いているその瞳が、少しだけ恐ろしくも感じられた。

 

「そんな風に見えますかね、わたし」

 

「うん、見える見える!ひとりちゃんさ、見た目は今時の可愛い子そのものって感じなのに、表情は草臥れたOLみたいなんだもん」

 

 騒めく心の内を押さえ付けながら、なんでもない風を装って口を開く。ここでムキになって否定なんてしたら、ひとりさんがどんな感情の動きを見せるのか想像もつかない。この大事な時期にひとりさんの心労を増やしてしまうことだけは避けたかった。

 

 そんなわたしの心を知ってか知らずか、冗談めいた口振りできくりさんは補足説明をしている。星歌さんに続いてどうしてこう、表情から心の奥底を覗き見られてしまうのだろうか。自分では完璧に取り繕えてると思っているのに。大人からしてみれば、わたしの強がりなんて子供騙しにしか見えないのかもしれなかった。

 

「私もひとりちゃんに釣られて詩的になっちったかなー、なんて」

 

 わたしの心を掻き乱しまくっている本人は、どこ吹く風とばかりに次々と新しい酒を開け続けている。そんな姿を見ていると、この人の発言をいちいち真に受けてしまう方がダメなんじゃないかとすら思えてしまう。そして同時に、あらゆる面でこれ以上は付き合ってられないと思った。

 

「では、わたしはそろそろお暇しますね」

 

『も、もういいの?』

 

『お酒を飲む元気があるなら大丈夫でしょう』

 

 この場を去るために立ち上がる。酔いが醒めるのを待つこともなく、次から次へとお酒を足していくのだから介抱も何もあったものではない。このまま放っておいて家に帰れるのか不安で仕方がないが、そこまで面倒を見る義理は流石にない。これ以上時間を無駄にしないためにも、さっさとチケット売りに戻るとしよう。

 

「おっ、ギター!それギターだよね、弾けるの?」

 

「……まぁ、一応」

 

 背を向けて一歩を踏み出したところで、わたしの言葉を聞いていなかったのかきくりさんが容赦なく言葉を投げかけてくる。無視をしてしまうのは流石に忍びなくて、足を止めて短いながらも相槌を打ってしまった。

 

 きくりさんがテンション高めに反応したのは、わたしの背中に背負われたギターケース。バンドの宣伝をするなら背負った方が格好付くだろうという理由で持ち出したもの。ひとりさんのフリをしているならともかく、わたし自身として接している状態でこれを弾けると言ってしまうのはなんだか後ろめたい。背負っているギターが、分不相応に重く感じられた。

 

「いいねー。私もバンドやってるんだー、インディーズだけどね」

 

「そう、なんですね」

 

 聞き流せばいいのに、あんまりにもきくりさんが楽しげに喋るからつい振り返ってしまう。たまたま声をかけてしまった行き倒れの酔っ払いお姉さんは、どうにもひとりさんと同業者であるバンドマンらしい。喜多さんの時にもつくづく思ったけど、世間というものは存外狭く作られているらしい。

 

『ひっ、お、大人のバンドマン……もう一人の私、早く逃げないと!?』

 

『え、なんでですか?』

 

『だって私洋楽とかろくに聞かないし……ロック舐めんなってギター壊されちゃう!?』

 

『ひとりさんの中でどんな存在なんですか、大人のバンドマンは……』

 

 ひとりさんの思う大人のバンドマンがあまりにも危険人物過ぎる。多分だけど、お父さんの語るおかしなバンドマン像に多大な影響を受けているに違いない。

 

 世の中の大人バンドマンが実際どうかは知らないが、目の前のきくりさんにおいてそれは杞憂だろう。確かに変で傍迷惑な人なのに間違いはないが、不思議と悪い人ではないような気がするのだ。これだけ酔っているのに、攻撃的な台詞が一つも出てこないのもそう思う一因だろうか。

 

「私はベース弾いてるんだー。お酒とベースは私の命より大事なものだから、毎日肌身離さず持ってるの」

 

「はぁ。それで、その大切なベースはどちらに?」

 

「……忘れた」

 

「……なんて?」

 

「居酒屋に忘れてきちゃった」

 

 一つも気にした様子もなく発されたその言葉に、自分の聴覚ときくりさんの正気を疑う。だってそうだろう、楽器といえばバンドマンの武器であり右腕である代物だ。毎日欠かさずメンテナンスを行うひとりさんの様子からその大切さは伝わるし、本人も命より大切だと言い切っている。その命より大切な代物をどうして居酒屋なんかに忘れてしまうのか、一ミリも理解できなかった。

 

「わ、忘れたって……何処の居酒屋ですか!?」

 

「んー適当に立ち寄っただけのトコだったしなぁ……覚えてないかも」

 

 空いた口が塞がらないとはまさしくこのことだろう。そんな体たらくで一体どうやって自分のベースを取り戻すつもりなのか。そもそも今こうして呑気に酒なんて飲んでいる場合なのか。もっと切羽詰まって焦るべきじゃないのか。呆れやら焦りやら怒りやら、そしてわたしのお節介な心がとうとう限界を迎えていた。

 

「ああもう……ほんとにもう!!きくりさん、今すぐ!今すぐに探しに行きますよ!!」

 

「え、ちょ、ちょっとひとりちゃーん!?」

 

 あまりのどうしようもなさに打ちのめされてか、わたしはきくりさんの手を引いていつの間にか駆け出していた。こんな人を放っておいてはいけない。そんなひとりさん以外に向けてはいけない使命感に駆られてしまったのだ。

 

 あとから振り返ればどうしようもなく愚かな行為でしかないけれど、きくりさんの手を引いているこの瞬間だけは、わたしの鬱屈とした気持ちやしがらみは忘れられていて。ひとりさんが語ってくれたような、困っている人を放っておかないヒーローのような気分であれた気がした。

 

 

 ◇

 

 

「大将、ありがとねー!」

 

「もう忘れるなよー!あと、お嬢ちゃんに迷惑をかけるのもほどほどになー」

 

「ほんっっっっとうに、ありがとうございました!!!」

 

 朗らかで気前の良い店主に見守られながら、居酒屋を後にする。最後に万感の想いを込めて、深々と頭を下げてお礼の言葉を残す。今日何度頭を下げた相手かわからないが、やり過ぎということはない。何度頭を下げたって感謝しきれないお人だろう。

 

 きくりさんのベースは無事に見つかった。本当に店の名前も場所も覚えてなかったきくりさんから断片的な情報を聞き出し、時には道行く人に尋ねながらなんとか辿り着いた目的の居酒屋。そこの店主が、しっかりときくりさんの忘れたベースを保管してくれていたのである。

 

 わたしはそれを、決して当たり前のことだとは思わない。楽器は少なからず高級品だ。もしこの居酒屋のお客さんや店主が不埒な考えを抱いていたら、持ち去られていた可能性だって十分にあるのだ。そんな状況下でしっかりとベースを保管し、まだ開店時間ではないにも拘わらず嫌な顔一つせずわたし達に対応してくれた店主の善意には、本当に感謝してもしきれない。

 

『見つかって良かったね……ほんとうに』

 

『今日ほど、世界の優しさに感謝したことはないかもしれません』

 

『めちゃくちゃ頭下げてたもんね、もう一人の私……』

 

 ベース探索の疲労から、道端のベンチに二人して腰を落ち着ける。世界の優しさとこの喜びを分かち合ってくれるのは、ベースを忘れた本人ではなくひとりさんだった。なんてわたしの心に寄り添ってくれるのだろう、やはりわたしにはひとりさんしかいない。

 

「見て見てひとりちゃん。じゃーん、私のマイベース!スーパーウルトラ酒呑童子EX〜!カッコいいでしょ?」

 

「……ですね、カッコいいですよ」

 

 当の本人はご機嫌な様子でわたしに自分のベースを見せびらかしていた。ここまで清々しい態度だと、小言を言う気力すら失せてくるのだから、大したものだと思う。めちゃくちゃなのに、不思議と憎めないような不思議な人柄。ベースがしっかりと保管されていたのも、この人柄の賜物なのかもしれない。そんなことを思ったりしていた。

 

 しかし、本当にわたしは何をしているのだろう。空を見上げると空はすっかり夕暮れ時を迎えている。目的を達成して頭が冷えてくると、急速にとてつもない後悔が襲ってきた。

 

『本当にごめんなさい。ひとりさんの貴重な時間をこんなにも無駄に消費してしまって……』

 

『あ、謝らないで。それに、もう一人の私の時間は……無駄なんかじゃない、と思う』

 

 ひとりさんはフォローしてくれるけど、この時間を無駄と呼ばずして何と呼べるのか。同じ時間があれば、ひとりさんは結束バンドのみんなとの自主練に参加できていた。大切な人達との思い出を重ねることが、できていたのに。自分の浅はかな行動の結果を、まざまざと見せつけられているようだった。

 

『私に確認したり、謝ったりしなくていい……もう一人の私も好きなように時間を過ごして欲しいって、思ってるから』

 

 ひとりさんはどこまでも優しい。でも、その言葉をわたしが素直に受け取ってしまったらどうなる。わたしが仮に好き勝手に友達を作って、自分だけの趣味を持ってそれらに時間を費やしてしまったら。ひとりさんの演奏技術を支えている、たくさんのギター練習の時間。結束バンドのみんなと笑い合うかけがえのない時間が、消え去ってしまう。

 

 どんな言葉と優しさを重ねたって、一人が使える時間の総量が変わることはない。だからわたしが、ひとりさんに甘える訳にはいかなかった。

 

『ダメですよ。時間は誰にも、等しく流れるものなんですから』

 

『ううん、だからこそ。みんなと同じじゃなくたって、もう一人の私とだけは……対等でありたいんだ』

 

 もうわたしの返すべき言葉は見つからなかった。ひとりさんらしい、とても素敵な考え方だと思う。でもわたしには、とても頷けない。わたしが細やかな喜びを感じる時間と、ひとりさんが過ごす音楽と誰かとの彩りに溢れた時間。両方を比べた時に、どちらに価値があるかなんて言うまでもないと思ってしまうから。

 

 それを直接口にしたとしたら、ひとりさんは『そんなの比べることじゃないよ』と、きっと言ってくれるのだろう。だからこそこの話は並行線でしかなく、これ以上は口を噤むべきだった。

 

「ね、ひとりちゃん。何か悩みとかあるでしょ?」

 

「なんですか急に」

 

「思い詰めた顔してたからさ、わかるよ〜。私もひとりちゃんくらいの頃は悩み事がたくさんあったなぁ」

 

 また脈絡もなくきくりさんから話題を振られ、そちらに意識を集中する。目下一番わたしを悩ませている人物から言われるのは少し癪に触るが、わたしの悩み事は日々増え続けているのも事実なので、強く否定することができなかった。

 

「良かったら、お姉さんに話してみなよ〜。バシッと解決してしんぜよう!」

 

「……そう言われましても」

 

 またパック酒を丸ごと一本飲み干しながらそんなことを言うきくりさんからは、一つの頼り甲斐も感じられなかった。果たして、この人に相談して解決するような悩み事が世の中にどれほどあるというのか。それを抜きにしたって、わたしは人様に聞かせられるような悩み事はまったく持ち合わせていない。

 

 しかし、何もないと嘘をついたところでいとも容易く見破られそうなのが、この人の厄介そうな所だった。

 

「実はですね――」

 

 仕方がなく、わたしはきくりさんに悩み事を相談することにした。もちろん、わたし個人の後ろ暗く解決しようもない問題についてではない。バンドのチケットノルマを捌けていないという、表向きのひとりさんが抱えている問題についてだ。

 

 これならひとりさんに聞かれても何も問題はないし、現役バンドマンらしいきくりさんから何か有益なアドバイスが聞ける可能性もある。まさに一石二鳥と言えるだろう。

 

「ふぅん、なるほどねぇ」

 

 一通り事情を喋り終えると、きくりさんはわたしの表情を窺うようにじっと見つめてくる。そんな風にされると、わたしの狡い誤魔化しなんて見透かされているように感じられて、思わずたじろいでしまう。

 

「うぅ、そっかそっか。ひとりちゃんは悲劇の少女だったのか……チケット売るの大変だよね、私も最初の頃はすごく苦しんだなぁ」

 

『す、凄い同情してくれてる……』

 

『チケットノルマの悩みは、どのバンドでも共通事項なのかもしれませんね』

 

 わたしの不安を余所に、きくりさんは涙ぐみながらひとりさんの抱える事情にいたく同情してくれているみたいだった。同じバンドマンとして、その苦しみに共感する部分が少なからずあるのだろう。

 

 きくりさんならチケットノルマくらいノリと勢いだけで何とかしてしまいそうにも見えてしまうが、やはりどのバンドも駆け出しの時期は苦労するものなのかもしれない。

 

「よーし、じゃあ命の恩人のために私が一肌脱いであげよう」

 

「命の恩人は言い過ぎなような……あの、何してるんです?」

 

 ためになるアドバイスでもくれるのかと思えば、きくりさんは立ち上がり徐に上着を脱ぎ始めた。その行動の意図が一切読めず、非常に嫌な予感がして恐る恐る問いかける。

 

「何って……ひとりちゃんと私で今から路上ライブをするんだから、その準備だよ。ほら、ひとりちゃんも準備して?」

 

「……は、はい?」

 

 本日何度目になるかもわからないような理解不能の衝撃が、わたしを襲う。そこに至るまでのプロセスが一切謎なのに、確定事項かのように語るのがわたしの理解を超えすぎていて呆けてしまう。

 

 いけない、きくりさんのペースに飲み込まれて流されるな。これはもう既にわたし一人だけの問題ではなくなっているのだから。

 

「路上ライブって、どうしていきなりそんな話になるんですか!?」

 

「チケット売りたいんでしょ?じゃあビラもあるんだし、路上ライブで客呼んでチケット買って貰うのが一番いいって……今日はこの辺でお祭りやるっぽくて、人通りも多いしさ」

 

「一理ありますけど……急にそんなことを言われても困ります」

 

 きくりさんの提案自体は、とても理に適っていると思う。ただ宣伝フライヤーを配るよりは、路上ライブで実際に演奏を見せた方が何倍もチケットは売れやすくなるに決まっている。個人的にはとてもいい案だとも思う。でもそれは、わたしがギターを弾けるならの話だ。

 

 路上ライブをやるのならば、ギターの弾けるひとりさんに代わってもらうしかない。それは準備も覚悟も出来ていない状態で、ひとりさんを大勢の衆目の前に引っ張り上げる行為に他ならない。わたしの勝手な都合で、ひとりさんにそんな負担を押し付ける訳にはいかなかった。

 

「そもそも、アンプ一つもなしに路上ライブなんてできないでしょう?」

 

「あー、それもそっか……もしも〜し、私。……生きてまーす!今から路上ライブするんだけど機材持ってきてくれない?」

 

「ちょ、きくりさんわたしの話を――」

 

『あ、あの、もう一人の私!!』

 

 機材がないから物理的に路上ライブなんてできやしない。そう理詰めで説得しようとするも、あろうことかきくりさんはバンドメンバーらしき知り合いに電話をかけて、機材の要請をしてしまう。着々と路上ライブの準備が進められていることに焦りを感じ、きくりさんに声を荒げそうになったところで、ひとりさんに呼び止められる。

 

 その心の内からの声があまりに力強いものだったから、電話を続けるきくりさんから意識を離して、ひとりさんに集中してしまう。

 

『ど、どうしましたひとりさん?……路上ライブの件でしたら、心配しないでください。わたしが責任を持って止めますから』

 

『ち、違うの、そうじゃなくて……むしろ、逆、というか』

 

『逆?』

 

『お姉さんとの路上ライブ……止めないでいいよって、言いたくて』

 

 今度はきくりさんではなく、ひとりさんから衝撃の言葉を告げられて呆然としてしまう。どうしてだ、どうしてひとりさんの口からもきくりさんと同じ結論が出てきてしまう。ひとりさんはその意味を、本当に正しく理解しているのだろうか。

 

『よくは、ないでしょう。ひとりさんが路上ライブをする羽目になるんですよ?』

 

『うん、わかってる……正直やりたくないし、すごく怖い。でも、私がやらなきゃいけないことだって、思うんだ』

 

 ひとりさんは全て分かっていた。これから自分が背負い込む苦労をしっかりと理解した上で、逃げずに真っ向から立ち向かおうとしている。わたしのよく知っている、逃げることを第一に考えていたひとりさんの姿はもうそこになくて。わたしの知らない、強い意志を持ったひとりさんだけがわたしの心の内に立っている。

 

 何もかも変わって行く。わたしにとって誰より近い存在であるひとりさんすら変わって行き、わたしを置き去りにして行ってしまう。

 

『どうして、そう思うのでしょうか?』

 

『お客さんは大切なお金と時間を使わなきゃいけないんだって、もう一人の私は言ってたよね?』

 

『ええ、言いましたね』

 

『ならやっぱり、もう一人の私の後ろに隠れてるだけじゃなくて、私も何かするべきだと思ったんだ……もう一人の私と違って、器用じゃないから。ギターしか弾けないけど……でも、ギターなら、弾けるから』

 

 自分のライブに来てもらうのだから、自分が表立って勧誘すべき。とても立派な考えだ。ひとりさんはわたしの何気ない発言すらもじっくりと吟味して、意識の裏でずっと自分のやるべきことを探していたのだろう。そして見つけたやるべき事が困難でも、目を背けずに立ち向かおうとしている。わたしはそのひとりさんの選択を、とても誇らしいと思う。

 

 でもそれと同じくらい、わたしのほの暗い感情がとめどなく溢れ出るような感覚も覚えるのだ。『わたしはもう、ひとりさんには必要ないのでしょうか』なんて。

 

『ひとりさん』

 

『どうしたの、もう一人の私?』

 

 愛しい人の名前を呼んで、その情けない感情に蓋をする。大丈夫、まだ自制できる。大切な人の足を引っ張るような化け物にはならずに済んでいる。どうかこの我慢が効かなくなる前に、わたしの終わりが訪れて欲しいと切に願っている。

 

『たくさん、とは言えないかもしれませんが。きっと少なくない人がひとりさん達の演奏に注目するでしょう』

 

『うん』

 

『格好だって、いつもとは違います。他人からの視線をいつもよりも浴びるかもしれません』

 

『うん』

 

『きくりさんも、少なからずわたしのイメージを持ちながらひとりさんの演奏を見るでしょう……それでも、やるんですね?』

 

『うん。それでも……なんとか、やってみる』

 

 揺さぶりをかけても、脅しのような言葉をかけたってひとりさんは揺らがなかった。今日のこの状況は、中学の学校祭の件に少しだけ似ている。ひとりさんが大きく傷付いたあの時のような状況に、飛び込んで欲しくない気持ちは確かにある。どうか止めて欲しいと、今だって喉は叫びたがっている。

 

 それでも、わたしはひとりさんの選択を肯定し続ける。最初の誓い、ひとりさんのためのヒーローであり続けると証明するように。きっとヒーローは、必死に何かに立ち向かおうとしてる誰かがいるとしたら、そっと背中を押してあげるものだろうから。

 

『わかりました。でも、忘れないでください。辛かったり、苦しかったりしたら……いつでもわたしを頼っていいんですからね』

 

『ありがとう、もう一人の私』

 

 最後にくどいばかりの念押しをしながら、意識の裏に引っ込んでひとりさんに身体を返す。最後の言葉は果たして、ひとりさんに向けた言葉になれていただろうか。自分はまだひとりさんにとって必要な存在だと言い聞かせている、虚しい言葉に成りかけているやもしれない。

 

「ひとりちゃーん!機材持ってきてくれるって〜」

 

「ひっ!?あっ、え、その、は、はいぃ……」

 

「えっ、どったのひとりちゃん。大丈夫??」

 

 電話を終えたきくりさんが戻ってきて、当たり前だがわたしと話していた距離感のままひとりさんに接する。きくりさんと直接対面するのはやはりハードルが高いのか、ひとりさんの狼狽えようは酷い。それに前髪で目を隠していないせいで、目が泳ぎまくっているのも丸分かりだ。さしものきくりさんもその異常にはすぐに気付き、不審がっている。

 

「あっあの……よ、よろしくお願いします!!」

 

 しかし、ひとりさんは俯くことも目を背けることもしなかった。散々百面相を披露した後ではあるけれど、最後にはきくりさんにしっかりと目を合わせ挨拶をしていた。あんなにも自分の表情が覗かれてしまうことを嫌がっていたひとりさんがそうして見せたことに、わたしまでもが驚かされてしまう。

 

「へぇ……良い眼をしてるね」

 

「え?」

 

「これは、私のお節介なアドバイスなんていらなさそうだ!」

 

 その表情を間近で見ているきくりさんは一瞬目を見開いたかと思えば、何故か満足そうな笑みを浮かべ、一人だけで勝手に謎の納得感を得ているようだった。

 

 きくりさんがひとりさんから何を感じ取ったのかはさっぱりわからないが、とても素晴らしい表情をしていたのであろうことは想像に難くない。それをわたしは見られなかった事が、当たり前なのにどうしてか悔しかった。

 

 

 ◇

 

 

「皆さん、今回は私達の路上ライブに足を停めてくれてありがとうございまーす!」

 

 程なくして、路上ライブの準備は呆気なく整ってしまった。道端の一角を許可もなく陣取り、楽器はアンプに繋げて準備万端。道行く人々、脚を止めてくれるごく一部の人達。そんな衆目を一身に浴びて身体を縮こまらせながらも、ひとりさんは正面を向いて立っている。

 

 きくりさんのよく通る朗らかな呼び声のお陰か、はたまた祭りの陽気のお陰なのか。見にきてくれているお客さんの数はそれなりだ。ざっと数えてみた感じても十人以上は、この路上ライブに興味を向けている。

 

「それじゃ、始めますねー!曲はこの子のバンド、結束バンドのオリジナル曲でーす!ぱちぱちぱち〜」

 

「結束バンドの後藤ひとり……です。曲名は、あのバンドって、いいます」

 

 極度の緊張下にあるひとりさんへの配慮もなく、きくりさんは無慈悲に路上ライブ開始の宣言をする。そんな中で、ひとりさんが誰に促されるでもなく自己紹介と曲の紹介をしたことに、ただ驚かされる。拙くても、下手くそでも、今はいない結束バンドのメンバーに代わってMCの真似を努めようとしている。その頑張りに、胸が打たれる想いでいっぱいになる。

 

 ひとりさんのちょうど正面に立っている、大学生であろう浴衣の女性の二人組。その人達がひとりさんの紹介に小さく拍手をしてくれて、そのさり気ない暖かさが印象に残った。

 

『もし、もう一人の私がライブに出るとしたら……どんなことを考えて、ステージに立つ?』

 

『わたしだったらですか?』

 

 ひとりさんから唐突に投げかけられた質問に、必死に頭を働かせる。質問の意図はわからないけれど、この土壇場でわたしに聞くのだからきっと大事なことなのだろう。間も無く演奏は開始される、じっくりと考えている暇はない。

 

 ふと目に付いたのは、先程の浴衣姿の二人組。きっと仲良し二人組で、お祭りを楽しもうとこうして足を運んできたのだろう。素晴らしい青春の一ページだ。わたしもひとりさんとそんな風に遊んでみたかったと、羨ましくなってしまうほどに。

 

 楽器を弾けない身なりに、想像する。もしわたしがバンドの一員だとしたら、自分達の演奏を聞くために訪れてくれた人達。そんな人達の青春に彩りを添えられるような存在でいたいと、そう思うのかもしれない。青春コンプレックスを抱えているわたしが語るには、烏滸がましいかもしれないけど。

 

『自分達のライブを聴いてくれる人達……そんな人達が、良い一日だったって思えるような演奏がしたい。そう、願うのかもしれません』

 

『……そっか、ありがとう。もう一人の私らしいね』

 

 こんな答えでよかったのだろうか。何かの参考になりはしたのだろうか、ひとりさんの返事からは窺い知れない。願わくば、ひとりさんの心構えの一助になれればと思う。

 

「よし、やろう!ひとりちゃん」

 

「は、はい!」

 

 カウントではなく、きくりさんの雑な合図によって演奏は開始される。ボーカルは不在なので当然インスト、二つの楽器の音だけが嫌でも目立つ。そんな合奏の中でまず鮮烈な印象を受けたのは、きくりさんのベースの音だった。

 

 きくりさんにとっても、見ず知らずのギターと即興で組んでいる特異な状況。そのはずなのに、音に全く迷いが見受けられない。あっちへこっちへとふらふらかっ飛んでいくひとりさんのギターを、受け止めて確実に支えてくれている。

 

 堂に入っている、自信に満ち溢れた演奏。虹夏さんの語ってくれた、音楽を楽しむという要素を体現するかのような鮮烈な弾き方だった。インディーズだと本人は言っていたけれど、技術ならプロと比べたって遜色ない。素人目でもそう思わされてしまう。ひとりさんは間違いなく今、凄い人と組んでいる。

 

 対するひとりさんの演奏は、悪い意味で予想通りだった。初めてのライブを完全に焼き直すかのような、不安定なギター。身体を緊張で強張らせて、目を瞑ったまま弦を爪弾いている。不安で、怖がりながら演奏をしている事が音からもありありと感じ取れてしまう。

 

 きくりさんと並んでも全く見劣りしないであろう、ギターヒーローの姿はもちろんそこにはない。不安と恐怖を抑えながら、もがき続けるようなひとりさんのギターは、きくりさんの演奏に支えられることによってようやく形を保っている。

 

 でも、これは凄い事だ。突如発生した、見知らぬバンドマンとの即興路上ライブ。途方もない覚悟と勇気がいるこの状況下の中で、ひとりさんは自分の足で立ち、その腕で止まる事なくギターを奏でている。これ以上を、望むべくもないだろう。この経験はきっと、ひとりさんの今後のバンド活動の糧となって行くはずだ。

 

『昔から、みんなの前で何かをするのが怖かった』

 

 オーディションの日のように、ひとりさんの独白がわたしの脳裏へと響いてくる。何も力にはなれない代わりに、せめてひとりさんの覚悟だけは聞き逃さないように。聞き入ることに集中する。

 

『誰かに笑われたり、失望されたらと思うと……怖くて、逃げ出したくて仕方がなかった』

 

 それは、ひとりさんの根底にある恐怖といってもいい。その感情がきっかけとして、わたしという存在が生まれた。そうしなくては自分を保てないほどのストレスを感じてしまう恐ろしさ。そんなものに、ひとりさんはどうして立ち向かえてしまうのだろう。

 

『もう一人の私が来てくれてからは、もっと怖くなった……もう一人の私への期待を裏切ってしまったらと思うと、何よりも怖かった』

 

 これはわたしの罪といえるだろう。考えなしにひとりさんの身体を使って、ひとりさんに余計な重荷をいくつも背負わせてしまった。そのせいで最終的に、ひとりさんを大きく傷付けたこともある。だからわたしは決めたんだ、誰かと不必要に交流するのは止めようって。

 

 我ながら、正しい判断をできたと思うのだ。わたしが必要以上にでしゃばらなかったことで、ひとりさんは素敵な仲間を見つけて、今ではこんな遠い場所に自分の力だけで立っている。そして、ひとりさんが本当に自分一人で生きられるようになったのならば、わたしの抱える時間だって全てひとりさんに返されるべきだった。

 

 だからそう、認めて納得しなくちゃいけない。わたしがやがて居なくなることは自然なことで、どこまで行っても正しい――

 

「がんばれーっ!」

 

 ギターとベースの音でもなく、ひとりさんの独白でもない。まったく異なる声が響き渡り、そちらへとわたしの意識も引っ張られる。ひとりさんも驚いたように、瞑っていた目を見開いていた。

 

「ちょっとあんた、何言ってんの?」

 

「なんかギターの人辛そうだったから、つい……」

 

「ついって……」

 

 声の出所はまた、正面の浴衣姿の女性達。彼女達からもわかってしまうほどに、ひとりさんの表情は悲痛なものらしい。そんな姿を見ても彼女達は呆れることもなく、笑うことすらない。ただ純粋な激励の言葉だけを送ってくれている。きっと、優しい人達なのだろう。

 

 そんな彼女達の声援に応えたい、報いてあげたい。場違いな使命感すらも、抱いてしまう。

 

『でも、違う……本当に怖いことがあるとするなら――』

 

 意味のない感傷のはずだった。誰かの声援に応えたいなんてわたしの感情は無意味で、それをひとりさんに背負わせるわけにもいかなくて。既にいっぱいいっぱいの筈なひとりさんに応える術があるはずもない。

 

 なのに、わたしの気持ちに応えるかのように、ひとりさんのギターの音が変わっていく。

 

『私が怖がったせいで、もう一人の私が居場所を失ってしまうこと……笑えていた筈の誰かの側で、笑えなくなることだ』

 

 ひとりさんはいったい、なんの話をしている。チケットノルマのため、自分達結束バンドのためにこうしてステージの上に立っているんじゃなかったのか。どうしてそこで、ライブに関係のないわたしが出て来てしまう。

 

 わたしときくりさんが過ごした僅かな時間を肯定するため。そんな馬鹿げた理由で、ひとりさんがこんな苦難に立ち向かっているなんてあり得てはいけないのに。

 

『もう一人の私の時間と居場所を大切にしたい……ううん、大切にできるんだって。私はもう、証明しないと』

 

 あり得ないと断じたはずの結論を、ひとりさんの独白は次々と後押ししていってしまう。何故、どうして。次々と降って湧くわたしの疑問を置き去りにしながら、ひとりさんの演奏は次々と正確さを取り戻していく。

 

 迷いを帯びていたコード進行は、緻密かつ正確に。弦を爪弾くそのストロークは、響き渡るように力強く。縮こまり、恐れをなしていた感情表現はどこまでも大胆に。ボロボロだったひとりさんのギターが、着実にあるべき形を成していく。

 

『胸を張れ、顔を上げろ、背筋を伸ばせ、お客さんから目を逸らすな……もう、怖がらない。音を楽しんで、お客さんを楽しませることだけを考えろ』

 

 ひとりさんから視える景色が、ガラリと変わる。その目に写すのは、瞼の裏ではなくお客さんの表情。前髪がその視界を遮ることはなく、俯いてその視界を傾けることもない。わたしが普段見ている世界と同じ姿を、ギターを携えたひとりさんの奥から覗き見る初めての光景。新鮮で奇妙な筈なのに、どうしてか不思議なくらい、しっくりときてしまう。

 

『私の信じる、誰よりもカッコいいヒーローのように!!』

 

 そして音が、世界が完全に切り替わった。もうきくりさんのベースに寄りかかるだけのギターは、何処にもいない。自分が主役だと高らかに主張するかのように、ひとりさんの音は爛々とその存在感を放っている。それでいて、きくりさんのベースを置き去りにするようなことはなく、一歩先を先導するかのように正確で。きくりさんも完璧にそれに追従してみせるものだから、先程までとは段違いの演奏が展開されている。

 

 お客さんにも、それがわかるのだろう。もう不安げにひとりさんを見るようなお客さんは一人も居ない。足を止めてくれる人は皆このライブに釘付けになって、夢中で演奏に耳を傾けていた。

 

 しかし、このライブに一番魅入られているのはわたしなのかもしれない。わたしはひとりさんのこんな姿を、このような演奏を知らない。結束バンドのリードギターとしてどころか、ギターヒーローと比べても遠くかけ離れた演奏を、今のひとりさんはしている。

 

 雷鳴を地面に打ち据える如く、私の音を聞けと叩きつけるようなギターヒーローの演奏とは、似ても似つかないギター。その対局にあるかのような、繊細で聞き手に委ねる優しさを纏った旋律。遠い遥か彼方へと、届けと祈りを捧げるかのような儚くも力強い、そんなギターだった。

 

 これはいったい、誰の演奏なのだろう。ひとりさんは一体どこへ向かってしまっているのか。本来なら、そんな疎外感を感じそうなものなのに。この演奏を不思議にも、身近に感じてしまうわたしがいる。

 

 この演奏に魅入られて、ただただ沈むように没入していく。今この時間だけは、わたしの葛藤や行く末への不安は欠片もなく。この時間を一秒でも長く味わっていたいとだけ、願うことができていた。

 

「……ありがとう、ございました!」

 

 わたしの願いも虚しく、ひとりさんの会釈とともに路上ライブは呆気なく終わりの時を迎えた。立ち止まり、最後まで聴いてくれたお客さんが拍手でひとりさんの演奏を讃えている。声援を送ってくれた彼女を含めて、みんなが笑顔を浮かべてくれている。そのことをどうしてか、自分のことのように誇らしく思える。思えてしまう。

 

『じゃあ、後はお願いしてもいい……かな。もう一人の私』

 

『え、ちょ、ひとりさん?……疲れてしまいました?』

 

『そういう訳じゃないけど。でも今だけは、これでいいんだ』

 

 路上ライブ成功の喜びを分かち合うこともなく、ひとりさんから主導権を渡されてわたしの意識が表へと出る。ひとりさんが自分の手で作って見せたお客さんの笑顔、道端を陣取っただけのステージ上からでも感じ取れる心地よい空間。それを堪能することもせず、引っ込んでしまうのは勿体無いような気もする。

 

 でも、そんなわたしの懸念をあえて口にする気が失せるほどに、ひとりさんの声色は満足感と達成感に満ち足りていた。

 

「ひとりちゃん、よかったよー!!」

 

「ありがとうございます、きくりさん」

 

 サムズアップをしながら、きくりさんもひとりさんの演奏を褒めてくれていた。本来なら、わたしが表に出て受け取るべきではないひとりさんへの褒め言葉。それを受けたのにも拘わらず、驚くほど素直にお礼の言葉がわたしの口から発されていた。

 

 いつもの、消え入りたくなるような申し訳なさと後ろめたさはどうしてか感じない。熱に浮かされたような、奇妙な心地よさに未だに浸り続けている。

 

「あのー、このライブのチケット買ってもいいですか?」

 

「二枚ください!」

 

「は、はい。ありがとうございます!」

 

 わたしの作った宣伝フライヤーを手に取りながら、浴衣姿の二人組がチケットの購入を申し出てくれた。驚きはない、あれほどひとりさんが凄まじい演奏を披露してくれたのだから、きっと誰かの心を動かせたのだという確信はあった。

 

 でも、その相手が他ならぬ彼女達だったことが、なんとなく嬉しい。

 

「一枚千五百円なので……三千円になります」

 

「初めて路上ライブ見たけど、凄く格好良かったです!」

 

「次のライブも頑張ってくださいね!」

 

「……はい。次のライブも素敵な一日だったって思っていただけるように、頑張りますね」

 

 見ず知らずの人までがひとりさんの演奏する姿を褒め称えて、認めてくれている。その事実に胸がいっぱいになり、その喜びを外へ振り撒くようにわたしなんかがライブへの意気込みを語ってしまう。

 

 推奨されない行い、ひとりさんに不必要な重荷を背負わせる行為。今まではずっとそうだとばかり思い込んでいたけれど。わたしの期待は、ひとりさんがライブへ臨むための糧にもなれるんじゃないかと。今この時だけは信じられるような気がした。

 

 

 ◇

 

 

 あの後、警察からの注意を受けたことで路上ライブの場は解散となった。陽もすっかり落ち切って、街並みは祭りの街灯の明るさだけで満ちていた。

 

『……チケット、一枚だけ残っちゃったね』

 

『今は気にせず、この成果を喜びましょう。とても素晴らしいライブでしたよ、ひとりさん』

 

『う、うん。私、頑張った!』

 

 残ってしまった一枚のチケットを懐にしまい込んで、ひとりさんの健闘を褒め称える。ひとりさんの頑張りによって二枚もチケットが売れたのだ、何の憂いもなく喜んでもらいたい。それこそ、残り一枚の処遇をどうするか考えるのはわたしの役目だろう。

 

「ひとりちゃん、お疲れ様〜」

 

「きくりさん。今日は、ありがとうございました。きくりさんの協力のお陰で、チケットのノルマもなんとかなりそうです」

 

「いいのいいの。元々私がたくさん迷惑かけちゃったからさ、これはほんのお返しってことで」

 

 一緒に路上ライブを作り上げてくれたきくりさんにも、お礼を言う。紆余曲折ありすぎたきくりさんとの出会いだけど、最終的にはとても良い経験をひとりさんにさせてくれたのだ。その事実を感謝しないわけにはいかないだろう。

 

「最後の一枚、私が買うよ」

 

「え、いいんですか?」

 

 きくりさんが最後の一枚を買ってくれれば、ノルマは無事達成。願ってもない有難い話だが、いいのだろうかと躊躇もしてしまう。あれだけお酒を飲んでいるところを見ると、金銭的な事情とか色々大丈夫なのだろうかと心配だ。

 

「もちろん。私、普段新宿拠点に活動してるから近いし、このライブハウス知ってるし……ほら、千五百円」

 

「ありがとうございます……あの、STARRYの店長さんとは面識があったりするんですか?」

 

「あるよ?大学の時の先輩でさー、今でもよくお世話になってんだよね」

 

「……そう、なんですね」

 

 チケットとお金を交換しながらきくりさんの話に耳を傾けていると、STARRYを知っているという聞き捨てならない発言が飛び出ていた。追及して見ると、案の定星歌さんとは知り合いのようだった。それも単なるライブハウスの店長とバンドマンの関係ではなく、同じ大学の先輩と後輩だったというおまけ付き。本当に世間ってものは、狭くできているらしい。

 

 星歌さんの知り合いの先輩バンドマンともなれば、今後ひとりさんと関わることも少なくはないのかもしれない。今のうちにそれを知れてよかった。今後はきくりさんともひとりさんが接していくべきだろう、誰かの誤解をこれ以上広げぬように。

 

「ねぇ、ひとりちゃん」

 

「なんですか?」

 

「ギターを弾いてない時の自分に、価値なんてないって思ってたりしない?」

 

 きくりさんから告げられたあまりの内容に、反射的に持っていたお札を握り潰してしまう。どうして、とは思わなかった。やはりこういう人にはわかってしまうものなのかと、腑に落ちるような感覚さえ覚えていた。

 

 リョウさんが歌詞の書き手を見破った時と同じなんだろう。音楽に精通し、音楽にどこまでも向き合っている人だからこそ、音楽を通して感じ取れてしまう心というものがきっとあるのだ。例えばそう、わたしの浅はかな内面のように。

 

「……よくそれを本人に聞こうと思えましたね」

 

「ごめんごめん。ライブやってた時のひとりちゃんと、今のひとりちゃんを見比べてたら……どうしても、ね」

 

 悪態をついては見せるも、きくりさんがデリケートな場所に入り込んできたこと自体はそれほど気にしてはいない。きくりさんがそういう人だってことは、出会って三十分でそもそも諦めがついている。それに色々な事情を抜きにして考えれば、そういう人とのコミュニケーションが嫌いじゃないんだ、わたしは。

 

 きくりさんが指摘したことも純然たる事実だ。ひとりさんの代わりであるわたし個人に、価値なんてないと思っている。むしろ価値なんて一つも見出されてはいけない、じゃないとひとりさんに申し訳が立たないから。

 

「……」

 

 だが返すべき言葉がなく、わたしは黙りこくることしかできない。心情だけでいえばきくりさんに嘘をつきたくはない。でも、先ほど他ならぬわたしのために勇気を振り絞ったひとりさんの心情を考えれば、自分に価値がないなんて口が裂けても言うことはできなかった。

 

 だからわたしは沈黙を貫くことしかできなくて。でもきくりさんにとっては、それが何よりの答えになっているのかもしれなかった。

 

「実はね、私もそうなんだ」

 

「……どういう意味でしょうか?」

 

「そのまんまの意味だよ。音楽をやってない時の自分の人生なんてゴミだと思ってる」

 

 吐き捨てるような口調で落とされたきくりさんの言葉に、先程とは別の感情の下言葉を失ってしまう。さっきまであれほど楽しそうに、わたし達を振り回していた人の発言だとは思えない。明るくてマイペースで我が道を歩いてそうなきくりさんが、わたしと似た思いを抱いているだなんて信じがたかった。

 

「私ってさ、本当はつまんない奴なんだ。暗くて心配性で、お酒の力を借りないとステージの上にもまともに立てない臆病者」

 

「……そうは見えませんでした」

 

「だよね、だって見せないようにしてるんだもの。結局さ、ひとりちゃんが言った通りなんだよねー。私はロックに逃げるために、お酒に逃げている。コレがないと、行き場なんてどこにもないんだ」

 

 きくりさんはパック酒を手で弄びながら、なんてことの無いように語る。そこには有無を言わせぬ迫力と説得力が伴っていて、信じがたいなんて気持ちはどこかへと消え失せていた。

 

 ひとりさんときくりさんは、少しだけ似通っていた。自分の暗くて引っ込み思案な性格が世界の空気と合わなくて、生き辛さを感じている。そして二人とも、そんな生き辛さからの救済を音楽に求めたのだろう。だからきくりさんはひとりさんではないわたしを見て、音楽以外に喜びを感じてなさそうに見えてしまったのかもしれない。

 

 でもきくりさんは、どうしてわたしにそれを伝えたのだろう。傷の舐め合いを求めるようには見えない。どんな感情で、どんな心構えできくりさんの言葉に返事をせねばならないのかわからなくて。いつまで経ってもわたしは二の句を告げれずにいる。

 

「……んぐんぐっ、ぶはぁー!!!」

 

「ちょ、きくりさん!!?一気飲みは身体に毒ですって!」

 

「あはは、ごめんごめん。でも、こうでもしないと私って言えないことばっかりだしさー」

 

 なんの前触れもなしにお酒を一気飲みし始めるきくりさんに、度肝を抜かれてまた大きな声を出してしまう。でも先程の話を踏まえれば、この行為はきくりさんが理想の自分で居続けるための行為でもあるわけで。軽率に止めてはいけないのかもと、思ってしまう。

 

「私っていつもこんなんだからさー、飲み過ぎても誰も気にしてくれないんだよね〜。昨日だって打ち上げの後、バンドメンバーに見捨てられちゃったし。まぁ自業自得なんだけど!」

 

「……一体何の話ですか」

 

 いきなり凄い方向に脱線した話題に、少しだけ気が抜けてようやくまともな返事を返すことができた。飲み過ぎで動けなくなり、それに呆れたバンドメンバーがきくりさんを置き去りにするのは、残念ながら容易に想像できてしまった。

 

「だから、ひとりちゃんが優しくしてくれて嬉しかったよって話。真剣に体調まで心配して、叱ってくれてさ……そんなのいつ振りだっけかなぁ」

 

「最初にも言いましたけど、ただの成り行きですから」

 

 きくりさんからの感謝の言葉に、居心地が悪くなる。きくりさんを助けたのなんて本当にたまたまだ。むしろ、何度も何度も見捨てた方がいいんじゃないかって頭を過ったくらいなのに。結束バンドのだらしなくて放っておけない人の顔を思い出さなければ、実際にそうしていたはずだ。

 

「あとさ、ベース取りに行く時もダメダメな私の代わりに、大将にめちゃくちゃ頭下げてくれてたじゃん?……あれもすっごい嬉しかったなぁ。普通さ、他人のためにあそこまでできないって!」

 

「……いえ、きくりさん。わたしは」

 

 居心地の悪さはどんどん加速していく。きくりさんからの褒め言葉は全て、わたしなんかが受け取る資格があるとは思えなかった。わたしがきくりさんに見せた優しさは、全部利己的なものだ。ただ誰かの頼りになっている自分を、ひとりさんに見せたかっただけ。そうして悦に入っていただけの行為。

 

 そんな言葉をかけて貰えるほど、価値のある人間じゃない。そのような言葉ばかりが、わたしの口をついてでそうになる

 

「つまり何が言いたいかっていうと。今日出会ったばかりの私でも、ひとりちゃんの素敵な部分をいっぱい見つけられた……誰かのために一生懸命になれる自分。そんな自分を、ひとりちゃんはもう少しだけ認めてあげてもいいんじゃないかな?」

 

 口から出かかっていた言葉は、喉の奥底へと引っ込んだ。お酒で真っ赤になった顔で、たくさんの優しさを投げかけてくれるきくりさん。大量のお酒の力を借りないと残せなかっただろう言葉に、わたしのこんな台詞じゃ不誠実だから。

 

 ここにきてようやく、思い知った。きくりさんはわたしを励まそうとしてくれているのだろう。自分には価値がないと、俯いているように見えたわたしを元気づけるためだけに、ここまで言葉を尽くしてくれた。

 

「これは先輩バンドマンからのアドバイス……ひとりちゃんは、音楽をやる自分に酔っているだけの私みたいには、なって欲しくないからさ」

 

 少なからず、きくりさんは自分の歩んできた人生に後悔する部分があるのかもしれない。そういうところだけは、少しだけわたしにも似ているような気がする。

 

 そんな自分の内面を吐露するのは、抵抗があっただろう。素面ではとても言えなかった言葉であることも、理解できてしまっている。それを助けてくれたわたしへのお礼なんかにやってしまうのだから、きくりさん自身も優しい人に違いなかった。たくさん、優しい人に巡り会う。世界はわたしが思うより綺麗なのか、それともこれがひとりさんの人徳なのだろうか。

 

 勿体無い言葉だ。ここまで言われても、自分には価値がないと揺らぐことすらできないわたしには。本当に、勿体無い言葉だ。

 

 生き方は、変えられない。でもわたしはどうしても、きくりさんの気持ちに報いてあげたかった。きくりさんの尽くしてくれた善を、無意味なものには仕立てたくなかった。こんなわたしにも変えられる部分はあるだろうか。わたしのような存在が変わることが、果たして許されるのだろうか。

 

 変わっていい部分もきっとある。今のひとりさんならそう思って良いのだと、信じてみようか。

 

「生き方は、変えられないと思います……でも、そう言っていただけて凄く嬉しいんです。これだけは、本当なんです」

 

「うん」

 

 表面上では何一つたりとも変わってなさそうな、わたしの拙い言葉。それに対してきくりさんは、笑顔でとても満足そうに頷いてくれた。

 

 今まで、たくさんの素敵な人に出会ってきた。わたしの家族、虹夏さん達結束バンドのメンバーに、STARRYの人達。そして今日出会ったきくりさん。そんな人達と、ひとりさんの代わりにわたしが過ごした時間も確かに存在していて。今までは多くのその時間に後ろめたさを抱えて、後悔し続けていた。

 

 後ろめたいのも後悔するのも、みんなと過ごした時間が素晴らしいものだと思ったからだ。彼女達の優しさと善意に応えられていた自信は今でもないけど、きくりさんのように信じてくれる人もいる。だったらもう、後悔するのはやめよう。

 

 みんなとの出会い、過ごした刹那の時間。そのどれもがキラキラと輝いていて、かけがえのない時間だったと認めよう。その僅かだけは自分を赦してあげようと、心から思えたのだ。

 

「ひとりちゃんが何に悩んでいるのかはわからないけど……きっと大丈夫」

 

「え?」

 

「理由も根拠もないけど、答えはもうひとりちゃんの中にあるんだって信じてみてよ……大丈夫、私の勘は当たるんだ」

 

「勘なら、しょうがないですね」

 

 どうにもならない問題だ。きくりさん以外に言われたら、勝手なことを言うなと少しむっとしてしまうかもしれない台詞なのに、この人が言うと本当にそんなこともあるんじゃないかという気がしてしまう。

 

 勘なら仕方がない、わたしの心の楽観的な部分でだけ信じて見ようと思う。

 

「じゃ、またねひとりちゃん。ばいば〜い」

 

「さようならです、きくりさん。また、お会いしましょう」

 

 またねの言葉も、今日は自然と喉を通り抜けてくれた。明るい気持ちで誰かと別れるのなんて、いつ振りのことだろう。今日一日の感謝を示すように、駅へと遠くなっていくきくりさんの後ろ姿にたっぷりと頭を下げた。

 

『ひとりさん……バンドマンって、カッコいいですね』

 

『うん。私も大人になったら……あんな風にカッコよくなれるかな?』

 

『なれますとも。ひとりさんなら、きっと』

 

 駅の中へと消えていったきくりさんの姿を見届けて、その余韻に浸る。ロックな生き様とは、ああいう生き様のことを言うのだろう。だらしなくダメダメな部分もあったけれど、掛け値なしに格好良い姿だったと少しだけ憧れてしまう。

 

 ひとりさんもきっとなれるだろう。あんな風に、音楽と生き様で誰かを勇気付けてあげられる存在に。

 

『も、もう一人の私』

 

『……ん。どうしました、ひとりさん』

 

『お姉さん、何か戻ってきてるみたいだけど……』

 

『ホントですね。忘れ物でしょうか?』

 

 ひとりさんに言われ視界に集中すると、確かに大慌てできくりさんがこちらへと戻ってきていた。忘れ物だろうかと周囲を見渡しても、上着やアンプなどの機材は一つ残らず回収されていて、思わず首を傾げてしまう。

 

 そうこうしている間に、息を荒げたきくりさんが目の前へと舞い戻っていた。

 

「チケット買ったらお金なくなっちゃった……ひとりちゃん、電車賃借して〜!!」

 

「は!!?」

 

 なんとも情けない顔でこちらを拝み倒すきくりさんに、到底ひとりさんの身体で出してはいけない声を発してしまう。でも許してほしいというか、これはわたしが悪いわけではないと思うのだ。

 

 あまりにも既視感のありすぎるやり取り。もしかするとベーシストとは、格好良い一面を見せた瞬間に自分で台無しにしないと気が済まない人種なのだろうか。わたしの先程までの余韻と感動を返してほしいと、叫び出したかった。

 

『ひとりさんは絶対に、こんな風になっちゃダメですからね!!』

 

『き、気を付けるね……』

 

 お金のないバンドマンへの嘆きが、心の内にいるひとりさんだけに響き渡っていた。

 

 

 ☆

 

 

「ひとりちゃんからロインきました!『協力のお陰もあり、無事にチケット売れました。明日から練習にも参加します』ですって!」

 

「よかった〜。ぼっちちゃん、あれで人見知りするタイプだし心配だったんだよー……」

 

「私は心配してなかった」

 

「リョウってば本当に一ミリも心配してなかったよね。はぁ、リョウのぼっちちゃんへの信頼感はどこから来るんだか」

 

「これで、明日からみんな揃って練習できますね!」

 

「うんうん。……でも、この協力っていったいなんのことなんだろ?」

 

「ひとりちゃんがよく話してくれる、憧れの人に手伝って貰ったんじゃないでしょうか?困った時はいつも助けてくれるんだって、言ってましたし」

 

「あー、そうかも!……それじゃ今頃、二人で仲良くギターでも弾いてるのかもしれないね」

 

「……え?」

 

「喜多ちゃん、あたし何か変なこと言っちゃったかな?」

 

「い、いえ、そういう訳じゃないんですけど!……でも、ひとりちゃんの憧れの人ってギターは弾けないですよね?」

 

「えっ、いや、そんなはずないよ。だってぼっちちゃん、その人のギターが大好きだって。歓迎会の時に熱く語ってたし……」

 

「でも、ギターを弾けないその人をたくさん練習に付き合わせてしまったって、ひとりちゃん言ってました……あれが嘘だとは、私思えません」

 

「……どういうこと?」

 

「どっちも、嘘じゃないんだ」

 

「リョウ?」

 

「ぼっちには……ひとりには。ギターを聴いてくれる人も、ギターを弾いてくれる人もどっちもいるんだ。私から言えるのは、それだけ」

 

「リョウ先輩、それってどういう……」

 

「確かめに行こう、喜多ちゃん」

 

「伊地知先輩?」

 

「なんとなくだけど……あたし達も、もう知らないままじゃいけない気がする」

 




 最後は変則的な書き方をしました。小説の作法的にはかなりよろしくないのでしょうが、どうしても入れたかったシーンなので許してください。


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君ときみの家まで。

 長らくお待たせしてしまい、申し訳ありません。そして宣言より、二日ほど遅れての投稿になったこともごめんなさい。ロスタイムということで、是非楽しんでいただければ幸いです。


 

 きくりさんのありがたい協力もあり、無事チケットノルマをひとりさんは達成した。ライブ当日までの困難は全てクリアされ、後は本番に向けて練習あるのみ。わたしとひとりさんもそう確信していたのだが。

 

「ど、どうしよう……」

 

 そんな確信は裏切られ、ひとりさんはまたしても呆気なく窮地に立たされていた。わたし達の自室、その場所でただスマホを呆然と見つめたまま、突然降って湧いた困難にひとりさんは震え慄いている。

 

 スマホの画面に表示されているのは結束バンドのグループロイン。そこに突如投下された虹夏さんからの一言が、今こうしてひとりさんを窮地に立たせているのだ。

 

『みんなでライブTシャツのデザインを考えよう! それで、よければぼっちちゃんの家でやりたいなって思うんだけど、どうかな?』

 

 他の人からしてみれば、友達が自分の家に遊びに来たいというだけの何の変哲もないロインにしか見えないだろう。しかし、ひとりさんにとっては違う。

 

 虹夏さん達結束バンドのメンバーは、ひとりさんにとって初めての友達だ。悲しいけれど、それまではひとりさんには誰一人も友達が居なかった訳で。だから友達を家に招くというのも、初めての出来事なのだ。友達を初めて家に招待する、そんな一大イベントが突然やってきてしまっては、ひとりさんが慌てふためいてしまうのも無理からぬことだろう。

 

 かく言うわたしもひとりさん程ではないが、今回の出来事に少し面食らっている。もちろん、ライブでの一体感を高めるためにライブTシャツを作るというのは極めて自然な流れだと思う。ただ、それをひとりさんの家でやろうと虹夏さんが提案したのが少し意外だった。

 

 今までのバンドミーティングのようにSTARRYでやるのだとばかり思っていたし、その方が敢えてあまりにも遠いひとりさんの家を選択するよりはよほど自然なはずだったから。

 

 前々からひとりさんの家を見てみたいと思っていた。ひとりさんだけ長い時間移動しなければならないことを申し訳なく思っていた。そんな風に理由を考えることはいくらでもできるけど、どれもなんだかしっくりこない。

 

 この提案にはバンドTシャツの作成以外に、何か別の意図があるのではなかろうか。そんな疑念がわたしの頭を過ぎりそうになってしまい、慌ててこの考えには蓋をすることにした。そんなことを疑ったって意味はない。どんな意図があるにせよ、虹夏さん達のことだからきっとひとりさんのことを考えての提案に違いないのだ。

 

 ひとりさんに向けてみんなの優しさを信じるべきなどと言ったわたし自身が、結束バンドのみんなを疑うなどあってはならないことだろうから。

 

「どどどどどど、どうしよどうしよどうしよ……!?」

 

 くだらない思考を費やしている内に、ひとりさんはますます追い詰められているようだった。スマホを片手にガタガタと震えるひとりさんをこれ以上放置するのは流石に忍びない。わたしも一緒に問題の解決に移ることにしよう。

 

『ひとりさん、一緒に考えましょう?』

 

「もう一人の私……で、でも」

 

 助け舟を出せば喜んで乗ってきてくれる。そんなわたしの予想に反して、ひとりさんの返事の歯切れは悪い。いや、そもそもそんなわたしの見積もりは既にひとりさんには通用しないのかもしれない。オーディションやチケット売りと、最近のひとりさんは自分の力だけで困難を解決しようと頑張っていることが多いから。

 

 立派な心掛けだとは思うけど、今回ばかりはそう肩肘張らなくてもいいと思うのだ。結束バンドに加入してからの数々の困難に比べれば、言ってしまえば今回はとても些細な問題。むしろ微笑ましいとすら感じるくらいなのだから、ひとりさんが一人で抱え込む必要なんてないだろう。

 

 むしろ、こういう時に頼ってくれないのは少しばかり寂しく感じてしまう。なんて、わたしの勝手で邪な感情は外に置いておくべきだろうけど。

 

『とりあえず、お父さんとお母さんに話しに行きませんか? 虹夏さん達を家に招く以上、了承は得るべきでしょうから』

 

「……えっ?」

 

 とりあえず行動の指針を示して見せれば、ひとりさんも乗っかってくれるだろうか。そんな期待を込めて発したわたしの提案は、ひとりさんに驚きと困惑を持って受け取られていた。

 

 なにかおかしい気がする。こう言って見せれば少なくとも、明るい声をひとりさんから聞けると思っていた。なのに現実は、ますますひとりさんの困惑を深めてしまうばかり。わたしとひとりさんで、何か致命的な思い違いがあるんじゃないか。そう思えてならなく、わたしの心にも動揺が走り始めていた。

 

「よ、呼ぶの……? 虹夏ちゃん達を、家に」

 

『すいません。その、ひとりさんはもしかして……虹夏さん達を家に呼ぶつもりではなかったのですか?』

 

「う、うん……」

 

『それは、どうしてでしょうか?』

 

 質問を質問で返すような不躾な真似をひとりさんにしてしまったのは、本当に申し訳なく思う。でも、思わずそんな問いかけを返してしまうくらいには、その言葉が意外に過ぎた。

 

 ただでさえ頼まれごとや押しに弱いひとりさんだ。悩んで悩み抜いて、その結果どうしても断ることができない、とても優しい人。そんなひとりさんが真っ先に断るという結論にまで至るとは思えなかったのだ。

 

「……虹夏ちゃん達が家に来たら、もう一人の私が困ると思ったから」

 

 その答えを聞いた瞬間、わたしの心は急激に冷えていくようだった。ひとりさんは合わせるべき相手もいないのに何処か伏目がちで、声色には隠し切れない申し訳なさが滲んでいる。何を一人勝手に浮かれていたのだろう、わたしは。自己嫌悪の感情が沸々と湧いて出てくる。

 

 ひとりさんの家に友達が遊びに来る、きっと素敵な思い出になるだろう。だなんて楽観的かつ呑気な捉え方をしていたのはわたしだけで。ひとりさんは今回の出来事をもっと重く、それこそ死活問題のように捉えていたんだろう。理由は敢えて問い直すまでもなく、こんなわたしの存在を最大限配慮してしまったから。

 

「お家は、もう一人の私の居場所だから……もう一人の私が窮屈な思いをするのは違うと思った。だ、だから、私断らないとって、それで……」

 

 事実、ひとりさんの言う通りではあるのだ。結束バンドの皆が家に来てしまうとわたしは大いに困るだろう。家の中には、どうしてもわたしの生活と存在の痕跡が残ってしまう。それを隠し通すのにはかなり神経を使うだろう。そして何より、ふたりと両親が皆にどんな対応を取るのか。わたしにはこれっぽっちも想像できなくて、ただ恐ろしい。

 

 窮屈な思いをするのだろう。最も過ごしやすいはずの場所で、その日は息を吐く暇もないような状態を強いられるのかもしれない。でも、わたしはそれで良かったはずじゃないか。元よりそういう存在だ。なのに、わたしは既にひとりさんにとって、そんな風に思わせてあげられる強い存在ではなくなってしまったのだろうか。

 

『もう一人の私の時間と居場所を大切にしたい……ううん、大切にできるんだって。私はもう、証明しないと』

 

 路上ライブでの、ひとりさんの想いが自然と想起される。その宣言通りに、ひとりさんはわたしの存在を守ってくれようとしている。ひとりさんの心を守るために生まれたはずの、このわたしが。

 

 矛盾している、倒錯している。それは間違っていると、わたしの存在意義を揺さぶるかのように本能がわたしの存在を責め立ててくる。そうだ、もうわたしの存在は枷でしかないじゃないか。ひとりさんの心を導くこともできず、足を引っ張るだけの存在でしかないのなら。

 

 わたしの存在なんてもう、いらないんじゃないか。

 

『そんな自分を、ひとりちゃんはもう少しだけ認めてあげてもいいんじゃないかな?』

 

 違う、そうじゃない。そうじゃなかったはずだ。わたしが歩んできた積み重ねを否定するのはやめるんだって、あの人の言葉で決めたんじゃないか。お酒で自分を追い込みながら、疑う余地もないくらい真っ直ぐとわたしを肯定してくれた人の言葉を、必死で思い返す。

 

 自分の問題だけで手一杯だったひとりさんが、少しずつ周囲の誰かに眼を向けるようになっていった。虹夏さんの夢を叶えたいと奮闘し、リョウさんの音楽への情熱と向き合って歌詞を書き、喜多さんの心に寄り添っては支えるように。そのどれもがひとりさんの成長の結果であり、わたしはその優しさの発露を尊いものだと肯定してあげたい。

 

 わたしの存在を守りたい、その感情も同じ優しさなのだから。わたしがその優しさを否定するような感情を、抱くべきじゃないんだ。

 

 ひとりさんの成長が積み重ねの結果ならば、自惚れのようだけどそれはわたしという人格との積み重ねに他ならない。わたしとの日々がひとりさんに良き影響を与えてきたのだと、今こそ信じてみよう。

 

 いらないだなんて、勝手に自分を見損なうな。ひとりさんの優しさを愚弄しないように。

 

「もう一人の私……だ、大丈夫?」

 

『……ええ、大丈夫です。心配してくださってありがとうございます、ひとりさん』

 

 しばらくわたしが黙りこくっていたせいだろう。ひとりさんから恐る恐る心配の声が上がっていた。少し悩んでから、ただありがとうの言葉を告げることにした。ごめんなさいがきっと、一番ひとりさんを悩ませてしまうだろうから。

 

 このままわたしが何も言わなければ、ひとりさんは虹夏さんの提案を断ってしまうだろう。誰かの為に何度も一歩を踏み出してきたひとりさんなら、きっとそうしてしまう。

 

 でも、ひとりさんの願望がわたし自身の存在を理由に破棄されてしまう。そんな事象をわたしは決して許容できない。弱音を吐いたり、自身の存在を否定するでもなく、わたしがしてあげられることはなんだろうか。

 

 そんなの決まっている。強く、頼り甲斐のあるヒーローのような自分を演出し続けることだ。それがわたしの本質であり、始まりだから。結局そうすることしかできないという、諦観を多分に含んでいるのは少し格好付かないけれど。

 

 本来のわたしがそんな強い存在に程遠いことは、わかっている。つまらないことで傷付いて、自分のネガティブな感情さえ上手く処理することができない。こんな弱いわたしがヒーローに相応しくないことも、重々承知している。それをひとりさんも察しつつあるのだ。だからこうして、守ろうとしてくれているんだろう。

 

 それでも、ひとりさんがこんなわたしに望んでくれた在り方を最期まで貫き通したい。ひとりさんが生んで与えてくれた優しさと強さ。虚勢だったとしても示し続けることくらいは、わたしにもできるはずだ。

 

 だってわたしが必死で強がって見せれば、決して暴かないでいてくれる人だから。

 

『でも本当は、虹夏さん達をお家に呼んであげたいんですよね?』

 

「い、いや……そんなことは全然! これっぽっちも!!?」

 

『嘘ですよ』

 

 本心をつついて見せれば、ひとりさんはわかりやすく動揺を示してくれた。昔から、どうしても嘘を吐くのが下手っぴな人だった。そういう所が、本当に健気で愛おしいと思う。

 

 ふたりがちょっぴり意地悪く、ひとりさんの嘘を指摘する様を真似してみた。無邪気に、その声色の内に好意を覗かせて。何も心配なく、不安がることなどないのだと伝わるように。ふたりみたいに可愛らしくできている自信はこれっぽっちもないけれど、今この時間をなんて事のない日常として受け取って欲しいから。

 

『友達を家に招待するの、憧れてたんですよね? ふたりが家に友達を連れてくるたび羨ましそうに見ていたの、ちゃんと知ってるんですから』

 

「よく、知ってるね。さすがもう一人の私……」

 

『もちろん。いつも一緒に居るのですから』

 

「そうだね。一緒だ……へへ」

 

 少しだけ肩の力が抜けた様子のひとりさんに、ほっとする。わたしが生まれてから、ひとりさんの心の内でずっと一緒に過ごしてきた。だからこうやって、本人がひた隠しにしていた事柄を察せられる。

 

 ひとりさんはどうだろう。逆も然り、なんてことはあって欲しくない。わたしの心の奥底の弱さはどうか、完全にバレないで欲しい。いつもはもう少しひとりさんに似ていればと思っているけれど、嘘が下手な部分だけは似て欲しくないと祈っている。

 

「……私、上手にできないかもしれない。私のせいで、もう一人の私のことがバレちゃうかも。それでも、私は虹夏ちゃん達を呼んでいいの?」

 

 恐る恐ると、ひとりさんがそう確認してくる。声には隠しようもない恐怖が滲んでいる。ひとりさんの友人に存在を悟られたくない。そんなわたしの意図を汲み取って、必死に守ろうとしてくれている証拠。

 

 きっかけの一言をひとりさんがわたしに求める、いつも通りの光景。でもその本質は、今までとは全く逆のものだ。気遣われているのも、守られているのも、後押しを受けているのもわたし。こうしてひとりさんに支えられなければ、強いわたしとして立つことすらできない。

 

 こんな弱いわたしをまだ、赦していて欲しい。わたしが消える最後の時までは、どうか。

 

『いいんですよ……わたしのことはもう、問題じゃないんです。だからひとりさんは心置きなく、自分の望みを叶えてあげてください。それがわたしの、幸せでもあるのですから』

 

 わたしの存在の秘匿なんて、本当はもう重要なことじゃないのだ。虹夏さんや喜多さんが、今更わたしの存在を知ったとしてもひとりさんを否定することは決してないだろう。眼を背け続けていたけど、そもそもリョウさんには半分以上バレているような気もするのだから、本当に今更だ。

 

 そしてひとりさんも、わたしとのギャップで傷付いてしまうこともない。それは先日のきくりさんとの路上ライブで証明されている。わたしを通した期待を背負いながらも、ひとりさんは輝いていられるのだとギターを持って証明してくれた。

 

 躊躇っているのはもう、わたしの心だけだ。虹夏さんや喜多さんに正体を明かすことで、傷付いて傷つけられることを恐れているだけ。そんなちっぽけな理由のために、ひとりさんが自分を追い詰める必要は一つもない。

 

 バレないに越したことはないが、わたしはもうバレたとしても仕方がないとすら思っている。誰かを傷付ける覚悟が出来たわけでもないし、心からそんな覚悟を今後も持てやしないだろうけど。我慢をすることだけは、得意なつもりだから。

 

「……うん。私、虹夏ちゃん達を呼びたい」

 

『はい』

 

 たっぷりと迷って。何度も部屋中に視線を泳がせつつも、ひとりさんは最終的に頷いてくれた。まだ始まった段階の話でしかないのに、満足感を覚える自身の感情に不信感を覚える。私はまだ正常だろうか、きちんとひとりさんの為に言葉を費やせているのだろうか。

 

「で、でも! 私だけじゃ皆をもてなしてあげられるか不安だから……もう一人の私も、手伝って欲しい!」

 

『はい、任せてください。きっと、大丈夫ですから』

 

 ひとりさんはいつだって、わたしの欲しい言葉をくれる。でも今回は少し、ニュアンスが異なるのかもしれない。わたしが欲しがって止まない言葉を意図的に選んでくれた、そう捉える方が自然だ。

 

 言い知れない感情を抑え込むように、何の保証にもならない言葉がわたしの口から滑り落ちる。大丈夫、わたしとひとりさんの関係はまだ、大丈夫だ。

 

 ひとりさんの手助けをする。わたしにとって当たり前だった筈の行いをするのが、日に日に難しくなっていく。ここ最近はいつもそうだったけど、とりわけ今日は酷い。何度も何度も自己否定をする心を騙して、中途半端な是正を繰り返す。そんな人間未満のプロセスを踏まえないと、ひとりさんの力にもなれやしないなんて。

 

 そもそも、昔と同じ関係を続けられる訳ないのだ。昔ほどひとりさんは弱さを抱えていないし、わたしも今では自身の強さを殆ど信じることができていない。自明の結果なのだ。その果てでこの関係のバランスが完全に崩れ去った時、わたしがどうなるかなんて語るまでもない。

 

 だけど、それがなんだというのだ。ボロボロで不恰好でも、ひとりさんの前だけでは格好を付けて前に進み続けろ。ひとりさんの進む道にわたしの道が続いていなかったとしても、決して立ち止まることはない。

 

 ひとりさんの進むべき道の標として消え去れるのならば、本望だから。

 

 

 ◇

 

 

「そういう訳で、バンドの友達を家に呼びたいんだけど……」

 

 結束バンドの皆を家に招くことが決定したので、わたしの指針通りまずはお父さんとお母さんに許可を得ることにした。リビングのソファで、二人仲良く座って団欒していた両親に、ひとりさんがざっくりと説明をしている。

 

「ひとりが……」

 

「……友達を家に?」

 

 ひとりさんが説明を終えると、お父さんとお母さんは顔を見合わせながら硬直する。ひとりさんの言葉を呆然と鸚鵡返ししているその表情は、正に鳩が豆鉄砲くらったとでも言うべきな驚きの表情だった。

 

「き、聞いた? ひとりちゃんが初めて友達を連れてくるって……」

 

「あ、ああ! こうしちゃいられない、お父さん今から横断幕を作ってくる!!」

 

「私も……お赤飯、お赤飯炊かないと!?」

 

「ちょ、ちょっと……お父さん、お母さん!!?」

 

 暫く戦慄いた後、唐突にテンションをぶち上げたお父さんとお母さんは、ひとりさんの次の言葉を待つこともなく、浮き足立ちながら動き出してしまっていた。予想通りどころか、その遥か上を行くほどのオーバーリアクションに内心で笑みを浮かべてしまう。こういう時の勢いは正に、ひとりさんのご両親なんだなと実感する次第である。

 

 しかし、お赤飯はともかく横断幕ってなんだろう。嫌な予感がして、とっても気楽な頭痛を覚えていた。

 

「とりあえず、許可ってことでいいんだよね……?」

 

『二人とも歓迎する気満々みたいでしたから、そうでしょう』

 

「お父さんとお母さん、凄い反応だったね……びっくりした」

 

『それだけ、ひとりさんが友達を連れて来たことが嬉しかったんですよ……もちろん、わたしだってそうです』

 

「そ、そっか……少し照れくさいけど、嬉しいな」

 

 温かな家族模様に、どん底の縁を漂っていたわたしの感情も回復していくようだった。とても優しく、賑やかなこの家庭だからこそひとりさんは健やかに育ったのだろうと、強くそう思う。

 

 そして、今日この日までわたしがひとりさんの側に居られることも、お父さんとお母さんのお陰に違いなかった。

 

「よ、よし。私も虹夏ちゃん達を歓迎する為に、頑張らないと……!」

 

『ですね!』

 

 お父さん達の勢いに載せられるように、意気込みを新たにするひとりさん。わたしもようやく回復して来た調子の下、元気よく追従することにした。

 

 実際、これからやらねばならないことは少なくない。一応、部屋は毎日欠かさず整頓しているつもりだけど、お客さんを上げるなら改めて徹底的に掃除する必要があるだろう。それに、やたら数の多い貯金箱だとか飾っているふたりの描いてくれた絵だとか。そういうわたしの痕跡が色濃く残っているモノは隠さないといけない。

 

 明日になったら、来客用の飲み物とお茶請けも買って来ないといけない。特にせっかくお茶請けを買うのならば、流行に敏感で話題性の強いものが好きな喜多さんの喜ぶものを買ってあげたい。そのためのリサーチも必要だろうか。

 

 こうしてざっと挙げるだけでも、やることは山積みだ。ひとりさんが不安がることなく当日を迎えられるように、わたしも誠心誠意サポートを務めなければ。

 

「バンドの友達が遊びにくるの?」

 

「ひっ!? な、なんだふたりか……」

 

 背後から声をかけられて、戦々恐々としながらひとりさんが振り向いた先にはふたりが居た。お父さん達との先程のやり取りをふたりも見ていたのだろう。興味深々といった様子で、ひとりさんに上目遣いを向けている。

 

「お姉ちゃん達は遊ぶんじゃなくて、お仕事をする為に集まるんだよ。それも……崇高かつ、バンドの今後を左右する大切なお仕事のために」

 

 ひとりさんが、やたら仰々しく言葉を並べてふたりに説明する。決して嘘じゃないけれど、その内容はあまりにも大袈裟すぎる。流石にバンドTシャツのデザインくらいでバンドの今後は左右されないし、喜多さんなんかは半分くらいひとりさんの家で遊ぶつもりで来そうな気もする。そもそも、肝心のひとりさんだって内心では友達と家で遊べることに浮かれているに違いない。

 

 いつも通りに、お姉ちゃんとして良いところを見せようとひとりさんは見栄を張りまくっているようだ。

 

「えー、嘘だー!」

 

「う、嘘じゃないもん」

 

 しかし、例の如くそんな見栄はふたりには通用しないようで。即座に嘘だと断じられてしまっていた。実際かなり嘘寄りでもあるため、わたしとしてもあまり擁護できそうにない。

 

 先程わたしもふたりの所作を真似させて貰ったけど、こうして見るとやはり雲泥の差を感じる。ふたりがやるだけで、無邪気かつ愛くるしさに溢れるのだから本当に何もかも違う。

 

 常々思うのだ。わたしと接する時の素直なふたりはもちろん可愛らしくて仕方ない。でもそれはそれとして、ひとりさんの前でだけ見せる、ちょっぴり生意気なふたりは違った可愛さに溢れていると。

 

 別にそんなふたりの姿を見ていたくて、静観を貫いている訳ではない。ないったらない。

 

「ギター弾く方のお姉ちゃん。お仕事をする人はね、そんな風に浮かれきってはしゃいだりしないんだよ?」

 

「そ、そんな言い方一体どこで覚えて……」

 

「ギター弾かない方のお姉ちゃんが教えてくれた!」

 

「も、もう一人の私!!?」

 

『ふ、ふたりは聡明な子ですね……ひとりさん』

 

 得意げなふたりの言い回しに、ひとりさんはすっかりタジタジだ。その一端を担っているのがわたしだということまで判明してしまい、なんとも気まずい気分になる。裏切られたとばかりに震え声をあげるひとりさんに、言い訳がましい言葉を並べることしかできない。

 

 まだ五歳であるふたりには、わたしもできる限りわかりやすい言葉遣いをするよう努めてはいる。ただ、不意にふたりの前でもこのお堅い口調が漏れ出てしまうのはよくあることなのだ。そういう事がある度に、好奇心旺盛なふたりはどういう意味でどうやって使うのか聞いてくる。そして、わたしも得意げになってこれまで何度も教えて来た。

 

 その学習の成果が、今回ひとりさんを言い負かすのに使われてしまったのだろう。内容はともかく、学んだことをこうしてすぐ実践できるのだからふたりは本当に賢い子だと思う。そして、わたしの真似をしてくれるのがなんだか凄く嬉しかった。被害者となってしまったひとりさんには申し訳立たないが。

 

「でも、お友達来るの初めてだから浮かれちゃうのもしょうがないよね。よかったね、ギター弾く方のお姉ちゃん!」

 

「がっ!!?」

 

 最後に、ふたりの悪気ない善意100%の言葉によりひとりさんは撃沈。断末魔をあげながら膝から崩れ落ちる。これにてひとりさんとふたりの言い争いは終結。尤も、言い争いと呼ぶにはあまりにも平和で微笑ましい限りのものだけど。

 

 ただ、今度からはあまり言い過ぎないよう、後でふたりに言い含めておかないと。歳の離れた妹に言い負かされるひとりさんを何度も見るのは忍びないし、わたしにはかなりその責任がある。

 

「ねぇ、ギター弾く方のお姉ちゃん」

 

「な、なにふたり? お姉ちゃんちょっとこれ以上は限界というか……」

 

「わたしも……お姉ちゃんの友達に会っても、いい?」

 

 先程とは一転して、力無い声で所在なさ気にしながら、ふたりがひとりさんに問いかけていた。普段のふたりの性格を考えれば、ひとりさんの友達に会うのにこうして許可を取ったりはしないようにも思える。なのにこうしているのは、負い目があるからなのかもしれない。

 

 わたしの為とはいえ、以前ひとりさんの友達について声を荒げてしまったから。そのことを気にして、勝手に会ってはいけないと思い込んでしまったのだろう。人の心の痛みがわかるふたりの、その幼さにしては切なすぎる気の遣い方だった。

 

『……もう一人の私は、どう思う?』

 

『最終的にひとりさんが決めるべきだとは思いますが……少なくともわたしは、会っちゃいけないなんてふたりには言いたくありません』

 

『うん、わかった』

 

 ひとりさんへの返事は、悩むまでもなく決まっていた。人懐っこいふたりだから、結束バンドの皆の前でもきっと気兼ねなく甘えに行くのだろう。そして虹夏さんや喜多さんも、目一杯可愛がってくれるに違いない。リョウさんだけは、子供の扱いが上手そうには見えないから予想はつかないけども。

 

 そんな素敵な出会いを、わたしの存在を理由に邪魔してしまうなんてことは、あってはならないから。

 

「いいよ、ふたり」

 

「ほんと!?」

 

「でも、一つだけお姉ちゃんと約束。お友達の前では、ギター弾かない方のお姉ちゃんの話は禁止……約束できる?」

 

 それは、後でわたしがふたりに言っておかなければと悩んでいた言葉。先んじてひとりさんがその言葉を迷いなくふたりに告げたことに、ただ呆気に取られてしまう。

 

「うん、わかった!」

 

 ひとりさんが持ちかけた一つの約束。殆ど悩むこともなく、はっきりと頷いてみせたふたりは、すぐにどこかへと走り去ってしまった。多分、ジミヘンと遊びにでも行ったのだろう。実は最初から、この了承を得ることだけが目的だったのかもしれない。

 

 だけど、ふたりがすぐに頷いたことだけは少し意外だった。今までのふたりの反応からして、一悶着あるものだとばかり思っていたから。いやでも、本当はふたりも話してはいけないことだと既に気付いていたのかもしれない。ふたりは今までも、家族以外の誰かにギター弾かない方のお姉ちゃんの話をすることはなかったから。

 

『ありがとうございます、ひとりさん。わたしが言うべき言葉でしたのに……』

 

『ううん、気にしないで。もう一人の私じゃ、言い辛いことだったろうし』

 

 情けないけれど、ひとりさんが代わりに伝えてくれてわたしは強く安堵していた。同じ言葉を伝えようにも、わたしではここまでスムーズに行うことは多分できなかった。どころか、また余計なわたしの感情を悟られて、ふたりを傷付けた可能性すらある。本当に感謝する他ない。

 

「じゃあ、私達も準備始めよっか」

 

『そうですね。ではまず、部屋のお掃除を……』

 

「う、うん。で、その後は部屋の飾り付けをしないとね」

 

『はい、部屋の飾り付け……部屋の飾り付け??』

 

「喜多さん来るんだし、陽キャっぽくミラーボールとか置いた方が良いよね……あ、後はクラッカーもたくさん用意しないと。あとあとグラサンに一日巡査部長の襷に……」

 

『え、あっ、ちょ、ちょっと……ひとりさん!!?』

 

 ああ、忘れていた。お父さんとお母さんがあれほどはしゃいでしまうのなら、それはもちろん娘のひとりさんにも当てはまる。テンションの上がり過ぎたひとりさんが、明後日の方向を目指し始めるのは正に当然の帰結。

 

 まるで誕生日パーティーの準備でもするかのような語り口のひとりさん。そして仮に誕生日パーティーだったとしても、逸脱している物体すら準備しようとしてしまっている。

 

 ひとりさんに普通の友達の招き方をレクチャーすること。それが真っ先にわたしがやらねばならない責務であるようだった。

 

 

 ◇

 

 

 今日は虹夏さんと喜多さんが、我が家に遊びに来る日。リョウさんに関しては、予定の日付が決まった数瞬後に不参加の表明がなされていたので来るのは二人だけ。バンドのグループロインにて『いかない』とだけ添えたその豪胆さに、わたしは戦慄したものである。

 

 そのリョウさんに対して、虹夏さんが何の反応を示すことがなかったのも、印象的といえばそうだったろうか。もしかすると、リョウさんがこういうイベントごとを避けるのは虹夏さんにとっては当たり前のことなのかもしれない。

 

 さて、現在時刻は虹夏さん達の到着予定の十分ほど前。ひとりさんはといえば、玄関の前で皆さんの到着を待ちわびている。なんと、一時間ほど前からずっと。何度も準備できているか確認し、玄関に戻っては不安になって部屋に戻る。そわそわと繰り返すさまは、そのままひとりさんの期待と不安を表しているようだった。

 

『あの、ひとりさん。部屋でとは言いませんが、せめてリビングで座って待ちませんか? ずっと立ちっぱなしでは疲れてしまうでしょうし……』

 

「なんだか落ち着かなくって……喜多さんと虹夏ちゃんが遠路はるばるやってくるのに、私なんかが寛いで待つのは申し訳ないというか、ごめんなさいっていうか」

 

『まぁ、わたしもその気持ちは少しだけわかってしまいますね』

 

 ただ待つだけというのはなんとも落ち着かない。なんでもいいから、出来ることをやれれば良いのにというもどかしさはよくわかる。予定の時刻までもう十分前にもなってしまったのだ。このまま玄関で待ち続けてもいい、そんな気分にわたしもなっていた。

 

「でも、何もなしに普通に迎えて本当に良いのかな? ……や、やっぱりクラッカーとかファンファーレで盛大に歓迎した方がいいんじゃ」

 

『大丈夫です。そこに関しては、全面的にわたしを信用してください。お願いします』

 

 わたしの必死の説得の甲斐あってか、なんとか歓迎方法の軌道修正をすることはできた。部屋は念入りに掃除をしただけだし、いつものピンクジャージとはいえひとりさんの格好も極めて普通。ミラーボールや一日巡査部長を回避できたことを、我がことながら誇りたい。

 

 しかし、ひとりさんを否定せずにやんわりと説得をするのはなかなか骨が折れた。あんまり盛大にお持て成しをしては、迎え入れられる側も緊張してしまう。そういう方向性でひとりさんの感情に訴えかけることで、なんとか説得をすることができたのだ。

 

 まぁ、仮にひとりさんがズレた歓迎をしたとしても、お二人はそれはもう優しく受け止めてくれるのだと思う。ただその対応を受けて、滑ったという事実に打ちのめされるひとりさんが発生してしまうのも事実。避けられる悲劇なら、きちんと避けておくべきだろう。

 

『それに、歓迎するという意味ならお父さんのアレだけで十分でしょう……』

 

「そ、そうなのかな」

 

 現在、我が家の外壁の二階部分には立派な横断幕が垂れ下がっている。まるで旅館が上客を迎え入れるもののような、お父さん渾身の一作がだ。本当に、はっちゃけてしまった時に突っ走る方向性が親子そろって似すぎている。

 

 あれだけで歓迎の気持ちなんて、盛大に伝わるだろう。伝わりすぎにならないといいけど。

 

「ぼっちちゃん、来たよー」

 

「こんにちはー」

 

『き、来ちゃった! もう一人の私、これって一体どうすればいいんだっけ!?』

 

『そこのボタンを押しっぱなしにしながら喋ってください。そうすれば、外に声が届きますので』

 

 家のインターホンが鳴らされて、そこから慣れしたしんだ二人の声が発せられる。インターホンの使い方で悪戦苦闘するひとりさんに説明をしながら、玄関口での対応なんかも初めてだったかなんてしみじみと今までを思い返す。一人で留守番をしている時も、お客さんが訪ねてくるたびにヘルプを頼まれたっけ。

 

 そういう些細なお手伝いもだんだん減っていくのだろうか。違うか、減らしていかなければ駄目なんだ。

 

「あ、い、今開けますので! どうぞ上がってください……」

 

「はーい、お邪魔しまーす」

 

「ぼっちちゃん、今日はありがとね。急なお願いでびっくりさせちゃったでしょ?」

 

「い、いえ、気にしないでください」

 

 ひとりさんが玄関を開けて、虹夏さんと喜多さんを招き入れる。すでに夏真っ盛りということもあり、お二人ともすっかり夏の装い。よく似合っており、喜多さんも虹夏さんもお洒落さんだということがよくわかる。ひとりさんもしっかりコーディネートすれば、決してお二人に劣らないほど奇麗に仕上がるだろうに。

 

 もったいないというのは流石にわたしの個人的な望みが過ぎるので、決して口に出すことはないけれど。

 

「それでぼっちちゃん。いきなりで悪いんだけど、一つ質問良いかな?」

 

「え……な、なんですか?」

 

「あたし達を出迎えてくれたあの横断幕は、いったい……?」

 

「それ、私も気になってました!」

 

 虹夏さんが早速、非常に言いづらそうにしながらも当然の疑問について口にしていた。あれをスルーしろというのは流石に酷。なので虹夏さんもどうか、この件には喜多さんくらい気軽に触れてほしいと思う。

 

「あ、あれはお父さんが作ってくれたんです。私、友達を家に連れてくるのも初めてなので、張り切ってくれたみたいで……」

 

「な、なるほど、お父さんがね!まさかぼっちちゃんがアレ作るはずないもんね……そっかそっか」

 

「私、一瞬旅館に来たのかと勘違いしちゃった。良いお父さんなのね、ひとりちゃん!」

 

「あ、はい」

 

『もう一人の私、本当にありがとう……!!』

 

『これくらい礼に及ばず、ですよ。ひとりさん』

 

 虹夏さん達の何とも微妙なリアクションを見て、ひとりさんも色々と察するものがあったのだろう。わたしに対しての本気過ぎる感謝が、内心で響き渡る。ご満悦な気分に浸りそうにもなってしまうが、今日はまだ始まったばかり。気を緩めずに行こう。

 

「ひとりちゃん。これお土産、ご家族で召し上がってね」

 

「あ、ありがとうございます」

 

『紙袋からオシャレな何かが溢れ出てる……そういえば、もう一人のわたしも今日のために似たようなお菓子買いに行ってたよね。こ、これが陽キャ同士の嗜みなんだ』

 

『敢えて喜多さんに寄せましたからね』

 

 喜多さんから受け取った紙袋を覗き込みながら、ひとりさんが何やら感心している。とは言っても、わたしのは所詮付け焼き刃なので若干の不安があったりする。わたしなりに、最近流行っているお菓子を調べて買ったつもりではあるから、気に入ってくれるといいんだけども。

 

「映画もありますよ!」

 

「ちょっと喜多ちゃん……今日の目的ちゃんとわかってる? 遊びに来たんじゃないんだからね」

 

「もちろんです。私も色々と考えてきましたから!」

 

「ならいいけど……」

 

 何だろう、今の会話は。表面上は遊び気分の喜多さんを、虹夏さんがやんわり注意しただけの会話にも見える。ただ、それだけで片付けられない程度に、二人の暗黙の了解じみたものも感じてしまって。

 

 例えば、ライブTシャツのデザインをしにきたと公言しなかったこと。そんな小さな違和感が、どうしてか気になってしまう。

 

「ライブTシャツのデザイン……を考えるん、ですよね?」

 

「……そうそう! お揃いにした方が、バンド!って感じがしていいでしょ?」

 

 違和感をひとりさんも感じたのか、ひとりさんも首を傾げながらそう確認していた。こころなしかハッとした様子で説明する虹夏さんの様子に、ますます違和感も強くなっていく。

 

 わたしだけじゃなくひとりさんも気付いてしまうあたり、気のせいではないんだろうけど。下手なことを言って、今日を楽しみにしていたひとりさんを不安がらせたくもない。今はこの違和感は捨て置いて、事の経過を見守るしかなかった。

 

 

「ここが私の部屋です……ど、どうぞ」

 

「これはなんというか……ひとりちゃんらしいというか」

 

「……そうでもないような」

 

 二階にあるひとりさんの部屋に案内された喜多さんと虹夏さん。初めて見るひとりさんの部屋に対する二人の感想は、なんとも微妙なものだった。

 

 悪い意味で予想通りの反応。いくら隠してみたところで、この部屋はひとりさんとわたしが一緒に暮らす部屋であることに変わりはない。ひとりさんしか知らない二人が、部屋のイメージに違和感を感じてしまうのはある意味当然といえた。

 

 虹夏さん達から見て、今のひとりさんはどんな女の子に見えているだろうか。引っ込み思案で人見知りだけど、芯の強いところもあって。それでいてギターに一生懸命で、誰かのためにも同じくらい頑張れる。そんな風に見てくれていたら、嬉しい。

 

 そこにどうか、わたしの影が紛れ込んでいませんように。

 

「あ、あのぅ、変なところがあったりしたでしょうか……?」

 

「ううん、全然! すごく整頓されてるとことか、ぼっちちゃんぽいなって思うし」

 

「ですね。ただ、もう少し音楽に溢れてる感じの部屋を想像してたから、驚いちゃって」

 

「あ、ギター関係の機材とかは全部こちらに……」

 

「「おおー」」

 

 喜多さんの感想を受けて、ひとりさんが押し入れの襖を開く。中はまさにひとりさんの秘密基地といった様相になっていて、アンプやらエフェクターも所狭しと並べられている。バンドのポスターやCDも充実していて、まさにロックそのものな部屋。

 

 その光景に二人は興味津々な様子。先ほどの違和感なんて忘れて見入っているようで一安心だ。一応ギターヒーローバレに配慮して、撮影関係の機材は隠してあるのでその辺りも抜かりはない。

 

「へー、すっごい。でも、どうしてこんなに押し入れの中が充実してるの?」

 

「私、いつもはここでギターを練習してるので……」

 

「押し入れの中で!? なんで!?」

 

「あ、その、薄暗くて狭いところの方がなんだか落ち着きまして……」

 

「ひとりちゃん、小動物みたいね。可愛い!!」

 

「流石喜多ちゃん、全肯定……」

 

 喜多さんの何でも全肯定なスタイルに虹夏さんが半ば呆れ気味だけど、わたしにとっては何より心強い味方だ。しかし、小動物か。押し入れに籠るひとりさんを外から眺めることなんてないので想像だにしなかったけど、隅っこで丸くなるひとりさんは確かにリスみたいで可愛いかもしれない。

 

 新解釈だ。

 

「よし! それじゃ、このままひとりちゃんの部屋の探索開始ね!」

 

「ごめんねぼっちちゃん。少しだけ喜多ちゃんに付き合ってあげてくれないかな?」

 

「え、ぁ、はい……多分、大丈夫だと思います」

 

『だよね、もう一人の私?』

 

『ええ、みられて困る物は何一つないはずです』

 

 嬉々として部屋内をくまなく調べようとしている喜多さん。これも友達同士だと、定番のやり取りなのだと調べて来たので対策はしている。このために、ふたりの描いてくれた絵やわたしの貯金箱なんかは全て隠しておいた。

 

「ひとりちゃん、この中見ても良いかしら?」

 

「そ、それは……いい、ですけど」

 

 喜多さんがさっそく目を付けたのは、姿見の前に置かれた木製の収納ボックス。そこにはわたしが用いている、クリームやコンディショナーやコスメ等の美容品一色が詰め込まれている。真っ先に目を付けるあたり、流石は喜多さんである。

 

 正直これも隠すか迷ったのだが、いつかはひとりさんも向き合わなければいけない問題。今回はその始まりとして、敢えて残しておいたのである。

 

「間違いないとは思っていたけどこのラインナップ……流石ね、ひとりちゃん」

 

「ぼっちちゃん、全然自分からそういう話しないから知らなかったけど。やっぱり凄いんだ」

 

「私、人一倍ケアに気を使ってる自信あるんですけど……ひとりちゃんも相当だと思います」

 

 今まで同年代の子と美容品の話をする機会もなくて、お母さんと相談しながら買い揃えるしかなかった。それがこうして、他ならぬ喜多さんに認めてもらえると自信も付く。ひとりさんのために、努力しておいて良かった。

 

「え!? このヘアケアのセット、かなり高いブランド物のやつじゃ……」

 

「私も気になってたんだけど、お値段的に手を取りづらかったのよねー」

 

「あ、まぁ、できれば良い物を使いたくて……?」

 

「ぼっちちゃんが綺麗な理由の、一端を垣間見た気がする……」

 

『え?? 喜多さんでも買い渋るような代物を私に使ってるの!?』

 

『ひとりさんの綺麗な髪を守るためなら、わたしは妥協を挟みません』

 

『ひ、ひえぇぇぇぇ……』

 

 ひとりさんにバレてしまったことで要らぬ気遣いを強いてしまいそうだが、こればっかりは止めるつもりもない。高ければ高いほど良いなんて盲信するつもりもないけど、高いには高いなりの理由があるのも確か。試供品を試した時にあまりの使用感の良さに感動した。愛用している理由の八割がそんな私情なのは、秘密とさせて欲しい。

 

 それに、わたしのお金の使い道なんてそれくらいしかないから良いのだ。ひとりさんはお小遣いに加えてバイト代までわたしに分け与えてくれるせいで、貯金箱の中身は増え続けるばかりなのだ。

 

 そもそも、ひとりさんのお小遣いは多過ぎる。まるで、初めから二等分することを想定しているかのような金額が、毎月のように渡されているのだ。その理由がわからないほど無関心にはなれないから、わたしだって使い方には気を付けてしまう。

 

「こんなに綺麗なんだから、ジャージ以外も着ればいいのに。ぼっちちゃんなりのこだわりがあるんだろうけど……勿体無いよ!」

 

「あ、いえ。私なんか虹夏ちゃんや喜多さんほど可愛くないですし……」

 

「ひとりちゃんはもっと自信を持つべきね。やっぱり私と夏服を買いに行きましょ? 一緒にコスメ見たりもして、きっと凄く楽しいわ!」

 

「き、機会があれば……」

 

「やったぁ! 約束ね、ひとりちゃん」

 

 ひとりさんの回答はいわゆる、消極的なお断りという奴なのだろうが。陽キャ流の勢いたっぷりな喜多さんにそんな意味合いが伝わるはずもなく。瞬く間に、喜多さんの中で約束へと変換されてしまっていた。

 

『わ、私、とんでもないことを安請け合いしたことになったのでは!?』

 

『良い機会ですし、どうでしょう。ひとりさんもオシャレに目を向けて見るというのは』

 

『直視した結果眩しさに焼かれそう……うぅ』

 

 本当ならこんな一歩引いた台詞ではなく、代わろうとか一緒に頑張ろうと言ってあげたい。でも怖いのだ、その約束を本当に守れるのか自信が持てなくて。自分の限界を悟る度に、先のない未来へと目を向けるのが怖くなる。

 

 こんなことを考えるのはよそう。今は、楽しい時間なのだから。

 

「かわいいぬいぐるみだねー。ぼっちちゃんも、こういうの集めるの好きなの?」

 

 続いて虹夏さんが反応したのは、普段は枕元である場所に置かれているぬいぐるみ達。いつも四、五体ほど日替わりに並べられていて、ふたりが持っているのを含めればまだまだ居る。虹夏さんが手に取っている、虎のぬいぐるみはわたしの密かなお気に入りだ。

 

 しょぼくれた顔をしていて、なんとなく俯きがちなのがひとりさんを連想させてしまい、ついつい可愛がりたくなってしまう。

 

「好き、といいますか。ゲームコーナーとかに行く度に妹が取ってーとせがんできまして……で、取ったら取ったで何故か私の部屋に置いていくんです」

 

 特に遊ぶのに使うでもなく、ふたりがぬいぐるみをわたし達の部屋に置いていく理由はわからない。ふたりが取って欲しいとせがむぬいぐるみは毎回わたし好みのデザインであり、そういう趣向が似通っているのがちょっぴりお姉ちゃんとして嬉しかったりもする。

 

「姉妹とっても仲良しなのね。ひとりちゃん、UFOキャッチャーとか得意そう!」

 

「あ、いえ。得意どころか、多分へたくそまであるかと……」

 

「得意じゃないのに、毎回取ってあげるの?」

 

「へ? そ、そうなりますね……」

 

「ぼっちちゃん、やっぱり良いお姉ちゃんなんだねぇ」

 

 虹夏さんがいたく感動していた。下手くそで何千円も吸い込まれながらも、諦めずにぬいぐるみを取ってあげる健気な姉の姿を想像したのだろう。実際は、わたしが数百円の投資で手に入れるのが現実である。

 

『に、虹夏ちゃんにあらぬ誤解を……でも、本当にUFOキャッチャーが得意なのはもう一人の私の方だし』

 

『実はわたしも、上手とは言い難い気がするんですけどね』

 

 こんな些細なことくらい自分の手柄にしたって良いと思う。ただ、結束バンドの皆でゲームセンターに遊ぶことはあるかもしれない。そこで余計な期待を生んでしまうのも微妙かと、納得する。

 

 言った通りに、多分わたしもUFOキャッチャーはあんまり得意じゃない。ひとりさんとの違いは単純に、そこまで自力で取ろうと頑張ってないかだけである。

 

 店員の前で何ゲームかプレイして、失敗する様を見せるようにする。その後、いかにも困った風に取れないのだと相談してみせれば、大抵の場合は取りやすい位置に景品をズラしてくれるものなのだ。最近になってふたり自身がそのやり方を実践していた話を聞いて、少しばかりの後悔も覚えてしまったけど。

 

「あ、これって皆で撮ったアー写ですよね」

 

「ほんとだ。ぼっちちゃん、こんなに大切にしてくれてるんだね」

 

「と、友達とそういう写真撮るの初めてだったので……嬉しかったんです。今でもよく、見返します」

 

 話題がまた移り、注目を集めたのはフォトフレームに収められた結束バンドのアーティスト写真。ひとりさん自身が語る通りに、初めての友達との思い出の一枚だ。

 

 この写真をひとりさんが大量に印刷して、壁中に貼ろうとしていたのには本当に度肝を抜かれた。ひとりさんの大切という気持ちの表れなのは理解できるが、絵面がホラーすぎる。こういうのは量より質なのだと説得をしたのは、未だに記憶に新しい。

 

「……そっか。ぼっちちゃん、学校では一人で過ごしがちなんだっけ」

 

「はい。ひとりちゃんの魅力を、私からみんなに伝えられたら良いんですけど……」

 

「あの、わ、私は結束バンドの皆さんが居てくださったら十分ですので……」

 

 不自然に途切れることとなった喜多さんの言葉には、どんな続きがあったのだろう。学校でのわたしが他人を避けていることに気付いてしまっている人だから、複雑な感情があることは想像に難くない。もちろんわたしだって、ひとりさんが学校で友達と楽しい時間を過ごすことを望んでいる。

 

 ただ、最近ひとりさんの友達の在り方でふたりと揉めてしまったわたし達としては、この話題はあまりにも気不味い。先程の楽しい空間から一転、一時的に微妙な空気が流れる。

 

『仕切り直すという意味でも、ここは一度飲み物を取りに行きましょう』

 

『もう一人の私、ナイスアイデア!』

 

「わ、私飲み物とか取ってきますので、楽にしててください……」

 

「ありがとう。ほら喜多ちゃん、そろそろバンドTシャツ考えるよ!」

 

「はーい」

 

 部屋を退出して、一時的に一階のキッチンへと戻る。これでいい。虹夏さん達も作業に入ることにしたようだし、帰った時には元の和やかな空気に戻っているだろう。後はわたし達も、気にした風もなく戻ってくればいい。

 

『コップはやっぱりワイングラスがいいかな……どう思う?』

 

『普通ので良いと思いますが……タルトの切り分けもしないとですし、良ければ代わりましょうか?』

 

『そ、そうなんだ。じゃあ、もう一人の私にお願いしようかな』

 

『任せてください』

 

 今は誰にも見られていないので、ひとりさんに代わってもらう。これくらいの準備はひとりさんも出来るので、代わってもらった理由はちっぽけなわたしの老婆心でしかなかったりする。両親は現在出かけているので、一階は静かなものだ。

 

 お茶の準備をして、昨日買ってきたフルーツタルトに包丁を入れる。最近テレビ番組で紹介された有名店のものらしいから、味は確かだろう。

 

 ヒヤリとする場面は何度かあったものの、今のところ順調だ。やはりあの時、自分の見栄を張り通して良かったと思う。この家で、ひとりさんが友達と楽しそうに喋る姿が見れたのだから。つい上機嫌になって、タルトを切り分けながら鼻歌なんぞ歌ってしまう。タルトはきっちり六等分、余ったのは両親とふたりの分だ。

 

 不意に、わたしの鼻歌が他の音で掻き消される。わん!という元気のよい鳴き声によって。

 

「ジミヘン?……わたしに構って欲しいなんて珍しいね。ふたりは一緒じゃないの?」

 

 我が家の愛犬であるジミヘンが駆け寄り、わたしの足元に鎮座していた。一度手を洗ってから、ジミヘンを撫でてやると加えて一鳴き。肯定、ということでいいのだろうか。

 

 そうした後に、なにやら首を上に向けてはわんわんと二鳴き。注目すべきはそっち、と主張するかのようだ。

 

「二階?……二階になにかあるの?」

 

『もう一人の私……ふたりって、お父さん達と出かけたんだっけ?』

 

「ふたりですか? いえ、今日はお留守番のはずですけど……」

 

 お父さんとお母さんのお出かけの誘いを、ふたりは直接断っていたので間違いない。言われてみれば、リビングの方を見渡してもふたりの姿は見当たらない。お母さん達の寝室で、お昼寝でもしているのだろうか。

 

『か、代わってもう一人の私!!』

 

「ど、どうしたんです、ひとりさん?」

 

『とにかく代わって、はやく!!』

 

 なんの説明もないままに、わたしが身体を明け渡すよりも速く、ひとりさんが身体の主導権を奪い取る。滅多にひとりさんがしない行動、それが緊急事態であることを何よりも物語っていた。聞いたこともない切羽詰まったひとりさんの声に、ますますわたしの困惑は強くなっていく。

 

 ひとりさんは用意していたお菓子も、ジミヘンすらも放ったらかしにして一目散に階段へと駆け出していた。そこまで至って、ようやく呑気過ぎたわたしも緊急事態がなんであるのかを悟ってしまう。

 

 虹夏さん達の前から席を外したわたし達。一階の何処にも姿が見当たらないふたり。これらの情報が意味することはなんなのか。わたしの心の内を、悪い想像が一気に駆け巡っていく。頭の冷静な部分が、その想像は今現実になっているのだと何度も突きつけてきて、目眩がしそうだった。

 

 何度も転びそうになりながら、ひとりさんが階段を駆け上がる。ひとりさんの部屋の襖から、声が漏れ出ていた。大きな声で何かを訴えかける、ふたりの声が。

 

「ギター弾かない方のお姉ちゃんはね、凄くて、カッコよくて、ふたりにとっても優しくって、ギター弾く方のお姉ちゃんが大好きなの!!……でも、でもね、きっとすごくさびしいんだとおもう」

 

 息が苦しい。わたしはふたりのこの感情に、どう向き合えばいいのだろう。虹夏さんと喜多さんはわたしの存在に対して、どんな感情を持ってしまったのだろう。何一つとして、答えなんて出せやしない。この現実を見て見ぬふりをして、なかったことにしてしまいたかった。

 

 でも、ひとりさんの足は止まらない。わたしが目を背けた事柄も、いつかは逃げられなくなるのだと示すように。どうあっても、止まってはくれない。

 

 

「ギター弾かない方のお姉ちゃんは、けっそくバンドが……虹夏ちゃんと喜多ちゃんのことが、大好きだから! 虹夏ちゃんと喜多ちゃんも、ギター弾かない方のお姉ちゃんのことを――」

 

「ふたりっ!!!」

 

 

 襖を思い切り開け放ち、けたたましい音が鳴る。そして、それに負けない程の絶叫じみたひとりさんの声が、部屋に響き渡っていた。

 

 ふたりが持っている、わたしが隠したはずの結束バンドを描いた絵。先程まで、ふたりが必死に語りかけていた言葉達。ふたりが持っている絵とわたし達を何度も往復する、動揺しきった虹夏さんと喜多さんの視線。

 

 その全てが、この状況が致命的に手遅れであることを物語っていた。

 

 あんなに穏やかな時間が流れていた部屋を、重苦しい沈黙だけが支配する。わたしが、何かを言わないと。この状況を解決できる言葉を吐けるとすれば、それはわたしだけだから。誰も悪くはない、気にしなくていいんだと、言わなきゃいけないのに。

 

 わたしはただ、こんなつもりじゃなかった現実に打ちのめされるばかりで。ひとりさんに、代わって欲しいという言葉を放つ勇気すら持つことができなかった。

 

「あたし達が頼んだの。ふたりちゃんに、お姉ちゃんのこと教えてって……だから、ふたりちゃんを怒らないであげて欲しいんだ」

 

 最初に沈黙を打ち破ったのは、意外にも虹夏さんだった。こんな異常な状況下でも、真っ先にふたりを庇おうとしてくれている。とても強く、優しい人だ。じゃあ、そんな人を巻き込んで呆然と見ているだけのわたしは、いったい何の化け物なんだろうか。

 

「怒っては、いないんです。ふたりがちゃんと家にいるか、心配になっただけで」

 

 ひとりさんの返答は、怖いくらいに冷静だった。今のわたしにはとてもできやしない、理性的で平和な答え。

 

 どんな感情を原動力として、その冷静さを発揮しているのかわかってしまうのが辛い。あからさまではない嘘を吐いてしまうひとりさんを、わたしは見たくなかった。

 

「ふたり。お姉ちゃん達、今から大事なお話をしなきゃいけないから。一階でジミヘンと遊んでようね」

 

「……うん」

 

 形式上の、この場を締め括るためだけの姉妹の会話。虹夏さんと喜多さんも、当然この言葉を額面通りに受け取ったりしないだろう。それでも、二人とも口を挟むことができない。迂闊に立ち入ってはいけない姉妹の問題だと、わかってしまうのだろう。

 

 ふたり自身が示した、わたしの存在のせいで。

 

 頷いたふたりの手を引いて、再びひとりさんが部屋を後にする。ただ冷え切った姉妹のやり取り。その中でふたりの手を取るひとりさんの手つきが、ひたすらに優しかったことだけが、辛うじてわたしの心を繋ぎ止めていた。

 

 

 ◇

 

 

「どうして、あんなことしたの?」

 

「……」

 

 一階のリビングで、目線を合わせたひとりさんが真顔でふたりを問いただす。悪いことをした自覚があるのかふたりはずっと俯いたままで、口を引き結んで何も語らない。ひとりさんも一切目を背けないから終わることがなく、こんな状態がもう、しばらく続いていた。

 

 虹夏さんと喜多さんを部屋に待たせ続けてしまっているが、わたしたちの誰一人として、そこに配慮を行き渡らせる余裕を失ってしまっている。

 

『ひとりさん、わたしはいいんです。バレても仕方ないって、ずっと思ってたくらいなんですから』

 

 これは心からの本音だ。バレた後の後始末なんて、わたしが勝手に傷付いていれば終わる話でしかない。むしろ、ふたりがバラしてくれて良かったとすら思っている。ふたりがそうしたのなら納得できるし、正当性があるだろうから。

 

 こんなことで、ひとりさんに怒ってほしくない。怒りなんて、最もひとりさんから縁遠い感情だ。それを向け続けるのは、本人が一番辛いはずだ。それを向ける相手が妹のふたりなら、尚更。

 

『ごめんもう一人の私。今だけは、何も言わないで欲しい……』

 

『……すいません』

 

 しかし、こう言われてしまえばもう黙るしかない。かつて自分がひとりさんを突っぱねた卑怯な言い方。そのズルさがまさに今わたしに返ってきていた。

 

 ひとりさんはもう、わたしを言い負かす手段すら持ち合わせている。それを今、こんなタイミングでだけは知りたくなかったけど。

 

「お姉ちゃんとの約束なんて、どうでもよかった?」

 

「そんなことないっ!」

 

 ひとりさんが切り口を変えると、ふたりは初めて反応を返した。ふたりにとって我慢ならない一言だったのだろう。それはそうだ、ひとりさんとの約束が大事じゃなかったはずがない。大事で、何よりも大切だったはずで。

 

 それでも破らざるを得なかった理由が、何かあるはずなのだ。

 

「約束を破ったら、ギター弾かない方のお姉ちゃんが困ること。ふたりはちゃんと知ってたよね」

 

「……うん」

 

 ひとりさんの叱り方は理知的だ。頭ごなしに否定せず、ふたりの事情もしっかり聞いた上で叱ろうとしている。決して理不尽な怒りを向けているわけじゃないから、止められない。止めるための理由を、見出すことができない。

 

「じゃあ、ふたりはどうしてあんなことしたの?……なんで、約束を破っちゃったの?」

 

 ひとりさんも、怒りの限界が来てしまったのかもしれない。叱るような剣幕はもう既になく、納得できる理由であって欲しいと、ふたりに縋ってすらいるような声の絞り出し方だった。

 

「……いやだった」

 

 ふたりもまた、ひとりさんの限界に呼応するように。固く引き結んだ口が解けて、その本音が漏れ始めてしまう。

 

「お姉ちゃんの友達が、おねえちゃんのともだちなのにっ……おねえちゃんのことしらないのが、どうしてもいやだった! だからわたしっ、がまんできなくて、それでっ……」

 

 ありったけの、ふたりの小さな身体には重すぎるほどの気持ちを吐き出して。そして堰を切ったかのように、ふたりは泣き出してしまった。それも普通の泣き方ではない。自分が泣く資格なんてないとばかりに、必死に声を抑えようとして。でも涙と悲しみは後から何度もやってくるから、堪えきれなくて何度もしゃくりあげてしまう。

 

 五歳の女の子がする泣き方ではなかった。幼い妹にさせていい泣かせ方では決してなかった。こんな状態にまで追い詰めてしまったのは、わたしの罪だ。自分の罪の罪禍を、まざまざと見せつけられている。

 

「ごめんなさい……おねえちゃん、ごめんなさい……」

 

 涙を流しながら、許しを乞い続けている。本当に悪いのはわたしなのに。健気な妹の優しさに甘え続けた結果がこれだ。大切を胸に秘め続けるなんて、誰かに背負わせていいことではなかったんだ。ふたりなら大丈夫だなんて、勝手に見放して。自分はいつか消えるからと、己しか省みることをしなかった。

 

 隠し続けることの辛さなんて、わたしが一番に気付いてあげなくちゃいけなかったのに。

 

『ごめん。私これ以上、ふたりを叱れない……』

 

 脳裏にひとりさんの言葉が響く。その言葉尻は震えていて、今にも崩れそうな危うさを孕んでいる。驚きはない。ふたりが辛いのなら、ひとりさんも辛いと考えるのが、当然の道理だったから。

 

『私もふたりと、同じだったから。もう一人の私だけが欠けた世界で、結束バンドの皆が笑ってて……私も笑ってる。そういう時間が、たまにだけど……すごくつらかった。だから、ごめん』

 

 わたしの意識が唐突に浮上する。心の奥底に引っ込むことで、わたしに泣いている姿を見せないように、慮ってくれたのだろう。大切な人の悲しみを分かち合ってあげることもできないという事実が、こんなにも無力と感じるなんて知らなかった。

 

 瞬きをすると、目尻に溜まった涙が一粒だけ溢れ落ちた。ひとりさんはほんの一瞬だけ引っ込むのが遅かったのかもしれない。泣きそうになったことは山ほどあれど、ほんとうに涙を流したことは一度もないから。場違いにも、新鮮味を少しだけ味わってしまう。

 

 手の甲で掬い取るとひとりさんの涙は、透き通っているかのように純粋に見えて。やはりこれは、わたしから流れ落ちるものじゃないんだって納得してしまう。

 

「辛かったのか、ひとりさんは」

 

 ぽつりと呟いて、今更気づくなんて馬鹿なのかと己を罵倒する。知っていたじゃないか、隠しごとに向かない人で、承認欲求を拗らせた人だって誰よりも知っていた。そんな人が、大切を隠し続ければパンクするなんてもっと早くに察してあげるべきだった。折を見て、もういいんだよってわたしが言ってあげなきゃいけなかった。

 

 わたし一人が強がって見せる分にはいいと思っていた。でもそれは結局、ひとりさんにもずっと強がることを強いてしまっていて。その結果がこの顛末なのだから、救えない。

 

 ふたりを泣かせて、ひとりさんまでも泣かしてしまった。傷付け、悲しませてしまうくらいなら消え去るべきだと己に課していたのに。消え去りたくなるような罪を自覚しても、いつかのような統合の前兆は訪れてくれない。わたしは意外と、生き汚いのかもしれない。

 

 こんなわたしが、今更何をしてあげられるのというのだろうか。

 

「ごめんなさい、ふたり。たくさん我慢させちゃったよね……本当に、ごめん」

 

「ぎたーひかない方の、おねえちゃんは、わるくないっ……わたしが、ふたりが、わるいこっ、だったから……」

 

「違う。ふたりは誰も傷付けてない、気にしなくていいの……ふたりはいつだって、わたしの立派な妹だよ」

 

 痛ましく涙を流し続けるふたりは放っておけなくて、ハンカチで涙を拭ってあげながら慰めの言葉をかける。出まかせの、抜本的な解決にもならない空虚な言葉にどれほどの意味があるのだろう。その結果を示すように、ふたりの涙も止まってはくれない。

 

 わかってはいるのだ。わたしのやるべきはハリボテの言葉を並べることじゃなくて、今すぐにでも自分を大切に扱うことだって。それだけが、ふたりとひとりさんの涙に報いる方法なんだって、理解だけはしている。

 

 でも、どうしても無理なんだ。消えればいい、死んでしまえばいい、もとより生まれるべきではなかった。自分を否定する言葉と感情はいくらでも湧いて出てくるのに、わたしを大切にしてあげられるやり方はこれっぽっちも思い付いてくれない。

 

 今更過ぎるのだ。ひとりさんの代わりとして生まれて、自分の存在を常に下に置いて生きてきた。だんだんひとりさんの人生を奪うことが怖くなって、いつかいなくなることだけを免罪符に生き長らえてきたのに。そうすることでしか自分を保てなかったわたしが、どうして自分を大切になんてできるのだろうか。

 

 そして現実的な視点で考えた時にも。社会で生きる上で、いつかわたしの存在は必ずひとりさんのハンデになる。冷たい現実ばかり目を背けることができなくて、消え去るしかないとわたしの理性は一度も結論を変えてくれたことがない。

 

 こんな惨状を目の前にして、ふたりとひとりさんの涙を目の前にしているのに。自分が消え去るべきだと断じることしかできないわたしを、人でなしと呼ばずして何と呼ぶのだろうか。

 

『答えはもうひとりちゃんの中にあるんだって信じてみてよ』

 

 優しくない人でなしだから、結論は変えられない。でも、こうやって自分を追い詰めることが最も愚かだということも証明されていて。自分を肯定することは不可能で、自分を否定することも許されない。わたしの進むべき道なんて、あるのだろうか。

 

 きくりさん、わたしの中に答えなんてあるのでしょうか。信じてみたいのに、わたしにはもう、わからないのかもしれません。

 

「これからは、我慢しなくていいよ。家族以外にだって、好きなだけお姉ちゃんの話をしていい……だから、だから」

 

 わたしはまだ、ふたりのお姉ちゃんとして側に居ていいかな。

 

 妹に決して向けてはいけない言葉を、自己否定とともに呑み込む。その関係すら疑ってしまう言葉を吐き出してしまえば、本当におしまいだ。

 

 ふたりは耐えきれなくなったように、わたしの胸に顔を押し付けながら泣きじゃくる。少しだけ安心した。さっきみたいに、一人で涙を堪えてしまうよりはよほど良い。

 

 縋り付いてくるふたりの身体にそっと手を回して、あやす為に後頭部を何度も撫でる。こうして抱きしめることすら、何度も手を彷徨わせてやっとできたことに、無性に泣きたくなる。思いっきり涙を流せば、この陰鬱とした心模様も少しは晴れるのだろうか。

 

 首を横に振る。わたしの生涯のこれまでとこれからに、涙という弱さは存在しない。

 

 ヒーローですらない人でなしに、涙は必要ない。

 




 後藤家訪問編、前編といったところでしょうか。かなり地獄すぎる場面で切ってしまった気もしますが、ご容赦ください。後編に当たる部分も、現在執筆中ですので必ず近いうちに投稿します。


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