隻腕の狼、ダートに駆ける。【SEKIRO×ウマ娘】 (hynobius)
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序:葦名の新星
1.


 一面の山であった。険しい緑がまずあって、その隙間にしがみつくようにして家々がある。深い谷に沿って橋と隧道(トンネル)が辛うじて鉄路を繋ぎ、狭い隙間たちの中では一番()()なところに駅と建物とが居並ぶ。視野のほとんどを埋めている緑は短い夏が過ぎれば灰茶けた姿に変わり、そしてすぐに真白い景色に埋もれていくことになる。数百年前と比べれば人の領域は僅かに増えたものの、変わらない葦名の姿であった。

 

 聳え立つ石垣の上、簡素な東屋上の展望台から男が一人、それを見下ろしていた。国指定史跡・葦名城跡、その天守跡。かつて威容を誇った天守建造物は内府の襲来と維新の動乱の二度にわたって打ち壊され、彼が眺めるこの景色も随分と低い場所からのものとなってしまった。申し訳程度のベンチと展望台が設置された、公園という名の只の草地の中で、男は……葦名弦一郎は溜息を漏らした。

 

 かつて、弦一郎はこの城の主であった。故国葦名の滅びを逃れるために足掻き、足掻いたその果てに死を迎えたのだ。何故か再びの生を得た時、弦一郎はそれ自体にさほどの驚きを持たなかった。竜胤の不死に黄泉帰りと、かつての葦名は不可思議に事欠かなかったためだ。むしろこの奇貨を如何に扱うかなどと考えている程であった。

 

 しかし、常人であればようやく物心がつく程度に育った彼を待っていたのは困惑であった。前世(かつて)と同じ土地、全く異なる時代。それだけならばまだよい。史書を漁っても、己の名前どころか祖父の名前すら見当たらないのもまだいい。近しい人々が悉く前世と酷似しているのも、誰も彼と同じ記憶を持っていないというのも、仕方のないことだ。彼を困惑させたのは、それ以上に世界の常識が全く異なっていることだった。

 

「おい」

 いつの間に現れたのか。僅かな足音も立てぬまま、一人の少女が弦一郎の背後に佇んでいた。年相応以上に低めの上背に、後ろでくくっただけの簡素な髪形。骨を組み合わせたような奇妙な外観の左腕。そして愛想の無い仏頂面を備えた彼女は、頭上で己の()()()を揺らしながら弦一郎に話しかけていた。

 

 彼女こそ、この世界が葦名弦一郎にとって異世界であることの証左たる『ウマ娘』。人に似通った姿に馬の耳と尾を持ち、常人では及びもつかない脚力をもって駆ける、女性のみの異種族。前世では四つ足の獣である『馬』の占めていた地位に、人によく似た生き物がなり替わっているという異常。

 ……ましてや、かつての敵が()()となっているなどとは。

 

「終わったか、()()()

「ああ」

「ならストレッチをしておけ。明日のレースもある。今日はこれで終いだ」

「分かった」

 

 言葉少なに告げた少女こそ、前世で弦一郎の望みを幾度も打ち砕いた怨敵、竜胤の御子の忍びであった狼。現世(いま)の名前はセキロ。現在9戦9勝、葦名ウマ娘レースに現れた、新進気鋭の競走ウマ娘である。

 

 

 

『まもなく本日のメインレース、第9レース、うずくも賞A1の発走です――』

 場内のやや古びたスピーカーから流れる実況を聴きながら、狼は目を開けた。パドックを終えたウマ娘達がゲートの後方で枠入りを待っている。今日もスタンドの人影はまばらだが、以前と比べれば僅かに増えたように思える。思い思いのウマ娘の名や頑張れ、勝てなどの声援が流れてくる中に、セキロの名を呼ぶものもあった。

 長さは1200m、コースをほぼ1周する長さ。天候は曇りがちだが足元の砂は乾いた良馬場。枠はフルゲート12人立ての5番、中ほどで有利不利は薄い。警戒に値する強敵、無し。これから走るレースの概要を再確認した狼は、さり、と音を立てる砂を踏みしめて、係員に促されながらゲートへと入る。ゲート内では左右の視界が遮られ、正面に聳える葦名城跡が嫌でも目に入った。

 

 果たして、何故己はこのような姿でこの場所に立っているのか。それも、かつての仇敵をトレーナーなどと仰ぎながら。そんな狼の胸中など斟酌するはずもなく、スターターが合図を構えた。

『ゲートイン完了、全ウマ娘態勢整って……スタートしました!』

 

 刹那、狼は他の誰よりも早くゲートを飛び出していた。直前までの思索は全て置き捨てて、即座に戦闘時に近い精神状態へと己を鎮める。素早い足捌きは忍びとしての必須技能、全く新しい身体であってもそれは健在である。スッと先行した狼はしかし、外から切れ込んできたウマ娘に軽く先を譲った。前とは1バ身程離した2番手に息をひそめた狼を警戒してか、ペースはやや早く流れる。限界近くで飛ばす先頭を狼は呼吸も乱さず追走。隊列は大きく動かないまま最終コーナーへと飛び込んだ。

 

 良馬場の軽い砂がコーナーを回ろうとするウマ娘たちの足を奪う。僅かに体幹を揺らがせた先頭のウマ娘を目の端で捉えながら、やや外目につけた狼の足捌きが変わった。直線の立ち上がり、さながら浮舟を渡るが如き足取りでするりと抜け出した狼は悠々とスタンド前を駆け抜ける。少ないながらも熱を帯びた観客の声を背中に受け、狼はそのまま他を寄せ付けず、危なげない距離を保ってゴール板を駆け抜けた。

 

『――5番セキロ圧勝ゴールイン!デビュー以来破竹の10連勝、誰もこの娘を止められないのか!』

 常にないほどの興奮を見せる実況に呼応するように、スタンドからも歓声が上がった。葦名の上位クラスで抜けた力を見せるようなウマ娘は、ほとんどが中央からの移籍組だ。更に言えば、余りに勝つウマ娘は早々に中央なり、別の地方レースなりに去ってしまうことも多い。そんな中で現れたセキロというウマ娘は、彼らにしてみれば久々の地元の星といったところ。応援に熱が入るのも無理からぬところだ。

 しかし、それを受けた狼の方は表情の一つも緩めることはなかった。2着や3着の娘たちが観客に手を振り返す中、狼は一人コースを後にする。

 

「まだ余力はあるか」

「ああ」

「脚には異常あるまいな」

「ああ」

「ならばよい。まだ次もある」

 

 控室への道中で現れた弦一郎に、狼は眉間の皴を微かに深くしながら端的に過ぎる言葉を交わした。トレーナーと呼んではいるが、必要以上に馴れ合うつもりもない、というのが態度に現れている。生来の気質でもあるが。――見ての通り、この二人は一般的なトレーナーとウマ娘に見られるような関係ではなかった。本能的に走りたいと願うウマ娘と、己が手でウマ娘を育てたいという夢を持つトレーナーとが出会ったわけではない。

 狼が、セキロが走ることを望んでいるのは弦一郎の側だけだ。そして、弦一郎の側も、セキロが勝つことそのものを望んでいるわけではなかった。この歪な関係を生み出しているのも、前世より続く因縁に他ならない。

 

「客の入りは前年より明らかに好転した。だが、見ての通りまだ足りぬ」

「ああ。次も勝てというのだろう」

「分かっているならば良い。約定通り走る限り、御子の処遇は保証される」

 

 弦一郎は、黙り込む狼の額を軽く指で突いた。

「それと。その仏頂面はなしだ。この後はライブもある。そもそもレース後、観客に愛想の一つも見せんというのも問題だ。多少は客受けの良い振舞いを覚えたらどうだ」

「……努力する」

 

 眉間の皴は、深くなるばかりだった。

 



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2.

 翌日。

「はいオッケーでーす、お疲れ様でーす」

 大仰なカメラを構えた男がそう言うや否や、狼はすいとその身体を弦一郎から遠ざける。確認のために示された画面には、狼の両肩に手を置いた弦一郎がいやに爽やかな笑みを浮かべている様が映っていた。セキロの10連勝に合わせて取材に訪れたこの雑誌は、どうやら二人をセットで売り出したいらしい。ウマ娘の例に漏れず秀麗な顔立ちのセキロと、若く、些か強面であるが精悍ともいえる容貌のトレーナーの組合せという訳だ。要素としては理解の外にある訳ではないが、狼からすればにこやかな弦一郎の顔を見るだけでも違和感が凄まじい。幾日かしてこの写真がどこぞの店頭に並んでいる光景を思い浮かべると、狼の背に些かの怖気が走った。

 

「次はスポーツ紙取材、質問は前に渡した通りだ。回答は作ってあるな?」

「……一応は」

 

 ウマ娘の脚は人間より遥かに速いが、その耐久力は速さに正比例しているとは言い難い。強い負荷のかかるレースの翌日などはトレーニングを控えて休養に充てるのが一般的だ。普通のウマ娘であれば文字通りの休みとして趣味なりに時間を費やすところだが、弦一郎はこの日一杯に取材の類の予定を詰め込んでいた。ウマ娘はアスリートであると同時にアイドル的な側面を併せ持つ。トレーニングの時間を確保しつつ、メディア露出も進めたい弦一郎の思惑である。一般的なウマ娘であれば、余りに過密なスケジュールを立てたところで反抗されて終わりだ。狼と弦一郎の立場故に通る無法であった。狼としても、今更否やはない。とはいえ。

 

「話すのは、やはり得手でないが」

「最低限は答えろ。ようやく来た全国区での枠だ、いつぞやの様に黙り込んでばかりでは困る。そこまで長くはならんはずだが喉は潤しておけ」

 前世より筋金入りの口下手である狼の言をにべもなく切り捨てて、弦一郎はペットボトルの茶を投げ渡す。走ることはさしたる苦ではないが、段々と増えてくるこの手の仕事が狼の目下の悩みの種であった。ままならぬものだと思いながら、狼は茶を一口啜った。

 

 

 

 そもそも、狼は競走ウマ娘として身を立てるつもりなどなかった。といっても、他に何をして生きるという指針があったわけでもないが。遥か昔の葦名城の外れ、朝焼けの薄野原で彼の使命は終わった。それから随分と長く生き、あまつさえもう一度の命まで得てしまったが、それを使って為すべきことなどもう持ち合わせていなかったのだ。

 

 幼少の頃から走りを鍛えてはいたが、それはただ義母(はは)がそれを教えたからにすぎない。前世とはまるで違うウマ娘の姿をした義母は、しかし変わらぬ在り方で狼に接した。記憶はなくとも、魂ともいうべきものが近しいのか。言葉で語る以上に、走りを教えることを好んだ。その割に、競走ウマ娘の道に進めとは言われなかったが。忍びになるより他に道のなかった前世とは違い、現代人らしく自由な進路を与えられた狼は、実のところその自由を持て余していた。

 かつての主を探すことにしたのは、そんなことから目を逸らすためであったかもしれない。容姿と名前という僅かな、しかも己のようにまるきり変わっているかもしれない情報を頼っての人探し。そうそう結果は出そうになかった。それでも特に構わない。時間は無駄に存在し、見つけてどうしなければならないこともないのだから。現代における只人らしく、平穏な生を過ごせているのなら、それでよい。

 

 果たして。かつての主の所在は、想像だにしなかった方向から明かされることとなる。無数の人の中から少年一人を探し出すよりも、ひどく足の速いウマ娘がいるという噂が一人の元に届く方が、遥かに速かったのだ。その日、使い慣れた公園の練習コースに現れた男は、開口一番にこう名乗った。

 

「葦名市地域振興部産業振興課課長代理の葦名弦一郎だ」

「……なんだと」

 

 やたらと長く聞きなじみのない肩書と、前世から記憶に染みついた名前。ほんのわずかに眉を顰めて困惑を表す狼に、男は更なる爆弾を投げ落とした。

 

「久しいな、()()()()()よ」

「……なんだと」

「やはり、覚えているか」

 

 目を見開いた狼は、続く言葉から鎌掛けであったと気付いて臍を噛む。その姿に、葦名弦一郎は口の端を釣り上げた。

「御子は当家で預かっている。俺に従え、狼」

 

 

 会話の場を公園から市役所の一室に移し、無駄に出来の良いスライド付きで説明された状況はこうだった。曰く、葦名は衰退の危機にある。人口減少及び少子高齢化。基幹産業の縮小、それに伴う財政難。企業撤退による雇用減少、それが更なる人口流出を招く悪循環だ。地方のどこであれ大なり小なり起きているそれが、山深い葦名では顕著であった。弦一郎曰く。

「軍勢こそないがあの時と変わらぬ。中央(内府)に削り殺されているも同然だ」

 

 無論、それを黙って見過ごす弦一郎ではなかった。地元の名士という立場を利用して行政機関の振興策を事実上牛耳れる位置に己をねじ込み、考えうる限りの策を打った。産業保護に農産物のブランディング、遊休資産を利用した企業誘致、観光資源の開発にイベント企画。多少の無理を押して進めた結果、弦一郎の結論は『金と時間が足りない』だった。長期的な策が実るまで地域経済を保たせられるのかどうか。短期的かつ大規模な企画には金が足りず、また外れた場合のリスクが甚大だ。さらに、長い目で見れば高規格の鉄道と道路もほぼ必須。開通までの時間を、なんとか捻出しなければならない。

 

「それで、レースか」

「そうだ。今のままでは赤字を垂れ流すだけ。支出を絞りながら早期に閉める手も考えていた」

 葦名レース場。弦一郎の家も支援者として重要な位置を占めており、トレーナーも多く輩出するなじみ深い存在だ。とはいえ人口減に伴って売上も集客も落ちる一方であり、財政を圧迫するのみの存在となりかかっている。貴重な資産ではあれど、廃止の論が出るのも自然ではあった。だが、そんな中でも希望――妄念の類に近いかもしれない――が、関係する誰の胸にもあった。

 

『ここにも、オグリキャップ(えいゆう)がいれば』

 

 かのシンデレラは中央へと移ってしまったが、地方と中央の交流が強化された今ならば地方もその恩恵を十分に享受できるはずだ。とはいえ、いれば、の話である。育成環境で劣り、高い能力のウマ娘やトレーナーを引き留める利益、すなわち賞金で劣る地方からそのようなウマ娘が出るというのは、少なくともそれに賭けられるほど現実的なものではなかった。

 だが、ここに例外が存在する。金を使わずに葦名に縛り付けることができる、能力に期待のできるウマ娘。楔となるかつての竜胤の御子――九郎は早くに親を亡くし、縁戚をたどって弦一郎の家に預けられていた。改めて確保に労することもない。今世では特段益もない存在と考えていたが、こうなっては悪くない拾い物だった。

 

「勝ち続ければ話題と人を呼べる。経営が上向けば行政の負担は減って他に金が回る。賞金を寄付還元すれば支出も絞れる」

「……その手口、まさか」

「なんだ?……ああ、八百長はなしだ。ただでさえ地方のレースは癒着が疑われやすい。やれば週刊誌あたりの恰好の獲物だ」

 

 弦一郎は狼の危惧を察して言下に否定した。地元の有力者との結びつきが深い地方のレース場では、プロレスじみた順位操作が行われているのではないか、と疑いを掛けるものもいるし、事実それが問題となったケースも存在する。当然、露見すれば逆効果どころの騒ぎではない。

「それに、他所からも客を寄せるならいずれは他のレース場にも打って出る必要がある。能力で勝て。……無論、貴様が必ず()()()()とまでは期待していない。外れても損のない安い手だから打つまでのことだ」

 とはいえ、と弦一郎は口元を歪めた。

 「俺にとってはそうでも、貴様にとっては外れてもいい話ではないと心得ろ。期間は少なくとも5年。その間、貴様が衆目と金を繋ぎとめろ。具体的にはG1級競走での勝ち負けだ。まずはそこまで無敗で駆け上がる。これを満たせなければ、御子の処遇は保証されぬと思え」

 

 過酷を通り越した、いっそ妄想でしかありえないような要求だ。だが、如何な無謀であっても、頷く以外の選択肢は狼に残されていなかった。



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3.

 葦名市の、一応は中心市街と呼ばれる区域。旧城下らしく細い道が入り組んだそのただなかに、中々に立派な構えをした古風な邸宅がある。随所の増改築を繰り返しながらも、江戸以前より存在していたというその屋敷は、地元の名家である葦名家の本邸だ。その門前に自動車が止まり、一人のウマ娘だけをそこに放り出して走り去っていった。セキロである。細い道の横幅一杯を使って走り去っていく車を見送って、彼女は門をくぐった。

 

 弦一郎は市役所でまたぞろ所用があるらしく、彼女のみが先に家へと帰された形だった。当初は『安い手』と語った通りに狼を寮の一室に放り込み、トレーナーの実務も都合の付いた二流未満のトレーナーに丸投げとしていた弦一郎であったが、実際にセキロが勝ち上がるのに従って本腰を入れる価値があると認めたらしい。自身の邸宅と使用人を貸し与えて、トレーナー業務にも自ら携わるようになった。とはいえ本職とは言えないトレーニング自体はほとんど狼の自由裁量であり、弦一郎の領分は主に事務手続きとアイドル的な売り出しの方面だったが。ともかくセキロのトレーナーという立場になるにあたって、表向き役人としての立場は手放した弦一郎だったが、実のところ今も相談役などという名目で業務を続けている。こういった形になる日も決して少なくなかった。

 

「只今、戻りました」

 暗い玄関からそう声を投げて、狼は靴を脱いだ。この時間帯であれば、使用人は夕食の準備にかかりきりで声の届く範囲には居ないだろう。そう考えていた忍びの、ウマ娘となってより鋭くなった耳に、はたはたと軽い足音が響いた。廊下を曲がって近づいてきた足音の主がほど近い位置で立ち止まる。ほどなく電灯がぱちりと音を立てて点き、その人影を照らした。

「待っておったぞ、セキロ!」

 まだ幼く中性的な顔立ちに、艶やかな黒髪を短く切り揃えた少年。現在の彼女の同居人の一人であり、かつての竜胤の御子。九郎が、面を輝かせて立っていた。

 

「今日は朝から賑やかだったぞ。久しぶりのプールだけあって皆浮かれていてな、こーんな大きな水鉄砲を担いで来たのまでいた!まあすぐ先生に没収されてしまってたがな」

 軽快な足音を立てる小さな両足の後ろを、僅かな音もたてずに狼の足が追う。狼の手を引いて居間へと向かいながら、九郎はにこにこと学校での出来事を語っていた。今は夏休み期間だが、ちょうど今日は登校日であったらしい。久しぶりに級友や教師と過ごす時間を楽しんだことが、存分に伝わってくる。狼は僅かに相槌を返すのみだったが、九郎は気にするでもなく楽し気に喋り続けていた。狼の口の少なさは知れている。同じ家に住み始めてから一年足らずではあるが、互いの距離は十分に理解していた。

 やがて居間に着き、狼がソファに腰掛けると九郎はその膝に飛び乗った。本を読むにせよテレビを眺めるにせよ、この場所が九郎のお気に入りであるらしかった。

 

「ほら、一日で随分焼けてしまった。真っ黒だ」

 そういって九郎が差し出した腕は言葉通りに黒く焼けている。その指先に小さな擦り傷があるのを、狼は目敏く見咎めた。

「……それは」

「ん?ああ、これは壁で少し擦ってしまってな。手当は済んでいるから心配は要らないぞ」

「ですが」

「相変わらず心配性だな、セキロ」

 そう言って笑う九郎に、狼はそっと目を伏せた。今世の普通の子供は傷を負うとしても精々この程度。竜胤の呪いから解き放たれた主は、忍びの手が護らずとも、平穏で普通の日常が約束されている。ただし、狼を繋ぎとめる楔としての役を担わされていなければ、だ。何も知らぬ主に気取られぬよう、狼は静かに唇を噛み締めた。

 

 

 

 狼が九郎と初めて引き合わされたのは、彼女がレースにおいて三勝目を数えた後のことだった。大した説明もなく寮を引き払うよう言い渡された彼女は、少ない荷物を持って車へ放り込まれた。長くもない移動の後に門前に降ろされて戸惑う狼に、弦一郎は短く告げた。

「俺の屋敷だ。今日からはここに住め。使用人には話を通してある」

「……どういうことだ」

「雑事は全て任せればいい。今後は走ることのみに注力しろ」

 

 それだけ言って邸内へと歩みを進める弦一郎に、狼は鞄を抱えて追随した。家はしんと静まり返っており、構えの割に少ない、最低限の人しか置いていないことは明らかだ。十分に整えられた広い前庭を横切る最中、弦一郎が思い出したように呟いた。

「ああ、それと。御子もここに住まわせている」

「……なんだと」

「あれには自由にさせている。貴様も、本分を忘れん限り好きに過ごして構わん」

 

 その言葉を拾ってから玄関にたどり着くまでの短い時間に、狼の心中は大いに波立った。契約時には遠くから僅かに姿を見たのみで、今世での九郎がどのように在るか、狼はまるで知らない。義母と弦一郎の例を見るに、為人が大きく変わることはないのだろう。だが、義母は前世を知らなかった。弦一郎は知っていた。九郎は、果たしていずれだろうか。

 

 ――己は、どちらであってほしいのだろうか?

 心中に浮かんだ下らぬ問いを、狼は直ぐに心の奥へと押し込めた。己の望みなど考えるまでもない。主にとって望ましければ、それで良い筈だ。では、九郎にとって、竜胤の御子としての生は如何なるものだったろうか?これも考えるまでもなかった。呪いと人の死に塗れた、忌まわしい記憶に他なるまい。只人として生きるには重く、何の益にもならぬ。であれば、きっと、知らぬ方が良い。

 

 そう心を定めた狼の前で、弦一郎が玄関戸を引き開けた。まず目に入ったのは年嵩の女性。おかえりなさいませ、と深く頭を下げる姿に、こちらが使用人であると察する。そしてもう一人、やや後ろに佇みこちらを見上げてくる少年の姿があった。一瞬、微かに瞠目した彼は、すぐに笑顔で口を開いた。

「おお、そなたがセキロだな。弦一郎殿から話は聞いているぞ。私は九郎だ。これからよろしく頼む」

「九郎、様。……お初に、お目にかかりまする」

 

 前世では決して呼ばれることの無かった名に、拭い難い違和感を覚えながらも安堵する。それで良いのだと、狼は微かな胸の痛みを押し殺すようにして答えた。




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4.

 九月初めのある日。未だうだるような暑さが続く中、炎天下の葦名レース場には多くのウマ娘の姿があった。しかしスタンドには人影はなく、コース内にはウマ娘だけでなく人間の姿もある。この日は休場日。行われているのはレースではなく、トレーニングであった。その中に、狼の姿もある。

 

 葦名レース場は、地方レース場のたいていがそうであるように、開場日を除いては所属するウマ娘のトレーニングセンターの役割を担っていた。やや狭くはあれど整備されたコースに練習用ゲート、そしてウマ娘向けのジム設備と必要なものが一通り揃っている。とはいえ所属するウマ娘の数に比してその能力は不十分であり、施設の利用希望は常に渋滞気味であった。熱心なものはコースやジムが利用できないなりに様々な場所でのトレーニングでそれを補おうとするが、専門の施設と比べればどうしても効率に劣る。一方で、そこまでの情熱を維持できないものは、施設利用の時間が取れないことを言い訳に怠惰に身を任せることになる。地方と中央のウマ娘の間にある格差の一因であった。

 

 日によってはあまりやる気のないウマ娘ばかりが占めることも多いレース場であるが、この日は例外であった。利用予約は様々な条件に応じて振り分けられるが、直近にレース出走予定があるもの、また上位のクラス分けにあるものは優先されやすい。翌日に重賞を控えた今、コース上には葦名ではトップ層に属するウマ娘とトレーナーの姿が多く見受けられた。

 

「おお、セキロじゃないか!こっちにいるのは珍しいな!」

 コーナーから直線を軽く流して一息つく狼に声を投げてきたのは、狼からすると見上げるほどに大きな鹿毛のウマ娘であった。帯広のばんえいウマ娘もかくや、というほどの雄大な体躯の持ち主の名は、オニカゲと言う。葦名ですでに十余年も走り続けている、最上位組に位置する古強者である。しかしここ数か月は故障によって長期休養しており、最近勝ち上がった狼とはまだ同じレースで走る機会がなかった。一月前にようやく復帰戦勝利を果たし、明日の重賞が狼との初対決という形である。

 

「長く待たせてしまったが、ようやく本番で競えるな。実に楽しみだ」

「そうか」

「なんだ、随分淡白だな。オマエは楽しみじゃないのか?」

「手強い相手とは思っている」

「はは、それは光栄だな。わたしも簡単に負けてやるつもりはない、いいレースを期待してるぞ」

 

 オニカゲは狼の背中をぱしりと一つ叩いて、己のトレーナーの方へと戻っていく。先のやり取りのとおり、オニカゲはセキロのことを随分と気に入っているようで、何かと面倒を見ようとしてくる。彼女にしてみれば、セキロは久しぶりに現れた期待の後輩といったところか。可愛がる気持ちも分かろうというものである。実際彼女の手助けは、元々レース場外での練習が多い上、生来の無口故に周囲と今一つ馴染み難かった狼にとっては有難いものではあった。本人の性格も明朗快活、竹を割ったような好ましいものである。しかしそれ故に、彼女と話すほどに狼は後ろめたい気持ちを抱えることとなった。

 

 理由は無論、前世のことである。散々に斬り斬られ、時には蹴り殺された。いくつもの死を積み上げた末に、遂にはその主を殺した。馬の行方は知らぬが、それからいくらもせずに葦名は落ちている。あまり良い想像は出来そうになかった。オニカゲも彼女のトレーナーも覚えている様子などない以上、狼が気にしなければ良いことではある。とはいえ、狼としては忘れるつもりはなかった。類稀な強者との戦いの記憶。それと向き合い己の糧とするのも、忍びの業なれば。

 

 狼の視線の先で、オニカゲはトレーナーと二言三言交わしてすぐにコースに出ていく。不意にトレーナーのほうと目が合った狼は軽く会釈して練習に戻ろうとしたが、男の近づいてくる姿にそれを阻まれた。前世と同じ鬼庭という名と、オニカゲに負けず劣らずの大きな身体を持つ男は、身をこごめながら狼に話しかけた。

「久しいな、セキロ。……弦一郎は、今日も来ておらんのか」

「いや、レース場には来ている。事務棟の方で組合との会合中らしい。何か、用事か」

「ああ、そういうわけではなくてな。弦一郎め、またレース直前の教え子を放っておくなどとは。すまないな、セキロ」

 鬼庭は大きな手を狼の頭に置いた。頭髪を透かして伝わってくる熱に、僅かに目を細める。幼少期の弦一郎の養育に携わっていたこの男は、傍から見た狼と弦一郎の関係に心を痛めているようであった。

 

「……弦一郎は、荷を負いすぎておる」

 彼はぽつりと、どこか聞き覚えのある言葉を呟く。

「あれもこれも、この街の全てを何とかしようとしておる。……儂ら大人が、不甲斐ない故であろうな。弦一郎を、責めんでやってくれ」

「別に、気にしていない」

 これは狼の本心であった。弦一郎はコースの利用申請や出走予定の相手の調査など、必要な支援については遺漏なく行っている。トレーニングについては義母の手解きもあり、自分で計画を立てるのにも特に苦を感じては居なかった。だがその答えも、鬼庭には強がりであるように思われたようだった。

「無理をすることはないぞ。お主は、まだ子供だ。厭になったら、いつでも儂のところに来るといい」

 

 狼の頭をぐい、と力強く一度撫でて、鬼庭の手が離れる。良い父とは、きっとこういうものだろうか。在るべき親の姿というものをよく知らぬ狼は、そんなことを思う。弦一郎にとっては、きっとそうだったのだろう。そして、狼がその手で殺めた前世でも、きっとそれは変わらなかったはずだ。

「……お気遣い、有難く」

 それだけ言って、狼は踵を返してコースへと向かう。その声色をどう受け取ったのか。狼の背を見送る男の瞳には、憂いの色が濃く残っていた。

 

 

 

 雑木林をがさがさと揺らして、赤い大きなリボンが揺れる。鬼庭と狼とが言葉を交わしていたのと同刻、葦名レース場のコース向こう正面、塀の奥で一人の少女が下生えと格闘していた。

「うはー、やっぱり夏はすごい藪ですねえ。でもでも、ウマ娘ちゃんのためなら~、えんやこ~らさ!」

 奇妙な掛け声とともに最後の一塊を抜け出して、彼女はレース場外郭の塀にたどり着いた。外埒の更に外に設けられた塀は、目隠しにはなっているもののところどころに隙間が空いている。その一つに目を近づけて、彼女は満面の笑みを浮かべた。

「見えた、見えました!さすが同志、ナイススポットを知ってますね〜。ここなら見放題!前日入りした甲斐があるってもんです!」

 葦名レース場の練習風景はレース関係者、及び一部のメディア関係者を除いては特別な日以外公開されない。しかし施設自体の古さもあり、場内を覗き見る程度なら出来る場所は幾つかある。この少女の目当てはその一つだったようで、トレーニングに励むウマ娘たちを興奮した様子で眺めていた。

「あ、あれはオニカゲさん!今日もたくさんのウマ娘ちゃんたちに囲まれて、葦名の頼れるお姉様っぷりは健在ですねぇ……でも笑うと無邪気スマイルでギャップ萌え100億万点……しゅき……」

 

 と、そのように恍惚と(トリップ)していたからだろうか。塀の向こうから近づいてくる相手に、彼女は覗きこまれるまで気が付かなかった。(うつつ)に戻った彼女のすぐ目の前に、セキロの不審げな顔がある。

「何をしている」

「ピャッ!?あっえっ!?ほわあぁぁ!セキロちゃん!?そのわたしは不審ウマ娘ではなくてですね、あっお顔が近いぃ……無理……」

 少女は支離滅裂な言葉と共に実に幸せそうな表情でその場に倒れ込んだ。急な奇行に狼はただ戸惑うばかりだ。

「おい。大丈夫か」

 流石に目の前で倒れた相手を放っておくのも忍びない。塀を飛び越えようとした狼であったが、実行に移すより少女が息を吹き返す方が早かった。

 

「……っは!大丈夫ですっ!って練習のお邪魔をしてしまうなんてオタク失格、デジたん猛省っ!申し訳ありませんでした失礼しますっ!」

 一息で言い切ってそのまま藪の中に飛び込んでしまう。ひとしきりガサガサと音が響いたのち、「明日のレース応援してますー!!」との叫びが遠ざかっていった。

 「……なんだ、あれは」

 嵐のように去っていった少女に、狼はそう呟くしかなかった。

 




注:
「オニカゲ」という名の競走馬は実在する(した)ようですが、本作に登場するのは鬼庭形部雅孝の騎乗していた馬をモデルとしたウマ娘であり、実在競走馬とは一切関係ありません。


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5.

「重に、なるかもしれんな」

「ああ」

 葦名弦一郎とセキロの二人は、スタンドの一角にある関係者席から空を見上げていた。昼過ぎから弱く降り出した雨はダートコースを湿らせ、第6レースからはバ場状態は稍重へと推移した。時折止んではまた降り始めることを繰り返しており、セキロの出走するメインレースまではまだ少し時間がある。コース状況のさらなる悪化は十分に考えられた。過去のレースで重バ場を走ったことはあるが、良バ場と比べれば練習機会も少なく()()が起こりうる。確実に勝ちに行きたい二人としては、あまり歓迎できる状態ではなかった。とはいえ、案じても天気は変わらぬ。体を冷やすなとの弦一郎の言に従って、狼は早くに控室へと引っ込んだ。

 

 残された弦一郎は、見るともなくスタンドを眺める。ちょうど2つ前のレースの出走直前、パドックから観客がスタンドの方へと移動してくるタイミングだ。重賞レースを控えているだけあって、普段よりも人の入りが大分いい。その中に、ひときわ目立つ影を弦一郎は見つけた。最前列にかぶりつくようにして、鞄から引っ張り出した飾り付きのうちわを振り回す、小柄なウマ娘だ。先ほどまではパドックのほうでも最前に陣取っていたはずで、余程の熱量を観戦に賭けているのが窺える。ああした熱心なファンがいるのは喜ばしいことだ、と弦一郎は思う。なぜか怪しさ満点の耳出しニット帽とサングラスをつけているのが気になるところではあるが。

 

「……しかし、どこかで見たような」

 少しの間考えて、弦一郎は思い出すのを諦めた。遠目のことでもあるし、それ以上に柵にかじりついて口の端からよだれを垂らしている姿から何かを思い出せる気がしなかったためである。ゲートが開く音に、弦一郎の視線はコースへと引き戻された。

 

 

 葦名レース場では、出走のおよそ30分前にパドックでのお披露目が行われる。場内のアナウンスに従って、本日のメインレースに出走する面々が次々とパドックの方へと向かっていた。パドックの観覧席部分は、コースから地続きの広場を柵で仕切っただけの狭い空間だ。観戦者の中でも比較的熱心なものだけが集まるはずのそこをいっぱいに埋めた観客たちは、微かにざわめきながら主役の登場を待っていた。

 

 今日の狼は最内枠であり、パドックでの順序も先頭となっていた。中央のそれとは違いただ台があるのみの簡素な舞台に登った狼は、瞑目して一つ深く息を吸う。そして、羽織っていたジャージの上着を慣例通りに脱ぎ捨てた。集まっていた観客たちが抑えきれぬとばかりに叫ぶ。これまで出てきたレースの中でも一番の歓声だった。11戦目でも伝説が続くことを、皆期待しているのだ。

 

 軽く手を挙げて応えた狼は、その中に少し聞き覚えのある奇声が混じっていることに気が付いた。視線を向けると、あまり有効とは言い難い謎の変装をしている、昨日見たウマ娘の姿。あの一件のことを気にして気付かれないようにしているのだろうか。しかしその割に手に持っているうちわには『こっち見て』『手を振って』のラメ文字が輝いていた。とりあえずうちわの文字のとおり、軽く手を振ると「はひゅっ」という奇声とともにその場で完全に硬直し動かなくなる。大丈夫だろうか。そう案じる狼だったが、どうやらここでお披露目時間の上限が来たらしい。身振り手振りで合図する係員に従って、狼は台を降りた。

 

 一通りのお披露目を終えて先頭で足を踏み入れたバ場は、独特の雨の匂いを漂わせていた。返しウマと呼ばれる軽い準備運動で、足元の感触を確かめる。濡れて堅く、しかし場所によっては凸凹に荒らされた地面。雨は既に止み、場内のアナウンスでは稍重と発表されたが、実態としては重に近い感触だ。乾いているうちはトラクターと砕土機(ババヲナラスクルマ)を走らせればかなり整うが、雨となってはそれにも限度がある。既に10レースを終えた今は、インコースを中心に見てわかるほど掘り返されている様子だった。全て、狼にとっては逆風といってよい。深く息を吐き、狼は黙ってスターティングゲートへと歩き出した。

 

『まもなく本日メインレース、白蛇賞の出走となります。ゲート入りが進んでおります――』

 場内アナウンスでも流れているこのレースの名は、葦名の土着信仰に見られる白蛇が由来だ。実物に幾度か遭遇した狼としてはぞっとしない命名であった。そんなこのレースの距離は1600m。第3コーナー近くのポケットが、今日のスタート地点となる。

「セキロ。いいレースにしような」

 そう声をかけてきたオニカゲは2枠3番、狼の二つ隣だ。……これも運がない、と枠順決定を見た弦一郎は顔を険しくしたものだった。二人の間にもウマ娘が収まって、全ウマ娘がゲートの中。ぴり、とした空気の中で、

『今、スタートしました!』

 がしゃりと開いたゲートから12人、全てのウマ娘が飛び出した。

 

『これは綺麗にそろったスタート、先行争いはまず1番セキロから』

 例によって好スタートを切った狼は真っ先にコーナーを目指す。常になくテンから全速で飛ばす走りには、このコースで最内枠を走らされるが故の焦りが滲んでいた。第3コーナー付近のポケットから始まるこのコースは、スタート直後に急角度の第4コーナーを迎える。インを先行しやすい内枠が有利に見えて、外から切り込む形の方がコーナーを回りやすくスピードに乗れる。外から被せられると途端に動きにくくなり苦しくなるコースでもあった。まして内が荒れて有利の少なくなる重馬場、開催後半のレースともなれば猶更のことだ。故に、普段であれば先行抜け出しや好意差しを苦にしない狼も、多少の無理を承知でハナを切ろうとする。そして、その利を決して見逃さない敵が一人、この戦場にいた。

 

『さあ外から3番オニカゲ競りかけてこれは激しい先行争い、正面スタンド前へと入っていきます』

 セキロを抑えるには絶好の位置から、このコースを知り尽くした古豪が迫る。固く締まった地面を自慢の豪脚で叩き伏せながら狼を内に閉じ込めた彼女は、小回りを強いられる狼をあっさりと抜き去って斜め前の立ち位置を確保した。

 外はぴったりと抑えられ、荒れた足場ではまっすぐ抜き去るのは至難、位置を下げればバ群の中に沈む。間違いなく最大の警戒対象であるセキロは、一度囲まれれば容易に抜け出させてはもらえないだろう。完全に選択肢を奪われた狼の体力を、荒れに荒れた直線の最内がじわりと削る。スタンドの歓声に紛れるように、オニカゲはにやりと口元を歪めて嘯いた。

「楽しみにしていた、と言ったろう?」

 

『さてコーナーを回って向こう正面へ。短めの隊列、オニカゲが先頭で前半1000mは62秒4、やや遅めのペースか』

 隊列が動かないまま通過した第1コーナーと第2コーナー。オニカゲが少しでも膨れたなら即座に仕掛けるつもりの狼だったが、オニカゲはきっちりと速度を落として綺麗なコーナリングを魅せていた。その代償として中団バ群との差は縮み、一人は外から捲り上げて狼に迫ろうかという勢いを見せている。とはいえ、と狼はちらりと横を盗み見た。視線の先のウマ娘の捲りは、完全なオーバーペースだ。最終コーナーまでに振り切れる。そう結論付けた狼は、オニカゲ以外の敵を一旦脳裏から消し去った。まもなく第3コーナー。決して長くない直線に入るまでに、前か外。戦える位置を奪っておかなければならない。

 狼はあくまで静かに、少しずつ速度を上げる。勝負の気配を感じ取ってか、その姿を視界の端で捉えたオニカゲは楽しげに、獰猛な笑みを浮かべた。

 



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6.

「復帰戦を見るに、オニカゲの状態は十分良好。スタートはムラがあるが早い時は早い。こちらが先行策を取る場合、向こうが完璧に立ち回れば序盤は打つ手がない」

 

 レース前夜。白板を前に、弦一郎と狼が言葉を交わしていた。枠順を前提としたレースのシミュレーションと警戒対象のピックアップ、そして対策は専ら弦一郎の領分である。レースを重ねて改善されつつあるものの、元々走るつもりもなかった狼は駆け引きに些か疎い。養育者の関係もあってそれなりの長さ、レースを見続けてきた弦一郎の方に一日の長があった。

 

「だが、まずは先手をとりに行かねばなるまい。最内から後ろを回すのでは危険が大きすぎる」

「ああ。先手は狙うが、取れれば僥倖程度に思え。必要なのは内に抑えられた後の一手。……向こうの奥の手は知っている。仕掛けるならば4角だ」

 

 そう言いながらも弦一郎の顔は険しい。

「不利条件の多いレースだが、忘れるな。あれは未だダートグレードを勝っていない」

 地方と中央の交流自体の歴史が浅いためでもあるが、地方の所属ウマ娘が重賞級の交流レースで勝利したケース自体が稀である。そして、オニカゲはその壁を未だ破れていないウマ娘の一人であった。()()()()の強さでは、弦一郎の期待にはほど遠い。

「あれと同格と見做されるのでは足りぬ。必ず勝て」

「……無論だ」

 

「……予想の通りか」

 序盤から厳しい展開となったレースを見つめ、弦一郎はそう呟いた。その背に、後ろから低い声がかかる。

「どうだ。強かろう、我が教え子は。この条件ならそう負けはせんぞ」

 鬼庭はそう言って隣に座り込む。弦一郎が幼子の頃から知っているだけあって、気安い様子であった。

 

「雅孝か。……成程強いが、あれの方が上だ。この程度で、負けることを良しとする奴ではない」

 弦一郎の口から溢れた評価に、鬼庭は意外そうに眉を上げる。

「ほう、思うたより入れ込んでいるではないか。そう思うなら、なぜもっと見てやらん。いくら強くとも、まだ幼い子供だということを忘れるな。メニューを組むだけがトレーナーではないぞ」

 責めるように問うた鬼庭に一瞥もくれず、弦一郎は答える。

「俺には他にも為すべき事がある。あれだけにかまけてはおれん」

「……愛想を尽かされても知らんぞ。()()と信じたウマ娘に全霊を傾けられねば、必ず悔いを残す。トレーナーなら誰でも弁えているだろうに」

 そんな苦言を聞き捨てて、弦一郎の意識は再びコースを走るウマ娘たちに向かう。便宜上トレーナーであるだけの男の前で、レースは佳境となる第3コーナーへと差し掛かっていた。

 

 

 

『さて第3コーナーに向かって先頭オニカゲ、リードを体一つ分とって2番手に1番セキロ、3番手以降はやや遅れたか!』

 先頭2人がじりじりと速度を上げる中、仕掛け遅れた後続との距離が開き始める。既にして一騎打ちの様相だ。コーナーに入りながらも速度を緩めないオニカゲに、セキロはやや遅れて追随する形。前を行くオニカゲの背を見て、狼はその異常を正しく見抜いた。

(速すぎる。あれでは到底回れまい。……普通なら、だが)

 

 葦名レース場の3、4コーナーは所謂スパイラルカーブの形を採用している。緩く曲がりやすい第3コーナーの後に、急角度の第4コーナーが続く形状。スピードの乗ったウマ娘は第4コーナーで外に膨らみやすく、小回りの割には後方からの差しも決まりやすい特徴を持つ。オニカゲの様に第3コーナーから減速なしで突っ込めば、大外に振れて著しい距離のロスを背負うことになるのが普通だ。後ろにつけたウマ娘はもう少し緩めてオニカゲよりインを狙えば、少ないロスで十分綺麗なバ場を走れる。だが、『奥の手』を弦一郎より聞いていた狼はその択を選ばない。

「来るか」

 狼の呟きと同時に、オニカゲが動いた。

 

 地面に、槍を突き立てるかの如く脚を叩き付ける。それを軸として、異様なまでに内に傾いたオニカゲの身体が急角度で旋回した。僅か一歩のうちに身体を直線へと向けたオニカゲは、地面を抉り飛ばしながら再加速を果たす。重量と、極めて頑強な脚とを兼ね備える彼女でなくては叶わぬ絶技である。

 

「あのゴール板(もん)、容易く通らせはせぬぞ!」

 オニカゲが吼える。仮にインを狙っていたなら、狼は想定よりも内、埒沿いの狭く荒れた地面に押し込まれていただろう。第3コーナーでリードを取り、更にはイン突き狙いを罠にかける技術。だが、狼はそれを知っていた。故に。

 

『さあ先頭オニカゲ第4コーナーを回って直線に向かう、2番手外に持ち出してセキロ、さらには——』

「ほう、外か」

「ああ。3角時点で外目を通り、4角を少ない減速で回す。あのターンは一度脚が止まる分、罠さえ躱せば差は開かない」

 ターンの地点を丁度狙うように、アウト・イン・アウトに近い形でコーナーを回る。加速しやすいラインをとって外に持ち出したセキロとオニカゲとの差は、弦一郎の言の通り広がることなく身体一つ分ほど。そして差の少ない、足元の条件が互角での直線勝負なら、セキロの方に軍配が上がる。果たしてゴール前約100m、セキロの方が僅かに抜け出した。

 

「やはり、あれの勝ちだ」

「否。まだだ」

 コース内のオニカゲの視線が、スタンドの弦一郎を。否、その隣の鬼庭を捉えた。過去のレースでは数えるほどしか見せていない、おそらく弦一郎の慮外であろう技。故障明け間もない今ではあるが、やれる。やりたい、と、その目が訴えている。視線を受けて、鬼庭が立ち、そして大音声で叫ぶ。

「オニカゲぇッ!」

「応ッ!」

()()()()!」

 

 危。

 僅かにリードした狼の忍びの、あるいはウマ娘としての嗅覚が察知する。斜め後方から響く、桁違いの踏み込み音。雨で締まった地面は、その剛力を完全に、前進する力へと転換する。

 

 ()される。

 

 敗れる。そう直感した狼は、半ば本能的に、躊躇なく己の奥の手を切った。

 

 

 ここで思い返そう。そもそもウマ娘とは何か?ヒトと近しい身体構造を持ちながら、ヒトをはるかに凌駕する脚力を持つ。その不思議の故は、異なる世界の魂を受け継ぎ、その力を宿す為だという。

 

 勝負服を着たウマ娘が、如何に走りにくく見える服でも、明らかにその力を増すように。一流のウマ娘たちが、特定の条件において爆発的な力を発揮するように。故も知らぬ魂の力を引き出すことこそ、ウマ娘の強さの本質。

 己のものでない力を己の身体に意図して降ろす術を、神秘多き葦名に生きた狼は既に体得していた。練習の中では幾度か試しながらも、その欠陥故に多用出来ず、本番のレースでは未だ使ったことのない技。

 

 構えは、ウマ娘が自然に走る姿で良い。身体をごく低く、真っ直ぐにゴールを見据えて、念じ、祈り、降ろす。刹那、人ならざる加護の力が両脚を巡り、常ならぬ剛力がダートを抉り抜いた。

 

 豪脚。

 

 尋常ならざる脚力で最後の数歩を飛んでみせたオニカゲを、さらに後方一バ身半に千切り飛ばして。セキロの身体が、先頭でゴール板を駆け抜けた。

 

『――これは圧巻の強さ!古豪オニカゲすらも退けて、セキロ堂々無敗の重賞制覇ッ!』

 

 スタンドの観客が、興奮の色を隠せぬ実況が叫ぶ己の名が、どこか遠くに聞こえる。初めて敗北を間近に感じさせた強敵の大きな手が、背中を叩いた。

「いい、戦いだった」

「……そうか」

「見事だった。オマエの勝ちだよ。そら、応えてやれ」

 促されるままに、スタンドを見上げる。じんとした脚の痛みと、それ以上に響く心中の何かが削れた感触に耐えながら、狼は不器用に右手を突き上げてみせた。




豪脚の御霊降ろし

レース終盤の任意の地点で一時、豪脚の加護を宿し速度がものすごく上がる
ウマ娘の走る姿、「豪脚」に構えることで、人ならぬ御霊の加護を自らに降ろす
ウマ娘の身とて、御霊降ろしにはまだ足らぬ
勝利の酩酊のみが、こらえる術であろう


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7.

 歓声に送られてコースを離れた狼は、顔一面に険を浮かべて立つ弦一郎に出迎えられた。鋭い視線が狼の身体を上から下まで睨め付ける。観客には気取られていないようだが、間近で競技者、或いはトレーナーが見れば気が付く程度には、狼の歩様は乱れていた。

 

「触るぞ」

 一言だけ告げて、弦一郎は狼の足元に屈みこんだ。手早く靴をほどいて、踝から膝、腿と順に確かめていく。熱感と腫脹の有無に、押さえて疼痛が出ないか。一通り確認した弦一郎は、小さく安堵の息を零した。

「関節に熱はない。骨と腱ではないな。肉離れというほどでもない。単純に筋肉痛か」

 手を軽く払って立ち上がった弦一郎は、問答無用で狼の体を右肩に担ぎ上げる。拐かされるような体勢に狼の眉間に皴が寄った。とはいえ抵抗する理由もなく、狼は為されるままに運ばれていく。決して長くない廊下を歩きながら、弦一郎は狼に告げた。

「ステージ順は最後に回してできるだけ時間を取る。控室に行くぞ。まずは冷やす」

「ライブはやるのか」

「状態を見つつだが大方問題あるまい。大事を取って曲は変えておく。今の振り付けは避けた方がよかろう」

 

 通りすがりに捕まえた職員に伝言を任せ、弦一郎は狼を控室に押し込む。アイシングスプレーを取り出して手早く処置を行いながら、弦一郎は口を開いた。問い詰めるような、厳しい声色だ。

「直線の最後、何をした。あの異常な加速、今までのレースでは見せていないはずだ」

「一時に限って、脚力を引き出す術がある。負荷が大きい故に控えていたが」

「成程、()()が対価というわけか。……当面、あれは使うな。幾ら速くとも壊れては話にならん」

 

 一通りの手当を手早く終わらせた弦一郎は、すぐに控室のドアを開いた。

「……これでいいだろう。準備に行ってくる。呼びに来るまでは待機だ。決して歩くな」

 それだけ言い残して、些か乱暴に扉が閉められる。しばし控室の椅子に身を預けていた狼であったが、その耳に扉を叩く音が届く。弦一郎が戻ってきたのかとも思ったが、それにしては足音の様子が違った。

 

「入るぞ、セキロ」

 果たして、扉を開いて入室してきたのはオニカゲであった。狼の脚に施された処置の跡に顔を険しくした彼女であったが、大したことはないと狼が告げたことで安堵の色が浮かぶ。

「まずは、重賞初勝利おめでとう、からだな。完敗だ」

 椅子に座った狼の頭を、ちょうどいい位置にあるとばかりにがしがしと撫でまわながら、オニカゲは勝利を讃えた。言葉少なに謝辞を述べた狼は、しばし為されるがままに頭を揺らされている。一通り狼の頭髪を弄んで満足したか、オニカゲは手を離して向かい合った椅子に腰かけた。

 

「で、次はどこでやれる?葦名グランプリ辺りか?」

「……」

 狼は返答しない。大まかなローテーション程度は聞いているが、実際どこに行くかは弦一郎が決めることだ。葦名グランプリは地方交流となるダートグレードの重賞であり、次走の有力な候補ではあったが、未だ決定事項ではなかった。

「はは、言えんか。まあ、近いうちに登録でわかるがな。言っておくが、次は負けんぞ」

 また後のライブでな、と言い残して席を立つオニカゲ。その背に狼は僅かに躊躇いながらも声をかけた。

「いや……俺も、負けるつもりはない」

 その言葉に、オニカゲは実に嬉しそうに笑った。

 

 

 

 ライブはつつがなく終了した。普段使っていない、控えめな振り付けの曲に変更されたセキロのステージは、それにもかかわらず過去一番の歓声に包まれた。相変わらず最前に陣取った不審な変装ウマ娘が謎の組織力を発揮して、葦名ではそうそう見ない、サイリウムを振り回すオタク軍団が生まれていたりもしたが。なお、そのリーダーは地方レース場らしく観客とほど近いステージ上からの視線を受けて、数秒おきに意識を飛ばしていた。ともあれ大盛況に終わったライブの後、11戦11勝の葦名の新星はそのトレーナーとともに帰途に着いていた。

 

「次走はJpnⅡの葦名グランプリを予定している。間隔はさほどない、中央からの出走候補対策も急いで進める」

「いいのか」

「何がだ」

「貴重な中央交流だろう。奥の手が使えないままでは、どうなるか」

「確かに重要だがあくまでステップ。本命は南部杯だ。そこまでは温存策で行く。負けてもよいとは言わんが、壊れるより余程良い」

 

 渋い顔ながら、弦一郎はそう述べる。本命として挙げられたマイルチャンピオンシップ南部杯は、盛岡で開催されるJpnⅠのダートグレード競走。ダート戦線の頂点の一つだ。既に地方レベルでのセキロの力は十分に示したため、仮に前哨戦にあたる葦名グランプリを落としても、こちらを取れれば十二分という目算だった。

「その分、通常の走りで勝負できるよう仕上げる。トレーニングに備えて十分に休んでおけ」

 

 

 

 人だかりの中に、男が立っている。駅から大量に吐き出される人の海の中に、彼は目当ての姿を探した。携帯のチャットアプリに表示されたメッセージは、待ち人がこの時間の電車で到着することを示している。果たして、人混みの上に、彼を呼ぶ言葉とともにぴょこりと飛び出した小さな手のひらがあった。男が声を返すとややあって、その持ち主の大きなリボンと、上気した顔とが人波を割って現れる。大きな紙袋を下げていた手を膝に置いて息を整えた少女に、彼はその荷物を受け取りながら声をかけた。

 

「おかえり、デジタル」

「はい、アグネスデジタル、ただいま戻りました!」

 満面の笑顔で応えた少女、アグネスデジタルを止めていた車へと促しながら、男は彼女の話に耳を傾ける。

「いや~、久しぶりの葦名レース素晴らしかったです!やっぱりローカルシリーズの良さってありますよね、パドックもステージも近いですし!そりゃあ中央のギミックもりもりド派手なライブはとっても素敵ですけど、ローカルのシンプルな設備だからできるかぶりつき観戦!たまんないです!」

「デジタルが楽しめたなら何よりだよ。えーっとこっちの紙袋は……何?」

「あ、そっちはおみやげですね。太郎柿ってブランドで最近売り出してるみたいで、スイーツフェアやってたのでたくさん買ってきちゃいました。タキオンさんの分とオペラオーさんの分、ドトウさんの分……トレーナーさんの分もありますけど、ちょっと多いんで一旦帰ってから分けることにしますね」

「それでこっちは……」

「そっちはウマ娘ちゃんグッズです!なんだか前より物販が充実してましたねえ、爆買いしちゃってお財布が軽く……」

 

 楽し気に話しながら車に荷物を積み込んだ二人は、トレセン学園にある寮に向かって出発する。助手席に座ってもせわしなく頭を揺らしているデジタルに、そのトレーナーである男は問いを投げた。

「それで、お目当てはどうだった?」

 

「モチのロン、最っ高でしたとも!なんといってもセキロちゃん!最初からクレバーに立ち回る大大大ベテランのオニカゲさんを直線で豪快にぶち抜いた末脚、たまらんっ!塩対応だなんだと言ってる人もいますけどすげえよな、パドックもライブも最初から最後までサービスたっぷりだもん。てなもんですよ!一番良かったのはレース後ですねえ、セキロちゃんの背中を叩くオニカゲさんと戸惑い気味に右手をあげるセキロちゃん……11勝目なのに初々しいセキロちゃんと圧倒的包容力でパフォーマンスを促してみせるオニカゲさんの関係がねえ、もう尊くてたまらんのですよ!しかもそんななのにちょっと悔しそうな顔が隠せてないオニカゲさんもさらにまた良き……」

 

「わかった、わかったよ。その分だと、もう次は決まりかな?」

「ええ!」

 トレーナーは面に苦笑いを浮かべつつ、興奮のままに語り続けるデジタルに問いかける。問い、というよりは確認である。アグネスデジタルは力強く首肯した。

「南部杯の前の一戦はあたし、葦名グランプリに出ます!」

 

 

 

序:葦名の新星 完。




雪辱を誓う強敵に、現れる中央からの参戦者。
限界を越える戦いの影で、前世からの宿業が燻り始める。
次章。

破:炎


お気に入り、感想、評価等々ありがとうございます。
年末年始休養の為一時投稿をお休みしますが、近日中に再開予定です。


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閑話
情報屋と物売り


 重賞、白蛇賞を間近に控えた葦名レース場の中は、少しばかり慌ただしい。出走するウマ娘たちがトレーニングに励むだけでなく、開催者たる葦名レース場の職員たちがコースや設備の整備、ライブや並行して行われるイベント等の準備に走り回っている。その只中にあって、いくつかの打ち合わせを片付けた弦一郎は携帯端末の画面を見て溜息を溢した。チャットアプリのメッセージに既読のマークのみを付けて、ポケットの中へとしまい込む。

 

 事務棟を離れて、弦一郎が足を運んだのは関係者用の通用口だった。警備員と並んで弦一郎を待っていたらしい、それなりに仕立ての良いスーツに身を包んだ男が、気さくな笑みとともに片手を上げる。この日は開場日でも、取材のための公開練習日でもない。それ故に、その男が通用口で足止めを喰らっているのは当然のことではあった。

「よお、弦一郎の旦那」

「また勝手に入ろうとしたのか、藤岡。悪癖は控えろと言ったはずだが」

「まあ、そう言わないでくれよ。今日は商いに来たのさ。まあ、その前に中を見れたら儲けものとは思っていたがな」

 そう言って、雑誌記者である男はにやりと弦一郎に笑いかけた。いささか軽薄にも思える態度に、弦一郎は渋面を浮かべる。何かと役に立つ男ではあるが、こういうところはどうにも合わなかった。

「こんなところで話すのもなんだ。座れるところに行かないか?」

 そんなことを宣う藤岡だったが、場外にそう都合のいい場所があるわけもない。要は中に入れろということだ。こちらの顔を伺ってくる警備員に、弦一郎は煩わしげに指示を投げた。

「……臨時の関係者証を出してやれ。知り合いの記者だ。俺が通したと言っておけばいい」

「助かるぜ、旦那。これ無しじゃ、あんまり腰を据えて見物するわけにもいかないしなあ。堅物職員に見つかっちゃあ面倒だ」

「言っておくが話の間だけだ。コースに入れるつもりはない、終わったらさっさと帰れ」

「つれないねえ、旦那は」

 

 軽口を叩く藤岡を引き連れて向かったのは事務棟の一室。腰を下ろした藤岡は、提げていた鞄からタブレットを取り出した。対面に座る弦一郎に目線を飛ばして問いかける。

「で、どれが入用かね?」

「何がある」

「そうさなあ……まずは葦名グランプリの出走表明者連中のトレーニング映像かね。公表してるのはもちろんだが、残り枠にねじ込んできそうな連中の有力どころも足してある」

 差し出したタブレットの画面にはウマ娘の名前と所属、トレーナー等の情報がずらりと並ぶ。ここまでなら普通に集められる情報だが、この男が売り物にするのはそのリストにある娘のトレーニング情報だ。公開練習以外は、通常他のトレーナー、まして別所属に開示される代物ではない。

「……ふむ」

「中央についちゃ地方ウマ娘全国協会(NAU)のお偉いさんに優先順を確かめてる。回避次第だがこの中で決まるのは堅いぜ」

 しれっとした態度でそんなことを言ってのける藤岡に、弦一郎は僅かに眉を上げた。この男は本業を差し置いて『情報屋』を自称するだけあり、こういうところが侮れぬ。不法侵入だなんだと面倒を起こされながらも、貴重な中央に関わるコネでもあり簡単には切って捨てられない相手であった。

 

「南部杯の方はどうだ」

「そっちは流石にまだ何とも言えねえなあ。ま、分かれば持ってくるぜ。お得意様は大事にしなきゃならねえからな」

「一応船橋も候補だ。日本テレビ盃はどうだ?」

「はいはい、日テレ盃もあるぜ。とはいっても大方は葦名のほうと重なってるがな」

「ならそちらは要らん。葦名グランプリの分を送ってくれ」

 その言葉を聞いた藤岡はにやりと口元を歪め、眉をしかめる弦一郎にこう切り出した。

「で、お代の話だが」

「……何がいる」

「まずは白蛇賞の戦後インタビューだな。公開分の後に独占で時間が欲しい。旦那は気前がいいから色んなとこにやらせてるが、今回はうちだけで貰わせてくれ」

 雑誌取材は当然宣伝として重要だ。藤岡の言うとおり、弦一郎は機会があれば割と見境なく引き受けている。そのせいでたまに狼のスケジュールが殺人的なものになったりしているが。それを制限するのは少し勿体ないが、藤岡の属する雑誌はウマ娘界隈では中々の大手だ。独占にしてもそこまで痛手ではあるまい、と弦一郎は結論する。

「あとはここら辺の娘の情報だな。トレーニング映像か、タイムがあるとなおいい」

 そう言って差し出したタブレットには葦名所属のウマ娘の名が幾つか。どれも近日中に他所のレースに出走表明をしているメンバーだ。弦一郎はレース場職員を使ってこれらの情報を集められる。普通に越権行為だが、弦一郎に躊躇いはなかった。

「掛け合っておこう」

「まいどあり。……これでよし、と。じゃあな、旦那」

 藤岡はタブレットを弄ってデータを送り付けると、早々に通用口の方へと向かっていった。弦一郎はそれを見て一つ息を吐く。あの男にセキロの練習風景を抜かれたら、どこに売られるか分かったものではない。それだけでどうこうなるとは思わないが、不安要素はなるべく避けておきたかった。

 

 ――なお、藤岡がその後「忘れ物をした」と誤魔化して通用門を通してもらい、人のいないスタンドで堂々とカメラを回していたことを、弦一郎は知らない。

 

 

 

――――

 

 

 

 それは、セキロがシニア級混合戦を初めて制した次の週のことだった。夕刻、いつもの通りにレース場外でのトレーニングを終えて家に帰りついた狼は、普段聞き慣れぬ男の声を耳にした。屋敷の客間で話しているらしく、弦一郎の声が時折混じる。玄関に出迎えに来た九郎が、目を輝かせながら小声で狼に耳打ちしてきた。

「セキロ、そなたの客人だぞ。弦一郎殿と今お話している。早く、早く」

 はて、そのような話があっただろうか。いつになく浮ついた様子の九郎にぐいぐいと手を引かれて、客間の襖の前にたどり着く。

「只今戻りました」

「セキロか。ちょうどいい、入れ」

「弦一郎殿、わたしも同席してはだめだろうか?」

 襖を開けようとする狼の横から九郎が口を挟む。襖の向こうが少し沈黙して、弦一郎の声が返ってきた。

「いや、仕事の話だ。外しておけ」

「へえ、あっしは全然かまいやせんがね。むしろファンの声が聞けると考えりゃ、有難いくらいでさ」

「……そうか。ならいい、二人とも入れ」

 襖を引き開けると、弦一郎と大きい卓を挟んで対座する男が一人。卓上にはキーホルダーやらポストカードやら、雑多にものが並べられている。スーツ姿に禿頭と些か怪しい風体の男はセキロを見ると立ち上がり、ぺこりといまいち姿勢のよろしくないお辞儀をしてみせる。

「どうも、初めやして。あっしはこういうもんでさ、よろしくお願いしやすぜ」

 差し出された名刺には、会社の名前と共に『穴山又兵衛』の文字が並んでいた。

 

「……グッズ、か」

「そうだ。そろそろ頃合いだ。レース場自体で稼ぎたければ、物販を拡充せねば限界がある。それで一通り試作させた」

 成程、机の上のグッズたちはどれもセキロを描いたものばかりだ。ストラップのような小さなものからTシャツなどの大きなものまで。未だに自分として受け入れにくい姿が並ぶさまに狼は眩暈を覚えるが、その隣の九郎は対照的に目を輝かせていた。

「ま、あっしのお勧めは印刷で済む類のものですねえ。例えばこれ」

 そう言って摘まみ上げた缶バッジにもセキロの顔。レースのもの、ライブのもの、トレーニングのものなど種類も幾つか並べられている。

「缶バッジなんかは元値が安い。種類を並べるのも簡単だから捌きやすい商品でさ。安いと言えばポストカードなんかもそうだが、売値が安いし数を捌くのにも向きやせん。あっしはあんまり好きじゃあありやせんが、特典に配る方がいいでしょうねえ」

「そうか。なら、ポスターは」

「単価はいいが、飾り場所もあって買う奴が限られる。とはいえ割はいいですから、まずは数を絞って限定で売るのがいい。今ならプレミアも付くでしょう」

 

 どれを幾らで売るか、幾つ売るか。時期をずらしていついつから売ろう。それは割に合わないからもっと後がいい。電卓を弾きながらあれやこれやと話を進める二人に、狼は当事者ながら完全に置いて行かれていた。時折、デザインについて確認を求められては「ああ」と肯えるだけである。おそらくは後から揉めてほしくない穴山が、確認のために同席を求めただけなのだろう。

 

 ふと、狼は気が付いた。計算を進める二人を他所に、九郎の視線が一点に釘付けられている。それは穴山の隣に置かれた、妙に存在感を放つ紙袋。正確には、そこからはみ出しているなにかの端であった。

「キーホルダー、こいつは形を凝ると別のを作るのが面倒でね、四角か丸でイラストを刷るだけにしといた方がいい……どうしやした、坊ちゃん」

 穴が開くほどに見つめられて流石に不審がったらしく、穴山が九郎に問いかける。

「その、紙袋の中が気になってな。もしや、と思うのだが……」

「ああ、坊ちゃんと嬢ちゃんには見せていやせんでしたねえ。お察しのとおり、これでさあ」

 そう言って穴山は紙袋をひっくり返した。九郎がおお、と声を上げる。穴山の手の中にまろび出てきたのは、セキロをモデルとしたぬいぐるみ、いわゆるぱかプチと呼ばれる類のものであった。目を輝かせる九郎とは裏腹に、穴山は苦笑を浮かべる。

「一応持っては来ましたが、これはお勧めしませんねえ。何せ銭がかかる。もっと後から、中央の連中に作らせて吹っ掛ける方が稼げまさあ」

 弦一郎も苦い顔をしつつ頷く。どうも、そういうことらしい。当面これが世の中に出ることがないとわかって、狼はほんの少し安堵した。だが、その直後。

「穴山殿。それを譲っていただけないだろうか」

 九郎がやけに真剣な目つきでこんなことを言い出す。、

「まあ、試作ですからねえ。どうしたって構やしねえんですが……ただってのは面白くない。そうですねえ、坊ちゃんはお小遣いも多そうだ。さて、幾らにしやしょうか?」

「俺は出さんぞ。小遣いで買え」

 わざとらしく顎に手を当てる穴山と、冷たく切って捨てる弦一郎。九郎は俯き、真剣に残りのお小遣いを勘定し始めた。そんな様子を見て、穴山は堪えきれぬとばかりに大笑する。

「なあんて、冗談でさ。100円とでもしておきやしょう」

 ぱあ、と表情を明るくする九郎。一方で弦一郎は顔をさらに渋くする。

「言っておくが、それに甘い顔をしたところで貸しにはせんぞ」

「……へへ、弦一郎の旦那はそうでしょうねえ。でもセキロの嬢ちゃんはそうでもなさそうだ」

 言われて狼は己の顔に手をやる。口元が、緩んでいた。ますます渋くなる弦一郎の顔を見て穴山が笑う。

「なあに、無理なことはいいやせんから安心して下せえ。これからもごひいきにしていただけりゃ、それで十分でさ」

 

 たとえ死んでも、どうにも商いは止められぬ。どうやら、そういうことであるらしい。




書き溜め作成中のため、本編は今しばらくお待ちください。


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破:炎
8.


お待たせいたしました。
ダイタクヘリオス実装に心乱れる


 朝一番の地面は、前日の雨の影響を幾らか残していた。所々に浅い水たまりを残したアスファルトを、脚に響かない程度に柔らかく蹴る。都心などとは違ってウマ娘専用レーンの整備が十分でない葦名の細い道を、路側帯や歩道を縫いながらジャージ姿の狼は走っていた。目的地は葦名レース場。家からレース場までの、ウマ娘の脚からすればさして遠くない道を、ウォーミングアップも兼ねてスローペースで走り抜ける。

 

 弦一郎はこの日まで、普段より長めの休養を狼に命じていた。故障に至るほどではなかったとはいえ、脚への負担は軽視できない。弦一郎に渡された映像の研究やイメトレ、学園の必修授業やらをこなしつつ九郎の遊びに付き合ったりしているうちに、数日間の休養はあっという間に過ぎていた。

 休養明けの狼が早々にレース場に向かっているのは、弦一郎の指示である。詳細を聞かされたわけではないが、前走で見えた弱点の補強のためとのことだ。ただ、そう言った当の弦一郎は朝から別件で出かけてしまっている。指導を誰かに頼んであるのか、と狼は以前に指南を受けたことのあるトレーナー達の姿を思い浮かべた。それなりの経験のあるトレーナーもいたが、果たしてそんな対策になるような技術を持っていただろうか。鬼庭かとも思ったが、同レースに出る気満々の教え子を差し置いて指導することもあるまい。疑問を抱きながらも、狼の脚は淡々とペースを刻む。

 

 そうするうちに、狼は葦名レース場の門にたどり着いた。関係者向けの通用門へと回って身分証を提示し、コース予約表を確認した係員の了承を受けて場内へと向かう。選手用の更衣室に背負ってきた鞄を放り込んでコースへと出た狼は、思わず眼を瞬かせた。

 

「来たか、セキロ」

 ジャージの上下を着た、背の高い白髪の男性。コース上にひとり佇んでいたそれが、狼の足音を聞きつけてか振り返る。振り向いたその顔には、赤い、鼻の長い面が被せられていた。珍妙な、だが酷く見覚えのある姿に戸惑いながらも、狼は喉から言葉を絞り出した。

「……一心様」

「否。天狗じゃ」

「……天狗殿。なぜここに」

「無論、お主のトレーニングよ」

 葦名一心。前世では『剣聖』と称された老人は、変わらぬ矍鑠とした立ち姿でそこにいた。

 

 古くからの、そしてマニアックなウマ娘ファンであれば、葦名一心の名を聞いたことがある筈だ。かつて葦名のローカルシリーズで幾人もの重賞ウマ娘を指導し、中央に挑戦するウマ娘も生み出したトレーナーである。何分昔の話であり、活動期間も短かったため一般的な知名度こそ高くないものの、実績という意味では成程申し分ない。長く病に臥せっていると聞いていたが、もとより前世でも、病人の身ながらあちらこちらで鼠狩りなどしていたのだ。そこは今更であろう。果たして、その指導は如何なるものか。今世では初めて顔を合わせる狼は、その指示を聞き漏らさぬように身構えた。

「さて、ウォーミングアップも十分のようじゃ。まずは軽く1周。ただし、終いの1ハロンは全力でな」

 

 

 

「踏み込みが足らん」

 ダートコース1周、1200m。回り切った狼に一心が端的に告げたのはそんな言葉だった。休み明け故に抑え気味のペース、終いの直線も本調子には程遠かったが、この老人にはそれで十分だったらしい。無言で続きを促す狼に一度目をやって、一心は狼の走りについて指摘する。

「癖か弦一郎の責かは分からんが、お主の走りは丁寧に過ぎる。音も立たんような柔らかい着地に、足裏で丁寧に地面をとらえた蹴り出し。成程沈みやすい良バ場ならば、力任せに脚を抜く他の娘よりも良かろうな」

 己か、教えか。両方であろう、と狼は思った。礎にあるのは狼の、忍びとしての歩法だ。純粋な速力を求めるのではなく、あらゆる地形を踏破し、音を殺して忍ぶための歩法。そして弦一郎が教えた走りは、おそらくは巴と呼ばれた女武者の技が源流である。無骨な力強さでなく流麗な足運びを基調とするそれが、狼の走りにも大いに影響している。

 

「だがそれでは足らぬ場面がある。固く締まったバ場と、スタートの二つ。土が締まれば、他の娘と比べての有利は少なくなる。そしてスタートはただ一歩で誰より前に出ねばならん。お主の走りは、その一歩に欠ける。ゲートへの反応で補っているが、飛び出しでは劣る相手もいよう」

 この指摘は、まさしく先のレースの通りだった。枠順という不利こそあれ、それを凌駕するほどのスタートの良さがあれば、初手で内に閉じ込められる展開を免れたかも知れぬ。そして、重に近いバ場状態。これは明らかに、豪力自慢のオニカゲに利していた。次走は季節柄、秋雨の只中だ。晴天に期待するのは些か無理があった。

「どうすればよい」

 短く単純な問いかけは、同じく単純な言葉でもって返された。

「強く踏む。それだけよ。他は忘れて、ただ一歩に専心する。――さて」

 ゴール板の前で、老人は軽く屈伸すると右脚を引く。

「手本を見せてやろう」

 一歩。踏み込みとともに、濡れた地面が大きく抉れて飛んだ。

 

 疾い。

 自称天狗の走りは、その名に恥じぬものであった。ウマ娘の巡航速度にはやや及ばないものの、どこまでも無駄なく突き詰められたその走りは、人間としては理外の速度に達していた。狼の脳裏にいつぞや聞いた、真偽不明ながらも有名な噂話が去来する。曰く、『ウマ娘のレースに乱入して勝った男がいる』と。目の前の老人がさらに少壮気鋭の頃であれば、或いは。全く体幹の揺らがない力感溢れる走りは、そう思わせるだけのものを持っていた。直線分、200m少々を走り切った一心は、息を切らすでもなく狼の前まで戻ってくる。

「これが儂の、葦名流よ」

 後は実践するのみ。天狗面の視線が促すままに、狼はダートを蹴った。

 

 

 

 黙々と走り、手本を見て、また走る。時折短い距離を併走して感触を確かめ、また走る。そんなことを繰り返すうちに日は高く昇って、汗を大いに流した狼にボトルが投げ渡された。休憩ということらしい。自分もドリンクを呷って、一心はぷはぁ、と息を溢した。

「酒があれば良いのじゃがな」

「……未成年に、御座いますれば」

 狼の真面目くさった返しがツボに入ったか、一心は身体を揺らして笑う。前世と変わらぬように見えるその姿に、狼はふと尋ねたくなった。この世界で、『剣聖』は如何なる生を歩んだのか。

「天狗殿。ある、噂をご存知でしょうか。」

「ほう?」

「ウマ娘のレースに乱入して、走り勝った人間がいると聞きました」

 そう訊く。一心の顔に一瞬、陰が走った。

「それはまた、随分と尾ひれが付いたものじゃ。……勝ったなどとはな。ゴール板を越えたのは、言われてみれば先頭だったかもしれんが」

 何かを誤魔化すように、飲料をさらに一口含む。酒精を含まないそれは代役には些か足りなかったらしく、老人の顔には苦みが残ったままだった。

 

「のう、セキロ。お主は、何故走る」

 唐突な問いに、狼は沈黙する。目の前の老人が、人として信用に足ることは知っている。だが、ここで馬鹿正直に己の事情を曝け出したところで何となる。徒らに主人の身辺を騒がせて、得られるのはただ己が()()()()()()()()というだけ。他に、何をするあても無いというのに。狼の無言に、一心は静かに首を振った。

「言えぬか。……いや、何でも構わぬ。ただ、見失わぬことだ」

「……見失わぬこと」

「迷わぬこと、じゃな。迷えば、敗れる。戦の常よ」

 狼は静かに瞠目した。その言葉は、嘗て幾度も聞いた。それを口にしたのは、決して敗れなかった剣聖だった。だが、この口振りには違和感が拭えない。これでは、まるで。

「儂は迷うた。……その結果が、この()()な脚じゃ。頂きには、ほど遠い……そしてトレーナーとして歩んで……また、迷うた」

 狼には、目の前の老人が急に、見も知らぬ別人のように映った。きっと根本は変わらないままで、でもどうしようもなく折れていた。この世界で人として……ウマ娘に届かぬ種として生まれた故か。それとも、葦名一心の天稟はあくまで、()()()でしかなかったのか。それは、神仏でもなくば知りえぬことだろう。

 

「つまらぬことを話した。やはり、酒もなしに昔話などするものではないわ」

 天狗面を被りなおしたその表情は、もう窺えない。立ち上がり、肩を押される。残る時間を、狼はただ黙って走ることに費やした。

 




葦名一文字

スタート直後に加速力がちょっと上がる
また、「稍重」「重」「不良」のバ場状態の時、レース終盤にスピードがわずかに上がる

武骨に、強く踏み込む
ただ、それだけを一意に専心した技


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9.

ヒロイン集合回。


 レースまでの短い時間は飛ぶように過ぎてゆく。普段より長い休養に加え、更に密度を増したトレーニングはあっという間に残り時間を食いつくして、気が付けば次なる舞台、葦名グランプリは目前に迫っていた。

 

 残り僅か4日。レースに向けたコンディション調整の為、全力を使い切るトレーニングは明日が最後となる。所謂追い切りと呼ばれるものだ。予定より早い時間ながら、この日も十二分に身体を追い込み終わった狼は家の門を潜る。ふと、馴染みのない音が狼の耳を叩いた。

 九郎と使用人。それに加えて、子供が二人。九郎と同じ年頃の一人と、それよりはいくらか年上の一人。そして、最後に大男が一人。狼は、やや警戒しながら歩みを進め、玄関戸を引き開ける。廊下を歩んでくるのは、大男の気配だ。すぐ動けるように、靴を脱がないまま待ち構える。

 

 果たして。ぱちり、と電気がつけられた玄関に現れたのは、随分と懐かしい顔であった。

「……小太郎か」

「あれ?セキロさんだ。おら、前に会ったことあったっけなあ?」

「……いや、初めてだ」

 懐かしい、というのは狼だけの話だ。仙峯寺の道中で途方に暮れていた彼に出会ったのは、前世の話。今世ではまだ、顔を合わせたこともない。しばらくうんうんと首を捻っていた小太郎であったが、納得したのか忘れることにしたのか、緩慢な動きで台所の方を向き大声で呼ばわる。

「おおい、九郎さん、お姉さんが帰ってこられましたよう」

 

 ばたばたと騒がしい音がする。どうも残りは全員台所に集まっているらしく、なにやら話し合う声が聞こえたと思えば、小さな足で廊下を鳴らしながら九郎が顔を見せた。

「良く帰った、セキロ!その、少しだけ居間で待っていてくれぬか?少しだけ、な?」

 それだけ言うとまたぱたぱたと足音を響かせて台所へと戻ってしまう。首をかしげながらも、狼は居間に移って待つことにした。

 

「いやあ、九郎さんのお姉さんって、セキロさんだったんだなあ」

 狼と九郎の関係は、他人に説明するにはいささかややこしいため、対外的には姉弟で通すことが多い。小太郎もそう聞いていたらしかった。そこには特段不思議はない。謎は、何故小太郎がここにいるのか、ということだった。

 しかし、その疑問はすぐに狼の脳裏から吹き飛ぶこととなった。襖を引き開けて、もう一人の来訪者が顔を見せたからである。やはり懐かしい姿のその人物は、狼の姿を認めるや否や、特大の衝撃を投げてきた。

「お邪魔しております。久しぶりですね、()()()()()よ」

「……変若の、御子」

 艶やかな黒髪を靡かせた少女。年の頃は、今世で言うところの中学生ほどであろうか。かつて仙峯寺の奥の院に座していた、変若の御子であった。

「やはり、貴方は覚えているのですね。……小太郎さん、貴方は、台所の方を見てきてくれますか?家政婦さんが見てくれてはいますが、やはり一人では不安ですから」

 涼やかな顔に笑みを浮かべて、変若の御子は小太郎にそう告げる。素直に頷いて台所に向かう小太郎を見送って、狼はようやく口を開いた。

「何故、ここに」

「弟が呼ばれまして、その付き添いで参りました。九郎君には、随分と仲良くしてもらっているようです」

「弟、か」

「……ええ。此度はみな、ちゃんと育ってくれています」

 

 今世で変若の御子が身を寄せているのは、所謂児童養護施設であるらしい。かつては長じることの出来なかった、多くの御子達。彼らもまた、同じ施設の()()として暮らしているそうだ。小太郎も、その職員の一人であるらしい。

「仙峯寺の上人様も、本当に良くしてくださっています。不死(しなず)に取り憑かれていた時のことなど、まるで嘘のようで」

 仙峯寺が、施設に支援をしているのだという。前世では不死の探求に囚われた狂気の巣窟も、今世では志篤いただの宗教施設であるらしかった。

 ふと、かつて経文を渡した時の、熱を孕んだ言葉が思い浮かぶ。

「憎くは、ないのか」

「今は、もう。今のあの方たちが、何をしたというわけではありませんから」

「……そうか」

 そう言いつつも、きっと完全に呑み込めたわけではないのだろう。色々なものが綯交ぜになって、御子の面に浮かんでいる。

「それに……随分と長く旅をしました。あの寺であったことも、遠く昔の事になってしまって。今は、ただみなに逢えて嬉しいと思うばかりです」

 旅。変若の御子はそう言ったが、狼の知る限り、変若の御子が奥の院を離れたことはない。偽りの竜胤、それを秘匿せねばならない故に。或いは、己の死んだ後の話であろうか。

「旅、とは」

「ああ……それは、覚えておられぬのですね」

 忘れて下さい、と言って目を伏せる御子の顔には、先程よりも色濃い寂寥の色が滲んでいた。

 

 

 

 やや気まずい沈黙を破ったのは、四人分の足音であった。元気よく進んでくる一人と、それに追随する一人。遅れてくる大きな足音は小太郎、その後ろは使用人のものであろう。

「待たせたな、セキロ!」

 襖を元気よく引き開けたのは九郎だった。その後ろから、やや遠慮がちに幼い顔が覗く。彼が変若の御子の言う弟だろう。人見知りの気があるのか、狼と視線を合わせたかと思うと耳を赤くしてそっぽを向いてしまう。そんな彼の様子に苦笑しつつ、九郎は持ってきた大皿を机の上に突き出した。鼻に届く甘い、懐かしい匂い。

 

「……これは」

「おはぎじゃ!色々と手伝ってもらってな。さあ、食うてみよ」

 促されるままに、一つを手に取り頬張る。

「……うまい」

 思わず溢れた言葉に、九郎は満面の笑みを浮かべる。変若の御子もその弟も、小太郎も使用人も、皆くすりと笑みを溢した。

「さあ、どんどん食べていいぞ。セキロの分はまだ四つある。なにせウマ娘だからな」

「私たちの分もありますから、遠慮なく」

「セキロさん、お茶もどうぞ。おらも、さっそくもらうよ」

 「……ありがたく」

 二つ、三つと口に放り込めば、十分に腹を空かせたウマ娘の胃は容易くそれを飲み込んでいく。周りの皆もそれぞれ一つずつ——小太郎は二つ手に取ると、お茶と共に舌を楽しませた。

 

「九郎君を労ってあげて下さいね。貴方が頑張っているからと、張り切って作っていましたから」

 小声で変若の御子が囁く。聞こえていたのか、小太郎もうんうんと大きく頷いた。

「本当に、九郎さんは優しい、いい子だなあ」

「ああ」

 短く肯定した狼の顔を見て、変若の御子と小太郎は小さく吹き出す。

「……どうした」

「ふふ、なんでもありません」

 狼の訝しげな視線を御子は軽く受け流す。……狼の目元が、見たことがないほどに柔らかかったなどと、口に出すだけ野暮であろう。

 

 

 

「では、そろそろお暇しましょうか。ああ、迎えはお願いしていますから大丈夫ですよ」

「では、門までは送ろう」

 申し出て、狼は変若の御子達と共に玄関戸を潜る。暗い前庭を歩きながら、変若の御子が口を開いた。

「ふふ。私のお米は、美味しゅうございましたか?」

「私の、だと。だが、あのお米は」

 かつて、変若の御子が狼に授けたお米。あれは、偽りの竜胤の力により生み出されたものであったはずだ。どう言うことか、と問う狼の視線に、御子はくすりと笑う。

「ええ。ただのお米です。私が、この手で作ったのですよ」

 そういってひらりと振って見せた手は、門灯の元でよく見れば少しばかりかさつき、ひび割れていた。偽りの不死であった頃の、常に(すべ)らかであった手とは違う。変若の御子は、その手を愛おしげに胸に引き寄せた。

「みなで、近くの農家さんを手伝わせてもらってるんだ。それで、お米をいくらか分けてもらう」

「お米は大事、ですから。本物も、自分で作ってみたかったのです」

「そうか。……とても、甘かった。礼を言う」

「ありがとうございます。セキロさんも、レース、頑張ってくださいね」

 微笑んで、変若の御子が言う。

「うん、おらも応援するよ」

 丸い顔一面に屈託のない笑みを浮かべて、小太郎が言う。

「あの、僕も、ずっと応援してます」

 はにかみながら、御子の弟が言う。

「ああ。きっと、勝つ」

 そう、言葉少なに約して。狼は、三人を乗せた車を見送った。

 



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10.

 いっけなーい!遅刻遅刻!あたし、アグネスデジタル!トレセン学園に通う、どこにでもいる至って普通のウマ娘!でもある時ひょんなことから、遠く離れた葦名レース場でのレースに出ることになっちゃって……?あたし、どうなっちゃうの~!?次回、葦名グランプリ!お楽しみに!

「なんて!言ってる場合じゃ!ない!!!」

「おっ戻ってきたな、デジタル」

 嘘だらけの次回予告はさておき、あたしの名前はアグネスデジタル。中央トレセン学園所属のウマ娘で、今は葦名レース場で行われるJpnⅡのダートグレード競走、葦名グランプリのパドックを待っているところです。今回のレースは南部杯マイルチャンピオンシップに向けた叩きではありますが、とんでもない強敵が出走してくる油断ならないレースでもあります。

 

 まあ、出走を希望したのはあたし自身なんですけどね……。全てのウマ娘ちゃんLOVE!なあたしですが、その中でもイチ推しの()とかCP(カップリング)とかもいるわけでして。会いたい、見たい、吸いたい、その他諸々の欲望の赴くままに出走するレースを選んでいるわけです。そして走るからには勝つ……つまり、負かす覚悟もして来たつもりだったのですが。

 

「やっぱり本物を前に耐えられる気がしません!」

「大丈夫、イメージトレーニングだって十分にやったじゃないか」

「うう~……イメトレとは全然違いますよ!まさか……まさかこんなことになるなんて思わないじゃないですかあ」

「そうは言っても抽選だからどうしようもないしなあ。どのみち走ってればいつかは来る事態だったと思って諦めよう」

 トレーナーさんはあっさりとそんなことを言って手元に視線を落とします。そこにあるのは今回のレースに関する資料たち。コースやレース相手の特徴に過去のレースデータ等々、トレーナーさんが纏めてくれた諸々が書き込まれています。その中には当然、昨日発表されたレースの枠順も入っていて。

 

 7枠10番、オニカゲさん。

 8枠12番、セキロちゃん。

 

 そして――8枠11番、アグネスデジタル。

 

「あたしがッ……百合の間に挟まる男になってしまうなんてッ……!」

「いや、男じゃないでしょ」

「あのー、アグネスデジタルさんそろそろご準備を」

「はい……今行きましゅ……」

 くすん。……それでも走りたいなんて、あたしはなんて業の深いオタクなんでしょうか。

 

 

 

 アグネスデジタル。昨年のマイルチャンピオンシップを制した芝レースのGⅠウマ娘であり、ダートレースにおいても既にダートグレード競走を三度も勝利した、類稀なる強者である。あるのだが。

「オマエがアグネスデジタルだな!楽しみにしていたぞ、今日はいい勝負にしよう!」

「ここここちらこそ!もうこの右手洗えませぇん……」

 事前に弦一郎から最大の警戒対象として伝えられていたそのウマ娘は、目の前でオニカゲに握手を求められ蕩けていた。前走のパドックでも、似たような光景を見たな、と狼は思い返す。もっとも、その時彼女は観客席側にいたのだが。

 セキロとさして変わらない矮躯に、細い手足。物腰の落ち着きのなさも相俟って、とても強豪と呼ぶにふさわしいウマ娘には、外見上思えない。だが、弦一郎が伝手を頼って手に入れた映像には、他のウマ娘を走りで圧倒する彼女の姿があった。侮ってよい相手では、到底ない。

 

 ではな、と手を振って、オニカゲがステージ上へお披露目に向かう。その背を見送ったアグネスデジタルが、不意に狼の方を振り向いた。ほぼ同じ高さの、訝し気な視線が真正面でぶつかる。どうも、じっと見すぎていたらしい。しばらくそのままでいると、口を何度かわたわたと開閉させたのちに、顔を真っ赤に染めたデジタルが会話の口火を切った。

「ええと、あたしになにか御用でしょうか……?」

「いや。そういうわけではない」

「あっしゅみません……」

 しゅん、と擬音が聞こえるほどに落ち込んだ様子のアグネスデジタル。狼も、流石に今の答えは不味かったと悟る。咄嗟に言葉を脳内で探り、ようやく探り当てたそれを口に出す。

「お主のレースを見た。強いと、思った」

 些か唐突な切り出しに目を白黒させているデジタルに、狼は不器用に言葉を重ねる。

「今日はいいレースにしよう」

「ふぐっ……優しいぃ……」

 狼が差し出した右手を前に、胸を抑えて呻くデジタル。その背を、いつの間にかお披露目を終えて帰ってきていたオニカゲが叩く。

「おい、オマエの番だぞデジタル。しゃんとしな」

「あはい、行ってきます」

 その前に、とアグネスデジタルは左手を差し出す。何故、と戸惑う狼であったが、隣で苦笑するオニカゲを見て理由を察した。そう言えば、先ほどの握手は右手だったか。少しだけ躊躇って、左手を差し出す。レース時や公開練習時には、常に長手袋で覆われた左手を。

 慣れぬであろう硬い感触に、一瞬戸惑いを見せたアグネスデジタルは、しかし何も言うことなくステージへと向かっていった。

 

 

 

 パドックを終えて、出走間近。狼は一番最後にバ場に入り、足元を確かめた。田んぼと俗称されるほどの不良バ場でこそないが、じっとりと降り続いた雨が散々にコースに浸み込んでいる。アナウンスで流れた直前のバ場状態は重。コース整備担当職員の奮闘も虚しく、コース内側は中々に荒れ切っていた。

 今日のレースは1800m。スタート地点は向こう正面、カーブまでほど近い地点のため、狼を含む三人が配された外枠は不利になりやすい。直線の短い葦名レース場では基本的には先行有利。アグネスデジタルはマイルチャンピオンシップこそ大追い込みで制したが、基本的には先行策を得意とする優等生型だ。ハナを叩くであろう逃げウマ娘は別にいるが、外の三人が揃って先団にとりつこうとする以上、スタート直後の激しい先行争いが予想された。

 返しウマで軽く脚のコンディションを確かめて、ちらりとスタンドを見やる。こちらに手を振る小さな影。九郎だ。今日は学校も休みのため、こうして見に来ている。期待に輝いているその瞳を一度見返して、狼は向こう正面へと向かった。

 大丈夫だ。状態は良好。この日のための備えもある。一心に伝えられた葦名流、その出番は間近に迫っていた。

 

『各ウマ娘、ゲート入りが進んでいます——』

 さて。この後に起こったことについて、原因は幾つかある。まず、オニカゲとセキロは同じレースを走っており、共に練習したこともある。ある程度は互いを知った仲であり、より警戒すべきは未知であるアグネスデジタルだった。故に、ここまで二人の注目はもっぱらアグネスデジタルに向かっている。それらを受けながらも意識を飛ばさぬよう、アグネスデジタルが既に必死に奮闘していたこと。ゲートに入るその時まで、オニカゲとセキロの二人がデジタルの前で言葉を交わしていなかったこと。そして、三人がゲート入りを済ませてから僅かの間、ゲート入りを渋った娘がいたこと。これら全てが揃って、とある状況が生まれてしまった。

 

 ゲート入りからスタートまで、いつもより少し長い空白が生じた。その空いた間に、オニカゲとセキロ、二人の視線がゲートの金網越しに衝突した。頭上で交錯したそれに、アグネスデジタルは目敏く気づいた。気づいてしまった。そして悲しきオタクの性はそこに、ありとあらゆる意味(ぶんみゃく)を見出してしまった。

 

「――あっ」

 

 

 

尊死。

 

 

 

「なにっ?」

「……なんだと」

 

『——スタートしました!揃って、いやこれは11番、アグネスデジタル大きく出遅れた——!』

 




お気に入り、ここすき、感想、評価等々ありがとうございます
PCが吹っ飛びましたが私は元気です
更新はしばらく遅れるかもしれません


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11.

 スタンドを埋めた、そう言って差支えないほどには詰めかけた群衆にどよめきが走る。なにせ、アグネスデジタルは中央の重賞ウマ娘。力関係としては未知数のセキロがいるとはいえ、現時点での下馬評としては最も勝利に近いウマ娘である。それが、盛大に出遅れた。最初から追込み一気を狙うようなウマ娘ならともかく、過去のダート戦におけるアグネスデジタルの主戦法は先行抜け出しから好位差しだ。加えてバ場は雨で締まっているとはいえ、スピードには乗りにくい荒れた状態。レースを知る人から見れば、致命的な出遅れである。

「あれはもう、勝負になるまい」

「で、あろうな。少々、当てが外れたわ」

 弦一郎は淡白に呟き、鬼庭は些か苦い声を漏らす。互いに警戒しあうセキロとアグネスデジタルが先行争いで脚を削りあってくれる方が、オニカゲには利する展開であった。しかし皮算用は外れ、オニカゲは自らセキロと競り合うか、大人しく先を譲るしかない。鬼庭が太い指を祈るように組む横で、弦一郎は椅子の座りを僅かに深くした。

 

 一人、落ちた。狼はそう認識する。先行争いの相手と目していた隣のアグネスデジタルは後方、当面狼のレースに関わってくることはないだろう。警戒すべきは二つ隣のオニカゲだ。これもわずかに後ろ。葦名一心の教えの通り、ゲートの瞬間、ただ一歩をひたすらに強く踏み込んだ狼の身体は12人の中でもひとつ前方に位置している。

 すかさず内へと距離を詰める。すぐやってくるコーナーまでに、前目のポジションを確保しなければならない。斜行による進路妨害を取られぬよう注意を払いながら、オニカゲの斜め前、視野に映り込み意識せざるを得ない場所へと身体を移す。

 

 最内から二人、中央と地方のオープンクラスのウマ娘がそれぞれ飛び出してきた。中央の方は元から逃げを多用するウマ娘だが、地方の方はどちらかといえば差し勝負が多かったはず。己が地力で劣るとみて一か八かの消耗戦を狙ったか。逃げる内枠相手に無理に競っても消耗するのみで益は少ない、そう見たオニカゲとセキロはこれをすんなり前へ行かせる。

 残りは差し狙いで前を譲るか、行き足が付かずにオニカゲに頭を押さえられる形で後ろへ着いた。その頭を更に押さえる形でセキロが入り、3、4コーナー中間付近で集団の形は概ね定まる。3コーナー入口のギリギリまで続いたハナの争いは、一旦中央のウマ娘が制している。幾度も逃げを打ってきた彼女のエスコートに従って、全体の流れはやや抑えたペースになろうとしていた。

 

「これは旨くない」

「だろうな。だが、動けまい」

 鬼庭が溢した言葉の通り、オニカゲにとっては良くない状況だ。前の逃げウマ娘は速度を落として詰まった距離で走っている。スローペースが続けば、距離のアドバンテージがある分、前方のウマ娘に利がある。最大のライバルに先行を許している現状で、脚を溜めさせたくはない。

 ならば仕掛けるか、というとそれも難しい。セキロは敢えて、少しだけ内側を広くするコースを取る。内を突いてもすぐ逃げウマ娘に進路を塞がれ、荒れた足元で消耗させられる。かといって外を回すには、外寄りのセキロよりさらに大きく回らねばならず、あまりにロスが大きい。絶妙なライン取りだ。

「成程、良く仕込んだではないか。あまり()()()()ことが得手には見えなんだが」

「いや……あれは本人の資質だ。俺は精々例を見せたに過ぎん。あれは、動きをよく見ている」

 関心の声を漏らす鬼庭の言葉を、しかし弦一郎は否定する。元々レースのセオリーなど大して知らなかった狼は、いざそれに触れれば信じがたい速度でそれを飲み込んでいった。学び、喰らい、己が糧とする。実戦の中で、敵を見定め、動きを読む。前世から幾度も繰り返したその行為は、紛れもなく狼を助ける才覚となっていた。

 こうなると、オニカゲは腹を括って脚を溜めるほかない。己の末脚が、距離の差を覆し得ると信じるのだ。動きのないまま迎えた向こう正面を、関係者席の二人は見つめた。

「だが、このままでは些か溜めすぎであろう。どうする」

「無論、時が来れば動くとも」

 その言葉に呼応するように、先頭集団で一人、動きを見せる影があった。

 

 動いたのはセキロでもオニカゲでもなく、二番手に位置した逃げウマ娘。向こう正面の後半、コーナーに差し掛かる前に先頭へと競りかけるように動く。その背後にはぴたりと追随するセキロの姿。正しく言うならば、彼女はセキロによって()()()()()のだ。斜め後方からじわりと、今にも抜きにかかるかのように接近したセキロの姿が、彼女に判断を強いた。今上がらねば、外をセキロにふさがれて進路を失う。直線勝負では前のウマ娘にも突き放されて、掲示板すら望めないだろう。それならば、無理を覚悟で先頭を取り、後方バ群が詰まって伸びあぐねることに賭ける。腹を決めた彼女は、セキロを後ろに張り付けた形で第3コーナーを外から回っていった。

 

『さあまもなく勝負の4コーナー、注目セキロは3番手』

 ちらりと振り返った狼とオニカゲの視線が交錯する。場内実況の言葉通り、勝負を決めるとしたらこの第4コーナーだ。そう、どちらも悟っていた。急角度のコーナーで、狼の前を走るウマ娘が大きく外へと膨れる。スパイラルカーブで速度を上げすぎた代償だ。逃げの経験が少なく、コーナー通過のペースを読み誤ったのだろう。空いた前へ、狼はするりと抜け出した。内にいる逃げウマ娘とも並んでここが先頭。ほぼ横並びの3人に、僅かに遅れたオニカゲが続く。

「ゆくぞッ!」

 泥に汚れた顔に獰猛な笑みを浮かべて、オニカゲが吼える。オーバーペースでコーナーに突入し、強烈に踏み込んだ軸足で鋭角に切り返す。外へと膨れそうな身体を、強引にセキロの隣へとねじ込んだ。前走でも見せた、オニカゲの十八番だ。直線の立ち上がり、ここで完全に並んだ。後は末脚勝負のみ。そう信じたオニカゲが、ちらりとセキロの顔を見た。

「何故目を、閉じて――」

 

 一瞬の瞑目。次の瞬間、狼の左脚がダートを捉え、抉り抜く。葦名一文字。そのただ一歩で、狼の身体が飛び出す。茫然とするオニカゲの頬に、泥が一かけら張り付いた。

 

『さあ4コーナーから直線に向いて先頭セキロ半バ身のリード、オニカゲはやや伸びが苦しいか!』

 場内実況の言葉は正確ではない。オニカゲは確かに伸びている。後ろに置き去った逃げウマ娘との差は一歩ごとに開いている。それ以上に、セキロが突き抜けただけのこと。覆しがたい半バ身差が、二人の間に横たわっている。

 オニカゲから感じていた圧力が、急速に萎む。完全に突き放した。脚は十分に残り、バ場も良いところを選んで走れている。残り150m、余力を保ってゴールできる。

 勝負は決まった。そう、微かな安堵が狼の胸を掠めた次の瞬間。

 

 危。

 背筋の粟立つような感覚が、狼を襲う。そうするべきではないと理性では知りながら、狼は僅かに首を傾けて後方を垣間見た。大外から、小さなウマ娘が一人飛んでくる。欄欄と輝く双眸が、セキロただ一人を見据えていた。

 そのウマ娘の名は。

 

『――大外一人突っ込んできた、アグネスデジタル!』

「……いつの間に」

 

 決して届かぬと思われた距離を覆して、勇者が舞台に現れた。

 



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12.

 がしゃん。

 聞き慣れた、ゲートの開く音。その音が、アグネスデジタルの意識を引き戻した。正気付いた視界の中には、既に開け放たれたゲート。それが意味するものとは、つまり。

『アグネスデジタル大きく出遅れた——!?』

(ヒョエーッ!?や、やらかしたー!)

 慌てて走り出すが、前のウマ娘との差はたっぷり3バ身。たかだか1800mしかないこのレースでは、相当に大きな差になっていた。

(とにかく前に追いつかないと!あたしのおバカ!へっぽこ!今までだっていっぱいウマ娘ちゃんと一緒にレースしてきたのに、レース中にこんなこと……いくらてえてえの過剰供給(オーバードーズ)があったからってぇ……!)

 必死に脚を回しながら、思考はあちらこちらを駆け巡る。視野が窄まり、息が苦しくなる。荒れたバ場に足を取られ躓きかけ、それでも脚を回して回して、ようやく前のウマ娘の後ろに辿り着いた時には既に正面スタンド前の直線も半ばだった。

 

 目の前のウマ娘の、怪訝さと憐憫が等量に混ざり合ったような視線が、ほんの少し落ち着きを取り戻させる。状況は、明らかに不利だ。小回りで直線が短く、先行有利な葦名レース場。アグネスデジタルも彼女のトレーナーも、当然ながら先行策を取るつもりでいた。多少出足が遅れても、中団まではすんなりと付けるはずだった。翻って現状は、散々焦って脚を使った上での集団最後尾。場合によっては脚へのダメージを慮って、流して走るウマ娘だっているかもしれない。だが、それでも。

(ウマ娘ちゃんが大好きなのも、それでまあほんのちょっとだけ抑えられなくなっちゃうのも、全部あたしだから。あたしらしさのせいで負けたなんて、誰にも、自分自身にも言わせたくない!)

 あの高貴な背中のように、これが自分らしさだと胸を張るのなら。()()()()で、勝ちを諦めることなど、できるわけがない。

 

 既にコーナーに差し掛かった先頭を見るに、ハナの争いは決着がついている。どうやら先頭の逃げウマ娘はペースを抑えようとしている様子だった。好都合。ハイペースの削りあいになれば、既にいくらか脚を使ってしまったデジタルに勝ち目はない。かといってこのままポジションを上げずに、直線一気で抜き去るほどの末脚は期待できない。まくっていけばどうか。悪くないが、外を回すとスタミナが厳しくなるうえに、それと気付けば先頭もペースアップする。そうなればハイペースの焼き直しだ。

 つまり。要求されるのは、外を回らず、先頭に悟られずにポジションを上げること。

 

(前の娘は盛岡のオープンクラス、葦名はまだ一回しか走ってない。その隣も南関の子で葦名未経験、しかもこっちは普段もっと前につけてる。周りの飛び出しが良すぎたのかも。二人ともあたしの方を伺ってる。ペースが不安なんだ、きっと。だからあたしの仕掛けどころが気になってる)

 

 見ている、ということは自分次第で動かせるということ。まずは内埒沿いの位置に入り込み、逸る気持ちを抑えて集団と同じペースに落とす。スパートの舞台にならない分、1、2コーナーから向正面にかけては内の荒れ具合がそこまでひどくはない。できるだけこの区間は内を使ってスタミナを節約したかった。

 あまり慣れてはいないけれど、表情はあくまで自信ありげに。もう十分に落ち着いた、その上で自分の通りに走れば勝算はあると、そんな態度。まずは、この二人を騙す。

 

 二人はアグネスデジタルを知らない。一般的な対戦相手の一人としてなら十分に知っているが、アグネスデジタルはそれ以上に相手を知っている。だから、

(こうして、ちょっと動いて見せるだけでいい)

 ほんの少し、外を回したがっているような動き。後ろから外に回る予兆のような動きを見せただけで、二人は少し脚を早める。二人は、デジタルのまくりに乗っかるつもりで。実際は、自分たちのまくりにデジタルを便乗させる形で、ペースを早める。

 

(もう一人前は中央の娘。この娘は自分の末脚に自信があるから、あたしたちが上がる動きを見せてもペースを崩したがらない。でも重賞は今回2回目、しかも前回は不利を受けての惨敗。大舞台の経験が少ないぶん、ちょっとだけ図太さには欠けてる)

 背後にぴったりと張り付いて、いつもより余計に足音を響かせる。振り向きもしないが、ほんの少し脚が早まる。前を抜きに掛かることはないが、前に空いているスペース分くらいは詰めておきたい。そんな心を煽る。

(もうひとつ前も、この娘を基準にペースを作ってる。この二人はもう4回も戦っててお互い2回ずつ先着のたまらんライバル関係!相手のペースメイクを信じてるから、こんなに詰められたら不安になるよね)

 ここもほんの少しペースアップして、前にまだ残る3人の列まで距離を縮めていく。本当の仕掛けどころ、第三コーナーまであと少し。先頭の逃げ2人、セキロとオニカゲ、そこから3人いて後ろにぴったりと内2人、外2人の隊列。最後尾にアグネスデジタル。バ群は十分に圧縮され、先頭までの距離は小さくなった。

 

 第三コーナー。なりふり構わず、全開で加速する。スピードを上げれば自然と外に振れるが、承知の上だ。ここからは荒れた内に止まっても体力を失うのは避けられない。それならば長い距離を走って、その分をしっかり加速に活かし切る。大外から、先頭の争いが見える。セキロとオニカゲの差し合い。間近で見たかった、などと思いながらも脚は全力で回す。直線の立ち上がり、集団とほぼ同じ位置取りながらも最高速に到達。目の前は遮るもののない、大外の綺麗なバ場。前には、もう2人しかいない。

 

 振り向いたセキロの顔に、僅かに驚愕の陰が過ぎる。目を見開き、その姿に狙いを定める。もっと近くで見たい、感じたい。そんな我儘な気持ちが、アグネスデジタルの力の源だ。いつも、そうやって走ってきた。自分らしく失ったものは、自分らしく取り戻すのだ。

「萌えパワー、チャージっ……フルマックス!!」

 脚が保つかもわからない、掛け値なしの全身全霊。己の限界以上の力を引きずり出して、アグネスデジタルが駆ける。3バ身。2バ身。1バ身。横たわる距離を踏み潰して迫る。あと、ほんの少し。そこまで辿り着いたアグネスデジタルは。

 目の前の左腕から、どろりと溢れ出す炎を見た。

 

 

 

 背後から迫る足音。見ずとも、着実に距離が潰されていくのがわかる。既に手札は出し切った。 もう、ただ全力で走ることしかできない。息が上がる。視界が白く染まる。敗北の二文字が、脳裏を染める。

 正しく言えば、手札はあと一つだけあった。御霊降ろし。その絶技ならば、背後のそれを突き放せる。だが、使わぬと取り決めてある。使うわけにはいかない。

 

『何故』

 ふと、声が響いた。それは狼の鼓膜を揺らした音ではない、まぼろしの如きもの。幾人もの声が、使え、勝て、と囁く。耳朶でなく狼の精神(こころ)を侵し、蕩かせる。

 ――構えは、ウマ娘が自然に走る姿。

 左腕から、身を焦がすような熱を感じる。

 祈り。

 念じ。

 

 そこまでして。ふと、背中の気配が消えたことに気付く。足を緩める。飢えた肺腑が息を飲み込む。視界が、ようやく色を取り戻す。

『――とどまるところを知らぬ連勝、一着はセキロ、交流重賞も無敗初制覇!鬼脚で追い上げるもわずかに及ばず、アグネスデジタル僅差の二着!』

 振り向けば、ゴール板は、既に通り過ぎていた。

 



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13.

 葦名グランプリのウイニングライブは、普段行われるそれとは幾分違う。交流重賞であるため、中央のライブに近い形……即ち、1位から3位までのウマ娘の共演となるのだ。流石に出走ウマ娘全員をバックダンサーとして出演させるほどの場所も準備もないが、いつもより豪勢なウイニングライブは、年に何回もないこの日の目玉であった。

 

 準備に走り回る職員と、場内に屯してライブの開演を待つ観客たちの熱気が生み出す浮ついたような雰囲気に反して、レッスンルームに集まった3人のウマ娘の間にはぎくしゃくとした空気が漂っていた。

 振り付けが合わない。

 オニカゲは上手いものだった。もとよりレース歴が長く、大舞台での入着も多く経験している彼女は、この日の振り付けもそつなくこなしている。問題はセキロとアグネスデジタル、この二人だった。

 セキロが複数人のウイニングライブに不慣れである、というのも勿論ある。だが、スパルタアイドルトレーナーと化した葦名弦一郎の尽力によって、最低限度のことはできるようになっているはずだった。最大の難点は、十分な経験——レース外の活動(オタ活)を含む——を積んでいるはずのアグネスデジタルが、セキロと全く息を合わせられずにぎこちない動きを繰り返しているところであった。

 セキロがフォローに回れば良いのだが、こちらもどこか上の空な様子で噛み合わない。二人を見ながら、オニカゲは大きく溜息を零した。

「一旦、休みとしよう。最後に1、2回通しでやる時間くらいは作れる」

 

 時間を貰ったアグネスデジタルは、控室で一人座り込んでいた。ドリンクを一口飲む。トレーナーに相談しに行こうかとも思ったが、どうもそういう気持ちにもなれない。上手くいかない理由は、自分でわかっていた。

 炎が見えたのは、ほんの一瞬だった。赤く燃え上がる、美しくて……悍ましい。そんな印象を与える炎。一目見て、心が恐怖に塗りつぶされた。集中は一瞬にして断ち切られ、失速し、届かなかった。何故ああも恐ろしかったのかは分からないが、アグネスデジタルはあの炎に意気を呑まれ……今も、引きずったままでいる。

 このままでいるわけにはいかない。ライブを疎かにするなど学園の恥と、トレセン学園生徒会長も言っていた。それに、レースは今回だけで終わりではない。次は、あれを乗り越えて勝たなければならないのだ。なら、戦いの場でもないのに怯えているわけにはいかない。

「……よしっ、頑張れあたし」

 ぴしゃりと軽く、自分の頬を叩く。そろそろ時間だ。

 

 レッスンルームに戻れば、セキロは先ほどと変わらぬ位置で立ち尽くしていた。ぼうっとしている彼女の左手を、アグネスデジタルはそっと握った。ひんやりと、硬い感触。レース前に触れたのと、何も変わらないそれに安堵する。少なくとも、今、恐ろしい炎の影はどこにも見当たらなかった。

「……なんだ」

「わひゃっ、いえあの何でもないんですけどというか急に失礼しましたっ」

 急に手に触れてくるという奇行を披露したデジタルに向けられている目は、純粋な困惑の色。大丈夫、怖くない。己に言い聞かせて、デジタルはセキロの瞳を見つめ返す。

「あの。ライブ、頑張りましょう!」

「……ああ」

 自分が、このステージを支えるのだ。デジタルは、そう心に定めた。

 

 結局のところライブの出来は、あまり上等なものとは言えなかった。デジタルは本調子を取り戻したものの、主役たるセキロはやはりどこか集中を欠いたまま。サイドの二人がフォローしてなんとか見られて恥ずかしくない程度に取り繕ったものの、見る人が見ればいま一つと言わざるを得ない。といっても、場内に詰めかけた観客のほとんどはレースの余韻に酔っており、パフォーマンスの巧拙などさほど気にしてはいない。葦名所属のウマ娘として初の交流重賞制覇だけあって、セキロに投げかけられる歓声は大きくなる一方であった。

 

 ふと、観客の中の一人がデジタルの目に留まった。まだ幼いその少年の瞳は、セキロただ一人に注がれている。それだけなら、周囲の群衆と同じだ。だが、その顔には熱狂でなく、焦燥のような色が滲んで見えた。何故、そんな顔をしているのか。デジタルには、それが人の群れの中でひどく浮いて見えた。ちらと、視線を注がれるセキロを垣間見る。相変わらず、何か別の物思いに囚われたその姿は、やはり少年に気が付いてはいない様子であった。

 

 

 

 その日の日程をすべて消化し終え、家へと戻る車の中で、狼はぐるぐると思考を巡らせていた。隣には、諸々を片付けるまで待っていた九郎が座っている。実のところ、狼はどうやってライブを乗り越えたか、定かに覚えていなかった。頭の中はずっと、堂々巡りする疑問に占拠され続けている。即ち、今日のレースの最後に起きた現象。あの声と、左腕に感じた熱は何なのか。何故、あの現象が起きたのか。思考に耽る狼の意識を、九郎の呟きが急に現実へと引き戻した。

「……なあ、セキロ。そなたは、何を目指して走っているのだ?」

 突然の問いに、聞こえぬよう密かに息を吞む。何故、そう問うてきたのか。果たして俯き加減の九郎の表情は窺い知れない。

「いや、よく考えればそなたの目標やらを聞いたためしがないと思ってな。どのレースに出るとか、日本一になるとか。何か、あるのであろう?」

「……勝ちたいレースなら、南部杯、でしょうか」

 真実など、口の端にも上せられるわけもなく。無理やり捻りだしたのは、直近の目標。他に言うべきものも思いつかなかったためだ。

「南部杯か。なら、もう少しだな!今日も凄かったし、きっと勝てるぞ。うむ!」

 弾んだ、だがどこかぎこちない声。狼が何も返せないでいると、九郎もそう言ったきり、何も続けてはこなかった。不自然な静寂は、車が家に辿り着くまで、解けることはなかった。

 

 

 

 翌朝。狼は普段よりも幾分早く床を抜け出したものの、特段やることもなく暇を持て余していた。弦一郎は昨晩も何かしら『ついで』の用事を片付けていたらしく、狼が起きている時間にはこの邸宅に戻らなかった。従って、広報だの次走の準備だのも何をやるかさっぱり分からない。加えて、普段であれば何かと構ってくる九郎も昨日はいやに静かであった。早々に夕飯と風呂、就寝前の柔軟を片付けてしまった狼は床につく他なく、その分早くに目が冴えてしまったのである。やるべき事を作っておかないと、途端に何をしてよいか分からなくなる。無趣味の弊害であった。

 

 とうに学び終えた教本の上に、読むでもなく目を滑らせる。何かしらを考えていなければ、昨夜のような思考に飲み込まれてしまいそうだった。いくらかの時間を無為に消費した後、ようやく狼の暇を崩す存在が現れた。弦一郎である。目元に疲労を色濃く刻んだまま、彼はこう告げた。

「お祖父様がお呼びだ。行くぞ」

「……一心様が」

 身なりを整えて、車に乗り込む。細い路地を抜けて幹線道路を走り、市内を横断する。辿り着いたのは、市街地のはずれにあたる地区に立つ邸宅であった。

「用向きは」

「知らぬ。だが大方、昨日のことであろう」

 

 門前でしばらく待つ狼の耳に、柔らかな足音が響く。ほど軽い、女性のもの。

「……何故、ここに」

 楚々とした雰囲気の服を身にまとう、嫋やかな妙齢の女性。朝日に照らされた懐かしい顔に、狼はかすかに目を細めた。

「お待ちしておりました、セキロ殿、弦一郎殿」

「……エマ殿」

 思わずこぼれた一言を、前世の薬師が拾い上げる。

「おや。一心様から聞いておられましたか」

「……ああ」

 彼女の言葉を、誤魔化すように首肯する。そうですか、と小さく呟いて、エマはすぐにまた口を開いた。

「一心様の名前でお呼びしましたが……実のところ、用件は私のものなのです、セキロ殿」

 エマの身に纏う空気が冷たく、鋭くなる。揃って眉間の皴を深める二人に、彼女は言葉を続けた。

「話すべきことがあります。貴方の左腕に宿る、その――」

 す、と白い指が、狼の左腕を指す。

 

「――怨嗟の炎について」

 



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14.

「まずはこちらに。長い話になりましょう」

 そう言って、エマは邸宅の一室へと二人を案内した。まだ温まり切っていない部屋の空気の中で、しばらく待つ。ややあって、茶盆を持って現れた彼女は二人の前に湯呑を勧めた。

「お待たせしました。どうぞ」

「かたじけない」

「……」

 短く例を告げて暖かく、だが熱すぎない茶――無論隠語(さけ)ではない――を啜り、狼の眉根が少し緩む。一方で弦一郎は礼の一つも口にせず、顔の険しさを崩さぬままに、一息に湯呑を干して口を開いた。

 

「今日は何用だ」

 斬りつけるような不躾な投げかけを、エマは柔らかく躱す。

「その前に、まず改めてセキロ殿には紹介を。私はエマ、市民病院に勤める理学療法士です」

 理学療法士。確か、怪我や疾患からのリハビリテーションを専門とする医療職であったか、と狼は記憶の底から引っ張り出す。薬師とは、些か趣が違って聞こえる職だ。今世では、竜咳が蔓延することがなかったためであろうか。それでもなお人を癒す道を選んでいるのが、変わらぬといえば変わらぬところなのかもしれない。

「一心様には、義父、義姉共々幼少のみぎりよりお世話になっております。その縁で、一心様が臥せられてからはお手伝いなども。そして、今日お呼びした理由……その左腕を作った人の、義娘でもあります」

「……成程」

 道玄、と言ったか。エマの義父であり、忍び義手の作者の名は、前世でも一心や仏師からこぼれ聞くものであった。一心との関わりも含め、その辺りは大きく変わっていないようだ。

 

 一方で問いを遮られた形の弦一郎は、焦れた様子でエマに答えを強請る。

「怨嗟の炎、と言ったか。なんだ、それは」

「詳しいことは、分かっておりません。ただ、それの前の持ち主が、そう呼んでおりました。レースの中で燃え上がり、己を焼くのだと」

 怪訝な表情を浮かべる弦一郎と違い、狼には心当たりがあった。かつて大手門の広場で対峙した、怨嗟の鬼。そして、その宿主となった、寡黙な仏師のことを思い出す。今世でも、この義手の主であったのだろう。レースの中で、ということは、彼もまたウマ娘として生きているのだろうか。

 そっと、義手を右手で確かめる。かつて着けていたものとよく似た、固い感触。それを感じながら、狼は思い返していた。十年近く前、この腕を与えられた時のことを。

 

 

 

 セキロの左腕は、生まれ落ちた時から欠けていたらしい。前世では斬り落とされたことを考えればやや奇妙ではあるが、狼は特段に不思議とは感じていない。それがないことにはとうに慣れ切っていたし、それが正しい因業であろうとも感じる。だが、狼以外がそれをどう受け止めるかは別の話だ。存在したはずの両親が彼女を棄てたのは、それも一つの要因であったかもしれなかった。あるいは、ただ茫として何事もしようとしない狼の様子を不気味がったのか。真実がどうであれ、狼の掠れた記憶では辿りようもないことだ。

 ともあれ。狼にとって二度目の人生が動き出したのは、生まれ落ちた時でも、二親に手放された時でもなく。灰色の髪を蓄えたウマ娘に見出された、あの瞬間だった。

 

 二十歳過ぎ程度の若々しい姿に、やや大柄とはいえ前世とは比べ物にならない細身の体。共通点といえばその豊かな髪程度である。それでも、時間で言えば最も長くを共にした義父と気付くのに、狼はさほどの時間を要しなかった。梟はただ立ち尽くしていたセキロを暫しの間つまらなそうに見下ろしたのち、何も言わずに連れ帰った。寝床を与え、食事を与え。そうして与えられたうちの一つが、この左腕であった。梟が走りを教えはじめたのは、幼いセキロがやや不釣り合いに大きいそれを着けてからであった。

 かつての忍び義手と比べると、この義手は現代らしく素材に樹脂(プラスチック)類も使われており幾分軽い。加えて忍具を仕込む機構が削られ、何より戦の中で刻まれた刀傷の痕は一つもなかった。自然なことではある。ウマ娘のレースにおいて、刃の持ち出されることなどあろうはずがない。

 葦名を焼く、一面の炎。それしか見えぬ、と仏師は言った。彼から受け継いだ、前世とよく似て、だが異なる左腕。これには、今もその炎が降り積もっているのであろうか。ひやりとしたその表面を右手の指先でなぞりながら、狼は目を伏せた。

 

 

 

 そんな狼を他所に、弦一郎は淡々と問いを続ける。その内容は実にトレーナーらしく、現象を理解し対策を練ろうとするものだ。

「それで。その炎は、何をもたらす。何が不都合だ」

「勝利の鍔際。ゴールを目前として、強敵と渡り合う、その時に……狂うのだと、聞いております。己の脚を壊すことも、他者を害することも厭わなくなる。ただ、勝利することしか考えられぬのだと」

「……そうか」

 

 面の皴をさらに深くして、弦一郎は考え込む。ここまでに伝えられた情報は最悪の一言に尽きる。己の脚を壊す、というのは言わずもがな、他者を害するというのも恐ろしい。違反行為であるのは勿論のこと、高速で走るウマ娘の競走中の接触は彼我ともに危険を伴う。起こったが最後、その競走どころかその後の生すらどうなるかわからない。狼は胸の冷たくなるような感覚を覚える。だとすれば、仏師は。

「前の持ち主というのは、どうなった」

「命ばかりは、取り留めました。ですがもう、走ることは」

「……そうか」

 エマの昏い面持ちが、狼にも伝染する。想像の最悪こそ外れたものの、十分に残酷な結末であった。まして、それが自分にも降りかかりうるものと考えれば。

 

 背筋を正して、エマが口を開く。いつぞや、竜咳の調べを頼まれた時と同じ。固い岩の下に、滾る熱を押し込めたような声。

「セキロ殿。貴女は、何を見ましたか。私は、その炎を知りたい。知って、もう二度と誰も、吞まれぬようにしたいのです」

「……目には、何も。左腕には、熱を感じた。それに……声が、聴こえた」

「声は、何と」

 エマの問いを受けて思い返す。あの時、何と言っていたか。

「先ずは、『何故』と。切札を使え、勝て、と。そう聴こえた」

「切札、ですか」

 狼の視線が、弦一郎に向かう。自分の手の内を、果たして明かしてよいものか。弦一郎は渋い顔をしながらも首肯し、口を開いた。

「最後、一つだけ残していた技がある。脚に響く故、自重させていた」

「そうですか。……セキロ殿は、それを使いそうになった。ということですね」

 頷く。

「あのままであれば、恐らく使っていた」

 アグネスデジタルの失速。あれがなければ、負荷など顧みずに使っていたはずだ。思い返して理解できる、恐ろしい現象。己を己が制御できない恐怖は、狼にとっても未知であった。

 

「次は、南部杯の予定でしたね」

 ぽつり、とエマがこぼした。

「走るな、と言える立場ではありません。ただ、私の個人的な気持で言うならば……貴女には、二度と走ってほしくはない。あの炎を見たくはないのです」

 かすかな震えは、畏れによるものであろうか。そんなエマの言葉を、弦一郎は顔を歪めてにべも無く切り捨てる。 

「それは無理な相談だ。俺にも為すべきことがある」

 それでよいのか、と投げられたエマの視線に、狼も軽く頷く。もとより、弦一郎がそうと定めたなら、狼に拒める道理もないのだ。

「ですが、それでは」

「ならば貴様も力を貸せ。あれが起こる条件を詰める」

 反駁しようとしたエマの出鼻を挫くように、弦一郎は言葉を重ねる。意外な要求に、エマの眼は綺麗な丸を描いた。どのような異端の力であれ、従えてみせる。そう語ったあの時から、弦一郎の心は何も変わらない。知っているならば利用するまでのこと。

「怨嗟の炎を呼ぶことなく、走る術を探る。使える時間は多くないぞ」

 



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15.

 

 ことり、と音を立てて、ウマ娘を象った小さな白い駒が駆ける。黒と白の市松模様めいた盤の上で、小さな白い手がしばらく彷徨った後、今度は城を象った黒い駒が動かされた。わずかな間を挟んで、また白い駒。盤を挟んで対峙した九郎と狼は、無言のままに駒を動かしていく。

 あのレース以後、九郎の態度には常に微妙なぎこちなさが付きまとっていた。常であれば何がなくとも話の尽きぬ九郎が、わざわざチェス盤を引っ張り出してきたのもその影響であろう。元々盤上遊戯(ボードゲーム)の類を好む性質(たち)ではあったが、今のようにただ黙々と打ちたいという手合いでもない。九郎が狼に話し、狼が短く相槌を返す。それがいつもの姿であったが、この日はどうも言葉が続かない様子であった。長考を挟みながら、段々と盤面は九郎の有利に傾いていった。狼は指し手こそ早いものの、この手の遊戯ではどうも九郎のほうが上手であることが多い。この日は九郎が話しあぐねた分の意識を盤面に注いでいるためか、それがより顕著なようであった。

 九郎の指が、少しばかり歪な僧正(ビショップ)を摘まみ上げる。歪の所以は、この駒のセットが市販のものではなく、昨年の夏休みに九郎が自由工作として自作したものであるためだった。樹脂粘土を切削し手作ろうとしたそれに、昔取った杵柄とばかりに張り切って助力しようとした狼が、迂闊にも鬼仏を彫りかけた結果がこの歪んだ駒である。動いた先にはウマ娘の形、騎士(ナイト)の駒。こつり、と駒同士が触れ合ってから、静かに盤外へと取り除かれる。一度取り除かれたチェスの駒は、盤内に戻ることはない。二人は将棋よりはチェスの、その単純さを好んでいた。

 

 不意に、静かな室内にバイブレーションの音が響く。時計を見れば、思っていた以上に時間が進んでいた。先程の振動は、携帯端末に設定していた予定時刻の通知だ。九郎に短く断りを入れて、盤を離れる。この日の用事は、家の中で完結するものだ。間もなく開催されるJpnⅠレース、南部杯マイルチャンピオンシップ。それに出走するために必須となる、『勝負服』の確認であった。

 

 客間に向かうため玄関を通り抜けようとしたちょうどその時、折よく玄関の引き戸が開かれる。弦一郎が、一人の女性を伴って立っていた。勝負服の仕立てを専門とする職人だ。彼女はセキロに軽く頭を下げるや否や、家主を差し置いて土間から上がるとセキロに駆け寄る。彼女とは仮縫いの時に一度顔を合わせているが、これほど狭い種類の仕事を専門で請け負うだけあって、並々ならぬ情熱の持ち主であったと記憶している。よほど、早く着て欲しいようであった。

 客間の座卓を隅に動かし、弦一郎もいるため手際よく衝立が設置される。仕立て屋が携えていた箱を開くと、丁寧に畳まれた服が現れた。

「これが」

「ええ。さ、早く合わせてみてくださいな」

 手に取る。確かに重みを持って存在するそれを目の前にして、狼の意識は数週前、この服の案を定めた日に遡っていた。

 

 

 

「うむ。……地味だな!」

「そう、でしょうか」

「ああ。それは俺も否めん」

 弦一郎と九郎、二人からの端的かつ否定的な感想。それが狼の出した、最初の素案に対するものであった。葦名グランプリまでの期間、ここの結果がどうであれ南部杯の出走はほぼ確定している。レース後では到底完成に間に合わせられないため、早めにデザインだけでも決定しておくべきだろうというのが、この日の会合の趣旨であった。

 一番最初はウマ娘当人の意向が優先されるべきだろう、という一般的な認識に基づき、基盤となるデザインが狼に一任された。前世で身に纏っていた忍び装束をベースとして、参考資料だといって渡された他ウマ娘の勝負服を眺めつつようよう作り上げた案は、どうやら地味に過ぎたらしい。無理もないことだ。狼は身なりについてはまるで頓着しない性質であったし、それがいきなり考えろと言われて早々考えつくものでもない。一応見られる組み合わせが作れているだけでも上等ではあっただろう。ただ、それでは満足いかなかったらしい幼い主は、嬉々としてデザインの手直しに取り掛かった。

「うん。先ずは配色が暗すぎるな。いくらなんでも紺が多すぎる」

「ならば袴は削るか。腰布(スカート)にして、もっと脚を出したほうがよかろう」

「上着の柿色ももっと明るいほうがいいのではないか?」

「色味は材次第でかなり差が出る。本職の意見を聞いてからがいいだろう」

「むう……それもそうだな、弦一郎殿。そうだ、あとは薄茶もよくない。落ち着きは出るだろうが、晴れ着なのだぞ?ここはいっそ――」

「アクセントの色が足りんな。紐を使って赤あたりを入れたい。それに裾飾りも――」

 当人である狼を置き去りにして、次々と手が加えられていく。結局いつの間にそこまで調べたのか、服飾がらみの書物にも手を出していたらしい九郎と、ウマ娘を()()()()仕事に相応しいだけの知識を蓄えた弦一郎がほとんどを練り上げてしまい、狼は後日届いた本職のデザイナー及び仕立て職人の細かな修正に異存がないことを伝えるだけの置物と化してしまった。かくして、幾度かのやり取りの後に仮縫いを行い……この日ついに、完成品が届けられる運びとなったのである。

 

 

 

 紺色のインナーに袖を通す。肩から指先までしっかりと覆われる作りの左腕は狼の意向だ。どうしても義手は目立つ。周りに無駄に気を遣わせるのは本意ではなかった。その上から、着物の衿を模した飾り付きのシャツ。色鮮やかな帯をその上から巻いて、一番外には柿色の上衣。記憶にある物よりも色鮮やかで、そして滑らかだ。裾にはひらりと翻る白いフリル。ところどころに施された女性らしい意匠に、如何にも落ち着かない気分になる。

 鏡に姿を映す。勝負服としては比較的簡素ながら、最初に己で考えた案と比べれば雲泥の差だ。心なしか綻んだ狼の表情を見て、仕立て職人の女性は満足げに拳を握った。

 さて。セキロの勝負服姿を見た弦一郎の反応は淡白なものであった。ざっと上から下までを眺めて確かめると、特に感想を言うでもなく開口一番、「問題ないようだな。行くぞ」とあまりに端的に告げる。

「行くぞ」

「どこへだ」

「レース場へ向かう。取材だ。勝負服の正式なお披露目は当然南部杯になるが、ある程度期待を煽っておくほうが効果が出る」

「一応、夕刻からはトレーニングの予定だったが」

「だからだ、ここ数日は根を詰めすぎている」

 これは弦一郎の言葉が正しい。前走では、著しい不利を受けていたはずのアグネスデジタルにあとわずかまで迫られた。アグネスデジタルは次走にもしっかり出走表明をしている。次を考えれば、あまり悠長に構えていられない、その焦りが表に現れていた。

「次は一度ほどならば切札も切れる。例の件の対策も固まった。必要以上に憂うな」

 確かに数日前、弦一郎とエマを交えた会合において、怨嗟の炎に纏わる問題は一応の結論を見ていた。焦るな、というのも理解はできる。だが、本当にそれは十分と言えるのか。そこで検討を打ち切ることとした弦一郎のほうにこそ、狼には焦り……というよりは、どこか浮ついたような空気を感じずにいられなかった。微かな軋みを抱えたまま、二人はレースへ向けて歩んでいく。

 

 全ての答えが出る南部杯まで、あとわずか。

 




セキロの勝負服イメージです

【挿絵表示】

絵心DデザインセンスFくらいの適性なのでなんかいい感じに補完してくれるとありがたいです


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16.

 午前6時。定刻通りのアラームに先んじて目を覚ました狼は、床を抜け出そうとして違和感に目を瞬かせた。わずかに緩んでいた意識が急速に覚醒する。身を起こしてみれば、それはベッドの上。違和感の故は、ベッドスプリングの反発感であった。普段から布団で起き伏している狼としては、あまり慣れない感触だ。床に足を下ろして一瞬、その冷たさに顔を顰める。

 ジャージに袖を通し、顔を濯ぎ、身だしなみを整えていく。狼に化粧(けわい)の類を教えたのは、意外なことに梟である。やはりウマ娘として、現役時代にはそれなりに手をかける必要があったらいい。狼のそれはこの年代の女子としては相当に簡素なものだが、それでも一通りを済ませるのにそれなりの時間を要した。髪は軽く梳いて結わえるだけに留めておく。しっかりと整えるのは、本番前でいいだろう。

 携帯端末が鳴る。画面を見れば、弦一郎からの通話であった。そういえば、起床時に連絡を入れるように告げられていた。準備より先にメッセージの一つでも送ればよかったか。そう考えながら画面を叩く。

「起きているな」

「ああ」

「発熱、頭痛は。喉もやられていまいな」

「ない」

「ならば良い。……些か気にしすぎたか」

 弦一郎の声には明らかな安堵が含まれている。無理もない。狼にとっては、ひいては弦一郎というトレーナーにとっても、これが初めての遠征ということになる。葦名から本数の少ない特急を乗り継ぎ、新幹線に乗り換えて盛岡まで。更に暫く車に揺られて、ようやくここに辿り着く。慣れない環境で起居することもあって、些細なことで調子を崩すことも多いウマ娘にとって、遠征は大いにその資質を問われることとなる。幸いにして狼は十分に太い神経を持ち合わせていたようで、特別体調を崩すようなこともなかった。もとより、寝ると決めればどこでも寝られる程度の技能は備えている。さもなくば、忍びなど務まるはずもない。

「朝食はこれから準備させる。早めに来い」

 それを最後に、通話は打ち切られる。黙り込んだ携帯端末をポケットに押し込んで、狼は部屋を出た。

 遠征者向けの宿舎の扉を開けると、見慣れぬ風景が出迎える。同じレース場ではあるが、葦名のものと比べれば随分と大きい。地方競馬場唯一の芝・ダート両コースを備え、1周1600mに及ぶ大型のレース場。盛岡レース場が、狼の眼前に広がっていた。

 

 広い食堂は、中々の賑わいを見せていた。やはり大きいだけあって、トレセンに所属するウマ娘たちだけでも相当な数がいる。遠征に来たウマ娘やその帯同人員も加えれば、処理能力の限界近い人数がこの施設内に屯していた。

「こっちだぞ、セキロ!」

 人ごみを越えて、大きな声が耳朶を打つ。目を向ければ、強面の大男……鬼庭が大きく手を振っていた。対面には弦一郎の姿も見える。どうやらその一角が、今日出走予定の遠征者向けに確保されているようだった。

「……来たか」

「済まぬ。待たせた」

「気にするな。うむ、顔色もよいな。一安心だ」

 鬼庭はそう言って破顔する。彼がここにいるのは、初の遠征となる教え子たちを案じてのことである。折よくオニカゲは休養期間に当たったため、こと体調面では万全を期したい弦一郎も、正式に帯同を依頼したのだ。

 その弦一郎はと言えば、セキロの様子を一瞥してすぐに席を離れていた。準備させていた朝食を取りに行ってきたらしく、すぐに帰ってくる。内容は一般のトレセン生向けに示されているものとは若干の違いがある。レースに出走するウマ娘、特に遠征で訪れるウマ娘については各自守りたいメニュー等もあるため、手続きを踏めばある程度融通を利かせることができるようになっていた。狼が黙々と食事を進める傍ら、トレーナー二人はこの日の予定について確認していく。

「この時間でマシンルームを借りている。朝のうちに軽く動かして調子を確かめておく」

「そこまでは儂も同行しよう。問題なく終われば、それから九郎を迎えに行かねばな」

 鬼庭の言葉通り、今日は九郎も盛岡を訪れている。どうしても、と希望した九郎に、特に断る理由もない弦一郎が応じた形だ。とはいえ関係者という枠にも入らないため別に宿を取り、手が空いてから鬼庭が引率することにしている。弦一郎と狼は立場上レース場外への出入りが自由でないため、レースが終わるまでは顔を合わせる機会がない。

「あとは短時間のインタビューがある程度だ。場外に出られん以上時間が余るが、適当に潰せ。部屋はパドック召集前まで使っていいことになっている」

 一瞥を寄越した弦一郎の言葉に、狼は最後の一口を飲み込んでから答える。

「……承知した」

 

 

 

 勝負服に袖を通すのは、この日で二度目である。家で着たときはさほどでもなかったが、こうしてコースを目の前にすると、成程、常以上の力が漲るような感触が理解できた。パドックのお披露目前。狼同様に各々の勝負服を身に纏ったウマ娘たちが、控室に集まっている。その中には当然、アグネスデジタルの姿もあった。

 どこか幼い印象の服に身を包んだ彼女は、しかし前回の浮足立った様子とは打って変わって落ち着いて見えた。セキロの姿を最初に見た瞬間こそ、おかしな目つきで即座に指でフレームを作り周囲をぐるぐる回るという奇行に出たものの、それ以降は奇声を漏らすようなこともない。ただ、目ばかりは爛爛と輝いて、セキロだけでなく全てのウマ娘を捉えている。葦名のゴール前、最終直線で見せたあの瞳だ。鑑賞(しゅみ)解析(じつえき)が完全に合一した、全てを見透かすような恐ろしさを孕んだ目。返しウマの動きを見るまでもない。これが、絶好調と称するべき精神状態なのだろう。狼だけではなく、他のウマ娘たちもその異様を感じ取ってか、控室にはただレース前というだけではない静寂が張り詰めていた。

 アグネスデジタルの名が呼ばれる。お披露目のステージに向かう間際、彼女はセキロに歩み寄って、一言だけ告げた。

「勝負です。今日は、最初から最後まで、ちゃんと走りますから」

 狼は応えなかった。この後のレースのことを思って、ただ、静かに視線を逸らした。

 

 盛岡レース場のダート1600mコースは、第2コーナー出口から大きく伸びるポケットからスタートする、かなり独特の形状を取っている。その特性上スタンドからはスタート地点は遠く離れてしまう。狼の視力であっても、そこにいるはずの弦一郎、そして九郎の姿は探し当てられなかった。

 大外、10番枠のゲートに身体を収める。盛岡のレースは通常14人までで施行されるが、この日は折悪しく回避するウマ娘が多く、GⅠ級競走としては珍しくわずか10人立てでの実施となっていた。偶数枠の一番外であるため、ゲート入りはセキロが一番最後だ。全身の力を抜き、目を閉じて耳を澄ませる。ゲートの開く音に合わせて、全力で蹴り抜く。

『今、スタートしました!』

 若干出遅れた一名を除いて揃ったスタート。中でも勢いよく飛び出したのはやはりセキロであった。

『さあ先行争いは大外10番セキロ、おっとこれは押して押して突き放す!』

 遠くのポケットから、向こう正面へと近づいてくるウマ娘たち。大型ビジョンに映し出されるカメラ映像は、いささか近くから撮っていることもあって距離感がつかみづらい。自然、スタンドの観衆の視線は、よく見える位置へと近づいてきた実物に注がれる。ざわめきが広がった。

 

『――後ろは3バ身、4バ身と離してこれは独走、セキロまさかの大逃げ態勢だ!』

 



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17.

 スタート直後に存在する、およそ400mにも及ぶ長大なポケット。緩やかにカーブを描いて向こう正面に接続するその部位の存在は、このコースにおける枠順の有利不利をほぼ無いも同然のものにしている。大外枠に入れられた狼であったが、このレースに限ってはそれはマイナス要因とはなりえない。飛び出しよくスタートを切った狼は、後続を突き放して単騎大逃げの形を作ろうとしていた。

 

 デビュー戦以降逃げ切りを決めたことも幾度かあれど、舞台が大きくなるにつれて、ペースを正しく測って好位につけるレースが多かったセキロである。スタンドの観衆のみならず、ビジョンに大きく映る後続のウマ娘たちの表情からも、多少なりとも動揺が窺えた。スタートから300m、後ろに4バ身半の差。

「先ずは上々か」

 呟く弦一郎の意識は、およそ一週前の記憶へと遡っていく。

 

 

 

「策は、それしかありませんか」

「策と言えるほど上等なものではないがな。博打に近い」

 狼と弦一郎、それに加えてエマ。三人で額を突き合わせて得られた結論は、「競り合わない」というひどく単純で、それでいて困難なものであった。

 

 怨嗟の炎が見られたのは、先のセキロのレースに加えて、()()――エマは、頑なに本人の名前を出そうとはしなかった――の最後のわずか数レースのみ。極めて少ないサンプル数ながら、エマはそれなりに信用のおける仮説を一つ立てていた。即ち、ゴール前での競り合い状態。勝利を目前として、それを掴みとれるかどうかの鍔際に身を置くことで、惹起されるものではないか。

 

「とはいえ、その状況はウマ娘のレースにおいて当然に起こりえるもののはず。ですが、貴女と彼女以外では、そのようなことなど聞いたこともない……寧ろ、そういった環境では何かに目覚めたような力を揮うウマ娘もいると聞きます。貴女と彼女にだけ、()()が起こる理由があるはずです」

「それを明かすまで、悠長に待つわけにもいかん。直近のレースをどう乗り切るかだ」

 

 考え込むエマに対して、弦一郎の反応は冷淡だが現実的だ。目前の課題に対する答えとして出てきたのが、まともな競り合いを発生させない大逃げを打つことであった。

 『博打』と評した弦一郎の言葉通り、問題は幾らでもある。1600mという距離を序盤から突き放して走り切ることなら、狼にはできる。だが、それを盛岡というアウェイの場で、完全に計算して出来るのか。葦名とは違い、坂のあるコースで潰れないのか。遠征の疲れが出たらどうなる。他のウマ娘の動きはどうなる。

 だが、より良い方策が見つからない以上は、賭けであっても押し通すほかない。残る時間を費やして、弦一郎は浮かび上がった不安を一つ一つと潰していった。

 スタミナ面は、とにかく練習しかない。絶対大丈夫などと言えるはずもないが、持久力寄りのトレーニングで出来る限りは補った。幸いにして、天気も良好。全体のペースが上がる重バ場よりは、狼が一方的に歩法の恩恵を受けられる良バ場の方が望ましい。遠征不安も、経験豊富な鬼庭の手を借りて万全に整え、実際に好調を維持したままレースまで持ち込めている。盛岡のコースでのペース感覚については、限界はあるが映像を元に通過時間の目安を叩き込む。どこぞの精密機械とまでは言わずとも、十分に優秀な狼の体内時計であれば、それなりの自信を持って走れるはずだ。

 残る懸念は、他ウマ娘の動き。正直なところ、ここまでの勘定にはいくらかの楽観的な予測が含まれている。即ち、狼の大逃げが他ウマ娘のペースを破壊すること。他の強豪ウマ娘が己の走りを徹底できるのなら、無理を重ねたこの戦法ではきっと抗い得ない、それが現状の予想であった。

 そして、それが達成できたとしても、今度は真逆の懸念が生まれてくる。弦一郎の視線の先、向こう正面に差し掛かって、その不安が現実のものとなろうとしていた。

 

 セキロの後方4バ身には5枠5番のウマ娘。中央から岩手へ移籍してきたベテランで、ここ盛岡でも重賞を含め、多くのレースを逃げ勝ってきた。レース前から先頭でペースメイクすると予想されていたウマ娘でもあり、そのペースの正確性は信頼に値する。故に、これを大きく離して走るのがセキロにとっては必須条件であり、そしてここまでのところそれは無事に達成できていた。

 アグネスデジタルの姿が、狼の脳裏を掠める。恐らくは前走のような真向の勝負を期待しているのであろう、あまりに真っすぐ見つめる目を、狼は見返すことができなかった。初めから真面に勝負する気はないなどと、どうして言えようか。浮かびかかる後悔を、頭を振って押しのける。

 

 問題はもう一人。セキロの大逃げに食らいつこうとして後方1から1バ身半につける4番のウマ娘。中央所属の彼女は昨年のこのレースの覇者でもあるが、その時は好位からの差し切り勝ちだったはずだ。それが慣れぬ逃げを打ってまで、セキロに迫りつつある。スタートの出が良すぎたか、或いは相手関係等の要因で、セキロ同様の博打に打って出たのか。いずれかは分からないが、これ以上接近されれば紛れが起こりうる。

 

「……ここが使いどころか」

 一度までなら良い。そう言い渡されていた切り札を切る。逃げ切り狙いである以上、最後に残しても意味はない。第3コーナーへ向けての上り坂、脚が緩みやすいタイミングで構えを取る。

 豪脚。

 坂を力任せにぐいと登り、リードを広げる。代償として微かに感じる脚の熱と、心中に響く喪失感を無視する。もう少しで第3コーナー。盛岡レース場はここが最高地点だ。そこさえ越えれば直線入り口までは下り坂、無理に力をかけずともある程度速度を維持できる。僅かの辛抱だ。気力が尽きたか、足音が突き放されて遠ざかる。

 

 下り坂を抑え気味に駆け抜けて、第4コーナーへと向かう。事前に決めていた目標は3バ身。それ以上に突き放せていなければここは十分に加速して、ロスがあっても外に振る。インコースを狙ってくるはずの後続と、まともに身体を合わせて競り合わないための保険であった。

 ちらり、と後ろを盗み見ようとして、狼の背筋に冷風が吹き抜けた。既知の感覚だ。これは、

 

「アグネスデジタルっ……!」

 

 想定よりはるかに近く、斜め後方僅かに1バ身。出走前から変わらぬ瞳が、やはり狼を真っすぐに捕まえている。

 誤算であった。ペースを壊す、それが効き過ぎたか。焦って早く仕掛けてくれればいい、そう思ってはいた。だが、あまりにも早く……そして、速い。並大抵の相手であれば狼を捉えることも出来ずに落ちていくのだろう。だが、下り坂を利用した、脚の負荷も無視するような迷いのない最速のスパートが、あっという間に狼へと肉薄する。

 アグネスデジタルにとっても、無理なはずの仕掛けだ。後続が勝手に崩れるのでなければ、狼共々きっと直線の坂で捕まる。そのリスクを冒してでも、勝負しなければならない。そう信じたか。

 

 切り札はもうない。直線はまだ長い。アグネスデジタルの体は3コーナーからの加速で外へと振られ、狼の更に外側。狼とバ体を合わせるような形であり、同時に狼の逃げる先を奪う一手でもあった。ルールに背くような妨害ではないが、狼にとっては反則行為などよりよほど悪い。

 

 己のものでない呼び声が、脳髄に響く。精神(こころ)肉体(からだ)から剥ぎ取られていくような、悍ましい感覚。以前に感じたよりもはるかに速く、狼を吞み込んでいく。御霊降ろしの影響だ。『代わりに差し出すものなくば、やがて狂う』。加護の代償として差し出した分が、ここで身を蝕んだ。

 直線入り口。視界にゴール板が映りこんだ瞬間が、終わりであった。

 

 視界が白く染まる。

 声が響く。

 炎が、溢れる。

 



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18.

 炎が溢れた。以前に見たよりも遥かに勢いよく噴き出したそれが、一瞬でセキロの身体を覆いつくしたように、アグネスデジタルには見えた。背筋が粟立つような感覚。条理を越えた恐怖心が、アグネスデジタルの脚を縛り付けようとする。

「っ、まだまだっ!」

 前回の走りは後悔だらけだった。出遅れたこともそうだが、最後の最後。怖れなどに縛られて、全力で走り切ることができなかった。故に、今回こそは最初から最後まで、ちゃんと走るのだ。アグネスデジタルは、そう心に定めていた。ならば、この本能に根差すような恐怖にも、屈してなどいられない。

 

 極まったウマ娘は、レースの勝負所において理外の力を発揮することがある。俗に『領域』と呼称されることもある現象。あの炎も、きっとその類だろう。であれば、恐れるべきではない。それに対抗する術、即ち己の『領域』を、既にアグネスデジタルは掌中に収めているのだから。

 

「萌えパワーチャージ、フルマックスッ!」

 それが彼女にとっての魔法の呪文。推しの姿を見据える。もっと隣を走りたい。そんな欲望を剝き出しのまま、脚を通して砂へと叩きつけた。爆発するかのような加速が、デジタルの体を前へ前へと運ぶ。

 残り200m。並ぶ。まるで、人型の炎と走っているような熱量。隣り合ったその姿を見て、聴いて。呼吸を、鼓動を感じて。アグネスデジタルは、拭い難い違和感を覚える。

 

「違う、セキロちゃんじゃないっ!?」

 

 炎が、揺らめいた。右脚を地面に叩きつける。今までの動きと比べて、異常なまでの力が砂を抉り抜く。ここまでのレースを後ろから見続けていたアグネスデジタルは、その動きを既に知っている。中盤の登りで見せていた、あの脚だ。あの時は、ほんの一瞬だけの豪脚だった。残り150m。この走りで、走り切るつもりであろうか。

 炎は次いで左脚を叩きつけた。更に、右。左。一歩ごとに異様なまでに深く足跡を刻みつけて進む。一歩を刻み込むごとに、アグネスデジタルの耳は悲鳴の如き軋みを拾ってしまう。

(ダメ、だめだめだめっ)

 残り100m。坂の頂上に向けて駆け上りながら、デジタルの脳裏を悲鳴が埋める。そんな走り方をしては、きっと――

 

「……やめてくれ」

 初め、アグネスデジタルはそれを己の声かと誤認した。それほどに、群衆の歓声の中で、その声だけが何故かはっきりと聞こえた。

 

「やめてくれ、()……!」

 

 声変りをいまだ迎えぬ少年の、絞り出すような声。引き寄せられるようにして、スタンドを見る。沸き立つ群衆の中に、そこだけ影が落ちたように、浮かび上がって。いつかのライブで見た覚えのある少年が、整った顔を悲痛に歪ませているのが見えた。

 

「そなたは、修羅ではないっ……!」

 

 その言葉で、炎が千々に乱れた。突風に巻き上げられたかのように不規則に暴れて、広がって……次の瞬間にふ、と搔き消える。セキロの肉体が、アグネスデジタルの眼前で糸が切れたように崩れ落ちた。鈍い音を立てて、地面に叩きつけられた身体が跳ねる。脚を危うくもつれさせそうにしながら、デジタルは辛うじて回避する。歪に折れ曲がった左腕を揺らして、セキロの身体は後方へと転げていった。

 

 後ろを垣間見れば、転がるセキロをなんとか躱したウマ娘が二人、後僅かの距離にまで迫っていた。慌てて前を向く。ここまで無理をしてきて、もうほぼ止まったような脚を強引に動かして、アグネスデジタルは辛うじてハナ差の勝利を守り切った。2,3着はいずれも道中デジタルの直後に付けてきたウマ娘。セキロの転倒では明らかに不利を受けていた。その分がなければ、勝敗がどうなったかは分からない。とはいえ、デジタルも他のウマ娘も全ての観客も、そのようなことを気にしている余裕などなかった。

 担架が運び込まれ、競走ウマ娘専門の医師が診断を下し、運び出されていく。実況すらも言葉を忘れた、静まり返った場内で、アグネスデジタルはそれをただ呆然と見ていた。

 

 

 

 白。薄っすらと目を開けたセキロの視野に広がったのは、如何にも病室といった風情の白い部屋だった。茫洋とした意識の中、手足を動かそうとする。力は入らなかった。辛うじて動いた喉から音を絞り出す。

「起きたか」

 声の方向に、目だけを動かした。弦一郎だ。平素から固い表情が、更に凝り固まったようであった。

「……ここは」

「盛岡の入院施設だ。痛みはあるか」

 言われるまま、全身に意識を向ける。痛みはない。ただ、脚の随所が気味の悪い違和感を訴えている。

「痛みはない。が、どうなっている」

「中足骨不完全縦骨折及び趾骨剥離骨折。手術は済ませたばかりだ、まだ麻酔が残っているようだな」

 医者を呼ぶ、そう言って弦一郎は立ち上がり、背を向けた。

「レースは、どうなった」

「……今は気にかける意味もない。捨て置け」

 言い捨てて、扉が閉められた。

 

 間もなく到着した初老の医師は、あれやこれやと診察した末に異常なし、との診断を下した。既に時刻は深夜。意識が戻り異常もないということで、翌日昼には葦名の病院へと身を移すことと相成った。この間に付き添ってきたのは弦一郎のみ。鬼庭は一足先に、九郎を引率して帰ったらしい。

 そう、九郎だ。眠るに難い夜を過ごした狼の脳裏の多くを占めていたのは、九郎の言葉であった。あの瞬間、本当に辛うじて狼の意識を現実に引き戻したのが、あの声だった。聞き間違えようのない、懐かしい呼び名。

(……戻ったら、聞かねばならぬ)

 

 葦名に戻った狼に言い渡されたのは、ニ週間の入院期間と全治3か月の診断であった。随分と綺麗に折れたらしく、故障の内容にしては比較的短い部類であるようだ。弦一郎は、レースの結果にも、これについても何を言うこともなかった。

 

 二週間のうちに、幾人かが狼の病室を訪れた。オニカゲと鬼庭は真っ先に顔を出し、幾度も離脱を経験している彼女は特別悲観するでもなくセキロの肩を叩いた。変若の御子と小太郎、それに九郎の同級生とは連れ立って現れ、米と柿を嫌というほどに置いて帰った。

 アグネスデジタルは流石に足までは運べなかったようだ。秋の天皇賞を間近に控える身であれば、当然のことではある。が、レースの翌々日にはファンからの見舞い品に紛れてやたらと上等なおはぎと千羽鶴が送られてきていた。おはぎは、いつぞやのインタビューで好物と答えたのだったか。そちらはともかくとして、千羽鶴は明らかに素人づくりであるのに彼女一人の名しかない。まさか、一人で折ったのだろうか。顔を合わせた時間はわずかながら、狼の直感はそれもありうると感じていた。

 

 最もよく顔を合わせたのはエマであった。見舞いという以上に、彼女の職責故ではあったが。ウマ娘に特化したリハビリテーションについて習熟しているらしく、退院可能になるまでだけでなく、通院での治療も彼女が主に担当することになっていた。エマとは、よく話した。治療のことだけではなく、怨嗟の炎についても。どのみち、身体を動かせない時間も多い。この後のことについて、話す時間は十分にあった。

 

 

 

 そして。この間、九郎は一度も姿を見せなかった。

 迎えた退院の日。狼が帰り着いた家に、九郎は既にいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

破:炎 完。

 




守るべき主は、もういない。
忍びよ。
ウマ娘よ。
何故、走る。
次章。

急:SHADOWS DIE TWICE






ここまで読んでいただいた方、様々な形で応援いただいた方、ありがとうございます。次章が最終章となりますが、完結までノンストップで書ききりたいと思います。よろしくお願いします。


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急:SHADOWS DIE TWICE
19.


『――番ホームに電車が参ります。黄色い線までお下がりください――』

 ごった返した、とまでは行かずとも、気を抜いて歩けば人に当たる程度には賑わったホームを、小柄な少年が大きなキャリーケースを引きずって歩いていた。親らしき大人の姿はない。通りすがる人々から好奇と心配とが等量で配合された視線を受けつつ、少年――九郎はメモ書きを頼りに駅構内を横断していく。次に乗るのは35分後に来る新幹線だ。中途半端な時間を潰すべく目に付いた適当な椅子に腰かけ、ペットボトルの茶を一口飲む。行きかう人の数も、其処此処の掲示物たちも、電光掲示板の大きさも、生まれて初めて……否、()()()()()を含めても、初めて葦名の外に出た九郎にとっては物珍しいものだった。

 

 

 

 自分の胸に滑り込んだ刃の熱さを、今も憶えている。黒の不死斬り。諸刃造りの異形の刀を、炎を湛えた義手で握りしめた狼が真っ先に行ったのは、目の前の人間の小さな胸にそれを突き立てることであった。痛みは無かった。己をただの死体として見下ろす瞳に、ただ何故、と疑問を浮かべて、九郎の生はそこで一度終わった。葦名の地から、一歩も踏み出すことのないまま。

 修羅、という存在については聞き及んでいた。一心とエマから断片的に伝えられた、人斬りの愉悦に心囚われた存在。狼が、そのようなものに堕ち果てたなどとは、エマが、一心が、そしてそれを命じたはずの梟までもが斬り殺されて尚、九郎は認められなかった。認められたのは結局、新たな生を享けて暫くしてからのことであった。

 何故?

 己の死に際に浮かべた思いを、九郎は嘲う。そんなものは決まっている。(わたし)が、そう望んだからだ。命じたからだ。主を取り戻せ。不死を断て。そのために殺せと。そう命じたからだ。

 狼は忍びだ。主に従うが定めの存在だ。己が命じたままに、一体何人を殺したろうか。すべて、自分の所為なのだ。竜胤などに果たしてどれほどの責を負わせられようか。あの夜、呪いに囚うことを知りながら契りを結んだのは、紛れもなく己の意思なのだから。

 

 

 

 耳に滑り込んだアナウンスが、乗るべき列車が間もなく到着すると知らせている。在来線と比べれば売店の類も少なく些か閑散としたホームを抜けて、指定の車両へと辿り着く。九郎の固辞にも関わらず、一心は長距離になるからとわざわざ指定席を用意してくれた。この日の手引きだけでなく、前世から世話をかけてばかりの一心には頭が上がらない。ケースを足元に押し込んで、九郎は背もたれに身体を預ける。窓の外の景色が高速で過ぎ去るのを目の端で追いながら、九郎の意識はまた過去へと遡っていく。

 

 

 

 九郎が両親を喪ったのは、まだ物心ついて僅かの頃であった。幼い脳に、前世も含めた己を正しく思い出した九郎は、到底歳に見合わぬほどに落ち着いた、賢い子供であったはずだ。だが、それらの特質が必ずしも良い方向に作用するとは限らない。引き取られた親類の家で、九郎はそう実感することとなった。年の近い子供を抱えた家庭の中で、従順で大人受けがよく、気味の悪いほどに己を出さない少年の存在は、結局のところ歪みと不和の種にしかならなかった。

 面倒を嫌った大人は、法律上の後見人の立場をそのままに九郎を引き受けてくれる(おしつけられる)相手を求めた。彼らを悪人と罵ろうとは、九郎は思わない。子供を引き取る労苦を一時でも引き受けようとしたのはきっと彼らの良心ではあっただろうし、いざとなったとき、ちゃんと自分たちの子供を優先するというのもきっと正しいことだ。ただ、九郎にとって都合が悪いだけ。

 そうして、名乗りを上げたのが弦一郎であった。配偶者はいないが世話人をつけられる財力があり、遠縁ながら血縁関係もある。地元の名士として知られており人格面でも瑕疵はない。なぜわざわざ、という疑問こそあれ、彼らは歓迎した。

 今世では初めての顔合わせ。じろりと九郎を上から下まで見まわして、弦一郎は自嘲するような息を零した。

「は。竜胤なぞ、あるはずもないか」 

「まだ、探しているのですか」

 九郎の問い。かつての記憶の存在を言外に示したそれに、弦一郎は微かに驚きを浮かべつつも、鼻で笑って応えた。

「まさか。戦もない世では下らぬ力だ。用などない」

「ではなぜ、私を引き取るのですか」

「戯れだ。貴様一人養う程度ならさしたる負担でもない」

 そう言い捨てて。その日から、弦一郎の邸宅が九郎の住まいとなった。

 

 

 

 東京駅。今度こそはごった返した、と表現するに相応しい人並みの中を揉まれるようにして、小さな体が流れていく。道行く人の視線も、この街にあってはわざわざ少年に注がれることもない。身体がぶつかった瞬間にだけ僅かな好奇の感情を向けられながら、乗り換え路線のホームへとなんとか泳ぎ着く。偶々隣り合った親切な青年に壁際の空間を確保して貰って、人を過剰に詰め込んだ車両は新宿に向けて動き出す。

 

 

 

「おお、そなたがセキロだな。弦一郎殿から話は聞いているぞ。私は九郎だ。これからよろしく頼む」

「九郎、様。……お初に、お目にかかりまする」

 憶えているのだろうとは、一目見て分かった。狼は、あれで存外表情がわかりやすい。セキロと呼んだ瞬間の微かな落胆の色に、覚えた胸の痛みを押し込める。己の記憶について明かすつもりはなかった。竜胤の呪いなどどこにもない今世で、主などに囚われて生きる必要などないのだ。

 狼がレースの道を歩んでいたのは、驚きであるとともに喜ばしいことでもあった。主命などなくとも、歩む道を見つけてくれたのだと思った。未だに彼女からは主に対するような態度が抜けきらないが、少しずつ少しずつ、只人らしい柔らかさを感じるようになったと思っていた。姉弟として扱われ、そのように暮らす。前世では決して叶わなかったその幸せに惑わされて、弦一郎と狼、二人の間の溝から目を逸らし続けていた。

 気づけた筈なのだ。弦一郎が葦名のためと駆けまわっていたことは知っていた。狼は何がしたい、何を走りたいなどと口にすることも、面に表すこともなかった。己の立場と繋ぎ合わせれば、出てくる絵図は明白だった。あの日のレースで、魂の奥底に恐怖を刻み付けたあの炎の欠片を見るまで、そんなことさえ考えられていなかった。

 夢を問うて、確信する。今世での日々。己が感じた幸福のすべては、あの不器用な忍びを縛り続ける枷でしかなかったのだと。

 

 頼れる伝手など、一人しか思い浮かばなかった。孫思いではあるが、あの老人は何かと九郎にも甘い。望みを伝えれば、葦名一心は寂寥を顔に浮かべながらも手を配ってくれた。弦一郎の庇護を離れ、狼に何かを強いる札として使われないように。弦一郎が、法的には九郎の何でもないことが、ここでは幸いした。一心が宛がってくれた新たな保護者は、葦名をはるか離れた東京に住んでいるらしい。

 

 葦名から二百数十キロの彼方。乗り換えを一つ挟んで、さらに二十数駅。定刻通りに、九郎は駅の改札から吐き出された。散り散りになる人波をすり抜けて、指定の待ち合わせ場所へと急ぐ。果たして、待ち人はすぐに見つかった。中身の入っていないコートの左袖を揺らしながら立っている、壮年のウマ娘。蓬髪に覆われて窺いにくい顔には、不愛想極まりない表情が張り付いている。

「……来たか」

「そなたが、()()殿()か。これから、世話になります」

 頭を下げる九郎を見下ろして、彼女はふん、と鼻を鳴らす。

「本当に憶えているとはな。互いに、因果なものじゃ」

 九郎の引いていたキャリーケースを軽々と片手で担ぎ上げて、彼女は特別声もかけず早足に歩き始める。九郎は小走りにその背を追った。

「儂のことは猩々と呼べばいい。今の仕事場じゃ、それで通しておる」

「わかりました、猩々殿」

「……口調は楽にしな。元々主筋じゃ、歳なぞ気にせんでいい」

 かつては顔を合わせることもなかった二人は、夕刻の街を住まいに向かう。目指す先には、大きな門を構えた巨大施設の姿。日本ウマ娘トレーニングセンター学園が、聳えていた。

 



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20.

「3か月か。次が厳しいな」

 狼の予後について本人の口から伝えられた弦一郎の、開口一番の言葉がこれであった。時は十月の初め、南部杯から2日が過ぎた後のことである。完治してから走れる程度に仕上げる時間を考えると、冬の間は丸々休養に充てねばならない勘定になる。復帰を期待するファンは多いだろうが、果たしてどこまで熱量を維持できるか。とはいえ、弦一郎にこの時間を縮める術はない。出来るのは、信頼に値する医療技術者を恃むことだけだ。そして都合よく、この場にはリハビリテーションの専門家が存在している。

「貴様には専属に近い形で付いて貰う。雑事と代わりの人手はこちらで回しておこう」

 エマは元々、ウマ娘の運動能力回復を専門とした技術者であり、研究者でもある。中央のトレセンでの修行経験もあり、若くはあるが弦一郎の知る限り最高の適格者であった。当然の人選である。

 

 が、それが当然に受け入れられるとは限らない。それは、静かな声色であった。だが、その背後に孕んだ熱は隠しようもなかった。

「まだ、走るつもりなのですか」

「無論だ」

 即答した弦一郎に、エマの右手が閃いた。意外な素早さで襟首へ動いた手は、しかしあっさりと弦一郎の硬い掌に掴みとられる。

「何の真似だ」

「まだそのような戯言をっ……!」

「戯言なものか」

 狼の横たわるベッドの脇で、二人がにらみ合う。ぎり、とエマの腕に力が籠るが、剣術など修めているわけもない今世のエマでは、弦一郎の手を振りほどくことはできなかった。

「ウマ娘が故障から復帰して、また走る。それは、よいのです。私はそのためにこの道に進んだのですから」

 ウマ娘の脚は、一般的に出力に比して耐久性に欠く。レースと故障とは不可分の関係にあり、ある種望んで己を壊しに行く、愚かしい行為とも言えなくはない。だが、エマはその行いまでは否定しない。その助けとなるのが、己の仕事であると任じているためだ。

「ですが、これは見過ごせない。原因は明らかで、またこうなることが分かり切っているのに走らせるなど」

 弦一郎が握っていた手首を押しのけ、離す。怒りに揺れるエマの声とは対照的に、弦一郎の声はあくまで冷たく、固かった。

「次はこうならぬように努める。怨嗟の炎についても、調べに最も詳しいのは貴様だ。次も考えてもらおう」

「どんな対策()を打ったところでっ」

 思わず出た、といった風情の大きな声にエマは一度息を吐き、努めて落ち着いた声で続けた。

「レースに絶対はない。その言葉の重さを此度、思い知りました。……初めから、走らせるべきではなかった」

「エマ殿」

 割って入ったのは、狼であった。静かな、しかし強い視線が、エマの双眸を見据えている。

「俺は走る」

 エマの喉が、微かに鳴った。弦一郎は小さく口元を歪める。

「本人は、こう言っているが」

「……最善は尽くします。走ろうと走るまいと、治すのが私の仕事です」

「決まりだな」

 肩を落としたエマに一瞬だけ目をくれて、弦一郎は病室を後にする。長い沈黙が下りた。

 

 先に空気を揺らしたのは、エマの呟くように小さな声であった。

「……セキロ殿」

「……なんだ」

「貴女がそうするというのなら、止める術を私は持ちません。ですが、その代わりに約してもらいたいことがあります」

 狼の肩を、エマの掌が掴む。

「貴女の全てを話してください」

「……どういう、意味だ」

 エマの瞳の強さに、狼はわずかにたじろいだ。肩に置かれた指が、狼を逃すまいとするかのように食い込む。何かは解らずとも、何かを秘していることは確信している。そういった目であった。

「どれほどのことができるかはわかりませんが。もう、怨嗟の炎の洩れぬよう、考えることしか出来ません。……話してください。貴女と、猩々だけが持つ特別が何なのか、知らなければならないのです。……どうか」

 

 まるで、縋るかのようであった。助ける立場がエマで、助けられる立場が狼であるというのに。長い瞬きを一つして、狼は心を決めた。

 

「――長い話になる」

「ええ」

「話すのも得手ではない。それでも良ければ、話そう」

「……是非」

 

 かくして、エマは只人として初めて知ることとなった。血腥い風に満ちた、戦国の世の葦名。その地に在った常ならざる力と、それを巡る戦について。

 長い、長い話を終えて、病室には赤い夕陽が差し込んでいた。エマは狼の辿々しい語りを遮ることなく、静かに手元の紙片に書き留めていた。

「……今少し、考える時間を頂きます」

 狼の声が止み、静寂が満ちた部屋に、エマの呟きが響く。狼はただ頷いた。

 

 

 

 術後の経過は、順調そのものであった。適切な処置を受けて、セキロの強壮そのものの肉体は期待以上の早さで回復を見せている。リハビリテーションの経過も、車いすと歩行器を経て既に松葉杖を扱える段階……即ち、退院も間近になっていた。酷く壊れていた義手も早々に直され、狼の左腕に収まっている。念のため、とエマが一から検めたが、この腕自体に何かある様子は見られなかった。

 そのエマであるが。狼が全てを打ち明けてからの数日は、流石に平静とは行かない様子であった。しかしながら、本来の職責を忘れることもなかった。終始何かしらを考え込む様子を見せつつも、必要な仕事は確実にこなす。そしてここ数日は、彼女なりに話を呑み込んだか、何かと狼に訊ねてくるようになっていた。

「怨嗟が積もり、鬼に変ずる。それを、見たのですね」

「……ああ」

 多くを殺してきた忍びが、死者の怨嗟を集めて炎を発し鬼となる。

 仏師の語った言葉と、その成れ果てた姿。加えて、大手門の櫓で出会った老婆の言葉から狼が組み上げていた推察がそれである。身体が変じたとて、狼の積み重ねた死が無くなるわけではない。因果は引き継がれ、また炎を呼んだ。しかしこの仮説に対して、エマの態度は懐疑的であった。

「だが、それではおかしい。戦が怨嗟を生むというのなら、今の世では燃え上がる道理などないはず。……それに、もう一つ。前世の業というならば、なぜ貴女は()()()()()()のですか?」

 微かに目を瞠る。確かに、あの炎に呑まれた狼は、あくまでも勝利に執着していた。人斬りでなく、かつての世には影も形もなかったレースにだ。

「恐らくですが。貴女の想像とは、似て非なるものではないでしょうか」

 

 

「恐らくじゃがな。お前さんが前に見たのとは、少しばかり違うものじゃろう」

 そう、低く呟くように告げたのは猩々だ。九郎が身を寄せてから数日。猩々がトレーニングスタッフとして努めるトレセン学園の職員寮の一室で、二人は炬燵を挟んで座っていた。ならば何であるのか。そんな疑問を乗せた九郎の瞳が、猩々に注がれる。

「忍びというのは、因果なものじゃ。殺したその血飛沫さえ、次を斬るのに使おうとする……形代というのを、見たことはあるか」

「……いや。ない」

「無いなら、無いほうがいい。死んだ連中の、心残りがそれじゃ」

 業深き忍びは形代を多く憑け、それすらも利用して殺す。己の身に、誰かの無念を寄せるのだ。変わらぬのは、かつての因果ではなく忍びの習いであった。

「ということは、今の世でも」

「形を為すほどのものこそ無いが、薄っすらと、感じることはある。知らぬうちに、()()()おるのよ」

 死者でなくとも、無念は残る。それが競う場であれば、特に。ダートのコースには、いったいどれほどのウマ娘の心残りが浸み込んでいるのだろうか。九郎の目元に、暗い影が落ちる。

「では、猩々殿も」

「ふん。その通りじゃ」

 猩々は視線を遠くに投げて、鼻を鳴らす。

「儂も昔、そうなった。儂のことは、一心様から少しは聞いて居よう」

 九郎は、ただ首肯した。それをちらりとだけ見やって、猩々は言葉をつづける。

「ようやく、恩を返せると思うた。今度こそ、しがらみもなくやれるとな。一心様が憶えておらずとも、そうしようとして……結局はまた、呑まれた」

 無意識にか、その右手は脚を摩っている。動くが、走れない。猩々はそう言った。

「また、止めていただいたのよ。コースに走りこんで、儂を引き倒した。当然レースは丸潰れ。トレーナーの職は辞するしかなかった。死なんかっただけ、幸運だったろうな」

 一言口に出すたびに、己の身を抉っているような。苦々しい語り口であった。その姿を正視するのに堪えかねて、九郎は視線を俯かせる。

「なら、やはり、これでよかったのだな」

「……さあな。儂には、どうとも言えぬ」

 そろそろ、狼の退院も近いころだろう。治るのはまだ先だが、レースもなければ焦る必要などない。猩々の煮え切らぬ答えに心揺らされながらも、九郎は願う。狼が、今度こそ人として生きられるように、と。

 



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21.

 不穏の種は、確かにあった。狼にはひどく長く感じられたこの二週間、九郎は一度も顔を見せることが無かったのだから。さらに、レース前から様子はおかしかった。目先のトレーニングや治療にかまけて目を逸らしていた現実を、狼はこの日最悪の形で見据えることとなった。

 

 休日の昼間。九郎は家にいるか、でなければ書置きなり言伝なりを残して遊びに出ているはずだ。しかしその様子は欠片もなく、なにより、居間や玄関にあったはずの私物がそっくりと消え失せている。私室を訪ねてみれば、こちらももぬけの殻だ。大きな家具を除いて何も無くなった空虚な部屋を前に、狼はただ茫然とするしかなかった。

「……九郎様は、どこに」

「あれはもうおらん。お祖父様の手引きのようだ。帰る気は無いらしい」

 弦一郎からは吐き捨てるような答えとともに、小さな便箋が投げ渡された。折りたたまれた表には、九郎らしい几帳面な字で狼の名が書かれている。開いた中には、ことのあらましがごく簡単に記されていた。他所に身を寄せる、信頼のできる相手であるから心配はいらない。探すようなことはするな。一番最後には、一行を空けて、『世話をかけた。すまない』との一言があった。

 立ち尽くす狼に、弦一郎は何も声をかけなかった。もとより、九郎の存在をもって縛り付けていただけの関係だ。それが消え失せた以上、弦一郎からの言葉は何の意味も持たない。

 

 

 エマが訪れたのは、その翌日である。この日もリハビリの序でに怨嗟について話すべく訪れた彼女は、口数は少ないながらも精力的に励んでいた狼の変わりように、戸惑いを禁じ得なかった。

「――何があったのですか」

 そう問うても、狼はただ茫として俯くばかりであった。挙句に、今日の業務――当然、競走能力回復のために必要な工程だ――を済ませようとしたエマに返ってきた答えがこれである。

「要らぬ」

「何故ですか」

「もう、レースには出ぬ」

 エマの頬がぴくりと動いた。一見して穏やかなままに見えるその顔には、静かな怒りが湛えられている。それきり口をつぐんだままの狼に何を訊いても無駄と悟って、彼女は向かう。事情を恐らく知っているだろう唯一の人物のもとへ。

 

 弦一郎は、二人がいた客間からは離れた居間で、一人PCに向き合っていた。ちらりとだけ上がった顔が、また興味なさげに画面へと戻る。その様子は、エマの神経を更に逆撫でるには十分なものであった。

「弦一郎殿。何が、あったのですか」

「見ての通りだ。あれはもう走らんと言っている」

 苦々しい口ぶりだ。弦一郎の意志ではない、となれば。エマの脳内で、聞き知った事物が一つの像を結んだ。

「九郎殿ですか」 

「ほう。何をどこまで聞いた」

 驚いたように、弦一郎は眉を跳ね上げた。狼と九郎との関係。前世など知らぬ常人であれば、些か理解の難しい関係である。狼が敢えて口にしなかったことであったが、話に現れる幼い主と邸宅に住まう少年の存在とを結び付ければ推察は容易であった。

「人質、というわけですか。時代錯誤な」

「は、どうでもよかろう。過ぎたことだ」

 それより、と弦一郎は語気を強める。

「貴様も説得に手を貸せ。昨日からずっとあれだ、あのままでは()()()()()

「お忘れのようですが。私はもともと、彼女がレースに出ることには反対しております」

 鋭い舌打ちとともに、弦一郎は顔を歪める。ことこの件において、エマは別段弦一郎の味方ではない、という事実を今更思い出したのである。そんなことも思慮のうちから外れているというのが、弦一郎の焦燥を如実に物語っていた。

「ですが。レースに出ようが出まいが、リハビリはやってもらいます」

 競走能力が必要とされなくとも、正しいフォームで歩く、走ることができるというのは重要だ。老人などは、歩行が困難になった途端に気力も喪失し、その他の疾患を発して衰弱することが少なくない。狼が何と言おうと、その職責においてエマが手を抜くことなど、彼女自身が許すはずもなかった。

 

「いつまで、そうしているのですか」

 再び狼の目の前に現れたエマの表情に、既に怒りはない。己が責務を果たさんとする決然たる意志のみが、瞳に宿っていた。

「……不要と言った」

「レースの有無は関係ありません。後遺症が残った脚で、世を呪って過ごすようなことを、九郎殿が望んでいるのですか」

 その名前が、狼の顔を僅かに上向かせた。もう、主に出来ることはない。だが、せめて望まれたように生きるべきではないか。澱んだままの瞳に、差し出された掌が映った。そういえば。いつか、井戸底で蹲っていた己の目の前に落ちてきた折文。あれは、彼女が落としたものだったか。狼は、黙ってその手を取った。

 

 

 

 

 

 更に一週間の時が過ぎたこの日、狼と弦一郎は経過確認のために病院へと足を運んでいた。種々の検査を受け終えて、医師から現状を伝えられる。狼の心中とは裏腹に、回復は想定以上に順調らしい。恐らくは、物理療法から栄養管理に至るまでをウマ娘の故障に最適化した、エマの尽力によるものであろう。この様子であれば、完治までの期間は一月弱縮みうる、とのことであった。

 

 さて。一通りの用事を終えて帰路に就こうとした二人を呼び止める声があった。

「奇遇だな、セキロ。それに、弦一郎殿」

 女性にしてはやや低い、そして狼にとっては耳馴染みのある声。振り返ってみれば、そこには灰色の髪を豊かに蓄えた、壮齢のウマ娘の姿がある。彼女は狼の瞳を覗き込んで、僅かに顔を顰めた。

「……また、つまらん目をするようになった」

義母(はは)上。何故ここに」

「野暮用よ。何、もう済んだ」

 

 何が奇遇なものか、と内心弦一郎は毒づいた。この性質の悪い老人――今はウマ娘だが――が実に面倒な相手であることを、弦一郎はよく知っている。今日とて、その野暮用など存在しないに違いない。ここで出くわすために、わざわざ赴いてきたのだ。狼から聞き出したか、或いは使用人あたりと付き合いを作っていても不思議はない。ここに現れた用件というのも、察しはついていた。

 

「時に、セキロ。……戻るつもりはないか」

 これだ。南部杯以来、幾度もこちらを訪れようとしていた梟を、弦一郎は何かと理由をつけて断り続けてきた。理由は単純。狼を手元に連れ戻そうとしているのが明らかだからである。親莫迦め、と心中罵りながら、弦一郎は思考を巡らせる。

 狼にしてみれば、梟にそう言われて断る理由などないだろう。だがそれでは困る。九郎という札こそなくなったが、どうにか心変わりを起こさせられないか。手元から離してしまえば、その機会も喪われる。そうして弦一郎がなんとか先延ばしにし続けていた対面を、梟は偶然を装って成立させたのだ。

 

「梟」

 答を返そうとした狼に被せるように、弦一郎は声を発する。

「今はまだ治療中だ。貴様の家は通院には些か遠い。完治までは待て」

「そうするか。ならばまた……そうじゃな、二月先にでも話すとしよう」

 僅かに時間は稼いだが、明確な期限が作られてしまった。恐らくは最初からこのつもりだったのだろう、梟はあっさりと引き下がってみせる。小さく舌を打つ弦一郎の隣で、狼はただ茫と梟の背中を見つめていた。

 



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22.

「おうい」

 狼が己を遠くから呼ばう声に気が付いたのは、買い出しに出た近くの商店でのことだった。無聊に耐えかねて、歩行の練習にもなるからと買って出たのである。振り向けば、巨体に禿頭のひどく目立つ人物が、こちらに手を振っている。一応、簡単な変装として眼鏡も掛けているが、知り合い相手にはさして影響しないようであった。

「小太郎か」

「久しぶりだなあ、セキロさん」

 相変わらずの人懐こい笑みを満面に浮かべて、小太郎は狼の間近まで寄ってきた。両手には一杯に中身の詰まった袋が下げられている。随分と重そうだが、小太郎はなんでもなさそうに持ち上げていた。

「もう、歩いても大丈夫なんだな」

「ああ」

「うん、よかったなあ」

 答える狼の足先に、もうギプスはない。数日前の検査で大方骨が繋がったことがわかり、外したところだ。体重を急に掛けるような真似は避けるよう厳命されているものの、杖を併用して少しづつ負荷を掛けたほうがよい状態になったらしい。狼の答えを聞いて、小太郎は相好を崩した。

「そうだ。セキロさん、今日は忙しいかなあ」

「……いや、特に用はない」

 軽く考えて、狼はそう返す。狼自身は暇であるし、買い出しの中身も使うのは明日以降だ。急ぐ理由は無かった。

「なら、うちに寄ってってくれんじゃろうか?みんな、会いたがっててなあ。……とくに、最近は九郎さんもおらんから寂しがってるんだ」

 小太郎の大きな顔は、喜怒哀楽を素直に映し出す。九郎の名前を口にして、明らかに曇った小太郎の顔を見れば、狼に断る選択肢は存在しなかった。

「……そうか。解った」

 

 

 

 小太郎のいう『うち』までは、歩いてもさほど時間はかからない。小太郎が狼の分の荷物まで全て持ってしまったのもあって、狼からすれば楽々と辿り着くことができた。仙峯寺の別院を端緒とするその施設に厳めしい山門をくぐって入った狼は、早々に子供たちの歓迎を受けることとなった。

 トゥインクル・シリーズほどでないにせよ、地元のローカル・シリーズもテレビなどで目にする機会は少なくない。それに加えて、ちらりと見渡せば人だけでなくウマ娘の姿もある。実のところ、ウマ娘の子供はその燃費の悪さも相俟って、心無い扱いを受けることも少なくない。それ故、このような施設において、セキロのような競走ウマ娘の人気は中々大したものであった。

 怪我は治りそうか、であるとか。次も応援している、であるとか。声の中にはセキロの()に期待するものも少なくない。答えにくいそれらを、狼は口を噤んで受け流した。次がないことなど知る由もない小太郎は、隣でただにこにこと笑っている。結局、狼を囲む人群れからの声は、もう一人が現れるまで収まらなかった。

「いけませんよ、そんな風に囲んでは。セキロさんも困っているでしょう」

 そう声をかけたのは変若の御子であった。こちらも丁度帰宅したところらしい。おかえり、とじゃれついてくる年下の子供たちを上手くいなして、御子は狼を室内へと誘った。

 

「すみません、騒がしくしてしまって」

「いや。構わぬ」

 口ではそう言ったものの、狼にしてみれば、正直なところ助かった、という気持ちが大きい。当然悪意などないとはいえ、あの子供達の無邪気な期待は狼にとって重たかった。彼等が望む競走ウマ娘としてのセキロの姿は、もう見せる必要もなくなったのだから。

 変若の御子はそれ以上言葉を重ねることなく、無言のままに茶を淹れ、振る舞った。暖かいそれが、二人の間の空気をわずかに弛緩させる。ぽつりと、狼の唇から言葉が溢れた。己と、九郎との顛末について。事情を知る数少ない知人である御子に聞いて欲しいと、どこかで思っていたのかもしれない。

「……そうですか。九郎くんは、帰らないのですね」

「ああ」

「何と申し上げましょうか……。それは、そう、惜しいですね。とても」

「惜しい、か」

 少し奇妙な言い回しに、狼は御子の面を窺った。彼女の表情は終始穏やかなままであったが、湯呑に落ちた視線には隠しきれない寂寥の念が滲んでいる。

「ええ。貴女のことを話す九郎くんは、とても楽しそうでしたから。……幸せになってほしかったのです。ずっと、竜胤の御子が人であると知れた、あの時から」

 狼の脳裏にいつか、不調に喘ぎながらも『お米』を授けようとした御子の姿が蘇る。そして、おはぎの話を伝えた時の、晴れやかな笑顔も。それとは似ても似つかぬ、狼に気遣って心中を押し隠したであろう曖昧な笑みに居た堪れなくなった狼は、厠を借りると言い訳を付けて席を外した。

 

 

 

 施設には子供たちが遊ぶ前庭以外にも、裏手の森に向けて開かれた大窓があった。緩く吹いてくる風に前髪を遊ばせて、窓際に立った狼は一つ息をつく。

「おや。其処許」

 久しく聞かないその呼びかけに、狼は息を呑んだ。まさか、と思って上げた視線の先には、特徴の少ない老年の男の顔。面頬も、顔を縦断した大きな傷も無く、一目にわかるようなものはないが、その顔は。

「もしや、忍びどのではないか?」

死なず、と呼ばれた侍の顔と、重なって見えた。

「半兵衛、か」

「おお、やはり。……その節は、まことに世話になったな」

 そう言って、半兵衛は小さく頭を下げる。どうやら、彼も憶えているらしい。世話になった、というのは、()()のことであろうか。狼は僅かに目を逸らした。あの時の行いを思い返せば、割り切れないものが心中深くから幾らでも湧いてくる。請われたことでもあり、間違いとまでは思わぬとしても、その謝意を臆面なく受け取ることは出来そうもなかった。居心地悪さを誤魔化しに、言葉少なに話題を逸らす。

「ここで、働いているのか」

「正しくは、仙峯寺の寺男といったところだな。昔に拾われて、下働きに置いて貰っておるのよ」

 どうやら拾われた恩義もあり、ここの手伝いも含めて雑役の類を一手に引き受けているらしい。半兵衛は、前は(むし)を貰うたが、此度は(めし)を貰うたのでな、などと、些か笑いにくい冗談を口にした。

「それで。其処許は、如何しているのかな。……某が聞いてよいものであれば、話したほうが楽なこともあろう」

 そういわれる程度には、酷い顔をしていたようだった。――狼の心の糸は、よくよく(ほつ)れているらしい。半兵衛の言葉のまま、狼はこの日二度目となる身の上語りをしてしまっていた。一通りを聞き終えて、半兵衛は疑問を口に上せる。

「ふむ。迎えには行かぬのかな」

「……探すなと。そう、書かれていた」

 ふうむ、と半兵衛は顎をさする。どこか困ったような、もしくは僅かに呆れるような、微妙な表情がその顔には浮かんでいた。

「其処許は、もう少し()()というものを言ってもよいと思うのだ。忍びに掛けるべき言葉では、ないかもしれぬがな」

「我儘、とは」

「会いたいと、顔に書いておるぞ」

 訝しげに、顔に手を滑らせる狼を見て、半兵衛は苦笑いを零す。姿形こそ大きく変わったが、その朴訥さは相変わらずの狼を、懐かしんでいるようであった。

「某に叶う事であれば、気兼ねなく相談するといい。――恩、というのも無論だがな。その、相変わらずの皴を取ってやりたいのよ」

 半兵衛は狼の眉間を指で突いて、僅かに口元を緩める。

「……感謝する」

 狼は、そっと呟いた。



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23.

 正月という行事は、ほとんどの日本人が共有する祝祭である。狼や弦一郎の生きた戦国の世においてもそれは変わりない。とはいえ、かつての狼は忍びであり、実際ともに浮かれるようなことは無かったのだが。今の世にあって、特に昨年などは九郎のたっての希望もあり、年越しに初詣、正月遊びと連れまわされたものであった。

 この年、九郎不在のまま迎えた正月。狼は元々意欲が低かったものの、エマと、意外にも家人が強く主張したことにより、この年も正月がらみのあれやこれやはしっかりと執り行われることとなった。狼も、やるというなら特に逆らう理由もない。最後まで面倒がっていたのは弦一郎であったが、ワーカホリックの気のある弦一郎とて、相手がいなければやれる仕事などたかが知れている。官公庁が概ね停止する三が日の間は、正月に付き合うしかないようであった。

 

 さて。初詣だの何だのと、まだやることのあった元日に比べ、残り二日、狼は暇である。そんな第三日目。年賀状の山を早々に捌き終えた弦一郎が投げつけてきた言葉に、狼は困惑するばかりであった。

「じきに客が来る。用意しておけ」

 ここ最近の弦一郎の狼に対する態度は、一言でいえば放置である。狼に対する干渉を諦めているようでありながら、脚の具合は気にかけている様子であり、自分の邸宅で養い続けてもいた。狼からすれば些か不気味である。

 その弦一郎が、急に言い出した『客』の存在。取材の類であればそう明言するであろうし、狼が付き合う義理もない。というのに、弦一郎の表情は狼が取り合わない、という可能性を全く考えていない様子である。何かある、と考えるのは自然であった。

 

「何のつもりだ」

「さあな。会えば解ろう」

 どうやら、説明を加えるつもりは一切ないらしい。二人の耳に、インターホンの音が響いた。さっさと席を立って玄関口に向かう弦一郎に、狼は追及を諦めてその背中を追う。ごめんください、と扉越しに少女の声がした。さて、どこで聞いたものだったか。記憶を探り当てる前に、弦一郎が戸を開け放った。

「あっおはようございますぅ……」

 ちょうどセキロと同じ視線の高さに、空色の瞳が瞬いていた。いつかダートの上で見た姿とよく似た、幼げな雰囲気を醸し出す服と容姿。彼女は表情を変えぬまま固まったセキロとたっぷり数秒間見つめあった後、小さく頬を搔きながら口を開いた。

「えへへ、来ちゃいました……なんちゃって」

 

 

 

 一応は見舞い、という名目であるらしい。高級過ぎない消え物という無難そのものの手土産を渡し終えたアグネスデジタルは、わざわざ弦一郎が出してきた茶を前に戸惑っていた。

「脚の具合は、どうですか」

「もう、ほぼ治った」

 遡ること二週間、狼の脚はついに完治との診断を受けている。全力のトレーニングのみは暫く控えるようにと言われていたが、その制限も数日のうちに外れるだろう。後遺症の類もない。そう告げれば、デジタルの顔には解りやすく安堵の色が浮かんだ。事故を間近で見ていた分、心配は強かったのだろう。そして次にデジタルの口に上ったのは、狼が最も訊いてほしくないそれだった。

「じゃあ、またレースで会えますよね!復帰戦はいつごろに?」

「……その予定はない」

 どこか上ずったような声で訊ねるデジタルの視線に耐えかねて、狼は顔を逸らしながらそう答えた。

「えっと、まだ目途がついてないだけ、ですよね……?」

「いや。もうレースには出ない。引退だ」

「理由を、お聞きしても……?」

「……元々わけあってレースに出ていたが、必要なくなった。それだけだ」

 狼の語調に含まれる明確な拒絶の意を受け取って、アグネスデジタルはそれ以上の理由の追求を諦めた。

 

 実のところ、デジタルはセキロの去就について、おおよそのことは聞いていた。今聞いたような体で話を進めようとして、下手な演技を晒す羽目になってしまったが。見舞いというのも、セキロの容体を特に気にかけていたのも、嘘では無論ない。ないが、わざわざ葦名に足を運んだのは、様子をトレーナー経由で訊ねた際に、弦一郎側からの言葉があったためである。

 曰く。脚は順調に治っているが、怪我以降塞ぎ込んでしまい走る気を無くしている。元気づけてやれないか。とのことであった。

 嘘である、とは瞬時に直感した。元々、弦一郎を葦名で見かけたときから、違和感はあったのだ。ウマ娘も、トレーナーも、ファンたちもみなウマ娘好き(どうし)ばかりが集うあの場所で、弦一郎からは全くその熱を感じられなかった。ただ一人、ウマ娘を見ていない。その向こうの、何かだけを見詰めている。恐らくは、セキロのトレーナーをしているのも、『その必要がある』というだけに過ぎないのではないか。

 そんな弦一郎の言葉だ。セキロを走らせたいのは事実としても、塞ぎ込んでいるなどという理由ではないだろう。だが、嘘であれ好都合だった。セキロにまた走ってもらいたいのは、デジタルとて同じだ。レースの予定もなく、時間を捻出するのは難しくない。自分如きの言葉が、何かになるのなら。そう思って、ここまで来た。

「やめた後、なにかしたいお仕事があったり?」

「いや。考えていない」

 短く切り捨てるような返答。本当に、何もないのだろう。他に目標や夢があってやめるのではない。必要だったから走っていて、必要なくなったから走らない。レースに何かを乗せることをしない、そんな態度。それは、実際走っているときのセキロとは、どこか食い違っているようにも見えて。

 

 アグネスデジタルは、それをとても、『もったいない』と思った。

 

 ……それは、一オタクの分を越えた願いだ。布教は押し付けがましくしない。自分の願いより推しの幸せ。『触らない、ねだらない、邪魔しない』を掲げるデジタルが、望むべきではないものだ。

 そう、己を戒めながらも。デジタルの口は、ついに言葉を紡いだ。

「あたしは、セキロちゃんと走りたいです」

 ああ、言ってしまった。そう思いながらも、後悔は不思議となかった。見ているだけのオタクでいいなら、レースなど走らなかった。この我儘を止められないから、アグネスデジタルは走るのだ。不思議そうな色を浮かべたセキロの瞳を真向から見返して、デジタルは言葉を重ねた。

「あたしじゃ、走る理由にはなりませんか」

 まだ、アグネスデジタルは、目の前の少女の全てを見ていない。一度目は、自分のミスで見逃した。二度目は、相手のトラブルで掴み損ねた。もう一度戦いたい。セキロは、そうは思ってくれないのだろうか。その口元は、一文字に引き結ばれたままだ。

 

「セキロちゃん。あたしはあれから、二回レースで走りました。ビデオとか、見てくれましたか?」

「……いや。見ておらぬ」

 テイエムオペラオーと、メイショウドトウ。最強最大の推しに挑み、破った秋の天皇賞。さらに遠く、広くを目指して、勢いそのままに駆け抜けた香港カップ。どちらもずっと、デジタルの夢だった。そして、最高の戦いだった。ウマ娘のレース、その根源的な魅力にきっと満ち溢れていた。 

 自分が誰かの推しになるなんて、ずっと考えてもみなかったけれど。不屈の王者(キング)が、常勝の覇王が、その宿敵が、そして自分を支え続けてきた相棒(トレーナー)が。認めてくれた自分の走りを、アグネスデジタルは自信を持って()()する。

 

「だったら。見てください、あたしの走りを」

 

 セキロが、何かを受け取ってくれると信じて。

 



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24.

 

 明くる日。エマは常の通り来た迎えの車の中に、普段はない人の姿を認めた。弦一郎だ。乗り込んだ彼女に、弦一郎は開口一番に問うた。

「調べは進んだか」

「いえ。確かなことは、何も」

「確かでなければ、あるのだな」

 即座に切り返してくる弦一郎に、エマは僅かに眉を顰める。怨嗟の炎について分かったことのほとんどは、狼を介した前世に纏わることばかりで、狼の退院以来大して進んではいない。その源泉が、戦の死者でなくレースの敗者の心残りであろう、というのがある程度確からしい推論だ。とはいえ、これも防ぐ手立てには結びつかない。

『何のために斬っていたか、それすら忘れ、ただ斬る悦びに心を囚われる』

 狼のもはや遠い記憶から拾い上げたこの言葉が、今残る唯一の手がかりである。目的を忘れさえしなければ、修羅に落ちることはない、というところか。あまりに曖昧で、不確かな情報。エマは、もう二度とそんなものに縋るつもりはなかった。

 

 そもそも。

「セキロ殿が、まだレースに出るとでも思うのですか」

 在り得ぬことだ、と切り捨てようとしたエマに、弦一郎は口元を歪めてみせた。

「その目はある。あの娘(アグネスデジタル)が上手く焚き付けてくれたようだ」

「焚き付ける、とは。……ウマ娘の本能、ですか」

 曰く、ウマ娘は本能的に走ること、競うことを好むという。それは、およそ七割のウマ娘が勝ち星を一つも掴めないという、あまりに厳しい現実を知りながらも、中央トレセン学園の門を叩くものが途絶えないほどに。種族レベルの抗いがたい衝動、それを当てにしているのか。だが、弦一郎の言葉はエマの予想からは外れていた。

「否。それも多少はあろうが……もっと前から、あれはそういう性質(たち)だろう」

 その言葉にエマは首を傾げた。狼の振舞いも、語られた前世の生き方も、そういった印象からはほど遠かったからだ。きっと解らぬだろう、と弦一郎は思う。あの戦の日を本当の意味では知らぬ、この女では。

 かつての狼は、あらゆる技でもって弦一郎と斬り合い、殺し尽くした。忍びの技、葦名流の技、仙峯寺の坊主共の技、果ては巴流の技に至るまで。全て、戦の中で身に着けてきたのだろう。敵の全てを吞み込むようなそれは、葦名一心のそれと同じだ。

 瞳に、修羅の影があると。狼はかつて、一心に言われたのだという。相手に挑み、勝ろうとする執念。人斬りの才。そう呼ぶべきものが狼にはあり、……きっと、弦一郎には無かった。使命のために人を斬ることと、人斬りのために人を斬ること。その危うい端境にまで踏み込める、数少ない人間。或いは狂人と称されても仕方ないその資質が、狼にはあった。

「……そうでなければ。葦名一心(剣聖)になど、勝れるはずもない」

 エマには聴き取れぬほど低く、弦一郎は呟いた。

 

「ですが、それでも。九郎殿が望まない限り、それは在り得ません」

 仮に、弦一郎の言葉が真実であったとして。それでも狼を動かすには至らないと、エマは断じる。走ること、走らぬこと。両者を較べる天秤には、九郎という、狼にとってはあまりにも大きな(おもり)が乗っている。

「どうかな。なら、あれが現在(いま)に満足していると、そう思うか」

「……それは」

 答えは、明確に否。敬愛する主に突き放された狼の様子は、傍から見ても酷いものだ。まして、九郎は今までの暮らしを全て棄てざるを得なかった。――良き関係にあった級友たちにも、何も告げられぬままに去ったのだ。そうさせてしまった事実は、間違いなく狼を憔悴させていた。

「御子は取り戻す。行く先の当てはまだ掴めていないが、必ずだ」

「……それで、また盾に取ろうというのですか。九郎殿が従う理由など無いでしょう。それに、仮に何かしようとしたのなら。セキロ殿も、私もきっと許しませぬ」

「もうそれが使えんのは承知の上だ。……安い手に頼った()()だな」

「なら、どうすると?」

「まだ手が一つだけある。正真正銘、最後の手だ」

 

 

 

『――アグネスデジタル捉えたか、捉えた捉えたゴールイン!』

 雨の中、ゴール板を駆け抜ける彼女の姿を、何度も繰り返す。いつか自分と走ったよりも、更に進化したであろう力強い末脚。ダートに共に立ったとして、如何に勝つか。そんな無意味な思考を自覚して、狼は頭を振った。

 ……知らぬうちに、己は余程、レースというものに魅入られていたらしい。レース場に詰め掛けた観衆の歓声(こえ)を思う。『走りたい』と言った、アグネスデジタルの表情を思う。自分の胸に熾った、静かな熱を思う。だが、それらを束ねてなお、狼の心の天秤は動かない。周りが、己が走りたいと望んだとしても。それが主の心を苛むのなら、そうする()()()()()()のだ。

 

 画面を流れる映像が切り替わる。もうひとつ前のレース。即ち、アグネスデジタルとセキロが競い、敗れ去ったレースだ。ひとつ前に見た映像では芝を駆け抜けていた彼女が、今度はダートを巻き上げながら力強く駆けている。奔放極まりない、欲望のままに走る少女の姿を、狼はほんの僅かに羨んだ。視点が変わって、先頭を駆けるセキロ自身の姿が映る。感情の色の薄い顔に、しかしはっきりと解るほどには不安が浮かび上がっていた。

 

 ――九郎の目に、己の姿はどう映っていただろうか。勝てば、喜んではいたはずだ。弦一郎との約定など知らぬ、あの頃は。間違いなく幸福だった。たとえそれが、薄氷の上の偽りであったとしても。

 ふと思い立った狼は画面を離れて、九郎の私室を訪れた。私物の類がほとんど無くなったその部屋のに、九郎が置いていったものがいくつかある。そのうちの一つは押し入れにしまい込まれたセキロのぬいぐるみであり、もう一つは文机の抽斗の中にあるグッズの類であった。その抽斗を、狼は引き開ける。狼が退院した日。九郎がいなくなったことを知ったその日のまま、引き出しの中には幾種類かの缶バッジが並べられている。弦一郎か狼に求めれば手に入るかもしれないそれを、九郎は態々買って集めていた。何とはなしに、それを指先でなぞる。嬉し気に見せる九郎の笑顔ばかりが、脳裏にちらついた。

 無為な感傷に浸食されていた狼が、我に帰ろうとした矢先。……指先に、こつりと何かが触れた。バッジではない、いくらか大きく、硬い何か。抽斗の開ききらない奥側に隠れていたらしいそれを、狼の指はつまみ、引き出す。

「……九郎様、」

 その目で見て。指先で、形を確かめて。ひどく馴染みのあるその形に思わず、狼は声を震わせた。

 

 

「ここにいたか」

 弦一郎の声。振り返れば、エマも隣に佇んでいた。ウマ娘の耳と忍びの感覚を備えておきながら、今に至るまで気付かなかった己の自失ぶりに呆れる。

「話がある」

「話すことなどないだろう。……どうあれ、明日には出ていく」

 そう。明日には、義母が迎えに来る。狼は、それで去るつもりであった。次の、弦一郎の行動を目にするまでは。

 

()

 弦一郎が、常と違う名で呼ぶ。微かに目を瞠った狼の眼前で、弦一郎は背筋を正してゆっくりと膝を折った。人前に出ていないためか括られぬままに伸びた、男にしては長い髪が畳を摺って、次いでその額が床に付けられる。エマの喉が、驚きのあまりに声にならない掠れた音を立てた。

「……何の、つもりだ」

 

「レースに、出て貰えぬだろうか」

 それは、見事な土下座だった。

 



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25.

 何を考えている。地に伏した弦一郎の頭を見下ろして、狼の心中には疑問が渦巻いていた。エマも同じだ。ただ困惑する二人の耳を、続く言葉が追い打つ。

「もう、貴様に命ずる謂れも、取引する種もない。故に、頼む」

 弦一郎の言葉は、狼からしても真実だ。もはや弦一郎の言葉は命令にも、交渉にもなり得ない。ただの懇願だ。

「俺に叶うことならば何であれ力を尽くす。今一度、走ってくれ」

 無理だ。エマは、そう思った。狼にとって弦一郎は前世における仇敵であるばかりか、今世においても九郎を質に取る敵でしかなかった。そんな相手の頼みを引き受ける人間が、どこにいるだろうか。そんなエマの推測とは裏腹に、狼はじっと弦一郎を見つめてから口を開いた。

「……顔を、上げろ」

 狼の瞳が、床から上げられた弦一郎の瞳を真正面から覗き込む。真暗い瞳だ。深い絶望と、その上に決然たる意志を湛えたその色は、狼にひどく既視感を覚えさせた。あの時……薄野原で、己の首に不死斬りの刃を突き立てた時と、よく似た色。

 言葉と態度のどこかに偽りがないかと探そうとして、止める。思えば昔から、詭計の類とは縁のない男だった。小策を弄することが全く無かったわけではないが、大忍びのような奸計にはほど遠い。彼の戦は、力を得ること、ただそれにのみ注がれていた。ある種の愚直さすらも感じられるその在り様は、或いは国主としては不適格であったのかもしれない。だが今この場においては、狼を動かす一要因足り得た。

 

「怨嗟は、どうする」

「……セキロ殿?」

「確かではないが、当てはある」

 思わず遮ろうとしたエマの言葉に、被せるようにして弦一郎が答えた。狼の視線が、エマのほうへと移動する。

「エマ殿。真か」

「……はい。ですが、あまりに不確実に過ぎます。万一を思えば認められません」

「万一があれば、俺が止める」

 あっさり言ってのけた弦一郎に一瞬唖然として、我に返ったエマは眦を吊り上げた。

「それがどういう意味か、解っているのですか。全力疾走するウマ娘の前に飛び出すなど、自殺に等しい。……猩々の件は、五体満足で戻った一心様のほうがおかしいのです。如何に武芸の心得があったとて、貴方は――」

「無論承知の上だ。『何であれ力を尽くす』と言った通り。命と引き換えてでも貴様を無事に帰す」

 今度こそ絶句したエマを視野から外して。どうか、と問うてくる弦一郎の目に、狼の天秤が揺らぐ。

 

 

 

 アグネスデジタルが、『共に走りたい』と言った。

 弦一郎が、『走ってくれ』と乞うた。

 望んで、望まれて。それでもなお、主の安寧のためと、押しとどめようとする心に。

 『其処許は、もう少し()()というものを言ってもよいと思うのだ』

 不死の生涯を越えた同輩の言葉が、最後の迷いを砕いた。

 

「……九郎様を、見つけ出して貰おう」

 口に出すのは、弦一郎に向けての要求。己が走らされること、傷つくことを厭うたであろう主の心を、()()()()()()と切り捨てる。共に在りたいと、そう己が願うままに行動する。

 

 主の望みをそのままに果たすことが、必ずしも行くべき道とは限らない。そんなことを、今更に思い出した。あの時、天守で盗み聞いた言葉。命と引き換えに不死断ちを為そうというそれを、そのまま聞き流すべきだったろうか。……無論、否だ。あの時はついに、常桜の花を手に入れることは叶わなかったが。届かなかった最も善き結末に、今ならば手を伸ばせるやもしれぬ。

 

「九郎様を連れ帰り、元の通りに暮らす。その後はレースを走ろうが走るまいが、結果がどうであれ、九郎様の満足行く暮らしを保証する。まず、ここまではやって貰う」

「ああ」

 狼が求め、弦一郎が応える。主と従者を入れ替えた、奇妙な二人組が生まれて。――御子の忍びである狼は、この日死んだ。

 

 

 

「……何故、そこまでして、セキロ殿を走らせるのですか」

 セキロが席を外し、弦一郎と二人きりとなったエマが口を開く。彼女にも、弦一郎がただ虚言を弄しているわけではない、ということは解った。この男は、本当に己の命など投げ打っても構わないと、そう考えている。

 故に、エマは何故と問うた。

「割り切って、他の手立てを探すこともできたはずです。葦名のため、というのなら」

 確かに、セキロの影響力は魅力的なものとなった。葦名レース場に人を呼び戻し、金を呼び込み、外の人間にも葦名の名を広めた。……だが、葦名レース場とウマ娘競走は、あくまでも振興策の一つに過ぎなかったはずだ。弦一郎がトレーナー業の傍ら、種々の膨大な業務を熟していることを、エマも知っている。それらを差し置いて、金も立場も、挙句には命すらも危うい、人任せの博打に打って出る。エマの眼には、決して分がいい賭けとは思えなかった。

 そこまでして、何故セキロに拘泥するのか。そんな疑問は、弦一郎によって一言のもとに切り捨てられた。

「代わりなどあるものか。……俺が幾人いたところで為せぬことを、あれならば為せる」

 

 

 

『……俺は、結局、何も出来なかった』

 あの夜に口をついて零れた言葉は、偽りなく弦一郎の本心だ。葦名のためと足掻いた弦一郎の努力は、全てが空回り、或いは己に牙を剝いた。新たな生を享けたとて、精神(こころ)に深く刻みつけられた絶望が消えることはない。緩やかに、前とは違う形の滅びへと向かう葦名を救うべく、案を立て、策を講じる。忙しなく駆けまわりながらも、弦一郎の心には奇妙な諦観が常に同居していた。

 己がどう足搔いたところで、葦名の滅びは止まらぬ。それが、弦一郎にとっての真理であり続けた。かつて敵として相対した、忍びの存在を見出すまでは。

 

 あれは、弦一郎とは違う。()()()()()()()存在だ。弦一郎を、そして葦名一心を斬り捨てて、己が使命を果たした。……戦国の世にあっては、その強さこそが絶対であった。手に入れた御子は、力でもって奪い返される。だが、このひどく穏やかで、しがらみに塗れた世であれば。敵ではなく、己の力として揮えたのなら。

 そうして手に入れてみれば、やはりよく走った。無敗のまま葦名の頂点まで駆け登り、中央のウマ娘まで退けてみせた。

――例え一度敗れるとも、命を賭し、必ず主を取り戻す。怨嗟の炎など、何程のものであろうか。己が仇敵は、その程度の存在ではないと、葦名弦一郎は固く信じている。

 

 

 

「――ほう。戻らぬと申すか」

「ああ」

 狼は、義母を見上げて、揺るぐことなくそう答えた。微かに細められた目が、狼を上から下まで見回す。ややあって、梟は腕組みを解いた。

「ふむ。随分と、変わったようだな。レースに戻るか」

「ああ」

「ならば、まずは鍛えなおす所からか。……儂の用はもうない。精々、励め」

 短い肯定を受けて、梟は踵を返す。果たして、何を言ってくるか。心中穏やかではなかった弦一郎は、表に見せぬようそっと胸を撫でおろした。

 

 



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26.

 アグネスデジタルの次のレースは、フェブラリーステークスを予定しているらしい。天皇賞、香港カップと芝のレースを連戦してからの目標としては些か奇妙ではある。ダートから芝、芝からダートと路線変更を繰り返す彼女のレース選択を、ファンの多くはもう『そういうもの』と理解を諦めている風だったが、狼の視点からは別のメッセージが浮かんでくる。待っている、と。そういうことなのだろう。

 狼としても否やはない。だが、ここで一つの問題が浮上した。出走権である。

 中央で施行されるGⅠ競走であるフェブラリーステークスは地方との交流競走となってはいるものの、地方ウマ娘専用の出走枠が設けられているわけではない。中央のウマ娘も含めて、出走したければ収得賞金額での争いを制する必要があるのだ。

 ここまで多くのレースを勝ち抜いてきたセキロではあるが、何年と走り続けるウマ娘も少なくないダート戦線において、その数は絶対的なものではない。しかもその殆どは葦名主催。中央と比べれば、賞金額としては控えめになっている。重賞、JpnⅡの勝ちはあるものの、唯一のJpnⅠレースである南部杯は競走中止。せめて2着で入線していれば賞金を積み上げることもできたのだが、言っても詮無い話だ。

 現在の賞金額で、果たして出走できるのか。弦一郎の下した判断は、除外を受けてもおかしくないというものだった。されたらされたで不運と諦め、次を待つという選択肢もある。だが狼が選んだのは、確実に出走する方法。即ち、ステップレースである根岸ステークス、その1着と2着に与えられる優先出走権を獲得する道であった。

 

 

 

『さあ、この後45分から行われます根岸ステークスのパドックです――』

 居間から微かに流れてくるテレビの音に、九郎は背を向けて布団へと逃げ込んだ。元々一人暮らしの家に無理を言って置いてもらっている都合上、さして広くない部屋の中でそれを聞かずに済む方法は、自分の耳を塞ぐ以外にない。行儀が悪いとは思いながらも、布団の中で目を瞑った九郎は小さく息を漏らした。

 セキロが、根岸ステークスへの出走を表明した。その報を受けてから、九郎の心はずっと波立っている。もう、己という枷は無くなったはずなのに。あの悍ましい修羅の炎を抱えながら、いったいなぜ走るのか、九郎にはわからない。

 くぐもった、低い声が聴こえる。猩々が、いつの間にか寝台のすぐ傍らにまで来ていたらしい。元忍びらしい密やかな足取りは、九郎の耳では布団越しに聞き分けられない程度には抑えられていた。

「本当に、見には行かんのじゃな。大した距離でもないが」

「行かぬ」

 東京レース場は、トレセン学園のすぐ近くにある。教官としてトレセン学園に勤める猩々の家からレース場までも当然ごく近く、今から家を出ても、出走までに余裕をもって観客席を確保できるはずだ。とはいえ、九郎の答えは猩々からしても予想の通り。彼は頑なに、狼のレースを見ようとしなかった。

「セキロと私とはもう、赤の他人だ。見には行かぬ」

「ふん。お前さんがそうでも、向こうがどう思っているか知らんがな。そう言うなら好きにしな。儂は見に行くとしよう」

 そう言って、さっさと居間へと戻ってしまう。漏れ聞こえるテレビの声を拾ってしまわないよう、九郎は布団を強く握った。

 

 

 

『さあ、偶数番から順に、枠入り順調に進んでいます』

 良く晴れた空の下で、スターティングゲートを目の前にした狼は小さく足を動かし、その感触を確かめた。足元の砂はよく乾き、柔らかい感触を足裏に返してくる。特別に荒れた場所もなく、絶好と言ってよいバ場状態であった。ゲート入りが進むごとに、観客席の緊張がいや増していく。

 根岸ステークス。東京レース場、ダート1400mで行われるGⅢ競走だ。かつて出走した葦名グランプリや南部杯と比して、格付けとしては落ちることとなるこのレースであるが、場内の喧騒はその南部杯に引けを取らぬほどであった。初めての東京。盛岡では平然としていた――今も、傍目には平然として見える――セキロであったが、些か気圧されるような部分があるのは否めない。

 これが、中央か。心中でそう漏らした彼女は、この日の4番人気に推されていた。より上の人気には、以前南部杯で戦ったウマ娘の名もある。最後の瞬間までは完全に抑え込んでいたと言ってよい結果ではあったが、故障明けで間もないため致し方ないところか。実際、人気の数字を気にしたところで意味はない。あくまでも、観客から見た印象でしかないのだから。

 

 ゲート入りが完了した。目を閉じることなく、ゲートの開く瞬間に集中する。音とともに、狼はとん、と()()地面を蹴って走り出した。

『さあ一斉揃ったスタート、おっとこれはセキロやや遅れたか』

 出足はさほど良くせず、すっと控える形をとる。警戒されていたのか、幾人か勢いよく飛び出したウマ娘がセキロのほうを見て、肩透かしと言わんばかりの表情を見せた。やはり、ウマ娘とそのトレーナーの目には、セキロは要注意対象として映っていたらしい。内枠をとなったセキロの前と横を固めようという腹だったのだろう。構わずするすると位置を下げて最後方へ。隣に並ばれた今日の上位人気二人がそろって動揺をあらわにする。どちらも追込みを得意とするウマ娘だが、いままで先行策を主として来たセキロのこの動きは予想外で、それ以上に不気味であるようだった。

 

 有力者を後ろに固めたまま、レースは控え目の展開で進む。とはいえ僅か1400m、分類としてはスプリント戦となるこのレースはあっという間に佳境を迎える。即ち最終直線の入り口、全員が速度を上げて走り抜けようとする。後方から動いたのは3人。内を突いて足を伸ばそうとするもの、大外から豪快な差し脚を伸ばすべく位置を取るもの、そして。

 それにぴったりと身体を合わせるようにして、競り合う体勢のセキロ。先手を無理やり奪う方法もあった。確実、というならそちらだったろう。だが、ここで狼は勝負に出た。このレースの、ではなく、この後走り続けるための、逃れられぬ賭け。

 

 左腕から溢れる炎。色の抜けた視界と響く声が、狼に、勝利のために全てを(なげう)てと命じてくる。それを無視して、狼は右掌にあるものを握りこんだ。

 右手首に紐でもって括りつけられた、セキロの小さな掌にはやや大きいそれは、狼にとってひどく馴染み深い形をしている。武骨な姿の刀匠鍔。樹脂粘土で形作られたそれは、本物と比べればはるかに軽い。だが、その作り手の込めた思いはと言えば、けして劣らぬ重さであろう。

 楔丸。その名に込められた祈りは、確かに主を繋ぎ止めた。ただ一時の勝利のためでなく、もっと遠くある目的のために。

 

 セキロと並んで走るウマ娘は幻視した。左腕から噴き出た炎が逆巻き、セキロの身体を覆い、また右腕へと吸い込まれるようにして消える。身を焦がすことなく、巡る炎。類稀なる強者とのレースの経験が、彼女にその幻視の正体を告げる。これこそ、セキロの完成した『領域』であると。

 一歩踏み込むごとに、差が開いていく。南部杯で見せた暴虐的な加速と比べれば一歩毎は控えめで、その代わり揺らぐことのない走り。遠ざかるその背中を、彼女はただ見送ることしかできなかった。

 

 

 

『――セキロ、セキロだっ!セキロ復活!大外一閃、驚異の末脚でセキロ一着!』

 

 

 老人は、病室でその声を聞き、呵々と笑った。いつの間に持ち込んだか解らぬ酒杯を煽り、飲み干す。

「カカカッ、怨嗟すら呑んで見せるか!見事じゃ、セキロ」

 かつて己の担当を苛んだ炎。それを捻じ伏せてみせたウマ娘に、老人は賛辞を贈る。その瞳に映る色は、感歎か、羨望か。その無粋な切り分けの境界は、もう一杯、と飲み干した酒精に蕩かされた。

「さあ、迷わず行け。……迷えば、敗れるぞ」

 

 壮年のウマ娘は、大観衆のどよめきの中でその声を聞いた。

「……よくやったな、お前さん」

 無意識のうちに脚を擦る。動きはするが、嘗てのようにはもう走れなくなった脚。二度目の生でも彼女を捕らえた炎は、また同じ相手によって終わりを齎された。感謝の念とともに彼女は祈る。願わくは、あの不器用な元忍びの行く先に幸いがあるように。

「……あとは、あの子次第じゃろうな」

 

 

 

 ――少年は、テレビ越しにその声を聞いていた。

 




秘伝・炎纏い

怨嗟の炎を昇華した領域
レース終盤に競り合うと、総身に炎を纏い速度がゆっくりと上がり続ける
勝利を渇望し、然して呑まれず。己を繋ぎ止める楔があってこそ、叶う技


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27.

 2月17日。やや肌寒い風の吹く曇天の空の下、東京レース場には満員の人が犇めいていた。GⅠ、フェブラリーステークス。ダート戦の頂点の一つにして、中央GⅠ戦線の嚆矢たる一戦を待ち侘びて、場内には独特の熱気が渦を巻いている。

 時に芝レースの人気の前に霞みがちなダート戦線であるが、ことこの日に限ってはそうではなかった。芝のレースが盛り上がっていない、というわけでは無論ない。今まで絶対的であった世紀末覇王がついに敗れ、ジャパンカップ、有馬記念とクラシック世代の娘が栄冠を勝ち取った。次なる世代の最強は、果たして誰か。その熱い注目をともすれば上回りかねないほどに、『葦名の怪物』の巻き起こした旋風が、人々の耳目を惹き付けているのだ。……その熱気の幾分かは、意図して導かれたものでもあったが。

 怪物。セキロにその名が奉られたのは、ただその強さだけではないのだろう。遡ること三年前、岩手から来て地方初の中央GⅠウマ娘となった『怪物の再来』は、人々の記憶に新しい。果たして今年も、その再現が見られるのか。期待に満ちた人々の視線の先に、ついにこの日の主役が現れた。

 

『――さあ待ち兼ねた今日の一番人気、故障明けでも圧巻の強さを見せつけました、実質無敗の葦名の王者セキロ!』

 騒めきの中、立派な地下バ道を通ってバ場へと出る。光とともに歓声が一気にセキロの耳へと流れ込んだ。人、人、人。広大なコースの向こうにいる大観衆が、まるで一つの巨大な生き物のように唸り声を上げている。その中に九郎の姿を探そうとして、狼は途中でそれを止めた。

 案ずることはない。来ているはずだ。『情報屋』とやらが更に幾人かの人間の口を挟んで、九郎の身を寄せる先を突き止めた時。狼はただ、レースを見に来てほしいとだけ言付けた。ただ言葉で説くのでは、きっと足りぬだろう。自分が、今度こそ望んで走っていることを。九郎と憂いなく共に在れるのだと、その目で確かめてもらうのだ。

 

 足裏で、乾いた砂の感触を確かめる。摺り足のようにして脚を広げ、ゆっくりと走りだせば、その一挙一動毎に歓声が上がった。

 ――不思議な感覚であった。かつて、狼にとっての戦は孤独であった。己が戦いを望む者など、九郎やエマなど、目的を同じくする僅かな人のみ。翻って今はどうか。弦一郎に請われた。変若の御子からは、弟妹とともに応援するとのメッセージを受け取った。オニカゲと鬼庭も、街で出会った名も知らぬ人々も。そして何より、競う敵すらも、狼が走ることを願っている。

 

『本日は二番人気となりました、芝ダート海外、戦場不問のアグネスデジタル!ダートの冠をもまた一つ、戴く事が出来るのか!』

 アグネスデジタル。セキロが再び走る契機となった宿敵(ライバル)。セキロにやや遅れて現れた彼女は、いつかの南部杯と同じく目だけを輝かせている。喧噪にも緊張にも揺るぐことのない、最上級の集中状態。きっとこの日のために、万全に整えてきたのだろう。彼女も返しウマを簡単に終えて、スタート地点へと近づいてくる。一瞬だけ、視線が交錯した。

 

 東京レース場のダート1600mは、向正面の芝から始まる。踏みなれない、良く整えられ引き締まった芝の感触を確かめながら、スターティングゲートへ入る。短いような、待ちきれないような。そんな時間が過ぎて。

『全ウマ娘ゲートイン完了。体勢整って、フェブラリーステークス――今スタートしました!』

 二つの身体が、勢いよくゲートから飛び出した。

 

 

 

『ならば……隻狼。お主を、そう呼ぼう』

 あの老人と初めて出会ったのは、大手門の出丸でのことだった。今や己の本名となった、セキロという名を与えられたのも。城に潜む鼠狩りを対価に教えを受け、身に着けた技は幾度となく狼を助けた。新たな生を受けてからも、レースにおける使い方を教えられて後、強敵と相対する度にこの技を頼った。剣聖、葦名一心。生涯をかけて剣を磨き続けた男の、始まりの技。

 葦名一文字。普段のダートと較べて格段に固く、()()()のつきやすい芝の地面は、その力を余すことなく推進力へと変える。一瞬の内に、セキロの身体は他のウマ娘を置き去って先頭に躍り出ていた。

『いいスタートを切ったのは5番セキロ、他はやや出遅れたか!?さあ先行争い、外からの主張もあっさり突き放してこれは単騎駆けか!』

 内寄りの枠番は、ことこのレースに限ってはやや不利であるとされている。理由は単純、外側のほうが芝の上を走る距離が長く、ダートを走るより速度を付けやすいためだ。だが、セキロにとってそれは大きな不利足り得ない。一瞬でトップスピードにまで加速し、短い芝部分からダートへと踏み込む。

 

『邪魔立てするか、御子の忍びよ』

 葦名弦一郎。仇敵と初めて相対したのは、抜け道の先の薄野原でのことだった。そして、最後に相対したのも。主と御子を奪われ、復讐を定めた。幾度も己を殺してみせた彼の技は、狼の知らぬ女武芸者のもの。巴流と呼ばれる異端の技だった。

 浮舟渡り。文字通り、空を踏み渡ることすら可能とする異端の歩法が、乾いた深いダートの上においてもセキロの走りを支える。向正面の長い直線、セキロはリードを保ったまま走り抜けた。二番手には根岸ステークスで下したウマ娘、アグネスデジタルの姿は中団にあるのか見えない。だが、セキロは直感していた。彼女は来る。遠くから背中に突き刺さる重圧をどこか心地よく感じながら、セキロは第三コーナーへと差し掛かる。

 

『……ただ、拾ったのよ。屍かどうかも分らぬものを、野良犬に食わせてやることもあるまい』

 荒れ寺で目覚めて初めて会った男は、不愛想な口ぶりに反して何かと面倒見がよかった。腕を失った狼に忍び義手を与え、仕掛けを仕込み、技を伝えた。そのうちの一つと、レースで競い合ったオニカゲの技から着想を得た走りがある。重い忍び義手を回転の軸として、コーナーの最内、最短を高速で走り抜ける。葦名では使いようがないが、左回りであるこの東京レース場であれば。最終直線の立ち上がり、セキロは未だ先頭を維持している。

 

 だが。当然、これで終わるはずがない。背後で膨れ上がる気配。中団のウマ娘たち、その隙間をするりと抜けて、脚を溜めに溜めた勇者が襲い掛かる。――最前列は、譲らない。その気迫が、セキロの背を射竦めた。ゴール前直線の前半部は、高低差2mに及ぶ坂。それに差し掛かって苦しげな表情を浮かべた二番手のウマ娘をいとも容易く躱して、アグネスデジタルとセキロは身体を並べ、競り合った。

 

『――狼よ。我が血と共に、生きてくれ』

 忍びにとっての主とは、己の意思とは関わりなく選ばれるものだった。主従の掟に縛られ、血の呪いによって縛られ。だが、どちらも失くした新しい生にあってなお、狼は九郎の忍びであろうとし、九郎は狼の主であろうとした。右掌に鍔を握りこむ。幼い主が楔丸の謂れにあやかり、守ろうとした証。噴き出した炎を纏って、セキロは駆ける。

 

 その熱を至近に感じながら、アグネスデジタルの視線は揺らがない。見る必要はないのだ。今、セキロのことならば、全身に感じているのだから。それを引き金(トリガー)として、アグネスデジタルは己の熱情を解き放つ。『領域』と『領域』。至高にある競走ウマ娘の、正真正銘の全力のぶつかり合い。それが、坂を上り、なおも続いて。

 

 ゴール前、それでもなお、ほんのわずかにアグネスデジタルが先んじた。

 



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28.

 セキロは、非常に多彩な技術を持ち合わせたウマ娘である。過去のレース映像を穴が開くほど眺め、共に走りもしたアグネスデジタルの目には、そう映っている。

 例えば、スタートの飛び出し。反応が早いだけでなく、強烈な踏み込みによる一瞬の加速は、ただの身体能力だけでは為し得ない。例えば、良バ場で見せる独特の走法。他のウマ娘と比べて極端に沈み込みの少ないあの走りも、やはり他に例のない技術だ。他にも、オニカゲとの競り合いで見せたターン。直線で見せる異常な伸び脚。そして、目覚めたばかりの領域。

 アグネスデジタルは、セキロがその全てを()()()()()と思った。この時点で、差はおよそ半バ身。唯一、葦名グランプリ以前に見せた伸び脚こそなかったが、目前で見た炎を考え合わせれば、あれは未熟な『領域』の萌芽であると考えてよいだろう。無論、油断はしない。顔を向けるようなことはしないが、全身の神経はすぐ左後ろに立つ強敵に向けられている。

 だからこそ、理解できなかった。その気配が、一瞬掻き消えたように感じられたのが。

 

 

 

『その目。……否。何でもない……来るか、セキロよ』

 セキロにとって。義母とは、不可解の象徴とも言うべきものであった。

 かつて、義父が己に働いた裏切りを憶えている。そしてその果てに、その因果を返したことも。もとより義父の心など、幾らも知らぬまま生きていた。忍びの父子とは、そういうものだ。あのような野望の炎を燃やしていたなどとは、彼を己の手で殺めるまで知りようもなかった。そして、最期までやはり解らなかった。『見事なり』と言い遺して死んだ、梟の心中は。

 新たな生で出会った義母は、それ以上に解らなかった。時折山野の獣を狩る程度で、どのように生計を立てているのかも知らぬ。昔のことも、これからのことも語ることはなく、セキロに走りを教えるだけ教えて、何を望むこともない。勿論、現代で忍びの父子の真似事などしていればそれは異常であろう。だがその方が、まだ解りやすかった。また、何某かの野心を果たすため、手足として育てているのなら。そうでもなく、何故所縁もない子供を拾って、育てているのか。義父と同じように見えて、その実その根本が何処にあるかが掴めない義母を、セキロは常に戸惑いとともに見ていた。

 

 フェブラリーステークスを間近に控えたある日であった。その義母が、唐突に練習中のコースに現れたのは。めったに見ぬジャージに身を包んだ姿で、彼女はさらりと口を開く。

「さて、走ろうか」

「……それは、どういう意味で」

「コースを一周、儂がコーナーまで先に走る。お前のトレーナーから許しは得た」

 やろうか。そう言って、梟は走り出した。意図は何もわからぬまま、だが弦一郎には確かめたという。セキロは取り敢えず、コーナーまで差し掛かった梟を追って走り出した。

 現役の競走ウマ娘ではない割には、随分と早い。それが、セキロの抱く感想だった。割には、というのが全てである。かつて教えられていた時には、もっと早く感じられたはずだった。セキロが育ったのか、梟が衰えたのか。どちらも真実であろう。一周。梟を軽く数バ身は突き放して、セキロは駆け抜けた。どちらも、全力ではない。軽く上気した息を吐いて、義母が言う。

「やはり。よく、育った」

 訝し気に視線だけを寄越したセキロに、梟は更に言葉を重ねた。

「もう一度だ。ゆくぞ」

 

 

 梟は走る。一度目よりもほんの少し早く、コーナーを回る。後ろで鳴った足音が、セキロのスタートを告げる。

――生まれるより前から、ずっと何かに焦がれていた。

 ウマ娘には共通して、走り競うことへの欲求があるとされる。だが時に、それだけでなく特定のレースなどに執着を示すものがいる。それも、憧れた人や衝撃的なレース光景などといった、人の子供のような切欠の一つもないうちから。その現象は、ウマ娘が異世界の魂を受け継ぐとされる所以の一つでもあった。

 だとすれば、己の魂の源となったのは、いかなる存在だったのだろう。ひたすらに、『名を響かせよ』と叫んで止まない、この声の主は。

 

 トレセン学園の門戸は、広く開かれている。生まれ次第で生き方のほとんどが決まるような戦国の世と違い、寒門の出であっても門を叩くことはできるのだ。秀でた才を示しさえすれば、の話だが。梟には才があった。近しい才を持ちながら、「恩義がある」と言って地方のトレーナーに師事した同朋を、彼女は内心嘲った。当時の地方と中央の間には、広く深い溝が横たわっていたからだ。得られる金も名声も比にならず、今と違って地方出身者が中央へ乗り出す道も乏しい。選ぶならば、中央に決まっていた。

 トレーナーは己で選んだ。若く自信と、それに見合う才に溢れた男だった。名家の者たちと較べれば不満は残るものの、十分な伝手を持たぬ梟としては最良の条件であった。入念な分析に基づく脚質自在の走りで勝ち星を積み重ね、クラシック戦線に名乗りを上げ。

 

 そして、そこで本物の怪物を見た。

 後に、神にすら擬えられた神域の才。如何に走りで惑わしても、他のウマ娘を動かし争わせても、全てを斬り飛ばして叩き潰す、大鉈の如き走りの王者。彼女の一番欲しかった頂には、決して手が届くことはなく。入着賞金ばかりが、ただ積み上げられていく。……報われず走る日々に、ついに音を上げたのは、梟でもトレーナーでもなく彼女の身体だった。

 

 

 

 こうして梟の夢は終わり。故郷で彼女は、ウマ娘の幼子と出会った。

 生きるということの全てを諦めたような、澱んだ瞳。初めて出会ったはずの幼子のそれを、梟は何故か()()()()()と思った。故に拾った。そして、他に何も知らぬ故に鍛えた。……素直に教えを呑み込んでいくそれに感じる、胸の奥の熾火が爆ぜるような心地に戸惑いながら。

 

 気付けばゴール間近。軽々と自分を捉え、追い抜いていくセキロを見る。瞳には、強い意志の光。勝利を見据える、飢えた狼の瞳だ。……本当に、よく育った。己の脚が、全盛のものでさえあれば。真の戦いも叶っただろうか。神仏の力でも無くば届かぬ願いを、梟は振り捨てる。今為すべきことは、他にある。

 ――梟とは、綽名である。本当の名はとうに棄てた。世界に響かせられなかった、誰も知らぬ名前などは。

「セキロよ。我が名の所以、見せてやろう」

 風が、吹き抜けた。

 

 

 

 その場の殆どが、一瞬の間、セキロの姿を見失った。観客も、ウマ娘たちも、アグネスデジタルでさえ。……デジタルの領域は、他ウマ娘の魅力を源として湧き出す力。見惚れるべき相手を見失って、その力が寸の間、揺らぐ。

 深く深く沈み込んだ身体は力を蓄えて、一本の刀、その切っ先のように一息に突き出された。アグネスデジタルの右隣。意識の外へ唐突に現れたそれに、彼女は一拍遅れてその姿を知覚する。

 ゴールまで僅か一完歩の距離。二人の身体が完全に並ぶ。まだ、並んでいる。セキロの肉体は、放たれた矢の如き状態。伸び切って、止まる。そう思われたその身体が。更に一歩、()()()

 

 大忍び()()

 

 あらゆる技を積み重ねて。セキロがほんの僅か、先にゴール板を駆け抜けた。

 

 

 

「教官など、と思っておったが。……猩々の気持ちも、少しは分かった」

 スタンドの最後方。梟の、猛禽の如き鋭敏な視力は、ゴール直前の攻防を余すことなく捉えていた。己の技で最後の一歩を制してみせた娘。その姿に、知らず、口元を歪めて彼女は笑っていた。

「……これは存外に、心地よいものだ」

 




大忍び差し

レース終盤に他のウマ娘の視野から外れ、大きく一歩踏み込み、さらに一歩差す
その様は猛禽の狩りに似る
若き梟が磨き上げ、その代名詞とした技
これは、強敵を仕留める最後の爪となる筈であった


明日、最終話です。


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終幕:人、帰り

 歓声と拍手。ゴール板を駆け抜けてからようやく耳に雪崩れ込んだその音が、セキロの総身を驟雨の如く叩いていた。ゆっくりと、脚の動きを緩める。すぐ隣で、アグネスデジタルも全く同じように脚を緩め、そして立ち止まった。

 どちらともなく視線を交わす。アグネスデジタルが、小さく呟いた。

「終わっちゃいましたね」

「……ああ」

「ありがとうございます。あたしと走ってくれて」

 デジタルの顔が、微かに俯く。その瞳が潤むのを、セキロの目は捉えていた。

「すっごく、楽しかった、けど。……あたし、すっごく悔しいです」

 セキロは視線を外して、ただ口を噤んだ。掛けるべき言葉など、セキロの乏しい語彙からは出てくるはずもない。……否、例え如何な口上手であったとしても、勝者から敗者へと贈る言葉など、思いつけはしないだろう。

「っほら、ウイニングランですよ!行かないと」

 そう言って、デジタルの手が背中に添えられる。その小さな掌が、力なく震えているのを感じて、セキロは僅かに逡巡してから手を伸ばした。アグネスデジタルの、頭へと。

 頭頂部を、ぎこちない手つきながらも、優しく撫でる。自分が何をされているのか一拍遅れて理解して、デジタルの顔が朱色に染まった。

「また、走ろう」

 セキロの顔に浮かんだ柔らかな笑みに、アグネスデジタルは目を丸くして、それから破顔した。

「――はいっ!」

 ゆっくりと、セキロは走りだす。スタンドから一層の歓声が沸き上がるのに合わせて、高く右掌を掲げた。

 

 ウイニングランを終えて、東京レース場の大きな地下バ道へと引き上げる。セキロが辿り着いた時、既に先に引き上げたらしい他のウマ娘たちの姿はなかった。出迎えたのは、レース場の職員と報道関係者たち、プレビュー席を埋める熱心なファンたち。そして、弦一郎だった。

 その顔には、外向けに貼り付けられた笑み。この二年ほどで随分と見慣れたその表情にどこか可笑さを感じながら、セキロは弦一郎にゆっくりと近づき、並んだ。

 前世の仇敵は、今生にあっても九郎の心を苦しめた。だが。九郎を拾い、セキロと引き合わせたのもまた、弦一郎だ。この男がいなければ、自分の生はどうなっていただろうか。梟のもとにあって、生の意味を失くしたままでいたのだろうか。

「――感謝する」

 不意に零れた、弦一郎にのみ届く、低く小さな呟き。それを耳にして、弦一郎の笑顔が崩れた。殆どは困惑で、残りにどこか後ろめたいような、そんな感情を露わにした奇妙な表情。それを一呼吸の後に取り繕って、弦一郎は同じく低い呟きを返した。

「感謝するのは俺のほうだ。……よく、勝ってくれた」

 

 地下バ道を抜け、検量を終えて出た廊下に、二人の人が待っていた。少年と、そのやや後ろに控えるように立つ、壮年のウマ娘。九郎と、猩々だ。猩々が、入れるように取り計らったのだろう。九郎の微かに潤んだ眼が、セキロをじっと見上げている。弦一郎はなにも言わず、すぐ近くにいた報道陣を散らした。

 九郎の一歩前で、セキロが跪くようにして、視線を合わせる。口元を幾度も躊躇いがちに動かしてから、少年はようやく言葉を絞り出した。

「……狼よ」

「はい」

「済まぬ。……永きにわたる任。大儀であった」

 九郎の表情に、狼は僅かに眉を曇らせた。その顔は、忍びの主としての顔。人を従え、命ずるものとしての責を自覚した、歳に見合わぬ決意を湛えたものだ。紛れもなく敬愛すべき美徳であるはずのそれであるが、今のセキロには堪らなく厭わしかった。

「詫びる必要など、ありませぬ」

「だが、私は」

 言いさした九郎の頭に、手をかける。はっとして言葉を止めた彼の頭を、セキロは小さくなったウマ娘の手で優しく撫でた。

「忍びならば、とうに死にました」

 掟に従って出会った主だった。だが、主従の契りは生の終わりをもって、とうに切れている。もう一度結び直したのは、己の意思に相違なかった。……そう考えるなら、或いはもっと前。父の掟に背き、己で定めるとそう決めた時から。狼は、既に忍びでは無かったのかもしれない。

「今は。一人の人として、九郎様と共に歩みたい。そう、思っております」

 九郎の瞳から、はらりと雫が落ちる。それを拭うことも目を瞑ることもせず、九郎は引き結んでいた口を開いた。

「いや。ならばやはり、一度だけ謝らせてほしい。……済まなかった。本当に、苦労を掛けた」

 セキロは、黙ってそれを受け入れた。

「私からも言おう。……()()()よ。もう一度、私とともに生きてくれぬか」

 御意、と口になじんだ答えを返しかけて。セキロは口を止めた。もっと、相応しい言葉があるはずだ。

「喜んで」

 

 はっと、九郎が振り返った。視線の先にいるのは、現在の彼の身元引受人である。

「……猩々殿」

「ふん。それがいい。丁度、子守にも飽いていたところじゃ」

 一連の流れを目前で見守っていた彼女は、ついと視線を逸らして素直でない言葉を吐く。

「儂にも仕事がある。一人で、上手くもならん仏さんを掘るよりも、余程甲斐のある仕事がな」

「……弦一郎殿は」

「約定のとおりだ。好きにするといい。……ああ、あの親莫迦が『気に食わねばいつでも家に来い』とも言っていたな」

 僅かに眉を顰めた九郎に、弦一郎はやや慌てたように付け足した。その様に、可笑しそうに口元を綻ばせて。

「行くか、セキロ」

「はい」

 二人は手を重ねて、固く握った。

 主でなく、従者でなく。血の繋がりも契りもなく。前世の宿縁を結び直した、その奇妙な繋がりに名をつけるとするならば。

 きっと、家族と言うのだろう。

 




3か月間、最後までお付き合い頂きありがとうございました。
SEKIROのみんな幸せになってくれ、の一心で書き始め、こうして書ききることができました。
当初思っていたよりもはるかに多くの人に見ていただき、評価や感想、ここ好きなどの反応を頂きました。原作、そして本作を愛していただいたこと、心より感謝します。
今後、後日談や閑話のようなものを投稿する可能性もありますが、本編はこれにて完結となります。
本当に、ありがとうございました。


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