PARADOX (柊@)
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《DIGEST》 ー断片ー
先行公開


※2023年4月現在、現在執筆中の盟約において、変わり映えの無い日常シーンが続いていて本筋が分かりにくい状況だと思われるので、PARADOXに少しでも興味を持って貰える様、先の章のセリフを無作為に取り上げて先行公開することにしました。

 

後、ごく一部ではありますが、偶然ほんの少しだけ似た内容の物語(未完結)を他で目にしたので、こちらの仕組みが少し特殊なので大丈夫だとは思いますが、PARADOXとの万が一の被りを危惧して、というのも公開理由の一つです。まあアイデア自体は相当昔に思いついた物なので、色々な媒体にいくつも酷似した作品は存在するかもしれませんが……。

 

あくまで予定ですので、内容が大幅に変わる場合もあります。ちなみに収束点は序章、盟約が一章にあたります。ここに公開するセリフは突然消えたり、徐々に増えていったりするかもしれません。

 

 

 

 

 

《2章》

 

「なんで、いなくなってから気付くんだろうな……」

 

「もう一度確認します。先輩は、本当にその気はないんですね?」

 

「オレはあんな女に興味ねぇよ。ただ、幼馴染の入学祝いのプレゼント選びを手伝ってもらっただけだ。そういうの、疎いからよ。……まあ、今となってはそれが間違いだったのかもな」

 

「……死んだ人間はもう帰ってこない。貴方の未来に、彼女は存在しないの。それだけが、確かな事実なのよ」

 

 

 

 

 

《3章》

 

「ねえ、綾人君。なぜ綾人君は瑞希ちゃんを……、ううん、藤坂瑞希のことが、そんなにも気になってるの?」

 

「結局あたしの勘違いだったら、その時は綾人君の望むようにする。もう近寄るなっていうなら、二度と近寄らないから。……だから、どうしても今日一日だけは、最後まであたしに付き合ってほしいの」

 

「ははっ……!そういうことか!通りで、こんな……」

 

「その話は本当なんだろうな?嘘なら承知しねえぞ」

 

 

 

 

 

《4章》

 

「ワタシはただの高校生で、当然その筋の専門家じゃない。だから、本やネットで拾った付け焼刃の知識でしかないけれど……。君達は熱力学におけるエントロピーの増大について、聞いたことはあるかい?」

 

「そんな風に時間というのは、酷く曖昧なものなのさ。ただ、人が認知するそういった変化や経験の積み重ねがワタシ達に時間という概念を感じさせているだけで、本当は物事に始まりも終わりもないのかもしれない、ってことを言いたかったんだ」

 

「綾人の疑問はもっともだ。そう、普通に考えれば矛盾してる。けれど、もし……」

 

 

 

 

 

《5章》

 

「瑞希、俺は今からとんでもなくおかしな事を言うと思う」

 

「絶対に、救ってやる。……例え俺がお前にどんなに嫌われようとも。それが俺の、俺自身の願いだ」

 

 



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《SCENARIO:E》 ー収束点ー
凶夢


 

 ――それは陽炎に揺らぐように、酷くぼやけた光景だった。

 

 おそらくは朝方から昼下がりにかけての時分であろうか、ある一点を囲んで大勢の人だかりが出来ていた。面子は携帯電話を耳にあてたスーツを着た男性、買い物袋を地に落とし口を震わせる若い女性、驚愕の顔をそれぞれ浮かべ悲鳴を上げる学生達、驚きの余り呆然と眺める老夫婦など、様々である。

 

 そんな有象無象を掻き分けて、少年は中心で横たわる一人の少女に駆け寄った。額から出血している所以外は、いつも見慣れている顔だ。恐れていたほど頭の損傷は激しくはない。飛び降りの多くは足から落ちるとどこかで耳にしたことがあるが、怪我の状態から察するに少女もそうして落下したのだろう。そのせいか、手足に関しては骨折が見て取れる程酷い有様だった。

 

 少年は少女から視線を外し、天を仰いだ。目に映るのは高々と聳え立つ古びたマンション。長年強い日差しや雨風に耐えたせいか、全体的に外壁が黒ずんで色褪せている。この何階から少女は落ちたというのか。

 

 救急車のサイレン音がどこからともなく聞こえ始めたが、過度のストレスからか次第に少年の意識は遠のき始め、いつまでも到着することなくこの場と永遠に距離を保っているような錯覚に陥っていた。

 

 激しいトラウマを植え付ける、血のように紅く瞬く光。それが少年の目に焼き付いて離れなかった。

 

 どうしてこんなことになってしまったのか。記憶が酷く曖昧で上手く思い出せない。重度の眩暈と荒々しい動悸に身体は思い通りに動かず、少年は成す術なく思考を闇に落とす。

 

 ……これだけは分かっていた。少女を追いつめたのは、紛れもなく自分だ。いや、それは正確には間違いであるように思う。己の認識に、直接的な罪の意識はなかったからだ。ではなぜ、こうも責任感に捉われ、少女の死に対して罪悪の念にかられるのか。

 

(失いたくない大切な存在だったから?)

 

 そうだとも感じる。だが、何かが違うのだ。少女とは言葉では表せない何らかの関係があるような気がしてならなかった。そしてこの胸に渦巻く絶望は、決して手の届かぬ絶対的な因果に向けてのもののようで……。

 

(……また、救えなかった)

 

 唐突に心にポツリと浮かぶ、その言葉。

 

 そう、自分はまた同じ過ちを繰り返してしまった。……己の時間も、命も、存在すらも。全てを捧げると誓った少女を、この運命から救い出すことが出来なかったのだ。

 

 そうして少年は、この慟哭の記憶と一意の決心を、再び魂に深く刻む。今度こそ忘れない為に。

 

 もう間違わない。ここから解き放つべき、少女の名は――。

 

 

 



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《SCENARIO:H》 ー盟約ー
登校


 

 目の前に立つ少年は、睨みつけるようにこちらを覗きこんでいる。

 

 口元まで届きそうな長い前髪から見え隠れする一重で切れ長の釣り目は、気に食わぬ物事の一切を拒絶し牽制しているかのように鋭く、少し高めの鼻筋、耳元から顎先にかけて細るシャープな顔立ちを合わせてみると、高圧的で陰険な雰囲気が強く、近寄る者全てを陥れようとする狡猾さが滲み出ていた。

 

 いや、実際それはとあるバイアスによる勝手な主観で、ありのままのそれらの素材が悪質な心証を与えているわけではないのだ。無関心な人間から見れば、本来は可もなく不可もなくといった薄い印象なのだろう。

 

 しかし、今の自分は誰もが一目見て善人ではないと判断するはずである。現に、己の過去を振り返ってみて、物心ついた時から今まで出会った数多くの人間の中のただの一人でさえ、自分に向ける好意を示す表情は伺えなかった。

 

 綾人(あやと)は、その感触を確かめるように強く押し付けながら、自分の頬にゆっくりと指を這わせる。己の卑屈の根幹。いつもながらに不自然な粗い手触りがした。

 

 性格は顔に出るとよく言うが、経緯はどうであれ、荒んでいく内面が表情筋に反映されていった結果がこうであるというのなら、確かに的を射ている。常に強張り、顔を緩ませることなどほとんどなかった人生だ。醜態を助長するかのような、尖った下地だというのも納得である。

 

 とはいえ、見た目通りに悪行を重ねているのかといえばそうではない。他者に見境なく進んで危害を加えた覚えもなく、言葉巧みに騙して罠にはめた覚えもなかった。ただ何食わぬ顔で寄り付く者を強く拒み、突き放すだけだ。……それは捉え方によっては粗暴ともとれるのかもしれないが。

 

 ふいに足元から聞こえてきたドアの開閉音に我に返り、綾人は部屋角に置かれたスタンドミラーから少し横に視線を外し、本棚の上にあるデジタル時計を見やった。まだ登校するには少し早い。そうしてまた正面に対峙する己に向き直る。

 

 外出前に鏡を確認するのは恒例の儀式だ。こうして何度も執拗に拝むのには理由がある。それは身だしなみを確認するわけでも、自惚れでもない。ただ、ありのままを受け止め、揺るぎないアイデンティティをより一層強固のものにする為の、必要不可欠な過程なのだ。

 

 今日は高校の入学式で、綾人にとって新生活の門出であったが、がらりと変わる環境を心配する初々しい気持ちも不安も何もなかった。強いて言うのなら、新品の学ランのごわつきが気になる程度だった。

 

 人生に節目などない。これまでの境遇に比べればそんなものは些末な変化だ。

 

 そこから数分の睨み合いの末、そろそろ頃合いかと、綾人はテーブルに置かれた鞄を取り、部屋を出て階段を下りる。玄関で靴を履きながら、真横に位置するダイニングにもう一人の住人の気配を察し、顔を向けた。勿論相手も気づいているはずだが、綾人に構う素振りは一切見られない。

 

「いってきます」

 

 聞き取れるかも怪しい小さな声だったが、普段言うことの無い挨拶を口にし、綾人は後悔した。そんな気はなかった。けれどこうして漏れてしまったのは、心のどこかで同伴してくれる事を期待していたということなのか。

 

 ……些末な変化なのだ。何も、何一つ変わらない。綾人は相手の返事のないままに、自宅を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 綾人の住む街は昔ながらの地方の団地で、比較的隣近所との関わり合いが強く、都市部では見られない深い親睦と交流がある。知人同士の慣れ合いといっては聞こえが悪いが、要は他人への警戒心が薄く、コミュニティ間の垣根が低いということだ。

 

 「おはようございます。近頃ようやく暖かくなってきましたね」

 

 街中で偶然出勤が重なった大人達が、親しみを込めた笑みを浮かべて会釈を交わす。このように外で顔を合わせることがあれば、挨拶がてら一言交えるのが日常茶飯事である。

 

 綾人がその横を通り過ぎようとすると、大人達は綾人の存在に気づいてちら見したが、声をかけることもなく何事もなかったかのように互いの会話を進めた。

 

 綾人に対しての大人達の態度は、何も毛嫌いしてのことではない。その方が綾人の家との付き合いに支障をきたさず円滑であるからだ。周防(すおう)家の息子は、この街の住人にとって気軽に干渉出来る対象ではなく、安易に踏み入ってはならない領域だった。

 

 そんないつもの光景に気分を害するわけでもなく、綾人は慣れた足取りで住宅街の道を進んでゆく。よく知る街並みを抜けて開けた大道路に差し掛かると、前方から踏切の警報音が鳴り響いた。綾人は車道に架けられた横断歩道を渡って歩み寄り、遮断機の前に立った。

 

 田舎の電車は30分に1本あるかないかで、今まさに通り過ぎようとしている車両には、時間帯的に多くの学生達が乗車していることになる。間近にある駅を出て徐々に加速してゆく電車の窓からはやはり、車内目一杯に押し詰められた学ランやブレザーを着た高校生達の姿が伺えた。

 

 綾人の入学先は、この線路を渡った後に現れる桜並木の広場を越えた先の、商店街へと続く道端にあるA高だ。もたもたしていると、雪崩れるように下車した他のA高の生徒達と合流してしまう。

 

 いや、奇異の目に晒されるのは何も今に始まった事ではない。様々な場数を踏んできたのだ。この期に及んで、人様の反応に神経を逆撫でされることなどなく、波風が立つこともないだろう。綾人はただ、出来るなら他人との場を共有する機会は少ない方がいいと考えているだけだった。

 

 しかし、近くに駅がある手前、電車の出発時の速度の関係上、ここの遮断機は中々上がらないのだ。警報音はゆるやかな一定のリズムで打ち鳴り、急ごうとする綾人の焦燥感を掻き立てた。もはや電車通学の生徒達が改札口は通過してしまっただろう猶予を与えた後、遮断機はようやく上がり始める。綾人は警報の解除と共に、足早に線路を通過した。

 

 まあ、踏切に引っかかってしまった時点で手遅れだったのだ。

 

 結局蟻の行列の如く連なる群衆と出くわしてしまい、綾人はあえて人だかりの少ない反対側の路肩を歩くことにした。中学はA高とは逆方向だった為、朝の登校時にこのような大勢の人間と遭遇することはなかった。だが、これからは嫌が応にも避けられない事象である。

 

 所々で散ってゆく社会人とは別に、同じ目的地を目指す群衆の中には、単独で黙々と学校へ向かう生徒や、会話に花を咲かせながら和気藹々と通学路を辿る学生グループ、親を連れた新入生が多数見受けられる。

 

(あれって……)

 

 やはり、というべきか、早々に一人の生徒が己の身体で死角を作りながら隠れて綾人に指を差し、仲間にぼそぼそと耳打ちしていた。興味を示した仲間がちらちらと綾人に目を配る。それを皮切りに気づく者が増え、方々からたくさんの視線が注がれた。

 

 注目の的となっているのは、綾人の顔にある痛々しい火傷の痕だった。

 

 近隣の住人に腫物扱いにされている原因。綾人は幼少期に、自らが引き起こした火事で両親を失い、伯父の養子になった。子に恵まれなかった伯父夫妻は兼ねてから養子を望んでおり、弟の子というもあって伯父は快く綾人を歓迎したのだ。

 

 まだ幼かった綾人から見ても、伯父の愛情は決して義務感などではなく、伯父はまるで本当の子供のように接してくれていた。対して伯母は、綾人を家族に迎え入れることを反対していたようだった。それもそうだろう。中身はどうあれ、見た目に一生残る傷を抱えた子供など、誰だって敬遠したい所だ。

 

 とはいえ、伯父の生前には、伯母はぎこちないながらも、綾人に打ち解けようとする姿勢が垣間見えていた。が、不幸にも若くして病気ですぐ伯父は他界してしまい、周防家にはなんら血の繋がりがない伯母と綾人が残されてしまった。

 

 そんな伯父の死に取り乱した伯母は、生涯忘れることのない呪いの言葉を幼い綾人に送ったのだ。

 

(お前は両親を殺し、夫を殺した悪魔の子だ)

 

 勿論伯父の病気は運悪く綾人の引き取り時期と重なっただけで、因果関係は全くない。それでも綾人は、自分は不幸を呼び寄せる人間なのだと思い込んでしまった。それから火傷の痕を見る度に自らを戒め、綾人は幸福とは無縁の人生を送る事を心に決めた。

 

 その経緯から、事情を知る住人達にとって、綾人の存在はタブーなのである。

 

 もう過ぎた事だ、と綾人は思った。なぜあの時、燃え盛る炎に魅入られたのかは分からない。確かな事は、これが一生背負わなければならない親殺しの烙印だということだった。

 

 己に輝かしい未来などはない。社会的に成功したり、結婚したりするのは以ての外だ。ただなるべく迷惑をかけないよう他人に関わらずひっそりと生きて、ひっそりと死ぬだけ。綾人はこの世においての自身の配役を、高校生にして確定していたのであった。

 



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入学式

名前はほぼ自動生成です。


 

 だだっ拾い体育館の会場が大勢の人で溢れかえっている。いくつかのブロックに分けられ、ずらりと立ち並ぶパイプ椅子の前列に、綾人は退屈そうに座っていた。

 

 入学式も中盤に差し掛かった頃で、来賓達の祝いの言葉が次々に述べられてゆく。既に学校長の式辞辺りで綾人の忍耐は限界に達し、一応初日なのだからと柄にもなく正していた姿勢は、少々行儀の悪い崩れ方をしていた。

 

 ……正直こういうのはうんざりなのだ。たかが顔合わせ程度で、いちいち畏まった場を設ける必要性はあるのか。

 

 綾人はぶっきらぼうに視線を周囲に泳がせた。会場に居る誰もが静まり返り、粛々と壇に立つ者に耳を傾けている。

 

 こうした堅苦しい式場を見ると、両親や伯父の葬式を思い出してしまう。子供ながらにおぼろげに覚えている、蔑みと憐みの目の数々。その中で一際目立った伯母の責めるような眼差し。気鬱な沈みきった空間で同じように悲しみに浸る事を許されず、憎悪の矛先を向ける罪人として招かれたようだった。

 

 どろりと心を覆う不快な忌まわしい記憶に、綾人は小さく嘆息しながら背もたれから身体を少し下へ滑らせる。……そういえばさっき受付でも嫌な思いをした。当たり前のように親を連れる新入生達に紛れた、一人だけの自分。案内人のあの怪訝な表情は、どちらに対してのものだったのか。 

 

 外見については慣れたが、身内の事情については未だに耐性が付かない。その事に向き合うと、忘れかけていたロクでもない出来事すら頭からどんどんとひっぱり出してきてしまう始末だ。綾人は一度悪い方へ傾いた思考は中々元に戻らない性質だった。

 

 肩慣らしの一日目にして、なぜこんな気持ちにならなければならないのかと、綾人はずり落ちた背中を戻し、一度負の連鎖を断ち切るために感情をシャットアウトする。そうして無理矢理白紙に戻した後、気分転換に今日も見たあの夢の事を考える事にした。

 

 頻繁ではないが、時々見る同じ内容の夢。夢によくある俯瞰した視点であるのと、登場人物全ての姿がはっきりとしないのもあって断定は出来ないが、多分あの少年は自分だ。

 

 そしてなんの根拠もないのに、もう一人の主役であろう少女に、この現実のどこかで会った事があるような気がしていた。

 

 どうして少女の死を見届ける同じ夢を定期的に見るのか、無作為にしてはいささか不可解である。しかし実体験など皆無であったし、そうでなかったとしてもあの状況に覚えがない。

 

 まあ、きっと記憶の片隅に残っていたドラマや漫画などの創作物のワンシーンが反映しただけなのだろう。結局そういつもの答えに落ち着き、綾人は次の暇つぶしの主題に頭を悩ませた。

 

「――在校生代表、今庄翔真(いまじょうしょうま)

 

 そうこうしている内に式は着々と進み、新入生歓迎の言葉を締める声が響き渡る。綾人は現実逃避した思考を中断し、壇を見上げた。

 

 清潔感のある短髪で、人当りの良い顔立ちをした上級生が深々とお辞儀をしていた。隙のない自信に満ちた面持ちだ。世間の学校行事にあまり詳しくはないが、こういった場で発言する代表者は大体が生徒会長であろう。数多の視線を正面から受けてなお、物怖じ一つ見せず毅然とした態度。他者に対して、綾人とは違った本物の余裕というものを持ち合わせているようだった。いけ好かない様子で、綾人は眉を潜める。

 

 一番嫌いなタイプだ。立場上表向きに取り繕っているだけかもしれないが、それならそれで腹黒さを感じてどっちにしろ性格が合いそうになかった。

 

「続きまして、新入生代表からの挨拶に移ります」

 

 堂々とした姿勢で席に戻る上級生を目で追っていると、今度は自分達の代表が返しの言葉を贈るようだった。おそらくはこちらも優秀な人材が選ばれるはずで、入試試験の首席辺りが役割を担うのだろう。といってもここは文武において平凡な成績の中学生が目指す、良くも悪くもない平均レベルの普通高で、人より勉強やスポーツに秀でた者が通う所ではない。だから、特別目を見張る程の人物でもない、ということだ。

 

 綾人はただ地元である事だけを考慮しただけだった。勉学に意味を見出せなかった綾人には、どの道丁度良い偏差値の高校だったが、もしもここの入学難易度が高かったとしても、それに応じた努力はしていただろう。伯母にこれ以上負担や迷惑をかけず、家からなるべく早く巣立つ事。それが綾人にとって第一の優先事項だった。

 

 そんな動機で選んだとはいえ、多少気にはなった。学年トップは果たしてどんな人間なのだろうか。暇を持て余した綾人に、僅かな好奇心が湧いた。

 

「新入生代表、藤阪瑞希(ふじさかみずき)

 

「はい」

 

 体育館全体によく通る凛とした声音と共に、近くの新入生が立ち上がった。綾人はいかにもな男子の姿を予想していたが、反して実際は長い黒髪を背中で束ねた女生徒だった。

 

 呼ばれた女生徒は、先程の上級生に負けず劣らずしっかりとした足取りで壇に上がってゆく。壇の前まで来るとくるりとこちらに向き直り、女生徒は長い髪を垂らしながらゆっくりと頭を下げた。

 

 突然ドクンと、大きく胸が高鳴った。綾人は思わず目を大きく見開いてしまう。

 

 眉を僅かに見せる、切り揃えられた見栄えの良い前髪。その下にある、小さめの顔に釣り合う程よい大きさの瞳が、綾人を鋭く貫いた。

 

(なんだ、これは……?)

 

 色白で女性らしさを前面に出した華奢で綺麗な両手が、設置されたマイクの向きを口元へ合わせる。顔のどこを切り取っても欠点がなく、かつそれら全てが個々に反発することなく見事に調和の取れた、完璧な美貌。小柄な女生徒の背格好に合った、日本人ならではの控え目で柔らかな美しさがそこにあった。才色兼備とはまさにこのことを言うのだろうか。彼女を見た誰もがその姿に太鼓判を押すに違いなかった。

 

 ……いや、それは重要ではないのだ。今問題なのは、突如芽生えたこの激しい感情。強く締め付けられるような痛みを、綾人は感じていた。

 

 なぜか無性に惹かれ、いてもたってもいられない想いが駆け巡る。

 

 一目惚れ?

 

 断じてありえないと、綾人はおもむろに否定した。綾人に限っては、ただ容姿が良いというだけで異性に好意を抱くはずがなかったのだ。

 

 大人達の顔色を伺う幼少期を過ごしてきた綾人にとって、人間のある程度の本質を見抜く事は比較的容易だった。その洞察力のせいで、深読みした決めつけの憶測が常に付きまとった。

 

 真摯に接しているようでそれは建前だ、とか、優しい素振りを見せておいて実は周りの評価の為の計算だ、とか。

 

 そうやって想像の中でとことん相手を貶めていき、期待の数値をゼロにする癖がある。思えばそれは自分の脆弱だった心を守る為の保険だったのかもしれない。

 

 そんな事を繰り返していく内に、綾人は根っからの悪人よりも、外見や外面の良い人間の方が信じられなくなっていた。先程の上級生が良い例だ。

 

 だというのに、彼女に対するこの反応はなんなのか。ただ模範をなぞっただけの挨拶に心地よさを覚え、その作られた笑みに切なさが募ってゆく。

 

 もはや完全に正気を失っている。常軌を逸した狂い方だ。そう頭では分かっていても、気持ちが言うことを聞かなかった。

 

 ガタン!

 

 そこで、女生徒に引き付けられる綾人の視線を断ち切るかのような、大きな物音がした。綾人は反射的に目を奪われ、その方向を見やった。

 

 近くの椅子から前に転げ落ちて、身体を抱えながらうずくまった同じ新入生の少女。全生徒黒一色に染められた会場に一人だけ浮いたその焦げ茶色の髪が、小刻みに揺れていた。

 

 少女の呼吸は荒く、全身が震えている。貧血か何らかの発作のようだったが、その様子に綾人は一つだけ心当たりがあった。

 

 周りの新入生達は驚くばかりで、誰一人手を差し伸べようとはしない。いつの間にか女生徒も挨拶を中止していて、辺りは静まり返っていた。嫌という程に目立つ状況だった。本来なら見向きもしないが、なんとなく他人事ではない気がして、綾人は席を離れて少女に近寄った。

 

「……過呼吸か?」

 

 正確には過換気症候群というが、綾人も過去に同種の症状に苦しめられた時期があった。自律神経系の異常で呼吸が正常に出来ず、血液中の酸素濃度が上がってしまって起こる発作だ。原因は様々だが、多くはストレスからくるものなのだという。

 

「いえ、違っ……、なんっ……でもっ……」

 

 そう言って綾人に目も向けずに少女は首を振る。なんでもないと言いたかったようだが、その割には明らかに苦しそうだ。

 

 綾人が屈みながら少女の容態をじっと観察していると、ようやく女性の教員が駆けつけてきた。

 

「具合が良くないみたいね。後は任せて」

 

 女性の教員は慣れた手つきで少女の肩を担ぎ、共に会場から退場してゆく。綾人は自分の席に戻りながらその姿を見送った。

 

 一時的に少女に注がれていた皆の視線が、今度は綾人に集中してゆく。その無言の訴えかけは空気を読まずに先陣を切って偽善に出た事に対してか、はたまた言うまでもないこの醜貌に対してか。

 

 ……本当に最悪な出だしだ。

 

 コホン、と小さく咳払いし、女生徒が発言を再開する。もう言い終える寸前だったようで、最後に自分の名を告げて挨拶を締めくくった。

 

 「藤阪瑞希……、か」

 

 当然初めて聞く名前だったが、なぜかその響きに綾人の心はざわついていた。

 



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昼休み

 

 午前の終鈴と共に、教室はここぞとばかりに活気に満ち溢れてゆく。数学の授業はクラスの大半に人気がないようで、毎度休憩時間の訪れにはその反動が顕著に現れていた。それが昼休みとなれば、皆なおさら開放感に浸りたくなるのだろう。

 

 そのあまりの変わりように顔をしかめてブツブツと小声で文句を言いながら、数学の担当となった男性教員は教室を足早に立ち去る。一人の女子生徒が廊下側の窓から顔を出すと、男性教員が十分離れた事を確認したのか、さっそく当人への陰口が教室を飛び交った。雑談や世間話もあちこちで始まって、綾人が一息ついた時にはもうそれぞれがいつもお決まりのグループを形成していた。

 

 入学式から一週間が過ぎ、高校生活に大分慣れた頃だった。

 

 綾人は登校時に購入したパンを鞄から取り出し、袋を開けて一口齧る。不自然にならないよう注意を払いながら、横目で瑞希を眺めた。

 

 1学年はAとBの2組があり、もれなく同じA組になってしまったわけだが、それはそれで気が落ち着かない日々だった。

 

 結局の所、未だこの気持ちをどう扱っていいのか決めあぐねていた。……こんな見るに見かねた顔の男が、よりにもよってクラス一の美少女である瑞希に、恋愛感情のような好意を寄せているのだ。傍からみればそれだけで虫唾が走るだろう。しかし、初恋とはそういうものなのかもしれないと、綾人は徐々に受け入れつつあった。

 

 まず第一に自分の容姿は普通ではなく、相手は格別であるということ。その時点で釣り合いが取れないのを重々承知しているが、それを何度心に言い聞かせても理性が全く通じないのだ。

 

 気付けばこうして瑞希を目で追ってしまう始末である。綾人は自分のことながらもうお手上げだった。

 

 ……その瑞希はというと、綾人と同じく自分の席で一人持参の弁当を食べていた。ただ、瑞希は特定のグループに入ろうとしないだけで、大抵のクラスメートとは適度に交流がある。元からの人となりと高圧的な眼光も相まってか、誰からも敬遠されている綾人とは根本的に質が違うのだ。

 

 孤独と孤高。そう形容すればしっくりくる。

 

 瑞希は持前の優秀な学力や恵まれた容姿を非蹴散らかす事なく、慎ましい態度で周りに接してはいるが、やはり高嶺の花という印象が強いのだろうか、男子生徒は中々声をかけづらい様子で、女子生徒にすらも一定の距離を置かれている様に見えた。

 

 中にはその表面化するスクールカーストを僻み、嫉妬する輩もいるといえばいる。

 

 人間の価値の均等を説く言葉は宗教にも哲学にも数多く存在するが、蓋を開けてみればなんてことはない。天は不平等に二物も三物も与えるものなのだ。

 

 間違いなくカースト最下位の綾人は、自覚していながらに高みの見物といった姿勢でそれらを傍観し、悠々自適に学生生活を送っている。……あくまで瑞希以外に対して、ではあるが。

 

「あの、瑞希ちゃん」

 

「はい……? ああ、園原(そのはら)さん、えっと、何ですか?」

 

 突然の来訪者に、瑞希は箸を止めた。話しかけたのは入学式で発作を起こした、あの少女だ。そういえばあんなやつもいたなと、綾人はまるで今気づいたというフリをした。

 

「ちょっと、どうしてもここじゃない場所で話したいことがあるの。いいかな?」

 

 名前は確か、琴音(ことね)だったか。そう綾人はまたわざとらしく偶然思い出したかのように振る舞う。常に能天気で何も考えていないような性格の割には、後ろで組んだ手をもじもじとしていて、瑞希に幾分か緊張している様子だった。

 

「ごめんなさい、ちょっと待って。もうすぐ食べ終わるから」

 

 何の用事かは分からないが、琴音はあの瑞希に大胆にも誘いをかけたようだった。さすがは琴音と、綾人は素直に感嘆した。

 

 綾人は発作の件から琴音と関わってはいないが、既にその人柄の分析は済んでいた。あの髪色を置いておいたとしても、別の意味で目立つ琴音は知りたくなくても勝手に知ってしまう。明るく活発で、嘘を付けない、そんな性格だ。

 

 あんまりこういう事を言いたくはないが、多分……、いや、間違いなく馬鹿である。そう結論付けた理由としては、ずばり裏表が無さすぎるという点に尽きる。加減の違いはあれど、人は普通誰にでも建前があり、少なからず隠している本性がある。綾人はそれを暴くのが得意だった。しかし、どういうわけか、琴音にはそういった内面の憶測が全く立てられないのだ。これ程読めない、否、読むものがない人間は初めてだった。

 

 綾人が心の中でこれでもかという程に琴音を蹂躙していると、瑞希は昼食を食べ終わったようで、スッと席を立つ。

 

「じゃ、行こう?」

 

 そう言い、琴音は笑顔を向ける。堂々と差し出された琴音の腕に僅かに逡巡したが、瑞希は結局その手を握った。そうして二人は教室を出て行った。

 

 目の届いた範囲ではあったが、今回の他に琴音が瑞希と一緒にいた所を目撃した場面はなく、初め瑞希が琴音に対して敬語を使っていた事から、おそらくこれが初接触なのだろうと綾人は思った。その裏付けとして、琴音のスキンシップに対して瑞希には躊躇いが見えていた。少々馴れ馴れしいんじゃないかと、綾人はまた声には出さず、琴音の無頓着さを貶した。

 

 ひとしきりの人間観察を終えた綾人は、食べ終わったパンの袋を教室のごみ箱に捨てながら、正面上部に飾られた時計を見た。分かってはいたが、期待とは裏腹にまだ猶予は十分にあった。この時間は本当に長く感じられる。単純にすることがないのだ。

 

 特に目的があるわけでもないが、綾人は気晴らしにどこかへ行くことにした。

 

 

 

 

 

                  ◇

 

 

 

 

 

 昼休みは教室で惰眠を貪るのが殆どで、こうして出歩いた事は他に一度だけだ。まあまだ入学してから間もない為、当たり前と言っては当たり前だが、さすがに3年間昼寝に費やすのもどうかと思い、綾人は教室とは別に暇つぶしが出来る場所はないかと散策していた。

 

 何かをするにも一人で可能な事。そう限定すると、選択肢はあまり多くはなかった。集団行動が主である体育館やグラウンドなどは以ての外である。先週見回った時に使えそうだったのは、体裁的に芳しくない候補を強引に入れても2つ。定番の図書室と、立ち入り禁止の屋上くらいだ。

 

 一学年A組の教室のすぐ脇にある階段を昇り、三学年生徒の学び舎である三階を通過して、さらに上を目指せば狭い踊り場が現れる。その突き当りに屋上への扉があった。立ち入り禁止と大きな文字で注意書きのされた紙が張ってあったが、綾人が何度か確認しに来た所、管理がざるなようでいつも鍵は掛けられていなかった。その為、侵入は用意であるものの、もし見つかってしまえば校則違反で大目玉を食らうのは避けられなさそうだ。だが逆に、この立ち入り禁止というのがミソでもあった。

 

 図書室も悪くはないが、当然全校生徒が利用可能なわけで、この醜貌を晒す機会を自ら増やしてしまう事になる。同級生に留まらず、上級生にも必要以上に認知される恐れがある図書室を頻繁に訪れるのにはやはり抵抗があった。

 

 その点を踏まえて、多少のリスクは伴うが、生徒への解放の許可が下りていない屋上は、誰も来ることの無い完全な独占地帯ということで、綾人にとってはこの上ない魅力的な候補であった。

 

 今回もしばしの間、ゆっくり過ごせそうな目ぼしい場所はないかと校内を歩き続けてみたが、結局新天地の発見には至らなかった。

 

(……となれば、試しに行ってみるか)

 

 綾人は損失よりも利益が勝っているのなら、非常識であろうと気にも留めず行動する性質である。さすがに一応は人目を避けるが、誰かに告げ口をされたとしてもそれは正当な報いである為、一向に構わなかった。

 

 道中周りへの気配りが空回りする程人気はなく、誰にも遭遇せずに三階までたどり着く。昼休み半ばともなれば移動する人間は早々多くはない。見回りで適度に時間を潰したのが功を奏したようだ。そうして綾人は警戒を解いて先に進んだ。

 

「……ってのはどういう事だ?」

 

 踊り場が見えてきた辺りで、綾人はピタリと足を止めた。どうやら先客がいたらしい。何やら争っている声が聞こえる。

 

「ワタシはもう、お前らの言いなりにはならないと言ってる」

 

「一丁前の事ほざく様になったもんだなぁ、男女。立場が逆転した事も忘れたのか?」

 

 声色を変えず淡々と答える少女の声と、えらく好戦的な少年の声。綾人はこちらの姿が見えないように慎重に様子を覗き込んだ。

 

「もう腕力で勝てねえんだから、その自慢の頭で切り抜けてみろよ」

 

 一人の少女を囲んで、数人の少年が逃げ口を塞いでいる。いじめの現場か。自分よりも髪が短いボーイッシュな少女の方は初めて見た顔だが、少年達の方は同じクラスの素行の良くない連中だった。男女とは言い得て妙だ。少女は女性にしては背も高く、ぱっと見た感じそう思えても仕方のない容姿だ。唯一性別を分類しているのは差別化されている制服のみといった所か。

 

 少年に挑発され、無言で強行突破しようとする少女の腕を、乱暴に中心核の少年が掴んだ。

 

「……離せ」

 

 少女は暴れたが、男の力に成す術もなく引き戻されて尻もちをついた。男が揃いも揃って女一人に手を上げるなど、非常に穏やかな事ではない。しかし、いじめというのは大概同性同士で起こる力関係であり、少なくとも綾人の知る限りでは珍しい構図だった。

 

 綾人は性根の腐ったごろつき共に心底軽蔑したが、それ以上居座ることはせずに静かに踵を返す。面倒事に巻き込まれるのはごめんだった。悪質極まりない事態であろうが、わざわざ表立って善行を働かなければならない義理はない。他人のいざこざなど、どうでもいいのだ。

 

 もう行くあては一つしかなかった。綾人は必死に刃向う少女を置き去りにして、しぶしぶ図書室へと向かった。

 



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図書室

 

 一学年の教室と同じ一階にあるとはいえ、校舎の端に位置する図書室に行くには中々の距離だ。教師たちの談笑が僅かに聞こえてくる教務室を横切り、続けて保健室を通り過ぎる。さすがに火傷の事は知れ渡ったのか、すれ違う生徒がこちらを振り返ることも少なくなったように思えた。特に問題なく図書室に辿り着いた綾人は、部屋の奥で規則的に並び立つ本棚の間に身を滑らせ、本を数冊見繕った。 

 

 貸出受付の正面に設置してある大きさの違ういくつかの机とそれに備え付けられた数台の椅子。それらが敷地を占める割合に反して空席が酷く目立つ。意外にも閑散としていた。たまたまかもしれないが、昼休みに図書室を利用する生徒は少ないようだった。

 

 さっそく綾人は、一番角にある相席用の机を陣取った。持ってきた本を眼前に広げて、表紙を確認する。どれも図鑑ばかりである。今日は何かと思考を働かせた為、腰を据えて活字を読む気にはなれなかったのだ。対角線上の机で参考書を片手にノートへペンを走らせる男子生徒のように、ひたすら勉学に励むつもりなど到底なく、真横の端の机で表情一つ変えずに小説を読み進める女子生徒のように、黙々と物語に深く没頭する気分でもなかった。所詮は暇つぶしだ。ならばと、視覚的に楽な物を手に取ったまでであった。 

 

 選出したのは、植物、動物、昆虫と、子供が喜びそうな本ばかりだ。こうして三冊持ってきはしたが、時間的に一冊目を通すのが限界だろう。綾人は一番興味がそそった図鑑を手に取った。

 

 順序良く捲らずに、いきなり真ん中辺りのページを開く。そこには海外に生息している野生のネコ科動物達の写真が何枚か張り付けられていて、その下に簡易な詳細が記載されていた。

 

 プライドという群れを形成し、集団で狩りをするライオン。最強の咬合力を武器とするジャガー。ネコ科最大の体躯を誇るトラ。俊敏な脚力を持つチーター、など。

 

 本来なら分けられるべき種別も一緒くたにされ、個体ごとの大きな括りで紹介された図鑑に、綾人は物足りなさを感じた。

 

 ジャガーと見分けがつきにくいヒョウと、毛色の違うピューマが乗っていないのは、まさにそれ自体が省かれた理由だろう。

 

 大型のネコ科は他にトラとライオンの交配種であるライガーやタイゴンなどもいるし、アルビノやメラニズム、突然変異種なども加えればホワイトライオン、クロヒョウ、キングチーターなんかもいる。

 

 階層分類をより細分化する程の知識は求めていないが、せめて同じライオンでも野生においての絶滅種であるバーバリライオンを初めとするアフリカライオンと、小柄で体毛が薄いインドライオンくらいの区別はしてほしい所である。 

 

 伯父は読書家で家には沢山の本があった。ビジネス書やエッセイ集にやや偏りはあったが、古典的な文学や一風変わった参考書など幅広いジャンルを網羅していた。自然をテーマにした物も多く、動物を取り扱う書籍も豊富であった。それが家で過ごす事が大半だった綾人とって、うってつけの娯楽となってゆくのは必然だったのかもしれない。 

 

 伯母の目を掻い潜って無断で拝借しては、朝になるまでよく読み漁って、その内に綾人は動物に関しての知識も一般人よりかは長けている方になっていた。 

 

 だからなおさらお決まりの如く、綾人はこのライオンにつけられた百獣の王という常套句がいつ見ても腑に落ちなかった。まるで無敵のような言い草だが、いくら天敵の少ないライオンといえど、巨大な象に踏みつけられたら一溜りもないし、毒蛇に噛まれればあっという間に命を落としてしまう。時には獲物である草食動物の角にすら後れを取る事もある。それに常に危険が伴う野生区域で、万全な状態を維持するのも中々難しい。老いは勿論、怪我などで戦闘力が著しく低下した最には、普段気にも留めない小型の肉食動物にすら翻弄されてしまうのだ。 

 

 そもそもを言ってしまえば、ライオンがネコ科最強の動物ではない。生息地域が違い、相見えることがないだけで、最大個体同士であればライオンよりもトラの方が全てにおいて勝っている。

 

 まあ、なんにせよ自然界において絶対的強者はいないということだ。どんな動物も死と隣り合わせの過酷な世界なのである。人として生を受け、誰からも祝福されることのない人生を歩んできたが、こんな非常な世界に生まれなかったことだけでもまだマシというものだ。 

 

 特に草食動物には憐みしかない。彼らは本当に悲惨だ。肉食動物を前に立ち向かう手段は皆無に等しく、運悪く捕獲されてしまえば、生きながら腹を裂かれて少しずつ肉を食い千切られていく運命にある。人の世でも過去に断罪や拷問の手段として暗躍した残忍な処刑法はいくつもあるが、道具を用いらない手立てとしてはこの捕食というのは極めて残虐性が高く、ある種究極の殺害方法ではないだろうか。

 

 そのような他の動物の暮らしを考えると、現代人の大半は実に呑気なものだと言えるだろう。法に守られた平和を存分に甘受し、誰かから命を奪われる心配も滅多に無く、ただありきたりの生活を繰り返し、怠惰な人生を全うする。

 

 ……くだらない。一体それに何の意味があるというのだろうか。

 

 なぜこのような世界が存在するのか、綾人はずっと疑問だった。まるで用意されていたかのように、生物が営む為の条件が揃った地球。その上に広がる無限の宇宙。仮説の域を出ておらず、全ての起源は未だ謎に包まれたままで、その真理は解き明かされていないのだ。

 

 普遍的概念など、人間の勝手な決めつけなのである。水槽の中の魚が広大な海原で泳ぐ事のないように。檻の中の動物が恵まれた自然の大地で駆け回る事のないように。鳥籠の中の鳥が果ての無い蒼穹を羽ばたく事のないように。人もまた、世の理に飼い慣らされているだけなのではないだろうか。

 

 もはや時間という概念さえも不可思議に思える。何かカラクリがあるはずだ。人知の及ばぬ抑制力が、どこかに有る。そうでなければ、無だ。何もない、虚無の中の瞬き。形がある様に見せかけられた幻像。そうして、初めから人類など存在していなかったのだ。

 

 綾人はありふれた一冊の動物図鑑から、そんな飛躍した想像を夢中に馳せていた。だから、気づけなかったのだ。

 

 いつの間にか対面側の椅子に、誰か座っている。他にも席は十分に空きはあったはずだ。……なぜわざわざここに?

 

 綾人は体勢を変えず目だけを動かして、その人物を確認する事にした。

 

  なるべく気づかれぬ様、少し小首を傾げて前髪を挟み、その隙間からギリギリの焦点で相手を伺う。真っ先に判別材料となったのは胸元のリボンで、着ているのは女子制服。机の上には何もなく、腕は足元へと向かって伸ばされている。途中から死角で見えないが、おそらく腿に両手を乗せていているのだろう。本を読んでいる素振りはなかった。あえて意図的にそこへ座ったであろうその相手に身に覚えがない。綾人は不信感を深めながら、さらに目線を上げる。そうして肩に掛かる焦げ茶の髪色が見えた時点で、素早く図鑑に視線を戻した。

 

 下手をすれば声だけしか記憶に残っていなさそうなのに、ちゃっかり把握されていたということか。しかし何を今更……。相手の動機は明らかであったが、そのやり取りさえ不毛に思えた綾人は無視して次のページを捲った。

 

 そうすること5分。もはや昼休みも終わろうとしていた。

 

「……」

 

 向かいの相手は立ち去ることもなく、ずっと居座り続けている。どうやら、こちらが気づくまで持久戦に持ち込むつもりである。このままだと時間切れになり、嫌が応にも反応せざるを得ない。普通に呼びかければいいものを。綾人はその回りくどさに痺れを切らし、不機嫌そうに顔を上げた。

 

「……何か用か?」

 

「あっ、やっと気づいたぁ」 

 

 周囲に気を使って小声で問う綾人に対して、普段の声量で琴音は答える。即座にキッと睨みつけてくる読書中の女子生徒に、綾人は同情と共感を覚えた。ごもっともな反応だ。このあっけらかんとした琴音の満面の笑みが、苛立ちを余計に煽り立ててくる。

 

 ……にしても、こうしてしっかりと真正面から実物を見たのは初めてで、離れた位置から周囲を観察、もとい勝手に視界に入り込んでくる琴音の印象とは大きな開きがあった。

 

 最も特徴的なのは、大きくパッチリとした綺麗な瞳。その分、口と鼻が小さ目に感じるが、なぜか妙にマッチしている。美人というよりも可愛らしいと言った方がしっくりくる、愛嬌のある顔だった。人によっては瑞希よりもこちらの方が好みの場合もあるのではないだろうか。なんといえばいいのか……、あどけない雰囲気があり、やんちゃで悪戯めいた小動物のようなイメージだ。そう、猫っぽい。僅かに茶色がかったショートボブの髪が良く似合っていた。

 

 まさに今しがたの行動の如く、空気の読めないすっからかんの中身を踏まえて、もっとのほほんとしてたるみきった表情なのだと決めつけていたが、遠目というのは当てにならず、良い意味で予想を裏切られたようだった。 

 

「静かにしろ。……場所を考えろよ」

 

 あっ、とおもむろに琴音は口に両手を当てた。

 

「ごめんね、つい……」

 

 謝るべき相手が違うだろうと思ったが、手早く用件を済ませたかった綾人は返答を急ぐ。

 

「それで?」

 

「えっと、図書室を覗きに来てみたら綾人君が居たから、あの時のお礼を言おうと思って」

 

「ああ、その事か。気にするな」

 

 予想通りの展開であったが、綾人は素知らぬ態度で短く答える。

 

「ううん、ちゃんと言わないと。本当にありがとう」

 

 眼前に手の平を合わせ、上目使い気味に琴音は感謝を述べた。こうも真っ直ぐに伝えられると逆に何かあるのではと疑わしくなる。だが、相手は琴音だ。無駄だろうと感じたが、綾人は今一度注意深く探してみる。打算や演技である場合、案外身体のどこかしらに綻びがあったりするものだ。しかし琴音に変な強張りはなく、動作に目に付く違和感もない。本当に腹の内を包み隠さず、本心をさらけ出した自然体のようであった。

 

「別に介抱したわけでもないんだ。礼を言われるまでの事はしてないだろ」

 

 率直に謝意を表す琴音に対し、綾人は素っ気なく応対する。慣れないのだ。こんな裏表のない思いやりの言葉をかけられるのは。こう言うと会話量が増えてしまうと分かっていつつも、性格上綾人は素直に受け止められなかった。

 

「そんなことないよ。皆ただ眺めているだけだったのに、綾人君だけが心配してくれたの。とても嬉しかったんだから」

 

 首を横にブンブンと振りながら、琴音は否定した。 

 

「あの状況じゃ無理もないだろうな。むしろ俺の方が場違いの偽善者だ」

 

「違うっ。綾人君が優しいだけ。人の為に行動出来るのって、それだけで素晴らしいことなの。そんな皆の方が正しいみたいな、悲しい言い方しないで」

 

 ありのままを説明した綾人に、琴音は眉尻を下げながら力説する。そうはいっても、人は利益を得る為や己の欲を満たす為にも、偽善を働く。良い面ばかり見た主観的意見の押し付けだったが、なぜか琴音が言う分には悪い気はしなかった。それは一切迷いの感じられないひたむきな言葉だからだろうか。しかし、綾人は自分が優しいなどという勘違いだけは訂正しなければならなかった。

 

「……いや、俺も昔似たような事があって、それと同じ症状だったなら対処法は知っていたからな。もしも園原の発作があの時初めてで、その場で教えられる人間が自分だけだったらと考えて、適切な役割を担おうとしただけだ。期待に添えなくて悪いが、それ以外に他意はなかった」

 

 困っている人を助けたいなどという気持ちは微塵もなく、綾人自身の経験に基づいた恣意的な行動であったのだ。その前提がなければ、あの時琴音に声をかけることはなかっただろう。

 

「それでもっ……!」

 

 仕方なしに心内を語った綾人だったが、琴音は納得がいかないようで反論の言葉を探している様子だった。さっさと切り上げたかったというのに、思いの外長話になっている。このままでは拉致が明かない。上手く収めないと堂々巡りだ。それに、会話に夢中になり過ぎて声の制御を忘れている琴音に対して、そろそろ周りが怒りの臨界点をむかえつつある。

 

「まあ、なんだ。もう分かったから。ちゃんと園原の感謝の気持ちは受け取った。だから、金輪際俺には関わるな」

 

「えっ?どうして?」

 

 突然クールダウンして、きょとんとした琴音は不思議そうに問いかける。

 

「どうしてって……」

 

 琴音があまりにも普通に接してくる所為で、今の今まで綾人すら失念してしまっていた。けれど他者とはどうしても埋めることの出来ない溝がある。

 

「園原の為だ。分かるだろ?」 

 

 皆まで言わせるなと、綾人は前髪を掻き上げて火傷の痕を見せる。まあ綾人自身も目立つ琴音とはなるべく関わりたくなかったわけで、実際は利害一致のお互いの為、ではあったが。

 

「……?」

 

 琴音は振り子のように何度か左右に首をひねった後、じぃっと綾人の眼を見つめ、両肘で机を這いながら覗き込むように徐々に顔を近づけてくる。

 

「……おいっ!何してるんだ」

 

 綾人は咄嗟に首を引き、距離を保った。思わず大声を出してしまった。

 

「んと、顔がどうしたのかなぁって。もしかして、その……、火傷の事?」

 

 駄目だ。こいつは審美眼が著しく欠如している。誰もが不快感を露わにするこの顔を見て、琴音の心には全く乱れが無い。もはや他と同じように扱うことは不可能だった。

 

「もういい」

 

 綾人は椅子を引いてその場に立ち、会話を無理矢理中断した。

 

「そろそろ教室に戻らないとな。俺は本を片づけるから、先に行ってろよ」

 

「あっ、もう一つだけ!綾人君に聞きたい事があるんだけど……」

 

 両手で机をバンっと叩いて琴音も立ち上がり、図鑑を束ねて持ち上げようとする綾人を引きとめた。昼休みの拠点候補として図書室の利用を考えていた手前、良く顔を合わせることになる常連の反感を買うことだけは回避したかったが、二名の利用者双方共に資料や本を乱雑に棚へ戻し、勢いよく立ち去っていく姿を見る限り、それはもはや叶わぬ願いだろう。琴音は想像以上のとんだトラブルメーカーのようだ。しかしまだあるのか、と綾人は顔をおもむろにしかめる。

 

(どうする……?もう無視を決め込むべきか……?)

 

 これ以上琴音に関わるのは危険だと、綾人の本能が言っていた。今回面と向かって話してみたが、やはり琴音は過去に出会ったどの人間にも当てはまらない、危惧していたタイプだった。馬鹿と罵ってはいたが、勿論ふざけ半分であり、何も本気でそう思っていたわけではない。……いや、ある意味馬鹿ではあるので、ただの馬鹿ではないと言った方が正しいが。

 

 綾人はごくごく一部の人間に対して、本質を見極める前に馬鹿として無理矢理処理して終わらせることがある。それはつまり、博愛主義者の類である。他人を心の底から敬う、あらゆるものに差別の無い稀有な人種。穢れ無き慈愛の下に、救いようのない悪人を初め、自分のような蔑まれるべき人間にも平等に接するなど、思考回路のどこかが欠けているに他ならない。すなわち、馬鹿と同義である。

 

 仮にもし邪心なくしてその崇高な理念を掲げているのだとしても、それは本人に自覚がないだけでそれらの行動全てが結局、その者の内なる何らかの潜在的欲求に繋がっている。真に見返りを求めない人間など皆無だ。そうして綾人は完全な博愛主義者など認める気はなかった。

 

 まあまだ暫定といった所ではあるが、琴音にはそのような気質が垣間見える。綾人が最も近づいてはならない真逆の存在であった。決して混ざり合うことの無い、反発し合う思想。必要以上の干渉は、予期せぬ不利益を被ることにも成りかねない。琴音との対立は避けるべきだと、綾人は考えていた。 

 

 とはいえ、ここで一方的に拒絶しても後々に響きそうだ。それどころか琴音がこちらの意を汲めず、ただの先延ばしになってまた絡まれる可能性すらある。

 

「なんだ?言ってみろ」

 

 観念した綾人は、きっぱりと関係を終わらせる為に、しぶしぶ琴音の質問を受け付けた。

 

「んー……、えと、うーん……」

 

 さっきの勢いはどこへ行ったのか、煮え切らない態度で琴音は発言を迷っている。

 

「一体なんなんだ。はっきりしろよ」

 

「じゃあ、言うね。綾人君って……」

 

 そこで一呼吸して、琴音は言葉を溜めた。

 

「瑞希ちゃんの事気になってるの?」

 

 驚きの余り後ずさった足が当たり、綾人はガタンと椅子を鳴らした。

 

「なっ、にを……」

 

 琴音の予想だにしない爆弾発言に、綾人は激しく気が動転した。

 

「いっつも見ているから、そうなのかなって」

 

「ま……、さか。たっ、たまたまだ」

 

 綾人は冷静になれと、自身に言い聞かせる。

 

「ええっ?そうかなぁ。絶対意識してると思う」

 

 無邪気に人差し指を口に当て、琴音は疑ってかかった。その容赦のない詰問に、綾人の感情はさらに掻き乱される。どうにも上手い返しが浮かばなかった。良い案はないかと思考を巡らしていた綾人だったが、ふと数十分前に見た光景が脳裏をよぎった。

 

「……藤坂に言ったのか?」

 

 その悪質極まりない思惑の推測で、綾人は平然を保つまでに一気に回復した。その要因となったのは言うまでもなく、瞬時に心を塗り替えた琴音に対する憎悪の情。

 

「い、いくらなんでもそんなこと言えるわけないっ……、あ、さっきの見てたの?とにかく、違うからっ。信じて!」

 

「そうか」

 

 必死に潔白を訴える琴音を見て、綾人は一先ず安堵した。身振り、表情、声の質、そのどこを取っても、嘘は言っていない。相手が琴音だと、こういう時に助かるというものだ。

 

「検討外れもいい所だ。まあ、それはただの園原の憶測でしかなかったわけで、実際誰にどう思われても構わないが……」

 

 声に怒気を多分に含み、綾人は殺意すら滲ませた剣幕を作る。

 

「もしもそれを藤坂に言ってみろ。その時は……」

 

 綾人はあえて先をぼかす様に、言葉を止めた。実際に暴言を吐くのは好きではなかった。それに相手の想像に任せた方が有効な場合もある。

 

「だだだ、大丈夫ですっ。ぜっ、絶対言いませんっ」

 

 その脅しは非常に効果覿面だったようで、琴音は突然しどろもどろの敬語になったあげく、顔を引きつらせて小刻みに震えている。その容姿もあってか、あたかも怯えた子猫のようだった。その様子に、綾人はなぜだか何とも言えない恍惚感を覚えた。……これは元々あった支配欲なのか、あるいは無理矢理相手を力で捻じ伏せた事による気持ちの高ぶりなのか。

 

 ふと先程の図鑑の考察を思い出し、獲物を狙う肉食動物の心情とはまさにこのようなものなのであろうと、綾人は妙に納得した。

 

「ならいい。……じゃあな」

 

 縮こまる琴音を放って、綾人は勝ち誇りながら図書室を退出する。自分はいつからこんな嗜虐心を持ち合わせていたのだろうか。そう綾人は自身の意外な一面の発見に驚きつつも、清々しい気分で午後の授業を迎えたのだった。

 



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週末

 

 トンネルを描くように左右からしな垂れる桜の木々の合間を、人々は行き交う。道沿いには等間隔で設置された木造の古びたベンチと、錆びて赤茶けた鉄製の街灯。季節が違えばどこか物悲しく映るこの路地も、春には途端に様変わりする。ひらひら舞い落ちる薄紅色の花びらが、建造物に乏しく閑散とした通学路に彩りを添えていた。

 

 A校唯一の特典といえば、なんといってもこの景色だろう。連なる結晶の如く優雅に咲き誇る桜花が頭上を覆い尽くす様は、この世のものとは思えぬ程に美しく、酷く幻想的だ。環境の変化が伴う始まりの季節に相応しい、日本ならではの風情があった。

 

 最近天候も穏やかで、雨風が運ぶ臭味に汚染されることなく空気が澄んでいる。そうした日の静かでほんのりと暖かな早朝のベッドは心地よく、耐え難い睡魔を再度呼び寄せてしまう。春眠暁を覚えずとはよく言ったものだ。

 

 犇めきながら揺れ動く群衆に溶け込みながら、綾人は深い溜息を吐いた。瞬間的な密度の高さによる圧迫感で多少の息苦しさはあったが、それがこの鬱々とした気分の原因ではない。

 

 二度寝してしまった己の怠慢が招いた結果なのだ。だから、半月過ぎても未だ止まない周囲の忌避の所作は、甘んじて受け入れている。だが、そこにいつものようなねちっこさはなく、どちらかというとただ偶然目に入っただけといった様相だった。まあ、皆頭の中で明日からの予定を立てる事に忙しいのだろう。そのように週末の登校風景は朗らかで、学校へ向かう生徒達の足取りが幾分軽い様に思えた。

 

 HRの開始まで残り20分程度。この時間帯は警戒せねばならない。部活の朝練などの特別な活動が無い限り、地元外の生徒は必ず先程駅に到着したばかりの電車を利用している。既に何人かのクラスメイトをちらほら見かけていた。綾人は余計な動作を避け、辺りと一体化する。しかし、行動に移すのが遅かったのか、良からぬ気配を放ちながら駆け寄る足音が、後方から一気に近づいてきた。

 

「綾人君、おはよー」

 

「……」

 

 綾人は返事をせず、肩を並べた琴音にただ渋面だけを向けた。無言で見つめ合ったまま、二人はしばらく歩いてゆく。返ってくるはずの挨拶がいつまで経っても返って来ずに、琴音は笑顔のまま固まっていた。あれ私まずい事したかなと、ひくつく表情が語りかけてくる。

 

「さ、先に行ってるね?」

 

 気まずさに耐えきれなくなったのか、琴音は逃げるように速足で前へ進み、先行く生徒達の中に紛れて消えて行った。

 

 見送った綾人は、その一部始終に対して露骨に項垂れる。肺を目一杯押し潰す勢いで、再び大きく嘆息した。

 

 ……おかしい。どうしてこうなってしまったのか。非常に由々しき事態に陥っている。

 

 半ば力づくではあったが立場を覆し、形勢逆転したはずだった。なのに、琴音は何事もなかったかのようにあれから普通に話しかけてくる。その度に無視しているというのに、校内を合わせてもう何度目になるのだろうか。

 

 これは暗黙の脅しとも言える。よくよく思い返せば、あんなあからさまな口止めは瑞希の件を自ら肯定してしまっているようなものだ。琴音もそれを察して態度を一変させ、弱みを盾に堂々とちょっかいを出してきている……?

 

 いやないな、と綾人はすぐさま考えを改めた。あの性格にそんな悪巧みは縁遠い。琴音は何の気もなくあたかも友達の一人のように接しているだけなのだ。

 

 だとしたら、最早やりようがない。いくら威圧しようと次の日にはケロっとしているだろうし、言葉巧みに上手く丸め込もうとしても琴音の理解力では難がある。打つ手無しだ。綾人はこの先の琴音との関わり合いを思うと、この上なく気が重くなった。 

 

 最悪ばらされる、なんてことにはまずならないとしても、周りとの干渉を避けたい綾人にとって厄介な状況には変わりないのである。

 

 そうして綾人の思い描く平穏な暮らしは、琴音の存在によって早くも脅かされようとしていた。

 

 

 

 

 

                  ◇

 

 

 

 

 

 綾人が教室に着いた頃には、既に大半のクラスメイト達が揃っていた。目の端に窓際の席の瑞希が映ったが、綾人はあえて直視を避けた。代わりに冷めた視線をおもむろに琴音の席の方へ向ける。予想通りばっちりと目が合い、琴音は慌てふためきながら、物凄い速度で首を逆方向に旋回させた。綾人は棒立ちのまま構わず凝視する。案の定、もう大丈夫だろうと、ゆっくりと恐る恐るこちらに向き直ろうとしてくる琴音にさらに睨みを効かせ、再度その興味のベクトルを無理矢理捻じ曲げてやった。

 

 そんなやり取りを何回か繰り返した後、琴音は諦めたかのように両手を枕にして机に寝そべった。その様子に、綾人は侮蔑を込めて鼻で笑う。席に着き、さも授業の準備とばかりに鞄の中身を机に移し替える仕草を見せて、ご期待通りに琴音に関心を無くした素振りをする。勿論気づかれない程度に監視は続行中だ。するとどういうわけか琴音の脇が徐々に上がって、視界を確保するような不穏な動きが見受けられた。

 

 

 ……これはもう宣戦布告とみなして良いだろうか。

 

 直接言質を取れなかったから、琴音は今一度確証を得ようとしているのだ。無論、綾人はこれ以上簡単にボロを出すつもりなどない。徒労に終わるのは目に見えてはいるが、非常に鬱陶しい限りである。

 

 しかし、困ったものだ。琴音の読み通りに瑞希が気になってしまうのは事実で、気を緩めれば本能的にそちらの方へ意識がいってしまう。これからこんなせめぎ合いをいつまで続けなければならないのだろうか。琴音に勘付かれたのは取り返しのつかない致命的なミスであったのだと、綾人は今更ながらに思い知った。

 

「おい、周防」

 

 そう綾人に声をかけたのは隣の席の竹中だった。あの踊り場で集っていた不良グループの一人である。心ここに非ずの綾人の目の前に、竹中は手をぱたぱたとさせて注意を引く。思いがけぬ横槍に綾人の身体が僅かに力んだ。今まで特に会話もなかった相手だが、ここに来て難癖でもつけるつもりだろうか。

 

「なんか生徒会長がお呼びみたいだぜ」

 

 どう穏便に切り抜けようかと策を練っていた綾人だったが、全くの見当違いに肩透かしを食らう。竹中の指が差す廊下には、見た覚えのある顔。あれは確か、入学式の時に新入生へ歓迎の言葉を贈っていた上級生だ。

 

 怪訝に思いながらも席を立ち、綾人は生徒会長の待つ廊下へと出た。

 

「周防君だね?HRも間近だというのに、突然すまない。僕は三年で生徒会長をしている今庄という者だけど、ちょっと君と話がしたいんだ」

 

 今庄はにこやかに、綾人にそう告げた。

 

「生徒会長が、俺に?」

 

 綾人の疑念はさらに深まる。あくまで生徒の中ではあるが、学校のトップである人間がわざわざ他クラスに出向き、名指しで呼びかけるというだけでただ事とは思えなかった。火傷の事なら、何か学校側に迷惑をかけているわけでもなく、詮索されるような問題でもないはずだ。いずれにせよ、自分にとって望ましくない話には変わりないだろう。

 

「名前は翔真だ。翔真と呼び捨てにしてくれても構わない。放課後に生徒会室で待ってるよ。場所は三階だけど、階段に隣接しているから来ればすぐ分かると思う」

 

 本来なら御免被りたいが、学校組織が絡んでいるとなれば、そう易々と受け流すことは出来ない。おそらく初めから断る権限などないのだ。綾人は翔真の申し出を仕方なしに承諾した。

 

 



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生徒会長

 

 教室の半分もないこじんまりとした部屋にそぐわぬ大枠の窓から、翔真は外を眺めていた。前回の議論の内容だろうか、壁沿いに設置されたホワイトボードには、隅々まで走り書きされた文章が消されずに残っている。中央には大きな長机と、数人分の椅子。他には様々なファイルや資料が収められたガラス張りの書棚が二つあるだけだ。ここの使用用途は会議のみで、備品などは別の部屋にあるのだろう。生徒会室は整然としていて、思いの外殺風景だった。

 

「ああ、来たね。まあ、とりあえずかけてくれ」

 

 綾人に気付いた翔真は近くの椅子を引き、着席を促した。

 

「何の用でしょうか?」

 

 反対側の椅子に回り込こうとする翔真の背に、綾人は立ったまま急かすように問いかける。

 

「せっかちだな。もし君に時間がないなら、後日でも構わないよ」

 

 ちょっとした会話なら廊下でも出来る。こうした場を設けるのは、おそらく込み入った話だからだ。だからあえて迫り立てる態度を取ったが、翔真にはするりと躱されてしまう。適当にあしらうのは難しそうだ。長机で頬杖を突く翔真の前に、綾人はしぶしぶ対席した。

 

「さっそくだけど、君に聞きたいことがあるんだ」

 

 翔真は両肘を乗せて手を絡め、少し上体を前に倒す。

 

「ここが地元の同級生から、君の噂を少し耳にしてね。中学の頃、君は少々問題児だったようじゃないか」

 

 察した綾人は見る見るうちに顔が険しくなった。A高に進学を決めた時に想定はしていたが、こうもすぐに表面化してしまうとは。大人しくしている間は大丈夫だろうと高を括っていた綾人には、完全に虚をつかれる形になった。

 

「しょっちゅう喧嘩ばかりしていたんだってね。中には相手に大怪我をさせた事もあるとか……。生徒会長として、それが見過ごせない案件なのは理解してもらえるだろうか」

 

 翔真の口振りからして、既に一連の流れはほぼ把握されているようである。そう、それが綾人が他者との交友を控える理由の一つでもあった。

 

 短絡的に言えば、手を出してきた奴ら全てに報復した、というだけのことで、根掘り葉掘り問いつめられるべきは普通なら相手側の方だ。ただ、一切手加減しなかったというのがまずかった。初めの方のされるがままだった時期はともかく、負け続けの奴らが次々に評判の悪い知り合いを呼びつけてきた辺りから、腕っぷしの差は歴然としていたというのに、その都度相手が降参の意思を示すまで躊躇なく痛めつけてしまった。そんな過剰防衛のおかげでそもそもの発端と経緯は無視されがちになってゆき、いつしか周囲には喧嘩両成敗といった具合に同罪とみなされてしまう始末だった。

 

「そういうものなんですかね」

 

 綾人は気の無い返事をする。どうせこの翔真も、いかにもな講釈を垂れるのだろうと思ったからだ。

 

「はっきり言おうか。君が我が校の風紀を乱す危険分子なのかどうか、僕は見定める必要があるんだよ。だから君をここへ呼んだんだ。……粗方の事情は知っているが、君の主張も聞いておきたい。話しては貰えないか?」

 

 意外にも一方的な注意喚起ではなく、翔真は綾人の心情を汲む構えのようだった。尾ひれがついて歪曲しているだろう噂に疑問を持ち、情状酌量の余地が有るとでも判断したのだろうか。その姿勢は有難いが、同じ立場にならなければ真の共感には至れない。綾人は当の昔に自身の境遇を誰かに理解してもらうことを諦めていた。

 

「主張も何も、噂のままだと思いますよ」

 

「やり返しただけ、ということかな。それにしてはやり過ぎな部分もあったんじゃないか?」

 

「徹底的に叩き潰さなければ、またしつこく絡んでくるような連中です。俺はただ奴らの心を完膚なきまでにへし折ったまでだ」

 

 強い口調で、綾人は言い放った。

 

「そうか……」

 

 落胆か哀憫か、翔真はそのどちらとも取れぬ複雑な表情を見せた。

 

「……君は、なぜ火傷を?」

 

 少しの沈黙の後、翔真は綾人の反応を伺うように、ゆっくりと尋ねた。プライバシーに対する気遣いとも取れるが、それにしてもどこか妙に慎重である。加えて、翔真の眼に微かに覗かせる探求心。どうやら今までの会話は前置きで、翔真にとってはこちらが本命だったようだ。

 

「答える義務はないと感じますが」

 

「教えてくれ。それ次第で、もし何かあった時学校側に少しは擁護出来るかもしれない」

 

「俺は別に望んでいませんが。まあ隠しているわけでもないし、話してもいいでしょう。これは家族を失うことになった家の火事で、炎に巻かれた時に負ったものです」

 

「不慮の事故で、か。その上ご両親も……。それはとても災難だったね」

 

 不憫そうに、翔真は顔を歪める。

 

「いえ、俺がわざと引き起こしたんです。当時誰も信じてくれませんでしたが、両親を殺したのは紛れもなく俺です」

 

「待ってくれ。わざとだって?理解が追い付かない。君は両親を憎んでいたのか?」

 

「全く。結果的に両親が巻き込まれて死んでしまっただけです」

 

「それが真実なら大変な事だ。警察はちゃんと調べなかったのか」

 

「助かった子供は5歳で、現場の状況を精査するにも全焼でしたからね。ただの火の不始末で落ち着いて、疑われることはありませんでした」

 

 翔真は黙ったまま呆気にとられていた。己が犯した重大な罪をこうも淡々と語られては、言葉に詰まってしまうのも無理もない。

 

「……君が火事を起こした本当の理由は何だ?」

 

 犯罪者への尋問のように、翔真は問いかけた。

 

「そう言われても。そんな物心がついているのかも分からない子供に、明確な動機なんてあったと思いますか?強いて言うなら、悪戯のつもりだったんじゃないですかね」

 

「確かに、そうかもしれない。いや、しかし……」

 

 再び翔真は返答を窮した。そろそろ頃合いかと、綾人は席を立つ。

 

「少ししゃべり過ぎました。まあ、そういうことです。俺にとってあんまり蒸し返されたくない過去なんですよ」

 

「僕にはあまりにも受け入れがたい話だ。……今のは聞き流して、とりあえず君は幼少期の記憶が錯綜しているということにしておくよ」

 

 翔真は出口へと向かう綾人を目で追いながら、折り合いをつける。綾人はドアを開こうとした手を止めて、振り返った。

 

「俺への懸念は晴れましたか?」

 

 去り際に分かりきった質問を投げかけてみる。

 

「勿論保留に決まってる」

 

 だろうな、と綾人は思った。

 

「心配しなくても俺は自分から問題を起こすつもりはありませんよ。……じゃあ、これで」

 

 綾人は翔真に軽く頭を下げて、ドアを開けた。

 

「わっ!」

 

 驚きの声と共に、突然目の前に琴音の顔が飛び込んでくる。綾人は面を食らってのけ反った。

 

「園原……、盗み聞きしていたのか?」

 

「たっ、たまたま通りかかっただけっ!本当に偶然!」

 

 これ程嘘をつくのが下手な人間は、そうそういないだろう。なんとも安直な言い訳だった。

 

「はあ……。なんで俺なんかに纏わりつくんだ」

 

「仲良いね。そういう関係なのかな?」

 

 そう言いながら、興味を引かれた様に翔真は歩み寄ってくる。翔真の不意な一面に、綾人は意表をつかれた。話してみた限り、真面目で堅物という印象を受けたが、案外そういう感じなのか……?少なくとも、このやりとりを見て、そんな俗的な発想が出てくる風には見えなかった。

 

「どうしたらそう見えるんですか。特に関わりの無い、ただのクラスメイトです」

 

「え?嘘でしょ?友達だよね?」

 

 琴音は縋る様に綾人の学ランの袖を引っ張った。

 

「……気安く触るな」

 

 反射的に綾人は琴音を突き飛ばす。琴音は体勢を崩しながら、廊下の壁にぶつかった。

 

「痛っ」

 

 はっと、綾人は我に返る。咄嗟に手が出てしまった。他人に触れられるのは、苦手だった。

 

「悪い。つい……」

 

 反省する綾人を強引に押し退けて、翔真は一目散に琴音に駆け寄った。

 

「……怪我はないかい?」

 

「はっ、はい。大丈夫です」

 

 翔真は琴音の具合を確認して、大事が無いことにほっと胸を撫で下ろした様子を見せる。

 

「周防君、いくらなんでもそれはないんじゃないか」

 

 非は全面的に自分にある。綾人もそれを認めて、翔真の言葉に何も言い返せなかった。だが、なぜだろう。さっきから翔真には違和感があった。綾人は一度見極めた人物像を大きく外したことはない。それなのに翔真の態度は、どこか変だ。

 

「とにかく、今日はこれで解散だ。周防君、彼女にしっかりと謝っておくように」

 

 翔真は綾人にそう忠告すると、三年の教室へと去っていった。

 

「本当に悪かった。そういうの、色々あって駄目なんだ」

 

「ううん、あたしこそ馴れ馴れしくてごめん」

 

 琴音は責める事もせずに謝った。なんとなくばつが悪くなり、綾人は琴音から視線を逸らす。

 

「……それはそうと、園原。お前生徒会長と面識があったりするか?」

 

「生徒会長って、さっきの人だよね?今日が初めて。あたしの事何か言ってたの?」

 

「いいや、そういうわけじゃないんだ。ただ、少しな……」

 

 ……気のせいか?綾人はすっきりしないまま、琴音と共に生徒会室を後にした。



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野外授業

琴音の一人称をうっかり間違えていたので、後々訂正していきます。


 

 子供というのは少しでも身体的特徴があれば、本気で毛嫌いしたり、平気で仲間外れにしたりする残酷な生き物だ。ましてや火傷の痕などという悪目立ちしかしない見た目の違いは、それだけで劣等種というレッテルを貼られる材料となってしまう。

 

 綾人は小学生の頃から友達の一人もおらず、周囲から真面な扱いを受けたことはない。集団での無視は当たり前で、容姿をいじる中傷など日常茶飯時だった。今とは違って気弱だった綾人は、クラスメイト達からの嫌がらせやちょっかいに耐えながら、毎日を孤独に過ごしていた。家にも居場所はなく、話し相手もいない。そんな四面楚歌の状況にすり減り、疲弊してゆく心をなんとか保ちながら、幼い綾人は精神の崩壊を免れるのが精一杯だったのだ。

 

 やがて積み重なるストレスが体調に現れる。何度か呼吸困難に陥り、脈が乱れて意識が朦朧をした。発作が癖になり、もはや生きる事さえ辛くなっていった。限界に近い綾人に反して、無情にもクラスメイト達のいびりは次第にエスカレートしてゆく。……本格的な暴力が始まったのは、中学1年の夏に差し掛かった時期だっただろうか。

 

 関わってくるな、と訴えただけだった。今まで無抵抗だったおもちゃの反抗的な態度が、余程癇に障ったのだろう。放課後、綾人は人気の無い所に無理矢理連れて行かれて、初めて手を出された。その場にいたクラスメイト全員が箍が外れたように綾人を殴り、蹴り続け、足腰が立たなくなる程の明確な危害を加える。最中、綾人は我慢してきた涙が自然と溢れた。それは、絶え間なく与え続けられる痛みにではなく、こんな虐待を受ける立場である自分の惨めさに、だ。

 

 その日、傷だらけでボロボロになって帰ってきた満身創痍の綾人に、あろうことか伯母は理由を聞きもせずに、ため息交じりに救急箱だけを放り投げただけだった。

 

 ……どんなに辛く苦しくても、誰も救ってはくれないのだ。この世に自分の味方なんて、どこにも存在しない。そうして綾人はこの先ずっとそれは変わらず、己の人生とは永劫の地獄なのだと諦観した。

 

 

 

 

 

                  ◇

 

 

 

 

 

 瞼に感じる、眩しい日差し。綾人はうっすらと目を開けた。

 

(寝てしまっていたのか……)

 

 桜の木の隙間から注がれる木漏れ日を、手をかざして遮る。綾人が寝転がっているのは、校舎からは死角になる緩やかな斜面の草むらだ。数十分前同様に、すぐ近くには綾人のスケッチブックが変わらず放置されている。1学年A組の生徒達は皆、美術の野外授業で校外に出ていた。

 

 隣にはなぜか、鉛筆を縦に構えて片目を瞑る琴音の姿がある。その正面には真ん丸と太った黒毛の野良猫。単独で人気の無い場所を選んだ綾人には、この状況に覚えがない。

 

「……何してる?」

 

「大きさを計ってるの」

 

 こちらを見向きもせず、琴音は目の前の黒猫を真剣に観察している。

 

 なるほど、形から入るタイプか。……ではなく、どうしてここにいるのかという意味の問いだったが、聞き直した所で納得のいく返答が得られるとは思えない。綾人は、それ以上琴音に詮索するのをやめた。

 

 琴音の体育座りの膝に支えられたスケッチブックを横目で覗くと、良く分からない三角形の物体が二つ並んで描かれていた。おそらくはこの黒猫の耳の部分なのだろう。そして、今日の課題は風景画である。勿論綾人にその勘違いを指摘しようなどという良心は一切なかった。

 

「俺にそんな奇抜な発想はなかった。珍しいモチーフを選んだな。きっと園原だけだ。上手く描けたら、皆に注目されるんじゃないか?」

 

 琴音が描いているのがなんなのかは直接口に出していないわけで、嘘は付いていない。綾人はふてぶてしく、琴音の背中を押す発言をした。

 

「え?そうかな。確かに、こんな逃げないおとなしい子って他にあんまりいないかも。あたし、小さい頃からお絵描きが好きだったし、もしかしたら本当に良い評価が貰えたりして」

 

 琴音は満更でもなさそうに、小さく喜色を表した。まんまと騙されていることも知らず、素直に褒め言葉と捉えたようだった。

 

「かもな、頑張れ。ところで……」

 

 綾人は周りを見渡した。周辺でデッサンをしている人間は見当たらない。

 

「仲の良い友達はどうした?俺ばかりに構っているとその内愛想を尽かされるぞ」

 

 誰にでも気軽に接する琴音だったが、取り分けその中でも一緒にいる所をよく見かける女子グループがある。しかし最近は綾人に付きっきりで、傍にいる割合の方が多い気すらしていた。

 

「いいの。最近一緒に居ると嫌な気持ちになる事が多いから」

 

「喧嘩でもしたのか?」

 

「そうじゃないけど、その……、綾人君の事をあんまり良く思ってないみたいで」

 

「ああ、そういうことか。だから俺には関わるなって言ったんだ」

 

 現状、昔のように矢面に立たされるような場面はないにしろ、この容姿のせいで一緒にいる人間が飛び火を受ける可能性は十分にあり得る。琴音のペースに翻弄されてうやむやになってきたが、そろそろ潮時だと感じ、綾人は決別の意思をはっきりと切り出そうとした。

 

「なあ、園原……」

 

「おかしいよね。見た目なんて……。同じ人間なのに」

 

 ―――同じ人間なのに。

 

 綾人は上半身をがばりと上げて、マジマジと琴音を見つめる。眉を潜めて憂いを帯びた横顔に、綾人は思わず息を飲んだ。

 

「な、何?」

 

「いや……」

 

 まだ脆弱だった自分が、誰かにかけられることを密かに望んでいた慈悲。もう諦めてしまった言葉だった。ここに来て静かに揺らぐ信条が、琴音をかくも美しく装飾してゆく。じわじわと心を染めだす得体の知れぬ何かに抗いながら、綾人は小さく頭を振った。

 

「……そういえば、その髪は染めているのか?」

 

 綾人は誤魔化す様に話題を変えた。

 

「ああ、そういえば話してなかったっけ。クォーターなの。隔世遺伝って言うのかな?お母さんやお父さんは真っ黒なのに、なぜかあたしの髪の色にだけ影響しちゃって」

 

「そうなのか。だから金髪にしてきた堀石だけが注意されて、園原はお咎め無しだったんだな」

 

 堀石は、竹中を含めた不良達のリーダー格であり、他クラスの女子に一番絡んでいた奴だ。

 

 入学式以降、ボスである堀石はお手本と言わんばかりに日に日に外見もらしくなっていった。短ラン、ピアスときて、先日いよいよ堀石は、ついに堂々と髪を派手に染めてきたのだ。職務上、やんわりと指導してきた教師達もさすがに本腰を入れて注意せざるを得ない様子で、HR直後に堀石は授業そっちのけで担任に連れられて行った。

 

 教室を出て行く時、琴音を引き合いに出して担任に文句を言っていたのを覚えている。事情を知らない堀石は、他の人間が許されるなら自分も免除されると思ったのだろう。翌日、あれだけ反発していた堀石が素直に従って元の黒髪に戻していたのは、そういう理由だったわけだ。

 

「あたし、この茶髪のせいで皆にからかわれてたの。よく一人で過ごしてたなぁ。だから、一緒にしてほしくないと思うけど、綾人君の気持ち少しだけ分かるんだ」

 

 確かに、生まれた時からこの色なら、そういった迫害にあうのかもしれない。しかし、琴音はそんな薄暗い過去があるなんて微塵も感じさせたことはなかった。

 

「嫌になったりしなかったのか?」

 

「仕方ないよ。自分は自分なんだから。だったら、もっと自分の中身を知って貰って、皆と打ち解けようって思ったの」

 

 琴音の裏表のない性格は、それに起因するものだったらしい。程度の違いはあれ、琴音は自分と同じように疎外される側の人間だったのだ。なのに己を見失わず、したたかに向き合っている。

 

「……強いな、園原は」

 

 どこから共なく吹くそよ風が、二人を優しく包み込んでゆく。他人といて心地よさを感じるのは初めてだった。そして綾人は知ったのだ。こうして話し合い、関わる事でしか分からない、その人間の隠された一面がある事を。

 



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放課後

 

 肉厚のあるハンバーグに、気持ち程度に添えられたニンジン、ポテトと、一房のブロッコリー。見栄え良く敷き詰められてはいるが、おそらくご飯の量は少なめである。タンパク質と脂質に偏っていそうだったが、夕食としては十分に満足出来る品だろう。綾人は手に取った弁当の値段を見て、財布の中身を確認した。大事にしていた千円札が一枚と、小銭が少々。

 

 栄養表示が目に入ったが、やはりPFCバランスは決して良いとは言えない。約600円という全財産の半分近くの大金をはたいて購入するには、さすがに気が引けた。

 

 ポケットから取り出した携帯を開くと、現在時刻が18時36分と表示されている。……もう少し遅く来るべきだったか。ここのスーパーは午後9時を回ると、店員が割引シールを貼り始め、売れ残りの惣菜や弁当が半額になる。数時間経ったくらいで腹を壊す程食材が劣化するわけでもあるまいし、どう考えてもそれから買った方が得だった。

 

 まあ、だとしても、この弁当がその時間まで売れ残っている保障はない上に、いつ帰ってくるか分からない伯母の帰宅を考慮する必要も出てくる。

 

 自分が家にいても良い顔はしない癖に、夜遅くまで外を出歩いていると、それはそれであからさまに伯母は不機嫌になる。養われている立場の人間が、好き勝手に遊び呆けているのが気に食わないのだろう。

 

 綾人は弁当をそっと陳列売り場へ戻した後、戦利品無しで家へ引き返すか、はたまた他の商品を見回るか迷った。

 

 ざっと冷蔵庫の中身を拝見した限り、ろくな品揃えではなかった。だからこうして食料調達に赴いたのだが、今思えば残り物の一つ一つを良く見たわけではない。米は炊くにしろ、おかず代わりになるものはあっただろうか。

 

 去年まで伯母は外食は殆どせず、夕食は家で自炊をしていた。あくまでついでという体ではあったが、ちゃんと二人用意してくれていたので、以前は綾人がこんな風に困る事はなかった。伯母が作る料理は特段上手いというわけではなかったが、主食、主菜、副菜を意識したバランスの優れた食事ではあった。だから、変に栄養が偏ることもなく、細身ではあったが綾人はそれなりの体形を維持出来ていたのだ。喧嘩に負けまいと身体作りに励んでいた中学生の綾人にとって、栄養面を気にする必要のない恵まれた環境だった。

 

 しかし、最近伯母は食事をどこかで済ませて深夜に帰宅することが多い。綾人の食事に関しては、小遣い兼昼食代である、朝ダイニングテーブルに置かれている500円玉のみで、朝食も夕食もほぼないに等しかった。

 

 そのお金を浮かしたりして、なんとかやりくりしながら綾人は今に至っている。

 

 家にある物を勝手に使って料理はして良いとの許可は得ているが、いつも肝心の材料がないのだ。おかげでカロリー不足に陥り、体重が緩やかに減少し始めている。脂肪だけでなく、筋肉も落ちている実感があった。いかんせん、スーパーに立ち寄れば、食品の味よりも栄養価に目が行く日々である。

 

 ……調味料は一通り揃っているから、最悪具無しの味噌汁でいいか。

 

 そう妥協し、綾人はスーパーの出口の自動ドアの前に立った。が、ある人物が目に止まり、綾人は隠れるように店内へと戻った。レジ付近の窓から、外の様子を伺う。

 

 瑞希だった。他地域の学校の制服を着た男と話をしているようだ。男はこちらに背を向けているので顔までは分からない。構図からして一瞬彼氏かと思ったが、よく考えてみれば状況がおかしかった。

 

 綾人は瑞希と高校で初めて出会ったわけで、言うまでもなく瑞希は地元の人間ではない。入学と同時に近所に引っ越して一人暮らしを始めたという事もなくはないが、綾人は瑞希が登下校で電車を利用しているのを見かけていた。前者はまずないと判断して良いだろう。そうして双方の通っている学校と現在地を加味すると、これが逢引現場というには少々無理がある。

 

 ということは、十中八九、地元民のナンパだろう。まあ、端正な顔立ちの瑞希に男が寄ってくるのは、ごく自然の流れなのかもしれない。

 

 今は放課後を遥かに過ぎた時間帯であったが、瑞希のその後の行動には明るくなかった。部活、バイト、用事など色々あると思うが、それに関しては全く見当がつかない。A高の部活は自由加入という方針で、当然綾人は帰宅部だった。故に、その日の最後の授業の終了と共に家に一直線の綾人には、同じクラスメイトの事でさえそこら辺は不明瞭なのだ。気にかけている瑞希の事ですら、綾人は何一つ知らなかった。

 

 そんな思考を巡らせながら、改めて二人を注視すると、心なしか男の方が威勢が良く、瑞希は若干尻ごみしているように見える。

 

「……」 

 

 綾人は俯き、眉間に指を当てて悩んだ。初めはいつものように、見て見ぬ振りをしようと思ったのだ。綾人はそれが例え意中の相手だったとしても、他人事におせっかいをする性質ではない。現時点では一方通行のように感じるが、実を結ぶ可能性がゼロということはないはずだ。人の恋路を邪魔するのなど、以ての外である。

 

 それに、どの面を下げて割って入れというのだろうか。例え目的が救済であっても、下手をすれば自分はしつこいナンパよりも関わりたくない風貌をしている。

 

 ……やはり、放っておくのが吉である。そうして綾人はもう一つの遠い出口の方を見やった。

 

 しかし、視線を外す瞬間、離れて歩き出そうとした瑞希に回り込む男の姿がちらりと映り、綾人はピタリと足を止めて、口元に禍々しく弧を描いた。

 

(……お前なら、話は別だ)

 

 そう、ナンパをしていた男は昔綾人に暴力を振るっていた中学のクラスメイトの一人だった。綾人は不良達のスタイルのそれのように、ポケットに両手を突っ込んでゆらりと前屈みになる。もはや瑞希がどう思うかなど眼中になかった。今にも襲い掛からんとする殺気を放ちながら、綾人は二人の元へと向かって行った。

 



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瑞希

 両脇に様々な店が並ばれた賑やかな商店街の道路上で、夕飯の買い出しであろう主婦や帰宅途中の人々がちらほらと行き交っている。綾人はそれらに上手く溶け込みながら、男の背後からさりげなく迫ってゆく。

 

 男にとっては完全に死角である。当然ながら先にこちらに気付いたのは瑞希だった。男をどうにか撒こうと、必死に抵抗していた瑞希は不自然に静止し、あからさまに視線をこちらに向けて、きょとんとした表情を浮かべていた。

 

 状況を把握出来ていないのは男だけで、突然何を言っても無反応になった瑞希に肩透かしを食らい、徐々にその勢いが弱まる。

 

「ちょっと、しつこかったかな?」

 

「……」 

 

 どう声をかけようとも瑞希の返答は無い。心ここに非ずといった様子を、男は拒絶と捉えたようでやり場無く項垂れる。

 

「……少し強引だった。悪かったよ」

 

 完全に意欲を削がれた男は、ついには謝罪の言葉まで口にした。

 

 そんなやり取りを尻目に、綾人は男に手の届く距離まで詰める。すると、男の背中からひょこりと顔を覗かせた瑞希と目が合った。ぎらぎらとした眼光を放つ綾人に向けられたのは、相対した曇りなき純真な瞳。耐え切れず咄嗟に綾人は視線を外した。……なぜなのだろうか。誰のものとも変わらない眼だというのに、自身の知り得ぬ感情……、内に潜む何かを大きく揺さぶられるかのような感覚に陥る。過去の恥辱に対するこの煮えたぎる衝動でさえ、綺麗さっぱりに飲み込まれそうになった。

 

 いい加減にしろ、と自分に活を入れる。下らない情緒だ。綾人という人間の人生にあるのは、希望無き未来と、絶望的な過去だけなのだ。恥ずべき己を顧みて、初心に帰る。もう琴乃や瑞希という存在に振り回されるのはうんざりだった。

 

 確乎たる意志を胸に再び瑞希を見やり、きつく目を細める。琴乃も瑞希も、所詮は縁の無い別世界の住人なのだ。ここ最近の弛んだ感情を自ら断ち切るべく、瑞希に全力で威圧をかけた。関わってきた全ての他者がそうしたように、琴乃や瑞希でさえ軽蔑して近寄ってこなくなればいい。その光景を目の当たりにすれば、きっと以前の信条を、本来の自分を取り戻せる。……本気でそう思っていた。

 

 が、その威勢とは裏腹に瑞希から畏怖の情は全く伺えなかった。それどころか、まるで知人に出会ったかのように小さく手を振り、こちらの気を引こうする仕草を見せている。著しく予想とかけ離れた展開であった。どうして揃いも揃って、平然とこちらへ踏み入ってくるのかと、綾人は心底あきれ返った。そうして続けざま瑞希の口が何かを発しようと大きく開かれた瞬間、綾人は間入れず男の肩を掴んで力いっぱい強引に振り向かせた。

 




リハビリの為文字数少ないです。


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