巫女レスラー (陸 理明)
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第1試合 御子内或子登場
少年の見たもの


 白いマットのジャングルならぬ、神社の境内に敷き詰められたキャンバスの上では、見た事もない奇っ怪な死闘が始まっていた。

 何が奇っ怪と言ったら、まず場所がそもそも異常だ。

 ここは僕の家のすぐそばにある神社。

 僕や妹が七五三や初詣に利用する、由緒正しい神社だった。

 そこの境内(普段なら神主さんが掃除をしたりしている)に敷き詰めた6メートル四方の白い板、四つの角に建てられた鉄製の柱、その間に張り巡らされた三本のワイヤーロープ。

 まるで、プロレスのリングのような舞台で行われているからだ。

 次におかしいのは、そのリングの中で戦っている二人だ。

 一方は、身長が二メートル四十センチはあろうという、人としてありえない高さの白い服を着た女。

 眼には瞳というものがなく、ぽっくりと空いた空洞で、口元が欠けた月のように割れている。笑いのつもりなのだろう。

 薄汚れた麦わら帽子をかぶり、逆に服装はまるでおろしたてのワンピースのように眩しいほどに白い。

 正直な話、どうみても普通の人間ではない。

 巨人症という言葉を聞いたこともあるが、そういった奇形的なものではなく、存在自体が歪なのに確固とした姿を保っているというべきか。

 つまりはこの世のものではないのだろう。

 だが、僕にとって問題なのは、それよりもその巨人みたいな女と戦っている方だった。

 上半身にまとっているのは白い衣、首元に赤い襟があり、キリッとして美しい。

 そして、下半身には緋色の袴を履いて、同じ色の紐でとめていた。

 はっきり言えば巫女装束だ。

 だが、ただの巫女装束でないのは、両手首に巻いた革のリストバンドと、地下足袋で草鞋という履物が本来のはずなのにもかかわらず代わりに革のリングシューズを履いているところだった。

 どうみても巫女じゃないような。

 そんな僕の感想を気にも留めず、巫女装束をまとった人物は巨人女と死闘を繰り広げていた。

 その人物は―――ぶっちゃけ可愛い。

 わりと長めの髪を結い上げてアップにしているせいで、健康的な印象が強いけれど、顔の造作そのものは小さめで儚い感じの可愛らしい女の子だった。

 眉が幾分濃くてちょっとだけ男らしいが、そんなところも全体とのギャップがあって、むしろ素敵だ。

 惜しむらくは小さな口から発せられる台詞が、「どっしゃあああ!」とか「おりゃああああ!」ばかりだというところだろう。

 ただそれは彼女が真剣に命賭けで戦っていてくれるからなのだから、僕が文句を言っていいことではない。

 彼女がこのわけのわからない状況で戦っているのは、僕の妹のためであり、彼女に助けを求めたのは僕なのだから。

 

 ……じゃあ、どうしてこういう状況になったのかをちょっとだけ説明しよう。

 すべては昨日に遡る。

 



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少女を狙う怪奇

「お兄ちゃん、怖い!」

 

 妹が帰宅するなり僕の部屋に飛び込んでくることは、そんなにあることじゃない。

 たまにあったとしても、それは台所の母に僕を呼んでくるように言われたからとかそんな場合だ。

 少なくとも、帰宅してすぐに僕の顔を見にきたくなるぐらいにブラコンという訳ではないようだ。

 でも、世間一般の兄妹関係よりはうまくいっているとは思うけど。

 

「どうしたんだよ、いきなり。ストーカーでもでたのか?」

 

 僕も最初はそんなに真剣に応対する気はなかった。

 確かにうちの妹はかなり可愛くて、ぶっちゃけた話、僕みたいな平凡そのものの兄と同じ遺伝子で出来ているとは思えないタイプだ。

 中学校でも、たくさんの男たちから告白されたりしているみたいだ。

 ただし、妹はいわゆるオカルトや都市伝説というものが大好きで、そちらをネットで漁ったりするのが趣味というインドア派であることから、今ひとつ男女交際には興味がないらしくすべて断っている。

 兄としては残念な喪女になったりしないか心配なのだが、妹自身はそれでも満足かもしれない。

 

「見、見ちゃった! 見ちゃったの!」

「何をだよ」

 

 見たということは、コートを着た全裸か半裸の変質者だろうか。

 まあ、知らない男の局部を見れば誰だってこんな反応になるかもしれないな。

 でも、よく風呂上がりの僕の全裸をばっちり拝んでいるこいつがそこまで取り乱すほどのことではないような気がする。

 さすがにちょっと心配になって、僕は勉強をやめると、妹を座布団に座らせた。

 それから机の脇にある僕専用の小さな冷蔵庫からジュースを取り出して渡す。

 わざわざ台所まで行かなくていいので、不精者の僕にとってはありがたい家電だ。

 

「ありがと……」

「気にするな。それを飲んでから少し落ち着けて話をしよう。な、涼花(すずか)

「う、うん」

 

 僕のにっこりとした笑顔にどれだけ効果はわからないけど、妹―――涼花はなんとか自分を取り戻した。

 ベッドに腰掛けて、僕は涼花がジュースを飲み干すのを待ち、それから口を開く。

 

「で、何があったんだ」

「は、は」

「は?」

「八尺様を見たの!」

「なんだ、それ?」

 

『はっしゃくさま』という単語に聞き覚えのない僕には当然ちんぷんかんぷんな話だった。

 だけど、涼花にとってはそうではないらしい。

 

「八尺様を知らないの?」

「ああ、まあ、知らないな。どこのお大尽なんだい?」

「―――パソ貸して」

 

 そう言うと、涼花は僕の机の上のパソコンを起動させ始めた。

 パスワードとかは設定していないので簡単に動かせるはずだ。

 僕は自分のパソコンでもエッチなサイトとかにはいかないし、そういう画像も動画も溜め込まない真面目な性格なのでこういう風に妹に直接使われてもどうということはない。

 むしろ、僕からすると涼花のパソコンやスマホの方がヤバイ気がする。

 どういうふうにヤバイかは、言うまでもないだろう。

 涼花はグーグル先生を使って、「八尺様」という単語を検索した。

 そして、一つのサイトを見つけると僕に見せつけた。

 

「これだよ」

「……どれ」

 

 僕が見ると、白い屍衣のようなものをまとった背の高い女性のイメージイラストがあり、そのタイトルとして「八尺様」とある。

 イラストは怖い顔をしているが、麦わら帽子のようなものをかぶっていてちょっとユーモラスではあった。

 説明文があるので読んでみると、八尺様というのは、日本の伝承と都市伝説が融合したネットで広まった物語らしい。八尺様の都市伝説では、たいてい日本の地方が舞台になり、そういう意味では東京都とは言っても僕らの住むこのあたりも含まれるかもしれない。

そして、八尺様とは文字通り、八尺=2メートル40センチを超える身長の得体のしれない女性の形のもののけで、未成年を好んで、その女性に魅入られてしまうととり殺されてしまうという話だ。

 

「これを見たってのか?」

「うん」

 

 涼花は断言した。

 どうみても嘘を言っているようにはみえない。

 それに僕は妹を疑うことなんて今までやったことがない。

 考えたこともないぐらいだ。

 

「細かく話して」

 

 僕が信じてくれるとわかって、ようやく本当の意味で落ち着けたのか、涼花はぽつぽつとさっき実際に起こった出来事を話し始めた。

 

「……学校から帰る途中、あのお稲荷神社のちょっと前で、なにか寒気がしたの。もう秋だから当然なんだけど、嫌な予感がして周りを見たら、ブロック塀の上から麦わら帽子みたいなものがでているを見つけたんだ。その瞬間、まずいと思ったんだけど、あたしが目を背ける前にその帽子がにゅっと上がって、女が顔を出したの。黒目……ううん、白目がないのかな……不気味な顔をしていて、あと、口がもう耳まで割れているんだ。それがあたしをじっと見つめてきた。あたしはすぐにわかった。あれは「八尺様」だって。そしたら、すぐにブロックの上に今度は肩まで出てきて、あそこの桃の木と並んだんだよ。あんなに背の高い女性なんてどこにもいない。もうあとは無我夢中で逃げた。どうして、あたしの目の前に出てきたかなんてわからないけど、逃げた。それでようやくうちに帰って来れたんだ」

 

 なるほど、肩まで見えたというのならいたずらの可能性は少ないな。

 オカルト好きな涼花をからかってやろうというクラスメイトたちのいやがらせの線はないのか。

 

「それで、その八尺様に魅入られるとどうなるんだ?」

「たぶん、死んじゃう。それぐらい強い悪霊みたい」

「都市伝説―――作り話じゃないのか」

「どうなんだろ。ネットの中の話だと、そのあたりの真偽は定かじゃないから。でも、元ネタみたいなものはあると思う。それがどうしてあたしの前に出てきたかは知らないけど……」

 

 僕は腕組みをして考えた。

 産まれて十七年、この町で暮らしてきたけど、そんな妖怪だか悪霊だかの話は聞いたことがない。

 もう一度、さっきのサイトを見てみる。

 すると、「八尺様で出没するのはその村だけ。なぜなら、八尺様を脅威に感じた村の人が村の周囲をお地蔵さんで囲って結界を張ったから。結界のおかげで八尺様は村の外へ出て被害を出すことができないのである」という文言があった。

 つまり、そもそも移動する妖怪なんだが、結界によって封じられることで固定されてしまっていたということだ。

 裏を返せば、どこかの結界が破れれば、八尺様は外に出て被害を生むということか。

 

「どうすればいいかな?」

 

 心配そうな涼花を無視して、僕は考える。

 本当か嘘かはさておき、サイトには対処法について載っている。

 とにかく、今日一日は涼花を部屋に閉じ込めて様子を見てみよう。

 もし、伝説のとおりなら、今日の夜にその八尺様は涼花のもとに現れるはずだ。

 外れていたのならそれでもいいが、笑い飛ばしておかしなことになったら僕は死んでも死にきれない。

 妹を守ってやれるのは僕だけなのだ。

 

「……とにかく、サイトの情報を見る限りでは、今日一日が正念場だろうな。涼花、朝までこの部屋にいろ。幸い、ここには冷蔵庫もあるし、携帯で連絡も取れる。あとはトイレだけど、確かキャンプ用の携帯トイレがあったはずだから、それを使おう。すぐに新聞紙で窓の目張りをするんだ。夜になるまでに終わらせよう」

「……お兄ちゃん、ママたちにはなんていうの?」

「僕がなんとか説得する。必要があったらメールか携帯でおまえもフォローしてくれ」

「うん」

「僕に任せろ」

「はい」

 

 従順な妹にちょっといい気になりながら、僕はすぐに新聞紙での目張りをし、部屋の四隅と扉の外、窓の外に盛り塩をした。

 気休めでもないよりはマシだ。

 それから、ありったけのお小遣いで携帯食料をコンビニから買ってきて部屋に備蓄する。

 一日、とさっきは言ったが、最悪何日かは籠城させる羽目になるかもしれないからだ。

 そして最後に、

 

「よし、涼花。何があっても、絶対に朝までは出てくるな。親も俺も絶対におまえを外に出そうとはしない。もし、そんな声がしたら、それはその八尺様の仕業だ。朝になったら出て来い」

「お兄ちゃんはどうするの?」

「徹夜しておまえを守る。あと、これからすぐに神社の方を見てくる。何かわかるかもしれない」

「危ないよ!」

「仕方ない。おまえのためだ。兄ちゃんはおまえのためならなんだってできるんだからな」

 

 そう言って、僕は部屋の扉を閉めた。

 中からごめんと謝る涼花の声がしたが、僕はそれを振り切るようにして外に出た。



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闇の中から……

 僕は何かあった時のために三段ロッドなどをしまったカバンを背負うと、まっすぐに稲荷神社に向かった。

 もうすぐ日が暮れる。

 何か手がかりが手に入らないかという藁にもすがる気持ちだった。

 神社の石段前にたどり着くと、もう少し先に涼花が八尺様を目撃したという民家のブロック塀が見える。

 同じ高さだったという桃の木もあった。

 そこを覗き込んでみても、もう例の妖怪はいない。

 何の形跡も残っていない。

 涼花の話を疑うよりも、やはり妖怪らしいという印象しかない。

 

「……神社に何かあるかも」

 

 僕たちは稲荷神社の氏子だ。

 だったら、神様のご加護があるかもしれない。

 そんな神頼みをもって僕は長い石段を登った。

 後先考えない無意味な行動だったかもしれない。

 だけど、ただ怯えて何もしないよりはましだ。

 世の中というやつは、最悪の一手を打つよりも何もしない方が悪い方に転がっていくものだと誰かが言っていた。

 石段を登ると、そこには玉砂利が敷き詰められた見慣れた神社の境内があった。

 いつも掃除をしている神主さんの姿もない。

 夕暮れの人のいない境内ほど怖い場所もないなと思っていたとき、いきなり、

 

「カァァァーーーー」

 

 と、頭上で怪鳥のごとき声が響いた。

 慌てて上を向くと、大きな鴉が飛んでいた。

 まるでとんびのように輪を描いて飛んでいる。

 しかし、みたこともない大きな鴉だというのにどういう訳かあまり怖くない。

 むしろ魅入ってしまうような立派な鴉だった。

 

「おや、珍しい。八咫烏ですね」

 

 振り向くと、いつもの神主さんが立っていた。

 僕と一緒に鴉に見蕩れていたらしい。

 

「八咫烏?」

「ええ、正確には伝説の八咫烏ではないんですが、私たちの業界ではあの鴉のことをそう呼ぶんです」

 

 私らの業界って、神社にも組合とかあるのだろうか。

 その場合、宮内庁がしきったりするのかな。

 

「どんな鴉なんですか。普通のやつより大きいし、なんか格好いいんですけど」

「んー、一言で言うと、人を喚ぶ鴉なんですよ。誰か、助けを求める人のところにやってきて、その人の手紙を必要な人の元へ届けてくれる。そうすると、その手紙を読んで助けが現れる。そんな感じですね。伝書鳩みたいなものです」

「へえ」

「今、君の上で飛んでいるということはきっと君が助けを求めているからでしょうね」

 

 確かに、僕は助けを求めている。

 だが、そんなのは偶然ではないだろうか。

 

「そんな都合のいい話、聞いたことがありません」

「それはそうですよ。普通の人は、頭上を八咫烏が飛んでもその意味に気づかずにただ怖がってしまうだけですから。君のように、偶然通りがかった私が解説してくれるなんてことはなくて、助けを逃してしまうというわけです。意外と多くの人が八咫烏の助けを逃してしまっているんでしょうね。昔なら、そういう言い伝えを皆が知っていたのですが……」

 

 なるほど、そういうことなら納得できる。

 僕は決心した。

 例え迷信でもいい。

 涼花のためにはなんでもやろうと。

 僕はカバンから紙とペンを取り出して、できる限り詳しく今回の事件のあらましを書いて手紙にしたためた。

 

「あ、折る場合は三つにしっかりと角を立てた方がいいですよ」

「わかりました」

 

 神主さんからのアドバイスももらい、僕は手紙―――紙垂(しで)みたいだけど―――を作り、それを思いっきり空にかざした。

 次の瞬間、手紙は鴉に奪い取られて、天に上がっていく。

 それだけでなんとなく言い伝えは本当のような気がしてならなかった。

 八咫烏がどこかに飛び去っていったのを確認すると、僕は神主さんに一礼して、暗くなった神社の境内をあとにした。

 

     ◇◆◇

 

 家に戻ると、僕はパートから帰ってきた母親の説得に入った。

 理由は聞かないでと前置きをして、「今日一日、ヘタをしたら数日、涼花は部屋の中から一歩も出ないし、出させない」ということを説明したのだ。

 当然のことだが、理由は伏せた。

 八尺様がうんたらなんてことはきっとわかってもらえない。

 普段は真面目な僕たち兄妹だからこそ、こういう奇矯な行動に出たときに理解してもらえないので大変だったが、なんとか母の説得は完了し、それから帰宅した父親の説得も続けて行った。

 父親の方は僕が土下座しただけで、すぐにわかってくれた。

 妹のために兄貴が土下座までするということが、いかに珍しく真剣なことか男親ならではの理解力を見せてくれたのだ。

 その意味では、女親というのは情理に走りすぎるきらいがあるのだろう。

 ただ、なんとか説得が済むと、僕は毛布を片手に廊下に陣取った。

 背中には涼花の隠れた僕の部屋の扉がある。

 何かあったときは、僕だけが動ける。

 涼花とはメール以外のやりとりはしないようにして、僕はじっと廊下に座り続けた。

 

[FROM:涼花 件名:涼花です 本文:お兄ちゃん、起きてる?]

 

 僕はすぐに返信した。

 

[FROM:京一 件名:Re 涼花です 本文:ああ、なにか変なことはないか?]

 

 レスポンスが異常に早い。

 

[FROM:涼花 件名:無題 本文:窓の外からこつこつって音がするの]

 

 耳を澄ましてみたが、僕には何も聞こえない。

 他の窓を見ても風が吹いている様子はなし。

 

[FROM:京一 件名:RE 無題 本文:僕には聞こえない 何かあっても無視しろ]

[FROM:涼花 件名:わかった 本文:]

 

 間髪いれずにまたメールが来た。

 

[FROM:涼花 件名:無題 本文:壁の外から声がするよ ポポポポみたいな]

 

 僕は怖くなった。

 窓の外を見れば、その理由はわかるはず。

 ただ、もし本当にいたとしたら、僕はその怪物を目撃することになる。

 そのとき、僕は普通でいられるだろうか。

 ただ、涼花の恐怖は僕のものなんか比べ物にならないだろう。

 僕は後悔した。

 一緒に二人で中に入るべきだったのだ。

 妹一人を残すべきではなかった。

 

「涼花、ごめん」

 

 またメールが来た。

 

[FROM:涼花 件名:FW 何もないから出てきない 本文:大乗みたいだから]

 

 な、なんだ、これ?

 涼花、これはなんだ?

 誰からのめーるを転送してきたんだよ、コレ?

 

[FROM:涼花 件名:さっきのメール 本文:知らないメアドから来たの おかしいよ 変だ 怖いよ、お兄ちゃん]

[FROM:京一 件名:誰かに 本文:メールしたか?]

[FROM:涼花 件名:RE 誰かに 本文:してない お兄ちゃんだけ]

[FROM:京一 件名:わかった 本文:絶対に朝まで出てくるな もしかしたらおまえを騙そうとしているのかもしれない 朝まで絶対に]

[FROM:涼花 件名:RE わかった 本文:うん]

 

 ……理解できないが、この妖怪はメールまで使っているのか?

 そうなったら、もしかしたら涼花は逃れられないかもしれない。

 僕が毛布にくるまりながらブルブルと震えていたら、手元に盛っていた塩の塊が目に入った。

 茶色く変色していた。

 さっきまで白かった結晶が、なんでいきなりこんなふうになるのかとても理解できない。

 

 怖い

 

 マジで僕はそう思った。

 妹の戯言であったらいいと、かすかに思っていた僕だったが、もうどうにもならないのっぴきならない現象に遭遇しているのだと理解した。

 なんでこんな目に妹が合わなくてはならないのか。

 僕も怖い。

 だけど、妹だってもっと怖いだろう。

 誰か、僕はどうでもいいから、妹を、涼花を助けてやってくれ。

 

 そんなことを祈っていたら、僕はウトウトしてしまったらしく、気がついたら朝になっていた。

 手元の盛塩は完全に黒くなっていて、なにかがおきたことを如実に物語っている。

 僕は涼花にメールを出した。

 返事はこない。

 多分、あいつも寝ているのだろう。

 僕はかなり怖かったが、そのまま庭に出た。

 僕の部屋が見える場所にはなにも異常はなかった。

 窓が開いた様子もない。

 ただ、少しだけ怖かったのは、庭のいたるところに落ち葉がどっさりと溜まっていたことだった。

 僕の家には普通こんなに落ち葉が貯まることはない。

 誰かが意図的に捨てたりしない限り、ありえないことだ。

 晴れ渡った秋の朝の中で、僕がトボトボと玄関にはいろうとした時、後ろから声をかけられた。

 昨日といい、今日といい、最近はよく後ろから声をかけられる。

 

「あんたが、京一くん?」

「そうですけど」

 

 と、振り向いて僕は唖然とした。

 だってそこにはいたのは、

 

 ―――白衣と緋色袴を着こなした、僕と同い年ぐらいの巫女さんだったからだ。

 

八咫烏(プロモーター)に喚ばれて参上した。ボクの今回の対戦相手はいったいどんな妖怪なんだい?」

 

 

 

 それが、僕と彼女―――御子内或子(みこないあるこ)との出会いだった。

 



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御子内さんと僕

八咫烏(プロモーター)に喚ばれて参上した。ボクの今回の対戦相手はいったいどんな妖怪なんだい?」

 

 朝っぱらから巫女さんに話しかけられるという、前代未聞の事態に対して、僕ができたことはそう多くない。

 とりあえず、誰何しただけだ。

 

「えっと、どちらさまで?」

「なんだ? わざわざ自分で喚び出しておいて、ボクが誰だかわからないなんていうんじゃないだろうね?」

「すいません、僕には巫女さんの知り合いはいなくて」

「……昨日、八咫烏に手紙を届けさせたのは君だろう? ボクはそれを受けて遠路はるばるこんな都下までやってきたんだけど」

 

 これでわかった。

 彼女は昨日の神主さんが言っていた八咫烏が喚んできてくれるという助けなのだ。

 よくわからないが、きっとゲゲゲの鬼太郎の妖怪ポストみたいなものなのだろう。

 すると、この巫女さんは鬼太郎ポジション?

 今まで考えたこともなかったけど、意外と世の中にはそういうものが存在して、人々がすがるべきものも用意されているのかもしれない。

 ただ、いわゆる退魔師っぽい職業の人が巫女装束ってのはありがちだけど。

 

「手紙を書いたのは僕です。すいません、あの手紙を読んで人がきてくれるなんて信じていなかったので」

「ふーん、そうなんだ。それにしてはきっちりと角が折られていて、筆者の必死な信心が伝わってきたけどね」

「それは多分神主さんのアドバイスがあったからです」

「わかった。ボクも喚びだされた相手に疑って掛かられるなんてことは、日常茶飯事だ。いつまでも気にしていては仕方ない、許してあげよう」

「ありがとうございます」

 

 すると、巫女さんは懐から何かを取り出して、僕に手渡してきた。

 四角い厚紙で、どう見ても名刺だった。

 

[巫女 御子内或子(みこないあるこ) 携帯番号090-○○○○-○○○○]

 

 とだけ書いてある。

 どうやらこの巫女さんは御子内さんというらしい。

 しかし、巫女であるのかないのか、よくわからない名前だなあと思わず心の中でツッコミをいれてしまった。

 僕が名刺に気を取られている間、御子内さんはずっと僕の部屋の前を見つめていた。

 お祓いでもしてくれるのかと思っていたら、彼女はおもむろに地面を蹴って二階の窓に飛びつく。

 びっくりするほどのジャンプ力だった。

 オリンピック選手かなにかなのだろうか。

 それから、彼女は部屋の窓のあたりをじっくりと検分していた。

 あそこには僕の置いた盛り塩があるはずで、それを見ているのだろうか。

 御子内さんは降りるときも驚異の運動神経を見せて、そのまま音も立てずに着地する。

 手にはやっぱり黒くなった盛り塩が乗っていた。

 

「これは、君が置いたのかい?」

「は、はい」

「多少の効果はあったようだ。撃退とまではいかないが、嫌がった様子が残っている」

「そうなんですか」

「ただ、それも今日一日ということだろう。魅入られたという君の妹さんは今日のうちによその土地に逃がすしかないだろう。そのアテはあるかい?」

 

 手紙に書いておいたこと以外にも、御子内さんは色々と知っているみたいだった。

 あの巨大な女―――八尺様かどうかはわからないけど―――のことについても詳しいのだろうか。

 

「たぶん、親が説得できません。この土地では、あのお化けについては知られていなくて周囲の助けが得られそうにないから」

「……生命がかかっていても、か?」

「三日もらえれば絶対に僕がなんとかします、涼花の兄の僕が、絶対にあいつを助けます。でも、最低でも三日はかかると思うんです。親を説得して、車を用意して、逃げ出す先も決めて、支度もするとなると……。あいつも僕もただの未成年ですから。だけど、約束します。僕がなんとかしてみせます。その間、初対面の人にこんなことを言うのもなんだけど、あいつのことお願いできませんか?」

 

 御子内さんはふっと笑った。

 僕この時初めて、御子内さんがすっごく可愛い人であることに気がついた。

 目が大きくてくりっとしてて、鼻筋も整っていてバランスがよく、白い肌は透き通るようで、なにより全身にあふれる気品が眩しいほどだ。

 巫女装束がこれほど似合う人もそんなにいないと思う。

 ベストジーニストならぬ、ベストミコニストだ。

 

「なに、ここから逃げろというのはただの用心のためさ。ボクがここに来たからには、本来しなくていい行動だよ。あえて口にしたのは、君の覚悟が知りたかったからだ。〈高女〉と戦うためにね」

「〈高女(たかめ)〉?」

 

 僕はその聞いたことのない単語をオウム返しに呟いた。

 

「ああ、〈高女〉だ。八尺から九尺のタッパを持ち、白い着物と被り物を身につけ、いとけなき童子を狙う女の姿をした怪異。今回、君の妹を襲ったのはそいつだ」

「……八尺様ではないの?」

「それは岩手あたりの呼び名だな。〈高女〉は東北中心に目撃例が見られる妖怪で、土地によって名前が異なっているんだ。まあ、君がその呼び名が気に入っているのなら、それでいいがね」

「詳しいですね」

「バカにしないでくれ。ボクはこう見えても専門家だよ。なんでも知っているのさ。まあ、〈高女〉と戦うのは初めてだから少しだけ武者震いしているのは否定しないけどね」

 

〈高女〉と戦う……。

 マジでこの人は言っているのか。

 僕はまだその八尺様だか〈高女〉だかいう妖怪にお目にかかっていない。

 ただ近くにいる気配にブルっていただけだ。

 近くにいるだけであんなに恐ろしい相手に対して、この人は戦おうと言っているのか。

 僕は胸の奥に何かが湧き上がるのを感じた。

 次に、両目の奥が熱くなる。

 目元から水がこぼれた。

 僕は泣いていた。

 感動のあまりに。

 

「お、おい、なんで泣いているんだ。ちょっと待てよ。対応に困るだろ」

「でも、で、でも」

「やめてくれよ。そんなことをされるとボクも困る」

「僕なんかのために、ここまで来てくれた御子内さんに、いったいどんなお礼をいえばわからなくて。報酬だってそんなに用意できないのに……」

「報酬……?」

「はい、どんなに高額でも一生かけて支払います。御子内さんが死ねといえば死にます」

「死なれては困るんだが……。あと報酬については後で話し合おう。とりあえず、泣くのをやめてくれ」

 

 何故か必死に懇願されたので、僕は目を拭って涙を払った。

 顔がまだ熱いけど多分大丈夫だ。

 

「じゃあ、とりあえず、君の妹さんの話を聞こうか。家の中に案内してくれ」

 

 

    ◇◆◇

 

 御子内さんを我が家にあげようとしたら、まず両親がびっくりたまげた。

 それはそうだろう。

 朝早くに女っけのない長男が可愛い女性を部屋に連れ込もうとすれば、普通は驚く。

 しかも、その格好が巫女装束。

 昨晩の妹についての土下座騒ぎも生々しい段階では、いかに寛容な両親であったとしてもそう簡単には受け入れられない。

 だが、僕はそんな両親の心配やら干渉やらを完全に押し切った。

 昨夜の恐怖体験を経た後では、常識的な対応やら振る舞いやらに構っている余裕はないのだ。

 放っておいたら、妹の生命に関わるのだから。

 両親を押し切る間、玄関で待たせてしまっていた御子内さんのところに行くと、なにやら三和土に座り込んで苦戦していた。

 履いていた黒いブーツを脱ぐのが大変なようだ。

 

「あ、すまない。買い替えたばかりでね、このリングシューズ。まだ紐が堅いんだよ」

 

 ん、今、妙なことを口走らなかったか、この人。

 リングシューズとか、なんとか……。

 てっきりハイカラさん的な意味で履いている黒いブーツだと思っていたのだけど、もしかして違うのか。

 

「よし、脱げた。さあ、お邪魔します」

 

 颯爽と立ち上がった御子内さんを連れて、僕は自分の部屋まで行った。

 

「ほお、結界とまではいかないが、しっかりと目張りがしてあるな。塩もきちんと盛られていたようだし。君はかなりしっかりしていて、いい退魔師になれるぞ」

「ありがとうございます。―――おい、涼花、もう朝だから出てきていいぞ」

 

 だが、涼花はでてこない。

 すぐそこに居ることはなんとなく気配でわかる。

 

『本当にお兄ちゃんなの? 八尺様じゃないの? さっきお父さんの声色を真似て出てきなさいって言っていたよ。……ごめん、信じられない』

「それ、マジか?」

『嘘言っても仕方ないよ。あたし、何があっても出ないからね』

「……あのな、涼花」

「仕方ない、行くぞ」

 

 僕は妹の説得を続けようとしていたのに、脇に立っていた御子内さんはなんのためらいもなくドアのノブを握って中に入っていった。

 

「ちょっと、御子内さん!」

 

 部屋に入ると、電灯を消した暗い片隅で涼花が震えていた。

 いきなり突入してきた御子内さんを怖がっているのだろう。

 しかし、御子内さんはまったく気にも留めず、電灯のスイッチを点けて部屋を明るくし、窓に張った新聞紙やら四隅の盛り塩やらを確認していく。

 その姿はまるで捜査一課の刑事のようだった。

 最初は怯えていた涼花もそのうち、この巫女装束の闖入者を横目で観察するようになっていった。

 僕が近づいて肩を抱いてやると、ほっとしたのか緊張がとれてなくなっていく。

 

「……ねえ、お兄ちゃん。あの巫女さん、誰?」

「うーん、多分、退魔師」

「退魔師って……漫画じゃないんだから」

「実際、そうとしか呼べないんだよ。でも、安心しろ。見た目はちょっとエキセントリックだけど、真面目ないいひとみたいだから」

「いきなり突入されて、いい人と言われても……」

「僕だってよくわからないけれど、きっと信用していい人だと思うぞ」

「―――お兄ちゃんが言うんなら、あたしだって信じるけど……」

 

 僕たちの間の会話が終わったのを見計らったように、調査を続けていた御子内さんが振り向く。

 腕を組む姿は本当に凛々しい。

 

「よくやったな、君たち。原始的な手法ではあるが、きちんと〈高女〉の侵入を拒むための方法論は実践されている。これのおかげで、妹さんは一日生きながらえた訳だ。ボクの遅れが最悪の結果にならなくて、ホッとしているよ」

 

 褒められた。

 ちょっと嬉しい。

 

「だが、同じ手段がまた通じるとは限らない。今日の夜にもまた〈高女〉はやってくるだろう。その時こそ、妹さんの生命は風前の灯となる」

「そうなんですか?」

「だが、安心していい。今、ここには、ボクがいる。どんな妖怪だろうとノックアウトしてやっつけてしまう、世界チャンピオンのボクがね」

 

 ……巫女さんの口から、ノックアウトとかチャンピオンとか聞くと違和感が半端ないんですけど。

 だが、涼花の方はどうやら彼女の自信満々な態度にどうやら心を許したらしく、少しだけ表情に力が戻っていた。

 

「あの、貴女が、その八尺様からあたしを逃がしてくれるのですか?」

「逃がす? 何を言っているんだい?」

「えっ」

「ボクはどんな妖怪の挑戦だって受ける。巫女の燃える誇りにかけてね」

 

 そう言って、彼女は両手首に巻いている革のリストバンドに手を当てた。

 どうやら大事な品のようだ。

 きっと霊験あらたかな神道の道具なのだろう。

 見た感じはどうみてもパワーリストだが。

 

「これはね、チョップ小橋が天龍源一郎から受け継ぎ、天龍源一郎がグラン浜田から受け継いだ由緒ある品なんだ。これを身につけたボクが、たかだか〈高女〉なんていう妖怪に負けるはずがないじゃないか……」

 

 そして、美貌の巫女さんは宣言した。

 

「今日中に、ボクは君たちを脅かす妖怪を退治して見せるよっ! 巫女の熱き闘魂にかけてねっ!」

 

 

 

 

 ……うん、僕がこの人を信じたことは間違いじゃないはずだ、おそらく、きっと、ちょっとだけ覚悟をしておくけど。



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設営準備待ったなし

 御子内さんが妹相手に事情聴取している間に、僕と涼花が今日は学校を休むことを両親に告げ、無理やり承知させた。

 もうなりふりかまってはいられない。

 御子内さんのことも、デタラメ並べて土下座することでごまかした。

 今日一日が勝負なのだ。

 僕にできることは御子内さんが動きやすいように状況を整えることだけ。

 あとは彼女に任せるしかない。

 

「……あ、京一。ちょっと出掛けるから、ついてきて」

 

 部屋に戻ろうとしたら、御子内さんに誘われた。

 涼花の様子を見てからというと、「安心したのか寝ちゃった」と言われた。

 なんでも昨日はほとんど一睡もできなかったらしい。

 ウトウトしてしまった僕と違って、どうやら一晩中、〈高女〉からの嫌がらせみたいな口撃を受けていたようだ。

 ただ、そんな目にあったというのに御子内さんとちょっと話しただけで安心できるなんて、やっぱり巫女さんは違うな。

 

「多分、それだけじゃないね。君が必死に立ち回っていてくれるからだろうさ。絶対に信じられる味方がひとりいるだけで人間というのはタフになれるものだからね」

 

 御子内さんに気を遣わせてしまった。

 僕なんかほとんど何もしていないというのに。

 それから、僕たちが向かったのは昨日の稲荷神社の境内だった。

 いつもの神主さんはいなかったが、御子内さんがいるだけで随分と印象が違う。

 本当に神様の聖域という感じがするのだ。

 繁った葉の隙間から漏れてくる陽光と、神社に相応しい清々しい空気。人の世界の雑音がほとんど聞こえてこない静謐さ。玉砂利と石板の発する無機質さも、コンクリートなどに比べものにならないほどに心地いい。

 普段、よく遊びに来ていた場所と同じところとは思えなかった。

 すべてが、御子内さんという巫女さんがいるおかげなのかもしれない。

 ただ、ちょっとだけ首を捻らざるを得ないのは、境内の隅にまとめられた運動会のテントみたいな設営機材の存在だった。

 ブルーシートに巻かれたロープみたいな輪っかが幾つも見えた。

 昨日、僕がここに来た時にはなかったものだ。

 

「あれ、なんでしょうか?」

 

 と僕が訊いても御子内さんは応えず、

 

「よし、きちんと届けておいてくれたみたいだね。久しぶりにいい仕事したじゃない、運送班」

 

 そのまま、設営機材のもとにいって、リュックから取り出したファイルのようなものと見比べ始める。

 多分、数が足りているかどうかの検品作業なのだろう。

 でも、これは一体何に使うものなのだろう。

 御子内さんの関係ということは、妖怪を調伏するための儀式に使う護摩壇のようなものだろうか。

 それにしては板みたいなものがやたらに多いけど……。

 しばらく様子を見ていたら、御子内さんが僕を手招きした。

 

「これが設計図だ」

「設計図?」

「初めての作業だし力仕事だから時間がかかると思うが、夕暮れまでには組み上げてくれ。任せたぞ」

「……はい?」

 

 彼女の言っていることはさっぱりだったが、とりあえずいいつけの通りに僕は設計図片手に作業を始めた。

 まず、境内の広い部分を確保してゴミなんかを取り除く。

次に、まとめてあったブルーシートを敷いて、6メートル四方に鉄製の柱を立てる。柱の下には木の板を置いて、さらに梁を掛けて固定する。これで柱は倒れない。

 それから、また木の板とマットレスを交互に敷き四つ折りになっていたキャンパス的なものを重ねる。

 鉄の柱には器具が取り付けられていたので、それを使って輪になっていた三本のロープを張る。その際、緊張(テンション)が均等になるようにちょっとした器具を使うのがコツらしい。

 あとは、体育の授業で使用するようなマットをそれぞれ四方に配置して出来上がりということだ。

 しかし、だ。

 えっと、これって……

 

「リング……だよね」

 

 どう考えても、これはプロレスとかで使用されるリング以外の何者でもない。

 ロープの数が三本というのも、四本が基本のボクシングのものと違っていることがわかる。

 僕はいつのまに新日本プロレスのお手伝いさんになったのだろう。

 だが、設置している最中に疑問をもって手を休めていると監督している御子内さんに、「こら、真面目にやれっ!」とどやされた。

 おかしい。

 何がどうして僕はプロレスリングの設置をすることになってしまったのだろう。

 

 ……昼ごはんも食べずにみっちりと作業して、もうすぐ夕方という頃になって、ようやくリングは完成した。

 場外に敷いたマットの上で急激な筋肉痛に喘いで寝そべっていた僕は、完成したリングの上で受身をとったりロープのテンションを確認する作業したりする御子内さんを、横目で眺めていた。

 この肉体労働のおかげで、余計なことはまったく考えられなかったが、やっぱり思うことはある。

 

「これ、何の意味があるの……」

 

 すると、御子内さんがそれを聞きつけたのか、なにやら語りだした。

 

「去年の秋口に、ここからそう遠くない奥多摩で巨大なムカデの目撃情報があった」

「ムカデですか?」

「ああ、そうだ。あのゲジゲジとしたムカデさ。目撃者の話では二十メートルはあったらしい」

「でかいですね……。見たらすぐ逃げ出しちゃいそうです」

 

 御子内さんはくくっと笑った。

 素敵な笑顔だ。

 馬鹿にしてるというのではなく、同意の笑顔っといったところか。

 

「ボクでもちょっと逃げるかもな。で、そのムカデはやっぱり化け物だったらしくてな、近所の神社仏閣の幾つかを荒らしまくって悪さをしまくった。ボクたち、巫女にも退治依頼がきたぐらいだ」

「御子内さんがやっつけたんですか?」

「いや、そいつは別の人が弓矢で退治したんだけど、本題はそこじゃないんだ。そのムカデの大暴れで幾つかの由緒ある地蔵菩薩像が破壊されたことが、大問題だったんだよ」

「はあ、お地蔵様が……」

 

 何か、引っかかった。

 お地蔵様?

 

「わからないかい? 地蔵菩薩といえば、君が見せてくれたサイトに載っていただろう」

 

 もしかして、八尺様を小さな村に封印していたという……

 お地蔵様なのか。

 

「そうだ。気がついたようだね。君の妹さんを魅入った〈高女〉はね、おそらくその地蔵菩薩像によって封じられていたものなんだよ」

「だから、ここにその〈高女〉が……」

「ああ。どういうルートを辿ったかは知らないが、たぶん、ボクの推測通りだと新青梅街道を上ってきたんだろう。それなら、ここから近いしね」

 

 涼花が襲われたことは単に運が悪かったということだとしても、八尺様―――妖怪〈高女〉がどうしてこんな町にいるかについてはわかった。

 ただの通りすがりなのかもしれない。

 なんて迷惑な妖怪なんだろう。

 

「じゃあ、御子内さんがここにすぐに来れたのは……」

「〈高女〉について警戒していたその筋の人がボクを派遣したんだよ。まあ、ボク自身、結構そばに住んでいるということもあるけどね」

「えっ、御子内さんって伊勢神宮とかそちらの有名な場所の巫女なんだとばかり思っていましたけど」

「まさか。ボクはそんなに格が高い巫女じやないよ。たとえ、立ち技最強のボクでも血統とかには逆らえないしね。……ボクはすぐそこの武蔵立川に住んでいるんだ」

「……わりと近くですね。自転車で行けるじゃないですか?」

「ああ。ボクだって普段はこれでも高校生なんだよ」

 

 驚いた。

 御子内さんが女子高生?

 似合わないというよりも、理解できない。

 こんな可愛くて不思議な巫女さんが、制服を着てスマホ持って「きゃっきゃうふふ」しているってのか!

 ありえなくない?

 

「なんだい、その顔は? あとでボクの高校に来るかい? 正真正銘の武蔵立川高校二年生なんだからね」

「武蔵立川!」

 

 なんたることだ。

 武蔵立川っていったら、涼花の志望校じゃないか。

 もしあいつが受かったら、御子内さんの先輩・後輩になるのか。

 しかも二年生だって?

 僕と同い年じゃないか!

 

「なんというか、君はちょっと失礼だね。健気で一生懸命なのは好感持てるけどさ。……さて、じゃあ、そろそろ君の家に戻ろうか。涼花ちゃんを連れに行かないと……」

「えっ、今、なんて?」

「涼花ちゃんを連れに戻る」

「どうしてですか? あいつを外に連れだしたら、〈高女〉に襲われます。あの妖怪は昼間だって現れるんですよ」

「仕方ないんだよ。いくらボクでも何もない場所では妖怪相手には手も足も出ない。でも、ここにある結界の上なら違う。ここでならば、ボクはボクのやり方でどんな妖怪とだって渡り合える」

 

 御子内さんは足元のマットをどんどんと蹴った。

 そして、胸を張って言う。

 

「この四角い結界の中でなら、巫女は無敵なんだ。そして、ボクは巫女の中の巫女、チャンピオンなんだよ!」

 

 人差し指と小指を立てた独特の指型で、腕を天高く突き上げた御子内さんは自信満々に宣言した。

 アイドルよりも上なんじゃないかっていうぐらい可愛くて凛々しい巫女の姿を、僕は陶然として見つめた。

 一目惚れしちゃうかもしれないほどに綺麗だった。



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巫女の戦い方

 僕たちは、家に戻ると両親には有無を言わせない素早さですぐに涼花を連れ出した。

 少なくとも御子内さんの言い分によると、僕の家よりは神社の境内に作ったあのリング(?)の方が、涼花を守るには適しているらしい。

 その効果については眉唾物だが、それでも専門家である彼女の意見を優先するべきだと判断した。

 

「よし、涼花ちゃん、そこに上がってくれ」

「お兄ちゃん、これって……」

「気にするな。僕はもう考えないようにしている」

「プロレスの……」

「……気にするなって」

 

 そう言って、僕はリングの隅に上がり、ロープに隙間を作ると、涼花に向けて手を伸ばした。

 まるでリングサイドにいるセコンドみたいだなあ、とらしくない感想を抱いた。

 手を掴んだ涼花を引っ張り上げて、リングの中央に連れて行く。

 キャンバスは意外と弾力があるが、それでも倒れたりしたらかなり痛そうだ。

 踏みつけると結構固い。

 不安げに僕の手を握る涼花を抱き寄せる。

 華奢な肩をしていた。

 わずかに震えている。

 

「大丈夫だ。僕を信じろ」

「……う、うん。お兄ちゃんが言うなら……」

「あと、御子内さんもだ」

「あの人のことはよくわからないけれど……。お兄ちゃんが信じているなら、あたしも信じる」

「いい子だ」

 

 御子内さんがリングに上がってきた。

 この上では僕たちよりもしっくりくる立ち姿だった。

 

「日が暮れてからが勝負だ。普通なら深夜になってからなんだけど、〈高女(たかめ)〉は昼間もでる稀有な妖怪だからね」

「ここに来るんですか?」

「来るよ。涼花ちゃんがここにいるからね。あれは未成年に魅入ってとり殺す妖怪だから」

「そう……ですか」

 

 話の内が不気味な上、少しだけ御子内さんの表情が固くなっているのが心配になった。

 この人がこういう顔をしているとどうしても不安になる。

 

「御子内さん、一つ、聞いていいですか?」

「なんだい?」

「……さっきから御子内さんの顔色がよくないんですが、何か心配事があるんですか?」

「あることはある。だが、君に言っても仕方のないことだからな」

「聞くだけ聞いていいですか?」

 

 赤いマットの巻かれたポストに寄りかかり、自分の恥を晒すような真剣な顔つきで、御子内さんは口を開いた。

 

「……〈高女〉は、君らの言う八尺様の異名の通りに、身長二メートル四十センチぐらいはある大型の妖怪だ」

「そう……みたいですね」

「ところが、ボクは百六十センチそこそこの小兵だ。大きさが、一メートルぐらいは違う」

「ハア……」

「となると、ボクの必殺の延髄切りが届かないんだよね。―――ボクは延髄切りで数多くの妖怪をKOしてきたものだから、得意技が使えないとなると、さすがに不安なんだよ。それに、これだけ身長差があると、うまくキャッチできないから投げ技系も制限されるし。うーん、どういう風に崩せばいいのか、悩みどころだよ……」

 

 僕はこめかみがピクピクするのを感じた。

 なんだろう、この違和感。

 まったく関係ない悩みを聞かされたような気がしてならない。

 思わず尋ねてしまった。

 

「さっきから思っていたんですけど、御子内さんって、巫女さんなんですよね。妖怪退治をするための」

「妖怪専門じゃないけど、巫女であることは確かだね。それがどうした?」

「なんか、御子内さんの発言って、巫女というよりも、あの。なんというか……」

「ん? はっきり言いなよ」

「プロレスラーみたいなんですけど」

 

 そう言うと、御子内さんは腹を抱えて笑い出した。

 とても面白いギャグを聞かされた子供のように。

 

「ハハハハハ、何を言っているんだい、京一っ! 冗談もほどほどにしなよ。ボクがプロレスラーだって? そんなナンセンスなっ!」

 

 御子内さんにとっては、かつてない指摘だったらしい。

 僕は今まで彼女の周囲が一言たりとも指摘しなかったのかと驚いた。

 普通、誰かがいうだろ、こんなこと。

 

「君は面白いねぇ。ボクもこれまでの十七年の人生で、プロレスラーみたいだなんて言われたのは初めてだよ。まあ、チャンピオンとか使っちゃうから、そんな印象をもたれてしまうんだろうけどね。ま、厨二病だね、とか言われるよりはマシかな」

 

 一通り爆笑したおかげか、すっきりした顔になった御子内さんはフンフンと腕を降ってストレッチを開始した。

 腕を上下に振り、ふくらはぎのアキレス腱を伸ばし、腰を回す。

 腰までのジャンプを三回、それから立ち受け身の練習を何度も繰り返す。

 とりあえず軽い汗をかいたらしいところで、彼女は神社の鳥居の方角に向けて、こいこいと指を動かした。

 

「さあ、君が選んだ生贄はここに居るぞ、〈高女〉っ!」

 

 すると、鳥居の先、漆黒の闇の中からぬそりと背の高すぎる女が現れる。

 八尺の身長、白いワンピースにも似た屍衣、麦わら帽子、そして白目のない空洞そのものの双眸……。

 世の中に存在するすべてのものを憎悪するかのごとき、吐き気すら催す醜悪な笑顔を浮かべて、その大きな女は鳥居をくぐり、石畳を這うように歩む。

 両手はこちらに向けて水平に突き出され、ぐしゃぐしゃと握ったり開いたりという動作を繰り返し、肩は瘧にかかった患者のように震えている。

 恐ろしかった。

 夜の闇の中で、神社のちっぽけな外灯の下で見るにはあまりにも不気味で怖気を振るう怪物だった。

 僕の腰をぎゅっと涼花が掴んだ。

 恐ろしさのあまりに、目を瞑っている。

 すでに涼花の体にはあの化け物に対して逃げるとか、抗うという気持ちは残っていないようだった。

 それほどまでに涼花は怯えきっていた。

 

「台の上に上がれ、妖怪。そうしなければ、君の生贄には決して手が届かないよ」

 

 御子内さんは……変わらない。

 まったく変わらない。

 あの妖怪を見ても、怖さの一つも感じていないらしかった。

 化け物―――〈高女〉の手がトップロープにかかった。

 そして、ロープを跨ぎ越して、〈高女〉はリングの中に入ってきた。

 まるで、アンドレのように。

 

「でかい……」

 

 同じリングの中にいるとその巨体がさらに際立つ。

 どこに移動しても、妖怪の手がすぐにかかりそうなぐらいに。

 

「京一、涼花ちゃん、台から降りろ。もう、こいつはここから逃げられない。ボクを倒さない限りは」

「はい!」

 

 僕は涼花をつれて打ち合わせ通りにリングから降りた。

 妖怪は僕たちを捕まえようと手を伸ばしたが、その腕は横合いから出てきた白くて細い腕に止められる。

 御子内さんの手に。

 

「おっと、まだ早いよ。君の相手はこのボクさ。どんな妖怪だろうと、この護摩壇の上からはボクを倒さなければ降りることができない。ちなみに知っているだろうけど、一度、この上に上がった以上、20カウント以外に戻らないと、妖怪は自動的に封印される仕組みだからね。オッケー?」

「……御子内さん、素敵」

 

 確かに、あんなでかい妖怪相手に啖呵を切る御子内さんはかっこいいから、妹の褒め言葉もわかるけど、僕としてそれよりも「誰が20カウント数えるのさ」という疑問の方が先に立ってしまったのだが。

 

「じゃあ、やろうか、妖怪〈高女〉。時間無制限の一本勝負だ。どんな妖怪を相手にしてもボクは負けないという揺るぎない事実を、正義のパンチとともにぶちましてやろう。―――京一っ!」

 

 合図とともに、僕はテーブルに準備しておいた銅のゴングを鳴らした。

 カーーーンという見事な音とともに、巫女と妖怪はがっぷり四つに組み合い、僕が今まで見た事もない異次元の死闘が始まった……。

 

     ◇◆◇

 

 まず先制攻撃を行なったのは、やはり御子内さんだった。

 右ストレートからの左フック、そしてその反動を利用して一回転してからの右胴回し回転蹴りが放たれる。

〈高女〉は長い手でもってパンチの方は受けきったが、死角から放たれる蹴りには反応しきれずに、右肩を強打される。

 少しだけ上半身がブレるが、それだけで怯むことなく上から叩きつけるような腕の一撃をもって反撃する。

 枯れ木のような腕ではあるが、人のものよりも遥かに長いそれは遠心力をもって勢いを増し、御子内さんに襲いかかる。

 間一髪のところで躱した御子内さんは、マットを叩いてすぐには腕を引き戻せないおかげでがら空きになった顔めがけて渾身のフックをぶち込んだ。

 

「グァァァ!」

 

 妖怪の叫びはこの世のものとは思えないほどに金切り声だった。

 思わず耳を塞ぎたくなるような声だったが、御子内さんはそれを堪え、さらにジャンプ一閃、飛び前蹴りを〈高女〉の顔面にぶち込んだ。

 さすがの妖怪もリングシューズのつま先を顔に突きこまれては堪らない。

 たたらを踏んで、何歩も退く。

 背中がロープにぶつかり、それ以上の後退を防がれたところで、一瞬の踏み込みで懐に飛び込んだ御子内さんが胴体に向けて左右のパンチの連打をダダダダと放つ。

 肉が肉を叩く打撃音というのは、意外と気持ちの悪いものだった。

 

「おりゃおりゃおりゃおりゃ!」

 

 力の限りの連打をした巫女は、最後に右手をくるっと回して、

 

「どっせい!」

 

 と、ボディを破壊せんばかりの大打撃を与えたところで、一旦、自分のコーナーである赤コーナーに戻る。

 渾身の攻撃をくらっても、〈高女〉は倒れることもなく、ロープに寄りかかり、御子内さんを睨み続けていた。

 この世に生まれて感じてきたすべての憎しみを叩きつけるかのように。

 

 効いていない……。

 

 あの様子では、先程の御子内さんの連打はほとんどダメージとなっていない。

 打撃は効かないのではないか。

 僕は怒鳴った。

 

「御子内さん、殴る蹴るは効かないみたいだ、気をつけて!」

「OK、わかっているよ、ミスターK!」

 

 元気にサムズアップする御子内さんを見る限り、無駄な助言だったかもしれない。

 でも、ミスターKって誰のことだ?

 もしかして僕か?

 なぜ、そんな悪のマネージャーみたいなあだ名を。

 

「かかって来いや」

 

 もう一度、リングの中央に立ってファイティングポーズを構える巫女。

 対峙する妖怪も、寄りかかっていたロープから身体を離し、一歩二歩の距離で睨みあう。

 目と目の距離は二メートルほど、ただし、高さの補正は遥かに妖怪の方が上だ。

 ある意味ではフェアではない勝負だった。

 それなのに、御子内さんの眼には怯みも弱さもない。

 戦うことに賭けている強さのみが満ち満ちていた。

 

「グァァァァ!」

 

 再び伸ばされた腕を掴み、御子内さんは全身の力を使って〈高女〉を反対側のロープへと投げ飛ばす。

 投げられた〈高女〉がそのまま元の位置に帰ってくると、タイミングよく飛び上がった御子内さんの両足飛び蹴りが炸裂する。

 いわゆるドロップキックだ。

 さすがに反動と全身のバネを駆使して放たれたドロップキックの威力は、巨大な妖怪の顔面をひしゃげるほどに吹き飛ばす。

 完全にはダウンせずに踏ん張る〈高女〉のふらつく脚を、先に着地した御子内さんの下段回し蹴りが払った。

 今度こそ背中をマットにぶつけた妖怪の眼には、宙を舞って襲いかかる巫女が入ってきたことだろう。

 全体重を載せたエルボードロップがみぞおちに突き刺さる。

 流れるような連続攻撃だった。

 凄まじい攻撃だった。

 闘争本能がフルスロットルした人間というのはここまで俊敏に的確に動けるものなのか。

 

「どっせいっ!」

 

 すぐには起き上がれない〈高女〉の首に、今度はギロチンドロップが落ちる。

 喉をやられたおかげでまともに声が出せなくなった妖怪を持ち上げて、今度は立ちエルボーが放たれた。

 一瞬怯んだ〈高女〉の首に両足を乗っけて、高高度から回転して頭部を叩きつける。

 

「フランケンシュタイナー!」

 

 僕が叫ぶと、涼花が、

 

「違うよ、リングに背を向ける感じだから、リバース・フランケンシュタイナーだと思う」

 

 わかりやすく訂正してくれた。

 ……あれ、おまえってプロレス見たっけ?

 頭部からマットに叩きつけられた妖怪がなんとか立ち上がろうとしたところで、すかさず御子内さんが背後に回り込んだ。

 彼女のものより遥かに高い腰をがっちりと極める。

 まさか、まさか、あのまま……

 

「「持ち上げるのかっ!」」

 

 兄妹二人が叫ぶ中、御子内さんは気合いととともに二メートル四十センチの長身の〈高女〉を持ち上げて、ブリッジとともに背後に放り投げる。

 ただし、腕は外さずにそのままで、腰を極めたままに。

 怒濤のように雪崩落ちる、美しいジャーマン・スープレックスホールド!

 そのまま巫女と妖怪は固まったかのように動かない。

 妖怪の両肩はマットに見事についたまま。

 そして、三秒後―――いや、3カウント後に、闇が太陽の光のもとに掠れて消えていくように、妖怪は輪郭を失っていき、そして消滅していった。

 リングに残っているのは首だけでブリッジを続ける御子内さんだけ。

 その彼女がよっこいしょと立ち上がり、右手を天に向けて掲げたとき、僕はすべてが終わったことを知った。

 ―――こうして、退魔巫女と妖怪〈高女〉の無制限一本勝負は御子内さんの勝利で終わったのだった。

 

 

 

 

 あれ、どうみても巫女さんじゃなくて、レスラーの戦いだと思うけどね……。



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撤収っ!

「いやあ、いい勝負だったねえ。最後の大技も見事に決まったし、ボクの魅力のすべてが凝縮したような試合だった」

 

 いや、貴女がやっていたのは試合じゃなくて、妖怪退治なんですけど。

 

「以前、戦った妖怪は肩がなかったからフォールに持って行くまでが大変だったけど、背が高い程度なら、まあボクの敵じゃなかったみたいだし」

「今、フォールって言いましたよね」

「うん、そうだよ。妖怪の弱点は肩に詰まっているからね。そこを結界に押し付けることで消滅させることができるんだよ」

「それがフォール?」

「ギョーカイ用語だね。よそで使ってもわかってもらえないから注意だよ」

 

 そのギョーカイ、間違いなく違うでしょ。

 

 僕たちはとりあえずリングの撤収を、このあとにくるらしい御子内さんの仲間という人たちに任せて、家に戻ることにした。

 涼花は妖怪の消滅に安心したらしくほとんど脱力状態が続いているので、僕がずっとおぶっている。

 死闘を終えた後とは思えないほどのんびりとした帰路だった。

 

「もう大丈夫なんでしょうか?」

「まあね。ボクの手にかかればこんなもんだよ」

「よかった」

 

 それから僕は忘れていたことについて尋ねた。

 

「報酬はどうすればいいんですか?」

「あ、報酬? 報酬はあとでいいよ」

 

 あまり興味がなさそうに彼女は答えた。

 

「そうもいきませんよ。妹が助かったのは、御子内さんのおかげです。お礼をしなきゃならない」

「……うーん、ボクたちは別に金儲けとかで戦っているワケじゃないからね。こっちにはこっちの事情があるとしても、君たちには関係ないし……」

「でも、あとでいいと言ったじゃないですか」

「それは、予定している君からもらう報酬が後払いでしかできないというからなんだ」

「どういう意味ですか?」

 

 あっけらかんと笑って、

 

「今度何かあったときに、君にはボクの手助けをしてもらうことになるってことさ。強いといっても、ボクは所詮巫女だしね。今日みたいな舞台を設置するときには、役に立つ男手が必要なんだ。その手助けを京一に頼みたい、ということだよ」

 

 なんだ、肉体労働で返せ、ということか。

 それならすぐにでも可能だ。

 妹の恩人のために一肌脱ぐなんて当たり前のことだし。

 

「そんなことならいつでもどうぞ。僕は御子内さんのためならなんでもしますよ」

「よかったあ。ボクら巫女って、地方巡業で一年間に何十試合もするからさあ。その度に新しく結界台を作るのって大変なんだよね。それをやってくれる人材が確保できたっていえばみんな喜ぶぞ!」

「はいぃ?」

 

 何か、聞き捨てならない発言を聞いたような……。

 

「ボクの決まっている試合だけで、年末までに十試合はあるし、今回みたいな突発みたいな対戦も組まれたりするから、専属の設営アシスタントが欲しかったんだよ。ああ、助かったあ。京一なら、手際もいいし、働き者だし、きっといい設営アシスタントになってくれるね」

 

 いい笑顔でサムズアップする御子内さん。

 僕は何かを言い返そうとしたが、その綺麗な顔に見蕩れてしまい、ついタイミングを逃してしまった。

 そして、あとで思い返すたびに、つくづくそれは致命的な大失敗だったと思う。

 

 なぜかというと―――

 

 

 

 それ以来、御子内さんの延々と続く妖怪退治に、僕は死ぬまで付き合わされることになってしまったからである……



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第2試合 今生の怪談
謎の交通事故


 夜の学校というものは不気味なものである。

 守衛の目をごまかして忍び込んでみたものの、その男子高校生は目的のものをゲットしたらそのまま一刻も早く逃げ出すつもりだった。

 侵入方法は不法だが、彼が確保しようとしているものは彼の所有物。

 明日必要なものだが、今現在学校にあっては困るもの。

 つまりは忘れ物である。

 バスケ部所属の彼は、明日、他校まで遠征にいくというのに、不注意からユニフォームを教室に忘れてしまったのだ。

 これが部室だったら絶対に忘れないといえたが、珍しく教室の自分の机の上に置きっぱなしにしてしまったがためについ忘れてしまったというわけだ。

 明日の集合時間は、遠征先の現地なので朝になってからでは間に合わない。

 そこで、仕方なく彼は夜の学校に忍び込むことにしたのだ。

 

「やべえなあ、夜のガッコーって怖すぎ」

 

 身長も百八十センチ後半で筋肉質の彼だったが、やはり夜の校舎というものは無条件に怖い。

 オバケや幽霊の類を信じるほど子供ではないが、やはり原初の闇の持つ得体の知れなさを無視できるほど達観しているわけでもない。

 大柄な身体をそそくさと動かして、彼は自分の教室に侵入して、目当てのユニフォームの入った袋を手に取る。

 そのまま逃げるように外に出た。

 階段へと続く廊下を歩いていると、一瞬、目の前がぼやっと歪んだ。

 まるで質の悪い鏡を見たときのように。

 当然、電気はつけておらず、持参した小さな懐中電灯の灯りだけが頼りという状況なので目の錯覚だと思った。

 もう一歩前に出ると、また目の前の景色がぼやけた。

 今度は澄んだ水の入った水槽を通してその先の何かを見たときのようだった。

 

「ん、なんだ?」

 

 廊下全体がそんな歪みにとらわれているような、そんな奇妙な感覚だった。

 高校の廊下は生徒が横に四人ほど並んで歩けるほどに広く、そして高さは彼がジャンプしてようやく天井に届くほどである。

 見慣れた廊下が何か異空間に通じたかのような嫌な予感までした。

 

「ちょっと待てよ……」

 

 彼は手を伸ばした。

 手のひらが何かに触れた。

 あえて例えるとしたら、濡れた泥に触れたかのような手応え。

 とても何もない空間に対して感じるものではなかった。

 

「ひっ」

 

 手を戻そうとしたが、どういうわけか動かない。

 まるで接着剤がついて張り付いてしまったかのように。

 肩から腕にどんなに力をいれても動くことがない。

 ただ筋を無理に痛めるだけでしかなかった。

 だが、どんなに痛めたとしても、そんなことはどうでもいいほど彼は慌てていた。

 自分の身に生じている異変から逃れるためには、なにも考えられなくなるほどに。

 

「とれろ、とれろ、とれろ、とれろよぉ!」

 

 しかし、彼の腕はまったく動こうとせず、それどころか手のひらのみならず手首、そして二の腕までが固定されたように不動のまま。

そして、その状況はさらに悪化し、彼は自分の頬が泥に押し付けられたように湿っていくのを感じた。

 

 

 ああ……

 

 ああ、俺は沈んでいく……

 

 壁の中に埋もれるように……沈んでいく……

 

 もう、呼吸もできない……

 

 

 ―――そこで、彼の意識は、消えた。

 

       ◇◆◇

 僕は、通りすがる人たちの視線を気にしながらも、御子内さんに言われたままにカメラで写真を撮っていた。

 カメラはキャノンのEOS KISS×2で、僕の私物だ。

 ちょっと前に中古屋に手軽な価格で売っていたので、お年玉を卸して買った大切なものだった。

 普段は、旅行先の風景とか妹しか撮らないのだが、こんな風に道路を多角的に撮影する羽目になるとは思わなかった。

 二車線の道路に一車線の道路がやや斜めに交わる十字路を、他の通行人や車をよけつつ撮影し続けていた。

 御子内さんはというと、信号が赤になる度に交差点にでてきて僕に大きな声で指示を飛ばす。

 いつもの巫女装束で。

 すると、通りがかった皆が僕らのことを複雑な目つきで見やるのだ。

 せめて高校の制服で来て欲しかったのに、本職の時の御子内さんは空気を読もうとはしない面倒くさい人なのだ。

 適当に二十枚以上撮影をして、

 

「まだ、撮るの?」

「ボクがいいというまでだ。でも、まあ、もういいや。資料写真なんてそんなに必要ないからね」

「どっちなんだい」

 

 とにかくもう撮らなくていいということなんだと勝手に決め付けて、僕は撮影を打ち切ることにした。

 そもそも、今まで何度も御子内さんの手伝いはしてきたけど、「カメラはないか? あったら、撮影して欲しい」などといわれたのは初めてだ。

 いったい、どういう風の吹き回しなのだろう。

 

「スマホにだってカメラはついているでしょう? それではダメなの?」

「ボクがそんな文明の利器を自在に操れるなんて思っているのかい? ボクはね、PSPのモンハンだってまともにできやしないんだよ」

「でも、電話は使っているじゃないか」

「それは当然だ。ボクだって、花も実もあるJKだからね」

 

 うーん、意外と会話にアルファベットを混じえてくるんだけど、どことなく違和感があるんだよな。

 無理して使っているというか、よくわからないものを便利だから利用しているといった感じの。

 掘り出したものや拾ったものは使ってはいけないという、某ロボットアニメの教訓を思い出してしまった。

 

「メールはできないがね」

 

 納得。

 通話機能しかダメなのか。

 道理で僕のところに連絡が来るときはいつも電話だと思った。

 

「で、なんで写真が必要なの? いつもはこんなことしないよね」

「ん、活動記録を出すように言われてね。ボクも巫女だから、お社の方にはたまにレポートを出さなくちゃならないんだよ。で、今回の事件をまとめてみようと思ったというわけさ」

「へー、役所みたいだ」

「そりゃそうさ。巫女はみんな登録されているんだからね。準公務員だよ」

 

 また、新しい設定が。

 いつも思うけど、御子内さんたちが所属している業界というのはどういうものなのだろう。

 深く聞くと表の世界に戻れなさそうな印象があるから、僕から質問することはないけど、なんとなくアバウトな癖に厳然としたルールが存在するみたいだし。

 

「でも、別にお化けがでそうな場所じゃないよね、ここ。いつものパターンだと、もう少し暗いところが多そうなのに」

 

 僕の質問に対して、

 

「この十字路ではね、二週間前に交通事故が起きたんだよ」

「交通事故?」

「ああ、一台のオートバイが事故を起こしてね。一人の男性が亡くなっている」

「へえ、だから、あそこにお花が添えられているんだね」

「そうだね」

 

 なるほど、だから写真を撮る僕らを不審な目で見る人がいたのか。

 つい最近起きた事故現場で何をしているんだ、という咎める視線だったのだろう。

 それに気づかなかった僕もちょっと無神経だったかな。

 

「でも、ただのオートバイの事故なら妖怪退治とは関係ないよね。そんな場所の写真が必要なの?」

「そのオートバイの事故には不可解な点が多かったんだ」

「不可解?」

「まず、事故にあったオートバイは全壊していた。まるで、壁か対向車に正面衝突したみたいに。だけど、事故の音を聞き付けて駆けつけた目撃者は、バイクと激突したようなものは何も見ていない」

「壁とか電柱じゃないの」

「いや、バイクが完全に損壊するほどの衝突なら絶対にどこかに跡が残るはずなのに、なにも見当たらなかったらしい。ボクがこの目で確認しても見つけられなかった。それにバイクの事故は道の中央で起こっていた。ほぼ分離帯に近いところで」

 

 つまり、その事故にあったバイクは何もないところで壁にぶつかって大破して、運転していた人は亡くなったということか。

 確かに変な事故だ。

 

「でも、何度も言うけど、その程度じゃ退魔巫女の御子内さんが出張るには理由が弱くない?」

「そうでもないんだ。実は、八咫烏が聞き捨てならない助けを求める手紙を運んできているんだよ」

「八咫烏が?」

 

 八咫烏は御子内さんたち、退魔巫女と僕たち普通の人間をつなぐ重要なメッセンジャーだ。

 御子内さんからするとプロモーターらしいけど。

 その八咫烏が手紙を運んできたということは、やはり妖怪絡みの事件なのだろう。

 

「で、その手紙にはなんて書いてあったの?」

「簡単だ」

 

 袖元から手紙を取り出して、彼女が僕に見せる。

 ノートの切れっ端のような紙切れだった。

 そこには……

 

『変な壁の中に閉じ込められてしまいました。助けてください』

 

 という奇っ怪な助けを求める内容が書かれていたのである。

 



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道を塞ぐ妖怪

『変な壁の中に閉じ込められてしまいました。助けてください』

 

 

 慌てて書いた様子で、ミミズがのたくったような読みづらい文字だった。

 破りとったノートの切れ端に、机の上で書いたものではないのは確かだ。

 裏にも何か書かれている。

 ただし、なんとなく筆跡は学生のものであるような気がした。

 

「……監禁されているってことだよね、これ」

「生きていればね」

 

 物騒なことを言う。

 だけど、僕としてはこういうものは警察に届けたほうがいいのではと提案すると、

 

「こんな紙切れだけで警察が動くと思うかい? イタズラだと思われるのが関の山だよ。それに手紙からわずかだけど妖気が残留しているみたいだからね。ま、十中八九、差出人は妖怪にとっ捕まっている」

 

 御子内さんは冷静だった。

 さすがにこういう警察との兼ね合いという問題は今までも起きていて、それに対処したこともあるのだろう。

 妹を助けてもらった事件から、何度も彼女のお手伝いをしてきたが、警察沙汰になった経験はない。

 これもいい経験といえるのだろうか。

 そこで、僕は警察に通報ということに固執しないように頭を切り替えた。

 もし相手が妖怪だとしたら、警察の介入によって救出が遅れるかもしれないと思い直したからだ。

 少なくとも〈高女〉事件の時に警察に駆け込んだとしても、妹は原因不明の衰弱あたりで死んでしまっただけだ。

 この手の事件で当てになるのは御子内さんたちしかいないのは、厳然たる事実であった。

 

「ただ、これだけだと決め手にかけるんだよね。普段の手紙には依頼者の住所と名前ぐらいは書いてあるけど、八咫烏が運んできたのは本文だけだ。ここから監禁場所もしくは監禁している妖怪を見つけるのは難しいね」

「……この交通事故現場の写真を撮ろうとしたのは、どうしてなの? 関係あると踏んだからカメラを持って来いと言ったんだよね」

「うーん、これだけはボクの勘なんだが、この交通事故現場と手紙には関係があるような気がするんだ。八咫烏が手紙を受け取ったのがこの辺みたいだしね」

「なるほど。同じ町内で二つ妙な事件があって、それの関係性を疑っているということなんだ。御子内さんでなくても疑ってかかるのは当然か」

「うん、他に手がかりもないしね」

 

 僕は改めて手紙を見せてもらった。

 この手紙の持ち主は助けを求めている。

 手紙に妖気が付着しているということは、間違いなく御子内さんたちの退魔巫女の管轄の問題で、犯人は妖怪だろう。

 そして、同じ町内で道の中央で何もないのに壁にぶつかった不可解な交通事故が起きていた。

 関連を疑わない方が変な話だ。

 八咫烏が喋れればそれでいいのだが、所詮、あいつは鳥なので期待できないし。

 

「写真を撮ったのは報告以外にも理由があるの?」

「うん。うちの巫女に写真に写った妖気を読み取れる傑物がいてね。そいつに相談しようかと思ってさ」

「その人、ここに来られない?」

「鎌倉の人間だからね、すぐには無理だ。あっちはちょっと早い期末テストらしいし」

 

 また、女子高生なのか。

 御子内さんの同僚のことがちょっと気になったが、今はそんなことを言っている場合ではない。

 監禁された人を助けないと。

 

「人手不足はいつものことだけど、妖怪の正体当てとかしなければならないのはボク向きじゃないんだよね。ボクはあくまで巫女だから。現場に出るまでに見当がついていないと大変だよ」

「そういう部署はないんですか?」

「ムリムリ、退魔巫女って結構忙しいけど割に合わない仕事だし、事務職の連中が役に立たない奴らばかりでさあ。現場の苦労をまったくわかっていないんだよ」

 

 巫女に対する神聖さとかありがたみが薄れる話ばかりだ。

 御子内さんはとてつもない美少女だけど、話す内容はがさつで酷いものばかり。

 普通ならば、百年の恋だって醒めるだろう。

 ……いや、僕は妹を助けてもらった恩義があるから、御子内さんのためになら幾らでも頑張れるけどね。

 

「仕方ない……。少ない情報から推理していきますか。このノート、多分、学生の持ち物ですよね。そこからヒントが得られないかな」

「なんで学生だと思うんだい?」

「裏に書かれている文字ですよ。これ、古典の活用ですよね。多分、大学受験用の」

「あ、そうだね。く、けり、かれ……。確かに」

「古典のノートに活用系を使うのはやっぱり受験ぐらいだと思うから、このノートに書いた人はともかく持ち主は中学生か高校生だろうね。そうすると、学生の行方不明者を探してみるのがいいと思う」

「なるほど……。京一、他にはない?」

 

 僕は少し思案する。

 この事件が妖怪の引き起こしたものだとしても、僕にはそれ関連の知識がない。

 つまり、僕が考えたことを御子内さんに伝えて、御子内さん自身が推理してくれなければ答えはでてこないということになる。

 

「ところで、御子内さんはこの手紙の人を監禁した妖怪について覚えがあるの?」

「ん、一応はね。有名どころだよ」

「有名?」

「〈ぬりかべ〉さ」

「……聞いたことある」

「うん、ゲゲゲの鬼太郎の仲間ということで知られているね。作中では善玉扱いだけど実際には怖い妖怪だよ。通りすがった人間を通せんぼして、手にした道具で身体の中に塗り込めてしまうんだ。道祖神の一種といわれているけど、ま、はっきりいって性質の悪い妖怪だね」

 

 なるほど、「変な壁の中に閉じ込められてしまいました」という文言から予測できるのは、〈ぬりかべ〉ということか。

 ああ、ここの交通事故も何か壁にぶつかってとあるから、〈ぬりかべ〉の仕業かもしれないのか。

 色々とつながってくるな。

 そうすると、御子内さんの勘というのもあながち裏付けのないものでもないようだ。

 

「〈ぬりかべ〉ってどういう妖怪なの?」

「田舎の夜道とかを歩いている人間を通せんぼして、先に行かせないようにするのが特徴。無理して進もうとすると、手にした左官屋のコテでその人間を体の中に塗り込めて閉じ込めてしまうことから、ついた名前が〈ぬりかべ〉。昔の田舎の神隠しは結構な割合でこいつが犯人だったと言われているんだ」

「塗り込められた人はどうなるのかな」

「……どうなるのかは知らないよ。最近、目撃例の少ない妖怪だからね。社務所に報告が上がったこともないし」

「それはどうして? 有名なのに目撃例がないのは変じゃない」

「有名といってもゲゲゲの鬼太郎の話だけだからね。もともと田舎の暗い夜道に頻繁に現れた妖怪だから、街灯やネオンが増えて暗がりが減った現代では少なくなってしまったのかもしれない」

「いや、明るくなったからといって、別に通せんぼするだけでしょ。〈ぬりかべ〉がいなくなった理由にはならないんじゃないかな」

「……それはそうだ」

 

 御子内さんは腕組みをした。

 あまり考えたことのない話なのだろう。

 こういう考え事をする彼女も綺麗だ。

 黙っているとホントに素敵な美少女なのだ。

 

「まあ、考えても仕方ないか! ちょっとSNSとかで調べ物してよ、京一。ここらあたりで最近行方不明の学生がいないかって。ボクは歩いているJKを捕まえて聞き込みをしてくるからさ」

 

 彼女の沈思黙考がせめて一分は続いて欲しいところだけど。

 

「そうだね。建設的な提案だと思うよ。じゃあ、二時間後ぐらいに駅前のマックで待ち合わせしよう。どうせ妖怪は暗くなるまで動かないしね」

「よし、行動開始!」

 

 そうして、僕と御子内さんは二手に分かれて情報収集を開始した。

 

 



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妖怪はどこに?

 御子内さんが使えないSNSによる情報収集はすぐに終わってしまったので、僕は待ち合わせ場所のマックで他のことを調べていた。

 さっき話に出た〈ぬりかべ〉についてだ。

 

 ……〈ぬりかべ〉というのは、九州の福岡県あたりの妖怪であるらしい。

 田舎の夜道に現れる、人の進行を妨げる目に見えない壁のようなもので、左右にどこまでも広がっていて避けることもできない。

 蹴りとばしても効かず、上を飛び越すこともできないという、まさに通せんぼされる状態になってしまうそうだ。

 棒で下を払えば消えるという説もあるが、あくまで説でしかない。

 無理に押し通そうとする通行人を身体に塗り込めてしまうことから、意外と危険な妖怪とされている。

 塗り壁と書く事から、漆喰の壁が妖怪化したものだと推測されている。

 また、〈ぬりかべ〉に出会うと目が失明するという話もあった。

 おそらくは漆喰関係の左官職人が、漆喰の材料である石灰のせいで視力が落ちる現象を〈ぬりかべ〉という妖怪に当てはめたものだと言われているが。

 だが、これは要注意の記述だと思うのでメモしておいた。

 何度も御子内さんに付き合った経験から、この手の妖怪の特性は実際に攻撃手段として用いられることがあるということがわかっているからだ。

 御子内さんの安全のためにも、この手の情報を僕が知っておいた方がいい。

 退魔の仕事は、いつも命懸けだ。

 その命懸けの彼女のためにも僕はできることをしておきたい。

 しばらくすると、三人の女の子がマックに入ってきた。

 一人は御子内さんで、あとの二人は高校の制服を着た女の子だった。

 この時になって初めて僕は失策を悟った。

 巫女装束のまま、彼女を単独行動させてしまったことについてだ。

 よく考えると、それは不味すぎる行動だったよね。

 彼女が連れてきた二人が、意外に普通の様子なのが不思議なぐらいだ。

 

「京一、話を聞けそうな子を連れてきたよ」

「こんにちはッス」

「どうも」

「ちょうど小腹も空いていたから、一緒にハンバーガーでも食べないかと連れてきたんだ」

 

 一人はもじゃもじゃ頭の活発そうなタイプ、もう一人は後ろに二つでまとめたお団子頭と短めのおかっぱだった。

 二人共見目の整った中々の美少女だった。

 まあ、御子内さんほどじゃないけどね。

 

「えっと、僕は御子内さんの助手で京一といいます。君たちは?」

「自分は大地蒼(だいちあお)ッス」

「私、池田切子」

 

 意外と礼儀正しく挨拶された。

 よくよく見ると、制服もきちんとしているし、真面目な子たちみたいだ。

 

「いやあ、巫女さんに逆ナンされるなんて初めての体験で、驚いたッスよ。で、巫女さんは自分たちに何が聞きたいんスか?」

「蒼くんたちにはね、このあたりで学生の行方不明事件がなかったかを聞きたいんだ」

「行方不明……?」

 

 いきなりの突飛な質問に目を白黒させた二人だったが、すぐに真顔に戻って、

 

「事件ってこと?」

「まあ、そうなるかな」

「巫女さんたちが何を調べてるかわからないッスけど、行方不明といっても色々あるッスよ。例えば、プチ家出とかもそうだし、学校には病欠ということで届けが出ているかもしれないし。自分たち普通の学生が把握しきれるものじゃないッス」

「まあ、そうだよね」

「もう少し具体的なもの、ないの?」

「……御子内さん、むしろ行方不明者云々よりももっとはっきりとした切り口の方がいいと思う」

「どういうこと?」

「つまり……二人共、最近、噂になった怖い話とかを知らないかな。例えば、へんてこりんな怪物が出たとか……」

 

 僕が言うと、切子という無表情でクール少女が口を開いた。

 あまり長めの話はしないタイプの無口な子だ。

 

「うちの学校で、教室に閉じ込められた子の話がある」

「教室に?」

「うん。部活で遅くなった吹奏楽部員が、音楽室から出られなくなって、警察が来た」

「あれ、鍵が壊れていただけじゃないんスか?」

「ううん。扉は普通に開いたんだけど、どうやっても外にでることができなかったらしい。吹奏楽部の子に直に聞いたから嘘じゃない」

「といっても、その子の勘違いじゃ……」

「五人も同時に白昼夢を見たりしない」

「まあ、切子がそういうのなら、真実なのかもしれないッスね」

 

 扉から出られない?

 夜道の通せんぼとはちょっと違うが、「前に行かせない」という本質は〈ぬりかべ〉と変わらない。

 もしかしてビンゴかもしれない。

 その思いは御子内さんにとっても同じであったらしく、彼女はもう少し詳しくと二人を促した。

 

「……その吹奏楽部の閉じ込めはいつの話なのかな?」

「一週間前。高校野球の応援のための練習している時だって言ってた」

「ねえ、御子内さん。一週間前と言ったら」

「うん、あの交通事故のときだね」

「偶然の一致?」

「まさか。世の中には偶然に起きることはたくさんあるけど、それらを線で繋いでみればたいていのことはわかるらしいよ。線を引いて綺麗に形ができたら必然、できなかったら蓋然。今回の話は、見事に綺麗な線ができるからね。おそらく、京一の考えている通りだと思う」

 

 そうだ。

 僕はこの二人の話を聞いて考えた。

 例の〈ぬりかべ〉かもしれない妖怪はこの子達の学校にいるのだろうと。

 だけど、田舎の夜道に現れる妖怪がどうして学校に?

 もしかして似ているけど違うものなのか。

 

「もっと君たちの話を聞かせてもらえないか。ボクたちの探しているものはそれかもしれない」

「巫女さんたちは何を探しているの?」

「妖怪だよ。ボクは退魔巫女なんだ」

 

 あっけらかんと御子内さんは正体をバラす。

 とは言っても二人はあまり驚かない。

 彼女の着ている巫女装束と、どう見ても浮世離れした言動には、「退魔巫女」なる厨二病的名称を納得させてしまうものがあったからだろう。

 それどころか派手に食いついてきた。

 

「じゃあ、妖怪退治に来たんスか?」

「おお、凄い……」

「そうだよ」

「じゃあ、こっちのお兄さんは神主さんスか?」

「京一は結界張りの名人なんだ。いつも助けてもらっている。ボクの相棒だ」

 

 すごく尊敬の目でみられてしまった。

 僕の本当の仕事は、結界という名の「白いマットのジャングル」を作る事なんだけどね。

 今ではあのリングを三時間あれば一人で作れるようになってしまった。

 このまま専門のイベント会社に就職できるんじゃないかというほどに馴染んでいるし。

 

「うちの学校に妖怪がいるの?」

「まだ、確定じゃない。けれど、可能性は高いな」

「……それで思い出したッス。うちの学校のバスケ部がこないだの試合で大負けしたんスが、その原因はエースの不在だったらしいんスよ」

「それが?」

「で、そのエース、自分が試合にでなくて負けたショックで寝込んでいるって。それがもう一週間ぐらい」

「寝込むにしては長すぎるな。蒼くんはそれがボクたちの訊いた行方不明にあたるかもって考えたんだね」

「そうッス」

「一週間前だし、ちょうど同じ時期だしな。あてはまるかもしれない」

 

 それだけ聞くと、もう御子内さんの中で結論は出たようだ。

 

「……京一、妖怪はきっとこの子達の学校にいるよ」

「そうだね。急いで機材を運んでもらうよ」

「連絡は頼んだ。それで、君らの学校はどこにあるんだい?」

「すぐそこ。ここから見えるよ」

 

 立ち上がってガラス越しに外を見て、はじめて僕たちはすぐそこに高校の建物があることに気がついた。

 こんな駅前の立地条件のいいところに、かなり大きな校舎と広い校庭がある。

 規模からすると、おそらく中高一貫教育の私学だろう。

 すぐそばを新青梅街道が通り、交通量も異常に多い町にあるとは思えない施設だった。

 都会のオアシスといっていいかもしれない。

 あそこになら、妖怪が逃げ込んでもおかしくないな。

 ふと、そんなことを思った。

 

「……なるほどね。今日の試合はあそこで行われることになるわけだ。京一、腕が鳴るねえ」

「他人様の私有地にリングを作る僕の苦労を少しは理解してよ……」

「とにかく、まだ一週間なら、捕まっている人を助けることが出来るかもしれない。急がないとね」

 

 御子内さんの鋭い鷹のような目が爛々と輝いた。

 ついに戦うべき相手を射程距離にいれたという戦士の眼だった。

 いつもの、そして変わることのない巫女としての使命感が彼女を駆り立てているのだろう。

 ……まあ、やっぱり巫女というよりはレスラーっぽいんだけどね。



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〈ぬりかべ〉退治

 ちょっとした連絡をしたあと、僕らは二人の女子高生と別れて、彼女たちの通う高校に向かった。

 いつのまにか、高校の裏口から搬入されていたいつものブルーシートにくるまれた機材をバラし、それからすでに完璧に頭に入っている図面そのままにリングを設営する。

 最初は何時間もかかった作業だったけれど、慣れた今となっては三時間もあれば完成するまでになっていた。

 設営場所が私立高校の私有地という点が問題になりそうだったが、これについては簡単にクリアーされていた。

 学校内に残っていたすべての生徒と教職員はいきなり帰宅させられたのだ。

 僕が一生懸命にリングの設営をしていることさえ、疑問に思う暇もないほどの手際の良さで。

 何度か御子内さんの手伝いをしていてわかったことだが、どうやら御子内さんのバックには相当に強い権力があるらしく、人払い程度ならなんなくこなしてしまう。

 それほどの権力があるにも関わらず、どうして僕なんかが一人で彼女の手伝いをしているのかはさっぱりわからないが、あまり気にしないようにしている。

 小難しい事情を何も聞かない僕について、たまに御子内さんが感謝めいた言葉をかけてくれるのも嬉しいし。

 そうこうしているうちに設営は終了し、校舎の出入り口、生徒の下駄箱前にいつものように「結界」という名のリングが出来上がった。

 御子内さんがリングシューズのまま、マットに上がり込んで、ロープを掴みながらテンションを確認する。

 マットを上からガンガン踏みつけて、不具合までもチェックして、どこにも問題がないことを把握すると、僕に言った。

 

「うん、大丈夫だ。これがあればボクは〈ぬりかべ〉と戦える」

「具合はどう?」

「サイコーだよ。京一の仕事はいつもいいね。助手に指名した甲斐があるってもんだ」

「それはどうも。ところで、御子内さん。その〈ぬりかべ〉をどうやってここまで誘い込むの?」

 

 これはいつも頭をひねる問題である。

 妹が〈高女〉に襲われたときは、妖怪の目的である妹自身を餌にすることでリングに引きずり上げることができたが、いつもそうそううまくいくわけではない。

 人間と見たら手当たり次第に襲いかかる妖怪ばかりではないし、中には自分のホームと決めた場所から一歩も動こうとしないやつもいる。

 今回の〈ぬりかべ〉の場合、夜道を通せんぼするという特性があるのなら、こちらから能動的に仕掛けるしかなく相手方のアクションは期待できないような気がする。

 そんな相手をどうやってここまで連れてくるのか、しかも相手は道を一本塞ぐだけの巨体のはずだ。

 果たしてこの小さいリングに乗せる事なんてできるのだろうか。

 

「社務所から聞いたところによると、意外と活動的な妖怪らしいからね。一発、腹にかましてやればすぐに挑発に乗って追ってくると思う。そこで、ボクがここに昇って迎え撃つという算段だね」

「一発、腹にかますのは誰がやるの?」

「ん? ボクでもいいし、京一でもいいし、最初に校舎のなかで〈ぬりかべ〉に遭遇したほうがやればいいことさ」

「えっ、僕までやるの?」

「大丈夫だって。一発、殴るだけだからさ。こうやって、抉るように直線に抜けるストレートをぶちかますだけだから」

 

 御子内さんは、ボクサーのように腰の入った右ストレートを打つ素振りをする。

 身体の正中線をずらして、左手で顔をカバーしつつ放つ、稲妻のような速さの拳だった。

 とても女子高生の打つパンチではない。

 ゴオッと風を切る音がしてもおかしくないぐらいだった。

 

「そんなの無理だよ」

「腕の伸びる距離、だいたい一メートル以内に入り込めば、あとは握った拳が教えてくれるから」

「オカルトすぎない? それ?」

 

 妖怪変化が暴れまわる世界にきておきながら、「拳が語る」という理屈はぶっちゃけオカルト以外のなにものでもない気がした。

 僕にとっては体育会系の思考の方がよっぽど異次元だよ。

 

「……まあ、とにかく僕にも行けってことだね」

「殴るのが無理だとしたら、京一の場合は〈ぬりかべ〉に出会ったらそのまま回れ右して逃げ出せばいい。あとはボクが待つ結界にまで連れてきてくれれば、それでオッケーさ」

「逃げられるの?」

「〈ぬりかべ〉の本質は前へ進むことへの通せんぼだからね。後ろにダッシュすればそれで逃げられるはずだよ」

 

 だとしたら、行方不明になった人たちだって無事に逃げられていたんじゃないのか?

 そんな僕の疑問に対して、

 

「そこがおかしいのはわかっている。どうも、ボクの知っている範囲の〈ぬりかべ〉の行動とはそぐわない。そもそも、この学校の中にいるのも変だ。なんで、道端にいるはずの妖怪がこんな建物の中にいるのか? それがさっぱりわからない」

「何か理由があるんだろうね」

「それがわかれば、楽なんだけど」

 

 その時、僕たちの目の前にある校舎の方向から、女の子の悲鳴が聞こえてきた。

 悲鳴というよりも、罵声というか怒声だったけど。

 僕たちは顔を合わせる。

 聞き覚えのある声だったからだ。

 しかも、つい最近。

 僕の頭に浮かんだ顔は一つ。

 さっきマックで別れたばかりの女子高生、大地蒼のものだった。

 その彼女の危機を伝える声を聞いて、御子内さんは躊躇うことなく走り出した。

 こういう時の彼女は震えが来るほど格好いい。

 人のために一歩前に出るどころか、切り立った断崖絶壁までダッシュで走り込める生粋のヒーローのような女性(ひと)なのだ。

 少し遅れて僕も続く。

 彼女の役に立ちたくて。

 下駄箱を抜け、二階から三階に続く階段を登り、そして一年生の教室のある四階に達する。

 廊下には電気がついていなかったが、十分な月明かりのおかげで何が起こっているかは判別できた。

 二人の女の子がいた。

 一人は左腕を伸ばして、その左腕を右手が一生懸命に引っ張っている。

 もう一人はその彼女の腰を掴んでさらに引っ張っている。

 蒼と切子だった。

 だが、二人の前には何もない。

 もしも壁でもあったとしたらわかりやすい光景だったが、蒼の伸ばした手はなにもない空間に張り付いたまま動かないという滑稽な姿勢だった。

 へんてこりんなパントマイムのよう。

 何をふざけているんだ、と真面目な人になら怒鳴られそうな姿勢。

 だが、僕にはすべてが理解できた。

 あの伸ばした手は〈ぬりかべ〉の漆喰の皮膚に埋め込まれようとしているのだと。

 そして、彼女たちは必死に運命から抗おうとしていると。

 切子が叫ぶ。

 

「蒼、もっと力を入れて!」

「だめッス! ぴくりともしないッス!」

「足をかけて! 無理やり抜いてみなさい!」

 

 蒼が足を伸ばして、見えない壁に押し付けると、

 

「ひゃっ、今度は足が動かないッス!」

「どうして!」

「知らないッスよ!」

 

 どうやらハエ取り紙に引っかかった蝿のように、手や足が見えない壁に吸い付いて離れなくなってしまっているらしい。

〈ぬりかべ〉は、今度はあの二人までも飲み込もうとしているのだ。

 どうやって助けようかと思ったとき、御子内さんが獣のような雄叫びを上げてさらに加速した。

 そして、ジャンプする。

 惚れ惚れするような弧を描いて放たれる両足を揃えた飛び蹴り。

 ドロップキックだった。

 御子内さんの両足底は月光のようにきらめいて、蒼を拘束している見えない壁に激突する。

 ダンと鈍い音がして、ズズンと廊下が振動した。

 同時に今まで力を入れすぎていたせいか、よたよたと二人の女子高生は後ろに倒れ込んで尻餅をつく。

 呪縛から逃れたらしい。

 ドロップキックを放ったあとの姿勢から、油断せずに立ち上がった御子内さんが叫ぶ。

 

「京一、結界まで逃げろ! 二人は京一のあとについて行け! ここはボクが引き受けるから!」

 

 廊下で仁王立ちして、彼女はこちらを見ようともしない。

 戦いは始まっている。

 御子内さん風に言うならば、「ゴングが鳴った」のだ。

 

「二人共、こっちに来て!」

「あ、神主さん」

「早く、御子内さんだって、長くはもたない」

 

 叫んで、二人の手を握ると、僕は引っ張り出した。

 そうだ。

 いくら御子内さんが強くても、巫女は結界の中でしか妖怪と互角に渡り合うことはできない。

 あの「リング」そのものの結界の中でしか。

 彼女は単に僕たちが逃げる時間稼ぎをするつもりなのだ。

 だから、僕たちがここにいては彼女の邪魔になる。

 一刻も早く逃げ出さなければ。

 

「先に行くよ!」

「ああ、すぐに追いつく」

 

 僕が一度だけ後ろに振り向いたとき、廊下の中央に白い漆喰の壁のような巨大な塊が見えた。

 さっきまで透明だったものが、御子内さんのドロップキックを受けてついにそのステルスを解いて正体を見せたのだ。

 そして、僕は見た。

 あの〈ぬりかべ〉の腹の中央にできた大きな黒い傷跡を。

 縦に長く、白い漆喰の肌には不釣合いな焦げのような傷。

 そして、その傷にはタイヤのものらしき線状痕がついていた。

 十中八九、あれはオートバイの激突によってつけられたもののはずだった……。

 



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御子内さんを信じる

 僕は二人の女子高生の手を握って、一心不乱に階段を駆け下りた。

 背中から文句が聞こえてくるが気にしない。

 一刻でも早く、御子内さんの視界から離れてしまわなければならないからだ。

 僕たちが見えていたら、彼女にとっては気が散る上に、余計な動きをすることを余儀なくされてしまうおそれがある。

 それはなんとしてでも避けたい。

 順々に階段を下りて、玄関口を抜けて、リングまでたどり着いたところで僕は手を離した。

 妹以外の女の子との手を握るのは久しぶりだったけど、たいして緊張もしなかった。

 女の子相手にするドキドキなんて、妖怪退治に付き合わされている時の緊張感に比べたら屁でもないという感じだ。

 

「さあ、二人共、さっさとリングに昇って」

「え?」

「うちの学校の校庭にいつの間に……こんなものが……」

「いいから、早く。とにかく、マットの上にいないとさっきの妖怪にまた襲われるかもしれないんだよ」

「ちょっとどういうことッスか? お兄さん、結界師じゃないんですか? これはどう見たってプロレスのリングじゃないでスか!」

「君の言うことはもっともだけど、今はそんなことを気にしている暇はないんだ。グタグダ言ってないで、とっと上がれ!」

 

 僕の勢いに恐れをなしたのか、二人は言いたい事を噛み殺してリングにあがった。

 そのあとに僕も続く。

 あとは、御子内さんが来るのを待つだけだ。

 ただ、彼女が本当に来られるのかというと信じて待ち続けるほかはないのだが。

 

「……お兄さん、そろそろ説明して」

「そうッス。お兄さんって結界師じゃないんスか? さっきの巫女さんもいきなり岡田ばりのドロップキックをカマしてましたし……退魔巫女って話、あれはウソだったんスか?」

 

 うん、まあ、普通はそう思うよね。

 うちの妹だって随分半信半疑のままだったし。

 ただ、僕はもう彼女と何回も妖怪退治をしてきた経験上、断言できる。

 

「彼女は、本物の、疑う余地のない退魔巫女だよ」

「いや、その結論はおかしい。あれ、絶対、ヘン」

「変と言ってもどうにもならない。彼女はあのやり方で妖怪退治をしているんだし、そのおかげで助かっている人たちは大勢いる。そして、そのリストの中には、たった今君たちの名前が加わったんだよ」

 

 助けてもらった、ということだけが二人にのしかかる。

 確かに、おかしな助けられ方だが、その事実だけは何があっても変えられないのだ。

 自分たちが妖怪に飲み込まれようとしていたのを救われたという事実だけは。

 

「ところで、君たちはどうして夜の校舎にいたんだい? このリングに気づかなかったということは裏門から入ったんだよね? なんで、わざわざ」

「……あなたたちが何をしているのか、見たくて」

「自分は切子を止めたんスが……」

「なんか、学内連絡メールにもCCですぐに学校から出て行くように流れてきて、凄く気になった……。だから、暗くなるのを待って、中に入ったの。あなたたちが原因だとピンときたし」

「それで、四階の自分たちの教室まで行こうとしてたら、急に左手が見えない壁みたいなものに張り付いてしまったッス。全然、とれないし、変な具合に暖かくて気味悪かったッス。それでどうにもならないと思っていたら、お兄さんと巫女さんが来てくれたッス」

 

 なるほど、完全に僕たちのミスか。

 この二人にもう少しきちんと説明しておけば、こんな風に巻き込むこともなかったのに。

 少し反省した。

 だが、そんな反省はあとでもできる。

 校舎の中ではまだ御子内さんが戦っているのだから。

 半信半疑の二人に、このリングが「結界」であることを説明し、どういう理屈かは省いて、ここに妖怪を誘い込む必要があることなどを教える。

 すでに一度、〈ぬりかべ〉に遭遇しているこの娘たちにとっては、突飛な内容でも理解しやすいのだろう、なんとかわかってもらえたようだった。

 そのとき、背中を向けていた校舎の二階の窓が割れて、紅白の羽を持った蝶が飛び出してきた。

 いや、それは御子内さんだった。

 ハリウッドのアクションスターみたいな脱出方法だったが、なんなく地上に着地するところが凄い。

 あの綺麗な弧を描くドロップキックを放てる運動神経は、こういう場面でも発揮されるのだ。

 とにかく、彼女が結界の外で〈ぬりかべ〉にやられなくてよかったと安堵する。

 かなり心配だったのだ。

 校庭に降り立った御子内さんは、周囲を見渡し、それから僕たちのいるリングめがけて走る。

 一瞬の遅滞もないということは、それだけ相手を警戒しているということである。

 あの鈍重な姿に似合わず、〈ぬりかべ〉はかなりの難敵なのだろう。

 あの御子内さんに余裕がないというだけで驚きだ。

 

「二人を助けてくれたんだね。京一、ありがとう!」

「どういたしまして。ところで、御子内さん、あいつは追ってくるの?」

「間違いなくね。ボクに対してかなり怒り狂っていたから。あいつの食事の邪魔をしたから当然だけど」

「……食事だったんだ」

「かなりエネルギーが切れていたみたいだから、結構、無理をして溜め込もうとしていたみたいだね。ボクまで塗り込められるところだったよ」

 

 さっきの蒼みたいに、左官屋のコテをつかってペタペタとか。

 

「よく無事だったね」

「ボクだって巫女だからね。そんな手にやられるもんか。あ、来たみたいだ」

 

 御子内さんの視線の先に目をやると、校舎の玄関の扉の一枚がバリバリと内部から弾け飛んだ。

 そこにはもう不可視の姿を捨て、白い漆喰の身体をした、正方形よりは下方が長い台形に手足がついたような妖怪がいた。

 妖怪〈ぬりかべ〉。

 みんなが持っているイメージよりは脆そうだが、それでも雨風に曝された武家の壁のように豪壮な様子をしている。腹のあたりに口らしい割れ目が横に開いているが、目や鼻はみあたらない。背の高さは八尺には満たないだろうが、それでも普通の成人男性を楽に上回るサイズだ。ただ、さきほど見かけたバイクのタイヤ痕だけが不自然に生々しく浮かんでいた。

 こんなものに夜道で出会ったら恐ろしく仕方ないだろう。

 

「あれが……」

「〈ぬりかべ〉ッスか……」

 

女の子達が呻く。

さっきの撤退するときの一瞬では目に入らなかったのだろう。

初めて見る妖怪の威容に飲まれてしまっているようだった。

 

「上がってきなよ、〈ぬりかべ〉。戦いの舞台へさ」

 

 御子内さんが、トップロープを上げて、リングの中に入ってきた。

 戦う気満々だ。

 どうみたってウェイト差や身長差が明確だというのに、燃える巫女である彼女は怯んだ様子は欠片もない。

 キャッチグローブを締め直し、不敵な笑みを浮かべる御子内さん。

 本当に格好いい女の子だった。

 

「ちょっと、本当に、巫女さんが戦うの?」

「マジッスか?」

 

 二人の女子高生にはすぐには受け入れられないのだろう。

 だが、僕は何度も彼女の戦いを見ている。

 いつも彼女を信じている。

 

「来たぞ」

 

〈ぬりかべ〉は地響きを立てながら、リングに歩み寄り、そしてトップロープをまたいで中に侵入してきた。

 それを確認したと同時に、僕は女子高生を連れて外に出る。

 マットの上は御子内さんと〈ぬりかべ〉だけになる。

 一人の闘士と一体の妖怪が正面から対峙した。

 僕はいつものように脇に避けておいたゴングを取り出して、思いっきり鳴らした。

 

 カァァァァァァン!

 

 最近知ったのだが、この鐘の音は結界から妖怪を逃がさないための何かの術式らしい。

 適当そうに見えて、実はそれなりに理にかなっているらしいのが少しだけムカつく。

 そんな僕の感慨をよそに、ついにリング上では死闘が開始された。

 

 六十分一本勝負!

 

 巫女レスラー御子内或子(みこないあるこ)と、通せんぼ妖怪〈ぬりかべ〉のすべてをかけたバトルが幕を開けたのである。



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決着はリングの上で

〈ぬりかべ〉と御子内さんの彼我体格差は、教室のロッカーと小学生ぐらいはある。

 だから、先手を取られてコーナーに押し切られるのはまずいと判断したのか、まず我らの巫女は助走のないスライディングタックルを仕掛けた。

 マットを滑り、その妖怪の足元に近づいて、がに股で短足な足を払う。

 同時に逆の足で挟みこみ、そして体をひねると〈ぬりかべ〉の巨体は前傾して倒れ込んだ。

 カニバサミと言われる奇襲技だ。

 サッカーでやれば一発でレッドカードをもらってしまう技だが、リングの上では合法だ。

 御子内さんのすべすべした太ももに挟まれる〈ぬりかべ〉の素足がちょっと羨ましいくらいだった。

 大きな音を立ててうつ伏せに倒れ込んだ〈ぬりかべ〉の背中に、倒れ込みながらのエルボードロップを放つ。

 

「ぐへっ!」

 

 何重にもフィルターをかけたみたいにくぐもった声が漏れる。

 初めて聞く、妖怪〈ぬりかべ〉の肉声だった。

 意外と効いているらしい。

 御子内さんはエルボーを合計三回放つと、一旦ロープに体を預け、今度は飛び上がりながらの両膝落としを敢行する。

 徹底的に攻め立てるつもりなのだ。

 だが、〈ぬりかべ〉の巨体も伊達ではないようだった。

 さすがのタフネスぶりを発揮し、わずかな隙をついて身体を起こすと、ジャンプ直後の御子内さんを捕らえてアームホイップで投げ捨てた。

 今度は御子内さんが背中からマットに叩きつけられる。

 手足も短くて不器用そうに見えるが、なかなかどうして、〈ぬりかべ〉はちょこまかとトリッキーな動きもできるようだった。

 投げられた御子内さんがにやりと不敵に笑う。

 その脇腹をキックされた。

 ヤクザ蹴りだった。

 短足だからこそ力が直接に伝わるのか、かなり痛そうだった。

 美貌が苦痛に歪む。

 僕は思わず大声をあげた。

 

「御子内さんっ!」

 

 何度かバウンドするように転がったが、それでも御子内さんはすっくとたって、心に持った星を輝かす。

 追撃を避けるように横にずれながら、ダメージの減少を図る。

 直接的な攻撃を受けるのはまずい。

 大きさに見合った破壊力の持ち主のようだからだ。

 ここまでの情報を総合すると、この〈ぬりかべ〉について危険と思われるのは、左官屋のこてを使われて体内に塗り込められる特有の必殺技と、あの巨体が倒れ込んできてそれに巻き込まれる場合だ。

 あれに潰されたらただでは済まないはずだ。

 そう考えると、真っ先にカニバサミにいった御子内さんの勇気は本当に讃えるべきものがある。

 それ以外にも、意外に器用で素早い。

 もっとも、それは見た目の印象に反してというレベルでしかなく、御子内さんの本来のスピードをもってすればどうということはない。

 ただし、狭いリングの上では、その自慢のスピードも殺されやすいという面を考慮しなければならないが。

 妖怪の力を引きとどめる結界としての「リング」のマイナス面だった。

 同サイズの敵ならばともかく、この〈ぬりかべ〉ほど巨大だと障害物とほとんど変わらなくなる。

 前に戦った〈高女〉なんか比べ物にならない邪魔さだ。

 だが、それで怯むような御子内さんではない。

 じりじり迫る〈ぬりかべ〉の手をかいくぐるようにして、コーナーからコーナーへと移動する。

 がっと妖怪が前に出た。

 呼吸を合わせて肘を縦に立てたまま、御子内さんも出る。

 八極拳のような肘攻撃が〈ぬりかべ〉に突き刺さる。

 怯んだ巨体に向けて、今度はくるりと背中から体当たりをする。

 鉄山靠のように。

 巫女レスラーならぬ巫女八極拳が連続コンボを叩き込む。

 もともと足腰の強い娘なので震脚の形のよさが際立っている。

 全体重がこもっているのは傍目でも理解できた。

 リングの端から端を、円を描きながら動いていたのに、ぎりぎりまで引き絞った弓から放たれた矢のように直線に進めば、鈍重な〈ぬりかべ〉では対応できない。

 たたらを踏んで立ち尽くす〈ぬりかべ〉に向けて、御子内さんはその場で跳躍して後ろを振り向いた。

 

「えっ」

 

 なぜ、そこで振り向くのか?

 しかし、その驚きは一瞬だけで終わる。

 飛び上がりつつ振り向きざまに御子内が後方に向けて蹴りを放ったのだ。

 あれは、ローリングソバット!

 元祖タイガーマスクの代名詞ともいえる奇襲技だったが、御子内さんの身体能力から繰り出された場合は必殺技にもなりうる。

 ずずーん、と今度は背中からマットに倒れる巨体。

 槍のような蹴撃は確実に〈ぬりかべ〉に効いているのだ。

 この一連の動きは、〈ぬりかべ〉の巨体がうまく活かされないように計算されたものだった。

 思えば、このリングは彼女の主戦場。

 慣れ親しんだホームが敵に回るはずがない。

 動きのすべてが計算されたようなミリの攻防が可能なのが、やはり積み重ねてきた経験というものなのだろう。

 しかし、ここで終わるとは思えない。

 あれだけ巨大ならばタフネスも並大抵ではないだろう。

 案の定、御子内さんが突っ込もうとした途端に、〈ぬりかべ〉は起き上がった。

 顔のない妖怪だったが、もしあったとしたら御子内さんを恐ろしい眼で睨み続けていただろう、そんな沈黙が両者の間に落ちる。

 まだ、五分もたっていない攻防だったが、終始押しているのは御子内さんだったが、〈ぬりかべ〉も白はたを上げる気はないようだった。

 

「ホント頑丈だよねえ、あんた」

 

 呆れ気味というよりは、感嘆したという口調だった。

 タフなライバルに対して賞賛を惜しまないのが、御子内さんの素直なところだった。

 たとえ凶悪な妖怪であったとしても、対戦相手にリスペクトを惜しまない姿勢はいいと思う。

 

「ボクの軽い打撃だけじゃあ、倒せないか」

 

 御子内さんはマットを蹴り上げた。

 

「やっぱり投げ技で叩きつけるのが一番かな。自分自身の体重があんたにトドメを指すことになるんだよ」

 

 そう言って、グローブを締め直す。

 彼女の得意のスープレックスを使う気満々なのだろう。

 そうでなければあのタフな妖怪を倒せない。

 ただ、問題はあれを持ち上げられるかということなのだけれど。

 

「いざ、尋常に勝負」

 

 ファイティングポーズをとる御子内さん。

 ヒットアンドアウェイ戦主体にしていた今までと異なり、完全な肉弾戦に入るための構えだった。

 そして、御子内さんは得意のナックルパートに入り、左右の拳で殴りかかる。

 技などをあまり考えない特攻だった。

 むしろ小賢しい技を使わない分、流れさえ握ってしまえば最後まで反撃を受けずに済む戦い方だ。

 初めて超人オリンピックに参加した時の、潜在能力と喧嘩殺法だけで優勝したキン肉マン的戦法だった。

 キン肉マンはそのやり方でエリート揃いの超人たちを撃破したのだ。

 このようなラフファイトもできるのが彼女の能力の高さだ。

 左右のコンビネーションで追い詰め、そして時折ハイキックと前蹴りをお見舞いする。

 なんとか掴もうとするが、服を着ていない〈ぬりかべ〉の漆喰の肌についてはなかなか難しいのかうまくいかない。

 

「くっ」

 

 御子内さんの動きが止まった。

 彼女の手首が相手につかまって、胸元に引き寄せられる。

 何をしようというのか。

〈ぬりかべ〉は御子内さんを抱き寄せた。

 

「は、離せ!」

 

 まさか、〈ぬりかべ〉は。

 

「グォォォォ!」

 

 御子内さんを塗り込めるつもりなのか。

 ……さっきまでと違い、今度こそ彼女を食事として捕食しようとしているのがわかった。

 奴の塗り込め能力は手で掴んでから発動するのだ。

 要するに掴まれたら終わりなのだ。

 だからこそ、必死にリングの上で追い掛け回していたのだろう。

 油断してさらに接近してくるのを誘うために。

 掴まれた手首が漆喰の腹の中に埋め込まれる。

 

「まずい、御子内さん、逃げて!」

 

 だが、御子内さんがいくら叩いても殴っても〈ぬりかべ〉はビクともしない。

 体勢が悪すぎるのだ。

 このままでは御子内さんまでがあの妖怪の餌食になる。

 その時、僕の隣で押し黙っていた女子高生二人がいきなりリングに上がった。

 二人共手にパイプ椅子を持っていた。

 

「巫女さんを離すッス!」

「くたばれ」

 

 背中から椅子の角で殴られた〈ぬりかべ〉は怯む。

 だが、振り向くことはできない。

 御子内さんを塗り込めている最中だからだ。

 もし強引に振り向こうとすれば……。

 

「今だ!」

 

 その一瞬の隙をついて、御子内さんが〈ぬりかべ〉の足の甲を踏みつけた。

 シューズで守られていないだけ、踏みつけられればダメージはでかい。

 拘束されていた手首を〈ぬりかべ〉が痛みに耐え兼ねて手放した瞬間を見計らって、御子内さんが逃げ出す。

 女子高生たちと御子内さんのどちらを狙うか迷った〈ぬりかべ〉の隙をついて回り込み、背中に二人を庇う御子内さん。

 

「ありがとう。でも、セコンドの乱入は反則だからね。もうしてはダメだよ」

 

 と、いかにもな感謝の意思を伝える。

 御子内さんの間一髪の危機を救った二人は嬉しそうに、リングを降りていく。

 僕もようやく安堵の息を吐く。

 あのまま御子内さんが塗り込められしまったら、僕はどうしていただろう。

 彼女たちのように無謀に飛び出せただろうか。

 

「さあ、次行くぞ」

 

 御子内さんのローキックが炸裂する。

 先程、足の甲を踏んづけられたせいで庇いきれずに〈ぬりかべ〉は膝を屈した。

 頭頂の方がお辞儀でもするかのように傾けられる。

 そのチャンスを見逃す彼女ではない。

 頭をつっこみ、そして〈ぬりかべ〉の腰のあたりを強引に鷲掴みにすると、そのまま一気に持ち上げる。

 漆喰の身体が宙に登る。

 短い手足がジタバタするが御子内さんは構わずに続ける。

 そして、そして、あれだけの巨体を完全に頭上に抱え上げた。

 

「喰らえェェェェ!!!!」

 

 自らは後方に倒れ、相手を頭から落とす、垂直落下式ブレーンバスター。

 しかも、持ち上げてしばらく静止したあとの長滞空式でもある。

 力自慢のプロレスラーがようやく使うことのできる超大技を御子内さんは使ったのだ。

 今までのものとは比べ物にならない轟音が響き渡り、〈ぬりかべ〉は頭からマットに叩きつけられてその全身に亀裂が入る。

 亀裂はすぐ大きくなり、裂け目となり、そして〈ぬりかべ〉の全身に広がった。

 ガッと耳障りな音がしたかと思うと、〈ぬりかべ〉は粉々に裂けて、漆喰の塊と砂になり、完全に沈黙した。

 マットには埃と元〈ぬりかべ〉を構成していた壁のあとのような塊、そして二人の今まではいなかった二人の人間が残った。

 二人共、学生服を着ていた。

 

「行方不明になった人たちだろうね。良かった、まだ息はあるみたいだ」

「大丈夫なの?」

「消化、というか、完全には取り込まれていなかっただろうね。もともと人間を餌にするような妖怪ではないみたいだから」

 

 そういって、赤コーナーによりかかり、荒い息をする御子内さん。

 そこはチャンピオンの場所。

 また、人を助けた退魔巫女が満足げに笑っていた。

 

 その可愛い笑顔を見て思う。

 あの時、僕もきっとあの二人のように椅子を持って〈ぬりかべ〉に立ち向かっただろうと。

 今回、二人に負けたのは残念だけど、またああいうことがあったら、今度こそ、御子内さんを助けるのは僕でありたい。

 そう心に誓うのだった。



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後日談

「結局、どうしてあの〈ぬりかべ〉は学校にいたんだい?」

 

 後日、僕と御子内さんがお茶をしているときに、気になっていたことを聞いてみた。

 そこのところだけがよくわからなかった。

 学校内にいなければ、もう少し探すのに手間取っただろうし、もしかしたら別の被害者が出たかもしれないからだ。

 

「……例のバイクのタイヤ跡を覚えているかい?」

「うん。くっきりついていたね」

「原因はアレだよ」

「アレ?」

 

 よくわからないって?

 

「あの〈ぬりかべ〉はバイクと衝突したことで怪我をしたんだ。それを癒すために、自動車やオートバイの通らない広い場所―――つまりあの辺では学校の校舎の中に潜り込んだ。建物とはいえ、多くの人の通る通路もあるからね。居心地も悪くはなかったんだろうね。で、エネルギーの回復のために人を捕食しようとした」

「要するに、轢かれて逃げ出したってことか。でも、バイクに轢かれる妖怪ってのも変な話だね」

「ところがね、そうでもないんだ」

「どういうこと?」

「前に、〈ぬりかべ〉は意外と多く存在していたけど、今は少なくなったって話をしたよね。それは、路上を塞ぐ〈ぬりかべ〉が車なんかに轢かれたりして数が減っていったせいらしいんだよ」

「……まさかぁ」

「そのまさかさ。かつては何もない道で人を通せんぼしていた妖怪は、交通機械の発達によって危険すぎて路上に立てなくなり、無理にたったとしても猛スピードの車にぶつかられた挙げ句消滅して、ついには人のいる地域には住めなくなってしまったんだよ。ボクが倒したあの〈ぬりかべ〉もそういう経緯で、人里に現れて、でも長くはいられなかった可哀想な妖怪だったというわけさ。そう考えると、なんかちょっと凹むよね」

 

 まるで、沖縄のイリオモテヤマネコみたいだと思った。

 妖怪に住みづらいのは都会だけではなく、要するに人間の住む場所全般になってきているということだろうか。

 生活地域を脅かされた妖怪が人に牙をむくのも当然かもしれない。

 せっかく人を助けたのに元気のない御子内さんを励ますために、僕は用意していたチケットを見せた。

 

「なんだい、これ?」

「今夜のWBAのバンタム級の試合のチケットだよ。たまにはボクシングなんか観てみたら新鮮だと思って手に入れたんだ。どう、一緒に行こうよ」

「ボクシングかあ、いいねえ、生の試合は観たことなかったんだ」

「じゃあ、行こうよ。さ、元気出して、出発、出発!」

 

 僕はちょっと笑顔になった御子内さんの手を引いて、珈琲ショップを出た。

 今日もいい天気だ。

 妖怪や巫女なんて関係のない楽しい時間を過ごすにはもってこいの。

 

「さあ、行こうよ、巫女レスラー」

 

 ―――落ち込んでいる姿は君には似合わないよ。

 



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第3試合 空を翔ける巫女
風に乗り人を攫うもの


 

 

 今日は、〈御山〉が良く見える。

 若い夫婦が住むにしては広すぎる庭の隅で、洗濯物を干しながら、伊嶋由香(いじまゆか)は山を見上げた。

〈御山〉というのは、異名だ。

 正式な名前は別にあるのだが、地元の住民はほとんど例外なく〈御山〉と呼んでいる。

 鋭く尖った山容をしていて、似たような形をした槍ヶ岳などに比べれば低いが、形としての美しさは勝るとも劣らないと言われていた。

 彼女が住んでいる東京都下の○×市一帯において、ほとんどすぐそこに山麓と登山口があり、成人ならば一時間も歩けば山頂に達する〈御山〉は行き慣れたハイキングコースでもあり、同時に信仰と親しみの対象であった。

 由香も小学校に上がるまえから、山腹までだが何度も家族や友人たちと登ったことがある。

 山頂にはちっぽけな神社があり、初詣に訪れる地元民も少しはいた。

 

「そういえば、神社が焼けちゃったのよね」

 

 由香が夫と暮らすこの家からでは無理だが、山頂にあった神社はちょっとした双眼鏡があれば平地からでも見つけることができた。

 しかし、少し前に原因不明の火災が発生し、社務所はほとんど焼失してしまったらしい。

 神主もいない寂れた神社ということもあり、今のところ再建するという話も出ていなかった。

 地元でも、古い歴史はあったがさほど重視されていなかったということもあり、そのまま放置で終わるだろうというのが住民たちの認識である。

 由香自身、何度か訪れてお参りしたこともある神社なので勿体ないとは思うものの、無駄なお金をかけるのも嫌よねと、諦め、無関心になっていた。

 

(……まあ、うちの子が待機児童とかになると困るし、町にはそっちを優先してほしいから、仕方ないか)

 

 歴史ある建造物よりは身近な福祉。

 由香にとってはその程度の重要性しかない話題である。

〈御山〉に親しみはあったとしても、その程度の感情しか持ちあわせてはいなかった。

 

「さて、早く洗濯物を干しちゃわないと。……佑真(ゆうま)が大人しく寝てくれるうちにね」

 

 ピンと張った数枚の白いシーツの反対側には、彼女の一歳にもならない息子が揺り籠の中で眠りについている。

 産まれたばかりといってよく、まだ首もすわっていない彼女の一人息子は、あまり泣いたりもしない大人しい赤ん坊であった。

 彼女がこうやって家事をのんびりとできるのも、そのおかげだ。

 フンフ~ン

 雲一つない快晴の下、鼻歌交じりに気分よく洗濯物を干し終え、ようやく一息つけるかと思った時、

 

「オギャーーーーーー!!」

 

 突然、赤ん坊のけたたましい鳴き声が響き渡った。

 それは絶対に佑真のものでしかない。

 弾かれたように由香は息子のところへ向かった。

 彼女と佑真を遮るものは白いシーツだけだ。

 それを慌ててめくり上げて揺り籠の中を覗き込んでも、いるはずの赤ん坊の姿はなかった。

 周囲を見渡しても、佑真はいない。

 どこにもいない。

 誰かが連れ去ったということも考えられるが、佑真の鳴き声が響いてから、由香がやってくるまでのほんの数秒の間に、大人どころか子供でさえ隠れられるような場所はなかった。

 立ち去る影さえも見当たらない。

 では、赤ん坊は―――佑真はどこに消えたのか。

 事態を理解できずに、由香が茫然としていると、彼女の頭上からバサっという重厚な音が聞こえてきた。

 由香はその音を聞いて鳥の羽搏きを連想した。

 嫌な予感がして、天を見上げる。

 首が痛くなるほど垂直に顔を上げた視線の先に、何かがいた。

 いや、何かなどという曖昧なものではない。

 鳥であった。

 より正確さを期するのならば、大きな羽根をつけた人型の鳥であった。

 緩やかに羽根を上下させて、まるで空中から撮影をするドローンのように何もない彼女の頭上を旋回していた。

 自分の見ているものが信じられずに眼を手で擦る。

 だが、そんな真似をしても、()()()は消え去ることはなかった。

 

「ビェェェェェェ!」

 

 絶対に忘れない愛息子の声が再び響き渡った。

 由香の頭上から。

 天空から。

()()()の腕の中から。

 

「佑真あ!」

 

 間違いなかった。

 彼女の子供はあの羽搏くものの腕の中に抱かれている。

 佑真を攫ったのは、あいつだ。

 

「返して! あたしの息子を返して!」

 

 だが、彼女の悲痛な叫びを無視して、頭上の何かはもう一回転くるりと空を巡ると、悠々と羽搏いて飛んで行ってしまった。

 哀れな一人の母親を残して。

 北にある剣のように尖った山へ目掛け。

 

「佑真……あたしの赤ちゃん……」

 

 息子を攫って飛び去ったものが豆粒とかして見えなくなって、初めて由香は膝をついて崩れ落ちた。

 目の前で子供を攫われたというのに何もできなかった。

 走って追うことすらできなかった。

 言葉にならない慟哭が彼女の咽喉から飛び出てくる。

 ついさっきまでの幸せは奪われた。

 

「助けて……」

 

 由香は呻く。

 

「誰か助けて……」

 

 妻は啼く。

 

「あの子を取り返して……」

 

 母は懇願する。

 

「あたしの赤ちゃんを……助けて……」

 

 しかし、その願いは誰の耳にも聞き入れられることはなかった。

 

 

       ◇◆◇

 

 

「実を言うと、今日の試合は気が進まないんだ」

 

 僕がいつものようにツナギを着て、リングという名の「結界」(御子内さんは「護摩台」とも呼ぶのでかなり適当だ)を設営していると、お弁当を食べていた我らの巫女レスラーがぼそりと呟いた。

 呟きにしては声が大きいので、僕に対しての愚痴みたいなものなのだろう。

 もう何か月か付き合っているけど、こういう御子内さんはとても珍しい。

 新鮮だ。

 

「珍しいこともあるもんだね。御子内さんがそんなに自信なさげなのは」

「京一はボクをなんだと思っているんだい? こう見えてもボクだって十代のJKなんだよ。自信が揺らぐことだってある」

「メンタル強いのがウリなのに?」

 

 彼女の場合、メンタルというよりも熱血力とか、そのあたりが妙に高めなだけかもしれないけど。

 なんといっても少年チャンピオンが愛読書という女子高生なのだから。

 

「おかげでせっかく涼花(すずか)が作ってくれた差入れのお弁当も喉を通らないよ」

 

 一応事実だけを指摘しておくと、今彼女が食べているのは、妹が用意してくれた僕の分の差入れ弁当で、御子内さんの分はとっくに彼女の胃の中だ。

 そりゃあ、二食も食べれば腹も膨れるし、喉も通らなくなるよね。

 せっかく妹が持たせてくれたというのに、女の子に全部食べられてしまうとは思わなかったよ。

 トホホホ。

 

「でも、涼花は料理が上手いね。部活のときにボクのためにクッキーとか持ってきてくれるし、涼花は本当にいいお嫁さんになるよ」

「―――実の兄にはバレンタインチョコすらくれないんですが」

「何を言っているんだい。ホットココアを出してくれたと言っていただろ。妹のさりげない照れ隠しに気づかないなんて、兄失格だよ、京一」

「男の子としては普通に固形チョコが欲しいんだけど。ていうか、御子内さん、あいつと部活一緒なんですか?」

「言わなかったかな。入学してすぐに、涼花はうちの部活の門を叩いてきたんだよ」

 

 部活というよりも道場みたいな表現だ。

 とはいえ、御子内さんの所属する部活ならどうせ格闘系だろう。

 

「合気道とか、空手とか、そんなところ?」

「何を言っているんだい? どうしてそんな格技ばかりを上げるんだ」

「だって、御子内さんってそんなイメージがあるから」

「心外だな。まったく辛亥革命だよ。ボクは学校ではお淑やかなお嬢様で通っているんだからね。―――日本酒愛好会さ」

「却下」

 

 もう一瞬で却下だよ。

 いろんな意味で却下だよ。

 なんだ、日本酒愛好会って?

 高校の部活でそんなものを認めていいのか、女子高生が入っていい部活なのか、そんなところに可愛い妹が仲間入りしているのを容認していいのか、もしかしてギャグで言っているのか、と様々な理由が雨あられと湧いてきてしまったよ。

 

「なんだい、藪から棒に。活動内容も聞かないのに全否定ってのはさすがに酷いじゃないか」

「聞く必要ないでしょ。いいですか、御子内さんが世間知らずで騙されやすいのはよく知っていますが、限度ってものがあるでしょう。本当にそんな部活があるんだったら、さっさと退部しなさい。うちの愚妹と一緒に」

「いやいや、ちゃんとした部活なんだよ。利き酒もするけど、その時は口に含むだけだし……」

「却下」

「それに、顧問は酔拳の使い手なんだ。教えてくれるというから、今のうちにマスターしておくのもいいとは思わないか? 巫女活動の助けになると思うし」

 

 どんな理由だ。

 御子内さんと結婚した場合は、子供の教育方針とかで綿密に話し合わないとダメな気がする。

 結構、よく物事がわからずにモンペになっているかもしれないぞ、この女性(ひと)は。

 

「……ところで、うちの涼花が料理が上手いのはさておくとして、どうしてそんなに気が滅入っているの? もうすぐ「結界(リング)」も完成するし、御子内さんの出番も押しているんだけど」

 

 すると、僕が食事も採らないで頑張って「結界(リング)」を設置している間、僕の弁当までかっ食らっていた腹ペコ巫女は天を見上げた。

 

「今回の妖怪相手には、さすがのボクも分が悪いからさ」

「そうなの?」

 

 そういえば、今回は事前の調査とか対戦相手の妖怪のレクチャーとかまったくなしに、こんな○×市までやってきていきなり仕事を始めさせられていたな。

 電話で呼び出されて、いつものようにブルーシートに覆われた資材を使って「結界」という名前のリングを文句も言わずに設置する。

 本来一人ではかなり大変な作業だというのに、今の僕は慣れてしまっているのか苦労を苦労とも思わなくなってきていた。

 まったく疑問を感じなくなっているところに、なんとなく僕の社畜化が進んでしまっているような気がしてならない。

 

「つまり敵はわかっているというわけか……」

 

 今回、僕らがリングを設置しているのは、とある山の麓近くにあるもう使われていない田んぼの真ん中だった。

 在来線の駅から歩いて十分といったところだが、あまり人気はない。

 駅前にはそれなりに住宅が広がっていて、コンビニも一軒だけだけどあったというのに、ここらに来るとほとんど何もないのは驚いた。

 人影も僕らぐらいしか見当たらない。

 ただ、具体的ではないもやっとした違和感のようなものはあったのだが。

 

「……いつもはもっと人里で試合しているよね。こんなに駅からも遠い場所は珍しいかもしれない」

「そうだよ。ボクらは普通、人気のないところで退魔の仕事はしないんだ。何故かというと、自然にあふれた場所はもともと妖怪たちの領域であって、ボクらみたいな退魔巫女が押し入っていいとはされていないからさ。さらに田舎で起こる事件については、ボクらとはまた別の系統の退魔師たちが存在していて、その人たちが対処することになっているんだよ」

「へえ」

 

 よく考えてみればそうかもしれない。

 この間の〈ぬりかべ〉だって、棲息地域を追われて出てきた人里で深刻な事件を起こしたから御子内さんに退治されたのであって、本来ならば、わざわざ倒しに行くほどではなかったはずだ。

 御子内さんたちが、僕らの傍で学校に行ったりしているのも、ある意味では民草に寄り添って護ろうとする意識の賜物なのだろう。

 であるのならば、わざわざ遠出してまで妖怪退治をする必要性は薄い。

 じゃあ、今回の妖怪はどうして?

 

「ボクらのすぐ前に山があるのはわかるかい?」

 

 確かに見上げると、山頂が槍のように尖った山があった。

 他に連なっている山々と比べても一際雄々しく見える。

 

()はその頂きにいる」

 

 御子内さんはきっと空を見上げ、

 

「そして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 凛々しいまなざしが天を貫く。

 御子内さんは今回の妖怪に対してきっと怒っているんだろうと思わされる顔をしていた。

 

 

「空を飛び、天を舞う、人の外敵。―――〈天狗〉が今回の相手なのさ」

 

 

 



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妖怪〈天狗〉

 天狗という妖怪は古代中国から伝わってきたものである。

 大陸では、「テング」ではなく「テンクウ」と読み、司馬遷の『史記』においては、「天狗はその姿は大流星のようで、音がする。落ちて地に止まると(いぬ)のようにみえる。落下する様を目撃すると火の玉のようであり、炎々と燃え盛って天を衝くようである」と記されている。

 要するに、天狗というのは大陸においては、「隕石」のことなのであった。

 隕石は不吉の予兆とされ、天から降ってくる災い、天災の一緒であり、それゆえに天狗も恐怖の空からの災いそのものを暗示する妖怪についての総称といえた。

 日本においては、仏教の日本への広がりとともに輸入され、特に比叡山の僧侶とこみで語られた結果、仏教を邪魔するものというイメージがつけられたが、その本質自体は変わらない。

 つまり、天からやってきて、大きな音を立て、災厄をもたらすものこそが、〈天狗〉なのである。

 

「―――でもね、この国にも古来から、そういう妖怪が棲みついていたんだよ。その条件にピタリと当てはまる連中がね」

「それが〈天狗〉なの?」

「うん。猛禽類の黒い羽根を持ち、空から餌として子供なんかを狙う、性質の悪い妖怪だ。元々は年端もいかない男の子を性的な欲求を満たすために神隠しに見せかけて誘拐していた倒錯者の怨霊が形になったものと言われているんだ」

「え、元は人間なの?」

「ああ。江戸時代の随所『黒甜瑣語(こくてんさご)』には当時行方不明になった少年たちのことが「天狗の情郎」と呼ばれていたという記述があるし、情郎とは陰間―――いわゆる男娼だから、衆道との結びつきが認められていたんだろう。そして、そういった犯罪に手を染めていたもの、あるいはそいつらに攫われ染められて同じ穴の狢になってしまったもの、そういった連中が死後に羽根を持ち、天を自在に滑空する妖怪となった」

 

 僕はちょっとショッキングな話に震えた。

 神隠しのことを「天狗隠し」ということは聞いたことがあるが、そんな事件の裏にはこんな真相があったのか。

 

「とはいえ、妖怪としての〈天狗〉は幸運なことにそれほど強い力を持つ連中じゃない。人間が、ある程度育った子供ぐらいになったらもう抱え上げることさえもできない程度に非力なんだ」

「それだったら、別にどうということはないんじゃない。人間に危害を加える訳でもなさそうだし」

「ところが違うんだ」

「えっ」

 

 御子内さんは懐から写真を一葉取り出して、見せてくれた。

 小さな揺り籠だけが写っていた。

 

「あいつらは五キログラムぐらいの重さのものならば掴んで飛び去ることができるんだよ。そして、人間の赤ちゃんは産まれたばかりなら四キロから五キログラム。ウサギなどと変わらない場合があり、そのサイズならば大きめの猛禽類にさえかっさらっていくことができる。〈天狗〉も同じことができる」

「つまり、それって……」

「うん。わかったね。〈天狗〉というのは赤ちゃんを攫って行く妖怪なんだ。今回の奴はその揺り籠に眠っていた赤ちゃんを攫って行ったんだ。そこでボクらの出番となった」

 

 ……御子内さんの説明によると、春から初夏にかけては猛禽類の鳥たちの子育ての時期であり、ヒナたちの食欲を満たすために人間の赤ん坊を攫うことは昔はよくあったことらしい。

 今と違い、幼児を連れて畑仕事をしていた農家の人たちが、被害にあっていたそうだ。

 人間の赤ん坊はウサギと違って動かないから攫って行くのは容易だったのだろう。

 実際に幼児が大鷲に攫われたという事件では、奈良東大寺の「良弁杉の故事」が有名である。

 子供の頃に大鷲に攫われて遠く奈良の春日神社の近くの巨木の上で食べられようとしていたところを後に師匠になる義淵に助けられたという、僧侶良弁の話だ。

 良弁は東大寺を開基するほどの名僧になるが、三十年経って彼を探していた母親と再会するというもので、おそらく実話なのだと言われている。

 このように、猛禽類による赤ん坊の被害と同じぐらいの頻度で、〈天狗〉は子供たちを誘拐していたのだろう。

 かつての農村部では珍しくもない光景だったのかもしれない。

 空から襲い掛かり、大きな羽ばたきをの音を立て、赤ん坊を攫う災害。

〈天狗〉という妖怪に対して、御子内さんが激怒しているのもわかる。

 ただ、彼女が弱音にも似た愚痴をはいているのは非常に珍しい。

 

「―――でも、確かに悪そうな奴だけど、御子内さんが勝てない相手じゃないと思う」

「そうさ。普通ならね」

「じゃあ、どうして?」

「〈護摩台〉に引きずり込むまではできる。これまで培ってきたうちの社務所でのノウハウがあるからね。ただ、実際に倒すのが容易ではないんだ」

「……?」

「あいつらは翼があるからね。〈護摩台〉の中を飛び回るんだよ。それに合わせるのがとても難しい。ボクのスタイルは立ち技中心だから、飛んだり跳ねたりだとどうしても相性が悪い」

「あっ」

 

 そういうことか。

 確かに、コンビネーションを織り交ぜた打撃技や各種跳び蹴り、そして投げ技を主体とする御子内さんだと、飛び回る敵相手には不利なのかもしれない。

 狭いリングの上とはいえ、自在に宙を舞う相手に対して、これまでのような肉弾戦は難しいだろう。

 古来、人間は空からの攻撃に対応できるようにはできていない。

 ほら、有名な正義の裏切り者が言っていたじゃないか。

 

『俺ならマ○○ガーZを空から攻めるね』

 

 空を飛べない御子内さんだったら、それはきっと有効な戦法になるに違いない。

 だからこその彼女のやや自信なさげな発言だったのだろう。

 いかに最強を自負する御子内さんでも相性の問題は避けて通れないのだ。

 

「―――今回の〈天狗〉はこの近くに住む夫婦から産まれたての赤ちゃんを奪って悲しませた。絶対に許してはいけないんだ。だから、相性が悪いなんてことは言っていられないのさ」

 

 責任感の強い彼女らしい毅然とした言葉だった。

 

「〈天狗〉と相性のいい巫女さんがいてくれたらよかったのにね。こういうことをいうと、虫が良すぎる感じだけど」

 

 慰めるつもりはなかったが、話題を逸らすつもりで僕はそんなことをいってみた。

 だが、返ってきたのは意外な内容だった。

 

「いや、京一の言う通りでね。本来はボクなんかよりもずっと飛ぶ妖怪に対しては適役が来る予定だったんだ」

「え、本当なの?」

「ああ。彼女が来てくれるというのなら、ボクはこんな風にはでしゃばらなかったよ。ただ、社務所と八咫烏、どちらからの連絡も付かなかったらしくてね。でも、彼女を待ってられない緊急性のある案件だということで、急遽ボクが派遣されたという訳さ」

 

 そう言えば、僕のところへの連絡も昨日の晩に突然だった。

 週末とはいえ、何か用事が入っていたら困っていたところだ。

 まあ、用事なんか何もないけどね。

 

「へえ、御子内さん以外の退魔巫女には会ったことがないけど、どういう人なの? 君みたいに可愛いのかな?」

「ボクが可愛いというのは当然だけど、あいつはどうかな……? 女が女の容姿を褒めるとたいてい嘘っぽくなるしね」

「それはそうだ」

 

 うちの妹も、わりと可愛さで張り合うタイプらしく、素直に同性の容姿を褒めたりはしない。

 自分にとっての脅威とならない場合は手放しでほめたりもするが、大体はやや低めに査定するようにしているらしかった。

 もう完璧に妹が絶賛するのは、目の前の美少女巫女ただ一人しかいなかった。

 女の子ってかなり面倒くさい生き物だよね。

 

「あいつは無口だし、電話してもあまりコミュニケーションをとらない性格だから、その辺は厄介だけど、巫女としての実力は折り紙付きだね。ボクが同世代で認めている人材のうちの一人だよ」

「御子内さんが手放しで褒めるなんて、凄い実力者なんだろうね」

「ああ、悔しいが飛ぶ妖怪に対してはあいつの方がボクよりも適任だろう」

 

 そもそも御子内さん以外に、こんな戦いをしている巫女さんがいるということ自体、実は相当な驚きなのだけれど、そんなことはおくびにもださない。

 御子内さんにツッコミを入れたとしても、さらに強めのボケが戻ってくるだけなので。

 でも、会ってみたいな、その無口な巫女さんに。

 

「―――京一」

 

 突然、彼女の口調が変わった。

 さっきまでののんびりとしたものではなく、鋭い闘士のものに切り替わったのだ。

 短い期間だけど濃厚な付き合いをしてきた僕はすぐに事情を察する。

 上を見ると、はるか上空だが、何かが旋回しているのがわかった。

 おそらく、あれは―――

 

「〈護摩台〉の方はもう大丈夫かい?」

「うん。できたら、君にきちんと出来栄えを確認しておいてもらいたかったけれど、いつも通りのテンションで用意しておいたから。……でも、あいつをここまで下ろさせることはできるの?」

「できるよ。京一、ちょっとそのままでいてくれないか」

 

 上空を警戒しつつ、御子内さんはリングに上ってきた。

 両手を回したり、引っ張ったりしながらのストレッチを忘れずに。

 それから、白いマットのジャングルの上で僕の隣に立つ。

 

「降りてこないね……」

「まあ、さすがに警戒されているさ。でもね、あいつらを確実に下ろす方法があるんだ」

「そんなものがあるんだ」

「ああ。今からその方法を実践するから、ボクがいいと言うまで動かないでくれよ」

「ん?」

 

 すると、何を考えているのか、御子内さんは僕の前に回って、青いツナギのファスナーをジーと下ろした。

 

「ちょっと待って! 何をするんだ!?」

「いいから黙って動かない!」

「動くに決まっているだろ!」

「京一、ボクを信じろ!」

「信じろって……いつでも君を信じてはいるけどさ……いくらなんでも……」

「うるさいな。悪いようにはしないから黙って言いなりになってくれ」

 

 弱みに付け込まれているかのように、仕方なくされるがままになった僕に対して、御子内さんはもっとハレンチなことをし始めた。

 なんとファスナーを下ろしただけでは飽き足らず、肩を剥き出しにして、ツナギを脱がし始めたのだ。

 しかも、腕が邪魔だと見るや否や、

 

「ほら、手を伸ばして。でないと、袖が抜けないだろ」

「ちょっと待ってよ。どうして、いきなり僕を脱がそうとするのさ!」

「別にとって喰いやしないから安心しなよ。ツナギはね、邪魔だから脱がせているだけなんだから」

「そんなこと言っても……」

「さ、ツナギは終わった。次はシャツだ」

 

 御子内さんが今度は僕のシャツのボタンを一つ一つ外し始める。

 物心ついて以来、誰かに服のボタンを外されるなんて経験したことがない。

 さらに言えば、相手が絶世の美少女で、手を伸ばしたら抱きしめられるほど至近距離なんてことも。

 思わず御子内さんを抱きしめたくなる衝動に駆られる。

 だが、視線は彼女にではなく、頭上で旋回する羽根の付いた人型に釘付けのままだ。

 太陽からの逆光で黒く影となって、細かいところまでは見えないが、間違いなくあれは〈天狗〉だろう。

 つい最近赤ん坊を攫ったという、邪悪な妖怪だ。

 視線を外せるはずがない。

 

「よし、これでいいか」

「へっ?」

 

 気がついたら、僕は上半身を裸にされていた。

 リングの設置という重労働をするようになってうっすらと筋肉がついてきたとはいえ、あまり日に焼けてもいない自慢できない裸に。

 

「な、なにをするのさ!!」

「さあ、これを見ろ! 〈天狗〉め!! おまえたちが好きな若い男の肌だぞ!! とんと味わえ!!」

「ちょっっっっっとぉぉぉぉ!!」

 

 必死の抗議をまるっきり歯牙にもかけず、僕を羽交い絞めして空に見せつけるように、御子内さんが叫ぶ。

 何をするつもりなんだ!

 と思った瞬間、上空から恐ろしい勢いで〈天狗〉が降ってきた。

 血走った眼に獰猛な何かが光っていた。

 欲情したものの淫蕩な輝きだった。

 それだけで僕は理解する。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 さっき、御子内さんが言っていたじゃないか。

 

「〈天狗〉には衆道との結びつきが認められている」

 

 と。

 つまり、御子内さんは若い少年である僕の裸を餌にして、このリングに妖怪を引っ張り込もうとしているのだ!

 

「マジかあああああああ!!」

 

 あまりの急降下のせいか、一瞬でまさに鼻づらまで接近してきた〈天狗〉が、そのまま僕に抱き付こうとした時、

 

「でやあああああ!」

 

 僕を抱えたまま、反転した御子内さんの回し蹴りが妖怪の横っ面に命中した。

 回転してリングのマットに転げ落ちていく〈天狗〉。

 さすがの威力である。

 そして、〈天狗〉が完全に態勢を整える前に、御子内さんはリングの脇に置いてあった銅のゴングを大きく鳴らした。

 

 カーーーーーン!

 

 リングに結界を張る術式の効力発生のための鐘の音が鳴り響いた。

 もうこの〈結界台〉から、あの好色で男色な〈天狗〉は逃げられない。

 立ち塞がる最強の巫女を倒すまでは。

 

「さあ、無制限一本勝負の始まりだ!」

 

 慌てて上半身裸のまま、僕はリングから飛び降りて逃げ出した。

 御子内或子(みこないあるこ)の―――巫女レスラーの邪魔にならないように。

 

 



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飛べない巫女はただの巫女だ

 

 

 楕円形の眼窩と白目がぎょろりと睨んでいた。

 ボロキレのようなコートを着込み、裂け目から覗く皮膚はカブトムシの外郭のように黒く艶々として頬骨が前に出ているせいで鼻が突き出て見える。

 散り散りになった水気のない髪も眉もない頭部は無残な印象を与えた。

 唇のない口腔には一本の歯も見当たらなかった。何よりもリングを下りてまでも鼻につくすえた汗の臭いが不愉快極まりなかった。

 

「あれが〈天狗〉なのか」

 

 コートの下には、空を飛ぶための巨大で捩子くれた羽根がついていた。

 しかも、その端々に気持ちの悪いことにところどころ抜け落ちて、古い櫛のように歯がかけているというのに、飛ぶことに影響がなさそうなのが不思議だった。

 今までに何度も見てきた妖怪たちの物理法則を無視したような見た目。

 さすがはこの世の(ことわり)から外れた連中だよね。

〈天狗〉は羽搏いて飛び立とうとしたが、三メートルほど浮かび上がったところで急に減速し、真綿が地面に落ちるようにゆっくりとリングに戻ってしまう。

 三回ほど同じことを挑戦したが、それでも〈天狗〉は自分の属する場所に帰還することは叶わず、リングから出ることはできなかった。

〈結界台〉の妖怪を閉じ込める効力は今回も健在だ。

 

「……でも、確かに強敵かもしれない」

 

 リングから逃げ出そうとした〈天狗〉の跳躍力は異常だった。

 ほんのわずかに膝をたわめただけで、三メートル以上跳びあがるのだから。

 参考までにいうと、棒高跳びの世界記録は六メートル越え、走高跳が二メートル四十五センチ。

 ただの人間ではたどり着けない領域に、()()()()()()()()()のだ。

 あれと正面からやりあうのは、いかに万夫不当の御子内さんでも荷が重いかもしれない。

 

「御子内さん!」

「とにかくやってみるさ。ちょっとした異種格闘だね」

 

 ……あなたのやっていることは、毎回異種族格闘ですけどね。

 

「もうゴングはなっている。勝負だ、〈天狗〉」

 

 まず仕掛けたのは御子内さん。

 サイコロを振ってイニシアチブをとったのだろう。

 滑るように前進して、右のローキックを放った。

 鎌のような一撃が唸りをあげて、〈天狗〉の太ももを捉える。

 古武術にはローキックというものはなく、近代になって取り入れられたものだという。

 それは何故かというと、ローキックという相手の下半身を攻撃し、または上下のコンビネーションを使い、ガードを下げさせるという技術は、実戦においては迂遠だということであるからだ。

 命のかかった場所においては、悠長に脚なんぞ攻めている場合があるのなら、一撃で仕留められる急所の顔か胴体を狙うべきなのである。

 競技または武道としての格技ならばともかく、戦場往来の古武術においては何かしらの強い理由がない限り採用されるはずがない。

 だから、実戦においてローキックは使われない。

 実戦では。

 しかし、この戦いは殺し合いではない。

 御子内さんがどう考えているかは知らないが、()()()()()()()()()()

 つまり、鍛え抜かれた下段攻撃は無限の力を発揮する。

 

『ぐええ!!』

 

〈天狗〉が叫んだ。

 巫女レスラーのローは鎌のように鋭く、斧のごとく敵の脚を痛めつける。

 ただの一撃で〈天狗〉の腰が下がった。

 そして、お約束のコンビネーション。

 左フックからの右の連打、そのまま掌の堅い部分を左胸に踏み込みと共に打ち込む。

 敵の皮膚の硬度が分からない段階での本気は拳を痛めるということもあり、御子内さんが序盤によく使う手だ。

 手の甲の部分は白魚の繊手のようだというのに、彼女の掌がごつくて硬いのはそのためだ。

 一応、女の子であるけれど、その堅い掌底を彼女はいつも誇りに思っているらしい。

 

「戦う者のきれいな手だ」

 

 と、言ってみたらなんか喜んでくれた。

 変な男に騙されないか心配になる。

 

『ぎゃあああああ!』

 

 ロープ際に追い詰められた〈天狗〉は一羽搏きすると、ふわりとトップロープ、それからコーナーポストに立った。

 距離をとる必要性を感じたのだろう。

 黒目のない双眸が御子内さんを睨みつける。

 逃げられないことを悟り、御子内さんという相手が一筋縄ではいかない相手であることを理解したのだろう。

 妖怪たちはほとんどの場合は本能で動く。

 敵と見定めたものには簡単に牙を剥く。

 人間のような躊躇はしない。

 ここにいたってようやく対峙する一人と一体の意識のベクトルは一致した。

 

「御子内さん、来るよ!」

「わかっている!」

 

 青いコーナーポストから、〈天狗〉が跳んだ。

 いや、舞った、という方が精確か。

 人のように無様なジャンプではなく、緩やかな孤を描き、まさに鳥のようだった。

 迎撃しようとフライングニールキックを放った御子内さんだったが、完全に目測を誤っていた。

 見事なぐらいにスカッた。

 あんなに大振りになってしまっては当たるものも当たらない。

 そのまま、マットに着地した御子内さんの背後から〈天狗〉が襲い掛かる。

 

「ちぃ!」

 

 無理な体勢で、力も籠ってはいなかったが、振り向きざまに跳びあがり、得意のローリングソバットを撃つ。

 だが、蹴りの大技二つはまったく敵を捉えることもできない。

 気がついた時には、〈天狗〉はさっきまでとは反対側のコーナーポストに立ち尽くしていた。

 速い上に、身軽だ。

 しかも、御子内さんの動きが見切られている感もある。

 確かにこいつは強敵かもしれない。

 御子内さんの得意とする土俵には絶対に上がってこないだろうということもわかる。

 ということは、彼女の方から踏み込まなければならない。

 空を飛ぶ妖怪の世界―――空中戦の舞台へと。

 

「レッグトマホークの方が良かったかな。でも、ボクはブリッツボールが使えないから仕方ないか……」

「御子内さん! 飢狼伝説じゃないから!」

「わかっているよ! ちょっとした諧謔だよ!」

 

 意外と余裕があるのは結構なんだけど、相性が悪いというのは僕にさえわかる。

 こうなると、下手をしたらジリ貧だ。

 

 ピピピピピピ……

 

 電子音に驚くと、さっきまで御子内さんが食べていたお弁当の脇の携帯電話が鳴っていた。

 今どき珍しいガラケーだ。

 いや、ただのガラケーじゃない。

 お年寄り向けのラクラクフォンだ。

 あと、ついている格闘ゲームキャラのストラップからすると、間違いなくこれは御子内さんの私物だろう。

 悪いとは思ったが、発信相手を見てしまった。

神宮女(じんぐうめ) 音子《おとこ》』

 と、ある。

 スマホと違ってプロフィール画像がないから、どういう関係なのかわからない。

 だが、僕の勘が電話に出るべきだと告げていた。

 しかし、真剣勝負の最中の御子内さんを煩わす訳にはいかないし……。

 どうすればいい?

 

「ええい、ままよ。―――もしもし!」

『……』

「どなたかはわかりませんが、御子内は今のところ手が離せません。あと、僕は御子内の助手です!」

『……』

「すいません! 聞こえていますか!?」

 

 相手は通話を切ることはしないが、何かを話すということもしない。

 いったい何のために電話してきたのか。

 この状況下でイタズラ電話なんてあってたまるか?

 

「―――京一、その電話は音子からかい!?」

 

 リングの上で飛び回る〈天狗〉相手に死闘を繰り広げている御子内さんが叫んできた。

 

「うん、神宮女音子さんって人だよ!」

「よし」

「……でも、通話ができないんだ、電波が悪いのかもしれない!」

 

 だが、返ってきたのは別の理由だった。

 

「違う。音子は無口なんだよ。携帯電話を持っても話さないだけなんだ。君の言葉はきちんと通じているはずだ」

「なんだって?」

 

 電話して来たのに会話しないってどういうことさ。

 

「メールで連絡してくれ! そっちの方が早い!」

「わかった。それでどうすればいい?」

「おそらくこの近くまで来ているはずなんだ! だから、音子をここに連れてきてくれ! 彼女ならば、こいつに勝てる!」

 

 リング上ではほとんどコーナーポストとトップロープを撥ね回る相手に対して、御子内さんが翻弄され続けていた。

 神宮女という人はたぶん巫女なんだろうけど、あと、あの〈天狗〉にどうやって勝つのかはわからないけど、これはいつもの通りでいこう。

 僕は御子内さんを信じるだけだ。

 

 他人のガラケーを弄ることには抵抗あるけど、緊急事態だ。

 言われた通りにメールを開くと、なんと受信が未読で埋まっていた。

 しかもすべて同じ人―――神宮女さんからの神宮女だった。

 あと、こういっては何だけど、もう少し頻繁にメール機能を使おうよ、御子内さん。

 絶対、この人、ほとんどメールに目を通してないよね。

 

「えっと……直近のメールだと。うっ『ねえ、どうしたのアルっち。さっきから電話してもメールだしても返事してくんないし。もしかして、あたしのこと嫌いになった? えーん、えーん、イジワルぅ。嘘ぴょーん。だって、あたしたち毎日がクライマックスで戦わなきゃ生き残れないんだもんね。同志同志、赤の広場wwww。あ、言い忘れてたけど、表題見ればわかるかあ、駅に着いたよ。アルっちたちが〈護摩台〉用意しているところの傍。でも、場所がわかんなーい。お願いだから迎えに来てえ。ひゃっほーコンビニがあるよ! 肉まん肉まん食べたいな。朝から晩までピザまんだあ~♪―――』……」

 

 目が丸くなる。

 一回のメールの量にしてはとんでもない文字数ばかりだったからだ。

 無口なのはいいけど、あれか、ネットワークの中では饒舌になる感じか、神宮女という巫女さんは。

 内容は意味わかんないし。

 とにかく最寄りの駅にいるらしいことはわかった。

 きっと彼女たちをサポートする社務所から連絡があったのだろう。

 なんだかんだいっても助けに来てくれていたのだ。

 よし、これで助かるかもしれない。

 

「御子内さん、すぐに連れてくるから待ってて! それまで粘って!」

「頼んだよ、相棒!」

 

 僕は彼女の言葉に力づけられて、駅に向かって走り出した。

 相棒と呼んでくれた彼女のためにも、絶対に救援を連れてこないと。

 かつてないほどの全速力で僕は走った。

 駅までの道は覚えている。

 だが、駅に向かうよりも僕はコンビニを目指した。

 きっとそっちに、神宮女音子はいる。

 今日の僕の勘は絶好調なのだ。

 

 何百メートルかを疾走し、僕が記憶にあるコンビニに辿り着いた時、お目当ての人間の存在にすぐ気がついた。

 そりゃあ、御子内さん以外に巫女装束をまとった女の子なんて滅多にいないけれど、百パーセントの確率で絶対に間違えるはずのない相手と断言できたね。

 さっきの〈天狗〉を彷彿とさせる、何故か白いガードレールの上に直立不動で陣取った雄々しい姿は、巫女装束とあいまって目立つなんてものじゃないし。

 でも、それよりもなによりも、もっとはっきりとした特徴にあふれていたのだ。

 

 彼女は―――なんと―――

 

 ラメ入りの生地で造られ、目と口の部分にメッシュ素材を使用した「覆面」をつけていたのである……。

 

 

 



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二人目の巫女レスラー

 

 

 ガードレールの上に直立し、肉まんを食べる覆面の巫女。

 

 絵面としては文句のつけようがないぐらいに酷い。

 コンビニの中から店員と他のお客さんがガチ見しているのが横目でもわかる。

 正直なところ、彼女に話しかけるということはかなり勇気のいる行動だった。

 しかし、たった今も戦っている御子内さんのためには、あえて火中の栗(そういうしか仕方ないでしょ)を拾うしかない。

 

「えっと、神宮女音子(じんぐうめおとこ)さん。迎えに来ました」

 

 覆面巫女は紙袋の中から今度はカレーまんらしいやや山吹色の饅頭をとりだしてかぶりついた。

 それでも視線は僕に向いている。

 綺麗な切れ長の眼をした女性だった。

 スタイルもいいし、おそらくはかなりの美人なのだろう。

 ただし、当然のことだか素顔はわからない。

 後頭部で紐で絞められたらしい覆面の隙間から飛び出たポニーテールといい、快活な運動少女っぽい。

 間違いなくわかるのは、御子内さん同様のイロモノではあるが、相当な実力者であるということだ。

 

「僕は、御子内さんの助手をしているものです。お願いします、ついてきてください。今、御子内さんが妖怪と戦っているんです!」

 

 すると、覆面巫女の神宮女さんはガードレールから降りると、僕に紙袋を押し付けた。

 手に持った感触からすると、まだ入っているらしい。

 それから、左手のカレーまんをむしゃむしゃ食べながら、ガラケーを取り出して凄まじい勢いでメールを片手で打ち始めた。

 すぐに僕のポケットにあった御子内さんのものに着信が入る。

 まさかと思って慌てて見てみると、神宮女さんからのメールを受信していた。

 ポチる。

 そこには、

 

『どーもー、初めまして! あ・た・し、退魔巫女の神宮女音子でーす! ぶいぶい! ぎゃるるるん! あなたがアルっちの専属設営担当の人? すっごーい、ホントに男の子なんだ! きゃー、もってもてだね、あの子。もってもてだね。大事なことなので二度言いました! ちなみにー、あたしにはまだまだそういうステディはいないんだあ。シクシク、かなしー。マンモスかなP!』

 

 凄まじく名状し難い内容が記されていた。

 思わず脱力してしまう。

 この内容を口頭で聞くのも遠慮願いたいところだが、文章で読むのも正直しんどい。

 

「えっと、神宮女さん? 普通に会話してもらえませんか?」

 

 最低限度の挨拶ぐらいは口で行おうよ。

 オーラル・コミュニケーションは人間関係の基本なのだから。

 そうしたら、神宮女さんは一言。

 

「音子」

「はい?」

「呼称、音子」

 

 と存外可愛らしい声で音節を区切るように喋った。

 それ以外は喋ろうともせず、カレーまんを食べている。

 

(ああ、そういうタイプなのか)

 

 これは相手の望んでいるものを察して相手をしなければならない物件であると僕は見当をつける。

 つまり極端に無口というだけでなくて、諸々の事情をこっちが推測して解釈しながら付き合わなくてはならない面倒くさいタイプだということだ。

 御子内さんも実のところこの部類に入る。

 話を聞かないし、常識が枯渇してるし、ツッコミどころが満載という点で。

 まったく退魔巫女という人種は……。

 そこで、僕は神宮女さんの性格とさっきまでの会話内容を反芻し、結論を出した。

 

「はい、音子さんと呼べばいいんですね。じゃあ、僕のことは京一でお願いします。ちなみに御子内さん以外の巫女さんにはお会いしたことがないので無知なことが多いのは勘弁してくださいね」

「……グラシアス」

「じゃあ、御子内さんのところに急いで向かいましょう。実はもう試合が始まっているんです」

「……ウン モメント」

「はい?」

 

 何かを言いたいらしいことはわかるが、それよりも袖を引っ張られたのでだいたい想像がついた。

 僕を引き留めようとしているのだ。

 この切羽詰った状況でなんのつもりだろう。

 

「―――説明」

 

 なるほど、そういうことか。

 御子内さんと一緒だ。

 事に応じて臨機応変という出鱈目さは彼女たちにはない。

 常にできる限り情報収集を行い、できたら相手のことを研究し尽くしてから、それから試合に臨むという退魔巫女の性質なのだろう。

 だが、もうすでに御子内さんの戦いは始まっているので、悠長に立ち話をしている余裕はない。

 僕は片手に饅頭の入った紙袋、片手に音子さんの手を握って早走りをはじめた。

 

「あ、ちょっと待っ……違う―――ウン モメント!」

 

 なんで言い直したのかはわからないが、悪いけどつきあってあげられる時間はないんだ。

 僕には御子内さんを助けるという正義があるのだから。

 

「普段の音子さんとはメールを介した方がいいみたいだけど、今回は後回しにさせてもらうね。ごめん、君を蔑ろにするつもりはないけど、さすがにマズイ状況なんだよ。わかってもらえたら嬉しい」

「……テ ペルドノ」

 

 覆面のせいで表情はわからないが理解してくれたらしい。

 僕が力を入れないでも手を握ったままついてきてくれた。

 ただ、片手はガラケーを放さない。

 普段から相当依存しているのだろうな。

 しかし、退魔巫女で、覆面をしていて、無口で、たまに口を開けばよくわからない単語を口走るだけで、しかもメール依存って、五翻もあれば満貫だね。いや、美人の可能性も高いからそうしたら、六翻で跳満か。

 まったく属性を足しまくればいいってもんじゃないぞ。

 御子内さんだって、可愛くてボクっ子で退魔巫女でプロレスで満貫程度なのに。

 

「えっと改めて説明するとね……」

「ポル ファボール」

「ごめん。日本語でお願い」

「……どうぞって意味」

 

 素直な性格らしいということはわかった。

 メールだと訳わからないが、素面だと案外いい子のようだ。

 

「退治する妖怪は〈天狗〉。御子内さんの説明だと、赤ん坊を攫って行く連中だということ。戦い方は僕が見ていた限り、トップロープやコーナーポストの上を飛び跳ねて隙をついてくる感じ。御子内さんは、いつもみたいにカウンターを合わせられずに苦戦していた。多分、今でも対応できていないと思う。そこで君が必要になったみたい」

「……」

「ちなみに〈天狗〉を〈結界台〉―――〈護摩台〉に降ろした方法は言わない」

「……」

 

 すると、またメールが受信された。

 今度の内容は「剥かれたんだ~?」とかいう舐めたものが。

 この子、僕が何をされたかわかってこんな意地悪をしてくるのか。

 

「放っておいて。尊い犠牲なんだからさ」

「……」

「ホント、無口なんだね。このぐらい口で言ってくれればいいのに。まあ、いいや。で、少し疑問なんだけど、音子さんはどうやって〈天狗〉と戦うの? 飛び道具でも用意しているの?」

 

 見たところ、音子さんもリングシューズ(もう慣れた)を履いているし、巫女装束もほとんど御子内さんと同じ様式だ。

 つまり、この子もやはり巫女レスラーなのは確かだ。

 そして、この覆面の意味は……。

 

「……ルチャリブレ」

「へっ? もしかして、それって」

「あたし、ルチャドーラだから……」

 

 ルチャリブレって、メキシカンスタイルのプロレスのことだったよね。

 で、ルチャドーラは女のレスラーのこと。

 僕の記憶が間違ってなければ、ただのプロレスよりも軽快で機敏な動きを信条にした、独特の戦いを持ったスタイルのはずだ。

 空中殺法のイメージが強いのは、ロープを使って頻繁に飛び回るからと、あの有名な仮面貴族のおかげだろう。

 なるほど空中殺法が得意というのならば、あの〈天狗〉とも互角にやりあえる……

 

(―――って、そんな馬鹿な話があるかあああ!!!!)

 

 百歩譲って、御子内さんのレスリングスタイルの退魔方法は認めてもいい。

 実際、よくわかんないけど妖怪退治はしているし、設定は意味不明だけどリングにも呪術的な効力があるから。

 理には適っている。

 でも、次にやってきたのが空中殺法を得意とする覆面の巫女って、なんなんだ!

 そんな馬鹿な話があってたまるものか!

 御子内さんもプロレスラー説を鼻で笑い飛ばしていたというのに、今度はルチャリブレの退魔巫女がくるなんておかしいだろ!

 なんだ、次にくるのは()()()()()()か、()()()()か?

 何でも来いってんだ!

 

「……でも、君なら御子内さんを助けられるんだね?」

 

 だが、そんなものに一々ツッコミをいれている場合じゃあない。

 御子内さんはこの瞬間も命がけで戦っているのだ。

 孤軍奮闘で手ごわい妖怪相手に戦っている彼女を見捨てるなんてことは、死んだってできやしない。

 あの可愛くて凛々しい女の子を助けなければ。

 

「……」

 

 相変わらず無言のまま音子さんは頷く。

 覆面からくり貫かれた穴からは鋭い闘士の眼光が輝いていた。

 

 よし、信じる。

 

 御子内さんを信じるように、この子も信じる。

 

 僕は巫女レスラーたちを誰よりも信じて手伝う。

 

「他に訊きたいことはある? 〈天狗〉について?」

 

 ぷるぷると首を横に振る。

 おそらく〈天狗〉とは何度も戦ってきただろう彼女にこんなことを聞くのは野暮なのかもしれない。

 

「じゃあ急ごう。ついてきて!」

 

 僕は走り出した。

 音子さんもついてきてくれる。

 もうやるべきことはやった。

 後は御子内さんを救わないと。

 ただ、少しだけ気になることがあったので、耐えられずに口にしてしまった。

 

「さっきから話しているのはメキシコだから―――スペイン語?」

「……(こくこく)」

「もしかしてメキシコ出身なの?」

「……(ぶんぶん)」

「そうなんだ。てっきりメキシコに縁があるもんだと……」

 

 すると、音子さんは僕の手を握って、

 

「メキシコは治安が危ないので絶対に行っちゃ駄目。マフィアがたくさんいて物騒。とても怖いところ」

 

 と、メキシカン無口キャラの癖に身も蓋もないことを力説するのであった……。

 

 

 



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スカイ・ハイ

 

 僕たちが急いでリングのある畑に戻ったとき、その上で戦う御子内さんは満身創痍の状態だった。

 怪我こそしていないが、肩で荒い息を吐き、ロープに寄りかかりながらなんとか〈天狗〉の猛攻をしのいでいるというところだった。

 だが、一方的にやられていたというわけではなさそうだ。

 なぜなら、さっき同様にコーナーポストに立っている〈天狗〉の側も疲れているように見えたから。

 その理由はすぐに判明した。

〈天狗〉は相変わらずリングの制空権を支配していたが、攻撃そのものはそれほど複雑なものではない。

 コーナーポストとトップロープの上を単調に撥ね回り、御子内さんの隙をみつけては蹴りを入れたりひっかいたりするだけだ。

 つまり、攻撃にアイデアがない。

 多くの妖怪退治の場数をこなしてきた御子内さんと違い、戦いのためのイマジナリティーを持っていないのだろう。

 つまり単調で意外性のない攻撃だけならば、どれほど驚異的な跳躍力と機動力を持っていたとしてもおのずと限界はでてくる。

 もっとも、凌ぐだけならばともかく、それを逆手にとって攻めることは難しい。

 制空権という大きなものを完全に握られているのだから。

 しかし、不屈の闘志を持つ我らが巫女レスラーがたかがその程度で諦めるはずもない。

 御子内さんは空飛ぶ敵からの致命的な攻撃を避けながらも、反撃の機会を窺っていたようだった。

〈天狗〉が飛び、御子内さんのつむじ目掛けて爪を尖らせた瞬間、彼女はパッとマットに伏せて、身をねじる。

 そのまま無理な体勢ではあるが、オーバーヘッドキックのように右足を撥ね上げる。

 美しい孤を描く虹のごとき回し蹴り。

 本来ならば、それでノックアウトさせられるかもしれないぐらい腰の入ったものだったが、なんと〈天狗〉は頭上でロープを掴むことで謎の回転をし、躱しきった。

 

「マジか!」

 

 あの羽根の神通力か。

 一部の鳥には障害物をよけるための生体センサーとも呼べるべきものがついているというが、あの〈天狗〉もそれを備えているようだった。

 あれほどの渾身の回し蹴りを避けるとは……。

 もっとも、驚くべきは御子内さんの方かもしれない。

 相性の悪い、しかもこれほどの敵を前にして、音子さんという援軍を待つために時間稼ぎをしているように見えて、実のところは一発逆転を狙い続けているのだから。

 彼女が肩で息をしているのは、あの大技を何度も繰り返しているからのはずだ。

 しかも、〈天狗〉の圧倒的な空中攻撃を必死に掻い潜りながらという、奇跡的な集中力をもってして。

 さすがは僕の御子内さんだ。

 絶対に容易く屈したりはしない。

 

「……アルっち」

 

 音子さんが声を発した。

 いかに無口な彼女と言えど、友達のあの戦いぶりに思わず呼びかけずにはいられなかったのだろう。

 リングで激闘中の彼女には届かなかったが。

 

「音子さん。良かった、間に合ったね」

「……シィ」

 

 空飛ぶ妖怪相手には、ルチャリブレをスタイルとする音子さんはかなり相性がいいという話だから、これで助かる。

 ただ一つだけ問題があった。

 

「でもさ、少し聞きたいんだけど……。試合―――退魔の最中に巫女を交代するってのはいいの?」

 

 どことなくルール上駄目な気がする。

 一応、これが妖怪退治のための戦いというのならばルールなんて無用なんだし、別にアテナの聖闘士でもないから一対一であることもいらないはずだ。

 でも、ここまで散々引っ張ってきたこのプロレスみたいな様式に従うと、当事者を交代することは違反なんじゃないだろうか。

 いや、ルールがあるとしてだよ。

 ところが、音子さんは……

 

「……ノ」

 

 と首を振った。

 YesかNoでいったら、たぶんノーという意味だろう。

 

「え、どうして駄目なの?」

「儀式中の巫女の交代はフェアじゃない」

「……そうくると思った。ちなみに理由はフェアかそうでないかだけなのかな?」

「……?」

 

 心底不思議そうだよ。

 なんなんだ、この謎空間は。

 しかし、そうなるとせっかく音子さんを連れてきたというのに、御子内さんの苦境を救えないじゃないか。

 でも、彼女を連れてくるように僕に頼んだのは彼女だし、何かしらの意図はあったはずなんだけど……。

 

「京一! 音子!」

 

 御子内さんが僕たちに気がついたようだ。

 

「御子内さん、助けを連れてきたよ!」

「ありがとう、さすがはボクの相棒だ!」

「うん、それはいいんだけど、これからどうすればいいんだよ! 試合中の巫女の交代はできないんだろ!?」

 

 だが、そんな僕の疑問を無視し、御子内さんはこちらに手を伸ばした。

 背中を向けられたことを好機とみたのか、その背後に〈天狗〉が忍び寄る。

 ガッ!

 御子内さんが吹き飛んで、ロープに顔面から叩き付けられる。

 

「アルっち!」

 

 音子さんがリングの脇に駆け寄った。

 一方の御子内さんは、マットに降り立った〈天狗〉のストンピングの猛打を受けている。

 空を自在に飛翔するために痩せていて細い〈天狗〉ではあるが、大きさとしては女の子よりは大きい。

 そんな大人の踏みつけの嵐に丸くなりながら御子内さんは堪えていた。

 あの御子内さんがこんなにやられ放題になるなんて。

 くそ。

 僕も思わず走り寄った。

 手にはゴングを握っていた。

 あの〈ぬりかべ〉のときの女子高生たちのように、乱入してでも〈天狗〉を止めてやる。

 リングに上がろうとしたとき、僕は気がついた。

 御子内さんがこちらを見て、攻撃に耐え忍びながら、手を差し伸べているのを。

 その細くて白い手はリングの外に突き出されていた。

 

「こい!」

 

 と。

 音子さんがその手を握る。

 次の瞬間、覆面の巫女レスラーが飛翔した。

 リングの中へ。

 友を苛む敵を目掛けて。

 両手を目の前で交差させたフライング・クロス・チョップと共に。

 御子内さんに集中しすぎていたのか、〈天狗〉はもろにその攻撃を喰らいはじけ飛んだ。

 よたよたと反対側にまで後じさり、〈天狗〉が顔を上げたとき、奴の目の前には敵はいなかった。

 いや、いた。

 さっきまでとは居場所が逆転したかのように、マットに立ち尽くす〈天狗〉を見下ろして、コーナーポスト上から睥睨しながら。

 雄々しく、凛々しい、覆面の巫女レスラー。

 彼女は空を支配するのはおまえではなく、この私だとでも宣言するかのように、すっくと立って太陽のごとく君臨していた。

 

 チャン―――チャカチャカチャン―――チャーーーンチャチャチャチャチャン♪

 ぶぉーらんずあわーーーー♪

 

 いきなり聞き覚えのある曲が鳴り始めた。

 そちらを見ると、リングから転がり落ちてきた御子内さんが手に携帯電話を握りしめていて、そこからスピーカーモードで流れているものらしい。

 誰かが代打でやってきそうな音楽だったが、これはまさか……

 

「ジグソーのスカイ・ハイだね」

「え?」

「音子はこの曲が掛かると最初から全開だよ。著作権的にも大丈夫だろうしね」

「そんなことは聞いてないけど……」

 

 しかし、リング上の音子さんは確かにノリノリに見えないこともない。

 どうやら完全に彼女たちの交代は成功したらしい。

 でも……

 

「試合中の選手の入れ替わりは反則じゃないの?」

 

 これだけはどうしても聞いておかなければならない疑問をぶつけてみた。

 今までも色々あったけど、さすがにこれぐらいは説明をしてもらわないと納得できない。

 タッグマッチでもないのにタッチしただけでいいというのは、ちょっとどうかな。

 

「そうだよ」

 

 あっさり肯定された。

 

「じゃあ、どうして音子さんはあそこに……」

「あれはタッチじゃない」

「……じゃない?」

「友情の握手(シェイクハンド)だよ」

「―――どう違うの?」

「孤軍奮闘する友と駆けつけた仲間による握手はどんな逆境をも貫くんだ。それを友情の握手(シェイクハンド)という!」

 

 ―――ああ、そういうこと。

 結構正義の名のもとに友情パワーとかで物事を解決していた正義の超人たちがよくやっていたよね。

 意外とルール破っていたのは悪じゃない超人だったし。

 その理論なんだ。

 

「うん。わかった。これ以上はツッコまない」

「何をツッコむというんだい?」

「なんにせよ、君が無事で良かった。御子内さん、怪我はない?」

「……多少の打ち身はあるがそれほどではないよ。心配かけたかな」

「ううん。僕は御子内さんを信じているから」

「そうかい。ふふ、嬉しいよ」

 

 そうやって僕たちがリングの脇で語り合っていると、ついにしびれを切らしたのか、〈天狗〉が跳びあがり、音子さんとは反対側のコーナーポストに着地する。

「スカイ・ハイ」も止んだ。

 戦いのためのテンションは完全にメーターを振り切る。

 ついに、これから、僕がお目にかかったことのない空中戦が始まろうとしていた。

 

 想像を絶する空中の魔戦が!

 

 

 



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神宮女音子

 

 

 おそらく〈天狗〉は見下ろされることに慣れていない。

 それがコーナーポストから音子さんによって見下ろされたというのは、かなり屈辱だったのか、唇のない不気味な顔が怒気のようなものを孕んだ。

 さっきまでの御子内さんに対する物とは明らかに異なる。

 獲物を嬲る猛禽類のイメージはなくなっていた。

 対する音子さんは無言。

 ただ腕組みをしてコーナーポストで風に吹かれている。

 しかし、改めて思うに、女の子なんだか男なんだかわからない音の名前だよね。

 

「―――どう思う?」

 

 ふと御子内さんが聞いてきた。

 抽象的な質問だったけど、おおよその意味はわかった。

 

「様子変わったね。御子内さんを相手にしているときとは緊張感が違う」

「そうだ。あいつは、音子が自分の天敵であることを悟ったんだ。だから、さっきまでの油断を止めた。多分、今の状態だとボクの奇襲はかすることもないだろう」

「わかるものなの、そういうの?」

「年を経た妖怪とはそういうものさ」

 

 そんなことはないと思うけど、〈天狗〉が本気になったことだけは疑いようがない。

 所詮は本能で生きる妖怪というべきか、対峙する緊張に耐えられなくなったのか、それとも血に飢えたのか、〈天狗〉は跳びあがった。

 高い。

 結界に拒まれるほんのギリギリまで跳びあがり、翼で羽ばたくと、急降下をする。

 だが、さっきまでとはコーナーポストの分だけ高さがたりず、なおかつ、そこにいたのは百戦錬磨のルチャドーラ。 

 音子さんはすぅと身体をずらして、なんとロープの上を滑るように動いた。

 リングを設営しロープを張ったのは僕だが、そんな風に人が歩けるとは思えない。

 しかし、綱渡りの技術を持つものならできなくはないかも。

 さすがに自爆することはなかったが、〈天狗〉は空中で静止できず、無人のコーナーポストに降りたたざるを得なかった。

 そこを突いた。

 

「……!」

 

 ロープの反動を利用し、無言のまま放たれるドロップキック。

 御子内さんのものよりもしなりが強く、滞空時間も長かった。

 

『ぎゃあああ!』

 

 胸元を蹴り飛ばされ、〈天狗〉はマットに落ちる。

 その隙を見逃す音子さんではなかった。

 素早く体勢を整えて追跡し、〈天狗〉の首を両足で挟むと、そのまま両手を振り勢いをつけて投げ飛ばした。

 速い上に躱せないように死角から挟み込んでくる。

 あれをもし生足の太ももでやられたりしたら死んでもいいかもと考えてしまう程に流れるような動きだった。

 ヘッド・シザーズ・ホイップという技だが、御子内さんのフランケンシュタイナーはこれの派生技なのだろうか。

 

「見ていろよ。ルチャリブレの神髄は空中殺法に非ずだからね」

 

 音子さんは倒した〈天狗〉に擦り寄ると、そのまま寝技のように背中を押さえ、ギリギリと締め上げた。

 翼という邪魔なものがあるにもかかわらず、それを苦にもしない身体の捌き方だ。

 華麗なジャンプ技とは違い、震えあがるような地味な極め技である。

 

「ジャベさ」

「……なにそれ?」

「わが国ではメキシカンストレッチと呼ばれる関節技のこと。サブミッションと呼ぶに相応しいえぐいテクニックだね」

「確かに御子内さんとは戦い方が違う」

「ボクも正統派そのものではない、総合格闘技スタイルだけどね。ルチャリブレの巫女たちはもっと違うのさ」

 

 すると、今度は腕を掴んでさらにとびついて足で挟み込むと、そのままもう一度投げつける。

 

「あれはティヘラ。さっきのヘッド・シザーズ・ホイップと同様にルチャの投げ技だよ。あれを何度もやられると三半規管がマヒしてくる。とても危険なんだ」

 

 今日の御子内さんは富樫と虎丸のようだ。

 

「すべての技が有機的に連携しているように見えるね。あれが音子さんの戦い方なんだ?」

「ああ、空を飛ぶ妖怪にはとても効果的だ。飛び回っても撃墜され、地を這いずり回っているところを極められ、投げられる」

 

 その通りに〈天狗〉の動きは精彩を欠き始めた。

 御子内さんの蹂躙する武者のごとき堅実な歩みとは違い、一歩一歩痛めつけていく独特のリズムに沿った戦い。

 何度も投げられ、極められて、なんとかその疾風のような(かいな)を潜り抜けて、どうにか自分の場所であるコーナーポストに逃げ延びた〈天狗〉は上半身がフラフラしていた。

 連戦の疲れというよりも、あまりに的確に攻めてくる音子さんに歯が立たないといった感じさえあった。

 まさか、これほどまでにあの〈天狗〉を翻弄するとは。

 

「空を飛ばれる、というのは結局のところかなりのハンデ戦になる。でも、それに対抗するために先人の巫女たちが追及して研鑽して到達したのが、あのルチャリブレなんだ」

「すごい……。あれが音子さんの努力の結晶なのか」

「―――でも、ボクだってあのままチャンスを窺っていて一撃逆転はできたんだからね。それを忘れないで欲しいな」

 

 なんだか知らないが、僕が音子さんに見惚れていたら急に御子内さんの機嫌が悪くなった。

 さすが立ち技最強を名乗るだけあって、強者に対してははっきりとしたライバル意識があるんだな。

 となると僕の立場としてはあまり他の巫女を褒めるのは止めたほうがいいか。

 彼女を怒らせるのはデメリットしかないし。

 

 ……一方のリング(〈結界台〉ね)上での戦いはさらに白熱してきた。

 知らず知らずのうちに同じパターンにはまっていたことに気がついたのか、〈天狗〉も策を練りだし始める。

 今まではコーナーポストとトップロープ以外は使わなかったのに、一度、マットに降りて、それから再び跳びあがるといったフェイントを混じえてきたのだ。

 すると、音子さんもすかさず対応する。

 人のものよりも長い〈天狗〉の腕を叩き落して、足を払って寝転ばせ、そのままフライングボディプレスを決行した。

 僕の隣の人よりもどうも胸が大きいらしくて、やや揺れる膨らみと胸筋と腹筋が妖怪に向けられて激しいヒトの姿をした雨となる。

 

『ぐぎゃあ!!』

 

 特に意外な技は使わない。

 だが、華やかでしかも一撃一撃が実に痛そうな攻撃。

 間違ってもご褒美にはならない連続技が続く。

 妖怪はどんどん立ち上がれなくなっていった。

 これこそが、対飛翔妖怪の巫女(エキスパート)―――神宮女音子なのか。

 

 その時、音子さんからは死角になっていたが、一瞬だけ倒れこんでいた〈天狗〉の目つきが変わったように思えた。

 僕を見た時のような欲情交じりのものとは違う、確実に何かを起こそうとしているものの眼だ。

 奴らは元は人であったという。

 人であったものが、死して妖怪に変化したものだと聞いた。

 そうであるのならば、生前の人の知恵と人の意地汚さをもっていても不思議ではない。

 きっと何かを仕掛ける気だ。

 今日の絶好調の僕の勘が告げていた。

 だが、それはなんなのか。

 妖怪のもつ切り札めいたものがあるのか。

 例えば、あれは〈天狗〉だ。

〈天狗〉と言えば鼻が長くて行者装束を着て……。

 違う、それは想像上の天狗のことだ。

 こいつではない。

 思い出せ、御子内さんのレクチャーにあった〈天狗〉の本質を……

 彼女は言っていた。

 天狗とは隕石のこと、だと。

 そして、その定義は―――

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……)

 

 僕はリングの脇に走った。

 本当ならば選手のためにセコンドがつく場所。

 そこで僕は力の限り吠えた。

 

「音子さん、〈天狗〉は()()()()()()()()()()()!! 耳を塞げ!!」

 

 咄嗟の思い付きを叫んだとほぼ同時に。

 

 今まで聞いたことのないような。

 

 化鳥の悲鳴が。

 

 周囲一帯を高周波で。

 

 薙ぎ払った。

 

 ――――――――――――!!!

 

 顔を上げて大きく口を開いた〈天狗〉の声と、その極限まで開いた翼によって収束した結果か、殴りつけられるような高音が荒れ狂ったのだ。

 音でありながら物理的な衝撃まで与えるような颶風は音子さんを直撃する。

 だが、間一髪、彼女は耳を塞いでいた。

 僕の声が届いたのだ。

 もっとも斜め後ろに控えていた僕は耳を粉砕され、そのまま倒れた。

 耳から血が零れたかもしれない。

 それだけの強さを感じた。

 気を失おうとした寸前、僕は〈天狗〉の切り札であったであろう大怪声をこらえきった音子さんが、太ももで顔を挟んで投げ飛ばすのを見た。

 ちょっと羨ましかった。

〈天狗〉はそのままマットを転げ落ちて、なんとリング外に出てしまう。

 こうなったとき、妖怪は20カウント以内に復帰しないとそのまま封印されてしまうそうだ。

 音子さんはリングアウト勝ちを狙ったのか。

 切り札を空振りしてまったことで万策尽きた〈天狗〉だったが、戻らなければならないことは妖怪の本能で理解しているらしく、なんとか立ち上がる。

 その肢が止まる。

 白目のない視線が一点に釘付けになった。

 僕も同様だった。

 二つの視線の先には……反対側のロープ際に立ち尽くす音子さんがいた。

 そして、彼女はノータイムで走り出す。

 場外で待つ〈天狗〉目掛けて。

 

「プランチャ・スイシーダか!」

 

 御子内さんが叫ぶ。

 でも、僕はそれが違う技だと見抜いた。

 プランチャ・スイシーダはリングから場外の敵をボディプレスで撃退する技だが、この時の音子さんの動きはまるで違っていた。

 リング内で助走をつけるところまではいい。

 だが、彼女はそれに加えて、二つの捻りを入れた側転をして、それからくるりともう一度回転して全身で〈天狗〉に覆いかぶさっていった。

 

「あれは、スペース・フライング・タイガードロップだよ!」

 

 直訳すれば宇宙飛行虎爆弾。

 初代タイガー・マスクが魅せた究極の四次元殺法だった。

 プランチャ・スイシーダだけでも迸るほどの勇気が必要な技なのに、それに加えて遠心力によって破壊力を増すための側転までもしている。

 しかも、音子さんの場合は、捻りというひと工夫を足して、さらに威力を倍増している。

 ある意味では彼女のオリジナルフィニッシュホールドであった。

 基本のダメージが100とすれば、助走によって+100、二つの側転で+200、二回の捻りによって+200、さらに音子さんの勇気と献身が+200、つまり併せて800ダメージが与えられるのだ。

 こんなものをまともに食らって斃れない相手は絶対にいない。

 

 そして、僕の予感は的中する。

 

 音子さんの捨て身の必殺技を喰らった〈天狗〉は二度と起き上がることができず、どこからともなく流れてきた二十回分の鐘の音と共に実体を失くして消滅していった……。

 おそらくは封印されたのだろう。

 ここに来た際に御子内さんが今まで見たことのない水晶玉を持っていたから、たぶんその中に。

 もっとも僕はそれを確認することはできなかった。

 結果として〈天狗〉の最後っ屁となるあの声をまともに聞いてしまったせいで、僕は決着がついたのを見届けた後、あえなく気絶してしまったのである……。

 

 

 



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結末

 

 

 消滅していく〈天狗〉を見送ってから、御子内或子(みこないあるこ)はリングに戻って寝そべっていた友人の元へ近寄った。

 空に向かった拳を突きたててガッツポーズをとっていた。

 SNS上でだけは饒舌という、普段は無口で愛想の欠片もない少女も、勝利の美酒に酔うときもあるのだろう。

 

「さすがだね、音子」

 

 立ったまま見下ろすと、ぎょろりと覆面の下から睨まれた。

 幼い時から共に巫女の修業を積んだ幼馴染でもあるが、同時に最強を目指すライバルであるこの友人とは普段は疎遠にしている。

 馴れ合いは互いのためにならないからだ。

 だから、今のように不用意に近づくと警戒される。

 とはいえ、仲が悪い訳でもなく、二人でやりあった直後でもないからか、すぐに仏頂面の覆面巫女は睨むのを止めた。

 

「……シィ」

 

〈天狗〉という強敵を斃したということもあり、幾分余裕があるのだろう、握った拳から親指(サムズアップ)を立ててきた。

 

「ただ、最期の天狗の最後っ屁を喰らいそうになったのはいただけなかった。あの時、ボクの京一のアドバイスがなかったらキミの敗北は決定的だったからね」

「……ノ」

「否定したって駄目さ。キミは完全に油断していた。あの切り札の大怪声の存在に気がついていなかったのだから」

 

 すると、音子は唇を尖らせてすねた。

 図星だったからだ。

 プライドの高い彼女にはとっては認めにくいものだった。

 これまでにも数回、同種と思われる〈天狗〉を退治して来た彼女にとって、さっき斃した妖怪の特殊攻撃はまさに初見だったからだ。

 巫女たちの戦いを記録してきた社務所も、あんな〈天狗〉の戦法は不知だったはず。

 もしも知っていたとしたら、さすがに用心はしていた。

 だからこそ、あの或子の助手の少年の閃きに助けられたのは疑いようのない事実である。

 もっとも、音子は同僚の巫女と違い、おいそれと自分の落ち度を認められるほどの心の広さは持ち合わせていなかった。 

 

「ノ。―――別に或子の助手のおかげじゃない」

 

 それだけを言うのが精いっぱいだったが。

 

「それでもね、音子。ボクは君に感謝しているんだよ」

「……ケ エス?」

「キミがあの〈天狗〉を斃したことで、第二第三の母親から引き離される子供がいなくなったからさ」

 

 音子の横に膝を曲げて女の子座りをした或子は、背後の〈御山〉を眺めた。

 

「あの山の頂上には、旧い神社があったらしいんだよ。それが誰かの放火によって消え去ってしまった。誰がやったのかは知らないし、どんな動機があったのかも知らない。でも、そのことで神社に封印されていた過去の〈天狗〉が甦ったんだ。あいつは相当昔に発生した〈天狗〉だから、手の内が知られていなかったんだろうね」

 

 或子は語る。

 

「旧い存在にこめられているものは、歴史だけじゃない。時間を経る間に関わって来たすべてのものとの結びつきや絆が込められているんだ。そして、その中には、悪いものや災いだってある。―――だから、不用意に旧いものを傷つけたり、壊したりしてはいけないだ。それを破ったらしたら、あの〈天狗〉のような善くないものがやってくる」

「……」

「今、我が国では多くの旧いものが貶められたり、穢されたりしている。それはいつか大きな災厄になってこの社会全体を蝕むだろう。社会が悪くなれば、理不尽に苦しめられ、涙を流すものたちが大勢現われる。―――ボクたちに八咫烏を介して助けを求めた若い母親のようにね」

 

 御子内或子は、妖怪退治を生業とする巫女レスラーである。

 だが、彼女ができるのは人が妖怪に襲われたあとの後始末だけ。

 彼女が関わるまえに不幸になったものを助けることは、時を遡らない限りできはしない。

 母親の元から攫われた赤子が、妖怪の餌食になったとしても助けることはできないのだ。

 そのことを或子は悔いていた。

 全能であるはずもない彼女には防ぐことは絶対に不可能なことだったとしても。

 

「……だから、もう次に大好きな母親から引き離される赤ちゃんがでなくて良かったとボクは自分を慰めるんだよ」

 

 天を仰ぎ、涙をこらえる。

 わかっていても、耐えがたいことはあるものだ。

 御子内折或子はそういう少女だった。

 

「……あたしが遅れたのには理由がある」

「なんだい、それは?」

 

 くいくいと巫女服の袖のあたりを引っ張られ、或子が視線を落とすと、音子が言った。

 

「少しだけ奥多摩の方に行っていたから」

「奥多摩? また、それはどうしてだい?」

「これ」

 

 或子が手にしていた自分の携帯電話を手にすると、音子はギャラリーの写真フォルダを開いた。

 そして、一葉の写真を見せる。

 そこには、一人の可愛らしい赤ん坊とその脇にそびえたつ巨大な杉の木が写っていた。

 

「……この子は?」

「三日前、奥多摩のお寺のお坊さんが境内の千年杉のてっぺんに引っかかっていたこの子を見つけた。その杉は大量の花粉をばらまくことで有名で、その日も凄かったみたい」

「……で」

「お坊さんが空を飛ぶおかしなものがその花粉の中に突っ込んで、急停止してくしゃみを何度も繰り返して、その時にこの子を落としたらしい」

「もしかしてさっきの〈天狗〉だったのかい?」

「うん。―――お坊さんは慌てて知り合いのあたしに連絡してきた。妖怪絡みだと察知したから。で、あたしが調べに行った」

 

 或子は食い入るように、写真を見つめた。

 

「それで、この子は―――伊嶋佑真くんは無事だったんだな?」

「うん。用心して沁みついていた妖気は払っておいた。だから、遅れた。あたしは悪くない」

 

 完全な言い訳でしかなかったが、それでも或子には十分だった。

 失われたと思っていた命が生きていた。

 それに勝る喜びはない。

 

「……生きていたのか」

「―――シィ」

「良かった。この子は大好きな母親に会えるんだな」

「シィ」

 

 そして、音子が掌を差し出す。

 躊躇うことなくその手を握り返す或子。

 幼馴染であり、ライバルでもある巫女同士は堅い握手をしあった。

 

「友情の握手(シェイクハンド)はこういうときにしたほうがいいな」

「シィ」

 

 白いマットのジャングルの上で、二人の巫女レスラーは今度こそ勝利の悦びに身を浸すのであった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

参考・引用文献

 「天狗の研究」 知切光歳 原書房

 「天狗はどこから来たのか」 杉原たく哉 大修館書店

 「江戸の怪奇譚」 氏家幹人 講談社

 



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第4試合 ザ・カーズ
鉄の付喪神


 

「たあ!!」

 

 ガードレールの上から跳びあがり、目標のボディにベコリと大きな凹みをつけるキックを放つ。

 自分が空中にいる間に、もう一度足を入れ替えて、逆脚で踏みつける。

 それから、神宮女音子《じんぐうめおとこ》は華麗に着地した。

 やったか、などと残心はしない。

 自分でも手応えがないことはわかりきっているからだ。

 

Mierda(ミエルダ)!!」

 

 思わず汚い言葉で罵ってしまう。

 清浄・可憐な巫女としては相応しくない下品な言葉だった。

 

(やっぱりあたしの力じゃあ、あいつを行動不能にすることはできないか~。でもしょうがないじゃん、ルチャドーラなんだから。パワーはないんだよ、パワーは。まったくこんなことなら引き受けなければよかった。〈護摩台〉の必要のない退魔仕事だというからひょいひょい引き受けちゃったけど、もおサイテー。あたしってバカ!! ……)

 

 音子は喋るのがとても苦手だが、何も考えていない訳ではない。

 むしろ、人の十倍は色々と物事を思考して、いらないことまでくどくどと辿ってしまうほどだ。

 しかし、それを声として外に出すのが得意ではないから、SNSやメールでは途端に饒舌になる。

 ツイッターでも140文字すべて使い切るぐらいに書きこんでしまう。

 フォロワーはその彼女の長文が好きというものが多いぐらいだ。

 それに一度デジタルを介しての関係ならば、多少折り合いの悪いライバルとでも普通以上に接することができるぐらいだ。

 

『ドゴゴゴゴォォ!!』

 

 彼女の標的である妖怪変化が爆音を発した。

 人型を保っている妖怪種ではないことから、まともな知性は持っていないことはわかっている。

 ただし、人間が相手をすることは通常なら不可能な相手であることは間違いない。

 なんといっても、奴の同種は年間四千人以上を死に至らしめているのだから、ある意味では人間の天敵ともいえる存在なのだ。

 しかも、その外皮は先ほどの音子の飛び蹴りと二段蹴りをもってしても凹ませることが精いっぱいという硬さだ。

 

(でも、あの外皮を破ることはできない。少なくともあたしの力では。だいたい、いくら力があったとしてもあんなの金属の塊なんだからどうにかできる訳ないじゃない。もお、社務所は何考えてんのよ……! って立候補したのはあたしかよ……。八咫烏も少しぐらいは忠告してくれてもよかったのに……)

 

 内心でグダグタと愚痴りながらも、音子は敵との距離を冷静に測り、射程距離の中には踏み込まないように注意をする。

 彼女とて、社務所に所属する退魔巫女。

 経験豊富な闘士であるのだ。

 

『ブオオオオンン!!』

 

 再び、爆音とともに唸りをあげて突っ込んできた。

 その際にビオオオオオという甲高いクラクションの音も鳴り響かせながら。

 あまりに大きな騒音なので耳を塞ぎたくなったが、それよりも回避に専念する方が先だ。

 横っ飛びで突進を避けると、急旋回して獰猛な目つきの顔を振り回し、もう一度男目掛けて走りこんでくる。

 もろに食らうどころか、かすっただけでも体重《ウェイト》の差で音子が受けるダメージは計り知れない。

 例え身軽な彼女とはいえ、この執拗なアタックを逃げずに躱しきるのは困難だ。

 

「しかも、傷を負っても四十秒後には再生を開始するとか。……厄介な化け物ね」

 

 社務所からもらった情報によると、退治すること自体にはさほどの難しさはない。

 腰につけた白木の棒で作った祓串《はらえぐし》を確かめる。

これは神道の祭祀において修祓に使う道具であり、白木でできた棒の先に紙垂《しで》をつけたものであった。

 今回の退魔のために用意された品だ。

 これを奴の腹の中に突き立てれば、ほとんど消滅させることができる。

 ただし、問題がない訳ではない。

 敵の妖怪の腹に潜り込むためには、激しく動き回る相手の脚を止めなければならない。

 しかも、さっきの音子の蹴りがほとんど効いていないことからわかるダメージを防ぐ分厚い外皮を破り、大打撃を与える必要がある。

 にもかかわらず、音子にはその力がない。

 あえてカテゴリー分けするとしたら、テクニシャンに含まれる彼女にとっては不得手な部分であった。

 さらにまずいことに、あの敵は……

 

「四十秒たった」

 

 彼女が内心でカウントしていた数字が四十を越えた時に、ギュンギュンと壊れやすいものを締め付けるような擬音が轟き始めたかと思うと、やや凹んでいた外皮が元の様子に戻っていく。

 凹みが平らになるのは、回復ではなくて再生であった。

 ほんの数秒でせっかくつけたダメージが無意味にさせられていくという光景はさすがにショックだった。

 これほどまでの高い再生能力を持つ敵は初めてだった。

 再生能力を持つ妖怪がいない訳ではない。

 それでもたいていは一昼夜かかる再生をまばたきしている間に行うなど、見たことも聞いたこともなかった。

 これでは例え〈護摩台〉に引きずり込んだとしても、まともに勝負になりはしない。

 そもそも乗せられるサイズではないとしても。

 

『パラリラパラリラ!!』

 

 独特のクラクション音が響き渡る。

 敵の後ろ肢―――ゴムでできたタイヤだった―――が、猛烈に回転して地面を擦りあげ、土煙と摩擦で燃焼する臭いで満たされていった。

 妖怪の金属のボディに換装された鉄の心臓《エンジン》が耳をつんざく。

 二つの鋭い眼のようなヘッドライトが音子を照らし出す。

 

「……」

 

 音子は腰の位置を落とす。

 いつでも身体を捻るられるようにだ。

 あの妖怪の巨体から繰り出される体当たりを受けることは絶対にできない。

 ただ、これ以上、音子には策はない。

 何度もすれ違いざまに、上方から、蹴りを放ってきたが、完全に手詰まりになっていた。

 

(もう駄目かな。少なくとも、あたしじゃどうにもならない。もっと強い打撃技をもっているパワーの持ち主でないと……。となると、アルっちか、ミョイちゃんのどちらかを呼んでくるしかないかも。でも、ここから逃げられるかなあ~)

 

 数本の電信柱についた外灯から零れる光だけしかない、薄暗い駐車場の一画で音子は決意する。

 この妖怪をここまで引きずり込んだのは失敗だったと認め、捲土重来を期して、ここから逃げだすことを。

 妖怪は、音子の動きに合わせて後退し、前肢を駆動させて正面に向いていくる。

 走らせれば一気に時速60キロの加速を弾きだし、わずかな距離で100キロまで上げてくることはわかっていた。

 黒い金属のボディを持ち、四つの肢のようなタイヤを回転させ、路上の人を刎ねる鉄の怪物。

 それは、どこかの荒れ地に打ち捨てられていたスクラップ同然の廃車が、月日の経過とともに変化し、妖怪となった存在だった。

 付喪神《つくもがみ》という年月を経たものに精霊が宿ることで産まれる妖怪は、もともと強力なものが少ないため、巫女たちにとっては〈護摩台〉を作るまでもない相手という認識だった。

 ゆえに、音子はなんの装備も整えずに退魔の仕事に就いたというのに、このざまというところだった。

 まさか、廃車にとりついた付喪神がこれほどまでに手強い相手になるとは……。

 

Mierda(ミエルダ)!!」

 

 またも悪態を吐くと、音子は走り出した。

 行く手には小規模ながら墓場が広がっている。

 あそこまで辿り着けば、所詮は車。

 追ってくることはできまい。

 つまり、あそこまでの道のり、100メートルを全力で踏破できれば逃げ延びられる。

 

 ダッ!!

 

 背中からは妖怪の殺気がビンビンに伝わってくる。

 同時に激しすぎるエンジン音までが。

 巫女姿の覆面少女は、命懸けの徒競走を開始したのであった……。

 

 

     ◇◆◇

 

 

「うーん、やっぱりランチャ・ストラトスはカッコよかったなあ。いつか、お金持ちになったら絶対に買いたいなあ」

 

 僕は個人の所蔵するスーパーカーを展示するイベントを観に行った帰りで、とてもご満悦であった。

 グッズ販売ブースで買ってきたカタログをチラ見しながら、一ページめくるたびに舐めるように読んでいた。

 ついでに自分で撮ったデジカメの写真の出来を確かめたり、映像を再確認したり、まったくもって楽しすぎる。

 黄色いストラトスのハイスペックに心を震わせながら、僕は隣にいる御子内さんのことを忘れつつ、最高の体験を反芻していた。

 

「―――何がそんなにいいんだい?」

「すべてさ」

「ボクにはさっぱりだよ。男の子が車を好きなのはわからなくはないけれど、所詮は機械じゃないか」

「ふーん」

「なんだい、その気のない返事は? 京一は、ボクの憤りをまったく理解していないんだね」

「そうですねー」

 

 だって、僕にとっては初めての生ランチャ・ストラトスとの対面だったというのに、車に理解のない女子の苦言なんか聞きたくもないからね。

 だいたい、今日は僕独りで来る予定だったのに、強引についてきたのは御子内さんなのだから、勝手にむくれて機嫌が悪くなるなんてわがままには付き合っていられない。

 最初に「君向きじゃないから楽しくないよ」と釘を刺したのに、「ボクはどんな催しでも楽しめる女さ」とか言ってついてきたのに、案の定、僕が写真を撮りまくっている間はイベント会場の入口で仏頂面の仁王立ちをしていた。

 他のお客さんにもいい迷惑だったろう。

 せめてニコニコしていてくれればいいのに、弁慶のように仁王立ちなんだから。

 

「京一が好きだというその車だけど、座席が二つしかないじゃないか。そんなんじゃ、家族が乗れないと思うよ。非効率的だ」

「スーパーカーに効率とか期待しないでよ。大切なのは、カッコいいか、熱くなれるかどうかだけさ」

「無意味だね。なんていうか、もし君がそれを買えたとしても、隣には誰を座らせるつもりなんだい?」

「それは決まっているよ。友達とかさ。でも、誤解させる気はないから、女の子は一人だけだね」

「む。……聞き捨てならないな。どんな女を乗せる気なんだい?」

 

 どういう訳か眉間にしわを寄せて食いついてきた御子内さんに危険を感じたが、別にどういうこともない質問なので簡単に応えた。

 

涼花(すずか)だけかな。母さんは女の子の枠じゃないしね。―――って、どうして僕を睨んでいるのさ。怖いからやめてくんない?」

「……君は一回ぐらいは僕のコブラツイストを受けてみたほうがいい」

「やだよ。痛いから」

「その痛みこそが君には必要だ」

 

 さっき以上に不機嫌になった御子内さんの相手に面倒くささを感じていたら、ボクらの頭上でカアとカラスの鳴き声がした。

 見上げると、そこには一羽のカラスが旋回していた。

 記憶にある黒い艶のある羽根をしたカラス―――八咫烏だった。

 

「御子内さん、あれ!」

「ああ、どうやらボクたちに用事があるようだね」

「また、妖怪退治かな」

「それ以外に何があるんだい?」

 

 確かにその通りだ。

 巫女―――レスラーとその助手のリング設営人。

 その二人のところに来る理由なんてそれ以外にあろうはずがない。

 これはいつもの依頼なんだなと断定しかけたとき、今までにはないことが起きた。

 空を舞う八咫烏がなんと僕たちのすぐ目の前に降りてきて、話しかけてきたのだった。

 カアという鳴き声ではなく、人の言葉で。

 

御子内或子(みこないあるこ)! スグニ来テクレ! 神宮女音子ガ大ぴんちナノダ!』

 

 と。

 とりあえず僕が抱いた感想はただ一つだ。

 

 

 

 ―――おまえ、喋れたのか!?

 

 

 

 である。

 

 

 



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Nevermore!

 

神宮女音子(じんぐうめおとこ)ハ〈付喪神(つくもがみ)〉ノ退治ニ挑戦シテシクジッタ! ソシテ今モ危険ニ晒サレテイル! 救出ニ向カッテクレ!』

 

 鳥類の分際で人と同じ発声をすれば、こんなしゃがれた声になるのだろうというぐらいに酷く聞き取りにかった。

 なんでも人間が直立不動で立つのは、発声しやすくするためであり、それの副次効果として脳の発達が促されたという説もあるらしい。

 ならば、この八咫烏もすっくと二本足で立ち上がれば、もう少し聞き取りやすくなったりしないものだろうか。

 

「……〈付喪神〉だって? そんなありふれたものに()()音子が苦戦しているなんて信じられないな」

『歴然タル事実ダ、巫女ヨ!』

「いや、信じるよ。ただ、どうしてそうなったのかということに疑問が湧いているだけだ」

 

 御子内さんは腕を組んで、首をひねった。

 おとがいに立てた人さし指をあてる仕草が可愛らしい。

 

「御子内さん。付喪神ってなにかな?」

「ああ、京一は知らなかったのか。まあ、当然だね。〈付喪神〉と戦う時は君の助けは借りずに済んでしまうから、呼ぶことがなかったんだ」

「僕の助けがいらない? リングがいらないってこと?」

「そうさ。〈付喪神〉相手だと〈護摩台〉を使うほどのことはないんだ。ありふれた妖怪―――というほどでもないか―――どちらかというと軽めの怪異程度の扱いで、普通に修行した退魔巫女なら御幣やお(ふだ)を使うだけで簡単に退治できるからね」

「結界を用意するほどではないんだ?」

「まあ、多少の危険はあるけど、道端でじっと睨んでくる地縛霊とたいした変わりはないよ」

 

 それはそれで怖いんだけど。

 ……一度だけ西武鉄道のホームの隅っこにぽつんと佇んだ人ならぬものを見たことがある。

 黒い喪服のようなものを着こんだだけの長い黒髪の中年女性だった。

 いや、中年女性のような()()だったのだろう。

 あの頃はまだ御子内さんと出会う前だったけど、すぐに善くないものだと見抜けた。

 こちらが気づいていることを悟られてはいけない、という直観で頭が一杯になり、必死に知らないふりをしたものだ。

 実際、あとでオカルトマニアの妹に確認を取ったら、そういう場合の対処としては正しい選択だったらしい。

 御子内さんたちみたいに特別な力をもたない一般人が関わるべきではないことというのは、往々にして存在する。

 

「……〈付喪神〉というのは、人が使っていた道具などが捨てられたり使われなくなって放置されたりしたことで、変化したものなんだ。大きな括りでいえば妖怪だけど、個々の存在に名前がある訳ではなくて、たいていは〈付喪神〉とだけ呼ばれているね」

「どういうものなの?」

「元の道具がどういうものかに左右されるけど、たいていは手や足が生えてきて人型になるかな。だから、叩いて殴って蹴れば倒せるよ」

「うん。そういう人間業じゃない真似は置いておいて。―――じゃあ、どうして音子さんが危険なんだろうね。ねえ、八咫烏?」

 

 僕としては友好的にものを訊ねたつもりだったのに、とうのカラスは、

 

『ダマレ、馴レ馴レシク、我ニ話シカケンナ、牡メ』

「……ちょっと」

『ソモソモ我ラノ巫女ニ用モナイノニ近ヅクナ、げすメ』

「こらまて、鳥類。どうしてそんなに攻撃的なんだ!」

『ハアアア、退魔ノ仕事中トイウ訳ジャナイクセニ巫女ヲ侍ラセテイル間男ガ何ヲ言ウカ? 貴様ガ巫女ニトッテノ害虫デナイトイイキレルノカ! アアアン?』

 

 なんて口の悪い鳥類だろうか。

 いや、そもそも鳥が喋るはずもないし、巫女さんたちとの連絡役になるはずもないから、おそらくはこいつも神性をもつ何かなのだろうが、それにしたって腹が立つ。

 ゲスだの、間男だの、害虫だのと僕をなんだと思っているんだ。

 それに今日、御子内さんと一緒なのは別にデートをしているとかいうわけではなく、彼女が断ったのに勝手についてきたのだ。

 侍らせている訳じゃない。

 

「だいたい、僕はおまえとは初めて話をするのに失礼じゃないのか?」

『貴様ノ妹ヲ助ケテヤッタ恩モ忘レヤガッテ』

「うるさい! 妹のときのことは本当に心の底から感謝しているが、それとこれとは話が別だ! 唐揚げにしてソバにぶち込むぞ!」

「ナンダト、コノ色魔メ!」

「……二人ともいい加減にしろ。あと、京一。ソバに唐揚げは合わないと思うぞ」

「そこは別にいいでしょ。問題なのは、この始祖鳥の子孫であって……」

 

 僕らのしょうもない口喧嘩は御子内さんが割って入ったことで終息したが、この黒い鳥類に対する敵愾心だけは消しようがなかった。

 巫女に対して下心丸出しで接近したというのなら、身内が警戒したとしてもおかしくはないが、僕と御子内さんはそんな関係じゃないのだから、邪推されると迷惑だ。

 とはいえ、この一件のおかげで僕はカラスが喋るという、人間社会における一大事を簡単に受け入れてしまうことになるのだが。

 

「この八咫烏はね、ボストンの有名な小説家のもとにやってきたという大烏もモデルにしている使い魔なんだ。最近はうちのギョーカイもハイカラだろ?」

「ポーのこと? ああ、Nevermoreとか? えっと直訳だと『二度とない』だったかな」

『月夜ノ晩バカリジャナイゾ!』

「脅しか!」

 

 ったく、鳥相手にムキになってしまった。

 

「それで八咫烏。音子はどういう状況なんだい?」

『神宮女音子ハ川越ノハズレニアル廃寺ニタテコモッテイル。外ニ出ヨウトシテモ出レヌ状況ダ』

「出られない? いったい、どうしてだい?」

『寺ノ入口ヲ〈付喪神〉ガ見張ッテイルノダ、彼女ヲ逃ガサナイヨウニ』

「なるほどね。音子は自分を囮にしてその〈付喪神〉を引きつけているということもあるのか。あいつが倒せないということは相当手強い相手だからね……。野放しにはできないし。―――ちなみに一つ聞きたいが、どんな道具の〈付喪神〉なんだい?」

 

 確かに話だけ聞くと、〈天狗〉相手にあれだけ余裕の戦いができる音子さんが追い詰められる敵というのは思いつかない。

 しかも、〈付喪神〉というのはたいして強い妖怪ではないようだし。

 その程度の疑問は解消しておかないと、現場で対応できないだろう。

 ただ、〈付喪神〉相手にリングはいらないということなので、僕の出番はないはずだ。

 御子内さんの手助けができないというのは心配だけど、彼女のような戦闘力のない僕なんかただの足手まといにしかならない。

 

『自動車ダ』

「……車だって? それはおかしくないかい。〈付喪神〉になるような道具はそれなりに年月を経たものに限定されるはずだろ。いくらなんでも最近のものすぎる」

「いや、そうでもないよ。映画の『ALWAYS』に出た有名なスバル360だって販売したのは1958年だからね。ものによっては五十年、六十年たっていてもおかしくはない。車は旧くなっても供養したりする風習もないから」

「言われてみるとそうだね。だったら車の〈付喪神〉が出てもおかしくないということか」

「それに、自動車が妖怪になったというのなら、音子さんが苦戦するのもわからなくはないよ。だって、ある程度のグレードの車なら重さが1.5t以上というのは普通にある。ウェイトの差があるから、音子さんのルチャリブレだと相性が悪いかもしれない」

 

 巫女と妖怪たちの相性については、前回の〈天狗〉との戦いで目の当たりにしていたこともある。

 今回の〈付喪神〉が車だというのならば、空中戦と極め技、足での投げ技を得意とする音子さんでは相当難しい戦いであったかもしれない。

 その点、彼女をマッチメイクさせた八咫烏の失敗だろう。

 車のような重いものを相手にするというのならば、御子内さんのような立ち技打撃系かもっと直截的なパワー系が向いているはずだ。

 

「なるほど。だから、慌てて御子内さんを呼びに来たという訳かな。マッチメイクのミスを誤魔化すために」

 

 僕は八咫烏が妙に攻撃的な理由の一端を理解した気がした。

 自分の失敗を糊塗したいという意識が先立っているのかもしれない。

 

『―――ソンナコトハナイ』

「図星か」

『ダマレ、若僧』

「じゃあ、そろそろ行こうか。二人ともバカをやっていないで音子を助けにいくよ」

 

 睨みあっている僕らの間にまた御子内さんが入った。

 

「……え、僕がいってもリングを設営する必要はないんでしょ?」

 

 すると、御子内さんは真剣な顔をした。

 

「悔しいことに、車についてボクは不勉強でね。それは音子も一緒だろうし、八咫烏もわかっていないはずだ。だから、車に詳しい男の子の助けが必要なんだ。だから、京一、一緒に来てくれ」

「わかった。君の頼みだったら、断れないね。―――おい、鳥類。文句はないな」

『……二度ハナイゾ』

「ふん、だ」

 

 こうして、僕らはもう一人の巫女レスラー救出に出発することになった。

 ただ、問題は……

 

「なあ、京一。今日のボクは巫女装束を着ていないので今一つ、見栄えが良くないんだが……」

 

 白いブラウスと亜麻色のカーディガン、そしてフレアスカート姿の御子内さんはとてもお嬢様っぽくていいのだけれど、まったく妖怪退治用ではないという点にあった。

 

 

 

 



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最高級な怪異

 

 

 埼玉県にある川越は「江戸の大手は小田原城、搦手は川越城」と言われ、江戸幕府にとっての北の砦とされた地域である。

 藩主に任命されたものも、いわゆる有名どころだけで、酒井忠勝、堀田正盛、松平信綱、柳沢吉保といった名前がずらりと並び、幕閣の老中になったものが七名を数えるぐらいだった。

 つまり、それだけ重要な地域だったということだ。

 そもそも徳川家康が江戸に幕府を開いた時には、彼の次男で武勇に優れた結城秀康が藩主だったということからもそれは窺える。

 ちなみに交通の要所として経済的な発展も目覚ましく、京都に対して「小京都」と呼ばれる地方都市が全国に五十三もあるのに比べて、江戸に対して「小江戸《こえど》」と称されるのが川越しかないほどの賑わいを見せていた。

 川越が「小江戸」と呼ばれるようになったのは、とある川越藩主が江戸からの帰路、城下の町並みを見て、「まるで小さな江戸のようだ」と自賛したからだと伝えられている。

 もっとも、本家の江戸については、関東大震災や第二次世界大戦で町並みや文化材の多くが消失してしまったこともあり、今でも蔵造りの町並みや、喜多院、仙波東照宮などが残っている川越の方がかつての江戸の風情を伝えているともいえるかもしれない。

 市街を南北に走る県道の交差点「札の辻」から「仲町」交差点までの通りを一番街といい、別名で「蔵造りの町並み」と呼ばれている。

 そのあたりの通りに面して建てられている重厚な蔵造りの店舗や懐かしい洋風建築は今でも観光地として知られているぐらいだ。

 僕も実は中学生の時の社会科見学で訪れたことがある。

 

「……これじゃないかな」

「どれどれ」

 

 川越駅へ向かう電車の中で、僕が差し出したスマホを御子内さんがじっと覗き込む。

 目の前に彼女の顔が突きだされ、いい香りのシャンプーの匂いがした。

 女の子ってのは、いい匂いのする生き物なんだよな。

 マザーグースが「女の子は砂糖とスパイスと素敵な何かでできている」と評したのもわかる気がする。

 ちなみに、マザーグースからすると男は「カエルとカタツムリと小イヌのしっぽ」で作成されているらしいが、僕に言わせれば「スケベ心」がまだ足りないね。

 

「ふーん、連続ひき逃げ魔か。……知らなかったな」

「僕もだよ。でも、世間ではわりと話題になっているらしい。ツイッターのトレンドにも入っていたっぽいし」

「へえ」

 

 ……僕がネットで見つけたのは、この川越市の郊外で発生した「連続ひき逃げ事件」の詳細だった。

 この一週間の間に四人が撥ねられて重傷を負っているが、どれも同じセダンタイプの車によるものだということらしい。

 今のところ死者は出ていないが、すべての被害者が意識不明の重体だということで警察は各事件の関連を調べているそうだ。

 もっとも、ネットの動画サイトの方に、犯人のものと思われるセダンによるひき逃げの一件の映像がアップされてしまっていたので、そちらを中心にして捜査しているものと考えられている。

 ちなみに、この動画はまだ消されておらず、数日で一万回以上も再生されていた。

 おかげで僕たちもその決定的シーンを見ることができたのだけど。

 投稿したのは通りすがりの一般人らしい。

 遠くから相当でかい爆音が轟き渡ったため、たまたまスマホの動画撮影機能をつけてみたら、決定的な瞬間を捉えられたというようだ。

 映像の中では、上下の灰色のジャージ姿でサンダル履きの、どう見てもチンピラっぽい若い男性がちんたら歩いていた時、いきなり後ろから歩道を乗り越えてきた黒いセダンに跳ね飛ばされるシーンが収められていた。

 時間にして十五秒程度の映像だが、走り去る車が一度もブレーキを踏んで速度を緩めなかったことと、轢かれた男性が映画のように派手に一回転したところの生々しさが話題になっていた。

 これが字幕の出るスタイルの動画サイトなら凄いことになっていただろうと思うほどに。

 被害者が死ななかったのが不思議なぐらいだ。

 

「……これだろうね。さっき〈社務所〉の禰宜の人が言っていたのと一致する。車の〈付喪神〉が暴れたことによる事件ならピッタリだ」

「警察は該当車両を血眼になって探しているみたいだけど、どうもナンバープレートが相当古いものらしくて持ち主が割り出せないそうだよ」

「車を登録してある陸運局にデータがあるんじゃないのかい?」

「そこは書いてないね。もっとも、二十五年ぐらい前の話だし、持ち主が相当転々としていた可能性があるから、地道に捜すしかないと思う」

「……なんだい? やけに具体的な数字を出すじゃないか」

「まあね」

「心当たりがありそうだけど」

 

 僕は動画をストップして、走り去る車のリアを指さした。

 

「ん?」

 

 女の子の御子内さんには案の定わからない。

 

「ここについているエンブレムはトヨタのものだから、トヨタ車とわかるよね。で、車名エンブレムはさすがにくっきりとはしていないからわからないけれど、この四角いリアの形状に僕は覚えがある」

「えーと?」

「近所に住んでいたゴロツキのお兄さんが乗っていたものと同じだからね。外観からは違いがわからないんで、初代か二代目かは難しいけど、この車は間違いなくセルシオだ」

 

 まとめ記事のコメント欄を見ても、セルシオと断定しているものがかなりある。

 だから、ほぼ僕の推測に間違いはないだろう。

 このひき逃げ車はトヨタのセルシオだ。

 

「せるしお?」

「なんで平仮名っぽく発音するのさ。セルシオって言ったら、トヨタの誇る高級車ブランドのレクサスの初のモデルなんだよ。きっと知らないとは思うけど」

「わかっているじゃないか。ボクが知る訳ないだろう」

「もう仕方ないな。でね、話を続けると、レクサスの立ち上げは1989年なんだけど、その時に初代のセルシオは発売されたんだ。だから、これがもし初代のセルシオだとしたら、きっと二十五年前の車ということになる」

「……はあ」

「二代目のF20型は外観こそ似たようなものだけど、中身は最高級車らしく格段に改良されて、三代目のF30型が発売されるまで市場を席巻したんだ。で、三代目はかなりデザインが変更されていることもあり、これが初代か二代目のどちらかということまでは確定できる」

 

 僕の説明をすごくつまらなそうに御子内さんが聞いているのが、さっきのイベント会場でのことを思い出させる。

 嫌なら聞かなきゃいいのにね。

 

「―――はあ、この〈付喪神〉退治が終わったら、京一とは車の話は一切しないことにしよう。恋人を無視して車の話ばかりされたらたまらないし」

「え、何か言った?」

「ううん。なんでもないよ。……で、それがセルヒオだとわかったからといってどうにかなのかい?」

 

 セルヒオ・ラモスみたいに言わないでくれ。

 右サイドを駆け上がったりはしないぞ。

 

「これが、音子さんの追っていたという〈付喪神〉ならば、どうしてそんな風になってしまったのかもわからなくもない気がするってこと」

「ちんぷんかんぷんだ。今日の君は、ボクの京一とはちょっと違うような気がしてならない」

「……セルシオには哀しい風評被害があるんだ」

 

 僕はさっきの記事をよく見てみた。

 特に四人の被害者についてだ。

 それでなんとなくわかることがあった。

 これは僕だけの推理だが、きっとそんなに間違ってはいないだろう。

 最高級車と言われた初代かもしくは二代目のセルシオが、人間に捨てられた道具として〈付喪神〉という妖怪になってしまった理由について。

 

「まったく。ボクには意味がわからないよ」

 

 プンスカと膨れる御子内さん。

 とは言っても、僕の気分がよくなる訳でもないので、できる限りネットで情報を掻き集めた。

 音子さんのところに行く前に、少しぐらいは役に立つ情報を仕入れておかないとならないから。

 

「ところで、そのセルシオの〈付喪神〉の特徴については何か聞いているの?」

「……ん、ああ、再生するのが早いらしい。ただ、奴は車みたいだし、運転席でもいいから中に飛び込んで祓串《はらえぐし》を突き立てればだいたいすぐに活動停止するよ」

「そう、うまくいくかなあ」

「どうしてだい?」

 

 僕は一般的な車の構造を思い出していた。

 最近のハイブリッド車のようにボディが軽量化されているものならまだしも、二十年以上前の高級車が相手となるとガラス窓でさえかなり丈夫にできている。

 真っ正面で対峙する御子内さんがこのぐらいの楽観論だということは、僕の方でかなり用心しなければならないかもしれないな。

 

 僕は川越で待つ妖怪退治が一筋縄ではいかないであろうことを予感していた。

 

 

 

 



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檻の外の狂獣

 

 川越駅につくと、僕たちは御子内さんの身支度を急いで整えた。

 さすがにブラウスとスカートで戦う訳にはいかないからだ。

 少し遠回りして、御子内さんの家に寄るということもできたが、最低でも二時間以上のロスが考えられ、音子さんの現状からすると難しかった。

 駅前のスポーツ用品店に入り、ジャージの上下を購入する。

 スカート姿の御子内さんという、滅多に見られない可愛らしい恰好は、動きやすいだろうがややダサい見た目に劣化してしまう。

 彼女ぐらいの美少女になると、どんな服装でも似合うものだが、やはりガーリーなファッションの方がよく似合っていた。

 しかし、普段は巫女装束しかまとわないのに、今日に限って珍しく私服姿だったのはどうしてだろう?

 

「どうだい、京一?」

「似合っている。可愛いよ」

 

 まったく美少女は何を着ていても美少女である。

 次に僕たちはホームセンターに行き靴を購入した。

 ただの靴ではなく、工事現場で履くようなつま先を金属で防護した安全靴だ。

 二軒巡って見つけ出したそれは、こちらの想定通りのものだった。

 

「……ボクは試合をするならリングシューズの方がいいんだけど。それに武器を隠しているみたいで気分がよくない」

「今回はマットの上で戦う訳じゃないんだから、リングシューズは止めた方がいいと思う。それに凶器とは違うでしょ」

「レフェリーにチェックされたら反則負けさせられてしまう」

「いや、いつもレフェリーいないじゃん」

 

 車に憑りついた〈付喪神〉が敵であるということを考えると、スニーカーやバッシュを買うよりはこっちのほうがいいという僕のコーディネートだ。

 セルシオは高級車だけあって、ボディもしっかりと頑丈に造られており、少しぐらいの小細工は弄したほうがいいだろう。

 ついでに僕も同じ店で幾つか物品を購入しておいた。

 万が一のための用心だ。

 

「よし、じゃあ行こうか」

 

 白地に赤いラインのデザインのジャージと無骨な安全靴という、どう見ても巫女っぽさの欠片もない御子内さんと共に、僕は駅前のロータリーでタクシーを拾った。

 もうそろそろ陽が暮れる。

 昼が終わり、夜になる時間帯。

 古えより、妖怪変化・魑魅魍魎の活性化する逢魔が時として知られる黄昏の中では、いつも闇に巣食うものたちの力が増していく。

〈付喪神〉退治に行った音子さんの身が危なくなる前に合流しないと……。

 気のせいでもなく、音子さんを案じているのか、どんどん御子内さんの表情が堅くなっているのを感じる。

 

「お客さん、どちらまで」

 

 タクシーの運転手が、高校生の男女二人連れにちょっと驚いたようだった。

 まだ子供に分類される僕たちのような年頃が、こんな風にタクシーを利用したりはしないからだろう。

 ただ、御子内さんは慣れたもので、平然としている。

 タクシーの正面を指さし、

 

「あのカラスを追ってくれ」

 

 と尾行に赴くドラマの刑事のように指示した。

 想定外のことに呆気にとられる運転手の目の前に、一匹のカラスが舞い降りて、何度も鳴き声をあげながら旋回して、いかにも「ついてこい」という感じで飛んでいた。

 八咫烏だった。

 

「え、カ、カラス?」

「大丈夫だよ。あれは信号待ちしているときもこちらに合わせて飛んでくれるからね。見失ったりはしない。ただ、追跡に気を取られて事故を起こさないようにしてくれ」

「……カラス?」

「さあ、あいつの後を追ってくれ。急いでくれよ、時間がないんだ」

 

 非常に自信満々な女子高生の、非常識な発言に気圧されたのか、タクシーは言われたままに飛び立つカラスのあとを追い始めた。

 音子さんが〈付喪神〉と戦っていた場所の住所を八咫烏がわかっていなかったので、直接案内させることにしたのだ。

 ちなみに僕たちが電車に乗っている間に、あいつはずっと外で飛んでいたのである。

 

「カラスの道案内なんて初めてですわ」

「そうだろうね。でも、古来より人はよく動物たちの導きに従って色々と大事なことを見つけ出したりしたものなのさ。運転手さんもたまには人間以外の生き物の後を追ってみるといいよ」

「はあ……」

 

 巫女さんの説教はよくわからない。

 とはいえ、半信半疑であったとしても、先導するカラスに導かれるままにタクシーを運転して、川越市を西へと移動していく。

 そのうちに、田んぼやらが多くなり、目につく住宅が少なくなっていった。

 

「御子内さん、あそこ」

「おや。パトカーだね。覆面もいれると五台も停まっている」

 

 僕たちの乗ったタクシーが一軒の大きな農家っぽい豪邸の前に停まっているのが見えた。

 遠目からでもかなりの豪邸だとわかる。

 その庭先に、警察車両が集まっているのだ。

 

「……運転手さん。あれが誰の家か知っていたりしません?」

 

 試しに僕が聞くと、予想外に回答があった。

 

「このあたりに住む成金の家ですよ。西武が鉄道を開拓したときに儲けたらしいって有名な話です。腐るほど金を持っているらしくて、私も客として乗せたことがあります」

「お大尽の家かい。でも、どうして警察があんなに溜まっているんだ? 事件でもあったのかな」

「さあ。なんでしょうね。空き巣にでも入られたのかな」

「……いや、たぶん、僕はわかるよ」

「なんで京一にわかるんだい?」

「おそらくあそこには性質の悪い四十代ぐらいの、独立していない男性がいるんじゃないかな」

「具体的だね」

 

 だが、僕の想像は運転手さんが肯定してくれた。

 

「よくご存じですねえ、お客さん。もしかしてこのあたりに詳しいんですかい」

「違いますけど、だいたいそんなところじゃないかなと思ったんです。僕の言ったことは的を射てましたか?」

「確かにあの家にゃあ、評判の悪い跡継ぎがいますがね。……あそこが、あのカラスくんの目的地なんですかな」

 

 だが、八咫烏は警察の集まっている豪邸をスルーして、もっと先へと向かった。

 寂れた県道沿いは、打ち捨てられて廃業した施設などが幾つも目に付いた。

 対向車両もあまり見当たらなくなる。

 そろそろ舗装も雑になりつつある郊外の県道を走っていくと、八咫烏はある拓けた方角へと進路を変えた。

 そこは閉鎖されたドライブインの跡地であった。

 

「お客さん、あのカラス変なところに飛んでっちまいましたぜ」

「ここでいいよ。お釣りはいらないから」

 

 と、御子内さんが一万円札を手渡す。

 

「もし良かったら、帰りも迎えに来てくれないか」

「そりゃあ、奮発してもらえるんなら別にいいですけど……」

「帰りはもう一人増えていると思うけどね」

 

 そういって僕たちはタクシーから降りた。

 完全に閉鎖されたドライブインの建物以外、民家の一つも見当たらない寂しい場所であった。

 いかにも妖怪が跳梁跋扈してそうな景色だ。

 

「この近くには他にどんなものがあるんだい?」

「確かね、坊さんが夜逃げした寺とかがあったような……」

「ありがとう。そこがボクたちの目的地さ。では、あとで」

 

 心配そうな運転手の顔に気がついていないのか、御子内さんは意気揚々と歩き出した。

 僕も紙袋に入れた御子内さんの服を持って背中に続く。

 よく考えなくとも奇妙な二人組なんだろうね。

 こんな人里離れたところにやってきただけでなく、カラスの道案内がついているんだから。

 

「この道を進んだ左手にお寺があるね。圓山寺(えんざんじ)だそうだよ」

「音子がたてこもっているというのはそこだ。ふむ、人目につかないところに〈付喪神〉を誘いだしたのはいいが、退治できないで囮になるしかなかったとは、あいつにしては珍しいしくじりだな」

「きっとあれが悪いんだと思うよ」

 

 僕は前方のダメカラスを指さした。

 

「しかし、どうやって勝手に動き回る〈付喪神〉を誘き出したんだろう。さっきの記事によるとこの〈付喪神〉は川越を中心に適当に暴れ回っているみたいなのに」

「適当ではないと思う。おそらく、音子さんは〈付喪神〉の次のターゲットを把握していて、その周囲を見張っていたんだ」

「―――そんなことができるものなのか」

「普通に調べれば、たぶんわかったんだろうね」

 

 その時、ブオオオオオという獰猛な爆音が耳に届いてきた。

 前方に目を凝らすと、やや小ぶりな古い寺の門構えとその入り口でタイヤを回転させて歯ぎしりをしているかのようなセダンがいた。

 こちらの予想通り、中が見えないように窓ガラスにスモークを張った、黒いセルシオだった。

 しかも、どういう訳かほとんど新品のようにボディはピカピカに輝いている。

 とても二十年以上前のモデルとは思えない。

 タイヤが地面を削りあげ、白い土煙が上がっている。

 ブレーキでもかかっているのか、開け放たれた門の中には何故か入ろうとはしない。

 グオオとエンジンが凄まじい怒声を発し、焼けつくようなタイヤの摩擦音が耳障りだ。

 普通にこんな風に回していたら、エンジンもタイヤもすぐに焼き切れてしまう。

 

「どうしてあんなところで停まっているだろう?」

「お寺は御仏のご加護があるからだろうね。〈付喪神〉程度の霊格だと例え廃寺であったとしても立ち入れないんだ」

「そうなんだ。じゃあ、音子さんはあそこに?」

「まず間違いないだろう。すぐそこの駐車場でやりあってみたけど、分が悪くなって一度退却したというところかな」

 

 車というよりも癇癪を起したストーカーに家の前に陣取られているという風にしか見えない。

 あの調子では逃げ出そうとするのも難しいだろう。

 なるほど、八咫烏が急いで助けを求めにきたわけだ。

 

「どうする?」

「今のところ、ボクたちはあいつに気がつかれていないようだから、回り込んで圓山寺の別の場所から入って音子と合流しよう」

「そうだね」

 

 僕たちは遠回りをして、周囲が完全に薄暗くなる前に圓山寺の壊れた土塀の隙間から潜り込み、正門の方に戻った。

 朽ち果てた寺の正門の中、手入れがされておらず荒れた境内の大岩の上で音子さんが両足を抱えて、ぽつんと座り込んでいる。体育座りが妙に似合う。

 白い覆面の巫女は何をするわけでもなくセルシオを見つめている。

 目の前には、呪いと怨嗟の声のようなエンジン音を撒き散らすセルシオが、檻に囚われた飢えた猛獣のように暴れていた。

 どうやらあいつは音子さんに執着しているため、ずっとあそこで狂っているかのごとく暴れているようであった。

 まさに狂態といえよう。

 それは車というよりも、憎しみに我を忘れた狂気の存在そのもの。

 何も見えないスモーク張りのガラス窓の奥には、負の思念に塗れた泥がいっぱいに詰まっているのかもしれない。

 

「―――音子!」

「……アルっち」

 

 御子内さんの呼びかけに音子さんが振り向く。

 かなり消耗しているようだった。

 以前会った時のような覇気が見当たらない。

 雰囲気からしてどんよりとしていた。

 

「手助けに来た。大丈夫だったか? ……元気がないようだけど」 

「……」

 

 そっと差し出されたのは、彼女のスマホだった。

 真っ暗で電源が切れていた。

 

「……バッテリー切れ」

 

 心底悲しそうに音子さんはいう。

 こんな廃寺では電気も通っていないだろうし、充電ができなかったのも当然だ。

 まあ、あんなに長文のメールやらラインやらやっている人だとバッテリー切れも相当早いだろうし。

 ただ、大きな怪我がなくて良かった。

 いつも通りの友達に拍子抜けしたのか、安心したのか、さっきまで強張っていた御子内さんの顔に笑顔が戻った。

 うん、いつもの君だね。

 

「よし、じゃあ、そろそろ〈付喪神〉退治を始めるとするかね❕」

 

 友達の無事を確認したことで気を良くしたのか、御子内さんは元気に拳を掌に打ち付けて、開戦の狼煙のごとき気合を吐くのであった……。

 

 

 



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ファイナル・カウントダウン

 

 もうすぐ陽が落ちて、このあたりは真っ暗になる。

 唯一の灯りといっていいのは、圓山寺に隣接する通りに設置されたボロい外灯だけ。

 闇に潜む妖怪変化のための時間が始まろうとしていた。

 

「音子さん、あの車の〈付喪神(つくもがみ)〉の特徴を教えてくれないかな」

「……」

「君が苦戦するほどなんだから、きっと何かがあるんでしょ?」

 

 すると、音子さんは僕の顔を見て言った。

 覆面なので表情はわからないけど、露出している眼差しの真剣さは伝わってきた。

 

「……京いっちゃんって呼んでいい?」

「どうぞ。好きにして」

「……グラシアス」

 

 相変わらずたまにスペイン語らしきものが混ざる独特の会話をする娘だ。

 あと、今考えるとルチャリブレを使うからといって覆面を被る必要性はあるのだろうか。

 それとも正体を隠さなければならない理由があるのかな?

 

「京いっちゃん」

「何?」

「ノ。呼んでみただけ」

「そう。で、あいつの特徴はどうなのかな?」

「―――戦いのワンダーランドな再生能力があるよ。どんなダメージでも四十秒経過したら一気に元に戻る。だから、四十秒全力で完璧にボロボロにしないと」

「どこか壊せた?」

「……ノ。窓ガラスも堅くて壊せなかった」

 

 巫女レスラーの力でもセルシオのボディを破壊するなんて、容易じゃないだろう。

 最高級車というのは、内部の人間をちょっとやそっとの事故からなら守り切ることができるように設計・生産されているのだから。

 それでも御子内さんのパワーならドアを剥ぎ取ることぐらいなら可能だろう。

 

「音子さんはどうするプランだったの?」

「……中に入り込んで祓串(はらえぐし)を突き刺す予定だった。無人の車だから、スペースはあるし、入ってしまえばなんとかなると思って」

「それがいいよね」

 

 スモーク張りの窓ガラスの中には、誰も乗っていない無人の車《カー》なんだよね、アレ。

 無人車が行動を爆走していたなんてことが目撃されていたら、もっと面倒くさいことになっていただろう。

 幸い、さっきネットの町情報とかを調べても、「幽霊車(ザ・カー)現わる!」なんて記事は上がっていなかった。

 噂になったら大騒ぎだ。

 人が運転しない車というのは、無機質すぎてかなり不気味なものだからね。

 

「御子内さん、こうしようよ。……って、なに膨れているの?」

「いや、いつも思うが君はもう少し相手によって態度を変えたほうがいい」

「? そんなことしたら、一部の人に反感を買うじゃないか」

「いつか刺されるぞ、京一は」

「どうして? まあ、いいや。で、僕からの提案なんだけど、さっきの音子さんのプランを利用していこうよ。……まず、危険だけど御子内さんが〈付喪神(セルシオ)〉を引きつけて、ぶっ叩く。できたら、フロントガラス部分を破壊して欲しい。それから、身軽な音子さんが内部に潜り込んで祓串(はらえぐし)を差し込む。それで動きは止まるんでしょ?」

 

 二人の巫女は頷いた。

 

「セルシオは乗り心地はいいらしいけれど、大型車の常で小回りの利く車じゃない。だから、闘牛と一緒で直線の攻撃を躱したら、次には時間的余裕ができる。何度か繰り返してタイミングを見計らって、音子さんが動けばいいと思う」

「難しくはないけれど、退魔巫女としてはちょっと気が乗らないな。ボクはやっぱり〈護摩台〉の上で戦いたい」

「こういう野良試合も大事だよ。最強を目指すならストリートファイトにも勝てないと」

「……ほお、確かにそうだね。どんな状況でも勝ててこその退魔巫女だ」

 

 こう言っては何だが、御子内さんはチョロい。

 微笑ましく小鼻を膨らました巫女レスラーはちょっとワクワクしているようだった。

 その顔が眩しく光る。

 振り向くと、セルシオのヘッドライトが点灯して、僕らを照らし出していた。

 親切でやっている訳ではないはずだ。

 僕たちを威嚇するためだろう。

 いつまでたっても寺から出てこない僕らを挑発するためでもあるか。

 

『気ヲツケロ! 夜ニナッタラ妖怪ハチカラヲ増スゾ!』

 

 門の柱の上に宿っていた八咫烏が喚いた。

 そうか。

 いつまでもこの膠着状態が続くともいいきれないんだ。

 さっきから門の前で暴れ狂っているセルシオがいつ突入してこないとも限らないということだね。

 

「お寺の狭い境内での戦いは不利だ。打って出ようか」

「……シィ」

 

 御子内さんたちは並んで立った。

 ジャージ姿と巫女装束なんで、ミスマッチは凄まじいぐらいだけど。

 

「京いっちゃんは隠れてて……」

「うん。情けない男でごめんね」

「……この前、助けてもらったから」

「〈天狗〉の時のこと? ああ、いいっていいって、あんなのいつものことさ」

「……いつもなの?」

「うん。御子内さんも結構やらかすからね」

 

 いつもカッコいいくせに、僕の巫女レスラーはよく失敗をしでかす。

 リングの設営よりもその尻拭いが僕の一番の仕事かもしれない。

 すると、恐ろしい目つきで睨まれた。

 ゾクゾクするよね。

 

「京一。あとで折檻してやる」

「おお、コワ。―――じゃあ、音子さんもしっかりね」

「グラシアス」

 

 僕は門の隅っこに隠れた。

 結界の張られたリングの上と違い、あのセルシオとの戦いに迂闊に近寄ったら、完璧に足手まといになるだろう。

 御子内さんの足を引っ張る訳にはいかない。

 それに音子さんとのタッグならば、彼女の負担も減るだろうし、心配はいらないはず。

 ただ、いざという時に備えて楽観はしすぎないようにしないと。

 

「では、行こうか」

「……『スカイ・ハイ』が鳴らないとやる気がでない」

「ボクだって盛り上がりには欠けているとは思うけど、贅沢を言うんじゃないよ」

 

 セルシオの正面からのヘッドライトに照らし出された二人は、とても頼もしかった。

〈付喪神〉となったセルシオが沈黙する。

 どうやら怪異らしい本能で、敵が本気になったのに気がついたらしい。

 短い間だが睨みあう両者。

 突然、セルシオから高らかとキーボードの音が響き渡りだした。

 

 チャーンチャラチャチャチャ チャーラー チャラチャチャチャチャチャーン

 

「何だ?」

 

 このメロディアスなライン、聞き覚えのある旋律、最初の一撃を放つために数字を刻むかのようなハイアップテンポ……

 まさか、これは……

 

 ウィ イービング トゥーガーザ~♪

 

 ヴォーカルの歌声も加わり、僕にとっても曲名がはっきりする。

 間違いない。

 セルシオがどういう訳か生きているステレオから流し始めたのは、EUROPE(ヨーロッパ)の「ファイナル・カウントダウン」だ。

 スウェーデン出身のヘヴィメタルの先駆けと言われているバンドEUROPE最大のヒット曲だった。

 それを最大音量で流し始めたのだ。

 まるで自らの戦いのBGMのように。

 

「……なんのつもりだ」

 

 御子内さんにはわからないようだったが、僕には想像がついた。

 きっとあのセルシオがまともな高級車として、路上を走っていた頃の懐かしい記憶の曲なのだろう。

 八十年代の最期を席巻したヒットソング。

 それを戦いの鐘に選んだのだ。

 

「……燃える」

 

 自分自身もジグソーの『スカイ・ハイ』に左右される音子さんにとっては、かなりいいチョイスだったのかもしれない。

 さっきまでのやる気のなさが薄れ、闘志が漲っているようだった。

 そして、始まる。

 二人の巫女レスラーと鉄の〈付喪神〉の、容赦無用のストリートファイトが。

 

 カアアアア

 

 八咫烏の叫びを合図にして、鳴り響くヘヴィメタルのリズムに乗りつつ、御子内さんたちは自分たちを守っている寺の境内から飛び出ていった。

 左右に分かれ、的を絞らせない。

 だが、すぐにセルシオは左に行った音子さんに向けてノーズを向ける。

 やはり元々狙っていた方を優先したのだろう。

 V8・4000ccのエンジンが唸りをあげた。

 一度、バックして、車輪を動かし、切り返したうえで音子さんを狙おうとする。

 発進がスムーズなところはいかにも高級車だ。

 だが、その隙を逃すことのない抜け目のない戦士がいた。

 反対側から助走をつけて、御子内さんが後ろ回し蹴りを運転席側のドアにぶち込んだ。

 ベコンと嫌な音をたてて、金属が凹む。

 くっきりと足跡が残されていた。

 さすがは御子内さんの蹴りだ。

 普通、あんなにくっきりと足型が残ることはない。

 もっとも、それがセルシオにとってダメージになるかというとそんなことはないだろう。

 僕の愛車があんな目にあったら間違いなく発狂して、すぐに保険屋に電話しているに違いないけど。

 ブオンと排気音がして、セルシオは何事もなかったかのように音子さんを追う。

 逃げずに待ち構えていた音子さんは横っ飛びで避けた。

 その眼前をすり抜けていったセルシオは、キキキキと急停車して、また旋回する。

 まったく小回りが利いていない。

 最小回転半径を二代目で改良されたのもわかる。

 あれでは、日本の都内では融通が利かなすぎるだろう。

 

「とお!」

 

 旋回した瞬間に、走りこんだ音子さんがリアのトランクの上に脚をかけて、屋根にまで駆け上った。

 そして、踵を踏み下ろす。

 何かが砕ける音がする。

 車というのは正面や横からのダメージには強く設計されているが、上からのダメージは想定していない。

 いくら最高級車であろうとも。

 だから、てっぺんが弱いと見た彼女の策は当たっているはずだ。

 何度もストンピングをして凸凹にする。

 耐え難かったのか、邪魔だったのか、セルシオは急発進した上に蛇行して振り落とそうとするが、腰を落として窓枠に指をかけた彼女を外すことはできない。

 そのためさらに加速し急制動した状態で、乱暴にハンドルを切りスピンをさせつつ、タイミングを掴み、サイドブレーキを引いて後輪をロックしてグリップを失わせる。

 セルシオは横滑りをし始め、制動しながら向き変えた。

 

「ドリフト! 人生横向きか!」

 

 北村和浩みたいに綺麗なドリフトをする。

 ドリフトを使うのは、ハンドルを切っても、切った程には曲がれないことと、タイヤを横滑りさせることでタイヤのトレッド面と路面の間の摩擦をブレーキ代わりにすることにある。 

 そして、ドリフトの急制動に屋根の上でしがみついていた音子さんが吹き飛ばされる。

 ただのブレーキとはかかるGが違うのだから仕方ない。

 回転しながらの見事な着地はさすがという感じだった。

 しかし、たったわずかの攻防でも退魔巫女側はうまく戦いの帰趨をはかれないままでいることがわかる。

 今のドリフトでもわかることだが、あいつはただの無人の車ではない。

 一流ドライバーのテクをも備えた厄介な相手でもあったのだ……。

 

 

 

 



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私の愛車は狂暴です

 

〈付喪神〉に憑かれた車の最大のメリットは、ガソリンというものを必要としないことだろう。

 あと、定期的な車検を必要とする経年劣化とは無縁になることだ。

 そうすると、維持費が大分安くなってユーザーは大助かりになるね。

 いや、そんなことを言っている場合じゃないな。

 

「ボディはやっぱり硬いから、窓ガラスを割るんだ! あと、ヘッドライトも狙ってみて!」

「オーケーだ!」

 

 御子内さんは一気にセルシオまで駆け寄ると、横蹴りでヘッドライトのガラスを破壊し、そのまま一回転して、助手席のガラスを踵で割り砕いた。

 さすがに振り向きざまのターンが早い。

 体幹が強く、体重の乗せ方がとんでもなく上手いのだ。

 薄目の被膜を二枚で挟み込んで作る合わせガラスのフロントと違い、サイドは比較的割りやすい強化ガラス製なので、御子内さんの踵によって一面が完全になくなった。

 強化といっても、表面または内部にひずみ層というのを作り、広範囲に力が均等に加わった場合はかなりの強度に耐えられるようになっていても、一点に力を加えられるとその部分から一気に崩壊して砕け散ってしまうからだ。

 そこで、いけると思った矢先、なんと助手席のドアが開き、ガードごと巫女を弾き飛ばした。

 ガードが早かったことと、ドアアタックは方向が限定されるということもあり、御子内さんにはたいしたダメージはなさそうだったが、それでもセルシオにああいう攻撃もあると知れたのは良かった。

 窓を破られたセルシオが加速して逃げるのを追うかのように、脇から現われた音子さんが開いたドア目掛けて蹴った。

 ガツンと留め金の部分が壊れたのか、開いたままのドアがきちんとしまらなくなる。

 よし、あのままドアをもぎ取ってしまえば……。

 と思いきや、セルシオの全体からギュオンギュオンと耳障りな音が鳴りだして、さっき割られた窓やヘッドライトのガラスがまるで生き物の爪のごとく薄く広がっていき、最終的には元の形に復元した。

 それ以外に、最初に御子内さんがつけた足型も綺麗になくなっていた。

 

「あれが……」

 

 音子さんの言っていた四十秒後の再生能力か。

 まずいな。

 あれほどの再生だと、もし車をスクラップにするためのプレス機で完全に潰したとしても、すぐに原型を取り戻してしまうかもしれない。

 これは物理的な力だけの破壊ではどうにもならないかも。

 巫女の神通力を使った祓串(はらえぐし)による封印しかないか。

 つまり、音子さんの当初のプランが一番ということだ。

 

 バババババババババ ジャジャジャーン ♪

 

 とカーステレオが何か新しい旋律を奏で始めた。

 短いキャッチーなイントロのあとに、ややガラガラした声と高いハスキーボイスのヴォーカルがノリがよくわかりやすい歌詞を歌い始める。

 

 コノオレサ バードメデスーン オウオウセイ ソラーミオオオー ♪

 

Bad Medicine(バッド・メディシン)? 今度はボン・ジョヴィか?」

 

 また古いところを持ってきたね。

 おかしな車に、セックスとロックンロールはハリウッド映画の定番だ。

 だけど、少しだけ哀しさが湧く。

 あのセルシオは自分が車として最高だった時代の曲を流して、〈付喪神〉として何かをなしとげようとしているのだ。

 そして、僕はその何かについてもう想像がついている。

 御子内さんたちは大音量のハードロックに惑わされないように、さっきと同じように二手に分かれて囲む。

 車という機械は正直に言うと、前後にしか動かないものである。

 横に回られたら、旋回しない限り敵を攻撃できない。

 だが、そこでセルシオはなんと後輪だけをつけたまま、ぐっとノーズを持ち上げた。

 金属のフレームをギギギキと耳障りに叫ばせながら、後脚でふんばる怪物のように。

 

「なっ!」

 

 さすがの巫女たちも驚いたようだった。

 今まではただのセダンタイプの自動車と戦っていたと思ったら、いきなり妖怪っぽい歪んだグロテスクな立ち姿を披露してくれたのだから。

 後肢で立ちあがり、リアのトランク部分を引きずりながら、御子内さんたちに向き直る。

 前進しながらよりも小回りが利くのか、がくんとフロントノーズが落ちてきて、そのまま巫女に襲い掛かった。

 間一髪躱したものの、これまでの直進を避けて狙うという作戦は通じなくなってしまつたかもしれない。

 それに立ち上がってくるとなると、フロントガラスを悠長に割っている余裕はないはず。

 しかし、割りやすい強化ガラス製のサイドは幅が狭く、小柄な彼女たちでもするりとは侵入できないだろう。

 セルシオは自分のドアを自在に操れるということも判明している現状では、ドアからの侵入は厳しすぎる。

 やはりフロントガラスを一撃で完全に割って、ほぼタイムラグなしに中に躍り込むしかあるまい。

 だが、あんなにも暴れ回る車に接近するだけでも危険だというのに飛び移るとなると……。

 僕は買い物袋の中に突っ込んでおいてアイテムを取り出す。

 万が一のためにさっきのホームセンターで購入しておいたものだ。

 だが、これを使うというのはかなり断腸の思いがある。

 できたら使いたくなかった。

 なぜなら、御子内さんのプライドを傷つけてしまうかもしれないからだ。

 でも仕方ない。

 泥は僕が被ろう。

 

「八咫烏!」

 

 僕が叫ぶと、門の上から戦いを見守っていた使い魔が飛んできた。

 

『ナンノ用ダ、色魔メ』

 

 腹が立つが今はそんな場合じゃない。

 

「おまえ、どの程度重いものなら運べる?」

『ドウイウコトダ?』

「いいから、僕の言うことに答えろ。()()は大丈夫か?」

 

 僕が差し出したアイテムを見て、八咫烏は首を縦に振った。

 

『コノ程度ノモノナラバ問題ナイ』

「よし、おまえ、こいつを御子内さんに届けろ。―――いや、待て。おまえ、これを振り下ろせるか?」

 

 僕は八咫烏に使い方を説明した。

 すると、八咫烏は嘴でアイテムをつまみ、指示通りに振るって見せた。

 速度的にも問題ない。

 鳥類のくせに人間の道具を使いこなせるらしい。

 

『コレハ金槌ナノカ?』

「広義ではね。でも、これを使えば―――御子内さんたちの勝機を演出できる。やってくれ、頼む」

『貴様ナドニ頼マレル謂レハナイ。我々ハ巫女ノ助手デモアルノダ』

「よし」

 

 交渉と悪だくみは成立した。

 そこで、僕は御子内さんに向けて叫んだ。

 

「御子内さん! これから僕と八咫烏がフロントガラスを割る! その瞬間にセルシオの中に飛び込んで!」

「―――何をするつもりだい!」

「いいから、僕の言う通りにして! 助手《ぼく》たちを信じて!」

「わかった!」

 

 作戦の全容まで説明する必要はない。

 僕たちはチームだ。

 チームの根幹は仲間を信じること。

 

「GO! 八咫烏!」

『マタトナケ!』

 

 八咫烏は垂直に飛び、そして一気に上昇する。

 夜に飛ぶカラス。

 何かの伝説通りだ。

 そして、百メートルほど上昇すると、今度は一気に急降下していく。

 嘴に鉄の道具を咥えながら。

 

「いっけえええええ!!」

 

 僕が怒鳴ると同時に、八咫烏はセルシオのフロントガラスに激突して、一瞬で内部に弾けるように分厚いガラスが散華する。

 普通ならばカラスが一羽ぶつかった程度でも、御子内さんが本気で蹴りを入れても、あんな風には弾け飛ばない。

 だが、強化ガラスを割るためだけに用意されたようなものがある。

 緊急時ライフハンマー、がそれだ。

 運転中にエンジンが火を噴いたり、水中に落ちてしまった時に、簡単にガラスを割って脱出するために、先端を尖らせる加工をしたハンマーである。

 あれがあれば簡単な力―――カラスがぶつかる程度の衝撃でも、フロントガラスを粉々に砕ける。

 ただ、もちろんフロントガラスは普通よりは堅い。

 それを破るために八咫烏は百メートルの落下速度を必要としたのだ。

 

「音子、来い!」

 

 御子内さんがセルシオに背中を向けて、両手をバレーボールのレシーブのように組んだ。

 そこに目掛けて、意図を察知した音子さんが走りこみ、その手の上に脚を乗せる。

 タイミングを見計らって、御子内さんが掬い上げた。

 音子さんを。

 もともと空中戦が得意でジャンプ力のある音子さんだ。

 御子内さんの補助がありさえすれば、限界まで高く跳びあがれる。

 一気にセルシオのボンネットの上に到達すると、滑り込むように内部に侵入する。

 運転席に転がり込んだまま、音子さんは懐に仕舞い込んでおいた祓串《はらえぐし》を取り出して、ハンドルの隙間目掛けて突き立てた。

 同時にあれほどがなり立てていたエンジンと、流れ続けていたボン・ジョヴィの楽曲が止んだ。

 恐ろしいまでの沈黙がその場を満たす。

 そして、見る見る間にピカピカに輝いていたボディは、塗装が禿げてしまい錆ばかりとなった金属板となり、ライトのあった場所には電球すらもなく、地面を駆けていたタイヤもパンクした汚いゴミへと変貌していく。

 いや、戻っていくのだ。

 ()()()()()()()()()姿()()

 八咫烏が割ったフロントガラスだって、元々粉々だったに違いない。サイドガラスでさえ、もう残っていなかったのだから。

 シートはボロボロに破けスプリングが飛び出し、豪華だった内装はただの動物の巣のように荒れ果てていた。

 怪異でなくなってさえしまえば、このセルシオはスクラップ以外の何物でもなかったのだ。

 

「……やった」

 

 錆びついてしまい開くのもやっとのドアを開けて、音子さんが出てきた。

 覆面でわからないが、相当疲れ切っているのがわかる。

 僕は音子さんとハイタッチを交して、セルシオのところにいった。

 セルシオユーザーでない僕にも一目でわかることがたくさんあった。

 思わず、ボディを優しく撫でてしまう。

 

「……京一」

 

 御子内さんが、そんな僕の様子を変に思ったのか浮かない顔をしている。

 勝利の余韻のようなものはない。

 きっと僕のせいなんだけど。

 

「御子内さん、ごめん。手を出しちゃった」

「八咫烏とのことかい?」

「うん。ああいう反則というか、おせっかいな手助けって御子内さんは嫌いだったよね」

 

 もし御子内さんのプライドを傷つけてしまったらと僕は反省していた。

 ただ、彼女は優しく微笑んで、

 

「いいさ。これは試合じゃない、ただのストリートファイトだ。色んな要素が混じり合ってしまうものなんだよ。そもそも、〈付喪神〉相手に一対一でない以上、ボクが京一の手を借りたって文句を言える道理はない」

「そう……なんだ。でも、ごめん」

「気にしないでくれ。―――で、話してくれるんだろ?」

 

 僕は俯いていた顔を上げた。

 

「何を?」

「その〈付喪神〉の事情をさ。きっと京一は見抜いているんだろ。どうして、この―――セルシオがこんな風になったのかについて」

「うん」

 

 御子内さんが車の名前を覚えてくれていた。

 ちょっとだけ嬉しかった。

 

 



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ある最期

 

「……セルシオは、トヨタのレクサスから発売された高級車だ。だから、当時、多くのユーザーが購入した。もうバブルははじけていたけど、小金を持っている人たちはまだ残っていたからね」

 

 僕は鬼哭啾啾といった感じで、打ち捨てられて無残なスクラップとなったセルシオを見ながら言った。

 

「高級車を買うユーザーにとっては、その車を所有しているということがステータスである必要がある。乗り心地とかはあまり関係ない。高級車のユーザーという肩書こそが大切なんだ。セルシオもそういう理由で買われた。だけど……」

「だけど?」

「海外のブランド―――ベンツとかと違って、トヨタの高級車には歴史がない。歴史がないから、少し古くなったら、型落ちしたら、すぐに買い替えられてしまう。このセルシオは初代の型だけど五年もしたら、二代目になり、さらに数年で三代目で外観も変わったら、元々セルシオに愛着のないユーザーはこぞって買い替えた。結果として―――」

 

〈付喪神〉となったセルシオはもう動かない。

 

「中古として市場に大量に流れ込んだ」

 

 あいつはその中の一台だったのだろう。

 

「ベンツとかBMWの中古は値段が高い。中古でも所有していることで『外車のオーナー』としてのステータスが付随するからだ。だが、セルシオは国産なので高級車であったとしても中古だと簡単に手ごろな値段になってしまう。……そこで、安くなったセルシオを買いまくる層というのが現われた」

「売れたのなら、それでいいじゃないか」

「うん。セルシオの安定感と見た目の重厚感は型落ちしても高級車のイメージを保っている。それはある意味、威圧的でもある。乗っているだけで他のユーザーを威嚇できるということから、その手のイメージを求む層―――チンピラやゴロツキといった連中が手に入れたがり、改造したり、無茶な割り込みや追い越しを繰り返したりして、―――セルシオのイメージは地に堕ちた」

 

 僕は近所のゴロツキのお兄さんのことを思い出した。

 ああいう人がこぞって買えば、どんな高級車でもおかしな肩書がつく。

 マーク2が暴走族専用とまで呼ばれたり、ハイエースが拉致誘拐のための車と揶揄されたり、そういう負の肩書だ。

 

「今、セルシオのイメージは最悪だ。安定したフロントデザインは悪い顔の見本と言われたりしてね。そして、そういうユーザーが飽きたら市場に流し、第三、第四の似たような客が購入していったりしてさらに悪くなる。大切に乗ろうなんてするものは減るだけだった。―――らしいよ。僕が知っている限り」

 

 そして、あいつみたいに、

 

「セルシオに限った話ではないけど、そういう話はたくさんある。そうやって最後には心無い連中によってパーツだけ剥ぎ取られ、どこかの路上や空き地や山の中に捨てられた車は星の数ほどあるんだ。だから、あのセルシオも―――〈付喪神〉になったんじゃないかな」

「……どうしてそうわかるんだ」

「あいつが撥ねた人たちに、無職とか住所不定が何人もいたんだ。おそらく、元の所有者だったんだろう。そして、あいつを無残に扱った連中なんだよ」

「て、もしかして……」

「復讐。―――だったんじゃないかな。だから、音子さんは次に狙われる相手が特定できた」

「……うん」

 

 音子さんが頷く。

 ポケットから折りたたまれたコピーを取り出した。

 それは陸運局にあるだろう、あのセルシオの登録記録だった。

 どうやって手に入れたのかはわからないが、今までの所有者の一覧が記されていて、その下から四つには赤線がひかれていた。

 あのセルシオによってすでに重傷を負わせられた被害者たちなのだろう。

 そして、名前は最期に一つだけ残っていた。

 

「狙われていたのは最初にあいつを購入した金持ち。さっき、パトカーが停まっていたのを見たよね。おそらく、あそこの住人で後継ぎ息子だったんだろう。これは僕の勝手な推測なんだけど」

「ああ、さっきの、アレかい?」

「警察はさすがに被害者の共通点に気がついた。多分、前歴を探せば、以前に同型のセルシオを所有していたことがわかったから、記録を遡ってみたんだろう。そしたら、逆の順でどんどん元の所有者が轢かれていることが判明し、用心―――というか事情を捜査するためにあの家に赴いたという経緯なんだと思う。実際、それは正解で、同じように目星をつけていた音子さんがセルシオをピンポイントで迎え撃つことができたのだから」

 

 あとは御子内さんも知っている通りだ。

 たった二十五年でこんなにボロボロになってしまった元高級車は〈付喪神〉となり、恨みを抱えていたのだろう、自分を捨てた持ち主たちを襲って回った。

 結果、邪悪な怪異として正義の退魔巫女に退治されたのだ。

 だが、本当に悪いのは誰だろう。

 僕は考えずにはいられなかった。

 車好きとして、もしかしたら自分たちもそこに含まれるのかもしれないと悩みながら。

 

「ねえ、京一」

「なんだい」

「あとで社務所に車を回してもらうよ。それであいつは回収する。放っておいたらまた〈付喪神〉になる可能性があるから、しかるべき場所に預けることにすべきと一言添えてね」

「……ありがとう」

 

 御子内さんの優しさが心地よかった。

 

「じゃあ、あとは社務所に任せてご飯を食べに行こう。さっきのタクシーをまた呼んでさ。電話番号は聞いておいたんだ」

「そうだね。―――音子さんもどう」

「……シィ」

 

 僕が音子さんに声をかけると、ちょっとだけ御子内さんが眼を眇める。

 

「音子は誘ってないんだけど」

「……アルっちの指図は受けない。あたしは朝から仕事していて、お腹がすきまくり」

「だったら、これを食べる? さっきハンマーのついでに買っておいたんだ」

 

 差し出したのは、丸い蒸しパンだった。

 味はともかく長く保存できるのが美点の。

 ちょっと女の子の好みではないだろうが、八咫烏の話では籠城しているらしい音子さん用に買っておいたものだ。

 しばらくはこれで我慢できるだろう。

 だが、こんなものでも良かったらしく、

 

「グラシアス、京いっちゃん」

 

 と頭を下げて受け取ってくれた。

 しかも袋から取り出すと美味しそうに食べてくれた。

 良かった。

 

「京一」

「何、御子内さん」

「キミは随分と音子に肩入れするね」

「そんなことはないよ。ボクは君の助手だからね」

 

 と思ったら、上からバサバサと大きな羽ばたきの音がして、

 

『貴様ゴトキガ巫女ノ助手ヲ名乗ルナドオコガマシイワ!』

 

 八咫烏がわりこんで抗議をしてきた。

 さっきは仕方なく共闘してあげたけど、やっぱりどうしてもこの鳥類は好きになれないな。

 御子内さんの助手は僕で十分であり、八咫烏はお呼びじゃないよ。

 僕が身の程知らずの鳥類と言い合いを始めていると、

 

「……陽気な曲でも聞きながらご飯を食べよう」

 

 音子さんが僕の服の裾を引っ張りながら言った。

 もう蒸しパンは食べ終わったようだ。

 

「そうだね。そういう店があるといいよね」

「……また音子には甘い顔をする」

 

 なんだか不機嫌なままの御子内さんをなだめながら、さっきタクシーを降りた場所へと歩き出した。

 その時、僕は朽ちたセルシオがまた動きださないか、何度も振り向いてしまった。

 また、あいつが襲い掛かって来るんじゃないかという恐怖があった訳じゃない。

 ただ、もう一度だけでも、あいつが昔のように車として軽快に路上を走っていく姿が見たかったというだけであった……

 

 

 

 

 

 

 

参考・引用文献

 「シリーズ藩物語 川越藩」 重田正夫 現代書館

 

 



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第5試合 明王殿レイ
〈神腕〉の巫女


 河童は相撲に強い。

 古来、相撲は神事であり、河童はそもそもが水神の末裔であったからだと伝われている。

 河童の見た目は、鱗で覆われた緑色または赤色の全身をしていて、頭頂部に皿を乗せている。

 この皿は円形の平滑な無毛部で、いつも水で濡れており、皿が乾いたり割れたりすると力を失う、もしくは死ぬという河童の弱点である。

 口は短い嘴になっていて、背中には亀のものと似た甲羅を背負い込み、手足の四本の指の間にはうっすらと水掻きがあるものが多い。

 小柄な見た目の河童の場合は、よく子供たちと相撲をとることで知られているが、実のところそれは微笑ましい話ではなかった。

 河童に相撲で負けた子供は尻子玉(しりこだま)を抜かれて、殺されてしまうからだ。

 尻子玉とは人間の肝臓のことである。

 河童はその尻子玉目当てに、河辺で遊んでいる子供たちをたぶらかして、遊びのつもりで相撲に誘い込み、負かした代償として大切な臓器を奪い取るのだ。

 ある意味で凄まじく危険な妖怪であった。

 そして、それは現代でも変わらない。

 河童は往々にして小柄な妖怪であるが(子供と相撲をとれるサイズなのだから)、茨城県にある牛久沼に現われたものはニメートル以上の巨躯を持つまさに巨漢であり、牛に勝るとも劣らないほどに立派な姿をしていた。

 そのぐらいのサイズともなると、一々相撲を持ちかけて獲物を罠にかける必要はない。

 ほとんどの人を越える上背と妖怪ならでは怪力の持ち主であり、水辺を歩いていた人間たちに水中から飛びかかり、足などを掴むと、そのまま引きずり込む。

 人間はパニックになってしまえば、腰までの深さのプールでさえも溺れる生き物だ。

 突然、水の中に引き込まれてしまったら、ほぼ数秒で窒息する。

 そうして、牛久沼の〈河童〉は死んだ人間の肛門から尻子玉を抜き出して貪り食っていたのである。

 とはいえ、古来からの河童の相撲好きは変わることはなく、挑まれれば逃げることはなかった。

 牛久沼の人食い〈河童〉も例外ではなく、水辺にいつの間にか設置された白い舞台の上で、好物の一つであるキュウリとともに、人が待っていれば迂闊にもノコノコと近づいてしまうのである。

〈河童〉を待っていたのは、紅白の装束を身につけた巫女だった。

 神職なので当然警戒すべき状況であったが、人を食いすぎて獲物を舐めてかかるようになっていた〈河童〉は用心もせずに近づき、巫女が蹲踞の姿勢をとったことで完全に相撲を取る気になっていた。

 女にしては背が高い方だったが、所詮は人間。

 相撲で無双の〈河童〉と戦えるはずもない。

 行司の掛け声こそなかったが、どこからと響き渡った鐘の音を合図にして、〈河童〉と巫女ははっけよいのこった。

 がっぷりと組んでしまえば、例外的にも大柄な牛久沼の〈河童〉が負けるはずなどない。

 だが、そうはならなかった。

 

『ぎゃぴ!』

 

〈河童〉は情けない悲鳴とともに吹き飛ばされた。

 頬を張り飛ばされたのだと理解するのに時間がかかった。

 技でもなんでもないただの平手打ち―――ビンタだった。

 力強い大振りで横合いから繰り出されたただのビンタが、〈河童〉の百二十キロ近い体重の突進を押し止めたのである。

 少し遅れて今度は逆の手のビンタが、〈河童〉の頬を張る。

 

『ぎゃあああ!!』

 

 またも〈河童〉は情けない声を上げた。

 相撲には突っ張りはあるし、張り手もある。

 相撲好きの〈河童〉ならばそのぐらいは慣れっこだし、重い一発を耐えてがっぷり四つに組むまで持ち込んでがぶりよるのが基本的な戦いだった。

 たかがビンタに怯むなんてことは普通はない。

 だが、その巫女のビンタは()()()()()()()()()

 とてつもない重さに意識が失われるかと思うぐらいに頭蓋骨に響き渡るのだ。

〈河童〉はたたらを踏んでこらえるのが精いっぱいという有様であった。

 一瞬でも隙ができた以上、巫女がそれを見逃すはずがない。

 今度は突き上げる勢いで、拳ではなく開いた掌底が〈河童〉の顔面を捉えた。

 ときに、鍛えられた掌は、握られた拳よりも堅い。

〈河童〉の視界が真っ白く染まる。

 掌底の一撃のせいだった。

 恵まれた体格を誇り、牛すらも担ぎ上げられるほどの膂力があったとしても、相手に触れられなければ意味はない。

 たったの三撃でほぼ〈河童〉は意識を刈り取られる寸前に持っていかれてしまったのだ。

 それでも妖怪の本能は狂暴に抗うことを命ずる。

 全身の力を振り絞って巫女目掛けて抱き付こうとした。

 掴まえてしまえばそれでいいのだ。

 体格という絶対の差は人間の女ごときでは埋められない。

 押し包んで、身動きとれなくさせてから、尻子玉を奪い、凌辱すればいいだけのことだ。

 人間などに妖異《あやかし》が負けるはずがない。

 しかし、そうはならなかった。

 またも、強力無比なビンタが〈河童〉の頬を張り飛ばし、そして、無防備になった腕を取られた。

 何をするのか、と疑問に思う余地もなく、〈河童〉は自分の身体が反対側に振られるのを感じた。

 投げられた〈河童〉は少しして、やや固い綱のようなものに受け止められる。

 白い舞台の四方に張られていた三本の縄だと思い出す。

 なんだ、どうするつもりだ。

〈河童〉が思わず振り返ると、彼が一時的に失っていた視界が正常に復帰した。

 同時に、自分の顔面に目掛けて、白い何かが接近していた。

 勢いよく振り抜くように、まるで西部のカウボーイの投げ縄が巻き付くかのように、巫女の伸ばされた右腕が〈河童〉の喉笛に刺さった。

 

『ギャ……!』

 

 それだけでも〈河童〉は意識が飛ぶかのように窒息しかけていたが、巫女はそれで終わらせることはない。

 なんと、強引に〈河童〉の咽喉に腕を差し込んだまま、一回転して、白い台の上へと叩き付けたのである。

 女性らしからぬ恐るべき怪力であった。

 腕一本でニメートル以上の体格をねじ伏せるとは。

 もう完全に気を失ってノックアウトされた〈河童〉が、10カウント後に白い台に敷かれた結界の力で消滅していく。

 牛久沼の〈河童〉はここで退治されてしまったのである。

 だが、人々を脅かす邪悪な妖怪を退治したはずの巫女の顔は浮かないものであった。

 

「だめだ……」

 

 巫女は嫌そうに頭を振る。

 忸怩たる思いが抜けないという表情であった。

 

「どうしてもへヴィー級(こいつら)じゃあ満たされない。やっぱりでかいだけの奴なんて、いくら倒したって満足できねえ」

 

 巫女は自分が倒した巨漢の〈河童〉のことなどなんとも思っていなかった。

 ただ、今の本来は死闘と呼ぶべき戦いに満足できなかったことだけが頭の中に渦巻いてた。

 

「やっぱりあいつしかいねえのか……」

 

 巫女は夜空を見上げた。

 彼女の眼には、どうしても忘れられない宿敵《とも》の顔が浮かんでいる。

 

「確か、武蔵立川で女子高生やっているはずだよな。―――いくしかねえやな」

 

 ……彼女を苛むどうしょうもない渇きを満たしてくれるものは、今のところ、たった一人しか存在しないのだ。

 

 

       ◇◆◇

 

 

「あれはヤバい奴だよね」

 

 御子内さんと関わって、いくつもの妖怪退治をしてきたせいか、最近の僕はいわゆる「見える人」になっていた。

 あまりにも妄執の強い地縛霊なんかは、特にくっきりとわかるようになっているのだ。

 小学生ぐらいの女子のあとをぴたりと寄り添っている、黒い影のような中年女性の存在にもすぐに気がついたぐらいである。

 最初はただの過保護な母親かと思ったが、よくよく見てみるとあまりに女の子に近づきすぎているのに、小学生は気にもしていないようだった。

 それに「善くない」もの特有の歪んだような体型をしている。

 連中は背筋がぐにゃりと曲がっていたり、両腕や足のサイズや長さが違うことが多いのだ。

 死んでしまったからなのか、それとも他の要因なのかは知らないけど、悪霊というものはやはり歪《ひず》みなのだろうとわかる。

 その中年女性もそうだった。

 どんな意図があるのか、小さな女の子をギラギラと黄色い双眸で睨みつけながら纏わりついている。

 生者への恨みか、女子への憎しみか、それとも社会全体への怨嗟か。

 あのままあんなのに付き纏われたら、きっとあの子は不幸になる。 

 でも、御子内さんのように巫女ではない僕ではあんな悪霊をどうにかする術はない。

 見失う訳にはいかないから、あとをこっそりとつけていくのだけど、それだって最近では「事案」呼ばわりされそうだから、気をつけないとならない。

 だから、声をかけるのは論外だ。

 だが、見捨てることはできないし、急いで御子内さんに連絡を取ろうとスマホを手にした。

 

「あれ?」

 

 その時、反対側から見慣れた紅白の巫女装束がやってくるのが見えた気がした。

 慌てていたので最初は御子内さんかと思ったが、彼女よりも頭一つ分身長が高い、すらりとした八頭身のお姉さんだった。

 髪は腰まである艶のある黒髪。

 しかし、明らかにおかしいのは、肩のあたりで白衣の袖部がばっさりと切断されて、両腕が剥き出しな上、タスキのようなものを胴体に巻いているのだ。

 さらに御子内さんが膝丈のスカートっぽく加工している緋袴も、その巫女の場合は通常のものとは違い、膝あたりで剣道のもののように二股になっていた。

 もっとおかしいのは、大工や左官屋さんのように紫色の派手な地下足袋をつけて、さらにぶかぶかの同色のニッカズボンを履いていることである。

 どうみても巫女ではなかった。

 大工と巫女のハイブリッド過ぎる。

 とはいえ、僕は逆の意味で安心できた。

 今までの経験上、あの手の一般的でない巫女姿の女性がいたら、それはまず間違いなく退魔巫女―――御子内さんの同類なのだから。

 事情を話して、あの女の子についた悪霊を祓ってもらおうと決めた。

 そこで、彼女に近づこうとしたら、あっちでも気がついていたのか、大工もどき美人巫女はのしのしと女子小学生に近づいていく。

 何をする気なのかと様子を見ていると、なんと巫女さんは無造作に手を伸ばし、ぐいっと悪霊の上襟の部分を()()()

 猫じゃないんだからと感想を言いたくなるような大胆さだった。

 そして、まさにひっぺがすという言葉に相応しい動きで、完全に悪霊を横に投げ捨ててしまう。

 悪霊から解放された小学生が何か異常を悟って振り向くこともなく、至極簡単に救助は成功してしまっていた。

 

「……成仏しろ」

 

 巫女さんはぼうっとしている悪霊に一瞥を投げかけると、そのまま立ち去って行ってしまう。

 祓うとか、そういうことはする気もないようだった。

 単に通りすがったから子供を助けてみた。

 本当にそれだけのようだ。

 

(へえ……格好いいな)

 

 だが、こんなところに悪霊を放ったらかしにしておくのは別の誰かに憑りついて迷惑になるのではないかと思っていたら、さっきの悪霊の様子が変わっていた。

 さっきまでの「善くない」ものの雰囲気がなくなり、歪みや狂いのようなものが失われていたのだ。

 贔屓目に見ても、ただの害のない透明な存在にまで戻っていた。

 そして、ちらりと空を見ると、煙のように薄くなり、そのまま完全に消えてしまう。

 

「成仏したのか……」 

 

 あの女の子から無理矢理に剥ぎ取られたことで、きっと悪霊となっていた原因の恨みみたいなものから醒めたのだろう。

 強引に祓ってしまうよりも自分から成仏できたのなら、それにこしたことはないかもしれない。

 もしかしたら凄い巫女だったのかな。

 もう通りの向こうに立ち去ってしまい、こちらからは見えなくなったあの巫女さんの後姿を僕はしばらくの間だけ見送った。

 

 

 ―――これが、僕と第三の巫女レスラー、明王殿(みょうおうでん)レイとの初めての邂逅であった。

 



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妖怪〈うわん〉

 

「……ガテン系の退魔巫女?」

 

 とある妖怪が頻繁に出没するという、棄てられた武家屋敷の隣に広場で〈護摩台〉という名のリングを設営していた時、僕は昨日見た巫女さんの話をだしてみた。

 両袖のない白衣と、紫色のボンタンみたいなニッカズボン、そして地下足袋を履いた巫女のことだ。

 よく考えてみると、あれにヘルメットがついたらもう間違いなく工事現場の職人だろう。

 

「髪は長かったかい?」

「うん。腰まではあったね」

「なら、一人しか該当しないな。同期の退魔巫女のレイだよ」

「レイさん?」

「ああ、本名は明王殿(みょうおうでん)レイ。こっちよりは千葉とか茨城の方で試合をしている退魔巫女だよ。実家が成田山の方にあるらしいから、そこから通える場所でないと困るって話だったかな」

「……実家があるんだ」

 

 いや、あってもおかしくはないけど。

 でも、退魔巫女って仕事をしている人が実家暮らしで、通勤の便を第一に考えるというのは少しだけいただけない。

 昨日の女の子を助けた時の颯爽とした感じが薄れてしまうのもちょっとね。

 

「すごい名前の人だね」

 

 僕がこれまで出会ってきた巫女たちも、「御子内」とか「神宮女」とかあまり聞かない苗字ばかりだったけど、「明王殿」というのはまた突き抜けている。

 

「元々は比叡山の僧兵あがりの家系らしい。だから、仏教を護る明王さまの名前をいただいているんだろう」

「そんな人が退魔巫女になるの?」

「ああ、そうさ。漲る熱い闘魂をもつ女たちは、我先にと巫女の門を潜るものなんだよ。ボクたちのギョーカイはそういう女子で溢れているからね」

 

 巫女と書いて、「しゅら」と読みそうだ。

 いつも思うけど、巫女ってそういうもんじゃないよね。

 音子さんもそうだったけど、御子内さんの言うところのギョーカイはやっぱりどこかが間違っている。

 

「……でも、チバラギの人だとすると、こっちに来ているのはおかしいね。この辺は御子内さんや音子さんの縄張りでしょ」

「うん、そうだよ。社務所からもそういう連絡は来てないし、八咫烏も特にレイの話はしてこなかったかな」

 

 じゃあ、たまたまプライベートでこっちに用事があっただけか。

 御子内さんたちは普段私服だけど、たまに巫女装束のまま出歩くタイプがいておかしくないし。

 僕はそう結論付けて、リングの設営に集中することにした。

 それから一時間後の、なんとか日暮れまでに白いマットのジャングルを組み立て終わった。

 六メートル四方の台座とその上に置かれたマット。四本の鉄製のコーナーポストと三本のワイヤーロープ。

 御子内さんたち退魔巫女が戦うための舞台の完成だ。

 すべての工程をすでに独りでも三時間ほどあればこなせるようになってしまっているのが、我ながら凄いところである。

 

「うーん、さすがは京一だね」

 

 リングの上でワイヤーロープの緊張(テンション)を引っ張って確かめながら、御子内さんが言う。

 いつでも彼女に褒められると気分がよくなる。

 

「……夜になるまえに終えられて良かったよ。でも、御子内さん。その〈うわん〉ってのはどういう妖怪なの?」

「それほど危険な妖怪じゃないよ。鬼の一種だからガタイはいいが、それだけって感じかな。ボクとは初めて見《まみ》えることになるけど、聞いた限りではたいした相手じゃない」

「鬼ってどういうこと」

「うーん、鬼っていうのは人の負の感情が実体をもったものなんだ。この前の〈天狗〉のように人が変化してしまったものでもなく、〈ぬりかべ〉みたいに最初から妖怪だったものでもない」

「幽霊とかとは違うのかな?」

「あっちには実体がない。だから、普通は触れない。でも、鬼は実体があるから触れる。こういう区別をすればいい」

 

 わかるようなわからないような……。

 ただ、昨日のレイさんは悪霊になっていた地縛霊を生身で掴んでいた。

 その定義だとちょっとあてはまらない気がする。

 だから、御子内さんに訊いてみると、

 

「ああ、あいつは例外だよ。退魔巫女でも幽霊に触れるのならば、こういう結界を用意するか、祓串のような道具を使ったりしないとならない。まあ、ボクのこのグローブみたいな聖錬を施したものでもいいけど。でも、レイだけは違う」

「レイさんだけ違う?」

「あいつはギョーカイ内での通り名があってね。みんなには〈神腕〉と呼ばれているんだ」

 

神腕(しんわん)〉……。

 なんかカッコいいな!

 

「決まったスタイルを持っている訳ではないけど、あいつの戦い方は腕を中心としたものでね。しかも、仏門の生まれのおかげか、生身の両腕にもともと強い神通力が宿っているんだ。だから、普通に素手のまま霊にも触れられるし、打撃の力も比べ物にならないほど強い」

 

 もしかしてあの両袖を外した巫女装束も、その〈神腕〉を活かすためのものなのか。

 それなら納得できる。

 意外に合理的なんだ。

 

「……話を戻すと、〈うわん〉というのは指が三本しかなくてね。それは鬼の象徴だから、〈うわん〉も鬼だと云われているんだよ」

「あっ、聞いたことがある。鬼には知性と慈悲が欠けていて、貧欲と嫉妬と愚痴のみに終始しているからってことだね」

「そうさ」

 

 妖怪人間ベムも三本だった。

 

「〈うわん〉は人が通りがかるとその名の通りに「うわん」という大声を出して驚かせる妖怪なんだ。まあ、それだけなんだけど」

「びっくりさせるだけ? 他にはないの?」

「うん。今回の依頼も、この武家屋敷の廃屋の傍でたびたび〈うわん〉が目撃されていて子供たちが怯えているからなんとかしてくれって話だったからね」

 

 なんだ、別に悪さをしている妖怪ではないのか。

 そんなのに退魔巫女を派遣するなんて、八咫烏もどうしようもない鳥頭だな。

 

「じゃあ、リングは必要ない気もするね」

「うーん、確かにここまで上がってくるかも怪しいといえば怪しい。人を襲うような連中ならば挑発にすぐ乗ってくるけど、好戦的でない妖怪だとそこがネックになるんだよ。〈護摩台〉にまで誘導することがそもそも難問になってしまうからさ」

「とりあえず、〈うわん〉をおびき出せそうな好きなものとかってないの?」

「ボクも知らないんだ。〈うわん〉の特徴自体、歯に鉄漿《おはぐろ》がついているってだけで、あとは古い建造物に潜んでいるという程度かな」

「鉄漿? お歯黒ってこと?」

「ああ」

 

 お歯黒というのは、日本にも昔から存在する歯を黒く染める化粧法のことだ。

 でも、お歯黒って既婚の女性がするもので、男性がするものではないはず。

 じゃあ、もしかして〈うわん〉って女のひとなのか。

 僕の脳みそに何かが引っかかった。

 ちょっとおかしい。

 

「……ねえ、御子内さんは、このお屋敷のことを知っている?」

 

 僕はリングの目の前にある武家屋敷を指さして訊いた。

 

「いや、何も。八咫烏には、ここから〈うわん〉がしょっちゅう顔を出すからなんとかしてくれって言われただけだよ。きっと〈うわん〉はここに棲んでいるんだろう」

「人は住んでいるのかな?」

「だいぶ前に所有者がいなくなったらしくて無人のはずだ。相続人も行方不明で、行政が管理しているということだよ」

「なるほど……」

 

 僕は少し思案すると御子内さんに提案した。

 

「〈うわん〉を退治するのはちょっと待ってもらえないかな」

「どうしてだい? せっかく京一が〈護摩台〉を用意してくれたのに」

「僕の苦労は別にいいんだ。ただ、今の状況では〈うわん〉を退治してしまうのはちょっと問題があるかもしれないと考えたんだよ」

「? 意味がわからない」

「僕の考えを説明するとね……」

 

 と、思いついたばかりの仮説を口にしようとした時、

 

『うわん!!』

 

 大きな胴間声が響き渡った。

〈うわん〉のものに違いない。

 だが、僕たちへのものではない。

 見渡しても、この周囲には僕たちしかいない。

 となるとあの武家屋敷の中か。

 御子内さんとともに、慌てて崩れかけた土塀の隙間から庭に入り込んだ。

 

『ぐぎゃああああああ!』

 

 まさに断末魔のような悲痛な叫びがした。

 辿り着いた僕たちの視線の先には、地面に倒れてブルブルと震えている三本指の巨大な鬼と……一人の女性がいた。

 長い黒髪と改造された巫女装束をまとった、モデルのような美女。

 さっき話題になっていた明王殿レイさんだった。

 

「よお、或子。やっぱりおまえでないとダメみたいだわ。どちらかがくたばるまで、勝負しようや」

 

 左右の指をボキボキと鳴らしながら、物騒な宣言をするのであった。

 

 

 



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VS巫女レスラー

 

 

〈うわん〉は、身の丈でいうとニメートル以上はある巨体を持っていた。

 餓鬼のようにでっぷりと太ったお腹をしており横幅があるので、かつて目撃した〈高女(たかめ)〉よりも一層大きく感じる。

 頭も巨体と比例して大きく、髪の毛のない頭頂部と肥大した涙袋、そしてはっきりとした咥内のお歯黒が目立つ不気味な容貌をしていた。

 だが、全体で見ると、意外とユーモラスな姿かたちとも思える。

 なんというか愛嬌があるのだ。

 今まで僕が御子内さんと共に見てきた悪事を働く妖怪たちとは、一線を画するような、ほっとするものがある。

 だから、そんな妖怪が立ち尽くすレイさんにびくびくしているところは、まるでイジメを目撃してしまったかのような不快感を覚える光景だった。

 

「どうなっているんだい、レイ」

「別に。こいつがでかい声でオレを恫喝してきたから張り倒してやっただけだ。そしたら、一発で涙目になりやがった」

 

 なるほど、〈うわん〉がいつものように通りすがった人間を驚かしていたところ、並じゃない巫女がやって来てやり返されたという訳か。

 しかし、一発張り倒しただけで妖怪の心を折るなんて、生身の人間とは思えないな。

 

「そいつはボクの対戦相手なんだ。横入りはやめてもらおう」

「やめとけ、やめとけ。こんな弱いの、おまえの相手をするには役者不足だ。御子内或子が戦うのに相応しくない」

「戦ってみないとわからないじゃないか」

「―――これがか?」

 

 レイさんは〈うわん〉の首筋を掴み上げると、ぐいっと持ち上げた。

 

「でかいだけで拍子抜けにもほどがある」

 

『ギャアアアン!』

 

 叫び声とともに、〈うわん〉は持ち上げられて、そのまま吊り上げられた。

 レイさんがのど輪だけで妖怪を締め上げている。

 しかも片手だけで。

 恐ろしい怪力だった。

 あれが〈神腕〉ということなのか。

 

『グギャア! ダギャア!』

 

 レイさんにネック・ハンギングされていることで苦しいのか、〈うわん〉は腕をジタバタさせてもがいていた。

 とても苦しそうだ。

 例え妖怪でもその苦悶は見ていられるものではなかった。

 

「やめてください!」

 

 僕は駆け寄って、レイさんの隣で制止した。

 彼女は僕を何の感情もない瞳で無造作に見やり、

 

「なんだ、おまえは?」

「僕は御子内さんの助手で京一といいます」

「その京一くんとやらが、どうしてオレの妖怪退治に難癖をつける? 或子のためか?」

「違います。僕はその〈うわん〉をすぐに退治するべきではないと考えているからです」

 

 レイさんの眉が八の字になった。

 困った顔が悩ましいほど色っぽかった。

 言動とガテン系の格好の二つの要因のせいでガサツな蓮っ葉に見える。

 

「妖怪に肩入れするのかよ?」

「そういう訳じゃないです。その〈うわん〉についてだけですね」

「―――おまえ、オレたち退魔巫女が妖怪やら悪霊退治の専門家だってのをわかって言ってんのか? そこにいるおまえの愛人(バシタ)だって、今までに何十匹も退治して回ってんだぞ。今更、情けなんかかけられる立場じゃねえんだぜ」

 

 バシタの意味はよくわかんないけど、御子内さんのことだとはわかった。

 でも、それよりも僕には優先すべきことがある。

 

「わかっているけど、そうじゃないんだ」

「何がそうじゃないんだ? きちんと説明しろや」

「僕はその〈うわん〉がどうして通行人を驚かして回っているのかを突き止めたいんだ。ただ『うわん』なんて叫んでびっくりさせるだけの妖怪なんて変だとは思わない?」

「いんや。妖怪なんてそんなもんだ。小豆洗う音で人間を脅かしてほくそ笑むやつとか、理由なんてねえだろ。こいつだって、そうだ。単にバカでかい大声で人を驚かせて楽しんでいるだけさ」

「……他の妖怪については知らない。けど、僕はその〈うわん〉についてだけは考えるべき必要があると思う」

 

 すると、レイさんは今度は柳型の眉を吊り上げた。

 変幻自在な眉で感情を表現する人なんだな。

 

「っざけんな!」

 

〈うわん〉をゴミのように投げ捨てると、レイさんが胸倉を掴んできた。

 

「いきなり、抜け作なことを言ってんじゃねえ! 妖怪相手に慈悲をかけてどうするってんだ! 特にこいつは鬼なんだぜ? 今は何にもしていなくてもいつか人間を食ったらどうする? 鬼はな、貪欲にすべてを喰らい尽くす習性があるんだ!」

 

 胸倉を掴まれたまま、吊り上げられる。

 さっきまでの〈うわん〉のように。

 55キログラムの体重の僕をまるでぬいぐるみ扱いだ。

 

「……で、でも」

 

 のどが絞まり、呼吸が苦しくなる。

 だが、それでも僕にはまだ疑問点が残っているんだ。

 今はこの明王のような巫女を説得しないと……

 

「―――そこまでにしろ」

 

 ガシっとさっきの僕と同じ位置でレイさんを制止したのは、御子内さんであった。

 

「てめぇ、或子ォ」

「ボクの京一に手出しをするのはご法度だよ」

「……オレの信条に口を出すのもやめてもらおうか」

「そもそも、その〈うわん〉はボクの対戦相手でキミにはなんの権利もないということから思い出してもらいたいな。そして、ボクは京一が待ってくれと言うのなら、文句も言わずに待つ」

「ち、自分の男にはえらく甘いんだな、爆弾小僧め」

「女の子のボクを小僧呼ばわりしないでくれ」

 

 御子内さんが絶対に退かないということがわかったのか、僕もまた〈うわん〉と同様に投げ捨てられた。

 腰から地面にぶつかったせいで、やたらと痛い。

 

「大丈夫かい、京一」

「な、なんとか……」

「無茶をするからだ。このレイはね、ボクたちの同期の中でも最強と目されている巫女の一人なんだよ」

「……だろうね」

 

 その言葉を聞いて、レイさんの形相が変わった。

 また眉毛がさらに吊り上がる。

 

「最強の一人だと? どうあってもオレが一番だとは認めねえってことかあ、御子内或子ぉぉ!」

 

 突き付けられた指の先を見つめる御子内さん。

 ただの一瞬も強烈な目力に負けることなく言い返す。

 

「まだ、そんなことを言っているのか? ボクたち、巫女同士の試合は禁止されているはずだ」

「そんなのは建前だけだろ。おまえだって、何人かと陰でやりあっていたのをオレが知らないとでも思ってんのか、ああン?」

「キミが今でもボクに執着しているのはわかっていたけど、決着をつけたいがためにこんなところまで来たということかい?」

「そうだ。―――おあつらえ向きに、〈うわん(こいつ)〉用のリングが用意してあるんだろ。そこで決着をつけようぜ」

「無駄だね」

「なんだと?」

 

 御子内さんは僕に肩を貸しながら、すっく立ち上がり、そして言い放った。

 

「見習い時代に、ボクの原爆固めの前に敗れ去ったのを忘れたのかい? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 彼女にしては珍しい煽りと挑発だった。

 だからこそ、僕には理解できた。

 戦いの前にわざわざこんなパフォーマンスをすることで、相手方に対して少しでも有利になろうという場外乱闘が求められる敵なのだと。

 僕の巫女レスラーが正々堂々と戦うだけでなく、策を練る必要性を覚えるまでに強敵なのだと。

 

〈神腕〉明王殿レイ。

 

 傍にいるだけで、とてつもないほどの威圧感を感じる。

 しかも、その闘志は完全に御子内さんにだけ向けられていて、僕の方にくるのはただの余波だというのに。

 

「―――上等だぜ、或子ォォ」

 

 飢えた狼のようにレイさんが舌なめずりをする。

 御子内さんは握りこぶしを作り、指を鳴らした。

 百パーセントやる気だった。

 巫女レスラー対巫女レスラーのガチバトルが始まろうとしていた。

 リングに稲妻が走り、マットに赤いバラが咲き、炎のファイターが照らし出される戦いが。

 

「……じゃあ、僕はちょっと調べものがあるから、あとはお願いね」

 

 とりあえず、レイさんへの対応は御子内さんに一任するとして、僕はすることがあるので「じゃっ!」と軽くバイバイをして、廃屋となった武家屋敷に向かった。

 

「えっ!」

「なんだと!」

 

 睨み合う二人だけの空間ができていたはずなのに、僕が立ち去ろうとすると何故か驚かれた。

 でも、そんな反応を気にしている場合ではないので、さっさと屋敷の中に潜りこめそうな入口はないかを探し始める。

 おそらく、この屋敷の内部、すぐには見つからないだろう場所にある〈うわん〉の秘密を見つけ出すために。

 

 



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廃屋探索

 

 

 武家屋敷の中は、無残の一言であった。

 長い間放置されていたのだろう、骨の突き出た襖や雑草が生えている畳、乾いた泥だらけの廊下を懐中電灯で照らしながら歩く。

 電気やガスは通っていないらしい。

 カラーボックスなどの家具もほとんどそのままで、台所の洗い場には茶碗が放置されていたりもする。

 とはいえ、マリー・セレスト号のように住人が突然消えたというわけではなく、買い物に出掛けたまま帰ってこなかった的な普通さだ。

 だから、土足で歩き回るのは気が引けた。

 

「さてと……」

 

 スマホで〈うわん〉という妖怪の知識は得ていた。

 大雑把に意訳すると、「廃墟のそばを通りかかる人に対して、『うわん』と大声で叫んで驚かす」()()の妖怪だ。

 御子内さんからの受け売りでしかないけど、妖怪というのは単一の機能のために存在しているものが多い。

 例えば、以前の〈ぬりかべ〉のように道行く人を進ませないという性質が、そのまま妖怪としての特性になっているパターンだ。

 だから、〈うわん〉のように人を驚かせるだけの妖怪がいてもおかしくはない。

 ただ、問題なのは、さっきの会話にあったように〈うわん〉が()()()()()()()()()()()()だ。

 鬼の象徴でもある三本指を持つことによって、〈うわん〉はただの妖怪ではなくなっているのではないだろうか。

 そして、鬼というのは人の負の感情が実体化したもの。

 そこが鍵だと僕は感じた。

 さっき鬼よりも強いらしいレイさんにほとんどイジメに近いやられ方をしていた〈うわん〉のことを思い出すと、とても凶悪な存在とは考えられない。

 何か、あの〈うわん〉には秘密がある。

 

「完全に廃屋なのか……」

 

 古い日本家屋には、採光するための窓などはほとんどない。

 ここも例外ではなかった。

 だから、薄暗い中を転ばないように、板張りや畳の上を歩いた。

 床の間には何も飾っていなかった。

 おそらく、元の所有者がいなくなったときにそれなりに値段がありそうなものだけは回収されてしまったのだろう。

 他はかなり適当に放置されていた。

 現在の管理は地元の行政―――市役所の役人とかだろうか―――という話だから、わざわざやってきて掃除をしたりはしないだろうし。

 大量の蜘蛛の巣を破りながら、全体的に見て回ってもたいした収穫は得られなかった。

 

「……見込み違いだったかな」

 

 そうなると、とっとと御子内さんのところに戻らないとならない。

 なんといっても僕は彼女の助手なのだから。

 

「うわっ!」

 

 思わず叫んでしまった。

 なんと、破れた襖の向こうから僕を覗き見ているものがいたからだ。

 禿頭と涙袋の大きな目、鋭い牙にお歯黒を塗った怪異―――〈うわん〉だった。

しかも、〈うわん〉は僕を観察し続けているというのに、一向に近寄る気配をみせず、ただその場に立ちすくんでいるだけであった。

 何がしたいのかはわからないが、ああいうでかい妖怪に様子を探られているというのは不気味なことこの上ない。

 だが、僕をを襲おうとしているのではないことだけは理解できた。

 そもそも〈うわん〉は人を狙う妖怪ではなさそうだし。

 八咫烏が退治依頼を持ってくること自体がおかしいのかもしれない。

 ……まって、退治依頼?

 御子内さんたち退魔巫女は、プロモーター係の八咫烏が仕入れてくる依頼に従って行動するのが常だ。

 であるのならば、あの〈うわん〉の退治を依頼したものがいるはず。

 ……やはり何か引っかかるなあ。

 

「ちょっと待っててね。僕の調べ物はもう少しで終わるからね」

 

〈うわん〉に話しかけた。

 この廃屋の住人である〈うわん〉からしてみたら、僕は完全な不法侵入者だ。

 そういえばレイさんだって勝手にここの敷地内に侵入していたようだし、〈うわん〉に驚かされても文句を言えた義理ではない。

 逆に凹るなんてありえない蛮行である。

 泥棒が盗みに入った先で家人に乱暴を加え、居直り強盗になるようなものである。

 

「ん、もしかして」

 

 僕は少し前に調べた部屋に戻った。

 プンと鼻をつく嫌な臭いまでが残留していた。

 そこはこの屋敷の元の主人だった、とある老人のためのスペースだった。

 敷きっぱなしの布団とゴミ袋の溜まった、独居老人のいかにもな生活空間。

 老人が出ていった時のまま放置されていたのだろうか。

 鬱蒼としたカビどころか、布団にはキノコなんかまで生えているという酷い有様である。

 

「ここなら多分ある気がする……」

 

 布団の脇に、これだけの屋敷には不釣り合いな大きさの文机が、埃まみれになって置いてあった。

 その上にさらに小さい本棚。

 とはいっても、半分以上がごっそりと抜けていて、本が偏ってしまい倒れていた。

 

「何冊か抜かれているね」

 

 そう推理した理由は簡単だ。

 本棚の中にはうっすらとしか埃が残っていない箇所があったからだ。

 試しに倒れている本をとりだしてみると、その部分だけは綺麗になっている。

 この状態になってしばらくして誰かがここにあった本を抜いたのだろう。

 さて、誰がやったのか。

 全体的にものが残っていない屋敷だからこそ、僕にも突き止めることができそうだ。

 

『うわん……』

 

 部屋から出ると、それなりに長い廊下の隅から、また〈うわん〉が顔を出して覗きこんでいた。

 ストーカーみたいだね。

 しかも、うわんとか呟いているし。

 

「ねえ、君はもしかして僕に訴えたいことがあるんじゃないのかい?」

 

 試しに訊いてみた。

 あの〈うわん〉には知性はなさそうだが(結局、鬼だしね)、何かを僕に伝えたいらしいことだけはわかっていた。

 敷地に入ってきたレイさんと違って僕を排除しようとしていないことから明白だ。

 ただ、その理由がわからなかった。

 でも、今はもうそれとなく理解できかけていた。

 

「頼むよ」

 

 頭を下げた。

 別に僕が頼み込む必要は微塵もないけれど、御子内さんに後味の悪い思いをさせたくない。

 だから、僕は〈うわん〉に心からお願いをした。

 その気持ちが通じたのか……。

〈うわん〉はこちらに無中を向けて、ゆっくりと歩き出した。

 伝えたいことを伝えるために。

 

 

 



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そこはかとなく虎の穴

 

 

 御子内或子と明王殿レイの二人の巫女は、示し合わせたかのように同じタイミングでリングに歩を進め、そして飛び乗った。

 奇しくも赤いコーナーポストには或子、青いコーナーポストにはレイが立つ。

 形の上ではチャレンジャーはレイということをまざまざと表しているようであった。

 

「……二年ぶりだ」

「そうだね。ボクたちが見習いだった時代の話だから、もうそんなものか」

「ああ、オレもあれから何体もの妖怪を退治して来た。おそらく、撃破数は同い年でオレがトップのはずだ」

「聞いているよ。とても頑張っているそうじゃないか。同期として鼻が高いよ」

「ぬかせ」

 

 レイは吐き捨てるように言った。

 

「妖怪退治なんて、数をこなせばいいってもんじゃない。どれだけの大物を倒したって、ただの勝利なんて虚しいもんだぜ」

「その気持ちはわからなくはないよ。ボクだって、たまに後味が悪い戦いをすると気分が悪くなるしね」

「退魔巫女なんて、自分が満足できなければただの作業だ」

「同感。でも、ボクたちが戦うことで止められる悲劇もある。それをするための作業だというのならば、ボクは迷わずリングに立つよ」

「相変わらず、いい子ちゃんぶるな」

「そうでもない。最近は、昔と違ってただ良い試合をしているだけでいいとは思わなくなった。色々な意味でね」

「そうかよ。オレの方はおまえにやられた時のことを今でも引きずっているっていうのによ」

 

 ずしりと踏み出し、両掌を縦に揃え、金剛力士のように構える。

 魔人のごとく息吹を吐きだし、双眸は火矢のように敵を射抜く。

 

「忘れたとは言わせないぜ、爆弾小僧」

「だから、ボクは女の子だってば」

 

 ―――退魔巫女の道場はとある深山幽谷に存在する。

 そこでは幼少の頃から才能を見出された少女たちが、傍目には地獄のような稽古を続けて、いつか退魔の巫女として戦う日に備えていた。

 或子とレイの出会いはそこであった。

 幼女の頃から両腕に秘められた神通力のおかげで〈神腕〉と称されていたレイは、確立したスタイルを持たない我流の闘士として首席に近い扱いを受けていた。

 レイの力任せのビンタは小癪なガードごと吹き飛ばし、迅雷の突っ張りは食らった相手の意識を刈り取った。

 あまりにも強いポテンシャルは、生半可な修練などものともしないものなのだ。

 だから、レイは道場での生活に飽き飽きしていた。

 巫女としての修業そのものは嫌いではなかった。

 言動を含めて大雑把ではあったが、レイはもともと生真面目な性格の少女であったので、一枚一枚薄皮を貼り固めるように力を蓄えていくことに向いていたのである。

 ゆえに、共に修業を重ねるものたちの力不足は耐え難かった。

 一日数度のスパーリングも、ものの数分で片付いてしまうので、時間が余ってしまい退屈なだけだったからだ。

 まだ、自分だけで修行していたほうがいい。

 こうしてレイは孤立していった。

 だが、その孤独の時代は簡単に終焉を迎えた。

 家庭の事情で合流が遅れていた御子内或子がやってきたのだ。

 その我武者羅なファイト・スタイルを伴って。

 或子の戦い方自体はそれほど奇をてらったものではない。

 ただ、彼女は前進しか知らない女だった。

 もし弾丸が少女のカタチを伴っていたのならば、まさに御子内或子こそがそれであったろう。

 力の差、体格の違い、技の才能、経験値の有無、そして血筋。

 それらをギリギリにでも上回るものがこの世にあるとしたのならば、それは―――ただ一つ。

 

 ド根性、しかない。

 

 カビの生えた根性論と精神性だけを持って、御子内或子は道場の仲間たちを撃破し続けた。

 ただ傍観しつづけていたレイが認めざるを得ないほどに。

 そして、或子の存在は道場を変えた。

 

 バカは感染する。

 バカは流行(パンデミック)する。

 

 気がついた時には、彼女たちの同期はこれまでの期とは比べ物にならないほどに熱く滾った漢女(おとめ)の集団となっていた。

 気合いだ、気合いだ、を十回唱えればどんな敵にも負けないパワーファイター。

 色々あって覆面を被りだしたルチャドーラ。

 巫女だというのにボクシングしか学ばないバンタム級。

 顔に隈取をしたオリエンタル・スタイルのレスラー。

 ―――そこにはレイが望んでいたものとは、真逆に近い、一種異様な世界ができていた。

 なんというか、巫女の自覚がまったく欠片もない連中揃いの。

 

(あれ、おかしいぞ。オレはこんな戦いのワンダーランド的な空間を望んでいたわけではないのに……)

 

 今度こそ別の方向で孤立することになったレイであったが、しばらくたってから御子内或子と対戦し、60分に及ぶ死闘の果てに敗北を喫してから同類にまでなってしまった。

 レイと或子の実際の勝負はそれ一度きりであったが、彼女の脳裏にいつまでも焼き付いて離れることはなかった。

 自分を負かした強敵としての彼女のことが。

 道場を卒業し、退魔巫女としての活動を開始してからは、その想いがさらに強迫観念に近い形にまで達してしまったのが、今のレイの状況であった。

 自分の縄張りである千葉・茨木を放置して、或子の住む東京都・多摩地区にやってきてしまうぐらいに。

 

「あの時の貸しを返してもらうぜ、或子」

「ふん。わざわざボクと戦《や》りあうためにやってくるなんて……」

「酔狂な真似か?」

 

 或子は首を振った。

 横に。

 

「バカなことをいうね。ボクにはビートルズも安産祈願もわからないけれど、キミが放った空手チョップの雄姿はしっかりと覚えている」

「―――だったら、オレとやりあうことには不満はないんだな」

「―――レイよ、ボクを愛で殺せるかい」

 

 申し合わせたように、二人の巫女レスラーはぶつかりあった。

 まず先手を打ったのはレイ。

 巨体の〈河童〉にさえ悲鳴を上げさせるビンタをぶっ放した。

 或子はまともに受けたりはしない。

 レイのそれは大振りで孤を描くテレフォンビンタであることから、素人ではない或子にとっては躱せて当然なのだ。

 とはいえ、全身の力と体重が乗っているということから威力は高く、加えてレイの神通力のこもったビンタは要注意であることは疑いない。

 身を屈めて、或子は回し蹴りで足を刈りに行く。

 レイは膝をたわめ、力を入れることで軸を維持しつつ、回し蹴りを弾いた。

 もし倒されて寝技にでも持ち込まれたら、不利であることを〈神腕〉の巫女は知り尽くしていた。

 立って勝負してこその自分だ。

 だから、軸足を刈られようと転んだりはしない。

 そのまま縦に顔面を割り砕く、チョップを放った。

 首筋にでもあたればいかにレスラーの太い猪首でさえも折れるほどの破壊力。

 急所を外したまま上半身を捻り腰に飛びかかったが、レイはまさに人間山脈、或子の組みつき程度で怯むことはない。

 

「ふんが!」

 

 美女とは思えない気合いとともに力任せにタックルを引きちぎる。

 その姿はほとんど弁慶。

 

「でやああああ!!」

 

 タイミングを計り、或子は奇襲の胴回し回転蹴りを放つが、これも力任せに背中から叩き落した。

 両腕を大きく回転させて、バウンドした或子をもう一度左手ではたき落とす。

 レイがただ一つ道場で学んだ格闘スタイル、劈掛掌(ひかしょう)の技である。

 腰を支点にして上半身を振り、風車のごとく回転させて、遠心力を用いて打撃を放つのが劈掛掌だった。

〈神腕〉と称される神通力をもったレイに相応しい技である。

 もっとも、彼女がこれを学んだきっかけは、或子がたまに使うなんちゃって八極拳対策のためであったが。

 その或子に対して振るえるということが、無性に楽しかった。

 小兵の或子が直線的な歩法の八極拳を用いるのに対して、大柄なレイが曲線的な歩法の劈掛掌というのも対比が面白かった。

 やはり戦いは楽しい。

 或子とやりあうのは笑える。

 こんなに嬉しいことはない。

 

「でやああ!」

 

 マットに横たわった或子をさらに掌で追撃するが、下方から競りあがったオーバーヘッドキックによってカウンターされた。

 

「くそっ!」

「まだまだ!」

 

 ブレイクダンスの要領で足を回して跳ね起きた或子が得意のナックルパートの連打から、最後に鉄山靠(てつざんこう)を放つが、どれも不発のまま、最期には押しとどめられた。

 お返しとばかりに再びレイのビンタが大気を切り裂いた。

 吹き飛ばされる或子。

 硬直時間を狙われたのだ。

 警戒していたのにまともに食らってしまうとは。

 そして、一瞬の油断をつかれた。

 手首を握りしめられ、気がついた時にはロープへと振られていた。

 振られた身体はロープの弾力によって跳ね返り、もう一度マットの中心部へと戻ってくる。

 次の瞬間、レイの左腕が伸ばされた。

 

(ラリアット!)

 

 わかっていた。

 わかってはいたのだ。

 これこそが最も恐るべき明王殿レイの必殺技(フィニッシュホールド)だと。

 だが、わかっていても食らってしまうのが、必殺技というものである。

 或子の喉元にカウボーイの投げ縄が絡みつく。

 首の骨が折れるかというほどの衝撃を喉という急所の一点に受けて、或子は悶絶した。

 

「ぐぼおあ!」

 

 女子のものとは思えぬ苦悶が響き渡る。

 ラリアット。

 西部からやってきた重戦車が得意としていた、シンプルが故に強く、様々なバリエーションを持つ殺人技だった。

 或子ほどの巫女をも倒せる可能性を秘めているぐらいに。

 しかも、レイのものは打撃+マットに向けて叩き付けるという荒業である。

 かろうじて頭を庇ったものの、或子は全身におびただしいダメージを浴びてしまった。

 

「―――まだ、始まったばかりだぜ、或子。おまえの根性を見せてみやがれ!」

「……やらいでか!」

 

 まだまだ或子は負けていないと叫ぶ。

 だが、〈神腕〉の巫女レスラーはほぼ無傷のまま。

 このまま行けば、御子内或子に勝ち目は薄い。

 果たして、彼女はどこまでこの強敵に抗うことができるのであろうか……

 

 

 



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切り札

 

 僕がリングのところにまで駆け戻った時、御子内さんはその上で突っ伏していた。

 リングの端で力なく倒れ、ロープに手をかけるのがやっとという有様だった。

 中央には仁王立ちのレイさんがいる。

 もしかして、もしかして……

 ()()御子内さんが負けたのか。

 走り寄って、彼女の脇にまで行く。

 10カウントは……聞こえてこない。

 普段ならどこからともなく地獄の底の極卒がたてるように陰気な声がしない。

 妖怪退治ではなく巫女同士の戦いであったからか、〈結界台〉としての機能が働いていないのかもしれない。

 御子内さんとレイさんの二人の巫女の戦いは、どちらかがギブアップの叫びをあげるか、気絶でもしない限り絶対に終わらせないとでもいうかのごとく。

 

「御子内さん!」

 

 僕の声が届いたのか、御子内さんのマットに伏せた顔が上がる。

 朦朧としているみたいだった。

 戦闘意欲はまだまだ旺盛のようだが、いかんせん受けたダメージが大きすぎるのだろう。

 眼の焦点がすぐには定まらない様子だった。

 だが、僕が傍にいることはわかったのか、

 

「遅いじゃないか、京一。疾風などという大層なあだ名に恥ずかしいだろう……」

 

 と、よくわからないことを呟いた。

 駄目だ、意識が混濁しているらしい。

 すると、それを聞きつけたレイさんが大袈裟に驚いた。

 

「―――疾風なんて、燃えるあだ名を持っているんだな、おまえ!」

「そんなあだ名はついてないから! ……御子内さん、しっかりしてくれ!」

 

 手を伸ばして御子内さんの肩をゆする。

 それでようやく正気に戻ったのか、ロープを掴んだ手を頼りにゆるゆると上半身を起こした。

 見た目以上に相当のダメージを負っているようだ。

 

「……ああ、京一か。ようやくセコンドについたということかな? まったく、そんなことではボクの助手失格だよ」

「ごめん。君が大事な時に傍にいなかった……」

「うーん、まあいいさ。……で、どうだったんだ? キミが知りたがっていた〈うわん〉の謎は解明できたのかい?」

「ああ」

 

 僕は御子内さんを励ますように答えた。

 

「あの〈うわん〉の正体がわかったよ。やっぱりあれを退治していたら、きっと不幸なことになっていたところだった」

「―――ふふふ、やっぱり京一の言うことはよく聞いておくべきということだね」

「そうだね」

 

 僕はあの廃屋と化した屋敷の中で、大変なものを見つけてしまった。

 それが〈うわん〉という妖怪を産みだしたものであり、〈うわん〉が僕らに訴えかけていたものだった。

 あいつがあのまま妖怪として退治されていたら、そのメッセージはきっと届かなかったに違いない。

 

「ボクの戦いは無駄ではなかったということかな?」

「うん」

「……で、キミはまだボクに言いたいことがあるみたいだね」

「―――ああ」

「いいよ、言ってごらん。遠慮するなんて、キミとボクの間らしくない」

 

 まだフラフラしているというのに、御子内さんは懸命に僕の話を聞き、僕にするべきことを問うてくる。

 彼女はまだ戦う気なのだ。

 こんなになってさえも。

 

「〈うわん〉を助けたい。だから、あのレイさんに勝ってくれ」

「無茶を言うね」

「君が負けてレイさんが残った場合、僕の話を聞いてくれるという保証はない。あの人は説明なんて聞かずに〈うわん〉を退治してしまうかもしれない。それだけは避けたいんだ」

「レイは……そんなわからず屋ではないよ。……でも、そうだな。万が一ということもある。ボクがあいつに勝利してしまった方が手っ取り早いか」

「ああ、そうだね。だから、立って戦って勝ってきて、御子内さん!」

「ふふふ」

 

 気持ちが届いたのか、御子内さんの眼に生気が戻る。

 そして、彼女はロープを背負いながら立ち上がった。

 彼女を睨みつけるライバルと雌雄を決するために。

 

「やはり立つかよ、或子」

「……ボクはラスト五秒の逆転ファイターだからね。最後の最後まで気を抜かないことだ」

「かかか、それでこそ、おまえだ。どんなにでかい奴と戦っても、どんなに強い奴を倒しても得られなかった渇きをおまえなら満たしてくれる」

「ふふふ、逆だよ」

「なんだと」

 

 御子内さんが叩き付けるように言う。

 

「勝つことだけを第一に考えるからそんな風になるんだ。ボクたちが目指すのはきっとそういうものじゃない」

「……ほざくなよ、或子。負け惜しみか」

「負け惜しみ? まだ、負けてもいないのにそんなことを言うはずがないじゃないか。だいたい、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 それは嘘だ。

 本気でかからなければあのレイさんの前に立てるはずがない。

 だが、この期に及んでもまだそんな強がりを言える御子内さんの胆力が凄まじいだけだ。

 

「或子ォォ……!」

 

 挑発を真に受けたのか、レイさんの美貌に怒気が増す。

 彼女こそ、本気になったのだ。

 そのことが御子内さんにとってプラスとなるかマイナスとなるかはわからない。

 僕はただ彼女の戦いを見届けることしかできないのだから。

 

「行こうか、レイ!」

 

 御子内さんが構えると、レイさんが腕を伸ばしたまま襲い掛かってきた。

 突進型のウェスタン・ラリアット。

 まさかとは思ったが、レイさんはラリアット使いだったのか。

 なるほど彼女の〈神腕〉を活かすということならば、あの西部発祥の投げ縄は文句のないチョイスだ。

 あれならば御子内さんが撃墜寸前にされたとしてもおかしくない。

 ただ、ロープに振ってからのカウンターならばともかく突進しながらでは、威力に欠けるし、速さも足りない。

 御子内さんはダッキングで躱した。

 だが、それだけ。

 反撃することもなく、中央にまで移動する。

 おそらくはまだダメージが完全に抜け切れていないのだ。

 体力回復の狙いもあるのだろう。

 もっとも、そんなことがわからないレイさんでもないようだった。

 畳み掛けるように鋭く強烈なビンタと掌底突きの連打を放ってくる。

 前後左右に器用に動いて、必殺ともいえる一撃を丁寧に避けていく御子内さん。

 思わず、

 

「うまい……」

 

 と、口に出してしまった。

 今までは突貫第一の脳筋の持ち主という印象が強かったが、こういう受け身にたってのアウトスタイルも熟せるのだと初めて知った。

 なるほど、レイさんがあそこまで強烈に意識するわけだ。

 彼女の〈神腕〉にどれだけの力が秘められているかはわからないが、あれだけ徹底的に回避されることはそうはないだろう。

 正面からの真っ向勝負の打ち合いだけでなく、こういう技術を活かした戦いもできる相手はざらにはいないであろうから。

 こうやって時間を稼いでいるうちに、徐々に御子内さんの動きにキレが回復していく。

 いつもの巫女レスラーの動きに。

 おそらくは全力のラリアットを受けたであろうダメージは完全には抜けないとしても、反撃にでるためには十分なまでに。

 

「さて、そろそろやり返すとするか」

「余裕のつもりかよ、或子!」

「まさか。ボクに余裕なんかないよ。ボクはチャンピオンではあるけれど、常にチャレンジャーだ」

 

 レイさんの回転しながらの裏拳が唸りを上げても、御子内さんの顔面を捉えるにはいたらない。

 それどころか、懐に飛び込んだ彼女の腰を据えた短めのショートパンチが腹筋を貫いた。

 ほとんど距離のない場所から先の先をとる中段突き。

「半歩崩拳、あまねく天を打つ」といわれた郭雲深(かくうんしん)のような崩拳だった。

 いつものなんちゃって八極拳以外にも形意拳なんかも使えるのか、彼女は。

 もっとも、本物とは違う我流だとは思うけど。

 そして、たたらを踏むレイさん目掛けて放たれる得意のローリング・ソバット。

 腕を交差してブロックすることでギリギリのところでクリーンヒットにはならなかった。

 しかし、復活していた。

 流れるような美しい技のコンボが出た。

 あれこそ、巫女レスラー御子内或子の真骨頂だった。

 

「どっしゃああああ!」

 

 天を衝く気合いとともに御子内さんが前に出る。

 上段、下段に分けて繰り出されるナックルパート。

 レイさんは両腕を回転させてそれを弾く。

 どっしりと腰を落としたその捌き方は、空手などのそれではなく中国拳法のようだった。

 彼女もまたただのパワーファイターではない。

 修練を重ねた闘士なのだ。

〈神腕〉という武器にだけ頼り切ってはいない。

 複雑な手による連打を、数発を除いて受けきった。

 

「やるね!」

「おまえだけが強い訳じゃねえ!」

「そんなのあたりまえだよ!」

 

 自分も強いが、相手も強い。

 そうでなければいい戦いにはならない。

 格下だけと戦って防衛戦を繰り広げるようなチキンとは違う。

 二人とも戦いに誇りを感じることを至上の喜びと考える生粋のファイターなのだろう。

 御子内さんがロープに向かって走り、反動を利用してボディプレスを放った。

 奇襲のつもりだったろう。

 だが、彼女の身体ごとレイさんは両腕で受け止め、それからなんとくるりと梃子の要領で回転させて、背中を膝の上に叩き付ける。

 風車式背骨折り(ケブラドーラ・コンヒーロ)だった。

 ラリアット以外のレスリング技は使っていなかったレイさんが、力任せながらもそんな大技を出してきたことが驚きだった。

 さすがは御子内さんの同期ということか。

 背中をしたたかに打ち付けられた御子内さんだったが、なんとか回転してマットの端まで脱出する。

 寝技による追撃はない。

 やはりレイさんは立ち技オンリーなのだろう。

 今の風車式背骨折りも完璧に入ったというわけではないようだ。

 とはいえ不用意に飛んだ御子内さんにも油断があったと言わざるを得ない。

 

「御子内さん、しっかり!」

「おうさ!」

 

 僕の声援にサムズアップと笑顔で応えてくれる彼女を、対戦相手が奇妙な目で見つめていた。

 

「……おまえ、昔からしつこさが売りだったのは変わっていないにしても、そんなに笑っていたか?」

「いきなり何を言っているんだい?」

「オレの知っている或子はもっと考えなしでスタミナ切れなんて考えもしない奴だったはずだぞ。どうして、そんな体力回復・温存をできるようになった?」

 

 よく考えれば当たり前のことだが、昔の御子内さんはそういうことができなかったらしい。

 僕の知っている彼女は今のままなので不思議に感じたことはないけど。

 

「レイ、自分だけが試合を愉しんでいるのではいけないということがあるんだよ」

「なんだと?」

「どうしても戦わなければならないことがあり、どうやっても負けられないことがある。そのためには頭も使わなければならない。至極簡単なことさ」

「……オレには絶対に負けられないということかよ」

「京一に頼まれたからね。キミに勝てって」

「男のためかよ。見損なったぞ」

「ううん、違う」

「じゃあ、なんだよ」

()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そう力強く宣言すると、御子内さんは一本指で天を指さした。

 

「この御子内或子は、お天道様に恥じない戦いをしていると信じている。だから、今のレイに負けることはない」

「ぬかせ、或子!」

 

 またも二人の巫女レスラーは激突する。

 レイさんは相変わらずのビンタと突っ張りで牽制しつつ、腕を採るなりラリアットを狙う作戦のまま。

 しかし、これだけ長引いてくると御子内さんの千変変化する攻撃方法に比べると、単調になってくる。

 力押しだけが取り柄ではないと言え、あまりに同じパターンが続けば対策を取られてしまうというものだ。

 しかも彼女たちのレベルとなると一度でも見せてしまえば、すぐにでも修正してくる。

 基本的に二度見せたら危険なのだ。

 同期であるということもあり、手の内を知り尽くされているという弱点もある。

 この点、やはり技の多彩な御子内さんが有利だ。

 次第にレイさんは隙を突かれて防戦一方になっていく。

 ほとんど御子内さんが押している形勢だった。

 だが、客観的に見ているからわかることもある。

 レイさんは一発逆転を狙っている。

 常に二本の〈神腕〉によるラリアットをぶちこもうと虎視眈々と隙を窺っているのだ。

 御子内さんがそのことに気づいていてくれればいいんだけど……

 と心配していたら、御子内さんが放ったなんちゃって裡門頂肘(りもんちょうちゅう)が横に変化して躱された。

 レイさんのぬるりとした円の動きだった。

 間違いなく来る!

 風車のごとく回転する両腕が下から必滅の投げ縄を―――違う―――あれは……

 

「アックスボンバー!」

 

 斧爆弾がグラウンドゼロを引き起こさんと大気を焼き尽くす。

 あんな至近距離で肘の内側と二の腕を顔面にぶつけるのは、生半可なパワーでは足りないはずだ。

 しかし、レイさんは〈神腕〉を持つ巫女だ。

 彼女ならば可能か。

 

「御子内さん、躱せぇぇぇぇ!」

 

 僕が必死に叫んだ時、今まで直線にしか動かなかった御子内さんがひらりと回転して舞った。

 

「!!」

 

 レイさんの後ろに飛びながら回り込んだ。

 まるで地表スレスレを飛び去るツバメのごとく。

 そして、彼女の右の蹴りがレイさんの首筋―――延髄に命中した。

 

「延髄切り!」

 

 僕はあんなに滞空時間が長い延髄切りを初めて見た。

 宙を舞うようだった。

 レイさんが最後のアックスボンバーを隠していたように、御子内さんも切り札としての延髄切りをここにいたるまで秘めていたのだ。

 裡門頂肘はただの見せ技。

 本命は最初からこっちだったのである。

 必殺技が炸裂したとき、相手は確実に倒れる。

 斃しきれなければそれは必殺技ではない。

 御子内或子の延髄切りは間違いなく、必殺技(フィニッシュホールド)であった。

 明王殿レイはそのまま膝から崩れ落ちていく。

 彼女の意識の沈黙とともに、同期の巫女レスラー同士の戦いは決着した。

 

 

 やはり僕の御子内さんは巫女レスラーのチャンピオンなのだった。

 

 

 

 

 



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無駄じゃあないさ

 

「……レイ、起きなよ。レイ」

 

 マットの上で失神しているレイさんを御子内さんが揺すっていた。

 意識を失っている人間を無理矢理起こすのは良くないといったのに、「ボクらはよくやるよ」と意に介さないで、ゆさゆさと肩を押す。

 普通ならばそんなことでは眼を覚まさない。

 だが、レイさんは、すぐに、

 

「うう……」

 

 と呻いて、顔をしかめつつ立ち上がった。

 頭を押さえてはいるが、振ったりするようなことはしない。

 失神状態からの回復に慣れているということがそれだけでわかる。

 つまりは、御子内さんの言う通りということだ。

 僕なんかとは鍛え方が違う。

 

「なんだ、或子か」

「ボクのことはわかるんだね。で、何があったかは覚えているかい?」

「―――負かしたやつに優しく声をかけんじゃねえよ。おまえのそういうところ、心底、腹が立つわ」

「レイの力が必要なんだよ。ちょっと京一だけでは労働力が不足していてね。今年のボクは経営者と搾取の理論を展開することにしたんだ」

「……つまり、負けたやつは奴隷になって働け、か?」

「人聞きが悪い。文句を言わずに言われるままの力を提供してほしいというだけのことだよ」

 

(―――うん、それは奴隷労働そのものだね)

 

 内心でツッコミをいれてみたが、口には出さなかった。

 だって、僕だって同じ立場だからね。

 

「しょーがねーなあ。何をすればいいんだよ……」

 

 さっきまでのギラギラしたところが消え、なんというか年下への面倒見が良さそうなお姉さんという感じになっていた。

 そういえば、僕が最初に見かけた時は、彼女は何の関係もない女の子を悪霊から助けていたよね。

 退魔巫女として働きだしてからの何かしらのストレスのようなものが、彼女に悪いプレッシャーでも与えていたのだろうか。

 御子内さんに敗れたことで心境の変化があったのかもしれない。

 おそらく、こっちの方がきっと素の彼女なのだろう。

 

「こっちです」

 

 僕とは二人を連れて、武家屋敷の庭へと赴いた。

 そこは他と同様に雑草が生い茂り、元々は庭園であったと思われるのに、ただの荒れ地となっている場所だった。

 よく見ると、中央に深い穴が空いている。

 

「なんだ、これ?」

「古井戸……かな」

「どうして、こんなものがあるんだ? 危なくないかよ」

「すぐ先に茶室があって、そこで使う水を汲みだしていたんだ」

「ほお」

 

 中を覗き込んだレイさんがずばっとのけ反る。

 それも当たり前。

 井戸の中から〈うわん〉が現われたからだ。

 

「こいつ……!」

「待て待て。ボクの言うことを聞く約束だろ。その〈うわん〉を退治するのは禁止だ。―――で、これを持っていろ」

 

 御子内さんがレイさんにリングに使うロープの予備の先端を手渡した。

 

「なんだよ、これ?」

「じゃあ、京一も頼んだよ」

 

 そう軽やかに言い放つと、御子内さんはロープの反対側を持って井戸の中にするすると降りて行ってしまう。

 予想していない行動に驚いたレイさんだが、ロープにかかる友人の全体重を感じるとすぐに〈神腕〉の力も行使して、支え始めた。

 僕も微力ながら手伝わせてもらう。

 もともと僕一人では御子内さんを支えられないためにレイさんを起こしたのだから、少し気が咎めてしまうのだが。

 

「よーし、いいぞぉ」

 

 井戸の中で御子内さんの声が反響する。

 僕たちは「せーの」という掛け声とともにロープを引っ張り(力の大半はレイさんのものだっだけどね)、無事に古井戸の底に降り立った御子内さんを救出した。

 彼女が背中に背負っている青白い肌の中年女性とともに。

 

「お、おい……。それは……死んでるのかよ?」

 

 背中から女性を下ろし、地面に横たえる。

 おそらくは井戸水で濡れていたのか、びしょびしょだった。

 それだけでなく、まるで氷のように冷たかった。

 

「死んではいないよ。完全に仮死状態―――というよりも半分幽界に入ってしまっていて生命活動そのものがストップしている」

「マジかよ。……どうしてそんな奇跡的な状態で命を取り留めていられるんだ?」

「おそらく冷え切った井戸水に浸かっていたことと、あいつのせいだ」

 

 御子内さんの指は〈うわん〉を示していた。

 

「早い段階で、〈うわん〉がこの彼女から出現したせいで、人と鬼が交わる世界―――幽界に半分入り込んでしまったんだろうね。おかげでおそらく半年以上もこの女性はこのままの状態で井戸の底にいられたということさ。ただ、京一が見つけなければ早晩死んでしまっていたとは思うけど」

「ちょっと待てよ。―――て、ことは?」

「ああ。その〈うわん〉はこの女性の無意識―――もしくは死にたくないという執念が産みだした鬼だったというわけだ。まあ、全部、京一の推理なんだけどね」

 

 ……〈うわん〉というのは、通りすがりの人に向けて「うわん!」と叫んで驚かすだけの妖怪で、鬼の一種だと言われている。

 逆にいえば、「ただ、それだけ」なのだ。

 意味もなければ、必要性もない。

 何かの自然現象が妖異(あやかし)として昇華したものでもない。

 突き詰めれば、謎の存在で正体不明なのだ。

 だが、世の中には完全に意味不明なものなどない。 

 絶対に意味はあるのだ。

 そこで、僕は考えた。

〈うわん〉は江戸時代の妖怪草子などにおいてはお歯黒をつけた妖怪として描写されている。

 平安時代などの発祥の頃はともかくとして、江戸時代以降の近代においては、お歯黒は既婚の女性、もしくは年配の女性のための化粧方法として確立されていた。

 ならば、どんなに恐ろしく見えても〈うわん〉というのは女性だと考えるのが、妥当である。

 さらに鬼が人の負の感情が実体をもったものだとすると、〈うわん〉は特定の女性から産まれたものだと解するのが適当だ。

 だが、〈うわん〉を産んだ負の感情とはなんだろう。

 まさか、人を大声で驚かすことで満たされる感情なんてあるものだろうか。

 ここでその名前の由来まで思考を巡らせてみた。

〈うわん〉。

 九州の方でオバケを「わん」と言うことからつけられたという説もあるが、それは〈うわん〉が口にする言葉と「わん」を同一視したからであろう。

 まとめると、〈うわん〉は「うわん」と言うから〈うわん〉なのだ。

 つまり、「うわん」という言葉の意味が問題となる。

 人の感情において「うわん」と叫ぶときはどういう場合であるかを考えてみると答えがでる。

 

「うわーん」

 

 と叫ぶときとは、すなわち「()()()()()()()」ときなのだ。

 そして、通りすがりの人に対して泣き叫ぶときとは、大人でも赤ん坊でもほとんど変わらないだろう、それは一つしかない。

 

 ()()()()()()()()()

 

 しかないのだ。

 ここで僕は〈うわん〉の正体とは「誰かに助けを求めている年配の女性の思念が鬼となったものではないか」と推理したのだ。

 だから、僕は武家屋敷の中を探して回った。

 もしかしたら、誰かに助けを求めているお歯黒をつけられる年頃の女性がいるのではないかと。

 そして、実際に僕の意図に気がついたらしい〈うわん〉に案内され、古井戸の底に落ちていたこの女性を発見したという訳である。

 

「……京一、その女性(ひと)が手にしている分厚い本はなんだい?」

 

 僕は凍り付いてしまったように、女性が絶対に放さない黒い本を見た。

 

「たぶん、この屋敷の住人が持っていたアルバムだよ」

「アルバム?」

「うん。さっき住人の人のねぐらをみていたときに、本棚から抜き出した跡があった。それがきっとこのアルバムなんだ」

「どうして、そんなものを」

 

 僕は女性がどうしてそんなことをしたのか、推測しかできないけれど、

 

「きっとこの女のひとは、ここの亡くなったご主人の娘さんだったんだよ。確か、相続人が見つかっていないという話だったよね。でも、何か事情があって帰ってこれなくて、親が亡くなっても名乗り出ることができなかった。当然、この屋敷も相続できない。ただ、家族の思い出ぐらいは欲しかったんだろう。このアルバムだけを形見の代わりにでももらっていくことにしたんだよ」

「じゃあ、どうして古井戸(こんなところ)に?」

「それはわからない。事故なのかもしれないし、自殺かもしれない、はたまた誰かに突き落とされたのかも。……でも、死ぬかもしれない瞬間もこのアルバムを大事に抱きしめて、〈うわん〉という妖怪まで産みだしてまでなんとか助かろうともがいていたんだ」

 

 結果として、生命をかろうじて拾ったというところだ。

 

「―――じゃあ、もしも、オレが〈うわん(こいつ)〉を退治していたら……?」

「きっとこの女性は助からなかっただろうね」

 

 僕の説明を聞いて、レイさんが眼を伏せた。

 でも、気に病むことではないよ。

 だってレイさんは知らなかったんだから。

 

「じゃあ、京一がこの女性(ひと)を助けたんだね」

「いいや、違う」

「ん?」

 

 僕は御子内さんを見て、

 

「君がレイさんを説得してくれたから、〈うわん〉の正体を突きとめることができたんだ。御子内さんの戦いのおかげだ」

「―――そんなことはないね」

「御子内さんが一つの避けがたい不幸を防いだんだ。だから、胸を張っていいよ」

 

 巫女レスラーは照れくさそうに微笑んだ。

 可愛くて抱きしめたくなるぐらいに頬を紅くして。

 

「……そうかよ。或子の言っていたのはこういうことなのか」

 

 レイさんがぽつりと呟く。

 彼女からはどこか投げやりな摩耗した雰囲気が醸し出されていた。

 

「オレのやっていたことはなんだったんだろうな。妖怪を退治するだけで、本当に意味があったのか、わからねえや」

 

 でも、僕はそんな自嘲的な言葉を否定した。

 

「そんなことはないよ」

「……なんだと?」

「レイさんは、昨日、通りすがりの女の子に憑りつこうとしていた悪霊から、彼女を助けていたじゃないか」

「どうして、それを……」

「偶然だけど、見ていたからね。そして、その女の子だけでなくて、引き剥がされた悪霊だって、それによって自然と成仏して消えていった。レイさんは女の子と悪に染まりかけた霊の二つを救ったんだ。それは誇るべきことだと思う」

 

 僕は訥々と言った。

 心の底から。

 

「レイさんのしてきた戦いも絶対に無駄じゃあないんだよ。渇きも空洞も、きっと本当はなかったんだ」

 

 すると、彼女からは今度こそ何かの憑き物が落ちた。

 剣呑さはもうどこにもない。

 

「……そっかあ。そうだったのかよ」

 

 そんな彼女を、御子内さんと―――本体が助かったことで役目を果たしたのか、徐々に消えゆく〈うわん〉が見守っていた……。

 

 

 

 

 

 

 

 

参考・引用文献

 「江戸の怪奇譚」 氏家幹人 講談社

 「河童とはなにか」 常光徹 岩田書院



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第6試合 巫女乱舞
都市伝説の中の伝説


 

 

 ショーミん@little_apple_tea1011 :ねえ、みんな知ってる? 松戸の噂

 

 ♡あきこ×シンジ♡@akikooooooo : @little_apple_tea1011 なにをよ

 

 あゐち@aibakun_love : @little_apple_tea1011 @akikooooooo 松戸ってあんたの地元じゃん

 

 ショーミん@little_apple_tea1011 : @akikooooooo @aibakun_love  噂っていうかあたしが見ちゃったんだけどね!!!!!!!

 

 ♡あきこ×シンジ♡@akikooooooo : @little_apple_tea1011 ウゼ さっさとイエ あたしはヒマじゃねーの

 

 あゐち@aibakun_love : @akikooooooo @little_apple_tea1011 あきと同意 アラシにしやがれ観るからハヨせい

 

 ショーミん@little_apple_tea1011 : @akikooooooo @aibakun_love …………………………………………口裂け女

 

 あゐち@aibakun_love : @akikooooooo @little_apple_tea1011 はああああああああああああああああああああ?!!!?

 

 アホかい!!!

 

 クロサキダダ@mikazon : @little_apple_tea1011 今、口裂け女っていいましたあ!!

 

 ♡あきこ×シンジ♡@akikooooooo : @little_apple_tea1011 寝ていい? アホか

 

 ショーミん@little_apple_tea1011 : @akikooooooo @aibakun_love @mikazon マジヨマジマジ!! 口裂け女が松戸に出たんよ 超ショーゲキスーパーニュースだんべ!!!

 

 あゐち@aibakun_love : @akikooooooo @little_apple_tea1011 あたしも寝るお休み

 

 クロサキダダ@mikazon : @little_apple_tea1011 とりあえずRT

 

 ♡あきこ×シンジ♡@akikooooooo : @mikazon あいてすんな

 

 クロサキダダ@mikazon : @akikooooooo 明日学校でバカにする( ..)φメモメモ RTでどこまでショーミの寝言が拡散するか見てえwwwwwwwww

 

 ♡あきこ×シンジ♡@akikooooooo : @mikazon しょーもな ツイよごしでしかねえよ

 

 クロサキダダ@mikazon : @akikooooooo だな

 

 

      ◇◆◇

 

 

 ……友人のアホな呟きをリツイートしてから、クロサキダダこと黒嵜奈々枝(くろさきななえ)はすぐに別にフォロワーに絡んだ。

 タイムライン上では、まだショーミんが口裂け女云々を呟いているが、あまりにしつこいので飽きてくる。

 もともと、霊感が強いということを売り物にコミュニケーションをとる女だったが、こういうおかしなことをツイートするタイプではなかった。

 だが、面白おかしいやりとりをするだけならばともかく、こういうオカルトっぽい内容はうちらには合わない。

 一応友達ではあるし、別にブロックするほどのことではないけれど、しばらくはミュートしてしまうか。

 奈々枝はショーミんのアカウントを見えないように―――ミュート設定にした。

 これでしばらく頭のおかしい呟きを見ないでツイッターが楽しめるというものだ。

 

「口裂け女ねえ」

 

 思わず嘲笑してしまった。

 今どきの女子高生のネタではない。

 なにがあったらそんなかび臭いものを引っ張り出してこられるのか。

 

「バっカじゃねーの」

 

 土曜日の真夜中近く。

 予備校から家までの道のりの数十分をツイッターに費やすのが、奈々枝の数少ない楽しみの一つであった。

 時間が経てば流されて消えていくつまんない呟きに時間を掛けている暇はない。

 リツイートしておいたし、別にすぐに意識から消してしまっても構わないだろう。

 もっと面白い話題が世の中にはいっぱいあるのだから、

 

「おお、トレンドに嵐きてんじゃん。くー、生で観たかったぁ」

 

 電柱についた電灯しかない夜道で新着ツイートを漁りながら歩いていたとき、ふと気がつくと一人の女性が隅に立っているのが見えた。

 もう五月だが曇りの多い季節ということもあり、やや肌寒いとはいっても、彼女のように厚手のコートを着ているのはさすがに奇妙だった。

 しかも肩までのワンレンの髪型は随分古臭い。

 俯いているからか顔はわからないが、遠目でもどこか異常を感じさせる女性だった。

 すぐわきを通り抜けるのも遠慮したいところだ。

 ただし、奈々枝の家に帰るためにはあの女性の前を通らなければならず、遠回りするとしたら十分は余計にかかってしまう。

 諦めて奈々枝は歩き出した。

 いやだいやだと思いながら。

 そして、その予感は的中した。

 すぐ目の前に行った時、女が話しかけてきたのだ。

 

「ねえ、お嬢さん」

 

 無視しようかと思ったが、返事をしないで逆ギレされるのもいやだという理由でしぶしぶ応じた。

 

「なんでしょうか」

「……一つ、聞いていいかしら」

 

 傍に近寄って初めて女が風邪をひいているのかとても大きなマスクをしているのがわかった。

 顔のパーツで見えるのは目と眉だけ。

 しかも、その眼でさえギラギラとしていて、とてもまともな人間ではない。

 マスク越しのくぐもった声も聞き取りにくかった。

 

「何を……ですか?」

 

 女がニヤリと……笑った気がした。

 マスクのせいで表情はわからないが、なんとなくそう感じた。

 

「ちょっと見てくれないかしら」

 

 そういうと、女はゆっくりとマスクを外した。

 奈々枝は逃げればよかったと後悔する。

 ゾクリと背中が凍えた。

 恐怖の脂汗が瞬時に噴き出る。

 

「ああ―――ああああああ!」

 

 女の口は耳まで、()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そして、女は化け物めいた大口を歪め、口腔内のサメに似た犬歯の羅列を見せつけて、

 

「《《私、綺麗?》》」

 

 と訊いてきたのである……。

 

 

       ◇◆◇

 

 

 僕は疲れた肩をさすりながら、帰路についていた。

 ついさっきまで力仕事をしていたのだからかなり体力がなくなっていた。

 とはいえ、実際に疲労を感じさせられたのは、一緒にトラックに乗っていた運転手についてなのだけど。

 休日を利用して、高校生でもできるという引っ越しのアルバイトをやることにし、僕は助手となって三つの現場で働いた。

 体格としての線は細いけれど、ある事情から格闘技用のリングの設営で慣れているせいもあり、力仕事には問題はない。

 重い荷物を持っての階段の上り下りだって苦痛と呼べるほどではない。

 だが、人間関係で小さな失敗をしてしまった。

 これまでこういう助手の仕事をしたときは、運転手と会話をしたりして、なんとか雰囲気をよくしようと努めたり、一回やって手順を覚えたら気を利かして先回りをして動くようにしていた。

 ほとんどの運転手さんとはそれでやってこれた。

 だが、そういう行動のことを嫌がる層というのは一定数いるものだ。

 つまり、アルバイトは黙っていうことをきいて労働力としてだけ動けばいい、会話を求めたり頭を使うのはプロにとっての越権だと認識しているタイプが。

 その手の人にとっては同僚だけが仲間であり、バイトというのはロボットであればいいのである。

 僕はその辺の見極めを間違えてしまった。

 最初のフレンドリーさを勘違いしてしまい、少し踏み込みすぎたのだ。

 その運転手は、次第に僕のことを「生意気なやつ」と判断するようになり、最後のあたりで爆発した。

 おまえは運ぶことしかしなくていいんだ、仕事出来ねえんだから、俺たちをバカにすんなよ、と説教が始まった。

 車内という密室の中での二人きりの状態では反論することもできず、フルボッコのまま、「もういいから、降りろよ」ということまで言われてしまう。

 何度も世話になったバイト先なので止める訳にもいかず、僕は頭を下げまくってなんとか終わった。

 酷いストレスだった。

 僕って実は精神的に弱かったんだな、と食欲がなくなるぐらいに。

 

「……ああ、もうあそこのバイトしたくないな」

 

 また、あの運転手とあたったらと考えると憂鬱になる。

 最寄りの駅に降りて歩いて帰ろうとか思っていたら、前から声をかけられた。

 聞き覚えのある、というか聞きたいと願っていた朗らかな声だった。

 

「京一、そろそろ帰ってくると思っていたよ」

 

 紅白の巫女装束とロングブーツ、革のアームバンドが勇ましい美少女が駅前のベンチに腰掛けて待っていた。

 どういうわけか、珍しくズタ袋のような大きな鞄を持っている。

 

「どうしたんだい、しょぼくれた顔をして。そんなため息しかでなさそうな様子をしていたら、福の神でさえも跨いでいってしまうよ」

「……僕を待っていてくれたの?」

「ああ、そうさ。どうしてもキミが必要な案件があってね。迎えに来たんだ」

 

 僕が必要?

 今の僕にとっては何よりも嬉しい言葉だった。

 ついさっきまで自分の情けなさを実感していたところだったのでなおさら。

 

「〈護摩台〉を設営しなくてはならないの?」

「いや、違う」

 

 御子内さんの助手として散々〈護摩台(リング)〉を設営して経験から、僕の必要性と言えばそれだと思っていたのだが、彼女は(かぶり)を振った。

 

「今回の妖怪退治には〈護摩台〉はいらないんだ。だいたい退魔巫女が一発殴れば消えてしまう程度の妖怪だからね」

「……じゃあ、どうして僕が?」

「レイからの要請なんだよ。『或子の助手を連れて来い』ってね」

 

 ―――明王殿レイというのは、御子内さんの同期の退魔巫女だ。

 この間、ちょっとした事件で彼女と知り合ったけれど、レイさんに呼び出されるような覚えは僕にはない。

 

「なんで、僕を?」

「うーん、それはボクも不思議だったんだけど、京一があのときの〈うわん〉の謎を解いたことが原因じゃないか。ああいう謎解きみたいなことはボクら退魔巫女には難しいことだし、あいつも感心していたようだからね」

「なるほど……今度の御子内さんの相手はちょっと普通じゃないということか」

 

 単純な武力の問題ならば、御子内さんレベルの猛者ならばどんな敵とだってやりあえるだろうが、そこに妖怪特有の神秘が絡んでくると厄介なことになるというのはわかっていた。

 特に、現代になってからは妖怪の存在や意義というものも急速に変容し、かつてのやり方では対処できなくなっているそうだ。

 若い退魔巫女にはそういう意味での研鑽も求められているらしい。

 御子内さんは今どきの女子高生とは思えないほどハイテクに弱く、未だにメールは苦手だし、その他のSNSもまったくわかっていないが、それではこれから先の妖怪退治はできないだろう。

 だから、そういう面での彼女のサポートをすることが僕の仕事の一つだ。

 御子内さんがツイッターだとかフェイスブックをやったとしたら、きっと色々と炎上するだろう路線に進むことは想像に難くないし。

 

「いいよ。じゃあ、明日、何時に集合する」

 

 僕が予定帳を取り出すと、腕をガッシと掴まれた。

 ちょっと困るよ、ペンで書きづらいじゃないか。

 

「今すぐ行くよ」

「へっ?」

「今日はボクと一緒にオールナイトだよ、京一。夜明けのコーヒーを一緒に飲もうじゃないか!」

 

 その言い回しの意味を理解しているのかいないのか、僕と腕を組んだまま、御子内さんは上機嫌で出てきたばかりの駅の改札へと向かおうとする。

 どうやら僕には拒否権はないらしい。

 

「しょうがないなあ」

 

 照れくさいので頭を掻きながら、僕はちょっと変則的な巫女装束の美少女と回れ右をするのであった……。

 

 



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妖怪〈口裂け女〉

 

 

 口裂け女とは、1979年に岐阜県を中心として全国に広まった怪談である。

 この口裂け女の噂が口コミによって広まっていく過程が、今でいう都市伝説のはしりであるとさえ言われているほど、多くの人々に知られているぐらいだ。

 噂の最盛期には、子供たちがパニックを引き起こし、通報によって警察が出動したこともあるそうだ。

 なぜ、子供たちがパニックになったかというと、現在のようにインターネットの普及する以前は、学校内でのコミュニティによる伝播力が強く、こういった噂は瞬く間に「()()()()()()」拡散していったからであるとも言われている。

 口裂け女のストーリーは、至極簡単である。

 顔半分を覆うマスクをつけた女に「私、綺麗」と話しかけられる。

 それに対して応えると、「これでも」といってマスクを外し、隠されていた耳まで裂けた口を見せつけてくるというものだ。

 日本全国に伝播する際に、やはり伝言ゲームの要領で内容が歪曲化され、「綺麗というと殺されてしまう」とか「口裂け女は男が髪につけるポマードが嫌い」だとか「空を飛ぶことができる」だとか、様々なバリエーションが付け加えられて増えていった。

 そのあまりの広がりの速さに注目し、とあるスパイ機関が噂の拡散力の実験のために広めたのではないかという説も出たほどである。

 二十一世紀になってから産まれた僕らにさえ、わりと知名度があるというだけでも、当時のショックの大きさがわかるというものだ。

 

「……でも、御子内さんたちが動くと言うことは、口裂け女というのは妖怪なの?」

 

 JRの常磐線松戸駅に降りて、ロータリーの上にある広場で僕らはコーヒーを飲みながら話をしていた。

 もう一人の退魔巫女とここで落ち合うとのことだった。

 レイさんかと訊くと別の人間らしい。

 つまり、総勢三人の退魔巫女がこの松戸市に揃うのか。

 

「古い意味での妖怪ではないよ。新妖怪とでもいうべきかな。……いや、明治から昭和初期に現われたものを新妖怪と定義するっぽいから、平成近くにでてきたのは、新・新妖怪と言うべきか」

 

 新興宗教の定義みたいだな。

 

「新・新妖怪って……。そんなんでいいの?」

「数はそんなにないし。昔と違って、怖いお話も噂として拡散しても検証されるのが早いし、すたれるのも早いからね。―――んん、都市伝説が妖怪となったもの、といえばいいのかな」

「じゃあ、口裂け女も入るね」

「ああ。でも、今回、僕たちが退治するのは、ある意味では三十年以上前の口裂け女ではなくて、新しい〈口裂け女〉なんだ」

「新しい〈口裂け女〉ってどういう意味?」

「これからすぐに動くことになるから、その時に見ればわかると思うよ。百聞は一見に如かずそのものだから」

 

 御子内さんにしては珍しい対応だった。

 どうやら僕に〈口裂け女〉にまつわる何かを解決するのに知恵を出してほしいということのようだが、話のとっかかりの部分ではぐらかされるのはどうも納得できない。

 ただ、彼女にもそうするだけの理由があるのだろうし、今は無理に問い詰めることはしないでおくか。

 

「じゃあさ、それ以外の情報を聞かせて」

「わかった。―――発端はね、二日ほど前だ」

 

 二日前。

 GWに入る直前ぐらいか。

 

「被害者は予備校からの帰り道に〈口裂け女〉に襲われたんだ。手口というか、手順はいわゆる口裂け女のストーリーそのままだね。突然、道端でマスクをつけた女に話しかけられて、『私、綺麗』と訊かれるというものさ」

「想像がつくよ」

「で、彼女は何も答えないでいる間に、その〈口裂け女〉に()()()()。首筋あたりにばっくりと噛み跡ができて、全治一ヶ月の重傷だそうだ。しかも、跡は手術しても完全には消せないらしい」

「―――噛まれた?」

 

 口裂け女の噂では、そういうものはあまり聞いたことがない。

 なるほど、新〈口裂け女〉と呼ばれているのはそういうことか?

 

「他の被害者の話を総合すると、口が裂けているというよりも、大きな口を持っていたということかな。ちなみに口腔内には乱杭歯がずらりと並んでいたらしい。そのことから、ボクらは最初は口裂け女というよりも、低級なキツネやらの動物霊が憑依した人間ではないかと考えたほどだ」

「なるほど」

 

 骨格から違っていたということならば、そういう考えになるのもわかるか。

 要するに俗にいう犬神憑きかもしれないという訳だ。

 でも、「私、綺麗」といういかにもな言葉がある以上、口裂け女事例だと看做す方が手っ取り早そうだ。

 

「で、今現在、〈社務所〉で把握している〈口裂け女〉の被害は十人。かなりの人数が怪我をしていて、情報操作をしていてもどうしょうもなくなっている感じだ。だから、今日中に決着をつけなければならないと、急いで手の空いている退魔巫女たちが駆り出されているという訳なのさ」

「……え、御子内さんとレイさんと、今、待っている人だけじゃないの?」

「ああ、ここ以外にも、新松戸駅やら北千住側やらにも巫女が配置されているはずだよ」

「そんなにいるんだ?」

「まあね。北関東を護っている連中は動けるものは根こそぎ集められているんじゃないかな」

 

 へえ。

 そんな緊急事態なのか。

 未だに御子内さんたち退魔巫女の組織構成などがわからない僕にとっては、見当もつかないけれど。

 でも、退魔巫女の皆さんは美人ばっかりだから目の保養にはなるかもなんて、部外者に近い僕がのんびりと下種なことを考えていると、肩をポンと叩かれた。

 振り向くと美人ではなくて、白い布地に派手なラメのストライプの入った覆面の女の子が立っていた。

 

「京いっちゃん、オラ」

「ああ、音子さん、オラ」

 

 覆面を被った退魔巫女、神宮女音子さんがやってきたのだ。

 どうやら、待ち合わせの相手というのは彼女のことだったらしい。

 オラというのはスペイン語でこんにちはのことだ。

 こういうスペイン語混じりの会話をする女の子のために、僕はちょっとだけ勉強しておいたのだ。

 たまにラインをしたりする程度の仲だが、コミュニケーションを円滑にするための努力は欠かさない方なのである。

 待ちくたびれていたらしい御子内さんは不機嫌そうでジト目をしている。

 あまり友好的ではない目つきと態度で、音子さんに注意を促した。

 

「―――音子。遅いぞ」

「ペルドン」

「なんだって?」

「ごめんなさいって意味だね」

「京一には聞いてないぞ。ボクにもわかる言語でいいたまえよ」

「ディスクルパ」

「今度はどういう意味だい? 京一」

「……じゃあ、なんで僕に通訳させるのさ。―――確か、ごめんなさいの別の言い回しじゃないかな」

「ふーん、つまり軽く謝るだけで誤魔化そうという腹なのか? このボクをだいぶ待たせておいて、反省の欠片もないようだね。しかも、いきなり京一にだけ話しかけるという、友達を無視した所業。……音子、そろそろキミとは決着をつけなければならないかもしれないねぇ」

 

 レイさんとやりあったときは、とても大人な対応をしていたはずなのに、なぜだか音子さん相手には喧嘩っ早くなるのはどうしてなのだろう。

 胸の大きさとかにコンプレックスでもあるのかも。

 ちなみにあまり気にしたことはないが、御子内さんは年頃の女の子としては普通のサイズ、音子さんがやや上回る。レイさんは問題なく爆乳という感じだ。

 まったくもってまな板そのもののうちの妹に比べれば、みんな女らしくて素晴らしいんたけどね。

 

「京いっちゃん、車を待たせてるからこっちに来て。あ、或っちも来るんなら来てもいいぞ」

「なんだって! おい、音子! 言うに事欠いて、ボクをのけ者にして京一とどこにしけこもうとしているんだい! そんなことはボクが許しても、絶対に天照大神が許しはしないよ!」

 

 随分と心が狭いな、神道の主神は。

 あとしけこもうとか言わないでほしいんだけど。

 御子内さんも来ていいと言っているんだから、その論調だと複数プレイっぽくなって危険な臭いしかしてこないよ。

 

「―――江戸川の方の河川敷で目撃情報がある。あたしたちは、そっちに行く」

「そっち? ちょっと変な言い方するね」

「〈口裂け女〉の目撃情報が複数あって、ぶっちゃけ人手が足りない」

「―――わかった、とりあえず行こうか。ねえ、御子内さん」

 

 思った以上に自体は切迫しているらしく、のんびりとしたところのある音子さんもさすがに焦っているようだ。

 突っかかる御子内さんをほとんどスルーしている。

 無駄だと判断したのか、黙ってついてきた御子内さんと一緒に大通りに止めてあった車に乗り込む。

 ベンツだった。

 しかもSクラス。

 メルセデス・ベンツ・W222というかなり最新型に近いタイプで、乗り心地はよく性能も高いという高級品だ。

 なんでこんなものがあるのかという疑問はさておいて、音子さんと僕と御子内さんの順で乗り込むと、戦車のように雄々しく走り出す。

 後部座席が三人でも余裕に感じるぐらいに広く、両隣に二人の女の子が並んでいてもあまり接触もなく役得はなかった。

 運転しているのは、ドライバーらしいベストとパンツ、制帽を被った若い女性だった。

 おそらく二十代後半ぐらい。

 髪を短くしているし、背も高そうなので、最初は男性かと思った。

 発進の時も一瞬の揺れもないほどスムーズで、W222の性能だけでなく運転の腕もいい人なのだろうと想像がつく。

 

「―――あれ、不知火(しらぬい)こぶしじゃないか。巫女の統括のキミがどうして、こんなところにいるんだい?」

 

 御子内さんの発言からすると、このW22の運転をしている女性は不知火こぶしという名前らしい。

 かなり親しげなのでそれなりに深い知り合いなのだろう。

 こぶしさんという女性は振り向きもせずに、

 

「お久しぶりね、或子ちゃん。どう、元気にしている?」

「まあね」

「そっちが例の助手の子? レイちゃんが褒めていたわよ」

「まあ、そうだろうね。ボクの京一は褒めるに値する男さ。ただ、音子に対して甘いのが最悪の欠点だがね」

「ふふふ。音子ちゃんも色恋沙汰では下手なちょっかいをするのねえ。……で、どうなの?」

 

 何がどうなのか、と横を見ると、音子さんがスマホではなくタブレットを弄っていた。

 指の動きが迷いなく、高いレベルで慣れていることがわかる。

 メールもやらない御子内さんとはえらい違いだ。

 すぐに、顔を上げ、

 

「みんな、それぞれの場所で退魔を続けている。でも、どうしても特定できないみたい」

「……でしょうね。元凶が把握できなければ、イタチごっこが続くだけだし」

「でも、やらないとパニックになってしまうかもしれない。さっき、ツイッターのトレンドに入ってきていた」

「なんて?」

「#口裂け女現る、だって。その他のSNSでも少しずつ拡散している。写真がないから、インスタとかではまだ反応がないけど」

「わかったわ。いい、みんな。今のところ、〈口裂け女〉の決定的な証拠写真というものがまだ出回っていないから、ただの噂話だけど、ヤバい写真でもアップされたらすぐに問題になるからね」

 

 そういうネット対策もされているのか。

 でも、完全な隠ぺいは不可能だろうし、どうするつもりなのだろう。

 

「京一も覚えているだろうが、妖怪は通常人の眼には見えない」

 

 御子内さんが僕の疑問に答えてくれた。

 内心でのことだったのに、心が読まれているようで驚いた。

 

「〈ぬりかべ〉がそうだっただろ? あれは意識して妖怪が人目につこうとしない限り、ほとんど不可視な存在のままなんだ。あと、意図的に人間に絡もうとしたときとか、限定されるのも特徴だ」

「ああ、〈天狗〉も〈うわん〉も、自分から人に絡んでいたもんね」

「今回の〈口裂け女〉も自分から『ボクは綺麗かい?』なんて言わない限り、そう簡単に目撃されるものじゃない。最近の京一みたいに、頻繁に妖怪に接したり、もともと高い霊能力や神通力を保有していなければね。だから、写真だってほとんど撮られてないんだ。まだまだカメラにその手の霊的な力をこめるだけの技術はみつかってないし」

「科学も万能じゃないのか」

「うん、そうさ」

 

 なるほど、〈口裂け女〉でフィーバーしているこの松戸でも、一般人のすべてが妖怪を見られる訳ではないというのならば、万が一のことが起きる前に退魔巫女が総出で取り組めば事態を早々に納めることができるかもしれないのか。

 だから、御子内さんやレイさんだけでなく、音子さんやこぶしさんみたいな人たちもいるというわけだね。

 こぶしさんの正体はわかんないけど……。

 

「さあ、ついたわ。その土手を越えた先で、レイちゃんが戦っているはずだから、助太刀してやってちょうだい」

「応ともさ」

「……シィ」

 

 ベンツW222の停車とともに、二人の巫女レスラーは左右のドアから飛び出した。

 右手には江戸川を見下ろせる土手が延びていて、川の水の湿った香りが漂っている。

 僕たちは土手を昇り切り、見通せなかった反対側を見やった。

 絶句する。

 それはそうだろう。

 あまりにも非常識な光景が繰り広げられていたからだった。

 

「せいっ!」

 

 川辺で仁王立ちになり、そのあだ名の由来となった〈神腕〉を振るうのは明王殿レイさんだった。

 こちらはもう知っているから構わない。

 問題なのは彼女が相対している江戸川の方だった。

 夜の暗い帳の中、そう狭くもない川から水を滴らせつつ現われる痩せっぽちの女の影があった。

 黒いワンレンの髪型はびっちょりと濡れ、張り付いた前髪の隙間から黄色い眼光が覗いている。

 明らかに異様。

 見事なまでに怪異。

 あれが〈口裂け女〉か。

 だが、問題は〈口裂け女〉の容姿ではなかった。

 僕にでも断言できる。

 退魔巫女がここまで駆り出された理由が。

 川の中から陸地を目指してやってくる、口が耳まで裂けた妖怪は……何十匹もいたのだ。

 江戸川の一画を完全に埋め尽くす勢いで、増殖したかのようにそいつらは上陸をし続ける。

 

 まるで、そう―――「軍団(レギオン)」のごとく。

 

 

 



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スーパーミコミコ大戦

 

 

 

 びしょ濡れになった黒い服と髪を翻して、江戸川の河岸に殺到する〈口裂け女〉たちの群れ。

 どこからともなく聞こえてくる呻き声は、おそらくは彼女たちの発するものが見通しの良い河川敷に響き渡ったことによるものだろう。

 夢魔の光景そのままに、耳まで裂けた口と鮫のものに類似した牙を持った怪女たちが゛上陸する。

 迎え撃つは、両手の掌を突き出すように構えた不動明王の化身のごとき退魔巫女。

 その名を明王殿(みょうおうでん)レイという。

 

「来やがれ、この妖怪ども!」

 

 御子内さんの同期の中でも一、二を争う攻撃力の持ち主であり、〈神腕〉と呼ばれる神通力のこもった腕で主に戦う退魔巫女だ。

 その戦い方は圧巻の一言である。

 岸に上がるやいなや、両手で掴みかかろうと迫ってくる〈口裂け女〉たちを強烈なビンタと突っ張りで吹き飛ばしまくるのだ。

 あの大型の鬼である〈うわん〉を楽々と轟沈させるほどの威力を誇る掌打が、まともにあたればたいていの化け物も無事では済まないだろう。

 平均的な成人女性程度の体格しかない〈口裂け女〉も例外ではなく、それどころかむしろ軽すぎるのか、なんと一張りで十メートル以上、人間型のものが縦回転しながら飛んでいくという恐ろしい光景を見ることになった。

 もっと軽いマネキン人形ですらあんなに派手には回らない。

 ハリウッド映画もかくやというぐらいの吹き飛び方だ。

 アクション用のワイヤーでもついてるのか、という感想しか浮かばないほどであった。

 

「ふんが!」

 

 女の子の気合いとは思えない声とともに、何体もの〈口裂け女〉が文字通りに転がっていく。

 そして、レイさんにふっ飛ばされた妖怪はそのまま塵になって消えていった。

 リングで妖怪が巫女たちに退治された時も、同様の塵となることが多い。

 つまり、退治できたということなのか?

 ただ、レイさんに殺到する〈口裂け女〉の数は、消えていくものよりもはるかに多い。

 叩いても、はっ倒しても、ぶん殴っても、数は一向に減る気配がなかった。

 最初は数十体としか思えなかった〈口裂け女〉は、すでに何百体にまで増殖しているようだった。

 とても、正視出来るような状態ではなかった。

 ここにいるのは狂暴そうな〈口裂け女〉の群れなのだから。

 これだけの妖怪を直視するのは僕にとっても初めての経験だった。

  どれだけの力が合っても多勢に無勢というが、レイさんがこのまま押し切られるということは決してない。

 なぜなら、すでにこの場には別の退魔巫女が推参しているからである。

 

「アレ!!」

 

 ド派手な側転とバク転を繰り返しながら、〈口裂け女〉の群れに躍り込んでいったのは、ルチャ・リブレの達人である〈暴風(ウラカン)〉こと、神宮女音子(じんぐうめおとこ)

 群れの中心目掛けて、フライング・クロスチョップで飛びかかる。

 飛び蹴りで一体を地に這わせると、そのまま大地に横になり、起き上がる力の反動を利用して、もう一体の首を両足で挟んで投げ飛ばす。

 腕を回転させて立ち上がると、そのまま目の前の一体を小手投げで転がして顔を踏みつけて仕留めた。

 変幻自在、まさに舞うように戦い続けるルチャドーラだった。

〈天狗〉戦のようにリングがない以上、トップロープもコーナーポストも欠けている状況にも関わらず、次々と上陸する〈口裂け女〉たちを倒していく。

 彼女の攻撃も的確に妖怪女を塵に戻していき、その速度はレイさんにも負けずとも劣らない。

 さすがは御子内さんの好敵手だ。

 こんな乱戦においても、退魔巫女としての力を存分に発揮している。

 豊富な空中殺法と、足による投げ技、関節を取る極め技、どれも選択の判断が早くわずかな間違いすらもない機械のようだった。

 普通に道端で見かければただの痛い格好でしかない覆面も、戦いが始まってしまえばまるで美しい化粧のように思えるから不思議だ。

 しなやかなボディから放たれる技の華麗さに、いつでも僕は目を奪われる。

 

「どっしゃああああ!!」

 

 そして、何よりも聞き慣れた、誰よりも僕を震わす雄たけびが天を衝いた。

 最期に参戦したのは、我らが巫女レスラーだった。

 漆黒の髪がまるで漫画の効果線のようになびいて、必殺のパンチで怪異なる陣を突き崩す。

 くるりと一回転し、その際に回し蹴りと裏拳と肘がきらめいて、三体の〈口裂け女〉を打ち倒した。

 四方を完全に妖怪たちに取り囲まれようと(まあ、自分で突っ込んだんだけど)、すっくと立った巫女レスラー、心に星を持つ漢女(おとめ)、強く優しい退魔巫女、あれが、あれが、あれが僕らの御子内或子!

 まだ戦いは始まったばかりだというのに、勝利を確信したかのようなドヤ顔を浮かべ、指でちょいちょいと挑発する。

 

「いいかい、迷わず行くよ、行けばわかるからね! やり抜くんだ!」

 

 言いも言ったり、御子内さん。

 多勢に無勢などという言い訳は決して口にしない。

 戦うと決めたのならばその決意に殉じるだけ。

 道はどんなに険しくても、彼女ならば笑いながら歩いていくだろう。

 夥しく増殖を続ける〈口裂け女〉がどれだけいようとも、彼女ならば言い放つだろう。

 

「出る前に負けることを考えるバカがいるか!」

 

 と。

 地震のようなレイさん、暴風のごとき音子さんとともに御子内さんは力の限り戦い始めた。

 拳を握り、蹴りを放ち、頭突きをかまし、邪魔する輩を駆逐する。

 リングの上であろうとなかろうと巫女レスラーは決して輝きを見失ったりはしないのだ。

 次第に勢力を増していく〈口裂け女〉たちに怯みもせずに真っ向から勝負を挑む三人を、僕は尊敬の念をもって応援していた。

 だけど、ふと気がつく。

 河原の端に、誰かが横になっていることに。

 横になっているというか、倒れているのだ。

 もしかして、巻き込まれた怪我人でもいるのか。

 戦いの渦のすぐ傍でもあるので、もしかしたら〈口裂け女〉に狙われるかもしれない場所であったが、怪我人がいるというのならば助けなければならない。

 御子内さんたちを煩わせないように、僕が行くしかないのだろう。

 そそくさと音を立てずに目立たないように、土手を下り、乱闘から視線を逸らさないようにして駆け寄った。

 懐中電灯で顔を照らすと、まだ十代ぐらいの女の子だった。

 制服を着ていることから、たぶん、高校生。

 スカートがめくれていたので、気づかれないうちに直しておいた。

 上から覗き込むとどうやら気絶しているようだ。

 瞼をこじ開けて瞳孔を確認すると、完全に開いている。

 何か怖いものでも見てしまい、結果として気絶してしまったというところか。

 

「まあ、怖いものっていうとアレしかないけど」

 

 今も御子内さんたちと死闘を繰り広げているアレのことだ。

 

「こんなところで何をしていたんだろう」

 

 時計を見ると、そろそろ深夜に近い。

 東京を流れる江戸川といっても、所詮は河原、制服姿の女子高生が夜遊びをするには適さない場所だ。

 何か理由があるのか。

 周囲を懐中電灯のライトで照らしてみると、ピカと点滅するものがあった。

 スマホだ。

 軽くデコってあり、きっとこの女子高生のものに違いない。

 助かることにロックはかけられていなかった。

 待ち受けは、この子と彼氏らしい男とのツーショット写真。恥ずかしくて口にも出せないフォトショップ加工がなされている。

 よく見るとアプリが起動している。

 ツイッターをやっていたようで、何やら書き込みがあり、

 

『くちさけおんながでたああああああああああああああああ』

 

 とあり、送信前の状態になっていた。

 写真も貼ってあったが、これには何の変哲もないこの河原の景色が映っているだけだ。

 さっきの御子内さんの話を思い出すと、この子は〈口裂け女〉を確認したので写真にとってツイッターに上げようとしていた。

 けれど、妖怪は写真には撮られないので変哲もない風景にしかなっていなかった。

 こんなところか。

 でも、妖怪を肉眼で確認できたというだけ、この女の子も霊力とかがあるのかもしれない。

 ただ、まずいことは今の御子内さんたちの戦いが拡散されると厄介な面倒事にしかならないということだ。 

 そのままツイッターのホーム画面に戻し、この子のアカウントを見ると『♡あきこ×シンジ♡@akikooooooo』とある。プロフィールからすると、足立区の高校生だ。

 江戸川の一歩先にある荒川を越えたあたりにある高校の生徒らしい。

 ツイート数はえらく多いが、フォロワーは百人、フォローも十人ぐらいしかいない。

 普通の一般人ならこんなものか。

〔つながり〕を見ると、どうも直前まで一人とやりとりをしていたようだ。

 これ以上はプライバシーの侵害かなと思って止めようとした時、僕はタイムライン上に一つのツイートを発見する。

 それは、

 

『ショーミん@little_apple_tea1011 : @akikooooooo @aibakun_love @mikazon マジヨマジマジ!! 口裂け女が松戸に出たんよ 超ショーゲキスーパーニュースだんべ!!!』

 

 というものだった。

 流れを確認すると、どうやらこの女の子がこんな夜中に一人でここに来たのは、口裂け女を見物に来たためらしいとわかった。

 ショーミんというツイ主がこの子の友達だからだろう。

 

「ヤバいなあ。こんなに拡散しているよ……」

 

 他人のツイートを引用して自分のタイムラインに流すという、リツイートがされている数はすでに一万以上。

 異常なほど注目を浴びてしまっている。

 このまま行くと、いくらなんでも秘密裏に退魔巫女が〈口裂け女〉を退治できることはないかもしれない。

 なんといっても〈口裂け女〉そのものはともかく、巫女さんたちは写真にも撮られる実体があるのだから。

 さて、どうする?

 

 しかし、少し変だよね。

 なんでこの〈口裂け女〉たちはこんなにも増殖しているんだ。

 ニューヨークの地下で育ったハリウッド版のニセゴジラじゃあるまいし……

 

 ただ、僕の勘が、その謎さえ解ければ意外とあっけなく解決しそうな気がすると告げているんだけど……。

 



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いかにして増殖していったのか?

 

 

 開戦当初は永劫に続くのではないかと思われた戦いも、二十分もすれば大勢が決してしまった。

 そもそも〈口裂け女〉側は数こそ多いが、ほぼすべて巫女たちの一撃で消滅してしまうということもあり、御子内さんたちの蹂躙する速度が上過ぎたのだ。

 もしこれがリアルの軍事における戦いならばとうの昔に全滅判定がでていたであろう。

 あれだけいた〈口裂け女〉が最後の一体に至るまでが、だいたい三十分前後というところだった。

 さすがの御子内さんたちも肩で息をしていたが、目だった外傷らしきものは皆無に近い。

 僕も安堵の吐息を漏らした。

 

「お疲れ様」

 

 用意しておいたタオルを三人に渡す。

 レイさんは僕を見て、

 

「よっ、久しぶり」

 

 と背中を叩いてくれた。

 どうやらそれなりに好意的に認めてもらえているらしい。

 

「ひとまずは撃退したということだね。―――しかし、これだけ多いとさすがに大変だ」

 

 汗をタオルで拭いながら、御子内さんが言う。

 隣で持参していたスポーツドリンクを飲んでいた覆面姿の音子さんも頷いていた。

 彼女はカバンから持参したタブレットを取り出して、画面を見ながら、

 

「……神撫音(かんなね)先輩とか那慈邑(なじむら)も来てるっぽい。静岡からアニマも呼び出されているのかな」

「どれ―――なんだい、この漫画の吹き出しみたいなのは? 変なメールのやりとりだねえ」

「LINEトークだよ、アルっちは田舎者だから知らなくて当然」

「なんだって! 多摩は田舎じゃないぞ! ったくこキミだって横浜……!」

 

 仲良くディスプレイを見ていればいいのに、仲の悪い二人だな。

 もっとも僕も気になってしまいそっと覗き込んでみると、どうやら退魔巫女たちのグループでのトーク画面のようだ。

 僕の知らない名前が幾つかある。

 御子内さんたちの同期の人たちだろうか。

 

「―――ここみたいな大量発生は特にないみたいだね」

「ああ、オレもちょっと驚いた。台所のゴキブリじゃねえんだから、わらわらと出てくんなってんだよ」

「確かに。さすがに〈口裂け女〉が雲霞のごとく迫ってくるというのはトラウマになりそうなシチュエーションではあるね」

「シィ」

「じゃあ、これからはどうする? さすがにもうここには出そうもないし、他の奴らみたいに手分けして潰していくか?」

「そうだねえ……」

 

 巫女たちは腕を組んで考え始めた。

 ここみたいな大量発生ならば数の力も必要だが、もし松戸市全域に〈口裂け女〉が現われているというのなら手分けした方が早い。

 ただ、僕はその考えにはちょっと反対だった。

 

「―――でも、やっぱり原因を突き止めたほうがいいんじゃないかな」

「京一はそう思うのかい?」

「うん。今はまだ噂話の段階だけど、もう少ししたらパニックになるかもしれない。三十年前の口裂け女のときとは比べ物にならないぐらい、話が拡散する。だから、一つ一つ、対処するよりもさっさと原因を排除したほうがいい。つまり、この〈口裂け女〉は()()()()()()()()()()()()、そこの問題をなんとかしようよ」

 

 大量の卵から産まれる生物じゃあるまいし、普通ならばさっきみたいに千体近い妖怪がわらわら湧いてきたりはしないだろう。

 御子内さんたちは強いので力で制圧してしまったから気にならないのかもしれないが、普通の人間にとってはあの一体だけでも脅威以外の何物ではない。

 つまり、この松戸市の人たちは極めて危険な状態に置かれているということだ。

 そこを重視する必要があるだろう。

 

「……みんなはこういう事案に覚えある?」

「ねえな。こんなゾンビ映画みたいな話は聞いたことがない」

「シィ。あたしも」

「そもそも都市伝説あがりの妖怪は弱いからね。あまりボクらが戦うまでのことはないし」

 

 確かに〈口裂け女〉は退魔巫女の一撃で斃せる程度の敵でしかない。

 でも、あんなに集まっていては数だけでも強敵のはず。

 

「大量発生した原因に心当たりは?」

「ないよ。さっきも言ったけど、都市伝説あがりの新・新妖怪は、噂を信じる人たちの思いの同調というか共感によって産みだされるものだからね。たくさんの人が口裂け女の噂を信じて、それを―――なんだっけ」

「人間の集合無意識だろ? ユングの言うところの。……或子、おまえは座学もしっかり復習しとけや」

「うるさいなあ。……で、集合無意識みたいなものが妖怪としての都市伝説を産みだすと言われているのさ」

「ふーん。でも、じゃあなんで松戸市限定なの? さっきからの報告では、松戸市以外での目撃情報はないみたいだよ。ツイッターのトレンドになるぐらいに噂は全国的に拡散しているのに。だから、退魔巫女がここに集合しているんでしょ」

 

 御子内さんはいつもの癖でおとがいに指をあてて、

 

「……それは、『松戸市に口裂け女がでた』という噂が流れたからだろうね。場所も限定されているのならば、そういう結果になり得るし」

「なんで松戸なのか、という疑問の答えにはなっていないよね」

「そりゃあ、今回の噂を最初に流したやつが松戸の出身なんだろ。『近所で口裂け女を見たんだぜ、凄かった』みたいによ」

「アシ エス」

「じゃあ、まずは松戸(ここ)で初めて〈口裂け女〉を見つけた人を探し出すのがいいと思う。その人なら、どうしてこんなにアレが増殖しているのかヒントを持っているかもしれない」

「それはいい考えだね。―――えっと、こぶし!」

 

 すると、後ろに控えていたらしい不知火こぶしさんがやってきた。

 さっきまで河原で倒れていた女の子の様子を看ていてくれたのだ。

 

「今回の事件で一番先に〈口裂け女〉に襲われた人はわかるかい?」

「ちょっと待ってね。……あ、この子よ」

 

 こぶしさんのタブレットには、一人の高校生らしい女の子のプロフィールが表示されていた。

黒嵜奈々枝(くろさきななえ)

 高校三年生ということだ。

 予備校からの帰り道に〈口裂け女〉に襲われて、血だらけで倒れているところを救急車で病院に運ばれたらしい。

 意識は回復しているが、まだ入院中だということだ。

 備考欄に『社務所で監視中』とのメモが入れられている。

 

「この子か……」

 

 三年生ということは僕らよりも年上だ。

 

「……社務所の調査ではわりと強い霊力を潜在的に有しているそうだ。巫女になったりするほどに強すぎではないが、一般人としては十人に一人ぐらいかな。そこを狙われたのではないかと分析されているらしい」

「なるほど。霊力が強いから、〈口裂け女〉が()えて襲われたと……」

「だろうな。普通でも霊が視えたりするやつは危険があるのは間違いないし。おい、京一くんよ、おまえも霊が視えるようになってんだろ。そういうのは周囲に気をつけて行動しないといけないぞ」

「ああ、はい。肝に銘じておきます」

 

 レイさんに心配されてしまった。

 そういえばこの人に初めて会った時って、そんな状況だったね。

 ちなみに彼女は僕のことを「京一くん」と呼ぶ。

 初対面からほぼ呼び捨てだった御子内さんに比べると幾分丁寧だった。

 

「じゃあ、その子に会いに病院に行ってみようか。京一の考えに従う方が解決も早くなりそうだし」

「……あの子も医者に診せないと」

「ああ、忘れてた。まだ気絶しているのかな?」

「まだよ。倒れた時に頭を打ったのかもしれないわ」

 

 そういえばもう一人犠牲者―――寸前の子がいたな。

 

「レイはどうする?」

「オレもいく。土手んところにバイクを停めてあるから、こぶしさんのベンツの後を勝手についてくわ」

「了解。……で、音子は?」

「京いっちゃんの隣に座る」

「おい、いつか決着をつけるぞ」

「エル デセオ」

「京一、通訳」

「―――やってみろ、だったと思う」

「ほほお」

 

 互いに睨みあう巫女レスラー二人に挟まれて、なんだか居心地が悪い。

 でも、僕がいないとすぐにやり合いだしそうな二人だから、割って入っておかないとな……。

 まったく、非常事態だというのに呑気なものだね。

 

「とりあえず、この〈口裂け女〉増殖の謎を解こうよ」

 

 僕たちはこぶしさんのW222に乗り込んだ。

 ただ、僕の喉元には何か大事なことが引っかかっていて気になって仕方がなかったのだけれど……。

 



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今度はミニスカ

 

 

 松戸市の外れ、というか荒川沿いの農地だらけのところに、大きな私立病院がある。

 とある宗教団体が設立したものだが、どういうわけか御子内さんたちは完全フリーパスらしく、受付もしないでズンズンと深夜の院内に入り込んでいく。

 看護師たちが胡乱そうな目つきをして、僕たちを見つめていたが、あえて話しかけてくる人はいなかった。

 こぶしさんがスマホを見て、確認をする。

 

「黒嵜奈々枝ちゃんは、710号室の個室に入ってもらっているわ」

「隔離しているのかい?」

「一応ね。最初に彼女からの聞き取りをした見習いを付き添わせているの」

「―――霊症みたいなものは?」

「今のところなし。念のために御祓いはしておいたけど、まあ意味はないでしょう。所詮、都市伝説レベルよ」

「その所詮都市伝説も、あれだけいりゃあ、洒落にならねえぜ。こぶしさんよ、ちぃと認識が甘いんじゃねえのか」

「私が現役だったときは、例の匿名掲示板を利用した呪詛とかが毎月のようにあったのよ。それに比べれば、今なんて軽い方よ」

「……ネット前世紀の話をされても。でも、こぶこぶのいうこともわかる。あいつら、量は凄かったけど力は大したことなかった。()()()()()()()()()()()()()()()()し」

「そうなんだよね。―――都市伝説系の妖怪らしい弱い力しか持っていない〈口裂け女〉が、どうしてあんなに増殖していたのか? それがボクたちにはわからない」

「これまでにない事態だということは、これまでに観測されていない原因があるということ」

「―――そんなん、すぐに解決できるものなのかよ。なあ、京一くん」

 

 レイさんが僕の肩に肘を乗せてきた。

 ほとんど身長は変わらないのだが、おかげでレイさんの胸の膨らみ強調されすぎてしまい、やたらとドキドキする。

 たわわすぎるのだ。

 

「レ、レイさん……」

「なんだよ、女だらけに緊張してしまってんのか?」

「そうじゃなくて……」

 

 ここで僕の視線が微妙に自分の胸から逸らされていることに気づき、レイさんは顔を一気に赤くした。

 口があわわと開く。

 それから、胸の膨らみを抱きかかえるように僕から離れた。

 眼が宙を泳いでいる。

 いつもの鋭い眼光はまったくもってブレブレだ。

 

「……おっぱいガン見すんな!」

「いや、見てません!」

「おっぱいじゃねえ……て、わ、腋か!? 腋の下なのか!」

「そっちでもないよ!」

 

 確かに、巫女装束の上の両袖をぶったぎっているレイさんの格好だと、腋の下はよく見える。

 きちんと手入れしてあるのも前からわかっていた。

 わかっていたからといって、ずっと凝視していたわけではないよ。

 たまたま目に入っていたので記憶していただけであって、やましいところはまったくない。

 天地神明に誓って、トラストミー!

 

「京一くん、てめえ……」

「ああ、そうなると思ったから注意してたのに!」

 

 羞恥で赤くなっていたのが徐々に怒りで赤くなっていった。

 不動明王の〈神腕〉レイさんに本気にビンタされたら僕は死ぬ。

 元気ですかとならずに死ぬ。

 

「……ミョイちゃん、ハレンチな格好して誘惑していたのは、あなたなんだから逆ギレしない」

「誘惑なんてしてねえよ!!」

 

 間に入ってくれたのは音子さんだった。

 助かった。

 レイさんからのビンタが飛んでこないギリギリのタイミングであったからだ。

 ふう、胸を撫で下ろしたくなった。

 セクハラの冤罪で平手打ちされて地獄落ちしたら、父さんや母さん、ご先祖様に申し訳がたたない。

 ちなみに御子内さんはやれやれといった顔で呆れていて、僕を助けてくれる気配はなかった。

 

「前から、ミョイちゃんは戦う時に両腋を晒しすぎていると思っていた。……もしかして、あれは処理をしていますアピールだったの?  8○4(エイ○フォー)のCMにでも出たいの?」

「そんなことは狙ってねえ! おまえらだって、水着の季節になったらきちんと手入れすんだろ!」

「……普通、年中やると思う」

「む、そうなのかい? ボクはそんなに濃くならない体質だから気がついたらやる程度なんだけど」

「或子ちゃん、それだとダメよ。彼氏がいるんなら、普段からマメにしておかないと」

「彼氏なぞいない! ……でも、面倒でな」

「女子力は日々の努力が大切なのよ。いい、社務所の適齢期の某大巫女さまなんて、この間、七年ぶりの合コンに行こうというときにね……」

 

 助かったのはいいけど、男子が聞いていてはいけない内容に話がシフトしていく。

 僕に対して怒り心頭だったはずのレイさんまでが、気がつくと腋の下の手入れの話に熱中し始めていた。

 というか、こぶしさんの女の二十四時間みたいな話題に興味津々だ。

 でも、悪いけど合コンに榊をつけた巫女装束で行こうとする女性とはちょっとお付き合いしたくない。

 話が盛り上がりだすと、輪に加わっていた音子さんが僕に向けて親指をたててウインクをしてきた。

 うまく助けてくれたらしい。

 これで音子さんに借り一つということか。

 いつかお返ししないと。

 

「みなさーん、お待ちしていました~」

 

 ミニスカの巫女がやってきた。

 ちょっとびっくりしたけど。

 下に履く紅い袴の裾を腰のあたりまであげて、折ってまくっているらしく、太ももがバッチリと見える。

 高校の制服じゃないんだから。

 しかも、白いニーソックスを履いているせいか、妙にコスプレチックだった。

 御子内さんたちも大概だが、こちらの方ははっきりと言ってもっと巫女っぽくない。

 しかも、おだんごのツイン・ミニョンだ。

 あざとすぎる。

 

「おお、熊埜御堂(くまのみどう)てんじゃないか。元気にしていたかい?」

「はい、グレート・或子先輩。スーパー・音子さまもお久しぶりですよー」

 

 ……今、変な名前を聞いたけど。

 かろうじてわかるのは、この熊埜御堂と呼ばれた巫女が、彼女たちの後輩だということだ。

 退魔巫女なのだろうか。

 

「挨拶はいいわ、てんちゃん。黒嵜奈々枝ちゃんの容体はどう?」

「意識は回復しています。昼までずっと眠っていたので、薬の効果切れっぽくて今は目を覚ましています」

「会話はできそう?」

「そりゃあ、もう。この不肖、退魔巫女見習いの熊埜御堂てんのトーク術にかかればメロメロですよー」

「……あなたのトーク術にどれだけの力があるのかは怪しいけれど、或子ちゃんたちが直接聞き取りをできるようならそれでいいわ」

「こちらにどうぞ。そう思って、最初から奈々枝さんには話をつけておきましたです」

「助かる」

 

 こうして、突然現れたミニスカの退魔巫女に案内されて、僕たちは黒嵜奈々枝さんの病室に入った。

 かなり広めの個室で、ベッドが一つあり、女の子がパジャマ姿にカーディガンを羽織って座っていた。

 ごく普通の女の子だった。

 もっとも首筋に巻かれた包帯の下にある傷のせいか、憔悴しきっているようではあった。

 僕たちがぞろぞろと入っていくと、さすがに驚いた顔をした。

 なんといっても巫女さんっぽい格好だけど、どうみても違うでしょという三人がやってきたのだ。

 どうやら熊埜御堂さんが場を慣らしていたらしいが、ミニスカ巫女の破壊力よりもこっちの三人のほうが遥かに上に違いない。

 それでもよく考えると、御子内さんはハイカラさんっぽさがあるだけまだマシか。

 

「やあ、黒嵜奈々枝さんだね? ボクは御子内或子。もう聞いているかと思うが、北関東を鎮護する退魔巫女だよ」

「あ、初めまして……」

「一応、キミの方が年上らしいけど、ここはフランクにいかせてもらうよ。奈々枝でいいよね」

「……はい」

 

 一瞬で場の空気を掴んでしまうところはいかにも御子内さんらしいが、年下とは思えない鷹揚さだ。

 黒嵜さん、ひいているじゃないか。

 

「細かい点や質問はあとで熊埜御堂に聞いてくれ。今はとりあえずボクらの質問に答えてくれればいいから」

「……」

 

 黒嵜さんはこくんと頷いた。

 彼女たちを疑っている様子はない。

 それだけ、短期間の間に熊埜御堂さんが信頼を得たということかも。

 軽そうに見えるけど、案外かなり優秀なコミュニケーション能力の持ち主なのかもしれない。

 

「夜道を帰宅中に〈口裂け女〉に襲われたらしいね。その際に、なにかおかしなことはなかったかい?」

「……てんちゃんにも話したけど、ツイッターやりながら歩いていただけで、特にこれということはなかったです」

「〈口裂け女〉については?」

「その前に、友達からそういうツイートが流れてきて、意識しちゃっていたからそれで幻覚を見たのかなと思ってました」

「なるほどね。キミは直前に〈口裂け女〉という単語を偶然意識してしまったことによって、結局は都市伝説そのものと遭遇する羽目になってしまったということか」

「あ、はい、私もそう思ってました~!」

 

 熊埜御堂さんが元気に手をあげる。

 僕にも年の近い妹がいるからわかるけど……

 ―――このぐらいの元気な妹キャラはとてもうっとおしい。

 まず、場の空気を読んでくれないしね。

 

「ただ、黒嵜奈々枝ちゃんが今までわかっている中では最初の犠牲者なのよ。彼女に集合的無意識に働きかける力があるということでないと、筋が通らないわ」

「ああ、そうだ。……奈々枝には、強い霊能力のようなものがあるのかい?」

「そういうものはないけど、たまにラップ音を聞いたりすることはあるかな」

「ラップ音ねえ。あれも霊感があるものなら、わりと頻繁に聞けるものだけど、ボクたちが疑っているレベルではなさそうだ」

 

 御子内さんの視線が僕に向く。

 何かアイデアを絞り出せ、という合図だ。

 仕方なく、僕も身を乗り出して、

 

「じゃあ、まず、その友達から来たツイートというのを見せてもらいなよ。それが手っ取り早いよ」

 

 病室なので切ってあった電源を入れて、奈々枝さんが見せてくれたのは、

 

『ショーミん@little_apple_tea1011 : @akikooooooo @aibakun_love @mikazon マジヨマジマジ!! 口裂け女が松戸に出たんよ 超ショーゲキスーパーニュースだんべ!!!』

 

 ……だった。

 覚えがある。

 ほんのついさっき見たばかりだ。

 

「すいません、もしかして、@akikooooooo @aibakun_love @mikazonのどれかが奈々枝さんですか?」

「あ、うん。@mikazonのクロサキダダというのが私なの」

「♡あきこ×シンジ♡@akikoooooooさんも友達?」

「亜希子は学校のクラスメート……。亜希子にも何かあったんですか!?」

「落ち着いて。彼女も〈口裂け女〉に襲われたんだけど、そこのレイさんに助けられているから」

 

 僕は振り向いて、こぶしさんに、

 

「一番早い、〈口裂け女〉が松戸に出るという噂の出どころってわかりますか?」

「さあ、すぐにはなんとも」

「じゃあ、ツイッターに限れば?」

「……やってみる」

 

 自分のタブレットを取り出したのは、音子さんだった。

 すぐに検索を開始し、五分もしないうちに、

 

「……ここ一ヶ月どころか一年以内に、〈松戸〉と〈口裂け女〉が話題になったのは、そのツイートが初出」

「そうなんだ。このツイートが二日前の21時に送信され、その直後に奈々枝さんが襲われた。偶然じゃないね」

「呪詛……みたいなものか? さっきこぶしさんが言っていたような」

「いや、〈口裂け女〉の性質そのものは、都市伝説あがりの新・新妖怪のものだったから違うと思う。ただ、このツイートが流れる前には〈口裂け女〉は松戸には出なかった。そして、他の場所にも出ていない。それは事実だ」

「つまり、このツイートをした奈々枝くんのダチが〈口裂け女〉を目撃したことによって、噂が新しく始まり、妖怪として発生した……こんな感じか?」

 

 レイさんもさすがに頭の回転が速い。

 

「じゃあ、その女の子を早急に保護する必要があるね。奈々枝、その子の住所はわかるかな」

「あ、うん。結構すぐのところに住んでいるから」

「どこだい?」

「野菊の墓のあるあたり。あそこに昔から家族で住んでいるの」

「わかった。……熊埜御堂は細かい住所を聞きだして、あとでボクらにメールしてくれ。京一、レイ、すぐに向かおう。こぶし、車を出してくれ」

 

 退魔巫女たちはテキパキと動き出した。

 どうやら、〈口裂け女〉が増殖する原因はあのツイートを送った女の子の傍にある可能性が高い。

 そう御子内さんは判断したのだ。

 兵は拙速を尊ぶ。

 いかにもまっすぐな御子内さんらしいや。

 ただ、最後尾を進む僕の目の前らにいた音子さんが、

 

「―――アルっち、あたしの名前を故意に無視した。許さない」

 

 と呟いているのを聞いたとき、ちょっとだけ先行きが不安になったりもした。

 

 



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空で裂ける口

 

「住所きたわ。ナビに打ち込んで」

「シィ」

 

 ベンツの助手席で音子さんがスマホの音声認識で住所を喋ると、すぐにナビが開始された。

 五分もあればいける距離だった。

 ほぼ並走しているレイさんのバイクもついてくる。

 

「―――庄司(しょうじ)美春(みはる)、高校三年生。さっきの黒嵜奈々枝のクラスメートらしい」

「その子が最初の〈口裂け女〉目撃者ってことかい?」

キサ(おそらく)

「……ということは、彼女の近くに本物が……いるということかな?」

「本物って。〈口裂け女〉は都市伝説の噂みたいなものなんでしょ。根本的な実体があるというわけではないんじゃない?」

「確かに、そうなんだが……うわわわ!!」

 

 キキキキ!

 

 ベンツが唸りを上げて急ブレーキをかけた。

 後部座席の僕と御子内さんは抱き合う格好でつんのめる。

 

「な、なんだい、こぶし! きちんと運転してくれよ!」

 

 僕の胸に顔を押し付けて、鼻を打ったらしい御子内さんが抗議の声をあげる。

 

「……そうもいかないのよ。()()

「なんだってんだい?」

 

 運転席からフロントガラス越しにこぶしさんが指し示した先は……

 何軒かの一戸建て住宅が密集している、平凡な町並みだった。

 ()()さえなければ。

 思わず息をのんでしまう。

 退魔巫女たちと付き合うようになって、霊感らしきものが育ったのか、強い霊ならば視えるぐらいになっていた僕でも、あんなものは初めてお目にかかる。

 はっきりいって、異常だった。

 

「な―――なんだ、あれ……?」

 

 その思いはここにいるみんなに共通だったようで、隣の御子内さんですら唖然としている。

 

「あんなに強い霊力の持ち主がいるってこと……?」

「久しぶりに見たわ、こんなの……」

 

 僕たちの視線の先には、二階建ての家を見下ろすような形で揺らぎながら立ち尽くす影がいた。

 二階のベランダ付近が腰のあたりにあるので、だいたい二十メートルぐらいの高さはあるだろう。

 頭と四肢を持つ、明らかな人間のカタチをしているが、影法師のように黒く染まっていて細かい部分はわからない。

 だが、はっきりとわかるものはある。

 顔の部分にあたるとある部位―――本来ならば口がある場所に三日月のように広がった赤いおぞましい割れ目。

 人間ならば耳にあたる位置まで亀裂のように深紅が広がっている。

 

「御子内さん、あれは何?」

「……たぶん、霊力が噴き出して幻視できるようになっているんだよ。それなりに力がある人間ならば訓練無しで誰にでも視えるほどに強力な、ね」

「まさか……あれが……人の……」

「うん。ただ、一人のものにしてはかなり尋常じゃないから、色々と謎はあるんだけど……」

 

 僕にまでわかるというのは相当なことだ。

 しかも、あの割れ目のイメージからすると、あれは……

 

「〈口裂け女〉だろうね」

「ああ、ブロッケンの妖怪じゃあるまいし、あれほどくっきりと出るなんて驚きだよ」

「或子ちゃん、もしかして、あれが今回の事件の原因なのかしら?」

「まず、関係性は深いだろう。もっと近づいてみないとならなくなったね」

「わかったわ。現役の子たちにお任せするわよ」

 

 だが、ベンツから転がるように外に出た僕たちは、いつの間にか囲まれていることに気がついた。

 黒い服と長い髪、歪んだ身体をもって、耳まで裂けた口を持つ妖怪の群れに。

 

「また、凄い数だね……」

 

 さっきの河原よりも多い。

 路地裏から、天井から、ブロック塀の向こうから、わらわらと僕たち目掛けて近寄ってくる〈口裂け女〉たち。

 いったい、どこに隠れていたというよりも、どうやって増殖しているのかが不思議な妖怪の包囲網だった。

 

「こぶしさん、あんたもやれよ」

「やれやれね。私、もう引退しているんだけども」

「……ずっと婚活には失敗しているんだから、もう一度やれば」

「物騒な職業だと男に逃げられるのよ……」

「神職をなんだと思っているのさ」

 

 こぶしさんも運転席から出てきて、指の部分がないドライバーズグローブをキュッとはめる。

 そして、手を振ると、どこからともなく二対の黒い棒が現われた。

 いったいどこに隠していたのか、スーツをきているのならわからなくはないけれど、今の彼女はベストを着こんでいるだけで、あんなものを隠しておけるはずがない。

 手品のようであった。

 しかも、手にしている棒は、アルファベットのT字型の把手がついた格闘用武器―――トンファーであった。

 それをブルース・リーのように回転させて、「ほあああ!」と構える。

 つま先はトントンとリズムを刻み、鋭い眼光は藪睨みで妖怪どもを射抜く。

 

「或子ちゃんと音子ちゃんは、あの家に向かって」

「こぶしはどうするんだい?」

「レイちゃんと私でここは引き受けます。―――いいわね?」

「ふん。謎解きをするよりもオレ向けな仕事だな。こぶしさんの截拳道(ジークンドー)が久しぶりに見られるってのも役得だ」

「最近はサボリ気味だから、期待しないでね」

 

 そんなことを言いながらも、こぶしさんはブンブンとトンファーを振り回して、〈口裂け女〉の群れの中に突貫していった。

 化鳥のごとき怪声とともに。

 ああ、やっぱりあの人ももともとは退魔巫女だったんだろうなあ、と納得してしまう。

 御子内さんたちの先輩なんだろうね。

 とはいえ、巫女クンフーなのでレスラーの彼女たちとはちょっとばかり違いそうだ。

 

「レイ、頼んだよ」

「任せろ。千葉県と茨城県を護るのは、元々オレの役目だ」

 

 レイさんも〈神腕〉を振るって、次々と妖怪たちを消滅させていく。

 さすがは御子内さんと互角にやりあえるだけはある。

 

「行くぞ、京一」

「はい!」

「……またあたしをハブった」

 

 僕たち三人は、往く手を遮る妖怪たちを斃しながら、あの巨人の足元にある一軒家へと向かった。

 辿り着いてみれば、ごく普通の家屋だ。

 とても何か特別なものがあるようにはみえない。

 だが、巨人がずっとこの家の上に待機している以上、ここに何かがあるのは間違いなかった。

 

「お邪魔するよ!」

 

 御子内さんが玄関の扉を蹴り開けて、屋内へ躍り込んだ。

 この期に及んで躊躇などはしていられないということだろう。

 だが、それも正解だったようだ。

 飛び込んだと同時に左右から〈口裂け女〉が襲い掛かってきたのである。

 とはいえ、御子内さんと音子さんが予測していないはずがなく、なんの問題もなく殴り消された。

 

「ここは〈口裂け女〉の巣」

「ああ、油断するなよ、音子」

「やっとあたしの名前を思い出しやがった」

「音子は、京一と階段を上ってこの庄司美晴という女の子を確保。京一はその子から情報を聞きだしてくれ」

「アルっちは?」

「ボクは一階を制圧する」

 

 御子内さんはそのまま直進し、居間らしき空間へと行く。

 相変わらず即断即決だ。

 僕の御子内さんらしい思いっきりのよさだった。

 

「京いっちゃん」

「うん」

 

 音子さんとともに階段を上る。

 二階にも一体だけ〈口裂け女〉がいたが、斜めに繰り出されたチョップによって簡単に消滅した。

 

「ここか」

 

 僕たちは『みはる』と可愛い手書きのプレートのついた部屋に飛び込む。

 ここが庄司美晴さんの部屋のはずだ。

 真っ暗だった。

 

「きゃああああああ!」

 

 絹を引き裂く女性の叫び。

 誰かがいる。

 この暗闇の中に隠れているのだ。

 

「電気をつけるよ!」

 

 スイッチを点けると、ベッドと机とクローゼット、そしてガラス製の天板のテーブルが置いてあった。

 そして、部屋の隅で毛布を被ってこちらに怯えている女の子も。

 僕はともかく、かなり音子さんの覆面を見て驚いていた。

 まあ、普通だとこういう覆面を被った人って強盗の類だしね。

 巫女装束よりはそっちのインパクトの方が遥かにおおきいだろうし。

 

「庄司美晴さんですか?」

「……ううう」

「君を助けに来たよ」

「……助け?」

 

 僕は音子さんを指さし、

 

「〈口裂け女〉に襲われているんでしょ? その化け物から君を守るために、この徳の高い巫女が派遣されてきたんだ。見た目は驚くけど、本当に巫女なんだ」

「……巫女……? さっき、ダダちゃんから来たメールの巫女さん……なんですか?」

「ああ、そうだよ。そのメールを見せて」

 

 美晴さんが見せてくれたスマホの画面には、黒嵜奈々枝さんがついさっき送信したらしいメールが表示されていた。

『すぐに助けが行く。オバケを追い払ってくれる巫女さんがそっちに行くから待ってて』という内容が打ち込まれていた。

 おそらく、熊埜御堂さんが奈々枝さんに出させたものだろう。

 

「携帯からも……ダダちゃんから……かかってきたし……本当に、巫女さんなの……」

 

 うん、やはり見た目のせいで信じてもらえないか。

 とはいえ、音子さんにとってマスクはアイデンティティーっぽいから脱いでくれとはいえないし……

 だが、僕の考えは杞憂にすぎなかった。

 音子さんは美晴さんの隣に膝立ちになり、

 

「これでいい?」

 

 と、そっとマスクを脱ぐ。

 パッと光を発したかのように思えた。

 それは音子さんの素顔の神々しさというべきだろうか。

 色の白さ、全体的に彫りが深いけれどもバタくささはなく、むしろ神秘的なまでに整った美貌。

 フォトショップ加工したとしてもここまでシミ一つない絹のような肌にはならないだろうというほどに、まさに輝いているという言葉こそが相応しい。

 

「綺麗だ……」

 

 それ以外、僕は考えられなかった。

 顔の好みでいえば僕は御子内さんタイプが好きだけど、これだけの美少女を傍にするとそんな趣味なんて凌駕してしまう。

 背筋が震えるぐらいに見惚れてしまった。

 不意打ちといっても過言ではないだろう。

 

「……は、はい」

「落ち着いて。あたしを信じて欲しいな」

「……うん、あっ、はい!」

 

 美晴さんもぽうっと頬を赤らめていた。

 同性であったとしても、いや、同性だからこそ、この美貌には抗えないかもしれない。

 

「あ、あの、失礼かもしれなんですけど、も、もしかして『残念系オクタビオ@パス』さんじゃありませんか!!」

 

 え、なに、その変な名前。

 

「わ、わたし、あなたのツイッターのフォロワーで、な、な、なんどかリプしたこともあって……!!」

「ごめん、あたしのフォロワーは結構いるから、全員は覚えていないんだ」

「―――そうですよねえ、残パスさんのフォロワーって十万人いますもんね……」

 

 ツイッターのフォロワーが十万って……

 芸能人でもそんなにいないでしょ。

 って、音子さん、ツイッターなんてやっていたの!?

 

「うん。やってた」

 

 確かに音子さんなら、SNSのほとんどの流行りは押さえていそうだけど。

 

「わたし、残パスさんのツイート、ホントに好きでっ!!」

「ありがと。でも、その話はあとで。あたしたち、妖怪退治に来たんだから」

 

 なんだか、よくわからないことになっているけど、とにかく美晴さんの心は開けそうで良かった。

 ただ、問題なのは……

 

『ゴオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!』

 

 僕らの頭上で怪獣のごとく吠えるあの口が裂けた巨人をどうにかしなければならないということだった。

 

 

 



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噂の出どころ

 

 

 頭上に巨大〈口裂け女〉、路上には〈口裂け女〉の群れ。

 圧倒的な数は質を駆逐する。

 戦いは数だよ、と有名な次男が言っていたけど、いくら退魔巫女が強くても押し包まれたら最後には負ける。

 ……詰んだね。

 なんだかわからないがもうどうにもならない気がしてきた。

 だが、階下から聞こえてくる、

 

「でりゃああああ!!」

 

 という御子内さんの声が僕を決して諦めさせない。

 あの掛け声は麻薬だ。

 いつだって戦う意欲を与えてくれる。

 

「……美晴さん、君はどこで〈口裂け女〉を見たんですか?」

「えっ。ど、どういうこと?」

「誤魔化さないでください。君はこの松戸のどこかで〈口裂け女〉を目撃したんでしょ。だから、奈々枝さんたちにツイッターで知らせた。違いますか?」

「そ、それは……」

 

 美晴さんはバツが悪そうに俯いた。

 あれ?

 なんか反応がおかしい。

 想定外だ。

 

「……もしかして、嘘だったの?」

 

 彼女はこくり、と頷いた。

 

「嘘……というか、でまかせ、というか……」

「いったい、なんのためにそんなことをしたの?」

「……残念系オクタビオ@パスさんみたいな人気ツイ主になりたくて……」

「はい?」

 

 つまり、音子さんがみたいなフォロワーがたくさんいるツイ主になりたかったから、嘘のツイートで人気をとりたかったということ?

 確かに、あの〈口裂け女〉を目撃したというツイートは今見ると、一万人以上にリツイートされていて、注目を浴びていますとなっているけど……。

 口裂け女がトレンド入りしているのは、もとはと言えば美晴さんのツイートが発端なんだろう。

 だが、そんなものだけでこの子が人気のツイ主になれるとは思えない。

『松戸に口裂け女がでた』というツイートが拡散したとしても、書いた人自身をフォローするという人はあまりいないのだから。

 ああいうのは、継続した面白いネタを提供できるものを選別してフォローするものだし。

 実際、美晴さんのアカウントのフォロワーは千人に達していない。

 ……いや、待てよ。

 ということは、なんだ。

 もしかしてこの女の子のしたことは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?

 都市伝説を産みだそうとしたのとほぼ同じ意味で。

 口コミではなく、ツイッターという連絡手段を使っての。

 

「音子さん、この美晴さんって霊能力とかは強いの?」

 

 引き寄せて美晴さんに聞こえないように耳元で囁く。

 あんまりに美少女なので気が引けるが、ここはそんなことを気にしている場合ではない。

 

「……うん、かなり強い。潜在的な能力の強さは、さっきの巨人を見ればわかるぐらい。何もしないで放っておくのはちょっと危険なレベル」

「そういう人って、色々なことができるよね。例えば、ツイッターのツイートに呪いみたいな力を与えるとか……」

「うん。匿名掲示板を使って呪文を書きこんで、晒した特定の人物に呪詛を送るという手法は以前やられていた。あたしらが対策する前はかなり酷いことがあったぐらい。……霊力が高ければSNS上でも儀式は行える」

 

 なるほど、デジタル上のことでも、やはり人と人のコミュニケーションややり取りがある以上、そこには共通の何かがあるんだろう。

 だからこそ、美晴さんのツイートがこういう結果を引き起こしたのか。

 

「だったら、もしかして、こういうことにならないかな?」

 

 僕はたった今思いついたことを、音子さんに説明した。

 最初は不安げだった彼女もそのうちに納得したのか、脳内で検討してくれる。

 そして、強い目力(めぢから)で僕を見つめた。

 

「やってみる価値はあるかも」

「うん、なんといっても〈口裂け女〉は噂の塊だからね」

「この子はあたしのフォロワーのようだし、手段としては悪くない。やってみる」

「頼むよ」

 

 ……音子さんは、まだ体育座りを続けている美晴さんにゆっくりと語り始めた。

 

 

      ◇◆◇

 

 

「でええええい!!」

 

 玄関口から次々と侵入してくる〈口裂け女〉から、一階に気絶して倒れていた美晴の両親を庇いながら、御子内或子は奮闘していた。

〈口裂け女〉どもは、どうやら退魔巫女をターゲットに切り替えたらしく、途切れることがない。

 松戸市内全域に現われた都市伝説の化身がここに続々と集結しているようだった。

 数は少なく見積もっても()()()以上は余裕で超えているだろう。

 一般市民が巻き添えになるよりはマシだが、どれだけいるかわからない敵の相手をするのはさすがに骨が折れる。

 

「……ボクたちは河原でやりすぎたせいで目標にされているのかもしれないけど」

 

 他の巫女たち―――特に病院で警護についている後輩が心配だが、今は自分だけで手一杯だ。

 ただ、この家の様子だけは他とはまるっきり違うので、やはりここの娘が何らかの理由で関わっているらしいことは読めた。

 他の家に〈口裂け女〉が興味を示している様子はないからだ。

 あとは、二階に上がった音子と京一に任せるしかない。

 

「頼んだよ、京一」

 

 こういう時は長い付き合いの同期よりも、知り合って半年の相棒の方があてになるというものだ。

 現に或子はずっとあの少年を頼りにしていた。

 

「でっしゃあああ!」

 

 渾身のストレートが〈口裂け女〉の顔面を強打する。

 もう慣れてしまった手応えとともに消滅。

 そして、押し寄せる他の〈口裂け女〉と向き合おうとしたとき、

 

「おろ?」

 

 素っ頓狂な声が出た。

 あれだけいた〈口裂け女〉の数が減っているのだ。

 目の錯覚ではない。

 半減どころか、三分の一以下にまでなっている。

 これは……チャンスだ。

 或子は一気に戦線を押し上げる。

 さっきの河原での最後のように。

 片っ端から薙ぎ払うのだ!

 

 

          ◇◆◇

 

 

「減ったわね」

「確かにな」

 

 路上で背中合わせに戦っていたレイとこぶしもその異常には気がついていた。

 それまで加速度的に強くなっていた圧力がいきなり減じたのだから、わからないはずがない。

 さっきまで雲霞のごとく押し寄せてきていた〈口裂け女〉が、気がつくと三分の一にまで少なくなっているのだ。

 

「……夢中になって倒しているうちに減っていたということはないのかしら?」

「ありえねえな。オレはそこまでバトルジャンキーじゃねえ。或子か音子が、きっと何かをしたんだろ」

 

 ―――それとも京一くんか。

 

 レイは以前も会ったことのある少年の機転の良さを思い出していた。

 短い時間で妖怪〈うわん〉の謎を解いたあの少年のことを。

 きっと今回も彼が何かをしたのだろう。

 

(なるほどね)

 

 心の中で頷く。

 あの或子がくびったけになるわけだ。

 つい最近までただの一般人だった少年が、他の女達には思いもよらない働きをしているところを目の当たりにすればね。

 

「オレらは良くも悪くも脳みそ筋肉だからな」

 

 おかしくてつい失笑しそうになった。

 いけない、いけない、まだ戦いは終わっていないのに。

 

「―――レイちゃん、随分ご機嫌のようね」

「まあ、な」

 

 あいつのやっていることは、もしかしたらプロである自分たちにとっては片腹痛い越権行為であるのかもしれない。

 素人が訳知り気味に口や手を出して現場を混乱させるような。

 誰かのつまらないけれども大事に保っていたプライドを傷つけてしまう、小賢しい真似かもしれない。

 ただ、その賢しさで誰かが不幸に至るのを止められるというのなら、何度でも懲りずにやってもらいたいものだ。

 少なくとも、レイは彼を支持するだろう。

 好敵手(あるこ)のように。

 

「さて、どうにかなったようだし、残りの連中も片づけるか! こぶしさん、一気に殲滅するぜ!」

「……また二の腕が堅くなっちゃうわね。トホホ」

 

 二人の巫女と元巫女は対照的な反応を見せながらも、息の合ったコンビネーションを見せて、周囲の〈口裂け女〉を一体残らず掃討し始めるのであった……。

 

 

 



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炎上鎮火の方程式

 

 

 窓を開けておそるおそる天を見上げると、黒い影帽子のような〈口裂け女〉の巨人が徐々に消滅していくところだった。

 しばらくじっとしていると、巨人に隠されていた夜空が広がっていき、美しい半月が姿を現す。

 路上に群れていた連中も一体残らずいなくなっていた。

 もし、さっきまでの光景を目撃していたとしても、きっと自分の目の錯覚か正気を疑うしか仕方がないだろう。

 それだけあっけない終わりであり、夢魔の跋扈する時間だったということか。

 

「……首尾は?」

「上々かな。音子さんのツイートがすぐに拡散したからだと思う」

「シィ」

 

 安心したからか、いきなり倒れるように眠ってしまった美晴さんを抱えて下に降りた。

 玄関にこぶしさんたちがいて、気絶しているらしい庄司家のご両親を外に運び出している。

 

「もうすぐ救急車が来るわ。そのまえに、あなたたち巫女は帰った方がいいわね」

「了解だ。レイ、道案内を頼む。ここから松戸駅までは歩いて行こう」

「タクシー呼べよ。チケット貰ってんだろ」

「戦いが終わったばかりで肉体(からだ)の火照りがとれないんだ。涼みながら、のんびり帰りたい。どうせ始発まではまだ時間もある」

「バイクを押していくの、面倒なんだぜ」

「いいじゃないか。同期三人揃うのなんて久しぶりなんだし。楽しくお喋りでもしよう。なあ、音子」

「シィ。あたしもミョイちゃんとは一年ぶりぐらい」

「けっ、どうせ駅に行ったらいつもの連中もいるだろうし、まあつきあってやるよ。ただし……」

 

 そういうと、レイさんが僕を見た。

 

「謎解きぐらいはしてくれ。報告書が上がるまでは真相がわからないというのは、ハブにされているみたいで気持ち悪いからな。……で、なにがどうなって、あの〈口裂け女〉どもはいなくなったんだ? 京一くんよ」

 

 どうやら僕が何かをやったということはレイさんにはわかっているらしい。

 そのあたり、御子内さんか音子さんどちらかのプロの退魔巫女がしたと思うのが普通だと思うのに。

 僕は結局ものをわかっていない素人で、彼女たちの補助をお情けでやっているようなものなのにどうしてだろう。

 

「どうして僕が何かをやったと思うの?」

「おう。オレは素人とはいえおまえさんならやるだろうと思っていたのさ。しでかすのでも、やらかすのでもなく、確かな仕事をやるってな。どうやら、予想は当たっていたみてえだな」

 

 ……昨日のバイト先の運転手はそんなことは言ってくれなかった。

 素人はなにもするなと言うだけで、僕が一生懸命働いたことをただの遊びだと軽んじられてしまったのに、この強い女の子は僕を認めてくれていたらしい。

 御子内さんならともかく、一度会っただけの彼女にそんなことを言ってもらえるなんて。

 少しだけ自信が取り戻せた気がする。

 

「そうさ。ボクの京一は凄いんだよ。それで、ボクにも早く真相を教えてくれ。いきなり、〈口裂け女〉が消えてしまう理不尽な展開に(おのの)いているところなんだ」

 

 御子内さんも僕の肩を持ってくれた。

 やはり付き合いが長いのはいいね。

 

「じゃあ、報告書を御子内さんたちがあげられるようにわかりやすく説明すると、こういうことになるんだ」

 

 ―――今回の〈口裂け女〉発生の原因となったのは、やはり伝播された噂である。

 ただ、その発生と拡散の仕組みがありえない話だったというだけ。

 あとで直接聞き取りをしないとならないとは思うけど、発端となったのはやはり庄司美晴さんの例のツイートだった。

 これを作った理由は、「自分もフォローしている有名なツイアカウントみたいになりたい」という子供っぽいものである。

 ちなみに、この有名人というのが、「残念系オクタビオ@パス」というメキシコのノーベル文学賞受賞者の名前を使った音子さんという偶然があったのだけど。

 音子さんのアカウントを見たらちょっと驚いたことに、素顔の自撮りがやたらと多く、話題も気の利いたものばかりだ。

 こりゃあ男女問わず人気出るなというツイートだった。

 もしかして、普段音子さんが覆面しているのはこのせいなのかと疑ってしまうほどに。

 いや、それだと本末転倒すぎるから別の理由があるんだろうけど。

 話を戻すと、美晴さんは面白いことを呟けばリツイートされたりお気に入り登録されたりするだろうという打算でもって、「松戸駅に口裂け女がでる」という嘘をついた。

 だが、普通ならそんなものが広がるはずがない。

 いくらなんでもあからさまなぐらいにレベルが低いから。

 しかし、ここでこれまで意味のなかった彼女自身の持つ潜在能力―――つまり一般人にしては強すぎる霊能力が発揮されてしまい、ツイートに呪詛のようなものが付随してしまったのだ。

 たかだか、140に満たない文字に魔力が宿ったということである。

 そして、その文字列は他人が見て、その他人が拡散することで、噂としての体をなす。

 リツイートされることで。

 要するに、美晴さんのつぶやきを見た人が、スマホやパソコンで()()()()()()()()()()()()()で魔力を持った言葉が伝播・拡散していき、都市伝説にまで昇華したのだ。

 その結果、友達の奈々枝さんは自分がリツイートすることで産みだした〈口裂け女〉に襲われた。

 そして、彼女以外にも美晴さんの〈口裂け女〉ツイートを誰かがリツイートする度に、一体の〈口裂け女〉が松戸市に現われたという訳だ。

 最後に見たときは、リツイート数が一万を超えていたから、この松戸市には当時それぐらいの〈口裂け女〉がいたんだろう。

 とはいえ、ある程度の霊能力があるかちょっかいをかけられた人でないと妖怪は見えないので、それほど多数には目撃されていないらしいのが救いだ。

 下手をしたら市内全域がパニックになっていたからね。

 

「ツイッターの拡散が都市伝説のメカニズムと合致して、妖怪を産みだした……か。信じられねえが、実際に目の当たりにしたし、納得するしかねえやな」

「そうだね。でも、京一、どうやって〈口裂け女〉を消したんだい? そのツイートを消したのかな」

「ううん、ちょっと違う。いったん、外に出たツイートはもう拡散してしまっていて消したぐらいじゃ意味がない。ほら、消したら増えるって言うじゃない。炎上したときはそういうことをするのは逆に油を注ぐことになるんだ」

「ん?」

 

 御子内さんはカタカナが苦手なので、よくわかっていないようだ。

 そもそもツイッターがなんなのかもわかっていない可能性はあるけど。

 

「じゃあ、どうやったんだ。謝罪文でも載っけたのか」

「ちょっと危険な賭けだったけど、噂を上書きする噂を拡散したんだ。それでまたいつかまずいことが起きるかもしれないけれど、ひとまず窮地を脱することができるかもしれないからね」

「意味が分からないよ」

 

 そこで、僕は自分のスマホから見せた。

 例の美晴さんのツイートと、その下にリプされた新しいツイートを。

 その書き込みをしたのは、残念系オクタビオ@パス―――つまり音子さんだ。

 

『残念系オクタビオ@パス@kobura.high :@little_apple_tea1011 それは大変! でもね、そういうときにぜっっっっったいに聞くおまじないを教えてあげるね♡ “強くてプリティな巫女さん来てください”って三回唱えるんだよ それでバッチリ♡ 試してみて(^^♪』

『ショーミん@little_apple_tea1011 : @kobura.high ああ、残パスさん、ありがとうごいざますぅぅぅぅ!!!!! 口裂け女が消えちゃいました! 効果絶大!!!! みんなも試してみて!!』

 

 で、このやり取りを含めたやり取りが、なんとほとんど瞬時に二万を上回った。

 何故かというと、あの天賦の美貌を持った音子さんの素顔の完璧な自撮りがついていたからだ。

 元々、プロのモデル並みのネット人気を持つ彼女のガチ素顔もあったということで、この「口裂け女によく効くおまじない」はまたたくまに拡散していった。

 その効果は絶大で、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 都市伝説という噂によって構成された〈口裂け女〉である。

 さらに強い噂が出れば消滅するのは当然だった。

 そして、一万を超えるリツイートとお気に入りによって数と力を得た、美晴さんの強い霊能力によって産みだされた〈口裂け女〉どもの影は巨人も含めて消えていったというわけである。

 

「……これって、オレらをもとにした新しい都市伝説ができたってことだよな」

「そうなるね。まあ、仕方ないさ。あのまま広がり続けて、松戸が〈口裂け女〉に埋没していたら、いくらなんでも終末状態だ。多少の問題は後回しだよ」

「強くて、プリティという表現がオレらしくていいがな」

「レイがそう思うんならそうなんだろう。()()()()ではね」

「なんか言いたいことがあんのか、爆弾小僧」

「む、ボクは女だよ」

「女がボクなんて使うか」

「キミだってオレとかいっているじゃないか!」

 

 あーだこーだと口喧嘩を初めて二人から距離を取ると、音子さんが寄って来て、紙を握らされた。

 

「なに、これ?」

「あたしのスカイプのID。今度、直接スペイン語を教えてあげる」

「うわ、ありがとう。自力で覚えるの大変だったんだ!」

「そう思ってた」

 

 もう覆面をつけているけれど、あのときの凄く綺麗な顔は衝撃的だった。

 ホントに退魔巫女のみんなは可愛くて眼福だね。

 二人で仲良く話をしていると、

 

「おい、キミたち! ボクをのけものにしてなにをしているんだい! 特に京一! キミはボクの助手なんだからそんな偏屈な女と親しくなってはいけないよ!」

「―――アルっち、うるさい」

「このネット弁慶が!」

「待て、或子。てめえ、オレを無視すんな!」

 

 三つ巴の戦いが始まってしまい、今度こそ僕は疎外感を覚えたが、これは別に悪くない気持ちだった。

 僕なんかでもこの人たちの助けになれるなら、それでいい。

 こうして喧嘩には混ざれなくても、僕は完全にのけ者にされている訳ではないのだから。

 自分のしていることが正しいなら、それでいけばいいだけのこと。

 そう教えてくれた、退魔巫女たちには感謝の言葉しかなかった……。

 

 

 

 

 

 

 

参考・引用文献

 「にほんの怪奇ばなし 恐怖の口さけ女」 小暮正夫 岩崎書店

 「猪木語録 元気ですか!一日一叫び!」 アントニオ猪木 扶桑社



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第7試合 恋人〈コイビト〉たち 
春はお別れの季節です


 

 

 話の終わった依頼者たちをエレベーターの手前まで送り、一礼をして見送ってから、南場壮一郎は自分の事務所に戻った。

 南場に限らず弁護士やこういう職につく人間は、依頼者をとても大切に扱う。

 いい依頼者はただの金づるというわけではなく、次の仕事も運んできてくれる大切な水脈でもあるからだ。

 さっきまで相談を受けていた応接室は、事務員の女性が片づけている。

 普段ならその労をねぎらうところなのだが、今の彼は疲れ切っていたので、すぐに自分の部屋へと向かった。

 途中、開けっ放しの戸の内側にいた若手と眼があった。

 どうやら帰り支度をしているようだ。

 

「あれ、南場先生、まだいらしてたんですか?」

「そうだよ。僕は忙しくてね。君こそ、こんな時間に早めのご帰宅かい? いい身分だね。ボスの僕が疲労困憊でいるっていうのに」

「そういう愚痴は止めてくださいよ。センセーの個人的な顧客さんだったんじゃあないのですか。私には絡めない案件なんでしょ」

「そりゃあそうだがね。疲れた上司をねぎらう気持ちはないのかい? ああ、寂しい。学生ゼミの時から兄貴のように面倒を見てきてやったというのに」

「酔っ払いみたいですよ、センセー。で、どんな面倒事なんですか? 確か離婚案件とか言ってましたよね」

「ああ、聞いてくれよ~」

 

 そういうと、南場は部下のスペースに入り込んだ。

 ついでにさっきまで応接室の片づけをしていた事務員にコーヒーを注文する。

 しかも、二杯分。

 居座る気満々の上司に部下は苦虫を潰したような表情を浮かべた。

 

「いやね、汲尾(きゅうお)さんの息子夫婦の話らしいんだけどね」

「ご本人じゃなくて、息子さん夫婦の?」

「そうなんだ。しかも、美男美女のアベックでね。高収入だし、いいところに住んでいるし、子供も二人いる。文句のつけようのない夫婦だ」

「それがどうして、離婚を? 片方が浮気でもしましたか? それで有責側が離婚請求したけれどできないからどうにかならないか、とかいう……」

 

 部下のいかにも弁護士らしいコメントに南場は首を振った。

 

「そんなのなら、どんなに楽か」

「……離婚案件は面倒なのが多いですからね。でも、センセー、あの依頼者の仕事は全部僕が担当するからね。手を出さなくていいよ! とかおっしゃっていましたよね。だったら、私は関与しませんからね」

「君、やってよ」

「やりません。―――話ぐらいは聞いてあげますけど」

 

 一から育ててやった恩師に対して生意気なことを言う部下である。

 

「……離婚事由がおかしくてさ」

「笑えるんですか?」

「そっちの可笑しいじゃない。イカレテいるとかの方のおかしいだよ」

「―――古今東西、不倫した夫婦の片割れの言い分とかはだいぶ奇々怪々ですから、その一種みたいなもんですかね」

「さっきまで話し合ってたんだけどね。双方の言っていることは同じなんだよ。離婚事由は共通している。ただ、その原因で離婚はないだろう……と」

「性格の不一致? 夜の生活の相性? 不妊? 浮気じゃなければ、だいたい、こんなものじゃないんですか?」

「違うんだ」

 

 南場は手にしていた資料を見せた。

 実際は部外秘なのだが、知ったことか。

 

「どれどれ―――って、一文だけじゃないですか。……うわっ」

 

 思わず部下が引くのがわかった。

 不倫の末のハメ撮り写真とかのほうがまだ良さそうな気がする。

 その一文を見ただけでなんとなく面倒事すぎる気がしてしまうぐらいなのだから。

 少なくとも、三十年近い南場の法曹生活において、こういう文章はみたことがない。

 頻繁に目にするのは、HANAKOとか女性向け雑誌の方だろう。

 

「なんですか、これ? 『離婚事由の申し立て原因 = 東京都三鷹市、武蔵野市内にまたがる都立公園である、井の頭恩賜公園において、夫婦共同でボートに乗ったことによるもの』って……」

「読んで字のごとく、だよ」

 

 呆れたように資料に目を通す部下。

 ますます呆れた顔になる。

 

「こんなので離婚できるはずがないじゃないですか。……でも、いや待てよ。夫婦双方の離婚意思は合致しているんだから、普通に離婚できるのか。協議離婚だったら、理由なんかどうでもいいんだし。させてしまえばいいと判断を変えますよ、私は」

「……そこで、双方の両親が反対してんだよ。僕にはその説得も頼まれていたというわけさ」

「仲人にやらせればいいじゃないですか」

「やらせて駄目だったから、僕のところにきたんじゃないか。法律的に説得してくれって。でも、そんなのできたら苦労しないよ。あの夫婦に必要なのは、弁護士じゃなくてカウンセラーだ」

 

 どうしても離婚意思の堅い夫婦を説得できずに、何時間も費やしてしまったせいで南場は疲れているのだ。

 もう、早く家に帰って子供と遊んで癒されたい。

 

「絶対、これは他に原因があるでしょう。もともとうまくいっていないとか」

「それがあったら苦労しないよ。二人とももう憑りつかれたように、『井の頭公園のボートに乗ったから別れなければならない』を繰り返すだけでさ」

「で、先生はどうしたんです」

「匙を投げたさ。こんなの弁護士の仕事じゃない」

 

 さすがに部下も事情を理解してくれたらしく、少し同情の混じった視線になった。

 

「まあ、確かに。その後は?」

「法律的にいくのは諦めるみたいだった。なんか、知り合いの神社で御祓いをしてしまうとか言っていたな」

「いきなりオカルトですか。悪霊に憑りつかれたわけじゃあるまいし」

「家族からすればそう見えるんだろ。どうだい、君なら何とかなるんじゃないのかい? わりとそういうの得意だろ」

 

 だが、部下はぶんぶんと首を振って否定した。

 

「い・や・で・す! 私はもうそういう仕事はやらないと決めているんです。だいたい、どうして離婚を阻止するために神社に行くんですか」

「さあ。井の頭公園には弁財天の神社があるからそのせいじゃないかな」

「―――まったくわりと旧家の考えることってわかりませんね。すぐに神頼みやオカルト話を持ち込むのだから」

 

 こうして、ある法律事務所に持ち込まれた離婚事件は別の専門家の手に委ねられることになった。

 通常ならば、すべてのトラブルの解決のための最期の砦である弁護士の手を放れたものは、もうどうにもならなくなるのが常である。

 しかし、ある種の事件は、さらに深い闇の底、普通の人間には考えられない領域へと持ち込まれ、解決へと導かれることになる。

 そして、今回の事件の解決役に選ばれたものは……とある退魔巫女であった。

 

 

        ◇◆◇

 

 

 

「……それでね、明日の夜に試合があるから、京一には〈護摩台〉を設置してほしいんだよ」

 

 土曜日の昼間に、我が家にやってきた御子内さんが、僕に資料の入った封筒を渡してきた。

 中を見ると、明日設置するリングの(御子内さんたちはずっと〈護摩台〉と言っているが、僕にとってはリングか……よくて〈結界台〉だ)図面だ。

 なんと池の上に造るらしい。

 まともなスペースがないということだが、これ、ちょっと素人の僕には難しい気がする。

 

「大丈夫だよ。明日は、ボクたちの社務所からも人員が派遣されるらしいから、京一が一人だけでやらなくてはならないということはない。ただ、ボクの専属として手伝って欲しいということなんだ。キミがいないと調子が出なくてね。―――お願いできるかい?」

「うん、任せて。もう何回も御子内さんの手助けはしてきたからね。それに、こういう難しそうな場所に造るのも勉強だよ」

「良かった。さすがは京一だ。助かるよ」

 

 今日の御子内さんは、通っている武蔵立川高校の制服姿だ。

 学校帰りに寄ってくれたらしい。

 僕が引き受けたことで気分を良くしたのか、目の前に出されていた駅前の人気店〈フサクドール〉のチーズケーキを美味しそうに口に入れていた。

 食べ物を笑顔で食べる人はいいね。

 ほっこりするよ。

 とニマニマしていたら、御子内さんの隣で話を聞いていた妹が素っ頓狂な声を上げた。

 

「いや、ダメですよ、お姉さま! 井の頭公園はダメです!」

 

 一応、退魔巫女としての御子内さんと僕の会話には口を挟まないという約束をして同席させたのに、いきなり何を言い出すのやら。

 こいつはケーキをもう完全に食べつくしている。

 ちなみに、御子内さんはこの僕の妹―――涼花(すずか)のためにギリギリまで受験勉強を看てくれた家庭教師として、うちの両親にとても気に入られており、彼女がこうやって客としてやってくる時は「お茶請け補助金」が支出されることになっている。

 しかも三千円も、だ。

 普段のうちでは〈フサクドール〉クラスの店のケーキはクリスマスにだってだされることはない。

 もちろん、僕や僕の友達のためになんか絶対に補助金は支出されない。

 この差別的待遇はいったいどういうことなんだろうね。

 

「どうした、涼花。いきなり」

「ダメですってお姉さま!」

 

 妹はどういう訳か御子内さんをお姉さまと呼ぶ。

 妖怪〈高女〉に助けられたときの恩義かどうかは知らないが、物凄くこの超絶可愛い退魔巫女に懐いていて、血を分けた兄である僕を蔑ろにするぐらいなのである。

 実に納得いかない。

 

「何がダメなんだ?」

「い、井の頭公園でデートをするカップルは別れるという伝説があるんデス! しかも、これは強固なものとされていて、とてもまずいんデス!」

「なんだって!!」

「ですから、お姉さまとお兄ちゃんが井の頭公園に行くことは反対なのデス!」

 

 語尾に妙なアクセントがついているぞ、妹よ。

 なんのキャラなんだか。

 だが、その話を聞いて御子内さんまでが顔色を変えた。

 

「それはマズいな……。やはり明日は京一を呼ばないでおくべきデスか……」

 

 おかしな影響を受けているね。

 

「あのな、涼花。僕と御子内さんはカップルじゃないし、明日はデートじゃなくて仕事に行くんだぜ。別れる別れないなんて話が当てはまる訳ないだろ? 常識にのっとって判断しろよ」

「バ、バカか、京一! 君はいったい何を言っとるんだ! 伝説を舐めてはいけないぞ! 先人たちの知恵の結晶なんだから!」

「……いや、そもそも明日は妖怪退治をしに行くんでしょ? 別に井の頭公園のジンクスとかをバカにしているわけじゃないけど、―――二人してなにを焦っているのさ。落ち着きなよ」

 

 すると、二人して物凄く白い眼―――ジト目という奴だね―――で睨まれた。

 いったいどういうことなのかわからない。

 まったくホント女の子というのは扱いづらいもんだよね。 

 

 

 

 これは、今から少し前、僕と御子内さんが高校二年生になるちょっと前、2015年の春休みに起きた出来事である……。



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謎の妖怪

 

 

 吉祥寺駅の改札口をでて、少し歩くと井の頭公園に辿り着く。

 今まで一度も訪れたことがなかったので、どんなに大きい場所かと期待していたら、思ったほどではなかった。

 それでも都心であることを考えれば、それなりに広大な敷地なんだけど。

 

「明治神宮や昭和記念公園レベルで考えないほうがいいね」

「確かに……。すぐ隣に個人の住宅やらマンションやらが見えるのはちょっと興ざめかも」

「まったくどれだけのものを想像していたんだい?」

「弁天池はせめて東京ドーム一個分ぐらいはあると思っていたよ」

「総面積で考えれば、それ以上はあるかもしれないけど」

 

 弁天池の淵にある散歩道を御子内さんと歩く。

 桜が綺麗に咲いていた。

 とはいえ、花見客が騒いでいてかなりうるさい。

 この喧騒の中だと、いつもの巫女装束の彼女も浮いて見えないのが不思議だ。

 

「桜の名所だと聞いていたけど、思っていたほどでもないかな」

「京一は色々と期待しすぎだ。一応、ここだって都内の桜の名所なんだからね」

「イメージの問題だからさ」

 

 まだ陽が暮れるまではだいぶ時間がある。

 このお花見の騒ぎはしばらく続きそうだ。

 

「17時を過ぎたら、ここの客たちには強制的に出ていってもらう」

「どうやって?」

「たまにやっているだろう。人払いの八門遁甲の呪法だよ。あれを使えば、耐性のない一般人は自然と遠ざかっていく」

「ああ、あれか。……御子内さんがやるの?」

「いや、社務所から派遣されている専門の宮司が入り口を塞いで行う。ボクらはそこの弁天池で妖怪退治だ」

 

 弁天池には、今日も何隻ものボートやスワンが浮いている。

 しかも、カップルが乗っていた。

 

「うーん、あの連中は恋人と別れたいのかね。よくカップルで乗れるものだよ」

「だって、井の頭公園のボートに恋人同士で乗ったら別れるってのはジンクスというよりも都市伝説だからね。絶対に別れると決まっていたら乗ったりしないし、あの人たちは気にしてもいないよ」

「だが、涼花と調べたら信ぴょう性の高い話だと。かなりの高確率で……」

「誰がそんな統計を取ったんだろうね。信じられないよ」 

 

 ……昨日からなんか御子内さんにはこだわりがあるらしい。

 意外と恋バナとかも好きだったんだ。

 てっきり生粋のバトルジャンキーだとばかり思っていたよ。

 

「もっと深刻に物事を考えるべきじゃないか。こんな縁切り寺みたいなところに、男女がやってくるなんて……」

 

 色々と語りだした御子内さんの話を聞き流しながら、公園内を見渡してみる。

 ソメイヨシノの美しい開花の中を可愛い巫女さんと歩くのはとても楽しい時間だけど、こんなところに妖怪なんて出るものだろうか。

 実のところ、今回の妖怪退治には問題があった。

 未だにどんな妖怪の仕業か確定できていないのだ。

 それなのにリングを作って、御子内さんが試合することだけが先行してしまっているのである。

 ひとえに花見の時期ということもあり、さっきの呪法で人払いをする機会が限られているということと、この依頼が社務所にとって縁のある家族からのものだったということがあるらしい。

 詳しいことはわからないが、それなりに社会的地位のある人からの依頼ということで、八咫烏を通したものでもないということだ。

 だからという訳ではないが、怪異の原因となった妖怪がなんなのかさえわかっていないのだ。

 正直なところ、僕としては御子内さんが心配だった。

 彼女が強いことは百も承知しているが、相手の正体さえ不明な状況で戦わせるというのは嫌な予感しかしない。

 それに、池の中央に設置されるというリングのこともある。

 御子内さんはワクワクしていたようだけど、設置図を見ると、ただの水上デスマッチ用のリングにしか見えない。

 弁天池は今年の二月から三月にかけて()()()()され、底にたまっていたゴミを拾われて綺麗に掃除されたとはいえ、ヘドロも相当量まだ堆積しているようであるし、不測の事態が生じないとも限らない。

 水も汚れた場所だし、御子内さんが溺れでもしたら危険すぎる。

 

「……そもそも、ここのボートに乗った夫婦が何かに憑りつかれたように離婚したがったというのが発端なんだよね」

「そうさ。その夫婦以外にも、多くの人たちがこの公園内で原因不明の妄想に憑りつかれて、ノイローゼになったりしているんだ。これは見逃していい話ではないね。いいかい、長い間つきあって、結婚し、子供まで設けた夫婦がボートに乗っただけで離婚するんだよ。それぐらいこの公園のジンクスは怖いんだ!」

「船に乗った恋人同士を別れさせる妖怪なんて聞いたことないなあ……」

 

 昨日、御子内さんが帰った後に調べてみたが、そんな妖怪はいなかった。

 ただ退魔巫女たちが所属する通称〈社務所〉によると、問題を持ち込んで来た夫婦には確かに何らかの怪異のものと思しき影響がでていたそうだ。

 怪異を祓うための御祓いをする必要があったとのことだし。

 つまり、その夫婦が離婚したがっていた原因とは間違いなく妖異の仕業ということなのである。

 だからこそ、御子内さんが派遣されたという訳なんだけど……。

 

「妖怪なんだか、呪詛なんだか、さっぱりわかっていないのに、退魔巫女を闇雲に派遣しても意味ないと思うんだけどな~」

「まあね。京一の言うこともわかるよ」

 

 早く来てもたいしてやることもないので、二人で散歩をしているだけという有様だった。

 ぐるりと公園内を池沿いに一周していると、弁天堂へと繋がる小さい橋に出た。

 柵が閉じられている。

 中には入れそうもない。

 

「今日は立ち入り禁止にしてあるそうだよ」

「へえ。そういえば弁天様はもともと仏教の守護神だけど、七福神になって、後に神道にも含まれることになる神様なんだよ。ボクらにとっては遠い上司にでもあたるのかな。だから、無理にでも挨拶しないとね」

「まあ、入らなくてもいいとは思う」

「なんで! お参りしないといけないだろう、日本人としては!」

「……井の頭公園の弁財天に男女でお参りすると別れるという話もあるんだよ」

 

 すると、御子内さんはさっと後ずさった。

 なんて素早いバックステップ。

 そこからライジング・タックルにでも移行しそうなぐらいに腰を落とした。

 

「どうしたの?」

「いやあ、危ないところだった。思わずお参りするところだったよ」

「? 別にしてもいいでしょ。御子内さんは巫女でもあるんだし」

「そうはいかないね。―――そうはいかない!」

「なんで二度言ったのさ」

 

 餌をとられそうな猫のように警戒しつつ、御子内さんは弁天堂から離れていく。

 

「で、妖怪の気配はあるの?」

「それは確かだよ。かなり強い。……とはいえ、正体を特定するまでにはいたらないんだけど……」

「どうして?」

「うーん、感じたことのない妖気なんだ。少なくともボクには馴染みがない類さ。社務所の宮司たちも調べてみたけどわからなかった」

「そんなことがあるの?」

「たまにね。稀に見つかる新種の妖怪だとか海外のものだとか、そういう場合さ」

 

 花見客でにぎわうこの陽気な公園にそんなものがいるとは到底思えないけれど……。

 

「だから、僕が派遣されたのさ。現役の退魔巫女最強であり、世界チャンピオンであるこの御子内或子がね!」

 

 なるほど、そういうことか。

 妖怪は存在するけど、どういうものかはわからない。

 だから、社務所にとっては持てる最大戦力を初っ端からぶつけて、火力―――というか武力で制圧してしまえという腹なのか。

 他に退魔巫女が何人いるかはしらないけれど、御子内さんが最強だというのならば、僕でもそうするかも。

 この人目に付きやすい井の頭公園という場所で退魔の仕事を何度も行う機会はないだろうから、一番確かな人材を使うというのは当然の策だ。

 

「ただ、さあ」

「なんだい、京一」

「相手の妖怪がどういう奴かわからないままだと、いくら御子内さんでも苦戦すると思うんだ」

「まあ、勝つのはボクだけど苦戦は避けられないだろうね」

「―――」

 

 僕は少し考えてみた。

 それから、時計を見る。

 まだ、16時だ。

 時間はある。

 

「よし、決めた」

「何をだい?」

「ボートに乗ろう」

 

 御子内さんがちょっと他人には見せられないような面白い顔をしていた。

 美少女キャラなのに。

 

「……な、な、な、なんで?」

 

 僕が考えたのは、こうだ。

 

「ボートに乗ったカップルが別れなければならないという妄想に憑りつかれたのは、なぜかという疑問を解くためには、同じようにしてみなけりゃならないと思うんだ。だから、僕と御子内さんで一緒に乗ってみよう」

「……別れることになったらどうするんだ!」

「僕たちは別に恋人というわけでもないから、別れるとかいうことはないよ。それよりもなによりも、リングを設置して君が戦う準備をする前に、相手の正体を少しでも予測しておかないと危険が大きすぎる。御子内さんを無事に勝利させるためにも、やっぱりやるべきだよ」

 

 さらに面白い顔になった御子内さんの手を引いて、僕はボート乗り場に歩き出した……。

 

 

 

 



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弁天様は非リア充なのか

 

 

 スワンボートはちょうど出払っていたので、普通のボートを借りることにした。

 体力とか腕力では僕よりも御子内さんの方が上なのだが、女の子に漕ぎ手をさせる訳にはいかないので、僕がオールを握る。

 最初のうちはうまくいかなかったけど、コツを掴むと意外と簡単だ。

 ただ、他の人とぶつからないようにしないとならないのに、船尾側に乗っている御子内さんが確認をやってくれないので困った。

 ボートの縁に肘をたてて、なんだかやさぐれたように景色を睨んでいるのである。

 しかも、なんだかスラリとした足を無造作に組んでとても機嫌が悪い。

 まるでうちの母さんが、結婚記念日に帰ってこない父さんにイラついているときのようだ。

 そういえば涼花もたまにこんな風になる。

 女性というのは似たような挙動をするものなのだと感心してしまった。

 

「気持ちいいね」

「はん。どこが」

「池の上はなかなかいいよね」

「さっぱりだよ」

「少し身体を動かすと調子が出てくる気がする」

「それはようござんした」

「……」

 

 目も合わせてくれなくなった。

 まったくもってどうしようか。

 四月になったばかりだけれど、今日はとてもいい陽気で、じっとしているだけでも汗が流れてしまうぐらいだった。

 オールを漕ぐと額が汗で濡れるほどだ。

 ふう。

 

「……そういえば、ちょっと前もこんな暖かい日があったよね。三月だというのに記録的な初夏みたいな一日だとか言われていた。なんだか毎年記録的な暖かさとかいうけど、ああいうのは本当なのかな。あれは絶対に盛っていると思わない?」

「覚えてないね」

「いや、あの日は、僕と御子内さんで映画に行ったでしょ。で、御子内さんがGジャンは暑いからって脱いで……」

「巫女装束にGジャンは変っていったのはキミだ」

「そんなこと言ったっけ?」

「言ってた」

 

 結局、きちんと覚えているのに。

 なんでこんなに不機嫌なんだろ。

 

「そういえば、()()()()したんだってね」

 

 かいぼりというのは、農耕用のため池から水を抜き、魚を捕獲したり、護岸の補修や点検等を行うことをいう。

 ため池の機能を維持するために必要な管理のことをいい、この弁天池のような都市部の公園池などでは、水質改善や外来魚を駆除することによる生態系の回復を目指すことも含まれている。

 ここ井の頭公園は再来年が100周年にあたるということで、その事前準備の一環としてかいぼりを行ったのだ。

 そして、水を抜いたら予想以上のことが起きた。

 池の底には自転車が200台くらい捨てられていて、他に中型バイクやスクーターなども引き揚げられたのだ。

 それだけでなく、台車やゴルフバッグ、プリンター、路上標識、扇風機なども見つかり、ゴミ処理の費用が必要になって一時問題になったという。

 

「でも、そうなると、例の離婚したがっていた夫婦は、いつボートに乗ったんだろう?」

「……神田川から水を入れるときに、希望者を募ったらしいよ。それで汲尾(きゅうお)夫妻が応募して当たったって話」

 

 きちんと話は聞いていてくれるようだ。

 

「そっか。日にちはわかる?」

「さあね。自分で調べればいいじゃないか。……確か、さっきの映画に行った日のことだと思ったけど」

「ああ、今日みたいな暖かい日ね」

 

 ということは、この公園も散歩しやすい日だったのだろう。

 そりゃあボートにでも乗りたくなるのはわかるね。

 カップルならともかく夫婦なら別れることもなさそうだし。

 汲尾《きゅうお》夫妻はそう判断したのだろう。

 

「虫が邪魔だなあ」

 

 御子内さんの手が伸びた。

 何気ない動きだというのに、ほとんど動き出しが見えなかった。

 白い指先で何かを摘まんでいる。

 差し出されたので目を凝らすと、なんと蚊だった。

 

「もう蚊が飛んでいる季節なんだね」

「びっくりだよ」

 

 びっくりするのは飛んでいる蚊を不安定なボートの上で摘まんでしまう君の動体視力だ、と思った。

 本当にいつも思うけれど御子内さんは凄い。

 

「蚊に刺されなかったかい?」

「大丈夫だよ」

「なら、よかった。結構大きいやぶ蚊だから、刺されたら()()()()にでもなっていたかもしれない」

「まさか」

 

 冗談を言ってくれるぐらいには気が緩んだらしい。

 

「……でも、ボートに乗っただけじゃなにもわからないね」

「妖怪だから水面下にでもいるかもしれない」

「それがかいぼりで出てきたとか?」

「ありえなくはないね。だって、長らく動いていなかったものを人間の都合で勝手にすると、そこに怪異を招くことがあるというのはよくあることだから。ボクも何度か体験したことがある」

「そっか……」

 

 ただ、井の頭公園のかいぼりは一昨年も行われている。

 何かあったとしたら、一昨年も起きていないと辻褄が合わない。

 

「それに、ここは弁財天の守る池だ。生半可な妖怪なんて、ここに棲み続けられないよ。弁財天が許しはしない」

「じゃあ、弁財天が特別に許したってことは?」

「神仏が? ……うーん、よほどの繋がりがないとね。例えば、もとは神々を守っていたルーツを持っている妖怪―――河童とかなら……」

 

 弁財天というのは、もともとはインドのヒンドゥー教の神様サラスヴァティーのことだといわれている。

 サラスヴァティーの語源は「聖なる河」であり、基本的には水の神様である。

 我が国でも、三大弁才天とされている、江ノ島や竹生島、厳島では、水のそばにまつられていることが多い。

 この井の頭弁財天も、池の中に祀られていることからわかるね。

 もっとも、水の神であっても、水の流れが音楽を連想させることから、音楽をはじめとした芸術や学問全般の神様としても有名であり、同時に五穀豊穣の神様としても崇められている。

 弁財天と呼ばれるのは、「才」を「財」に置き換えて、財宝を授ける神様としても信仰されているからだ。

 ここの井の頭弁財天にも、本堂の裏手に、龍の形をした銭洗い弁天があり、お金を洗うことで財産が増えるご利益があると言われていた。

 転じて、福を授ける七福神の一角になったということらしい。

 

「鬼子母神とかと違って、気性は穏やかな神さまだからね」

「……そういえば大黒様もインド出身なんでしょ」

「ああ、七福神はルーツが天竺ということが多いね」

「天竺かあ」

 

 まるで逆の西遊記だ。

 弁天様は、インドから旅をして東へ東へやってきて、この極東の静かな島にやってきたんだね。

 

「ただ、弁財天のもとになったサラスヴァティーは二柱の主神のもとで相当な苦労をしたみたいだからね。意外と苦労人で、嫉妬深いところもあるようだよ」

「ああ、だからカップルが別れるなんて話があるんだ。リア充死ねってやつか」

「りあじゅう……?」

 

 御子内さんには難しい話だったらしい。

 

「うーん、よくわからないなあ」

 

 実際にボートに乗ってみても、わからないことだらけだ。

 どんな妖怪―――今回は怪異かもしれないけど―――がこの井の頭公園で暴れているのかさえわからない。

 下手をしたら、もうここにはいない可能性もある。

 妖怪は目に見えないものだけど、普通ならば霊感の強い人による目撃例の一つぐらいあってもおかしくないのに……。

 もっと目に見えない妖怪ということなのかも。

 

「とにかく、ボートの乗り心地はわかったし、降りるとしようか」

「そんなものを知れても意味はないと思うけどね。降りることは賛成だよ」

 

 僕はボートを乗り場に接舷させ、艀に上がると、手を伸ばして御子内さんを地上へとあげた。

 

「……随分と手慣れているね。もしかして、初めてじゃないのかい?」

「いや、初めてだよ。オールなんて漕いだこともない」

「ふーん、それにしては紳士なエスコートだ。ボクはちょっとキミのことを見なおしたところだよ」

「それはどうも」

「京一がいてくれると安心だね」

「ありがとう。嬉しいよ」

 

 多少は機嫌がよくなったらしい御子内さんとともに、僕は陸へと上がった。

 桜の花に導かれるように。

 だが、まだこの公園に巣食う謎の存在についてはわからないままだ。

 

 いったい、どうすればいいものだろうか?

  



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イチャイチャするぞ

 

 

 17時を過ぎてから、ぽつぽつと人がいなくなっていき、一時間後には井の頭公園には僕たち以外には誰もいなくなった。

 その頃には、井の頭公園駅方面から持ち込まれた資材が運び込まれ、僕は十人ぐらいの業者みたいな人たちと〈護摩台〉という名のリングの設置を開始する。

 今回はなんと池の上に設置するということで、色々と厄介な部分もあるはずなのだが、彼らは慣れた動きで池の水面にロープを渡して、ブイのようなものを浮かし、軽々と作っていく。

 おそらく、僕なんかより年季の入った人たちにとって、こういう現場は普通なのだろう。

 あまり口を利かないで黙々と仕事をする人たちだけど、たまに質問するとある程度の返事はしてくれて、なぜか僕に親切だった。

 

「まあ、頑張れよ、坊ちゃん」

「こういう足場の悪いところに〈護摩台〉を準備する時のコツはな……」

「不忍池に浮かべた時はそりゃあ大変だったんだぜ」

 

 という感じだ。

 でも、いい人たちなのは間違いなくて、普段は一人でやっているせいもあり、とても楽しかった。

 ただ、独りで黙々と準備運動のストレッチをしている御子内さんが心配だったのも確かだ。

 池上に特製リングが浮く段階に至っても、結局、この井の頭公園にいるであろう妖怪の正体は判明しなかったのだから。

 だいたい夜の22時ぐらいになって、リングは完ぺきに設置された。

 あとは、妖怪をあの戦場に乗せて、我らの巫女レスラーの勝利を祈るだけだ。

 

「……まったく気配がないね」

 

 ボートの上に仁王立ちになって腕を組む御子内さんが言う。

 周囲を見渡しても、何も異常はない。

 職人さんたちには決着まで遠くに行ってもらっているので、井の頭公園(ここ)にいるのは僕らだけだ。

 スポットライトのあたる美しい夜桜が咲き誇る荘厳な世界に、巫女装束の美少女が佇み、敵を待つ姿は綺麗だった。

 現実に非ざる夢幻の世界に迷い込んだようだ。

 思わず時間が経つのも忘れて見惚れてしまう。

 ずっとこのままこの麗しい少女の傍にいたいと願ってしまうぐらいに。

 

「……姿を現さないのか、それとも餌が必要なのかな」

「どういうこと?」

「うーん、仕方ないね。京一、キミもボクといっしょに〈護摩台〉に上がろう」

「……別に構わないけど、どうしてさ?」

「ここの妖怪は、どうやらカップルがいちゃつくのがお嫌いのようだからね。ボクとキミでイチャイチャして誘き出す。あそこまで乗せてしまえば結界の力でなんとかなるだろうし」

「適当だな……。でも、イチャイチャするというのはいいよ」

 

 すると彼女は顔を赤くして、

 

「言っておくけど、振りだからね、イチャイチャする振り! 別にボクがやりたいからやる訳じゃないないんだからな。そこのところを勘違いしないでくれよ!」

「わかっているけど。でも、御子内さんともっと仲良くなれるのは普通に嬉しいな」

「な、なにを言っているんだい、このトウヘンボクのアンポンタン! キミはすぐにそういうことを言うけど、他の女にも言いまくっているんじゃないんだろうね! あとで涼花に調べさせるよ!」

「僕と親しい女の子って御子内さんだけだよ。漫画みたいに仲のいい幼馴染とかもいないしね」

 

 なんだか必死な御子内さんを、ボートでリングまで運び、一緒に上に昇る。

 多少、揺れているように感じるのは安定していないからだろう。

 いつものようにどっしりと大地に設置していないせいか、リングではなく広いボートに乗っているような感覚である。

 

「……でもイチャイチャするのって、どうやるの? 僕、彼女ができたこともないから、そういうことの手順がわからないんだけど。御子内さんはわかる?」

「ボクだってないさ。ただ、こういう場合はそうだね……ほら」

 

 手を差し出された。

 まずは力比べから入ろうというところだろうか。

 力比べなら両手でやらないと……。

 

「バカ。手を繋ごうと言っているんだよ。なんで、イチャつくのに力比べから入るんだい」

「だって相手が御子内さんだから……」

「ボクが相手だったらってどういう意味だい。まったく、京一は……」

 

 ガシっと手を握られた。

 指と指を絡めあう恋人繋ぎだった。

 どうやら本当に力比べではないらしい。

 

「あまり仲良さそうには見えないね……」

「もう、京一は水を差すことばかり言うね。まあ、いい。とにかく座りなよ。ボクに寄り添うように」

「うん、そうする」

 

 僕たちはリングのマットの上に寄り添って座った。

 御子内さんは体育座りで僕は普通に足を崩して。

 手から伝わる彼女のぬくもりが心地いい。

 すぐ隣に繋がった彼女がいるというのは本当に落ち着く。

 

「面白いことをいいなよ」

「……酷い無茶ぶりだ」

「場を和ませるのは男の役目だと聞いているよ。だから、京一の仕事さ」

「特にないなあ。……あ、涼花の受験勉強を見てくれてありがとうね。おかげであいつも御子内さんと同じ高校に行けたって喜んでいたよ。(ぼく)よりも一段階高い偏差値の学校だからって両親も喜んでいた」

「今、話す内容ではないんじゃないか」

「きちんとお礼言っていなかった気がするからさ。御子内さんには〈高女〉から助けてもらったり、いつも涼花と僕が迷惑をかけて申し訳ないとも思っているし。いつかまとめてもっともっとちゃんとした恩返しがしたいな」

 

 御子内さんはそっぽを向き、

 

「申し訳ない、だけかい?」

「ん?」

「ボクに申し訳ないというだけで、今日もつきあってくれているということなのかな? 特に他に理由はなくて」

「何を言っているの?」

「だから、キミはボクのことよりも、ボクに恩義を感じているから忠誠を誓うように付き合っているだけなのかと聞いているんだよ!!」

 

 なんだか知らないが、御子内さんはちょっと興奮していた。

 いつも冷静な彼女らしからぬ気色ばんだ顔だ。

 

「そんなことはないよ。謝礼ももらっているし」

「お金!」

「うん。〈社務所〉から妖怪退治の度にいくらかもらえるのは助かるね。大学の学費と独り暮らし用に溜められるから」

「ボクにつきあっているのは……金の……ためかい?」

 

 今度は絶望そのものという表情を浮かべる。

 あまり見たくない顔だった。

 でも、理由はわからないけどそれは誤解だよ。

 

「まさか。いくらお金が貰えても、御子内さんのためでなきゃこんな夜遅くに水を被りながらリングなんて設置しないよ。僕は御子内さんのためだからこそ、頑張って仕事ができるんだ」

「……えっ」

「初めて見た時から、僕は君のことを信じて、君を助けたいと思っている。それは嘘偽りのない本心だ。僕は―――君のものみたいなものと思ってくれればいいよ」

 

 不思議な沈黙がリングに落ちた。

 桜の花びらが一枚舞った。

 僕らの間にひらひらと止まって、そのまま動かない。

 

「そ、そういうことなら、い、いいよ。今日から、京一はボクのものということでいくからさ」

「……そういうことでいいよ」

「なんだい、そのニヤニヤ笑いは。腹が立つね」

「生まれつきだよ。でも、ニヤニヤなんてしていないから」

「まったく、キミはチェシャ猫並みに嫌なやつだな」

 

 ぎゅっと握る手に力が宿る。

 僕のものよりも小さな手。

 でも、僕はこの手に救われた。

 優しい人の温かい手。

 

「じゃあ、これからも頼むよ、()()()京一」

「うん」

 

 ―――その時、御子内さんの手が何の予備動作もなく動いて、僕の目の前でこぶしを握って止まった。

 

「な、なに?」

「……これを見てみなよ」

 

 御子内さんの掌にのっていたのは潰れた蚊だった。

 黒くてわりと大きい。

 ……そういえばさっきも飛んでいたっけ。

 

「何、これは……どうして……」

 

 御子内さんが鋭い眼で周囲を警戒し始める。

 

「さっきボクたちに向けてまっすぐに飛んできたんだ。―――蚊があんな直線的に飛ぶものか。どうやら、正体はともかく手口は読めてきたよ」

 

 僕も周囲を見渡した。

 襟のボタンを留めて、軍手をはめる。

 肌の露出を少なくするために。

 

「……この妖怪は蚊を使役して、なにかをしたんだ」

「蚊で……何を……?」

「わからない。ただ、血を吸わせてどうこうというものではなさそうだけど……」

「なるほど」

 

 蚊とは思いつかなかった。

 いや、だからこそ、目撃例がなかったのか。

 蚊なんて小さすぎて怪異だとも意識されないのだから。

 しかし、御子内さんに見破られた以上、もうこの手は使わないだろう。

 そして、案の定……

 

「見なよ、京一。……手口を見破られて実体化し始めた」

 

 さっきまで何事もなかったリングの一画に小さな羽虫が飛び回る蚊柱が発生し、それが徐々に黒く濃くなっていき、不気味な音とともに一つの物体に変化していく。

 無数の蚊が―――あいつの本体だったのだろうか。

 ほんの数秒の後、リングには布をまとった一人の女性の姿をした妖怪が立ち尽くしていた。

 琵琶のような丸い楽器を抱えた姿の。

 

「弁天様のご登場という訳だね……」

 

 いみじくも御子内さんが看破した通り、蚊の集合体となってそこに出現したのは、等身大の弁財天であった……。

 

 

 

 



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神の化身か眷属か

 

 

 カアアアアン!

 

 妖怪を〈護摩台〉という名のリング上の結界に閉じ込め、逃げ出せないようにする(ゴング)が鳴り響く。

 僕は急いでリングの外に出て、池に落ちないようにバランスをとりながら赤いコーナーポスト、つまり御子内さんのための場所にセコンドとしてつく。

 だが、すぐには戦いは始まらなかった。

 普段なら迷わず突貫するはずの御子内さんが珍しく慎重に歩を進めたからだ。

 なぜなら、対峙している妖怪についてわかっていることは、蚊の集合体であるということだけだからだろう。

 その能力も、正体も、名前さえも未知数。

 闇雲にしかけることはできそうもない。

 しかも、その姿は琵琶を持った羽衣と金の冠をつけ、波打った黒髪を結わえた妖艶なものである。

 どう見ても弁財天―――弁天様そのものなのである。

 御子内さんは退魔の仕事をしているが、もともと神に仕える巫女だ。

 その巫女が神かその化身と戦うというのははっきりいって分が悪いはず。

 だからか、彼女にしては慎重なぐらいに間合いを詰め、これ以上は詰め切れないと悟ると背後に下がってロープの反動を使い、かく乱する作戦に出た。

 縦に横に走り回り、弁財天の隙を窺う。

 しかし、その御子内さんの動きに対して弁財天は身動き一つとらない。

 恐ろしいまでの存在感をもって立ち尽くすだけだ。

 とはいっても巫女レスラーに翻弄されている訳ではない。

 おそらくはカウンター狙い。

 何か特殊な攻撃を持っているのかもしれない。

 

「御子内さん、吸血に注意して!」

「わかってる!」

 

 あの弁財天は、多数の蚊が実体化したものだ。

 ということは蚊の妖怪が、弁財天の姿を模しているだけという可能性が高い。

 ならば、蚊という害虫の最も危険な要素である「吸血」を注意するのは当然のことだ。

 

「どこに蚊が血を吸うための管なのかわかんないな……」

 

 蚊は長い口吻を持っている。

 この口吻を使って生物の毛細血管から血を吸うのだが、あの弁財天の姿にはその管と呼べる要素が見当たらない。

 どこかに隠されていて、ここぞという時に使う気なのだろうか。

 だとすると、かなり危険だ。

 御子内さんが下手に組んだりすると、動きを止めたところを狙われるおそれがある。

 彼女の得意のスープレックスは止めたほうがいいだろう。

 ただ、僕には少しだけ疑問があった。

 

()()()()()()()()()()()()()

 

 という点についてだ。

 さっき御子内さんは二匹の蚊を潰したが、どちらにも血液は付着していなかった。

 であるのならばまだ給餌はしていなかったはず。

 それなのに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 僕のたいして働きの良くない勘ががんがんに警鐘を鳴りたてる。

 あいつを蚊の妖怪と断定するのは危険だ、と。

 

「でりゃあああ!」

 

 御子内さんの得意の上下に分けたナックルパートのあとに、くるりと腰で回転しての上段蹴りのコンビネーション。

 それは弁財天の琵琶によって防がれる。

 しかも、かなりの勢いがあったというのに微動だにしない。

 

「とおっ!」

 

 お次は跳びあがっての連環腿(れんかんたい)による二段蹴り。

 これも琵琶によって防がれた。

 なんちゃってとはいえ、御子内さんの八極拳は高い攻撃力を持つというのに、ああまで容易く受け止められるとは。

 いったん体勢を整えようと下がった時、弁財天の琵琶が一弾き、かき鳴らされた。

 

 ジャラララン

 

 音を耳にした途端、一瞬だけ、御子内さんの動きが止まる。

 僕には何もないのだから、あれは指向性の音による攻撃の一環に違いない。

 耳にするだけで巫女レスラーの動きを邪魔するような。

 その隙をついて、弁財天の怒涛のごとき張り手が唸りを上げて横に薙がれた。

 御子内さんは両腕をカーテンのように閉めて、その攻撃を受けきる。

 鉄のカーテンならぬ肉のカーテンだ。

 ボクシングでいうところのピーカーブー(いないいないバア)だが、御子内さんはよく次に左を狙うときにもこれを多用する。

 そして、いつものように弁財天の左脇に突き刺さるようなボディブロー。

 

『ゴッ』

 

 多少は効いたらしく、弁財天がはじめて揺らいだ。

 そこで、彼女の起死回生の一撃―――ローリング・ソバットが炸裂する。

 狙い過たず人でいうところの鳩尾に命中した蹴りが、弁財天にたたらを踏ませた。

 しかし、追撃はしない。

 両耳を抑えて苦しそうにしていた。

 あれだ。

 さっきの琵琶の音だ。

 

「御子内さん、気をつけて! あれは聞くと死んでしまう楽団系の技だ!  デッド・エンド・シンフォニーとか、ストリンガーノクターンとかバランスオブカースとか、そのへんの!」

「……わかっているよ。ちょっと鼓膜がやられただけだ。まだ問題ない!」

 

 聞こえているならいいけど、あんなのを何回も食らったらさすがの彼女でも。

 でも、あれが弁財天(あいつ)の切り札?

 そういう感じはしない。

 そもそも弁財天に化身した姿とかいうのならば、芸術の神であるのだから予測の範囲だ。

 

(きっと他に何かがあるはず)

 

 ほんのわずかの攻防でしかないが、明らかに御子内さんは不利だ。

 いつもの彼女とは違う。

 それは何故かというと、相手が弁財天―――神の化身かもしれないからだ。

 ただの妖怪ではない神の眷属か、それに従属するもの。

 だとすると巫女である彼女にとっては戦っていい相手ではない。

 

「でも、さっき妖気を感じると言っていたし、社務所も妖怪の仕業として退魔巫女を派遣している。つまり、あれは妖怪であるはずなんだ。見た目は神さまのようだけど……」

 

 おそらく御子内さんには心理的なブレーキがかかっている。

 巫女として、神の姿をしたものと戦わなければならないということに対しての禁忌めいたものがあるのだろう。

 いくら彼女でも力を抑えたまま、あんな化け物と戦うのは無理だ。

 

 ―――要するに、あいつの正体を突き止めてしまえば、いいということだよね。

 

 僕はセコンドとして、御子内さんの助手として、やれることをやることを決意した。

 以前の女子高生たちのようにパイプイスをもって乱闘したりするのではなく、御子内さんを手助けするために知恵を働かせることで。

 マット上での戦いを見つめながら、僕はこれまでのことを思い出す。

 今回の事件での最初の被害者は汲尾(きゅうお)という仲の良い夫婦。

 この二人が先月この井の頭公園でボートに乗り、その直後に「別れなければならない」と言い出して騒ぎになった。

 周囲の説得に応じず、〈社務所〉につながりのある神社に話を持ち掛けて御祓いを受けると、微量の妖気をまとっていて妖怪の仕業であることが判明した。

 調べてみると、似たような症例が他にも見つかり、ことを重んじた〈社務所〉が最強の退魔巫女である御子内さんを派遣した。

 ……と、こういう流れだ。

 事件が始まったのは、夫妻がボートに乗った日。

 確か、僕と御子内さんが映画を観に行ったあの春にしては暑い日のことだ。

 初夏みたいに暑い日。

 

 ……夏のように暑い?

 

 夏みたいに暑くなればなるほど―――蚊は活発に活動して生物を襲う。

 そういうものだ。

 つまり、夫妻が襲われたのは暑かったから、蚊が活動できて、血を吸ったからだ。

 ()()()()()()()()()

 いや、血を吸っただけかな?

 

 蚊の特性にはもう一つあったはずじゃないか。

 

 去年の夏から秋にかけて、どんなことがあったかを僕は思い出した。

 スマホで調べてみると、確かにこの井の頭公園でもあることが行われていることが判明する。

 その経緯についても。

 僕が探してみたものは、インドから中国、そしてこの日本へと渡って来ていた。

 そして、はるばるインドからやってきたものが、同じようにインドからやってきた女神の守る池に辿り着いた。

 

 ……これでわかった。

 この弁天様の守る池に妖怪の反応があるということが。

 彼女は、同郷のものを匿っていただけなのだ。

 そして、たぶん、池をかいぼりしたことによって匿われていたものが表に出てきた。

 それがたぶんの妖怪の本体―――いや本質。

 

 僕の推理には突飛なものが多く、無理もある。

 あとで〈社務所〉の専門の禰宜さんに調べてもらう必要がある。

 

 ただ、今はこれで足りる。

 御子内さんを守るためにはこれで足りる。

 

「御子内さん、わかったよ!」

「なにがだい? 急いで説明してくれよ!」

 

 取り込み中とも、うるさいとも言わない。

 御子内さんは僕の戯言を、僕のただの妄想でさえも受け入れてくれる気なのだ。

 そこまでの篤い信頼に、信頼で返せないやつは絶対に男じゃない。

 

「そいつは、弁財天じゃない!!」

「だろうね!」

「―――そいつは、おそらくはアプサラス! もしくはラクシャーサ! インドからやってきた水の精。そして、その正体はインドで広まった感染症、今でいうデング熱が妖怪になったものだと思う!」

「……なんだって? そんなことが……」

「だから、御子内さん、()()()()()()()()()()()()()()()()()()から、ボコボコにしてしまっていいよ!」

 

 御子内さんは笑った。

 戦いながらずっと口元を綻ばす、"笑う退魔巫女"の本性発揮の笑顔を湛えたのである。

 今、最強の退魔巫女、御子内或子のストッパーがついに外れたのだ!

 

 



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水の妖怪の力

 

 

 アプサラスかラクシャーサ。

 僕の乏しい知識ではそのどちらかであるかは判別できないし、正解であるとは断言できない。

 ただ、御子内さんが戦っている妖怪の正体―――それはおそらくデング熱が妖怪化したものだということについては確信があった。

 去年、2014年の夏に代々木公園で蚊に刺された男性が海外渡航歴もないのに、日本では流行していないデング熱を発症した。

 それから約一ヶ月に渡り、都内と埼玉県一帯の公園内で蚊を媒介したとおぼしき、デング熱の患者が増加する。

 結局、秋に入ったことによる気温の低下と徹底的な自然公園の除虫によって、蚊が駆除されたことで沈静化したと言われている。

 ここ井の頭公園においても殺虫剤が撒かれたはずだ。

 だから、デング熱を持った蚊そのものは全滅したのだろう。

 しかし、滅せられなかったものもある。

 それはデング熱という人々を害する感染症そのものが変化した―――妖怪である。

 おそらく発生地であるインドに住む人々は知っていたのだろう。

 水源の傍に現われ、人々を苦しめる熱病を―――人食いの鬼に摸すことで警戒を怠らないように、アプサラスやラクシャーサという妖怪を語り継いできたのだ。

 そして、このインド産の鬼たちは、二十一世紀の東京の中心にある井の頭公園に顕われた。

 デング熱そのものではなく、その化身である妖怪として―――守護者である弁財天の庇護のもとに。

 おそらくこの地を守る弁財天は、自分と同じようにこの異郷にやってきてしまったインド出身の妖怪を憐みの心をもって留めてしまったのだろう。

 だから、神の本堂がある場所にこの妖怪は存在できているのだ。

 しかも、弁財天の似姿を手に入れたことで彼女のもつ「仲のいい男女に嫉妬する」という性質までも手に入れて。

 結果として、この妖怪はデング熱ならぬ嫉妬によって、好き合う男女を別れさせるという性質を獲得した―――のかもしれない。

 本当のことはわからないけれど、ただかいぼりが終わり、気温が夏のように暖かくなったことで蚊の活動が活発化したことで、この妖怪もまた元気を取り戻したということはわかる。

 しかし、御子内さんを躊躇わせていた神の似姿がただの偽装だとわかってしまえば問題はない。

 巫女レスラーは強いのだ。

 この世を荒らす邪悪な妖怪たちを掴んでは投げて叩きのめし、どんな敵でも両肩をリングにつけて3秒フォールすることで退治し、必殺のスープレックスで討ち滅ぼし、場外乱闘と反則攻撃で封印できる!

 

「いけえ、御子内さん!!」

「おうさ!!」

 

 御子内さんが弁財天に右のエルボーを叩きこむ。

 巨大なる女神の似姿はそれを正面から受け止めて、平然としている。

 だが、あえて御子内さんはエルボーを連撃して、集中的に胸のあたりを狙う。

 裡門頂肘《りもんちょうちゅう》などのなんちゃって肘技ではなく、力と勢い任せのラッシュだった。

 そしてそのまま全体重を乗せて、弁財天を押し倒した。

 

「よし!」

 

 倒した弁財天の頭を抱え込み、ヘッドロックに移行する。

 そのまま走り出して、跳びあがり、首筋を痛めつける。

 二度、三度……。

 さすがの妖怪も危険を感じたのだろうか、御子内さんの腰に手を伸ばし、逆に力任せに持ち上げ、バックドロップ―――違う妖怪にはそんな技はない―――ではなく、ただの放り投げだ―――で返そうとする。

 しかし、御子内さんはそれを予期していたのだろう、弁財天が高らかに自分を持ち上げた到達点でくるりと身体を捻るとその魔の手を逃れ、背面に着地する。

 今度は背中に一撃を加え、頭が下がったところを膝からマットに叩き付けるカーフブランディングを仕掛けた。

 いつもの御子内さんではなかった。

 まるで西部の荒くれもののように容赦がなく、まっすぐな闘志剥き出しの戦いだった。

 またも突っ伏した弁財天に対して、立ったまま落下式のエルボードロップを落とす。

 だが、妖怪もタフだ。

 その肘を受けきると、カウンター気味に下から抉るように琵琶を鈍器のように振るう。

 体重(ウェイト)差もあり、御子内さんは吹き飛ばされる。

 とはいえ転がったままの力の入っていない攻撃では彼女を止めることなどできはしない。

 再び、弁財天が立ち上がったときにはもう再攻撃の体勢は整っていた。

 

「どりゃあああ!!」

 

 立ち上がったところを見計らっていたような、空中跳び膝蹴りが放たれる。

 見事に胸に命中した。

 さっき肘撃ちを集中させた箇所だった。

 

「御子内さんの狙いはそれか!」

 

 あの弁財天は頑丈だ。

 そこを崩すためには攻撃を幾重にも重ね、その堅いガードを打ち破るしかない。

 だからこそ、集中的に同じ個所を狙っているのだろう。

 肘や膝という硬質な部分を用いることで。

 

『グオオオオオ!!』

 

 ついに弁財天が吠えた。

 執拗なまでの御子内さんの連打に焦れたのだろう。

 リングに上げられた妖怪がよく示す反応の一つだ。

 自分よりも小柄なただの女の子の気迫に負けそうになって、何故やられてしまっているのだと叫ぶ悲鳴のようなもの。

 でも、そんなことをしても無駄だ。

 御子内さんを止めたかったら、きちんと正面から戦うしかないんだよ!

 

「どりゃああああ!!」

 

 御子内さんのドロップキックが炸裂する。

 バキっと音がして、弁財天の堅い胸板についに亀裂が走る。

 なんで出来てんだという疑問が湧くくらいに堅かった、さしもの胸板も、巫女レスラーの執念の前にはなすすべもない。

 

「まだまだ!」

 

 さらに追い打ちをかけようとした御子内さんだったが、弁財天の指が琵琶をかき鳴らすのをみて横っ飛びする。

 例の指向性の音の攻撃をタイミングと勘だけで避けたのだ。

 さすがという他はない。

 

「ボクに同じ技は通じないよ! 音で攻撃してくるというのなら、それよりも速く動けばいいだけのことさ!」

 

 うん、その理論無理があるから。

 マッハで動けるのか君は。

 

「えっ?」

 

 だが、さっきの弁財天の攻撃には別の意図があったようだ。

 御子内さんが躱した隙に、弁財天はロープを潜りぬけて場外―――リングの外に飛び出した。

 ボチャンと池の中に落ちた。

 ボートが浮かぶとはいえ、深さそのものはそれほどない池だ。

 弁財天の頭だけが水面に飛び出していたが、それ以上沈んでいく様子はない。

 

「逃げる気かな?」

「いや、この〈護摩台〉の結界からはどんな妖怪も逃げられはしない」

 

 そんな大層な効果があるとは今でも信じられないけど。

 

「じゃあ、どうして?」

 

 どこからともなくカウントが鳴り始める。

 戦っていたものが場外に出たことで鳴り響く20カウントだ。

 これが1から20まで数え終わった時、妖怪は消滅して封印される。

 それは妖怪である弁財天にもわかっているはずなのに、あえて場外に出た意図が読めない。

 弁財天はゆっくりと頭一つをだしたまま、池の中をぐるぐると回りだした。

 マット上の御子内さんを睨みながら。

 

「ふん、何をするつもりか知らないけど、そんなところからではボクに手を出すことはできないよ」

 

 御子内さんの挑発に応えるかのように、弁財天の顔が上がる。

 その頬が異常なほどに膨張する。

 何かをするつもりだ。

 次の瞬間、透明な弾丸が一条の線とともに御子内さんとの間に走る。

 飛沫とともに。

 

(水鉄砲か!)

 

 弁財天が口に含んだ池の水を圧縮して噴き出したのだ。

 まるで水鉄砲のごとく。

 しかもその威力は―――おそらく岩をも貫く。

 

「御子内さん!」

 

 彼女の危険に思わず叫ぶ。

 だが、御子内さんは―――

 

「ちぃ!」

 

 掌をかざして、犠牲とすることで水の魔弾を逸らした。

 顔面を狙った必殺の攻撃を躱しきった御子内さんは、トップロープ上に立ち上がった。

 手から流れる血を庇いもせず。

 

「それが最後っ屁かい? だったら、次はボクの番だね!」

 

 御子内さんが飛ぶ。

 着地点は―――弁財天の頭の上だった。

 奇跡的なまでのバランスで立ちながら、御子内さんが足踏みという顔面攻撃を行った。

 顔を踏まれて、手で払いのけようとしても御子内さんの華麗なステップによって触れもしない。

 

『グオオオオ!!』

「人の恋路を邪魔する奴はボクに踏まれて死んでしまえ」

『グオオ!!!』

 

 業を煮やしたのか、弁財天の両腕が伸び、御子内さんの足首を掴もうと交錯する。

 だが、巫女レスラーは完全にそれを読んでいた。

 腕が伸びた瞬間、高らかと月面宙返(ムーンサルト)り、大槌のような踵での一撃をさく裂させる。

 それで勝負アリ!

 弁財天の頭頂は完全に木っ端みじんに破裂して、妖怪は池の中に没していく。

 断末魔の叫びすら上げずに。

 でも、僕にとっては妖怪の末路はどうでもいいことだった。

 あいつと一緒に沈んでいく御子内さんの方がもっと重要だったから。

 

「御子内さん!!」

 

 あの無理な体勢からの落下だと下手をしたら溺れてしまうかもしれない。

 僕はセコンドの位置から池に飛び込んだ……。 

 

 

 

 



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時代は変わるけど、きっと僕らは変わらない

 

 

「……まさか、こんな浅い池で溺れることになるとは思わなかったよ」

「そう言わないで」

 

 ずぶ濡れになった巫女装束の御子内さんを引っ張って、弁天池から上がった。

 ペッペッペッと口の中に入った池の水を吐きだしながら、御子内さんは嫌そうに愚痴る。

 

「仕方ないさ。最後の踵落としで足が攣ってしまったんだから。いくら、君でも泳げないだろ」

「……しかし、京一はこんな服を着たままでよく僕を連れて泳げたものだね」

「着衣水泳の講習は受けたことがあるし、溺れた人を助けた経験もあるから」

 

 足が攣りかけて、わたわたしていた御子内さんを背後から抱いて、背泳ぎのようにして運ぶ救助用の泳ぎでとりあえず岸辺まで連れて行った。

 彼女が大人しくしていてくれたのでわりとスムーズに救助ができた。

 

「水泳は得意なのかい?」

「まあ、普通レベル」

 

 他の運動は本当に大したことないけど、泳ぎだけは得意なのだ。

 たまに朝の早割引きプールに泳ぎに行ったりするぐらいに。

 誰かに自慢したりはしないけれど。

 

「このままだと風邪をひいてしまうな。仕方ない、どこかで着替えようか」

「着替えられそうな場所はないよ。お店も締まっているし。ブルーシートでも張って目隠しにしてみる?」

「何を言っているんだい。この近くにだって、ホテルぐらいはあるだろう。なんといっても吉祥寺だからね。ちょっと前まではOLが住みたい街ベストワンだったんだよ」

「……僕もずぶ濡れだけど、一緒に行っていいの?」

「当たり前じゃないか。二人で……ホテルに……っ!!!」

 

 自分の発言の迂闊さに気がついたのか、真っ赤になる御子内さん。

 そういう誘いじゃないのはわかっていても、女の子が異性とホテルに行こうというのは恥ずかしい失敗だ。

 

「い、今のはナシの方向で……」

「うん、いいよ」

 

 とりあえず乾いたタオルで髪の濡れぐらいは拭く。

 四月とはいえ今日は暖かい日なので、すぐに風邪をひいたりはしないだろう。

 

「……あの妖怪は封印されたの?」

「まあね。キミの言う通りにアプサラスかラクシャーサかどうかはあとで〈社務所〉の禰宜が調べてくれるだろう。……しかし、相変わらず外来種の妖怪だとこんなにも勝手が違うもんだね。もう少しボクも研究を続けないと」

「外来種って……」

「妖怪だって他の動物たちと一緒さ。ここまでグローバル化が進むといろんな国の妖怪が日本に渡ってくることもあるのさ。たとえば、これからの日本に移民が増えたら、その移民の国にいた土着の妖怪が入ってくることもありえることかもしれない。ボクたち退魔巫女だって、旧来の固定観念に縛られていたら対応できなくなる可能性はあるんだ」

 

 確かに、以前の〈ぬりかべ〉のように時代の流れから生態が変化してしまった妖怪もいる。

 世界は刻一刻と変化しているのだ。

 彼女たち退魔巫女の戦いもまた変わっていくことだろう。

 神に仕える巫女さんが祓い棒や結界や呪文でなくて、レスリングの技で戦ったりする時代になったように。

 

「その時も僕が御子内さんの手助けをするよ」

 

 ぽつりと僕が言うと、御子内さんが手を差し出してきた。

 さっきのリングの上でもこんなことがあったね。

 

「またイチャつく真似をするの?」

「バカ」

 

 頭をはたかれた。

 

「あと、力比べでもないぞ。これは握手だよ。これからもよろしくっていう」

「そういうこと? ああ、ならいいよ。乗ると別れるという井の頭公園のボートに二人で乗ったけど、そんなこと吹き飛ばすように僕と御子内さんはずっと一緒にやっていこうってことなんだね」

「―――恥ずかしいことを言うな」

 

 御子内さんの綺麗な手を握った。

 ちょっと表面は冷たいけど、温かい手だった。

 あんな勇敢な戦いをできるとは思えないくらいに小さいけれど、この手に僕たちは救われているんだ。

 

「これからもよろしく」

「うん。これからも背中を預けるよ、ボクの京一にね」

 

 ―――実は、僕なんかよりももっと恥ずかしいことを言うのは御子内さんの方なんだよね。

 

 



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第8試合 現代天守物語
ボーイ・ミーツ・プリンセス


 

 

 それは、本当に()()()出来事だった。

 

 図書(ずしょ)健司は、ホテルの一ホールを借り切って行われた両親の参加しているパーティーの途中で、偶々開いたエレベーターに誰も乗っていないことに気がついた。

 このホテルは人の出入りが激しく、エレベーターも常に誰かが使っている状態。

 もう夜になっているとはいえ、この時間帯に誰もいないというのは非常に珍しい事だった。

 まだ十歳の健司は、深く考えもせず、好奇心に任せて乗り込んでしまった。

 すると、エレベーターは行き先を指定してもいないうちに、勝手に動き出した。

 最上階へ向かって。

 このホテルは三十階建てだ。

 子供の好奇心は、最上階のフロアーを覗いてみたいというものでいっぱいになった。

 怒られでもしたらその時はその時。

 遊んでくれる相手もいないパーティーでじっとしているのには、もう飽き飽きしていたので、このちょっとした心の弾む冒険は望むところだ。

 だが、妙なことが起きた。

 頭上の表示が最上階の30階に達するのを心待ちにしていた健司だったが、なんとエレベーターは30階についても開くことなく、階数表示のない一つ上にまで行ってしまったのだ。

 そういえば、……28.29,30という表示の横に不自然な空間があると思った。

 

 チン

 

 エレベーターが止まった。

 このホテルにおける()()()()()()()()()3()1()()()

 予想は外れたが、それ以上に健司は興奮した。

 叱られるのを覚悟で最上階を冒険しようというワクワクは、もっと別のワクワクにとってかわられた。

 もしかして、普通は入ったらいけない秘密のフロアーに辿り着いてしまったのかもしれないと考えたのだ。

 好奇心は猫をも殺す。

 そんな諺を知らない子供である健司にとって、これは魅惑の大冒険であった。

 

「お邪魔しまーす……」

 

 31階は、これまでの他のフロアーと違って、廊下が上から見て八の字形になっていて、各部屋と連結しているという構造ではなかった。

 エレベーターの降り口から、まっすぐと延びた廊下があるだけだ。

 しかも、廊下の電灯も薄暗く、まるで深夜の消灯時間のようである。

 キョロキョロと見渡してから、健司はそっと歩き出した。

 廊下の奥へ向かって。

 少し歩くと、全面ガラス張りになっていたが、行き止まりではなく引き戸がついていた。

 特に表示がある訳でもない。

 オフィスか、何かだろうか。

 ただ、引き戸の把手の部分はとてつもなく豪勢な装飾が施されていて、値段が高そうな造りだった。

 そこで初めて健司の腰が引けた。

 なんだかわからないが、背筋が寒くなったのだ。

 ただ、男の子の意地のようなものが彼を突き動かした。

 いけるところまで行ってみようという意地が。

 健司はガラス戸をひいて、中に入った。

 広い空間になっていた。

 ちょっとした運動ができるぐらいのスペースがある。

 ふと、隅の方を見てみると、なんとさらに上階に向けての階段があった。

 32階への階段?

 それとも屋上への?

 この場所がいかにもおかしい構造になっているということに、子供の彼が気のつくはずがない。

 何もないということを特段変にも思わないで、健司はスペースに踏み出した。

 

「そなたは何の用があってここに参ったのじゃ?」

 

 気がつくと、目の前に十七から十八歳ぐらいの少女が立っていた。

 健司に語り掛ける口調はどことなく古風だ。

 時代劇みたい、と健司は思った。

 

「ご、ご、ごめんなさい。一番上の階に入ってみたくて……!」

 

 思わず頭を深々と下げる。

 叱られると感じたのだ。

 相手はまだお姉ちゃんという年頃で、ホテルに勤めている大人という様子ではない。

 ただ、身にまとう雰囲気や威厳というものが、どうしても彼を圧倒するのだ。

 子供が大人に対峙したというよりも、むしろ、はるか年上の老人に威圧されるような。

 

「ほほほ、好奇心ゆえの行動かえ? ならば、今回だけは許してしんぜよう」

「あ、ありがとう!!」

「よい。堅くなるな」

 

 この段階になってはじめて健司は、自分に声をかけた少女が今までに絵本ぐらいでしか見たことのないような十二単(じゅうにひとえ)を着込んでいることに気がついた。

 まるで絵本の中のかぐや姫のようだった。

 それ以外にも健司が気づいたのは、少女の前に置かれている細い火のついた燭台の存在である。

 今どき、蝋燭で火をとるなんてことが普通にある訳もなく、小学生の彼にとっては初めて目にするものであった。

 蝋燭というのは誕生日のケーキでぐらいしか馴染みがない。

 

「お、お姉さんは、ここで何をしているの?」

「そなたに話す謂れはないことよ。さ、早くここから立ち去りなさい。只の子供が来ていい場所ではないぞえ」

「ご、ごめんなさい」

「よいよい。―――ま、ここに誰かがやってきたのは久方ぶりということもあり、(わらわ)もちと気が良くなっておることも事実。童子よ、こっちに来う」

 

 手招きをされたということもあり、ふらふらと健司は少女の方に寄っていった。

 

「ほお。近くで見るとやはりなかなかの美男じゃの、そなた。(おのこ)になるのが楽しみじゃ」

「……?」

「では、これをくれてやろう」

 

 少女が差し出したのは、彼女が髪に差していた櫛であった。

 髪を梳かすものといえばブラシぐらいしかしらない健司にとっては珍しいものである。

 ただ、黒地に美しい紋様の入ったそれは目を奪うのに十分な逸品であった。

 

「ありがとう」

「よいよい。ただ、そなたが年を経て貴公子になった暁には再び、この場所に訪れて妾の無聊を慰めてくれればそれでよい。その頃には、そなたは美味しそうな妾の好みになっているはずであるからのぅ」

 

 櫛を受け取ると、健司はそのまま少女の傍から離れた。

 去り難かったけれども、これ以上はいけないと心のどこかが叫んでいる。

 後ろ髪を引かれる思いで、ガラス戸から抜けようとしたとき、

 

「このときのことは誰にも()うてはならんぞ、図書健司よ」

「え、どうして僕の名前を……?」

「妾とそなただけの秘め事よ。努々(ゆめゆめ)忘れるではないぞ」

 

 エレベーターまで辿り着き、その中に乗り込んでも、あの少女の視線にずっと晒されているような気がしていた……。

 

 

         ◇◆◇

 

 

 

「―――というわけでして。男の子が一人行方不明なんですよー」

 

 僕たちの目の前でダブダブした白衣と派手に開いた胸元(残念なことに大きくはない)、太もも剥き出しのミニスカ緋袴、そして白いニーソックスという格好の少女が力説をしていた。

 おだんご頭のツイン・ミニョンという子供っぽい髪型も含めて、どう見てもコスプレにしか見えないが、一応は本物の巫女である。

 名前は熊埜御堂(くまのみどう)てん。

 御子内さんたちの後輩であり、退魔巫女見習いである。

 

「それはわかったよ。で、何でキミがボクたちのところに来たのかの説明はないのかい?」

「は、忘れていました! てんちゃん、おバカさん!」

 

 妙にテンションの高い子だよね。

 この間、松戸の病院で会った時は、退魔巫女の諸先輩方が揃っていたのであれでも低めのテンションでやっていたのかもしれない。

 御子内さん、音子さん、レイさん、こぶしさん……。

 確かに後輩からすると面倒くさそうな面子だ。

 

「熊埜御堂も今年からは実践に入るんだろ? そろそろ落ち着いてもいい頃じゃないのか?」

「そうなんですよお。禰宜(ねぎ)さんたちにも子供っぽいとか色気がたりないとか言われてましてー。くっちゃべるのだけは得意なんですけどねー」

「いや、子供っぽいとかはどうでもいいんだ。()()()()()()を大切にしようということだよ」

「え、てんちゃんにも先輩方みたいなエロさが必要という話ではないんですか!? もっとLOよりは快楽天的な感じの!!」

 

 御子内さんだって色気はないけどね。

 あと、この子、きっとかなりの耳年増だ。

 

「熊埜御堂は退魔巫女として色々と間違っているからね」

「そんなー」

 

 うん、実のところ君も大概なんだけれど。

 

「で、てんちゃんがグレート・或子先輩のアシストにつけられた理由はですね。場所がちょっと場所なんで、口のうまそうな奴が必要だからということなんです!! ―――てんちゃんって口だけしか取り柄ないんですかね……」

 

 自分で言って自分で落ち込みだした。

 しかし、これだけ上がったり下がったりされると会話について行くのが厄介だ。

 音子さんみたいに普段はローテンションだけど、ネット上でだけは饒舌とかのほうがまだついていける。

 僕だけだとこの熊埜御堂さん相手には苦戦しそうな気がした。

 

「場所? ケントゥリア・リージェンシー・ホテルなんだろ」

「はい、それですー! 赤坂にある奴でーす!」

「別に特に問題はないんじゃないか? 〈護摩台〉を設置するのは大変だろうけどさ」

「ところがぎっちょん、そうじゃないんですよー。実はですねー、ケントゥリア・リージェンシーって夏には廃業するんですよー。で、現在、撤収作業中でして」

「え、日本でも有数のホテルなのに?」

「はーい、そうなんですー。なんでも、建物の老朽化と業績の悪化が原因らしいですけど、まあ、それだけじゃないとてんちゃんなんかは睨んでますがねー」

 

 これは僕も初耳だった。

 ケントゥリア・リージェンシー・ホテルは有数どころか日本を代表するホテルの一つだ。

 来日した海外のVIPなんかが頻繁に使うと聞いたことがあるし。

 

「発表はまだらしいんですけどー、公にしたときにはもうすぐに解体作業に入るって話でしたねー」

「そりゃあ、また唐突だね」

「でしょー。で、出入りの業者とかに今回の妖怪退治のことが漏れたりしないように、ちょっと口の上手いのがやったほうがいいって、てんちゃんに白羽の矢が立ったという訳でーす。―――どーせてんちゃんは口だけですよ。こんなのこぶしさんがやりゃあ、いいのに……」

 

 また落ち込んだ。

 躁鬱病の気味でもあるのだろうか。

 

「落ち込むなよ。熊埜御堂には熊埜御堂のいいところがある。今回だって期待しているからな」

「はい、スーパー・或子先輩!」

 

 実は何も大したことは言っていない御子内さんの慰めもそれなりに効果があったようだ。

 花のような笑顔を浮かべて、熊埜御堂さんは立ち直った。

 ちなみにそろそろ、御子内さんについている「スーパーなんちゃら」という異名の由来が知りたいところだ。

 

「じゃあ、京一。今週末はよろしく頼むよ」

「うん、それはいいけど。妖怪の正体はわかっているの? さっきからほとんどそっちの話はでないみたいだけどさ」

 

 御子内さんは、用意されていた書類をポンと叩いて、

 

「古い巨大な建物の最上階に巣食う、姫の姿をした妖魅と言ったら、ボクたちのギョーカイではほぼ一つしかいないんだ」

「……そうなの?」

「ああ。妖怪〈オサカベ〉。―――泉鏡花の『天守物語』のモデルになった妖怪さ」

 

 

 

 

 

 

 



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妖怪〈オサカベ〉

 

 

 江戸時代の「甲子夜話」において、平戸藩主だった松浦静山は以下のように妖怪〈オサカベ〉を紹介している。

 

『―――姫路の城中にオサカベという妖魅がいて、城中に久しく住めりという。あるいはまた、天守櫓の上層にいて常に人の入ることを嫌う。年に一度、その城主のみこれと対面す。その他は人がおびえてのぼらない。城主が対面するとき、妖魅が姿をあらわすが、その形は老婆のようだと伝えられている……』

 

 伝説によると、〈オサカベ〉は光仁天皇の皇子である刑部(おさかべ)親王と天皇の后であったものとが親密になり、その后は不義の罪で捕らえられて牢で獄死し、二人の間にできた姫である―――富姫が妖怪となったものとされている。

 富姫は都を追放されて播磨に流され、姫路城のある桜木山(さぎやま)で両親の不幸を嘆きながら亡くなったという。

 桜木山は姫山とも呼ばれている。

 だが、数百年経ってから当時の武将・赤松貞範が、彼女の御霊を慰めるために祀られていた刑部明神と富姫明神のお社を蔑ろにして、姫路城を築城したことから、富姫による祟りが始まったらしい。

 そこで、代々の城主は年に一度自らあいさつに出向くことにしたということだ。

 以来、姫路城の天守閣には〈オサカベ〉という妖怪が巣食うようになった。

 これに類似した話は全国各地に伝わっており、城の天守閣などのように巨大で古い建築物の最上階に棲みつく女怪のことを〈オサカベ〉と称するようになったという話だ。

 江戸の怪談集「諸国百物語」に記載され、「東海道四谷怪談」の鶴屋南北が歌舞伎「復再松緑刑部話(またぞろじょうろくおさかべばなし)」の題材にしたため、爆発的に有名になったという。

 御子内さんがいう泉鏡花の「天守物語」のネタとなったというのは、これらの数々の〈オサカベ〉譚だということである。

 

「ってことは、もともと天皇家由来のお姫様なのかな?」

「姫路城のものはね。……まあ、現在修復中らしいけど、どうなることかな」

「白くて綺麗なお城らしいから、一度行ってみたいなあ。ねえ、御子内さん」

「ああ、白鷺(はくろ)城という呼び名に相応しいものになるに違いないよ。姫路市の人間がきっと心を込めて素晴らしいものに仕上げるに違いない。まかり間違っても、真っ白にペンキを塗りたくったような下品なものにはしないさ」

 

 ……その翌年、この発言を僕たちはものすごく後悔することになるのだけれど、それはまた別の話。

 

「でも、姫路城ってさ、播州更屋敷のお菊さんの井戸もあるんだよね。なんか、怖い話が多い気がする」

「それは四谷怪談の南北先生のせいだろう。実際のところ、お岩さんもお菊ちゃんもいい迷惑だと思うよ。実は普通の可愛い女の子が不幸な目にあっただけなのに、両方とも日本の死霊の典型みたいにされてしまったんだから」

「そうだよね」

「うん。まあ、それでも女らしい恋の要素があるだけ、どっちも富姫よりはマシかもしれないけれど」

「ん? 〈オサカベ〉は違うの」

「ああ。この妖怪に恋の要素がついたのは、さっき言った泉鏡花が大正六年に書いた「天守物語」からなんだ。直接のもとネタである「老媼茶話(ろうおうさわ)」にはない要素だし、それ以前の〈オサカベ〉といったら、剣豪・宮本武蔵(無三四)さえ圧倒する怖い妖怪というものでしかなかったわけさ」

 

 宮本武蔵に勝てるというだけでも、それは相当なものなんじゃないだろうか。

 ただ、御子内さんの話でわかったことは今回の妖怪は相当強力な相手だということだ。

 ……妖怪〈オサカベ〉か。

 

「……じゃあ、男の子を攫ったというのは、どうしてなんだろ?」

「ん?」

「僕は最初は「天守物語」のイメージで〈オサカベ〉を捉えていたけれど、それってもともとの妖怪とは違うんだよね」

「……うん」

「若い鷹匠と恋に落ちて、最期は二人が結ばれるという結末は後付な訳でしょ。となると、今回の依頼にある攫われた男の子を助けてくれというのは、ただの食欲を満たすためかなにかだったのかな?」

 

 僕たちは、さっきまでこの赤坂にあるケントゥリア・リージェンシー・ホテルで行方不明になった男の子の両親から依頼を受けていた。

 この三十階建てのホテルの最上階に巣食うという妖怪に攫われた我が子を救ってほしいという両親の願いを、八咫烏(プロモーター)が聞き遂げたからだ。

 それから一通りの調査がなされ、実際にこのホテルの最上階には妖怪が棲みついていることが確認されたということで、退魔巫女の御子内さんが派遣された。

 そこまではいい。

 ただ、いつもならばスムーズに進むはずの戦場であるホテルとの交渉が難航した。

 最上階へと立ち入ることでさえ難色を示されたのだ。

 ホテルの中に〈護摩台〉という名前のリングを設置させろという無理難題を客商売の彼らがはいそうですかと認めるはずもない。

 そのため、非常に口が上手いという退魔巫女見習いの熊埜御堂さんまでも追加で派遣して、ようやく交渉が成立したのである。

 

「……そこはわからないな。攫われたのは確かなんだけど」

「確か、さっきのご両親の話だと、家族で参加したパーティーのときに一度ここに来たことがあるらしいね」

「うん。それから、夜になるとたまに姿が見えなくなり、「ホテルにいるお姫様に呼ばれています。探さないでください」と書置きを残していたということだし」

「それだと誘拐されたというよりは、自主的に向かったみたいだよね」

 

 息子の様子をおかしく思っていた両親は、深夜遅くになってフラフラと家を出ていくその後を追ったらしい。

 その際に、男の子は舞うように空を飛び、最期はケントゥリア・リージェンシー・ホテルの中に消えてしまったそうだ。

 家族からすれば攫われたとしか思えないだろうが、僕にはちょっと引っかかる。

 

「妖怪に憑りつかれたものはおかしくなるのが相場だし、それほど変という訳ではないけどね」

「それもあるけれど、僕としてはさっきのホテルの支配人の態度も気にかかるな」

「そっちはボクも同感だ。あそこまで露骨に拒否されるのは久しぶりだったよ」

 

 ……まあ、パーティー会場にも使う広場に資材を搬入して、妖怪退治用のリングを設営させてくださいという話を聞けば、たいていの人は拒否るだろうけど。

 しかし、退魔巫女のもつ冗談のような影響力からすると、この手の交渉はだいたいすぐに終わるはずなのに、今回に限っては熊埜御堂さんのようなエキスパートらしい人まで連れてきたというのは珍しい。

 ちなみにさっき見ていた限り、見習いとはいえ、熊埜御堂さんは本物のタフ・ネゴシェーターだった。

 普段の、

 

「疲れましたー」

「ダルいですー」

「スイカが食べたいですよー」

 

 という我が儘だらけの彼女とは思えない交渉術の巧みさには驚かされた。

 交渉の際に何やらマイクを持ち出していたのは不思議だったけど。

 

「センパ~イ、京一さ~ん!」

 

 噂をすれば影が差すという言葉のとおりに、熊埜御堂さんが僕たちを見つけて走り寄ってきた。

 手にはさっきまでのワイヤレス・マイクを握っている。

 腰には簡易スピーカーつきだし。

 

『こんばんは。あのですね、資材の搬入用意が整ったそうです。三十階の広場にエレベーターで運び込むそうなので、スーパー・或子先輩にも立ち会って欲しいらしいですよー』

「―――熊埜御堂。目の前でマイクを使うな。鼓膜が破れそうだ」

『す、すいません! うちってこれがないと術が使えないんですよー!!』

「だから目の前で!」

『すいませーん!!』

 

 ……なんでも彼女はマイクという媒介物を通すことで、言霊を操る能力の持ち主らしい。

 どういう仕組みなのかはわからないけれど、それを使えばたいていの無理難題は押し通せるのだそうだ。

 客観的に見ると、ただのマイク・パフォーマンスにしかみえないのがアレだったけど。

 こんばんはから入ると、ゆっくりとしたテンポの喋り方がもっとスローになるのでさらにそう聞こえる。

 

「……熊埜御堂はこう見えてもサンボの達人なんだけれど、もうこの言霊使いの練習ばかりしてね。なかなか実践にださせてもらえないんだよ……。ボクとしては頭が痛いところなのさ」

 

 御子内さんが呆れたようにいうと、それに対して後輩は、

 

「アネキー、そんなこと言わないでくださいよコノヤロー」

 

 と泣いてすがるのであった……。

 



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約定破り

 

 

 パーティー会場にもなる上下ぶち抜きのフロアーは29階にあった。

 広い一枚ガラスの窓から、東京の夜景が見渡せるというなかなかの見晴らしである。

 なるほど、これなら常に予約でいっぱいになることだろう。

 とはいえ、すでに解体が決まっているからかカーテン等はすでに取り払われており、室内はかなり殺風景ではある。

 その方が搬入した資材によって、結界用のリングを準備しやすいのでとても楽ではあったけど。

 まあ、ホテルの最上階あたりでプロレスリングを設置するというシュールな絵づらはどうにもならないけれど。

 

「でも、或子せんぱーい。この広場までどうやって〈オサカベ〉を引き出すんですか? どうも、最上階からは降りてこなさそうですよー」

 

 甲斐甲斐しく僕の手伝いをしていた熊埜御堂さんが訊く。

 いつものように一人でストレッチをしていた御子内さんはその手を休めて、

 

「幾つかは考えてある。一番いいのは、天守閣―――じゃない最上階の31階まで行って例の男の子を助け出してくることだ。〈オサカベ〉が彼に執着しているのならば追ってくるだろうさ」

「執着していなかったら?」

「もっと別の方法を考える」

 

 意外と杜撰な作戦だ。

 とはいえ、リングにかかっているような強力な結界を張らないといくら退魔巫女が強くても、妖怪と堂々と渡り合うことはできない。

 特に古い妖怪を相手にする場合には。

 だから、自分のテリトリーをもってそこに引きこもっているような相手に対しては、退魔巫女たちはいつも苦戦することになるみたいだった。

 

「とはいえ、31階に直接リング―――〈護摩台〉を設置するわけにはいかないしね。あそこには搬入用のエレベーターがないから」

「え、そうなんですかー?」

「うん。それどころか通常はエレベーターも停まらないんだ。支配人だけが年に一度、最上階の〈オサカベ〉に会うことになっていたらしい」

「伝説の通りですねー」

「まあね」

「でも、ちょっと不思議だったんですけど、どうしてこのホテルに〈オサカベ〉が棲みついているんです? あれって、大きなお城につくものですよねー」

「今の時代、城みたいな建造物が存在しないからじゃないか」

 

 スポーツ飲料を飲みながら、タオルで汗を拭きつつ、御子内さんもやってきた。

 

「だから、ビルですか? うーん、わからなくはない理屈ですけど。でも、それだとどうしてホテル側は私たちに妖怪退治を依頼してこなかったんですか? いや、怖かったってのはわかりますよ。実際、うちら退魔巫女でも妖怪とサシでやりあうのは怖いですもん。祟りもあるし。……でも、おかしくありません?」

 

 熊埜御堂さんの疑問ももっともだ。

 

「それはわかるね。最上階の31階のフロアーを丸丸明け渡すという、ある意味では最も稼げる立地を無駄にしているわけだから。しかも、エレベーターに細工をして、普通はたどり着けないようにしていたり。ホテル側が積極的に妖怪を隠ぺいしているようにも思える」

「図書くんのご両親の捜索願いも無視しようとしていたみたいですね。〈社務所〉が調査して、妖気を突き止めるまでむしろ邪魔をしていたようだとも聞いてますよー」

「確かに、いくら客商売でもそこまでする必要はないな。ボクらならば三日も閉鎖してくれればいくらでも対処できるんだしね」

「そうですよねー。非協力的にも程がありますよー」

 

 いくら僕たち―――というよりも退魔巫女たちが色々とツッコミどころ満載とはいっても、妖怪を放置しておくことで割くリソースに比べたら大した問題ではない。

 ホテル側があえて妖怪を野放しにしておいたとするのが結論としては正しいだろう。

 だが、それはなんのために?

 

「非協力的なこともあるけど、ボクとしてはさっきから覗かれているのが腹が立つね」

「えっ」

 

 僕と熊埜御堂さんの視線が集まる。

 いったいどこにホテルの人がいるというのだろう。

 さっきから誰もこの広場には入ってこないというのに。

 

「アレだよ」

 

 顎をしゃくった先には、防犯カメラが設置されていた。

 そういえばあんなものがあったな。

 

「そんな。打ち合わせでは、こちらの様子をカメラで見張らないという約定をしたはずですよ!」

「最初から破る気だったんだろうね。ずっとカメラが動いていたから」

「よくわかったね!?」

「ボクは他人の視線には敏感なんだよ。それがカメラのレンズ越しでも」

 

 戦国時代の武芸者たちは何百メートルも先にいる見張りの存在にも気がついていたらしい。

 常在戦場の人たちは、そういう人間離れした感覚の持ち主になるものなんだろうか。

 そして、日頃から妖怪と命がけの死闘を繰り広げている御子内さんも同類なのかもしれない。

 

「許せません! 抗議に行きましょう! ねえ、京一さん!」

「いや、まだリングの最終調整が……」

「それはボクがやっておくから、京一は熊埜御堂と一緒に行ってきてくれていいよ。ついでに、さっきの疑問もぶつけておいてくれ。隠し事をされていると、どうにもおさまりがよろしくない」

「そういうことなら……」

 

 手袋と頭に巻いていたタオルを外す。

 最近では普通にリング設置の職人にようになっていた。

 それから、さっさと歩き始めて、場合によっては駆けだしそうな勢いの熊埜御堂さんを追いかけた。

 

 

        ◇◆◇

 

 

「例のマイクを持った巫女と職人が〈(おおとり)の間〉から出ていきます」

「……トイレか何かか?」

「職人は男ですから、まずそれはないと思います」

「では、監視に気づかれたのか?」

「わかりません。廊下の方のカメラでも追跡します」

「そうしろ。あいつらの行動から目を離すなよ。……まったく面倒なことになったぜ」

 

 薄暗いモニタールームで三十代と思しきスーツ姿が頭を抱えた。

 

「だいたい、先々代の支配人がやったことのツケを俺が返さなくてはならなくなるなんて理不尽だろうに……。俺がなにやったっていうんだ!!」

「支配人、落ち着いてください!」

「落ち着けるか、ボケが!」

 

 支配人と呼ばれた男とともにモニターを睨んでいた年配の女性が言った。

 

「仕方ありません。このホテルが何事もなく無事に一流のホテルとしてやっていけたのは先々代の采配のおかげなのですから。それが、今年で廃業することになったのはすべてあなたのしくじりのせいなのですよ。全従業員を路頭に迷わせた挙句、それですんだだけで良かったとお思いなさいな」

「ですけど、母さん……」

「それに、あの巫女たちを招き入れてしまったのはあなたの失策ですよ。あの子供の両親をうまく騙せおおせておけば問題はなかったのです」

 

 支配人は頭を抱えて項垂れたまま、

 

「でもさ、結局、あの化け物を閉じ込めておくのもそろそろ限界だったんだよ。俺のせいというよりも、親父が悪いんじゃねえのか? あんなことをするから」

「お父さんの悪口はやめなさい。まったく、だらしない息子よね」

「母さんが俺のせいばかりにするからじゃないか!」

 

 親子の言い合いを制したのは、怒鳴り散らされたばかりのもう一人の男だった。

 

「支配人、会長、ちょっと見てください!」

「なんだよ」

 

 指さされた先には、従業員用のエレベーターを降りる巫女とツナギの職人の姿があった。

 

「これがどうした?」

「あのエレベーターの目的地は地下二階です」

「だから。帰るんじゃないのか?」

「―――えっと、この総合監視室があるのも地下二階ですよ」

「なんだと? じゃあ、もしかして……」

「ここに来る気かもしれません!」

「おい、待てよ。それは面倒だぞ。ガードマンに近寄らせないように命令しろ。ここからならできるだろ」

「ちょっと待ってください。今―――」

 

 監視カメラの映像が、エレベーターの中からでていく二人の姿を捉えていた。

 そして、間違いなく二人が向かっている先は……。

 

『止まって! ここから先は関係者以外立ち入り禁止だ!』

『関係ないですよー。私たちも用事があるから関係者ですからねー』

 

 そんな会話が聞こえ、何かが倒れる音がしたあと、総合監視室の扉が外側から開かれた。

 

「―――まさか!」

 

 薄暗い部屋になんの躊躇いもなく入ってきたミニスカの巫女装束は満面の笑顔で言った。

 

「巫女との約定を破る悪い子はいねえがー?」

「なまはげみたいだよ」

「いいんですよ。神の使徒との約束破りなんて大罪を犯した相手なんですから」

 

 ……ケントゥリア・リージェンシー・ホテルの支配人とその実の母は、まだ十代半ばぐらいの小娘の眼光に凍り付いた。

 



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カウンター合戦

 

 

 バン

 

 29階の〈鴻の間〉の照明のすべてが一斉に消えた。

 全面ガラス張りの窓から月光が注ぎ込んでくるから、完全な暗闇という訳ではなかったが、通常人ならば狼狽して取り乱してしまうところであった。

 だが、御子内或子は一度眼を閉じて視界を闇に慣らしただけで、特に動じた様子をみせなかった。

 退魔巫女という職業を続けていれば、ラップ音や電灯が急に消えるなどよくあることだからだ。

 むしろ、「そうこなくっちゃ」と闘志が湧いてくる。

 或子はリングの下段ロープを掴むと、一跳びでマットに移動した。

 結界の力が彼女に安心感を与えてくれる。

 ここにいる限り、鍛え抜いた巫女ならばどのような妖怪とも渡り合うことができるのだから。

 

「来たかな……」

 

 広間の出入り口に鋭い視線を向ける。

 いつの間にか、一人分の隙間が空いていた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「虚仮脅しの演出などでボクを怯まそうなんて無理な話だね」

 

 或子はキャッチグローブを強めに握りこむ。

 巫女が何もしなくても〈オサカベ〉が自分のテリトリーから降りてくることは異例中の異例だ。

 侮りこそしないが、或子は怯みもしない。

 おかしな事態などはこの仕事に就いていれば日常茶飯事だからだ。

 鼓膜が震えた。

 気圧が一気に落ちたかのような違和感。

 隙間から手が伸びてきた。

 青白い、爪の尖った女の手が。

 そっと指で扉を押し広げる。

 一切の音を立てない優雅な動作であった。

 広間の扉はそっと開けはなたれ、一つの美影身を吐きだした。

 現代では滅多に見かけない色とりどりの十二単をまとい、長く伸びたしっとりとした黒髪は腰まで垂れ、手にした黄金の扇子の輝きたるや宝石のごとく。

 そして、白塗りの気品に満ちた美貌と眼差し。

 やや下膨れなのは大和の女子(おなご)の系譜だからであろうか。

 とはいえ、或子の視線を釘付けにするほどに神々しい。

 

「わざわざ、きてくれてありがたいよ。―――〈オサカベ〉の姫」

 

 或子の言葉を無視するのかのように、〈オサカベ〉は唄うように喋った。

 

『あの方をわたくしに返しなさい。そこな巫女よ』

 

 或子は眉を寄せた。

 意味がわからなかったからだ。

 あの方、とは誰だ。

 そして、あの女怪の放つ敵愾心のオーラはいったいなんだ。

 退魔巫女と妖怪が相いれない存在であるとしても、まだちょっかいもかけていない或子に対してここまで強い敵意を燃やす理由はなんだ。

 

(京一を行かすんじゃなかったか……)

 

 或子は助手の少年を別の用事のために送り出してしまったことを後悔した。

 妖怪退治の場において、よくわからない事態が発生したときには、いつも正確な答えを導きだしてくれていた少年がいないことの不自由さを感じたのだ。

 愚直で直情径行の強い或子にとって、少年は公私において頼りになる存在だった。

 彼がいないことによる弊害が生じてしまうほどに。

 しかし、いないのであれば仕方がない。

 戦いが始まれば京一のことだ、すぐに或子のところに駆けつけてくれるだろう。

 初めて出会った時以来、或子の期待を少年が裏切ったことはないのだから。

 

「あの方というのに会いたいのなら、ここでボクを倒してからいくことだね。少なくとも邪悪な妖怪に好き勝手にさせるほど、ボクら退魔巫女は怠惰じゃあない」

『ほざくでないわ、この下女め。(わらわ)を誰と心得る。そなたも妾を愚弄する下郎の一派か!』

「……ん?」

『許さぬぞ、許さぬぞ。妾を愚弄し、あの方を奪おうとする下賤ども! (あやかし)の姫の名にかけて地の底まで叩き落してくれる!』

 

 気がつくと、マットの上に十二単の女怪が現われていた。

 

「何だって!」

 

 咄嗟に突き出した右のストレートごと、或子の身体が一回転する。

 投げられたと考えるまもなく、或子はマットにしたたかに叩き付けられた。

 まさか、当て身投げとは。

 その技の切れ味に或子は思わず舌を巻く。

 合気道の達人と試合ったこともあるが、そのときに使われた小手投げよりもはるかにモーションが少なく力も入れられていないのにダメージが高い。

 追撃のダウン攻撃がくるかとガードをしたが、〈オサカベ〉は彼女を投げた位置に突っ立ったままだ。

 冷めた目つきで見下すだけでそれ以上は何もしようとしない。

 

(レイと一緒で立ち技での勝負を望むタイプか……。いや、違う)

 

 或子はブレイクダンスのごとく両足の回転の遠心力で立ちあがった。

 その間も何もしてこない。

 

「受け技特化型とみた。ボクの攻撃を読んで、最初から仕掛けておく当て身投げがキミの特技なんだね」

『わかったような口をきくな、下女め。そなたごときに妾を語られとうはないわ!』

 

〈オサカベ〉が前に出る。

 とてつもない圧がかかった。

 或子が仕掛ければ、確実にその後の後をとって投げられる。

 かといって逃げる訳にもいかない。

 巫女レスラーの或子にとっては厄介極まる相手であった。

 

『妾が手を出さぬと侮っておるな。では、これを見よ』

「!!」

 

 手にした金色(こんじき)の扇子が翻る。

 巫女である或子にはその雅な道具にこめられた〈妖気〉が見えた。

 そして、その妖気が地を這って自分目掛けて滑ってくるのも。

 彼我の距離は数メートル。

 認識したと同時に飛び退っても間に合わない。

 人間の持つ限界反応速度は、約0.1秒である。

 いつ来るかわからない刺激に対して待ち構えていた場合ならば、普通の人で約0.2秒と言われている。

 ただし、「ある程度までタイミングがわかっている」状態であったのならば、これより短い時間で反応することも可能だが、それは「意識する」というタイムラグを無視できるだけの修練を必要とするのだ。

 或子にとって、この〈オサカベ〉の攻撃は初見のものだ。

 こんな技を使うという情報すらない。

 本来ならば避けられるものではなかった。

 しかし、或子には百戦錬磨の経験と野生の勘があった。

 カメラ越しの視線にさえ気づく直観力は、ある意味では予知能力にも等しい。

 だからこそ、この這いよって飛ぶ妖気の一撃を間一髪で躱すことに成功する。

 放った当人の〈オサカベ〉が眼を剥くほどの回避速度を発揮して。

 

「だっしゃああああ!!」

 

 隙の少ない攻撃ではあったが、妖気という練るのに時間のかかるものを放った分だけ、〈オサカベ〉の動きが硬直していた。

 そのわずかな時間をチャンスとみて、迅雷のごとく或子は飛んだ。

 稲妻の化身となって妖怪の胸部目掛けて突きをぶちこむ。

 だが、当て身の技術をもち、妖怪ならではの不可思議な力でもって攻撃を受けきることのできる〈オサカベ〉は水のようにそれを受けた。

 いや、〈オサカベ〉は咄嗟に悟っていた。

 巫女の突きを()()()()()()()()()()()()()のだと。

 なぜなら、或子の本当の狙いはまず受け止めさせることにあったのだから。

 相手が完璧に近いガードを誇るとわかっていたからこそ、受けられることを織り込んだうえで、さらにそれを上回る凄まじい肘打ちを相手の胸に叩き込む。

 

 猛虎硬爬山(もうここうはざん)

 

 八極拳において「虎が硬い爪で山を掻き崩す」という意味があるといわれ、 本来ならば虎爪掌という手形で相手の体勢を崩す業だったが、或子は八極拳を適当に学んだだけなので動きそのものはただの格闘術だ。

 だが、彼女にとってそんなものは関係ない。

 これは沁みついた反復練習が或子の意識すら無視して選択した、最適解なのだ。

 さすがの〈オサカベ〉もこれだけの速さの打撃を二度投げることはできない。

 胸板に突き立てられた肘撃ちが妖怪を吹き飛ばす。

 青いコーナーポストに背中をぶつけてようやく〈オサカベ〉は止まった。

 間髪入れず追撃しようとした或子の足が止まる。

 敵妖怪の手の扇子が構えをとったのに気付いたからだ。

 またさっきの妖気がくる。

 クロスカウンター気味に食らえば今度こそ避けられない。

 だから、いったん止めたのだ。

 同時にカアアアアンというゴングが鳴った。

 序盤の小競り合いは終わりだ。

 白いマットのジャングルの上で、巫女レスラーと天守閣の妖怪姫はまさに死闘を演じるために睨みあった……。

 

 

 



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秘儀と秘技

 

 

〈オサカベ〉の当て身投げを何度かくらってみて、或子はその特性を完全に把握した。

 単純な技術の問題ではない。

 敵の当て身がヒットしたと同時に、ほぼノータイムでその威力を殺さず回転させて投げるというものである。

 これは妖姫の持つ黄金の扇子を利用した妖術に等しい技であった。

 或子の猛虎硬爬山が届いたのは、彼女の持つ直勘と歴史によって練られた技の特性のおかげであり、通常の技ではほぼ覆せないということも。

 

(……て、ことは扇子の届く範囲に入らなければいいということだね)

 

 しかし、ただのヒット&アウェイのアウトスタイルでは飛ぶ妖気によって狙われるだけだ。

 だから、或子は中距離を取って、しつこく下段を狙う作戦にでた。

 扇子の攻撃は〈オサカベ〉の肩の回る範囲に限定されるから、足元への蹴りへは対処できない。

 しかも、なにより〈オサカベ〉自身はそれほど戦いに優れている訳ではなかった。

 所詮は、姫君の妖怪。

 ただの乱暴者の妖怪たちと比べたとしても、鉄火場には向いていなさすぎる。

 視線と肩の動きで行うフェイントに容易く引っかかり、或子のローキックと下段回し蹴りに散々足を痛めつけられる。

 飛ぶ妖気も直線的すぎるため、タイミングさえ見切られると眼を閉じていても躱されるという始末だった。

 十二単の裾が閃くたびに、〈オサカベ〉は追い詰められていく。

 だが、或子は決して焦ってとどめを刺しに行こうとはしなかった。

 

(こいつ……絶対に何かを隠し持っている)

 

 優位に戦いを進めながら、最後の勝負に出られないのは、そのせいだった。

 長い歴史においては、退魔巫女が妖怪に敗れることもある。

 その場合、完全な力負けということはほとんどない。

〈護摩台〉の不思議な力―――結界が巫女たちの力を高め、奇々怪々な妖怪たちと互角に戦えるように地均ししてくれるからだ。

 だから、ほとんどの場合、退魔巫女と妖怪の彼我戦力差はない。

 互角よりはやや劣勢になるのは、人と妖魅には越え難い壁があるから当然のことなのだが。

 それでも退魔巫女は勝利を収めてきた。

 彼女たちが敗れるときは、たいていの場合は似通ったシチュエーションに限られている。

 それは劣勢に陥った妖怪が放つ隠された秘儀を受けた時であった。

 かつて、神宮女音子に〈天狗〉が放った怪声、インドからきた鬼の水鉄砲、その形は様々ではあるが、人間にとっては必殺の秘儀である。

 まともに食らえば即死は免れない。

 退魔巫女の死因もしくは引退の原因はほぼそれに限定されているといっても過言ではなかった。

 だからこそ、或子はその最後っ屁とも呼べる秘儀を警戒していた。

 

(……伝説によると、宮本武蔵も退けたという妖怪種〈オサカベ〉。簾の中に逃げ込んだ小坂部を追った八人の侍とともにエビのように吹き飛ばされたというね。例え、ボクでも油断をしたら終わりだ)

 

 或子は飛んだ。

 低く、足の裏を見せて。

 サッカーのスライディングタックルのごとくに臀部から行くのではなくて、腹部を下になるように滑る。

 或子の狙いは足そのものではなくて、両脚で挟み込んでのいわゆるカニバサミだった。

 今まで〈オサカベ〉が見せていた二種類の技はすべて立ち技。

 つまり倒してしまえばさらに優位に立てるという考えだ。

 そして、その考えは間違っていない。

 見事に決まったカニバサミは〈オサカベ〉を激しく倒した。

 

『なにをする!』

 

 ついに妖姫は叫び声をあげた。

 やんごとなき姫を祖とする妖怪にとって、下賤な巫女に足をとられて尻もちをつかされるということは屈辱以外の何ものでもなかった。

 

『放せ、下女め!』

「そうはいかないんだよね!」

 

 或子は〈オサカベ〉の扇子を持つ左手に飛びかかり、回り込んで極めた。

 キーロックだった。

 寝転んだ状態で敵の腕をくの字にして、二の腕と手首を片足ではさみこみながら、曲がった腕の間に自分の腕を通して固める。

 さらに、自分の側に体重を思いっきり引っ張ることで肘関節を極めるのだ。

 まるで鍵をかけるように見えることから、「和鍵堅め」とも呼ばれるクラシックな関節技だった。

 

『グオオオオ!!』

 

 姫の姿をしているとは思えぬ叫びだった。

 痛みではなく、屈辱の怨嗟だった。

 

「おっ!」

 

 或子の身体が浮いた。

 力任せに持ち上げられつつあるということだった。

 キーロックを破るためには実は最も簡単な力技だが、実際にそんなことができるものは数少ない。

 だが、〈オサカベ〉は姫形ではあったが、紛れもなく妖怪であった。

 立ち上がった〈オサカベ〉が高々と或子を持ち上げて、

 

『死ねぇ、下女め!!』

 

 とマットに叩き付ける。

 さすがの或子も無理な体勢で高角度に叩き付けられれば無事ではいられない。

 思わずキーロックを解いてしまう。

 肩を脱臼したかのごとき痛みを或子は呑み込んだ。

 右手が使えなくなった可能性がある。

 しかし、それよりもまず、或子がやるべきことは……

 

「間に合えっ!!」

 

 或子の右足がマットを蹴った。

 ほぼ同時に〈オサカベ〉が天に掲げた両腕が振り下ろされる。

 莫大な量の妖気がマットで爆発した。

 さっきまで単発で飛ばしていた妖気を数回分まとめて凝縮して地面に叩き付けたのだ。

 それはブレイクされたビリヤード球のごとくに四散し、地雷のように跳ね返った。

 簾のように光が〈オサカベ〉の周囲を埋め尽くす。

 宮本武蔵と八人の侍を吹き飛ばしたという〈オサカベ〉の秘儀がこれであった。

 まともに食らっていたら、いかに或子と言えど一巻の終わりであったろう。

 しかし、このリングの上での御子内或子はチャンピオンだ。

 たかだか、当たれば一発逆転程度の秘儀なんてものにやられはしない。

 

『やったか?』

 

 間一髪で逃げられたことに〈オサカベ〉が気づく寸前、或子は下から手の力だけで撥ね上がり、前転してから孤を描くドロップキックを放つ。

 

「空破弾!」

 

 全力の妖気の放出で硬直している〈オサカベ〉の胴体に見事にヒットした。

 そして、よろめいた妖姫の十二単の襟と袖を掴み、釣手で上半身は背負って前に投げながら、下半身は後ろに足を払う。

 背負い投げと払い腰をミックスしたかのように大きく複雑な投げをする。

 担ぐ、腰に乗せる、足を払う。

 それは、背が低い者がより高い相手を投げるために与えられるすべてを兼ね備えた究極の投げ技であった。

〈オサカベ〉は背中からマットに叩き付けられ、わずかに痙攣した後、動かなくなった。

 或子の勝ちだった。

 あとは両肩を押さえてフォールして三秒すればこの妖怪は消滅する。

 だが、フォールをしようと近づいた或子は妖姫の目元に滲む水滴を見た。

 そこから零れる跡を見た。

 妖姫の漏らす嗚咽を聞いた。

 

『……お顔が見たい、唯一目(ただひとめ)。……千歳百歳(ちとせももとせ)に唯一度、たった一度の恋だのに』

 

 或子はまじまじと妖怪の顔を見つめた。

 妖怪の台詞に戸惑ってしまったのだ。

 たった今聞いたのは、間違いなく恋の告白ではなかったかと。

 いったい、なにがどういうことなのだ。

 

 或子がフォールをするのを躊躇っていると、待ち望んでいた声が聞こえて来た。

 

「御子内さん、ちょっと待って!!」

 

 京一だった。

 彼女がもっとも信頼する助手だった。

 ようやく戻ってきたのだ。

 

「遅いよ、京一! ―――で、何を待てばいいんだい?」

「その妖怪の……〈オサカベ〉についてだよ! とどめを刺すのは待ってくれ!」

 

 彼に言われなくても、もうそんな気はなくなりかけていた或子は肩をすくめて頷いた。

 

「ああ、ボクはいつだってキミのいうことなら聞くさ。もちろん、説明はお願いするけどね」

「うん。さあ、……入って健司くん」

 

 京一に伴われて暗い広間に入ってきたのは、小学生ぐらいの男子だった。

 可愛い顔をしているなと或子は思った。

 そして、その子はマットに仰向けに倒れた〈オサカベ〉を見て、

 

「姫様!!」

 

 と、悲しそうに叫ぶのであった。

 



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言霊パフォーマンス

 

 

 モニタールームに無理矢理に押し入ると、さっき御子内さんと熊埜御堂さんが交渉をしていたホテルの経営部部長と、あと二人の男女がいた。

 一目見ただけで親子だとわかる中年女性と男性。

 着ている服装の高級感からして、おそらくこのホテルの支配人かオーナーだろう。

 ケントゥリア・リージェンシー・ホテルのトップ3が覗き見をしていたということか。

 巫女たちとの約定を破ってまで。

 

「な、なんですか、あなた方は!?」

「出ていってくれ!」

 

 母子らしく似たような反応をする。

 どちらも顔が必死だ。

 お客様商売をしているにはちょっと顔に出過ぎだと思う。

 

「後ろのモニターに或子先輩が映っています。やっぱりてんちゃんたちとの約定を違えたということですねー」

 

 熊埜御堂さんがモニターの一つを指さした。

 確かに、御子内さんとその脇にあるリングが映っている。

 もっとも、実際にモニターされているのは29階の広間だけではなくて、その他のフロアー全般だ。

 防犯のためであろうから、設置すること自体はとやかく言わないが、プライバシーを守るという観点からすると高級ホテルにこんなにカメラをつけるというのはいかがなものだろうか。

 各階ごとにカメラが設置され、ボタンで幾つかのカメラを切り替え、又は分割して表示できるようになっているらしい。

 ただ、それでも31階だけは黒い画面のままだ。

 動いてはいるようだけど。

 

「あ、当たり前だろ。俺たちはここのオーナーなんだ。所有者なんだ。ここで何が起きているかを知る権利がある!」

「妖怪退治のために私らに与えられた権限を上回る権利なんて、ほとんどないですよー」

「ふざけるな! そもそも、俺たちはあの妖怪を退治してくれなんて言ったことはない! おまえたちが勝手に……」

「そうよ。ここはわたくしが父から受け継いだものよ! あのバケモノだってそう! 勝手なことをしないでちょうだい!!」

 

 おかしなことをいうなあ、と僕は思った。

 ホテルがこの人たちの所有物というのはいい。

 だけど、妖怪も自分たちのものというのは少しおかしくないだろうか。

 しかも、その形相はかなり必死だ。

 嘘がばれたというよりも、何かを隠しているような気がする。

 その思いは熊埜御堂さんも一緒だったらしく、

 

「ユーたち、何か隠しているねー」

 

 と、懐に仕舞っていたワイヤレスマイクを取り出した。

 ミニスカの巫女がマイク。

 場末のアングラ・アイドルのようだった。

 だが、退魔巫女である彼女にはそんなチープな印象すら覆す恐ろしい秘術があるらしいのだ。

 彼女の言うところによれば体質というべきだろうか。

 

『こんばんは、熊埜御堂てんです』

 

 それまでは普通に僕たちに対して敵意剥き出しだった三人の表情が一瞬だけきょとんとして、白けたような沈黙が流れた後、

 

「こんばんは、熊埜御堂さん。私はこのホテルの支配人の渡辺清司です」

「こんばんは、熊埜御堂さん。私は前のオーナーで、清司の母の伸子です」

「こんばんは、熊埜御堂さん。私はこのホテルの営業部長を勤めております、権藤孝彦です」

 

 と、口々に自己紹介を始めた。

 ついさっき僕たちに名乗っていたことも覚えていないかのようだ。

 やや眼の焦点が合っていないようにも思える。

 

「ユーたち、コノヤロー! おまえらが何かを隠してんのは私たちにはバレバレなんだよ! 今のうちにくっちゃべっちまった方が楽になるぞ、コノヤロー! おまえらは何を隠してんだよ、さっさと吐いちまえ、コンチクショー」

 

 正直なところ、まったく迫力がない上に思わず失笑してしまうような尋問だった。

 これに真面目に答える相手はいないだろうという内容なのに、三人はまったく真剣さのない顔で口々に言った。

 

「……はい、熊埜御堂さん。俺はあなたに隠し事をしています」

「……はい、熊埜御堂さん。私たちはあなたに隠し事をしています」

「……はい、熊埜御堂さん。私と支配人たちはあなたに隠し事をしています」

 

 まるで洗脳でもされたかのような気味の悪い返事を三人ともする。

 僕は薄気味悪くなった。

 さっき、廊下で見せてもらったのだが、熊埜御堂さんはこうやって特定の人物たちをまるで傀儡のように操ってしまえるのだ。

 その人間の認識をずらし、まるで熊埜御堂さんが誰にも逆らえない権力者であるように思いこませ、好きなだけ秘密を喋らせることができるらしい。

 必ずしも通用するわけでもなく、任意の数人にしか効果がないうえ、肉体を自在に操るということはできない、ただの尋問用でしかないが、これはある意味ではとてつもなく恐ろしいことだ。

 彼女はこの秘術のことを、「マイク・パフォーマンス」だと言い張っているが、どう見ても妖術の類である。

 さすがは御子内さんや音子さんの後輩といえよう。 

 ただ、熊埜御堂さんの一種特別な体質と、方術を仕掛けたマイクを使う必要があるために、チートすぎるほどではない。

 むしろ、さっき廊下を進もうとする僕らを遮ったガードマンの腕を一瞬で脱臼させた、サンボの技の方が地味に恐ろしい。

 飛び腕ひしぎ逆十字なんて、猿でもなければできないのに、あの狭い廊下でやってのける敏捷性は音子さん以上だ。

 

「どんな隠し事なんですかー!」

「はい、熊埜御堂さん。俺はあのバケモノが逃げ出さないようにしています」

「はい、熊埜御堂さん。そのために、あの子供を捕まえています」

「はい、熊埜御堂さん。あのガキの親がやって来た時に、バケモノに攫われたと嘘をついてしまいました」

 

 僕と熊埜御堂さんは顔を合わせた。

 てっきり、もっと別の何かだと思ったのに、どうも風向きがおかしい。

 この人たちが隠していることは僕らの予想とは違う、下手をしたらもっと犯罪めいたことかもしれない。

 

「……その子供はどこにいるんですか?」

 

 どうやら僕が訊いても返事がないので、改めて熊埜御堂さんが繰り返す。

 

「はい、熊埜御堂さん。17階の俺の執務室兼寝室です」

「はい、熊埜御堂さん。息子がよく彼女を連れ込んでいる部屋です」

「はい、熊埜御堂さん。支配人の部屋で、部下に命じて閉じ込めています」

 

 ……僕たちは妖怪退治に来たのは間違いない。

 ついでに攫われた男の子の奪還も目的にしていた。

 ただ、その男の子は妖怪〈オサカベ〉でなく、この人たちが拉致していたというのなら、話はかなり変わってくる。

 いったい、どういうことなのか。

 その時、僕は広間を映している画面が突然暗くなり、火の玉が浮かび上がるような闇の炎が立ち上がるのを見た。

 御子内さんだけを残してきた広間に、怪異が発生しているのだと理解する。

 じっと画面を凝視していると、闇の炎にみえたものは十二単姿の女性だった。

 間違いなく、あれこそが妖怪〈オサカベ〉。

 御子内さんがリングにあがる。

 そうすればたちまちゴングが鳴って死闘が始まるだろう。

 ただ、それを見過ごしておいていいのか?

 僕は不安を覚えた。

 この戦いはやっていいものなのか、どうしても思案してしまうのだ。

 もしかしたら取り返しのつかないことをしてしまうかもしれない。

 僕はそう考えたら黙っていられなかった。

 

「熊埜御堂さん。17階にいって例の男の子を助け出そう」

「えっ、あ、それはいいですけど……。先輩の戦いが始まりそうですがー」

「大丈夫、僕の御子内さんが勝つ。ただ、決着がつく前に、僕はどうしても知りたいことがあるんだ。その鍵は、攫われた―――図書健司くんが持っているはずだ。だから―――」

 

 熊埜御堂さんの手を握った。

 

「手伝って!」

「は、はい、喜んで!」

「じゃあ、行こう!!」

 

 僕らは地下から出るためのエレベーターに戻る。

 支配人たちはしばらくあのままだそうだ。

 ことのあらましは彼らでも説明できるだろうが、攫われたという男の子から聞き出す話の方がもっと重要だろうと、僕の勘が告げていた。

 一刻も早くその子を助け出さないと。

 

 最強の御子内さんがすべてを決着させる前に。

 



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恋路の涯

 

 

 健司くんの顔を見た途端、〈オサカベ〉の顔に花が咲いたような笑顔が浮かぶ。

 それだけで僕にもわかった。

 あいつは―――いや、彼女は―――

 

 ……恋をしているのだ。

 

 人間と人外の恋の物語は古来より存在する。

「雨月物語」にもあるし、有名なところでは道成寺の安珍と清姫だ。

 ただし、たいていの物語は人に恋し男を追う女怪と、バケモノ女を捨てて逃げる男という構図で終わってしまう。

 おおおまかな枠で捉えると、身勝手な男の振る舞いばかりが目に付くようになっている。

 

「……姫さま。会いたかったです。また、姫さまと話がしたかった」

 

 健司くんはリングに駆け寄り、マットに強引に上がると、そのまま〈オサカベ〉の傍に座る。

 妖怪の手を取り、大粒の涙をこぼしていた。

 嬉しくて嬉しくて仕方がないという様子だった。

 

『健司どの。(おのこ)がむやみに涙を流すなどいけませぬぞ。そんなことでは見事な男児になれますまい』

「でも、僕は姫さまとこうしてまた会えただけで泣いちゃうんだ。姫さまだって……泣いてるでしょ」

『妾は女子(おなご)ゆえ』

「ふふ、ずるいよ、姫さま」

 

 男の子と妖怪は互いに思いやり、ともに恋するものの純粋さを醸し出していた。

 今の彼らを見て、無粋な言葉を吐けるものはいないだろうと確信できるぐらいに。

 

「よかったですねー」

「そうだね」

 

 事情をわかっている熊埜御堂さんも感激しているようだ。

 恋する二人にあてられて色々と毒気の抜けた御子内さんが、マットから降りて僕たちのところにやってきた。

 妖怪を閉じ込める〈護摩台〉の結界が張ってあっても、退魔巫女は原則として出入り自由なのだ。

 

「どういうことなんだい?」

「見てわかるんじゃないかな。あの二人、人と妖怪だけど恋の絆で結ばれてるんだ」

「それはいいとして、キミらが何をしたのかが気になる」

「僕らが何かをしたんじゃなくて、()()()()()()()()()()()()()()()()のほうが問題なんだよ」

「……えっと、何かな?」

 

 僕たちが健司くんから聞いた話をかいつまんで説明すると、こうなる。

 ……もともと〈オサカベ〉というのは天守閣に住む妖怪ではなく、巨大建築物の最上階に閉じ込められている妖怪なのだという。

 だから、怪談において、小坂部姫に会うものはわざわざ天守まで登ったものに限られるのだ。

 そして、年に一度だけ城主が小坂部姫のご機嫌をうかがいにいく。

 

「なんのためなんだい? それとどこかで聞いたような話だけど」

「当然だね。〈オサカベ〉という妖怪の話の構図は、そのまま別の妖魅の物語―――はっきりいえば座敷童のものとよく似ている。そして、座敷童が閉じ込められることとの類似性もあるんだ」

「……それは?」

「つまり、〈オサカベ〉という妖怪は建築物の支配者ではなくて、棲家としている建築物の繁栄を守るための人身御供なんだよ」

 

 そもそも〈オサカベ〉の名の由来の発端となった姫路城は、建築するために刑部明神と富姫明神というもともとあった社を移動させている。

 築城されて、池田輝政が改修後、五層にわたる天守閣を竣工させた。

 その天守閣に〈オサカベ〉は現われ、妖怪の祟りを恐れて城主が祀りあげるようになったというものだ。

 だが、〈オサカベ〉自体が脅す以外のなにかをしたという話はほとんどない。

 それほどまでに不明な点が多い妖怪なのだ。

 では、どうして不明なのか。

 それは、〈オサカベ〉が閉じ込められている妖怪だからだ。

 なんのためかということは、かの妖怪が竣工の後に現われ、それ以前には出現しないことから推測できる。

 おそらく、もともと築城以前にあった社を取り込み、城の繁栄のための踏み台とされたのだろう。

 他の建物でもそうだ。

 江戸時代にも多くの城が建築されたが、当時の常識ではその守護のために人柱を使うのは当たり前のことだった。

 人柱に使われるのはたいてい処女の娘と決まっている。

 そして、捧げられた彼女たちは―――最上階に祀られ―――〈オサカベ〉となった。

 

 僕は自分の足元を見る。

 この巨大なホテルと、このホテルを彩ってきた栄光の数々を想う。

 海外のVIPが宿泊し、日本でも有数の有名なホテルとなったこの場所の繁栄は、実のところ、あの〈オサカベ〉を生贄としてできたものなのだろう。

 さっきの支配人の祖父がケントゥリア・リージェンシー・ホテルを建てる際に、ずっと存在しない最上階に彼女を閉じ込めてきたのだ。

 それは何十年も続き、さすがの妖怪も幽閉の辛さに耐えかねていた時に、男の子が現われた。

 何の因果なのだろう。

 二人はそのまま恋に落ちる。

 すべてを捨ててもいいと思うほどに。

 そして、長年繁栄の礎とされてきた〈オサカベ〉が出ていくことを決めたせいで、ホテルの終焉も決まった。

 要石となっていた土台が抜ければ、あとは崩壊するしかない。

 自分たちの破滅に気づいた支配人たちが、〈オサカベ〉の想い人となった健司くんを人質にしてしまう暴挙に出たのもそのためだ。

 想い人を拉致された妖姫がどのような報復に出るのかをまったく考慮に入れずに。

 

「……だから、あいつはボクを敵視していたのか」

「ああ、御子内さんも支配人の一味か用心棒だと思っていたんだろうね。〈オサカベ〉は想い人を取り戻すために、天守閣を無理矢理に飛び出してきたんだから、余計な邪魔をする奴としか思えなかったろう」

「人の恋路を邪魔する奴……か」

 

 まだ抱き合って泣いている二人の人と妖怪を見る。

 子供の健司くんが本当の色恋をわかっているとは思えない。

 いつか、安珍や他の男たちのように、バケモノの女を捨てるかもしれない。

 でも、今ここで、若木を裂くような真似をしたくはなかった。

 もともと、〈オサカベ〉はホテルのために閉じ込められていただけなのだ。

 被害報告だって存在しない、ある意味では被害者しかいない事件だった。

 

「……それで、どうするのですかー」

「どうするって?」

「あの妖怪を退治しちゃって撤収しますか? それとも……」

 

 熊埜御堂さんの口を手で塞ぎ、御子内さんは微笑んだ。

 

「〈護摩台〉だけ撤収させて、ここはもうお開きだ。どうせ、このホテルは解体するんだろ。いまさら、〈オサカベ〉を封印する必要はない。―――もし、()()があの子どもに害をなしたのならばそのときにまた出張ればいいだけのことさ」

 

 僕の思考を読んだような提案だった。

 反対する必要性は皆無だ。

 

「じゃあ、そういうことでー」

 

 僕たちはマットの上の恋人たちの邪魔をしないように、撤収の準備に取り掛かった。

 ただ一つだけ気になることがある。

 

「ねえ、御子内さん」

「なんだい」

「さっき、最後に〈オサカベ〉を投げた技はなんていうの? 今まで見たことがなかったんだけど」

「ああ、あれか。ご先祖様に習ったんだ」

 

 御子内さんはちょっと得意そうに鼻を鳴らした。

 

「伝説の―――〈山嵐〉さ」

 

 と。

 

 

 

 

 

 

 

参考・引用文献

 「にほんの怪奇ばなし 佐賀の化け猫」 小暮正夫 岩崎書店

 「江戸歌舞伎の怪談と化け物」 横山泰子 講談社選書メチエ

 

 



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第9試合 江戸の夜桜
光る眼


 

 

 没頭していた趣味が一段落ついたので、和田雅史(わだまさし)は手元のミネラルウォーターのペットボトルに口をつけた。

 だが、中身はほとんど残っておらず、喉の渇きを完全に潤すことは叶わなかった。

 かといって、近所のコンビニまで出掛けるのは億劫だ。

 階下の台所まで取りに行くも面倒。

 趣味のせいで両手も随分と汚れているし、せめて母親が寝入ってからにしないと、何をしているのかがバレてしまうからだ。

 親とはいえ、知られたくない趣味というものはあるのだ。

 とはいえ、下手に一口だけ水分を飲んでしまったせいで耐え難いものになりつつあった。

 

「しょうがねえ。行くか」  

 

 和田は床から立ち上がった。

 広げたシートを踏まないように部屋の外に出ようしたとき、いきなり戸がすっと開いた。

 五センチほどの隙間が生まれ、廊下の電灯の明かりが差し込んでくる。

 自然に開いた訳ではない。

 誰かが戸を開けたのだ。

 慌ててその前に立つ。

 部屋の中は薄暗いとはいえ、趣味の品を見られるわけにはいかない。

 

「おい、ふざけんな。ノックぐらいしろよ!!」

 

 和田が凄む。

 この家には彼と年老いた母親しかいないのだから、消去法で開けたのは一人しかいない。

 外では小さく縮こまるしかできない根性なしの彼でも、老母相手ならばいくらでも居丈高になれる。

 

『……ごめんなさい、雅史ちゃん』

 

 二十数年聞き慣れた母親の声だった。

 なのに、なぜかぞっとした。

 一瞬、別人のものかと思うほどに。

 

「謝るくれえならすんなよ、ババア! 何の用だよ!?」

『そんな怒鳴らなくても……』

「怒鳴られるような真似をするてめーが悪いんだっての!」

 

 自分より弱い立場にいるものとばかり思っていた母親に怯えかけたという屈辱が、和田をいつもより興奮させていた。

 このまま戸を開いて、母親を殴りつけたくなる衝動に駆られる。

 だが、全開にして万が一にでも見られようものなら、かなりマズいことになる。

 さすがの気弱な母親でも何らかのリアクションを起こすであろうことは明白だ。

 だから、耐えた。

 二十歳を越えてからかなり制御できなくなっている激昂する癖をギリギリのところで堪える。

 

「……なんだよ。用がねえなら、さっさと下へ行けよ」

『雅史ちゃん』

 

 息子をいつまでもちゃん付けで呼ぶ、いらつくババアだった。

 

『……()()()()()()()

 

 いつもの母親ならば決してしてこない詮索をしてきた。

 また怒鳴りつけてやろうとした時、和田は戸の隙間からこちらを覗き込む眼に気がついた。

 母親が見ていた。

 隙間にぴったりと顔をつけるようにして。

 まるで眼だけが浮かび上がるように。

 和田は思わず一歩引いた。

 不気味だったからだ。

 

「な、なにをしているんだ、ババア!」

『雅史ちゃんこそ、部屋にこもってなにをしているの? お仕事? お勉強? それともお遊び?』

「……てめーに言う必要はねえよ!」

『そんなことを言わないで。ねえ、お母さんに教えてちょうだい。電気もつけないで、いったい何に熱中しているの?』

「うるせえ!」

 

 和田は戸を蹴りで閉めた。

 監視するように覗いている母親の顔にぶつかるかもしれないという心配はまったくしなかった。

 それよりも、いきなりこんな気持ちの悪いことをしてきた母親を隔離したかった。

 

『……酷いじゃない、雅史ちゃん。お母さん、顔をぶつけちゃったわ』

 

 そんな手応えはなかった。

 同情を誘うにしてももっとましな嘘をつけ。

 

「うるせえ、白々しいぞ! さっさと下に戻れよ!」

 

 かなり大きな声で喚き散らしたが、今日に限って異常な行動をとる母親には効き目がなかったようだ。

 気配でわかる。

 まだ、廊下にいるのだと。

 

『雅史ちゃん、もっとお外に出ないと身体に悪いわ。昨日みたいに、夜遅く出歩いて悪い人にでも絡まれたらどうするの? お母さん、助けてあげられないのよ……』

「てめーの助けなんか借りねえよ。いいから、戻れ。話しかけんな!」

『お母さんは雅史ちゃんが心配で……』

「いい加減にしやがれ!」

 

 完全にキレた和田は、部屋の中が見えないように身体でブロックしつつ、戸を開けて廊下へ飛び出した。

 もう怒った。

 殴ってやる。

 

「てめぇ……!!」

 

 だが、部屋から出た瞬間、和田は硬直した。

 廊下の隅から自分を見つめる母親の姿を見た時。

 見たこともない微笑みを浮かべた、見慣れた母親の顔を拝んだ時。

 

「ひいっ」

 

 恐怖が走った。

 背筋が凍り付いた。

 なぜなら、そこにいたのは、闇からじっと彼を凝視しているのは……。

 

「どうしたの、雅史ちゃん。()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 飛び跳ねるように和田は自分の部屋に逃げ戻った。

 これ以上、あの母親と向き合ってはいられなかった。

 だって、そうだろう。

 

 ……廊下の電灯のかすかな光を反射して黄色くなった瞳は恐ろしすぎたのだ。

 

 

          ◇◆◇

 

 

「……実家の車がいつも猫の溜まり場に使われていて困る、と?」

「そうッス。で、どうすればいいかなあと考えていたら、京一君のことを思い出した訳ッスよ」

「蒼はバカだから話がまとまらないの」

「酷いッス! 親友をバカ呼ばわりするなんて!」

「―――蒼は愚鈍だから仕方ないの」

「もっと感じ悪っ!!」

 

 僕と御子内さんは久しぶりに〈ぬりかべ〉事件のときに知り合った女子高生たちと遊んでいた。

 退魔巫女なんていうニッチな職業をしている御子内さんにとって、彼女の裏を知っている同年代の普通の友人の存在は貴重で、あのあともマメに連絡を取り合っていたらしい。

 御子内さんは高校では退魔巫女であることは伏せているのだそうだ。

 自称、普通のJKということである。

 同じ部活に入っている妹からの情報によると、まあ巫女であることはバレていないけれどトップクラスの変わり者という評価ではあるようだ。

 学内での変人十傑の一人らしい。

 というか、御子内さんクラスが十人もいる学校には通いたくないね。

 

「いやあ、でも或子ちゃんも歌上手いッスねえ」

「……うん。或子、上手」

「カラオケなんて久しぶりだよ」

「いやいや、キャラ的に選曲も外してくるかなと思っていたら、フツーに直球でいきものがかりとか。巫女さんキャラなんだからもっと狙わないと!」

「なんだい、それは? ボクだって年がら年中巫女をやっているわけじゃあないよ。ねえ、京一。いかにもJKっぽいこともしているよね」

 

 女子三人とカラオケに行っただけでお疲れの僕に振らないでほしい。

 正直、御子内さんは言うまでもなく、残りの二人の体力もハンパではなく、三時間ずっと歌って食べておしゃべりして、なおかつ踊り続けたのに平然としているのだ。

 しかも、だよ。

 踊りといっても、モンキーダンスのように手を上下させる程度のものではなく、ツイスト並みに派手に身体を捻ったりするものばかり。

 クラブかよ、と突っ込みたくなるレベルの運動量なのだ。

 少なくとも僕の記憶にあるカラオケはもうちょっと慎ましやかなもののはずである。

 僕でさえ、ほとんどずっとマラカスとタンバリンを叩いていたし。

 やかましいことこの上ない時間であった。

 

「……無理して若い子ぶらなくていいから」

「ちょっと待てぃ! ボクが年齢をサバよんでいるような言い方はやめてくれないか! こう見えても花も実もあるピチピチなんだよ!」

 

 ファストフード店で抹茶を飲もうとしていたことを忘れているらしい。

 今でもメールもまともに使えないくせに、もう。

 

「或子は変だから」

「―――切子までそういうことをいうのかい!」

「言われないと思っているところが凄いッスよね。尊敬するッス! そこに痺れる憧れるぅ!」

 

 この三人は仲が良い。

 まあ、基本的に御子内さんはコミュニケーション能力は高いし、同年代の女子には好かれやすいタイプなのだ。

 そのくせ、仲間の退魔巫女とはギスギスしているのは仕様だろうか?

 

「で、話を戻すと、蒼はどうしたいんだい? その車の猫溜まりの件について」

「うーん、困るんスよね。お父さんが朝起きると、いつも車のボンネットが猫の足跡だらけになっていて。会社まで車通勤だから」

「猫はモフモフしてて好き」

「だったら、シートをかければいいじゃないか」

「何度もやったんスけど、今度はシートが糞塗れになってしまったんスよ。それで買い替えることになってしまって。だったら、すぐに洗車できる方がいいとシート作戦は中止になったんス」

「……結構、深刻。猫は躾しないとどこにでもフンをするから」

「水の入ったペットボトルを置くとかはどうだい?」

「ダメダメ。あんなの効かないッス」

「はあ、厄介だねえ」

「そこで京一くんに良い知恵はないかと聞こうと思った訳ッス」

 

 なるほど、話の筋はわかった。

 でも、そんな実家のご近所トラブルの話を僕に振られても……。

 

「そんなに毎日なの?」

「そうッス。かれこれ二月ぐらい」

「二ヶ月かあ。蒼さんの家の傍って猫屋敷とかがあったりして、猫の糞害とかが話題に昇ったりする?」

「野良ネコは結構多い方だけど、そういうのは聞いたことがないッスね。月極駐車場にだから他にも車はあるけど、うちが一番深刻ッスね」

「車種は?」

「あ、これが写真ッス」

 

 スマホに映し出された写真はBMWだった。

 まさかの金持ち一家なのか、大地家は?

 ただ、汚れの目立ちやすい黒だし、猫の足跡なんかがついていたら格好がまったくつかないな。

 そりゃあ悩みにもなるか。

 毎日、月極駐車場で猫の足跡を拭いてから出掛けるのも面倒くさいだろうし。

 ん、ちょっと待て。

 

「……蒼さんの家には、駐車スペースがないの?」

「あるッスよ。でも、ちょっと工事する予定で使えないんス」

「二ヶ月も?」

「お隣さんと、さらにそのお隣さんと話し合いしなきゃならないんスよ。でも、お父さんが忙しくてなかなか進まないんス」

 

 お金持ちのお嬢さんっぽいのに、蒼さんは気さくだな。

 

「あ、もしかしたら……」

 

 ちょっと思いついたことがあるので披露しようと思った時、御子内さんがスマホを見て、立ち上がった。

 

「すまない、用事ができた。ボクと京一は行かなくちゃならないみたいだ」

「いきなりどうしたの?」

「びっくりしたッス」

 

 休日の御子内さんに呼び出しがかかった上、僕まで連れていこうとするとなると、用事というのは決まっているね。

 

「巫女の仕事?」

「うん。しかも、かなり緊急のものだ」

「へえー。どんな妖怪ッスか? あ、聞いちゃ駄目だった」

「そういう規則はないけれど、あまりペラペラしゃべらない方がいいというのは確かだね。とはいえ、キミらをすっぽかして行くわけだから多少の説明は必要かな」

「気にはなるけど、或子の迷惑になるならいい」

 

 二人に気を遣われた御子内さんは苦笑いをして、

 

「さっきの話とちょっとリンクするかもしれないね」

「?」

「……今回はどうも化け猫が絡んでいるらしいのさ」

 

 化け猫とはまた面倒くさそうなものがきたね、と僕は素直にそう思った。 

 

 



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敵意の証明

 

 

 八咫烏が助けを求める声を聞き届けた、和田というのは嫌な感じのする男だった。

 年齢は二十三。

 大学を中途退学し、それ以来、実家でひきこもっていたらしい。

 今どき、引きこもりで数年なんてことはよくあることなので気にもされないレベルだけれど、身にまとう雰囲気そのもので警戒されるのはそうはないだろう。

 普段から太陽のような温かい気を発している御子内さんの傍にいるからかもしれないが、僕は和田に一切の親しみを覚えなかった。

 もっとも、僕と和田との関係は、彼を狙う妖怪変化を御子内さんが退治してしまえば終わる程度のものに過ぎないので、どんなに拗れていても構うことはないのだけれどね。

 僕がいつものように、〈社務所〉が借りた空き地で〈護摩台(結界台でもいい)〉というリングを設営している脇で、御子内さんがウォーミングアップを続けている。

 さらにその近くで、和田がぼうっと彼女を見つめていた。

 唯一の持ち物だというアタッシュケースを資材の隅に置いていた。

 どことなく隠しているようにも見えたが、そんなことよりも彼の視線が妙に気に障る。

 御子内さんぐらいの美少女に眼を奪われる気持ちはわかる。

 僕だって無意識のうちに追ってしまうことはよくあるので、ストーカーの気質があると言われれば認めざるを得ない。

 ただ、和田のように無機質な目で舐めまわすようなことはしない。

 欲情もダダ漏れだし。

 少なくともあいつが御子内さんになんらかの(よこしま)な考えを抱いているらしいことは遠目でもわかる。

 

(……妖怪に襲われて助けを求めてきているというのに、随分と余裕じゃないかよ)

 

 和田への憤りみたいなものに我を忘れていたせいか、僕は思わず材木の一つから手を滑らせてしまい、指を挟んだ。

 

「イタっ!」

 

 気がついた時には、親指が赤くなって腫れている。

 厚手の軍手をしていたおかげで助かったが、下手をしたら皮がむけて血がでていたところだ。

 それでも大分赤くなっているし。

 御子内さんが慌てて近寄ってきた。

 

「京一、大丈夫かい?」

「う……うん。なんとか平気」

「ちょっと見せてみなよ。―――ありゃあ、これは酷いな」

「いや、資材は持てるから大丈夫だよ」

「そうはいかないだろ……」

 

 御子内さんが僕の手を握り少しあたふたしていた。

 珍しいこともある。

 彼女が動揺しているなんて。

 

「……確かに酷いな」

 

 すると、いつのまにか僕らの後ろから覗き込んできたものがいる。

 和田だった。

 

「すぐに冷やしたほうがいいな。巫女さん、タオルを水で濡らしてきなよ」

「うん、そうだね」

「別にいいって……」

「そうはいかない。京一まで怪我をすることはないよ」

 

 御子内さんは手近なところにあったタオルをもって、水場のあるところまで駆けだした。

 その後ろ姿を見ながら和田が、

 

「いい子だねえ。もしかして、カノジョ?」

「―――そういう関係じゃないことは確かです」

「それにしちゃあ、あの子を見ていた俺のことを殺しそうな目つきで睨んでいたじゃないのさ」

「……殺しそうな、なんてことはありませんよ」

 

 殺意があったかと言われると、それはない。

 僕はこれまで他人どころか動物だって殺そうと思ったことはないからだ。

 例え御子内さんを視線で穢そうとするこいつ相手でも。

 

「確かにね。あんなんで殺しができたら誰も苦労はしないわな」

 

 奇妙なことを言うな。

 殺してやるとか、殺すぞなんて日常的に使われている中で、実際に殺意なんか持つものはいやしない。

 そも、何かの命を奪うということ自体が普通の社会生活を送っていたら遭遇しないイベントだ。

 特に現代の日本においては、死体にさえ滅多に接する機会はないのだから。

 

「……お母さんがご無事だといいですね」

 

 和田の母親は行方不明らしい。

 御子内さんの話だと、化け猫事案においては肉親が攫われてとってかわられることが頻発するということだ。

 今回、この男を執拗に狙っている妖怪は、どうやら化け猫であることに間違いはなく、そのためか母親の消息がわかっていないそうである。

 僕としてはこの男の妙な言動は、化け猫に追われているといえだけでなく、行方不明の母親の安否を気遣ってのものだと考えていた。

 

「別に。あのババアがどうなろうと俺の知ったことじゃないね」

 

 だが、和田の口から洩れたのは想定外の発言だった。

 彼は母親のことをババアと言い放ち、ほとんど感情のこもらない言葉で切り捨てた。

 

「……お母さんが心配じゃないんですか?」

「ババアが? あ、年金がもらえなくなるからってこと? そんなのは別にいいよ。うち、クソ親父の財産がまだたんまり残っているし、生活にゃあ全然困らないから」

「お父さんが亡くなっているなら、二人っきりの親子じゃないんですか? そんな冷たい言い方……」

 

 すると、和田は蔑んだ顔をした。

 もちろん、蔑まれたのは僕だ。

 

「おまえさあ、うざいよ」

「え?」

「なんだ、話が分かりそうだなと思ったら、ただのいい子ちゃんヅラかよ。おまえ、よくええかっこしいとか言われねえ? 俺がおまえとクラスメートだったら、ハブるわ」

 

 向けられたのは悪意だった。

 この間のバイト先の運転手からのものなんて比較にもならないほど、濃密な悪意。

 ほとんど初対面の相手から与えられたものとしては、かつて感じたことのないぐらいに冷たいものだった。

 

「なに、その顔。さっきからずっと偉そうなやつだと思っていたんだよね。ニヤニヤしやがってさ。おまえ、何様よ」

「……」

「ああ、もしかして巫女さんと一緒に俺を助けてあげようとか思ってんの? 別に俺はおまえに頭下げた訳じゃないんで」

 

 意味不明な絡まれ方だった。

 ただ、二十代の大人からされるにしては随分と幼稚だ。

 ここ数ヶ月の妖怪退治で鍛えられた僕からすると、たかだか絡まれる程度は普通のスルー案件だ。

 気になるのは、和田の意図だ。

 なんでいきなり僕を挑発するようにこんなことをいうのか。

 

「黙ってねえでなんか言えよ」

 

 さて、どうしようか。

 鉄拳制裁とかが処方箋にはピッタリなんだけど

 一応、この人は依頼者なんだよね。

 僕が揉めて御子内さんの邪魔になったら助手として格好つかないし。

 

「―――いい加減にしてくれないかな。キミの発言はさっきから随分と鼻につく。あと、京一が怪我をした原因はキミのためだということを忘れているんじゃないかい?」

 

 どう対処すべきか戸惑っていると、ようやく水場から御子内さんが戻ってきた。

 

「ちっ」

 

 巫女である彼女が苦手なのか、それとも他の事情があるのか、舌うちをしただけで和田は僕から離れていった

 

「ほら、これ。冷やしておきなよ」

「ありがとう」

 

 渡された濡れタオルを怪我にあてる。

 ひんやりとしてちょっと沁みる。

 

「……彼はなんのためにあんなことを言ってきたんだい?」

「わからない。でも、あいつが()()()だということはわかったよ。妖怪に狙われているのが常に善良な一般市民ではないということが身に染みたね」

「―――京一」

 

 御子内さんがあまりしない表情を浮かべた。

 珍しく気弱になっているような、不安そうな、そんな顔だ。

 

「心配しなくていいよ。そんなことで僕は退魔巫女の仕事に幻滅したりしない。御子内さんたちの戦いの正義を疑ったりはしないから」

 

 すると、安堵したのか顔つきが柔らかくなる。

 御子内さんに暗い顔は全然似合わないね。

 

「……でも、少し気になることはあるけどね」

「なんだい、それは?」

「うん。普段の退魔巫女の妖怪退治の手伝いをしている時にはあまり感じないことなんだけど……」

「はっきりと言いなよ」

「彼は、どうして妖怪に狙われているんだい? これは僕のただの勘なんだけど、それがわからないとこの事件は解決しないかもしれない……」

 

 僕は不平そうにスマホを弄っている和田を見ながら、そんな益体もないことを考えるのであった……。

 

 



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妖怪〈化け猫〉

 

 

 僕たちの国において、猫にまつわる怪異譚というのは、当初〈猫又〉と呼ばれる巨大な獣のことを指していた。

 実際に人を襲ったりする巨大なヤマネコや狼の被害が〈猫又〉と一括りにされていたのだと言われている。

「徒然草」の八十九段において、『奥山に猫またといふものありて、人を食らふなる。」と、人の言ひけるに、「山ならねども、これらにも、猫の経上がりて、猫またになりて、人とることはあなるものを。」と言ふ者ありける』と紹介されているものはこの類に含まれる。

 現代のアメリカでもピューマによる被害が報告されているように、かつての日本ではこういうネコ科の動物が暴れ回る環境があったのだろう。

 それを〈猫又〉によるものとしてまとめて、大衆にいつも気を付けるように警告していたのだと思われる。

 だが、江戸時代に入ってから、〈猫又〉にまつわる伝承は一変する。

 鶴屋南北などの劇作家が各地に残る妖猫譚を発掘し、それが演劇という形で世に紹介されだしたからだ。

 特に、地方の大名のお家騒動として隠ぺいされていた事例、例えば「鍋島の猫騒動」「有馬の猫騒動」「岡崎の猫騒動」が明るみにでたことによって、世の中に〈化け猫〉という恐ろしい妖怪の存在が知られるようになったのである。

 

「……〈化け猫〉の特徴はね、人、中でも女性に化けるということだ。女性の持つ身体のしなやかなラインが猫のそれに酷似しているからだと思うけど、基本的に男に化けたという事例は少ない」

「うん、ネコミミをつけていいのは女の子ばかりだしね」

「……? まあ、可愛い子供や僧侶に化けることもあるみたいだけど、どちらも衆道の対象となりやすいということから、やはりなよっとした女性的なところがあるからともいえるだろう」

「劇団四季のキャッツだとただの北斗○拳のひゃっはーっぽいかな」

「次に、〈化け猫〉は人間の血や精気を吸い、また死体を好んで食し、操って暴れるともいわれていて、〈火車〉という妖怪の正体だと云われている地方もあるようだね」

 

 猫というのは、かなり古い時期から人の家で飼われるようになっているというのに、そのちょっと気まぐれな行動からある意味で不思議な存在だったのだろう。

 だから、その不可思議な部分を妖怪になぞらえられていたのかもしれない。

 もっとも、今回の事件からして、妖怪変化としての〈化け猫〉がいたことも否定はできないけれど。

 

「あと、猫は祟る。自分を殺したものだけでなく、猫の主人などを殺したものにも祟るので、例えば〈化け猫〉を退治したらあとで塚を作って念入りに祀る必要があるんだ。……今回の退治が終わったら、ボクたちも供養塚を作っておく必要があるね」

「へえ」

 

 御子内さんによる〈化け猫〉のレクチャーはわりと長い間続けられた。

 彼女自身、〈化け猫〉と戦うのは初めてだというのにやけに詳しいなと思っていたら、

 

「レイがね、重度の猫好きでよく猫カフェなんかに連れていかれたんだよ」

「―――レイさんが?」

「そうだよ。あんな巴御前みたいな厳格そうな顔をして、猫を抱いてニヤニヤしているのは気持ち悪いったらありゃしなかったね。ついでに〈化け猫〉の伝承にも詳しいもんだから、よくボクらに講義していたもんさ。発表会のときのネタは確か「鍋島の猫騒動」だったかな? あの話が好きらしくて、いつか自分の猫を飼った時に、「こま」と名付けるんだと息巻いていた。同期に関係者がいたこともあってなんだか気持ち悪いぐらいにはしゃいでいた」

 

 レイというのは、明王殿レイという御子内さんの同期の退魔巫女のことだ。

〈神腕〉という神通力のこもった両腕をメインに戦い、僕の知っている限りでは御子内さんを一番苦しめたライバルである。

 ただ、あの凛とした顔で猫好きなのか。

 しかも、鍋島の猫騒動にでてくる「こま」って日本でも一二を争うぐらいに有名な〈化け猫〉だよね。

 悪趣味にも程がある。

 

「猫好きって業が深いね」

「うん。そういえば音子がレイの猫好きの話をしているときに、自分のツイッターのプロフィール画面に猫を使っている人は地雷率が高いといっていた。意味はよくわからないけど」

「御子内さん、それ偏見だから」

 

 というか、もしかしてレイさんってツイッターをやっているのか。

 しかもプロフ画像を猫にして。

 うーん、退魔巫女も業が深い職業だなあ。

 

「まあ、鍋島の猫騒動が〈化け猫〉のステロタイプといえるだろうね。飼い主の非業の死にあたりその血を舐めて変化となる、行灯の油を舐める、女性に化ける、復讐のために暴れ回る等々……」

「今回の事件もその要素はあるかな」

「そうだ」

 

 僕は、和田が〈化け猫〉に襲われたときの内容を思い出していた。

 

 

       ◇◆◇

 

 

 まず、和田は同居していた唯一の家族である母親の異常に気がついた。

 どこがおかしかったかというと、普段は彼に話しかけても来ないのに、頻繁に声をかけてくるようになったからだ。

 それだけで普通の家族の在り方としては首をかしげざるを得ないが、和田のような男にとっては疑問に思う余地のないことであった。

 母親が異常であると考えた和田は、自室の戸に鍵を掛ける。

 すると、夜な夜な戸のノブをガチャガチャ捻る音がし始めた。

 室内に侵入しようとしているのだ。

 恐ろしくなって、戸の板に耳をつけて様子を窺ってみると、母親のものらしいのに、母親とは思えない皺枯れた声で、

 

『こっちの戸は駄目か。では、あっちの窓だ』

 

 と独白しているのが聞こえた。

 意味がよくわからなかったが、たまたま振り向いた時、窓が開けっ放しなのに気がついた。

 常時、戸を閉めたままにしているため、換気のために開けておいたのだ。

 はたと思い立ち、和田は窓も閉めて鍵を掛け、カーテンをひいた。

 しばらくして、今度は窓枠がギシギシと音をたてて鳴り始める。

 誰かが外から窓に手を掛けているのだ。

 二階の窓に対して。

 さすがの和田もぞっとした。

 最初は戸、次は窓。

 誰かが彼の部屋に押し入ろうとしている。

 何のために。

 理由はわからないが、そうしようとしているのは疑いない。

 布団に潜り込むとすべてから耳を塞いで丸くなった。

 少なくとも朝までは我慢しよう。

 今、耐えきれずに外に出たら終わりだ。

 そんな予感がする。

 次の日、陽が出てから和田は荷物と趣味の道具をアタッシュケースに詰め込むと、何も言わずに家を出た。

 もともと母親に自分から声をかけたりはしない男だったが、今回に限ってはあえて無視した。

 何故か。

 簡単な話だ。

 昨晩、彼を恐怖のどん底に叩き落したのはどう考えても彼の母親だからだ。

 たいして運動神経もなさそうなのに、二階の窓にどうやって手を掛けたのかはわからないが、彼女の仕業以外にはありえない。

 これ以上、家に留まってはいられない。

 だから、和田は家を飛び出した。

 行く当てがあるわけではない。

 和田には友達と呼べるものは皆無だからだ。

 しかたなく近所の神社の境内で、コンビニのパンを食べていたとき、頭上でカラスが一羽、鳴いていた。

 そのカラスは八咫烏と呼ばれ、退魔巫女の使いとして妖怪に襲われているものを助ける使命を帯びた使い魔であった……。

 

 

      ◇◆◇

 

 

「それで発覚したということなの?」

「ああ。〈社務所〉の禰宜の一人が和田家を調べに行って、彼の母親がどこにもいないことを確認した。それだけではなくて、家全体に妖気が漂っていることと、家を訪れた近所の人が台所で箸も使わずに何かをがつがつと食べている母親の姿を目撃していたことも聞き取ってきた。そこで、〈化け猫〉の仕業だと判断されたんだ」

 

 それで御子内さんが呼ばれたという訳か。

 調査はすでに終わっていたということだね。

 ただ、話がそこで終わっていることが気になった。

 今の内容では、「どうして和田が狙われているのか」がはっきりしない。

 確かにうちの妹のように妖怪にたまたま狙われたという場合もある(今回の〈化け猫〉は僕の家にやってきた〈高女〉と似たようなパターンだし。これはよくある成り行きみたい)。

 だが、和田の母親をどうにかしてから、その姿に化けるということは、よほどのことだ。

 しかも、〈化け猫〉の特質を考えると……。

 

「―――御子内さん、あのさあ……」

 

 と、振り向いた時、リングの傍で興味深そうに色々と触っていた和田のところへ彼女は駆け出していた。

 何があったのかと見ると、和田の頭上にある木の枝に蠢く黒い影があった。

 それが物凄い勢いで落下してくる。

 あのままでは和田に当たると思われた瞬間、居合切りのような御子内さんの飛び蹴りが迎撃した。

 

『ギャアアア!!』

 

 見事に黒い胴体を捕捉した踵が反対方向に蹴り飛ばした。

 地面に落ちて何回転かしてから、その影は四足で起き上がった。

 黒い、黒い、毛皮をした、巨大な猫であった。

 あれだけ大きいと異形としか言えない。

 尻尾を除いてもニメートル近い大きさで、ほとんど虎のようにも見える。

 尖った鋭い歯が並んだ口から、白い煙と共に青白く光る炎を吐いていることもあり、まるで魔獣であった。

 僕の知る猫の範疇に含まれるものとは思えない。

 

『ジャマをするかミコめ!!』

 

〈化け猫〉は憎々しげに怒鳴った。

 その眼には恨みの念が溢れている。

 ただし、吊り上がった眦が見据えているのは御子内さんではなく、和田だった。

 あの〈化け猫〉が和田をつけ狙っていたのは疑いのないところだ。

 

「それがボクの仕事さ」

 

 御子内或子は一切の怯えもなく、巨大な〈化け猫〉と対峙していた。

 

 



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猫の戦い方

 

 

「京一、和田さんを〈護摩台〉へ」

「うん!」

 

 僕はいけすかない依頼者の腕を掴んで、リングの上へと押し上げた。

 はっきりと目の当たりにした〈化け猫〉の巨大で獰猛な姿に怯えてしまっていたためか、さっきのような敵意剥き出しとはいかないようだ。

 経験上、妖怪との接触というものは、人にとって天敵とのそれに等しい。

 馴れていない人間には相当のショックがあるはずだ。

 特にあの〈化け猫〉は……人間への憎悪に凝り固まっている。

 

『待テイ!! 逃ガスモノカ!!』

 

 和田を追ってリングに滑るように入ってきた。

 

「ひい!」

 

 情けない悲鳴を上げる和田と、こいつしか見ていない〈化け猫〉。

 果たしてこの両者の間に何があったのか。

 放っておけば和田も隣にいる僕も、猛獣の牙と爪に引き裂かれて終わったことだろう。

 だが、それをよしとしないものがいる。

 

 カアアアアン!

 

 リングにゴングが鳴り渡る。

 不可視の〈結界〉が張り巡らされ、この狭くて四角いジャングルに妖怪が閉じ込められた。

 猛獣の眼光がコーナーポスト上に注がれた。

 腕組みをして、下々を睥睨するかの如き王者(チャンピオン)の威厳を持つ闘士がそこにいる。

 

「無制限一本勝負でいこうか!」

『小癪ナ巫女メ! 我ラノ恨ミヲ晴ラス前ニマズハ貴様ノ喉笛ヲ掻ッ切ッテクレルワ!!』

 

 キシャーと爪を立てる猫目掛けて、挨拶代わりのミサイルドロップキックが炸裂する。

 かなりの超高度からの威力抜群のはずの蹴りを喰らっても、わずかにたたらを踏むだけで耐える〈化け猫〉。

 相当のタフネスだろうと推測できる。

 あとは御子内さんに任せるしかない。

 僕は腰を抜かしてへたり込んでいる和田の首根っこを掴んで、今度はリングの外へと引きずり出した。

 リングの〈結界〉へと〈化け猫〉を誘いこんでしまえば、こっちの仕事は終了だ。

 僕たちにあとできることは御子内さんを信じることだけ。

 

〈化け猫〉がニヤリと笑ったような気がした。

 しかも、尻尾がピンと立っている。

 上機嫌のようだが、これは上あごにある独特の器官で匂いを感じ取ったときの反応という話だ。

 猫が快感を覚えた時に顕著にでる反応らしい。

 すなわち、あいつは御子内さん相手に興奮しているのだ。

 猫が人間の御子内さんに欲情するとも思えないので、つまるところ戦いの高揚感を覚えているということだろう。

 一方の御子内さんも楽しそうだ。

 人間よりも大きいネコ科の猛獣―――ライオンなどと戦うに等しいというのにまつたく尻込みすることがない。

 最初に仕掛けたのは〈化け猫〉だった。

 前肢を器用に使い、軽くはたくように振ってくる。

 俗にいうネコパンチだった。

 人が使う分には腰がのっていない力の足りないパンチでしかないが、爪を隠し持っているのと、狩猟の時に前肢で獲物を押さえつけて首を噛みきる猫の戦い方を知っていると、決して油断できない。

 柔道の襟の取り合いのように緊迫した攻防となる。

 とはいえ、〈化け猫〉は所詮猫であった。

 次第に焦れて、前肢のリーチを生かすために、ぐっと立ち上がった。

 ニメートル以上の体長をもつ四足獣が立ち上がるとそれだけで恐怖を感じてしまう。

 

『シャアアア!!』

 

 空気を切る声とともに爪が光った。

 御子内さんはバックステップで躱す。

 続けて連打。

 それも躱した。

 いつも以上に御子内さんに余裕が感じられる。

 身体能力としては人と猫では明らかな差があるというのに、今日の御子内さんはそれを意にも介していない。

 まるで、攻撃パターンを知り尽くしているかのように……

 

「そうか!」

 

 僕は思い至った。

 レイさんと猫カフェに行ったとか言っていたし、以前から彼女は猫の独特の戦い方について研究済みだったんだ。

 だからこそ、この落ち着いた戦い方を選べるのか。

 

『シャアア!!』

 

 またも〈化け猫〉が前肢の爪を立ててきた。

 だが、今度は避けずに懐に飛び込んだ。

 そのまま突き立てられる膝蹴り。

 横に一回転しながら、肘が猫のわき腹に入る。

 さらに三連コンボとして右の踵落としがさく裂した。

 怒涛の連続攻撃にさしもの〈化け猫〉もふらつく。

 初っ端のミサイルドロップキックさえ耐えた〈化け猫〉であっても、人体における最も堅い部位による三連弾は相当効くのだろう。

 普通の人間ならあれでもう終わりだ。

 しかし、相手は妖怪。

 ただ終わるはずがない。

 

「なっ!?」

 

 御子内さんが突然倒れこんで、尻もちをついた。

 何があったのかとよく見てみると、彼女の足首に黒い筋が絡まっている。

 その正体に気づく前に、その筋が引っ張られ、御子内さんがさらにマットに背をつけた。

 同時に上からかぶさってくる〈化け猫〉。

 二本の前肢が御子内さんの肩を押さえつける。

 そして、彼女の首に巻き付いた。

 何をするのかと思ったら、意外な肢の動きを見せる。

 なんと自重を乗せて締め上げ始めたのだ。

 御子内さんの首の骨を折るために。

 ―――自然界において関節技を使う生物はいない。

 ただ、ネコ科の生き物だけを除いて。

 猫の狩りとライオンの狩りは違う。

 鼠のような小動物を主とする猫と違い、自分よりも体格に勝る獲物を仕留めることがある(ライオン)らにとって、鋭い牙も爪も絶対的な武器ではないのだ。

 彼らが最も頼りにしているのは前肢の強靭な力であった。

 草食動物の頸に肢を掛けて、捻り、首の骨を折る。

 それがネコ科の獰猛な王たちの戦いなのだ。

 そして、その戦法が御子内さんに向けられたのである。

 

「御子内さん、逃げて!」

 

 だが、体格で凌がれるということは体重でも負けているということだ。

 百キロ以上の体重差のある相手に伸し掛かられたら反撃のしようがない。

 御子内さんも〈化け猫〉の前肢を外そうと必死でもがくが、マウントポジションを取られてしまっているようなものなので、どうにも振りほどけない。

 このまま行ったら、さすがの彼女でもまずいことになる。

 

「……なんだよ、あの巫女。やられちまいそうじゃねえか! もっとしっかりしろよ!」

 

 後ろから心無い罵声が飛ぶ。

 和田だった。

 しっかりしろだと?

 おまえの代わりに妖怪退治を命懸けでしている彼女に対して「しっかりしろ」だと。

 ふざけるなよ。

 御子内さんはいつも必死に戦っているんだ。

 おまえに彼女の何がわかる。

 クソが!

 だが、こんな奴に構っている暇はない。

 助けに行くべきか。

 僕は脇に寄せてあったパイプイスの背を掴む。

 だが、あの〈化け猫〉の敏捷さでは僕の攻撃が当たる可能性は低い。

 しかもあのタフネスぶりだ。

 それでも、一瞬でも気が引ければそれで隙をつくれるかもしれない。

 行かなくては。

 今こそ。

 

「―――ちょっマテよ、なんだよ、おい!」

 

 またも後ろから和田の声がした。

 無視だ、無視。

 あんな奴のことを気にしている暇はない。

 一刻も早く御子内さんを助けないと。

 

「うわあああ、止めろ、止めろぉぉぉぉ!!」

 

 さすがに様子がおかしいと振り向いた時、僕は絶句した。

 僕と和田の後ろ、数十メートルの位置におびただしいほどの猫の群れが迫って来ていたからだ。

 猫の目は光を受けて輝く。

 網膜の裏にあるタペータムという反射板のおかげだ。

 それは闇夜でも変わらない。

 今日のように月の綺麗な晩ならなおさらだ。

 その爛々と光る猫の瞳が何対も―――いや何十対もこちらに向けて注がれていた。

 三十匹はいる猫の群れだった。

 

 この猫たちはいったいなんのために……。

 あの〈化け猫〉が呼んだのか。

 

 リングの上では御子内さんが、リングの外では僕と和田が、それぞれまったく想定もしていない危険な状況に陥ってしまっていた……。

 

 

 

  



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ザ・ホード

 

 

 リングを設置した市民公園の林の中から、光る眼が僕らを狙っている。

 その光には特有の翳があり、しかも、僕には見覚えがあった。

 

「……あの〈化け猫〉と一緒だ」

 

 さっき樹上から襲ってきた〈化け猫〉が湛えていたものと同じ輝き。

 一言で説明できる感情。

 あれは「憎しみ」だ。

 不思議な習性を持つ猫であっても、動物であることに変わりはない。

 だから、人間のように激しすぎる喜怒哀楽を持つことはないはずなのに、あの猫たちが瞳に浮かべているものは間違いなく憎悪であった。

 ただし、正確にいうのならば僕に対してではない。

 傍にいる今回の妖怪退治の依頼者である和田雅史に対して注がれているのだ。

 

「あんた、いったい何をした!?」

 

 和田の肩を掴んで言った。

 この尋常ではない憎まれ方は明らかにおかしい。

 動物が自分をイジメた人間のことを覚えていることはよくあることだ。

 虐待をした張本人ではなくて、人間という生き物自体を恐れ、嫌い、近寄らないということもある。

 そういった動物を保護する人たちでも、どうにもならないぐらいに人間を敵視するものもいる。

 だが、物事には限度というものがある。

 僕の目の前にいる猫たちの数はどんどん増えている。

 いったいどこから来たのかわからないぐらい。

 肋骨が浮かび出るほど栄養失調でガリガリのものも、眼がなんらかの病気で潰れているものも、中には飼い猫らしい首輪をしているものもいる。

 このあたり一帯のすべての猫が続々と集結しているかのようにも思えるほどだ。

 それが猫らしい鳴き声も発せずに、ただこちらを睨んでいる。

 恐ろしい光景だった。

 僕は猫嫌いではないが、この光景を見た後ではもう猫は飼えなくなるかもしれない。

 何十匹から、百匹近くにまで膨れ上がりそうな勢いであった。

 

「何をした!?」

 

 もう一度聞いても、和田は瘧にでもかかったように震えるだけで応えない。

 言わないのではない。

 恐怖のあまりに言えないのだ。

 ガタガタと歯を噛み鳴らし、尋常ではない汗を垂らしている。

 さっきまでの僕や御子内さんに向けていた敵意の正体は、この恐怖によるものの裏返しだったのだろう。

 もともと性格が陰険だということもあるだろうが、自分がこれほどまでに猫たちに憎まれているということの理由がはっきりしているからこそ、あそこまで負の感情をダダ漏らししていたのだ。

 猫たちの群れが普通ではない行動をとり、かつ〈化け猫〉という恐ろしい妖怪を招くような何かをこの男はしたのだ。

〈化け猫〉が家の中に侵入し、母親をどこかにやって、その姿に化けて襲おうとするなんてありえないほどの憎しみを招く「何か」をだ。

 

『ギィヤアア!!』

 

 背後から、身も凍るような叫びが届いてきた。

 御子内さん―――ではない。

 それは動物のくぐもった叫びそのものであった。

 振り向くと、御子内さんが〈化け猫〉の右前肢を取り、伸し掛かられた不利なポジションのまま左手で猫の右肢を掴み、上半身を揺らして起こすと同時に、妖怪の前肢の影から反対の腕を通し、腕と輪を作るように自分の上体を肢を極めている側にずらす。

 それから、胴体を両脚でしっかり挟んで腕を背中側に捻り上げ完全に極める。

 腕で「4の字」を作るように見え、絡めた腕を支点としたいわゆるテコの原理の応用で、肩関節を痛めつけることができる技―――腕がらみだった。

 キムラロックとも呼ばれるブラジリアン柔術でも使われる柔道の関節技だ。

 前回の山嵐のときもそうだったが、御子内さんは異様なぐらいに柔道技を綺麗に決めてくる。

 彼女といえば、ナックルパートやローリング・ソバットの各種打撃技、スープレックスやブレーンバスターといった投げ技、そしてなんちゃって八極拳をはじめとする中国拳法のイメージが強いが、実のところ、もともとは柔道か柔術の畑の出身ではないかと僕は睨んでいる。

 間の取り方や、体の入れ方といった細かいところが誰よりも優れているのだ。

 その視点で見てみると、彼女の受け身の取り方はプロレスを初めとした総合格闘技のものよりも、柔道のものに近い。

 今、〈化け猫〉の前肢を極めている腕がらみだってもともとは柔道の技だ。

 猛獣相手に繰り出していいものかはわからないが、簡単に決めてくるあたり、やはりかなりの練習を積んでいるはずだった。

 

『ギャアアアア!!』

 

〈化け猫〉は痛みのあまりに叫びをあげて、力任せに御子内さんを振り回した。

 さすがの前肢の力だ。

 おかげで完璧に決まっていた関節技を御子内さんは解かざるをえない。

 離すと同時に、反対側のコーナーポストまで跳び退る。

 体勢がよくないからだ。

 とはいえ、その隙をついて〈化け猫〉が追撃することはなかった。

 リングの中央付近にいる〈化け猫〉は右足を庇うようにして、動けずにいたからだ。

 御子内さんの腕がらみに破壊されたようだった。

 極めて折るのが関節技。

 地味に見えて実戦ではもっとも恐ろしい技ともいえる。

 

「……京一、〈護摩台〉の結界に近寄れ。そうすれば猫たちはやってこない」

「うん」

 

 僕は和田の腕を掴んで強引に引きずった。

 猫の群れからも逃げたいが、リングにいる〈化け猫〉からも遠ざかりたいという和田に抵抗されたが、無理矢理に移動させる。

 今はまだこいつに無事でいてもらわないとならないのだ。

 結界の強い場所までいくと、黙って見ていた猫たちが牙を剥いて威嚇し始めた、

 相変わらず鳴くことはないが、シャーという猫独特の威嚇音が周囲から聞こえはじめる。

 どうやら目の前だけでなく、この自然公園全体に猫が集まってきているようだ。

 僕たちはリングの結界によってなんとか助けられているといえた。

 

「御子内さん、かなりヤバい状況だよ!」

「わかっている。けど、ボクも動けない。こいつ……思った以上に強敵なんだ」

 

 妖怪が強いのはわかっていることだ。

 だが、御子内さんがこうもはっきりと言うのは非常に珍しい。

 猫の動きを見切っていたぐらいだから、わりと優勢なのかと思ったが、そうではないらしい。

 じっと凝視してみると、彼女の顔色が極端に悪くなっているのがわかった。

 何かをされたのだ。

 妖怪の特殊攻撃か?

 

「顔色が悪いよ、大丈夫!」

「……毒を喰らったみたいだ。長くは保ちそうにない」

「まさか!?」

 

 猫に毒なんかあるのか?

 聞いたこともないよ。

 でも、実際に御子内さんは苦しそうにぜーぜーと息を吐いている。

 明らかに苦しそうだ。

 それでもあの腕がらみが繰り出せる御子内さんは凄まじいとしかいいようがない。

 

「……猫の息は毒ともいうからね。ただ、とんでもなく臭いだけじゃないようだ」

 

 傍目でも顔色の悪い御子内さんと、右足を引きずり出した〈化け猫〉。

 両者ともに致命的ではないが、戦いに支障をきたす損害を受けている。

〈化け猫〉のタフネスぶりを考えると、このままでは御子内さんの方がジリ貧だ。

 

「―――このままだと御子内さんが圧倒的に不利だ。なんとかしないと……」

 

 しかし、僕にできることはほとんどない。

 結界の力に守られた退魔巫女でさえ、ここまで苦戦している妖怪に対して、一般人の僕ができることなんて。

 ただ、御子内さんを応援するしかないのか。

 

「嫌だ、近寄んな、この畜生ども!!」

 

 石にでも躓いて尻もちをついた和田が拒絶していた。

 迫る猫たちを。

 結界が張られていて入ってこられないはずなのに、猫たちが前肢を高く掲げて招いていた。

 死を招きいれる猫とでもいうべきか。

 和田を手招いている。

 

「いやだいやだいやだ―――!! こっちに来るな!! ゴミども!!」

 

 半狂乱の和田はもう自分が何を言っているのかさえわかっていなさそうだ。

 ただ、これほどの状態だというのに僕は彼に対する同情を微塵も感じない。

 きっと、それだけのことをしたのだろうとしか思えないからだ。

 ふと、気がつくとリングの脇に和田のアタッシュケースが転がっていた。

 そういえばさっき御子内さんを見ていたときに、あれを隠すように置いていたな。

 一体、何が入っているんだ。

 思わず近寄ってしまった。

 外見はごく普通のアタッシュケースだ。

 ただ、ところどころに妙にこびりついた汚れがある。

 和田は僕の行動に気がついていない。

 胸騒ぎがしていたこともあり、僕はそのアタッシュケースを無理矢理に開いた。

 

「うっ!」

 

 吐き気がした。

 口を押さえる。

 離してしまったら間違いなくゲロが出る。

 だが、これでわかった。

 和田が猫たちに襲われた訳が。

 伝説の〈化け猫〉がつけ狙う理由が。

 

 ―――アタッシュケースの中に詰められていたものは、何十匹分もの猫の頭部の干し首であったのだ……。

 

 



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巫女と猫

 

 

 猫の干し首。

 

 その出来からして本物の猫の死体から首を切断して加工した、手作りのものというのは明らかだった。

 どうみても市販の品ではない。

 しかも、見た目はすべて同じ方法で作成されているようであった上、一つ一つ専用のケースに入れて、大事にしていることが窺える。

 ということは、これは一人の人間のハンドメイドであるこということは疑いのないところだ。

 そして、その一人とは―――

 

「和田の隠し事はこれか……」

 

 極めて単純な話だ。

 彼は、一言で言い表すのなら、「猫の虐待者」だったのだ。

 虐待といっても致死性のものであり、最終的には死んでしまった猫の首を切断して、玩具にしてしまうようなレベルの異常者。

 このアタッシュケースに詰まっているのはざっと二十匹分ぐらい。

 作成した中でも出来のいいお気に入りだけだとすると、和田が虐待して来た猫の総数は見当もつかない。

 僕たちの日本においては、快楽殺人の起きる予兆として小動物が殺されるという事件はよく確認されている。

 有名な神戸の事件なんかでもそうだ。

 生命の価値というものに頓着しない、まさに生命観の歪んだものによって度々引き起こされるものなのだ。

 僕ら人間だけの価値観によると、この和田のように猫の虐待どまりで、悪くて器物損壊程度でとどまっていてくれてラッキーといったところだろう。

 ()()()()()()()()()()()()ということで。

 だが、猫の側から見たら、同胞を何十、下手したら百単位で虐殺されているのである。

 とても許せるものではないだろう。

 しかも、干し首という、まさに玩具そのものとして扱われながら。

 その猫たちの怨念が噴出したものが、あの〈化け猫〉なのだろう。

 和田に対しての同胞の恨みを晴らさんとしているのだ。

 

「御子内さん!」

 

 リングを見ると、御子内さんと〈化け猫〉が一進一退の攻防を繰り広げていた。

〈化け猫〉の肢を使った戦い方は変わらず、しかもいい一撃を喰らっても、ほとんど怯まないタフネスを誇る。

 咳き込みながら戦う御子内さんでは、このままだとジリ貧だ。

 ただでさえ危険な状態なのに煩わせるわけにいかない。

 くそ―――ならば―――

 

「おい、猫たち!」

 

 僕は猫たちの前に躍り出た。

 そして、和田のアタッシュケースを差し出す。

 

「君たちの同胞は返す! 和田にも償わせる! だから、恨みを抑えてくれ! 頼むよ!」

 

 すると、アタッシュケースを取り戻そうと和田がにじり寄ってきた。

 こんなものでも彼にとっては大事なものなのだろう。

 でも、大事だからといって許されるものと許されないものがある。

 この場合は後者だ。

 和田の行為はただの悪業でしかない。

 

「てめえ、俺の力作に何をするんだ……!!」

「諦めなよ。直接君自身を猫たちに報復させるために差し出さないだけ、僕は随分と寛大な方だと思うけどね」

 

 猫たちを刺激しないように、僕はアタッシュケースを開けて、そっと滑らした。

 すーとアタッシュケースが猫たちの前に行く。

 最初は警戒していたが、何もないとわかると猫たちは口々に入れ物ごと干し首を口で器用に持ち出す。

 そして、次々に林の中へと消えていった。

 気がついた時には、アタッシュケースの中は空になっていた。

 あの干し首がどうなるかはわからない。

 猫たちのための墓場があるのならそこに運びこまれるのかもしれない。

 ただ、そのことを僕ら人間が知る必要はない。

 彼らの領域の出来事なのだ。

 

「俺の……力作が……」

 

 がっくりと項垂れる和田。

 だが、まったく同情の余地はない。

 こいつがどれだけの命を弄んだかを考えれば。

 

『シャアアア!!』

 

 振り向くと、リングの上でも試合が動いていた。

〈化け猫〉の攻撃に対して、御子内さんの手数が明らかに上回り始めているのだ。

 もしかしたら、猫たちの恨みが少しは晴れたのかもしれない。

 その効果が〈化け猫〉の動きを鈍らせているのか。

 だが、〈化け猫〉自身はまだ戦いを止める気配がない。

 御子内さんを斃そうと暴れ続ける。

 

「だっしゃあああ!!」

 

 下方から擦りあがるような御子内さんのハイキックが〈化け猫〉の顔面に決まる。

 怒りに任せて後肢で立ち上がって、左右の爪で風を切り裂く。

 

右回転(らいとさーくる)

 

 御子内さんの落ち着いた右手の回転が〈化け猫〉の爪を捌く。

 

左回転(れふとさーくる)

 

 素早い左手の回転が〈化け猫〉の攻撃を弾く。

 体勢を崩したところで再び、ハイキックによるカウンター。

 すでに御子内さんは自分のペースを取り戻していた。

 時折咳き込んではいたが、毒の効果を見越した上で、最小限の動きで優位を保つようにしているのだ。

 

「キシャアアア!!」

 

〈化け猫〉が後ろに飛んだ。

 体勢を整えるつもりなのか。

 追撃しようとした御子内さんの足元に黒くて長い影が迫る。

 さっき彼女を転ばした影だった。

 それは〈化け猫〉の尾であった。

〈化け猫〉は猫又とも呼ばれることもあり、二又の尾を持つこともある。

 その片方を使い、御子内さんの文字通り足を引っ張ろうとしたのだ。

 だが、巫女レスラーに一度見せた技は通じない。

 

「フン!」

 

 御子内さんの震脚が尾を踏みしめる。

 尾を踏まれたことで逆に〈化け猫〉の動きがストップする。

 そのまま、まっすぐに進み、御子内さんが舞うように後ろ回し蹴りを爆発させた。

 そして、背中を見せるようにもう一回転して、跳びあがりながらの後ろ回し蹴り―――フライング・ニール・キックが放たれた。

 二連続の大技が〈化け猫〉を叩きのめす。

 

「これで終わりだよ!」

 

 御子内さんの宣言通りに〈化け猫〉は崩れ落ちた。

 同胞の恨みのために変化した妖怪も、ついに巫女レスラーの波状攻撃の前に屈したのである。

 

 

        ◇◆◇

 

 

「……いました、この家の奥さんです」

 

 帯同した禰宜の一人が、畳を剥がしてその下に押し込まれていた和田家の母親を見つけ出したようだった。

 引退後、退魔巫女のサポート役を務めている不知火(しらぬい)こぶしは、その母親に息があることを確認して一安心した。

 

「化け猫譚だとたいていは噛み殺されているから、運がいいわね。このお母さまは」

「こぶしさま、二階の和田雅史の部屋から、やはり猫の死体がいくつか発見されました」

 

 二階にいっていた禰宜からも報告が入る。

 やはり或子からの報告通りである。

 

「全部、丁重に回収して。社務所で懇意にしているお墓に埋葬するから」

「わかりました」

 

 こぶしは後始末の面倒くささにため息をついた。

 とはいえ、事件そのものは終わっている。

 妖怪退治という退魔巫女の仕事としては。

 だが、猫の虐待という悪業から今回の依頼主がもっと大きな悪業を重ねないとは限らない。

 そのための予防措置もしておく必要がある。

 退魔巫女が妖怪から助けた結果、さらに大きな犠牲が出たなんて言ったら笑い話にもならないからだ。

 和田家の捜索は、行方不明になった母親の行方を探すのと和田雅史の犯罪の証拠を集めるという二つの目的のためになされたという訳である。

 

「或子ちゃんのいうことももっともだ」

 

 退魔巫女の御子内或子からの連絡では、和田雅史の処遇を検討すべきとあった。

 こぶしたちもそれを必要と判断した。

 巫女がそういう意見を具申することは珍しく、こぶしたちとしては真剣に受け止めざるを得なかったということもある。

 

「ただ、まあ、きっとあの子の差し金なんだろうけど」

 

 こぶしは一度だけ会った少年の顔を思い浮かべた。

 松戸での事件で面識を得たが、それだけでも頭のいい優しい少年だとわかっている。

 或子が退魔巫女として一皮むけたのも彼のおかげだろう。

 今回の事件もきっと彼が重要な役をになったにちがいない。

 

「彼がいる限り、或子ちゃんは大丈夫かな」

 

 こぶしは微笑んだ。

 猫を虐待死させるようなものもいれば、猫のために何かをするものもいて、世界は太極図のようにバランスがとれている。

 それだけでいい。

 その世界のために退魔巫女は働けばいいのだ。

 

 ……ただ、そう思っていた。

 



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猫の祟りぢゃ

 

 

「……で、和田はどうなったの?」

 

 イートトンのついている和菓子屋でどら焼きを食べているとき、ふと思い出したのであの〈化け猫〉退治の顛末を聞いてみた。

 ぱくり、もぐもぐ。

 さすが300円のどら焼きはうまい。

 抹茶だと割高になるので、おかわりのできる緑茶で飲み干す。

 

「彼については細かくは聞いていない。ただ、施設に入れられたという話らしいよ」

「施設?」

「うん。あの手の精神のねじ曲がったタイプが条件反射的に生命の大切さを考えられるようになる施設だね」

「……何それ? もう少し具体的にならない?」

「ボクもよく知らないけど、殺し殺されるのが嫌になるぐらいの苦行を与えられる修業の場みたいなものって話。あまり近寄りたくない場所だね」

「そんなものが世の中にあるの?」

「表向きの顔はテレビとかでも取材に来たりしているって話だから、裏の顔が知られていないだけだろうけど、実際にあるよ」

 

 ……しれっとした顔で恐ろしいことをいう御子内さん。

 なんだ、それ。

 和田に同情する気持ちは欠片もないけれど、退魔の巫女の所属する社務所の闇を垣間見た気がする。

 

「お待ちどうッス」

「待たせた」

 

 自分の分のあんみつやどら焼きを買ってきた蒼と切子の二人も席に着く。

 これで今日、映画に行く四人がそろった訳だ。

 なんというか、最近よく一緒になる組み合わせである。

 

「……猫といえば、蒼さん、例の駐車場の猫だまりの件はどうなったの?」

「おお、それの話もする予定だったんスよ。京一くんの言う通りだったッス」

「何の話?」

「うちのお父さんの車に猫の足跡がつくってやつ。切子には話したじゃないッスか」

「……私、蒼の言動になんの興味もないから」

「酷いッス!」

 

 切子さんの酷すぎる発言はさておいて、蒼さんの問題については興味があった。

 僕なりにアドバイスしておいたことがあったので、気にはなっていたのだ。

 

「京一くんの言う通りに犯人は後ろ隣りの家の人だったッス」

「犯人?」

 

 御子内さんが首をかしげた。

 そうだろう。

 もともとは猫が車に足跡をつけるからどうにかしてほしいという話だったのに、「犯人」という単語が出れば疑問符もでるというものだ。

 

「そうッス! なんと、うちの車にだけ猫が溜まるように、ペットショップからマタタビを買ってきて薄めた水溶液を作って、毎日ぶっかけてたんですよ!」

「それで猫が寄ってくるの?」

「うッス」

「なんのためにだい?」

「もちろん、我が家に対する嫌がらせッスよ!」

 

 水に溶いたマタタビを使って猫をおびき寄せる。

 どうやら僕の推理は当たっていたらしい、 

 ……これは猫のトイレの躾をするために使われることのあるやり方で、トイレ用の砂場にマタタビ水を撒くことで習慣化させるというものである。

 蒼さんの家の車にだけ、いつも猫が溜まるというのは常識的にはありえない。

 だとすると、他の要因があるはずだと僕は推理したのだ。

 それで思いついたのが、その躾のやり方を利用した嫌がらせかイタズラの類である。

 もともと、BMWを乗るような家が月極駐車場を借りているのがおかしいと思ったら、家の駐車場が使えないらしい。

 どうしてかというと、隣の家とのトラブルが原因で駐車スペースが使えない状況が続き、解決に何か月もかかっているから仕方なく借りているという話だ。

 と、なると大地家には、娘がわかっていない深刻な隣家との対立がある可能性もある。

 その段階で、何か面倒な問題が生じているというのなら、それを原因として執拗な嫌がらせを受けていると考えるのも無理な思考の転換ではないだろう。

 ……まあ、そういうことを僕は蒼さんに伝えたのだ。

 あくまでも可能性の問題だと逃げをうってからだけど。

 ただ、それが的を射ていたというのならば結果オーライということになる。

 

「……実はそれ以外にも色々とされていたらしくて、お父さんなんかわざわざ証拠のビデオまでとって怒鳴りこみに行ったんスよ!」

「さらに揉めるじゃない……」

「いえいえ、やられたらやり返す! 倍返しだ! 猫の恩返しッス!」

「意味不明」

 

 まあ、猫だって同胞の復讐をするために化けることがあるんだから、人間だって因果応報を実践しようとするだろう。

 ただ、大地家のご近所トラブルはまだ終わりそうもないね。

 

「おっ、そうだ。今日の映画を終わったら、みんなで猫カフェ行かないッスか? モフモフ触り放題の店が近くにあるんスよ」

「そんなのあんたの家の車にたくさんくるんでしょ」

「もう来ないンスよ。で、ちょっと寂しくなっちゃって。―――ねえ、みんなで行きましょうよお」

 

 僕としてはちょっと遠慮したいところだった。

 アレ以来、ちょっとトラウマで。

 なんといっても百匹以上の猫にガンを飛ばされたのだから。

 ふと隣を見ると、くちょんと御子内さんがくしゃみをしていた。

 

「どうしたの?」

「んー、猫と聞くと鼻がかゆくなってね。あー、蒼、ボクは猫カフェには行かないから、みんなだけで行ってくれ」

「おや、或子ちゃん、どうしたんスか? 猫カフェ嫌いなんでスか?」

 

 御子内さんは鼻を擦り、

 

「ちょっと猫の毒を喰らってしまってね。それ以来、猫は駄目なんだ」

 

 そういえば、あの〈化け猫〉から受けた毒はどうなってしまったんだろう。

 本人がピンピンしているから忘れていた。

 きちんと解毒したのだろうか。

 

「毒って何? 猫が毒をもっているの?」

「そうッス! 蛇や犬じゃあるまいし!」

「犬にはないと思うよ。―――大丈夫だったの?」

 

 すると御子内さんは思い出すのも嫌という顔をして、

 

「毒というか―――アレルギーになってしまったんだ、猫アレルギーにね。『四足獣誌』という書物に「猫の臭いと刺激が体液を消耗し肺臓を損なう」として記されていたのは、猫のもつアレルゲンとしての部分が、昔の人にとってまるで毒のように思われていたからなんだろう。今のボクのようにね」

 

 と自嘲気味に笑う。

 わりと残念そうだ。

 これから一生猫に近寄れないとなると少しは寂しくなるのかもしれない。

 猫は人間の友達だからね。

 

「まったく……ボクも〈化け猫〉に祟られてしまったという訳だよ」

 

 と肩をすくめる御子内或子であった……。

 

 

 

 

 

 

参考・引用文献

 「にほんの怪奇ばなし 佐賀の化け猫」 小暮正夫 岩崎書店

 「江戸歌舞伎の怪談と化け物」 横山泰子 講談社選書メチエ

 「猫の神話」 池上正太 新紀元社



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第10試合 平成抜剣業
武蔵野の剣士


 

 ネットオークションで、榊原真弓は面白そうなものを見つけていた。

 

[各種模造刀二十本(錆びついたものあり。刃がついたものなし。鞘が抜けないものあり)一万円から]

 

 という出品について、あまり考えずに入札に加わった。

 一万円からという値段については少し考えたが、二十振りもの模造刀が手に入れば、色々と使い道はある。

 趣味で参加している舞台演劇の小道具としても使えるが、最も大きな理由としては最近彼女がハマっている「有名な刀が擬人化して魔物と戦う」ゲームのコスプレに使えないかというものだった。

 すでに彼女の部屋はその手の衣装で埋め尽くされているので、落札出来たらかなり邪魔になるとは思われたが、いざとなったら車で二十分ほどの実家の蔵にぶちこんでしまえばいいだけのことだ。

 実家の農家は兄が継ぐことになっているので、娘は早々に追い出されることになったが、荷物ぐらいは預かってもらえるだろう。

 入札については他のマニアやらと競ることになるだろうと思っていたが、拍子抜けするぐらいに簡単に落札できた。

 落札価格は二万円。

 まともに新品を一振り買うよりもはるかに安い。

 入金してからしばらくして、冷蔵庫でも入りそうな段ボールに梱包された二十振りが届けられた。

 中身は予想通りだった。

 一応、オークションに掛けたということで一本一本がプチプチシートに巻かれていたが、その上からガムテープをまとめて貼っただけの雑な梱包だ。

 丁寧とは程遠い。

 もっとも、数えてみたら全部で二十三振りもあり、ある意味ではお得な買い物かもしれなかった。

 ざっと見たところ長年放置されていたものを集めて売りに出したという感じがプンプンするが、一つ二つ梱包を解いてみると意外とものは良かった。

 日本刀、というのがよくわかるものばかりだ。

 試しに一振りを鞘から抜いてみると、ずっしりとくるぐらいに重かったが、刃の方はしっかりとしていた。

 錆びついているということだったが、ざっと見渡した限りではそこまで状態の悪いものは一振りぐらいしか見当たらない。

 とりあえずそれは後回しにするということで、真弓は他をあたってみた。

 模造刀というだけあって、一目でわかるレベルのチャチな造りのものもあったが、全体的には悪くない。

 これで二万円というのは破格だ。

 とはいえ、真弓はゲームが好きなだけで本当に鑑定眼があるわけではないから、その名前まではわからない。

 あとで色々と調べてみて、もし有名なもののレプリカがあったら、それを軸に次のコスプレのネタを考えようなどと考えていた。

 大量に用意したティッシュペーパーで鞘の表面の汚れや柄や柄頭の埃を拭き取る。

 それにしてもどういう出品者なんだろう。

 真弓は首をひねった。

 出品者したものの顔がまったく見えてこない。

 模造刀二十三振りをまとめて売りに出すという行為は極めて珍しいことだ。

 段ボールの下に敷いてあったのはスポーツ新聞だったが、つい一ヶ月ほどのものでどこにでもありふれた品だ。

 そこで、出品者のページを見ると、わけのわからないものをセットで売ることが多いようだった。

 レコード何百枚詰め合わせとか、漫画本セットで百冊とか、だ。

 

「おそらく業者かな」

 

 真弓はそう結論付けた。

 清掃業者とかが潰れそうになった芝居小屋とかから集めたものを売りに出しているのだろうと。

 粗大ゴミを二万円で引き取ってもらえるのなら、あちらだってバンバンザイだろうし。

 

「まあ、私には関係ないか。あ、これニッカリ青江っぽい」

 

 少しだけ浮かんだ疑問をすべて忘れて、真弓はお宝をほんわかしながら整頓していた。

 そして、最後に段ボールの下に残ったのが、プチプチの上からでも状態が悪いとわかる品だった。

 そっと取り上げてみて、ガムテープを剥がす。

 やはり汚れがひどい。

 柄巻きなんて雑巾のようだ。

 鞘の下端部にある金具のこじりは欠けていて、下緒を通す栗型も割れている。

 他のものと違い、完全にボロボロだ。

 この様子では刃も酷いものだろうと鞘走らせてみると、なんと思った以上に状態がいい。

 鎬造りで腰反りも高く、いかにも刀という様子だ。

 

「なんかおかしいな」

 

 だが、真弓もすぐに異変に気がついた。

 この一振りだけが他の模造刀とは雰囲気が違うのだ。

 異常なほどに寒気がする。

 どこかで窓が開いているのかと思ったほどだ。

 ふと思いついて、机の上にあった紙を一枚とって、天に向けた刃の上に落とした。

 すると刃に触れたとどうかもわからないのに、紙はさらりと切断される。

 

「―――ほ、本物なの!?」

 

 模造刀ばかりのはずなのに、この刃は鋭い切れ味を持っている。

 落としただけの紙を切断するなんて。

 怖くなって床に置こうとした時、真弓の全身が凍り付いた。

 硬直して指さえも動かせない。

 一体、何があったとパニックになりかけていると、部屋の隅に人が座っているのが見えた。

 立膝で横柄に座っている。

 見覚えのない男だった。

 纏っているのがまるで時代劇に出るかのような着流しの着物だとわかると恐怖が滝のように吹き上がる。

 

「―――だ……れ?」

 

 辛うじて絞り出した声を、着物の男はせせら笑いで返した。

 

『ほお。わりといい血筋に出会えたじゃねえか。おめえ、先祖に剣客がいるな』

 

 真弓は答えられない。

 そもそも、どんなに力を振り絞ってももう何もできない。

 思考さえ麻痺し始めた。

 

『剣は意外と血がものを言うからなあ。女だろうが、嗜みもなかろうが、強え剣客の子孫もまた強えもんだ。―――おいらとしては中々運がよかったというところかよ』

「……」

『ああ、気にしなくていいぜ。おめえには一切合切関係のねえ話だからよ。ただ、まあ、そうだな。―――今の日ノ本にどれだけ武人がいるかはしらねえが、それとやりあうのに力をだしてもらう予定ってだけだからよ、ま、よろしくな』

 

 何?

 この男はいったい何を言っているの?

 私に何をさせようとしているの?

 

 だが、真弓の抵抗は虚しく、彼女の意識は闇に呑み込まれていった……。

 

 

    ◇◆◇

 

 

 僕たちは多摩のとある市に訪れていた。

 なんとこの市にはJRも私鉄も含めて鉄道の駅というものがなく、辛うじて多摩モノレールが通っているだけという陸の孤島のような場所だった。

 さらに、僕たちが招かれてやってきたお屋敷に行くための公共交通機関は巡回バスぐらいしかないという不便さだった。

 そのため、わざわざ車で迎えに来てもらうハメになってしまった。

 だが、ハイヤーのお抱え運転手つきというものに生まれて初めて乗った僕は多少興奮していた。

 こぶしさんのベンツ・W222よりも乗り心地がよく、さすがと思わせる快適さだ。

 もっとも、僕の相方であるところの御子内さんはずっと仏頂面を崩さない。

 よほど腹に据えかねることがなければ、彼女はこんな顔をしないので珍しいこともあるものである。

 招かれたお屋敷は下手な学校の校庭ぐらいはありそうな広さで、庭の反対側には原生林が広がっているというぐらいだ。

 しかも、屋敷そのものの大きさもまた尋常ではない。

 多摩のこのあたりはかなり大きな家が建ち並んではいるが、そんなの比べ物にならない広さだ。

 窓から見える蔵も、三つぐらいはある。

 

「でっかいお屋敷だね」

「ふん。どんなに大きかろうと住んでいるものがそれに相応しいとは限らないからね」

 

 ここまで来てもまだ機嫌が悪い。

 僕らは、二十畳はある和室に案内され、少しだけ待たされた。

 とはいえ、僕らを招いた人物がやって来るまで、心を整える時間があってむしろ助かったけれど。

 入ってきたのは、袴をはかない着流しの涼し気な着物の人物だった。

 それから用意してあった座布団にだらしなく座り、肘立てに頬杖をつくように寄りかかる。

 手にした扇子で扇ぎつつ、退屈そうな欠伸をした。

 長い髪を適当に後ろでポニーテールにしているだけの、身だしなみははっきりいって下の下だが、匂い立つような色香の塊といった―――女の子だった。

 真っ先に浮かんだ「花魁」という単語がぴったりくるようにエロい少女である。

 ぶっちゃけ、この僕が端的にエロいといってしまうのだから、それがどれほどのレベルなのか付き合いの長い人なら想像できるはずだ。

 

「……なんだ、当代一の退魔巫女を寄越してくれといったのに、やってきたのは不退転の特攻しかできないおまえかよ、或子」

「ボクだって好きで来た訳じゃないよ。だいたい、武蔵野柳生の総帥がキミみたいなコスプレ女だというのが未だに信じられないね。三人いる妹の誰かに譲ったほうがいいんじゃないかい、柳生美厳(やぎゅうみよし)

 

 着物を着ただけでコスプレとはいい過ぎのような気もするが、実のところ、御子内さんが美厳と呼んだ女性には大きすぎる外見上の特徴があった。

 それは、右目につけられた眼帯である。

 しかも、刀の鍔を紐で結んだ時代劇っぽい品だ。

 確かにあんなものをつけていたらコスプレ呼ばわりも仕方のないところか。

 もっとも、それはリングシューズで巫女装束の彼女が言っていいものではない。

 どっちもどっちであろう。

 

「おれが好きで柳生(ここ)の総帥をしていると思っているのかよ。こんな役、別に妹の誰が継ごうが婿を取ろうが知ったことじゃない。ただ、慣れた土地を出ていくのが面倒だからここにいるだけだ」

「ふん。寝ているだけで屍山血河に辿り着けるはずはないね。キミのそれはただ自分の怠惰を誤魔化しているだけさ」

「巷の妖怪相手にチビチビ経験値を積んでいるだけのおまえが言うことか。もっとでっかい、ビッグな女になれよ」

「ボクら退魔巫女の本懐は妖魅の手から衆生を救うことさ。いざというときまで腰を上げない柳生と一緒にしないでくれ」

 

 会話のニュアンスでこの二人が知り合いというのはわかるし、物凄く仲が悪そうなのも読み取れた。

 ここまでギスギスした関係というのもそうはないだろうというぐらいに。

 そも、ここの主人らしい美厳さんという人は心の底からかったるそうで、客を歓迎する気は微塵もないし、招かれた御子内さんも敬う気持ちは欠片も見せていない。それどころか酷い挑発に勤しんでいる。

 なんだろうねこの居心地の悪い空間。

 肩身が狭い。

 

「……ん、おまえは誰だ?」

 

 美厳さんがようやく僕の存在に気がついたらしい。

 少しほっとした。

 

「えっと、僕は……」

「彼は京一。ボクの助手さ。で、武蔵野柳生が退魔の巫女になんの用なんだい? なければ帰るよ。いや、むしろ早く帰りたい」

「おれは柳生美厳だ。よろしくな、京一。よし、お茶を出そう。どんなビッグなお茶がいい?」

「……お茶ですか?」

「京一、さっさと断りたまえ。こんな屋敷から出てきたものを腹に入れたらひっくり返るよ。どんな毒が入っているか知れたものじゃない」

「毒なんざいれねえよ。で、京一、いい京都の茶があるんだ。一杯、ご所望といかないか?」

「忍者のいうことなんて信用できないね! さあ、京一、断るんだ!」

 

 なんだろうね、この喧々とした雰囲気。

 僕はいたたまれなくて仕方ないよ。

 しかし、色々と情報が出過ぎて僕の方が整頓しきれない。

 いったい、この美厳という女の子は何者なんだろう。

 名前にはとても聞き覚えがあるんだけど……

 

「いい加減にしてください! 二人とも!」

 

 後方から一喝された。

 さほど大きな訳ではないのに、その場のすべてを黙らせる威厳に満ちた声だった。

 思わず振り向くと、そこにはお茶と菓子を乗せたお盆を持ったこれまた女の子が立っていた。

 こっちの子は普通に女性用の藍の着物を着ている。

 髪型も普通のストレートのロング。

 ただ、美厳さんと同様、かなりの美少女であるということは共通点といえるかもしれない。

 

冬弥(ふゆみ)か。おれと客の会話に口を出すなよ」

「姉さまは柳生の総帥であるということを忘れすぎです。お客様には相応のおふるまいをなさってもらわないと当家の格式に関わります」

「とは言ってもなあ……」

「或子さまもです。〈社務所〉から派遣された媛巫女さまがそのような乱暴勝手な振る舞いをされたら、あちらのご名誉に傷がつきます。ご自重してください」

「う、うん。ごめん」

「二人とも、どちらも公ではないとしても組織の代表として話をしているのだという自覚を忘れずにこの場に当たってくださらないと、困ります。いいですね」

 

 冬弥さんに叱られて、さすがの二人も少ししょぼんとなっていた。

 妹に叱られる姉も、来訪先に窘められる巫女も、まったくもってどっちもどっちすぎて庇う気にもなれないけれど。

 

「さあ、京一さまも召し上がってください。茶は京のものですが、こちらの茶請けはたった今、わたくしがつくったものですので、お口に合えばよろしいのですが……」

「あ、すいません。いただきます」

 

 冬弥さんが出してくれたお茶を飲んで一息つくと、剣呑な雰囲気も何処かに行ってしまった。

 さすがの二人も反省したのだろう。

 はっきりとお目付け役とわかるように隅に陣取ってニコニコしている冬弥さんを、これ以上怒らせるのはヤバいと悟ったのかもしれないが。

 

「それで、柳生の総帥。ボクを呼んだのはどうしてだい?」

 

 御子内さんが普通にビジネスライクになった。

 含むところがあるのは確かだが、多少大人になったのだろう。

 

「簡単だ。手を貸せ」

「やだよ。―――で、相手は?」

 

 そこで即答しなくていいから。

 

「亡霊だよ。しかも、厄介なことにうちのご先祖さまなのさ」

「……亡霊だって? しかも、柳生のものなのかい?」

「ああ」

 

 柳生美厳は苛立ちを隠し切れずに、吐き捨てるように言った。

 

「本物か偽物かはわからないが、件《くだん》の亡霊はこう名乗っている―――『おれは柳生十兵衛三厳だ』とな」

 



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剣風荒れる

 

 

 その女は、どう見ても普通の大学生としか思えない服装だった、という。

 色の落ちたウォッシュジーンズとしまむらで買ってきたかのような、地味な色合いのトレーナーを着て、髪もゴムで留めただけの化粧なしのスッピン。

 若い娘でなければ生活に疲れた主婦といってもいい出で立ちであった。

 ただし、その手に持つ異物だけを除いて。

 

「あんた、それ……」

 

 いきなり道場の入り口に姿を現した女が手にしているものを、長田大輔はよく知っていた。

 黒い拵えの鞘とその中に納められているであろう鋼の刃。

 間違いなく日本刀だ。

 両手に一本ずつ握っている。

 しかし、持ち主の見た目とのギャップが凄まじい。

 普通の女子大生と日本刀。

 どんな漫画だ、と叫びたくなるような組み合わせだった。

 

『あんたが、今の日ノ本の……学生とやらの天下一かい?』

 

 女の口から聞こえてきたのは、異常なことにとても低い男の声だった。

 自分の耳がおかしくなったかと思う。

 もしかして、女子大生のように見えるが実は男であったのか、と思わず疑ってしまったほどに。

 しかし、トレーナーの胸の部分の膨らみは女のもののように豊かだ。

 

「ここは、うちの大学の道場だ。ふざけたことをするのなら、女であろうと叩きだすぞ」

 

 長田は警告した。

 独りで練習していたせいもあり、何か厄介ごとを持ち込まれたらいくら主将の彼でも責任をとらざるを得ない。

 手にしていた竹刀を突き付ける。

 

『国土院大学の剣道部四年、長田大輔。大学選手権を二年連続で奪う。……肩書には今一つ馴染めねえが、まあその玩具を持つには相応しいぐらいには、強そうだ』

「なんだと?」

 

 挑発……されているのか。

 長田は訝しんだ。

 自分のことを知ってはいるらしいが、それにしても大学選手権を二連覇した名選手を相手にするには恐れを知らない態度だ。

 得体が知れないのではなくて、ただの馬鹿なのか。

 それとも……

 

『使え。おれのものほどじゃあないが、それなりの業物だ。おまえぐらいの腕ならば使いこなせるだろうさ』

 

 足元に鞘ごとの日本刀が転がってきた。

 こんな玩具をどうするつもりだと退かそうとしたが、予想を超えてはるかに重い。

 居合の稽古で使う真剣のようであった。

 思わず抜き放ってみて、初めてわかった。

 女が寄越した日本刀は本物であった。

 しかも、刃は零れていない。

 紛れもない真剣。

 

「……なんだ、これは?」

『それぐらい使えんだろ? 日ノ本の剣人なら』

「どういうことだ?」

『まだ、わかんねえの? おれと果たし合えということだよ。わざわざおめえのために控えの刀まで用意したんだからよ』

 

 長田はすでにこれが夢でも冗談でもないことを悟っていた。

 女から吹き付ける剣気が、彼を逃げることも避けることもできない決闘の嵐の真っただ中に包み込んでくる。

 生か、死か。

 ここにあるのは間違いなく死を掛けた決闘の風圏であった。

 

「殺し合いをしろと……」

『果し合いだよ。おれとおめえのどっちが強いかのな』

「ちょっと待て、今は平成だぞ。決闘なんて……」

『グタグダ言うな。平成だろうが慶安だろうが、そんなこたあどうでもいいんだよ。おれたちがやり合う理由はただ一つ。どっちが上かということだけだぜ』

 

 女の言うことには時代錯誤すぎてついていけなかった。

 だが、それでもわかることはある。

 物心ついた頃から剣道を学んでいたこの道二十年の長田だったからこそわかることが。

 

(あいつの剣気は本物だ。しかも、文句なく強い)

 

 長田は鞘から刀を抜き、そして青眼に構える。

 鞘は捨てた。

 剣道家である彼にとって鞘は特に必要のないものだからだ。

 その様子を見て、女はせせら笑った。

 

『―――ったく、しょうがねえな。左胴を斬られたらどうすんだよ。まったく、前の奴もそうだったが、今生の剣士は立ち合いっものをわかっていねえ』

 

 そう苦言を呈すると、女は持っていた刀を腰に巻いていた帯に差して、すっと引き抜いた。

 二尺四寸の常寸の刀を苦も無くすらりと。

 それだけで技量が窺える。

 抜刀は手の動きだけでするものではない。

 腰を回してするものだ。

 何の抵抗もなく、また無音で鞘走らせることができる。

ただそれだけで実力が推し量れる。

あの男の声で喋る女は、紛れもなく本物の剣士であった。

 

「ぬぅ」

 

 長田は青眼のまま。

 真剣で斬りあったことなどない。

 だが、剣士としての本能が彼を奮い立たせる。

 このまま、あの女を斬り殺して刑務所に行ったとしてもかまわない。

 これまで培ってきたすべてのものを失くしたとしても後悔はしない。

 なぜなら、あの女は彼の大事なものを奪おうとしているのだから。

 彼を彼たらしめている決して譲れない部分―――

 

 剣士としての執念を。

 

 心臓が破裂せんばかりになる。

 全身の血が凍り、骨肉すべてが岩のように固まる。

 奪われてなるものか。

 俺の人生のすべてといっていい剣道に掛けた情熱をこんなところで。

 だが、それと同時に滾ってもいた。

 命がけの戦いに挑む剣士の野生が魂を脈づかせる。

 

『はは、いい感じだぞ。もう少し真剣に慣れたおまえとし合えたらもっと良かったかもしれねえ。ただ、それぐらいでいいか。……うちの当代とやり合う前の相手としてはな』

「……」

 

 もう挑発は聞かない。

 何を言っても無視する。

 ただ、ただ、集中して、没頭して、剣気を昂ぶらせる。

 長田は相手が女であることも異常な状況もすべて忘れた。

 戦いの次元に入り込んだ。

 そして、そのままするすると滑るような足運びで前へと進む。

 これまで何百もの同年代の剣士を地に這わせてきた必殺の面が、裂帛の気合いとともに振り下ろされる。

 長田の前進を女は愉しそうに見つめていた。

 剣は切っ先を下にだらんと下げている。

 一瞬、下段の構えかと思ったが、それにしては自然体すぎる。

 とても構えには見えない、まるで舐めきったような構え。

 しかし、長田にはわかっていた。

 これこそがこの女の、応変に処するための最善の構えなのだと。

 長田の怒涛のごとき一撃がぶつかろうとしたとき、女の剣尖がぴいっと鶺鴒の尾のように上がり、煌めく。

同時に長田の右の拳が切り裂かれた。

まるでボクシングのカウンターのように剣と共に振り下ろした柄を握る拳を斬られたのだと、剣士としての二十年が彼に伝える。

 もう竹刀さえ握れないとわかったが、実のところ、長田は満足していた。

 すべてを失くしたとしても得るものがあったからだ。

 今の一瞬の攻防の充実感。

 生きているうちには絶対に味わえないかもしれない高揚感。

 それを体感できたからだ。

 痛みによって意識が消えていく刹那―――女の声が耳に残った。

 

『おまえ、強いなあ。侮辱して悪かった。今代にもおまえぐらいの剣士がいるとは、なかなか捨てたものではない。いや、舌を巻いたぞ』

 

 ……自分の右手を奪ったものの言葉を、長田は歓喜と共に生涯忘れることはなかったという。

 

 

       ◇◆◇

 

 

「大学二連覇のチャンピオン、古流の剣術家、居合道の名のある範士。―――それらがここ二週間で立て続けにやられている。まるで江戸時代の辻斬りだ。さすがに、おれたちも動かざるを得ない」

 

 美厳さんの言葉には、苦いものが宿っていた。

 それはそうだろう。

 彼女の説明からすると、下手人と目されているのは、彼女たちのご先祖様を名乗っているのだから。

 

「柳生十兵衛ね。―――本物なのかい?」

「さあな。死んで何百年もたってから化けてでるようなご先祖様だとは聞いたことがない。なあ、冬弥よ」

「はい。わたくしも、三厳(みつよし)さまがそのような現世に執着するお人柄だとは聞いたこともありません。騙りかはったりでございましょう」

「まあ、血の繋がった子孫が言うんならそうなんだろうけど……」

 

 なんとも驚くような発言が飛び出す。

 柳生というだけで僕の頭に浮かんだのは、有名なあの剣豪だというのに、美厳さんたちはその正統な子孫なのだという。

 確かにこの広大なお屋敷を見る限り、世が世なら一万石の大名となった柳生家のお姫さまと言われれば納得するかもしれない。

 もっとも、僕としては多少腑に落ちないところもある。

 僕の時代劇から得られた程度の知識だと、柳生新陰流の柳生は江戸と尾張にあるのが基本で、この多摩に末裔がいるなんて聞き覚えもない。

 それに柳生十兵衛は奈良県にある柳生家の領地で死んだはず。

 こんなところに遺領があるなんて話も知らない。

 だが、美厳さんたちが偽物とは到底思えない。

 いったいどういうことだろう。

 

「で、その十兵衛が憑りついた女というのは、どうなったんだい? キミらの配下だって無能じゃないんだから、きちんと調べているんだろ」

「一昨日発覚した、これまでのところの最新の犠牲者がこの正木道場の場所を教えたんだそうだ。おそらく、今日か明日にはここに辿り着くだろうな」

「そこで、ボクを呼んだ、と?」

「ああ」

 

 すると、御子内さんは正座をしていた足を崩して、

 

「なんだ。自分たちの先祖の後始末もできない奴の尻拭いをさせられるのか。まったくもってつまらない仕事だね」

「……おまえ」

「だってさ、京一。剣士だったら剣士が対処すればいいじゃないか。ボクが出張(では)るほどのことじゃない」

 

 珍しく態度の悪い御子内さん。

 美厳さんと反りが合わないということもあるだろうが、かなり彼女らしくない。

 いったいどうしたんだろう。

 

「或子さま」

 

 冬弥さんが声をかけても、御子内さんはだらしない態度を改めない。

 さすがに僕がたしなめるべきかなと思った時、

 

「―――剣士が剣士とやりあわないなんていう自己矛盾。理由があるんなら最初から腹を割って話しなよ。美厳、ボクは隠し事が嫌いなんだ」

 

 御子内さんが眼を眇めた。

 冷たい、すべてを見透かしたようなまなざしだった。

 

「ふん。おまえの言う通りだ、或子。わざわざ、おまえというか退魔巫女を呼び出したビッグな理由がある」

 

 逆に美厳さんは悔しそうだった。

 

「それはなんだい?」

「簡単な話さ。―――おれたち、柳生としては何としてでも今回の亡霊の使っている刀を取り戻したいんだ」

「刀? また、どうして?」

 

 美厳さんは言った。

 

「三池典太光世。―――今、うらめしやをやってるらしいご先祖様が遺した大業物なんだ。昭和の初めに遺失した武蔵野柳生(わがや)の家宝なのさ」

 

 

 

 

 

 



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忍者訴訟

「―――美厳さま。陣内さんがお見えになりました」

「また来たか。とっと追い帰せ」

「例の書類をひらひらと振りまして、お屋敷の玄関で喚き続けていてこちらの手に負えません。……もし、力づくで黙らせてもよろしいのでしたら」

 

 廊下と繋がっている襖を開いて、柿色の着物を着た女性が顔を出した。

 まだ若いが、僕たちよりは年上で、おそらく二十代半ば。

 美厳さんに様付けすることから、使用人の女性なのだろう。

 これだけ大きなお屋敷になら、一人や二人いてもおかしくない。

 水嶋ヒロや櫻井翔が執事になっていたりしてもまったく違和感を覚えないだろう。

 

「裁判沙汰にされるのは面倒だな。とりあえず、座敷にあげておけ。友埜(ともの)が戻っていたら、俺の代わりに相手をするように言っておけ」

「わかりました」

「こちらが片付いたら、おれも顔を出す」

 

 女性が消えると、美厳さんはかったるそうに欠伸をした。

 

「まったく、これだから一門の総帥なんて役は面倒なんだ」

「仕方ないね。怠惰なくせに、いつもいつも余計な仕事を引き受けるキミのお人好しさが招いた結果だよ」

「うるさい。―――そういえばおまえと会ったのも、その面倒な仕事を引き受けたときだった。柳生流の範士役なんていう面倒なことをしたうえで、おまえみたいなのと揉めるなんて最悪だ」

「それはボクの台詞でもあるよ」

 

 時間が経つと殺伐さは薄れていき、逆の様相を生じだしてきた。

 空気が緩みだしたのだ。

 屋敷の主人も客人も、完全に足を崩してだるそうに座り込み、時折嫌味や皮肉を言い合っては時間を潰しているだけの状態になっていた。

 美厳さんもよくわからない人物で、尻に根でも生えたかのように動きもせずに肘掛けに寄りかかり、天井の一点を眺めていたりするだけ。

 逆に御子内さんも用意されたお茶を飲む以外は、日向ぼっこをしている縁側のお婆ちゃんのようにじっとしている。

 時折、口をきくだけでなんとも無言のままが続いているのに、それが意外と楽しいのだ。

 二人が黙ったままお喋りをしているかのように思えて、ついでに一緒にいる僕まで安らかな気持ちになってくる。

 不思議な体験だった。

 それはきっとこの二人とともにいれば、どんな逆境も苦難も乗り越えられるという安心感があるからかもしれない。

 おそらくは美厳さんも相当な武術家であるだけでなく、きっとどんな状況下でも最期まで戦い抜くファイターであるのだろう。

 ある意味で御子内さんによく似た、そして似ているからこそ反目する。

 二人は合わせ鏡なのかもしれない。

 

「……さっきの陣内というのは誰なんだい?」

「おまえが知る必要あるのか? ―――古物商だ」

「出入りの御用商人か。友埜に任せていいのかい、ねえ冬弥。……あれ?」

 

 振り向くと、いつのまにか冬弥さんはいなくなっていた。

 素早いというか、気配でも消されていたようだった。

 

「さすがは裏柳生だ。……ボクにも気づかれずにいなくなるなんて」

「冬弥は友埜が心配になったんだろう。あいつは口下手だからな」

「ふーん。相変わらず仲のいい双子だよ」

 

 なんと、柳生さんちは三姉妹なのか。

 ちょっと驚いていると、ドタドタと廊下から足音が響いてきて、また襖が開いた。

 今度顔を出したのは、脂ぎったでっぷりとしたオジサンだった。

 イケメンっぽい総髪なのだけど、太り過ぎのせいもあり、なんか汚いロンゲという感じである。

 相当体重が重くて力が強いのか、さっきの女性が手を引っ張っているのをものともしないで突き進んでくる。

 

「総帥っ! いつまでもワシを足止めさせていられるとは思わないことですなっ!」

「……なんだ、陣内。おれは忙しい。あとにしろ」

「そうはいきませんなっ! 光世はもうワシのものなんですぞっ! それ、証文もここにあるっ! さっさとこちらに引き渡してもらいましょうかっ!」

「うるさいな。三池典太は今ここにはない。だから、おれに行ってもどうにもならん」

「そんな馬鹿なっ! あなたがた、柳生が今の今まで放置していたはずがないではありませんか! もう取り戻したんでしょう? 早くワシに引き渡してください! でないと、出るところに出ますぞ! いざとなったら、差押命令だって出してもらいますぞ! 柳生だってこんな不祥事、裏の世界全体に広められたくないでしょう!」

 

 オジサンは懐からなにやらコピー用紙をとりだして、見せつけるように振っている。

 その姿を美厳さんはうんざりした顔で見つめていた。

 

「陣内、おまえだって今はともかく、昔は忍びの一族であったのだろう。それが裁判だの、差し押さえだの、恥ずかしくないのか」

「恥なぞ、ありませんな。忍びがそんなものに執着するはずがないではありませんか。いいですか、ワシにとって大事なのは証文にある通り、三池典太光世がうちに引き渡されることだけですわ。―――元根来の忍術僧、不動坊陣内の商売の邪魔はさせませんぞっ!」

 

 なんだか捲し立てるオジサンは、彼の言う通りならば、元は忍者だったそうだ。

 ………………

 …………

 ……

 忍者って……。

 

「ねえ、御子内さん」

「なんだい」

「忍者ってまだいたんだね」

「そうだよ。知らなかったのかい? 結構、有名な話だと思っていたけど」

「へえ。……世間は広いんだ」

「昔と違って、今の忍びは学生服や背広で飛び回っているから、なかなか気づかれないらしい。うちの社務所でも何人か抱えているね。そんなのはギョーカイの常識だよ」

 

 うん、そういうことだと納得しておこう。

 妖怪とか幽霊とかの存在についてはさすがに受け入れたけれど、現代にも忍者がいまーす、という事実はなかなかにショックが大きい。

 これだったらSTAP細胞だってそのうち再発見されるに違いないぞ。

 とりあえず、僕の認識ではあのオジサンは元だけど忍者だったということで、自己解決をした。

 

「ほら、これを御覧なされ! 村田殿が遺された品はすべてワシのものになるという契約書ですわっ! ここに、「甲の一切の所有権を乙に譲渡する」とあるでしょう? よって、村田殿が所有していた光世はワシのもんじゃあああ!!」

「やかましい」

 

 美厳さんの手のあたりが閃き、彼女が放った手裏剣がオジサンの手の中の紙を切り裂いた。

 紙は中央から二分された。

 

「ワ、ワシの証文に何をするっ! だが、もう一枚ありますぞ! 引っかかったな、これはコピーだああ!!」

 

 なんだか一人で叫ぶオジサンが本当にうるさい。

 誰か黙らせてくれないかな。

 その場にいる誰もかれもがうんざりしていた。

 

「……さすがによくわからないぞ」

「うーん、僕もだけど。断片的な情報からわかることは少ないしね」

「でも、美厳とあの元忍びは、例の妖刀のことでもめているようだけど」

「少なくともまったく無関係という訳ではないみたい」

「あとで詳細な説明を求めるとしようか」

「だね」

 

 今一つ、空気に乗れない僕らは何杯目かのお茶を飲んで過ごした。

 オジサンと美厳さんがまだ言い合いを続けているとき、また、ドタバタと廊下から足音が近づいてきた。

 

「……忙しい屋敷だな」

「落ち着いた様子の佇まいなのにね」

「まあ、あの柳生四姉妹の家だから騒がしくて当たり前なんだけどさ」

「―――四姉妹なんだ……」

 

 また、誰かが入ってきた。

 さっきいつの間にかいなくなっていた冬弥さんだった。

 少しだけ慌てている様子だ。

 

「―――姉さまっ! 結界が破られましたっ! ()()()()()()()()()!」

 

 さっきまでだらけきっていた美厳さんが立ち上がる。

 一切の遅滞もない動きで。

 やはり彼女も相当の達人だ。

 ただ、僕の御子内さんも負けていない。

 ほとんど同じタイミングで立ちあがっていた。

 

「歴史上の剣豪とやり合うことになるとはね。……さすがのボクもちょっと緊張しているよ」

 

 さすがの彼女も武者震いだけではない寒気を感じているようだった。

 何せ、相手は自称とはいえ、柳生十兵衛三厳。

 伝説の大剣士なのだから。

 

 

 



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月下の剣人たち

 

 柳生十兵衛三厳。

 慶長十二年(1607年)に、柳生但馬守宗矩の長男として誕生した、俗にいう柳生新陰流の剣豪である。

 三代将軍の徳川家光の小姓となったのち、家光の稽古役も兼ねていたが、ある時から家光に嫌われて蟄居させられることになり、再出仕が許されるまで十二年ほど謹慎は続いていたという。

 彼の記した『月之抄』によると、蟄居の間は故郷の柳生庄に引き籠り、亡き祖父・石舟斎宗厳が残した口伝や目録の研究をしていたというらしいが、その一方で、武者修行等で諸国を放浪していたとする説もあって、これが十兵衛隠密説の発端ということである。

 正保三年(1646年)父但馬守が死去したことで、八千三百石を相続して家督を継ぎ、慶安三年(1650年)鷹狩りのため出かけた先で急死したと伝えられている。

 死因は明らかにされていないそうだ。

 片目に眼帯をした「隻眼の剣豪」の姿が有名で、僕自身そのキャラクターでイメージしているところがある。

 それもあって、僕としては千葉真一とか村上弘明が演じていたドラマや映画の知識が多いかな。

 直接の子孫という人に出会えたのは、ちょっと興奮する。

 ただ、その人が化けて出たとすると話は別だ。

 大昔の剣豪なんて、今、存在したら危険極まるなんてものじゃないよ。

 

「御子内さん、リングは?」

「〈護摩台〉は作っておく意味がないだろうね。亡霊だとすると、ただの妖怪よりも〈結界〉の縛りが弱まるし、普通にタイマン張った方が早い」

「……〈付喪神〉みたいなもの?」

「妖魅の格としてはね。ただ、今回のように生前の人物の映し身だとすると厄介なんだ。……今でいうコピーみたいなものだからさ」

 

 コピー? 

 つまり、柳生新陰流の十兵衛そのものがやってくるということかな? 

 

「かなりの強敵だよ。さすがに素手では難しいかもしれないね」

「大丈夫なの? 僕は心配なんだけど」

「美厳もいるし、なんとかなるだろう。あいつはダラダラとした女だけど、剣の腕だけは折り紙付きさ。ボクだって勝てるかどうか……」

「そんなに強いの?」

「もちろん、堕落しきっているけど、武蔵野に根を張った〈妖守(あやかしもり)〉武蔵野柳生の総帥だからね」

 

 きっと強いとは思っていたけど、御子内さんがそこまで認める相手とは……。

 

「待たせたな、或子。ではいくぞ」

 

 さっきまでの着流し姿をやめて、袴をつけた美厳さんがやってきた。

 手には太刀を一振り握っている。

 どうみても女子高生には見えない。

 隣には着物姿の冬弥さんがいるが、彼女の持っているのは小太刀だった。

 脇差よりもやや長いのでわかる。

 冬弥さんもやたらと扱いに慣れていそうなので、きっと彼女もかなりの腕の持ち主なのだろう。

 

「あとの妹たちはどうした?」

「〈結界〉張りさ。さすがに柳生の下屋敷に入ってくるような妖魅相手に、何も準備しない訳にはいかないだろう」

「確かにね」

 

 巫女レスラーと少女剣士は連れ立って、歩き出した。

 玄関よりは庭に向かって。

 

「……どこに向かっているんです?」

「例のものは正門の守りが堅いとみて、塀を乗り越えて侵入してきました。さすがに身が軽い」

 

 冬実さんは僕の質問にすぐに答えてくれた。

 というか、どうして僕がここにいていいのかがさっぱりわからない。

 別にいつものようにリングを作る訳ではないのだから、いてもいなくても変わらないだろうに。

 

「いえ、まあ、京一さまが観戦しておられますと、或子さまにいつもトップギアが入ると伺っておりましたので」

「御子内さんがトップギア? 僕がいると? いや、そんなことはないよ。いつだって、僕の御子内さんは全身全霊、全力で戦う子だから」

「ふふ、赤心を推して或子さまの腹中に置いてなさるんですね」

「えっとどういうこと」

「内緒です」

 

 二人に着いて行くと、柳生屋敷の広い日本庭園に出た。

 麗しい月が闇夜に輝いている。

 落ちてきた月光が地を照らし、池の水面を輝かせる。

 豊富すぎる輝きの中から、一条だけ抜き取るようにさらに強く際立つ煌めきがあった。

 

「月之抄ときたか……。まんざら偽物という訳でもなさそうだ」

 

 美厳さんが重々しく呟いた。

 片目だけの視線は錐のように尖っている。

 その先には、一振りの刃を手にした若い女性が立ち尽くしている。

 しまむらみたいなトレーナーとジーンズのどこにでもいそうな女性なのに、一目で尋常ならざるものとわかる気配を湛えていた。

 殺気……じゃない。

 この氷の上を一人で彷徨うがごとき感覚。

 肌がまるでひりついたように痛い。

 

「―――剣気です。京一さま」

 

 隣にいた冬弥さんが解説してくれた。

 

「修行を積んだ剣士が刀を持ったときに放つ気配のようなものです。殺気と違い、純粋な色彩に満ちたものであるほど透き通っていき、感じるだけで痛みを覚えます。これだけの剣気をだせるものは、現代ではそうはいないことでしょう」

「……そう……でしょうね」

「剣の心得のない京一さまでもおわかりになられるでしょう?」

「はい」

 

 彼女の言う通りだ。

 この美しい月凜の下、波紋を表現した精緻な白い銀沙灘に佇む―――まさに月下剣人。

 恐ろしいほどに凛々しい。

 

『よお、あんたが今の当代かい?』

「……左様だ。で、貴様が巷で話題の辻斬りという訳か?」

『ああ、柳生三厳(やぎゅうみつよし)だ。十兵衛でもいいぜ』

 

 女は言った。

 銀沙灘の中央に立っているというのに、砂盛にもそこに至る空間にも、どんな足跡も残ってはいなかった。

 白砂を盛り上げて造られ、月の光を反射させる役目をもつといわれている銀沙灘は脆い足場なので歩いたら跡がつかないはずがない。

 彼女はどうやってあそこに辿り着いたのだ。

 

「〈浮舟〉ですね。〈軽気功〉の一種で、体重が一切ないように振舞うことができる技です。柳生……というよりも、伊賀の忍法ですよ」

「忍法……。ああ、そんなのもアリなんだ」

 

 まあ、プロレス技で妖怪と戦う巫女がいるんだから、忍法を使う忍者がいても別に問題はないか。

 仕組みとか存在理由はとりあえず棚に上げておこう。

 今更だしね。

 

「ボクがやるよ」

「ふざけろ。ここはおれの実家だ。よそ様に初手を譲る気はないぞ」

「……それじゃあ、わざわざボクを呼んだ意味がないだろう」

「おまえに頼みたいのは、あの刀を取り戻した後の御祓いだ。当代一の退魔巫女ならば、刀についた妖魅を祓うことぐらい容易いだろう」

「まあね。で、あれはやっぱりキミのご先祖様ではないのか?」

 

 その問いには答えず、美厳さんも銀沙灘に踏み出した。

 二歩進んだところで僕は気づく。

 彼女の足跡も砂の上に残っていない。

 美厳さんもまた、あの剣士と同類なのだと。

 自分の痕跡を砂上に一切残さずに歩みを続ける。

 

「凄い……」

 

 思わずつぶやいてしまった。

 とても信じられない光景だ。

 あの彼女ならば水の上さえも歩けるかもしれないと信じるほどに。

 

「美厳姉さまは我が柳生の総帥です。この坂東(ばんどう)一のもののふといっても過言ではないでしょう」

「そんな人にわざわざ挑んでいるんだ、あの女性」

 

 僕は戦慄した。

 もしかしてとんでもない超・剣士戦を目撃させられる羽目になるのではないかと。

 一瞬も目を離せそうにない戦いの場にいるはずなのに、どういうことか僕の注意は別の場所に向けられていた。

 柳生屋敷の日本庭園の端に、なにやら見覚えのあるどっぷりとした体格の人物がこそこそと隠れているのに気がついてしまったからだ。

 この場にはまったく相応しくない、その体格と総髪は、さっきの元・忍者の古物商、陣内さんのものだった。

 嫌な予感がしたが、ほぼ同時に美厳さんが抜刀したことで空気が一変してしまい、思わず視線を外してしまった。

 そのことが後々に面倒になるということを知らずに。

 

 

 

 



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呵々大笑する巫女レスラー

 美厳さんが抜刀すると、鞘から抜き出されてきたのは日本刀の刃ではなく、黒い棒のようなものだった。

 竹光……という訳でも、木刀という訳でもなさそうな品だ。

 きちんとした鞘に納められていたので傍目には僕のようなド素人にはまったくわからなかった。

 

「あれは、割った竹で鉄棒を包み、上から何層にも漆を塗って固めた「柳生杖」と呼ばれる杖です。わたくしどものご先祖が考案したものですわ」

「へえ、そうなんですか」

「はい、稽古にはひきはだ竹刀のほうを使いますので、どちらかというと杖術のものですけど」

「でも、相手は真剣なんですよね」

「もちろん」

 

 月光の怜悧な輝きの中、銀の砂の上に立つ女性は握っていた太刀をそっと下した。

 柄を両手で緩く握り、自然体のだらんとした下段の構え。

 そのくせ、僕の眼にも一切の隙が見当たらないほどの完成度。

 いったい、あれはなんだろう。

 

「あの……下段の構えは何ですか。ゾクゾクしてくるんですけど」

「あれは下段の構えではありません。我が柳生流の〈無形の(くらい)〉ですわ」

「―――むぎょうのくらい?」

「ええ。柳生―――というよりも新陰流には構えという言葉を使わず、いかなる場合でも自然(じねん)に相手の攻めに対応できるように、剣尖を下げたあの姿勢を基本とします。ただ、「構え」という言葉を使いたくないので、「位」なんていっているだけかもしれませんけどね」

 

 冬弥さんはいたずらっ子のように笑った。

 実のお姉さんが真剣勝負をしているというのにかなりの余裕だ。

 それだけ美厳さんの実力に自信があるのだろうか。

 僕は今まで散々御子内さんの妖怪退治につきあってきた経験則上、あの日本刀の女性が醸し出すもう一つの気配についても感じ取っていた。

 鋭く冴えた気配を「剣気」と呼ぶなら、それは「妖気」。

 地獄の底の亡者が口笛と共に吹き散らすものだ。

 吐き気を催し、泥のように甘い。

 美厳さんが一点の曇りもない剣気の輝きに満ちた双眸を持っているのなら、あの女性の両目には羅生門で老婆の話をきいた下人のような曇天の濁りがあった。

 あんな相反する物が同居しているなんて……

 

「あ……」

 

 すっと美厳さんの柳生杖が下がる。

 期せずして両者は同じ構え―――いや、位をとった。

 明らかに同門同士だ。

 姿勢も呼吸もあまりに似すぎている。

 

「確かに、あの剣の持ち主は新陰流の道統のようですね。であるのならば、総帥である姉さまがあたって当然です」

「冬弥さんも、やられるのですか?」

「姉さんが墜ちたのならば。ですが、その心配はありません。あの(あね)は毀誉褒貶をかえりみず、しかも普段は怠惰で空ばかり見ているような、まったくもって仕事をしない人ですが、いざというときには誰よりも頼りになります。以て六尺の子を託すべき女ですわ」

 

 意味はよくわからないが、貶しているように見えて、妹は姉を信じているのだろう。

 そう、僕が御子内さんを信じているように。

 

「なんとまあ……」

 

 美厳さんがにっと笑った。

 眼帯をつけた隻眼が肉食獣の飢えを湛える。

 

「やるか」

 

 彼女は戦う女だった。

 同時に、出歩くことを厭う面倒くさがりであった。

 ただ、相手からこっちにきてくれたのならばそれを拒否するのは無礼だと感じる女でもあった。

 だから、笑った。

 と、後で言っていた。

 僕は彼女の中に、自由に動けなくなったせいで、自堕落になるしかなかった御子内さんをみた。

 だから、僕は彼女に心を奪われたのかもしれない。

 御子内さんに見惚れるように。

 

『ほお。―――この時代にこれほどの剣士がいるとは。しかも、女で。おぬし、名を何と申す?』

「ただの柳生よ。亡霊に教える義理はない。おまえをその女の中から追い出すだけなら、それで足りるだろう」

『吠えたな、柳生の当代』

「化物乃至怨霊に負けるおれではないぞ。では、参るぞ」

 

 音もなく美厳さんは前進した。

 舞うように―――いや、あれは能の足運びのようだった。

 彼女はするすると間合いに踏み込む。

 動いているのに動いて見えるものは月輪の輝きのみ。

 凄絶な妖気の絡みついた剣に挑むのはただ一人、美少女剣士柳生美厳。

 合い撃つ同門の剣士。

 

「えっしゃあ!!」

 

 大気を震わす音声とともに跳ね上がった剣が躍る。

 攻めたのは美厳さん、躱したのは太刀の女性。

 僕には詳細もわからない一瞬の立会いだ。

 なぜなら躱したはずの相手の剣が翻り、美厳さんの髪を切り裂いていたからだ。

 斬ったはずなのに斬られていた。

 そんな馬鹿な因果はあり得ず、僕の眼が追い付かなかっただけだと知った。

 修練した剣士の太刀筋は神速。

 だが、その神速すら見切るのが剣士。

 

「くっ」

 

 美厳さんが離れた。

 額に球のような汗が浮かんでいる。

 口角が吊り上がり、いかにも楽しげなのは異常だったが。

 

『―――やる』

 

 太刀の女性が男そのものの低い声で言った。

 心底感じ入ったという風に聞こえる。

 でも、実際そうなんだろう。

 真剣をもったもの同士のあんなスピードの戦いを、髪の毛だけを持っていかれた程度で切り抜けたのだから。

 僕も今までにあんな攻防は見たことがない。

 

「……ふうん、きちんと修業はしていたみたいじゃないか。てっきり、前みたいにダラダラとしていたものだとばかり思っていたよ」

 

 ただ、そんな戦いを呑気な言葉で評する人もいた。

 僕の御子内さんだ。

 

「み、御子内さん。しー!」

 

 唇に指をたてて黙らそうとしたのに彼女は、

 

「なんだい、いきなり! お、女の口に触ろうなんてエッチなやつだな、京一は。これが最近のセクハラなのかい?」

「そうじゃなくて、空気読んで、空気を!」

「空気? ああ、KYだね。KY」

 

 いまさらKYを流行言葉のように、やってやったぜみたいに使われるとちょっと困るんだけど。

 そういえばこないだも「バッチリグッドでバッチグーなんだよ」と自慢そうに言っていた。

 流行に対してのアンテナがこの人は極端に低いんだよ。

受信するには、はやぶさが打ち上げられてから帰還するまでの時間が必要みたいだ。

いや、そうじゃなくて。

 

「美厳さんが真剣勝負をしているんだから! 水を差しちゃ駄目!」

「なんだい、そんなことか」

 

 御子内さんはお気楽だった。

 

「美厳、その女性《ひと》の持っているものが三池典太光世なんだね」

「……ああ、うちの家宝だぜ。内弟子の一人がある戦いでなくしてしまってな。まさか、こんな形で戻ってくるとは……」

「その後のいざこざが、古い刀に妖魅を纏わせて旧い武人の影を甦らせたのか……。ふふん、そうなると剣士の斬りあいよりはボクの出番のようだね」

 

 そういって、拳を鳴らしながら前に進み出る。

 二人の間に割って入るように。

 

「邪魔をするんじゃねえよ、或子。これはおれと柳生の家のタイマンだ。引っ込んでやがれ」

「違うよ、美厳。キミは勘違いをしている」

「なんだと?」

 

 そして、御子内さんは太刀の女性を睨みつけ、

 

「これは、刀に憑りついた妖魅が暴れている。ただそれだけの、妖怪退治さ。だったら、ボクら〈社務所〉の媛巫女の出番でしかない」

「……んだと?」

「妖魅が模しているのは伝説の柳生十兵衛だろうがなんだろうが関係ないね。―――ボクはチャンピオンとして誰の挑戦も受ける」

 

 いつものスタイルに構えた。

 いくらなんでも無茶苦茶すぎると思ったが、同じ考えだったらしく止めに入ろうとした冬弥さんの肩を押さえてしまった。

 そんな僕を彼女は驚愕の眼差しで見つめる。

 

「どうして、とめるのですか? いくら或子さまでも、真剣を相手にしたら……」

 

 僕は首を振った。

 ここは横やりを入れていい場面ではない。

 

「……だって、御子内さんがやる気だというのなら、それを止めるなんてことは僕にはできない」

 

 情けない男の悲鳴だったかもしれない。

 ただ、彼女と付き合ってきた助手としてはそれしかいえないんだ。

 御子内或子が、異種格闘戦をやると決めたのならばそれを応援するしかない。

 

 ある意味、ファンとはそういうものなのだ。

 

「さあ、今度はボクの番だよ。―――柳生十兵衛の……にせもの」

 

 呵々大笑する巫女レスラーを憤怒の表情で女性が睨んでいた……。

 

 

 

 

 










すいません、久しぶりのハーメルンでの投稿だったもので予約とか色々と失敗してしまいました。サブタイトルもなくなっていましたし。
以後、気を付けます。


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近接の必殺技

 

 

 徒手空拳の御子内さんと真剣を持った亡霊。

 組み合わせ(マッチアップ)としては不利以外の何ものでもない。

 だが、銀沙灘に無作法な足跡を残しながら対峙していく御子内さんにはおそれの欠片も見当たらない。

 ついさっき美厳さんたちが見せた一瞬の斬り合いのことさえ頭にないという感じだった。

 普通ならば、無理無茶無謀の暴走戦士かよ、とツッコミを入れたくなるところだ。

 しかし、あれだけ自信満々なのである。

 きっと考えがあるに違いない。

 

『巫女か……。立ち合いの邪魔をするな』

「何を言っているんだい。キミが乗っとっているその女性からすればいい迷惑だと思わないか。古い刀に湧いた妖魅が気取っているんじゃないよ」

『なんだと』

「ボクは美厳と違って、キミを満足させるつもりはない。一刻も早くその女性を解放させてもらう」

 

 いや、御子内さんに考えがあった訳ではなかったようだ。

 彼女の頭の中にあったのは、ただ一つ、巻き込まれた女の人を助けたいという一片の義侠の念と、勝手気ままに振舞う妖魅に対する破邪顕正の勇心のみ。

 素手と剣の不利などきっと頭にないのだ。

 

「……或子め」

 

 美厳さんが呟く。

 彼女にはその心が見えたのだ。

 

「さて、やろうか」

 

 御子内さんがいつもの構えをとる。

 ただ、距離の詰め方はかなり慎重だ。

 大雑把な一挙手一投足の間合いよりも、ミリ単位の精緻さを求めるかのようにジリジリと前進する。

 相当、相手の剣を警戒しているのがわかる。

 リングで戦う時のような魅せる戦いはするつもりはないのだろう。

 刀という武器を持った敵との戦い方を理解しているからか。

 

「さすがです、或子さま……。剣の圏内をよく知悉しておりますね」

 

 冬弥さんがぽつりと言う。

 視線はもう眼前の二人から離すことができないようだ。

 この女性(ひと)もきっと鍛えられた剣人であるのに違いない。

 

「柳生流は後の先が基本です。まず、仕掛けるのは或子さまでしょうね」

「うん。先手必勝が御子内さんの基本戦術だから」

 

 相手の攻撃を受けて魅せるのはきっとプロレスをするときだけ。

 今の御子内さんは退魔巫女だった。

 邪悪な妖怪から衆生を救う、正義の巫女なのだ。

 

「どっしゃあああああ!!」

 

 やはり御子内さんから突っかけた。

 擦り擦りと前に進み、渾身のストレートを放つ。

 剣士はそれを正面から迎撃する。

 握りしめられた拳に目掛けて剣が振るわれる。

 ヒットの直前に軌道を変えて、御子内さんは躱す。

 そのまま、左にスイッチして顔面を狙う。

 電光石火の早業だった。

 殴り合いを主とするボクサーでもここまでの技量は持ちえないだろう。

 だが、相手も並の魔人ではない。

 カウンター気味の左拳を寸前のところで見切ったのだ。

 そして、伸びきった剣を無理矢理に引き寄せ逆袈裟に切り上げる。

 御子内さんの白い衣装の胸元が裂かれた。

 晒しの巻かれた胸がはだける。

 しかし、飛び退りながらも、御子内さんの足が跳ね上がる。

 後ろに回転しながらの鋭い軌跡をもつ蹴りだった。

懐に潜り込まれれば武器の長いリーチはただのハンデに変わる。

いかに鍛えられた剣士であろうとも。

かろうじて、まさにかろうじて剣士は御子内さんの蹴りを寸前で躱しきった。

巻き起こった蹴りの嵐を避けたのだ。

 

「凄い……」

 

 一瞬の攻防というのなら、さっきの美厳さんのときと同様だ。

 だが、ある意味ではそれを上回る。

 刃物を前にして一切怯むことのない御子内さんの気迫の凄まじさよ。

 

『何者だ、貴様?』

 

 息を呑んで妖魅が言う。

 感嘆の色がある。

 

「チャンピオンさ。人助けのね」

 

 御子内さんにも余裕はない。

 一方で躊躇いも怯みもない。

 

「だけど、ボクとしたことがしくじるところだった。その肉体の女性を取り返すのがボクの役目だったはずなのにね」

 

 握った拳を開く。

 掌底で構えた。

 

「完全に無傷とまではいきそうもないけど、骨折、打撲無しで終わらせる」

 

 これほどの剣士を前にそんなことができるのかはわからない。

 ただ、御子内さんはハッタリだけでそんな大言壮語ははかない。

 何かをするつもりだ。

 

『剣も持たぬものが、何ができる!?』

「ふん、思い上がりだね。―――それにボクは柳生新陰流の相手は慣れているのさ」

 

 そして、再び巫女レスラーは剣士に挑む。

 御子内さんの気迫に圧されたのか、後の先を基本とするはずの剣士が突きを放つ。

 しかも避けにくい胴体へ。

 すらりと躱しつつ、さらに前進をして懐に飛び込む。

 勢いを殺さない掌底突きが放たれる。

 こちらもヒットせず。

 さっきと同じ展開かと思われたが、そうはならなかった。

 なぜなら、剣士の右足が蹴りを仕掛けてきたからだ。

 剣道では蹴りはないが、古流剣術では格闘も含まれる。

 剣だけでは仕留めきれないと考えての喧嘩技だ。

 ただし、それは御子内さんの土俵に踏み込むことであり、決していい選択ではなかった。

 御子内さんの肘と膝に挟み込まれた。

 防御と同時に相手の蹴り脚を痛めつける複合技。

 この状況でもこんなテクニカルな受けができるのが御子内さんの強さだ。

 

『ぐおお!』

 

 不用意な蹴りのせいで体勢が崩れた剣士の懐に、深すぎる位置に、御子内さんが侵入する。

 キスでもするかのごとく接近する。

 だが、あれではどんな技もだせない。

 あまりに近すぎるのだ。

 御子内さんが両手で剣士の顔を挟む。

 左右の頬に優しく両手を添えるように。

 

 ぱん

 

 僕の耳に軽い、本当に軽い、何かが破裂したような音がした。

 同時に剣士が膝から崩れ落ちる。

 まるで糸の切れた操り人形のようであった。

 銀沙灘に顔から落ちようとした時に、御子内さんが優しくそれを支える。

 刀だけが落下していた。

何が起きたのかさっぱりだ。

 ただ、僕にもわかることは……

 今の音で決着がついたということだけだ。

 

「……どうなったの?」

「おそらく、さっきの最後の技が……」

「御子内さんは何をしたんでしょうね」

「わたくしではなんとも……」

 

 僕らは首をひねるだけだった。

 だが、その決着を完全に理解していた人もいた。

 美厳さんだった。

 

「――あれは添えたんじゃなくて、敵の頭を両方の掌で挟み込むように打ったんだ。その時に頭と掌の間にほんのわずかな隙間を空けておき固定する。結果として、相手の頭部を一瞬のうちに数千・数万回振動させることができる」

「まさか……」

「あの女はおそらく軽いパンチドランカーになったのだろうな。それで気絶だ。ムカつくが或子の天才な見切りの眼があって初めて使いこなせる技なのだろうさ」

 

 軽く解説する美厳さんだが、僕にはさっぱりだった。

 

「くそ、あんな技を隠してやがったのか、或子め」

 

 なぜか御子内さんが勝ったことが気に入らないらしい。

 いかにもそこはライバル関係という感じだ。

 女性を担いで意気揚々と帰ってきた御子内さんに、

 

「何だよ」

「うーん、なんだと思いますぅ~」

「いちいちそういうのを挟むな、バカめ」

 

 美厳さんとしてはいいところを持っていかれたようで悔しい気持ちもあるのだろう。

 柳生流の剣士が負けたという意識もあるのかもしれない。

 あと、自分の活躍がなかったということもあるのかな。

 なんとも複雑なのだ。

 

「……三池典太も取って来い」

「刀なんてどうでもいいよ。ボクはこの女性(ひと)を助けるので精一杯さ」

「くそ」

 

 改めて銀沙灘の上に突き刺さったままの太刀をとろうと歩き出した美厳さんが止まる。

 その視線の先には、持ち主を失くした刀と―――総髪のでっぷりした大男がいた。

 欲に満ちた笑顔を浮かべ。

 

「やりましたぞ。ようやく、我が手に光世が!」

 

 柄に手を掛けて引き抜く。

 天に刃をかざしてうっとりとする。

 芸術ともいえる日本刀の美しさに心を奪われる気持ちもわかる。

 だけど、その刀は……

 

『ちい、こいつには剣客の血が流れていないじゃねえか……』

 

 またも戦いに飢えた剣士が、今度は陣内さんを器として顕現していた……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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最強を守るもの

 

 

「……迂闊だった。だけど、さっきは女の人についていたから、ボクも手加減せざるを得なかったが、元の身体がごついオヤジということだったら話は別だ」

 

 またも銀沙灘に踏み込もうとした御子内さんを、今度は美厳さんが引き留めた。

 

「おまえ、そろそろ引っ込め」

「なんだい、邪魔をする気かい? 美味しいところだけを持って行こうとするなんて、なんてずるい奴だ」

「貴様がいうな。この闘争狂(バトルホリック)め」

 

 ぶんと柳生杖を振り回す美厳さん。

 

「……それにおれにもこの亡霊(こいつ)の正体がわかった」

 

どうやら陣内さんの身体に憑りつき乗っ取ったらしい亡霊は、まだ戦いを続けるらしく光る剛刀を携えていた。

 だが、爛々と輝く瞳はそのままだった。

 濁った黄色―――妖魅の色だ。

 

『早くやろうか、柳生の総帥』

「―――もう十兵衛さまの真似はしないのか?」

 

 美厳さんが揶揄うように言った。

 陣内さんに憑りついた亡霊の顔つきが変わる。

 

「いかに或子といえども、柳生の頂点に立った十兵衛三厳に勝てるはずがない。ということは、貴様は自称の人物の亡霊ではありえない」

 

 御子内さんが僕の隣にやってきた。

 なんだかプンプンと膨れている。

 ご機嫌がよろしくないようだ。

 

「まったく柳生美厳という女は、本当に自分勝手で嫌なやつだよ」

「……そういいながら、出番を譲ってあげるんだから、御子内さんは優しいよね」

「優しくはないだろ」

「それに美厳さんにだって思うところがあるんだろうからさ」

 

 ……見物している僕たちをよそに、美厳さんは相対する剣士に言った。

 

「……さっきもおれとやり合い、或子に敗北したよな。柳生十兵衛三厳とは思えない失態だ。だから、おまえが自称の通りの人物ではないのは確かさ。とはいえ、その尋常ではない剣気と新陰流は本物だ。いくら、三池典太を使っていたとしてもな」

 

 そして、重々しく、

 

「貴様、村田勝蔵だな」

『誰……だ……と?』

「……おれのお祖父ちゃんがとある戦いのときに三池典太を預けておいた、柳生(うち)の内弟子だ。当時の裏柳生でも三羽烏と呼ばれていたぐらいだから、相当な剣士だったのだろう。お祖父ちゃんがずっと探していたのに、杳として行方が知れなかったが、どうやら死んでいたようだな。おまえはその村田勝蔵の亡霊が、預けておいた三池典太に憑りついたものだろ?」

 

 剣士の顔はさっきと違い、やや動揺しているようだった。

 

「……わからないみたいだね。そうか、あいつは記憶を失くしていたのか。だから……刀を持ったまま失踪したということなのだろうな」

「どういうこと?」

「今の話からすると、村田というかなりの内弟子が戦いの最中に三池典太とともに行方不明になった。柳生がどんなに手を尽くしてもみつからなかった。たぶん、戦いで記憶を失くしていたのだろう。おそらく死ぬまで……」

 

 そこで僕にもわかった。

 

「つまり、あの亡霊は村田さんという人なの?」

「ああ、三池典太という古刀に宿った人格は彼のものなんだろう。死んでまで、彼には想うところがあったんだ。例えば、最期に強い剣士と戦いたいみたいな。おかしくなったのは、古い刀に宿る過去の使い手の記憶と混じったせいかもしれない。そこで特に強い印象と思い入れがあるだろう柳生十兵衛の記憶と混同したというところか」

「なるほどね」

 

 記憶もなく失意のうちになくなった村田さんは、生前に陣内さんとあの証文の契約をしていたせいで、遺品の中にあった三池典太まで差し押さえられるところだった。

 でも、何かの手違いで十兵衛の愛刀はどこかに紛失してしまい、巡り巡って亡霊の力を借りてここまで戻ってきたということか。

 

「……村田さまも正木道場に帰りたかったのかもしれないですね」

「だから、関東で一番強い剣士を探していたのかな。柳生新陰流の剣士にとっての最強は、柳生の総帥以外にはないんだろう」

 

 長い長い彷徨のあと、記憶もなくして他人と混じり合いながらも、ついに自分の修行場に帰ってきた剣士は、ただ美厳さんを見つめていた。

 握りしめられた三池典太が下段―――無形の位をとった。

  

『俺が村田という男だとして、どうする?』

「どうもしないさ」

 

 美厳さんもまた同じ形になる。

 

「―――柳生の総帥として貴様に稽古をつけてやろう。そこの或子のような外道とは違う、真の剣の道をな」

 

 彼女に何を見たのか、陣内さんの身体を乗っ取った剣士はすらすらと歩んで、無造作に間境(まざかい)を乗り越えてきた。

 旋風を巻いて斬撃が送られた。

 僕の眼には止まらない神速の剣戟だった。

 しかし、

 

「それは悪し。―――柳生の総帥は、今でも貴様より遥かに強いということを知って、安心して逝くがいい。石舟斎さまより続く道統は決して揺るがぬぞ」

 

 美厳さんの身体が屈み、相手の太刀筋をはるかに上回る速度で跳ね上がると、三池典太の柄の先を突き上げた。

 その手には柳生杖はなかった。

 何もない徒手空拳のまま。

 冬弥さんが呟いた。

 

「無刀取り……」

 

 陣内さんの手からすっぽ抜けた三池典太が土の中に突き刺さっていた。

 

「……上泉伊勢守が考案し、柳生石舟斎が完成した柳生新陰流の秘術。あんなものを使えるのか、美厳は」

 

 ギリギリと悔しそうに歯を噛みしめる御子内さん。

 それは彼女にしては珍しい嫉妬の炎だった。

 誰よりも強い少女にとって、自分よりも強い相手は意識せざるを得ないのだろう。

 美厳さんにとっても同じなのかもしれない。

 ライバルというのはそういうものなのだ。

 

 美厳さんは、地面に突き刺さったままの三池典太に近寄り、

 

「おいこら、さっさと御祓いをしないか、この戦巫女め」

 

 と、御子内さんを手招いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第11試合 中華戦人
深夜病棟悪夢譚


 

 

 新宿にある第二区立病院に勤める看護師の青年は、つい三日ほど前に霊安室に運び込まれたままのご遺体について、同僚と話をしたいと思っていた。

 どうにも黙っていられなかったからだ。

 口にしないでいると、自分に災いが返ってくるような気持ちの悪さがあった。

 

「……なあ、霊安室のご遺体、どう思うよ」

「どうって、なんだ。あの中国人か?」

「それ意外ねえだろ。で、おまえはどう思うんだ」

 

 彼と同じケイシーの医療着を着た仲間は首をひねって、

 

「一応、死因は不明ってことだよな。医者連中は心不全で片を付けるって話だぜ。何か疑問があるのか?」

「もしかしたら、伝染病なんじゃないかと思ってさ」

「……ああ、なるほど」

 

 件の遺体は、新宿の繁華街に観光旅行に来ていた中国人の男であった。

 観光先の免税店で突然倒れ、救急車で運ばれてきたのだ。

 救命救急室で処置された時にはもう手遅れだったらしく、運ばれて来た時にはほとんど死人だった。

 死んだ男とともに観光していた中国人たちは一人も病院に訪れることもなく、観光会社の者もやってこないことから、名前すらわからないという有様だった。

 名前がわからなければ遺体の引受先もなく、病院の事務は中国大使館のルートを使って、死んだ男の身元を聞きだそうとしたが無駄に終わる。

 それから三日経っても、どうにも事実確認が進まず、とりあえず遺体安置だけはしておこうということになっていた。

 

「中国からの伝染病ってさ、例のSARSとか新しいのがあるだろ? その類じゃねえのかな」

「その可能性はあるか。ただ、医者(せんせい)たちは何も言ってないぜ?」

「おいおい感染症の専門家でもない連中なんだぜ、救命センターの担当ってのは。だったら、未知の伝染病が見抜けるわけないじゃん」

「でも、そんな馬鹿なにことが……」

「だから、中国人の身内が一切やってこないんじゃねえか。病気が怖くてやってこないんだよ」

「考えすぎだよ。きっと、観光客じゃなくて不法滞在者とかなんだろ。入管にチクられる方が怖くて黙ってんだよ。俺の家は百人町だけど、そんな連中は山ほどいるぜ」

 

 特にここは新宿だ。

 アジア系の不法残留者など腐るほどいる。

 

「まあ、ただの死体さ。いつもお看取りしている患者たちと変わらない」

「だから、そんなに割り切れるものじゃねえっての。……って、ちょっと待て」

 

 片方が指を指した。

 そこは霊安室の扉の前だ。

 指をさすのはあまり行儀のいい行為ではない。

 

「どうした?」

「今、誰かが入った」

「……マジか? 深夜の見回り中なんだぞ。何かあったら、俺らの責任もんだ」

「でも、おかしいだろ。霊安室だぞ。―――もしかしたら幽霊じゃねえのか?」

 

 さすがに人の生き死にまつわる病院に勤めているだけあって、二人の看護師はその手の怪談話については詳しい。

 もっとも、実際に体験でもしていたら、もうこの職には就いていられない自信はあったが。

 

「……確認しとくか。もし何かあったら、俺らが叱られる。下手したら、馘首(くび)だ」

「だな」

 

 二人はそっと霊安室の前に向かった。

 見ると、電気が点いていない。

 一応、室内には作業用の豆電球がついているが、電気を点けずに作業できるほど光源がカバーされているわけではない。

 だから、誰もいないはずだった。

 だが、ドアを開けてそっと覗きこんだ室内には、

 

「……三つの(こん)がなくて七つの(はく)のみになた死人様に歩いて帰る力をくれてやろ」

 

 と、気持ちの悪い猫なで声で独り言をつぶやく男がいた。

 わずかな灯りからわかる姿は、黄色いだぶついた着物のようなものを着ていた。

 ボタンやファスナーを使っていないこともあり、どことなく古い中国映画の登場人物のようだった。

 しかも耳に入ってきた言葉は、とても特徴的な訛りがあり、聞くに堪えないレベルだった。

 一瞬で外国人だとわかるぐらいだ。

 中華街ならばともかく、この病院内でははっきりいって不審人物以外のなにものでもない。

 看護師としての職業意識が二人に働きかけてきた。

 不審者への対応をしろと。

 

「おい、おまえ! こんな時間に何をしている!」

「警察を呼ぶぞ!」

 

 普通の人間ならば、悪事かそれに類する行為を見られたことから慌てても仕方のないところになのに、不審な外国人は口元を歪めただけであった。

 二人ともそれが嗤いだと気がつきもしなかったが。

 

「邪魔をするな。身どもは大事な仕事のためにここにいる」

 

 正面から向き合うと、この不審人物はかなり若い人物のようだった。

 声がしわがれていたためわからなかったのだ。

 

「こ、この時間は、誰であろうと職員以外が勝手に動き回ってはいけないんだ! あんた、関係者でもないみたいだし警察を呼ばせてもらうよ!」

「あと、ご遺体になにをしていた!」

 

 二人が覗いた時、男はベッドの上に白いシーツを被せられて横たえられていた遺体に対して、身を屈めて話しかけているようだった。

 あまりに怪しい行動と言えた。

 身内が悲しみのあまりに魂のない遺体に話しかけることはよくあることだが、この男の冷たいまなざしではとうていそうは思えない。

 何か魂胆があってのことに違いなかった。

 

「何、このままここに厄介になるのも問題だろと思てな。説得していたのよ、早く帰ろとさ」

「何を言っている!? 頭がおかしいんじゃないのか!」

「まさか! 私はいたて正気だよ。では頭がおかしくない証拠を君らにもみせてやろ」

 

 男が手にしていた風鈴のようなものを鳴らした。

 チリンと涼し気な音色が響く。

 ほぼ同時に白いシーツがめくりあがった。

 下から。

 何かによって突きあげられたように。

 

「えっ!!」

 

 二人の看護師が眼を剥いた。

 その現象が意味しているものを正確に理解していたからだ。

 

「身体を起こせ」

 

 もう一度鈴が鳴ると、今度はシーツがベッドの上からずり落ちた。

 なぜなら、シーツを被せられていたものが身を起こしたからだ。

 ありえないことだった。

 ベッドの上に横たえられているものは遺体以外にはありえないからだ。

 すなわち、遺体が自分から腹筋の力を使って発条のように身を起こしたということしか考えられないのだ。

 もともと、そこにいたのが遺体とすり替わっていた人間でもない限り。

 

「うわああああ!」

 

 後ずさった二人を追うかのように、男はずいと前に出た。

 鈴を持った手の逆側には、三角形の小さな旗のようなものを握っている。

 

「行くぞ。長居は無用(むよ)だ」

 

 男の命令に従うかのように、起き上がった遺体はベッドから飛び降りた。

 直立不動の状態で、どういう訳か両手を水平に伸ばしている。

 処置されていて閉じられているはずの眼がかっと見開いていた。

 瞳孔には当然に生の輝きはない。

 紛れもなく死人なのだ。

 それなのに普通に立ちあがり、勝手に動き出している。

 恐ろしいとしかいえない光景だった。

 

「さて、道をあけろ! 死んだ人間様のお()りだ! 人間どもはささと道をあけろ! 邪魔をする者は道連れにするぞ!」

 

 男は呵々大笑しながら歩き出した。

 二人はあまりにも恐ろしくて飛び退りながら道を開けた。

 その二人の間を、正体不明の男と―――遺体が抜けていく。

 ただ、それだけだったのならばまだ恐ろしさは薄れていただろう。

 恐怖の極致はそこで止まらなかった。

 すでに三日前に亡くなったはずの中国人の男の遺体は、なんと、()()()()()のだ。

 まるでカエルのように。

 両手を伸ばして、足首の力だけで無理矢理に。

 意志の欠片もない機械のごとく。

 

 ピョンピョン

 

 ユーモラスな光景であるはずだ。

 それが生きている人間の行動であったのならば。

 だが、為している対象は「死体」なのだ。

 死体が生きているのだ。

 まるで、不審な男のあとにつく不思議なオプションのようでさえあった。

 

「さて、道をあけろ! 死んだ人間様のお()りだ! 人間どもはささと道をあけろ! 邪魔をする者は道連れにするぞ!」

 

 ……また男の声が聞こえる。

 だが、二人の看護師は動けない。

 あまりに夢魔の世界の光景に完全に怯え切ってしまったからであった。

 

 数時間後、別の見廻りがやってくるまで、二人はずっと立ちすくんでいた。

 

 

              ◇◆◇

 

 

「えっ、バイト?」

 

 音子さんから送られてきたライントークには、「ちょっとバイトをしない?」というに内容の言葉が非常に豊潤な言葉の羅列と共に記されていた。

 最初は彼女の意図が呑み込めないぐらいに、あまりに大量のライントークだ。

 文字数の限界にでも挑戦しているのだろうか。

 とはいえ、彼女を相手にする場合にはよくあることなので、僕としても慣れている。

 

「……うーん、バイトかあ。夏休みの前に少し貯めておきたいんだよな。旅行とかも行きたいし」

 

 少しだけ思案して、僕はOKという承諾のサインを送った。

 バイトの内容は不明だが、まあ、御子内さんの試合みたいに危険なことはないだろうという甘い考えだった。

 退魔巫女の戦いは、実のところ相当に危険なものなのだが、あれだけ数をこなすと危険への警戒心も薄れてきていた。

 だから、退魔巫女である音子さんの申し出にもひょいひょいと乗ってしまったのだ。

 それが、とてもつなく危険なバイトへの誘いだとも知らずに。

 

 

 ―――僕たちが夏休みに入る少し前の出来事である。

 中国人たちの爆買いという言葉が流行語になる、半年ほど前のことだった……。

 

 

 

 



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中華街二人旅

 

 

 音子さんに連れていかれたのは、横浜の中心部に近い、とある雑居ビルであった。

 僕たちの住んでいる多摩からは電車で移動するのも一苦労という地域で、ほとんど初めて行くような場所だった。

 とはいえ、短時間のバイトのうえ、交通費も〈社務所〉から支給されるらしいので、さほどの文句はなかったのだけど。

 

「……ここでいいの?」

シィ(うん)

 

 いつものようにスペイン語の短文が混じる変わった話し方をする音子さん。

 だが、今日は様子が違っていた。

 なんとトレードマークの覆面マスクをつけていないのだ。

 おかげで音子さんの白い陶磁器のような素肌と整った左右対称の美貌を拝むことができた。

 僕の人生でもほとんど見たことがないぐらいの美少女だ。

 正直なところ、粒ぞろいの美人ばかりの退魔巫女の中でもおそらくトップに綺麗なのは彼女だろう。

 普段、奇妙な覆面で隠しているのがぶっちゃけもったいないぐらいである。

 ただ、それだって何か理由があってのことなんだろうと思う。

 なぜなら、音子さんの覆面について御子内さんに訊ねても要領の得ない回答しかもらえなかったからだ。

 きっと黙っておくだけの深い事情があるに違いない。

 もっとも、素顔を見せてくれるというのはとにかく珍しい事なので、一応聞くだけは聞いてみることにした。

 

「今日は覆面マスクをしないの?」

「シィ。―――あれだと目立つから」

「それは否定できないね」

 

 ごく普通の返答だった。

 もう少し奇をてらった答えが来るものと思っていたので拍子抜け。

 強く拒絶でもされていたら、逆に諦められたかもしれない。

 彼女が覆面をつける理由がさらに気になって仕方なくなってしまう。

 

「でも、音子さんくらいの美人だと素顔でも目立つよね」

 

 すると、彼女はちょっと顔を赤らめて、

 

「……シィ。あたし、ほらさ、とんでもなく可愛いから、ある意味で美人税みたいなもん」

 

 と、なかなか吐けない台詞をいう。

 さすがは退魔巫女。

 自己を肯定することにかけては他にひけをとらない。

 御子内さんもレイさんもそうだけど、彼女たちは常に自信満々で謙遜しても口だけである。

 絶対に自己を卑下して考えたりはしない。

 それだけ強い自我を持っているともいえる。

 まあ、女の人はというものはたいていの場合、自分の可愛さについてだけは客観的に把握しているものなので別に退魔巫女に限らないか。

 うちの妹だって随分俗なことを言うし。

 よく言う「合コンには自分よりも可愛い子は誘わない」とかその類の。

 

「でも、素顔だと目立たない? 音子さん、SNSで色々と人気者なんだから」

「そこまでじゃない。所詮はネットの世界だし」

「フォロワーが何万人もいるのに?」

「芸能人でもないし」

 

 芸能人でも君ぐらいの美人さんはいないけどね。

 

「それに、覆面マスクだと一緒にいる京いっちゃんには迷惑だと思って。……ダメ?」

「ううん、駄目なんかじゃないよ。むしろ、気を遣ってくれてありがと。ただ、音子さんは美人だからさ、一緒に歩くとすごく注目されちゃって恥ずかしいだけ」

「大丈夫、そういう人はあたしを見ているだけだから。京いっちゃんには目もくれない」

「はっきり言わないでよ……」

 

 事実だけどね。

 まあ、巫女装束の御子内さんと連れ立って色々と出歩いている僕としては、今更なんだろうけど。

 あれだけ素っ頓狂な格好が隣にいれば僕なんて地味すぎて影よりも目立つことはない。

 ちなみに今日の音子さんは覆面もなければ、巫女装束でもないという完全なお出掛けモードだ。

 薄手の白のブラウスと藍のサブリナパンツ、豊かな髪を納めるための大きなキャップ、お洒落なスニーカーに小物としてバッグを持っている。誰がどうみても退魔巫女には見えない。

 仕事用の巫女装束の入ったカバンは僕が引き受けていた。

 これで観光地の中華街のそばを歩いているのだから、なんとなくデートをしているような気がしてならない。

 そういえば、御子内さん以外の女の子と二人でいるのは久しぶりだな。

 彼女もいない僕としてはちょっと緊張する。

 

「でも、わりと繁華街に近い、こんなところになにがあるの?」

「……さっきの中華街の華僑からの仕事なの。目立たないようにしてくれというオプションつき。うざっ」

 

 わりと毒舌だ。

 無口な人ほど内心ではとんでもない罵倒語を連ねているというらしいが、音子さんにもその傾向はあるのだろうか。

 

「だから、私服なんだ。でも、華僑ってことは中国の人? 珍しいね」

「そうでもない。もともとうちの国の妖怪にも大陸産は多いし、最近は観光客についてやってくる連中も増えてきたから」

「へえ」

「でも、今回のは珍しい。……噂では聞いていたけど、接触は初めて」

 

 音子さんも御子内さんと同じぐらいの戦歴の持ち主だから、その彼女が珍しいというくらいでは相当レアなのだろう。

 

「それで、僕は何をすればいいの?」

「話がまとまりそうなら、〈護摩台〉の設置を頼みたいの。あとは、傍にいてくれればいい」

「……? どうゆうこと?」

 

 僕の特技は退魔巫女が〈護摩台〉と呼ぶ、リング造りだ。

 彼女たちが所属する〈社務所〉にも専門の肉体労働者が複数所属しているらしいが、どうやら最近の僕は外部の専門家として頭数に含まれているらしい。

 おかげで御子内さんの試合(ようかいたいじ)のほとんどの場合は僕に一任されている。

〈社務所〉というところがいったいどういう組織なのかは今だに不明だけれど、それってどうなんだろうといつも思ってはいた。

 

「中華街に来るなら、ちょっと……気分になれるかなって」

 

 よく聞き取れなかった。

 音子さんは寡黙な方なので言葉がたまに聞き取りにくいことがある。

 

「じゃあ、とりあえず音子さんが今回退治する予定の妖怪はどういうやつなのさ? 察するところ、大陸の妖怪なんでしょ?」

「……」

 

 少し考えてから、

 

「何日か前、新宿の歌舞伎町で一人の中国人が死んだの。で、その死体は病院に運ばれたんだけど、三日後に突然、出ていってしまった」

「出ていった? それだとまるで自分の足でどこかに行ったみたいに聞こえるね」

「シィ。―――目撃した看護師の証言では、間違いなくその死体は自分の足で出ていったらしいの。自分の足で、ピョンピョンと跳ねながら」

「ピョンピョン?」

 

 僕の頭の中にはウサギとカエルが競争を始めていた。

 ただ、それが人間だとすると……

 

「もしかして、それって映画とかでよく見る……」

「シィ。―――〈殭尸(キョンシー)〉。いわゆる中国風吸血鬼」

 

 ……なんで、そんなものが日本にいるのさと言いかけたけど、ある意味では納得した。

 すぐ先には中華街がある。

 日本に来た華僑がすみついて作られた日本でも珍しい完全なチャイナタウン。

 であるからして、そこに日本のものとはまったく別の系統に属する妖怪が潜んでいたっておかしいことは何もない。

 むしろ絶対にいないと思う方が変か。

 そして、すべての妖怪と戦うのが音子さんたち退魔巫女の仕事である以上、対象について例外はないのだろう。

〈殭尸〉という奇妙な妖怪と戦うことさえも。

 

 



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中国巫術事情

 

 

 雑居ビルの入り口で僕たちの対応をしたのは、ごく普通の太ったオジサンだった。

 少し眼が細いのがちょっと中国人ぽいと失礼なことを考える。

 ただ、入口のところとここに来るまでの路上に、幾つもの監視カメラが隠されていることにからすると、やっぱり普通ではないのかもしれない。

 ちなみに、カメラを見つけたのは音子さんだ。

 視線と歩きながらのライントークで教えてくれた。

 

「ようこそ、えと、日本(はぽん)の道士様でございますかな?」

「シィ。―――京いっちゃん、まかせた」

「……はい、そうです」

 

 音子さんが面倒くさがって交渉をさぼりだしたので、僕が表に立つことになった。

 そんなに長い付き合いではないけれど、彼女や御子内さんの生態について僕はだいぶ詳しくなっている。

 

「あんたは?」

「僕は〈社務所〉から派遣された、退魔巫女の助手です」

「おう。内弟子ですかな。よくぞ参られた。老師がお待ちしております」

 

 オジサンは僕らを奥まで連れて行こうとする。

 外はいかにもどこにでもありそうな雑居ビルという様子なのに、内部はかなり広めの廊下と高級そうな壁紙が張られていたりして、立派な造りをしていた。

 かなりのお金をかけているのは明らかだ。

 監視カメラといい、室内の装飾といい、予想以上に贅沢な場所である。

 あと、鼻につく甘い香りはなんだろう。

 

「こちらです。―――老師、日本の道士様とその内弟子の方をお連れいたしました」

「入れ」

 

 案内されたのは、突き当りにある金色と赤の装飾が施された両開きの扉だった。

 ゲームならばラスボスが待っていそうな感がある。

 オジサンが開けてくれたので、そのまま中に入った。

 僕と違って、音子さんは躊躇いもしない。

 美貌にわずかな怯みもなかった。

 本当に胆が据わっているんだなあ。

 

「ようこそ、拝亭盆へ」

 

 竜や虎をあしらった彫刻がいたるところに施された豪奢な部屋だった。

 ところどころに派手な刺繍を施されたタペストリーのようなものがぶらさがっていて、室内に軽いお香の匂いが漂っている。

 例の甘い香りの出どころはここのようだ。

 

「……京いっちゃん」

「初めまして、こちらは僕の―――いえ、〈社務所〉から派遣されました退魔巫女の神宮女音子です。僕はその助手をしています」

「そうか。わしは元 華(ユン・ワー)だ。そこの街で黒社会(ヘイシャーホェイ)の真似事の元締めのようなことをやらせてもらっている」

 

 元 華(ユン・ワー)と名乗ったのは、細い口ひげを生やし、髪もちょっと薄くて後退しているが渋みのある中年男性だった。

 ただ目つきが鋭く、とても堅気には見えない。

 口元が笑っても全体で見ると絶対に笑顔ではないという感じだ。

 案内してくれた太った人と並ぶと、どちらも生粋の日本人ではないと思われた。

 名前のとおりに中国人なのだろう。

 

「二人とも随分と若いな。高校生ぐらいか?」

「はい、そうです」

「……」

 

 まあ、僕はさておくとして、音子さんなんかも退魔の仕事をしているようには見えないから仕方ないか。

 この手の若さへの偏見からも彼女たちは戦う運命にあるのだろう。

 

「いや、気にしないでくれ。道教の道士様がお若い姿なのはよくあることだからな。別に年齢で君らを疑っている訳ではない」

 

 黙っていると、勝手に向こうからフォローがやってきた。

 多少慌てている。

 ダンディーな中国人男性の慌てるさまはなかなかに面白い。

 

「君らはこの国の道士なのだろう?」

「えっと、道士というものとはちょっと違いますが、こちらの音子さんは日本神道の退魔巫女の仕事に就いています。身内でいうのは自慢のようで憚られますが、一、二を争う腕利きだと断言できます」

「……シィ」

「うむ。では、事情を説明させてもらおう。実のところ、こちらとしても困っていてね。ワシらのような黒社会が日本人にものを頼むのはあまり歓迎されないのだが、贅沢をいってられる余裕はない状況なのだ」

 

 すると、さっきのデブの人が椅子を二脚用意してくれた。

 

「よろしい、胖三(ぱん・さん)。おまえは地下に行って、準備をしておけ」

「えっ俺がですか? 嫌ですよ。あいつら薄気味が悪くて……!」

「仕方あるまい。ここで止めるしか道はないのだ。あんなものを横浜に解き放ってみろ。ワシらがこの国にいられなくなる!」

「は、はい、わかりました老師!」

「早く行け!」

 

 何やら叱られたらしいデブの人が弾かれたように、部屋の外へ駆け出して行った。

 途中であまりに急いでいたのか扉に頭をぶつけて、「くぅ~」と押さえながら小走りになる姿はなんだか面白い。

 やりとりが非常にコミカルで芝居でもみているかのようだ。

 

「……失礼した。あいつは胖三(ぱん・さん)といってワシの会社で小間使いをやらせている。いい年をして愚鈍な男で困っているのだ」

「そういうの、いいから。さっさと説明してくれる?」

 

 いい加減、焦れてきたらしい音子さんが話を促がしてきた。

 彼女は意外と気が早い。

 いらち、というものかもしれない。

 

「わかった。……〈社務所〉には、〈殭尸(キョンシー)〉退治だと伝えておいたはずですな、道士様」

「シィ」

「では、〈殭尸〉がどういうものかも調べてきているんでしょう」

「一通りはね。だから、あたしが来た」

「なるほど。では、すべてをお任せするとしよう、神宮女道士。こちらを見てください」

 

元華さんは僕たちに一枚の写真を渡した。

映っているのは二十代後半ぐらいの、これもファッションセンスからすぐに中国人とわかるような男性だった。

僕にも見慣れた成田空港での記念写真のようだ。

同郷の人たちとともに楽しそうにポーズをとっている。

 

「この人は?」

林 光榮(リン・グァンロン)。北京から来た観光客だ。そいつが歌舞伎町を観光しているときに、突然、死んだ。死因はわからん。ただ、倒れて病院に行った直後には死んでしまった」

「もしかして、この人が?」

「そうだ。そいつが〈殭尸〉として甦った。で、今、ここの地下に閉じ込めてある」

 

 閉じ込めてあるということは、もうほとんど片がついているのと同様なのじゃないだろうか。

 どうして退魔巫女の力が必要なんだろう。

 それに、そもそもどうして、この林という青年は〈殭尸〉なんていう化け物になってしまったんだ?

 

「そいつはな、北京の共産党幹部の息子なんだよ。しかも、今のご時世、日本にまで観光になんて絶対に来させちゃいけない立場の幹部のな」

 

 共産党の幹部の子供?

 

「ああ。だから、本名も出せないし、旅先で死んだからといって、死体を故郷に戻すように要請することも難しかった。通常の手続きでは帰国させられそうもなかった。―――そこで、北京から一人の男が送られてきた」

 

 そういって、もう一枚の写真が出てきた。

 こちらはパスポートの写真をそのままカラーコピーしたもので、かなり丸い顔をしていた。

 

「―――誰?」

「道教の道士だ。とりあえず宗教色は薄めようとしている北京でも、実際に力のある道士の一人や二人は飼っている。その中の一人だ」

「どうして、そんな人を?」

 

 今度、元華さんが取り出したのは、木製の剣の形をした玩具だった。

 いや、出来が良すぎるから玩具とは言えないかも。

 なんだか丁寧に扱っているし。

 あと、赤い紐を中心に通した古銭の束に刃がついたものもあった。

 どちらも日本のものとは思えない。

 

「これはその道士の持ち物なのだが、桃の木を削りだして作られた桃剣(とうけん)だ。あとは金銭剣(きんせんけん)。どちらも特定の術を使用するためと、ある化け物を退治するために用意されるものだ。当然、わかるよな」

「〈殭尸〉退治ですか?」

「ああ。正確にいうと、この道士は〈殭尸〉を法術によって産みだして、故郷に送り届けるという道長(どうちょう)の役割をもったものなんだ」

「どういうことですか?」

 

 ……元華さんのいうことによると、自分の息子の死体を国に戻すことができないと悟ったその共産党の幹部は、自分の息のかかった道士を日本へと派遣した。

 それは、死んだ息子を生きている死体―――〈殭尸〉に仕立て上げて、まるで生きているかのように錯覚させて飛行機で帰国させるためだった。

 日本に来た道士は、そのまま病院で身元不明の死体になっていた林 光榮(リン・グァンロン)に秘術を行使して〈殭尸〉にする。

 そして、そのまま高跳びするはずだったのだが……

 

「噛まれちまったんだよ、この道士が。しかも、この横浜でな」

「……そうなると、どうなるんです?」

「簡単だ、ゾンビと同じよ。ゾンビに噛まれたものがゾンビになるように、〈殭尸〉に噛まれたものは〈殭尸〉になる。ドジ踏んだ道士は、なんとか林の死体の〈殭尸〉と自分をこのビルの地下に閉じ込めたが、その傷が悪化して死んじまい、お揃いの化け物になって仲良く騒いでいる」

 

 ……ということは、もしかして、

 

「そいつらを斃せばいいの? あたしが?」

「あたりだ、日本の道士様よ。あんたに依頼したいのはその二匹の〈殭尸〉退治だ」

「シィ」

 

 ものわかりのいい音子さんはそれでいいかもしれないけど、僕はちょっと不満だった。

 

「ちょっと待ってください? どうして、中国の道士の方をまた呼んだりしないんです? 北京だけじゃなくて、今も中国にはたくさんいるんでしょ?」

 

 元華さんは少し考えて、

 

「ほとんどいねえんだよ、今の北京に道教の術者は。加えて、〈殭尸〉の術を使える奴はもっとすくねえ。大陸全土を探してもそんなにいないだろうな」

「どうしてです?」

「文革であらかた狩られちまったんだよ。しかも、わずかな生き残りは香港か台湾に逃げ出しちまって帰ってこない。林の親父もその辺に号令下せるほどの力はなかったんだろう。だから、次の道士を用意することもできないって寸法よ」

 

 なるほど、偏った知識しかないけど、道教も宗教の一種だし、あの文化大革命のおりに弾圧されてしまっていのか。

 それでもなんとか細々と続けてはいたが、人的資源は極端に少なくなっていたということだね。

 ただ、もう一つわからないことがある。

 

「この横浜にはいないんですか? 横浜だけでなくてもいいですけど、〈殭尸〉を退治できそうな人は?」

「いねえんだ」

「どうして?」

「そりゃあ、簡単だ。〈殭尸〉は生前の技術をほとんどそのまま受け継いでいる。例えば、身につけた武術とかもな。―――で、ここが問題なんだが、道教の道士と呼ばれる領域に達したものは()()()()()()()()()なんだ」

 

 耳にした途端、音子さんの顔が強張った。

 御子内さんもよく似た同様の顔色を浮かべたりするが、さすがは親友というところだろうか。

 

「つまり―――このビルに幽閉されている〈殭尸〉を倒せる人材がいないってことでいいんですか?」

「ああ、そうだ。〈殭尸〉の驚異的な身体能力と怪力、そして異常な跳躍力を持ち合わせた、拳法の達人相手に勝てるものなんて、日本の華僑には一人もいない。大陸から呼び寄せればなんとかなるかもしれないが、そんな時間はない。幽閉から脱獄されたら、この横浜は地獄に変わる」

「だから、日本の退魔巫女に頼むということ?」

「うむ」

 

 事情はわかった。

 なるほど、ただの退魔の仕事ではなく、素手での実力も試されるかもしれない。

 そういうことで〈社務所〉が選ばれ、中でも特に身軽でアクロバティックな戦い方を身上とする神宮女音子が推挙された、ということか。

 音子さんは黙ったまま立ち上がった。

 白皙の美貌に朱が差す。

 興奮している。

 戦いの血潮が燃え上ったことで。

 

「不安じゃないの、音子さん?」

「ノ。――― Estoy bien(エストイ ビエン)

「そう。でも、無理しちゃだめだよ」

「シィ。ポル ケ ヨー ソイ フエルテ……」

 

 熱くなっている。

 戦う気が満々なのだ。

 

「―――なあ、助手の子」

「なんですか?」

「この道士様は日本の巫女なんだよな」

「そうですけど、それがなにか?」

「今、なんて言ったんだ?」

 

 僕は簡単に通訳してあげた。

 巫女レスラーとして最高のルチャドーラ、神宮女音子は高らかに言い放ったのだ。

 

 

「平気だよ。なぜなら、あたしは強いから」

 

 

 と。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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妖怪〈殭尸〉

 

 

殭尸(キョンシー)〉というのは、いわば中国のゾンビの一種である。

死体であるのに、長い年月を経ても腐乱することもなく、足首の力だけで撥ねるように動き回る特徴があるそうだ。

 中国では死体の埋葬には土葬が多く、埋める前に室内に安置しておくと、夜になって突然動きだし、人を驚かすことがあり、それを〈殭尸〉と呼ぶらしい。

「殭」という漢字は「死体(=尸=しかばね)が硬くなる」と言う意味があることから、名付けられた。

〈殭尸〉は死体であるにもかかわらず、一切腐敗をせずに生前同様に肉感的であり、時には髪の毛も生えてくるだけでなく、血に飢えた人食いの背質を持つ凶暴な妖怪である。

 ただし、そのほとんどは道教の道士によって作り出される、いわば人工的な妖怪であり、道教が広まっていない日本では目撃例すらないという。

 僕たちが知っているのは、八十年代に香港映画で有名になったからであり、そうでなければあの清朝の役人の服を着てピョンピョン飛び跳ねるリビングデッドが日本に知られることはなかっただろう。

 

 

           ◇◆◇

 

 

 巫女装束に着替えるため、別室にこもった音子さんを待っていると、隣にいた元華さんが話しかけてきた。

 

「……あの日本の道士様は、かなり強いんだろうね」

 

 疑問文ではなく、ある程度確信しているような口ぶりだった。

 音子さんの強さについては、「かなり」なんてものじゃないことを知っている僕としては頷くしかないところだ。

 

「若すぎるとか、言わないんですか?」

 

 元華さんは真顔で、

 

「まさか。ワシの元の故郷では若く見える道士様は大勢いたものだからな。あの年頃で、実は百歳とか言われても納得してしまうよ」

「百歳?」

「ああ。道教(タオ)の道士様なら、若く見せる丹の類を服用していてもおかしくないし、同時に何百年生きていても驚かない」

 

 ……中国って仙人がまだいるのかも。

 

「それにあの少女が鍛えているのは、練気でわかる。信じられんほどに呼吸が一定に保たれている。あれならば、徒手空拳であったとしても、四肢の端々に強い気が漲っていることだろう。妖魅(バケモノ)退治の専門家としてならば申し分ない」

「退魔巫女はみんな凄いですからね」

 

 すると、彼は妙な目つきで僕を見た。

 舐めるような、観察するような、そんな探る目だ。

 

「いや、あんたもたいしたものだ」

「……僕が?」

「あんた、〈一指(ひとさし)〉の持ち主だろ。〈一指〉独特の天眼を持っているからすぐにわかった」

「〈一指〉ってなんですか?」

 

 聞いたことのない単語だ。

 

「そういえば、日本では珍しいのか。日本人に〈一指〉がいたとも聞いたことがないしな。……ああ、中国では前漢の頃から伝えられている話でね、少し風変わりな運勢の持ち主のことを〈一指〉というのだよ」

「少し……風変わりって」

 

 まあ、僕は御子内さんたちと出会って退魔巫女の助手なんかしているぐらいだから、変わった運勢の持ち主であることは否定できない。

 ただ、元華さんのいう〈一指〉というのはまたそういうものとは違うらしい。

 

「指先一本分の運の持ち主ということだ」

「―――すっごく少量っぽいんですけど。隠し味の調味料程度じゃないですか」

「ところが違うんだ。中国では実は武人に多い運勢なのさ」

「武人ですか?」

「ああ。指先一本というのは、要するに、足掻きに足掻き、もがきにもがいたものだけが最後の最期に達するほんのわずかな強運ということだ。この運勢の持ち主が自分の極限まで功夫(クンフー)を積み重ねた場合、すべての戦いにおいて紙一重の運の差で勝利することができるといわれている」

 

 というと、〈一指〉の持ち主が極限まで死ぬほど鍛えたら、まず負けることはないということなのかな。

 確かに格闘家とかになったら無敵になれるかもしれない。

 御子内さんも言っていたけど、「高いレベルになればなるほど運の強い方が勝つようになる」らしいから。

 どんなに強大な相手が敵でも、どれほど凶悪な罠にかけられても、勝ち目が消えずに生き延びられる人間というのは、おそらくそういう運勢の持ち主だろう。

 

「僕が、それの持ち主ってことですか?」

「……少なくともワシの知っている知識ではな。まあ、当たっているかもしれないし、当たっていないかもしれない。ともに八卦だ」

 

 よくある〆の言葉だった。

お世辞程度にとっておくのがいいか。

 運なんかを過信するとろくなことになりそうもないし。

 

「あと、道士様が連れている相手ということもあるかもな。いくら道士様でも妖怪退治は命懸けの仕事だから、ギリギリで働けるお供は欲しいものだろう」

 

 ……なるほど、と思った。

 御子内さんが僕を助手にしているのはそういうこともあるのか。

 ただ、その〈一指〉目当てだけという訳ではないのはわかるけど、僕の運の良さのようなものに期待していると考えるのも間違いではないのかもしれない。

 利用されているようでちょっとだけ寂しいけれど、僕の運で彼女たちを支えられるというのならばここは我慢してついていくしかあるまい。

 ―――よし、振り切った。

 

Disculpe por hacerlo esperar(ディスクルペ ポル アセルロ エスペラル)

 

 音子さんがいつもの格好で部屋から出てきた。

 ぎょっとする元華さん。

 なんといっても巫女装束以外に、いつもの覆面(マスク)をつけているのだから当然だろう。

 この中国人のオジサンは、どうもヤクザみたいな職業のようだが、意外と常識人らしいのでこの格好に驚いても仕方ない。

 

「えっ、えっ」

 

 お化けにあった女子大生みたいな反応をしている。

 

「さあ、行こう。京いっちゃん、あたしたちの舞台へ」

「うん、そうだね」

 

 僕たちは連れ立ってビルの地下へと降りていった。

 なんのために使われているかよくわからない広い空間がある。

 ただ、臭いからすると各階で集められたゴミを集積しておく場所だったようだ。

 かなり広いし、奥の方にシャッターがあり、トラックの荷台が直接連結できるように一段高く設計されていることからもうかがえる。

 隅に方に壊れたカーゴが放置されているし。

 

「あの奥です」

 

 指さされた先には、頑丈そうな金属の扉がついている。

 その外でおっかなびっくり聞き耳をたてているのはさっきの太った人だった。

 確か、名前は胖三(ぱん・さん)さんだったかな。

 こちらを見て、涙を流さんばかりに喜んで駆け寄ってきた。

 

「老師! ヤバイこってす! もう道教(タオ)の道士様も言葉が通じないくらいにおかしくなって暴れちょります!」

「……仕方ないだろ。相手は〈殭尸〉だ」

「そんな~! さっきから扉をとんでもない勢いで叩いていて、とてもじゃないが長くは持ちませんがな!」

「だから、日本の道士様をお呼びしたんだ。慌てるな、このスイカ頭め!」

 

 罵倒されたうえ、ポカリと殴られる胖三さん。

 可哀想だけど、取り乱すオジサンは邪魔なので殴った方の気持ちもわかる。

 

「……この扉の中に、〈殭尸〉が二人閉じ込められているんですか?」

「一人は自分で入ったんだがな」

「あと、どれぐらい持ちます?」

「かなり頑丈なものだから、破られることはないと思うが、今日は満月だ。満月の〈殭尸〉は力が強い。夜には危ないかもしれない」

「わかりました。そのシャッターを開けて、リング―――じゃない〈護摩台〉の設置のための資材を搬入させてください。トラックがこの近くで待機しているので連絡します」

 

 おそらくは生ごみを集積しておくための倉庫の中から、地獄の鬼のような呻き声が聞こえてくる。

 あの中に〈殭尸〉がいる。

 暴れている。

 その鬼と戦うことになる音子さんのためにも、急いでリングをつくらないとならない。

〈結界〉があるとないとでは退魔巫女の戦闘には大きな違いが生じるからだ。

 そして、音子さんはルチャドーラ。

 彼女の強みである空中殺法を活かすための、ロープとコーナーポストは絶対に必要なのだ。

 時計を見る。

 三時五十分。

 陽が暮れる時間は遅くなったとはいえ、夜まではもう時間がない。

 急がないと。

 

 

 

 

 

 

 



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巫女摔跤手

 

 

 搬入された資材を使って、地下ギリギリのリングを設営する。

 リングサイドにはほとんど一人歩けるぐらいのスペースしかないので、音子さんの得意のスペースフライング・タイガードロップは使えない。

もっとも、天井はわりと高めなので音子さんの通常技ならばなんとかいけるだろう。

時間がないということで、元華さんたちにも手伝ってもらったが、その顔は始終戸惑ったままであった。

間違いなく、「自分はなにをやっているアルヨ」的な顔であったが、僕は無視した。

気持ちはわかる。

僕も随分前に味わった感覚だから。

 だが、もうすぐ夜になるという時間が押している段階でとやかく言っている暇はない。

 懸命に身体を動かして、最後のロープのテンション確認までもっていったときには、おそらく陽が沈む寸前だったのだろう。

 そろそろ、上の階の空きスペースでウォーミングアップをしている音子さんを呼んでこようかと考えた。

 狭い場所だったこともあり、彼女にはいったん地下から出ていってもらったのだ。

 集中を高めるためにも、僕らが作業している傍でアップをするのは非効率的だったし。

 

「じゃあ、(ぱん)さん。音子さんを呼んで来てもらえますか?」

「お、おけ」

 

 一緒にマットの上のゴミを掃いていた胖三(ぱん・さん)さんに声をかけた。

 彼は箒とちりとりを壁に立てかけて、そのまま扉へと向かう。

 その時―――

 

 ガアアアアン!!

 

 さっきまで静かだった〈殭尸〉たちを閉じ込めていた扉が音を立てた。

 それだけでなくギシギシと金切り声をあげる。

 しばらく大人しくしていたはずの、〈殭尸〉がついにまた暴れはじめたのだ。

 生きた死体の凶暴さを剥き出しにして。

 

「胖三! 急いで、道士様を!」

「はいぃぃぃぃ!」

 

 声を裏がえしながら、胖三さんが外に出ようとした。

 しかし、それよりも早く扉が中から開いた。

 あの金属の扉を突破して躍り出てくるなんて、そんな馬鹿な。

 だが、開かれた扉の暗がりから顔を出してきたのは、山吹色の道士服を着た丸い輪郭の中年男性だった。

 顔色は悪く、眼は白く濁っていた。

 どうみても死人そのもの。

 ただし、その両腕を整列の前へ倣えのように突き出して、直立不動の姿はとても奇怪だった。

 確かに、あれは映画でもおなじみの中国の妖怪―――キョンシーだ。

 幽閉された場所から解放された〈殭尸〉はほとんどノーモーションで跳ね上がり、僕のいるマットの上に降り立つ。

 速い上に異常な動きだ。

 まるで天井にワイヤーでもついていて、それに引き上げられたかのようだった。

 これが、〈殭尸〉なのか。

 御子内さんが呼ばれなかったわけもわかる。

 このアクロバティックな動きをする跳躍する妖怪相手だと、僕の御子内さんでは不利すぎる。

 前の〈天狗〉同様、立ち技中心の彼女では負けないまでもかなりの苦戦を強いられるだろう。

 ここは音子さんではなくては……。

 だが、今ここには音子さんはいない。

 僕たちはこの妖怪の毒牙にかかるかもしれない危険な状態に置かれているのだ。

 

「〈一指〉の少年、鼻をつまんで息を止めろ! 〈殭尸〉は眼が見えず臭いで人間を判別する!」

「は、はい!」

胖三(ぱん・さん)もだ!」

「わかりましたです、老師!」

 

 言われた通りに鼻をつまんで、息を止めた。

 こんなことで〈殭尸〉から逃れられるとは思えない

 だが、疑っていても仕方ない。

 

「……っむ」

 

 ピョン、ピョンと〈殭尸〉がコーナーポストの脇にいた僕の目の前にやってきた。

 首が動いている。

 どうやら何かを探している―――いや、この場合の探し物は間違いなく僕だろう。

 さっきまでここにいたはずの僕を探しているのだ。

 ただ、口を閉じたことで臭いがなくなった。

 それで見失った。

 

(うわ、ホントに効くなんて。まあ、全身に泥を塗りつけるだけでプレデターの追跡を逃れるよりはマシな回避法かな)

 

 目の前を妖怪が飛び回るなんてのは、正直胆が冷えて仕方ないけどね。

 触れられるのも嫌なので、キョロキョロする〈殭尸〉の脇をそっとすり抜ける。

 反対側まで辿り着くのは難しそうだから、這いつくばって、リングサイドへとおりようとした。

 いざとなったら、リングの下の入り組んだ鉄骨の中に逃げることもできる。

 道士服の〈殭尸〉の鼻を誤魔化しつつ、下へと降りようとしたとき、

 

 ぷー

 

 と気の抜けた音がした。

 誰もが身に覚えのある音。

 腸に溜まったガスがでる現象―――要するにおならだった。

 

「はっ! 口から出なくてケツから出ちまった!」

 

 口に当てていた手を自分のお尻にあてがったのは、ここから出ていく寸前だった胖さんであった。

 上を閉じたら下の穴からか!

 笑いの神でもついてんの!?

 

『ウォォォ!』

 

〈殭尸〉が吠えた。

 おならの中に混じる臭いに気がついたのと、軽はずみに口を開いた胖さんを獲物として認識したのだ。

 慌てて口を塞いでももう遅い。

 今度こそ、〈殭尸〉はリングサイドの胖さん目掛けて飛びかかった。

 あまりにも早い電光石火の動きだった。

 

「ヒィ、お助けぇぇぇ!!」

 

 そんなところでコミカルに動かなくていいから。

 ツッコミをいれたくなるような残念で情けない動きで胖さんは頭を抱えてしゃがみ込んだ。

 

「胖三! 待て、〈殭尸〉!」

 

 元華さんまでが部下のピンチに叫んでいる。

 もしかしていい人なのか。

 だが、その声が妖怪に届くことはなかった。

 爪の伸びた〈殭尸〉の凶暴な腕と牙がつかみかかろうとした瞬間、

 

Alto(アルト)!」

 

 道士姿の〈殭尸〉の顔面に突き刺さるリングブーツのつま先。

 その持ち主は言わずと知れた巫女レスラーの―――

 

「音子さん!」

 

 僕の呼びかけに応えるように、〈殭尸〉をふっ飛ばしてリングの上に降り立ったのは、やはり神宮女音子だった。

 白地に縦の赤線のひかれた覆面を被り、独特の猫足立ちをした構えをとるルチャドーラ。

 吹き飛ばされてマットに転がったというのに、起き上がりこぼしでも不可能な挙動をして、立ち上がった〈殭尸〉と対峙しても怯むことはない。

 むしろ、彼女に立ち向かおうとする妖怪の方が戸惑っているようだった。

 

「道士様! これを使え!」

 

 元華さんが例の桃の木でできた剣を投げる。

 だが、音子さんはそれを受け取ってもすぐに僕に渡してきた。

 不必要といわんばかりの態度である。

 

「おい、いくらなんでも武器もなしで何ができるってんだ! こら、〈一指〉の助手、あんたの道士にもう一度渡せ!」

 

 だけど、僕は首を振った。

 

「必要ないんですよ」

「何を言っている! あの〈殭尸〉になった道士は拳法の達人なんだぞ。それに〈殭尸〉の怪力が加わって普通のやつでは手も足もでない!」

 

 たぶん、元華さんの見解は正しい。

 でも、あなたは何も知らないみたいだ。

 拳法の達人であろうが、怪力の妖怪であろうが、何を相手にしたとしてもこのリングの上では決して諦めない存在がいることを。

 

「元華さん。僕たちがこの〈護摩台〉―――リングをどうして設営したかがわからないんですか」

「なんだって? どういうことだ?」

「……このリングで戦う以上、武器なんかなくったって彼女たちの闘志は百倍になるからですよ」

「―――まさか」

「そのまさかです」

 

 音子さんも御子内さんと同じ存在だ。

 巫女レスラーとはそういう生き物なのだろう。

 だから、彼女たちがリングに立って、妖怪と睨みあっている以上、僕たちはもう応援するしかないのだ。

 

 カアアアアン!

 

 結界を張る(ゴング)が鳴り響く。

 さあ、始まるぞ。

 空中殺法の使い手にして、投げ技の達人―――空飛ぶ姫(プリンセサ)神宮女音子の華麗なる戦いが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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麗人飛翔

 

 数多いる妖怪の中でも〈殭尸〉のイメージは独特である。

 まず、中国が清の時代であったときの正装である暖帽と補掛を着ていることからくる外観があげられる。補掛はサイズの大きなダッフルコートのようなものであり、日本人にはなじみがなく、そこが珍妙さを醸し出している。

 次に、両腕を前に伸ばして、ピョンピョンと足首の発条だけで飛び跳ねるその独特の動き方である。

 古今東西、このような奇怪な移動をする妖怪はそうはいない。

 しかも、〈殭尸〉の一歩一歩は思った以上に遠くまで跳ぶのだ。

 間合いが掴みにくく、常に空中戦を仕掛けられているようなものとなっている。

 だからこそ、敵が〈殭尸〉とわかった段階で、社務所は所属する退魔巫女の中でも音子さんを一本釣りしたのだろう。

 空中殺法といえば、彼女の得意技だからだ。

 そして、その選択は間違っていなかった。

 

「ひゅぅぅぅぅぅぅ、しゃああああ!!」

 

 長く息を吸ってから、猫のように吐く。

 緩い孤を描いて跳ねてくる〈殭尸〉を空中で受け止めてから、投げつける。

 いくら〈殭尸〉といえど空中では身動きが取れないので、そのまま音子さんのいいようにマットに叩き付けられた。

 だが、次の瞬間には、おきあがりこぼしのように反動さえもつけずに、ひゅんと立ちあがる。

 投げのダメージさえついているかわからない奇妙さだ。

 いや、もともと死体であるということを考えればダメージの蓄積はほとんどないと考えるのが妥当なところか。

 音子さんもわかっているのだろう、そのまま仕掛ける。

 

『グォォォォ!』

 

 〈殭尸〉が伸ばした腕で掴みかかる。

 それを弾き、胴体を蹴り飛ばす。

 だが、くるりと回転しながら、さらにもう一度振り回す〈殭尸〉の手は凄まじい速さを持っている。

 とても愚鈍な死体のものではない。

 しかも、蹴って勢いを殺そうとしても、一歩後退するだけで前進はほとんど止められないのだ。

 あまりに攻撃の圧が強い。

 腕の振りはまるで刃のように鋭く、音子さんの巫女装束の胸元を切り裂いてくる。

 まともに喉などの肌が露出している部分に食らったら、どうなるかわからない。

 掴まれたら、力の限り投げられ、または噛みついてくる。

 厄介な相手だった。

 

「強い……」

 

 僕が正直に呟くと、いつのまにか隣にきていた元華さんが言った。

 

「こんなもんじゃないぞ。あの〈殭尸〉の恐ろしさはな」

「どういうことですか?」

「あれだ」

 

 音子さんが伸ばされた手をはたき、小手投げの要領で投げようとすると、両手がまるで不思議な絡繰りのように動き逆に回転させられた。

 そのままマットに仰向けに叩き付けられる音子さん。

 彼女目掛けて腹ばいのまま〈殭尸〉が飛びかかる。

 間一髪、横に転がって躱す。

 しかし、ボディプレスを自爆したというのにダメージは相変わらず受けていないように見えた。

 信じられないタフネスだ。

 そして、何より……

 

「今の腕の使い方はもしかして……」

「うむ、我が国の拳法の動きだ。木人相手に培った捌きの法と染みついた技が、あんな姿になっても発揮されるんだ」

「──―道理で」

 

 そういえばそんなことを言っていた。

 だから、退魔巫女を呼んだと。

 確かにゾンビなのに生前の技をそのまま使えるというのは異常なまでに厄介だ。

 まともな人間では太刀打ちできまい。

 

「くっ」

 

 音子さんがついに捕まってしまった。

 蹴っても叩いてもびくともしない。

 一発の威力ということならば御子内さんに比べて弱いとしても、音子さんだって巫女レスラーだ。

 決して打撃も軽くないというのに、まったく身じろぎもしない。

 〈殭尸〉は噛みつくのは厄介だと感じたのか、両脚を揃えて音子さんを吹き飛ばした。

 尻もちをついても、すぐに跳ね上がりもとの姿勢に戻る。

 まるでジャイロコンパスだ。

 動きの独特さがまともではない。

 さらにその動きを最大限に活用する怪力もある。

 非常に危険な妖怪だった。

 あの音子さんが苦戦を余儀なくされるほどに。

 

「──―弱点はないんですか?」

「額に道士様の作った札を貼るか、この桃剣で貫いて傷を負わせるしかないが……」

「退魔巫女は武器は使わないんです。それ以外で」

「じゃあ、ダメだな。あと、陽の光にも弱いはず」

「今は夜ですけど」

「どのみち無理ということだな

「だったら、どうすればいいのさ」

「どうにもならないな」

「マジですか」

 

 だが、このままいくとジリ貧だ。

 いくら音子さんであっても……。

 しかし、僕の御子内さんが()()であるように、彼女の親友の音子さんもまた()()であった。

 どれほどの危地にあったとしても諦めずに牙を研ぎ、相手の喉笛を掻っ切ることを忘れない()()()()()()()()

 一瞬屈んで、〈殭尸〉の気を逸らすとすらりとした両脚が下から撥ねあがる。

 その足首が〈殭尸〉の首を挟むと、そのまま投げ飛ばした。

 ルチャ・リブレの投げ技(ティヘラ)だ。

 再び、マットに叩き付けられる〈殭尸〉だが、このままではすぐに立ちあがってしまうと思いきや、すかさず地刷りで近寄る。

 そのまま、うつ伏せの〈殭尸〉の両足に自分の両足を絡め、両手で相手の両手首を掴んで後方に倒れこむ。

 相手の体を反り上げる技。

 あれは、ロメロが考案した……

 

「なんだ、あの技は!」

「あれを知らないんですか?」

「知るものか、日本の格闘技なんて!」

「あれは日本の技ではありませんて。──―ルチャ・リブレの至宝、吊り天井……ロメロ・スペシャルですよ」

 

 力の劣る小兵でも、テコの要領で相手を吊り上げることができるという究極の関節技だ。

 いかに怪力の〈殭尸〉といえどまともに決まれば身動きも取れない。

 しかし、十分に痛めつけたと見たのか、音子さんは無造作に投げ捨てる。

 ただ、覆面の下の音子さんの様子がさっきまでとは変わっていた。

 特技を極められたということもあるのだろう。

 テンションが最高潮に達しているのだ。

 無口な彼女だったが、御子内さんのように肉体言語でものを語ってくる。

 その彼女が雄弁に物語っていた。

 

「あたしは無敵だ」

 

 と。

 

「あたしに敵うものはない」

 

 と。

 そして、

 

「あたしのルチャは無敵だ」

 

 と。

 御子内さんとはベクトルが違うが、最強という自負と誇りを持っている彼女ならではの姿だった。

 

「音子さん、頑張れ!」

「シィ」

 

 僕の応援に応えてくれた音子さんが舞う。

 飛び跳ねる〈殭尸〉と正面切っての空中戦に入ったのだ。

 確かに〈殭尸〉の力は強く、跳躍力は異常だ。

 だが、逆にその伸ばした両手は無造作に相手に利用してくれというごときものだった。

 隙が多いということである。

 しかも、全身の関節が硬いせいで中国拳法の柔軟性は喪われている。

 そこを音子さんは弱点として見破ったのだろう。

 果敢に関節技と投げ技で攻めていくことにしたのだ。

 

『グオオオ!』

 

 手を取られ、何度も何度も〈殭尸〉はマットを這うことになった。

 ほとんど音子さんの独壇場となっていったからだ。

 拳法の技術はあるといっても、それを利用して組み立てられないゾンビの状態では、「感じるな、考えろ」という戦いはできない。

 百戦錬磨の退魔巫女とがっぷり四つで組みあえる訳がなかった。

 

「やああ!」

 

 苦し紛れに飛んできた〈殭尸〉を右のハイキックで叩き落し、転がったところをギロチンドロップで首を狙う。

 ボキっと嫌な音がした。

 脛骨がついに耐えきれずに折れたのだろう。

 さすがの〈殭尸〉もこれには参ったのか、飛び起きてぐるぐると回りだす。

 そして、観念したのか両手を伸ばし、掌を向けたまま俯いてしまう。

 その様子を見たのか、チャンスとばかりに音子さんが突っかける。

 トドメを刺すつもりなのだ。

 

「……やったのかな?」

 

 だが、元華さんに否定された。

 

「違う! あれは!」

 

 何やらひどく驚いている。

 どういうことだ?

 

「いったい、どうしたんですか?」

「道士様、気をつけるんだ、それは──―」

 

 だけど、元華さんの忠告が届く前に、音子さんは仕掛けてしまっていた。

 音子さんのフライング・ニール・キックが放たれる。

 

「発勁《はっけい》だ!」

 

 〈殭尸〉の双掌が音子さんの胸に当てられる。

 そして、繰り出されたのは中国拳法の秘伝・発勁によって強化された必殺の打撃であった──―!

 

 



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終劇

 

 発勁(はっけい)

 

 中国拳法の特殊な技術で、数多の漫画において必殺技として用いられてきた攻撃であった。

 筋肉や関節の運動をスムーズに組み合わせることによって普段より大きな力を出す、あるいは力を一定時間持続させる、一方に集中させる等の体の運用方法。

 ただの突きであったとしても、適した筋肉、関節などの運動の順番、力の出し方を突き詰めて完成させた形が発勁ともいえる。

 しかし、調息した気と螺旋の捩りを加えたそれはわずかな動作で爆発的な威力を発揮できる。

 〈殭尸〉に噛まれて同類となった道士が中国拳法の達人だというのならば、むしろつかえて当然ともいえる技法だ。

 まともに食らえば巫女レスラーといえどひとたまりもないかもしれない。

 元華さんが発した警告はそれを踏まえたものだった。

 だが、遅すぎた。

 〈殭尸〉の双掌打は発勁を伴い、音子さんへと放たれた。

 僕の脳裏には想像を超える打撃を受け、吹き飛ぶ彼女の姿が浮かぶ。

 

「──―っ!!」

 

 だが、現実には〈殭尸〉の打撃は音子さんをわずかに後退させただけで終わった。

 ただのパンチよりも軽い、押しただけとしか思えない程度に。

 少なくとも客観的にはそう見えた。

 

「とりゃあ!!」

 

 逆に音子さんの助走無しのドロップキックが〈殭尸〉の顔面を捉える。

 発勁使用後の硬直状態を突かれ、見事に食らってしまう妖怪変化。

 

「……どういうことだ!? あの道士様の〈殭尸〉の発勁は確実に発せられていたはずだ。まさか、不発だったというのか!?」

 

 元華さんの疑問ももっともだった。

 しかし、僕にはすでに答えが出ていた。

 音子さんの平然とした対応からも、別に今の行動が意外なものではなく、彼女にとっては慣れたものだと見えたからだ。

 

「要するに……音子さんにとって今のは既知の攻撃でしかなかったということですね」

「なんだと……? どういう意味だ?」

「多分、音子さんは過去に何度も発勁を見たことがあり、または受けたことがあるんですよ。そして、対処法も身に着けていた。おそらく、発勁のこもった双掌打を受けた際にわずかに動いて身体をずらすなりして勁を無効化したんです」

 

 すると元華さんは唖然とした顔をする。

 理解できないのだ。

 拳法を齧ったものからすると、とてもではないがあり得ないことなのかもしれない。

 

「……そんな馬鹿な。さっきの発勁は寸前まで気を練っていたのがわからない完璧なものだったぞ。それを咄嗟に無効化するなんて……。あのレベルの技を普段から見取り稽古していない限り不可能だ!!」

「だから、彼女の傍にはそのぐらい高レベルの発勁を使える人がいるんでしょうね。音子さんが慣れ親しんでいるぐらいに」

「──―嘘だ!!」

 

 元華さんの取り乱しようはわからなくはない。

 もっとも僕にはだいたい見当がついている。

 音子さんの近くにいて、異常なほどに中国拳法の技を使う人物なんて……。

 

(御子内さんだろうね。あの人、なんちゃって八極拳や形意拳つかうだけでなくて、発勁とかまでできるんだ……)

 

 常日頃から御子内さんと稽古していれば、そんなのも日常茶飯事になるのだろう。

 もしかして、音子さんが今回選ばれた理由の一つにはそれがあるのかもしれない。

 中国拳法対策ということで。

 

 一方のリング上では、ほとんど勝負はつきかけていた。

 切り札であったろう発勁を()()()()()、〈殭尸〉はもう防戦一方であり、ふらふらになっていた。

 さすがのタフネスぶりも終わりかけていたのだ。

 音子さんがトップロープの上から仕掛けた回転しながらお尻でぶつかる、トペ・コン・ヒーロが炸裂し、なんとかもう一度立ち上がった〈殭尸〉の両手を正面から掴んだ。

 そして、彼女自身はローロープの反動を利用し、高らかに飛び上る。

 両腕を掴まれたままなので、まるでバンザイをするかのように〈殭尸〉が上を向く。

 天と地に対称の影をつくる巫女と妖怪。

 そのまま、音子さんは頭から落下した。 

 切揉み状に回転しながら、彼女の頭突きが無防備な〈殭尸〉の胸板に激突する。

 まるでピラミッドが逆さに突き刺さるようなエグく、華麗な技であった。

 これには〈殭尸〉も敵わない。

 再び、音子さんが立ち上がったとき、すでに生きている死人はピクリともしなくなっていた。

 

 カンカンカンカンカーン

 

 (ゴング)がどこからともなく鳴り響き、〈殭尸〉の姿が消えていく。

 死体もろとも消滅するのだろう。

 勝負は決したのだ。

 一安心といったところだ。

 だが……

 

『グオオオオオ!!』

 

 耳元で吠え声のようなものがきこえたかと思うと、僕は横合いからとてつもない力で押さえつけられた。

 咄嗟に、手を伸ばしたおかげで突きだされた鋭い乱杭歯の一撃を辛うじて避けられた。

 見ると、白濁とした眼をもつ〈殭尸〉が僕に襲い掛かっていた。

 どうして、と思ったが答えはすぐにでる。

 さっき音子さんが封印した道士を殺したもう一匹の〈殭尸〉だった。

 倉庫に隠れていたのだ。

 戦いが流れで発生してしまったことからまったく警戒していなかった。

 

「少年、危ない!」

 

 しまった。

 僕の力ではこの妖怪を引き剥がせない。

 事態に気がついた音子さんが助けようと駆け寄ってきたとき、今度は逆方向から聞き慣れた可愛い声がした。

 

「やれやれだね」

 

 〈殭尸〉の顔面をぶち抜く、腰の入った正拳突き。

 僕から完全に引き離されたとみるや、そのまま踏み込み、逆突きの崩拳で胴体を抉る。

 そのまま、決めの一発はアッパーカット。

 空手、拳法、ボクシングと続く、節操がないくせに完璧なコンビネーション。

 ああ、なんて見慣れた強さなんだろう。

 

「まったく、聞きたいことがあってやってきたのに、まだ片が付いていなかったのかい? 音子、キミもたいがいだらしないなあ」

「ノ いきなり来て失礼だ、アルっちは」

「ふーん」

 

 倒れた〈殭尸〉の顔面を踏みつぶしながら、御子内さんは懐に手を入れる。

 何をするつもりかと思えば、取り出したのは彼女のスマホだった。

 そして、とある画像を僕たちに突き付けた。

 

「これはなんだい? 『あたしの彼氏とデートでーす♡ いいでしょ、羨ましい?』とかコメントしてある写真は!? 京一、キミはいったい音子となにをしていたんだい!?」

 

 そこには、さっきここにやってくる途中で音子さんとの自撮りのツーショットが映っていた。

 加工されて手ぐらいしか写っていないのに、よく僕だとわかったね。

 

「この音子に抱きかかえられた右手のこのタコはキミのものじゃないか! ボクの目が節穴だとでも思っているのかい? 舐めてもらっちゃ困るよ。──―さあ、ボクに内緒で音子と二人っきりで何をしていたのか、キリキリと白状してもらおうか、ああん?」

 

 ああん、がどう聞いてもただのヤンキーなんですけど!

 

『グオ、グオ』

 

 御子内さんの足の裏に踏み敷かれた〈殭尸〉の悲痛な叫びを耳にしながら、僕は写真を突き付けてどういう訳かお怒りの彼女をどうやって宥めればいいのか、僕は必死に考えるのであった……。

 

 

 

 

 

 

 







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第12試合 炎熱合宿
潮に流され海より孵る


 

 

 まだ陽の昇らない薄暗い引き潮の沖合を、野谷英夫は船で漕ぎ進めていた。

 借りている船には様々な機材が乗せられているので、乗員が一名だというのにかなり手狭だ。

 とはいえ、やることも多く、いちいち文句を言っていられる状況ではなかった。

 野谷にとって、この時間帯は漁師にも劣らぬほど忙しいのである。

 

「やっぱり、こっちまで流れ着いているのか……」

 

 手の中のガラス器具に汲んだ海水に試薬を垂らして反応をみると、やはり予想通りの結果がうまれていた。

 いや、予想よりもかなり濃い。

 潮の流れが停滞しているとはいえ、これほどまでだとそのうちに視認できるようになるかもしれない。

 別の機材をつかって、今度は海底の泥のサンプルも採ることにした。

 沖合とはいえ、深度はさほどない。

 東京湾などのようにいきなり海溝があったりする土地柄でもないからだ。

 陽が昇るまでのわずかな時間でやることが多量にあるからか、この時点で野谷はあることに気がつくこともなかった。

 あまりにも静まり帰っているということに。

 夜の海上である以上、海鳥は飛ばないし、魚も視認できるはずもない。

 ただ、海が生きているかほとんど死んでいるのか、その区別は意外とできるものである。

 この日に限って、異常なまでに海は静かすぎた。

 毎日海に出て、そこを生活の場としている漁師たちならば異変に気がついたであろうが、学者である野谷はたまに出る程度なのでわからなかったのだ。

 ゆえに、自分が借りている小さな船舶に近寄りつつある存在を察知することができないままで終わった。

 ペンライトを口で噛みしめて、手元のノートにメモをしていた彼はなにやら妙な寒気に襲われた。

 

「上着、もう一枚必要だったか……」

 

 空いている左手で肩をさする。

 

「んっ?」

 

 ふと、何かがおかしいと感じた。

 何がおかしいのかはわからないが、とにかく背中が変だ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……

 思わず、野谷は振り返ってしまった。

 こんな誰もいない海上で人の視線を感じることなどあり得ないのに。

 

 だが、いた。

 

 じっと彼を見下ろす()()()()がいた。

 船上の彼を()()()()()()()()()()見るものたちが。

 しかも、そいつらは、()()()()()口を利いた。

 

『……漁師だ、漁師だ、漁師だ』

『違う。人だ、人だ、人だ』

『こんな海に、こんな海に、こんな海に』

『いるな、いるな、いるな……』

 

 上下に並んだ二つの顔が交互に喋った。

 一度発声しただけでは意味が通じないのか、理解できないのか、何度も同じ内容を繰り返す。

 地獄の底から競りあがってくるような重低音の響きで。

 耳にこびりついて離れなくなるような不気味さであった。

 

「な、なんだ!?」

 

 つい叫んでしまったが、まだ東方から昇る太陽は欠片しか見えておらず、薄暗すぎてそいつらの全容を把握することはできなかった。

 ただ言えるのは、船ではなく海の上からそいつらは彼を見ているということだけである。

 もう一隻船があるわけはない。

 どうやってその位置にいるのだろうか。

 

『我らに気がついた』

『我らに気がついた』

『我らに気がついた』

『我らに気がついた』

 

 そいつらは鸚鵡返しに繰り返す。

 

『どうする?』

『どうする?』

『気に入らないな』

『確かに気に入らないな』

『こんな海にしておいて』

『こんな海にしておいて』

『我らの怒りを買っておいて』

『我らの怒りを買っておいて』

 

 黒い影が近づいてくる。

 それが「腕」であると野谷が気づいた時、彼の頭は上からがっしりと掴まれていた。

 触れられただけで痛みを覚えるようなざらついた掌であった。

 ギリリと締め付けられ、あまりの痛さに絶叫する。

 まるで万力にでも挟まれているかのようだ。

 意識が遠くなりそうだった。

 

「ぎぃやああああ!! 痛い、痛い、痛い、いたああああい!」

 

 助けを求めるには十分な悲鳴を上げたが、あいにくと早朝の海上には誰かが通りすがるはずもない。

 彼の悲鳴は静寂の中に霧散していくだけであった。

 

『いい叫び声だ』

『いい叫び声だ』

 

 そいつらは爆笑していた。

 痛みに苦しむ野谷の姿がおかしくて仕方がないらしい。

 くいと身体が浮いた。

 頭ごと持ち上げられているのだと野谷が気がついた時に、足の裏が甲板から離れていた。

 

「やめてくれええ!!」

 

 今度は自重で首が伸ばされる痛みで死にそうになった。

 薄れかけた意識が呼び戻されるほどの苦痛が襲う。

 どんなに暴れても、掴んでいる腕を殴りつけても、決して放してくれない。

 それどころか、野谷の精神は限界に達しようとしていた。

 吊り上げられている苦しみに呼吸さえ止まりそうだった。

 

『うるさい』

『うるさい』

 

 野谷はさらに高く吊り上げられた。

 甲板からニメートル以上は離されて、そして、()()()()()()()

 ゴミのように。

 何十メートルもの距離を飛び、水面を平らな石が切るかのごとく、海面を二度撥ねた。

 投げられた瞬間、首の脛骨が折れ、叩き付けられて背骨まで砕けた。

 海に沈んでいくまでのわずかな時間、野谷は自分がどうしてこんな目にあわなければならないのか、と世界を呪った。

 だが、彼は知らなかった。

 彼を殺したそいつらも同様に人間を呪っていたということを。

 彼を殺した理由が、ただの八つ当たりでしかなかったということも。

 

 

        ◇◆◇

 

 

「……これなんてどうだい。ボクの可愛らしさがさらに引き立つと思うんだがね」

「うん、そうだね。でも、もうちょっと布地があった方がコストパフォーマンスは高いような気がするよ」

「そんなものか?」

「そういうもんだよ」

 

 幾つもの水着をハンガーごと比べながら、御子内さんがうんうんと唸っている。

 周囲を見渡すと、似たような悩みを抱えている女の子たちがたくさんいて、彼女自身は浮いていない。

 付き添っている僕のいたたまれなさはハンパないけどね。

 

「お客様、試着などなされますか?」

「したいんだけどね」

「では、この袋の中に試着したい品を入れてください。今、試着室が埋まっておりますので、この番号をお呼びしますので少々お待ちしていただけますか?」

「いいよ。どうせ、時間はかける予定だしね」

 

 ……僕の時間はガリガリと削られているんだけどさ。

 この明るい、いかにも夏をイメージした水着売り場で僕は途方に暮れていた。

 妖怪退治につきあうのはいい。

 リングを設営するのも慣れたものだ。

 ただ、女の子のお買い物につきあうのは、ツラい。つらたん……。

 

 ……そもそも、なぜ、僕が御子内さんの水着の購入に付き合うことになったかというと、

 

「来週、茨城まで出掛けるからね」

 

 と、突然、宣言された。

 

「茨城県? 御子内さんの担当は東京と北関東の一部じゃないの? 確か、茨城ってレイさんの縄張りじゃあ……」

「そうだよ。でも、そのレイからの頼みなんだ。手伝って欲しいんだとさ」

「へえ」

 

 レイというのは、明王殿(みょうおうでん)レイさんのことだ。

 御子内さんの親友の一人で、〈神腕〉の二つ名を持つ厳しい女教師タイプの美人である。

 巫女レスラー的強さでいうと御子内さんとほぼ互角。

 今のところ、僕が御子内さんのこっぴどくやられたシーンを見たのは、後にも先にもレイさんを相手にしたときだけだ。

 そのレイさんからのヘルプがきたのか。

 

「話を聞く限りじゃ、ちょっとレイ一人では辛そうなんだ。で、費用は〈社務所〉で出すから、ボクとキミを呼んだということらしい」

「なんで僕も?」

「だって、キミはボクの助手じゃないか。ボクが遠征するというのならば付き合って当然だ」

「……あっ、僕ってそういう立ち位置なんだ」

 

 わかってはいたけれど、御子内さんは強引なのでどうせ逆らっても無駄だし。

 

「それにレイなら、どこぞのマスク女と違ってよけいなちょっかいを掛けてくることもないし安心だ」

「ああ、変なイジリはしないってことだね。レイさん真面目だし」

「―――そういうことじゃあない」

「?」

 

 ただ、問題なのは、僕の目の前に並べられたパンフレットの山だった。

 どうみても今年の夏の流行の水着のものにしかみえない。

 なんのためにこんなものが思っていたら、

 

「今年こそはきちんと新作を買おうと決めているんだ。これなんか、いいらしいぞ」

 

 とても楽しそうに付箋まで貼ってあるパンフレットを眺める御子内さん。

 話が繋がっていない気がする。

 女の子特有の二言三言で話題がぶっ飛ぶ会話という訳ではなさそうなので、おそらく彼女の中で何段階か端折られただけなのだろう。

 

「どうして水着を買うの?」

「ん……ああ……?」

 

 最初、きょとんとしていたが、どうやら先走り過ぎたらしいことに気がついたらしく、ごほんと咳払いをする。

 

「どうも現場が大洗の近くらしくてね。ついでだから、久しぶりに海水浴にでも洒落込もうかと思っていたところなんだよ。ボクだって、年頃のJKなんだし、海と聞いたらはしゃがずにはいられないのさ」

 

 大洗といったら、アンコウで有名だけど海水浴場としても知られていたっけ。

 東日本大震災のときからなんとか復興に近づいているという話だから、遊びに行くのは良さそうだ。

 ただ……

 

「一つ聞くけど、海の妖怪が相手なの?」

「レイの話が確かならそういうことなるだろうね。〈護摩台〉も砂浜とかに設置することになりそうだから、けっこう体力を使うから覚悟しておきなよ」

「それはいいんだけど」

 

 僕も随分とガテン系になったものだ。

 肉体労働にまったく身じろぎもしなくなった。

 もっとも、問題はそこではないのだが……。

 まあ、いいか。

 いくら世事に疎い御子内さんでもあれだけニュースになった出来事を知らないはずはないし、それをコミで海水浴とか言っているに違いない。

 僕の処世術の基本は余計なことは言わない、である。

 

 ―――そうして、僕は御子内さんに連れられて水着売り場に来ることになったのであるが……

 

 正直、逃げたい。

 

「80番のお客様~」

「ボクの番だね」

 

 意気揚々と水着の試着に行く彼女を見送りながら、もしかして感想とか評価とか述べるべきところなのかと暗澹たる気分になった。

 妹を相手にするのならどんな辛辣なことでもいえるが、御子内さん相手だと気を遣わないとコブラツイストか卍固めが待っているからなあ。

 数分先の未来の自分に降りかかりそうな災難を想像して、ため息が出る。

 しょうがない、なるようにしかならないし。

 気を紛らわすために、音子さんにでもライン送ろうかな。

 

〔京一〕「来週、レイさんの妖怪退治につきあうことになりました。御子内さんともども。ついでに海水浴に行くそうで、水着を買いに来ています。なう」

 

 ……それだけ送ったら、すぐに僕の名前が呼ばれた。

 

「京一、ちょっと来てくれないか! ボクとしてはこういう色が映えると思うんだけど、どう思う!?」

「御子内さん、ちょっと隠して! スタイルいいのはわかるからもっと恥じらって!」

 

 妙に元気な彼女を試着室に押しやりながら、僕は大変な海水浴になるだろうなと不安でいっぱいになったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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巫女さん凸凹道中

 

 

 柏で停車していた特急に乗り、僕らに合流してきたのは、レースのついた幅広の白い帽子と、肩が露出していて動きやすそうな以外は地味だが清楚なイメージのワンピース、花の形のバックルや竹で編まれたカバンが一々お嬢様っぽい女の子だった。

 四人掛けの指定席に大きなカートを引いてきた彼女は、僕らを見て微笑む。

 よく知った顔だった。

 御子内さんの手からコーヒーのボトルが落下する。

 瞳孔が開きかけていた。

 

「ちょっと待てぇぇぇぇい!!」

「御子内さん、ツッコミがAKBの初代キャプテンみたいになっているよ」

 

 僕の冷静な分析は彼女の耳には届かなかったらしい。

 立ち上がって、お嬢様そのものの服装をした人物の頬を両方の指でつねった。

 

「キミ、本当にレイか? レイなのか? まさか双子の妹かなにかなのではないのか!」

「やめろ、或子! いきなり何をしやがる!」

 

 頬をつねられたお嬢様―――その格好には驚きだが、紛れもなく本物の明王殿レイさんは、邪魔そうに御子内さんを振りほどこうとする。

 だが、興奮しきった御子内さんは一向にどこうとはしない。

 仕方ないので、後ろから抱え上げて、僕の隣に放り捨てた。

 これで席が確保されたとみたか、ようやくレイさんが僕たちの対面に腰掛ける。

 すでに特急は走り出していた。

 

「……酷いやつだな、いきなり乙女の頬をつねるとは」

「何が乙女だい!? レイ、キミがそんな格好をしてやってくる方が悪いんだよ。だいたい、なんだい、その高原の避暑地で風と戯れるお嬢様みたいな服装は!」

「似合わないか……?」

 

 レイさんは白いワンピースの裾を摘まみながら、上目遣いに僕を見て確認をとるように聞いてきた。

 彼女なりに似合っているかどうか気になっていたのだろう。

 だから、僕は正直に言った。

 

「驚きました。日本にどれだけ深窓の令嬢がいるかはわかりませんけど、レイさんほどその格好が似合う人はあまりいないと思います。綺麗です」

「そうか! ―――ああ、そうだよな! ちょっと頑張って選んでみた甲斐があるぜ!」

 

 パッと花が咲くような笑顔だった。

 紅い薔薇のように強烈で派手な美貌の彼女にしては、とても素朴でまるで向日葵のような笑顔であった。

 百獣の王ヒマワリといった感じだ。

 少し見惚れてしまった。

 だが、そんな彼女の笑顔を許さない人もいる。

 僕の隣でむくれている巫女レスラーである。

 

「……ぬかったよ。まさか、レイまでがこのような絡み方をしてくるとはね。ボクとしたことが甘かった」

「何がなの? 別に夏休みに友達と旅行に行くんだから、お洒落したって問題ないじゃない?ああ、御子内さんはいつものデニムのジーンズとTシャツとサマーカーディアンだから差がついたと思っているの?」

「ボ、ボクのスタイルはどうでもいいんだよ、ボクのは! 問題なのは、レイの方だよ! 夜のコンビニにたむろっているいつものヤンキーのような格好ではなく、どうしてそんな男の夢そのものみたいな白いワンピースを着ているんだい! レイなんて名前だって南斗水鳥拳よりもラムちゃんの許嫁の方がしっくりくるぐらいのキミに似合うのは、廣島連合か武装戦線の特攻服みたいなのであってまかり間違ってもそんな……」

 

 驚きのあまりに支離滅裂になりかけている。

 いつもがさつなファッションばかりの類友だと思っていた相手が、予想外のガーリーなファッションで決めてきたから焦っているのだろう。

 女の子同士というのは複雑な関係が多いが、オシャレで負けるというのはなかなか認められないものなのかもしれない。

 すると、あまりに御子内さんが動転しているせいか、レイさんの方が余裕を持ち始めた。

 

「いいだろ、別に。オレがお洒落をすることをおまえに許可だしてもらう必要はないしな。なあ、京一くん? そんなの、他人に言われるものでもないよな」

「そうですね。女の子の特権みたいなものですよね」

「だろ? 或子も文句があるなら決めてくればよかったんだ。いつも、近くにいるから余裕ぶっこいて努力を怠るから差をつけられるのさ、このオレ程度にすらな」

「余裕ぶっこいてなどいないぞ!」

「どうだか」

 

 なんだか知らないが、突っかかっていた御子内さんがいつのまにか劣勢になっていた。

 二人の女の子の間でなんらかの雌雄を決することがあったのかもしれない。

 おかげでさっきまで無意味にレイさんに絡んでいた御子内さんが大人しくなった。

 

「……それにしたって、海水浴に行くのに、それはなんだい? 山に行く格好じゃないのか?」

 

 それでもまだネチネチ絡むのが、機嫌の悪い時の御子内或子である。

 だが、それに対して、レイさんは首をかしげた。

 

「待てよ。おまえ、もしかして泳ぐ気だったのか?」

「―――どういうことだい? 現場は大洗の傍なのだろ? もう海開きは始まっている季節だし、泳がずにはいられないだろう。ほら、これを見たまえ」

 

 そういって、海水浴セットを手にする。

 普通の着替えとは別のビニールカバンにまとめている限り、どれだけ御子内さんが泳ぐのを楽しみにしていたかが想像がつく。

 実のところ、僕はそれが無駄になるのではないかと危惧していたのだけれど。

 

「おい、京一くん。こいつは何を言っているんだ?」

「御子内さん、あまりニュースとか見ないもので」

「それにしたって……なあ。あれだけ、報道していたのに知らないのかよ。もしかして、茨城の話に興味ないのか?」

「いや、たぶん、メインが福島だったから頭にはいっていないのかも」

 

 僕たちがひそひそと内緒話を始めたのが気に入らないのか、不機嫌になる御子内さん。

 

「なんだい、なんだい、感じが悪いね。ボクに隠し事をするなんて、キミらも本当にいい度胸だ」

「おい、或子」

「なんだ、見せかけお嬢様」

「おまえ、ニュース視たり新聞読んだりしねえの?」

「……失敬だな。レイみたいなヤンキーでさえ、知っている世事のことなどボクが知らない訳ないだろ」

「おまえもたいがい失敬だがよ。じゃあ、福島を出航して海上で火災を起こしたパナマ船籍のタンカーのことはどうだ?」

 

 御子内さんは少し考え、

 

「知っているよ。重油が漏れて大変だったというものだろ。二週間ほどまえかな」

「それが色々と事情があって、転覆したのは茨城県沖だということと、重油が流れ着いたのが大洗の目と鼻の先のひたちなか市あたりってことは?」

「ん? どうして福島の話が茨城に結びつくんだい? おかしくないか?」

「おい。―――茨城の隣の県はなんだ?」

「福井だろ」

「福井は北陸だ! おまえ、関東以外の地名、ほとんどわかっていないな!」

「……御子内さん。福島は東日本大震災の被害を受けていたよね」

「はっ!」

 

 あ、忘れていたな。

 御子内さんの弱点の一つに、地理に疎いというものがある。

 関東以外の県の場所をほとんどわかっていないのだ。

「名古屋県」とか「土佐県」とかを平気で口にするところがある。

 通っている武蔵立川が進学校なのに、どうしてこうなのか不思議なところだ。

 しかも、学校での成績は上位なんだよな……。

 

「そっか、迂闊だったよ。茨城の横は福島なんだよな……」

 

 地図を読めない女の子だからね、君は。

 

「じゃあ、もしかして……」

「ああ、その流出した重油が流れついたのが今回の現場なんだぜ。だから、場所によっては泳ぐことなんてできねえ」

「そんな―――」

 

 がくっと凹む、御子内さん。

 勘違いしていたとはいえ、ずっと楽しみにしていたんだろう。

 

「でも、場所によっては、だからね。現地で確認してみて、そんなに酷くないようなら海で遊ぼうよ。―――ねえ、レイさん?」

「まあ。あまり凹むよ。あんなことを言ったが、オレだって、ほら、水着は持ってきているしさ」

 

 そういって、カート付きのケースからレイさんがお洒落な布を取り出した。

 

「……うん、うん」

 

 親友の慰めが効いたのか、少し回復する御子内さん。

 いつものリングの上での凛々しさがほとんどないけど、こういう落ち込んだ彼女も可愛いな。

 

「―――でも、海がそんな様子だと、今回の妖怪ってそれが原因なのかな?」

 

 いい加減に話題を変えようと、僕が口にすると、さすがに退魔巫女たちは本職なのか仕事モードに入った。

 

「おう。……言ってなかったが、もう三人も死人がでていることもあって、八咫烏が先行して様子を見ている」

「八咫烏が? それはまたなんで?」

「なるほど、やっぱりそうなのかい」

 

 あの喋るカラスの使い魔がどうして、という僕の疑問に対して、御子内さんは思うところがあるらしく頷いていた。

 

「……おそらく、今までに入ってきた情報をすべて総合すると、今回のオレらの相手は〈手長〉と〈足長〉だ」

「ボクをヘルプに呼んだのは、やはりそういうことか?」

「ああ。オレとおまえの、久しぶりのタッグマッチという訳さ」

 

 ―――御子内或子と明王殿レイの二人が組む。

 そのことに心が躍らないはずがなく、彼女らの敵となるだろう妖怪がちょっと可哀想になるぐらいであった。

 

 

 

 

 

 



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海は地獄だ

 

 

 水戸駅で乗り換えてから、さらに僕たちは目的地へと向かった。

 二人の巫女レスラーは黙っていれば超がつくほどの美人なので、周囲の注目(僕へはやっかみ)を浴びながら、それほど大きくない駅に降り立つ。

 ○×海水浴場という看板があるので普段は観光地なのだろう。

 ただ、海開きが始まっているにしては人が少ない。

 

「それほど有名な海水浴場じゃねえんだ。プライベートビーチよりはちぃとマシ程度だな」

「へえ」

「さすがにシーズンの掻き入れ時は海の家もできるが、一軒か二軒ほど。ま、今回は、〈手長〉の噂もあるし、例の事故の影響で人が少ないんだろう。〈社務所〉でも止めているしな。流出した重油はともかく、妖怪の方は早く退治しちまわねえと地元が干上がっちまう」

「それは深刻だな」

「このあたりだって、まだ震災からの復興で大変なんだぜ。これからってところさ」

 

 僕たちは人のまばらな駅に降りて、バスロータリーに出た。

 一時間に一本ぐらいの路線らしい。

 さすがに田舎だよね。

 

「ああああああ! おまえまで!」

 

 すると、隣にいた御子内さんが素っ頓狂な声を上げた。

 指さした先には……

 

Bienvenidos(ビエンベニードス)……」

 

 ようこそ退魔巫女御一行様という紅白の旗を掲げた神宮女音子さんが、にこりともせずに立っていた。

 ちなみにいつもの覆面をつけてはいるが、肩を丸出しにした黄色いサマーセーターと生足を強調するためだけ用途しかなさそうな短パンという扇情的な格好である。

 ちなみに僕の見たところ、スタイルでいうとスリムなモデル体型な音子さん、ナイスバデーなのがレイさん、全体的にバランスがいいのは御子内さんという感じ。

 

「なんで、音子がここにいるんだい!? これはボクとレイの案件なんだよ! サボテン女はお呼びじゃない!」

 

 メキシコ好きだからサボテンか。

 さっきのレイさんに対してのものもそうだが、御子内さんは悪口のチョイスのセンスがよろしくない。

 

「よお、音子。おまえまで八咫烏に呼ばれたのかよ?」

「ノ.あたしは海水浴に来ただけ」

 

 そういって、御子内さん同様に海水浴セットを掲げる。

 隣にある旅行鞄と別になっているところからして、やはり御子内さんと親友なんだなとよくわかった。

 この辺の発想が変わらないところとか。

 

「ふふ、残念だったな。この海水浴場は例の事故の影響で泳ぐことができないんだよ。まったくいい歳をしてそんな海水浴セットまで用意してはしゃいじゃって、キミはなんて子供なんだろうね!」

 

 ついさっき仕入れた知識を使って自分を棚に上げて勝ち誇る、我らのチャンピオン。

 自分だって似たようなものを用意していたくせに。

 

「ついてきて」

 

 勝利宣言をだしたからか気分のいい御子内さんと僕たちを連れて、駅から少し離れた場所に音子さんが行く。

 そこは少し高台になっていて、白い砂浜と青い海原が見渡せた。

 少し遠くに岩場があったりして、なかなか気持ちのいい光景だった。

 人もいることはいるが、まばらにしかいないし、明るい太陽の日差しが心地いい。

 だけど、泳いでいる人がいるという事実の方が大切だった。

 

「なん……だと……」

 

 その事実に気がつき、御子内さんが愕然と呟く。

 まさかの展開だ。

 

「なぜ、泳いでいる人たちがいるんだい!?」

 

 すると、いつのまにか後ろに回り込んでいた音子さんが、

 

「……ふふふ、今日から遊泳禁止が解除されたの。楽しい時間が始まるの」

「ま、待て、ボクたちは仕事に来たのだし、―――それにどうして、音子がここにいるのかを弁明を聞いていないぞ!」

「答えは簡単。京いっちゃんに誘われたから」

「なんだと! こら、京一! キミ、裏切ったな! ボクの期待を裏切ったな!」

 

 いきなり、とんでもない濡れ衣を着せられた。

 別に僕は音子さんを呼んだりはしていないのに!

 だが、音子さんはスマホの画面を僕たちに見せつけてきた。

 そこには、僕が彼女にだしたライントークがキャプられていた。

 確かに御子内さんの水着を買いにいったときに、そんな話題を出した気がする。

 だからといって、それでやってくるなんて行動力がありすぎでしょ!

 どんだけ親友たちと遊びたいんだ、この女性(ひと)は。

 

「まあ、音子がいればいざという時も安心だからいいんじゃねえか? ……他につれてきていないのかよ、てんとかミトルとか。あと、八咫烏はどうした?」

 

 レイさんがいいタイミングで割って入る。

 いつもヤンキー感丸出しだが、面倒見のいい人なのだ。

 今回もテンパりつつある御子内さんへの助け舟だろう。

 

「他は呼んでない。八咫烏については、()()()()いうためにスタンバッてるから来れない」

「そうか。やっぱり〈手長〉と〈足長〉なのかよ」

「シィ。頑張って」

「おめえはやんねえのか?」

「応援をガンバル」

 

 無口なくせに意外と自己表現が強い音子さんは、サボって遊ぶ気満々だ。

 手伝う気もなさそうだった。

 呆れたようなレイさんとプンプンとふくれっ面をしている御子内さんとの対比が凄いことになっている。

 

「じゃあ、本日の宿に案内するからついてきて」

 

 それなのに、場の空気も読まずに案内をはじめる音子さんマジパねえ。

 もうチェックインとか済ませて僕らの到着を待っていたらしいし。

 

「まったく、どいつもこいつも勝手ばかりしてくれちゃってさ……」

 

 御子内さんの不機嫌そうな声だけが静かな海の街に流れるのであった……。

 

 

       ◇◆◇

 

 

「妖怪は深夜から明け方にかけてでる。だから、アルっちたちの出番はそこから」

「……〈護摩台〉はどうするんだい?」

「さっきの海岸に昼過ぎから資材が搬入されるので、そこから京いっちゃんに頑張ってもらう」

「オレらは手伝わなくていいのか?」

「あたしたちは水着で京いっちゃんを悩殺。―――もとい、泳いで待つ」

 

 ……とりあえず手伝う気はないんだね。

 

「いやいや、たまにはボクらも手伝わないと」

「それはダメ。京いっちゃんが前かがみで立てなくなるから」

「……?」

「ただの嫌がらせだよね、それ」

 

 旅館で昼食を囲みながら、今後の方針について話をしていると、相変わらず巫女レスラーたちは人の三倍は食べる。

 ちなみに成人男性の三倍ぐらいなので、だいたい僕の五倍前後だ。

 毎食、五杯はおかわりするし、お茶もたらふく飲む。

 特別に用意されたらしい、大量の刺身ご膳が瞬く間に消費されていくのは圧巻である。

 僕たちはまだ未成年だからいいが、この人たちが酒を嗜む年齢になったら、どんな阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されるか怖くて仕方がない。

 

「……しかし、ひたちなか市の方はまだ遊泳禁止なんだな」

「まあ、岸に重油が流れ着いている状況では難しいよ」

 

 ここは潮の影響と地形の影響でたまたま被害がないらしく、遊泳禁止は解除されていたが、他はまだ被害が甚大らしい。

 

「国は何をしているんだろうね」

「まだ、有効な対策は出ていないって話だぜ。チバテレビでやっていたな」

「……予備費とかですぐに対策できないものなのかな?」

 

 僕が聞くと、レイさんが腕を組んで、

 

「ああいうのは申請してからでも時間がかかるもんだしな。突発的な事態に対してはなかなか腰を上げられねえもんなんだよ。震災の時もそうだが、復旧のための予算はばかにならねえ額になるしな」

「あとでそのタンカーの所有者だか、会社だかに請求するのはどう?」

「パナマ船籍という話だろ? あそこの船籍にして税制の免除を受けているような会社はやっぱりこういうときにもまともな保険にはいっていないもんらしいよ。莫大な額になるから計画倒産して逃げたりしてね」

「はあ、沈んだ船をサルベージしたり、どこかへ移動したりするだけでもどれだけ時間と費用がかかるかわからないみたいだし、ほとんど被害にあった地元が泣き寝入りということになるんだ……」

 

 海の事故というのはそういう厄介さがある。

 今回だって、重油が流出したことの被害はモロに漁民や養殖業者が受けることになるし、まったくいいことはなにもないね。

 

「……〈手長〉と〈足長〉もそのせいで暴れ出したのかな」

「よくはわからない。目撃例と事故の時期が一致するから、関係なくはないだろうが」

「震災のときも大変だったよね」

「あのとき、何かあったの?」

 

 僕が聞くと、御子内さんが応えた。

 

「まだ、ボクたちは見習いですらなかったんだけどね。あの震災のせいで、東北の妖怪たちの勢力図がだいぶ変化したらしくて、各地で事件が発生しまくったんだよ。ボクたちの同期もちょっとぐらいでも働けるものは何度も駆り出されたらしい。そのあと本格的に修行に入った時も人手不足のおかげで範士役の先輩巫女も出払ってしまって、外部から講師を招いたりしたりもしたし。―――このあいだの美厳とかはその時に臨時範士としてやってきたんだ」

 

 ああ、その時からの知り合いなのか。

 繋がりがようやくわかったよ。

 しかし、なるほどという感じだ。

 あの震災の爪痕は妖怪の世界にまで及んでいたということがわかった。

 

「あん時の範士不足が、或子みてえなトンチンカンなのを量産する結果になったんじゃねえのか」

 

 レイさんが上品にお茶を飲みながら愚痴る。

 やはりいいところのお嬢様なので仕草がところどころで上品だ。

 そういう貴女もかなりのイロモノですけどね。

 

「うるさいなあ。前からレイはそればかりだ」

「おまえの被害をこうむったのはオレばかりじゃねえぞ。同期はおろか後輩連中だってモロに打撃を受けてっからな。忘れんな、爆弾小僧」

「シィ」

「そ、そんなことはどうでもいいんだよ。さ、さあ、着替えようか! 海がボクたちを待っているよ!」

 

 二対一になりかけたのを嫌ったのか、そそくさと立ちあがる。

 僕を睨みつけて、

 

「京一はさっさと部屋に戻るんだね。ここでは乙女の着替えが始まるんだから」

「京いっちゃん、見たいの?」

 

 見たくない訳ではないけれど、TPOを弁えた僕はさっさと退散することにした。

 僕も着替えなくてはならないし。

 

……作業用のツナギに。

 

はあ、僕だけがこの陽気な中でリングの設置かあ。

 



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ハードワークが勝利の鍵

 

 

 昼飯を終えて一休みしたあとで、御子内さんが楽しみに待っていた海水浴が始まった。

 一方の僕は、僕は社務所の搬送班のオジサンたちが届けてくれた資材を検品してから、リングの設置予定の場所を下見して、十分な強度があるかを確認する。

 棒杭を立てたりするのに不向きな砂浜であるとわかったので、無理に固定せず、ある意味では流動的なスタイルのリングを作ることにした。

 要するにマットを敷かないのだ。

 砂浜をそのまま使用する。

 投げ技などで叩き付けられたときのダメージが大きくなるが、不安定な足場で戦うよりはマシということである。

 それに、今回は御子内・明王殿VS〈手長〉〈足長〉のタッグマッチの様相となりそうなので、地上戦が増えるだろうから特に問題はないだろう。

 僕はこの十か月ほどで相当数のリングを設置してきたので、このあたりの計算はお手の物だった。

 最初から最後まで一人で作ることも簡単だし。

 ここ最近では社務所から手伝いの人が派遣されることも滅多にないぐらいだ。

 それはそれでどうなんだろうと思わなくもないけれど。

 一人で黙々と作業しているとそういう恨みつらみが湧き上がってくるのが難点だ。

 ただ、日差しの暑い海岸の、しかも砂浜の上で汗水たらしながら仕事をしている脇で、水着に着替えた可愛い巫女さんたちが楽しそうにしているのを横目でみていたけれど、僕はまったく羨ましいとは思わなかった。

 文字で書くとなんて羨ましいと思われなくもないだろうが、実際に目にしてみるとそんな感想はなくなる。

 なぜなら、御子内さんたちがやっているのは、常識で考えると正確に言って、海水浴の海遊びではなかったからだ。

 

「うりゃあああああ!!」

「くそおおお!!」

 

 砂浜ダッシュ十本が終わって、一番になった御子内さんが人差し指を掲げて絶叫していた。

 タッチの差で負けたレイさんが砂浜を叩いている。

 さらに隣で砂浜に勝敗票をつけている覆面を脱いだ音子さん(さすがに暑かったらしい。あと、覆面をつけての日焼けはさすがに避けたかったとみえる)。

 ……絵面(えづら)がどう見ても遊びではない。

 さっきから彼女たちがしていることは、砂浜ダッシュとかビーチフラッグとか相撲とか、どうみたって海水浴でする内容ではないからだ。

 もし一言で例えるのならば、これは「強化合宿」以外の何ものでもなかった。

 最初からおかしいとは思っていたのだ。

 浮輪とかボディボードの類は一切用意しておらず、シュノーケルやフィンすらもどこにもない。

 到着してすぐに念の入りすぎたストレッチを開始して、シャドーボクシングにご丁寧に時間をかけたり、精神集中のために音楽をヘッドフォンで聞いたりしていたのだから。

 どう見ても海でキャッキャウフフという状況ではなかった。

 僕だけ仕事かあと思っていたのはほんの一瞬だけ、あとは「のけ者にしてくれてよかった」と安堵するぐらいの苛酷なトレーニングが始まったのだ。

 しかも、遠巻きに様子を窺っていた他の海水浴客たちがさっと潮が引くように(海だけに)いなくなるという激しさで。

 最初は美少女三人組ということでナンパ目的の連中もいたのだが、最終的には蜘蛛の子を散らすようにどこかにいなくなっていた。

 まあ、僕みたいにリングを作り出した変なのもいるから仕方ないところだけど。

 もしかしたら、いつもの〈人避け〉の呪いのせいかもしれない。

 いや、そう思おう。

 

「どりゃああああ!」

「だっしゃあああ!」

「なんのこれしきぃぃ!!」

「アルっち、死ねええ!!」

 

 という楽しそうな叫び声が轟き渡る砂浜で僕がリングを完成させたのは、陽がもう落ちる時間のことだった。

 そろそろ寒くなってきたかなと思うぐらい。

 どれだけの間、全力で強化トレーニングをしていたのかわからないぐらいにバテバテの巫女さんたちが白い砂浜でゼエゼエと荒い息を吐いていた。

 普段はクールで少し距離を置いているようにさえ見える音子さんでさえ、たいして変わらない有様なのは結局のところ類友だからだろう。

 アイドルが色々な競技をしているところはなんとなく微笑ましいのに、彼女たちがやっていると鬼気迫る様相を呈するのが正直困る。

 仲間外れにしてもらってよかったと心の底から思った。

 あの鬼哭啾啾たる連中につきあって死にたくないしね。

 ……まさに命拾いした僕が、〈護摩台〉という名のリングのロープのテンション等を確認していたら、後ろから声をかけられた。

 

「京一」

 

 振り向くと御子内さんがいた。

 顔が疲れているのが、この砂浜トレーニングの苛酷さを物語っている。

 って、君は海水浴に来たのではなかったのか。

 多分、一緒にいたのがレイさんだけだったならともかく、音子さんまで参加したことではっちゃけちゃったんだろうなあ。

 みんな可愛いのに、頭の中はかなりの脳筋だから。

 

「海水浴はもう終わり?」

「ああ、最後の遠泳はほんとに大変だったよ」

 

 女子だらけの水遊びで遠泳ってあまりしないよね。

 

「お疲れ様。楽しかった?」

「ああ。有意義な時間を過ごせたよ」

「それは良かった」

 

 あまりツッコミすぎないのが彼女たちとつきあうコツだ。

 ボケを見逃すのはいけないが、ツッコミは最低限度にしておくのがいい。

 何故かというと、まあ、身がもたないからだけどね。

 

「試着の時から思ったけど似合っているね、その水着」

 

 御子内さんの水着は赤いビキニだ。

 とはいえ、布地はかなり余裕があり、激しいスポーツができそうなシンプルなタイプである。

 両腰のところにワンポイントでリボンがついているのが可愛らしさを引き立てている。

 赤は巫女の色でもあるし、燃える闘魂の彼女にはお似合いだ。

 もともと胸は大きくないけれど、全体的なスタイルもいいしね。

 

「ふふん、そうだろう」

 

 満更でもなさそうだ。

 基本的に彼女は褒められるとすぐに機嫌がよくなる性格だし。

 

「さっき京一が音子やレイに鼻の下を伸ばしていた時はどうしてくれようかと思案していたけれど、許してあげよう」

「それはそれは、恐悦至極に存じます」

「よかよか」

 

 ちなみにあと二人はぐでーと屍のように砂浜で動かない。

 彼女たちの体力がないはずはないので、おそらく御子内さんがバケモノレベルの持久力の持ち主なだけだろう。

 御子内さんがリングの端にちょこんと腰掛けた。

 僕もその隣に座る。

 彼女の頭の位置は僕の肩までしかない。

 一緒にいると想像以上に小さい女の子なのだ。

 そんな彼女が巨大で凶悪な妖怪たちをバタバタ倒していく姿は本当に痛快だ。

 御子内さんの手伝いができるのも愉しい。

 でも、女の子相手だからドキドキしないということはないけれど。

 

「……いい風だね」

「もう陽が暮れるからかな」

「うーん、一日があっという間に過ぎてしまったよ」

 

 午前中は移動、午後は特訓だからね。

 息つく暇は昼飯のときだけだったかも。

 

「ボクとしてはもう少し京一と遊びたかったところだね」

「明日もあるでしょ。あと、夜も、少しなら……」

 

 深夜になったら妖怪退治に動かなければならないので、軽く仮眠をとる必要があるから、そんなに遅くまでは起きていられない。

 それでも少しは時間があるというものだ。

 

「だね。……夜もあるか」

「そうそう。ただ、御子内さんたちはご飯食べ過ぎで動けなくなる可能性が高いな。夜は金目鯛がでるらしいから」

「金目鯛? 刺身かい、煮つけかい? いや、塩焼きもいいねえ!」

「さて。時期が時期ならあんこう鍋もよかったけど、あれは冬だからね」

「うーん、アンキモを味噌に溶かして鍋にしたやつは最高だからね。熱燗と一緒に」

 

 聞き捨てならない単語を聞いたが、無視しておく。

 巫女レスラーと付き合う時の鉄則―――基本的に既読スルー。

 

「また、来ればいいじゃない」

「そうだね」

 

 僕らがダラダラと未来の話をしていたら、ゾンビのようにヨタヨタと立ちあがるレイさんたちの姿が目に入った。

 立ち上がると同時にしゃんと背筋が伸びるのはさすがというところだ。

 多少ふらついているのはご愛敬。

 ただ、音子さんはともかくレイさんまであんなに疲労困憊していていいものだろうか。

 

「おーい、そろそろ入浴と洒落こもうじゃないか! 早くしなよ!」

 

 比較的元気な御子内さんに誘われ、僕たちは民宿へと向かうのであった。

 歩いているうちに通常レベルにまで体力が自然回復していくというモンスターたちと一緒に。

 

 ……心配するだけ無意味な気がするなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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二対二の戦い

 

 

 風呂に入って汗を流し、早めに用意してもらった夕食を終えると、僕らは少しだけ仮眠をとった。

 深夜になる前に起きだしたが、やはり肩と腿のあたりに筋肉痛がある。

 慣れているとはいえ、重い資材を扱う上、柔らかい砂浜での作業だったことからいつもよりも疲労があったらしい。

 一方で、砂浜ダッシュやらを繰り広げていた御子内さんたちが元気いっぱいなのはなんとも解せないが……。

 

「〈手長〉と〈足長〉はここに来るの?」

「さっき八咫烏が誘導してきてくれると言ってきた」

「八咫烏が? あいつにそんな真似ができるの?」

「〈手長・足長〉系の妖怪に対して八咫烏はかかわりが深いんだよ。かつて、彼らが神の眷属であり国造りの巨人の一種と言われていた頃から、悪業を見かねた神さまが霊鳥である三本足の八咫烏を遣わせて、〈手長〉〈足長〉(かれら)が現れるときには『有や』現れないときには『無や』と鳴かせて人々に知らせるようにしたという伝説がある。秋田の鳥海山のふもとにある三崎峠が『有耶無耶の関』と呼ばれるのはこれが由来さ。まあ、有耶無耶の語源でもあるね」

「へえ」

 

―――〈手長〉と〈足長〉は、「手足が異常に長い巨人」の姿を持つ妖怪であるが、一人の手足の異様に長い巨人か足が長い夫と手が長い妻の夫婦、または兄弟であることもあり、それぞれ異なるらしい。

もともとは違ったものみたいだけど、年を経るにつれ神仙や巨人から矮小化していき、現在では日本の各地で暴れる妖怪になったということだ。

退魔巫女たちも五年に一度ぐらいの頻度で遭遇するわりとポピュラーな妖怪種だという話だった。

 

「ボクが戦ってきた妖怪たちの中でもきっと最大のサイズだと思う。〈手長〉と〈足長〉以上の大きさだと、がしゃどくろやダイダラボッチぐらいになってしまうからね」

「巨人ってそんなに大きいんだ?」

「涼花を襲った〈高女〉だってちっさく感じるぐらいさ。もうその辺になるとボクら退魔巫女が出るよりも大規模な祈祷をしたほうがよっぽど効果的になる」

 

 妖怪は全体的にサイズの大きなものが多く、おかげで小柄な御子内さんはいつも苦戦していた。

 今回の〈手長〉と〈足長〉も相当手こずるだろうことは疑いのないところだ。

 

「まあ、今回はレイもいるから。レイほど頼りになる相棒はいないよ」

 

 砂浜への道のりを歩きながら、御子内さんは親友への信頼を口にした。

 音子さんと初めて会った時の〈天狗〉戦でもそうだったが、彼女たちの同期への信頼は厚い。

 一緒に修行したということだから、その時にかなり色々とあったのだろう。

 全員が基本的な考えとして「おれ最強」が染みついているのは確かだけど、それと同じぐらいに友達を認めているのだ。

 

「或子と組むのは久しぶりだな。やっぱりおまえと組むのは落ち着くぜ」

「だね。修行場以来かな」

「―――へえ、そんなものなの?」

「あんまタッグはやらねえからさ。妖怪ってけっこう単独で動くもんなんだよ」

 

 うーん、こないだの〈口裂け女〉みたいな例外を除けば、確かに複数の妖怪が暴れているところはまだ見たことがないな。

 だから、退魔巫女たちもあまり一緒にはならないのかも。

 砂浜に降りると、月明かりが眩しく照らしていた。

 電灯がなくてもはっきりと遠くまで見渡せそうなぐらいだ。

 空には雲さえ浮かんでいない。

 

「いい晩だな」

 

 レイさんが手にしていたペットボトルのスポーツドリンクを飲み干す。

 いつもの袖なしの巫女装束に、ワークマンで売っていそうなボンタン姿だった。

 両手に布が巻いてあるのは御子内さんのキャッチグローブと同じような効果があるからだろう。

 ポニーテールが格好いい。

 水着は黒のセパレートだったのは、胸が大きいのを控えめにするためだったのだろう。

 ジロジロ見ていたら、

 

「見るなって」

 

 とそっぽを向かれた。

 どうも照れているらしい。

 好きでもない男に好奇心剥き出しで観察されたら誰だって困るよね。

 僕は反省して、海の方を見た。

 そのとき、頭上から、聞き覚えのある八咫烏の声がした。

 

『有ヤ!』

 

 こんな夜の暗闇の中を飛ぶカラスは異常だが、そいつが口を利くのもまたおかしい。

 だが、その言葉の意味を僕はもう知っていた。

 

 ザザザザザザザ

 

 海面を規則的な音をたてて何かが近づいてくる。

 すり足で何かを探るような音だった。

 月明かりが届かない距離から、どういう訳かその音だけは聞こえてくるのだ。

 

 ザザザザザザザ

 

 そして、ついに僕にも視認できた。

 

 ―――そいつは信じられない程に背が高かった。

 

 身長はおそらく三メートルを超えている。

 小柄な子供なら三人分ぐらいはあるほどだ。

 だが、異様なのはその身長のほとんどを「脚」が占めているということである。

 胴体そのものは僕らとたいして変わりはないのに、「脚」だけが長すぎるぐらいに長いのだ。

 そして、そいつは、もう一人を肩車していた。

 肩車している側の足と同じように長い長い「腕」を持つ男を。

 腕だけが海面に達するほどに伸びていて、バランスはとれているが、異常であるという状況には違いがない。

 むしろ、あまりにも奇怪すぎる。

 アンバランスな人間に対するおそれというものがここまでに強いのかと実感できるほどに。

 全く見たことのないものと出会う時、人間は人間ではいられない、というのはまさしく事実かもしれない。

 ただし、それは僕だけだ。

 御子内さんたちは腕組みをしながら、または拳を鳴らしながら、海上を()()()()()妖怪を待ち受けていた。

 

「……でかいね」

「でかいな」

「シィ」

「音子、キミは関係ないだろ。ボクの大活躍を期待して待っていればいいよ」

「レイちゃん。……アルっちが意地悪を言う」

「……おまえら、集中しろ。戦いが始まるんだぞ。なあ、京一くん」

 

 何だか知らないが、僕と腕を組まないでくれないかな。

 あなた、おっぱいが大きいのでとても困るんだけど。

 でかいのは〈手長〉と〈足長〉だけで十分だよ。

 

「―――何をしている、この胸でか巫女め。京一の腕に当たっているぞ、その卑猥なる脂肪の塊が!」

「当ててんだが。まあ、おまえだとあまりにもないから難しいかもな」

「ほう。やはりキミと組むのは止めたほうがいいかもな。昔から思っていたんだが、やっぱり信頼できん」

「同感だな」

 

 ついさっきと言っていることが違う。

 なんだろう、この人たち。

 

「戦う前からコンビ解消してどうするのさ……。さあ、さあ」

 

〈手長〉と〈足長〉は確実に僕らを目標にしていた。

 双眸にははっきりとわかる憎悪が湧いていた。

 僕らには覚えがないが、あの二匹の妖怪にとって人間はすべて同じなのだ。

 あいつらが暴れている理由はわからない。

 震災なのか、例のタンカー事故なのか、それとも別のことなのか。

 だが、妖怪が死者をだすぐらいに暴れているのならば、それを止めるために動くものたちもいる。

 巫女レスラーたちがここにいる。

 彼女たちがすっとリングの上に上がった。

 自分たちの二倍以上の身長を持つ二匹の巨人妖怪と戦うために。

 もう二人の目には敵しか映っていなかった。

 

「来るの」

 

 僕とともにセコンドに立った音子さんが言う。

 彼女の首にかかったタオルは白かった。

 人間同士の闘いと違って、これが戦いを止めることはない。

 ただの飾りだ。

 勝敗を決めるのは戦う当事者だけだなのである。

 

「うん」

 

 長い脚でロープをまたいで、〈手長〉と〈足長〉がリングに降り立つ。

 リングの半分ぐらいが支配されたように見えるサイズだ。

 しかも、御子内さんたちも二人なのでリングは錯覚も伴ってもういっぱいいっぱいに見える。

 

 カアアアアン

 

 いつものように(ゴング)が鳴り響く。

 コンビのうちで、真っ先に先鋒の名乗りを上げたのは僕の御子内さんであった。

 

「さあ、巨人め。まずはボクが相手をするよ!」

 

 滅多にないという巫女レスラーと妖怪のタッグマッチがついに幕を開けた。

 



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妖怪〈手長〉〈足長〉

 

 

〈手長〉と〈足長〉は、異常に長く伸びた手と足を持つ妖怪である。

 その他の容姿は特段変わったものではなかったけれど、その憎悪に満ちた眼差しだけは特徴的だった。

 僕が知っているだけで、ここ数日の間にこの海では三人も亡くなっている。

 おそらくはこの妖怪の手にかかったのだろう。

 かなり凶暴な妖怪であることは疑いがない。

 

「だっしゃあああ!」

 

 御子内さんが突っかけた。

 だが、〈足長〉が肩車をしている〈手長〉の長い腕を掻い潜ることができず、距離をとらざるを得なくなる。

 なんといっても〈手長〉の腕は三メートル以上あるのだ。

 リングは六メートル四方の正方形となっているので、その半分以上を占めているということである。

 つまり、リーチの差は歴然としていた。

 しかも、人間の腕の稼働箇所は「肩」「肘」「手首」の三ポイントであるというのに、〈手長〉のものは自在に鞭のようにしなり、御子内さんを追い詰めていく。

 上下左右から孤を描く凶悪な攻撃を躱すだけで精一杯という有様だった。

 敵の攻撃を見切るということに関しては天性のものがある彼女でさえ、あれほどの猛攻を躱すのにかなりの苦戦をしていた。

 

「単純に強い……」

 

 音子さんが呟く。

 僕も同感だった。

 何倍ものリーチがあるということはそれだけで絶対的な差となるのだ。

 両手を振り回すというただそれだけの攻撃が、御子内さんの反撃を許さない防禦にもなっている。

 

『人め』

『人め』

『許さぬ』

『許さぬ』

『叩き殺してやる』

『叩き殺してやる』

 

 二匹の妖怪は、まるで鸚鵡返しに繰り返すかのように、同じ憎しみに満ちた言葉を吐く。

 不気味だった。

 人語を話す妖怪はよくいるが、これほどまでに強く、人間そのものに対して恨み言をぶつけるものは珍しい。

 叩きつけられた方の御子内さんもさすがに戸惑っている。

 

「ふん、ボクには覚えのないことで文句を言われても困るよ」

 

 足元を狙ってきた右腕を絶好のタイミングで踏みつけると、御子内さんはそのまま跳んだ。

 左腕に迎撃される前に、懐に入りこもうという作戦か。

 彼女ほどのアジリティの持ち主なら、本来は難しいものではない。

 潜り込んだ御子内さんの神速のストレートが〈手長〉の顔面を捉えようとした。

 

「嘘っ!」

 

 だが、その拳は食い止められてしまう。

〈手長〉ではなく、〈足長〉の手によって。

 さらにまずいことに、肩車されている〈手長〉の足が御子内さんを牽制してくる。

 その一瞬で、再び長い腕が背後から襲い掛かった。

 背中を強かに殴られて、さすがの御子内さんもダウンせざるを得ない。

 

「或子!」

 

 コーナーポストにいたレイさんが叫ぶ。

 そのまま、リングの中に乱入しようとするが、ギリギリで思いとどまる。

 

「どうして、レイさんは止まったのさ?」

「―――〈護摩台〉は二人以上の巫女が同時に存在することを拒否するの。台の上で戦っていいのは一人だけと決まっているから」

「えっと、……どういう意味?」

「退魔巫女が妖怪と戦うための結界は、もともと一人分の力しかくれない。だから、こういう変則的な戦いの場合は交互に後退しながら戦うしかないの」

「要するに……冗談抜きでタッグマッチということなんだね?」

「シィ」

 

 なんてこった。

 つまり、相手の〈手長〉たちが二匹がかりの状態だというのに、御子内さんたちはタッチするなりして意思表示をしないと入れ代わりができないということか。

 背中に打撃を受けて倒れている彼女を救うことはできない。

 

「だけど、乱入できないことはないんでしょ?」

 

 以前、切子さんと蒼さんがしていたように。

 

「うん。でも、巫女の神通力への補助がなくなるから、攻撃力も防御力も並に戻っちゃうの。ただの人間と一緒にまで下がっちゃう」

「となると……」

「自分の基本的な力だけになるから、フォールなんかができなくなる」

 

 つまり〈護摩台〉のトンデモ力はなくなるということでいいのか。

 でも、それなら……

 

「御子内さんを助けられるね!」

 

 僕はリングの端に進んだ。

 倒れた御子内さんを蹴りつける妖怪たちから彼女を救おうと。

 だが、その肩を掴まれる。

 音子さんだった。

 彼女は首を振り、

 

「大丈夫だから」

「でも……」

「京いっちゃんはまだまだね」

「え、何が?」

「アルっちとミョイちゃんのことをまだわかっていない。あの二人はこんなことで負けるコンビじゃない」

 

 その真摯な言葉に僕が驚いたとき、リング上では御子内さんが驚異の反撃を開始していた。

 

「ていっ!」

 

 まるでブレイクダンスでもするかのように開脚して、回転し、その反動で立ちあがると、下方から掬い上げるようなジャンピング・アッパーカットが飛び出した。

 長い脚が仇になったのか、避けきれずに〈足長〉の顔がひしゃげる。

 そして、得意のローリング・ソバットが炸裂。

 巨人たちはダダダとたたらを踏む。

 そのまま縦に一回転してのバイシクルシュート・キック!

 もう一度顔面が吹き飛んだ。

 

「よしっ!」

 

 レイさんがガッツポーズをとる。

 あれは御子内さんがどういう行動をとるか熟知していたからだろう。

 乱入して失うデメリットを考慮したのではなく、御子内さんの自力での反撃があるということをわかりきっていたからこその、さっきの躊躇だったのだ。

 音子さんの言う通りだった。

 

「どう?」

「うん、僕はまだわかっていなかったみたいだ」

「京いっちゃんも成長したね」

 

 音子さんが微笑む。

 覆面越しでもわかる優しい笑みだった。

 巫女レスラーたちはみんながこういう温かい心を持っている。

 リングの上で見せる激情だけではなく、仲間や友達、他の人間すべてに向ける優しい顔とともに。

 だから、僕は彼女たちが好きなのだろう。

 

「或子、替われ!」

「わかった!」

 

 御子内さんがバックステップを使って、自陣コーナーまで下がる。

 そして、手を伸ばしたレイさんとタッチをした。

 勢いよく飛び出てきたのは明王殿レイ。

〈神腕〉を持つ最強の一角だった。

 

「よく見てろや、或子。こういう敵と戦う時の見本を教授してやるよ」

「ふん、どうせ力任せの殴り合いだろう?」

「舐めんなよ、爆弾小僧」

 

 レイさんが構えた。

 両手を広げ、腰を深く沈めた大きな構えだった。

 

劈掛掌(ひかしょう)

「それ、レイさんの中国拳法だよね」

「うん。アルっち対策にレイちゃんが学んだ唯一の拳法技。レイちゃんが使えばどんな敵とも渡り合える」

 

手は鷹の羽根のごとく、身は蛇のごとくと言われる鷹翅蛇身の形をとり、上半身を前後左右に大きく動かしつつ曲線的に歩む。

打ちおろす手の打撃「()」と打ち上げる手の打撃「()」を真髄とした拳法であり、御子内さんのなんちゃって八極拳とは対極に位置する技だ。

だからこそ、神通力のこもった〈神腕〉を持つレイさんが使えば、確かに音子さんの言う通りになるだろう。

 

「いくぜ、妖怪。てめえの腕なんぞすべて叩き落してやる」

 

 レイさんの凄味のある美貌が不敵な笑みを浮かべた。

 

 



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ツープラトン

 

 

 レイさんの選んだ戦い方は一言で説明するのならば、「すべてを叩き落す」だ。

 彼女の〈神腕〉の力はわかっている。

 軽く撫でただけで人間サイズの〈口裂け女〉を何回転もさせてぶっ飛ばすぐらいの破壊力を備えているのだ。

 それは身体の大きな妖怪相手でも変わらない。

 あの巨体の〈うわん〉さえものともしないのだから。

〈手長〉の長い(かいな)を潜り抜けるのではなく、片っ端から掌をあてて弾き返し、叩き落し、決してリズムを作らせない。

 妖怪には基本的にフェイントやタイミングを変化させるという戦術はなく、ほとんど力任せの攻撃に終始するのが普通だ。

 この〈手長〉〈足長〉でさえも同じ。

 いつまでも当たらない攻撃に焦れて、今度は〈足長〉の長い脚で蹴りを放ってきた。

 

「無駄だぜ」

 

 足の力は手の三倍というのが常識だが、〈足長〉の場合も一緒だろう。

 とはいえ、当たらなければ意味はなく、これも軽々とレイさんに食い止められる。

 かつて御子内さんの怒涛のラッシュさえも躱しきったレイさんにとって、コンパスが長すぎて軌道が読みやすい蹴りなんてどうということはないのだ。

 この時点で、リングの上の半分を占領しているように見える二匹の妖怪に対して、ほぼ確実に優位に立っているのは紛れもなく〈神腕〉の巫女であった。

 

「おい、これからどうするつもりだ? お手てを振り回して終わりなのかよ」

 

 レイさんの挑発に対して、〈手長〉〈足長〉は変化をもって応えた。

〈手長〉が仲間の肩から飛び降りたのだ。

 分離、といっていいのかはわからないが、二匹で一体の妖怪が、それぞれに別れて同時に襲い掛かることに決めたようだった。

 ともに信じ難いリーチを誇る妖怪と対峙しながらも、巫女レスラーは怯まない。

 むしろ楽しそうでさえあった。

 

「レイさん、余裕っぽいね」

「アルっちみたいな戦闘狂(バトルジャンキー)と友達をしているとね……。危険が癖になるから」

「ああ、なるほど」

 

 ここで同意してしまうと後で何か言われそうだけど、事実だから仕方がないか。

 

「そこ! うるさい!」

 

 地獄耳だったらしい、御子内さんが眦を吊り上げて、指さしてきた。

 本人も多少は気にしているんだろうね。

 

『人間め!』

『人間め!』

 

 二匹は連動して攻めたててきた。

 蹴りつけてくる〈足長〉と孤を描く手の先の爪で切り裂こうとする〈手長〉。

 やはりコンビネーションは抜群だ。

 両方の長い四肢がまったく絡み合いもぶつかり合いもしないというのはかなり奇跡的な確率のようだが、逆にいえば当たらないようにしているため読みやすいともいえる。

 円を描きながら丸く動く。

 その小さな円と二つの円がまるで螺旋を作る。

 

「そろそろかな」

 

 攻撃がまったく当たらず、ついに妖怪たちはキレた。

〈手長〉の双掌打が飛んできて、その下にレイさんが潜り込んだ。

 そのまま背中を向けて腕を担いで、背負い投げ一閃。

 妖怪はこらえきれずに投げ捨てられた。

 ここで初めて妖怪たちはマットを舐めることになった。

 四肢が長いということは倒れてしまうととたんに不利になる。

 バランスが悪すぎるのだ。

 仲間がピンチになったかもしれないと考えた〈足長〉が動く。

 だが、悪辣にもそれを狙っていたものがいた。

 いつのまにかコーナーポストの上に、威風堂々と腕組みをして立ち上がった巫女が一人。

さっきまで黙っていたのはもしかしてこのためか。

 

「だっしゃあああ!!」

 

 迫りくる〈足長〉目掛けて超高度からのミサイルドロップ・キックが炸裂する!

〈手長〉に加勢しようとする〈足長〉を足止めした。

 その間にレイさんが〈手長〉を肩で持ち上げて、ブレーンバスターの体勢に移行する。

 なんと妖怪を持ち上げたまま、静止する。

 

「たあ!」

 

 再び、御子内さんが跳ぶ。

 今度は〈手長〉の胴体にドロップキックを放ち、その勢いを利用してレイさんがブレーンバスター―――脳天砕きを敢行した。

 立っている相手の正面に立ち、相手を前屈みにさせて相手の頭部を自分の腋に抱え込み、もう片方の腕で相手の腰を掴み、相手の身体が逆さまになるように真上に持ち上げる。

 ここから自ら後ろに倒れこみ、相手の背面をマットに叩きつけるのだが、御子内さんのキックの威力もプラスされて凄まじいダメージとなるだろう。

 二人分の体重をかけられて落下する〈手長〉。

 ダダーンとマットが音を大きな立てる。

 巫女レスラーたちの見事な連動だった。

 二匹の妖怪に勝るとも劣らない。

 

「次だ、或子!」

「おう!」

 

 或子さんが〈手長〉の後ろに回り込み、腰を掴んだ。

 背後から〈手長〉の腋下に頭を入れ、両腕で相手の腰に腕を回してクラッチしたまま持ち上げると、自ら後方に反り返るようにブリッジして、相手の肩から後頭部にダメージを与えるバックドロップの体勢だった。

 プロレスでの象徴的な投げ技でもある。

 さらにその反対側にレイさんも回り込んでいた。

 そのまま二人の力でダブルのバックドロップを放つ気なのだ。

 

「せいやっ!!」

 

 腕が長いせいで肘を使って逃げることもできず、頭から叩きつけられた〈手長〉がマットに顔を伏せる。

 かなり効いているようだ。

 それでも、まだまだ巫女レスラーたちの猛攻は続く。

 

「タッチしなくてもいいの!?」

「ツープラトンに入ったら、そのまま一気呵成に仕留めにかかるのが定石」

 

 つまり、二人がかりとなったらそのまま休むことなく攻めたてろということか。

 ……なんかルール違反な気もするけど。

 

『人間っ!』

 

 ようやっと〈足長〉が戦線に復帰する。

 だが、もう遅い。

 荒れ狂う暴風と化した御子内さんたちを止められるはずがない。

 御子内さんの奇襲のカニバサミが長い脚を挟み込んで引き倒すと、レイさんの掌打が上下に張り飛ばす。

 速い、あまりに速い。

 まさに疾風怒濤のコンビネーションアタック。

〈手長〉も〈足長〉もともに立ち上がることすら覚束なくなっている。

 ただ、それでも相手は妖怪。

 かつては神仙でもあったという巨人種。

 咆哮とともに武器の四肢を振るう。

 しかし、巫女レスラーたちにはもう完全に見切られていた。

 御子内さんの鉄山靠(てつざんこう)が〈足長〉を吹き飛ばし、仲間を護ろうとした〈手長〉の肩を掴んだレイさんが同士撃ちを目論見、そのまま二匹はマット中央で激突する。

 妖怪特有の秘儀すら発する暇もないようだ。

 そして、二匹がぶつかり合うことで一体に戻った瞬間を狙っていたのか、妖怪を挟みこむような位置をとっていた巫女レスラーが同時にマットを蹴る。

 

「クロスボンバー!!」

 

 サンドイッチに挟み込む、アックスボンバーとラリアートの二重奏。

 タイミングがずれれば意味のない必殺のツープラトンだった。

 しかし、同じ釜の飯を食ってきた八極拳と劈掛掌(ひかしょう)の使い手にとって奇跡を起こすことは容易いことだ。

 首を狩られた妖怪たちは、がくりと膝から崩れ落ちた。

 そのまま、レイさんが〈足長〉を、御子内さんが〈手長〉の首を掴んでマットに引き倒し、その両肩をつけた。

 フォールの姿勢だった。

 

 ワン

 

 フォールを解こうと暴れる〈手長〉を御子内さんは決して離さない。

 

 トゥ

 

〈足長〉がバタバタと脚を動かしてもレイさんはビクともしない。

 

 スリー

 

 どこからともなくカウントが流れ、唾を飲む瞬間が過ぎたのち、再びカンカンカンと(ゴング)が鳴り響いた。

 そして、二匹の妖怪は消えていく。

 消滅―――いや封印されたのか。

 この海岸で暴れ回った妖怪たちの最期だった。

 

「よっしゃああああ!!」

「うっしゃああ!」

 

 二人の巫女レスラーがハイタッチを交した。

 さすがは親友同士だ。

 息がピッタリといったらこれほどのものはない。

 リング上には勝利の雄たけび(女の子だけどね)が響いた。

 

「やったね!」

 

 隣の音子さんとハイタッチをしようと手をあげたら、

 

「やった、京いっちゃん!!」

 

 首っ玉に抱き付かれた。

 いい匂いが鼻孔に入ってくる。

 女の子は砂糖とスパイスと素敵な何かでできているというけど、甘い香りを放つケーキみたいなものだと実感できた。

 僕も思わず腰に手を回しそうになったが、嫌な予感がしたので視線をずらす。

 すると、僕らを睨んでいる鬼が二人いた。

 

「―――京一」

「―――音子、てめえ」

 

 なんだかよくわからないけれど、〈手長〉と〈足長〉以上の脅威が間近に迫っているということも、僕は実感していた。

 

 

 

 

 



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休息を君に

 

 結局のところ、やはり僕たちの推理は正しく、あの〈手長〉〈足長〉の二匹の妖怪は、例のタンカー事故による重油によって巣としていた場所を追い出されてきたものらしい。

 ずっと空からあいつらを見張っていた八咫烏が、そう断言していた。

 前にもあったが、どうしようもない人間の事情で棲家を追われ、人間そのものに憎悪を抱く妖怪はたくさんいる。

 多くの野生動物のように人に牙向くほどの力を持っていない訳ではない彼らは、自分たちを苦しめる敵が来たら即座に反撃を行うだろう。

 あの二匹による被害は三人だったが、退魔巫女たちが動かなければきっともっと多く亡くなっていた。

 それは悲劇ではあったが、愛憎劇でもある。

 

「あまり気にしないことだね」

 

 ただ、この言葉を口にしたのは僕だ。

 やや気分を沈ませている巫女たちを慰める必要があったから。

 件のタンカーはひたちなか市の郊外の岸壁に座礁する形でやってきていた。

 場所が深いところにあるせいで、そう簡単にはどかすことができないらしい。

 今、茨城県と国の役人たちが協議をしているそうだ。

 離れたところからじっともう航行することもなさそうなタンカーを見ていたレイさんが、眉をしかめていた。

 

「あれ、早く退けろよな」

「仕方ないよ。それには随分とお金がかかるから」

「……船会社の代表が夜逃げしたって。だから、話が進まないらしいよ。外国の会社だから連絡つかないんだってさ」

「まったく、世の中ってのは綺麗にまとまんねえのな」

「民主主義と資本主義は色々と時間がかかるからね。……ボクらの戦いとはまた次元が違うんだよ」

 

 こぶしさんの車に乗り込むまで、僕らはずっと考えていた。

 あの妖怪たちに同情さえしていた。

 同情を嫌う向きもあるだろう。

 ただ、同情だってしないよりはマシだろう。

 そこに相手を見下す傲慢さがなければ。

 

「……じゃあ、東京に戻りますね。レイちゃんは柏でいい?」

実家(うち)に寄ってくれよ」

「残念ね。私、そこまで後輩のためにサービスする気はないの。他のみんなはどう?」

 

 わざわざ迎えに来てくれたこぶしさんとしては、これも執務の一環であってあまり面倒をかけては欲しくないらしい。

 さすがは元の退魔巫女。

 それでも、今回の仕事の原因となったタンカーを見たいという僕らのお願いを快く引き受けてくれたのは嬉しかった。

 

「わたし、実家がたまプラーザだからそっちでお願い」

「却下。246は混んでいるから嫌。山手線ならどこでもいいわよね」

「……どのみちどこにも行く気はねえんじゃねえか、こぶしさんはよ……」

「まったくだ。こんなことなら電車で帰っても同じだよ。こぶしは昔から先輩として微妙なんだよね」

「こら、後輩ども。聞こえているわよ」

 

 ベンツが音もなく走り出した。

 さすがは高級車だ。

 五人乗っているのに重さを感じさせない軽やかさで、わかりやすいほどにスムーズだった。

 

「じゃあ、僕の希望も聞いてはもらえませんか?」

「京一さんの? 君だけだったら府中まで送ってあげてもいいけど」

「な、なぜ、京一だけ!?」

「この子、あなたたちと違って生意気な後輩じゃあないもの。差をつけて当然だと思わない?」

「差別だ!」

「区別よ」

 

 良かった。

 もしかしたら聞いてもらえるかもしれない。

 だから一か八かになるだろうけど、とりあえずでもいいから口にしてみた。

 

「大洗の海水浴場を」

「―――昨日、散々遊んでいたって聞いたけど、またどうして?」

「僕はずっと〈護摩台〉を作っていたので、御子内さんたちとは遊んでいないんです。だから、少し羽を伸ばさせてもらおうかな……なんて」

 

 ぶっちゃけた話、嘘だった。

 僕がどうこうということよりも、深夜の戦いで疲れ切っただろう巫女レスラーたちに気晴らしをしてもらおうというだけのことだった。

〈手長〉〈足長〉が人間を憎んでいた理由がはっきりして塞ぎこんでいたみんなが少しでも元気になるように。

 

「うーん、別にいいか。最近はあなたたちの仕事も多いし、たまには普通の高校生みたいに遊んでも。よし、大洗に行きましょう!」

「やった!」

 

 御子内さんたちは手を叩いて喜んだ。

 大洗は普通の海水浴場だし、昨日みたいな砂浜トレーニングもないだろうから僕も参加できるね。

 良かった良かった。

 

「ありがとう、京一!」

 

 御子内さんが笑っていた。

 僕の内心を見透かしているような笑顔だった。

 どうやら僕の考えていることなんてお見通しなのかもしれないね。

 

「うん、またみんなの水着が見られて嬉しいよ。ところで、昨日の分はちゃんと洗濯しておいた?」

「当然さ! じゃーん!」

 

 その手には綺麗に乾燥した海水浴セットが握られていた。

 夜のうちに洗濯して干しておいたのだろう。

 用意周到なことで。

 

「ふふん、こんなこともあろうかと思ってね」

 

 親友たちと楽しそうにはしゃぐ彼女の姿を見て、僕はほかほかする気持ちになった。

 とにかく今日の残りの時間を愉しんでよ、御子内さん。

 君たちはそんなささやかな報酬では足りないぐらいの戦いをしたんだから。

―――天に花、地に星、人に愛、そして戦う巫女レスラーたちに束の間の安らぎを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
















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第13試合 英雄幻想 
ヒーローと少年


 

 

 その少年は、通っている小学校の階段から見事に落下して、生まれて初めて入院することになった。

 額に全治一ヶ月の大怪我をした上、頭を強かに打った結果、脳震盪も起こしていたこともあり、検査も含めて五日も入院する羽目になる。

 家族と離れて四泊もすることが初めてという六歳の少年は、入院した翌日にはもう寂しくて泣いてばかりいた。

 面会時間のほとんどを付き添っていてくれた母親が、少しでも所用でいなくなると涙ぐみ、探しに出ようとするほどにたったの数日の入院が怖かった。

 医師も、看護師も、他の患者も、彼にとってはただの他人。

 見知らぬ誰かに囲まれているというだけで不安でたまらない。

 様々な検査の結果、異常なしと診断されて、明日には退院ですとなっても、彼の不安は晴れることがなかった。

 母親が下の家族を幼稚園に迎えに行くために、早めに帰ってしまったあと、彼はうぐうぐと病室で泣いていた。

 病室は二人部屋であり、反対側にはもう一人の患者が寝ている。

 かなり高齢の老人で、偏屈な性格をしていたのだが、泣いているばかりの彼を気遣ってくれる優しい人でもあったのに、そんなこともわからないぐらいいつも彼は自分の世界に閉じこもっていた。

 ほんの数日だというのに、子供の彼にとってはまるで自分が捨てられてしまったかのような悪夢の時間を過ごしている気分だった。

 ただ、その日はいつもと様子が違っていた。

 いつもは少年とその家族が喋っているのを寂しそうに見ているだけの老人のもとに、時間ぎりぎりで見舞客がやってきたのだ。

 ソフト帽とメガネをかけた、いかにもという格好の若い男だった。

 思わず、少年が警戒してしまうぐらいに、「変装している」という姿だ。

 ただ、そんな少年のことなど気にも留めず、ソフト帽の若い男は老人のところへ足を伸ばした。

 

「―――やあ、お祖父ちゃん。元気にしてたかな?」

「元気にしているジジイが入院なんぞしているか、バカめ」

「そりゃあそうだ。あ、これはお土産」

「ジジイの土産にスナック菓子を持ってくるな。塩っ気が多すぎて食えんわ」

「だったら、よその患者さんに分けてあげればいいじゃない?」

「おまえが気を利かせばいいだけのことじゃねえか。もう少し甘いものを用意するとかよ」

「いや、俺の番組の関連製品なんで、ただで分けてもらえたんだよ。ちょうどいいと思ってさ」

「実の祖父の入院のお土産をケチんじゃねえよ、このバカ孫」

「忙しい撮影の合間を抜けてきたってのに、ご挨拶だな、うちの祖父ちゃんは」

 

 入院している祖父を見舞いにきた孫との会話らしかった。

 お互いに口はあまりよくないが、年が離れているくせに仲の良い肉親同士の気のおけない会話という感じだった。

 気難しそうな老人の楽しそうな顔というのが珍しくて、少年は最初に抱いた警戒心をいつのまにか解いていた。

 仲のいい二人なのだろう。

 ただ、一つだけ何かが引っかかっていた。

 

「なんでえ、これ。おまけつきかよ」

「まあね。子供用だし」

「ホント、おまえ、祖父のために金を使う気が欠片もねえんだな。ほとほと呆れるぜ」

「役者なんて薄給なんだよ。さっきから言っているけど、見舞いにきてやっただけありがたいと思ってよ、お祖父ちゃん」

「偉そうな口を利くんじゃねえよ。……おい、ちょうどいいから、これ、あそこの子にやって来い。おまえなら、ぴったりかもしれん」

「あそこの子?」

 

 ソフト帽の若者は振り返って、少年を見た。

 どこかで見たことがある人だな、と思った。

 学校でもないし、学校からの行き帰りでもないし、商店街の人でもない。

 それなのに物凄く既視感があった。

 喉まででかかっているのに。

 少年は自分の頭の悪さがもどかしくて仕方がなかった。

 

「年頃的には、てめえのこと()()()()()()()()()

「そうだね。―――まあ、事務所にバレなければいいか。じゃあ、ちょっと言ってくる」

「入院してナーバスになっている。優しく相手してやってくれ」

「任せてくれよ。こう見えても子供の相手は得意だ。()()()()

 

 そういうと、若者は少年のところにやってきた。

 手には小さなポテトチップスの袋をいくつか抱えている。

 それを彼に差し出し、

 

「もらってくれないか」

 

 と言った。

 

「祖父から君へのプレゼントなんだそうだ。ちなみに俺からでもある。君がもらってくれるととても嬉しいな」

 

 優しい声だった。

 そして、とても聞き覚えのある声。

 普段、彼が耳にしたことのあるものとは、おそらくあるフィルター越しであるためにやや違っているが、間近で聞けばすぐにわかる声だった。

 

「……炸裂ファイターGA?」

「ああ、そうだ。俺はGAこと、蘭条友彦(らんじょうともひこ)さ」

 

 ソフト帽をとって、眼鏡をはずした姿は、彼がよく知るヒーローのものだった。

 いつも日曜日の朝に少年がよく見ているテレビ番組『炸裂ファイターGA』の主人公、蘭条友彦がそこにいた。

 ぽかんと口が開いた。

 憧れていたヒーローがそこにいたからだ。

 整った鼻筋、意志の強そうな双眸、口元に湛えた自然な笑み。

 世界の悪から平和を守る正義の特撮ヒーローが、少年の前にいた。

 

「これ、ファイターポテト。食べたことあるかな?」

「う、うん」

 

 ヒーローに手ずから渡されたそれは、彼も母親におねだりして買ってもらったことがある人気商品だった。

 おまけのカードが斬新な新製品だ。

 

「どうして、ここにいるの?」

「あのお爺さん、俺の知り合いなんだよ。俺とグアディライとの戦いに巻き込まれてね。入院中というわけさ」

 

 グアディライ!

 太古の世界を支配していたという怪人族の名前だ。

 もしかして、あのお爺さんは怖い顔をしているけれど、実は正義の味方だったのかもしれないのか!

 少年は滾った。

 こんな近くにヒーローの知り合いがいたなんて。

 

「君はどうして入院しているんだ?」

「こ、これです!」

 

 自分の額を出す。

 傷跡は残らないらしいが針の後はまだ生々しい。

 だが、ヒーローはそれを見て、

 

「痛そうだ。でも、それは男にとっては勲章だ。君も将来はそう思えるさ」

「はい!」

「で、あと不思議だったけど、どうして泣いているんだ? もしかして傷が痛いのかい? お医者さんを呼ぼうか?」

「……ううん。傷は痛くない。へっちゃら」

「じゃあ、どうして?」

 

 こんなことをヒーローに言うのは恥ずかしかっだか、蘭条友彦に嘘を言うのはもっと嫌だった。

 だから、少年は素直に答えた。

 

「一人で寂しかったから……」

 

 すると、ヒーローは笑って、少年の頭を撫でる。

 そこにはいつもテレビで視る優しくて温かい笑顔があった。

 

「気持ちはわかるぜ。一人は寂しいもんな」

「……うん」

「だが、君は男なんだろ? 男だったら、一人でいることの大切さを知らなくちゃあいけない」

「一人でいることの大切さ?」

「ああ。男にとっては一人でいるときとは、まさに戦いが始まっているときのことなのさ。戦いが始まっているのに泣いていたら、大事な人を守れない。眼が使えないからね。だから、男は一人でいるときこそ、泣いていてはいけないんだ」

 

 蘭条友彦がそう言っている。

 ヒーローがそう言っている。

 だから、少年は泣くのをやめた。

 

「ほら、君は強い男みたいだ。俺の目に狂いはなかった。じゃあ、約束をしよう。もう寂しいぐらいでは泣かないとね。いいかな?」

「うん!」

 

 また、頭を撫でられて少年は微笑んだ。

 それから少しの間だけとりとめのない雑談を交してから、

 

「じゃあな、ショウマくん」

 

 ヒーローは爽やかな挨拶とともに去っていった。

 これは、生涯、少年が忘れることのなかった思い出のシーンだった。

 

 小さな子供が憧れのヒーローと交した約束は、それからずっと守られ続けたのであった。

 

 

            ◇◆◇

 

 

「おっと、ここ何処よ! なんてクソリス! ガッデム!」

 

 僕のスナイピングにド(タマ)をふっ飛ばされてKILL(キル)された涼花が下品なスラングを言いながら、ゲームに復帰してきた。

 もともと常にクリアリングをしながら慎重に歩を進める涼花は、遠距離からの狙撃に弱い。

 敵の接近を防ぐことには懸命だが、狙撃されない位置取りを確保するということが苦手なのだ。

 だから、僕の移動しつつ狙撃する機動狙撃戦術には弱い。

 というか、兄の威厳を保つためにも、妹ごときにFPS(ファーストパーソン・シューティングゲーム)で負けるわけにはいかないのだ。

 画面上での僕のチームと涼花のチームのキル数の差が二倍に膨れ上がる。

 僕が、復活(リスボーン)した直後の涼花のキャラをまた撃ち殺したからだ。

 確かに、クソリス(クソみたいに最悪の復活)だったね。

 僕の狙撃場所のすぐそばでゲームに復帰するなんて。

 

「お兄ちゃん、ズッコイ!」

「これが戦場だよ。運がなければ死ぬ」

「うわ、ムカつく。あとでお姉さまにいいつけてやる!」

「―――御子内さんに言いつけるのは卑怯じゃないかな」

「うっさい、芋スナ!」

 

 芋虫スナイパーという蔑称を妹から向けられるとは思わなかったよ。

 まったく突撃バカの妹のくせに生意気な。

 というわけで、ちょっと兄としてムカついたので、迂闊な頭をのぞかせた涼花のキャラクターをもう一度ヘッドショットしてあげた。

 

「ムッキイイイイ!!」

 

 わりと美少女とは思えない猿みたいリアクションをする我が妹。

 高校に入ってから、お姉さまと慕う御子内さんの影響を受けすぎだ。

 将来の僕の家にはこんなのは二人もいらないのに。

 

「うっ」

「もらい!」

 

 突然、動きを止めた僕のキャラクターが画面内でやられた。

 油断した訳じゃない。

 下腹部に激痛が走り、集中が途切れたのだ。

 そして、そのまま僕はコントローラーを取り落とし、床に倒れた。

 

「ちょっと、お兄ちゃん、どうしたの……」

 

 涼花の声が聞こえたが、耳には残らない。

 下腹部の痛みがあまりにはっきりしていて、意識を削りつつあったのだ。

 

「お兄ちゃん、お兄ちゃん! ―――お母さん、ちょっと来て、お兄ちゃんが変なの!」

 

 テレビとゲームのある居間に母親が飛び込んでくる気配がしたが、僕には意識を向ける余裕すらなかった。

 この気が遠くなるような痛みのせいで……

 

「……ヤバい、明日から御子内さんたちの合宿があったんだ」

 

 薄れゆく僕の意識には、そのどうでもいい情報と救急車のサイレンの音だけが混じり合いながら消えていった……。

 

 

 

 



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京一と祟りの親和関係について

 

 

 結果として、僕はお腹の中の盲腸が破裂寸前となっていたことから、緊急入院して二日後には手術ということになった。

 その間、痛みは薬で散らしておくということだ。

 翌日でも良かったのだが、病院側が何やら立て込んでいて手術室の用意ができなかったらしい。

 僕の担当になってくれた看護師のお姉さんが、彼女のせいでもないのに謝ってくれた。

 

「でも、入院中の快適な生活は保障してあげるから」

「……よろしくお願いします」

 

 夏休みの一週間を入院して過ごすとなると、それだけで快適さはなくなる気がしなくもない。

 もっとも、運がいいことにここしばらくは大して用事もないし、バイトも入れていないので他人に迷惑をかけることはないのは良かった。

 

「世話焼きな可愛い妹さんで嬉しいでしょ? お兄さん」

「そうですね。生意気なのが困りますけど」

「……ふーん、即答しちゃうんだ。君は変わった男の子だね」

 

 看護師さんは変な笑いを浮かべていた。

 年上の酸いも甘いも噛み分けた人にはなにか思うところがあるのかもしれない。

 僕としては普通に応えただけなのにね。

 

「さて、明日一日が空いちゃったけど、ついでだから検査でもする? 歯科検診とかなら捻じ込めるわよ」

「……病院内の探検でもしています。術後はしばらく動けないでしょうし」

「一階のフロアーにコンビニが入っているから、そこに雑誌とか売っているので買ったらどう」

「そうします」

「彼女には連絡したの? 盲腸で入院しているって」

 

 彼女ではないけれど、連絡しておいたほうがいいのは御子内さんぐらいのものか。

 高校の友達は別に構わないけれど、突発的な妖怪退治とかがあったら彼女が困るだろうし……

 と、思ったけど考え直した。

 今日から彼女は退魔巫女の修行場に鍛錬にいっているはずだった。

 親友の音子さんやレイさんと示し合わせて、一週間ほどの再訓練を申し出たのだ。

 長期の休み期間でなければできないということで、その間は妖怪退治はなしということに決まったはずだ。

 確か、みんながいない間に事件が起きた時は……。

 

「あー、京一さん、みつけましたよー」

 

 能天気な声が聞こえてきた。

 病室の出入り口のところに見覚えのあるツインミニョンの髪型、スカスカの胸元とミニスカの脇の下のみえる巫女装束、白いニーソックスの少女が手を振っていた。

 まったくもって病院には似合わない。

 御子内さんたちの後輩の熊埜御堂(くまのみどう)てんさんだった。

 

「グレート或子先輩の代わりにお見舞いにきましたー」

 

 相変わらずの呑気な喋り方だった。

 涼花よりも年下らしいので、なんとなく子ども扱いしてしまいそうになる。

 

「あ、僕の入院のことは……」

「先輩方にはこのことは伝えてませんよー。みなさんには再訓練に集中してもらいたいんでー」

「ありがとうね」

 

 親しげに話しかけてきた熊埜御堂さんのコスプレめいた格好に、さすがの看護師さんも戸惑ったらしく、眼で挨拶をするとそのまま出ていった。

 また後で、ということらしい。

 僕としても好都合だった。

 入院中の逃げられない状況で、ミニスカの巫女が話しかけてくるというシチュエーションはさすがに奇異だろうとはわかっていたし。

 

「盲腸って痛いもんなんですかー?」

「僕は気絶しちゃったぐらいだよ」

「へー。それは、あれですね。ファイヤーレイ先輩のアイアンクローを喰らったときぐらいに痛いんでしょうねー」

 

 かつてのことを思い出したのか、ブルブルと震えだす熊埜御堂さん。

 どうやら実体験らしい。

〈神腕〉のレイさんのアイアンクローをまともに喰らえば気絶してもおかしくはないだろうし。

 

「一応、京一さんにはうちの〈社務所〉から見舞金がでるっぽいですよー。ここの検査についても、いくらか補助がでるらしくてー」

 

 熊埜御堂さんが背負っていたランドセルみたいなカバンから、書類の束を出した。

 名前を書けばいいぐらいに整った書類で、彼女の言う通りに保険以外の自費の入院費へも六割ほど補助が出るらしい。

 何だか知らないけれどいたれりつくせりだね。

 おかげでだいぶ安上がりになりそうだ。

 

「なんだか待遇がいいね」

「そうですねー。〈社務所〉のバイトの京一さんの入院ってことでもしかしたら祟りの可能性もありましたからー」

「……祟り?」

「はーい、祟りデース」

 

 なんというか聞き逃せない単語だった。

 祟りというと嫌な予感しかしない。

 

「祟りってどういうこと?」

「えーとですねー。私たちって主な敵が妖怪じゃないですかー。そうするとですね、たまーに関係者が祟られちゃったりすることがあるんですよー」

「……初耳なんだけど」

「そりゃあそうですよー。平成になってからは祟りで死んだ巫女も禰宜もいませんからねー。でも、昭和の初期にはよくあったらしいです」

「祟りにあうと、どうなるの?」

「あー、死んじゃいまーす」

 

 うわ、マジですか。

 妖怪退治に付き合うということは、そういうリスクがあるのか。

 ない訳はないと思っていたけれど、やっぱりねという感じだった。

 祟り……か。

 

「で、祟りの可能性があったということなの?」

「そうですねー。私たちも協力者が祟りで亡くなったりすると大変困るので、こういう緊急入院とかは早めに対処しますし、定期的な検診も積極的に推奨したりしていまーす。先輩方も半年に一度は検診してますし、再訓練のときにもやっていると思いますよー」

「そうだったんだ」

「今回のことで、京一さんも定期検診が義務付けられるになると思いますー。福利厚生の一環でーす」

 

 いつも思うけど、妙な組織だよね、退魔巫女たちの所属する〈社務所〉って。

 

「で、僕は大丈夫だったの?」

「はい、特には」

 

 いったい、どんな検査をしたのか聞いてみたいところだった。

 ただ、まあ祟りの恐れがないのはいいことだ。

 怖がって損した感じ。

 

「……いや、まあ、何があっても退魔巫女がいるしね」

「はい、或子先輩の代わりに私がお助けしますよー。まかせてくださーい」

「入院中に幽霊でも出たら頼むね」

「おーけーですよー」

 

 左手で間違った敬礼をしてから、少しだけ熊埜御堂さんが首をひねった。

 

「この病院もちょっと幽霊がいる気配はありますからねー。この手の施設にはつきもののアクセサリーですけど」

「いるの?」

「いますねー」

「危なくない?」

「幽霊なんて、ぶって殴って蹴れば消えちゃいますよー。あと、関節を極めてしまえばイチコロですよー」

 

 退魔巫女(きみら)の価値観に従ってもなあ。

 

「それに、京一さんも幽霊ぐらいは『視える』ようになっていると聞いていますよー。見つけたら逃げてしまえばいいんです。いざとなったら、私も実家で待機していますしねー」

「……君らって揃って実家暮らしなのね」

 

 まあ、幽霊なんかは何度も遭遇したことあるし、今となっては大して怖い存在でもないし、別にいいか。

 この病院はそれなりに大きいだけあって、幽霊の一体や二体いてもおかしくはないから、用心だけはしておこう。

 僕って予想以上にオカルトに対して耐性がついているみたいだ。

 

「―――それでは私は帰りますねー」

 

 それから少しだけ話をして、熊埜御堂さんは去っていった。

 周囲がざわついていたので、見渡してみると、患者や職員、看護師たち数人がこちらを覗いていた。

 僕が見ると顔をひっこめるか、目を逸らす。

 おかげでどういうことかわかった。

 

(ミニスカの巫女なんかが見舞いに来ればこういう反応になるかもね)

 

 御子内さんたちと付き合うとよくある反応なんだけれど、入院した初日からこの感じだと逃げられないだけあって先が思いやられる。

 とはいえ、あと一週間ぐらいはどこにもいけないんだから我慢するしかないか。

 

 こうして、盲腸になった僕の入院生活が始まったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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少年と男の子の好きなもの

 

 翌日、僕は一階にある病院付属のコンビニで、適当な漫画雑誌を買った。

 午後になれば家人の誰かが暇つぶし用の色々なものを持ってきてくれるだろうから、それまでの()()()だ。

 普段からわりと忙しなく動いているので、ずっとベッドに横になっているというのはとてもだるい。

 それから、大勢の患者が集まっている談話スペースに陣取った。

 見ると様々な病棟から暇な患者が流れてきているらしく、わりと混んでいる。

 小さな子供もわずかながらいるが、ほとんどは高齢者だ。

 僕と同い年ぐらいの子はいない。

 こういう時、ドラマとかでは車椅子の内気な女の子と知り合ったりするのだが、そんな甘酸っぱいことはなさそうだった。

 

「……ファイター・アクト・バーン!」

 

 昔、懐かしい掛け声が聞こえた。

 僕の記憶にあるのは、炸裂ファイターGAが専用のカードをベルトのスリットに入れる時のものだった。

 それをすることによって、カード―――〈パークサイト〉の力がファイターの前進に漲り、必殺のキックが放てるようになるのだ。

 第三クールの最後にGAが身につけた技なので、かなり強力な幹部怪人を撃破してきた印象がある。

 でも、GAってファイターのシリーズの中でも随分と昔だよねえ。

 長年続いているシリーズだけど、GAは中興の祖扱いで、最近はあまり名前を聞かなくなっていた。

 

「ファイター・アタッッッッック!」

 

 そうそう、アクト・バーンからのファイター・アタック。

 これがGAの最強のコンボ。

 最終回だって強化したファイター・アタックで決めたんだ。

 しかもそれまで使っていた最強フォームが使えなくなって、仲間もみんないない敵の空間の中での孤立無援、絶体絶命の状態での逆転劇。

 燃えたなあ。

 仲間たちもGAを助けようとするんだけどみんなやられていくんだよ。

 でも、GAは屈しなかった。最後まで諦めず戦い続けて最後の最期、ただ一人炸裂ファイターでない仲間の命を賭けた策が成功して、仲間たちが復活して集結するんだ。

 そして、ラスボスの怪奇邪神王を斃した。

 

「―――終焉!」

 

 これがファイターシリーズでは珍しい、怪人を倒した後の決めセリフだ。

 懐かしくなって振り向くと、一つ隣りのソファーで男の子がGAの人形を片手に遊んでいた。

 敵の怪人役は、別の作品の怪獣だったけど、そこはキャスト不足だったのだろう。

 ご愛敬だね。

 しばらく、人形遊びに熱中している男の子を見ていた。

 多分、五歳から六歳。

 小学生ではなさそう。

 青いパジャマを着ているちょっと大人しそうな子だった。

 でも、ヒーローごっこに熱中している以上、見かけよりは元気なタイプだろう。

 

「……GAはカッコいいよね」

 

 思わず話しかけてしまった。

 少しびっくりした顔のあと、男の子は朗らかに頷いた。

 同意、ということだろう。

 

「お兄ちゃん、GAってわかるの?」

「普通はわかるよ」

「えー、ぼくのお父さんとか全然だよ」

「お父さんも年齢はどのぐらい?」

「えっと三十歳ぐらい」

「だったら、平成のファイターシリーズを見てないんじゃないかな。きっと、もっと以前のものならわかるよ」

「うん。そうだね。ブルーマンとかは知っているから」

 

 男の子の手元のGAを見て、

 

「でも、珍しいね。君ぐらいだと、一番新しいファイターの……えっと槍牙(ソウガ)とかの方が好きそうなんだけど」

「ぼく、槍牙は好きじゃないんだ。視てはいるけどね。それよりも、DVDで観たGAの方がずっと好き」

 

 元気に断定すると、男の子はGAのいいところとそれに比べて槍牙のよくないところを話し出した。

 意外とマニアックな視点の持ち主の子で、将来がちょっと心配になるぐらいだった。

 とはいえ、僕にとっては納得できる論拠ばかりだった。

 

 曰く、GAは基本的にキックが多く、旧作リスペクトがされているのに、槍牙は武器ばかりでダサい。

 曰く、GAは一人になっても戦うけれど、槍牙は仲間が来ないと戦おうとすらしないのが嫌だ。

 曰く、GAは最強フォームが本当に最強だけど、槍牙は今の放送の段階でも強そうに見えない。

 

 等々……。

 あまりに熱く語りが続くので、普通の人ならば閉口するところだろうけど、僕にとってはなんの苦痛も感じない。

 僕自身GAの世代だったし、今でも大好きなファイターなのだから。

 

「君もファイターが好きなんだね」

「ぼくも。お兄ちゃんと一緒だよ」

「そうだね」

 

 僕は手を差し伸べて、男の子の頭を撫でた。

 炸裂ファイターGAこと蘭条友彦がよく子供たちにする仕草だった。

 男の子も嬉しそうだった。

 それから、僕らはしばらく話し合った。

 僕らは名前を名乗り合い、男の子が高橋勇太くんだということも知った。

 この年頃にして、もう一年以上入院しているらしい。

 生まれつき、特殊な貧血の症状を抱えていて、骨髄の異常で体中に酸素を送る赤血球を作れないらしい。

 数ヶ月に一度、入院して輸血を受けないと貧血が進み、命の危険があるらしい。

 だから、まだ小学校にも入っていないのに、別の病院で入退院を繰り返し、人生の五分の一を病院で過ごしてきたという。

 しかも、完治するには骨髄移植しかないという話だ。

 ただ、最近、適合するドナーが見つかってそろそろ手術に入れそうだということも教えてくれた。

 その手術のために一週間前から入院しているんだそうだ。

 ただ、そんな勇太くんを支えていてくれているのが、炸裂ファイター、特にGAのDVDを観る事らしかった。

 少し可哀想だとは感じたが、同時にヒーローを支えにして元気に生きているこの子を格好いいとも思った。

 悪の怪人と戦う訳じゃないけれど、一人で孤独に戦う彼は精神的な意味でヒーローに近い人種なのかもしれない。

 ふとそう口にすると、なんか照れていた。

 男の子って照れ屋が多いんだよね。

 僕もよく知っている。

 

「……お兄ちゃん、やめてよ~」

「なんの、僕はヒーローを鑑定することに関しては目利きだという自信があるんだ」

 

 すぐそばに本物のヒーローみたいな女の子たちがいるしね。

 

「ホント?」

「嘘と坊主の頭は結ったことがないね」

「……?」

「とにかく、僕のヒーロー発見能力は、勇太くんを逃さなかったということさ」

 

 勇太くんはにへらと複雑な笑みを浮かべた。

 子供心にも相当照れくさいのだろう。

 御子内さんなんかこのあたりすぐに胸を張ってうんうんと頷くぐらいに自信満々なので、随分と新鮮だった。

 そうして、僕らは別れた。

 明日の手術が終わったあと、明後日にまたGAの話をしようと約束して。

 ただ、そのとき、彼が妙なことを口走ったのが気になった。

 

「……内緒だけど、お兄ちゃんにだけ教えてあげる。この病院(ここ)ね。夜になると、GAが―――蘭条友彦がやってくるんだよ。きっとお見舞いだよね。だって、ぼく、この前見たんだから」

 

 子供の見間違いだろうと僕は思った。

 でも、探しに来たお母さんに連れられて行く勇太くんに僕は言えなかった。

 炸裂ファイターGAこと蘭条友彦を演じた俳優である橋本竜生(はしもとたつき)は数年前に自殺して世を去ったのだと。

 だから、彼を勇太くんが目撃することはあり得ないはずだった。

 

 

        ◇◆◇

 

 

 この病院内には噂があった。

 人の生死がかかった施設には必ずありうる、幽霊の噂だった。

 とはいえ、どこにでもあるレベルの、ありふれたどうでもいい内容の、よほどの怖がり以外には無視されてしまう程度のものだった。

 ある時期までは。

 

 だが、噂は変貌した。

 

 うっすらとした幽霊の姿が次第に色濃く、形のあるものに変わり、無害だった存在が患者を脅かすようになっていった。

 

 ある老婆は、夜中に目を覚ましトイレに行こうとした時、その男を見た。

 ギラギラとした眼光をもち、闇夜を睨みつける男を。

 悲鳴をあげようとしたとき、片手で口を押さえつけられた。

 

『俺を呼んだのは、おまえか……?』

 

 首を振ったが、あまりの力の強さにほとんど動かせなかった。

 それでも真意は伝わったらしい。

 涙目で訴えたのも助かった原因かもしれない。

 

『……ならいい。いいか。俺を呼ぶな、俺に期待するな、俺を信じるな』

 

 男が何を言っているか、老婆にはわからなかった。

 だが、鬼気迫る怨念のような呟きだけははっきりと耳に残った。

 

『俺はヒーローなんかじゃない。俺は正義の味方じゃない。俺はおまえらの期待には応えない。俺は誰も救わない。俺は玩具なんかじゃない……』

 

 そして、最後に老婆の目の前で霞のように消えていき、

 

『俺は炸裂ファイターなんかじゃない……』

 

 と、怨嗟を発し続けていた……。

 数時間後、老婆は非常に衰弱した状態のまま見廻りの看護師によって発見された。

 その原因は医師にも突き止められなかったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 



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悪霊病棟

 

 

 手術は思ったよりもすぐに終わった。

 自分のベッドに戻り、部分麻酔の残った身体でのんびりしていると、下半身が妙にむず痒い。

 ちらりとパジャマをめくると、大事なところの毛がないのですーすーするということがわかった。

 施術前に看護師さんが薬で脱毛したあとだ。

 昔はカミソリで剃っていたのだが、衛生面での問題があるということで、今は脱毛クリームを使っているらしい。

 それでも女性に下を処置されると恥ずかしいのは変わらず、ずっと眼を閉じていた気がする。

 おかげで僕のあそこはツルツルな訳だが、あまり人には見せたくない。

 なんてことを考えていたら、担当の看護師さんが手を振りながら入ってきた。

 

「チャオ、京一くん。手術の感想はいかが?」

「すぐに終わっちゃった感じです。手術室に流れていた古い歌謡曲の方が気になって仕方なかったです」

「ああ、あれね。執刀の先生の趣味なのよ。古い人でねー」

「最近はああいうBGMみたいなの認められているんですか」

「病院によるかな? で、とりあえず様子を聞きたいんで質問に答えてね」

 

 術後の様子などを色々と話して、彼女との問答は五分ぐらいで終わった。

 

「……あ、あとね。夜になったら病室からでないようにしてね。もよおしたら、ナースコールして。できたら、朝まで我慢してくれると嬉しいんだけど」

「どういうことですか?」

「京一くん、聞き訳が良さそうだから教えておくけど、お年寄りの患者さんが深夜に倒れたのよ。当直の看護師が気づいたんだけど、患者さんの話によると変な若い男に襲われたらしいの」

「不審者が入り込んでいたってことですか?」

「でも、うちってセキュリティはしっかりしているのよね。だから、警察を呼ぶのも躊躇われて……。もう院長とかが事なかれ主義でね……。患者さんの安全が第一なのはわかっているはずなんだけど」

 

 病院の辛いところもわかるかな。

 ただ、そういうのは警察にすぐに通報した方がいいんだけどね。

 

「わかりました。でも、それ、何が目的なんでしょうかね」

「んー、若い女性の患者さん目当ての変質者かもしれないから。うちとしては結構深刻なのだけど」

「でしょうね。他に目撃者とかはいないんですか?」

 

 看護師さんは記憶を思い起こすそぶりを見せて、

 

外科(うち)のナースの話では、俺を呼んだかとか俺を信じるなとか、そんな難癖をつけられたらしいわよ」

「ああ、ちょっと精神的に病んじゃった人なのか……」

「他にも……えっと俺は炸裂ファイターじゃないとか……」

「それはそうでしょう。正義の味方の炸裂ファイターはテレビの中のキャラクターですし」

「くすっ。京一くんの言う通りなんだけどね。でね、精神科に入院している患者さんかもって疑いがあったから調べてもそんな若い男はいないってことらしいわ」

「わかりました、気を付けます」

 

 看護師さんが出ていった後、僕は少し考えた。

 炸裂ファイターという名前を二日連続で聞いたことについてだ。

 別の人物に、別の機会に。

 偶然だと思うけど。

 でも、昨日の勇太くんは子供だし、特撮ヒーローどストライクの世代だから当たり前だけど、変な事件にまつわって聞く単語じゃない。

 御子内さんと付き合うようになって、色々な経験をしてきたからか、最近の僕はどうも物事を疑ってかかる傾向があると思っている。

 けれど、引っかかることはどうしようもない。

 よって、僕としてはちょっと暇つぶしも兼ねてその変質者について調べてみようと決めた。

 

 

        ◇◆◇

 

 

「うーん、事務の方でも大変よ」

 

 しばらくして、保険とかの手続きを確認に来た事務系の職員さんにも聞いてみた。

 ふわふわした髪の話しやすそうな人で良かった。

 

「やっぱり……」

「不審な変質者が出たって言っても、出入りは確認できてないのよ。院内の人の可能性が高くてね」

 

 隠蔽という言葉が浮かんだけど、完全に内部の人間の仕業というのなら及び腰になっても仕方ないところかな。

 それに、僕みたいに子供に言ってもいい範囲での情報だから、きっとまだ裏はあるだろうけど。

 ただ、その範囲でもわかることはある。

 

「ナースたちの間では幽霊の仕業ってことになっているみたいよ」

「幽霊……ですか?」

「ええ。だって、病院ですもの、ここ」

「病院に幽霊はつきものですもんね」

 

 侵入者がいなければ、職員か患者、そうでなければ付属の幽霊。

 わかりやすい容疑者リストだ。

 

「でも、幽霊ってここに出るんですか? 聞いたことがないんですけど」

「出るわよ。私が知っているだけで昔は五、六は目撃談があったもん。でも、今回みたいな凶暴なのはないわね。ただ、ここ一週間ぐらいで四件はちょっと多いかな。患者さんたちが動揺するから困るのよ」

「ここ一週間ぐらい?」

「ええ、そうよ。事務(うち)にも苦情がわりときているの。京一くんが最初聞いてきた時もまたかあと覚悟したぐらい。もっとも苦情だされても対応はできないけれどね。だって、幽霊だもん」

 

 事務員さんは肩をすくめた。

 確かにその通りだ。

 御子内さんたちでもなければ幽霊をどうとかしようとはできないはずだ。

 文字通り対処(物理)できる退魔巫女と一般人では差があるというものだし。

 

「怖いですね。僕も気を付けます」

「そうした方がいいわね。夜は私たちも臨時の見張りを出すことになったし」

 

 病院に幽霊か……。

 僕は涼花がもってきてくれたスマホの画面を見ながら考えた。

 

(御子内さんたちに頼もうかな)

 

 だが、今、彼女たちは再訓練の最中だから、すぐに連絡できそうなのは熊埜御堂さんだけだ。

 言霊操作とサンボの使い手の彼女だから、頼りにはなるだろうけど、まだたいした被害も出ていない状況で退魔巫女にお願いしていいものだろうか。

 彼女たちはもっと凶悪な妖怪相手に忙しいだろうし。

 それに、下手に動くのも考えものかな。

 僕は所詮ただの一般人だ。

 退魔巫女と一緒にやってきたといっても、僕自身には何の力もないし、御子内さんたちみたいな勇気もない。

 勝手に動き回っても場をかき乱すことだけしかできないだろう。

 だから、前のように紙垂を作って八咫烏を呼ぶようなこともせずに、僕は手術を終えた体を安静にすることにした。

 

 でも、その日和見な態度は僕自身を強く打ちのめすことになる。

 

 次の日、談話スペースで顔を合わせた勇太くんに恐ろしいものを見せつけられたからであった。

 それは、彼の細い首に赤くこびりついた手の跡だった。

 間違いなく誰かが勇太くんの首を絞めようとつけたものだった。

 

「お兄ちゃん、怖いよお……」

 

 縋り付くように僕の腕に抱き付く勇太くん。

 一昨日のような明るさはどこにもなかった。

 

「お母さんや看護師さんたちには言ったの?」

「ううん。お母さんたちにはまだ。……だって、怖かったの。ぼくはみんなに迷惑をかけているからこれ以上は我が儘言えないし……」

 

 小さな子供が言うには重すぎる言葉だ。

 それだけ普段から気にしているのだろう。

 もしかしたら炸裂ファイターに夢中という一面は、逆に子供っぽさをアピールするための必死さの現れなのかもしれない。

 

「それに……恥ずかしいし……」

 

 いじめられっ子が親に訴えない原因の一つに、いじめられる自分が恥ずかしいからというものがある。

 弱い自分を曝け出すのが、誰かに知られるのが恥ずかしいというものらしい。

 優しくてプライドもある子には耐えられないのかもしれない。

 そして、この勇太くんの場合にはもう一つ恥ずかしさを感じてしまうだけの理由があった。

 

「蘭条友彦に嫌われるなんて、きっとぼくは悪い子だったんだあ……」

「そんなことはないよ。蘭条友彦は正義の味方だ。炸裂ファイターなんだよ。君を悪い子だなんて思うはずがない。だから、悪い夢をみただけだよ」

「夢じゃないよ。ほら、手の跡があるもの!」

「それは……」

 

 手の跡だけは誤魔化しようがない。

 確かに勇太くんは誰かに首を絞められた。

 だけど、彼が犯人として名指ししたのは、なんと炸裂ファイターGAに変身する蘭条友彦なのだという。

 僕は途方にくれたが、唯一ともいっていい回答も思いついていた。

 それが正しいかどうかはさておきとして、今の僕には彼を慰めるぐらいしかできなかった。

 

「落ち着くんだよ。蘭条友彦が―――GAが子供を傷つけることなんてない。君は悪い夢を見たんだ」

 

 でも、僕にはわかっていた。

 もしかしたら、本当に蘭条友彦が彼を傷つけようとしたのかもしれない。

 なぜなら、蘭条友彦役の橋本竜生(はしもとたつき)が自宅で自殺をしようとして家人に見つかって救急車で運びこまれ、最後に息を引き取ったのはこの病院だったからだ。

 だとすると、彼の幽霊が、残留思念のように存在していたとしても不思議はない。

 ただ、おかしいのは確かだ。

 蘭条友彦ほどの子供の味方はいない。

 その彼が化けて出て子供を襲うなんてありえない。

 

 では、いったい、どうして……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ヒーロー錯乱

 

 

 勇太くんの病室は、難病の手術を控えているため、個室になっている。

 ただし、子供ということもあって、完全に消灯されることもなく、一部が点いたままなのだそうだ。

 問題の蘭条友彦が現われたのは真夜中。

 ふとしたことで目が覚めた彼は、病室の入り口で自分を見ている男の姿を発見した。

 最初は薄暗いこともありわからなかったが、眼が慣れてくるにつれて、そいつが若い男であり、しかも見覚えのある人物であることに気がついた。

 特徴的なピーコートを羽織った最終回直前の頃の蘭条友彦その人だということに。

 悪の組織グアディライとの最終決戦までの数話は何度も見返していたから、見間違えるはずがない。

 勇太くんはそれが蘭条友彦だと確信した。

 だが、蘭条友彦はしばらく彼を睨みつけるだけだった。

 まだ子供の彼は現実でそこまでの強い憎しみを叩きつけられたことがない。

 世界のすべての人が自分を愛していてくれると思えるのは子供の特権であるから当然かもしれない。

 だから、その蘭条友彦が音もたてずに歩いてきて、ばっと手を伸ばし、彼の首に手をかけたときも意味がわからなかった。

 ぐぐっと喉が締め付けられる。

 勇太くんは呼吸ができなくなるのを感じた。

 呼吸器官を潰されようとしているのだから当たり前だ。

 このまま殺されると思った時、ふと口に出た言葉が彼を救った。

 

「やめて……GA……」

 

 その瞬間、蘭条友彦は顔をしかめ、勇太くんを突き飛ばした。

 そして、一言だけ喚くように叫ぶと闇の中に消えていったそうだ。

 病室には咽喉を絞められたせいで咳き込む勇太くんと静寂だけが残った。

 僕が、何を叫んだのかわかるかいと聞くと、勇太くんは首をひねって、

 

「うんとね、俺は炸裂ファイターなんて二度とやらないって……」

 

 この言葉も勇太くんにはショックだったらしい。

 彼ぐらいの年頃の子供にはまだ劇中の炸裂ファイターと演じている役者の区別がつかない。

 例の蘭条友彦がどんなつもりで口に出していたとしても、それは()()()()()()()()()()()のものに他ならないのだ。

 大好きなヒーローによる自己否定の言葉は彼を傷つけた。

 勇太くん自身が殺されかけたということ以上に。

 そして、彼は幼い考えで自分を責めた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()G()A()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 と。

 僕はそれを否定した。

 だが、一度思い込んでしまった子供の思考はすぐには変えられない。

 傷ついた子供の心を言葉で癒すことはできない。

 僕はかつて子供であった大人もどきとしてそのことを深く理解していた。

 いつだって小さな男の子を救うことができるのは、大好きなヒーローの振る舞いだけなのだということを。

 

「そんなことはない」

 

 僕が何百篇の言葉を費やしても勇太くんを助けることはできやしなかった。

 

「ぼくが悪い子だからだ……」

 

 勇太くんは手術が近いということも忘れてしまうぐらいに大きく塞ぎこんでしまっていた。

 

 

        ◇◆◇

 

 

 しかし、問題はその日に留まらなかった。

 勇太くんは翌日も、さらに翌日も、蘭条友彦に殺されかけた。

 首を絞められ続けた。

 さすがに異変に気がついた看護師さんたちが廊下で見張っていても、その視線を掻い潜るようにして、蘭条友彦は病室に侵入してきた。

 病室内で直に一緒にいたとしても同じことだった。

 気がついたら看護師さんたちは眠ってしまっていて(夜勤慣れした彼女たちがそんな風に居眠りしてしまうことは普通ない)、その間に蘭条友彦は勇太くんの首を絞め続けていた。

 どの日も勇太くんが必死に赦しを請うと、彼は手を放してくれるそうだが、その情けがいつまで続くかはわからない。

 牡丹灯籠のように夜な夜な忍び寄ってくる蘭条友彦の影がいつ彼を殺してしまわないとも限らない。

 それ以前に、ただでさえ病弱な彼の健康が害され、手術に必要な体力がなくなり、死んでしまわないという保証はないのだ。

 しかし、勇太くんを転院させることはできないだろう。

 彼のドナー手術はこの病院でしかできないし、お化けがでるということで病院側のスケジュールが変更できるはずもない。

 勇太くんの手術の日は迫っている。

 ただ、蘭条友彦による襲撃がいつ子供の命を奪わないとも限らない状態が続いているという事実だけがあるのだ。

 日々やつれている彼のために、僕は病室にまでお見舞いにいった。

 勇太くんはもう談話スペースに来ることもできなくなっていた。

 たった数日で、罹患している病気に悪い意味で相応しい姿に変貌してしまっていたからだ。

 おかげでもう炸裂ファイターのDVDすら見られなくなっているらしい。

 ただ、お気に入りのGAが怖くて見られないのだからそれは当然かもしれないけど。

 

「……そろそろ、帰るね」

「ごめんね。お兄ちゃん」

「気にしないで」

「ううん。ぼくは悪い子だから、お兄ちゃんにもいやな思いをさせてごめんね」

 

 僕はそんな勇太くんの頭を撫でた。

 涙ぐむ男の子を慰める方法を、僕はこれともう一つしか知らない。

 

「『例え何があろうと、子供達の夢を守り、希望の光を照らし続ける―――それがヒーローの務め、俺はそう思います』ってね」

「えっ?」

「君の夢は何かな?」

「―――炸裂ファイターみたいになりたい。もう駄目みたいだけど……」

「ふふ。そんなことはないね」

 

 僕は身近にいる最強のヒロインの口癖を真似て言った。

 

「僕がその務めを果たしてあげる」

 

 きょとんとした彼をおいて、僕は病室を出た。

 そのまま、スマホの使える場所にまで出向き、おもむろに一つの番号にかける。

 すぐに相手は出た。

 

『―――どうしたのお兄ちゃん』

「僕の部屋から持ってきて欲しいものがあるんだ」

『明日、退院なんでしょ。別にもういらないじゃん。面倒くさいから、一日ぐらい我慢してよー』

 

 涼花はなんだか反抗的だ。

 とはいえ、二日に一回は見舞いに来てくれる愛すべき妹ではあるのだけれど。

 

「そう言わないで頼むよ。今日、必要なんだ」

『……珍しいね。―――ううん、違うか。昔からよく聞いたっけ。お兄ちゃんのそういう話し方は』

「何のことだよ」

『あたしがあの八尺様もどきに襲われた時にも聞いたよね。……わかった、今すぐに準備するよ。何を持っていけばいいの?』

「僕の部屋にあるものなんだけど……」

 

 いつも整理整頓してあるから探し出すのはそんなに大変じゃないと思う。

 涼花もすぐに見当がついたらしい。

 出来る限り早く持っていくと約束してくれた。

 よし、あれがあればなんとかなる。

 

 僕はちょっと身体を捻ってみた。

 少し筋肉が硬い。

 五日間寝っぱなしだから仕方がない。

 ほぐすことも兼ねてストレッチを開始する。

 

 イチニサンシ……

 

 しばらくすると、担当の看護師さんがやってきた。

 

「あら、退院の準備?」

「はい、だいぶ鈍ってますしね」

「いいことね。でも、お腹は手術したばかりだから傷口が開かないように派手な運動をしてはいけないわよ。傷が開いたら元も子もないから」

「……気を付けます」

 

 それから検診のための体温を測った。

 続いていた微熱も収まっていた。

 無理をすれば激しい運動もできなくはないね。

 

「しっかし、見た感じもやしっ子みたいなのに、君は結構いい身体してんだよね。何か運動とかやっているの?」

「いえ、帰宅部ですよ。たまに肉体労働系のバイト……みたいなことをしているだけで」

「へえ。ガテン系なんだ。いっがいー。しかも、なんだか明日退院だからか知らないけれど凄い気合入っちゃっているし。そんなに嬉しいの?」

 

 気合入っているようには見えるのか。

 まあ、入っていないと困るけどね。

 

「特に嬉しいとかはないですけど。でも、お世話になりました」

「いいよー。若い子の担当って楽しいしね。君は巫女さんが見舞いに来たりする有名人だし」

「ははは」

 

 そうだ、熊埜御堂さんにあとでメールで聞いてみよう。

 少しでもいいから役に立つ情報が貰えるかもしれない。

 せっかく退魔巫女の友達がいるのだから活用しないと。

 

「お兄ちゃーん、お待たせー」

 

 病室の入り口に涼花がやってきた。

 頼んでおいたものの入った、長いケースとカバンを手にしている。

 

「こっちだよ」

 

 ケースの中を覗き込むと、今の僕にとって必要なものが入っていた。

 よし、これがあれば何とかなる。

 

「ねえ、それ、何? 夏休みの前にはお兄ちゃんの部屋にあったよね」

 

 好奇心丸出しで覗き込んでくる涼花のために、ケースの中から取り出してやった。

 それは木で造られた剣の形をしていた。

 

「……何、これ? 木刀なの?」

「いや、桃の木でできた剣だから、木刀とはちょっと違うかな」

「こんなの、何に使うのかな」

「決まっているだろ」

 

 僕は少し前に元華(ユン・ワー)さんにもらった桃剣(とうけん)を手にして言った。

 

 

 

「ちょっとしたお化け退治さ」

 

 

 

 

 



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ファンからの言い分

 

 

 病室のドアがすっと開く。

 非常灯がついているとはいえ、廊下よりは暗い室内に、白色灯の光りが差し込む。

 入ってきた人影はしばらく立ち尽くしていた。

 ベッドの上で手術の日を待つ男の子とその母親がいた。

 母親は壁際にある簡易ソファーで熟睡していた。

 さっきまで夜中に様子がおかしくなる息子のために我慢して起きていたはずなのに、どういう訳か一瞬にして眠りに落ちてしまったのだ。

 まるで伝説の眠りを誘う妖精〈砂男(サンドマン)〉によって瞼に砂をかけられたかのように。

 母親は人影の侵入にも一切気づくことなく深い眠りについている。

 しかし、彼女一人がおかしくなったのではない。

 病室のすぐ外には男性の看護師がわざわざ椅子を用意して寝ずの見張りをしていたというのに、彼もいぎたなく座ったまま寝落ちしていた。

 いや、それだけではない。

 異常事態があるかもしれないと廊下の監視カメラを見張っていた警備員も、モニターを睨んでいるうちに今までに感じたことのない眠気を感じて、画面に何が映っていたとしても正しい認識ができなくなっていた。

 だから、例えモニターに小規模の行列が映し出されていても、警備員はそれがおかしいことだと認識することはできなかったであろう。

 人影はそうやって誰にも見咎められずに、異様なまでの静けさとともに病室に辿り着いたのだ。

 ベッドには一人の男の子が横になっている。

 だが、その眼は見開かれていた。

 

「ふっ、ぐっ!」

 

 彼は必死に身体をねじり、よじり、悶えていたが一切動かない状態であった。

 金縛り。

 その現象の名前こそ知らなかったが、自分の身が自由にならないという恐怖を男の子は骨の髄まで味わっていた。

 口も動かないので叫ぶことさえもできない。

 ただ眼だけが室内に入ってきた人影―――男を見つめていた。

 彼はその男を知っている。

 

(蘭条友彦だ……蘭条友彦だ……)

 

 少し前の彼だったらそのことを幸運だと思って喜んでいただろう。

 炸裂ファイターGAに変身する蘭条友彦は正義の味方であり、子供たちのヒーローであったからだ。

 彼だって憧れていた。大好きだった。

 だが、今は違う。

 今や蘭条友彦は彼にとって恐怖の対象でしかなかった。

 夜な夜なこの暗い室内に、誰もいない場所にやってきて、恨み言を吐きながら彼の首を絞めてくるモンスターでしかないのだ。

 憧れていたからこそ、落差は大きい。

 蘭条友彦は男の子にとってどんな悪魔よりも恐ろしいモンスターに変貌していた。

 

『俺を呼ぶな……』

 

 地獄の底から上がってくるようないつもの呪いを蘭条友彦が吐く。

 

『俺に期待するな……。俺を信じるな……』

 

 また一歩男の子に近づく。

 

『俺はヒーローじゃない……。正義の味方なんかじゃない……。俺はおまえらの期待になんか応えない……』

 

 ベッドの脇まで来た。

 男の子は眼球の動きでしか男を捉えられない。

 ただ、その双眸に浮かぶ真っ赤に爛れた憎悪の炎だけが焼き付いていた。

 蘭条友彦が言っていることは何一つわからない。

 理解できもしない。

 恐ろしいからというだけでなく、男の子ぐらいの年齢では、年を重ねるごとに湧いてくる正義という大文字に対する失望と絶望が想像できないからであった。

 もし、この場にある程度の年齢に達した人物がいれば、もしかしたら蘭条友彦の恨み言に共感できたかもしれない。

 だが、そうなるには男の子は幼過ぎた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 怖い、恐ろしい、嫌い、泣きたい……

 男の子の心にはそれしか刻み付けられなかった。

 

『俺は炸裂ファイターになんかならなければよかったんだ……』

 

 蘭条友彦の手が伸びた。

 また、男の子の首にかかる。

 今日こそ彼は殺されるかもしれない。

 ()()()大好きだったヒーローの手によって。

 

「―――そんなこと言わないでよ」

 

 どこからか声がした。

 恐ろしい悪霊と化した蘭条友彦まで愕然と振り向いてしまうぐらいに唐突に。

 

『……っ!?』

 

 部屋の入り口に新しい登場人物が立っていた。

 病院から貸与されるパジャマを着て、スリッパをつっかけた姿の、どうみてもただの患者だった。

 しかし、その顔を見たとき、男の子は思わず心の中で叫んだ。

 口は動かないけれど、心が叫んだ。

 

(お兄ちゃん!!)

 

 と。

 

 

        ◇◆◇

 

 

 そこにいたのは確かに蘭条友彦だった。

 服装からすると、最終回のある第四クールあたりだろうか。

 四肢の長さが妙に歪だったり、背筋が曲がっていたりするし、僕を睨みつける眼もやたらと黒目部分が大きいから、間違いなく霊なんだろうね。

 御子内さんの助手を始めてから、強い怨念もっている地縛霊なんかは()()()ようになってきたからさらにわかる。

 この蘭条友彦は間違いなく霊だ。

 しかも、直視できないほど悲しいけれど、本物の蘭条友彦―――つまり橋本竜生の霊なのだ。

 そいつがただヒーローが好きなだけの難病の小さな子供を苦しめている。

 なんて残酷な話。

 

「勇太くんに罪はないでしょう。もう止めてください」

 

 淡々と僕は言った。

 あまり感情をこめたくなかった。

 

「あなたがどんな苦労をして、どうして亡くなったのか、僕は知っています。ネット社会ですからね。あなたの自殺のことも記事で読みました」

『……』

『あなた自身の苦しみとかはわかりませんが、それをファンの小さな男の子にぶつけるのはやめてください。あなたに憧れていてみんなが悲しみますよ』

 

 すると、蘭条友彦が今度は僕を怨嗟の眼差しでねめつける。

 不気味な視線だった。

 とても炸裂ファイターGAに変身する男らしい若者のものではなかった。

 

『俺は蘭条友彦じゃない……。俺は橋本竜生だ……。俺に嘘のヒーローをいつまでもやらせるな……』

「やっぱりそうなんですね。お気持ちはわかります」

『外野に何がわかる!!!』

 

 蘭条友彦―――橋本竜生は吠えた。

 血の涙を流しながら。

 どれほど深い絶望があったか。

 自ら死を選ぶほどに。

 

『炸裂ファイターなんかをやったせいで俺には仕事が来なかったんだ! 俺が演技の勉強をやったのはあんなジャリの番組のためじゃねえ! 俺はもっと大きな仕事がしたかったんだ! あんなくだらねえもんのために潰されるなんて許せるかよ!』

 

 僕はその告白をまともに聞きたくなかった。

 でも、聞くべきだと思った。

 

『何が正義だ! 何が他人のためだ! 一人の時は泣いちゃだめだだ! くだらねえ! あんなガキの親から金を巻き上げるための番組でこっ恥ずかしい台詞を吐いてられっか! 死ねばいいんだ、あんなものを見ているガキも作っている大人(れんちゅう)も! あんなものはいらねえんだよ!!』

 

 そんな蘭条友彦の呪いのような憎しみに僕は吐き気を催した。

 自分勝手?

 いや、違う。

 彼の言っていることは実は正論なのだ。

 ()()()()()()()()

 正義の味方の特撮ヒーローものは玩具を売るための三十分CMでしかないし、下手をしたら当の子供でさえ信じられない綺麗ごとを連ねるだけの幼稚な脚本もあるし、いい歳をした大人が熱中するにはくだらない面もある。

 だから、正しくはある。

 でも―――

 

「―――だから、何さ?」

 

 僕は言う。

 

「ジャリ番の主役をやったせいでイメージがついて、普通の仕事がこなくなって、酒浸りになって自殺した俳優がいたからって、それがどうなのさ」

 

 蘭条友彦の霊は黙った。

 

「ヒーローを演じた俳優のその後がどうなろうとファンにとってはどうでもいいことだよ。死のうが麻薬に溺れようが水商売に落ちようが。ただ、応援していた子供たちにとって永遠の憧れでいてくれさえすればそれでいいんだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そして、僕の想いを語る。

 

「男の子は子供の頃に大好きだったヒーローに死ぬまで影響される。年をとって幼稚さや子供っぽさから避けたり忘れたりしても、ヒーローの魂はずっと男の子を燃やし続ける。永遠なんだ。だから、例えあなたが橋本竜生本人であったとしても、子供たちの憧れであった蘭条友彦を―――炸裂ファイターGAを穢すような真似は許さない」

 

 僕は手にしていた桃剣を縦に構えた。

 以前の事件の時に、中華街の元華さんに教えてもらった桃剣の使い方の一つだ。

 

「橋本竜生。―――蘭条友彦を騙る偽物。子供達の夢を傷つけ、希望の光を消し去ろうとすることは、この僕が認めない!」

『ダマレ!!』

 

 呪われた霊はすでに正常な人の姿を保つことができず、靄のような影になって僕に迫ってきた。

 不気味だけどむしろ僕には好都合だ。

 蘭条友彦の姿のものに攻撃することはさすがにできなかった。

 僕は桃剣の先に御札を刺しこむ。

 いつかの〈殭尸〉退治だけでなく万物に潜む魔物にも効果抜群という破邪の護符だ。

 そして、イチ、ニ、サンと決められた運足をする。

 これが効果を発揮するための簡単な儀式。

 そのまま全身全霊をかけた桃剣の突きを放った。

 十分に引きつけてから、魔物の胴体を剣尖で切り裂き、札を突っ込むのがコツだと聞いたままに。

 手応えは―――なかった。

 橋本竜生だったものはその両手らしいもので僕の首を掴んだ。

 

「ゴホっ」

 

 咳が出た。

 呼吸管を一気に絞められたからだ。

 だが、僕は桃剣を手放さない。

 怯んだら、負け。

 怯えたら、逃げ。

 そうしたら、この自分で人生を断った悪霊が勇太くんをどんな目に合わせるかわからないから。

 聖なる力をもった破邪の桃剣と護符を信じて、僕は最後の気力を振り絞り全身を震わす悪寒に耐える。

 痛みも忘れる。

 ギリギリまで意識を保ち、そして前に出る。

 桃剣なんて使ったことはないけれど、これしか僕にはないのだ。

 目に涙が滲んだ。

 痛みか恐怖か、そのどちらか。

 でも、堪える。

 泣くことは視界を塞ぐこと。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「ああああ゛!!」

 

 次の瞬間、黒い靄は晴れた。

 橋本竜生の霊らしいものはどこにもいなくなっていた。

 さっきまで部屋を覆っていた冷たい空気もなくなっている。

 ふと、隣をみるとソファーで寝ている勇太くんのお母さんが目覚めかけていた。

 どうやら僕は勝ったみたいだ。

 となるとさっさと退散しないと。

 

「じゃぁね、勇太くん」

 

 僕は寝ている彼の頭を撫でて、離れた。

 部屋を出る寸前、忘れていたことを思い出した。

 桃剣を振るってポーズをとり、

 

終焉(シューエン)!!」

 

 と決めセリフを言った。

 

 

 

 

 

 

 

 ……勇太くんの病室を出て、慌てて自分の部屋に帰ろうとした時、階段の途中に友達が立っていた。

 

「やりましたねー、京一せんぱーい」

 

 ハイタッチのポーズを熊埜御堂さんがしていたので、それに応じた。

 

「いざとなったら、私がでようと思って隠れていたのに、京一先輩一人で終わらせちゃうんですもん。びっくりしましたよー」

 

 そうか見守っていてくれたのか知らなかった。

 でも、知らなかったからこそ最期まで意地を張れたのかもしれない。

 結果オーライだね。

 

「ありがとうね」

「いえいえ、どういたしまして」

 

 熊埜御堂さんはそのまま階段を降りていこうとして、

 

「この事は或子先輩たちには内緒にしておきますねー」

「そうしてもらえると嬉しいな。無茶をしたみたいだし」

「じゃあ、私と京一先輩の内緒の秘め事ということでー」

「いかがわしい言い方はやめて」

 

 去っていくミニスカ巫女さんを見送りつつ、僕も自分の病室へと戻っていった。

 明日には退院だし、ようやく気兼ねなく出ていけるようになったと安堵しながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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―――終焉

13試合「英雄幻想」

二話公開です。















 

 橋本竜生の死はちょっとした話題になった。

 炸裂ファイターGAの主役というだけでなく、死因が自殺だったということで。

 自宅で首を吊って倒れているところを、帰宅した母親が発見し、救急車でこの病院に運ばれたときは心肺停止の状態だった。

 医師の懸命の蘇生は及ばず、橋本竜生は帰らぬ人となった。

 ファンは悲しんだ。

 死んだということだけでなく、彼が自殺に至った経緯があまりにも哀しかったからだ。

 炸裂ファイターGAとして人気をはくした彼は、その後、念願であった一般のドラマに挑戦する。

 一作目は話題性もありそこそこ好評だったが、二作目がなかなか決まらなかった。

 理由としてあげられているものが、正式な舞台演劇を学び演技派であった彼なのに、オファーがくるのは、いかにも蘭条友彦のような二枚目役ばかりだったということだ。

 世間は彼のことを常に蘭条友彦と同視して、GAで見せたような芝居だけを求めた。

 おそらく所属する芸能事務所の方針だったのだろう。

 だが、橋本竜生には我慢ならなかった。

 イメージが固定され過ぎていて、他の役柄ができないというのは役者としては不満以外の何ものでもなかったからだ。

 しかし、それは多くのヒーローものに出演した俳優が辿った道でもある。

 ヒーロー役のみならず、清純派、悪役、真面目役、どれでも最初のイメージから脱却できずに消えていく役者は数多いのだ。

 橋本竜生もその一人で、結果として彼は自分の固定されたイメージを破り切れず、自殺という道を選んだ。

 役者として真摯な姿勢をもっていたからこその悲劇だったのかもしれない。

 残された遺書には、「炸裂ファイターGAに出演したことがそもそもの間違いだった」、「蘭条友彦を憎んでいる」といった文言が遺されていたそうだ。

 彼を愛していたからこそファンはその言葉を聞いて悲しんだ。

 炸裂ファイターGAがその面白さとカッコよさに反して、あまり話題に上がらないのはそのせいである。

 

 ……きっと橋本竜生は自殺したのち、息を引き取ったこの病院で霊となって徘徊していたのだろう。

 彼の実家が近いこともあり、彼の家族もこの病院で亡くなっていることを考えると、当然なのかもしれない。

 おそらく、普通ならばこのまま橋本竜生の霊は、現世への執着がなくなりひっそりと消えていくだけだったはずだ。

 でも、違った。

 ある男の子が入院してきたからだ。

 幼い故に橋本竜生の死を知らず、ただ炸裂ファイターGAが好きで、蘭条友彦が大好きな男の子の想いが彼を実体化させた。

 男の子にとっては真摯な、橋本竜生にとっては的外れな、そんなヒーロー愛が、彼を悪霊へと変えた。

 自分が演じた蘭条友彦を憎んで死んだ橋本竜生にとって、彼を呼ぶ子供の純粋な想いには怒りしか感じなかったのだろう。

 だから、勇太くんを襲った。

 周囲にいる人間を眠らせてしまうような強力な妖気を放つほどの悪霊となって。

 僕だって胸に張り付けたもう一枚の護符がなければ眠ってしまっていたかもしれない。

 それほどまでの悪霊になるほど橋本竜生は、GAを憎んでいたのだろうか。

 

「……やめてほしいよね。一ファンからすると」

 

 病室でたいしてない荷物の整理をしていると、声をかけられた。

 振り向くと、勇太くんがいた。

 

「お兄ちゃん」

「やあ」

「……もう帰っちゃうの?」

「うん。手術は終わったし、傷も塞がったみたいだから」

 

 実のところ、昨日気合いを入れすぎたせいで傷口が開きかけてあとで看護師さんに怒られた。

 だから、退院が夕方近くまで伸びてしまったのだが、そんなことを勇太くんに言う必要はないね。

 

「そっか……。お兄ちゃんがいなくなると寂しいね」

「だね」

 

 僕はちょっと目を見張った。

 勇太くんの手にはGAの人形があったからだ。

 あんなに嫌いかけていたGAなのに、どうして?

 

「GA、嫌いになったんじゃないの?」

 

 すると、勇太くんはにっこり笑って、

 

「ううん。やっぱりGAも蘭条友彦もぼくは好き」

「どうして? なにかあったの?」

「―――夢でね、ぼくが悪いやつにおそわれていたら、蘭条友彦が助けてくれたの。悪いやつは蘭条友彦のニセモノだったんだ。本物が剣をもってきて、えいって悪いやつを倒してくれた。やっぱり蘭条友彦は正義の味方だったんだ!」

 

 ……ああ、なるほど。

 昨日の僕の立ち回りを夢現状態で覚えていて、それを本物と偽物の蘭条友彦の戦いに無意識にすり替えてしまったのか。

 だから、好悪が逆転して、再び勇太くんにとって蘭条友彦は憧れのヒーローに復帰したという訳だ。

 納得いくし、ちょうどいい落としどころかな。

 偶然とはいえいい感じにまとまったかもしれない。

 

「それでね……。聞きたいことがあるの」

「なんだい?」

「お兄ちゃんも助けに来てくれた? 夢の中にお兄ちゃんもいた気がするんだ」

 

 子供らしい直球な質問だった。

 もしかして、すべてわかっていっているのかもと穿って考えてしまうぐらい。

 まあ、五歳の男の子にそんなことはないか。

 

「いいや。僕はいっていない。でも、もしも君がまた悪いやつに襲われるようなことがあったら、僕はいつだって駆けつけるよ。―――蘭条友彦の代わりにね」

 

 そうして、彼の頭を撫でて僕はバイバイをした。

 バイバイが返ってくる。

 ちょっと泣きそうだぞ、勇太くん。

 

「バイバイ、お兄ちゃん」

 

 

      ◇◆◇

 

 ロビーにある受付で退院のための手続きをしていると、今度は名前を呼ばれた。

 

「京一! もう退院なのかい?」

「御子内さん」

 

 振り向くと、いつもの巫女装束の美少女がいた。

 周囲の注目浴びまくりだよ。

 娯楽なんてない病院だから、その奇異さにすぐに人が集まってくる。

 

「どうしたの、こんなところに?」

「なんだい、なんだい、ボクに内緒で盲腸で入院していたのを気にしないであげたうえ、娑婆に出れたお祝いをしてあげようと待っていたのにご挨拶だね」

 

 娑婆に出れたって……服役囚じゃないんだからさ。

 

「連絡しなかったのはゴメン。でも、御子内さんたちは再訓練中だったから、心配かけたくなくてさ」

「その心掛けは正しいね。だから、今回は気にしないでおいてあげるよ」

「ありがとう」

「じゃあ、快気祝いにケーキバイキングでも行こうか!」

「いきなりそんなに食べられないよ」

「なんだい。ボクなんて最悪の深山幽谷に閉じ込められて一週間も精進料理とプロテインばかり食わされたせいで、色々と飢えているんだ。ケーキ、ステーキ、ラーメン、カレーライス、俗なものが死ぬほど食べたい!」

 

 食欲旺盛すぎる巫女さんだ。

 でも、この女の子(ひと)に会うとほっとする。

 その時、受付である名前が呼ばれた。

 

升麻(ショウマ)さん、()()()()キョウイチさん」

「ん、君を呼んでいるよ、京一」

「ちょっと待ってて」

 

 僕は受付に行き、この間の保険なんかの話をしてくれた事務員さんに話しかけた。

 

「えっと、退院おめでとう、京一くん」

「ありがとうございます」

「―――へえ、京一くんって昔ここに入院してたんだ。だから、わりと慣れていたんだね」

「ええ、十年ぐらい前に頭を強く打って脳震盪とか起こして」

「じゃあ、次にここにくるのはまた十年後ね」

「勘弁してください」

「ふふ。―――はい、これが書類の全部ね。可愛い巫女の彼女さんによろしく。しばらくは君の話題で持ちきりだね」

「そっちも勘弁してください」

 

 ロビーで待っていてくれる御子内さんのところへ戻った。

 

「どうしたんだい? 涙が出ているよ」

 

 僕は眼を擦った。

 確かに涙が出ていた。

 

「別に。ゴミが入ったみたい。……あと、今は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ってことだと思う」

「―――? よくわからないことをいうね」

「うん。GAを視たことのない人にはわからない例えだよね」

 

 男は一人でいるときこそ泣いてはいけない。

 大事な人を守れないから。

 だから、泣くのは一人でなくなったときでないと。

 

「ボクがいない間、なにか変わったことはなかったかい?」

 

 病院の出口を抜けたとき、御子内さんが何気なく聞いてきた。

 普通の世間話だ。

 僕はすぐに答えた。

 

「特に何もなかったよ。御子内さんの手が必要になるようなことは、なにも」

 

 嘘偽りなく、僕はそう思っていた……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第14試合 渋谷伝説
合コンは合体コンビネーションの略ではありません


 

 

 御子内或子はJKである。

 

 本人は今一つ本来の言葉の持つ意味というものをわかっていなかったが、とりあえず女子高生であるということに自信を持っていた。

 ところが彼女の意識としては、JK(とは)「普通の女の子」というものなのであるが、艪櫂の及ぶ限り世界中を探し回ったとしても、御子内或子を()()というものはいないだろう。

 彼女は高校にいる間は、巫女であることを隠し、学校指定の校則やカリキュラムに従う真面目な女生徒ではあったが、友人一同でさえ決して認めることはない。

 そもそも普段の生活においてさえ、御子内或子は、正真正銘の()()()()の類であるのだ。

 

「―――でね、次の土曜に合コンをすることになったんだよ。明慶付属と」

 

 お昼休みに仲のいい女子だけで昼食をとっていたとき、鳩麦(はとむぎ)きららが楽しそうに言った。

 きららはゆるふわのウェーブのかかった髪型をして、このグループの中ではもっとも男女交際に興味のある少女だった。

 ただ、男を見る目は慎重に過ぎるほど慎重なので、きっとそう簡単に彼氏はできないだろうと仲間内には看做されている。

 そんな彼女が合コンの開催と結果の報告を昼休みにするのはよくあることだった。

 

「だから―――?」

 

 今どき珍しい銀縁眼鏡をかけ、しかも髪を後ろにぎゅっとまとめあげた生徒よりは教師にしか思われないきつい顔つきの、千灰(せんばい)天子(のりこ)が話を促す。

 基本的に見た目通りの堅い性格の持ち主なのだが、知的好奇心が旺盛でどんなことにも首を突っ込むタイプなのである。

 成績もよく、偏差値の高い明慶大学付属という名前を聞いて、色々と興味をそそられたのであった。

 あわよくば参加してやろうとすでに考え始めている。

 

「みんなも参加しない? たまには女子高生らしくさあ」

「えー、あたしもー」

「うんうん、ひょーちんも」

 

 ひょーちんと呼ばれたのは、このグループで一番背の低い女の子だった。

 名前は豹頭まき。

 身長は150にも満たない。

 だが、その見た目に反して彼女はとんでもないアスリートなのだった。

 武蔵立川高校で全国大会に行ける運動部というと、弓道部ぐらいに限られているのに、彼女と彼女の率いる女子フットサル部は公式ではない大会ではあったが、全国三位という結果を出していた。

 そのせいもあり、現在の武蔵立川では五指に入る有名人となっていた。

 

「ひょーちんはマズくない? 一応、協会の強化指定選手でしょ」

「合コンといっても、ご飯食べてカラオケ行くだけだからオッケー」

「えー、男子ってそれで諦めてくんないでしょ。それに明慶っていったら、大学部は遊び人の巣窟じゃん。おもち帰られてパックリされちゃうよ」

「そこは大丈夫。リーダー格はあたしの従兄弟だから。下手なことをしたら、うちのママが夜叉になって〆に行くし。で、うっぴーは参加?」

「うーん、合コンというか、集団デートみたいなお食事会程度ならいいかな。ちょっと興味あるし。天子みたいに」

「わ、私は別に……」

 

 否定して見せたが、天子はまんざらではなさそうだった。

 銀縁メガネのレンズの奥で眼が野獣的に光っているぐらいであるほどに。

 

「よし、うっぴーと天子はオッケー」

 

 うっぴーと呼ばれた少女は鵜殿(うどの)魅春(みはる)

 この中では一番普通な女の子だった。

 容姿も成績も性格もごくフツー。

 とりたてて特徴もないが、これだけ個性的な集団の中ではそれこそがまさに際立った個性といえる。

 

「あたしも行くー」

「はい、ひょーちんも決まり。これで四人、相手も四人だし、同数出揃ったね」

 

 と、きららは従兄弟に承諾のメールを出そうとした時、これまで沈黙を保っていた最後の一人が手を挙げた。

 あまりにも自然すぎて誰も気がつかなかったほどだった。

 

「ボクもいく」

 

 その瞬間、世界が凍りついた―――ような気がした。

 全員の視線が最後の一人に注がれる。

 

「行くって、或子が?」

「マジで?」

「或子ちゃん……出入りに行くわけじゃないんだよ」

「合コンは、合同作戦計画とか、合同作戦本部とかの略じゃないんだぜ。ちなみにコンはコンクラーベでもコンビネーションでもなくてコンパな!」

 

 仲間内での彼女の評価がよくわかる驚きの声が起きた。

 

「なんだい、なんだい? ボクだって、年頃のJKなんだよ。音に聞こえた合コンとやらに推参したって何の問題もないじゃないか」

「いや、でも、或子ちゃん、そういう柄じゃないというか……」

「そうそう、この手の話題にはキャラがあっていないというべき……」

 

 積極的に参加を表明したというのに、まるで仲間外れのような扱いを受けるのは気に食わないと或子はむきにさえなっていた。

 

「いやだ。ボクをのけ者にするキミらの態度も腹が立つ。ここはなんとしてでも参加させてもらうよ。でないと、盛大にへそを曲げるよ!」

「初めて聞く脅迫のスタイルね……」

「しかし、殴るぞと怒られるよりも被害が拡大しそうな気がする……」

「とはいえ、ねえ?」

 

 そこで幹事役でもあるきららが言った。

 

「えっとな、或子。もともとおまえは勘定に入れてなかったから、男の側も四人しかいないんだよ。男と女で四対五だとうまくないだろ? 合コンってのは、同じ人数でやるから公平で面白いんだぜ」

「確かに戦いは同数でやる方が面白い。それはボクにもわかる。―――では、こうしよう」

 

 或子は指を四本立てて、そのあともう一本を付け足した。

 

「ボクが参加することで男の子が一人足りなくなるというのならば、もう一人ボクが用意すればいいだけさ。ちょうど、週末はだいたいバイトで暇をつぶしているうってつけの人物がいるんだ」

 

 まるでアルキメデスが「エウレーカ(みつけた)!」とでも叫んだ時のように自信満々の声で、御子内或子は胸を張って言った。

 付き合いの長い友人たちは心の底から嫌な予感しかしなかったが、経験則上反対してもしょうがないということで諦めるのであった……

 

 

         ◇◆◇

 

 

 渋谷駅から少しだけ離れたお洒落なハンバーガーショップだった。

 なんと出てくるハンバーガーは、ジャンクフードのくせに小癪なことに千円越えという小僧には許せない価格である。

 コーヒーですら五百円。

 おいおい、ちょっと待てよ、コラと叫びたくなる値段であった。

 とはいえ、僕は意外とバイトで小金をためている勤労学生なので、このぐらいの支出は負担ではない。

 とある謎の機関でのバイトは一日でかなりの金額が貰えるし、もう大学に通うための学費程度は確保できているから多少羽目を外しても問題はないんだけど……

 

(きまずい……)

 

 一昨日、御子内さんから連絡があって、いつもの妖怪退治だと思ってきたら、なんと合コンだという。

 しかも、男の側が足りないから参加してくれ、という無茶苦茶さだ。

 僕は会ったこともない他の四人のメンツとぎこちない自己紹介をして(だって、こういうものってある程度顔見知りがするものでしょ)、末席に座ることにした。

 さらに言うと、僕を除く四人は明慶付属の学生たちで、明慶と言えば「偏差値の高いお金持ちの子息」の学校だ。

 僕の通っている普通の高校よりも偏差値でも学費でも立地条件でもことごとく負けてしまっている。

 なんといっても、校舎が麻布とかにあるんだから。

 もっともっと付け加えると、合コン相手の女の子たちも御子内さんと同じ武蔵立川高校で、あの辺りの学校としてはトップの進学校だ。

 うちの妹も通っているとはいえ、僕からすれば高嶺の花な訳である。

 そんな人たちと……合コンって……。

 ああ、気まずい。

 

「さっきから、なんてうかない顔をしているんだい、京一は?」

 

 むしゃむしゃとハンバーガーを頬張りながら御子内さんは言う。

 珍しく女子高生っぽく制服姿だ。

 妹で見慣れているので別に気にはならない。

 

「この状況だからね」

「ああ、合コンは初めてだということだね。安心していいよ。ボクだって初めてだ。なあ、鳩麦くん」

「そ、そうですね」

 

 企画者の鳩麦きららさんの従兄弟であるという鳩麦くんはひきつった感じだ。

 そりゃあそうだろう。

 御子内さんはさっきから三つものどでかいハンバーガーを立て続けに食べまくっている、とんでも状態なのだから。

 他の男子たちは、武蔵立川の女子たちとなんとかお洒落な会話をリア充っぽくしているが、さりげなくこっちを見ようとしない。

 どうやら、御子内さんという異物を僕に押し付ける気のようだ。

 でも、最初は違ったんだよ。

 御子内さんの友達はみんなそれなりに可愛らしく、いかにも陽気なイメージばかりのいい子揃いだったけど、顔の造形だけをとってみれば彼女が一番きれいだ。

 だから、他の四人も御子内さんについては興味津々だったんだけど……。

 口を開くともうダメ。

 よく、「もっとまじめな人だと思ってました」とか、「神経質そうな人だと考えていました」とか、過去形で語られる人がいるが、御子内さんはその類なのだ。

 あっというまに四人は近寄らなくなった。

 もっとも、御子内さん自身、僕と話をしてばかりなので去られたとしても気にはしていないと思うけど。

 

「ああ、安心してくれていいよ。ボクのハンバーガーの分は自分で払うから。足りなかったら、京一もいるしね」

「……僕は払わないよ」

「なんでだい? キミがバイトでしこたま儲けているのは知っているんだよ。いくらかボクに還元してもいいぐらいじゃないか」

「呼び出しの時に騙しておいて何を言うのかな、この女性(ひと)

 

 質の悪い相棒を持ってしまったものだと、天に嘆くしかない。

 

「でも、遥人(はると)。もう一人、拓海(たくみ)くんも明慶から来る予定だったんじゃないの?」

 

 きららさんが言うと、鳩麦遥人くんが肩をすくめて答えた。

 

「いなくなってしまったんだよ。……もともときららたちと合コンしたいって言い出したのは奴なんだけどさ」

「いなくなったって、どこに? ドタキャンって訳じゃないよね」

「きららに連絡とった直後に家出したらしくて、連絡もつかなくなったんだ。かといって、もう合コン企画は進んでいるし、どうにもならないから拓海抜きでってことにしたんだ」

 

 へえ、その拓海という人がいれば僕がこんな目にあわずにすんだのか。

 許すまじ、その拓海何某!

 

「拓海くん、どうしたのさ。前、あんたんちで何度か会ったことあるけど、チャラいからこういう場所には喜んでくるタイプだろ」

「チャラいのか……」

「お持ち帰りする気満々のタイプっぽいね」

「でも、家出というのは怖いよね。夏休み前だから、勝手に旅行に行ったというわけでもないだろうし」

 

 それに対して遥人くんは、

 

「……うちにも拓海の親御さんが来たし、クラスのみんなも心配してはいるんだ。ただ、七人ミサキのせいかもしれないから怖がるやつもいてさ」

「―――七人ミサキ? 何、それ?」

「きららは知らないのかよ。……わりと有名な都市伝説だよ。学生の間じゃ結構有名なんだぜ」

 

 すると、黙って話を聞いていた御子内さんが口を挟んだ。

 

「渋谷七人ミサキは、援助交際をしていた女子高生の話だと聞いていたけど、どうして男子の拓海くんとやらが呪われたということになっているんだい?」

「……知っているのか、御子内さん」

「ああ、雷電。で、どういうことなのか、わかるかい?」

 

 遥人くんはいきなり空気が変わったことに気づいたらしい。

 一回だけつばを飲み込んだ。

 それから、カラカラになったらしい口を開く。

 

「それは……90年代の頃の()()()()()()()の話だよ」

「……今は違うのかい?」

「ああ。最近、おれらが噂に聞くのは、()()()()()()()のことさ。彼女に避妊させずに子供を中絶させた高校生に、堕ろされた子供たちの怨念が七人ミサキとなって復讐するってやつだよ」

 

 少年七人ミサキ。

 

 その禍々しい名称はかつてない恐怖を僕に感じさせるのであった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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今どきのJK

 

 

 舞台がハンバーガーショップからカラオケボックスへ移行することになって、僕と御子内さんは一行から離れることになった。

 合コンの最中に一組の男女がいなくなるというのは、普通なら色っぽい意味での離脱なのだが、もちろん僕たちはそういう訳ではなかった。

 鳩麦くんから聞きだした、遠藤拓海という明慶付属の学生の住所を尋ねてみることになったのだ。

 都合のいいことに、高校三年生になってから勉強のためという理由でワンルームマンションに一人暮らしらしい。

 どの筋にとって都合が良かったかは、今の段階ではなんともいえないけれど。

 

「―――拓海のことだから、女の子を連れ込んで遊んでいたんじゃないかな」

「やっぱりチャラい子なりの生活だったと思うのかな?」

「おそらくね。そういうのを匂わせたりしていたし。一人暮らしの部屋にあげてくれたのは最初のうちだけで、最近は誘ってもくれなくなったから」

 

 鳩麦遥人くんは、中等部はおろか小学部時代からの友人らしいので、細かい性格とかもよくわかっていたが、最近のいかにも遊び人風になった遠藤拓海とは距離を置かざるえなかったようだ。

 

「それが、拓海のやつ、きららがよく合コンをしているとたまたま聞いたら、おれたちもやろうぜとか盛り上がっちゃって……」

「それであたしらを誘ってきた訳?」

「ああ。おれらは明慶でもあまりそういうのに誘われたことがないからさ、羨ましかったってのもあってさ……。きららのこともよく知っていたし。それで、今回の合コンをやることにしたんだ」

「あっきれた。もう少し、遊び慣れしていると思っていたのに、遥人。そんなんじゃ、大学にいってから変なサークルに騙されて入って、女の子のお酒に睡眠薬を入れたりする犯罪者になっちゃうかもよ」

「そ、そんなことはしない!」

「どうだか」

 

 なるほど、意外と健全に合コンが進んでいると思ったら、実はあっち側も初めてみたいなものだったのか。

 それなら、やや堅苦しい雰囲気だったのもわかる。

 別に空気を読まない御子内さんのせいだったという訳ではないようだ。

 だから、可愛いけれどとっつきにくい彼女は敬遠されていたのだろう。

 正直なところ、海千山千のプレイボーイでも僕の御子内さんの相手は難しいと思うし。

 

「じゃあ、ボクと京一はちょっと用事を思い出したので帰る。みんな、月曜日に学校でまた会おう」

 

 合コンについてなんの未練もなさそうにさっさと駅に向かう御子内さんについて行こうとしたら、腕を掴まれた。

 背の低い豹頭まきさんとボブカットの鵜殿魅晴さんだった。

 なにやら深刻な顔をしている。

 どういうことか聞いてみると、

 

「あんた、升麻(しょうま)くんとか言ったったけ。或子ちゃんとどこに行く気?」

 

 ああ、彼女と僕がいけないことでもしようとしているのか誤解しているのかと思ったら、

 

「違うよ。或子ちゃんがこういう風に勝手に動き出すときって、いつも何か変なことが起きている時だよね?」

「うん。いつものアレだよ」

「ねえ、あんたと或子ちゃんは親しいみたいだから頼みたいことがある」

「……頼みたいこと?」

 

 すると、二人は短く頭を下げた。

 深刻な顔つきのまま。

 

「或子ちゃんを助けてあげて」

「お願い、升麻くん。わたしたちじゃあ、なにもできそうにないけれど、あんたは別みたいだ。だから、頼むよ」

「―――どうして、僕に?」

 

 まきさんは僕の手を握り、震えた声で言う。

 

「あたしたち、或子ちゃんに助けてもらったことがあるの。きっと、きららちゃんや天子ちゃんも」

「うちらのときのように、また何かヤバいものと関わろうとしているんだろ? ホントはわたしたちがやってあげたいんだけど、とてもできそうにないから、あなたに頼むんだ」

「或子ちゃんをお願い」

 

 ……どうやら二人、いやここにいる友達はみんな御子内さんの本業を知っているらしい。

 学校では隠しているとか言っていたけれど、まあ彼女のことだしバレバレだろうなと思っていたら、やはりその通りだったようだ。

 ただし、彼女たちには御子内さんへの労りと心配が溢れていた。

 御子内さんの傍にいるぐらいだ、きっと優しい人たちばかりなんだろう。

 僕はその想いに応えたいと願った。

 

「任せてください。皆さんの分も、僕があのまっすぐで熱い女の子を守りますから」

 

 二人が無言で頷くのを確認してから、僕は地下鉄の入り口に消えようとしている御子内さんの後を追った。

 

「むむ、まきたちと何を話していたんだい?」

「見てたの? だったら、待っていてくれてもいいのに」

「な、何を言っているんだい! キミがまきたちと話していることの内容なんて、ぜんっぜん気になったりしないね! そんなことでこのボクが足を止めるなんてあるはずがないだろ! まったく、京一は自意識過剰にも程があるね!」

「どうしてムキになっているのさ……。でも、やっぱりあの人たちは御子内さんの友達だよね」

「何がやっぱりなんだい?」

 

 僕はさっきの四人のことを思い出した。

 見た目は違うタイプの集まりで、ものすごく混沌としているけど、きっと大切な時には一体になって物事にあたることのできる仲のいいグループに違いない。

 御子内さんの親友の音子さんやレイさんもそうだけど、この熱い女の子の周りはそういう人たちでいっぱいだ。

 いつか、僕もその一人になれればいいな。

 そんな無理に近いことを僕は思った。

 

「熱い魂を持ってそうだってこと」

 

 御子内さんは一瞬ぽかんとした顔をして、おもむろにニヤリと笑い、

 

「それはそうだよ。でなければ、ボクの友達なんて務まらない」

 

 熱いのか、篤いのかわからない、友情を口にする巫女レスラーであった……。

 

 

      ◇◆◇

 

 

 渋谷七人ミサキ。

 

 それは90年代、社会問題としての女子高生の売買春が、『援助交際』という言葉でオブラートに包まれたまま激増した時代に流れた噂である。

 東京・渋谷において、女子高生が次々に原因不明のまま死亡するという事件が発生した。

 どんな恐ろしい目にあったものか、凄まじいまでの恐怖にひきつった顔のまま、彼女たちの死体は発見された。

 病気によるものでもなく、外傷も見当たらなかった。 

 胸元がはだけて、乳房が剥き出しになっていたため、レイプによるショック死なども考えられたが、下半身への暴行の形跡は見つからなかったという。

 結局、警察の捜査にも関わらず、真相は謎に包まれたままだったので、単に心不全として処理されたのである。

 警察は死体となった女子高生たちに、堕胎手術の通院歴があることを発見したが、それだけで終わってしまったのである。

 しかし、当時の女子高生たちの間で「渋谷のスペイン坂に行くと赤ちゃんの声が聞こえる」という噂が流れていた。

 ある女子高生は必死に泣き叫ぶ赤ん坊の声を聞き、またあるものは「ママ、ママっ」と呼びかけるか細い声を聞いたという。

 そして、その噂を裏付けるように、ある夏の夜、スペイン坂から女子高生たちの姿が一斉に消えたこともある。

 少女たちは、犠牲になった女子高生の数が七人いたことから、かつて起きたあるオカルト的事件との共通点を見出し、この事件を『渋谷七人ミサキ』と呼んだ。

 避妊の知識もない女子高生が、援助交際のあげくに妊娠してしまい、父親もはっきりしない、育てていける経済力も無いことから安易に堕胎の道を選び、罪のない小さな命を殺した報いだと。

 堕ろされた子たちが無責任な母親を怨み、自分を殺した女子高生(にくいははおや)を祟って呪ったのだと。

 

 そして、次の年も同じように七人の女子高生が死んだ。

 

 恐ろしい呪いは止まない。

 呪いによって死んだ七人は新たな怨霊となり、自分たち同数の犠牲を求め続けているのだと噂はいう。

 渋谷のスペイン坂には、今でも堕胎された赤子たちに殺された七人の女子高生たちが怨霊となって、呪いの連鎖を生みだしているのである、と。

 

 ―――それが「渋谷七人ミサキ」の都市伝説である。

 

 

 

 

 

 

 

 



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亡霊〈七人ミサキ〉

 

 

「七人ミサキというのは、非業の死を遂げたものたちが彷徨う亡霊となったものと言われているんだ。目撃したものを熱病などの祟りで憑り殺し、仲間に加えるが、常に七という数を維持しているため、一番古参のものから成仏していくというシステムらしい。ミサキの意味は良くわかっていないね。『岬』か『御先』、もしくは元は犬神を意味した小神を指す『御前』かもしれないって諸説あるけどさ」

 

 地下鉄の電車の中で御子内さんの講義が始まった。

 隣の席のOLがぎょっとした顔をしている。

 突然、隣でオカルト談義が始まればこういう顔にもなるか。

 

「主な伝承は四国・中国地方で、だいたい水辺に現われる。有名なところでは、吉良親実とその家臣かな。長宗我部元親の怒りをかって切腹させられた親実と斬り殺された家臣たちの七人の霊が七人ミサキとなって、祟っているのだと恐れられているという怨霊譚さ。確か、広島には山伏の姿をした七人ミサキの伝承もあって、凶暴な七人の山伏たちに苦しめられていた人々が手を結んで山伏たちを殺害すると、その怨霊が七人ミサキになったとか、そういうやつだ。こっちは水辺じゃなくて、『山ミサキ』とか呼ばれてるね。ただ、水や食料を求めて見殺しにされた者が七人ミサキになるとも言われているが、解き明かせた知恵者はいないみたいだよ。と、まあこんな感じで、〈社務所(ボクら)〉は〈七人ミサキ〉という妖怪の一種として扱っているのさ。……ただ、なんで東京の渋谷で七人ミサキの名前が出るか、真面目な話、ボクには今一つよくわからない」

「前のときに〈社務所〉は動かなかったの?」

「90年代のことはよくわからない。下手をしたら、ボクらは産まれていないからね。こぶしだって現役どころか見習いでしかない頃だよ。ただ、都市伝説になっているのに、その後の発展がなかったから、デマだったのかもしれない」

「それにしては詳しいね」

「この話は音子がよく研究していたからね。あいつ、実家がたまプラーザなんで、東急田園都市線ですぐに渋谷にこられるから、あのあたりのオカルト話を採集していたんだ」

「へー」

 

 そういえば、音子さんはたまプラーザに住んでいるとは言っていたっけ。

 この間の〈殭尸〉のときはあざみ野から地下鉄で来たとかって話だし。

 

「よし、着いたぞ」

 

 地下鉄で二駅ほど。

 それで遠藤拓海のマンションの最寄りの駅に着く。

 タクシーで地上からいっても良かったが、今日は社務所を通しての妖怪退治ではなく御子内さんの趣味みたいなものなので、経費として降りそうもないということから節約するのだそうだ。

 意外とこういうところは現実的なのである。

 いい奥さんになるだろうね。

 遠藤拓海の部屋は駅から歩いて五分。

 また、いいところに住んでいる。

『コーポ・グランシャリオ』という五階建てのけっこう家賃の高そうなマンションだった。

 

「確か、四階って話だったよね」

「鳩麦遥人のいうことに間違いなければ」

 

 僕たちはエレベーターを使って、四階まであがった。

 チンと電子音が鳴って、ドアが開いた時、入口のところにいた御子内さんが一歩下がった。

 弾かれたように。

 

「……ちっ、マズったかも。これは本当に〈七人ミサキ〉かもしれない」

 

 珍しく御子内さんに焦燥の色が濃く浮かんでいた。

 少し冷や汗みたいなものもかいているかも。

 ただ、僕はなにも感じなかった。

 冷気のようなものさえも。

 普段、妖怪と接している時に感じる嫌な雰囲気などを欠片も感じない。

 御子内さんの極端な反応さえなければ、普通にエレベーターから降りていたところだ。

 

「何か、あるの?」

「京一はなにも感じないのかい?」

「いや、全然」

「―――おかしいな。まったく、何も? 鳥肌がたつということも?」

「さっぱり」

 

 首をひねる御子内さんだが、いつまでもエレベーターの中にはいられないからか、少し警戒しながらエントランスに出た。

 マンションの間取りは知らなかったが、彼女の視線はもう一か所に釘付けになっている。

 

「黄金の72時間という言葉を知っているかい?」

「えっと災害時の人命救助の限界のことだっけ」

「ああ。人間は水を飲まなければ平均で三日間(72時間)でおおよその生存限界となり、脱水症状によって死に至ることになるから、そこまでに救助しないと危険だということなんだけど。……オカルトについても似たような言葉があるんだ」

「どういうの?」

「―――〈逢魔の一週間〉さ。何か尋常でないものに巻き込まれた場合、一週間以内に対策を講じなければ高い確率で憑り殺されることになる。一週間がだいたいの目安と言われている。もっとも、キミの妹の涼花の場合は即日危険に見舞われたから、この言葉には当たらないけれど」

 

 涼花の事例は例外としても、〈ぬりかべ〉なんかは事件が起きてすぐ八咫烏が連絡をとってきたから取り込まれた学生たちを救出できたんだよな。

 確かに、一週間もぐずぐずしていたら、最悪の結果になりかねないかも。

 

「じゃあ、遠藤拓海は……」

「きららの従兄弟は、一週間前から連絡がつかないといっていたね。下手をしたら、もう手遅れかもしれない。急がないと」

 

 なるほど。

 御子内さんが社務所に連絡を取るのも惜しむような勢いで、ここに向かった理由がわかった。

 合コン会場で話を耳にした段階で、すでに一週間が経過している。

 遠藤拓海に実際に危機が近づいているとすれば、もうギリギリの段階だったのだ。

 

「行こうよ」

「ああ」

 

 僕たちはそのまま遠藤拓海の部屋―――405号室の前に辿り着いた。

 その間、他の住人の姿は見えない。

 まだ、午後六時前だからか、帰宅していないのだろう。

 このコーポ・グランシャリオは独身の単身者向けのマンションのようだから、子供たちの声もしないし。

 

「御子内さんにはどんな様子なの?」

「この玄関の裏から黒い靄のようなものが滲みだしている感じかな。嫌な雰囲気だよ。京一が平気なのが不思議だよ」

「いや、ホント。何も感じない」

「……どういうことなんだろう。まあ、いいや。今は気にしている余裕はないか。中に入ろう」

 

 御子内さんがノブに手を掛ける。

 その際に、カバンからだしたお札のようなものを手に張り付けていた。

 これは〈解錠〉の術のためのもので、よほど複雑な仕組み(例えば電子ロック)以外は勝手に鍵を開くことができる。

 犯罪にでも使われたらとても困るものだが、効力を発揮できるのは退魔巫女に限られているので悪用はされないそうだ。

 

 ガチャリ

 

 ノブが捻られると、玄関扉が開く。

 ブルっと身体が震えた。

 妖気……ではない。

 ただ単に冷気が漂ってきたのだ。

 つけっぱなしのエアコンから送られてくる冷風だろう。

 物凄く低い温度設定をしているみたいだ。

 夏とはいえ、これでは身体を壊す気がする。

 僕の家ではエアコンは食事中と帰宅時だけにしか許されていないので、こういう冷蔵庫みたいな部屋はひたすら苦手だ。

 

「何か、感じるかい?」

「エアコンが強すぎってことぐらいしか……」

「呑気だね、キミは」

 

 苦笑しながら、御子内さんは室内に入り込む。

 1DKの部屋だ。

 キッチン部分を抜ければ、すぐに遠藤拓海の私室になる。

 とはいえ、キッチンはほとんど使われている様子もなく、コンビニ袋に入ったゴミが溜められている。

 ビールの空き缶とかあって生活の乱れ具合がわかる。

 コバエも舞っているし。

 一人暮らしを謳歌していたのだろう。

 高校生の時分からこの有様では将来が思いやられるな。

 

「行くよ」

 

 ダイニングキッチンと部屋を分けるカーテンをめくって、内部を覗き込んだ時、僕たちは思わず息を呑んだ。

 

 なんだ、これは!? 

 

 そこにあったのは、僕らの予想もしていないものだったのである……。

 



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美少年幻想

 

 

 一人暮らしの高校生のものにしては広めの八畳間は、びっしりと埋め尽くされていた。

 

 ()()

 

 遠藤拓海の部屋の中は、着飾った少年たちが直立不動で呆然と突っ立ったまま、身じろぎもせずにいたのだ。

 一瞬のうちに僕が数えた結果によれば七人。

 それだけの人数が眼を見開いて俯いたまま、何をするわけでもなく棒立ちでいるのだ。

 八畳といえど、これだけ人が入ればほとんどぎゅうぎゅう詰めである。

 中には、遠藤拓海が使っている折りたたみのベッドの上にまで立っているものもいる。

 まさしく異常な光景だった。

 だが、異常といっていいのはそれだけではない。

 さっき僕はここにいる少年たちのことを着飾っていると表現したが、その言葉に間違いはない。

 見たところ、ここにいるのは十五~十八程度の年頃の怖いほどに顔だちの整った男ばかりだった。

 端的に言うと美少年ぞろい。

 造形があまりにも整っていて、場合によっては女の子に見えなくもないぐらいだ。

 その全員が太もものあたりで幅広く余裕をもってつくられ、逆に膝から下が細すぎるジョッパーズを履いて、肩パットのついた赤と黄色の派手な柄に紐のようにひらひらとしたフリンジがついた上着、そして、どういう訳かへそ出しのピチピチとしたシャツを着ていたのだ。

 最初に頭に浮かんだのは、スペインの闘牛士(マタドール)

 でも、それよりははるかに今風だし、ある意味では統一感がなく、ちぐはぐとした印象だ。

 次に思いついたのは、たった一つ。

 昔の男性アイドルグループの衣装だった。

 僕らの世代の男性アイドルグループというと、例のJのつく事務所とEのグループだが、後者はどちらかというとやからなイメージが強く、この少年たちの格好からすると前者のものに近い。

 ただ、Jのグループでも僕が知っているのは漢字一文字とか平成跳躍とか接吻舞などで、この格好はかなり古臭い部類に入るだろう。

 あえて言うのならば……光○○N○Iか?

 しかし、そういう視点で見てみると、確かにここで生気もなく突っ立っている連中はその格好を真似ているといってもいい。

 もっとも、それがわかったからといって異常さが緩和するわけではないけれど。

 

「な、なんだい、この変な連中は!?」

 

 むしろ、僕よりも御子内さんの方がはるかに混乱していた。

 魑魅魍魎、妖怪変化が巻き起こす不可解な現象に慣れっこのはずの彼女が、意味のわからなさに取り乱していた。

 

「落ち着いて、御子内さん」

「―――こ、この変な格好は何だい!? チンドン屋かい!!」

 

 チンドン屋自体、まったく見当たらなくなったけど、御子内さんにとってはそうとしか見えないのだろう。

 そういえば、テレビ番組の類いはほとんど見ないと言っていたな。

 歌番組やバラエティよりも空き時間はトレーニングに勤しむタイプだから、知らなくても無理はないか。

 

「落ち着いて」

 

 僕は御子内さんの手を握った。

 すると、一瞬で大人しくなる。

 最近学んだコツなのだが、平静を欠いた御子内さんを落ち着かせるにはこういうスキンシップがいいらしい。

 

「あ、う、うん。……わかったよ」

 

 ようやく静かになった彼女とともに、室内の美少年たちを見る。

 きちんと数えなおすと、やはり七人だった。

 僕らがここにいてもまったく反応しないことから、意識というか、心ここにあらずといったところなのだろう。

 

「魂を弄られているね。生きたまま無理矢理に霊にされようとしている状態だ」

 

 落ち着いたら、さすが退魔巫女らしい観察眼を発揮しはじめる。

 

「霊? このまま幽霊になるってこと?」

「ああ。何かの呪法の類だとは思う。……こんな状態はそうそうお目にかかるものじゃないよ」

「なるほど。……そうだ、ちょっと写真撮っておくね」

 

 スマホを取り出して、七人それぞれの顔を撮影する。

 少し思うところがあったのだ。

 

「ねえ、御子内さん、この人……」

 

 僕はそのうちの一人を指さした。

 御子内さんが頷く。

 

「うん、彼が遠藤拓海だろうね。写真で見たから確かだよ」

 

 一番隅にこの部屋の本来の持ち主がいた。

 七人の中で一番血色がよい。

 ただ、魂がない状態らしいのは他と一緒である。

 

「ほお、なかなかのハンサムじゃないか。なるほど、女遊びに夢中になるのもわかるよ。放っておいても誘蛾灯に蛾が寄ってくるように、女の子がやってくるだろうからね」

「……御子内さんもこういう美形が好きなの?」

「趣味じゃないかな。ボクは漫画で言ったらベルセ○クのガッツが好きなタイプだからね」

 

 うん、年頃の女の子にしては微妙だ。

 そういえばテラフォ○マ○ズとかも僕の家から借りていったりしてたなあ。

 自分と同じ拳法使いの第四班の劉が好きらしく、七巻からまとめて本棚からなくなっている。

 

「それは良かった。こんなにイケメンじゃない僕としては、ちょっと羨ましいんだけどね」

「京一も結構ハンサムだと思うよ」

「ありがとう。そこはイケメンの方が今風だよ」

「前から思っていたが、イケメンってどういう意味なんだい? ハンサムとどう違うんだ?」

「そこから入られても……」

 

 叶姉妹風に言うと、グットルッキング・ガイなんだけど、あのカリスマ読者姉妹を御子内さんが知っているはずもない。

 そもそもイケメンって新宿二丁目とかのゲイ用語だったとかどうでもいい知識が浮かんだが、それこそ必要ない知識だし……

 と、ホントにこの緊迫した状況下でくだらないことを考えていると、

 

「京一!」

 

 いきなり腕を引かれた。

 おかげで僕はバランスを崩して、御子内さんの手の中によたよたと倒れこんでしまう。

 転ぶ前に抱きとめてもらったので助かった。

 御子内さんの胸のやわらかさを僕は感じ取ってしまう。

 思わず赤面しそうになったが、その前に彼女の厳しい声色が聞こえた。

 

「外になにかいるよっ!!」

 

 言われたままに僕も外を見る。

 玄関の反対側のベランダへ続くガラス戸がいつのまにか完全に開いていた。

 ただ、さっきまでガンガンにかかっていたエアコンの冷気が流れ出していることに気がつかないはずもない。

 では、いつ、あの戸は開いたのだろう?

 そして、御子内さんの指摘通りに、ベランダの外からでた中空に何かが浮かんでいた。

 白い服―――服と言っていいものか、なんの変哲もない白い布を身体に巻いただけだった―――をまとった女がいた。

 漆黒の髪は腰まであるが、手入れもされていないボサボサだ。

 何よりも眼がなかった。

 眼窩には黒い空洞がぽっかりと空いているだけ。

 口も歯らしいものはなく、毒々しい真っ赤な丸い亀裂のようだ。

 一目でわかる。

 あれは生きているものではないと。

 しかも、ただの霊なんかではない。

 間違いなく、凄まじい呪いをもった悪霊の類だ。

 

「待って!」

 

 御子内さんが進み出ようとしたところを押さえつける。

 というか抱きしめた。

 彼女を止めるにはそれが一番だったから。

 相手は空を飛んでいるのだ。

 少なくとも、なんの準備も無しに挑むのはいくら退魔巫女の彼女でも無謀すぎる。

 

「だがね、京一!」

「堪えて! まだ、何もわかっていないんだ! 焦っちゃ駄目だ!」

 

 僕の直訴が通じたのか、御子内さんの身体から力が抜ける。

 

「わかったよ」

「……良かった」

 

 ただ、僕らが見ている中、白い悪霊が何かを叫ぶと、今まで突っ立っていただけの七人が突然動き出し、歩き出した。

 ベランダに向かって。

 もしかして、このまま行くと落ちてしまう!

 最悪の展開が頭に浮かんだが、それは杞憂に終わる。

 なんと七人の派手な服装をした美少年はよろよろと何もない空間を歩き出したのだ。

 つまり、あの空を舞う悪霊のように、宙に浮いて歩き始めたのである。

 一列に並んで。

 

「これが、〈七人ミサキ〉の由来なのか……」

 

 御子内さんがぽつりと漏らす。

 確かにその光景は彼女から聞いた講義の通りであった。

 一列になって彷徨い歩く七人の亡霊。

 七人の美少年は今まさにその姿を体現していたともいえる。

 気がつくと、外には雨が降り出していた。

 激しいものではなく、ぽつりぽつりとした傘をさすのも躊躇われる程度の雨。

 だが、水辺を好むという〈七人ミサキ〉には相応しい天候であった。

 そして、空を歩む亡霊たちは、あの女の悪霊に導かれるようにして消えていった。

 最後尾にいたのが、遠藤拓海だということに気がついたときには、もう彼もベランダから踏み出した後であった。

 こうして、とても世界に冠たる渋谷で起きたものとは思えない妖々とした出来事は終わった。

 退魔巫女として化け物の世界とやりあってきた退魔巫女の御子内さんと僕の目の前で。

 

「京一、とめてくれてありがとう」

 

 しばらくたって、エアコンの冷気が完全になくなってから、御子内さんが言った。

 

「あれが本物の〈七人ミサキ〉だとしたら、なんの考えもなく飛び出していたらボクでも危なかった。あれは尋常ではないほどに強烈な呪いのようだからね。だが……」

 

 少し覚悟を決めるように呼吸を溜め、

 

「あの中に引きこまれたばかりの遠藤拓海ならば、まだ助けられるかもしれない」

「勝算はあるの?」

「わからない。ただ、人の世界に仇なす邪悪を退治するのがボクらの仕事だ。それがどんな相手でもね」

 

 いつもの彼女らしい決意をする御子内さんを、僕は眩しくも誇らしく思うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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汝の正体みたり! 〈七人ミサキ〉!

 

 

 御子内さんはしばらく〈七人ミサキ〉が消えていった空を睨んでいた。

 すくなくとも、彼女の中には間に合わなかったという想いがあるようだ。

 心配して様子を見に来たはずの遠藤拓海が、あの七人の中に取り込まれてしまっている以上、首を突っ込んだ責任がある。

 そんな風に考えているのかもしれない。

 だが、本来、八咫烏からの依頼を受けている訳でもない彼女にはなんの責任もない。

 ただ、民草を守る正義の退魔巫女としての魂が御子内さんの内部で燃え盛り、安易な逃げを拒むのだろう。

 まだまだ彼女はやる気だ。

 だとしたら、助手としての僕の仕事は彼女をサポートすることだけである。

 

「御子内さん、音子さんに連絡して」

「なんだって? どうしてだい?」

「渋谷の都市伝説には彼女が詳しいんでしょ。だったらアドバイスをもらった方がいい。僕はこの部屋をちょっと捜索してみる。なにか、ヒントになるものがあるかもしれない」

「……ヒントか。それはあるかもしれないね」

「うん。いくらなんでも遠藤拓海がどうしてあんな悪霊に憑りつかれたかわからないと、救出するどころの話じゃないからね」

 

 僕らは頷いて確認し合うと、個々の作業に入った。

 まず、この部屋の様子だ。

 一般的な男子高校生の部屋にしては収納が多い。

 受験のために借りたはずなのに教科書や参考書の類は少ないかな。

 本棚代わりのカラーボックスが埋まっているが、本格的な勉強のためとは思えない程度しかない。

 机もなく、勉強はちゃぶ台みたいなテーブルでやっているようだ。

 

「やっぱりただの遊びのための一人暮らしか……」

 

 その人の性格を知りたければ友達を見て、趣味を知りたければ本棚を見て、生活を知りたければ冷蔵庫を見ろという言葉のとおりにする。

 勉強道具以外の本は、「誰でもできるナンパ術」とか「うまくなるセクロスのやり方」とかが幾つかあり、あとは「ブレイクダンス入門」みたいものがある。ある意味では実用書だね。

 わかるのは強烈なまでのモテたいという渇望だ。

 部屋のあちこちに自分と友達の集合写真が飾ってあったり、貼ってあったりする。

 さっき見た本物は生気も意識もない状態なので今一つだったが、普通に写真を見る限りやはりかなりの美形だ。

 これだけ顔が良ければ下手なモテる努力をしなくてもよさそうな気もするが。

 

「僕みたいな地味な顔に産まれたって訳じゃないのに……」

 

 と、思わず愚痴ると、

 

「京一はなかなかの男前だよ」

 

 音子さんと通話していたはずの御子内さんからのすかさずフォローが飛んできた。

 ……かたじけない。持つべきものは優しい友達だ。

 ブ男はブ男なりに頑張るよ。

 ベッドの脇のゴミ箱を漁ってみる。

 男子の部屋特有の丸めたテッシュなんかが入っていると嫌だけど、そこは覚悟を決めるしかない。

 丸い筒状のゴミ箱の中は丸めた封筒のようなものがぎっしりと埋まっていた。

 さすがに怪しい。

 何枚かとってみると、遠藤拓海宛の封書だった。

 可愛い絵柄だったり、香水がふりかけてあったり、だいぶ値段や手間かかっていそうな封書なのにこんなに無造作に捨てられているのはちょっと可哀想だ。

 ラブレターのようにもみえたが……。

 あることに気づいてゾッとした。

 切手が貼っていない。

 住所も書いていない。

 しかも、「遠藤拓海さま」という宛名がすべて同じ筆跡なのである。

 気になってゴミ箱をぶちまけて確認をすると他にもあった。

 嫌な予感がして、ダイニングキッチンに行き、コンビニ袋を見てみると、同様に手紙の封書のようなものが詰まっているものが幾つかあった。

 全部でどのぐらいあるのか。

 もしかして、僕が見つけていないだけでもっとあるのかも。

 

「中身も見るしかないか。プライバシーを侵害することになるけど、勘弁してね」

 

 かなり高級そうなレターセットを用いて書かれた手紙の内容は、

 

「わたしのアイドル、拓海クン」

「だいすきです」

「プレゼントです」

「拓海くんがメンバーとキャッキャしているところがすきです」

「メンバーのなかでだれがいちばんすきですか」

 

 というものだった。

 まるで推しているアイドルへのファンレターのような……。

 待てよ。

 衣装ケースを見ても、収納を覗き込んでも、さっきのような派手な格好は入っていなかった。

 じゃあ、あれは遠藤拓海の持ち物でないとすると……。

 

「スマホとかないかな……」

 

 あれがあれば高校生の個人情報なんて全部わかるんだけど。

 持ち出して行ったってところかな。

 あんな風になってもスマホだけは肌身離さず持ち歩いていると考えると、現代の若者がいかに脅迫観念にとりつかれているかわかろうというものだ。

 とりあえずパソコンはあるので起動させてみる。

 形式がかなり古いパソコンだったし、OSも一世代前のものだったおかげでパスワードが必要ないのは助かった。

 では、メールボックスあたりを確認してみるか……

 

「京一、わかったよ」

「どうだった?」

「音子の話を聞いて、かなり把握できたよ。あれはボクたちが〈七人ミサキ〉と呼んでいる妖怪とは根本的に違うものみたいだね」

「だろうね」

「んんん、何か気がついたのかい?」

「うん。これ」

 

 僕は受信フォルダを埋め尽くしている一つのアドレスを指さした。

 

「それがどうかしたのかい?」

「遠藤拓海にはストーカーがついていたみたいだね。しかも、強い妄想を対象に投影するタイプが」

「―――ほお。それで」

「そのストーカーは、対象を自分自身で妄想したアイドルグループに組み入れるという妄想に支配されていて、遠藤拓海もその一員にされていたみたい」

 

 僕がメールの幾つかを読むと、だいたいそれぐらいのことがわかってきた。

 そして、それは半年以上続いていて、最近になって内容が異様な程に変化し始めていた。

 

「……これは……また、ひどいものだね」

「メールの差出人がどうやってこんな方法を見つけたかは知らないけれど、まず間違いないだろうね。犯人はこの女性だ」

「音子の仮説ともほぼ合致する。―――まったく、近年の都市伝説は拡散具合が早すぎてボクらでも詳細を捕まえられないというのがよくわかる案件だよ」

 

 御子内さんは呆れたようにため息を吐いた。

 さっきまで正体不明と思えた〈七人ミサキ〉の概要が呑み込めたのか、余裕が戻ったのだろう。

 

「今日中に片をつければ遠藤拓海は救い出せるかもしれないな」

「でも、彷徨う亡霊なんてどうやって見つけるの? この女性の家に押しかける? 住所とかはまだわからないんだけど……」

「それは心配ない。社務所にはこの手の事案に備えてのコネがあるからね」

「へえ、どんな」

「まあ、見ていなよ。警察並の捜査力を見せつけてあげるからさ」

 

 そう言って、御子内さんは自分のスマホからある場所に連絡を取り始めた……。

 

 

 

 

 

 



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STAR FIGHT

 

 

「こっちだ」

 

 僕たちは夜の渋谷の街を疾走する。

 手にしているスマホには、ある人物の位置情報がGPSによって送られてくる。

 その跡を辿っているのだ。

 

「―――この進路だと、こっちの公園を横切るかな」

「だったら好都合だ。そこで迎え撃とう」

「リングはないよ。大丈夫なの?」

「―――リング? ああ、〈護摩台〉ね。うーん、さすがにそこまでの時間はないよ。簡易の結界を張るだけで誤魔化すしかないね」

 

 ああ、ちょっと前に使った四方を紙垂で囲って、そこに清めたテグスを張るやり方か。

 普通のリングを設営するに比べたら結界の効力はだいぶ落ちるけれど、退魔巫女のために妖魅(あやかし)の力を削ぐことができる。

 御子内さんが僕に教えてくれたものだ。

 

「ボクが〈七人ミサキ〉を足止めする。その間に京一がやってくれ」

「うん、わかった。でも、〈七人ミサキ〉って七人いるんでしょ? 御子内さんは一人で大丈夫なの?」

「心配いらないよ、ボクは最強だからさ。まあ、七人相手にするわけじゃないし」

「―――どういうこと?」

「ボクが止めればいいのは基本的に一つさ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 御子内さんは自信満々に言い放った。

〈七人ミサキ〉じゃない〈七人ミサキ〉?

 どういうことかはわからないけれど、たぶん、それは渋谷の都市伝説に詳しいという音子さんが教えてくれた情報だろう。

 だったら、僕がどうのこうの言う必要はない。

 言われたことをするだけさ。

 三分もしないうちに少し広めの公園に出た。

 ベンチが二つあるだけの典型的な都会の公園だ。

 運のいいことに誰もいない。

 

「いたね。……京一、ボクが足止めしたら、すぐに動いてくれ」

「でも、誰かが入ってきたらどうするの?」

「大丈夫、結界は人払いの効果もあるって言ったろ」

「そう言えば聞いていたよ」

「じゃあ、頼むよ」

 

 そう言って、御子内さんは進み出た。

 こちらに向かって足並みを揃えて歩み寄ってくる七人の不気味で派手な格好をした美少年たちの前に。

 俯いたまま一切の生気を感じさせずに、亡霊のごとく夜の闇を蠢く七人は、確かに異形の百鬼夜行そのものだった。

 あんなものを目撃してしまったら、呪われたとしても不思議はないだろう。

 受け入れがたい奇形でないにも関わらず眼をそむけたくなる、人知を超越した異常性。

 さっき遠藤拓海の部屋での様子よりもさらにおどろおどろしい妖気は増している。

 彷徨い歩く亡霊としての本領の発揮であろうか。

 あんなものの前に身を晒すなんて、絶対にしたくない。

 

「―――やあ、また会ったね」

 

 いつもの巫女装束とは違う、高校生の制服とローファー姿の御子内さんが立ち塞がる。

 しかし、〈七人ミサキ〉は止まらない。

 たかが人間が立ち塞がった程度で自分たちの歩みを止める気はさらさらないらしい。

 無視された側の御子内さんも気にはしていないようだ。

 

「つれないな。ボクの誘いを断るなんて。……どっかの朴念仁のようで腹が立たないこともないね」

 

 何だか知らないが、勝手にヒートアップし始めたぞ、あの人。

 

「悪いけれど、キミらアイドルユニット、〈七人ミサキ〉はここで解散だ。ボクがここで終わらせる」

 

 御子内さんが突っかけた。

〈七人ミサキ〉に。

 いや、その視線と突進の行きつく先には……。

 

 白い布を身体に巻き付けただけの粗末な格好をした眼窩に闇の詰まった女がいた。

 

 さっき遠藤拓海の部屋から〈七人ミサキ〉を連れだした醜悪な女の亡霊だ。

 それが〈七人ミサキ〉の後ろを追随していたのだった。

 御子内さんの狙いはそいつだった。

 腰の乗った右ストレートが助走とともに放たれる。

 飛燕の速さで。

 だが、まるで羽毛が舞うように、御子内さんの一撃はふわりと躱された。

 彼女の拳が引き起こす風が原因のように。

 実体というか、まったく重さがないような動きだ。

 

「……ただの霊じゃないみたいだ」

 

 僕も何度か亡霊や悪霊の類に遭遇したことがあるけれど、あんなに軽やかなのは珍しい。

 霊というものは普通もう少し鈍重なのだけれど。

 あの御子内さんの拳を躱すなんて。

 そこではたと気がついた。

 結界がないからだ。

 いつもならばリングが妖魅の力を抑えているが、今回はそれがない。

 このまま行くといくら彼女でも危険すぎる。

 そして、簡易結界を張るように頼まれていたのは僕だ。

 僕がやらないとならないのだ。

 

「待ってて、すぐに助けるから!」

 

 そう叫んで、観葉樹の一本に紙垂を突き立てる。

 それからその先に〈社務所〉特製のワイヤーを回して、引っ張る。

 これでオッケー。

 同じことをこの公園を囲むようにして繰り返せばいい。

 御子内さんを少しでも助けるためにはそれしかない。

 

「どっしゃああああ!」

 

 一方、御子内さんは怒涛のラッシュをかましていた。

 右と左のコンビネーションからの回し蹴り、その勢いを利用してのローリング・ソバット。

 しかし、ことごとく躱される。

 躱すというよりも、触る前に避けられる感じだった。

 まさに空気を相手にしているような、空振りが続く。

 逆に御子内さんの必殺の重い拳のせいで、これだけ空を切ると無駄に体力を奪われることになる。

 しかも、彼女を取り囲むようにして〈七人ミサキ〉が立っている。

 霊の派手な衣装のようなかっこう格好の男たちがじっと彼女を見ている。

 なんて恐ろしい光景だろう。

 その中でスカートを翻しながら、御子内さんは嵐のようなアタックを繰り返すだけでも相当の精神力が求められるだろうに。

 とんでもない精神力と不屈の魂。

 ただの女子高生の制服を着ていたとしても、彼女は巫女レスラーなのだ。

 戦いが始まればそれに殉ずるだけ。

 

「だっしゃああ!!」

 

 ちっと音がした。

 これまで一指も触れられなかった女の亡霊の布に拳が掠める音だった。

 当たった。

 諦めずに挑み続けた結果がついに出た。

 放った回し蹴りがぴたりと止まり、内側から足の裏を使い意表をついた軌道でこめかみ目掛けて再度襲う。

 掛け蹴り。

 流派によっては裏回し蹴りと呼ばれるトリッキーな奇襲技だった。

 御子内さんの白い眩しい太ももが閃く。

 過たず亡霊の側頭部に浴びせかかる蹴り。

 吹き飛ばされる亡霊。

 同時に、〈七人ミサキ〉も動き出した。

 もう傍観を続ける気はないらしい。

 あの女の亡霊を助けるためか。

 まるで足の裏にローラースケートでもついているかのように狂狂(くるくる)と周囲を回り、徐々に輪を狭めていく。

 迫ってくる〈七人ミサキ〉を警戒しながらも、御子内さんには一切の怯みもない。

 この程度の逆境、想定の範囲内だとでも言わんばかりに。

 

「―――速度を上げて回り込む? 多勢に無勢で? ふん、その程度の工夫でボクを仕留められると思っているのなら、キミたちはとんだ愚鈍だ」

 

 そして、御子内或子は吠える。

 

「キミたちのコンサートはここでおしまいだ。さあ、とっと終わらせてやる!!」

 

 足に車輪でもついているかのような異常な動きの七人組に対して、御子内さんは果敢に打って出ていった。

 

 



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女子高生は無敵らしい

 

 

 派手な衣装をまとった美少年たちが、くるくると御子内さんの周囲を回転する。

 しかも、その速度はかなりのものだ。

 円になり、時には八の字を描きながら、前後左右から同時に襲い掛かる。

 御子内さんは一対一が身上のレスラーなので、やはり大人数相手は不利らしく、嵩にかかって攻めたててくる亡霊たちを捌くので手一杯だ。

 おかげで〈七人ミサキ〉を操っているらしい女のところへたどり着けなくなっている。

 しかし、変だよね。

 数だけでいうと、あの女は()()()だ。

〈七人ミサキ〉は七という数を変じない性質の妖怪だと聞いていたから、どうしても合わない。

 どういうことなのだろう。

 

「ちぃっ!!」

 

〈七人ミサキ〉の一人が滑るように動いたまましゃがみ込むと、その背中を跳び箱でも飛び越えるようにもう一人が飛びかかった。

 トリッキーすぎる動きだった。

 陰に隠れられていたせいで、御子内さんの反応が遅れた。

 膝蹴りが顔面に浴びせられた。

 咄嗟に庇った十字ガードのおかげでなんとか直撃は喰らわなかったが、さすがの彼女もよたよたとたたらを踏んで退く。

 隙を見逃さず、異常なまでのチームワークを発揮して、またも〈七人ミサキ〉が殺到してきた。

 まずい。

 リングの結界がない以上、御子内さんはいつもよりも妖怪に対して不利な状態が続く。

 僕は急いでワイヤーを公園の樹に巻きつけながら、一刻も早く簡易結界を完成させるために走った。

 これができれば、少しでも御子内さんが優位に立てる。

 急ぎながら、でも、慌ててミスをしないように。

 特にワイヤーが絡んだりしたら、取り返しがつかない。

 僕は懸命にやるべきことをやった。

 それでようやく最後の一巻きを最初に刺した紙垂に行えばいいというところまで来た時、僕の位置と紙垂の位置の直線上を遮るように、あの白い服の幽霊女が浮かんでいるのが見えた。

 僕のことに気がついている様子はない。

 御子内さん―――というよりも自分の味方であるらしい〈七人ミサキ〉を応援するかのように手を挙げている。

 その後ろをすり抜けていかなければならない。

 遠回りはできそうもない。

 さらに後ろには高い壁があったからだ。

 あれを飛び越えていく余裕はない。

 ワイヤーの長さもそこまではない。

 要するに、あの幽霊女に気づかれないようにして行かなければ、御子内さんを助けられないのだ。

 僕は深呼吸をした。

 

 スー ハー スー

 

 勝負は一瞬。

 あの幽霊女の脇をすり抜ける。

 ただの幽霊とは思えない、バケモノの脇を、だ。

 一気に加速した。

 脇をすり抜ける……ために―――

 あえて、僕は前に出た。

 わざと幽霊女の視界を遮る。

 自分の応援する〈七人ミサキ〉の戦いというステージを邪魔された女の黒い眼窩に赤い灯が宿った。

 もしかして怒りの表現かもしれない。

 

『ホォゴォォォォ!!』

 

 哭いた。

 耳障りな奇声と背筋に突き刺さる氷柱が僕の動きを止めようとする。

 女が楕円を描く僕の走りに向けて、まるで氷を滑るような移動方法で近寄ってくる。

 人間の走りよりも遥かに速い。

 まともならば僕はすぐに捕まえられてしまっていたことだろう。

 だけど、僕は腕を振るう。

 何かに遮られたのか、『ギィエ!』と幽霊女が顔面を押さえた。

 効いた。

 やはり、邪悪な亡霊にはわずかだけど効果があったようだ。

 僕は手にしたワイヤーに感謝した。

 後ろを気づかれないように通り抜けるよりも、あえて身を晒すことでワイヤーの余剰部分を使い足止めする。

 その作戦が当たったのだ。

 幽霊女が怯んだすきに、僕は紙垂まで辿り着き、その柄の部分にワイヤーを巻きつける。

 そして、懐に納めておいた(ゴング)を鳴らした!

 

 カアアアアン

 

 簡易とはいえ、わずかでも結界が張られれば、御子内さんなら逆転できる。

 僕はそれを信じる!

 

「よくやってくれた! 愛してるよ、京一!」

「僕だって!」

 

 次の瞬間、御子内さんは一気に駆け抜けて手で相手の視界を遮ると、横に回り込んで跳びあがり回転した。

 異常なほどの跳躍力を利用した空中三段蹴りを放つ。

 紫電三連脚だ。

 宙に浮いたまま、三体の〈七人ミサキ〉を吹き飛ばした。

 そして、一体の顔面に右のハイキックが入ったと同時に、反対側から左のハイキックを入れる双龍脚。

 下がることで衝撃を逃がしきれない殺人技だった。

 流れるように、右脚で回し蹴りを放った後、くるりと回転し左脚でも旋のような回し蹴りを放った。

 これで合計五体の〈七人ミサキ〉が倒れていく。

 しかもまだ御子内さんの空中ダイスめいた回し蹴りのショーは続くのだ。

 亡霊の腐った頭では理解できないのか、呆然と立ち尽くす残りの二体の元へ前方宙返りをし、オーバーヘッドキックの逆に踵で額を斧のごとく割った。

 やや遅れて時間差で反対側の脚の踵がもう一体の額を鉞のように壊す。

 なんというバランスと跳躍力。

 ありえないほどの空中機動。

 ルチャドーラ音子さんのお株を奪うような烈風を巻き起こし、御子内さんが地面に降り立った時には、〈七人ミサキ〉はことごとく地に倒れていた。

 圧巻の十秒間だった。

 たったそれだけの時間で、これまで劣勢だった巫女レスラーは逆転してのけたのだ。

 簡易結界による力の平均化がここまで退魔巫女を助けるとは……。

 いや、違う。

 御子内或子という女の子が凄すぎるのだ。

 身体もさほど大柄ではない。

 パワーだってそれほどではない。

 だが、日本人らしいアジリティと高い技術と、そして培ってきた経験値が、彼女をここまでの闘士にしているのだ。

 

「―――さて、これで終わりだ」

 

 御子内さんはたった一人残った幽霊女に問いかける。

 

「キミの他人を思いやることもない、自分勝手なアイドルの追っかけはもうここでおしまいにしよう。これ以上は、やらせない」

 

 そして、前に出る。

 

「これが本物の〈七人ミサキ〉なら彼らは救えないけれど、キミの呪法程度のことならばまだ間に合うだろう。さあ、そろそろ現実に向き合うがいいさ」

 

 幽霊女の目の前で転んだかのように背中から倒れこみながら、なんとそのまま右腕で体を支え、バネのような逆立ち蹴りを放った

 見事なまでにアクロバティックな動き。

 あまりにも意表を突かれ、幽霊女はその蹴りを避けることもできずに顔面に受けて、背後に転がっていった。

 転がり続けながら、幽霊の身体は霞のように薄れていき、止まったときにはほぼ消えていた。

 倒れていた〈七人ミサキ〉に近づいてみると、どうやら全員無事のようだった。

 

「すぐに救急車を呼ばないと……」

「うん、最初の方のこの呪いにやられた男の子はもう無理かもしれないが、なり立てならばまだ助かるかもしれない」

 

 ……あんな状態になっていて、一人でも助かるというのならばそれはとても運がいいことかもしれない。

 僕はすぐにスマホで渋谷の消防局に助けを求めた。

 

 

          ◇◆◇

 

 

「―――ボクの連絡を受けたこぶしが、あの幽霊女の住まいをつきとめたらしい。ついでに拘束もしたそうだ」

 

 翌日、僕らは近所のハンバーガーショップで昼ごはんを食べていた。

 昨日の一個千円に比べるとあまり美味しくない。

 かわりに安いだけあって、御子内さんはすでに五個目という超スピードだ。

 彼女としても珍しい健啖家ぶりである。

 ただそれには理由があるのだ。

 

「あの女性(ひと)、生きていたの? 生霊ってこと?」

「そうだね。元々岡山だかの出身であの辺りの修験者の血筋らしい。山伏といったほうがいいかな。彼女自身はその道を歩まなかったが、先祖にはかなり名の知られた修験者がいて、しかも術者として有名な家系らしい」

「それがどうして、あんなことを?」

 

 御子内さんは六つ目を口にしてから、

 

()()()というのは使い魔のことでもあってね、どうも呪法を用いて相手を呪う家業にもついていたそうだよ。で、あの女もその手ほどきは受けていた。それを使って、七人の少年を〈七人ミサキ〉もどきにしたらしい」

「なんのためにさ」

「あの格好を見てわかっていると思うけど、あれは彼女の趣味の限りを尽くして作られたアイドルユニットだったんだよ。就職でこちらに上京してきた彼女は、とあるアイドルの追っかけになり、何十年も過ごしているうちに自分だけのアイドルを作ることを思いついた。そのために、街で見掛けた美少年を呪詛で絡めとり、自分だけのものにしたというわけさ。ただ、もどきとはいえ〈七人ミサキ〉と接するためには自分も生霊の状態にならねばならず、ああいう姿で応援していたとことらしいよ。昼間は適当な場所に隠しておいて、夜になったら呼び出してコンサートをさせていたっぽいね」

 

 なるほど、だから遠藤拓海の部屋にいたのか。

 

「ちょっと待って? 何十年?」

「ああ、あの女の実際の年齢は四十五歳。独身で、婚姻歴なし。徹底的なぐらいに男性アイドルにいれこんでいたみたいだ」

「―――そうなんだ」

 

 えっと、あまりにいたたまれなさ過ぎて怖いぐらいだよ。

 

「ちなみに、どうしてそんなことがわかったの?」

「京一が()()()というので、嫌々電話した音子がね、意外と〈七人ミサキ〉についても調べあげていてさ。―――あの〈七人ミサキ〉で、長宗我部元親の怒りをかって切腹させられた吉良親実とその家臣の話をしたよね。それについて、家臣が七人だったという説があるんだ」

「でも、それだと数が合わないよね。吉良とその家臣七人で八人だから」

「そこだ。つまり、〈七人ミサキ〉というのは、もともと七人と一人の組み合わせだったと考えられるんだ。ところが広まるうちに、表に出る七人だけがその名のとおりに〈七人ミサキ〉として認知されるけど、本来の主たる一人は消えていった。あの女の使った呪法もそれになぞらえているんだ。要するに、主たるものは勘定に入らず、使役される七人だけが〈七人ミサキ〉となる。七人という数が変えられないのは〈七人ミサキ〉呪法の発動条件なんだよ」

「逆にいえば、〈七人ミサキ〉を倒せなくても主たる一人を倒せば止められるってことかな?」

「そうなるね。だから、ボクは何よりもあの女の方を狙ったんだよ。でも、うまくいって良かった。遠藤拓海以外にも三人助かったからね」

 

 あとの三人は、あまりにも〈七人ミサキ〉とされていた期間が長かったからか、衰弱が激しく病院で命を引き取ったそうだ。

 だから、完全に犠牲者を出さずに済んだわけではない。

 御子内さんがやけ食いしているのはそのせいである。

 とはいえ、君にはなんの責任もない。

 合コンの時のちょっとした雑談から、あんな恐ろしい企みをつきとめて人助けができたのは御子内さんの手柄であって、罪ではない。

 君がいなければ遠藤拓海だって死んでいたのだ。

 

「……以前の少女〈七人ミサキ〉との関係はわかったの?」

「そっちについては不明。ただ、90年代にも似たような呪法をつかったやつがいたかもしれないとこぶしは言っていたよ。ボクも同意見だ」

 

 しかし、世の中には恐ろしいものがあるもんだ。

 だからこそ、それに対する御子内さんたちのような存在が必要なのかもしれないけど。

 

「……自分だけのアイドルか。アイドルって偶像のことだけど、手に入らないからこそいいのかもしれないね」

「確かに」

「まあ、僕たちみたいな()()()()()()は合コンで彼女を見つけるぐらいが一番いいんだろうね。最初からアイドルは手に入らないものと諦めてさ」

「―――ん? もしかして京一は彼女を見つけるためにあの合コンに来たのかい? なんて女好きなんだ。そういえば鼻の下を伸ばしていたよね。ボクが目の前にいるってのに。ボクの友達のきららとかゆきとかに色目を使う気だったのか!? 不潔な!」

 

 あれ、もしかして君さ。

 自分が僕を騙して呼び出したことを忘れたの?

 なんで、僕が喜々として参加したような感じになってんの?

 

「あのね、ちょっと待って!」

「うわ、最悪だ。なんていうスケコマシ。女の敵だね!」

 

 自分で勝手に決めつけて、勝手になんか怒り出した御子内さんをどうしてやろうかと考えながら、僕は手元のコーヒーを飲み干した。

 まったくもう!

 女子高生は扱いづらいったらありゃしないよ。

 

 ……それが例え御子内さんであったとしても!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第15試合 猫耳藍色
神速のサウスポー


 

 

 その少女の拳闘(ボクシング)は、まるで舞踏(ダンシング)だった。

 

 小刻みなリズムを刻むフットワーク、軽やかに揺れて的を絞らせないウェービング、機械のように精確なコンビネーション……。

 そして、何よりも伸びきった左ストレートの美しい形は、まさにサウスポーの目指すべき夢そのもの。

 普段は酒をかっ食らいながら、罵声を飛ばし、札束を握りしめて、拳闘(ボクシング)という競技を冒涜してやまない下劣な男たちが眼を眇めながら見惚れてしまうほどだった。

 相手をしているのは、元女子プロレス出身の大柄な二十代の選手である。

 ボクシングというよりも、力任せに腕を振り回しているだけにしか見えない低い技術しかないが、その一発一発に込められた破壊力(パワー)は外野にも想像がつく。

 なにしろ、上半身と下半身の筋肉がまるで鋼鉄のようなのだ。

 プロテインとステロイドを使ってようやく作れるかもしれない、そんな危うさしか感じ取れないほどの筋肉の塊。

 だが、いみじくも古典的な戦いの言葉にあるように、当たらなければどうということはない、のだ。

 元プロレスラーの再三にわたるテレフォンなパンチを、夢の少女はことごとく躱していく。

 そもそも、最初に音を出してから今までにゴングは三回ほど鳴り響いていたが、その期間に一度でも触れさせたこともない。

 すべて軽妙なフットワークと身についた回避技術で避け切っているのだ。

 時折、右ジャブが放たれるが、その度に元プロレスラーは突進しようとする出鼻をくじかれ、起死回生の無理矢理なラッシュに持ち込むこともできない。

 攻撃をすることなく、神業的なディフェンスのみで試合を進めるというのは、ある意味では臆病者(チキン)のやることだと言われかねないのに、少女に対しては誰も文句を言おうとしない。

 それが彼女の戦い方であると同時に、奇跡的なまでのボクシング技術の精髄を()()()()()()ことが観客を喜ばせるのだ。

 

「ふん!!」

 

 元プロレスラーの必死のハンマーパンチが空を切った。

 少女が顔を少し下げたことで目標を喪失したためだ。

 空振りは肉体的疲労を早める。

 無意味なことだからだ。

 そして、がら空きになったボディに一撃が入った。

 左の抉り取るようなボディブローだった。

 

「げふっ!!」

 

 息を吐いた直後のボディ攻撃は肺が広がっているので、腹筋が緩み、ダメージがさらに倍増する。

 いかに堅い筋肉の壁を誇っていても内臓の非随意筋までは鍛えられない。

 怯んだ直後に、少女の右がくいっとわずかに上を向いて撃ち抜く。

 元プロレスラーの顎にわずかにかすった。

 ()()()()()()()

 しかし、観客たちはその一瞬を見逃さなかった。

 ボクシングを知るものならば誰でも知っている顎先への攻撃の結果を。

 よたよたと大柄な女の足元が頼りなく揺れる。

 倒れそうになった自分をなんとか踏ん張ろうとしているのだが、顎先に受けた一撃によって梃子の原理で揺れた脳がそれをさせてくれないのだ。

 古来、ボクシングをするものにとって顎は何よりも致命的な急所である。

 ゆえにそこを守りきるために、様々なガードとディフェンスが編み出された。

 元プロレスラーとてそれはわかっていたのだが、あんなに容易く撃ち抜かれるとは思ってもいなかったのだ。

 それでもなんとか持ちこたえようとした瞬間、サウスポーの少女が飛び出した。

 これまでの消極性をかなぐり捨てるテレポートのような前進(フロントステップ)を見せて、右肘が引かれ、腰が螺旋を描き、視線はそのまま、左肩が平行線を過たず移動し、スナイパーの放つ弾丸のように一直線に伸びて、左ストレートが爆発する。

 この試合で少女が放った、本気のパンチはこれ一つといえた。

 だが、放てば決まるのが必殺ブロー。

 ギャラクティカ・ファントムめいた派手さはないが、抜き打ちの刀のような切れ味鋭いパンチであった。

 観客席で唾を飲んで戦いの行方を見守っていたむくつけき男たちの歓声が鳴り響いた。

 顔面に左ストレートを受けた元プロレスラーが膝から崩れ落ちたからだ。

 ここ最近では、ほとんど見られない一発KOシーンが起きたのだ。

 レフェリーが止めに入ることもない、この裏の賭けボクシングでもひどく珍しい光景だったが、この少女の試合ではよくあることだった。

 男たちは力の限り叫んだ。

 飲んでいた酒のことさえも忘れるほど。

 またも、彼らのアイドルが見事な勝利をつかみとったのだ。

 しかも、元プロレスラーとのウェイト差は七階級以上あるだろう。

 一階級あがるだけでパンチ力の差が激増するというボクシングにおいて、そんな無差別級の戦いが存在することはまずない。

 それが見られるだけでも希少な体験だというのに、プロでも少なくなったKOまで見られるなんて……。

 熱狂の渦は止まらず拡大し続けた。

 この小さな倉庫跡に作られた薄汚く暗い照明のついたリングでの奇跡としては最大限のものを見られて男たちは満足しきっていた。

 

 さすがは俺らのチャンピオン!

 やっぱりあんたは最強の女子ボクサーだ!

 愛してるぜ、俺たちの巫女ボクサー!

 

 リング上からは試合を終えた少女がタオルを被ったまま、軽く手を挙げて観客の声に応えていた。

 彼女の動きと技はまさに洗練されたボクサーそのものであったが、その格好はというとあまりにもボクシングとはかけ離れていた。

 上半身には両袖のない白い木綿の着物、首元には下に着ている襦袢の赤い襟がある。下半身は膝の上あたりで断ち切られてはいるが、同色の紐で結わえられた緋色の袴を履いていた。

 足元こそボクサー用のリングシューズであったが、それ以外は巫女のコスプレそのものの異装である。

 数か月前、彼女が初めてリングに上がった時、すべての観客は彼女を口汚く罵った。

 もともとこの非合法の賭けボクシングにおいて、女子の試合は赤裸々なド派手なランジェリーをつけて、色気たっぷりの女性たちが戯れるだけのショーでしかなかったのに、露出の少ない巫女装束なんてものを着ていたからだ。

 しかも、相手もいかにも本物の色気のない女子ボクサー。

 真面目に観ること、まして金を賭けるなんてこともしたくなくなる詰まらなそうな試合だった。

 ―――のはずだった。

 だが、その試合において、巫女装束の少女の圧倒的なまでのボクシング・テクに魅せられた男たちは、それ以来彼女のことをアイドルとして崇拝に近い感情を抱き続けることになる。

 ボクシングを観る事よりも、賭けの結果だけにしか興味が湧かなくなっていた元々の拳闘ファンの魂をがっちりと掴んだ、美しい本物のリアル・ボックス。

 もう一つ、ややおかしな点もないことはないが、それを無視してでもファンを魅了するにはまったくの問題がなかった。

 

 ……そして、いつしか観客は彼女のことを〈巫女ボクサー〉と呼んでいた。

 

 

       ◇◆◇

 

 

「彼女が、御子内さんのお友達?」

「うん。退魔巫女の道場で一緒に修業した同期だよ」

「……えっと、レスラーじゃないんだ……」

「ん? ああ、あいつはボクの同期でも珍しく、退魔の方法にボクシングを選んだ変わり者なんだよ。なんでもお父さんの影響だと言っていたけど」

 

 へー。

 ただでさえ、妖怪退治にプロレス技を使う変な人たちだと思っていたのに、中にはああいうさらに変わり種もいるのかあ。

 ……なんというか御子内さんと知り合って以来、僕の人生観は多大な修正を迫られてきたが、今回のことでまたさらなる変化を求められそうだった。

 なんといっても今度はボクサーが登場したからである。

 あえて言うなら彼女は〈巫女ボクサー〉かな。

 さっきから歓声を上げ続ける賭けボクシングの観客たちも、「巫女ボクサー、愛してる、ラララ~♪」なんてチャントを歌い続けているし。

 

「巫女ボクサーなんて俗な名だ。ボクだったらB.B.(バーニングブラッド)とか名付けるところだよ」

「―――うん。捻りが効いていていいかもしれないね」

 

 こういう時にあまりツッコんでもいいことはあまりない。

 ぶっちゃけ御子内さんのセンスもたいして最新じゃないから。

 

「でも、退魔巫女がこんなアンダーグラウンドの世界で賭けボクシングに出ているっていうのは、どんなものなの? 妖怪退治以外に色々してはいけないイメージがあったんだけど……」

「確かに表向きは禁止されているよ。こういうのは巫女の道に外れるからね。まあ、理由があればそんなに目くじらをたてられたりはしないんだ」

「理由って?」

「―――さあ、それは藍色(あいろ)に直接聞かないとわからないね。ただ、あいつはホントに真面目な堅物だから曲がったことではないと思う」

 

 御子内さんは、あの巫女ボクサーについて相当の信頼を抱いているらしい。

 音子さんたちに対するよりやや堅い印象があるけれど、言葉の端々にそういう強い想いが感じられる。

 要するに、親しくはないけれど同じ仕事に就く同僚としては抜群に信頼できる、とかそんなところだろう。

 まあ、レスラーとボクサーだから水と油かもしれないね。

 

「さて、会いにいくとするか」

 

 御子内さんはスカートを翻して、倉庫の裏手にある参加選手の控室に向けて歩き出した。

 こんな酒臭い胡散臭い賭博会場を女子高生が制服姿で歩くというのはとても違和感がある。

 こういう場所だと聞いていたので、ややくたびれた背広を着て、髪型をオールバックにまでした僕の苦労は報われそうもない。

 途中で主催者のスタッフらしいどうみてもチンピラみたいな連中とすれ違っても、御子内さんは気にもしないで進んでいく。

 おかげで奇異なものを見る目を向けられはしても、咎められることもなく控室まで辿り着いた。

 

「こういう時はね、堂々としておくのさ。むしろ怪しすぎるぐらいの方がいいぐらいだよ」

「そんなものなの?」

「ボクなんていつも巫女服だけど職質されたこともないぐらいだ。常に堂々と生きているとそれは警察にも伝わるもんだね」

「……」

 

 きっと違うと思う。

 

「おーい、藍色(あいろ)ー。ボクだよ、或子だ。入るよ」

 

 選手控室という看板のついた部屋の前で、御子内さんが声を上げた。

 しばらくすると、中からドアが開いた。

 

「……或子さん?」

 

 先ほどまでリングで激戦を繰り広げていた女の子が眼をぱちくりしながら顔を出した。

 シャワーを浴びていたのか、髪が濡れている。

 ただ、水で濡れているせいで彼女の外見における際立った特徴がさらに顕わになっていた。

 

 ぴょこん、ぴょこん

 

 綺麗に揃えられたショートカットで、いかにもボーイッシュな美少女なのだが、その頭には二つの特徴的な盛り上がりがついていた。

 人工的に造られたアクセサリーではなく、はっきりとした癖っ毛なのだ。

 だが、どう見ても僕にはその膨らみは、動物の耳にしか思えなかった。

 なんだろう……

 えっと……

 ネコミミ?

 

「久しぶりだね、猫耳(ねこがみ)藍色(あいろ)。―――まだ、色々と悩んでいるのかい?」

「―――或子さんにゃないですか。どうして、こんなところに」

「勿論、キミを迎えに来たのさ。いい加減、退魔巫女としての仕事に戻ってもいい頃だからね」

「……はいにゃ?」

 

 彼女の名前は、猫耳藍色。

 ネコミミと美しすぎる拳闘技術を備えた退魔巫女。

 ……不撓不屈の闘志を持った努力と根性の巫女ボクサーである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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猫耳藍色は巫女ボクサー

 

 

「立ち話もにゃんだから入ってください」

 

 シャワーを浴びたばかりで、シャンプーと石鹸の香りのする控室に僕らは招かれた。

 元々ついていたものではなく、レンタルされているボックス型のシャワールームがついているようだ。

 あとは、まったく物のない殺風景な場所だった。

 淡い白色灯に照らされた、湯上りの藍色さんは妙に色っぽい。

 雰囲気がやたらと落ち着いているのだ。

 なんだろう、仕事に疲れたアラサーOLのような気怠さも感じるし。

 正直なところ、さっき、彼女が咄嗟に口にした「にゃ」とかいう、普通にやればあざとい口癖がなければとても御子内さんたちと同い年には思えない。

 あと、名前の通りのネコミミっぽい癖っ毛か。

 試合のときに着ていた巫女装束ではなく、シックな色合いのサマーセーターとサブリナパンツが大人っぽい。

 しかも、大きな金の輪っかのイヤリングと軽く塗ったルージュがアダルトな印象を増している。

 少し驚いた。

 さっきのリングの上でのイメージからすると、クールでストイック、そして質素なタイプに思えたのだが、私服姿は極めてお洒落だ。

 さらに言うと、女子力が物凄く高そう。

 女子力なんてご飯と一緒にムシャムシャ食べてしまいそうな御子内さんたちと比べると、五歳ぐらいは年上に思える。

 

「私に……何か、用にゃの? 或子さん―――」

 

 語尾までが妙にアンニュイだ。

 まるで普段からトロピカルドリンクを飲みながら、リゾートホテルで水着のまま昼寝でもしているかのように。

 もしくは薄暗いスナックのカウンターでシガレット片手にバーボンを飲んでいるかのような。

 どういうことか、僕の頭の中はそんな退廃的で煽情的な想像が止まらないのだ。

 なんだろう、この女の子は?

 色気の塊か。

 思わず、僕は自分が童貞のせいだからだろうかと自問自答してしまうぐらいであった。

 もっとも、御子内さんはそうでもないらしい。

 一緒に訓練していたから慣れているせいだとは思うけど。

 

「キミへの用なら一つだよ。次の東京オリンピックが決まってから、関東一帯では妖怪だけでなくて、今まで音沙汰のなかったオカルトや都市伝説の類が活発化しているんだ。多分、関東の土地神たちがさらなる再開発があるかもと怯えているからかもしれない。……人手がいる。しかも、一騎当千の強者(つわもの)が」

 

 御子内さんに言わせると、ここ一、二年の妖怪の活動回数は異常なのだそうだ。

 それだけでなく、かつては存在しなかった都市伝説から生じた妖魅や力を増した悪霊の働きも活発化する一方だという。

 御子内さんと僕の妖怪退治がやたらと多いのもわかる気がする。

 同じ状況はかつて昭和に開催された東京オリンピックでもあったらしく、すわその再来かと警戒されているらしい。

 だから、戦力として計算できる退魔巫女の確保は重要なのだという。

 そして、目の前にいる彼女―――猫耳藍色は活動していない退魔巫女の中でも特に必要な人材だという話であった。

 

「……無理ですよ。わたしはもう退魔巫女の稼業からは足を洗っています。にゃにがあっても、妖魅退治には戻らない」

「どうあってもかい?」

「だって、怖いじゃにゃいですか。見たこともにゃい異形や耳にしただけで怖気をふるう化け物たちと拳一つでやりあうにゃんて。もう勘弁してほしいんです」

「ふん。あの、〈聖拳〉とまで謳われた猫耳藍色が気弱になったもんだ。そんなんで生きているのは辛くないのかな。ただ無為に老いていくだけだよ」

「誰しもがあにゃたのようにゃバトルジャンキーではにゃいんです。人には分というものがあって、わたしには場末で朽ちていく愚かにゃ女の役が似合うんです。そよぐ風と湿った土を友にしてね」

「ボクには愛と勇気以外にも友達はいるけど、キミにはもういないってのかい?」

「そうです」

 

 二人はシリアスに会話しているのだが、時折混じる「にゃ」とか意味不明の言い回しがさっぱりわからない。

 かといって噴飯するほどでもないし、思わず失笑してしまうほど面白くもない。

 極めて訳のわからない会話だ。

 御子内さんも調子がズレているという感じではないし、いつもこんな会話をしていたのか、この二人は。

 よく考えてみると、まるで二匹の猫が口論しているように見えなくもない。

 藍色さんは見事なまでに猫そのものだが、御子内さんだってよくよく観察してみると猫っぽくないか。

 まあ、どちらかというとシャム猫のような藍色さんに比べると、イリオモテヤマネコ(ヤマピカリャー)っぽい獰猛さがあるけど。

 

「それにしては、こんなところで賭けボクシングに出場()ている理由がわからないね」

「……退魔巫女であることは止めても、ボクサーであることは捨てられにゃいんです。あにゃたにだってわかるでしょう。染みついた色はどんにゃに上書きしても拭えにゃいんです」

「言い訳がすぎるね。それだけで月に一回も試合をしているのはとても多いんじゃないかな。例え、キミがボクサーとしてはほとんど打たれない天才的ディフェンスの持ち主であって、ダメージがほぼ累積しないとはいえ」

 

 すると、少しだけ藍色さんは口を閉じた。

 剣呑さはなく、ただ面倒くさそうに。

 聞き分けのない子供と口論するのを止めた教師のようでさえあった。

 

「もうかまわにゃいでくれませんか。わたしには、もうボクシングぐらいしかにゃいから仕方にゃく続けているだけで他にはやることもにゃいんです。ここにも、もうこにゃいで欲しい。気が散ります」

 

 そういうと、僕らを置いて、藍色さんは控室を出ていった。

 荷物の入ったバッグを手にしていたから、今日はもう戻ってこないだろう。

 仕方なく、少し遅れてから僕らも外へ出た。

 来訪者が珍しいのか、他の選手がこちらを観察しているのがわかった。

 その中にはさっき藍色さんの左ストレートの一撃で沈んだ元女子プロレスラーの顔もあった。

 彼女も試合が終わると鬼の形相がなくなって、ごく普通のお姉さんのようであった。

 

「……藍色はね。退魔巫女としての一歩を踏み出した最初の頃に、酷い敗北を経験してね」

 

 駅までの道すがら、御子内さんがぽつりと呟いた。

 僕に語り掛けるようだったけど、どちらかという独り言に近いニュアンスだった。

 

「なんでも地面を這い、影から影へと移動する妖怪だったらしい。詳しいことは知らないけど、そいつに藍色は負けた」

「あんなに強いボクサーの藍色さんが?」

「ボクサーだからだね。足元を動く相手には不利なんだよ。マッチアップが悪すぎたってこともあるけれど、それで藍色は自信を喪失したらしい。元々、あいつは生真面目すぎるほど生真面目だから。まったく、ボクサーって人種はだいたい偏屈で気分屋で度し難い連中ばかりなのさ」

 

 必死に悪く言っているけど、音子さんあたりに対するものよりもずっと柔らかい物言いだった。

 実際、物凄く心配しているのだろう。

 さっき元気に試合をする姿を見るまで、とてもそわそわしていたぐらいだし。

 

「御子内さんのツンデレ芸も大概だけどね」

「だ、誰がツンデレなんだい!? 変なことを言わないでくれ!!」

「そうだね。で、どうするの?」

「うーん、なんとかしてあいつを現役に復帰させたいのはやまやまなんだけど……。―――仕方ない、赤鬼作戦でいくか」

「御子内さんが青鬼役をやるの? キャラにあっていないから無理はしない方がいいと忠告させてもらうよ」

「な、なんだ、その言い草は!? ボクの作戦を隅から隅まで理解したような気分になるのは止めてくれ!!」

 

 だって、そんな定番の作戦しか浮かばないじゃ、誰にだって先読みされちゃうじゃないか。

 なんだか必死な彼女をさておいて、僕も頭を捻る。

 確かになんとかしてあげたいのはやまやまなんだけど……。

 

 やさぐれた猫のような巫女ボクサーのために、何か僕らにできることはないだろうか。

 

 

 

 



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於駒神社の境内で

 

 

 しばらくして、僕は〈社務所〉の指導員もしているという不知火こぶしさんに紹介してもらった中野の神社に向かった。

 中野といっても、中野ブロードウェイのあるJR線沿いの中心街ではなく、やや離れた場所である。

 最寄駅は東京メトロの中野新橋だと聞いていたのに、実際にはもっと中野富士見町寄りでだいぶ歩くことになった。

 しかも、この辺りは路地が入り組んでいて意外と迷う。

 とはいえ、目的地に辿り着くのは容易かった。

 頭上を三本脚のカラスが飛んでいたからだ。

 八咫烏―――御子内さん風にいうのならば、八咫烏(プロモーター)である。

 

『モウスグダゾ、小僧』

「とりあえず、僕は二度と鳥のいうことを鵜呑みにしないことにするよ」

『鵜ニ失礼ナヤツダ』

「所詮、鳥さ」

 

 しばらく行くと、高校らしい建物と運動場を横目に通り過ぎ(びっくりした。アメフトをやっているよ。区内の学校は都下とは違うね)、坂を下って行った先に今度は石段があった。

 それほどの高さはないが、都心の住宅街にあるものにしては珍しいかも。

 鳥居を潜り抜けて登りきると境内があり、それなりに緑が豊富だった。

 奥には拝殿がある。

 だが、そこまで行く必要はなさそうだった。

 ここまで訪れた目的の人物が境内のゴミを竹ぼうきで掃いていたからだ。

 地味な白衣と緋袴と草鞋を履いている、ごく普通の巫女の身支度だった。

 普段から巫女レスラーと一緒にいると、彼女たちの改造巫女装束に慣れ過ぎてしまい、どうも感覚が偏ってしまっていたけれどこれが普通だよね。

 地味だけど清楚でいかにも神職という趣きがある。

 でも、この女性(ひと)だっていざ戦いとなったら脇丸出しのあんな派手なスタイルになるんだから、根っこのところでは同類なのだろうけど。

 

「あら、この間の」

 

 玉砂利を踏む音のせいで接近はすぐ気づかれた。

 あの薄暗い倉庫で見た時と違い、明るい陽の当たる世界での彼女―――猫耳藍色(ねこがみあいろ)は別人のように思えた。

 退廃的な雰囲気といっていいものを身にまとっていたはずなのに、今日はこの神社の静謐で荘厳な風景に溶け込むような可憐さだ。

 古めかしい神社の境内にまぎれても何の違和感もない。

 

「……どうにゃされたの?」

 

 藍色さん特有の「な」を「にゃ」とする口癖のおかげでなんとか我に返った。

 突っ込まねばという使命感を思い出したというか……。

 まあ、別に口には出さないけど。

 御子内さんと愉快な仲間たちに一々ツッコんでいたら身がもたないからね。

 

「いえ、この間とは感じが違っていたので驚きました。あ、御子内或子の助手を専属みたいな形で務めている升麻(しょうま)京一です」

「知っています。神宮女さんのTwitterやインストグラムにたまに映っている方でしょう? 或子さんの助手だったと明王殿さんに聞いて驚きました。てっきり、神宮女さんの彼氏だとばかり……。あ、わたしは猫耳藍色です」

 

 あれ、と思った。

 この人、同期の友達とは距離を置いていたはずなのに、SNSはチェックしているんだ。

 連絡も取りあっているみたいだし。

 

「八咫烏もいますね……。あれが升麻さんをここに連れてきたんですか」

「退魔巫女が奉職している神社には人払いの弱い結界が張ってあると聞いたんで、あいつの道案内が必要だったんです。僕はただの一般人なので」

「はて」

 

 じっと顔を見られた。

 まさに凝視された。

 ピコピコと彼女の頭頂の癖っ毛が動いた……ような気がした。

 まさか、本物のネコミミとかいうオチはないよね。

 

「ただの、というにはかにゃり変わった顔相の持ち主のようですけど。まあ、そうでにゃければ()()()()()()の助手はできませんか……」

「確かに色々はありましたけど」

「色々という範疇で括っていいレベルではにゃいと断言できますよ。同期だったというだけで、わたしたちもだいぶ彼女に引っ張りまわされましたからね。あの子と付き合うということは尋常でにゃい苦労を背負うということと同義です」

 

 御子内さんがいかにトラブルメーカーであるかについて語っているときも、あくまで気怠げな藍色さん。

 徐々に縁側で日向ぼっこをしているポンコツな猫に見えてきた。

 

「……それで、わざわざわたしの実家にまでご足労していただいたみたいですが、どんにゃ御用ですか?」

「実家、だったんですか?」

 

 ちょっと驚いた。

 まさか、この静謐な場所が彼女の家だとは……。

 そういえばよく退魔巫女たちが実家云々と言っているのはこういうことか。

 まあ、実家が神社でもないと退魔巫女になったりはしないかも。

 

「ええ。〈社務所〉の巫女は由緒ある神社の娘であることが多いのです。この於駒(おこま)神社は江戸時代初期に建立されたそれにゃりに古い神社ですね。わたしはとりあえずの跡取りです」

「そうなんですか……」

「於駒神社は、かつて佐賀の鍋島藩の当主である鍋島勝茂を襲ったという〈化け猫〉を祀るために建立されたと言われています。故に、拝殿にはその時に退治された猫の遺骸が納められているのですよ。寛永年間の出来事ですが、一般の方々はあまりご存知にゃいことでしょうけど」

 

 佐賀鍋島と言えば有名な〈化け猫〉の元祖みたいなところだ。

 僕でさえ知っている話だ。

 なるほど、だから跡継ぎの藍色さんはどことなく猫っぽいのか。

 うん、そうだ、そういうことで納得しよう。

 藍色さんが猫っぽいのは名前と生まれの両方のせいだ。絶対にわざとあざとい猫キャラを演じているのではないと信じよう。

 

「於駒というのは、その〈化け猫〉の名前です。一族の者に言わせると、実はわたしたち猫耳のご先祖様であるとかにゃいとか……」

 

 よし、確定。

 この人が猫っぽいのはご先祖様のせいだ。

 

「僕がここに来たのは、御子内さんには内緒です」

「あら、いいのかにゃ。或子さんが怒りますよ」

「仕方ないですね。実際、御子内さんたちが最近の妖怪や悪霊の多発に苦労しているのは事実ですし、なんとか藍色さんに復帰してもらいたいというのは本音です。ただ、彼女たちだとどうしても交渉が決闘になりそうなので」

「―――違いにゃいです。一対一の戦いには人生に必要であるものがすべてそろってますからねえ」

 

 欠伸をしながら、藍色さんは言った。

 よさそうなことを言っているけど、結局はバトルか。

 

「じゃあ、どうして退魔巫女に戻らないんですか? あそこではバトルに困らないのでは?」

 

 藍色さんは喉をくるくると鳴らす。

 どういう意味の仕草なのだろう。

 

「わたしが好きにゃのはボクシングだけ。あのたった数ラウンドのために、毎日毎日休まずに走り続けて、節制して、身体を動かして、弱点を潰していく作業がたまらにゃく好きにゃだけ。別に或子さんたちみたいに熱い戦いが好きじゃにゃいんです」

「だから、あの倉庫の賭けボクシングで満足だと」

「まあ、そうですね。あそこにいるのは駄目にゃオジサンばかりだけど、いつも休日には一般には見向きもされにゃい試合に足繁く通っているボクシング好きの集まりだし、賭けだけが楽しみって人は逆に少にゃいんです。実はボクシングが好きでたまらにゃい集いでもあるんですよ」

 

 なるほど、裏の狂った遊びのように見えて実のところ本質は違っているのか。

 だから、退魔巫女なんていうある意味では狂信的な正義に染まったところの出身である真面目な藍色さんが離れられないのかも。

 ただ、だったら、この前の女子プロレスラー上がりの人はどうなんだろう。

 ボクシングの好事家の集いにしてはおかしいよね。

 そこを変に思わないのかな。

 

「わたしはあそこで十分。或子さんたちには悪いけど、妖怪相手のきったはったは彼女たちに押し付けさせてもらいます。ああいうのはホントのところ趣味じゃにゃいんですから。―――じゃあね」

 

 そういうと、彼女はまた境内の掃除に戻った。

 そっけないけどわかりやすい拒絶だ。

 もうこれ以上は会話したくないというのがわかる。

 だから、僕も食いついたりはしない。

 だって、嫌がる女の子と話を続けるなんてパクチーでセロリを食べるぐらいに苦いことだから。

でも、僕には理解できたことがある。

 同時に対処法も。

 

「泣いた赤鬼作戦でもいいか……」

 

 たまには御子内さんの雑な作戦を採用してもいいかもね。

 

 

 

 



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合戦場にて

 

 

 裏の賭けボクシングは月に一度。

 三度の飯よりもボクシングが好きだという男たちが、力の入った試合を観るために集まってくる。

 試合に出る選手たちは、金のためであったり、殴り合いが好きであったり、ただ自己実現のためであったりと様々な理由を持っていたが、ただ真剣であるという一点では嘘をつかなかった。

 アングラが仕切っている以上、仕込みの為された八百長のおそれもあるが、そこは海千山千の客揃い。

 そんなイカサマの入る余地のない戦いで充実していたともいえる。

 賭けた大金をすって失った憎悪と、予想以上の配当を得た喜びとを混ぜ込みつつ、観客は自分たちの闘技場で戦う選手たちを愛していた。

 ただ、その日に限っては違っていた。

 男たちはある予感を抱いていたのだ。

 彼らの聖地を脅かす敵がくるという予感を。

 そして、それは的中した。

 

 敵がやってきたのだ。

 

 改造した巫女装束を纏った、最強の相手が。

 

 

       ◇◆◇

 

 

 僕たちがマイクを持ってリングに上がるのを、観客たちはいぶかしそうに睨んできた。

 この裏のボクシング会場、通称〈合戦場〉においてはこういう演出はあまりなされないからだ。

 だから、僕と全身に白いシーツのような布を被った正体不明の人物がマットに上がると、ざわついていた空気が一気に静まりかえる。

 何事かという感じなのだろう。

 シーツの怪人物の正体も気になるようだし、蝶ネクタイ用のウィングカラーシャツを着て、オールバックの僕はどう見ても高校生だ。

 自分の童顔がこういうときはホントに困る。

 でも、僕ぐらいしかこういう役をこなせるのはいないし、もう一人いるけれど別の仕事で忙しい。

 

「―――レディース・アーンド・ジェントルメン!!」

 

 仕方なくとはいえ、乗り掛かった舟である以上、最期まで道化役を貫き通すのがプロというものだ。

 僕はマイクを片手に声を張り上げた。

 この日のために練習してきた甲斐があった。

 

「この場に集ったボクシングファンの皆さま! 男同士に限らず、女性を含めた、拳闘の魅力に憑りつかれた紳士淑女の皆さま! 今宵この場では、皆さま方のために特別な試合を用意させていただきました!」

 

 身振り手振りを大きくして、あまりやったことのないジェスチャーまで交えて、観客たちの興味をそそるように振舞った。

 ちらりと横目で確認すると、意外と食いついているようだ。

 今のところ、この〈合戦場〉の主催者側が用意したショーの一環のように見えていることだろう。

 まあ、僕がこんな場所で MCをやっていても主催者側の黒服がやってこないのだから、胡散臭くはあっても、試合を盛り上げるための余興だとしか普通は思わないか。

 

「今宵、この〈合戦場〉に集ったボクサーは十人。それぞれの選手にかかったオッズはこちらになります」

 

 倉庫内の各所に用意された液晶画面に映し出されたのは、登場する十人のボクサーそれぞれへの賭けの倍率。

 それを見て、怒声に似た唸りが起きる。

 あまりにオッズが高すぎるからだ。

 彼らが応援して来た名の売れた選手たちに対するものとは思えない、まるでネッシーが発見される確率ぐらいに低すぎる評価なのだから。

 バカにされていると感じたとしても不思議はない。

 何よりも、彼らのアイドルでもある猫耳藍色についても、3.5倍という高すぎるオッズがつけられていることに彼らは憤慨していた。

 この〈合戦場〉で最高と言ってもいいサウスポーであり、最強の巫女ボクサーに3.5倍だと?

 ふざけるな!?

 そう彼らは憤っているのだ。

 気持ちは僕にもわかる。

 彼らの神経を逆なでるためだけにわざと設定した数値なのだから。

 

「なお、皆様方が賭けることができるのは当〈合戦場〉所属のボクサーのみです。こちらで用意した選手が勝てば親の総取り、今回に限って胴元の私どもは一切の控除はいたしません」

 

 なんという無茶苦茶な配当方法だろうか。

 これを考えたやつはバカに違いない。

 ……って、僕なんだけど。

 まあ、どのみち挑発が成功すればいいだけのこの場限りのザルな理屈なんだけどさ。

 ただ、観客は食いついた。

 ギャンブル場に入り浸り、酒を飲んで暴れることも厭わないゴロツキみたいな人たちだ。

 舐められることについては非常に敏感なはずだった。

 

「ざけんな、コラアアア!!」

「何様のつもりだ、ボケがあ!!」

「てめえ、〈合戦場〉のボクサー舐めてんのか!!」

「主催者出てこいや!! あんま舐めた真似すっと殺すぞ!!」

 

 ブーイングを通り越して罵声が狭い会場内を弾け廻り、僕目掛けて紙コップが飛んできた。

 イスとかが飛んでこないだけまだマシか。

 これだけ嫌われるというのはそうはない。まさに針の筵である。

 

「―――ご静粛に! ご静粛にお願いします! 皆様方のお怒りはごもっともです! ただ、一言だけ言わせてください! ただ一言だけ!」

「なんだ、このクソガキ! 殺すぞ、ワレ!!」

「言ってみろや、コラアアア!!」

 

 僕は努めて冷静な振りをして言った。

 

「……こちらが用意したのは、皆様方が愛するボクサーが束になっても敵わない、最強の選手なのですから、目ん玉ひんむいてとくと見ろや、コラアアア!!」

 

 もう最後には僕も売り言葉に買い言葉だ。

 おまえら、みんな黙らせてやる。

 こっちの切り札の実力を酒で爛れた脳みそに焼き付けてみやがれってんだ!

 

「万夫不当、天下無双、最強とはまさにこいつのためにある―――無敵の巫女レスラー・御子内或子とはボクのことだ!!」

 

 僕の仰々しい紹介アナウンスとともに、正体不明の人物が白いシーツを剥ぎ取った。

 リングの中央に現われたのは、白衣と緋袴、アームバンドとリングシューズといういつも巫女装束をつけた御子内さんだった。

 彼女はトップロープに脚をかけて、観客席を睥睨する。

 そして、重々しく宣言する。

 

「―――弱い犬ほどよく吠えるもんだね、あああん」

 

 いつもの可愛い顔が悪い笑みを浮かべる。

 あれが本心からだとすると、百年の恋も冷めるかも。

 苛立ちが頂点に達したせいか、逆に観客席が静まり返る。

 

「君たちが愛するボクシングは弱い! 何故か!? 教えてあげるよ! ボクサーはグラブをはめる! 蹴り技がない! 組み技がない! 投げ技がない! 極め技がない! だから、ボクのような完全な闘士にはかなわない! だいたい、殴るだけとかパンチだけとかありえないね。必殺技の一つもない闘技が存在していいはずがない! どうせだったら、ブーメランフックでも爆裂消球でも10センチの爆弾でも使えるようになってみればいいのに、それさえもできない連中なんてお話にならないね!」

 

 うん、一つだけ関係ないものがあるね。

 

「なんだと、このビクがあ! そっから降りてきやがれ!」

「ふざけるなっっ!?」

「犯して殺すぞ!!」

 

 もう観客の憎悪はピークに達していた。

 悪役ここに極まれりだ。

 御子内さんのキレ芸もたいしたものである。

 

「―――キミらじゃ、ボクの相手はできないよ! さあ、やってこい! この〈合戦場〉とやらのボクサーども! 一人ずつが怖いなら、十人まとめてかかってきてもボクは何の問題もないからね!」

 

 その視線の先に、どこからともなくスポットライトがあたる。

 会場の倉庫の隅の暗闇からこちらを窺っていた人たちを照らし出した。

 十人いた。

 男女の別なく全員がガウンを羽織って、手に自分用のグラブを持っている。

 凄まじい形相でリングの上の御子内さんを凝視していた。

 それはそうだろう。

 自分たちにとっての楽園かもしれない場所を土足で荒らされているのだ。

 許せるものではない。

 しかも、この会場はついさっき僕たちによって制圧され、あのボクサーたちは嫌々ここに引きだされたのであるから。

 観客用の入り口と選手・スタッフのための裏口を固めているのは、レイさんと音子さんだし、こぶしさんと熊埜御堂さんが得意の術で完全に主催者たちを抑え込んでいる。

 わざわざ呼び出してもらった〈社務所〉の禰宜さんたちまで動員しての、一大作戦なのであった。

 つーか、〈社務所〉の人たちって特殊部隊か何かなのかな。

 僕の適当な計画をここまで完璧に実行するのはちょっとおかしいでしょ。

 別に構成員ではないけれど、いつまでもつきあっていてはいけない組織な気がしないでもない。

 

「―――さあ、まず最初に御子内或子に挑戦する無謀な挑戦者は誰だ!? それとも〈合戦場〉などという大胆な名称はただのハッタリなのか! ボクシングとはその程度のものなのか!? この場に集った十人のボクサーの返答は如何に!?」

 

 もう口火は切られてしまったので、のっかるしか道はない。

 僕もやけくそ気味になってマイク・パフォーマンスでボクサーたちを煽った。

 本当はただ一人を本気にさせるだけの芝居なんだけど、もう始まってしまったものはしかいないしね。

 

「―――俺が行く」

 

 ちょっとあり得ないアフロの髪型の男性ボクサーが進み出た。

 アフロってだけで強そうに見える。

 最近ではサッカー選手でしか見かけないような、派手すぎる髪型であるが、アフロといえばかつてはチャンピオンのためのものといってもいい時代もあったのだ。

 彼は観客席からの爆発的な声援を受けて、花道を歩き、そしてリングに飛び乗った。

 視線には油断の欠片もない。

 彼にはわかったのだ。

 御子内さんの実力が。

 初見でそれだけを見抜けるほどのしっかりとした拳力の持ち主でもあるということだろう。

 そのまま、少しストレッチをすると、ファイティングポーズをとった。

 

「グラブを外してもいいんだよ」

 

 御子内さんの忠告をアフロは無視した。

 

「俺はボクサーだ。グラブを外す気はない」

 

 すると、御子内さんは浮かべていた悪い顔を可愛い微笑みに変えて、

 

「うん、それがいい」

 

 楽しそうに言った。

 

 カアアアアン!!

 

 誰かがゴングを鳴らした。

 僕は御子内さんの勝利を信じてリングから降りる。

 いきりたった観客のすぐそばまで行くのは怖いけれど、御子内さんの邪魔はできない。

 

 僕が背を向けたと同時に、巫女レスラーとアフロのボクサーの戦いは始まっていた。

 

 

 

 



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ファイターは生き様を変えられない

 

 

 アフロのボクサーはフットワークを用いてリングをぐるりと一周する。

 滑らかだ。

 ちょんちょんと飛んでいるだけのように見えるのに、なんてスピードなんだろう。

 しかも、挨拶代わりに繰り出されるジャブは適切な距離をとりつつ、ベタ足の御子内さんを近づけない。

 そもそも男のボクサーと女の子の御子内さんではリーチもパワーも違うってのに、あまり不公平さを感じないのは僕が彼女を良く知っているからだ。

 観客も最初のうちは違和感を覚えていたみたいだが、今となっては悪役となった御子内さんに罵声を飛ばすのも気にならなくなっているようだ。

 もっとも〈ぬりかべ〉やら〈手長〉やらといった巨大な妖怪と渡り合ってきた彼女にとっては、たかだか男である程度では怯むことさえない。

 他人が思っている以上に、これはハンディキャップマッチではないのだ。

 鋭いジャブを躱し、時折混じるストレートを叩き落す。

 パワーで押し切られることはない。

 さすがに当初は驚いたようだが、アフロもプロらしい。

 自分よりも小さい御子内さんを侮らずに倒しにかかっている。

 

「……御子内さんを警戒している」

 

 振り向くと、残りの九人のボクサーの端に隠れるように改造巫女装束の藍色さんがいた。

 きっとアフロは彼女の影を見ている。

 だから、だろう。

 男のボクサーが本気を出している。

 教本通りのアウトボクシングだが、コンビネーションは正確に御子内さんを撃ち貫こうと企んでいた。

 もし、これが普通の試合ならば僕も見惚れて歓声をあげていただろう。

 いや、逆だ。

 歓声はとっておいたか。

 御子内さんのために。

 アフロが仕掛けた。

 三回のジャブのあとに上体をスイッチし、豪快なフックを放ったのだ。

 仕留めるための必殺のフック。

 まともな相手ならば顔面を削り取られて気絶していてもおかしくない強烈な一撃だった。

 すべての観客もガッツポーズをとったかもしれない。

 しかし、次の瞬間には冷水をぶっかけられたように沈黙する。

 何がおきたか把握するのは難しかったはずだ。

 なぜなら、アフロの顔が一瞬ぶれたと感じたときには膝から崩れ落ちていたからだ。

 そして、その前には大木をぶち抜いたような右ストレートの姿勢を保った御子内さんがいる。

 必殺ではあったが、不用意なフックであったのだ。

 御子内さんがクロスカウンターを当てたという認識が浸透するのに時間がかかった。

 あまりにも見事なカウンター過ぎたのだ。

 アフロは舐めてはいなかった。

 だが、知らなかった。

 御子内さんが拳技においても図抜けた存在であるということを。

 アフロはマットの上できょとんとしていた。

 立ち上がろうとしても足がふらついて動かない。

 殴り合いでは最強のボクサーがただの一撃で撃沈するなんて信じられないのだろう。

 彼は百戦錬磨のはずだ。

 たかが一発の右ストレートで沈んだ経験はほとんど皆無だろう。

 しかし、もう立ち上がれない以上、勝負は決した。

 

「……まだやれる」

「次は俺だぜ」

 

 リング下にいつのまにかやってきていた、細身のモスキート級の選手がアフロの肩を叩いた。

 

「おまえ……」

「脚にきているじゃねえか。替われよ。俺もやってみてえんだ」

「―――バカが。強いぜ……おそらく」

 

 アフロはまだ御子内さんの強さを実感しきっていない。

 だから、もう少しやりたいのだろう。

 ただ、立てないのは事実なので二人は入れ替わった。

 

「待たせたか?」

「まさか。ワクワクしていたけどさ」

「……おまえ、藍色の同類か。道理で」

「やろうか」

 

 モスキート級の選手らしくさっきのアフロよりもさらに速い。

 パンチの重さはないかもしれないが、その分軽量で機動力に優れているのだ。

 さっきよりもリングを大きく使い、コーナー付近までも自在に操ってヒット&アウェイを多用してくる。

 まさに”(モスキート)”だった。

 ある意味では蔑称のような階級名だが、この階級の選手たちのあまりに素早い身のこなしを観れば実感できるだろう。

 蚊の動きも恐ろしいと。

 中央で棒立ちに近い、御子内さんをジャブの嵐に沈めようと襲い掛かってくる凶虫。

 どうする、御子内さん。

 

「シュッ!」

 

 モスキートが飛んだ。

 一気に流れるようなスパート。

 あの中に吸血の歯が紛れ込んでいる。

 御子内さんがそれに合わせてストレートを放つ。

 外れた。

 顔面にはあたらない。

 しかし、彼女の右手はモスキートの歯に絡みついていた。

 パンチの内側から絡みつくように御子内さんの細い腕が合わさる。

 

「ぐっ!!」

 

 何があったのかわからないが、モスキート級は腕を押さえたまま膝をつく。

 その眼には驚愕が浮かんでいた。

 彼自身は何をされたのかわかっているようだった。

 

「……折ってはいない。ただ、ちょっと筋を痛めさせてもらっただけだよ」

「俺のストレートに合わせて折ろうとしたのか……? まさか、猫耳以外にそんなことできるのがいるのかよ……」

「自分で言ってたろ、ボクは藍色の同類だ。あいつにできることで、ボクにできないことはそんなにはない」

 

 相手のストレートにカウンターを合わせることは、カウンターパンチャーならばよくやることだ。

 だが、その合わせた腕を折ろうと極めるなんてことはできない。

 今の会話からすると、実は藍色さんもあれができるらしいのが恐ろしいところだけど。

 やはり退魔巫女は普通じゃないのだ。

 

「さあ、次が出て来い。ボクはまだ疲れてさえいないんだぜ」

 

 アフロとモスキート。

 二人の並ではないボクサーをただの一撃で葬り去った化け物のような可愛い女の子が挑発する。

 すでにブーイングはない。

 あまりに凄まじい御子内さんの戦いぶりに魅入ってしまったからだ。

 この時点で余程頭の回転の鈍いものでもない限り、御子内さんの強さと彼女の挑発が演技であることに気づいていた。

 これほどの力を持つものがあんな安い挑発をする必要はないからだ。

 

「あたいがやるぜ」

 

 リングに上がったのは、この間、藍色さんにやられた元女子プロレスラーだった。

 

「グラブはつけないぜ。あたいはまともなボクサーじゃないからな」

「だったら、ボクも自分のスタイルで相手をしようか。言っとくけど、縛りがなくなったボクは強いよ」

「わかるぜ。あんた、藍色の友達なんだろ。だったら、強いに決まってら」

「ふん。あんな頭が堅いのと友達なんて認めたくないけどね」

 

 結局、友達なのは変わらないじゃないか。

 グラブをつけず、バンテージを巻いただけの女子プロレスラーは力比べの体勢のままジリジリと前進する。

 力比べに応じる御子内さん。

 サイズはだいぶ違うが、彼女の握力がまともでないのは知っているので、心配することはない。

 ガッチリと組みあった二人は、一気に相手に重圧をかける。

 互角だった。

 さっきのアフロほどではないにしても階級に差がありそうな組み合わせだというのに、御子内さんは平然と手を握り合っての力比べが続く。

 さすがに膠着状態が続くのは体力を消費するだけとみたか、御子内さんは跳びあがり、ドロップキックで女子プロレスラーを吹き飛ばした。

 二人は離れ、再び、双方ともに一気に詰める。

 がっちり四つに組みあった。

 御子内さんは回転し、袖がらみの勢いをもってアームホイップで投げ捨てる。

 プロレスのものと違ってテンションの堅いボクシングのリングだと投げられるとダメージが大きい。

 受け身をとらないとすぐに身体を痛めてしまう。

 女子プロレスラーは今度こそ、自分のテリトリーに入ってきた敵を倒すために身体を張る気だったが、その目論見はすぐに崩れた。

 彼女がプロレスラーであるように、御子内さんは巫女レスラーなのだ。

 むしろ、こちらの土俵の方が強い。

 数多くの妖怪と死闘を演じてきた御子内さんは、ただの人間のレスラーの相手は相当久しぶりのはずだ。

 いつもよりも愉しそうなのが見て取れるぐらいに。

 

「だっしゃああああ!!」

「でりゃあ!!」

 

 プロレス技の応酬を繰り広げる二人のレスラーを、ボクシングファンまでが固唾をのんで見守っている。

 彼らも惹きこまれていた。

 なんだかんだ言っても、広い意味での格闘技ファンなのだろう。

 この戦いの発する魅力に囚われてしまっているのだ。

 そして、最後に御子内さんが女子プロレスラーを抱え上げ、顔を太ももに挟み、頭からマットに打ち付けるパイルドライバー(しかも脚を正座するように折り曲げるツームストーン式だ)で決着をつけると、なんと拍手がまばらに起こった。

 さっきまで、全体に敵視されていたはずの御子内さんを応援する動きが出たのだ。

 空気が変わり始めた。

 すべてがは御子内或子という稀代のファイターの戦いぶりが招き入れたものだと思うと、胸が熱くなる。

 

「さあ、次は誰だい!? 十人すべてブチ倒してあげるよ!」

 

 今度の御子内さんの挑発に応えたのは、ボクサーたちの端でずっと沈黙を守っていた女性であった。

 

「―――わたしがやります」

 

 スポットライトがたった一人を照らし出す。

 演出過剰すぎるね。

 

「これ以上、このボクシングファンのための〈合戦場〉を荒らすというのにゃらば、如何に或子さんでも許さにゃい」

 

 瞳孔が縦に長い藍色さんの双眸に鬼気が宿る。

 本気だ。

 まとっている雰囲気さえも変化し、熱い風のような何かが倉庫内に吹いた。

 

「ジョートーだよ、藍色。さあ、ここまで上がって来い!」

 

 御子内さんの手招きに藍色さんが応じる。

 始まるのだ。

 今すぐに。

 

 ハイレベルなんてもんじゃない、巫女レスラーと巫女ボクサーのガチのセメント・バトルが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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VS巫女ボクサー

 

 

 リング上で向き合う、二人の改造巫女装束。

 片や素手、片やボクシンググラブと対照的だ。

 比較的オープンな構えをとる御子内さんに対して、藍色さんの構えはオーソドックスなアップ・ライト・スタイル。

 サウスポーゆえに左手が顎を守るように下がっているのが際立つ。

 だが、前回の女子プロレスラーとの対戦では最後には上体を屈めたフル・クラウチに移行していたので、スタイルを固定するというタイプではないようだ。

 僕の知っている限り、退魔巫女たちは一つのパターンに固執することもないので、アップ・ライト以外にチェンジしてくることは十分に考えられる。

 特にボクシングは攻防一体の基本がしっかりしている。

 何があってもすぐに構えに戻ってくるのはそのせいなので、意識的に変えられるとかなり厄介だ。

 

「……キミとやるのは久しぶりだね、藍色」

「二年ぶり?」

「あの頃とは絶対的に違うんだろ? でなければ、ボクの圧勝だ」

「ボクサーは毎日の研鑽を欠かさにゃいのが売りです。そして、研鑽は勝利へと繋がるにゃ。或子さんこそ、無意味な試合ばかりで楽をしていたのではにゃいのですか?」

「まさか。いつだってボクは意味のある戦いをしている」

 

 軽い挑発の応酬。

 ゴングが鳴っても二人ともすぐには動かない。

 この〈合戦場〉のルールでは、五分1ラウンド、それをずっと繰り返すということになっている。

 通常の三分よりも長いのは決着を早めるためだろう。

 最後はどちらかが立てなくなるか、KOのみということになっているのは、賭けボクシングでもあるからだった。

 通常のプロの興業のように判定のためのジャッジが用意できないので仕方のない面もあるが、それよりは殴り合いのカタルシスを引き出すためのものだと思う。

 ともに際立った技術とタフネスの持ち主であるボクサーなので、そうでもしないと決着がつかないというのはあるかもしれない。

 

「私がすぐにでてこにゃかった理由がわかりますか?」

「さあ」

「―――同僚たちが貴女の体力を削ってくれると信じていたからです。いかに無尽の体力と謳われた或子さんでも、少し足にキているはずです」

「なんのことか、わからない。ボクは最初と変わらないけど」

「この〈合戦場〉のボクサーを相手にして完全に消耗をさけられるということはありえません。いいハンデをもらいました」

「ハンデつきでいいのかい?」

「わたしが御子内或子を過小評価することは決してにゃい」

 

 藍色さんが前進した。

 ボクシングの魅力は軽妙な足の動きを中心としたスピード感にある。

 足でのフットワークを用いた機動力があるからこそ、相手のパンチをうまくかわして、自分のパンチを急所に命中させられる。その攻防を支えるのはなめらかな身体の動きとリズム感だ。

 こんな言葉がある。

 

「フットワークは、ボクシング全体の動きの六割を占めている。残りの四割はフットワークと手の動きをシンクロナイズさせたものだ」

 

 つまり、パンチングよりもフットワークが重要なのだということであった。

 藍色さんは見たところ接近戦が得意なパンチャーではなく、アウト主体のボクサー型のようだったのに、いっきに前進したことが驚いた。

 右のジャブが御子内さんの顔面を撫でる。

 当然、彼女は両手でブロックするが、いつものように即座に反撃に移ることができない。

 いや、やろうとはしているのに()()()()()()

 藍色さんはコンビネーションを使わずに右ジャブだけを連打するので、左のストレートを警戒して前に出られないのだろう。

 しかも、ジャブも一発一発が急所を狙う強い力を持っているようだ。

 その気になればジャブだけで敵を仕留められるほどに重い。

 退魔巫女の一撃の重さを知っている僕からすると、反撃を見越して用意されたカウンターが控えている以上、御子内さんが防戦に回るのも理解できる。

 ただし、そこで心が折れるなんてことは絶対にないのが彼女たちだ。

 わざとガードの一部を下げて誘った。

 罠とわかっていても隙を見逃すボクサーはいない。

 藍色さんの左ストレートが迸る。

 あえて作った隙に目掛けて飛んでくるストレートを、御子内さんはキャッチしようとしたが弾かれる。

 顔面をパンチが抉る。

 違う、頬を掠っただけだ。

 最接近した御子内さんはそのまま頭突きをかまそうとした。

 バッティングはボクシングでは反則なのだが、ボクサーでない御子内さんのタブーではない。

 だから躊躇なくいく。

 しかし、その頭は右手のグラブで遮られた。

 これは読まれていたのだ。

 右手を伸ばして御子内さんを引き剥がす。

 たたらを踏んでバランスを崩しているところを、一度引き戻した左手でショートフックで追う。

 ボディに入った。

 そのまま、ワンツーからのコンビネーション。

 咄嗟にガードを閉じてもそのまま力と勢いで藍色さんが追い立てる。

 速い、速い、速い。

 まさにボクサーの狩りだ。

 躍るような連打によって、御子内さんはロープ際まで追い詰められた。

 そこでも連打は止まらない。

 

「踊れ!!」

「舞え!!」

「マイマイ開始だ!!」

 

 観客が歓声を上げる。

 きっとこれは藍色さんの必勝パターンだ。

 アウトボクシングを主体とするくせにいざとなったらここまで激烈なラッシュをもこなす、まさにボクサー。

 無呼吸のまま必殺のパンチを放ち続ける。

 さすがの御子内さんが防戦一方―――になるわけがない。

 膝が上がった。

 蹴りではない。

 リングシューズの裏をロープの最下段に乗っけて、そのバネを利用して斜め横に飛んだ。

 一瞬のことなので、藍色さんの反応がわずかに遅れた。

 下方から切り裂く御子内さんの手刀が煌めいた。

 ただのチョップではない、まさに刃。

 藍色さんの白衣の襟をスパッと斬った。

 呼吸を整える頃合いと考えたのか、その反撃を機に一度藍色さんが下がる。

 御子内さんは追わない。

 さすがにさっきのラッシュで体力等を相当削られたのだろう。

 クラブ越しとはいえ、ボクサーであり退魔巫女の重い攻撃を受ければ骨にもくるというものだ。

 攻防そのものは地味だが、考えられた戦いと張り巡らされた罠の数々が見応えを与えている。

 いつもの御子内さんの敵である妖怪・悪霊の類いと違い、やはり考えて行動する人間相手の戦いは難しい。

 思考する敵というのはそれだけで恐怖なのだ。

 ゆえに、他人に舐められたくないのならば、常に裏がある相手と思わせるのが効果的であるらしい。

 まあ、御子内さんの場合は発想がとんでもないので常に意表をつけるというのがあるんだけど。

 

 カアアアン!

 

 いつの間にか、五分が終了していた。

 コーナーに戻ってきた御子内さんは珍しく荒い息をしていた。

 用意した椅子に座り、どっと疲れた顔をしている。

 

「大丈夫?」

「いいのはもらっていない。でも、これだよ」

 

 見せつけられた両腕は紫に染まっていた。

 あの連打のダメージだろう。

 

「さすがは藍色だね。まだ基本的な技しか使っていないのに、この様だよ」

「基本的な技って……。まだ、あれ以上があるの?」

「ないと思うかい?」

「―――思わないね」

「だろ? 少なくとも、退魔巫女の修行をしていた道場ではもっと色々と仕掛けてきていた。まだ、色々と隠しているのはわかる。この間のお綺麗なアウトボクシングスタイルの方がらしくない」

「やっぱり」

「ああ、ボクの同期の中で一番、技が美しいのはあいつだけどそれだけの女じゃない。せっかく、引きずり出したんだからもっと楽しませてやる」

 

 楽しませる。

 それが今日のこんな大騒ぎの目的だ。

 友達であることから、藍色さんの性格については音子さんたちもよくわかっているようだった。

 そして、口々に「試合やればいい」とか「戦ってみればいいだろ」とか言うのである。

 力づくで解決するのではなく、戦ってみて決めさせろという考えなのだ。

 どう違うのか甚だ難しい話だが、彼女たちからすると藍色さんは三つ子の魂百までというままにファイターなのである。

 ファイターとは戦わずにはいられない生き物で、もし藍色さんが何もせずに引退していたのならばともかく裏のボクシングで月に一度試合をしている状況ならば単にくすぶっているだけと介錯するしかないというのであった。

 僕としても大筋では納得できる。

 彼女はボクシングが好きなだけと言っていたが、本当にそれだけなのか。

 御子内さんに言わせると、「初志を忘れているだけさ」ということらしい。

 それを思い出させるために、わざとこんな騒ぎをしているのである。

 好敵手と合いまみえ、自分の力を存分に引き出すことの楽しさを思い出させればいい、そういう計画なのだ。

 

「妖怪が怖くなったとかじゃないの?」

「藍色だって人間だからそれはあるだろうけど、それなら実家の神社にもいられないはずだよ。退魔巫女の実家はなんだかんだ言って妖魔の標的になるからね」

「そっか。ただ、色々と見失っているだけなのかな?」

「だから、ボクの鉄拳で思い出させてやるのさ。あいつの身体の奥底で眠っている修羅を引き出すんだよ!」

 

 ……そんなものを秘めているのは君ぐらいのものだよ。

 というツッコミはやめておく。

 よく考えたら、退魔巫女はみんなそうだし。

 あのお気楽っぽい熊埜御堂さんですら、時折尋常でない殺気をだすしね。

 

「じゃあ、そのための準備をしよう。機会は一月後でいいかな」

「ああ、任せたよ、京一」

 

 そして、僕たちは今のこの試合の日を迎えたのだ。

 

「―――じゃあ、いくよ」

「ご武運をね」

 

 再びゴングが鳴り、二人の巫女が中央に集まり、互いの拳を軽く打ち付ける。

 少し距離をとった藍色さんの構えが変わっていた。

前にあげた右腕のガードを下げたのだ。

いわゆるヒットマンスタイルであった。

あれは速くてよけにくいジャブを打つためのスタイルだけど、通常は右をもらいやすくなり、サウスポーにも弱いと言われている攻撃的な構えだ。

しかし、それをサウスポーの藍色さんが使うとなるとまずい。

 藍色さんよりもやや小柄な御子内さんにとってはリーチの面で不利にもなるし、彼女にとっては腕を上げることによるスタミナの消費も避けられるメリットがある。

 手数をかける際には、戻す手を低くする方が速いという利点も。

昨今ではメイウェザーなどの海外の選手がオーソドックススタイルと切り替えながら使っているので有名でもあった。

そのヒットマンスタイルからのジャブが飛ぶ。

フリッカーというほどにはならないが、ボクシングの間合での人間の視界というものはへその位置から下は捉えられないらしく、何もない空間から急に拳が出現したように見えるらしい。

さすがの御子内さんが幻惑されていた。

あれが、藍色さんの切り札なのか?

第二ラウンドもまた藍色さんの優勢が続く。

まともにヒットこそされないものの、間合いに入り切れず、やけくそ気味の蹴りなどはほとんどかすりもしない。

 

そして、御子内さんが再びロープ際に追い詰められたとき、突然、巫女ボクサーの動きが変化する。

右手の甲だけが上になる握り方―――横拳に変わったのだ。

空手や拳法ならばともかく、ボクシングではあまりない。

パンチを放ったとしても、アップ・ライト・スタイルの構えからリストを回転させながら振り下ろすのでは力が伝わらないからだ。

手首の返しが効いていたとしても、相手にダメージを与えられない。

俗にいる猫パンチにしかならないのである。

 

「なんで!!」

 

 右ジャブから、顔を上から下へなでるように当たった左のパンチが御子内さんをダウンさせたのだ。

 あんな力の入っていなさそうな猫パンチでどうして!!

 

「御子内さん!!」

 

 僕の絶叫を、観客の歓声が打ち消す。

 遂に巫女ボクサーの隠し持った刃が牙をむいたのだと僕は悟った。

 



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衝撃の一撃

 

 

 何が起こったのかわからなかった。

 御子内さんがやられたのはただの猫パンチだ。

 腰が乗っていないだけでなく、力が入ってさえいなさそうな悪いパンチのお手本のようなものに、御子内さんがダウンを奪われた。

 

「なんで……?」

 

 僕が動転していると隣から、

 

「“震打”とか言ってたな、藍色は」

 

 という声がした。

 振り向くと、さっきリングに上がっていた元女子プロレスラーがいた。

 タオルを被っているので最初はわからなかったけど。

 リングでの試合中とは違って、優しそうで温和な顔をしている。

 

「震打……ですか?」

「ああ。あの猫パンチを打つとき、手首を捻るんだが、その瞬間に全身の筋肉と関節を硬直させて、打撃の力をすべて一点に集中するらしいぜ」

「そんなことができるんですか?」

「あたいだって、信じられなかったさ。ただ、実際に受けてみるとその通りなんだからしょうがない。藍色が言うには中国拳法の技をアレンジしたらしいけどな」

「ボクシング……じゃないですよね」

「あんたのところのアレだって、純粋なプロレスラーじゃねえだろ」

 

 確かに御子内さんは、巫女レスラーであって、プロレスラーではない。

 

「でも、どうして僕にそんな秘密を教えてくれるんですか?」

 

 すると、元女子プロレスラーは腕を組んで、にこりと笑った。

 

「友達を連れ戻すために、わざわざこんな茶番までやる連中にちょっとしたサービスだ」

「えっ……」

「あんたら、藍色をやる気にさせるためにこんなバカ騒ぎをしているんだろ。見りゃあわかるよ。藍色は強いけど、その分、妙なやつだし、いつも不完全燃焼しているっぽかったからな。それでこんな茶番をやって、あいつに火をつけようとしてんだろう? みんな、わかっていたぜ」

 

 さらに後ろにはさっきのアフロとモスキート級がにやにやしていた。

 どっちも試合中の怖さはない。

 年上に弄られているようなくすぐったさがあった。

 

「みなさんも?」

「まあな。最初はあの言い草にムカついたが、よく見りゃあ藍色のバカと似たような奴だし、実際に手合わせすりゃあマジで強いしな」

「あとの連中もやりたがっていたぜ」

「すいません、失礼なことして……」

 

 背中を叩かれた。

 

「いいぜ。いい試合が見れたしな」

「えっ、まだ終わってませんよ」

「藍色の震打を喰らって立ち上がれるやつはいねえよ」

 

 この人たちからすると、藍色さんのさっきの猫パンチはそれほどまでの必殺ブローなのかもしれない。

 でも、この人たちは知らないみたいだ。

 打たれて倒れても10秒以内に立ち上がるのは、何もボクサーだけの特権じゃない。

 知らないのなら仕方がないけど、でも僕は知っている。

 御子内或子を。

 巫女レスラーの執念を。

 

「おおおおおっ!!」

 

 観客が沸いた。

 倒れていた御子内さんがロープを掴みながらも立ち上がってきたからだった。

 僕の隣にいた選手たちも驚いていた。

 彼女たちは藍色さんの震打を喰らったことがあるのだろう。

 だから、予想していなかったのだ。

 御子内さんが立ち上がるということを。

 

「よし!」

 

 僕は手を叩いた。

 御子内さんを鼓舞するためだ。

 

「まだ、いける! まだ、いける!」

 

 ふらつきながら、ロープにもたれかかりつつ、御子内さんは立ち上がる。

 

「―――当然じゃないか。ボクを誰だと思ってるんだい? まだ、やれるさっ!」

 

 呟くと同時に、御子内さんが滑る。

 奇襲技のカニバサミだ。

 すべてが立ち技のボクサーには有効な奇襲だ。

 だが、やはり藍色さんは退魔巫女の同期だった。

 御子内さんが立ち上がった以上、この程度の反撃はしてくると予想していたのだろう。

 軽いバックステップだけで躱された。

 しかし、御子内さんは立ち上がらず、仰向けの状態のまま、睨みあっていた。

 あれは……

 

「おいおい、アリキックかよ」

「さすがにどうだ?」

 

 かつて世界チャンピオンのモハメド・アリ相手に使われた、寝転がりながらのスタイルだった。

 レスラーがボクサーにやるにはありがちとはいえ、効果的な技だ。

 でも、あの御子内さんが選ぶにしては消極的だし、ちょっと卑怯な気がしないでもない。

 観客席もちょっと興ざめしている気がした。

 だが、リング上の二人は真剣なままだ。

 

「或子さん。それは何?」

「見てわかるだろ、対ボクサーの秘策だよ」

「……それが私に通じると思っているのですか?」

「思っているけど」

「ボクシングも私も舐められたものです。そんにゃの、とうの昔に対策を立ててます!!」

 

 藍色さんが左手を引きつけた。

 そのまま天を衝くように高く拳を掲げ、咽喉が裂けんとばかりに叫ぶ。

 

「だああああああ!!」

 

 そして、マット目掛けて振り下ろす。

 何かが場内を吹き抜けた。

 風―――じゃない。

 熱―――でもない。 

それは震えだった。

何か、身体を揺らすものが、文字通り倉庫の内部を震撼させたのだ。

震源地は間違いなく藍色さんの拳だった。

リングのマットに落とされた一撃が何かをしたのだとわかるが、さっきの猫パンチ同様にさっぱりわからない。

ただ、藍色さんの行動の一瞬前に、寝転がったままアリキックを狙っていた御子内さんは跳ね起きていた。

彼女の動物的な勘か、いくさ人の予知能力か、不思議な力が危険を告げたのだろう。

 

カアアアアン

 

またゴングが鳴った。

だが、御子内さんたちは自分たちのコーナーに戻らない。

リング上の中央で無言のまま睨みあっていた。

 

「―――なんだ。準備してはいたんじゃないか」

「まあ、そうですね。でも、一年ちょっとかかったんですけどね」

「あの地を這う妖怪対策の必殺技かい? さっきの中国拳法みたいな猫パンチだとか、今の衝撃波とか、ボクサーの技じゃないね」

 

 すると、藍色さんは笑った。   

 

「そうね。ホントの私はボクサーじゃにゃくて、やっぱり或子さんたちと同じ退魔巫女だったのかも。―――ここのお客さんたちからすると、()()()()()()()()()()()

 

 二人は改めて軽い握手をしてから、自陣のコーナーに帰ってきた。

 御子内さんは少しだけふらついている。

 猫パンチのダメージだろうか。

 

「いや、さっきの衝撃波だよ。咄嗟に立ち上がらなかったら、あのまま動けなくなっていたよ。技か、術か、よくわからないけど……。まったく、とんでもないものを編み出していたみたいだ」

 

 御子内さんも疲れ切っているみたいだけど楽しそうだ。

 それもそうだろう。

 腐っていたと思っていた友達が、実は以前負けた妖怪と戦うときのために新しい技を開発していたとわかったからだ。

 完全に心が折れてしまっていたのなら、技の研鑽も開発もするはずがない。

 最初は本当に負けたショックで立ち上がれなかったのかもしれない。

 でも、藍色さんは結果として自分の足で立ち上がろうとしていたのだ。

 僕たちのしようとしていたことは実は無駄足だったのかもしれない。

 

「ここはお金を賭けたりなんかして、あまり褒められた場所じゃないけど、ある意味ではボクサーの聖地みたいなところなんだろうね。ここで他のボクサーたちと切磋琢磨してきたから、あいつも復活できたんだろうさ」

 

 一息つくと、御子内さんは立ち上がる。

 

「ただ、今日までボクらを心配させたツケは払ってもらおうかな」

「凄く取り立てが厳しそうだね」

「これからは同期を見つけ次第、さくっと始末したくなるぐらいの取り立てを行うよ」

 

 カアアアアン!

 

 第三ラウンドが始まる。

 そして、僕は予感した。

 このラウンドこそ、二人の退魔巫女の決着のときなのだと。

 

 

 

 

 

 

 



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その猫はスポットライトをみて笑っていた

夏休みなので二編同時公開です。



















 

 

 藍色さんは再びライト・アップ・スタイルに戻っていた。

 対する御子内さんもいつもの構えだ。

 ただし、やや内腿を絞めて、ボクシング的フットワークでもできそうだ。

 きっと御子内さんにもできるんだろうが、今更、研ぎ澄まされたボクサーに通用するとは思えない。

 場内は異常な静けさに包まれている。

 熱気は消えていない。

 すべての観客が固唾をのんで見守っているからだ。

 これまでの戦いで、みんながわかっていた。

 ここで繰り広げられているのはただの異種格闘戦ではなく、怪物と化け物による銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)なのだと。

 

「……まったく、ボクシングというのは恐ろしすぎるね。よくわかったよ」

「私は昔からそう言っています」

「でも、さっきのはボクシングの技じゃないだろ。とんでもないのは藍色だけという可能性もある」

「じゃあ、最期ぐらいは私もボクサーに徹しましょう。それで或子さんは納得してくれるのですね」

「へえ、大きく出たね。そういうことなら、ボクもとっておきのボクシング技を披露しようか。()()()退()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()

 

 と、御子内さんが訝しいことを言う。

 さっきまでの二ラウンドにおいて彼女が見せてきたのは、どれもいつもの変則的でありながら磨き抜かれた技ばかりだった。

 だが、その中にはボクシングのテクニックらしいものはない。

 アタックもディフェンスも足運びも、どれもボクシング由来と思えるものは使ってないのだ。

 彼女の格闘のセンスならばできないとは思えないけど、さっきも考えたように付け焼刃では藍色さんには絶対に通じはしない。

 考えられるとすれば、ブラフかハッタリだが、そんなものが効果のある相手だとはとても思えないし。

 そんな搦め手を使う性格でもない。

 

「わかりました。最後の決着をつけましょうか」

 

 藍色さんものっかった。

 なんだかんだ言って、退魔巫女は挑発に乗りやすいのだろう。

 あの神社で会話を交わした静謐な女の子とは到底同一人物には思えない闘気を放ちながら。

 

「いくよ」

 

 御子内さんのオーソドックスな左ジャブに会場がどよめいた。

 目の肥えた観客ばかりだけあって、御子内さんの技術がかなり高いことを悟ったのだろう。

 もちろん、藍色さんに比べれば稚拙だが、素人の物まねのレベルではない動きだ。

 同じボクシングスタイルで反撃に出た藍色さんとまさに一進一退の攻防が始まる。

 風を切るジャブ。

 トドメを狙うストレート。

 リズムを破壊するフック。

 上下に打ち分け、左右に小刻みに追い込む。

 肩でのブロッキング。

 のけ反るスウェー。

 相手のパンチをはらうパーリング。

 どれもが凄い。

 すべてが早い。

 体力が足りない女子のボクシングとは思えぬ、競技の魅力がぎっしりと詰まった素晴らしい攻防であった。

 やはり畑違いの御子内さんが疲れたのか、相手に抱き付くクリンチに逃げたこともあるが、それもすぐに引き離されて大して休息にもならなかった。

 クリンチはボクサーの唯一の親友とも言われるほどに試合中に息をつける瞬間なのだが、藍色さんはそれをやらせない。

 さすがにボクサーは倒しどころをよく見極めている。

 御子内さんが疲れ切っている今こそ絶好のチャンスなのだ。

 ブレークされた御子内さんがステップバックにもたついた刹那、紫電のように藍色さんが動いた。

 裂帛の気合いとともに放たれる必殺のストレート。

 しかも、捻りが加えられたコークスクリューブローであった。

 まともに食らえば、いかに巫女レスラーとてリングに沈む。

 だが、ほぼ同時にタイミングを合わせたかのように御子内さんも突貫していた。

 もたついたのは演技―――囮であった。

 彼女が狙っていたのはカウンターだったのだ。

 いや、それも違っていた。

 左ストレートを顔面に受けた御子内さんとは対照的に、藍色さんにまで迎撃の拳は届いていなかった。

 拳の先は藍色さんの腹部に辛うじて当たる程度。

 リーチの差が逆転の芽を摘んでしまっていたのだ。

 顔面に一撃を受けたせいで足元までふらつく御子内さん。

 今度こそ演技ではない。

 ダメージが顔から全身へと響いていくのがわかる。

 ああ、だめだ。

 今度倒れたら、絶対にもう立ち上がれない。

 いかに万夫不当、常勝無敗の巫女レスラーといえども、このまま撃沈される。

 しかも、追い打ちをかけるように藍色さんが腰をかがめた。

 あの体勢から撃ち込まれるパンチは一つ。

 地上から宇宙へと向けて上昇気流とともに競りあがっていく渾身の必殺ブロー―――アッパーカットしかありえない。

 ジェットの力で顎を下から打ち貫くアッパーは確実に御子内さんを敗北へと叩き込むだろう。

 危ない、巫女レスラー!

 避けるんだ、御子内さん!

 

「おおおおお!?」

 

 観客全員がどよめいた。

 なんと、ジェットアッパーを放つ寸前、藍色さんの脚がもつれたのだ。

 いや、もつれたというよりも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のであった。

 疲労とダメージが足にキていたのか?

 それにしては不自然な硬直だった。

 アッパーを打つための踏み込みすらできない状態になっていたのだ。

 しかし、それはほんの一瞬。

 その場にいた全員が事態を完全に認識し終えたときには、藍色さん目掛けて膝をつきながらも右の拳を振り上げる御子内さんがいた。

 上半身は動かせるのか、逆に放たれたアッパーはかろうじて藍色さんの()()()()()()だけで済んだ。

 

「あっ!」

 

 だが、ボクシングを知っているものならみんな理解している。

 顎をあの勢いで打たれたら、梃子の原理で脳がシェイクされて立てなくなるということを。

 その理屈は藍色さんにおいてでさえも例外ではなかった。

 

 猫耳藍色は尻もちをついて倒れた。

 そのまま、どんなに頑張っても立ち上がることができない。

 御子内さんの最後の片膝立ちのままのアッパーが決着をつけたのである。

 

「御子内さん!」

 

 同時に御子内さんもリングに横になっていた。

 最後の苦し紛れの攻撃が当たっただけで、彼女に蓄積したダメージも限界を超えたのだ。

 二人の退魔巫女はほぼ同時に倒れ、カウント10が告げられる。

 どちらも立てないのであれば、これは引き分けということなのだろう。

 あえてルールを覆すほどの劇的な死闘だったということか。

 

「両者、引き分け!」

 

 判定がない以上、ともに立てなくなれば終了するしかない。

 殺し合いでないのだから、妥当な落としどころともいえる。

 こうして、御子内さんと藍色さんの戦いは決着つかず、ドローということになったのであった。

 すると、僕の隣で聞き慣れた声がした。

 

()()()()()()()かよ。或子にしちゃあ、エグイ技を使ったもんだ」

「ノ。 アイちゃん相手なら仕方ない」

「それもそうか」

 

 会場の封鎖を任されていた二人の退魔巫女―――レイさんと音子さんだった。

 なんだかんだ言って、試合を観戦していたようだ。

 

「今、何があったかわかるんですか?」

 

 と聞いてみると、レイさんが答えてくれた。

 

「或子が最後に出したカウンターのパンチ、外れたように見えただろ」

「ええ。藍色さんの腰に当たったみたいに見えました」

「あれ、外したわけじゃねえ。最初から狙っていたんだ、あそこを。……あそこらへんには人間の神経の一部を麻痺させる点穴があるんだ。〈龍極〉ってんだけど、そこを正確に打つと下半身が一瞬だけ麻痺る。ホントに一瞬だけで、数秒あれば回復する程度なんだが、麻痺っているときに無理に動くとさらに数秒は下半身が動かなくなるんだ。藍色は勝負を決めるためにアッパーを出そうとしたせいで、動けなくなったという訳さ」

 

 まさか、あの状況でそんなものを御子内さんは狙っていたのか。

 

「その下半身を麻痺させる技が龍極波だ。で、麻痺した相手を仕留めるアッパーまでを含めて、雷神拳という」

「でも、御子内さんはとっておきのボクシング技だって……」

 

 レイさんは豪快に笑って、

 

「ボクシングの技ではあるんだぜ。日本のボクシング界に昔から影の道として伝わっている流派があってな。そこの必殺技なんだ。とはいえ、表の世界のボクサーはまず知らないし、知っていても使わない。邪道みたいなもんだからな。まあ、退魔巫女でも使えるのは或子ぐらいなものだろうけど」

 

 なるほど、外連が強すぎる技だけど、御子内さんは嘘をついていた訳ではないのか。

 

「妖怪には人間みたいな点穴はないし、使い勝手が悪いから誰も学ばないだけという可能性もあるけどよ」

 

しかし、そんな技を使っても相討ちに持ち込むのが精いっぱいだったとは……。

藍色さんは本当に強いんだな。

 

「アルっちは、変てこな猫パンチと衝撃波といい左を喰らわなければ勝ててたと思うよ」

「いくら藍色を本気にさせるためとはいえ、身体張りすぎだよな、あのバカ」

「シィ。ホントにバカ」

 

 こうやって友達は毒づくけど、リングの上で天井のスポットライトを見上げる御子内さんの横顔は満足気だった。

 そして、それと同じぐらい楽しそうな顔をした藍色さんがいた。

 きっと彼女は過去の苦い敗戦の記憶を乗り越えたに違いない。

 

 リングの上にいるというのに、神社で会ったときみたいな穏やかで眠そうな猫の顔をしていたのだから……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第16試合 熊埜御堂てんの冒険
包帯と無貌


 

 

 深夜二十四時過ぎても、まだ人通りの途切れない、渋谷のD坂を一人の男が駆けていた。

 いや、男と決めつけてもいいものだろうか。

 なぜならば、その人物は真夏だというのに分厚い茶色のトレンチコートを着込んで、黒い鍔広のハットを被っていたからだ。

 しかも、それだけではない。

 夏に冬場の格好をしているだけならば、あり得ない存在というわけではないし、男女の区別をつけられない理由としては不十分だ。

 渋谷の夜を脱兎のごとく駆けていく人物がまさしく異常なのは、その頭部をぎっしりと覆った白い包帯にあった。

 顔はおろか、耳や後頭部まで完全に隙間なく包帯が巻かれ、さらに目の部分は薄いサングラスによって隠れされていた。

 本来は露出しているはずの両手についても、腕までは包帯、手首から先は包帯という風に覆われていた。

 少なくとも見た目だけでは男女の区別をはっきりとはつけられないのである。

 とはいえ、身長は百八十センチを遥かに越しており、走る姿勢も肩から進むいかにも男性のものなので、この人物が男であるらしいという見当はつく。

 しかし、深夜でもあり、夏休みに入った学生たちが遊びに、観光に、ショッピングに、恋にたむろする渋谷の街を全力疾走する姿は明らかにおかしい。

 

 異様なのだ。

 

 ただ、包帯の人物にとっては仕方のないことであった。

 足を止めることができなかったのである。

 周囲の目や疲れを気にして足を止めたりしたら、次の瞬間、自分の首筋を噛み裂かれてしまうだろう恐怖に縛られていたからだ。

 立ち止まった瞬間、白い包帯が巻かれた首筋に、耳まで裂けた大口が牙を突き立ててきそうだったのである。

 

 ……ほんの数分前、包帯で顔を隠した如何にも正体不明といったこの人物はすれ違う人々の好奇の視線を受けながらも平然と渋谷の街を歩いていた。

 その時までは誰にどんなぶしつけな視線を浴びせられようと、まったく気にはならなかった。

 すでに慣れっこになってしまっていたからだ。

 自分自身、包帯でグルグル巻きになった容貌がどれだけ目立つものなのかをよく理解していたのに、あえてその格好を選んでいるのだから、ある意味では自業自得なのであるが。

 まさに我関せずという様子で、大都会東京の夜を悠然と歩いていたのだ。

 だが、その耳に女のすすり泣く声が聞こえた。

 思わず立ち止まってしまう。

 周囲に漂う様々な喧騒に掻き消されることもなく、まるで直接耳元に吹き込まれたかのようにも感じたほどであった。

 

『何だ、何だ?』

 

 包帯の人物は―――辺りを見渡した。

 闇を輝かせるネオンや深夜まで開いている店から漂うBGMに紛れることなく、ある一点で視線が止まった。

 道端の自動販売機の脇に、一人の女が座り込んでいた。

 渋谷にはある意味で似つかわしくない白いワンピースを着た、黒く長い髪をもった若い女である。

 アスファルトの上に何も敷かずに体育座りをして、じっと地面を見つめているようだった。

 肩がすすり泣きの余波で震えている。

 ずっと下を見ているため、艶とした色気のあるうなじと産毛が曝け出されていた。

 

『君、いったいどうしたんだね?』

 

 やや海外の訛りのある日本語で、包帯の人物が問いかけた。

 低く渋い中年の男性の声であることから、“彼”であったことがわかる。

 しかも、そのアクセントからすると日本人ではなさそうだ。

 もっとも、口ぶりには心底泣いている女を心配しているような気遣いが感じられた。

 そこだけをとり上げてみれば、全身を包帯で隠していることこそ不審だが、まともな感性を持った人物であると思われる。

 道端で俯いて泣いている女に下心なしで声をかけられるのは、いかにも外国人のようであった。

 

『何かあったのなら、力になるよ。警察……は呼んであげられないが』

 

 優しく問いかけると、女の震えが止まった。

 俯いたままであったが、包帯男の声は確かに彼女に届いていたようであった。

 

『―――お優しい方。どうして、こんなあたしに親切にしてくださるの?』

 

 時代がかった物言いであったが、そこをおかしいと感じ取れなかったのはやはり外国人であったからだろうか。

 包帯男は、座り込んだ女と視線が合わさるように片膝をついた。

 それでも頭の位置は上下に差があるが、見下ろされることに対する威圧感は随分と緩和される。

 泣くまで弱っているに違いない女を追い詰めないような自然な配慮であった。

 

『いえいえ、あなたがお困りのようだから声をかけたまでで。特に私が優しい男であるという訳ではありません』

『……そんな。あたしがここで泣いていたのは困っていたからではありませんのに』

『では、何か悲しいことがあったのですか?』

『いいえ、それも違います。あたしがここで泣いていたのはお腹が空いて動けなかったからなのです』

 

 女の返事を聞いて、包帯男はこんなにも大勢の人が通り過ぎる街中で、飢えて動けないものがいるとは信じられなかった。

 ここは日本だ。

 世界でも指折りの金持ち国である。

 借金大国などといわれているが、それは自国民に対する債務であり、他国の国債保有量は世界でもトップクラスの債権国だ。

 自国民が飢えて死ぬことはほとんどない豊かな日本で、まさか……。

 

『そういうことならば、君のために何かを買ってきてあげよう』

『ありがとうございます。でも、結構です』

『なに、お金の心配はいらないよ。私が奢ってあげるから』

『そうではないのです。あたしが食べたいものをすぐにお金で買うことはできません。だからこそ、ここで泣いていたのです』

 

 包帯男は首をかしげた。

 女の言っていることが支離滅裂に聞こえたからだ。

 この女性(ひと)は寝ぼけているのか。

 それとも彼の故郷でもたびたび見掛けられるクスリの中毒患者かもしれない。

 

『泣いていると手に入るようなものなのかね?』

『ええ、そうです』

『とても気になるな。それはいったいどんな食べ物なんだい?』

 

 すると、女の顔があがった。

 白く透き通るような肌が見えた。

 ()()()()

 

『それはあなたです』

『……えっ?』

『あたしたちの泣き声はあなたのような異界の人々を引き留めますの。おかげで泣いているだけで、お金も使わずにご馳走が自分の足でやってくる』

 

 包帯男は震えあがって飛び退った。

 女の顔を正視できなかったからだ。

 違う。

 何もない女の顔を。

 

 女には、()()()()()()()()()()()()()()()()

 ただ耳まで裂けた口だけが、鋭く尖った鮫のような歯を湛えていた。

 他には()()()()()()()()

 

『ギャアアア!!』

 

 包帯男は恥も外聞もなく叫んだ。

 あるべきものがないことは、人に多大なストレスを与えるのである。

 それは包帯男のような一般人の枠から外れていそうなものについても同様であった。

 彼は走り出した。

 だが、その耳には女の発した台詞がこびりついたまま離れない。

 女はさっきのすすり泣きのように、直接耳孔に響くような声で、

 

『逃げても無駄よ、あたしのご馳走さん。あたしたちはもうあなたの前にも後ろにも潜んでいるのよ』

 

 女の台詞は事実だった。

 逃げ切ったと思って、包帯男が荒い息を吐いて、軽トラックを改造したクレープ屋台に寄りかかっていると、

 

『どうしました? 何か事件でもありましたか?』

 

 と、クレープを焼いていた若い店員らしいものが、奥から声をかけてきた。

 包帯男は安全な場所まで来られたのかと安堵し、普段ならばあまりださない大声で応えた。

 

『か、顔のない女が襲ってきたんだ! 嘘じゃない! 事実だ! あれは、あれは、一体何なんだ!?』

『顔がない女ですって? 見間違いじゃないんですか? のっぺらぼうじゃああるまいし……』

 

 その単語には聞き覚えがあった。

 この国に来る前に使ったテキストにあった名前だ。

 確か、ラフカディオ・ハーンの著作に……「怪談(KAIDANN)」にあった……。

 

『そうだ! そのヌペラボオだ! そいつに違いない!』

 

 すると、クレープを焼いていた店員が窓から顔を出した。

 

『その〈のっぺらぼう〉ってのは、こんな顔じゃなかったんですか?』

 

 包帯男は再び絶叫した。

 覗かせた顔には、またも目も鼻もなかった。

 それどころか今度は口さえもついていなかった。

 恐ろしい地獄の底に、異界に迷い込んだかのような気がした。

 まさに悪夢だった。

 

 包帯男は逃げた。

 

 逃げた。

 

 逃げ続けた。

 

 完全にどころか、本当に逃げることができるのかと疑問に感じても、足は止まらない。

 

 そして、逃亡を許さないぐらいに脚が疲れ切り動けなくなった段階で、彼はぶっ倒れた。

 着ているトレンチコートの暑さに耐えきれなくなったせいもある。

 やはり包帯で全身を覆っていることはマイナスでしかなかった。

 着用しなくてはならない事情があったとしても、真夏日には自殺行為でしかなかったのである。

 脱水症状寸前で、ほとんど熱射病にでもかかったかのごとく朦朧とした状態で、民家の壁に寄りかかっていた彼に、またも声が掛かった。

 すわ、さっきのヌペラボオか、と薄れそうな意識の中で身構えたと彼に呼びかけたのは、比べ物にならないぐらいお気楽そうな女の子だった。

 

「ようやっと見つけましたですよー。これで、てんちゃんもようやく退魔巫女見習いの蔑称から解放されるですぅー。やったー」

 

 包帯男の目の前に現れたのは、おだんごのツイン・ミニョンという子供っぽい髪型と緋袴をミニスカのように折って捲った巫女装束の女の子だった。

 剥き出しの素足の太ももと白いニーソックスというのもおかしかったが、履いているエアマックスもサイズに見合わないブカブカさ加減であった。

 

 深夜の渋谷には相応しくない服装とテンションのまま現われた巫女は、名を熊埜御堂(くまのみどう)てんという。

 とある巫女姿のレスラーの後輩にあたる退魔巫女見習いであった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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グリフィン家の宿痾

夏休みなのでまた二話分投稿です。


 

 

 突然現れたこの日本にしてもおかしなスタイルの巫女の少女に、私はとても戸惑った。

 ついさっきまで、顔のないモンスターたちに追われていた身としては、この娘もきっと同類としか思えなかったのだ。

 しかし、もしそうならば顔を伏せているはずである。

 巫女の少女は、幼女のようにあどけない笑顔を浮かべていた。

 かなり年若い様子だ。

この国の若い女性特有の童顔からではなく、本当に子供の可能性がある。

十四、五歳だろうか。

この渋谷という街が若者の街であるとは言っても、こんな深夜にこの年頃の女の子が出歩いているのは珍しい。

まして、神に仕える巫女が……。

確かに巫女としては変な格好ではあるが。

私がこの国で勉強した日本の知識では、この娘の格好は本物の巫女というよりも、コスチュームプレイの方に近い。

ただ、私はどういう訳か、この娘が本物の巫女であるという確信を抱いていた。

 加えて、現在進行形で恐ろしい体験をしていたということから、私は彼女にすがらずにはいられなかった。

 

「た、助けてくれ!」

 

 成人した男の惨めな助けを求める声に対して、少女は、

 

「いいですよー」

 

 と、いささかの躊躇いも見せずに応えた。

 あまりのことにこっちが拍子抜けするほどだった。

 

「その前に確認させてもらいたいんですけどー」

 

 巫女の少女は背負っていた小さなバッグからメモ帳らしきものを取り出して中を読んだ。

 

「えっとー、あなたはロバート・グリフィンさんでよろしいんですよねー。イギリスのサセックスご出身の?」

 

 私は驚いた。

 どうして私の名前を知っているのか。しかも、出身地まで。

 

「―――何故、私の名前を?」

「うちの〈社務所〉があなたの捜索と保護を依頼されたんですよー。真夏だっていうのに、コートを着て包帯巻き巻きの変人を見つけ出して、助けろって」

「……それは私のことで間違いなさそうだが、一体、どうして」

 

 この娘が言っているのは、名前も格好からしても私に間違いない。

 しかし、私は誰かに狙われるおそれはない。

 普通にイギリスからやってきて、この日本で暮らしていただけなのに。

 

「あなた、京都に行きましたよねー」

「ああ、そうだ。一度ぐらいは観光してみたいと思っていたのだが、それがなにか?」

「よく生きて帰れましたねー。でも、あそこで発見されてしまって、東京までついてこられたみたいですから、下手したのと一緒かな? だから、うちの〈社務所〉に話がきたんですよー」

 

 話が見えない。

 いったい、京都がなんだというのだろう。

 

「何が東京までついてきたというんだい? 君の言っていることはさっぱりわからない」

「だからー、仏凶徒(ブッキョート)ですよ」

「ぶっきょう……と? 仏教(ブデズム)の信徒のことかね? それがいったいどうして……」

 

 少女はちょっと顔をしかめて、

 

「知らないんですかー? あいつら、人間には慈愛たっぷりで優しくしますけど、妖怪変化の類いに対してはマジで容赦ないんです。こういう形の(ジェスチャーで見せてくれた)独鈷杵(どっこしょ)の先からレーザーブレードみたいな出して斬りかかっていくんですよ。他にもよくわからないビームみたいなのも出したりするのもいるらしいし、身体に薬師十二神将を召喚したりとか、もう無茶苦茶するんです。うちら退魔巫女がほとんど素手でやってんのに、あいつら反則すぎですよー」

「えっ、えっと、それは本当に仏教徒のことなのですか?」

「はい、そうですよー。揉めると面倒ですから、関西から出てこなければいいのに。やっぱり、廃仏毀釈は正しかったんです。仏凶徒は全滅させないと!!」

 

 何が何だか、よくわからない。

 だが、その仏凶徒にわたしがつけ狙われているというのだろうか。

 

「ええ。だって、あなた、グリフィン博士のご子孫なのですよねー」

 

 知っているのか。

 私の名前と出身だけでなくて、我が家系の因業までも。

 故郷から逃げ出してきて、結局辿り着いた極東の島国に来てまでついて回るというのか。

 

「えっと、さっきから気になっていたんですけど、暑くないんですかー? そんな包帯マシマシで」

「ラーメン二郎みたいに言わないでくれ。仕方がないんだよ、この包帯は。我がグリフィン家ではこれがないと外にさえ出られないのだ」

「へー、てんちゃんとしては探しやすくて良かったんですけど、変てこりんなファッションだと誤解してましたー。失礼なお願いなんですけど、ちょっと手を見せてもらっていいですかー」

 

 私は手袋を外した。

 もう事情を知られている以上、下手に隠し事をしても仕方ない。

 この娘からは聞きださないとならないことがありそうだし、やむをえないといったところか。

 

「うわっ、マジですか」

 

 手袋を外した私の手を見て、巫女の少女は素っ頓狂な声をあげる。

 ただ、恐怖は感じられない。

 見せた私が驚くほどだ。

 純粋に感心しているのだ。

 

「ホントに、()()()()()()()。透明人間ってマジなんですねー」

 

 いつのまにか傍に来られていたのか、手をギュッと握られた。

 恥ずかしながら、私はこの年になっても童貞(チェリー)でもあるし、こんな風に女性から積極的に触れられたことはない。

 思わず赤面してしまったはずだ。

 いや、たぶん、そうだろうというだけだ。

 なんといっても、顔の包帯をすべてとりさってしまっても、私は自分の顔を確認できないのだから。

 しかも、そもそも私は自分の本当の顔を知らない。

 髪の色も眼の形も、肌の色も何もかも。

 私は産まれた時から、()()()()()()()のである。

 我が家系の呪われた宿痾のままに、誰の目にも見えぬ男として生を受けたのだ。

 

「なるほどー、これぐらい完璧に目に見えないと科学の力とか言っても無理がありますねー」

「ああ、そうだろうね。かの偉大なSF作家に話して聞かせたという私の先祖も、出来上がった小説を読んで荒唐無稽だと鼻で笑ったらしいから」

「へー、凄いなー」

 

 いつまでも握っていないでくれないか。

 恥ずかしくて仕方がない。

 ただ、こんな風に女の子に手を握られることは二度とないであろうから、自分から引き離すのは躊躇われる。

 いや、勿体ないとかそういう意味ではなくて、あの、彼女の気を害しないようにというだけで、決してスケベ心からではないんだよ。

 

「あと、やっぱり変な妖気みたいなの出していますね」

「……わかるのかい?」

「わかりますよー、こう見えてもてんちゃんは退魔巫女ですから。まだ見習いですけどー」

 

 まさか、そんなことまでわかっているのか。

 

「これだけ異質な妖気をだしていれば、仏凶徒の連中にも目をつけられても仕方ないですねー」

()()

 

 今、この娘、おかしな言い回しをしなかったか。

 にも、と言ったら他にも私を狙っているものがいるように聞こえるではないか。

 

「ちょっと下がっていてください」

 

 巫女の少女が私から手を放して振り向いた。

 思わず、あっと声を出してしまった。

 こんなに可愛い女の子に手を握ってもらえるなんて、そんな機会は滅多にないのに。

 だが、巫女の少女はそんな私の消沈など知りもせずに、

 

「まったく、わらわらと集まって来て、気持ち悪い連中ですねー。そんなにこの透明人間さんが食べたいんですかぁ?」

 

 路地裏から、夜の帳の中から、暗闇の底から、何かが這い出てこようとしていた。

 現われたのは五人。

 いや、ここはあえて五体と呼ぶべきだろう。

 姿かたちはただの人間のようだが、そいつらには共通した特徴があった。

 人間離れした特徴が。

 

 そいつらには顔がなかった。

 

 さっき、散々私を恐怖に叩き込んだ連中が、五体もいるのだ。

 しかし、私を庇うように立った巫女の少女は何にも恐れる様子さえ見せずに言い放った。

 

「妖怪〈のっぺらぼう〉。あんたたちには残念なことでしょうけど、透明人間さんはこのてんちゃんが保護しましたから、下がってくださいねー。でないと、根こそぎ退治しちゃうますよー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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妖怪〈のっぺらぼう〉

 

 

 妖怪〈のっぺらぼう〉。

 

 それは私がラフカディオ・ハーンの著作で親しんで来た日本の妖怪の一つだ。

 言われてみれば、自分がさっき巻き込まれていた怪事は、その中の一篇に記されていたものと瓜二つである。

「むじな」というお話の中の出来事だが、私の記憶が正しければ赤坂の紀伊国坂での出来事だったはず。

 渋谷のD坂とは坂以外の共通点はない。

 しかし、私たち目掛けて五体も近寄ってくるのは異様だった。

 私の故郷には今だに妖精という幽界を棲家とする人外の存在がいるが、日本にもこのような連中が巣食っているとは思わなかった。

 まあ、私も言えた義理ではないのだが。

 声にならない呻きを発しながら、顔のない人型の化け物がやってくる。

 私は後ずさりした。

 背中がごつんと堅いものにぶつかる。

 電信柱であった。

 さらに後方にはブロック塀がある。

 もう逃げることはできない。

このままいけば間違いなくあの化け物たちの魔の手にかかってしまう。

 

「あれ? あのー、てんちゃんの話を聞いていなかったのかな? それ以上、近づいてくると痛い目を見るんですよー」

 

 だが、私を庇うように前に立った彼女は、まるで道端の乱暴な野良猫に話しかけるようにのんびりとしたものだった。

 とはいえ、この小柄な少女があんな化け物相手に何かができるとはとても思えない。

 私は彼女の手を引いて、なんとか逃げ出そうと考えたが、その前に少女は進みだしてしまった。

 晴れた日に公園を散歩するように軽やかな足取りで。

 

「しかたないですねー。―――てんちゃんはスーパー或子先輩たちと違って、手加減してあげられないんですよー」

 

〈のっぺらぼう〉の一体が手を伸ばした。

 身長でいえば180センチを超えている大柄な肉体は、150センチほどの少女とは頭ふたつほど差がある。

 少女の白衣の襟を掴んだ。

 捕まってしまった。

 と、思った瞬間、〈のっぺらぼう〉の上体が沈んだ。

 自分から下げたのではなく、下げさせられたようだった。

 少女が化け物の手をとり、逆手に捻ると、腋に挟み込んだまま地面に押し倒したのだ。

 まさに早業だった。

 サイズの差は歴然としているのに、あっという間の出来事である。

 

「ジュードー!? アイキドー!?」

 

 わたしが思いついた、今の魔法を言い表せる単語はそれだけだった。

 柔よく剛を制す。

 その理想の神髄を見せつけられただけなのかもしれない。

 日本の誇る、人を傷つけないための活殺格闘技。

 それだと。

 しかし―――

 

 バキッ

 

 嫌な音がした。

 

『ビキィィィィィ!!』

 

転がされた〈のっぺらぼう〉が声にならない叫びをあげる。

ありえない方向に曲がった腕を押さえて悶絶していた。

折られたのだ。

誰でもない、あの少女に。

いともたやすく、しかも間髪入れずに。

 

「次もいきますよー」

 

 少女は〈のっぺらぼう〉の腕の骨をへし折ったことになんの罪悪感を持っていないようだった。

 それどころか、さらに加速して他の四体へと肉薄する。

 翻る赤いミニスカート状の緋袴がまるで血涙のようであった。

 一体の片足を、沈み込んで抱え込んだ。

 俗にいうタックルのようだ。

 だが、私の故郷のラグビーのものというよりは、もっとスマートで潜り込む形の深いタックルである。

 片足をとられ、けんけんをする〈のっぺらぼう〉。

 そのまま巫女の少女が身体を変化させる。

 足をとった状態でくるりと横に捌いたのだ。

 同時に残った軸足を払い、自分はブリッジをしながらまたも地面に叩き付ける。

 ゴキリとまた背筋の震える音がした。

 骨が折れたときのものではなく、股関節を脱臼させられた音なのだろう。

 この〈のっぺらぼう〉も悶絶しつつ、動かなくなる。

 さすがの化け物たちも自分たちに迫っている脅威に気づいた。

 巫女の少女が並大抵の、否―――それどころか最悪の敵である可能性に辿り着いたのだ。

 妖怪を恐れるどころか、むしろ積極的に狩りに来る―――壊しにくる破壊者(デストロイヤー)であると。

 恐ろしい顔無しの化け物のさらに上を行く、恐怖の支配者に対して、大振りだが腰の乗ったパンチが放たれた。

 まともにあたれば、私でもKOされるような力強さだ。

 風を切るという形容にふさわしい。

 だが、そんな大振りは少女にとってはむしろ大好物だったのかもしれない。

 パンチを抱え込むと、なんとそのまま飛びついて、腕をそのまま反対側に極める飛びつき腕十字のような軽快な動き。

 しかし、そこで止まらない。

 彼女は回転した右足に力を込めて、〈のっぺらぼう〉の顔面を蹴りあげたのだ。

 後ろに態勢を崩した〈のっぺらぼう〉が背中から倒れこむと、勢いを利用して十字に極めていた肘の関節を()()()()

 

『―――っっ!!!』

 

 あまりのことに、残った〈のっぺらぼう〉たちからも怯えのようなものが感じられ始めた。

 何事もなかったかのように、ニコニコと笑顔で立ちあがる巫女の姿には、助けてもらっているはずの私でさえも戦慄を覚えるほどなのだから。

 そして、ようやく私は悟った。

 彼女が使っている技は、柔道でも合気道でもない。

 おそらくはコマンドサンボだ。

 かつてのロシア、旧ソビエト連邦で編み出された軍隊のための格闘技術。

 しかも、彼女の場合はそれをさらに何段階もレベルアップさせて昇華させた、異常ともいえる実戦的な技なのだ。

 彼女が一切〈のっぺらぼう〉を恐れなかった理由がわかる。

 あれだけの力をもっていればたかが妖怪など恐れるに足らない相手なのだろう。

 問題は、どうしてあんなミドルティーンの女の子、しかも巫女がこんなにも歴戦の闘士のようにバカ強いのか、ということだ。

 なんだ、これは。

 日本のアニメか?

 魔法少女とか、セーラー戦士とか、その類なのか?

 私の残念な頭では、まったくもって現実に理解が追いつかない。

 

「さて、もうこないみたいですねー。良かった良かった。てんちゃんもさすがにこれ以上の傷害致傷は避けたいところですしー」

 

 自分が傷害致傷犯だということに気がついているらしい。

 妖怪が刑法の客体に含まれるのか、という論点はあるだろうとしても。

 

「き、君はいったい……」

「んー、てんちゃんですか? 私は、熊埜御堂てん、ですよー。関東鎮護のための〈社務所〉に奉職してる退魔巫女なんですね」

「退魔巫女?」

「はい、坂東一の霊戦闘能力者ですよー」

 

 とりあえず、この子たちに普通とか、常識があてはまらないということはわかった。

 

「だが、どうしても私を助けてくれるんだ。さっき、仏凶徒からも助けるということを言っていたが……」

「えっと、倫敦のディオゲネス・クラブから、あなたの捜索と保護、最後に引渡しを要請されているんですよー。どうも、あっちではあなたが必要みたいですねー。透明人間が必要なんて、どんな事情があるんでしょうかね?」

 

 私は全身が硬直化するのを感じた。

 この娘は私を故郷の機関に引き渡すつもりなのだ。

 ディオゲネス・クラブ。

 あの悪名高き魔導機関のもとへ。

 

「断る!」

「……どうしてですかー? えっとグリフィンさんはもう来日して十五年ですよねー。そろそろご実家に戻られても問題はないと思いますよー。てんちゃんなんか、お母さんのご飯がないと二日と生きられない自信があるぐらいなんですよー。実家大好き!」

「君に説明する義務はない。助けてくれたのは感謝するが、それとこれとは話は別だ」

「―――お母さんのご飯が口に合わないんですね。わかります。話に聞いたところによると、イギリスはご飯が美味しくないみたいですからねー」

 

 誰もそんなことは言っていない。

 母の食事が口に合わないからと十五年も家出する彷徨えるオランダ人はどこにもいないだろう。

 

「君に要請した連中には私は死んだと伝えてくれ。グリフィン家の人間として、もうディオゲネス・クラブのために働く気はない!」

「でも、それだと、てんちゃんから見習いの蔑称がとれないんですよー。せっかく、スーパー或子先輩たちが海水浴でいないときに回ってきた案件なんですから、ここで手柄を立てないとー」

「だから、君の事情は知らないし、私とは無関係だ」

「そんなこと言わないでくださいよー。てんちゃんの昇進のために犠牲になってください―」

 

 な、なんて勝手な女の子なんだ。

 自分の昇進のために身を捧げろというのか。

 鬼か、この娘!

 

「ダメなものはダメだ!」

「では、仕方ないですねー」

 

 泣き落としが通じないと見たのか、彼女はゴソゴソと背負ったリュックサックの中を漁り始めた。

 そこから、何かを取り出そうとしている。

 この膠着状態(私にとってというよりも彼女にとってだが)から抜け出すための何かを。

 もっとも、それは私にとっても同様でしかもチャンスだった。

 

「あっ、逃げた!」

 

 私は回れ右をすると、脱兎のごとく逃げ出した。

 すでに私たちを取り囲んでいた〈のっぺらぼう〉は路地の隅でぶるぶると震えているし、逃げるための隙間は十分に空いていたからだ。

 今ならば逃げられる。

 勢いよく走った。

 その際、私は覚悟を決めて、帽子とコート、パンツ、そして下着の類いもすべて走りながら脱ぎ捨てる。

顔を隠していた包帯も解いた。

 一糸まとわぬ全裸になった私は夜の渋谷を駆け抜けた。

 透明人間である私が全裸になったのならば、誰にも見つけることはできない。

 あの退魔巫女を名乗る熊埜御堂てんの追跡を逃れるためにはそれしかない。

 

 私は二度と故郷に帰るつもりはないのだ。

 

 透明人間を利用する魔術師たちの飼い犬に戻るのはお断りだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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透明人間の愉悦

二話分公開です。















 

 

 我が家系に透明人間が産まれるようになったのは、随分と昔からのことだ。

 もともとはただの人間の一族だった。

 だが、ある時にサセックスの暗い森に潜んでいた妖精の王によって、子々孫々まで透明になる呪いを受けたのだという。

 なぜ、そんな目に合わせられたかは私も知らない。

 きっと一族の最長老などは知っていると思うが、小僧っ子の私に伝えられるものではないのだ。

 この呪いのせいとどうかはわからないが、私たちの身体にはやや妖精的な特徴が生じていることから、もしかしたら妖精とご先祖とが姦通してできた家系なのかもしれない。

 そして、この呪いは薄まることなく子孫たちに受け継がれてきた。

 だから、グリフィン家の人間は、私同様の透明人間としての生を送ることになるのである。

 ほとんどの場合、産まれてから数年たって徐々に透明化が進んでいき、成人に達するまでに完全に誰の目にも見えなくなるのが通常であった。

 私のように産まれた時から、完全な透明状態というのはあまり例がないそうだ。

 とはいえ、透明人間の生育については十分すぎるほどのノウハウを持つグリフィス家にとっては、透き通った赤ん坊を育てることは困難ではなかったようである。

 私も、物心ついて、ある程度世の中というものが理解できるまでは、自分の体質の異常性について認識せずに生きてきた。

 グリフィス家の家業についても。

 透明人間というものがその特性をもっとも活かせる職業といえば、限られている。

 誰にも見えないということは、誰にも気づかれないということだ。

 誰にも気づかれずにできて、最も需要がある職業といえば、それは一つだ。

 

―――暗殺者(アサッシン)

 

 権力者や魔導師に大金で雇われて、どんな見張りにも気づかれることなく目標を仕留められる、透明人間にとっての天職であった。

 私は自分が一般の子供と違うことを知ってからというもの、父や兄たちに指導されて、暗殺のための技術を磨いた。

 近接格闘術から、各種暗器の使い方、そして剣をはじめとする銃器・武器の振るい方までを身体に沁みつくまで延々と訓練してきたのだ。

 おかげで成人に達する頃には、私はどんな人間さえも殺せるほどの知識と技術の塊になった。

 百年ほど前にH・G・ウェルズという作家が、私のご先祖さまから聞きだした話を元に書いた作品では、ジャック・グリフィン博士は狂気の犯罪者として描かれていた。

 透明になる原因も家系的なものではなく、科学的な原因があるものとして謎の薬を用意している。

 SF作家である彼にとって、妖精の呪いなどということは絵空事に過ぎなかったのだろうか。

 むしろ、今考えると彼の説の方がよっぽど荒唐無稽なのだが。

 ウェルズにとってはグリフィン家の家業は相当乱暴なものに思われたらしく、おかげで透明人間は心の捩れた凶暴なものというイメージがついてしまう結果になる。

 とはいえ、私の父も兄も、小説のイメージと同等に歪んだ考えと凶暴な心の持ち主でもあり、それほどのズレはないような気はするが。

 ただ、私はどうも気が弱く、臆病で、しかも血を怖がる性格だった。

 だから、最初の仕事を命じられたとき―――逃げた。

 ある魔導師を始末するように命じられた私は、用意された飛行機のチケットを別の便のものとすり替えて、そのまま逃亡したのだ。

 皮肉なことに、暗殺者として培ったすべてが私の逃亡を手助けしてくれた。

 追手に見つかったとしても、顔を隠す包帯を解いてしまえば見つかることはない。

私は無我夢中で世界中を逃げ、ついに十五年前この日本へとたどり着いたのだ。

それから、日本でも最も人間の多い東京の片隅に潜伏したのである。

外国人が全身包帯姿で生きていくことは大変ではあったが、暗殺者として生きていくことに比べれば孤独な生活も楽園のようなものだった。

何よりも、私にはこの国に来てから、替えがたい喜びさえも手に入れたのである。

 

「ワハハハハハハ!」

 

 あの恐ろしい体験を与えた〈のっぺらぼう〉から逃れ、私を連れ戻そうとする妖怪よりも更に怖ろしい巫女の少女を撒くために、透明人間としての本当の姿に戻った私は歓喜の声を上げた。

 最高の気分だった。

 渋谷の街には深夜でも大勢の人間たちがいる。

 大通りに行けば確実にすれ違う。

 その脇を私は哄笑をあげて走り回った。

 道行く人々には私の笑いは聞こえているだろう。

 しかし、姿は見えない。

 嗤う私は不可視なのだ。

 それがサイコーだった。

 透明人間として産まれたのならば、誰にも見られずに暗殺稼業をすることよりも、こうやって人ごみの中で弾ける方が楽しいじゃないか。

 闇に紛れて女性を襲ったりすることもできるけれど、そんなことをして何が楽しいだろうか。

 公的な場で公然と裸になり、隠すべきものを曝け出す、この衝動に比べたら、強姦なんてくだらないことである。

 私にとって全裸でのオープンスタイルこそ、透明人間として生まれてきたことの天命なのだ。

 グリフィン家の先祖がこの力を手に入れたのは、暗殺みたいな野暮なことのためなんかではなく、この一瞬を謳歌するためだったに違いない。

 いや、それしかありえない。

 だって、こんなにもエクスタシーを感じるのだから。

 私は冷めやらぬ喜びを爆発させながら、センター街を抜けていく。

 このまま行くと、例の〈のっぺらぼう〉に遭遇したD坂に戻ってしまうかもしれない。

 さすがに足が止まった。

 いかに誰の目にも止まらないといっても、あの恐ろしい妖怪に捕まるのは願い下げだ。

 この近代の日本にまだあんな怪物がいるなんて、とても信じられない。

 しかも、さっきの巫女の少女、確か名前は―――熊埜御堂てんと言ったか。

 彼女が言うことが正しければまた別の組織が、私が透明人間であることを知り狙っているらしいということだ。

 真偽はさておき、私のことが日本人に知られてしまったのは事実のようである。

 

「……また逃げるか」

 

 家族に格闘術を叩きこまれた身からすると、あの少女もまた恐ろしい。

 例え妖怪とはいえ、躊躇なく関節を破壊しにいったところが、だ。

 ああいう風にいささかの迷いもみせずに強力な技を極めて、簡単に折りにいけるものは滅多にいない。

 巫女の姿をしていたものの、あれは間違いなく闘士だ。

 あんなものに目をつけられるのは、なんて不幸なのだろう。

 日本の東京ほど安心な街はないというのに、ここから去らねばならないというのが勿体なさ過ぎる。

 だが、あの巫女は……

 

 人々が行き交う十字路の中央で腕組みをしながら、私は天を見上げた。

 

 この幸せな人生を捨てて、また逃げ出そう。

 イギリスに連れ戻され、暗殺家業に帰るか、二度と外に出られないように監禁されるか。

 どのみち私に待っているものは地獄のような運命だけだ。

 

「よし、逃げよう」

 

 私が腰に手を当てて、逃げる方針を完全に決意した時―――

 

「どこにも逃がしませんよー。あなたをとっ捕まえて、てんちゃんは見習いを卒業するんですからねー」

 

 と、すぐ後ろにあのミニスカートの巫女姿の、熊埜御堂てんが腕組みをしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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透明でも逃げ場なし

 

 

「バカな、私が見えるのか!」

 

 仰天した私だったが、よくよく観察してみると、視線が少しズレているので焦点はあっていないようだ。

 つまり、完全に不可視の私を確認できているという訳ではない。

 ただ、ここにいるということはバレているようだ。

 

「見えていたら困りますよー。だって、グリフィンさんは素っ裸なのですよねー?」

「なら、何故……?」

「えっと、ちょっと待ってくださいねー。はあはあ、なるほど」

 

 熊埜御堂てんは、その隣にいた平凡そのものの顔をした中年男性から耳打ちを受けて、何やら聞きだしていた。

 もう一度、私に向き直ると、

 

「そんな腰に手を当てて、大通りの中心で全裸の仁王立ちになっている人が見えたりしたら困ります。てんちゃん、こう見えても彼氏もいない清き乙女なんですからー」

 

 と、腕組みをして言った。

 プンスカみたいなジャパンコミックの擬音が似合いそうだ。

 しかし、見えていないはずなのに私が腰に手を当てていることがわかるのは何故だろうか。

 今、彼女に耳打ちした男は……

 その時、私はこの人通りがまばらな往来の四方からこちらを見張る連中に気がついた。

 いや、違う。

 わたしを見ているわけではない。

 なぜなら、そいつらは()()()()()()()()()()()()()()だ。

〈のっぺらぼう〉だ。

 しかも五体。

 私とミニスカ巫女の会話を見つめている。

 何もしてこないのが不自然で、不気味なぐらいにじっと凝視だけしているのだ。

 

「……なんだ、これは? 君はなにをしたのだ?」

「―――ん? ああ、この妖怪たちのことですかー?」

 

 彼女の隣にいた中年の男がこっちに振り向いた。

 そこにはさっきの連中同様に、顔を構成するパーツがついていなかった。

 やつも〈のっぺらぼう〉だったのだ。

 すると、あの熊埜御堂てんは、〈のっぺらぼう〉から私のことを聞きだしたというのか!

 

「ま、まさか!」

「〈のっぺらぼう〉という妖怪はですね。人界と幽界の狭間にある坂や狭い路地に巣食う妖怪なんですよー。基本的には通りがかった人間を脅して楽しむ程度の悪さしかしないんですけど、人間以外の妖魅の類いには物凄く凶暴な連中でしてねー。縄張り意識もあって、容赦なく襲い掛かるんです」

「それが、私を襲った原因か……」

「ええ。目も鼻も口もない分、六感が異常なぐらいに鋭く発達していて、透明になったあなたを見つけるのもそれはそれは簡単だったみたいですー」

 

 彼女はこの化け物たちを猟犬のように駆使して、私を見つけ出したということなのか。

 誰にも見えないはずのこの私を。

 

「いったいどうやって〈のっぺらぼう〉を……」

「それは禁則事項ですー」

「何?」

「てんちゃんの女の魅力が炸裂したという感じでご了解してくださーい」

 

 どう見ても胸もお尻も大きくない、スパイシーな女の子(ガール)にそんなものは欠片も感じないけど。

 ただ、その幼児的な見た目と言説に反して、この巫女の少女は〈のっぺらぼう〉すら比較にならないほどに危険な相手のようだった。

 逃げなければ。

 私の本能が覚醒する。

 この女の子と付き合い続けることは絶対に不幸になる。

 まともな人間ならば一緒にいてはいけない。

 目の前にいる熊埜御堂という女の子だけでなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 私はまた走り出した。

 どんなに走っても足の裏は痛くならない。

 フィクションの世界では裸にならなければ透明であることを見破られてしまう透明人間は、靴を履かないでいるのでガラスの破片などで足を傷つけるシーンがある。

 だが、我がグリフィス家は透明人間の家系であるからか、そもそも足の裏の皮が厚い上に、ふさふさとした毛が生えていたりするのである。

 この毛はなかなか剛毛でもあり、私一人の体重を支えて、よほど尖ったものでも踏まない限り足に傷をつけない効果を持っている。

 おかげで靴を脱いだまま全力疾走しても私は平然としていられるのだ。

 

「あ、待ってください―!」

 

 巫女がまた叫んだが、待てと言われて待つ馬鹿はいない。

 古今東西、それは覆せない真理だ。

 私は再び、逃げの姿勢に入った。

 ただし、今度は全裸の愉悦に浸っている暇はない。

 あの〈のっぺらぼう〉たちを撒いて、同時に巫女の追跡からも逃れなければならないのだから。

 前から〈のっぺらぼう〉の一体が迫ってくるのが見えた。

 見え見えだ。

 路地の一本に入り、そこを駆け抜ける。

 出た先をさらに走ると、児童公園らしき場所に辿り着いた。

 座って休めそうなベンチもある。

 私はその隣にある水飲み場で水を飲んでのどを潤した。

 いくらなんでも走り通しでカラカラだったのだ。

 

「ぷはっ美味い」

 

 飲み干した水が五臓六腑に沁み渡る感じがする。

 科学的な原因という訳ではないグリフィン家の透明化では、食べ物や飲み物を体内に納めても見えるということはない。

 これで見つかる心配はないはずだ。

 一息つくと、随分と余裕ができる。

 周囲を見渡すことすら。

 そして、おかしなオブジェクトの存在に気がついた。

 渋谷区の建物にしては、大きすぎも小さすぎもしない公園の中央付近に四角い物体があるのだ。

 しかも、四角形の四隅には赤と青のポストが立ち、それぞれが三本のロープで繋がっている。

 それはどう見ても、誰が見ても、プロレス専用のリングそのものだった。

 誰だ、こんなものをここに放置したのは。

 私の理解が追い付かなくなる寸前、リングを挟んで私の反対側から一人の影が昇ってきた。

 ミニスカートの巫女だった。

 熊埜御堂てん。

 彼女は私をリングの上から見下ろして言った。

 

「ロバート・グリフィンさん。聞くところによるとイギリスの透明人間は暗殺業を兼ねているお話ですよねー」

「どこから、その話を……」

 

 こんな極東の巫女がどうして、それを……

 加えて、何故?

 

「でしたら、これ以上、逃げられまくっても困りますしー、勝負しませんか?」

「勝負とは……」

「この〈護摩台〉の上には一対一で決着をつけるための結界が敷かれています。ここで、てんちゃんとグリフィンさんとの戦いで決着をつけるのがいいと思うんですよー。わかりやすいし、うちら退魔巫女にとっては白黒つけるよいやり方なんですねー」

 

 え、日本の巫女がどうしてプロレスのリングの上で戦って決着をつけるのだ。

 この娘の言っていることはさっぱりわからない。

 強いのはわかっている。

 さっきのコマンドサンボを見る限りは。

 だが、透明人間の私と一対一で勝てるとでも思っているのだろうか。

 いくらなんでもバカにした話である。

 私は暗殺者として父と兄から訓練を受けてきた身なのだ。

 例え、素手だとしても私を見ることもできない女子供に負けるなどということはありえない。

 だから、言った。

 

「いいだろう。でも、不可視の透明人間であるこの私に素手で勝てるなんて思いあがらないことだ」

 

 さっきまで逃げまくっていたとはいえ、私とて本気になれば人を殺すことなど造作もない暗殺者見習いだった男だ。

 負けるはずがない。

 ゆっくりとリングに上がった。

 戦場(リング)の周囲を何十体もの〈のっぺらぼう〉に囲まれている。

 どうせ、普通には逃げられないということか。

 きっとここに誘い込まれたのも罠だったのだろう。

 熊埜御堂てんという巫女がどういう存在かは知らないが、見えない透明人間と素手で戦うというのならば受けて立ってやる。

 彼女が、私のことが見えていないのは眼の動きでわかる。

 年端もいかぬ少女を倒すのは気が引けるが、私の自由のために犠牲になってもらおう。

 

 私がリングに登りきると同時に、どこからともなく、カアアアアンというゴングが鳴り響いた。

 その妙な出来事に戸惑っているまもなく、熊埜御堂てんは動き出した。

 透明人間たる私と真っ向から戦うために。

 

 

 

 



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熊埜御堂てん、おそるべし

 

 

 私ことロバート・グリフィンは透明人間だ。

 全裸のスタイルでいる限り、誰の目にも映らない。

 だから、いくら狭いリングの上だといっても気がつかれないように回り込み、一瞬で熊埜御堂てんの首を絞めて落としてしまえば勝負はつく。

 暗殺者として育てられた私は、当然のこととして絞め技についてもマスターしてある。

 むしろ、透明人間としての特性を活かすためには、数々の徒手格闘術の方が有用なのだ。

 イギリスに古くから伝わる「Catch As Catch Can.CACC(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)」を中心に極め技・投げ技・絞め技を学んだ私は、スタンドからの戦いには自信がある。

 殺すこともできるが、殺さないように絞めて落とすことだって容易だ。

 蛇のように音もなく近づくスネーキングさえも身に着けている。

 グリフィン家特有の足の裏の剛毛がその助けになってくれるのも助かる。

 ゆえに、私はスルスルと滑るように熊埜御堂てんの背後に忍び寄った。

 

(今だ!)

 

 私が手を伸ばそうとした時、熊埜御堂てんは何故か左へと跳んだ。

 まるで私が見えているかのように。

 

「っ!」

 

 思わず息を吐いてしまう。

 それを聞きつけたのか、巫女の少女は私のいる場所を睨んだ。

 

「そこ!」

 

 彼女の順手によるパンチが飛んできた。

 同じ側の手と脚を突き出して打つのが順手だ。

 ボクシングでも空手でもない、奇妙なパンチの打ち方であった。

 しかも、左腕で防いだ時に気がついたが、パンチではなくて、掌であった。

 掌打?

 奇妙な攻撃をする。

 と思った瞬間、腕を筋肉ごとがしっと掴まれた。

 女の子らしい小さな掌だというのに信じられないほどの握力を備えていたのだ。

 そのまま、左手で私の手首を握る。

 

(やばい!)

 

 咄嗟に私は彼女を力づくで放り捨てた。

 見えていないことから力を籠められるタイミングを計れなかったのだろう、熊埜御堂てんは私の腕力に引きずられてあえなくマットを転がっていく。

 いつまでも掴まれているのは危険だと本能が叫んだのだ。

 案の定、私の左手首にはヒリヒリとした痛みが残っていた。

 透明ゆえに私自身でさえも確認できないが、あそらく掴まれていた両部位には赤い指の跡がついていたに違いない。

 私の頭の中には、「握撃」という技名が浮かんだが、あの娘の手のサイズではそれは無理だろう。

 むしろ、手を取ってからさっきのコマンドサンボの技に移行するつもりだったのではなだろうか。

 関節技と寝技ならば、私の「敵に見えない」という優位性もやや減少してしまうからだ。

 だが、私にも「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」というレスリングスタイルがある。

 もし捕まえられても凌ぎきる実力もあるはずだ。

 私はまたもスニーキングを用いて、巫女の視界から外れる。

 彼女は透明な私に対して、ほとんど恐怖を感じていないようだった。

 とことんおかしい少女だ。

 普通ならば闇雲に叩いたり、蹴ったりを繰り返して、私を近づけないようにして体力を消耗してしまうはずなのに、落ち着いてマットの中央で片膝を立てて、前に手刀をだした構えを崩さない。

 試しにわざと音をたててみても身じろぎもしない。

 ただひたすらにこちらの気配を探っているのだ。

 透明人間をまったく恐れていない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「君はいったい何者だ?」

 

 思わず、聞いてしまった。

 

「―――妖怪退治の退魔巫女ですよー」

「だが、君の戦い方はただの魔導師のものとはも違う。いったい、それはなんだ?」

「ふふーん、耶蘇教圏内の魔導師、大陸の巫術師、仏教の仏凶徒……。そんな連中に匹敵するうちらのことを知らないなんて、ただのモグリですね」

「なんだと」

「この関東を鎮守する聖なる巫女のうちらを、そんじょそこらのか弱い女の子たちと同視してもらっちゃあ、女が廃るってもんですよー」

 

 私は彼女の正面に回った。

 視線が一点に集中しているが、時折、小刻みに左右に動いている。

 警戒しているのだろう。

 あまりにきょろきょろしているので気持ち悪いぐらいだ。

 正面はやはり危険と見えたので、私は少しずれた場所に位置をとった。

 目の前だと、ミニスカートの中身が見えそうになるので眼の得―――いや、毒であるからだ。

 もう少し透明人間であることを利用して女の子にイタズラでもしておけば、こんなことにならなかったのではとちょっと後悔した。

 それから、身を屈めて陸上競技でいうクラウチングスタートの体勢をとる。

 私の狙いは一気に肩からチャージをかけて、力で彼女を粉砕しようというものだった。

 ちまちまとした攻撃ではまた手や足をとられてサンボの餌食になる。

「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」があるとはいっても、それは最後に回すとしよう。

 まずは少女にどこからともなく狙われることに対しての恐怖を植え付ける。

 

(キックオフだ)

 

 私は故郷でラグビーをしていたことを思い出し、力任せの特攻を敢行しようと足に力を込める。

 赤色筋肉を一気に爆発させる。

 真っ正直に肩からのショルダーチャージを喰らわせるために。

 だが、その瞬間、熊埜御堂てんがこちらを見る。

 どうして気づかれた?

 しかし、足はもう止まらない。

 私は突貫していく。

 相手を吹き飛ばすために。

 熊埜御堂てんは両手の掌を手首でがっちりと合わせ、私の肩を正面から押さえた。

 視えていないはずだから、当てる面積を増やして確実性を増したのだろう。

 とはいえ、相手は50キロにも満たない体重しかなさそうな少女だ。

 私の80キロを受け止められるはずがない。

 少女は私の体重を受けきれずに吹き飛んだ。

 その寸前に力のない蹴りが私の腰のあたりに当たったが、それでダメージが減殺されることはない。

 彼女はマットを再び転がって、赤コーナーポストに追い込まれた。

 ただし、すぐに立ち上がり、さきほどの片膝を立てた構えをとる。

 多少フラフラとしているのは、やはり私の肩に全気力をこめたタックルを受けたからだろう。

 両手で防いだといってもまともに食らっているはずだ。

 なにしろ私は透明人間なのである。

 技が来る方向と目的がわからなければ躱せる道理もない。

 

「―――肩のタックルですか……。今の感触からして」

「余裕がなくなってきたみたいだな。いいかい、もうこの辺でやめておこう。君が私を見逃してくれればいいだけのことなんだ。ただ、それだけでいいんだ」

 

 だが、少女は唇を尖らせて、

 

「あなたを見逃したら、てんちゃんが見習い卒業できないじゃないですかー」

「まだ、そんなことを言っているのか」

「あたりまえですよー。それに……」

「それに、なんだね?」

「……別にいいんです。これから、あなたを叩きのめしてから教えてあげますよーだ」

 

 まだ戦う気のようだ。

 さっきのタックルへの恐怖はないのだろうか。

 

「次は容赦しない」

「ご自由にー。それどころか、さっきのタックル程度なら、このてんちゃんの十本の指だけで受けてあげますよー」

 

 彼女は手刀をやめて、さっきタックルを受けた双掌をくっつけて並べた構えをとる。

 発言こそお気楽だが、その顔には極限まで張り詰めた真剣さが溢れていた。

 挑発されているのか。

 いや、あまりに真摯な表情には真っ正直な輝きしか感じられない。

 正直なところ、私ももし手足を掴まれたらと考えると下手な手出しはできないのが本音だった。

 さっき〈のっぺらぼう〉たちの手足を折った彼女のサンボはあまりにも素早く危険すぎた。

 それに背後から近寄った時の超反応もだ。

 体重がない分、機動性(アジリティ)が高く、器用度(デクスタリティ)も高い。

 下手に手を出せば一瞬で手足をへし折られるおそれがある。

 だから、肩でのタックルはある意味では防禦も兼ねた最適手といえた。

 それにあんな女の子に挑発されて乗らないのではブリティッシュの名が廃る。

 

「よし、大怪我をして泣くことになっても責任はとらないぞ」

「どうぞご自由にー」

 

 この期に及んで口調だけは軽い。

 私は覚悟を決めた。

 あんな女の子に本気でかかるのはどうかと人は言うかもしれない。

 だが、私の見てきた限り、あの熊埜御堂てんは化け物にもひるまない怪物である。

 情けを掛けている余裕はない。

 

 だから、私は、全身全霊をかけて、クラウチングスタートからの、タックルを、放った。

 

「―――手がマットを離れる音を消せてませんよー」

 

 はっ!

 

 私が熊埜御堂てんの言葉を理解した時、すでにタックルに使った左肩に彼女の掌が触れていた。

 こちらが力を加えたタイミングに、寸分の狂いもなく相手もタイミングを合わせてきた。

 おかげでこれだけの体重差(ウェイトさ)があるというのに、私は彼女に突貫を正面から止められてしまう。

 続いて肩に激痛が走る。

 熊埜御堂てんの指がとんでもない握力をかけて、私の肩に食い込んだのだ。

 筋肉さえも破らんばかりのアイアンクローのように。

 それで一瞬ひるんでしまったのが失敗だった。

 彼女は完全に視えないはずの私の位置を特定していた。

 腕に手首が絡まる。

 小さな体がまるで私の腕を鉄棒代わりにしてくるりと回転した。

 首にミニスカートから伸びた細い脚が巻き付く。

 太ももが私の呼吸を止めた。

 ほぼ同時に彼女の反対側の脚が、私の軸足を払う。

 無様にも顔面から私はマットに倒れこんだ。

 いや正確には押さえこまれた。

 裏・腕十文字堅めにとられたのだ。

 そして、案の定、私の腕は壊された。

 

 ガキっ

 

 激痛はあったが、関節を壊された訳でも骨を折られた訳でもなく、肩の骨を外されただけで済んだのは彼女の慈悲の心のおかげだったが。

 

 ―――こうして、私は暗殺者として育てられた透明人間でありながら、極東のコマンドサンボ使いの巫女になすすべなく倒されてしまったのである……。

 

 

 

 

 

 



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太陽は眩しいけれど

第16試合、残りを一挙公開です。














 

 

 夏休みの最後の週末、僕はいつものように御子内さんのための〈護摩台〉という名前のリングを設営していた。

 世田谷区あたりを流れる多摩川のほとりに現われて、子供を攫おうとする水虎という妖怪退治のためだ。

 土手を行き交う人々の痛々しい視線に耐えながら、最近慣れてきた力仕事に取り組む。

 とはいえ、この間の盲腸での入院のせいで、あまり万全ではない状態である。

 傷が開くおそれはないとはいえ、妖怪の出る夜中までに完成するかは難しい進行状況であった。

 

「ちょっとまずいかなあ」

 

 時計を見ながら、さすがに焦っていると、

 

「京一さーん!」

 

 と、聞き慣れた声がした。

 土手の上からミニスカートの退魔巫女見習いである熊埜御堂さんが手を振っている。

 僕のいるところまで降りてくるけど、その隣には背の高いトレンチコートと帽子の人がついてきていた。

 彼女と並ぶとどう見ても怪物くんとお供のフランケンシュタインのようである。

 いったい、誰なんだろうと訝しく思っていたら紹介された。

 

「退院したばかりの京一さんのために助っ人外国人を連れてきたんですよー」

 

 後ろにいるトレンチコートの人が頷く。

 驚いた。

 顔がわからないぐらいに白い包帯がぐるぐるに巻かれていたからだ。

 しかも、眼にはサングラスをつけている。

 トレンチコートといい、この包帯といい、夏場には不向きすぎる格好である。

 

「助っ人……って、暑くないんですか」

「―――大丈夫だ」

 

 少し外国風の訛りがある。

 助っ人外国人というのは嘘ではないらしい。

 

「じゃあ、お願いします。……〈護摩台〉の設営の経験はおありですか?」

「一度だけ」

「そうなんですか。えっと〈社務所〉の方なんでしょうか?」

「いや、〈社務所〉とは関係ない。そこの熊埜御堂てんの保護下におかれているだけだ」

「……はあ」

 

〈社務所〉の関係者でもなく、僕みたいな助手やバイトでもなく、保護下に置かれているというのは意味深だ。

 でも、御子内さんたちについて一々ツッコミをいれたりすることは徒労に終わることが多いので、僕は簡単に流すことにした。

 そもそも、この人―――ロバート・グリフィンさんというらしい―――は見た目からして怪しいし。

 よって、僕らは黙々と設営作業を続けることになった。

 熊埜御堂さんは、リングの傍らでアップを続ける御子内さんのスパーリングパートナーを楽しそうにやっている。

 

「楽しそうですね~」

 

 僕が二人の退魔巫女への感想を呟くと、ロバートさんがぎょっとして顔を上げた。

 さすがにトレンチコートを脱いで、動きやすいオーバーオール姿だが、厚手のトレーナーと手袋という露出をとことん避けた格好は変わらない。

 熱中症にならないか心配になってしまう。

 

「……君はあの巫女たちが怖くないのか」

「怖い? 御子内さんたちが? いや、全然」

「―――もしかして、君はこの作業を強制されている訳ではなくて、自分から進んで着手しているのかね!」

 

 ロバートさんは妙な驚き方をした。

 どうも、話を聞いていると御子内さんというよりも、彼は退魔巫女が怖いらしい。

 まあ、普通に考えると怖い女の子たちかもしれないけどね。

 

「僕はバイト……というより御子内さんの助手がやりたいからやっているだけですよ」

「……なんと。まさか」

 

 凄い驚かれようだ。

 

「ロバートさんはどうして、熊埜御堂さんの助手をやっているんです?」

「私は、―――こう見えても様々な勢力に狙われている立場でね。その勢力から身を守るという条件で、この仕事を斡旋されたのだ」

 

 ……ロバートさんは手を動かしながら、熊埜御堂さんとの出会いについて訥々と語ってきた。

 彼の話には難しい部分もあったが、だいたい理解できなくはないものだった。

 ただ、見過ごせない誤解のようなものがあったので、そこは解いておくべきだと感じたので、お節介だとは思うが口を出してみた。

 

「……熊埜御堂さんが、あなたをイギリスに送り返さずに、日本に留めておくことにしたのは労働者として利用するためではありませんよ」

「いや、私はあれ以来、熊埜御堂てんの言うがままに仕事をして日々を過ごしているのだが……。彼女から逃げるということは、〈社務所〉という得体のしれない組織からも狙われることになるし、西に行けば仏凶徒なる危険団体に襲われ、東に行くと〈のっぺらぼう〉のような妖怪たちの餌食にされるようになるのでできないんだ」

「そこが誤解なんです」

 

 僕は思ったことを説明した。

 

「熊埜御堂さんの言う通りに、あなたは彼女に保護されているんです。暗殺者としての業から、妖怪から、仏凶徒(?)から」

「そんな馬鹿な」

「いいえ。あなたは、まだあの子たちの優しいところを知らないんです。確かに、熊埜御堂さんは退魔巫女の中ではかなり真意を掴みにくい子ですが、あの女の子たちはただ強いだけじゃないんです」

 

 御子内さん、音子さん、レイさんのことを思い返せばすぐにでてくる答えだ。

 

「妖怪や妖魅、悪霊に苦しめられる人々のために身体を張って戦い続ける彼女たちは、ただの戦闘狂なんかじゃありません。嫌なことがあれば傷つくし、妖怪に同情すべき点があれば慈悲の心を持つし、殴った拳の方が痛いことも知っている、普通に優しい子達なんです」

「……」

「あなたが〈のっぺらぼう〉から助けてもらったことをまず思い出してください。そして、あなたを無理にご実家に帰して暗殺者に戻すことは、熊埜御堂さんにとって絶対にノーだったんですよ。だから、無理にあなたを〈社務所〉の関係に回して、保護下ということにしてあなたを守ることにしたんですよ、きっと」

 

 熊埜御堂さんは僕の入院の時にも助けてくれた。

 とても優しい子だということは良く知っている。

 だから、ロバートさんが彼女を誤解しているとしたら、それは両者にとって不幸なことにしかならない。

 

「そんなバカな……」

 

 僕は、まだ高い位置にある太陽を指して、

 

「太陽は生物が生きるためには絶対必要だけど、あんまりに眩しいものだから直視できないでしょ」

「ああ」

「それと一緒です。あんまり眩しい人たちといると、その真意がなかなか見られなくなる。でも、太陽の温かさはいつだって変わらない。―――すぐにあなたもわかりますよ。熊埜御堂さん、優しい子だから」

 

 断言する。

 きっとロバートさんにもすぐにわかるさ。

 もっとも、優しいのはさておいても、人使いが荒いのは退魔巫女たちの特徴なのでそこはどうしようもないが。

 

「そんなものなのか……」

 

 彼はまだ信じられないだろう。

 でも、僕にはその考えがいつか裏返る未来が容易に想像できる。

 

「熊埜御堂さーん」

「はいですー」

 

 御子内さんとお喋りをしていた彼女が振り向く。

 

「正式な退魔巫女になったんだって? おめでとう!!」

 

 彼女は満面の笑顔で、

 

「ありがとーございまーす」

 

 と、バンザイをしていた。

 新しい退魔巫女は、ちょっとエキセントリックだけど、スパイシーで、何よりも優しい女の子なのだった……。

 

 

 

 



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第17試合 奥多摩怪談
奥多摩の怪異


 

 

「……知ってるか、奥多摩に怪物がでるらしいぜ」

 

 放課後、僕はクラスメートの男女何人かとくだらない雑談に興じていた。

 妹の涼花にはいつも御子内さんたちとだけ一緒にいるように思われているが、実際のところ、彼女たちとは学校も違うし、僕には僕の生活圏というものがあるのだ。

 こうやってクラスの友達とだべる時間も当然に持っている。

 

「怪物って何さ?」

「なんだろうね」

「桜井、続きは?」

 

 普段は口もきかない女子とだって、割合スムーズに会話ができる。

 だって、退魔巫女の面々と比べたら、普通の人は物凄く話しやすいからね。

 妙なことは言わないし、物事を力技で解決しようとしないし。

 

「俺の従兄弟が奥多摩の方で仕事してんだけど、そこで噂になってんだよ。怪物が出るって」

「……おいおい、もう夏は終わりだぜ。今更、怪談はねーだろ」

「いいや、怪談じゃないね。もっと、わかりやすい儲け話だ」

「儲け話?」

 

 怪物って単語はスルーしていた子たちも食いついてきた。

 さっきまでは恋バナとか学内の噂(カッコいい先輩や可愛い後輩についてとか)をしていたのに、オカルトはともかくお金の話には興味津々といったところらしい。

 高校二年ともなると、やはり欲の皮が突っ張りはじめるお年頃だ。

 

「奥多摩の奥地に棲息している怪物を捕まえて、見世物にしようってのか?」

「いや、撮影してユーチューブに流すんだよ。うまくいけば、そのまま人気ユーチューバーだぜ」

「ユーチューバーってお金になるのは一握りなんでしょ。現実味がないよ」

「待て待て、ニコニコ動画で生放送すんだよ。コメントが爆とれるぜ」

 

 非常に俗っぽい会話が始まる。

 生々しいわりに詰めが甘そうなのはいかにも高校生だ。

 うちの学校は偏差値もたいしたことないし、頭の良さそうな発言がでてこないところがなかなかに哀しい。

 

「バーカ、怪物なんている訳ねえだろ」

 

 いきなり話の流れを遮ったのは、言い出しっぺの桜井だった。

 みんながきょとんとした顔になる。

 

「いいか。俺が聞いてきた話は、こうだ」

 

 桜井はホワイトボードを引き寄せ、マジックを手にすると、イラストを描き始めた。

 思ったよりもうまい。

 一分ほどでデフォルメされた人間の姿が描かれる。

 

「こいつが目撃されるのは、奥多摩湖よりもさらに入り組んだところにある、ずっと深いところだ。背の高さは人間ぐらい、手足が四本なのも、俺らと一緒。背中と思われる部位に、甲羅のような瘤のようなものがついていて、少し突起している。夜中の目撃談というだけじゃなくて、どうも皮膚が真っ黒で、ぬめぬめしている感じで毛は生えていない。上半身には緑色の触手がついている。あと、一つ目で口は尖っている。バランスが悪いのか、よたよたと歩くのですぐに逃げられそうなんだけど、音もなく何かが迫ってくるので目撃者は延々と走るしかない、恐ろしい化け物。―――こうだな」

 

 自分の言う通りに色々と書き足す桜井。

 おかげでシンプルな人型は、不気味な怪物の絵に仕上がった。

 

「河童とかじゃないの?」

「一つ目小僧とかかも」

「ほら、ウルトラマンの宇宙人にこういうのいたじゃん。妖怪とかじゃなくて、宇宙人だよ」

「結構、ユーモラスだよね」

「こういう妖怪ってマジでいそうだ」

 

 僕は記憶巣を探ってみた。

 御子内さんたちとの妖怪退治のときに、こういうのに出会ったことはないけど、奥多摩みたいな人の少ない辺鄙な場所だといたとしてもおかしくはない。

 魑魅魍魎は本来ならば人里よりも田舎にこそ相応しいものだし。

 もし、この話が事実だとしたら、一応、御子内さんの耳にでも入れておくべきだろうか。

 いや、平和に大人しく暮らしている妖怪だとしたら放っておいてあげる方がいいかもしれない。

 そんな感想を持っていると、周りもなんだかんだ言って話に乗って盛り上がっていた。

 だが、それを遮るように桜井はちっちっちっと人差し指を振った。

 格好つけているけど、イマイチだね。

 

「ちげぇって。これ、金儲けの話だっていっただろ? よーく、考えてみろ。こんな怪物いる訳ないじゃん」

「じゃあ、なんのなさ」

「見てろよ」

 

 桜井は黒いマジックを捨てて、青いものをとり、今度はそちらで書き足し始めた。

 一気に、不気味な化け物が変わっていく。

 イラスト上手いな。

 まるでお笑い漫画道場みたいだ。

 

「じゃーん」

 

 出来上がったのは、見覚えのあるスタイルだった。

 甲羅だか瘤だかは空気の詰まったボンベに変わり、毛のない黒い皮膚はウェットスーツになり、一つ目は水中メガネに、口にはシュノーケル、緑の触手は絡まった葉や蔦になった。

 つまり、これは潜水をするためのダイバーの絵だったのだ。

 

「これがたぶん、正解だ」

 

 確かに桜井の言う特徴はダイバーのものに合致する。

 なるほど。

 海でならばともかく、奥多摩湖のさらに奥で見掛けたら、怪物と見間違えても仕方ないところだ。

 

「音もなく寄ってくるってのは?」

「これだろうな」

 

 桜井が描いたのは、羽根のついた座布団のようなものだった。

 

「ドローンだ。今や気軽に手に入る空飛ぶ道具だ。夜中に飛ばすのは大変だけど、慣れていれば問題ないだろう。暗い中でこんなものに寄ってこられたらパニックを起こしたとしてもわかるな」

 

 僕は感心した。

 多少、牽強付会なところのある推理だけど、安易に未知の妖怪のせいにしないで、仮説を立ててみたところはたいしたものだ。

 僕みたいに妖怪の実在をわかっていると、この発想の転回はできにくくなっちゃうしね。

 

「ちょっと待ってよ。どうして、奥多摩の山ん中にダイバーがいるのさ」

「それが大儲けの鍵なんだよ」

 

 すると、桜井は用意周到に準備していたらしいスマホのとあるページをみんなに見せてきた。

 半年ほど前に地震があって、多摩だけでなく奥多摩まで地滑りなどの被害が出たという記事だった。

 

「俺の予想では、この時、崖とかが崩れて奥多摩のどっかに新しい鍾乳洞への入り口ができたんだ」

「鍾乳洞? 日原(にっぱら)鍾乳洞みたいな?」

「ああ、それだ。でも、ただの鍾乳洞じゃない。すぐそこに地底湖がある鍾乳洞だ」

「地底湖? うーんと、どうして断言できるの?」

「そんなところに()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 僕は納得した。

 ああ、そういうことか。

 噂になっている怪物というは、新しくできた鍾乳洞の入り口から入って地底湖を調査しているダイバーたちで、夜中にやっているは人目につかないようにするためにか。

 

「でも、夜中に調査なんて危険じゃないかな?」

「それにはシンプルな答えしかないぜ、ワトソン京一」

「どういうことなの、ホームズ桜井」

 

 桜井はホワイトボードを意味ありげに叩き、

 

「人目を避けて夜中に調査をするなんて、悪いことをしているか、隠したいことがあるからに決まってんだろ。そして、目撃者がいてもずっと作業をしているということは、絶対に口封じをする必要はないけれど、中止もせずに継続してしなければならない事情があるということだ。そして、そこから導き出される俺の推理は、その地底湖にはきっと財宝か何かが隠されていて、ダイバーたちはそれを探しているというものなんだよ!」

 

 さらに牽強付会になったよ。

 いくらなんでも無理すぎる推理じゃないかな。

 地底湖があるからといって、それがそのまま財宝に繋がるというのはまず乱暴すぎるだろう。

 ただ、お話としては面白いからか、僕たちはしばらくその話題で盛り上がるのであった……。

 

 

          ◇◆◇

 

 

「ないとはいいきれないね」

 

 次の日の放課後、待ち合わせていたモスバーガーの店内で、僕は御子内さんにその時の話をしてみた。

 制服姿の彼女は、普通に可愛いアイドルのようだ。

 ただし、泰然自若とした態度と無意識に発する強者(つわもの)のオーラがあまりに激しいので声をかける男はほとんどいない。

 僕がいようといまいといつもこんな感じなのである。

 

「そうなの?」

「ああ。その地震は覚えているよ。かなり大きなものだったし、奥多摩はおろか、多摩全域でちょっとした霊的被害があったからね」

「霊的被害?」

「うん。おそらく、龍脈の一部が欠損したんじゃないかって言われている」

 

 龍脈というと、地球という惑星そのものの生命エネルギーの流れというやつか。

 英語にするとレイ・ライン。

 世界中のオカルト的に、かなりの大問題なのは知っている。

 かのヒットラーのナチス第三帝国もレイ・ラインを巡って戦争を起こしたとか起こさないとか、そういう話があるほどだ。

 大陸でも風水とかそういうものが龍脈の加護なんかを使っていると聞いたことがある。

 

「昔から、奥多摩にははぐれ龍脈という非常に珍しい一本だけの支流があるとは言われている。確認されたことはないけれど、かの俵藤太がムカデ退治で手に入れて秘匿していたというお宝といえるものが、実のところその龍脈の在り処ではないかという説もあるぐらいさ」

「へえ。そんなことが」

「だから、キミの友達のいう推理も完全しも間違っているとは言えないかもしれないね。世の中には龍脈のお零れを狙うこすからいオカルト団体もあるし、龍脈をとらえるために地底湖を探るというのは昔からの伝承の通りで正しい方法だから。だけどね……」

 

 なんでも、東北の十和田湖の湖底にもそういう龍脈と繋がった遺跡があるらしく、奥多摩で関連したものが見つかったとしたら、ある意味では歴史的オカルト発見ではないかなと、御子内さんは言う。

 だが、少しするとモスバーガーのポテトを食べつつ、考え事をし始めた。

 非常に珍しい。

 運ばれてきたハンバーガーに手を付けるのが遅れるほどに。

 

「―――どうしたの?」

「いや、とりあえず、八咫烏に探らせておこうと思ってね」

「何かあるの?」

「……ボクの知る限り、奥多摩というのはけっこうヤバい土地柄でね。龍脈絡みの面倒事が起きるのはよくない方向に向かう気がする。あそこには〈金太郎〉と〈山姥〉なんかもでるし……」

 

 御子内さんはカバンからだした自分のスケジュール帳を開いて、

 

「少し様子を観に行くとしようか。京一は、いつ頃がいい?」

「えっ、僕も行くの?」

「当然じゃないか。楽をしようとしてはいけないよ」

 

 妖怪退治のための結界となるリングが必要な訳じゃないのに、設営要員の僕まで行くのか……。

 まあ、楽しいハイキングみたいなものだと思えばいいか。

 御子内さんとなら面白いことが起きるかもしれないし。

 

「じゃあ、次の週末にしようか」

「そうだね」

 

 ……という訳で、僕と御子内さんは奥多摩まで調査―――というか、探検旅行に出発することになったのである。

 

 

 

 

 



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山歩きは服装が大事

 

 

 奥多摩駅は、JR青梅線の終点であり、そこにいくためには新宿か立川か、拝島の各駅で乗り換えるのが一番早い。

 僕たちは、一度立川駅まで行ってから、青梅線に乗り換えた。

 三十分ほどして降り立った奥多摩駅は、なかなか趣きのある駅舎をしていた。

 駅舎の外に出ると九月だというのにやや肌寒い。

 これから山登りをするということで、背負ったリュックサックの中には長袖を入れてきたのは正解だったみたいだ。

 天気はあまりよくない。

 雲が多くて快晴とはいえないし、午後から雨が降っても仕方がなさそうだ。

 

「ここからはバスかな」

「いや、タクシーを使う。チケットは出してもらった」

 

 御子内さんが懐からタクシーチケットを取り出した。

 いつも妖怪退治をするときに支給されるものだ。

 でも、今回の小旅行は僕たちが独自にやるもので、八咫烏が依頼をとってきたものではないのだから、〈社務所〉の助けはもらえないような気がする。

 よく出してもらったものだ。

 

「妖怪退治の依頼はなかったけど、こういう風に妖魅発見の端緒を調べるというのもボクらの仕事なんだよ。少なくとも、交通費ぐらいは掛け合えば出してもらえる。あとでレポート書かないといけないけどね」

「へえ、そういう融通は効くんだ」

「レポートはWordでいいらしいから、よろしく」

「―――あ、そういうオチ?」

 

 御子内さんに文才も事務処理能力もあるとは思えないので、やはりその手の雑用は僕の仕事か。

 

「青梅街道をもう少しいってから、多摩川を堰き止めた小河内ダムの作った奥多摩湖よりも北側にあがろうか。桜井が言っていた話とか、ネットでの噂を聞く限り、鷹ノ巣山と六ツ石山の間辺りが怪しいし、そこを重点的に見て回ろう。それほど険しい山道でもないし、全部見て回っても問題ないでしょ」

 

 僕は地図を出して、色々と説明する。

 

「一番高いっていう雲取山は?」

「うんと、目撃談があるのは日原鍾乳洞よりも南側なんだよね。雲取山までもいかない場所。意外と近場で、グーグルアースで確認すると、人も結構住んでいるみたい」

「ほおほお。夜中にこそこそしていても目撃談がそれなりに出る程度には、人里に近いということかな?」

「そうみたい」

「だが、それは好都合だ。もっと北上して白馬峠なんかに行ったら面倒なことになりそうだ。あそこには雨舟村があるからね」

「雨舟村? 聞いたことないよ」

「隠れ里さ。ギョーカイではちょっと有名なところだ。オカルト界隈でも知られている」

「ああ、杉沢村みたいものか。消えた村伝説の」

「いや、雨舟村にはまだたくさん人が住んでいるよ。ただ、住んでいる連中がなかなか厄介でね……。まあ、それは余談だ。ボクたちがいくのは鷹ノ巣山の方みたいだし」

 

 ここに来るまでに確認していたが、麓辺りに賛同の入り口があり、登った先には山小屋があるようだ。

 まずは、そこまで行こう。

 もし、桜井の推理通りだとしたら、わりと人数がいないと地底湖の調査なんてできないから目撃談ぐらいはあるだろう。

 もしくは山小屋そのものが基地でグルか、だ。

 

「……地震でがけ崩れがあったとすると、それなりに標高差がないとならないから、地図でいうとこのあたりかな」

「等高線が読めるのかい?」

「多少は」

「ああ、道理で。キミの格好はなかなか本格的だと思った」

 

 僕の格好は、肌着(アンダー)中間着(ミッド)外着(アウター)の三枚の重ね着を意識した服装をチョイスして、吸収・拡散・冷涼・保温・防風・通気という性能を引き出すための工夫がしてある。

 トレッキングシューズもこの季節に合ったものだ。

 登山グッズについても重くなく使いやすいものを中心にリュックサックに詰めてある。

 自分でいうのもなんだけど、山登り中級者に見えることだろう。

 

「うん。父さんの趣味でね。たまに一家で登るんだ。奥多摩は初めてだけど」

「涼花もかい?」

「あいつもわりと山は好きだよ」

「へえ」

 

 いたく感心したようなそぶりをする御子内さん。

 そんなに我が升麻家はインドア系に見えるのであろうか。

 だが、うちの意外な一面に感心している場合じゃないのは彼女の格好の方である。

 

「ところで御子内さん」

「なんだい?」

「待ち合わせ場所でも言おうと思っていたんだけど……」

「だから、なんだい?」

「その山伏みたいな格好はなに?」

 

 御子内さんは、頭に頭巾(ときん)という多角形の小さな帽子を付け、手には錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる金属製の杖を持ち、亜麻色の袈裟と、篠懸(すずかけ)という麻の法衣を身に纏っていた。

山袴、白地下足袋、笠、手甲、脚絆、念珠といういかにもなもの以外にも、首にはほら貝を加工した楽器を下げている。

リュックサックではなく櫃を背負っているのもなんだかな。

……ぶっちゃけ、最近ではカラス天狗のスタイルと言った方がメジャーになった、修験道の行者の格好なのだ。

 いつもの巫女装束でないだけカラフルでないけど、目立つことこの上ない。

 しかも御子内さんクラスの美少女だとコスプレとすら感じさせないのだ。

 おかげで電車の中で僕は相当いたたまれない思いをする羽目になった。

 

「何かおかしいのかい? ボクらは山に入るときはだいたいこうだよ」

 

 まったく悪びれない。

 これじゃあ、巫女レスラーじゃなくて行者レスラーだよ。

 

「山登りをするなら、それでいいのかもね……」

「だろ? 動きやすくて悟りやすい。最高だよ」

「巫女の台詞じゃないよね、それ。退魔巫女だと漸修よりも悟入は難しいと思うけど」

 

 話してみるとわかるが、基本的に退魔巫女の皆さんは神道以外には無頓着だ。

 神道についてだってだいぶあやふやな所もあるぐらいなので、他の宗教に関して詳しいはずもないけど。

 これでよく例えば熊埜御堂さんのように神通力が使えるものだと思わなくもないが、古代の魔術師が儀式も使わず態度のみで精霊を従えたように、退魔巫女は漲る闘志さえあればそれでいいのかもしれない。

 僕らは適当にタクシーを捕まえて、まず麓まで向かってもらうことにした。

 タクシーの運転手は、僕はともかく山伏姿の御子内さんにはえらく驚いていた。

 道中もあまり話しかけてこなかったのはきっとそのせいだろう。

 

「―――おや、ボクたちみたいな若い世代がいるよ」

「えっ」

 

 御子内さんがタクシーの窓の外を指さした。

 麓までもう少しという場所の路肩を六人ほどの登山客が楽しそうに笑顔で歩いていた。

 そのうちの一人を見て、僕は思わず顔を伏せた。

 タクシーの外からでは気がつかれなかったと思うけど、もしかしたらと考えたからだ。

 しばらくして彼らから遠ざかったところで元に戻る。

 額に汗が浮いていた。

 ヤバい油汗だった。

 これは本当にマズいかもしれない。

 いや、マジで。

 

「おかしな行動に出たね、京一」

「放っておいてよ。……で、ものは相談なんだけどさ」

「なんだい?」

「帰っていい?」

「却下。キミに拒否権はない。事情によっては情状酌量の余地は認めてあげるけど」

 

 く、お代官様め。

 

「……さっきの連中、僕のクラスメートなんだよ。この前、ここの話をしていた時のメンバーで、僕とは仲がいいんだけど」

「それで?」

「女の子と二人で山登りしているところを見られたら学校で噂される。だから、今日だけは勘弁して」

「大却下」

 

 すげえ簡単に却下されたけど、それじゃ困る。

 女の子と二人というのも問題だけど、もっと大きいのは今の御子内さんの格好だ。

 

『升麻ってさあ、山伏のコスプレした女と山登りしてたんだぜ~』

『えっ、ウッソー。もしかしてそういう趣味があるの~?』

『アブノーマルにも程があるよね~』

『升麻くんとつきあうと、イケない服装を強要されたりして~』

 

 ……などという噂がたったらどうすればいいのだ。

 あと一年半は学校があるのに。

 巫女装束の御子内さんと歩くことはもう慣れたけど、山伏姿っていくらなんでも高度すぎるだろう!

 ハイポテンシャルすぎて僕の処理能力がショート寸前だ。

 なのに、当の元凶はのほほんとしていた。

 それどころか……

 

「なあ、京一」

「……どうしよう、どうしよう。バレないようにマスクをつけるか……。でも、もし外しているところを見られたら……」

「ボクは思うんだけど」

「ヤバいなあ、せめてフードはつけたままで……」

「クラスメートが連れ立って山登りに来ているのに、どうしてキミはあの中にいないんだい?」

 

 ………………

 …………

 ……

 はっ!

 

「普通はその話が持ち上がったときの面子に声をかけるものだよね。そうだとすると、京一も誘われて当然だ」

「……ちょっ」

「それなのにキミが知らないってことは……」

 

 い、言わないで、ちょっと頭で処理しきるまで言わないで!

 

「―――京一。もしかして、キミって仲間外れなのか?」

 

 

 

 

 

 ―――そんなことないから。

 

 

 

 きっと。

 

 

 

 たぶん。

 

 

 

 おそらく。

 

 

 

 うん、ちょっと覚悟しとく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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妖魅の法則

 

 

 山への入り口にあたる、ちょっとした広いスペースにタクシーが停止した。

 さびて汚れた看板が立っているのでここが登山入り口で間違いないようだ。

 もうそろそろ秋も近いということもあり、瑞々しかった葉っぱも木々もやや元気をなくしているように感じられる。

 それでも夏の間に伸びきった丈の高い草が道のわきを埋め尽くしていた。

 

「……お客さん、ここを上がっていけば、わりとまともな登山道に出るから」

 

 タクシーの運転手が言う。

 地図をみると、どうもそれらしい道があった。

 

「正式な道なんですか、それ?」

「いや、違うよ。あまり使われていないルートだけど」

「じゃあ、どうして?」

「おたくらの言うがけ崩れがあったっていうのは、そこから先なんだ。ただ、まだ半年ぐらいしか経っていないし、立ち入り禁止になっているかもしんねえから、もしそういう表示があったら引き返しな。わざわざ危険なところに行く必要はねえし、俺もあとで責任を追及されんのはお断りだぜ」

「なるほど。ありがとうございます。何かあったら、すぐに戻ります」

「あたりまえだ。それに午後になったら雨になるかもしんねえから、降り出したりしてもすぐに引き返せよ」

 

 山伏姿の御子内さんに引いていたとはいえ、運転手は親切な忠告をしてくれた。

 

「でも、よくこんな脇道がつくられましたね。本道とは関係なさそうなのに」

「そりゃあ、ここに用事がある連中がいたからな」

「何の用事ですか?」

「ああ、あんたらは知らねえ昔の話のことだよ。ここを上がった先に、へんてこりんな宗教の施設があったんだよ。十何年も前に、そこの信者連中のためにわざわざ道を拵えたって噂だ。まあ、路が先にあったのかもしんねえがよ」

「へえ」

 

 以前はそれなりに使われていたのか。

 一番近いバス停からは十五分は歩くのに。

 

「ありがとう、運転手さん。もし、帰りにタクシーを使うことがあったら、あなたを指名させてもらうよ」

 

 御子内さんが世慣れたことをいう。

 世間知らずな女の子だが、異常に世慣れている一面もあるのだ。

 引き返していったタクシーを見送って、僕らは山に登り始めた。

 それほどきつい勾配ではなく、まさにハイキング程度のコースであった。

 高尾山程度かな。

 ただ、高尾山と比べれば道幅が狭いし、足場も古いので、気をつけないと転びそうな気がする。

 僕もそうだが、御子内さんも山にはかなり慣れているらしく、スタスタと登っていく。

 やや湿り気のある土も石も滑りやすくはあるが、準備万端な僕らにとってはどうということのない障害だ。

 山の澄んだ空気を肺に入れながら、無言で歩くのもまた楽しい。

 心地よい疲れもまた気持ちいいものなのだ。

 三十分もかからないうちに、運転手の説明にあったまともな登山道に出た。

 

「よし、ここを尾根伝いに西に行けば、がけ崩れのあった方向に行けるよ」

「……京一は本当に新しい鍾乳洞の入り口ができたと思っているのかい?」

「ううん。まず、ないと思っている」

「理由は?」

「今は地震があったりしたら、上からヘリコプターとかで確認するからね。あまりに大きな変化があったら誰かが気づくよ。誰にも知られていない、上からは見つけられない場所であったとしても、このあたりなら放置されているとは思えない」

 

 僕は道端にあったゴミを手に取り、

 

「この缶コーヒーなんて、賞味期限が16.6.10でしょ。普通は一年ぐらい余裕があるものだから、販売されたのはつい最近だよ。捨てられてそんなに経っていない。人がたまにしか行き来しない場所ならばともかく、これが無造作に捨てられているんだ。比較的人通りがある地域なんだよ、この辺は。つまり、人が入れるほどの鍾乳洞なんてあったら、まず見逃されるはずはないということさ」

「でも、巧妙に隠されているとしたら? たとえば、建物の裏とか、ボクらの使う人払いの術をつかったりとか」

「確かにそういう場合もあるけどね」

 

 そこまでして隠す必要はない。

 まして、深夜にダイバーを派遣して探索する必要はなくはないか?

 わざわざ現地まで来てみて、ようやく僕は今回の探検旅行が意外と意味がなさそうなことに気がついた。

 冒険的なワクワク感のおかげで少し見失っていたのかもしれない。

 

「そもそも、僕たちって何をしにここに来たのかな?」

「京一のクラスメートがいう妖怪が実はダイバーなのか、その確認かな。ボクとしては実際に妖怪でなければそれで構わないんだけど」

「でも、龍脈がどうとか言っていなかった」

「地表に剥き出しになっている龍脈があったら、かなり危険だからね。〈社務所〉でもそれは調査の対象になるさ。でも、それも、あまりボクには関係ない」

「じゃあ、どうしてこんなところに? 桜井の推理ってそんなに間違っていない気がするんだけど」

 

 すると、御子内さんはちょっとだけ真剣な顔になって、

 

「少し前に、とある小さな男女が行方不明になった。そのとき、ネット上では彼らの両親に関するバッシングが広まったことがある」

「……覚えているけど」

「その内容は、子供たちを監禁して隠しているのは両親であり、彼らが犯人に違いないというものだ。その子供たちは死体となって発見されて、両親が今度は殺人犯として弾劾されることになった」

「……」

「でも、結局、別の犯人が見つかって両親へのネット上での冤罪は晴らされたけど、そのことからわかることがある。―――ネット上には“自称”名探偵がいくらでもいるけど、彼らの名推理が当たるかどうかは保証の限りではないということだよ」

 

 つまり、御子内さんが言いたいのはこういうことだ。

 あの時の桜井の推理があっている保証はないということである。

 従兄弟から聞いた話、ネットで転がっている噂、それらを勝手に推理しただけのものでしかなくて、それが必ずあっているとは限らない。

 

「要するに、御子内さんはあの桜井の推理から導き出されたものは間違っていると?」

「いや、そうじゃない。その彼が話す内容をヒントとして出てくる答えとしてはそんなに外れたものじゃないと思う。噂のすべてが真実であるという保証があればね。でも、実際にはそうじゃないはずだ。むしろ、ボクには特定の答えに誘導されているような気がしてならない」

 

 そこで、僕にはようやく意味が掴めた。

 

「―――誰かが噂を故意に流しているってこと? その、桜井の推理に合致するようなヒントを垂れ流して?」

「そうだね」

「でも、なんのためだろう。そんなことをして、世間を驚かせたい愉快犯とか……かな」

「今のボクの推理だって、当たっているとは限らないけど、ただ一つだけ真実に近いことは言える気がする」

「なんなの?」

 

 だが、御子内さんは答えを言わずに立ち上がると、道のない斜面に脚を掛けた。

 

「今から僕はちょっと別行動を採るから、ついてこないでいい」

「……えっどういうこと?」

「ボクは巫女としての修業中、こういう場所で訓練をしていたこともあるから一人の方がむしろ楽なんだ。で、調べたいことがあるのでボクだけは別行動をとる」

()()()()。……どういうこと? 僕はどうすればいいのさ?」

「京一は……」

 

 彼女は来た道の少し下を指した。

 わずかに離れた場所にこちら目掛けて登ってくる集団が見えた。

 見覚えがある。

 僕のクラスメートたちだ。

 もう追いついてきたのか。

 

「彼らと合流して、それとなく様子を見ていてくれないか。危険に近づかないように、変な真似をしでかさないように」

「―――どういうこと?」

「妖怪……というか妖魅を相手にする場合には、実は決まった法則のようなものがある。例えば、雪女や鶴の恩返しのように伝承内のルールに則ったものがね」

「ああ、覗くなといわれていたルールを破ると、手に入れたものをすべて失ってしまうというものかい」

「そうだ。他にもしっぺい太郎やら三枚のお札にもあるね。で、今回の場合もそんな感じがする」

「ルール?」

「というか、御伽噺的流れというか……。とにかく、京一はあのグループを守ってやってくれ。ボクが戻ってくるまでにね」

「だったら、ここで引き返させたほうが良くないかな」

「それができたら、たぶん、苦労はない。おそらく不可能になるだろうね」

「―――わかった」

 

 そろそろ一年になる退魔巫女との付き合いでわかったことがある。

 世の中には異常な出来事がそれこそ無数に存在し、人知の及ばぬ怪事が山ほど溢れているということに。

 デンマークの悲劇の王子が老僕ホレイショに語って聞かせたように。

 

「頼んだよ」

 

 御子内さんがまるで野生の(ましら)のごとく森の奥に消えていくのを見送りながら、僕は近づいてくるクラスメートたちをなんと言って誤魔化して同行するかをシミュレートするのであった。

 

 



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白い墓石

「あれ、升麻くんじゃん?」

 

 先頭を歩いていたちょっとだけギャル風の若附(わかつき)さんが、僕に気がついた。

 最初は僕だとわからせないように接近しようと思ったけど、こんな山道で気づかれないように尾行するなんて不可能だし、正体がバレないように振舞うのも無理だ。

 となると、もう開き直って顔出しで近づいた方がマシだ。

 ただ、僕が仲間外れにされている疑惑があるので、気が進まないのは確かだけど。

 

「おおっと、京一だ。―――なんで、こんなところにいるんだよ?」

「マジで升麻だ。へー」

 

 六人がそれぞれ個性に応じた反応をする。

 だいたいは僕を見て驚いたという当たり前の反応だったが……

 

「あれ、みんな、どうして奥多摩に?」

 

 さりげない演技を心掛けた。

 御子内さんたちに言わせると僕は口から出まかせの演技野郎らしく、こういうすっとぼけた芝居は得意なのである。

 

「新しい鍾乳洞を見つけに来たんだよ」

「桜井の推理を検証に来たんじゃなかったっけ?」

「どっちもじゃね?」

 

 うん、わかっている。

 だから、僕はさらにすっとぼけて、「ああ、そういう話もあったね」みたいにのっておく。

 どうして自分だけ誘われなかったのかという、傷つきそうな質問はしない。

 もし直球でこられたら泣いてしまいそうだし。

 

「升麻くん、すごく山男っぽいねえ」

「それ、自分の服? 決まってるじゃん」

 

 若附さんを初め女子の三人には好評だった。

 

「んー、山歩きが趣味なんだ。週末は結構、登っているかな」

「ああ、だから、升麻くんは土日におうちにいないんだね。妹さんがいつも週末はいないっていってたし」

 

 こう言ったのは中学から同じ学校という女生徒だった。

 そういえば妹の涼花のことも知っているはずだ。

 

「おまえ、土日いつも用事があるっていうから誘わなかったのによ。山歩きが趣味ってんなら計画建てんのに付き合え」

 

 男子たちも同じようなことを言う。

 つまり、あれ、僕が土日にいつもいないから誘わなかったってこと。

 確かに週末や休日はバイトか御子内さんたちの妖怪退治のどちらかで埋まっている。

 良かった。

 だから、誘われなかったのか。

 うんうん、そういうことか。

 そういうことにしておこう。

 

「いや、ごめんね。言ってくれればいいのに」

「それに京一くんって、彼女さんいるんでしょ。デートの邪魔しちゃ悪いし」

「彼女? なにそれ? そんなのいないよ」

「またまたあ。たまに女の子とお茶してるの見たことあるよ」

 

 女の子とお茶?

 ―――御子内さんのことかな。

 

「たぶん、バイト先の友達のことだね。涼花の学校の先輩でもあるし」

「妹さんの? 武蔵立川?」

「うん」

「あーあー、うちのガッコと武蔵立川じゃあつりあわないし、ホントに彼女じゃないんだ」

 

 酷い自虐だ。

 うちだってそこまで底辺の偏差値じゃないのに。

 

「おい、そろそろ行こうぜ」

 

 何やら地図を出して調べていた桜井が言った。

 主催の彼としては一か所にとどまっているのは無駄なのだろう。

 

「桜井、僕もついていっていい?」

 

 桜井の許可が取れれば、狙い通りにこの一行に加わることができる。

 断られるとは思っていなかったけど、念のために。

 

「……ワトソン役なら」

「じゃあ」

 

 よし。

 僕は首尾よく潜り込むことに成功した。

 そして、みんなが向かうという尾根沿いについて行った。

 

「……このあたりってさ、あまり人気がないみたいだな。俺たち以外の登山客とは全然すれ違わないし」

「だねー。ちょっとこわいぐらい」

「誰か来てくれないと、迷子になったみたいだね」

 

 みんなが言う通りに、二十分ほど歩いても誰ともすれ違わなかった。

 

「多分、がけ崩れで通行止めなんじゃないか」

「だからかー。ということは、あたしらの目的地もその辺?」

「おお。ネットで得た情報によると、もうちょい先に行くとダイバーの目撃談がある」

「桜井説でいうところのね。でも、あたしなんかはやっぱりお化けとかを疑っちゃうな。そのほうが夢あるしね」

「妖怪なんかいる訳ないだろ。―――最近、よくそういうの流れてるけど、デマに決まっているさ」

 

 雑談を交しながら歩いて行くと、徐々に空が黒くなっていくのがわかった。

 これは一雨くるかな。

 さっきタクシーの運転手が言っていたことを思い出した。

 僕は登山に慣れたものとして、雨が降った際に雨宿りできそうな場所を探してみた。

 建物なんかがあるとは思わないけど……。

 と思っていたら、少し先の道の下方にあった。

 コテージではなく、コンクリートっぽい外壁の建物があるのだ。

 

(妙だな)

 

 さすがに怪しんだ。

 いくらなんでもこんな山奥にあんなコンクリート造りの建物があるとは思えない。

 だいたい資材をどこから調達するんだろう。

 反対側に車道でもないと難しいし、ここは奥多摩でもかなり深い場所だ。

 さっき使った国道からもだいぶ逸れているから、わざわざここに作るとしたらお金だって必要になる。

 じゃあ、あれはなんだろう。

 四角い構造であることはわかるけど……。

 

「あれ、なんかあるよ」

「どれどれ。ホントだ。人が住んでいるのかな?」

「まさか。でも、こんなところで何をしているんだろ」

 

 僕が見ていたものに、みんなも気がついた。

 好奇心に火がついてここまで来た人たちなので、このあとの行動も簡単に想像できる。

 

「ちょっと見てみないか。もしかしたら、桜井の説の裏付けが見つかるかもしれないぜ」

「いいねえ」

「探検してみよっか」

 

 ノリがいいね、みんな。

 この調子だと、チャンスがあったらいきなり踊りだすフラッシュモブとかも始めたりしそうだ。

 僕なんかはああいうアーリーアダプター気取りの人たちがやることに興味はないんだけど。

 

「天気悪くなってきたから、雨宿りできるかもしれないね」

 

 とりあえず、それっぽい助言もしておく。

 率先して意見を出して目立つのはお断りだし。

 

「そうだね。休憩も兼ねて休ませてもらおうか」

「んだな」

 

 そのまま、僕らは斜面を降りて建物に向かう。

 このとき、この山道に続くルートがないというだけで、かなり怪しいということに僕らは気がつかなかった。

 問題の建物は適当に拓かれた林の間に建っていた。

 見た目は完全にコンクリート造りで、窓らしいものが四方に二つずつついているだけだ。

 かなり大きめの無骨な玄関に、アーチ状の飾りつけがされている。

 あと、衛星放送用らしい巨大なアンテナが屋上にある。

 人影はなく、同時に車などの移動手段も見当たらない。

 誰もいないのは明白だった。

 

「なーんだ」

 

 みんなは拍子抜けしたようだったが、僕は逆に緊張した。

 どう考えてもこの建物は妙だ。

 おそらく、()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()()()

 僕が退魔巫女たちと経験してきた色々な経験がそう訴えてくるのだ。

 

(逃げた方がいいかな)

 

 そう考えたとき、突然、雨が降り始めた。

 まさに土砂降りの。

 少し先さえも見えなくなるような飛沫をあげて。

 

「くそ、ちょうどいいから雨宿りさせてもらおうぜ」

「そうだな。助かったかもしれねえ」

「お邪魔しまーす!」

 

 みんなが我先にと玄関のアーチ状の屋根の下に入る。

 だが、七人が入るには狭すぎた。

 狭すぎたからか、若附さんが戯れに玄関のノブを掴むと、すっと音もなく扉が開いた。

 みんなは顔を見合わせて、一瞬だけ気まずそうな、しかしラッキーというわかりやすい顔をして中に入っていく。

 

(ヤバっ。間違いなくダメなフラグだよ)

 

 僕は内心でそう呟いた。

 間違いなく僕たちは誘い込まれている。

 そうとしか思えない流れだったからだ。

 この流れが行きつく先には……

 

 きっと、恐ろしい何かが待っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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痕跡と邂逅

 

 

 建物の内部はコンクリートの打ちっぱなしで、白いペンキを塗られた木製の棚が幾つかある以外は、ほとんどものがない。

 正面には、二階とどういう訳か地下に繋がっているらしい階段があり、左右に扉と奥に通路が伸びている。

 電気は点いていないので、奥までは見通すことができない。

 とはいえ、雨から逃れて一心地ついたみんなは座り込んでリュックサックの中から出したタオルで髪を拭いていた。

 

「誰もいないみたいだな」

「お家ではないみたい」

「何かの施設なんだろう」

 

 みんな、扉のすぐ傍でくつろぎ始めた。

 誰かがいたら説明をして雨宿りさせてもらうつもりだったが、誰もいないみたいなのでなし崩しに休憩タイムに入ったみたいだ。

 僕も水筒を取り出してスポーツドリンクを口にした。

 気がつかないうちにかなり咽喉が渇いていたらしい。

 こういうときには注意しないと脱水症状になっていたり、熱中症にもなりかねない。

 すると、隣にいた赤嶺という男子が話しかけてきた。

 

「なあ、升麻」

「なに?」

「おまえさ、桜井の推理を聞いてどう思った?」

 

 声を潜めてきたので、僕もそれに倣って小声で返した。

 

「強引だけど、推理としては悪くないんじゃない。合理的に説明できているし」

「まあな。あのイラスト見てしまうと納得はできる。ただ、俺には別の想像があったんだよ」

「―――どんな?」

「うんとさ、確かに甲羅だか瘤だかは酸素ボンベかもしれないけど、ボンベといっても別のものが詰まっているものがあるよな」

 

 赤嶺はうちのクラスではミリタリーマニアとしても知られている。

 だから、着ている登山服もどことなく迷彩服っぽい。

 ヘルメットなんかどう見てもサバイバルゲーム用だ。

 

「ボンベを二つ用意して、片方には圧搾ガスを入れて、もう片方にはガソリンのような可燃性の液体を詰めるんだ」

「―――赤嶺、それって……」

「ああ。それを使うには耐火性のウェアが必要だろうから、それは黒いぬめっとした皮膚に見えるんじゃないかな」

 

 赤嶺のいいたいことはすぐにわかった。

 言われてみれば、確かに桜井が最初に示したイメージとも一致する。

 でも、そんなのがどうしてこの奥多摩に……。

 ダイバーよりもありえなくないかな?

 

「おい、ちょっと奥の方を見てみようぜ」

 

 前を向くと桜井がはしゃいでいた。

 どうも、彼としてはここの建物は怪しいものに見えるらしい。

 きっと鍾乳洞を調査しているダイバーたちがアジトにしていると考えているのだろうね。

 一応、僕たちは建物に不法侵入している立場なんだけど。

 僕と赤嶺を除く五人がノリノリなので、仕方なく僕もその輪に加わる。

御子内さんにクラスメートを守れと言われている以上、少なくとも彼女が戻ってくるまでは僕に責任があるのだ。

 

「じゃあ、とりあえず手分けして、二階と奥と左右の扉を調べてみようぜ」

 

(なぜ、チームを分割するかなあ)

 

 これってホラー映画とかで各個撃破されるパターンだよ。

 ただ、ここで正論をぶっても反感を買うだけだ。

 よく言うでしょ、効率よく嫌われるコツは正論を言い続けることだって。

 今の段階でクラスメートに煙たいやつと認識されるのはまずい。

 特に機嫌のよろしそうな桜井に反感を持たれることは避けたい。

 と、ここで気がついた。

 桜井は当初からある女生徒にご執心だということに。

 ちょっとギャルっぽい若附さんのことだ。

 この山登りの道中、桜井はさりげなく彼女の傍に寄ることが多かった。

 つまりはそういうことなのだろう。

 こういうイベントを企画して意中の彼女とお近づきになりたい、ということか。

 ただ、桜井以外は普通に楽しんでいる風なので、きっと彼一人の思い付きなのだろう。

 あの推理を思いついた時からなのか、このイベントを先に考えたのかは知らないが、乗せられた他のみんなはいい面の皮なのかもしれない。

 彼の本心に僕以外気がついていないことを祈るよ。

 しかし、これは利用させてもらおうかな。

 

「桜井と若附さんは左右を調べてよ。他のみんなは僕と奥に行こう。奥の方が広そうだし、人手が必要かもしれないし」

「……えっ」

「んで、登山リーダーの桜井はもし誰かがいたり戻ってきたらここで説明をして、雨宿りさせてもらってますってお礼を言っておいて。若附さん、桜井が変なことを口走らないように見張っていてね」

 

 桜井にリーダーシップをとられたと思わせないためにおちゃらけた感じで言って、若附さんに対しても冗談っぽくウインクをしてみせた。

 

「えー、あたしが桜井の見張りー?」

 

 若附さんが笑いながらわざと嫌そうに言う。

 僕の見立てではきっと面倒見のいいタイプなので、暴走しそうな桜井のことをきちんと見ていてくれることだろう。

 桜井としては不本意かもしれないが、若附と二人っきりになれるというのならばメリットのある方を選ぶだろう。

 顔を見ると、案の定、喜びを隠しきれずに鼻の頭がぴくぴくしていた。

 興奮して性犯罪とかに走らなければいいけど……。

 

「そんなあ、若附~。でも、いいぞ。京一たちはとっとと奥を探って来てくれ!」

「はいはい」

 

 とりあえず、チーム分割を二つで食い止めて、僕らは奥へと向かった。

 この建物の構造からすると、だいたい怪しいのは地下か奥だ。

 こちらにいればなんとかなるかもしれないという、根拠のない自信が僕にはある。

 元華さんの言うところの、〈一指〉の幸運がもたらす蛮勇かもしれないけれど。

 五人で奥まで行くと、両開きの扉があった。

 表札の跡があったので、前は何かの部屋だったのだろう。

 一々考えるのも面倒だし、僕はさっさと中に入った。

 御子内さんなら蹴り開けているところなので、随分と大人しい出入りである。

 

「……なんだ、こりゃ」

「うっ、なにこれ?」

 

 赤嶺が言った。

 みんなもぽかんと口を開けている。

 玄関と同じコンクリートの打ちっぱなしだというのに、すぐにはわからなかった。

 なぜかというと、コンクリートの表面が悉く黒く変色していたからだ。

膝をついて地面の黒い部分を指で擦ってみた。

黒い炭のようなものがついた。

いや、間違いなくこれは炭だ。

天井も床も、かなりの部分が焼け焦げているのだ。

まるで火事がこの中であったかのように。

 見渡してみると、奥の方の窓の下に炭になった残骸のようなものが転がっていた。

 それほど大きくはないが、遠くからでは正体がわからない。

 僕は用心しながら近づいて、その黒い残骸を折りたたみ式のステッキの先端で突いた。

 カサッと音がしてもろく崩れた。

 完全に炭化しているのだ。

 ただ、それが元は何かだったのかということはわかった。

 それで十分だった。

 

「あれ、なんだったの?」

「たぶん、動物。鹿とかよりも小さいから、タヌキとかだと思う」

「なんでタヌキが……こんなところに?」

「さあ。とりあえず、玄関に戻ろう。ちょっと様子がおかしいからさ、ここ」

 

 僕がみんなを連れていこうとすると、赤嶺がそっと話しかけてきた。

 

「おい、升麻。あれって、もしかして……」

「うん、その可能性は高いね」

「マジかよ! ホント、マジかよ!」

 

 とりあえず僕の抱いている危機感を赤嶺も持ってくれたというだけでいい。

 僕だけでは、この七人を操ることはできないし。

 そのとき、玄関の方から金切り声と叫び声が聞こえてきた。

 キィエエエエとか言っているのは十中八九桜井だろう。

 玄関に行っても二人はいなかったが、右手の扉が開いていた。

 そこに飛び込むと、なにもない部屋の窓際に二人が外を見ながらガタガタと震えていた。

 姿勢からすると、窓の外を見て腰を抜かしているらしい。

 

「どうしたんの!?」

 

 みんなが呼びかけると、

 

「ま、窓に! 窓に!」

 

 と、どっかで聞いたようなフレーズを叫ぶ。

 恐る恐る近づいて、窓を覗き込んだ僕らの視線の先には……。

 

 わずか先さえも煙って見えやしない土砂降りの雨と、その中を水を得た魚のように両手を広げて一定のリズムで動き回る黒いぬめぬめした生き物がいた。

 頭には何か堅いものが張り付いたように引き攣り、背中には苔のついた甲羅を背負い、手足の指には水かきがついている。

やたらと張り出した額の下にある二つの目は、見る角度によっては一つの窪みにしか見えず、鳥のような嘴には鋭い歯がついていた。

豪雨の中を一心不乱に、まるで祭りの日のごとく陽気に踊り続けるそいつらは―――どうみても河童であった……。

 

「きゃあああああ!」

 

 また誰かが叫んだ。

 僕の後ろにいた女の子だった。

 彼女は入ってきた扉の方を指さし、

 

「今、バケモノがこの中をのぞいていた!!」

「バケモノ?」

 

 落ち着かせるために肩を抱いて、しっかり身体を固定させて、眼を見ながら優しく聞いてみた。

 たまに妖怪の被害者に対して御子内さんがやるやり方だ。

 とても男らしいので僕には到底出来そうもないと思ったけど、この際、四の五の言ってはいられない。

 

「何が見えたの? もう大丈夫だから、僕に教えて。いい、何がこっちを覗いていたの? 落ち着いて答えて。何があったとしても僕は君を信じるから」

 

 僕たちが見たときにはなにもいなかった。

 だから、答えられるのは彼女だけだ。

 僕の尋問方法が効果的だったのか、彼女は怯えきった顔をちょっとだけ赤らめて、

 

「ひ、一つ目小僧がいたの……」

 

 と、恥ずかしそうに言うのであった……。

 

 

 

 

 

 

 



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迫る恐音

 

 

 窓の外では踊る河童。

 建物の中には一つ目小僧。

 そして、おそらく赤嶺が想像する相手。

 三者三様、とても統一性のない怪事が立て続けに僕らに降りかかってきているのだ。

 

「一つ目小僧って……見間違いじゃね?」

 

 残った男子が嘲弄っぽく呟いたが、窓の外の現実がある以上、とても説得力なんてない。

 

「本当よ! おっきな眼がひとつだけあって、口に葉巻みたいなの咥えていたんだからっ!」

 

 僕の手の中で目撃者の女の子が反論した。

 さっきよりは元気になったらしい。

 怯えが多少だけ減っている。

 よし、これなら大丈夫かな。

 僕は彼女の頭を軽く撫でてから、そっと立たせてあげた。

 さすがにずっと支えているのは重いし。

 なんだか、驚いた顔していたけど、僕は気にせずに部屋の入り口に近寄った。

 完全に扉を開けてみても、玄関の広間には誰もいない。

 一つ目小僧だって、影も形もない。

 

「逃げたのかな?」

 

 ただ、耳を澄ますと、上の方でパタパタという誰かが走っている音が聞こえてきた。

 

「聞こえた?」

「あ、ああ」

 

 赤嶺たちが頷く。

 彼らにも聞こえたとなると幻聴じゃないか。

 

「階段を上って上に行ったみたいだね。これが本当の怪談話……と」

 

 リュックサックの中からスマホを出したけど、さすがに圏外だ。

 Wi-Fiなんて当然ないし、御子内さんに連絡する手段はないか。

 

「みんな、何かに襲われてもいいように武器を構えて、重いものはリュックサックから捨てておいて」

「武器なんてないよ~」

「ある人だけでいいから。赤嶺は武器持ってきている?」

「いちおう、折り畳みのスコップなら」

「対ゾンビ兵器だね。それはいい。……みんなは赤嶺を中心にまとまっていて。怖いだろうけど、窓の外の変なのからは眼を離さないでね」

 

 建物の外ではまだ凄い勢いで雨が降り続けている。

 ここから逃げるのは難しい。

 すでに怪事が発生しているこの段階では下手に脱出するとさらに危険が増すおそれがある。

 となると、御子内さんと合流するまではここに籠城するのがいいかな。

 黙って籠城させてくれるとは思えないけれど。

 

「升麻くんは落ち着いているね」

「山に来ることが多いから」

「……山登りの経験が多い人って動じないんだ」

「そうだよ」

 

 そんなことないけれど、出任せで落ち着いてもらえるなら別にいいよね。

 

「で、これからどうするんだ? おい、桜井……」

「ワリい。頭が回らねえ。……マジで実は妖怪の仕業だったとかヤバすぎだわ」

「そうだけどよお」

 

 さっきまでは元気だった桜井もさすがに凹んでいる。

 それはそうだろう。

 彼の想定では、奥多摩山中にでる謎の存在は人間でしかありえないのだから、そのまま第一インスピレーション通りに妖怪でしたなんて流れを想定しているわけがない。

 僕とは違うのだ。

 

「きゃあああ!!」

 

 窓の外を見ていた若附さんが叫び声とともに飛びのいた。

 ガラスにべったりと河童の指の間に水かきのついた不気味な掌が張り付いていた。

 みしりと音を立てる。

 このまま力を籠められたら窓が破られると判断した僕は、ポケットに忍ばせていたお札を一枚投げるような勢いで貼った。

 今どきのものらしく、シール用の糊がついているお札は簡単にガラスに貼りつく。

 同時に、『ギャッ』と河童が手を放した。

 

「ラッキー。効いた!」

 

 それから窓の傍からみんなを引き剥がす。

 お札は以前、御子内さんに用意してもらったものだ。

 いざというときのために持ってきておいて良かった。

 

「なんだ、それ!?」

「ん? 神社のお札だよ。山に登るときの必需品」

「どうしてそんなものを持っているのよ!」

「山男はみんな持っているから」

 

 またも口から出まかせで切り抜ける。

 実際、退魔巫女が妖怪退治に使うものなので神通力は抜群なんだけど、入手ルートを聞かれても困るし。

 

「窓も危険なのかあ。さて、どうしようかな」

 

 完全に囲まれている感じがした。

 しかも、包囲網は収縮し始めている。

 このままではジリ貧だろう。

 

「おい、今の音はなんだ!?」

「聞こえた、確かに聞こえたぞ!!」

 

 それは瀑布のような雨音に混じって、まるで地獄から届いたかのごとき恐ろしい響きを醸し出していた。

 ブホオ、ブホオ、と動物の呼吸のようにも思えるが、ついでに聞こえてくるカラカラという乾いた音も異様だった。

 しかも、こちらに近づいてきているのだ。

 どこから? 

 右か、左か、上か、下か?

 耳を澄ますと、ようやく音の発信源の方向がわかった。

 間違いなく、この妙な音は足の裏から聞こえてくるのだ。

 それはきっとあの玄関にあった地下への階段に間違いない。

 なにかがやってくる。

 僕たち目掛けて。

 ゆっくりと死を招く息を吐きながら。

 

「……升麻、あの音ってもしかしたら」

「あ、その音かも。―――マジかな」

 

 赤嶺と顔を見合わせる。

 ごつい赤嶺の歯がガチガチいっていた。

 強すぎる想像力が彼の恐怖心を煽っておかしくなりかけているのだ。

 ミリタリーに造詣が深いからこそ、この音を発しているものの恐ろしさがわかるのだろう。

 あまり詳しくない僕にだってわかるレベルなのだ。

 あの音の主が地上まで上がってきたら、もうおしまいだ。

 逃げるには、庭に出るのが一番だが、あそこには河童がいる。

 以前聞いたことがあるけど、〈河童〉というのは実は凶暴な妖怪で、人間に危害を加える水の妖怪ではトップクラスの危険性をもつらしい

 無防備で外に飛びだせばここにいるみんなの身が危ない。

 それに未確認だけど二階には一つ目小僧もいる。

 じゃあ、どうすればいい?

 

「いやああ!」

「助けて……」

 

 若附さんたちが抱き合って泣いている。

 ようやく状況の深刻さが身に染みたらしい。

 桜井たちももう放心状態だ。

 このままで―――

 僕までも途方に暮れかけた時、

 

 ブオオオオオオオーーーーー

 

 と今度は低いが周囲に轟き渡る大音量が響き渡った。

 さっきのものとは明らかに違う闊達さとともに。

 あれは、法螺貝を加工した楽器を吹き鳴らした開戦の合図であり、持ち主がついに到着したことを僕に教えるためのものだった。

 新しい音の発生源が誰であるか、僕は知っている。

 だから、貼ってあるお札ごとガラス窓を開いて、できる限りの大声で呼んだ。

 もう河童を避ける必要はない。

 なぜなら―――

 

「御子内さん、こっちだ!!」

 

 無敵の巫女レスラーが間に合ったのだから。

 自分を遮えぎる神通力のこもったお札がなくなったことを知って〈河童〉が牙をむいてきたが、そいつめがけて水筒を投げつける。

 邪魔だ。

 そして、たった一瞬だけ怯んだすきに―――

 

「だっしゃあああああ!!」

 

 どこからともなく駆けつけてきた山伏姿の女の子の跳び膝蹴りが顔面を抉った。

 見事なまでに鼻づらを叩き潰す、破壊力抜群の膝の一撃がそのまま〈河童〉を吹き飛ばした。

 素晴らしい身体能力を発揮して、地面に着地した御子内さんは、ぐっとこちらに向けてサムズアップをした。

 

「待たせたね、京一!!」

「全然!!」

 

 僕が伸ばした手を御子内さんが掴み、そのまま室内へと引っ張り上げて招き入れた。

 羽毛のように軽いのは体重移動のタイミングを、彼女の側でうまく調整してくれるからだ。

 いきなり窓から入ってきた山伏姿の美少女に、みんなが眼を剥いていた。

 御子内さんの可愛さはまあ何の問題もないんだけれど、やっぱり格好がねえ……。

 天狗でもやってきたのかと疑われても何の不思議もない。

 もっとも、当の本人はまったく気にした風もなく、

 

「全員、無事かい?」

「うん。今のところはね。でも、ヤバい状態にはなっていると思う」

「どんな状況なんだ?」

「外はさっきの〈河童〉がいて、二階には一つ目小僧っぽいのがうろついている。ついでにいうと、地下からとてもなく危険なのが近づいてきているよ」

「わかった。―――ところで、桜井という学生はいるかい?」

 

 冷静な御子内さんの質問に対して、桜井が自分から手を挙げた。

 

「お、俺だけど……。どうして俺の名前を……」

「そんなのはどうでもいい。―――キミは今回京一たちに聞かせた推理を、どこかの掲示板とかに書きこんだりしたか?」

「推理って……」

「ダイバーが云々のことさ」

「いや、まだだ。今日、帰ってからブログにあげる予定ではあったけど」

「えっと、ツ、ツイッターとかでは?」

 

 相変わらず、御子内さんのTwitterの発言はよろしくない。

 

「俺、Twitterはやってねえから」

「なるほど。それは僥倖。まだ、運がいいね」

 

 御子内さんが振り向いた。

 

「京一、ヤバいってどういうことだい?」

 

 僕はさっき赤嶺と話し合った結果を告げた。

 

「多分、地下からこっちに向かっているのは、火炎放射器を使う兵隊みたいな奴だと思う。ガソリンみたいな燃焼する液体をボンベにつめて、圧搾ガスで噴き出して黒焦げにする武器だ」

「どうして、そんなものが?」

「桜井の推理の別バージョンみたいなものだと思ってくれれば」

「まあ、そういうこともあるか。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 どういうことだ?

 御子内さんは別行動をしている間に、このおかしな事件の謎を解いたのか?

 

「とにかく、まずは危険を排除することからしようか」

 

 山伏姿の巫女レスラーはゆっくりと指を鳴らしながら、不敵に笑っていた。

 

 



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火と拳

 

 

 御子内或子は、助手である升麻京一とそのクラスメートたちを残して、その部屋を出た。

 目の前には二階と地下へと続く階段がある。

 耳を澄ましてみれば、確かにぽっかりと空いた地下への入り口から、おかしなカラカラという連続音が近づいてくる。

かすかに異臭が漂っているが、これは何かが焦げたときの臭いだろう。

京一が「火炎放射器だ」といっていたが、或子も同意見だった。

何者かが火炎放射器を弄りながら、地下のどこかからかやってきているのだ。

 地下を覗き込むと、一度真っ赤な炎の乱舞が見えた。

 

「火を使う妖怪ね。―――火車以来かな」

 

 彼女の経験している限り、妖魅・悪霊の類いは火を嫌う。

 善悪すべてを浄化してしまう炎の無差別な力が、闇に巣食うものたちの力すら焼き捨ててしまうからだ。

 火事場に幽霊がほぼ出てこないのはそういうことだ。

 だから、余程火に馴染んだ性質をもたない限り、日陰の存在は自らを燃やし尽くすものを嫌うのが普通である。

 ゆえに迫りつつある敵のように火を武器にするものは滅多にいない。

 

「まあ、妖怪でも亡霊でもない幻想なら、火を恐れないのもあたりまえかな」

 

 或子はすでに今回の事件の謎を看破していた。

 京一と別れて行動をすることを選んだ段階で、おおよそのところは予想できていたのだ。

 ここ最近は、妖怪退治にまつわる謎の解決について、京一にお株を奪われることが多かったが、彼女とて選ばれた退魔巫女である。

 考えるための脳みそ全部が筋肉で出来ている訳ではない。

 或子の直観は、今回の事件のおおもとを、〈迷い家〉現象だと捉えていた。

〈迷い家〉現象とは、民俗学者である柳田國男が岩手県土淵村(今の遠野市)出身の佐々木喜善から聞きだした話を1910年に書き記した『遠野物語』によって紹介したことにより広く周知された怪異だ。

広義では、人里離れた山奥にあり、訪れた者に莫大な富をもたらすとされる山中の幻の家、もしくはその家を訪れた者についての伝承についてことをさすが、彼女たち退魔巫女の世界ではやや異なる解釈がとられる。

彼女たちにとっての〈迷い家〉とは、人の欲望を刺激し、自発的に特定の圏内に踏み込ませ、そして閉じ込める土地の怪異そのものを言うのだ。

『遠野物語』などにおいては、川上から箸やお椀が流れ着いたなどという話を発端として、純朴な村人などが〈迷い家〉に招かれるパターンが多い。

 深い山中に迷い込んでしまった猟師が偶然にたどり着く、山中で機織りや米をつく生活音が聞こえてきたなどというものもあるが、基本的には好奇心という欲望に負けて人々は〈迷い家〉に向かうのである。

 未知のことを知りたい、わかりたいという好奇心も人間の欲望の一形態であろう。

〈迷い家〉にある財宝を手に入れたいという物欲をもったものもいない訳ではないが、やはり好奇心からの来訪者が極端に多いと言われている。

 或子は今回の話を京一から聞きだした時、その〈迷い家〉現象のことをふと頭に思い浮かべた。

 

 ……誰も近づかない山中に魅力的な謎が提示され、それを解こうと踏み入れる人々というのは、まさに好奇心に動かされた欲望の傀儡なのではないだろうか。

 京一のクラスメート・桜井は、従兄弟から聞いたという謎にとびつき、それに形を与えて推理することで好奇心を満たした。

 結果として、自分だけでなく、他の人間まで巻き込んで謎の解明のために山にまで踏み込んだのである。

 その一連の流れは、川に流れていた箸やお椀を見て誰かがいるのかと〈迷い家〉に辿り着く構図と似てはいないだろう。

 ただし、問題は提示された謎の存在である。

 或子が〈社務所〉を通して調べてみると、このあたり一帯には様々なうわさが流れていた。

 曰く、桜井の従兄弟の言う謎の人影。

 曰く、宗教関係の謎の施設。

 曰く、山中を駆ける謎の動物。

 ……いずれも、うさんくさいが魅力的な謎ばかりだ。

 これはいったい何を指すのか。

 そして、或子は京一と離れ、噂の一つである宗教の施設を探したが、そんなものは影も形も見当たらなかった。

 そもそも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。

()()()()()()()()()()()()()()()()()

或子は理解し、確信した。

 

 ―――この山中に流されている魅力的な謎そのものが餌なのだ、と。

 

人間の強い好奇心を刺激し、思考を誘導し、この場所に迷い込ませようとしているものがいる。

そして、そいつは提示された謎に答える人の想像力を利用して、幻想(まぼろし)を実体化させているのだ。

なんのためにかはわからない。

ただ、この施設のように存在しない、いかにもな建造物もきっと「宗教の施設」があるに違いないという想像の産物のはずだ。

であるならば、他の想像も現身(うつしみ)を持ったとしてもおかしなことはない。

例えば〈河童〉であったり、例えば〈一つ目小僧〉であったり、例えば―――

 

火炎放射器を持った兵士であったり。

 

『背の高さは人間ぐらい、手足が四本なのも、俺らと一緒。背中と思われる部位に、甲羅のような瘤のようなものがついていて、少し突起している。夜中の目撃談というだけじゃなくて、どうも皮膚が真っ黒で、ぬめぬめしている感じで毛は生えていない。上半身には緑色の触手がついている。あと、一つ目で口は尖っている。バランスが悪いのか、よたよたと歩く』

 

 という描写を聞いて、水中を潜るダイバーではなくて、防火服を身にまとって耐火マスクを被った特殊工作兵を思い浮かべたものがいるのなら、その想像さえも現実化するのも至極当然のことであった。

 そして、その幻想(まぼろし)が存在する脅威としてこちらにやってこようとしている。

 

「……まったく。恐怖と妄想の産物と戦うなんて思わなかったよ」

 

 或子は闇の中に目を凝らした。

 気配はあった。

 敵は幻想ではあっても、すでに現身なのだ。

 火炎放射器の一撃をまともに食らえばいくら彼女でも焼き殺される。

 

 コーホー

 

 コーホー

 

 呼吸音のようなものが聞こえる。

 自分が撒く死の炎によって火傷しないように、重装備をしているのだろう。

 

(幻想の癖に!)

 

 沈黙が落ちた。

 建物の外に落ちる雨音だけしか聞こえなくなった。

 或子は唾を飲む。

 チカと何かが光った。

 同時に或子は横に飛ぶ。

 一瞬遅れて可燃性の液体が圧搾ガスとともに噴射され、放射器の先端についた電熱線のコイルによって着火された火焔がすり抜けた。

 火炎放射器という武器の恐ろしさは炎そのものにはない。

 問題なのは噴射される可燃性の液体である。

 霧吹きから放射された湿気を避けることが容易ではないように、この噴射された液体を身に受けないことが何よりも重要なのだ。

 驚くべき野生の勘で敵が引き金を引く直前に避けた或子は、そのまま大きく部屋を迂回した。

 狭いところでは火炎放射器の優位性に負けるからだ。

 闇の中から現われた敵は、一つ目のマスクと黒い滑めつくような防火服をまとっていた。

 コーホーと大きな呼吸音を立てながら。

 防火服が重いのか、ひょこひょことしか動けないようだった。

 手にした火炎放射器の筒先が彼女目掛けて向けられる。

 再び、火が空気を舐めるよりも早く或子は飛んだ。

 銃器と違い、火炎放射器のエイムは非常に難しい。

 そのため飛燕のように逃げ回る山伏姿の或子を捉えることはできなかった。

 

「だっしゃあああ!!」

 

 筒先を持つ武器特有のエイム合わせの隙を突いて、或子は飛びこんだ。

自分に向けられた金属部分の筒の先端を鷲掴みにする。

 

ジュゥ……

 

バンテージを巻いた掌に激痛が走る。

火炎を放射する度に熱せられた金属が肌を焼いたのだ。

だが、或子はそんなことを気にも留めなかった。

敵の主兵装の自由を奪ったのだ。

その代償として受けたのならば、たかが火傷である、彼女の突撃を阻むものではありえない。

防火服は厚いとみて、ぎゅっ親指を握り込み、中指の関節を突き出した鉄菱(てつびし)という拳を作り、一つ目にも見えるゴーグル部分に叩き込んだ。

もともと急所を狙うための握りで、力が一か所に集中する。

防火ガラスが割れて或子の拳が食い込む。

そのまま肘を曲げて胸板に叩き込んだ。

後ろ向きにたたらを踏む防火服。

しかし、分厚い防火服という鎧があるために或子の渾身の一撃はほとんど本体には届いていないようだった。

そこで或子は防火服の男の両腕をとってクロスさせて抱え込むと、後方にブリッジの要領でのけ反った。

得意の投げ技(スープレックス)のようであったが、或子のエグさはそこにとどまらない。

 力の限り投げとばそうとすると、さすがに相手も腕を固めて抵抗するのが当然だ。

 だが、或子は抵抗の軸となる両肘の関節めがけて裏から膝蹴りを撥ね上げる。

 その瞬間、打つ・投げる・極めるというプロレスの技の三要素を組み込んだ、文字通り三位一体の必殺技が顕現する!

 抵抗を続ければ腕が折られる。

 しかし、投げ飛ばされれば頭から床に叩き付けられて終わる。

 この二つの最悪の選択肢の中、火炎放射器の防火服は後者を選んだ。

 

「うおおおおおおおりゃああ!!」

 

 御子内或子の必殺のストライク・スリーが地対空ミサイルのように敵を叩きつけた。

 爆発するかのような落下音を上げて頭から床にめり込んだ敵が、二度と動かないことを残心してから或子はほっと一息をついた。

 彼女の頭上に音もなく迫る飛行物体に気づかずに。

 ドローンであった。

 この空飛ぶ遊具も、必殺の刃のついた凶器の幻想として具現化していたのだ。

 先ほどから流れていたカラカラという音はこのドローンが天井にぶつかって立てていたものであった。

 ドローンの先端についた針が彼女のぼんのくぼの急所目掛けて近づいた時、

 

「危ない!」

 

 と、横合いから飛び出してきた升麻京一が、折り畳みの登山用ピッケルでもって叩き落とす。

 或子の戦いを陰から見守っていた京一だからこそできた助太刀であった。

 退魔巫女に迫る危険に思わず飛び出してしまったのである。

 命がけの戦いの後で珍しく油断していた或子は危機一髪だったことを理解した。

 

「……ありがとう、京一」

 

 退魔巫女は掌を掲げた。

 京一も自分の掌を合わせて、ハイタッチをした。

 

「ナイスファイト!」

「ぐっじょぶ!」

 

 二人はそのまま愉し気に笑い合うのであった。

 扉の隙間から彼らを覗いているクラスメートの存在も忘れて……。

 



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今どきの怪異

 

 

「―――結局、あの現象はなんだったの? 御子内さんは〈迷い家〉って呼んでいたけど……」

 

 一週間後、別の用件で御子内さんに会ったとき、僕はこのときのことを訊ねてみた。

 御子内さんが火炎放射器を持った怪人を倒したあと、突然、建物そのものがまるで幻のように消えてなくなり、あれだけ降り続けていた雨でさえ止んでしまうという不可思議なことが起きた。

 僕たちを閉じ込めていた〈河童〉もおらず、〈一つ目小僧〉などただ一人にしか目撃されないという曖昧さだ。

 しかも、なんと地面に触ってみても、泥どころか湿り気すらないという異常事態だった。

 僕たちは狐につままれたような面持ちで、今度こそ何事もなく下山することができた。

 奥多摩駅まで御子内さんという最強の退魔巫女が護衛してくれたこともあるだろうが、それ以上に自分たちの体験したことが事実だったのか、白昼夢であったのか、誰にも確信できないのが複雑の心境になった原因だろう。

 あそこにいた誰もが怪異を目撃し、誰もが触れ、誰もが恐怖を感じたというのに、実感が欠片もないのだから。

 実のところ、僕でさえあれが夢幻の類いではなかったかと疑ってしまうほどに。

 

「ただの〈迷い家〉現象ではないと思うけど、ボクにも今一つわからない。ただ、実際にあそこら一帯について提示された謎に惹きつけられて行方不明になった人間は少なくない数がいるみたいだよ」

「えっ、ホントなの?」

「正確な数はわからない。普通の登山のための険しい山と違い、奥多摩のあんなハイキングコースに入山届けをだす人はいないからね。実際、家族や友人に内緒で、ぶ、ぶろぐなんかのネタ集めのために入って戻ってきていない人が確認とれたぐらいだし」

 

 御子内さんは下山すると、すぐ所属する〈社務所〉に連絡を取り、そこの調査員の禰宜さんたちが行政と協力して調べたらしい。

 すると、僕たちが遭遇したのと同じ怪異の発生が確認され、しばらくあの一帯は入山禁止ということになった。

 もう少ししてから、さらなる妖事の専門家が集まって大々的な解決のための儀式が執り行われるそうだ。

 でも、それでも根本的な解決に結びつくかどうかはわからない。

 それだけ範囲が広く謎の多い怪異なのだ。

 ただの妖怪退治とは訳が違うみたい。

 

「……おそらく、根っこの原因はあの地の底の龍脈の乱れだとは思う。そうでなければ、遠野でもないのにあんな大規模な怪異は起きないだろうさ」

 

 龍脈というパワースポットについては前に御子内さんが語っていたし、それがあるからこそ、調査に行こうと彼女は提案したのだろう。

 そして、実際に怪異は起きた。

 予想以上の規模でもって。

 さすがの御子内さんが尻尾を巻いて逃げ帰るのが一番だと判断してしまうぐらいの。

 

「じゃあ、どうするの?」

「とりあえず、あの龍脈を管理している一族と接触をする。何家族かあるみたいだから、そこが龍脈の乱れを抑える術を持っているかもしれないからね。あとは、儀式や呪法を使って龍脈を抑えることかな」

「そんなことができるの?」

「修業した風水師ならね。日本にも大陸伝来の風水師がけっこうな数いて、今でも仕事をこなしている。彼らなら、なんとかできるかもしれない」

 

 ただ、そうなると物理的な戦いが基本の退魔巫女たちの出番はない。

 ついでに助手の僕のもね。

 結局、僕らは蚊帳の外ということだ。

 

「でもさ、謎や噂をばらまいて、好奇心につられてやってきた人たちを襲う現象なんて、洒落にならないね」

「……同じ構図が今となってはどこにでもあるよ」

「そうなの?」

「いや、かつてよりも増えたんじゃないかな。い、いんたーねっとの発達によって、簡単に情報が手に入れられるようになり、逆に情報をあげられるようにもなった。でも、その情報は本当に人間が流したものなのかな?」

「……どういうこと」

「つまり、パソコンやスマホの奥にいるのは、疑いなく本当の人間なのかどうかはわからないってことさ。例えば、悪霊や妖怪がネットに接続して人生相談をしているかもれない。海底の奥では夢見る邪神が復活までの暇つぶしに匿名掲示板にスレッドを立てているかもしれない。かつてとは違う、また新しい怪事が起きている昨今なんだから」

 

 御子内さんのいう例えを想像して僕は憂鬱になった。

 善神によって封印された邪神が『働いたら負けと思っているけど、なにか?』みたいなコメントをつけて、学生の授業の退屈しのぎで炎上させられている光景はあまり愉快ではないような。

 ただし、彼女のいうこともわかる。

 いつだって、どこだって、時代が変われば新しいオカルトが産まれる。

 オカルト自体が廃れることがないのと同じで、人の世の裏に隠れた怪異もまた変質しながら潜んでいるのだろう。

 僕らは常に注意し続けなければならない。

 足元に落とし穴のない世界なんてどこにもないのだから。

 

「……そういえば、京一のクラスメートたちの様子はどうだい? 夢みたいな感じではあっても、トラウマになっていないかい?」

 

 御子内さんが不意にそんなことを聞いてきた。

 彼女はだいたいの人には優しい。

 だが、僕としては苦虫を噛み潰したような顔をするしかなかった。

 

「変な顔をするね」

「え、まあ、そうかな……」

「何かあったのかい?」

 

 への字の困り眉をした御子内さんは、女子高生の制服と相まって憂いがあってちょっと色っぽかった。

 まあ、稀に見る美少女だし。

 

「―――あいつら、御子内さんのファンになったとか言い出して、僕に連絡先を教えろと言ってきたんだよ」

「ファン?」

「雨の中の〈河童〉を薙ぎ倒したり、火炎放射器の怪人を投げ飛ばしたところがカッコ良すぎたんじゃないかな。そんな感じ」

「ふーん」

 

 御子内さんは面白そうだった。

 基本的に楽しければそれでいいという享楽主義者でもあるのだ。

 

「あの、桜井や赤嶺くんがねえ……」

「……あっ」

 

 御子内さんは戦いを目撃されてファンになったということで、単純に考えたようだった。

 彼女がカッコイイというのならば、それは男子のあいつらだろうと誤解したのだ。

 だが、違う。

 一週間にわたり、僕を執拗に追求し、御子内さんのメアドをゲットしようとしているのは、あいつらではなく……

 

 チャラリン♪

 

「あ、メールだよ」

「くそ、電源切っておくのを忘れてた!」

 

 僕は慌ててスマホの画面を見た。

 いつもの面子からの着信が団子になっていた。

 そこにあるメッセージには……

 

『或子お姉さまに伝えて! あたしと姉妹になってって!』

『升麻くん、お願い! 助けると思って!』

『独り占めすんな、バカ!』

『京一くんもいいけど或子さんもいいよね!』

『いい加減にしないと咽喉から手を突っ込んで心臓をガタガタ言わせて引きずり出すよ!』

 

 などというヤクザの脅迫みたいな文言が溜まっていた。

 これを送っているのが女子ばかりなのだと考えると頭が痛くなるよ。

 若附さんを初めとした、あのときの女子は一目ぼれしたとかいって、御子内さんにくびったけになってしまっているのだ。

 あー、こわ。

 

「別に連絡先ぐらいはいいけど」

「ダメ。ネットの先にいるのがいい人ばかりとは限らないと教えたのは君じゃないか。素性も知れないやつに連絡先を教えたりしては絶対にいけない」

「京一のクラスメートだろうに」

「僕はあいつらを知っているから尚更ダメ」

 

 うちの妹もそうだが、御子内さんには妹志望者を引き寄せるフェロモンがあるに違いない。

 下手に餌を撒いて、これ以上、僕の普通のスクールライフを邪魔されてたまるものか。

 

「……良かったんじゃないかな。京一がぼっちから卒業できて」

「ぼっちじゃないから!」

 

 まったく、僕の生活はこの女の子のせいでいつも変わっていってしまうのだ。

 もう慣れたけどさ。

 



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第18試合 東京狸合戦・前編
江戸前の長


 

 

 JR目白駅から学習院大学へと続く、目白通り沿いに、かつて巨大な権力を握っていた総理大臣の私邸の跡地があった。

彼の死後、相続税の支払いのために物納されてしまったことで、通り沿いに延々とそびえ立っていた塀はもはやない。

当時の建物としては、石造りの塀と頑強な鉄門扉が、今では日本女子大の前にあるビルと公園の隙間から覗いているだけだ。

その総理大臣の苗字の表札がなければ、地元の住民以外は気づくはずもないほどにひっそりとしている。

現在は、彼の娘が住んではいるが、過去の栄光のすべてはもう消え去っていると言えるだろう。

 表向きは。

 その裏手に回ると、都会の真ん中には相応しくない鬱蒼とした林を含んだ庭を持つ、日本家屋が存在している。

 普段は誰一人として近づかないその日本家屋に、珍しく客人が訪れていた。

 一人は黒いベストとパンツ、帽子を被った二十代後半の若い女性だった。

 平均よりも身長が高く、髪を短く刈り込んでいることから、かなりボーイッシュな印象を与える。

 彼女は名を不知火こぶしといい、〈社務所〉と呼ばれる関東を鎮守する聖巫女を束ねる組織の元巫女であった。

 正座して、彼女が運転するベンツで運んできた人物の後ろに控えている。

 彼女に背中を向け、この屋敷の主人たちと対しているのは、白衣と緋袴を着込み、肩袖の根元が縫われた、脇を縫わずに前を胸紐(むなひも)で合わせるようにして着る袖付きの千早をまとった、こちらも巫女である。

長い黒髪を後ろの生え際から束ねて一まとめにして、和紙でまとめた上から水引でしばって髪留めとした絵元結(えもとゆい)にしている。

紅白の水引は糊を引いて乾かしたものであった。

 この巫女の見た目は二十歳前後に思われたが、落ち着いた正座姿はとても年相応には思えない。

 まるで何十年も生きてきた老婆のようでさえあった。

 用意された茶碗からお茶を飲むときでさえ、静謐で美しい仕草を保ち続けている。

 

「わたくしどもの要望は伝えました。あとは、おまえ様方たちの腹積もり次第」

 

 口から出た声ですら気品に満ちている。

 ただし、やや皺がれているのは彼女の実の年齢を考えれば当然ともいえた。

 

『じゃかましいぜ、御所守(ごしょもり)たゆうっ!! わしらが、てめえら巫女どもの指図を受けると思っとんのかあ!!』

 

 鼓膜が破けんばかりの胴間声であった。

 御所守と呼ばれた巫女は平然とその大音声を聞き流したが、後ろに控えていたこぶしの方が震えあがったぐらいだ。

 物理的だけではなく、霊的な軋みさえも覚えるほどのド迫力である。

 こぶしとて、現役は退いたとはいえかつての退魔巫女だ。

 通常の範囲での恫喝にはまったく屈することはないが、今回ばかりは相手が悪い。

 なんといっても、彼女たちが対峙しているこの屋敷の主人は、何百年と年を経た古すぎる妖怪なのだから。

 

「そのようなことはありませぬ。わたくしはおまえ様方のような古い妖魅に指図しようとは欠片も思ってはおりません。よろしいですか、分福(ぶんぶく)どの」

『じゃあ、どうしてわしらの邪魔をする!! そもそも、わしらがてめえら巫女どもの顔を立てて、わざわざ事前に教えてやったというのに、それをあだで返すつもりかよ!!』

「事前に通告していただいたのは感謝しておりますよ。でも、おまえ様方の行動でこの帝都に災いが起きるというのでしたら、わたくしどもの立場として見過ごすことはできませぬ」

『黙れ、退魔巫女め!! いいぞ、てめえらがあくまでも邪魔だとするというんなら、わしらはわしらで軍を動かすさ!!』

「それは困ります。おまえ様方―――江戸前狸族に好き勝手されては帝都の霊的治安が乱れますからね。やめてください、分福どの」

 

 分福と呼ばれたこの屋敷の主人は、巨大なタヌキであった。

 立ち上がれば天井に頭がぶつからんばかりに大柄で、祭りの法被をひもで縛って来ていて、手には竹刀のような煙管を握っていた。

 大きなくりっとした瞳とザクザクした剛毛、耳まで裂けた赤い口はまさにタヌキそのものだが、普通のものとは明らかに違うところがあった。

 フグリである。

 タヌキの睾丸は「狸の金玉八畳敷き」という諺にあるのを追認するかのように、信楽焼きの置物のように、股間から大きすぎるフグリを足元にだらりと広げているのだ。

 かのタヌキ妖怪が、たゆうに対して恫喝したときに立ち上がったショックで、分福のフグリがぶらんと揺れている。

 こぶしはそれを何とも言えない面持ちで見つめていたが、一方のたゆうは眉一筋さえも動かすことはなかった。

 分福は怒鳴った。

 

『いいか、御所守たゆう!! わしらはな、一年ばっかし前に当選しやがった新しい知事とやらのせいで、えらい迷惑をこうむってきた。今回の件も、何度も都庁のやつらに陳情したのに一向に改めやがらねえ!! わしらはしょうがねえから自分たちでやるってことに決めたのさ。禰古(ねこ)のやつらの同意も取り付けたし、ずっと前にわしらに下った鼠族(そぞく)どもも黙らせた!! これで文句を言っているのは、てめえら巫女だけだ!!』

 

 筋は通っている、とこぶしは思った。

 さすがは江戸時代からこの東京に巣食う、妖狸族の長だ。

 人間の作ったルールも最大限活用して、自分たちの立場をよくしようと努力している。

 実際のところ、今回の問題はこぶしたち人間の側が怠惰にまかせて、尻を上げようとしなかったことが原因なだけに、反論のしようがない。

 ただし、タヌキたちの行為によって避けがたい混乱が生じるのだけは見逃せない。

 

「―――分福どののおっしゃることはわかる。ただ、帝都のタヌキたちがこぞって狩りを始めたら、どんな混乱が起きるか予想できない。ここはじっと我慢してもらえないであろうか」

『い・や・だ・ね!! わしらは明日にでも一族郎党すべてに檄を飛ばして、わしらの縄張りを漁っているあの外来の獣どもを根こそぎ駆逐する―――あのハクビシンどもをな!!』

 

 東京を根城にする妖狸族の長である分福にとって、ここ数年の間に都内のいたるところで爆発的に増加したハクビシンの所業は目に余るものがあった。

 ハクビシン―――この中国を原産とする、額から鼻にかけて白い線があることが哺乳類は、餌としては果実を好むがもともとは雑食であり、同じテリトリーに棲むタヌキたちにとって目障りな存在であった。

 だが、ここ最近、ただの獣であったはずのハクビシンたちは急激に力をつけ始めた。

 江戸時代から人間の住む地域で陰から勢力を伸ばしてきたタヌキたちを脅かすほどに。

 

「いかにハクビシンが勢力を伸ばしたとしても、人間の世界と深く絡み合ってきたおまえ様方に勝るはずがなかろう」

『な・ん・だ・と!? てめえら、やつらの正体を知らねえでわしらの喧嘩(でいり)に嘴を挟んで来たってのか!? っざけんなよ、コラ!!』

 

 たゆうは初めて感情を見せた。

 訝し気に眉をひそめただけであったが。

 

「どういうことでしょうか?」

 

 分福が畳に拳を叩きつけて、

 

『やつらはな、あの〈雷獣〉なんだぜ!!』

 

 と叫ぶと、たゆうは少しだけ動揺したように、瞬きをした。

 それだけだった。

 内心でどれほど驚愕していたとしても、素面にはほとんど漏れない、〈社務所〉の重鎮であり、“鉄能面”と呼ばれた女の本領である。

 

「〈雷獣〉ですと……。まさか、ただのケダモノでしょう?」

『かっ、これだからてめえら人間は役に立たねえってのよ。わしらとあいつらがどれだけ(あやかし)の闇の中でしのぎを削っていたかどうかさえも知りもしねえとは……けったくそワリいぜ』

 

 江戸前狸の長はマットレスのような座布団に胡坐をかく。

 

『こんなこったら、夏に起きた新しい安保騒ぎの時にわしらも一枚噛んどくべきだったぜ。そうすりゃあ、都の連中も政府筋もわしらの陳情を軽くはとらなかったろうしよ』

「―――おまえ様方、もう昭和四十年代ではないのですぞ。あのときのように、騒擾を裏から操るのはやめてほしいですね」

『だったら、わしらタヌキのハクビシン狩りに目を瞑れ。そうすれば、許してやるぜ』

 

 だが、たゆうは一つだけため息を漏らすと、毅然とした姿勢でタヌキの長に向かった。

 

「それとこれとは話は別です。おまえ様方に好き勝手にあばれられれば、無辜の民草にさえ被害が及びましょう。わたくしたち、媛巫女は関東を鎮守する使命を持っています。それに例外はありませぬ」

『これだけ言ってもダメということかよ、人間(オンナ)……』

 

 巫女と妖怪の間に強い緊張が走る。

 一触即発とはまさにこの状態を指すだろうという睨みあいが続いた後、たゆうが指を五本立てて、硬すぎる口元を挑戦的に歪めた。

 

「―――五人、用意します」

『何を言っている? 五人用意する、だと?』

「ええ。おまえ様方も同様に五匹の精鋭を選び出してくださいな」

『―――なんのためだ?』

 

 たゆうは本人的には面白そうな顔をしていると思い浮かべながら、

 

「ヒトとタヌキの意見が合わぬというのならば、古来からの作法に則って決着をつけましょう。―――五対五の決闘によってです」

 

 ほんのわずかな沈黙ののち、分福はふんぞり返って、巫女たちを見下ろした。

 

『いいだろう。だが、わしらの代表が勝てば、此度のハクビシン狩りに口出しはさせぬぞ。それと、今の都知事の首と改修する国立競技場のいくつかの利権をいただく』

「どうぞ、ご自由に。ただ、そうはならぬことでしょう」

『ほお、随分と自信があるようだな〈社務所〉の重鎮よ』

「―――わたくしどもの推薦する五人の退魔巫女は、歴代の(つわもの)を遥かに凌駕するものども揃いとなることでしょう。たかだか、古いタヌキに負けることなど万に一つもありますまいゆえ」

『言うたな、人間!! いいだろう、江戸前の妖狸族の最強の五匹をぶつけてやろう!! 一切合切終わってから吠え面をかくなよ!!』

 

 後ろに控えていたこぶしが思わずのけ反るほどの妖気が座敷内に渦巻いても、たゆうはびくともしなかった。

 それどころか、“鉄能面”をさらに歪めて、まるで地割れのように破顔して、自信満々に茶を飲み干した。

 

「こちらが用意する媛巫女の五人の名は―――

 

 神宮女音子(じんぐうめおとこ)

 明王殿(みょうおうでん)レイ。

 猫耳藍色(ねこがみあいろ)

 熊埜御堂(くまのみどう)てん。

 そして、御子内或子(みこないあるこ)

 

 彼女たちを「敵」とする妖怪たちに呪いあれ。古き畜生どもに万が一にも勝ち目があるとは到底思えませんね」

 

 ―――こうして、五人の退魔巫女と五匹の妖怪タヌキとの決闘の段取りが定められたのである。

 

 



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噴きあがる聖地

 

 

 明日試合があるから、と突然連絡を受けて呼び出されたのは、JR水道橋駅を降りた先にある後楽園ホールであった。

 格闘技の聖地とも謳われる場所であり、もしかして普通にプロの試合観戦にでも招待されたのかと思ったら、集合時刻は終電直前の午前零時ちょうどだという。

 どこかに一泊しなければならないのは確実だった。

 実のところ、僕はこの年ですでにバイトのための徹夜仕事なんて普通になっていて、両親もあまり心配せずに許可をだしてくれたのは楽ちんである。

 もっとも、やることはほとんどなかった。

 後楽園ホールにはすでにリングが用意してあり、しかも僕なんかとは質が違うプロの職人たちが整備しているおかげで手をだす必要はほとんどないのだ。

 僕ともう一人の退魔巫女助手がしたのは、ロープのテンションとマットの堅さの確認ぐらいのもので、あまりにも他にやることがないので仕方なく箒とちり取りでずっとゴミ拾いをしている始末だった。

 

「……僕たち、なんのために呼び出されたんでしょうね」

「シリマセン」

 

 もうすぐ秋が近づいているということもあり、トレンチコートと帽子、そして全身包帯グルグル巻きの彼の姿もようやく暑苦しくなく見られるようになった。

 透明人間みたいな格好のロバート・グリフィンさんである。

 退魔巫女に見習いから昇格した熊埜御堂てんさんのイギリス出身の助手だった。

 最近、たまに顔を合わせるようになり、わりと話をするようになっているが、相変わらず近寄りがたい雰囲気の人だった。

 包帯のせいで顔が見えないだけでもアレなのに、外国人でしかも十歳以上年上なのであるから。

 話がしづらいなんてものじゃない。

 

「今日のみんなの相手はタヌキらしいですね」

「―――ムジナですか。私にとっては嫌な連中です」

「どうしてですか?」

「以前、お話したと思いますが、私は〈のっぺらぼう〉に狙われていましてね。その〈のっぺらぼう〉はもともとラフカディオ・ハーンによれば、ムジナが原因だと言われていますから」

「でも、〈のっぺらぼう〉とタヌキって本当は別の妖怪なんでしょう?」

「だからといって、簡単に切り離して考えられませんよ」

 

 ロバートさんは基本的に考え方が後ろ向きで、マイナス思考すぎる人らしく、だいたい暗いことを言っている。

 

「しかし、とにかく仕事がないのは困ります」

「こんな深夜とはいえ、後楽園ホールを丸々いきなり貸りきってしまうなんてどうやったんでしょうか」

「〈社務所〉の権力というのはこういう場所にまで及ぶのでしょうね」

「いや、いくらなんでもこれはちょっと変ですよ……」

 

 後楽園ホールは完全に僕たちの貸し切りのようになっていて、一般人どころか従業員の影も見当たらない。

 もっとも、僕らを呼び出した退魔巫女たちもいないけどね。

 電話で指示を受けて、ここまで来たら、〈社務所〉の禰宜さんが一人いて、あとはお任せという放置プレイをされている状態だった。

 まあ、ロバートさんでなくても後ろ向きになるか。

 まるで不法侵入者のような感じだからだ。

 

「京一さん、ミスター・グリフィン」

 

 ようやく声が掛かったので振り向いたら、スーツ姿の男装の麗人・不知火こぶしさんがリングのあるところまで降りてくるところだった。

 昔は退魔巫女をしていたらしいが、最近は後輩たちの統括のような仕事をしているそうだ。

 見事なまでに中間管理職である。

 僕は心の中で、「課長」と命名していた。

 

「おはようございます」

「……わざわざ悪いですね、こんな時間に」

「いえ、それは構わないんですけど、他の〈社務所〉の方々はいないんですか?」

「うちの連中は他にやらなければならないことがあって、どうしても外せないのよ。だから、色々お願いできるのはあなたたちしかいなかったの。休日・深夜手当弾むからつきあってちょうだいね」

「御子内さんたちは……」

 

 さっきから顔を見せない彼女たちも心配だった。

 

「控室でウォーミングアップしているわ。さすがに聖地・後楽園よね。いつもよりテンションが上がっていて手が付けられない状態なの」

「へー」

 

 普段でさえ熱血状態の彼女たちがハイ・テンションとなると、確かに手が付けられそうもない。

 後楽園名物の落書きなんかを見て、きっと血が滾っているに違いない。

 

「あ、京一さんたちには実況とかやってもらう予定なので、そこのマイクチェックもお願いね」

「何故、そんなことを……」

「あら、せっかくの後楽園ホール貸し切りなのよ。楽しんでやったほうがいいでしょう」

「楽しくって……え、今回は妖怪退治じゃないんですか?」

「はい。今回のは真面目に普通の試合です。相手を倒しても消滅させないし、封印もご法度。殺してもいけないというルールなんですよ」

 

 僕とロバートさんは眼を合わせた。

 退魔巫女と妖怪の戦いでそんなことがあるのかという驚きだった。

 何か事情があって見逃したりすることはあっても、基本的に彼女たちの戦いは真剣な倒し合いだ。

 邪悪な妖怪を退治し、封印するのが使命なのだから。

 それがただの試合をするのだという。

 実況付きで。

 しかも、聞いた話では五人の退魔巫女がここに揃っているということは、最大でも五試合するということだ。

 いったい、何がどうなっているのだろう。

 

「なんだかな……」

 

 僕らはマイクの用意されたテーブルに座った。

 アナウンス機材は使えないが、スピーカーについてはなんとか動かせる。

 喋りには自信がないけど、まあやれと言われたらやるしかないか。

 

「あーあー、こちらマイクのテスト中。テステス」

 

 それなりに響く。

 いけなくはないか。

 

「テステス、僕は升麻京一です。……解説はおなじみロバート・グリフィンさんでお送りします」

「―――私もやるのかね?」

「バイト料にはきっと()()で入ってますよ」

「日本人の考えることはわからん」

 

 やれやれといった様子のロバートさんだった。

 こうは言っても付き合いがいい人だというのはわかっている。

 

「さて、ロバートさん。今回の御子内さんたちの相手についてご存知ですか?」

「ムジナ―――タヌキだということだけはわかっていますが、数も名前もわかっていないんですよ、京一くん」

「では、どのような戦いが繰り広げられるかも想像できませんね」

「ですね」

「僕たちのわかる範囲で予想をするとしますと、ロバートさんはどこに注目されますか?」

「私としては、やはり付き合いもありますし、熊埜御堂てんの活躍に期待したいところです。あの脳筋ロリっ子の殺傷力は恐ろしいものがありますからね」

「ああー」

 

 僕も見たことがあるが、熊埜御堂さんの一切容赦のない関節技はかなりの脅威だ。

 格闘なんてできそうもない狭い通路でさえ、飛び拉ぎ逆十字を極めることができ、しかも躊躇なく破壊できるのである。

 あどけない顔と言動を裏切る恐ろしい女の子なのだ。

 

「……意外とノリノリじゃない」

 

 反対側の解説者席に座ったこぶしさんがツッコミをいれてくる。

 わりと長く退魔巫女たちとつきあっているけど、ツッコまれることはあまりないので新鮮だった。

 

「あ、観客が入ってきたみたいよ」

 

 こぶしさんがいうので、周囲を見渡してみた。

 扉からぞろぞろと彼女の言うところの観客が入場してきたところだった。

 ただし、そこにいたのは人間ではない。

 丸い尻尾と愛嬌のある垂れ目の顔をしたケモノたちだった。

 

 ―――タヌキの群れだ。

 

 それが手に手に瓢やら、ワンカップの日本酒やら、ビールの缶やらを握ってやってきて、空いている席に座っていく。

 あっという間に用意された1,400の客席数が埋まってしまい、立ち見のタヌキまでがでる有様であった。

 ほとんど数分でやかましくなった後楽園ホールないが、徐々に熱狂の渦に包まれていく。

 迫りくる戦いへの期待に胸を躍らせているのだ。

 観客はタヌキばかりという完全アウェー状態なのはさすがに心配だが、そこは御子内さんたちのメンタルに任せるしかないだろう。

 

「さて、そろそろ始まりますよ」

 

 二つ用意された選手入場口の一つに、五人の人影が浮かび上がった。

 なにもしてないのにしっかりショーアップされているのは何故だろう。

 スポットライトは絶対誰かが弄っているよね。

 

 現われた五つの影は見慣れた女の子たちだった。

 御子内さんをセンターにして、レイさん、音子さん、熊埜御堂さん、藍色さんが腕を組んで立ち尽くしていた。

 あれが今回の選手たち―――関東の退魔巫女の最大戦力なのだ。

 では、それと戦う相手は……

 

「来たわ、あれが江戸前妖狸族の〈五尾〉よ」

 

 反対側の入場口にも五つの影が顕現していく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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妖狸族の〈五尾〉たち

 

 

 五対五の戦いは、剣道や柔道のものと同じやり方だが、勝ち抜き戦という訳ではないらしい。

 それぞれの代表者が一対一でやりあい、先に三勝した方が勝利というルールである。

 つまり早ければ三人目で決着がつくということなのだ。

 だから、この手の戦いで最も大切なのは、初戦に登場する先鋒である。

 そして、退魔巫女側の先鋒としてリング上に姿を見せたのは、

 

〈神腕〉明王殿レイ、であった。

 

 すらりとした八頭身のモデル系のスタイル、腰まである艶のある黒く長い髪をした高身長の美女。

 肩のあたりで袖部がばっさりと切断されたタンクトップのような白衣と、胴体に巻かれたタスキ、膝あたりで剣道のもののように二股になっている緋袴に地下足袋、紫のニッカズボン。

 いつみても、巫女よりは大工に近い改造巫女装束が特徴的すぎる。

 見た目の素っ頓狂さはアレだけど、単純な打撃力だけをとってみればおそらく五人の中でも最強なのは彼女だろう。

 御子内さんの渾身の蹴りや藍色さんの必殺パンチでさえ、きっとレイさんの〈神腕〉による無造作な一撃の方が上回るはずだ。

 彼女の家系が伝える〈神腕〉とはそれほどの神通力を秘めているのである。

 先鋒に確実な勝利を期待するのならば、ファーストチョイスとしては彼女か御子内さんしかいないだろうね。

 例えば、慎重な戦いを―――引き分け狙いでもいい―――望むならば、そこはテクニシャンの藍色さんか音子さんを選ぶけど、相手側の勢いを完全に殺し、戦いを優位に進めるためならば僕だってこの二人のどちらかを選ぶ。

 一方、タヌキ側の戦士は、でっぷりとした太鼓腹を持った巨躯の大狸であった。

 腹のあたりに大きな腹巻きをしている。

 彼がのっそりとマットに上がると、

 

『八ッ山!』

『八ッ山!』

『八ッ山!』

 

 と観客の同族たちから割れんばかりの声がかかる。

 かなりの人気者のようだ。

 黒い針のような剛毛と鋭い眼差しを持つ、いかにも強者という様相で、唇が傷で捻じれているだけでなく、全身にもはっきりとわかる古傷だらけだ。

 かつて見たことのある〈うわん〉あたりよりも小さいが、巨躯といっても過言ではなく、レイさんよりも頭ふたつばかり大きい。

 向き合うとそれがよくわかる。

 二メートルは優に越えているだろう。

 

「―――いくぜ、へっぽこタヌキ野郎」

『シュ、ポー』

 

 レイさんの挑発に対して、八ッ山の狸は言葉にならない返事をした。

 喋れない、訳ではないはず。

 なんといっても僕らのいる実況席の後ろにいるタヌキたちでさえ、さっきから「賭けのオッズがどうのう」「椅子が堅い」などのグチを漏らし続けているのだから、化けタヌキたちが人語を解さないはずがないのだ。

 では、あの意味不明の返事はなんだろう。

 

「こぶしさん、あの八ッ山という狸の素性をご存知なのですか?」

「いえ、私も知らないわ。ただし、八ッ山っていうと品川区の御殿山のあたりの地名のことよね。あそこら辺は大日山という丘陵の先が八つに分かれて出州になっているから、そう呼ばれているの」

「知りませんでした」

「まあ、品川にまだ海が近かったころの話らしいから、私たちの世代が知らなくても当然なんだけど……。でも、聞き覚えがあるようなないような…」

 

 あてにならない解説だ。

 こぶしさんが思い出してくれるかどうかはわからないけど、あの八ッ山はもしかしてタヌキ業界では相当の有名人なのかもしれない。

 周りの反応からしてもね。

 レイさん、大丈夫かな。

 ここで不気味なのは、タヌキ側の〈五尾〉という代表は、御子内さんたちのことを知っていながら送り出された連中だということである。

 つまり、必勝の自信がある選考基準によるものなのだ。

 間違っても雑魚ではありえない。

 

 カアアアアアン!

 

 ついに戦いのゴングが鳴った!

 両者、まったく動こうとせずにどんと重心を下げて構えている。

 レイさんは彼女の唯一ともいえる構え(スタイル)劈掛掌(ひかしょう)をとり、八ッ山は腰を落としてドンと蹲踞のように構えている。

 いや、相撲の立会いか。

 八ッ山は前かがみになって、きっと顔を上げた。

 

「狸相撲の力士あがりのようですね」

「なんですか、その狸相撲って?」

「日本全国にいるタヌキたちが基本的に習得している彼ら独特の戦い方です。それに、幻法(げんぽう)と呼ばれる妖魅独特の幻術を使うのが、妖怪となった〈タヌキ〉のスタイルですね。タネキ界の代表である〈五尾〉たちなら、全匹が使ってくることでしょう」

 

 なるほど、当麻蹴速(たいまのけはや)の腰をへし折って勝利したという野見宿禰(のみのすくね)も相撲を使ったというし、古来から我が国に伝わっている格闘技としての相撲なら、妖怪たちが体得していてもおかしくないか。

〈河童〉の相撲好きとかも知られているしね。

 じゃあ、あのどっしりとした構えはぶちかましの準備か。

 

「しかし、ただの突進程度では〈神腕〉をもつレイさんならば、簡単に弾き飛ばしてしまうと思います」

「確かにその通りです。正直にいって正面からあのレイちゃんとやりあえるとはわかりませんが……」

「なんだ、あのヤンキー巫女はそんなにつよいのかい?」

「ええ、単純なパワーなら……」

 

 僕が言い終わる前に、ついに焦れたのか八ッ山が前に出た。

 額から勢いよく飛び込んでいく。

 レイさんが二歩だけ円を描いた。

 少しずれただけで照準がずれて、八ッ山のぶちかましは外れ、脇から二回連続でレイさんの掌が回転しながらタヌキを叩き落す。

 見た目の体重差を覆すような打撃力が発揮されて、八ッ山が両ひざをついた。

 そのケモノの顔に愕然とした表情が浮かんだ。

 動物が感情を顔に出すことはあまりない。

 人間のように表情でコミュニケーションをとるというという文化がないのが普通だからだ。

 しかし、妖怪もしくはそれに性質的に近づいた動物は明らかにわかる人に近い表情を浮かべる。

 特に人語を解す化け物たちは、ほとんど僕たちと一緒のレベルの意思疎通もできるようになるのだ。

 この妖狸族たちも同様だった。

 だから、全力のぶちかましをただの二撃で撃墜されたことが信じられないのだということが、手に取るようにわかる。

 人間と同じだ。

 体格差のあるレイさんを舐めきっていたのだ。

 だから、あんな顔をする。

 舐めきっていたものに想像もしていない目に合わせられた結果、あんな顔をしているのだ。

 そして、人間と同じならば次に湧き上がる感情は……

 

『ゴオオオオオ!!』

 

 激怒しての咆哮だ。

 これは人でも妖怪でも変わらない。

 力に溺れて、弱者を舐めきってきたものが、したたかに安いプライドを傷つけられ、怒りを顕わにしているのだ。

 

「おい、ヘッポコ。―――マジでやれよ」

 

 レイさんが睨みつけた。

 タヌキの吼え声などまったく気にも留めていない。

 最大の武器である〈神腕〉だけでなく、積み重ねてきた戦闘経験が、彼女に大きな自信を与えているようだった。

 退魔巫女の修行中も、妖怪たちとの激闘も、御子内さんとの死闘も、レイさんにとってはただの記憶ではない。

 大切な経験値なのだ。

 たかが、でかいタヌキにビビらされるはずがない。

 

「おまえ、()()()()()()()()()()()()()()()。だったら、手口はわかっているぜ。―――()()()()()()()()()()

 

 レイさんは明らかに八ッ山のタヌキの素性を知っているようなことを口にした。

 こぶしさんが思い出せないことを、彼女は完全に知っているのだ。

 

「―――あら、レイちゃんたらさすがねえ」

「何がさすがなんですか?」

「あの子たちの同期の中では、レイちゃんが一番座学の成績がいいのよ」

「え、マジですか?」

「ほら、レイちゃんってたいして修業しなくても強いでしょ。他の子たちと違って、その分の時間ぼっちだったから図書室で勉強ばかりしていたのよ。だから、座学は一番。ある時期は図書室の主として、室長までやっていたぐらいだから」

「へえ、そうなんですか……」

 

 一人でやることもないから勉強してたのか。

 しかもたぶん、普通の学校社会でいうところの図書委員長とかをしていたのだろう。

 レディースかヤンキーみたいな見た目なのに……。

 

「だが、明王殿の発言の真意がわからないな。不知火、解説」

「……えっと〈偽汽車〉で思い出しました。なるほど、八ッ山のタヌキと言ったら、『レールを枕に討ち死に』していった名のある古狸のことでしたね。なら、使う幻法はアレでしょう」

 

 こぶしさんの言うアレの正体はすぐに判明した。

 

『キー、シュシュ、ポー!!!!』

 

 と八ッ山が叫ぶと、黒い大きな鉄の塊に変化していく。

 丸い顔と長い煙突を持ち、それらを支える動輪が連なった鉄の悍馬の姿に。

 煙突からシューと黒い煙が噴きあがる。

 同時に鳴る汽笛の音。

 それはまさしく陸蒸気(おかじょうき)と呼ばれていた時代の古い機関車のものであった。

 有名なD51よりもさらに遡るそれは、轟音を立てて走り回る鉄の化け物そのもので、当時の人間のみならずタヌキたちにも名状し難き異形にみえたであろう。

 そして、ほんの数秒の間にリング上の大タヌキは、彼よりも遥かに巨大な蒸気機関車へと変幻していた……。

 

 

 



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鉄の怪物に立ち向かう勇者

 

 

 ざんぎり頭を叩いてみれば、文明開化の音がする明治五年(1872)の鉄道開設後、しばらくして現在の品川区の八ッ山のあたりの線路で、一匹の大タヌキの死骸が見つかった。

 蒸気機関車が(おか)蒸気と呼ばれていた当時、品川から横浜に繋がる路線の機関士は、夜中になるたびにおかしな現象を体験していた。

 反対側から彼の運転するものと同じシュ、ポーという汽笛を鳴らす音が聞こえてくるのだ。

 今と違い、電灯の発達していない日本の夜であるから、当然、その蒸気機関車は見えない。

 しかも、当時は複線ではなく単線である。

 機関士は別の汽笛が聞こえるたびに、衝突を避けるために停止して様子を見るようにしていた。

 しかし、どれだけ停車していても一向に反対側から汽車がやってくることはない。

 ある日のこと、機関士の一人は「えい、かまうもんか」という気持ちで停止せずに汽車を走らせた。

 そうなっても正面衝突することもなく、汽車は無事に走っていった。

 その際、「なんとぉぉぉ!!」とい断末魔の叫びのようなものが聞こえた気がしたらしい。

 翌朝、機関士が夜勤明けで叫び声のした場所に赴いてみると、前述のタヌキの死骸が転がっていたらしい。

 全身が八つ裂きになっていたことから、汽車に轢かれたものだろう。

 死んだタヌキはこの辺りの海岸を縄張りにしていた古くから生きているタヌキだった。

 人間たちが何の挨拶もなく彼の縄張りに鉄道敷設の工事を行い、しかも、彼にとっては得体のしれぬ化け物である汽車を轟音と共に走らせることに号を煮やした古ダヌキが立ち上がったのだろうと人々は噂した。

 生活を脅かされたタヌキの必死の抵抗だったのである、と。

 そして、この八ッ山のタヌキに倣い、全国各地のタヌキたちが〈偽汽車〉の幻法を使い、人間たちに立ち向かっていった。

 渋谷でも、品川の権現山でも、六郷は高畑でも、亀有の見性寺でも、剛毅なタヌキたちは次々に煙を吐く鉄の怪物に挑み、散っていったという。

 タヌキにまつわる伝承は、すべて草深い田に伝わるものが多いが、この勇敢なタヌキたちによる〈偽汽車〉の話は都会から広がっていった、古くて新しい都市伝説のはしりであったとも言われている。

 

 

              ◇◆◇

 

「―――うちの近所の安孫子にも〈偽汽車〉の話はあるぜ。愚かだけど勇敢で、矜持のためにレールを枕に討ち死にしていった熱いタヌキどもの話さ。オレも結構好きな話だった」

 

 レイさんが〈神腕〉を前に突き出した。

 構えではない。

 力比べでもしようとしているかのような形だった。

 目の前のタヌキが変化した蒸気機関車と対峙するには、やや不安を感じる。

〈偽汽車〉と呼ばれる蒸気機関車の幻は、無数の動輪を火花散らして回転させ、煙突から黒煙を上げ続ける。

 すでにさっきまでのタヌキの面影はない。

 完全に蒸気機関車そのものになってしまっているようだ。

 広いとはいえないリングの中ではその大きさは脅威だ。

 

「大丈夫でしょ。大きく見えますが、あれは幻特有のこけおどしです。正面から轢かれたりしなければ死にはしません」

 

 こぶしさんは結構無責任だった。

 

 シャ、ポーーーー!!!

 

 汽笛が吹きならされ、同時に〈偽汽車〉が前進する。

 助走はない。

 最初から全速前進だった。

 横っ飛びして躱したレイさんの脇を走り抜ける。

 凄まじい重量感だった。

 幻とはいえ、あれを喰らったらひとたまりもないかもしれない。

 さっきまでのタヌキの姿でのぶちかましも強そうだったが、それよりも重そうに見える分怖い。

 

「……しかし、幻で大きく見せているだけで、ムジナそのもののサイズは変わらないのではないか」

 

 グリフィンさんの意見はもっともだ。

 そのことについてこぶしさんに聞いてみると、

 

「タヌキをはじめとする妖怪が使う幻法というものは、幻でありながら幻ではないのです」

「というと?」

「幻の部分にも実体があるので、触ることもできるんです。だから、見た目だけということはありません。有名な三枚のお札にもある通りに、幻法というのはある意味では質量保存の法則さえも覆す荒業なのですよ」

「ということは……」

「はい。レイちゃんが〈偽汽車〉に轢かれたら、相応のダメージを受けるということです。蒸気機関車と〈偽汽車〉の正面衝突ならばともかく、人間の身ではあれを受ければ重体は確実でしょうね」

 

 ということは、正面からの激突は何としてでも避けねばならないということか。

 だが、リング上を機敏とはいいがたいとしても縦横無尽に走り回る汽車相手に、どうすればいいのだろうか。

 すれ違う寸前に地下足袋でヤクザキックをしたりしても、まったく〈偽汽車〉は怯むことはない。

 はたして、レイさんに形勢挽回の秘策はあるのか。

 一直線に突っ込んできて、それを躱されると、ロープにぶつかってその反動を利用してもう一度特攻してくる。

 まるで国鉄線の上りと下りだ。

 このままではいつかは彼女も轢殺死体になってしまう。

 だが、レイさんの口元には笑みが浮かんでいる。

 楽しくてしょうがないという顔だ。

 眼をかっと見開き、〈偽汽車〉のすべての突進を見切り、自慢の〈神腕〉を振り下ろすタイミングを狙い続けている。

 彼女の必殺の〈神腕〉ならば、一撃ですべてを決することができるという自信のもとに。

 

 ゴー、シュポシュポ!!

 

 石炭を燃やす黒煙をばら撒き、鉄の怪物を模した虚像が近づく。

 その一部がカチっと開いた。

 光り輝く。

 それはサーチライトだった。

 夜間に機関車が走るための眼である。

 しかし、明治期の蒸気機関車にそんなものがついている訳はない……っ。

 

「あれは!!」

「どうしました?」

「あのタヌキが変化している汽車は、明治期のものではないんだ!」

「どういうことでしょぅか?」

「あいつ自体は、噂の八ッ山のタヌキではなくその子孫であるというのならば、あいつが知っているものはずっと最近のものに違いない」

「……まさか!」

「そのまさかだ!」

 

 自分自身の先祖を轢いたものではなく、さらに新しいものだとすれば、夜間に走るための装備もついていて当然。

 だから、八ッ山の変化した〈偽汽車〉にもライトがついているのだ。

 そのライトが完全な奇襲状態でレイさんの眼を塞ぐ。

 眼が見えなければ、避けるタイミングを計ることもできない。

 

「レイさん、危ない!」

 

 僕の声が聞こえているのかいないのか、わからない。

 だって、彼女は微動だにしなかったのだから。

 

「もし、オレの後ろに子犬がいたらどうするべきか」

 

 彼女は呟いた。

 自問したというべきか。

 

「子犬を掴んで逃げる? 確かにそれが一番確実で被害も出ねえ」

 

 レイさんは不動。

 

「だが、突っ込んでくる鉄の怪物相手に背を見せるのは闘士のすることじゃあない。明治のタヌキどもがそれを良しとせずに立ち向かったのも道理!!」

 

 そして、二つの拳を握り、

 

「レールの上の子犬を助けたければ汽車を押し止めればいいだけのこと。()()()()()()()()()()()!!!」

 

〈神腕〉を突き出す。

 真正面に。

 高速で走る蒸気機関車の鼻づらに渾身の力を込めて。

 怪力乱神の巫女の双打と鉄の怪物が激突する。

 何かが割れるような音が鳴り響いた。

 勢いを完全に消せなかったのか、レイさんは後ろに吹き飛んだが、ロープに達してそのまま止まる。

 あまりにも無造作に寄りかかったままだ。

 さっきまでだったら、追い打ちをかけるかのように突っ込んでくるはずの〈偽汽車〉は何故かリングの中心で停止していた。

 いや、何故かなんてことはない。

 答えはもう出ている。

 

『シュポー……』

 

〈偽汽車〉の鉄の覆いが消え果てていき、石炭から産まれたものとは違う水蒸気のような煙を燻らせながら、巨大なタヌキの姿へと戻っていく。

 丸い目をぎょろりと血走らせ、身じろぎもしない。

 口からは溢れるほどの涎を流し、それを啜りもしない。

 応援を続けていたタヌキたちも静まり返っていた。

 その胸にははっきりとわかる二つの拳が凹った跡がついていた。

 どれほど厚い胸板であったとしても、あれほどの陥没がつくほどの打撃を喰らって意識を保っていられるはずもない。

 レイさんの退魔巫女最強の破壊力を誇る〈神腕〉と、自分の出していた速度のふたつのベクトルの力がぶつかり合った結果であるのだから。

 だが、八ッ山のタヌキも彼らの種族の代表を張るだけある猛者だったのだ。

 

 ―――立ったまま、気絶していた。

 

 眼を剥いたまま、倒れることをせず。

 寄りかかったロープから離れたレイさんは、その八ッ山のもとにいくと、

 

「よいしょっと」

 

 と、お姫様抱っこをした。

 彼女よりもはるかに巨大なタヌキをまるで赤子のように持ち上げて。

 

「さっきはすまなかったな。おまえ、ヘッポコじゃあなかったわ」

 

 自分の手で倒した敵を労わるように、レイさんはリングから降りてくる。

 その顔は、さっきまで死ぬかもしれないような激闘をしていた女の子のもとは思えない、慈愛に満ちたものであった……。

 

 

 

 

 

 



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帝都と狸の密接な関係

 

 

 タヌキ側の慌てぶりは手に取るようにわかった。

 彼らにとって八ッ山のタヌキというのは、まさに直接の先祖同様に「名のある狸」であったようで、退魔巫女を相手取ったとしてもまずは負けないだろうと予想されていたからだと思われる。

 おかげで実況席の僕らの後ろのタヌキも含めて、後楽園ホール全体がざわめきに包まれていた。

 

『まさか、八ッ山が……』

『なんという大番狂わせなのだ!!』

『いやいや、人間のあの巫女も強かったぞ』

『真正面からあの八つ山の〈偽汽車〉を止めるとは……やつは実は本物の電車に違いない』

 

 タヌキたちは手にしたカップ日本酒をぐびりと飲みながら、たった今の戦いの感想を熱く語っていた。

 基本的に同族よりだが、レイさんについて褒めたたえる言葉も混じるあたり、意外と客観的な視点も持っているようだ。

 ぶっちゃけ、後楽園ホールに普段からいる観客のおじさんたちと大差ない。

 だが、そのうちに次の試合へ向けての予想が混ざり始める。

 

『だが、次鋒はあいつだろ。今度こそ負けねえよ』

『あいつにはどんな打撃も効かねえし、刃物で切り付けられたって弾き返しちまう。人間側がどんな化け物を用意して来たって絶対に勝つぜ』

『おうおう、浅草寺の英雄タヌキなら、まず間違いねえ』

 

 どうやら、江戸前タヌキの次鋒として出てくるのは、その浅草寺のタヌキのようだね。

 あんな東京のど真ん中にもタヌキって棲息しているのか……。

 

「京一さんは、どうして野良犬が減って野良猫は減らないか、わかる?」

「さあ……」

 

 こぶしさんが訊いてきたが、僕にはまったくわからない。

 

「それはね、簡単にいうとネコ科とイヌ科の生態の違いなのよ。猫は肩のところの骨を動かしてかなり狭いところでも進めるけど、犬にはそれができないだから、活動できる場所も限られてしまう。猫は身軽だから塀や屋根の上までもいけるけど、犬にはほとんどそういう真似はできない」

「確かにそうですね」

「するとね、動きが平地に限定される犬は天敵に追い詰められやすくなるのよ。彼らにとっての天敵―――つまり人間の、保健所にね」

「なるほど。ある程度広い場所がないと、すぐに保健所に捕まってしまうから、犬が野良にはならないんですか」

「猫はけっこうどこにでも逃げるから捕まえるのが厄介なのよ。で、それと同じ理屈がタヌキにも通じるの」

 

 猫に比べるとタヌキは鈍重そうだけど……。

 

「タヌキはね、見た目以上に素早くて樹に登ったりも普通にできるうえ、移動にはドブや狭い家と家の隙間なんかを使うことで移動方法が豊富なの。さらに夜行性で、昼は空き家や神社などに隠れていて、人目につきにくい。だから、都会にも意外な数が棲息しているという訳」

「はあ、そうなんですか」

「あとは、この妖怪どもが匿っているという訳ですな」

 

 グリフィンさんが周囲を見渡しながら言った。

 

「ええ。この東京にはいくつかの妖怪の種族が棲んでいるけど、その中でもわたしたち〈社務所〉が特に警戒しているのが、この妖狸族なのよ」

「随分と数がいますね」

「正確な数はわからないけど、ここにいるタヌキのほとんどは普段は人間に化けたりして暮らしているはずよ」

 

 それってすごいことだよね。

 実は隣のおじさんはタヌキだったとかいうことが普通にあるのか。

 

「今でこそ静かだけど、この東京に首都機能が移転して以来、わたしたちとタヌキたちは政治的な争いを繰り広げてきたわ」

「政治、なんですか。霊的とかじゃなくて?」

「ええ。タヌキたちは政治家や経済界の大物に取り入ったり、学制運動や革命家に援助したりして、この日本の歴史に深く関わってきた。特に昭和の時代は顕著だったのよ。あなたたちが知っている名前や事件でいうと、北一輝を支援したり三億円事件を起こしたりしていたのは彼らね」

 

 さすがに少し驚いた。

 北一輝といえば二・二六事件の精神的指導者と言われているし、三億円事件は未解決の大事件だ。今でもドラマや映画になったりしているぐらいだし。

 それにタヌキたちが関わっているというのだから。

 

「よく、人間たちに滅ぼされませんでしたね……」

「そこが彼らの老獪さ―――まさにタヌキなところなのよ。江戸時代からこの東京で生きてきた知恵や経験があるんでしょうけど、色々なところに食い込むのがうますぎて、排除なんて到底できない。それでも、最近は制御できた方なんだけど……」

「今回はできなかったってことですね」

「ええ。今の都知事がちょっとわかってない人だったの。東京五輪の利権が欲しかったのか知らないけど、タヌキたちの陳情を完璧に無視したりして……。ああ、去年のジカ熱の時もタヌキからの要請を断って海外に視察に行っちゃったりしたこともあるのよ。おかげで、フラストレーションが溜まっている状態に今回のハクビシン騒ぎでしょ? 手に負えないの」

 

 なんだか知らないが、東京のタヌキって身近過ぎない?

 僕なんか一応東京生まれだけど、都内にタヌキが溢れているということすら知らなかったよ。

 

「―――そこでガス抜きも兼ねて、この騒ぎですか?」

「そうね。うちとあっちのトップが決めたんだけど、まあ、いい手段《て》だとは思うわ。わたしの後輩たちが撒けることはないと思うし」

 

 このあたり、タヌキも退魔巫女も身内への評価が高い。

 

「でも、まだ一勝ですからね。あと二人勝たないと」

「大丈夫ですよ。だって、次に出るのは()()()ですから」

 

 こぶしさんが自信満々に言い、その視線の先には、退魔巫女の次鋒がリングに向かって歩いてくるところだった。

 

「二年燻っていたのだから、きちんと結果を見せてみなさい、藍色ちゃん」

 

 小さめのオンスのボクシンググローブを嵌めて、トレードマークらしいネコミミ状の髪型をした改造巫女装束が花道を進んでいた。

 かつて挫折を味わい、それでも牙を研ぎつつ、華麗に復活した巫女ボクサーだった。

 

 猫耳藍色。

 

 蹴りを一切使わずとも、あの御子内或子と引き分けに持ち込むほどのボクサーがでるのである。

 こぶしさんの自信も頷けるというものだ。

 ただし、相手は先ほどの八ッ山のタヌキの例を見るまでもなく、本当に強い。

 あの藍色さんをして抗しきれるかは実は不明というのが現実だ。

 

「来ました!」

 

 リングにはもう一匹のタヌキが登場していた。

 さっきの八ッ山よりもやや小柄だが、その分、お腹のでっぷり差加減は増している。

 まるで風船のようだ。

 メタボよりもさらに肥満。

 頭部と胴体が一緒になっているかのように、楕円に手足がついたような体型で、信楽焼きの狸よりもさらに丸っこい。

 歩くのでさえやっとというようなまん丸の〈五尾〉のタヌキはセコンドらしい仲間に支えられつつ、コーナーポストに寄りかかっていた。

 荒い息をしてとてもしんどそうだ。

 アメリカあたりのヒキコモリの肥満児を想像させるほど酷い。

 あれが、「浅草寺の英雄タヌキ」なのかな……?

 

「また、どうしようもないのがでてきたな」

 

 スマートなスポーツマンっぽいグリフィンさんは辛辣だった。

 太ったことがないのだろう。

 まあ、僕の家も痩せの家系なのであんな脂肪の塊になったことがないのから、気持ちはわからないでもない。

 二十キロも三十キロも脂肪がついて重くなった身体なんて考えられない。

 

「でも、彼も江戸前の〈五尾〉なんですよ」

 

 こぶしさんは鋭く言い放った。

 

「……きっと、何かの秘儀を持っているはずです」

 

 秘儀とは、妖怪の持つ特性を活かした最後の技や術のことだ。

 これまでにも多くの退魔巫女を殉職させたり、大怪我をさせて引退させたりしてきたのが、その秘儀だ。

 あの肥満体のタヌキは、まともに格闘ができそうもない以上、おそらくその秘儀を操るのだろう。

 五匹の代表に選ばれるのに相応しい何かを。

 

『プシュュゥゥゥゥゥゥ』

 

 浅草寺のタヌキの長い呼吸音が聞こえだした時、

 

 カアアアアン!

 

 と、ゴングが鳴り響いた。

 藍色さんがいつものアップ・ライト・スタイルに構える。

 ここに、拳技最高と謳われた巫女ボクサーと、妖術タヌキの激闘が始まる。

 

 

 

 



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浅草寺のタヌキ殿

 

 

「……その動きづらそうな図体で、わたしとやりあえるおつもりにゃのですか?」

 

 相変わらず、「な」の喋り方が「にゃ」に変わる藍色さんだった。

 自分の対戦相手の、動き回るのも不自由そうな体格を心配しているようである。

 あと、ほんのちょっとだけ怒っている感じ。

 そりゃあ、こんな風船タヌキと本気でやりあえと言われても、戦いに関して誇り高いボクサーである彼女の癇に障らないはずもない。

 ライト・アップ・スタイルの構えを崩しもせずに、じっと超・肥満体のタヌキを睨みつける。

 

『くくく、人間め。ワシの外見だけで判断しているようだな。だがな、それが命通りになるぞ、フギャー。……やれやれ』

 

 浅草寺のタヌキはかったるそうにコーナーポストから身を起こすと、ようやく真面目に対峙した。

 体重(ウェイト)差はあるだろうが、藍色さんのパンチ力はそんなものの意味を無くすほどに重く強い。

 単純な感想だけを上げるとしたら、あのタヌキが巫女ボクサーのパンチをどれだけ堪えられるかの勝負にしかなりそうもない。

 だが、きっとそうはならない。

 少なくとも、浅草寺の化けタヌキは何かを持っているはずだから。

 すでにゴングはなっているので、どちらが先に仕掛けてもいいところだ。

 しかし、どういう訳か、藍色さんも動かない。

 左右に小刻みにフットワークを繰り返すが、前に出ようとはしないのだ。

 

「―――藍色さんはどうして仕掛けないのでしょう」

「出方を見ているんだろう」

「ボクサーのフットワークを活かして、機動力勝負の方がいい気がしますが」

「あの肥満体はさすがに警戒しなければならないのだろうな。いくら格闘には体重差が優位に働くとはいっても、単純な移動にさえ困難なほどのデブでは意味がない。だから、きっと奥の手があると踏んでいるのだろう」

「なるほど」

 

 グリフィンさんもイギリスでレスリングをしていたというだけあって、解説は淀みないし、的確だ。

 その指摘通りに、藍色さんはジャブも撃たずにずっと機を窺っている。

 焦れたのはやはり()()の方だった。

 

『だあああ、面倒じゃあああ!!』

 

 超・肥満体のタヌキはよたよたと前進する。

 身体ごと浴びせ倒しでもかけてやろうかという読みやすい動きだった。

 当然、藍色さんはフットワークを駆使して、円を描くように滑らかに回転して、タヌキの腋にジャブを放つ。

 牽制ではなく、腰ののった重いジャブに見えたが、受けた方のタヌキは平然としている。

 ラーテルのような分厚い脂肪だけでなく、黒々とした豊かな体毛もあって、ジャブ程度ではびくともしないのだ。

 藍色さんはワンツーで切り替えて、左のフック(どちらかというとリッキー・ハットンのスマッシュっぽい)を叩きこんだがこちらも大して効いてはいないようだった。

 その間に、浅草寺のタヌキは向き直ると、投げやりな張り手で藍色さんを吹き飛ばす。

 やはり体重差は深刻だ。

 例えるのならば、小錦と相対した少年相撲の子供ほどの差がある。

 しかも、あの小錦はショックを緩和する毛皮まで備えているのだ。

 とはいえ、藍色さんの力の入ったスマッシュを受けて、完全にノーダメージだったとはいえないらしく、反対側の手で被弾箇所を撫でまわしていた。

 張り手を受ける瞬間に自分から跳んで威力をやわらげていたらしい藍色さんは、そのままもう一回転円を描いて、今度は逆のわき腹を痛打する。

 邪魔なハエでも掃うかのごとき張り手をダッキングで躱し、今度は下方から突き上げるアッパーを打った。

 

『ぐへええ!!』

 

 通った。

 今のアッパーカットは威力を消されることなくタヌキにダメージを与えたようだ。

 

「入りました! 藍色さんの一撃がタヌキの分厚い肉を貫いた!」

「打つ瞬間に、一瞬タメを作ってを力を籠めましたね。動きながらでもアレができるのがボクサーの技術です」

「つまり、これを繰り返せばいかに肉の鎧があったとしてもいつかは倒せるということですか?」

「理論上は。ただし、それをさせてくれる相手ではないでしょう」

 

 こぶしさんの断言通りに、耐えがたい痛みを感じたタヌキは無造作に動き回ることを止めた。

 コーナーポストの一角に慌ててスタコラと逃亡すると、憎々しげな顔をして、

 

『いてえなあ、この野郎!! 何をしゃがんだ!!』

 

 試合をやっているとは思えない緊張感のない苦情を発した。

 当然のこと、藍色さんはサディスティックな眼差しでタヌキの苦情を一刀両断する。

 

「戦いというのは交互に痛みを受ける事ですよ。自分だけが何もされにゃいと思っていたのかしら。ちゃんちゃらおかしいわ、このデブ。さっさとライザ○プにでも通って痩せてきにゃさい」

 

 藍色さんは肥満に対して厳しい。

 ボクサーの持つストイックさとは反対に位置するものだからだろう。

 

『舐めるなよ、人間! ワシの幻法を喰らうがいい!!』

 

 すると、タヌキは大きく息を吐いて、もう一度吸いなおした。

 その隙を捉えようと藍色さんも少し動いたが、危険を感じ取ったのか、おいそれと飛び込んだりはしない。

 何かをしようとしているのは事実だが、邪魔をするのも危ないということだ。

 闘士としての勘が正しかったのか、空気を吸い始めたタヌキの動きはまったく止まることがなく、マット上に異常な乱気流のようなものが暴れはじめた。

 リングの外にまでその影響は及び、僕らの髪の毛やグリフィンさんの帽子が飛んで行ってしまうほどだった。

 リングに近い観客のタヌキたちは吹きすさぶ嵐のような風に翻弄され、体勢を崩して地面に落下するものまででる始末である。

 それだけの異常な乱気流を正面から堪えた藍色さんの足腰には特筆すべきものがあるといえよう。

 だが、彼女からすれば堪えなければならない事情があったともいえる。

 なぜなら―――

 

『うっひぇひぇひぇひぇ』

 

 あのたった一息吸い込んだだけで、どれだけの空気を体内に取り入れたのか、浅草寺のタヌキの姿は()()()()()()()()()()()()()

 まるで空気を注入された風船のように。

 丸い体格はそのままで体積だけが増加したかのごとく。

 

 まさに、巨大化、していた。

 

『うっひぇひぇひぇひぇ、これぞ我が江戸前の妖狸族に伝わる幻法〈狸提灯〉よおおお!!』

 

 でかくなったからか、聞こえてくる声にもエコーのような揺らぎがついていた。

 僕たちが見上げる角度も拳一つ分以上は上がっている。

 そして、何よりも、リングの六分の一ほどがタヌキの身体に圧迫される結果になっていた。

 対峙する藍色さんとの体格差はまたも広がり、今度はその差を埋める事さえもできないだろうと思われるまでになっていた。

 さきほどの張り手の範囲でさえ拡大しているのだ。

 いくら、藍色さんでも……と思った瞬間、

 

「へえ、さすが藍色ちゃんね。一寸たりともビビっていない」

 

 こぶしさんの賞賛の声が聞こえた。

 つられてリングの上の彼女を見て僕はほっと胸を撫で下ろした。

 平然とタヌキの巨大化を受け止めている藍色さんの笑みを見て。

 

 レイさんといい、藍色さんといい、やはり退魔巫女は違う。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そう、彼女たちは決して怯むことのない精鋭たちなのである。

 

 

 

 

 



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幻法〈狸提灯〉

 

 

 瞬く間に、浅草寺のタヌキはその体積を増していき、横幅でいえば二倍から三倍、高さは約一・五倍、単純な面積だけならどれだけ膨れ上がったかわからないぐらいにまでなった。

 丸っこい胴体が、完全に丸に近くなったといえばいいか。

 まったく変化のない四肢を除けば、まさに膨張した風船とでもいえばいい状態だった。

 そんなタヌキに四つあるコーナーポストの一角を占められ、藍色さんの動ける範囲は確実に減っていた。

 いや、そんな簡単な次元の問題ではない。

 ただでさえ、サイズに差があったというのに、それが更に拡大したのだから。

 

「―――虚仮脅しだにゃ」

 

 前に進み出た藍色さんの左ストレートが一閃する。

 敵の反撃を恐れる必要がないということから、モーションの大きいまさに全身の力を一点に集めたような拳撃だった。

 まともに食らえば顔面が陥没するレベルだろう。

 タヌキは平然とそれを受けた。

 入った、と思った瞬間に、左の拳がグラブごとめりこみ、手首までが見えなくなっていた。

 膨らんだことによって軟らかくなり、さらにブヨブヨとした粘塊にまでなってしまったかのような変化だった。

 しかし、これでわかることがある。

 おそらくもう打撃は効かない。

 手首が吸い込まれた瞬間に、スイッチした藍色さんの右フックまでも同様に消えてしまったのだ。

 まるで底なし沼の泥水の中に手を突き入れたように。

 

「くっ!」

 

 離れようとした藍色さんだったが、タヌキがお腹を派手に揺らし、ゴミを投げ捨てるかのように動いたせいで放り捨てられた。

 両手を捕られていたせいで受け身をとり切れず、斜めに腰から落下したが、そこは猫の化身とも呼ばれている退魔巫女である。

 一回バウンドしただけでなんとか体勢を整える。

 だが、解放されたとはいえ、形勢は不利だ。

 なんといってもボクサーとしての魂であり、主武器であるパンチが封じられたに等しいのだ。

 これは藍色さんにとっては極めて不利な状況である。

 

「―――おっと、このままいくと藍色さんは何も打つ手がない状態ということになりませんか?」

「そうね。軟らかいだけならまだしも、あの脂肪の塊は彼女の拳を吸い込んで捕らえてしまう効果もあるようです。迂闊には触れられませんから」

「……だが、そうなるとあのボクサーの巫女は何もできないだろ。勝負は決したとみていいのか?」

「いいえ、まだですよ。藍色ちゃんだってただの退魔巫女ではないのですから」

 

 こぶしさんの自信満々の指摘に応えるかのように、藍色さんが両腕を十字に組む。

 今までのボクシングの構えとは違う。

 どちらかというと、御子内さんのよく使うごっちゃまぜのスタイルだ。

 いつもは自在に動かして相手を惑わすフットワークまでが止まる。

 

「あら、猫耳流交殺法・表技ね」

「なんですか、それ?」

「藍色ちゃんのご実家の神主に伝わる武芸よ。彼女自身はそれよりもボクシングの方が性に合っているらしくて滅多に使わないけど」

「はあ、もしかして藍色さんが自分の流儀を曲げたということですか?」

「ええ。己の戦い方に最後までこだわるのもアリだけど、自分たちの守護するものをどうしても守らなければならない退魔の巫女ならば勝つためならどんな変節でもするものなのですよ」

「つまり、あの構えは……」

「猫耳藍色の覚悟の現われでしょう」

 

 藍色さんが一歩踏み出す。

 それだけですぐにタヌキの攻撃の射程距離に入ってしまう。

 ぐおっと膨らんだ太鼓っ腹が彼女を覆い潰すかのように倒れこんできた。

 カウンター気味に藍色さんが組んだ腕を引いた。

 彼女の目の前に不可視のクロスが現われたかと錯覚するほどの速度であった。

 同時にタヌキのまとっていた恥ずかしげに少しだけ残っていた法被が破ける。

 刀的な鋭利な刃物にでも切り裂かれたように。

 その下にあるタヌキ自身の毛皮に、なんと十字の跡が浮かび上がったのだが、すぐに消えてしまった。

 藍色さんの腕の動きとシンクロしたかのような奇妙な現象だった。

 ただ、その瞬間、僕はキィンとした耳鳴りを覚えたのであった。

 何かがあったことだけは間違いないが、どうも不発に終わったらしい。

 マットの上の藍色さんの顔にもやや翳がついていた。

 

「―――いったい何が起きたのですか? たぶん、彼女は何かを仕掛けたようですけど……」

 

 こぶしさんも少し口を開けて驚いていた。

 

「ちょっとびっくりしました。……どうやら、あのタヌキの毛皮と肉は斬撃さえ跳ね返すみたいです」

「どういうことでしょうか」

「今、藍色ちゃんは肘と真空を利用して相手を切り裂くための技を出しました。猫耳流交殺法・表技〈刃拳(ハーケン)〉です。まともに食らえば、タヌキの肉はズタズタにされていたはずです」

「また物騒な技ですね」

「でも、その〈刃拳(ハーケン)〉でも跡をつけることしかできない絶対・打撃防禦があの風船みたいな姿のようです。これは、いくら藍色ちゃんでも……」

 

 ついにこぶしさんの顔にも心配そうな色が浮かんだ。

 どうやら想像以上に、危険な領域に踏み込んでいるらしい。

 仕組みはわからないが、あの一瞬、藍色さんは肘を使ってタヌキを切り裂こうとしたのだが、それでさえあの毛皮に遮られたということらしい。

 確か、あのタヌキのいうところの〈狸提灯〉という幻法の効果なのだろう。

 観客たちが試合前に言っていた 『あいつにはどんな打撃も効かねえし、刃物で切り付けられたって弾き返しちまう。人間側がどんな化け物を用意して来たって絶対に勝つぜ』という言葉の意味はこれか。

 まさに難攻不落の風雲たぬき城だ。

 だが、ただ守っているだけではない。

 浅草寺のタヌキは攻め込むこともできるのだ。

 しかも、ただ一歩踏み出すだけで。

 これだけ巨大な存在が近づいてくるだけでかかる圧力は想像を絶するものがある。

 狭いリングの上だ。

 前に出られず、不用意にパンチも打てない藍色さんは後退するしか道はない。

 しかし、タヌキは鈍重だが計算された動きで彼女を徐々に追い詰めていく。

 あのままロープ傍まで追い詰められ、体重を掛けられたらいかに彼女がタフでも取り込まれてしまうかもしれない。

 圧迫死もありえる相手なのだ。

 藍色さんはもう為す術もなく、ただ必死に逃げる。

 

『くくく、フギャー。逃げるだけか、人間。さっき叩いた大口の報い、ここで受けてもらうぞ、フギャー』

「語尾がちっとも可愛くありません。せめて、脳髄グシャーぐらいはつけたらどうですか?」

「貴様がワシに屈服したらな、フギャー」

 

 台詞のあちこちに、こらえきれないのか嘲笑が入ってきていた。

 楽しくてしょうがないという感じだ。

 確かにタヌキの側から見れば、防戦一方どころか逃げ惑うだけの藍色さんを追い詰めているだけの嗜虐心を駆り立てられるシチュエーションなのだろう。

 だが、どんなに嘲笑われても、決して自棄になって特攻したりせずにチャンスを窺う藍色さんの冷静さが羨ましい限りだ。

 

「こぶしさん、藍色さんはどうすればいいんですか?」

「正直なところ、手の打ちようがないですね。藍色ちゃんの技ではあの肉の壁を撃ち抜くことはできそうもないですから。打撃も、斬撃も効かないゴムゴムの風船みたいなものです」

「しかし、このままでいくとコーナーポストに追い詰められてそのまま圧迫されてジ・エンドだぞ」

「……藍色ちゃんに別の技があればいいのですけれど」

 

 藍色さんの別の技?

 かつての先輩であるところのこぶしさんでさえ知らない、そんなものが……。

 いや、ある。

 僕の脳裏に御子内さんとの激闘が浮かんだ。

 仕組みはわからないけれど、あれなら……。

 

「藍色さん、頑張れ!!」

 

 思わず声をかけると、その可憐な横顔にわずかばかりの余裕が戻ったように思えた。

 ただ策もなく逃げ惑っているだけのように思えていたが、そんなことはなかったようだ。

 猫耳藍色はまだ諦めていない。

 彼女の右手の甲だけが上になった。

 いわゆる横拳―――猫パンチの形に。

 かつて御子内或子をダウンさせた“震打(しんだ)”を使うのだろうか。

 しかし、その変化にタヌキは気がつかない。

 完全に藍色さんを―――人間を侮っている。

 勝負がついてさえいないのに舐めているのがわかった。

 鼻歌交じりに倒れこめば、退魔巫女を仕留められると高でもくくっているのだろう。

 だが、それは間違いだ。

 おまえは知らない。

 藍色さんのことを。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

『これで終わりだぜ、フギャー!!』

 

 タヌキが腹を見せて突っ込んだ。

 トドメを刺して、藍色さんを肉に封じ込めるために。

 藍色さんはロープに背中をつけて、左手をぐっと腋に引きつけた。

 そのまま、天を衝くように高く撥ね上げた拳を掲げて、咽喉が裂けんとばかりに叫びつつ、

 

「だああああああ!!」

 

 と、浅草寺のタヌキ目掛けて伸ばした。

 パンチと呼ぶにはあまりにもスローモーションで、ただ手を伸ばした風に無造作で、誰もが何かがあると見破れるだけの不思議な何かがあった。

 十中八九間違いなく、藍色さんの猫パンチには「何かが」こもっていた。

 グラブがポンとタヌキのメタボな腹を叩いた。

 巨体が揺らいだ。

 いや、震えた。

 ほんの一瞬だけ。

 

『な、なんだ、これ……。腹が、腹が、腹が……』

 

 浅草寺のタヌキは棒立ちのまま呻いた。

 自分に起きた状態異常に戸惑っているのだ。

 想定外の事態だったのだろう。

 

『腹が腹が腹が……、違う! ワシの内臓が―――!!』

 

 タヌキの大きな口が極限まで開いた。

 藍色さんの技が毛皮と肉を通り越して、なんと内臓まで伝わっていたことがここで鈍い僕にもわかる。

 そして、その大口から、

 

『プシュュゥゥゥゥゥゥ』

 

 と空気が抜けていく。

 穴の開いた風船のごとく。

 みるみるうちに元の大きさに戻っていく、化けタヌキ。

 ほんの数秒の間に、完全に最初のサイズにまでなっていってしまった。

 しかも、ヨロヨロと足元がおぼつかないまま。

 戻った瞬間、藍色さんが動いた。

 これまで逃げ回らなくてはならなかった鬱憤をここで晴らすために、ずっと耐え続けていたかのごとき全身全霊の膂力を籠めて―――

 

 必殺の、

 

 ジャンプしてからの、

 

 両足裏がマットから離れた状態で打つジョルト・ブローにも似た、

 

 ハリケーンボルトがタヌキの顔面で火を噴いた。

 

 

 

 

 ―――これで、〈社務所〉側の二勝目が確定した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみに、浅草寺のタヌキは動物病院に直行させられた。

 

 アーメン。

 



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中堅戦へ

 

 

「今のは……中国拳法の発勁みたいな技ですか」

 

 藍色さんの見せた猫パンチが、浅草寺のタヌキの〈狸提灯〉を破ったらしいということは僕にでもわかる。

 だが、仕組みについてはさっぱりなので、解説のこぶしさんに聞いてみた。

 すると、彼女はくびを横に振って、

 

「違うと思います」

 

 と、否定した。

 

「インパクトの瞬間、藍色ちゃんの身体がブレたように私には視えました。あれは“波”ですね」

「波といいますと」

「彼女は全身を震わせて一種の波を作り上げて、毛皮や肉といった部分を越えて直接内臓を打ったんでしょう。生物の肉体は、ほとんど水分で出来ていますから、堅い拳をヒットさせるよりも波を当てた方がダメージを与えやすいのです」

「でも、相手は妖怪ですよね」

「妖狸族は普通に生き物なんです。寿命はあるし、病気にもなる。ただの生き物を相手にするのと変わりません」

 

 つまり、藍色さんの猫パンチは全身を震わせる衝撃波のようなものを叩きこむ技ということだろうか。

 実際にどうやればそんな真似ができるかはさておき、藍色さんはその技を使ってタヌキの内臓を痛めつけた。

 おそらくは未知の痛みを受けて、浅草寺のタヌキは幻法を解き、ほとんど掴みかけていた勝利を逃したというわけだね。

 

「……おそろしいものだな、〈社務所〉の巫女は。だが、単純に凄い」

 

 グリフィンさんの感想もわかる。

 僕たちの背後にいるタヌキの観客も同じ思いらしく、目に見えるほど会場内が静まり返った後、爆発的な歓声が起きた。

 あの絶対の劣勢のあと、覆せないだろう逆境を跳ね返し、見事に勝利をおさめた藍色さんを讃える声だった。

 浅草寺の同族を応援してはいても、結果として見せつけられた奇跡の逆転劇は観客のハートを鷲掴みにしたのだ。

あの賭けボクシングの聖地〈合戦場〉で泥酔した客たちを虜にしたように、またも藍色さんはその技術でタヌキたちまで味方につけた。

 

「さすがだ、藍色さん……」

 

 控室に去り際に、彼女がみせた控えめなガッツポーズが印象的だった。

 

「これで二勝か。ほぼ決まったかな」

 

 グリフィンさんが勝負の行方について語る。

 この戦いは五対五の団体戦だ。

 最初に三勝した方が全体でも勝つというレギュレーションのもと行われている。

 退魔巫女側は、レイさんと藍色さんが立て続けに勝ったため、あと一回の勝利で決まる。

 そして、あとに控えているのは御子内さんと音子さん、ついでに熊埜御堂さんだ。

 一勝もせずに終わる面子ではありえない。

 彼の言う通りにほぼ勝ったといえるだろう。

 

「そうね。音子ちゃんはたまにやらかすけど、或子ちゃんが負けることはないから決まったようなものか」

 

 こぶしさんまで同調した。

 しかし、僕としてはちょっとその楽観論には乗れない。

 確かに御子内さんは最強の巫女レスラーだし、負けることなんてありえないけど、そうそううまくいくものだろうか。

 江戸前狸の代表である〈五尾〉は、その名に恥じない化け物めいた技の持ち主だった。

 相性の問題もあっただろうが、先鋒・次鋒の二人もかなり苦戦していたように感じる。

 決して楽な相手ではない。

 

 ただ、その時、異変が起こった。 

 

 後楽園ホールの扉から、誰かが入って来て階段を降りてきたのだ。

 視線を向けると、たまに見掛ける白衣と袴の若い人だった。

〈社務所〉の禰宜という役職を務めているはずだ。

 通常の神社の禰宜と違って、退魔巫女たちの〈社務所〉における業務は神事には限らず、調査員や雑用もこなすなかなかのスペシャリストなのである。

 絶対数が少ないらしいので、リングという名の〈結界〉を敷いたりする力仕事は僕たちバイトに任せられているようだ。

 

「……不知火さま」

 

 前・退魔巫女というだけでなく、〈社務所〉の中でもこぶしさんは偉い人らしく、禰宜の人は恭しく話しかけてきた。

 

「どうしたのですか?」

「お耳を拝借」

 

 禰宜がこぶしさんの耳元で何やら伝えたら、彼女の顔が少しだけ険しくなった。

 何かあったのだろう。

 退魔巫女の統括もしているという彼女に伝えるべき緊急の用事ができたのか。

 

「―――妖狸族には?」

「すでに電話で伝えています」

「反応は?」

「あちらの(おさ)である分福どのが別室に移りました。こちらの会場については、ことが起きた場合に〈五尾〉のタヌキたちが当たるそうです」

「……もう三匹しか残ってないじゃない」

「おそらく、我らが巫女も勘定に入れているのだと思われます」

「まったく勝手よね、タヌキって。これが本当の捕らぬ狸の皮算用かしら」

 

 こぶしさんは立ち上がった。

 

「中堅戦が始まりますよ」

「あとは二人でお願い。次は、てんちゃんだし、ミスター・グリフィンお願いします」

「わかった」

 

 そのまま禰宜の人と出入り口の方に向かう。

 

「……何があったんでしょうか?」

「事件だろうね」

「そうか」

 

 リングの方に眼を向けると、花道を撥ねるように走ってくる熊埜御堂さんの姿が見えた。

 観客のタヌキたちのブーイング混じりの声援に笑顔で応えている。

 こぶしさんの言う通りに、彼女が中堅の選手なのか。

 つまり、熊埜御堂さんが勝てば退魔巫女側の勝ち。

 負ければようやく〈五尾〉側が一矢を報いることになる。

 かなり重要な役目だけど、どんなタヌキがでてくるのか、僕はちょっとだけ楽しみになっていた。

 そこで、タヌキたちの会話に耳を傾けてみると、

 

『……まさか金長(きんちょう)狸がでてくれるとはな』

『ううむ、あれほどの音に聞こえたタヌキまで呼び出すとは、分福め、どうやら本気のようだぞ』

『それや。江戸前だけでなく、四国の英雄を呼んどるということはそれだけ〈雷獣〉との戦いを見定めているというこったろ。わいらもマジでやらんとあかんやろな』

『てめえも大阪から来ているしな』

 

 どうやら観客は東京のタヌキだけではないようだけど、金長狸ってなんだろう。

 どこかで聞いたことがあるような。

 

「金長というと、阿波狸合戦の主役のタヌキのことですね」

「グリフィンさんは知っているんですか?」

「日本の講談はわりと勉強しました。江戸時代の末期に、四国で行われたタヌキ同士の大喧嘩についての話ですよ」

「はあ……」

「四国はタヌキの本場みたいなものですから、そこから来たとなるとかなり侮れない相手だと思います」

 

 イギリス人の彼よりも日本の知識が足りないというのは普通に悔しい。

 とはいえ、阿波狸合戦だったら映画で聞いたことあるし、アニメの題材になったこともあるはずだから、僕も聞き覚えがあったのだろう。

 金長狸というのは相当名のあるタヌキなんだな。

 まだ経験の浅い熊埜御堂さんに勝ち目はあるか。

 

「……まあ、てんはああ見えても恐ろしいガールですから、心配はいらないと思いますが」

 

 さすが彼女の助手をしているだけあって、余裕がある。

 僕自身、熊埜御堂さんのガチの戦いには接していない分、あまり信用していない面があるのかもしれないけど。

 後楽園ホール内がまたざわめきだす。

 反対側から、ついに噂の金長狸が姿を見せた……のかと思った。

 だが、花道へと控室の入り口から押し寄せてきたのはタヌキたちではなかった。

 黒い毛皮と長くて太い尾を持ったケダモノたちであった。

 全身からバチバチと輝く火花を発しながら、手にした筒のようなものの先端を観客席に向けている。

 手にしている筒のようなものは、背負った四角い箱から伸びたホースと繋がっているのが見えた。

 鉄砲というよりも消防士のパイプのようだと思ったら、確かにその先端から得体のしれない雷状の怪光線を放出して、後楽園ホールの座席とタヌキたちを薙ぎ払った。

 とんでもない威力の攻撃にタヌキたちは慌てて逃げ惑う。

 ケダモノたちは何十匹といる。

 すべてが例の筒と四角い箱を装備していた。

 そして、額から鼻にかけて白い線が入っている。

 一匹のタヌキが叫んだ。

 

喧嘩(でいり)だ!  喧嘩(でいり)だ! ハクビシンどもの殴り込みだ!!』

 

 後楽園ホールはタヌキたちの助けを求める悲鳴と、突然襲撃してきたハクビシンの一党による雷のような怪光線による破壊によって、阿鼻叫喚の地獄絵図へと変じていった……

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第19試合 東京狸合戦・後編
稲妻テロリスト


 

 

 突如、後楽園ホールへと乱入して来たのは、小柄で、顔の部分に白い筋の入った毛を持つケダモノ―――ハクビシンの群れだった。

 手には筒状の道具を持ち、その末端からはチューブのようなものがついていて、背負っている四角い金属製の箱に繋がっている。

 その筒の先から、白く発光する雷に類似した怪光線をだして、ホールに集まったタヌキたちを攻撃していた。

 怪光線の直撃を受けたタヌキはビクビクと震え、目を剥いたまま気絶していく。

 しかも全身からは煙のように焦げた黒い煙を発しながら。

 強い電気を身体に流されたような状態なのだろう。

 ハクビシンたちは全部で十匹前後。

 統率のとれた動きで、筒の先端をタヌキたちに向けつつ、ホールを前後左右に動いて逃げ惑うタヌキたちを襲っている。

 タヌキたちは突然の強襲であったということもあり、ほとんど抵抗もできずに狩り立てられ、雷の犠牲となっていく。

 ほとんどパニック状態になっていた。

 そのため、退魔巫女と〈五尾〉たちの控室へと続く二つの入り口もどん詰まり、彼女たちもすぐに出てくるわけにはいかなかった。

 ハクビシンの部隊によってメインの出入り口が封鎖されている以上、非常口という手もあったが、そちらは鍵がかかっていて開かない。

 先鋒と次鋒の戦いの最中に、ハクビシンの工作員が塞いだ結果だった。

 これは、自分たちと対立するタヌキ族を恐怖のどん底に叩き落そうとするハクビシン族のテロ行為であったのだ。

 雷の怪光線を浴びて、次々と倒れていくタヌキたち。

 どれだけの犠牲がでるかわからないという混沌の状況をとめるために動いたのは、リングの上にいて、唯一自由に立ち回れた熊埜御堂てんであった。

 てんはリングから飛び降りると、そのままハクビシンのところにまで奪取した。

 その途中で、升麻京一とロバート・グリフィンの座っていた実況席からマイクを掠め取る。

 いざとなったら、彼女の得意の〈言霊使い〉をするつもりだった。

 

「いい加減にするですよー!」

 

 万事のんびり気味の彼女にしては、随分と厳しい意志をこめた制止であった。

 背中から雷に撃たれて悶絶している哀れなタヌキたちの屍(まだ死んではいないが)を見て、さすがの彼女もハクビシンたちのやっているテロに対する憎しみが湧いていたのである。

 さっきまでの楽しいイベントがこれでオジャンだ。

 次の試合での出番を楽しみにしていたてんにとっては、こんなものは許せるものではない。

 ハクビシンの狙いはそこにあるのだろうが、そんなことは彼女には関係ない。

 このうっとおしいケダモノたちを残らず排除してやると、すでに内心で決定していた。

 

「これ以上の乱暴狼藉は、このてんちゃんが許さない!」

 

 てんは、実況用のマイクを握った。

 彼女のマイク・パフォーマンスを装った〈言霊使い〉は、たとえ相手が妖怪であろうとしても通用する。

 これでならば多数の相手を洗脳状態に陥とせるからだ。

 だが、彼女がマイクを口に当てた瞬間、

 

「だめよ、てんちゃん! ハクビシン族と〈社務所〉はまだ協定も宣戦布告もしていないの! ここで戦っちゃ駄目よ!」

 

 タヌキたちの避難誘導をしていたこぶしが、てんの動きに気づいて叫んだ。

 ただの妖怪と違って、動物系の妖怪たちは種族として存在し、中には人の守護を勤める〈社務所〉と協定を結んでいる。

 今回の妖狸族との関係がよい例と言えるだろう。

 人と共生を望む種族とは、不可侵協定を結んだり、場合によっては条約を締結したりして、秩序の安定を図るのである。

 ハクビシン族は外来種ではあるが、江戸時代末期には日本に流れ着いており、妖怪となった現在においては一定数を確保している。

 そのため、〈社務所〉としてはハクビシンと事を構えるのはまだ時期尚早と考えていて、タヌキたちとは別に接触を計っていたのだ。

 ゆえに、こぶしはてんに自重を命じた。

 ハクビシンとはまだことを構えるな、と。

 

「そんなのないですよー!!」

 

 もし、彼女が〈言霊使い〉を使ったら、その時点で〈社務所〉の退魔巫女が手を出したものとみなされるかもしれない。

 そうなったら、ハクビシン族はタヌキに続いて、人間たちにも危害を加えるという正当性を主張するおそれがある。

 そうなった場合、全面戦争だ。

 さすがにそれは避けたい。

 一瞬のためらいが、ハクビシンが筒先を向けてはなった怪光線からの回避を遅らせた。

 手にしていたマイクに当たり、爆発する。

 生物を気絶させるだけの威力を持つ稲妻なのだ。

 金属部品を多数使用しているマイクを破壊するなど容易なことだったのだろう。

 

「うわっ、熱いです!!」

 

 爆発したことによる破片が肌に当たり、てんはよろめいた。

 再び、彼女目掛けてハクビシンの怪光線が放たれる。

 今度は左に飛んで避けられたが、続く追撃からは逃れられない。

 

「しまった……!!」

 

 全身に渡る衝撃的な痛みと、眼の奥がチカチカする。

 典型的な感電の症状だった。

 意識はあるが、舌先まで震えてしまい、何も口に出せなくなった。

 瘧にでもかかったかのように痙攣が止まらない。

 タヌキたちを仕留めた電気の力が、今度はてんを動けなくさせたのである。

 まずい。

 てんは内心で舌打ちをする。

 ハクビシンたちを止めるには、退魔巫女の先輩達の力が必要なのだが、彼女たちは現在、こちらにやってこられそうもない。

 このままでは、罪のない観客のタヌキたちが無残なテロの標的のまま傷ついてしまう。

 だが、もう自分は動けそうにない。

 

(くそっ、くそっ、くそっ!!)

 

 てんは必死に四肢に力を込めた。

 

(立てよ、あたし! 戦うぞ、あたし! てんちゃんは退魔の巫女なんだぞ! 退魔巫女が罪のないものを守らずどうするっていうんだ! 立って、戦え、てんちゃん!!)

 

 これ以上の被害を出させるわけにはいかないんだ!

 だが、彼女は立ち上がることも指一本動かすこともできなかった。

 雷をだす道具をもったまま、ハクビシンたちは残ったタヌキたちを片づけんと蠢動しはじめる。

 このままでは……

 てんが歯噛みせんばかりに自分を呪ったとき、

 

『―――おんしら、いい加減にしときな、コラ』

 

 彼女を庇うかのように立ち塞がる影があった。

 タヌキだった。

 体格はそれほど大きくはない。

 レイ、藍色が戦ったものたちに比べれば小兵といえた。

 しかし、サイズと比較しても肩幅が広く、分厚い胸板を持っていることはわかる。

 タヌキは手にした瓢から、何かを飲み干して言った。

 

『おんしゃあら、さっさといね! ほいたら、許しちゃるぜよ。このべこのかあもんが』

 

 訛りがきつすぎて、正確には聞き取れなかったが、てんにはその意味だけはわかった。

 このタヌキは動けない彼女助けようとしているのだ、と。

 

『おおおお、金長狸だ!』

『正一位!!』

『待ってました、金長の旦那!!』

 

 逃げ遅れて蹲っていたタヌキたちまでが、このタヌキの存在に気づいて喝采を送り始めた。

 この肩幅が矢鱈とあるだけが特徴の小兵のタヌキを、同胞たちはまるで救世主のように見つめていた。

 叫んでいた。

 てんは、こいつがあたしの対戦相手だったっけ、と思い出していた。

 

 金長狸。

 

 四国に生きるタヌキどころか、全国のタヌキの英雄的存在。

 日本三大狸といえば、絶対にその名前が挙げられるであろう伝説のタヌキが無法な闖入者に立ちはだかる。

 

 だが、彼の忠告にも関わらず去ろうとはしないハクビシン一党を怒りに満ちた双眸で見据え、さらに無残にやられた仲間たちを痛ましげに見つめた。

 金長狸は鷹揚で懐の深いオスではあり、

 

『おんしら、許さんぜよ……』

 

 と、啖呵を切ったのであった。

 

 

 

 

 

 



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四国の英雄狸

 

 

 僕たちは実況席のあるテーブルの下に避難していた。

 逃げ出そうにもタヌキたちで足の踏み場のない会場内は、とてもごちゃごちゃしていてどうにも成功しそうにないからだ。

 だったら、我慢して襲撃して来たハクビシン一党の動きを見極めた方がいいと判断した。

 ぶっちゃけた話、テロリストに襲われたらどう対処すればいいかの問題でもある。

 ところで、僕も意外と妄想癖があって、学校の授業中にテロリストがやってきて、自分が大活躍するというシチュエーションはよく考えていた。

 相手は十人前後の統率のとれた集団。

 サブ・マシンガンと手榴弾で武装し、侵入する前から各要所にプラスチック爆弾を仕掛けて、クラスの全員を人質にとられてしまう。

 僕はというと、珍しく遅刻してしまったせいで、人質にはされなかったが、ただ一人でテロの陰謀と戦わなければならないのだ。

 くー、燃える。

 もちろん、人質には学校一の美少女がいたりして、その子のために大活躍だ。

 ロマンスもバッチリだね。

 まあ、現実というものはそう都合よく進むものでもなく、僕は全身包帯巻きの外国人の大男と肩を寄せ合って、ケダモノのテロリストの恐怖に震えているんだけど……。

 

「てん、無茶だ!!」

 

 グリフィンさんの叫びはハクビシンと向き合った熊埜御堂さんには届かず、次の瞬間には、彼女は白色の怪光線を身に受けて昏倒してしまう。

 まともに戦えば、先日まで見習いではあったとはいえ彼女が手も足も出ずに負けるなんてことはありえない。

 熊埜御堂さんの敗因は、タヌキたちの避難誘導をしていたこぶしさんが言った一言のせいだろう。

 つまり、タヌキ族と違い、退魔巫女はまだハクビシンと事を構えてはいけない段階なのだろう。

政治的な意味なのか、霊的な意味なのかはさておき。

 だから、十分な戦闘力を有するはずのこぶしさんが迎撃に出なかったのだ。

 同じことは、〈社務所〉に属する退魔巫女の御子内さんたちにいえる。

 要するにハクビシンがどんなに暴虐を働こうが、僕たちは何もできないということだった。

 立ち向かうことができる権利を有するのは、すでに喧嘩を始めているタヌキ族だけなのである。

 ハクビシンの怪光線を受けた熊埜御堂さんを救い出そうと、僕は隣のグリフィンさんと目でサインを送り合う。

 彼も同じ気持ちであったらしい。

 一度だけの合図で通じた。

 頷きと同時に飛び出した。

 倒れた熊埜御堂さんの向こうにはハクビシンが群れを成していて危険ではあるが、実際に倒れた彼女を放っておくことなんてできない。

 危険を承知で突っ込むしかないのだ。

 

『―――おんしら、いい加減にしときな、コラ』

 

 だが、その前にハクビシンたちと熊埜御堂さんの間に小兵のタヌキが一匹立ち塞がった。

 狭いところを移動しにくそうなぐらいに肩幅が広く、分厚い胸板を持っていることから、他とは印象が違う。

 しかも、和風の着流し姿で、肩をはだけて懐手にした()()()な格好をしていた。

 腰の帯には古くてボロボロの和傘を指していた。

何やら液体の入った瓢の口につけつつ、そのタヌキはハクビシンに啖呵を切った。

 

『おんしら、許さんぜよ……』

 

 そのタヌキへ目掛けて、ハクビシンたちの持つ道具の筒先が向けられる。

 最初は訳が分からない攻撃としか見えなかったが、冷静になってみると一目瞭然な武器であった。

 ハクビシンが背中に担いでいる四角い箱の脇によく見るとレバーのようなものがついていて、後方に回った一匹が回転させると、一瞬だけ輝き、繋がっているチューブを伝わって光源が移り、そして筒によって照準が定められて発射されるというシステムのようだ。

 発射された怪光線の見た目からして、エネルギーはおそらく電気。

 制御しづらい生の電気を放出するために、あんな稲妻のような白い怪光線めいた輝きに見えるのだろう。

 棒状となった電気に命中した無機物は弾け飛び、有機物―――つまりタヌキと熊埜御堂さんは感電して動けなくなった。

 命中せずに掠っただけでも感電して麻痺してしまうという恐ろしい武器であった。

 しかも、射線がわからない。

 筒先から良ければいいというものではない恐ろしい武器であった。

 それなのに、熊埜御堂さんを庇った小兵のタヌキは動じない。

 稲光が煌めいたと見えたと同時に、タヌキが和傘を開いて陰に隠れると、稲妻はすべて跳ね返され、周囲の椅子などを無作為に吹き飛ばす。

 焦げた煙は発していたが、和傘が壊れることはなく、完全に被害を免れているようであった。

 

『わやにすな!!』

 

 タヌキが叫んで左手を振ると、そこから放たれたビー玉らしいガラス製の品がハクビシンたち目掛けて飛んでいく。

 

『ぐぴゃあ!!』

 

 何匹かがまともに命中したのか、悲鳴と共に床に二匹が倒れた。

 見た目の麗しさと比べものにならない威力を有しているようである。

 しかし、わやにすなってどういう意味だ?

 タヌキ語かな?

 でも、聞き覚えがあるようなないような……

 

『―――バカにするな、という意味じゃな』

 

 ぎょっとして振り向く。

 いつの間にか、僕らの背後にまたも巨大なタヌキが座っていた。

お祭りの法被のような服をひもで縛っていて、手には竹刀のような煙管を握り、紫煙を燻らせている。

 大きなくりっとした瞳とザクザクした剛毛、耳まで裂けた赤い口はまさにタヌキそのものなのだが、明らかに表情には人間と似たものがあった。

 ぶは。

 僕たちの顔面に煙管から産みだされた煙が吹き付けられた。

 思わず咳込んでしまう。

 

「な、なにをするんですか!」

「何をする!!」

 

 僕らの戸惑いを無視して、この巨大なタヌキは無言で顎をしゃくって、前を見ろと傲然と告げた。

 なんとなく逆らえないものを感じて、僕らは前を向いた。

 タヌキに命令させて従うというのはちょっとだけ心外ではあったが。

 開いたままの和傘の柄を背負い、着流しのタヌキは懐から何やら取り出していた。

 

 シュルルルル シュルルルル 

 

 と、タヌキの手の中から何度も上下する物体が見えた。

 なんだろう、あれは。

 僕の記憶ではああいう動きをするものは一つしか記憶にないんだけど……。

 

「なんだ、あれハ?」

「―――もしかして……」

『フォフォフォ、あれを使うかよ、金長狸め。さすがは四国で最強のオスだ』

 

 あの着流しが、金長タヌキなのか。

 本来〈五尾〉の中堅として熊埜御堂さんと戦う予定だった相手だ。

 四国で最強ということは、あの訛りのある方言は―――土佐弁か?

 以前、大河ドラマで聞いた覚えがあるのも当然だろう。

 坂本龍馬で有名な高知の方言だ。

 

「でも、どうして?」

『見ておるが良い、人間め。やつこそワシらタヌキの英雄・金長の血を引くタヌキなのじゃ』

 

 この巨漢のタヌキにとっては何よりも誇らしい同胞なのだろう。

 彼を語る言葉に重みと喜びがある。

 

『たかがハクビシンなど、やつがいれば心配はいらぬ』

 

 それほどの高い評価を受けるタヌキの実力に興味をそそられた。

 ビー玉で二匹ほど倒したとはいえ、ハクビシンの数はまだまだ多く、そして電気を発する飛び道具を装備している。

 たった一匹で何ができるのか。

 

『ちったぁ抵抗せえや!!』

 

 今度のターンは金長狸から仕掛けていくことになりそうであった。

 

 



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タヌキVSハクビシン

 

 

 阿波狸合戦(あわたぬきがっせん)は、江戸時代末期に阿波国(現代の徳島県)で行われたタヌキによる大戦争の伝説のことをいう。

別名、金長狸合戦(きんちょうたぬきがっせん)とも称されていて、全国の相当数存在するタヌキにまつわるエピソードの中でも特に有名なものであり、その主役を務める金長狸は、太三郎狸(たさぶろうたぬき)隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)に並んで知名度が高い。

天保年間に、小松島の日開野において、茂右衛門という男が大和屋という染物屋を営んでいた。

茂右衛門が街道を歩いていると、近所の者に虐められているタヌキを見つけ、義侠心から思わず助けに入ってしまう。

それからしばらくして、大和屋の扱う仕事が異常なほどに増え始め、またたくまに大店といってほどに繁盛する。

主人の茂右衛門でさえ首をひねっていると、店に務める万吉というが実はタヌキであり、金長(きんちょう)という、206歳になる妖狸族だというのだ。

かつて助けてもらったお礼にと、万吉=金長は、大和屋の客の病気を治したり、占いをしたりと大活躍していたのである。

正体を知ったのちも、茂右衛門は万吉=金長を店に置くことを許した。

金長は茂右衛門への恩がまたできたといって、甲斐甲斐しく働き続けたが、しばらくして、まだタヌキとしての位を持たないことから、津田にいるタヌキの総大将である六右衛門(ろくえもん)のもとに修行に出ることになった。

茂右衛門は金長を快く送り出した。

六右衛門の指導の下、金長は修行で抜群の成績を収め、念願のタヌキ世界における正一位を得る寸前まで至ったが、彼としてはそろそろ主人である茂右衛門のところに帰りたくなっていた。

だが、六右衛門は才能のある金長を手放すことを惜しみ、娘の婿養子として手元に留めようとする。

しかし金長は主人である茂右衛門への義理に加え、やはり畜生であり残虐な性格の持ち主の六右衛門を嫌っていたので、これを拒んでしまう。

拒否されたことに腹を立てた六右衛門は、金長が将来的に自分の敵になる前に始末してしまおうと考え、舎弟たちとともに金長に不意打ちした。

襲われた金長は、ともに日開野から来ていたタヌキである「藤ノ木寺の鷹」とともに抵抗したが、仲間の鷹は戦死し、金長のみがなんとか日開野へ逃れることに成功する。

日開野において金長は、鷹の仇討ちのため同志を募集し、六右衛門たちに匹敵するタヌキを揃えると再度戦いを挑んだ。

この戦いのために、六右衛門へ攻め込む金長の軍が鎮守の森に勢揃いすると、人々が日暮れに森へ見物に押しかけたところ、夜ふけになると何かがひしめき合う音が響き、翌朝には無数のタヌキの足跡が残されていたという。

この戦いでは金長の軍が勝利して、六右衛門は金長自身によって食い殺される。

しかし、金長も戦いで深手を負い、まもなく命を落としてしまう結果になった。

彼の死を知った主人である茂右衛門は、正一位を得る前に命を落とし、自分のところへ戻ろうとした金長を憐み、自ら京都の吉田神祇管領所へ出向くと、正一位を授かって大和屋の蔵の一つに保管されているという。

 

 ……これがあとで僕が知った、金長狸のご先祖様の有名な勲《いさおし》だった。

 今、テロリストのごとく筒先から怪光線じみた電気の奔流を発し、後楽園ホールで暴れ回るハクビシンたちと、戦うことができずに背中を見せて逃げ惑う同胞、そして昏倒した熊埜御堂さんの間に立ち塞がったのは、この阿波狸合戦の時に戦死した金長の孫にあたるらしい。

 要するに、三代目金長なのである。

 まだ逃げ遅れていたタヌキを庇うように、じりじりと金長狸はベタ足で動いた。

 ハクビシンたちも、すでに徒に暴れることを止めていた。

 なぜなら、彼らの前にでてきた異常なまでの風格を持つタヌキに気圧されたからである。

 左前肢に和傘を背負った着流しのタヌキは、泰然自若とした雰囲気のまま、ハクビシンたちの奇怪な道具の前に身を晒しているのだ。

 並大抵の度胸ではないし、さきほどのビー玉を投げて二匹を仕留めた技量にも凄まじいものがあった。

 よそ見をしながら勝てる相手ではないと踏んだのだろう。

 

『そろそろいくぜよ!』

 

 金長狸は着物の肩肌を脱いで右肩を晒すと、前肢にした武器を敵目掛けて投げつけた。

 野球の硬球ぐらいの大きさの金属の武器は一匹のハクビシンの眉間に命中し、ただの一撃でそいつを気絶させた。

 仲間の仇を討たんと、残りのハクビシンたちが怪光線を発する。

 剥き出しの電気であるため、命中精度が悪いことはすでにわかっているが、放出される電流のために近くに当たっただけで感電を余儀なくされるという厄介な武器だ。

 完全に避けるためには、かなりの余裕が必要となる。

 だが、金長狸は開いた和傘の影に隠れるだけでやりすごす。

 傘が避雷針の役割を果たしているのか、それとも摩訶不思議な力を持っているのかはわからないが、何発も命中したとしてもびくともしない。

 埒が明かないと見たのか、金長狸は宙に跳びあがった。

 信じられないほどの跳躍力を用いて、天井スレスレ、リングを照らす照明器具あたりまで行くと、今度は和傘を落下傘のようにしてブレーキをかけながら降りてくる。

 まるでメリー・ポピンズだ。

 もっとも、タヌキなので股間の大きい玉がぶらぶらしていてちょっと噴飯ものではある。

 金長狸が音もなく落下したのは、ハクビシンたちの陣のど真ん中。

 鮮やかな奇襲攻撃である。

 右前肢を振るうと、先ほどの武器が円を描いて、ハクビシンたちを薙ぎ倒した。

 いつの間にか彼の手中に戻っていたのだ。

 いや、戻ってきて当然だろう。

 なんといっても、あの武器には紐がついていて、持ち主の手から離れても回転する度に帰ってくる原理を有するのだから。

 しかも、本体の方は硬すぎる金属製。

 ぶつかったら鈍器にやられたのに等しいダメージを喰らってしまう。

 もっとも、僕の知るそれ自体は普通なら紐の長さは一メートル前後だけど、金長狸のものは二十メートルぐらいあるだろうし、それを自在に操れるのは妖怪の秘儀だと思うけどね。

 武器として使うのは人間では難しすぎるからだけど、妖怪である妖狸族にとっては問題ではないのかも。

 

「Oh……あれはヨーヨーではないか!?」

「あれ、グリフィンさんもわかるの?」

「何を言っているんだ!? ヨーヨーは古代ギリシアで発明されて、我が祖国にも伝わってきた由緒ただしいおもちゃだよ! それをこんな極東の島国の動物が使うなんて……ファンタスティックだ!」

 

 へー、そうなんだ。

 僕は金長狸が武器として使っているヨーヨーにそんな機嫌があるとは知らなかった。

 ヨーヨーとは二つの円盤を短軸で連ね、(アクセル)に紐を巻きつけた形状をした玩具である。

遊ぶ際は紐の一端に輪を作り、そこに指を通して円盤の部分を上下させて使う。

 紐の先端は円盤の間の軸に固定されていて、軸に紐を巻き付けてから、ヨーヨーを下に落とせば、紐がほぐれて、ヨーヨーは回転しながら落ちる。

紐が伸びきるまで落ちると、ヨーヨーは慣性で回転を続けようとするため、今度は反対向きにひもを巻き込んでよじ登ってきて、持ち主の手中に収まる。

これが簡単な仕組みだ。

だが、金長狸が使うと危険すぎる射程距離を有する武器に変わる。

それを自分たちの身体で体験したのはハクビシンたちだった。

仲間がいるために電気の怪光線を放てず、仕方なく噛みつこうとするが、狭い中で振り回される金属のヨーヨーの打撃を受けて倒れていく。

紐がついているとは思えない自由自在な操作ぶりだった。

ヨーヨーというよりも、ヌンチャク? 

そんな感じだ。

ほとんどあっという間に、五匹のハクビシンがやられて床に倒れていく。

強い。

それが僕の感想だった。

御子内さんたち退魔巫女とは完全スタイルが違うし、夢魔の世界での戦いのように見えるけれど、その圧倒的な戦闘能力はわかる。

争っている二種類の動物同士のものというよりも、バケモノたちが血で血を洗う戦いを繰り広げているだけなのに。

この段階になって、僕は初めて〈五尾〉と呼ばれるタヌキたちの恐ろしさを実感した。

 

『キシャアアアアア!!』

 

 ハクビシンたちは散開した。

 このままではやられると見たのだろう。

 しかし、もう遅い。

 あと四匹しか残っていない。

 そのうちの一匹は音もたてずに追跡した金長狸の後ろ肢に蹴られて悶絶した。

 あまりにも素早いヤクザキックだった。

 残りの三匹は一か所に集まった。

 数で勝負する気かと思ったが、それは間違いだった。

 ハクビシンたちは奇妙な行動を取る。

 自分たちの前肢に持つ武器の筒先を合わせ始めたのだ。

 

「何をする気だ?」

「さあ……」

 

 僕にもわからなかった。

 だが、その揃えた三つの先端から発せられた電気の怪光線が絡まり合い、河の奔流から怒涛にまで爆発的にアップしたことでその意図が理解できた。

 ハクビシンたちは一本の怪光線だけでは和傘ではじき返されてしまうことを悟り、三本をかけ合わせることで破壊力を増すことを決めたのだ。

 それは同時に諸刃の刃でもある。

 ただでさえ狙い(エイム)がつけられない武器だというのに、収束するための反動と震動によって制御が困難になりすぎてしまうのだ。

 バババババ

 と、観客席を薙ぎ倒す勢いで、三条が一条となった電気の怪光線が後楽園ホールを蹂躙していく。

 あまりに制御できないせいか、今度も和傘に隠れた金長狸が動けない有様であった。

 そのうちに一回だけ、隠れている僕らの元に来たが、

 

『どおれ!!』

 

 のっそりと動いた後ろのタヌキさんが弾き飛ばしてくれて、運よく助かった。

 

「すいません!!」

「なーに、気にするな。ワシの身を守るついでじゃ」

 

 荒れ狂う雷の被害が最高潮に達しようとした時、ようやく金長狸が動いた。

 和傘をまるで馬上槍(ランス)のように小脇に抱えて、突進を始めたのだ。

 

『おおおお! ちゃちゃちゃちゃーーー!!』

 

 土地弁丸出しの金長狸が突っ込んだ。

 近づいたらさすがに照準も合わせやすい。

 三条の電気が和傘を吹き飛ばした。

 防御するものがなくなった金長狸を電撃の奔流が襲う。

 しかし、その瞬間、

 

 ぽい

 

 金長狸は武器のヨーヨーを投げ捨てた。

 何故か、彼ではなくヨーヨー目掛けて怪光線が流れる。

 避雷針代わりなのか?

 僕がそう考えたときには、金長狸の飛び出たお腹ごとのボディプレスが二匹のハクビシンたちを押しつぶしていた。

 最後の一匹はおおきなキンタマの一つの餌食となっている。

 再び、金長狸が立ち上がった時、彼同様に戦闘続行なハクビシンは一匹も存在してはいなかった。

右肢をたててガッツポーズをする金長狸を、戦いを見つめていたタヌキたちが喝采をもって讃えたのは言うまでもないことである……。

 

  

 

 

 

 

 

 



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戦いは佳境に至る

 

 

 襲撃して来たハクビシンが、金長狸によって制圧されたことがわかると、ホールの入り口に陣取っていたとみられる多数のタヌキたちが突入してきた。

 瞬く間に、気絶をしたり痛みで動けなくなっているハクビシンたちを拘束し、縄で縛りあげていく。

 タヌキの前肢は犬や猫のものと違って、ものを掴むことができる形をしているということもあり、その行動はスムーズにいっていた。

 例の電気を発する道具によってやられたタヌキたちを肩に担いで運び出す作業と、破壊された後楽園ホールのスタンド席を検証する作業の二つも同時に進行している。

 このあたり、タヌキたちの文化が僕たち人間のものとよく似ていることがわかる。

 素早く組織だった行動を迅速に執ることができるようだ。

 僕とグリフィンさんは、電気の怪光線を受けて昏倒してしまっている熊埜御堂さんの脇にいって、彼女を助け起こした。

 

「しっかりしろ、てん」

「大丈夫、熊埜御堂さん」

 

 どうやら気絶はしていなかったらしく、しっかりとした眼差しは健在であった。

 とはいえ、四肢の先まで痺れているのかがっくりと動かないままだ。

 口はわずかに開閉できるみたいだけど、本来ならば呼吸するのがやっとという状態のようである。

 

『おんしゃあ、大丈夫かえ?』

 

 いつのまにかすぐ傍にいた金長狸までが心配そうに覗きこんでいた。

 

「き、金長さんで……すか?」

『やったら悪いかや?』

「いいえ。僕の友達を助けてくださってありがとうございます」

「私からもお礼を言わせてください」

 

 僕らはこの土佐出身の英雄タヌキに深々と頭を下げた。

 それだけのことをしてもらったと思うからだ。

 だが、金長狸自身は前肢をひらひらと振って、

 

『気ぃすんなや。この巫女がわしの同胞のために戦おうとしてくれたけん、そのお返しをしただけぜよ』

「それでもお礼はしないと」

『あんなのたすいこんぜよ。やき気ぃすんな』

 

 話してみるとかなり気さくな性格のタヌキらしい。

 見た目は動物そのものなのに、普通に人間と会話をしているような気になる。

 

『ワシが最初に江戸まで昇って来たときは、梅太郎と一緒だったんちゃ。そんときゃ、江戸の町にゃあ、おまんみてえなまっこと凄か武人がおおけえいたぜよ。……ワシの同胞を守るために身体張ってくれたこたあ、忘れっとよ』

 

 どうやら、金長狸はハクビシンからタヌキを守ろうと一歩踏み出した熊埜御堂さんの漢気のようなものに感銘を受けているらしい。

 確かに、あのときの熊埜御堂さんは聖女のごとき神々しさがあったのは間違いない。

 でも、梅太郎って……

 才谷梅太郎のことだろうか。

 妖怪は長生きするものだから、時の感覚が僕らとは噛み合わないんだよね。 

 

『……とはいえ、こうなると中堅戦は没収試合となるのか』

 

 さっきまで僕たちの隣にいた老タヌキが言う。

 あ、そういえば二人はこの対抗戦の選手だったっけ。

 すると、さっきまで避難誘導の指示をしていたこぶしさんがやって来て、

 

「いえ、うちの熊埜御堂がもう動けず、今の事態の打開さえも金長狸さんにやられてしまった後となっては、こちらの負けということで済ますしかないでしょう。……それでいいわね、てんちゃん」

 

 こぶしさんのキツイ言葉に、グリフィンさんの腕の中でぐったりとしている熊埜御堂さんがかすかに頷く。

 唇を尖らせてかなり不満気だ。

 だが、自分自身がもう戦える状態でないことを悟っているのか、潔く負けを認めるのは、いかにも彼女らしい。

 

「というわけで、中堅戦は江戸前の〈五尾〉の勝利ということでお願いします」

『金長狸もそれでいいか?』

 

 ぶら下げていた瓢の中身をごぶごぶと飲んでいた金長狸は、特に関心もなさそうに「わかったぜよ」と頷いた。

 

「すると、勝敗は二勝一敗となる訳か。とはいえ、あと一勝すればいいのだから、巫女たちの方が有利ということは変わらないな」

「うん、そうですね」

『なんだと?』

 

 ギロリと睨まれた。

 老タヌキからしてみると、勝ち星を先行されているということがかなり屈辱的なことなのだろう。

 自分たちの代表の〈五尾〉の実力を過信しているという訳ではなさそうだし(実際、金長狸を初めとして強さは折り紙付きだった)、想定外の進行に焦っているのかもしれない。

 

「……でも、後楽園ホールがこんな有様では、もう試合はできないんじゃないですか?」

『リングは無事に残っておる』

「確かに……」

 

 ハクビシンによって荒らされて、椅子やら天井の照明やらが破壊されたのは、入り口付近から北側にかけてだけだ。

 そこ以外は、熊埜御堂さんと金長狸の活躍で守られている。

 

「―――じゃあ、もう色々と時間も押しているし、さっさと決着をつけてしまおうか。……二対二のタッグマッチでどうかな」

 

 聞き慣れた女の子の声がした。

 僕たちと老タヌキ、金長狸などの視線が交わった先に、二人の改造巫女装束の少女が立っていた。

 

「次の試合に勝った方が親の総取り。……ってので行こうよ。まさか、そっちにとっても有利な条件なんだから怖気づいたりはしないよね」

『ぬかしたな、小娘。ワシらの用意した〈五尾〉の副将と大将は、今までのタヌキたち同様、音に聞こえたタヌキの英雄揃いだぞ』

「むしろ、望むところだよ」

 

 上方から己を見据える老タヌキに対して、御子内さんは真っ向から睨み返した。

 この古狸の纏う重々しい風格に一切怯みもせずに、御子内或子はいつものように傲然と構えている。

 戦いにおいてならば、ボクに一切の敗北はないとでも言うがごとく。

 いや、事実、その通りなのだろう。

 御子内さんはそういう女なのだ。

 

『いいだろう、小娘。二対二の戦いという提案を受けてやる。リングに上がれ』

「そうこなくっちゃ」

 

 今回の相棒となる音子さんを促がして、小鳥のように軽やかに御子内さんはリングへと向かった。

 彼女を待つのは、最強のタヌキ軍団の最後の二人。

 その結果がどうなるか、僕どころか、神さまでさえも予想はできないだろう……。

 

 

 

 

 

 

 

 



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〈五尾〉、最後の二匹

 

 

 タヌキの観客は、さっきまでの半分程度に減っていた。

 ハクビシンの襲撃から逃げ出して帰ってこなかったものたちと、あの怪光線めいた電撃を受けて、別室や動物病院に運び込まれてしまったものがいるからだ。

 すべてのハクビシンが制圧されたとはいえ、まだ襲撃されたことに対する傷跡が残っている中であるから、後楽園ホールの雰囲気は沈んでいる。

 退魔巫女にとって完全アウェーとはいえ、それなりにアットホームな空気に包まれていた会場が完璧にお通夜の席のようになっていた。

 こちらに何の落ち度もないのに、ある意味でたたまれない状態のまま、御子内さんと音子さんは青のコーナーポストに陣を作って、反対側に江戸前タヌキの代表である〈五尾〉の最後の二匹の登場を待っていた。

 いつものように表情のわからない覆面を被った音子さんも、じっとしていられないのか、ロープを掴んだウォーミングアップを続けていた。

 あの覆面の下には、美人揃いの退魔巫女でも屈指の美貌が隠されていると思うと相変わらず何とも言えないおかしな気持ちになる。

 最近始めたらしいインスタグラムでは、ただの一般人というプロフィールなのに十万人のフォロワーがいるというのが凄い。

 一方、僕の御子内さんはコーナーにもたれかかったまま、身じろぎ一つしないで、相手側の入場口を凝視していた。

 何か、マジシャンの華麗な舞台のタネを見破ろうとしている熱心な観客のように。

 しばらくして、タヌキたちがざわめきだした。

 自ずと視線が一か所に集中する。

 そこには照明の逆光によってスポットを浴びた二匹のタヌキの影があった。

 そして、低めのテノールのイケボによる浪曲が聞こえはじめる。

 

 

 はあ~ この日ノ本はタヌキの国

 はあ~ この国の季節の変化はタヌキのため

 はあ~ この国の芝居はタヌキを楽しませる

 はあ~ この幻はタヌキの芸事

 人間見つけて 驚かせ ちびらせ 逃げ出させ

 オイラがタヌキの笑いの興行の始まりだ

 きたぜ きたぜ 芝右衛門狸(しばえもんたぬき)

 くるぜ くるぜ 分福茶釜(ぶんぷくちゃがま)

 日ノ本タヌキの誉れの二匹

 

 

 いや、これは浪曲というよりは音頭だ。

 この声に導かれるように軽快な三味線の調べや和太鼓の響き、観客タヌキたちの合いの手が挟み込まれていくからだ。

「音頭をとる」という言葉の意味そのままに、独唱者のあとに続いて合唱が始まる形式は、まさに「タヌキ音頭」と呼ぶべきものといえるだろう。

 歌っているのは、〈五尾〉のタヌキの一匹であった。

 前肢でマイクを握り、観客の喝采に応えながら、にこやかにリング目掛けてやってくる様子はまるで人気者の歌手だ。

 時折、でっぷりとした腹を叩いて、笑いを誘っているぐらいの余裕がある。

 あと、他のタヌキと違って、黒い革製だと思われるパンツを履いていることがとてもユーモラスだ。

 タヌキたちは信楽焼きの像と同様に、あまりに大きなフグリをもつことから、ほとんど急所は剥き出しのままで放っておくものが多い中で、わざわざ下着を履いているという点が笑いを誘う。

 一言で言い表すならば、海パン一丁というところだろうか。

 それ以外は何も身に着けていないのも、これまでのタヌキたちと違う。

 歌っている音頭の意味は不明だが、おそらく自分たちのことを即興で歌詞にしているものと想像がつく。

 相棒の タヌキが茶釜のようなものから両前後肢を出していることから、おそらく「分福茶釜」だとわかるので、この唄う陽気な方が芝右衛門狸(しばえもんたぬき)なのだろう。

 実際、観客席からは、

 

『芝右衛門狸―――!!』

『よっ、化学(バケガク)の泰斗!! 芝居の神さま!!』

『おめえなら勝てるぞー!!』

 

 などという悲鳴にも似た歓声が届いてくる。

 相当人気があるらしい。

 さっきの金長狸に勝るとも劣らない人気っぷりだ。

 でも、僕はこの芝右衛門狸のことを知らなかった。

 そんなに人気のあるタヌキなのかと、日本人の僕よりも神話・伝承に詳しそうなグリフィンさんに聞こうとすると、なんといつのまにか僕たちについて実況席の解説席に座り込んでいたさっきの古ダヌキが答える。

 二回戦までのこぶしさんの席を、まるで元々自分の居場所であったかのように堂々と振舞えるのはある意味で凄い。

 胆が据わりすぎでしょ。

 

『芝右衛門狸は、兵庫県淡路島の名のあるタヌキよ。いや、日ノ本全体を見渡しても、時に三大狸の一角に挙げられることもある、まあ英雄タヌキだな』

「そう……なんですか」

『おおよ。淡路の三熊山に女房のお増とともに暮らし、時折、芝居を観るために人里に降りてくるが、そのあまりの自由自在の変化の術をもって、人間の役者どもからも芝居の神と認定されるほどの大タヌキだ』

「変化の術―――というのは、例の幻法(げんぽう)というものですか?」

『おうよ。関西から西では化学(ばけがく)というらしいが、関東のモンは幻法というな。かくいうワシも幻法は得意じゃ』

「つまり、あの芝右衛門狸はそのめくらましの使い手なんでしょうか?」

『奴が相棒にしているワシの孫もじゃがな』

 

 僕はもう一匹を見た。

 こっちは海パン一丁の芝右衛門狸とは違い、なんと全身が黒い南部鉄のような金属でできた茶釜で覆われていた。

 茶釜とは、茶道に使用する茶道具の一種で、お茶の席で使用するお湯を沸かすための釜のことだけど、そこからタヌキの四肢がひょっこり飛び出している姿は妙に滑稽だ。

 歩く姿もややぎくしゃくしていて面白い。

 だけど、今、この古ダヌキは「孫」って言ったよね。

 あの〈五尾〉の一匹は僕の貧弱な知識でもわかる、分福茶釜のタヌキなんだろうけど、するとこの古ダヌキもそうなのか。

 

「あの、あなたが分福茶釜のモデルなんでしょうか?」

『モデルとかじゃねえな。ワシ自身が、上州の茂林寺で守鶴和尚に悪さをした罰として、茶釜に閉じ込められたタヌキよ』

「おお」

 

 グリフィンさんが眼を丸くしていた。

 この古ダヌキの言葉を信じるならば、分福茶釜伝説の生き証人であるからだろう。

 

「それがどうして、江戸―――東京でタヌキの元締めをしていらっしゃるんですか?」

『なに、ワシを助けてくれた古道具屋とともに江戸まで巡業に来てな。そのまま居座っただけよ。稼ぐのには都の方が儲かるし、当時から江戸には妖狸族がたくさんおったからの。じゃから、目白のあたりに巣を作って腰を落ち着けることに決めたのよ』

 

 なるほど、分福茶釜伝説では、最後に古道具屋がタヌキを元の姿に戻す方法を模索するも、タヌキは化けたままで居続けた疲れから病にかかり、古道具屋の看病も虚しく元に戻れないまま死んでしまうという結末もあるのだが、とりあえず死なずに済んだものらしい。

 ちょっとだけ安心した。

 芝右衛門狸についで、ロープをまたいでリングにあがった分福茶釜のタヌキが、この古ダヌキの孫というのならば、祖父同様、変化の術に優れたタヌキなのだろう。

 御子内さん、油断は禁物だよ。

 

『ワシらは、この日ノ本の全タヌキの代表として、おまえたちに勝ぁぁぁぁぁぁつ!!』

 

 音頭を唄い終わってもマイクを手放さずに、芝右衛門狸は叫んだ。

 しかも、ご丁寧にマイクを投げつけた。

 それを怯みもせずに受け取ると、今度は御子内さんがパフォーマンスを見せた。

 

「ボクたちはどんな挑戦でも受ける!! さあ、かかってこいやあ!!」

 

 四人はそれぞれマットの中央に進み出ると、手を払うようなタッチを交わし、自分のコーナーへと戻った。

 間髪入れずゴングが鳴り響く。

 

 カアアアアン!!

 

 ここに巫女とタヌキの雌雄を決する最後の戦いが始まったのである!

 

 

 

 

 

 



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黒い呪術師











 まず、中央に進み出たのは、覆面巫女にしてルチャドーラの神宮女音子さんと、海パン一丁の芝右衛門狸だった。

 音子さんは相手の出方を警戒しているのか、やや慎重に歩を進める。

 一方のタヌキは堂々としたものだった。

 ほぼ不戦勝の中堅戦を除けば、タヌキ陣営の方が負け越している状況だというのに、焦った様子もない。

 このタッグマッチで逆転すればいいという余裕の表れか、それとも……。

 

『……関東の退魔師というのは、奇妙な戦い方をするらしいの。このような今風の結界を張って素手でレスリングとやらをするのが名来だとか』

「シィ。……それが何?」

『では、ワシもその真似事をしてやろう』

 

 淡路島から来たタヌキは、いつのまにか前肢の指に摘まんでいた木の葉を頭に乗せた。

 少しだけ楽しくなってしまう。

 それはまるで昔話に出てくるタヌキが化けるポーズのようだったからだ。

 そして、ドロンと煙が湧いて出て、タヌキは変化する。

 次の瞬間には、芝右衛門狸は大きさは変わらないが、明らかにタヌキではない人間の姿に変わっていた。

 どっしりとした一見すると丸々とした肥満だがすぐに筋肉質とわかる肉体、浅黒い肌、下半身はラッパ状に開いたタイツとつま先の尖ったシューズを履き、手には何重にもテーピングが巻かれている。

 禿頭で額から頭頂にかけておびただしい傷跡がついていることから、誰にでも歴戦の闘士だとわかる風貌。

 かつて、自身は「ジュジュプソウという、アフリカの格闘技をマスターしている」といっていたが、実は空手の達人であるということに相応しい落ち着いた佇まい。

 僕は知っていた。

 芝右衛門狸が変化したその姿の主を。

 子供たちを熱くさせた変幻自在のファットマンを。

 

「ブッチャーです! あれはブッチャーです!」

「は? 何を言っているんだ、京一?」

「グリフィンさんは知らないんですか?  アブドーラ・ザ・ブッチャーを! 愛しのボッチャーのモデルの黒い呪術師ですよ!」

「いや、そんな名前は初耳だ……」

「くぅ、そう来たかあ。変化を使うというし、芝居の神さまとか言われているから何かあるんだろうなと思っていたけど、そう来るかあ!!」

 

 僕は珍しく興奮していた。

 だって、ブッチャーだよ!

 偽物だってわかっているけど、目の前にブッチャーがいるのに興奮しない訳にはいられないよ。

 フレディ・マーキュリー追悼のためのバッタもんばかりのQUEENのファンコンサートに出演している偽物に惜しみない声援をあげるファンの気持ちがわかった。

 本物だろうと偽物だろうと関係ない。

 声をあげたくなる時は上げたくなるものなのだ。

 

「さあ、ブッチャーに変化した芝右衛門狸が、どれほど本家の技を再現できるのか期待に胸が膨らむところです。ねえ、解説のグリフィンさん!?」

「そ、そうなんだろうね」

「もう一匹の解説の初代・分福さんはどうですか?」

「芝右衛門狸の化学はどれだけ本物を模倣できるかを一つの目標としているからな。きっとあの変化した黒人レスラーと同じになるであろ」

「ブッチャーは正確には黒人ではなく、ネイティブアメリカンとのハーフですが、それはどうでもいいことです。さあ、日本マット界のレジェンドに対して音子さんがどう立ち向かうのかが興味深いところです!」

 

 まず仕掛けたのは芝右衛門狸=ブッチャーだった。

 巨体に見合わぬスピードで迫ると、指先を揃えた手刀で音子さんの喉元を狙う。

 

「地獄突きだああ !!」

 

 ブッチャーが得意とする空手技である。

 単なる抜き手ではなく、フェイントを交えて前後左右から相手の急所である喉笛を襲い続ける。

 鍛えられた指先はバンテージでさらに固められ、まともに食らえば喉の皮膚を突き破られるだろう。

 とはいえ、速度そのものはたいしたレベルではない。

 音子さんならば躱せるはずだ。

 予想通り、すべて躱しきった。

 だが、ブッチャーの恐ろしさはそこにはない。

 丸々と太った肉体にも関わらず、機敏に動き―――回転と共に放つキック―――ローリング・ソバットを持っているのだ。

 

「なっ!?」

 

 予想していなかったのか、音子さんは放たれた蹴りをなんとか肘で受けたが、体重差もあり吹き飛ばされる。

 追撃として尖ったつま先のシューズによるトゥー・キックがでた。

 しかも、目標は急所―――禁的蹴りだ。

 禁的は男性のみの急所ではなく、女性でも十分に危険なのである。

 ゆえに完全に避けられないのなら、と音子さんは両腕を下げてクロスガードした。

 タイミングよく、足首を防ぎきる。

 だが、それは囮だった。

 狙いすましたブッチャーの地獄突きが音子さんの咽喉を貫く。

 

(つう)!!」

 

 音子さんはマットに倒れた。

 喉を押さえている。

 咳き込んでまではいないが、かなりのダメージを受けたのかもしれない。

 その彼女目掛けて、ブッチャーが襲い掛かった。

 

「毒針エルボー・ドロップ!!」

 

一度、自分からロープに飛んで勢いをつけてから、ジャンプして喉元に肘を落とす、ブッチャーの得意の形である。

あの巨体でそのまま覆いかぶさるようにエルボーをすることで、どんなにタフなプロレスラーでも窮地に陥り、場合によってはそのままフォールを奪われてしまうという必殺のパターン。

まさにブッチャーの絶対的なフィニッシュ・ホールドである。

あのジャイアント馬場でさえ恐れた技を、音子さんが食らえばもう万事休すだ。

ルチャドーラとして何もさせてもらえずに彼女が負けるのか。

いや、そんなことはなかった。

肘が落ちてくる瞬間、音子さんが昇り龍のごとく跳ね上がる。

そして、肘をホールドして、勢いを殺すことなく投げた。

ルチャ・リブレの巻き投げだ。

さすがはというタイミングであの巨体を放り投げる。

 やられたと見えたのはブラフだったのか。

 叩き付けられたままではいないとすぐ立ち上がろうとしたブッチャーの顔面に美しいドロップキックを当てて、さらに空中で回転しながら回し蹴りを打つ。

 御子内さんにも匹敵する身軽さと蹴り技である。

 旋風のようにキックを当ててから、地上に戻ってもう一度横回転をして足を払う。

 まるで独楽だった。

 それぐらいハイスピードでの連続蹴り。

 これだけ連続でやられるといくらブッチャーでも立っていられずに尻もちをつく。

 今度はお株を奪うように音子さんが肘をたててダウン攻撃に転じる。

 だが、甘かった。

 無尽のタフネスといわれたように抜群の打たれ強さを備えるブッチャーは、腹筋だけで上半身を起こし、音子さんを頭突きでもって迎撃した。

 鮮血が飛び散る。

 あまりに傷を受けていたために切れやすいと言われていたブッチャーの額が破れ、血が出たのだ。

 それだけの威力のヘッドバットを受けて音子さんが崩れ落ちる。

 

「やばい、下手をしたら脳震盪を起こしているかも‼」

『もう勝負ありなのか?』

「そんなことはありません!!」

 

ブッチャーが強いプロレスラーであることは僕も知っている。

だが、神宮女音子も強い退魔巫女であり―――巫女レスラーなのだ。

膝をつく寸前、ガッシとマットを殴るように手で支えて、こらえる。

ダウンしたら、またも毒針エルボーの餌食にされるからだ。

あれを喰らったら終わりだと感じているのだろう。

闘士の勘が。

だから、倒れる前に跳んだ。

仲間の元へと。

御子内或子の待つコーナーへ逃げた。

 

「或ッチ、ちょっと頼む」

「了解だよ、音子!」

 

 タッチを受けて御子内さんがリングに登場した時にはもうブッチャーは立ち上がっていた。

 血は流れていない。

 まあ、幻なのだから当然と言えば当然か。

 幻が血を流すのはおかしいし。

 

「アブドーラ・ザ・ブッチャーね。……なんだか、ボクの京一が変に興奮しているけど、ボクはあまりよく知らないレスラーだ。でも、手口はわかった。ボクの友達を追い詰めたのは立派だけど、形だけ真似たって真の闘士には敵わないということを教えてあげるよ」

『ほおほお、ブッチャーを知らない世代のくせに舐めた口を利く。この時代のレスラーの恐ろしさをよくわかっていないようだな』

「何とでも言うがいいさ。ボクはどんな相手にも負けないからね」

『では、彼ならばどうかな?』

 

 ブッチャーはまたも木の葉を額に乗っけて、白い煙を上げた。

 また変化するつもりなのだ。

 今度は誰に?

 そして、新しく幻の煙の中から現われた男は―――

 

 黄色と黒のターバンを頭に巻いて、口には切れ味鋭そうなサーベルを咥えたインド人の容貌を持っていた……。

 

 



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猛虎と茶釜、不屈の闘志

 

 

「タイガー・ジェット・シンだああああ!!」

 

 次に芝右衛門狸が化けたのは、かつてアントニオ猪木と熾烈な抗争を繰り広げたインド出身の悪役レスラーだった。

 インド出身で有名なのはカレクックだけではないのである。

 黄色と黒の虎柄のターバンを被り、サーベルを舐める狂人の姿をした怪人。

謎の怪人!、狂人!、インドの猛虎!、狂虎!

あれがタイガー・ジェット・シンだ!!

 僕は柄にもなく興奮していた。

 

「―――へえ、今度はシンかい? なかなか芸達者だね、芝右衛門。そんな時代遅れのロートルになったぐらいでボクに勝てるとでも?」

『減らず口は俺に勝ってからしてもらおうか!』

 

 シンのサーベルが閃いた。

 その剣先が御子内さんを切り裂く。

 間一髪で躱しきると、シンの握りにキックを放つ。

 もっとも、軽く腕を引かれただけで蹴りは外された。

 明らかに読んでいる。

 そう、タイガー・ジェット・シンは狂乱のファイトで知られているが、知的なインテリジェンスをも有する戦いもできるマルチファィターなのだ。

 ただの虎を相手にするのと訳が違う。

 サーベルによる突きがまたも伸びる。

 先ほどのように伸びきったところに合わせることができない御子内さんは、防戦一方になった。

 だが、そもそも狭いリングの中で武器による攻撃を躱し続ける事には限界がある。

 背中がロープに触れてしまい追い詰められた。

 

『どうした、退魔巫女? 反撃しないのか?』

「するさ。しないはずがない」

 

 それはただの強がりではなかった。

 なんと御子内さんはするりとロープをすり抜けて、ロープで囲まれた外に自分から飛び出していったのだ。

 逃げた、はずはない。

 御子内或子に逃走という文字はない。

 シンのサーベルを避けると同時に、ロープを引っ張り一気に手放すことで、その可塑性を利用して弾いて武器としたのだ。

 目には目を、武器には武器を。

 頭脳プレーというか、えげつない策略というべきか。

 御子内さんは正統派の戦いだけでなく、こういう詭道めいた立ち回りも易々とこなしてくる猛者なのである。

 自分目掛けてくるロープをシンが咄嗟に防いでいる間に、御子内さんの中段横蹴りがシンの胴体に突き刺さった。

 

『ぐおおおお!!』

 

 見事にリングシューズのつま先がみぞおちを捉えていた。

 しかも、それだけではなくどんな負荷がかかっていたのか、御子内さんのつま先が破れ、足の親指が露出していた。

 分厚いリングシューズを破るほどの威力があるというのだろうか。

 あまりに威力が強かったのか、真っ向から食らったシンが武器を落としてしまうぐらいだ。

 

「ちっ、お気に入りのシューズだったのに!  火神(ヒヌカン)なんか使わなきゃよかった!」

 

 なんだか愚痴りながら、御子内さんは再びリングの中に戻り、得意のナックルパートに入る。

 しかし、敵もさるもの。

 最初の二三発は受けたが、そのあとは頭を抱えて必死のディフェンス。

 その隙間から虎視眈々と反撃の機会を窺う。

 埒が明かないとみて、御子内さんがローリング・ソバットに移行した一瞬を見逃すことなく、彼女の腰にしがみついた。

 そのまま抱え上げて渾身のボディスラム。

 マットに叩き付けられもんどりうつ御子内さん。

 シンが何度も踏みつけるストンピングで追い打ちをかける。

 一気に形勢が逆転してしまった。

 

「立て、御子内さん!」

 

 だが、彼女が立とうとする瞬間、シンの腕が伸び、御子内さんの首の頸動脈辺りを掴んだ。

 何かの擬音がでそうなぐらいの力で締め付ける。

 御子内さんの顔面が蒼白となった。

 

「コブラクローだ!」

 

 タイガー・ジェット・シンのシンボルといっていい首絞めの反則技。

 悪魔の握撃が小柄な御子内さんを締め上げる。

 あのままでは窒息してしまう。

 ジタバタとあがいても、一度掴まれるともう為す術はない。

 御子内さんは何もできずに負けてしまうのか。

 伝説の悪役レスラーの力の前に屈するのか。

 

「御子内さん、負けるなあああ!」

 

 実況役の立場も忘れて僕は御子内さんを応援する。

 彼女は僕のヒーローなのだ。

 絶対に負けて欲しくない。

 勝った姿だけをみていたい。

 ファンとはそういうものなのだ。

 その僕の叫びが届いているとは思えないけれど、御子内さんの身体ががくんと不自然に沈んだ。

 首にかかったシンの手を引きつつ、右足が伸び、シンの胴体を蹴るように持ち上げる。

 絶妙なタイミングと力の入れ具合、無理矢理ではあるが、変則の巴投げの要領であった。

 もっとも、御子内さん自身は首でブリッジをしつつの投げ技なので、スープレックス気味でもある。

 シンとて投げられたくはないので、腰を落として、重心を下げる。

 しかし、スープレックスは御子内の得意技であった。

 敵の抵抗をねじ伏せ、マットを武器にして叩き込む。

 

「どっちゃああああ!!」

 

 コブラクローを受けながらそこを支点に投げ飛ばすという猛撃のために、全力を使ってしまったのか、荒い息を吐きながらも、御子内さんは動き続ける。

 掴んだ腕をひねりあげ、関節を逆にすると、そのままへし折るように自分の肩に叩き付けた。

 アームブリーカーだった。

 かつて猪木がシンの腕を折ったとされる故事にならうかのように。

 

『ぐぎゃああああ!!』

 

 絶叫をあげるシン。

 だが、どんなに暴れても抗っても、御子内さんはアームブリーカーを外さない。

 熊埜御堂さんならば即座に折るところだろうが、彼女の場合は痛めつけて次の攻撃に繋げるための技である。

 どれだけ長く続けるかが肝要なのだ。

 しかし、御子内さんは忘れていた。

 これは彼女とシンだけの戦いではなく―――タッグマッチなのだ。

 いつの間にか、リング内に入り込んでいたまん丸の影が彼女たちの後ろに忍び寄っていたのだ。

 

「うわっうわっ!!」

 

 背後から持ち上げられた御子内さんは思わず手を離してしまう。

 盟友・シン(芝右衛門狸)の窮地を救ったのは、コーナーポストで出番を待っていた分福茶釜のタヌキであった。

 いくら御子内さんが小柄といってもまるでぬいぐるみでも抱くように持ち上げると、親の仇のごとく投げ捨てた。

 しかもトップロープ越しに。

 砲丸投げのようにリングの外に投げ捨てられた御子内さんは、僕たちのいる実況席のテーブルの天面に背中から落下してきた。

 思わず身を挺して庇ってしまったが、そのおかげかどうかはわからないけれど受け身に成功したらしく、大きなけがはない様子だった。

 

「あいたたた……」

「大丈夫、御子内さん?」

「ん、まあね……。しかし、無茶してくるね、あいつら。痛いったらありゃしないよ」

 

 さすがの御子内さんも少し苦戦しているようだ。

 慣れないタッグマッチということだけでなく、やはり江戸前の〈五尾〉と呼ばれるだけあって強い相手なのだろう。

 

「どうするの? リングアウトのコールが続いているよ」

「―――当然、やるさ。やらいでか」

 

 はっきりと断言すると、御子内さんは立ち上がった。

 肩をぐるぐると回転させて、元気なところをアピールする。

 その隙をついて、なんと彼女を追ってリング外に降りていたシンが折り畳みのパイプイスで襲い掛かってきた。

 脳天をパイプイスのクッション部分で殴られる。

 思わずひるんでしまった御子内さんに対して、パイプイスによる連打が襲った。

 

「なっ!!」

 

 完全な奇襲。

 予想通りの反則攻撃であった。

 

「こなくそっ!!」

 

 だが、御子内さんは最初の一撃でフラフラになっていた。

 彼女にしては珍しい油断―――いや、シンによるあまりにも巧みな奇襲のせいか―――が、反撃する土台すら作らせてもらえなかった。

 コーナーポストの裏に崩れ落ちる。

 実にあっさりと。

 あの御子内さんが。

 シンはパイプイスを捨てると、今度は僕たちの座っていた実況席付属のテーブルを抱え上げた。

 まさか、このテーブルを使う気なのか。

 僕はシンの暴虐を止めようとするが、簡単に掃われてしまった。

 巫女レスラーではない僕の力ではこの程度しかできない。

 いくら御子内さんでもあんなもので殴られたら一たまりもない。

 止めないと。

 このままでは、ただの試合が殺し合いになる。

 それだけは阻止しないと。

 倒れたまま動かない御子内さんを守らないと。

 シンがテーブルを振り上げた。

 反則技の凶器に使うために。

 

『死ねえええええ!!』

 

 シンが怒鳴ったとき、

 

「キミがね」

 

 突っ伏したまま動けないはずの御子内さんが誰に言うでもなく呟いた。

 しかし、その言葉はどんな大音量の楽器のものよりも力強く聞こえた。

 

「音子!!」

「シィ!!」

 

 あまりにも激しい御子内さんたちの戦いに気を取られ忘れていたが、コーナーポストの上にバランスをとることなど何も知らないとでも言いたげに安定感抜群に立ち尽くす音子さんがいた。

 眼下の敵を睥睨する美しい瞳とともに。

 そして、宙を舞う神宮女音子の飛翔は最強の鷲のように決して止められない。

 超・超・超高度からの必殺のドロップキックが、わかっていても避けきれないシンの顔面をスナイプする。

 テーブルを持ちあげていたからだけではない。

 死んだふりをしていた御子内さんに足を捕られていたからだった。

 シン=芝右衛門狸は、知らなかった。

 御子内或子を屈服させるのは不可能だということを。

 場外乱闘と凶器攻撃程度で彼女を倒せるのなら、今までの妖怪たちでさえ可能だったろう。

 しかし、それができないからこそ、彼女は最強なのだ。

 

「―――音子、ちょっと頼んだ。ボクはあのデカいのをやるから」

 

 パイプイス攻撃の後遺症なんか微塵も感じさせずに(さっきのは演技なんだろうな)、よっこらせっと立ちあがった御子内さんはリングに戻っていく。

 南部鉄でできた茶釜でできた怪物と戦うために。

 

 

 

 

 

 



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分福茶釜は幻使い

 

 

 御子内さんは基本的に足癖が悪い。

 もちろん対戦相手から見て、ということだけど。

 得意とする技の筆頭がローリング・ソバットと延髄切りということからもわかるが、多種多彩、変幻自在な彼女の戦いを支えているのはまさしく足技なのである。

 ボクサーの藍色さんに匹敵する拳技も使えないこともないが、どちらかというと使わないで済ます方だ。

 だから、リングに戻った彼女が真っ先に選択したのも、やはり悪癖となっている足技であった。

 ロープに手をかけて転がり込もうとするのを阻止するために寄ってきた分福茶釜を出し抜くため、身体を弓のようにしならせる。

 全身をバネにして垂直に美しい蝶が舞う。

 分福茶釜という山をジャンプ一閃飛び越えると、太ももでタヌキの顔を挟んで捻る。

 体重差を無にしてしまう首投げに巨漢のタヌキはひっくり返った。

 マットに仰向けになる寸前、無茶な姿勢で放った地擦りのローキックが顔面に炸裂したのも、追い打ちとしてはまたえげつない。

 あまりの痛みにタヌキの発する悲鳴が耳に残ったほどだ。

 とはいえ、御子内さんの考えもわかる。

 なぜなら、分福茶釜のタヌキは胴体を南部鉄のような茶釜で覆われ、見事に装甲されているからだ。

 通常の戦い方では崩すことさえも叶わないだろう。

 茶釜からでている頭部と四肢を狙うしかないのだ。

 分福茶釜というのは、群馬県の民話の一つで茶釜に化けて寺の守鶴和尚を驚かそうとしたタヌキが火にかけられたショックで元の姿に戻れなくなるというものである。

 茶釜から肢が生えたようになったタヌキは、こんな格好では可哀想だと和尚から安く譲り受けた小道具屋に恩を返すために見世物となり、その愛嬌から人々の人気者になって幸せに暮らしましたで終わる。

 タヌキの出る数多い民話の中でも特に人気の高いお話だ。

 ユーモラスな中に情けは人の為ならずのような寓話めいたニュアンスもあり、多くの人が親しんでいるに違いない。

 今、僕の隣にいる巨漢の古タヌキがご本人で、リングで戦っているのはその孫だと聞くと少し信じがたいところがあるけれど、最近はこういうことにも慣れてきた。

 ちなみに反対側に座っている知人は透明人間だし、ポーの有名な詩のモデルになった鴉の子孫とも知り合いだし、かの柳生十兵衛の後継者も友達にいる環境だと、もう何が何やら。

 いちいち驚いている暇はないという感じだ。

 

「思ったよりもたいしたことないな」

「何がですか?」

「あの分福茶釜のタヌキだよ。胴体が鉄でできているという程度では、巫女たちには到底及ばないだろう。それどころか、他の〈五尾〉と比べても期待外れだ」

「確かにそうですね。―――解説の元祖・分福茶釜さん、そのあたりはどうなのでしょう。お孫さんは祖父の名を辱めるだけの弱いタヌキなのでしょうか?」

 

 すると、元祖・分福茶釜は特に動揺も見せず、

 

『まさかじゃ。ワシの孫は最強の〈五尾〉に相応しいオスじゃよ』

「なるほど。祖父からお墨付きが出るほどの傑物ということなんですね。これは期待できます」

『ほれ、見てみろ』

 

 老タヌキの丸まっちい指が示したのは、御子内さんに四肢を捕られないようにジタバタともがく分福茶釜の姿だった。

 腹を剥き出しにした仰向けのまま、必死で御子内さんを寄せ付けまいとするところは、どちらかというと駄々っ子のようにしかみえない。

 見ろ、と言われて感動したり、感心したりする光景ではない。

柔道やプロレスでの普通の寝技と違い、ひっくり返った亀を相手にするようなものなので、御子内さんも実にやり難そうだ。

これだったら、立ち上がらせてスタンドで決着をつける方がいいとも思える。

 

「何を見るんですか?」

『わからんか? ほれ、あれだ』

 

 もう一度言われたので、今度こそ真剣に凝視してみると、なんとタヌキの四肢はジタバタとしているように見えて、実は特定の文字を宙に描いているのだ。

 書き順でいうと、横棒、繋いで一画、縦棒、横棒、さらに縦棒。

 五画の漢字らしきものを書いている。

 しかも、その字は書けば書くほど何もない空中に紅い朱文字と化していく。

 何度目かの繰り返しの段階で、僕にもはっきりとわかった。

 その漢字は、

 

(まんじ)

 

 であった。

 タヌキは器用に左右の前肢だけでなく、後肢でまで、「卍」を描いていき、そしてその一文字はふわりと浮き上がると合体し、混ぜ合わさり、さらに大きな文字へとなっていく。

 異常を感じて飛び退った御子内さんも見つめる中、タヌキが描いて大きくなった「卍」はそのまま回転を始める。

 水車のように。

 ただ、この水車には血の色が滲み、触ると呪われそうな気配に満ちていた。

 

『食らうがいい、タヌキの幻法〈ひまんじ〉を!!』

 

 リングの中央に自分が作り出した「卍」が完成すると、ようやく起き上がった分福茶釜が叫んだ。

 そして、見た目とは裏腹の跳躍力を用いて、まるで筋斗雲に乗る孫悟空のように回転する卍の上に飛び乗った。

幻法〈ひまんじ〉というのがあの技の名前らしい。

ひまんじ、という字は、おそらく火と卍を合わせたものだと思うが、ああやって空中に出現した謎の存在の上によいしょっとばかりに肥えたタヌキが乗った絵面はなんというか……。

 

「―――肥満児?」

「実に残念な語感だな」

「そうですね」

 

 僕らの後ろ向きな感想を知ってから知らずか、謎の回転する卍型の乗り物を作り出した分福茶釜のタヌキは茫然と彼を見上げる御子内さん目掛けて襲い掛かった。

 お祖父さんの言う通りに、きっとあの分福茶釜は優れた幻術師(めくらまし)なのだろうと思わせるに相応しい奇怪な技を持っていたのである。

 

 

 

 

 



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祭り・ファイナル

 

 

 リング上では、回転する(まんじ)の雲のようなものに乗って浮かんでいる分福茶釜のタヌキと、地上から応戦する御子内さんというわけのわからない状況になっているが、場外は意外と普通に試合が行われていた。

 いつのまにか、タイガー・ジェット・シンから豊かなあごひげのブルーザー・ブロディに変化していた芝右衛門狸と音子さんが真っ向からやりあっている。

 毛皮を巻いたレスリングシューズの底で踏みにじるように蹴ってくるブロディ=芝右衛門狸を躱して、腕投げ、足投げをする音子さんは華麗だった。

 覆面の下の美貌を知っていることもあり、舞うように戦う彼女はまさに戦士貴族である。

 あの狭い場外でここまで動くことができる人はそうはいない。

 普段のルチャ・リブレ専門の戦いと違い、足運びもすり足を多用し、あえて例えるのならば合気道の範士に近い。

 実際、彼女は退魔巫女の中でも随一の合気道の使い手だということだ。

 なら、どうしてルチャ・リブレなんかやっているのかは不明。

 素顔でTwitterやインスタグラムに熱中しているところも含めて、御子内さんの親友の中で最も真意が掴めないのが彼女である。

 ブルーザー・ブロディはミル・マスカラスを初めとする身軽なレスラーを虚仮にしていたという逸話もあるので、その後継者ともいえるスタイルの音子さんには相応しい相手かもしれない。

 パワー、パワー、パワーで押してくる相手に、華麗な技で対抗する彼女は美しい。

 ルチャと合気道、互いに相反する投げ技の融合こそが彼女の戦いの真骨頂なのかもしれない。

 

「だっしゃあああああ!!」

 

 御子内さんがコーナーポストを踏み台にして、トライアングル・シュートを分福茶釜目掛けて放った。

 彼女もまた身軽だが、同時に力強さがある。

 踏み台を使うことであがったジャンプは、確実に〈ひまんじ〉にのるタヌキに届いた。

 

『なんと!!』

 

 タヌキの予想をはるかに上回る跳躍力をみせた御子内さんに驚愕する。

 今一つ、このタヌキたちは人間というものを舐めている。

 だからこそ、数々の変化を見破られて痛い目をみてきたのだろう。

 またも顔面に跳び蹴りを受けてひしゃげる分福茶釜。

 だが、ほぼクロスカウンター気味に〈ひまんじ〉の回転が御子内さんを巻き込み、竜巻に巻き込まれた木材のように彼女を弾き飛ばした。

 場外まで吹き飛ばされる寸前だったが、危うくトップロープを掴むことで凌ぐ。

 くるりと一回転してリングに出戻った。

 

「こら、降りて来いタヌキ!! 降りてこないと鉄砲で落として、タヌキ汁にしてやるよ!!」

『タヌキ汁だとおおお!! 我らがタヌキにとって最悪の侮蔑を!! 許さぬ!!』

 

 というかおまえさんはもうタヌキ鍋みたいな格好だろうとツッコミたくなったが、ちょっと我慢する。

 

『やれ、〈ひまんじ〉!! あの巫女を蹂躙しろ!!』

「こいやあ!」

 

 今度は〈ひまんじ〉が急降下し、リングを舐めるように這う。

 孫悟空の筋斗雲と戦うというのはこういうことだろうか。

 以前の〈天狗〉を引き合いに出すまでもないが、御子内さんにとって空を飛ぶ相手は天敵だ。

 空飛ぶタヌキとどう戦うのか。

 場外の音子さんと入れ替わるのが一番だと思うのだけれど……

〈ひまんじ〉の回転が襲い掛かる。

 それに対して、御子内さんは飛んだ。

 またもロープを踏んで、跳び箱に挑戦するように。

 月面宙返(ムーンサルト)り。

 金メダリストの内村航平もかくやと思わせる美麗な回転を見せて、〈ひまんじ〉を避けると、巫女装束の袖をたなびかせて、裏拳の一撃を分福茶釜の頭部に命中させる。

 

『うげっ!!』

 

 と叫ぶ暇もなく、空中で続いて二発の拳を瞬く間にぶち込んで、足を揃えて着地する。

 

「10.00だ!」

 

 僕がもうありえない好成績をアナウンスすると、それに応えるように再び簡単な助走をつけて、御子内さんが舞う。

 空飛ぶ敵に対しても、その領域にまで踏み込んで撃殺する。

 目には目を歯には歯を。

 負けず嫌いの巫女レスラーは勝つためならばどんな無茶だってこなすのだ。

 つま先が高く天を衝く。

 外したのか。

 いや、狙いはそこにない。

 つま先はフェイントで、高らかと上がったのはさらなる勢いをつけるため。

 本命は踵。

 振り下ろさる悪魔の鉄槌(ルシファーズ・ハンマー)

 足癖の悪い御子内さんならでは技―――エッフェル・ヒール・キックである。

 またの名を踵落とし。

 かのアンディ・フグの得意とした技をさらにパワーアップさせた御子内さんらしい破壊力に満ちた大技だ。

 胴体以外は剥きだしの分福茶釜の弱点を的確についたものだった。

 この試合が始まってから、なんと彼女は一度も胴体に対して攻撃をおこなっていない。

 初手から無意味とわかっていることはしない主義なのだろう。

 

『ほげえええ!』

 

 となんともユーモラスな悲鳴をあげるタヌキ。

 涙目になっていた。

 

『くそおおお!!』

 

 悔し紛れなのかは知らないが、その腕がまるで伸縮自在の梯子のように伸びた。

 短めの手がろくろ首のようにしゅーっと延びる。

 さすがに意表をつかれたのか、御子内さんの首にその腕が絡みついた。

 たぶん、幻法の一種だろう。

 あんな風に腕が伸びるはずもない。

 怪物君かゴムゴムの人以外には。

 その形態から伸びた部分には骨がない軟体だと見破ったのか、御子内さんは反転した。

 勢いをつけて、ロープの外へと飛び出す。

 まさか自ら場外へ逃れるとは思っていなかった分福茶釜は、腕を引っ張られたままなので、前に向けてとっとっとと蹴躓きそうになりながら体勢を崩してしまう。

 ロープ際まで到達した瞬間、突然、顔前に現われた覆面の巫女。

 左右から同時に首筋に手刀を叩きつけるモンゴリアン・チョップを喰らい、そのままリングに入ってきた音子さんによる首投げを受けてマットに横たわる。

 

『タッ、タッチを……』

「ノ.きちんとしている。心配はいらない」

 

 御子内さんと音子さんが入れ替わる寸前、しっかりとタッチを交わしていたのは確認している。

 二人の連携は超獣コンビにだって引けはとらない。

 場外でブルーザー・ブロディとの死闘に切り替わった御子内さんが、今度は自分のスタイル通りに肉弾戦を繰り広げつつあるのを尻目に、リングに戻った音子さんはいかにも()()()空中殺法を展開し始める。

 やはり胴体が動きづらい茶釜だと防御力こそ高いが、格闘戦となると不利にしかならない。

 矢継ぎ早に繰り返される攻撃に、ほとんど幻法を使う間もなく、剥き出しの顔面と四肢を痛めつけられていく。

 胴体のダメージはゼロなのに、分福茶釜は失神寸前であった。

 

『ああ、これはマズったのお』

 

 なんとも呑気に祖父が呟いた瞬間、音子さんが逆立ちをした。

 ()()()()()()()()()

 

『おおおおおお!』

 

 さっきのハクビシンとの争いもほぼ忘れて戦いに夢中になりかぶりつきで見ていたタヌキの観客たちが声を張り上げた。

 縦一文字になった分福茶釜と音子さん。

 時が止まる。

 すべてが固唾をのんで見守った刹那―――

 

 金長狸のヨーヨーのごとく縦回転をした音子さんの抱えた両膝が、分福茶釜のタヌキの顔面を強打した。

 あまりにも華麗で、恐ろしいほどに痛そうな膝技(しつぎ)であった。

 暴風(エル・ウラカン)による必殺のピラミッド・クラッシュ。

 あまりにも強いタヌキの生命力がなければ死んでいてもおかしくない荒技に後楽園ホールが静まり返る。

 ただ、マットに潰れたタヌキを尻目に、音子さんが一本人差し指をたてて、勝利を告げるポーズを決めた時、

 

 

 場内に割れんばかりの拍手と歓声と悲鳴と怒声が溢れかえった。

 

 死力を尽くした巫女と江戸前の〈五尾〉の長く興奮しかない戦いはついに終止符を迎えたのだ。

 フィニッシュをかけたのは、神宮女音子。

 ルチャ・リブレと合気道を使う、覆面の美少女。

 先に三勝目をあげたのは退魔巫女となったのである。

 お祭り騒ぎはついに決着となり熱狂は頂点に達していた。

 

「……ちぃ、音子に負けちゃったよ」

 

 テーブルがなくなり、イスだけになった実況席にやってきた御子内さんが悔しそうにつぶやく。

 

「御子内さん……」

「うーん、あと少しだったんだけどね」

 

 彼女がさっきまでいたところには、気絶してしまったからかブルーザー・ブロディの変化が解除され、そのままダウンしている芝右衛門狸が転がっていた。

 おそらく、ほんのタッチの差で音子さんの方が先に相手を仕留めていたのだろう。

 

「場外だったから誰もみてないしさ。ボクの京一まで音子に夢中とは、やっていられないよ」

「ごめん。……謝るから、膝の上に座らないで」

「どうしよっかなあ」

 

 僕の脚の上にちょこんと膝を抱えながら座り込み、御子内さんが意地悪そうに笑っていた。

 

「実況の仕事はリングの上がメインなので……」

「キミの仕事はボクの助手のはずなのにさ。なんだろうね。いつも京一は音子にだけは甘いんだから。……いや、待てよ。最近はレイや藍色もなんだかんだ優遇している気がする」

「そんなことないって。僕は、御子内さん一筋なんだから」

「いーや、信用ならないね。だいたい、最近の京一は……」

 

 言葉とは裏腹にいかにも楽しそうに僕を責めだす御子内さんは、全力を尽くしたせいかちょっとだけ疲れているようだった。

 だったら、気が済むまで好きにさせてあげよう。

 頑張ったんだしね。

 

「ちょっと聞いているのかい、キミは。もう、ダメじゃないか!」

「聞いてるよ、ちゃんと」

「だったらねえ……」

 

 僕たちの会話を聞き流しながら、孫の敗北を目の当たりにしても動じることのない古狸が、付き従っていた部下のタヌキにぽつりと呟いた。

 

『しょうがねえ。ハクビシンどもとの喧嘩(でいり)についてはしばらく我慢だ。巫女どもに任せるとしよう』

『へい、目白のタヌキ殿下』

『ただしよ、腹が立つんで、都知事の首ぐらいは貰ってやる。おい、来年の夏までに今の知事を潰すぞ。どうせネタはたんまりとあるんだろ? 江戸前のタヌキの恐ろしさを人間どもに叩き込んでやれ』

『へい』

 

 と、いう政治的密談があったのは内緒である。

 

 

 

 

 

 

 










夏休み特別公開ということで「巫女レスラー」を第19試合まで一気に投稿しました。
これからしばらくの間、私は令和小説大賞というのに応募する作品のためにしばらく投稿をお休みします。
そのうちに再開すると思いますので、またよろしくお願いします。

それでは、またお会いしましょう!!


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第20試合〈追儺の鬼〉
鬼が狙って覗いている


今年の2月に、創土社さまのクトゥルー・ミュトス・ファイルから「邪神本能寺」という新作が発売されることになりました。



その宣伝もかねて、久しぶりに「巫女レスラー」をハーメルンに投稿することにしました。
「邪神本能寺」という作品は、この「巫女レスラー」を書いてみて修行した結果、なんとかものになったということもあり、感慨無量です。

復活にあたり、トップバッターはかの〈神腕〉の巫女です。
一話目と比較してみても楽しいかもしれません。
それでは。








 俺は、なんつーか鬼、みたいなのにずっとつけ狙われてる。

 ずっとと言っても、だいたい三日前ぐらいなんだけどさ。

 歩いていると電信柱の陰からとか、隣の一軒家の屋根の上からとか、俺の様子を探っている変なのがいて、そいつが寝込みを襲おうとしているんだと気がついた。

 気がついたのがすぐだったからいいようなもの、もし、()()()が鋭い爪で俺の首をちょんぱしたあとだったら死んでも死にきれないしね。

 いや、そん時は死んじゃっているから別にいいか。

 ま、今は死んでねえけどさ。

 んでも、俺が警戒しているときはどうも近づいてこられないらしくて、こっちがうとうとしているときなんかに結構傍までやってきやがる。

 だけど、軽く睨みつけてやったらすごすごと逃げ出していく程度ではあるんだけどさ。

 俺なんかのメンチ切りで逃げるんだから、たいした鬼ではないとは思う。

 あ、鬼。

 鬼なんだよね、あいつ。

 もう一目瞭然、そのまんま、()

 頭には日本の牛みたいな角をつけて、毛むくじゃらの筋肉質の赤い肌の肉体(からだ)をしていて、なんつーか悪を体現したような不細工な面をした、捻じれた異形というんだろうか。

 あれが鬼でなければなんだっていうぐらいに、()

 何の因果で俺なんかのところをうろうろしているかはわかんないけど、あいつがいるとわかるだけで空気がどんよりとしたうえ、物悲しい鬼哭蒐集とした風が吹き始めるので、接近してるのがすぐわかるという特徴がある。

 俺ぐらい鈍くてもわかるんだから、勘のいいやつならもっと早く感じ取れるだろう。

 とにかくふいんき(何故か変換できない)を悪くさせる奴だ。

 もっとも、俺もそんなに余裕をぶっこいてられる立場ではない。

 だって、あいつ、俺を殺そうとしてんだぜ。

 一度だけ()られる寸前にまでなったから断言できる。

 あと、俺を見る目と、ついでの捨て台詞。

 それだけで満貫状態で、俺を()る気満々だともう決定。

 だって、あいつ、

 

『殺してやるぅぅぅぅぅ。おまえさえいなければ、おまえさえいなければあああああ!』

 

 と恨めしそうに嘆きやがるんだぜ。

 そんなに俺に死んでほしいもんなんかね。

 でもさ、原因を考えるとわからなくないんだ。

 だって、あいつの手についている火傷のあとって、間違いなく、あのときの事件のものなんだ。

 俺も目の当たりにしたし、とてつもなく特徴的だったからね、間違えるはずがない。

 あの時の事件ってだけじゃあ、みんなにはわかりにくいと思うけど、ちょっと調べれば新聞の地方版には載っていたはずだからわりと有名なはず。

 だって、死人が一人でているみたいだしね。

 しかも、もともとはイジメが原因というショッキングなものだ。

 その時の酷いイジメの内容もわりと有名で、こっちはあとでテレビ局が取材に来たりしていたかな。

 事件による死そのものについては、そう報道されていないのにイジメの内容については事細かに流しやがって、ホント、マスゴミってくそ。

 ネット読めばわかるけど、マスゴミってマジで腐っているわ。

 俺も当事者だからよくわかる。

 で、その時の酷いイジメとそこからの事件で大きな火傷を負ったやつがいるんだけど、それと同じものがあの鬼にはついているって訳。

 いくら俺が鈍くても因果関係はすぐにわかるってもんさ。

 あの鬼は、()()()()()()()()()()()()俺を狙っているってことは。

 となると俺としては命が惜しいから逃げ回るしかない。

 家に居たって、学校に逃げたって、誰も助けてくれないし、巻き添えを恐れて近づいても来ないだろう。

 だから俺としてはできる防御法をとるしかない。

 あいつがいると思ったら警戒して傍に近づけないこと。

 それだけ。

 本とかネットとかも調べたさ。

 鬼の退治の仕方とか、鬼を寄せ付けない結界の張り方とか。

 だけど、ぜんっっっっっっぜん、使いものになんねえ。

 だいたい、あんなのの実在を確信して本やらネットの書き込みをしているやつなんて、絶対にいなくね?

 もしいたとしても、きっと()られちゃっているはずじゃね?

 映画のリングの貞子みたいなもんで、確認したらもうその時は死ぬときじゃんって感じ。

 書きこんでる暇なんてないはずだよ。

 

「窓に、窓に!!」

 

 なんてホラー小説かよってんだ。

 まあ、俺が言いたいのはもうなんとかする手段はなさそうだったってこと。

 ただ、さっきから俺の頭の上を烏が飛び回っていて、それが死ぬ直前の動物を看取っているみたいで腹が立つということだけはいえるけど。

 

 カアカア、しつこいんだよ、まったく。

 

 あまりにしつこいので、俺はカラスを追い払う方法を探してスマホでググってみた。

 そうすっと、少しだけ面白くて笑える記事があった。

 

「―――八咫烏に退魔の力を持つ巫女を呼んでもらう方法? なんだそりゃあ?」

 

 俺はあんまりにバカな内容を笑い飛ばした。

 退魔の巫女?

 ゲゲゲの息子でもやってくんのかよ?

 今どき? 二十一世紀だぜ? どこにもオカルトなんかねえよ。

 

 ビクン

 

 肩が震えた。

 振り向くと、サントリーの青い自動販売機の陰から鬼が俺を見ていた。

 血走った、獣のような恨みのこもった眼で。

 

「そういやあ、あいつとかもいるんだよなあ……」

 

 オカルトを全否定できる立場ではないことを思い出す。

 どのみち、俺はあいつがいる限り憑り殺されて終わりそうだ。

 だったら、オカルトでもバカ話でもやるべきことはやっておくか……。

 そうすりゃ、少しぐらいは死ぬときも満足できるかもしれねえし。

 俺はネットに書いてある通りに、ルーズリーフに救助の内容を書き込み、しっかりと折ってみた。

 もともとインドア派で折り紙なんかも好きな方だったので、思った以上に丁寧に折って、三角の紙垂っぽく仕上げる。

 それから、頭上にこれを掲げてみたら、耳元でバサっと大きな音がしたかと思うと、さっきのカラスが紙を咥えて奪い去っていった。

 今までの人生であそこまでカラスに近づかれたことはないので凄く驚いた。

 なんだよ、あれ。

 しかも、驚いたのは、それはネットで調べた通りの反応だったからだ。

 妖怪退治の願い事を書いた紙を頭上に掲げると、カラスがやってきて伝達の役目を引き受けてくれるというままに。

 さすがに半信半疑ではあったけど、少しは信じてもいいのかなと俺は適当に思った。

 まあ、俺を睨みつけるあの鬼がいる限り、どうにもならないのは確かだけどさ。

 

「うっぜえ、とっと消えろ!!」

 

 俺が一喝すると、這う這うの体で逃げ出しやがる。

 まったくなんなんだよ、あの鬼は。

 そのくせ、一時間もすればまたどっかで俺の命を奪おうと狙い続けるんだぜ。

 勘弁してくれってんだ。

 それに、どうして俺なんかを狙っているんだよ。

 おかしいだろ、まったく。

 あの時のイジメが原因だってんなら、()()()()()()()()()()()()だろ!!

 

 ぶっちゃけた話、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 あの時の事件で死んだって奴だって、実際はいじめっ子グループの主要メンバーで、普通に事故で死んだだけなのに!

 

 俺はわけわかんなくて思わず地面を蹴ってしまった。

 やれやれ、どうしてイジメられっ子の俺があんな鬼に憎まれて殺される寸前まで追い詰められるようになってしまったんだろうってね。

 人生って奴は理不尽過ぎんよ、マジでさ。

 

 あー、たりー。

 

 

 

 

 



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正座とヤンキー巫女

 

 目を覚ますと、目の前に()がいた。

 しかも、鋭く尖った爪を振りかざして、俺の喉元に突き立てようとしていたところだった。

 あまりに恐ろしくて、咄嗟に毛布の中に顔を突っ込んだおかげで、偶然にもその一撃を躱すことができたのは運が良かったといえる。

 生来の臆病が初めて俺を生かしてくれたのだ。

 間一髪のところで、枕がそば殻を撒き散らして切り裂かれる音がした。

 

「うわああああああ!!」

 

 思わず毛布ごと両手を突き上げると、堅い何かにぶつかった。

 鬼の胸板だろう。

 恐ろしくなって毛布をずり下げても、そこにはもうなにもいなかった。

 夢かと思っても、枕の残骸が虚しく現実であることを告げやがる。

 サイアクだぜ……。

 俺が抵抗したからいつものように怖気づいたのか、やつはもう逃げていた。

 キョロキョロと自分の部屋を見渡すと、窓の隅に外からこっちを観察している鬼がいた。

 こそこそした小心者の癖に、こちらが油断をしているとすぐに寝首を掻こうとする気持ちの悪いやつだった。

 おかげで、おいそれと寝れやしねえ。

 ま、疲れたからといってベッドに横になった俺がバカだったんだけどさ。

 せめて人目が切れない場所にいないと、すぐにあいつに狙われるってのによ……。

 俺は制服を着ると、学校指定のカバンを持った。

 せめて高校にでもいれば、あいつはやってこない。

 人目につくことを極端に恐れ、誰もいないところでしか姿を現さない鬼にとって、生徒や教師が山のようにいる昼間の学校は怖くて仕方のないところだろう。

 俺にとってもあまりいい場所ではないけれど、命が保証されるというのなら、是非にでも通いたい気分になるってえもんだ。

 

「……武徳(たけのり)、何かあったの?」

 

 ドアの外から母さんが心細げな声をかけてきた。

 ここ数日、奇行の目立つ長男を心配してんだろう。

 大丈夫だってのに。

 やつが狙ってんのは俺だけだから、母さんも弟も、あんまり役に立たない親父も、襲われることはねえよ。

 だから、心配すんなって。

 

「うるせえ、あんま、変な声たてんな!!」

 

 出してんのは俺だけどね。

 でも、そうでもしないと、窓の外からじっと未練がましく俺を欲しがっているやつがやってきちまうからさ。

 俺が元気なうちはきっと寄ってさえ来ないよ。

 

「ご、ごめんなさい……。下にいるわね」

 

 謝んなくていいってのに。

 それが最後の会話になったら嫌だろ、まったく。

 母さんの気配が消えたら、俺はこっそりと外に出た。

 靴を見れば、親父も弟もまだ家ん中にいるのがわかる。

 俺だけさっさと出掛ければいい。

 そうすりゃあ、あの鬼は俺について外に出て、こんな一軒家には戻ってこない。

 あんなのが屋根の上でうろついている家にいるのは、親父たちにはよいことじゃないだろうしな。

 他に出勤するサラリーマンや学生と並んで駅にいって、改札を抜けて、電車に乗って学校に向かう。

 ……いたよ。

 座席の上にある荷物を置く……なんていったけって? 棚みたいなところに横になってこっちを見てる。

 誰も気がつかないからとどうかは知らないけれど、いつもより大胆に俺を見てやがる。

 おっと、女子高生が上を見たらすぐ首をひっこめやがった。

 臆病者め。

 窓の外だと気がつかれやすいという浅知恵なんだろうけど、どのみち、こんな人が多いところで俺を見張ってたって無駄だってのに。

 そのくせ、電車を降りて、学校までの道のりは怖いらしくてどこにも見当たらない。

 学校でのイジメが原因らしい化け物だし、そんなもんかなと思わなくもないけどさ。

 

 ―――そうやって、放課後まで、顔も見せやしなかった。

 

 こう言うと俺がまるで寂しがっているみたいに聞こえるのが癪に障る。

 どうも俺以外にも見えるっぽいし、瘴気みたいなものがあるから勘のいいやつには居場所が悟られるらしく、バレそうになるとすぐに逃げ回るのでイライラするのだ。

 俺だって殺されたくないけど、あんなチキンでうざったい野郎のせいで精神衛生が害されるのは腹が立って仕方ない。

 ただ、怖いものは怖いのだ。

 惨殺されたうちの枕の後追いはしたくないし。

 とはいえ、高校二年という立場では人気の多い場所に深夜の間だけでも居続けるってのは不可能だ。

 俺は駅前のベンチで頭を抱えるしかなかった。

 そのとき、はるか頭上でカアとカラスの鳴き声がして、

 

「てめえが、荘原(そうばら)武徳(たけのり)くんか?」

 

 ベンチのすぐ隣に誰かが腰掛けた。

 背もたれに深々と寄りかかり、足を大きく組んだ姿は大企業のトップ―――というよりもヤクザの組長のようであった。

 しかも俺の名前を、フルネームで呼びやがった。

 

「え、あ、俺? 俺のこと? 俺の名前を言った?」

「何、キョドってんだよ。てめえに決まっているだろうが。それとも、何か、てめえは鈴木一郎さんなのかよ!? ああん?」

 

 ああん、の言い方が間違いなくその筋の人物のようだった。

 もともとイジメられっ子に分類されるほどに、その手の人物に弱い俺なんかはもう足が竦みそうになる。

 

「い、いえ、いえいえ、滅相もない! 俺が荘原武徳でなんの間違いもないッス!!」

 

 必死で自己紹介をすると、隣のヤクザの組長は首に手をやってかったるそうに揉みながら、

 

八咫烏(プロモーター)に喚ばれて来てやったぜ。で、オレの今回の対戦相手はいったいどんな妖怪なんだよ?」

 

 と、面倒くさそうに言った。

 ここでようやく、俺はこのヤクザの組長のように貫禄のある相手が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 腰まで伸びた艶のある黒髪をしたとてつもない美人だ。

 だが、清潔な白衣と緋袴、そして帯といういかにも巫女という格好は維持されているものの、両腕を強調するためにか肩のあたりで切断された袖部や、胴体に巻かれたタスキは確実に異質だ。

 緋袴だって膝あたりで二股になっているうえ、工事現場の職人さながらの紫色の派手な地下足袋とぶかぶかのニッカズボンはもう巫女のものではない。

 かろうじて、巫女の面影が残っているなという感じだ。

 たとえばだぜ?

 コードギアスのナイトメアフレームにボトムズのスコープドックの顔をつけて、「これがATです」っていうぐらいに変である。

 もっとも、俺はそんなことは言わずに頭を下げた。

 

「す、すいません! ごめんなさい!」

「おい、急に正座なんかしてんじゃねえよ!! 普通にそこに座っていればいいんだよ、普通に!! ……だから、ベンチの上でも正座すんな!! なんだ、てめえは!? イジメられっ子か!!  

 わざわざ喚び出されてきたけどよ、、てめえの謝罪と賠償なんか求めていねえって!! まったく、なんだ、てめえは……?」

 

 思わず土下座せんばかりの正座を始めた俺を、このヤクザ―――よりはヤンキー寄りかな―――みたいな巫女さんは面倒くさそうに見ていた。

 いや、だって、俺に染みついたイジメられっ子オーラとボッチ遺伝子がこういうタイプに逆らってはいけないと訴えかけるんだよ、マジで。

 だから、逆らいも躊躇いもせずに俺は正座してしまったのだ。

 

「すみませーん、俺には巫女さんの知り合いはいなくて、てっきり珍走団のレディースの方かと……」

「……昨日、八咫烏に手紙を届けさせたのはてめえだろ? オレはそいつを受けとったからここまでやってきたってのに、なんだこのうっとおしいのは」

 

 えっと、どういうことだ。

 もしかして、昨日、カラスに持っていかれたあの手紙のことを言っているのか。

 あんな胡散臭い、どうでもよさそうなものを信じて?

 まっさか?

 そんで、ゲゲゲの息子がやって来たっていうの?

 ヤンキーみたいな巫女だけどさ。

 こんなことになるまで一度も信じたことないけれど、この世界には意外とそういうものが溢れていて、俺みたいな目に合っている連中が泣きつくところもあるのかもしれないって思った。

 どちらかというと、もう少し普通のがいいんだけどよ。

 

「て、手紙を書いたのは俺です! すんません、あんな手紙を信じてくれる人がくるなんてハナッから疑っていたもんで!」

「まあ、それがまっとうな反応だがよ。それにしちや、あの手紙にゃあきちんと書くべきものは書いてあったし、隅も丁寧に折られていて、いい感じだったぜ。助けてやろうという気持ちにさせられたわ」

「マジっすか?」

「マジもマジだってよ。オレらの稼業じゃあ、喚んだやつに疑われるなんぞ日常茶飯事だし……そいつはどうでもいいや。許してやんよ。―――だから、正座をすんじゃねえ!!」

「ありがとうございます!!」

 

 やはり反射的に正座してしまう。

 セッキョーされるときのパブロフの犬状態である。

 長い間、イジメられっ子だったしなあ。 

 しばらく呆れた顔をしていた巫女さんが、懐からケースのようなものを取り出して、中から一枚の紙をだした。

 俺には名刺にしか見えなかった。

 

 [退魔巫女 明王殿(みょうおうでん)レイ 携帯番号090-○○○○-○○○○]

 

 しかも、肩書と携帯の番号まで書いてあるので、完璧に名刺以外のなにものでもねえよ。

 

「じゃあ、最初から説明しろ、武徳くん。てめえをさっきから観察しているあの鬼についての全てを、な」

 

 鬼はずっと隠れているというのに、この巫女さんにはお見通しのようであった……。

 

 



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妖怪〈追儺の鬼〉

 

 

 事の発端は良く知らない。

 クラスメートの一人がなんかダルそうにしているな、と思ったことぐらいか。

 イジメというものがあると、被害者になるイジメられっ子には共通の変化があるようだ。

 あまりにもストレスが溜まりすぎて、バイタリティとかモチベーションが欠如していき、ダルそうになるのである。

 普段の動きが緩慢になって、忘れ物が増えたり、ぼうっとしていることが多くなる。

 実際のところ、俺もそんな風になっていたと思う。

 そういうのをイジメの兆候とかサインとかいうらしいけど。

 ダルそうにしていた男子がそのうち、腹なんかを押さえだしたりしても、まだ俺は何も気がつかなかった。

 さすがに変だと気がついたのは、スマホの着信音に怯えだした時かな。

 しかも、耳に当てての第一声が、「ごめん」と謝りだしたので、おかしいと思った。

 着信音が鳴ったらすぐに出ているのにだぜ。

 そこには、相手の気分を損ねてはいけない上下関係のようなものが存在していた。

 俺はここでピンときた。

 様子を窺うと、他にも同じような感想を持っているのがいるらしいこともわかり、「ああ、イジメだな」と推測できた。

 とはいえ、俺のクラスにはそいつをイジメるようなやつらはいなかった。

 少なくともクラスメートには。

 注意してみるようになると、体育のときの合同授業の時に、そいつにやたらと絡む連中がいることに気がついた。

 五人ほどいて、隣のクラスの連中だ。

 全員顔は知っていたが、名前は一人しか知らない。

 そいつらがイジメっ子だったという訳だ。

 さりげなく会話を聞いてみると、どうも中学が一緒で予備校も同じという関係らしい。

 しかも、カツアゲのような真似をさせられていると。

「ゴチになります」とかいう例の長寿番組を真似てファストフードを奢らしたり、親が病気だからと見舞金を出させたりとかしていたようである。

 さすがにどうしようかと思った。

 そいつへのイジメは見てみぬふりをしたくなかったが、巻き込まれんのは俺も嫌だ。

 イジメグループはわりと優等生っぽく振る舞う連中なので、下手にとばっちりを受けて教師の心証を悪くしたくないし、被害者のクラスメートともそんなに親しい間柄ではない。

 エスカレートしていくのはわかっていたけれどどうしようなかった。

 ただ、そんな心配は杞憂に終わる。

 何故かっていうと、とても簡単だ。

 ターゲットが俺になったからだ。

 心配している暇どころか、当事者にまで()()()となった訳。

 理由も簡単だ。

 最初の被害者となったクラスメートが、俺を「売った」のだ。

 特に理由もない理不尽な動機でそいつらに絡まれるようになると、同じようなパターンで俺も変わっていった。

 登下校の最中にやってくるのだ。

 もともとボッチ気味の俺だったので、庇ってくれる親しい友達もおらず、すぐにまとわりつかれて離れなくなっていった。

 しかもまずいことに、イジメグループの一人の弟がうちの弟と同級だったのだ。

 うちの弟は俺に輪をかけて内気なタイプで、何かされたらすぐに死んでしまいそうなぐらいに気が弱いから、あいつを人質にとられたらもうダメだった。

 母親がケチなので金は自由にできなかったこともあり、カツアゲ被害こそ少なかったが、もう俺を人間としては見ていないらしい奴らの激しい殴る蹴るが繰り返されるようになった。

 例のクラスメートは「財布」として機能するだけで、奴らの日頃のストレスの発散のために俺は使()()()()

 具体的に思い出すのは億劫なので箇条書きにすると、

 ・殴る蹴る → 日常

 ・体育のジャージを水浸しとか汚物まみれにされる

 ・教科書・副読本の類いを棄損させられる

 ・水の入ったバケツに顔を突っ込まれ、腹を蹴られて痔になりかける

 などの深刻なものを受け捲った。

 当然、俺も生き残るためにやることはやろうとしたけど、まず担任というか教師陣が信用できなかった。

 ちょっと前に、生徒間で問題が発生した時、クレームをつけてきたいかつい保護者に対して担任が土下座するシーンを見ていたからだ。

 保護者の言い分は理不尽なもので、学校側が頭を下げる、ましてや土下座なんかをしていい場面ではなかった。

 それなのに場を収めるための大人の対応だと、受け持ちの生徒がいるだろう場所で土下座をしてしまったのだ。

 彼らは、教師と保護者間の大人としての行動だと考えていたかもしれないが、生徒―――というか子供はよく見ている。

 信頼に足りる大人であるかどうかの判断を常に観察しているのだ。

 だから、うちの担任や教師陣は、困ったときに正しいことを主張するのではなく、その場凌ぎの逃げに走る人間だと見抜かれてしまっていた。

 そんな大人をイジメられっ子は「先生は助けてくれない」「助けてくれないだけでなく、相談にも乗ってくれないだろう。仮に乗ってくれても何もしてくれないだろう」とみる。

 逆にイジメっ子は「バレたとしても先生は何もできない」と決めつける。

 特にバレないイジメをするような狡猾な生徒は大人や周囲の顔色を窺うことに長けていて、いい子の仮面を被っている。

 大人を見極める術をもった子供(ガキ)というのは恐ろしいものだ。

 だから、俺は担任に相談もできず(成績があまりよくない生徒というのは、教師に話しかける権利がないと思っているような男だったということもある)、エスカレートするイジメに耐えきれなくなっていった。

 だが、そんなある日、おかしなことが起きる。

 俺を殴る蹴るしている映像がネットの動画サイトにアップされたのだ。

 イジメグループはそのまま素顔で、俺のところだけモザイクがかかっていた。

 もっとも、俺だけでなくて他にも別の人間へ暴行を加えている映像もあったので、俺は被害者の一人という位置付けではあったが。

 そこからは急展開だ。

 動画はSNS上を駆け巡り、すぐにまとめサイトができて、匿名掲示板にスレッドができて、検証Wikiなんかもできた。

 まあ、誰かが糸を引いていたんだろう。

 あっという間にイジメグループは有名になり、処分を受け、一人がおかしくなって、ガソリンを持ち出して例のクラスメートに火をつけるという事態になった。

 刑事事件になるとさすがに色々と変わってくる。

 俺はさらに目立たなくなり、むしろ直近・喫緊の被害者であったはずなのにほとんど表に出ることもなく、誰にも顧みられなくなった。

 なんだってんだ、と思うまもなく。

 で、一人が死んで、しばらくしてからあの鬼が俺を付け回すようになったということであるのさ。

 

 

          ◇◆◇

 

 

「……て、こんな感じだよ。―――です」

「誰も敬語使えなんて言ってねえだろ。普通にタメ語で喋れ」

「そうはいってもですね……だぜ」

 

 どうもイジメられていたという時期があっただけでなく、俺は強圧的なやつに対して下手に出やすい性質らしい。

 屈服しやすいというか。

 だから、ちょいちょい情けない反応をしてしまう。

 

「いいよ、普通で。まあ、てめえは黙っていても余計なことをペラペラいって癇に障ることをしでかして墓穴を掘るタイプみてえだけどな」

「そんなことは―――ないぜ」

「あるな。まったく、オレのダチの助手みてえに弁えていればいいのに、てめえときたらいらねえ一言をいいまくりそうだ」

 

 ……俺って、そんなお調子者か。

 まあ、口が軽いのは知っているけどよ。

 

「だが、だいたいのところはわかった」

「そうなのかよ? で、あの(バケモノ)はなんなんだ?」

「―――〈追儺の鬼〉だな」

「ついなのおに?」

「ああ」

 

 ……このヤンキーというかガテン系の巫女が言うには、追儺(ついな)とは、大晦日に宮中で行われる年中行事の一つである鬼払いの儀式のことをいうらしい。 

 今の節分のルーツであり、季節の変わり目に発生する邪気()を追い払うことを目的としているそうだ。

〈追儺の鬼〉とは、その際に祓われる邪鬼のことであるが、儀式においては鬼に仮装した人間が追われることで表現される。

 鬼を祓うは方相氏(ほうそうし)と呼ばれる役人であったが、時が進むにつれて、この方相氏が鬼の役になっていったという。

 もともとは役人であったものが、鬼を代表する穢れの象徴として災厄を晴らすための犠牲となっていく過程は、社会において悪役やピエロが意図的に作り出され、彼らを迫害することでまとまるコミュニティの残酷さを思い知らす結果と酷似していた。

 要するに作られた差別によって社会を円滑に回すという人間の恐ろしさの現われともいえるかもしれねえ。

 そして、当然、そういう淀んだ儀式によって憎しみや苦しみが生まれ、人の情念が塊となり〈鬼〉になるんだそうだ。

 

「―――最近ではよ、〈追儺の鬼〉ってのはイジメやらなんやらで苦しみ抜いた人間が最後に変貌する化け物としての〈鬼〉のことを指すようになったんだ。なんつーか、世の中にはイジメが溢れてんだろ? だから、わりと頻繁に発生する邪鬼なんだよ」

 

 なるほど、よくあることなのか―――って納得出来っか!

 

「……あんたは見たことあんのか?」

「〈鬼〉の類いなんて、普通によく見かけるな。ぶっちゃけた話、オレだって何体も倒してきたことあるし」

「何体も!」

 

 軽く聞き逃すところだったが、これが本当だとしたらとんでもない女ということにならないだろうか。

 

「だって、オレは退魔巫女だぜ? 仕事でやってんだから、ルーティンワークっぽくよく来る作業でしかねえよ」

 

 この巫女―――レイというらしいのだが―――はまったく恐れることもなく、屋根の上の〈(あいつ)〉を睨みつけた。

 

「とりあえず退治すっか。とはいえ、〈護摩台〉を用意しなきゃならねえから、それはてめえがやれ」

「〈護摩台〉?」

「ああ、退魔巫女が戦うためのフィールドのことさ。資材はてめえの学校の体育館にもう用意してあるらしいから、今夜中に設営して終わらせっぞ」

 

 俺はよく映画であるような木を組んで作るキャンプファイヤーみたいなものを想像した。

 こんなガテン系みたいな格好していても、きっと「ナウマクサンマンターボダナン」とか「キューキュージョリツリョー」とか呪文を唱えたりするんだろう。

 ちょっと燃えてくるものがあるぜ。

 巫女さんによる祈祷合戦か。

 

「―――あんたはどんな呪文を唱えるんだ?」

 

 思わず聞いてしまった。

 だが、明王殿レイは怪訝そうな顔をして、俺の目の前に掌を掲げると、

 

「何を言っているんだ? オレは〈鬼〉をビンタして張り倒すだけだぜ」

 

 と自信満々に言う。

 この時の俺はまだ、こいつの言う「ビンタで張り倒す」という言葉の意味を比喩的な意味だと解釈していた。

 まさに文字通りの意味だとは想像もしなかった。

 

 

 この時は、まだ……。

 

 

 

 



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プロレスリングは巫女の舞台

 

 

 労働を始めて一時間で俺は音をあげていた。

 自慢じゃないが、俺はインドア派で力仕事なんて滅多にやらない。

 だから、うちの高校の体育館に搬入された資材を、設計図通りに組み立てるという仕事もほとんどひいひい言いながらやらなければならなかった。

 最初のうちは、俺から離れたところでストレッチみたいなことをしていた明王殿も、そのうちに手伝ってくれるようになった。

 だって、一人でできる量じゃないんだぜ。

 明王殿は女だが、異常に力のある奴で俺の三倍ぐらいはテキパキと重い鉄筋なんかも運ぶのでだいぶ楽になった。

 ただし、こいつが俺に向ける視線には優しさは欠片もない。

 

『あら可哀想な豚さんね。もうすぐ食肉処理場に運ばれてしまうけど仕方ないわね』

 

 というような冷めた目で見るだけだ。

 文句を言ったら、

 

「あー、或子のところの助手の方がいいなあ。てめえ、貧弱すぎて見込みがねえわ。何かとグチグチ文句垂れるし、根性はたりねえし」

 

 と呆れられた。

 かなり俺への明王殿の評価は落ちているようだ。

 何かというと、友達の助手はいいなんて言うから、「そいつに頼めばいいじゃねえか」と言ったら、何か顔を真っ赤にして「無、無理だぜ。あいつ、頼めばやってくれるだろうけどさ……」と乙女な顔をしやがる。

 美人ではあるがこんな力持ちでゴリラみたいな女がそういう顔をするとムズ痒くなるな。

 そいつに気があるのが見え見えじゃねえか。

 

「オレのことはどうでもいいから、てめえはさっさと設営を終わらせろ、コラ」

「いや、もうすぐ終わるけどさ、ホントに大変なんだって……。でもさあ、これってさあ」

「なんだよ」

「怒らないで聞いてくれよ。おまえは結界のための〈護摩台〉だっていうけど、これって()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 俺は疑問に思っていたことを口にした。

 まず、最初に体育館の床にブルーシートを丁寧に敷いて、六メートル四方に鉄製の柱をおっ立てる。

 次に立てた柱の下に木の板を置き、さらに梁を掛けてしっかりと固定する。

 それから、また木の板とマットレスを交互に敷き四つ折りになっていたキャンパスを重ねて、ついでに輪になっていた三本のロープを張って、緊張(テンション)が均等になるようにした。

 怪我をしないようにマットをそれぞれ四方に配置して出来上がりということなのだが……。

 だいたい六時間ぐらいかけて出来上がりつつあるものはどう見たって、プロレスで試合をするためのリング以外の何物でもなかった。

 俺が想像していた結界とか護摩壇的なものとは明らかに違う。

 明王殿が怖くて完成直前まで言わなかったが、できそうとなれば言わせてもらおう。

 

「なんで、俺がプロレスリングを作らにゃあならんのだ!」

 

 だが、明王殿は平然と、

 

「なんでって? オレがあの〈追儺の鬼〉と戦うための舞台だぞ。妖魅の力を軽減させ、退魔巫女の力を増幅させる結界を張るための最適な舞台だ。これがないといくらオレでも苦戦するから用意させたんだが、なんの問題があるんだ?」

 

 俺の質問をばっさりと切り捨てやがった。

 こいつには巫女のためにリングを作るという奇天烈な行動が変に違いないという思考がないようだ。

 でも、それっておかしいだろ。

 世間一般においては巫女というものはリングで戦ったりしない。

 フィクションの世界で考えてみれば、東の方で主に空を飛ぶ程度の能力しかない巫女だってやらないし、麻布十番に住むセーラー服着たりする巫女だってお札と火力が戦いの基本だ。

 錯乱坊の姪だって暴力は振るうがリングでは戦わないだろう。

 なのに、これが必要っていうのか!

 思わず小一時間ほど問い詰めたくなったが、明王殿の鋭い眼光に黙らされた。

 だって怖いんだもん。

 

「まったく、ホントてめえは口ばっかりだ。京一くんの爪の垢でも飲ませたいぜ」

 

 悪かったな。

 あんたのお気に入りのイケメンほどじゃなくて。

 腹が立ったので文句も言わずに頑張ることにすると、意外と力が出てくるのか、それから一時間もかからずに〈護摩台〉は完成した。

 どう見てもプロレスリングだけどさ。

 

「よし、そろそろやるか」

 

 明王殿がリングの真ん中に立った。

 俺を手招きするので近寄ったら、首の根っこを掴まれて、上まで引きずりあげられる。

 それを片手でするのだから、この女はバケモノだ。

 俺だって体重は六十キロはあるし、激しく暴れたからそう簡単に掴み上げられるものではないのに、こいつは楽々と俺を持ち上げる。

 さっきも十キロはあろうというリングの金具を平然と幾つも運んでいたし、馬鹿力なのは疑いのないところだ。

 

「な、なにをしやがる!」

「黙れ。ちょっと正座しろ」

「はい」

 

 俺は抵抗もせずにマットの上に正座した。

 もう条件反射、パブロフの俺だ。

 ただ、明王殿はそんな俺を気にもせずに叫んだ。

 

「おい、こいつを狙っている〈追儺の鬼〉! 貴様がこいつを狙っていたとしても、オレを倒さなければ指一本触れることはできねえぜ。わかっていると思うが、オレがいる限り貴様の呪いは成就しねえ!!」

 

 その言葉に応えるように、体育館の入り口の付近に黒い影がぽつんと現われた。

〈追儺の鬼〉。

 明王殿が呼んでいる〈鬼〉だ。

 恨めしそうな眼で俺と明王殿を睨んでいる。

 

「こいよ、〈鬼〉。他人の眼が怖いようだが、〈鬼〉としての呪いを成就したければオレを倒すしかねえぜ」

 

〈追儺の鬼〉は一歩近づいてきた。

 

「世の穢れを押し付けられた仮装鬼であるおまえが自由になるためには、おまえをそんな風にした原因を殺さなくちゃならないからな。さっさとリングに上がれ。おまえがこいつを殺すためにだ」

 

 なんてことを唆しやがる。

 俺は死にたくないし、そのためにあんたはここに来たんだろうが。

 恨めしそうな陰気な〈鬼〉はついにリングの傍までやってきて、のっそりと登ってきた。

 でかい。

 猫背だが、まっすぐに立ったらきっと明王殿の二倍はある。

 そいつが上から俺たちを見下ろしていた。

 血走った赤い双眸で。

 

「よく来たな。おまえ、そんなにこいつが憎いか」

 

 明王殿は一切の怯えのない声で聞いた。

 

『殺してやるぅぅぅぅぅ。おまえさえいなければ、おまえさえいなければあああああ!』

 

〈追儺の鬼〉が絶叫した。

 やっぱり俺を相当恨んでいるらしい。

 とはいっても、俺はイジメられていた側で、本来おまえが恨むのはイジメていた方だろ、と思ってしまう。

 きっとこいつの正体は、あのクラスメートに違いない。

 だって、腕についている火傷の痣はどう見てもガソリンをかけられたというあいつのものに間違いないからだ。

 ただし、あいつはまだ生きているから死霊というわけではなさそうで、生霊とかそういうものが〈鬼〉になった姿なのだろうか。

 どう見ても鉄板でも切り裂けそうな爪と、尖った牙が、震えがくるほどに恐ろしい。

 よくこいつの前で明王殿は正気を保っていられる。

 さすがは巫女というところだろうか。

 

「いいぜ、逃げ隠れをやめた姿勢は評価してやらあ。ただなあ、おまえ……」

 

 明王殿は正座した俺の首根っこを再び掴むと、ゴミでも捨てるかのようにポイっとリング外に放り投げた。

 自分で敷いたマットのおかげでケガをせずに済んだが、とりあえず酷い扱いすんな!!

 

「……てめえが弱いということのショックを他人に(なす)り付けるのは止めた方がいいぜ。そんなことではまともに世間を歩くこともできねえからな!」

 

 明王殿が啖呵を切ったと同時にどこからともなく、カアアアアンというゴングの音が鳴り響いた。

 なんだ、今のゴングは誰が鳴らしたんだ。

 見渡しても誰もいない。

 ただ、リングの上にいる明王殿と〈追儺の鬼〉はまるでプロレスの試合でも始まったかのように正面からぶつかり合っていった……。

 

 



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不動の〈神腕〉

 

 

〈追儺の鬼〉には腕に生々しい火傷の跡があるぐらいで、俺のクラスメートを思わせる部分はまったくなかった。

 金属タワシを思わせる毛むくじゃらの皮膚と捻じれた四肢を持つ巨人であった。

 耳まで裂けた口と鮫の歯のような牙の連なりは、どうみても獰猛な動物のものだが、眼に浮かんだ憎悪の色が否定しやがる。

 あんな目をした動物は―――いねえ。

 金しか頭にない最悪のブリーダーに虐待された動物たちですら、こんな不気味な視線はよこさない。

 あれは恨みと苦悶と憎しみに浸かりきったものの眼だ。

 負の感情で淀み切って嫉みと妬みを食んで存在するもの。

 うわ、これほど間近でしかも時間を掛けて観察するとこれほどまでに不気味だとは……。

 ニメートル五十センチはあるだろう長身は、上から舐めるように明王殿を見下ろしているほどだ。

 まるで大人と子供。

 それなのに巫女は怯みもしない。

 曝け出した腕を組んで、どっしりと仁王立ちをしている。

 何者も顧みぬ笑みが、そこに拍車をかける。

 

「でかいな。だが、それだけじゃないんだろ? おまえの動き―――縮地って訳じゃなさそうだし……」

 

 明王殿は噛んで含めるように一音節ごとに区切って、

 

「しゅ・ん・か・ん・い・ど・う―――だな」

 

 と悩殺でもできそうな色っぽい声を出した。

 思わず股間がムズムズする。

 あんなゴリラ女に反応してしまうとは……不覚。

 しかし、今の明王殿の台詞って……

 

「瞬間移動って……」

 

 俺はわりとオタなのでわかる。

 要するにテレポーテーションのことだ。

 超能力の一種で、時間ゼロで移動をするというものである。

 目にもとまらぬどころか目に映ることのない速さなので、ある意味では最強の超能力といってもいい。

 なんといっても、聞いた話では人間の反射速度は0.5秒。

 予測が出来ていてそれだから、相手が消えて、どこに出てくるかかがわかっていなければ反応なんて絶対にできないレベルなのだ。

 そこでようやくわかった。

追儺の鬼(あいつ)〉が俺の目の前から消えていなくなる理屈が。

 ただ、俺があいつの動きに反応できるはずはないから、俺が気づいたと同時に消えるようにしているのだろう。

 何故だって?

 そんなのはもう簡単にわかる。

 あいつの眼を見ればな。

 あの〈追儺の鬼〉は俺を苦しめて、苦しめて、最後に殺したいのだ。

 俺がやられてきたイジメの延長みたいなものだろう。

 だから、一思いに殺らない。

 あれだ、苦しめた方がいい味が出るとかいう変な調理法みたいにものだ。

 明王殿が俺を見たときのように、俺は食用に回される哀れな家畜なので、少しでも味を良くしたいのかもな。

 だから、ちょいちょい俺をイビり続けたのだろう。

 人目があると逃げ出すというのはよくわからないが。

 

「言っておくが、この〈護摩台〉の結界に入った以上、おまえは瞬間移動したとしても外には逃げられんぞ。この上と場外の狭い場所以外はな」

「え、そんなもんがこのプロレスリングにあるのか!?」

「―――いいな、〈追儺の鬼〉」

「……おーい」

 

 俺の当然の疑問を明王殿は完全にスルーしやがる。

 まあ、仕方ないのはわかる。

 あいつはあの〈鬼〉と対峙しているわけだし、気が抜けないのも。

 戦いの舞台に立っているのだから。

 だが、明王殿の手には呪符とか祓い串の類いもない。

 どうやって戦う気なのだ。

 まさか……素手……とか?

 炸裂ファイターじゃあるまいし。

 と、高をくくっていたら、

 

「フンが!!」

 

 明王殿の突き上げるような重い拳が〈鬼〉のどてっ腹に叩き込まれた。

 鉄みたいな腹筋に手首まで突き刺さっている図は圧巻だ。

 というかとんでもない音がしたぞ。

 人間のパンチが出していい類のものじゃねえええええ!

 

「どっせい!!」

 

 次に明王殿が左手を振るうと、それはビンタとなって〈追儺の鬼〉の横っ面を(はた)いた。

 (はた)いたという言葉が軽く感じすぎるほど、トラックにでも跳ね飛ばされたような勢いで何回転もして〈追儺の鬼〉はロープまで飛んでいく。

 ロープにぶつかっても帰ってこない。

 あまりの勢いにそのまま場外へと飛び出してしまったからだ。

 しかも俺の目の前に。

 

「ひええええ!!」

 

 情けない悲鳴を上げて俺はその場を逃げ出した。

 一回転して、リングの反対側まで行って、〈追儺の鬼〉との間に明王殿が入るような位置をキープした。

 これで一安心だ。

 少なくともあいつが直に俺のところにやってくることはない。

 明王殿を盾にするだいぶクズみたいな発想だが諦める。

 だって、明王殿の方が俺よりも一億倍は強そうなんだぜ。

 あんな巨大な化け物をビンタで吹っ飛ばす女なんて、ゴリラよりもきっと強え!

 さらに言うと、渾身の一撃ってわけでもない無造作に腕を振っただけの動きしかしていないのにあのパワーはまったく信じられねえ。

 物理的にあり得るのか、可能なのか?

 ここでようやく俺は明王殿が巫女であるということを完全に信じた。

 百聞は一見に如かずとはまさにこのことだ。

 とは言っても、巫女が素手でリングの上で〈鬼〉と戦うという絵面の荒唐無稽さに関しては今だに納得できないが。

 

「スゲえぞ、明王殿―――さん……」

 

 呼び捨てにしたら鬼よりも怖い顔で睨まれた。

 思わず敬称をつけてしまう。

 やっぱり、あいつ、ヤンキーに違いないぜ……。

 

『貴様、貴様アア!!』

 

〈追儺の鬼〉の形相はさすがに化け物そのものらしく迫力満点であった。

 あんなものを見てしまったら人はもう夜には眠れなくなってしまうかもしれない。

 ただ俺は大丈夫かもしれない。

 何故ならば目の前に明王殿の背中があるからだ。

 俺の人生においてここまで他人に見惚れたことはない。

 自分の命を押し付けても悔いることのない他人というものを感じたことも。

 

「おいおい、場外で吠えるだけでは始まらんぜ。すでに鐘は鳴っている。来いよ、イジメっ子。てめえが生存競争に負けたからといって逆恨みはみっともないぜ」

 

 明王殿が〈追儺の鬼〉を手招く。

 だが、今、あいつはなんて言った?

「イジメっ子」とか言わなかったか?

 あの〈鬼〉に対して。

 

『ぐおおおおおお!!』

「図星だろ? さっき京一くんに確認してもらったから、もうおまえの正体は知れているんだぜ、〈追儺の鬼〉」

『貴様アアアア』

「ちっちぇえ奴だな。まったく、そこの武徳(たけのり)くんの方がまだ見込みがあるぜ。これだから、他人をイジメる程度のことしかしない奴はイヤなんだよ」

 

 ロープを掴み、リングに昇ろうとした〈追儺の鬼〉の顔面を明王殿ががっと握りしめた。

 アイアンクローだった。

 

「オレの〈神腕〉。その甘い根性のままで、食らってみるがいいさ」

 

 そういうと明王殿は遥かに巨大な〈鬼〉をリングにまで引きずりあげる。

 退魔巫女・明王殿レイ。

 ホントになんて奴なんだろう!

 

 

 

 



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ヒトの本能

 

 

〈追儺の鬼〉の周囲に風が渦巻いて、〈鬼〉は消えた。

 次に現われたのは、消えたのとほぼ同時、明王殿の真後ろに太い右腕がハンマーのように振り下ろされる。

 俺が我が目を疑っている間の出来事だった。

 あんなものが当たったら即死しちまう!

 しかし、そんなことにはならなかった。

 なんと、明王殿が身体を90度ずらして半身になり、手を差し伸べてこれを受けたのだ。

〈鬼〉のものと比べて五分の一にも満たない細さの、まさに繊手とも呼べる白い手で。

 襲った〈追儺の鬼〉が驚く。

 どう考えても力の差は歴然というマッチアップだというのに、力比べという一点だけを見てもほぼ互角なのだ。

 もっとも、仰天したのは、それだけじゃあない。

〈追儺の鬼〉はさっきの会話の通りに瞬間移動を使って、明王殿の後ろに回り込んだというのに、眉一筋動かさずにそれを受けたことだ。

 俺や〈鬼〉を片手で楽々持ち上げたことからわかっていたが、あいつの腕力は怪物の領域に達している。

 あんな力があれば、それはあそこまで威風堂々と生きていけるだろうと嫉妬してしまうほどに。

 ただし、それがあるからといって突然死角から放たれた攻撃を防ぎきれるもんじゃあない。

 どうやったんだ、いったいよ?

 

「瞬間移動など奇襲以外には使えねえぞ。無拍子というわけでもないしな」

 

 襲った方の〈追儺の鬼〉がぐぬぬと歯を食いしばっているというのに、余裕綽々の涼しい顔をしている巫女さん。

 

「どうやら修業らしいものは一切してねえようだな。力と呪い任せの〈鬼〉そのものということかよ。ちっ」

 

 舌打ちをしてから、明王殿は右足を伸ばしたま腰を下ろした。

 掛けていた力のベクトルが急激に変化したことで〈鬼〉が前のめりに体勢を崩す。あえて言うのならばつっかえ棒が外された状態だ。

 どれだけ力が拮抗していたかがわかる。

 おかげで頭部をお礼をするように〈鬼〉は下げる羽目になった。

 逆に、下げた姿勢に連動させて明王殿は両手が縦に回転する。

 シュバババと打撃音が響き、左右の掌が〈追儺の鬼〉の顔面を叩く。

 一見すると張り手のようだが、実際は手のひらの堅い部分を使った掌打という奴だ。

 さっきから明王殿が多用しているので、あれはあいつの得意な攻撃方法なのかもしれない。

 しかもただのビンタでないのは明確。

〈追儺の鬼〉がマットに叩き付けられることになったのだから。

 

「オレの〈神腕〉とやりあうには弱すぎンじゃねえのか!?」

 

 無様に倒れていた〈追儺の鬼〉がまた消えた。

 今度は空中―――明王殿の頭上に現われる。

 俺の部屋の枕を葬った鋭い爪が閃く。

 

「おっと」

 

 爪の軌道を外すように身体をさばいて、二の腕と上腕部をがっしりと捕まえた。

 そして、ロープに向けて投げ飛ばした。

 先ほどとは異なり、〈鬼〉はロープに背中をぶつけるとその反動で中央に戻ってくる。

 勢いをつけたまま戻ってくる〈追儺の鬼〉を明王殿が待ち構える。

 左手を天に高々と掲げる。

 

「ゴールデン・アーム―――ボンバー!!」

 

 その左手を喉輪の形から〈追儺の鬼〉の首に巻き付け、自分よりもはるかに巨体を持ち上げると、まるで投げ技を噛ますかのように体重をかけて、背中から叩き付けた。

 持ち上げた一瞬、ぐぐんと揺らすところが特徴的である。

〈鬼〉得意の瞬間移動がされるまえのあっという間の出来事だった。

 どうやら受け身もとれないらしい〈鬼〉は痛みで呻いている。

 明王殿はダウンした敵を追撃しようともせず、コーナーポストにまで戻り、背中から寄りかかった。

 

「―――だせえ。さすがは生存競争を生き抜けない程度のやつだ。てめえなんぞ、そこの武徳(たけのり)くんの足元にも及ばねえ」

 

 明王殿はダルそうに言った。

 どうして俺の名前がでるのかはわからねえけどさ。

 

「イジメってのは、野生や動物の世界にもある。生物の、自然な成り行きってやつだからな。群れの中に弱いのがいたら、集団でいじめて弱らせることで、群れを狙う捕食者に「弱い個体」を囮にして全体を無事に逃げ延びるためだ。緊急回避要員の生け贄ってことだな。そういう仕組みがあるんだ。もっとも、ニワトリや人間は弱い個体を死ぬまでイジメたりするけどさ。バカだから」

 

 明王殿は言う。

 

「まあ、弱い個体を競争で排除して、種としての生存を確保するための本能かもしれねえがよ。つまりは、イジメられるやつは弱いやつなんだよ。よってたかって排除するのが相応しい」

 

 ああ、そうだよ。

 俺は弱くてダメだからイジメられた。

 人間として弱いから誰も助けてくれない。

 それが種としての総意だからだ。

 ヒトにいらないと言われたんだ。

 

「〈追儺の鬼〉ってはそういう本能から産まれた儀式だ。穢れ―――要するにヒトとして弱いやつを追い立てることで社会を頑強にすることができ、使えない個体を消去する。どの時代、どの地域でも似たようなことはしているしな」

 

 ヒトの世のシステムってことか。

 

「―――だが、たいていのイジメられっ子ってのはどれほど苦しい目にあっても、身体を傷つけられても、心が壊されても、死なずに頑張る。イジメられて死んでしまうのは全体からすれば数少ない。つまり、イジメられっ子っては実際はそれほど弱い個体じゃないんだ。地獄を生き抜く根性があるというべきか。そして、現在では〈追儺の鬼〉の発生事例は逆転している」

 

 なんだ、何を言っているんだ、明王殿は。

 話がおかしな方向に向かっているぞ。

 

「昔の〈追儺の鬼〉は迫害された穢れの主が負の感情を抱いて〈鬼〉になった。だが、追儺の儀式が歴史を経るにつれて変貌していったように、〈追儺の鬼〉になるべきものも変わっていく。―――以前は方相氏(ほうそうし)と呼ばれる鬼を払う役目を負った役人が、大内裏の中で掛け声をかけつつ鬼を祓い、追う役を与えられていたのに、数世紀後には方相氏が逆に鬼として追われるようになった。穢れを祓う側が、穢れに関わっているということで逆に忌避されていったのさ。……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。―――今のてめえのようにな」

 

 明王殿は指を〈追儺の鬼〉につきつけた。

 

「生物の生存競争ではイジメられた弱いものは死ぬ。じゃあ、イジメられて死ななかったらそれは弱いものではないってことだ。逆に執拗にイジメても殺せなかったやつの方が弱いのではないかということになる。穢れは移り、今度はイジメられっ子がイジメの対象になるんだ。てめえのようにな」

 

 ―――よくわからないが、そういうことか。

 あれは〈追儺の鬼〉ではあるが、イジメられっ子が負の感情をもって〈鬼〉になったものではなく、イジメっ子が〈鬼〉と化したものなんだ。

 でも、どうして、俺がイジメっ子に狙われんだよ!

 普通は逆だろ!

 

「自分たちのやったイジメが動画で拡散したからといっても、それは武徳くんの責任ではないし、第一あいつの仕掛けた罠じゃねえぞ。てめえらが周囲に疎まれるようになったとしたってな。誤解で妖怪になるまで恨むなんて、やっぱりてめえは生存競争に負けるていどの弱い奴ってことさ」

 

 そこまで語ると、巫女は再びリングの中央に向かった。

 神の力が宿っているかのごとき〈腕〉を振り回しながら。

 

「てめえの本体はまだ生きているらしいぜ。ここでお陀仏させたいところだが、きっつい気付けの一発をくれてやるから、とっとと目を覚ませや」

 

 明王殿は拳を掌に叩き付ける。

 

「お喋りはもう終わりにするとしよう。〈神腕〉の明王殿レイ―――今から鬼退治を開始する」

 

 

 



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生きてりゃ強いさ

 

 

 体育館が〈追儺の鬼〉の絶叫を受けて震えた。

 耳にしたものすべてがトラウマになりそうな、草花が枯れそうな、そんな呪わしい叫びだった。

 気の弱い小動物程度なら即死していてもおかしくない。

 それほどまで魂を凍りつかすマイナスのエネルギーを有した声に対して、俺は両手で耳を塞いだ。

 直接鼓膜を震わされるのが耐え難い苦痛でもあったからだ。

 だが、リングの上で〈鬼〉と一対一のままぶつかりあっている明王殿は平然としたものだった。

 拳を鳴らした格好で身じろぎもしない。

 

「虚仮脅しだな」

 

〈追儺の鬼〉の絶叫を、春のそよ風ほどにも感じていないらしい。

 しかも、〈鬼〉がまたもや瞬間移動を使って、あいつの後ろや頭上に次々と出現しても、明王殿は涼しい顔をしていた。

 消えて、現われて、消えての繰り返しでほんの一瞬だけ残像がでるからか、俺の眼には〈鬼〉が分身の術でも使っているかのようにしか見えない。

 リングを埋め尽くすように化け物が増殖していく。

 時間ゼロで、好きなところに移動でき、しかもそれを何千・何万回と繰り返すことができる。

 人間の眼では捉えることができない、まさしく「触れもしないスピードには、どんなパワーも通じない」という状態だ。

 明王殿の奇天烈なパワーだって、こんなに移動されまくったりしたらどうにもならないだろう。

 俺は今にもあいつが噛み殺されるんじゃないかと想像していた。

 ぶるっていた。

 異常な量の脂汗が垂れていく。

 足がガクガクしていた。

 もしも明王殿がやられたら、その後で殺されるのは俺だから、という訳じゃない。

 俺なんかを助けようとしてくれたいい奴が殺られちゃうのが我慢ならなかったのだ。

 ガラは悪いし、性格も大雑把だけど、明王殿はとてもいい奴だ。

 こんなところで化け物にやられていいはずがない。

 ただ、俺なんかじゃあいつの手助けはできない。

 見ているだけしかできなかった。

 明王殿が俺をちらりと見やった。

 情けない俺の、みっともない顔について、あいつはこう言った。

 

「なんて湿気た顔してんだよ。女が戦ってんだから、男がやるこたあ一つだろ」

「―――一つってなんだよ!?」

「声を上げんのさ。頑張れって。……京一くんなんかいつもやっているぜ」

 

 京一って誰だよ。

 そんな奴知らねえよ。

 他人と俺は違うんだ、この筋金入りの脳筋め。

 だが、おまえが言うんならやってやるよ。

 声を張り上げてやる。

 全身全霊を賭けていってやる。

 

「が、頑張れェ! 頑張れ、明王殿!!」

「裏返ってんぞ、声が」

 

 うるせえ、俺はこんなだから、誰かのために叫ぶなんて滅多にないんだぜ。

 その俺が必死で恥も外聞もなく応援するのはなあ―――

 

「明王殿、頑張れぇぇぇぇ!!」

 

 おまえに勝ってもらいたいからなんだよ!

 

「よし、見てろや。オレの勁悍なファイトを」

 

 会話の最中も四方八方を囲むように、消えては出現する〈追儺の鬼〉に対して、明王殿は構えを崩した。

 だらりと全身の力を抜き、ゆっくり歩きだす。

 だが、その歩き方は確実に普通のものとは違う。

 人間の身体の真ん中にある正中線を維持したまま、モデルのように左右へ揺れることが一切ない、ある意味では止まっているような歩き方だった。

 しかし、俺程度でもわかるのは、これは打ち込む隙が皆無に近いということだ。

 こんなものに仕掛けたら、敵は無謀な攻撃を強いられることとなるだろう。

 ただし、〈追儺の鬼〉は逆上しているのか無造作に動き出したように見える明王殿に対して背後のしかも腰から下の位置から襲い掛かった。

 そんな死角からの攻撃なんて躱せるはずがない。

 ところが、爪が柔肌を引き裂く寸前、その手は明王殿の右肘と右ひざに挟まれていた。

 防御とともに相手を砕く技なのだろう、凄まじい破壊音が響き渡る。

〈追儺の鬼〉の手が壊されたのだ。

 どうやって予測したのか想像もできないが、確かに明王殿は〈鬼〉の攻撃を見破っていたのだ。

〈鬼〉は再び消えて、今度も背後に出現する。

 ただし、今度も寸分のズレもなく突きだされた明王殿の掌の一撃がカウンター気味に入る。

 もう何の疑いもない。

〈鬼〉の瞬間移動は完全に見切られていたのだ。

 

「……攻撃の時のモーションを消せていないし、殺るぞ、殺るぞという意識を表に出し過ぎだ。どんなに速くても、そんなんではオレらにはタイミングが見破られて当然だぜ」

 

 明王殿はいとも容易いことのように説明した。

 

「それに、イジメっ子らしく手の出し方が姑息すぎて読みやすい。まあ、精神が幼稚なんだろうが、イジメなんてしている暇があったらもう少し自分を磨くべきだったな」

 

 もう瞬間移動も効かないとわかったのか、正面から唸りを上げて特攻してくる〈追儺の鬼〉に対して、

 

「おまえの馬鹿さ加減を悔い改めな」

 

 と、上体を完全に螺旋に捻り、足を一度抱え上げた勢いを活かし、そのまま右手をトルネードのように回転させて、右の掌を叩きつけた。

 ビンタなんてものじゃない、神の張り手。

 俺はその時に明王殿の背中に、名前のごとく不動明王のような荒ぶる神を目撃した。

 まさにG螺旋(ジャイアントらせん)!

 

「さらば!」

 

 明王殿の言葉通りに、その火山の噴火のごとき不動明王の一撃を受けて、〈追儺の鬼〉は燃えるように灰になって消滅していった……。

 

 

      ◇◆◇

 

 

「……おまえをイジメた挙句、逆上して、被害者にガソリンをぶっかけて火をつけたイジメっ子グループの一人があの〈追儺の鬼〉だ。被害者側の方が比較的軽傷で済んだのに、ドジこいて自分の方が酷い火傷をおったというバカのことさ」

 

 すべてが終わり、撤収という段階になって、手伝いにきてくれた明王殿の所属している〈社務所〉という組織の人たちと片づけをしていると、あいつが今回の件の詳細を説明してくれた。

 

「一人死んだと、てめえは言っていたが、実際のところは生きていたらしい。マスコミやらネットの追及を逃れさせるために死んだことにして、転校させるつもりだったらしいぜ」

「……俺や最初にイジメられていたやつが学校にいるのに、加害者側には手厚いよな」

「もっとも、意識はほとんど戻っていなかったらしく、三か月ほどベッドに寝た切りだったそうだ。で、つい四日ほど前、意識が少しだけ回復したが、現実を知って再び気絶したそうだ。やはり、世間的に悪逆非道のイジメっ子として名前と顔が広まってはどうにもならなくなったんだろう。生きていくのが辛くなって精神世界に引きこもったということだ。で、おまえを恨んで恨んで〈鬼〉にまでなったということのようだぜ」

 

 酷い話だ。

 勝手にイジメをして、逆恨みか。

 

「なんで、俺なんだよ」

「……あの出回った動画を見て、てめえが隠し撮りしたものだと誤解したんだろ。他にもあったのにてめえだけを標的にしたあたり、特に負い目やら罪悪感があったんだろうぜ。だから、武徳くんだけを執拗に狙った」

「―――勘弁してくれよ。ホント、碌な目にあわねえ。長い間イジメられていたと思ったら、今度はバケモノに襲われるしさ」

 

 明王殿は肩をすくめた。

 

「それで死んでいねえんだから、てめえは強いんじゃねーのか。末法の世でも生き残れるものが一番の強者だ。てめえみてえな殺されなかったイジメられっ子って奴にはそういうタフさがあるんだよ」

 

 まったく乱暴な物言いだぜ。

 元々強く生まれたのがはっきりわかる奴はいいよな。

 俺たちみたいなのは、少しずつ自分の強さ弱さを確認しながら生きるしかねえってのに。

 

「ほんじゃあ、オレは帰るぜ。明日も高校があるんでな」

 

 俺は目を剥いた。

 

「あ、あんた、高校生なのか!?」

「アアン? オレが女子高生で悪いのかよ。いっとくがよ、オレよりも遥かにイカレてんのにJK気取りのバカだって世の中にはいるんだぜ」

 

 いや、だって、こんな変人が普通に学校行っているとは信じられないだろ。

 まあ、別にいいか。

 一人や二人こういうのがいてもよ。

 そして、俺は最後に気になっていたことを聞いた。

 

「京一って誰なんだよ」

「んー、てめえが〈護摩台〉作っている間に色々調べてくれたダチの助手だよ。さっきの真相っぽいのもつきとめてくれたのは京一くんだ」

「―――そいつ、いい男なのか?」

 

 すると、明王殿は顔を少しだけ紅くして、

 

「ふ、普通だぜ。ち、ちょっと頭が良くて頼りになるだけでよ。―――てめえにゃ関係ないだろ!! じゃあな、あばよ!」

 

 と、あたふたと去っていった。

 去り際だけは何故かまっとうな女の子に見えやがる。

 

「ちっ」

 

 俺は舌打ちした。

 胸の奥でもやもやするこの感情を一刻も早く忘れたいのに、なかなか消えてくれないことを確認してしまったせいであった……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考・引用文献

 「いじめと探偵」 阿部泰尚 幻冬舎新書

 



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第21試合 妖魅問答
とある不動産調査士の憂鬱


 

「人の消える家?」

 

 不動産調査士の高儀(たかぎ)誠司は、依頼主にあたる不動産屋の説明を聞いて眉をひそめた。

 今までに何度か依頼を受けたことがあるが、そんなことを事前に言われたのは初めてだったからである。

 

「……事故物件ってことですかね?」

「いいや。今までに人死にがあったことはないな」

「じゃあ、どうして人が消えるんです?」

「それを君に調べて欲しいんじゃないか。はい、鍵と資料」

 

 喫茶店のテーブルの上に置かれたファイルと鍵の入った袋を見て、高儀は嘆息した。

 どうやら断っても無駄のようだ。

 

「あのですね。私が調査するのは、不動産の資産価格とか役所の長期都市計画の有無とか、そういう法的・実務的な問題でして、そんな探偵みたいなことをするのは仕事のうちに入っていないんですけど」

「何を言ってるんだ。君がフリーでこういう仕事をやってられるのは、この手の調査における信頼度があるからじゃないか。通り一遍の調査だけだったら、不動産業者(わしら)が自分でやるさ。君に期待されているのは、それ以上のものなんだぞ」

「はあ……」

 

 高儀はファイルを手に取り、ペラペラとめくった。

 ごく普通の一軒家の写真と見取り図、ついでにこれまでの所有者・借り手の書類のコピーだ。

 特に異常がありそうには見えない。

 

「いや、仕事というならやりますけどね。一週間でいいですか?」

「それでいい。とにかく、わしが君に頼みたいのは、こいつが本当にヤバイ物件なのかということだ。色々な不動産屋を流れ流れてうちの事務所にやってきたが、わしらの責任問題になるのはごめんだからな」

「扱わずに塩漬けにしておけばいいじゃですか。ついでいうと、そんな危険な物件を私に調べさせるつもりですか?」

「君はこの手のものは得意じゃないか。なんなら、また死体を発見してくれても構わないぞ。問題があるとしても客に引き渡す前に発覚してくれたほうが助かるからな」

「……わかりました。やりますよ」

 

 高儀がこの仕事を引き受けたのは、こういう経緯によるものだった。

 やりたくてやる訳ではなく、フリーの不動産調査士などという職業の彼にとっては選択の余地はあまりなかったというべきか。

 依頼人と会見したその日のうちに、高儀はインターネットでの調査と関係する役所での書類調べを終えて、一通りの情報を収集した。

 問題の一軒家のある場所は、何らかの土地開発計画がある土地でもなく、路線価もそれほど悪い訳ではないようだった。

 都市計画というものは行政が下手をしたら百年単位で計画しているものもあり、よくよく調べてみたら数十年後には道路になる予定の土地というものはいくらでもある。

 当の役所が忘れてしまっているものというのもあるぐらいだ。

 区内にある裁判所の施設など、法律の専門家が関わっているのにも関わらず誰も将来の道路計画に気づかれずに建設されて、将来的には立ち退かねばならないことになったという笑い話もある。

 高儀の仕事はまずそういう法律的瑕疵が存在しないかを探り当てることにある。

 それから、直接現地に赴き、写真を撮ったり、近所の住民に聞き込みをしたりする。

 フリーの不動産調査士とはそういうもので、都内の不動産屋が自分の所管する物件になんらかの異常を感じた時に彼らの代理で調査するのが仕事であった。

 必ずしも報酬が安くもない彼に仕事を振る以上、そこには大きな問題があるのが基本だ。

 家賃を滞納し続ける前住人がまだ住みついているとか、どういうわけかストーカーがつきやすい部屋とか、最悪の場合、犯罪に巻き込まれるおそれもある。

 以前に誰かが自殺したとか殺されたという記録のある事故物件の場合、幽霊っぽいものに遭遇することもある。

 高儀自身ははっきりと見たことはないが、それはいわゆる霊感というものが薄いからであり、何かいるなと思ったことはあった。

 その勘を頼りに色々と調べてみると、実は葬式を出せずに困って届けを出さずに勝手に埋葬された死体を発見したという実績もある。

 不動産調査士としての高儀は、そういう()()()()()調査ができることがウリであり、おかげで独りなら食っていける程度の稼ぎがあった。

 フリーの仕事としては珍しいものと言えた。

 

(とはいえ、今回はちょっと嫌な予感がするな)

 

 高儀が渡された資料には、今回の調査対象物件は日野市にあるとのことだ。

 区内の不動産屋が扱うには遠すぎる。

 それだけで妙だった。

 

「中央線で行けるか」

 

 フリーの仕事らしくフットワークが軽いのが高儀の信条だ。

 翌日には現地に赴いていた。

 

 ……いかにもな一軒家だった。

 しかも、庭と周囲の荒れ地が一体化していて、どこが境界かもわからない。

 あらかじめ用意していた図面がなければ、家の敷地の範囲すら把握できないぐらいであった。

 もともとあったらしい塀などはほとんど見当たらない。

 十年以上放置されていなければ、こんな有様にはならないだろう。

 高儀はデジカメで外から写真を撮りまくった。

 心霊写真になったりしていないか祈りながら。

 一通り、撮り終わると、少し離れたところにある人家に足を運んだ。

 目的の一軒家は、荒れ地の真ん中にあるようにポツンと建っているだけだが、距離はあるとしても隣家は普通の住宅街の外れのようになっている。

 高儀がここにくるのに使ったバス停もあり、少なくない数の住人が暮らしているらしい。

 

「すいません、ちょっといいですか」

 

 バス亭にあるベンチに座っていた中年女性が顔を上げた。

 不審そうな顔をしている。

 この辺りでは見かけない顔であるから仕方のないところだった。

 

「なんでしょう」

「私は不動産屋をしてまして、今度あそこにあるお(うち)を扱うことになったので、調査をしておりまして……」

「はあ」

 

 表情が堅くなった。

 何か知っているな、と高儀は睨んだ。

 少なくともただのご近所の話をするためには似つかわしくない表情だった。

 

「しばらく誰も住んでいないみたいなんですけど、以前の住人の方について何かご存知ではありませんか?」

 

 すると、女性は眉をしかめ、

 

「―――あそこは止めた方がいいですよ」

 

 と警告してきた。

 予想通りだな、高儀は内心で思った。

 

「何故でしょう。当社ではもうあの物件の譲渡を受けてしまっていて扱わざるを得ないのですけれど……」

「悪いことはいいませんから、売ったり貸したりしないでおくのがいいと思います」

「どうしてですか?」

「あそこには、誰も住めないんですよ」

「……?」

 

 まあ、確かに荒れ果てていて住むには徹底的なリフォームが必要だろうけど、住めない環境ではない。

 実際、こんな近くに人がいるじゃないか。

 このおばさんだって近所に住んでいるんだろ?

 

「今まで結構な人が引っ越してきましたけど、だいたい三か月もしないうちにいなくなってしまうんです。あたしが知っているだけでも、この十年で五回ぐらいかなあ」

「……夜逃げ、とか?」

「そういうことになっていますけどね。警察も調べたんですよ、町内会長が頼んだんで。結局、何も見つからなかったみたいですけど」

 

 高儀としては、あんな殺風景で少し孤立した一軒家だと何かあっても近所に伝わらないから、もともとそういう傾向のある人間が住むのに適しているのだと考えた。

 孤立気味の人間だったら、いつ引っ越すかを近所に告げないこともあるだろう。

 偶然が重なっただけではないか。

 

「そんな怖い話があって、よく皆さん、ここに住んでいられますね」

「うーん、あたしがここに嫁いできてから二十年は経つけど、あそこの家のことぐらいしか変なことはないしね。ほら、映画の『入ると死んじゃう家』ほど有害でもないし、子供たちさえ気を付けておけば大して問題ないから」

「はあ」

「あと、ここからじゃわからないけど、奥の方に多摩川に続く支流があってね。そこのおかげか、冬も暖かくて夏は涼しいんだ。蟲がちょっと多いけど。かなり過ごしやすいのさ」

「……へえ」

 

 高儀は地図を見た。

 確かにあの一軒家の奥に小川のようなものが流れている。

 五百メートルほどで多摩川と繋がっているようだった。

 

(こんなのが裏にあると売れないよなあ……)

 

 そういう土地は開発しづらいので売り物としては難点があるのが普通だ。

 例の一軒家は「人が消える」という悪い評判は抜きにしても、売り物としては低評価にしかならない。

 とはいえ、高儀にはどうでもいいことだった。

 彼の仕事は不動産、土地と家屋の調査だけなのだから。

 売れる売れないは依頼人の領分だ。

 さっきまでの場所に戻ると、申し訳程度についている門を抜けて中に入る。

 雑草が多いが、誰かが住んでいた形跡はある。

 まだ乗れそうな自転車などが放置されていた。

 鍵もかかっていないようなのに盗まれもしなかったようだった。

 つまり、盗人も近寄らないということかも。

 玄関の鍵を開けて、中に入る。

 猫のような声がして、そこに体育座りをした佐伯俊雄や母親の伽椰子がいたりしたら怖いが、実際には誰もいるはずがない。

 いたら、怖い。

 シンと静まりかった家の中は、ごく普通の荒れ果てた家屋といった感じだった。

 最後に住んでいたのは一人暮らしの中年男性だったらしく、ゴルフバックが無造作に玄関に立てかけてあり、靴もそのまま脱ぎっぱなしだった。

 確かに「人の消えた家」だ。

 いざという時のことを考えて土足で上がる。

 別に幽霊とかが怖い訳ではない。

 こういう無人の家では釘などが放置されている可能性があるから用心のためだ。

 キッチンに入ると、コバエが飛んでいた。

 もう完全に乾ききった色々なものにたかっていたのだろう。

 とはいえ、資料に寄れば一年近く放置されているはずだ。

 まだ、生活感は残っている。

 人が住んでいて、何所かに行ってしまった様子は明らかだ。

 

「……これはまずいかな」

 

 高儀はため息をついた。

 高齢の老人が独居で死んでしまった部屋を思わせる。

 探してみれば死体がみつかるかもしれない。

 しかも無残な状態の。

 

「帰った方がいいか。で、警察と一緒にくるかな」

 

 不動産調査士としては事を大袈裟にするのは問題だが、高儀の勘は明確に告げていた。

 これはトラブルのあった形跡だと。

 どういうトラブルであったかまでは断定できないとしても。

 その時、玄関が開く音がした。

 ついでに人の声も。

 高儀は慌てて廊下に出た。

 彼以外の人間がやってくるはずはないからだ。

 やってくるとしたら、もしかしてそれは……

 ここの住人か、もしくは……

 だが、違っていた。

 

「―――あれ、人がいるね。京一、キミは聞いていたかい?」

「いや、〈社務所〉から派遣されたのは僕たちだけのはずだよ。誰だろう」

「誰でもいいさ。とりあえず、話しかけてみよう。―――ねえ、キミ。ここの住人は一年前に行方不明のはずだけど、いったい誰なんだい?」

 

 むしろ、こっちが聞きたいぐらいだ。

 高儀はそう思った。

 何故かというと―――

 

 玄関にいたのは、学生服姿の高校生らしい少年と―――どうみても巫女の格好をした美少女という二人組であったからだ。

 

 

 

 



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古屋での調査

 

 

 私は自分の眼を疑った。

 玄関でこちらを見つめる二人組の少年少女があまりにも非現実的だからだ。

 少年の方はよくあるブレザーの学生服姿で、顔も幼さがあり、どこにでもいそうな様子なのだが、それでもこの不気味な家の中に入ってきても動じたようには見えない。

 所有者から鍵を預かって中に入った私と比べても落ち着きすぎている。

 ただし、彼の場合はまだ色々と理屈をつけられる存在ではある。

 もう一人の少女に比べれば。

 こっちの方はもうなんといっていいものか……。

 右前の和装の白衣をまとい、鮮やかな緋袴を履いた巫女姿なのだ。

 しかも、緋袴の方は膝のあたりで切られたミニスカートのようで、さらに黒い革の足首までカバーしたシューズを履いているだけでなく、手には指のあたりが空いたグローブをつけている。

 シューズとグローブは間違いなく総合格闘技のためのもので、私の知っているブランドの製品だろう。

 腕を組んだ佇まいは、巫女というよりは武闘家にしか見えなかった。

 そんな二人組が玄関口に立っていて、私を見つめていた。

 敵意や恐怖のようなものが微塵もないのは助かる。

 

「キミは誰だ? 一年前にここで行方不明になったという御仁かい?」

 

 巫女の少女が喋った。

 なんというか、男の子みたいな口調だ。

 そのくせ自然に聞こえてきて、反感のようなものは覚えなかった。

 干支が一回りは離れているだろう年下からタメ口をきかされているということに対しても、だ。

 この巫女のもつオーラのようなものが私を圧倒しているからだろうか。

 

「御子内さん、いなくなった人は四十代だから、この人じゃないよ。書類入れるカバンを持っているし、業者か役所の人だと思うよ。土足で上がっているし」

 

 確かに私はまだ三十七歳だ。

 ここの前の住人とも十歳以上は年齢が離れている。

 土足のことも含めて、この少年はよく観察していると感心した。

 私を一目で業者と看破したのもたいしたものだ。

 

「なるほど。一年も放置されていたがそろそろ売りに出されたとかそんなところかな。ならば、丁度よかった感じだ。付き添ってもらおうか」

「えっと、今日のところは引き揚げた方がいいんじゃない? あまり関係のない人を巻き込むのは良くないとこぶしさんも言っていたよ。あと、カラスも。……ほら」

 

 頭上がカアアというカラスの鳴き声のようなものが聞こえたが、気のせいだろう。

 

「そうもいかない。この男がここで一夜を過ごさないという保証はないし、何か余計な真似をしないとも限らない。ボクらの使命を考えると、ここは頑として譲るべき場合ではないんじゃないか」

「うーん、御子内さんが真面目なのは良く知っているけど、すぐにでも事件が起きるとは限らないだろ。今回は引き揚げようよ。で、また別の機会を見つければいいんじゃないかな」

 

 すると、徹底抗戦を唱えていた戦争中の軍部のように拳を握っていた巫女は長い息を吐いて、それから自分の肩をもんだ。

 顔つきがいきなり柔らかくなっている。

 

「……仕方ないな。ボクの京一がそういうのならば引き下がるとするよ。―――そこのキミ。ボクたちは帰るけど、なにかあったらこの番号にかけるといい」

 

 彼女は口箱の上に四角い紙切れを乗せた。

 そして、少年と連れ立って来た時と同様に唐突に家を出ていった。

 いなくなっただけで、なんとなく空気が変質してしまうような存在感の持ち主だったな。

 私は彼女が置いて行った紙切れを手にする。

 予想通りの名刺だった。

 内容は予想していなかったが。

 

[退魔巫女 御子内或子(みこないあるこ) 携帯番号090-○○○○-○○○○]

 

 とあった。

 

「た、たいまみこお!?」

 

 思わず平仮名で呟いてしまった。

 おいおい、漫画じゃないんだから、退魔巫女ってなんだよ。

 確かにあの女の子は巫女装束だったし、ちょっと普通じゃない存在感を持っていたけど、そんなおかしなものがいるわけないだろ。

 担がれたか?

 さっきの二人組に揶揄われている可能性を考えたが、どういう訳かそんな風には思えなかった。

 少年も真面目そうで誠実な雰囲気だったし、巫女だって思い返すと聖なる神々しさのようなものがない訳でもなかった。

 私を揶揄ったり、騙したりするタイプにはどうしても見えない。

 だが、だからといってこんな名刺を信じることはできない。

 とりあえず登録して、それから一度かけなおしてみるか。

 私は名刺にある通りに「御子内或子」と番号を登録してみた。

 何か馬鹿な真似をしているような気もしたが、なんとなくしておいた方がいい気がしたのだ。

 飲み屋での話のネタになるかもしれないしな。

 

「さて、仕事仕事」

 

 私はそのまま一階をぐるりと見渡した。

 特別におかしなこともなく、最後に残った風呂場を覗き込んでみた。

 蓋もしておらず、中は腐った水が溜まっていた。

 風呂の残り湯がそのままなのだろうか。

 

 ガサ

 

 何かが動いた。

 思わず尻もちをしてしまう。

 腰を強かに打ち付けても、私の視線は外れなかった。

 動いている。

 確かに、ひっくり返った桃色の洗面器が。

 ガサガサガサと煩雑な音を立てている。

 私は恐怖に駆られてつま先でその洗面器を蹴った。

 カランと洗面器がめくれる。

 洗面器がひっくり返ったおかげでその下に隠れていたものが剥き出しになる。

 

 それは甲羅が六センチほどの大きさの蟹であった。

 

「蟹? なんで、蟹がこんなところに!?」

 

 声が裏返るほどに驚いた。

 この大きめの蟹が洗面器の下で動いていたせいで、あんな音がたったのだと理解した。

 そして、私はこんな蟹に腰を抜かすほど驚かされたという訳だ。

 内心とても腹が立ったが、蟹ごときに馬鹿にされたような気になるのも不快だったので、私はできる限り無造作にその甲殻類を掴み上げた。

 つめが大きく、甲羅にもつめにも足にも毛が生えていて、わかりやすくいうと毛ガニのようだ。

 ただ、毛ガニにしては小さい。

 沢蟹や、海辺の蟹のようでもない。

 

「ん?」

 

 よくよく甲羅を眺めてみると、二つの螺旋の模様があり、それがまるで人間の眼のようであった。

 その間にあるのは鼻で、長い割れ目は―――口か。

 益体もないことを考えてしまい、気味悪くなったので窓を開けて投げ捨てた。

 人面蟹なんて気持ち悪くて仕方ないだろ。

 私はそのまま風呂場の外に出た。

 

 ガサ

 

 音のした方向を見ると、廊下にもさっきのと同じ蟹がいた。

 まるでこちらを舐めあげるように見上げている。

 もう薄気味わるくて耐えられなかったので、革靴で踏みつぶした。

 いやな手応えがあった。

 死骸を眼にしたくないので、その場に転がっていた古新聞を丸めて上に乗せて隠した。

 依頼人が引き渡す際に業者にハウスクリーニングにだすだろうし、その際に始末してもらえばいいだろう。

 それから、私は二階へと上がっていった。

 蟹とはいえ殺生をしてしまったからか、やるせない気分のまま、私は二階の部屋を見て回った。

 ここもやはり誰かが暮らしていたのはわかる。

 ただ、寝室に使っていたらしいのは一階の部屋であり、ここは単に物置代わりに使われていただけのようだ。

 住人が集めていたらしい釣り竿やらルアーやらが整理されて並べられている。

 魚拓のようなものが壁に飾られているので、釣りが趣味らしいというのは一目瞭然だった。

 私も多少は釣りをするが、どちらかというと趣味とまで呼べる段階ではない。

 それよりも格闘技を観戦する方が実は好きだ。

 ひと月に一度はボクシングの試合を観に行くし、近所にプロレス系の団体が来てイベントをしていたら日参してでも通い詰めるぐらいだ。

 なかなか結婚のチャンスがないのはそのせいかもしれない。

 ただ、私ぐらいの年になると女性とつきあうとすぐに結婚の話になってしまい、そこに向けての駆け引きを仕掛けられるのがとても面倒だ。

 肉体目当てという訳ではないにしても、普通に愛を育んで、時期を見たら結婚できたらいいなと考えているのに、すぐにグイグイ迫られるのは嫌でしょうがない。

 挙句の果ては、「あたしも時間がないからダメならダメといって」とか脅してきやがる。

 駆け引きをするだけならまだしも、あまり私を追い詰めないでもらいたいものだ。

 だから、この年になっても独身でのんびりとした生活がしたくなる。

 女とつきあうのは相当面倒なのであった。

 

 廊下に出ると、いつのまにか窓の外は暗くなっていた。

 もう夜なのだ。

 調査期間中は電気を戻してもらっていたので、廊下の電灯もそのまま点いた。

 そのまま居間に戻る。

 いつもの勘は働かない。

 死体があったりとか、幽霊がいたりとか、そういう感じはしない。

 ただ、これまでとはまったく違う異質な予感がした。

 埃を掃ってソファに座ると、なかなかの上もので身体が気楽に沈み込んだ。

 随分と楽になるソファだ。

 しばらくじっとしているとなんだか瞼が重くなってきた。

 疲労からくる眩暈のようなものから産まれた睡魔が襲ってきたのだろう。

 

(ここで寝るのはちょっとまずい……)

 

 そんな警鐘が頭に鳴り響いているにもかかわらず、私は泥のような眠りに落ちていった……。

 

 



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夢中問答

 

 

 居酒屋でサシ飲みをしていたときのことだ。

 彼女がいった。

 

「ねえ、あたし、どうすればいいのかな?」

「どうって?」

「もっとはっきりとして欲しいってこと。わかってんでしょ、あなた、バカじゃないんだから」

 

 わかっているでしょと言われても、そんな抽象的な問いにハイハイと答えられるか。

 いや、わかってはいるんだ。

 ただ、今の生活から新しく一変するというのは勇気のいる事である。

 中には「女にそんなことを言わせてはいけない、よし自分からいこう」という男気のあるものもいるだろうが、残念ながら私にはない。

 自分の二十四時間に、恋人の二十四時間をあわせるだけでも縛られているような気がするのに、結婚するとなると二人分の二十四時間管理が必要となる。

 面倒くさくて仕方がない。

 だから、そこを突かれるととても困る。

 結婚することは問題ないとしても、決断するのは苦手なのだ。

 自分の職業で考えると、調査をするまでは私の仕事だが、物件をどう処理するかは依頼人の仕事ということだ。

 そちらの方が性に合っている。

 

「いや、わかっているけどさ」

「だったら考えて」

「そっちの家族の都合もあるだろうし」

「あたし、家ではお姫さまだから。あたしが決めればお父さんたちはすぐに首を振ってくれるわ」

「―――長女だからねぇ」

「考えて」

 

 この時の彼女は押しが強い。

 普段はそれほどでもないくせに、やはり結婚の話になると女は変わるのだろうか。

 ただなあ、私だってさあ。

 効果的な返事が出来そうもなくビールをグビグビ飲みながら口ごもっていると、

 

『問答をいたしたい! 答えられよ!』

 

 と彼女が唐突に叫んだ。

 びくりとして顔を上げても、いつも通りの彼女だった。

 私の好きな女が変わらぬそこにいた。

 だが、その背中には青白い光がまるで後光のように差してきて、馴染みの居酒屋とは思えぬ光景になっていた。

 そのうち、彼女の両目が爛々と輝きだし、まるで割れ鐘が響くような胴間声で叫んだ。

 

『問答をいたしたい! ぜひとも、答えられよ!!』

 

 思わず肝が縮み上がった。

 こんな大声を叩きつけるように掛けられたことなどかつてなかったからだ。

 しかも、耳にした途端に、背筋にゾゾゾと走った悪寒。

 まさに私は怖気づいてしまったのである。

 気絶してもおかしくないぐらいのビビりようだった。

 

「……お、おい。どうしたんだよ? 怒った? でも、おまえとのことはいつも頭に入っているし、別に蔑ろにしている訳じゃないから」

 

 私は必死に取り繕った。

 この段階では、単に彼女が結婚に対して消極的な私に業を煮やしただけとしか思えなかった。

 それでこの怖気は異様すぎたが、そこは何故か気にならなかった。

 

「落ち着けって……」

『問答をいたしたい!』

 

 愛しているはずの彼女が突如として意味不明なことを言い出したことに驚きながら、私は宥めようと適当に応えた。

 

「ああ、わかったよ。なんでも言ってくれ……」

 

 すると、彼女は姿勢を正して、

 

「よくぞ申した。じゃが、この問答にしくじったのならば貴殿の命はないぞ。覚悟なされい!!」

「命がない!?」

 

 なんだ、なんだ、プロポーズを受けなければ殺すということか。

 それとも私からしなければ殺すということか。

 どのみち殺すということですかああ!!

 

作麼生(そもさん)!!』

 

 彼女が叫んだ。

 そもさんとは、確か禅の問答で、修行者が師に問いかけるときのかけ声か何かのはず。

 古典で習ったことがある。

 意味は、「どうだ」とか「如何に」とかそういうものだった。

 要するに、クイズ番組で司会者がいう「出題!!」と同じ意味だ。

 私はその対になる言葉を返した。

 

「―――説破(せっぱ)……」

 

 言い負かしてやろう、論破してやろう、とかいう言葉が説破だ。

 余計な知識として持っていたので思わず口に出てしまったようだ。

 すると、彼女は顔に尖った毛のようなものがもしゃもしゃと生え出して、まるで獣のようになっていく。

 あまりにもグロテスクだった。

 幾度となくキスしてきた唇までが乾いた革のようになっていく。

 

『よいか、両足八足大足二足、横行自在にして、両眼天を指すもの、汝はいかに!』

 

 乾燥して、毛むくじゃらになった彼女が叫んだ。

 それが「問い」のようだった。

 

「えっ!」

 

 私は意味がわからなかった。

 それに答えろと言うのだろうか、と目を丸くしたら、

 

『はよお、答えい!!』

 

 ()は彼女だったものが急かす。

 答えられなければ殺すということだろう。

 いや、待って欲しい。

 それはプロポーズでもなんでもないはずだ。

 私が何も言えないでいると、そいつは、

 

『答えられぬか。ならば―――』

 

 そいつの手がテーブルに置かれた。

 鋭い鎌のように光っていた。

 

『命をいただく』

 

 死刑宣告をされた気がした。

 しかも、私は怯えてしまって何もできないのに。

 だが、次の瞬間、耳元に大きな破壊音が響いた。

 ガシャアアアンとガラスが割れるような音。

 

「はっ」

 

 ―――私は目を覚ました。

 

 そこは調査を依頼されていた家の居間のソファだった。

 

(夢だったのか……)

 

 気持ち悪いほどに汗で濡れた額を手で拭った。

 うとうととしていたどころか、完全に落ちてしまっていたようだ。

 いくら鍵を預かっているとはいえ、調査中の家で寝てしまうなど弛んでいる。

 夢見が悪かっただけかと顔を上げると、バサバサと室内を何かが飛んでいた。

 音からすぐにわかった。

 巨大なカラスだった。

 黒い、全長で五十センチはあるだろうカラスが天井すれすれを飛び回っているのである。

 

「な、なんだ!!」

 

 ガラス窓が割れていた。

 そこからカラスが侵入してきたのか。

 私は怖くなり逃げ出そうとしたが、そうはいかなかった。

 玄関に続く廊下の入り口のところに、ぬっと人が立っていたからだ。

 黒い墨染めで襤褸の袈裟をまとった、大男の坊主であった。

 禿頭で口の周りには、刺さると痛そうな針のような髭が無造作に生えていた。

 いつのまにそんなところに入り込んでいたのか。

 坊主は天井近くを飛ぶカラスを忌々しそうに睨んでいた。

 

『使い魔のカラス風情が、身どもの邪魔をするな!!』

『ソウハイカヌ! 妖魅如キノ好キニサセテタマルモノカ!!』

 

 坊主の聞き覚えのある怒鳴り声に対し、なんとカラスが返事をした。

 喋るカラス!

 なんということだ。

 そんなものがこの世にいるのか。

 あと、今の坊主の声はさっきの夢の中の彼女のものとそっくりだった。

 

「あんたは……」

『人間、逃ゲルガイイ!! 貴様、殺サレルゾ!!』

 

 私の目の前にテーブルに着地したカラスがそう言った。

 この場合の人間というのは、まさに私のことだろう。

 殺される?

 どういう意味だ。

 この場に照らして考えてみると、あの坊主に私が殺されるとでもいうのか。

 いったいなんのために。

 だが、その疑問はすぐには解けなかったが、すぐに逃げなければならない状況であることはわかった。

 坊主が『ぬん!!』と右手を振ると、そこには信じられないほど巨大で凶悪な蟹のハサミのようなものが現われたからだ。

 あんなものに挟まれたら、私の首なんてすぐにでも切断されてしまうだろう。

 生き物の生々しさを持ちながら、ハサミの内側には日本刀の刃のようなきらめきがあった。

 しかも、ところどころにある棘は牙を思わせる鋭利さだった。

 そして、そんなハサミを持つ坊主の双眸は、血に濁っていた。

 連続殺人鬼(シリアルキラー)もかくやというほどの。

 

「ひいぃ!!」

 

 カラスの言葉の真偽はさておき、あの坊主からは逃げなければならない。

 私は居間の戸を開くと一目散に逃げだした。

 後ろなんか気にせずに。

 

『逃がさぬぞ!!』

 

 背中には坊主の金切り声だけが届いてきた。

 



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荒れ寺の妖魅

 

 

 庭に出ると、木々などを越えて広い空間に出た。

 しまったと後悔する。

 なぜなら、バス停や隣家がある方向と反対に出てしまったからである。

 もう一度迂回しないと人のいる場所に戻れない。

 だが、あの坊主―――手に巨大なハサミのついた化け物のような男のいる家には戻りたくない。

 仕方なく私は木の葉や雑草でいっぱいの荒れた地を歩き始めた。

 大きな月が出ている。

 おかげでもう夜だというのに足元を除けばほとんど見渡せた。

 多摩とはいえ東京にあるとは思えないほどに広い河原の一画のような場所であった。

 

「……あれ、こんな感じだったっけ?」

 

 地図では何度も見た。

 そうでなければ土地の正式な価格の算定などできない。

 あの一軒家にお邪魔する前にも見た。

 なんで誰も家を建てないのかなと思ったのは確かだったが、こんなに広陵とした土地という記憶はなかった。

 私の記憶が確かならば、すぐ先に多摩川の支流があるはずで……

 だが、小川のせせらぎも、水の香りもなにも漂ってはおらず、私が辿り着いたのは林の中にある荒れ果てた元・寺院の痕跡であった。

 月光が照らし出した寺は、屋根が傾き、漆喰の壁は崩れ、内部まで様子がわかるようなボロいものであった。

 少なくとも私の見た地図には存在しなかった場所だ。

 いや、荒れ果てた無住の寺としてもう認知されていなかっただけかもしれない。

 最近はこういう住職が不在であったり、檀家が掃除などの奉仕をしない荒れ寺にホームレスが棲みついたり、不良グループの溜まり場になることがあるから、存在するだけで近くの不動産の評価が落ちることもある。

 ある意味では不人気施設のようなものだ。

 寺である以上、裏手には墓地もあるだろうし。

 なるほど、あの調査対象の家が孤立気味なのはこういうものが背景にあったからか。

 職業意識というものが急に働きだし、私は自分がどういう状況なのかも忘れて、思わず荒れ寺の中を覗き込んでしまった。

 障子はすべて破れ、畳ごと床に穴が空き、砂と埃で酷い有様になっていた。

 天井の一画が崩れ、そこから月光が差し込んでいるほどだ。

 何十年放置しておけばこんな風になってしまうものか。

 あの家の資産価値を調査するついでにあとで、ここも調べておかないと……

 と考えていると、私はさっきのバケモノ坊主に追われていたことを思い出した。

 そんな未来のことよりも直近に迫った危機を回避しないと。

 私は後方の様子を恐る恐る窺ってみた。

 誰もいなさそうだ。

 あの坊主もここまで追ってはこなかったかと胸を撫で下ろした途端、横合いから胸倉を掴まれた。

 ネクタイとワイシャツごと乱暴に掴み上げられる。

 その手は岩のように黒々と堅そうで、まるで岩だった。

 突然の出来事に抵抗することもできずに私は引っ張りあげられて、無造作に投げ捨てられた。

 荒れ寺の畳を転がるとささくれが皮膚に刺さる。

 下手な地面よりも危ない。

 

『問答に答えよ!!』

 

 もう何度聞いたかもわからない胴間声が鳴り響く。

 あの坊主だった。

 いや、坊主というよりも荒法師とでもいうべきだろうか。

 白い頭巾でも被れば武蔵坊弁慶のようでもあったからだ。

 ごつい体格は広い肩幅と分厚い胸板をもっているせいであり、足は短足の上にガニ股というまさに岩が人間の形になったようである。

 ただ、人間であるとはっきり言いきれないのは、右手が変形した巨大なハサミになっている点だ。

 どう見ても人の腕とは思えない。

 私を掴んだのはまだ人間のそれの形を保っている左手であったようだ。

 

『はよおせい!』

 

 そんな風に急かされてもどうにもならない。

 問い自体は覚えている。

 確か、『両足八足大足二足、横行自在にして、両眼天を指すもの、汝はいかに!』とかいうものだったはずだけど、そんなすぐにおいそれと答えられるものじゃないだろう。

 しかも、この荒法師の言い分に従えば答えられないと私を殺すのだという。

 殺されたくない私としては逃げ続けるしかない。

 私は無造作に転がっていた仏像を掴んだ。

 手のひらサイズの小さなものだ。

 仏像や仏具がこんな風に転がっているなんて普通では考えられない荒れようだし、雑に扱ったりしたら天罰が下るかもしれない。

 ただ、今はそんなことを言っている余裕はなかった。

 私はその仏像を振りかぶって投げた。

 中学までは軟式野球のピッチャーをやっていたことからコントロールにはそれなりに自信がある。

 仏像は狙い過たず、荒法師の顔面に飛んだ。

 だが、当たることはなかった。

 その鋭いハサミの先端に抓まれるように挟み取られてしまったからだ。

 あんな巨大なものでなんという早業だろう。

 野球のボールを手で受けること自体は誰にでも可能だ。

 しかし、あんなハサミで掴むことはできない。

 仏像とボールの形状や重さの違いを加味したとしても、普通はできない芸当である。

 そこで戦慄したといってもいい。

 きっと私はあの荒法師からは逃げられない。

 

『ここまで問うて答えぬと言うのであれば、貴殿には知恵がないものとみなす!!』

 

 もう待ってはくれないということだ。

 終わりが近いのか。

 何だかんだと結婚についてをはぐらかしてきた彼女のことを思い出す。

 そういえば今日はLINEを送ってこないな。

 もしかして見限られたのかも。

 でも、それはそれでいいか。

 私はここであのハサミによって殺されるのであろうから、彼女もすぐに別の男のところへ行けるだろう。

 こんなはっきりしない男など忘れて。

 ただ、せめて三日ぐらいは私のことで悲しんでもらえたら嬉しいが。

 

『命、頂戴いたす!!』

 

 荒法師がハサミを振り上げて近づいてきた。

 私は恐怖のあまり眼を閉じた。

 その間に殺してくれたのならば痛みも感じずに死ねるかもしれないと、情けないことを考えていた。

 だが、巨大な化け物ハサミが私にまで到達することはなかった。

 

 みゃー

 

 現実から逃れるために砂に顔を突っ込んだダチョウのように眼を閉じた私の耳に、鈴の音のように凛とした清澄な響きが届いた。

 荒法師のものとはまったく違う、月が囁いたかのような音が。

 

『ぐおおおお!!』

 

 思わず眼を開いた私の視界には、立ち竦むハサミをかざした荒法師と、その肩に乗った巫女姿の少女の美貌が飛び込んできた。

 

「―――間に合ってよかった。まったく、ボクが今生の救蟹法印(きゅうかいほういん)の称号をもらうことになるとは思ってもいなかった」

 

 荒法師に肩車でもするかのように腰掛けた巫女は、にやりと獰猛な笑みを浮かべる。

 

「妖怪〈蟹法師〉。今日がキミの最期の日になるんだよ」

 

 それは、ある意味では荒法師よりも恐ろしい凄絶な笑顔であった。

 

 



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妖怪〈蟹法師〉

 

 

 突然現れて、肩の上に座り込んだ巫女に対して、荒法師は右手のハサミを不自然な体勢のまま振り回した。

 

「おっと」

 

 巫女はハサミが自分を切り刻む前に、横に回った。

 荒法師の首を両手でしっかりと抱きかかえたまま、そこを支点にして。くるりと。達磨のように。

 その際に荒法師の剛毛のヒゲの生えた顎を掴み、首をへし折るかのような勢いまでつけて。

 

『ぐおっ!!』

 

 荒法師はかろうじて自分の首を押さえることで、巫女の回転によって骨が折られる事態を防いだ。

 間一髪といったところだったのか、荒い息を吐いている。

 一方の巫女はというと、首の骨を折ることができなかったのが悔しそうではあったが、それ以上は執着することなく畳の上に着地した。

 あまりに身軽なのでアクロバティックとしか思えなかった。

 私は失敬ながら巫女というものに対しては、鈍重なイメージしか持っていなかった。

 コンピューターゲームとかでは基本的に治癒の魔法を使う回復役というポジションが多いし、着ている白衣と緋袴は野暮ったい厚着がメインだし。

 それなのに、目の前の巫女は私の知っているどんなアスリートよりも機敏に動いているのだ。

 体操の内村や白井と比べてみても、キレの鋭さが彼らと互角以上である。

 どれほどの修練を重ねればあんな風に動けるようになるのだろうか。

 

『―――巫女め』

 

 荒法師がカニのハサミを突き付ける。

 その流暢な開閉の動きは、どう見ても作り物とは思えない。

 まるで肉体の一部であるかのように。

 まさに身に馴染んでいる、というのに相応しい。

 

「そいえば、さっきそこの彼に問答を挑んでいたそうだね。確か―――両足八足大足二足、両眼天を指すもの、それは何者』とかだろ?」

 

 細部は違っていたが、巫女が口にしたものはさっきの荒法師が発した問いと同じものだった。

 聞いていたのだろうか。

 

「〈蟹法師〉、あるいは〈蟹山伏〉、〈蟹坊主〉。我が国のどこにでもある妖怪話の一つだが、そこでは必ず化けガニによる問答勝負がある。御題はいつも決まって、『両足八足大足二足、横行自在にして、両眼天を指すもの』の正体を問うものだ。……さて、京一」

「なに、御子内さん?」

 

 気がつくと、私の隣にさっきの高校生の少年がいて、片膝をつくと抱き起してくれた。

 もう運動をしなくなった身体はさっきの衝撃による痛みで動きにくくなっていたから助かった。

 彼の貸してくれた肩に寄りかかって立ち上がる。

 

作麼生(そもさん)。答えはなんだい?」

「説破。そいつは“蟹”だね。……足が八本、ハサミが二本、横に動いて、両目が飛び出ているものなんてだいたい蟹だから。まあ、ザリガニの可能性もあるけど、ザリガニって横には歩かないから」

「そうだ。―――答えは〈蟹〉さ! さあ、〈蟹法師〉。正体を見せろ!」

 

 御子内と呼ばれた少女は、荒法師目掛けて指をつきつける。

 すると、荒法師―――御子内の言い分からすると〈蟹法師〉はいきなり変貌を開始した。

 さっきまで普通だった顔から両目が飛び出してきて、棒の先に眼球がくっついたような気持ちの悪い形になった。

 それだけでなく、長い皺が寄ると口が耳まで裂けて、赤く長い舌が伸びてきて舐めずる。

 襤褸とはいえ僧のものに見えていた袈裟や衣が内部から膨張していき、上半身だけがやたらとでかくなっていく。

 パンパンと衣服の内部から弾け飛ばんばかりの巨体に変化した〈蟹法師〉は、突出した眼球で巫女を睨むとハサミを伸ばして前に出た。

 

「こっちです」

 

 私は少年に連れられて外に出た。

 こちらが安全圏に出ると同時に、廃寺のお堂の内部では巫女と〈蟹法師〉の夢幻的な戦いが開始される。

 突き付けられたハサミを掻い潜るようにして、御子内は円を描く。

 だが、二人の身長差は三十センチはあるだろう。

 どんなに動き回っても、御子内の間合いよりも相手のものの方が広い。

 ハサミが振りかぶられて、そのまま叩き付けられる。

 御子内はそれを躱したが、それ以上のことは何もできない。

 それだけ早くて恐ろしい一撃なのだ。

 ハサミの先端が畳を切り裂き、大きな傷跡を残した。

 あんなものをまともに受けたら絶対に死んでしまう。

 刀で切りつけられるようなもので、あの馬鹿力っぷりでは下手をしたら真っ二つにされてしまうだろう。

 踏み込んだら即死しそうな暴風のあそこに踏みとどまっていられるだけで、御子内という少女は凄い。

 

「あそこを見てください」

 

 少年に促された先には、白い舞台のようなものができていた。

 一見すると、白い布のかぶさった四角い台のようだったが、私にはすぐになんだかわかった。

 趣味として毎週通っている場所にあるものとそっくりだったからだ。

 

「あれはリングじゃないか?」

「ええ、まあ、そうですね。コーナーポストとかを立てている余裕がなかったんで土台の上にマットを敷いただけの造りですけど」

「どうして、こんなところに? もしかして、君が?」

「……はい」

 

 なんとなく歯切れが悪い。

 しかし、プロが設営したもの並みにしっかりとした造りのようだった。

 たまに見掛ける学生プロレスの杜撰なものと比べ物にならない完成度だ。

 思わず見惚れてしまった。

 

「いい出来だ! しかし、やはりコーナーポストがないのは残念だな。これだと、プロレスの華であるロープワークができない!」

「喜んでもらえて恐縮です」

「だが、どうしてこんなところに。どこかの団体が来ているのか? IGF? リアルジャパン? 大日本?」

「いえ、そういうプロのものではなく……」

「じゃあ、なぜ、こんなところにリングが!」

 

 矢継ぎ早の疑問を薄笑いで誤魔化しつつ、少年はリングに近づくと、私を上に押し上げた。

 

「いや、土足だとまずいよ!」

「構わないのでどうぞ。そもそも、そこに上がる連中の半分は土足ですから」

「どういうことだい?」

「―――あ、来たようですね。いいですか、僕の指示に従ってください。でないと、あなたも危険ですし、僕の御子内さんまでピンチになりますから」

 

 それだけ言うと、少年は後方にある廃寺へと叫んだ。

 

「御子内さん、準備できた! そいつを連れて来て!」

「わかった。今行くよ!」

 

 壊れかけていた壁を突き破り、巫女が姿を現した。

 着地の寸前にまたも体操選手もかくやという捻りを見せて、スピードを殺さない工夫をするところがさすがだった。

 ブレーキ役を務めるつま先を極力使わずに踵だけで動くというバランス移動だ。

 だから一瞬たりとも止まってはいないように感じる。

 それから全速力でこちらにむかってきて、リングに駆け上った。

 わずかに遅れて〈蟹法師〉が出てきた。

 こちらは纏っている袈裟がところどころ派手に汚れている。

 さっきまではなかった汚ればかりだ。

 つまり、一方的に〈蟹法師〉が攻めたてていたのではなく、御子内も相応の反撃はしていたということだろう。

 こっちはこっちで憤怒の表情のまま、大ハサミを凶器のように掲げながら走ってきた。

 御子内はマットの上で振り向き、

 

「さあ、こい! 妖怪〈蟹法師〉! ボクとキミのターゲットはここにいるぞ!」

 

 そして、〈蟹法師〉が追い付いてきてリングに上がった時、カアアアアンとゴングの音が響き渡った。

 どこにそんなものがあるのか、と思って見渡すと、高校生の少年が手に金色のゴングを抱えていた。

 

「そ、それは?」

「普段のものより出来が良くないんで、とりあえず用意しておいて良かったですよ。これで〈結界〉が作用する。ようやく、御子内さんの反撃が始まる!」

 

 その言葉通りに、さっきまでとは動きが倍近く違う巫女の反撃が開始されていた。

 まるでムササビのように迅く、虎のように荒々しい、野生の戦士のようでさえあった。

 

 



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蟹追いリング

 

 

〈蟹法師〉と呼ばれているらしい荒法師は、大バサミの腕を振りかざしながら、奇声とともに襲い掛かった。

 迎え撃つのは、徒手空拳の巫女。

 横に薙いだ鋭い刃を半歩のバックステップで躱すと、そのまま腕の付け根を蹴り飛ばす。

 ほれぼれするほど美しいミドルキックだった。

 国際ランカーのムエタイ選手に比肩するほどの鍛え抜かれたフォームである。

 さっきの身のこなしもとんでもないものがあったが、繰り出される技の一つ一つの完成度も高い。

 その蹴りをまともに受けたことで、〈蟹法師〉の上半身が揺れる。

 水平にひらりと舞うと御子内は敵の懐に潜り込む。

 腕を掴んで身体を捻った。

 背負い投げであった。

 かなりの体格差があるというのに見事な投げだった。

 こちらは柔道の野村を思わせるが、私にはもっと高い術理を体得していそうに思えた。

 でなければ、人ならざるものを背負って投げることなどできはしない。

 

「うまい!!」

「そうですよね。御子内さんは投げに関してはなんちゃってじゃないんですよ」

「柔道ならオリンピックで金メダルをとれるぞ!!」

 

 私は断言できる。

 あそこまでの動きは普通ではない。

 しかも、あの殺されるかもしれない攻撃を掻い潜りながらの投げ技なのだから。

 マットに背中から叩き付けられたら、逆に自重があることが仇になる。

 重さによるダメージが自分に跳ね返ってくるのだ。

 加えて、〈蟹法師〉は受け身をとれていない。

 あれでは威力を殺せない。

 

『グオオオオオ!!』

 

 横たわった〈蟹法師〉が一気に起き上がろうとしても、がぶり寄った御子内が寝技を仕掛ける。

 これも素早い。

 ハサミのついた右腕をとると、腕ひしぎ逆十字に極める。

 と同時に―――折る。

〈蟹法師〉の右腕が肘の部分から反対側に向けて不気味に曲がっていた。

 一瞬だけ感じた、ひやりとした寒気はおそらく殺気だ。

 普通に生きていたら絶対に浴びることのない命を刈り取るための気迫。

 しかも、その後で御子内はさらにのけ反って、勢いをつけると、ひしゃげた腕を回して、引き抜いた。

 

『ごおおおおお、きさまぁああああ!!』

 

〈蟹法師〉はじたばたとなくなった腕があるかのように抱えて転げ回った。

 巫女は折った上でもぎ取ったハサミをリングの外に投げ捨てる。

 恐ろしい光景―――ではなかった。

 無くなった腕の跡から青い血らしいものが飛んではいたものの、覗いている白い筋肉がどうにも人間のもの……いや生物のものらしくなかったことで、スプラッターな印象をまったく感じなかったのだ。

 むしろ聞こえている〈蟹法師〉の痛みをこらえる叫びの方が耐え難かった。

 あまりにも無残な結果だというのにまったく不思議なものである。

 だが、その理由もすぐにわかった。

 腕をなくして数十秒しか経っていないというのに、ゆらりと巨漢が立ち上がったのだ。

 左手で傷口を押さえてはいたが、表情には痛みによる変化はなかった。

 それどころか迷ったように顔をしかめて全身に力を入れる。

 

『ぬん!!』

 

 傷跡の白い筋肉が隆起した。

 そして、次の瞬間には、大量の粘液と共にさっきのものと同じ巨大バサミが()()()()()

 

「なんだ!?」

「―――御子内さん、甲殻類の再生能力だ!! 四肢を狙うのは意味がないかもしれない!!」

「わかっているよ! 蟹の類いと戦ったことがない訳ではないからね!!」

 

 二人は今の出来事がたいしたものでもないかのように、振舞っている。

 なんというかこの異常な事態に、年端もいかない少年たちがこんなにも冷静なのは尋常ではない。

 巫女の少女についてはもう受け入れてしまっているが、この少年についてはどこか一歩引いてしまうものがある。

 見た目は普通の高校生なんだが……

 

「でも、片手がもげてもすぐに再生する相手にどうするの!?」

「ふん。その程度の敵、長く退魔巫女をやっていれば稀にだけど遭遇するさ。手段()はあるしね」

「どうするの?」

「―――甲羅ごと拳で貫く」

 

 御子内はぎゅっと拳を握りこんだ。

 待て。

 さっきから見ていればわかるが、あいつが戦っている〈蟹法師〉は明らかに背中に甲羅らしき堅い装甲で守られていて、とても殴ってなんとかなるような代物ではない。

 だからこそ、さっき御子内は打撃ではなく投げと関節技を使ったのだろう。

 残酷な極め技まで使ったのはそれだけ相手の防御力が硬いことの証しだ。

 そんなことは実際に戦っている御子内の方がよくわかっているだろうに……

 

 拳で貫く

 

 そんなことができるはずはない。

 女の子の拳が甲殻類の甲羅をぶち抜けるなんて。

 だが、私の隣にいた少年は頷いた。

 

「よし、御子内さん、それでいこう。でも、気を付けて。相手が蟹だとすると八本の脚と泡を吐く秘儀があるかもしれないからね!!」

「なるほど、さすがは京一だ」

 

 二人は選手とセコンドのようなやり取りを交した。

 巫女の発言をツッコミもせずに全肯定する京一という少年は、ある意味で凄い奴である。

 私だったら五分と保たないかもしれない。

 新しく生えてきた右腕のハサミを使って、また〈蟹法師〉が攻めてくる。

 このあたり、用心とか作戦とかいうものがないのは、妖怪だからだろう。

 それに対して、御子内はパンチとキックを交えたコンビネーションを叩きこむ。

 だが、背中の甲羅同様に前面も堅いらしく、ほとんど怯ませることさえできない。

 強い圧力を受けて、巫女の歩みが止まる。

 小柄な少女の身では限界があるのだ。

 

「どりゃあああ!!」

 

 御子内が横に跳んだとき、〈蟹法師〉のわき腹から袈裟と法衣を突き破って、鋭い槍のようなものが伸びた。

 奇怪な屈伸を繰り返す脚のようであった。

 あれが京一の言っていた「八本の脚」による攻撃かもしれない。

 忠告を正直に受け止めていたのか、突然の攻撃だというのに巫女はそれを容易く躱す。

 それどころか、手をひねって脚を捕まえて、またも関節技を極めるとそのまま叩き折る。

 そして、延髄切りを放った。

 しかし、甲羅がひょいと前にスライドするだけで首筋がガードされて、渾身の大技は防がれる。

 いざピンチかと思った瞬間、マットに落ち様に御子内の下から撥ねあげる蹴りがまっすぐに〈蟹法師〉の顎を砕いた。

 下にある死角からの攻撃はいくら眼部が突出していても避けきれない。

 倒れこみそうになってもこらえる〈蟹法師〉。

 タフなバケモノに追い打ちをかけるように、御子内が拳を振りかぶり、

 

「バーンナッコォォォ!!」

 

 前方に叩き付けるような右ストレートをぶちかました。

〈蟹法師〉の顔面が窪む。

 青い血を噴いて。

 それでも倒れない妖怪の額目掛けて、今度は一回転してからの胴回し回転蹴りを踵に重心をかけて叩き込む。

 顔面目掛けての三連続攻撃だった。

 さすがにそのまま仰向けにマットに倒れこむ〈蟹法師〉

 これで倒しきれるのか、とそれでも私が疑問を感じたのも当然、〈蟹法師〉はなんと身体をひっくり返してうつ伏せになると顔を保護する行動に出た。

 やはりこれ以上は急所を漫然と晒すことと等しいからだろう。

 再生能力があるとしても一気に仕留められれば終わるということか。

 だから、絶対の信頼を持つ背中の甲羅でカバーすることに決めたのだ。

 しかし、その判断は愚策だった。

 なぜなら、うつ伏せになった〈蟹法師〉の背中に飛び乗った御子内は空手の瓦割りの要領で、ほんのわずかだけ息吹をすると、全身全霊の膂力を一撃に与えるかのように天に拳を掲げ、力を間欠泉のごとく放出する。

 

「パワーゲイザー!!」

 

 人の握った拳で、大蟹の堅い甲羅を貫くことは本来ならば不可能。

 だが、御子内のものはその常識を打ち破り、〈蟹法師〉の背中をものの見事に十字に割った。

 倒れたまま背中を割られ、甲高い断末魔の叫びを残して、〈蟹法師〉はぐったりとして動かなくなった。

 その全身が透明になって何事もなかったかの如く消えていくのを、私たちは無言で眺めていた。

 完全に〈蟹法師〉が消失してしまったことを確認してから、ようやく御子内はリングの下へと降り立った。

 そのまま私のところへやってきて、

 

「キミがあの妖怪の問答に間違った答えをしていたら、今頃はもう攫われてしまったところだったよ。どうやらキミは運がいいみたいだ」

「あのときは、蟹、と答えればよかったのかな?」

「たぶんね。まあ、ボクだったら別の答えを返していたかもしれないから、そこは絶対の正解はないかもしれないけど」

「……あんただったら、なんて答えたんだ?」

 

 私はどういう訳か、この巫女の答えが知りたかった。

 この少女だったらなんというか。

 

「蟹なんてなんだい? とかでいいんじゃないのかな」

「はっ?」

 

 彼女はちょっとふざけながら、

 

「大切なのは自分で決めることさ。いつだって、とりあえず自分で考えて結論をだしておけば、流されるよりは後悔の度合いが少ないってもんだよ。だから、なんて答えるかは問題じゃなくて、口ごもらずに言ってみることが大切なんだと思うよ。ねえ、京一」

「僕に聞いても何とも言えないよ。それより、撤収は明日ということにして今日は帰ろうよ。もう遅いから」

「そうだね。〈蟹法師〉の棲家の検証は明日に回しておこうか。あとでこぶしに連絡しておくよ」

 

 私の半分ほどしか生きていなさそうなのに、なんて達観した娘なんだろうと私は憧憬にも似た気持ちを抱くしかなかった……。

 

 



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蟹問答の果てに

 

 

 ……数日後、私は彼女と待ち合わせをしていた。

 そろそろ決断しなければならないということを意識して。

 あの一軒家と廃寺での稀有な体験をしたあとでは、たかだか人生を左右する程度の決断をすることなどどうということもないという開き直りがあった。

 

 あの事件の翌日、携帯電話に例の少年から連絡があり、私は中野にある喫茶店で話をするこになった。

 行ってみると、巫女の姿はなく、学生服の少年だけがいた。

 コーヒーではなく紅茶を飲んでいるところが子供っぽい。

 

「昨日は失礼いたしました。こちらは片付いたのでご報告をと思いまして」

「それは……ご親切に」

 

 聞くところによると、彼は巫女の所属する妖怪退治の組織でバイトをしているそうだ。

 そんな組織があることも驚きだが、コンビニではあるまいし、高校生のバイトを雇っているということもびっくりだ。

 世の中には私の想像も及ばないことばかりだと実感している。

 

「えっと、あまり詳しくは僕も説明されていないんですが、昨日の廃寺をちょっと行った先に多摩川の支流があるのをご存知でしたか?」

「ああ、知っている。地図にあったからね」

「で、その川淵の見つけ難い場所に洞窟があったそうです。調査した人たちが、そこで結構な数の人骨を発見しました。まだ正確にはわかりませんが、十人前後はありそうだということです」

「人骨!?」

 

 以前、死体を発見したこともある私だが、それとこれとは話が別だ。

 十人といったら、とんでもない数ではないか。

 

「例の〈蟹法師〉の仕業でしょうね。さらに洞窟の奥まったところで背中の甲羅を割られた大蟹の死骸も発見しました。これ、写真です」

「……」

 

 渡されたものは、隋分と不格好な毛ガニのような、沢蟹のような、珍妙な甲殻類だった。

 蟹だとわかるのは二つのハサミと飛び出た眼だけかもしれない。

 

「これが―――〈蟹法師〉の……」

「正体でしょうね。御子内さんの一撃で瀕死になってもう妖怪としては実体化していられなくなったんでしょう。そのまま死んだみたいです。近くに、手下の蟹もいたみたいですが、親分が討伐された以上、もう危険はないでしょう。あの廃寺も、例の家も、もう住人が行方不明になることはないはずです」

 

 少年の説明によると、―――あの化け物ガ二は昔からあのあたりに住んでいた妖魅というものらしい。

 住職がいなくなり、檀家との交流も絶えた廃寺の中に泊まりこんだものがいた場合に、それを餌食としていた。

 私にやったように問答を仕掛け、答えられなければ棲家に拉致して食べる。

 だが、昔はともかく今はあんな廃寺に泊まるものも少なくなり、腹を空かせて〈蟹法師〉は近所にできた一軒家を新しい狩場にした。

 そこに引っ越してきた人間たちを時機を見ては攫っていたそうだ。

 それが「人の消える家」の真相だった。

 これでもうあの家から人がいなくなることはない。

 私の調査はさっさと終わってしまったようだ。

 だが、例え真相が判明したとしても、それを依頼者に正確に報告することはできない話ではあったが……。

 

「なんというか、奇々怪々すぎて理解が追い付かないよ」

「うーん、まあ、一年ぐらい前の僕も似たようなものでした。あまり気にしない方がいいですよ」

「君は変わっているな。達観している」

「なりゆきで深く関わることになりましたけど、自分で決めたことですからね。あの蟹に訊かれたように人生ってそういうことの繰り返しなのかもしれません」

「そういうことの?」

 

 すると少年ははにかみながら、

 

「汝は誰だってやつです。あの蟹の問答の内容は、実は自分の正体を暴けということみたいですが、それって普通によくあることだと思います。自分が誰なのか当ててみろって他人に聞かれて、それに答えなければならない。周囲は都合を考えないで問答をしかけてきて、こっちはいつも答え続けないと面倒なことばかりになる」

 

 確かにそうだ。

 仕事でもプライベートでもよくあることだ。

 いや、そればかりが基本なのかもしれない。

 勝手に問いを投げかけて来て、答えられなければあの〈蟹法師〉のように殺そうとしてくる。

 だから、いつも答えを準備して抵抗しなければならない。

 自分で決めなければならない。

 でなければ、厄介ごとは決してとまることがないのだ。

 面倒だとか、ダリイだとか言っている暇はないのだろう。

 

「それで、君はあの御子内という巫女と一緒にいることにしたという訳か」

「はい。そうです」

 

 即答だよ。

 若いからなのか、彼女にそこまで首ったけなのか。

 それとも別の理由があるのか。

 この少年の心はわからないが、それでも彼は自分の思う通りに決断して生きているようだ。

 顔に迷いがない。

 

「わかった。ありがとう。君たちには命を助けてもらった上に、色々と勉強させてもらったよ」

「いえ、あなたが無事でよかったです。御子内さんもそう言ってました」

 

 あと少しだけ雑談をして、私は彼と別れた。

 もう会うことはないだろうが、彼とあの巫女の存在は私という人間に本当に勉強させてくれたのだと思う。

 

 駅の改札で待ち合わせをしていた彼女がこっちに近づいてきた。

 少しだけ表情が堅い。

 この間の問いの結論を恐れているのかもしれない。

 だが、そんな心配はしなくてもいい。

 私は決断することにしたのだ。

 

 今の自分が何者なのかという答えを用意して。

 

 

 

 



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第22試合 狙撃対決
不動坊陣内の受難


 

 

 JR池袋駅の西口の路地を少し入ったところに、その質屋はあった。

 商号は『根来質店』、池袋が今のように発展し始めた頃から続く老舗である。

 店主は不動坊陣内といい、六十がらみではあるが、この質屋と並ぶもう一つの業務を精力的にこなす、タフな老人であった。

 常日頃から僧侶のような黒い作務衣を纏い、やってくる客と交渉し、ご近所づきあいも無難におこなう姿から、知人からは「根来のお坊さん」と呼ばれている。

 この年頃には珍しい肩までの総髪なので、黒い作務衣といい、非常によく目立つ外見をしていることもあるが、金に汚いことも近所では評判になっていた。

 その日も、陣内は算盤をはじきながら売り上げを帳面に書き写していた。

 パソコンなどという道具はまったく使えないうえに、どんなに勧められても絶対に覚えようとはしない頑固な男なのである。

 もうすぐ陽が暮れようというとき、質店の横開きの扉が開いた。

 二つ分の人影が入ってきた。

 

「邪魔するぞ」

 

 掛けられた声に聞き覚えがあった。

 退廃的で気だるげな、それでいて何かを渇望しているかのような声だ。

 こんな声を出せる女で陣内が知っているものと言えば―――

 

「これはこれは、武蔵野柳生の総帥・十兵衛美厳(みよし)さまではございませぬか。このような場末の質屋へどんな御用で? ははあ、ワシのものである光世を返してくれることになったのですかな」

「ふざけろ。あの三池典太はおれのご先祖様のものだ。断じてお前のものではない。それに、あれに肉体を乗っ取られた鍛え方の足りないおまえのもとに置いておくことはできねえなあ」

 

 痛いところをつかれて、陣内は黙った。

 数か月前にとある大業物を巡ってのトラブルのときに、彼はかつてならばありえない醜態をさらしてしまい、結局手に入れずに終わらせてしまったことがある。

 その時には、この女性に命までも救ってもらうという屈辱を味わった。

 

「はっはっは、ご厳しいですな、柳生の総帥。耳が痛いですわ」

「耳程度で済んでよかったな、陣内」

 

 とぼけた顔をして辛辣な毒を吐くのは、柳生美厳。

 多摩の一画にあるとある市に住む、武蔵野柳生という剣術の流派の総帥であり、この流派が統括する〈裏柳生〉という忍びの組織の元締めでもある。

 まだ十代だというのに、全身から醸し出される異常なまでの色気と右目に眼帯のようにあてがわれた刀の鞘、大きなポニーテールが印象的な美女であった。

 彼女はいつもの着流し姿ではなく、ごく普通の女性らしいトレーナーとジーンズという格好だった。

 憎き小娘にやりこめられてしまい、ぐぬぬと歯ぎしりをしていた陣内は美厳の陰にもう一人がいることを思い出した。

 こちらは高校の制服を着ていて、十代相応の色気などまったくない。

 だが、腰に両手を当てて、ふんぞり返っている態度と何ものも顧みないような不敵な眼差しは記憶にあった。

 記憶の中にある紅白の衣装と二重写しになる。

 間違いなくこちらの娘のことも知っていた。

 

「―――〈社務所〉の退魔巫女か?」

「そうだよ。名乗るのは初めてかな。ボクは御子内或子。この関東でも最強の女さ」

 

 ここまで自信たっぷりに言われると己惚れが強いというだけでは表現できない。

 陣内が呆気にとられるのもむべなるかな。

 関東を鎮守する聖なる巫女である御子内或子は威風堂々と名乗った。

 実際のところ、彼女は自分の台詞を信じ切っているので恥ずかしいなんていう感情は微塵も抱いていないのだ。

 

「ふざけろ、或子。貴様などが最強のはずがないだろ。この十年、いや百年に一人の天才剣士であるおれがいる以上な」

「ボクなんて百年どころか千年に一人の天才だからね。キミなんてレア度でいったら比べ物にならないね」

「ほほお、言い切るか。いい度胸だ」

「事実を語っただけだが」

「おまえが騙ったのは戯言だな」

「言うね、田舎の剣術使い。ここで武蔵野柳生の血を絶やしたいとみえる」

「武蔵村山は田舎じゃねえ! ちっ、立川程度で粋がるんじゃねえぞ、同じ都下のくせに……」

「立川を舐めんな!! 中央線の特別快速が止まるんだからね!!」

 

 美厳が狭い店内で懐に納めていたらしい小刀を抜刀し、或子が拳法の構えをとる。

 これに慌てたのは陣内である。

 この二人の少女の戦闘力は嫌というほど知っている。

 自分の店の中で暴れられたらどんな損害が出るかわからない。

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 あっという間の出来事だった。

 陣内は元忍びである。

 その彼が咄嗟に選んだ短銃による仲裁行動をまるで読み切っていたかのように、美厳と或子は抜群のチームワークを見せて制圧したのである。

 何をされたのか気がついた陣内が、二人による芝居を疑うまでに息の合った連携であった。

 しかし、陣内を取り押さえながらも、或子と美厳は至近距離でメンチを切り続けていた。

 

「グルルルルルゥゥ」

「死ね、腐れ巫女」

 

 傍から見たその様子はとても仲が良さそうには思えない。

 不倶戴天の敵として憎みあい、殺し合いに発展してもおかしくない有様であった。

 

「―――すいませんが、柳生の総帥と退魔の巫女。いい加減にワシを自由にしてくれんかな」

「……おまえが銃など向けるからこうなったのだ。剣士に対して銃を突きつけるなど、斬り殺されていてもおかしくないところだぞ」

「ボクもいきなりだと手加減ができないんだよ」

 

 といいつつ、極めた腕を離そうと二人。

 陣内は仕方なく短銃をそっとテーブルの上に置いた。

 持ち主が手放した短銃を遠くに飛ばしてから、ようやく或子たちは陣内を解放する。

 

「イタタタ……六十のジジイに対してなんてことしやがる」

「まだ枯れていないのならばジジイを名乗るな。そもそも、銃を向けたのは貴様だ」

「―――人の店で死合いをしようとしていたのはどこのどいつだ……」

 

 しかし、陣内はその言葉を呑み込んだ。

〈裏柳生〉と退魔巫女。

 どちらもおっかなすぎて、これ以上関わるのは考えものだ。

 何をしにきたかはわからねえがとっとと出ていってもらおう。

 そう決めると、陣内は自分の椅子に戻って座り込んだ。

 とりあえずここは自分のホームだ。

 落ち着いて話せば、主導権もペースを掴みやすいのはホームの自分の方なのだと心で言い聞かせる。

 

「……で、何の用なんですかね?」

 

 美厳が言った。

 

「昨日、都内で狙撃事件があった。これで三人目だ」

「―――狙撃? 初耳ですな」

「不動坊陣内。貴様も元忍びならば都内の情報ぐらいには精通しておけ。そんなことではいざという時にもたんぞ」

「ご心配なく。ワシはもう二度と忍びの稼業には戻りません。田舎の連中も、無理して戻ってこずともいいといっておりますしな。最期は紀州の先祖伝来の墓には入れてもらいますが、死んだら、の話です」

 

 彼と同郷のものはほとんどいない。

 大部分は関西に行ってしまっているし、こちらにいたとしても仕事らしい仕事はないのがオチだからだ。

 さらに、彼の流派―――根来の忍びは、東京には彼しかいないといっても過言ではない。

 かつてはいたが、今はいない。

 

「で、なんでその事件のことをワシに?」

「これを見ろ」

 

 小さなビニール袋に収められていたものは、小さな金属片だった。

 しかし、陣内にはすぐにわかった。

 これは―――弾丸だ。

 

「……匁玉じゃねえか。しかも、撃たれた跡が残っている。まさか、これでか?」

「そのまさかだ。狙撃された被害者の体内から摘出したものがこれなんだぜ。貴様は当然わかるよな、根来衆?」

「まあな。ワシらは鉄砲に関しては日ノ本一の忍び衆だからよ。……おい、あんたがこれをワシに見せたということは……」

「狙撃に使われたのは種子島の火縄銃だ」

「だからといって、ワシを下手人扱いする気か?」

「得物が種子島というだけで、昔なじみの古物商を犯人扱いはしねえよ。いくら、おれでもな」

「じゃあ、どうして……」

 

 すると、巫女の或子がポケットから折り畳んだ紙切れをとりだした。

 地図のコピーのようだった。

 一点を指さしてから、十センチほど離れた点に動かす。

 

「被害者が撃たれたのはここの路上。それで、本件の下手人と思われるやつが種子島を撃ったとされる場所がここなんだよ」

「ん……? なにか変か?」

「縮尺を見てみなよ、キミ」

 

 それで陣内は漸く気がついた。

 この地図の縮尺からすると、その十センチとはすなわち、

 

「一キロだと? まさか、火縄銃の殺傷距離は二百メートルがいいところだぞ。一キロなんて……」

 

 そこで陣内は悟った。

 だから、こいつらはここに来たのか。

 一キロ先の目標を正確に種子島の火縄銃で撃ち抜けるものなど、普通はいない。

 鉄砲を得意とする根来の忍び衆を除いては。

 

「わかったぜ、あんたらがワシのところに来た理由が。だが、先に言っておくが、ワシじゃねえ。狙撃なんぞやっている暇があったら、たんまり金儲けでもしてらあ。だから、別を当たってくんな」

 

 美厳は引き下がるつもりはないようだった。

 

「貴様ら、根来衆には忍術射撃とかいう摩訶不思議な技があるそうだな。その使い手がこれをやったのではないのか?」

「おいおい、まず知っておいてほしいが、こんなのは警察の仕事だろ。あんたらの管轄じゃない。何か知りたければ警察に行ってくれ。ワシは知らん」

「本当に知らないのかい?」

「知らんものは知らん―――んんん?」

 

 陣内は一度だけ首をひねる。

 何かが喉元まででかかっていて、少し悩んだらそれが出てきた。

 役に立つかどうかは知らないが、この情報でこのおっかない女どもが出ていってくれるのならば越したことはない。

 だから、躊躇わずに言った。

 

「そういや、ワシは古物商もしているが、一昨日、遺品銃の話をもってきた刑事がいたんだ。確か、先祖伝来の火縄銃を売りに来た客はいないか……とか。ワシは覚えがないと帰ってもらったが、普通はそういう行政指導みたいなもんは刑事がしにはこないからな。何かの事件かと思っていたが……」

「……美厳。警察は、この件で動いていたっけ?」

「いや、貴様のところの禰宜が撃たれて以来、止めておいたはずだ」

「じゃあ、どうして警察がそんなものを調べているんだ」

「わからん。とにかく調べてみよう。―――よし、不動坊邪魔をしたな」

「ごくろうさま!!」

 

 と、手をあげると二人の台風はさっさと店内から出ていってしまった。

 本当に嵐のような連中だった。

 取り残された陣内はため息を一つついて、

 

「あの連中とはもう関わり合いたくねえ」

 

 しみじみと呟くのであった。

 

 

 

 

 



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ティンカー・テイラー・ソルジャー・スナイパー

 

 

「え、それは本当に危険なんじゃないの? 止めようよ!」

 

 新しく御子内さんが解決に乗り出したという事件の詳細を聞いて、さすがに止めたくなった。

 遠距離からの銃による狙撃事件だというのだ。

 僕は彼女の格闘戦についての実力はよく知っているし、なによりも信頼しているが、それとこれとは話が別だ。

 姿の見えない狙撃手(スナイパー)との戦いがどれほど危険極まるものなのか、FPS(ファーストパーソンシューター)ゲームを趣味としている僕は理解していた。

 どれほど反射神経が鋭くても、遠距離から狙われて一発で仕留められるおそれがある戦いは不利などというものではないのだ。

 戦場で狙撃手が最も恐れられている理由はそこにある。

 それなのに、御子内さんは平然とした顔をしていた。

 いくらなんでも軽く捉え過ぎではないかと腹が立つほどに。

 

「だから、ボクと美厳のバカにお鉢が回ってきたんだよ。まあ、どちらも身内が傷つけられているし、敵討ちという意味合いもあるんだけどね」

「意味がわからない! いくら、御子内さんでも狙撃手を相手にするなんてバカげている。すぐにやめるべきだ! 犯人を地道に捜して危険のない範囲で捕まえるべきだよ。そもそも、なんでそんな事件を妖怪退治専門の退魔巫女がやることになったのさ!?」

 

 僕の剣幕にさすがに驚いたのか、目を丸くしながら、御子内さんは理由を語り始めた。

 

「いや、発端はね、美厳のところの弟子がいの一番に撃たれたことから始まるんだよ」

「美厳さんのお弟子さん? するってえと、〈裏柳生〉の?」

「そうそう、その〈裏柳生〉の忍び。しかも、ただ撃たれただけじゃなくて、運び込まれた〈裏柳生〉と提携している病院で腹の中から摘出された弾丸が問題だったんだよ」

「弾丸? ダムダム弾でも使われたの?」

「匁玉だったんだ。火縄銃で使われるような。それで、色々と検査した結果、射撃に使われたのは種子島鉄砲だということが判明した。平成の今になって種子島だからね。美厳たちはすぐに事件を隠ぺいして、警察も関与できないようにしてから独自の捜査に入った。自分のところへの攻撃の可能性があったからさ」

 

〈裏柳生〉というのは美厳さんのところの柳生新陰流の弟子を中心にして作られている忍びの組織だ。

 現代に忍者がいるということ自体実はびっくりなのだが、意外と需要があるらしくて色々なところで活躍しているそうだ。

 詳細こそ聞かなかったが、美厳さんの〈裏柳生〉は関東圏に限ると、箱根の〈風魔衆〉と並ぶ二大組織なのだということぐらいは教えてもらった。

 なるほど。

 忍びが撃たれればそれは敵対組織による工作の可能性がある。

 しかも、凶器となったのが時代遅れなんてものじゃない種子島鉄砲だ。

 これだけなら事態を隠ぺいして独自に調査を開始するのはわからなくもない。

 だが、どうしてそこに御子内さんたち退魔巫女が絡んでくるんだ?

 

「二人目の被害者が出たときに、この事件の特異性がわかったんだよ」

「……特異性って」

「一人目のときは、被害者が発見されたのは少し時間が経ってからで細かい捜査ができなかったが、二度目には下手人が被害者を狙撃した場所が特定できたんだ。狙撃ポイントはだいたい一キロメートルほど離れていた」

「一キロ!?」

 

 まさにびっくり仰天だ。

 最新式のライフル銃でも一キロというのは難しいというのに、種子島で一キロなんてほとんどあり得ないだろう。

 そもそも射程距離に含まれるかというのもあるが、丸い弾丸を使用する種子島ではライフリングがないので空気抵抗などで弾道が不安定になるはずだ。

 確か、150~200メートルが殺傷距離だから、そこまでならばともかく、何倍もの距離の目標を撃ち抜くなんて不可能だ。

 

「まさか。間違いでしょ」

「いや、それは確からしい。目撃者もみつけたそうだし。トリックの類いもなしで、下手人は種子島で一キロ先からの狙撃を完遂したんだよ」

「―――ゲームでも無理だよ、そんなの」

「さらに問題なのは、狙撃ポイントが特定されたことで綿密に現場検証したところ、そこから微量の妖気が観測された。妖魅の性質まではわからないけれど、妖怪あるいは〈付喪神〉、または死霊、その類が絡んでいることがわかったんだ」

「それで〈社務所〉に連絡が行ったんだね」

「うん」

 

 ようやくここにきて、御子内さんが絡むことになった理由がわかった。

 理由や正体は不明だが、その狙撃は妖怪が関わっている事件のおそれが高いということか。

 

「うちの事前調査を担当する禰宜の一人が、〈裏柳生〉と一緒に捜査を行うことになった。そうしたら、今度は彼が撃たれた。―――しかも即死さ。前の二人がなんとか命を取り留めたというのに、禰宜は運悪く頭を撃たれてしまった。ただ、彼の場合は一キロとかではなくて目の前で撃たれたみたいだけど」

「死者が出たんだ……」

 

 死人がでたとなると、ますます御子内さんには関わって欲しくない。

 いくらなんでも徒手空拳の彼女がライフル銃に勝てるはずはないのだから。

 せめて拳銃相手ならばともかく。

 

「そうなると、もう〈裏柳生〉も〈社務所〉も退くことはできない。そこでボクと美厳のバカがあたることになったんだよ」

「意味がわからないよ。なんで、君らなのさ。ただ腕っぷしが強いだけではこの事件には適さないでしょ」

「ボクと美厳は勘働きが鋭いからね。だからだよ」

「……もう少し納得できる説明をお願い」

「―――要するに、ボクらは誰かに見られているということに敏感なんだよ。監視カメラ越しでもわかるし、一キロぐらい離れていてもすぐにわかる」

「あ、〈オサカベ〉のときの……」

 

 そういえばそうだ。

 御子内さんの他人の視線に対しての過敏すぎる反応については僕も知っている。

 監視カメラ越しに覗いている人間の存在なんて普通はわからない。

 それが常在戦場の武人の勘働きというものなのかもしれないけれど。

 

「美厳もそうだな。あいつは下手をしたらボクよりも鋭い。まるで予知能力でも持っているかのような振る舞いをすることもあるしね。だから、ボクらが選ばれた。下手人はどうも自分を追っている敵を始末することを最優先にするようだからね」

 

 つまり、下手な人物に捜査をさせると〈社務所〉の亡くなった禰宜さんのように殺されかねないから、撃たれてもなんとかなりそうな二人を当たらせるということか。

 退魔巫女の一人でしかない御子内さんはともかく、〈裏柳生〉の総帥である美厳さんを投入するというのは大胆すぎるとは思うけど。

 

「そういう訳で、ボクが当たるしかないんだ。これ以上の犠牲はだしたくないし」

「―――僕が君のことを死ぬほど心配していることを承知して決めたということだよね」

「わかっているさ。でも、こればっかりはこぶし辺りでもできることじゃないからさ。ボクと同等の危機回避能力を持つとなれば御所守(ごしょもり)の義祖母ちゃまぐらいのものだけれど、いくらなんでもトップをこんなことに駆りだせない。まあ、下っ端の仕事さ」

 

 そう言われては何も言えない。

 彼女の人格と決心を尊重するしかないのだ。

 僕は御子内さんの恋人でもないし、ましてや夫でもない。

 文句を言っていい権利はない。

 ただ、友達としては言うべきことは言わせてもらおう。

 

「わかった。もう止めない。でも、一つだけ頼みがある」

「なんだい? さすがに現場に京一を連れていくことはできないよ」

「それはわかっているよ。僕もそこまでお荷物にならない。別の話さ」

 

 僕は言った。

 

「御子内さんは銃や撃ち合いについて詳しくないよね」

「あたりまえだね。女は素手で戦ってこそ美しいんだからさ」

「御子内さんの素っ頓狂な価値観はさておくとしても、少なくとも誰かが君たちのサポートをしないとならないのは確かだろ。だから……」

 

 スマホで呼び出した画面を見せる。

 

「耳かけ式のハンズフリーのカメラだよ。これに通話機能をつけたものを使って欲しい。これがあれば君の隣にいるようにサポートができる。僕はただの力のない高校生だけど、御子内或子の助手として君を助けたい。―――どう?」

 

 彼女の人格と決意を尊重することと、彼女を助けることを併存させるためにはこれしかない。

 すると、御子内さんは花が咲いたように微笑んだ。

 

「もちろん、いいさ。キミとボクは一心同体だからね。むしろ、ボクの方から提案すべきだったほどだ」

 

 こうして、僕と御子内さんはガッチリと握手を躱した。

 いつでも僕らは一緒にやってきたのだ。

 それはこれからも変わらないだろう。

 

 

 

 

 

 



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蠢く狙撃手

 

 

 柳生家のリムジンに戻ってきた御子内さんと美厳さんは、どっしりと後部座席に座り込んだ。

 後部座席は会議でもできるかのように向き合って座る形になっていて、僕を含めて三人が待っていた。

 そのうちの一人、不知火こぶしさんが二人に話しかけた。

 彼女は元の退魔巫女で、現場における御子内さんたちの上司のような立場である。

 背広姿の男装が凛々しいタカラジェンヌのような人であるが、僕は内心、『課長』と呼んでいた。

 苦労人という言葉がよく似合う。

 

「どうだった、或子ちゃん?」

 

 僕の対面にいる美厳さんの妹である冬弥さんも首尾を聞きたそうな顔をしている。

 御子内さんは僕の隣に座ると、腕を組んで難しい顔をした。

 

「ボクの勘で良ければ、あの根来坊主は白だね。それより、こっちからの通信で聞いたと思うけど、警察側の情報はどうなんだい?」

「連絡はしておいたわ。うちの警察とのパイプ役よりは、〈裏柳生〉の方が早いとは思うけどね」

「はい。うちは仮にも諜報組織ですし、内部に何人も潜り込ませてますから」

 

 冬弥さんはお姉さんとは違って、楚々とした清純派だ。

 色気とは無縁そうなタイプだった。

 こういう雰囲気は意図して作られるもので、逆に絵に描いたような清純派こそ危険、というのはうちのクラスの某男子の評論である。

 とはいえ、元々大名の血筋の姫でもある冬弥さんは、姉である美厳さんの補佐をしたりして、とても真面目な人である。

 見た目そのままの印象でまず間違いないだろう。

 

「種子島鉄砲を使う、暗殺家業をしていた根来忍者が怪しいという最初の推理は間違っていたということかしら」

「いや、おれたち柳生と根来は因縁があるから狙いとしては間違っていないだろ」

「まず、最初に狙われたのが〈裏柳生〉の人間だからね。しかし、今どき、どうやって種子島なんてものを手に入れたんだ?」

「そこがこの事件の肝でしょうね」

 

 リムジンの内部は完全に会議室と化していた。

 しかも、このリムジンは防弾仕様となっていて、動く要塞ともなっている。

 特に今回のように狙撃で襲われるおそれがある場合にはとても安心感がある。

 十分もすると、冬弥さんのスマホが鳴り、短い通話が行われた。

 

「……今回の事件についてではありませんが、遺品銃が紛失したという通報があったそうです。陣内さんの言う通りに火縄銃についてですね。それで、警察が都内の古美術商に当たっていたみたいです」

「そんな事件があったのに〈裏柳生〉は気がつかなかったのかい? 美厳、随分と呑気なことをしているんだね」

「うるせえよ。……まあ、しくじったのは確かだ。早い段階で警察の介入を遮っちまったのがな」

「そうですね。もう少し連携をとってみるべきでした。〈裏柳生(うち)〉への攻撃だからと警戒しすぎたみたいです」

 

 美厳さんも冬弥さんも失敗は認めている。

 こだわらない性格の持ち主なのだろう。

 そのあたり、かなり完成した現実主義者である。

 忍びというものはそういうものらしいけど。

 

「で、その盗まれたって火縄銃はどうなんだ」

「なんでも、銃口に鉛が詰まっていたらしく、盗まれた被害者もそれほど危険とはおもっていなかったらしいですね」

「なんだ、そりゃ。銃口が塞がれていたら文鎮と変わらねえじゃねえか。関係ないんじゃないか」

「―――いいえ、美厳ちゃん。普通の遺品としての種子島鉄砲ならばそれでいいでしょうが、うちの禰宜が調べた妖気のことを思い出してください。これは通常の事件ではなく、妖魅(あやかし)の関わるものです。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 こぶしさんのいうことも、もっともだ。

 これは忍びの組織である〈裏柳生〉と妖怪退治の退魔組織〈社務所〉の合同作戦なのだ。

 つまり、通常の事件ではないことが前提である。

 

「遺品として発見された撃てない火縄銃に、妖気の残った現場、そしてあり得ない射撃術、―――間違いなく妖怪がらみだろうね」

 

 あらかじめ用意されていた茶菓子を食べながら、御子内さんが言う。

 

「その火縄銃が発見された家のことは〈裏柳生(うち)〉で調べておきます。問題はどうしてうちの忍びが狙われたかなのですが……」

「うーん、〈裏柳生〉は妖魅と関わることも多いから、そっちで何かあったんじゃないのか?」

「あったとしても、やられたらやり返すまでだ。おまえんところも一人殺られてるのだから、ここは何も言わずに協力しろ。意趣返しだ」

「仕方ないね」

 

 僕が知っている限り、〈社務所〉は警察と連携したりもするが、こういう風に無軌道に動いて失敗することもある。

 公の組織でないということが招く問題なんだろうな。

 

「しかし、これ以上の被害者は出せないぞ。一刻も早く種子島を使っているやつを止めなければならない」

「ただ、どうします?」

「うちの調査係の禰宜が撃たれたのは、下手人の足取りを追ったからだろうね。一人だけ、近距離から狙われたのはそういうことだと思うよ」

「というと、その禰宜がどこまで真相に迫ったかにかかる訳だ」

 

 ……だが、この時はまだ事件の下手人に辿り着くことはなかった。

 事件が進展することもなかった。

 翌日、話に出た火縄銃を盗難されたという家を調査していた〈裏柳生〉の忍びが獣のように撃たれるまでは……。

 

 



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対策はこれだ

 

 

 今回の狙撃事件において、〈社務所〉と〈裏柳生〉という二つの組織はいくつもの失敗を重ねていた。

 まず、最初に〈裏柳生〉の忍びが撃たれたときに事件の隠ぺいを図ったことによって、警察との連携がとれなかったこと。

 これによって、問題の種子島鉄砲の情報がすぐに入手できなくなり、続く事件を防げなくなったことだ。

 次に、第二の狙撃事件が起き(この被害者も失敗したことによる延長だろう)、〈社務所〉の協力を仰いだのはいいが、その調査員たる禰宜がどこまで調べたのかをきちんと把握していなかったこと。

 まさか、下手人が自分を調べようとするものを片っ端から排除しようとするなんて想定していなかったとしても、報告ぐらいはさせておくべきだったのだ。

 しかも、この禰宜の死亡によって得られたものはほとんどない。

 最後に、盗難された撃てない火縄銃の調査を無用心にさせてしまったこと。

 おかげで、また犠牲者が出た。

 四人目の被害者の命が助かったのは、分厚い防弾ベストを着こんでいたためであり、凶器となった種子島鉄砲の殺傷力をなんとか防ぎきれただけのことであって、たまたまであるに過ぎない。

 そういったこともあり、翌日、また集まった対策チームのメンバーは焦慮の顔つきをしていた。

 これ以上の被害者は出せないと考えていた矢先の出来事だからだ。

 総帥の姉から仕切り役を仰せつかっている冬弥さんが口を開いた。

 

「―――火縄銃を盗難されたという家は、三鷹市にある元農家のおうちですね。蔵の手入れをしていたときに、床下から発見したそうです。警察に相談したところ、撃てる状態にないものでも遺品銃に含まれるおそれがあることから、三鷹署に持っていくことになっていたらしいです」

「昨日も聞きましたけど、遺品銃ってなんですか?」

 

 思わず口を挟んでしまった。

 

「ああ、亡くなった方の遺品から見つかったりした銃器のことですよ。昔、日本軍の兵隊だったお爺さんとかが隠していたり、うっかり忘れていたりしたものが、亡くなったあとの形見分けで見つかったりするんです」

「危なくないんですか?」

「だから、警察に届け出ないといけなくなっていて、形見だからといって所有していると銃刀法違反で捕まってしまうおそれがあります。ものによっては弾丸を撃てるものもありますからね。完全に壊れていたりする場合は返してもらえるみたいですが、たいていは没収されて破棄されてしまうので躊躇う人もいるんですよ」

 

 確かに、お祖父さんの形見とかなら手元に留めておきたいという気持ちもわかる。

 

「没収ってのは厳しいですね」

「それぐらい銃器の扱いに慎重だからこそ、日本ではあまり銃を使った犯罪が起きないんです。もっとも、最近ではそうもいかなくなっているみたいですが」

「―――種子島鉄砲みたいな火縄銃も含まれるんですか」

「ええ。ただ、火縄銃はもう骨董品ですから完全に置物となっている場合はお目こぼしされるみたいです。今回、見つかった火縄銃についても銃口が鉛で塞がっていて、ただの置物同然だったということで、警察もすぐには没収対象にはしなかったみたいですね。ただ、その連絡をした夜に紛失したそうです。家の中から」

 

 なるほど、それで警察に被害届を出して、警察も動いたということか。

 没収の対象にはならないとしても、仮にも鉄砲だ。

 もしものこともあるだろう。

 市場に出回るのならば、扱っている古物商―――あの根来の人みたいな―――に通達を出すのも当然ということだね。

 

「でも、盗難があったとしても、普通の家からなくなったっていうんなら、家族が怪しいんじゃないのか」

「だから、うちの忍びはそこを調べに行ったんです。だけども、そこで撃たれた」

「なら、間違いないな。盗んだのも、撃たれたのも、その家の人間だ」

「でも、調べた限りではごく普通の古い農家でした。〈裏柳生〉とは縁もゆかりもありません」

「そんなのはあとで調べればいい。問題は、その種子島だ。おそらく、また何かが憑りついているんだろう。一刻も早く処分するしかないな」

 

 美厳さんが断定する。

 前回の刀のときもそうだったが、どうもこの人たちの周囲ではこの手の話が多いみたいだ。

〈裏柳生〉って諜報組織のはずなのに、どうしてだろう。

 さっきまでの話を総合すると、見つかった古い火縄銃は〈付喪神〉なり亡霊なりが憑りついていて、そいつが無差別に人を撃っているらしいけど。

 

「〈裏柳生〉は関東一円に今でもかかっているある呪いを除去することを目的としているんだ。だから、退魔組織の〈社務所〉とも関係が深いし、独自の捜査手段も有している」

 

 御子内さんが解説してくれた。

 

「呪い?」

「……ああ。古くて深い呪いさ。古代にやんごとなき身分の方がこの関東にかけた恨みの言葉がそのままずっと残っているんだ。大権現様が江戸に幕府を開いたときに、春日大社の力を借りて解こうとしたが、ほとんどできずに終わった。そのときに、おれのご先祖様の十兵衛さまは巫女の護衛としてここにやってきて、武蔵野柳生を創ることになった。自分自身は鷹狩にいった先の弓淵で死んだことにしていたからな。幕府の後ろ盾もあったし、おれたち柳生はここに根を張ることにしたのさ」

 

 それが武蔵野柳生の始まりなのか。

 僕の知る歴史にはない裏で育まれた系統の。

 

「ボクたち〈社務所〉とは違い、ただの民草を守る義務はないから、退魔組織として〈裏柳生〉は二流なのさ」

「おまえらと一緒にして欲しくはねえからな」

「ぬかせ、美厳。ボクらは、ちょっかいかけられないと尻を上げないキミたちとは違うんだからね」

 

 黙っていたこぶしさんが口を開く。

 

「その農家を調べれば、種子島鉄砲をもつものが邪魔ものを排除しようと動くのはわかりました。つまりは、そこをつけば見つけることはできるということです。しかも、下手人となったものはおそらくその家の息子だと思われます」

「どうして特定できるの?」

「夫婦と長男の三人家族のはずですが、現在確認できたのは夫と妻だけという状態では簡単な推理です。―――状況はわかりませんが、まあ、好奇心から火縄銃を手に取ってみたら乗っ取られたとかそのあたりでしょうね」

「なんて酷く簡単な推理ですね……」

「妖魅の関わる事件なんて、たいていはシャーロック・ホームズも御手洗潔も、矢吹駆もいらないレベルなんですよ。貴方はどちらかというとそっちに近い人ですけどね」

 

 僕は名探偵になんてなれないけどね。

 ここにいるメンバーはここまでの会話でだいたい納得できたらしい。

 御子内さんも、美厳さんも、こぶしさんも、冬弥さんも、阿吽の呼吸並みの団結力でこの事態に対処することを決めたようだった。

 これ以上の被害者は出せない。

 昨日決めたことをまた思い出す。

 

「おれが、その農家に行く。囮役だな」

「……そこへ至るすべての狙撃ポイントを割り出して、下手人を捕まえます。姉さんが囮を買って出てくれれば、相手は必ず引っかかるでしょう。もっとも、用意できる〈裏柳生〉はすべて動員しますが、簡単に制圧できるかは難しいですね」

「いや、それはいいよ」

 

 冬弥さんのあげた提案を否定したのは御子内さんだった。

 

「どういうことですか、或子さん」

「その種子島鉄砲を相手にするのは、ボクがやる」

 

 御子内さんは背中に回していた長い革袋を手に取った。

 そこから折り畳まれた細い道具を取り出す。

 

「……梓弓じゃねえか。てめえ、そんなもんで鉄砲と撃ち合う気かよ」

「一キロは無理でも、三百メートルほど近寄れば、ボクの腕なら十分に当てられるさ」

 

 御子内さんが武器―――しかも弓を使うなんて初めて聞いたぞ。

 

「てめえに、巫女っぽい真似ができるとは初耳だが」

「梓弓を使って妖魅を射るのも、退魔巫女の(わざ)だよ。―――だから、美厳。キミは第一撃さえ躱してくれれば、あとはボクがやるよ」

 

 自信満々の御子内さんを一瞥して、美厳さんはため息をついた。

 

「やってみろよ。ただし、へますんのは許さねえぜ」

「ボクに限ってそれはないね」

 

 ……こうして、かつてない弓と銃の戦いが始まろうとしていた。 

 

 

 



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ゲームの支度

 

 

 三鷹市のこのあたりは、あまり高いビルがなく、あったとしてもマンションが関の山という地域だった。

 僕たちが訪れた農家は、今では元がつくぐらいに畑仕事とかはほとんどしていないらしく、農具の類などは見当たらなかった。

 ただし、大きな蔵が二つもあるぐらいの、広い敷地を有していた。

 目立ちすぎるリムジンを少し離れた場所に横付けし、慎重に周囲を観察する。

 相手は狙撃手だ。

 下手な動きはとれないからである。

 

「―――正直、相手の動機が読めませんね。まあ、妖魅相手に動機の考察なんて無意味な気もしますが」

「発見された種子島鉄砲が呪われた品で、それに憑りつかれたこの家の息子が無差別に狙撃をしている。そんな感じみたいですけど」

「……強い意図は感じ取れないな。特定の誰かを狙うという。ただ単にバレないように鉄砲を撃ちたい。その程度に思える。だから、自分を探っているものを排除するんだろう」

「おかげで正体が掴めましたけどね」

 

 巫女さんと剣士たちは落ち着いたものだ。

 慣れっこなんだろう。

 

「京一、何か意見はあるかい?」

「うんと、夜になったら美厳さんがあの家の敷地内に侵入する。そうしたら、下手人が狙撃してくる。初弾を躱したら、相手の居場所を突き止めて、御子内さんが反撃する。これが大筋だよね」

「まあね」

 

 ―――簡単に言うけど、どこからともなく狙ってくる弾丸を躱すことが前提という危険極まる作戦だ。

 ここの人たちは美厳さんができると信じきっているようだけど、果たしてそんな奇跡的な真似ができるのだろうか。

 勘が鋭い程度では不可能だろう。

 

「御子内さんが接近するまでに逃げられたりしないかな」

「そこはあるね。一分時間を与えてしまったらもう終わりかもしれない」

「だったら、できる限り、狙撃ポイントを絞り込まないと」

 

 僕はこのあたりの印刷した地図を見た。

 高低差とかもだいたい網羅されている正確なものだった。

 

「この家のサイズがこれだとすると……。ちょっと出掛けてくる」

「あ、おい、危険だぞ!」

「大丈夫だよ、このあたりを見て回るだけだから」

 

 地図をもって、僕は外に出た。

 実際に目で見てみればわかることがたくさんある。

 あの農家に近づかないようにして、わずかにある高台やマンションを重点的に調べて回った。

 聞きたいことがあったら〈裏柳生〉の人に教えてもらいながら、なんとかおおよそは調べ上げた。

 種子島の性能なんてものは知らないが、現在の狙撃理論に従えば、特に問題はないはずだし。

 それでも三時間ほどかけてすべて見て回ると、リムジンに戻った。

 車内では御子内さんたちが、

 

「よし、革命だよ!! これでボクのターンだ!!」

「くそ、姑息な真似を。誰か、革命返しをしろ!! これ以上の被害を出させるな!!」

「まーた、姉上が大貧民ですか? でも、確かに或子さんに勝ち続けられるのも迷惑ですから、仕方ないですね。はい、革命返しです」

「よし、よくやった、我が妹よ」

「ちょっ―――!! それは……」

「じゃあ、流しますね。はい、さようなら。次は私の番です。これで、これで、これで、これ……と。はい、あがりです。やりました、今度は私が大富豪!!」

「こ、こぶし、キミってやつは!!」

 

 ―――トランプで盛り上がっていた。

 傍らのメモ帳を見ると、僕がでてからずっと大貧民をやっていたようだ。

 プラス収支は御子内さんがトップで、ビリが美厳さん。

 凄いゲーム回数なんだけど。

 

「お帰り、京一。もう少し、待っていてくれないか。今から美厳のバカをギタンギタンにするところなんだ」

「なんだと、てめえ!!」

 

 僕が仕事している間に、この人たちは……。

 まあ、いいや。

 情報を整理する時間もいるしね。

 すると、さすがに真面目な冬弥さんはもう遊びをやめることにしたらしい。

 

「……何かわかったんですか、京一さま」

「うーん、たぶん、狙撃するんならここだというポイントは絞ってきました。この地図でいう、この三点です」

 

 僕は地図を広げて、赤鉛筆で丸を書いた。

 

「どうして断言できる? おまえ、狙撃の専門家なのか?」

「いいえ。本物の銃は撃ったこともないです」

「じゃあ、どうしてだ」

「ゲームではよくやりましたから」

「はあ、ゲームだって……!!」

 

 ゲームといってもFPS(ファーストパーソン・シューティングゲーム)だ。一人称視点で戦い合う、対戦型のバトルゲーム。

 僕はそれを趣味としている。

 特にスナイパーライフルを使った戦術においては、わりとネット上でも名が売れているのであった。

 ゲームと実戦を一緒にするのは頭が悪いやつのすることだけど、理屈はどちらでも通用する。

 話してみてわかったが、〈社務所〉も〈裏柳生〉も銃器に対する知識が少ない。

 銃の知識なんて日本にいる限り役に立たないものではあるが、今回に限れば必要だろう。

 僕以上の本物の専門家を招聘している時間もないだろうし。

 

「いいですか。今回の下手人の腕は、おそらく種子島鉄砲自体の能力です。妖怪的にいえば秘儀でしょう。ですから、通常の物理法則は意味がない」

 

 弾道の絵を描いた。

 普通ならば最終的には弧を描く弾丸の軌道が、今回の狙撃に至ってはほぼまっすぐのままぶれない。

 一回目と二回目の事件の比較でわかる。

 

「ですから、高低差よりも完全に視界が開いていることが重要になります。つまり、マンションなんかの屋上とかよりも、遮蔽物のない場所だということが重要になる。で、美厳さんが屋根のここに立つと仮定すると、三か所しかない」

 

 ゲームでもそうだが、無理のない狙撃ポイントというのは実は数少ないのだ。

 特に最初から想定されていない町中なんてないに等しい。

 だからこそ、殺された禰宜の人は近づかれて撃たれたのだ。

 敵が美厳さんの挑発にのるとしたら、そこを逆手にとるのがいいだろう。

 

「御子内さんはここに陣取ります。それで、最初の狙撃の段階で動き、梓弓の射程距離まで近づいて撃ち返す。できる?」

「まあね。ボクも〈天弓〉の真似事ぐらいはできるし」

「〈天弓〉?」

「退魔巫女の神事ですよ。翻って、妖魅の類いを射倒すことの通称にもなっています」

 

 まあ、いくらなんでもすべてリングとプロレス技で決着がつくわけないし、そういう技も当然持っているよな。

 

「じゃあ、それでいきましょう」

「夜になってから、美厳ちゃんが動きます」

「本当に大丈夫なんでしょうね」

「ああ、おれは敏感だから見られているということはすぐにわかる。殺気が送られれば一キロ離れていたってわかる。それは安心しろ」

「ではお願いします」

 

 ―――そして、夜になった。

 

 

 

 

 



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前髪の憂鬱

 

 

 柳生美厳は、深夜になると堂々とした足取りで、その農家の中に侵入していった。

 誰に見咎められることもなく、例え見つかったとしても怪しまれることもなさそうなほどに堂々たるものだった。

 腰に一振りの刀を佩き、袴をはかない着流し姿で歩む姿は、時代劇の素浪人そのものであったが、武士階級が消えてなくなった現代においてもなんの違和感もない佇まいというのはそれはそれで脅威である。

 僕は仕掛けておいた監視カメラで確認するしかない立場だったが、それでも美厳さんがリラックスしているのはわかった。

 襟もとにつけているマイクから鼻歌が聞こえてくるのだから。

 

『ふうはしれー、おらをとえー、うらっくあたんをたおすまえー』

 

 マイクを通してなのではっきりとは聞こえないが、僕にも聞き覚えのある歌だった。

 どう聞いてみてもブラックサタンを倒して平和を守るという歌だった。

 あれ、もしかして美厳さんって……

 

「姉上、ご機嫌みたいです」

「冬弥さん……」

「昔から、ああいうのが好きな姉なんです。しかも、今回は愉しいことだらけなんで、テンションもあがっているみたいで……」

 

 そうなんだ。

 狙撃の囮になるなんてどう考えても貧乏くじなのに、美厳さんには楽しいんだ。

 まあ、そのあたりは御子内さんもそうだし、武人の独特な思考形態なのかもしれない。

 

『蔵の中を適当に見て回っている。さっきから嫌な予感がバリバリしているな。どうやら、おれのことに気づいたらしいぞ』

「早いですね。やはり、自分を追うものを許さないというスタンスなのでしょうか」

「でしょう。本来はもっと自由に人狩りを楽しみたかったところを、〈社務所〉の禰宜に見つかってすぐに自分のアジトまで調べられるようになった。その反動でしょうか」

 

 妖しい種子島に操られている人物は、もう完全に追い詰められている。

 ただ、一縷の望みをかけて、自分を探る追手を始末しているに過ぎない。

 今、自分に迫っているものが、ただの人間ではないと知らずに。

 

「姉上、それでは外に出てください。例の位置に」

『わかった』

 

 美厳さんはさっと蔵からでると、そのまま屋根に昇る。

 そして、刀の鍔でできた眼帯を外した。

 

「あれ、ないと困りませんか」

「姉上は本来ならば両目とも健常ですよ。眼帯などつける必要はありません」

「じゃあ、どうして……」

「見ていてください」

 

 そのまま、彼女は眼を閉じた。

 今まで開けていた左目を。

 眼帯で遮られていたはずの右目だけを爛々と輝かせる。

 しん、と空気が静まり返る。

 どう考えてもおかしい。

 彼女の片目に睥睨されたせいで、大気そのものが動きを止めたかのような沈黙が広がっていくのだ。

 なんだ、何をしているのだ。

 これまでにも何度か退魔巫女たちの、術とも奥義ともいえるものを見てきたが、これはそのどれとも違う。

 あえて言うのならば……

 

「妖怪の秘儀……?」

「かもしれませんね。武蔵野柳生がこれまで培ってきた人外なるものを斬るための技ですから」

「なんだよ、それ……」

「説明はいたしかねます。うちの門弟でもない京一さまには、お見せするだけでも実は危ないレベルなのですから」

 

 美厳さんは片膝をついた。

 隻眼となった右目が夜の闇を穿つ。

 彼女の周囲にまとわりつく大気そのものがぐにゃりと歪む。

 見間違いではない。

 確実に酸素が、窒素が、水素が、美厳さんの発する気の力によって捻じ曲げられたのだ。

 それはまさに妖怪の持つ妖気に近い効果であった。

 何をしているかはわからないが、間違いなく彼女の傍には不可視の結界が形成されていた。

 そして、次の瞬間、どこからともなくパンと破裂音が聞こえてきて、ほぼ同時に美厳さんの右手が動いた。

 刀を立てただけの動作であったというのに、僕にはそれが恐ろしいほどに奇跡的で、信じられない神業であることを理解した。

 美厳さんは自分にとっての死角に当たる左横から放たれた銃弾を()()()()()弾いたのだ。

 理屈はわからない。

 ただ彼女はそれができるからこそ、囮に志願したのだ。

 僕は叫んだ。

 

「御子内さん、GO!! 東南東にある林の中だ!!」

『合点承知!!』

 

 少し離れていた場所に潜んでいた御子内さんが、梓弓を片手に飛び出す。

 彼女のいたところから、狙撃ポイントと思われる場所までは約四百メートル。

 梓弓の射程距離までは御子内さんなら、二十秒で到達する。

 あっというまに、辿り着いた彼女は口にくわえていた鏑矢を番え、引き絞った。

 その視線は林の中にいるごく普通の格好の青年に注がれる。

 手には身体のサイズにそぐわない種子島鉄砲を持ち、銃口を御子内さんに向けている。

 逃げずに、早合を使い、弾込めを行っていたのだ。

 美厳さんを仕留めるためか、それとも他の敵を倒すためかはともかく。

 そして、その銃口がターゲットとして捉えているのは御子内或子―――退魔巫女だった。

 彼女の視線も青年を捉える。

 交錯する。

 一キロを撃ち抜く鉄砲のスナイパーと、三百メートルを射抜くと豪語する巫女。

 この二人は互いに貫く相手を凝視した。

 御子内さんの弓の腕を僕は知らない。

 彼女について知っているのは徒手空拳の格闘においては、おそらくどんな敵にも負けない闘魂と技術と知恵の持ち主であるということだけ。

 武器の類いなんか、彼女は使ったことがないのだ。

 だが、僕は心配していない。

 御子内さんが大丈夫というのならば大丈夫なのだ。

 この信仰にも似た信頼こそが、僕の御子内さんに対する感情なのだから。

 

『よっぴいてひょうと放つよ!!』

 

 平家物語の頃から伝わるギャグを御子内さんが呟く。

 

 バン!

 

 ビシュン!!

 

 銃と弓が、弦を鳴らして、火薬を炸裂させて、弾と矢を放つ音がした。

 ただ、カメラを通して戦いを見ていた僕にはどうなったのかがわからない。

 御子内さんが無事に立ち尽くしていることだけしか。

 御子内さんの放った矢はどうなったのだろう。

 

『―――冬弥、もういいからこぶしと〈裏柳生〉の忍びを向かわせてくれ。殺しちゃいないけど、肩の腱ぐらいは切れたかもしれない。手当を頼む』

「わかりました」

 

 カメラの視点が急に下がった。

 大仕事を終えて脱力したのか、彼女が座り込んだのだ。

 マイクが荒い息をする音を拾う。

 そうとうゼーゼー言っている。

 

「御子内さん、大丈夫?」

『まあね。とはいえ、前髪を結構持っていかれた。しまったよ……明日学校に行きたくない』

「え、どういうこと?」

『前髪にはわりとこだわりがあるんだよ。くそ、失敗した。ボク、こんなんで退魔巫女やっていていいのかな。前髪が揃っていないのに……』

「前髪程度で卑屈にならないで! あと、君にそんなこだわりがあること自体にびっくりだよ!!」

 

 思わずツッコミを入れてしまった。

 僕としたことが珍しい。

 

『ボク、退魔巫女やっていいのかい?』

「うん、大丈夫だって。僕が保証するから」

『そうか。京一が言うのならばそれでもいいか……。でも、前髪……』

「面倒だな、この子!!」

 

 そんなやりとりをしていると、冬弥さんのところに連絡が入った。

 

「―――或子さんの鏑矢で銃口を真っ二つにされた種子島鉄砲をこぶしさんが確保したそうです。〈付喪神〉としての妖気が残っていたそうなので、〈社務所〉の方に持って帰られると。ついでに見つけた砲手の方はうちで調べることにします」

「そうですか」

「とりあえず、背景を調べるのは後回しにしたとしても、一件落着ということでお願いしますね」

 

 僕は長い息を吐いた。

 スナイパーと戦うなんて普通はあり得ない話に、御子内さんが怪我もなく切り抜けられたということだけで良かった。

 しかし、ただの妖怪退治とは違って、美厳さんたち〈裏柳生〉と絡むと本当にろくでもないことだらけだ。

 もう関わり合いになりたくないな、とさすがの僕でさえ願わずにはいられない三日間であった……。

 

 

 

 

 



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意表を突かれるのは懲り懲りだ

 

 

「で、ボクのクラスでは巫女喫茶をやることになったんだ」

 

 御子内さんと駅前のファストフード店でお茶をしていると、唐突にそんなことを言い出した。

 文化祭なんかでの定番の出し物は、お化け屋敷と縁日、あと最近ではメイド喫茶とかだろう。

 僕の学校でもそろそろ一年に一度のお祭りに向けての話し合いが始まっていたが、御子内さんの武蔵立川高校ではもう来週に迫っているらしい。

 そこで飛び出してきた単語が、「巫女喫茶(それ)」だったのである。

 喫茶店というのはともかく、巫女さんが給仕をしてくれるところはあまりないだろうとは思われる。 

 

「―――へえ、変わったところをチョイスしてくるんだね。でも、なんで、いきなり御子内さんのところの文化祭の話になるのさ。僕はこの間の種子島鉄砲の事件の顛末を聞こうとしていたのに」

「だから、あの事件のその後の話をしているんだけど」

「火縄銃の狙撃事件と御子内さんとこの巫女喫茶の間にどこにつながりがあるの?」

「まあ、聞きなよ。……『世間の流行はメイド喫茶であるとしても、そんな手垢に塗れたものを自分たちまでやる必要はない。時代は巫女である』ときららがHRで演説をぶちかましてね。それで決まったんだ」

 

 きららというのは、御子内さんの友達の鳩麦きららさんのことだろう。

 一度、会ったことがあるが、ゆるふわのウェーブの髪型の女の子だ。

 ただ、見た目はいかにも愛され系だというのに、相当押しが強いタイプだったことは覚えている。土俵際の粘りは、初代若乃花に匹敵するかもしれない。

 その巫女喫茶とやらは、御子内さんの発案ではなくてきららさんのものなのか。

 

「でも、どうして、巫女?」

「ボクの伝手で何着も借りられるよ、と教えたら、きららがコスプレしたいと言い出してさ。〈社務所〉であまっているのを借りることにしたんだ」

「妖怪退治の組織の制服みたいなものでなにをしようとしてんの」

「別にいいだろう。風俗産業に使う訳でもないし」

「そういう問題じゃないよね」

 

 普通、こういう時に真っ先に拒否しなければならないのは本職の君の方なのに。

 あと、そのことと事件に何の関係が……

 

「そうしたら、美厳のバカがちょっかいを掛けてきたんだ。うちの文化祭でそんないかがわしいものはやらせないって。おれが忙しかったからといって、そんな怪しいものを許可した覚えはないだとさ。自分とこの忍びが撃たれたのが原因で駆けずり回っていたのに、ボクらの責任のように言いやがるんだよ。まったく、最悪だ」

 

 へえ、それは大変だったね。

 美厳さんがそんなところにまで口を出してきたんだ。

 ……えっ。

 

「なんで、美厳さんが文化祭の催しに口を出してくるの?」

「―――なんでって、あいつは武蔵立川(うち)の生徒会の会長(ボス)だからだけど」

「生徒会の会長(ボス)! え、美厳さんが生徒会長なの!? ていうか、同じ高校なの!? あのお色気で学生やってんの!? あと、エロすぎて高校生活に支障ないの!?」

 

 あまりの事実にツッコミが追い付かない。

 今回の僕は珍しく口に出してツッコミばかりしているような気がするな。

 それだけ衝撃の度合いが大きかったと言える。

 

「話さなかったっけ?」

「初耳だよ!! 同じ学校なのにあんなに仲が悪いの!?」

「まあね。ボクが高校に進学したら、あのズボラ女が先輩にいて、しかも偉そうに生徒会の役員なんかをしていたんだよ。その瞬間から、ボクの高校生活に暗雲が立ち込めたような気がしたもんさ」

「……校内で決闘とかしちゃダメだよ」

「ボクをなんだと思っているんだい。学校でケンカしたことなんてほとんどないよ」

「少しはしたんだね……」

「いや、違う。今回のことだって、あいつが理不尽な言いがかりをつけてきたから、ボクは抵抗権に従って応戦することに決めただけだ」

 

 御子内さんと美厳さんの因縁に巻き込まれる方は大変だ。

 こないだの狙撃事件のときの二人の働きを見ているとそう結論つけざるを得ない。

 だって、死角から飛んできた弾丸を弾き飛ばす剣士と、三百メートルの距離の相手を弓矢で射る巫女なんだよ。

 双方、ともに尋常ではない。

 

「でも、どうして美厳さんは生徒会長の権限を使ってそんなちょっとかいを掛けてきたの?」

「それなんだ! あのバカ、あの事件の顛末が気に入らないという理由から、ボクで憂さ晴らしをしようとしているんだよ!」

「憂さ晴らしをしたくなるような真実があったの?」

 

 基本的に、あの事件はこちらの想定の範囲内だった。

 少し違ったのは、呪われた種子島鉄砲を使ったあの農家の息子は、就職活動に失敗した結果、世の中に復讐しようと考えて自分から進んで乗っ取られていたという点だけだろうか。

 わかっていなかったのは、どうして最初に〈裏柳生〉の人が撃たれたかだったが……

 

「偶々だったんだと」

「―――()()?」

「ああ、あの種子島鉄砲を手に入れた日に、人間を無差別に撃とうとしていたら屋根の上を跳んでいる変な奴がいた。だから、試しに撃ってみた。忍びだとは思ってもいなかったとか供述しているらしい。それで美厳は憤慨してね」

 

 ああ、〈裏柳生〉そのものへの攻撃だと思ったからこそ懸命になっていたのに、実は偶然最初の犠牲者になってしまっただけだとすると、振り上げた手が微妙に下ろしづらくなるものか。

 だから、その鬱憤晴らしに御子内さんに喧嘩を吹っ掛けたのか。

 

「なんというか、その、大人げないね」

「そうだろ。だから、美厳のバカは嫌いなんだ! 今すぐ高校に取って返して生徒会の奴ばらを排除してやりたい気分でいっぱいだよ!」

「君も大概だけどね……」

 

 あの狙撃事件は終わったが、僕はまた何だかよくわからない方向から撃たれたような気がするよ。

 武蔵立川って、進学校だったから憧れていたけれど、御子内さんと美厳さんが通っているとなったら「そこなんて人外魔境?」って感じがして近寄りがたくなるなあ。

 

「それで、巫女喫茶はどうするの?」

「やるさ。権力に屈して堪るか! で、これがパンフレットだからね。来週末は絶対に遊びに来るんだよ、いいね」

「拳握らなくてもいくから」

「絶対だよ!」

 

 文化祭の催しでここまで真剣になる女の子が、あんな鉄火場で獅子奮迅の戦いを見せていた闘士だと考えると、とても愉快だった。

 まあ、狙撃事件なんて二度と絡んで欲しくはないけど。

 

「聞いているのかい、京一!!」

「はいはい」

 

 狙撃はゲームでやるぐらいが一番みたいだね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第23試合 夜の蝶飛ぶ
キスの顔にはご用心


 

 長谷部大地は、駅の改札口に向かおうとする女の手首を掴み、強く引いた。

 手首を掴まれた方もわかっている。

 一度、視線を外したのはフェイントだ。

 立ち去ろうとする自分を引き留めさせるための故意の行為。

 女の予想通りに、長谷部は立ち回り、二人は互いにまた見つめ合った。

 

「まだ、早いよね」

 

 長谷部は女の手を引っ張って、改札口の脇、光があまり差さない隅に連れていく。

 女もなすがままだ。

 壁に寄りかかると、そのまま引き寄せ、腰を前から抱きしめた。

 柔らかい肉をしている。

 甘いクッキーのような匂いがする。

 これが女の身体だ。

 長谷部は久しぶりに味わう女の抱き心地と甘い体臭に少しだけ興奮した。

 女に慣れてないわけでもないが、やはり意中の女を自分の腕の中に収めたときの高揚感は別物だ。

 ものにしてやる、という征服欲も湧いてくる。

 くびれのある腰を押さえ、やや尻にまで指を這わせつつ、長谷部は女を身長差のある分だけ見下ろす。

 美しい女だった。

 肌もシミ一つなく白い、眉も描いていない生のまま、小鼻が小さくすらっとした鼻梁は通っていて、眼は大きい。

 前があげられていて、後頭部でまとめられているが、色々とウィッグがつけられていて、()()()()()髪型はいかにも客商売の女のようだが、むしろらしくない初々しさがあるとも思っていた。

 力ずくで呼び止めた客にされるがままにしているだけで、どう考えても男を知らぬ女ではあるまいが、それでも長谷部は夢を見るようにしていた。

 こんな仕事をしていても実は一途でシャイな女じゃないかという妄想だ。

 ドラマや漫画があるまいし、なんて野暮は考えもしなかった。

 長谷部はいきつけのガールズバーのコンパニオンであるこの女に惚れているのだから、それでいいではないかと。

 派手なウィッグに触れようとしたら、

 

「髪には触らないで」

 

 と拒絶されたので、「そうか」と諦める。

 髪に触るのは深い情感のある場合だと言うので拒絶されるのはショックだったが、もう腕の中に抱きしめてしまっている女を好きにする時間はたんとあるのだ。

 

「キスするの?」

「あたりまえだろ。俺はおまえが好きなんだよ」

「お客さんと関係持っちゃいけないってママたちに釘を刺されてんだけど」

「だったら、俺の女になればいいだろ。簡単だ」

 

 すると、女はそっと微笑んで、

 

「そうだね。―――キスして」

「ああ」

 

 女の両の掌が長谷部の顔を挟み、お互いに顔を傾けて口づけをした。

 ついばむようにキスをしあい、上唇と下唇を交互になぞってから、舌を少しだけ突き出して口元を舐める。

 普通ならそこで相手も舌を差し入れてくるところだが、女は特に何もせずに唇同士の接触だけで済まそうとする。

 

「舌出せよ」

 

 長谷部は言ったが、よく聞き取れなかったのか、女はフレンチキスを返そうとしない。

 フレンチキスというのは俗にいうディープキスのことだ。

 唇だけのキスはバードキスといい、ディープキスとは濃厚なエロスに満ちた口づけ、互いに口腔の粘液を交換し合う、欲情をそそるための下品なキスのことである。

 名付け親はイギリス人。

 下品で浅ましい行動については、大嫌いなフランスの名前をつけて当然という皮肉な思想の下にフレンチキスと名付けたのである。

 苛立って強引に舌で唇を割り、歯茎のあたりまで侵入させて舐めはじめる。

 キスだったら何分でもできる。

 女はキスが好きだし、しかもこれだけで身体が火照りベッドに連れ込んでも文句を言わない女を作り出せる効果的な手段でもある。

 だから長谷川は時間を掛けてねっとりと女の咥内をなぶった。

 しばらくすると、堅かった身体も弛緩し、尻を掴んでも抵抗を示さなくなる。

 

「らめれすよ……」

 

 多少、ろれつが回らなくなっているようだ。

 勤め先のガールズバーではほとんど飲まないようにさせているようだが、さっき長谷部が強引に飲ましたカクテルの効き目が出ているのかもしれない。

 

「俺の女になるんだろ。キスぐらいさせてくれよ」

「……もう、強引なんだから。癖になったらどうするんですか」

「癖にさせてやるぜ」

 

 長谷部は腰に回していた手を女の髪に添えようとした。

 さらに引きつけようとしたのだ。

 だが、その動きは女に遮られる。

 

「どうした?」

「だから、髪に触らないで。いつも言っているでしょ」

 

 そういえば、こいつは店でも髪に触れようとすると起こったっけ。

 なんだよ、髪ごときで。

 股ぐらに手を入れてパンツの中を指で掻いたわけでもねえだろ。

 

「そういうなよ」

 

 長谷部は前からブラウスの膨らみを揉んだ。

 こちらは断らないらしい。

 胸を揉んでも文句がないのに髪が嫌とはわからない奴だ。

 

「あん」

 

 胸の堅くなった一点を指ではじいて喘がせると、もう一度キスをしてやった。

 長谷部はもうこの女は俺のものになるという確信があった。

 わりと身持ちが堅いとはいえ所詮は商売女だ。

 ここまで持ち込めば流されるはずである。

 あとはすぐ近所のホテルにでもつれこめば……。

 剥き出しになっている肩の付近を舐めて、キスマークができないギリギリまで吸う。

 

「やめてよ……。人が見ているじゃない」

「誰もいないよ」

「ホントだ……」

 

 改札口前の通りに背を向けている女と違って、長谷部には周囲のことを気にする余裕があった。

 さっきから誰もやってこないことはわかっている。

 終電が近いうえ、こちらの改札は裏口扱いなので、あまり利用する人間がいないのだろう。

 もっとも、誰かが来てもみせつけてやるだけさという、羞恥心のない優越感を抱いてもいたこともある。

 だから、女が形だけの抵抗をしても何度も唇を奪い続けた。

 このまま犯してやってもいいぐらいの狼に似た衝動を抑制しながら。

 

「あ、あああん、もお、激しいんだから……」

「うるせえよ、口答えすんな」

「Sっ気強過ぎよお」

 

 Sの傾向が強いと言われたせいか、生来のいたずら心が首をもたげた。

 もう少しこの女を嬲ってみよう。

 俺の女になる資格があるか試してやろう。

 そんな黒い衝動のもとに、長谷部は女の豊かな髪の中に指を突っ込んだ。

 きっと嫌がるはずだ。

 だが、そんな反抗を許さないようにしつけて、俺のものにしてやる。

 彼氏に逆らう生意気な女はいらない。

 そういえば黙るだろうしな

 長谷部はそんな自分勝手な展開をシミュレーションしていた。

 さっきまで飲んでいた酒よりも、自分自身に酔いすぎていたのかもしれない。

 

「やめて!!」

「うるせえよ」

 

 予想通りだ。

 ここで愛を囁き、俺にすべてを捧げさせて……

 

 プチン

 

 突然、指先が熱くなった。

 ずきんとした痛みを感じたのだ。

 慌てて、女の髪につっこんだ指を抜いて、月光に晒す。

 人差し指、中指、薬指の第二関節から先がなくなっていた。

 まるで鋭利な刃物でも使って切り取られたかのようにばっさりと。

 

「あ……れ……」

 

 掌が紅く染まっていく。

 汚れではない。

 血が流れていく跡だった。

 疑いようもなく、それは事実。

 長谷部の指は、三本、断ち切られていたのだ。

 いったい、どうして。

 

「やめてって言ったよね」

 

 腕の中にいる女が顔を上げた。

 呆れたような、軽蔑したような、むしけらを蔑むような、そんな冷たい眼をしていた。

 口元にも冷笑が浮かぶ。

 ほんの少し前とは違う、別の生き物が化けたみたいな笑みであった。

 

「なんで……あれ? どういうことだ」

「髪に触らないでっていったのに。隠しごとがバレちゃうからさ」

「隠し事……?」

「うん、隠し事。これだよ」

 

 女の手がウィッグを外し、まとめていたゴムをとると、髪がぶわりと浮き上がった。

 獲物を前に舌なめずりする蛇のように。

 それだけならば、まだ長谷部も正気を保っていられたかもしれない。

 だが、そうはならなかった。

 長谷部は全身が恐怖で硬直した。

 髪をめくりあげた女の後頭部に、大きな口が貼りついていたからだった。

 唇を構成する上唇と下唇がへの字で閉じたままならば、そこまで長谷部も取り乱しはしなかっただろう。

 しかし、女の頭にあるもう一つの口は、にたりと開くと歯を剥きだして笑ったのだ。

 白く煌めく歯並びを見せつけるようにして。

 作り物でも、何かのトリックでもない、本当にもう一つの口。

 そして、その口は喋った。

 

『見られちゃアアアアしょうがねえエエエエエな。―――いただきまアアアアす』

 

 恐怖のあまり動けなくなった長谷部は、女の二つ目の口が手首まで呑み込むのを黙って見ているしかなかった。

 激しい痛みと熱と咀嚼音が、触覚と痛覚と聴覚を震わせた。

 産まれたときから一緒だった腕がバクバクと噛み砕かれ、呑み込まれていく。

 凄惨でもあり滑稽でもある状況であった。

 

「あああ―――あああああ!」

 

 女が横目で彼を見た。

 本来の彼女の口は艶然と微笑んでいる。

 その美貌に似合わないげっぷをして、恥ずかし気に口元を押さえた。

 

「やっば、はしたない」

 

 もう一つの口はさらに割れ目のように裂けていき、長谷部の肩まで呑み込み、彼の顔までも口の中に納めようとした。

 視界が完全に真っ暗になった長谷部は、最後の瞬間、女の吐く息を嗅いで「甘い」と感じたが、それっきり意識が消失して二度と回復することはなかった……。

 

 

 



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フレンチ・リップス

 

「なあ、頼むよ、升麻あ。おまえしかいないんだよ~」

 

 クラスメートの桜井がさっきからずっと泣きついてくる。

 僕としては出来ることなら無下には扱いたくないが、内容が内容なのでそうそう気楽にイエスと言えるわけもなく、困り果てているところであった。

 

「だからね、さすがに高校生の身分で風俗にいくのはどうかと思うんだよ」

「フーゾクじゃねえって! ガールズバーだよ!」

「……どう違うのさ」

「風営法ってあんじゃん? 風俗関係のための法律だけど。みんなの言うソープとかキャバはそっちに当てはまるけど、ガールズバーはただの飲食業なんだよ。だから、その辺のラーメン屋とかと変わんねえって。普通に酒が出るけど、酒なんて牛丼屋でもでるだろ」

「でも、社会通念のイメージでは風俗なんじゃないの?」

「よし、ウィキペディアを見ろ。ググれ」

 

 そんな説得法があるかい。

 仕方なく、スマホで検索してみると、確かにガールズバーというのは飲食業ではあるらしい。

『バーテンダーがすべて女性のショットバーである。テーブルなどが少なく、カウンターに設けられた席に、来店した客が着席し、女性のバーテンダーが会話などをして接客する。風営法で規制されるキャバクラと異なり飲食店に分類されるため、営業時間などの制約が少ない』

 ……なのだそうだ。

 要するに、キャバクラとの違いは、ホステス役の女の人が隣に座ってお酌などの接待をするのではなく、カウンター越しにお酒の相手を勤めるというものなのか。

 程度の問題はあるけれど、ボディタッチなんかは基本禁止で、直接的な風俗とは線引きされているようだね。

 

「だいたい、なんでガールズバーなんかに行きたがっているんだい。そこから説明しなよ」

「わかった。説明したら、一緒に行ってくれるな」

「それはそれ。これはこれ」

「ケチめ。まあいい。胸襟を開いて信頼を得るのも男の流儀だ。赤心を推して人の腹中に置くだ」

「ケチとか罵倒しといてそれかい。で、とりあえず話は聞くから……」

 

 すると、桜井は自分がどうしてガールズバーなんかに行きたがっているかを語りだした。

 なんでも、夏休みに親戚に何度も連れられて行ったガールズバーで一目ぼれをしたらしい。

 要約するとそれだけなのだが、そこに行くまでにやたらと冗長なだけの説明があり、いかに自分が惚れたバーテンダーが綺麗で可愛いのかを力説された。

 つまりは大したことを言っていない。

 

「で、もう一度、そのバーテンダーに会いたいから付き合ってくれ、と?」

「ああ、親戚の兄ちゃんはうちの親にバレてこっぴどく叱られていたから頼めねえし、年上のダチはいねえし、おまえしかいないんだよ!」

「どうして、僕なのさ?」

「おまえ、大人っぽいじゃん。見た目は」

 

 見た目の問題なのか!

 

「それにバイトやっているから、多少は金の負担もなさそうだし」

「―――全額、自分がだしますからというのじゃないのね」

「並みの居酒屋よりも高いんだよ、ガールズバーって!」

「安くない金まで払って付き添いって……僕には得がないじゃん」

「だから、頼む! 一生のお願いだ! もう一度会って、ラインIDの交換まで持っていけたらなんとかなるから!! 一度だけでいい!!」

 

 まず、君の作戦には幾つか致命的な欠陥がある。

 一つは、ガールズバーで働いているような大人が金もない高校生を相手にしないだろうということ。

 次に、ラインIDを貰ったからといって仲良くなれる保証はないということ。

 最後に、警察に通報されて補導される可能性がなくもないということだ。

 こんなハードルを幾つも越えてなんとかできるほどに桜井の顔面スペックもその他エクストラ・スペックも高くないのに。

 

「幾ら、なのさ」

「兄ちゃんの支払ったのは、平均二時間で一万二千円だったかな」

「……」

 

 時間制とチャージ制だとすると、一人六千円はそんなに高額ではないか。

 バイト三昧の上、〈社務所〉から振り込まれる額もかなり貰っているので多少の贅沢をしても問題はない。

 酒を飲まなければそんなに金額も跳ね上がらないだろうし、興味がないといったらない訳でもない。

 ガールズバーそのものではなく、桜井の転落しそうな人生についてだ。

 以前の奥多摩の事件の時でも感じたが、このクラスメートは放っておくと結構ヤバい人生を送ることになるだろう。

 好奇心とか欲望に負けて、雪崩式にどんどん変な方向に進んでいくのは確実だ。

 流されやすくて、変な人たちの言うことを鵜呑みにして、雑用なんかを押し付けられるタイプでもある。

 あまりそっけなくするのも可哀想だしね。

 

「じゃあ、付き合ってもいいよ。でも、いざとなったら逃げるからね。庇ったりしないし」

「情けないことを平然と言いやがって……。だが、今はおまえに頼るしかねえ。頼んだぜ、相棒!」

「うん、成宮寛貴みたいに頑張るよ」

「せめて寺脇康文ぐらいにはなってくれ」

 

 次の金曜の夜ということを決めて、僕たちは男子高校生とは思えない冒険の旅にでることになったのである。

 あ、御子内さんたちには内緒でね。

 

 

        ◇◆◇

 

 

 僕はたまに着るスーツと前髪を上げた格好を選んだ。

 こうすると、意外に大人っぽく見えるとは桜井の談だが、実は前にもこぶしさんに「京一さんは高卒で働いているような落ち着きがありますね」と褒められたこともある。

 なるほど、桜井が僕をチョイスしたのは間違いではないということだろうか。

 店内に入ると、僕のイメージとは違い、アルファベットのEの型にカウンターがある。

 四人掛けのテーブルが外れに二つ。

 どちらかというとやはりカウンターとスツールがメインで、テーブルはおまけ程度だろう。

 あえて例えるのならば、牛丼屋の店舗っぽい感じといえるか。

 ただし、照明を絞った暗い店内とタバコの紫煙がくゆらされる環境は予想以上に退廃的だ。

 居酒屋というよりは、飲み屋、特にキャバレーに近いだろう。

 桜井がわずかに緊張しているのはやはり子供だからか。

 腰の高さまでのカウンターに七人ほどのブラウスとタイツスカートの女性バーテンダーが仕事していた。

 ただし、胸元が開いて動くたびに谷間を見せつけているし、スカートにも腰のあたりまでスリットがあって、おそらくショーツはTバックか何かだと想像がつく。

 バーテンダーとは名ばかりの色っぽさだ。

 お冷をだすときだって、あえて前かがみになっているところがまるで風俗みたいだった。

 お客さんたちもわかっていて、その仕草を観察している。

 桜井は何度か来ているし(高校生とはバレていないらしい)、僕も見た目だけは大人っぽいのでスムーズに席に案内された。

 一応、年齢を詐称しているという弱みがあるので端の方にわざわざ向かった。

 店内には五人ほどの客がいて、それぞれを一人のバーテンダーが相手している。

 独りの客ばかりなのは、まあ、バーテンダー目当てなのだからライバルは少ない方がいいという考えかもしれない。

 七人の女性たちはすべてかなりの美人で、若いうえに化粧も派手ではないという、桜井に言わせると「当たり」の店だという。

 僕らのところにバーテンダーがやってきて、桜井を覚えていたらしく会話が始まった。

 聞いている限り、その女性は桜井の目当ての人ではないらしく、彼女はまだ出勤していないということだ。

 時間制なので、そこまでに来てもらわないと余計な出費がかかるなあと感じる。

 

「こっち、俺の高校時代のダチなんですが、ガールズバー初めてってんで連れてきたんスよ」

「あら、そうなんですか。楽しんでいってくださいね。―――いい背広ですけど、どんな職業をなさっているの?」

「タレントっていうか、そういうちょっと特殊な職業の人のマネージメントをしたり、イベントの舞台を造ったりしています」

 

 うん、嘘は言っていない。

 

「へえ、芸能関係なんだ」

「テレビにでたりすることはないですけどね。―――桜井、僕は明日も仕事があるから、酒は勘弁してくれ」

「あ、ああ」

 

 そつなく受け答えする僕を桜井がびっくりした顔で見ていた。

 このぐらいできないと逆に駄目だろう。

 あまり飲まないと宣言したからか、バーテンダーは僕よりも桜井をターゲットにすることにしたようだ。

 桜井にしきりにアルコールを薦めだした。

 こういう店ではかなり個別の商品がお高いので、売り上げを伸ばすためには注文させた方がいいのだ。

 

「えっと、明日翔(あすか)さんは……」

「明日翔はもう少ししたら出勤してくるから、それまであたしで良ければ相手をするけど?」

「あーん、お願いします、ミチルさーん」

 

 明日翔というのが桜井の想い人で、このお姉さんはミチルさんか。

 僕は二人がカクテルを飲みながら話しているのを聞きながら、店内の様子を探った。

 顔には出さないようにしているけど、ここに入った途端、実のところ僕の背筋は凍りついた。

 このガールズバー〈フレンチ・リップス〉に漂う、粘つくような気配のせいであった。

 一年近く御子内さんたちと付き合ってきたせいか、僕は妖怪や幽霊の放つ妖気に対して敏感になっている。

 道端に成仏できずにいる弱い幽霊でさえ感じ取れるぐらいである。

 その僕だからこそというものでもないけど、この店内はかなり異常な部類に入っていると思う。

 よく、従業員やお客さんが平気な顔していられるもんだ。

 一気にげそりと痩せてしまいそうなぐらいに気持ち悪い。

 しまったなあ。

 ここ、絶対におかしいよ。

 さすがに顔色が悪くなっているのを自覚していたら、

 

「おや、升麻くんじゃないか。いったいなんて顔をしているんだ? ほら、スツールにいるよりもソファーの方が楽だよ」

 

 後ろから声をかけられた。

 振り向くと、知った顔がいた。

〈社務所〉の禰宜の一人だ。

 何度か現場で顔を合わせたことがある。

 あの組織では、禰宜というのは宮司を補佐する者の職称だけでなく、妖怪の案件を調査したりする捜査員としての顔を持っている。

 いつも人手不足だといっていることから、数はそんなに多くないはずだ。

 それがこんなところで偶然出会うなんて……。

 ミチルさんの勧めもあり、僕はゆったりしたソファーの方に移った。

 ガールズバーはカウンターで女の人と会話を楽しむ店なので、普通はテーブルの方にはいかない。

 同じ料金を取られるのにもったいないからね。

 だから、テーブルには禰宜さん以外誰もいなかったので、かなり楽に横たわることができた。

 ネクタイを緩め、呼吸を楽にする。

 妖気のせいであると考えると無駄な気もするけど、病は気からだし、少しは楽になった気がしないでもない。

 薄情なクラスメートは、お目当ての明日翔さんがやってきたら僕のことなんて気にも掛けなくなった。

 あとで〆てやる。

 お店が混み始めたこともあり、ミチルさんが接客に戻ってしまったので、ここには僕と禰宜さんだけになった。

 逆にちょうどいいか。

 

「―――升麻くん、確か媛巫女(ひめみこ)と同じで高校生だったよね。こんな店に来てもいいのかい?」

「ちょっと事情がありまして。禰宜さんこそ、気晴らしですか?」

「ははは、そんなことがないのは、升麻君ならよくわかっているよね。……この雰囲気についてさ」

 

 禰宜さんは声を潜めながら、店内を一瞥した。

 スツールは完全にお客さんで埋まっていて、バーテンダーが全員に応対している。

 桜井のもとには例の明日翔さんがついていた。

 どう見ても営業スマイルなので彼に脈はないだろう。

 少なくとも、僕らに注目している人はいないようだ。

 

「もしかして、ここを調べに?」

「まあ、そんなところだ。私の本職についてはバラさないでいてくれると助かる」

「じゃあ、僕の年齢についてとバーターで」

「よかろう」

 

 それから、時間までの間、僕はこの禰宜さんととりとめのない話をしながら、店の様子を探り続け、桜井と一緒に帰った。

 こんな不健康そうなところにはいつまでもいられない。

 もっとも、その僕の苦労とは裏腹に明日翔さんとラインのIDを交換できた桜井はものすごく上機嫌だった。

 

「また来よう! な、升麻!!」

 

 などと浮かれている。

 僕の気も知らないでね。

 用がないのなら、僕は二度と行きたくない。

 

 おそらく、ガールズバー〈フレンチ・リップス〉(あそこ)は妖怪の巣なのだから。

 

 

   

 



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高校生の嗜み

 

 

 昨日のガールズバーへの冒険があったことから、次の日は昼近くまで寝ていた。

 なんといっても帰宅したのは午前さまであったし、酒とタバコと妖気にやられてクタクタにくたびれていたせいである。

 ただし、自然に目を覚ました訳ではない。

 部屋にやってきた妹の涼花が、「どっせい!!」と枕元を叩いた衝撃で起こされたのであった。

 

「な、なにをするの!!」

 

 あまりのショックに跳ね起きると、自称「武蔵立川で五指に入る美少女」升麻涼花(すずか)は仁王立ちで僕を見下ろしていた。

 なんと、こいつ、寝ている僕の頭を跨いでいたのだ。

 スカートでも履いていたら、中身がばっちり覗けてしまうぐらいにはしたないポーズである。

 

「お兄ちゃん、起きた?」

「起きていないように見えるのか?」

「確かに見えないね」

「じゃあ、こんな実力行使をした理由を聞かせてもらえるかな。僕は疲れているんだけどさ」

 

 すると、僕が大事に守ってきたはずの妹は、兄貴に対して鷹揚に顎をしゃくった。

 降りて来いということらしい。

 

「どうして。もう少し寝ていたいんだけど」

「いつまで寝てんのよってのもあるけど、一階(した)でお姉さまが待ってらっしゃるんですけど」

「―――御子内さんが来ているの? そういうことなら普通に起こせばいいじゃないか。こんな奇をてらった起こし方をしないでさ」

「いいから起きなさい」

 

 なんだか、ご機嫌がよろしくないようだ。

 お姉さまと敬愛している御子内さんが遊びに来たのに、どういう訳か不機嫌な理由はわからないが、僕に八つ当たりをしないで欲しいね。

 

「なんだよ……」

 

 起き上がって、寝間着代わりのジャージをぬいで着替えてから下に降りた。

 その前に洗面所で顔を洗い、歯を磨き、適当に髪を透いた。

 いくらなんでも女の子が家に遊びに来ているというのに、まったく身支度を整えないというのは考えられない。

 髪を触っていると、ちょっとベタっとしている。

 タバコの臭いがついていた。

 

「しまった……。昨日、シャワーぐらいは浴びておけば良かったかな」

 

 疲れ切っていたからか、背広を脱いだら、そのままベッドに寝転んでしまったせいだ。

 僕にしては珍しいだらしなさだった。

 失敗した。

 それでもあまり疲れは抜けていないというのに。

 

「お兄ちゃん、早くしてよ。お姉さまに失礼があったら、あたしが恥をかくんだからね」

「おまえ……実の兄よりも、兄の友達を優先するのか」

「だって悪いのはお兄ちゃんじゃん」

「僕の何が悪いってのさ」

 

 なんだろう、えらく突っかかるな。

 僕が何をしたっていうんだろう。

 

「今行くからさ」

 

 それから、僕はリビングに向かった。

 いつもなら家族がくつろぐソファーセットがあって、そこに私服姿の御子内さんと涼花が並んで座っている。

 人差し指で僕の座る場所を指示する。

 上下関係でいうと下座だった。

 まあ、いいけどね。

 

「おはよう、御子内さん。こんな朝早くにどうしたの」

「早くはないね。もう12時を回っているよ」

「僕には早いんだよ。昨日、帰ってきたのが遅かったからさ」

「―――いかがわしい場所に出入りして遅くなったというのに、恥を感じていないようだね、京一は」

「いかがわしいって何さ?」

 

 すると、テーブルの上に見覚えのある背広が広げられた。

 昨日着ていたものだ。

 あと、すっと差し出されたのは、名刺だった。

「GirlsBar〈French・lips〉 ミチル♡」とある。

 気分が悪くなった時にもらったミチルさんの名刺だった。

 あれ、もしかして背広から見つけたのか。

 で、どういうつもりなんだろう、こんなのを出して。

 

「これがどうかしたの?」

「―――おい、なんの呵責も抱いていないぞ、こいつ」

「まさか、ここまで恥を知らない兄だったとは……。たった今から、お兄ちゃん呼びは止めて、『クソ兄貴』に格下げしますね」

「どのぐらい僕のランクを下げる気なのさ。で、本当にこれがどうかしたの? 昨日は、ここに出掛けていたせいで疲れているんだよ。明日もバイトがあるんだけど」

 

 二人は顔を見合わせて、呆れたようなため息をついた。

 

「キミはまだ高校生の分際でこんないかがわしい悪所に通ったりして、何らの罪悪感も覚えていないのかい?」

「クソ兄貴、不潔!」

「ボクはキミがもう少し清廉潔白だと思っていたんだけどね」

「しかも、こんなコスプレまでして年を騙って……お母さんにもいいつけてやる」

「えっ!!」

 

 ようやく理解できた。

 つまりはこの二人は僕がガールズバーに行ったこと知ってお説教をしようとしているのか。

 確かに教育には不向きな場所であることは疑いないし、年齢を偽ったことは良くない。

 でも、別に好きで行った訳でもないし、友達や妹にお説教されるものでもないし。

 母さんに言いつけられるのだけは避けたいけど。

 両親に叱られるのだけはちょっと面倒だ。

 

「―――まあ、待ってよ。別に問題ないと思うけど、でも、どうして僕がガールズバーに行ったことを知っているのさ」

「昨日、クソ兄貴が放置していた背広にタバコとアルコールの臭いがついていたから、ポケットを探ったらホステスの名刺は出るわ、長い髪の毛はついているわ、不潔の証拠がザクザク出てきたからよ!」

「ああ、それで。おまえ、僕の嫁かよ。浮気調査でもしているのか」

「だ、だ、誰がお兄ちゃんの嫁になんか!!」

「そうだ! 開き直るな!」

「御子内さんも、僕の妹の変な行動のためにわざわざこんな府中まで来なくていいから。もう面倒見と付き合いが良すぎるよ」

 

 すると、ぷぅと膨れる二人組。

 何か僕の言うことに不満があるらしい。

 ヤバイな。

 この二人、性格が荒々しいから下手に怒らせると僕が困ることになるので、誤解は解いておくことにしよう。

 

「僕のクラスメートの桜井ってのがいたでしょ。彼がね……」

 

 と、昨日に至るまでの過程を説明する。

 それでも疑わしそうな視線を止めない二人をなんとかするため、僕はあのガールズバーで出会った〈社務所〉の禰宜さんの話もした。

 涼花は片足まで退魔巫女の事情に足を突っ込んでいるので、情報を開陳しても問題はないのである。

 

「……〈社務所〉の禰宜が調査をしている? しかも、妖怪がいる気配がある? そんなところに一人で行って危険じゃないか!」

「いや、行ったのは初めてで、そこで気が付いた訳だから、僕は悪くないよ」

「違うね。おかしいと思ったら、すぐにボクに連絡するべきじゃないのかい?」

「そこまで御子内さんに迷惑をかけるのも」

「迷惑じゃない」

「そうなの? あと、妖気があったといっても、完全に危険とは限らないしさ」

「禰宜が調査している場所が危険じゃないはずないだろ! まったく京一はいつもそういう無茶をする……」

 

 心配されているというのはとても嬉しいことだね。

 

「まあ、そういう悪所には二度と近寄らないことだね。きっとその禰宜の調査が進めば、ボクにも出陣の依頼がくるだろうから、キミとは関係なくなるし」

「いや、そうもいかないんだ」

 

 僕は、桜井があの店のバーテンダーからラインのIDを貰い、これからも通う気配があることを伝えた。

 彼にはきっと真っ当な忠告は通じないし、妖怪の巣窟に通い詰めるのは危険だといっていも平気の平左だろう。

 とりあえず、桜井をなんとかしないと……。

 

「わかったよ。担当した禰宜についてはボクの方から話を聞いておく。だから、京一はこれ以上、そのいかがわしい店に関わってはいけないぞ。いいね?」

「はいはい。……そういえば、駅前のカラオケボックスの割引券を貰ったんだ。歌いに行こうよ。涼花も」

「……キミのお気楽さには負ける」

「お兄ちゃんって呑気だよね」

 

 お、クソ兄貴から解放されたらしい。

 良かった良かった。

 

 こうして僕らは午後いっぱいをカラオケのフリータイムに使い切って楽しんだのである。

 まだ、女性にお酌してもらって楽しい年頃じゃないし、高校生は高校生らしく楽しまないとね!

 

 

 



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チェリー・トラブル

 

 

 あのガールズバーがどんな妖怪案件なのかはわからなかったが、もう〈社務所〉が存在を掴んでいる以上、専門家に任せてしまえばいいものとして、僕は楽観的に考えていた。

〈社務所〉の実戦部隊である退魔巫女の御子内さんにも伝えたし、基本的に〈護摩台〉という結界リングの設営が主な仕事である僕には関係のない話だ。

 たまに御子内さんとともに調査も行うけれども、今回のことはそういうものでもなさそうだし、第一ああいうガールズバーみたいなものは高校生の僕が出入りしてよさそうな場所でもない。

 お母さんに言いつけられるのも嫌だし、ここは大人しく傍観しておくのがベストだろう。

 そんな風に結論付けていた。

 だが、現実は僕の日和見を許してはくれそうになかった。

 月曜日に学校に行くと、桜井の姿がどこにもなかった。

 遅刻だということだったが、彼が教室にやってきたのは、二時間目を過ぎてから。

 連絡がなかったということで、三時限目の現国の教師にかなり叱られたのだが、虚ろな目でぼうっとしているだけで、口元はただヘラヘラしているおかしげな様子だった。

 どう見てもまともな状態ではない。

 夢現(ゆめうつつ)というわけではないが、完全に心ここにあらずぐらいにはなっていた。

 さすがに心配してクラスメートが話しかけると、ちらちら周りを見渡して、

 

「おれさあ、もうすぐ大人になるわ」

 

 と優越感に浸りきったような顔をして笑った。

 ちょっとゲスな感じがする。

 何を言いたいのかわからなかったので隣にいた男子に聞くと、彼は少し眉をひそめて、

 

「ソープにでも行くってことじゃねえのか」

「ん、どういうことさ?」

「だから、大人になるってのは童貞を捨てるってことじゃねえの。あいつ、前からそういうことをよく口走っていたじゃん。ガールズバーとかさ」

「ああ、そういうことか。なるほど」

「升麻って浮世離れしすぎだろ。すぐにわかれよ」

「うーん、考えておく」

 

 金曜日のことを思い出すと、どうやら例の明日翔さんとうまくいったらしい。

 昨日も一昨日も何も連絡してこなかったから、もしかしたらアフターはともかくどこかで会ってみたりしたのかもしれない。

 でなければ、いくらなんでもラインIDを交換しただけで肉体関係が結べるとは誤解しないだろう。

 会ってみて、脈があったから、そんな妄想に浸っているという感じか。

 

「でもな……」

 

 僕の印象では、あの場では桜井に対して明日翔さんにそこまで脈があったようには見えない。

 接客業の手練手管かもしれないけれど、一緒に観察していた〈社務所〉の禰宜さんも「あれではうまくいかないな」とダメ出しをしていたぐらいなのに。

 営業の一環として接触して、それを桜井が勘違いしているんじゃないだろうか。

 しかし、桜井のおかしな様子は放課後になっても変わらず、それから三日経っても同じままだった。

 遅刻も繰り返し、さすがに担任から注意が行ったというのに、桜井のヘラヘラは治らず、むしろ悪化していくぐらいだった。

 しかも、僕たち男子のみならず、女子にまで妄想に近いエロ発言をして、いつのまにか総スカン状態になっているという有様である。

 さすがに庇いきれないと距離を置く男子までで始めた。

 以前、桜井が粉を掛けていたギャル系女子の若附さんがやってきて、僕を廊下に連れ出し、

 

「―――京一くん、あいつ、どうにかならない?」

「どうにかって……」

「状況はわかってんでしょ。桜井、どうしょうもない奴ではあるけど、あんな風に孤立するタイプじゃないじゃん。このままだと、ホントにクラス中でハブにされてしまうよ」

「でも、僕がどうにかできることじゃないと思うけど」

「いいや、あんたならできる。というか、あんたぐらいにしかできない」

「褒め殺しはやめてよ。どうして、僕なのさ」

「―――あたしが見込んだ男だから」

「意味わかんないよ。……でもまあ、放っておくのもなんだし、一応、どうにかしてみるよ」

 

 すると、若附さんはにっこりと微笑んで肩を叩いてきた。

 

「頼んだ!」

 

 そして、女子たちの輪に戻っていく。

 頼まれた僕としてはどうすればいいかはわからないままだったけど。

 

 

           ◇◆◇

 

 

「ねえ、桜井。明日翔さんとはうまくいっているの?」

 

 放課後にそそくさと帰ろうとする桜井を呼び止めた。

 呼び止めたときは嫌そうな顔をしていたくせに、明日翔という名前を聞いた途端、とてつもなくにやけた顔になる。

 やっぱりそういうことなんだろうなと想像がつく。

 

「おいおい、升麻。学校で彼女の名前を出すんじゃねえよ。迷惑がかかるかもしれねえだろ」

「ごめん。つい聞きたくてさ」

「おうおう、そういえば升麻には借りがあったな。それを返すぜ、なんでも聞いてくれよ」

 

 なんだろう、この横柄な態度。

 あと、僕は自腹を切って君の恋路の応援をしてあげたはずなのに、その程度の貸し借り関係に落ち着いていたのか。

 

「明日翔さんとはデートとかしたの?」

「ああ、毎日会っているぜ」

「え、毎日?」

「おうさ。明日翔の仕事が終わるまで待ってさ……」

「へえ、名前で呼んでんだ」

「まあな。か、彼女だしよ。で、俺は彼氏」

「告白成功したんだ、おめでとう。でも、毎日夜に会っているってことは、そのせいで遅刻が増えてんのかな?」

「仕方ねえよ。付き合い出した最初が勝負だからな。まだ、キスとかさせてもらってないけど、あの様子ならもうすぐだ。これからまた店に行くし、今日の帰りなんかは、気分が盛り上がってうまくいくと思うんだぜ」

 

 毎日、バーの営業時間が終わってから逢引きしてるのか。

 だったら、遅刻ばかりなのも当然だ。

 夜更かしもほどほどにしないと学校もおろそかになる。

 あと、あんな色っぽい年上の女の人に骨抜きにされるしと、ここまで自堕落になっても仕方のないところかも。

 ただ、これが普通の転落する高校生の話ならば問題はないかもしれない。

 けれど、あの店は間違いなく妖魅に関わりを持っている。

 このまま放っておくのは危険だ。

 少なくとも、桜井をあの〈フレンチ・リップ〉まで連れていく手伝いをしたのは僕なのだから責任はある。

 

「だったら、今日は僕も連れて行ってくれないか。ついでに明日翔さんを紹介してよ」

「―――俺の女にコナかけるつもりか?」

「そんなことはしないよ。だって、桜井の彼女なんだろ? 友達の恋人に手を出すようなことは絶対にしない。どんなに美人でもね。明日翔さんとも話をしてみたいけど、僕としてはミチルさんに会いたいんだ」

「おうおう、ミチルさんもいい女だもんな。いいぜ、客を連れていけばオーナーだって許してくれるだろう。そうすりゃ、早引きして、今日こそウシシシシシ」

 

 ケンケンのように笑っているけど、傍からわかるほど色に憑りつかれた顔だった。

 おそらく明日翔さんとベッドインすることだけを考えているのだろうな。

 この年頃の男子の欲望が丸出しすぎてちょっと引きそうだ。

 とはいえ、あのガールズバーにはまた行くしかないだろう。

 今度こそ、あそこに隠れている妖怪か何かの正体をつきとめて、桜井の目を覚まさせなければならない。

 またり性懲りもなくあそこに行ったことが涼花や御子内さんにバレるのは避けたいところだけれど……。

 

 



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巣窟 -ネスト-

 

 

 午後九時を回った頃に、僕たちはガールズバー〈フレンチ・リップ〉に入店した。

 なんでも明日翔さんのシフトが十一時までだということなので、そこに合わせたんだそうである。

 基本的に桜井という男は僕の都合は一切考慮に入れないタイプなのだ。

 僕としては御子内さんに一言怪しまれないように連絡を取ってから来たかったのだが、生憎スマホの電源を切られていたか、電波の届かないところにいるらしく何度掛けても繋がらなかった。

 メールだけは打っておいたけど。

 ついでにあのときの禰宜さんにも連絡を取ろうとしたが、こちらも留守だった。

〈社務所〉関係で何か動きがあるのだろうか。

 仕方なく、僕はそれ以上はなにもしないことにして、桜井の後に続いた。

 カランと鈴の音が鳴って、僕らの入店を伝える。

 先週と同じ、退廃的な飲み屋の雰囲気に出迎えられる。

 ただし、この間とは違う点もあった。

 以前、カウンターにずらりと並んでいたお客さんが一人もいないのである。

 金曜日の夜だというのに、非常に閑古鳥が鳴いていると言わざるを得ない。

 代わりに従業員のバーテンダーは七人揃っていて、もう一人、赤い水商売にありがちなドレス姿の大年増の女性がいた。

 アフロのような大きなパーマの頭をしていた。

 この前はいなかった人だ。

 きっと桜井の話していたオーナーなのだろう。

 

「いらっしゃい、桜井さん。今日はお客様が来られなくて暇だったのよ。サービスするわね」

「うわ、やった!」

 

 女性バーテンダーの中央に陣取っていた胸の開いたドレスの女性が歓迎の意を発した。

 桜井はサービスときいて単純に喜んでいた。

 サービスなんてされたら、特別料金を取られたりしてお金がかかるかもしれないじゃないか。

 だいたいこの手の施設では、「おにぎり代」とかいって手を握るだけで五千円もぼったくったり、ビンタ一発で八千円もとられたりするのが普通らしいんだよ。

 ここだってガールズバーとか言っているけど、ボレると嗅ぎ取ったら莫大な請求をしてこないとは限らないのに。

 しまったああ!

 

「あー、慎介ぇ! こっち、こっち!」

 

 明日翔さんが中央のカウンターから手を振っていた。

 桜井って慎介って名前だったのか。

 そういえば知らなかった。

 うきうきとしてスキップしそうな足取りで彼女のところへ向かう桜井。

 仕方ないので、僕も続いた。

 その途中で腕を引っ張られてミチルさんの前に座らされた。

 彼女以外にも二人が僕の相手をしてくれるかのように隣に立っている。

 

「何にする? えっと升麻くんだっけ」

「あ、じゃあウーロン茶で」

「ビールでもいいけど、未成年だからねえ」

「―――っ」

 

 年齢のことがバレてしまっているようだった。

 そりゃあまあ桜井が口を滑らせたんだろうけどさ。

 仕方のないやつだよね。

 

「あまりお構いなく。僕は桜井の付き添いですから」

「そうはいかないのよ。升麻くんみたいな可愛い男の子なんて久しぶりだからねえ。こんな商売をやっているとさ」

「そういうもんなんですか?」

「ええ。ここのお客さんってね、スケベえなおっさんやお爺ちゃんばかりなの。まだ男の子なんてホント珍しいわ」

 

 歓迎されているみたいだけど、僕にはそんな魅力がある訳ではないので、きっとリップサービスなんだろう。

 適当に調子を合わせた。

 それに僕としても聞きたいことはあるし。

 もっとも、今のようにミチルさんも含めて三対一みたいな状況だと威圧感があるんだけど。

 

「そういえば、僕たちが店に入って来たとき、ミチルさん、二度視線を向けましたよね。あれってどうしてですか?」

「どういうこと?」

「僕を見てから、一度、カウンターの奥を見やって、もう一度僕たちを見た。そこに何かあるんですか?」

 

 カウンターの奥にある観音開きの扉を示した。

 ミチルさんはふふと笑って、

 

「何もないわ。ウーロン茶のストックがあるかしらと確認しただけ」

「あ、そうなんですか」

 

 それ以上は追求せずにウーロン茶をちびちびと舐める。

 乾きものが一皿でてきたが、これが千円というのだから驚きだ。

 ただし、二時間居座っても六千円をちょっと超えるぐらいというのは安い方らしい。

 例の〈社務所〉の禰宜さんが教えてくれた知識だ。

 なんでもこの店はサービスと女性の質を加味すると、かなり良質な方なのだそうだ。

 だから、この間は満員になっていたんだろうけど。

 逆にいえばこれだけ粒ぞろいの女性ぞろいでやっている店は、高級なキャバクラとかでもないそうだ。

 しかも、接客は丁寧でバーテンダーたちはずっと笑っていて客を不快にさせないスキルを有していて、「仕事でないなら私も常連になるかもね」とあの禰宜さんは言っていた。

 今日もいるかと思ったけど、彼はいなかった。

 調査はもう終わったのだろうか。

 

「……そういえば、升麻くん、この前にここに来た時、気持ち悪くなってお客さんの一人に介抱してもらっていたでしょ」

「ああ、ありましたね。あまり、こういう雰囲気になれていないもので」

「桜井くんのことも本当はわかっていたから、実は心配していたのよ。子供にお酒を飲ませちゃったかもってね」

「いや飲んでませんよ。でも、その節はご迷惑をおかけしました」

「いいわ、こっちの落ち度もあるしね。―――で、あのときのお客さんって、君の知り合いなのかしら」

 

 自然な話の振り方だったようだけど、眼が笑っていなかった。

 意図は不明だったが、正直に答えるのはマズイと第六感が警告を発する。

 御子内さん達ほどではないが、僕にだって危険察知能力はある。

 ここの妖気のことを考えると、バカ正直はいいことではないだろう。

 だから、すっとぼけることにした。

 

「えっとバイトしていたときのお客さんです。久しぶりだったんで、話も弾みました」

「バイトって?」

「イベント舞台の設置とかですよ。結構、力仕事したりするんで」

 

 力こぶを造る真似をする。

 信じたのかどうかはわからないけれど。

 

「でも、どうしてあの人のことを?」

「ツケが溜まっていてね。君が色々と知らないかと思っただけ。あの人、意外と常連だったの」

 

 嘘だ。

〈社務所〉の調査員がこんなところに足繁く通うことはない。

 だから、ミチルさんはもっともらしい嘘を言ってごまかしている。

 何のために?

 まだ、それはわからない。

 

「本当に、ホント? 何も知らない? できたら、あの人の住んでいるところとか仕事とかも教えてほしいんだけど……」

「すいません。知らないんです」

「そっかあ。じゃあ、仕方ないね。……いわてさま、だそうです」

 

 すると、いつのまにか僕の近くに来ていたオーナーらしいドレスのおばさんがタバコを咥えながらスパスパと吸っていた。

 

「知らないんじゃあ、どうにもならないね。店を準備中にしておいた甲斐がないってもんだ。やれやれ、機会損失も甚だしいよ」

 

 いかにも世間の酸いも甘いも噛み分けてますといった感じだった。

 人生でしなくていい苦労してきたような、そんな疲れた空気を醸し出している。

 ただ、僕は心底ヤバいと思っていた。

 見ると、ミチルさんの両隣の二人だけでなく、明日翔さんを除くほとんどすべてのバーテンダーが僕を囲んでいた。

 ガチャ。

 扉に鍵のかかる音がする。

 バーテンダーの一人が入り口に立ち塞がっていた。

 

(しまった)

 

 僕は失策を悟る。

 ここにいる誰かが怪しいのではなくて、()()()()()()()()()()()()()と思い付いたからだ。

 逃げ口を塞がれた。

 となると、残るのはあの観音開きの扉の奥にあるはずの裏口だろうか、もしくはトイレか。

 ただ、トイレは前回に行ったときの記憶があり、人がギリギリ通れる程度の窓があるだけですぐに奪出できるとは限らない。

 それだけではない。

 僕には一つだけどうしても確かめたいことがあった。

 今、まだこの連中で油断をしている隙に。

 

「ねえ、坊ちゃん」

 

 馴れ馴れしく、いわてと呼ばれたオーナーが僕の肩に手を伸ばす。

 隣に座り組んできた。

 

「あんたがどんなに誤魔化しても、うちらはもう大体わかってんだよ。あんたは、あの男の知り合いなんだろ。あいつがどういう素性のものなのか、きっと知っているはずさ。ねえ」

「し、知らないです」

 

 いわての眼が爛々と輝く。

 どう見ても肉食獣のようだった。

 こんな底光りする眼を人間が持っていていいはずがない。

 

「そうかい。あくまで、白を切るつもりかい。だったら……」

 

 いわてが僕の手をとり、自分の頭にまで引っ張る。

 パーマのかかった髪の毛がふわりと蠢いたような気がした。

 ()()()()()()()()()!

 それに気が付いたとき、僕は反射的にポケットに詰めておいた切り札を取り出した。

 白い四角く切り取ったお札であった。

 中央に漢語で呪文が墨書きされている。

 かつて中華街の元華さんにもらったお札であった。

 それをいわての顔面に叩き付ける。

 

『ぎしゃゃゃゃ!!』

 

 白煙が立ち込めた。

 お札に触れた額の部分が白く焼けただれる。

 聖なるお札が火傷を与える相手なのであるから、相手の正体はもう間違いがない。

 僕は勢いよくカウンターを駆け上がり、上を走り、観音開きの扉を開けた。

 誰もいない。

 いや、動いているものがいなかっただけだ。

 そこにはひと目で瀕死の重傷を負っているだろうとわかる男性がぐるぐると簀巻きにされて転がっていた。

〈社務所〉の禰宜さんだった。

 こんなところに囚われていたのだ。

 

「やっぱり!!」

 

 店内ではいわてが凄まじい形相で僕を睨みつけていた。

 

『この餓鬼ぃぃぃ!! なんてことしやがる!! しかも、その札は破邪の呪文が記してあるね! やはり、どこかの回し者だったか!!』

 

 いわてだけではない。

 他のバーテンダーもさっきまでの愛想のいい顔はなくなり、般若のように吊り上がった眼と口を向けていた。

 

「あ、明日翔!!」

 

 明日翔さんも例外ではない。

 髪が一気に銀色の枯れ果てた白髪のように変わり、獣のごとき牙を生やし、白目のない双眸に変化していた。

 僕たちを除いて、ここにいる全員の女が悪鬼羅刹といっても過言ではない変貌を遂げている。

 ここは間違いなく妖怪の巣だった。

 鬼のねぐらだった。

 入ってはいけない悪所であった。

 

「東京のこんなところに、あなたたちみたいな連中が巣作りをしているとは思いませんでした」

『てめえら人間が間抜けなだけさ。歓楽街にはこの店みたいな餌場はたんとある。そして、てめえみたいなネズミを食い殺す仕掛けもな!!』

 

 じりとバーテンダー―――どう見ても鬼婆の集団だ―――がにじり寄ってくる。

 

「ひえええ!!」

 

 明日翔さんの変貌を目の当たりにした桜井が怯えて、カウンターのこちら側に飛び込んできた。

 どうやら僕の庇護を求めているらしい。

 勝手なことを。

 自分だって助けられるかどうかわからないのに、君なんかを構っていられるものか。

 

「……升麻」

 

 僕はすっと背中に桜井を庇った。

 この手の体験には慣れている僕の方が素早く動けるだろう。

 別に桜井を助けたいわけじゃないし、囚われの禰宜さんを守るついでだ。

 

『あらあら、勇敢なこと。慎介があなたをこんな目に合わせたのはわかっているはずなのに、それでも背中に庇うんだ。なかなか、あなた、聖人君主なのね』

 

 元は明日翔さんだった鬼婆が嘲るように言う。

 やはり、桜井と恋人同士になったのは嘘だったか。

 目的はわからないけれど、それでも虚言には違いがない。

 

「僕は聖人ではないですよ。ギリギリまでしなくてはならない抵抗をするだけなんです」

『それでどうにかなるとは思わないことね。あなたの悪運はもうこのお店に紛れ込んだ時に尽きているのよ』

「でしょうね。僕の普通の運は」

『―――普通の?』

 

 できる限り不敵に笑うように努めた。

 

「僕にはただの運だけでなくて、もう一つの運があるそうです。抗って這いずってもがききった挙句にようやく発動する程度のものだけど、何よりも強い運が」

『あなた、何を言っているの?』

「だから、最後まで抵抗しますよ。たとえ、ここが悪鬼の巣窟であったとしてもね」

 

 今の僕の手にはお札が一枚あるだけだ。

 それで二人の人間を守らなければならない。

 でも、それだけでも十分。

 最後まで抵抗してやる。

 僕の〈一指〉の悪運にかけて。

 そして、その台詞を格好良く言い放った時、

 

「そう、それでこそボクの京一だ」

 

 閉まり切っていたトイレのドアが内側から吹き飛び、白衣と緋袴、そして黒いリングシューズの小柄な影を吐きだした。

 バチンと拳と掌を打ち鳴らし、見えない妖気が充満した室内を威風堂々と睥睨する。

 世にどれほどの悪夢が蔓延しようと、羅刹天女が暴れ回ろうと、決して許さぬ正義の巫女がやってきたのだ。

 彼女が僕の〈一指〉の幸運が呼んだ奇跡なのだろう。

 

 御子内さんは颯爽と拳を握り、構えをとる。

 

「関東鎮守の退魔巫女、御子内或子、ここに推参だよ!!」

 

 その姿はオペラのヒーローのように格好良く輝いていた。

 

 



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妖怪〈山姥〉

 

 

『貴様は妖怪狩りの戦巫女(いくさみこ)だな!!』

 

 いわてが慄きながら、絶叫した。

〈社務所〉の退魔巫女のことを妖怪の側からはそう言うのか。

 その誰何に対して御子内さんは、

 

「キミたち妖怪に名乗る名前はないね!!」

 

 と、ついさっき推参して自己紹介した舌の根も乾かぬうちに適当な返答をしていた。

 問答無用ということか、ただ単に面倒くさくなったのか、そのどちらかあたりだろうとは推測がつくけど。

 一方のいわてとバーテンダーたちは手に手に物々しい武器をとって、御子内さんと対峙する。

 薄汚れた出刃包丁、骨まで叩ききれそうな中華包丁、アイスピックに類似した刺突用らしいナイフ、自転車のチェーンよく似た金属製の鎖、カチカチと刃が出てくるカッターナイフ、バールのようなもの、割れたビール瓶……

 どれもが御子内さんを生かしては返さないという断固たる意志を告げていた。

 この狭い店内で、こんな武器を持った連中に囲まれて普通なら怖気づいてしまうところだ。

 だが、御子内さんは眼をかっと開いてひゅーひゅーと手早く呼吸を整える。

 それは女子高生のものではなく、喧嘩(でいり)に来たヤクザのものだった。

 彼女は恐れをすでに超越している。

 戦巫女(いくさみこ)というのもむべなるかな。

 

「こんな人里の街中まで降りて来て、男漁りをするような〈山姥(やまんば)〉ども。ボクが一匹残らず成敗してやる」

『やってみれるものなら、やってみやがれ!! かかれ!!』

 

 いわてとバーテンダーたち―――どうも〈山姥〉という妖怪らしい―――が一斉に飛びかかった。

 とはいっても狭い店内だ。

 御子内さんと接敵できる数は一匹か二匹が限度である。

 多数対一のハンデはその程度まで抑えられる。

 御子内さんの戦いが始まったと同時に、僕は足を引っ張らないように、隠れていた桜井をさらに観音開きの扉の奥に押し込んだ。

 

「なにすんだ!」

 

 生意気にも抗議の声をあげるので、若附さんっぽく蹴りあげてやろうと思ったがああいう可愛いスマイルはできないので、

 

「そこで簀巻きにされている人を助けてあげて。人助けだよ」

「ど、どうして俺が……!?」

「やかましいのでさっさとして。でないと、君の彼女に差し出すぞ」

「あんなの彼女じゃねええ!!」

「その主張が通るといいね」

 

 外から鍵をかける。

 なるほど、倉庫になっているのか。

 もっとも主な用途は監禁用の独房っぽいけど。

 

「だっしゃあああああ!!」

 

 包丁による刺突を躱して、前かがみになった背中をくるりと自分の背中をつけて回転して降り立つと、正面にいた〈山姥〉の胸に横蹴りをかます。

 一瞬、蹴りの姿勢のまま止まった御子内さんに対して、バールのようなものを持った一匹が襲い掛かった。

 だが、それは誘いであり、足を延ばしたまま軸足を曲げて回転蹴りで足を払う。

 そんな動きを予想していなかった〈山姥〉は軸足を刈られて倒れ、後頭部からテーブルにぶつかっていく。

 ようやく後ろに回られたことに気づき、もう一度刺し殺そうとした〈山姥〉だったが、後方から撥ねあがる猿臂(肘(肘鉄)を使った攻撃、防御の技)を顎にぶち込まれてのけ反る。

 そのまま流れるような裡門頂肘(りもんちょうちゅう)、さらには一撃必殺の崩拳を腹に叩き込んだ。

 涎と嗚咽を発しながら、包丁を持った〈山姥〉は壁まで吹き飛び全身を強打して動かなくなる。

 ビュン

 相手の行動不能を確認する暇もなく、横薙ぎに振るわれたチェーンを屈んで避ける。

 いくらなんでもあんなものが当たったら肉が爆ぜる。

 殺傷力では鎖や鞭に匹敵するのが、自転車のチェーンの危険なところだった。

 振るった〈山姥〉は慣れているのか、すぐに手元に引き寄せて、もう一度今度は縦に攻撃した。

 踵から発する力だけで御子内さんは飛ぶ。

 だが、その動きを予想していたらしい、もう一人の〈山姥〉がカッターナイフで切り付けた。

 嫌な音がした。

 御子内さんの髪の毛が何本か切り取られた音だった。

 ただ皮膚までは切られていないらしく出血はなさそうだ。

 そのカッターナイフを裏拳で吹き飛ばし、チェーンの一匹に戻ると、その再度の攻撃を躱して、顔面に正拳をめりこませる。

 

「シッ!!」

 

 あたりどころが悪く倒しきれないと見たのか、逃げないように〈山姥〉の長い髪の毛を掴むと、くるりとその咽喉に巻いて、そこを支点に御子内さんは投げ飛ばした。

 柔道の技のようだが、あんな風に髪の毛を道具に使うものなんて見たことがない。

 彼女のオリジナル技か―――。

 一本背負いならぬ、裏髪落としともいうべき技で床に脳天から叩き付けると、次の敵のために立ち上がろうとした時、

 

「ちっ!!」

 

 御子内さんの白魚のような繊手に血が滴った。

 思わず叫びそうになってしまう。

 右腕から少なくない出血をしていたからだ。

 さっきの包丁による傷だろうか。

 しかし、御子内さんはじっと長髪の倒した〈山姥〉を凝視していた。

 髪の毛の奥にある大きな唇と歯のついた口を。

 あの〈山姥〉という妖怪の後頭部には、不気味な牙をもった大きな口がついていたのだ。

 二つの口を持つ女の妖怪。

 どこかで聞いたことがある。

 わずかに紅くなっているのは、御子内さんの血だろうか。

 あの口内にある歯が、ナイフのように彼女の肌を切り裂いたのだと僕にもわかった。

 

「キミら―――〈二口女房〉の〈山姥〉だったのか」

『ちぃ、気づかれたか。もう少し油断しているところを、あたしらの〈口〉で噛み切ってやろうとおもっておったのに』

「いや、油断していたよ。確かに、後頭部にもう一つの口がある飯食わぬ女房は、正体が〈山姥〉というのは衆知の事実だったよね。ボクとしたことが、キミがいわてなんていう名前だから、奥州安達ケ原を巣にしていた連中の末裔だと思い込んでいた。しくじったようだね」

 

 御子内さんは右手がどうやら動かないようだ。

 噛まれたことによるものだろうか。

 となると、あの後頭部にある口の歯は、刃のように鋭いだけでなく毒のようなものが塗られている可能性がある。

 いくらなんでも、片手のままでは彼女だって危険だ。

 

『ちげえな。あたしらは武州の安達ケ原の〈山姥〉さ。かなりご近所さまよ』

「―――大宮の黒塚山大黒院に伝わる〈山姥〉の集団の出か。どうりで、連れ立って東京に出てくるわけだ。金の卵の集団就職かってーの。まったく、埼玉県人はとっとと夏は暑くて冬は寒い埼玉盆地に帰れ」

 

 ……君だって多摩の出身だから、微妙に東京っ子でもないじゃん。

 埼玉にとやかくいえるほど都会でもないよね。

 マイルドヤンキーっぽく地元愛に溢れているのは別にいいけど。

 

「ちなみに茨城というと、埼玉のさらに奥地にあるといわれる日本の僻地だけどね! あそこはレディースばかりなんだよ!」

 

 ついでに魔夜峰央みたいに茨城県までディスり始めた。

 あのあたりを守護しているレイさんにバレたら張り倒されるよ。

 

「―――ふん。片手の自由を奪った程度でボクに対して勝機を掴んだ(ふう)な態度をするなんて、キミらはとんだ道化だよ。……じゃあ、さっさとかかってくるがいいさ。例え、左腕一本でもね」

 

 御子内さんはだらんと右腕を垂らして、それでもまだ不敵だった。

 残る〈山姥〉はオーナーのいわてと明日翔さんだったものを含めて、四匹。

 片手が使えないというハンデを抱えながら、御子内さんははたして勝てるのであろうか。

 

 

 

 



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ガールズバーは戦いの坩堝

 

 

 右利きの御子内さんなのだが、器用に左を主武器にスイッチする。

 だらんと下がった右腕の袖が血によって汚れていた。

 彼女があんな出血をさせられたシーンは見たことがない。

 あの〈山姥〉たちの後頭部に隠されていた口と歯は、暗器のように作用して御子内さんの意表をついたのだろう。

 自分たちの正体を見破られたとわかった途端、ぐぐぐと骨が軋む音がして、〈山姥〉たちの顔が真後ろを向き、替わりに二つ目の口が髪の毛をかき分けて現われた。

 鋭い歯がついているので、武器に使うつもりなのだ。

 その口を隠す髪の毛も蛇のようにゆらゆらと漂い、まるで生きているようだった。

 残りの武器を持った〈山姥〉は四匹。

 いくら最強の御子内さんとはいえ、一筋縄ではいかぬ数だ。

 

『ぐぎゃぁあああ!』

 

 ビール瓶の〈山姥〉が噛みついてきた。

 後頭部が前に来たことで眼が見えなくなっているというのに、動きにはまったくといっていいほど遅滞がない。

 人間のように目が正面についている生き物は、視野の関係で目の前の生物との距離感が測りやすくできている。

 つまり「獲物へ距離をつめやすい」のであり、要するに殺すためのデザインなのだ。

 しかし、その眼がないのに〈山姥〉は確実に御子内さんの肉を喰らおうと襲ってくる。

 なんらかのレーダーやセンサー的な機能も持っているのかもしれない。

 御子内さんは左手で噛みつきを払うと、そのどてっ腹に膝蹴りをぶちこむ。

 ついでに左肘で背中を痛打する。

 この〈フレンチ・リップ〉の店内では御子内さんが比較的に多用しているのは、肘と膝の攻撃である。

 狭い立地ということを考慮した結果だろう。

 肘と膝による四連撃など、普通はできない芸当をやってのける。

 あと三匹。

 カッターナイフを持った〈山姥〉といわて、そして短めのアイスピックを持った明日翔さんだ。

 

『スミレ、入口をカバーしなさい。絶対に逃がしちゃダメよ』

 

 カッターナイフはスミレというらしく、さっと指示通りに入り口に張る。

 真っ正面から御子内さんと対峙したのは、明日翔さんだった。

 彼女だけは後頭部を向けておらず、以前の美しい顔そのままだった。

 だが、桜井と話をしていた時のおっとりとした面影はなく、冷たい翳をもった陰惨な表情を浮かべていた。

 他の〈山姥〉たちとははっきりと違う。

 明日翔さんの迫力は群を抜いていた。

 紛れもない殺気がある。

 妖気だけの怪物ではなかった。

 

『噂の戦巫女が殴りこんでくるとは思わなかったわ』

「ふーん、どうやらキミが明日翔とかいうバーテンダーか。桜井を篭絡させたというのも頷ける美人だ」

『あたしのことを知っているの? 慎介のお友達?』

「いや。京一に聞いた」

『升麻くん? あらあら、あなた、もしかしてあの子の彼女? なかなかいい趣味をしているわね』

「だろ? こんな化け物だらけの巣窟に紛れ込んで、友達を救うために奮戦しているところがボクにとっては好ましいのさ」

『でも、そのせいで貴女は絶体絶命の窮地に追いやられたのよ、恨んだりはしない?』

「まさか。ボクたちは比翼連理の相棒だ。恨むなんてありえない。―――それに」

『それに?』

「ボクは窮地の真っただ中にいる訳じゃないんでね。……いい加減、かかってきなよ。どうやら、キミがこの中で最も手強そうだ」

『ボスよりも用心棒が強いってはのあたりまえじゃない?』

 

 明日翔さんは一歩前に出て、アイスピックの先端の歯を胴体に刺しこもうとする。

 自然すぎる動作だった。

 差し出されたのがハンカチだったとしてもおかしくない何気なさだ。

 しかし、胴にそんなものを突き立てられたら即死は間違いない。

 上半身をねじって、御子内さんはそれを躱す。

 カウンターでの反撃がないのは、虚を突かれたからだろう。

 さっきまでプンプンに放っていた殺気が消えていたのだ。

 殺すと決めた瞬間に殺気を消せるなんて、尋常ではない。

 妖怪というよりも、殺し屋的な攻撃だった。

 明日翔さんという〈山姥〉は刺突の軌道を変え、今度は顔目掛けてアイスピックを突き立てる。

 顔面スレスレを通り抜ける刃に背筋を冷やす御子内さん。

 彼女にしては珍しく反撃がない。

 右手が使えないというだけでなく、おそらく明日翔さんのゆらりとした動き―――足運びが特にそうだが、掴みどころのないトリッキーな移動をするのだ―――で、かろうじて手を出した御子内さんの後ろに回り込まれたりするのを警戒しているのだ。

 彼女だからこそ、絶妙な位置取りで防禦できているが、ただの人間では瞬く間に屠られているだろう。

 あのアイスピックによって。

 そうだ。

 アイスピックも曲者なのだ。

 よくよくみると、市販品とはまったく違う握りの部分をもっていて、何気ない手の動きで刃の位置が変わる。

 おそらくアイスピックなんかではない。

 なんらかの暗器の一種だろう。

 つまり、そこからわかることは―――明日翔さんは職業凶手(殺し屋)なのだ。この店の用心棒というのもわかる。

 ただの〈山姥〉だと油断させて仕留めるというのが普段のやり方なのだろうが、御子内さんには殺気の質から見抜かれていたのだろう。

 ずっと警戒していたようだ。

 変幻自在な刃物の攻撃に追い詰められながら、御子内さんの左ジャブがでたりするが、ほんのわずかの動きで白衣の袖を切られ、とてもヒットするまで持ち込めない。

  

『油断するでないよ』

 

 はっと振り向くと、僕の首に何かが巻き付いた。

 同時に首に物凄い圧力がかかり、呼吸が困難になる。

 熱い!

 痛い!

 凄まじい力で僕は首ごと引っ張り上げられた。

 まるで絞首刑に処されたかのように。

 

「ごぼっ!!」

 

 口から泡が零れた。

 咄嗟に両手でカバーしたが、僕の首に巻き付いた白いロープはぎりぎりと締め上げてくる。

 

「京一!」

『おっと、動くんじゃないよ、戦巫女!』

 

 いつの間にか背後に忍び寄っていたいわてが、僕をつるし上げようと力を込めて引っ張り上げているのだ。

 ロープの支点となっているのは、天井の梁の一本。

 僕を吊り上げてもびくともしない太さだ。

 やばい。

 一気に意識が遠くなりつつあった。

 絞首されるということはこれほどに危険なのか。

 しかも、両手は塞がれ、足は地面から浮かび上がり、つま先だけで辛うじて支えている体勢だ。

 すぐに窒息してしまう。

 御子内さんが助けようとしてくれたが、行く手を明日翔さんに遮られてどうにもならない。

 このまま行くと、間違いなく僕は死ぬ。

 手にしたお札を貼りつけたくても、いわては手の届かない場所に陣取っている。

 触ることもできない。

 

『けーけっけっけっけ、おまえの大事な男はここでおっ()ぬが、それでもいいのか、戦巫女ぉぉぉぉ!!』

「く、京一!」

「び、びこあいさ……」

 

 僕らは視線を合わせても何もできない。

 化け物たちが邪魔をする。

 耳障りな哄笑が店内に響き渡った。

 苦しさのあまりに暴れてジタバタと壁や扉を蹴りあげるが、それがいわてを止めることはない。

 むしろ、僕からどんどん離れていく。

 

『うちの店で好き勝手やらせないよ! おっと、動くな戦巫女! さあ、明日翔やっちまいな!』

「うぐぐぐぐぐぅぅぅ」

 

 僕は少ない息を使って声を出した。

 届くように。

 誰かに救いを求める声が伝わるように。

 最後の最後の逆転を求めるため。

 じたばたと足を叩きつけながら、なんとか逃げ出そうとあがいた。

 

「た、助けてよ!」

『おいおい、坊ちゃんを助けるために必死な女に何を無理な要求してんだい? あの戦巫女だって頑張っているんじゃないかね? まったく男というのは勝手な生き物さ。すぐに女に縋り付いてくる』

「早く、助けろ……」

『おいおい、巫女様に命令か。これだから、男というのはクズなんだなあ。なあ、戦巫女。男なんてこんなものなんだぜ。ざとなればすぐに豹変する。おまえの彼氏だってこの程度のクズだったということだ』

「早くしろ……」

『ケガをした女に縋りつくなんてみじめなやつさね』

「―――一気にいけばいいんだ!! 僕に手を貸せ! ()()!!」

『!?』

 

 いわては、突然開いた観音開きの扉の中からへっぴり腰でタックルしてきた桜井に弾き飛ばされて、酒を収めてあるケースに激突すした。

 うめき声が響く。

 そのショックでロープから手が離れ、一気に僕の咽喉にかかっていた圧力が減ずる。

 今だ。

 僕はずっと手に持っていたお札を拳に巻き付ける。

 そして、そのままいわての顔面に叩き付けた。

 紅く発光して〈山姥〉の顔が破裂する。

 僕程度の力でもお札の力があればそのぐらいはできる。

 

「御子内さん!!」

「応!!」

 

 合図を送るまでもない。

 御子内さんは桜井が扉から根性を振り絞って出撃した瞬間から動き出していた。

 

『なっ!!』

 

 咄嗟に突き出したアイスピックに向けて、左ストレートを放つ。

 当然、その軌道のままだと拳に刃が突き立つことになる。

 しかし、拳と刃が激突する寸前、御子内さんのストレートがずれた。

 いや、ぶれた。

 拳はやや軌道を変え、明日翔さんのアイスピックを持った小指を砕き、そのまま肘までの肉を切り裂く。

 ものを握るために重要な部位である小指を破壊されれば、アイスピックを取りこぼさざる得なくなり、凶器は床に滑り落ちていく。

 何が起きたかわからない明日翔さんは眼が点になっていた。

 たまたま御子内さんの出したパンチが自分の腕を切ったとしか思えないのだろう。

 だが、それがただの偶然でないということを僕は知っている。

 彼女の見切りの技は天才的どころか、神がかり的でさえある。

 拳銃の弾道でさえ見切って躱せると豪語していたこともあったほどだ。

 その彼女ならば、クロスカウンターにおいてわざと拳の軌道をずらして相手の小指を抉り取ることもできるだろう。

 まさに、牙を斬ったのである。

 そのまま御子内さんは、すぐには再起動できそうもない明日翔さんの懐にしゃがんでもぐり込む。

 明日翔さんの顎に裏拳をそっと当てると、一気に立ち上がった。

 膝による屈伸だけでなく、背筋の力さえ利用した勢いで、添えた左拳で相手の顎を打ち貫く。

 手を介した頭突きといってもいい業だった。

 確実に狙ってやっている。

 しかも、そのまま追い討ちで動かないはずの右腕を突き上げてアッパーを叩き込んだ。

 明日翔さんの下顎が粉砕される音が聞こえた。

 そして、鮮血が飛び散る。

 あっという間の、逆転劇であった。

 ただ、御子内さんの動きはまだ止まらない。

 振り向くと、扉のところにいた最後の〈山姥〉に駆け寄る。

 

「危ない!」

 

 パンと破裂音がした。

〈山姥〉の手にはいつの間にか回転弾倉拳銃(リボルバー)が握られていた。

 しかも、その引き金を御子内さん目掛けて引き絞ったのだ。

 だが、御子内さんは倒れない。

 これもさっきのカウンター同様に、拳銃の銃口と軌道を見切って最小限度の動きで避けたのだ。

 退魔巫女というよりも、御子内或子という闘士のもつ、怪物的な反射神経と運動神経のなせる業であった。

 

「ラスト!!」

 

 御子内さんが飛んだ。

 縦に回転する。

 そして、その踵が〈山姥〉の額を割る。

 胴回し回転蹴りだった。

 御子内さんがクラックシュートと呼んでいる、これも高度に発達した巫女だからこそできる必殺技が炸裂する。

 気が付いた時には、もう店内に立っている〈山姥〉は一匹もいなかった。

 すべて、御子内さんが仕留めきったのである。

 

「やった!」

 

 ただ、御子内さんはまだ不機嫌な顔をしていた。

 

「どうしたのさ? 怖い顔をしているよ」

「だから言ったじゃないか。高校生の身分で、こんな悪所に出入りしているなんてろくなことにならないってね」

「―――いや、それは……」

 

 確かに彼女と涼花の忠告を破ったのは悪かったけど……

 

「あとで、キミのところの御母堂に報告しておこう。きっちりお説教されるといいよ」

「そんなあ……」

 

 

 ―――僕の抵抗もむなしく、いかがわしい場所に出入りしていたことが親に知られて、僕は随分と長いお説教を受ける羽目になったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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戦いの顛末

 

 

 両親による折檻交じりのお説教のあと、我が家にのうのうと遊びにやってきた御子内さんはお気軽そうだった。

 自分がお土産に持ってきたどら焼きをおもたせでだせ、と我が儘を言い放ち、涼花が用意した緑茶を飲み始めた。

 いつもの改造巫女装束姿で緑茶を飲まれると、僕の私室が神聖に見えてくる。

 ちなみに、うちの両親はすでに御子内さんという異物に慣れ過ぎてしまい、たまに涼花が真似をして巫女の格好をしても何も言わなくなっているぐらいだ。

 

「―――お父上たちに随分と絞られたようだね。ザマァ」

「ザマアとか言わないで」

 

 どうも、彼女の忠告を無視して例のガールズバーに行ったことがお気に召さないらしく、まだつんつんした態度が残っている。

 

「でも、驚いたよ。こんな近くにあんなに〈山姥〉―――だっけ、がお店を経営しているなんて。もう気軽に色々なところに行けそうにないね」

「そうでもないよ。基本的に、ああいう風に妖怪の巣窟になっているのは、やはりいかがわしい商売をしている場所に限られるから」

「へえ、そうなんだ」

「昔から、吉原とか深堀で怪談が多いのはそういうことさ。もっとも、江戸から東京に変わり、昭和から平成に変わった御代(みよ)では、妖怪はちょっとした歓楽施設でも見られるようになったけどね」

 

 いつもは脳筋みたいだけど、さすがに巫女っぽく知識は豊富だ。

 

「ちょっと前に、真っ黒いメイクをした女の子たちが話題になっただろ。えっと、ガングロのヤマンバメイクだっけ? あれは妖怪が広めたって噂もあるね」

「あのわりとすぐに消えたもの?」

「ああ。今回の連中とは違うだろうが、突然現れた奇妙な習俗は妖魅が意図的に流行らせたものが多い。それの見極めとかも〈社務所〉の仕事ではあるんだ」

「……渋谷の夜のお店とかだと、ああいうのも受け入れてもらえそうだからね」

 

 だいぶ前のことなので、僕も実物は見たことがないが、確かにあのメイクは妖怪ぽかった。

 広告代理店の仕掛けにしてはアレすぎるし、妖怪の仕業だと考えた方がわかりやすいぐらいかもしれない。

 

「ところで、あの禰宜さんは無事だったの?」

「かなり衰弱していたし、暴行も受けて、心身ともにボロボロだったが命に別条はなかったよ。拉致られる前にボクたちに連絡してくれれば、半日かけずり回って探さずに済んだんだけどね」

 

 今回の事件は、僕の視点で見ると桜井がガールズバーに行きたがったところから始まっているが、実際のところは違っていた。

 まず、あの〈山姥〉だらけのガールズバーがあって、そこの常連が行方不明になることが増えたらしい。

 八咫烏への依頼があり、〈社務所〉の禰宜が調べてみたら、常連どころか一見の客の中にも失踪するものがいた。

 そこで〈社務所〉はあそこに妖怪が巣食っているものと予測して、調査を進め、直接内偵に入ったときに僕と偶然にも遭遇したということだった。

 まあ、あの時点で店のものがすべてグルだったとは思わなかったのだろう。

 すべてのバーテンダーを尾行するなりすれば、かなり早期に秘密は突き止められたのだろうが、あの組織は意外と人手不足だし。

 禰宜が一人、狙撃事件で亡くなっていて、人員が補充できていないのも痛かったそうだ。

 あの禰宜さんは次にまた店に行って、正体を見破られて拘束されて尋問を受けたが、さすがに口を割らない。

 だから、明らかに知り合いだと思われた僕も捕らえることにしたという話だ。

 あの時は僕から桜井に話をつけたが、それがなかったとしても明日翔さんに唆されたあいつが僕に接触して来ただろうおそれは高い。

 闇に巣食う妖怪にとって、自分たちを探る連中を怖れるのは当然の発想だしね。

 

「禰宜の消息を探っていたとき、キミからの留守電があるので聞いてみたら、またあそこに行くとかいうし。胸騒ぎがするから急いでむかって正解だったよ」

「ありがとう。おかげで助かったよ」

「だったら、お礼はもう少し別に形ですることだね」

 

 間一髪で助けてもらったのだから文句は言えない。

 

「桜井も大人しくなってくれて、結果としては良かったかも。でも、あんな目にあってトラウマとかにならないかな」

「彼も一応、最後に頑張ったから、そっちで達成感があるだろう。初めての彼女が〈山姥〉だったというのは相当の傷になるだろうけどさ」

「だよね」

 

 今回もいいところなしで、僕に迷惑をかけっぱなしの桜井だが、最後に僕を助けるためにいわてにタックルしてくれただけで帳消しということにしてあげた。

 でも、せっかく僕が首を吊られかけた状態で、扉の鍵を必死に蹴飛ばして壊したというのに、すぐにでてこなかったことは根に持つことにしよう。

 おかげで本当に死にかけたんだから。

 

「しかし、もうああいうところは懲り懲りだよ。お酒が飲めるようになったとしても、女性がエスコートしてくれる店は怖くていけないだろうね」

「その前に、そんなところへ行くのをボクが許すと思っているのかい?」

「確かに、ああいうところはお値段が高いからね。普通に料理とお酒だけで済ませないとお小遣いがいくらあってもたりない」

 

 素直な反省と感想を述べたのに、御子内さんはジト目のまま僕を睨んでいた。

 はて、何か気に障ることを言っただろうか。

 すると、彼女は無言で立ちあがり、廊下に出ると、

 

「涼花、涼花、ちょっと来てくれ」

「はーい、お姉さま。どうしましたあ」

「キミの兄貴がちょっとスカポンタンなので締め上げる手伝いをしてくれ」

「はーい、わっかりましたー」

 

 すぐに妹がやってきた。

 手には白いロープを握っている。

 あの店での嫌な体験が思い出される。

 もう吊られたくはないぞ。

 

「まて、話せばわかるよ、きっと!」

 

 ただ、その台詞を聞いて話し合いが行われたことがないのは、人類の歴史で証明されている……。

 

 

 

 

 

 



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第24試合 闘杯の行方
巫女たちに迫る危機


 

 最近、御子内さんがやたらと家に遊びに来るようになった。

 彼女と妹の涼花が、高校と部活が同じという先輩・後輩関係であるということからするとごく普通の成り行きなんだけど、問題は毎度の巫女装束だ。

 うちの両親は慣れきってしまったとはいえ、ご近所さんはそうもいかない訳で、我が家は「巫女の出入りする家」という評判が立ってしまった。

 おかげで、商店街で買い物をしていたりすると、「あれが巫女さんの……」などというひそひそ話をされるようになっていた。

 御子内さんは別に悪いことをしている訳ではないのだが、こういうことで注目されることはあまり嬉しいことではなく、僕はほとほと困ってはいたのである。

 今日も同じだった。

 何だかんだいってもいいところの出身の彼女は、訪問のたびに律儀にお土産を持ってきてくれ、今日はサツマイモのジェラートという奇怪なものだった。

 甘くて美味しいのだが、もとがサツマイモだと思うとやや抵抗がある。

 あと、テーブルの上にはもう一つの箱があり、その中に入っていたモンブランはやたらとアルコールが効いていてびっくりした。

 小さな子供が食べたらきっとヤバイだろうと思われるぐらい、大人の味だ。

 

iQué rico!(ケ リコ)

 

 散々、写真を撮ったり、くるくると回して観察したりしながら、きゃーきゃー言ったあとで、じっくりと唇に運び、至福の表情を浮かべながら絶賛の声を上げている人がいた。

 ちなみにたぶん内容はスペイン語で「おいしい!」とかだと思われる。

 僕が覚えている限り、「おいしいです」は「Está rico.(エスタ リコ)」なのでもっとくだけた言い方なのかな。

 とはいえ、寡黙なところもあるが反応がいかにも女子なので感心する。

 撮った写真を即座にインスタグラムやツイッターにあげたりするのも今どきの女子っぽい。

 ただ、いつもの覆面を被っていないので少々近づきがたい。

 僕の知っている中で、最も清楚で可憐という印象のある透明な美少女だからだ。

 どういう訳か僕の家に来るときだけは、彼女はレスリング用の覆面をつけないので、いつも緊張させられる。

 御子内さんの親友で、巫女レスラーの一人である、神宮女音子(じんぐうめおとこ)さんであった。

 このモンブランを持ってきてくれたのは彼女である。

 

「確かに美味いね」

 

 モンブランを手で掴んでがっつりと食べている男らしい御子内さんも褒めていた。

 用意されたスプーンでキャアキャア言いながら食べている音子さんとは、百八十度違うところが面白い。

 圧倒的なまでに女子力で負けている。

 御子内さんは、基本的に品はあるが、女子力というものはあまりない。

 どちらかというと皆無だ。

 まあ、僕もそんなものは彼女に求めていないのだけれど。

 

 パシャ

 

 音子さんが写真をまた撮っていた。

 

「なんだい、またSNSかい? コミュニケーション障害も大変だね」

「ノ。 あたしはそんなのじゃない」

「違うって……。四六時中、スマホと睨みっこしてるから、学校には友達がいないくせに。まあ、おかげでツイッターのフォロワーがもう五十万人近いんだろ? まったく、そんなに自分を曝け出して大丈夫なのかい? ストーカーとかに纏わりつかれたらどうするつもりなのさ」

No te preocupes.(ノテプレオクーペス)

 

 手をひらひらさせて音子さんが答えた。

 おそらく心配するな、とかその辺だろう。

 僕も彼女がコミュニケーション障害とは思わない。

 僕たちに対する受け答えとか、つきあいがいいところとか、何度もつきあえばわかるからだ。

 御子内さんがそういったのは言葉の綾だろうし。

 だいたい、付き合いが下手な人はこうやって友達の家にお菓子を持って遊びに来たりはしないものだろう。

 

「まあ、音子のことを心配する義理はボクにはないけどね。だいたい、どいつもこいつも喧嘩は強いし、負けることはまず考えられない連中ばかりだし」

「君らにストーカーする奴はいないと思うけど」

「そうでもない。変な趣味の妖怪とかにつけまわされることはあるし」

「妖怪が相手だと、ストーカーってレベルではないよね」

「音子がマスクマンになったのだって、もともとは変な妖怪につけまわされたせいだったはずさ」

「そうなの!?」

 

 知って驚く意外な事実。

 てっきり、趣味で覆面被っているものだと。

 

「シィ。被り始めたきっかけは確かにそうだった」

「知らなかった。今でもなんていうか、その予防のために被っているの?」

「ノ。最近はただの趣味。あたし、1000年に一度の美少女だから、寄ってくる男の人がうざったくて。覆面(マスク)つけていると話しかけてさえ来ないからいいの」

 

 色々とぶっちゃけたな!

 確かに巫女装束の覆面姿をナンパする勇者はそうはいない。

 素顔がとんでもない美人さんだとわかっていても二の足を踏むのが普通だ。

 

「無理に話しかけてきたのって、警察と京いっちゃんぐらいなものかな」

「警察官は仕事だから……」

「京いっちゃんは凄いよね。胆力が違う」

「ふふん。そうだろう、そうだろう」

「なんで、アルっちが偉そうなのか、意味わかんない」

 

 この二人、息も合うし、気も合うのにどういう訳かライバル関係の図式を決して崩そうとはしないんだよね。

 もう少し仲良くしてほしいもんだ。

 せめて、僕んちでは。

 

「……で、どうして音子が京一の家にいるのさ? 京一はキミの助手ではないし、涼花とも親しくないだろう」

「別に。暇だったから遊びに来ただけ。アルっちには関係なくない?」

「そうはいかないさ」

 

 なんか牽制というか、つばぜり合いが始まった。

 もっと仲良くしてくんないかな。

 間に挟まる僕が大変なんだよ。

 ちなみにいうと、うちの妹は御子内さんにはベタベタだが、同僚の音子さんは超が付くほどの苦手らしく、彼女が来ると脱兎の勢いで逃げ出していく。

 どのあたりが苦手なのかさっぱりわからないが、それは御子内さんと音子さんがやたらと張り合っているのと同じぐらいに、僕にとってのポアンカレ予想なのである。

 

 プルルルルル……

 

 御子内さんのスマホが鳴った。

 着信アリだ。

 

「はい、ボクだ」

 

 番号から誰かはわかっていたはずではあるが、電話の相手が誰でもいつも通りの御子内さんであった。

 

「―――てんが病院送りにされた? 本当なのかい、それは?」

 

 聞き捨てならない言葉を聞いた。

 てん、というと僕たちの二個下の年齢の退魔巫女、あの熊埜御堂てんさんのことか?

 あのにっこり笑顔で骨を折って関節を破壊するクラッシャーが病院に運ばれたってことなのか。

 しかも、「された」という受動的表現からすると、病気とかではなく、何者かによってやられたということだ。

 まさか、あの熊埜御堂さんを……。

 妖怪の仕業だろうか。

 

「で、相手は……? はあ、〈のた坊主〉だと? どうして、あんなのにやられるんだい? てんだったら、腕が千本あったって全部叩き折ってしまうぐらいに弱い妖怪じゃないか?」

 

〈のた坊主〉ときいて、音子さんも首をひねった。

 名前の可愛らしさもあって、とても熊埜御堂さんを倒せそうな凶暴な妖怪とは思えない。

 実際、御子内さんも弱いと決めつけている。

 

「はあ、はあ、―――待て。それだと、いくらボクでも勝てるかどうかわからないんだけど」

 

 耳を疑う発言を聞いた。

 あの御子内さんが弱気なことを言っている。

 勝てるかどうか、わからないって……。

 マジですか?

 

「うーん、レイも参加する? あいつ、そっちは強かったっけ? うん、まあ、数撃ちゃ当たるの理屈はわかるけどね……」

 

 何、レイさんまで呼び出した?

 ちょっと待って、いったい、どんな最強の敵なのさ。

 僕は身震いした。

 今までにない強敵が現われたらしいと聞いて、恐ろしくなったのだ。

 あの、御子内さんが自信を無くす相手。

 しかも、すでに熊埜御堂さんという危険な退魔巫女を倒しているのだという。

 どんな化け物なんだ。

 妖怪のボスみたいなやつなのだろうか。

 

「御子内さん、今回はやめた方がいい!」

 

 思わず止めてしまった。

 僭越だし、信頼を裏切る真似かもしれないけど……御子内さんをいつも以上の危険な場所に黙って送ることはしたくなかった。

 

「いや、いかなくちゃならないし……」

「だって、危険なんでしょ。あの熊埜御堂さんがやられたって、普通じゃないよ。……そういえば彼女は大丈夫なの? 命に別状はないの?」

 

 御子内さんはちょっとだけ複雑な顔をして、

 

「処置が早かったから後遺症もないし、二、三日の入院ですむという話だったよ」

「―――良かった」

「まあ、急性アルコール中毒らしいからね。ロバートも近くにいたはずだから、そのあたりは運もよかったんだろう」

「急性アルコール中毒?」

 

 僕は眉をしかめた。

 なんで、急性アルコール中毒で病院送りなんだ。

 理解が追い付かなかった。

 

「あと、音子。キミにも出陣要請が来ると思うよ。準備をしておくんだね」

「シィ。でも、アルっち。―――もしかして、アレなの?」

「アレらしい。〈のた坊主〉の相手にするとまでは思わなかったけどね」

「アレ?」

 

 こうして、訳の分からないまま、僕と二人の退魔巫女は熊埜御堂さんを倒したという最強の妖怪〈のた坊主〉退治に向かうことのなったのであった……。

 

 

 

 



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コンビニ酒宴

 

 

 コンビニエンスストアの深夜バイトというものは、特にスキルが必要なものではない。

 ハンディで発注をしたり、売り上げを伸ばすためのポップやらを作る人というのも決まっていて、積極的に仕事をしようというもの以外は言われたことをやっておけばいいだけだ。

 中には、古株すぎて自分が店には必要だと勘違いをして、「私がルールよ」みたいに振る舞うパートがいたりもするが、たいていの場合、バイトはルーティンワークをきちんとしておけば問題がない。

 金澤充(かなざわみつる)もその程度の意識のアルバイトだった。

 駅前に近いところにあるとはいえ、終電がなくなる時間帯になれば客はまずこなくなるし、始発まではほとんど暇をつぶすのが仕事という有様だった。

 とはいえ、深夜の間にやるべき雑事というのはそれなりにあるし、金澤が働いている店は、常勤の深夜勤務は彼一人しかおらず、今日は誰もサポートにいないのでサボっていられる時間というのはそんなにはなかった。

 タバコの補充や、床掃除、ゴミ捨て、棚の前だし、旧雑誌を棚から抜いて新しいのと差し替える、トイレの掃除、段ボールの廃棄、あまりの新聞を縛り上げる、冷蔵庫の温度調節、ルーティンだがスケジュールさえ立てておけば問題ない程度の仕事量だが、とにかく面倒だった。

 あとは、深夜の弁当類の配達を待てばいい、という時間帯になってようやく一心地つけたという感じであった。

 

「飽きたなあ」

 

 身も蓋もないことを言ってから、金澤はバックルームに戻った。

 休憩のためではない。

 さっき納品されたばかりの酒類を箱から出して、陳列するという作業を思い出したためだ。

 深夜に客の少ないこのコンビニが意外と好調な売り上げがあるのは、タバコと酒を扱っているからである。

 タバコに関しては他の店舗の倍、酒についてもオーナーが特別に仕入れて本部に許可を出させた変わった銘柄をずらりと揃えているため、十分な客がついているのだ。

 フランチャイズにしては自由にさせてもらっているのは、オーナーがもともと酒屋を営んでいて独立のルートを持っているから、それで交渉をしたおかげらしい。

 最近では、コンビニエンスストアと歯医者ではどっちが日本に多いか競っているなどと揶揄されるほど大量の店舗があるが、かなり好調な売り上げが見込めるところは少ない。

 某コンビニチェーンなどは、ライバルのチェーンが出店するのを確認して、そこに対抗できる店舗を作る戦略をとっていたりするなど、少ないパイを奪い合っているのが現状だからだ。

 タバコと酒があるコンビニは強いと言われているうえ、他には見当たらない地酒などもあるというのはかなりの売りだといえた。

 ただし、その分、陳列には時間と手間が必要なのではあるが。

 

「このビール美味そうだな。あとで、勝って帰るか……」

 

 東北の方の知らない地ビールだったが、なかなかそそる外観をしていた。

 金澤は自分の分として三本を手元のカゴにとり置いて、それから他の陳列を始めた。

 手慣れているので、五分と要しなかった。

 

「さて、次だ」

 

 カゴを掴むと、妙に軽かった。

 350ミリリットルのビール缶を三本入れておいたのだから、それなりに手ごたえはあるはずなのに……。

 だが、カゴの中に視線をやっても、そこには何もなく、空のままだった。

 入れたはずのビール缶が見当たらなかった。

 確かにいれたはずなのに……

 金澤は首をひねった。

 疲れか眠気でおかしくなったのかと思ったのだ。

 しかし、伝票にある数値と陳列した数は間違いなく合致せずに三本足りない。

 金澤がとり置いた分だけはなくなっているのだ。

 立ち上がって店内を見渡した。

 誰もいない。

 さっき作業を開始してからも、客が入ってきた気配はなかった。

 それにバックヤードはすぐ目の前なので、もし誰かがいるとしたらトイレしかない。

 金澤は慌ててトイレまで行き、内部を確認したが、誰もいなかった。

 電気すらもついてなかったのだから、誰かが潜んでいたとしても何もできないだろう。

 

「おかしいな……」

 

 酒類の陳列スペースに戻った金澤は、そこに一人の子供のような人物が座り込んでいるのを見た。

 子供だと思ったのは、背が低く、とても成人しているようには見えなかったことと、着ている白と黒のまだらのちゃんちゃんこのせいであった。

 だが、その人物は禿頭のくせに、口の周りには黒々とした髭を生やし、赤いフンドシと濃い脛毛をもったおっさんだった。

 おっさんは「ぐおおおお」と売り物の一升瓶を軽々とラッパ飲みしながら、片膝をたてて座っていた。

 そのフンドシの脇からはみ出る黒いものから、金澤は思わず目を逸らしてしまった。

 どうやって入ってきたのかもわからない、不気味な小男であった。

 

「―――うちの商品に何をしているんだ!?」

 

 ここまで堂々とした無銭飲食は見たことがなかった。

 店内で、防犯カメラだってあるというのに。

 せっかく綺麗にした床に座り込んで、あまつさえ汚い尻で……

 

「警察を呼ぶぞ!!」

 

 だが、そのちっさいおっさんは怯みもせず、

 

『そうはいかねえな。おいらの姿はカメラなんぞには映らねえから、ここで酒を飲み散らかしたのはおめえってことになるぜ』

「ん!?」

 

 どう見ても酔いが回ってへろへろに見えるというのに、おっさんは意外と平然とした口調で言った。

 何かひっかかるものを感じ、カウンターに入る前に金澤は振り向く。

 

「どういうことだ?」

『なーに、簡単だ。おいらはここで好きなだけ酒を飲んで帰るが、カメラに姿が残ることはねえ。それ、そういう特別なもんじゃねえだろ? だったら、おいらの仕業だという証拠は残らねえ。でも、酒がなくなったことに変わりはねえ。んで、ここにはおめえしかいねえ。つまりだ、疑われるのはおめえってことだよ』

 

 どう見ても不審人物を通り越して、気味が悪い相手なのに言っていることは理路整然としていた。

 金澤はカウンターの隅にある防犯カメラの端末を見た。

 確かにあのおっさんはどこにも、どの角度にも映っていなかった。

 まるで透明人間のように。

 あのおっさんの言っていることは事実なのだ。

 

『―――ただよ、おいらだって、おめえを困らせるためだけに飲んでいる訳じゃねえ。酒が好きだから、酒を飲んでいるんだ。んでよ、ここでおいらからの提案がある』

「提案……?」

『おうよ。おいらとてめえで酒の飲み比べをしようぜ。―――〈闘杯(とうはい)〉だよ、〈闘杯(とうはい)〉。それでおめえが勝ったらいい。そうすりゃあ、おいらがおめえを助けてやろう』

「なんで、俺が……」

 

 すると、おっさんはげへへへと笑い、

 

『古今、酒呑童子の時代から飲み比べは正義と決まっているのよ。酒で勝てないやつはなにをやっても駄目さあねえ。どうだ、やろうぜ? 男なら勝負だぜぇい』

 

 その顔が一瞬、タヌキのそれに見えた。

 不思議の国のチェシャ猫よりもニタニタと赤ら顔のタヌキが笑っていた。

 金澤はまだ一口も飲んでいないのに、悪酔いをしてしまったような自分を感じていた……。

 

 

 

 

 

 

 

 



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レイ出撃

 

 

〈のた坊主〉という妖怪は、のたのたと酔っぱらっているように歩いていることからこの名前がつけられたという。

 その正体は、古くから生きていて妖怪となった狸が化けたものであり、とにかくお酒が好きだと伝えられている。

〈のた坊主〉について最も有名な昔話は、愛知県に伝わるものである。

 ある造り酒屋の酒蔵に勝手に入り込んできて出来立ての酒を勝手に飲みまくって、しばらくするといい気分になって、まるで煙のようにのたのたと逃げて行く小坊主がいた。

 捕まえようとしてもうまくいかないで終わった。

 その姿の消し方から狐狸妖怪の類いであることは明らかであったので、造り酒屋の方でもただ手をこまねいているしかなかった。

 しかし、酒は売り物である。

 いつまでも勝手に盗み飲みされていては損害もバカにはならない。

 そこで、酒屋の主の母親が一計を案じた。

 ――ある夜、いつものように〈のた坊主〉に化けたタヌキが酒蔵へとやってきた。

 だが、いつもとは違い、のた坊主の姿を見ても誰も何も言わず、ただただ忙しそうに働いている。

 タヌキは酒に眼が眩んでいたので、まったく怪しもうともせずに、気の済むまで出来たばかりの酒をたらふく飲んだ。

 いつもならば、酒屋のものたちにすぐに見つかって逃げ出さなればならないのに、誰も咎めようともしないので調子に乗って、どんどんと飲んでいった。

 気が付いた時には、足腰が立たないほどになっていた。

 普段ならば途中で店のものにバレて逃げていたので、盗み飲みを止めるべきタイミングがつかめなかったのだ。

 いや、呑兵衛である以上、邪魔されない以上、限度を越えた飲酒などやって当然なのである。

 しかしこれが主人の母親の罠だった。

 いつも以上に飲み過ぎて完全にできあがってしまった〈のた坊主〉は、様子を窺っていた酒屋のものたちによって捕まえられて、二度と消えることもできぬように縄で縛り上げた。

 捕らえられた〈のた坊主〉は涙を流して許しを請うが、店の主人も雇われ者たちも決して許そうとはしなかった。

 皆の意見を総合すると、この性根の腐ったタヌキなど、とっととタヌキ汁にしてくってしまえばいいというくってしまえばいいということになった。

 だが、タヌキを捕まえるための知恵を与えた、店の主人の母親はそれを拒絶した。

 彼女は、「縄を解いて逃がしてあげなさい」と言った。

「ですが、そんなことをしたら、またこいつは出来立ての酒を盗み飲みしにきます」と皆が口々に言う中、主人の母親はさらに驚く事を言った。

「このタヌキが酒を盗みに来て困っているのというのならば、逆にこいつの元へ毎年酒を届けてやればいい」

 それを聞いた皆は唖然とした。

 しかし主人の母親の命令である。

 渋々であったが、〈のた坊主〉を解放し、更に毎年酒を届ける約束もして、それを実行した。

 それ以降、〈のた坊主〉による盗み飲みは一切なくなり、それどころかこの造り酒屋の酒は大いに評判になり、地域で一番の名酒として大繁盛したそうである。

 人々は、きっと〈のた坊主〉が恩返しをしたのだろうと噂したものである……。

 

  

        ◇◆◇

 

 

「なんで、オレが〈のた坊主〉の相手なんかしなくちゃならねえんだ。あいつの正体はタヌキだろ」

「いや、ちょっと落ち着いてレイちゃん」

 

 急遽、熊埜御堂(くまのみどう)てんの代理として呼び出された明王殿(みょうおうでん)レイは不機嫌だった。

 そもそも後輩の不始末の尻拭いというのも腹立たしいが、戦わなければならない相手というのが小物すぎて涙が出そうなぐらいだった。

〈のた坊主〉なんて、〈豆腐小僧〉なみに弱っちい、妖怪の小者界でもさらに小者の妖怪だというのに。

 後輩の敵討ちと勇んでやってきた彼女は拍子抜けしすぎて腹が立ってきた。

 普段は文句を言っても基本的に逆らうことはない、先輩であり上司である不知火こぶしにさえ食って掛かるほどである。

 

「タヌキなんだから、さっさと目白の狸将軍のところに連絡して引き取らせればいいだろ。なんで、オレたち退魔巫女が呼び出されるんだ。この前の団体戦といい、お偉い連中はタヌキと癒着しすぎじゃねえのか!」

「そんなことはないのよ。別に妖狸族を特別扱いしている訳じゃなくて」

「だったら、なんだよ。てんだってまともに戦ったら、たかが〈のた坊主〉ごときにやられるはずがない。しかも、どうして〈闘杯〉なんてことをしたんだ? 〈護摩台〉に引きずり込んで戦えば楽勝だろ? てんの両手両足を縛るような真似をして、それであいつがやられたら代理を立てるだと? 納得できないぜ! そのあたりの納得いく説明がないかぎり、オレはこの退魔は引き受けねえぞ! 」

 

 レイの言い分に理があると判断して、こぶしはすべてを説明することに決めた。

 自分のときもそうだったが、少なくとも命を賭けて退魔の仕事をしている巫女たちをペテンに掛けたり、誤魔化したりすることはできなかったのだ。

 だから、こぶしは重くなっていた口を開いた。

 

「今回の〈のた坊主〉はちょっとばかり酔いが酷くなりすぎて元の姿に戻れないタヌキなのよ。ただ、タヌキとしても有名な血筋なので退治することはできないから、なんとかそれ以外の方法で確保・制圧したいの」

「だったら、術を使えよ。あるだろ、そういう呪法が。オレが虎の穴で習った術にはそういうのがあったはずだ」

「できないのよ。言ったでしょ、有名な血筋だって。最初から持っている妖力が桁外れすぎて、そう簡単に倒すことができないのよ。それに妖力が強いということは、結界を張る力も強いってこと。つまり、〈闘杯〉のための結界を瞬時に張られてしまって、アレ以外では倒す術もないの」

「なんだよ……。その血筋って? オレでも知っているのか?」

 

 レイの視線はこぶしの後ろに控えている、二匹のタヌキに向けられた。

 今回の退魔巫女の出陣の依頼者でもある、江戸前の妖狸族の使者だった。

 彼女も知っている二匹で、信じられないほどの巨漢が〈八ッ山の狸〉、小柄で丸まっこく胴体が茶釜になっているのが〈三代目分福〉である。

 現在の妖狸族のホープともいえる二匹が、なんともバツが悪そうに立っている。

 

『おお、まあ、たぶん』

『シュッポー!!』

「……てめえらの同胞なんだろ? だったら、オレらのような人間に頼まずに自分たちでケツを拭けよ。だいたい、てめえらぐらい強い奴らがいてどうにもならないはずねえだろうが!」

『いや、〈神腕〉の巫女殿……あのだな……我らもだな……』

『シュポー……』

 

 レイの中ではあの対抗戦を戦った江戸前の五尾のタヌキたちに対しての、自然な敬意があった。

 だからこそ、この妖狸族の不始末が許せないのだ。

 しかも、犠牲になったのは可愛い後輩である。

 怒りは何乗にも増していた。

 

『あのだな……我々、タヌキは酒が好きなのは確かなのだが、あまりに飲まれ過ぎると今回の〈のた坊主〉みたいに戻れなくなるんだ』

「ホントかよ?」

『ああ。ぶっちゃけ、我々は畜生の類いではあるし。ただ、まあ、よほどのことがない限りリハビリすればタヌキの姿に戻れるんだが、今回の奴はその限度を遥かに越えていてな。〈闘杯〉を受けると我々もまた〈のた坊主〉になるおそれがあるんだ。ミカン採りがミカンになる訳にはいかないだろう?』

「……それで人間に頼むと? ざけんな。あと、ミイラな」

『巫女の言う通りなのだが、実はあの〈のた坊主〉はただの〈のた坊主〉じゃなくてな、妖力も我らとは比べ物にならんのだ』

『シュポー……』

 

 訝しむレイに、〈三代目分福〉は一つの名前を口にした。

 歴戦の退魔巫女も絶句する名前であった。

 

「―――なるほど、そういうことか。退治をできない、させられない理由もわかった。確かに江戸前のタヌキどもにゃあ荷が重いか」

 

 レイはじろりと、深夜になって閉店しているのに明かりが煌々と照っている業務用スーパーを睨んだ。

 中ではもう例の〈のた坊主〉が売り物を使って酒盛りをしている。

 通報を受けて急いで駆けつけたが、〈のた坊主〉の乱暴狼藉はとうの昔に始まっていた。

 しかし、レイにとってはただの弱小妖怪でしかなく、納得できない事態ではあったのだ。

 説明を受けてようやくわかった。

 どうしても、あいつをやり込める必要と、可愛い後輩の敵討ちをしなければならない、と。

 

「わかった。―――オレがやる。てめえらはここで待っていろ」

 

 レイは拳を鳴らして、業務用スーパーの中へと入っていった。

 その途中でレイは一本の缶を握りしめた。

 

「おい、〈のた坊主〉!!」

 

 店内で焼酎の瓶を片手にのたくっていたちゃんちゃんこのおっさん妖怪が、呼びかけてきた巫女に対してにやりと笑った。

 

『なんじゃ、また巫女かよ? またワシにやられにきたのかよ』

 

 レイは鼻でせせら笑って、

 

「ふざけろ。たかが妖怪ごときに、百戦錬磨の退魔の巫女がそんなにやられるものかよ」

『ほほお』

 

 挑発に挑発で返すと、レイは〈のた坊主〉の前に胡坐をかいて座り込んだ。

 

「勝負だ。てめえとの〈闘杯〉対決を受けてやる。それで、てめえを二日酔いの地獄に叩き込んでやらあ」

『よかろう。―――では、酒の銘柄を指定しろ』

 

 そこでレイは手にしていた缶を見せつけた。

 

「これだ。このアサヒのスーパードライで勝負してやる。マイク・タイソンがCMをやろうがなにをしようが、日本のドライビール―――アルコール度数が今までよりも高く、辛口に仕上げたビールの最高峰は、先駆者にして、最大のコクとキレをもつ、こいつしかいねえ。美味し○ぼで謂れのない風評被害を受けたが、やはりビールといったらアサヒのスーパードライだ!」

 

 巫女の熱い主張を受けて、〈のた坊主〉は不敵に笑った。

 

『いいじゃろう。たった今からただの小娘だとは思わん。貴様の熱いうわばみの心をワシが受け止めて、粉砕してやるぞい』

「ほざけ、妖怪。じゃあ、てめえもドライを持て」

『よし』

 

 そして、一人の巫女と一匹の妖怪は、同じ銘柄のビールのプルトップを開けて、互いに力強く打ち付け合い、

 

「『〈闘杯〉!!』」

 

 と、誓いの言葉を高らかに宣言するのであった……。

 

 

 



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或子出陣

 

 

 救急車に乗せられて運ばれていく、後輩を心配そうな顔で見送ってから、不知火こぶしは目の前の業務用スーパーを睨みつけた。

 これで二人目。

 大切な後輩を二人も病院送りにさせられたのだ。

 ただし、それを恨みに思うことはできない。

 退魔の仕事は彼女たちの使命である。

 その最中に、病院送りになったとしてもそれは未熟なだけであり、相手となった妖怪が強かったというだけなのだ。

 今回に関していえば、本来の得意としている退魔のやり方ではないとしても、なんとしてでも勝つべきであった。

 ただそれだけのことなのだ。

 退魔巫女の統括もしているこぶしにできることは、一刻も早くこの事態を収拾することしかない。

 

「―――あ、藍色ちゃん、話は聞いているでしょ」

 

 スマホで呼び出した中野の猫耳藍色は、いつも以上に口が重そうだった。

 

『……お疲れ様です、こぶし先輩』

「で、こっちにこられるかな?」

『ごめんにゃさい。今回は勘弁してください!』

「どうしてなの?」

『私、私、―――下戸にゃんです! 一滴でも飲んだら顔が真っ赤ににゃって、モンブランでも倒れてしまうんです! 〈闘杯〉にゃんて絶対にできません!!』

 

 と、一方的に切られてしまった。

 冷静沈着な後輩ボクサーがあんなに取り乱すと思っていなかったので、こぶしはしばらく茫然としていた。

 有力なアテの一つが消えてしまったのだ。

 もともと、十代ばかりの退魔巫女の面々に飲み比べなんてものをさせようというのが無理なのはわかっている。

 熊埜御堂てんが返り討ちにあった時点で風向きがヤバいということには気がついていたが、もしかしたらここしばらくでは最悪の案件になるかもしれないとの予感がわいていた。

 

〈闘杯〉

 

 何より、この決闘法がいけない。

 より端的に説明するとしたら、ただの飲み比べなのだ。

 しかも、この〈闘杯〉を積極的に使おうとするのは呑兵衛の妖怪や術者だけであり、普通は存在さえも知らないレベルなのだ。

 ルールは簡単である。

 挑戦者側が使う酒を指名する。

 それを受けた側は結界を張って、その中で交互に指名された酒を飲み干す。

 どちらかが潰れるまで続けられて、潰れた方が負けというものだ。

〈闘杯〉は、日本神話での酒の神である大山祇神(オオヤマズミノカミ)への誓言によって行われる、ある意味では神事でもあることから、張られた結界の中では飲み比べ以外のすべての争いは禁止される。

 さらに勝った方は負けた側の生殺与奪の権利が与えられるのであった。

 ゆえに、〈闘杯〉をするということはある意味では命懸けの決闘方法である。

 かつて、酒呑童子という〈鬼〉が源頼光によって〈闘杯〉を挑まれて飲み負けして、潰れている隙に首を刎ねられたという事例があった。

 このとき、源頼光は酒樽に眠り薬を混ぜたという説もあるが、〈闘杯〉は神に誓われる神事であることからそれはありえないと断定されている。

 酒に薬をまぜたりすれば、年季を経た酒飲みにはすぐに見抜かれるし、そんなことをすれば神の加護がなくなる。

 それに酒呑みにとって、名前に反して人間に飲み負けた酒呑童子こそが悪なのであった。

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 だが、この事例一つをとってみても〈闘杯〉というのがとても危険なものであることがわかろうというものだ。

 今回のような特殊なケースでもなければ、こぶしは何としてでも止めたであろう。

 あの〈のた坊主〉を確実に無傷で制圧しなければならないという目的がなければ。

 

『―――すまないッス。戦巫女たちに迷惑をかけて』

 

〈三代目分福〉が心底情けなさそうに頭を下げる。

 もともとは彼らタヌキの同胞が原因なのであるから、その情けなさもひとしおだ。

 隣にいた〈八ッ山の狸〉もである。

 

「事情はわかっていますから、そんなに頭を下げないでください。あなた方の苦境もわかっているからこそ、レイちゃんだって慣れない〈闘杯〉に挑んだのですから。あなた方が気に病むと、あの娘の侠気が無駄になります」

『〈神腕〉の巫女にはすまないことをしたッス』

『シャッポー……』

 

〈八ッ山の狸〉にとって、明王殿レイは自分を正々堂々と正面から打ち破った尊敬すべき相手でもある。

 その彼女が病院送りになったことを悔やまないはずがない。

 

「とはいえ、参りました。無理に制圧しようとすれば逃げられる。逃げられたら、次にいつ現われるかわからない。やはり〈闘杯〉で屈服させて、その間に捕まえるしかないということですか……」

 

 こぶしは自分が〈闘杯〉に挑戦すべきという考えを捨てられなかった。

 まだ未成年で飲酒できる年齢でないものたちに、酒の飲み比べなどさせられないというのが常識なのだが、今、退魔巫女の統括をしている彼女が万一にでも行動不能になったら組織そのものに差しさわりが出る。

 彼女もそれなりに飲めるが、〈のた坊主〉相手では五分と五分だ。負ける可能性も否定できない。

 かといって、現役の巫女たちにこれ以上の被害を出すのも同様だ。

 自縄自縛の状態となっていた。

 

「こぶし、状況はどうなんだい!?」

 

 迎えにやったハイヤーから三人の少年少女が降り立った。

 こぶしはさらに複雑な気分になる。

 戦力は揃ったが、ここで投入すべきかどうかという悩みが生じたのだ。

 猫耳藍色は無理だったが、やってきた二人―――御子内或子と神宮女音子はかなり期待できる。

 まともに戦えばどんな妖怪とだって互角にやりあえる精鋭なのだから。

 今回に限ればそれが有用ではないとしても。

 

「状況はすごく悪いわ。たった今、レイちゃんまでが病院送りになったところだから」

「レイが! さっきの救急車ってもしかして……」

「そう。レイちゃんも急性アルコール中毒かもしれないのですぐに病院まで直行させたわ。意識がなかったしね」

「オー……あのミョイちゃんが……。信じられない」

 

 レイの親友である二人はさすがに動揺していた。

〈神腕〉の巫女と怖れられ、単純な破壊力であるならば同期でも最強のレイが病院送りになったというのは衝撃的であったのだ。

 

「その……〈闘杯〉という戦いでですか?」

 

 或子と音子についてきた少年がおずおずと聞いてきた。

 自分が口を出していいのか不安なのだろう。

 こぶしはこの後輩の助手のことを随分と気に入っていたので、すんなりと返事をした。

 

「ええ。レイちゃんも健闘したんだけど、ちょっと及ばなかったみたい」

「ちょっとですか?」

「350ml缶を二十本空けたところで力尽きたの。たかがビールだから、水みたいなものだけど、さすがに十代にはきつかったんでしょうね」

「―――二十本! 一応、アルコールですよね」

「大人になればなんとかなる量よ」

 

 後輩がドン引きしていることにこぶしは気づかなかった。

 

「その〈のた坊主〉はまだあそこのスーパーマーケットにいるのかい?」

「ええ。そうよ」

「よし、じゃあボクが行こう。レイとてんの仇を討ってくる」

 

 雄々しく宣言した上で、闘志を熱く燃やしたのは、或子であった。

 友達や後輩がやられたというのに大人しくしていられる性質ではないのだ。

 仲間たちの気遣いの視線を断ち切るようにして、退魔巫女最強を自負する少女は敵の待つスーパーへと向かう。

 誰よりも頼もしい背中を見せつけながら。

 

 

 友を倒した妖怪と、酒の飲みあいの勝負をするために。

 

 

 

 



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音子参戦

 

 

 

 

 或子が選んだのは日本酒の銘柄、八海山であった。

 その中でも吟醸の甘口に近いものをセレクトしたのだ。

 

「ボクは日本酒しか呑まないからね」

 

〈のた坊主〉はにやりと口角を吊り上げ、

 

『ほほお、ワシら妖怪に日本の酒で挑むかよ。舶来品の方が味に馴れていないし、呑み方も知らんからちぃと勝ち目があるかもしれんぞ』

「ふん。ボクはこうみえても高校の日本酒研究会の会長でね。その誇りにかけても、日本酒での〈闘杯〉には負けられないのさ」

 

 どっしりと胡座をかくと、或子は紙コップに八海山を注いだ。

 

「手酌でいいね」

『若い娘の酌を期待していたんだがな』

「今の時代、そういう発言はセクハラといって顔面にスペシャルローリングサンダーを全発食らってライジングタッコオを受けても許されないぞ」

『まったく最近の娘っこは物騒でいけねえ』

 

 ニタニタと笑いながら〈のた坊主〉も紙コップに注ぎこみ、

 

大山祇神(オオヤマズミノカミ)の名にかけて』

大山祇神(オオヤマズミノカミ)の名にかけて」

 

〈闘杯〉を司る酒の大神に誓いを交わし、巫女と妖怪は杯を掲げた。

 ぐいっと一杯目を容易く飲み干す〈のた坊主〉の小憎らしい笑みに或子は素面で応じる。

 普段の戦いとは違うがこれも死闘だ。

 決して負けられない。

 

 日本酒研究会の会長の名に恥じる真似はできないのだ!

 

 

       ◇◆◇

 

 

「御子内さーーーーん!」

 

 救急車が物凄い勢いで走り去って行った。

 今日二人目の急性アルコール中毒のおそれありの患者の搬送である。

 すぐに遠くなっていった救急車の白いリアを見送ると、京一は彼女が心配で仕方なかった。

 本当はついていきたかったのだが、付き添いはやんわりと断られたからである。

 どうも〈社務所〉の巫女に何かあったときの搬送先は機密事項になっているらしく、彼には教えられないのだ。

 仕方なく見送る側になったが、京一としてはできたら付き添いをしたかったのが本音である。

 

「或子ちゃんまでが撃沈させられるとは……」

「アルっち……」

 

 さすがのこぶしも顔色が悪くなっていた。

 これで〈のた坊主〉にやられた退魔巫女は三人。

 洒落にならない人数であるからだ。

 一騎当千を謳われている彼女たちが、たかが一匹の妖怪にいいようにやられている。

 こぶしは保身というものには無縁の女であったが、それ以上に抜き差しならない危機を覚えていた。

 このままでは関東を鎮守する退魔巫女を束ねる〈社務所〉の骨子がガタガタになりかねない。

 そして、彼女の傍に残された戦力はたった一人しかいなかった。

 

「残ったのは、あたしだけ……」

 

 神宮女音子は無表情に呟いた。

 元々人前ではレスラー用の覆面を被っている音子の表情は読めないが、今の彼女は静かすぎて怖いぐらいであった。

 親友である二人が〈闘杯〉という決闘法で病院送りになったというのが、相当堪えているようである。

 こぶしとしても見通しが甘かったことを認めざるを得ないところだ。

 たかが〈のた坊主〉と侮ったのが失敗だった。

 まさか、これほどまでの惨状をつくってしまうとは。

 しかも、解決のメドはまったくといっていいほど立っていないのである。

 退魔巫女の統括としては失態もいいところである。

 ここで最後のカードを切るべきかどうかもわからない。

 音子が破れでもしたら、もう後がないのだから。

 

「〈闘杯〉をやめて、無理にでも制圧すべきか……」

 

 しかし、それでは妖狸族との誓約を破ることになる。

 この帝都の巣食う妖魅の勢力の中で、人間にとって脅威となる幾つかの種族のうち、もっとも話の通じるタヌキたちとの関係がギクシャクすることはなんとしてでも避けたい。

 こぶしはこの行き止まりの状況をどうすればいいのかわからなくなっていた。

 彼女の後輩である音子を送り出すべきか否か……。

 そこを決めかねていた。

 

「―――そこはどうですか?」

『うーん、俺らは結局タヌキだからなあ。イヌ科であることは間違いないんだぜ。どうなるかはわからねえや』

「仲間の方に聞いたことはないですか? そういう症状について」

「……どうだったかな。まあ、ネコほどとはいかないのは確かだぜ」

「なるほど……」

 

 或子の助手の少年が〈三代目分福〉や〈八ッ山の狸〉と世間話をしている。

 あの少年もなかなか泰然としている。

 ある意味では巫女たちよりも肝が据わっているといえた。

 

「―――じゃあ、あたしが行ってくるの」

 

 ついに音子の方から名乗り出てきた。

 先輩として、上司として、ここは止めることはできない。

 状況を理解しているのは音子も同様なのだ。

 あの〈のた坊主〉を逃がさないように、そして傷つけないように捕まえるには〈闘杯〉によるものしかないことを理解している。

 一対一の酒の飲み比べで勝つしかないことを。

 

「音子ちゃん、いけるの?」

「あたしも自信はないけど、ここでやらなきゃ女が廃るってもんでしょ。あたしが何もしないというのは、アルっちやミョイちゃんに顔向けできないし」

「……でもね、音子ちゃん、あの〈のた坊主〉に飲み勝負で勝てるの?」

「やらなきゃ勝てない。そして、やらないで指をくわえて黙ってみているという選択肢はあたしたちにはないはず」

 

 神宮女音子は戦技においてはテクニシャンである。

 技の冴えという部分では他の退魔巫女たちよりも上であり、唯一、その華麗さで並ぶのはボクサーの猫耳藍色ぐらいしかいないという実力者だ。

 たとえ〈闘杯〉でも負けることは考えない。

 酒の飲み比べなんてガサツなものであったとしてもだ。

 

 業務用スーパーの中に入った音子は、〈のた坊主〉の元へと行く前にドリンクの売り場によって、ジンジャーエールを手にした。

 酒ではないが、今回に限れば絶対に必要なものだ。

 それから飲み続ける妖怪の眼前にそれを置いた。

 

『なんじゃ、これは』

「ジンジャーエール」

『こんなジュースで何をするつもりじゃ。女子供相手をする気はないぞ』

「女子供だと思わない方がいい」

 

 音子は手にしていた二つの小さめのグラスの半分にジンジャーエールを半分だけ注いで、次に酒売り場から拝借した茶色い瓶の中身を足した。

 二つの液体は正確に1:1の割合になる。

 

『その酒は……』

「テキーラ」

 

 そして、音子はグラスの口を握る形で持つと、底を勢いよく床に叩き付け、一気に飲み干した。

 テキーラという酒はアルコール度数が35~55という高いものである。

 そのテキーラとジンジャーエールを混ぜ合わせて、なおかつ堅いものに叩き付けることによって泡状になりクセが消えて飲みやすくなる。

 これはテキーラというの、酔いが回りやすい危険な酒をあまりにも簡単に飲ましてしまう工夫であるが、だからこそ、急に酔いが回り、散弾銃に撃たれたかのように撃沈されてしまうことから名付けられた飲み方―――

 

 

「これがショットガンよ」

 

 例えどれほど呑兵衛の妖怪であろうと、ただでは済まないであろう戦いを音子は提案した。

 これに乗らなければ〈のた坊主〉の面目を潰さざる得ないほどの危険な提案を。

 さすがの〈のた坊主〉も度肝を抜かれた。

 しかし、酒飲みは売られた喧嘩を買ってこそ酔っ払い。

 決して逃げることはしない。

 

『いいだろう。おまえもただの女ではないということか』

「〈社務所〉の媛巫女はね、敵に舐められるのだけは絶対に許さないの」

 

 カン

 

 ショットガンの銃声が次々に店内に響き渡る。

 音子と〈のた坊主〉の、致死量に達する危険な争いの幕が切って落とされたのである。

 

 



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そして誰も呑めなくなった

 

 

 アルコール度数の高い酒を飲むと、喉が焼けるように熱くなる。

 度数が高くなればなるほど、咽喉での異物感が大きくなり、馴れていないものならばまさに一分以内に秒殺されることもあるのだ。

 ある作家によると、40度以上の酒はすでに安全な飲み物ではなく、人間に原初から備わる危険察知の本能が激しく鳴り響くごときものだという。

 人間にとっての百薬の長どころか、ある意味では毒そのものと言っても過言でない。

 ウォッカ等がカクテルのレシピに使われるのは、薄め液としての役割も兼ねているのだろう。

 音子が持ちだしたテキーラはメキシコを代表する酒である。

 その強さは、平均温度が比較的高いとされるメキシコ人の体温をさらに引き上げ、ただでさえ陽気で激しいラテンの血を臨界点まで爆発させるほどだ。

 メヒコの熱血の素といってもいい。

 かつて、メキシコ流プロレススタイルのルチャ・リブレの使い手である音子は、何度か現地に訪れて地元のプロの指導を受けたことがある。

 その時に、師匠役を勤めてくれた女子レスラーたちに覚えさせられたのが、このテキーラの味であり、クセの強い味を一気に飲み干すための手法―――ショットガンであった。

 メキシコ人たちは互いに譲れない主張についての雌雄を決するときに、この呑み勝負を用いることが多い。

 人生のほとんどすべてをほろ酔いで生きているような人々でさえ、脳が沸騰するようなアルコール度数50近い酒を命さえも顧みずに一気飲みするのだ。

 死ぬことさえある。

 だが、飲み勝負である以上、負けた方が悪い。

 荒くれ者にとっては譲れぬ価値観を背景とした、これこそまさに「杯の戦」である。

 ある意味では、ここで行われている〈闘杯〉に相応しいスタイルであった。

 

 カン!

 

 ジンジャーエールとテキーラが応分に注がれたグラスの底を叩きつける音が鳴った。

 二つの液体が泡によって混ざり合った瞬間、躊躇なく最後の一滴まで飲み干す。

 これがショットガン。

 泡のおかげで咽喉まではすんなりと抜けるが、液体の辿り着いた胃が大変なことになる。

 

『プハーッ!! 効くな、おい!!』

 

〈のた坊主〉は赤ら顔のまま満足そうに、にやついた。

 さすがは酒の妖怪である。

 小気味いい飲みっぷりであった。

 だが、〈のた坊主〉に対する音子も、覆面をつけていたとしても誰にでもわかる無表情な態度ですべてを一気に飲み干していた。

 十代の少女とは思えぬ酒豪ぶりである。

 

『やるじゃねえか。さっきの二人も小娘とは思えねえ』

「アルっちたちを舐めるのは許さない」

『ちぇ、酒の味はわかるだろうが、まだまだてめえらは小娘じゃねえか。偉そうに吹くんじゃねえよ』

「あたしは、あたしの親友たちをバカにするやつを許さない」

『そうかい。じゃあ、〈闘杯〉の続きだ。酒でワシに勝ってから粋がるんだな。よし、二杯目行くぞ』

 

 カン、ぐいっ

 

 ……ショットガンでの一騎打ちは七杯目までは平然と続いた。

 だが、七杯目を流し込んだ後、音子はさすがに眼がくらっと回ったのを感じた。

 ただでさえ一気飲みは負担がかかるというのに、このショットガンに使ったテキーラは55度ある。

 まともな人間ではすぐに潰れてしまう量だ。

 実のところ、これを飲みこなせるのは音子ならではの成果だったのではあるが。

 そして、八杯目、九杯目、十杯目と続き、足もとが覚束なくなってきた。

 視界の端にフライフィッシュが飛び回り、間寛平に似た小さなおじさんが踊りだし、ドス・カラスがビリーズ・ブート・キャンプの軍曹に選ばれていた。

 御子内或子が海賊王のゴム人間になっていたり、レイが広島弁で漫才をしていたり、藍色が鳳翼天翔をぶっ放していたり、すでに脳の神経がおかしくなる寸前であった。

 すなわち、轟沈する一歩手前。

 だが、相手の〈のた坊主〉はまだまだ飲めるというポーズを崩さない。

 量でいったら、すでに二人の巫女を退けているというのに、この妖怪はまさにうわばみのザルなのであろうか。

 十一杯目に手を伸ばしたとき、音子は背中から倒れた。

 受け身などとれもしない、命綱の切れた棒のように。

 頭を床に叩き付ける寸前、誰かに支えてもらったおかげで打撲をうけずに済んだのは幸いだったが、すでに音子はもう立ち上がることさえできなくなっていた。

 わずかに意識だけが残り、さらに絞り滓のような思考もあった。

 それが助けてくれた相手を認識する。

 

「京いっちゃん……?」

「えっと、大丈夫、音子さん」

 

 大丈夫だと答えようとしても舌が回らなかった。

 酔いがそこまで達しているのだ。

 だから、男の腕に抱きかかえられている現状を認識することもできなかった。

 あとでこの事を聞いて、死ぬほど悶えることになるのだが、この時点の音子は人形よりはマシ程度の存在でしかなかった。

 そのあとで何が起ころうと止める手立てももたない、ただの置物だった。

 

「そっと横にしますからね。苦しかったら言ってください」

 

 気道を確保できるようにしたまま優しく横たえられた音子は、少年の為すがままの状態であった。

 音子を横たえると、京一は避けて置いておいた料理皿を手にした。

 

『おい、てめえ。まだ、〈闘杯〉は終わっていねえぞ。〈闘杯〉はどっちかが潰れるまでが勝負だ』

「そうですけど、もう音子さんは動けないじゃありませんか。意識があるけれど、とりあえずあなたの勝ちですよ」

『他所の決闘に口を出すとは、てめえ、筋の通し方を知らねえガキのようだな。この世はなあ、筋の通らねえことを認めちゃならねえようにできてんのよ』

 

〈のた坊主〉はちゃんちゃんこの懐から一振りのドスを取り出した。

 陽気な呑兵衛という風貌から、凶暴なヤクザのそれに代わっている。

〈闘杯〉を邪魔されたことで頭に来ているのだろう。

 何か、きっかけさえあればそのまま京一を指し殺してもおかしくない恐ろしい顔つきであった。

 

「―――筋を通せばいいんですね」

『あんだと?』

「僕があなたと〈闘杯〉をします。音子さんの代わりに」

 

 それで手にしていた皿を脇において、さらに一つの段ボールを並べた。

 中に入っていた中瓶を取り出す。

 

「えっと、苦いお酒はのめないので甘いカクテルでいいですよね」

『あ、……甘いの?』

「ええ、甘いやつです。一応、スクリュードライバーとカルーアミルクを用意しました」

 

 二つの既存カクテルの瓶を掲げると、京一は平然とした顔で言った。

 

「〈闘杯〉、受けてもらえますか?」

『……このクソ餓鬼……』

 

〈のた坊主〉としては断る理由がない。

 退魔巫女を相手とするのならば、直接の武力では敵わないから〈闘杯〉を使うのが一番だ。

 だが、この少年は妖怪の力であれば楽々と殺せる程度の普通の人間である。

 しかし、〈闘杯〉を挑まれて力で抗するということは、先ほど自信が口にした「筋」を違えることになる。

〈闘杯〉を挑まれて逃げるなど、酔っ払いの名が廃るというものだ。

 だから、〈のた坊主〉は少年の挑戦を受けるしかなかった。

 それが「筋」だからだ。

 

『いいだろう。のってやるよ。ただし、てめえみてえなクソ餓鬼がワシに飲み勝てるとは思わねえことだ。しかも、そんなジュースでよ』

「そうなんですよ。みんなと違って、僕はあまり飲めないので」

『だったら、〈闘杯〉すんじゃねえ!!』

「甘いのなら行けると思うんです」

 

 そう言って、カクテルの蓋を外して舐める。

 

「結構、苦いですね」

『あたりまえだ!!』

「これはやっぱりおツマミがないときつそうだ。用意しておいてよかった」

 

 京一は脇に避けておいた皿を、目の前に置いた。

 音子と〈のた坊主〉が〈闘杯〉をしているあいだに、こっそりと業務用スーパーの店内で用意しておいた品だった(代金はあとで〈社務所〉から支払われる。或子たちの飲んだ分も含めて)。

 ちぎったキャベツに塩コショウとゴマ油をかけただけのサラダ、ハムにタルタルソースをつけただけのおつまみ、ナイフで雑に切ったフルーツの盛り合わせ。

 そんなものばかりの皿であった。

 

「一応、酒の肴も入れていいんですよね、〈闘杯〉のルールとしては」

『そりゃあ、そうだが……』

「じゃあ、始めましょう。あ、あなたも摘まんでいいですよ。僕一人じゃ食べ切れそうにないし」

『ふざけるなよ。〈闘杯〉の最中に食い物なんてつまめるか……』

「でも、宴でもあるんでしょ。酒呑童子だって、宴の席で〈闘杯〉したらしいじゃないですか。やっぱり肴のない宴会は寂しいですしね」

『―――まあな』

 

 酒飲みにとっての、宴は愉しい理論を振りかざされては〈のた坊主〉は何も言えない。

 目の前の小僧の言い分に従うのは釈だが、これも「筋」は通っている。

 渡世の無宿人のような〈のた坊主〉にとって、それは覆せぬものでもあったのだ。

 

「では、大山祇神(オオヤマズミノカミ)の名にかけて」

 

 いかにも呑気そうに京一は〈闘杯〉の宣言をしたのである。

 

 



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酔いの彼方へ

〈闘杯〉の誓いをすると、僕らの周囲にぬるい衝撃が走り、不可視の結界が張られる。

 これが〈闘杯〉というただの酒の飲み比べを決闘のバトルフィールドに変える仕組みなのだろう。

 結界のせいで逃げることはできそうもないことだけわかった。

 聞いていた通りだ。

 もともと逃げるつもりはなかったので、僕は指定した銘柄の酒の瓶をとった。

 スクリュードライバーはウォッカベースのカクテルだけど、ほとんどオレンジジュースと変わらないので飲みやすい。

 やはり濃度の高いアルコールが入っているため、奥歯のあたりで苦味を感じてしまう。

 ただし、口に含んだ段階ではオレンジの柑橘系の酸味がごまかしてくれためか、かなり飲みやすい。

 僕なんかでも結構いけそうな味だ。

 

『なんでえ、これじゃあ餓鬼の飲み物じゃねえか。酒とはいえねえな』

「でも美味しいですよ」

『ばっか、酒ってえのはもっとガッと頭にくるもんでなきゃならねえんだよ。さっきの覆面の巫女が持ってきた、て、てけぇーらなんかそうだろ。こんな、飴みてえなもんで酔えるかってんだ』

「でも、ウォッカが入っていて強い方なんですけど」

『お、おっか? よく知らねえがどこの酒だ?』

「えっとロシアかな」

『ああ、紅毛人の国か』

 

〈のた坊主〉はウォッカを知らないのか。

 やっぱり舶来品というか、外国で造られたものについてはあまり詳しくないみたいだ。

 つまり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 予想通りだ。

 だったら……

 

「食べないんですか?」

 

 僕は大皿を〈のた坊主〉の方に押しやった。

 だが、妖怪は嫌そうに手を振るだけだった。

 

『ワシは酒が飲めればいいんだ。おい、わかっているのかよ、これは〈闘杯〉なんだぞ。まったく、てめえは呑気な餓鬼だぜ』

「まあ、そうは言わず。これとか、どうですか?」

 

 大皿の向きを引っ繰り返して、フルーツの盛り合わせを薦めた。

 瑞々しい果肉が美味しそうなフルーツである。

 うっとおしそうにその果実に視線を落とした〈のた坊主〉がいきなり硬直した。

 今にも食いつきそうな目つきのまま、くんくんと鼻を鳴らしていた。

 口元から、夥しいほどの涎を垂れ流している。

 明らかに食欲が暴走していそうだ。

 妖怪としての〈のた坊主〉の好物である酒を前にしたときと比べても、その変化は異様なほどである。

 

『な、なんじゃ、その美味そうな―――臭いは』

「この店にあった商品なんですけどね。海外から輸入されたものなんで、きっとあなたには馴染みがないと思いますよ」

『これは……おおお……』

 

 鼻につく臭いが漂っている。

 僕はあまり得意ではないけどお好きな人にはたまらない刺激なのだろう。

 

「どうぞ、食べてください」

『おおおお』

 

 箸なんて使わず手づかみで食べだした〈のた坊主〉を放っておいて、僕はカルーアミルクを飲んでみた。

 こっちは甘い。

 コーヒー・リキュールのカルーアを、ミルクで割ったカクテルなんだけど、口当たりもよくて柔らかかった。

 女の子とか好きそう。

 つまり、〈のた坊主〉の口には合わないだろうということ。

 

「はい、カルーアミルク」

『おおお』

 

 むしゃむしゃとフルーツを食べながら、カルーアミルクの瓶を空ける妖怪。

 僕どころか、酒の銘柄の変化にも気が付かないぐらいに夢中だ。

 人間からするときついあの臭いがいいんだろうけど。

 

「もう少し食べます?」

『お、おお。頼まア』

 

 奥に戻り、同じフルーツを雑に切って持ってきた。

 

『―――おい』

「なんです?」

『一応、確認しておくがあ、この中に眠り薬みてえなものは仕込んでねえよな』

「ええ、まあ。だって、そういうのは禁じ手なんでしょ」

『ああ。酒によけいなものを混じらすのは、大山祇神(オオヤマズミノカミ)が嫌っていることだけからな』

「それは確認しました。レギュレーションは知っておいた方がいいですからね」

 

 音子さんが〈闘杯〉に入る直前に、こぶしさんから聞き出しておいたのだ。

 あと、妖狸族の二匹からも教えてもらった。

 だから、僕は無謀な〈闘杯〉を受けることにしたのである。

 

「―――じゃあ、もう一杯」

 

 フルーツをがつがつと食べ続ける〈のた坊主〉の前で、僕は倒れた音子さんの額の汗をハンカチで拭う。

〈闘杯〉のペースは遅い。

 僕が付き合えないというのもあるが、〈のた坊主〉が喰うことに夢中になりすぎて、こちらを忘れかけているせいだった。

 ただ、それは僕の望むところであった。

 

『うぐっ……』

 

 そのうち、おかしなことが起きた。

〈のた坊主〉が丸いメタボな腹を押さえて呻きだしたのだ。

 それだけでなく短い足をバタバタさせて悶えだす。

 口角に泡が立ち始めた。

 肌が蒼白になり、瞳孔が開きだした。

 確実にこの妖怪に何かが起こっている。

 しかも、この短時間の間に。

 

『て、てめえ、ど、毒を盛りやがったのか!!』

 

〈のた坊主〉が凄まじい形相で僕を罵った。

 だが、僕は首を振る。

 嘘じゃない。

 絶対に毒なんて混ぜていない。

 

『ふ、ふざけるな!! こ、この悪寒は!! 腹が膨張するような痛みが、毒じゃねえってのか!! そんなことがあるもんか!!』

 

 僕は〈のた坊主〉の食い散らかしたフルーツを手に取り言った。

 

「この果物はね。ドリアンっていうんだ―――果物の王様とも呼ばれている」

 

 そして、可哀想にのたうつ〈のた坊主〉に教えてあげる。

 

「ドリアンと一緒にアルコールを飲むと食べ合わせで食中毒を起こすと言われているけど、研究の結果、実際に人間ではそういうことにならないらしい。でも、あなたの正体であるムジナ―――タヌキがその例外かどうかは……僕の知ったことじゃないかな」

『てめえ、この餓鬼……覚えてやがれよ』

 

 泡を吹いてぶっ倒れた〈のた坊主〉の姿が、そのまま消えていき、代わりにちゃんちゃんこをまとった人間と同じぐらいの大きさのタヌキのものになった。

 普通のタヌキの成獣の二倍はあろう大物だ。

 これがこいつの正体なのだろう。

 酒に溺れてタヌキの姿に戻れなくなったというが、呑み過ぎで逆に正体を取り戻すというのは皮肉なものだ。

 こぶしさんたちを呼ぼうと立ち上がったとき、頭がくらりとした。

 ああ、やっぱり酔いが回り始めている。

 これじゃあ明日は酷い二日酔いかな。

 足がガクガクしているよ。

 

「しまったなあ。でも、まあいいか」

 

 まだ具合の悪そうな音子さんを看病しながら、内部の異常に気がついてこぶしさんたちが突入するまで、僕は勝手に売り物の炭酸水を飲んで待つことにした……。

 



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妖怪〈のた坊主〉の正体は……

 

 

「ドリアンとお酒の喰い合わせの悪さを利用したって……」

「うん、東南アジアの方では一緒に飲むと死んじゃうとか言われているらしいよ。まあ、実際には確認されている訳ではないらしいから、絶対確実とはいえないけど」

 

 ただ、僕はその賭けに勝ったのだ。

 ドリアンを食べて調子を悪くする犬の動画を見たことがあったことと、あの〈のた坊主〉の正体がタヌキであり、タヌキがネコ目イヌ科であることを知っていたので、もしかしたらと考えたのである。

〈闘杯〉に毒を混ぜてはいけないというのは厳然たるルールだが、ドリアン自体は毒ではなく、ただの化学反応である。

 それにあの独特の臭みは異様なまでに臭いものを好むタヌキにとっては、なんともいえない好物に違いないという読みもあった。

 ドリアンの切り身を目の前にした〈のた坊主〉の反応を見れば一目瞭然。

 ただでさえ、退魔巫女たちと尋常でない量のアルコールを飲んでいたのだ。

 化学反応を起こしまくったとしても不思議ではなかった。

 

「でも、効果がなかったらどうするつもりだったんだい?」

「それはみんなと枕を共にして討ち死にだね。だいたい、三本目で僕はもう酔っぱらっていたからさ」

 

 あれ以上、呑んでいたら御子内さんたちと一緒に病院送りだったかもしれない。

 

「まったく、京一くんは無茶をするぜ。そんな作戦で〈闘杯〉に挑むなんてよ」

「―――でも、ルール違反ではない。京いっちゃんはつまみにフルーツを出しただけ」

「確かにそうだけどよ……」

「みんな、京いっちゃんに感謝している。ありがとう」

 

 レイさんと音子さんも、なんとか無事に復帰していた。

 まだアルコールが残っているらしく、翌日になっても二日酔いの状態だったが、なんとか動ける状態にはなっていた。

 逆に、最初に何の準備もなく〈のた坊主〉と〈闘杯〉をした熊埜御堂さんは三日経っても調子が悪いままらしく、実家で寝込んでいるらしい。

 さすがに十代の女の子にあの戦いは厳しいだろう。

 

「京一のおかげでなんとか〈のた坊主〉を制圧できたし、まあ、良しとしておこう。こぶしまで引っ張りだされて倒されていたら、それこそ目も当てられないしね」

 

 こぶしさんは退魔巫女の統括だ。

 彼女にもしものことがあったら、組織の機能がマヒしかねない。

 そうなると、御子内さんたち実戦部隊が全滅するよりも大変なことになるらしい。

 

「でも、まあ、良かったよね。うまく解決して。で、あの〈のた坊主〉はなんだったの? 〈闘杯〉なんて無理な戦い方をしなくちゃならなかった理由を知らないんだけど……」

「京一には伝わっていないのかい? あの〈のた坊主〉の正体を?」

「うん。〈三代目分福〉たちは教えてくれなかったな」

 

 僕はなんだかんだ言って、あのタヌキたちと仲良くなっていた。

 なんとラインの友達追加のQRコードまで自由に使いこなしてアカウントを交換し合うということまでしていた。

 おかげで僕の友達のグループには、知らない名前も含めて十匹以上のタヌキが登録されているのである。

 下手したら人間よりもタヌキの方が多いかもしれないというのは、ちょっと凹むけれど。

 

「奴の本名は、〈五代目隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)〉。四国から、わざわざやってきた名のある狸の一匹さ」

 

 確か、隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)というのは、松山にいる八百八匹のタヌキの総帥である。

 久万山の古い岩屋に棲みつき、松山城を守護し続けていたという化け狸であり、その眷属の数から「八百八狸(はっぴゃくやたぬき)」とも呼ばれている、四国において最高の神通力を持っているという話だ

「刑部」というのは、松山城の城主から授かった称号であり、城の武士たちからも信仰に近い信頼を抱かれているほどであったそうだ。

 しかし、松平隠岐守の時代に起きたお家騒動の際に、まっすぐな性質を謀反側によって利用され、子分のタヌキたちとともに謀叛側に味方したという。

 松山藩の藩士である稲生武太夫が、宇佐八幡大菩薩から授かった神杖を使って懲らしめた結果、眷属とともに隠神刑部は棲家の久万山に封じ込められてしまい、今に至るという。

 僕でさえ名前を知っている英雄狸である。

 それが、あの〈のた坊主〉の正体だというのか。

 

「ああ、例のハクビシンとの戦いのために四国から遠征してきたらしい。だが、ハクビシンの例の怪光線みたいな電気を撃つ武器があったろ? あれの直撃を受けておかしくなってしまって〈のた坊主〉に変化したまま、彷徨い歩いていたそうだ」

 

 なるほど。

 そこまで名前のあるタヌキの五代目で、しかも戦いの助っ人として呼んだ〈隠神刑部〉を、いくらおかしくなってしまったといえ退魔巫女に退治させるわけにはいかず、しかも、神通力の強さは折り紙付きでタヌキたちではまともにやりあうこともできない。

 そういう事情が、今回のグダグダに繋がっているという訳か。

 あと、あの異常なまでの〈闘杯〉の時の結界の強さは、〈隠神刑部〉の強い神通力の賜物ということだろうね。

 なんとも裏を知らされれば納得できる話だ。

 だから、〈三代目分福〉たちが出張って来ていたのだろう。

 江戸前の五尾といえども、〈隠神刑部〉と戦って勝つのは至難の技だから。

 

「強い神通力を持つ妖怪は、お酒にも強いということがわかって勉強になったよ」

「だな。そもそも無傷で制圧しろってのが無理な話じゃねえのか、あれって」

「シィ。あんな規格外のとやりあえってのが無茶。見た目、どう見ても〈のた坊主〉だから騙された」

 

 今回、いいところのない退魔巫女たちは何とも言えない顔で愚痴をこぼしていた。

 まだ冷えピタを頭につけている御子内さんなんて、二日酔いが完全に収まっていないのだからまったく元気もない状態だ。

 

「とにかくみんなが無事でよかったよ。……で、一つ聞きたいんだけどいい?」

「なんだい?」

 

 僕は室内を見渡した。

 見慣れた僕の自室だ。

 そして、目の前には三人のとても綺麗で可愛い、巫女装束の三人がいる。

 ()()()()()()()()

 

「そんなに頻繁に家に来られると、ちょっと困るんだけど……」

「……何が困るんだい?」

 

 わかっている癖に!

 僕の家が巫女さんたちの集会所だと思われると、ご近所の眼がきついんだってことを!

 三人はすっとぼけた顔で僕の発言を聞き流し、持参した菓子などを食べ始めた。

 しかも、その中には昨日のモンブランみたいなものもある。

 この人たち、何も懲りちゃいねえ!

 

「―――まったく京一は口うるさいな」

「そういうな。オレたちは敗者で、京一くんは勝者だ。うるさく言う権利がある」

「京いっちゃん、さすが」

 

 ―――ほんと、この人たち、もう少し痛い目にあった方がいいんじゃないのかな。

 もう……。

 



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第25試合 猫耳藍色の復活
あの背中に憧れて


 

 

 私はあの子の背中に見惚れていた。

 

 いつも凛と背筋を伸ばし、寡黙といってもいい静かな態度で日々を地味に過ごしている彼女。

 顔だちは、まさに綺麗すぎるといっていいほど、端正すぎる美貌の持ち主で、まさに美少女である。

 ちょっと癖ッ毛だけれども、毎日丁寧に手入れをしていることが明らかなショートカットは男の子のようだったが、少年と見間違えたことは一度もない。

 比較的地味ではあるが、校則で許された範囲でコスメに凝ったり、唇にルージュを引いたりしてお洒落には余念がないタイプでもあるからだ。

 元々、都心に近い中野の出身ということだし、すぐ近くにある新宿の高校に通う女子高生らしく、さりげなく垢ぬけたメイクや小物を愛用している。

 ファッション誌に乗るようなブランドのものではないが、いちいち選択のセンスが良く、クラスメートはおろか他の学年の女子までが注目しているという噂だった。

 時折、私服で歩いているときに街頭カメラマンに頼まれて撮影をされ、読者モデルのように写真が掲載されていたのを見たことがあるので、その噂の信ぴょう性も高いだろう。

 綺麗なだけでなくセンスもいいというのだから、まったく最強である。

 私はファッションには疎い方なのでよくわからなかったが、女子としては憧れざるを得ない相手であることは間違いない。

 しかも、それだけではなかった。

 彼女は心も一つとびぬけていた。

 

 ある時、クラスの女子の中でよくあるいざこざがあった。

 一人の女の子の彼氏に対して、別の子が声をかけたというのだ。

 その子はクラスでも可愛い方だがややオタクな趣味の持ち主で、地味なグループに所属している大人しい子だったから、客観的に見てもそんなことはありえなさそうだった。

 彼氏とその彼女は、いわゆるスクールカーストにおいては高い地位にあったこともあり、いくらなんでもその子から声をかけるなんて想像もできなかった。

 実際にはちゃらんぽらんで軽薄な彼氏が、恋人を放っておいて、別の好みの子に粉を掛けたというだけなのだが、女の子というものは自分にとって都合のいいことを信じる。

 彼女は浮気を追及された彼氏の苦し紛れの「あいつの方からコクってきたんだよ」という言い訳を信じて、責め立てたのだ。

 事情を知らない彼女の友達は徒党を組んで、大人しい子をつるし上げた。

 相手がスクールカースト上位ということもあり、その子は一方的に悪い立場に置かれ、しかもなんのことかさっぱりなのだから説明もしどろもどろで要領を得ないものにならざるをえない。

 それを、嘘をついて誤魔化そうとしていると勘違いした女の子グループは、そのままなしくずしに大人しい子に制裁を加えようとした。

 この場合の制裁とは多人数による黙殺や文房具へのいたずら、最終的には暴力へと発展するものをいう。

 つまり、イジメをしようとしたのだ。

 カースト上位者のグループによる下位者へのイジメとなれば、もう誰も止めるものはいない。

 エスカレートすればどこまでいくかわからないほどの一方的な攻撃が、下手をすれば死ぬまで続くことは確かな泥沼であった。

 しかも、それを止められそうな浮気彼氏は保身に入るであろうし、だいたい女子の揉め事に男子はよほどのことがない限り関与できないのが学校というものの裏のルールだ。

 どんなに理があったとしても、男子が絡むとろくなことにはならないのである。

 私はそのことを傍観するしかなかった。

 どちらとも親しい訳ではなかったこともあるが、気が付いたときには女子グループのテンションがヒートアップしすぎていて、同じ女子の立場でも関与する余地がなくなっていたのだ。

 下手に絡めば藪蛇になる。

 手をこまねいて見ているしかなかった。

 このままいけばあの大人しい女の子は、理不尽にも相手の気が済むまで涙を流しつづけるしかない状況だった。

 しかし、そうはならなかった。

 昼休みにクラスの隅で、髪の毛を引っ張られたり、きつい言葉で吊し上げを受けていた孤立無援の彼女に声をかけた人がいたのだ。

 

「―――いい加減にしてほしいにゃ」

 

 その一言だけで女子グループの動きが止まった。

 滑舌がよくないらしく、「な」という語を「にゃ」と言ってしまう独特の喋りを使うのが誰なのか皆がわかっていたのだ。

 そして、その喋り方の主はスクールカーストの埒外にいて、その影響を決して受けることはないことも。

 

「……あ、あんたには関係ないでしょ」

 

 中心となっていた彼女が引き攣りながらも抵抗する。

 彼女も、この段階でもうわかっていたのだ。

 この人が介入してきたら、もう好き勝手に振る舞うことはできないと。

 カーストだろうが、クラスの人気者だろうが、彼女にかかってはなんの意味もなく、そして正面から立ち向かうことは絶対にしてはならないということを。

 

「わたしが聞いただけの話では、あにゃたの恋人が一方的に「告白された」と主張しているだけで、実際にこちらの彼女が告白をしたという証拠も証言もにゃいようですけど」

「こいつが嘘ついているだけだよ!」

「多数対一人の関係で嘘をつき続けるのは難しいんです。あにゃたは一度でもこちらの彼女と一対一で話をしたことがあるんですか?」

「……(サトル)が嘘つくわけ……ないじゃん……」

「残念だけど、わたしはあにゃたの恋人の聡さんという人は知りませんが、クラスメートのことはよく知ってます。こちらの彼女はチャラチャラした殿方よりも、クールな美少年キャラの方が好みにゃんですよ。あにゃたの彼氏とはまったく違いますね」

 

 チャラチャラって……

 確かに、私も別のクラスの聡という彼氏のことは知っていたが、その通りの人格だった。

 ちなみに彼女の好みのクールな美少年というのは漫画のキャラクターのことだ。

 

「何が言いたいのさ……」

「少にゃくとも一方的に誰かを生贄にしていいということにはにゃらにゃいとうことを言いたかっただけかにゃ」

「余計な口をきくんじゃねえよ! すっこんでいろ!」

「―――だったら、こう宣言します。……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()って。理不尽に手を出すというのにゃら、覚悟を決めること。わかったかにゃ? ……さ、今日のところはわたしと昼ご飯を食べよう」

 

 それだけを告げると、彼女は女の子を連れて自分の席に戻った。

 ほとんど接点がないはずなのに、無理なく食事をしながら話をしている姿を見ると、もう女子グループは何も言えなくなっていた。

 彼女が「庇護下においた」と時代錯誤な主張をした以上、もう一切手を出せないのは明白だからだ。

 遠巻きに見ていた私でさえ、思わず安堵してしまうような介入の仕方だった。

 これであの大人しいクラスメートがイジメの対象になることはない。

 彼女とやりあう気があるものなど、おそらく学校中探しても一人もいないだろうだろう。

 それは男子も含めてである。

 おそらく、恥をかかされた彼女は彼氏に言いつけるだろう。

 ただ、彼氏は何もできなかったはず。

 だって……

 

「―――日野さん、下がっていてくださいにゃ。この妖怪の傍に近寄ったら、あの鎌で切り裂かれるだけだから」

「でも、藍色ちゃん!!」

「大丈夫です。あいつらの持っている傷薬を奪えば、あにゃたのその傷も完治させられますから」

 

 私はどう見てもボクシングのリングのようなセットの上で、三匹の巨大なケダモノじみた怪物と向き合う彼女の背中を見つめた。

 手が自然と頬にできた傷に触れる。

 彼女は―――猫耳藍色はこう言ってくれた。

 

「あにゃたのその頬の傷。絶対に(にゃお)してあげるからね」

 

 袖のあたりをばっさりと切った白衣と膝までの緋袴、黒いリングシューズと何よりも目立つボクシンググローブをはめた背中は頼もしかった。

 状況は今でもよくわからない。

 何故、彼女が巫女服を着て、こんなリングの上でボクシングみたいなことをしているかの意味もわからない。

 何もかも理解できないことだらけだ。

 しかし、これだけは言える。

 今まで夢に見るほどに憧れていた彼女が、こんな私なんかのために戦ってくれるんだということだけは。

 

 あの〈鎌鼬(かまいたち)〉と呼ばれた妖怪を倒すために。

 

 なんとそれだけで不謹慎なまでの幸せというものを、私は感じてしまっていた……。

 

 



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藍色・いん・ブラック

 

 

「最近、区内で切り裂き事件が起きているの。で、藍色ちゃんがそれの担当ね」

 

 二年間のブランクを経て、退魔巫女として復帰を果たすことを決めた猫耳藍色(ねこがみあいろ)(17歳)は、久しぶりに顔を合わせた同門の先輩である不知火こぶし(おそらく絶対にアラサー)に唐突に仕事を押し付けられた。

 まだ復帰前の挨拶に来ただけにゃのに、もう仕事が割り振られているのはどういうことにゃのだ、と藍色は心の中で愚痴った。

 そもそも〈社務所〉が、十代の少女たちに凶暴にして奇怪な妖魅と戦って来いと命令するブラックな組織であることはわかっている。

 雷をぶっ放したり、鋭い牙で噛みついてきたり、挙句の果てにはテレポーテーションで近づいてくるような化け物たちを相手にして、「基本的に素手で」戦うように修行させるというだけでもう限度というものを越えているというのに、さらに普段の労働条件までが苛酷だというのでは、労働基準監督署に訴えてもいいのではないだろうか。

 正直なところ、藍色が〈社務所〉から距離を置こうとしたのはそういうクリーンな意味では正解だったような気がする。

 

(だいたい、或子さんやレイさんたちが喜々として戦いに挑み過ぎにゃんですよ。言われた通りにすぐに妖怪退治に行くから、上が図に乗ってすぐに事件を振ってこようとするのです)

 

 藍色は修業時代から苦労を共にしたはずの仲間たちを、心中で一方的に批難した。

 彼女自身もわりと戦いは好きな方だが、他の退魔巫女たちの戦闘好き(バトルジャンキー)っぷりは酷すぎる。

 あのクールで冷めた感じのする神宮女音子でさえ、根っこのところでは他の同期と何ら変わらないのだから、親しい仲間たちがいかにクレイジーなのかがわかろうというものだ。

 

(早まったかもしれませんよ。やっぱり、〈社務所〉はわたしがやっていくにはブラックすぎるかもしれません。せめて、労働条件の改善の訴えぐらいはしておかにゃいと……)

 

 頭の堅い真面目な女と周囲からは認識されているが、猫耳藍色という少女はかなり打算的な面もある。

 さすが先祖が〈化け猫〉ではないかと目されているだけはあると、自画自賛してしまうぐらいに。

 

「―――いや、こぶし先輩。わたしは復帰したばかりで勘も戻っていにゃいし、実戦はまだ早い気がしますけど……」

「そうなの?」

「はい、そうにゃんです。今回の現場は都内ということで、或子さんに出張ってもらった方がいいと意見具申する次第でして……」

 

 御子内或子は多摩住まいで、ほぼ都内全ての地域の妖魅事件を担当している。

 区内も彼女のいわばテリトリーに含まれているのだから、ここは或子に頼むのがベストではないかと提案してみた。

 可能だったら、久しぶりの現場なので助手ぐらいならしてやってもいいが、メインで働く気はなかった。

 なんといっても二年のブランクがあるのだから。

 

「でも、あなたの方が適任なのよ」

「どうしてですか?」

「交通費が浮くの」

「―――交通費!?」

 

 やたらめったら安い理由を挙げられてしまった。

 さすがの藍色も二の句が継げない。

 

「主な現場となっているのは都庁の周辺で、西新宿から方南町にかけてのエリアなのよ。そこまで言えばあなたならわかるわよね」

 

 すぐにピンときた。

 こざるを得なかった。

 

「わたしの実家の周辺ですか……?」

「ええ。於駒神社のすぐそばね。ただ、あなたのご実家とは何の関係もないみたいだから、ただの偶然だと思うわ。あと、西新宿といったら」

「……わたしの通っている高校もあります」

「でしょ。移動はできる限り自転車で行ってね。或子ちゃんだと往復千円はかかるからその分経費が浮くので助かるわ」

 

 藍色はなんともいえない複雑な気分になった。

 このこぶしという先輩は、前の世代の退魔巫女ということもあるが、今は仲間たちの統括という地位にもあり、決して逆らってはいけないというイメージがある。

 しかし、これが実戦を離れていた後輩を自然に馴染ませるための策略というものでなければ、なんとも適当過ぎはしないだろうか。

 藍色としては、実家と母校の傍に妖魅が出没するという、結構な大事件だというに。

 

「―――地の利もあるでしょうし、ここは藍色ちゃん一択しかないというのが私たちの結論なの。喜んで引き受けてね」

「いや、地元がピンチというのにゃらば、わたしだって文句は言いませんけれど……。でも、そんな切り裂き事件にゃんて耳にしたことがにゃいんですけど」

 

 すると、こぶしは至極簡単に答えた。

 

「或子ちゃんたちが、あなたを復帰させようと工作していたから、於駒神社の神主さまたちにも緘口令を敷いておいたの。事件についてもできる限り伏せてね。警察病院のある野方警察署あたりを押さえておいたので楽だったわ」

「そ、そんにゃことを……」

「ええ。私たちは計算高いの」

「―――交通費はケチる癖に」

「何か言った? 藍色ちゃん」

「いいえ、別に」

 

 そう言えば、あまり退魔関係の情報は仕入れていにゃかったにゃと、藍色は反省した。

 二年近いブランクはそういう点でも足を引っ張るのか。

 

(今年の夏休みは〈社務所〉とこぶし先輩にこき使われることににゃりそうだにゃ……)

 

 藍色は少しだけ実戦復帰を悔いた。

 とはいえ、彼女とて、もともと武闘派の退魔の巫女を輩出する於駒神社の跡取りである。

 戦いの高揚感に震えていない訳ではない。

 於駒神社に伝わる猫耳流交殺法の後継者であり、無類のボクサーでもある彼女は自分が思っているよりも非・好戦的ではないのである。

 或子の拳による説得に応じたのもむべなるかな。

 彼女も生粋の戦闘狂(バトルホリック)であったのだ。

 

「で、相手はにゃんにゃんですか?」

「〈鎌鼬(かまいたち)〉よ。三位一体のね。暴れている理由は不明だから、できたら調査して後で報告してちょうだい」

「―――〈鎌鼬〉ですか……」

 

 訓練場で講義を受けたことがある日本では有名な妖怪だが、実物には当然お目にかかったことがない。

 あとで当時のテキストを引っ張りだしてみるか、と対策を練っていると、唐突にこぶしが聞き捨てならないことを言いだした。 

 

「早く片づければ、例のイベントにも出られるわよ」

「イベントって……!?」

「ほら、有明で盆暮れに行われているアレよ。あなた、いつも変な格好して参加しているんでしょ」

「―――くぁwせdrftgyふじこlp!!!」

 

 絶対に知られてはいけないはずの趣味がばれていたというショックで、声にならない叫びを藍色が発すると、

 

「あら、知られていないとでも思ったの? 残念だけど、私、あなた方の統括という仕事をしている関係上、後輩兼部下の趣味嗜好ぐらいは完全に把握しているのよ」

「え、え、えええええ!!」

「あなたが或子ちゃんたちと大して変わらない性格の癖に、わりとお洒落やお化粧に敏感なのはコスプレに役立てるためだってことも知っているわ。趣味が嵩じすぎて、巫女の仕事を止めたんじゃないかと疑ったりもしたしね」

 

 男装の麗人はニコニコ顔で後輩を嬲る。

 

「言っておくけど、今度サボろうとしたらみんなにバラすから。―――いいわね」

「……はい、わかったにゃ」

 

 猫耳藍色は、(やはり〈社務所〉はブラックにゃ……!!)と心の中で叫ぶのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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パパと娘

 

 

 中野区にある於駒神社が、猫耳藍色(ねこがみあいろ)の実家である。

 於駒神社は寛永年間に佐賀県の鍋島藩を襲った〈化け猫〉の子孫だと伝えられている、いわくつきの社であった。

 藍色の父たちもそのことはほぼ事実だと確信しているらしく、藍色自身も疑ったことはない。

 妖魅である〈化け猫〉と人の子孫がいて、さらにどうして神社を継いでいるのかという点は、実のところ猫耳一族にもわかってはいないが、彼らにとっては些細なことであった。

 なぜなら、猫耳の家系は細かいことを気にしない、その名の通りに自由な猫のごとく飄々とした生き方を是とする一族だったからである。

 その自由さはどの程度のものかという、妖怪の子孫でありながら、妖怪退治を生業とする退魔巫女を輩出するという矛盾についても深く考えたりはしなかったぐらいなのだ。

 

「―――とはいえ、実家の周りで妖怪が暴れ回っているという事態はとても困ったものにゃので……」

「藍色ならやれる。頑張りなさい」

「でもですね、パパぁ。わたしとしてはパパたちにも手伝ってもらいたいわけにゃんですよ」

「すぐになんでも親に頼ることはいけないと教えたはずだぞ。パパたちはこっそりと見守っているから、自分一人で頑張りなさい」

 

 発言だけを聞いていると、娘には優しいがとても厳しい躾をする父親のように思える。

 しかし、社務所の裏にある猫耳家の居住スペースの居間において、エアコンをがんがんに効かせながらテレビを観ている姿には何の感銘も覚えなかった。

 しかも、神職らしからぬ内容の、プロボクシングの録画である。

 自分でも小刻みに身体を動かしながら、選手の戦いに一喜一憂していた。

 完全に娘の話など二の次だ。

 藍色自身、冷たい空気の中で温いお茶を飲みながら、父と一緒に試合鑑賞しているのだから言えた義理ではなかったが。

 

「よし、今だ、押し込め!」

「あっちゃー、きついなあ、今のジョルト!」

「お、お、おおおおおお! ナイスパンチ!」

 

 興奮して手が付けられなくなった父親を横目に二杯目のお茶を用意する。

 ポットの中の熱いお湯を急須に入れて、長めに蒸らすと、濃い目に出たお茶を湯のみに半分だけ注ぐ。

 残りの半分にはペットボトルのミネラルウォーターを追加して、適度に温いお茶にした。

 猫舌の彼女のための手間である。

 

「―――おお、娘よ。私にも一杯くれないかな」

「嫌です。自分でやって」

「ケチな娘ですね。そこまで大きく育ててあげたのに」

「パパはわたしに猫耳流とボクシングを教えただけじゃにゃい。もっと宮司の仕事も真面目にやってくれにゃいと、わたしもママみたいに逃げるからね」

「逃げたとか言わないでくれ。ママはかれこれ一月ほど田舎から帰ってこないだけなのだから」

「二年ぶり五度目にゃんですけど」

「甲子園みたいですねえ」

 

(神職の身でありながらボクシング狂いの父親と、暇な時は神社の境内でトレーニングをしている娘だからにゃあ。ママも大変だ)

 

 他人事のようであった。

 

「さて、試合も見終わったし、今後のことを話し合うとしますか」

 

 父親がむくりと起き上がった。

 彼は傍目にはただのオジサンであるが、こう見えても猫耳流交殺法という体術の使い手なのである。

 動きの一つ一つに一切の隙が無い。

 

「にゃにを話あうの?」

「そりゃあ、おまえ、〈鎌鼬〉退治についてですよ。〈社務所〉に言われたんでしょ。我が於駒神社の縄張りで悪さをしでかす妖怪がいるとなれば奉職した以上、私も宮司として仕事をしなればならないでしょう」

「マジですかにゃ。パパが?」

「何を言っているやがるんですか、我が娘は。おまえが戦えるように〈護摩台〉を設置しないとならないでしょう。それは誰がやるのです? 助けが必要になるのではありませんか」

 

〈護摩台〉は特設の結界である。

 閉じ込めた妖怪と巫女との能力値を平均化し、ほぼ互角の領域まで地均しする効果を有する。

 ただし、欠点と呼べるものもある。

 巫女にとっての秘儀ともいえる神通力を使用する術の使用や、一般には「御幣(ごへい)」と呼ばれる(ぬき)のような神具の効果が減少するのだ。

 かつての退魔巫女と、現在、西で妖怪退治を司る僧侶たちは、妖魅と戦うために術と神具を併用して行っていた。

 だが、それよりも一定のサイズの結界を張り、素手で戦うという原始的な手法に効果が出始めたのである。

 ここから〈護摩台〉の使用がスタンダードになっていったのだった。

 もっとも〈護摩台〉はその設置に人手が必要という欠点があり、ただでさえ人手不足の〈社務所〉では運用しづらいものであった。

 父親の言う助けとはそういうことだ。

 

「そうですね。わたしだけではちょっと大変な力仕事ににゃりますから。ありがとうございます、パパ」

「でしょう。〈社務所〉から人を頼むのも面倒ですし」

「まあ、アテはあったのでそちらに頼むこともできましたが」

「アテ?」

「お友達の助手さんをお借りしようかと。バイト代をださにゃいとにゃりませんが」

「パパだったらタダでいいですよ。私って娘思いのパパだと思いませんか、経費節減は大事ですよ」

「―――ママがいにゃい分も食費が浮きますね」

 

 藍色は経費削減をやたらと言われていたことを思い出した。

 交通費をケチるほどだから、人件費なんかもっと無理かもしれない。

 しばらくサボっていた間にどこも不景気になってしまったものである。

 残っていたお茶を飲み干す。

 猫舌からしても冷めてしまっていた。

 

「では、お願いします」

「パパに任せなさい。……あとでママのところに電話しておいてくれるともっと頑張れるんだけど」

「では、調査に行ってきます。八咫烏が来ているようですので」

 

 庭先で聞き慣れたカラスの鳴き声がしていたのを、聞き逃す藍色ではなかった。

 

『オオ、巫女ヨ、久シブリデアルナ』

「はい、そうですね。では、出かけましょうか」

『丁度、昨晩ノコトダガ、一人ノ娘ガ〈鎌鼬〉ニ襲ワレテオル。話ヲ聞クノガイイダロウ』

「案内してくださいにゃ」

 

 猫耳藍色は何かを言いたげな父親を置いて、さっさと庭に出た。

 夏らしく陽が照っている。

 この眩しい日差しのどこかに今日も異形のものどもが蠢いている。

 そして、それに苦しめられる人々も。

 退魔巫女として復帰したからには、助けを求める人々を救わなければならないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 



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妖怪〈鎌鼬〉

 

 

 新宿に近いというだけで、夜の中野は意外なほどに静かな場所である。

 日野(ひの)摩耶(まや)は予備校からの帰宅途中であった。

 もうすぐ午後の十一時。

 二年生の夏休み向けの夏期講習に参加していたのだが、講義の後に同じ高校の仲間たちとおしゃべりをしていたことで遅くなってしまったのだ。

 夏休みということもあり、このあたりの若者にとってはそれほど遅い時間ではないが、家族が心配しない訳でもない。

 摩耶は母親にメールをしておけば良かったと後悔した。

 それだけで家に戻ってからの小言の量は激減するというのに。

 

(たいして面白くもないしゃべりで時間使いすぎちゃったな)

 

 女子高生には女子高生の付き合いというものがあるが、それがすべて楽しいなんてはずはない。

 特に予備校の夏期講習で顔を突き合わす相手なんて、そんなに親しいものではないのだから話も盛り上がらない。

 たらたらと実のない内容が続くだけだ。

 でも、それに付き合わないと後々受験本番になってから仲間外れにされるおそれがある。

 受験には情報収集も大切な要素だし、今から孤立してしまうのは問題があった。

 そのため、貴重な時間を浪費したともいえる。

 

「夏休みもあんまり楽しくないかも」

 

 バイトやら遊びやらに熱中できればいいが、摩耶の志望している職種につくにはそれなりの大学に進学する必要があり、勉強もやっておかねばならない。

 あと二百メートルで家族と共にすむマンションに辿り着くという直線道路に辿り着いた時、ふと耳鳴りのようなものを感じた。

 強い風が吹いた気がする。

 夜とはいえ、まだ都心のこのあたりは蒸し暑い。

 風なんて一陣さえも吹いた感じはしないというのに、奇妙なことだった。

 台風でも接近しているのであろうか。

 ガシャーーン

 すぐ手前に設置されていた自動販売機の隣にあるゴミ箱が倒れ、蓋が外れると、中に詰まっていた空き缶とペットボトルが散乱する。

 夏で売れ行きがいいこともあり、満杯になっていたゴミが散乱すると道は完全に塞がれる。

 しかし、摩耶にはどうしてゴミ箱が倒れたのかがわからなかった。

 風もない。

 地震もない。

 誰もこの通りにはいない。

 そもそもたいていの自動販売機のゴミ箱は、ベルトで固定されていて余程の力がかからなければ自然と倒れたりはしないものなのだ。

 しかも、このゴミ箱は一度ぽんと宙に浮いてから通りの中央にまで飛んできたのである。

 何が起きたのかわからない摩耶だった。

 バリン

 鈍い音とともに今度は自動販売機のクリアケースが割れて四散し、中にあるジャース類のダミーが散った。

 それだけではない。

 道端の植木鉢や看板が音をたてて倒れていく。

 だが、摩耶の眼には何も見えず、どんな音も聞こえない。

 あまりのことに動くこともできず立ち竦んでいるしかなかった。

 足元の石ころが音をたてて弾き飛んだ。

 そこで初めて理解した。

 

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 竦んだ足を何とか動かそうとした。

 この通りは幼稚園の頃から慣れ親しんだ場所だ。

 その場所が突然異世界に変わってしまったような気持ち悪さが背筋を震わせる。

 逃げないと。

 一刻も早く逃げないと()()()()()()()()()()

 

 急に顔が熱くなった。

 恐怖が上がってきたのかと思ったが、そうではなかった。

 思わず当てた手にぬるりとした感触があった。

 そして、触れた場所にいつもの自分の顔には絶対にない窪みのようなものがあった。

 電信柱についた外灯の弱い灯りのもとでもわかる。

 手に付着した液体は赤かった。

 紛れもなく血液であった。

 

(私の……血……)

 

 思考停止している中、頭に浮かんだのはそれだけだった。

 窪みは―――深すぎる傷。

 鋭利な刃物に斬られたかのような深い深い傷であった。

 

「あ……あ……何……これ……」

 

 セーラー服の白い襟もととスカーフが重くなる。

 血が滴り落ちたのだ。

 

「あああああぁぁぁ!!」

 

 摩耶は叫んだ。

 嗚咽に近い、苦しみそのもののような嘆きだった。

 女の顔にこれほど大きな傷がつく。

 それがどれほどの悲劇なのか、今の摩耶ほどわかっているものはそれほどいなかったであろう。

 そして、更なる悲劇と苦しみが彼女を絶望に叩き込もうとした瞬間、

 

『カアアアアアア!!』

 

 闇夜を切り裂く一声が響き渡る。

 同時に、摩耶が奇跡的に保っていた意識は完全に白く失われていった……。

 

 

       ◇◆◇

 

 

「この病院にゃんですか?」

『ソウダ』

「わかりました」

 

 新宿区の戸山公園の裏手にその個人病院はあった。

 病院とは言っても、ただの一軒家よりはマシ程度の大きさのこじんまりとした建物であり、薄汚れた看板が無ければ誰かの住宅としか思われない程度のものである。

 しかし、ここが関東を妖魅の跳梁跋扈から鎮守する〈社務所〉の施設の一つだと知るものは少ない。

 ゆえにここに運ばれる患者は、ほとんど妖魅絡みのものたちばかりなのである。

 猫耳藍色がやってきたのは、ここに運びこまれた患者に会うためである。

 

『巫女ハハジメテ来タノカ?』

 

 案内役を勤めていた八咫烏ず飛び回りながら問う。

 藍色は肩をすくめて、

 

「私は退魔巫女としては半年も活動してにゃいから仕方にゃいです。あと、戸山住宅のこのあたりは心霊スポットだから、巫女の私としては近寄りにくいんですにゃ」

 

 早稲田大学のすぐ近くにある戸山公園き、都会にあるにしては広々とした公園なので夜中でもそれなりの人通りはある。

 しかし、付近の住民たちの中には、「赤ん坊の泣き声が聞こえる」「白い服を着た女の幽霊らしいもの出る」「トイレで自殺したサラリーマンの霊が話しかけてくる」という噂話をするものがある。

 子供たちにとっての心霊スポットでもあるのだ。

 それもそのはず、戸山公園には数多くのオカルトめいた事件の噂がまとわりついている。

 一九八九年に、国立感染症研究所を建設中の作業員が、地下から無数の人骨を発見した事件や、その近くにある西早稲田駅の「誰も入れない地下一階があり、真っ暗なそのフロアは、実はそのまま戸山公園地下にある政府の秘密地下施設へと繋がっている」などである。

 確かに西早稲田駅は、地上口からB2階の改札まで直通しているため、地下一階フロアの入口はいつもシャッターが閉ざされた状態なのでその噂も真実味をおびているのだろう。

 これが人骨発掘事件と結びつき、「旧日本陸軍の土地だったのだから、地下に大きな施設があり、いまだ秘密基地として使われているのでは?」との憶測を呼んでだのだ。

 また、江戸時代には尾張徳川家の下屋敷、日本最大の庭園「戸山荘」があった場所であるということも関係している。

 江戸の実話怪談集『耳嚢』によると、その庭園内にはひっそりと古の邪神を封印した祠があったというのである。

 ゆえに、新宿区の戸山公園あたりは都内でも有数の心霊スポットなのだ。

 藍色もそのことは知っている。

 戸山公園が妖魅の吹き溜まりになっているということも。

 だからこそ、近所ではあっても於駒神社の跡取りである巫女の彼女としては、余計な軋轢を産みたくなかったので子供の頃から近寄ったことがないのである。

 退魔巫女になるほどの神通力を持つ彼女は、妖魅にとっては天敵でしかないので、下手な接触は争いにしかならないのだ。

 

「とはいえ、こういう土地だからこそ、〈社務所〉にとっては好都合ということかにゃ」

 

 藍色は一切迷うことなく、病院の敷地内に入った。

 入った途端、延髄のところにチカっと痛みが走る。

 何らかの結界が張られている証拠だった。

 

『我ハ窓ノソトニイル。用ガアッタラ呼ブガイイ』

「サンキューにゃ」

 

 招き猫のように右手をあげて、去っていくカラスを見送ると、藍色はそのまま呼び鈴を押す。

 顔を出した看護師は、服装を見ただけで彼女の正体を察したらしく、そのまま受け付けも通さずに二階の一室に連れていった。

 病室とは思えないほど、ごく普通の家庭の一室のような部屋だった。

 ただ、鼻をつく消毒液の臭いはまさに病院のものである。

 

「失礼します……」

 

 藍色は礼儀正しく、室内に入った。

 内部は八畳間だが、白く清潔感溢れる様子に統一され、いかにも病室といった風情であった。

 ベッドが一つ置かれていて、入院患者が上体を起こしてぼうっと壁を見ていた。

 心ここにあらずという様相だった。

 さもありなん、顔面に仰々しく巻かれている包帯は痛々しく、彼女の身にとてつもなく辛いことが起こったであろうことを如実に物語っていたからだ。

 鼻と眼だけがむき出しで、例え両親であったとしてもすぐには娘とはわからないだろうに、包帯ががっしりと巻かれている。

 気配に気づいて、藍色の方を向く。

 眼が見開かれた。

 

「―――猫耳さん……?」

「どうして私の名前を知っているのかにゃ?」

「……あ、あたし、あたし、……日野です。日野摩耶です。同じクラスの」

 

 彼女の名前は憶えていた。

 被害者の名前を確認していないことも。

 まさかクラスメートだとは思わなかったのだ。

 

「日野さん……にゃの?」

「はい。でも、猫耳さんこそ、その巫女さんみたいな格好は……」

「あ、ああ、別に、コスプレとかじゃなくて」

 

 言わなくてもいいことを口走ってしまう。

 コスプレ趣味がそんなにもバレたくないのだが、ただの言い訳にしかなりそうもない。

 だが、そんな藍色の戸惑いを無視して、摩耶は俯いて肩を落とした。

 

「日野さん、あたし、もう生きていけない」

「どうして?」

「こんな顔になっちゃったんだよ。もう、鏡も見たくないんだよ!」

 

 激昂し、力ずくで無理に包帯を剥がした摩耶の顔面には、目元から喉の上のあたりまでざっくりと大きな傷がついていた。

 肉が引き攣り、顔が歪んで見えるほどの。

 何者かにつけられた傷は、十七歳の高校生を醜い怪物のようにしていた。

 春も盛りの少女につけられたものとしては究極に近いほどの苦しみであろう。

 摩耶は普通以上には可愛らしいと自負していた。

 その彼女はたったの一晩で地獄までつきおとすほどの、苦悶が彼女を襲っているのだ。

 

『ダガ、ソレハ治セルゾ、娘ヨ!』

 

 窓から唐突に入ってきた大きなカラスが叫んだ。

 

『ソノ傷ヲツケタ〈鎌鼬〉ヲミツケダシ、傷薬ヲ奪イトレバイイノダ! ソレシカオヌシガ元ニ戻ル手段ハナイ!』

 

 藍色も頷いた。

 

「大丈夫ですよ、日野さん。絶対にわたしがあにゃたを元の可愛い美人に戻してあげるにゃ」

 

 

 



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退魔の巫女は人を救う

 

 

〈鎌鼬〉は、風に乗って移動し、手にしているもしくは口に咥えている鎌で人に切りつけるイタチのような妖怪である。

 これに遭遇し斬りつけられる、刃物で切られたような鋭い傷を受けるが、痛みはなく、傷口からは血も出ない。

 人を切って傷つける風というものが妖怪になったものと言われており、俗に「かまいたち」現象と呼ばれる、旋風の中心に出来る真空または非常な低圧により皮膚や肉が裂かれる現象ではないかと考えられていたが、実際に人間の皮膚を裂くほどの真空が発生することは気圧の安定した地上ではありえないことである。

 むしろ「かまいたち現象」が解明されていないことこそ、科学技術の発展によって妖怪の存在が確定された事案とさえ言われていた。

〈鎌鼬〉は三匹で一組の妖怪であり、一匹目が人を転ばせ、二匹目が皮膚を切り裂き、三匹目が傷口に薬を塗り、痛みを与えずに怪我をさせられるのだという。

 この動きをほんの一瞬でするために、ただの人は姿も見えない空風にやられたものと思い込むのである。

 

「―――やはり〈鎌鼬〉ですか」

『ソウジャ。儂ガコノ娘ヲ助ケタコトニヨッテ、スグニ逃ゲダシテシマッタノダ』

「でも、普通の〈鎌鼬〉だと傷からは血が出にゃいはずですけど」

『オソラク儂ガ割ッテハイッタたいみんぐガ悪カッタノジャ。〈鎌鼬〉ノ三匹目ガ薬ヲ塗ルノ前デアッタノダロウ』

「にゃるほど」

 

 八咫烏が彼女を救おうとしたことが裏目に出たのか。

 藍色は、退魔巫女たちの手助けをするための使い魔に過ぎない八咫烏が妙に肩入れしている理由を悟った。

 つまりは自責の念なのだ。

〈鎌鼬〉から受けた傷は、〈鎌鼬〉の薬によって治る。

 しかし、それを塗られる前に止めてしまったことで傷が残ってしまったということだ。

 

「でも、あにゃたが悔やむことはありません。だいたい、これまでの報告からすると、(くだん)の〈鎌鼬〉は治してはくれるけど、その前に失血死しかねないほどの大きにゃ傷をつけるらしいじゃにゃいですか。犠牲者の幾人かはまだ入院しているはずですし」

『確カニ』

「日野さんも殺されにゃかっただけよかった。それはあにゃたのおかげです」

『……』

 

 それから、はっと気づいたように摩耶の方を向き、

 

「ごめんにゃさい……。良かったにゃんて軽々しく言って」

「あ、それはいいんです」

 

 摩耶の顔についた大きな傷がどれほど彼女を傷つけているか、わかっていながらの失言であったので藍色は即座に謝罪した。

 許してもらえるかはともかく自分のミスなのだ。

 だが、摩耶の方は逆に恐縮していた。

 今一つ、状況が呑み込めないということもあり、どういうリアクションをすればいいのかよくわかっていないのである。

 帰り道に妖怪らしいものに襲われ、そこを喋るカラスに助けられ、謎の病院に入院させられたうえで、妖怪退治のための巫女だと憧れのクラスメートがやってきたというのが流れなのだが、どれも現実味がなさ過ぎなのだ。

 あえて一つ挙げるとすれば、美少女のボーイッシュクラスメートの巫女姿は異次元めいていて見惚れてしまうということだろうか。

 

「ごめん、一つだけ教えてもらえますか」

「なに?」

「辛い?」

「―――うん」

 

 藍色は目を閉じた。

 しっかりとバンテージを撒いていない拳を握る。

 二年ぶりの実戦に挑むということでやや心細かったが、眼前のクラスメートの辛さに比べたら些細なことであった。

 女の命といってもいい顔にあんな傷をつけられた苦痛を思えば。

 

「さっき、八咫烏が提案したものを採用します。〈鎌鼬〉を誘い出して、傷薬を手に入れるにゃ」

 

 八咫烏が提案したのは、摩耶を囮として使うものだった。

 彼女を囮として〈鎌鼬〉を〈護摩台〉まで誘き出して、退魔巫女である藍色が直接退治するのである。

 問題は摩耶という囮に食いついてくるかということであるが……

 

『可能性ハ高イ。〈鎌鼬〉ハ取リ逃ガシタ娘ヲ探シテイルハズダ。―――〈鎌鼬〉ニトッテ、転ガシテ、切リツケ、傷ヲ治スマデノ行程コソガ要諦ナノダ。ソレヲ儂ニ邪魔サレタトシテモ完遂デキナカッタトイウコトナラバナントシテデモ成シ遂ゲヨウトスルダロウ』

 

 妖怪にとってもルールというものはある。

 むしろ掟といってもいいそれは、彼らにとっての存在の根拠であり、なんとしてでも守らなければならないものであるのだ。

 だからこその八咫烏の提案であった。

 

「……あたし、その妖怪にまだ狙われているんですか?」

「このお喋りカラスの言うことが当たっていたらね。でも、ここにいる限りは大丈夫です」

「なんで言い切れるんですか?」

「ここはね、うちの〈社務所〉っていう退魔組織が経営している場所らしくて、〈人払い〉と〈魔封じ〉の結界が張られているから、妖怪には見つけられにゃいのですよ」

「だから、あたしはここに入院させられたんですか?」

「普通にゃら、襲った妖怪を退治するまで保護をするのが原則にゃんです。でも、今回はそうもいかにゃくなりそうですけど」

 

 自分を囮にするため。

 ただ、それはこの頬についた醜い傷痕を消すため。

 そんなことができるかどうかはわからない。

 摩耶の生きてきた世界の常識からすると、ここまでくっきりと残った傷がなくなるなんてありえない話だ。

 だが、巫女の格好をした藍色に言われると、不思議と信じてみたくなる。

 何よりも、巫女服の神秘性と相まって、これまで猫耳藍色という少女に抱いていた疑問が氷解し、言葉を受け止めやすくなったのが原因だろう。

 あのいじめられる寸前の地味なクラスメートを簡単に救い出した時のように、摩耶を助けてくれると信じられた。

 

「……猫耳さんなら、あたしを助けられるんですか?」

「もちろん、わたしにゃらできますよ。久しぶりの妖怪退治ですから、ちょっと手こずるかもしれませんが」

 

 内心にわだかまる不安の陰を、藍色は「ちょっとてこずる」程度で払しょくした。

 心が徐々に思い出していく。

 訳も分からず妖魅に翻弄されて、傷つき、壊れていく衆集を救うために退魔の巫女はいるのだという事実を。

 

「今日の夜に戦います。あにゃたをそんにゃ目に合わせた〈鎌鼬〉を退治します」

 

 そして、断言する。

 

「あにゃたの傷も元通りにしてあげます」

 

 ―――摩耶の眼から一筋の涙が零れ落ちた。

 

 



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リングに駆けろ

 

 

 担当になっていた看護師に見送られ、病院から退院することになった摩耶は、入口に停めてあったワンボックスのワゴンに乗せられた。

 すでに夜の七時を過ぎていて、外は暗くなっていた。

 入院してから一歩も外出していなかった摩耶にとって、外に出るということに少なくない恐怖があった。

 自分が妖怪(一度でも体験してしまえば絵空事と笑い飛ばすことはできない)に襲われて大怪我を負ったという事実が、彼女の脚をすくませるのだ。

 例えば襲った相手が人間の通り魔であったとしても、受けてしまった恐怖というものは簡単に拭いきれるものではない。

 しかも、顔の傷はまだ激しく疼いている。

 また狙われるのではないかという恐ろしさが一歩ごとに脳裏をかすめるのだ。

 だが、隣を歩く巫女装束のクラスメートがいてくれるおかげで、なんとか停車しているワゴンにまで辿り着けた。

 運転手を勤めるのは、宮司の格好をした中年の男性だった。

 端正で真面目そうな顔つきの四十がらみで、いかにも宮司という神職に相応しい品がある。

 どことなく面影に見覚えがあると思っていたら、

 

「藍色。おまえは後ろでこの子に付き添ってあげなさい」

「はい、パパあ」

 

 この二人、親子だったのか。

 しかも、「な」を「にゃ」と言ってしまう滑舌の悪さの他は、基本的に至極真面目で堅物っぽい印象の猫耳藍色が父親のことをパパと呼ぶなんて……

 実のところ、摩耶はそのショックでしばらく妖怪の恐怖を忘れていたほど驚いたものである。

 三人が乗り込むとすぐにワゴンは走り出した。

 

「―――随分と遅くなってしまってすみませんね。娘が妖怪退治できるように、結界を張る重労働をしていたものでして。いやあ、疲れた疲れた。久しぶりだから肩が凝ってしまったよ。明日辺りに筋肉痛かな」

「結局、どこに〈護摩台〉を立てたの、パパ?」

「うちの境内だよ。中野だし、この子の家とも割合近いところにある。別のところを借りるよりは慣れた環境の方がいいだろ」

「でも、日野さんを連れ出したとして、退魔巫女の奉職する神社にまでやってくるものかにゃ?」

「さあ。ただし、今回の〈鎌鼬〉の連中が新宿に潜んでいるのは疑いがなさそうだ。ほら、これを見てみなさい」

 

 手渡されたのは青いファイルだった。

 その中に印刷された書類が挟み込まれている。

 書類には、「2015年1月26日15時ごろのこと、ネット上で驚くべき内容の投稿が拡散された。その投稿の内容は、東京都・JR新宿駅において通り魔事件が発生したというものである。しかし、この事件はテレビなどでは一切報じられておらず、ネット上ではさまざまな情報が錯綜したようである」とあった。

 当時のツイッターなどの書き込みが挙げられ、さらにJR東日本のコメントとして「新宿駅で通り魔事件があったとは確認されておりません。また、現在のところ運行状況に特に異常はありません」との返答が載せられていた。

 実際に新宿を通過する電車には遅延・運休は起きていなかった。

 そして、この事件の詳細はその後も明らかになっていないと最後は締めくくられていた。

 

「この記事―――もしかして」

「ああ。〈鎌鼬〉の仕業だろうね。新宿駅の昼間に派手に暴れ回ったんだよ」

「でも、パパあ。事件は確認されていにゃいとあるけれど」

「〈鎌鼬〉の仕業というのならば、切り裂かれたとしても傷口は治っているだろう。例の傷薬を使ってね。傷口という具体的な証拠がなければ、事件性なんて確認されないものだとパパは思うよ」

「―――にゃるほど、ネットに投稿した人は、実際は切り裂かれた被害者を見ていた。でも、次の瞬間には治っているものだからただのデマをばらまいただけという結果に終わったという訳だね」

「多分ね。それは、今年の一月の出来事だから、おそらく新宿に住む〈鎌鼬〉たちはその頃から暴れ回っていたんだ」

 

 新宿といえば藍色にとっては地元に等しい場所だ。

 そこでこんな事件があったということに気づかなかったというのは、退魔巫女として不行き届きというところだが、当時の藍色はまだ例の失意のどん底から立ち直れていない時期であった。

 仕方のないところではある。

 もっとも、そんな風に自分を慰めて楽になろうとする少女ではなかった。

 自分さえしっかりしていれば、隣にいる摩耶にいらない苦しみを味わわせることはなかったのだから。

 

「―――サボっていたことの贖罪もしておけということかにゃ」

 

 自分が、()()()()()()()()()()()()()()妖魅による人への攻撃が、幾度となく行われていた。

 そのこともあって、統括のこぶしがこの事件の解決を藍色に命じたのだろうと彼女は悟った。

〈鎌鼬〉による事件は、薬によって傷口が塞がっているという特性により表に出ることが少ない。

 今回の摩耶のケースのように、八咫烏のような第三者の介入で「転ぶ、斬る、治す」の過程が邪魔されない限り被害者は騒ぎもしないだろう。

 したとしても、証拠がないので誰も信じてくれないからだ。

 しかし、いつか最悪の状況が発生するかもしれないのは確かだ。

 摩耶の傷と、これまで〈社務所〉に報告されていた関連の報告を見る限り、人を無差別に襲い出した〈鎌鼬〉は遠くない未来には「死の旋風」に成り果てる。

 高速道路などで時折起きるバイクのライダーの首の切断事故などは〈鎌鼬〉の仕業がほとんどだという。

 その鋭い鎌が人でごった返した都会で起きたらどんな惨劇が引き起こされることか。

 そうなってからでは遅すぎる。

 摩耶の包帯に包まれた顔を見る。

 ようやく顔を思い出した。

 クラスの行事などのときには陰での仕事を積極的に引き受け、スクールカーストなんかに囚われない人懐っこさをもつ女の子だった。

 すぐに思い出せにゃくてごめんなさい。

 藍色は彼女の手を優しく握った。

 

「―――日野さん。いいかにゃ」

「え、何?」

「わたしを信じて欲しい。……一度、ダメににゃったわたしだけど、ようやく帰ってこれた。だから、信じて欲しい」

 

 真摯な言葉に摩耶が答えようとしたとき―――

 

 ガタン!

 

 とワゴンの屋根の上に何かが落ちてきた。

 鈍い金属板が凹む音もする。

 ただ一度の衝撃で天井の板が外れかけていた。

 

「パパあ!!」

「屋根の上に何かが降ってきた! 藍色、摩耶ちゃんを守りなさい!」

「はい!」

 

 藍色は手を掴んだまま、摩耶を引き寄せ、抱きとめた。

 そのまま座席に押し倒すと、覆いかぶさるようにして彼女を庇う。

 きっ、と車の天井を睨みつける。

 確かに父親の言う通り、屋根の上に何かがいる。

 走行中の車の上に飛び乗るような()()が。

 早稲田通りに入った直後の出来事であった。

 まだ、多くの人間が歩き回っている時間だというのに。

 そんなことをやってくるものの心当たりは、藍色には一つしかない。

 ガンガンガンと屋根を蹴りつける音がした。

 屋根ごと貫かれるおそれはなさそうだったが、壁越しに見えない何かに脅されるという経験は肝が冷えるものがある。

 さすがの藍色も脅威を感じていた。

 

「車を停めて!」

「ダメだ! 振り落とす!」

 

 父親は対向車がいるにも関わらず右にハンドルを切り、狭い路地にワゴンを飛びこませた。

 急激なGをかけて、屋根上のものを振り落とすつもりであった。

 車内で二人の少女は右側によって強く抱きしめ合うことになる。

 藍色のたいして豊かではない胸に抱きしめられて摩耶は顔を赤らめた。

 誰かの胸に顔を埋めるなど初めての体験であったからであった。

 しかも、その相手は憧れていたボーイッシュ美少女。

 そのケがなくても赤面してしまうとうものだ。

 一方の藍色は、そんな彼女の恥じらいなど気づきもせずに、上だけを凝視している。

 黒い線が天井に走った。

 すべてを切り裂く刃の仕業だと、藍色の観察眼が見抜いた。

 鋼鉄製とまではいかないがそれほど脆くもない屋根を容易く斬ってきたのだ。

 すでに襲撃者の正体ははっきりしている。

 こんな芸当ができる敵で、今、彼女たちを狙っているものは一つだ。

〈鎌鼬〉。

 そいつらが移動中の彼女たちを見つけて追ってきたのだ。

 可能ならば撃退したい。

 だが、藍色の得意とする拳撃では屋根の上にいる妖怪に触れることさえできない。

 怪物がすぐそばで蠢いているというのに、何もできないとは……

 

「パパあ!!」

「我慢してくれ! 運転しているパパの方が危ないんだから!! そっちに注意を引きつけて!!」

「もう!」

 

 藍色は下からアッパーを天井にぶつけた。

 効かないのはわかっている。

 ただし、それで少しでも注意を引ければという行動だった。

 ビクンと恐ろしい殺気がした瞬間、拳を引く。

 ついさっきまで腕を伸ばしていた空間を光線が走った。

 隙間から突っ込まれた刃の跡であった。

 背中に冷たい汗が落ちる。

 下手をしていたら腕を落とされていたところだ。

 この狭い車内ではこれ以上、好き放題にやられたら何もできずに殺されるかもしれない。

 凶暴な妖怪であるというのならばなおさらだ。

 

「猫耳さん……」

「大丈夫。もうすぐうちにつくから」

 

 於駒神社まで戻れば、〈護摩台〉がある。

 すべての退魔巫女のためにあつらえられた最強の舞台が。

 

「二人ともこらえなさい!!」

「何を!!」

「境内に入る!!」

「ちょっ、マっ―――!!」

「対ショック防御おおおおおお!!」

「パパあああああああ!!」

 

 ガクンと大きな衝撃が車内に伝わる。

 通りから住居にしている社務所に入るのではなく、境内に入る場合はたった五段だが石段を登るのが於駒神社の造りである。

〈護摩台〉を設置した境内に入るということは、すなわちワゴンでそのまま石段を上るということなのだ。

 つまり、車内に伝わるのは障害物にぶつかる並みのショックであった。

 身体がはじけ飛ぶように何度も宙に舞い、座席に叩き付けられる。

 それが五回も続いたとき、さすがの藍色も眼がクラクラしていた。

 猫並みの三半規管を持っている彼女でもこの遊園地のアトラクション以上の揺れはきつすぎた。

 だが、石段という障害を無事に突破したタイヤとサスペンションが境内に敷き詰められた砂利の存在を伝えてくれば彼女はもう甦る。

 そこには〈護摩台〉がある。

 退魔巫女としての彼女を守る結界が。

 後部座席を空ける。

 自動ドアが完全に開ききる前に、摩耶を抱きしめたまま飛び出す。

 地面に落ちる寸前に身体を捻って着地すると、そのまま躊躇いもせずに駆け出す。

 相手は風に乗る妖怪。

 迅さは折り紙付き。

 だから、出足が何よりも重要だった。

 藍色と摩耶の背中に風が当たった。

 何かが追いついてきたのはわかっている。

 だが、すぐそこに一見リングのような戦いの舞台がある。

 死を賭けた徒競走の勝者は―――

 

「でやああああああ!!」

 

 摩耶を抱いたまま、藍色は悪魔の蝙蝠のように跳んだ。

 飛び込んだ先は、白いマットが敷かれたリングの上であった。

 バチンと四本のロープのうちの一本がぶち切られた音がした。

 藍色はなんとかリングにまで逃げ込められたのだ。

 リングサイドにはさっきまで彼女たちを狙っていた妖怪たちが集まっていた。

 伝承通りの三匹の〈鎌鼬〉。

 冷たい目で人間たちを見つめている。

 だが、もう素直に藍色たちを襲おうとはしない。

 自分たちが足を踏み込んだ場所が結界に守られているということに、ようやく気が付いたのだ。

 

「知恵がありそうに見えて、所詮はイタチだにゃ」

 

 摩耶を背中に庇うと、藍色は妖怪たちをリングから見下ろした。

 

「リングに上がってきにゃさい。猫耳藍色に勝てるという夢を見られるのにゃらね」

 

 呑気な招き猫のようだが、ここにいるのは敵と戦うために産まれた生粋の闘猫なのであった……。

 

 



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火の玉ガール

 

〈鎌鼬〉は巨大なイタチそのものというシンプルな外見をしている。

 しかし、耳のあたりまで裂けた口の中に並ぶ牙といい、獰猛そうな顔つきといい、明らかに肉食獣の恐ろしさを秘めている。

 リングの外にいた三匹は、するりとマットに上がってきた。

 対峙してみるとはっきりするのだが、〈鎌鼬〉は160センチの身長の藍色とほぼ変わらない体長で、尻尾まで含めればニメートルほどであろうか。

 二足歩行するイタチというだけでかなり不気味な存在なのだが、注目すべきはその尻尾の先についた鋭く弧を描く刃だろう。

 妖刀の輝きと禍々しさを持つ、その刃は〈鎌鼬〉自在に操る武器―――鎌であることに疑いの余地はなかった。

 伝承によれば、鎌のごとき爪を持っているか、口に咥えているとされている〈鎌鼬〉の真の姿を見て、藍色は少しだけ興奮した。

 

「日野さん、外に出て。〈護摩台〉に上がった以上、もうあいつらは私を倒さにゃい限りここからは逃げられなゃいから」

「―――でも、猫耳さん。ここは何なの? このプロレスのリングのような場所セットは……」

「違うよ」

 

 摩耶の台詞を遮るように藍色は言った。

 

「ここは、プロレスのリングじゃにゃい。()()()()()()()()()ですよ。ロープだって四本だし」

 

 そう、藍色にとってこの四角い〈護摩台〉はボクシングのリングでしかなかった。

 退魔の結界でありつつ、愛するボクシングを執り行うための舞台。

 ここが巫女ボクサー―――猫耳藍色のホームなのである。

 

「―――まあ、グラブをつけている暇がにゃかったのが残念だけど」

 

 ボクサーである以上、その象徴であるグラブをつけていないことは画竜点睛を欠くが、悠長につけている時間もないのだから仕方がない。

 藍色がアップ・ライト・スタイルに構えをとると同時に、

 

 カアアアアン!

 

 という〈護摩台〉特有のいくさ開始の鐘の音が鳴り響く。

 三匹の〈鎌鼬〉もここが戦場になっていることは理解しているのだろう、無闇に慌てることなく、藍色と対峙する。

 三対一。

 紛れもなく不利な状況であった。

 

(真ん中のでかい一匹の尻尾の鎌が一番大きい。たぶん、あれが「斬る」係でしょうね。左のわずかに小柄なのが「転ばせる」係で、腰に壺らしいものを抱えているのが「治す」係かにゃ。……つまり、要注意はあのでかいの。まずは仕掛ける!)

 

 藍色は得意のフットワークを駆使して、一気に距離を詰めた。

〈鎌鼬〉とて油断はしていない。

 三匹がそれぞれ跳び、四方を囲む。

 その際に鋭い大鎌が藍色の胴を薙ごうと横に動いた。

 まともに当たれば胴体を両断されそうなほどの斬撃であったが、バックステップで躱す。

 しかし、これでわかった。

〈鎌鼬〉は他の犠牲者を襲った時のように、遊ぶつもりはないと。

 妖怪にとっての天敵である退魔巫女をここで葬り去るつもりなのだ。

 となると、さっきの車中への襲撃も摩耶というよりは、藍色を狙ったものかもしれない。

 

『シャキャアアアア!!』

 

 イタチ特有の金切り声を出して、右側にいた小柄な〈鎌鼬〉が襲い掛かってきた。

 鎌ではなく爪であったので、手首のところをパリィで弾き、左ストレートを叩きこむ。

 いい具合に顔面に拳が突き刺さり、〈鎌鼬〉は吹き飛んだ。

 しかし、そのせいで「斬る」係の接近を許してしまう。

 風に乗るようにスムーズに接近してくる生臭いケダモノに抱え込まれる寸前まで近寄らせてしまう。

 咄嗟に右のアッパーで迎撃しようとしたが、嫌な予感がしてギリギリで止めた。

 その本来の軌道上を再び斬撃が通過する。

 

(下手なパンチは伸びきったところを狙われて危険かにゃ?)

 

 敵は尻尾の先にある鎌を自在に振り回して、藍色の腕を落とそうとしてくる。

 手を刈られたらさすがに終わりだ。

 少し離れるか。

 巫女ボクサーはいったんコーナーポストにまで下がった。

 そこには父親である宮司と―――摩耶がいた。

 顔に幾重にも包帯を巻いたクラスメートが。

 女の子の顔にあんな傷が残ったら、これからどうしていいのかわからない。

 あのままでは心ない中傷や態度が彼女に一生向けられるに違いない。

 現代の美容整形の技術でもあの深い傷を癒すことはできないはずだから。

 もし、なんとかできるとしたら、あの〈鎌鼬〉たちのもつ傷薬を奪うことだけだ。〈鎌鼬〉のつけた傷を完治させられるのは〈鎌鼬〉だけ。それがこの妖魅のルール。

 だから、負けられない。

 退魔巫女であるというよりも、同じ女として決して引き下がってはならぬ戦いなのだ。

 

「―――日野さん、下がっていてくださいにゃ。この妖怪の傍に近寄ったら、あの鎌で切り裂かれるだけだから」

「でも、藍色ちゃん!!」

「大丈夫です。あいつらの持っている傷薬を奪えば、あにゃたのその傷も完治させられますから」

 

 なお、心配そうに自分を見つめる摩耶に対して、噛んで含めるように藍色は言った。

 

「あにゃたのその頬の傷。絶対に(にゃお)してあげるからね」

 

 それは誓言。

 背中に守るか弱き衆生を救うこともできずに、何が神職、何が巫女。

 藍色はあの〈合戦場〉で炎のような闘魂の持ち主・御子内或子と戦うことで、熱い気持ちを取り戻した。

 そして今、女の命とも呼べる顔に酷い傷を負ったクラスメートを背負うことで、退魔の巫女の使命を思い出した。

 戦わねばならない。

 相手がどんな敵であったとしても。

 それが、猫耳藍色の誓いなのだから。

 

「ふぅぅぅぅぅぅぅ」

 

 口笛のような呼気が漏れる。

 それを聞きつけて、父親が思わず口を開いた。

 

「藍色、それは猫耳流交殺法の……」

「はい。今日のわたしはただのボクサーじゃにゃい。妖魅を退治して、人を救う巫女ボクサーです。ボクシングと交殺法・表技。そのどちらを使ってでも勝つために戦う」

 

 基本の構えはそのままアップ・ライト・スタイル。

 だが、リズムを刻むフットワークはいつもよりも単調になる。

 これはボクサーのリズムではなく、於駒神社に伝わる猫耳流交殺法のリズムであった。

 焦れていたのか、「斬る係」が飛んだ。

 空中を滑るように、風に乗るような移動。

 普通の人間の眼には異様としか映らない挙動だった。

 瞬きをした瞬間には横に回り込まれているのだから。

 藍色の左フックが迎え撃つ。

 しかし、〈鎌鼬〉は屈んで躱した。

 猫背といっていい生物ならではの反応であった。

 そして、振り向きざまに尻尾の大鎌で切り裂こうとする―――

 が、躱したはずの藍色の攻撃が〈鎌鼬〉の顔面を抉った。

 フックの後に、飛びこむことでさらに左肘を叩きこんだのだ。

 避け切ったという一瞬の隙をついた追撃は、藍色の意図していたものだった。

 ボクシングの技ではなく、これは―――

 

「猫耳流交殺法の表技は、すべて隙を生じぬ二段構え……」

 

 父親が呟いた。

 今の技はかつて彼が娘に教えた技だった。

 ボクシングのトレーニングしかしていないように見えて、交殺法の鍛錬も欠かしていなかった証拠に技を選択する時の判断に刹那の迷いもない。

 さらに追い打ちをかける、左右のワンツーはナンバー・システムによるコンビネーションそのもの。

 つまり、こちらはボクシングの最先端である。

 両方の戦技を確実にものにしていることが流れるようなスムーズさでわかる。

 どちらも娘に教え込んだ彼だからこそわかる練度であった。

 

「なるほど、それがおまえのいう巫女ボクサーなんだね」

 

 父親は娘がついに最強の一角に足を踏み入れたことを知った。

 退魔巫女の修業時代、どうしてもトップの二人に敵わなかった藍色が自信を無くしかけていたことはわかっていた。

 そして、影を歩む妖怪に敗北して、心を折られたことも。

 そんな娘がようやく復調し、あまつさえさらに強くなるとは夢にも思っていなかったが。

 

「よし、藍色。パパが許す、思いっきり戦ってきなさい!!」

 

 父親のお墨付きを受けて、猫耳藍色はさらに戦いのアクセルを踏み込んだ。

  

 

 



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女神さまはサウスポー

 

 

 ボクシングの生命線はフットワークと間合いだ。

 スーパーヘヴィ級の圧して押して押し捲る戦い方ならばともかく、ほぼすべての階級のボクサーはステップを駆使して、相手との距離を保ち、ときには縮め、腕の長さしかない射程距離に敵を捉えようとする。

 腕などというものはどんなに長くても一メートル程度しかない。

 相手の顔を殴るとしたら、本当に目の前にまで接近しなくてはならないのであり、同時にそこは敵の手の届く範囲でさえある。

 そして、ボクシングはパンチしか使ってはならない闘技だ。

 つまり、ボクサーはこの世界で一番近づいてはならない激戦地に侵入し続けなければならない勇者揃いということであった。

 もっとも、これが競技としてのボクシングの試合であれば相手に抱き付くクリンチなどで休んだり、出足を阻止したりもできるが、異種格闘戦ではやってはいけない。

 なぜならば、ボクシング以外の闘技では投げも蹴りも極めもでき、組みつかれたらそれでおしまいということばかりだからだ。

 それは妖怪相手ではさらに顕著だ。

 ほとんどの妖怪は恐ろしい膂力の持ち主であり、鋭い牙と爪を備え、とんでもない秘儀を隠している。

 妖怪相手にクリンチなど絶対にできない。

 さらにいうと、猫耳藍色は身体も160センチそこそこと小柄であることから、クリンチをしたとしても簡単に引きはがされてしまうという欠点がある。

 ゆえに藍色は、クリンチを絶対に使わず、常にボクシングの生命線であるフットワークをもって機動力で勝負し続ける。

 今回もそうだった。

 薬の入った壺を抱えた〈治す係〉の〈鎌鼬〉までが周囲を飛び回り、高速で彼女をかき混ぜようとし、しつこく伸びてきて襲い掛かる死の鎌を躱しながら、藍色は一瞬たりとも足を止めない。

 三対一の不利な状況では気を抜いたら一瞬で首を持っていかれる。

 

『キシャアアアアアア!!』

 

 彼女の首を狙って鎌が振るわれる。

 大雑把な一撃だったからかスウェーバックで躱すのは容易だった。

 

(首か顔ばかりを狙ってくる……。もしくは伸ばした手足……。ああ、そういうことですか)

 

 藍色はすでに〈鎌鼬〉の攻撃パターンを読み切っていた。

 むしろ、四肢と頭部だけを狙われていた方がやりやすいといえる。

 しかし、問題は下手にジャブを打つこともできないという点であった。

 ジャブをだして腕が伸びきったところを斬られてはもう逆転することはできない。

 

(……〈震打〉を使う?)

 

 藍色のフィニッシュブローの一つである〈震打〉を当てることさえできれば確実に仕留めることはできるだろう。

 ただし、これだけ高速移動を繰り返し、散発的ながらも攻撃を重ねてくる〈鎌鼬〉相手では、調息をして気を練る時間的余裕がない。

 そもそも〈震打〉は中国拳法の寸勁から発想を得て習得した技であるから、極めて近代的ボクシングの使い手である藍色とは相性が悪いこともある。

 まだうまく戦術には組み込めないのだ。

 もう一つのフィニッシュブローは地面を伝わる衝撃波なので、これだけ周囲を飛び回る妖怪相手では伝播させられるかも難しい。

 あの御子内或子すら倒せる可能性のある技であったとしても、当たらなければどうということはない。

 

(つまり、ただのボクシングで勝つしかにゃいわけね)

 

 考えつつも、足を動かし、三匹の〈鎌鼬〉の猛攻をしのぎ続ける。

 しかし、このままいけば確実にジリ貧だ。

 なにしろ迂闊に手を出すことができないのだから。

 死の竜巻を前にして、藍色は防戦―――いや、躱し続けるだけで手一杯の窮地に陥っていた。

 

「藍色、手を出しなさい! そのままではマズイ!」

 

 父親の叱咤が飛ぶ。

 だが、出せるものなら出している。

 鎌に腕を落とされる恐怖に打ち勝って攻撃するしかないが、いかに藍色といえどもそれは究極の覚悟が必要だった。

 四肢の一本を失う覚悟を。

 

「猫耳さん、頑張って!! 頑張って……!」

 

 ―――泣き声がした。

 藍色の背中にいる女の子のものだった。

 女の命ともいえる顔に凄惨な傷を受けて苦しむものの声だった。

 何も罪もないのに、突然妖魅の襲撃に晒され、目覚めたときには顔の半分に引き攣りももたらす傷を負った女の子が、必死で藍色を応援していた。

 藍色が〈治す係〉の〈鎌鼬〉から薬の壺を奪い取るのを待っている。

 

 ……いや、違う。

 

 日野さんは、純粋にわたしを応援してくれている。

 頑張ってくれと叫んでいる。

 心が伝わってくる。

 自分の傷のことよりも、わたしを心配してくれている。

 

「―――待っていてにゃ。絶対に傷を治してあげるから」

 

 傷を治して……

 藍色の脳裏に新しい作戦が浮かんだ。

 危険極まりないが彼女ならばできる程度の単純な作戦だ。

 あの御子内或子の友達であることを証明するような、大胆不敵なものであったが。

 

「いくかにゃ」

 

 一度、覚悟を決めるとあとはもう動くだけだった。

 リングの中央に陣取ると、またも〈鎌鼬〉たちの襲撃を躱し続ける。

 ただ、今回は違う。

 一瞬だけ、足元に隙をつくった。

 まるで限界が来たかのようなふらっとした隙を。

 それを見て、〈転ばす係〉がマットすれすれを滑るように接近してくると、くいっと足首を引っかける。

 藍色は足を払われ転びそうになった。

 だが、力を入れて踏ん張り、逆に右のストレートをぶちこもうとする。

 体勢が悪いからか、力の入りきらないへなちょこパンチになった。

 もちろん、そこを見逃す〈鎌鼬〉ではない。

 特に〈鎌鼬〉の行動パターンである「転ばす→斬る→治す」という順番に従ってくる、〈斬る係〉の〈鎌鼬〉の斬撃を防ぐことはできなかった。

 

 スパン

 

 右手を引ききる前に藍色の肘から先が落ちた。

 熟した果実が地面に落ちるように。

 とん、とさっきまで繋がっていた右手がマットにゴミのように転がる。

 

「藍色!」

「猫耳さん!!」

 

 観客二人の絶叫が轟き渡る。

 娘と友人の腕が落とされるシーンを目撃してしまった以上、当然のことだろう。

 だが、当の藍色は平然としていた。

 それどころか、〈鎌鼬〉の行動様式に従い、接近して来た〈治す係〉に肉薄する。

 

『ギョッ!』

 

 壺を持った〈鎌鼬〉は三匹の中で最も動きが鈍いせいでその藍色の神速に反応するのが遅かった。

 

「遅い! 撃ち貫くのみにゃ!」

 

 藍色の左ストレートがごつい鉄杭(パイルバンカー)となって〈鎌鼬〉の顔面を射抜く。

 妖怪の腐った脳みそを破壊するが如き拳撃であった。

 そして、それと同時に囲みが崩れる。

 三匹の息の合ったコンビネーションがあってこその、藍色に対する優位にほころびが生じた。

 そうなれば話は変わる。

 これまでの防戦一方だった戦いの趨勢が決するに十分なほころびだった。

 

「右手がにゃいぐらいでええええ!!」

 

 隻腕となったとしても、退魔巫女は、巫女ボクサーは止まらない。

 スタイルをスイッチして、左ジャブを〈転ばす係〉にぶちこみ、弱らせるともう一度スイッチして左利きに戻る。

 そのまま左のフックを横っ面に叩き込んだ。

 衝撃で折れた牙を吐き散らして二匹目の〈鎌鼬〉がマットに沈みこむ。

 

『キシャアアアアアア!!』

 

 兄弟二匹を一瞬で仕留められた〈斬る係〉が咆哮する。

 それは嘆きか、驚きか。

 ここまで人間に近い癖に喋らない妖怪は珍しいと思いながら、藍色は最後に残った〈鎌鼬〉に迫った。

 そして、拳を一回転させるように捻り、コークスクリューをかけつつ、敵の心臓にヒットした瞬間、もう反対に一度捻る。

 二重の回転とフックの捻りの相乗効果が生じた。

 ブーメランのように弧を描き、スクリューの効果で〈鎌鼬〉が吹き飛ぶ。

 

「やああああああ!!」

 

 横軸に回転してマットに叩き付けられた〈鎌鼬〉はどんな吼え声もたてることなく動かなくなった。

 同時に10カウントがどこからともなく聞こえてくる。

 10までいったとき、三匹の〈鎌鼬〉は封印されて消えていった。

 

「―――はい、傷薬を手に入れました」

 

 リングサイドで待っていた摩耶に話しかけた藍色の手には、〈鎌鼬〉の〈治す係〉が持っていた壺があった。

 だが、差し出された側の摩耶は彼女の死闘を目撃したショックで泣きそうな顔をして、

 

「でも、でも、猫耳さんの手が……!?」

「ああ、これはすぐくっつきます。見ててくださいね」

 

 壺の中に入っていたやや不気味な臭いのする白い薬を傷口に塗り込んで、転がっていた右手をつけるとすぐに接着が完了した。

 ぎゅっと拳を握る意志を持つとタイムラグなしにアクションが起きる。

 神経まで完全に回復していた。

 ある意味では現代の最先端医療を凌駕する恐ろしい傷薬である。

 しかし、なにはともあれ藍色が五体満足な姿に戻れたのは確かである。

 

「嘘……」

「これぐらいでにゃいと、〈鎌鼬〉の傷なんて治らないからね。―――さ、包帯をとって」

「はい……」

 

 数秒もしないうちに、摩耶の顔についた傷までが完全に治った。

 当の摩耶が信じられないというぐらいに茫然となるぐらいのあっという間の出来事であった。

 自分の戦いがもたらした結果に、ようやく藍色が納得しかけたとき、隣にいた父親が言った。

 

「―――藍色、さっきの〈鎌鼬〉たち、おそらく日本のものじゃないぞ」

「どういうこと、パパあ」

「つまり、外来種の〈鎌鼬〉ということだよ。そんなものがいるとは聞いたこともなかったけれど」

 

 藍色は道理で会話もできなかったと思い出した。

 こぶしには、どうして暴れているのかをつきとめろと言われていたことも。

 

「まあ、そんにゃことはどうでもいいか」

「どうしてだい?」

「んー、あえていうのにゃら……」

 

 ようやく気を取り戻した摩耶の傷一つない顔を見ながら、

 

「日野さんという女の子を救えたからかにゃ」

 

 猫耳藍色は、実のところ、たったそれだけで十分に満足であった。

 

 



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第26試合 妹の場合
お姉さまと私


 

 

 あたしの名前は、升麻涼花(しょうますずか)

 

 ちょっと前までだったら、自己紹介する時には「升麻京一の妹です」と名乗っていたのだが、最近のあたしはどちらかというと「御子内或子の(プチ・スール)です」といいたい気分であった。

 別に、お兄ちゃんに飽きたとか、嫌いになったという訳ではないけれど、或子お姉さまと出会って仲良くしていただけるようになってからは、あたしの中の天秤棒は露骨に一方に傾き続けているのだから仕方がない。

 高校受験の際も、或子お姉さまの指導の下、限界まで努力したおかげで名門といわれる武蔵立川高校へ入学することができた。

 歩いても行けるような近所の高校がいい、と流川楓みたいなことをいって適当に進学したお兄ちゃんと一緒にされたくないし。

 進学してからも同じ部活や委員会に入ったりして、まるで本物の姉妹のように可愛がってもらっていることもあり、あたしの或子お姉さまへの敬慕の念は増すばかりであった。

 だから、「御子内或子の(プチ・スール)」なんて名乗りたいなあとずっと思い続けている訳である。

 ちなみに、この話をお兄ちゃんにしたら、「おまえの兄弟は僕だけだろう」と気の利かない返しをしてきた。

 そういうときは、「僕が御子内さんと結婚したらおまえも本当に妹になれるな」とか言っちゃったりしてあたしとお姉さまを気分良くさせてあげればいいのに、うちのバカ兄貴は誰かの口にしたどうでもいいボケには気づいても、女の子の気分には疎いので役に立たない。

 お姉さまがあのボケ兄貴のことを憎からず思っているのは、あたしでさえわりと最初のうちからわかっていたというのに、あのアンポンタンは一体全体なんなのだろう。

 そうこうしているうちに、なんと覆面を被った変な巫女まであたしの家に出入りするようになり、夏を過ぎたら今度はレディースみたいな巫女までが入り浸るようになってきた。

 おかげで、我が家はちょっとした神社気分。

 賽銭箱でも玄関に備えておいたら、幾らか儲かったりはしないかな。 

 

「―――で、さっきから暗い顔をしているのはどうしてなんだい? 涼花らしくないよ」

 

 放課後、購買部に隣接しているテラスで、あたしはお姉さま―――御子内或子さんと二人でお茶を飲んでいた。

 部活のない曜日だったので、わざわざLINEを使って時間を作ってもらったのだ。

 基本的にお姉さまは忙しい人なので、あまり煩わさないように注意しているのだが、今回ばかりは別だった。

 あたしの抱えてる事件の相談相手としては、彼女が一番適任だということもあるが、なんというか現実感が欲しかった。

 安心を与えてもらいたかった。

 

「お姉さまに相談したいことがあって……」

「ふーん、それは妖魅絡みじゃないのかい?」

 

 妖魅……というのは、お姉さまの真の姿である退魔巫女の敵という意味での、妖怪変化や魑魅魍魎のことを指す単語だ。

 

「うーん、断定はできないんですけど、おそらく妖魅(そう)かな。信じてもらえますか?」

「信じるも何も、ボクと涼花の出会いからして妖怪の絡みから始まっているんじゃないか。今更だというべきだね。それに、いつか言ったはずだけど、キミは妖魅に好かれやすい体質の持ち主だと思う。涼花が異常を嗅ぎ取ったというのならば、高確率でボクらの商売相手が関わっていると思うよ」

 

 妖魅に好かれやすい。

 確かにそうだ。

 お姉さまとの出会いのきっかけは、あたしが〈高女(たかめ)〉という妖怪に狙われたことから始まっている。

〈高女〉は、ネットで話題になった「八尺様」という怪奇譚のモデルになったらしい妖怪で、未成年の子供をつけ狙う肉食の化け物だった。

 あたしは〈高女〉に目をつけられ、餌食になって殺される寸前で、お兄ちゃんが連れて来てくれた退魔巫女―――お姉さまに助けられた。

 お姉さまがどうやってあたしを助けてくれた方法については、今になってもなんとも納得しがたいのだが、それでも命懸けで身体を張ってくれたことに嘘はなかった。

 だから、あたしがお姉さまを信じないということは絶対にない。

 しばらくしてから、「涼花は妖魅に目をつけられやすい体質なのかもしれない。だから、あまり霊的な場所とかオカルトに縁のある事件には近づかない方がいいかもしれないね」と忠告されてからは、できる限り避けるようにしてきた。

 自分からわざわざ危険に首を突っ込むことはしないようにしたのだ。

 世の中にはその手のスポットは山のようにあって、中にはどうしても近寄らなければならないこともあるのだけれど。

 実際、意識してみると、意外とあたしはそういう場所を好む習性のようなものがあり、ついつい怪しい建物なんかを気にしてしまうところがあった。

〈高女〉の事件まで、あたしの周囲でオカルト的事件が起きなかったのは、むしろ幸運だったとさえ思うようになっていた。

 ただし、昨日までのことだ。

 今は状況が完全に変わってしまっている。

 

「京一には相談したのかい?」

「お兄ちゃんにはしない予定です」

「どうしてかな? 実の妹にいうのもなんだけど、京一ほど頼りになる男の子はそうはいないよ。ボクが〈社務所〉の関係者以外に全幅の信頼を寄せているのは彼だけだし、京一の類まれなる強運と熱い魂と、強い義侠心を信じているからだ。いつだって涼花のためなら、動いて悔やむことのない男だね」

 

 さすがに、実の妹なのでそれはわかっている。

 あの〈高女〉とのときも、お兄ちゃんはあたしのために大車輪で頑張ってくれた。

 だから、あたしに兄を信じないという選択肢はない。

 お姉さまと一緒だ。

 でも、肉親だからこそ、できないこともある。

 

「―――ん、ということは京一にはし難い相談ということかい?」

 

 さすが、お姉さま、勘が鋭い。

 

「そういう訳じゃあ……」

「いや、ボクもキミら兄妹のやり口はよく知っているからね。そういう感じで誤魔化したり、別の話題ではぐらかそうとするときは、たいてい何かを隠しているときなんだ。しかも、その理由がほとんどの場合、他者を気遣ったりするものに限る」

「―――それは……」

「ボクだって学ぶんだよ、これがね」

 

 お姉さまが学習能力を発揮している!

 勉強はできるけれど、実生活においては三国志演義の張飛やアーサー王の円卓の騎士ガラハッド並みに脳筋な女性(ひと)であるお姉さまが学習をしている!

 

「……今、失礼なことを考えなかったかい?」

「いえいえ、そんなことは決して」

「京一がボクをアホの子扱いするときに、よくそういう顔をするけど」

「―――イエイエ、ソンナコトハ……」

「まあいいさ。いいよ、彼には黙っておくよ。ただし、勘付かれたら素直に全部話すけどね。……で、何があったんだい。最初から話してくれると助かる」

 

 お兄ちゃんの勘の鋭さを考えると、すぐにばれてしまうおそれの方が高いけれども、できたら内緒にしておきたい。

 助手であり、パートナーでもあるお兄ちゃんに秘密を持つことはお姉さまにとってもリスクになるだろうけれども、その気配りは嬉しかった。

 そして、この段階になってようやくあたしは話し出した。

 昨日、何が起きたかを。

 

 過去、あたしの妖魅に好かれるという体質が引き起こしていた事件を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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夕陽を呪う

 

 

 その日、前日の台風による大雨のせいで痛いほどの日差しだった。

 台風一過という言葉の通りね。

 青空の下で授業を受けて、友達と散々お話をした後、のんびりと駅前でショッピングなんかをしながら帰途についていた。

 陽が落ちる時間が早くなり、まさにつるべ落としの秋がもうすぐやってくる、少しだけ物悲しい夕方だった。

 西の方は綺麗な夕日になっていた。

 影法師が長くなり、妙に黒々としている。

 気が付いたら、あたしと一緒に歩いている人がいない。

 なんとなく感じていた寂しさよりも、薄気味悪さが先に立ち始めた。

 産まれたときから住んでいられる町とはいっても、突然、おかしなことが起きない訳でもない。

 特に、あたしは去年の終わりにとんでもないトラブルに巻き込まれたことがあるのだから、平凡な生活が一瞬で異界へと変貌することを、そのへんの誰よりも深く理解していたといってもいい。

 だって、いきなり妖怪に見初められて殺されそうになるなんて、普通は体験しないでしょ。

 そんなこともあって、あたしは突然のこの雰囲気の変化に目敏く反応してしまったというわけである。

 そして、その勘は当たっていた。

 

「―――すずちゃん」

 

 背後から名前を呼ばれた。

 涼花(すずか)だから、すずちゃん。

 子供の頃はともかく、最近はあまり呼ばれなくなった綽名だった。

 振り向いた方がいいの、振り向かない方がいいの?

 でも、結局、あたしは声の主を知りたくてそちらを向いてしまった。

 

「だれ?」

 

 そこにいたのは小さな女の子だった。

 二つの小さなおさげが印象的な、赤いワンピースの女の子。

 後ろ手で手を組み、あたしを舐めるように見上げていた。

 上目遣いが……四白眼(しはくがん)だった。

 三白眼より更に黒目が小さく、まるで驚いたような眼の事を四白眼というのだけれど、彼女はまさにそれだった。

 上下左右に白目の部分が四箇所見えることから四白といい、聞いた話では目的のためには手段を選ばない鬼の目と呼ばれるそうだ。

 目力というものが異常に強く感じられるから、そういう風に言われるのだろうか。

 ただ、正直なことを言うと、この女の子の視線はあまりにも無作法でいらっとするものではあった。

 しかし、あたしはその中に親しみのような、人懐っこいものを感じた。

 明らかに好意を抱かれている。

 でも、あたしって近所の子供と仲良くしたことなんて、昔ならとにかく、ここしばらくはまったくない。

 子供の頃はアウトドアだったけど、小学生になったころくらいからインドアの遊びが中心になった。

 反対に、うちのお兄ちゃんは近所の子と遊んだりはしないもやしっ子だったはずなのに、今はよくわかんない肉体労働者っぽくなっている。

 見た目は変わらずもやしの癖に、ごく自然に腕立て伏せ百回を軽くこなすようになっていた。

 まあ、平然と五百回ぐらいやってしまうお姉さまと比べると屁の河童なんだけど。

 それでも体育会系の部活でもない、ただの帰宅部の男子高校生にしてはかなりのものだと思う。

 たまにお風呂なんかで裸を見るけど、意外といい身体なんだよね。

 ちょっと指で押すと弾くし。

 って、お兄ちゃんのことはどうでもいいか。

 問題はこの女の子があたしに対して親し気なオーラをだしているということ。

 しかも、さっきの呼び名。

「すずちゃん」だ。

 間違いなくあたしのことを知っている。

 親戚にこんな子がいたかなあ。

 

「あなた、だれ?」

 

 もう一度問いかけると、女の子は、

 

「すずちゃん。遊ぼうよ」

「―――何をして?」

 

 はぐらかされたとわかった。

 この子はあたしに名乗る気はないのだろう。

 だとすると、何度も問い返しても時間の無駄だ。

 だったら、話にすぐに乗ったほうがいいかもと判断。

 

「すずちゃんの家で遊びたい。きょいっちちゃんにも会いたい!」

「―――お兄ちゃん?」

「うん。きょいっちちゃん、大好き!」

 

 この子、お兄ちゃんのことも知っているのか。

 しかも、きょいっちって……

 随分と昔のお兄ちゃんの綽名だ。

 そんな名前で呼ばれていたのは、確か、幼稚園の頃の……

 

「もしかして……」

 

 あたしはこの女の子に心当たりがあることに気が付いた。

 升麻涼花を「すずちゃん」と、升麻京一を「きょいっちちゃん」と呼ぶ女の子は一人しか思い出せなかった。

 

「―――サクラちゃん?」

「ねえ、どうしたの? 早く、すずちゃんのお(うち)に行こうよ!」

「ちょ、ちょっと待って」

 

 手を握って歩き出そうとするサクラを止める。

 本当にサクラと言ってしまっていいものかわからないけど、あたしの記憶の片隅にある彼女とは瓜二つだった。

 あのとき、あたしと同い年の彼女がどうしてここに。

 いや、それよりも……

 

「赤い……」

 

 夕陽の血のような紅と、サクラの着ている赤いワンピースが溶け合うようにさらに混じり合っていく。

 まるで人の血と血が戦場で洗い合うような、真っ赤な混沌と泥みたい。

 十年ぶりぐらいに会う、かつての幼馴染は昔のままの姿であたしの手をとる。

 

「ねえ、早くってば!」

 

 だが、あたしはその手を払った。

 残酷かもしれないけれど、彼女の手をとれない理由があった。

 この子を―――サクラをうちにあげてはいけない理由が。

 

「ダメ。サクラをうちには入れてあげられない」

「……どうして。どうして、そんな意地悪を言うの。サクラとすずちゃん、友達じゃない!それに、きょいっちちゃんだって!」

「ごめん。帰って。どこから戻ってきたか知らないけれど、もう帰って! お願いだから!」

 

 すると、サクラは目を吊り上げた。

 彼女は泣く真似とかはしない。

 嘘はたくさんつくけど、泣いて媚びを売ったり、誤魔化すようなことはしない。

 記憶の中のサクラはそういう子だった。

 

「すずちゃんのバーカ! 嫌い、大っ嫌い! みんなみたいに嫌い!」

「サクラ!」

「死んでしまえ、あんたなんか産まれなければ良かったのに! 酷いバカ!」

 

 サクラは西に向けて、つまり夕陽目掛けて走り出した。

 彼女の服の赤と、逢魔が刻のような紅が、完全に混ざり合い、サクラは消滅した。

 少なくともあたしの眼にはそう見えた。

 

 ―――死ねばいいのに!!

 

 小さな女の子の吐いた呪いだけが、立ち竦むあたしに纏わりついていた。

 

 

 

 

 



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あの幼女はどこへ?

 

 

「……その夕陽に消えていった女の子が怪しいということなんだね」

 

 お姉さまは普通ならば眉唾物の話を真剣に聞いてくれる。

 職業柄、そういう話を担当しているということもあるのだろうが、基本的に態度が真摯な女性(ひと)なのだ。

 あたしが魅かれているのはこんなところだった。

 

「怪しい……というか、もう100%、怪しいところしかないというべきなんだと」

「どういうことだい?」

「―――つまり、ですね。その女の子……羽沼サクラは、十年ぐらい前、あたしが幼稚園のときに行方不明になっているんです」

「まあ、涼花の口ぶりからすると、だいたいそんなところだろう。亡くなっているという訳ではないんだね」

「はい。当時、結構大々的な捜索がされたんですけど、みつからなくて、ニュースにもなったと思います。ちっちゃかったんで、細かくは覚えていないんですけど……」

 

 お姉さまは腕組みをして、おとがいに指を当てた。

 考え事をしているときの彼女の癖だ。

 はっとするほど知的に見える。

 もともと並大抵のレベルではない美少女なので、こういう何気ないしぐさがとても魅力的だった。

 

「十年前に消えた女の子が、当時の姿そのもので戻ってきた、ということか。神隠しからの戻り人か、この世に未練の残った幽霊の可能性があるね。さっきも言った通りに、涼花は妖魅に好かれやすい体質だから、異常が現われたとなったらとっとと解決した方がいいか。よし、すぐにとりかかろう」

「ごめんなさい……」

「何を言っているんだい、涼花のために動くのは当然のことだろ。なんといってもボクの可愛い妹分だからね」

 

 この人はいつも男前だなあ。

 だから、あたしはお姉さまが好きなんだけど。

 

「じゃあ、とりあえず、その羽沼サクラがいなくなった事件というのを調べてみようか」

 

 

           ◇◆◇

 

 

 お姉さまが所属している〈社務所〉という組織に問い合わせると、一時間もしないうちに事件の詳細が送られてきた。

 たまに愚痴られているのを聞くけど、組織としては相当フットワークの軽いところみたい。

 

「羽沼サクラの失踪は五歳の時。涼花と同い年だから、幼稚園の年長さんといったところか。ボクが小学校にあがってすぐぐらいの出来事だね。覚えてないな」

「ちっちゃい頃はニュースなんて見ませんし」

「そりゃあそうだ。たぶん、その頃だと、ボクはデカレンジャーかマジレンジャーを観て夢中になっていたかな」

 

 趣味嗜好が男の子なのよね、この女性(ひと)って。

 女子力が欲しいというのが口癖なのに。

 

「母親がいつまでたっても帰ってこない子供を心配して、近所の交番に届け出た。これが男の子ならば、コンビニでいつまでも立ち読みしていたり、どこかで昼寝をしていたりすることもあるけれど、サクラは女の子だ。事件に巻き込まれた可能性もあるから、警察もすぐに動いた。結果として、彼女は見つからなかった。足取りも消えた、と」

「―――そんな、お母さんが疑われてる……」

「匿名掲示板全盛の時代だからね。益体もない風聞がすぐに駆け巡ったんだろう。子供が消えた母親の苦悩なんて、ネット越しに見ている連中には見えないんだ。無責任に囃し立てるだけさ」

 

 あたしはお姉さまと一緒に、サクラと再会した路を歩いていた。

 子供の頃からよく知っている場所だ。

 意識的に思い返してみると、色々な記憶がある。

 その中にはサクラとのものも当然に存在していた。

 今となってはあまりにも噓っぽい友達関係だったけれど。

 

「児童公園があるね」

 

 お姉さまが指さしたのは、住宅街の片隅にあるそれなりの大きさの児童公園だった。

 見覚えのある遊具がまだ備え付けられている。

 

「少し観てみるか」

 

 野球やサッカーをやるには狭いが、バレーやバスケットボールをすることはできそうな空間を木々で囲まれた癒しのための場所であった。

 まだ陽は昇っているのに、子供の姿は見えない。

 少子化の影響というだけではなさそうだ。

 雑草の生え方はあまり人が利用していないことの証明かもしれない。

 

「ふーん、ここで涼花や京一が遊んでいたのか。そのサクラという行方不明になった女の子と一緒にね」

 

 感慨深そうにお姉さまが呟く。

 実際、あたしの家からは近いし、そう考えても不思議ではないだろう。

 でも、違うんです。

 

「あたしはそうかもしれません。でも、お兄ちゃんは違います」

「うん? どういうことだい?」

「お兄ちゃんはあまり外に出て遊ぶ子供じゃなかったので」

 

 すると、お姉さまは不思議そうな顔をした。

 

「京一は見た目よりも外に出掛けたり、他人とコミュニケーションを取るのが得意なタイプだと思うけど……?」

「それは小学校の高学年になってからですね。それまでは、外で誰かと遊ぶなんてことはしない男の子でした」

「へえ」

「幼稚園でもたぶん積極的に遊んでいたことはないと思います」

「意外だね。まあ、ガキ大将のイメージはないけど、誰かについていったいして遊びには混じっていた感じがしていた。じゃあ、なんで件のサクラは京一と遊びたがっていたんだい?」

「それは……」

 

 サクラについては、いずれ全てを話さなくてはいけないことはわかっていた。

 でも、彼女が今になって姿を現したことと、それとは別かも知れず、どこまでお姉さまに話していいものか、その加減がわからなかった。

 とはいえ、お兄ちゃんに頼れない以上、お姉さまに縋るしか道がないのも事実。

 やはりきちんと説明をするべきだよね。

 

「実は……」

 

 そう切り出したとき、またあの声が聞こえた。

 

「すずちゃん、その子……だれ?」

 

 昨日と同じ夕陽。

 その中からサクラは現れた。

 さっきまでは気配も感じさせなかったのに。

 やはり、お姉さまの言うとおりの……

 

「この人は……」

「サクラと遊んでくれないのに、そんな怖い子となにをしているの?」

「待って、サクラ。この人は……」

 

 あたしが説明をしようとしたとき、お姉さまに止められた。

 彼女はあたしたちの間に割り込むように入って、

 

「ボクはこの子の義姉だよ。初めましてだね、羽沼サクラ」

「嘘。すずちゃんにはお姉ちゃんなんかいない。おまえ、ウソつきだ」

「キミが涼花のことを全部知っている訳ではないだろ? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 あからさまな挑発だったが、サクラは見た目と同じで幼女でしかない。

 簡単に引っかかった。

 なんというか、お姉さまは煽るのがものすごく上手い。

 

「サクラのこと、バカにしてる?」

「いや。でも、キミのようなお子様を家にお邪魔させて京一に会わせるのはダメだとは思っている」

「きょいっちとサクラを遊ばせないつもり……なんだ」

「まあね」

「許さない……。絶対に許さない……!」

 

 サクラの様子が変わっていく。

 それはまるで人が猿にでもなるかのごとき、変貌を遂げていく。

 あたしは、かつての友達がやはりもう人間ではなくなっていたことを受け入れざるを得なくなっていた……

 

 

 

 

 

 

 

 



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異形幼女

 

 

 みるみるうちに、サクラは人から得体のしれないものになっていく。

 四肢のバランスが崩れて妙に両腕が長くなり、猫背になり首が腰の位置と同じ高さにまで下がる。

 手は何かを引っ掻くときのように爪が伸び、眼窩が窪み、歯ぐきが剥き出しになる。

 可愛い幼女であったはずのサクラが瞬く間に猿にも似た変貌を遂げたのを、あたしは驚きと共に見つめていた。

 いったい、あの子に何が起きているというの……。

 

邪鬼変化(メタモルフォーゼ)かい。やはりただの幽霊ではないね。地縛霊でもなさそうだし……」

「お姉さま!」

「下がっていなよ、涼花」

 

 お姉さまが前に進む。

 サクラの変貌の様子などまったく気にも留めていない。

 この人にとってはこんなことは慣れっこなのだろう。

 

『グルグルグルルル……』

 

 人間としての理性さえも失いかけたようなサクラが咽喉を鳴らす。

 猿にも似た動きを見せて、ゆらりと近づいてくる。

 そして、瞬きを一回した間にその姿が消えた。

 サクラはお姉さまの眼前に現れて掴みかかった。

 十本の鉤爪が首に伸びる。

 しかし、お姉さまはその両手首を簡単に握ると、回転を掛けて投げ捨てた。

 四回転をするフィギュアスケートの選手のような回転をして、赤いワンピースを翻しても、サクラは器用に地面に着地した。

 まるで足に磁石がついているみたいだった。

 仕草からしても猿っぽい容姿そのままだった。

 

『ウキャアアア!!』

 

 再び、サクラが奇声とともに襲い掛かる。

 下から撥ねあがってくる不気味な動きをまるで予想していたかのように、掌で押さえつけ、お姉さまはサクラの腕を捻り、逆に極めた。

 打ち合わせでもしていたのではないかと疑われるぐらいにスムーズな動きだった。

 

「―――子供を殴ったり、蹴ったりはしたくない」

 

 関節をとるのは構わないんですね。

 

「さて、聞くよ。キミをそんな存在にしたのは、何物なんだい? どうもキミには幽霊の癖に現身(うつしみ)があるようだ。いくらなんでもちょっとおかしい。どうしてそうなったか、教えてもらえないかな?」

『は、離して!!』

「そうもいかない。キミはかなりボクの義妹にご執心のようだし、野放しにしておくには素性が怪しすぎる。ここはなんとしてでも事情を説明してもらおうか」

『許さない! あんたなんか許さない! サクラをいじめるなんて許さない!』

「―――別にイジメてなんかいない。この御子内或子がイジメなんてするはずがないだろう」

 

 それは確かですけど、今のサクラに言ってもきっと無駄かなあ?

 

「おっと暴れるな」

 

 幼女を痛めつける嗜虐的嗜好のないお姉さまなので、これ以上力を加えることもできないでいると、サクラの身体がぐにゃりとしなった。

 とても骨が入っているとは思えない、全身がまるで軟骨でできているかのように曲がると反対方向に撥ねて、お姉さまの関節技から逃れる。

 猿というよりもウナギだった。

 さすがのお姉さまも完全に捉えきれずに、サクラを逃がしてしまった。

 

『許サナイ!! アンタヲ許サナイ!!』

 

 逆上して呂律も回らなくなったサクラが憎しみの声を上げた。

 耳にしただけで腐ってしまいそうな怨嗟の声だった。

 

「何を許さないっていうんだい? そこを具体的に説明してくれないとわからないよ」

『許サナイ!!』

 

 素人考えでも霊に対して恨みを具体的に説明しろといっても無駄な気がする。

 そういうのをわかりやすく打ち明けてくるようだったら、そもそも簡単に成仏してしまえるのではないだろうか。

 抱えた負の感情を説明できないから霊は怖い存在になっているのだと、あたしなんかは思う。

 

「さあさ、説明してくれないかな」

 

 案の定と言おうか、サクラは身を翻すと前のように夕陽目掛けて走り出した。

 彼女の赤いワンピースが、同色の夕陽のそれと混ざり合ったとき、サクラの姿は忽然とは消滅した。

 この間と同じように。

 あたしはまたそれを茫然と眺めているしかなかった……。

 

 プルプルプル―――

 

 スマホの着信音が鳴る。

 聞き覚えがない、おそらくお姉さまのものだった。

 ポケットからだしたスマホを耳に当てるお姉さまの顔が少し驚いたものになる。

 

「―――霊障を受けた男性だって……。うん、うん、命は無事だけど、意識は戻りそうもない? ああ、わかった」

 

 その険しい顔からして、どうも退魔巫女としての事件らしい。

 お姉さまがさっきまでとはやや違う顔つきになる。

 

「涼花、ちょっと付き合ってくれないか」

「なんですか?」

「―――この近所で、霊障―――つまり悪霊などによってつけられる傷がもとで意識を失っている男性が発見されたらしい。ただ、その傷をつけた相手がね……」

「ん?」

 

 お姉さまはちょっと口淀んで、

 

「ボクの感じでは、今のサクラの仕業のような気がするんだ」

 

 と気まずそうに言った。

 

 

 

 

 



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サクラの謎

 

 

 会社帰りだった林洋介は、自分のアパートの階段の前で声をかけられた。

 

「おじさん、おうちに帰るの?」

 

 まだ三十になったばかりとはいえ、後ろに立っていた小さな子供からすれば、林も十分に大人にみえるだろう。

 声をかけてきた女の子はどう見ても幼稚園児ぐらいにしかみえない。

 赤いワンピースを着ていて、にこっと笑っていた。

 陽が落ちていないとはいえ、時間的にはもう六時を過ぎている。

 このぐらいの年齢の子供が一人で歩き回っていていい時間ではない。

 

「ああ、そうだよ」

「お仕事の帰り?」

「まあね。君もさっさとお帰り」

「おうちに帰るんだ。じゃあ、サクラも連れて行って」

「えっ?」

 

 この幼女は何を言っているんだ。

 林は自分の耳を疑った。

 

「なんだって?」

「サクラをおうちに連れてってよ」

「―――おいおい」

 

 こんな小さな子を家に連れ込んだりしたら、今どき、どんな目に合わされるかわかったものではない。

 事案だ、とかいって。

 つい最近では普通に挨拶をしている子供に、挨拶を返しただけで通報された事例もあるらしい。

 また、迷子の子供を保護しただけでも誘拐犯の汚名を着せられた主婦の話もある。

 つまり、知らない子供とは無闇に会話するだけでも危険なのだ。

 そうであるのならば、家に連れ込んだりしたら、もうどういうことになるか想像がつくというものだ。 

 

「すまないけど、君を家に挙げることはできないよ」

「どうして?」

「……どうしてと言われても……」

 

 林は幼女趣味があるわけではない。

 だから、小さな子供を性の対象としてみたことなど、これまでの生涯で一度たりともない。

 この機に乗じてイタズラしてやろうとかいうよこしまな考えもなかった。

 サクラと名乗る幼女を連れて帰る気はまったくない。

 どうしてと理由を聞かれてもどうにもならないのが事実だ。

 うまい言い訳を思いつかなかったので、適当に言葉を濁して答えた。

 

「おれは君の友達じゃないからだな。友達でもないやつを家に上げることはしないんだ」

 

 自分的にはナイスな発言と思ったが、サクラはぷぅと頬を膨らませた。

 目つきが悪くなっているのできっと腹を立てているのだろう。

 

「じゃあ、サクラと友達になろうよ」

「いや、俺は子供とは……」

「友達になってよ!!」

「だから」

「あんた、最低、サクラが可哀想じゃないの! ちっちゃい子がお願いしてるんだよ!」

「―――わからねえやつだな。子供の相手はしてられないっていってんの」

「サイテー!」

 

 口を利けばきくほど激昂していき、まさに小粒な夜叉になっていくサクラがだんだん面倒くさくなっていく。

 しかも、こんなところを誰かに見られたら通報されかねない。

 どうしようもなくなって、林はサクラとの会話を打ち切って、階段を昇り始めた。

 一刻も早く遠ざからないと。

 

「待ってよ!」

 

 背広の裾を掴まれた。

 だが、幼女の力などたいしたものではない。

 完全に振り切ってしまえばいい。

 林はさっさと歩きだそうとした。

 だが、がくっと身体が止まる。

 裾を引っ張られているせいで動けなくなったのだ。

 

「な、なんだよ! いい加減にしてくれよ!」

 

 イラつきながら振り向いた林は、背筋におぞましい寒気が走るのを感じた。

 彼の背広を掴んでいたのは、サクラであったが、サクラではなかった。

 顔の四分の一を占めるかのように肥大化した眼は、人間のものとは思えなかった。

 角度のせいではない。

 確実に、サクラの眼は肥大化していたのだ。

 

「ひぃ!!」

 

 思わず、引き攣った声が出る。

 人間は予想していない出来事に遭遇したとき、まともな反応などできはしないのだ。

 

『サクラをイジメようとした。友達なのに、嘘をついた』

「イジメてない! おまえなんか友達でもない!」

『サクラはあんたのことが嫌い。嫌い。嫌いだ。だから、あんたなんて死んじゃえばいいの!』

 

 サクラの腕が伸びだ。

 子供の腕がこんなに長い訳はない。

 身長差があるはずなのに、どうして()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そして、この異常なまでに強い力はどこからやってくるのか。

 親指が喉を強く圧迫し、林は呼吸がまったくできなくなった。

 しかも、サクラを力づくで排除しようとしても頑として動かない。

 

(く、苦しい……)

 

 意識がなくなっていく。

 眼が擦れ、何も見えなくなる寸前、林の視界にサクラの顔が見えた。

 肥大化した眼だけでなく、耳まで裂けた口から、鮫のような牙がずらりと並んでいた。

 それだけでなく、口の奥で蟲のごとく蠢く長い舌も。

 あまりのおぞましさに、林はそれを確認した瞬間に……

 

 気を失った。

 

『あんたなんて産まれてこなければよかったのに……』

 

 呪いのような言葉がいつまでも耳から離れなそうもなかった。

 

 

     ◇◆◇

 

 

「―――その林何某は、ここで倒れていたんだね」

『ソウジャ、巫女ヨ』

「わかった。あとはボクに任せてくれ。八咫烏は何かわかったら、また教えてくれ」

『……ソレハイイガ、珍シク小僧ハイナイノカ? 巫女ダケダト危険デハナイノカ?』

「別に京一がいなくても問題ないよ。さあ、さっさと帰るんだ」

 

 あたしは久しぶりに喋るカラスを見た。

 たまにお兄ちゃんの部屋のベランダにとまっていて、水を飲んだりしているので馴染みがあるといえば馴染みがある。

 お兄ちゃんとは仲が良くないので、よく口喧嘩をしているところも見かけたことがある。

 なんでも、使い魔というものらしく、普通の鳥ではないみたいだ。

 でないと、お喋りはしないよなあ。

 カタコトだけど。

 でも、退魔巫女のお姉さまたちと違って、普通の高校生の癖にあれと友達付き合いができるうちのお兄ちゃんは中々のツワモノだよね。

 昔からあまりものに動じないとは思っていたけど、身内の想像以上にずれていたみたい。

 

「あ、カラスさん。お兄ちゃんとこれからも仲良くしてあげてね」

 

 するとカラスは、じっとあたしを見て、

 

『貴様モ小僧ト同ジナノカ……。マッタク兄妹ソロッテ難儀ナコトダ』

 

 と愚痴るように呟いた。

 どういう意味だろうか。

 鳥類に哀愁ある態度をとられると対応に困るというものだ。

 

『言ッテオクガ、我ハ貴様ノ兄トハ仲良イ関係デハナイカラナ。カアーーーーーーー!!』

 

 と、ひと声鳴いて飛び去っていった。

 

「なんだ、八咫烏の奴。珍しいこともあるものだね」

「珍しいんですか?」

「まあね」

 

 お姉さまは飛び立っていったカラスのことをすぐに頭から外して、アパートの周囲を調べ始めた。

 手にした御祓い棒みたいなものを振ったりして、階段の下などを探っていく。

 その姿は虫眼鏡をもつ名探偵のようでもあった。

 

「―――妖気があるね。しかも、この感じはやはりサクラのものと同じだ。その意識がないという被害者の傷口を調べればもっとはっきりするだろうけど」

「お姉さま、それはサクラがやったということでいいの?」

「まあね。ただ、これでサクラが人に害をなす悪霊になったという事実が立証されてしまった訳だ。こうなる前に止めて成仏させたかったところだったのに」

 

 かなり悔しそうなお姉さま。

 悪霊であったとしても、小さな子供の姿をしたものが悪業をなすということが痛恨なのだろう。

 この人はそういう優しい女性だ。

 

「そこの二階に、被害者の林何某は住んでいたようだね。そこから想像がつくのは、サクラは彼に対しても涼花に言ったように『家に上げてくれ』とせがんだんだろう。それを断られたから襲った」

「……そんな気はします」

 

 お姉さまは腕組みをした。

 いつもの考える仕草だ。

 

「ただ、不思議なのは、どうして他人の家に上がりたがるんだ? あと、涼花がサクラを家に連れていくことを極端に嫌がることの理由が今一つわからない。確かに、妖魅の類いに名前を教えたり、ヤサを知られるのを嫌がるのはわかる。だが、曲がりなりにも幼稚園のときには友達付き合いをしていたんだろ? ボクの知っている涼花の態度としてはひどく不自然だ」

「……」

「理由を説明してくれるかい?」

 

 やはり見抜かれちゃったか。

 さすがはお姉さまだ。

 普段は脳筋なんだけど、いざというときはとんでもなく頭が回る。

 あたしは覚悟を決めた。

 

「わかりました。―――すべて、というか、一つだけなんですけど、理由は」

「それはなんだい?」

「一度だけ、家にサクラをあげたことがあります。そのとき、お兄ちゃんは疲れていたのか自分の部屋で寝ていたんですけど……」

「やはり京一絡みか」

「―――はい。あたしと遊んでいたサクラは、『トイレ』といってすぐに帰ってきませんでした。心配になって、家の中を探しているとお兄ちゃんの部屋にいました。……サクラは裸になって寝ているお兄ちゃんにしがみついていました」

 

 お姉さまの顔が険しくなる。

 

「その時、サクラは寝ているお兄ちゃんに腰を……下半身を押し付けていました。大人になってから意味がわかりましたが、当時は不明でした。ただ、なにかしてはいけないことをしているということはわかりました。だから、あたしはサクラを突き飛ばし、服を着せてから家から追い出しました。絶交もしました。それ以来、あたしはサクラと口もきいていません」

「子供の時のいたずらとしてはちっょと性的すぎるね……」

「サクラが行方不明になったのはそれから数か月後でした」

 

 あたしとの絶交が原因だったとは思えない。

 だって、その頃にはサクラは大人たちの間でも「良くない子」として認識されてしまっていたからだ。

 ただでさえ少ない友達も、親に言われてサクラとは遊ばなくなっていた。

 行方不明のときには、サクラの周りには誰もいなかったと思う。

 だけど、あたしは時折彼女のことを思い出し、もう少し別の付き合いがあったんではないかと自問自答することがあった。

 今回のように、まるであの世から彼女が帰ってきたような場合を想定したことはなかったけど、再会してしまった以上、なにかをしてあげなければならないような気がする。

 例え、それが偽善だったとしても。

 

「なるほどね。なんとなく背景が見えてきた。―――行方不明になる前のサクラの行動から見えてことがあるね」

「なんですか、それ」

「つまり、サクラは、今でいうところの放置子だったんだろう。そう考えれば彼女の行動が納得できるものになる」

 

 放置子?

 まさか……

 

「サクラが他人の家に入りたがるのは、自分の家に帰れないからなんだろう。―――よし、これでかなり解決の糸口がつかめたぞ。行くぞ、涼花」

 

 お姉さまが歩き出した。

 あたしにはまったくわからない答えを見出して。

 

 

 



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悪霊の棲む家

 

 

「放置子っていうのはね、親が愛情を注がないで、まったく構わないで育っている子供のことをいうんだ。軽い虐待(ネグレクト)に近い育てられ方をされているともいえるかな?  放置子は親からの愛情が足りないことで、足りない愛情を得ようとして、色々とトラブルを起こすことがあるんで社会問題になっているんだ」

「―――トラブルって?」

「基本的に、放置子は愛想が良い子供が多くてね、他人になつきやすいんだけど、友達の親にも両親の代わりを求めたりして、毎日のように押しかけてくるということがある。また、かなり攻撃的なことがあり周囲に八つ当たりすることもある。愛情を手に入れようと異常なまでに構って欲しがる傾向があるんだ」

 

 言われてみると、あたしの人生でも何人かそういう子は見てきたことがある。

 もちろん、筆頭といえるのはサクラだったけど……。

 じゃあ、サクラはお姉さまの言う放置子だったのかな。

 

「親が教えないないから時間にもルーズで、いつまでも外で遊んでいたりするし、かつての鍵っ子とかと違ってね、まったく親のフォローが期待できないんだよ。ターゲットにされると、よその家庭まで苦労させられる羽目になる。とはいえ、放置子からすると、愛情に飢えているからそれを得ようともがいているだけなんだけどさ」

 

 サクラがやたらとあたしの家にお邪魔しようとしたり、お兄ちゃんと遊ぼうとしたのもそういうことなのか。

 彼女と夕暮れのイメージがダブるのは、サクラが家に帰らず、いつも外にいたことの結果なのだろうか。

 

「サクラ……」

「でも、ただの放置子とはいえない可能性もあるね。その、涼花が目撃したという、うーん、疑似的性交渉みたいな振る舞いのことかな」

 

 サクラがしていたことが、そういうことだというのはもうあたしにはわかっている。

 ただ、それを口にするのに恥ずかしがっているお姉さまは可愛かった。

 この様子だと、まだお兄ちゃんとはそういう関係にはなっていないみたい。

 いや、お姉さまが本当のお姉さんになっても、あたしは一向に構わないんだけどね。

 

「サクラが裸になっていたことですか?」

「うん。放置子が愛情の代替行為をすることはわかるんだ。ただ、性行為まではあまり聞いたことがない。しかも、就学前の女児だろ。普通はそういうものに触れることはないし、真似をするなんてありえない。常日頃から接していない限りはね」

 

 確かにその通りかも。

 

「―――つまり、サクラの周りには、子供に気を遣わずに……その……ふしだらな行為に励む人がいた、と?」

「だろうね。まあ、十中八九、母親だろうけど。女の子が真似をするのならば、母親だろうし、好きになっている男の子の気を引くためにそういうことをしたというのならそうなんだと思う」

「サクラは……お兄ちゃんのこと好きでしたから」

「妹としては絶対に近づけたくない相手ではあるだろうね」

「そんなことは……」

 

 当時のあたしの考えとしてはそれで間違っていないはずだ。

 あたしにとって、サクラは得体のしれない異物だった。

 理解しようとは思わなかった。

 

「あと、母親だと想像したのは、もう一つ理由がある」

「理由……ですか」

「サクラが行方不明になった際、事件性の関与を疑われたのが母親だったからだよ。サクラの失踪には間違いなく母親の影がある。―――だから、ボクたちはとりあえず母親のところに向かっているんだ」

 

 ああ、お姉さまがさっきからスマホのナビを頼りにどこかに向かっていると思ったら、そういうことか。

 サクラが住んでいた場所に向かっているのだろう。

 でも、あたしの記憶ではもう少し違う場所にあったような……

 

「当時の家ではないよ。〈社務所〉の調べでは、彼女は今では別の場所に暮らしている。というよりも、サクラの事件の後に交際していた男のところに転がり込んだらしい。ボクたちが目指しているのはそっちさ」

「なんとなく、サクラが帰ってくるのを待っているものだと思っていました」

「彼女が住んでいたところは、今は空き地になっているらしいよ。もしかしたら、そのせいでサクラは彷徨っているのかもしれない」

 

 霊となって懐かしい我が家に戻ったら、もう誰もいない。建物さえもない。

 そうなったサクラがどのぐらいの絶望を感じたかは、あたしにもわからなくはない。

 

「母親のところで待っていればサクラがやってくるかもしれないしね」

 

 彼女が帰るべき場所を探しているとしたら、やはり母親のところなのかもしれない。

 放置子は愛情を、親からの愛情を求めているのだから。

 そう思うと、きっとサクラは安住の地よりも母親を探していると考える方がしっくりくる。

 しばらく歩いていると、一軒家に辿り着いた。

 広くない庭はたくさんの雑草と邪魔なのに刈り取られていない枝でジャングルのようになっていて、ゴミが玄関に散乱していた。

 雨戸は閉まりっぱなしだし、全体的に薄暗い印象だ。

 正直、三日と暮らしたくない家だった。

 サクラのお母さんはこんなところにいるのか。

 表札には、『高草(たかくさ)』とあった。

 サクラの苗字ではない。

 転がり込んだ男の家ということかも。

 

「嫌な感じの家ですね」

「―――涼花、ボクの傍から離れるな」

 

 お姉さまが鋭い目をして、警告してきた。

 

「妖気がある。しかも、サクラのものじゃない。別の種類の……妖怪のものだ」

 

 別の妖怪って……

 どういうことなの?

 

「〈護摩台〉を設置するほどではないけど、それにしたって弱すぎはしない相手か」

 

 お姉さまが内ポケットから、輪になったテグスのようなものを取り出した。

 それを門のところに縛り付け、何度か往復させる。

 

「簡易結界しか張れないけど、仕方ないか。……でも、何もしないよりはマシだね。さて、ちょっと様子を見に行くか」

「どうするんですか?」

「中に入る。涼花もついてくるかい?」

「―――行きます」

 

 あたしは即答した。

 傍を離れるな、と言われたこともあるけど、サクラがあんな風な悪霊になってしまった原因があるかもしれないと考えるとどうしても自分の眼で確かめたくなったのだ。

 

「わかった。何が待っているかは知らないけれど、サクラの件とまったく関わりがないことはないだろうしね」

 

 あたしたちは、用心しつつ、家の敷地内に入った。

 異臭が漂っていた。

 ゴミのものではなくて……糞尿とかでもない……あえて言うなら汗の臭いかも。

 人間からならともかく、家の敷地で嗅ぐタイプのものではないはず。

 思わず鼻をつまんでしまった。

 

「酷い臭いだ。―――よっぽど怠惰な生活をしていなければこんな悪臭はしないだろ」

 

 お姉さまも露骨に嫌がっていた。

 愚痴りつつも、四方を警戒しているところはさすがだなと惚れ直しそうになる。

 本当に素敵な女性(ひと)なんだよね。 

 

「行くよ」

 

 玄関のドアノブに手を掛ける。

 カチリと簡単に開いた。

 開けると同時に足元にずさっと新聞のチラシとかが滑り落ちてきた。

 玄関口に堆積していたものが雪崩落ちてきたみたい。

 中を見ると、屋内はゴミだらけになっていた。

 ゴミ屋敷的なものではなく、どちらかというと片づけられない女の部屋がそのまま迫力を増したみたいな感じ。

 使ったものを適当にそのまま置いておくと、こういう有様になるかも。

 整頓とか整理とかは全然考えていない。

 しかも、ショウジョウバエまでが飛んでいて非常に不潔だ。

 だいたい、玄関においてあるはずの靴さえも埋もれてしまってみえないぐらいだし。

 だけど、驚くべきはそこではなかった。

 家の何処からか轟くように聞こえてくる耳障りな音が一番の驚きだった。

 怖気が走るようなその音は―――

 

「いびき?」

「だね。―――なるほど、家屋に轟き渡るいびきをかく妖怪か。なるほど、放置子の母親に相応しい」

 

 どうやらお姉さまには、このいびきの主がわかったらしい。

 

「な、なんなんですか、この大きないびきは……?」

「非常に珍しいけど、確かに妖怪だ」

「妖怪のいびき?」

「ああ。―――この家に潜む妖怪は〈寝惚堕(ねぶとり)〉だよ」

 

〈寝惚堕〉。

 今まであたしが聞いたことのない妖怪がこの家の奥にいるらしかった……

 

 

 

 

 

 



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妖怪〈寝惚堕〉

 

 

「〈寝惚堕(ねぶとり)〉……?」

「ああ、そうだ」

 

 あたしは、そのあまり聞いたことのない妖怪の名前を舌の上で転がした。

 語感からすると、かなりユーモラスな妖怪である。

 ただ、お姉さまの顔つきからすると、油断できる相手ではなさそうであった。

 

「―――ジャバ・ザ・ハットって知っているかい?」

「えっと、スター・ウォーズの?」

「うん。あの、醜く太って、ブヨブヨした宇宙人さ。〈寝惚堕〉はあいつによく似ている」

 

 お姉さまが靴のまま、屋内に入る。

 普段の巫女服ではないからかリングシューズでもない、ただの学校指定のローファーだ。

 他人の家に上がり込むとはいっても、靴を脱ぐ余地もないごみ溜めみたいなところなので、行儀を気にするつもりはないみたい。

 もっとも、あたしも靴下を汚したくはないので脱がないけど。

 擬音にすると、ゴゴゴゴゴゴゥ的ないびきの音は奥から聞こえてくる。

 二階に上がる階段の裏手、廊下の突き当りの右、普通ならば家族の寝室があるような場所が発信源のようだった。

 

「ボクもさすがに現物は拝んだことがないけど、以前、先輩から聞いた話ではかなりぶくぶくと膨れているそうだ。ちょっと人間には見えないという話さ」

 

 廊下のスイッチを入れても、電灯は点かない。

 元が切れているのか、もしくは電気料金の支払いを滞納しているかってところね。

 家の中がこの惨状だと、きっと後者っぽい。

 

「暗くなる前に片をつけたいところだね。―――夜になるとなにが起きるかわからないから」

「はい」

 

 お姉さまは階段を避けて、奥へと進む。

 あたしもそれについていった。

 一応、足手まといにならないように用心して動く。

 うちのお兄ちゃんみたいに、少しでもお姉さまのお役に立ちたいのだ。

 

『ゴォォォォピュュュュフゥゥゥゥ……』

 

 いびきが少し呼吸音のようになってくる。

 これでようやく『いびき』だと実感できた。

 それまでは下手をしたら地鳴りにしか聞こえないのだから。

 

「奥の部屋か……」

 

 その瞬間、閉まっていた部屋のドアが開き、中から白い餅のようなものがだらりと零れ落ちた。

 びっくりしていたら、その餅が動く。

 人間が何かを掴むように、わきわきと蠢いた。

 白い猫かなにかかかと思ったが違う。

 最初の印象が正しかったのだ。

 それは、手首だった。

 まるで丸々と栄養が詰まった芋虫のような太い指と、一切陽に当たっていないからか病的な白い皮膚をもって手首だった。

 大きさからして、普通の人の手の五倍ぐらいはあるかもしれない。

 指を伸ばしきれば、ほとんど野球のホームベースだった。

 その手首から先は部屋の中に繋がっているようだった。

 

「お、おっきいです……」

「うん。〈高女〉や〈手長〉〈足長〉以上のサイズだ」

「―――あれが()なんですか!?」

 

 お姉さまは頷く。

 あの大きなものが人の形をしたものの手だなんて……。

 しかも、位置からすると、どんな格好で横たわっているのだ。

 

「危ない!!」

 

 突き飛ばされた。

 同時に、壁が内側から破壊されて、マンホールの蓋大の穴が空く。

 そこから顔を出していたのは、また信じられないサイズの人の脚の指と甲だった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!

 室内にいるものはそれだけ化け物めいた力を持っていた。

 

「ひっこめ!」

 

 お姉さまがパンチを喰らわせると、そのまま中に戻っていった。

 ただ、おかげで内部の様子がわかるようになった。

 用心しつつ覗き込むと、仰天する光景があった。

 床一面に白い餅が敷き詰められているような第一印象は、ある意味では間違っていない。

 白いのが人の皮膚の色であり、餅のようなものが実は豊満すぎる肉だったということを除いては。

 あたしは息を呑んだ。

 おそらく八畳間だろう、和室と思われる部屋の内部には収まり切れないほどに巨大化した人間が詰まっていたのだ。

 巨大化というよりも、肥大化?

 とにかく太りすぎた人間が寝転がっていて、置物どころか敷き布団のようになっているのだ。

 しかも、あたしの目にはどう見ても元はおっぱいだと思われる襞もあった。

 中の()()を通り越した、えっと……()()()()()()()は裸なのだ。

 部屋の中に煮凝りのように詰まった裸の女。

 それが〈寝惚堕〉だった。

 

「まったく、〈孕んだ女〉どころの騒ぎじゃないね。どうやって倒したらいいもんやら」

 

 響き渡るいびきの轟音に耳を塞ぎながら、お姉さまは愚痴る。

 ただ、さっきから息を整えながら、なにやら複雑そうな呼吸を続けていた。

 ホットヨガか何かだろうか。

 

「ちょっと試してみるか」

 

 素早く動いて、ドアの前に立つ。

 そこは肉の絨毯の敷き詰められた蓋となっていた。

 お姉さまは白い肉塊の目掛けて、二つの掌を合わせた突きを放つ。

 よくわからないが、その掌にはあたしには視えない不思議な力強さのようなものがこめられている気がした。

 双掌が当たると同時に、肉がびくびくと波が広がる様に震え、

 

『ギィィェェェェェェ!!』

 

 人のものとは思えない悲鳴が聞こえてきた。

 思わず壁の穴を覗くと、白い肉の絨毯が跳んでいた。

 効果あり。

 と思ったのもつかの間、お姉さま目掛けて拳が振り下ろされた。

 どれだけの体重があるのかはわからないが、少なくとも何十キロの肉に包まれた丸まっちい拳がお姉さまを襲う。

 間一髪、避けたお姉さまだったが、痛みに我を忘れたのかドタバタと暴れ回る〈寝惚堕〉のおかげで建物すべてが地震にあったかのように揺れ始めた。

 埃がたち、高いところのゴミが落下して足の踏み場がさらになくなる。

 口をふさがないと色々と入ってきそう。

 

「―――発勁も芯までは浸透(つた)わらないとはね。恐るべきは肉の壁だよ、まったく」

 

 階段の脇まで退避したあたしたちは、しばらく地鳴りのような〈寝惚堕〉の地団駄が収まるのを待った。

 あんなヒステリーじみたのに付き合いきれないし。

 

「……発勁って、さっきの技ですか?」

「うん、まあね。中国拳法の技なんだけど、頸を通せば、なんとか芯を壊せると思ったけど無理だったかあ。元が人間だから、直接〈気〉を浸透させれば倒せるとは思っていたんだけどさ」

「元は人間? もしかして、あの〈寝惚堕〉はサクラのお母さんなの?」

「十中八九ね。―――ま、自業自得みたいだけどさ。うーん、どうしようかなあ」

 

 あれが、サクラのお母さんの―――人の末路なの?

 肩が重くなった。

 どんな辛いことがあったら、あんな目にあってしまうというのか。

 あたしは人生というものも恐ろしさを目の当たりにした気分だった。

 でも、あんな姿のままでいることはきっともっと嫌だろう。

 あたしがサクラのお母さんだったとしても。

 

「人間に戻せるんですか?」

「んー、〈寝惚堕〉は人の中にムジナ―――化け狸が憑りついたことでなるとも言われている、元々の妖怪というわけではないから、とりあえず動きを止めて、儀式をすれば祓えるとは思えるんだけど……」

「動きを止めるにはどうするの?」

「ある程度の大ダメージを与えれば……でも、あの肉の塊だとねえ」

 

 あたしは思いついたことを言った。

 

「さっき、壁の穴から顔を見ました」

「なんだって?」

「室内全部がお肉ばかりのようでしたけれど、さっきの叫びとかいびきとかを出す口と顔があるのを見ました。他の部分と違って普通のサイズでした」

「……なるほど、つまり、頭部だけは肥大していないのか。竹原春泉の『絵本百物語』の画のように……」

 

 お肉の末端には、例の発勁というのは効かなくても頭にならば効くんじゃないの、それがあたしの考えだった。

 

「じゃあ、なんとかしてあの八畳間に入り込んで頭に一撃喰らわすか。わりと難しいけれど……」

「それについても、あたしに考えがあります」

「ふーん」

 

 お姉さまが面白そうに笑った。

 

「今日の涼花は、まるで京一みたいだ」

 

 まあ、それぐらいできないと、升麻京一の妹はやっていられないのよ、お姉さま。

 

 

 



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或子とサクラ

 

 

 あたしは、ようやく普通にいびきを掻き始めた〈寝惚堕〉の様子を確かめるために、奥に戻った。

 変化は―――ない。

 お姉さまに発勁なるものを叩きこまれた怒りはとうに冷えてしまったらしい。

 怒りすら長引かない、その怠惰さが〈寝惚堕〉という妖怪の特徴なのだという。

 しかし、下手に暴れられたら、この家ぐらいだったら完全に壊されてしまうだろう厄介さはあるみたい。

 あの部屋から一歩も出てこなければその限りでは害のある妖怪ではなさそう。

 でも、放っておくことはできなかった。

〈寝惚堕〉がサクラのお母さんの化けたものであるというのなら、あの子の変貌についても関係があるのかもしれない。

 退魔巫女のお姉さまという存在があるからこそかもしれないけど、元に戻せるものなら人間に姿にと願ってしまった。

 サクラという一人娘を失くして、彼女が悪霊となってしまい、しかも自分までが妖怪になってしまうなんて……

 助けてあげたかった。

〈寝惚堕〉の醜悪な容姿を目撃してしまったあとでは、その思いはさらに強くなっていった。

 あんな肉襦袢さえも通り越した塊のままでいさせていいのか、と。

 部屋に近づくと、さっきの壁の穴も出入り口も塞がれていた。

 白い肉の壁によって。

 こちら側に〈寝惚堕〉がもたれかかったのか、それとも意図的なのか、少なくとも既存の出入り口を使って中に突撃することはできなくなっていた。

 お姉さまは隙間から突入するつもりでいたみたいだけど、あの肉の壁を突破していかなきゃ不可能なのできっと無理だったろう。

 壁を破るという手もあるけど、もっと直接的な方法があった。

 あたしは、天井に向けて叫んだ。

 

「あ姉さまっ! どうぞ!!」

 

 合図と同時にお姉さまは動き出したはずだ。

 数秒の沈黙の後、ズシンと建物全体が震えた。

 

 バガン!!

 

 天井から夥しい埃が落ちてくる。

 何も知らなければ地震、しかも震度でいえば5か6ぐらいの揺れが襲った感覚だった。

 あたしも足元がぶれて、壁に寄りかかることになってしまう。

 それほどの大きな揺れだけど、震えたのはただ一度だけ。

 それはそうだろう。

 これはお姉さまのやったものだからだ。

 地震と同時に部屋を密室化していた肉がめくりあがる。

 あたしは危険なのを覚悟して、壁の穴を覗きこむ。

 ひと目で状況がわかった。

 八畳間の和室の天井に大きな穴が空いている。

 さっきまではなかったそれを穿ったのは、お姉さましかいない。

 そして、その通りだった。

 お姉さまは震脚という、全脚力を注ぎ込む踏み込みをすることで二階の床をぶち抜いたのである。

 一軒家の床を踏み抜いて自分が落下するだけのスペースを作り上げるという荒業ができるのは、おそらく世界中を探してもそんなにいたりはしないだろう。

 そして、自分でぶち空けた穴に飛び込み、落ちていく瞬間に、練りに練っていたあらん限りの〈気〉を発勁で叩き込んだのだ。

 例え、〈寝惚堕〉の豊富なお肉がクッションになっていたとしても、二階から一階に落ちる時間はほんの一瞬。

 瞬きする程度の刹那の時間。

 お姉さまは精確に、確実に、掌打を妖怪の顔面にヒットさせたのだ。

 しかも、体操のメダリストのように両足で着地までしていた。

 あたしが知っている限り、彼女の身体能力はほとんどトップアスリートレベル。

 信じられないような奇跡的なアクションを魅せたとしてもお姉さまはいつもと同じように泰然と腕を組んで立っている。

 彼女の足元の〈寝惚堕〉の肉体はぴくりともせず、それどころか、かつてあたしも見たことがある〈高女〉の最期のように薄く消滅していく。

 もう数分もしたら、この部屋を埋め尽くしていた妖怪〈寝惚堕〉は跡形もなく消え去って、サクラのお母さんの身体だけを残すだろう。

 そうなってから、初めて、彼女は助かるのだ。

 だけど、室内で仁王立ちをしているお姉さまの顔は鬼のように怖いままだ。

 まるでまだ敵がここにいるみたいに。

 

「―――涼花、いったん、外に出よう」

「でも、サクラのお母さんは……」

「衰弱はしているだろうが、命に別状はないはずだ。救急車を呼ぶにしても、ボクたちも新鮮な空気を吸った方がいいだろうね」

 

 何かを言う前に、あたしは強引に外に連れ出された。

 去り際に、部屋の中でしどけなく横たわるサクラのお母さんの姿が見えた。

〈寝惚堕〉そのままに全裸のようだったので、風邪をひかないか心配だったが、確かにお姉さまの言う通りに息はしているようだった。

 もう夕方どころか陽が完全に暮れかけていた。

 あたしたちは玄関の軒先で、カバンの中に入れておいて温くなった水を飲んだ。

 まだ、九月の残暑ということもあり暑さで咽喉が乾ききっていた。

 

「……一応、〈寝惚堕〉は片づけて良かったということにしようか」

「でも、これでサクラも成仏できるんじゃ……」

「涼花は勘違いしているようだけど、あの〈寝惚堕〉のせいでサクラがあんな悪霊じみた堕ち方をしたわけではないよ」

「えっ」

 

 あたしにはお姉さまの言っていることがよくわからなかった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()?

 戸惑っていると、

 

「うん、まあね。―――元凶といったら、妖怪よりはむしろ……」

 

 珍しく言いよどんでいるお姉さまが、腕組みをしていたら、

 

『―――すずちゃん、ここにママがいるの?』

 

 と、怖気の走る声がした。

 振り向いたら、そこにはサクラがいた。

 

「ちっ、忘れていたよ。〈護摩台〉に使われる結界は、妖怪を外に逃がさない効果があるけど、入るのはすごく簡単だったっけ」

「サクラ……」

『ママがそこにいるの』

「―――い、いないよ」

 

 思わず首を振ってしまった。

 今の悪霊となったサクラに母親と合わせる訳にはいかない、と。

 だが、背反する気持ちもあった。

 せっかく離れ離れになった親子が再会できるチャンスを棒に振ってもいいのか、とも。

 例え、それが妖しい力によるものであったとしても。

 

『ママ―――』

「サクラのお母さんは……」

「この家の奥にいるよ」

 

 あたしが嘘をついて誤魔化そうとしたのに、それを遮ってお姉さまが答えてしまった。

 サクラのお母さんの居場所を。

 

「えっ!?」

「キミは母親に会いたいんだろ、一階の一番奥で寝ているから行けばいい。ボクも涼花も邪魔はしないからさ」

「待って、お姉さま!! サクラをお母さんに会わせるのは……!!」

「いいんだよ、涼花。このまま行かせてもいい」

「でも!」

 

 あたしがサクラの前に立ち塞がろうとしても、お姉さまに止められた。

 見たこともない怖い顔をしていた。

 

「……いかせてあげてくれないか。きっとサクラは母親に会いにこの世に戻ってきたんだからさ。奇跡に導かれてね」

 

 こちらに視線すら向けずに、サクラは赤いワンピースの裾を翻して、建物の中に入っていった。

 すでにサクラはあたしたちのことなんか眼中にさえ入っていないようであった……

 

 



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帰り人

 

 

 サクラは無言で建物の中に入っていった。

 お姉さまは止める素振りすら見せない。

 関係のない一般の男性を、家に上げる上げないで病院送りにしたような悪霊そのもののサクラを、離れ離れになっていたお母さんと会わせるのはとても危険なのではないかとあたしは思うのに。

 邪悪な妖怪、魑魅魍魎を退治する使命を持ったお姉さまはどうして動かないのだろう。

 

「―――サクラはただの放置子ではなかったと思う」

 

 と、ぽつりと言った。

 

「どういうこと?」

「涼花の言っていた、升麻の家にあがりこんだときの全裸での行いは、完全に大人の性交渉の真似だろう。おそらく母親のね」

「……ちっちゃい娘の前であんなことをしていたってことなんですか?」

「多分、ね。だから、サクラは好きな男の子の気を惹くために、母親の真似をしたんだろう」

 

 かなりショックだった。

 子供にとって、両親が男女を思わす空気を発することも嫌がる場合もあるというのに、まだ幼稚園児の娘の前で男と関係を持つ母親やその真似をする子供なんて……

 そして、間違いなく十年前のあれはサクラにとっての、性交渉なのだ。

 

「で、でも……」

「それだけじゃない。サクラが涼花に言った『死んでしまえ、あんたなんか産まれなければ良かったのに! 酷いバカ!』という台詞もきっと母親の受け売りだろうね」

「あんな悪態を?」

「ああ。サクラは常にああいう罵倒を大人から受けてきたんだ。しかも、当時のニュースとかを読む限りでも父親の影はほとんどないから、父親のいない母子家庭だったのは間違いない以上、罵声を浴びせかけてくる相手は一人しかいない。つまりは、母親だね」

 

 サクラが受けていたのは、ただの育児放棄じゃなくて、もっと深刻な虐待だったのだろうか。

 昔を思い出す。

 そういえば確かにサクラは普通の子供ではなかった。

 わがままで、いじわるで、自分勝手で、でもそんなものは子供だったら全員そんなものじゃないかと思っていたけど、やっぱりサクラの場合は度を越していた。

 何かあったら叫ぶところや、異常なまでに大人に懐くところや、年下には決して優しくしないところは。

 あれが、きっと、虐待をされた結果の歪さみたいなものなのかな。

 これまで疎んで来たサクラの嫌なところが、実は彼女が原因ではないのではないかと思いいたると哀しくなってきちゃった。

 

「じゃあ、サクラは……」

「あの母親に虐待されていたのは間違いないだろう。しかも、ボクのみたところ、それだけじゃない」

「だけじゃないって……」

「〈寝惚堕(ねぶとり)〉という妖怪はね、結婚したのに家で何もせずに怠けて寝てばかりの堕落した女に、ムジナのような妖魅が憑りついたものなんだ。妻として、母としてだけでなく、女性として怠惰な人間が変化する、ある意味では因果応報的な存在さ」

「……堕落した女……」

「際限なく肥満しただらしない身体、服の一枚すら纏わない横着さ、家から出ようともしない怠けた態度、あの妖怪の姿なら一目瞭然だろ?」

 

 確かに、あの〈寝惚堕〉は、家事としての片付けもなにもしないだらしなさの塊のようなものがあった。

 

「しかも、性的にもふしだらなのは、サクラへの仕打ちと娘がいなくなってすぐに男の家に転がり込んでいることからもわかる。もっとも、前にいた家を引き払ったのはそれだけが原因じゃないとは思うけどね。―――母親は、娘と暮らしていた家に住んでいられなくなったのさ」

 

 お姉さまは吐き捨てるように言った。

 

「サクラを行方不明にしたのは()()()()()()()

「えっ?」

「もっと正確に言うと、サクラを殺してしまったんだよ、あの母親は。……事故や、病死の可能性もある。ただ、行方不明という明らかな嘘をついた以上、やましい気持ちはあったんだろうね。そして、すぐに住処を引き払ったこともそうだ。ただの行方不明なら、帰って来た時のために家はそのままにしておくもんだ。でも、それすらもしなかった。逃げるように男の家に潜り込んだ。まず、間違いなく、サクラを殺してしまったのはあの母親さ。あの母親が〈寝惚堕〉に憑りつかれたのは、母親であることさえも放棄してしまったたからじゃないか、そんな風にボクは思うね」

 

 じゃあ……

 じゃあ、お母さんとサクラを一緒にするというのは……

 サクラが母親に会いたがっているのは……

 死んだはずの彼女が十年後の夕暮れに帰り来た理由というのは……

 

「夕暮れの寂しくなる時間帯に、つい帰ってきちゃったのか……サクラ……」

「寂しかったのか、遊びたかったのか、それとも自分を捨てた母親への恨みを晴らしに来たのか……。ボクにはわからない。けれど、〈寝惚堕〉になった母親といい、家系的に妖魅に憑かれやすいのは確かだろうから、サクラがああなったとしても不思議だとは思わない」 

「お姉さまが、サクラに何もしなかったのは……」

「別に同情した訳じゃない。ただ、どんな結末になるにせよ、これは家族で解決すべき問題じゃないかと思っただけだよ」

 

 お姉さまは門に張ったテグスを回収し、道に出た。

 あたしは一度だけ、この家を振り返ったが、変わらず静まり返ったままだ。

 内部で何が起きているかは、十年前、サクラが家庭でどういう目にあっていたかと同様に想像することしかできない。

 家庭とは、そういう密室の場所であり、他人がおいそれと手の出せる空間じゃない。

 サクラが他人の家庭に入り込もうとし、拒絶されたのもある意味では仕方がないのだと思う。

 家庭とはそういうものなのだ。

 

 

         ◇◆◇

 

 

「ただいま」

 

 家に戻ると、リビングでお兄ちゃんがFPSの通信対戦をしていた。

 相変わらず妙に強い。

 しばらく視ていると、ようやくあたしに気が付いたらしい。

 

「おかえり。遅かったね、どこに行ってたんだ」

 

 と返事をした。

 そのくせ、こっちには視線さえ向けやしない。

 ゲームに熱中しているのはわかるが、あの時のサクラに無視されたことを思い出してとても不快だった。

 

「―――お兄ちゃん、サクラのこと覚えている?」

「……幼稚園の時の、おまえの友達だっけ?」

「うん、そう。サクラに会ってた」

「帰ってきてたの?」

「まあ、一時的に……だけどね」

「へえ」

 

 お兄ちゃんはあの子が行方不明になった事件のことを覚えていないようだった。

 すごく近所で起きた事件だったけど、もしかしたら子供たちには伏せられていたのかもしれない。

 それに当時のお兄ちゃんはあまり外に関心がなかったから、聞いていたとしても右から左に抜けていたのかもしれないかも。

 ただ、サクラがいなくなったという事実だけはなんとなく覚えていたようだった。

 

「赤いワンピースを良く着ていた子だよね」

「……うん……そうだったかな。それがどうかしたの?」

「何日か前に、なんかもの凄い真っ赤な夕陽のときにさ、道端に赤いワンピースの女の子が立っていてね。なんかすぐにでも消えちゃいそうな儚い感じだったな。幽霊みたいだった」

 

 お兄ちゃんはお姉さまとの付き合いで、霊能力みたいなものが上がっていて幽霊が視える様になっている。

 そのせいだろう、きっと。

 

「寂しそうだったから、思わず声をかけたら、『おうちに遊びに行っていい?』とか聞いてくるんだ。今の時代、小さい女の子を勝手に家に上げたら危険だからね、『僕の妹に許可をとってからね』と答えたらいなくなっちゃった。あの時は、なんとなくサクラちゃんのことを思い出したなあ」

 

 かなり懐かしそうな口ぶりだったが、これでわかった。

 

 

「あんたが原因か」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第27試合 新約・御伽噺
タヌキの天敵と言えば


 

 

『そのウサギは美しい女だったんだよ』

 

 目の前のタヌキがしみじみと懐かしい思い出のように評した。

 実際のところ、このタヌキは現物を拝んだことがないはずなのに、まるで青春を捧げたアイドルのことを語るかのように酔っている。

 御子内或子はうんざりした。

 男のこの手の語りはたいてい自分本位で女の共感を得ない繰り言が多いからだ。

 彼女のただ一人の助手もそうだが、男という生き物が熱く自分の好みについて語るときはどうにも「理解できるだろ?」「なんでわかってくれないのか?」という面倒くさい押し付けが滲み出てくる。

 そのくせ、そのうちに「話しても無駄」みたいな態度になっていき、「これだから女は」みたいに話を終わらせるのである。

 或子は助手の教育に余念がないので、助手がそういう態度をとった場合はとりあえずあとで制裁を忘れないようにしていた。

 男女が仲良く一緒にやっていくには、わがままはかわりばんこが基本であるし、相手をイラつかせる真似をしたら制裁するのは当然である。

 おかげで、もう一年近い付き合いになるが、良い感じに躾が出来ていると自負していた。

 とはいえ、他の男まで教育する気はない。

 目の前のタヌキにいたっては、男というよりもオスの部類に入るので、或子が責任を負わなければならない類では当然ありえない。

 

「……で、そのウサギをどうして欲しいんだい? この間の〈のた坊主〉のときもそうだったけど、キミら妖狸族は最近ボクらに頼りすぎじゃないのかな?」

『そう言わんでくれよ、〈社務所〉のいくさ巫女よ。ワシとあんたは聖地・後楽園ホールのリングでやり合った戦友じゃないか。その仲に免じて手伝ってくれねぇかい』

「キミをノックアウトしたのは音子だよ、〈三代目分福茶釜〉。友達ヅラされても迷惑なんだけど」

『まあまあ、そう言わずに、これ、つまらないもんだけど』

 

 差し出されたのは、目白の有名なケーキ店のシュークリームだった。

 大きさからした八個詰め。

 有名店だけあってかなり値段も高いだろうと或子は推測した。

 ちなみに、シュークリームは彼女の大好物である。

 

『ドライアイスを入れておいたから明日までは持つぜ』

「……なんでボクの好物をピンポイントで知っているんだい?」

『友達にLINEで聞いた』

「誰だい、友達って」

『京一』

 

 或子は呆れかえった。

 いつのまにタヌキなんかと友達になったんだ、あいつは。

 人当たりがいいのはわかっていたけど、妖魅とも繋がりを作るとはどういうことだい、まったくもう。

 クラスメートとの付き合いは良くないくせに。

 

「……キミたちが、その“ウサギ”の確保に直接乗り出さない理由は? 区内の縄張りに入ってこないというだけではないんだろ」

『うん、そうだ。何十年ぶりかで人里にまで降りてきたが、ワシらの縄張りにまでは入ってこないでどこかに潜伏している様子なんだよ。ただ、ワシらタヌキからすると、あのウサギは天敵中の天敵でね。できたら、一族のどいつとも接触させたくない。そこで、あんたら人間に頼みたいんだ』

「気持ちはわかるけどさ。……ただ、どうしてタヌキ連中がそんなにそのウサギを怖がるのかがさっぱりわからない。そこは説明してもらえるんだろうね」

『それを説明することに関しては吝かないがよ。だって、本当にまずい相手なんだぜ、タヌキにとっては』

「ふーん」

 

〈三代目分福〉は心の底から話題のウサギを怖れているらしい。

 退魔巫女である或子からすると、不自然にも感じるほどであったが。

 

『あんただって、あの有名な話は知ってるんだろ? ワシらタヌキにとってあのウサギは本当に鬼門でね。接触するのすら避けろというのが、まあ、ワシらの合言葉みたいなもんなんだ』

「……例えば、どういうことになるんだ?」

『「惚れたが悪いか」、それに尽きる。ワシらはあのウサギをみると、ほとんど骨の髄まで惚れちまうんだ。そりゃあ、タヌキは基本的には好色さ。スケベエこそがタヌキといってもいいぐらいだ。西洋の、ほら、処女しか乗せないとかいう変態の一角獣と変わらないといってもいい。でもな、女に惚れるってことは悪くねえことのはずだろ? 古来からこの国では助平は悪徳じゃなかったんだからよ』

「―――そこまで力説しなくてもいい」

『いや、すまんね。あのウサギが絡むとどうも我らはおかしなる』

 

 或子は、問題がどこにあるのか、なんとなく推測できた。

 (くだん)のウサギはタヌキの天敵というよりも、存在理由を脅かすような危険な意味を持つものなのだということだ。

 

(ただ、そうなってもおかしくはないのかな)

 

 そのタヌキとウサギの関係を伝えるお伽噺は、当然のこととして或子も知っているのでそこからの推測にならざるを得ないが。

 化け学・幻法といった変化の術を持つ、日本屈指の妖怪類であるタヌキにとって、最も屈辱的にして許しがたいエピソードもでもあるのだから。

 これに比べればよく比較されるキツネなんてライバルにすらなりえない。

 

「好色なタヌキは、危険な美人のウサギにこてんぱんにやられてしまうって訳だね」

『だから、あんたら人間に頼みたいんじゃないか。引き受けてもらえねえか?』

「賄賂のシュークリームも受け取ってしまったから、もう断りにくいし、もともとこぶしがボクに振ってきた話だからね。やることにするよ」

『助かる、〈社務所〉のいくさ巫女』

「ただし、人に危害を加えるような妖魅でない限り、ボクらは退治したりはしないよ。ふん捕まえて山に戻すだけだ。この機に乗じて抹殺させてしまおうとか物騒な考えは持たないようにしてくれ。ボクらは殺人鬼じゃあないんだから」

『ああ、それは任せる。ただな、あのウサギは純粋なゆえに残酷なやつだからよ。気を付けてくれ。あの美しさは人間だって虜にするかもしれないぜ』

「わかったよ。十分注意するさ」

 

 ……こうして、〈社務所〉の退魔巫女である御子内或子は、お伽噺にもなっている伝説のウサギの妖怪と絡むことになるのであった。

 

 

 

 



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翔んでバニーガール

 

 

 目を覚ますと、なんだか室内にいい香りがしていた。

 鼻をくんくんさせてみると、どうも気のせいではないみたい。

 美味しいご飯のいい匂いというのならよくあることだけど、こういう香水のような芳しいものは初めてだった。

 タオルケットを落として、上半身で起き上がる。

 パジャマが汗で濡れていた。

 エアコンを効かせておいたはずなのにおかしいな。

 枕元にあるコントローラーをとろうとしたら、机の前の椅子に座っている人がいることに気が付いた。

 女性のようだった。

 涼花か、と最初は思った。

 ここは僕の部屋なのだから、もし女性がいるとしたらそれは家族の誰かしかいないはずだ。

 

『あら、お目覚め。グッモーニンね』

 

 話しかけてきたのは、妹でも母さんでもなかった。

 膝を合わせた上品な座り方をする、燕尾服やタキシードにウサギの意匠を取り入れたバニースーツを着ていた。衣装の上から羽織る燕尾服のバニーコートまでまとっていた。

 丸い尻尾の飾りを付けたレオタード、ウサギの耳をかたどったヘアバンド、蝶ネクタイ付きの付け襟、カフス、網タイツ、ハイヒールを履いていた。

 土足じゃないか、と思わず明後日の方向の感想を持ってしまう。

 それぐらい、場違いというか、ありえない光景だったのだ。

 

「寝ぼけてんのかな、僕……」

 

 朝起きたら、部屋にバニーガールがいました。

 そんな妄想っぽいことがあるはずもないので、夢を見ているんだろうな。

 だいぶ外は明るいけれど、もう一度ベッドに横になって目を閉じた。

 

『こーら。無視しちゃダメだぞ』

 

 誰かに鼻を摘ままれた。

 慌てて飛び起きると、ベッドの脇にさっきのバニーガールがかしずくように座って、にこにこと笑っていた。

 びっくりした。

 このバニーガールが妄想の産物でないことと、ついでに物凄い美人さんだったからだ。

 最近の僕の周りにはとても可愛い女の子たちがたくさんいて、一番綺麗な音子さんやカッコいいレイさん、最も僕好みな御子内さんとか、だいぶ見慣れてきたけど、その彼女たちを上回る美人というのを初めて目の当たりにした気がする。

 妖艶たぐいない美貌は、夢か幻か、はっきりと断定できないぐらい。

 視線が合っただけで頬が真っ赤に熱くなってくるほどの玲瓏たる眼差しに、頭がおかしくなりそうな色っぽい唇、柳の葉のような眉はとろんと垂れ、強調され過ぎた胸元は豊満でたわわだった。

 網タイツに対して何の思い入れのない僕でさえ、彼女の長い脚には興味を持たざるを得ないぐらいに抜群のスタイルをしている。

 ……これが妄想でないとしたら、どうして僕の部屋にこんなバニーガールがいるんだ?

 

『起きたかナ?』

「ええ、まあ」

『良かった。あのまま二度寝されちゃうと、とっても困ったことになりそうだったから、イタズラしちゃったよ、テヘ』

 

 軽く舌を出しながら、自分の頭をコツンと叩く仕草をするバニーガール。

 うわ、あざとい。

 

「えっと、とりあえず空気を読んで聞きますけど、あなた、誰ですか?」

『私ぃ? さあ、誰でしょうねぇ』

「そういうのいいですから。まだちょっと妖気みたいなのはわからないけれど、だいたい理論的に考えてみると、あなた、妖魅の類いですよね? 〈社務所〉関連ですか?」

 

 冷たく突き放す言い方をしてみると、バニーガールは頭についているうさ耳のヘアバンドの先を摘まんで、

 

「うんうん、そうだゾ。私は妖怪さんなんですヨ。よろしくね、京ちゃん」

「はあ。わかりました。―――すいません、あまり近寄らないでくれますか。どうもとんでもない美人という前に、あなたが近寄ってくるとベッドに引きずり込みたくなってくる衝動に駆られるんで。……もしかして、そういう能力でもあるんですか?」

 

 そもそもバニーガール姿で外を出歩く人なんて滅多にいないし。

 すると、バニーガールはにやりと悪い笑顔を浮かべて、

 

『へえ、わかるんだア。タヌキなんかに比べると、さすが人間は狡猾だねえ。簡単には引っかからない。……うん、確かに私にはその手の異性を虜にする能力があるんだヨ』

 

 やっぱり。

 しかし、ただでさえこれだけ綺麗だと惚れられやすいというのに、そんなものまで標準装備だとしたら男にとっては天敵以外の何者でもないな。

 さっきからこのバニーガールを押し倒してキスをしたくなる衝動が、じわじわと昂ぶりつつあった。

 どうして耐えていられるのか、自分でもわりと不思議なぐらいだ。

 少なくとも話をしているだけで、ちょっと性的にやばい身体変化が起きそうだし。

 

「すいません、話は聞きますので、もうちょい離れてください。あなたは童貞には刺激が強すぎるんで」

『ふふふ。むしろ、童貞さんの方が結構耐えられるんだゾ。一度、女の味を知っちゃうと私の()()()()にはほとんど抗えなくなるからネ』

 

 ああ、童貞で良かった。

 ってなんか屈辱的だな。

 あと、()()()()って何さ。

 

「オーケー、クールに行きましょう。それで、僕に何の用があってきたんですか? 少なくとも僕の部屋に妖魅の類いが押しかけてくるなんて初めてのことなのもので、戸惑っているんですけど……」

 

 これまでにうちにきた妖怪というと〈高女〉ぐらいしか思いつかないけど、あれは僕というよりも妹の涼花を狙ってきたやつだし、少なくともピンポイントで僕のところへ来られたのは初めてだ。

 しかも、このバニーガールは僕の名前を知っていて、親し気に「京ちゃん」などと呼んできた。

 ところが、記憶にある限りでは心当たりはまったくない。

 御子内さんたちと散々妖怪退治をやってきたけど、こういう妖魅に関わったことはないはずだ。

 しかも、僕の家を把握しているってどういうことだろう。

 喋り方一つをとってみても、高い知性と深い人間性のようなものが感じ取れる。

 かなり人間に近い精神の持ち主のようだ。

 僕が知っている妖怪たちの中では、〈オサカベ〉や〈山姥〉、あと江戸前のタヌキたちぐらいしか思いつかない。

 そもそも妖怪というものはそれほど知的ではないから。

 しかも、僕の家をつきとめて侵入し、起きるまで待っているというだけでも尋常ではないけど。

 そういえば、戸締りをしておいたのに勝手に入ってきたのか、このバニーガールは。

 窓が開けっ放しじゃないか。

 せめてカーテンぐらいしておいてよ、もお。

 

『んっとね。私が京ちゃんのところに来たのは、お手伝いをね、頼みたいからなんだゾ』

「手伝い……ですか?」

『そうそう。人間の手を借りないとどうにも話が進みそうもないの。ねえ、お願い。助けると思って手を貸してくれないカナ?』

 

 両手を合わせてお願いをされた。

 しかもウインク付きだ。

 たいていの男ならばこれでイチコロで轟沈だろう。

 僕だって例外じゃない。

 さっきからなんとなく恥ずかしい痛みがあるし。

 でも、聞いておくべきことはある。

 

「どうして、僕なんです? 僕は退魔巫女の助手―――妖怪からすると戦巫女か媛巫女でしたっけ?―――をしていますけど、基本的には普通のコーコーセイですよ」

『紹介してもらったの。あなたはただの高校生だけど、只者じゃないから適任だと、ネ』

「……紹介?」

 

 差し出されたのは、ごく平凡なスマホだった。

 画面が映ると、サッカー選手のブロマイドが出てきた。

 見覚えがある。

 

「これって調布の……」

『タヌキの癖にサッカー好きって変よネ』

「どうして、これを?」

『ああ、誤解しないでね。盗ったわけでも奪った訳でもないの。頼んだら、快く譲ってくれたのよ、タヌキの彼が』

「……まさか」

 

 僕のこのスマホの持ち主のタヌキのことを良く知っている。

 一緒にネットでサッカーゲームをしたり、LINEを送り合ったりする、江戸前の妖狸族の中でも特に仲のいいタヌキだ。

 人間よりもタヌキの友達の多い僕だから言えるけど、ものすごく気のいい奴でダンスなんかもできる最高にクールでイカしたやつ(ガイ)でもある。

 調布のサッカーチームがJリーグ杯で優勝したときに感動してサポーターになったという逸話がある。

 その彼が大事にしているスマホを簡単に他人に譲渡したりすることはありえない。

 

『ホントだから。私、そういうつまんない嘘はつかないんだゾ』

「……嘘とは言ってませんけど」

 

 ただ、嘘は言っていないだけで真実も言っていない可能性はある。

 女の人というのは、自分に都合の悪い事柄をなかったことにする特徴があり、しかも自分にとって都合のいいことだけを取捨選択する傾向があるのだ。

 特に、こういう美人で色っぽい人の言うことは当てにならない。

 男としての本能的な警戒機能が働きだす。

 少なくともサッカー好きのあいつが、自分の情報のたんまり入った携帯端末を何の見返りもなく手放すはずがないのだ。

 つまり、このバニーガールは何かを隠している。

 

「僕の友達のタヌキからの紹介というのはわかりましたけど、いったい僕に何をさせたいんです? とりあえず、そのぐらいは教えてもらわないと」

『うーん、優しい男の子って好きだヨ。あとでお姉さんがイイコト教えて・あ・げ・る』

 

 いちいちエロいことを言おうとする人だよね。

 いや、妖怪か。

 

『実はね……』

 

 そのとき、開けっ放しの窓に人影が飛び込んできた。

 

「京一から離れろ、この牝ウサギめ!!」

 

 飛び込んで来た御子内さんの右の鉄拳が閃いた。

 が、それは完全に力が炸裂するポイントに辿り着く前に受け止められた。

 バニーガールの掌によって。

 そして、反対側の手が動き、報復のフックが唸りをあげる。

 反撃を予期していたわけではないのだが、間一髪のところで、御子内さんはそれを躱しきった。

 髪を数本持っていかれるぐらいにギリギリのところで。

 

『あらあら、なんなの、この巫女さんは。女の子なんだからそんな乱暴をしちゃダメだゾ』

「―――知らなかったよ。カチカチ山のウサギが謀略だけでなくて、ボクの攻撃にカウンターをあてられるほどに強いとはね」

 

 自分のアタックを咄嗟に防がれたとは思えないほど冷静に、御子内さんは呟く。

 御子内さんが口にした単語に驚いた。

 

 カチカチ山って……

 あのお伽噺のか?

 

 だとすると、もしかしてこのバニーガールは……

 

 

 



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カチカチ山のウサギさん

 

 

 カチカチ山とは、こういう物語だ。

 

 昔々、甲州、富士五湖の一つ河口湖の湖畔、船津の裏山辺りに、農民の老夫婦がいた。

 彼らには深刻な悩みがあった。

 老夫婦の畑に、性悪なタヌキがやってきて、せっかくまいた種をほじくり返し、できた芋などを食べてしまうのである。さらに不作を望むような囃子歌を歌うなどして迷惑を掛けてくるのだ。

 さすがに腹を立てた(おきな)は罠を仕掛けてタヌキを捕まえた。

 (おうな)に狸汁にするように言ってから、翁はようやく安心して畑仕事に向かった。

 タヌキは「もう悪さはしない、家事を手伝う」と命乞いをして媼を騙し、可哀想になって縄を解いてくれたにもかかわらず、逆恨みをして媼を杵で撲殺してしまう。

 さらに、その上で殺害した媼の肉を鍋に入れて煮込み、狸汁ならぬ「婆汁(ばばぁ汁)」を作りあげると、媼に変化してタヌキ翁の帰りを待った。

 そして、畑仕事から帰ってきた翁に狸汁と称して婆汁を食べさせ、それを見届けると、真実をばらして嘲り笑いながら山へと逃げていった。

 

 長年連れ添った妻を失い、しかもその肉を食べさせられるという残酷な仕打ちを受けた翁は近くの山に住む仲良しのウサギに相談する。

「媼の仇をとりたいが、もう自分には気力も体力もなく、とてもかないそうもない。わしのかわりに仇をとってくれないか」と。

 事の顛末を聞いたウサギは、仲の良かった媼のためにタヌキ成敗に出かけた。

 まず、ウサギはタヌキを説得し、翁に謝罪するべきだ、そのために翁のために芝を刈って届けようと提案した。

 さすがの性悪タヌキもやり過ぎたと感じていたのか、ウサギの提案を受けて芝刈りを行い、その帰り道、ウサギはタヌキの後ろを歩き、タヌキの背負った柴に火打ち石で火を付ける。

 火打ち道具の打ち合わさる「カチカチ」という音を不思議がったタヌキがウサギに尋ねると、ウサギは「ここはカチカチ山だから、カチカチ鳥が鳴いているんだ」と嘘を答え、それを信じたタヌキは背中にやけどを負うこととなってしまう。

 次に、ウサギはタヌキに火傷に良く効く薬だと称してトウガラシ入りの味噌を渡して、これを塗ったタヌキはさらなる痛みに散々苦しむこととなるのである。

 ウサギの仇討ちはこれで終わらない。

 タヌキの火傷が治ると、ウサギはタヌキの食い意地を利用して河口湖への漁に誘い出した。

 ウサギは木の船と一回り大きな泥の船を用意し、欲張りなタヌキに想定通りに「たくさん魚が乗せられる」と泥の船を選ばさせる、ウサギは木の船に乗った。

 沖へ出てしばらく立つと、当然、泥で造られた船は溶けて沈んでゆく。

 タヌキはウサギに助けを求めるが、逆にウサギに艪で殴られて、沈められてしまい、そのまま溺れんでしまった。

 こうしてウサギは見事媼の仕返しをしたのである……。

 

 

 僕が知っているカチカチ山のお話はこの程度だ。

 

 

       ◇◆◇

 

 

「そのカチカチ山の牝ウサギがどうしてこんなところにいる。あと、そのハレンチな格好はなんのつもりだい? まったく、そんなみょうちきりんな格好で表を歩くなんて信じられないね」

 

 と、バニーガール姿に文句を言う御子内さん。

 君のその巫女装束もどうかと僕は思うけどね。

 

『巫女さん、TPOを弁えていないのはあんたもだゾ』

 

 僕が内心で思っていたことを妖怪に代弁されてしまった。

 

「由緒正しい巫女装束と、グラビアアイドルの衣装を一緒にしてもらっては困るね!」

「改造しまくっている癖に何を言っているのかナ? コスプレしているみたいだゾ」

「誰がコスプレだ!」

「あ・ん・た!」

 

 口喧嘩で負けそうになったせいか、御子内さんが本気で構えをとった。

 ごめん、ここ僕の部屋なんで暴れないで!

 

「―――しかし、ボクは平和を愛する女なので今回は勘弁してあげよう」

 

 一気に張り詰めた緊張が霧散する。

 御子内さんがやる気を捨てたのだ。

 さっきまでは完璧に戦闘モードだったのにどういう風の吹き回しだろうか。

 

「……キミが、カチカチ山のウサギだということは相違ないんだな」

『あのお伽噺自体はフィクションだけどねぇ。妖魅としての私たちは〈(キュウ)〉となづけられているのヨ。聞き覚えない?』

「〈犰〉?  鳥の嘴と蛇の尻尾をもった兎で、これが現われると飛蝗が大量発生する。キュウキュウと鳴くことからつけられた「山海経(せんがいきょう)」のアレかい?」

『そうね、それ。私たちウサギは歳を経たとしても妖怪には滅多にならないから、たまに妖魅にまでなると〈犰〉に分類されるようになるの』

 

 ……なるほど、確かにウサギの妖怪って聞いたことがないね。

 タヌキやキツネは化かすという先入観があるけど、ウサギにはそういう人間を脅かすようなものがないからかな。

 

「鳥の嘴と蛇の尻尾か。―――カチカチ山でタヌキをえげつない詭計で粛清したウサギらしいね。舌切り雀の時代から、鳥が嘴で囀るものは美辞麗句と決まっているし、蛇は奸計の象徴だ。それがついているというだけで、どれほど狡猾かがわかるよ」

『ふふふ、私たちウサギは美しい少女のメタファーとして存在するんだゾ。狡猾じゃなくて才気活発で純真なんだと言って欲しいネ』

 

 バニーガール―――妖怪〈犰〉は肩をすくめて微笑んだ。

 なんというか心が持ってかれるような愛くるしさだ。

 色っぽさや艶っぽさと同時に、子供のような愛くるしさもあり、男ならばこんなにもコケテッシュな魅力にはやられてしまうこと間違いなしだろう。

 

「で、その〈犰〉がどうしてここにいるんだい? 言っておくが、ボクはタヌキたちにキミを山に追い返すように依頼されている。人里で何かをしでかしたりしていたら、即座に叩きだす」

『おー、コワ。でも、大丈夫よお。私は人探しに来ただけだから。でも、こっちではやっぱり勝手が違ってね。全然、見つけられないの。そこで、ちょうどいいタヌキを見つけたので、お願いしたら、この京ちゃんのことを教えてもらったという訳なんだゾ』

 

 僕を見てウインクをする。

 徹頭徹尾、男を魅了しようとするバニーガール妖怪である。

 

「でも、僕はただの高校生で……」

『この巫女さんたちのお仲間なんでしょ? その縁を使ってチャッチャカ探してよおん』

「なるほど」

 

 退魔巫女の組織である〈社務所〉を利用することを考えたという訳か。

 ただ、巫女本人たちに直接頼むのは憚られるから、僕というクッションを置こうとしたんだ。

 それならば筋は通る。

 そうなると問題は、このバニーガール妖怪が探しているのは誰か、ということなんだけど……

 

「わざわざ、ボクらを利用するということは、それなりの理由があるんだろうけど、カチカチ山の事例もある。ああいう、残酷な復讐のためだったりするのならばお断りなんだが」

『そんなことはないわヨ。だって、相手はイケメンなんですもの』

「なんだって?」

『だ・か・ら、イケメンなーの』

 

 御子内さんと顔を合わせる。

 言っている意味が今一つわからない。

 

「イケメンがどうかするのか?」

『あんなに格好いい男なら、私の伴侶に相応しいじゃない。私にも優しい言葉を掛けてくれたしね。もう、山に住んでいるような熊やタヌキとは大違い。ああいう男前こそが、私にぴったりなのよおお』

 

 わがままな肉体をくねらせながら、色っぽさ全開の踊りを始めるバニーガール。

 どうもこの話は一筋縄ではいきそうもなかった……

 

 

 

 



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妖怪〈犰〉が狙うのは

 

 

 僕たちは区内にある明慶大学という、偏差値が高くてお金持ちの子息が通う大学に、学校見学という名目で潜り込んでいた。

 もともとオープンキャンパスに熱心な学校らしく、僕らが潜り込んでもほとんど目立たない。

 週末に、大学祭というのが予定されているということもあり、そういう運の良さも僕たちには味方してくれていた。

 やはりお祭りが近いということもあり、学生たちもテンションが高いらしく、キャンパスも人がたくさんいて、盛り上がりを見せていた。

 

「……大学というのは楽しそうなところだねえ」

「御子内さんは進学するの? それとも就職?」

「うーん、実家でニートしながら〈社務所〉の妖怪退治をしていると思うよ」

 

 妖怪退治って仕事じゃないんだ。

 お給料でているのに。

 

「京一はどうなんだい?」

「一応、進学かなあ」

「〈社務所(うち)〉の禰宜にでもなるかい? あ、でもあれは取り合えず宮司の資格がいるからなあ」

「資格がいるんだ? そういう場合、神道学部とかがある大学に入る必要があるの?」

 

 さすがにそういう学部があるのは知っていたけど、進路として考えたことはなかった。

 ただ、〈社務所〉の禰宜さんが有資格仕事だとは初耳だ。

 

「いや、どこか由緒ある神社の跡継ぎになるとか、婿に入るとかでもいいんだよ。うちは意外と身内で固める融通の利かない組織だからね」

「雑だなあ。でも、婿に入るって結婚するってこと?」

「うん。例えば、音子んところやレイんちも規模の大きい旧い神社だし、藍色も一人娘だから婿を募集しているはずだ。あいつらとくっつけば、普通の家の出身の子供でも禰宜にはなれる」

「へえ。みんな、やっぱり産まれも巫女なんだね。御子内さんもそうなんでしょ?」

 

 すると、御子内さんは頭を振った。

 

「ボクんところは(やしろ)じゃないよ。父さんも母さんも、普通のサラリーマンとお局様だしね」

「そうなの? 僕はてっきり、御子内さんもいい神社の出身だとばかり」

「そうじゃないんだな。格でいえば、ボクなんか退魔巫女の選抜にもなれない程度の家柄の出身()だしね」

 

 意外な事実に驚いているうちに、僕らはサークルのポスターなんかが貼ってある掲示板に辿り着いた。

 ベタベタとチラシが貼りまくられていてすごくカオスだ。

 大きい大学というのは雑多なサークルや部活の集まりなんだというのがよくわかる。

 体育会系から文科系、その他、なんだかわからない政治的結社と盛りだくさんだ。

 

「京一、これ」

「うん」

 

 指さされた先には、『大学未公認・フットサルサークル“ガリバー”』というものがあった。

 チラシに書いてある情報だけで読み解くと、フットサルを愛好するインカレサークルという感じだ。

 ただ、学校公認のフットサル同好会とソッカー部という名前のサッカー部があるので、これは正式なものではないのだろう。

 だいたい、インカレとはIntercollegiateの略の「大学の間」ということであり、インカレサークルとは、さまざまな大学に通う学生で構成されている活動のことである。

 大学が公認するということはあまりないのも当然だ。

 一つの大学の学生だけで活動するよりも幅広い人材を集めて、色々と大きなことができるので参加者は多い。

 ただし、問題がない訳ではない。

 

「―――フットサルの同好会なのに、どうしてボールよりもビールのイラストばかりなんだい? フットサルと言うのはアレだろ、ミニサッカーみたいなやつだろ」

 

 もっともな疑問を御子内さんが口にする。

 確かに、フットサル同好会のはずなのに、活動日も活動場所も一切書いて無く、飲み会の日時だけが定期的にシールで上書きされているようだ。

 

「フットサルはもう結構サッカーと違うスポーツなんだけど、そこは別にいいか。……えっと、インカレサークルってなんていうか学生同士の交流って名目でパーティーを開いたりして遊ぼうというものが多いんだよ。はっきり言うと、飲み会のためのものかな」

「……フットサルをしないで遊ぶだけなのかい?」

「一応、少しはやると思うよ。そのあとで、ばーっと居酒屋に行ったりするんだろうね」

「ふーん、だからビールの絵なのかい?」

 

 わりと世間を知らない御子内さんはしけじけと眺めている。

 JKたるもの合コンとかに一度は参加しておくべきだとか変な主義を持っている彼女には興味深いのだろう。

 僕はポスターの中の代表者の名前と番号を確認する。

 それから、近くを歩いている少しケバい女性を捕まえて、

 

「三回生の阪井(さかい)さんってご存知ですか?」

「さかい? ああ、阪井か。知ってるけど」

「今、学内にいるかわかりますか?」

「うん、とガリバーの連中と食堂にいるんじゃね? あいつら、結構食堂でたむろってから」

 

 見た目に反して親切なお姉さんだった。

 お礼を言うと、

 

「あんた、一年? なんで、阪井なんか探してんの?」

 

 僕はまだ高2だけど、よく老けて見えるといわれているので、このお姉さんには新入生と誤解されたようだ。

 いい機会なので誤解は利用させてもらおうかな。

 

「阪井さん、ガリバーの代表ですよね。そこが夏休みに河口湖で合宿したんです」

「ああ、聞いた。例のヤリ合宿みたいな奴だろ? あんな不健全なもんに参加するのがいるのが不思議なぐらいだぜ」

「……そのときに阪井さんたちに迷惑を掛けられたらしい他校の学生の知り合いなんですよ、僕。だから、顔だけでも確認してくれないかって頼まれちゃって……」

 

 ここで神妙な顔をする。

 御子内さんも並んで演技した。

 彼女はどうも面倒なことにつき合わされた彼女ポジションらしい。

 

「お願いします」

 

 お姉さんは少し考えた後、

 

「まあ、しかたねえな。ついてこいよ、阪井のツラぐらいは確認させてやる。でも、あいつら性質(たち)悪いから近寄るのはオススメしないよ」

「わかりました」

 

 そういうと、彼女は僕たちを食堂に連れていき、隅っこだが、全体を見渡せる場所に陣取った。

 一点をあごでしゃくる。

 十人ぐらいの学生が、男女問わず一つのテーブルで歓談していた。

 女性は三人ぐらいだが、そのうちの一人の胸をたまに両隣の男子学生が揉んだりしていて、とても昼間の大学での行動とは思えない。

 覗き見していることもあり、無表情でいるので精いっぱいのモラルのなさだった。

 

「……真ん中のイケメンが阪井だ」

「ああ、確かに……」

 

 透明感のあるイケメン―――というよりもハンサムだった。

 思うにイケメンという言葉には行動によるものも含まれる「いい男」の広義の名称だが、

 ハンサムとなると特定の美形青年にしか相応しくない気がする。

 そして、あのグループの中心にいる阪井という青年は紛うことのないハンサムだった。

 あの顔で口説かれたら誰でも陥落してしまうかもしれない。

 

「ふむ。稀に見る黒いオーラだな。あれは相当他人の恨みを買っているね」

「よくわかってるじゃないか、あんた。……阪井はああ見えても悪い噂ばかりの男でね。あいつの率いるガリバーだって、もう最悪の評判ばかりさ。田舎から出てきたばかりの初心な新入生をあの顔でものにして、どんどんサークルに入れて、あとは好きに弄ぶって言われている。もう最悪のクズさ」

「……人は見かけによらないということですね」

「ああ。かなりの有名人だしな。だから、あんたたちの知り合いが顔を知りたいのなら、うちの大学の自称モテの顔本をよくチェックすればいいよ。すぐに写真がヒットすんだろ」

 

 実はその手はもう試している。

 その上で、僕たちは実物を拝みたいからここまで接近してみたのである。

 

 

「じゃあ、あたしは行くけど、なんかあいつに対して裁判でも起こす気なら検察側の証人になってやるよ」

 

 颯爽と去っていくところは、なんとなく女子大生のお姉さんという感じでかっこいい。

 ケバいとかいってごめんなさい。

 

「さて、本人であることの確認はできたな。あとは、どうするんだ? あの〈犰〉に教えてしまうかい?」

「それはそうなんだけど、あのバニーガールの言う印象とまったく違うんだよね……。彼女のイメージではもっと優しそうだったのに、実際はもう色欲の権化みたいな下品さでさ。……あ、女性の尻を撫でまわしているよ。なに、変質者なの、あいつ?」

 

 この明慶の食堂はかなり垢ぬけた人たちが多いが、その中でも彼らは浮いていた。

 チャラチャラを通り越して、もう痴漢や痴女の集まりにしか見えない。

 

「とにかく、〈犰〉の要求は叶えよう。でないと、タヌキたちが安心できん。あいつらが不穏な動きをしていると〈社務所(ボクら)〉まで影響を受けかねないしね」

「仕方ないか……」

 

 そうして、僕らは明慶大学のキャンパスを後にした。

 例のバニーガール姿の妖怪〈犰〉と連絡を取るために。

 

 

 

 



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ウサギとタヌキ

 

 

 ノリ。

 

 ある年代、ある環境、ある状況においては、その言葉が金科玉条のように重んじられることがある。

 ノリが悪ければ、悪。

 ノリに置いていかれるのは、悪。

 大切なのはその場の空気を読んで、追随することであり、ノリに乗り切れないものは排斥されて当然、となる。

 それが極限まで発揮される場所の代表といっていいのが、大学のサークルであろう。

 明慶大学生を中心に結成されたインカレサークル・ガリバーは、一度のパーティーで数百人単位で集めることができる人気サークルであった。

 幹部たちのトークは何人ものを同時に笑わせ、リズムをとらせればノリノリにさせる。

 リーダーは稀に見るイケメンであり、男女ともに惹きつけてやまないカリスマだった。

 パーティーに参加さえしてしまえば、学生たちは噂されている悪評など簡単に忘れてしまうほどに、ノリに支配されてしまう。

 酒と口にはできない別のものの力を借りて、ノリの狂奔に身を浸すのであった。

 だから、参加している女学生が一人、主催者たちに連れていかれても誰も気にしないし、その子の飲んでいるアルコールの中に思考を乱すクスリが入っていてもわからないし、彼女が幹部たちだけしかいない個室につれこまれても助けられない。

 女学生一人のことよりもノリが大事だからだ。

 たった一人の女学生が不幸になったぐらい、どうということもない。

 そして、その日もそうだった。

 一人の田舎からでてきて、夏休みが過ぎてカリキュラムが後期に入っても周囲と馴染めない女子大生が、急に親し気に話しかけてきた同級生に絆され、パーティーに連れてこられ、そのまま幹部に差し出されようとしていた。

 差し出す側には、幹部たちから読者モデルの仕事のあっせんやOBからの就職の便宜が図られる。

 知り合ってほんのわずかしかない同級生を生贄に捧げても罪悪感はまったく覚えなかった。

 彼女がどうなるかもよくわかっていたが、そんなのは別に構わない。

 ノリが悪いからこんな目にあうのだ。

 もっと前から色々と遊んでいれば、抵抗する方法も学べていただろうに。

 だから、悪いのは差し出された側なのである。

 同級生に売り飛ばされて、地獄への階段を突き落とされた女子大生の運命はそのまま堕ちるだけであったろう。

 だが、その時だけは違っていた。

 幹部が待ち構えているだろう個室に入る直前に、肩を押さえられたのだ。

 振り向くと、見たこともないぐらいに美しい女性がいた。

 

『どいて。あたしの方が先約』

 

 先導役の女性とともに廊下の隅に押しやられた。

 抵抗しようとしたが、その眼力の迫力によって黙らされた。

 逆らってはマズイ、というよりも、何か得体のしれない恐怖のようなものに突き飛ばされたという震えも走った。

 生贄の羊も裏切り者の牧童も、ともに回れ右して部屋の前から逃げ出した。

 彼女たちになんの関心も持たず、美女は部屋の中に滑り込んでいった。

 中にはガリバーの幹部たちが、軽めの酒類とともに待ち構えていた。

 顔にはにやついた畜生類のごとき歪みが張り付いていた。

 これから起きる遊びへの期待に胸を躍らせていたのだ。

 だから、個室に入ってきた想像外の美女に驚いた。

 参加者を釣るための撒餌として呼んだゲストのモデルが間違えてきたのかもしれないと思ったからだ。

 だが、美女は、

 

『阪井ー、お久しぶりー』

 

 と親し気にリーダーの名を呼んで近寄ってきた。

 

『会いたかったんだー』

 

 どうやらリーダーに気があるらしいということは全員が把握した。

 そして、見えないところで舌なめずりをした。

 予定とは違うが、この女でもいい、と。

 これだけの上玉だ、楽しませてもらおう、と。

 リーダーの阪井は顔も覚えていない知り合いなど路傍の石と同様にしか考えていない男だったから、すぐに幹部たちと同じことを考えた。

 どうせ、俺の顔につられて来た尻軽だ。

 まわしたって、気にしないだろう。

 だったら……

 

「おお、こっちにこいよ。一杯、呑もうぜ」

 

 ノリを大事にしないとな。

 

 

           ◇◆◇

 

 

「―――やっぱり見張っていて良かったかな」

 

 池袋にある、百人規模のパーティーも可能なクラブの目の前にあるドーナツ店で、御子内さんが呟いた。

 耳についているイヤホンは、マイクとともに、とあるタヌキのスマホと繋がっている。

 

「連絡があったの?」

「うん。〈(きゅう)〉が店内の一室で異様な妖気を撒き散らし始めたらしい」

「さっきまでは変化なしだったのに?」

「ああ。例の阪井のもとに行って、しばらくしておかしくなりだしたそうだ。このままでは、見張りのタヌキでは手に負えないっぽいね。ただ、まだ騒ぎにするほどではないということらしいよ」

 

 この場には僕と御子内さんしかいない。

 あのバニーガール妖怪とは極力接触したくないというタヌキたちを説き伏せて、なんとか一匹だけ手伝ってもらえることになったが、基本的に妖狸族はタッチせずという方針らしい。

 そんなに〈犰〉が苦手なのか……

 

「仕方ない。タヌキたちにとって、カチカチ山のウサギは天敵だ。おそらく、あの〈犰〉はお伽噺のモデルそのものだろうし」

「本人……ウサギだけど……は否定してたよ」

「あいつがお伽噺の舞台である河口湖から来たというだけでもう本人だと自白しているようなものさ。さすがに細部は違うだろうけど、あの色ボケウサギなのは間違いないだろうね」

「色ボケって……」

 

 確かにバニーガール姿を選ぶなんておかしいけどさ。

 

「京一は、あのお伽噺のおかしさに気がつかないのかい」

「え、どういうこと?」

「カチカチ山のタヌキは、確かにお婆さんを殺している。でも、どうしてウサギがその敵討ちをするんだ。お爺さんが寝込んだから? それにしたって、唐突だ」

「……まあね」

「それにウサギの報復もあまりにも陰湿だろ。背負った芝に火をつけたり、火傷に唐辛子をすりこんだり、挙句の果てには泥の舟に騙して乗せて溺死させるんだよ。そこから、このウサギの正体については前から疑問になっていたんだ」

 

 御子内さんの話ももっともだ。

 江戸期にできた話にしては復讐の仕方が惨すぎる。

 

「ここから先は、タヌキたちから聞いた話なんだが―――カチカチ山というのは、美しい牝ウサギとそれに惚れて身を持ち崩したタヌキの話なんだそうだ」

 

 彼女が聞いた話を整理すると、カチカチ山は以下のような話に変貌する。

 ―――河口湖付近には、年老いた雌のウサギが変化した〈犰〉という妖怪がいた。

〈犰〉は歳を経て変化したといっても、元が美しい牝であり、しかもいつまでも処女のような潔癖な純真さを持っていたが、同時に少女にありがちな残酷さも兼ね備えていた。

 その美しさは、他の動物や妖怪さえも惚れさせるに十分なほどであり、特に知恵と人と同様の欲望を持つタヌキにとっては危険な罠にも等しいものであったという。

 さらに、〈犰〉は少女特有の視覚情報のみを重視する惚れっぽさがあり(要するにイケメンには弱いということだ)、呑気な顔のタヌキなんか相手にすることもなかった。

 だが、たった一匹、この性悪なウサギに惚れすぎて仲間たちの忠告を無視していた愚鈍な一匹のタヌキがいた。

 これがカチカチ山のタヌキである。

 そんなある時、この〈犰〉がある人間に惚れてしまった。

 カチカチ山に登場する翁だった。

 老人とよばれる年齢に相応しくない、端正で凛とした顔つきの男前だった翁にベタぼれしたのだ。

 もちろん、タヌキにとっては面白くない。

 狐ではないが横から油揚げをカッサラワレタなものだからだ。

 嫉妬に狂ったタヌキは翁に対して嫌がらせを開始し、それに怒った翁によって捕まって狸汁にされることになった。

 お伽噺の通りに逃げ出したタヌキによって媼を殺された結果として、翁は寝たきりになった。

 それをウサギ―――〈犰〉は好機ととらえ、媼の敵討ちをするという理由で翁の歓心を得たのだ。

 媼の死に乗じて妻の座につくことにしたのだ。

 そして、〈犰〉は邪魔なタヌキを残酷に殺した。

 美しい自分にとって釣り合わないだけでなく、翁との暮らしの邪魔になると感じ、排除したのである。

 こうして、翁と〈犰〉は夫婦となって、翁が死ぬまで暮らしたという。

 

「―――これがタヌキに伝わるカチカチ山の真実らしい。これ以降も、タヌキたちはあのウサギによって散々な目に合わされてきたので、ずっと警戒を怠らずにいたそうだ」

「……おっかないウサギなんだね」

「キミだって篭絡されそうになっていただろ。忘れていないよ、このスケベめ」

「まあね。でも、スケベとか言うのはやめて。人聞きが悪いから」

 

 しかし、あの時に僕が異常にドキドキしていたのは、やっぱりあのウサギの能力だったのか。

 まあ、美人だから仕方のないところではあるだろうけど。

 美人ってのは罪なものだね。

 そこで思いついた。

 

「……ああ、わかった。だから、河口湖に合宿に来た阪井みたいなハンサムに惚れて、ここまで追ってきたという訳だ」

「あのウサギが美形に弱いというのは昔から変わらんということかな」

「……まったくカチカチ山を読む眼が変わりそうだよ」

「ボクもかな」

 

 そのとき、御子内さんの顔つきが変わった。

 見張りのタヌキからの通信が入ったのだ。

 同時に、彼女は店から飛び出した。

 あれでは無銭飲食を疑われるという速さで。

 でも、何があったかは想像がつく。

 ウサギが―――〈犰〉が暴れ出したに違いない。

 大人しくするから阪井の居場所を教えるという僕たちとの約束を破って。

 一体、どうしてそうなったかはわからないけれど、妖怪の恋の成就を応援するためならばともかく暴れ出したとなると、退魔巫女の御子内さんが放っておくわけにはいかないのだろう。

 

「待って!」

 

 僕は御子内さんがとんでもない速さでかき分けていった人ごみの中を追った。

 

 

 



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御子内或子は正義の巫女である

 

 タヌキという生き物は、実は東京都に多く棲みついていて、ある意味では東京都の象徴ともいえる。

 しかし、一般の人は自分の周囲にタヌキが棲んでいるということをまず知らない。

 なぜなら、タヌキは夜行性でありほとんど昼間は姿を現さない。

 また、移動の際は道の側溝や細すぎる路地を使い、巣を作るのは人のいない神社や空き家の屋根裏という徹底ぶりで、人が目にする機会が極端に少ないのだ。

 さらにいうと、雑食性で残飯から虫、植物までどんなものでも食べるので餌に不自由しないということもある。

 だから、千代田区の都会的な空間にさえ、タヌキが潜んでいるのだ。

 僕たちが〈犰〉の見張りを頼んだタヌキはそういう特技を生かして、人のごった返すクラブの中でも容易く追跡をしていた。

 こちらに見取り図なんかを書いて転送してくるぐらいは簡単だそうだ。

 タヌキが〈犰〉の美貌に弱いということも考えて、選ばれたのはわりと年増の雌タヌキだったが、有能さと言うことではなかなか比類ないものがあると思う。

 すでに(パーティー)もたけなわだったらしく、アルコールでふらふらになった参加者たちをかき分け、巫女装束のまま御子内さんが内部に突っ込んだ。

 入口で受付をしていた係は、好みの女の子との会話に夢中で、風のように侵入していった御子内さんに気付くのが遅れた。

 

「ちょ、ちょっと待てよ!」

 

 声をかけたが、すでに彼女の背中はない。

 どうすべきかとあたふたしているので、僕は勢いよく話しかけた。

 

「おれが様子を見てくるから、おまえは受付を続けてくれ!」

 

 一人称で「おれ」なんて使ったことないけど、馴れた感じで親し気にいえば仲間だと誤解してくれるだろう。

 

「お、おお、頼むわ!」

「阪井さんに黙っといてやるよ」

「わりい!」

 

 受付を騙して、僕はそのままクラブに入った。

 御子内さんは幹部たちの個室に向かったはずだ。

 個室は奥の中二階にあって、本来ならバンドなどの控室兼用具置き場になっているスペースだ。

 ホールからは少し離れているが、僕たちが調べた噂通りなら、アルコールで前後不覚になっている女の人を連れ込むためにはちょうどいい場所だ。

 壁に寄りかかって男女が抱き合いながらキスをしたりしていた。

 邪魔な上に、ちょっと目の毒だ。

 御子内さんが通り抜けたことにも気づいていないぐらい熱中しているようだった。

 

「まったく、ふしだらだなあ」

 

 そんな感想を抱いた時、

 

「うわああああ!!」

 

 という叫びが聞こえた。

 僕の進行方向だ。

 やっぱり、何かが始まっているみたい。

 あまり人気のないところにつくと、パンツの裾を引っ張られた。

 

『坊ちゃん、坊ちゃん!!』

「あ、ソウコさん! 何があったんですか!」

 

 僕を引き留めたのは、スマホを持った体長一メートルほどの雌のタヌキだった。

 密偵をお願いしておいた、〈狸のソウコ〉さんだ。

 幻法に通じ、機転も利くのでこういうときにはうってつけのタヌキだと推薦されている。

 ソウコさんは僕を見て、

 

『ヤバいよ。あの淫乱ビッチのウサギの奴、気が触れたみたいに暴れ出したんだよ!』

「まさか!? どうして?」

『わかるもんかい。もう、すんごい形相でさ。悪鬼羅刹みたいだったよ!! もお、あたしゃあ飛んで逃げてきたよ』

「……御子内さんは?」

『戦巫女の嬢ちゃんなら、すぐに部屋の中に突っ込んでいって、あいつとやり合いはじめた。あたしゃあ、腰が抜けそうになったよ。なんだい、あの人間は!! 妖怪と素手でやり合うなんて尋常じゃないよ!!』

 

 唾を撒き散らしながらタヌキがくっちゃべる。

 口調が下町のおばちゃんなので、なんともユーモラスだ。

 実際、かなり年を経た雌のタヌキなのでおばちゃんといってもいい。

 

「部屋の中ってことは、例のガリバーの幹部たちはどうなったの?」

『あいつが暴れ出したときには、ほとんど殴り飛ばされたあとだったけど……。完全にのびてた。命があるだけでもめっけもんだね、ありゃあ』

「そっか。まだ無事か」

 

 犠牲者はまだでていない、と。

 御子内さんが間に合ったみたいだ。

 

「ありがとう。僕は行くよ」

『ちょっとお待ち! 坊ちゃんはただの人間だろ? あの淫乱ウサギのことは巫女の嬢ちゃんに任せておけばいいじゃないか! 無茶をすることはないわよ!』

 

 心配されてしまった。

 でも、そうはいかないんだ。

 

「普通ならね。でも、今の御子内さんは〈護摩台〉の加護がない状態だ。場外乱闘をしているのだから、いざというときのためにサポートしてあげないとならない。僕は彼女の助手で相棒なんだよ」

 

 できる限り、優しく言うと、ソウコさんは裾を掴んでいて前肢を離してくれた。

 

『あたしも行くよ。もともと、これはあたしらタヌキの問題だからね。あんたの身は嬢ちゃんに代わってあたしが護るよ』

「ありがとう」

 

 ソウコさんの漢気に感謝してから、僕らは連れ立って奥に向かった。

 狭い通路を抜けると、すぐに激しい破壊音のする部屋の前に辿り着く。

 ドアは開けっ放しだ。

 そっと覗きこんでみると、やはり予想通りに御子内さんと〈犰〉の戦いが始まっていた。

 

 

        ◇◆◇

 

 

 室内に飛び込んだ或子は、一切の思考を放棄して中央に立つバニーガール姿の〈犰〉目掛けて飛び蹴りを放った。

 仔細を確認している暇はない。

 ここに来る途中に耳にした鈍い破壊音と悲鳴だけで、内部の惨状は理解していた。

 妖怪が暴れているのだ。

 しかも、その妖怪〈犰〉はつい先日或子の奇襲の拳を受けきり、あまつさえ反撃のカウンターを仕掛けてきた相手だった。

 つまり、戦闘能力については折り紙付きの危険な妖怪だ。

 現場についてからの判断では遅すぎる。

 だから、一気に仕掛けたのだ。

 だが、或子の渾身の跳び蹴りは〈犰〉の左手によって容易く止められた。

 直立不動のまま、身じろぎさえもしない。

 とんぼを切って着地し、いつもの構えをとる。

 しかし、遅い。

 横殴りの回し蹴りが或子の腹筋を捉えた。

 咄嗟に肘と膝でクロスして防御したが衝撃は捉えきれず、そのまま壁際まで吹き飛ばされた。

 通常でも60~80キロの速度で走れるというウサギの脚力がキックという攻撃に向けられれば、ただの人間のものを上回るのは間違いない。

 世界最速のコサイン・ボルトでさえ、時速では40キロに満たないのだ。

 ただし、追撃はなかった。

〈犰〉の関心のすべては隅で震えているハンサムに向けられているようだった。

 或子はようやく周囲を観察する余裕を得た。

 妖怪はすぐには動かない様子だったからだ。

 眼球だけを動かすと、部屋のあちこちに男たちが呻いている。

 痛みで気絶しているようだった。

 

(やったのは、あのウサギか。殺していないだけよしとしよう。でも、あいつの殺気からすると阪井の命はかなり風前の灯火ってところみたいだね)

 

 或子は体勢を整える。

〈護摩台〉の結界のない場所で、あれほどの敵とやりあうのは無謀としかいいようがない。

 ウサギのキャラクター性に相応しくないあの格闘力も問題だ。

 少なくとも或子の不意打ちの蹴りを片手で弾く相手なのだから。

 だが、仕方ない。

 あそこで震えているハンサムがどんなことをして〈犰〉を怒らせたかは想像できるが、人に害なす妖怪を退治するのは退魔巫女の使命なのだ。

 

『阪井……私、あなたの言葉を信じていたのに……騙したのね……』

「ひぃ、ば、バケモノ!! た、助けてくれ……」

『酷いじゃない。私がどんな悪いことをしたっていうの……。あなたの言葉を信じただけなのに……裏切られて……。あんな優しいことをいって、私を好きにして……それなのに……捨てるのね』

「ば、バケモノ―――」

『まだ私を傷つけるのね……。酷い男、恨んでやる……。ついでに殺してあげるわ……。可愛い私を裏切った報いを受けさせてあげる』

 

 バニーガールと見えたのは、〈犰〉の全身に黒い毛が生えていたからだ。

 それが斑のバニースーツに見えていたようだった。

〈犰〉の口が耳元まで裂けて、牙のような歯が生えている。

 眼はウサギらしく真っ赤であり、皺が寄った皮膚は金属のように光っていた。

 ただ、尻尾だけは丸いものではなく、自在に動き回る蛇のそれにだということが異常であった。

 妖怪〈犰〉―――歳経たウサギが化けるもの。

 

「ぴょんぴょんしてればいいってもんじゃないよ」

 

 勝利するためのビジョンはない。

 全力で戦うしか道はない。

 

「……その顔だけの錦鯉を殺させる訳にはいかないんだよね。こう見えてもボクは……」

 

 或子は構えをとる。

 

「民草を護る、媛巫女なんでね」

 

 そして、突っかけた。

 

「正義のためなら鬼にでもなれるのさ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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いい男の見分け方

 

 

 御子内さんの足癖が悪いのはよくわかっている。

 彼女の脚は変幻自在に動き、時には回転し、時には剣のように伸びた。

 身長157センチの小柄な身体に似合わない、彼女のダイナミックな蹴り技は、延髄切りやクラックシュートとして多くの妖怪を退治して来た。

 だが、そんな彼女のお株を奪う蹴り技の使い手がいた。

 バニーガールに似た姿をした妖怪〈犰〉は、おそらく身長は175センチ(僕よりも5センチほど高い)だが、そのうち脚の占める割合は半分以上。

 股下からの脚の長さはおそらく80センチほどはあるだろう。

 その足が容赦なく御子内さんに対して振られるのだ。

 小柄な御子内さんが遠心力をつけるために、身体を鞭のようにしならせ、捻るのに対して、〈犰〉の蹴りはまっすぐに一文字に孤を描く。

 御子内さんの剣と比較すると、まさに槍だ。

 武器としての使い方でいうならば、剣と槍の違いというのがまさにぴったりとくる。

 しかも、恐ろしいことに〈犰〉の蹴りには一切の溜めがない。

 ぐっと接近したかと思うと、致命的なまでに鋭い一撃が縦横無尽に襲い掛かってくるのだ。

 そして、時には上体をターンさせての後ろ回し蹴り。

 これの射程距離は他を軽く上回る。

 数歩の距離を置いた御子内さんの胸元に刺さってくるのであった。

 一方で手はほとんど使わない。

 全身のバランスをとるための棒扱いでしかないようなので、もし懐にでも入り込まれた一巻の終わりのように視えるというのに、まったく意に介していない。

 人間のように格闘技の訓練を受けたのではなく、妖怪としての本能だけで戦っているというのがそれでわかる。

 技に意図がなく、思考がなく、思想がないからだ。

 ただ、その分だけ妖怪の戦い方は読めない。

 多くの力任せで、最後に秘儀を見せるしかない妖怪と違って、技を使ってくるだけでも恐ろしい相手だった。

 

「くっ!!」

 

 空中で三段蹴りをすることができる御子内さんが跳ぼうとした瞬間、地の底からロケットのように発射された前蹴りがそれを押さえる。

 タイミングを狂わされては、高度な技は不発に終わる。

 ただの飛び回し蹴りとなった一発を躱され、再び、後ろ回し蹴りが突き刺さった。

 足だけしか使わない敵に対して、御子内さんは決定機をまったくつかめない。

 見た目は巫女対バニーガール。

 だが、当たれば大の大人でも気絶しかねない暴風のような蹴りと蹴りの嵐の中に一人と一匹は踏ん張っていた。

 かすかに当たるのは〈犰〉のものだけで、御子内さんのものは一発たりともヒットしない。

 あの御子内さんが一矢も報いずにやられそうな嫌な気配が漂い出す。

 いくらなんでもこのままでは勝てない。

 

『坊ちゃん、あの人間、逃げようとしていますよ。助ける?』

「ん?」

 

 見てみると、阪井がこっちの出口に這いずりながら近づいてくる。

 さすがに〈犰〉の注意を引かないようにじっくりと動いているのが、たいしたものだと思った。

 普通ならば恐怖のために走り出してきそうなものなのに。

 と思ったら、どうも腰を押さえているので、突発性のぎっくり腰か何かになっているようだ。

 しかも、自分の取り巻き達が〈犰〉にやられて失神していて動けないというのに声をかけたりする素振りもない。

 自分だけが助かろうとしているのだ。

 やっぱりその程度か……

〈犰〉の方はさすがに御子内さんと闘っていてはそちらに気を割く余裕もなさそうなので、あと少ししたら阪井はここまで辿り着いて、逃げ切れるだろう。

 妖怪の目標は阪井だ。

 発言からすると、ここまで来た〈犰〉に対してきっと阪井たちが悪さをしたのだろう。

 裏切ったと断言するほどの何かを。

 

「まあ、想像はできるけどね」

 

 ガリバーというインカレサークルの悪評を調べていた僕には、こいつらが何をしたかなんて一目瞭然だ。

 きっと、アルコールを飲ませて筆舌に尽くしがたいことをしようとしたのだろう。

 いつものように。

 誰かを騙して。

〈犰〉もある意味では自業自得だ。

 カチカチ山のお伽噺でタヌキを騙したみたいに、彼女もまた騙されたのだ。

 奸計に長けて、策を弄するウサギが自分がやられたからといって暴力に走るというのはヒステリー以外のなにものでもないけれど。

 その嵐のようなヒステリーを、一人で黙って受け止めている御子内さんを助けないとならない。

 

「―――あんなのでも人だから助けないといけないんだよね」

『そうなの、坊ちゃん』

「らしいよ」

 

 僕は明慶大の食堂で昼間からわいせつな行為をしていた阪井を思い出す。

 あの調子で多くの女性を泣かせてきたんだろうな。

 顔がいいだけで、心は鬼畜なのだ。

 そうなると、あんまり心は痛まないな。

 妖怪に売り飛ばしたとしても。

 僕は這いずり回る阪井の元に近づき、その顔を踏んづけた。

 ぐぴゅっとか鳴いて蛙みたいだ。

 

「えっと、〈犰〉さん! こっちを見て! あなたの探している男は僕の足元にいるよ」

『な、坊ちゃん!』

 

 ソウコさんが驚いて僕の裾をまた引っ張った。

 気のいい彼女は僕を止めようとしているのだ。

 それを無視して、

 

「こっちを見ろ!!」

 

〈犰〉がこちらに視線を送った。

 血走った獣の眼をしていた。

 僕の部屋での陽気そうなお姉さんの面影はどこにもない。

 だから、僕に踏みつぶされた蛙を目に留めると、躊躇いもなく突っ込んできた。

 速い。

 あまりに速かった。

 僕の前にやってきて。

 脚が振られ。

 その甲が。

 僕の腹筋を。

 貫く―――

 寸前。

 

「ボクの京一に手を出すなよ」

 

 御子内さんが背中からがっちりと〈犰〉の片手と顎をとり、自分の両手を掴む、チキン・ウイング・フェイス・ロックを極めていた。

 かつて佐山聡が得意とし、梶原年男が金星を挙げた必殺技である。

 完璧に極めれば柔道家でも逃げられないのだから、多彩で打撃力のある蹴りだけで戦っていた野生の妖怪では絶対に外せない。

 しかも、御子内さんはそのまま後方に投げて堅い床に叩き付ける。

 いかにタフな妖怪でもこれは効く。

 さらに、力と共に肘を絞めた。

 数秒後、バタバタと激しく動かしていた脚が止まった。

 絞め落としたのだ。

 白目を剥き、舌を突き出したおっかない形相のまま床に伏せた〈犰〉はもうピクリとも動かなかった。

 

「やったの?」

「まあね。―――でも、ボクのために隙を作ろうとしてくれたのは嬉しいけど、危険の度が過ぎる。こいつに蹴られたら一般人なら即死だよ」

「ごめん。でも、〈護摩台〉もない君をサポートするにはそれしか浮かばなかった」

 

 やはり無茶をしたことを咎められた。

 退魔巫女はそういうところが厳しい。

 素人に手を出すなとは言わないけれど、馬鹿な行動には必ず叱咤がくる。

 でも、僕は彼女を護れたのだからそれで満足だった。

 

「まったく、京一のそういうところはカッコいいけど、もう少し自重してくれ」

「そうする」

 

 御子内さんはもう動かない〈犰〉を担ぎ上げる。

 意識がないから相当重いだろうに楽々といった感じだ。

 それから、僕が未だに踏んづけている阪井に吐き捨てるように言った。

 

「キミがしていたこと、このガリバーというサークルで行われていた破廉恥な振る舞いについてはもう当局に通報しておいたから、明日にも司法官憲が動くと思う。それまで震えて待っていることだね」

「……な、なんだって……」

「これまでどれだけの女の子を泣かせて苦しめたかは知らないけれど、やったことの後始末は自分で受けるべきだと思うよ。〈犰〉がキミを殺さなかったのはただの偶然。自分のやったことが、これからキミを殺すんだ。それが因果応報ってやつさ。ま、ボクは仏教徒じゃないけれど」

 

 僕たちは、ソウコさんが調べておいてくれた裏口からコソコソと逃げ出した。

 あそこにこれ以上留まっていたら別のトラブルに巻き込まれかねないから。

 御子内さんが肩に担いでいるウサギの妖怪はまだ目を覚まさない。

 

「―――まったく、河口湖でどんな甘い言葉に騙されて口説かれたかは知らないけど、顔だけで男に惚れるからこんなことになるんだよ」

「そうなの?」

「ウサギって大して目は良くないんだけど、それを除いても見る目さえもなかったってことさ。間抜けで不細工なタヌキは泥舟で沈ませるほど嫌うけど、いい男の翁に好かれるためならどんな策略でも実行するというバイタリティーは結局、そういう顔でしか判断しない子供っぽさに行きつくんだろう」

「……女の子って視覚だけで判断するっていうよね」

「ああ。男の本質に気づかない、なんというか乙女の潔癖さと残酷さが凝縮したのが、この〈犰〉なのさ」

 

 そう考えると、カチカチ山って少女と呼べる年頃の女性が原因の酷い愛憎劇のように聞こえてくる。

 あのお伽噺の残酷さってのは、男女間の恋愛の残酷さなのかもしれない。

 だから、あんなにも生々しいのかもね。

 

「……男は顔じゃないと思うんだけど」

 

 男の端に連なるものとして、ちょっとだけ抗議したい気分だった。

 ただ、御子内さんがいきなりそっぽを向いて、 

 

「ボクは女のために身体を張れるような男を選ぶから問題はないんだけどね」

 

 と、ぶっきらぼうに呟いた。

 

「それは立派な考えだね」

 

 素直に、正直に、本当に心から御子内さんの考えを褒めたというのに、思いっきりお尻を蹴られたことだけは何故だかよくわからない……

 

 

 



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第28試合 妖魅犯罪先進国
同期、帰る


 

 

 とある秋の日、一仕事終えてから、僕と御子内さんはモスバーガーで腹ごしらえをしていた。

 巫女なのにお肉が大好きな彼女は、肉の味がしないといってあまりマクドナルドにはいかない。

 たまに行った場合はフィレオフィッシュなどを選んでいた。

 僕には合わないのだが、バーガーキングの直火焼きハンバーガーが一番好きらしく、その次ぐらいにモスバーガーがやってくるそうだ。

 おそらく肉汁の量で好みが決まっている気がする。

 

「―――モスの国産牛推しもどうかと思うんだよ」

「国産の方が安全性高いよね」

「でもね、アメリカ牛のあの脂のノリがボクは好きなんだ。あと、堅いところもいいと思う。ステーキだって噛み応えがあっていいだろ?」

 

 そりゃあ、君は野獣のごとき丈夫な歯を持ってらっしゃるから、あんな草履のようなステーキ肉でも食えるんでしょうが。

 一般の日本人は国産牛の方が好きだし、和牛ならもっと好きだろう。

 

「アメリカのものはたいてい雑な気がするから、そういう点でも僕は好きになれないな」

「まあね。あそこは歴史がないから妖怪もあまり住んでいないし、元々いたはずの精霊もネイティブアメリカンとともに消えちゃったって話だ。それでも、ボクらの〈社務所〉とは提携していたりするんだよ」

「アメリカと?」

「正確にはFBIかな」

 

 FBIって連邦捜査局か。

 ドラマや映画でお馴染だけど、〈社務所〉と提携ってのはよくわかんないな。

 

「欧米でも怪奇事件は起きたりするのさ。ほら、Xファイルとかあったじゃないか」

「ああ、あったね。スカリーとモルダーだ。なるほど、言われてみればアメリカ発の事件って多いかもしれないね」

「あっちは妖魅なんかより人間の殺人鬼とかが多いから、必ずしも怪奇事件が妖魅絡みとはいかないらしいけど。とりあえず、色々な事情があってうちからも外が派遣されたりしているのさ」

 

 なんというか、世の中は色々あるということがよくわかる。

 でも、FBIか……

 映画好きだから結構憧れなんだよね。

 そんな話をしていたら、御子内さんのスマホに着信があった。

 

「もしもし、ボクだ」

 

 なんて男前な電話の受け方なんだろう。

 

「―――なんだって? 刹彌(さつみ)皐月(さつき)が帰ってくるからってどうしてボクが……嫌だよ、あいつの出迎えなんてさ」

 

 少し喋っただけで、御子内さんが珍しく眉をしかめた。

 彼女にしてはあまりないことだが、心底嫌そうな感じだ。

 どんな妖怪とでも平然とやりあえる彼女が、ここまでマイナスな感情を顕わにするなんて……

 

「うん、うん、でもさ、そんなのは―――成田は千葉なんだからレイに行かせなよ」

 

 あ、レイさんにぶん投げた。

 そんなに嫌な内容なのか。

 

「わかったよ。行くよ。行けばいいんだね。……こぶしも地獄に落ちればいいのに」

 

 上司のこぶしさんに何てことを言っているんでしょ、この女の子(ひと)

 

「はいはい、指示はメールで出すのね。了解」

 

 通話を終えると、御子内さんはどっと疲れた顔をしていた。

 さっきまで元気にむしゃむしゃ食べていたハンバーガーも喉を通らないようになっている様子だった。

 

「……何の連絡だったの?」

「同期が日本に帰ってくるから出迎えに行けだってさ。あいつに護衛なんていらないのに」

「……帰ってくるって、外国に行っていたってこと?」

「うん。丁度、さっき話していたFBIに招かれてアメリカに行っていたのさ」

「へえ」

 

 招かれていくって凄くない?

 アメリカの大地に立つ日本の巫女さんというのはなかなか絵になるかもしれない。

 ただ、この御子内さんの拒絶反応はいったいなんなのだろう。

 

「……同期なんだよね、その―――刹彌(さつみ)さんは」

 

 かろうじて僕にわかるのは刹彌皐月という名前だけだ。

 どうしてそこまで嫌がられているかはわからないけど。

 

「まあね」

「悪人だったりするのかな。御子内さんが嫌がるってことは」

「いや、うちの巫女に相応しい高潔な魂の持ち主ではあるよ。技術も素晴らしいものがあって、特定の状況下ではボクやレイにも完勝できるかもしれないかも」

「御子内さんやレイさんより……」

 

 少なくとも僕の知っている限り、この二人より強いというのはかなりのものだ。

 だから、その刹彌さんは退魔巫女としてはトップクラスの実力者のはずだ。

 どんな巫女レスラーなのだろうか。

 立派な心根の持ち主でもあるというのに、ここまで御子内さんに嫌われている理由は不明だけど。

 

「皐月の使う技は……なんというか、ボクたちでさえよく理屈のわからない術……いや、たぶん技なんだろうけど……でね。そのあたりを科学的調査も兼ねて、アメリカまで教授にいっていたんだ。確か、聞きたくないけど聞いた話ではCSIみたいなところで実際の捜査にも携わっていたとか……」

 

 御子内さんの同期ということは僕と同い年のはずだ。

 それなのにアメリカで犯罪捜査をしているというのか。

 知れば知るほどすごい人みたいなんだけど。

 

「ホントに強そうだね」

「あいつの実家に伝わるというあの技さえ封じられれば、並の退魔巫女なんだと思う。けど、真面目にやりあうとしたら、攻略するには誰だって苦戦するだろうさ」

 

 強さについては、御子内さんからも相当のリスペクトを感じる。

 

「でもね、あいつは品がないんだ!」 

 

 伏せていた顔をガッと上げて、御子内さんが叫ぶ。

 頬がわずかに紅くなっている。

 もしかして羞恥か何かなのだろうか。

 

「……あの恥知らずな女とまた一緒に仕事しなければならないとは!!」

 

 頭を掻きながら苦悩する御子内さん。

 そんなに嫌なのか。

 あんまりやるとハゲるよ。

 

「しかも、護衛ってなんだよ。あいつを奇襲できるやつなんて世の中にはそんなにいないだろうに」

「奇襲できない? 御子内さんたちだって、それは同じでしょ。超能力みたいな勘があるんだから。美厳さんだってあの狙撃を躱しきれるスーパーレディだし、奇襲なんて絶対に無理でしょ」

「いや、そうでもないんだよ。結局、ボクでも準備とか想定をしていないと不意打ちには勝てない。でも、皐月だけは違う。あいつを殺そうとか傷つけようとか考えているやつは近づけないんだ」

 

 よくわからない話だった。

 不意打ちや奇襲が通用しないということはわかるが、その理由がさっぱりだ。

 どういうことなのだろう。

 

「まあ、顔を突き合わせてみればわかるよ。刹彌皐月がどういう退魔巫女かということは」

「え、僕も行くの?」

「ボクに皐月と二人っきりになれと言うのかい」

「―――同期なんだからつもる話でもすればいいと思う」

「嫌だ。キミも付き合え。ボクだけが苦労するのは割りが合わない。一緒に地獄の責め苦を分かち合おう」

「ちょっと!!」

 

 ―――まあ、抵抗しても無理だろうことはわかっていたけど。 

 こうして、僕と御子内さんは、退魔巫女・刹彌皐月と彼女に纏わりつく殺人鬼と関わり合うことになるのである。

 

 

 



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刹彌皐月のEトーク

 

 

 成田空港のロビーで僕たちは、お客さんの到着を待っていた。

 さっき確認したところ、帰国のために予定されていた便はもう到着していて、待ち合わせ場所にやってくるのを待つだけの状態だった。

 ベンチに腰掛けている御子内さんは、とても仏頂面である。

 そんなに刹彌皐月(さつみさつき)という同期の人に会いたくないらしい。

 御子内さんがここまで強い拒絶反応をする巫女ってどういう人なのだろう。

 試しに、レイさんにLINEをしてみたら、

 

〔オレはいない。そう伝えてくれ。〕

 

 と、そっけなさすぎる文章が送られてきたりしたものだ。

 この調子では他のメンバーも反応は一緒か。

 しばらく待っていると、

 

「来たみたいだ」

 

 御子内さんが立ち上がり、嫌々っぽい感じで手を挙げた。

 そんなことしなくても、いつもの改造巫女装束姿の彼女は素面で目立つので必要はないと思うけれどね。

 驚いたことにやってきたのは二人連れだった。

 しかも、両方とも女の子。

 片方はカールのかかった豪奢な金髪と高い股下のとてもスタイルのいい、アメリカ美少女だった。

 白いブラウスと紺のタイトスカートというビジネス姿だったが、こんもりと盛り上がったおっきなバストとくびれた腰のせいで威圧されてしまうぐらいだ。

 ほんとに外国産は違うね。

 しかも、目がぱっちりしていてとても可愛らしいし。

 ただ、少し表情が暗く、大きな悩み事を抱えているらしいのが一目瞭然であった。

 まあ、僕たちが出迎えようとしている相手ではないことは間違いないだろう。

 となると、もう一人の方だった。

 

「やあ、或子ちゃん。会いに来てくれて嬉しいな!!」

 

 朗らかな笑顔で両手を振っているのは、巫女装束ではなくごく普通のジーンズと革のジャンバー、黒いTシャツを着た日本人の女の子だった。

 紫のメッシュの入ったシャープな髪型だけでなく、三白眼っぽい鋭い眼差しを持った、ロック歌手のようである。

 よくよく見ると、シャツには「BASTARD」とわりと卑猥な単語が書いてあった。漫画のタイトルではなくて、おそらくスラングの方なのだろう。

 レイさんたちとはまた違うタイプのキツめの顔だちをした美少女だった。

 その割には笑顔は人懐っこい。

 思わず笑い返してしまいたくなるぐらいだった。

 この子が刹彌皐月さんか……

 

「へーい、或子ちゃん、ただいまー! 会いたかったよー!」

 

 駆け寄ってきて、御子内さんにハグをした。

 上から抱え込むのではなく、腰から手を回すようなハグだった。

 恋人同士か、とツッコミたくなる。

 まあ、久しぶりの友達との再会だしはしゃぎたくもなるか。

 

「……やあ、皐月。元気だったみたいで、何よりだよ」

「懐かしいな、或子ちゃんとこうして抱き合うの」

「抱き合っている訳ではない」

「ギュー、してあげる、ギュー」

 

 嫌がる御子内さんをさらに抱きしめる皐月さん。

 というか、再会のハグで首筋にキスをしたりするのは違うでしょ。

 なんと皐月さんは御子内さんの白いうなじのあたりを唇で愛撫し始めたのである。

 

「やめないか、皐月、コラ!」

「うーん、やめたいけどやめられない」

「離れろ、この痴漢め。―――あん」

 

 がっしりとホールドされて引き離せないのをいいことに、さらに首の辺りにキスを続ける皐月さん。

 一応、公衆の面前でなんのつもりなのだろうか。

 というか、「あん」などと御子内さんが漏らすのを初めて聞いたよ。

 もしかしてうまいのか、この女性(ひと)

 

「いい加減にしろ!!」

 

 ドスっといい音がして、皐月さんが膝から崩れ落ちた。

 御子内さんのワンインチパンチが密着した体勢から放たれて、鳩尾に突き刺さったのだ。

 目を丸くして苦しそうに蹲る皐月さん。

 冷めた視線で見下ろす御子内さん。

 どう見ても、鉄拳制裁された痴漢とその怒れる被害者という構図だ。

 まあ、必殺の崩拳を叩きこまれなかっただけマシかも。

 

「ひ、ひどい、或子ちゃん……」

「キミのやっていることはセクハラといってね。嫌がる女性にそんな真似をすれば、訴訟・罰金・減給・免職、あるいはこうやって鉄拳制裁されるんだ。女性の敵に相応しい末路を辿るんだよ」

「う、うちも女の子なんだけど……」

「セクハラ野郎に情けはいらない」

 

 ああ、まあ、こういう痴漢(こと)を普段からやっていればここまで蛇蝎のごとく嫌われるのもわかるか。

 とはいえ、さすがに〈社務所〉の退魔巫女らしく、すぐに回復すると立ち上がり、僕に手を伸ばしてきた。

 握手ということだろうで、握り返した。

 女子相手とは違ってハグはしない方針らしい。

 徹底しているね。

 

「あ、おたくが或子ちゃんの助手さん?」

「はい、升麻です。よく僕のことなんかご存知ですね」

「うんまあね。音子ちゃんからよく聞いているし」

「音子さんから?」

 

 どうやら、不思議系美少女の音子さんとは親しいようだ。

 なるほどまっすぐなタイプの御子内さん、レイさんには好かれていないということか。

 となるとストイックな藍色さんとも合わなさそうだ。

 

「うちは、キャメロン・ディアスっていうんだ。よろしくね」

 

 ……刹彌皐月じゃなかったっけ。

 

「おお、思っていたよりもいい男じゃないか。ジャニーズ事務所にスカウトするように推薦してあげるよ。もしコネがあったらだけどね!」

「ありがとう……」

「うーん、誠実さが滲み出ているね、升麻くんは。心も態度も言葉も誠実そうだ。きっとあの時も誠実に大事なところを舐めてくれるに違いない」

「えっ」

「うちもねえ、やっぱ夜のときは誠実に奉仕してくれる方がいいなあ。或子ちゃんてさ、ほら、普段はともかくベッドの上じゃマグロでしょ。盛り上げてやらないと自分じゃ何もできそうにないから、升麻くんなんか肉体の相性がいいんじゃないの?」

「……ちょっ」

「え、知らないの! じゃあ、教えてあげるよ。或子ちゃんって、恥じらいが強すぎて、夜の営みには向いてないんだよねえ」

 

 なんだろうね、この人。

 

「皐月―――」

 

 ぞくりと背筋に冷気が走った。

 僕の隣にいた御子内さんが拳を握って睨みつけていた。

 怒髪冠を衝くようである。

 まあ、潔癖な彼女なのでこうなるのは当然だ。

 口から出まかせなんだろうけど、ペラペラと下世話な内容をいい加減な口調で軽薄に語る姿は堅物の御子内さんには耐えがたいのかもしれない。

 しかも、―――これ、まだマシなレベルな気がする。

 

「おっと、おっと、このままいくと或子ちゃんが大巨神になって、罪と一緒にうちを許さずになるだろうから黙るね、うふふ」

 

 さすがに恐怖を感じたのか、皐月さんがお口にチャックの仕草をした。

 

「えっと、皐月さん。隣の方を紹介してほしいんですけど……」

「ああ、ごめん」

 

 そろそろ居たたまれなくなったので、隣でひっそりと立ち尽くしていた金髪の美少女へと話を振った。

 

「彼女は、ヴァネッサ・レベッカ・スターリング。うちがアメリカにいたときの可愛いルームメイトだよ。寝息がとても芳しくてね、うちはそれを嗅いでからでないと寝られない性癖になってしまったんだ。ベッドは別だったけどさ!」

 

 肉体関係がありそうなことを匂わされる紹介をされたヴァネッサさんは、疲れた顔で、口を開いた。

 流暢な日本語だった。

 完璧なアクセントも考えると日本人としか思えない。

 

「―――スターリングです。このたびは、私の護衛なんてつまらない仕事をお願いしてしまって申し訳ありません」

「……キミの護衛だって? ボクは皐月の護衛だって聞いていたけれど……」

「いいえ、サツキは〈社務所〉の人に掛け合ってくれて、私についてきてくれただけです。今回のことをお願いしたのは私なんです」

「そうなんだよね、うちはヴァネッサの付き添いなんだ。ベッドの中まで付き添う予定なんだけど、同じ部屋どまりなんだよ」

 

 ……御子内さんの疑問は解消されたね。

 やっぱり退魔巫女を護衛する必要はない。

 ただ、別の疑問が湧いてくる。

 御子内さんの同期であって、その実力も保証されている皐月さんがいるのに、わざわざ別の退魔巫女を用意する必然性はないはずだ。

 しかも、皐月さんはヴァネッサさんとも仲が良いように見える。

 だったら皐月さんが適役のはずなのに、どうしてだろう?

 

「―――とりあえず、〈社務所〉が用意したキミたちの宿に行こうか。細かい話はそこで聞くよ。気を取り直す必要もあるしね」

「まったく、或子ちゃんは頭が固すぎて困るよ。堅くていいのは男の子のあそこだけで十分さ」

 

 ホントに口を開くとエロ話しかしない人だなあ。

 

 

 

 

 

 



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スターリング家の女

 

 

「おい、ちょっと来てくれ!!」

 

 成田空港のベテラン整備士である前田健作は、自分たちの班の受け持ちとされたボーイング777-200型の主脚ハッチを開けた途端、まずいものを発見してしまった。

 整備のための豆電球がついているだけの薄暗い内部でも、普段とは様子が違うことに気が付くのは簡単だ。

 それだけ前田は長く整備の仕事に従事しているのだ。

 

「どうした、マエケン」

 

 班長と同僚たちが手を休めてやってきた。

 

「まだ、いくつも受け持ちは残ってんだぜ。とっと終わらせたいんだ。何があったんだ?」

 

 当然の愚痴をきかされたが、前田としてはそんなことを言っていられる状態ではなかった。

 

「いや、どのみち遅れるぜ。今日は徹夜させられっかもしれねえぞ」

「なんだ、そりゃあ」

「マエケン、馬鹿言ってんじゃねえよ」

 

 前田は自分の予想が間違ってはいないだろうと自信を持っていた。

 だから、ちょいちょいとハッチの中を指さした。

 

「見りゃあわかる」

「なんだと」

 

 促されて内部を覗き込んだ整備士たちは、「マジか!?」と口々に叫んだ。

 

「……どうするんですか、これ?」

 

 前田の問いに、班長は嫌そうに答えた。

 

「空港事務所に連絡して、警察と救急車を呼んでもらえ。救急車は多分、いらねえと思うがな。どう見ても凍っちまっている」

「ですよね」

「マズったなあ。このホトケさんを撤去してから整備するとなると、随分と時間がかかるぞ。下手したらフライトレコーダーのチェックもいるだろうしよ」

 

 彼らの嘆きも当然である。

 ついさっき到着したばかりのジャンボ機の主脚ハッチの隅に、脚を抱え込みながら体育座りのように丸まっていた人間の姿があったからだ。

 明らかに飛行機を使った密航者だった。

 しかも、Tシャツとジーンズという軽装だった。

 防寒機能など絶対にありえない。

 格納されていた脚が出て、整備倉庫に入っているのに逃げ出そうとしないあたり、もうとうの昔に死んでいることは確かである。

 国際線の飛行機は高度にして一万メートルを行くから、気温はマイナス40から50度、空気も三分の一にまで減少する。

 しかも格納部は与圧されないから、酸素は不足になるしかない。

 高度があがる途中で低酸素によって意識を失うか、もしくは低温で凍死するのが通常であった。

 この死体の死因もそうだろう。

 

「こいつ、どこから来たんだ」

「ニューヨークっす」

「じゃあ、助からねえな。無茶な真似しやがって」

 

 班長は今日の整備スケジュールの記されたファイルを手にして、これからの予定の変更を考え出した。

 リスケしなければ絶対に終わることがない。

 成田のような大空港は生き物と同じだ。

 途中で呼吸を止めたら全身まで死んでしまう。

 不可抗力なんて空港のお偉方は認めてくれないのだ。

 さっさと仕事に取り掛かるしかない。

 

「……よし、こいつは県警がくるまで後回しだ。先に、ロスからきたのをやっちまうぞ」

 

 と、指示をだしたとき、まだ格納部を見ていた前田が叫んだ。

 

「は、班長!!」

「なんだ、マエケン。仕事だ、仕事!」

「う、動いてる! 動いているぞ!」

 

 どさっと尻もちをついた前田の横に同僚たちが駆け寄る。

 

「どうした!?」

「死体が、死体が、動いている!!」

「はあ、何を言ってんだ、おまえ……」

「本当だって! 動いているんだよ!」

 

 揶揄われてんじゃないかと、格納部に顔を突っ込んだ同僚の動きが止まった。

 

「マ、マジかよ……」

 

 同僚も見た。

 格納部の隅っこで足を伸ばして立ち上がろうとする死体の姿を。

 どう見ても生きている!

 

「―――そんな馬鹿な……」

 

 マイナス50度、空気三分の一の世界を何時間も体験して生きているはずはないというのに、その密航者は間違いなく命があって動いているのであった……

 

 

           ◇◆◇

 

 

 ○×日午後2時10分ごろ、成田国際空港に到着したニューヨーク発のデルタ航空60便(ボーイング777-200型、乗員乗客192人)の機体の主脚格納部で、整備士が白人男性の遺体を発見した。全身に凍傷の跡があり、密航目的で乗り込み凍死した可能性が高いとみて、千葉県警成田空港署が身元や死因を調べている。

 国土交通省成田空港事務所によると、同機は成田に午後2時40分ごろ着陸。乗客を降ろし約800メートル離れた貨物地区へ移動後、整備士が格納部の扉の内側で遺体を発見した。

 同署によると、目立った外傷はないが、上空でできたとみられる凍傷の跡が全身にあった。

 格納部は機内から立ち入れず、地上からタイヤをよじ登ったとみられる。同機は米国発着の国際線に使われている。成田空港署は米国ではテロ対策で空港が厳重に警備されていることから、米国以外で乗り込んだとみて機体の運用スケジュールなどを調べている。

 

 主脚格納部は人間が隠れるためのスペースがあるとされているが、客室と異なり与圧されず、巡航高度の約1万メートルでは氷点下50度にもなり、乗り込んだ密航者が酸素不足や低温で死亡し、空港で遺体として見つかるケースは珍しくない。成田では03年3月に香港からの、10年2月に同じニューヨークからの到着便で遺体が見つかっている……

 

 

         ◇◆◇

 

 

 空港の隣に用意されたホテルに辿り着くと、僕たちは皐月さんたちの部屋に集まった。

 かなり上等な部類の部屋で、ツインのベッドが高級っぽい。

 客人の僕らがくつろげるスペースもあったりして、一泊二万円はしそうな気がする。

 

「安心してください。私たちの滞在費用はFBIが負担します」

「へえ」

 

 ヴァネッサさんの言うことで別に安心はしないけど、彼女の身の回りの費用がどこからでているかわかっただけでもいいか。

 

「皐月は実家に帰らないのかい」

「うちの親父、たぶん、日本にはいないから戻る場所もないんだ。道場は一番弟子の兄貴分が継いでるし、うちが行ける宛があるとしたら以前世話をした女の子たちの家ぐらいしかないんだよね」

「おじさん、どこに行ったんだ?」

「さあ。今の時期だと、シリアあたりじゃないかな」

 

 ……また物騒なところにいるんだね、皐月さんのお父さんは。

 

「よし、一応、食事も用意してあるし、それでも摘まみながら皐月の話を聞こうか。終わったら、ボクは帰る、京一とね!」

「いや、御子内さん。君の仕事はヴァネッサさんの護衛だって……」

「だって、皐月がいるんだよ。こいつの方が適任なんだからさ。―――いや、待てよ。どうして、ヴァネッサの護衛がボクらなんだ? 皐月のことにムカついてばかりで深く考えたりしてなかったけど、どうしてもおかしいだろ」

 

 ようやく気が付いたんだ。

 そんなに皐月さんが嫌いなのかというツッコミもあるけど、御子内さんはたまにおバカになるからなあ。

 僕が思いついた疑問点を並べると、こうなる。

 

 1、ヴァネッサさんはどうして日本に来たのか。

 2、なぜ、日本に来るのに護衛が必要なのか

 3、なぜ、護衛に妖魅関係の専門家である退魔巫女が必要なのか

 4、刹彌皐月という凄腕がいるのに、どうして御子内或子が選ばれたのか

 

 護衛が必要な理由は、ヴァネッサさんの正体がわかればわかるかもしれないが、今のところ僕らと同い年だということしかわかっていない。

 そこのところをまず解き明かすべきかな。

 

「私は―――というか、私の母と一緒にFBIで捜査官をやっています。母どころか、祖母も、そのまた母も、五代ほど遡ってもずっと犯罪捜査に携わっていました」

「それは……凄いね」

 

 こちらから促さずとも、ヴァネッサさんの方から説明を始めてくれた。

 ただ、その内容は一筋縄ではいかないものだったけど。

 

「はい」

「警察一族ということなのかな」

「いいえ、父は違います。祖父も、普通の人でした。母というか、一族の女だけが警察の仕事につくんです」

「珍しいですね。普通は逆っぽいのに。あ、別に男女差別とかじゃないですよ」

 

 一族で女性だけが警察官になるというのは日本でだって珍しいとは思う。

 

「ヴァネッサさんのところは犯罪捜査に才能があるのかもね。僕の家もFPSには才能があるみたいに」

「家業みたいなものかな」

 

 ところが、ヴァネッサさんは顔を曇らせて、辛そうに、

 

「違います。私たちの家系の女が警察に勤めているのは、もともと公権力に保護してもらうためなのです。さらにいうと、警察、それも身元のしっかりしたものばかりが集められたFBIでなければならないという事情があるのです」

「……どういうことだい?」

 

 ヴァネッサさんはカバンの中から、一冊の分厚いファイルを取り出した。

 

「私を今まで狙ってきた殺人鬼たちの資料です。全員、射殺されているか、刑務所に終身刑で入っています」

「……キミを狙って?」

「はい。私の家系―――スターリング家の女は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のです」

 

 呪われているという、はっきりとした断定だった。

 

「私の母国アメリカは、ある意味では殺人鬼の本場と言えるかもしれません。『サムの息子』デビッド・バーコウィッツ、『ナイト・ストーカー』リチャード・ラミレス、『ミルウォーキーの食人鬼』ジェフリー・ダーマー、有名無名を問わず、危険な殺人鬼たちは枚挙にいとまがありません」

「ボクでも知っている名前ばかりだね」

「ええ。あまり知られていませんが、アメリカには未確認のレコード・ホルダークラスの殺人鬼がまだまだ存在して、FBIは常にそれを追っている状態です。私たちスターリングの女がFBIに入るのは、保護してもらうだけでなく囮役をも兼ねているのです。私たちは、普通の暮らしをしているだけで、彼ら殺人鬼を惹きつけてしまうから、それならば囮役になって役に立とうということになったのですね」

 

 不思議な話だった。

 殺人鬼を惹きつけてしまう家系。しかも、女性のみ。

 そんなことがあるものだろうか。

 

「……理由はわかりません。フェロモンみたいなものがあるのか、ただの呪いなのか、遺伝子レベルの話なのか、まったくです。ただ、私もこの年になるまでに五人の殺人鬼に狙われた経験から、母たちの言うことに間違いはないと確信しています」

「五人……それは多いですね」

「母は成人するまでに七人と一つのカルトに襲われたそうなので、私はまだマシな方みたいですよ」

 

 さすがに絶句した。

 いくらなんでも苛酷すぎる半生ではないだろうか。

 ただ、ヴァネッサさん自身はそこまで深刻には捉えていないらしい。

 馴れというのは恐ろしいものだ。

 

「ただ、殺人鬼に目をつけられやすいというのは、それは……まともな人間の範疇だけではないのです」

「どういうことだい?」

「私の祖母は、母を産んですぐに殺されました。現役のFBI捜査官でしたが、ある事件を調査中に、とても人間業とは思えない殺され方で」

 

 ヴァネッサさんは息を吐いた。

 

「アメリカにはこの国で妖魅と呼ばれている存在のように、人を殺す人外の怪物が蠢いているのです。そして、そいつらも私を……スターリング家の女をずっと狙い続けているのです」

「なるほどね。皐月がアメリカに招かれた訳がわかったよ。アメリカ人では始末できない怪物相手ということか」

「はい」

「そうなんだよ、アメリカ人には微乳の価値がよくわからなっていないから、それを布教するためにうちが招聘されたんだよ。うちは微乳の専門家、ベスト・ビニューニストだからさ!!」

「―――キミ、ちょっと黙れ」

 

 

 

 



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ヴァネッサ・レベッカ・スターリング

 

 手渡されたのは、プリントされた新聞記事だった。

 三日前のものだ。

 僕らがさっきまでいた成田空港で遺体が発見されたという事件のものである。

 ニューヨークからのジャンボジェット機の着陸の際に使うラィンデングギアの格納部に隠れて密航しようとしていた男性が、温度差によって凍死していたというものだ。

 映画やアニメならばともかく普通そんなことをしたら死んでしまうだろう。

 実際に、遺体で見つかって人はそのせいで死んでしまったのだから。

 

「これがどうしたんだい?」

「私たちの目的はそれなのです」

「うちの目的はヴァネッサと旅行することなんだけどね。婚前旅行だよ、んふふ」

 

 それってどういう意味なのだ。

 

「新聞記事にはなっていませんが、この発見された死体は行方不明になっています。今、千葉県警が探していますが、おそらく見つからないでしょう」

「死体が盗まれたってことですか?」

「いいえ。盗まれた訳ではないです」

「じゃあ、どうなったんだ」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「―――マジですか?」

「はい。それを裏付ける証言として、空港で遺体発見した整備士が実際に動き出すところを目撃しています。その時は格納部から出てきた時点で止まったようですが、遺体安置所でもう一度動き出したと考えるべきでしょう」

 

 ……凍死したはずの密航者が甦って歩き出したというのだろうか。

 かつて音子さんが倒した〈殭尸(きょんしー))〉のことを思い出した。

 もしくは有名なゾンビーか。

 

「なるほどね。だから、そいつの捜査のためにキミが来たのか。FBIの仕事という訳だね」

「その死にそうな状態からでも生き返るタフな人は、何をしたんですか?」

「いえ、升麻さん。彼はあり得ないほどタフなのではありません。彼は、死んでも生き返ることができるだけなのです」

「……えっ」

「本名はジェシー・ジェラルド、我々は彼のことを「歩く死人(デッドマン・ウォーキング)」、―――〈J〉と呼んでいます。何度殺しても死なない不死身の殺人鬼です」

 

 殺されても死なないって……

 

「〈J〉はこれまでに確認されているだけで、七回は殺されています。殺したのは、襲われた被害者であったり、警官であったり、軍人であったりと多彩ですが、その度に〈J〉は甦り、また同じような殺人事件を引き起こし続けました。〈J〉による殺人の数は三桁を越えているでしょう」

「凄いな……」

「元々ニュージャージー州で活動していたのですが、ある時からニューヨークに拠点を変えて、そこでも殺人を繰り返しています。私は〈J〉の捜査を、相棒(バディ)として皐月とともに行っていました」

「えっへん。あ、巨乳が邪魔になって張れないや」

 

 皐月さん、御子内さんよりも胸ないよね。

 

「私がこの年でFBI捜査官として働けているのは、母からもらった性質のためです。例の殺人鬼を惹きつけてしまうフェロモンを使って、闇に潜んだやつらを引っ張りだすのが仕事です。そして、〈J〉を誘いだすことにも成功しました。でも……」

「でも?」

「私たちは〈J〉を取り逃がしてしまいました。しかも、ニューヨーク空港の付近だったこともあり、飛行機による逃亡を許すという失態でした。さらに言うと、どの便に乗ったのか特定できず、成田の件を知るのにも時間を掛けてしまいました」

「つまり、今、日本にその不死身の殺人鬼がいるということだね」

「はい。その捜査のために私がきました。ただ、様々な事情から日本にFBIとして入国できるのは私と、元々〈社務所〉の人間である皐月だけとなってしまいました」

 

 そうか。

 そうつながるのか。

 

「或子さんには、〈J〉捜索の間の私たちの護衛をお願いしたいのです」

「……その不死身の殺人鬼というのは、妖魅に属するものと解していいんだね? それならばボクの出番だ。ただ、皐月がいるのにボクが必要というのがよくわからない」

「んー、3Pをしたい訳じゃないんだよね。升麻くんもいるから、4Pになっちゃうし。乱交は趣味じゃないんだよ」

「皐月」

 

 さすがにふざけている場合でないと思ったのか、皐月さんは頬を指で掻いた。

 

「……〈J〉はうちと相性が悪いんスよね」

「どういう意味だい?」

「あいつ、殺気がないんだよね。たいていの殺人鬼にはある、あの気持ち悪い色が。あれが視えないと、うちはちょっと可愛いだけのパンクロッカーだからさあ」

 

 パンクでもロックでもなさそうだけど、とりあえずこの女の子にしては落ち込んでいることがわかった。

 その〈J〉を取り逃がしたということを気にしているのだろう。

 お茶らけているようだけど、誇り高い人だということはわかる。

 ただ、()()()()()()という言葉の意味は不明だ。

 

刹彌流柔(さつみりゅうやわら)が効かないということかい?」

「うん。おかげで襲撃されたときに、ヴァネッサのお母さんに怪我させちゃってね……。魅惑の人妻だったんだけど」

「しくじったね。ただ、キミがいて護衛が必要な理由がわかったよ。ボクの仕事は皐月の護衛も兼ねてということなんだ」

「まあねぇ。さすがに殺気が視えないなんて考えたこともなかったから、どうしても動きと判断が鈍くなっちゃうんだ」

「了解」

 

 御子内さんはすべてを理解したようだ。

 

「……その〈J〉は日本の何処にいると思う?」

「おそらくそんなに遠くには行っていないはずです。それに、私が来ましたから、きっとこのあたりに戻ってきます。あいつにとって、私と母みたいなスターリング家の女は天上の甘露に等しいですから、感じ取っただけで近づいてくるんです。お願いです。あいつが日本で殺しを始めるまでにとめたいんです!」

 

 この人にそこまでの餌的魅力があるとは……、また凄い家系もあったもんだ。

 でも、四六時中そんな殺人鬼を惹きつけてしまうんじゃ、普通の生活はしづらいだろうな。

 だから、事件と背中合わせのFBIに所属するしかないのか。

 本当に同情を禁じ得ない。

 御子内さんも同じ気持ちだったのだろう。

 ヴァネッサさんの肩を軽く叩いた。

 

「……その殺人鬼を倒せばいいんだろ。簡単なことさ」

「でも、相手は不死身で……」

「不死身? 京一、それは無敵ってことかい?」

 

 聞かれたので、素直に答える。

 

「不死身だからといって最強って訳じゃないと思うよ。僕が知る限り最強なのは―――」

 

 御子内さんは胸を張った。

 

「そう。―――ボクさ」

 

 この最強の巫女レスラーがたかが不死身程度の殺人鬼に負けることなどありはしないのだ。

 

 

 

 

 



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〈J〉という名の殺人鬼

 

 

 しばらくして、僕らは外にでることにした。

〈社務所〉が用意したプリウスαに乗って、町を流すことにしたのだ。

 運転するのはヴァネッサさん。

 国際免許というのだろうか、日本国内でも使用可能な運転免許を所持していたのだ。

 成田空港の傍の国道を、軽く流す感じでドライブをすることになっていた。

 

「―――こんなことで、その殺人鬼はやってくるのですか?」

「意外と釣れるんだよ、これで。実際に、ヴァネッサがニューヨークを巡回しただけで、〈J〉が襲ってきたぐらいだからさ」

「……信じられないですね」

「日本には我が国でいうところの連続殺人鬼(シリアルキラー)が少ないみたいですから、本国ほど多くはないと思いますけど、私が普通に暮らしているだけですぐ近くに彼らがやってくるなんてざらにあることなんです」

 

 連続殺人鬼が多いってのも物騒だ。

 ただ、そのおかしな連中を誘い出すフェロモンなんてものがあるというのは、なかなかに信じられない。

 

「……皐月と私がバディをしていた半年ほどで、二人の殺人鬼を捕まえました。大量に殺人を犯している、いわゆる民衆の敵(パブリックエネミー)レベルはいませんでしたが、それでも殺人に快楽を覚える危険な連中ばかりでおかげでニューヨークは少し平和になりましたね」

「気が休ませられないじゃないか」

「まあ、強盗やら粗暴犯やら程度はヴァネッサに引っかからないから、そういう折り紙付きだけを相手にするという点では簡単な仕事なんだけどさ。あとは、金髪巨乳美人とデートするだけの簡単なお仕事だし」

 

 それにしたって、常にそんな危険な連中に狙われている女性を護衛するというのは大変な話だ。

 今回、臨時で引き受けた御子内さんなんかさっきから気を張りっぱなしだ。

 ヴァネッサさんの話を信じるのならば、運転中にだって狙われてもおかしくないのだから。

 ならば、護衛を半年もこなしていた皐月さんはエロトークしかしないセクハラ人間という訳ではなさそうだね。

 そうしたら、僕の携帯に連絡があった。

 

「はい、升麻です」

『こんにちは、京一さん。もしもし、こちら不知火です』

「あ、どうも」

『或子ちゃんは護衛で忙しいだろうから、あなたに伝えますがいいですか?』

「はい、どうぞ」

『―――あなたたちの位置はGPSで捕捉しています。そこから五キロほど行った先に廃業した大規模な廃工場跡地がありまして、千葉県警がそこで例の殺人鬼を見つけたとのことです』

「見つけちゃいましたか。じゃあ、お任せでいいんですかね」

『いえ、或子ちゃんと皐月ちゃんを向かわせてください』

「どうして? 警察に任せればいいじゃないですか? 話を聞く限り、不死身っぽいけれどただの人殺しみたいですから、退魔巫女の出番じゃないと思いますよ。ヴァネッサさんの護衛も、彼女が囮役として殺人鬼を見つけ出すまでであって、発見されたのならお役御免になると思うんですが……」

 

 そう、この国の警察は実に優秀なのだ。

〈社務所〉も、警察とはつながりが深いみたいだけど、基本的に妖魅関係以外の事件で警察の領分を荒らしたりはしない。

 逮捕権という基本的人権を超越する強力な権利を持つ警察は、平時においては下手な軍隊よりも強力な力を秘めているといっていいからだ。

 しかも、組織力は〈社務所〉とは段違いだ。

 本気で嗅ぎ回れば、日本に密入国した殺人鬼など三日もあれば狩りだせる。

 

『スターリングさんにその〈J〉という殺人鬼のことを聞きましたか?』

「ええ、まあ」

『じゃあ、そいつが皐月ちゃんをやっつけたということも?』

「いえ、取り逃がしたとだけ……」

『もう、皐月ちゃん、肋骨五本ぐらいにヒビが入っているはずなのに。まだ、やり合う気だったのね』

「―――どういうことですか?」

『どうもこうもないわ。不意打ちされたとはいえ、その殺人鬼は退魔巫女をボコボコにできる怪物ってこと。しかも、何度も生き返っているというけれど、一度殺すまでにどれだけかかるかわからない相手なのよ』

 

 まさか、それほどの化け物ってことは……

 

「やっぱり、妖怪なんですか?」

『わからないわ。たぶん、北米大陸特有の死霊の類いだと思うけれど、正直、日本の警察ではSATなんかを派遣しても殺すことさえ難しいはずよ。だから、千葉県警には任せられないの』

「……まさか」

『或子ちゃんに言って。絶対にそこで仕留めなさい、と。千葉県警に余計な死傷者を出させないようにね』

 

 僕は運転しているヴァネッサさんにこぶしさんから聞いた内容を話した。

 彼女は頷くと、日本製のカーナビを自在に操って、廃工場跡地にセットする。

 

「……さて、行こうよ、ヴァネッサ。女の子の周期が来る前に借りを返さないとね」

 

 助手席の皐月さんが前を見据えたまま、感情を乗せずに呟いた。

 生々しいエロ発言をしながらも僕は皐月さんの心の奥底に潜む闘志のようなものを感じ取った。

 皐月さんの肋骨が五本、ひびが入っているのは本当のことなんだろう。

 けれど、この女の子(ひと)はやはり御子内さんの同類なのだ。

 負けっぱなしで引き下がれるほど、生易しい人格はしていない。

 

「その〈J〉というのは、どういうスタイルの戦い方をするんだい?」

 

 御子内さんもその決意は感じ取っているらしいが、敵のことは気になるのだろう。

 

「……〈J〉は巨漢だね。身体もでっかいし、腕も太いし、たぶん、あそこも太い。しかも怪力のファッキン化け物だね。スタミナもタフさも底抜け、銃で撃ったぐらいじゃ倒せないし、気にもしないノーガード戦法をしてくる。だから掴まれたら終わりだし、意外と器用に周囲のものを武器にする知恵もある。あと、歩くのがクソミソ速いから、早漏だと思う」

 

 普通だとまったく敵いそうにない怪物みたいだ。

 

「生きているんだか死んでいるんだかわからないから、殺気がほとんどない。うちらは囮役をやっていたんだけど、気が付いたときにはマチェットのような鉈で斬りつけられて、同行していた巡査がやられた。うちも一発いいのを喰らった後、壁に投げつけられて、アバラをやられたんだ。初めては痛いっていうけど、そんな感じ。で、まあ、ちょっとやりあって重傷を与えたんだけど、こっちは逃げるのが手一杯で、あっちも逃げていったということさね」

「恐ろしい殺人鬼でした。ただ、母から伝え聞いた話では、合衆国にはこの手の信じがたい化け物めいた殺人鬼がたびたび現われるそうです。FBIは、この類の殺人鬼を〈殺人現象(フェノメノン)〉と呼んでいて、これまで三十例ほど報告されています。まだ、未確認ですが、南部には他人の夢の中に現われて人殺しをする〈殺人現象〉の噂もあるほどです」

「―――アメリカ、凄いな」

「……妖怪だらけの日本と比べてもちょっと危なすぎるね」

「だから、うちが招聘されたというわけだよ。別に、ハリウッド映画にスカウトされたんじゃないのは内緒だけどさ」

 

 アメリカの怪奇事件に妖魅絡みのものがあるとは聞いていたけど、なかなか二の句が継げないレベルだった。

 さすがは犯罪大国というべきかも。

 

「〈J〉はその〈殺人現象〉の中でもトップクラスの凶悪さと言われています。そんなものを外国、しかも同盟国に逃がしたとなるとFBIの責任も問われかねない問題なのです」

 

 FBIがこの二人だけを派遣した理由もわかった。

 しかし、いつも思うけど、世の中はとんでもない危険に満ちているね。

 もうすぐ目的地に到着する寸前、

 

「ちょっといいですか」

 

 プリウスαが制服姿の警察官に呼び止められた。

 ヴァネッサさんが窓を開ける。

 警察官は金髪の外国人の彼女を見てわずかにたじろいだ。

 

「……何か?」

「あ、日本語が出来るのか。よかった。えっと、ここから先はしばらく道路を封鎖することになりましてね。少し先にスペースがありますので、警察官の指示に従ってUターンをお願いします」

 

 ああ、検問か。

 しかも、この調子だと、僕たちと同じものを追っているのだろう。

 道端にパトカーが停まっていて、二人の警察官が立っていた。

 

「これで、いいですか?」 

 

 ヴァネッサさんが何かしら英語で書かれた書類を示す。

 おそらくは捜査協力要請書みたいなものなのだろうが、和訳は用意できなかったらしい。

 だから、警察官は訝し気になった。

 

「読めないんですよね。えっと、どういう事情かは知りませんが、ここから先は危険でして、お引き取り願いたいんです」

「私はFBIとして、ここを通過させることを要求します」

「FBIとか、そんなものを出されても困るんですよ。さ、お引き取りください」

 

 言葉は穏やかだが、口調はかなり辛らつだ。

 FBIと聞いてバカにしたような顔つきをしたので、信じていないのだろう。

 運転しているヴァネッサさんだけならともかく、助手席と後部座席の僕らをみると信じられないのも無理はない。

 とはいえ、悠長に説得をしている時間はなさそうだ。

 一人ぐらいここに残って話をしている間に強行突破してもらうか。

 僕が車から降りようとするより前に、別の人物がすでに出ていった後だった。

 

「ヴァネッサ、或子ちゃん、先にいってて。〈J〉にはリベンジしたいけど、うちとあいつは相性悪いしね。今回は頼むよ」

 

 そういうと、パンクロッカー風の美少女はぬるぬるとした歩き方で警察官の前に立った。

 

「あんたたち、警官なんだから()()()()()()()()()()()()()()

 

 不敵な笑みを浮かべながら。

 

 

 



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刹彌皐月の秘術

 

 

 プリウスαの外に出た皐月さんは、検問をしている警察官の前に立った。

 目で合図をしてきたので、ヴァネッサさんはいつでもアクセルを踏めるように準備する。

 しかし、このまま無理に出発すると、先のUターン地点で待機している警察官たちも巻き込む恐れがあった。

 つまり、皐月さんのやろうとしていることは一つだ。

 

「悪いんだけどね、ちょっと暴れさせてもらうよ。なーに、若くて可愛い女の子とプレイできるんだ、ビンビンになるっしょ」

「君ね。警察官に対してそういう口の利き方をするもんじゃない。補導されたいのか」

 

 派手なパンクロッカースタイルではあるが、皐月さんの顔つきはまだ幼いところがある。

 あれでは撥ねっ帰りの不良少女ぐらいにしか思われていないだろう。

 もっとも、残念なことに、その女の子はまともではなく、遵法精神とかもあまり持っていなさそうだった。

 皐月さんの手が上がり、指を丸めると、バチンと警察官の額を弾いた。

 デコピン、だった。

 間違いなく自分よりも体格が良く、防刃ベストを着こんでいるせいで体積だけで二倍以上にみえる警察官に対してデコピン。

 何をされたのかわからず一瞬止まった警察官が、すぐに顔を憤怒の赤に染め上げた。

 怒りで沸騰しているのだ。

 ただ、警察官としての矜持があるのか、怒鳴りつけたり、ましては手をあげたりということはしない。

 物凄い形相のまま、皐月さんを睨みつけた。

 ギョーザ型をした耳の形や筋肉の付き方といった見た目からすると、おそらく柔道の有段者。

 軽薄そうな小娘にコケにされて黙って引き下がるタイプではないだろう。

 

「なにをする? 公務執行妨害で捕まえて、親を呼び出してもいいんだぞ」

 

 普通なら小便を漏らしそうな凄味だったが、皐月さんは涼しい顔だ。

 それどころか、さらに挑発と煽りを続ける。

 

「いやあ、久しぶりの日本だけど、やっぱり安全な街で平和に勤務しているお巡りさんの殺気は(ぬる)いわあ。ちょっと、おじさん、息が臭いよ。もしかして、そういうプレイ? ごめーん、うち、年上フェチじゃないからつきあってあげらんなーい」

 

 なんていうか、人を怒らせるのが本当にうまいな、この人。

 

「ふざけるなよ」

 

 警察官の腕が上がった。

 まあまあ、と相棒役がなだめに入った瞬間、二人の間にある一メートルほどの何もない空間で、皐月さんがまるで柔道の組手をするかのように手を動かした。

 そして、何もない宙を掴む。

 蚊でも飛んでいるかのような不自然な動きだった。

 バケツに汲んだ水を捨てるみたいに、斜め後方に向けて突き飛ばす仕草をする。

 皐月さんの動きだけを見ていたら、そうなる。

 ただ、違っていたのは、皐月さんの動きに同調(リンク)するかのように警察官の身体が浮いた。

 触れてもいないのに、まるで指揮者のタクトに操られるように警察官は地面に転倒する。

 さすがに柔道家であるのだろう、しっかりと受け身はとっているが、顔は驚愕で歪んでいた。

 本人が一番よくわかっている。

 今、彼は、誰にも触れられていないのに投げ飛ばされたのである。

 

「なんだ、今のは!? 隅落(すみおとし)でもされたみたいだったぞ!!」

 

 キョロキョロと周囲を見渡していたが、そのうちに一か所で止まった。

 警察官の眼は皐月さんを見ていた。

 

「……貴様がやったのか?」

「オジサンが勝手に転んだだけだよ。ねえ、そっちのお巡りさんも見ていたでしょ。うちは触ってもいないのに、このオジサンが勝手に前に転んでいったところを」

「……高松さん、確かにこの子はあんたに触れていないよ。それよりも怪我はしていないかい?」

 

 すると警察官はすっくと立ち上がった。

 視線は微塵も逸らさない。

 お巡りさんというよりは、武道家みたいな顔つきだった。

 

「何をしたかはわからんが、貴様の仕業だというのはわかるぞ。何をした?」

「……オジサン、結構いい殺気をだすね。明晰な殺気だったおかげで掴みやすかったよ」

 

 明晰な殺気?

 どういうことだろう。

 

「―――よく見ているといいよ。あれが、皐月の特技―――刹彌流柔(さつみりゅうやわら)さ」

 

 御子内さんが言った。

 どうやら彼女にはわかっているらしい。

 

「皐月というか、刹彌流柔の遣い手はね、人の発する思念の中でも殺気と呼ばれている鋭く尖ったものを視ることができるんだ。しかも、それだけでなくて、その技の遣い手は皆、殺気を形あるものとして掴み、投げることができる」

「えっ?」

 

 僕には御子内さんの言っていることがよくわからなかった。

 殺気なんていう形のないものをどうやって見たり触ったりできるというのだろう。

 でも、たった今見せられたのは、皐月さんが触れもしないで警察官を投げた事実だった。

 

「相手の放つ殺気が濃ければ濃いほど、殺意が強ければ強いほど、皐月にとっては有利になる。ボクや他の同期どころか、歴代すべての退魔巫女が真似しようとしても絶対にできない秘術さ」

「ということは、皐月さんが一定の条件下では御子内さんにも勝てるというのは……」

「あの刹彌流柔があるからさ。……組んでもいないのに、殺気を掴まれて投げ飛ばされては防ぐこともできないからね。さすがは元々、御所で(みかど)を守護していたという鬼の子孫さ。とても真似なんてできない」

 

 ……要するに、かつては禁裏で天皇陛下を護る職務についていたということか。

 刹彌という一種独特の苗字の由来もわかる。

 かなり古い家柄なのだと思う。

 ついでに神社の出身でないというのもわかった。

 これは推測でしかないが、刹彌流柔という異様な流派を維持するためにあえて皐月さんは〈社務所〉に入ったのではないだろうか。

 刹彌流はどうみても戦いの中でしか使い道がない。

 もしくは、護衛か。

 誰かの殺気が視えるなどということはSPなどからしたら垂涎ものの能力だろうし。

 なんといっても、警護対象に殺気を向けているものを用心すればいいだけなのだから。

 そして、この段階になって初めて、これまで皐月さんと御子内さんのしていた会話で呑み込めなかった部分の意味が掴めた。

 そういうことか。

 

「……〈J〉という殺人鬼は生きている死者みたいなもので、生きている人とは違い、殺気を発しないから接近に気が付かないし、刹彌流も通じなかったということなんだね」

「正解だ。殺気を掴めさえすれば、皐月はたいていのものは投げられる。さっき見せた空気投げみたいな大技だって簡単に極めるしね」

 

 空気投げ―――別名「隅落」という技は嘉納治五郎師範が名づけ親であり、三船久蔵十段が編み出したものである。

 非常に素早い巧みな動作によって相手を崩し、柔道衣を持った手以外は触れることなく、斜め後方へ突き飛ばすように投げる、とても難易度の高い技であるらしい。

 皐月さんの投げはとても堂にいっていたし、おそらく投げ技については相当の達人なのだと推測できる。

 巫女レスラーたちの同期なのだ。

 それぐらいでないと困るだろうし。

 一方で警察官たちと皐月さんの睨みあいは続いていた。

 直接触れていたという現認はしていないので、皐月さんが暴力を振るったとはいえないので公務執行妨害を問えないが、明らかに危険人物であるという認識は抱いたらしく、警察官たちは非常に緊張していた。

 Uターン地点にいた警察官たちまで何事かと近寄ってきていた。

 

「今だよ、いってらっしゃーい」

 

 皐月さんが呑気に言った。

 同時にヴァネッサさんがアクセルを踏み抜く。

 パワーモードのプリウスαは一気に100キロまで加速できる。

 おかげで警察官が止める間もなく、僕たちの乗ったプリウスは皐月さんと検問の警察官たちを置き去りにしていった。

 あっという間に米粒以下になった皐月さんたち。

 置いて行ってしまったという罪悪感があるが、ここは仕方のないところなのかもしれない。

 少なくとも、あの職務熱心な警察官たちを不死身の殺人鬼の餌食にするわけにはいかないのだから。

 

「―――もうすぐ廃工場跡地だね……」

 

 目的地に近づいて、プリウスαが速度を緩めたそのとき……

 

 グシャアアアアン!!

 

 助手席のガラス窓を破って、ぶっとい腕が突きこまれてきた!!

 

 

 



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殺人鬼と退魔巫女

 

 

 いきなりの衝撃的出来事であったが、運転しているヴァネッサさんは落ち着いていた。

 運転中に何かアクシデントに見舞われた場合、ハンドルを左右に強く切ってしまったり、ブレーキを踏んでしまうのがデフォなのだが、彼女は違っていた。

 冷静に、なんとアクセルをゆっくりと踏み込んで、車体の安定に努めたのだ。

 何が起きたかを把握するよりも、プリウスαが事故らないように少し離れた場所の駐車場に乗り入れる。

 ほんの三十秒ほどの、いかにヴァネッサさんが修羅場をくぐり抜けてきたのかがわかるテクニックであった。

 一方の僕はというと、助手席側の窓を突き破ってきた腕とその持ち主を見て、顔をこわばらせていた。

 作業用の黄色いヘルメットと顔に汚れた布をぐるぐると巻き付けた巨漢であった。

 黄土色のツナギ姿なのだが、着られるサイズがよくあったなというぐらいに上背があり、しかも筋骨隆々だ。

 走行中の車に特攻して来たからか、腕を伸ばしきれずに運転しているヴァネッサさんにまでは届ききらないが、執拗に掴もうとしている。

 後部座席の僕の目の前でのことなので、ほとんど悪夢のような光景だ。

 

「京一、ロックを開けろ!!」

「あ、うん!」

 

 僕はロックを外して、ドアを開けるようにすると、どけっと御子内さんが僕越しにドアを蹴り飛ばした。

 開いたドアが巨漢にぶつかる。

 バランスを崩したのか、巨漢は揺らいだ。

 車が走行中なので両足が引きずられているからか、そのままずり落ちそうになる。

 突っ込んでいた腕と指が開いたドアの縁にかかり、ギリギリ振り落とされない。

 恐ろしい力だった。

 

「京一、もう一度!」

 

 僕は御子内さんに倣ってドアを蹴った。

 そのショックでドアの縁を掴んでいた指が剥がれる。

 鈍い連続音をたてて、巨漢は道路に投げ出された。

 慌てて後ろを見ると、壊れた人形のように巨漢は道路を転がっていき、三回転ほどしたら止まった。

 その間に、プリウスαは駐車場に辿り着く。

 僕は巨漢から眼を離せなかった。

 もしかしたら死んでしまったかもしれないとじっと目を凝らしていると、信じられないことが起きた。

 無残に道路に叩き付けられていたはずの巨漢がのっそりと立ちあがったのだ。

 ツナギのあちこちが汚れて裂けていたが、本体にはまったく影響はなさそうだった。

 ふらつきもせず、痛みをこらえているようでもない。

 それどころか、腰のベルトに差していたらしい、長い鉈のようなものを抜いて手にしていた。

 あれで僕たちを殺そうというのだろうか。

 

「―――呆れたタフネスぶりだね。とりあえず人間なんだろ?」

「ええ。ただし、何度も死んでは甦ってきた怪物です」

「なるほどね。皐月がやられるのもわかる。異常なものをひしひしと感じる。〈護摩台〉なしだとちょっときついかもしれない。……京一」

「ああ、簡易結界だね。いいよ」

 

 清めたテグスで周囲を囲って、紙垂を突き立てて、弱いけれど結界を使うやり方だ。

 リングみたいな〈護摩台〉を設置するのに比べれば結界の効果はお話にならないけれど、渋谷の〈七人ミサキ〉事件なんかでは意外と結果を出せているやり方だった。

 ただし、こんな車のない駐車場では巻き付けるものがないからもっと狭いところにいかないと。

 

「あっちの方に特撮ヒーローが戦いそうな入り組んだ場所がありそうだ。そっちに行こう」

「言い得て妙だね」

「OKです」

 

 僕らは近づいてくる巨漢―――殺人鬼〈J〉を尻目に走り出した。

 どう見ても歩いているだけなのに、ぴったりとくっついてくるのはどういうことなのだろう。

 一瞬、前を見ただけで次に振り向いたら、すぐ後ろにやってきている。

 

「―――瞬間移動でもしているのか」

「死霊憑きなんてあんなもんさ」

「……あれが死霊なの?」

「断定はできないけれど、ほとんど死霊と融合していて、妖怪とたいして変わらないレベルになっているのはわかるよ」

「……〈殭尸(キョンシー)〉みたいなもの?」

「あれに比べたら芸はなさそうだけど」

 

 執拗にこちらを追ってくる殺人鬼を振り切ろうと走っても、あっちは悠々とついてくる。

 まるでどこからかモニタリングされているように精確だ。

 退魔巫女として日々トレーニングを重ねている御子内さんと、日頃のガテン系バイトのせいで体力のある僕についてこられるヴァネッサさんもなかなかだけど。

 彼女の手にはいつのまにか拳銃が握られている。

 よく日本に持ち込めたね。

 拳銃を目の当たりにしても驚かなくなった僕も大概なんだけど。

 

「……いつも、あんなのに狙われているんですか?」

「さすがに〈歩いている死者〉は初めてです。母もそんな経験はないそうですけど」

「でしょうね」

 

 実際、運転しているだけで()()()()()()()のだから、スターリング家の女性陣のフェロモンみたいなものは本物なのだろう。

 この調子では子供の頃から相当危険な目にあってきているはずだ。

 さっきの冷静なドライブテクニックもわかるというものである。

 ただ、それだけ彼女がどれほど苛酷な少女時代を送ってきたかを顕著にしめしていたともいえる。

 そうでなければ、あんな落ち着いた処置はできないはずだ。

 

「ヴァネッサさんはこれが終わったらアメリカに戻られるんですか?」

「―――できたら、ここに留学したいです。本国に比べると平和で殺人鬼が少ないみたいですから、人生で一度ぐらいは普通の生活がしたいと思っています」

「殺人鬼がいないと平和なんだ……」

 

 でも、産まれてからなんの罪もないのに、ずっと人殺しに目をつけられそうになりながら生きるって、きっと辛いことばかりなのだろう。

 僕には同情することしかできない。

 そんな日常を想像することだって難しいのだから。

 

「いいんじゃないかな。留学先は〈社務所〉に頼めば斡旋してもらえるだろ。FBIのコネを日本で使うよりは安上がりだ」

 

 と、御子内さんが言う。

 彼女は懸命に簡易結界を張れそうな場所を探しながら、僕たちの会話を聞いていたのだ。

 

「……でも」

「デモも生産調整もないよ。子供の頃から、そんな危険な生活を送ってきたというのなら、少しぐらいはのんびりとした生き方を体験したって誰も文句は言わない。いや、ボクが言わせない」

「或子さん……」

「だから、この件が片付いたらFBIに話を通して留学でも何でもしたらいい。あんな殺人鬼ごときに振り回される人生なんてくそ食らえさ」

 

 御子内さんは廃工場の一画、なにやらトロッコのような滑車があり、周囲を足場で固められた地点にテグスを張りだした。

 僕もその手伝いをする。

 慣れたもので一分もたたず、簡易結界は張れた。

 あとはここに〈J〉を誘い込むだけだ。

 僕たちが結界の真ん中に入って囮の餌役になることで、それは足りる。

 

「御子内さん」

「……ボクも小さい頃に、わりと酷い目にあった記憶があるからね。大して戦う力もない子供相手でも妖魅どもは構わずに襲い掛かってくる。持って生まれてしまっただけのものために、理不尽な目に合ってもいいなんてことは決してない。だから、ヴァネッサ……」

 

 廃工場の入り口に不死身の巨漢が姿を現した。

 てらいも小細工もない。

 表から僕らを殺そうと鉈を振りかぶりながら。

 それを見やりつつ、御子内さんは宣言した。

 

「ボクにはキミらスターリング家の女性の宿命を止める力はない。だけれど、降りかかる火の粉をぶっ飛ばす力はある。―――薄汚い人殺しなんぞ、ボクが絶対に仕留めてやるさ」

 

 御子内或子は、不死身の殺人鬼と真っ向から対峙した。

 

 

 



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一点機動

 

 

 一歩、御子内さんが前に出る。

 ヘルメットの巨漢の殺人鬼は、警戒というものをまったくすることなく傲然と工場内に入ってきた。

 手にしている鉈の恐ろしさは、ただの凶器の範疇には収まらないものがあった。

 少し安心したのは、鉈にも黄土色のツナギにも、血の跡らしいものが皆無な点だ。

 不死身の殺人鬼という話だったが、まだ日本では事件を起こしていないらしい。

 それならば、〈J〉を取り逃がしたことでヴァネッサさんや皐月さんが抱く責任の重さもまだ軽くすむかもしれないだろう。

 たわめておいたテグスを跨ぎ、〈J〉が簡易結界に侵入した。

 同時に僕らがそれを引くと、床から一メートル五十センチほどの高さにテグスが張られ、妖魅の類いが用意に外へと逃げられなくなる。

 リングの形をした〈護摩台〉よりは弱いが、あの殺人鬼が獲物を前にして逃げ出すとは思えないので、閉じ込めるためというよりもむしろ結界の力で御子内さんとの彼我戦力差を地均しするための仕掛けであった。

 あとは、御子内さん次第。

 自分よりも四十センチ以上高く、体重差にいたっては三倍はありそうな敵を相手に彼女がどうやって勝つのかが問題だった。

 いつもの鐘は鳴らない。

 ストリートファイトに開始の合図はないからだ。

 最初に仕掛けたのは〈J〉の方だった。

 手にした鉈を横殴りに薙ぐ。

 重々しい一撃を御子内さんはスウェーバックで避ける。

 まともに当たれば、人体を構成する部位を切断されそうな一撃だったが、見切りについては定評のある彼女にとっては容易いことだ。

 お返しとばかりに左のストレートを放ち、ついで右の回し蹴りを顔面に見舞った。

 見事なコンボだった。

 相も変わらず流れるような身のこなしである。

 ただし、それはまったく通じていなかった。

 通常の妖怪退治では、タフな妖怪たちが多いが、御子内さんのコンビネーションを喰らってノーダメージということはあまりない。

 ちっちゃいが、腰が乗り、ひねりの効いた巫女レスラーの技は、肉体の芯にまで届くからである。

 さらにいえば、常に練気というものをしていて、全身に〈気〉がこめられているので、妖魅の類いにも効果的なのだ。

 

「やああああ!!」

 

 御子内さんは一発一発では効かないと判断すると、懐に飛び込んで猛烈な連打を腹と胸に叩き込んだ。

 ほぼ無呼吸で何十発とパンチを繰り返すのだ。

 だが、圧に負けて後退するかと思いきや、〈J〉の鉈を持っていない方の手が上がる。

 そのまま振り下ろされた。

 咄嗟にガードをしたが、それごと吹き飛ばされる。

 信じがたい膂力だけど、いつも相手にしている妖怪たちと変わらない。

 だから、御子内さんは()()()()()()()()()()()()

 自分から力のベトクルの方向へと跳んで、衝撃を殺しながらサッカーのバイシクルシュートの要領で〈J〉の左手を蹴り飛ばす。

 そして、空中で身体を捻って、左腕を交差して取り、勢いよく上半身を逸らす。

 飛び関節技だ。

 右腕の鉈を警戒するため、一瞬たりとも止まらずに、〈J〉の左腕を極め、破壊する。

 ゴキっと人の骨が折れるものにしては鈍すぎる音が聞こえた。

 熊埜御堂さんほどではないが、御子内さんも人の骨や関節を破壊することに躊躇しない。

 実戦の場に多く接する者ほど、敵を完全に戦闘不能状態におくために悩んだりはしないのだ。

 御子内さんはギリギリで〈J〉の左腕は奪った。

 と思いきや、殺人鬼は彼女が巻き付いたままの左腕を高く掲げると、そのまま床にたたきつけようとする。

 痛みとか感じないような強引さだ。

 ぶんと御子内さんが凶器となった床に叩き付けられる。

 ―――寸前、手を放した。

 わかりきっている。

 パワー満タンの化け物のやることなんて、いつもたいして変わらない。

 小柄な体のハンデを逆に身軽さ(アジリティ)という武器に変え、弱い打撃を捻りとコントロールと連動という試行錯誤で乗り越え、短いリーチを懐に飛び込む勇気で克服した、ちっちゃい女の子からしてみれば、馬鹿の一つ覚えだ。

〈J〉の腕の上を体操のあん馬のようにくるりと回転すると、膝を巨漢のうなじにぶつける。

 さすがに怯んで隙ができたところで背後に着地して、双打を叩きつけて、続けて片足を前に出し、逆足を後ろに出して身体を半回転させると、最初の足の横に添え、屈んでから突き上げるように背中から体当たりする八極拳の鉄山靠(てつざんこう)を放つ。

 さすがの巨漢も前につんのめった。

 追い打ちをかけるために、御子内さんのドロップキックが炸裂する。

 これで〈J〉は完全に床に這いつくばることになった。

 さらにダウン攻撃を仕掛けようとした御子内さんだったが、

 

「危ない!!」

 

 と叫んで伏せた。

 僕も何かが警告してきたこともあり、ヴァネッサさんの腰を抱いて横っ飛びをする。

 その勘は正しく、僕たちのいた場所を黒い何かが回転して通り過ぎていった。

 甲高い金属音とともに、その何かが突き刺さった。

 見なくてもわかる。

 鉈だ。

 殺人鬼が投げつけてきたのだった。

 しかも、軌道線上にいるヴァネッサさん目掛けて。

 偶然のはずはない。

 殺人鬼を誘い出すフェロモンを持つというスターリング家の彼女のいる位置はおそらくわかっていたのだろう。

 だから、彼女を狙ったのだ。

 僕が余計なことをしなければきっと殺されていたに違いない。

 プシュー

 何かおかしな音が聞こえてきた。

 背後からだった。

 振り向くと、白い粉のようなものが舞っている。

 なんだ、これは。

 さっきの鉈が突き刺さっていた何かとの隙間から洩れている。

 いやな予感がした。

 

「御子内さん、もう一度伏せろ!!」

 

 僕は腰を抱いていたヴァネッサさんを胸の中に抱きしめた。

 彼女の外国産のたわわすぎる巨乳を感じたがそんなことで喜んでいられない。

 もっと……今は……

 瞬間、視界が真っ白に染まった。

 あの鉈が刺さっていたのは、うち捨てられていたプロパンガスのようなもののタンクだったのだ。

 わずかに遅れて爆発音が耳をつんざく。

 運が悪いのか、それとも〈J〉の運が強すぎるのか。

 僕たちの周囲は一瞬で吹き飛び、火の海になっていった……

 

 

 

 



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死ぬことよりも

 

 

 火の回りが異常なほどに早かった。

 かつてこういう危険なシチュエーションに置かれたことはないけれど、ほとんどスクラップと廃材しかないような場所で、何がこんなに燃焼しているのかわからない。

 ただ言えるのは、僕たちが殺人鬼を誘い込んだはずなのに、気が付いたら逆にピンチになってしまっていたということだ。

 紅蓮の炎がたち、ぱちぱちという音と熱気と煙が押し寄せてくる。

 四方からの熱気のせいですぐに汗がでてきて、流れ込む黒煙も濃度と量を増していく。

 さっきまでうつ伏せになっていた〈J〉はすでにのっそりと立ちあがっていた。

 ヘルメットの下から見える双眸がこちらを睨みつけている。

 殺すつもりなのだ。

 この火事の中でも。

 人間らしい瞳の輝きもない死んだ魚のような眼をした殺人鬼がいる。

 ちらりとヴァネッサさんをみた。

 彼女は殺人鬼を睨み返していた。

 決して負けない、屈しない、という意志がこもった視線だった。

 しとどに流れ落ちる汗さえも気にしていない。

 この瞳で、この眼差しで、スターリング家の女性たちは理不尽に襲い掛かる殺人者たちと渡り合ってきたのだ。

 そして、それは彼女からしてこの極東の島国でも同じことなのだろう。

 親子代々、彼女たちが勝ち取ってきた未来と生命は神聖なまでに尊い。

 僕たちと〈J〉の間に、巫女装束の背中が割って入る。

 元気づける様に声をかけて来てくれた。

 

「もう少し、辛抱してなよ。人はそう簡単に焼け死んだりはしない」

「……だね。ちょっとばかり温いけど」

「恵林寺の快川(かいせん)和尚ではないけれど、心頭を滅却しちゃえば火事場も戦場さ!!」

 

 うん、全然違うけど、御子内さんの戦慄したくなるほどのいくさ人ぶりは伝わってきたよ。

 その間に火が迫り、炎が屋根まで舐めはじめる。

 なんと〈J〉のツナギに火がついても、あいつは一向に怯まない。

 焼け死ぬのも平気とでも言いたいかのように。

 

「―――不死身の〈J〉は、レポートによると焼き殺された後に、湖の中に叩き落されたことがあるそうです」

「死体は?」

「発見されませんでした。ただ、そこにいるので生き返ったのだろうと言われています」

 

 なるほど。

 焼き殺された程度では死なない、ということか。

〈社務所〉が退魔巫女を送ったわけだ。

 世の中には信じられないことが山のようにあるから、不死身の人間がいたって別におかしいことはない。

 だけど、僕が良く知っていることがある。

 どんな不死身の化け物がいたって、それよりも強い人はいる。

 逃げないと決意し、戦うことを選んだ時に、人は化け物にも負けなくなる。

 スターリング家の女性のように。

 ―――巫女レスラー・御子内或子のように。

 

『ブモモオオオ!!』

 

 ついに殺人鬼が吠えた。

 転がっていた分厚い角材を手にして御子内さんに襲い掛かる。

 御子内さんはそれを飛んで躱し、〈J〉の肩に足を掛けると跳んだ。

 一気に手を伸ばす。

 その先にはフックのついた滑車とそれを上から垂らす鎖がぶらさがっていた。

 彼女はフックを掴むと、そのまま体操選手のようにバランスをとり、引きずり下ろす。

 降り立った先でそのフックについた鎖を〈J〉の首に巻き付けた。

 フックがツナギに引っかかり、思った以上に簡単に首を締め上げる。

 

「ぐっ!!」

 

 散々に暴れた〈J〉の腕が御子内さんの腹にぶつかったが、彼女は痛みをこらえて、さらにきつく巻き付ける。

 絡まった鎖のせいで身動きが悪くなった巨漢の腹に崩拳をぶちこみ、続いて裡門頂肘(りもんちょうちゅう)の肘をつきこんだ。

 パワーとタフネス、そして不死身性。

 突きつめていくと殺人鬼の能力はそれだけだ。

 妖怪のように必殺の秘儀をもっているわけではない。

 火の海の中でも勇敢に戦う彼女の敵ではないのである。

 

「―――升麻さん」

「なんですか?」

「早く或子さんとともにここを出ないと」

「もうすぐ決着がつきそうですが……」

「気をつけなくてはならないのです。ステイツの殺人鬼は神に背く悪徳に身を浸した背教者たちばかりだからかわかりませんが、ほとんどすべてのものたちの悪運が強いのです」

「どういう意味です?」

 

 彼女はこの火に囲まれた工場を見回して、

 

「この火は〈J〉の悪運がもたらしたものだと思います。奴らは追い詰められると、このような信じられない状況を引き起こしたりすることが確認されているのです。しかも、最初から意図したものではなく偶発的な事故のようなもので」

「―――」

「殺人鬼の起こすバタフライ・エフェクト。これがあるからこそ、あいつらは〈殺人現象(フェノメノン)〉と呼称されているのです」

 

 つまり、この危機一髪に近い状況を引き起こしたのは偶然ではなくて、〈J〉の悪運ということか。

 しまった。

 運ほど恐ろしいものはないと常々御子内さんたちが言っている通りに、今は優勢な彼女もいつまた劣勢に追いやられるかわからない。

 

 まてよ、運だと……

 

 自分のことを思い出した。

 ―――〈一指〉。

 僕だって、ある意味では折り紙付きの悪運の持ち主だ。

 御子内さんと殺人鬼の戦いを観察する。

 まだ、彼女の洗練された技が〈J〉を凌駕していた。

 蹴りや拳が一撃、一撃、不死身の肉体を削り取っていく。

 もうすぐ決着がつく。

 

「どっしゃあああ!!」

 

 御子内さんの雄たけびが轟いた。

 おそらく決着をつけるための大技を出すつもりの渾身の気合いだ。

 彼女は〈J〉の反撃以外、何も警戒していない。

 僕はその瞬間、ずっと〈J〉をぶら下げていたフックつきの鎖のかかっている滑車が音を上げて外れそうなのを見た。

 あれは、あのまま落下する。

 御子内さんへと直撃するコースで。

 普通はそんな偶然は起きないだろう。

 だが、あいつは、〈殺人現象〉と呼ばれる妖魅なのだ。

 ありえないような出来事が起きたって不思議はない。

 僕は駆けだした。

 間に合うか、間に合わないか、本当にギリギリの勝負だった。

 ただ、僕は〈一指〉という運命を持つそうだ。

 持ち主が、あがき、もがき、壁を打ち砕き、前進を続ける限り助けてくれるというちっぽけな運勢を。

 僕がありうるすべてを賭けて走れば、きっと御子内さんに届く。

 三歩ほど出足で進んだところで、滑車が外れる音が聞こえた気がする。

 やはり、そうきたか。

 御子内さんが〈J〉に対して、双掌打の発勁をぶちかまそう発動する瞬間だった。

 僕は彼女を抱きかかえて、火の海に飛び込んだ。

 ほぼ同時に背中からとんでもない金属音とともに何か軟らかいものに刺さる音がした。

 振り向かなくてもわかる。

 あの滑車か他の金属の梁か、何かはわからないが、とにかく落下してきたものが〈J〉を巻き込んだのだと。

 服に火が燃え移りそうな中、僕の腕を引っ張って御子内さんが走り出す。

 反対側からヴァネッサさんが逃げ出していたのも確認した。

 赤い火炎の中、不死身の殺人鬼の動かなくなった彫像のような死体を放っておいて、僕たちは工場から飛び出した。

 火事がこの建物だけですめばいいな、なんて無責任なことが頭をよぎった。

 

「―――ご無事でしたか?」

 

 ヴァネッサさんがやってきた。

 擦り傷とかはあるみたいだけど基本的に軽傷だ。

 

「まあね。トドメは差し損ねたけど」

「あれで死んだんじゃないの?」

「きっと生きている。もう一度、きちんとしたやり方で封印しないと厳しいかな」

「そっか……」

 

 相手は海を越えてきた不死身の化け物だ。

 やはり一筋縄ではいかなさそうだった。

 

「―――武士道とは死ぬことと見つけたり、なのですか?」

「どういうことだい?」

「さっきの、最後の、升麻さんが或子さんをわが身を顧みずに助けに飛び出したとき、私はそういう風に感じました。升麻さんもそうですが、或子さんも、日本の方はいつもそんな覚悟を決めておられるのですか? ……皐月も含めて」

 

 いや、そんなことは考えてないけど……

 と思ったら、ヴァネッサさんの難しい問いに御子内さんが答えた。

 

「侍だって生き物なんだから、当然死ぬのは怖いさ。死ぬのが恐ろしくない人間がいないと同様に、侍もできたら長生きがしたいものさ。でもね、侍という奴は、たぶん自分が死ぬことよりも誰かに死なれる方が嫌な生き物なんだよ。死ぬことよりも、目の前で誰かが死ぬのが怖いんだ」

「……」

「ボクはヴァネッサがあいつに殺されるのが怖かったから戦った。京一は、ボクが死ぬのが嫌だったから走りぬけた。……武士道とかそういうものでなくて、嫌なことを見たくないからできることをやっただけさ」

 

 御子内さんらしい答えだった。

 ただ、ちょっと嫌そうな顔をしながら、付け加えたりもした。

 

「……それは、そこの懲りないセクハラ小娘も一緒なんだと思うよ」

 

 僕たちが振り向くと、憮然とした顔の皐月さんが立っていた。

 

「今ならヴァネッサの乳を揉み放題だと思っていたのにバラさないでよ」

 

 両手をわきわきといやらしそうに揉み合わせながら、痴漢を働こうとしていた皐月さんは抗議の声をあげるのであった……

 

 

 



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第29試合 ダブル・ダブル
千葉に血の雨が降る


 

 

 千葉県成田市にある某有名ホテルが、アメリカ帰りの退魔巫女・刹彌皐月(さつみさつき)とその相棒(バディ)であるヴァネッサ・レベッカ・スターリングのしばらくの間の宿ということになっていた。

 不死身の殺人鬼〈J〉事件の後、ヴァネッサは半年ほどの短期研修という扱いでFBIからの派遣が決まったのである。

 それは、彼女の一族であるスターリング家がFBI内部でも強い影響力を持っていることから、後継ぎであるヴァネッサのわがままを聞いてくれたという背景によるものであった。

 元来、殺人鬼に狙われやすいというスターリング家の女にとって、殺人鬼そのものの数が少ない日本という国は比較的安全だと思われていることもあり、彼女の派遣はすんなりと決まった。

 研修―――というよりも留学なのだが―――先は、FBIと関東の退魔組織〈社務所〉との話し合いで決まることになっており、それがはっきりするまでの間、ヴァネッサと皐月は待機ということになったのだ。

 もともと優秀で、日本語が悠長に喋れるヴァネッサは、その期間を利用して日本に慣れるために毎日外出をするようにしていた。

 彼女の血筋を考えると、頻繁に外出して人の前に出ることは避けた方がいいのは確かだったが、先に説明した日本の殺人鬼割合の少なさと護衛にあてられた不可視のはずの他人の殺気が視える刹彌流柔(さつみりゅうやわら)の使い手である皐月のおかげもあり、毎日出歩くだけの余裕があった。

 この成田の町で、ヴァネッサは生まれて初めてと言っていいほど安全で気楽な日々を過ごしていた。

 まるで夢のようであった。

 スターリング家の血は悪夢そのもののように、事件を招く力があり、無自覚になるまで彼女は苦しんでいたのである。

 新鮮で、楽しく、のんびりとした時間だった。

 ただ一つ、彼女にとって不満があるとしたら、それは―――

 

「ねえねえ、ヴァネッサ、今日から部屋のベッドをダブルにしようよ。ツインってのはあまりに他人行儀じゃないかなあ」

「……他人ですから」

「いやいやいやいや、そうじゃないっしょ。初日に、ベッドに忍び込んだのは悪いと思っているし、パジャマの中に手を入れたのはホント性急だったと反省しているけど、そろそろ、仲直りしてもいいんじゃないかなあって」

「皐月って同性愛者じゃないですよね」

「もちろん。男も女もバッチコイだよ。うちはもう性的には奔放なだけだからっ!」

「―――よっぽと性質(たち)が悪いでしょう……」

 

 シェアをしている形のルームメイトが、色々な意味で信用ならないという点である。

 ただでさえ血筋の面で人間関係に疎かったり、逆に敏感だったりするのに、そこを容赦なしにセクハラそのもののコミュニケーションとってくる皐月の存在に苦労していた。

 いい人間なのはわかる。

 相棒として信頼できるのはわかる。

 得難い友人なのもわかる。

 ―――だが、人にはどうしても面倒くさい相手というのがいるものだ。

 ヴァネッサにとって、刹彌皐月という女はそういう類のものであった。

 

「……前も言いましたが、私は処女(ヴァージン)なのであからさまな性交渉を求められても困るんです」

「性交渉? ああ、セックスのことね。心配ない、心配ない。うちだって、そのあたりは未経験だから! でも、そろそろ大人の階段上りたいなあ、裸のうちはシンデレラだからさ!」

「意味がわかりません。だいたい、皐月はふしだらすぎます。そんなことでは将来、色欲の罪に塗れますよ」

「大丈夫、うちは神道だし! 七つの大罪カンケーなし!」

 

 ヴァネッサは頭を抱えたくなった。

 アメリカにも軽薄で、下半身に脳みそがついているようなタイプは山のようにいるが、不快感無しにここまでいい加減なのはそうはいない。

 口を開かず、何かというとボディタッチしてこなければ何の問題もないというのに、この日本人ときたら……

 

「あれ、あそこにいるの、レイちゃんじゃね?」

 

 突然、会話を打ち切って皐月はあらぬ方向を見つめた。

 丁度、巡回バスから一人の巫女装束の少女が降りてくるところだった。

 腰まである長く艶のある黒髪と印象的な鋭い眼をした、美しい少女であった。

 ただヴァネッサの知る巫女装束とはどこか違い、両袖がないうえ、紫色のニッカボッカを履いている。

 日本でいう作業員のガテン系かしらとの感想を抱いた。

 あまり普通の日本の町並みには似合わない格好であるのは確かであったが。

 

「皐月の友達?」

「うん、まあ、同期の桜。千葉の柏あたりに実家があったから偶然だね」

「〈社務所〉の媛巫女な訳ですか……」

「こないだの或子ちゃんと一緒で同期のツートップなんだよ。おっぱいでもツートップなんだけど!」

「そういう情報いらないです」

 

 ここであったも他生の縁。

 色々と混じった諺を呟いて、皐月は同期の元にヴァネッサを連れて近づいた。

 修行時代から一本気なレイは皐月のことを避けていたが、とうの皐月自身はそんなこと気にしてはいなかった。

 むしろ、美人だし乳も大きいしと一方的にまとわりつくようにしていたくらいだ。

 巨乳大好きと放言しているだけあって、その辺り皐月に節操という文字はなかった。

 

「レーイちゃーん」

 

 昔と同じ馴れ馴れしい口調で近づく。

 名前を呼ばれて振り向いた同期は、かつてと同じ、変わらぬ刃物のような美貌で彼女を見た。

 どんな感情も宿っていないような、冷たい目つきであった。

 違和感を覚えたが、レイや或子に冷遇されるのは慣れっこなので、皐月はさらに近づいた。

 おかしな予感はあったが、目の前の彼女(レイ)は記憶通りの懐かしい友のままであり、普通に巫女装束で歩き回るなんて〈社務所〉の退魔巫女以外にはいないので、さして疑うこともしなかった。

 

「レイちゃーん、うちだよー、おっぱい大好き皐月さんだよー」

 

 お巡りさんこの人です、としかいえないことを大声で言いながら、皐月は同期の肩に触ろうとした。

 

「―――!」

 

 皐月は何もない空間を手で払った。

 彼女の眼には、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()た。

 

「誰だ、あんたは!」

 

 万事おちゃらけた態度で生きることを信条とする皐月にはあまりないことだった。

 彼女は本気で怒鳴っていた。

 友と同じ顔を持ちながら、まったく異質で不気味な殺気を放つこの化け物に対して。

 自分の正体を見破られたことに気がついたのか、()()のレイがビンタを放ってきた。

 皐月の記憶にある〈神腕〉を使った明王殿レイの特技だった。

 だが、ビンタにやられる前に皐月は殺気を読み取り、掴み、投げた。

 投げられたことでからぶった掌が道路を叩き、大きな陥没を作る。

 何度も見たことのある〈神腕〉の破壊力の証明であった。

 本物のものと寸分狂わず同じもの。

 それが示す答えは一つしかないが、皐月は信じない。

 皐月は一度でも視た他人の殺気を間違えることはない。

 それができない刹彌流柔の遣い手はいないのだ。

 そして、人と妖魅の殺意の違いがわからないはずがない。

 

「あんたが何者かはしらないけど、うちの友達に化けるってことがどんなことか、体に教えてあげる」

 

 皐月は偽者のレイを敵と見定めた。

 

 

 

 



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キミの名は?

 

 

 皐月さんとヴァネッサさんの二人は、半年ほど短期留学という名目で御子内さんが通っている武蔵立川高校に入ることになったらしい。

 面倒見のいい御子内さんとその友達もいるし、ズボラだけど頼りになる生徒会長はいるし、ということで悪くない高校だからだ。

 ただし、ヴァネッサさんの家系の特徴であるところの、「殺人鬼を惹きつける」という特性があるため、周囲には相当の配慮をしなければならないらしい。

 彼女のために殺される人が出たりするのは絶対に避けなくてはならないからだ。

 このことをやはり最も気にしている本人とFBIからは、かなりの量の資料が送られてきて、警戒のやり方というものを教授された。

 随分と人手と予算がいるこみいった警戒の仕方というものだったらしいが、それはなんとかクリアできたことからの留学だったのである。

 実は、スターリング家の女性の宿命について一番興味を示したのは、関東一円での諜報活動に勤しむ〈裏柳生〉の面々だったのである。

 おかげで、人手については問題ないというのも助かった点である。

 武蔵野柳生の総帥である柳生美厳さんが、なんらかの意図があってスターリング家の宿命を観察したがっていたのだ。

 かなり気にはなったのだが、〈裏柳生〉は〈社務所〉と並んで、いまだに僕みたいな一般人にはよくわからない組織なので深くは詮索しないようにした。

〈社務所〉が関東から東日本の妖怪退治を行うのはわかるが、〈裏柳生〉という忍者の組織が現代の日本でなにを目的に活動しているかというのは皆目見当がつかない。

 十分な武力と諜報能力という二つの武器を持って、忍びの末裔がいったいなにをしようとしているのか、実のところ気にならないというわけではなかったのではあるが……

 と、まあ、色々あったが、彼女たちが来日して一週間も経たないうちにほぼすべての手続きが終わったのはさすがだった。

 日本人が本気になった時の、この手の仕事の速度というのは並々ならぬものがあるということかもね。

 

「……キミはボクの京一でいいのかな? キミの名は?」

 

 いきなり呼び出された僕は、突然、そんなことを御子内さんに言われた。

「君の名は」なんて感じで聞かれても、「升麻京一だよ」としか答えられない。

 最初は冗談かと思ったが、かなり真剣な顔つきなので茶化すのはやめて、質問意図を訊ねてみた。

 

「何かあったの?」

「―――まあね」

「話してみてくれない」

「うーん、やっぱり京一には説明しておくか……」

 

 少し躊躇い気味だったが、御子内さんは話し出した。

 

「こないだの殺人鬼のこともあって、しばらく成田空港の周囲をレイが巡回することになった」

「どうして? 殺人鬼〈J〉は封印出来たんでしょ?」

「あれは大陸の死霊憑きだったからね。こちらが把握できない霊障を残している可能性もあるし、発見されていないだけで殺しをしていた可能性もある。だから、レイが八門遁甲なんかも使ってチェックしていたということだよ」

「なるほど。〈社務所〉は用心深いね」

「というよりも、レイの性格だ。あいつ、なんだかんだで生真面目だから」

「それで、レイさんが巡回してどうなったの?」

 

 御子内さんの話は続く。

 

「空港内を調べていたレイが、そこで感知したことのない妖気を感じたらしい。おそらくロビーの利用客の中に紛れ込んでいた妖魅がいたんだろう。あいつは妖気を追って、その妖魅を追い詰めたそうだ」

「レイさんはその辺優秀だよね」

「―――ところが、レイはそいつをまんまと取り逃がしてしまった。しかも、手傷を負ったらしい」

「……まさか」

 

〈社務所〉の退魔巫女・巫女レスラーの一人、明王殿レイさんの実力は僕もよく知っている。

 彼女が追い詰めた妖怪・妖魅を逃がすなんてことはあまり考えられない話だ。

 怪我をさせられるというのも含めて。

 

「そのあとすぐ、成田市でバスから降りたレイを見かけた皐月が声をかけようとして、そいつがレイの偽物だったという事件が起きた」

「今度は皐月さんなの? あと、偽物ってなにさ」

「で、皐月のバカまでそいつを取り逃がした。ただ、あいつが言うには、『姿かたち、声の種類、喋り方、すべてレイちゃんだった』そうだ。しかも、その偽物は〈神腕〉を使ったらしい」

「〈神腕〉って……。だったら、偽物じゃなくて本物だったんじゃないの」

「その時、レイはまだ空港内で手当てを受けていたそうなので、時間的に偽物なのは間違いない。ちなみに、本物に対しては術まで使って確認している」

「うわあ。なんなの、それ。―――あ、だから僕の素性を聞いた訳ね」

 

 ようやく話がつながった。

 レイさんの偽物がでたから、御子内さんは僕を疑ったということだね。

 

「うん。まあ、姿かたちがそっくりというだけでなくて、〈神腕〉まで使うということになると、ただの幻覚の類いでもなさそうだし、ひっかけの問いなんかしても意味はない気がするけどさ」

「うん。ついでに言うと、さっきの質問はひっかけにも何にもなっていないけどね」

「しないよりはマシだろ」

 

 御子内さんって意外と『考える脳筋』なんだけど、騙したり、ひっかけたりするのは得意じゃないだよね。

 聖闘士でいうと星矢型。

 世間一般では猪突猛進のイメージが持たれているけど、他の聖闘士と比べてもよく強い相手を観察して、過去の教えを思い出して、そこから打開策を見つけるというのが星矢の戦い方なのである。

 ただ闇雲に小宇宙(コスモ)を燃やしているだけではないのだ。

 

「……レイさんを傷つけたっていう妖怪はなんなの?」

「妖怪―――かどうかはわからない。ただ、正体はもう掴んでいる。外国産だからボクも見たことがないし、〈社務所〉にもあまりデータがない相手だ」

「外国産? 成田空港ってことは、飛行機で日本に来たってこと?」

 

 この間の殺人鬼といい、最近の化け物は移動の仕方もバラエティにとんでいる。

 

「ああ。普通の観光客に混じって来日してきたみたいだね。そこを偶然レイに見つかって、戦うことになった。ただ、レイにしては珍しくしくじったという訳さ。姿まで盗まれたんだからね」

「姿を盗まれた……」

「その妖怪の名前は〈ドッペルゲンガー〉。日本では『離魂病』なんて言われているけど、大陸では他人の姿を盗んで悪徳に浸る邪悪の化身の一つさ。『シェイプシフター』とも呼ばれているけど、日本では〈ドッペルゲンガー〉の方が通じやすいかな」

 

〈ドッペルゲンガー〉。

 僕も知っているけど、それに出会ったら死んでしまうという伝説のあるものでしょ。

 

「いや、『離魂病』のように魂と肉体が分離した場合のドッペルゲンガーと妖怪としての〈ドッペルゲンガー〉は違う。京一のいう出会ったら死んでしまうというのは、おそらく前者の話で、死が近いものはドッペルゲンガーを発生しやすいからという理由だろう。今回の奴は、種族というか、自立する妖魅としての〈ドッペルゲンガー〉だ」

「……どうして、そんなのが日本に来たのかな」

「それはわからない。でも、皐月の報告が確かならレイの姿だけでなく〈神腕〉の力まで盗んでいるとなると厄介だな。〈神腕〉は、あいつの固有の力だからそんなものまで盗めるということは、最悪、記憶とかそういうものもやられている危険があるんだ」

「確かに」

 

 御子内さんの推測の中で、僕が一番まずいと思うのは、裏の世界に詳しい退魔巫女の記憶を盗まれたということかもしれない。

〈ドッペルゲンガー〉がどういう妖怪なのかはわからないけど、正義を為したり人を助けたりとかはなさそうなのは感じられる。

 そんな化け物が、自分たちにとっての天敵である退魔巫女の情報を得たとなると、なにをするかわからない。

 例えば、警察の捜査情報を知った暴力団だったら、どんなことをしようとするか考えてみるとわかりやすいと思う。

 とはいえ、いくらなんでも〈社務所〉側に何かをしてくるとは考えられないのだけれど……

 

 と、この時の僕は思っていた。

 ただ、正直誤算だったのは、その〈ドッペルゲンガー〉という外来の妖怪がこちらの予想をはるかに上回るほどに知能的で、かつ凶悪だったということであった……

 

 

 



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シスコン頑張る

 

 

 一時限目の古典が終わる少し前に、涼花からのLINEが届いた。

 

〔どうしよう!!!〕

〔お兄ちゃん、連絡して!!! お願い!!!〕

 

 と、ド派手なスタンプとともに。

 この時間帯に妹から連絡がくるなんて珍しい。

 しかも、授業中だ。

 僕は担当の教師に向けて手を挙げた。

 

「すいません、家から連絡が来たんで電話をしていいですか?」

「―――そんなのは授業が終わってからにしろ。授業中なんだぞ」

「こんな時間に家から来るなんて緊急かもしれないので、すいません、先生」

 

 同情を買えるように神妙な顔をしてみると、教壇の教師は少し考え、

 

「まあ、この時間だからな、ご家族になにかあったのかもしれん。ただし、電話するだけだぞ。あと、廊下で静かにな」

「はい」

 

 僕は廊下に出ると、妹の携帯にかけた。

 あいつが出てくれるとはわからないが、その時はその時だし。

 だが、予想通りにすぐに涼花は携帯に出た。

 

『―――もしもし、お兄ちゃん』

「僕だ、涼花、今は大丈夫かい?」

『うん。でも、お兄ちゃんの方こそ』

「授業中だけど気にしなくていいよ。そっちこそ、こんな時間に僕にLINEするなんて珍しい。―――何があったの?」

『……信じてもらえるか、わからないんだけど……』

 

 涼花は口ごもった。

 話しづらい内容なのか、信じがたい事実なのか、どのみち涼花からすると口に出しにくいものなのだろう。

 それでも誰かに伝える必要があって、相手には僕しかいなかったということみたいだ。

 高校での話なら、あいつのすぐそばには僕よりも百万倍頼りになる姉御がいるのだから、そっちにいけない理由があると考えるのがいい筋かな。

 ということは御子内さん絡みとみた。

 

「御子内さんに何かあったのかい?」

『う、うんっ! お兄ちゃんでも信じてもらえるかはわからないんだけど……』

「バカか、おまえ。世の中に妹を信じない兄貴がいるとしても、そいつは僕じゃないよ」

『―――そうだね。お兄ちゃんはいつだってあたしを信じてくれるもんね。じゃあ、いうね』

「どうぞ」

 

 少し溜めてから、

 

『お姉さまが二人いるの』

「ん? どういうこと?」

『さっきトイレに出たら、反対側の校舎の廊下をお姉さまが歩いていたの。でも、あたし、そのちょっと前に校庭で体育をしているお姉さまを見物していたのよ』

「―――見間違えの可能性は?」

武立生(ぶたちせい)の中で巫女装束を着て歩いている生徒なんてお姉さま以外にはいないし、あたしがあの人を見間違えることはないから』

 

 僕の妹だというのに、なんというか友達を信じ切っているかのような発言を平然とする。

 意外とぐいぐいと押してくるうえ、口幅ったいことを平気で言うのだ。

 おそらく恋の告白なんかもさりげなく堂々たる態度ですることだろう。

 ただし、お相手については僕がきちんと興信所に依頼して、セットで一式調べ上げてからでないと許しはしないけど。

 僕の銀行口座の中に、そのときのための「妹の彼氏対策費用」が蓄えられているのは内緒だ。

 シスコンの汚名を着せられるのはとても迷惑だしね。

 しかし、御子内さんの偽物……

 僕は昨日の彼女との会話を思い出した。

 成田空港にでたという妖怪〈ドッペルゲンガー〉のことだ。

 退魔巫女とその偽物になる妖怪。

 この二つの共通点があるのならば、杞憂とはいえないだろう。

 

「わかった。要するに、おまえの学校に御子内さんの偽物がいるということなんだね」

『うん。どうすればいいと思う、お兄ちゃん』

「僕がすぐに行く。おまえは休み時間になったら、武蔵立川の男子の制服を用意して裏門で待ってろ」

『―――あう、でもお兄ちゃんだって授業が……』

 

 だったら連絡しろとかいってくるなよ、なんて責任転嫁を心の中でする。

 

「早退する。とりあえず、おまえが倒れたってことでいいね」

『―――でも、そんなことしてお母さんにバレたら叱られるよ』

「おまえと御子内さんに何かあるかもしれないのに、お母さんが怖いなんて言ってられるか。……いいか、他の誰にも今の話はするなよ。御子内さん本人にもだぞ」

『わかった。お兄ちゃんが来るまで黙っている』

「いい子だね。さすがは僕の妹だ」

 

 僕はスマホの通話を切ると、教室に戻った。

 まだ授業は続いているが、帰りの支度を整える。

 

「―――先生、妹が学校で倒れたらしくて、ちょっと早退させてください」

「おまえ、許可取る前に帰る準備をするなよ」

「すいません、妹は僕の命なので、いますぐに傍に行ってあげたいんです」

「……おお」

 

 クラスメートから、「シスコンだ……」とか「兄貴の鑑だ」とかのつぶやきが聞こえたが無視する。

 言葉を選び間違えたかもしれない。

 

「では、先生、あとはよろしくお願いします」

「いや、まだOKはだしていないんだが……。まあいいか。妹さん、大事ないといいな」

「ありがとうございます」

 

 僕はできる限り堂々と振る舞い、一時間目の授業も終わらないうちに学校を後にした。

 

 

          ◇◆◇

 

 

 校門前でタクシーを呼び止めると、武蔵立川高校へ向かうようにお願いする。

 徒歩と電車を使うと一時間ぐらいかかるが、タクシーを使えば三十分だ。

 学生の身分では贅沢だけど、緊急事態になるかもしれないとしたらそれは必要な出費である。

 お金は僕の銀行口座にある「M資金」からだすことにしよう。

 そして、その三十分の間に僕にはやることがたくさんあった。

 まず、〈社務所〉で退魔巫女の統括をしている不知火こぶしさんに連絡を取る。

 御子内さんと涼花の傍に、危険な妖怪が近づいているというだけで僕はたまらなくなるのだが、所詮はただの高校生。

 まず頼るべきはしっかりとした大人と専門家だ。

 こぶしさんに涼花から聞き出した内容を伝える。

〈社務所〉や専門家たちがどう動くかはわからないけれど、餅は餅屋だし、なんとかなるとは思う……

 ただ、僕としては今回の〈ドッペルゲンガー〉の動きについては違和感を覚えている。

 レイさんの姿かたちをとっていたということについての御子内さんの推測では、記憶まで盗まれている可能性が高いというものだ。

 ならば、レイさんにとっての親友である御子内さんのところに来るというのは接点としては認められる。

 しかし、どうにかして御子内さんをコピーしたとして、その理由がわからない。

 御子内さんが二人いるというのならば、もうどちらかは〈ドッペルゲンガー〉だという可能性が高い。

 では、どうして御子内さんを選んだのか?

 彼女が僕の知っている限り最強の退魔巫女であり、巫女レスラーなのはわかっているけれど、どうしてもその姿にならなければならないという必要性はない。

 むしろ、レイさんの〈神腕〉の方が場合によっては使いやすそうだ。

 前から思っていたのだが、御子内さんについて、前々から疑問に思っていたことがある。

 バックボーンが不明なのだ。

 レイさん、音子さん、藍色さんなんかは実家が〈社務所〉に関わりのある神社でそこの後継ぎらしいのに、御子内さんは本人の弁を信じるならただのサラリーマンと専業主婦の家庭出身だ。

 藍色さんの猫耳流交殺法やら皐月さんの刹彌流柔といった先祖伝来の技があるという事情もないし、熊埜御堂さんのように変わった術に長けているという訳でもない。

 確かに強い女の子なのだが、その強さも並外れたセンスと闘争本能、そして修練の賜物であって、何か特殊な背景に基づくものではなさそうだ。

 ある意味では平凡であるがゆえに、正体不明ということがいえた。

 その彼女のバックボーンを〈ドッペルゲンガー〉が狙っているとしたら、昨日の今日でレイさんから読み取った記憶で彼女をピンポイントでコピーした理由もわかる。

 ただ、僕の勘は別の可能性を告げていた。

 武蔵立川には、御子内さんの他にもう一人、悪党にとってはコピーすることによる利益がありすぎる人材がいる。

 もしかして、その人を狙っているとしたら、関東はおろか日本にとっても危険なことになるかもしれない。

〈ドッペルゲンガー〉が狡猾で邪悪な存在だとしたら、それはなんとしてでも避けたい。

 だから、現在、武蔵立川の中で御子内さんの姿をしている状況のままで、〈ドッペルゲンガー〉を今度こそ取り逃がさないように包囲するべきだと思った。

 まだ御子内さんには知らせずに、なんとか包囲網を確立出来たらいいと僕は頭を捻ってみた……

 

 

 



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妖怪〈ドッペルゲンガー〉

 

 

 タクシーが武蔵立川高校の裏門に着くと、僕はすぐに妹を探した。

 

「お兄ちゃん、こっちこっち」

 

 こっそりと通用口を開けて待っていてくれたようだ。

 誰にも見つからないように敷地内に侵入する。

 すると目の前に何かを差し出された。

 武蔵立川の男子生徒用の制服のズボンだった。

 まだ、衣替えがすんだばかりで、上着は必要ないとしても、校舎内に入るとしたらやっぱり制服は必要だ。

 僕のように地味な顔立ちだと、制服さえ一緒ならばよその学校をうろつきまくっても見咎められることはないだろう。

 少なくとも、今日だけでも誤魔化せればいいということで涼花に用意させたのだ。

 

「どこから手に入れたんだ、これ」

「教室の隅。誰かが忘れてったやつだと思う」

「―――駄目だろう、それは」

「まあ、気にしちゃだめだよ。あとでクリーニングに出せばいいんだし」

 

 うちの妹は基本的に雑である。

 

「仕方ないか。で、ばれないような隠れ場所としてはどこがある?」

日本酒愛好会(うちのぶかつ)の部室でいいよね。はい、鍵。あと、場所は文化祭の時に来たからわかっているでしょ」

「……あそこか。また変な妖怪に襲われたりしないよね」

「その辺はお姉さまに言ってよ。あたしは知らない」

 

 少し前にこの武蔵立川の文化祭があったときに、御子内さんのクラスの出し物の巫女喫茶というものがあって、それにまつわるトラブルが生じたことがある。

 そのときに、僕はその部室で殺されかけたりしたので(精神的な意味で)、あまり行きたいところではない。

 とはいえ、授業中の隠れ場所としては良いチョイスだ。

 動くとしたら休み時間しかないのだから。

 

「……おまえはどうする?」

「具合悪くて保健室に行ったということになっているから、とりあえず保健室に戻るね。必要ならすぐに通話で呼んで。あたし、お姉さまのためなら何でもできるから」

「……いい心掛けだ」

 

 その精神を実の兄のために向けてくれるのならなおよし、なのだけど。

 

「よし、じゃあここで別れよう。僕はとりあえず勝手に動く」

「うん。お姉さまをよろしくね。―――あの偽物って絶対に嫌な相手だから」

「わかるの?」

「〈高女(たかめ)〉に襲われたときに感じた嫌な予感が背筋に走ったんだよ。あれはヤバいもんだってね。近づいてはいけないって本能で感じたよ」

 

 涼花は僕と比べてはるかに霊力みたいなものが強い。

 だから、一年ほど前に妖怪に襲われることになったのだ。

 その涼花が感じたというのならば、おそらく間違いはないだろう。

 妹が見たものは、御子内さんに化けた〈ドッペルゲンガー〉に違いない。

 

「とりあえず、御子内さんとは接触するなよ。SNS上でもだ。僕の思っている通りの話だと、できる限り御子内さんには内緒にしておいた方がいいかもしれない」

「わかった」

 

 おそらく、〈ドッペルゲンガー〉は退魔巫女でも簡単には察知できない妖怪なんだと思われる。

 皐月さんでさえ、近寄って、なおかつ、「殺気」の色という見逃せない証拠があったからこそ、偽物であるということがわかったらしいし。

 同じ建物内にいる程度では、御子内さんの野性的な勘でも発動しない限り、〈ドッペルゲンガー〉には気が付かないだろう。

 レイさんが空港で発見できたのには理由があり、それは彼女が〈J〉の痕跡を探すために探索関連の術を使っていたおかげだと思う。

 それぐらいでなければわからないのだ。

 まさに隠密行動にはうってつけの妖怪なのだろう。

 正直な話、そんな妖魅に大手を振って国内をうろつき回られるのは危険すぎる。

 せっかくの機会なのだから、この武蔵立川の校舎内でなんとかしたほうがいい。

 

 僕は涼花と別れると、庭木の陰で着替えて校舎内に入った。

 生徒用の玄関の下駄箱を覗くと、ゴミみたいに捨てられていた上履きを拾った。

 来客用のスリッパなんか履いていたらすぐに正体がばれてしまう。

〈ドッペルゲンガー〉もそんなミスをしていてくれると助けるんだけどね。

 そして、注意しながら部活凍の方に向かう。

 御子内さんの所属する日本酒愛好会(いいのかな、この部活)は、三階にあるので一気に階段を上がり、預かっていた鍵で部室の扉を開ける。

 なのに、鍵がかかっていて開かなかった。

 

「あれ、おかしいな」

 

 もう一度、鍵穴に鍵を差しこんでひねる。

 ガチャ。

 今度は開いた。

 この段階で僕はなんとなく察していた。

 だから、大して広くはない日本酒愛好会の部室内に入って、その中央の椅子に腰かけた制服姿の女子高生を見て驚いたりはしなかった。

 ほぼ毎週のように顔を合わせている友達がいた。

 

「あれ、どうして京一がうちの学校にいるんだい?」

 

 御子内或子が静かに足を組んで座っている。

 他の生徒が授業中に。

 僕は椅子には座らず、廊下と部屋を隔てる壁に寄りかかった。

 木製でちょっと冷たい。

 

「―――実は、来週からここに通うことになったんだ」

「ちょっと待って。ボク、キミからそんなことは聞いていないよ。ボクに内緒でやっていたということかな?」

「うん。御子内さんの手伝いをするには、やっぱり同じ学校に通っていた方がいいかなということで、こぶしさんがね、手伝ってくれたんだ。教えなかったのは、まあサプライズかな。本当は今日、放課後に打ち明けるつもりだったんだ。あとでこぶしさんからも話があると思うけど」

 

 御子内さんは拍子抜けしたような顔つきになった。

 僕が武蔵立川の校舎に、制服を着ていることについては誤魔化せたかな。

 こちらの言い分が確かなら御子内さんには知らせていないのだから、彼女の知識にはないから、本当のことかどうか確認のしようがないのだ。

 もし、疑っているのなら、話に出たこぶしさんや妹の涼花に確認をとればいいだけのことだが、御子内さんはそれをしようとしない。

 僕の話を信じているのではなく、彼女は周囲に聞くことを避けているのだ。

 いや、聞けないのだろう。

 何故かって?

 

 だって、()()()()()()()()()()()()()()()姿()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 もし、彼女が本物ならば愛用のスマホからメール、LINE、通話をすればいいが、偽物は例えスマホを持っていたとしても自分のものではないから連絡はできない。

 どんなにそっくりでも、服ならばともかく機械をコピーすることはできないはずだ。

 それにこんな時間に部室で隠れているなんておかしな話だ。

 ただ、〈ドッペルゲンガー〉が御子内さんの記憶を読んだというのならば、この時間帯に隠れることができる場所として日本酒愛好会の部室を選ぶというのはありえる。

 もし、僕の想像通りの狙いを持っているんだとしたら、チャンスがくるまで隠れているというのは当然の発想だ。

 せめて、放課後までは様子を見るかもしれないし。

 

「……むしろ、どうして御子内さんがここにいるのさ。授業はどうしたの?」

「気分が悪くてね。保健室に行くのもなんだから、ここでのんびりしていたんだよ」

「へえ、珍しいね。御子内さん、生真面目なのに」

「ボクにだってそういう時はあるさ。偶々だろうけど、京一が来てくれて助かったよ。少し退屈していたんだ」

 

 御子内さん(の偽物と思われる)は、ねっとりと探るような目つきで僕を見た。

 下からねめつける視線だった。

 それで、僕は断定した。

 

(こいつは偽物だ)

 

 ってね。

 御子内さんがこんな品のない目つきをするものか。

 僕は知っている。

 太陽みたいに高潔で、輝く星のように誇り高い、羞花閉月の美貌を持つ最強の巫女レスラーを。

 例え死んでもこのような下種い眼をしたりはしない。

 

「……キミ、何か考えているね」

「別になにもないよ」

「ボクは知っているんだ。見掛けも出自もただの高校生だというのに、一つ事件をこなす度に信じられない速度で頼りになっていく少年をね。もうキミをただの高校生だと思っているものは少ないんじゃないのかな」

「買いかぶりもいいところだよ。僕はいつも君のお荷物気分でいるんだけど……」

 

 僕の言い訳を完全にニセ・御子内さんは笑い飛ばした。

 いつもの彼女の朗らかな笑いではなく、下劣で無気味といっていい嘲笑を。

 

「―――嘘だね。キミはボクの騎士(ナイト)気分でいるはずだ。そして、今回もボクのためにわざわざここまで来たんだろ。()()()()()()()()

「いいや、君は知らない。まず、なによりも人を知らない」

「どういう意味かな」

 

 ニセ・御子内さんが立ち上がり、僕の前に立ち、そして壁に手をついた。

 まるで壁ドンだ。

 御子内さんそっくりの可愛い顔が歪む。

 

「キミ、ボクの正体に気がついているね。だから、その突っかかる態度を続けているということだろ?」

「なんのことだか、さっぱりなんだけど」

「―――この巫女の力なら、キミの首の骨を折って始末することなんて余裕なんだよ。腹筋を抜き手で破ることだって簡単だ。わかるかい?」

「さあ」

 

 僕はしらを切った。

 まだ、ここで会話を決裂させるわけにはいかない。

 反対の手まで使って挟み込むように壁ドンされた。

 

「ふざけないことだね。……どうして、ボクのことに気が付いた? 少なくとも、ボクがこの巫女の記憶を読み取ったことは気が付かれていないはずだけど」

「記憶……読み取る? 何、それ」

「だから、ボクが頭に触れたことを本人が気にしていなかったはずなのに、どうして他人のキミが見破ったのかを知りたいってんだ」

 

 頭に触る……

 

 それが記憶を読み取る方法か。

〈ドッペルゲンガー〉にとっての。

 僕が知りたかったのはそれなんだ。

 

「―――つまり、あんたに頭を触らせなければいいってことだね」

「キミが知っていたとしてもボクには痛くもかゆくもないよ」

「ねえ。僕の御子内さんの真似をしていたとしても、勘とセンスだけは如何ともしがたいみたいだね」

「……何が言いたいんだい?」

 

 僕はウインクをしてやった。

 

「さっきから壁の向こうで立っている剣気に気づかないようじゃ、まだまだだね」

「―――!?」

 

 次の刹那、ニセ・御子内さんは後ろに飛び退った。

 廊下側から、僕の顔の横を突き抜けて伸びてきた剣尖を躱す為に。

 それでも避けきれなかったのか、額から鮮やかな赤い血が一筋流れ落ちていた。

 ほとんど耳をかすめていくような鋭い突きが廊下から壁を抜けてきたので、正直なところ肝が冷えたけど、あの剣士たちならば外すことはないだろうという信頼が僕にはあった。

 

「まさか!! 今のはなんだい!!」

 

 ニセ・御子内さんが叫ぶ。

 ほぼ同時に扉を蹴破って、抜刀した剣士たちが飛び込んでくる。

 先頭に立って吶喊してきたのは、ポニーテールでいかにもスポーツ少女という髪型にもかかわらず、花のように麗しい可憐な女の子であった。

 この女の子だけは刃が短めの、いわゆる小太刀らしいものを抱えて、いわゆる殺ったるモードみたいな突入をしてきた。

 多勢に無勢か、それとも狭い室内で機動力を殺されることを怖れたのか、ニセ・御子内さんは後ろも見ずに窓の外にガラスを突き破って逃げ出した。

 窓の外に落ちる寸前に窓枠を蹴って、上へとジャンプしているので逃げたのは四階だ。

 御子内さんの身体能力を極限まで使えば、あんな離れ業だって造作もないことだろう。

 

「上へ逃げたぞ!!」

 

 小太刀の美少女が叫んだ。

 室内に入ってきた剣士たちが全員統制のとれた動きで飛び出していく。

 ニセ・御子内さんを追うつもりなのだろう。

 さすがは〈裏柳生〉の剣士たちだ。

 素早いなんてもんじゃない。

 僕が廊下に彼らを追っていこうとすると、

 

「京一さま、ご無事ですか?」

 

 刀を廊下の壁から抜きとった冬弥さんが心配そうな声をかけてきた。

 僕を助けてくれたのは彼女ということか。

 

「はい。〈ドッペルゲンガー〉はどうなりました?」

「私の姉と〈裏柳生〉が追いつめております。京一さまのご指示通りに」

「良かった。……巫女の〈護摩台〉みたいなものはあるんですか?」

「屋上に文化祭の余興に使った〈護摩台〉の簡易版があります。退魔巫女が起動させれば十分に使えます」

「……そういえばありましたね。さっさと解体しておいてくださいよ」

「姉さまが或子さまと戦う舞台にとっておいたんです。日本人的なもったいないもたまには役に立つものですね」

 

 よし、準備はよさそうだ。

 あとはあの妖怪を仕留められる巫女を呼びだすだけだね。

 



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退魔巫女とはそれほどのものか

 

 

「京一さまが、〈二重存在(ドッペルゲンガー)〉を部活棟に誘い出していてくれて助かりました。あそこならば、一般生徒に見つからずに追い込めます」

 

 隣にいる冬弥さんが言う。

 でも、別に僕が〈ドッペルゲンガー〉を誘い出したわけではない。

 あいつの中の御子内さんの記憶が、授業中の高校で隠れる場所として部活棟の日本酒愛好会の部室を選んだだけで、僕とはたまたま一緒になっただけだ。

 僕がやったことといえば、タクシーの中でこれまた授業中の美厳さんに連絡を取り、事情を説明しただけだ。

 おそらく〈社務所〉が動くよりも絶対的な当主がいる〈裏柳生〉の方が動きは迅速になるだろうという予想のもとである。

 

「しかし、本当にあの妖魅(ばけもの)の狙いは姉さまなのですか?」

「あくまで僕の推測なんですけどね。でも、正直なところ、あいつみたいに記憶を読み取って本人になりきれるような妖怪なら、大きな権力をもつ人物と入れ替わりたいというのは間違いないと思います。しかも、妖怪のための裏の世界について詳しい人物ならなおさらです」

「そこで、武蔵野柳生の総帥、柳生美厳……ですか」

「はい。あいつが最後に確認されたのは千葉県の成田市なのに、二日もしないうちに多摩のこんなところにまでやってくるのは明らかに変です。しかも、退魔巫女の御子内さんの姿かたちをコピーしてです。つまり、そこから考えられるのは退魔巫女たちの記憶を使ってみたら、ここまでくる理由ができたということなんでしょうね。で、僕が知る限り、武蔵立川で御子内さんに化けてまでお近づきになりたい人物はたった一人しかいません」

 

 美厳さんは、柳生新陰流の名剣士であると同時に、裏の諜報組織である〈裏柳生〉の指導者でもある。

 この平和な時代にあるまじき戦闘力と武力と組織力を兼ね備えた人物だ。

 人間に化ける〈ドッペルゲンガー〉が成り替わろうと狙うには十分すぎる。

 下手な政治家や官僚、経済人などになるよりもよっぽどいいはずだ。

 もともと美厳さんをターゲットにしていたとは思えないが、たまたま戦ったレイさんの記憶から美厳さんのことを知ったのだと思う。

 そこから御子内さんまで辿り着き、最後にここにやってきたのだろう。

 頭に触ることで記憶を盗めるという話だから、通学時の満員電車の中とかで偶然を装って御子内さんに近づいたのだと思う。

 それならタイミングと状況次第ではあの勘のいい御子内さんからでも記憶を盗みだせるはずだ。

〈ドッペルゲンガー〉がどうして我が国にやってきたのかはわからないけれど、これだけて悪辣で知恵のある妖怪は本当に珍しい。

 僕の浅知恵程度がうまくいっているのが不思議なぐらいである。

 

「姉さまには避難していただきました。代わりに影武者として末の妹がなりかわっています。〈ドッペルゲンガー〉もまさか自分が偽物を狙っているとは思わないでしょう」

「柳生さんちって四姉妹だったんですよね……」

「はい。まだ中学生ですが、腕は確かです。―――部活棟は完全に封鎖していますので、妖怪は屋上に逃れるしかありません。うちの腕利きたちが追い詰めて……いるはずなんですが」

 

 冬弥さんの歯切れが悪い。

 耳につけているレシーバーから入ってくる通信を聞いて眉をひそめていた。

 するととても困ったような八の字眉になりちょっとイジメてみたくなるのが、秘書っぽいクールさをもつこの女の子の欠点だ。

 何かあったのかと聞くと、

 

「……さすが、或子さまの似姿。うちの連中が片っ端からやられているようです」

「御子内さんの記憶があるらしいからね。しかも、身体能力も一緒のハズ。確かにさすがというべきか……」

 

 正直なところ、人知を越えた妖怪とだって互角に渡り合える巫女レスラーの彼女のコピーだとすると、〈裏柳生〉の忍びたちでは刃が立たないかもしれない。

 忍びというのは僕らが思っているより正面からの戦いでは強くはないものらしいし。

 

「廊下と階段を使って包囲しているのですが、やはりうまく追い込めていないようです。もお、友埜姉さんまでついていてなにを手こずっているんだか……」

 

 友埜さんというのは、柳生家の次女で冬弥さんのお姉さんのことだろう。

 きっとさっきの小太刀のポニーテールの人だ。

 どことなく雰囲気が似ているので、二卵性双生児とかかもしれない。

 

「いきましょう、京一さま」

「でも、僕は戦いには……」

「あなたさまの身は不肖この柳生冬弥が絶対にお守りします。―――わたしたちは基本的に退魔の組織ではないので、優秀なアドバイザーが欲しいのでおつきあいください」

「僕は優秀でもないし、専門家でもないですけど」

「ご冗談を。我ら、〈裏柳生〉も〈社務所〉も、すでにあなたのことを十分な経験値を積んだ即戦力とみなしております」

 

 ……一年近く御子内さんの修羅場をみてきた結果、どうやら僕は過大評価されているらしい。

 さっき御子内さんの偽物もそんなことをいっていたし。

 戦力とかいっていいのは、退魔巫女たちか禰宜さんみたいな有能な人たちだけだと思うんだけどなあ。

 僕なんかただの傍観者に過ぎないのに。

 とはいえ、あの〈ドッペルゲンガー〉を放置する訳にもいかず、最後まで見届けないとならないという使命感だけはあった。

 

「その話はあとで聞くとして、とりあえず行きましょうか。弱い僕の護衛をお願いします」

「引き受けました。あなたさまを柳生の友人として絶対にお守りしますね」

 

 ……そういう肩書もいらないんだけどね。

 僕らは四階へと上がり、屋上へと続く階段まで行った。

 一度、武蔵立川の文化祭で使ったことがあるルートだ。

 その入り口のところで、刀を持ったごく普通のサラリーマンや塗装工みたいな人たちが、御子内さんを囲んで戦っていた。

 とてもシュールな絵面(えづら)ではあるんだけれど、そこで行われている攻防は笑いごっちゃないほど激しかった。

 使われている刀は明らかに真剣であり、その太刀筋もたっていて必殺の斬撃ばかりだ。

 それなのにニセ・御子内さんは舞うように廊下と階段を活用しながら、剣士たちをさばいていく。

 当たれば終わりという戦いなのに、それを感じさせない―――遥かに上回る戦闘力であっという間に剣士たちをぼこっていく。

 

「強い……」

 

 冬弥さんが呟いた。

 彼女のお姉さんであるポニーテールの友埜さんも小太刀を振っていたが、ニセ・御子内さんにはあしらわれている状態だ。

 少なくとも、あの中では群を抜いて強いのはわかるのに、御子内さんには触れもしないのだ。

〈ドッペルゲンガー〉が御子内さんの肉体の潜在能力を引き出しているのだろう。

 しかし、普通の人間を相手にしたらこれだけ差が出るのか。

 相手が忍びであるにも関わらず。

 やはり退魔巫女というものは恐ろしく強いんだな。

 

「友埜姉さん、もっと圧を高めて!」

「無茶言わないで!! 或やん、マジで強いんだよ!!」

「姉さまが屋上にいるんですよ! 突破させたら駄目です!!」

 

 間違いなくひっかけだ。

 さっきの言葉が確かなら、屋上に待ち構えているのは美厳さんではなく、四女さんのはずだ。

 だが、その言葉は巧妙にニセ・御子内さんを騙しきった。

 逃げることよりも美厳さんの記憶を得るために、〈ドッペルゲンガー〉は囲みを突破して、屋上へと上がっていった。

 僕たちもそれを追う。

 完全に逃げ道を塞いだところで、屋上に達した訳だが、そこには見慣れた四本のロープの張られた〈護摩台〉という名のリングが設置されていた。

 おそらく、文化祭の時に使ってからそのままにされていたのだろう。

 木の葉とかがゴミがマットの上に乗っている。

 ニセ・御子内さんはその前で立ち竦んでいた。

 リングの四方に立てられたコーナーポストの一本の上から、自分を見下ろし仁王立ちしている自分そっくりの相手の眼光に怯えていたのかもしれない。

 同じ姿なのに、立ち昇る闘気の量は桁外れに違っていた。

 

 あれが、本物。

 あれが、御子内或子。

 

「―――自分と戦うのは初めてだ」

 

 しかし、勝つのは『自分』だ。

 そんな風に彼女は全身で主張していた。

 

 

 



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ふたりは御子内或子

 

 

 ニセ・御子内さん―――〈ドッペルゲンガー〉は、前門の退魔巫女・後門の〈裏柳生〉によって完全に挟まれていた。

 記憶まで盗んでいたというのならば、屋上にあるあのプロレスリングにしかみえない〈護摩台〉の神通力もわかっているだろう。

 あそこから発せられる結界からは、退魔巫女を倒さない限り、妖怪・魑魅魍魎の類いは逃げ出すことができないということを。

 

『……仕方ないね。そこにいる本物をぶっ倒して、ボクが御子内或子になってあげるよ』

 

 偽物は、御子内さんらしからぬ邪悪そのものの醜悪な笑いを湛えた。

 本物の彼女ならば絶対にそんな笑い方はしない。

 悪、というものを体現しているといっても過言ではないだろう。

 ミルトンの失楽園以降、「悪」という言葉には「堕ちた反乱者」というイメージがあるけど、あの〈ドッペルゲンガー〉についてははっきりと人を欲望のままに操り、貶め、そして地獄にまで突き落とそうとする醜さ、汚さがあった。

 あいつが日本に上陸してまだ三日。

 でも、その三日で終わらせなければ、きっと大勢の人たちが傷つけられ、不幸にされるに違いない。

 そんな確信を抱かせるに足りる邪悪を極めたおぞましい化け物であった。

 あいつが美厳さんに成り替わったりしたら、どんな悲劇が繰り返されるかわかったものではない。

 だから、ここで倒すべき。

 御子内さんの厳しい表情はそのことを物語っている。

 彼女は人々を護る使命を背負った巫女として、この妖怪を倒すべく燃えているのだ。

 

『〈護摩台〉に引きずりあげたら互角になるんだよ。そこの剣士たちの援護も受けられない。それでもいいのかい?』

「キミ、ボクに化けている癖に頭が悪いな。―――ボクがこの〈護摩台〉の上で負けることなんてありえないんだよ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()!!」

 

 とんでもなく自信満々に根拠のないことを言う僕の相棒。

 でも、それこそが彼女だ。

 僕の妹の命を救ってくれた巫女レスラーだ。

 そして、〈ドッペルゲンガー〉はそこが死地だとわかっていても、リングにあがらなければならない。

 追い詰められた妖怪としては、御子内さんを倒して、なんとしてでもこの囲みを抜けなければならないのだから。

 おそらく、すぐに使える策がないのだろう。

 僕だったら、同じ性能を持つ御子内さんと戦って時間を稼ぎ、隙を探るのが一番だと思うが、〈ドッペルゲンガー〉も同じことを考えたのだと思う。

 

「本当にボクにそっくりだ。二重存在とはよくいったもんだね」

『ボクはおまえの記憶と肉体能力のすべてを複写しているからね。おまえと寸分変わらないさ』

「―――それは困る。ボクにだって触れられたくない過去というものはあるから。キミがこれ以上、世迷言を放つ前にとっとと斃させてもらう。退魔巫女のボクとしてだけではなく、一個人の女の子としてね」

『それは、キミに流れる例の血筋のことなのかい? 御子内或子?』

「当たり前じゃないか!!」

 

 カアアアアンといういつもの(ゴング)の音が鳴り響く直前に、御子内さんが踏み込んだ。

 裂帛の気合いとともに、右の回し蹴りを放つ。

 それがガードされると一瞬の遅滞もなく、左の回し蹴り。

 双龍脚だった。

 ただ、相手も同じ()()()()()

 蹴りが当たる寸前に風を抉る正拳突き。

 それを躱すという余計な動きが入ったため、蹴りを支える軸足が揺らぎ、左の蹴りは力なく当たるだけで終わった。

 速さが雷光にも勝る。

 互いに御子内さんでなければ目を疑う光景である。

 しゃっと息を吐いて、御子内さんの踵が後ろ回し蹴りとなって偽物のこめかみを襲う。

 蹴りのパワーは手の三倍。

 しかも急所ともなれば一撃必殺ともいえる蹴りだった。

 だが、それは難なくガードされ、偽物は自らマットに倒れこんだ。

 御子内さんの足首を抱えたまま、がっちりと極めにかかる。

 アンクルホールドからの関節技だろう。

 彼女は寝技もなかなかうまい。

 記憶が同じだというのならば、いつものようにがっちりとした固め技を使ってくるはずである。

 足首を脇に挟み、さらに膝を掴んだ瞬間、御子内さんの反対側の足裏が偽物の肩を蹴った。

 極めが外れる。

 関節技破りの技術である。

 這いつくばって逃れるのではなく、攻めに行くために逆襲を選んだのだ。

 そして、そのまま上半身を上げると、腰のバネだけを使ってタックルをかける。

 入った。

 偽物の腰を抱きかかえる。

 が、そのタックルが切られる

 想定していたのか、それとも肉体のもつ反射的能力か。

 タックル破りをしたのち、偽物は左袖を掴み、左手は襟を持つと、腰を撥ね上げる。

 

「山嵐」。

 

 御子内さんぐらいしかやれない古い必殺の投げだった。

 偽物とはいえさすがは御子内さんである。

 確実に一本を取られるような投げだったが、むざむざと投げられる本物ではない。

 宙を舞う一瞬に、身体を変化させ、背中ではなく腹から着地した。

 その顔面に頭突きがぶつかる。

 あえて狙っていた喧嘩殺法だった。

 聞こえる音があまりにも痛そうだった。

 だが、頭突きがお互いに与えたダメージはほとんどなかったようだ。

 その激突を最後に二人の御子内さんは二つの反対側のコーナーへと逃れていった。

 頭突きが効かないのではなく、お互いに同等の頭蓋骨の堅さだから互角だったということだろうか。

 なんにしても、たった数秒の攻防だというのに双方ともに凄すぎる。

 

「……或子さま、並々ならぬ実力の持ち主ですね」

「そりゃあ、或やんはあの美厳姉さまでさえ手を焼く相手なんだから。万夫不当を名乗ってもおかしくないさ」

「しかし、本当にどういう風に鍛えたら、あそこまでになるのかしら? 〈社務所〉の媛巫女って凄いものですね」

 

 僕の隣で、二人の柳生の娘さんたちが感想を漏らしていた。

 さっきまで偽物とはいえ御子内さんと小太刀でやり合っていた友埜さんがいうと非常に重い。

 

「単純に速さが違うんだ。判断してからとかじゃなくて、予測してから動く―――いや、違うかな―――まるで予知しているかのようだから」

「予知? 〈未来予測〉の類いなの?」

「いや、神通力とか術とかではないと思う……。人の動きを知り尽くしているというか、よく観て研究しているというか……。そういう、経験から裏付けられた勘のようなものかも」

 

 二人の意見には首肯せざるをえないものがある。

 御子内さんはとにかく勘が鋭い。

 しかも、それをさらに増幅させる格闘センスがある。

 持って生まれた才能のようなものもあるだろうが、たった十七歳の女の子とは思えないような経験値の高さを感じさせるのだ。

 抽象的に例えると、どんな敵でもどれほどの人数が相手でも、一回は戦ったことのあるような反応を示すことがある。

 きっとそれが御子内さんの秘密なのだろう。

 僕がそんなことを思っている間も、本物と偽物の二人の御子内さんの戦いは熾烈さを増していくのであった……

 

 

 

 

 

 



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最後にボクが勝つ

 

 

 自分に瓜二つな〈ドッペルゲンガー〉と出会ったものは死ぬという伝説があるが、それとは違う次元で、まったく同じ能力を持った人間と二重存在の間で殺し合いをやれば、いかんともしがたい差ができてしまうと思う。

 なぜならば、〈ドッペルゲンガー〉は本物を殺して成り替わる気でいるというのに、本物はたいていの場合その覚悟を有していないからだ。

 本物を排除して自分が「本物」になりたいという強い動機があるものが、本気になって殺意を抱けば、その分だけ同じ能力でも差ができる。

 自分と同じ顔のものを倒せる心構えのある本物はまずいないこともあり、通常であれば圧倒的に〈ドッペルゲンガー〉が有利となる。

 通常であれば。

 相手が、御子内さんでさえなければ。

 彼女は敵を倒すことを躊躇わない。

 それが自分であればこそ、逆に真剣になる女の子だった。

 

『キミの存在はボクが貰った!!』

 

 狂気の沙汰としか思えぬ言葉に、御子内さんは「そんなことはさせない」と拒絶する。

 空気がうねった。

〈ドッペルゲンガー〉の全身を鞭のようにしならせたレッグラリアート的な飛び回し蹴りがでた。

 中村俊輔のFKめいた独特の捩りが御子内さんオリジナルだ。

 本物はマットに膠着していた。

 避けようともしない。

 ただ、回し蹴りのインパクトの瞬間、太ももを抱きかかえ、くるりと回転させてボディスラムで叩き付ける。

 同じ御子内さん同士ではどういう訳か、得意のなんちゃって八極拳は使わない。

 それは〈ドッペルゲンガー〉も同様なので、おそらく彼女にしかわからない欠点があるようだ。

 だからこそ、というわけではないが、基本に立ち返ったプロレス技、もしくは蹴り技の応酬が続いている。

 もっとも奇襲的なローリング・ソバットなどはなく、実に堅実な戦い方だ。

 それだけ真剣勝負(セメント)であるともいえたが。

 例えるなら、通常の興業的試合ではなく、オリンピックのアマレスに近い戦いといえる。

 投げも、掴みも、極めも、殴りも、蹴りも、頭突きも、どれもが堅実。

 派手さは徐々になくなっていき、詰め将棋じみたじりじりとした戦いが続く。

 かといって飽きがくるということはない。

 これは間違いなく()()()なのだ。

 本物と偽物が雌雄を決するための、必殺の詰め将棋だった。

 

『やるねえ、人間』

「そっちこそ」

『でも、ボクだって色々とかかっているんだ。そろそろ殺させてもらうよ』

「それは聞けない話だね。ボクは人々をキミら邪悪な妖怪の魔の手から護る退魔の巫女なんだからさ!」

 

 御子内さんは吠えた。

 自分の能力を持っている敵と戦うことを微塵も恐れずに。

 

「―――まったく揺らがないなあ、或やんは」

「見事」

 

 柳生姉妹も感嘆の声をあげる。

 後ろに控えている〈裏柳生〉の忍び達も同様らしく、食い入るようにリングを見つめていた。

 

「御子内さん、頑張れっ!!」

 

 僕の声援が届いたのか、本物がこちらを見ずにサムズアップした。

 そして、仕掛ける。

 相手の眼前でくるりと横回転し、裏拳のよるバックブローをかます。

 しかし、躱された。

 読まれているのだ。

 自分自身の記憶から抽出されて。

 大袈裟な不用意な攻撃であった。

 そこを突かれるのは当然。

〈ドッペルゲンガー〉は御子内さんの腹に拳を突き立てた。

 いいものが入る。

 それは鳩尾を貫く致死性の一撃。

 普通ならば。

 

『ぬお!!』

 

〈ドッペルゲンガー〉は呻いた。

 御子内さんの白衣がはだけ、白いさらしが見えた。

 いつもはTシャツなのであんなさらしは巻いていない。

 そして、サラシには一枚の札が貼ってあった。

 何かの呪符だろう。

〈ドッペルゲンガー〉の拳が捉えたのはその呪符であったのだ。

 

 パン!

 

 何かが弾けた。

 同時に御子内さんが振りかぶった手刀を〈ドッペルゲンガー〉に落とす。

 ただのチョップではなく、眉間から顎までを切り裂くような鋭い、まさに斬撃のような手刀であった。

 顔面には急所が多数存在し、その中でも正中心線上には、頭蓋骨が最も薄い天頂部、眉間、眼と眼の間、人中、顎の先といった急所が縦に並んでいる。

 その全てに一挙に斬るような一撃を加えることで致命的なダメージを与える技だとかつて、聞いたことがある。

〈ドッペルゲンガー〉も知っているし、使いどころもわかっているだろうが、その前の呪符の効果による虚を突かれた結果、対応が遅れたのだ。

 おそらく、御子内さんは〈ドッペルゲンガー〉に化けられたことを、ここに上がってくるまでの間に〈裏柳生〉の人に教えられ、その間に呪符を準備したのだろう。

 呪符の存在については、〈ドッペルゲンガー〉は当然知らない。

 あいつがコピーしたのは、学校にくる前の御子内さんの記憶であり、その後の短い期間の出来事については知らないのだから。

 そして、〈ドッペルゲンガー〉の最大の弱点は、()()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()使()()()()()()()()()()()()ということだ。

 過去の作戦について知っていても、未来の戦いについてはまったく読めない。

 それでは百戦錬磨の戦士にはなれない。

 ()()()()()()()()()()()

 

『おおおおお!!』

 

 御子内さんの岩山をも斬り裂く波のような手刀を受け、〈ドッペルゲンガー〉の顔が割れる。

 僕好みの可愛い顔がひしゃげるのはとても惨い光景だが、やったのは本人なので別にいいか。

 均衡は破れた。

 余裕をもってローリング・ソバットが放たれ、ふらついたところを上下にわける必要すらないナックルパートが閃く。

 御子内さんは全開だ。

 最後に飛び立って垂直の延髄切りが入ると、もう〈ドッペルゲンガー〉は動けなくなっていた。

 両肩を押さえつけるだけで、どこからともなくスリーカウントが鳴り響き、そして〈ドッペルゲンガー〉は消滅していく。

 自分の姿をした強敵を倒し、ようやく安堵したのか、御子内さんはコーナーポストによりかかって荒い呼吸を吐いていた。

 彼女にしては珍しく疲れ切っているようだ。

 

「お疲れ様」

「―――まあね」

 

 自分を超えることの難しさのようなものがあるのだろう。

 

「大変だった?」

 

 少し考えた後、御子内さんは、

 

「そうでもないかな。ボクの記憶があったとしても、ボクの心は持っていないし、ボクが今までに感じてきた忌避感だってわからない。それじゃあ、ボクには勝てない」

「……忌避感?」

「あいつはボクの記憶について、ボクが抱いている忌まわしい思いを理解していなかった。それだけのことさ」

 

 やはり御子内さんには何か深い事情があるのだろう。

 いつか、それは僕の前に現われるかもしれない。

 きっと常人には耐えがたいものだと思う。

 だって、誰よりも強い御子内さんがこんな辛そうな顔をするのだから。

 

「でも、とにかく無事でよかった」

「そうだね。午後の授業には出られそうで良かったよ。―――ところで、京一、キミの学校は、今日は開校記念日か何かなのかい?」

 

 ここで僕は現実に引き戻された。

 まだ、お昼前だというのに、これからどうすればいいのか、と。

 

「なんだったら、日本酒愛好会の部室で待っていなよ。お昼を一緒に食べよう」

 

 御子内さんの心遣いがある意味では胃を痛くさせる秋の一日であった……

 

 

 

 

 

 

 

 



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第30試合 屈折として骨折せし
骨折り損の前触れか


 

 

 気が付くと、別人になっていた。

 この場合、別人としては撫原彩也子(なではらさやこ)という十七歳の女子高生の肉体が変貌して、見たこともない人間になっているというパターンと、まったく別人の身体に魂みたいなものが乗り移っているパターンの二通りがあると考えられる。

 彩也子の場合は後者であった。

 はっと目が覚めると、家具も何もない部屋の壁に寄りかかって、毛布を被ったまま寝ていたようであった。

 薄暗いが、窓から差し込む月の光でなんとか視界を確保できる。

 

(なんだろう、ここ。それに……ちょっと……横向いてよ)

 

 彩也子は身体が自分の意志のままに動かないことに気が付いた。

 それだけでこの身体は彩也子のものではなく、別の人物の支配下にあるものだということがわかる。

 彼女は見ているだけしかできず、まるで本人視点のまま固定されて進んでいくゲームをプレイしているような気分だった。

 もっとも、彩也子の意識そのものは夢の中にいるかのように曖昧なものなので、他人の目を通して見る出来事にもさして苦痛は感じなかった。

 夢だと思ってしまえばいいだけのことだから。

 時折、ザザザザとノイズのような雑音が聞こえ、無音状態になるのはウザったかったが、それ以外は別にどうということもない。

 見慣れぬ室内の光景、外の道路を走る車や暴走族のものらしい爆音……

 映像と音声は臨場感に溢れ、とてもリアルで生々しい。

 彩也子自身の感覚は曖昧であったとしても、見ているものは夢とはいえ希薄ともいえない濃度を保っていた。

 自分が立ち上がり、歩き出した。

 すぐに玄関らしい扉があったので、この部屋は1Kぐらいのワンルームなのだとわかる。

 彩也子は、この肉体のことを〈分身〉ととりあえず考えることにした。

〈分身〉の年齢や性別はわからない。

 視覚における中心はよくわかるのだが、周辺視野と言っていい部分、通常なら見えるはずの身体の一部がまったく見えなかった。

 意識していなければ、自分の手や足をじっくりと見つめたりはしないので、たぶんそういうことなのだろうと想像する。

 見たいものを見る決定権は彩也子にはなく〈分身〉にしかないのだ。

 音は聴こえるので、聴覚は健在らしい。

 臭いは―――よくわからない。

〈分身〉は部屋を出て、階段を降り、道路に出た。

 ごく普通のマンションかアパートのようだ。

 そのまま、何事もないように歩き続ける。

 かなり歩き回った。

 夜なのでこんなに意味もなく歩き回れば警察に職務質問でもされないかと、彩也子がいらぬ心配をしてしまうぐらいだ。

 とはいえ、無意味な徘徊というものほど他人からすればつまらないものはない。

 彩也子は完全に飽きていた。

 この〈分身〉の正体を探ろうという気すらもなくなるぐらいで、「早く終わってくれないかなあ」とあくびをしたくなる気分でもあった。

 もう少し彩也子が注意をしておけば、後の不幸は防げたかもしれないのであるが、それは後の祭りである。

〈分身〉はとあるマンションの一階の一室に辿り着いた。

 今どきの人間らしく表札はない。

 ドアノブを掴み、ガンと一回揺らすと鍵が開いた。

 ロックされていなかったというよりも、無理矢理に壊したという感じであった。

 おかしい、と彩也子は思う。

 この〈分身〉の部屋はさっき目を覚ましたところのはずだ。

 それがどうしてこんな別の部屋に来たのか。

 しかも、鍵を使わずに力で破壊するように入るのか。

〈分身〉は室内に入ると、振り向いて、さっきのドアノブを何事もないように元の位置に戻した。

 こんなに簡単にドアの鍵というのは壊せるものなのか。

 背筋が冷える様な事実である。

 

(いったい、なんなのよ……)

 

 部屋はバストイレつきの1DK。

 収納として押入れがある。

 六畳間の間取りで大きめのテレビと折り畳み式のマットレスが置いてあり、あとは小さなテーブルとカラーボックスがあるだけだ。

 雰囲気からして女性―――OLあたりの持ち物な気がする。

〈分身〉は室内を見渡すと、押入れを開けた。

 荷物や服が詰まっている。

 その中の旅行ケースを取り出して、中に服などを詰め込むと、そのままガラス戸をあけて外に放り出した。

 他にも大きめの段ボールなどを同じように外に放り出した。

 ベランダにではなく建物の敷地内の庭の部分にである。

〈分身〉が何をしようとしているのかわからないが、彩也子には嫌な予感がする行動であった。

 何度かの往復の後、押入れにはぽっかりと人一人が入れるだけのスペースが出来た。

 

(まさか……)

 

〈分身〉は電気を消すと、その隙間に潜り込み、押入れの中から慎重に戸を閉めた。

 真っ暗になった。

 視界は完全に失われた。

 それでも彩也子は自分がまだ〈分身〉の視界を通して世界を見ていることを理解していた。

 しばらくすると、部屋に電気が点き、誰かが入ってきた。

 

「ただいま~」

 

 若い女性のようだ。

 鼻歌を歌いながら、なにやら動いている。

 彩也子の勘だと、おそらく化粧を落としているのだ。

 それからシャワーを浴びに行き、戻って来てからマットレスの上でピコピコという電子音を立てている。

 メールやラインあたりの返事をしているのだろう。

 欠伸をする声が聞こえた。

 それから、ペラペラと紙をめくる音―――読書だろうか。

 

「おやすみなさーい」

 

 独り暮らしなのに、よく口にする女性だった。

 ただ、のんびりとした口調は非常に好感が持てる。

 電気が消えて、また暗くなった。

 一時間ほどして、彼女の寝息が聞こえてくるようになった時、〈分身〉がゆっくりと静かに押入れから出た。

 

(ちょっと待ってよ! 何をする気なの! いい加減にしろよ、この変態野郎!!)

 

 彩也子の叫びは〈分身〉には届かない。

〈分身〉はカーテンを開いて、室内に月光を取り入れる。

 部屋の主の顔が見えるようになった。

 ゆるふわのカールをしたわりと綺麗な女性だった。

 気分良さそうに眠り込んでいる。

 

(起きて、あんた、起きてよ!!)

 

〈分身〉は毛布の中から女性の手を引っ張りだした。

 

 ぼきっ

 

 音がすると同時に手首の骨を折った。

 とてつもなく簡単な、フライドチキンの腿骨を折るよりも容易く。

 まだ、割り箸を折る方が簡単だろうというぐらいにあっけなく。

 

「ぎゃあ―――」

 

 叫び声を上げようとした女性の口の中に脱ぎ捨ててあった下着類が突っ込まれた。

〈分身〉の仕業だ。

 暴れた拍子にランプがつく。

 手首の部分が内出血のために瘤のように膨らんでいて、しかも関節とは逆に曲がっていた。

 まるでマネキンの腕のように。

 女性の額に油汗が浮かび、幾筋も落ちていった。

 目には信じられないものを見るような驚愕と恐怖で溢れていた。

 涙が零れ落ちている。

〈分身〉が折れてぶらぶらしている手を振り回した。

 女性が激痛のあまりに海老反る。

〈分身〉が彼女の上に乗っかり、俗にいうマウントの姿勢をとった。

 その手が左足に伸び―――

 

 ばきっ

 

 とまたも骨の折れる音がした。

 

「ううううううヴうヴヴ!!」

 

 女性は詰め物をされた状態のまま叫ぶ。

 痙攣していた。

 そこまでの激痛なのだ。

 

「―――頑張って」

 

〈分身〉が何かを言った。

 男の声か、女の声か、それもわからないぐらいの囁きだったが、それを聞いて女性はごほごほと咳をした。

 いや、吐瀉物が逆流しているのだ。

 恐怖のあまりえずいているのだろう。

 

「うううううああああああ!!」

(やめて、やめて、もうやめてよおおお!)

 

 だが、女性と彩也子の必死の願いは〈分身〉には届かなかった……

 

 

             ◇◆◇

 

 

「BAKU……。聞いたことがあるなあ」

「大和田伸也の弟さんじゃありませんよー」

 

 熊埜御堂てんのいうことは、たまに私にはわからない。

 私がイギリス人であるのをたまに忘れるのだろうか。

 確かに、私は一身上の都合でいつも顔と手に包帯を幾重にも巻いていて、外見で出身がわかるようにはしていないが、もう半年ほどの付き合いになろうというのに、だ。

 もっとも、私の生殺与奪の権利はこの小娘にあるといっても過言ではないので、逆らえるものではないのだが……

 

「夢を食べるモンスターではなかったかな」

「そうですよー。よくご存知ですねー」

「日本の歴史の勉強良くしているからな。箱根もいったし、日光にも行こうと思っている」

「でも、ロバートはもう浜名湖から西にいったらダメですからねー。仏凶徒(ブッキョート)に退治されちゃいますからー」

「わかっている」

 

 実のところ、私は妖精の血を引いており、半分が人外なのだ。

 だから、この国でいうところの妖気を発しているらしく、それを忌むべきものと考える武闘派の宗教的団体に狙われているのである。

 この国に留まる限り、その仏凶徒と互角に渡り合える〈社務所〉という組織の庇護のもとに入るしかない状況だった。

 その代償として、私はこの熊埜御堂てんという少女のために使い走りをしているという次第である。

 とはいえ、それなりに俸給も支払われてはいるので、私としては日本で暮らすための仕事として受け入れることは吝かではなかった。

 ただし、十歳以上年下の少女に馬車馬のごとくこき使われるのは精神的にもくるものがあるのではあるが。

 

「それで、てん。そのBAKU……バクか―――〈(ばく)〉を退治することになったのか?」

「まあ、悪い妖怪を退治するのが〈社務所〉の媛巫女の仕事ですからねー。でも、〈獏〉は別に斃さなくてもいいんですよー。捕まえるだけで」

「いいのか?」

「うん、そうなんですよー。だって、今回の〈獏〉がやったことって、ある人の夢を、他の人の夢に繋げるってだけなんです。夢を食い散らかしたりするのなら、量によっては関節ごと叩き折りますけど、この〈獏〉はふざけて遊んだだけなんですよねー、これが。だから、まあ情状酌量の余地ありで捕まえるだけにしてやる、ってことです」

 

 関節ごと叩き折るとか物騒なことを言っているが、この少女は言動が一致しているので、本当にやりかねない。

 見た目は幼くてあどけないが、実のところ、下手なサイコパスも真っ青の危険人物なのである。

 私もアラサーになるまで色々な人間を見てきたが、この少女ほど躊躇なく敵の骨を折り、関節を砕く凶人はみたことがないほどだ。

 コマンドサンボの使い手というだけでなく、どことなくロシア人を思わせる恐ろしさを秘めている。

 

「―――細かい話はこれからしますが、ロバートは三日以内に〈獏〉の居場所を特定しておいてくださいねー」

「待て。……てんは、何もしないのか?」

 

 すると、〈社務所〉の媛巫女はにっこりと笑って、

 

「てんちゃん、うちの中学の体育祭の準備があるから、〈獏〉が見つかるまでお休みしまーす。てへ♪」

 

 と、無責任なことを言うのであった。

 

(この娘、まだ中学生なんだよな)

 

 将来はどんなサイコパスになるかわからないので、とりあえず早めに改心してほしいと私は神に祈るしかなかった……

 

 

 

 

 

 

 



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ロバートのお使い

 

 

 夢を食べる妖怪〈獏〉を探すために、私は杉並区の片隅にある小さな神社に赴いた。

 そこの主神は、天照皇大神の命により「見えざる世界を司る」ことになった大国主大神であった。

 名を「夢問神社」といい、目に見えない世界の中でも睡眠中に見る夢に関する祭事をする場所らしいのである。

 夢に関する神社というものは日本で数少ないらしいのだが、その周辺に〈獏〉がでるというのだから、偶然で片づけられる話ではない。

 だから、中学校のイベントで抜けられないというてんの代わりに私が調査に行くことになったのである。

 普通ならば〈社務所〉の調査を担当する禰宜という役職の者たちがする仕事なのだが、今回の〈獏〉は別に一般人を傷つけたというのでもなく、脅威度が低いということで私のような付き人がやることになったのだ。

 慢性的に人手が足りない〈社務所〉であるから、こうやってこき使われるのは仕方がない。

 私は、仏凶徒にも妖怪にも故郷の魔導師にも狙われている身なので、このぐらいの奉仕はしないと立つ瀬がないということもある。

 熊埜御堂てんは、退魔巫女ではあるがまだ中学生ということもあって、担当する事件は比較的小規模で、妖怪も凶悪過ぎないものばかりだから、付き人の私もさほど危険を感じずに仕事をすることができた。

 もっと働きたい彼女は不平たらたらなのだが、正直なところ、彼女よりも年上の巫女たちが十分な仕事をしているので、そう文句も言えないのである。

 てんも凶悪な強さを持っているが、彼女の先輩達はそれに輪をかけて強いのだから、あまり我が儘はいえないのだろう。

 先輩たちに「スーパー」だの「グレート」だの尊称をつけているのでかなり尊敬していることもあるようだが。

 

「えっと、この辺りの路地を入ればいいという話なんだが……」

 

 スマホのGPS機能を凝視しながら歩いていると、

 

「そこの君、ちょっといいかね」

 

 声をかけられた。

 振り向くとこの国の民警の警官が立っていた。

 

「何かな」

 

 パスポートはいつも所持しているし、〈社務所〉経由で在留許可も得ている。

 よし、大丈夫だ。

 

「―――外国人? どこの国から来たの?」

「イギリスだ」

「日本語うまいね。どのぐらい日本にいるのかな?」

「十五年いる。今の住所はここだよ」

 

 といって用意してある名刺を渡した。

 そこには「熊埜神社・常任研究員 ロバート・グリフィン」とある。

 公的な身分としては、私はてんの実家である熊埜神社において、海外向けの資料の編纂や記事の発信をしていることになっている。

 てんの助手としての仕事に加え、実際にその仕事もしていない訳ではないので堂々と語ることに問題はない。

 

「外国人の神主さん……ってことかい」

「いや、ただの客分さ。日本の文化を海外に発信して、国際交流を図っている」

「今日はなんのために、このあたりに?」

「何かあったのかい? 私はこのあたりにあるという夢問神社というところを訊ねに来たのだが……。あ、これが世話になっている熊埜神社の神主からの招待状だ」

 

 カバンの中から封された手紙をだした。

 夢問神社の神主の名前が記されているので、間接証拠ぐらいにはなるだろう。

 中身を読まれるのはちょっと困るのだが、警察官は受け取りもしなかった。

 

「わかった、仕舞っていいよそれは。いきなり職質してしまってすまないね、外人さん」

「いや」

 

 職質は実はよくされる。

 なんといっても、私は普段から顔に包帯をぐるぐるに巻いている超がつくほどの不審人物であるからだ。

 私の正体は〈透明人間〉。

 遺伝子の半分は人間であるが、半分は妖精(エルフ)という半妖半人なのであるから。

 透明の姿を見られないように、全身を包帯で巻いて、サングラスをかけているというこの格好なので、普段は昼間は出歩かないようにしている。

 夜でさえ、下手をすれば十メートル歩くたびに職務質問されてもおかしくない不審者なのであった。

 今日は、てんの代理なので仕方なく昼間街を徘徊しているのだ。

 

「あまりとやかく言いたくないのだが、あんた―――グリフィンさんの格好はかなり怪しいのでね。気を悪くないでくれ。てっきり……」

 

 すると、隣にいた相棒らしい警察官が肘でついて話を止めた。

 はっとしているので、何か事情があるようだ。

 

「小さい頃に酷い火傷にあってね。それ以来、顔を隠す癖がついてしまったんだ。だから、あんた方が怪しむのも無理はない。ところで、てっきりの次はなんて言うつもりだったんだい。―――良かったら聞かせてほしい」

 

 警官たちは少し顔を合わせ、

 

「うちの署の管轄で、傷害事件が起きているんだ。しかも、もう三件。すべてが一人暮らしの女性をターゲットにしたものでね。どうも力が強い犯人のようだから、あんたみたいな体格のいい相手は任意で職質するようにしているんだ」

「傷害……? 暴行じゃなくて?」

「ああ。もう、普通のOLがぼっこぼこにされてね。酷いもんだ」

「佐々木っ!」

 

 相棒に促されて、警官はお喋りを止めた。

 確かに捜査の情報をあまり流すものじゃないな。

 

「わかりました。で、私も怪しいと」

「まあ、そうだ。でも、あんたはわりと遠くに住んでいるようだし、事件には関係ないと思うけどな。じゃあ、あんたの様子じゃ怪しまれるだけだから、用事が終わったらさっさと神社に戻れよ」

 

 わりと気のいい警官たちだった。

 スコットランドヤードの高圧的な警察官に比べればさすがという感じだろう。

 これだから日本はいいのだ。

 だが、警官たちの注意をこれ以上引くのは避けたいので、私は急いで夢問神社へと向かった。

 

 

      ◇◆◇

 

 

 夢問神社に着いた私の眼前に黒い影が、羽ばたきと共に落ちてきた。

 思わず後ずさりをする。

 現われたのは黒い大きなカラスであった。

 よく見れば、脚が三本ついているので、まともなカラスのはずがない。

 

『ヨクゾ来タナ、異人ヨ!!』

 

〈社務所〉の伝令などのための使い魔である八咫烏であった。

 故郷のサセックスでは、魔女が黒猫と共によく使い魔として利用していたので、私も喋るカラスごときにはうろたえはしない。

 しかし、異人呼ばわりは止めて欲しいのだが……

 

「なんで、八咫烏がここに?」

『ココノ神主ニ召喚サレタノダ。ノッピキナラヌ事件ガ起キテイルラシイゾ。丁度イイ、貴様ガ話ヲ進メロ』

「いや、私はてんが引き受けた〈獏〉捕縛の調査に来ただけなんだが……」

『シェカラシカ!! 人ノ窮状ヲ救ウノガ退魔ノ媛巫女ノオ役目! キサマモ巫女ノ付キ人ナラバ助ケヲ求メルコエヲナイガシロニスルデナイ!!』

 

 カラスに説教されるのは初めてだ。

 

『マッタク、ソノ程度、アノ間男ノ小僧デスラデキルゾ。キサマモ精進スルコトダナ!!』

 

 と憎まれ口をたたくと、八咫烏は空に戻っていった。

 間男の小僧って誰のことなんだろうか。

 私とカラスの口論を聞きつけたのか、社の中から神主姿の中年男性が現われた。

 こちらを見て一瞬戸惑うのはいつものことだが、話を聞いていたらしく、私を〈社務所〉のものとして認識してくれたようだった。

 

「ようこそ、夢問神社へ」

「初めまして、ロバート・グリフィンです。〈社務所〉の媛巫女、熊埜御堂てんの代理として来ました。妖怪〈獏〉についてなのですが……」

「実はそのことについて、折り入ってご相談したいことがございまして」

「なんでしょう」

 

 神主自ら案内された先は、拝殿の一画だった。

 何枚か座布団が敷かれ、その上に一人の少女が正座をしてこちらを見ていた。

 包帯だらけの私を見て顔をひきつらせたが、気丈にも正座を崩すことはなかった。

 神主が私を少女に紹介した。

 それから、私に対しても、

 

撫原彩也子(なではらさやこ)さんです。当神社の氏子でもあり、私自身も子供の頃からよく知っている子供であります」

 

 彩也子という少女は、警戒しながらも挨拶をしてきた。

 このあたりは好印象だ。

 てんよりも幾つか年上のようだが、やはり彼女よりも落ち着いている。

 

「……この女性がどういう」

 

 私が切りだすと、すぐに話が始まった。

 

「彩也子さんは〈獏〉に憑りつかれています。ただし、それだけならばまだ良かったのですが……。〈社務所〉の媛巫女さまの力をお借りできるのであれば、なんとか引き剥がせるとは思います」

「それだけではない、というのですかな」

「ええ」

 

 神主は少し躊躇ってから口にした。

 

「―――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。しかも、相手は最近このあたりで女性を傷つけて喜ぶ変質者のような怪人らしいのです」

 

 ただの妖魅捕縛がきな臭いものに変わっていくのを私は肌で感じていた……

 

 

 



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夢問神社へようこそ

 

 

 細かい事情はこうだ。

 まず、彼女は夢問神社の氏子というだけあって、この近所に住んでいる普通の高校生なのだが、数週間前から妙な夢を見るようになった。

 彼女は「夢を見る」というのだが、厳密には「誰かが見ている光景をさらに見ている」というのが正確な表現だろう。

 つまり、自分ではない別人の行動の一部始終を見物する羽目になってしまったということなのだ。

 中国などの大陸では、「夢をする」というらしいのだが、確かに彼女―――彩也子の寝ているときの夢は「する」という動詞がぴったりかもしれない。

 彼女は、別人の夢の中でそいつが若い女性に凶行を働く現場を目撃させられた。

 まさに凶行というのに相応しく、寝ている女性の四肢の骨を折り、殴りつけ、まるで玩具とプロレスごっこでもするかのように非人道的に弄ぶというものであった。

 人形遊びというよりも、ぬいぐるみの虐待といったところか。

 淡々とした彩也子の口を通して語られただけでも陰惨なのであるから、現実にはもっと酷いものだったと推定できる。

 試しに事件を検索してみると、彼女の言う通りの事件が三件も起きていた。

 手口からして同一犯人。

 警察が必死になって捜査をしている段階だという。

 さっきの職務質問はこれのせいなのだろうと確信する。

 そして、問題なのは、これが彩也子による大人の気を惹くなどといったことのための狂言ではなく、事実だと考えられる点だ。

 夢問神社の神主は言う。

 

「―――我が社は、関東でも数少ない、大国主命とかの神が支配する何もない世界を祀る神社であります。ご存知のようですが、ざっくばらんにお話してしまうと、主に『夢』と『眠り』にまつわることを対象としていると考えてもらえば説明しやすいでしょう。そのため、江戸の世から、特に〈獏〉のような庶民の夢にちょっかいをだす妖魅の類いが封印された場合はその鎮守を任されてきました」

「熊埜の宮司から聞いております」

「ゆえに、現代においても、〈社務所〉の媛巫女さま方が何年かに一度〈獏〉を退治したり捕縛された場合はそのサポートをしてまいりました。私自身、二度ほど〈獏〉と遭遇したことがあります」

 

 少し驚いた。

〈獏〉という妖怪はそんなに頻度が高く人間にかかわってくるのかと。

 

「人間のみならず、すべての生き物が睡眠をとらなければいけないのであるのなら、夢を食糧とする〈獏〉がいくらでも発生してもおかしくありませんから。……まあ、そのための夢問神社なのですが。―――話を戻しましょう」

 

 神主は白衣の袂から一枚の和紙を取り出した。

 そこには鼻はゾウのようで、目はサイ、尾はウシのもの、脚はトラにとそれぞれ似ている墨絵が描かれていた。

『本草綱目』にも引かれている白居易「貘屏賛」序によるものと同じだ。

 

「数年に一度、〈獏〉が実体化した場合は〈社務所〉の媛巫女にお願いすることになりますが、まだ幽界にいる段階では私でも封印することができます。あとでお見せしてもいいのですが、拝殿の奥にある絵馬には過去の〈獏〉が封印されているのです。その私の経験からいって、彩也子さんには〈獏〉が憑りついているのは間違いありません」

「……それは今も?」

「被憑依者が起きているときは消えていますが、対象が再び眠りにつくと〈獏〉はどこからともなくやってきて夢を食べ始めるのです。その結果、本来は見るはずのない悪夢を見ることになるという訳です。悪夢とは、〈獏〉の食い散らかした残飯のようにものだと思ってください」

「なるほど。で、実体化するというのは?」

「〈獏〉は何かのきっかけによって、たまにその姿をはっきりと現すことがあります。それを実体化―――現身(うつしみ)と呼ぶのですが―――、その場合は性質が特に狂暴なこともあり、彼らに対抗するために媛巫女を援軍として派遣してもらうわけです。私も、情けない話ですが暴れ出した現身には敵いませんし、仕方のないところです」

 

 人の良さそうな中年男性だと思ったが、意外と神主としての骨はあるのだろう。

〈獏〉関連については信頼できる人物のようだ。

 

「前置きが長くなってしまいましたが、ここからが本題です。この彩也子が見ている犯罪者の眼から見た光景は、十中八九、〈獏〉が見せているものに間違いがありません」

 

〈獏〉は夢を食べる妖怪ではないのか。

 どうして、他人の頭の中を関係ない女子高生の夢に繋げる必要があるのだ。

 

「こういう事例が過去にない訳ではなかったようです。特に、徳川家重が九代将軍になった延享3年あたりに起きた〈獏〉害で似たようなことがあったと報告されていますしね」

「また、厄介な妖怪だな。人の頭と人の夢をリンクさせるとは……」

「ええ。おそらく」

「どうして、そんなことになったのかな?」

 

 神主は少し考え、

 

「これは私の想像ですが、〈獏〉がその犯罪者の夢をたまたま食べてしまい、具合が悪くなって吐き出したら、彩也子の夢に混じったとかではないか、と……」

「―――随分とファンタスティックですね」

「〈社務所〉の方ならご存知でしょうが、妖魅の行動についてははっきりとした合理性が見つかることは多くありません。はっきりとしているのは、彩也子がこれまでに三回にわたって、例の犯罪の現場の夢を見て、まだ犯人が捕まっていないということなのです」

 

 そういうことか……。

 私はようやく話の要点が呑み込めた。

 胸糞悪くなる犯罪の様子を夢で見させられる女子高校生を助けるために、神主を初めとした私たち大人が何をすればいいか、という問題なのだ。

 現身となった〈獏〉を退治するなり、捕縛するのと並行して、平和な日常を襲う脅威をいかに処理すべきか。

 ただし、夢で見たとか〈獏〉のせいで、などということは警察が信じてくれるはずもなく、我々は独自の対策を考えなければならないという訳である。

 

 

            ◇◆◇

 

 

「でー、てんちゃんは何をすればいいの?」

 

 中学校が終わってから合流した熊埜御堂てんは、説明を受けた途端、そんなことを聞いてきた。

 彼女としては単に実体化した〈獏〉をなんとかすればいいというだけのことだったのに、主な問題点が偏執的な犯罪者対策に変わっていたので考えがまとまらないのかもしれない。

 やや戸惑っているようだ。

 ちなみに、戸惑っているのは夢問神社の神主と撫原彩也子(なではらさやこ)も同じであった。

〈社務所〉という退魔組織の最高戦力である媛巫女としてやってきたのが、紅い袴の裾を腰のあたりまであげて、折ってまくっているミニスカの巫女がやってきたのであるから。

 白いニーソックスと太ももが健康的であるが、おだんごのツイン・ミニョンとなると子供っぽさが尋常ではないのだ。

 しかも、悩み事なんか何もないみたいに太平楽に春風のように笑っているものだから、さらに幼く見える。

 中学三年でこれでは先が思いやられるぐらいだ。

 ただ、てんは第一印象の通りの普通の少女ではない。

 私自身、肩の骨を外されて悪夢を見せられたし、彼女に従っている〈のっぺらぼう〉の一族は恐怖によって統制されているのだから。

 少女の形をしたサイコパス。

 恩があるからそれ以上は言わないが、熊埜御堂てんとはそういうSの一文字が似合う魔人でもあるのだ。

 とはいえ、てんは周囲とうまくコミュニケーションをとることに関しては神業のような技術を持っているので、数分もしたら神主と彩也子とも打ち解けていた。

 あの甘ったるい、語尾を伸ばす喋り方でうまく懐に入り込むのだ。

 トークに自信があるとはよくいっているが、毎度毎度感心してしまうぐらいのコミュニケーション能力の高さである。

 

「……実体化した〈獏〉を捕らえるのはおまえしかいないし、〈獏〉を誘き出す方法は神主から聞いているので、〈護摩台〉を用意して封印する」

「それでどうするんですかー?」

「変質者の方も野放しにできないから、そっちも見つけ出して逮捕して、警察に突き出す。これで犯罪者と彩也子のリンクを断ち切れば彼女も平穏な夢を見られるようになることだろう」

「なるほどー。さすがはロバートさん! 困っている人を見捨てられない、正義の味方ですねー」

 

 感心したという眼差しで見つめられた。

 口が半開きで、少しアホの子のようだ。

 だが、私はこいつの擬態には騙されない。

 この娘が情け無用のサイコパスであることを私はよく知っているのだから。

 

 

 

 



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てんちゃんに任せるですよー

 

 夢問神社の神主とロバート・グリフィン、そして熊埜御堂てんが〈獏〉と変質者対策を話し合い始めたとき、撫原彩也子(なではらさやこ)は耐え難い眠気に襲い掛かられ、我慢できずに屈してしまった。

 夜中に見る悪夢のせいで、彩也子が少しでも眠りにつけるのは明け方近くの数時間しかないから寝不足なのだ。

 授業中も睡魔で仕方ないが、昼間でもあの変質者の夢を見てしまうのではないかと、おいそれと眠れないのである。

 例の変質者の視ている景色を「夢」として見るようになったのは、三週間前。

 特に覚えているのは、変質者が実際に一人暮らしの女性に暴行を加えた三回分だが、それ以外にも度々「例の〈分身〉の視点」を見た。

 どこかの暗い道を歩いているところだったり、人の寝静まったマンションの一室をじっと眺めていたりとか、ほとんど何もしていないので、印象は薄い。

 だが、昼間でさえも、もしあの「夢」を見ることになったらと思うと恐ろしくて昼寝もできないのだ。

 だから、ここしばらくの彩也子の平均睡眠時間は二時間を切っているかもしれない。

 少しでも気を緩めたら()()()()()()()()()()

 訳のわからない体験をして精神的に参っていたが、その話を真剣に聞いてくれる神主たちのおかげで安堵してしまい、おかげでこっくりとしてしまった。

 

 ―――彼女が〈分身〉と名付けた肉体(ボディ)は、どこかの道を歩いていた。

 それなりに通行量があるので、真夜中とは違って多くの人とすれ違う。

 昼間にこの「夢」を見るのは初めてだったので少し戸惑う。

〈分身〉は一人のようであった。

 隣に誰かがいれば、そちらに視線を送ることもあるはずだから、その様子がないからだ。

 しばらくすると、ある平凡なマンションの前に立った。

 ただ、彩也子は喉をくぅと鳴らした気分になる。

 そこに見覚えがあったからだ。

〈分身〉はアプローチを進み、玄関へと進む。

 自動ドアが開き、ずらっと郵便受けが並んでいる。

 それ以上進むためには、昼間ならば受付の管理人の許可を受けるかインターフォンで住人に開けてもらうしかない。

 その中の一つの郵便受けに注がれていた視線に左手が伸びた。

 明るいところで見ると、どうも男性のものらしい。

 腕時計をはめているし、黒っぽい変わった背広を着ているのだけはわかった。

 夢の世界のせいか、色合いははっきりとしない。

 どうやら〈分身〉が男性というのは断定していいようだ。

 郵便受けのナンバープレートには「NADEHARA」とあった。

 間違いなく彩也子の知っているマンション―――彼女の従姉が住んでいる場所であった。

 鍵がかかっているので郵便受けの中を探られることはないが、それを〈分身〉は窺っているようであった。

 郵便物を調べている。

 彩也子の従姉・泉希(みずき)の私生活を探ろうとしてるのに違いない。

 彼女のプライベートを暴き、秘密を掴もうとしているのだ。

 彩也子は震えあがった。

 自分が眠っているという感覚はあるのに魂が恐怖を感じたという他にない。

 次の瞬間、〈分身〉の肉体から届いている映像が途切れた。

 一緒に彩也子も目覚めた。

 

「―――どうしましたー」

 

 神主の用意した羊羹を食べていたてんが声をかけてきた。

 

「あれ、汗が凄いことになっていますよー。エアコンが聞いてないんですかね?」

 

 てんが巫女服のポケットからフリルのついたハンカチを取り出して、彩也子の額を拭った。

 信じられないほどに大量の汗だった。

 拭われるまで彩也子は自分の置かれている状況を整理する時間がかかっていた。

 

(今のって、何? 一昨日、見た〈獏〉って妖怪の仕業? ううん、それよりもあの夢がいつものあれなら、泉希お姉ちゃんが……危ない……)

 

 彩也子がこの夢問神社に相談に訪れたのは、幼い頃から既知の場所ということもあったが、実際に彼女の部屋に不細工な四本足の動物が現われたことによる。

 彼女は直感的にそれが〈獏〉という妖怪であることを確信した。

 神社の境内での祭りの際に、何度も見せられた彫り物によく似ていたからだ。

 ある意味では、もともと知っていた彫り物に形のないものを当てはめてしまったという心の問題かもしれないが、彩也子は疑わなかった。

 あれが〈獏〉であるとしたら……

 藁にもすがる思いで、彩也子は夢問神社にやってきたのだ。

 

「……今、夢を見ました」

「なんだと? ……もしや、例の変質者のか?」

「はい―――。昼間に見るのは初めてです。あいつ、昼間も動いていたんだ……」

 

 しかし、これでわかったことがある。

 例の変質者は昼間に目標を物色し、人々が寝静まっている夜中に凶行をしているということだ。

 彩也子と変質者はほとんど四六時中、接続(リンク)しているという事実も。

 どういう切っ掛けが必要なのかは不明だが、彩也子が寝ているときに変質者が何かをするとその行動が見られるということのようだ。

〈獏〉の姿を彩也子が目撃していることを考えると、やはり原因は夢の妖怪でしかありえないだろう。

 そして、彩也子の従姉がとんでもない危険に晒されているのだ。

 

「―――お従姉ちゃんが危ない」

「なんだって?」

「今、あの〈分身〉がお従姉ちゃんを狙っているところを見たの!!  お従姉ちゃんが危ないの!!」

 

 神主たちは顔を見合わせた。

 困惑していた。

 

「例の変質者が何をしているところを夢で見たって?」

「お従姉ちゃんのマンションを荒そうとしていた! 郵便受けを調べていた! あいつは今度はお従姉ちゃんを狙うつもりなんだ! 止めないと!  お従姉ちゃんが殺されるっ!!」

 

 彩也子はロバートの腕に縋りついた。

 全身包帯巻きの得体のしれない男だが、それでもあの変質者よりは数百倍マシな相手だった。

 折り目正しくて礼儀正しい。

〈分身〉の目を通して、あの凌辱めいた暴行の光景を見ていた彼女にとっては紳士にしか見えない。

 だから、縋った。

 助けてほしいと。

 産まれた頃から実の姉のように慕っていた女性に危機が迫っているのだ。

 居ても立っても居られない。

 しかし、それに対して彼女の手をとったのは、ロバートでも夢問神社の神主でもなかった。

 

「いいですよー。〈獏〉のついでに、てんちゃんがその変質者を始末してあげますー」

 

 熊埜御堂てんはあっけらかんと宣言をした。

 彼女のことは、ただの神社の巫女だと思っていた彩也子は驚いた。

 ただの可愛い女子中学生が、実は今回の妖怪退治の中核だと初めて知ったのである。

 

 それだけではない。

 

 この小さな破壊者(デストロイヤー)は、他の多くの退魔巫女と同様、泣いている人を決して見捨てないのだということも。

 

 

 

 

 

 



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骨折魔

 

 杉並区で発生している連続女性傷害事件は、ほんの三週間の間に三件報告されており、いずれの被害者も四肢の骨を折られていた。

 そのあまりにも器用な手口から、格闘技などに精通している人物が怪しいとみて、警察は近所の大学にある柔道部や空手部員などを中心に捜査を進めていた。

 だが、犯人と思しき人物の目撃情報は皆無であった。

 なぜなら、被害者は三人とも一人暮らしの若い女性であり、骨折の激痛によってほとんど数時間以上気絶した状態であるため、発見されるまでに時間が経ちすぎていて、すぐに機捜による検問・聞き込み等が行われなかったからである。

 三人目の被害者については、発覚したのが犯行から丸一日経過してからということもあって、初動がさらにうまくいかなかったのだ。

 そういった事情もあって、杉並区の骨折魔と呼ばれた変質者の正体はまるで掴めずにいたというのである。

 

 ―――もっとも、妖怪〈獏〉のおかげで、私たちはその骨折魔の次のターゲットとなる女性の見当がついている。

 名前は撫原泉希。

 今年で二十二歳になるOLであり、〈獏〉に夢を操作された女子高生・撫原彩也子の従姉にあたる。

 短大卒業を機に親戚宅の近所で独り暮らしを始めたという彼女は、骨折魔の被害者としての条件は十分に満たしていた。

 夢問神社の神主の話では、もともとこのあたりは〈獏〉が発生しやすい地域で、そのために江戸時代に神社が建立されたらしい。

 だから、近所に住む氏子の彩也子が〈獏〉の食べた夢の残骸によって犯罪者とリンクしてしまったことも不思議はないのだという。

 ただ、その理屈でいうと、骨折魔もこの近所に住んでいることになる。

〈獏〉に夢を食べられたということになるのだからだ。

 要するに、今回、てんが担当したのは、妖怪による被害と、現実の犯罪者の凶行が偶然に重なりあってしまったという珍しい事件のようであった。

 退魔巫女として使命だけを重視するのならば、てんは妖怪〈獏〉を封印するなりしてしまえばいいだけなのだが、彼女は彩也子の願いを聞き入れ、撫原泉希を助けることを決めた。

 以前、出会ったてんの先輩達もそうなのだが、やはり彼女も少々お人好しな気がしてならない。

 

「―――すぐにあなたにもわかりますよ。熊埜御堂さんは優しい子だから」

 

 かつて、ある少年に言われたことが脳裏をよぎる。

 彼はすぐにと言っていたが、未だに私にはてんがどういう人間なのかわからない。

 優しいと言ってしまっていいものなのだろうか。

 今回のことは、それを見極めるいい機会なのかもしれない。

 そんなことを考えていた。

 

 

        ◇◆◇

 

 

 撫原彩也子(なではらさやこ)の言うところの〈分身〉は、撫原泉希のマンションの傍を歩いていた。

 時間は午前二時。

 一人で男がうろつき回るのは怪しすぎる時間帯だった。

〈分身〉とすれ違う人は誰もいない。

 まるで、人が一切通りかからない時間帯を熟知しきっているように悠然と歩いている。

 マンションには正面玄関からは入れない。

 オートロックがかかっているからだ。

 だから、〈分身〉は裏に回って、ブロック塀を乗り越えた。

 猿のように身軽だった。

 少なくとも運動不足の人間の動きではない。

 そして、マンションの共用の庭にでると、一室のベランダに昇って、ガラス戸の鍵をマイナスドライバーで壊した。

 慣れた手つきと、鍵の構造を熟知した器用さだった。

 内部は誰もいない無人の部屋だ。

〈分身〉は誰もいないことを知っていたかのようである。

 そっと無人の部屋を出る。

 泉希の部屋は三階だ。

 廊下にある防犯カメラの位置は把握しているらしく、その前を通る時だけ帽子をかぶってやり過ごしていく。

 エレベーターは使わない。

 こちらも中に防犯カメラがあるからだろう。

 階段を使い、三階まで上ると、まっすぐ泉希の部屋に行き、ノブに手を掛けた。

 普通なら開くはずがないのだが、ガキンと捻ると何故かノブが動く。

 玄関が管理人つきのオートロックということがあってか、個々の部屋の施錠の鍵が緩くできているようだった。

 そのことも〈分身〉はよく知っていたのだろうか。

 万事、よく調べているようであった。

 そのままするりと音もたてずに室内に入り込む。

 玄関の扉が閉まった。

 部屋の中では今頃、若い女性の骨を折って楽しむ変質的な犯罪者と撫原泉希という罪のないOLが二人きりになっている。

 それはどれほど危険なことだろうか。

 これまでの被害者は、すべて両腕は確実に、脚でさえ確実に一本は折られていた。

 なんのために、そんなことをするのかはわかっていない。

 ただ、いえることは、撫原泉希と対面している犯罪者は異常だということだけである。

 ―――薄暗い和室では、布団に横になって寝息を立てている小柄な女性と、四つん這いで覆いかぶさっている男がいた。

 月光の明るさしかない薄暗い中で、じっと気づかれないように泉希を眺めている。

 彼女は横向きになって枕に顔を埋めてすやすやと寝息を立てていた。

 長い髪の毛が寝癖でぼうぼうになっている。

 不気味な光景だった。

 いつ、彼女の骨を折ろうかと考えているようで、狂気に満ちた眼光を湛えている。

 四つん這いから膝立ちになる。

 屈みこんで手が伸びた。

 泉希の手首を握りこむ寸前、

 

「そろそろ、止めた方がいいな」

「なっ!?」

 

〈分身〉の手首が紅く充血する。

 自分と泉希以外に誰もいないはずなのに聞こえてきた男の声と、いきなり誰かに握られたように圧迫される手首に痛みを感じたのだ。

 あまりの異常事態に〈分身〉が取り乱し、室内を見渡した。

 だが、誰もいない。

 いるはずがない。

 しかし、

 

「ほお。あんただったのか、骨折魔は」

「なんだ、誰だ!? どこにいる!?」

 

 キョロキョロしても誰も見当たらない。

 それはそうだろう。

 おまえを掴んでいるのは、私だからだ。

透明人間(ロバート・グリフィン)〉だからだ。

 

「は、放しやがれ!」

「それは構わんが、私に取り押さえられたほうがまだマシだと思うぞ。犯罪者め」

「放せ!!」

「あ、そう」

 

 私はずっと後をつけていた、彩也子のいうところの〈分身〉の手首を掴むのを止めた。

 このまま、私が得意の「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(Catch As Catch Can.)」で取り押さえた方がいいのだが、本人の希望を優先してやることにしたのだ。

 放せ、というのだから。

 だから、放した。

 手首が解放されたことで一瞬ほっとした骨折魔の顔面が驚愕に歪む。

 下から伸びてきた手が服の奥襟を取り、そのまま反対側の手が十文字に胸倉を締め上げたからだ。

 次の瞬間には、跳ね上がった撫原泉希の両足が胴体を挟み込み、反動と共に位置が逆転する。

 まばたきする間もなく、骨折魔は組み敷かれていた。

 寝ふけっていた小柄な女性によって。

 頭から顔を隠すために被っていたつけ毛が落ちる。

 現われたのは、熊埜御堂てんの幼い顔であった。

 

「―――反応が遅いですよー」

 

 呑気な声でダメ出しをする。

 

「なんだ、てめえは!!?」

「てんちゃんには変質者に語る名前はないですね」

「は、放せ!!」

「柔道の心得ぐらいはあるみたいですけど、やっぱり無抵抗の女の人を襲う程度の奴じゃたいしたことありませんねー」

「このガキ!! 何をしやがる!?」

 

 てんは組み敷いた骨折魔の左手を握り、そして無造作に捻った。

 

 ポキ

 

 軽すぎるほどの嫌な音がした。

 上腕部の第二関節を外した音だ。

 

「ぐぎゃああああ!!」

 

 骨折魔は激痛に叫び声をあげようとしたが、私がその口にタオルを適当に突っ込んだ。

 騒がれてはさすがに困る。

 

「―――酷いもんですねー。罪もない女の人をこんな痛い目にあわせておいて、自分がされるのはイヤだなんて。でも、心配しなくていいですよー。てんちゃんの方があなたよりもずっと綺麗に折ってあげられますから。まずは逃げられないように肩の骨を外してしまいましょうかー」

 

 ……骨折魔にとっては阿鼻叫喚の時間がやってきた。

 さすがの私も居たたまれなくなってベランダの外に出るほどの。

 すると、隠しておいた携帯に電話がかかってきた。

 

「……ロバートです」

『首尾はどうですか?』

「えっと、とりあえず骨折魔は捕まえました。()()()()()()()()()()()()

 

 嘘は言っていない。

 

『良かった。……では、こちらは媛巫女さまのための〈護摩台〉の設置を続けます。ですが、そちらが一段落ついてからでもいいのですよ。彩也子さんもそう言っていますし』

「いえ、うちの熊埜御堂は、一刻も早く〈獏〉害から撫原さんを助けたいと言っていますし、今日中に片をつけてしまいましょう」

『わかりました。―――しかし、さすがは〈社務所〉の方たちは手際が違いますね。昨日の今日でもう解決してしまうとは……』

「いえ、まあ、馴れておりますので……」

 

 正直、私は〈社務所〉の人間ではないので素直に称賛されることはできない。

 これだっててんが望んだからやっているだけのことなのだ。

 

「では、すぐに夢問神社(そちら)に戻ります」

『お待ちしています』

 

 私は通話を切ると、部屋の中に戻った。

 

「てん。そろそろ、神社に戻るぞ」

「はいですよー」

 

 電灯を点けると、Tシャツとホットパンツ姿のてんが骨折魔を完全に再起不能にしていた。

 人形のように細くて白い手脚なのが逆に恐ろしい。

 全身の関節が見たこともない方角を向いている。

 壊れた玩具のようで、白目を剥いて気絶していた。

 

「……どれだけの骨を折ったんだ?」

「えー、実は一本も折ってないですよー。関節を外しまくっただけですよ。うまくやりましたから、すぐに嵌められますし」

「無残な姿だな」

「誰も助けてくれない暗いお部屋で骨を折られた女の人のことを考えれば、こんなのどうということはないですよー」

 

 あっけらかんと言い放つてんは、やはり普通ではなかった。

 

「そうだ、ロバートに頼みたいことがあるんですよ。いいですかー?」

 

 嫌な予感がするけれど、残念ながら私に拒否権はないのである。

 

 

 

 



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妖怪〈獏〉

 

 

 夢問神社は、入口こそ狭いところにあったが、境内は小さな祭りを執り行うには十分なレベルの余裕があるほど広く、また、〈護摩台〉という名の例のプロレスリングも余裕をもって設置することが可能だった。

 骨折魔を取り押さえに出掛ける前に、ほとんどの準備を終わらせていておいたといっても、まだ細かい点検は終えていなかったので心配をしてはいたが、残りについてはなんとか神主がやっておいてくれたようだ。

 少し離れたところのパイプイスに神主と撫原彩也子が疲れた顔で座っていた。

 彩也子にも手伝いを頼んでおいたのである。

 だが、あの二人にはこれからしてもらう仕事があるので、休めるときに休んでもらうのはいいことだ。

 

「―――おまたせしましたですよー」

 

 てんが春爛漫という雰囲気を発しながら、二人に近づいていく。

 あれが骨折魔の全身の骨を脱臼させた悪魔のような少女だとは、百人に聞いても百人が否定的に答えることだろう。

 神主が聞いてきた。

 

「おや、()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

「ロバートは骨折魔さんを引渡しに警察屋さんに行っていますですよー。こっちが片付くころには戻ってくると思いまーす」

()()()姿()()()()()()()()()()()()()()

 

 私はいつものコートと包帯を巻かずに、〈透明人間〉としての通常のスタイルである全裸のままでここにいた。

 だから、当然のこととして、二人には見えない。

 

「ですが、禰宜の助けを借りずに、媛巫女さまだけで〈獏〉の相手を為されるのは大変なのではありませんか?」

「全然、大丈夫ですよー。てんちゃん、これでも飛び級するぐらいには無敵ですからー」

 

 笑顔で受け答えをしながら、てんは〈護摩台〉の様子を確かめた。

 彼女は今からここで戦うことになっている。

 戦場のチェックに余念がないのは闘士としては当たり前なのだ。

 

「ロープのテンションもこのぐらいなら、まあいいですねー。てんちゃんはあまり空中戦はしませんからー」

 

 私は音を立てずに近寄った。

 すると、てんがすぐにこちらを向いた。

 視点が合っていないので、私の位置を正確にわかっているわけではないようだ。

 ただ、退魔巫女と呼ばれるものたちの野性的な勘で気が付いたのかもしれない。

 私がてんに敗れたときもこんな反応をしていたから。

 二人には気が付かれないように小声で話しかけてきた。

 

「―――気がつかれていませんねー」

「まあ、そうだな。私は〈透明人間〉であるから普通はわからないだろう」

「では、頼んでおいたことをお願いしますですよー」

「……いいのか、そんなことをして?」

 

 てんは首をひねって、

 

「だって、さっきの骨折魔がおかしなことを呟いていましたからねー。そこは検証しておかないと」

「私にこういうスパイみたいな真似をさせないでほしいところなのだが」

「別にいいじゃないですか。一生懸命なのはいいことですよー。でないと、うちのお父さまに、ごくつぶしって呼ばれちゃいますよー」

「……熊埜御堂氏には感謝している―――って私はごくつぶしと言われているのか!?」

「今のところ、しょっちゅう口にしているのは、うちのお母さまだけですけどねー。エンゲル係数があがりすぎて困っているそうですよー」

 

 聞きたくない内容だった。

 一応、仕事はしていたつもりだが、もしかしたら熊埜神社では居候の私の立場はだいぶ悪いことになっているのでは……

 ニートよりはマシなつもりなのだが。

 

「―――とりあえず、私は行ってくる。てん、あまり無理はするな」

「はい、ですー」

 

 てんがひょこひょこと歩いて行く。

 そのまま神主のところに行き、何やら話を聞いている。

 おそらくさっき私が聞いたことの繰り返しだろう。

 

「では、この絵馬に封じればいいのですねー」

「はい。幽体ならともかく、実体化した〈獏〉は我々では術を使っても捉えきれないのです。純粋な力を使って拘束しなければならないので、江戸期には角力の力士を雇っていたという話もありますが、ここ最近は〈社務所〉の媛巫女方に依頼するようにしているんです」

「なるほどー」

 

 てんが渡されたのは、ベースボールのホームベースほどの大きさの巨大な絵馬だった。

 何かの呪文が書かれているが、絵馬らしい絵はどこにも書いてない。

 確か、あれが〈獏〉を封印するための呪具という話だ。

 てんの仕事は、〈護摩台〉に〈獏〉を誘い込み、叩きのめしたうえで、あれに術をかけることになる。

 そして、〈獏〉を誘い込むための餌は……

 

「わ、わたしですか?」

「みたいですよー。〈獏〉に夢を食べられる人ってどうも決まっているらしく、彩也子さんは何度も狙われているのでいい食材になりそうですよねー」

 

 と、撫原彩也子が連れていかれた。

 あいつはホントに強引である。

 しかし、他人を食材扱いしてはいけない。

 

「まあ、仕方ない。てんを信じるとするか」

 

 私は独り言をつぶやくと、そのまま夢問神社の拝殿へと忍び込んでいった。

 正面は鍵がかかっているようだが、神主などが出入りする横の出口は開いていた。

 入ると、かなり薄暗い。

 まだ夜明けまではだいぶ時間がある。

 私は暗殺者として育てられたイギリス時代を思い出して、ゆっくりと慎重に奥に向かった。

 構造としてはごく普通の社だ。

 ただ、拝殿の奥にさらに広めのスペースがあるらしいことがわかった。

 倉庫とはまた違うもののようである。

 多分、そこがてんの確認したいところだろう。

 近づくと、かなり杜撰にブルーシートが貼ってあった。

 屋内であり雨風を防ぐためのものではなさそうなので、何かを隠す目的だろう。

 神社の中にブルーシートというのは非常に珍しい。

 ペンキ塗りでもしているようだ。

 軽くめくってみると、奥に行けそうだった。

 私は躊躇わずに中に入る。

 そこは窓のない真っ暗な場所だった。

 LEDの目印に従い灯りのスイッチを入れる。

 部屋が明るくなり、私は内部の状況が完全に読み取れた。

 

「さすが、というべきか……。あいつの予想通りとはね」

 

 それから住人に気づかれないように、さっさと私は逃げ出した。

 

 

        ◇◆◇

 

 

 実際の動物のバクと違い、空想上の〈獏〉は鼻はゾウ、目はサイ、尾はウシ、脚はトラにそれぞれ似ているとされる。

 夢問神社の建物を上から見下ろす高みに、気球のように浮かんでいる妖魅はまさにその姿をしていた。

 てんは妖怪が予想以上に大きなことに驚いた。

 

「あれー、猪どころか河馬くらいあるんじゃないですかねー?」

 

〈護摩台〉のマットで彼女の隣にいた彩紗子は見覚えのある妖怪の姿に怯えていた。

 深夜悪夢に震えて目を覚ました彼女の頭上でムシャムシャと咀嚼音を立てていたあの時の怪物だ。

 悪夢から飛び出してきたかのような醜い顔つきと、人のものに酷似した歯を持っていて、これまた人にそっくりな舌なめずりをしている。

 丸い眼球は彩也子を見ていた。

 はっきりとわかる食欲という欲望にまみれた目つきで。

〈獏〉は彩也子の悪夢を味わいつくすために現れたのだ。

 人は喰われることに耐え難い恐怖を感じる。

 まだネズミのような小動物であったときの名残であろうか。

 捕食者に睨まれたとき、生物は動きを止める。

 彩也子は自室でみたときとは明らかに違う、質感をも備えた〈獏〉の姿から目を離せなかった。

 目を背けたらその瞬間にも食われてしまうのではないかという思いのままに。

 

「でも、大丈夫かな。彩也子さん、安心しててんちゃんに任せるですよー」

 

 その手をぎゅっと握りしめられた。

 手の主は春の風のように陽気に、優しさに満ちた声をだした。

 子供のような小さなつるつるした手。

 汗さえも掻いていない。

 全く平然とした様子だった。

 

「あなたに……任せていいの?」

「もちろんですよー」

 

 ハートマークがつきそうなほどに気楽な声だった。

 だからこそ、彩也子は信じた。

 

「お願い、てんちゃん」

「はーい!」

 

 熊埜御堂てんはいい返事をした。

 この場は彼女に任された。

 ならば、結果を出さねばならぬ。

 それが彼女たちの使命なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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暴れん坊巫女様

 

 

 頭上の空間に、どう見ても猪のような外観にも関わらず、蛇がとぐろを巻いているがごとく〈獏〉はうねっていた。

 伝承に言うサイの目が、てんと彩也子を不躾に見下ろす。

 だが、敢然と最年少の退魔巫女は睨み返す。

 彼我の体格差は二倍を遥かに通り越し、子供と雄牛の対峙に等しい。

 それなのにてんは怯まない。

 

「ロデオみたいなもんですねー」

 

 てんは、タイミングを見計らって、背中に庇った彩也子を〈護摩台〉から降ろした。

〈獏〉が空中から襲ってくるタイミングということだ。

 神主の話や〈社務所〉からの報告に従えば、〈獏〉は危険な妖怪ではない。

 だからこそ、まだ新米であるところのてんが派遣されたはずなのだが、宙でうねりを上げている〈獏〉は明確な敵意―――いや、食欲を特に彩也子に向けていた。

 はっきりとした危機まで感じさせる〈獏〉の態度にてんは争いは避けられないことを認識させる。

 そして、その認識は事実のレベルまで繰り上がった。

〈護摩台〉から降りたことを「逃げた」と考えたのか、誘われるように〈獏〉が動く。

 何もないはずの空中に道があるかのように、猛進の勢いで駆け下りてきた。

 目指すは彩也子。

 しかし、そんな勝手を許すてんではなかった。

 突進してくる〈獏〉の前に立ち塞がる。

〈獏〉のトラのような前肢が彼女を排除しようと薙いだ。

 てんはそれを躱すと〈獏〉のたてがみのような毛を掴み、一気に跳びあがる。

 退魔巫女らしいバランス感覚で〈獏〉の背に飛び乗った。

 背も小さく、身体も軽い彼女には難しくはない軽業である。

 奇しくも本人が予想していた通りに、荒れ狂う牛に跨るロデオの格好になる。

 ただし、ロデオのための手綱などはない。

〈獏〉が暴れ回れば即座に振り落とされるような危険な体勢だった。

 背中に乗られたことを悟ったのか、〈獏〉はマットに着地すると同時に全身を撥ね上げた。

 軽い巫女の身体ではまるで羽根か小鳥だ。

 ふわりとふわりと宙を舞う。

 振り落とされまいと必死にたてがみを掴むてんだったが、さすがに十回以上の乱暴な上下動に耐えきれず、手を放してしまう。

 彩也子が思わず「危ない!」と叫んだが、当のてんは余裕の着地を見せる。

 もともと身軽というだけでなく、彼女が特技とするコマンドサンボの飛び腕ひしぎ固めを極めるときに見せるへそのあたりで回転する機動の応用だ。

 先輩にあたる神宮女音子なみとはいかなくても、熊埜御堂てんの空中戦能力も相当特化している。

 

「ふぅー、危なかったですよー」

 

 軽口を叩く間もなく、〈獏〉が突進してきた。

 四本足がマットについているせいか、さっきまでと違い足音が轟く。

 てんは側転してひらりと避けた。

 何倍もの体重差がある四足獣と正面からぶつかることはできない。

 代わりに横に回った時に、マットに触れる寸前の前肢を蹴たぐる。

 激しくつんのめった〈獏〉がマットに倒れこんだ。

 近づこうとしたが、牛のものと酷似した尻尾が邪魔をしてきた。

 気を削がれたせいでてんは攻める機会を逸する。

 再び、体勢を整えた〈獏〉とてんは中央で対峙した。

 

『キュゥゥゥゥゥゥゥゥゥ』

 

 夢を()む妖怪の叫び声は小動物のようであった。

 伸縮自在のゾウのごとき鼻が伸びて、てんの手首に巻き付いた。

 時には音速にさえなるという鞭の先端のようにあまりにも速かったため、てんの反応がわずかに遅れた。

 ぐいっと引かれた。

 パワー勝負では小柄な彼女に勝ち目はない。

 妖怪の前に釣りだされる。

 だが、てんは下手な抵抗をせずに逆に〈獏〉目掛けて踏み込んだ。

 そして、自分を迎え撃つ前肢の一薙ぎを躱して抱え込んだ。

 人のものとは明らかに違う肢だが、関節の存在は同じである。

 てんのコマンドサンボは人ならざるモノと戦うためにも使用できるのだ。

 見た目からはあり得ない握力で肢首を掴むと、そのまま力のベクトルを変えないで反対側に捻り、そしてひじ関節をねじる。

 至極、初歩の関節技であったが、〈獏〉にとっては初めて体験する攻撃であろう。

 関節にかかる痛みにむせび鳴く。

 必死に振りほどこうとしても無駄だった。

 熊埜御堂てんの握力は、実のところ、120キログラムある。

 砲丸投げの金メダリスト室伏広治とほとんど一緒なのだが、そももそのサイズ差を考えると実質は上回っているともいえる。

 リンゴを潰すための握力は70~80キログラムの握力が必要であり、成人男性の平均が50キログラムであることを考えると女子中学生でそれほどの握力を持つということは超人的ともいえる。

 彼女のコマンドサンボの根幹を支えるのは、その尋常ではない握力といっても過言ではない。

 毛皮ごと肉を剥ぎ取るような握力で引っ張り、自分のやりやすいように相手を動かす。

 熊埜御堂てん―――二つ名を〈握喰(あくじき)の巫女〉というに相応しい、強引にして避けがたい戦技の持ち主であった。

 極めるまではいっても折ることは叶わないと判断したてんは、そのままくるりと回転し太ももの間に〈獏〉の首を挟み込む。

 それから、両手を振って、妖怪を引っ繰り返した。

 体重差をものともしない、梃子の原理の応用だった。

 そして、梃子こそがコマンドサンボの神髄。

〈獏〉は惨めに腹を曝け出した。

 てんはその腹を両手で掴んだ。

 リンゴも砕く握撃で腹筋を貫く。

 ストマッククローであった。

 またも、『キュウウウウウウウ』と悲鳴を上げる〈獏〉。

 完全に力任せに引きはがせないてんに守勢一方になる。

 そのとき、戦いを見つめていた神主の目に奇態なものが映った。

 彼はそれを知っていた。

 

「媛巫女、あなたの白昼夢を〈獏〉が引きずり出そうとしています」

「なんとー!?」

 

 てんの背中から七色の泡が噴き出していた。

 彼女自身はなにも感じないが、それはてんが普段寝ながら見る夢を強引に〈獏〉が引きずり出そうとしている結果だった。

 夢を食べられると意識が途切れる。

 彩也子も何度か失神していた。

 ある意味では攻撃にも転嫁可能な〈獏〉の食欲は、妖怪特有の秘儀といってもいいだろう。

 さすがのてんも危機感を覚える。

 あの夢を食われたら、意識がとぶおそれがある。

 だから、そんなことはさせまいと、太ももに力を入れてさらに締め上げると、今度は長い鼻を押さえつけて螺旋に捩った。

〈獏〉の鼻には軟骨はあっても骨はない。

 つまり関節技は効かない。

 ゆえに、てんは握力で無理矢理に〈獏〉を操った。

 すでに〈獏〉が戦闘に向いている妖怪ではないことはわかっている。

 ただ、むやみやたらに暴れているだけなのだ。

 要するに力づくで制圧してしまえばいい。

 彼女の持つ、三つの恐るべきものは、「握力」と「言霊術」、そして「暴虐なまでの力への信奉」である。

 先輩である御子内或子たちが持つものが圧倒的な武力だとしたら、てんが持つものは苛烈なるまでの暴力だった。

 骨折魔が眠っている抵抗できない女性を一方的に苦しめたものと変わらない、ただの力の行使。

 痛みと苦しみだけが残る恐怖の発露。

 そんな暴力を止めるために存在するものが「武」だとしたら、てんが使うものは間違ったものでしかないのだ。

 しかし、てんは悩むことはしない。

 敵を倒すためならば、どんな形でも力を使うことに躊躇うことはない。

 なぜなら、暴力とは牙と爪であり、人間が手にいれた野生の証明であるからだ。

 精神性なんていらなかった。

 このちっちゃい女子中学生は人を護るためなら鬼になれるのである。

 

「悪いけど、首をもらうですよー」

 

 申し訳程度の謝罪をしてから、てんは〈獏〉の首を鼻ごと捻った。

 ゴキと外れた。

 妖怪に生物同様の骨があるはずはないが、てんはあるかのごとくに振る舞い、そして幻想そのものを破壊する。

 

『キュゥゥ――――――ピク』

 

 長い痙攣のあと、数秒してから〈獏〉は動きを止めた。

 自分の何倍もある敵を、てんは楽々と落として見せたのだ。

 彩也子と神主もあまりのことに茫然としている。

 いったい、何が起きたかわからないほどの呆気なさだった。

 

「さて、絵馬に封印しちゃいましょうかー。もう、こういうのは拝殿から逃がしちゃいけませんよ、神主さーん」

 

 と、神主を青くさせる秘密の暴露をしながら、熊埜御堂てんは春風爛漫といった顔でのんびりと笑うのであった……

 

 

 

 

 

 



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夢を折れたら

 

 

 私が境内に戻ったのは、例の夢問神社の絵馬に〈獏〉が封印される瞬間であった。

 てんが押さえつけた〈獏〉の鼻づらに、神主が絵馬を押し付けて何やら祝詞を唱えると、〈護摩台〉における封印よりもどちらかというと掃除機に掛けられた砂ぼこりのような感覚で〈獏〉が墨になっていき、最後は「絵」となった。

 これで絵のない絵馬に、〈獏〉自身が描かれたような形となって完成する。

 これが夢を食う妖怪である〈獏〉の退治というわけだ。

 なぜ、こんな面倒なことをするかというと、人間のとって夢を見ることというのは、三大欲求である睡眠と結びつくことで大切な機能であるらしい。

 脳内のストレスが夢を見ることになって解消し、ストレスをなくす効果もあるが、人の見る夢はときに睡眠時に預けられた神の言葉そのものであることもある。

 夢を見ることを阻害されることによって、魂までが被害を被ることになるのだ。

〈獏〉を野放しにすることは、つまりは民草の健康を害することになるが、同時に食べられた夢は場合によっては神の預言でもあるのだから、退治や封印によって安直に消してしまう訳にはいかない。

 そのため、夢問神社のような専門の社を建立し、〈獏〉害に備えているというわけだ。

 絵馬への封印の仕方が決まっているのはそういうことである。

 私は隠しておいた衣服と包帯を身に着けると、〈護摩台〉まで辿り着いた。

 マットの上にはてんと神主、そして撫原彩也子がいた。

 てんはともかく残りの二人はやや緊張している。

 

「―――終わったのか?」

「ラクショーでしたよー」

 

 私が見た〈獏〉はもうぐったりと横になっていて、とても巨大な気の荒い獣には見えなかったので、てんが楽勝というのならばそうだったのだろう。

 神主は逆に汗まみれだ。

 まあ、仕方のないところだ。

 てんの封印した〈獏〉を逃がしたのは、実のところ、この夢問神社の失態なのだから。

 私は拝殿の奥にある一室のことを思い出していた。

 

「……な、なにを逃がしたというのですか……?」

「さっき、てんちゃんが捕まえた〈獏〉のことですよー。神主さん、どうしてかは知らないけれど三週間前に絵馬から逃がしてしまいましたよね? それで、解放された〈獏〉が勝手に暴れ回ったんでしょー」

「そんなことは……」

 

 てんの追及を逃れようとする神主に対して、私が追い打ちをかけた。

 

「神社の拝殿の奥にある、絵馬を奉納するための部屋を見てきたぞ。綺麗に並べられていたが、その中でも一際でかいのに〈獏〉の絵がなかった。ほれ、これだ。てんが今持っているのと同じぐらいのサイズだ」

「いつ、それを! 私の神社に入ったのですか!?」

 

 あそこから待ちだしたものを掲げて見せた。

 材質が古いことと、お品書きのように元号と日付が記されていないだけはほぼ一致している。

 

「あ、ロバート。調査ご苦労様ですー。という訳で、夢問神社の管理不行き届きによって〈獏〉が甦っちゃった証拠も揃いました。言い逃れはできませんよー」

 

 すると、神主は降参したようだった。

 神社の絵馬には、〈獏〉を封印した時の元号と日付を隅で記すのが習わしのようなので、過去の元号と日付があるのに〈獏〉がいない絵馬というのは存在しない。

 私の持つもののように〈獏〉に逃げられたもの以外は。

 決定的な証拠といえよう。

 だから、降参するしかないのだ。

 

「……すみませんでした。ですが、〈獏〉が逃げたのは私の故意ではなく、当神社に盗みに入ろうとした泥棒のせいなのです」

「―――絵馬を盗まれたのか?」

「いえ、奥の安置所に忍び込まれたところで捕まえて、警察に引き渡しました。あとで気が付いたときには、奉納部屋にある百五枚の絵馬のうちの一枚から〈獏〉が消えていました。何故かはわかりません」

 

 てんは少し考えて、

 

「むかーしむかしに、その〈獏〉が夢を食べちゃった人のことはわかりますかー?」

「それは……」

 

 神主は言葉を濁した。

 だから、私が言った。

 

「この絵馬を読むと、延享四年六月末日とある。おそらく、昼間に神主が言っていた特殊な〈獏〉害を引き起こした個体だったんだろうさ」

「やっぱりー」

 

 てんにはあらかたお見通しだったようだ。

 ああ見えても、てんは頭の回転も凄まじく速い。

 

「あーん、となるともしかしたら〈獏〉が食べた夢というのは、九代将軍・徳川家重くんのものだったのかもしれませんねー。家重くんは近習の前にも姿を見せないから人柄が伝わってこないと言われていたほどのコミュニケーション能力のない将軍だったらしいですけど、実際は夜な夜な江戸城を抜け出して、道端の夜鷹に斬りつけては殺していた辻斬りだったという話を聞いたことありますからー。……となると、今の〈獏〉が骨折魔みたいな変な奴の夢を食べていたのもわかります。ああいう、抵抗できない女の人を襲う欲望に塗れたものが好物だったんでしょうねー」

 

 徳川家重というショーグンがどういう人物かは知らないが、事実だとしたら大変危険な人格の持ち主だったのだろう。

 そして、それは現代の骨折魔にも言えたことだが。

 

「神主さんは、窃盗の現場を泥棒さん以外の人に見せましたかー」

「あ、はい。検分に来た警察官に……」

「なるほどー、その時に大好物の夢をよく見ている相手を見つけてしまい、延享の〈獏〉が逃げ出したんですね」

「どういうことですか、媛巫女さま……」

 

 てんは指を立てていった。

 

「あの骨折魔は、警察官だったんですよ。確か、佐々木さんでしたっけー? まあ、寝ている女の人の骨を折りたいなんてサディストが警察官になっているということ自体が怖い話ですけどねー」

 

 そうだ。

 あの骨折魔は、私に職務質問をしてきた警察官の片割れだったのだ。

 てんの推理が正しければ、奉納部屋に盗みに入った盗賊を引き渡した時、警察官として佐々木というあの男がやってきた。

 佐々木には骨折魔の願望があったので、その夢に引かれて、延享の御代の〈獏〉が逃げ出して憑りついた。

 しかし、まあ、あまりに悪食過ぎたということで夢の一部が残飯になり、撫原彩也子で口直しをした際に変なリンクをつけてしまった。

 こんなところだろう。

 あとで聞いたことによると、佐々木の入っていた杉並警察署の寮が撫原家のすぐ隣にあるらしい。

 彼女が被害者になるということも、偶然にも物理的にも近かったからいう訳だ。

 

「いいですかー。〈獏〉はそんなに危険な妖魅ではないですけど、奉納している神社がもうちょっとしっかりしてもらわないといけませんよー。今回の件、神主さんには手伝ってもらったこともあり、彩也子さんのお姉さんも無事に助けられたから、不問に付して〈社務所〉には報告しませんけど、もう二度とこういう不始末はしでかさないでくださいねー」

 

 と、女子中学生なのに見事な裁きを見せる。

 夢問神社の特殊性を考えたうえでのことなのだろう。

 このあたり、てんはさすがにただのサイコパスではない。

 ある少年が言っていたみたいには、私にはどう見ても優しさから出た行為とは思えないけれど。

 

「それでは、これで一件落着という訳ですよー」

 

 てんが朗らかに宣言する。

 これで今回の〈獏〉害の事件は解決したということだ。

 私の仕事は〈護摩台〉の片づけをするまで終わることはないが。

 

 ただ、〈護摩台〉から降りてきたてんが、撫原彩也子の耳元にそっと囁いた言葉は聞き取れなかった。

 聞こえていれば、少しぐらいはてんへの私の印象も変わったかもしれない。

 だが、実際には聞こえなかったのだから仕方ない。

 

 

        ◇◆◇

 

 

 その時、二人はこう言う会話を交わしていた。

 

「……彩也子さんには、骨折魔と同じような願望がありましたよねー。あの悪食の〈獏〉が夢を食べようとするぐらいに」

「な、なにを……」

「別に責めるつもりはないですけど、でないと、〈獏〉がそんなにあなたに執着する訳はないですからねー」

「そんなことは……」

「でも、いいんですよ、胸の中に抱えているうちは。骨折魔みたいに実行に移さなきゃいいんですから」

 

 彩也子は俯いた。

 てんの言うことが事実だったからだ。

 彼女には誰かを酷くいたぶりたいという昏い願望があった。

 時に、その手の夢を見て翌朝スッキリしてしまうぐらいに。

 だから、最初は骨折魔の夢にも違和感を覚えなかったのだ。

 

「ううん、きっともう見ないと思う」

「―――どうしてですかー?」

「てんちゃんを見ちゃったから」

「はて?」

「力がより強い暴力に蹂躙されるところを見ちゃったから」

 

 彩也子は呟くように言う。

 

「てんちゃんが戦ってくれたのはあたしのためだったのに、怖いなんて思っちゃった……。暴力が怖いって……。あたし、もう乱暴には憧れないと思う」

「それでいいんだと思いますよー」

 

 あまりにあっけらかんとした言葉に、彩也子は目を丸くした。

 今の台詞は単純にとればてんのことを否定したに等しいもののはずなのに、当の彼女が肯定してしまったのだから。

 

「愛の鞭も、SMプレイの鞭も、殺人鬼の斧も、みんなただの暴力―――力の行使です。区別するのもいけないし、憧れたりするのも不思議じゃない。だから、そういう夢を見たって変じゃないし、嫌がるのもまた同じですよー」

「そうなの?」

「だから、夢をみたことで人格が否定されるなんてことはないんですから、気にすることはないんです。彩也子さんが骨折魔みたいな悪人になるというわけじゃないんですからねー」

「でも、あたしがあいつみたいにならないとは限らないじゃない……」

 

 てんはくるりと回って、彩也子の肩を叩いた。

 

「彩也子さんが悪いことに手を染めたら、その時はこのてんちゃんにお任せですよー。おんなじぐらい痛い目に合わせて、彩也子さんを更生させてあげますからね」

 

 無邪気さを装ったような苛烈な解決策を聞いて彩也子はくすりと笑った。

 

「それじゃあ、悪いことはできないね。―――てんちゃんと戦おうなんて怖くてできないよ」

「ですよねー」

 

 しかし、言葉とは裏腹に熊埜御堂てんの顔は慈愛に満ちていた。

 あの〈獏〉と戦った破壊神のような少女と同一人物とは思えない。

 だから、彩也子は言った。

 

「てんちゃんは優しいんだね」

「そうですよー」

 

 二人は思わず互いの顔を眺め合い、そして笑った。

 熊埜御堂てんの優しさは、ロバート・グリフィンにはどうしてもわからないというのに、一度会ったきりの撫原彩也子にはすぐに理解されてしまったようである……

 

 

 

 

 

 



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第31試合 大怪獣決戦
とあるイベントでの出来事


 

 

 秋のシルバーウィーク。

 珍しく〈社務所〉の巫女たちの退魔という名の試合の予定がないというので、僕は久しぶりに普通のバイトを入れることにした。

 近所にある印刷所のお手伝いだ。

 手伝いといっても印刷をするわけではなく、そこで制作した本をイベント会場に搬入し、お客様のところへまで届けるという仕事だった。

 このバイトのちょっと変わったところは、制作した本というのがいわゆる漫画同人誌というもので、そのあたりの本屋さんには流通していない、自費出版されたものなのである。

 前々から話は聞いていたので、いい機会だと参考文献を集めて調べてみたところ、オタクの祭典と呼ばれているでっかいイベントらしいということがわかった。

 ちなみに資料にしたのは漫画が多く、「げんしけん」とか「電波教師」などである。

 もっとも、今回、僕が搬入に行くのは、夏と年末にやっている最大のものではなくて、規模としては半分以下のものだった。

 それでも、初めて行った僕はあまりの人混みに困惑してしまったぐらいだ。

 

「―――凄い人数ですねえ」

「コミケだと、この三倍はいるわよ」

「えっ、だって、規模は半分以下だって……」

「それは参加している売り手側のサークルの数。盆暮れにやっているコミケの場合、お客さんの量がさらに増えるから、人口密度も桁違いに跳ね上がるのよ」

「ここはコミケではないんですか?」

「コミケってのは、株式会社コミックマーケットの商標になっているみたいだから、ここはコミブー・フェスタって名前でやってんの」

「コミブー・フェスタ?」

「ドイツ語で漫画本のお祭りって意味ね」

「なんでドイツ語なんですか?」

「厨二っぽくてよくない?」

 

 小友(ことも)志保さんは、僕にはよくわからないセンスの持ち主なので、なんとも返事ができなかった。

 彼女は僕よりも十歳ほど年上なのだが、升麻家と同じ町内会に所属していて、小さい頃からの知り合いである。

 彼女の実家が経営している小友謄写堂も、同じ町内にあるし、物心ついたときにはもう店があったぐらいだ。

 ただ、小友謄写堂でどういうものを印刷しているかはつい最近まで知らなかったのだが。

 芸大を出てイラストを描く仕事をしていたという志保さんが、実家の手伝いをするようになったのは、去年からのことで、その際に初めて教えてもらったのである。

 志保さんは僕ら兄妹にとっては姉のような存在なのだが、どういう訳か家業については教えてもらえなかったのもわからなくはない。

 何故かというと、僕が運んでいる同人誌が「18禁」の成人向けのものばかりだったからだと思われる。

 

「……売っていいんですか、これ?」

「あれ、京ちゃんはエッチな漫画とか読まないの?」

「それだって18禁じゃないですか。読みませんよ。あと、もし所持しようものなら、部屋の中を家探しされるおそれがだいぶ高いですから……」

「小母さんや涼ちゃんにばれるのは嫌ってことね」

 

 というか、僕の部屋にはわりと強引な女の子たちが入り浸るのでお宝本を隠しておくのはリスキーすぎるのだ。

 だから、女の子とのエッチな関係に興味があったとしてもあえてスルーするのが賢い男の子というものである。

 僕はサンプルとして用意してあった、ものごっついエロちっくな漫画本をチラチラ見ながら言った。

 気にはなるのだ。

 

「都条例とか、大丈夫なんですか?」

「前科がついてから考えるのよ、そういうことは」

 

 うーん、前科ついてからだと困ると思うんだけど。

 

「でも、あれでお客さんは少ない方なんですか?」

 

 僕はイベント会場にある印刷所待機スペースの外を眺めた。

 即売会で売っている同人誌目当てに、色々な人たちが忙しく動き回っている。

 大きなバックや紙袋を下げているけど、あの中は漫画本だらけなんだろうか。

 

「このイベントは企業スペースが少ないからね。その分、コスプレとかは充実しているから、そっちのお客は多いみたいだよ」

「コスプレ?」

「知っているの? 興味があるんだったら見てきたら? 明日の分の搬入時間まで結構あるしね」

「そうですねえ~」

 

 僕が昼間もこの待機スペースにいるのは、お客さまからの苦情や挨拶があった場合に備えての予備軍みたいなものだ。

 とはいえ、昼を過ぎたらそれもなくなる。

 二日あるコミフェのうちの、明日の分の搬入は夕方になってからだし、それまでは特にやることもなくなるという訳であった。

 

「―――コスプレかあ……」

 

 正直なところ、いつも巫女さんの格好をした女の子たちと一緒にいるので、コスプレというものに忌避感などはない。

 逆に食傷気味といってもいい。

 まあ、たまには巫女さん以外を鑑賞してみるのも新鮮かもね。

 最近のアニメなんかはわからないけど、昨今は色々な格好をする人もいるらしいし、僕にも馴染みがあるキャラもいるだろう。

 

「じゃあ、ちょっと見てきます」

「いいよ。16時までにここに帰ってこられないようなら、搬入スペースに直帰してね」

「わかりましたー」

 

 僕はカバンを掴むと、印刷所待機スペースから外に出た。

 下手なお祭りよりもたくさんの人たちが行き交うイベント会場を、僕は地図を片手にコスプレ会場まで歩く。

 コミケを例に出すまでもないが、こういうサブカルのイベントにおいては、コスチュームプレイと称される、漫画やアニメのキャラクターの格好をすることが恒例となっているらしい。

 だから、すれ違う人たちの中にやたらとカラフルな布地の服を着ている人たちがいる。

 なんというか、カオスだよね。

 僕が知っているものはほとんどないけど、見ている分には楽しそうな人たちばかりでわくわくしてくる。

 同人誌を売っているスペースはほとんど見られなかったけれど、お祭り会場は散策するだけでも面白いものだ。

 コーンと安全棒で仕切られた広場に、数多くのコスプレをする人たち―――コスプレイヤーがポーズをとって立っていた。

 その周りに凄くデカいカメラを持った人たちが集っている。

 なんだか、一言声をかけてから黙々と撮影をしていた。

 コスプレイヤーは彼らの要望に応えてポーズを変えたりしている。

 グラビアアイドルとかとは違う、けったいな格好を決めたりするのは、おそらくそのキャラクター特有のものなのだと思う。

 よく探していると、僕でも知っている格闘技ゲームのコスプレもあって、完成度が極めて高くて驚いた。

 しかも、コスプレイヤーは思っていたよりも美人がいたりして、かつてのオタク的なイメージは薄い。

 ……写真撮っている人たちは、わりとアレだけど。

 

「うーん、こうやって見てると、御子内さんたちの格好はコスプレっぽさはないんだなあ。あの人たちにとっては普段着だし」

 

 僕もスマホで何枚か、他の人の真似をして写真を撮らせてもらった。

 あまり露出が激しいのは恥ずかしいので避けて、どちらかというガッチリした制服みたいなものとネタっぽい格好を選んでおく。

 下手なことをして涼花や御子内さんに睨まれるのは困るからだ。

 すぐにコツも掴めた。

 モーターショーなんかで撮影する要領だった。

 撮った写真をその場で確認したりして、なかなかうまくいったと満足していると、背中にドンと誰かがぶつかった。

 ついでに後頭部に堅いものがぶつかる。

 人口密度がとんでもないことになっているので、こういう接触事故は起こりやすいのだろう。

 僕も他のことに気を取られていたので注意が足りなかったし。

 だから、素直に謝ろうと振り向くと、赤と黒の斑のゴシックロリータっぽいドレスと、頭に精緻な造り物の角をつけた女性のコスプレイヤーさんがいた。

 胸元がけっこう大胆に開いているし、綺麗な生足の太ももが伸びていて、とても色っぽい。

 カートを引いていたので別のところに移動中だったのだろうか。

 反対側の手に魔法の杖らしいゴツイ棒があるので、きっとこれが頭にぶつかったのだ。

 彼女の後を追うように数人のカメラマンたちが溜まっている。

 これだけ色気がある格好をしていると、あんな風について回られるのか。

 意外と大変なんだな、と感心していると、

 

「あ、ご、ごめんにゃさい。よそ見をしていたもので」

「こちらこそ」

「ホント、すまにゃいです」

 

 ―――赤と黒のドレスのコスプレイヤーさんは、なんだか聞いたことのある声で、間違えようのない独特の喋り方をしていた。

「な」を「にゃ」と発音してしまう滑舌の悪さには覚えがある。

 しかも、そんな猫っぽいことをしている癖に、話し方そのものは妙に大人で、生真面目な感じの知り合いと言えば……

 

藍色(あいろ)さん、お久しぶりです」

「―――ぐぇ!!」

 

 雨の日に踏んづけてしまったウシガエルみたいな声がした。

 僕の顔をまるで妖怪でも見るかのような驚愕の表情で見つめているそのコスプレイヤーさんは―――

 

「なんで、京一さんがこここここここここに―――!!」

 

〈社務所〉の退魔巫女にして、巫女ボクサーの二つ名を持つ、猫耳藍色《ねこがみあいろ》その人であった。

 

 

 



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MIKAとセリーナ

 

 

「にゃ、にゃんでえええ!!」

 

 矛盾するようだが、藍色さんが小さな声で叫んだ。

 完全に崩壊した顔色から、僕は見てはいけないものを見てしまったことに気が付いた。

 今の藍色さんは羅生門の下人なみに眼が光って泳いでいる。

 僕は小さく手を振って、

 

「ごめん、何も見なかったということにするから」

 

 何ごとも起きなかったかのように立ち去ろうとしたのに、振り向いた首筋をぐいと掴まれた。

 

「えっ」

「……待ってくださいにゃ」

 

 藍色さんが僕の服の襟を握りしめている。

 怖い顔をしていた。

 気の弱い人が真夜中に見たらショック死しそうな形相だった。

 

「だから……見なかったことにしますんで……」

 

 殺さないで。

 思わず命乞いをしたくなったところで、今度はむんずと手を握られた。

 女の子から手を握られるのは随分と久しぶりだ。

 ただ、色恋沙汰のロマンチックなシチュエーションではなくて、逃げられないように手をとられたみたいな感じであった。

 このまま小手投げとかされて引っ繰り返されたりするなんてことがあっても不思議じゃない。

 相手は秘密を目撃されて死に物狂いなのだ。

 投げ飛ばされないまでも、どこか人目につかない場所に拉致監禁される恐れがある。

 

「は、(はにゃし)を聞いて―――ください……」

「殺さないでもらえると大変助かります」

「……にゃにもしませんから、話だけは聞いてくださいぃぃぃぃ……」

 

 あまりに悲痛な懇願に、さすがの僕も心が痛んだ。

 別にコスプレが趣味ってだけなのに、藍色さんの取り乱しようはかなりのものがある。

 とりあえず、普段の生真面目なクールビューティーらしからぬ姿なのは確かだった。

 

「は、話を聞くだけなら……」

「ありがとうございますぅぅぅぅぅぅぅ!!」

 

 まるで僕が悪辣非道な脅迫犯みたいだった。

 話を聞いていたのか、周囲のコスプレイヤーが痛ましげな目つきでこちらを見て、カメラマンたちは僕を敵のごとく睨んでいる。

 この場合、涙目になりつつある藍色さんは同情をされるが、僕の方は忌み嫌われている蛇蝎のようであった。

 僕は藍色さんに手を引っ張られて、コスプレスペースの隅にあるコスプレイヤーたちの休憩場所に行った。

 藍色さんはうつむき加減だ。

 よくよく観察しないと、あの巫女ボクサーとしての普段の彼女と同一人物には思えない。

 

「……にゃんでわたしだとわかったんですか……?」

 

 はっきり言えば、声の質と口調だ。

 あと、眼の色かな。

 お化粧というのを通り越して、がっつりとメイクしている藍色さんだけど、眼の色だけはカラーコンタクトでもしないと変えられない。

 以前、この眼の色で親しい人なら区別できるということを御子内さんに話すと、「うわ、キモい」と大変失礼な感想を頂戴した。

 観察力に優れているといってほしい。

 

「うわっ、それじゃあしかたにゃいですね……」

 

 藍色さんにまで、なんだか含むものがありそうなことを言われてしまった。

 

「でも、別に隠す必要はないと思いますよ。コスプレが趣味だっていいじゃないですか……」

 

 すると、藍色さんは伏し目になって、

 

「いや、わたしという女の有するパブリックイメージとのギャップが、他者との認識に乖離を起こしそうなので……」

 

 などと難しいことを言い出した。

 意識高い系なのかもしれない。

 というか、まだ混乱しているだけか。

 

「バレてしまったのは仕方にゃいのですが、お願いしますのでどうか或子さんたちには特に内緒でお願いします」

「御子内さんたちには……?」

「ええ。あの―――わたし―――こう見えても同期の中では委員長っぽい役回りにゃので、みんにゃに示しがつかにゃいんで……す」

「そうなんですか」

「あと、みんにゃ、()()()()()()()()()()()、ちょっと……」

 

 意外と酷いことをいう。

 確かにその通りなのだけど。

 

「いいですよ。みんなには黙っておきます。それでいいですね」

「お願いしますぅぅ!!」

 

 土下座せんばかりの懇願の仕方だった。

 どれだけ知られたくないのかってぐらいに必死だ。

 藍色さんってわりとドツボにはまるタイプとみた。

 独身のままアラサーぐらいになって婚活に失敗しそうになったら、彼女がどんな風になるのかこれだけで想像がつくぐらいである。

 

「ところで、コスプレなんていつから始めたんです。見たところ、その衣装もしっかりしているし長いんですか?」

「二年ぐらいです」

「……もしかして、退魔巫女を辞めようとしたのは……」

 

 彼女は両手を振って、首も横に振った。

 

「そ、それは違います。あれは本当に()()()に負けて挫折したからにゃんで!! ―――ただ、色々とあって落ち込んでいたときに気分転換に動画投稿サイトを見ていたら、コスプレのやり方という動画があって面白そうだったもので……。リカちゃんの服とか自作したりしていたから手先は器用だったし」

「それで衣装を作ってみた、と。へえ、独学でたいしたものですね」

「いえ、最初はダメダメだったんですけど、教えてくれた人がいて……」

「あれぇ、セリーナが珍しくパンピーさんと話してるぅ。珍しいじゃない」

 

 会話中に、するりと僕らの間に割り込んできた人がいる。

 派手な和服に日本刀の二本差しという、ゲームのキャラクターっぽい男装をした麗人だった。

 年は僕らよりもかなり上。

 メイクも堂にいっている。

 親し気に藍色さんと肩を組んで、僕を舐めるように観察してきた。

 

「セリーナあ、もしかして彼氏ぃ?」

 

 揶揄うような口調と目つきで、藍色さんの耳元で囁く。

 かなり親しい間柄だということはわかった。

 年齢が離れていても友達ということかもしれない。

 ちなみに僕の彼女かと邪推された藍色さんは必死になって否定した。

 

「違いますって!! わたしの……親友の彼氏です」

 

 それも違うけどね。

 ちなみに親友とは誰のことを差しているのか、ちょっと聞きたい。

 

「なるほどぉ、友達の彼氏にばったり出会ってどうしようかってところか。レイヤーってことが身バレすると人によってはやばいからねえ。うんうん、肉体(からだ)使って口止めしなよ。セリーナのでっかいおっぱいなら十分行けるよ、ぶい!!」

「MIKAさん! 胸の話はやめてくださいにゃ!!」

「別にいいじゃん。セリーナってさあ、どんなイケメンのレイヤーが声かけても基本的に無視じゃん? あんた狙いも多いのにもったいないぞ」

「わたしはコスで彼氏を作りに来ている訳じゃにゃいので!」

「あんまり男に冷たくしていると気取っているとか更衣室の裏で言われるよぉ」

「レイヤーのそういうノリは嫌いです」

 

 退魔巫女の仲間たちといるときは、凛として一線を画しているところのある彼女がなんともいえない子供っぽさをだしている。

 年相応という感じだった。

 MIKAさんという人も、揶揄うようなチェシャ猫っぽさがあるけれど、藍色さんのことを妹のように思っていることが手に取るようにわかった。

 なるほど、と僕は内心で手を叩いた。

 彼女が戦いに敗れて落ち込んでいるとき、あの古い倉庫の一画にある賭けボクシングの〈合戦場〉以外にも、こういうMIKAさんみたいな人が藍色さんを支えていたのか。

 邪悪な妖怪退治を使命とする媛巫女たちは基本的に敗北は許されない。

 彼女たちが負けたら多くの人たちが傷つけられるからだ。

 だから、もし敗れて心が折れてしまったら、藍色さんのように立ち上がれなくなってしまうこともあるのだろう。

 藍色さんはなんとか踏みとどまったけれど、そのまま引退してしまう巫女だっているはずだ。

 僕の御子内さんだってそのあたりは例外ではないだろう。

 もし、そんな日が来たら彼女をこのMIKAさんのように支えてあげられたらいいな。

 そんなことを僕は思った。

 

「……あ、そうそう、セリーナ、ビッグニュースがあるのよ」

「にゃんですか?」

 

 MIKAさんが嬉しそうに手を叩いた。

 

「84年の〈怪獣王〉の着ぐるみが見つかったんだ!」

「……あの、行方不明ににゃっていたってやつですか? MIKAさんたちがずっと探していた?」

「ああ、それだよ! 盗難にあっていたのか、手続きのミスで紛失していたのか、理由はまだ聞いていないけれど、高崎が見つけだしたらしいんだよ。さっきあいつのフェイスブックに写真が挙げられていたの!」

「良かったじゃにゃいですか!」

「明日のイベが終わったらみんなで拝みに行くことになったんだけど、セリーナも行くよな」

「はい、すごく興味あります!」

 

 なんだかMIKAさんのはしゃぎようが凄い。

〈怪獣王〉ってなんだろう。

 映画のアレのことかな。

 僕なんかのことは置いてけぼりで二人は盛り上がっていた。

 

「君も来るかい、藍色の親友の彼氏さん?」

 

 いきなり僕にも声がかかった。

 話が見えないのですぐに返事はできなかったけれど、明日のイベントが終わったころには確かに僕はヒマだった。

 明日の昼間には印刷所待機スペースを出て、さっさと家に帰るだけのつもりだったし……

〈怪獣王〉の着ぐるみというのに多少興味が湧いていた。

 

「行けそうなら行きます」

「そんときは、セリーナに連れてきてもらえばいいよ。高崎にはあたしが断っておくから」

「ありがとうございます」

 

 ……こうして、コミフェというイベントの片隅で、僕はちょっと変わった再会と出会いをした結果、その後にあまり普通ではない退魔巫女の戦いを目撃することになるのである。

 

 



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いざ、〈怪獣王〉のもとへ

 

 

 翌日、昼間で小友謄写堂のバイトをしてから、僕は志保さんと別れ、待ち合わせの場所に向かった。

 待ち合わせ時間まではだいぶあったので、ついでに昨日のコスプレスペースを覗いてみる。

 

 いた。

 

 今日も今日とて、猫耳藍色(ねこがみあいろ)さんが新しい衣装でポーズをつけて写真を撮られまくっていた。

 藍色さんは〈社務所〉の媛巫女らしくとても綺麗な女の子なので、上手なメイクをするだけでピシっと映える。

 どうやら最近の流行らしい旧日本軍の軍艦を擬人化したゲームの格好をしているらしく、何だか知らないけど主砲のようなものを抱えている。

 トレードマークのネコミミっぽい寝癖の髪型がないと、一見して彼女とはわからないので、おそらく僕でも傍で対面しない限り気が付かないだろう。

 ボクシングと家伝の体術で鍛えた身体は、とてもスリムなのに十分に女らしい胸もある、なんというかグラビアアイドルっぽい体系だ。

 やや猫背気味なのは名前の通りか。

 藍色さんは僕が見物していることに気が付くと、恥ずかしそうに顔をそむけた。

 もしかして嫌われてしまったかも。

 そんなことを考えながら、僕は約束の時間まで別の場所で暇を潰すことにした。

 

「―――お待たせしました」

 

 時間通りに衣装の入ったカートを引いて彼女がやってきた。

 同人誌即売会自体はまだ終わっていないが、コスプレについては更衣室が混むということで二時間ほど早く終了となったらしい。

 すでに藍色さんは、ラフな私服姿に戻っていた。

 動きやすそうなカーキ色のカーゴパンツとスニーカー、ノースリーブの開襟シャツという格好はとても漢らしい。

 僕が知っているのは巫女姿ばかりなのでとても新鮮ではあるが、さっきまでの派手すぎるコスプレ衣装と比べると地味なことこの上なかったが。

 もっとも、ネコミミっぽい寝癖と凛とした綺麗な顔があるおかげで、ただの地味っ子とは思われないだろう。

 ついでに言うと、指の部分が空いたドライバーズグローブをつけているところが、なんとなくオタクっぽくはある。

 まあ、ボクサーである彼女としてはバンテージの代わりみたいなものなのかもしれないけれど。

 

「いえいえ、お疲れ様でした」

「京一さんの方こそ。えっと、ビッグサイトの隣の駐車場にMIKAさんの車があるので、そこまで行きましょう」

「へえ」

 

 僕らは連れ立って駐車場まで歩いた。

 あとで教えてもらったところによると、MIKAさんというのは実はコミフェの運営の人でもあるらしく、駐車許可をもらって車でここまできていたらしい。

 バスか電車で移動するものだと思っていた僕としては驚きだ。

 

「……ところで、昨日はなんとなくで決めちゃいましたけど、僕らは何を見に行くんですか?」

「えっと、〈怪獣王〉の着ぐるみですにゃ」

「コスプレの衣装なんですか?」

「いいえ、本物です。実際に84年度の映画で使われた〈怪獣王〉の着ぐるみにゃんですよ。それをMIKAさんとわたしのお友達が苦労して発見したのでみんにゃに見て欲しいということですね。要するに、自慢したいんです。わざわざ、コミフェの日に情報公開するぐらいですら」

 

 へえ、やっぱり撮影に使われた〈怪獣王〉の本物なのか。

 そう聞くととても見たくなる。

 

「でも、そういうのって、映画会社の倉庫とかで保管されているものだとじゃないんですか。個人のものになるとは思わないんですけど」

「わたしも受け売りにゃんですけど、どうも変にゃ事情があって譲られたみたいです。そのあたりは、ご本人が説明してくれますよ。自慢ついでに」

 

 映画の撮影用の着ぐるみが、一般の人の所有物になる。

 オークションとかでそういう品が流れることはよくあるのだろうよくあるのだろうが、怪獣の着ぐるみなんて幾らでも宣伝に用いれそうなものが出物としてありうるのだろうか。

 しかも、変な事情と言っていた。

 そこがとても気になる。

 

「やあ、来たな。えっと、君は京一くんでいいのかな?」

「ええ。それでお願いします、MIKAさん」

「MIKA名義で振る舞っているときに、本名で人を呼ぶのは久しぶりだ。京一くんがレイヤーならコスネームで呼べるのにね」

「コスネーム?」

「コスプレイヤーとして活動する時の芸名というか、ペンネームみたいなもんさ。あたしがMIKAで、藍色はセリーナ」

 

 そう言えば、昨日は藍色さんのことを「セリーナ」って呼んでいたな。

 セリーナが藍色さんのコスネームってやつか。

 

「セリーナってかっこいいですね」

「あたしがゴッドマザーなんだ。いいでしょ」

「元ネタとかあるんですか?」

「うーん、藍色って苗字が猫耳でしょ。あと、にゃーにゃー言っているし、キャットウーマンの本名からとったのよ。……セリーナ・カイルね」

 

 ああ、ゴッサムシティの猫の格好の女盗賊か。

 悪くないネーミングかもね。

 藍色さんは気ままな猫というイメージではないけれど。

 

「この子さあ、真面目っぽいけどノリはいいでしょ。セリーナ名義のサインとかも練習しているし、写真DVDとかにも乗り気だし。最初に誘った頃はもうちょい引き気味だったのにねえ」

「―――MIKAさん!!」

 

 藍色さんがMIKAさんに縋りついて会話を遮る。

 仲のいい姉妹のようだ。

 そんなやりとりをしながら、MIKAさんの運転するステップワゴンは走り出した。

 後部座席の僕のさらに後ろには、夥しい数の荷物が乗っていた。

 おそらく他の人の衣装も預かっているのだろう。

 聞いたところでは、彼女の主催するサークルには十数人も所属しているらしいので、かなりの量になるはずだ。

 僕の隣にもダンボールが乗っている。

 MIKAさんの買ったっぽい同人誌の入った紙袋はあるし、随分と狭い。

 

「悪いね。京一くん」

「大丈夫です。〈怪獣王〉の着ぐるみが見れるというのなら、文句もありません」

「うーん、さすが男の子。―――でもねえ」

 

 なんだかMIKAさんの口調が湿り気を帯びた。

 どうしたのだろう。

 

「どうしたの、MIKAさん」

「昨日さ、夜に安丸(やすまる)に電話したら、あいつなんか妙なことを言っていてさ」

「妙な事?」

「ああ。〈怪獣王〉が夜中に動いているかもしれないとか……。まさか、ポルターガイストじゃあるまいし」

 

 ポルターガイストって単語をわざわざ出したということは、MIKAさんと安丸さんという人の間でそういう類の話が出たということかもしれない。

 そして、ポルターガイストというのは、〈騒々しい幽霊〉のことで、建物の中のものが勝手に動き出すとかラップ音が聞こえるとかいう類のものだ。

 つまりは妖魅絡み。

 さっきまでイベント帰りの余波で浮かれ気味だった藍色さんの眼が一瞬光ったのを僕は見逃さなかった。

 

「セリーナの実家って神社なんでしょ。いざとなったら御祓いを頼めるかな。なーんちゃって」

 

 雰囲気が変わったのに気が付いたのか、MIKAさんはちょっとお道化た感じで誤魔化した。

 

「いいですよ。困ったときは、中野の於駒神社へようこそです」

 

 藍色さんも空気を読んで笑顔で応えた。

 ただ、怪しい事件の修羅場を知っている彼女には、これから向かう場所に対する警戒心が生じているのは間違いないことだったろう。

 

 



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謎の三体目

 

 

 高崎安丸(たかさきやすまる)という人は、農家をやりながら、サブカル関係のライターという副業もこなしているらしく、広めの敷地に大きな倉庫を資料室のために所有していた。

 普通の一軒家の四倍はあろうかという倉庫のほとんどが、その手のグッズや資料だというのだから凄いものである。

 倉庫から少し離れた空き地に明らかに高崎さんのものではない車が五台ほど停まっていて、知り合いが集まっているらしいことがわかった。

 MIKAさんは車種とナンバーで誰がきているか推察していた。

 

「あのハスラーは柚希かな。ヴェルファイアは臼井っぽいね」

「お知り合いですか」

「まあねー。みんな結構なオタ仲間」

 

 どうやら高崎さんが入手した〈怪獣王〉の着ぐるみのお披露目が行われるため、みんなで集まっているらしい。

 少なくとも十人前後はいるようだけど、あの倉庫だとそんなに狭くは感じないだろう。

 僕らはステップワゴンから降りて、出入り口に向かった。

 すぐに高崎さんが迎えにでてくれて、内部に案内された。

 坊主頭のガタイのいいおじさんだった。

 三十代半ばという話だが、丸メガネをかけていて、感じのいい人だ。

 日焼けしていて体格がしっかりしているのは農家の人だからであろうか。

 少なくともインドアが趣味の人とは思えない。

 

「よく来たな、美佳。―――そっちの二人は高校生?」

「うん。セリーナと京一くんだよ。あんたの〈怪獣王〉が見たいだろうと思って強引に拉致して来た」

「そりゃやりすぎだ。悪いね、二人とも。ひどいオバサンで」

「そんにゃことはにゃいです。MIKAさんに頼み込んだのはわたしたちにゃので」

「はい」

「はははは」

 

 壁にはポスターやら吊るしグッズやらが溢れていて、混沌とした状態だった。

 ただ、乱雑という感じではなくしっかりと管理されているのはわかる。

 まさにマニアの部屋そのものだ。

 これだけのものを集めようとしたら相当のお金がいることだろう。

 

「結婚しないでいれば、これぐらいは意外と掻き集められるものだよ」

「へえ」

「収入の結構な割合、趣味でトんでいるしね」

 

 個人でもこのぐらいは普通ということか。

 僕ら以外にちょうど十人のお客さんが来ていたが、内部に集められているものを見ているだけで相当の暇つぶしにはなりそうだった。

 

「じゃあ、みんな奥に来てくれ。ちょっと持ってくるのは難しくてね。なんせ、平成〈怪獣王〉だと重さだけで八十キロはあるから」

「安丸さあ、おまえが手に入れたのって、陸なのかね」

「全身型抜きで造られているのは確かだぜ」

中身(なか)、入れんの?」

「人手がいるけどな」

 

 わいわい言いながら、奥へと進む。

 やや広めのスペースがあり、そこに白い布を被せられた巨大なものが鎮座していた。

 アレが目的の品だろう。

 わざわざ時間を掛けて見物に来た甲斐があるといいのだけど……

 

「じゃーん!!」

 

 多少、大袈裟な演出をしてから、高崎さんが布を剥ぎ取った。

 すると、隠されていた巨大な爬虫類の姿が明らかになる。

 恐竜のような前傾したシルエットを持った、まさに怪獣というべきものだった。

 脚部は股が大きく切れ上がり、女性の腰ぐらいはある太モモががっしりと自重を支え、腹部はやや細いのでハイレグにも見える。

 矢鱈と長い尻尾はやや後ろ向きについていて、アグレッシブかつ、前傾した美しいともいえるラインを描いていた。

 牙と爪、背びれもしっかりとしていて、今にも襲い掛かってきそうな躍動感がある。

 思った以上に、いや、想像を絶する迫力に僕は仰天した。

 ただのぬいぐるみや着ぐるみではない。

 映画に使われるのもわかる圧倒的な完成度だった。

 柄にもなく感動してしまった。

 

「凄い」

 

 僕だけでなく、ここに集まった全員が息を呑んで魅入っていた。

 これは驚異的だと。

 

「しゃ、写真撮っていいか?」

「俺も」

「私も」

「いいぞ。しばらくは撮影会だ。入手したときの武勇伝はこのあとで説明するぜ。運転しない奴用のビールもあるから、呑みながらじっくりと自慢してやる」

「ひゃっほー!!」

 

 こうして撮影会が始まった。

 数枚スマホで撮らせてもらったが、僕よりも年上の人たちの熱狂的な反応がすごくて引いてしまうほどだ。

 きっと〈怪獣王〉が好きでしょうがない人たちなのだろう。

 気持ちはわかるのでコメントは差し控えるとしようか。

 色々と騒々しい中、僕と藍色さん、MIKAさんは高崎さんによる講義を受けていた。

 若くて無知なため、基本的なものを教えてもらっていたのだ。

 

「陸とか、海とかいうのは、下半身があるかどうかってことだよ」

「下半身?」

「〈怪獣王〉は海からやってくるだろ。そのときはプールで撮影するんだけど、着ぐるみが全身あるとどうしても危険なんだ。だから、下半身は切断して上半身だけで撮影することになる。だったら、最初から下半身なしで造ればいい。その分、安く仕上がるから。で、下半身なしが海、ありが陸って風に呼ばれている。現場では、弾着用にも使われているし、アップのために造りこまれたのもあるらしいね」

「アレは陸用なんですね」

「ああ、だいたい映画ごとに作り直されることはなくて、たいてい補修して使いまわされることになるけど」

 

 ……すると、おかしいな。

 僕の手元にある84年公開の〈怪獣王〉の写真と、あの着ぐるみはほとんど変わりない。

 補修されていないのか。

 

「そうなんだ。普通は、陸と海の二つしか造られない。予算の関係でね。ただ、前々から噂されていたんだよ、三体目の着ぐるみの存在がね」

「三体目?」

「ああ。公式の記録にない三体目だ。それが紛失したり、盗難したりしても、警察に届けられることもないという」

 

 もう二十年以上も前、92年に成城にある撮影所から、撮影用の本物の〈怪獣王〉が盗まれる事件があった。

 一週間ほど後に奥多摩湖畔で発見されて回収されたが、何故か犯人の造ったらしい、あまり出来の良くない怪獣スーツも一緒に捨ててあったそうだ。

 ある主婦が「近くの道路の脇の竹藪に怪獣のようなモノが死んでいる」と警察に通報して、確認をとったら〈怪獣王〉だったという話である。

 主婦もそれは驚いたことだろうことは間違いない。

 だから、今では着ぐるみは厳重に管理されているはずなのに、どうしてここにあるのだろうと思ったら、これは()()()()()なのか。

 

「……本物なの?」

「これでもマニアなんでね。しっかりと確認したぜ。アレ、おそらく足の裏に鉄板が仕込んであるしな。中には入れそうにないのが難点だけどな。ちょっと開け口が見当たらないんだ」

「どうして鉄板を?」

「特技監督が、歩きにくくして擬人化を排する意味でやったらしい。初代とかは着ぐるみがあまりにも重いので逆にそれがリアリティーあって良かったという意見を汲んだみたいだ。ちなみに、当時の証言ではあの中に入ったら三分ほどしか動けないほど重くて暑いらしい。スーツアクターが酸欠で死にかけたそうだぜ」

 

 スーツアクターという人たちは相当鍛えていて、中には化け物クラスもいるという話なのに、その人たちでも三分が限度なのか……

 改めてみると恐ろしいな。

 映画やらがCGに移行するのもわからなくはないか。

 ただ、僕同様に話を聞いている藍色さんがちょっとおかしな反応を見せていた。

 

「どうしたの?」

 

 彼女はマナーよく触らないように撮影をしたりしている人たちの後ろを指さした。

 それで気が付いた。

 なんだか、荒れている。

 物品が散らばっているし、少し広めにとられている。

 この着ぐるみを運び込んだ跡かと思ったが、それにしては妙だった。

 なんというか、まるで……

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 何気ない僕の呟きが的を射ていたとわかるのは、それから数時間後のことであった……

 

 

 

 



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目覚める怪獣

 

 

 そいつには意識があった。

 

 ……心ではない。

 ただの意識だ。

 自分がどういうもので、周囲がどういうものかをわかっているというだけの、ただの意識。

 慈悲も優しさもなければ、憎悪も憎しみもないはずだった。

 だが、そいつの意識が目覚めたとき、形容し難い感情が嵐のように荒れ狂った。

 原因はそいつを取り巻く連中にあった。

 そいつを取り囲むようにして喋り、酒を飲み、馬鹿騒ぎをする連中。

 その中にそいつの感情を逆撫でする奴らがいるのだ。

 苛立った。

 以前のそいつは、たまに目覚めたときに伸びをする程度しかしなかった。

 全身を動かそうなんてことは考えもしなかった。

 しかし、今は違う。

 そいつは抗えない感情に従って暴れだそうとしていた。

 牙を、爪を、尾を、すべて使ってこのムカつきを止めるために……

 

 

       ◇◆◇

 

 

「俺がね、こいつを手に入れたのは農協のネットワークだったんだ」

「農協?」

「ああ。俺は本職は農家だからJAとも付き合いがあるんだけど、その繋がりでね。なんでも廃業することになった家があって、農具やらなにやら一式を売り払いたいという話だった。トラクターとかって仕事辞めたら意味ないしね」

 

 高崎安丸さんのビール片手の自慢話が始まった。

 車を無運転しない人も同様に酒を飲みながらご相伴にあずかっている。

 すぐ後ろに〈怪獣王〉の着ぐるみが突っ立っている中での宴会はとてもシュールだ。

 

「農地なんかは許可がないと売れないんで時間がかかるけど、それ以外のものはすぐに始末したいってことで、似たようなものを栽培している同業者にお声がかかったんだ。俺もその一人。最初は乗り気じゃなかったんだ。俺だっていつ同じ状態になるかわからないからな。―――その農家は跡継ぎの長男が事故でなくなってしまって、その長男は独身のまま子供もいないからしょうがなく廃業という話だったからだ。俺、独身じゃん。立場的には同じだったんだよ」

 

 結婚はしないで趣味に生きている高崎さんにとっては他人事ではなかったのかもしれない。

 あまり気が乗らないのは当然だ。

 

「それでも付き合いとかあるから、顔だけは出しに行ったんだ。―――で、これを見つけた」

 

 高崎さんは背後の〈怪獣王〉を見上げた。

 この着ぐるみは全高でニメートル以上ある(人が入るようなのだから当たり前か)。

 

「話が読めないぞ。どういうことだ?」

「そこは、うちみたいに独立した倉庫じゃなくて、母屋にくっついた物置みたいな形の農作業用のスペースがあった。色々と作業具とかかが詰めこまれているね。もっとも、ろくなものはなかったし、使い古されているから買いたたいても二束三文、むしろ手間賃の方がかかるという塩梅さ。とはいえ、せっかくの農協のはからいだからというんで、俺たちは適当に使えそうなものを物色してみた。そしてさ、一番奥に蜘蛛の巣まみれでこいつがぽつんと座っていた」

「えっ、マジかよ……」

「きちんと保管されてたんじゃねえの?」

「すごく状態いいんだけど」

 

 こことは比べ物にならない劣悪な環境に、この着ぐるみは置いてあったということか……

 すると、いくらなんでももっとボロボロになっていてもおかしくないはずだ。

 僕の記憶に寄れば、ゆるキャラとかの着ぐるみでさえ管理しているだけで維持費が相当程度かかる。

 無料(ただ)ではない。

 しかも、映画の撮影に使うようなものなら尚更だ。

 適当に放っておかれたりしたら、すぐに傷んでしまうに違いない。

 農家の物置といったら、空調だってしっかりしているかはわからないレベルのはずだし……

 だが、僕らの背後にある〈怪獣王〉はどうみても昔のままだ。

 ややくたびれた感はあるとしても、とても長年放置されていたようには見えない。

 

「―――俺も不思議だったさ。ただ、わずかな光しかない場所でこちらを睨むように置かれていたこいつの迫力には参った。周りは腰を抜かしていたけど、俺は逆に欲しくなっちまった。で、そこの主人に持ちかけて、これを買うことにしたんだ」

「……い、いくらだ?」

「老後というか、もう施設にはいるということだから、全部現金化したいということなんで、二百万ということにしてもらった」

 

 二百万ときいて、僕は驚いたが、他のマニアの方たちの反応は真逆だった。

 

「安いじゃん!」

「買いたたいてんじゃねえよ!」

「私も欲しいわ~」

 

 とかまあ、価値観が違う。

 しばらくあとで、とあるアニメのヒロインの等身大のフィギュアが限定発売されることになったとき、価格が税込みで1,980,000円(配送費含む)だったと知った。

 映画の撮影に使うほどのものなら下手すれば倍以上はかかるかもしれない。

 それにもし本物ならば絶対にといっていいほど個人には譲渡されないものらしいので、相場価格はないに等しい。

 彼らからすれば()()()()としかいえないのだろう。

 

「ラテックス、つまりゴム性の着ぐるみは数年で風化するからな。風化すると激烈なゴム臭がするということもわかっていたけど、こいつはまったくそんなこともなく普通のままだった。しかも、実は跡継ぎの長男が亡くなって初めてここにあることに気づいたというが、それでも数年は置いてあったはずらしいのに。不思議だったが、状態は最高だし、どうしても調査したくなったから、俺はそのまま引き取ることにしたって訳よ。まあ、それが84版の三体目かもしれないとは思っていなかったけどね。ただのアトラクション用のものの可能性は高かったが……」

 

 そんな怪しげなものに二百万円もだしたのか。

 マニアって凄いな。

 

「で、うちまで持ってきて調べ終わったのが一昨日という訳さ。結構な武勇伝だろ」

 

 ここでどっと盛り上がった。

 マニアにとっては相当に面白い話なのだろう。

 酒が入っていることもあり、半端なく場が熱くなっている。

 

「で、幻の三体目かもしれないという確証はどこにあるんだ」

「慌てんなよ。ほれ、これが84版の写真だ。よっくみてみろ」

 

 みんなで間違い探しをするように観た。

 それでわかった。

 

「顔は同じだが、腰のあたりが違うな。84版よりは初代に近い」

「で、こっちが発表されている当時のラフデザインだ」

 

 渡されたものを見ると、ちょっと顔つきが違う。

 とはいえ、ほとんど同じだ。

 

「デザイン画通りだろ。それがどうしたんだ」

「実はな。三体目の噂ってのは、十数年ぶりに新しく〈怪獣王〉を撮影するという企画が立ち上がって、撮影会社が動き始めたときに、自分の描いたデザインと自作の頭部(ヘッド)の着ぐるみを持参したやつがいたことに端を発するんだ」

「なんだい、それ?」

「つまり、昔からのファンが新しい映画に採用してほしいと持ち込みをかけたわけだ。出来も良かったらしいが、やはり採用には至らなかった。その際に、持ち込んだ自作のヘッドには美術スタッフで色々と手を加えたりしていたそうだ。不採用になったとはいえ、勿体なかったんだろう」

「ああ、それが三体目の正体ということか?」

「まあな。ちなみにいうと、この着ぐるみを買い取った農家の後継ぎ息子だったって訳さ」

 

 なるほど、それがここに辿り着くわけか。

 下手なミステリーを読むよりも面白い。

 

「つまり、高崎さんは当時のことを記録した資料も手に入れたんですね」

 

 思わず口を挟んでしまった。

 

「ああ、彼の遺品の幾つかを検証させてもらったのでね。それで今のようなことがだいたいわかったって訳さ」

「へえ」

 

 高崎さんのトークはわかりやすいので惹きこまれる感じだ。

 おかげでこの〈怪獣王〉の着ぐるみがどういうものかというのはわかった。

 ただ、この不思議な保存状態についてはわからない。

 そして、藍色さんが気にしていたことについても。

 

 しかし、異変は確実に近づいていた。

 

 僕たちの目の前で中身のない〈怪獣王〉が動き出すという異変が……!

 



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過去からの咆哮

 

 

「よくわかんねえこともあるな。そのデザインとか持ち込みしたファンがこれを自分ちに隠していたってことか」

「そうなる」

「……だとするとおかしいな。84年ってもう30年前だぜ。その頃のラテックスなんてよっぽどいい環境におかないと、劣化して使い物ならないほどボロボロになっているはずだろ。こんなに綺麗に残っているとは思えないぜ」

「しかも、農家の物置なんて納屋みたいなもんだ。ぜってー、換気も悪かったろう」

「言う通りだ」

「―――じゃあ、この凄い迫力で原型が残っているのはどういうこと? 出自を聞くと撮影にだって使われたからわからないんぐらいなんでしょ」

「不思議だよなあ」

 

 お客さんやMIKAさんは首をひねっている。

 僕の考えでは、おそらく高崎さんも同じ考えに至ったのだろう。

 だが、自分だけでは答えが出そうにないので他人の知恵も借りたくなった。

 それでお披露目を兼ねてみんなを呼び出したのだ。

 

「……ポルターガイストが云々ってはのなんですか?」

 

 僕は気になっていたことを聞いてみた。

 すると、高崎さんは複雑な顔をして笑った。

 

「いやあ、これは別に〈怪獣王〉関係ないかもしれないんだけどさ。こいつを倉庫(ここ)に運び込んでから、なんか触ってもいないのにコレクションとかが倒れたり遠くに吹っ飛んでたりするんだよ。それでまあ〈怪獣王〉の祟りかもなあ、とか思ってたわけよ」

「―――うわ、なに、ここ、幽霊とかいるの?」

「怖いこと言うなし」

「ヤバいのか!?」

「〈怪獣王〉が祟るか!!」

 

〈怪獣王〉の着ぐるみの後ろにあたりをさして、

 

「そのあたりがなんか散らかっているのは、もしかして()()()()なんでしょうか?」

 

 高崎さんは目を丸くして、頷いた。

 

「まあ、そうだ。よく気が付いたね。雑になっているから別にどうでもいいやと思ってたけど。ほら、そこに戸口があるだろ。風がたまに吹き込むからそっちかなと思っていたんだけど、違うみたいだ」

「隙間風でイスが倒れるかよ」

 

 確かにその通りだ。

 でも、普通の人の想像力ではそこまでが限界だ。

 僕のように普段から〈社務所〉の退魔巫女と共に妖怪退治をしているような経験がなければ、この程度まったく気にしないで終わることだろう。

 でも、これまで培ってきた経験が僕に教えてくれる。

 これは間違いなく妖魅や怪異が関わっていると。

 以前にも似たようなことがあった。

 何かが憑りついているものが、古い蔵や屋敷から発見されたとき、普通なら異常極まる現象が起きるということが。

 それは、種子島鉄砲であったり、古い刀であったりする。

 そして、例えば、怪獣の着ぐるみであったりするかもしれない。

 

「まあ、俺が集めてるものはマニア垂涎のものばかりだし、中には蒐集しきれなかったやつの呪いがこもっていたとしてもおかしくない。こいつだって、みんなからすりゃあ、お宝だろ」

 

 ポンポンと〈怪獣王〉を叩く。

 見せびらかして自慢したいということが顔に出ていた。

 お客さんたちも気持ちはわかるのか苦笑するだけだ。

 ただ、皆さんがホスト役の高崎さんを見ていた中、僕だけは〈怪獣王〉を凝視していた。

 その強化プラスチック製のはずの目玉がぎょろりと動いた気がしたからだ。

 全身に警告が雷のように走る。

 

「高崎さん、ちょっと……」

 

 手招きをした。

 

「なんだい」

 

 と彼が〈怪獣王〉から二歩だけ離れたとき、

 

『ギャァァァァァンゴォォォン グワワァァァァァァァァァァン!!』

 

 鼓膜を破らんばかりの大きな音が轟き渡る。

 鳴き声だった。

 発したのは―――もちろん……

 

「なんだ!!」

「ゴ、〈怪獣王〉が鳴いたぞ!!」

「え、う、動いている! 動いているよ、これ!!」

「まさか。そんな馬鹿な……。誰かが内臓になっているのか!!」

「そんなことない。〈怪獣王〉の着ぐるみの中にいたら五分ともたずに酸欠になる!!」

「だったら……!!」

 

 いくら好奇心の旺盛なマニアたちといっても、突然、生きているかのごとく雄たけびをあげだした着ぐるみに近づこうとするものはいなかった。

 いや、高崎さんの仲間たちが思慮分別のある大人だけだったからかもしれない。

 おかげで無駄な犠牲を出さずに済んだかもしれない。

 なんといっても、この〈怪獣王〉の着ぐるみはニメートル以上の身長と100キログラムほどの重さを持っている。

 一般人だと撫でられただけで危ない。

 しかも、軟質のビニールキャストのはずの牙と手足の爪が、デンタルレジン製どころかもっと堅そうな材質なのはわかっていた。

 高崎さんたちはリアルでいいと言っていたが、僕には殺傷力のある部位であるとしかいえない。

 あれに引っかかれれば、下手をすれば致命傷になりかねないのだ。

 そして、あの―――

 

「危ない!!」

 

 僕は隣にいたMIKAさんを抱きしめて後ろに跳んだ。

 この辺りの咄嗟の動きはもう慣れたものだった。

 だから、〈怪獣王〉の渾身ともいえる太くて長い尻尾によるすべてを薙ぎ払う一撃からすんでのところで逃れることができた。

 高崎さんの集めてきたものたちを無残にもすり潰しながら、尻尾は室内の半分を蹂躙した。

 あまりにも強力な一撃だった。

 重くて、広範囲だ。

 かつて劇中であの攻撃が何体のライバル怪獣を仕留めてきたことか。

 それがサイズは小さいとはいえ、ただの人間に振るわれればどうなるかなんて考えずとも明らかだ。

 

「皆さん、逃げて!! 訳わからなくても命が惜しかったら逃げて!! 死にたくないなら逃げて!!」

 

 僕は叫んだ。

 ここに留まっていたら間違いなく危険だ。

 最悪、死ぬ。

 さっきの尻尾による薙ぎ払いはそのレベルの攻撃だった。

 

「お、俺のコレクションが―――!!」

 

 高崎さんは抵抗した。

 他の人たちは気になりつつも、この資料倉庫からはひしめきあいつつも逃げ出した。

 着ぐるみが動いたということもよりも、さっきの尻尾の一撃による恐怖だろう。

 ただの事故とか喧嘩ならばともかく、あれは根源的な恐怖を呼び起こすものだったからだ。

 ただ、MIKAさんだけは倒れたときのショックもあってか、全身が震えていてきちんと立ち上がることさえできない。

 女の人にはどうしても暴力的なものを目前にすると身動きが出来なくなる人が多い。

 DVなどをする相手から逃げられない理由の一つにもなっているが、女性は力の乱暴な行使によってまるで停止スイッチが入ってしまうのだ。

 今のMIKAさんはその状態だった。

 加えて〈怪獣王〉のあまりの凄絶な咆哮。

 あんなのを受けてまともに逃げ出せるだけでもたいしたものだった。

 

「いやあああああああ!!」

 

 MIKAさんが頭を抱えて叫ぶ。

 僕はその彼女を抱きしめて、

 

「大丈夫です! 落ち着いて!」

「―――大丈夫なんかじゃない!! 大丈夫なんかじゃない!!」

 

 叫ぶ彼女は真っ青だった。

〈怪獣王〉の興味がこちらにないらしいことで助かった。

 あいつの視線は他の人たちが出ていった先に向いていた。

 もしかして、誰かを狙っているのか……

 しかし、MIKAさんが叫び続ければ〈怪獣王〉はこっちに矛先を変えてくる恐れがある。

 そうなったら逃げ場無しだ。

 僕とこの女性は圧倒的なあいつのパワーに引き裂かれて終わるかもしれない。

 だから、僕は彼女をもっと強く抱きしめ、

 

「大丈夫。―――だって、助けがきたから」

 

 僕らの二対の視線は部屋の入り口に注がれた。

 そこには改造巫女装束に着替え、拳には堅くきつめにバンテージを巻いた猫耳藍色(ねこがみあいろ)がすっくと立っていた。

 同期や先輩たちと寸毫も変わらない熱い闘志をこめた双眸を持って。

 

 巫女ボクサーが不滅の〈怪獣王〉に挑むときがきたのである。

 

 

 

 

 

 



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使命ですから

 

 

「セリーナ……?」

 

 MIKAさんが呆然と呟いた。

 藍色さんの改造巫女装束姿がよく理解できないのだろう。

 彼女の格好は、レイさんと並んで特に独創的だから。

 僕たちが高崎さんの話を聞いている間に準備していたのだ。

 確かに戦い慣れた格好の方がいい。

 

「京一さん、MIKAさんをお願いしますにゃ」

 

 そういって、いつものライトアップ・スタイルに構える。

 左利きの巫女ボクサーは左半身をやや傾けて、脚はキレのいいフットワークを始めた。

 かつて御子内さんと拳技一本で引き分けたボクサーが本気のステップを踏みだす。

 僕たちを見つめていた〈怪獣王〉がのっそりと視線の先を変えた。

 敵が現われたことを怪獣の本能が捉えたのだろう。

 しかも、無視できない力を持った。

 あの〈怪獣王〉がどういう妖魅なのかはまだわからない。

 だが、退魔巫女を目の前にした彼らの反応はいつもこうだ。

 彼女たちを、()()()()()()()()()()()()()()()だと悟るのである。

 そして、それは紛れもない事実であった。

 例え〈怪獣王〉といえども。

 

「MIKAさん、こっちへ」

 

 僕は年上の女性の腰を抱き上げると、部屋の出口でなくて、〈怪獣王《あいつ》〉を運び込んだ出入り口へと走る。

〈怪獣王〉の注意が逸れているうちにこの女性を逃がさないと。

 MIKAさんが藍色さんにとっては大事な人であることはわかっている。

 彼女が戦場(ここ)にいたら気が散漫してしまい、戦いに集中できなくなるからだ。

 

「待って! 藍色が……!!」

「だから、大丈夫です。彼女に任せればそれでいい」

「……でも」

「彼女たちは退魔巫女。どんな怪異(じゃ)を相手にしても無辜の民草を護りきる女の子たちです」

 

 MIKAさんを完全に外に逃がしたとき、一人と一体の死闘が開始された。

 大股で踏み出す〈怪獣王〉に対して、藍色さんが合わせていった。

 どんな獣をも超越する咆哮の嵐の中を突き進む。

 出し惜しみなく一気に得意の左ストレートをぶちこんだ。

 なんらガードをすることもしない〈怪獣王〉の腹に拳が当たる。

 体重の乗せ方、速度、アタックポイント、すべてパーフェトといっていい左の直拳が突き刺さった。

 だが―――

 

「効いてない!?」

 

〈怪獣王〉には藍色さんのパンチはまったく効いていなかった。

 分厚い表皮に阻まれ、どんな怪物でも怯まさずにはいられないストレートでも凹ませられないのだ。

 右のジャブ、左のフック、コンビネーションを繰り返してさらに連撃を行う。

 怒涛の連打だった。

 呼吸を完全に止めて、肺に残った空気がなくなるまで休むことなく続く。

 最後に左ストレートがもう一度放たれて、藍色さんの動きが止まった。

 

『ギャエ゛ーォォォォォーゥーン!!』

 

 再び、〈怪獣王〉が吠えた。

 痛みを感じて、ということではない。

 自分に逆らう羽虫を払うための威嚇のためだろう。

 物を掴むことはできそうにない前肢が振られた。

 鋭い爪が宙を斬る。

 藍色さんが上半身を屈めて攻撃を避ける。

 膝をついたまま、パンチをかち上げるように打った。

 だが、それも今までと同様に表皮で無効化される。

 僕の知っている限り、硬度というよりも純粋にタフでもあるのだろう。

 練った〈気〉が通っている退魔巫女の殴る蹴るをくらって、まったくの無事ということは通常ならばあり得ないのだから。

〈怪獣王〉の蹴たぐりが出た。

 強靭な下半身の動きによって藍色さんが吹き飛ばされる。

 驚異的な反射神経で十字ガードはしていたといっても、完全に身体を持っていかれる。

 何回転もしながら藍色さんが壁に激突する。

 すぐに起き上がったところはさすがだとしかいえない。

 しかし、立ち上がったとしても藍色さんの攻撃は〈怪獣王〉に対して有効打とはなっていない状況は続いている。

 それだけではない。

 あまりにも反応が薄いこともあって、フェイントにほとんど効果がない。

 あらゆる意味で藍色さんのボクシングが封じられる形になっている。

 敵の性能を考えると、あいつと正面からやりあえるのは〈神腕〉を持つレイさんか、発勁を使える御子内さんぐらいしかいないだろう。

 音子さんや熊埜御堂さんの打撃ではあの表皮さえ抜けない。

 藍色さんのボクシングという対人用に極められた闘技では〈怪獣王〉には勝てないかもしれなかった。

 

「危ない!!」

 

 立ち上がったばかりの藍色さん目掛けて〈怪獣王〉の尻尾の一振りが襲い掛かる。

 遠心力のついた先端部に当たるのは危険とばかりに咄嗟に踏み込んで、もう一度両腕でガードするがまたしても藍色さんは吹き飛ばされた。

 今度は転がることなく、そのまま壁に激突する。

 いくら退魔巫女でもあれはまずい。

 高崎さんの蒐集した物品に埋もれるような酷いぶつかり方だ。

 しかも、蹲った姿勢のまま彼女は動かなくなった。

 まさか―――

 

「藍色さん!!」

 

 僕が駆け寄ろうとした時、藍色さんを倒した尻尾の一撃が今度は資料倉庫の壁をドアごとぶち抜いた。

 プレハブに近い造りとはいえ、建物の壁に穴を開けるなんて、恐ろしいほどの破壊力だ。

〈怪獣王〉はのっそりと踵を返し、自ら作った穴から外に出ていく。

 あんなものが野に解き放たれたら、どんな光景が繰り広げられるか知れたもんじゃない。

 そして、あれを止められるのは、彼女しかいない。

 

「きゃああああああ!!」

 

 MIKAさんの叫び声がした。

 視界に、彼女の方へ向かう〈怪獣王〉が入ってくる。

 狙っているようではないが、進行方向に運悪くMIKAさんがいるのだ。

 藍色さんのところに行きたかったが、それよりも腰を抜かしているかもしれない彼女を助けないと。

 僕は走った。

 間一髪、彼女を横抱きにして〈怪獣王〉の前からどかす。

 邪魔さえしなければ必要以上に追ってはこないようだった。

 ただの獣とは違う、まさに都市を蹂躙して歩く怪獣のままの動きだった。

 もっとも、あいつは何かを追っているのは確かだ。

 そして、この行き先には、資料倉庫前に駐車している車群があった。

 当然、そこには逃げ出した高崎さんたちがいた。

 何やら騒然としていて〈怪獣王〉の接近に気がついていない。

 

「逃げてください!!」

 

 僕の怒鳴り声によって、ようやく〈怪獣王〉に気づいた。

 蜘蛛の子を散らすようにみなさんが車に乗り込もうとする。

 しかし、間に合わなかった。

〈怪獣王〉の尻尾の一撃が、ヴェルファイヤにぶつかるとあの大型車が転倒した。

 たったの一撃で。

 凄まじい威力だ。あんなものを藍色さんは受けたのか。

 はたして無事だろうか。

 逃げだそうとしても車というものはそう簡単に切り返せない。

 この期に及んでも車をぶつけないように配慮していては。

 しかも転倒しヴェルファイヤと〈怪獣王〉のせいで狭くなった場所においてはさらにである。

〈怪獣王〉の狙いはあの中の誰かのようだった。

 このまま行くと間違いなく死人が出る。

 地獄絵図が描かれる。

 でも、そんなことにはならなかった。

 

「待ちにゃ……さいにゃ……」

 

 背中から声が突き刺さった。

 そのやや滑舌の悪い、「な」を「にゃ」といってしまう喋り方は……

 

「たかだかでっかいトカゲの分際で、わたしを無視するというのは許せにゃいですよ……」

 

 荒い息を吐きながら、藍色さんがやってくる。

 右手がわずかに垂れ下がっている。

 尻尾をガードしたときに痛めたのだろうか。

 ただ、それでも巫女ボクサーは戦いを止める気はないのだ。

 

「〈怪獣王〉だというのにゃら、せめて火炎の一つでも吐いてみせるんだにゃ。でなければ、このわたしはとめられにゃい」

 

 動かなくなっていたはずの右手を無理に上げず、ヒットマンスタイルに切り替えた。

 あれならば構えはとれる。

 

 そう。

 

 不利だとわかっていたとしても、藍色さんはスタイルを曲げない。

 彼女は退魔巫女であり、同時にボクサーである。

 自分の磨き上げた技術でこの強敵を撃破する気なのだ。

 それがいかに困難な道であったとしても。

 猫耳藍色に対して〈怪獣王〉が向き直った。

 やはり、迎撃する気なのだ。

 その間に、皆さんを逃がすことができる。

 あとはまた彼女に託すしかない。

 

「藍色さん、ありがとう!!」

「礼には及びません。使命ですから」

 

 そう、静かに猫耳藍色は言い放った。

 

 

 



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この怪物が最期の一体とは限らない

 

 

 かつて、とあるドラマの劇中において大阪城を破壊し、前後編にわたって主役の超人を苦しめた怪獣がいた。

 そいつは特段変わった攻撃を持っている訳ではなく、ただその強力な尾の一撃だけで無敵の超人を一敗地に塗れさせたのだ。

 僕たちの前にいる〈怪獣王〉も同じ。

 あの尻尾をまともに食らったことで、藍色さんは満身創痍といってもいい状態だった。

 咄嗟に前にでたことで、いわゆる芯で打たれることは避けることができたが、それでも藍色さんが受けたダメージはかなりのものがあるだろう。

 さっきまでとは違い、フットワークも軽やかとはいえなくなっている。

 戦い続けた果ての十五ラウンド目の有様のようだった。

 しかし、それでも藍色さんの闘志は衰えない。

 復帰したばかりとはいえ、彼女も疑いなく〈社務所〉の退魔巫女で、御子内さんたちの同期なのだ。

 駐車していた車両を蹂躙していた〈怪獣王〉が、生気のない、魂の感じられない造り物の眼で巫女を睨む。

 一度は退けたのに再び歯向かってくる雑魚を見る眼ではない。

 牙をむき抗う強敵を見据える眼だった。

 どのような経緯(プロセス)で動き出して暴れ回っているかはまだわからないけど、怪獣の野生が藍色さんを決して侮ってはいないのだ。

 だが、藍色さんにあいつを倒す術はあるのだろうか。

 少なくとも通常のボクシング技は通じないのははっきりしている。

 彼女には、猫パンチからの“震打”と地面に衝撃波を伝える必殺技と、浅草寺のタヌキを破った浸透勁みたいな技がある。

 ただし、どれも内臓などにダメージを与える系の技ばかりであり、あの〈怪獣王〉に通じるとは思えない。

 高崎さんの話では、誰かが中に入っていたとしても着ぐるみでは三分程度しか動けないはずが、すでに数分は越えている。

 だから、中に誰かが入っているというのならばともかく彼女のフィニッシュブローは通じないことになる。

 さらに言えば、あいつは生物ではないので、真の意味での「内臓」もない。

 藍色さんにとっては相性の悪過ぎる相手といえた。

 あいつを倒すことはできるのか……?

 

「―――藍色さん……」

 

 僕の呟きを打ち消すように、藍色さんが跳ぶ。 

 左のストレートはまたしても分厚い表皮に阻まれた。

〈怪獣王〉の前肢が振るわれるが、さすがに遅い。

 ボクサーにパンチをあてるには蜂が刺すように素早く打たねばならないのだから。

 くいっと半回転して、ヒットマンスタイルから右のボディブローを突き刺す。

 まったく効いていない。

 一般人はおろか妖怪でさえあれを喰らえば悶絶するだろうに、〈怪獣王〉にとっては屁でもないようだ。

 御子内さんたちだったら、ここで蹴り技をだすところだが、藍色さんは愚直に拳技を繰り返す。

 前肢を掻い潜り、何発も当てていく。

 ジャブ、フック、ストレート、ショートアッパー、ジョルト……

 しかし、どれも怯ませることすらできない。

 威力が足りなすぎるのだ。

 全弾命中しても傷一つ負わせられない。

 

『グググギュワァァァァァァァァァァン!!』

 

〈怪獣王〉が噛みついてきた。

 歯並びが悪いのでエサを獲れなさそうな〈怪獣王〉が前掛かりになりつつ、藍色さんに食いついてくる。

 それを迎え撃つボクサーのストレート。

 鼻づらをとらえ、勢いをそぐと、横っ面をさらにフックで殴りつけるがこれまでと同様効き目はない。

 怪獣の噛みつき(バイト)という致命的な攻撃を回避しつつ、戦うことができるのは藍色さんの修練によるものだが、このままではまさにジリ貧である。

 一回でも噛まれたらもう終わりなのに、彼女の攻撃は一切通じないのだから。

 ただ、超接近戦に入っているということで、さっきの尻尾が使えないのは慰めになるか。

 距離をとったら、あれがくるというのは藍色さんもよくわかっているのだから。

 しかし……

 一瞬、〈怪獣王〉の動きが止まった。

 パンチが効いたという感じではなく、瘧にかかったかのようにビクリと震えたのだ。

 同時に背びれが白く発光する。

 尻尾の先から徐々に登っていき背中の背びれまでが輝く。

 なんだ、何が起きようとしているのだ。

 

「……あれは」

「MIKAさん、あれは?」

「放射能火炎を吐く前触れよ! ()()()()()()()()()()!!」

「なんですって!?」

 

 まさか、ただの着ぐるみがそんな馬鹿な……

 でも、あれはもうすでに()()だ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 

「藍色さん、口から火が出るかもしれない! 気をつけて!!」

 

 僕の声が届いたのか、藍色さんが小さく頷いた。

 そして、もう一度尻尾の先の背びれが光りだし、そして、〈怪獣王〉の口が大きく開く。

 

『ギャオォーーン、ウァオン!!』

 

 口腔内が白く輝く。

 爬虫類そのものの顔が藍色さんに向けられた。

 来る!!

 すべてを焼き尽くす〈怪獣王〉の火焔が!!

 

 ボオオオオオオオオオオオ!!

 

 赤を通り越して蒼白い炎の息が〈怪獣王〉の口から放たれた。

 まっすぐに敵を殲滅するために。

 あんなものをまともに食らったら、噛まれるよりも致命的な最期を迎えることになるだろう。

 だが―――

 

「てありゃあああ!!」

 

 あのストイックな藍色さんが戦場すべてに轟き渡る金切り声を上げた。

 十字に組んだ腕を一気に振り抜いた。

 なんと、その瞬間に自分に当たる寸前だった炎が直角に曲がり、藍色さんには届かなくなった。

 何をしたのかさっぱりわからない。

 ただ、いえることは藍色さんのやったあの十字に切る動作が、炎の軌道を強引に捻じ曲げたということだけだ。

 

「猫耳流交殺法・()()火炎十字大葬陣(かえんじゅうじだいそうじん)!!」

 

 藍色さんが今の技名を叫び、そして炎が途切れた〈怪獣王〉の口に拳を突っ込んだ。

 その後頭部が吹き飛ぶ。

 火を吐ききって動きが止まった〈怪獣王〉の隙を突き、口内に彼女の〈気〉を溜めこんだストレートを叩きこんだのだ。

 やはり脆くなっていたのかもしれない。

 どうやって火を吐いているかわからないが、所詮は着ぐるみなのだから。

 

「だああああああ!!」

 

 そして、藍色さんが肘を再び十字に振るう。

 同時に〈怪獣王〉の口が縦と横に裂けた。

 あれは確か、猫耳流の表技〈刃拳(ハーケン)〉。

 浅草寺のタヌキには通じなかった肘で真空を作り出して相手を切り裂く技がラテックスの表皮を切り裂いたのだ。

 すると、さっき炎を捻じ曲げた技も、信じられない程素早い動きで真空を作り出して行った結果なのか。

 ただの人の身では決してできるものではないので、おそらく猫耳流の独特の術なのだと思う。

 それで〈怪獣王〉の攻撃を無効化し、顔面を切り裂いたのだ。

 

 ガク

 

〈怪獣王〉は膝をついた。

 顔の上半分がなくなった状態では偽りの命さえ続かなかったのだろう。

 最後まで動かなくなったことを残心してから、ようやく藍色さんはチャンピオンのように右手を高々と掲げた。

 勝負はついた。

 

 巫女ボクサーが偽りの〈怪獣王〉を退治したのだ。

 

 猫耳藍色。

 薄氷の勝利を掴んだ瞬間である。

 

 

      ◇◆◇

 

 

「これは……なんだよ」

 

 気がつくと、倒された〈怪獣王〉の回りを高崎さんたちが囲んでいた。

 僕が覗き込むと、〈怪獣王〉は元の動かない着ぐるみに戻っていた。

 しかし、元のままではない。

 藍色さんに両断された頭部以外は、ボロボロで黒く変色したスポンジのように粗大ごみみたいな汚れた塊になっていたのだ。

 かろうじてさっきまでは着ぐるみだったと判別できる程度である。

 さっきまでの威風漂う表皮はどこにもない。

 ここにあるのはただの着ぐるみだったものの残骸だった。

 しかし、ヘッドの部分だけが異彩を放って残っている。

 それで僕もさっきの〈怪獣王〉の正体がわかった。

 

「……京一さん?」

「たぶん……なんだけど、君と戦った〈怪獣王〉の本体はこのヘッドだったんじゃないかな」

「どういうことですか?」

「僕の想像だけでしかないけど、きっと、このヘッドには持ち主の情念のようなものが宿っていたんだと思う」

 

 ……高崎さんから聞いた話を思い出す。

 このヘッドの持ち主は、84年に新しく映画が撮影されようというときにわざわざ制作会社に持ち込みをしたほどのマニアだったという。

 ヘッドは採用されるかもしれずプロの手が入ったが、結局、使われることはなかった。

 持ち主のマニアはどう思ったのだろう。

 満足できたのか、それとも悔しくて無念だったのか。

 自分の造ったヘッドにさらに胴体部分を造ったのだから、きっと後者だったのだろうと思われる。

 そして、三十年たって彼は亡くなり、彼が造った〈怪獣王〉は実家の納屋に取り残された。

 この残骸を見る限り、やはり三十年の歳月で着ぐるみはボロボロになってしまっていたのだろう。

 あの異常な迫力をもつ姿を保っていられたのは、彼の残留思念が乗り移っていたからに違いない。

 瑞々しいまるで生きているかのような姿は、持ち主となった男性の理想の〈怪獣王〉のものだったのか。

 ただ、あのまま実家の納屋でひっそりと安置されていた状態ではきっといつかは朽ち果てるだけだったはずだ。

 しかし、高崎さんに見つかり、この資料倉庫に運び込まれることになる。

〈怪獣王〉の着ぐるみはその製作者のマニアの魂ともにここに来て、そして、何かを見つけた。

 だから、暴れたのだ。

 僕にはそれがなんなのかはわからない。

 一つだけ思いつくとしたら、きっとそれは自分と同じように〈怪獣王〉を愛するマニアたちの存在だろう。

 結婚もしないでグッズの蒐集をしてこんな資料倉庫まで作ってしまう高崎さんや、その友人たち。

 その中に同じマニアとして何かを感じたのかもしれない。

 怒りか、嫉妬か、嘆きか、憎しみか、いったい何がトリガーとなったかは今となってはわからない。

 ただ言えることは、あのまま〈怪獣王〉の暴走を許していたらきっと酷い惨劇が起きていたということだけだ。

 この場に巫女ボクサー猫耳藍色がいたからこそ、〈怪獣王〉は止められたのだ。

 まさに天の配剤というべきか。

 

「―――あのコミフェにいた人たちもそうだけど、好きを極めた人たちってのは凄いものなんだね」

 

 自分の造ったものに魂の模造品を注入できるなんて。

 

「少し違うと思います」

「どういうこと?」

「好きだけで、みんにゃはやっている訳じゃにゃいと思う。……たぶん、好きだからやっているだけじゃにゃくて、どこかにどうしょうもにゃく逃げたいときがあって、ちょうどああいう世界があったから入り込んだって人も多いはずですよ」

 

 そうなのかもね。

 

「わたしも、逃げたいときがあったから……」

 

 藍色さんが僕の方を見ずに言った。

 誰かに見せたくない顔というのがあるのだろう。

 それはきっと知り合いには死んでも見られたくないものだ。

 メイクしてコスプレをして、全然知らない人たちに対してだけようやく向けられるものなのかもしれない。

 評価されなくてもよくて、ただいつもとは違う顔をしてみたい、と。

 ……世の中には色々な世界があり、色々な情念と想念が渦巻いている。

 だから、きっと純粋な人ほど生きていくのは大変なのだろう。

 あの着ぐるみの持ち主は、自分の造ったものをしたり顔で評価されるのを嫌がったのかもしれない。

 

 僕はそんなことをふと想ってしまうのであった。

 

 

 



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第32試合 砂嵐吹くとき
新宿を襲う怪異


 

 

 住宅街の片隅にある、小さなスペースを子供たちが陽気に駆け回っていた。

 彼らが追っているのは四号のサッカーボール。

 子供たちは三人のコーチの指導の下、楽しくてたまらないサッカーに励んでいるのである。

 

「よーし、タカシ。動き出しは次のプレーを予想してやると、一歩早く相手より動けるぞ。そのたった一歩でフリーになれるかどうかが決まるからなあ」

 

 ヘッドコーチの岡安が子供に声をかけた。

 まだ年齢は四十前だが、コーチ歴は二十年近いベテランだ。

 岡安とともに指導をしている二人も、もともとは彼が教えていた子供であった。

 小さい頃に岡安が率いるチームであるこのFCアケボノに入り、そこでサッカーの基礎を学び、様々な経歴を経たのちに生まれ故郷で子供たちに指導する道を選んだのである。

 全員が日本サッカー協会の指導者ライセンスC級を持っているのは、各自が勝手にとったものであるが、おかげで小さなチームながらも保護者からの人気は高かった。

 年長者で経験があれば誰でも指導できる野球などの従来型のスポーツと異なり、サッカーにおいては監督やコーチとなるための資格が用意されている。

 それがライセンス制度だ。

 ライセンスがなくても別になれないものではないが、リフレッシュポイント制度の導入による更新が必要であり、常に勉強をもとめられることもあって資格者の需要は大きい。

 FCアケボノには、今、コート場にいる三人の他にあと二人のコーチがいるが、全員がC級ライセンスを持っているのである。

 

「マサトコーチのボールをきちんとカバーできるようになれよー」

「はーい!」

 

 FCアケボノは、九歳から十二歳までの子供たちで構成されている。

 学年でいうと、小学校三年から六年までであり、基本的にはそれぞれの年長組が年下の面倒をみながら練習をする。

 部活とは異なり、町のチームであることから、必要以上の上下関係もなく和気あいあいがモットーであった。

 対外的な試合や大会で勝つことが目的ではないため、中には反発を覚える父兄もいないわけではないが、そういう子供たちはプロのチームの主催するスクールなどへの移籍を進めたりしている。

 FCアケボノは何よりも愉しくプレーすることが第一なのだ。

 とはいえ、長い歴史もあることから、FCアケボノからプロになった選手もいたりする、知る人ぞ知るキッズチームといえた。

 

「アキオ、右走れ、右!!」

 

 岡安たちは危険なプレーをしたり、明らかな手抜きをしたりしない限り、教え子たちを叱らない。

 コートの外にいる父兄の眼があることもあったが、サッカーの動きには様々な解釈があり、そのときに応じた変化は多様に存在する。

 実際にその場にいた選手が選んだのならば、それが正しいか間違いかは断定はできないのだから、結果としてうまくいかなかった場合にだけダメ出しをすることに留めていた。

 プロや国別代表の選手であったとしてもすべて正しいプレーを選択できるわけではなく、いつでもトライ・エラーが求められるのであるからそれも当然である。

 

「おお、いい感じの突破だなあ。いいぞ!!」

 

 尊敬するコーチに褒められれば機嫌がよくなる。

 さらに子供たちの動きもよくなるというものだ。

 それがサッカー以外は微妙な人間性のコーチたちであったとしても。

 

「―――岡安コーチ、あとでまたいつものところで一杯やりましょーね」

 

 小声でアキオコーチが言うと、岡安も頷いた。

 

「おまえ、今日は金を払えよ。ツケ、たまってんぞ」

「げ、奢ってくださいよ、センパーイ」

「うるせえ、ふざけんな」

 

 サッカーの次にお酒が好きで、かつての教え子である女の子の一人からまで、

 

コーチ(あのひと)たちと遊んでいるとダメな大人になるよ」

 

 と、同級生に説教される男たちであった。

 とはいえ子供のうちは彼らのダメさ加減に気づくわけもなく、「コーチ、コーチ」と慕われていて悪い気分にはならなかった。

 岡安もそんな教え子たちを大切に思っていた。

 将来的にはいいチームへの斡旋をするために、近所の学校のチームを熱心に調べるなどの努力は怠ったりしない、いいコーチなのではある。

 練習の〆となる紅白戦をしているとき、ふと気がつくと、交代でキーパーをやっている6年生が倒れているのがみえた。

 

「シンジ!!」

 

 岡安たちはそれに気がつくと、一気に駆け寄った。

 見学していた父兄の数人もやってくる。

 倒れる瞬間は見ていなかったが、もしかして危険な接触プレーでもあったのではないかと危惧したのだ。

 心臓が止まっていたりしたら大変だと、備え付けのAEDを用意してくるものもいた。

 頭を動かさないようにその6年生を抱き起すと、岡安は拍子抜けした。

 小さな寝息を立てていたからだ。

 すなわち、そこから導き出される答えは……

 

「寝てんのかよ!!」

「驚かせんな……」

「ああ、死ぬかと思った」

 

 コーチたちも父兄も胸を撫で下ろした。

 ただ、練習中に寝てしまう子供なんて滅多にいないことから、それでも何かがあったのではないかと考え、そっと持ち上げるとコートの外へと運び出そうとする。

 

「オカさん、ちょっと!」

「なんだよ」

「サトシまで寝てるぞ」

「なにぃ!?」

 

 マサトが示した先には、DFの位置にいたはずの5年生が横になっていた。

 それだけではない。

 さっきまで元気に走り回っていた子供たちが、まるで糸の切られた操り人形のようにバタバタと倒れていく。

 父兄から悲鳴が上がった。

 それはさながら戦場のような光景であった。

 子供たちが次々と伏せていくという異様な状況は、そこに留まらず、コートの外にいた父兄たちにも及んでいた。

 数人がバタッと倒れたのだ。

 何が起こっているのか、岡安たちにはわからない。

 ただ言えることは明らかに異常な事態に直面しているということだけだ。

 コーチの資格では対処できないほどの異常な事態に。

 

「おい、救急車呼べ!! あと、警察だ!!」

「なんで警察なんスか!?」

「こんなにみんなが一気に倒れるわけねえだろ!! ガスか何かが漏れてんのかもしれねえ!!  場合によっては自衛隊の出番だ!!」

「あ、そうか。さすがオカさん!!」

 

 アキオが自分の携帯をとりに戻ろうとした瞬間、うっと呻くとそのまま蹴躓いて倒れた。

 頭を打たなかったのが不思議なぐらいの、まさに昏倒であった。

 

「おい、アキオ!!」

 

 岡安は事態が想像以上に深刻なのを悟った。

 まさか、アキオまでが……

 振り向くと、なんとマサトまでが倒れていた。

 コートの内外にいるもので無事に立っているのはもう自分だけであった。

 あまりにも想像の埒外のことに岡安は完全にテンパってしまい、どうすればいいのかまつたくわからなくなったとき―――

 

 パサッ

 

 と乾いた音がした。

 同時に岡安の顔に何かがかかった。

 粉のようなものだった。

 

「なんだ!?」

 

 思わず岡安が顔にかかったものを手にしてみると、それは粒の細かい砂のようなものだった。

 

「砂?」

 

 そう考えた瞬間、岡安の意識は薄れていった。

 急速なまでの眠気が彼を襲ったのだ。

 眠気のことを、例えで睡魔という。

 このとき岡安を襲ったのはまさに「魔」という言葉に相応しいほどの強烈であり得ないほどの眠気であったのだ。

 耐えようとしても瞼がまるで接着剤でもつけられたかのように開かなくなり、意識が一気に朦朧とする。

 そして、そのまま暗黒の中へと落下していった。

 

 これが後に新宿区集団催眠事件として報道されたものの発端である……

 



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謎を追い、人に追われる

 

 

「ボクは〈砂かけ婆〉の仕業じゃないかと睨んでいるんだけどね」

 

 新宿区内の三か所で、原因不明の集団昏睡事件が起きたということで、僕と御子内さんはその検証に乗り出していた。

 本来、ここの縄張りは猫耳藍色さんのものなのだが、彼女はある規格外の妖魅との戦いで先週負傷をしてしまっていたので、代役として御子内さんが指名されたのである。

 さすがのタフネスを誇る藍色さんでもあの一撃はキツかったらしく、しばらくは安静が必要と診断されていたのだ。

 間近で見ていた僕もその診断には同感だ。

 ちなみに御子内さんの縄張りは多摩地方と埼玉との県境、あと山梨県や神奈川県との境となっている。

 とはいえ、藍色さんが復帰するまでの間、このあたりの霊的治安を守っていたのは他でもない御子内さんなので手馴れたものだった。

 事件があったのは、新宿御苑と下落合の野球場、明治神宮の外苑傍の施設などで、朝から僕らはそこを精力的に見て回り、だいたいの状況を把握することができた。

 それらと〈社務所〉からくる情報と突き合わせてみて、最初の結論を御子内さんが導き出したという訳である。

 

「……〈砂かけ婆〉か。知名度の高い妖怪だね」

「いや、そうでもない。元々は兵庫県とか関西当たりの一部で伝わっているだけのマイナーな妖怪さ。某作品で有名にならなければ、ここまで広くは知れ渡らなかっただろうさ」

「へえ」

 

 僕は自分の持つ〈砂かけ婆〉のイメージを思い浮かべてみた。

 だいたい世間一般のもつイメージとの乖離はないはずだ。

 白っぽい和服を着て、灰色の顔と白髪をしたお婆さんというものである。

 手から出したり、壺から出したりと、そのあたりは違うみたいだけど。

 

「もっとも、〈砂かけ婆〉自体はどういう姿をしている妖怪なのかは伝承ではわかっていないんだ。漫画のアレはオリジナルみたいなもんさ」

「そうなの?」

「もともとは竹林とかでいきなり砂を掛けられた人が、他人に砂をかける妖怪がいると思って名付けたものだからね。一説にはムジナの仕業だと言われているぐらいだし」

「なんだ。また、タヌキか」

 

 基本的に、日本での妖怪譚は結構な割合でタヌキが原因になっている。

 いつかの〈のた坊主〉なんかはタヌキが化けたものだし、今は別の種族だと聞いている〈のっぺらぼう〉もタヌキのせいだと伝えられていた。

 怪異の世界ではタヌキというのはまさに一大勢力なのだ。

 

「でも、関西の妖怪がどうして東京の新宿で暴れてるの? その辺の意味がわからないんだけど」

「ボクも同感だね。少なくとも〈社務所〉の記録では〈砂かけ婆〉が関東で目撃されたことはないんだ。だから、別の妖怪の可能性はあるけど、被害にあった人たちは一様に顔に砂を投げつけられたと証言しているようだしね……」

 

 さっきあげた三か所で昏倒し、救急車で病院に運び込まれた人たちの証言を総合してみると、なにかをしていたら顔に細かい粒のようなものを浴びせられて、そのまま酷い眠気に襲われて倒れてしまったという点が一致していた。

 中には、粒のようなものが砂であることのまで確認した人もいたが、それ以上の情報は得られなかった。

 砂をかけたものの姿を見た人もいないし、掛けられたはずの砂の現物を持っているものもいなかった。

 それだけでは集団幻覚による原因不明の昏睡事件としかいえないレベルなのである。

 警察だけでなく新宿区の保健所も調査に乗り出していたようだが、ほとんど成果は得られなかったはず。

 だから、僕らが調査に入ったという事情があるのだ。

 

「他に砂をかける妖怪はいないの?」

「いることはいるけど、どれも小動物が砂をかける仕草が変化したようなものばかりだね。ほら、ネコが糞を隠す動作をネコババっていうけど、それがそのまま妖怪になった感じなのかな」

「ふーん、妖怪退治の専門家の退魔巫女がそういうのなら、まず〈砂かけ婆〉の仕業なんだろうね」

「ただ、そうなるとね。どうやって〈護摩台〉まで上げるかが問題になるんだ。正体がない妖怪ということは、現身を持っていないということでもあるからね。簡易結界で対処できる程度ならいいんだけど……」

 

 僕もそれなりに御子内さんの助手歴がついてきたからわかるが、確かに形のない妖魅と戦うのは厄介だ。

 力はそれほどでもないが、ふわふわとした実体のないものと戦うに等しいからである。

 逆に現身を手に入れた妖怪は強力すぎて〈護摩台〉がないと対処ができないレベルになる。

〈付喪神〉や死霊の類いは前者で、〈護摩台〉がないせいで御子内さんでさえ苦労したウサギの〈犰〉などが後者にあたった。

 リングみたいな〈護摩台〉にあげるということが、まず、ツッコミどころが満載だが非常に効果的なのは実証済みなのである。

 

「……ん?」

 

 御子内さんが眼を眇めた。

 その視線の先を見ても特に何もない。

 

「何かあるの?」

 

 総武線信濃町駅を降りて歩いて数分の明治神宮の外苑前にある、軟式野球場やフットサル場、バッティングドームのある道を進んでいたところだった。

 天気もいいので散歩している人も多数見受けられる。

 外苑の反対側、二匹のユニコーンの像が並んでいる少し段差のある所に、見覚えのあるコートと帽子姿の男がいた。

 もう秋なのでそれ程不自然な格好ではないのだが、顔面を包帯でぐるぐる巻きしている異相と手袋はかなりの不審人物だ。

 ただ、大柄でがっちりしているが、さっきまでは見かけなかったはずだ。

 視界に入っていたらさすがの僕でも見逃すことはない。

 なんだかこちらの様子を窺っている。

 

「―――ボクたちが信濃町駅を降りて歩道橋を渡っていたときから、異常にスムーズな歩法で陰から尾行していた」

「まさか……」

「歩く音も気配もしない。なるほど、()()()()訓練を受けていたというのは嘘じゃないみたいだ」

「でも、どうして、ロバートさんが……」

 

 そこにいたのは熊埜御堂さんの助手をしているイングランド人のロバート・グリフィンさんだった。

 何度も顔を合わせたことがある。

 だが、僕は知り合いがずっと黙って着けて来ていたという事実が納得できなかった。

 なにか用事があるのなら声をかけてくれればいい。

 別に敵対している間柄でもないのだから。

 それなのに、なぜ……

 

「てんのホームグラウンドはもっと江戸寄りだからな。もともと岡場所の四宿の一つである新宿とはかなり離れているはずだ。確か、熊埜神社で居候させてもらっていると聞いていたけどね」

「とりあえず、声をかけてみようよ」

 

 僕はロバートさんに呼びかけてみた。

 だが、彼はこちらに軽く手を振るとそのまま反対方向に行ってしまった。

 駅の方角ではないので、僕らとは真逆だ。

 少なくともそれでわかるのは、こちらと合流する気もないし、話をする気もないということだろう。

 僕の知っている彼はそんな偏屈なタイプではないので余計に気になる。

 ただ、集団昏睡事件の真相とその犯人の妖怪を追っている僕たちとしては、いくら知り合いでもそこまで気を遣っていられる時間はない。

 後ろ髪を引かれる気持ちで切り替えることにした。

 

「じゃあ、そろそろ行こうか。次はどうする?」

「戸山公園脇の病院に顔を出してみよう。新宿の事件なら、あそこで情報が拾えるかもしれない。時間があったら藍色のとこの神社も巡ってみるかな」

 

 この日曜日を目一杯使って、僕と巫女装束の御子内さんは事件の調査にあたることになっていた。

 今回の集団昏睡事件ではまだ目覚めていない人たちもいて、どういう風に転ぶかわからないという難事件でもあったのである。

 

 

 



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犯人を探せ

 

 

 昏睡状態に陥ったものは、全部で四十二人。

 大ニュースになってもおかしくないところだが、あまり報道はされていない。

 これから週刊誌などに嗅ぎつけられるかもしれないけれど、まだ数日は大丈夫だろう。

 ただ、戸山公園傍の〈社務所〉の施設である病院でもたいした情報は得られなかった。

 病院同士の繋がりから情報を集めていてくれたようだが、「砂のような粒が目に当てられた」「眠ってしまった」「おかしなものは目撃していない」というもの以外は一切手に入らなかったようだ。

 現場を巡っても共通点はなく、名探偵でもこれでは推理のしようがない。

 せめてヒントが一つでも手に入らなければ、九十九十九(つくもじゅうく)でも犯人に辿り着けないだろう。

 

「参った。妖気さえも感知できないし、八咫烏でさえ何も掴んでこない。お手上げだ」

 

 新宿駅東口のサブウェイでコーヒーを飲みながら御子内さんがぼやいた。

 一般の客以外に店員さんまでが巫女姿の彼女をマジマジと見物している。

 うーん、透明感あふれる美少女が巫女姿で闊歩していればどうしても目立って仕方ないね。

 僕は慣れたもので別に気にはならなくなっているけど。

 

「〈砂かけ婆〉はどこにいるんだろう」

「そもそも目的がわからない。人間を襲って食べる訳でもないし、砂をかけて人を惑わして道に迷わせるとかその程度の悪さをするだけの妖怪が、どうして新宿のど真ん中で暴れてるんだか」

「……そういえば、以前も新宿では妖怪騒ぎがあったみたいだし、何かあるのかなあ」

「藍色が〈鎌鼬〉を退治したって話だよ。確か、何だか知らないが外来種の〈鎌鼬〉とかで、こぶしが不思議がっていたなあ」

「へえ」

 

 僕は御子内さんの助手なので、彼女の戦いぐらいしか把握していないが、それ以外にも音子さんやレイさんたち同僚の退魔巫女たちも人知れず活躍している。

 藍色さんは復帰したばかりなのに、〈鎌鼬〉や〈怪獣王〉と戦ったりしていて結構大変だなあ。

 そういえば後楽園ホールで浅草寺のタヌキとも戦っていたっけ。

 

「待って」

「なんだい?」

「もしかして、これは本当に〈砂かけ婆〉の仕業なの?」

「どういうことかな?」

 

 僕は考えを整理してみた。

 御子内さんたちは専門家であるが、日本の妖怪についてのことである。

 だから、「砂をかける妖魅」ときたら、〈砂かけ婆〉が浮かんでくるのは当然だ。

 ただし、今年の春の井の頭公園の妖怪や藍色さんが倒した〈鎌鼬〉、今でもタヌキたちと抗争を繰り広げているハクビシンなど、外からやってきた連中のことは視野に入っていない。

 僕たちだって、ついこの間〈ドッペルゲンガー〉という外来の妖怪に苦労させられた。

 つまり、このやむを得ずともグローバル化が進んだ社会では外国からやってくる妖怪も考慮しなければならないということだ。

 要するに、結論としては思考を硬直化させることは問題ということである。

 スマホをだして検索してみる。

 妖怪の文献で詳細を調べるより以前のとっかかり程度なら、ググったぐらいでも問題はないはず。

 

「うーん、砂と妖怪でググると、〈砂かけ婆〉しかでないなあ」

 

 もっと深く調べてみると、妖怪ではなく妖精の枠で〈砂男(サンドマン)〉というのがあった。

 ホフマンというドイツの作家の小説もあるけど、基本的にドイツの民間伝承に登場する妖精で、砂を掛けて人を眠りに落とさせる睡魔でもあるらしい。

 それだけをみると、今回の事件に該当する。

 

「ねえ、御子内さん。〈砂男〉ってどうかな」

「どれどれ」

 

 スマホの画面を見た御子内さんの眼が鋭くなる。

 

「ありうるか……」

「うん。〈砂かけ婆〉の伝承ではピンとこなかった「眠り」の要素が補完されることになるとは思う」

「うーん、ドイツの妖精か……。でも、どうしてそんなものが日本にいるのかな」

「それはさすがに」

「町田に日本における妖精研究の泰斗がいたから、そこに聞いてみるという手はあるね。でも、京一の言う通りだとすると、〈砂かけ婆〉を探しても見つからないのも納得するしかないか」

 

 僕らはハンバーガーを食べながら今後の方針を相談する。

 

「でも、〈砂男〉というのは夜更かしをしている子供たちを脅かしたりする妖精なんだろ。少なくとも野球をしていたり、サッカーをしている人たちを眠らせる理由にはならない」

「そうだね。無差別に暴れ回っているように思える。もしくは、自己の存在を顕示するためのものかな」

「〈砂男〉がここにいると主張してどうにかなるのかな。ボクら、〈社務所〉の媛巫女を招き寄せるだけにしかならない」

 

 妖魅怪異の類いにとって、関東の退魔巫女と関西の仏凶徒はともに天敵といえる存在だ。

 だから、わざわざ敵を呼び寄せる必要はない。

 自己の存在を訴えるのは悪手だ。

 

「まともな目的もないぐらい、おかしくなっている妖精が暴れているということかな」

「そういうことなんじゃないか」

 

 ……それならそれでいいけど。

 

「だけど、引っかかるのは、さっきてんのところの助手がいたことだね」

 

 御子内さんが腕を組んだ。

 

「彼はどうしてあんなところにいて、ボクらを尾行していたのか。てんの指示だというのなら、あいつがボクに連絡をしてこないはずがない。つまり、彼の独断なんだ」

「熊埜御堂さんに聞いてみたの?」

「いや、まだ。でも、聞くまでもない気がする」

「どうして」

「だって、さっきからそこにいるし」

 

 店の奥を見ると、なんとコートに帽子姿の包帯グルグル巻き男がコーヒーを啜っていた。

 またもいつのまに、という感じだ。

 さっきまでは影も形もなかったはずなのに……

 

「ロバート、こちらに来たらどうだい」

 

 御子内さんが手招くと、ロバートさんが警戒しながらこちらにやってきた。

 椅子をすすめられて、僕らは合い席となる。

 改造巫女装束の美少女と包帯グルグル巻きの不審な男性、警察に通報されないか不思議な組み合わせだ。

 普通のブルゾンとジーンズ姿の僕なんかきっと誰の眼中にも入っていないだろう。

 

「……久しぶりだね。後楽園ホール以来かな」

「ああ、私はあまり外に出られないからな」

 

 まあ、透明人間だからね。

 ロバート・グリフィンさんは、実はイングランド出身の透明人間なのである。

 とある事情があってこの日本で暮らしているが、その体質のせいで色々と狙われていることから〈社務所〉の退魔巫女である熊埜御堂さんが助手として庇護下においているのだ。

 僕とある意味同じ立場なんだけど、危険さがまったく違う。

 

「で、単刀直入に聞くよ。どうして、ボクらのあとをつけた? ボクたちみたいに大して目立たないものを尾行するなんて普通じゃないだろ」

「うん、御子内さんもそろそろ自覚しようね。……どうなんですか、ロバートさん」

 

 すると、透明人間は沈黙した。

 喋ろうとしているが、理由があってなにやら躊躇っているように見える。

 

「……おまえたちがどこまで掴んでいるかを知りたかった。ただ、それだけだ」

「理由は?」

「いえない。言う必要もない」

「ふーん。じゃあ、てんはキミの行動を知っているのかい?」

「てんは関係ない。基本的には私の独断によるものだ」

「誰かが犠牲になる可能性は?」

()()。おまえたちが心配するように()()()()()()()()()()()()()()()()()はずだ」

「―――もう集団昏睡事件が起きているけれど」

「所詮は、寝てしまうだけだ。カザフスタンで起きた眠り病の被害のようなこともないだろう」

「わかったよ。ボクからキミに訊ねることはもうない。呼びつけて悪かったね」

 

 ロバートさんは立ち上がり、

 

「いいさ。もう冷めている」

 

 といってコーヒーをぐい飲みすると、そのままサブウェイから出ていった。

 見た目のとんでもない不審者臭がなくなれば、どことなくハードボイルドでかっこいい。

 ただ、やはりというか今回の事件に彼が関わっていることは明白だ。

 

「……さて、ヒントは手に入った」

 

 御子内さんが言う。

 

「ヒントって?」

「ロバートはてんに内緒で動いている。ということは、てんにとって迷惑がかかるということだ。妖怪絡みではないということさ」

「なるほど」

「あとは、カザフスタンの例えを出していたが、あれはボクも知っているけど、たしか六日間ぐらい眠り続けたはず。でも、ロバートはあれほどではない、と断定した。つまり、今回の昏睡事件の症状を把握しているということだね。したがって、そこからあいつは犯人を知っているということがわかる」

 

 今日の御子内さんは冴えている。

 もともと頭のいい女の子なので、ヒントさえあれば簡単なのだろう。

 

「罪のない人は、とわざわざ断言してた。要するに反語だね。要するに、あいつは罪のある人は傷つけられるかもしれないといっているんだ」

「罪のある人?」

「おそらくボクの勘だと、自分のことだろう。ロバート・グリフィン以外は大丈夫といってるということは、狙われているのはあいつってことだ」

 

 僕の思考も追いついた。

 

「犯人が派手に自分の存在を顕示しているというのは、ロバートさんに気付かせるためか。『俺はここにいるぞ』と」

「だろうね。で、あいつはわざわざボクたちを関わらせないように接触してきた。バレるように尾行したのは情報をとるためだろう」

「いや、それだとむしろさらに御子内さんがハッスルするだけじゃないかな。君、止められてとまるタマじゃないよね」

「ハッスルなんて死語を使わないでくれ。……まあ、意識的か無意識なのかは知らないが助けを求めてはいるんじゃないかな。だったら、ハッキリとしてくれたほうがいいんだけど」

 

 ダチョウ倶楽部のフリのようなものだ。

 助けてほしいなら直球の方が楽でいいのに、きっとロバートさんは変なプライドがあるのだろう。

 自分が原因の何かが起きていて、怪我をするかもしれないけれど素直に助けを求められない。

 前からそんなところあったなあ、あの人。

 

「どうするの?」

「犯人が何者かは知らないけれど、ボクの縄張りで好き勝手はさせられない。とっとと片づけよう」

「新宿はもう藍色さんの縄張りだよ」

 

 御子内さんは残っていたポテトを大口開けて流し込むと立ち上がった。

 どうやら闘志に火が点いたらしい。

 きっとなんとしてでもこの新宿昏睡事件を解決するつもりなのだろう。

 

「やれやれだね」

 

 僕も付き合うしかないのが辛いところではある。

 

 

 



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〈砂男〉との邂逅

 

 

 私は新宿前のファストフード店を出ると、そのまま三丁目方面へと歩き出した。

 昨日と今日の二日間、新宿中を歩き回ったことから、目標は私を見つけ出したはずだ。

 もともと、奴が新宿で目立つ行動をしていたのは私にメッセージを伝えるためなのだから、それに応えるように動き回っていれば見つかるのは当然のことである。

 

〈砂男〉。

 

 まさか、奴がこんな極東の地まで私のようなどうということのない裏切り者を追ってくるとは思わなかった。

 なぜなら、〈砂男〉はコッペリウス家という、とある妖精の血を引く家系出身の暗殺者であり、独逸系でありながら倫敦のディオゲネス・クラブの重鎮の一人なのであるのだから。

 その二つ名の通りに〈砂男〉というドイツの妖精の血を引く奴は、人の目に魔法の砂をかけることで昏睡させる力を持つ暗殺者だ。

 眠りの度合いによっては死に至る領域にまで達せさせることができる能力(ちから)であり、簡単に標的を無力化させることができる〈砂男〉は、特に優れた暗殺者として私が子供の頃から良く聞いていたものだ。

 そんな奴がどうして日本にまでやってきたのか……

 

「私を連れ戻すためだろうけどな」

 

 魔導機関ディオゲネス・クラブが今となっては珍しい透明人間であるであるグリフィン家の人間を必要としているのだろう。

 半年ほど前も日本の退魔組織である〈社務所〉に私の確保を要求していたようだし、今度は〈砂男〉までがやってくるとは思いもしなかった。

 なぜ、私なんかをそれほどまで連れ戻そうとするのか。

 まったくわからないが、私の問題だとするのならば自分でやるしかないのだ。

 だから、てんには内緒で動いているし、彼女の同僚である御子内たちにまでわざわざ探りを入れておいたのである。

 暗殺者として叩き込まれたスキルを使って盗み聞きをしたら、彼女たちは〈砂かけ婆〉という妖怪を追っているようだった。

 だとしたら、余計なことをしたかもしれない。

 何度か会っただけだが、御子内と助手の升麻は勘のいいコンビだ。

 私の行動の裏まで読み取られてしまったかもしれない。

 だから、決着をつけるとしたらもうすぐにでも動く必要があるだろう。

 

 三丁目を抜け、やや新宿でも評判のよろしくない界隈に入ったとき、路上の片隅に一人の男性が蹲って眠りこけているのが見えた。

 いくら日本でもこの一帯で不用心に寝ているのは危険だ。

 せめて声をかけて起こそうかと思ったとき、その男さらに後ろにある路地に、また数人の男が倒れているのが見えた。

 いや、彼らも寝ているのだ。

 耳を近づければきっと気持ちよさそうな寝息を立てているに違いない。

 非常にわかりやすい自己紹介であるといえた。

 奴が私を誘っているのだ。

 ゆっくり周囲を見渡すと、それなりに大きめの公園があった。

 もし待っているとしたら、あそこだろう。

 私はそこまで歩を進めた。

 

「―――探し出すのにたいして苦労せずに助かったよ、ミスター・グリフィン」

「お初に御目にかかります、サー・ナタリエル・コッペリウス」

「サーの称号はつけなくていい。吾輩は没落するのが趣味ではないのでね」

「では、二つ名で。〈砂男〉コッペリウス」

 

〈砂男〉はジョンブルらしい嫌味のない重厚な仕立ての背広を着て、まったくもって似合っていないはずの寂れた公園のベンチに腰掛けていた。

 重厚で堂々としたシルエット、高級な生地、そして見事な裁縫技術―――サヴィル・ロウで仕立てられた背広がここまで似合うものは、今となっては本国でもそうはいないだろう。

 万人が想像するジョンブルそのものであった。

 たくわえられた口ひげもハサミが丁寧に入り、手にした馬頭のステッキは傲慢さの証しのようだ。

 しかし、この中年の紳士こそが、ディオゲネス・クラブでも最高の暗殺者の一人でもあるのだ。

 私は警戒心の鐘の音がガンガンと鳴り響いているのを感じていた。

〈砂男〉ナタリエル・コッペリウス。

 一対一で対峙するには恐ろしすぎる男であった。

 

「単刀直入に言おう。英国に戻り給え。我々は君を必要としている」

「私ではなく、グリフィン家の透明人間が、でありましょう。残念ながら私は廃業させてもらっています」

 

 コッペリウスは口ひげをいじりながら、

 

「そうはいかない。状況が変わっている。今、我が英国には働ける透明人間がいなくてね、是非、君に復帰してもらわなくてはならない」

「父や兄がいるはずです」

「お父上は引退なされた。兄上たちは再起不能だ。後継者たる君の甥っ子たちはさすがに幼すぎる。要するに君しか使える人材がいないのだよ」

 

 なるほど、そういうことか。

 父はもう年齢が相当なものであったはずだし、兄たちも何らかの事情で負傷して動けないのだ。

 だから、唯一成人している私を呼び戻すことにしたのだろう。

 

「私になにをさせるつもりですか?」

「今、欧州はきな臭くなっていてね。細心の見立てではシリア発の中東の難民どもが来年にはEU各地に流れ込むことになるだろうと予想されている。わが母国についてもご多分に漏れずだ」

「それと何が‥…」

「来年、キャメロンの公約に基づいてEU離脱の是非を問う国民投票がある。わがクラブとしては、いつまでもあんな大所帯と一緒にやる気はない。我らが英国の独立性が失われるからな。ゆえにEUからの離脱が優位に運ぶように手をつっこまなければならんのだ」

 

 つまり、それは……

 

「反対派の重要人物を私に暗殺しろ、というのか!」

 

 ここまでの話の流れでわからないことはなくなった。

 私を暗殺者として便利に使い倒すためだけに、イギリスに呼び戻そうとしているのだ。

 父も兄たちも何らかの事情でもう家業を続けられない。

 だから、私に白羽の矢が立ったということか。

 

「そうだ。倫敦を導いていると言ってもいいディオゲネス・クラブは最強の暗殺者であるグリフィン家の〈透明人間〉を求めている。君も吾輩と共に故郷のために力を尽くす気はないかね?」

「ふざけるな!!」

 

〈砂男〉の提案を私はにべもなく拒絶した。

 今更、暗殺者の道に帰還するとでも思っているのだろうか。

 人殺しが絶対に嫌でこんな極東の島国まで逃げた、この私が。

 

「絶対に拒否させてもらう。私が英国(こきょう)を捨てた原因の一つは、今のおまえのような鼻持ちならないジョンブルに我慢できなかったことにある。今更、英国に戻る気などない!!」

「―――グリフィン家は滅びるぞ」

「結構。……先祖から伝わる妖精の血を悪事や陰謀のために振るうことは本来許されるべきことではない。それはおまえも同様だ、〈砂男〉!!」

 

 妖精である〈砂男〉の能力(ちから)を、魔導機関・ディオゲネス・クラブのために使って恥じないこの男は断罪されるべきなのだ。

 ステッキで地面を衝きながら、〈砂男〉コッペリウスはゆっくりと立ちあがった。

 私よりもやや小柄だが、がっちりとした体格は身に修めた格闘技の素地を感じさせ、落ち着いた佇まいはそれで修羅場を掻い潜ってきたであろう事実を伝えてくる。

 この壮年の男性は見た目のエレガントとは裏腹に極めて危険な人物なのであろうことは疑いの余地がない。

 

「一人たりと暗殺できずに出奔したグリフィン家の出来損ないがよくぞ吠えた。だが、その報いは受けるべきだろう。ここで叩きのめして、力づくで故郷まで連行させてもらう。なーに、吾輩、言うことを聞かないものを黙らせるのもわりと得意なのだ」

「……なんだと」

 

 確かに私は人殺しをしたことがない。

 その前に逃亡したのだから。

 すると、コッペリウスはステッキを弄びながら、

 

人殺し(マーダー)が……」

 

 私を見下すような視線を向けて、

 

造るのだよ(メイクス)

 

 諭すように言った。

 

人を(マン)

 

 倫敦が誇る男性服のメッカであるサヴィル・ロウ仕立ての最高級品をまとった死神と、私は対峙した。

 それはかつて熊埜御堂てんと戦ったあの夏のリングを彷彿とさせる、背筋が震えるほどに恐ろしい瞬間であった……

 

 

 



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レッスンONE

 

 

 相手は特別な行為をしているのではない。

 ただ、ステッキを抱えて立っているだけだ。

 それなのに私の脳幹に対してずっと強い刺激が与えられ続ける。

 一瞬でも隙をみせたら、途端に食い殺される猛獣を前にしているような気分であった。

 両手を前に出し、「CatchAsCatchCan(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)」の構えを見せる。

 掴まえてそのまま極めて関節をとる。

 そうすればいかに暗殺者〈砂男〉でも制圧することはできるだろう。

 楽観はしていなかった。

 それしか選択する余地はないのだ。

 

「どうした? 一日、立っているつもりか。戦うのか?」

 

〈砂男〉が前に出る。

 私は圧に負けて下がった。

 しっかりしろ、ロバート・グリフィン。こんなことで怖気づいてどうする!?

 私は勇気を振り絞って仕掛けた。

 振った右手がステッキの腹で防がれる。

 二度振っても同じ形で防がれて、ステッキの柄を顔面に食らった。

 怯んでしまったところ、腹部を蹴られた。

 そのまま吹き飛ぶが、なんとかたたらを踏んでこらえる。

 もう一度飛びかかるが、下から回ってきたステッキに顎を殴られ、動きが止まってしまったところの軸足を刈られた。

 倒れそうになると腕をステッキを梃子として極められ、肩の骨が悲鳴を上げる。

 ステッキの先端が喉を衝き、私はビリヤードの手玉のように弾かれた。

 ほんの二秒ほどの間で、私は地面に背中から倒れこんでしまう。

 見えない訳ではない。

 ただ、あまりにも速いのだ。

 しかも、〈砂男〉はほとんど背筋を張った仁王立ちのまま、私の攻撃をいなし、逆襲してきた。

 まさに、()()()()()()としか言いようがない。

 

「まったく訓練をしていないということではないようだな」

「……」

「鍛え直せばまだ使えるか」

「ごめん被る」

 

 私はコートを脱ぎ捨てると、身軽になった身体でタックルに入った。

 正統なタックルではなく、肩を前面に出したショルダーチャージといってもいい。

 スクール時代のラグビーではどんな大男でも吹き飛ばした私の十八番だ。

 だが、そんなものはプロの暗殺者には通じなかった。

〈砂男〉は左掌で肩を押さえると、身を捌き、ステッキを私の股の間に差しこむ。

 膝の裏を押された。

 子供の遊びに膝カックンというものがあるが、それと同じ理屈で私は体勢を崩す。

 そこを前蹴り。

 空手の技のようなものではない。

 乱闘向けの雑な蹴りだ。

 ただ、そんなものでも私は無様に倒れて地面を転がり、這いつくばることになる。

 強い。

 脳裏に浮かぶのはただその一言だ。

 てんと戦ったときはまだ透明化していたこともあり、ここまで圧倒されなかったが、まともにやりあっても勝てる自信はあった。

 しかし、この〈砂男〉は違う。

 潜ってきた修羅場の数が段違いなのだ。

 格闘で勝てるとは到底思えなかった。

 加えて言えば、こいつは〈砂男〉の名称の元である妖精の力をまるで使っていない。

 まだ底が有り余っている。

 戦慄で震えた。

 ここまで差があるとは……

 

「レッスンをして欲しいのか、グリフィン。残念ながら、吾輩はあまり暇な訳ではないのだ。早く君を倒してパブで一杯やりたいところでね。……あと、吾輩はもうすぐ始まるノースロンドンダービーを観戦しなければならんのだ。ブックメーカーにいくらか賭けているからさ。君はどこを応援しているんだい?」

「……私はクローリー・タウンFCのサポーターでね。プレミアには興味ない」

「そうか。国外にいても応援するチームを替えないのは良いことだ。知っているかい? 車と女は乗り換えられてもチームは乗り換えられないという言葉を。ACミランのサポーターの言葉だ」

「わかるよ」

「いいね。フットボールのファンはそうでなくては。―――では、レッスンを続けるとしよう」

 

 〈砂男〉はステッキをサーブルのように構えた。

 先程身をもって体験したことから、あのステッキのなかには鉛が仕込まれていることはわかっている。

 あれでしこたま殴られたらいくらなんでも悶絶して気絶してしまう。

 普通なら重くて使いづらい凶器だろうがこいつに関しては別だ。

 化け物め。

 

「どうした、もう降参か。わざわざ、この通り(ストリート)の気味の悪い同性愛者を追い出して作った場所なのだ。もっと抵抗してくれないと張り合いがないぞ」

 

 同性愛者を追い出して……?

 さっき眠っていたやつのことか?

 

「やはり、私を誘い出すためにやったのか? この区の住民たちを無差別に眠らせたように?」

「そうだ。こんなゲイの溜まり場のような街、吾輩にとっては不浄極まりないが、砂を掛けても微塵も心が痛まない連中なので助かったぞ。まあ、極東のアジア人などに割く心など欠片もないがね」

「……おまえの能力では下手をすれば眠りについたまま一生目を覚まさないこともあると聞いている。それなのに罪悪感の一つもないのか?」

「無論。同性愛者やアジア人になにを感じろというのだね?」

 

 このとき私は熊埜御堂てんのことを思い出した。

 敵の骨を折り、関節を破壊することを厭わないサイコパスのような少女のことを。

 私は彼女に恩があるが、今までてんを理解出来ていたとは思わない。

 彼女は本当にキュートでクレイジーな少女だからだ。

 ただ、彼女の根底には隠しきれない優しさがある。慈愛がある。聖母の心がある。

 他人を虫けらのように扱うことを決して許さない慈悲がある。

 だからこそ、英国に送り帰されるところだった私を匿ってくれたのだ。

 もし英国に戻っていたら、私は眼前の男のようなものに作り替えられていたであろう。

 彼女は私の恩人だ。

 私ひとりを誘い出すために、何人もの人間を危険にさらすこいつのようなものにならなくて済んだことを感謝する。

 そして、いつもてんが抱いている義憤というものを私はついに形あるものとして内包した。

 

「……見るだけで嘔吐くほどの幼稚な悪、というのはおまえのような奴のことを言うのだな」

「なんだ、急に」

「なるほど、ようやく私もてんのことがわかるようになってきたぞ」

 

 こいつはEUから英国が離脱するかどうかを左右するために暗殺者を用意をしにここにいる。

 つまりは暴力で世界を変える気なのだ。

 てんも暴力を使うがそれとは決定的に違うものがある。

 ()()がなければ、暴力など所詮は実力の行使でしかない。

 だが、()()があるだけで光が射す方向はまったく逆のものに変わる。

 

「善なるものとはこういう気持ちになるものなのか」

 

 大人の考えや政治的思考など関係ない。

 プリミティブな感情に支配されろ。

 人をゴミのように扱うものを許してはならない。

 

「私は変わるぞ、〈砂男〉。魂ぐらいは退魔巫女に寄り添えるようになるためにもな」

 

 私は顔の包帯を剥ぎ取った。

 少しでも動きやすくするために。

 このプロの暗殺者を凌駕するために。

 

 

 



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グリフィンとコッペリウス

 

 

 エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマンは、ドイツ出身の幻想文学作家である。

 エドガー・アラン・ポーよりもさらに独特な現実と夢想が入り混じった作風の持ち主であるが、当時はともかく現在ではほとんど知られていない作家となっている。

 そのホフマンが1817年に発表した「夜景小曲集」という短編集に収められたのが、「Der Sandmann(砂男)」であった。

 内容としては、ナタナエルという青年が幼馴染のロタールに宛てて書かれた手紙の中で、彼が実在を信じる、眠らない子供の目玉を奪っていくという「砂男」についての語り、彼の父親のところに来訪する老弁護士がそうではないかと確信することから始まる。

 老弁護士の名はコッペリウスといい、彼はナタナエルの父の書斎で、謎の爆発によって行方不明になっていた。

 そして、成長した彼の下宿先にコッペリウスにそっくりの晴雨計売りコッポラが現われ、そこからナタリエルが市庁舎の塔の上から落下するまでの物語が綴られていくのである。

 全編にわたって、「目玉を抉りだす」砂男という不気味なキーワードに支配された内容はジクムント・フロイトの研究材料にもなり、様々な分析がなされていく。

 幻想文学の枠には含まれているが、私はこの物語がほとんどノンフィクションであると確信していた。

 なぜなら、私の近いご先祖さまについて、H・G・ウェルズが取材した結果、「透明人間」が書かれたことを知っていたからだ。

 さらに倫敦を本拠地とする魔導機関ディオゲネス・クラブにいるコッペリウスという名前の暗殺者のことは有名であった。

 おそらく今の私の眼前にいる〈砂男〉は、ホフマンがモデルにしたコッペリウスの遠い子孫に違いない。

 ディオゲネス・クラブがグリフィン家と同様に抱え込んだ、妖精の血を引く一家、それが眠らない子供の目玉を奪っていくという砂男の正統な末裔なのだ。

 私はシャツまで脱ぎ捨て、上半身を裸にする。

 これで準備はできた。

 

「ほお。すべて脱衣して透明にならないのか」

「透明人間相手の対策はしていると睨んでいる。天下の〈砂男〉がなにもしないはずがない」

「それは当たっている。では、レッスン2に入るとしようか」

 

〈砂男〉コッペリウスはステッキを構えた。

 もともとステッキは欧州の紳士にとっては護身用の武器である。

 芯に鉛を詰め込んだやつのものであれば、十分に敵を撲殺するだけの凶器となりうる。

 

「透明に頼り切らないところは見どころがあるな」

「ぬかせ!」

 

 私は今度こそ本気で〈砂男〉に飛びかかった。

 下半身はスーツのパンツを掃いているので透明ではないが、シャツと包帯を剥いだ以上、上半身はグリフィン家の人間に相応しい透明の姿だ。

 だから、傍から見るとズボンだけが砂男に向かっている奇妙な光景に見えるはず。

 こうしたのは理由がある。

 全裸になって透明になったとしても、それで必ずしも優位に立てるとは限らないからだ。

 てんとの戦いでもわかったが、透明人間のメリットは、突き詰めれば奇襲を掛けやすいことと動きを読み取られないことにある。

 逆にいえば、それ以外はないのだ。

〈砂男〉のように私のことを把握して来たものだと、おそらくきっちりと対策を練ってきているだろう。

 逃げ出すことができないとなれば、全身を透明にするのは無意味だ。

 正面から挑むのならば、むしろ透明は部分化した方がいい。

 

「ぬっ!?」

 

 私の拳が伸びた。

〈砂男〉は必要以上に後方に跳躍する。

 おそらく腕のリーチが読み取れなかったのだろう。

 つまりは私のすべてを見切れている訳ではないということだ。

 上半身だけの透明とはいえ、これは通用する。

 しかも、その際に足を使うことで、普段は不可視ということで逆に無意味なフェイントもできる。

 いかに〈砂男〉といえど見えないということは確実にプラスに働いていた。

 

「くっ」

 

 裏から手首を掴んだ。

 

「えいっ!!」

 

 そのまま引き寄せて極めようとした。

 だが、掴んだと同時に力が逆流する。

〈砂男〉が私の力をタイミングで外したのだ。

 手をとられたまま引きずり寄せられ、肩を取られる。

 身体が見えなくても関節はとれるということか。

 私はバランスを崩さないように、左手で〈砂男〉の太ももを取り、タックルのように抱え込んだ。

 一気に押し倒す。

 ステッキの間合いの中に侵入し、直接、私のレスリング「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン(Catch As Catch Can.)」で骨をいきなり叩き折る。

 それで戦闘不能にする。

 だが、押し倒そうとした〈砂男〉はそう簡単にこちらの思い通りになってはくれなかった。

 下方から膝蹴りが私の腹を貫いた。

 鳩尾に入ったからか、内臓ごと持っていかれそうな痛みに襲われる。

 ただし、掴んだ手は離さない。

 キャッチしたまま、さらに掴み(キャッチ)、立ったまま首をひねりあげる。

 スタンドでのがぶりだ。

〈砂男〉を立ち技で落とすために力を籠める。

 これで終わりだ、と確信を持つ。

 しかし―――

 

 ふぁさ……

 

 私の顔に細かい粒子のようなものがかかった。

 

「うっ!!」

 

 喉が焼けたように熱くなる。

 これは……

 まるで火事場の煙でも吸い込んだかのようだ。

 思わず噎せる。

 おかげで締め上げていた力が緩む。

 そこを見逃してくれるヤワな敵のはずがない。

 私は背中をとられ、首を絞められる。

 不可視であっても密着してしまえばあとは関節をとるかとられるかの争いだ。

 だから、さらに私は両手を振って回転し、もう一度捕らえようとしたが、指が滑る。

 サヴィル・ロウの高級生地が私の指の摩擦をするりと流してしまったのだ。

 いい位置をとられた。

 ステッキの横っ腹が顔面をへこませた。

 私はよろめき、またも腹に膝蹴りを受ける。

 その勢いでもう一度顔を叩かれ、膝が崩れる。

 人体の急所である顎を直撃されたのだから当然だ。

 無様に膝をついてしまう。

 

「くっ……!!」

 

 しまったとしかいえない。

 これほどの接近戦で不覚を取ってはどうしようもない。

 透明で見えないという利点を生かしたとしても、私は〈砂男〉には敵わないということか。

 実戦を経てきた暗殺者相手にするには私では力不足だったのかよ……

 あまりにも呆気なく負けるのかと哀しくなった。

 さっき顔に当たったのはまぎれもなく〈砂男〉の「砂」だろう。

 眼に当たっていないので眠りに落ちてしまうことはないが、遅かれ早かれ私は昏睡状態に落とされる。

 てんに何と言って詫びればいいのか。

 私を誘い出すために犠牲になった区民になんといえばいいのか。

 良くしてもらった恩も返せずに私は〈砂男〉によって英国まで連れ戻される。

 あとは、権力者に言われるがままに人を殺し続ける人生になるだろう。

 日本で暮らした平穏な十五年はついに終わるんだな。

 ……そんな諦めが脳裏をよぎったとき、

 

 パン パン

 

 と何か軟らかいものが破裂するような音がして、私の首に手を掛けていた〈砂男〉が飛び退った。

 いったい、何が起きたのかという問う前に、聞き覚えのある声がした。

 

「―――何者かはしらないけど、ボクの縄張りで勝手な真似はしないでもらおうか」

 

 公園の入り口に少女と少年が立っていた。

 少年は何の変哲もない格好をしていたが、少女の方は紅白の巫女装束に身を包んでいる。

 

「どなたですかな?」

「知らざあ、言って聞かせようか。―――ボクの名は、関東鎮護の退魔の媛巫女、御子内或子さ」

「ほお」

 

〈砂男〉が表情を変えた。

 私の時には見せなかった変化だ。

 

「……君が噂の、〈社務所〉の巫女か」

「悪いが、その透明人間はボクの後輩の助手で、大事な労働力なんだ。まだ搾取しきっていないので連れていかれたら困るんだよ」

「御子内さん、オブラートに包んで……」

「もとい、大切な仲間でね!」

 

 二人で漫才をするのはやめてくれ。

 

「あと、これはボクの勘だけどキミが最近の昏睡事件の犯人ということで間違いないかい?」

「……だとしたら、どうするのかね?」

 

 御子内或子は拳を握った。

 

「罪もない民草を自分の都合だけで眠らせて、命の危険まで与えた罪をボクが許すわけはないだろう。このまま、一発入れて叩きのめしてあげるよ」

 

 ああ、この娘ならそういうと思った。

 例え相手が妖精の血を引く暗殺者であったとしても。

 てんの同類というのならそう言うだろうと。

 

 ―――きっとわかっていたのだ。

 

 



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砂塵乱舞

 

 すでに動けなくなっている私を放置し、〈砂男〉コッペリウスは御子内にステッキを構えた。

 先ほどよりも警戒しているのが見て取れる。

 私なんかとは比べ物にならないほどだ。

 屈辱を覚えない訳ではないが、実際のところ私はてんにはコテンパンに叩きのめされ、御子内はそのてんよりも強いというのだから仕方のないところだろう。

 しかも、完全に制圧された私などにはもう目もくれない。

 プロの暗殺者がここまで警戒心を顕わにするとは……

 

「……御子内!! こいつは〈砂男〉だ!! ()()()()()!!」

 

 私はさっき咽喉を焼いた〈砂男〉の特技を見破っていた。

 こいつは、口内に溜めた砂をまるで鉄砲魚のように獲物の顔面に吹き付けることができるのだ。

 がぶった瞬間にこいつの唇が尖り、そこから吹き付けられた砂を私は吸い込んでしまったのだ。

 人の眼にかかるとなすすべもなく眠りについてしまう魔法の砂は、吸い込んだだけでまるで火で炙られたように咽喉を焼いた。

 おかげで私はほぼ身体が動かせない。

 御子内への叫びが私にできた最期の行動であった。

 

「余計なことを」

 

〈砂男〉が私を踏みつけた。

 英国式の堅い革靴の底で踏まれると痛いなどというものではない。

 あまりの激痛に身をよじるしかなかった。

 

「ロバートさん……!!」

 

 升麻の私を案ずる声がした。

 彼にそこはかとない友情を感じている私としては少し辛い状況だ。

 

「口から砂を吐くとは、ヨーロッパの〈砂男〉とはなかなかけったいなものだ」

「君こそ、なかなか妙な娘だ。この透明人間を護るために吾輩とやりあおうというのであるからな」

 

 すると、〈砂男〉の口からサラサラと砂が滝のように落ちていく。

 あまり気持ちのいい光景ではなかった。

 人の口からこれほど大量の砂が零れるというのは尋常なものではない。

 しかも、その白い砂は驚くほどきめが細かかった。

〈砂男〉という異名も理解できるほどであった。

 

「……ふむ、妖精の血を引いている一族ということか。体内に砂を溜めこんだ人間なんて初めて見たよ」

「ふふふ、吾輩の正体をよくわかっているな」

「アサリを砂抜きせずに食べられそうだね、キミ。いちいち、塩水で砂抜きするのは面倒だからちょっと羨ましいぞ」

 

 暗殺者の側の緊張感や不気味さをまったく無視して、御子内は呑気な感想を述べていた。

 

「ロバート、あと少し待っていたまえ」

 

 そう言って御子内が公園に入ってくる。

 升麻だけは入口で止まった。

 

「〈砂男〉。ボクの国でこれ以上、悪さはさせない」

「できるものならやってみるがいい」

 

 御子内は拳を構えた。

 だが、二人の距離は一挙手一投足というほどではない。

〈砂男〉が砂を飛び道具に使うことを考えると、はっきりいって御子内の方が不利だ。

 間合いに飛び込むまでに、〈魔法〉の砂をかけられてしまっては勝ち目がない。

 あの砂は眼球に至らなくても瞼の上からでも睡魔を発動させることができるのだから、近づく前に昏倒させられてしまうおそれがある。

 だが、すでに退魔巫女と暗殺者は決闘の舞台に立っている。

 もう止めることはできない。

 できるものなら升麻が止めているだろう。

 

 ……〈砂男〉は私の時と違って懐にいれるつもりはないのだろう。

 初っ端から砂の存在を見せつけたことがその証拠だ。

 新宿の区民を大量に眠らせたときのように、遠くから砂をばら撒いて御子内が近づく前に止めるつもりだろう。

 だから、いくら彼女の動きが速くても〈砂男〉を捉えることはできない。

 しかし、そんなことは御子内自身がよくわかってるはずだ。

 どうするつもりなんだ。

 いくらなんでも策の一つはあるはずだが……

 

「ボクはキミを一撃で倒す!!」

 

 私の見たところ、御子内には何の考えもなさそうだった。

 ただ、私は知っている。

〈社務所〉の退魔巫女の持つ尋常ではない爆発力のことを。

 彼女はできるのか、〈魔法〉の砂を掻い潜り、一撃を与えることが。

 二人はわずかな時間睨みあい、そして動いた。

〈砂男〉は一歩後退して、口の中に含んだ大量の砂を霧吹きのように吐きだした。

 公園の一角が砂嵐にでも覆われたように白く染まる。

〈砂男〉の砂は瞼に触れただけで睡魔に襲われる。

 この中に踏み込んだだけで終わりだ。

 御子内はもう眠るしかない。

 

 パン

 

 何かが弾けた。

 その時になって初めて私は升麻の手に丸いものがあったことに気がつく。

 リンゴぐらいの大きさをした、あれは水風船だった。

 中に水を入れることができて落ちると割れて水を撒く風船の一種だ。

 それを足元に叩き付けられて、〈砂男〉の裾を濡らした。

 

「ぬぅ!!」

 

 沈着冷静なはずの〈砂男〉が慌てる。

 隙ができた。

 だが、砂煙の中を近づくことはできないはず。

 

 ―――だった。

 

「おおおおお!!」

 

 私は思わず叫んでしまった。

 何者も眠りに誘う砂煙を貫いて、御子内が突貫していったからだ。

 凄まじい勢いと速度で数メートルを跳び、〈砂男〉の眼前に立つ。

 そして、そのまま馬上槍を振るう騎士の一撃(チャージ)のような右ストレートが〈砂男〉の鳩尾に突き刺さる。

 人体の急所であり、まともに食らえばどんな人間でも悶絶するポイントに、御子内或子渾身の拳が吸い込まれた。

 

「げはっ!!」

 

 これまで澄まして余裕を崩さなかった〈砂男〉の顔が苦悶でひしゃげる。

 両目が飛び出すように剥かれ、身体がエビぞる。

 突き出た舌を噛まずにすませられただけ幸運であったろう。

 おそらく御子内のパンチ力は〈気〉の効果もあって1t近いはずだ。

 しかも〈砂男〉は砂煙で防禦できていたと過信していた上、升麻の投げた水風船のせいで集中を乱していた。

 だから、御子内の力が100パーセント叩き付けられたといっても過言ではないはずだ。

 その証拠に〈砂男〉はそのまま白目を剥いて崩れ落ちた。

 御子内はパンチを打った体勢のまま動かない。

 砂煙が完全に晴れてから、升麻が巫女のところに急いで駆け寄る。

 彼にしては珍しい慌て方だった。

 理由はすぐにわかった。

 

「ぐー……」

 

 小さな寝息が聞こえてきた。

 地面にぶっ倒れた〈砂男〉の悶絶する呼吸音とは明らかに違う、可愛らしい寝息であった。

 その事実が指し示すものはただ一つだ。

 

「御子内は―――眠りながら〈砂男〉を倒したというのか……」

「まあ、そうですね。用意しておいた水風船も使えたし、作戦通りうまくいったみたいで良かったですよ」

 

 御子内をベンチに横たえながら、升麻が解説をしてくれた。

 

「……聞き取りによると、砂を受けてから数秒のタイムラグがあるみたいですから、その一瞬に賭けてみることも無理なバクチではなかったということですか。まったく、御子内さんの作戦は無茶なことこのうえないんですよ」

 

 その指示に従うおまえも大概無茶な奴だよ。

 だが、私もおまえぐらいてんのために尽くせたら、もっと早く何かを手に入れられたかもしれないな。

 

「タクシー、呼びます?」

 

 升麻が気を遣ってきた。

 私は首を振って断る。

 

「私よりも、その無茶苦茶な巫女を連れていけ。いつまでも深夜の新宿二丁目に高校生がいるもんじゃない」

「―――そうですね」

「ああ。あとは大人に任せてさっさと行くんだな」

「じゃあ、お願いします」

 

 昏睡状態の御子内をおんぶして、升麻は公園から出ていった。

 その際、頭上から夜だというのにカラスの鳴き声がしたので、おそらく〈社務所〉のメンバーがすぐにやってくるだろう。

 今となっては私の同僚という立場のものたちだ。

 ここで悶絶している元・同僚とは違う立場である。

 

「まったく、あいつらには敵わないな」

 

 私は独り言のように呟いた。

 透明人間も〈砂男〉も、日本の退魔巫女にかかったら形無しということのようであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第33試合 収穫祭の夜に
10月31日は何の日?


 

 御子内さんは、時折、普通の女子高生の振りをしたがる傾向がある。

 彼女の親友たちや知人、僕も含めた関係者はみんな、「今更?」みたいな顔をするのがお決まりの光景なのだが、本人はいたく真面目な面もちで口にしてくるのであまり無碍にもできない。

 この日、彼女たちの住む武蔵立川市から電車ですぐのところにある立川駅北口の某有名アイスクリーム店で、御子内さんが言ったのもそういうものだった。

 

「ハロウィーンパーティーをしようじゃないか!!」

 

 凄く言ってやったみたいなドヤ顔であった。

 本人的にはきっと会心の提案のつもりなのだろう。

 以前の合コンの時もそうだったが、御子内さんの内部には「今どきのおきゃんな女子高生はこういうことをするべし」という非常にズレた価値観が存在し、それに従うことが正義みたいなところがある。

 ハロウィーンをやろうというのは、きっとアイスクリーム屋さんの内部をデコっている様々なハロウィーングッズの影響であろうか。

 黒い紙で作られたコウモリ、ビニールの蜘蛛の巣、ジャック・オー・ランタンという目と口を切り抜いたカボチャの頭、緑と黒のリースに可愛いミニスカの魔女たちのイラスト。

 どれもが月末の収穫祭―――ハロウィーンに向けての飾りつけだ。

 最近になってクリスマスやバレンタインデーと並んだ新しいイベントとして、色々な商社が躍起になって宣伝しているからか意外と知られるようにはなっている。

 とはいえ、もともとの起源も知らずにただの仮装パーティーのノリになってしまっているところはさすがにいただけない。

 僕としてはあまり興味のないお祭りだった。

 だが、なんというかノリに弱い御子内さんにとっては別だったらしい。

 高校の文化祭で巫女喫茶とかを勢いでやっちゃう女の子なので、特に不思議ではないのだけれど。

 ただ、〈社務所〉という神道の組織の巫女であるものがウキウキ気分でやっていいものなのかは疑問がある。

 まあ、そのあたりはあとで考えるとして、この提案を聞いた僕がするべきことを以下の三つから選ぶとするならどれが正解となるであろうか。

 まず、A案は「そうだね。いつにしようか」と彼女のアイデアを全面肯定して、すぐにでもパーティーの準備を始めるというもの。

 次に、B案は「えっと、ハロウィーンって欧米のお祭りだよね。キリスト教とかも絡んでいるから神道の巫女さんである御子内さんがやるのはいかがなものかと」と至極現実的なツッコミをして否定すること。

 最後に、C案として「このアイス美味しいね」と華麗にはぐらかしスルーしてしまう。

 いつもの僕ならば、ツッコミを入れても疲れるし、パーティーも好きではないのでC案を選択することになるのだが、今回はその前に意外な伏兵がやってきた。

 

「いいアイデアですわ、或子サン。私も賛成です」

 

 拍手をするぐらい喜んで同意したのは、御子内さんと同じ武蔵立川高校に留学しているアメリカの女子高生ヴァネッサ・レベッカ・スターリングさんだった。

 金髪碧眼でスタイル抜群、さらに極め付けの美少女という、いかにもアメリカ人に対する夢が詰まったような女の子である。

 彼女は僕らと同い年だというのに、実はアメリカのFBI(連邦捜査局)の捜査官であり、今は事情があって日本に留学という形をとっている。

 気のふれたような殺人鬼を何故か惹きつけてしまうという体質のせいで、今までとんでもない苦労をしてきたこともあり、日本でのんびりと骨休めをしているらしい。

 ただ、優秀なプロファイラーでもある彼女は警察庁からの要請で何度か日本の犯罪捜査に協力しているという話だった。

 ハロウィーンといえば、基本的にはアメリカが本場なので、アメリカ人としては郷愁がそそられるのかな。

 

「……実は、私、本国(ステイツ)にいた頃はハロウィーンで盛り上がったことがなかったんです。収穫祭のある10月31日あたりは、いつも警護の方々に囲まれて施設にこもっていたもので」

「それはまたどうしてだい?」

「関連性があるのかどうかは知りませんが、ハロウィーンの前後ってアメリカ中の殺人鬼が活発に動き出すんです。蠢く、っていうとわかりやすいのかしら? FBIは発表していませんが、収穫祭のある週に発生する殺人の数は普段の五倍前後に膨れ上がるんです」

 

 五倍!

 さすがに僕も驚いた。

 というか、アメリカの犯罪発生率の高さは知っていたけど、確認されているだけでも殺人鬼がどれだけわんさかいるのさ。

 しかも、発覚していない事件もあるんだろうから、潜在的な殺人の件数は想像もできない。

 おっかないなアメリカ。

 なるほど、歩いているだけで殺人鬼を引き寄せるスターリング家の女性たちをFBIが重視するのもわかる気がする。

 彼女たちを囮にでもしない限り、国内にやたらと潜伏している殺人鬼を狩り立てるのはなかなかに難しい作業なのだろう。

 ……しかし、どうしてハロウィーンになると殺人鬼は活発化するのかな。

 クリスマスやお正月でもいいだろうに。

 

「アメリカ人は敬虔なキリスト教徒が多いですから、イエスの御生まれになったクリスマスや春のイースターに暴れることは考えられないのでしょう。逆にハロウィーンは土着の風習と結びついた感がありますので、勝手が違うのかもしれません」 

「ほお。興味深いね」

「でも、そのせいでヴァネッサさんはハロウィーンを愉しめなかったんだから」

「―――そうだ! ここはヴァネッサのためにもハロウィーンパーティーを成功させるのが、ボクらの使命だと思わないか、ねえ京一!」

 

 さっきまでただの思い付きで喋っていたくせに、大義名分を備えてものすごくやる気になっている。

 まあ、ヴァネッサさんの気持ちもわかるしなあ。

 

「会場は、うちらの借りている宿舎でやればいいよ」

 

 さっきまで黙っていた最後の一人が口を開いた。

 やけに静かだなあと思っていたら、アイスクリーム店の店員さんのハロウィーンコスプレをFBI仕込みの隠しカメラで盗撮して、出来栄えをチェックしていたようであった。

 どうみても変態か性犯罪者だよね。

 これを僕らのような男性がやっていたら、間違いなく「お巡りさんこの人です」と通報されてしまう。

 同性、しかもボーイッシュではあるけれどかなりの美少女であるからこそ許されるといってもいいかも。

 その()()は、一応話を聞いていたらしい。

 

「宿舎?」

「いや、ただの一軒家なんだけどさ。うちとヴァネッサだけの愛の巣ってところかな」

「皐月。変なことを言わないで」

「いいじゃん、ホントのことだし」

「私と皐月の間に友情はあっても愛情はないから」

「―――マジ? 本気と書いてマジ!! 久美子さん、そんな殺生な!!」

 

 アメリカ人のヴァネッサさんには絶対に通じないサブカルネタで嘆き悲しまれても。

 あと、皐月さんってオジサン臭さハンパないよね。

 

「で、なんで宿舎がいいんだ? 皐月、さっさと説明しろ」

 

 御子内さんは、同期の退魔巫女である刹彌皐月(さつみさつき)さんに対して非常にドライである。

 むしろ「嫌い」とまで公言さえしている。

 何故かというと、まあ、説明しなくてもわかるとは思うけど。

 今回だって、御子内さんがアイスクリームを食べに誘ったのはヴァネッサさんだけで、わざわざ「皐月はいらない」と釘を刺したのについてきたのでちょっと怒られていたぐらいだ。

 

「うんとさ、ヴァネッサが住んでいるところの隣とかは結構危険でね。住宅街とかマンションとかには住まわせられないんだ。だから、近所には人のいない場所を選んで借り上げているんだよ」

「隣が危険とは?」

「殺人鬼は基本的に周囲を巻き込むことを躊躇わないんです。だから、できたら、人気のないところにいた方がいいんです。ちょっと不便ですけどね」

 

 ヴァネッサさんの苦労が偲ばれる内容だった。

 いつもそんな面倒なことに巻き込まれているとは……

 

「人気がないということはいくら騒いでも平気ということだよ。うちらの夜のギシギシあんあんも誰にも聞かれないというメリットつきなのさ!」

「……パーティーを催すには最高の立地ということだね。いい! ヴァネッサの家を会場にしよう!」

 

 御子内さんは皐月さんの戯言をほぼ聞き流す。

 付き合いが長いだけはある。

 どうせたいしたことは言っていないし。

 

「どうぞどうぞ。パーティーなんてとても嬉しいです」

「よし、じゃあ日取りを決めたらレイや音子も呼ぼう。藍色は……皐月がいるからなあ。来ないかもしれない」

「え、どうしてうちがいるとアイちゃんが来ないの!?」

「……キミ、修行時代にあいつのブラジャーの匂いを嗅いで死ぬほど怒られたろ。今でも根に持っているぞ」

「……あ、あれはギャグの一環で……いい匂いがしたのは確かだけどさ!!」

 

 うん、嫌われるにはやっぱり相応の理由があるもんだね。

 真似だけならともかく実際に嗅いでいたのなら当然である。

 生真面目な藍色さんとは合わないだろうことは明白だ。

 

「藍色さん、仮装とか好きっぽいから呼べば来ると思うよ」

「へえ、―――どうして京一がそんなことを知っているかはさておき、藍色がきてくれると嬉しいな」

 

 どうやら御子内さんは久しぶりの〈社務所〉の同期会をするつもりでもあるのだろう。

 ハロウィーンは名目で本音は親友たちと遊びたいだけなのかも。

 なら、たまに骨休めすることもいいか。

 

「わかったよ。基本的な準備とかは僕がするから。それでいいかな?」

 

 三人は楽しそうに賛成をしてくれた。

 

 



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謎の送りもの

 

 

 福生市にあるすでに使われていない畑の真ん中に、その建物は立っていた。

 元々は米兵のための施設だったらしく、かなり大きめの造りだ。

 目を引くのは、完全に周囲を塀と柵で囲ってあることと、それがつい最近やられたばかりだということである。

 実際、すべて一ヶ月以内に用意されたものだろう。

 しかも、見えないように幾つもの監視カメラが仕掛けられ、よくよく見ると頑丈すぎるほどの補強がしてある。

 下手をしたら自衛隊や米軍の基地の入り口よりも厳重だ。

 ヴァネッサさんと皐月さんが住んでいるのは、このアルカトライズ刑務所みたいな建物なのである。

 これだけしっかりしていれば、余程の油断をしない限り、日本ではこの囲いを突破して襲撃してくる殺人鬼はいないだろう。

 中には四六時中皐月さんもいるし、おそらく警備は僕が思っているよりも厳重なのだろうしね。

 さらに想像するならば、彼女たちの身柄を引き受けている警察庁だけでなくて、きっと〈社務所〉も人材を回しているはずだ。

 だから、日本にいる間、ヴァネッサさんを脅かすやつは早々いないと思う。

 インターホンを押すと、幾つかのカメラが僕を撮影しているのがわかった。

 要するに、死角をなくすための工夫だろう。

 僕の陰に隠れて誰かが侵入しないためのものだ。

 きっと、赤外線カメラとかもある。

 FBIの秘蔵っ子だから、警備のためにかなりの最新機器が導入されているはずだしね。

 

「升麻です」

『おー、京くん、チース。うちのおっぱいを見に来てくれたのかい? 嬉しくて胸がおっぱいだあ』

「いっぱいの間違いですよね。おはようございます、皐月さん」

『冷静なツッコミだなあ。突っ込むときはもっと性的に興奮してくれないと楽しくないんだけど』

「はいはい、わかりました。で、門を開けてくれるんですか?」

『うーん、ちょっと待って。今行くから』

 

 しばらく待っていると門の内側に誰かの気配がした。

 玄関から出てきたのだろう。

 ちなみにこの家の扉は分厚い金属の機械仕掛けで、指紋と角膜認証をしないと開けられないらしい。

 しかも登録してあるのは、住人の二人だけ。

 あと、例の〈ドッペルゲンガー〉の存在もあったからか、同一のデータ照合が何度も行われた場合は自動的にロックされる仕掛けらしい。

 相当な気の遣いようだ。

 ただ、ここまでやらないとスターリング家の女性の安全というのは保証されないほどだとすると涙が出そうになる。

 

「すいませーん」

 

 後ろから声をかけられた。

 思わず警戒しながら振り向く。

 さすがの僕もこれだけ脅されると常に殺人鬼の存在を注意するようになるのだとよくわかった。

 ただ、そこにいたのは宅配便のトラックから降りたオジサンだった。

 トラックは本物のようだが、助手席にいるのは制服を着ているけど、おそらくバイトか派遣社員。

 僕もたまにバイトすることがあるからだいたいわかる。

 

「はい、なんですか?」

「ここの家の人?」

「いいえ。でも、友人です」

「なら良かった。ここのお客様に荷物届いているんで、インターホン代わってもらえるかな」

「今来ますよ」

 

 この宅配便のオジサンが殺人鬼でないという保証はないけれど、顔を出すのは皐月さんだ。

 少なくともあの御子内さんたちの同期の退魔巫女なのだから、彼女がいれば問題ないだろう。

 実際、機械式の扉が開いて顔を出した皐月さんは、宅配便に対してなんの警戒も見せなかった。

 

「あれ、荷物が届いたのかなあ?」

「ええ。えっと、スターリングって読むのかな? アメリカから届いてますよ」

「うーん、なにそれ。アメリカ?」

「はい。海外便です」

 

 皐月さんは少し考えると、

 

「どんなのっすか?」

「えっと、ベッドって話ですね。バラしてない一個口の荷物で、この二トン車の荷台丸丸占拠してます」

「ベッドってもうあるよ。送り主は誰なのさ?」

「これですわ」

 

 差し出された送り状には、汚いカナ釘文字でここの住所が書かれていた。

 しかも、英語表記で、日本のように国・都道府県・町・番地の順番ではない。

 アメリカというか欧米式の住所表記なので日本人ではないことは明白だ。

 送り主の名は……

 

「ベン・ウィルソンね。聞いたことがない名前だあ。しっかし、きったねー字ね。まともに学校も行ってないな、こいつ」

「知らない人から、ベッドが送られてきたってこと? ちょっと変だね」

「まあね。調べてみるか。ねえ、オジサン、ちょっと後ろ開けてよ」

 

 宅配便のトラックを開けると、かなり大きめのベッド―――それでもシングルサイズだ―――がダンボールで梱包されていた。

 皐月さんは中を開けずに、じっと凝視する。

 きっと「殺気を視ている」のだろう。

 彼女の使う、刹彌流柔(さつみりゅうやわら)というのは不可視のはずの「殺気を視て」、その「殺気ごと投げる」という技なのだ。

 だから、もし梱包の中に人がいたとしたらわからないはずがない。

 

「誰かが隠れているとしても無理かなあ。開けて調べてみるしかないじゃん」

 

 皐月さんは降りると、

 

「オジサン、これ、降ろして門の前において」

「いや、家の中まで俺たちが運びますよ」

「それはいいよ」

「だけど……」

「うんと、敷地の中は業者さんも立ち入り禁止ってことになってんの。家まで持ってくのは、うちとこの彼氏でやるから、オジサンたちはハンコもらったら帰ってくれていいよ。あ、代金は?」

 

 宅配便の業者は伝票を見て、

 

「アメリカじゃあ、着払いってのはないってホントかい?」

「……まあね。じゃ、サインはうちがするよ」

「頼むよ、お客さん」

 

 バイトらしい助手と一緒に梱包済みのベッドが門の前に設置すると、オジサンはさっさと帰っていった。

 かなり手間と時間が稼げただろう。

 他の荷物がなかったから、一度集配センターに戻るだろうけど、内心では楽に終わってウキウキのはずだ。

 

「ねえ、皐月さん。これ、どうすんの?」

「うちと京くんで運び込むんだけど。その前に、この上で二人でイイコトしよっか? イ・イ・コ・ト♡」

「……ヴァネッサさんが見ているけど」

「ひっ!!」

 

 門の内部からヴァネッサさんが顔を出して、白い眼で皐月さんを睨んでいた。

 ジト目という奴かもしれない。

 本当に皐月さんは言動に注意しないとそのうち叩きだされるよ。

 

「ヴァネッサさん、これどうしようか?」

「わたし宛の荷物なんですよね。……ベッドなんですか?」

「家に運び込む前に、確認しておこうよ。皐月さん、手伝って」

「あいよ」

 

 僕たちはダンボールを剥いて、巻いてあったラップをとる。

 出てきたのは、随分と古い、いかにも長年使われていましたという様子の木製のベッドだった。

 マットレスは汚れていて、一言でいうと使用感ありすぎだ。

 木枠には幾つもの傷がついている。

 しかも、小さな子供のものらしいシールも貼られていた。

 なんだろう、これ。

 よく観察してみると、日本から輸入されていたパワーパフガールズっぽい。

 最近の子供のものかな……

 ふと眼を上げると、ヴァネッサさんの様子がおかしい。

 凍りついたように立ち竦んでいた。

 

「どうしたの?」

 

 すると、彼女はベッドの木枠の一点を指さした。

 そこにはマジックを使って子供っぽいアルファベットで何やら書かれていた。

 これを指さしたということは読めということかな。

 

「えっと、―――n.e.s.s.i.e。……『ネシー』って読むのかな? 人の名前みたいだけど」

「ネシーというのは、ヴァネッサの愛称です。わたしもママやグランマからはそう呼ばれていました」

「へえ。すごい偶然があるものだね……って訳はないか」

 

 僕はヴァネッサさんが硬直している理由がわかった。

 もしかして、このベッドって……

 

「君の、なのかな?」

「はい、そうです。わたしがまだ子供の頃から使っていて……。いえ、正直に言うと、ここに留学が決まるまで使っていました」

 

 驚くべく告白だった。

 そんなものがどうして、今、この家に配送されてきたのだろうか。

 

「いったい、誰が……?」

 

 楽しいだけのはずのハロウィーンパーティーは、どうもそれだけでは終わらなそうな予感に満ちてきたのであった……

 

 



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仮装百景

 

 

 先乗りした僕が、朝から用意しておいた飾りつけを準備したり、パーティーのグッズを配置したりしていたら、すぐに昼になった。

 パーティーは夕方の、逢魔が時から始めたいということなので、それまでに食事の用意もしておく。

 高校生ばかりだからお酒は用意しておかなかったけど、退魔巫女たちはすでに酒の味を仕込まれているのでどうせ隠し持ってくるだろうとは思っていた。

 とりあえずジャック・オー・ランタンを造ったときに抉り取った果肉のスープをコンソメベースで仕上げる。

 マッシュドボテトのようにジャガイモを潰したコルカノンは、家で準備だけしておいたので盛り付けるだけ。

 半分に切った片煮卵を並べて、パプリカとパセリ、マヨネーズ、生ハムなどでざっと飾りつけたもので「悪魔の卵」という大皿。名前はアレだけど見た目がかなりかわいいので、女の子ばかりだから喜ばれると思う。

 ゾンビカクテルというのもある。

 ラズベリーとレッドカランと甘いジュースで血のような赤い液体を作って、バケツみたいな容器になみなみと注ぐのだ。ものの本によるとリアルに作るのがコツなのだそうだが……

 あと、メインどころとしては鶏の手羽先を焼いて、血のようなチリソースをかけて、コウモリの羽根っぽく焼いてみた。かなり大量に焼くと確かに不気味だ。

 デザートにはパンプキンパイを用意して、ヴァネッサさんの家で焼く。

 やはり米軍の関係者のハウスでもあったらしく、でっかいオーブンがあったのでこれは楽だった。

 おまけにいかにもアメリカな色とりどりすぎて食欲減退するようなゼリービーンズも皿に乗せておいた。

 ここまでが、いかにもハロウィーン用の食べ物。

 彼女たちにはどうせ足りないだろうから、他にアメリカ風のごっついステーキも用意しておく。特に誰とは言わないがお肉大好きっ娘がいるからだ。

 定番のフライドチキンはやめて唐揚げにしておく。

 僕の調理法だとこちらの方がコストがかからないし、ヴァネッサさんにも少しは日本の基本的なところを味わってもらいたいというのがあった。

 だから、ニンニクだけでなく甘辛味付けした和風の唐揚げにした。

 そういえばローソンでご当地唐揚げくんを販売したとき、北海道版は「ザンギ味唐揚げ」というものだったらしいが、「ザンギって唐揚げのことだから、それって唐揚げ風唐揚げじゃね」と妹と悩んだことがあったな。

 閑話休題。

 よし、だいたいこんなところか。

 ビッシュ・ド・ノエルみたいなケーキも欲しかったけど、あれはクリスマスのものだし今回はいいかな。

 

「火を入れるもの以外は準備できたよ」

 

 飾りつけをやっている二人に声をかける。

 パーティー会場になるダイニングから居間にかけては結構派手になっていた。

 僕が用意した飾りと自分たちが用意した分で凄いことになっている。

 さりげにワインが並べてあるのがもう末期的だ。

 阿鼻叫喚の宴会に雪崩れこむのは間違いないところだろう。

 

「サンキューです、京一サン」

「おお、京くんやるじゃん!」

 

 二人はすでに仮装を終えていた。

 皐月さんは紅白の丸っぽい服と手袋・靴を履いたピエロの姿だった。赤いお鼻とウィッグのせいですぐに誰かはわからないぐらいである。

 ヴァネッサさんは緑色の帽子とエンドウ豆みたいなヒラヒラの裾をした男装―――いわゆるピーターパンスタイルである。

 胸の大きい彼女には似合ってない気もしないでもないが、下手に露出過多なことをされても困るので妥協しておくとしよう。

 

「みなさんが来る前に終わって良かったです」

「でもよー、一人ぐらい手伝いに来いってんだ。いつも思うけど、みんな女子力がないよね。うちが一番家庭的だってのは間違っている!」

 

 うん、確かに、本当に、そんなことないよね。

 もっとも、誰も時間前に来ないというのはさすがに女の子ばかりの集まりとしてどうなんだとは思わなくもない。

 ただ、招待した面子を思い出すと諦めが先に立つので仕方ないか。

 甲斐甲斐しく料理を手伝うレイさんとか音子さんは想像もつかないしね。

 

「……でも、さっきのベッドは運び込んじゃって良かったのかしら」

「そうなんですけどね」

 

 ヴァネッサさんが前の家に置いてきたはずなのに、送られてきたというベッドの扱いについてだが、とりあえず奥にある空き部屋に突っ込んでおくことになった。

 爆弾や盗聴器が仕掛けてあるおそれもあったのだが、ざっとみたところそれらしい工作の跡はなかったし、なにより皐月さんが「別にいいんじゃない」と楽観的な態度を崩さなかったことだ。

 最初、梱包されている段階では警戒していたのに、ベッドが姿を見せた途端、ほとんど気にも留めなくなったのだ。

 やる気がないというか、拍子抜けしてしまったのだろうか。

 頼みの警護がその有様なので、ヴァネッサさんも気が緩んでしまったのだろう。

 だから、警察庁の人たちに引き渡すこともせず、とりあえず奥に運び込んだのだ。

 パーティーの時間が押しているということもあってか、考えるのは後回しということにしたのだ。

 映画なんかだとやってはいけないパターンだけどね。

 

 ……それから、しばらくして三々五々と〈社務所〉の退魔巫女たちがやってきた。

 まずはでかいバイクの爆音がしたと思ったら、明王殿(みょうおうでん)レイさんがやってきた。

 すでに仮装は終えていて、白いYシャツと棒タイ、襟の大きなヴァンパイヤマントを纏い、長い髪は後ろで結ってオールバックにし、とりつけできる牙をつけた、いかにもドラキュラであった。

 背が高いレイさんだと宝塚の男役のように凛々しくてとても格好いい。

 この格好で千葉から来たのかと思うとちょっとアレだが、バイクにまたがって走る姿は映画のようだったろうなと思う。

 

「よお、京一くん。皐月とヴァネッサはどこだい?」

「あれ、レイさん、ヴァネッサさんと面識あるの?」

「〈ドッペルゲンガー〉のときに顔を合わせているんだ。あんときはおまえさんや或子に尻を拭かせちまって悪かったな」

「気にしなくていいよ。レイさんが無事ならそれでいいさ」

「あんがとよ」

 

 ちょい悪なドラキュラという感じのレイさんはやはり格好がいい。

 退魔巫女の中でも随一だろう。

 中身が意外と乙女らしいというのも好印象だ。

 少し雑談を交していると、タクシーが金属の分厚い扉の前に停まり、中から丈の長いオーバーオールのコートをまとった猫耳藍色(ねこがみあいろ)さんが降りてきた。

 時期的にはまだ早いコートを脱ぐと、えらく薄いボディースーツのような黒いバニーガールみたいな姿をしている。

 バニーイヤーの代わりにネコミミなのが特徴的だ。

 僕たちの前で顔を半分隠す仮面をつける。

 わかった。

 キャットウーマンだ。

 さすがに恥ずかしくて仮装を隠し気味で来たのだろうが、非常に凝ったコスチュームといえた。

 さすがはコスプレイヤーの藍色さんだ。

 明らかに市販品だとわかるレイさんのものとは一味違う。

 

「お久しぶり、京一さん、レイさん」

「怪我の具合はどうですか?」

 

〈怪獣王〉にやられたダメージのことだ。おかげで、この前、〈砂男〉のときに彼女は動くことができなかった。

 

「まだ、ちょっときついですね。動くのに支障はにゃいですけれど。レイさんはドラキュラ?」

「おおさ。藍色はなかなかすげえな。都会っ子はこええぜ」

「うーん、まだちょっと改良の余地あるんじゃにゃいですか。ちょっとメイクぐらいは変えましょう」

「おい、いきなりなんだってんだ! オレはこれでいいってのに」

「もお。レイさんは素材は最高にゃんだから、もう少し気を遣いましょう。さあ、この藍色さんがカッコ可愛いレイさんに仕立て上げてあげるにゃ」

「おい、藍色、やめろ!!」

 

 と、レイさんはさっさと連れていかれてしまった。

 玄関に行けばヴァネッサさんたちもいるし大丈夫か。

 僕はこのまま他の参加者を待つことにしようかな。

 しかし、二人の仮装した姿はなかなかに眼福だったね。

 

 



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ハロウィーンの夕方に

 

 

 レイさんたちが建物に入ってすぐに、最新のスカイラインGT-Rが門のところに横付けした。

 助手席から降りてきたのは、黒い露出過多なミニスカの小悪魔仮装の美少女だった。

 

「てんちゃん、ただいま到着でーす」

 

 ひと際子供っぽい喋り方と顔つきをしているが、実のところ、戦闘狂(バトルジャンキー)の御子内さんたちよりもヤバさでは折り紙付きの退魔巫女―――熊埜御堂てんさんだった。

 小悪魔っぽい仮装はまさにお似合いといえる。

 あまりに子供子供しているので、色気っぽさは皆無だが、おかげで彼女特有の恐ろしさは微塵も感じない。

 GT-Rを運転しているのは、彼女の助手であるイギリス人の透明人間であるロバート・グリフィンさんだった。

 ただし、招待したはずの彼は車から降りてこなかった。

 

「ロバートさんもどうぞ。駐車場は奥にあるみたいですよ」

「……いや、私はいい」

「どうしてですか?」

 

 すると、ロバートさんは熊埜御堂さんをちらりと見てから、僕を手招きした。

 運転席側にいってみると、パワーウインドウが開いて耳打ちをされた。

 

「……おまえはよく平然としていられるな」

「え、何がです?」

「てんもそうだが、御子内や神宮女の同類しかいないパーティーなんかによく出られるなということだ」

 

 ロバートさんが何を言いたいのかよくわからなかった。

 

「この間の〈砂男〉との戦いでも感じたが、御子内なんかもうスーパーマンかバットマンレベルの超人だろう。しかも、女だ。あんな連中の溜まり場で平然としていられるおまえが私にはよくわからない」

「とは言われても……。みんな、普通の女の子ですよ」

「マイガッ!! 真面目に言っているのか! おまえの神経はきっと宇宙開発にでも使えるようなワイヤーでできているに違いない!!」

「酷い言われようだ」

「いやいや、これは事実だ。いいか、おまえの立ち位置は、アレだ、事件に巻き込まれて右往左往する新聞記者とかその辺だ。好奇心のままで生き急ぐとろくなことにならないぞ」

 

 とは言われても……

 ロバートさんが相当苦労しているのはわかるけどね。

 

「私なんか、ちょっと変な音が聞こえると全部てんが敵の骨を折る音に聞こえるんだ。もう、なんでもかんでも」

「はあ」

「骨が折れる音なんてそんなに聞きたくないのに……耳から離れなくてさ……」

 

 結構、深刻だった。

 慰めるのも躊躇われるような深刻さだ。

 熊埜御堂さんの相棒役というのはなかなか辛い立場なのだろうなあ。

 ちらりと熊埜御堂さんを見ると、前髪を手鏡で弄くっている。

 ああみると普通の可愛い女の子なんだが、躊躇なく骨を折り、関節を外してくるコマンドサンボの使い手なんだよね。

 

「わかりました。お疲れ様です」

「そのあたりで休んでいるから、終わったらてんを迎えに来るんで連絡してくれ。ついでに帰り道なら、猫耳も中野まで送る」

「盛りあがったら、ここで一泊するかもしれませんよ」

「だったら、福生のホテルにでも泊まるよ。どうせ、私には明日の急ぎの仕事はない」

 

 そう言って、ロバートさんは去っていった。

 苦労人なのか、世捨て人なのかわからない人だ。

 しかし、GT-Rは格好いいなあ。

 テールランプとかのデザインには魅かれるけど、維持費がかかるんだよ、あれ。

 

「京一さんは入らないんですかー」

「僕は音子さんと御子内さんを待っているよ。……そういえば他の退魔巫女の人はこないの?」

「グレート或子先輩たちの同期の先輩方は、あと静岡とか山梨とか、ちょっと遠くに派遣されているんで厳しいみたいですよー。群馬にいる先輩はもともと出不精で誘っても来てくれないしー」

「へえ、そうなんだ」

「宇都宮の先輩は日光の守護で忙しくて現地を離れられないから仕方ないんですがー」

 

 わりとたくさんいるんだな、〈社務所〉の退魔巫女って。

 あまり秘密結社の内実に首を突っ込むのも問題かと思って詳しく聞いたことなかったけど。

 

「まあ、てんちゃんとしては、セクシー皐月先輩に会えて嬉しいんですけどねー」

「熊埜御堂さんは皐月さんと仲がいいの?」

「はい! てんちゃんに対しては、イエスロリータ・ノータッチだそうでーす」

 

 ……昔は相当ロリロリしてたんだろうな、この子。

 ただ、なんというか鬼畜というか残虐というか、サイコパスロリータだったんだろうけどね。

 熊埜御堂さんがいなくなって僕がスマホを弄っていると、ごく普通のグレーのシビックが停車して、すぐに二人の退魔巫女が降りてきた。

 御子内さんと音子さんだ。

 二人ともすでに仮装は終わっていた。

 音子さんは、三角の帽子とマントをつけて、黒いゴスロリチックなドレスを着た魔女スタイル。

 手にした星の飾りのついたステッキは魔女っ子みたいだ。

 ちなみにいつものレスラーのマスクはやめて、ラ・セーヌの星みたいな眼の部分だけの仮面をつけている。

 透き通るような美少女なので、なんというか一種独特の妖気があった。

 コンセプトとしては熊埜御堂さんと同じようなものなのに、はっきりと「魔女」とわかるところが凄い。

 あと、ドレスなのにスリットが入っていてチラチラ生足が見えるのは眼の毒だ。

 

Tanto tiempo(タント ティエンポ )!」」

 

 お久しぶりって意味だったっけ。

 

「久しぶり、音子さん。似合ってますよ、ドレス」

「グラシアス、京いっちゃん!!」

 

 と首っ玉に抱き付かれた。

 恥ずかしいのですぐに引きはがしていると、御子内さんがシビックの運転手の人に何やら話しかけて、すぐに車は出発してしまった。

 僕の位置からでは運転手の人の顔すらわからなかった。

 誰なんだろう?

 

「ああ、ボクの父さんだよ。―――こら、音子、ボクの京一から離れろ」

「お父さん!?」

 

 さすがに驚いた。

 御子内さんの実家は立川市にあるということは知っていたが、これまで行ったことはない。

 彼女がうちにくる頻度と比べたら、僕に実家を知られるのを嫌がっていると思ってもしょうのないところだ。

 ただ、よくご両親の話は聞くので仲は悪くないはずだけど……

 

「御子内さんのお父さんに送ってもらったの?」

「そうだよ。音子なんか、昨日の金曜の夜からボクんちに泊まっていて、ついでに送ってもらったんだ」

 

 一度も挨拶したことがなかったから、いい機会なのでしておくべきだったのに参ったな。

 御子内さんみたいな女の子のお父さんがどういう人なのか、すごく興味があるし。

 そう言えば、退魔巫女たちの誰の身内とも会ったことないな。

 わざと会わせないようにされているのかもしれないか。

 理由はわからないけれど。

 

「小母さまと小父さまは良い方なのに、アルっちはケチンボで困った」

「―――ボクのベッドに寝させてあげたのになんて言い草だい」

「アルっち、寝相が悪いから困る。あたし一人で布団で寝れば良かった。ダブルベッドなのに脚がずり落ちるって酷すぎ。ベッドの下の怪物に足を持っていかれても知らないから」

「キミだって、変な寝言を言うじゃないか。なんだい真夜中に突然「銀行強盗をやってるんだ(We rob banks)!!」って? ボニーとクライドかい!!」

「あたし、フェイ・ダナウェイに似ているでしょ?」

「呆れるほどの傲岸不遜ぶりだね」

 

 相変わらずこの二人は仲が悪い。

 いや、とても仲はいいのだが(でなければどちらかの家にお泊まりなどしないだろう)、いつも顔を合わせれば喧嘩みたいなことをしている。

 喧嘩友達というやつなんだろう。

 僕にはそういう親友はいないのでちょっと羨ましい。

 

「御子内さんは、そのマントだけ?」

 

 彼女は襟のやたらと大きなマントをまとって、よこしまのセーターとパンツ姿をしていた。

 あまり仮装っぽくはない。

 

「いや、これがある」

 

 といって、紙袋から取り出したのは橙色のカボチャの頭だった。

 それをすっぽりと頭からかぶる。

 それから玩具の鎌を構えてみると、出来上がったのは見事なジャック・オー・ランタンだった。

 おそらく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「―――いい出来だね」

「だろ?」

 

 カボチャ頭の中からいい笑顔で御子内さんが言った。

 自分からやりたいと言い出しただけあって、衣装には中々凝っている。

 

「さて、みんなもう待っているよ。他には誰も呼んでいないんだよね」

「ああ、もう一人群馬の厄介者を誘ったんだがつれなくされた」

 

 群馬……ああ、熊埜御堂さん曰く出不精の先輩か。

 ということはやっぱり僕の知らない人は来ないということでいいのね。

 

「おや」

 

 建物の敷地にはいったとき、御子内さんの足が止まる。

 

「どうかしたの?」

「いや、気のせいかもしれないけど、妖気みたいなものを感じたんだけど……。音子、キミはどうだ?」

「シィ。でも、この程度だと、戦った後の付着残留分ぐらいのレベルだから、ミョイちゃんかあいろんが仕事帰りだったんじゃないの?」

「そんなところか。ここの物々しい警戒態勢を見ていると、ボクも用心深くなるのかもしれない」

「……そんなものなんだ」

 

 厳重に門の扉を閉めると、僕らはスターリング家の仮邸となった建物の中に入っていった。

 この時の御子内さんの勘について、あとでさすがと感嘆することになるであるが、それは少し先のことである。

 

 



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だいたい予想通り。わずかに異変

 

 

 会場っぽくされていた居間とダイニングに行くと、そろそろ乾杯とかの用意が終わっていた。

 米軍関係者の好みの内装だったということもあり、飾りつけによってはちょっとしたダイニングバーみたいな雰囲気になっている。

 そこに、思い思いの仮装をした美少女たちがいると、まるで音楽のPVを撮影しているような気分になれた。

 とりあえず、ハンディカムのビデオカメラを用意しておいて正解だった。

 僕はカメラマンに徹することにしよう。

 

「おーし、或子たちも来たな。カンパイしようぜ」

「待ちくたびれてお腹すいちゃいましたよー」

「音子ちゃんチース」

「初めまして、ヴァネッサ・レベッカ・スターリングです」

 

 などともう盛り上がっている。

 女三人寄れば姦しいとはいうけれど、七人も揃えば騒音に近くなる。

 個人的な感想を言えば、女の子は傍に一人か遠くに大勢の方が面倒くさくなくていい。

 僕は全員が紙コップをとったのを確認すると、電飾やランプを点けて、居間の電気を消した。

 いい感じにハロウィーンチックな雰囲気になった。

 それから、

 

「では、みなさん、ハロウィーンを祝って、『トリック・オア・トリート』!!」

「「「トリック・オア・トリート!!」」」

 

 なんて適当な音頭。

 絶対、こんなことは本場では言わないよねと思いながら、ノリだけでパーティーを開始した。

 ヴァネッサさんと音子さんを顔合わせするだけで、自己紹介は終わりだったからか、そのまま歓談状態に突入する。

 雰囲気重視のため、明るくはしないで、ちょっと薄暗いまま続けることにする。

 参加者はどいつもこいつも肝が据わっているので、この程度ではびくともしないし。

 

「うーん、ヤクザの団体が突入してきても秒殺しそうなメンツだね」

「シィ」

 

 いつのまにか僕の隣にいた音子さんが頷いてくれた。

 いや、君も同類だということを忘れないでね。

 僕が食べ物などを運んでいると手伝ってくれているので助かる。

 

「音子さんもみんなと寛いでよ。久しぶりの再会とかあるんだから」

「サッキーとは普段からチャットしたりしているから別に新鮮味ないからいい。あたしは京いっちゃんの手伝いをする」

「そりゃあ、助かるからいいけど」

「あ、手が滑った」

 

 何だか知らないが、手を握られた。

 小さくて白い繊手だった。

 少し冷たい。

 

「な、何?」

「暗いから思わず」

「思わずって何さ」

「思いもかけずの略なんじゃないかなあ。京いっちゃんの手って好き。働き者のきれいな手だわい」

「そんなナウシカギャグ、誰もわかんないでしょ」

 

 それが言いたかっただけなのか。

 ただ、退魔巫女に手を握られていると色々と嫌な予感がするのは、〈護摩台〉というリングの上で彼女たちが戦っているのをよく見ているからだろう。

 このまま小手投げで倒されても不思議はない。

 ちなみに、今まで僕が退魔巫女たちに殴られたり投げられた経験はないので、完全な被害妄想なんだけど。

 しかし、魔女スタイルの音子さんの色っぽさはかなりのものだ。

 普段のマスクマン姿を見慣れているからか、まったくの別人のような気さえする。

 たぶん、この中では一番綺麗な女の子でもあるからか、傍に寄られると凄くドキドキするので勘弁してほしいよ。

 

「ねえ、京いっちゃん」

「何? そろそろ放してほしいんだけど」

「宴たけなわになったら、少し抜け出さない? ふ・た・り・で」

「どうして?」

「それは……」

 

 僕の問いに答えるため、顔を寄せてきた音子さんだったが、ぐいっとマントの首筋を引っ張られて遠ざかっていく。

 彼女の意志ではなく、誰かが強引に割り込んだのだ。

 

「おい。ボクの京一になにをしている」

 

 当然と言うか、やっぱりというか、御子内さんだった。

 

「京いっちゃんは別にアルっちのものじゃないし」

「ボクの相棒だよ。まったく、音子は眼を離すといつもこうだ。あと、京一。キミもすぐに決定的な仕事をしないように自身を律するように」

「うわ、嫉妬乙」

「なんだい、音子。久しぶりにボクとやり合うつもりなのかな。いい度胸だ」

 

 カボチャ頭で凄まれても怖くないな。

 でも、パーティーの場で険悪になるのは避けて欲しい。

 ということで、御子内さんのご機嫌をとるため、僕は彼女を押して奥につれていった。

 無言でごめんと音子さんに謝る。

 こっちはこっちでなんか不機嫌そうだが、一触即発状態を回避するためなのでごめんなさい。

 キッチンまで連れていき、用意していた唐揚げを大皿に盛ったものを御子内さんに渡した。

 山もりの唐揚げを見て、御子内さんは途端にご機嫌になる。

 彼女はお肉が大好きなのだ。

 

「これ、運んでよ」

「凄い量だね。どのぐらいだい?」

「二キロ分あるから。あと、御子内さんの好きなステーキも焼くよ」

「いや、こんなに食べきれるかなあ」

「みんなで分けるんだからさ」

「うーん、一口つまんでいいかい」

「どうぞ」

 

 中でも一際大きい塊を掴んで、口の中に頬張る。

 ムシャムシャムシャ

 とても美味しそうに食べてくれてこちらまで嬉しくなった。

 

「ピリ辛でいいね。うん、ビールが欲しくなる」

「おっさんか君は」

「いや、だってもうレイなんかはワインを飲み始めているよ」

「マジ?」

 

 耳を澄ましてみると、確かにさっきまでよりもレイさんのガハハ笑いのボリュームが大きい。

 ああ、これは一杯ひっかけたなと遠くからでもわかる。

 やっぱり始まる前にワインを回収して置くべきだったかと思っても後の祭りだ。

〈のた坊主〉のときのこともあるから、あまり遠慮しないだろうなと思っていたら案の定である。

 

「暴れたりはしないよね」

「たぶん」

 

 今更、止めてももう聞かないだろうし、あんな女の子たちを制する器は僕にはない。

 飲み過ぎないように眼を配るぐらいしかできないかな。

 

「おーい、或子ぉ、京一くーん」

 

 ワイングラス片手にレイさんがキッチンにやってきた。

 

「おお、いいもんあるじゃん。もらい」

 

 ヒョイパクと唐揚げを口に運ぶ。

 

「美味いじゃん。或子が作った……はずはないから、京一くんの料理かよ」

「ボクだって料理ぐらいはできるぞ」

「鉄串に肉を差してガスコンロに載せるだけのは料理とは言わねえんだ。あと、おまえ、味付けの仕方も知らねえだろ」

「バカにしないでもらおうか。こう見えても調理実習には参加している」

「参加しているだけなら誰でもできるぜ。―――京一くんもこっち来いよ。皐月のバカがアメリカの土産を見せてくれているんだ。楽しいぜ」

 

 と、手を引っ張られた。

 レイさんの〈神腕〉には逆らっても無駄だし、そのままついて行こうとすると、

 

「おい、レイ。キミ、朝方に妖怪退治をしてきたか?」

「ん? ……ああ、明け方に油すましを一匹、山に返してきた」

「退治しなかったのかい?」

「いや、別に悪いことしている訳でもないし、間違って人里に降りてきたやつみてえだったから、途中の狭山丘陵に捨ててきたんだよ。一応、脅しておいたからもうやってこねえだろ」

 

 ちょっと意外だった。

 初めて会ったときの彼女は最強の破壊力を誇る〈神腕〉でもって、妖怪と見れば無慈悲に退治しまくっているイメージがあった。

 だが、今のレイさんは油すましが悪いことをしていないのなら、誰もいないところに連れて行ってあげるようになったのだという。

 妖怪という括りで見るのではなく、その妖怪自体を見て判断するなんて、とても優しい振る舞いだ。

 思わず口元が緩んでしまった。

 レイさんに小さなことを気にする慈愛が戻ったのかと思う微笑まずにはいられなかったのだ。

 

「なんだよ……京一くん、変な目でみんな」

「別になんでもないよ」

「ならいいけどさ」

 

 今度はレイさんに引っ張られて居間に向かうが、置いてけぼりになる御子内さんはなんだか首をひねっていた。

 

「……じゃあ、さっきから感じている妖気はレイが相手にした油すましのものなのか。いや、なんか違う気がするんだよな」

 

 と、何やら思案している。

 気にはなったがあえて声をかけないことにした。

 男装のドラキュラ美女に連れられて居間に戻ったら、大きなクロスを敷いたテーブルで皐月さんたちがおしゃべりをしている。

 

「そしたら、重ねておくと暖かくなるよって、そいつが持ちだしたのが0.5ミリのゴム製のアレで、『二枚つければあそこも温かい』とか言うもんだから……」

 

 きっと間違いなく100パー、エロ話だ。

 しかし、それを真剣に聴いている熊埜御堂さんと藍色さんはちょっとまずいかもしれない。

 アレに毒されるのは止めて欲しいな。

 音子さんはヴァネッサさんとソファーでくつろいでいる。

 なんか絵になる二人だ。

 しかも何やら英語やスペイン語も混じっていて、参加しづらそうである。

 

「まーた、エロトークか。皐月ぃ、おまえはエロソムリエから変わらねえなあ」

「いやあ、レイちゃんのおっぱいはだいぶ変わったよね。おっきくなった。サイズ教えて。まな板時代が懐かしいよ、床に寝転がっていたら敷石と変わらないぐらいにぺったんこだったのにね!!」

「殺す」

「ひどっ!!」

 

 相性悪そうな二人だよなあ。

 

「きゃ!!」

 

 何やらあり得ないような可愛らしい悲鳴が聞こえた。

 振り向くと、熊埜御堂さんが急にイスから立ち上がって、スカートを手で押さえていた。

 まさか、という気分だった。

 あの熊埜御堂さんから普通の女の子のような声が聞こえるなんて。

 

「どうしたの?」

「あ、足首を掴まれました!! セクシー皐月先輩のイタズラですか!!」

 

 いつもの間延びした喋りじゃないところが深刻だ。

 なんだか顔が赤い。

 熊埜御堂さんにも恥じらいみたいなものがあるんだ。

 ただ、熊埜御堂さんはテーブルのイスに腰掛けていたのであり、クロスで中は見えない。

 皐月さんの位置からはちょっと遠い。

 彼女の仕業ではないだろう。

 常日頃の所業から疑われるのは当然だとしても。

 

「ひゃあ!!」

 

 今度は藍色さんが悲鳴を上げて立ち上がる。

 ついでにテーブルから飛び退った。

 素早い動き。

 さすがは巫女ボクサーである。

 

「どうした、藍色?」

 

 御子内さんの問いに対して、藍色さんは、

 

「テーブルの下に何かいる!! 太ももを摩られたにゃ!! キシャアアアアアア!!」

 

 微妙に面白い反応をしていた。

 警戒心丸出しの猫みたいだ。

 天然のネコミミをした髪型まで逆立っているようである。

 意外とセクハラに弱いのかもしれない。

 まあ、ここにいるみんな一応は清らかな巫女だしなあ。

 

「テーブルの下……」

 

 異常に気が付いたみんながテーブルを遠巻きにする。

 それから、音子さんが手にしたステッキでそっとクロスをめくり上げると……

 

 シャッ

 

 何かがそのステッキを叩き落とした。

 それは汚れた長い爪のようなものを備えた、毛むくじゃらの類人猿のものによく似た腕であった……

 

 



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這いよる桃色混沌

 

 

 その毛むくじゃらの腕には言いようのない悍ましさと狂おしさがあった。

 人間というよりも猿のものに近い構造といえばいいのは確かだが、その歪さたるや、おぞましく、冒涜的で、精神的にくる捻じれを持っていて、とても気味が悪いものだった。

 これまでも色々な妖魅の類いを見てきたけど、これの身の毛のよだつ形は想像以上のものがある。

 決して鋭くもない巨大な爪も、節くれだった指も、どれもが鳥肌をたてるものとだけしか言い表せない、まさに「歪み」の象徴だった。

 そんなものがテーブルクロスの下から、まるでカジノでディーラーがチップを集めるようにクイクイと何かを探して動いているのを見るのは慄然するべき光景でしかない。

 

「何だ……この手……」

 

 僕は無意識のうちにしゃがみ込み、そして四つん這いになって、そっと中を覗いてみた。

 

 ―――眼が合った。

 

 テーブルクロスがはられたテーブルの下から、こちらの様子を興味深そうに窺う紅くぎらついた眼が。

 小柄だが名状し難い冒涜的な何かが、毛むくじゃらの頭に三つの眼をつけた呪われた顔をしていた何かが、僕と数メートルの距離を置いて見つめ合った。

 悲鳴はださなかった。

 呼吸が止まってしまったので、瞬時の硬直が溶けるのを待ってから、ゆっくりと起き上がり、ようやく中腰になると、長く息を吸った。

 ただの空気がとてつもなく新鮮な朝の息吹のようにも味わえた。

 さて、数秒してから、僕はおもむろに叫んだ。

 

「うわわわああああああ!!」

 

 びっくりした。

 それ以外に表現する方法がなかった。

 ただ単にびっくりした。

 怖いとかなんとかはどうでもいい。

 心臓が止まるかと思うほどにびっくりした。

 僕の叫びを聞いて、テーブルクロスから突き出ていた歪な毛むくじゃらの腕がびくんと震え、中にひっこんでしまうぐらいに。

 なんだ、アレ!?

 なんだよ、今のは!!

 

「京一、何があったんだい?」

 

 僕はテーブルを指さして、

 

「な、中に何かいる!! 赤い眼の毛むくじゃらのやつが!!」

「なんだって!」

 

 ここに揃ったすべての退魔巫女が構えをとった。

 そのとき、僕の眼には一つだけ違和感が宿る。

 それは反対側にいた皐月さんのとったリアクションだった。

 彼女の動きは、戦うためとか防御のためのものではなく、額を押さえた「あちゃー」というべきものであった。

 少なくとも他のみんなのように臨戦態勢ではない。

 

「大きさは?」

「小さい。子供よりは大きいけど、御子内さんの半分ぐらい」

「イメージは?」

「蜘蛛っぽい猿。もしくはその逆で猿っぽい蜘蛛。眼が額にもあって三つ目」

 

 すると、巫女たちは目配せをしたが、誰も小首をかしげるだけだった。

 覚えのない妖魅なのだろう。

 そうすると、はっきりとした形のない魑魅魍魎なのだろうか。

 

「てん、脚を掴まれたと言ったな。傷はあるか?」

「ないですー。びっくりして寿命が縮まりましたですー」

 

 と、熊埜御堂さんはなんとか平常運転に戻っていた。

 さすがの切り替えの早さである。

 

「一、二、の三でテーブルを引っ繰り返すか」

「待て、唐揚げが勿体ない」

「だけど、妖魅をいつまでも放っては置けないでしょう」

「京いっちゃんゴメン」

 

 頭を下げられたら仕方ない。

 僕よりも自分の家の中をぐちゃぐちゃにされるヴァネッサさんたちの方が可哀想だ。

 だが、彼女は気丈にも頷いて混乱を認めていた。

 

「じゃあ……いきますよ」

 

 藍色さんが声をかけたとき、テーブルクロスの一か所がバッとめくれ上がって、何かがそこから這い出してきた。

 そのまま脱兎のごとく逃走する。

 その先にいたのはゴスロリドレスの魔女姿の音子さんだったが、彼女はその黒いものが股の間をすり抜けていき、ついでにスカートが捲られるように翻るのを押さえるのを必死で通り抜けさせてしまった。

 ちなみにスカートのめくれ方が派手すぎて、僕からは内部が随分とはっきり見えてしまった。

 十七歳の若さで黒いフリル付きのショーツは止めた方がいいと思いました(まる)

 僕に目撃されたのに気がついたのか、ちょっと震えて涙目になっている音子さんを尻目に、御子内さんたちは黒いものを追い出した。

 

「そっちに行ったぞ!!」

「おうさ!!」

 

 電灯が点いていないせいか、ハロウィーン仕様の薄暗い部屋の中を、黒いものは器用に動き回り、場所を掴ませない。

 ソファーの裏だけでなく、他の人の陰に隠れたりしてどうにも追いかけっこが続くだけだ。

 料理やらお菓子やらが散乱して、居間とかキッチンは酷い有様になっていく。

 狭いこともあって、熊埜御堂さんと御子内さんが正面衝突をしたり、藍色さんの拳がレイさんの顔面に当たりそうになり、身内で仲間割れ寸前という状況でもある。

 ただ、やはり皐月さんだけは心配そうに見守るヴァネッサさんの傍にいて何もしていない。

 

「痛い!! なにをする藍色!!」

「或子さんが邪魔にゃのよ!!」

「言ったな、ボクよりもキミの方だろ!!」

「もっと或子さんが落ち着いていればいいにゃ!!」

「なんだと!!」

 

 どういう訳か御子内さんは今度は藍色さんとつかみ合いをやりだした。

 うん、まあ、血の気の多い女の子同士のキャットファイト―――ですめばいいんだけど。

 

「いやああああああ!!」

 

 振りむくと、何かに躓いて四つん這いになっていた熊埜御堂さんのお尻のあたりでミニスカがめくれていて、そこに黒いものがまとわりついていた。

 狙ってやったものではないだろうが、ミニスカの中に顔が突っ込まれているようにもみえなくもない。

 

「お毛けがくすぐったい!! 気持ち悪い!! 舐めるみたいに動かないで!!」

 

 黒いものが離れようと蠢いたせいで、ミニスカートの中はそんな混乱状態だったのか。

 熊埜御堂さんが泣きそうな顔をしてお尻を振ると、ようやく黒いものは抜け出して、また逃げ出していく。

 そして、べそをかいた熊埜御堂さんだけが取り残されるという悲惨さだ。

 サイコパスな小悪魔だと思っていたけど、なんだか可愛らしい年相応なところもあるんだな。

 もっとも、本人はそんな慰めいらないだろうが。

 業を煮やしたレイさんが〈神腕〉を振るって、ソファーを叩き割った時、今度は黒いものが彼女の胸に貼りついた。

 大きさは人間の上半身ぐらい。

 ただ、毛むくじゃらの塊であの歪な腕が日本と頭らしいものがついているだけの、なんともいえない怪物だということがここでようやくわかった。

 しかし、まだ正体はわからない。

 いったい、なんなのだろう。

 

「くっくっく、掴まえたぜオラ!!」

 

 飛んで火にいる夏の虫とばかりに、レイさんは左右の〈神腕〉を用いて、がっしりと黒いものを絞めつけた。

 あんな毛むくじゃらで無気味なものをベアハッグできる彼女もたいした肝っ玉である。

 

『キィキィィィィ!!』

 

 怪物は呻いた。

 あれが声なのだろうか。

 まるで哀れな小動物のようであったが、見た目の不気味さがあまり同情を誘わない。

 レイさんはこのまま締め付けて落としてしまおうとさらに力を加えたとき、怪物の長い手が閃いた。

 爪をもった手が奇々怪々な動きをしたのだ。

 

 はらり

 

 レイさんの身体から何かが落ちた。

 それは布の切れ端だった。

 白いものと、黒いもの、残されたのはきめの細かいレイさんの肌。

 

「……えっ?」

 

 レイさんが思わず力を緩める。

 自分の身に起きた不幸な出来事について気がついたのだ。

 アームの部分を除いてシャツが切り裂かれ、残ったブラジャーも落下してしまったせいで上半身が裸になった自分の不幸に。

 なまくらで斬れそうではない爪の代わりに肘にあたる部分に、鋭く光る刃のようなものが突き出ていた。

 あれが触手のように伸びて切り裂いたのだ。

〈神腕〉から抜け出して、そのまま逃げだした怪物を追うこともなくレイさんは顕わになった胸を隠してそのまま蹲ってしまった。

 その際にこっちを慌てて見られたので、視線を逸らしたけど遅かっただろうなあ。

 あとでどう繕おう……

 さすがに僕は悪くないよなあ……

 

「見んな! 京一くん!!」

 

 もう遅いんだけどね。

 

「ダンカンコノヤロー!!!」

 

 わけのわからないキレ方をして熊埜御堂さんが怪物目掛けて突進した。

 怪物ごときにラッキースケベな辱めを受けたのが相当癇に障っているのだろう。

 ちびりそうなぐらいに恐ろしい夜叉の形相を浮かべていた。

 

「死ねや、こらあああああ!!」

 

 もみくちゃになって何故だか知らないけど同士撃ちしていた御子内さんと藍色さんも動く。

 レイさんは……涙目で座り込んでいる。

 マントを拾ってきた音子さんがそれを優しく掛けてあげていた。

 なんだか、もう収拾がつかないで終わりそうな気配になっていたが、怪物はまだ逃げ惑う。

 そして、怪物があるものの陰に隠れた。

 隠れたというよりも横合いから現われた人が背後に匿ったのだ。

 

「待ってくれよ」

 

 壁になったのはピエロだった。

 その格好をしているのは、この家のもう一人の住人である刹彌皐月さんしかいない。

 退魔巫女の一人である彼女がどういう訳か、怪物を背に庇ったのだ。

 

「どういうつもりですか、セクシー皐月先輩。てんちゃんは心の底から激怒しているんですけどー」

「ボクもちょっと見逃す気はないなあ」

「サッキー、あたし、人生でスカートめくりをされたのは初めてなのよね。絶対に許さないから」

「―――殺す。全殺す。邪魔をすれば羅漢でもオレは殺す」

 

 ……結果としてセクハラっぽいことをこの怪物にされたからか、怒り心頭に達している退魔巫女たちを止める術はなさそうだった。

 ヤバい血が上がっちゃっている。

 このままではマジで血を見ることになるかもしれない。

 皐月さんはどうするつもりなんだ。

 さっきから見せていたおかしな態度の原因がようやくわかろうという感じだった。

 

「ごめん、勘弁してやってくれないか。この怪物を見逃してやってほしいわけ」

「―――聞けるかと思うか?」

「同意」

「……殺す。ガチ殺す。仏が止めても仏ごと殺す」

「ねえ、その怪物はいったいなんなの。それだけでも説明してくれないかな」

 

 僕の言葉が通じたのか、皐月さんは怪物を背に庇ったまま言った。

 

「こいつは、ヴァネッサのところの〈ベッドの下の怪物〉なんだよ。わざわざアメリカからヴァネッサを追ってやってきた努力に免じて許してやってほしい」

 

 皐月さんが頭を下げた。

 みると、なんとヴァネッサさんも戸惑っているらしく、なんだか狼狽えている。

 あれ、これはもしかして……

 

「もしかして、皐月さんがそいつを連れてきたの?」

「そういう訳じゃないだけど、まあ、ヴァネッサの家にいたのを見逃していたのはうちなんで、ちょっと責任があると言えばあるんだけど。―――だからさ、頼むよ」

 

 いつもはお茶らけてセクハラエロトークばかりの皐月さんの真面目な懇願に、いきりたった退魔巫女たちも少しは落ち着くのであった……

 

 



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妖怪〈ベッドの下の怪物〉

 

 

〈ベッドの下の怪物〉。

 

 日本ではあまり馴染みがないが、欧州―――特にアメリカではかなりポピュラーな妖魅らしい。

 例えばアメリカの都市伝説の中には、「ベッドの下の男」というものがあり、それはこういう話だ。

 ある日、一人暮らしの女性の部屋に友人が泊まり込みで遊びに来た際、ベッドが一つしかないことから、女性はベッドで寝て、友人は床に布団を敷いて寝させることにした。

 しかし、夜が更けてから寝ようとする女性に対して、突然友人は外へ出ようと誘ってくる。あまりにもしつこく誘うので仕方なく部屋を出ると、友人はとんでもないことを打ち明けた。

 それは、「あのベッドの下に包丁を握った男がうずくまっている。あれはあんたを狙っている変質者に違いない」というものであった……

 この話の「ベッドの下に潜んでいる男」と誤解されることもあるのだが、〈ベッドの下の怪物〉というのは本来危険な妖魅ではない。

 両親が子供を躾ける際に聞かせる御伽噺なのである。

 

「いい子にしてお行儀よく眠らないで、脚をぶらぶらさせたりしていると、〈ベッドの下の怪物〉があなたの足を掴んでびっくりさせるのよ」

 

 アメリカの親たちはこういう風に言い含めて、子供たちにベッドで行儀よくしているように諭すのである。

〈ベッドの下の怪物〉はまたの名を「ブギーマン」といい、ベッドの下以外にも潜んでいたりすることもあるが、たいていは子供を脅しつけるための親の方便としてよく海外のドラマなどに登場する。

 同じような躾のための怪物は世界各地に伝わっていて、日本でもなまはげなどが有名だ。

 場合によっては妖怪となって現実に子供を驚かせるものもいるそうである。

 ただし、アメリカ人の持つ合理的精神などの土壌から、〈ベッドの下の怪物〉が日本の妖怪のように実体化することはまずないという話だった。

 

「―――ただ、ヴァネッサの場合は、スターリング家の女の人たちが殺人鬼や〈殺人現象〉に狙われやすいということもあって、ちょっと事情が違ってね。怪奇現象が周囲で発生しやすい環境があるのさ。そのせいか、彼女がずっと使っていたベッドの下には、()()()が実体化していたんだよ」

「え、……本当なの?」

 

 皐月さんの打ち明け話について、なんとヴァネッサさんの方が半信半疑という有様だった。

 まさか、知らなかったというのだろうか。

 あんな毛むくじゃらの化け物が、彼女が寝ている時にベッドの下に巣食っていたというのに。

 

「……〈ベッドの下の怪物(ブギーマン)〉の話は私も覚えているけど、見たことなんて一度もないわ」

「ヴァネッサは寝相がいいからね。こいつが何か悪さをすることもなかった。むしろ、いつも殺人鬼に怯えて震えていたあんたを守っている気でいたみたいなんだ。たぶん、一度ぐらいはこいつが家に入ってきた殺人鬼からあんたを助けていたこともあったようだね。一度、色々と調べてみたらそんな痕跡があったから」

 

 子供の躾のための怪物が、子供を護るために何かをすることがあるのか。

 日本でいうと、なまはげが人攫いと戦うみたいなものかな……?

 とても不思議な話だった。

 

「おそらく、この〈ベッドの下の怪物〉はヴァネッサのイマジナリーフレンドみたいなものだと思う。アメリカでこんな風に妖怪っぽく現実化することは滅多にないから、信じられないほど奇跡的なことじゃないかな」

 

 イマジナリーフレンド。

 子供が成長の過程に見る、眼に見えない空想上の友達のことだ。

 いつも殺人鬼の恐怖に脅かされていた幼女が、〈ベッドの下の怪物〉という架空のモンスターが下にいると思っていたら、それが現実化したというものだろうか。

 そんな馬鹿なと思わなくもないが、もう一年も退魔巫女と付き合ってきた経験から、そんなことがないとは決して断言できない。

 むしろ、あの毛むくじゃらの怪物が現実にここにいることを考えると、「あって当然」とするのが正しいのかもしれない。

 

「それがどうして、日本にいるんだい?」

「きっと、ヴァネッサがこっちに留学してきて寂しかったんだと思うよ。だから、家に残っていたここの住所のメモなんかから色々と手を回してこっちに追ってきたんだと思う」

「もしかして……あのベッドごと?」

「〈ベッドの下の怪物〉はベッドがないと存在できないからね。少し離れるぐらいならできると思うけど、何千キロも離れた海外にはベッドがないと移動できない。どうやったのか、ベッドを荷造り梱包までしてお金まで振り込んで配達されてきたということのようだよ」

 

 あの送り票の汚い字は、こいつが書いたものだからか。

 なるほど、言われてみると色々とつじつまが合う。

 御子内さんがやたらと気にしていた妖気のこととかも、あれはこの〈ベッドの下の怪物〉のものだったのだ。

 ただ、一つ皐月さんに聞かなくてはならないことがある。

 

「……皐月さんはいつ、そいつの存在に気がついたの?」

「うちがアメリカでヴァネッサの警護についてすぐかな。ヴァネッサがシャワー浴びているうちにベッドの下に潜り込もうとしたら眼が合ってさ。仕方なく断念して、シャワー覗きに行ったんだけど」

 

 うん、アウト。

 つーか、妖怪がいたのに何もしないって退魔巫女の態度としてはどうなのさ。

 

「別に妖怪ったって悪さをしている訳じゃないし、様子を見ていればヴァネッサ―――ちっちゃなネシーをこいつが守っているのはわかるから放っておいたさ」

「……ヴァネッサは知らなかったみたいだけど、存在を教えたりはしないかったのかい」

「別に。知らなくても問題ないっしょ。だって、イマジナリーフレンドだったらそのうち消えるかもしれないし、同じ屋根の下にはうちも一緒にいたからね。悪さをするブギーマンならともかく、〈ベッドの下の怪物(そいつ)〉はホントに何もしなかったしさ」

 

 なんというか、皐月さんが大物すぎて何も言えない。

 そう言えばこの人のさっきのおかしな動きも、梱包からベッドを出した時に真相がわかっていたからということなのだろう。

 いい加減というか、適当というか、もう凄すぎる。

 

「てんちゃんの足を掴んだのはー?」

「ベッドからはみ出してプラプラしている足を掴むのはこいつの習性だからさ。潜り込んだテーブルの下がてんの足を見て思わず掴みたくなったんじゃね」

「……そんなことで……」

 

 退魔巫女たちは絶句していた。

 真相がどうとかではなく、様々な意味でしてやられた感があるからだろう。

 あんなどうということのない小者の妖魅に五人もの腕自慢の退魔巫女が振り回されたという事実に。

 

「……この怪物が、私を見守っていて」

 

 ヴァネッサさんは皐月さんの背中に隠れた妖怪を恐る恐る覗き込む。

 少し戸惑っている様子だったが、怯えている感じではない。

 むしろ、親しさを覚えているようだった。

 確かに皐月さんの言を信じるのならば、この怪物は見た眼こそ不気味ではあるが、ヴァネッサさんにとっては小さなころからの付き合いの守護者であるのだ。

 幼女の頃から彼女の夜を守ってきた妖怪。

 そして、いなくなってしまったベッドの主を追ってこんな極東の島国までやってきた、名犬ラッシーもかくやという存在だ。

 おそらくなんとなく絆されてしまったとしてもわからなくはない。

 

『キュウゥゥゥゥ……』

 

〈ベッドの下の怪物〉はお手をするように捩子くれた手を伸ばす。

 その手にヴァネッサさんが触れる。

 どこかで見たことのある光景だった。

 宇宙から来たエイリアンが地球の子供と触れ合うあの有名映画のような……

 

「ここにあなたも住む?」

『キュウゥゥゥゥ』

 

 ベッドの主とその下に住む怪物の間に、確かな友情が芽生えようとしていた。

 そもそもこの〈ベッドの下の怪物〉がヴァネッサさんの想像から産まれたという皐月さんの見解が正しければ、元々精神的なつながりもあるだろうし、一気に絆が生まれてもおかしくない。

 あの不気味な姿だって、ヴァネッサさんにとっては想定内のものでしかないのだから。

 だから、一人と一匹が友誼を育んだとしてもおかしくはない。

 むしろ当然のことかもしれない。

 まさに心温まる光景といってもいいだろう。

 

「……水を差す気はないんだけどさ」

 

 御子内さんが呟いた。

 

「ボクらのこの憤りはどうすればいいのだろうね」

 

 うん、わかるよ。

 わかるけど、あの〈ベッドの下の怪物〉にぶつけるのはさすがにTPOからいってもマズいよね。

 

「……ちょうどいいところに、似たようなセクハラ小僧がいるとオレは思う訳だ」

「シィ。今回はアレで我慢しとこ」

「そうだね。しゃあにゃしだ」

「ですねー」

 

 ヴァネッサさんたちの心温まる交流を見て、これ以上、〈ベッドの下の怪物〉を追い詰めることを諦めた退魔巫女たちの視線は、明らかにとある人物へと注がれていた。

 その人物は殺気を「視る」ことができるという特殊な古武術の持ち主であることからか、自分が置かれている危うい立場について即座に気がついた。

 両手をあげて、

 

「ま、待って待って! 話せばわかるよ! ほら、話し合おうよ!!」

「―――古今東西、話し合いで解決した問題なんてあまりないんだよ、皐月」

「いや、だって、うち、そんな悪いことしてないじゃない!! ちょっと待って!! それただの八つ当たりだよ!!」

 

 ―――説得が成功して、皐月さんが無事に生き残れればいいけど。

 

 

 普段の行いって本当に大切なんだね。

 



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第34試合 死の風の吹く田園
茶色い部屋の謎


 

 

 フリーの不動産調査士である高儀(たかぎ)誠司は、自分の愛車を使って中野区にある一角にやってきた。

 

「ここらの駐車場は高いんだよなあ」

 

 経費として落ちてくれればいいが、と少なからずセコいことを考えながら、有料駐車場にキューブを停める。

 中古だが、今の彼にとって手頃な値段で手に入るものはこれしかなかったのである。

 特に来年の春には結婚をすることになっていたので、色々と節約するに越したことはない。

 コンビニ袋に入ったゴミが散らばっていてなんとも気持ちの良くない駐車場を出て、ほぼ勘で歩き出す。

 

「えっと―――弥生町の……」

 

 メールで告げられた住所を確認すると、五十メートルほど先にあるはずだった。

 高儀は職業柄か、地図にある通りに動き回ることができる。

 ある程度正確な地図ならば一見しておけば記憶してしまい、ほぼ迷うことはないという特技を持っているのだ。

 だから、目的地からやや遠目の駐車場を借りたとしてもすぐに辿り着くことができる。

 

「あれか」

 

 目的地である一軒家の前には自動販売機に飲料品の投入作業をしているベンダーの二トン車が横付けされていた。

 すぐ隣にある自動販売機のオペレートなのだろう。

 彼らは自販機からハンディカムを用いて売り上げを吸い上げ、足りない分をトラックに積んだ箱から出してカゴに組みいれ、自販機へと慣れた手つきでガシャガシャと投入する。

 一件、多くても120本から少なくて50本ぐらいなので作業に要する時間は二十分もかからない。

 自販機の隣に設置してあるゴミ箱からの空き缶・飽きペットボトルの回収も彼らの仕事だ。

 二人の制服の男たちが忙しそうに作業をしている。

 高儀は彼らの傍を通り抜け、反対側にあった家の門に設置されているインターホンを押す。

 三回鳴らしたが、何の反応もない。

 かなりしっかりとした門だったが、よくよく見ると鍵がかかっていなかった。

 要するに、敷地内に入ろうとすれば入れる状況だ。

 おかしいなと首をひねっていると、

 

「あー、すいませーん。この家に用事ある人ですか?」

 

 と、自動販売機の作業を終えたベンダーの人間が話しかけてきた。

 

「はい、そうですが……」

 

 突然のことで、高儀はやや戸惑ったが顔に出さずに受け答えする。

 

「あそこの自販機なんですけど、オーナーさんがここの望月さんなんですよ。で、うちの営業から契約の更新についてのファイルを手渡ししてこいと言われてましてね。これなんですが……」

 

 手にしたファイルを示して、

 

「ところがお留守みたいなんですよ。インターホン鳴らしても出やしないし」

「はあ」

「それで、あまりやりたくないんですが、直接玄関まで行こうかなと思ってんですが、付き合ってもらっていいですかね」

「ああ、そういうことなら構いませんよ」

 

 高儀はベンダーの言いたいことを察した。

 つまり、この閉じた門を開けて敷地内に入りたいが、業者だけでいくと何を言われるかわからないから付き合って欲しい。

 そういうことだ。

 彼としても結局、敷地内に入らなければならないため、この提案を断る理由はない。

 何かあった時のための証人はお互い必要だからだ。

 

「じゃあ、行きましょうか。私、望月さんを送って埼玉の方にまで行かなくてはならないんで」

「これから埼玉ですか?」

「ええ、望月さんの付き添いでね」

 

 ……今回の高儀への依頼は、とある不動産屋に頼まれて望月氏が相続することが予定されているという大宮の土地を調査することだった。

 ()()()()()()()ということである以上、望月氏の実の父親はまだ生きてはいるのだが、気の早い息子はいつか相続されるものだと期待してさっさと売却の予定を立てているのだった。

 事前に高儀が聞いていた事実によると、望月氏には高齢の父親とそのあとを継ぐ予定だった兄がいる。

 だが、兄は四十代だというのにステージの進んだ癌に蝕まれていて余命幾ばくもない状況なのだという。

 その息子たちもまだ幼く、もし仮に父親が死んで相続が発生したとしても、父親が精魂込めて手入れして来た田んぼを継ぐことはできない。

 だから、家屋敷はともかく田んぼについては望月氏が相続し、それをさっさと売り飛ばす予定なのである。

 その事前準備として、不動産調査士の高儀に価格を見積もらせようということであった。

 父親の遺産ともいうべき田んぼをそんなに容易く売ってしまっていいものかと、高儀などは思うのだが、紹介して来た不動産屋の社長によると、「望月さんは金遣いが荒いんだよ。借金とかもあるらしいし、まとまった銭が欲しいんだろうよ」ということだった。

 なんとなく悪事に加担しているような嫌な気分だったが、高儀は仕事ということで割り切ることにして、今日ここに来たのである。

 

「入りますね……」

 

 アリバイ的な声掛けをして、ベンダーとともに敷地内に入る。

 玄関まで来ると、ノックをしてみた。

 反応はなく、とりあえずノブを捻ってみたが鍵がかかっている。

 ただ電気のメーターは通常通りに回っているので、中には人がいるようではある。

 しかし、いくら玄関の戸を叩いても返事はなかった。

 この時点で高儀はかつて感じたことのある不穏な予感を抱いていた。

 不動産調査士という職業上だけでなくおかしな星の下に産まれたのか、彼は、独居の末に亡くなってしまった老人の遺骸を発見したこともあるし、殺人事件の被害者を見つけたこともある。

 そういった()()()()()以外にも、半年ほど前に多摩川に近い一軒家である恐ろしい怪異と遭遇したことがあった。

 人に化け、人を食う、蟹の妖怪に襲われたのだ。

 今、彼が感じているのはその時の悪寒に似たものであった。

 只事ではない。

 脳内に警鐘が鳴り響く。

 しかし、ここにいるのは仕事でもある。

 結婚を控えて金を稼がねばならない立場だ。

 仕方なく、高儀はベンダーを連れて、横の庭の方へと回った。

 手入れのされていないボロボロの庭を横切り、庭に出られるガラス戸から中を覗き込んだ。

 

「えっ……」

 

 思わず、気の抜けた声が出た。

 カーテンのかかっていない室内は完全にスモークガラスでもなく丸見えだった。

 内部を一瞥すると、一瞬、何の変哲もない茶色い壁紙の部屋のように見えた。

 だが、すぐにそれは間違いだとわかる。

 茶色く見えたのは、壁紙がそういう色をしているのではなく、室内の壁がすべて大量の泥で汚れて覆われていたからだ。

 顔をガラスに近づけて覗き込むと、壁だけでなく床も家具も調度品も、すべて泥まみれになっていた。

 家の中だけが泥だらけなのである。

 いったい、どういうことがあれば、家の中にこんなに泥が溢れることになるのだろう。

 台風による浸水で水浸しになった家でさえ、ここまで泥だらけになることはないだろう。

 逆に、高儀たちのいる庭はまるで普通の状態だ。

 泥なんてどこにも見当たらない。

 あまりにおかしな光景をじっと凝視していたら、奥の廊下辺りに人の手らしいものが見えた。

 倒れているようだった。

 もしかして望月氏かもしれない。

 状況の奇怪さはともかく、具合が悪いようならば助け起こして救急車を呼ばなければならない。

 窓枠に手を掛けると、なんと簡単にガラス戸は開いた。

 もともと鍵がかかっていないようだった。

 ただ、桟に溜まった泥の影響で開けるのはかなりの力が必要だったが。

 

「望月さん!!」

 

 ベンダーとともに室内に入る。

 むっと泥臭かった。

 床に溜まった泥は二センチはあっただろう。

 泥の流れ込んだ水たまりを行くようであった。

 廊下に行くと、やはり泥だらけになった望月がうつぶせで倒れていた。

 

「大丈夫ですか!?」

 

 作業着姿なので汚れることも厭わずに抱え起こすと、望月の眼がカッと開いた。

 瞳孔が完全に開いていて、顔には驚愕と恐怖が張り付いている。

 とても恐ろしい何かを目撃したようだった。

 

「どうしました、望月さん!!」

 

 望月は口を開いた。

 

「……た……を……」

「たを?」

 

 高儀が鸚鵡返しに聞くと、

 

「たを……」

 

 声が擦れたので耳を澄まそうとすると、

 

「ぶひゃあぁぁひゃひゃひゃひゃっ!!」

 

 狂人が頭のおかしな妄想に憑りつかれたまま、その思いつきに堪えられなくなったかのように、望月は狂笑を発し始めた。

 同時にその喉の奥から黒い反吐のようなものが吐きだされる。

 水鉄砲のように勢いよく飛び出した黒い反吐は廊下の壁を無残に染めた。

 それは泥だった。

 人の身体に入りきるとは思えないほどの量の泥を望月は吐きだしたのだ。

 

「ひゃひゃひゃ―――」

 

 それでも望月の笑いは止まらない。

 しばらくして糸が切れたマリオネットのように倒れ落ちるまで、狂った高笑いは続いた。

 そして、それが止んだとき……高儀の依頼人はまったく動かなくなった。

 何もわからず呆然としていた高儀だったが、急に立ち上がり、救急車の手配と警察への連絡を始めた。

 まずは、公的機関への連絡が必要だと思いついたからだ。

 それが一段落ついてから、高儀はもう一つの連絡先へと繋がる番号へと電話をすることにした。

 

 それは、半年前にとある巫女の代理人として知り合ったある少年の電話番号であった……

 



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妖怪〈泥田坊〉

 

 

「おそらく、そいつは〈泥田坊〉の仕業だね」

「〈泥田坊〉?」

「鳥山石燕に描かれた田んぼにまつわる妖怪さ。元の土地が大宮にあるというのにわざわざ中野まで出張するというのは、〈泥田坊〉にしては活動的だけどね。まあ、家が泥だらけになっていて、腹中一杯に泥が詰め込まれていたんだろ? だったら、十中八九、〈泥田坊〉だね」

 

 御子内さんが高儀さんから聞いた話を解説してくれた。

 どうやら、犯人は特定されたらしい。

 

「やはり妖怪ということでいいのか?」

「そうだね。……でも、高儀。キミもなかなかよく妖怪に遭遇するね。一度、御祓いでもした方がいいかもしれないよ」

「まあ、な」

「キミさえ良ければ、安いというよりも、手軽にやってくれるお社を紹介しておくけど」

「結婚式の金を溜めないとならんのでな。今は節約中なんだ。また今度にしておく」

 

 高儀さんは以前会ったときに比べて、思い詰めた感じがなくさっぱりとしていた風だった。

 社会人らしいしっかりとした受け答えには憧れてしまうな。

 それから幾つかの雑談をした後、

 

「じゃあ、あとはおまえたちに任せる。妖怪相手なんか、一介の不動産調査士には無理だからな。望月さんの残った身内には俺から伝えておくから、おまえらはその〈泥田坊〉をなんとか退治してくれ」

「わかったよ。情報をありがとう」

「どういたしまして、だ。まったく、コネというものは大事だな」

 

 そう言って、高儀さんは待ち合わせに使った喫茶店から去っていった。

 僕らの分の支払いまでしてくれて、節約は大丈夫なのだろうかと心配してしまう。

 交際費で落とせるのならいいけど……

 

「〈泥田坊〉か。東北ならともかく首都圏にでるというのは珍しいな」

「そうなんだ」

「関東は穀倉地帯ではないからね」

「でも、埼玉って意外とお米の産地でもあるんだよ。田んぼにまつわる妖怪がふんだんにいてもおかしくはないかな」

 

 埼玉県は米の収穫量では他の県に負けるが、精米したあとの出荷額は国内一位なのである。

 それはすぐ近くに東京という一大消費地域が存在することから、そこに出荷することが可能だからである。

 米どころである癖にあまり日本酒が作られていないことから、御子内さんの頭には入っていなかったのかもしれない。

 

「へえ。そんなものなのかい」

「大宮辺りまで行けば、結構田園風景が広がっていたりするし、〈泥田坊〉ってのがいてもおかしくはないね」

「なるほど」

 

 高儀さんが教えてくれた内容によると、今回、大量の泥によってすでに一人の男性が殺害されている。

 外にはなんの異常もないのに、家の中は泥だらけになり、泥を飲まされて死んだ男性が一人。

 常識ではありえない殺され方だ。

 高儀さんが迷わず僕のスマホに連絡してきた理由もわかる。

 

「警察では迷宮入りだろうね」

「そうなると思う。調書には泥についてはほとんど触れられずに、終わるんじゃないかな。少なくとも警察では真相に辿り着くことはできないだろうし」

「そこで〈社務所〉の退魔巫女の出番か」

「一人死んでいるし、世の民草を苦しめる妖怪相手は基本的にボクらの仕事さ」

 

 相変わらず御子内さんは思いきりがいい。

 

「でも、大宮から区内に出張してくるなんて、随分とフットワークの軽い妖怪もいたもんだね」

「……そこは確かに疑問だ。〈泥田坊〉って田んぼにとりついた妖怪だから、基本的には自分が執着する田んぼにしか現れないものなんだ。それが自分から動くなんて、ちょっと聞いたことがないかな」

 

 御子内さんは首をひねった。

 

「それに伝承によれば〈泥田坊〉は丹精込めて手入れをした田んぼを、跡継ぎの息子が放蕩三昧の挙句売ってしまったことから現われる妖怪のはずなんだ。少なくとも田んぼが失われたことを奇貨として出現する。それが、まだ売ってもいない段階で現われるのはおかしいな」

 

 被害者の望月さんはまだ父親から相続した土地を売却してはいない。

 高儀さんが呼ばれたのはその前準備のためだからだ。

 ただ、事態は少しだけ変化していて……

 

「望月氏の父親は、息子が殺された日の前日、高儀が訪ねていく一日前に亡くなっていたそうだね。そうすると、日本の民法によれば相続はされているわけだ。息子二人しかいないそうだから」

「子供が二人だと、相続分は二分の一だけど、望月さんも遺産を相続はしていることにはなる。遺産に田んぼが含まれるというのなら、〈泥田坊〉の正体が亡くなったお父さんだというなら、将来的に放蕩息子によって失われる前に手を打とうとすることもありうるね」

「うーん」

 

 御子内さんは納得していないようだ。

 伝承の通りに動く妖怪ならばともかく、少し外れた行動をする相手だとどうしても勝手が違うのだろう。

 とはいえ、〈泥田坊〉という妖怪が暴れていることは確かなので、御子内さんたちの出番であることは間違いない。

 僕たちは新しい被害者が出る前に、その妖怪を退治する必要がある。

 引っかかるところは僕にもあるのだけれど……

 

 

          ◇◆◇

 

 

 翌日、僕らは大宮―――現在はさいたま市になってしまっている地域へ、武蔵野線を使って赴いた。

 あまり使わない線路だけど、こういうときは便利である。

 道すがら、〈社務所〉の禰宜さんたちが調べた形通りの報告書に目を通す。

 一昨日、〈泥田坊〉らしき妖怪に殺された望月氏は、本名を望月耕作というが、名前に反して父親の農作業の手伝いは一切しないで中野で暮らしていたらしい。

 職業はSE。

 派遣された先で作業を保守したり統括とかをする仕事を請け負っていたとのことだ。

 僕はIT関係に詳しくないのでなんともいえないが。

 ご両親のうち、母親はおらず、生家では父親がそれなりに広い田んぼを耕して生活していたらしい。

 母親については、名のしれない男と浮気して駆け落ちして行方不明ということだ。

 望月耕作とその兄である豊作は、父親の手一つで育てられて、兄は父の後を継いで農家になったが、弟は高校卒業後に都内の家電メーカーに就職した。

 堅実に暮らしている兄と違い、耕作は賭け事やら女遊びやらが大好きな遊び人で、三十代に入る前に会社を辞めて、今のプログラマーの派遣業につく。

 仕事は優秀な部類に入るが、常に借金で首が回らない状態であったらしく、それが結果として遺産である田んぼを売り払おうという決定をする原因になったということである。

 まあ、父親が急逝した直後に〈泥田坊〉になって田んぼを守ろうとするぐらいには、生活が乱れ切っていた人のようだった。

 父親が化けて出てもしかたないところか。

 殺されるまでのことをしたとは思えないけれどね。

 

「望月兄弟の父親の田んぼというのは、そんなに美田なのかな。妖怪になってまで、息子を殺してまで守りたくなるような……」

「うーんと、グーグルアースで見た限り、わりと普通の田んぼだけどね。禰宜さんたちの造ってくれた資料でも特別に収穫がいいとか、生産物が美味しくて表彰を受けたとかいう記載はない。……まあ、先祖伝来の土地だから大事にしていたのかもしれないけれど」

 

 僕たちは互いに資料をめくりながら、意見を交わす。

 昨日からなんとなく腑に落ちないので、すっきりできる答えを必死になって探しているようなそんな気分だった。

 喉に舐めていたキャラメルが貼り付いたような不快さ。

 どうも気になって仕方がない。

 

「いや、そういう訳でもないな。―――父親が農業を始めたのは、結婚して子供が生まれてからだ。それまでは普通にサラリーマンだった。脱サラみたいだね」

「え、田んぼは?」

「以前の持ち主からローンで購入したようだ。1967年のことみたい。ほら、登記の写しがある」

 

 良く手に入ったものだと思いつつ、登記の写しを見ると、確かに所有権が移転しているのはそのぐらい。

 しかもまったくの別人で、彼らのご先祖からの土地ではないみたいだ。

 すると、先祖伝来の土地でもないが、長年愛着を持って手入れをしてきたから大事にしていたということでいいのか。

 奥さんに逃げられて、男手一つで子供二人を育てながら耕してきた田んぼだから、人手に渡るのは絶対に避けたかったのだろうか。

 

「とりあえず、この田んぼをめぐって〈泥田坊〉が出るかどうかを確認しようじゃないか。それから、〈護摩台〉の設置だ」

 

 と、御子内さんは言うが、僕は首を振った。

 

「その前に、まず望月耕作のお兄さんである豊作さんに会おうよ。それが大事だと思う」

「どうしてだい?」

「何かが引っかかってもやもやしたままでは、色々と集中できないからさ」

 

 それは御子内さんも同意見だったらしく、特に反対の声は上がらなかった。

 

 

 



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田怨地帯へようこそ

 

 

〈泥田坊〉は、有名な絵描き鳥山石燕の描いた『今昔百鬼拾遺』に載っていることから、今日でも良く知れ渡った妖怪である。

『今昔百鬼拾遺』には〈泥田坊〉の一枚絵とともに、『むかし北国(ほくこく)に翁あり 子孫のためにいささかの田地をかひ置て寒暑風雨をさけず時々の耕作おこたらざりしに この翁死してよりその子 酒にふけりて農業を事とせずはてにはこの田地を他人にうりあたへれば夜な々々目の一つあるくろきものいでて 田をかへせ々々とののしりけり これを泥田坊といふとぞ』と添え書きがされている。

 この添え書きによると、北国に住むお爺さんが、子供たちのために購入した田んぼを遺して死んでしまったが、受け継いだ子供は農業をすることもせず酒を飲んで遊蕩したあげく他人に売ってしまった。それ以来、夜な夜な田んぼに一つ目のものが現れては「田を返せ、田を返せ」と罵ったというものだ。

 農業を営む老人が子孫のために田んぼを遺したのに、その心をわからない遊び人の息子を怨んで泥田坊という妖怪と化したものと言われている。

〈泥田坊〉の特徴は、片目しかなく手の指が三本しかない、田んぼから上半身のみを現したものと描かれている。

 以前御子内さんに教わったことによると、人間の五本の指は二つの美徳と三つの悪徳を意味しているという。

 三つとは、「貪欲」、「嫉妬」、「愚痴」のことを指し、それらの悪徳を「知恵」と「慈悲」の二つの美徳でかろうじて抑えているのであり、それらは〈鬼〉の特徴なのである。

 要するに、三本指しかない泥田坊は悪徳のみで生きる〈鬼〉に似た存在であるということだ。

 ……ただ、僕はこの説を聞いて、今回の事件について納得しがたい思いを抱いた。

〈泥田坊〉となった翁は、子供のために田んぼを遺そうとする心根の優しいお爺さんである。

 それが田んぼを子供のために喪って妖怪になるまではわかる。

 だが、〈鬼〉になる理屈はないはずだ。

 少なくとも、邪悪な〈鬼〉と同じ扱いを受ける筋合いはないはずである。

 故に、研究者の中には、〈泥田坊〉は石燕が創作したものであり、言葉遊びで構成されているとする人もいた。

 石燕の時代、江戸において「北国(ほっこく)」というのは代表的な遊郭である新吉原のことを指し、吉原田圃(よしわらたんぼ)とも呼ばれていたことから、「田を返せ」というのは要するに隠語で性交のことをいい「泥」とは放蕩の「蕩」に通じているのではないか、というのである。

 つまり、翁が死んだという事は「翁亡くす」のゴロ遊びである「置なくす」、すなわち「質草を流す」ことであり、遊びすぎて田んぼの権利まで失ってしまったということだ。

 そのため、石燕と親交があった紀州藩の典医・品川玄湖(狂歌師として「泥田坊夢成(どろたぼう ゆめなり)の雅号を持つ)が吉原で遊びすぎて身を持ち崩し破滅したことを揶揄したものではないかとも言われている。

 これらを考えると、〈泥田坊〉になった翁その人が〈鬼〉になるほど欲望に塗れていたことになるのでわからなくはないが、〈泥田坊〉の伝承においては喪失者とその原因になったものが分かれていることが妙に気になる。

 僕らの、咽喉にものがつっかえたような違和感はこのあたりのせいであるのだろう。

 しかも、今回の事件においてはまだ問題となる田んぼは売買すらされていないのだから。

 だから、僕らはまず殺された望月耕作の実家を訪ねることにした。

 どのみち、〈泥田坊〉が相手となるのなら、〈護摩台〉に引きずり出すために子孫の力が必要になるかもしれないのでやらなければならないことだし。

 

「なかなか見事な田園風景だねえ」

 

 タクシーの外に広がる田んぼを見て、御子内さんが呟く。

 

「いや、もう休耕期だから一面茶色んだけど」

 

 すでに十一月にもなれば緑なんかほとんどなくて、収穫期には稲穂で埋まるだろう景色もただの土の連なりだ。

 

「いや、思ったよりも人家が少なくて田んぼだらけだから驚いていただけさ。東北とかならともかく、このあたりでこれだけ田園だらけというのはなかなかないんじゃないかな」

 

 皮肉ではなく素直に感心しているらしい。

 多摩出身とはいえ、東京育ちの彼女や僕からすると、田園風景というのにはプリミティブな憧れがあるのかもしれないね。

 思ったよりも人家が少ないというのも確かで、たまに農家らしい一軒家があるだけというのも寂しくもあるが雰囲気もあった。

 

「このあたりは土地も肥沃でね。ちぃと高いが、農家でもない人間が田んぼやっても結構うまい米が作れるんだよ」

「へえ、そうなのかい」

「ああ。まあ、大宮に近いわりにコンビニも傍に無いから不便といっちゃあ不便なんだけどさ」

「……なるほどね」

 

 タクシーがある十字路にたっしたとき、ストップの声がかかった。

 掛けたのは御子内さんだ。

 

「ここでいいよ。あとは歩いていく」

「おいおい、あんたらの言う住所までは一キロ近くあるぜ。乗せていくよ」

「いいんだ、ここで。距離が少ない分、支払いは少し上乗せしておくからさ」

「……別にいいんだが」

 

 望月家にいくまでの分も余計に支払って、僕らはタクシーから降りた。

 タクシーの運ちゃんは帰りにも使ってくれと、名刺を渡してくれた。

 気に入られたのかもしれない。

 来た方向に向けてタクシーが走り去ると、

 

「このあたりに、望月家の所有の田んぼがあるはずなんだよ」

 

 と、カバンから登記図を取り出して見比べ始めた。

 僕も横から覗き込むと、少し先にある区画がそうだという見当がついた。

 

「こっちだね」

「助かった。どうもこの図はわかりにくくてね」

「女の子は地図が読めないらしいから」

「ボクだって花も盛りのJKだから、当然さ」

 

 ホント、JKって名乗るの好きだね。

 

「おやまあ」

 

 辿り着いたところは、想定外の有様だった。

 思い描いていたものとはまったく異なる様相に、さすがに声もない。

 グーグルアースで見たのは、さっきタクシーが走っていた通りで、望月家の土地ではなかったのだ。

 僕たちが目にしたは、周囲の休耕地のものとは比較にならないぐらいにボロボロで荒れ地と化している田んぼであった。

 どう贔屓目に見ても、絶対に丁寧に世話をしているとは思えない荒れ具合だ。

 しかも、今年だけのものとはとても思えない。

 

「美田、という感じではないね」

「収穫も普通って話じゃなかったっけ?」

「それは、きっと望月耕作の話をそのまま採用した場合じゃないのかな。もしくは、数年前の段階なのかもしれない。とりあえず、現時点では、このどうしようもなく荒れた田が望月家のものさ」

「〈泥田坊〉って……こんなののためにも出るの?」

「自分のとこの田畑が売りに出されれば、たいていは悔しいんだと思うけど」

「でもねえ、これじゃねえ……」

「同感」

 

 こんな酷い有様の田んぼのために、放蕩三昧とはいえ息子を殺すなんて通常はあり得ない。

 

「他の田んぼもこんなものなのかな?」

「ここだけがこんな風というのは考えられないね。望月家の所有田がみんな同じってほうがしっくりくる」

「じゃあ、やっぱりお宅にお邪魔するしかないか」

「話を聞く必然性がさらに高まったということだね」

 

 望月家はそれから五分ほど歩いたところにあった。

 建物としては、一軒家と倉庫兼作業場のプレハブ小屋。

 ただ少し違和感があるのは、そそり立った塀の存在だ。

 日本の農家というものは庭と空き地が一体化したかのように、都会とは違って家同士の境界線というものがない。

 正確にはあるのだろうけど、田舎のおおらかさというものか、あまり厳密にはこだわらないのである。

 だから、この望月家のように何もない田畑の真ん中にあるのにくっきりと囲われていることはあまりない。

 いや、外部を拒絶しているのか。

 少なくとも、僕にとっては周囲の田園地帯の景色に相応しくない場所だと認識するのに十分であった。

 はっきりとしているのは、この家は、きっと「檻」であるということだ。

 閉じ込めるためか、侵入を拒絶するためか、それ以外の理由があるかはさておき。

 門のところにインターホンがあったので、僕がボタンを押した。

 ピンポーンという電子音がする。

 しかし、反応はなかった。

 それどころか、もう一度押そうとした時、

 

「動くなよ、てめえら」

 

 塀の裏から、若い同い年ぐらいの男が現われた。

 手に拳銃を握り、銃口を僕らに突き付けながら。

 これはまさに予想外のピンチといえた。

 



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手荒な歓迎とお手軽な制圧

 

 

 僕たちに突き付けられたのは、ピカピカ光る拳銃の銃口だった。

 どう見ても半グレのような青年の手に握られた自動拳銃が、冷たい輝きを放ちつつ、僕らを威嚇してきた。

 持ち主の方も、まだあどけなさは残るがそれにしても悪そうな顔をしている。

 金髪が溶けたプリン頭だしトサカのようなソフトモヒカンだし、お世辞にも善い人とは思えない風貌だ。

 しかも、僕らを恫喝しているし。

 

「待ってください、僕らは別に何もしていません」

「うるせえ、なんだ、その覚醒剤(つめたいもの)打っているようなイカレタ格好は!!」

 

 チンピラの視線の先には御子内さんがいる。

 白衣に緋袴の改造巫女装束に、リングシューズと革のキャッチグローブ、ついでにケプラー製の身ごもという姿はまあ通常ではない。

 僕もだいぶ麻痺してしまっているが、こんなコスプレ以上の格好をして中央線と武蔵野線とバスを乗り継いできてもおかしいとは微塵も感じなくなっていたのだから。

 薬物をやっていると難癖つけられるのは癪だが、御子内さんの格好は確かに一般人からすれば警戒した方がいいものかもしれない。

 もっとも、拳銃突き付けられるほどではないだろうが。

 

「待ちたまえ。ボクは怪しいものではないよ」

「怪しいどころの騒ぎじゃねえだろ!! なんで、巫女がこんなところにいるんだ!! 初詣の寺じゃねえんだぞ!!」

 

 お寺にも巫女はいないけどね。

 ただ、こんな風貌の人に正論吐かれるのはやや複雑な気分だった。

 

「どうする、京一?」

「御子内さん、これ、モデルガンだからやっちゃっていいよ」

「了解」

 

 僕が言うのと同時に彼女の足が撥ねあがり、拳銃を持つ手首をつま先で抉った。

 銃口が上を向く。

 そのまま後ろに回転し、伸びきった左足の直蹴りがソフトモヒカンの青年をふっ飛ばした。

 彼女にしては容赦しているのはわかるのだが、もう少し手加減してあげてもいいぐらいの勢いで後方へと倒れ行く。

 やられた本人は何が起きたのかきっとわかっていない。

 一年付き合ってきた僕にさえ、目にもとまらぬ速さだからだ。

 

「!? ―――!!?」

 

 目を丸くして仰向けになって空を見上げている青年の手から零れ落ちた拳銃を拾い上げる。

 

「よくモデルガンだとわかったね」

「これって正式名称は『デザートイーグル』っていってね。『プレデター2』でマイク・ハリガンが使っていた奴なんだけど、結構高いし、日本のこんな田舎のお兄さんが持ち歩けるようなものじゃないんだ。ヤクザとかからの横流しならトカレフとかマカロフとかMP25みたいなのでないとね。ひと目でモデルガンだとわかるよ」

「……ボクにはわからないけど」

「男の子の必須教養なんだ」

「へえ」

 

 僕だってあまり詳しい方じゃないから、クラスメートの赤嶺とかの受け売りなんだけれど。

 

「さて、こいつをどうしようか。もしやこの家の関係者のはずはないと思うけどさ」

 

 御子内さんが胸倉を掴んで引き起こそうとしたら、

 

「兄貴!!」

 

 と、門が中から開いて、一人の少年が走り出してきた。

 こっちは背が低く、似合っていないリーゼントのような髪型をしていて茶髪だ。

 倒れている青年とサイズと髪型以外はそっくりなので兄妹だろうと思われる。

 彼は兄を起こそうとしている御子内さんに殴りかかる勢いで僕の横を通り抜けようとした。

 万が一にでも御子内さんを殴らせる訳にもいかないので、僕はその腕を掴んで止めた。

 おそらく中学一年生ぐらいだろう。

 いくら僕が気が弱くても三つや四つも下の子には力で負けない。

 

「放せ!!」

「……君は望月さんところの下の息子さんかな?」

「放しやがれ、このシャバ僧が!!」

 

 なんだろう、ビーバップハイスクール世代でもないと使わなそうな単語を聞いた。

 

「怯えているのはわかるけど、僕らに当たるのはお門違いだよ」

「なんだてめえ!!」

「妖怪が怖いんだよね。君たち兄弟は?」

 

 顔色が変わった。

 どうやら間違いないらしい。

 この兄弟―――転がっているのはもしやこの家の関係者だったわけだ。

 

「……まさか、この連中、望月豊作の子供なのか?」

「そのまさかっぽいね。家の中から出てきたから、泥棒でもなければこの家の人なんだと思う」

「てめえ、うちになんの用だよ! 兄貴が何をしたってんで!!」

 

 僕らにモデルガンとはいえ銃を突き付けて脅したんだけどね。

 まあ、ちょうどいいところに来た上に、話のとっかかりにはなるからいいか。

 

「……ちょっと話を聞かせてもらっていいかな。そうすれば少なくとも妖怪については手が打てると思うよ」

「なんだと……?」

 

 僕の考えが読めたのか(さすがは相棒)、御子内さんはソフトモヒカンを強引に立ち上がらせて、腕の関節を逆に締め上げて、望月家の門へと歩き出す。

 可愛らしくウインクをしてきたけど、やっていることは基本的に可愛くはない。

 まあ、ともかく、僕らは〈泥田坊〉についての情報を手に入れることができそうなのでよしとしようか。

 

 

        ◇◆◇

 

 

「だからよお、親父は、もお癌で長くねえんだよ……」

 

 さっきまでのチンピラぶりはどこに行ったのか、望月兄貴の方は僕らに泣き言を言い出した。

 実の父親が癌で闘病生活、面倒を見ていてくれた祖父が交通事故で急逝、残された彼らだけでは葬式もまともにできないということで、幾人かの親戚の面倒を見てもらっているようだ。

 とはいえ、どう見ても半グレかチンピラな彼らのことを親身に相談に乗ってくれるはずもなく、持てあまされている状態らしい。

 おかげで僕ら(特に御子内さんの巫女装束に)に対してむしゃくしゃして絡んだというのが真相みたいだ。

 

「ジジイはもともと俺らのことは厄介者ぐらいにしか思っていねえけど、それでも死なれちまうとキツいし、なんだか叔父さんは殺されちまうし…… どうすればいいかわかんねえんだ」

「兄貴……」

「弟よ……」

 

 新しい情報が入った。

 この家の中では祖父と孫の関係はあまりよくなく、少なくとも慕われる関係ではなかったということ。

 

「ここに戻ってきたのは……」

「着替えとかを取りにだよ。ジジイと叔父さんの葬式は町の葬儀屋がやってくれるってから、俺らは一度帰れっていわれたんだ。あんまり、ここにはいたくねえんだが」

「どうしてだい? キミらはここで育ったんだろ」

「育ったのは十年ぐらいだ。親父がジジイの跡を継ぐことに決めたらしいから、それで戻ってきた。あんときゃ、母ちゃんがどっかに行っちまって俺らも途方に暮れていたからちょうどよかったけどよ」

 

 ……母親がいなくなった?

 前にどこかで聞いたな。

 確か……

 

「キミらの母親は離婚して実家にでも帰ったのかい?」

「いや。親父が言うには男作って出てったらしい。んで、親父は仕事もねえんでジジイの手伝いに帰ってきたんだ。あのクソジジイにしては珍しく親父に手を貸してくれたって喜んでいたな。あんとき、親父、すげえ凹んでいたからよ」

「お祖母さんのことについて聞いたことはあるかい?」

「ねえな。つうか、祖母ちゃんの話はタブーっつうか、しちゃいけねえことになってた」

 

 兄弟は沈痛な面持ちのままだった。

 彼らの身内の不幸のことを考えるとさすがに可哀想になる。

 しかし、祖母だけでなく母までが逃げ出しているということは、この家族にはどんな問題があるのかと不思議になった。

 ただ単に素行が悪そう、だけでは片づけられない話だ。

 外からはわからない、何か異常なものでもここには存在するというのだろうか。

 

「……それで、なんで妖怪を怖がっているんだ。そこがよくわからない」

 

 御子内さんの問いに対して弟が、

 

「親父が……俺が死んだらおめえらもヤバくなるからできる限り遠くへ逃げろって前から言ってたんだよ」

「何から?」

「俺はあのクソSのジジイが何かすんのかと思ってたけど、話を聞きに来た警察が叔父さんのひでえ死に方を教えてくれてさ…… ジジイが死ぬ前に言ってた『オレは死んだら化け物になってでも田んぼを守ってやるぜ。〈泥田坊〉になってでもな』とかいう戯言を思い出した。あのジジイなら妖怪になってもおかしくねえし、実際に叔父さんは殺された。どう考えてもおかしいじゃねえか」

「ガキンときから、あのジジイは『俺たちに田んぼを絶対にてめえらにはやらねえ。てめえらはここを売り飛ばそうとするに決まっているからな。殺してでもやらねえ』ってほざいてた。叔父さんはバカにして笑い飛ばしてたけど、マジで殺されちまった」

「叔父さん、こんなクソ田舎の土地を買って祖母ちゃんを追い出したジジイを憎んでいたから、その仕返しだったんだろけどさ。まさか、ホントにジジイが化けて出るなんてよ……」

 

 兄弟は水を向けなくても、こちらの知りたいことをペラペラと喋ってくれる。

 話が妖魅絡みのオカルトだから、今までまともにとり合ってもらえなかった反動だろう。

 僕らが尋問する必要はほとんどないぐらいだ。

 

「で、お祖父さんが化けてでたのだと、キミらは信じている訳だ。しかも、親父さんが死んだら自分たちが危険になるとほぼ確信している」

「ああ。他人にゃあわかんねえだろうが、この家でずっと暮らしているとそれが真実のような気が済んだよ。確信できんだよ。あのジジイはいかれてたから……」

 

 二人は正直に話しているのだろう。

 顔つきでわかる。

 でも、おかしな話だ。

 お祖父さんの死亡で相続は始まる。

 それは二分の一ずつ、息子たちに分け与えられる。

 望月耕作が殺されたのはおそらくそのせいだ。

 だが、同じ条件のはずの兄貴の豊作はまだ生きている。

 末期癌ということはもうすぐ亡くなられるかもしれないが、それは関係なく、どうして田んぼを相続した二人で差が出たのか。

 豊作は家業の農業を継いでいたから……?

 いや、なんとなくしっくりとこない。

 罵倒語の「たわけ」という言葉は、「田分け」であり、相続のたびに大事な田んぼ分割して最後には細切れにしてしまうことほど愚かなことはないといういう意味だという説もある。

 たわけの語源は実際には違うようだが、今回の事件についてはそれも何かを示唆している気がしてならない。

 伝承にある〈泥田坊〉のイメージとは合致しないのだ。

 

「とにかく、この家の交通事故で亡くなった祖父が〈泥田坊〉であることは間違いなさそうだ。京一、〈護摩台〉を設置するための資材を運び込むように連絡してくれ。良さそうな田んぼはこれから吟味するから」

「わかったよ」

 

 ……とにかく、〈泥田坊〉がまた人を殺さないうちに退治する必要があるのは確かであった。

 

 



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〈泥田坊〉がやってくる

 

 御子内さんが選んだのは、望月家の所有する中で最も荒れている田んぼだった。

〈護摩台〉の資材を搬入し易い国道に近かったという事情もあったけど、〈泥田坊〉という妖怪の特性上、一番出現しやすいという目星をつけてのことだ。

 枯れた雑草とかで大変だったけれど、今年は米作りをしていなかったからか収穫した跡にできる稲株もなくて予想よりは手早く作業が進められた。

 マットがいつもよりも斜めになりそうなのが不安ではあったけど。

 昼から初めて、夕方近くまでかかったが、陽が暮れた頃にはなんとかいつも通りの立派なプロレスリング―――〈護摩台〉が設置できた。

 たった一人でやっているにしてはスピーディーでよい仕上がりだと思う。

 今回は暗すぎてちょっと動くのに困るため、わざわざ篝火のような高提灯をセットしなくてはならないという手間もかかったが。

 ちなみに、望月兄は身内の葬式の支度のために町へ戻ったが、弟の方はこちらに残って僕の作業を手伝っていた。

 最初はポカンとしていたのだが、そのうち、十三歳の子供らしく興味が湧いてきたのだろう。

 意味はともかくとして文化祭気分で手伝う気になったのだと思う。

 働かせてみると意外にテキパキと動く子だった。

 

「なあ、兄ちゃん」

「なんだい」

「これ、プロレスのリングだよな」

「うん、そうだね」

「あの姉ちゃん、巫女さんだよな」

「間違いないよ」

「何の関係があるんだ」

「……大人の事情ってやつじゃないかな。僕も最近は深く考えなくなった。そういう設定なんだと呑み込むことにしたんだ」

「―――大人って大変だな」

「だね」

 

 こうストレートに聞かれると答えようがない。

 ただ、よく考えるとなんでプロレスリングを作って、その上で巫女と妖怪が雌雄を決するのだろう。

 あと、フォールとか20カウントのルールはどこから来たのだろう。 

 御子内さんはともかく音子さんとかレイさんまで諾々と従っているのは随分と不思議なことだし。

 まあ、望月弟に言った通り、深く考えてはいけない。

 

「あの巫女の姉ちゃん、いないな」

「調べものがあると言っていたよ」

「俺んちのことか?」

「みたいだね。何か思うことがあるの」

 

 一度、心を開くとわりと懐いてくるタイプらしく、さっきから色々と話しかけてくる。

 僕はリーゼントの友達なんてまずいない、普通の高校生なので戸惑いがハンパないんだけど、彼は一向に気にしてくれない様子だった。

 

「〈泥田坊〉っていう妖怪が君たちを襲うかもしれないという予感はあったの?」

 

 疑問だったことを訊ねてみた。

 叔父さんの耕作が殺されたとはいえ、この二人の反応はやや過敏だ。

 他に何かがあったのとしか思えない。

 

「ジジイが俺は〈泥田坊〉になるとか言っていたんだ」

「それは聞いたね」

「あいつ、俺らがガキの頃はよく殴ったりしてきたんだ。兄貴がでかくなってガタイが良くなってからは何もしてこなくなったけど、昔っから乱暴な奴でさ。親父なんかもすぐ手がでるから、俺たちはいつもビクビクしなくちゃならなかった」

「……それで?」

「親父は庭で遊ぶと怒るし、田んぼに出るとジジイが怒鳴る。やってられなくて、ダチんとこに行くか、家の中でゲームやってるかばっかしだったな……」

 

 意外と苦労しているんだ。

 

「そんなジジイだからさ、祖母ちゃんが出てっても当然だと思う。最近は、ボケてきたのか、田んぼ仕事ができなくなってたけど、毎日見廻りするぐらいにはここに愛着あるらしいから、化けて出てもわかるよ」

 

 田んぼに関してだけはマメなのか。

 それは〈泥田坊〉になってもおかしくないかも。

 しかし、幾つか腑に落ちないんだよな。

 

「……お祖父さんは」

 

 頭に浮かんだ疑問点を聞きだそうとしたときに、田んぼに爆音とともにバイクが乗り入れてきた。

 望月祖父が見たら眦を吊り上げそうだ。

 

「なんだよ、これ!!」

 

 町から帰ってきた兄貴が叫ぶ。

 どうやら、こいつにも説明しなくちゃならないみたいだ。

 御子内さんがいないのならばそれは僕の仕事だしね……

 

 

         ◇◆◇

 

 

「今回の〈泥田坊〉の出現の特徴は、子孫が大事な田んぼを処分しようとしていることに尽きると思う」

「……実際に売ってもいないのに?」

「うん。将来的に売ると考えただけで、危険を感じて現われるんだろうね」

「それだと、田を返せ~とはいかないんじゃない。望月耕作は、「田を……」とか高儀さんに言い遺したのに」

「彼の遺言には別の意味があると思う。まあ、そこはさておき、望月祖父が変化した〈泥田坊〉は田んぼが人手に渡ることをどうしても避けたがっている。だから、キミらがその意思を表示すればすぐにでも幽界からやってくるだろう」

 

 御子内さんは兄弟二人を見た。

 望月兄弟は動揺する。

 

「マジかよ……」

「嘘を言ってもしかたないね。キミらがボクみたいな胡散臭い退魔巫女の言うことを素直に聞いたのは、その辺の危機意識があるからだろ。祖父がキミたちを祟るっていう」

「―――ああ」

「キミらはまだ学生だ。農業を継ぐには若いし、力もない。ノウハウもだ。そうなると、家屋敷財産を処分してしまった方がいいのは当然のことだろう。でも、〈泥田坊〉はそれを許さない」

「でも、御子内さん。お祖父さんが亡くなって三日は経つけど、二人の前に〈泥田坊〉はやってきてないみたいだよ」

「それは父上が健在だからさ。残念ながら癌で先は長くないということだが、岳父の死によって相続した土地建物はすべて父上のものである以上、売りに出される心配は限りなく少ない。だから、〈泥田坊〉は現われない」

 

 ……理論展開に破たんがないか?

 少なくとも僕の知っている情報だけを並び立てると、御子内さんの言っていることには多々おかしい点がある。

 もしかして、彼女はもう真相に気がついているのだろうか。

 でないと、この理屈はおかしくなる。

 

「なぜ、望月父が健在なら〈泥田坊〉はでてこないの?」

「簡単さ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

()()()()()()()()?」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 望月父は絶対に売らないって理由があるのか。

 

「キミらはどうする? ここ数日は身内の不幸続きで頭が回らなかっただろうが、現実的に考えて、お父上の入院費用やこれからの学費・生活費を考えたら、ここの田んぼは手放さざるを得なくなるはずだろ」

「そりゃあ……」

「よく考えてみたまえ。お父上が亡くなれば、ここを相続するのはキミらなんだから」

 

 御子内さんはわざと二人を諭している。

 これは二人に意思表示をさせようという、いわば策だ。

 要するに、御子内さんは望月兄弟に田んぼを処分させようとしているのだ。

 なぜ、そんなことをするのか。

 答えは明白だ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だ。

 

「あんたの言う通りに売るつもりだぜ。俺ら、田んぼ仕事はするつもりねえからさ」

「兄貴の言う通りだぜ」

「そうか。それでいい」

 

 そこまで話した時、不意に肌寒い風が周囲に渦巻いた。

 思わず背筋が寒くなる。

 しかも、ただの冷気ではない。

 これは人間というか、生あるものの魂を凍らせる(あやかし)の世界から吹いてくる東風だ。

 生きとし生けるものを呪う寒さだ。

 つまり、〈鬼〉の発する鬼気であった。

 ここに生者の天敵が接近している。

 

「三人とも〈護摩台〉の上に乗れ。土に触れるな!!」

 

 御子内さんの忠告が届く前に、水のない田んぼの一画が泥のように黒ずんでいき、そして縄のような太くて長いものが蛇のごとく鎌首をあげる。

 しゅっと音をたてて飛んでくる。

 泥でできた縄が望月兄貴の首に絡まる。

 

「がはっ!!」

 

〈泥田坊〉が御子内さんの策にはまってやってきたようであった。

 

 

 



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かつてないほど汚濊で不気味

 

 

 突然、まるで絡みつく蛇のように宙を切って飛んできた泥の触手が、望月兄の首に巻き付いた。

 そして傍目からでもわかる強い力で、雑草を根ごと引っこ抜くように望月兄を引き寄せた。

 この先にある泥だまりに連れ込むつもりなのだ。

 油断していたら、そのまま終わりだっただろう。

 だけど、僕は用心深い御子内さんの叫びに乗って、懐に隠していた桃の木から切りだした木剣で斬りつけた。

 以前貰ったものは、刀身が長すぎて持ち歩くのに不便だったから、音子さんの実家の神社で擦りあげてもらって短くしたのである。

 元々退魔の力のある霊験あらたかな品であったが、さらに磨きをかけられて鋭さを増していた。

 御子内さんたちの拳に比べたらまったくたいしたことはないけど、護身用程度には十分な力がある。

〈泥田坊〉の泥の触手を咄嗟に切り裂いて望月兄を助けられる程度には。

 

「京一、ぐっじょぶ!!」

 

 僕が泥の触手を切断したことで、一瞬の遅滞が生まれ、御子内さんが動く時間が稼げた。

 彼女が望月弟を〈護摩台〉に押し上げると、僕はその間に兄貴の方を助け起こす。

 

「急げ、リングの上に乗るんだ!!」

 

 自分の身に恐ろしいことが降りかかっていることを理解した望月兄は泡を食いつつ、〈護摩台〉に転がり込んでいく。

〈護摩台〉に登れば助かる訳ではないが、彼らが上がってくれれば〈泥田坊〉もやってくる。

 そうすれば御子内さんが互角に戦うことができるのだ。

 二人を逃すまい、と再び触手が飛んでくるが、今度は余裕をもって臨んだ御子内さんに叩き落される。

 おかげで望月兄弟は〈護摩台〉の隅っこに逃れることができた。

 

「御子内さん、OKだ」

「よし、京一も〈護摩台〉に登ってくれ」

「うん」

 

 そのまま、彼女と一緒に上に上がる。

 こうなってしまえば、こちらの勝ちだ。

 二人を狙う妖怪〈泥田坊〉にとって、すでにこの舞台に上がらなければならない状況になってしまったのである。

 触手が伸びてきた泥だまりがじゅるじゅると動き出した。

 まるで生き物、いや藻が動いているような不気味さだ。

 泥だまりはあっという間にリングサイドに辿り着き、その中心からこげ茶色の太い腕が伸びてマットの縁を掴み、巨大な坊主頭の怪人が姿を現した。

 片目がない、指が三本しかない全裸の大男だった。

 全身に黒い泥がこびりつき、とてもではないが触りたいとは思えない。

 不気味で汚わい、退廃的な鬼気がまとわりついて離れない異形がぞわりとマットの上に這いずりあがってくる。

 あれが〈泥田坊〉。

 反対側のコーナーポストで抱き合って震えあがっている兄弟の、助けを呟くかすかな声が爆音のように大きく聞こえてきた。

 今まで多くの妖怪を見たが、こいつは極め付けの奇怪さだった。

 不定形の魍魎ですらもう少し正視できた。

 これは……あまりに不浄すぎる。

 

「……驚いた。〈泥田坊〉ってここまで恐ろしい妖怪だったのか」

 

 御子内さんまでが驚愕している。

 正直言って、彼女とコンビを組んでから見てきたどの妖怪よりも気持ち悪い容姿をしていた。

 地下深くのウジ虫とミミズの溜まり場から顔を出したかのように、全身にまとわりついたそれらの生物とその残骸。

 唯一光を放つ片目の薄気味悪いぼやけた黄色。

 開いた口はぐじゅぐじゅの涎でいっぱいだ。

 

「おえっ!!」

 

 後ろで望月兄弟が反吐を吐いている。

 どちらも漂う腐臭に耐えられなかったのだ。

 僕も鼻を摘ままなければ耐えられそうにない、刺激臭だった。

 唯一、御子内さんだけが何もせずに堪えている。

 

「余裕がない……んだ」

 

 あまりにも汚穢な化け物を相手にして、いつもの彼女が貫けるのかさすがに心配だった。

 だが、そんな僕の心配をよそに、

 

 カアアアアン!!

 

 といつもの鐘が鳴る。

 戦いのゴングだ。

 あれが鳴った時、この〈護摩台〉には妖怪を逃がさず、巫女の力を五分にまで引き上げる結界が張られる。

 それは退魔巫女と妖怪が雌雄を決しなければならない強制力が働くということでもあった。

 

「頑張れ、御子内さん!!」

 

 僕の応援にサムズアップして応えてくれた彼女を残して、僕は望月兄弟とともに〈護摩台〉から降りた。

 ここから先は彼女に委ねるしかない。

 僕の巫女レスラーに。

 しかし、〈泥田坊〉はかつてないほどに狂的な雰囲気を発し続けている。

 果たして、あの御子内さんでも勝ち目があるのだろうか……

 



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無敵の泥と最強の巫女

 

 

 石燕の浮世絵の中では、〈泥田坊〉は田んぼの中から上半身を突き出した姿で描かれている。

〈護摩台〉に上がってきた妖怪もそれとほぼ同じだった。

 この邪悪な妖怪の移動は、泥だまりと共になされるのだ。

 白いマットを黒く汚す泥とともに移動する妖怪。

 それが〈泥田坊〉だった。

 大きさそのものは少し体格のいい妖怪と同じぐらいの上、上半身しか見せていないので全高は高くない。

 しかし、身体を突き出している泥だまりは常にニメートル四方はあり、間合いが掴みづらい。

 また、あの泥だまり。

 迂闊に踏み込めば何が待っているのか見当もつかない。

 しかも、さっきの泥の触手を考えると、遠距離でも接近戦でもどちらもござれだろう。

 小柄な御子内さんにとっては大変に不利な相手であることは確かだ。

 

『……タヲ……』

 

 黄泉の底から響くような声を出し、妖怪が片目で御子内さんを睨む。

〈泥田坊〉にはおよそ知恵というものがないようだ。

 ただ、その黄色く濁った眼窩の奥には滾った溶岩のような憎しみがこもっていた。

 僕にもわかる、それはまさに憎悪だった。

 何故、そこまで憎んでいるのか。

 相手は対峙している巫女のはずはない。

 妖怪が彼女越しに視ているのはきっと別の憎悪の対象だ。

 ここまで人間性の悪意のみを体現している妖怪は久しぶりだった。

 それはそうだろう。

 この〈泥田坊〉の正体が望月家の祖父であったとしたら、彼は田んぼのために実の息子を殺害したかもしれないのだ。

 少なくとも田んぼというものは価値の高いものかもしれないが、子供の命と引き換えにできるほどのものではないはず。

 例え、妖怪となったとしても。

 浅ましい、まさに飢えて彷徨う餓鬼の姿であった。

 

「ジジイ……あんた……」

 

 望月兄が泣きそうな顔で〈泥田坊〉を見つめている。

 弟の方は涙を流していた。

 恐怖はまだ残っている。

 だが、それに匹敵するぐらい、妖魅に堕ちた祖父の姿にショックを受けているのだ。

 血を分けた祖父がこんなものになってしまったら誰もがそう感じるだろう。

 

「水田が米農家にとって何よりも大切な、代えがたいものだということはわかる。田を護るために人の命を奪うことだってあるかもしれない。人の命よりも大切なものは誰にでもある」

 

 御子内さんが口を開いた。

 とある作者の小説の中で「まったく、もし一般論の国というのがあったら、君はそこで王様になれるよ」という台詞がある。

 それを引用するのなら、僕は「建前の国」からやってきた男だ。

 基本的に僕からは偽善的な臭いが離れない程度のことしか言えないのだから。

 だが、僕のような建前の国から建前を広げにやってきたような人間とは違って、彼女は人間の悪性すらも肯定する。

 ただし、それを彼女は許さない。

 

「しかし、オマエのように隠悪のために人を殺すものとは違う。ボクはオマエのような奴を決して許さない」

 

 御子内さんがキミではなく、「オマエ」といった。

 ほとんど聞いたことのない呼びかけ方だ。

 それだけ頭に来ているともの考えられ。

 つまり、御子内さんは今回の〈泥田坊〉の事件についてすでに完璧に把握しているのだろう。

 すべてを踏まえているからこその、この台詞なのだ。

 恐ろしい敵と認識したうえでなおかつ、この強い言葉をぶつけられる。

 彼女の逞しさと誇りの高さが際立っていた。

 

「でりゃあ!!」

 

 御子内さんはロープに体を預け、マットの上を動き回る。

〈泥田坊〉を攪乱するつもりなのだ。

 敵は泥だまりとともに移動するしかないからか、移動そのものは極めて鈍重だ。

 それどころか御子内さんに近づいてくることもできそうにない。

 だからか、例の泥の触手が何本も唸りを上げて飛んでくる。

 もっとも、リングサイドで何回も撃墜している御子内さんにとっては、芸のない単調な攻撃でしかない。

 ただ速いだけでは、拳銃の弾丸さえも見切れる御子内さんにとっては児戯にも等しい。

 ビュンと飛んでくる触手の先端を右の手刀で切り落とし、左手で掴んで引きずり出す。

 しかし、触手は泥でできているだけで捨てることも簡単な、いわばトカゲの尻尾に過ぎないので、次の瞬間には新しいものが飛んでくる。

 一歩、間合いに踏み込んだ瞬間、足首に纏わりつこうとハエトリグサのようにばっくり口を開いた泥の奇怪な動きもあった。

 おかげで最初の予感の通りに御子内さんは近づけない。

 

「これでどうだ!!」

 

 不意を突いて、後ろから蹴りかかったのはうまくいったが、なんと頭に当たったらぐちゃりと凹み、隻眼は潰れたように思えたが、何のダメージも与えられた様子がなかった。 

 無理な姿勢のまま、空中で足首を捕まれ、そのまま地面へと強引に投げ飛ばされる。

 うまく受け身をとれたからいいようなものの、下手をしたらそのままお陀仏になりそうな乱暴な投げだった。

 マットでバウンドする彼女の小柄な肉体。

 起死回生の一撃にはならなかったのだ。

 しかし、それでわかったことがあった。

 あいつは触手同様に泥で構成されているということである。

 何が当たっても、おそらく致命的なダメージは与えられないのだ。

 泥という不定形の軟体でできている以上、少なくとも打撃と投げが主体の御子内さんではまともにやりあうことさえ難しいだろう。

 神通力のこもった武器である〈神腕〉を使うレイさんか、殺気を出す敵であればどんなものでも投げられる皐月さんでもなければ、勝目はないかもしれない。

 少なくとも、「巫女レスラー」では敵うまい。

 

「そうきたか……」

 

 御子内さんが口元を拭う。

 叩き付けられた衝撃で唇を切ったようだった。

 咄嗟にとった両腕を縦に組む受け身のおかげでその程度で済んだのかもしれない。

 遠目ではかなり酷い落下のようにも見えたのだけど。

 一方、〈泥田坊〉の頭部はもう元に戻っていた。

 御子内さんの蹴りで凹んだ箇所は元に戻り、潰れたように見えた片目も健在のままだ。

 はっきり言って不死身のような可塑性を持つのである。

 あれでは素手でなにをやっても無駄だ。

 御子内さん、何か策はあるのか。

 このままでは敗北必至だぞ。

 だが、僕の心配をよそに、御子内さんは手のひらのをじっと凝視していた。

 何も持ってさえいない手のひらをだ。

〈泥田坊〉の触手を握ったことで汚れてしまった小さな手を。

 

 ―――ぢっと手を見る。

 

 明治の詩人の有名な詩の一説を思い出した。

 あの御子内さんが、自分の戦いが徒労に終わるのかと打ちひしがれている。

 そんな絶望的な光景を見ているのかと思わされた。

 彼女には、他の退魔巫女のような特殊な力はない。

 あるのは誰にも負けない闘志と戦いのセンスだけだった。

 それらが通じない相手が出てきたら、もう勝てる保証はなかった。

 

「……」

 

 御子内さんが何度も手を握って開く。

 必死に蜘蛛の糸を掴むように。

 ただ、それは僕の主観でしかなかった。

 

「これでいけるかな?」

 

 御子内さんはすでに答えを出していたのだ。

〈泥田坊〉を攻略するための。

 彼女が見ていたのは、働きの徒労を感じるための皺ではなく、まさに一握の砂であったということであり、彼女のバトルセンスが導き出したとてつもない戦い方を僕が目の当たりにするのはそれからすぐのこととなる。

 

 

 



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〈泥田坊〉の季節は終わる

 

 

 手にこびりついた泥はどうなるだろう。

 べったりと皮膚に貼りつくような汚れとなり、清潔に保っていた場合にはことのほか気分を害するものである。

 汚泥、泥をかぶる、泥棒……

 泥にまつわる悪い言葉は山のようにある。

 そのものの善悪は別として、人にとって泥というものはあまり良い気分にさせてもらえるものではないのだ。

 泥によって汚された手は、まるで落とすことの出来ない穢れのように思える。

 しかし、所詮は水分を含んだ土でしかない。

 逆にいえば土や砂が濡れただけのものだ。

 であるのならば、水気が抜けてしまえばただの土であり、どうということのない砂でしかない。

 御子内さんの発想の大本はそこにあった。

 

「でりゃあああ!!」

 

 本能のままに暴れる妖怪らしく、飛んでくる触手のパターンはほんの数回で見切られていた。

 サッカーのトップレベルのDFと同じだ。

 一度、見せつけられてしまえばすぐに修正をして、どんなスピードやテクニックにも対応してしまう。

 御子内さんにとって、パターンの決まった攻撃などたかの知れたものでしかない。

 触手を掻い潜り、〈泥田坊〉の上半身が突き出る泥の手前で踏み込んで、高く跳ぶ。

 片目しかない顔面目掛けて正拳を叩きこんだ。

 だが、相手は泥で―――土と水で出来ている妖怪だ。

 単なる拳など手応えもなく突きぬけてしまう。

 ある意味では完全な防御を使い、〈泥田坊〉は攻撃直後の無防備な巫女を包み込もうとする。

 さっきと同じ、いやもっと悪い状態で掴まれてマットに叩き付けられる未来しか見えなかった。

 またも徒手空拳の御子内さんの技は徒労のまま終わるのか。

 しかし、そうはならなかった。

 御子内さんは宙に留まらず、果敢にもわざと泥の中に着地すると、信じられない行動に出た。

 大きく息を吸うと、そのまま両手と一度腰まで引きつけ、双手を振るい、あり得ないほどの連打を開始したのだ。

 あたたも、オラオラもなく、肺活量のすべてを連打を注ぐためだけに使い、〈泥田坊〉に一切の反撃を許さぬぐらいの猛烈な連撃の開始だった。

 右、左、双打。

 パンチの連打に必要なのは手打ちにならないような腰の回転力である。

 これは「キレ」に直結する。

 腰の回転と合わせて前傾姿勢にならないように重心を体幹の中心に意識する。

 御子内さんはそれが可能だ。

 しかも、もともと腕力もあることから一発一発が完全なパンチでなくても、とにかく拳を繰りだすことに集中し、呼吸を一切することなくひたすらに、ただひたすらに連打を繰り返す。

〈泥田坊〉の顔面・胴体、肩、手、腹、すべてに満遍なく打ち続ける。

 普通でも重すぎる彼女のパンチだ。

 まともな人間相手なら一撃で決まるような攻撃ばかりであった。

 もちろん、泥そのものなので手応えらしいものはない。

 それでも御子内さんの拳が当たれば、不定形の身体は揺らぎ、吹き飛ばされた泥を埋めるために、残りの泥が流動していく。

 しかし、御子内さんはそれを許さない。

 完全に埋まりきる前に再び拳で抉り取るのだ。

 なんのために、そんなことをするのか、まるで滝の前で荒行をする行者のような無茶苦茶な行動だった。

 よく見ると、さっきまで御子内さんが踏み込むと足元の泥が自由を奪おうと盛り上がっていたのに、べたりと足をついていても何の変化もない。

 それどころか、〈泥田坊〉の顔もわずかに色が変わっているように感じられた。

 いや、違う。

 色が変わったのではなく、白みがかかっているのだ。

 泥そのものの黒い外見がやや白く砂を葺いているかのように。

 

「もしかして……()()()()()()か……」

 

 御子内さんの一瞬たりとも隙間を造らないハチャメチャな無呼吸連打のせいなのか。

 泥を構成する二つの要素のうち、水分が御子内さんの体温と連打の持つ熱によって乾かされ、どんどんとただの土になっていくのだ。

〈泥田坊〉とて無限に再生するのではない。

 足元にある泥などを回すことで補っているのだ。

 しかも、戦っている場所は〈護摩台〉のマットの上で幾らでも補給できる大地ではない。

 奴が新しく泥を補給する余地はなかった。

 

「あれが御子内さんの狙いか!!」

 

〈泥田坊〉の一切の反撃すら許さない鬼気迫る無呼吸連打が、泥の肉体を削ぎ落し、()()()()()()()()()()()()

 泥は土へ、妖怪も土へ。

 あとで聞いた話によると、御子内さんは四分ほど呼吸を完全に止めて活動ができるらしい。

 つまり、御子内さんのフル攻撃は確実に四分は続いたのだ。

 そして、それで十分だった。

 御子内さんが、

 

「はああああああ!!」

 

 と凄まじい息継ぎを開始した時、泥で出来た妖怪はほとんど土の柱のようになっていた。

 御子内さんに手を伸ばしても、三本指の手の先からボロボロと砂が零れ、身体が形作れなくなっている。

 退魔巫女のありえない執念が妖怪の存在を打ち破ったのだ。

 

『タヲ……タヲ……』

 

 片目から憎悪の淀んだ光さえ消えかかっている〈泥田坊〉が呻く。

 その肩を御子内さんが掴んだ。

 肩に乗せて、腰をひっかけ、「よいさっ!!」と勢いよく持ち上げた。

 泥の中から初めて見る〈泥田坊〉の下半身が引っこ抜かれた。

 巨体を担ぎ上げたまま、一瞬、静止する。

 次の瞬間、とんでもない高度から叩き付けるパワーボムが炸裂した。

 しかも、御子内さんはジャンプまでしていたのだから、破壊力はさらに「倍」だ!!

 

『タヲォォォォォォォォォォォ』

 

 断末魔の叫びが轟いても、それは流れを止めることはない。

 御子内さんのパワーボムは確実に〈泥田坊〉の闇の生命にトドメを刺し、肩が押さえつけられ3カウントが数えられた途端、妖怪は崩れ落ちていく。

 砂のようだった。

 マットの上に一塊の砂山が生まれ、二度と人に似た姿をとることはなかった。

 御子内或子が〈泥田坊〉を下したのだ。

 決まり手は無呼吸連打からのパワーボム。

 僕の御子内さんらしい、強引すぎる力技であった……

 

 

           ◇◆◇

 

 

「庭と田んぼから白骨が見つかったよ」

「やっぱり御子内さんの想像通りだったんだ……」

「うん。望月の祖父とその長男の豊作はどちらも自分の妻を殺害して埋めていたんだ」

 

 ……〈泥田坊〉を倒した後、〈社務所〉経由で警察がやってきた。

 彼らによって、望月家の庭と田んぼが捜索され、結果として二体の人骨が発見された。

 どちらも完全に白骨化していたが、おそらく若い女性だということで検視がなされ、歯型と骨折跡等から、豊作・耕作兄弟の母と耕作の妻のものであることが確認されたという。

 どちらも頭蓋骨に鈍器で殴られたような跡があったことから、死因は殺人によるものとも断定された。

 その結果をもとに、病床にある耕作に任意で事情聴取すると、自身の妻の殺害と、祖父による妻である祖母の殺害を自供した。

 親子二代にわたる妻殺しの発覚である。

 

「望月の祖父はここに農地を勝手引っ越しして来た時に、妻とつまらないことで諍いになりかっとなって殺してしまったらしいよ。死体は購入した田んぼの一畝に埋めて、誰にも近寄らせないようにした。彼の田んぼへの執着心は、この自分の犯罪がバレることを極端に恐れてのものだったみたいだ。妻は浮気して出ていったと言い訳をしていたけれど、実際はいつバレるのか怖くて仕方なかったそうさ」

 

 望月家の兄弟を見ればわかるが、とかくこの一家の男の血の気は多い。

 すぐかっとなって暴力を振るってしまうようだ。

 だから、僕たちが訪ねて来た時も深く考えずにモデルガンで脅すようなことを平然と選択してしまう。

 妻を殺した祖父の血は当然二人の息子にも引き継がれていた。

 

「家を出て新しく家庭を持った望月豊作も同様だった。こちらもくだらないことで喧嘩をして、自分の奥さんを殺してしまう。思い悩んで父親に相談したら、庭に埋めればいいとアドバイスされ、農業を継ぐ代わりに死体の隠蔽を手伝ってもらったそうだ。祖父としては田んぼに埋めた祖母の死体が見つかって自分の悪事がバレないように、息子を使う予定だったのだろうね。例のあの頑丈な農家とは思えない塀も、庭の死体が見つからないようにするためのものだったのだろう」

 

 豊作が農家を継げば、少なくともあと十数年は妻殺しが発覚しないはずだった。

 望月家の土地・家屋は何も知らない次男の耕作には渡さず、豊作がずっと隠匿を続ける予定だったのだ。

 しかし、彼はまだ四十の若さで末期がんになる。

 つまり、耕作にも土地家屋が渡るおそれがでて、しかも次男は土地を売る気満々だったのだ。

 祖父と長男は悪事が露呈することを極端に恐れた。

 だからといって、もう高齢の身ではすでに死体をどこか別の場所に移すのは難しい。

 孫たちも大きくなって不審な行動はとれないし、頼みの長男は病気で入院中だ。

 耕作や孫たちに打ち明けるのはできたら避けたい。

 では、どうすればいい。

 悩みがピークに達したとき、なんと祖父は交通事故で死亡してしまう。

 妻の死体を埋めた田んぼを誰にも譲りたくないという未練を抱いたまま。

 そして、彼は〈泥田坊〉となった。

 

「本来の〈泥田坊〉は放蕩息子によってなくしたものを取り返そうとする妖怪だが、望月家の祖父がなったのは、田んぼを売らせまい、手放すまいという妄執そのものだったんだよ。妻殺しという悪事が露呈しないように、あいつは必死に『田を渡さない』と叫んでいたんだろう」

 

『タヲ……』というのはそういう意味だったのか。

 そんなことのために息子を殺し、生活できずに手放すしかない十代の孫まで殺そうとしたのだ。

 御子内さんが二人に「手放すのか」と問いかけて言質をとったのはそのためだったのだろう。

 癌で夭逝しそうな息子の子供なら、相続はなされることになる。

 そうしたら死体が掘りだされないとも限らないしね。

 死んでしまったからもう何もできない。

 できるのは妖怪となって田んぼを守ることだけ。

 だから、あんなにも世界を憎んでいたのか。

 世界が自分の悪事を暴きだして恥をかかせようとしていると錯覚していたのだ。

 

「妄執……。怨念……。人間の嫌な部分を抜き出したような妖怪だったんだね」

「まだ、妖怪としての側面があるだけいいさ。世の中には、人間の姿のままでああいう負の感情の塊になるものもいるから」

 

 事件は解決した。

 もう望月家の生き残ったものたちは〈泥田坊〉に悩まされることはないだろう。

 ただ、まだ幼いあの二人にとっては呪いにも等しい境遇を生きることに繋がっているのだけれど。

 

「あの連中、まっとうに生きていけるのかな」

「わからない。ボクらの仕事は妖怪退治だけだからね。人の人生にまでは責任は持てないんだよ」

 

 御子内さんは努めて冷静に振舞う。

 確かにその通りだ。

 僕たちには何もできない。

 

「〈泥田坊〉は倒した。―――それだけさ」

 

 もう収穫の終わった田園に冷たい風が吹いた。

 稲の季節は過ぎている。

 水田は枯れて、泥にまみれたあの妖怪の季節もまた終わったのだ。

 

 



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第35試合 黴の臭いのする戦場
国会図書館の妖魅


 

 

 霞が関にある国立国会図書館は、原則として新たに出版される本はすべて納入されることになっている。

 かつては、貸出用・保存用・予備の三冊を納めることになっていたのだが、近年、出版される本のあまりの多さもあり、現在は一冊だけでもいいことになっている。

 現在の総蔵書数は3000万点。

 文化的財産の蓄積の目的のためなので、減らすことはできず、毎年約100万点増加しているのである。

 そのため物理的なスペースが足りなくなることもあり、地下に所蔵庫を増やしたり、特定の書籍は関西へと移したりして対応していた。

 とはいえ、それでも雑誌や地方の出版社が発行したりしたものなどは抜けがあり、すべてとまではいかないようである。

 そもそも、国会図書館の名が示すように、ここは国会議員が法令を策定するための資料収集を行うための施設であり、次に官僚が行政に使用する資料収集を補助することとなるので、通常の意味での図書館とは一線を画している。

 もっとも、日本の知の代表的な砦と呼ぶことに間違いはなく、現在でも多くの人々が知識を求めて来訪している。

 

 ―――鹿倉(かぐら)(しおり)は、国会図書館の倍率の高い採用試験を潜り抜けて、ここの職員になった。

 他の公務員試験同様に一回の試験で合格することができず、二度挑戦してようやく憧れの国会図書館に勤めることができるようになったのである。

 彼女の仕事はまだ蔵書の整理が主なところだが、大学でも司書の資格をとっていたこともあり、いつかはそれが活かせればいいと考えていた(国会図書館の職員には司書の資格は必須ではないのだ)。

 もともと、紙の本のかび臭さが好きだということもあり、本に囲まれた仕事には満足していた。

 給料は多くはないが、それでも安定した公務員でもあり、生活面においての不満も特にはなかった。

 人間関係についても今のところ問題はない。

 ただ、一つだけ強いてあげるのならば……

 

「地下へのエレベーターのうち、北の端にある一基には絶対に乗ってはいけないよ。館長もしくはその代理以外は使用禁止とある奴だ」

 

 上司から受けた忠告について、妙に引っかかるものを感じたことぐらいだ。

 地下の所蔵庫に行くこともある彼女としては、そのエレベーターは確かに気にはなっていた。

 他のものと違い、出入り口の前に柵が置いてあることから不審に感じていたのだ。

 専用のカードキーらしいものを使わなければ入れない柵というのは、確かに奇異である。

 館長の権限がなければ触れられない資料があるというのはわかるが、問題はそのエレベーターの周囲に近づくと感じる冷気のようなものだった。

 他の職員だと肌寒い程度のことしか感じないようだが、栞は元々祖父が神主をしていたこともあり、霊感のようなものを持っていたので、そのエレベーターに近づくと背筋が急激に痛くなるのだ。

 寒気を通り越して、冷気にまでなっているような印象だった。

 つまり、栞の霊なるものを察知する力が警報を鳴らしているのだ。

 国会図書館の地下に、いったい何があるのか。

 気になって、自分でできる範囲で調べてみたが、地下に何か空間が存在しているらしいことはわかっても、そこに納入されているものについてはさっぱりだった。

 だいたい、彼女がそこまで感じ取れる“もの”があるのならば、もっと酷い霊障のようなものがあっても仕方のないところなのだが、実のところ、幽霊が出るといった話さえも聞いたことがない。

 だから、栞にとっては、そこは気にはなるものの原因がさっぱりわからない程度の場所でしかなかったのである。

 所用で近くの通路を通り抜けることがあっても、目を逸らすだけで気にしないようにはしていた。

 ただ、その日は少し様子が違っていた。

 本を運ぶためのキャスターを押しながら、例のエレベーターの前を通りかかった栞は、エレベーターの前に小柄な影が立っていることに気がついた。

 パッと見た目は赤い服を着た背を丸めた女性のようだった。

 栞は現在の館長が女性であることもあり、彼女だろうと最初は思ったぐらいだ。

 ただ、エレベーターを誰かが利用するシーンは初めて見たということもあり、なにげなくもう一度視線を送ると、少し訝しく思った。

 館長にしては背が低すぎる。

 また、赤い服はスーツやスカートではなく、絣の着物であることに気が付いたからだ。

 国会図書館には多くの職員がいるが、和装で出入りするものなど聞いたこともないし、しおりも知らなかった。

 要するに、栞の知らない人間なのだ。

 

(不審者……なのかな?)

 

 脳裏に浮かんだのはそんな内容だったが、警戒も厳重で、パスがなければ入れないこの施設に不審者が入り込む余地はないはず。

 では、いったい何者なのだ、あの着物の主は……

 相手が160センチ台の自分よりも背が低そうだということもあり、彼女にしては珍しく好奇心が顔をのぞかせた。

 だから、そのまま不用意に近づいて、声をかけようとした。

 

 びくん

 

 あと数歩で触れられる位置まで近づいたとき、突然栞の背筋が痛くなった。

 こめかみにも鈍痛が起きる。

 警報だった。

 彼女の霊感が危険を叫んでいるのだ!

 この時になって、初めて、彼女は自分の迂闊さに気がついた。

 冷静に考えればわかることではないか。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 

「あなた……誰……」

 

 思わず誰何の声が出た。

 そんなことを聞いている暇があったら、彼女は逃げ出すべきだったというのに。

 

 カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ―――

 

 不気味な音がエレベーターのある室内に響き渡った。

 電灯の明かりがなぜか消えかける。

 点滅し始めたのだ。

 どうして。

 この連続音は着物の女のほうからしていた。

 

 カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ―――

 

 気が狂いそうな音の響きだった。

 女の肩の上で黒いものが蠢いた。

 それは、灰色の皮を持ち、長い細い尻尾を左右に揺らす生き物であった。

 

 鼠、である。

 

 栄養ドリンクのような胴体の鼠はちょろちょろと女の上で尻尾を揺らしながら、なんと栞を視ていた。

 逃げることもなく、じっと凝視していた。

 あんなものが肩の上にいるのに、女は栞の方を振り向きもしない。

 

「あなた、……何なの……」

 

 ようやく振り絞った栞の問いに着物の女が答えた。

 声ではなく、振り向くことで。

 長い黒髪の下に、前歯の長い齧歯類の特徴と紅玉のように光る双眸をくっつけた鼠の顔がそこにはあった。

 人と同じ大きさの、二本脚で立つ、鼠だった。

 まとっている着物がさらなる気味悪さを加速させる。

 貌には人の面影があるが、全体的には鼠そのもの。

 そんなものが、人のように直立して、エレベーターを待っている……

 

 カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ……

 

 栞は巨大な鼠の手に何かが握られていることを知った。

 例の不快な音はそこから聞こえてきたのだ。

 恐怖に震えながらも視線を逸らせない栞の眼に、音の正体がわかった。

 それは巨大な鼠が手にしたものを齧る音だったのだ。

 そして、それは……

 

 一冊の雑誌のようなものであった……

 



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音子さま、ご指名でございます

 

「国会図書館に〈鉄鼠(てっそ)〉が出たみたい」

『¿de verdad(デ ベルダー)?』

「そうよ。だから、放課後、高校が終わったらすぐに霞が関まで行ってちょうだいね」

 

 関東の退魔巫女の統括という立場である不知火(しらぬい)こぶしは、後輩兼部下が携帯越しでもわかるぐらいに乗り気ではないことを悟った。

 もともとTwitterなどのSNS以外では無口なタイプであることはわかっていても、子供の頃から面倒を見ている相手だ。

 やる気がないことぐらい容易に見通せる。

 

「細かいことはメールで送るから、図書館の職員の指示に従って動いてちょうだいね。〈鉄鼠〉なんて放置してたら、どんな重要文化財レベルの書物が齧られて駄目になるかわからないから急いで退治しちゃって」

『シィ』

「―――音子ちゃん。お仕事なんだからもっとやる気を見せてくれないと困るのよ。いい、あなたは〈社務所〉の媛巫女なの」

『別にやる気がない訳じゃ……。あたし、いつも頑張ってんじゃん』

 

 携帯電話の相手である神宮女音子(じんぐうめおとこ)は、表向きは否定こそしているが明らかに真意とは違うことを示すかのようにダルそうな言い訳をした。

 これからすぐに命がけの仕事をしなければならないというテンションではない。

 さすがのこぶしも少し心配になった。

 

「何か、不満でもあるのかしら」

『別にぃ。あ、でも、千代田区とか中央区の管轄だと、普通はアイちゃんやアルっちが行くはずなのにあたしが指名される理由がわかんないなんて一度も言っていないし。先輩に行けと言われれば行くし。あたし、キンベンだし』

 

 あからさまに不平タラタラだった。

 勤勉なんて妙なアクセントまでつけている。

 何よりも、機嫌のいいときはペラペラと喋るスペイン語を使わず、ギャルのようにあてこすってくるあたり相当不満があるようだ。

 確かに、音子の管轄は横浜を中心とした神奈川全域と、西東京の端のあたりだ。

 普段は町田や世田谷区ぐらいまでの事件しか割り当てられることはない。

 また、彼女の特性を活かせる妖怪退治でもなければあまり管轄外への出張は命じられることもない。

 国会図書館のあるあたりは、普段なら同期の猫耳藍色か御子内或子の管轄であり、場合によっては常磐線やつくばエクスプレスでやってこれる明王殿レイの出番のはずだった。

 つまり、音子が指名されること自体、まずありえないのが通常なのである。

 

「藍色ちゃんは着ぐるみにとりついた怨霊との戦いのダメージがまだ回復していないし、或子ちゃんは最近働かせすぎなので休ませたいの」

『ミョイちゃんは?』

「あの子に、国会図書館なんてデリケートな場所を任せる訳にはいかないわ。本人は文学少女のつもりだから喜ぶでしょうけど、明王殿家の〈神腕〉は荒事にしか向かないから」

 

 もう一つ、熊埜御堂てんという選択もあることはあるのだが、デビューしたての小娘よりは、やはり経験値をとって音子の方がいいと判断したのである。

 場所が場所だけに、あまり騒ぎを大きくしたくないというのがあった。

 てんは火に油を注ぐ性格の持ち主なので、静かに物事を収めるということには向いていないのだ。

 その点では、こぶしの脳筋揃いの後輩どもの中では、音子が一番マシだと考えたのである。

 

「あなたが一番適任なのよ」

『……De acuerdo(デ アクエルド)

 

 ようやく折れてくれたらしく、先輩は安堵する。

 昔から音子は扱いが難しい女の子だった。

 気分がいいとスペイン語で喋ったり、突然マスクを被りだしたり、SNSに長時間入り浸ったり、電子掲示板を荒らしてまわったり、とにかく面倒くさかった。

 同期との関係も最初はあまり良好ではなく、今のようにみんなと仲良くしているのが不思議なぐらいだ。

 三日ほど前に同期ばかりでハロウィーンパーティーをしていたらしいが、昔はそんなものに参加するタイプではなかった。

 頭の中では物凄く色々と考えてお喋りなのだが、それをうまく言い表すことができず、したとしても偏った表現方法になってしまうため、脳筋揃いの仲間たちとの付き合いが上手にできなかったのである。

 要するに、自分の殻に閉じこもりやすい性格なのだ。

 しかし、変われば変わるものだと感心してしまう。

 いつ頃から、こんな風に素直な娘になったのであろうか。

 

『一つ、条件をつけていい?』

「……なに」

 

 また、始まった。

 さっきの評価を覆さなければならない条件でなければいいけど。

 

『……助手をつけて』

「国会図書館では〈護摩台〉は設置できないわ。特に地下の〈民俗資料監督室〉はそういうスペースがないもの。簡易結界がせいぜいといったところよ。だから、助手は必要ないの。助手に支払う時間外手当とか、人件費もばかにならないのよ」

『ノ。助手が欲しいの。つけてくんないと行かない』

「だから、必要ないって……」

 

 我が儘を言い出した後輩を宥めようとしたとき、こぶしの脳裏に一つの解決策が浮かんだ。 

 

「―――バイトなら安く上がるけど、それでいい?」

 

 曲がりなりにも裏の世界の退魔組織である〈社務所〉の関係で、アルバイトを使うことなど滅多にない。

 そんな甘い職場ではないのだ。

 ただ、ここ最近では例外的にアルバイトに支払う予算の割合が増えていた。

 たった一人の例外的なアルバイトのために、である。

 現在の〈社務所〉でバイトという肩書で呼ばれるものはその人物だけであった。

 

『シィ』

「でも、彼だって学校があるし、絶対に来てくれるとは限らないわよ」

『大丈夫。京いっちゃんならあたしが頼めば来てくれる。……でも先輩、アルっちには内緒でね』

「……はいはい、わかりました。私としても龍虎が相討つシーンは見たくありませんからね。でも、音子ちゃん、慎重にやりなさいよ」

『グラシアス』

 

 複雑な気分だった。

 彼女がまだ現役だった頃は、〈社務所〉の媛巫女同士でこんな関係ができたことなどなかったからだ。

 まさか、一人の男性を巡って熾烈な争いが生じるようになるとは……

 こぶしは執務室のデスクに飾ってある写真のうち、後輩たちと撮ったものを手に取ってみた。

 そこには十人前後のまだ子供そのものの巫女たちが並んでいる。

 

「―――この子たちが私よりも先に結婚するかと思うと死ぬほど腹が立つんだけど……」

 

 まず私怨が先に立つ、もうすぐアラサーの不知火こぶしであった……

 

 

 



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妖怪〈鉄鼠〉

 

 

〈鉄鼠〉とは、鳥山石燕の「図画百鬼夜行」によると、『頼豪の霊 鼠と(かす)

 世尓()()る所也』とあり、平安時代の僧侶・頼豪の恨みが妖怪になったものである。

 頼豪は僧の最高位である阿闍梨(あじゃり)の位まで上った実在の人物であり、当時の白河天皇に仕え、皇子の誕生を祈念した。

 その甲斐があってか無事に親王が生まれたことの褒美として、本山である三井寺の別院建立の願いを申し出たがかなうことがなかった。

 理由は宗教的に敵対していた比叡山延暦寺の横槍によるものであったという。

 白河法皇が自分の意のままにならないもの(天下の三不如意)として、「賀茂川の水(鴨川の流れ)・双六の賽(の目)・山法師(比叡山の僧兵)」を挙げるほど、寺社勢力としての当時の比叡山延暦寺は力を持っていた。

 その比叡山が嫌というのであれば、どんなに頼豪が申し出ても叶えられるわけがないというのである。

「平家物語」によると、これを怨んだ頼豪は、自分の祈祷で誕生した親王に対して呪いをかけ、断食に入った。

 やがて、頼豪は怨みをのんだまま死んでしまうが、その頃から親王の夢枕に、妖しい白髪の老僧が立つようになり、それが原因となったのか親王は、夭折してしまう。

 さらに同じ「平家物語」の流布本である「延慶本」や「源平盛衰記」などの記載によれば、頼豪の怨念は巨大な鼠となって、恨み骨髄に達した延暦寺の倉の経典を容赦なく食い荒らしたとされている。また、「太平記」の記述では、頼豪の怨念は、石の体と鉄の牙を持つ8万4千匹もの鼠となって、経典ばかりか仏像をも食い破ったとされる。

 このこともあり、人の怨みが大きな鼠となったものを「頼豪鼠」と呼ぶようになったらしい。

〈鉄鼠〉というのは石燕が名付けたもので、平安時代に頼豪が鼠になったものだけでなく、江戸時代には人の怨念が鼠となり、書物や宝物を駄目にする妖怪になったものすべてを包含する妖怪になったのである……

 

「シィ。浅ましい人間の欲望が巨大サイズの直立歩行するネズミになったものを〈鉄鼠〉というの。たまに発生するから、うちでも定期的に駆除して回っている」

 

 今回、音子さんが退治を任されたのは、その〈鉄鼠〉というネズミの妖怪であった。

 しかも、国会図書館の地下にいるのだという。

 前から興味はあったのだが、未成年はあそこに入れないのでなんというか運がいい。

 いつもの御子内さんの助手ではなく、音子さんの手伝いというのは久しぶりだ。

 まあ、〈社務所〉のお給金はいいので僕としては助かるしね。

 来年は受験もあるし、バイトの日数は減らさなくてはならないからである。

 

「ふーん。でも、あれ? ネズミの妖怪って鼠族に含まれて、今では江戸前のタヌキたちの配下なんじゃないの? 駆除して回ったら彼らが怒る気がするけど……」

 

 東京には僕の知っている限り、幾つかの動物妖怪の種族があって、タヌキ、ネコ、ネズミなんかが勢力を持っている。

 もっともその中でも鼠族は、たいした力もないことから、現在はタヌキの妖狸族の軍門に下っているそうだ。

 タヌキたちは今でも外来種のハクビシン族と対立していることもあり、勢力図は微妙に変化しているようではあるが。

 だから、不思議に思ったのだ。

〈社務所〉は人間の勢力であり、勝手にタヌキたちの配下を狩ってしまっていいのか、と。

 

「鼠族は、ネズミが歳を経て妖怪になったもの。〈旧鼠〉のことを言う。〈鉄鼠〉は人の怨みがネズミ型の妖怪になったもの。全然違う」

「てことは、妖狸族は……?」

「あいつらは元々タヌキ。動物妖怪って人間がなったものは含まれない」

 

 そういうことか。

 つまり、〈鉄鼠〉はタヌキの配下ではないから、人間が退治しても関係がこじれることはない、と。

 ただ、逆に考えれば、動物妖怪と戦う際は慎重に動かないと種族間の戦争になるおそれがあるということ。

 東京都の中はわりと危ういパワーバランスで保たれているのかもしれない。

 

「じゃあ、とりあえず〈鉄鼠〉を退治するのは問題ないんだね」

「シィ」

 

〈鉄鼠〉という直立歩行するネズミの妖怪(僕は某テーマパークのマスコットキャラクターを連想してしまった)は、高い価値があったり内容が希少な書物を齧ってダメにするらしい。

 平安時代の頼豪が怨みのある延暦寺にとって大切な経典を食い散らかしたように、ネズミによる書物への害が妖怪化したものが〈鉄鼠〉なのだ。

 国会図書館にでるのもよくわかる。

 

「じゃあ、急がないと国会図書館の大事な本が齧られちゃうんだ」

「それはまだ大丈夫」

「どうして?」

「国会図書館の地下には〈民俗資料監督室〉があるから、妖魅がそう簡単に入り込めないように結界が張られている」

「結界……?」

「シィ。あそこには世間にはだしてはならない危険な魔導書とかも保管されていて、代々陰陽頭(おんみょうのかしら)を勤め、天文占筮(てんもんせんぜい)を家業とする土御門家の末裔が裏・館長になって全体に結界を張っているの」

「えっ」

 

 音子さんが言うには、国会図書館の地下には秘密のヤバい本ばかりを集めた部屋があるらしい。

 確かに国会図書館の成り立ちを考えると、納得いく話である。

 

「その裏・館長さんは〈鉄鼠〉を退治したりはできないの?」

「元陰陽師の家系とはいっても、今では司書みたいなものだから。妖怪そのものとはやりあえないみたい」

「だから、館長さんから退魔巫女に連絡が行った、と」

「ノ。今回、まずまっさきにうちに連絡してきたのは、東京都古書籍商組合。国会図書館に来る前にいくつか古本屋が襲われていたらしいし。それから、国会図書館でも〈鉄鼠〉らしいのが目撃された、ということみたい」

 

 ……東京都古書籍商組合。

〈鉄鼠〉の被害を受けそうで受けなさそうな人たちだなあ。

 とはいえ、少し引っかかるけど、〈鉄鼠〉が暴れているというのは事実らしい。

 退魔巫女の音子さんが出張るのも当然という訳か。

 

「……古本屋さんの天敵みたいな妖怪だしね」

 

 ただ、この時点で僕は何かが引っかかっていた。

〈鉄鼠〉という妖怪についての何かが。

 初めて聞く妖怪なので重要な情報を持っている訳ではないので、きっと音子さんの説明に何かがあったんだと思う。

 しかし、それがわからないまま、僕らは国会図書館へとたどり着いた。

 



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闇で齧る音

 

 

 地下鉄の駅から国会議事堂の方へ向かうと、国立国会図書館がある。

 未成年の高校生である僕らでは表から中に入れないので、裏手にある職員用の出入口に向かうと、少し年上っぽいお姉さんが待っていた。

 黒髪のいかにも大人しい文学少女が成長しました、という見本のようなルックスの女性だった。

 彼女が案内役になった職員の鹿倉栞さんなのだろう。

 僕らを見る目には好奇心と怯えがミックスしたような複雑な感情が浮かんでいた。

 

「えっと……〈社務所〉の方でしょうか?」 

「シィ。あたし、神宮女音子。こっちはあたしの助手の升麻京一」

「升麻です」

 

 僕らを見て戸惑った様子なのはわからなくない。

 学校帰りの姿だし、音子さんにいたっては有名お嬢様高校のワンピース型のセーラー服だ。

 横浜では一番のお金持ちが箱入り娘を通わせる女子校であり、僕でも知っているレベルなので鹿倉さんも当然わかるだろう。

 だから、とても退魔巫女としてやってきたとは思えないはず。

 

「あのー、失礼ですが、お二人ともホントに妖怪退治の専門家なんでしょうか~?」

 

 もっともな質問を受けてしまった。

 

「シィ。そちらの館長に〈鉄鼠〉が現れたと聞いたんだけど」

「あ、はい。……えっと、裏の……館長らしいんですけど。私、裏の館長なんてものがいるなんて初めて知りました」

 

 きっと普通の職員は知らなくていいことなんだろうね。

 この人ははっきり言って知らなくていいことを知ってしまったのだろう。

 僕もそうだけど、隠された世界を知ってしまった人は否が応でも引き込まれることになるのである。  

 

「もしかして〈鉄鼠〉を見つけたのはあんたなの?」

 

 音子さんが聞くと、気まずそうに頷く。

 おそらく妖怪を目撃してしまったがゆえに巻き込まれた形なのだろう。

 挙げ句の果てに僕らの担当を押し付けられたとみた。

 となると、事情はあまり把握していないはずだ。

 あまり頼りにはならないだろうな。

 

「紅い着物姿で立つネズミでした。私の胸までの身長しかありませんでしたけど、立って歩いてました……」

「それが〈鉄鼠〉」

「妖怪なんだなというのはすぐわかりました。私、祖父が神主だったもので霊感みたいなのがあるようです」

「……だから土御門に目をつけられた」

 

〈鉄鼠〉を目撃したこともあながち不思議ではないということかな。

 神主の血筋というのなら、音子さんたちとの共通点もありそうだ。

 もっとも、〈社務所〉の退魔巫女は並大抵の代物ではないけれど。

 顔合わせも終わったということで、僕らは裏から国会図書館にお邪魔することになった。

 職員用ということだが、ほとんど誰とも合わない通路だった。

 警備員らしき人もいない。

 表の厳重な警備のことを考えると薄寒いほどである。

 

「〈人払い〉の術がかけてある」  

「そうなんだ」

「このあたりは特に強いけど、建物全体のいたるところに術の臭いがする。土御門、さすが」

 

 音子さんはこの一帯に掛けられた術の臭いを敏感に嗅ぎ取っているらしい。

〈人払い〉の術というのは、どうもこの国の霊的な力を持つものなら普通に使えるものだということで、〈社務所〉の退魔巫女は頻繁に用いている。

 破るには相応のコツがあるみたいで、何も知らない人間ではほとんど術中に嵌まってしまうようだ。

 音子さんは格闘以外にも術者としての伎倆も磨き抜いているので、この手の術に左右されることは全くない。

 術らしいものは一切使わない御子内さんとはちょっと違う。

 

「ここを曲がると、さらに地下へと続くエレベーターがありまして……」

 

 鹿倉さんが薄暗い廊下の先を指し示したとき、僕らの鼓膜をおかしな音が震わせた。

 

 カリカリカリカリカリカリカリカリ……

 

 堅いものが擦れあっているような、そんな連続音。

 

「ひいっ!」

 

 鹿倉さんの顔色が一気に青ざめる。

 この不気味な音の発生源について思い当たる節があるのだろう。

 そして、ここまでの流れによれば、発生源と呼べるものは一つしかいない。

 

「〈鉄鼠〉が近くに居るよ」

「シィ」

 

 音子さんが僕らを背にかばい、四方を油断なく睨みつける。

 いつもの改造巫女装束も馴染みの覆面もしていないので違和感を覚えた。

 ただ、こういうところは御子内さんと一緒で心底頼もしい。

 前の警戒は彼女に任せて、僕は死角を注意した。

 電灯があるというのに、どこまでも薄暗い廊下には何もいない。

 壁の奥に穴が空いていてそこから響いているとしか思えないのだ。

 

「とりあえずエレベーターに行こう」

「は、はいぃ!」

 

 鹿倉さんを連れて角を曲がると、確かに異常な柵で仕切られたエレベーターがあった。

 これがさらに地下にある〈民俗遺産監督室〉に続いているエレベーターなのだろう。

 地下には強力な結界があり、たいていの妖怪は入り込むことさえできないはずだ。

 一端、態勢を整えてこの建物に出現した〈鉄鼠〉を駆除するべきだろう。

 

 ―――待てよ。

 

〈鉄鼠〉は、大切な書物を囓られてダメにされる鼠害が妖怪となったものだ。

 頼豪が生きていた時代の大切な書物は仏教の経典しかなかったから、ネズミの被害がそれに集中したのは当然である。

 しかし、滑稽本なども発売されるようになった江戸期には他にも様々な書物が産まれていた。

 それらへの被害が〈鉄鼠〉となったのならば……

 

(ここの地下に所蔵されてるようなものばかりが〈鉄鼠〉のターゲットになるものだろうか?)

 

 ふと、そんな疑問が浮かんだのであった。



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国会図書館の裏・館長

 

 

 どうやら強力な呪力がこめられているらしい柵を越え、エレベーターの扉を閉めようとした時、薄暗い廊下の奥に黄色に光る眼が幾つもこちらを見ていた。

〈化け猫〉の時もそうだったが、動物系の妖怪の持つ、あの黄色い光はとても薄気味悪く身震いしてしまう。

 前に狐憑きの人間に遭遇したときもあんな光を発していた。

 

「なんて数……」

 

 鹿倉さんが茫然としていた。

 それもそのはず。

 誰の目にも、あれが夥しい数のネズミがこちらの様子を窺っていることの証しにしか見えないからだ。

 そして、通常、ネズミのような小動物は危険な人間がいるのにあんな行動をとることはない。

 要するに、あれだけの数のネズミがこの世の常識に囚われずに動いているというに等しい。

 操り手は間違いなく〈鉄鼠〉である。

 少なく見積もっても何十というネズミを自在に操ることができる妖怪ということだ。

 

「音子さん」

「んー、一度、退却する。少し想定外の〈鉄鼠〉みたいだし」

「想定外なの?」

「シィ。あの数のネズミを操るとなると、相当な力を持った〈鉄鼠〉だと思うから、対策を講じる必要がある。頼豪ほどではないだろうけど、ここ数十年に発生した〈鉄鼠〉の中では最大級の強さのはず」

 

 もともと阿闍梨の位に達するほどの僧侶の怨みが妖怪化したものよりはさすがに劣るとしても、音子さんがやや及び腰になるなんて……

 はっきりと今回の〈鉄鼠〉の姿を目撃すらしていないのに、退魔巫女がここまで警戒をするとはよほどのことだ。

 

「いったん、地下に行く。土御門の人間に会う」

 

 柵の中どころか、近寄っても来ない暗がりのネズミたちに見送られるように僕らを乗せたエレベーターは下に向かった。

 

 

           ◇◆◇

 

 

 僕らを待っていたのは、鶴のように痩せた中年の女性だった。

 髪にも白いものが混じっていて、ひっつめ髪がとても気の強そうな印象を与える。

 着ている服はオートクチュールのパンツ姿で、高価な生地を手作業で仕立てている高級感が僕にもわかるぐらいだった。

 自分に似合った高級服を着こなしているというだけで、随分と上流階層の出身の方なのだと一目瞭然である。

 しかも、気が強いのと品があるのが二つとも絶妙に混じり合って、正面からは話しかけるのも躊躇われるような迫力があった。

 

土御門(つちみかど)橘子(たちばなこ)よ。この国会図書館の館長を勤めているわ。あなたが〈社務所〉の媛巫女?」

「シィ」

「―――Todavia joven(トダビア ホーデン),es la mitad (エ ラミター)de mi edad(デミエダ)

No lo creo(ノ ロ クレオ) Me diecisiete años de edad. |Y qué(イ ケ)?)」

 

 いきなりスペイン語の会話が始まった。

 音子さんのお株を奪われたのだ。

 おかげで気勢を奪われたように感じられる。

 一方、土御門さんは余裕綽々という様子だった。

 

「十七歳か。〈社務所〉もだいぶ若返りを図ったみたいね。まあ、使い物になるかどうかはわからないけれど。……御所守(ごしょもり)たゆうとかいう妖怪婆はまだ元気にやっているのかしら」

「シィ。御前さまは壮健のまま」

 

 二人が口にしたのは、〈社務所〉の実質的なトップにあたるという人の名前だった。

 バイト如きの立場ではお会いしたこともないが、その方の名前が出るというだけでも、この土御門橘子さんという人の地位の高さがうかがわれた。

 音子さんがやや気圧されているようにも見える。

 なんといって、まずスペイン語で挨拶をし返されたというので意表を突かれたのが大きい。

 さすがは大図書館の裏・館長ということか。

 自在に使いこなせる知識が豊富なのだろう。

 

「―――それで、あなたたちは〈鉄鼠〉を退治するために呼んだのだから、さっさと終わらせてちょうだい。明日には、平常通りにしておきたいの。祝日であったとしても、上では役人たちが資料を集めて吟味している、この国にとって重要な施設なのよ、ここは。妖魅ごときに何日も煩わされたくないの」

 

 土御門館長はかなりの上から目線で言った。

 常日頃から命令をしなれていることがよくわかる。

 しかも、仕事の上だけでなくプライベートでもその姿勢は不変だろうというのも窺える。

 きっと家にはメイドさんがたくさんいるような家庭で育ったに違いない。

 それが不快にならない程度に上からだというのもなかなか得難い資質かもしれないけど。

 

「……一つ教えてほしい。この地下には〈鉄鼠〉の被害はでているの? 目撃情報でもいいけど」

「答えはいいえ、よ。鹿倉、あなた以外に誰か職員が〈鉄鼠〉を見かけたという報告は上がっていないけれど、そのあたりはどうなの?」

「は、はい、土御門館長!!」

 

 鹿倉さんは僕たちと接する時よりもガヂカチになっている。

 土御門館長のプレッシャーが物凄いからだろう。

 

「わたくしの結界にも綻びはなかったわ。面倒だけれど、結界の晴明紋を見て回ったけど、どこも破られていない。完璧なままだった。だから、〈鉄鼠〉はまだこのわたくしの研究室にまで侵入してきてはいないと断言できるわ」

「普通の書庫では?」

「鹿倉」

「は、はい。―――おっしゃられた通りに職員の半分で見廻ったところ、幾つかの雑誌が破られて捨てられているのを発見しました。あとは、特に深刻な被害は見つかっていません。〈鉄鼠〉……という妖怪の目撃も私一人に留まっています。さっきみたいなネズミも見つかっていません」

 

 つまり、〈鉄鼠〉の被害はまだこの地下にまで及んでいないということかな。

 僕は周囲を見渡した。

 別荘の居間みたいに広くて快適なキャビンのようなゲストルームで、香りのいいアッサムティーでもてなされているのは図書館とは思えない。

 天井には豪奢なシャンデリアがぶら下がり、壁に飾られたどでかいキャンバスにはみたこともない外国の風景が描かれている。

 まるで王宮にでも招待されたかのようだ。

 それぐらい贅沢な部屋なのである。

 

 ()()()()()

 

 残り半分は巨大なガラス窓つきの本棚がぎっしりと並び、唯一ある扉は鋼鉄製で電子錠がついている。

 無骨というか、衒学的というか、ちょっと形容しがたい重々しい雰囲気を持つスペースとなっていた。

 しかも、書棚のガラス窓にはいくつもの南京錠で厳重に封じられているのだ。

 中に凶悪な死刑囚でも閉じ込められているかのようである。

 収められている本もまともに背が読めるものは一つもなく、黒々とした古いものだということしかわからない。

 目を通すのは絶対に止めた方がいいとしか思えない書物の山だった。

 きっとヤバいものばかりだ。

 そして、その暗黒の図書館の司書が目の前の女性なのである。

 

「その扉の奥にはもっとカンファレンスしてはいけないものが揃えられているわ。ここにあるのは、わたくしが普段の研究に使うものだけ。だから、どんなに興味があっても見せて差し上げられないのよ」

 

 視線を察してか、土御門館長はそう言った。

 残念ながら誤解である。

 僕は一冊たりとも読みたいなんて考えたことさえないのだから。

 

「ここにあるのは日本でも貴重な書物ばかり。わたくしの趣味は西洋に偏っているので、この館長室にあるのは洋書ばかりだけれど、奥には古事記よりも古いものがあったりするのよ。レベルとしては国宝ばかりだから〈鉄鼠〉なんて下劣な妖怪に齧られたら大変なの。おわかり?」

 

〈鉄鼠〉が出たということを〈社務所〉に連絡したのはここを守りたかったからだろう。

 確かに、値段がつけられそうもない本ばかりのように見える。

 そのうちの幾つかが妙に気になった。

 一つは戸棚の中の黒い本であり、もう一つは書棚の中にではなく土御門館長の執務机らしいデスクの上に無造作に置かれたものだ。

 そっちは本というよりも和紙を束ねただけのものに見える。

 

「……さっきから気になっているようね。『伊勢二所皇御大神御鎮座伝記』と『惨之七宝聖典』が」

 

 舌を噛みそうな名前の本だ。

 

「いえ、ちょっと好奇心があっただけで。僕はただの助手ですから」

 

 すると、土御門館長は口元を吊り上げた。

 のっぺりとした公家顔なので、ある種の爬虫類を思わせる。

 

「ふーん、ピンポイントで魔導書を気にする観察眼はいいものがあるわね」

「どうも……」

「伊勢の神道五部書の一つが気になるって、さすがは〈社務所〉の禰宜ってことかしら。ねえ、媛巫女」

「あの、僕は禰宜じゃないんですが」

「どういうことなの。媛巫女の助手って禰宜が務めるんじゃないのかしら」

 

 そこは説明しづらいところだ。

 

「僕はバイトなので」

「……アルバイト?」

「ええ、まあ」

「へえ」

 

 なんだか絶句されてしまった。

 そりゃあ、まあそうだよね。

 土御門館長も陰陽道というオカルトの道の泰斗のようだし、〈社務所〉だってプロレス技を使うけど退魔という裏の世界の人たちだ。

 宅配サービスが労働力として高校生を雇うようにバイトを使うのは問題があるだろう。

 

「……おかしな話ね。でもいいわ、〈社務所〉は昔から変な集団だから、高校生のバイトがいても構わないということなのでしょう」

「すいません」

「では、神宮女の媛巫女。あとは任せました。本さえ無事ならば、建物と職員への多少の被害は見逃します」

「シィ」

「わたくしはしばらく奥にいますので好きに振舞いなさい。首尾よく片付いたのならばそれでよし。明日の朝までには終わらせればいいです」

 

 そういうと、土御門館長は机の上の紙の束を掴むと扉の奥へと消えていった。

 取り残された僕たちにはもう目もくれなかった。

 

「お仕事はじめる」

 

 音子さんも立ち上がった。

 明日の朝までには〈鉄鼠〉を倒すのならば早めに準備はしなくてはならないだろう。

 

 



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頼豪の呪いと〈鉄鼠〉の狙い

 

 

 僕がトイレに行っている間に、音子さんは巫女の格好になっていた。

 御子内さんと決定的に違うのは、覆った白い覆面(マスク)を被っているというところ。

 彼女の覆面を見て、鹿倉さん(いっぱんじん)がドン引きしているのはよく見る光景であった。

 

「準備できた?」

「シィ」

 

 部屋から出ようとすると、鹿倉さんもついてきた。

 とても自然な動きだったのですぐには気がつかなかった。

 

「鹿倉さんは待っていてくれていいんですよ」

「えっ」

 

 なんだか知らないけど、凄く驚いていた。

 僕たちは若輩とはいえ妖怪退治には慣れているけれど、この人は国会図書館の職員であり、ただの公務員だ。

 無理をして危険に飛び込む必要はない。

 

「で、でも、土御門……館長が……」

 

 聞けば、裏・館長の土御門館長のことを知ったのは一昨日のことらしく、彼女はこの手のオカルトにはまったく詳しくないそうだ。

 ただ、〈鉄鼠〉をたまたま目撃してしまい、さらに神主の血筋だということを見込まれて、強引に土御門館長に抜擢されたようである。

 さっきの会話の様子からすると、土御門館長は研究以外にはあまり興味のないいかにも学究肌のタイプのようだ。

 だから、面倒な雑務をこの人に押し付けただけで、妖怪退治に付き合わせることまでは期待していないと思う。

 

「待っていてください」

「そ、そうはいきません!! こ、ここは私の職場なんです!! まだ妖怪なんて信じられませんが、図書館を守るのは私の仕事なんです!」

 

 上ずった声だったが、必死さはよく伝わってくる。

 きっと真面目な人なのだろう。

 音子さんを見ると、肩をすくめて顎をしゃくった。

 来てもいいよ、という意思表示だ。

 なんだかんだいって退魔巫女の女の子たちは人情に篤く、情に脆い。

 必死な彼女の心を慮ってしまったのだろう。

 

「いいですよ。でも、エレベーターの前の柵のあたりまでですよ。あそこなら〈鉄鼠〉ならばともかく手下のネズミは入ってこられないでしょうから」

 

 音子さんの話では、あそこは入り口というだけあって、土御門館長による強力な結界が張られているらしい。

 おそらく退魔巫女たちの使う〈護摩台〉よりもはっきりと妖魅を遠ざけることができるそうだ。

 確かに、僕程度の鈍さでも異世界に迷い込んだみたいな違和感を覚えたから、普通の人でも感じ取れるレベルの強さなのだと思う。

 あれを突破して中に入るのはどんなに強力な妖怪でも一苦労のはずだ。

 さらに、エレベーターの板にも二重三重に結界用の五芒星―――晴明紋が書かれていて、(あやかし)の類いは近づけない。

 あの結界の中なら、鹿倉さんも安全だろう。

 もし〈鉄鼠〉が入ってこようとしたとしても。

 だけど、一つ気になることがある。

〈鉄鼠〉は地下へ行こうとするのだろうか、ということだ。

 高価な書物を齧って駄目にするという〈鉄鼠〉の習性からすると、この図書館の中で最も価値のあるものは土御門館長の執務室の奥に蔵書されているもののはずだ。

 だから、結界を張っておけば〈鉄鼠〉の侵入は防げるし、手をこまねいている間に退治してしまえばいい。

 ただ、さっきから気になっているのは別のことだった。

 的外れかもしれないが、気になって仕方がないのだ。

 

「……土御門館長は地下まではネズミ一匹やってきていないと言っていたよね」

「シィ。京いっちゃん、何か引っかかることでもあるの?」

「うん。ちょっとね」

「何?」

 

 上に昇るエレベーターの中で僕は言った。

 

「〈鉄鼠〉は高価な書物を狙うって話だけど、今回のものは違うんじゃないかなって」

「どういう意味ですか?」

 

 鹿倉さんが首をかしげた。

 

「いや、この国会図書館には日本中で出版された本が集められていることは知っています。中にはとても貴重な本や資料が含まれていることも。その中でも最も価値があるものはきっと古くて希少なものばかりで、その手のものが一番大切なんでしょう。でも……」

「でも?」

「頼豪という僧侶がネズミの妖怪になって延暦寺の経典を齧ってダメにしたのは、当時、経典ぐらいしかめぼしい書物がなかっただけでなくて、祈祷をした彼への恩賞を邪魔したことへの怨みが積もりに積もったからだ」

「伝説ではそうですけど……」

「つまり、頼豪を祖とする〈鉄鼠〉という妖怪は、ただ高価な書物を食い荒らす鼠害という側面だけでなくて、恨みをもって本をダメにする妖怪でもあるんだよ」

 

 大切な経典を齧られれば、比叡山延暦寺にとっては看過しえない損害になる。

 暴れ者の僧兵といえども、もとはといえば仏教徒の僧侶でもあるのだから。

 同じ僧侶であったからこそ、妖怪となった頼豪は経典を狙ったのだろう。

 いや、むしろ逆に考えてみると、経典を駄目にするためにネズミの姿になったのかもしれない。

 

「でも、京いっちゃん。それはどういう結論になるの?」

「要するにね。地下の土御門館長にとってのお宝よりももっと普通のものが狙われてるかもしれないということさ。鹿倉さん、職員の人たちが齧られた本を少し見つけたと言っていましたよね。それ、なんだかわかりますか?」

「えっと……雑誌だったような……。ごめんなさい、私が発見した訳ではないので」

「よし、ちょっと電話して確認を取ってください。僕らはその間に、雑誌の保管してあるスペースにいきます。確か、別館だったかな」

「そうよ」

 

 雑誌が被害にあっていたということは、〈鉄鼠〉の狙いは雑誌類かその周囲なのかもしれないと当たりをつける。

 この広い建物の中を妖怪探してあてもなく彷徨うのは問題だし、とりあえず行ってみよう。

 僕は護身用の桃剣を持って、音子さんの後を追い始めた。

 土御門館長の命令と〈人払い〉の術の相乗効果で、国会図書館の建物の中には人っ子一人いない。

 警備の人たちも内部にはいないようだ。

 用意してあった地図を頼りに、雑誌の保管庫の前まで辿り着くと、音子さんの足が止まった。

 僕のもだ。

 なぜなら、行く手を遮るようにネズミの群れが待っていたからであった。

 四足の小動物らしくなく、後脚で立ちあがってこちらを見上げている。

 しかも鳴き声すら立てることはない。

 悪夢めいた不気味さだ。

 一匹一匹ではどうということのないネズミであっても、百匹近くいるとそれだけで異常な悍ましさがある。

 

「これってバリケードみたいなものかな」

「シィ。たぶん、この先にいる」

「どうするの?」

「あたしが引きつける。京いっちゃんは隙を見てついてきて」

 

 すると、音子さんはなんとスチール製の本棚の上に身軽に跳びあがると、そのまま、九郎判官の八艘飛びのように移動し始めた。

 図書館の天井は普通よりも高いということもあるが、ひらりひらりと重さを感じさせない飛翔で奥へと向かう音子さんはさすが「飛ぶ巫女レスラー」である。

 出し抜かれたとわかったのか、バリケードを作っていたネズミたちも身を翻して後を追い始める。

 おそらく、操り手は例の〈鉄鼠〉なのだろう。

 いくらなんでもあの量のネズミに纏わりつかれたら、いくら無敵の退魔巫女でも全身を齧られて致命傷を受けるかもしれない。

 音子さんが危ない!

 僕は後を追ったが、実際のところ、たいしたビジョンがある訳ではない。

 さっきの〈鉄鼠〉の狙いの話もただの妄想の範囲を出ていないし、足を引っ張るかもしれないが、それでも音子さんを一人で先行させるわけにはいかないのだ。

 ネズミたちは素早いとはいっても、本棚の上を自在に飛び回る音子さんの軽やかな飛翔についていけない。

 

「あ」

 

 音子さんが今までにない勢いをつけて、飛び蹴りの体勢のまま飛び降りた。

 その先には……紅い絣の着物をまとった小柄な二足歩行のネズミがいた。

 あれが〈鉄鼠〉か。

 予想よりも身体が小さく、何よりも想像と違って、長い髪のような鬣を持っていた。

 手には何か雑誌のようなものを掴んでいた。

〈鉄鼠〉目掛けて音子さんの跳び蹴りが炸裂する。

 しかし、ネズミはするりとその足裏を躱し、本棚の陰に隠れた。

 あれも速い。

 いかにも小動物の妖怪らしい機敏さがある。

 

「ちぃ!!」

 

 地面に降り立った途端、音子さんに四方からネズミが殺到した。

 脚から彼女に集り、全身を駆け上ろうとしてくる。

 

「邪魔!!」

 

 音子さんは再び、本棚の上に飛び乗った。

 脚に付き纏うネズミを払いながら、油断なく床を睥睨して〈鉄鼠〉を見つけ出す。

 逃げ出そうとする妖怪を、頭上から退魔巫女が追うという構図が出来上がった。

 音子さんは全身に集ろうとするネズミから逃げる。

〈鉄鼠〉は明らかに天敵である巫女から逃げる。

 図書館とは思えない広い場所での、死の追いかけっこの始まりだった。

 

「音子さん、しっかり!!」

 

 僕の応援が力になるかはわからないが、それでも音子さんはサムズアップで応えてくれた。

 ふと、床を見ると、夥しい数の雑誌が無造作に散らばり、一部が紙片となって散乱していた。

 これは〈鉄鼠〉の食い散らかした跡か……

 僕は完全にボロボロになった雑誌を拾い上げてみた。

 驚いた。

 なんと、この本は高価でも希少でもなさそうな、さらに言えば高尚でもなんでもないジャンルのものだったからだ。

 中身を開いてページをめくると、セックスをしている男女の姿や扇情的な女性の裸体が所狭しと掲載されている雑誌であった。

 一言でいうと、「エロ本」。

 僕も持っていなかった訳ではないが、執拗な妹と御子内さんたちの探索によって悉く捨てられてしまった、世間でいう悪書の類いである。

 こんなものをどうして〈鉄鼠〉が齧っていたのだろうか?

 

 

 



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跳ぶ巫女レスラー

 

 

 僕がエロ本を手にして呆然としていると、スマホが着信音を鳴らした。

 知らない番号だったけど、とりあえず出てみると、『もしもし升麻くんですか。私、鹿倉です』と名乗られた。

 そういえばさっき連絡先として教えておいたっけ。

 

「はい、もしもし」

『無事だったのね。そっちの様子はどう?』

「音子さんが〈鉄鼠〉を見つけて交戦に入りました。というよりも追いかけっこを始めています」

『―――神宮女さんは大丈夫なの?』

「まあ、いまのところはなんとか。……ところで、何かあったんですか。連絡をしてくるなんて」

『あ、あの、さっきあなたに頼まれていたことを、職場の先輩たちから聞き出したんだけど……』

 

 これまでに〈鉄鼠〉によって被害にあった書籍はどういうものかという情報収集を頼んでおいたんだ。

 ちょうどいい、ここに散らかっているエロ本のことについて聞いてみよう。

 そもそも国会図書館にエロ本があること自体がわりと不思議だったし。

 

「何が被害にあっていたんですか?」

『えっと……タイトル言うの恥ずかしいんだけど、「桃色牝延喜 VOL.14」とか、「お姉さんバイブレーション 三月号」とか……かな?』

「待ってください。どう聞いてもエッチな雑誌のタイトルとしか思えないんですが」

『そうなの。18禁の……男性向け写真雑誌ばかりなのよ』

「普通の本は?」

『ないわ。全部、その手の本。先輩方も「図書館にいてもエロいネズミばかりなんだなあ」とか笑っていたわ』

 

 ……間違いはない、ということかな。

 でも、どういうことだろう。

 ここに散らかっているのもエロ本だし、前に被害にあったのも同様のものばかり。

 つまり、あの〈鉄鼠〉はエロ本ばかりを狙っているとしか思えない。

 まさか本当にエッチなだけのネズミなのか。

 

「……国会図書館って成人向け雑誌の類いも蒐集しているんですか?」

『ええ、まあ、日本で出版されたものはとりあえずなんでも集めるというのが方針ですから。館内なら貸し出しもしていますよ。でも、貸出受付の職員は若い女の子が多いですからそんな勇気のある人は滅多にいませんけど』

 

 公的機関にエロ本の貸し出し履歴がつくのはさすがに嫌だろうしね。

 ただ、この国会図書館にはたぶんすべてとまでは行かないけれど、今までに出版されたエロ雑誌はほとんど所蔵されているのだろう。

 確か、伝聞では、個人の出したマンガ同人誌なんかもあるという話だったし。

 

「……国会図書館は日本の知識の集大成ではあるけれど、同時に通俗的な知識のコレクターでもあるのか」

 

 つまり、地下で土御門館長が研究しているような本当に価値のある本だけでなく、エロ本のようなものであっても狙われてもおかしくない。

 でも、頼豪は比叡山延暦寺への怨みから経典を齧ったというが、エロ本なんかを〈鉄鼠〉が恨んだりする理由があるものだろうか。

 あの〈鉄鼠〉はどうして……

 ちらりと見た姿かたちを思い出す。

 ―――紅い(かすり)の着物をまとった小柄な二足歩行、身体は小さく、長い髪のような鬣を持っていたネズミだった。

 待てよ。

 頼豪がなったという〈鉄鼠〉は僧侶らしく袈裟をまとった姿で描画されていたから、〈鉄鼠〉が着物を着ている妖怪だというのはわかる。

 じゃあなんで、紅い絣の着物なんだろう。

 紅い着物なんて普通は()()じゃないのか……

 

「鹿倉さん、あなたが〈鉄鼠〉を目撃したとき、どんな印象を持ちましたか?」

『印象と言われましても…… 怖い妖怪だとしか……』

「―――()()()()()()()と思いませんでしたか」

『それは……確かに……』

 

 鹿倉さんは口ごもりながらも否定しなかった。

 彼女がそう感じたのは事実なのだ。

 そして、それは僕の想像に裏打ちをする。

 

「あの長い鬣は、もしかしたら、女性の長髪なのか……?」

 

 僕は手にした雑誌をめくり始めた。

 完全にダメにされているものもあるが、一枚か二枚だけを齧られているものある。

 これがおそらく答えだ。

 所蔵されているエロ本すべてを狙っている訳ではなく、特定のページだけが目的なのだ。

 つまり、それは……

 

「わかった! 〈鉄鼠(やつ)〉の正体が!!」

『ひゃっ!!』

 

 僕はざっと見渡してから本棚の上を跳び回る音子さんを追った。

〈鉄鼠〉は鼠とはいえ、小学校高学年ぐらいの身体つきだから、完全に逃げたり隠れたりはできない。

 上から猛禽類のように追跡する音子さんを振りきれない。

 ただし、その音子さんも襲ってくるネズミの群れに捕まらないように動かなければならないという緊急事態である。

 あれほどのネズミの集団に捕まったらいくらなんでも致命的だからだ。

 

「おい、〈鉄鼠〉!!」

 

 僕は必死に逃げ回る〈鉄鼠〉に叫んだ。

 だが、〈鉄鼠〉は音子さんから逃れるのに懸命で僕のことなんか気にしていない。

 いかにも小動物らしい行動である。

 しかし、あいつの足を止めないと音子さんが退治できない。

 一瞬でも、あいつの注意を引くことができれば、彼女ならきっと仕留めてくれるだろう。

 巫女レスラーの中でもテクニックと速度では彼女がトップなのだから。

 そして、〈鉄鼠〉を止めるための方法はある。

 

「〈鉄鼠〉! いや、星林レモン!! これもおまえが探しているものだろ!! 放っておいていいのかい!?」

 

 僕が一冊のエロ本を掲げた途端、〈鉄鼠〉の動きが止まった。

 今度は無視しなかった。

 それもそうだ。

 僕はあの〈鉄鼠〉の名前を叫んだのだから。

 

「星林レモンでいいんですよね!! あなたの芸名は!!」

 

〈鉄鼠〉は黄色い眼で僕を見て、こちらに向けて四足で駆け寄ってきた。

 トパーズの眼が赤光を発する。

 あれがきっと人間の持つ怨みの色なのだろう。

 僕を、いや僕の持つこのエロ本の方か。

 凄まじい憎悪を持って浅ましいネズミの妖怪が僕目掛けて突っ込んでくる。

 そんなにもこのエロ本が欲しいのか。

 何があったかは知らないけど、そこまでの憎悪。

 妖怪になるほどの理由なんて想像もできないけれど。

 口から体液を排出しながら妖怪が接近する。

 

「来い! 逃げ回っていては、おまえの恥部は消せやしないぞ!!」

『キシャアアアアア!!』

 

 巨大ネズミが飛びかかってきた。

 齧歯が鈍く輝く。

 僕の首筋を噛み破るために。

 だが、それよりも早く灰色の胴体を貫いたものがあった。

  

「あたしの京いっちゃん(かれし)に手を出すな」

 

 槍のように伸びた鋭い跳び蹴りのつま先がネズミの腹に穴を開けたのである。

 血こそ出ないが、小動物ならではの絶叫を上げながら、〈鉄鼠〉は消えていく。

 一回転して音子さんが着地したとき、その紅い絣の着物は散り散りになって消えていくところだった。

 音子さんを追っていたネズミの群れもいつのまにかどこかにいなくなっていた。

 この国会図書館を跳梁していた妖怪〈鉄鼠〉は滅びたのだ。

 目を背けたくなる呪いを残したまま。

 



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彼女の死の意味

 

 

 そのアパートは足立区の隅にあった。

 近くには信じがたい騒音を発する工場のようなものがあって、とてもじゃないが長くは住んでいられないような場所だ。

 目的の部屋は201号室。

 共同便所なうえ、歩くとミシミシと音のする階段のすぐ傍にある陽の当たらない部屋であった。

 お風呂だってついていない。

 

「開けるよ」

 

 管理人から借りた鍵で中に入る。

 ほとんど何もない部屋だ。

 わずかに散らばった衣類とコンビニエンスストアの袋に詰め込まれたゴミだけが生活感を漂わせている。

 ここに、彼女は住んでいたのだ。

 星林レモンという芸名の元グラビアアイドルは。

 

「……家族も片づけに来たりはしていないんだ」

「みたいですね」

 

 僕の後についてきた鹿倉さんが頷いた。

 もう昨日には妖怪〈鉄鼠〉の事件は片付いていたのだが、土御門館長に命じられて顛末を見届けたいと僕らに同行を申し出てきたのだ。

 何だか知らないけれど、あの陰陽師の家系の裏・館長に気に入られてしまったようで、これからの人生がオカルトまみれになるだろうと思うと不憫でならない。

 経験則上、一度でも妖怪絡みの事件に関わると、何度でも深く巻き込まれることになるということは僕もわかっている。

 これまで人生では一回も遭遇したことのなかった妖怪どころか、幽霊にさえ頻繁にお目にかかるようになるのだから。

 僕の知っている範囲では、妹の涼花やクラスメートの桜井、フリーの不動産調査士の高儀さんなんかはもう何度も妖魅絡みの事件に巻き込まれているはずだ。

 一度でもその手の世界を覗き込んでしまうと、否応なしに巻き込まれる傾向があるのかもしれない。

 だから、この鹿倉さんもこれから似たような境遇になるだろうと予想できた。

 土御門館長はそもそも陰陽道の泰斗のようだし、きっと散々こき使われることになるだろう。

 南無三。

 

「……寂しい部屋」

 

 音子さんがしみじみと呟く。

 確かに一人の女性が死ぬまで暮らしていたものとは思えない、質素で何もない部屋だった。

 この部屋の主は一ヶ月ほど前に、別の場所で自殺して亡くなっていたのだ。

 そして、彼女は生前の妄執を叶えるために〈鉄鼠〉になった……

 

「あ、もしかしてこれですか?」

 

 鹿倉さんが部屋の隅のカラーボックスの中に収めてあったファイルを取り出す。

 スクラップブックのようだった。

 めくってみると、着飾った綺麗な女性の雑誌の切り抜きとかが挟んであった。

 

「グラビアアイドル時代のものですね。―――でも、どんどんと過激な写真ばかりになっていって……」

 

 最後はもうほとんど脱いだ全裸のものばかりだ。

 おそらくこのあと、彼女は借金のカタにエッチな雑誌のモデルになり、おそらくアダルトビデオに売られることになるはずだった。

 でも、彼女はその直前に事故にあって顔面に大怪我をして、AV女優とされることはなくなった。

 貌に大怪我をした人間を使うほど、AV制作会社も鬼畜ではなかったということだ。

 ただし、彼女はもう望んだ生活は送れず、ひっそりと派遣の仕事などをしながら生活をし、最後は自分の命を断った。

 その直前、自分の人生を狂わせたヌード写真の存在を呪いながら。

 

「元グラビアアイドルとはいっても、それほど売れなかったみたいですね。お仕事もそんなになかったみたいですし」

「掲載されたエロ雑誌もほんのわずかだから、それが心残りだったのでしょう。全部、消してしまえばいいと願うほどに」

 

 ―――そう、この部屋に住んでいたのは、星林レモンという元グラビアアイドル。

 自分を狂わせた全裸のあられもない写真をすべてなくしてしまおうと古書店と、国会図書館を襲った〈鉄鼠〉の正体である。

 いくら少部数だったとはいえ、それですべての販売部数を消せるわけがない。

 それなのに妖怪となった彼女は必死に古本屋を巡り、執拗なまでの妄執を発揮して一冊ずつ齧っていった。

 二十三区内で最後に残ったのが、国会図書館に所蔵されたものだけというぐらいに、あまりにも桁外れの執念であった。

 あのとき、音子さんが〈鉄鼠〉を倒したとき、すでに彼女の全裸の写真が載っているエロ本はすべて食い尽くされた後であった。

 だから、もう一枚たりとも残っていない。

 きっと、ネットで検索しても電脳世界の奥底で眠ったままもう甦らないだろう。

 何か特別なことでも起きない限り、それは確実だ。

 星林レモンが活躍したころはまだネット黎明期で、今とは違いまともに画像がデータとして残っていることも稀だろうし。

 僕らが見ることができるのは、グラビアアイドルであった頃の彼女だけなのである。

 

「ホントに自分の昔を消したくて〈鉄鼠〉になったんだ……」

 

 Twitterやインスタグラムで自撮り写真をバンバンあげている音子さんにはきっと思うところがあるのだろう。

 僕がした今回の妖怪の背景の推測を神妙な面持ちで聞いていたし。

 

「うん。頼豪が延暦寺を僧兵たらしめている在り難い経典を呪ったように、彼女も自分にとって望んでいなかったエロ写真が載った雑誌を呪ったんだと思う。現世に残した未練、執念が彼女をネズミの姿にしたんだ」

 

 妖怪としては決して侵入も容易くはない国会図書館を最後の目的にしたのもわかる。

 星林レモンにとって、自殺をして惨めに死んでいくのは我慢できても、過去の呪わしい歴史を消し去らないことには死んでも死に切れなかったのだろう。

 

「でも、グラビアアイドルの頃の水着グラビアとかはそのままなのですね……」

「女にとっては綺麗な頃の写真って何よりも大切なんだと思う」

 

 音子さんがしみじみと呟く。

 

「だから、君も写真を撮ってTwitterとかに載せるの?」

 

 だが、覆面姿の巫女は首を振った。

 違うらしい。

 

「じゃあ、どうして?」

 

 すると、彼女は、

 

「人よりも目立つのが大好きなだけ」

 

 と身も蓋もない答えを返してくるのであった……

 

 

 

 

 

 

 

 



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第36試合 Wrong Turn
深山幽谷の墓地にて


 

 

 改葬という言葉がある。

 簡単に説明するとしたら、今ある墓を別の墓地に移すことである。

 かつて、人の行き来が少なかった時代にはあまり見られない風習ではあったが、現在のように日本全国に人が移動することが増え、故郷から離れた土地で生涯を終えるものがでてくると、次第に使われるようになっていった。

 その方法としては、まず移転先となる墓地を決めて、そこが発行する「受け入れ証明書」を取得する。

 次に、現在の墓のある市町村役場で「改葬許可申請書」用紙をもらい、墓の管理者に必要事項を書いてもらう。

 それから、受け入れ証明書、改葬許可申請書などを添えて改葬元の市町村役場に提出して「改葬許可証」をもらう。

 最後に改葬許可証を移転先の墓地管理者に提出し、改葬することで終了ということになる。

 関係する寺や墓地の管理をしているもの、墓石業者など、多くのものが関係し、そして百万円単位の費用がかかることから、それなりに裕福なものしかできないが、故郷に残してきた先祖代々の墓を誰も供養するものがなく放置しておくよりはと改葬に踏み切るものは大勢いる。

 たいていは定年すぎた老人ではあるが、たまに中年程度の年齢でも改葬をしようとするものはいた。

 行政書士の槍持健治(やりもちけんじ)のところへ訪れた客も、改葬の依頼をするにはやや若すぎだった。

 

「えっと、無料法律相談で話を聞いたんですけど……」

「ああ、うちの支部で定期的に行っているものですね。どの先生にお話をされたんですか?」

「いえ、無料法律相談では名刺をもらったり名前を出して斡旋したりしてはいけないと言われて、東京都の行政書士会の方に直接ここを紹介されました」

「そういえばそうですね」

 

 六畳ほどの広さしかない個人の事務所は、依頼者が入れば狭く感じる程度しかない。

 しかし、それでも仕事が手に入るものなら問題はないな。

 槍持は楽観的なプラス思考で捉えていた。

 依頼者は三十代後半。

 脱サラでもして店をだしたいからそれの手続きをしようという話だろうか。

 

「実は改葬……というのをしたいんですが、私としてはその手続きがどうにもわからなくて」

「ああ、お墓のお骨を移されるんですね。わかりました。私は何度か改葬のお手伝いをしたことがありますし、私程度でよろしかったらアドバイスなど差し上げることもできますよ」

「いえ、先生にはあの改葬手続きのすべてをお願いしたくて……」

 

 丸投げということか。

 だが、行政書士は弁護士とは違い交渉権はないし、司法書士と異なり登記をすることもできない。

 全部委任されても困るというのが本音であった。

 だから、そのあたりのことを極めてオブラートに包みながら説明をした。

 

「……ですから、すべてお任せされるという訳にはいきません。ご依頼者様にとって不利益が生じないとも限らないので」

「相手方の墓地との交渉などは私がしますので、手続きとか、必要な額を聞きだして報告してくれるとか、そういうことでいいんですがお引き受けしてもらえませんか」

「しかし……」

 

 槍持は依頼者を観察してみた。

 身なりはそれほど悪くないが、あまり金を持っていそうではない。

 弁護士に依頼したらずっと金がかかることを考えて、安上がりな行政書士を使うつもりなのだろうというのは明白だった。

 それに、場所によっては勤め人には何度も往復できない距離での改葬もあるだろうし、丸投げしてしまうという判断も悪いものではない。

 

「費用に交通費とかも上乗せさせていただくことになりますが、それでいいのですか?」

 

 とりあえず訊ねてみた。

 それで躊躇するようなら引き受けない。

 だが、依頼者は引き下がるどころか、喜々とした顔で槍持の手を握ってきた。

 

「お願いします、先生! 実のところ、私、その改葬先の村に行ったこともなければ死んだ先祖のことも良く知らない状態なのです。ご先祖様ということで、きちんと面倒見なければならないことはわかっているのですが、実際のところ、どうも気乗りしなくて……」

「だったら、改葬をしないという選択肢もあるとは思いますが……」

「いえ、私がいつもお世話になっている占い師さんによると、先祖の霊を祀らないと来年はきっと不幸になるという卦が出ているそうなんです。良く当たる占い師さんなので、やはり改葬をして、私のすぐ傍に御骨をですね、持ってきて供養したいと思いまして!」

 

 二重の意味で神頼みみたいなものか。

 槍持はなんともいえない気分に陥った。

 寵愛している占い師が言うから先祖供養のために改装をしたいと言い、ただ気乗りがしないから町の法律家に丸投げするという。

 とはいえ、もめ事を起こして泣きついてきた訳でもないので、槍持としては断る理由もなかった。

 改葬は、役所との書類のやり取りが重要な仕事だし、その分野では行政書士が適任ともいえる。

 

「わかりました。私で良ければお引き受けしましょう」

「ありがとうごいます!」

 

 それから一時間ほど打ち合わせをしてから、槍持と依頼者は正式に受任の契約書を交わしたのである。

 

 

         ◇◆◇

 

 

 槍持が愛車のスズキ・三代目ジムニーとともに、その村に降り立ったのはそれから二日後のことだった。

 改葬の案件を受けるたびに、まず、今の御骨が納められている墓地を管理している市町村の役所に電話をしてみるのだが、まずここでつまずいた。

 なんと、その村には役場がなく、行政手続きは隣にある町で行わなければならないというのである。

 平成に行われた大合併のときに、ほとんど村の機能は町に吸収され、形だけはまだ村として残っているがほとんど番地扱いなのだという。

 しかも、町役場に聞くと、その村には寺と呼べるものがもうないとも聞いた。

 寺がないということは、例え墓地があったとしてもその管理人がいないということになりかねない。

 そこで、墓地の管理をしているものはいないかと聞くと、随分と時間がかかってから、元村長の家がやっているのではないかという情報がでた。

 正直なところ、田舎すぎて状況がよく把握できない。

 槍持は考えた挙句、直接訪問してみることに決めたのだ。

 都合がいいことに、目的の村は栃木県栃木市の外れの山中にあり、多少遠回りだが傍には東北自動車道が走っている。

 槍持の家から120キロメートルほどで、車で行くのも困難な距離ではない。

 愛車ジムニーでの小旅行を趣味としている槍持にとっては、日帰りしてもたいして疲れない場所だ。

 場合によっては地方の隠れ湯に浸かってから車中泊をしてもいい。

 一度決めてしまえば、槍持のフットワークの軽さが発揮され、彼はそのまま家の駐車スペースに停めてあったジムニーに仕事道具と背広を一着放り込むと走り出した。

 昼に出て、サービスエリアで軽食をとって村に辿り着いたのは、午後五時過ぎ。

 予定よりは時間がかかってしまったことから、暗くなりかけた田舎で一泊はすることになりそうだった。

 だが、実際に降り立ってみると人の気配がほとんどない。

 わずかに農家らしい一軒家が幾つかあるのだが、そこも暗くて電灯さえもついていない状態だ。

 

「マズったかなあ」

 

 経験則上、こういう共同体では下手に動き回ると全体から嫌われるおそれがある。

 改葬という、ややデリケートな作業をするのだから、住民の不興を買うのは得策ではない。

 

「朝まで大人しくしているか」

 

 村に長居するのは止めて、そのままジムニーで引き返す。

 近くに朝まで停車できそうなスペースがないかを探すことにしたのだ。

 来るときとは逆に注意して周囲を見ていると、車一台分ぐらいの支道があり、奥に拓けた空間がありそうだった。

 もうそろそろ暗くなるのがわかっていたので、そのまま急いでそこに入る。

 辿り着いた先は、古いお寺のような建物の跡地があった。

 普通ならば薄気味悪くて近寄らないだろうし、一般人ならそこに泊まろうなんて思いもしないところだが、若い頃からのアウトドア生活で麻痺していた槍持は躊躇いもなくそこで眠ることにする。

 寒すぎるようなら、一度少し離れた町にもどればいいだけのことだ。

 ジムニーにいつも用意してある着て寝られるタイプの寝袋に入ると、そのまま槍持は眠りについた。

 軽自動車であることから狭いジムニーの運転席も気にならないのが、彼の鈍感すぎるところでもあった。

 

 ……そして、月が完全に昇りきった夜。

 コツコツと運転席のガラスを叩く音がした。

 



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闇夜の訪問者

 

 

 妙な音に刺激されて、槍持は目を覚ました。

 ジムニーのガラスは外気と彼の体温が温めた空気で結露し、白くなっている。

 おかげで何も見えない。

 最初は気のせいかと思ったが、もう一度心地よい眠りの世界に戻ろうとすると、やはり運転席のサイドガラスがコツコツと音を立てた。

 外に誰かいる。

 頭に浮かんだのは「警察」の二文字である。

 でなければ、こんな深夜の山奥でちょっかいを掛けてくるものはいない。

 他にはオカルト的な幽霊やら町を徘徊するチンピラやらが思い当たるが、もともと楽観的な彼はそんな可能性を一笑に付してしまう。

 ただ、とにかく誰かがいるのは確かだった。

 キュッキュッと助手席に置いてあったタオルで結露を拭く。

 外は相変わらず暗くて、月の光がなければ何も見えないぐらいだった。

 しかし、外にいる誰かが手元に眩しすぎる懐中電灯のようなものを持っているのだけはわかった。

 ペンライトとは比べものにならない大出力のライトのようであった。

 

「誰だ?」

 

 ガラス越しでは誰だかわからないので、運転席の窓ガラスを開けた。

 外には出ない。

 最低限度の用心のためだった。

 少し開いただけで野外の冷たい空気が一気に入り込んでくる。

 ブルっとそれなりに温まっていた身体が震える。

 

「……何か用ですか?」

 

 かろうじて聞こえるような声を出すと、外にいる人物が答えた。

 

「こんなところで何をなされているのでしょう?」

 

 ハスキーな声から発される丁寧語で、相手がまだ若い女性らしいということがわかる。

 ライトの光が逆光になってわからないが、どうやら金髪に染めているらしいので、もしかしたらこのあたりのヤンキーかと考えた。

 だが、少ししたら目も闇に馴れてきて声の主の顔が判別できるようになる。

 

「あれ、外人さん……?」

「はい、わたしはアメリカ人です」

 

 驚いたことに、ノックの主の正体は美しい金髪をした白人の少女だった。

 ヤンキーはヤンキーでも、メリケンのヤンキーだったのである。

 槍持は激しく狼狽えた。

 外の少女はただの白人というだけでなく、一目見ただけで忘れられなくなるほどの美貌の持ち主で、栃木の山奥には似つかわしくない相手だったからだ。

 アメリカ人だというのならば英語で話さなければならないと思い、いや、さっき日本語を流暢に喋っていたよな、と考え直し、なんとなくあたふたしていると、さらに後ろから声がかかった。

 

「大丈夫だよ、おじさーん。この子、日本語ペラーペーラだからさ。ちなみに、うちはペロペーロ好きなんさあ」

 

 顔を出してきたのは、今度はなんともおかしな格好をした少女だった。

 黒地に紫のメッシュの入った整髪剤のついたショートカットをして、三白眼っぽい鋭い眼差し、そして目元に星のシールが貼ってあり、まるでロック歌手のようである。

 上半身に着ている革ジャンには金属製の四角いスタッズや鋭い鋲がついているのはパンクっぽかった。

 肩にギターでも掛けていればおそらく間違いなくその手のアーティストに見えたであろう。

 だが、ロッカーっぽいのはそこまでだった。

 黒の革ジャンの下には白い和装の衣を着こんでいて、下半身は裾が二つに割れた緋袴であり、足元にはごついリングシューズのようなブーツを履いている。

 まるで神社の巫女さんのようであった。

 全体的にコーディネートは悪くないのだが、槍持にはこの少女のセンスがどこに向かっているのか見当もつかないのだ。

 しかも、こんな山奥である。

 槍持は狐にでも摘ままれたような気分になってしまった。

 

「ねえ、おじさーん。ちょっと聞きたいことがあんだけど、いいかな? いいよね」

「……え」

「おじさんの年収とか持ち家の有無も知りたいところで、できたら姑が健在かも聞きたいんだけど、それは後回しにして、この辺で6tトラックを見なかった~」

 

 と、想定外のことを聞いてきた。

 てっきり道を聞かれるかと思っていたのに、訊ねられたのは6tトラックの行方だという。

 槍持は記憶を探ってみたが、そんなものは覚えていなかった。

 少なくともこの村のある地域に入ってからは。

 

「6tなんて、このあたりの狭い道だと入れないんじゃないのか。ここだって、難しいぐらいだろ」

「うーん、ま、そうなんだけどさ。うちの勘では絶対この辺に来てるはずなんだよねー。ちょうど、拓けた土地もあったし、ヤバい瘴気の流れている廃寺もあったし、ビンゴだと思ったんだけどなあ」

「皐月。もう少し奥まったところに行きますか?」

「そうすっかなー。早いところ探し出さないとマズいことになりそうな感じだしねー」

「さっきから馴染みの嫌な予感がしています。おそらく、このあたりにはいつもの連中がいるんでしょう。急がないと」

「やっぱり? ネシーって結局はあいつらに絡まれることになるんだね」

「それがスターリング家の女なのですよ」

 

 二人の奇妙を通り越して謎まみれの女の子たちは、槍持にはわからない会話をすると、納得したのか肩をすくめた。

 

「ご就寝中のところすみませんでした。わたしたちは帰りますが、できたら、あなたもここからは急いで離れたほうがいいと思います。少なくとも、ここはまっとうな人間が一休みしていていい場所ではありませんから」

 

 脅しのようなことを言われ、槍持は面食らった。

 ここにいると危険だと遠回しに言われたようなものだからだ。

 しかも、その顔は冗談ではなく真剣そのもの。

 嘘をつかれている風でもない。

 

「あんたら、何を言っているんだ」

「何って……ナニ? あ、ネシーぶたないで、感じちゃうからさ!!」

「とにかく、わたしたちは具体的な説明はできませんが、ここにいると怖いことが起きる可能性があります。だから、警告はさせてもらいます」

「あー、もう少しでエレクトしちゃうところだった。もうネシーは強引だよね。強引に壁ドンしてくれたりしたら、スカートめくっちゃう」

 

 ゲシっと白人の美少女が巫女ロッカーの足を踏みつけた。

 

「くぁwせdrftgyふじこlp!! ひどいや、姉さん!!」

「誰が姉さんですか。まったく皐月はしっかりしてください。そもそも、この案件は〈社務所〉の管轄ではありませんか。FBIのわたしが協力しているだけでありがたいと思っていただけないと」

「だって、せっかく日光をけっこうと言っていたのに、あの娘が変な仕事を押し付けてきたから仕方なく働いているのにさ~」

「あの方は栃木、というか日光周辺からはそんなに離れられないお役目を受けてられるのでしょう? だったら、暇なあなたが代わってお仕事をするのが当然ではありませんかしら?」

「うちは不満だよ。欲求も不満だけど」

「お黙りなさい。さあ、もう少し捜索を続けるわよ」

「へーい」

 

 二人は少し離れたところに止めてあったプリウスαに乗ると、そのまま走り去っていった。

 残された槍持にとっては青天の霹靂といったぐらいに訳のわからない事態であった。

 

「なんだったんだ、今の……は?」

 

 槍持は呆然として呟いた。

 



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塞がりの道

 

 

 疲れていたということもあり、謎の二人組の美少女たちがいなくなってから、もう一度瞼を閉じた。

 すぐに眠気がやってくる。

 だが、実際にはとても眠いのになかなか意識が微睡まない時間が続き、仕方なく槍持は目を覚ました。

 身体中がまだだるい。

 疲労が抜け切れていないのだ。

 加えて咽喉が乾いている。

 カフェイン中毒の彼としてはコーヒーを摂取したくなっていた。

 贅沢は言わないので、缶コーヒー程度で我慢しよう。

 寝袋を脱いでジムニーのエンジンをかけると、槍持はやってきた道を引き返し始めた。

 無人の廃寺はやはり人気がない。

 時計を見ると、まだ夜中の三時。

 人がいたとしても就寝中である。

 曲がりくねった道をヘッドライトと月光を頼りに進む。

 すると、道端に白いものが転がっていた。

 来るときにはなかったものだ。

 通り過ぎると、それが服を着ていないマネキン人形であるとわかる。

 死体かと思って肝が冷えた。

 誰かが処理に困って捨てていったのだろうか。

 不法投棄に注意という看板がどこかにあったような覚えもあるし、そういうことなのだろう。

 打ち捨てられたマネキンに気を取られていた槍持は、次のゆるいカーブを曲がったとき、そこにまた白いものが停まっていることについて反応が遅れた。

 自動車のテールだった。

 幅員がぎりぎり二車線しかない道の真ん中に白い車が無造作に停車していたのだ。

 

「ちょっと待っ!!」

 

 右にハンドルを切る。

 なんとか白い車の横をすり抜ける。

 サイドミラー同士がぶつかり合い、聞きたくない異音を発した。

 パンとジムニーの左サイドミラーが吹き飛んだ。

 やってしまった、と思う間もなく、今度はガタンと衝撃が走る。

 経験が槍持に告げた。

 前輪がパンクした、と。

 しかもこの衝撃からして前輪二つが同時に破裂(バースト)だ。

 さらにハンドルが切れなくなるという異常が生じていた。

 何かが前輪に引っかかっているということである。

 かろうじて車への追突は免れたが、下手をすれば路肩の木々に衝突する。

 ブレーキを踏み込んだ。

 それだけでは足りないならとサイドブレーキも引いた。

 車体はイカれるが死ぬよりはマシだと思いきる。

 

 キキキキキキキキキ!!

 

 ジムニーのケツが振れ、リアが道の脇の木にぶつかったが、おかげで何とか停車させるのに成功した。

 山道だからと速度を落としていて正解だった。

 四十キロも出していたら即死していたかもしれない。

 ほっと胸を撫で下ろす。

 しばらくして、怒りが湧いてきた。

 あんなところに停車していた白い車の持ち主についてだ。

 確かにマネキンによそ見をしていた自分も悪いが、あんなところに停車していたら後続車両が追突するのも当然ではないか。

 しかも、ハザードランプすらつけていない。

 高速道路に限らず、路上で停車する時はハザードをつけてアピールすることはマナーであるというのに。

 文句を言ってやろうと槍持は下車した。

 近寄ると、停車しているのはプリウスαだった。

 見覚えがある。

 ……さっきの二人組の美少女たちが乗っていたものだ。

 

「あいつらか……」

 

 思い起こせば、この道を使ったものなど彼と彼女たちを除けばいないはずだ。つまり、容易に容疑者は特定できるという訳であった。

 少し拍子抜けしたが、言うべきことは言ってやると歩を進める。

 だが、おかしなことに車内灯すらついておらず、中に人がいる様子もない。

 

「なんだ?」

 

 月明かりの下で、槍持はようやく異変を悟った。

 プリウスαのフロントバンパー部が妙に傷だらけなのだ。

 そして、やや前傾姿勢になっていて、タイヤがパンクしているのがわかる。

 まるで彼のジムニーのように。

 そして、しゃがんでじっくりと観察してみると、なんと道の端から端まで樹と樹をつなぐように黒い線が走っていて、それが前輪部に巻き付いている。

 触れてみると、鋭いトゲのついた鉄条網だった。

 それが路上と水平にまるで罠のように仕掛けられていた。

 これに引っかかったせいでプリウスαは動けなくなったのだ。

 悪質なイタズラだった。

 このプリウスαだけでなく、槍持のジムニーも被害を受けたのだから。

 

「最悪だ……」

 

 こんなものを踏んだらタイヤは全とっかえになるだろうし、ジムニーに至っては後部もぶつけているから検査に出さなくてはならない。

 場合によったら買い替えだ。

 今の時期には痛すぎる出費だった。

 とはいえ、どうにもならない。

 このイタズラを仕掛けた犯人に対して請求するしかないが、見つけられる自信はなかった。

 地元ならばともかく土地勘のない栃木での出来事だからだ。

 

「とりあえず、警察と保険会社に連絡するか。あと、JAF、ここまで来てくれるもんかな……」

 

 ポケットからスマホを取り出した

 だが、電波が届いていないらしくうんともすんともいわない。

 苛々して地団駄を踏みそうになった時、ジムニーを置いてきた後方から誰かが歩いているような音がした。

 さっきの二人組かと振り向くと、ジムニーのライトに照らされて、一つの影が立っていた。

 シルエットからしてもさっきの女の子たちではない。

 とりあえずスマホを切って、陰に話しかけてみた。

 地元の住人の可能性もあるからだ。

 だとしたら、手助けしてもらえるかもしれない。

 こんなスマホも圏外のような場所では藁にも縋る思いだった。

 

「あのー」

 

 影がくっきりと正体を現した。

 墨染めの衣をまとい、薄汚れた袈裟を掛けた、禿頭の僧侶であった。

 なで肩の上、妙に猫背なので背が低く感じる。

 手には長い錫杖のようなものを掴んでいた。

 しかし、その眼は瞼が病気のせいか腫れあがり片目が見えない有様で、しかも髪は剃ってあるようなのにだらしのない髭がまばらに生えていて違和感がある。

 とてもまっとうな僧侶とは思えない。

 槍持とて普通ならば声をかけることを躊躇うところだったが、背に腹は代えられぬ。

 

「このあたりの方ですか。ちょっとイタズラされて車がパンクしてしまったんですが手を貸していただけませんかね」

『―――お困りか』

「ええ、まあ」

『拙僧はこの道の先にある寺を庵にしている者じゃが、よろしかったらそこへおいでなされ。出家ゆえ、()()()()()()()は所持しておらぬが、黒電話ならば引いてある。それで連絡すればよかろう』

 

 携帯電話の言い方が、妙に平坦なアクセントなのが気になったが、言葉が通じるということで安心できた。

 多少、時代がかった物言いも僧侶ならば仕方ないと割り切れたのもある。

 槍持は僧侶に促されるままに、また元来た道を引き返し始めた。

 

「なあ、お坊さん。俺の車は前のジムニーの方なんだけど、プリウスαの方に乗っていた女の子たちのことを知らないか」

 

 大人としての余裕はなくなり、素の状態に戻った槍持であった。

 

『拙僧は知らぬよ。用事があって朝帰りをしたら、ぬしが途方に暮れておったから声をかけたまでよ』

「そ……っすか。おかしいな、行き違いになったのかな」

『あろうな』

 

 ここで槍持は気づかねばならなかった。

 この支道は一本道であり、時間差からして町から来たものとすれ違うことはまずないはずだということを。

 ただ、残念なことに事故と暗闇に動転していた彼がその事実に気づくことはなかったのである。

 



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人食いのモリ

 

 

『ところで、ぬしは何のためにこんな奥深い場所に参られたのだ?』

 

 先導する僧侶が口を開く。

 二人だけの沈黙に耐えきれなくなったという訳ではなく、ごく普通の世間話のような何気ない問いかけ方である。

 僧侶のことを、いかにも怪しいが縋り付く藁として我慢していた槍持が思わず答えてしまうぐらいの巧みなタイミングであった。

 

「改葬の手続きのため……ですよ」

『ほお。御骨(おこつ)を移しに来なさったのか。拙僧も知らないお顔じゃが、村の縁者であったのか』

「いや、俺は仕事で。村とは何の縁もないんですが、まあ、依頼者に頼まれて墓地の管理者と話し合いをする必要があって」

『なるほど。道理で』

 

 道理で……何なのだろう?

 槍持はいぶかしく思った。

 ただ、僧侶がいて寺があるということはもしかして村の墓地の管理者はこの不気味な人物の可能性がある。

 それならば怪我の功名になる。

 今回の改葬の仕事はこなさなければジムニーのタイヤ交換のための資金が稼げず、赤字となるのは確実だから槍持は真剣にならざるを得ない。

 多少、相手の見た目も雰囲気も不気味であったとしても構っている暇はなかった。

 

「ご住職はそこの廃……お寺にお住まいなんですか?」

『そうじゃ。ご覧のとおりのあばら屋故、誰も住んでおらんと思ったかな』

「はあ、まあ、そうです。ご住職、お一人では大変なんじゃありませんか」

『いや、拙僧は縁あって一風変わった三兄弟と生活しておる。そやつらが食事の準備などの寺男のような真似をしてくれるので快適なほどだ。そうじゃな、何百年前かに比べれば、苦労はほとんどないようなものだ』

 

 何百年前か。

 そりゃあ電気もガスもネットも整備された時代なら、山奥の寂しい寺でも少しは便利に暮らせるだろう。

 だが、槍持は首をひねった。

 あの寺の様子ではそこまで快適とは思えないのだが……

 

「じゃあ、俺が居たときは同居人の方々は出払っていて、寺にはいなかっただけなんですか。随分と真っ暗でしたから」

『おそらくな。ここしばらく狩ってきた獲物の腑分けなどで忙しそうにしていたようだが、昼頃に喜々として出掛けて行ったからまた狩りに行ったのじゃろう』

「狩りですか? 地元の猟友会なんかですか? もしかして熊でもでたとか!?」

『いや、純粋にやつらの趣味じゃ。昼に出掛けたのは、これまでに嗅いだことのない芳しい匂いに魅かれたからのようだったが、今になっても帰らんとはおかしいのう』

 

 銃を持った狩人が徘徊しているというのは、槍持にとって良いニュースではなかった。

 もしかしたら誤射されてしまう可能性があるからだ。

 背筋が寒くなった。

 もし、この住職に会わずに夜道を歩いていたら危なかったかもしれない。

 それとさっきの二人組の美少女たちのことが心配になった。

 この住職と行き違いになったのは、もしかしたら山の中に踏み込んだからかもしれない。

 何かを探していたようだったし、狩人たちのことを知らずにいたとしたらとてつもなく危険だ。

 基本的にお人好しな槍持としては胃が痛くなるような話である。

 

「ご住職!! その兄弟となんとかして連絡はつきませんか!?」

『どうしてじゃ?』

「山の中に女の子が二人、迷い込んでいる可能性があるんですよ! その子たちが間違って銃で撃たれたりしたらヤバいです!!」

 

 だが、住職は驚いた様子も見せず、

 

『やつらが使うのは鉄砲ではなく弓だ。それにマタギのごとく手練れの狩人じゃから、獲物を間違ったりはせんよ』

「……ならいいんですが」

『ふむ、おなごが二人か。それがやつらが喜々としていた理由じゃろうな。しかし、妙だな、やつらがこれほど時間を掛けても仕留められぬとはどういうことなのじゃ?』

「は?」

 

 今、この不気味な住職はまったく意味のわからないことを言ったぞ。

 おなご二人を、どうすると言ったのだ?

 

「……あんた、今、なんつった?」

『拙僧が何かを言うたかね?』

「言ったろ!! 時間を掛けても仕留められないとかなんとか!!」

『ああ、確かにいうたな。拙僧とやつらはもう長きにわたる付き合いじゃが、これほどまでに狩りに時間を掛けたことはないから驚いておるところだ。あの三兄弟が、この山の中でまとめてかかって殺せぬものがいるとは思えぬからな』

「殺すだって……」

『うむ。あやつらは拙僧の知る限り生粋の邪鬼の類いであるからな。……そもそも、おぬしが生きておるのも不思議じゃ。やつらの罠にかかって立ち往生しておったのに、どうして弓で射られておらぬ?』

 

 最初はただの冗談だと思った。

 坊主らしい辛気臭い内容の。

 だが、目の前の片目に近い奇形の僧侶の顔には諧謔を言ってる様子など皆無だった。

 むしろ本気で疑問を抱いているようだ。

 なぜ、槍持が生きているのかという疑問について。

 絶対に笑い飛ばせない恐ろしいがそこにはあった。

 後ろに下がろうとして、一歩後退したとき、思わず膝からがくんと力が抜けた。

 恐怖が足に来たのだ。

 しかし、それが槍持の命を救った。

 よろめいた彼の目の前をひゅんと何かが通り過ぎ、地面に深々と突き刺さった。

 尻もちをついた槍持の眼が、その突き刺さったものを見据えた。

 それは矢だった。

 手作りのものらしく無骨で汚らしいものだったが、圧倒的なまでの迫力があった。

 あくまでも弓矢というものが生き物の命を狩るためのものであることを見せつけるような存在感と共に。

 

「俺を殺そうとした……のか?」

 

 呆然と呟いた彼は、矢の飛んできた方角を慌てて見た。

 そこには弓を手にした白髪の男がいた。

 泥で汚れた襤褸をマフラーのように巻いているせいで顔はわからないが、黄色く濁っている眼が強烈なまでに印象的だった。

 こんな目つきで睨まれたことは今までないと断言できるほどに。

 

『ふむ。やつらにとって今日は運のよくない日のようじゃな。狩りがことごとく失敗するのもわかる。えてしてそのような日に、御仏が降臨するものなのだが、さて、やつらのような邪鬼のもとにも訪れてくださるものだろうか』

 

 僧侶にとっては槍持が殺されかけたことなど、なんの関係もないらしく、聞きようによっては残酷な独り言を言う。

 しかし、槍持にとってはそんなことはどうでもいいことだった。

 逃げなければ殺される。

 あの弓矢の男は間違いなく彼を殺害するつもりなのだ。

 槍持は走り出した。

 男のいた方角の反対側へ。

 そちらには例の廃寺があった、彼が元来た場所であることはわかっていたが、なによりも弓矢の男から一歩でも離れたかったのだ。

 単純に考えれば国道から離れれば離れるほど彼にとっては不利になるのは確かであり、僧侶の話が真実であるのならば寺は男の棲家でもあるはずなのだ。

 そちらに逃げるのは愚の骨頂と言ってもいい。

 だが、人間というものは我を忘れたときに思考というものができなくなる。

 だから、ホラー映画の登場人物たちは観客にとっては愚かとしかいえない行為にでるのである。

 人の愚かさというものは決して笑い事ではないということの証左であった。

 だから、槍持が喚きながら逃げたとしても誰にも笑うことはできない。

 叫び喚けば自分の位置を教えてしまうとしても、必死で命がけで逃走劇を演じるものたちにはどうしようもない行動なのだ。

 声を出すだけで少しでも助かるような気がするからこそ叫ぶのだ。

 

「助けてくれええ!!」

 

 生涯でここまで必死に走った経験は槍持にはない。

 ないが、走るしかない。

 あの弓矢の男は必ず自分を殺す。

 走り続けなければ殺される。

 確実に。

 だから、木の根に足をとられ、頭から地面に倒れこんだとき、槍持の死は確定的な事実になった。

 彼にはわかっていた。

 あいつが見失うことなく追ってきていることを。

 狼に追われたウサギが本能で狩猟者に勘付くように。

 すぐ後ろの茂みのどこかにあいつはいる。

 つけてきている。

 ああ、もうおしまいだ。

 立つこともできずに諦めのあまり頭を抱えたとき、頭上で声が聞こえた。

 

「何やってんの、おじさん? あー、わかったぞ、うちのような女子高生のパンツを覗くために匍匐前進してんでしょ。うんうん、それもエロカツだね。うちもよくやったよ」

「……確かによくやってるわね。おかげで最近は高校の制服以外でスカートを履きたくなくなったわよ」

「ネシーも最初はガードルとか履いてて色っぽくて良かったのに、最近はスパッツなんか履いちゃって哀しいなあ」

「あなたのせいでしょ!!」

「でも、うちはスパッツも好きだよ。というか、女子服全般大好きさ!!」

 

 聞き覚えのある漫才だった。

 さっきの二人組だ。

 無事だったのかと安堵するとともに、生来のお人好しの血が騒いだ。

 こいつらを助けないと!!

 

「おまえたち、伏せろ!! 狙われているぞ!!」

「狙われてるって……何に?」

「弓矢だ!! 人殺しが弓矢を撃とうしている!! 逃げないと死ぬぞ!!」

 

 気が付くと、ここはさっきの寺の敷地の中だった。

 ジムニーを停めていた場所だ。

 冴えやかな月光以外にはどんな明かりもない拓けた場所なので、もしどこからか弓矢で射られたら躱すことなんかできない最悪の地形だった。

 このままでは俺だけでなくこいつらも殺されてしまう。

 助けなくては。

 

「矢ね。……ホント、()()()。なーんちゃって」

「皐月、冗談は慎みなさい。洒落にならないわよ」

「なるよー。だって、あんな殺気満々のやつ相手だったらうちが負けることなんかあり得ないもん」

 

 ひゅん

 

 空気が裂けた。

 先ほどの経験からそれが弓矢の放たれた音だと槍持は見抜いた。

 つまり、矢が誰か目掛けて撃たれ、それは誰かを傷つけたということだった。

 だが、地面にも人の肉を抉った音もせず、槍持の身体にも刺さってはいなかった。

 何が起きたのか、おそるおそる顔を上げた槍持は、パンクロッカーの姿をした巫女が握りしめた手の中に納まった矢を目撃した。

 さっき自分目掛けて放たれたものと同じ品だった。

 理解が追い付かなかった。

 なぜ、この巫女の手の中に矢があるのか。

 

「まったく、うちに狙撃なんか効かないってのはもう少し世界共通の認識にして欲しいよねー」

「あなたみたいな非常識な人間の存在なんて公表できません」

「こんな良識でいっぱいの女の子を捕まえて、ひどいや姉さん」

「殺気の軌道を視て、飛んでくる矢を掴むなんてまともな人間ができる所業ではないじゃないですか」

「だって、刹彌流柔(さつみりゅうやわら)ってそういうもんだもん」

 

 槍持は、とりあえず世の中には信じられないほど非常識な人間がいるらしいということだけを理解した。

 

 



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異臭と芳香

 

 

(飛んできた矢を手で掴んだって……?)

 

 槍持は自分が何を言っているかわからなくなった。

 彼の乏しい知識でも弓矢というものは、野球のボールよりも速く飛ぶものである。

 銃弾よりは遅いとしても、人間がそれを避けることは至難の業だろう。

 それどころか、この月光以外に照明のない拓けた空間で、どこから来るかわからないものを見切るなんてことができるはずがない。

 タイミングがわかっていたとしても無理だ。

 だというのに、この鋲とスタッズだらけの革ジャンを着たパンク巫女はいともたたやすく受けきってしまったというのか。

 あり得ない。

 脳をグルグル回るのはその一言だけだった。

 

「ようやく罠以外に本人たちがやってきたみたいじゃん」

「そうね。皐月がトラップに掛けられた殺気まで読み取れればもっと素早く動けたんだけど……」

「無茶言わない。だいたい、〈気〉なんてもん生き物以外が出している訳ないじゃん。罠にかかった生き物の残留思念があればその程度のは読み取れるんだけどさあ」

 

 槍持が見ると、二人の服装のうち足首あたりが泥で汚れきっていた。

 山道ともいえない場所を長時間歩き回っていたらしいことが想像できた。

 転んだりもしたのか、膝や尻のあたりもうっすらと汚れている。

 

「でも、ここにいると危険だよね。うちが狙われているならいいけど、ネシーやこのオジサンを標的にされると庇いきれないし……」

「あの寺院(テンプル)に逃げましょう」

「あそこお~? どんな風になっているか知れたもんじゃないよ。バッチいだけじゃすまないと思うしさ」

「私だってできたら近寄りたくありません。でも、狙撃を避けるためには仕方ないでしょう」

「いやだいやだ」

 

 いきなり槍持の着ていたパーカーの襟を引っ張られた。

 パンク巫女は見た目とは裏腹のとてつもない力で彼を引きずっていき、寺まで駆けだし、そして階段を上って横開きの戸口から中に入り込む。

 彼よりもずっと痩せ型なのにパンク巫女の膂力はまるでゴリラのようであった。

 中に入ると、金髪の外人美少女が戸を力いっぱい閉めた。

 ついでに落ちていた木材をつっかえ棒にして鍵の代わりにした。

 二人とも慣れた動きだったが、そんなことよりも槍持は寺の本堂に入った途端に突然鼻をついてきた異臭に気を取られていた。

 外からは想像もできないほどの、異常なまでに黴ついた臭いが漂っているのだ。

 こんな臭いがしているのに、外から嗅ぎ取れないというのはとてつもなく奇妙なことではあったが。

 

「なんだ、この臭い……!」

 

 鼻をつまみながら思わず愚痴ってしまう。

 喉の奥にゲロが逆流してきてしまいそうな吐き気を催す異臭であった。

 呼吸のために口に含んだだけで、肺が汚れてしまいそうなジメついた臭いである。

 どこから流れてきているのかと真っ暗な奥の方を覗き込んでみると、本来、内陣の中に設置される須弥壇があるべきところは残っていたものの、仏像の納められているはずの宮殿はなかった。

 つまり、この寺には本尊がないのだ。

 それだけでこの寺が正確には機能していない廃寺であることがわかる。

 供物を乗せる前机はあるものの、真っ二つに割れていて用途を果たせそうな様子ではない。

 また、木製の本堂の壁も柱も荒れ果てていてとてもではないが、誰かが使用しているとは思えなかった。

 唯一の救いは、雨風を防げそうなところだけである。

 やはりさっきの不気味な僧侶がここに住んでいるというのは嘘だったに違いない。

 少なくとも槍持の感覚では、ここは人が住んでいい場所ではなかった。

 

「この奥に……人の生活圏がありますね」

「そうみたいじゃん」

 

 二人は悪臭をものともせずに、奥まで無造作に進んでいく。

 弓矢で殺されそうになっていたはずなのに、気が付いたら恐怖が薄れかけていた。

 あの少女たちの醸し出す異様なまでの落ち着きが伝染したのかもしれない。

 

「ちょっと待ってくれっ!!」

 

 本堂の裏、おそらくは住職たちの個人的な生活の場となっているだろう住居スペースに入ると、さらに臭いが悪化していた。

 ずっと長くいると服の生地に沁みつきそうな腐った臭いであった。

 

「おいっ」

 

 伸ばした手が廊下の壁に触れた。

 べたりと何かが指に触れた。

 不快な感触だった。

 

「なんだ?」

 

 指先を見ると、黒く汚れていた。

 明かりがないのでよくわからないのだが、何か粘つくものがついてしまったようだ。

 気持ち悪くなったので腰のあたりで拭う。

 二人の少女はもう奥の部屋に入ってしまっていた。 

 遅れて後を追うと、二人は入口辺りで留まっていた。

 

「どうしたんだ?」

「来ないでください!!」

 

 金髪の少女が怒鳴ったときには、もうすでに槍持は踏み入ってしまっていた。

 

「なんだ!!」

 

 そこは、一言でいうのならば―――不潔な台所であった。

 黒くこびりついた汚れが床や壁だけでなく、天井にまで飛んでいた。

 それはまるで血飛沫のようであった。

 まるで、そこで誰かが首を刎ねられて鮮血が飛び散ったかのように。

 

(血?)

 

 槍持は中央に置いてある隙間もないほどにものが置いてあるテーブルの上には、煮込んだシチューのようなものが入った鍋が並べてあった。

 ここまでの悪臭とは違う美味そうな匂いがする。

 こちらは食欲を誘ういい香りだ。

 相反する二種類の臭いが室内に充満している。

 

「……触らない方がいいよ。できたら、美味しそうとか思うのもね」

「また嫌になる臭い。どうして、ああいう連中はこうおぞましい真似をするのかしら」

「奥、行く?」

「止めときたいわ。結局、また悪夢の種が増えるだけですもの」

「それもそうか」

 

 意味深な会話をすると、二人は元来た本堂の方へ引き返し始めた。

 何が何だかわからない槍持もついていく。

 自分たちから奥に行ったくせに、すぐに引き返す行動の意味がよくわからなかった。

 本堂では、金髪の少女―――ネシーと呼ばれている方だ―――がつっかえ棒の位置を確認した。

 破られた気配はない。

 あの弓矢男もやってきてはいないようだ。

 

「なあ、あんたら、色々と訳アリみたいだけど俺にも少しは説明してくれよ。どうもわざと俺には何も伝えないようにしてるだろ、あんたら」

「そうだけど、知りたいの?」

「ああ」

「女体の神秘と違って、知ったからといってあそこがビンビンにはならないよ。むしろ、ビクビクになっちゃうよ。一文字違いで偉い違いだね、こりゃまた」

 

 パンク巫女は変わらず寒いエロネタで突っ走り続ける。

 酒でもあおっていないと失笑すらしないいい加減さだった。

 こんな適当にばかり喋る少女はそれほどいないだろう。

 

「おい、真面目に聞いてんだぞ」

「真面目に聞いてもいいことないと思うけどね。まあ、いいか。うちの〈社務所〉には記憶を封印する術もあるし、いざとなったらロリロリっ子を呼んで施術させればいいし」

「仕方ないわね。じゃあ、話してしまうわよ」

「どうぞどうぞ。くるりんぱ」

 

 ダチョウ倶楽部のギャグのつもりなのだろうか。

 パンク巫女のおっさん臭さは十以上年上のはずの槍持でさえも閉口するレベルであった。

 

「では、まず、ショッキングな情報から。―――さっきの部屋にあった煮込みのことなんだけど……」

「ああ、あの美味そうな」

「その感想は抱かない方がいいと皐月が言ったはずですよ」

「どうしてだよ?」

「だって、あれは人肉を使った料理なんですもの。しかも、味付けに香辛料なんかを使ったそれなりに完成した料理という」

 

 えっ……

 槍持の思考はまたも止まった。

 コノ少女ハナニヲ言ツテイルノダロウカ、マルデワカラナイ。

 そんな彼に追い打ちをかけるように、

 

「要するに、この寺は人食いの化け物たちの棲家ってことなんだよ、オジサン。人間を攫ってきてはバラして食べちゃう吐き気しかしない連中のね。あー、やだやだ、オエー」

 

 パンク巫女―――刹彌皐月(さつみさつき)は心底嫌そうに自分の肩を抱いて震える真似をするのであった……

 

 

 



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殺人鬼〈山鰐〉

 

 

「三日ほど前、この村のあたりで一台の6tトラックが行方不明になったのね。ちょっと事情があって警察に捜索が依頼できないということもあって、ちょうど日光に旅行に来ていたうちとこっちのネシーが駆りだされたってわけ。以上、説明終わり」

 

 ざっくりすぎて、槍持には内容がまったくわからなかった。

 

「わたしたちにも守秘義務のようなものがありまして、詳細は語れないのですが、少なくともあなたにとって不利益をなすものではないと申し上げておきます。ところで、あなたの方はどんなご酔狂な理由でこんなところでお休みになっていたのでしょうか」

 

 ネシーの方は口にできないところは黙ったままで、あくまでも槍持の敵ではないという風に話を持って行こうとする。

 すでに色々なことがありすぎて、頭がパンクしそうなため、あまりこれ以上の情報が欲しくない槍持としては願ったりかなったりだったかもしれない。

 それでも、幾つか知っておくべきものはあった。

 まず、あの弓矢男のことである。

 いきなり彼を殺す気で矢を射ってきたあの恐ろしい相手がなんなのか、ということだ。

 加えて、奥にあったあの料理と二人の語った不気味な事実。

「人の肉を食べている」、そんなことがあるのかということである。

 少なくともこの二つは槍持の生命の今後に深くかかわってくるのは間違いないところだろう。

 

「あの連中がどういうものなのかはわたしもよく知りません。ただ、スターリング家の女であるわたしを嗅ぎつけた以上、〈殺人現象(フェノメナ)〉の類いであることは間違いないはずです。……合衆国(ステイツ)のウェストバージニアの森の奥にいるという〈山男(マウンテンマン)〉と似たような種族だと推測できます」

「痛覚がなくて、異常な身体能力を誇るっていう、アレでしょ?」

「ええ。わたしの祖母が一度襲われたことがあると聞いています」

「うへー、やっぱアメリカって魔境」

 

 槍持は訳が分からなかった。

 アメリカがどうしたというのだろう。

 

「〈山男〉というのは、理由は不明ですが、人間離れした躰を持った人の肉を食う凶暴な化け物みたいなものだと思ってください。日本にまでいるとは思いませんでしたが……。あなたもきっと獲物として狙われることになったのでしょう」

「道々のものや山窩もできる限り近づかないようにしている、〈山鰐(やまわに)〉って妖怪のことを親父から聞いたことあるから、それのことじゃないかなあ。もっと東北の方に巣食っている連中のはずだけど」

「〈山鰐(やまわに)〉ですか。どのみち人食いであることは変わりないのでしょうね」

「まあね」

「ちょっと待ってくれ!!」

 

 槍持は口を挟んだ。

 内容はよくわからないが、人殺しがこの山の中をうろついているらしいということだけはぼんやりとわかってきたので、さっき出会った僧侶のことが気になってきた。

 おかしな坊さんだとは思っていたが、もしかしてあの弓矢男の仲間か何かだったのだろうか。

 そうでなければあの坊さんも命が危ないということになる。

 

「それは大丈夫だと思うな。ねえ、ネシー」

「大丈夫……と言っていいものか……わたしにはなんとも」

「まず殺されることはないはずだし。まあ、仲間なのかといったら広義ではそうなのかもしれないけどさ」

「どういうことだ?」

 

 すると、パンク巫女―――皐月が逆に質問を返してきた。

 

「オジサン、何をしにここに来たのさ?」

「あ、俺は行政書士で、あの村に改葬の手続きを進めに……」

「改葬? お骨を移すやつ?」

「ああ」

「―――なるほどねー。で、だから、ここにいたのか。でも、残念だけど、このお寺はもう潰れているし、墓地もないよ。さっきオジサンはお坊さんがどうとか言っていたけど、ここには住職だって残っていないから」

「なんだって?」

 

 寺が荒れ果てているのはわかるとしても、住職がいないとはどういうことだ。

 

「そこの村はさ、平成の大合併で隣の町に吸収されて、それ以来、住民も移動しちゃってお寺も廃業。宗派の本山からも住職が派遣されないんで、そのまま朽ちるがままにしてあるってことだよ。だから、もしここにお坊さんがいるとしたら、それはただのニセものか、それとも……」

「それとも?」

「妖怪だねー」

 

 皐月はあっけらかんと笑った。

 妖怪などと言われたら普段は笑い飛ばすところだが、先ほどからの異様な状況に麻痺しているのか簡単に受け入れてしまう槍持がいた。

 彼個人の感覚では、あの弓矢男の方が遥かに怪物じみているが、それでもあの僧侶が妖怪と言われて納得してしまう。

 

「ちょうど、ここは栃木県の大中寺が傍にある。大中寺といえば、その昔、人肉を食べる〈青頭巾〉と呼ばれる僧が根城にしていた場所に建立されたお寺だねー。〈青頭巾〉は大中寺開祖の快庵妙慶(かいあんみょうけい)禅師に念力で退治されたけれど、それをもとに上田秋成が「雨月物語」の一片とした「青頭巾」を書いて、ラフカディオ・ハーンが短編小説「食人鬼」を記したって逸話がある」

「小泉八雲の「食人鬼(じきにんき)」ならわたしも合衆国で読みましたわね。このあたりがあの話のモデルなんですか?」

「まあね。東照宮がある西側は妖魅たちの溜まり場になっているらしくて、昔から意外と妖怪事件は多いんだ。だから、地域的に挟み込むようにして日光と多摩・武蔵野に強力な退魔巫女を配置するのが〈社務所〉の慣例となっているんじゃん」

「なるほど」

「だから、オジサンが見掛けたっていうお坊さんは、高確率でその〈食屍鬼(グール)〉の同類か子孫なんじゃないかな」

 

 小泉八雲の短編については彼も知っていた。

 

 確か、諸国を行脚していた夢窓国師という僧侶が、日も暮れかけたのに、深い山奥で道に迷ってしまい、一つの庵を見つける。

 そこに老僧に教えられて、なんとか近くの村に行き着き、村長の家に泊めてもらうが、村長は亡くなっていてその葬式の日であった。

 息子から「村の掟に従って、死者があった夜は村人全員が村から離れなくてはならない。たたりがあるからである。しかし、あなたは村人ではないので旅で疲れているであろうし、お坊様ですから、望むならばここにとどまってもよい」と言われた。

 村長の家に一人残って、一宿一飯の恩を返すために村長の亡骸を前に読経しながら弔いの行を勤めると、金縛りに遭ったように動けなくなり、その間に家の内部に靄のような大きな妖怪が現われて、亡骸を食らい尽くして消え去った。

 翌朝、戻ってきた村人たちに事情を説明すると、村に伝わる話と同じであると村長の息子は言う。

 夢窓が、「あの庵にいる僧は死者の弔いをしてくれないのか」と問うと、「そのような庵はありませんし、もう何代にもわたって、このあたりにお坊様は居られません」との返事があった。

 夢窓国師が前夜来た道を戻ると、庵は同じところにあった。

 そこにいた老僧は夢窓の前に両手をついて驚愕すべき事実を告げた。

「昨夜はあさましい姿をお見せしました。あなたが目撃された遺体を貪り食う化け物は拙僧なのです。お恥ずかしいことに、拙僧は仏に仕える身でありながら〈食屍鬼〉になってしまったのです。以前、拙僧はこの郷のただ一人の僧でしたので、多くの死者を弔いました。しかし、拙僧はそれで得られるお布施の事しか眼中になく、その妄念によって、死後〈食屍鬼〉に生まれ変わって、近くで死んだ村人の亡骸を食っていかねばならなくなってしまいました。どうかこんな拙僧をあなたさまのお力でお助け下さい!」

 それだけを聞くと、忽然と庵も老僧も消えさり、立ち竦む夢窓の眼前には古い苔むした墓石があるだけであった……

 

 ―――そんな物語だったはずだ。

 まさか、さっきの不気味な僧侶はその〈食屍鬼〉となった老僧と同じものだというのか。

 フィクションではなかったのか。

 だが、小泉八雲は実際に聞き取り取材をした結果を物語にしたと聞いている。

 つまりあの話は事実だったということで、この一帯は屍を貪る怪物が跋扈する土地柄ということなのか。

 槍持はすでに尋常ならざる異界の片隅にいたのである。

 ただの思いつきの小旅行のために、今命の危機にさらされているのだ。

 

「―――〈食屍鬼〉そのものは人を襲うものではないけれど、例の〈山鰐〉どもは逆に人を食べるために襲う連中みたいなんだねー。それがもしかしたら、この廃寺で同居していたって、まったくカオスもいいところ。面倒な仕事を引き受けちゃったなあ」

「仕方ないでしょう、皐月。どのみちこの裏で〈社務所〉のトラックを見つけた以上、あの殺人鬼たちを排除しなければならないのは揺るぎのない事実なのですから」

「ほーい。じゃあ、お仕事しますかあ」

 

 そういうと、皐月はつっかえ棒を外そうとする。

 そんなことをしたらさっきの弓矢男が入ってきてしまうではないか。

 慌てて止めようとすると、腕を伸ばした先、何もないところで皐月が手首を捻ると理解できないベクトル操作がなされたかのように槍持はつんのめって背中から床に落ちた。

 触られてもいないのに、まるで皐月に合気道のように投げられたかのようであった。

 受け身をとっていないにも関わらず、落下のダメージがないのは手加減されたからだろう。

 少なくとも、どうやったのかは知らないが、槍持は皐月によって投げ飛ばされたのは確かである。

 触れもせずにどうやって?

 

「あー、オジサーン。女子高生にどさくさ紛れにボディタッチしようとしたんでしょー。エッチ、スケッチ、ワンタッチなんだから~ ウシシシシ」

 

 大橋巨泉のように笑うパンク巫女。

 笑うと妙な可愛さがあるのだが、外見の異質さとは完全にミスマッチだ。

 

「そんなんじゃねえ! あんた、外に出たら殺されるんだぞ!! せめて朝まで隠れていた方がいい!!」

「隠れているのなんかバレてるに決まってるじゃん。中に入るの見られてるしね。それにさあ、あんな殺気垂れ流しのやつらが、うちに勝てるはずがないって。まあ、見てなよ。禁裏におわす帝の御一族を御守りするために編み出された刹彌流柔の実力をさ」

 

 そう胸を張って皐月がつっかえ棒を外そうとした時、建物の外から夜のしじまを突き破ってエンジン音が轟き渡った。

 轟音はほとんどすぐに間近に寄って来て―――

 

「危ない!!」

 

 本堂へと通じる木製の引き戸を突き破って軽トラックが姿を現した。

 衝突によってフロントガラスに蜘蛛の巣状の罅が入っているが、その後ろに運転しているものの顔が見えた。

 先ほどの弓矢男とは違う、口が異常なほどにねじ曲がった総髪の怪人であった。

 本堂の中央まで強引に突入してきて、ブレーキが嫌な音をあげる。

 同時に、軽トラック―――スズキのキャリィだろう―――の荷台から二人の男たちが飛び降りてきた。

 一人は見覚えのある弓矢の男。

 もう一人は身長ニメートル以上の巨漢だった。

 どちらも似たような捩子くれた身体と奇形そのものの顔を持つ怪物であった。

 

 こいつらが〈山鰐〉。

 

 そう呼ばれている妖魅のような殺人鬼であると槍持は戦慄と共に悟った。

 

 



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皐月の闘法

 

 

 軽トラの荷台には、小型のクレーンリフトが設置されていたが、二匹の〈山鰐〉は慣れているらしく素早く本堂の床に降り立った。

 弓矢男は口を覆っていた布を外しており、耳まで裂けた唇と牙のような前歯を持った虎を思わせる顔があった。

 さきほど射ってきた弓をまだ手にしている。

 もう一方は一回り大柄でニメートルを越す長身、片目がもともと存在していないのか、右半面がのっぺりとしていた。

 こちらが手にしていたのは先端にコンクリートの塊がついた鎖だった。

 ジャラジャラと耳障りな音を立てている。

 弓矢男は降りたと同時に皐月に対して矢を引き絞り、狙いをつける。

 片目の大男は槍持に向けて視線を送ってきた。

 軽トラの突貫によって、槍持とネシー、皐月に分断された形になってしまったのである。

 運転をしていた総髪の怪人は、運転席で壁を越えたショックからか突っ伏して動く様子がなかった。

 

『ゲヘヘヘ』

 

 片目の大男が笑う。

 楽しそうに。

 陽気な笑いではなく、昆虫の脚をもいで弄ぶ幼児の笑いだった。

 ただし、ここにいるものは幼児などという可愛らしいものではなく、血に狂い、汚物溜めを棲家とするおぞましい怪人であった。

 手にした凶器で三人を惨殺しようと嘲笑っているのである。

 

動かないでください(フリーズ)!!」

 

 ネシーの手には、どこから取り出したのか一丁の回転弾倉の拳銃が握られていた。

 身体を正面に向けて両手で拳銃を構える、いわゆるアイソセレス・スタイルをとってネシーは銃口を大男に向けていた。

 槍持は知らなかったが、この構えはFBIのコンバット・シューティングがもととなっていると言われている射法で、あらゆる方向に重心移動がしやすい。

 足を肩幅くらいに開き、腰から上、肩の線は相手に対して正面になるようにし、両腕はほぼ均等に伸ばし、肘はやや曲げてリラックス気味にする。

 それでリコイルを吸収して、連射が速くなるという利点もあるのだ。

 射撃において致命的な欠点となる、反動によってサイト・ピクチャー(見出し)が大きく崩れることも防げる。

 ネシー―――ヴァネッサ・レベッカ・スターリングがまず母親に教わった護身術がこれであった。

 

「妖怪でないというのならば、わたしの銃であなたを射殺できるはずです。これ以上、近寄ると容赦なく撃ちます」

「あんた、どうして銃なんか……」

 

 槍持はへその緒を切って以来はじめて生で銃を見た。

 サバイバルゲームも趣味としている彼にとって、それは馴染みのあるものであり、ネシーの構えが堂に入りすぎていることも即座に理解した。

 一方、大男の方は鎖をだらりと下げたまま、首をひねり、二人の様子を見ている。

 銃というものを知らない訳ではないようだったが、あまり恐れているという様子でもない。

 どうしようかと考えあぐねている感じであった。

 三人の間には奇妙で殺意に満ちた膠着状態が始まっていた。

 だが、軽トラによって分断された反対側においては、弓矢男と刹彌皐月との間に戦いの火ぶたが切って落とされていた。

 

『ウビャアアアア!!』

 

 奇声とともに放たれた手作りの矢がわずかな距離しかない皐月目掛けて飛ぶ。

 普通ならば左右に避けるなどして避けるほかはない。

 ただし、軽トラの突貫によって木くずが散らかった床に転がるのは運が悪ければ先端が刺さりかねない行為だ。

 弓矢男もそれを見越して、次弾となる矢を引き手の指に挟んでいた。

 転んだところを仕留める準備である。

 弓矢男が記憶している獲物の動きはそういうものであるという経験があったからだ。

 だからこそ、放った第一矢がピンと皐月の目の前で止まったことに驚愕した。

 矢は真ん中の腹をなんと二本の指で掴んでストップさせていたのである。

〈山鰐〉のぐずぐずに病んだ脳髄でさえも、その奇怪さは認識できた。

 矢が放たれた直後に、その腹を人差し指と中指で挟んで止めるということがどれほど奇跡的なことなのか、を。

 だが、奇跡を成し遂げたパンク巫女にとってそんな二指で矢を止めるなんてことは、ただの技の一つでしかなかった。

 なんといっても皐月は暗闇でどこからともなく放たれた矢さえも握って止めることができるのだ。

 目の前に敵が姿をさらしている以上、生物の放つ殺気とその方向を視ることができる彼女にとっては児戯でしかない。

 ライフルでの狙撃すら回避できる刹彌流柔の力である。

 

「てえい!!」

 

 ちょんちょんと撥ねるステップから後ろ向きになり足を伸ばす回し蹴りが、弓矢男の胴体に決まり、軽トラックまで吹き飛ぶ。

 軽トラのボディにぶつかったショックで、運転席で気絶していたらしい総髪の怪人が顔を起こし、キョロキョロと周囲を見渡した。

 状況を把握したのか、ガタガタとドアを開けようと弄り始めた。

 激突の衝撃で歪んだのかドアはすぐには開かず、その間に皐月は弓矢男に挑みかかった。

 肘を立てた突撃で鳩尾を貫き、もう一つの肘を使い、殴るように顔面を削る。

 頼みの武器である弓矢を手放してしまったことから、思わずそれを拾い上げようとした〈山鰐〉を今度は膝で蹴り飛ばした。

 九の字に曲がった背中にさらに追い打ちをかけ、またも膝で横っ腹を抉った。

 流れるような、肘・肘・膝・膝の四連続コンボ。

 それがすべて違う部位によるものという究極の接近戦が展開されたのだ。

 他の同期の退魔巫女とは異なり、皐月は刹彌流柔以外の流派は知らない。

 例えば、御子内或子はプロレス技と中国拳法、さらに正体不明の古武術や裏技を使う。

 神宮女音子はルチャ・リブレと合気道、ほとんど〈神腕〉の力のみで戦う明王殿レイでさえ少しは拳法を齧っている。

 だが、皐月は父親から学んだ刹彌流柔以外は使えない。

 退魔巫女になったのは、その刹彌流柔の伝承者が兄弟子に決まってしまい、行き場がなくなったからという理由である。

〈社務所〉の修業場に入ってからも、基礎的な体術は習ったものの、基本的には家業の古武術しか使わなかった。

 ある意味では不真面目な態度の巫女ではあったといえる。

 彼女にとっては刹彌流のみが拠り所であり、それ以外は必要がなかったから仕方がない。

 ただ、彼女を教えてくれた師であり、〈社務所〉の重鎮である御所守たゆうという年齢不詳の老婆は、彼女が巫女となるために一つだけ別の闘法を覚えるように指導した。

 それが、今、彼女の使った肘と膝という人体で最も堅い部位と、筋膜とい皮下組織から存在する白い薄い膜を最大限に活かした闘い方であった。

 筋膜は、筋肉だけを包む膜ではなく、骨、内臓器官、血管、神経など身体のあらゆる構成要素を包み込み、それぞれの場所に適正に位置するよう支えているものだ。

 人間の肉体は筋膜によって中身を傷つけないように包まれているといえる。

 その筋膜に〈気〉を通すことで全身の反応を一瞬でトップギアに変えることができるのである。

 肘と膝という射程距離の短い部位でもって効果的に戦うスタイルは、殺意を投げる遠距離攻撃である刹彌流柔と併存させることも容易であり、むしろ弱点を補えるものであった。

 退魔巫女の中において、現在立ち技と接近戦で最強は御子内或子であるとしても、さらに近く、お互いの身体に触らない距離の超・接近戦において彼女を凌駕できる者は、実のところ皐月であるというのが同期全ての見解である。

 懐に入るどころか、キスできる距離にまで入って自在に打撃を繰り出せる超・攻撃的巫女。

 刹彌皐月が本気で戦いに入れば、〈山鰐〉の一人など敵にすらならない。

 弓矢男は床に倒れこんだ。

 軽トラが割った木材に刺さり、黒い血を発する。

 だが、痛みを感じない無痛症の〈山鰐〉はそれでも右手で自分を支え皐月にしがみつこうとした。

 反撃のために。

 しかし、殺気を放つ生き物である以上、皐月に奇襲は通用しない。

 軽く飛びあがり、両膝を揃えて、弓矢男の顔面に落下した。

 ダブルニーの一撃を顔面に受け、さらに床に後頭部がめりこむ。

 悲鳴の一つも上げることなく、弓矢男はそのまま動かなくなった。

 

「次いこっかあ」

 

 しかし、軽トラからでてこようとする総髪の〈山鰐〉に向かったとき、さらに反対側で銃声が轟いた。

 

「ネシー!! オジサン!!」

 

 あちらでも動きがあったのだ!

 

 

 



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不動明王の炎

 

 

 ネシーの持つ銃口はまっすぐに巨漢の〈山鰐〉の胴体を捉えていた。

 命中させるのが困難な頭や手足は狙わない。

 確実に、精確に仕留めるために胴体を狙うのが銃社会アメリカのやり方だ。

 ただし、ここが日本という海外であることを考慮し、すぐにトリガーを引いたりはしない。

殺人現象(フェノメナ)〉とはいえ、躊躇なく発砲するのは国情に合わないからだ。

 

「武器を捨てなさい! 早く(ハリー)!」

 

 巨漢が持っているのは鎖だった。

 長さからしても一振りでネシーまで達する。

 さっさと捨てさせなければ危険だ。

 

『グゥ?』

 

 巨漢は首をかしげた。

 外見以上に愚かなのか、それともネシーを虚仮にしているのか。

 

「早く!! 撃ちますよ!!」

 

 鎖が床に落ちた。

 ジャラリと落ちる寸前、巨漢が動いた。

 掴みかかろうとタックルしてきたのだ。

 当然、そんな行動は予期していたので躊躇わず発砲する。

 ドン

 三発の銃弾が巨漢の胴体に叩き込まれる。

 強力なマンストッピングパワーがおそらくは百キロは越える体重をのけぞらせた。

 

『グエエエエエ!!』

 

〈山鰐〉が叫んだ。

 のけ反りが途中で止まり、ひっくり返ることもなくひょいと直立し、またも突っ込んできた。

 ドン

 再び引き金を引いたが、今度は目標がやや身を逸らしていたため、肩口をかすめるだけで外れてしまう。

 岩のような拳でネシーを殴りつける。

 ネシーは左手をたててそれを受けた。

 だが、大男の勢いのついたパンチを体格で劣る少女が堪えられるはずもなく、そのまま突き飛ばされる。

 その先にいた槍持が受け止めなければ、尖った木片の散らばった床を無防備に転がり回るはめになったであろう。

 だが、代わりとして拳銃が手からすり抜けていった。

 それだけの強い衝撃であったのだ。

 一方で、巨漢の方も胸を押さえてすぐには動けなかった。

〈山鰐〉には痛みを感じる部分がないのだが、それでも胸を撃たれれば全身に走る波は深刻なダメージとなる。

 片膝をたてて倒れないようにするだけで精いっぱいだった。

 相手が一時的とはいえ動けないとみた槍持は、金髪の少女の肩を抱えて逃げ出した。

 軽トラが開けた大穴がちょうどいい逃げ道になっていたからだ。

 反対側のパンク巫女のことは気になったが、それよりもまず自分たちが助からないと。

 

「逃げるぞ!」

「え、ええ」

 

 外に出ると、月がさっきよりも冴え冴えと輝いていた。

 なんとか広場を見渡せる。

 もう誰もいない。

 逃げるには今しかないようだった。

 必死で少女を助けながら走り出す。

 なんとか意識が回復したのか、ネシーが自分の足でふらつかずに立ち上がれるようになったのは広場の中心にきたときであった。

 これで二人とも走れると思ったとき、ガタンと音がして、寺の本堂に開いた穴から巨漢の〈山鰐〉が不気味な顔を出した。

 まるで逃がさないと宣言するかのようにニタリと笑う。

 

「急げ!!」

 

 銃を落としたネシーではあの殺人鬼を退けることはできない。

 それができるたった一人の護衛は、まだあと二匹の殺人鬼と対決しているはずだ。

 つまり、彼女にできることは皐月がやってくるまで生きていること。

 シンプルな答えであった。

 スターリング家の女の常として、こんな状況には慣れっこの彼女としては不本意ながらいつものことだった。

 力の限り、命の続く限り、最後まであがくことが怪物たちと戦う武器なのだ。

 魂を守るために、咄嗟の知恵を振り絞る。

 理不尽にイカれた連中に追われるなんて日常茶飯事のヴァネッサ・レベッカは、こんなところで死ぬ気は毛頭もない。

 

(でないと、すぐに来てくれるだろう皐月に面目が立たないです)

 

 巨漢が手にしたコンクリート片を振りかぶった。

 戦国時代においても、最も殺傷力が高くコストパフォーマンスが安い武器は石投げであったという。

 弓矢には熟練が必要だが、石を投げることは誰にでもできることだからだ。

 そして、プリミティブな殺意に彩られた〈山鰐〉が選択するのも当然の武器であった。

 槍持はその動きを周辺視野に収めてしまった。

 コンクリート片の狙いがネシーにあることも。

 

「危ない!!」

 

 思わずタックルしてしまい、代わりに自分の背中にコンクリート片が激突した。

 

「ううううっ!!」

 

 声にも出せない激痛が襲ってきた。

 背骨―――ではなく、肋骨のあたりが信じられないほど痛い。

 折れただけでは済まない痛みであった。

 

「があ!!」

 

 呼吸をすることすらも厳しい。

 走るなんて、もうできるはずがない。

 要するに、死ぬしかないのということだ。

 

「あなた!!」

 

 ネシーが自分を庇ってコンクリート片を受けた槍持のことを心配して駆け寄ってくる。

 

「にげろおおお!!」

 

 もう自分は助からない。

 せめてこの少女だけでも……

 槍持は願った。

 ドライブやらサバイバルゲームが趣味のつまらない自分よりもこの女の子を助けてやってくれと。

 神とやらがいるのなら。

 仏がいるのなら、是非、頼みたい。

 本尊のない寺で祈ったとて、かなえられることのない望みだとわかってはいたが。

 

『拙僧が悪鬼なのだ』

 

 どこからともなくガラガラ声が聞こえてきた。

 痛みにも関わらず槍持が顔を上げると、すぐ後ろに、〈山鰐〉と挟み込むような位置に薄汚い袈裟と墨染めの法衣をまとった禿頭の僧侶がいた。

 さっきの僧侶だった。

 こいつも俺たちを襲う気なのかと身構えても、僧侶に変化は見られなかった。

 

『拙僧は人の屍肉を()む悪鬼羅刹なのだ。何百年も前に國師樣が我が爲に施餓鬼會(せがきゑ)を修されたことで救われたはずなのに、今になってまたも邪鬼どもが食らう屍肉の誘いに負けたことで、この恐ろしい苦界(くがい)に戻ってきてしもうた。速やかに拔け脱すことも出來ぬというのに――』

 

 僧侶は血涙を流しながら慟哭する。

 

『病や寿命によって召したものたちの死肉を喰らうだけならまだしも、生あるものを殺生した挙句に丹となったものたちを邪鬼に勧められるままに食んでしまうとは……拙僧こそが真の悪神なのだ。―――すべては拙僧が撒いた種なのだ』

 

 槍持たちには僧侶の嘆きの意味がわからない。

 ただ、この坊さんの心にあるものが本当は慈悲深い聖職者のものであるということだけはわかった。

 それが何かの行き違いで地獄へと落ちただけなのだろう。

 

『ぬしら、拙僧の罪を……私利私欲に走った不信心ゆえの妄執を許してくれ。儂は八万地獄に落ちるとしても御仏の御使いのままでありたいのだ』

 

 そういうと、僧侶は錫杖を鳴らしてゆっくりと〈山鰐〉の巨漢目指して歩んでいく。

 落ち着いた足取りであった。

 

『邪鬼どもよ。ぬしらには世話になったが、やはりここは生きるものの國じゃ。拙僧とぬしらがいてよい場所ではない』

『グゥゥ……』

『ともに果てようぞ』

 

 次の瞬間、僧侶の背中から先端の尖った鉄パイプが飛び出した。

 心臓の位置だった。

 手品でもない限り、僧侶の命は失われたに違いない。

 だが、僧侶は肉体を鉄パイプによって貫かれながらも、〈山鰐〉をしっかりと抱きとめた。

 炎が広がっていく。

 僧侶の口からは尊い聖句が唱えられる。

 

『ノウマク サンマンダ バザラダン カン』

 

 すべてを焼き尽くす不動明王の真言(マントラ)であった。

 

『ノウマク サラバタタギャティビャク サラバボッケイビャク サラバタタラター センダマカロシャダ ケンギャキギャキィ サラバビギナン ウンタラタカンマン』

 

 ……真言とともに僧侶の口から発された焔が〈山鰐〉の全身を覆い尽くし、バケモノの最期の悲鳴と共に黒く焦げていく。

 どれほどの熱量なのか、あっという間に二つの人型は黒い炭となり、そして数秒後に火が消えたときにはもう跡形もなく消し去っていた。

 コークスの炎でもここまでは消えないであろう大火力を見せつけるように。

 槍持とネシーはその間に身じろぎの一つもできなかった。

 

「―――ネシー、オジサン、無事!?」

 

 息せき切って皐月が姿を現したとき、はじめて息をすることも忘れていたことを思い出すほどに。

 

 



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闇の森は枯れ果てた

 

 

 割れたフロントガラスをさらに手にした切れ味鋭そうな鉈で破壊した総髪の怪人は、軽トラからもんどりうちながら本堂に降り立った。

 弓矢男を助け、皐月を惨殺するためだ。

 普通の女子高生ならば、もたもたしている間に逃げ出そうとするところだが、刹彌皐月はただの女の子ではなかった。

 筋膜に退魔巫女独自の呼吸法でよって練った〈気〉を通し、一瞬の爆発力をアップさせると、怪人の顔面に肘打ちをかました。

 ひっくり返りそうになりながらも鉈での反撃を試みる、〈山鰐〉の腹に左膝を食いこませ、悶絶させる。

 九の字に身体を捻じ曲げさせたら、今度は延髄にエルボーを打ち込む。

 すべてほぼ一瞬で行えるのは、〈気〉と筋膜を使った特殊な体術を学んだ皐月ならでは加速法とでも呼べる動きのおかげだ。

 常日頃、おちゃらけてばかりで、いい加減な下ネタしか口にしない少女が、仲間たちに迷惑がられながらも一目置かれているのはこのせいである。

 力は只人よりも強く、無痛症によって簡単な攻撃では足止めさえできない、妖怪のような〈山鰐〉たちをいともたやすく葬り去ってしまうことができる。

 退魔巫女・刹彌皐月は、その家伝の古武術とともに戦闘においては特別なスタイルを持つ強者でもあったのだ。

 

『グエエエ……!!』

 

 痛みを感じない怪人が噛みつくために足を取ろうとしても、殺気があるというだけで皐月には通じない。

 顔を歯茎ごと全体重で踏み、それでも無駄に蠢く手首を反対側の足裏で蹴り潰す。

 刹彌流柔は本来、天皇の一族を警護するための古武術であり、明治期になるまで京都の宮中に出入りが許されていた。

 だが、維新後、天皇家を丸抱えしようとする政府と軍部の力によって排除されて野に下るが、使い手の幾人かは帝都・東京を含む関東を守護するための組織として再編されていた〈社務所〉に拾われることになったのである。

 みかどの御一族を暗殺から防ぐ最強の護衛。

 それが刹彌家であり、刹彌流であった。

 殺気を持たぬ死人(しびと)や無機物の罠、心を読む〈サトリ〉など以外では近寄ることすら許さない生粋の警護人なのである。

 

「いつもでもあんたたちの相手をしていられないんだァ!!」

 

 振り向きざま、しつこく立ち上がり弓を番えていた弓矢男の放つ()()()()()、一本背負いの要領で投げ捨てる。

 物理的には触られてさえいないのに、〈山鰐〉は投げ飛ばされ、頭から床に叩き付けられ、首の骨が折れた。

 いかにタフな怪人たちでももう動くとは敵わない。

 

「―――ネシー!!」

 

 慌ててバディを追って外に出ようとした時、大熱量の炎が舞い飛んだ。

 筋膜による超人的反射神経を用いて後ずさる。

 彼女でなければ確実に巻き込まれていた。

 

焼夷手榴弾(テルミット)!?)

 

 アメリカで何度か《殺人現象》相手に使った燃焼するための手投げ爆弾のことを思い出したが、それとは違う。

 明らかに人知を超えた法力によるものであった。

 何があったのか、答えが出る前に炎は消滅した。

 燃焼するための材料が切れたというよりも、元々、何かを焼き尽くしたら儚く消える業火であったかのように。

 

「なにさ……今のは」

 

 一瞬だけ、呆然としたが、守るべきバディのことを思い出し、間髪入れずに本堂から飛び出た。

 金髪の異人の少女とたまたま助けたオジサンは無事に立っていた。

 ようやく胸をなでおろす。

 感覚を張り詰めてみても、もう狂気も殺気も感じない。

 どうやら食人の森の悪夢から覚めたらしい。

 

「最後にここでドンとくるのがホラー映画なんだけどさ。できたら、うちはホラーよりは官能映画がいいなあ。『青い珊瑚礁』みたいな」

 

 と、ブルック・シールズが聞いたら怒りだしそうなことを呑気に呟くのであった。

 

 

     ◇◆◇

 

 

「改葬……やれるのかな?」

 

 二人の少女が呼んだ作業員が、彼のジムニーの前輪を取りかえている間、槍持はぼうっとその様子を見物していた。

 彼女たちの好意によって、槍持はあの廃寺の中で行われていた惨劇を見ずに済ませられた。

 話だけを聞いているだけでも、どんな恐ろしいことが起きていたかは想像がつく。

 もし決定的な何かを目撃してしまっていたとしたら、槍持の神経は耐えられなかったろう地獄があったことが。

 あの僧侶のことも、三人組の怪人物たちのことも、何もわからなかったが、それでもすべては終わったこととして納得するしかない。

 

「終わったよ」

「あ、そうですか……」

 

 作業員たちが声を掛けてきて、彼らはそのままもう一台のプリウスαの方に取り掛かっていた。

 しばらくして、森の奥から皐月とネシーが帰ってきた。

 森で何かを探していたらしい。

 

「オジサーン、修理終わったあ~」

「お待たせしました」

 

 先ほどの悪夢のような体験をほとんど気にしていないところが、槍持には理解できない。

 

「探し物は見つかったのか?」

「まあね。やっぱり、寺の奥の方に拓けた場所があって、そこに車がたくさん停められていた。ほら」

 

 見せられた写真には、十台以上の様々な車種が無造作に停められていた。

 駐車場ではなく、廃棄された車の墓場のようである。

 

「これがどうかしたのか?」

「ここに6tトラック停まっているでしょ。こいつを探していたんだよ」

「そういえばそんなこと言っていたな」

「うん。これ、うちの所属している組織の運搬車なんだけど、仕事の帰りにこのあたりで行方不明になっちゃってね。中身も中身ってことで警察をすっ飛ばして探していたんだけど、ようやく見つけられたよ。運転手さんは助からなかったけどさ」

「―――あいつらにやられたのか」

 

 皐月の表情からでもそのことは読み取れた。

 冷静さを装ってはいるが、沈痛な陰が差している。

 槍持の手前、露骨には出さないように取り繕っているだけなのだ。

 運転手があの〈山鰐〉という連中に殺されたのは間違いないのだろう。

 

「じゃあ、もしかしたら……」

「考えない方がいいよ。悪夢を見るからさ。……これ、新宿にある病院なんだけど、ここで心理カウンセリングやっているから、何かあったらすぐに通いなよ。我慢しないでさ」

「もらうよ。確かに夢に出そうだ」

 

 渡された名刺を懐に入れた。

 まず間違いなく今日のことは夢に出るだろう。

 そのことを考えると気分が重くなる。

 

「なあ、あいつらってどのぐらい殺したんだ?」

「……あとで調べるけど、あの寺だけで五人は殺っていると思う。それもあって、あの〈食屍鬼〉の住職が甦ってしまったんだろう。あいつは人の屍肉を食べるように転生した妖怪だからさ。妖怪と人食いの共同生活―――ゾッとしないな」

「この国にはあんなものがたくさん潜んでいるのか?」

「いることはいるけど、出てくるたびに杭のようにうちらがブッ叩くからそんなに多くはないよ。オジサンも何かあったらすぐに八咫烏を呼び出すのがいいかなー」

 

 槍持は背負っていた重みがどこかへ落ちていくのを感じた。

 どんな恐ろしいことがあったとしても、苦しみを撒き散らす殺人鬼がいたとしても、きっとこの変なパンク巫女のようなものたちが、どこからともなく現われて倒してくれるのだと確信したからだろうか。

 これからしばらく夜にジムニーを運転することは怖いだろうが、そのうちに平気になるだろう。

  

 人食いの昏い森なんて、そんなにはないはずだから。

 

 



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第37試合 満員電車地獄変
妖怪〈髪切り〉


 

 カアアアアン!!

 

 いつものように(ゴング)が鳴ると、御子内さんと妖怪のデスマッチが始まった。

 今日の倒すべき敵の名前は妖怪〈髪切り〉。

 西武新宿線沿線を利用する女性たちの髪を、文字通りに切って回った迷惑な妖怪である。

 たった一週間ほどで二十人近い被害が出て、そろそろネットでも話題になりかけていた。

 狙っているのは腰まである黒髪の女性ばかり。

 年齢にこだわりはないようだが、並々とした豊かな黒髪が好みらしく、被害者は皆似たような髪型をしていた。

 手口としては、線路沿いの道路を女性たちが歩いていると、後ろから近寄って根元からバッサリと切り落としてしまうというものだ。

 通勤通学の車中でのことならすぐに目星もついたのだが、この〈髪切り〉はなんと黄色の電車の屋根に貼りついて移動して悪事を働いていたのである。

 かなり猛スピードで動き回るらしく、車上からターゲットを補足すると、飛び降りて髪を切り裂き、逆方向からやってきた電車の屋根に再び飛び乗る。

 電車同士がすれ違うわずかな瞬間だけ姿を現すので、存在を見つけ出すのも随分と時間がかかったらしい。

 もっとも、頻出するのは鷺宮から上石神井の間が多かったので、御子内さんと僕はその中間にあり、線路沿いの公園に〈護摩台〉を造って罠を張ることにした。

 実のところ、この罠を張る場所の選定に難航して、被害が拡大してしまったのは大きな失敗だったのだけれど。

 逆に〈護摩台(リング)〉に引きずり出すための手段は簡単だった。

〈社務所〉が用意した長髪のウィッグに、その昔修験者たちが〈髪切り〉避けとして売りさばいたお札に〈逆まじない〉を掛けて効果を反転させてものを貼りつけて御子内さんが被るだけだ。

 レイさんみたいな長髪の彼女はなかなかの美人であった。

 それで、あとは西武新宿線同士がすれ違う瞬間に彼女が近くにいればOKという訳だ。

 

「でりゃああああ!!」

 

〈髪切り〉は実際にそのやり方で電車の屋根からのこのことやってきたところを、御子内さんに押さえられ、結界の中に連れ込むことに成功した。

 そして、いつものごとく、巫女レスラーとの一本勝負が始まったのである。

 

『キシャアアアア!!』

 

 互いに雄たけびをあげながら(注・御子内さんは女の子です)、こいつを倒さねば決して逃げられぬとわかっている一人と一体が激突する。

〈髪切り〉は長く伸びた鳥の嘴のような口と、和鋏のような手をした黒い爬虫類的な皮膚をした妖怪であった。

 皮膚はよくよく見ると、鳥の皮のようにブツブツがあるのでもともとは鳥だったのかもしれない。

 ただし、伝承ではキツネが化けたものや、カミキリムシという架空の虫が正体だと言われている。

 もっとも、キツネ説については現在の東京が敵対する妖狸族の縄張りであることから否定されるらしい。

 凶器として気をつけなければならないのは、鋭い嘴と手のハサミか。

 油断という言葉を知らない御子内さんは、この二つを見定めて、慎重に戦いを続ける。

〈髪切り〉の右のハサミが首筋を薙ぎにきたら、手首を取り、そのまま捻りあげて、小手投げでマットに叩き付ける。

 それから、手を押さえつけながら、ヘッドロックに持ち込み、自らジャンプして首を痛めつけた。

 もちろん、〈髪切り〉も暴れるので、ハサミにやられないように立ち位置をコントロールしながらである。

 何度か首を決めて落とすを繰り返した後、ドロップキックで吹き飛ばした。

 完全に御子内さん有利の展開である。

〈髪切り〉は体つきとしては成人男性と同じ程度で、小柄な御子内さんと比べれば大きいが、彼女が普段戦っている妖怪からすると小さい方だ。

 お株を奪うカニバサミで倒され、うつ伏せのままの〈髪切り〉の足をサソリ固めで搾り上げる。

 そんな御子内さんらしくない、ある意味まっとうな試合が続き、〈髪切り〉はどんどんと消耗していく。

 しかし、妖怪である以上、切り札とも呼ぶべき秘儀があるはずだ。

 それをいつだしてくるか。

 僕が固唾を飲んで応援していると、〈髪切り〉の全身がぼやけた。

 何か、来る。

 御子内さんもこれまでとは違う緊張感を漂わせた。

 そして、次の瞬間、〈髪切り〉は彼女の後ろに出現した。

 瞬間移動? 次元跳躍?

 いや、ただの風に乗っての高速移動だった。

 ただし、それが本当に目にもとまらない速さというだけで。

 あまりの速度に風が唸りを上げ、気圧まで変えたのか耳鳴りがした。

 ほんの数メートルの距離とはいえ、確実に音速を越えている。

 音さえも凌駕したのだ。

 それで背後を突かれ、御子内さんの黒髪が散った。

〈髪切り〉は首を切断するつもりでハサミを振るったというのに、ギリギリのところで超人的な反射神経に従って前屈したおかげで躱せたのだ。

 あの音速移動が〈髪切り〉の妖怪としての秘儀だった。

 奥の手を見せてしまえばそれで終わり。

 御子内さんは〈髪切り〉に振り向くと、さっきとは逆に彼女が背後に回り込む。

 腰を掴むと、そのままブリッジとともに投げ捨てる。

 得意のへそで投げるジャーマン・スープレックスであった。

 勝利への美しい虹を描いたブリッジが〈髪切り〉の肩をマットに押し付けた。

 そして、どこからともなく、カウントを数える声が流れ始め……

 

〈髪切り〉は消滅していく。

 

 カンカンカンカンカン―――!!

 

 決着のゴングが流れ、勝利した巫女レスラーが勝利のサインを高らかと掲げ上げる。

 

「御子内さん、怪我は!?」

「ウィッグが切られてしまったよ。あとで返却する予定だったのに、ボクの買い取りになるのかなあ」

「だったら、僕も半分出すから」

「そうなったら頼むよ。外すのを忘れてしまって、しくじったよ」

 

 マットから降りてきた御子内さんだったが、着地する寸前、がくりと体勢を崩した。

 

「大丈夫?」

 

 慌てて支えると、なんだか額に粒のような汗をかいている。

 彼女にしては珍しい発汗だ。

 よく見ると顔色もよくない。

 

「ちょっとごめんね」

 

 額を触ってみると、かなり熱い。

 試合直後だからホットになっているというだけでなく、もともと熱が高かったとしか思えない。

 

「もしかして熱があったの?」

「ああ、うん…… ちょっと風邪気味でね」

「だったら休まなきゃ!!」

「そうもいかないんだ。これは〈社務所〉の媛巫女としての役目だからね。でも、ちょっと無理をし過ぎたかもしれない。ふらふらするよ」

「無茶はしていいけど、無理は禁物でしょ! ……まったく心配かけさせないでよ」

「―――いや、ごめん」

 

 肩を貸しているけど、どうやらもう立ってられない状態だった。

 試合まではなんとか精神力で維持していたというところか。

 こんな状態で命がけなんて無理なことにも程がある。

 

「タクシー呼ぶから、立川まではそれで帰りなよ。片づけなんかは僕がやっておくから。あと、二三日は安静だよ」

「そうもいかない。京一だって聞いていただろ? 明日、ボクらには別の案件の調査が入っているんだ。こんな立て込んでいるときに、布団で寝てはいられないよ」

 

 お役目熱心なのはいいが、熱で倒れそうな人が言っても説得力はないね。

 

「明日の分は調査だけでしょ。妖怪と戦うって訳ではないし、僕が代わりにやっておくよ。だから、気にしないで、とりあえず一日だけでも安静にしていなよ」

「だけど……」

「大丈夫だから」

 

 それでも御子内さんは心配そうだ。

 まあ、内容が内容だからというのもあるけど、なんとかなるだろう。

 

「―――だって、痴漢する妖怪の調査だよ。もしかして、京一が女装でもするのかい?」

 

 やはりそうなるか。

 

「他に道がなければね」

 

 自分でも深みにはまっているなあと思うことを僕は口にするのであった……

 

 

 

 

 

 

 



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女の秘術

 

 

「……予想よりも可愛く仕上がったんですけどー」

 

 僕のメイクを担当してくれている熊埜御堂さんがなんともいえない顔をして、眉をしかめていた。

 熊埜御堂てんさんは、御子内さんたちの二歳年下で、今年、若干十五歳の若さで昇格した退魔巫女である。

 いわゆる飛び級が許されたのは、巫女レスラーとしての格闘技術が優れているだけでなく、マイクパフォーマンスじみた洗脳を初めとするいわゆる導術を得意とする点が評価されたのだという。

 御子内さんたちも人払いの術などをある程度使えるが、熊埜御堂さんほど多彩ではないという話だ。

 今回、御子内さんが担当していた痴漢退治の代役として呼び出されたのは、やはり二十三区を担当とするからだけではなく、その巫女としての術者としての側面を買われてのことでもあるという。

 もっとも、十五歳―――中学三年生の彼女をメインとするわけにはいかなかった。

 なぜなら、今回の妖怪は満員電車の中でふしだらな真似に興じる変態的な妖魅が相手なのだから。

 

「顔だけならば、なんとか可愛い女の子になりそうなんですけどー。京一さん、細いけど筋肉質だから制服がどうしても合わないんですよねー」

 

 メイクが終わって、用意された女子高生の制服を着てみると、どうしてもちぐはぐしているのは否めない。

 肩幅がわりとあるし、二の腕も太もももそれなりに張っている僕の身体だと女の子のしなやかさがでないのだ。

 中肉中背だと思っていたら、実のところ、中背であっても中肉ではないということだけがわかったのである。

 うーん、お風呂上りにポーズ決めたりしてナルなことやっていた報いを受けているなあ。

 

「ウィッグつけて、制服着ても、どうしてもー。これじゃあ、痴漢さんはやってきませんねー」

「それだと、わざわざ女装した甲斐がないんだけど」

「作戦に入る前に失敗ですねー。てへ」

 

 てへ、じゃないでしょ。

 恥を忍んで女装の手伝いをお願いしたというのにこれではやられ損である。

 

「やっぱりてんちゃんが囮役やりましょうか? 京一さんが無理をする必要はないですよー。京一さんだって、満員電車の痴漢にわざわざお尻撫でられたり、太もも摩られたりするのは嫌でしょ?」

「いや、御子内さんだけでなくて熊埜御堂さんにだって、こんな嫌な役はやらせたくない。誰かがやらなくてはならなくて、条件として女装で済むんだったら、僕が引き受けるよ」

「えー、電車通学する女の子だったら、ほとんどの子は一度は痴漢にお尻揉まれてますよー。今更です」

「だからといって、女の子に嫌な役目を押し付けるのは気分が悪くなるので僕は基本的にやらない」

「……ふーん」

 

 今回の事件は、通勤通学で満員になる、とある路線で起きている妖魅がらみの痴漢を解決するというものだ。

 残留する妖気から、妖魅が関わっていることは確からしいのだが、まだ正体がはっきりしないということで直接退魔巫女たちが調査をすることになっていた。

 要するに、御子内さんが囮になって女子高生スタイルで痴漢妖魅を誘き出そうというものだった。

 でも、最初から僕はそんなことを彼女にさせるつもりはなかった。

 僕の御子内さんのお尻を痴漢ごときに触らせるなどまっぴらごめんだからだ。

 もし彼女が発熱もなくて元気だったとしても、きっと僕はこの女装を立候補したことだろう。

 そして、それは他の巫女の子たちであったとしても同じだ。

 痴漢をされるなんて、女性にとって絶対に良いことではないし、そんな目にわざわざ合わせる必要はない。

 例えそれがお役目であったとしても。

 

「でも、女装しなくてもいいんじゃないですかー」

「仕方ないよ。こうでもしないと痴漢の妖魅なんて見つけられないしね」

「ふーん、やっぱり京一さんはいい人ですねー。ぷぷぷ」

「嫌な笑い方しないでよ」

 

 僕の下手な女装のせいか、なんだか熊埜御堂さんは楽しそうに微笑んでいた。

 うちの妹もそうだが、年下の女の子のこういう笑いは凄く気になる。

 裏があるようにしか思えないからだ。

 

「あー、そう言えばー、前からお願いしようと思っていたんですけどー」

「なに?」

「てんちゃんのことは、熊埜御堂さん、じゃなくて「てんちゃん」って呼んでくださいねー。年上の男の人にさん付けはこそばゆいんでー」

「別にいいでしょ。呼び方なんて」

「嫌です。てんちゃんは、てんちゃんです。いいですね。言うこと聞いてくれないと何度でも言いますからね。あと、ついでに関節も壊しますよー」

 

 そんな物騒な脅し文句を聞いたらもう逆らえないじゃないか。

 熊埜御堂さんは有言実行だから、怖くて仕方がないんだし。

 しょうがないか。

 

「じゃあ、―――てんちゃん」

「ありがとうございまーす! てんちゃん入りましたー!」

 

 ドンペリじゃないんだから。

 熊埜御堂さん―――いや、てんちゃんは楽しそうに一回転すると、ニコニコ笑顔でこう言った。

 

「今、思い出したんですけど、全部見た目を変えちゃうことはできませんけど、雰囲気だけは柔和な雌っぽくできる幻術ってのがあるんですよねー」

「雌って……」

「身長とか、体格とかを、微妙に柔らかくして女っぽく変えるんです。てんちゃんのところのご先祖様が吉原で使っていた幻術なんですけど、あれを使えばもうどんな厳つい八十歳のお婆ちゃんでも絶世の花魁に早変わりって感じなんです」

「へえ、そんなものがあるんだ。……でも、それって詐欺じゃない?」

「伊達騒動で有名な二代目高尾太夫って、この術を使っていたせいで伊達の御殿様に殺されちゃったらしいですよー」

 

 そりゃあ、まあ、大の男の女装までも誤魔化しきれるような幻覚を使ったんじゃあ、手打ちにされてあたりまえか。

 でも、そんなにうまくごまかせるもんなのだろうか。

 

「くま……てんちゃんの術者としての実力は知っているけど、そんなにうまくいくものなの?」

「大丈夫ですよー、なんといっても伊達家に身請けされて屋敷に入るまで伊達綱宗を騙くらかしたんですから、八十歳のお婆ちゃんが!!」

 

 ……詐欺師の片棒を担ぐってのはこんな感じなのかなあ。

 

「では、その証拠をお見せしましょう。ロバート、出番ですよー」

 

 ワクワクした声に誘われるように、隣の部屋とつながるドアが開き、ロバート・グリフィンさん―――いや、違う―――みたこともないこげ茶(ブルネット)のウェーブのかかった髪をした、いかにもアイリッシュ的美貌の女の子が入ってきた。

 外国人というと、ヴァネッサ・レベッカさんを思い出すが、アングロサクソンの彼女とは違う、ケルトの血を引いているらしい彫の深い貌だ。

 

「え、誰?」

「一応、名乗っておくが、私だ。ロバートだ」

 

 透明人間だからどんな顔だちをしているのかは知らなかったけれど、僕の眼前にいる外国人の美少女はどんなに頭を捻ってもロバートさんとは思えない。

 体格も、雰囲気も、紛れもなく十代の美少女だった。

 

「笑うがいいさ……。私は生まれて初めて自分の姿を鏡でみたというのに、こんな……こんな……天に召します我らが父さえも見捨て果てるようなこんなものに―――」

「あの……」

「ハイスクールの女学生のユニフォームを着て、あまつさえ、パ、パンツまで……」

 

 哀れすぎて何も言えなかった。

 ああ、女装だけでなくパンツまで女性のものにさせられたのか。

 僕はまだ下着だけは男性用のブーメランで良かった。

 

「ロバート、何を言っているんですー。あなたは、グレート・御子内先輩と京一さんに〈砂男(サンドマン)〉から助けてもらった、いわば命の恩人なんですよー。その人の為に、女の格好をするぐらい諦めなさいね。人生、一度ぐらい女装したって誰も文句は言いませんよ。「花とゆめ」ではよくある展開じゃないですかー」

 

 りぼんやちゃおの愛読者だったらどうすればいいのさ。

 

「じゃあ、京一さんにも幻術をかけて、さあ、痴漢の戦闘車両に向かおうじゃないですかー! 相手は最強線で待ってますよー!」

 

 さて、行くとするか。

 妖魅の気配を放つ痴漢が待っている電車に。

 

 

 



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最強線の戦闘車両にて

 

 

 僕とロバートさんは、最強線の出発する大宮駅からではなく、途中にある武蔵浦和駅から乗り込み、終点の大崎までは乗り換えなしの快速を使うことになっていた。

 降車を予定している新宿までとんど停車する駅がなく、狙いを定めた痴漢が獲物を逃げられにくいからだ。

 停車する駅の間隔が長ければ長いほど、満員電車に潜む痴漢にとってはありがたいということらしい。

 ここ最強線は、首都圏では一、二位を争う混雑を誇るとともに、痴漢の発生率でも過去最悪を記録したことのある不名誉な路線であったが、現在では汚名も返上されつつあるということだ。

 痴漢対策として、女性専用車両を用意し監視カメラをつけたり、鉄道警察官による巡回も増やしたりした結果である。

 だから、今では全盛期ほどの痴漢は存在しないと言われている。

 もっとも、〈社務所〉がJRから受けた依頼によると、ここ数ヶ月の間に、痴漢の発生件数が増加の一途を辿っているらしい。

 このままでは全盛期の勢いに達するかもしれないとのことだ。

 被害女性たちの告発によるだけでひと月に三十件、つまり毎日発生しているのである。

 犯人として突き出された男性もいるが、不思議なことにすべて冤罪だと断定されている。

 痴漢の冤罪を証明するのは比較的難しいと言われているのに、どうして断定されているかというと、そこに〈社務所〉が絡む理由があったのであった。

 

「……お尻を撫でられている被害者も完全に無抵抗という訳ではないのよ」

 

 御子内さんが病欠していることから、この件について仕切ることになった不知火こぶしさんが言う。

 

「痴漢がどういう人物なのか確認しようとする人はいるの。もちろん、怖くて振り向くことなんてできないって女の子もいるけど」

「確認したんですか?」

「ええ。振り向いて、痴漢の様子を見た女性たちの証言を突き合わせたものがこれよ」

 

 モンタージュではないけど、上手な手書きの似顔絵が出された。

 そこには後頭部が異常に出っ張った禿げ頭の、かなり年を食った老人が描かれていた。

 着ているのは着物か甚平か……とにかく和風だ。

 唇を結んだ厳格な顔つきをしているのに、どことなく笑っているようにも見える、捉えどころのない表情が妙に印象的だった。

 見ようによってはとてつもなく好色な狒々爺とも思える。

 

「ただのお爺ちゃんのように見えますけど……」

「まあ、普通の人にはそう見えるわよね。でも、わたしたちにとってはちょっと洒落にならない相手なのよ」

「―――どういうことなんです?」

 

 こぶしさんは持っていた缶コーヒーを飲み干して、

 

「このお爺さんはね、そんなに変わった姿かたちをしている訳ではないけれど、わたしたちのギョーカイでは有名な妖怪なのよ」

「有名なんですか……?」

「ええ。家の者が忙しくしている時間帯にどこからともなく家に入りこみ、お茶やタバコを飲んだりして、まるで自分の家のようにふるまう妖怪。誰かが見咎めても「この人はこの家の人だったっけ」と思ってしまうため、追い出されず、存在に気づかれることもない、のらりくらりとした妖怪」

「もしかして、それって……?」

「ええ、京一くんの予想通りね」

 

 缶をテーブルに叩き付ける。

 

「これが〈ぬらりひょん〉よ」

 

 ―――また有名どころが来たものだ。

 

 

            ◇◆◇

 

 

「じゃあ、先頭の一号車に乗りますね」

 

 最強線は、池袋と新宿、渋谷という巨大なターミナル駅をノンストップで結んでいるが、この三駅すべてのメインの改札にとって一番最寄りなのが一号車となることから、移動をスムーズにしたいという乗客で混雑が激しくなる。

 十号車を女性専用車にしても一号車に乗る女性が多いということから、さらに一号車に防犯カメラを設置することで痴漢を減らしたそうである。

 もっとも二、三号車の痴漢の割合はさほど減ってはいないらしいが。

 今回、僕らがわざわざ一号車を選んだのは、カメラがついているにも関わらず、例の妖怪〈ぬらりひょん〉がそこにしか乗り込まないからである。

 それもわからないではない。

 なぜなら、〈ぬらりひょん〉の姿は一切カメラには映らないからだ。

 基本的に妖怪というものは、自身が姿を顕わそうとしない限り、滅多にカメラなどに撮られることはない。

 存在感があるかどうかは人間の数と比例するらしく、人が多いところでは比較的撮影しやすいみたいだけれど、それも程度問題だ。

 こういった妖怪の特性に加えて、〈ぬらりひょん〉はさらにレベルが違い、あんな混雑した電車に紛れ込んでいても誰の目にもとまらないのだそうだ。

 例え、隣の席についていたとしても、〈ぬらりひょん〉がいると認識できる人間は皆無だという話だった。

 そんな妖怪が堂々と痴漢を働けば、まず絶対に見つからず、いくらでも邪な行為を続けられることだろう。

 では、その〈ぬらりひょん〉による痴漢行為がどうして表沙汰になったかというと、先ほどの似顔絵が示すとおりに、かの妖怪のスケベ心が原因のようだ。

 女性に対して猥褻行為を働いているとき、〈ぬらりひょん〉の妖怪としての特性は霧散してしまうのだという。

 人間と同じで欲望だだ漏れのときは慎重さがなくなるということかも。

 だから、被害者の目に留まる。

 周囲の人間もさすがに気が付く。

 スケベに没頭している妖怪は、さすがに普段は誰にも見られない習性の持ち主であるから、自分が認識されていることに気が付くとすぐに気配を消すのだが、それでも一度目撃したという記憶は消せないのでそのまま犯人として覚えられてしまうのだそうである。

 要するに、何かを起こすまでは絶対に見つけられないが、痴漢行為の現行犯でならば退治するのも難しくはないということだ。

 そこで、囮役兼逮捕役として僕とロバートさんが女装しているのである。

 

「なんで、私が……」

「我慢してください」

「だが……」

「もうしっかりしてください。なんのための女装なんですか。しかも術まで掛けてもらっているんだから誰にも気がつかれませんよ」

「しかし、ね……。目立つのは少し」

「そんなに可愛いのに、猫背でいたらもっと目立ちますよ」

 

 実際、女装して幻術のかかったロバートさんの可愛らしさは天使のようである。

 豊かなブルネットはウェーブをかけて肩まで下がり、やや垂れ目気味ではあるとはいえ、パッチリとした大きな瞳と、笑うとえくぼの出る口元、透明感のある肌。

 とても幻術がかかったマッチョな透明人間とは思えない。

 しかも女装だ。

 

「可愛いのか……」

「ええ」

「いや、キュートなのはわかっていたが、それにしたって、KAWAIIとはね……」

 

 そこで満更でもなさそうに照れないで欲しい。

 ちょっと胸キュンしたくなる。

 いや、僕はノンケだ。

 

「あ、電車来ましたよ。とりあえず並んでください」

「お、おお」

「で、乗りこんだら車両の左側に寄ってください。右側ばかり開閉するので、痴漢の被害者は左に追い込まれるのがセオリーらしいです」

 

 セオリーってのもあれだけど。

 

「〈ぬらりひょん〉以外の痴漢がきたらどうするんだ?」

「―――ファイト」

「ノープランなのか!!」

 

 と、やっぱり不満そうなロバートさんの手を引いて僕らは最強線の先頭の一号車に乗り込んでいった。

 おそらくきっと、そこで待つ〈ぬらりひょん〉を退治するために。

 

 

 

 

 ちなみ、あとでその時の様子を撮影した映像をみたら、セーラー服の上にニットを着た女子高生の僕が、ミニスカートのブルネット外国人美少女のロバートさんの手を引いて歩く姿は、日米で産まれた生粋の百合カップルにしか見えなかった。

 

 

 



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少女たち(偽)は荒野を目指す

 

 

 色々と調べたところ、痴漢の被害にあいやすいのは、色っぽかったり露出の激しい服を着た女性ではなく、大人しめのいかにも抵抗をしそうにないタイプが多いそうだ。

 ということで、僕とロバートさんは控えめな格好にした。

 僕は、わりと平凡なセーラー服で、上着の代わりに白いニットのセーターを着て、セーラーの部分だけを首元から出している。リボンは外しておいたので出しやすかった。

 スカートは短くせずにひざ丈まで、ふくらはぎ丈にすると足が太くみえるので女子はやらないそうだ。ミニスカートはさすがに寒いのでやりたくないし。

 靴下は紺地のハイソックスで、ローファーも同色。

 カバンもあまり高いものだと嫌味なので、普通の学生用のバッグにした。

 鏡を見ると、例の視覚誤認の幻術のせいもあって、ツインテールの内気そうな美少女が映っていた。

 イメージとしては病弱な御子内さんっぽい仕上がりだが、腰までのツインテールは確実にセッティングした人の趣味だろう。

 

(あれ、ここまではっきりと他人になってしまうのなら女装しなくてもいいんじゃない?)

 

 と思ったが、熊埜御堂さ……いや、てんちゃんに言わせると、「女装という基盤があるとさらに誤認が進むので効果的なのですよー」とのことである。

 まあ、僕の隣で恥ずかしそうに俯いているロバートさんを視ていると、そんなことはおためごかしにしか聞こえない。

 身長180センチ、体重90キロ以上の大柄な外国人のはずの彼が、150センチ台のブルネットの美少女になっているのだから、詐欺もいいところである。

 やや垂れ目気味とはいえ、キーラ・ナイトレイあたりに近い彫の深い美貌は、彼の持つケルトの血が元になっているものと思われる。

 服装としては、僕とは違い、ブレザー型であまりいじくってはいない。

 膝上十五センチのミニスカートを履かせられているのはさすがにかわいそうだった(ちなみにサイズがなかったらしく、履けるサイズのスカートを腹部で巻き上げてある。昔はそうやってミニスカにしていたらしい。あと、聞いた話では昔の女の子は子供用のものをわざわざ購入していたりもしたそうだ)。

 彼がずっと俯いているのは女装が恥ずかしいからなのだが、傍から見ると単に内気な外国人の少女そのものである。

 これは僕でもイタズラや揶揄いたくなる。

 痴漢まではしないけどね。

 僕たちはわざと人混みに流された感じで左の端に陣取った。

 今はともかく昔の最強線の悪い噂を知っていると、周囲のまっとうなサラリーマンたちまで怪しく見えてくるのがとても哀しい。

 ただし、僕らが移動したのは実は監視カメラがついているところなので、人間の痴漢がいたとしても恐ろしくてやってはこないだろう。

 わざわざ目立つように設置されているカメラの前で痴漢する社会的命知らずはいないからだ。

 だから、ここにいる僕らをターゲットにしようとするものはすでに一種類しかいない。

 つまりは、〈ぬらりひょん〉だけ。

 かのスケベ妖怪の被害は、ほぼこういう監視カメラがついている場所で発生している。

 妖怪はよほどのことがない限りカメラには映らないということと、映ったって〈ぬらりひょん〉をただの人間がどうすることもできないし、社会的地位がなくなることもどうということもないからだろう。

 さらに言うと、スケベ心を出すと人に目撃されるらしい〈ぬらりひょん〉だが、その状況でも監視カメラには靄程度にしか映らないようである。

 人間だけがなんとか〈ぬらりひょん〉を視認できるという訳だ。

 要するに、かの妖怪なら猥褻行為やりたい放題ということなのである。

 監視カメラの存在のおかげで油断している女性客がやってくるというおまけもあるし。

 一応、各車両を巡って被害者を物色しているらしいが、今回は僕らという偽者とはいえ美少女コンビがいるのだからまず確実に釣れるだろう。

 釣れなくても往復するまでだ。

 今日は平日の月曜日だけど、一時限の授業が始まるまでに学校に着ければいいし。

 

「―――京一、おまえが学校に行ったら、この役をするのが私だけになってしまうので勘弁してくれ」

「ロバートさん、神社に居候しているニートなんだからいいじゃないですか」

「……熊埜御堂神社で書類整理の仕事はしているぞ。なぜ、私がニートになるのだ!」

「てんちゃんからはそう聞いています」

「いつか〆る。あのサイコパスロリータめ……!!」

 

 怒りで打ち震えているロバートさんがなんか可愛いぞ。

 よく考えたらこの人は透明人間なので本当の顔は知らないし、何かあったらこっちの美少女顔でこれからは想像していくかなあ。

 わりと不憫な不幸タイプが僕の萌えにあるのかもしれない。

 などと思っていたら、乗車率が何パーセントか知らないが、明らかに度を越してラッシュが酷くなってくる。

 あまりにも人が多くて息をするのも大変だった。

 

「ぐっ」

 

 僕とロバートさんが電車の最前列の壁に押し付けられた。

 ちょっと不自然なぐらいに背中を向ける形で。

 誰かに誘導されたかのように。

 嫌な予感がする。

 それはぴったりと的中した。

 

 むにむに

 

 いきなり、後ろから尻を掴まれた。

 

(あー、マジで来ちゃったよ……。最悪)

 

 男に産まれて十七年。

 痴漢に尻を揉みしだかれる日が来るなんて思いもよらなかったけど、そんな経験をしなきゃならないときもあるんだなあ。

 ちょっとだけだが辛抱しないと。

 こいつが本当に〈ぬらりひょん〉だとしたら、なんとしてでもとっ捕まえて、ボコボコにしてもらうぞ。

 

 すりすり

 

(ぎゃー、勘弁してー!!!)

 

 こんな風な貞操の危機を感じるのはホント初めてだよ……

 



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妖怪〈ぬらりひょん〉

 

 

 男の身で痴漢されるハメになるなんて、情けなくって涙が出そうだが、とりあえず僕の尻を揉んでいる野郎の顔を覗き見る。

 だが、そこには出勤途中のサラリーマンたちが押し合いへし合いしているだけで、怪しい人物はいない。

 いかにも痴漢という人物が痴漢だったということはよくあることだが、まったく不審な人物がいないというのは妙な話だ。

 そっと自分の尻の方を見たが、スカートに触れているものはいない。

 だというのに、撫でられる不快な感触だけはある。

 僕の尊厳を犯している奴は確かにいるのだ。

 

(これが〈ぬらりひょん〉か……)

 

 さすがは他人の家に入り込んでも気がつかれないほど存在感が皆無なうえ、認識をずらすことができる妖怪。

 物理的に透明になれるグリフィン家の人たちとはまた違う、隠形法である。

 正直、こいつがもっと凶悪な悪事に手を染めたら、普通では対処できない気がした。

 かといって痴漢なんていう軽犯罪をされても困るんだけど……

 股の間に手を突っ込まれるのだけは避けたいので、腿をぎゅっとしめる。

 カバンを持っている手は放せないし、左手は吊り輪を掴んでいるので使えない。

 参った。

 少なくとも〈ぬらりひょん〉が姿を見せないうちは、てんちゃんからの指示もこなせない。

 こちらの認識では〈ぬらりひょん〉は痴漢行為に没頭し始めたらすぐに姿を現すはずだったのに、意外とスケベ心が湧きたつのが遅いのか、未だ消えたままだ。

 このまま、しばらくの間、我慢するしかないのかな。

 と思っていたら、尻のあたりの不快な感触が消えた。

 はて、と横を向くと、ロバートさんが悔しそうに下唇をかみしめていた。

 さっきまでとは様子が明らかに異なる。

 どうやらあっちに移ったらしい。

 なるほど、自分から罠にかかってきた間抜けな美少女が二人いるのなら、どちらも堪能したいということですか。

 スケベ野郎め。

 

「いや……」

 

 小声で拒絶するロバートさん。

 今までとは違う顔の赤らめ方で、必死に屈辱に耐えているようだ。

 しかし、そこまで女子(じょし)らなくてもいいでしょう。

 気の強そうな外人の女の子が羞恥で目を伏せ、眉を八の字にするのはかなり色っぽいものがある。

 

「Don’t touch……」

 

 声まで女の子っぽくはできないので、男っぽい低音だがこの声量なら気づかれないはずだ。

 くい、とロバートさんが背中をのけぞらせた。

 よく見るとブレザーの胸のあたりが凹んでいる。

 なんと、〈ぬらりひょん〉は胸まで手を出し始めたのである。

 痴漢ってそこまでするものなのか!

 背後から手を突き出して、女性の胸までもみしだく下劣な妖怪の姿はまだ見えない。

 だが、ロバートさんが取り乱さずに頑張っているところは非常に熱いものがある。

 頑張れ。

 耐えるんだ。

 他人事のように応援していたら、ひょいと左手を掴まれた。

 手首を見ると、しわがれた老人斑のある手に掴まれている。

 その先は……まだ見えない。

 明らかに〈ぬらりひょん〉のもので、ようやく姿を現し始めたのだろう。

 もう少し好きにさせればきっともっとはっきりとしてくる。

 

 ぺろ

 

 怖気が! 怖気が! 怖気が!!

 首筋を舐められたーーーー!!

 あまりのことに気が狂いそうになる。

 他人の舌でうなじを舐められるなんてとてもではないが耐えられない。

 しかも相手は妖怪だ。

 御子内さんや音子さんではないのだ。

 鳥肌が全身に立つ。

 ぶるぶるぶると身体が熱病にかかったように震え出す。

 さらにこの野郎は僕のスカートの裾をめくり、なんと手を差しこんできた。

 ざけんな!

 てめえ、ここまでやるのか!

 変態め!

 心の中で一斉に罵倒していたが、まだ駄目だ。

〈ぬらりひょん〉は顕現していない。

 温かい乙女の聖域ともいえるスカートの中をまさぐりだした手が太ももをすりすりと摩る。

 くそ、ナンタルチア、サンタルチア。

 ぜってえ、殺す!

 百万回生まれ変わってもぜってー殺す!

 そして、その手がさらに奥に突き進んだ時……

 

『おかしいのお……?』

 

 しゃがれた声がした。

 思わず振り向く。

 僕の肩のところに、禿げ頭で後頭部が異常に突き出た、まるでタコのような不気味な老人の顔があった。

 背後から無抵抗な僕の肢体(カラダ)を抱きしめる格好で弄んでいたのは、この老人だった。

 着ている服はこんな満員電車には相応しくない和装。

 左手がスカートの中に差しこまれているのでもう言い逃れはできない。

 

「出てきたな!!」

 

 僕はカバンの中に入れておいた、手錠そっくりの木製の枷をその手首に絡みつかせた。

 カチンと厳かな音がして、手枷が〈ぬらりひょん〉を拘束する。

 

『なんじゃあ! これは!?』

「このスケベ妖怪! 地獄に落ちやがれ!」

『その声、まさか、貴様、男か!?』

「うるせえや!!」

 

 こっちの理性も限界なんだよ

 僕が〈ぬらりひょん〉を捕まえたとき、最強戦の電車が止まった。

 

〔池袋~ 池袋~〕

 

 池袋駅に到着したことで駅員のアナウンスが鳴り響く。

 多くの人たちがやはり降車しようと動き出す。

 ほとんどの人は僕たちの暗闘には気がついていない。

 僕はこの機会を待っていたのだ。

 

「降ります! あと、キリキリとついてきやがれ、この変態め!!」

『なんとおお!!』

 

 僕は手枷ごと強引に〈ぬらりひょん〉を引っ張り出し、力任せに池袋駅に降り立った。

 通勤通学時なので混雑が凄いこともあり、僕のおかしな行動はとても目立っていたがそんなの知ったことか。

 僕は日本全国の痴漢被害にあった女性の声を代弁して怒りに燃えていたからだ。

 この変態妖怪に引導を渡すと。

 

「こいつが……〈ぬらりひょん〉か……」

 

 一緒に降りてきた外国人美少女が溜めに溜めたマグマを放出せんばかりに、引きずり出されて座り込んだ〈ぬらりひょん〉を睨みつける。

 僕同様相当の怒りを覚えているに違いない。

 

『なぜ、儂が見えるのだ!!』

 

〈ぬらりひょん〉が喚くが、そんなのは簡単だ。

 妖怪の手につけた手枷は〈社務所〉の特製の品で、拘束した妖怪の力を四散霧消させることができるものである。

 そんなに長い間力を保てるわけではないようだけど、今、この場を凌ぎきるには十分だろう。

 少なくとも、そいつをつけている限り、特性を発揮して逃げることはできない。

 そして、僕らもおまえを逃がす気は毛頭ない。

 

「観念しろ! 〈ぬらりひょん〉!!」

 

 だけど、どんなに下劣で最悪でも妖怪の端くれだった。

〈ぬらりひょん〉はにやりと嫌らしく笑うと何か奇怪な行動を取り始めた……

 



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パフォーマンス&パフォーマンス

 

 

 MPを吸い取られる不思議な踊りというものがある。

 ゲームの中の話ではあるんだけれど、実のところ、踊りというものには呪術に力を与える作用が含まれているということだ。

 呪術というとアフリカの部族が踊るようなものを想像しがちだが、日本でもそういう踊りは存在する。

 例えば、岩戸に隠れた天照大神を引き出す手助けをしたアマノウズメの舞いなどは、まさに呪術的舞踏といってもいいかもしれない。

 戦国時代の武将だって、戦いの前に能を踊ったりしたし、民衆に流行った風流舞なんかもある意味では呪法だろう。

 だから見かけが滑稽そのものの動きでしかなかったとしても、踊っている存在が妖怪であるということを考えて僕らは緊張した。

 ロバートさんも、ブルネットの美人女子高生のまま、〈ぬらりひょん〉の動きから眼を離さない。

 彼もわかっているのだ。

 てんちゃんと幾つかの修羅場を潜ってきたということは事実なのだ。

〈ぬらりひょん〉の手にはいつの間にか扇子が握られていた。

 音楽もリズムもとれないからか、ギクシャクと酷い調子で踊りだす。

 しかし、僕の目にもわかるぐらいに踊りの速度が上がっていく。

 まるでバラードからロックに、さらにメタルに曲調がアップテンポになっていくかのように。

 明らかに人を突き動かすような力を備えた、不器用な舞い。

 どんな音も聞こえてこないというのに、池袋駅のホームにいる人たちの視線がどんどんと集中していく。

 この人たちは通勤・通学のために急いでいるはずだ。

 道行く足を止める時間も惜しい人もいるに違いない。

 だが、そんな人たちでさえ、我知らず足止めされてしまうほどの注目を浴びながら、〈ぬらりひょん〉は舞い続ける。

 

 ひら

 

 僕の手が〈ぬらりひょん〉と同じ形で動いた。

 無意識のうちの出来事だった。

 思わず真似てしまったということだった。

 はっと気が付くと、周囲の人混みのいたるところで同じ現象が起きていた。

 みんなが何故か〈ぬらりひょん〉を倣って踊りだしたのだ。

 柔軟さと鋭い音感がなければ追随することもできなそうな〈ぬらりひょん〉の動きについていっている。

 僕にダンスの経験はないし、音感らしいものがあるとは思えない。

 でも、それでもわかることはある。

 あの〈ぬらりひょん〉の舞いに初見でついていける人間なんてそうはいない。

 振付そのものは難しくないが、真似するにはありえない速度が必要だ。

 なのに、ホームの人々は難なく妖怪についていっている。

 つまり、あれは……

 

「〈ぬらりひょん〉の秘儀だ!」

 

 人の視野を誤認させて見えなくさせるのは、〈ぬらりひょん〉の特性といってもいいものだが、妖怪の切り札ともいえる秘儀ではない。

 今までの経験則上、すべての妖怪はなんらかの秘儀を隠し持っている。

 それはまさに必殺であり、妖怪の奥の手そのものだ。

 そして、あの不格好な舞いはきっとその秘儀に違いない。

 どういうものかはわからないが、状況を見ると、見物しているものを巻き込んで自分の踊りに同調させてしまうもののようだった。

 しかも強制的に。

 僕たちと違って〈ぬらりひょん〉がどういうものかを知らない人たちを操るには十分すぎる魔の誘いであった。

 すると、次にこの妖怪がするべきものはなにか。

 手枷がついている以上、もうしばらくは消えることはできない。

 僕たちから逃れるために、あいつがやりそうなことは……

 

「そうか!?」

 

 消えて逃げられないなら、紛れて逃げればいい。

〈ぬらりひょん〉はホームの人々を盾や煙幕の代わりにして、その中に隠れようとしているのだ。

 そのために踊りで衆目を集め、操ろうとしている。

 だが、そんなことをさせてたまるものか。

 なんのために女装までして、しかも尻を触られるわ、うなじを舐められるわ、乳を揉まれるなどして苦労したのかわからなくなる。

 結構、男子として危ない橋を渡った意味がなくなるのだ。

 変な道に目覚めたらどうなっていたことだろう。

 実際、ちょっとロバートさんの女の子の格好にときめきそうになったし!!

 絶対に逃がさない。

 僕は〈ぬらりひょん〉目掛けて飛びついた。

 しかし、それは間に入った誰かに拒まれた。

 ブルネットの美少女によって。

 

「ロバートさん、何してくれてんの!?」

「……あ、いや、別におまえの邪魔をする気は……身体が勝手に……」

 

 やっぱり舞いを視ているものを操る秘儀か。

 おかげで美少女姿のロバートさんがぐいぐいと締め付けてくる。

 正体はともかく、可愛い女の子に抱き付かれる気分は悪くないんだけど、浸っている場合ではない。

 僕がやらなければならないことは一つなのだから。

 

「ロバートさん、手を挙げて」

「ああ」

 

 その隙にハグから脱出する。

 完全強力な支配という訳ではなさそうだ。

 そもそもこれだけの人数を魅了しようというだけあって、そんなに強力なはずはない。

 ロバートさんが意志を籠めて動けば抵抗できる程度のものだ。

 僕の動きだって止め切れてはいないしね。

 ということで、僕はロバートさんを振り切ってもう一度〈ぬらりひょん〉に向かった。

 踊ることで他人を操ることができる以上、止めることはできないらしく、〈ぬらりひょん〉は舞ったままで人ごみに紛れ込もうとする。

 老若男女の乗客たちが僕との間に立ち塞がる。

 見た目だけは女の子の幻術がかかっているけど、スカートをはいた状態以外は男のままの僕だから、なんとかタックルしてしがみつければ……

 だが、それさえも拒まれた。

 

「こんにゃろ!!」

 

 僕はカバンをぶつけようと振りかぶったが、それは隣の人たちに押さえられてしまい、なおかつ取り上げられてしまった。

 万事休す。

〈ぬらりひょん〉にこのまま逃げられてしまうか、と諦めてしまいかけたとき、

 

〔こんばんは、熊埜御堂てんです〕

 

 ホームのスピーカーを通して、こんな聞き覚えのある自己紹介が流れてきた。

 同時に、ここにいたすべての人が一瞬だけきょとんとした顔をして、

 

「こんばんは、辻聡です。渋谷の三菱でディーラーをやっています」

「こんばんは、塩田守男です。派遣社員でこれから現場に行くところです」

「こんばんは、大谷聖子です。小田急でキヨスクに勤めています」

「こんばんは、稲架いずみです。雑誌のモデルを……」

「こんばんは……」

「こんば……」

 

 と、焦点の合わない眼で自己紹介を始めていく。

 あまりに数が多いので一人一人がなにを言っているかはわからないが、見える範囲の人すべてが突然始めたのだ。

 聞き覚えのあるアナウンスに、記憶にある現象。

 これはかつてとあるホテルで見せつけられたマイク・パフォーマンスっぽいが人を操る導術であった。

 この導術を用いた術者の声を聞いたものは、簡単に操られてしまう。

 しかも、今回はすでに〈ぬらりひょん〉の秘儀に操られていてトランス状態にあったせいか、普段の二倍は効きがいい。

 彼女の意図通りに容易く言いなりになってしまう。

 

〔テメー、コノヤロー、さっさとてんちゃんのために道を開けろ、ベラボーめえ!! ついでに逃げ道をふさげ、コンニャロー!!〕

 

 認識を誤魔化し紛れて消える〈ぬらりひょん〉と、人をマイクで洗脳する熊埜御堂てんちゃん。

 どちらも大概だが、その一人と一体は池袋駅のホームで対峙した。

〈ぬらりひょん〉を逃がそうとした人たちが今では壁となって、その逃亡を妨げている。

 

『〈社務所〉の戦巫女めえ……』

「はい、熊埜御堂てんちゃんですよー。京一さんもロバートも、てんちゃんが十号車からやってくる時間をよく稼いでくれましたねー。偉いえらーい」

 

 ロバートさん曰く、「サイコパスロリータ」のてんちゃんがいつもの改造巫女装束で拳を握る。

〈ぬらりひょん〉は逃げない。

 もう逃げる余裕はないと悟ったのだ。

 なぜなら、〈社務所〉の退魔巫女は決して悪さをする妖怪を逃がさないからである。

 

 

 



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女子高生なんて……

 

 

 ところがどっこい、次の日のことだ。

 一時限の準備をしていると、僕の机にクラスメートの桜井慎介がやってきた。

 手には高そうなタブレットを持っている。

 以前、ガールズバーにつぎ込んでいた金を、最近ではこっちの方に注いでいるらしい。

 だから、高校生が持つものにしては性能が他とは段違いだ。

 だいたいは動画を見るのに使っているようだけど。

 

「おいおい、升麻ぁ」

「なに? 僕、忙しいんだけど」

「つれないこと言わずにこれを見ろよ」

 

 僕としては不本意なんだけど、桜井とは色々あってから親友認定されてしまい、こういう風に懐かれてしまっている。

 おかげでクラスでは目立たない存在のはずのこの僕が、余計な感じに注目を浴びる結果になってしまった。

 正直、本当に心底不本意である。

 

「一応、見てあげるけどさ」

「おお、さすが升麻だ」

 

 わりと態度の悪い僕のことを気にもしない。

 周囲にぞんざいに扱われることになれている男というのはこうも図々しくなれるものであろうか。

 僕らの期待を裏切って、意外と大物になるかもしれない。

 

「で、この子が可愛いんだよ」

「なんだ。アイドルか。えっと、橋本環奈? 齋藤飛鳥? そのあたりでしょ、どーせ桜井の好みは」

「いやいやいや、違う。プロじゃない。ぷろじゃないんだな、これが」

 

 タブレットにはどうやら動画投稿サイトからの動画が流れていた。

 たぶん、画面の揺れ具合と解析度の低さからスマホで撮影されたものだろう。

 すげえ見覚えがある。

 二十四時間以内に訪れたことのある場所だった。

 

(……なんだ、なんだ、誰か倒れたのか?)

(前進まねえ。遅刻しちまう)

(おーい、動けよ)

(あれ、なんだ。喧嘩でもしてんのか?)

(わっかんねえな。遅刻しちまうよ)

 

 ガヤガヤと大勢の人たちが愚痴る様子がマイクに拾われている。

 どう見てもこれは池袋駅の昨日の出来事であった。

 しまった、てんちゃんと〈ぬらりひょん〉のことが動画に映っていたら最悪だ。

 この撮影者がよけいなことをしていなけれどいいけど。

 そうしたら、スマホのカメラの向きが変わった。

 てんちゃんたちが戦っているであろう人混みから、その端に視線が入れ替わったのだ。

 よろめいたりしたのではないことはピントの合わせ方でわかる。

 明確な理由をもって被写体を変えたのだ。

 彼が事件の記憶を諦めて映し出したのは、二人組の女の子であった。

 黒髪ツインテールのセーラー服とブルネットのふわふわ髪をした外国の美少女。

 

 もう、否定の余地もなく、()()()()()()()()であった。

 僕らはなにごとかを相談していて撮られていることに気が付いた様子もない。

 

(うわ、マジ可愛い! なに、この子たち? 乃木坂!?)

(こっちには気がついていないようです。バレないようにこっそり撮影します)

(もしかしたらこれテレビ番組の収録じゃね?)

(うわー、ゲキマブ! やりてー)

(もう少し接近して……)

(ちょっ、邪魔だよジジイ。あっ、逃げられちまう!!)

(―――マジ、いなくなっちまった。くそお……)

 

 どうやらてんちゃんの戦いが終わり、僕たちが撤収するまでを撮っていたらしい。

 かなりバッチリと撮られていて、特定も容易なぐらいである。

 もっとも、カメラの眼でも幻術と見破られないというのは本当のことのようだ。

 僕もロバートさんもどう見てもただの美少女コンビである。

 だが、しかし―――!!

 姿かたちは違ってもこれは僕らなのだ。

 

「かあいいだろ、この子たち! アップして一日足らずで再生回が十万を越えてんだぜ!! ニ○ニコにもあがっていてコメント数が凄いんだ!!」

 

 ……勘弁してよ。

 ニ○ニコ動画の方に切り替わり、ついているコメントをみると気が狂いそうになる。

 なんでこんな不特定多数の匿名希望さんたちに愛を囁かれなくてはならないのだ。

 しかもただの性欲の対象扱いされているものもあるし。

 ただ、見覚えのある名前なんかもあったりして、「残念系オクタビオ@パスさんのコメント」とか、「コスプレイヤー〈新宿〉セリーナさんのコメント」とか、明らかに誰だかわかる特定の人物が、面白がって率先して広めているのもわかる。

 こいつらは―――!!

 個人の特定できそうな動画を晒すなんて、メディアリテラシーの欠片もないのか、この人たちは。

 いや、この場合はネットマナーか……この際、どっちでもいい。

 僕の女装がこれほどまでに拡散していることが問題なのだ。

 例え、幻術であったとしても!

〈社務所〉の関係者以外には僕だとは気がつかれないとしても!

 

「いや、昨日から十回は見ちまったよ。しかも、夜のお供に、ふふふ……」

 

 嫌な含み笑いすんな。

 満足そうな顔になるな。

 想像させんな。

 

「ここ、ちょっとスカートめくれて太ももみえてんだけど。思わず、キャプっちまったぜ。あ、待ち受けにした」

「ぎゃああああああ!!」

 

 なんつーことしてくれてやがるんだ、この変態め!

 A little(ちょっと)どころかはっきりと映っているじゃないか!

 

「何、叫んでんだよ。変なやつだな。―――ちなみにな、俺、このツインテールの子なんて好みど真ん中なんだよ。おまえだったら言わなくてもわかってくれるよな、親友!」

「―――っ!!」

 

 やめてくれ、おまえの好みなんかになりたくないよ……

 

「ちゅっ、可愛いぜハニー」

 

 スマホの画面にキスすんな。

 それは僕なんだぞ。

 ―――そのとき、スマホが鳴ってメールが届いた。

〈社務所〉でIT担当の知り合いの禰宜さんからだった。

 そこには、

 

〔お世話になっています、升麻さま。(URL)こちらの動画について削除申請をした方がいいですか。ただ、この手のものは消すと増えるという法則がありまして、これ以上の拡散を考えるとあまりお勧めできません。ご指示をお願いします。用件のみにて失礼します。〕

 

 と、もうどっちに転んでもどうにもならないことが書いてあった。

 

「ガシッ! ボカッ!」

 

 ボクは死んだ。スイーツ……

 

 

 

 

 

 



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第38試合 童話と恐怖の時代 前編
謎のレストランテ


 

 

 両国国技館を東に行く人気のない通りを、羽田正則(はたまさのり)は一人の女と歩いていた。

 羽田は隣にいる女を、合コンで知り合った、つまらない奴だと思っていた。

 日本では名前が売れている広告代理店に勤める彼は、女というものに不自由したことはない。

 本質はともかく、見た目は陽気でコミュニケーション能力の高い彼はどこの場所にいても中心に立って好き放題に生きて行けた。

 性器が乾く暇もないと下品な冗談をいうほどの乱れた爛れた生活をしていたこともある。

 女性に対する見下した考えも、その頃に身体に沁みついた。

 隣にいる見た目だけは整った女のこともはるか下に見ていた。

 それなりの企業の受付だということだが、世界的企業である自分の会社に比べればたいしたことのないものだし、社会的地位など格下すぎる。

 特に、営業である彼からすれば受付などただの飾り役で重要度なんてないに等しい。

 だから、羽田は女のことを性欲処理のための道具程度にしか考えていなかった。

 主体性がなく、自分の頭で考えて決断をすることはできない。

 流されやすく、羽田が匂わす楽し気な話だけに食いつき、サバサバした女を演じているだけで実は重い性格をしている。

 要するに、遊ぶだけにはいい女だ。

 そう決めつけていた。

 だから、簡単に合コンから連れ出したし、このあと少しよさげなホテルにでも持ち帰ることも可能だった。

 錦糸町方面に行けば趣味のいいホテルはいくつか知っている。

 ただ、思ったよりも合コン会場で飲みが足りなかったせいか、ベッドで弄ぶ前にあとわずかだけでも腹に詰めておきたかった。

 とはいえ、せっかくハイソな生活を匂わせてひっかけたのだから、あまり安い店に行くことは避けたい。

 どうせ、交際費で落としてしまうのだから、わりと奮発してもいいか。

 周囲を見渡すと、すぐ傍に江戸東京博物館へと続く道があるだけで、良さそうな店はどこにもない。

 少し歩けば見つけられるか。

 ホテルまではタクシーに乗ればいい。

 

「少し歩こうか」

「はい」

 

 女はすでに羽田の言いなりだ。

 もしかしたら、もう彼の女のつもりで、頭に中には結婚生活が夢見られているかもしれない。

 遊び女にそんな未来はないというのに。

 

「もう少し、二人で飲もうか。さっきはみんながいてうるさかったからね。のんびり君のことを聞きたいな」

「えー、羽田さん、あたしのことなんか知りたいんですか?」

「もちろんさ」

 

 腕を組んできた。

 サバサバを気取っているつもりなので、たいして親しくない会ったばかりの男とも友達っぽく振る舞える自分が好きなのだ。

 とはいえ、その本音は女そのもの。

 肉食系ということばが相応しい。

 しかし、羽田からすれば肉を奪われるのは女の方であり、骨までしゃぶっても気が咎めない程度の相手だ。

 目的を果たせばそのまま捨てても惜しくないし、心が痛むことはない。

 その時、どうっと背後から一陣の風が吹き抜けた。

 思わず、格好をつけるために開け放っていたコートの襟を絞める。

 高い建物は江戸東京博物館だけなので、あそこから噴きつけてきたビル風であろうか。 

 

「あれにしようか」

 

 羽田は道の脇に、一軒の高級なたたずまいの店があるのを見つけた。

 入口はやや奥まった場所にあり、看板が見切れる程度にしかでていないので、すぐにはレストランテとは気がつかれないだろう。

 白い煉瓦を積まれた敷地内にはガーデニングの癖などはセンスの良さを感じさせて、高級感を醸し出している。

 ロシア風かな、とイメージした。

 

дикая кошка(ディーカヤ・コーシカ)ってなんて意味だったっけ? ロシア語はもう覚えていないや」

 

 看板を見た女が言う。

 書かれている文字はどうやらロシア語らしい。

 思ったよりも学がある女のようだ。

 羽田は大学時代にロシア語を専攻していたのではないことから、読むこともできない。

 隣にいる女は絶対に思っていないだろうが、頭の緩いやつにバカにされている気分になって面白くなかった。

 

「おや、いらっしゃいませお客様。レストランテ・ディーカヤ・コーシカへようこそ」

 

 突然、店の扉の脇から、蝶ネクタイと白いシャツ、ギャルソン用のエプロンをつけた初老の男が声を掛けてきた。

 丁寧に油で撫でつけた髪型と蓄えられた口ひげは年季の入ったギャルソンであることを無言で自己紹介している。

 このレストランテの従業員であることは確かだった。

 胸のあたりに黒猫をデフォルメしたアップリケをつけている。

 黒猫はよくよくみると看板にも同じものが描かれていた。

 

「あ、予約はしていないのだが……」

「そうでございますか。通常ならば予約されたお客様を優先しなければならず、予約なしのお客様はお断りしているところですが、今日は予定外のキャンセルがございまして、食材を無駄にするのも考え物なので、さて客引きでもしようかと思っておりましたところなのでちょうどよろしかったです。お客様、当レストランテでお食事でもいかがでしょうか?」

「あ、ああ」

 

 一切の息継ぎもせずに喋るギャルソンであった。

 早口なのに内容は十分に聞き取れるという不思議な話し方をする。

 ただ、羽田達を招き入れようとしているのは確かだった。

 

「……じゃあ、食べさせてもらおうかな」

「はい、ありがとうございます。ただ……」

「ただ?」

「ご予約のないお客様については、少々、こちらから()()()()()()()()()()()()()でしょうが、ご容赦ください」

「どんな注文なんだ?」

「大したことはございません。ほんのちょっとしたことばかりですので」

「なら、頼む。彼女のためにとっておきのワインを用意してやってくれ」

「羽田さん……」

 

 女の前で格好つけるタイミングを逃さないのは、羽田のナチュラルな特技であった。

 

「よろしゅうございます。では、お客様方、どうぞ我がディーカヤ・コーシカへ」

 

 ギャルソンに案内されて、二人は店内に入っていく。

 手動式の扉をギャルソンが閉めようとした寸前、女が口を開いた。

 

「ディーカヤ・コーシカってどういう意味なの? ロシア語なんでしょ?」

 

 すると、ギャルソンは口ひげに触ってから、まるで自慢の我が子を紹介するような口ぶりで言った。

 

「その通りございます、お客様。ディーカヤ・コーシカは、遠いシベリアにあるロシアの言葉で、()()という意味でございます。日本語でなら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 慇懃な態度でギャリソンは扉を閉めた。

 外の世界と店内の二つを隔てる扉を。

 

 バタン、と。

 

 



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伝説の聖なる詩人

 

 

 力いっぱい投げられたダーツは、通常ならよほど変な投げ方をしない限り的に刺さるはずなのに、パリンと床にあえなく落下していった。

 ダーツの先端のティップが折れてしまっている。

 あれは交換しないとダメだね。

 ティップ、バレル、シャフト、フライトというダーツを構成する部品は分解して交換することもできるから、予備さえあれば取り換えるのは簡単だ。

 ちなみに折れたティップは的となる盤の凹に刺さってしまっているので、付属のペンチで抜かなければならない。

 しかし、ゲーム開始から三時間は経っているとはいえ、すでに五本は交換しているという事実からいかにおかしなことになっているかがわかる。

 ダーツを五本壊した投げ手は渋い顔をしていた。

 対戦している方は慣れた手つきでペンチを使っていた。

 

「―――力任せになんでもすればいいってもんではないんだよ。まったく、レイはいつまでも成長が足りない」

「うるせー、こんなチマチマしたもんで勝って嬉しいのかよ?」

「百芸が一芸に通ずる、だ。いつまでたっても〈神腕〉頼みの戦い方しかしないからダメなんだよ」

「くそ、初めてダーツやったルーキー相手に説教するとはいいご身分じゃねえか」

「まあ、ボクはキミよりは巧いし、上級者の忠告は聞いておくものさ」

 

 ドヤ顔で親友に説教をする御子内さん。

 つい数か月前に僕に対して似たような文句を言っていた口で、今はあんな偉そうなことを語るとは。

 ダーツの投げ方にどうしても力が入りすぎてしまうレイさんの姿は、かつての自分と瓜二つだというのによく言えたものである。

 順番が回ってきた御子内さんはラインに立って、右手でダーツを構える。

 レイさんのレンタルしたものとは違って、彼女のはマイダーツだ。

 なかなか凝り性な彼女は、自分用にカスタマイズしたダーツをわざわざ用意して、レイさんを迎え撃ったというわけである。

 ひょいひょいと同じ動きで三本を投擲した。

 一本目は5のシングルだったが、残りの二本が真ん中のブルに当たり、合計105点。

 どれもブルを狙っていて、高得点狙いだ。

 おかげで御子内さんの得点はもう501から32になっていた。

 32という数値はほぼ勝負ありに等しい。

 対するレイさんはまだ297でまったく勝ち目がない。

 

「くそっ!!」

 

 レイさんは焦りからかまた一本が的に刺さらなかった。

 ダーツの矢は羽根がついているおかげでよほど変なことをしないかぎり的に刺さるのだが、〈神腕〉の力で無理矢理に投げるからかどうもうまくいかない。

 よって合計で21点。

 これでは御子内さんには届かない。

 自分の番が回ってきた御子内さんは、余裕で18のダブルを射抜いて、WINNERとなった。

 二人がやっていたのは、ダーツのゲームの中でも01(ゼロワン)ゲームと呼ばれているものだ。

 301、501、701と設定した数字からダーツで当てた数字を引いて行き、最後に0にした方が勝ちというシンプルなルールである。

 プレイヤーは三本投げて一スローとなり、そのたびに交代する。

 数字を越えてしまったらバーストとしてその分はやり直しで、サドンデスとして互いに投げ合うというシステムだ。

 これを事件までの暇つぶしとして三時間やってレイさんは一度だけ勝ったきりのほぼ全敗。

 負けず嫌いだからか、不貞腐れたりせずゲームを続けていられるだけ、たいしたものな気がする。

 ちなみに僕たち以外に、このダーツ場には客はいない。

 最初は他にもいたのだが、いつもの改造巫女装束で黙々とゲームを始めた二人に恐れおののいてどこかに行ってしまった。

 タバコとか酒とかをやっていた人たちなので、おかげでゲームしやすくなったといってもいいけど。

 僕は飲んでいたジンジャーエールを置いて、読みかけの文庫本から目を上げた。

 二人はまだ続ける気らしい。

 筋肉痛なんかとは縁のなさそうな二人組だからなあ。

 

「読み終わったかい?」

 

 御子内さんが声を掛けてきた。

 

「うん。昔からたまに読み返していたしね。でも、これが問題になるの?」

「まあね。今回の事件の中核となるのはそれさ。だから、京一には知識を再確認しておいてもらいたいだよ」

「いや、別にいいんだけど……」

 

 僕は文庫本のタイトルを確認した。

 集英社の「風の又三郎」である。

 

「なんで宮沢賢治なのかな?」

「よし、京一が予習できたのなら事件の話をしようか。レイ、そろそろ遊びは終わりだ」

「うるせー、まだやるぞ。私が勝つまでやるぞ」

「レーイ、〈社務所〉の媛巫女の使命を忘れるなよ」

 

 圧勝の余裕からか極めて上から目線の御子内さんだった。

 使命を持ちだされたら、根が生真面目なレイさんは逆らえない

 渋々といった顔で僕らのテーブルについた。

 

「でも、御子内さんとレイさんの二人がタッグなんて珍しいね。夏の茨城以来じゃないの?」

「そうだったかな。まあ、今回は用心を兼ねてボクとレイが呼び出されたんだ。相手が完全に未知数というのもあるけどね」

「だから、二人が?」

「おお。或子だけじゃあ力不足だからな」

「―――レイ、ボクに喧嘩売る気かい?」

「いいぜ。やる気かよ」

 

 仲が良すぎて殺し合いにまで発展しそうな二人だよ。

 

「でも、なんで宮沢賢治なのさ?」

「そりゃあ、今回の黒幕がそいつだからだよ」

「へ?」

 

 レイさんの言葉の意味が良くわからなかった。

 宮沢賢治が黒幕?

 岩手県出身の詩人で、日本人の心の故郷みたいな文学者が?

 

「事の発端は、この錦糸町の周辺で行方不明事件が多発していることだった」

 

 御子内さんの説明が始まった。

 

「大都会東京じゃあ、よくあることだ。ただ、その行方不明者リストがね、尋常じゃないんだ」

「どういう風にかな?」

「広告代理店の営業、スポーツ選手、アパレルのオーナー、俳優―――セレブといっていい連中だ。とても何もなくて行方不明になるタマじゃない。だから、最初は誘拐の線も考えられたんだけど、身内はおろか勤め先に身代金の要求もない。そんな中、うちの八咫烏が妙な妖気を捕まえてきた」

「どんな妖気なの?」

「京一も覚えているだろう。マヨイガ―――〈迷い家〉さ」

 

 確か数か月前に奥多摩で変な怪現象について調査したことがあった。

 あの時に、その〈迷い家〉というものに遭遇した。

 人間を謎で誘き寄せて取り込んでしまうという、不可解なものだった。

 実のところ、あれがどうなったかは僕は知らない。

 御子内さんと一緒にいても命からがら逃げだすのが精いっぱいというところだったからだ。

 その〈迷い家〉がこの東京のど真ん中で起きているというのだろうか。

 

「しかも、八咫烏が妖気を感じた地点には博物館があって、おりしもちょうど『宮沢賢治の物語展』なる催しが三か月にわたって開かれていて、展示物として大量の彼の私物が集まっていた。ここで〈社務所〉は、〈迷い家〉が発生していると断定したんだ」

 

 僕は首をひねった。

 論理が繋がっていないような気がしたからだ。

 

「なんで、宮沢賢治の展示がされていると〈迷い家〉になるの? そこがまったくわからない。宮沢賢治って詩人でしょ。仏教に信心深くて、貧しい農民のために人生を捧げた聖人みたいな人のはずだけど……」

「一般のイメージではね。学者もそう考えているらしいけど」

「だったら……」

「しかし、ボクたちのギョーカイでは違う。おそらく〈社務所〉も関西の仏凶徒も同じ見解に立っているだろう。ボクらにとって、宮沢賢治という人物は―――」

 

 いったん、台詞を区切る。

 

「―――〈魔術師(ドルイド)〉だ」

 

 ドルイド……

 聞いたことがある。

 ケルト人の司祭のことで、精霊と会話が出来たりする、シャーマンのような役割のはずだ。

 ただ、御子内さんの口調からはそんな牧歌的な印象は微塵も感じない。

 

「〈魔術師(メイガス)〉とも言われるが、ボクたちにとって山川草木について深い知識を持ち、大自然を操ることのできる魔術を使う術者のことを形式的に〈魔術師(ドルイド)〉と呼ぶんだ……」

「でも、別に悪いことをしている訳ではないんでしょ……?」

 

 宮沢賢治についてはいいイメージしかない僕はそんなおどろおどろしいものが、彼の正体だと言われてもすぐには納得できない。

 

「宮沢賢治がどうやって〈魔術師〉としての術を学んだかは、まだ研究が進んでいない。だが、彼の著作にもある通り、かの詩人は多くの超自然的な術を利用してなにかをしようとしていたの確かなんだ」

「いや、だって……」

「寸劇で怪しい神を演じたり、目的のわからないユートピアを目指したり、奇行の多さもあるが、妹のトシの死を機に半年ほど創作活動を止めていた時期に、どこかで何かから魔術を習ったようなんだ」

 

 レイさんが続けた。

 

「〈春と修羅〉って詩集あんだろ。第二版は今でも売られているものなんだが、実は初版があってな。それには、巻末にわけわからない呪文が数ページ記されていたらしい。関根書店からの発売は実はそのページのせいでおじゃんになるところだったそうだ。だから、一度、故郷の石巻で印刷しなおして売ることになった。自費出版扱いなのはそのせいらしいな。その初版本は現存しているのは五冊ぐらいなんだが、どれも糊でベッタリと接着されていて一枚もめくれない。おそらくは宮沢賢治本人の呪詛のせいだろうって言われている。しかも、持ち主には恐ろしい呪いが降りかかるっていう評判があるのさ」

「……わかったかい。時間がないから細かくは説明しないけど、宮沢賢治はその生涯において奇怪な行動の果てに多くの事件を起こしているんだ。そして、その中には〈迷い家〉に関するものもあってね」

 

 寝耳に水過ぎて、二人が何を言っているのかよくわからない。

 

「さっき言った通りに、すぐそこの江戸東京博物館では宮沢賢治の遺品がたくさん集まっていて、しかも、一際ヤバイと言われている〈春と修羅〉の初版の一冊がどうやったのかは知らないが展示されているんだ」

 

 だが、僕が聞いた情報を総合すると、その日本でも最も有名な詩集の一つは……

 

「おそらく〈春と修羅〉の真の姿は魔導書だ。名状しがたい言葉と力をもった闇の存在を讃えて崇拝するためのね」

「じゃあ、行方不明事件って……」

「魔導書を手に入れた何者か、もしくは魔導書そのものが悪魔のように生贄を求めて行っている“狩り”だろうさ。ホント、これはヤバすぎる事件という訳なんだよ」

 

 

 



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―――いらっしゃいませ

 

 

「……宮沢賢治って、日本を代表する文学者でもあるんだよ。そんな人が〈魔術師(ドルイド)〉だったなんて……信じられないな」

 

 すると、僕の隣でコーヒーを飲んでいたレイさんがぴったりと僕に貼りつきながら言った。

 冬なので上半身にフライトジャケットを着こんでいるが、前が開いているので、彼女のなかなかのサイズのおっぱいが気にかかる。

 

「文学者だからさ」

「えっ」

「うちの国にはな、あまり西洋式の魔術文化は輸入されなかったんだ。ただし、やっぱ中には明治政府以来の西洋追随に従って、積極的に西洋魔術を取り入れようとした連中がいてさ、その筆頭に近いのが当時の文学者だ」

「そうなの?」

「ああ。やつらは、欧羅巴に留学した際に地元の魔術結社(オーダー)に入り浸ったりして、そこの教義を日本に伝えたりしたんだ。例えば、有名どころだと、森鴎外かな」

 

 森鴎外は僕も知っている。

 作品だって「舞姫」とか読んだことがあるし。

 

「森鴎外はな、「ファウスト」の和訳をしたりしていることで知られているが、それだってドイツ留学時代に仕入れた魔術の知識を活かすためのものだったらしいぜ。なにより、あっち時代の彼女を模して、エリスと名前を付けた人造人間(ホムクンルス)を制作していたっていう筋金入りの〈魔術師(メイガス)〉さ」

「……嘘」

「これだって、オレらみたいな家業していれば伝わってくるが、やっぱり魔術師の存在は秘匿されているし、普通は知らない情報だ。宮沢賢治の話だって同じさ。京一くんたちが知らないだけで、日本の有名人は意外とオカルト汚染されている」

 

 ここ一年で知った知識は色々あるけど、まだこんな闇がこの日本にあるとは知らなかったよ。

 うーん、アニメのセロ弾きのゴーシュなんかもうっかり観れなくなりそうだ。

 

「江戸東京博物館の方は、禰宜の一人が監視カメラの確認をしていてくれている。何かおかしなことがあったら教えてくれる。ボクらはこの近所で〈迷い家〉が発生したらすぐに駆けつけられるようにここで待機している訳だから」

 

 暗くなる前から、この錦糸町から両国に掛けてをぶらついているのは、そういう訳だ。

 張り込みに入るということでマイダーツを持参してきた御子内さんにつれてこられたのが、このダーツバーなのであるが……

 待機して三時間。

 僕らの素っ頓狂な巫女装束のおかげか、それとも人払いの術を軽めに使っているのか、ここには新規のお客さんはほぼやってこないという有様だった。

 もう一杯ジュースでも飲もうかと思ったとき、

 

『カア!!』

 

 流れているBGMを押しのけるような存在感のあるカラスの鳴き声が耳に入ってきた。

 八咫烏のものだ。

 僕は二人の巫女に倣って席を立つ。

 

「来たね。張り込み一日目から引っかかるとはよほど腹が空いているらしい」

「岩手の山の中ならともかく、こんな都会の真ん中で結界を張るんだ。ハンパじゃない力を消費するだろう。頻繁に人を食いに走ってもおかしかねえさ」

「ボクの縄張りで勝手をしてくれる。いくぞ、レイ。京一もこれを」

 

 と渡されたのは、ビール瓶ぐらいはある木綿糸がグルグル巻きにされた棒だった。

 見た目は明らかにボロい。

 

「この世とあの世を繋げる糸巻き棒さ。これを辿れば、ボクらはどんな結界の中に入ったあとも戻ってこれる。ミノタウロスの迷宮に入るテセウスにアリアドネが渡したものと似た儀式呪法がかけてあるんだ」

「これをどうするの?」

「先を京一が握っていてくれ。万が一のことが起きたときにボクらが帰ってこられるようにね」

「―――こんなのが必要なぐらい深いの?」

 

 御子内さんは肩をすくめ、

 

「ボクらが突入するのは結界のさらに奥にある〈迷い家〉そのものになると思う。用心に用心を重ねても越したことはないよ」

 

 僕は糸の巻かれた棒を握りしめ、頷いた。

 彼女たちは戦いに行く。

 その帰り道を守るのが今回の僕の仕事だ。

 いくらなんでも退魔巫女でもない一介の高校生の僕が〈迷い家〉にのこのこと入れば邪魔でしかない。

〈護摩台〉を造るわけでもないのに、御子内さんが僕をここに連れてきたのは、彼女の帰還する場所を守るぐらいはできるという判断をされたからだろう。

 だったら、僕のやることは一つだ。

 

「わかったよ。武運長久を祈るね」

「―――京一、もう十二月だ。寒いのに外で待たせることになってしまうけれど、風邪なんかひかないようにね。ほら、ホッカイロ」

「ありがとう。僕よりも御子内さんとレイさんが無事に帰ってこられるかが心配だ。頑張ってね」

 

 レイさんの眼を見て、

 

「レイさんも気をつけて」

「お、おぅ……」

 

 ちょっと口をとがらせて照れながらレイさんが応える。

 この子もきっと緊張しているのだろう。

 奥多摩の〈迷い家〉は常識の通じない土地だった。

 あんなところに二人で突っ込もうというのであるから仕方ない。

 しかも、その〈迷い家〉の奥には危険な〈魔術師〉が待っているかもしれなかった。

 

「ついでだし、激励の握手しろよ……」

 

 差し出された白い繊手を握りしめる。

 とてつもない力を秘めた〈神腕〉の持ち主とは思えない可愛らしい手だ。

 ヤンキーっぽいのは外見だけで、やっぱりレイさんも綺麗な女の子である。

 

「なんだい、なんだい、レイばっかり」

 

 横から入ってきた御子内さんがなんだか不平そうな顔をする。

 たまに彼女はこういう絡み方をしてくるのだ。

 

「うるせえな、じゃあ行くぞ、或子」

「レイなんか呼ぶんじゃなかったよ!」

「オレを呼んだのは、おまえじゃなくてこぶし先輩だ。嫉妬してんじゃねえよ」

「なんでボクがそんなものをしなくちゃならないのさ!!」

「さてね。爆弾小僧だから着火点が低いんじゃね?」

「ボクは女だよ!! 小僧とか言うな!!」

 

 二人が仲良く言い争っている中、僕は支払いを済ませて、連れ立って外に出た。

 青く美しい月が、天にすきっとかかっていた。

 彼女の庇護のもとにあるセカイで、人を誘い出す〈迷い家〉なる妖魅が跋扈しているとは認めたくないぐらいに。

 空気も実によく透き通り、冬の低温度をさらに強調していた。

 

「さて、案内役の八咫烏は……」

 

 夜空の一角で、黒い羽根をしたカラスがぼろんと飛んでいた。

 こちらを導くように。

 いつものようにあいつの後を追っていけば、妖怪か怪奇現象にぶつかることだろう。

 僕らは急いで走り出した。

 二百メートルもいかない距離にきたとき、物凄い突風がどうと吹いて、僕らを揺らした。

 草はざわざわし、木の葉はかさかさ、樹木がごとんごとんと鳴った。

 何かおかしい風だった。

 まるでこのあたりを舐めるかのような異常な風だった。

 

「見ろ」

 

 レイさんが指さした先には、立派な煉瓦でつくられた建物があった。

 奥の方に看板らしいものがあるので、おそらくは個人の邸宅ではなくてお店の類いだろう。

 だが、断言してもいい。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 あの風が吹いたと同時に突如として顕現したのである、と。

 絶対、こんな瀬戸の煉瓦で組まれた玄関の建物なんてそこにはなかった。

 

「まさか、自分が山猫軒に招き入れられることになるとは思っていなかったぜ……」

 

 レイさんが感嘆の声をあげる。

 僕もその名前には聞き覚えがある。

 確かに、突然現れた建物の看板らしいものにはロシア語の表記と黒い猫の絵が描いてあった。

 

「レストランテ・ディーカヤ・コーシカ……。確かに山猫軒だね。―――つまり」

 

 ここにあるのは〈迷い家〉であると同時に、僕たちにとってもなじみ深いある有名な作品の舞台ということだ。

 その西洋料理店は、本名を「山猫軒」といい、またの名を……

 

「―――注文の多い料理店、だね」

 

 妖気渦巻くガラスの引き戸には、

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 と金字で書かれているのであった……

 

 

 



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醜い守護者

 

 

「誘われている、とみていいのかな?」

「だろ」

 

 二人の巫女レスラーは警戒を緩めないように、そっと扉に近づいた。

 金文字の書いているあたりを押すと、静かに開いていく。

 

「京一、あとは頼む。ボクらが一時間たっても戻らなければこぶしに連絡してくれ。そういう手筈になっているから」

「うん。気をつけて」

「任せろ」

 

 ゆっくりと最後まで開くと、長めの廊下になっていた。

 廊下の行き止まりにはまた扉がある。

 ガラス戸になっていて、また金文字で文章が綴られていた。

 

『ことに清らかな乙女や穢れを知らない男性は、大歓迎いたします』

 

 余計なお世話だと、或子は思った。

 

「こちとら立派な退魔の巫女さまだ。歓迎してくれるというのならやってもらおうじゃねえか」

「ふーん、キミ、ヤンキー臭いのにまだ女の子なのか」

「―――う、うっせえよ。てめえだってそうだろうが! 人のこといえるのかよ!!」

 

 外観はどう見てもふしだらなことをしていそうなのに、いざとなったらどうあっても未通娘の羞恥心が先に立つようだ。

 明らかに処女ビッチの類いの音子に比べればまだライバルにはなりえないな、と或子は親友を見定めた。

 

「ボクだって巫女らしく処女だけどね。さて、進むよ。扉は締まらないように、何か噛ませながら行こうか」

 

 ずんずんと進んでいくと、水色のペンキで塗られた扉が現われた。

 しかし、両国なんていう東京の真ん中にこれほど大きなレストランテがやっていけるとは思えない。

 何もない廊下がこんなにも続いているのだ。

 通常の感覚ならばイタズラか勘違いと思うところだが、建物に踏み入れて以降、或子たちは肌にヒリヒリと焼きつくように貼り付いてくる人外の妖気に悩まされていたのでおかしいとは思わない。

 明らかにここは異世界だ。

 普段接している世界とは理が違う場所だ。

〈迷い家〉の中心にある核に侵入してしまったと判断してもいいだろう。

 いつもは能天気で陽気な或子と言っても緊張は拭えない。

 

「迷宮のような建物だね」

「ロシア式なんだろ。えっと、何々『当軒は注文の多い料理店ですから、どうぞそこはご承知ください』だとさ。―――わかっているぜ」

「レイ、さっきからボクの耳に不気味な鳴き声が聞こえている。この扉の向こう、何かがいるぞ」

「わかっているさ」

 

 明らかに敵が待ちかまえている場所に向けて、二人の巫女は扉を蹴りあげ躍り込んだ。

 バサっと激しい羽音が聞こえ、二人の脇を何かが飛んですり抜けていった。

 レイが〈神腕〉で叩き落そうと試みたが、彼女の反応を凌駕する速さで、そいつは狭い廊下をすり抜ける。

 

「ちぃ!!」

 

 空ぶった右腕を戻す前に、引き返してきた黒い影は再びレイに襲い掛かった。

 カウンター一閃し、そいつを叩き落そうと或子が横から狙ったが、これもまた躱される。

 それほど大きくはないが、飛翔するものに相応しい素早さと軽さを備えたものであった。

 往復して二人を翻弄した敵は、廊下の中央に伸びていた宿り木のようなものに戻った。

 そこが巣というか、定位置なのだろう。

 両翼のサイズだけでニメートル以上はあるだろう斑の鳥だった。

 平たくて耳まで裂けた嘴を持ち、ところどころ羽根の抜け落ちた不細工で醜い鳥であった。

 さっきの鋭い滑空が信じられないぐらいにボロボロの姿かたちをしている。

 ただ、黄色い、妖魅特有の呪いの眼をしていることから、おそらく外見とは裏腹の化け物であろうことは想像がついた。

 

『お客様方、ここでは髪を綺麗に梳かして、履きものの泥を落としてもらいます。あと、帽子と外套をお取りください』

 

 醜い鳥が叫んだ。

 喋る生き物なんて見慣れている二人からすればどういうことのない光景だが、問題は話しかけてきた内容だった。

 

「注文の多い料理店ごっこをまだ続ける気かよ?」

「いや、もしかしたら『見立て』かもしれないぞ」

「見立て? 見立て魔術のことか。つまりは、こいつらは注文の多い料理店を模した結界を作ることで、〈迷い家〉の存在を強固にしているってことかよ」

「可能性はある。〈春と修羅〉の初版本が傍にある状況で、宮沢賢治所縁の見立て魔術をするんだから、裏があるとみるのが正解だろうね」

 

 さらに言えば、目の前のこの醜い鳥も……

 

「なるほどな。廊下に門番を配置しているのもそういうことか。わざわざ、イーハートーヴ由来のガーディアンを用意しているぐらいかよ」

 

 見かけによらず文学少女のレイは、自分たちを迎撃しようとしている醜い鳥の正体についてわかっていた。

 彼女はこの醜いと罵られながらも、羽根がむやみに強くて、鋭い鳴き声を発する、鷹に似ている鳥のことを知っていた。

 

「或子、先に行け。ここは二人で戦うには不利だ。しかも、野郎は空を飛ぶからな」

「いいのかい? 美味しいところを貰ってしまうよ」

「ふざけろ。どうせ、ここから先にもまだ守護者はいるはずだ。時間を掛けるのは惜しい」

「そういうことなら、頼む。―――すぐに追いついてきなよ」

「任せろ。この〈()()()〉を倒したらな」

 

 レイは〈神腕〉を中国拳法の劈掛掌(ひかしょう)で構える。

 彼女にとって唯一と言っていい、正式に授けられた闘法だ。

 元はといえば隣にいる或子を倒すためだけに修練した技であったが、今となっては彼女の代名詞ともなっている。

 先祖代々受け継がれている神通力の宿った双腕の威力を叩きこむには、絶好の技だからだ。

 そのまま、〈よだか〉を真っ向から睨みつける。

 

「……まっすぐに空に昇っていった〈よだか〉ならばともかく、こんなところで邪悪な野郎のパシリをしているのなんかには負けねえ」

 

 かつて子供の頃、星になった〈よだか〉のことを思い、涙ぐんだこともあるレイにとって、目の前の化け物は許しがたいものであった。

 宮沢賢治の世界を模して造られた結界〈迷い家〉というのなら当然のことだろうが、あの世界観を歪ませる妖魅にかける情けはない。

 

「頼んだ!!」

 

〈よだか〉の脇を或子がすり抜けるのを邪魔しようと動く前に、レイは挑みかかった。

 血も凍るような怪鳥の鳴き声を根性で堪えながら、宙を自在に飛ぶ空魔を叩き落さんと〈神腕〉を縦に振るう。

 ひらりと躱された。

 羽根にまるでセンサーでもついているかのような軽やかさ。

 しかも、羽根には燐のような蒼白い炎がくすぶり始め、火の粉として舞い踊った。

 今でも燃え続ける〈よだか〉の星。

 火の鳥となった空魔に対して、レイは一歩たりとも退かず迎撃の姿勢に入る。

 

『キシキシキシキシキシッ!!』

 

〈よだか〉は高く高く叫んだ。

 

 



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魔風が吹き荒れる

 

 

 御子内さんたちが、目の前のレストランテに突入してすぐに、僕のスマホに着信があった。

 発信者は〈社務所〉の禰宜の一人だった。

 僕とも何度か顔を合わせたことがある。 

 

「はい、升麻です」

『升麻くんかい? 〈社務所〉のものだけど、わかるかな』

「わかります。どうされたんですか?」

『宮沢賢治の件だ。私は博物館で監視役をしているのだが、こっちで動きがあった。だが、媛巫女たちと連絡がつかないので君のスマホにかけさせてもらった訳だ』

「……何があったんですか?」

『展示されていた〈春と修羅〉の初版本をおかしな奴に持っていかれた。カメラには映っていたが、センサーにも引っかからずにガラスで仕切ったケースに手を突っ込む奴だ。正体は不明。人間型をしているというだけがかろうじてわかる情報かな』

「他には?」

『特に問題らしいものはない。こちらは引き続き監視をするが、博物館側はまだ盗難に気づいていないからできたら朝までに解決してくれ。面倒事になる前に頼む』

「わかりました。御子内さんたちに伝えます」

 

 通話が切れた。

 改めて、突如としてこの閑静な町並みに現われた謎の山猫軒を見やった。

 やはり、僕には想像もできない何か強いオカルトの力が働いているようだ。

 いつもの〈護摩台〉を作ってからの試合めいた妖怪との戦いとは違う、尋常ではない異常さを感じる。

 いくら最強のコンビとはいえ、御子内さんとレイさんだけで突貫させて良かったのだろうか。

 せめて、もう一人ぐらい、退魔巫女の誰かの助けを得た方が良かった気がする。

 通常、巫女レスラーとしての戦いのときは、〈護摩台〉に張られた結界の力が相対する妖魅たちの力を削いでくれるおかげで互角まで持ち込める。

 その後の勝敗を決めるのは巫女個人の技量とはいえ、結界の力で大きく左右されるのは事実だ。

 実際、〈護摩台〉抜きの戦いだと、カチカチ山のウサギである妖怪〈犰〉との戦いのようにずっと劣勢を強いられることがある。

 人間と妖魅との根本的な力の差は、敵が純粋に強い妖怪であるほど開くのだから当然なんだけど。

 となると、この〈迷い家〉が作り出した山猫軒の中では、いかに御子内さんたちといえど苦戦は免れないだろうし、下手をしたらやられてしまうおそれが高い。

 

「今からでも援軍を呼ぶか?」

 

 僕の独断でもそれぐらいはできるだろう。

 例え、あとで怒られたとしても保険は掛けておくに越したことはないはずだ。

 錦糸町までタクシーを使ってもらえば早いだろうし、そうなるとてんちゃんか藍色さんか……

 急いでスマホを使おうとした時、ごうっと先ほどのものと寸毫変わらない風が僕を吹き飛ばそうとした。

 おそらくはこの〈迷い家〉を顕現させる前触れのための風だった。

 

『魔風ガ吹イタゾ! スベテヲ覆ス魔ノ風ガ吹イタゾ! 注意シロ、コゾー!!』

 

 頭上であの減らず口を叩く八咫烏が叫ぶ。

 喋るカラスなんて他人に見られたらどうするんだと罵りたくなったが、その言葉は明らかに僕への忠告なので素直に従わないと。

 キョロキョロと往来の様子を窺う。

 一回目の風が吹いて以来、まったく誰もやってこないのは〈迷い家〉という怪奇現象のせいだと思うけど、まだ深夜にもならない東京でこんな風に人がこないというのは心底気味が悪い。

 

 どっどど どどうど どどうど どどう

 

 上空をいきなり凄まじい勢いで風が乱舞し、八咫烏を吹き飛ばし、地面に叩き付けた。

 空を飛ぶ生き物の自由を奪うなんて、とてもじゃないがまともな風ではない。

 今のは、確実に八咫烏を狙ったものだ。

 しかし、宙にいる使い魔を地面まで下ろしてどうするつもりだろう。

 視野の端に何かが映った。

 人のようだった。

 八咫烏のところに駆けつけようとした足が止まる。

 風がざあと吹いて、街路樹の葉はざわざわ波になり、道の真ん中でさあっと塵が上がり、きりきりと回ると小さなつむじとなった。

 つむじ風は目に見える黄色い風となり周囲の建物の屋根の上へと昇っていく。

 まるで命があるかのような光景だった。

 なんだ、今のは。

 風に乗る妖怪というのはお目にかかったことがあるが、今の現象はそんなレベルではないぞ。

 あえて言うのならば、風そのものが一個の生命体のように脈打っていた。

 どくんと心臓の鼓動がした。

 ふと気が付くと、さっき一瞬だけ見た人影がかなり近くまで寄って来ていた。

 白い帽子(シャッポ)を被って、へんてこりんな鼠色のダブついた上着と被り物と同色の半ズボン、リンゴのように赤い靴を履いた子供だった。

 頬は紅く染めあがり、眼は真円に近く黒目がほとんどである。

 まず疑いの余地のないぐらいに人間ではなかった。

 

『コゾー! 逃ゲイ!! ソヤツハ―――』

 

 八咫烏が僕に何かを告げようとした時、またもごうと風が吹いて、使い魔はいずこかへと飛ばされて行ってしまった。

 やはり、この風は自然のものではない。

 何かの意図をもって吹いている。

 例えば、誰かに操られているとか……

 だとしたら、操り手は一人しか考えられない。

 

「君の仕業か?」

 

 僕の声は上擦っていたかもしれない。

 なぜなら、改めて直視するとこの子供の発する畏れというものが背筋に氷柱のごとく突き刺さるからだ。

 これまで視てきた妖魅たちなど比較にならない威圧感と恐怖。

 それでいて思わず膝を着きたくなるような荘厳さがある。

 僕が抱く想いは畏怖を遙かに凌駕していた。

 口内がカラカラに乾く。

 息をするのも困難なのだ。

 これは……これは……まさしく……

 

(神さま……なの……)

 

 皮膚の汗腺が全て開いた。

 全内蔵が汁という汁を撒き散らす。

 目の奥が痛くなる。

 下賤な下等動物が神々しいものを視ることは許さぬとでもいうかの如く。

 子供は僕を路傍の石を見るよりも感情の籠もらない眼で見上げた。

 無機質なまでの眼光に石化する。

 狂おしい煩悩が僕を焼き尽くす。

 人なんてものに生を受けたことを後悔しろ、というメッセージが込められているはずだと勝手に想像し、屈伏しそうになった。

 あと、ほんの数秒あったら僕の精神は折れていたかもしれない。

 だが、そうはならなかった。

 僕の前に誰かが立ち塞がったからだった。

 

「なんなのでしょうね、あの小娘どもは。さっさと本丸に突っ込むなんて猪にも程がある。まったく、わたくしの躾のどこが悪かったのかねえ」

 

 そこにいたのは僕の知らない巫女さんだった。

 御子内さんたちとは違って改造した装束ではなくて、正式な格好をした正真正銘の「巫女」であった。

 白衣と緋袴を着込み、肩袖の根元が縫われた、脇を縫わずに前を胸紐(むなひも)で合わせるようにして着る袖付きの千早をまとっている。

 長い黒髪を後ろの生え際から束ねて一まとめにして、和紙でまとめた上から水引でしばって髪留めとした絵元結(えもとゆい)にしていた。

 さらに紅白の水引は糊を引いて乾かしたもののようである。

 彼女(みこないさん)たちを小娘と言うぐらいなんだから、年上なんだろうけど、どう見ても二十代半ば、下手したら不知火こぶしさんよりも若い。

 なのに、雰囲気は老成してお年寄りじみている。

 いや、雰囲気がどうとかいうのではない。

 実際に相当の年を召している可能性があった。

 

「大丈夫かい、お坊っちゃん」

「はい!」

「いい返事だねえ。男の子はそうでなくちゃならない。思慮深いところも悪くない。うちの猪小娘どもにも見倣わせたいところさ」

 

 会話しながらも、知らない巫女さんは例の子供からは目を離さない。

 そこはいかにも御子内さんたちの同類といったところだ。

 油断は決してしない。

 

「あなたは……」

「おまえ様のことは知っているよ。報告書も読んだしね。いつも、ガサツな孫娘たちを守ってくれてありがとさんよ。実の孫じゃないが、あの娘らはわたくしが手塩にかけて育てた逸材でね。今はどうしても喪う訳にいかない大戦力なのさ。だから、おまえ様の尽力には感謝している」

 

 そして、巫女さんはいった。

 

「不肖の孫娘たちに代わってわたくしがおまえ様を守ってあげよう」

「あなたは……」

「わたくしかい?」

 

 彼女は澄んだ声をしていた。

 

御所守(ごしょもり)たゆう、というババアさ」 

 

 

 

 



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御所守たゆうの御実力

 

 

 御所守たゆう。

 

 聞いたことがある。

 確か、〈社務所〉の重鎮にして、ずっと昔の退魔巫女で、かつ御子内さんたちの修業時代のグランドマスターだったはずだ。

 何度か皆の雑談にでていた記憶がある。

 ただ内容から察するに、戦後すぐあたりの産まれのお婆ちゃんだとばかり思っていたのに、この女性は下手をしたらアラサーのこぶしさんよりも若そうに見える。

 少なくとも、僕の目にそう映った。

 もっとも、彼女自身が自分のことをババアと言っているのだから、それに相応しい歳なのだろうとわかる。

 若い外見だからといって、実際にその通りだとは限らないというのが、オカルト界隈のお約束なのだ。

 最近、僕もこの世の不条理に対してツッコまないでいられるようになってきていた。

 だが、幾ら御子内さんたちの師匠格とはいっても今度ばかりは話は別だ。

 あの子供は……

 

「御所守さん、あの子は―――神さま……」

 

 しかし、たゆうさんは一切隙を作りもせずに、僕に言った。

 

「おまえ様、それは勘違いですよ」

「えっ?」

「あれには確かに神格がありますが、所詮は童話の登場人物の似姿。神そのものではありません」

 

 神さまでは、ない?

 でも、あんなに心からの畏怖を覚えるのに。

 

「〈迷い家〉の結界的作用が、風に乗って歩む神の神格を顕現させただけのものですよ。この〈迷い家〉が例の童話を真似たように。つまり、あれは風神の偽神でしかないのです」

 

 風神は偽神。

 たゆうさんはそうこともなく言い放つ。

 僕には全然信じられない。

 またも、ごうと風が荒れ狂い、子供の周りを渦を巻いて立ち上がる。

 人が台風の目にでもなったかのような奇怪な光景だった。

 何重にも巻きつく風は子供だけを無風のまま保護して手当たり次第に路上のものを吹き飛ばし始める。

 風がこれほどまでに恣意的に動くことがありえるのかというぐらいに。

 そして、暴風はついに人にまで牙を剥き、たゆうさんまでも引きずり込もうと勢いを増していった。

 身体を支えるための掴むものもない態勢では、細い巫女さんでは数秒もこらえきれないだろうと思った瞬間。

 たゆうさんの手に、いつのまにか金属の棒が現れた。

 手品でも観ていたかのように唐突な出来事であった。

 彼女の巫女装束のどこにもあんな二メートル以上あるものを隠しておく箇所はないからだ。

 そして、たゆうさんはその棒を手元で回転させ、地面のアスファルトを突いた。

 槍のように尖った穂先もついていないのに、ズブズブと棒は突き刺さっていく。

 両手が自在に動いて印を造る。

 たゆうさんが呪文のようなものを唱えた。

 

「五行において風は五悪にして、性なるものは木行! 木気は金剋木《こんごくもく》によって、金気に相剋され、その性質を打ち破られる! 急急如律令! 風よ、消えろ!」

 

 金属の棒を刺して、印を作っただけで、どんな台風をも凌駕しそうな風が止んだ。

 ほんのわずかな微風さえも感じられないぐらいに、いともあっさりと。

 どんな不思議な力が働いたのか、まったくわからないレベルで。

 

『……?』

 

 妖魅の子供でさえ、何が起きたのかわからないという顔をした。

 それほどまでに呆気なかった。

 

「今のは……」

「五行説によると風の性質は木気でありますから、それを打ち破る金の気でもって打ち払ってみせたのです」

 

 五行説って、水・金・土・火・木の五元素が万物を構成するという古代中国の思想のことじゃなかったっけ。

 前に横浜中華街の元華さんに中国の道教の話を聞いたときに、小耳に挟んだ気がする。

 そんなものを日本神道の〈社務所〉の巫女、しかも重鎮の人が使うのってとても違和感がある。

 僕が最初に御子内さんに抱いた、退魔巫女としての形がまさにこれだったからである。

 ただ、実際に呪法としてそんなものを使えるのならば、どんな妖怪とだって〈護摩台〉抜きでも戦えそうな気がする。

 肉体言語で接近戦を繰り広げる御子内さんたちとはまったくもって逆のやりかたすぎた。

 あんな暴風を術理でもって、いともたやすく消滅させるなんて。

 

「わたくしが神通力で術を使ったのが納得いかないようですが、そのことについてはまたあとで説明して差し上げましょう。とりあえず、この〈ウェンディゴ〉を追い返すこととしましょうか」

 

 たゆうさんが握っていた手を開くと、またも新しい鉄の棒が出現した。

 手品のように隠していたものではない。

 明らかにどこからか飛んできたとしか思えない。

 

「〈引き寄せ〉というのですよ。西洋の魔術では〈アポーツ〉といいます」

 

 そっちも術だったのか。

 つまり、たゆうさんの代の退魔巫女たちは、彼女のように呪法や導術で戦っていたということなのか。

 じゃあ、御子内さんたちのように肉弾戦オンリーに代わったのはどうしてなんだ?

 これほど強力な術を使えるというのならば、あえて危険で不利な〈護摩台〉を使った戦いをする必要性はない気がする。

 だったら、何故……

 そして、たゆうさんは僕の疑問を百も承知で今の台詞を喋った気がする。

 あえて僕に情報を与えるために。

 

「―――最愛の理解者である妹を亡くした賢治は、東北の荒野を彷徨い歩き、ある時、一柱の神と遭遇(であい)ました。この神は「実に愉快で明るいもの」であった賢治を気に入り、彼に力を授けたようです。このときから、寂しい旅僧を思わせる一文学青年は〈魔術師(ドルイド)〉となり神の代弁者となりました」

 

 たゆうさんは鉄の棒を子供に突き付け、

 

「この小さな現身(うつしみ)はその神はおろか、眷属である〈ウェンディゴ〉が賢治の童話の登場人物の妄想を借りて具現化したものですが、仮にも神の眷属の一部ですので、本来は我ら人の術などでは手も足も出ません。そこで、こういう手を使います」

 

 そのまま、鉄の棒を使ってガリガリと丸い円を地面に書いた。

 

木剋土(もっこくど)! 風は木気を持つが故、風ある所では土の気が活性化し、新しい大地を作り上げる!  急急如律令! 土よ、隆起せよ!」

 

 彼女の台詞と同時に描いた丸が生き物のように膨れ上がり、たゆうさんと妖魅の子供を入れる巨大な輪となった。

 輪は二人の立っている場所を閉じ込めるデッドラインとなり、そしてその線に従って、ゴゴゴとアスファルトが不自然に凸っていく。

 まるで、海底噴火によって新しい島ができるように。

 しかし、その島は僕の眼にはどうしてもある場所(フィールド)にしか思えなかった。

 その場所は指して、人はこういう―――

 

 土俵、と。

 

 たゆうさんたちを乗せたまま隆起した土地は、土を盛って造られた、土俵そのものであった。

 僕らが苦労してプロレスのリングに酷似した〈護摩台〉を設置するのと同じ、それを呪法をもってたゆうさんは作り上げたのだ。

 何のために?

 そんなことは決まっている。

 おそらく、この土俵は―――結界だ。

 妖魅を閉じ込め、その力を削いで、巫女たちに伍させるための。

 たゆうさんにとっての〈護摩台〉がこの土俵なのだ。

 そして、そんな場所を戦場と定めるということは……

 

「では、日下開山(ひのしたかいさん)野見宿禰(のみのすくね)の裔であるこの御所守たゆうの角力を魅せてあげようかね」

 

 御子内さんたちと比べても細身で小さなたゆうさんが、腰を落とし、手を突き出した。

 それは、日本人でありさえすれば誰にだって一目瞭然の闘法の予備動作だった。

 かつて、陰陽の手合と呼ばれ、片手を曲げて頭上に掲げ、片手を伸べて前へ出す構え。

現代の立会いとは違う、腰を卸さずに、立ったままで取っ組み合う、立合(たちあい)という言葉の語源となったものである。

 座ったまま、両手の拳を土俵に付けてから立ち会うにうつる、追っ付けの構え以前の形だった。

 

「では、立ち合いと行こうじゃないか。蹲踞など無駄なことはしない、本来の神事、弓取り式としての捔力(すまいとらしむ)を見せてあげようかね、神の眷属よ」

 

 あの小さな身体で、たゆうさんは神の眷属だという怪物と相撲を取る気なのであった。 

 

 



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〈社務所〉の媛巫女

 

 

 たゆうさんの採る構えは、僕たちが知っている相撲とは全然別の代物のようだった。

 彼女が角力と呼ぶのもむべなるかな。

 立ち合いの姿勢ですらない。

 そもそも彼女の体格では、大柄な子供相撲の力士とたいして変わらないのだから。

 だが、通常の想定されているものの二倍は広い土俵の上だと、彼女の存在感は桁外れに強い。

 そして、対戦する例の子供は……

 

「えっ!?」

 

 思わず困惑の声が出た。

 さっきまでただの奇妙な子供としか見えなかったのに、うすぼんやりと別のものが見えていたのだ。

 サイズは子供を腹の中に納めても足りないぐらいにでかく、大きな顔を持ち、眼があるべきところに炎のように紅い輝きが二つ、パープルの煙と蒼い雲でできたような輪郭の巨人がまるで被されるように立っているのだ。

 錯覚でも幻でもない。

 あれは実際に存在している何かだ。

 結界を持つ〈護摩台〉と同じ効果のあるらしい土俵の力がもともとの正体を可視化させているのではないだろうか。

 おかげで、小柄なたゆうさんがさらに小さく見えた。

 像と仔馬ほどの差があった。

 相撲どころか、対峙するだけでフェアではないぐらいに。

 紫と蒼い巨人が踏み出すと、三度風が巻き起こる。

 またもや人を容易く吹き飛ばしそうな乱暴な風の渦だった。

 風の神の眷属とたゆうさんが言った通りだ。

 あの巨人は風の支配者なのである。

 もし土俵のルールがあるのならばあそこから飛び出した時点で負けは決まる。

 相撲に場外乱闘はないのだから。

 そして、この風はちっちゃな巫女なんて人形のように押し出してしまうに違いない。

 しかし、そうはならなかった。

 

「この程度、笑止!!」

 

 ズシンと下半身を震わせる地響きが轟いた。

 発生源はたゆうさんの足の裏だった。

 中国拳法の震脚という踏み込み法があるが、それを遥かに上回る、雷が落ちたかのような一歩が地域一体を揺らしたのだ。

 しかも、それと同時に三度風がやんだ。

 音と震動に掻き消されるかのように。

 

「震脚ではなくて、もしかして―――四股を踏んだのかな……」

 

 力士の、特に横綱の踏む四股は、病気を祓うという神事の一環でもあったという。

 であるのならば、たゆうさんの踏み込みもそれと同じものなのかもしれない。

 さっきは金属を使ったが、土俵という結界を張った今はただの四股踏みでさえ神の御業に近づけるということか。

 たった一踏みでこんな結果を出せるなんて……

 さすがは〈社務所〉の重鎮。

 

 どっどど どどうど どどうど どどう

 

 風の巨人が手を伸ばした。

 欠伸が出るほど遅い、と退魔巫女たちならば断じることだろう。

 たゆうさんはそんな彼女たちの師匠格なのだ。

 当然、そんなものは掻い潜り、懐に飛び込んだ。

 そして、搗《か》ち上げた。

『かちあげ』とは、相撲の取り組みでの戦術の一つであり、前にだした腕をカギのように曲げ、急所の頭部を守るために、胸に構えた体勢から相手めがけてぶちかましを行うことをいう。

 強い力士なら、この搗《か》ち上げだけで勝敗を決められる。

 衝撃力は一トンに達するという力士の立会いのパワーがすべて籠められるのだから、それも当然である。

 小柄であっても、スピードの乗ったたゆうさんのかちあげは、確実に巨人の胸に突き刺さった。

 何倍もある巨躯が揺らぐ。

 揺らいだところに、なんと下段からの蹴りが放たれ、巨人の太ももを強打した。

 膝ががくんと落ちかかる。

 御子内さんバリの腰の乗った下段蹴りは、既存の拳法のものではなく、やはり相撲のけたぐりに近いのだが、あまりの迅さと力強さで、まさに岩をも砕けそうだった。

 当麻蹴速を蹴りで打ち破った野見宿祢の末裔というだけあって、彼女は現代の相撲取りではなくて、古代の力士と同じものなのだろう。

 古代では蹴りも殴りも認められた武術の一つだったという角力の。

 そして、たゆうさんは細い身体を竜巻のように捻じ曲げ、渾身の張手を叩きこんだ。

 

『グオオオオオ!!』

 

 蹴りによって屈んだことで巨人との身長差が消えたことにより、彼女の突っ張りは顔面に疾風迅雷のごとく入る。

 巨人はまたしても激しく揺らいだ。

 どう考えてもアンフェアな体格差があるというのに、たゆうさんが圧倒していた。

 神の眷属、というのもわかる相手に対して、これほどとは……

 巫女姿でまわしもつけていないのに、ここにいるのは日下開山―――無敵の横綱なのかもしれない。

 ぶんと回した指が巨人の本体である子供の襟を掴む。

 そして、投げ捨てた。

 とんでもない怪力といえた。

 レイさんの〈神腕〉を彷彿とさせるが、彼女のように特殊な力がある訳ではなさそうだった。

 子供は土俵を転がり、そのまま動かなくなる。

〈護摩台〉で妖怪が消えるように、神の眷属という子供も消えていった。

 たゆうさんの使った技は相撲とはいえないものかもしれない。

 だが、相撲という名は雄略天皇が二人の女官にふんどしを履かせて立ち合わせたときから呼ばれているということが日本書紀にあるので、もしかしたらたゆうさんの技が正しいのかもしれないけれど。

 しかし、はっきりしているのは、御所守たゆうという巫女は神の眷属にも負けない力の持ち主であるということであった。

 

「うーむ、七十のババアだとちぃと骨が折れるのお」

 

 と、たゆうさんは腰をポンポンと叩きながら、土俵から降りてきた。

 同時に隆起していた地面が沈んでいき、何事もなかったかのように数分前の景色に戻っていった。

 一年前に御子内さんと初めて出会った時の衝撃に近いものがあった。

 これまでも散々、不思議なこと、名状しがたいものに出会ってきたが、この自称お婆さんほど奇天烈なものは初めてだった。

 まるでハリウッドの映画でも観ているかのように次から次へと驚天動地の事態が起きる。

 これまでの僕らの冒険はまだまだ序の口だと言わんばかりに。

 

「なあ、おまえ様よ。或子か音子あたりがこのまま順調に育ってくれればいいが、そこまでわたくしの身体が保つかどうかはわからんと思いませんかね?」

 

 そんなことを言われても。

〈社務所〉の退魔巫女のこんな戦いはみたことがないので、僕には何とも言えなかった。

 だが、それでもさっき抱いた疑問を思わず口にしてしまわずにはいられなかった。

 

「―――あんな妖怪退治の術があるのに、どうしてみんなに危険な接近しての戦いをさせるんですか……?」

「人の術など、本当に恐ろしい連中には効かぬからですよ」

「恐ろしい連中……」

 

 たゆうさんは言った。

 

「〈神〉ですね」

 

〈神〉―――さっきみたいな奴のことだろうか。

 

「わたくしたちが或子たちに叩き込んでいるのは、あの小娘どもが将来戦わなければならない旧い連中相手に生き残るための糧なのです。術も結界も効かない、生粋の化け物どもからなんとしてでも勝つための」

「―――」

「この国の八百万の柱たちの力も弱くなった。柱たちの加護に頼った術ではもうただの雑魚の妖魅にさえ苦戦してしまう。こんな時代に〈社務所〉の媛巫女がいくさを続けるためには、純粋な実力がいるのです。技と戦略と知恵の実力(ちから)が」

 

 つまり、もうたゆうさんのようなやり方はできなくなりつつあるということか。

 

「それに、もともと〈神〉相手ならばわたくしたちの術なんてたいして効き目はない。さっきのは偽神(ぎしん)だから効いただけですから」

「では、〈護摩台〉も……」

「結界も術もいずれは役に立たない御代が来るでしょう。そのときのために、今からでも鍛えねばならないのですよ。小娘たちのためにも、平和な後代のためにも」

 

 だから、彼女たちは……

 

 注文の多い料理店の中に突入した御子内さんたちが心配になった。

 さっきの偽神のようなものが待ち構えているかも知れないからだった。

 不安だ。

 いかに御子内さんでも大丈夫なのだろうか。

 

 この何が起きるかわからない〈迷い家〉に踏み込んでしまった僕の巫女レスラーは。

 



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神の廃棄物処理場

 

 

「この〈迷い家〉はいったい何のために顕現しているんでしょうか?」

 

 たゆうさんに聞いてみた。

 山猫軒に突入した御子内さんたちを助ける手段は僕にはない。

 ここで黙ってじっとアリアドネの糸車を握って、それを頼りに彼女たちが帰還するのを待ち続けるだけだ。

 それでも、この怪奇現象がなんのためのものなのか、僕は知っておかねばならないと思っていた。

 彼女たちの戦いの意味をわかっておきたかったからだ。

 

「―――妹の死に絶望した宮沢賢治は、東北の荒れ地を流離い、地の涯で一柱の神に出会いました。その神の名は―――イタクァ。マレー半島のチョー・チョー人などから信仰されていた、風に乗って歩む神です」

「イタクァ?」

「ええ。この極東にある国には、太古の昔からまつろわぬ神々が最後に辿り着く墓場としての特徴があります。自分たちの国ではもう信仰されなくなり、場合によっては耶蘇教によって悪魔にまで貶められた神々は、大陸を彷徨し、海を渡り、この弓状の島でひっそりと消滅していきました」

 

 神の墓場って……こと?

 

「大黒天はインドを追われこの国で大黒様となりました。不老不死を求めて海を渡ったとする徐福は、実は始皇帝の命で黄帝が滅ぼしきれなかった蚩尤を封じるためにこの島に着ました。耶蘇のイエスの弟も青森の地で兄の魂を葬りました。―――この島は神の流刑地であり、安息の場でもありました」

 

 たゆうさんは続ける。

 

「だからかどうかは知りませんが、この国には古来より数えきれない神格が姿を現すことがあります。先ほど語ったイタクァもその一柱です。そして、神々は今でもこの国にやってきて―――時折、災厄を引き起こします」

「災厄って……」

「おまえ様方は知らないことです。なぜなら、多くの場合、わたくしどもや多くの諸機関が未然に防いできていたからです。地震も、津波も、雪崩も、起きうる前に芽を摘み取ってきました。稀に摘みきれずに被害を出してしまうことが心苦しいのですが、それでもわたくしどもにしか解決できない問題は山のようにありました」

「―――」

「そして、この〈迷い家〉もその一つです。この現象は、風の神イタクァを呼び出すためのもので、或子たちがしなければならないのは召喚の阻止なのです」

 

 さすがに驚いた。

 神さまの召喚なんて……

 もしかしたら、それは今まで目撃していた妖怪退治なんて目じゃないほどの大事件なのではないだろうか。

 

「おそらく血糊で閉じられた〈春と修羅〉の初版本に記されていた謎の言語というのは、イーハートーヴから神を召喚するための呪文だったのでしょう。神の降臨を望むなど魔導書の本領発揮といったところですか。……そこの博物館から〈春と修羅〉を盗み出したものは、この帝都で絶対にやってはいけないことをしようとしているのですよ」

 

 さっきの子供とその背後にいた巨人。

 あれと同じものが、いや、さらに危険なものが両国のこんなところに結界を越えて現われたとしたらどんな悲劇が舞い降りることか。

 僕には想像もつかない。

 怪獣映画の一シーンのようにわかりやすい破壊が引き起こされるならまだマシな方だろう。

 あの偽神にはそんなものを覆す宇宙的恐怖があった。

 賭けてもいい。

 きっと碌なことにならない。

 かつての〈社務所〉の所属の巫女たちが防ぎきれなかった地震や津波や台風でさえも比べ物にならない悲劇が起きるのは、火を見るよりも明らかだ。

 そんなもの、絶対に止めなくちゃならない。

 

「……まあ、貴方様がそこまで心配をするほどのことではありません。或子が……あのバカ娘がきっとなんとかするでしょうし」

「え、バカ娘って……?」

「あなた様が面倒をみているあの益荒男娘(ますらおむすめ)のことですよ」

 

 益荒男って男のことじゃないかな……

 

「御子内さん……が……?」

「あれは、伊達と酔狂でわたくしどもが見つけて育てた訳ではありません。確たる素質と意志を兼ね備えていたから媛巫女に選んだのです。まあ、或子の影響があってか、明王殿の後継や於駒神社の子猫でさえ、ああまで強く成長するとは思っていませんでしたけどね」

 

 たゆうさんは、弟子の御子内さんに対して賞賛の言葉を送った。

 確かに彼女は凄いから。

 その姿はまるで自慢の孫娘を褒める優しい祖母のようだった。

 

「あなたさまはどっしりと構えて、ここでわたくしと待つとしましょう。今生の媛巫女たちが無辜なる民草を救うに値する力を持っていると信じて」

 

 そうだ。

 何が起きるかはわからないけれど、レイさんとあの―――御子内或子が為すすべもなく手をこまねいているはずがない。

 

「が……頑張れ……御子内さん!!」

 

 絶対に声は届かない。

 だが、僕にはもう応援するしかすることはなかった。

 だから、叫ぶ。

 

 頑張れ、御子内さん!! 

 

 と。

 

 



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第39試合 童話と恐怖の時代 後編
身を灼いて星になる


 

 

 明王殿レイは宇宙の中心に立っていた。

 彼女の視界に入っている世界と主観で考えてみたら、の話だ。

 足の裏には確かに堅い床の感触がある。

 だが、レイの瞳に映っているのは、まぎれもなく大宇宙―――銀河系の光景であった。

 

「幻覚……かよ」

 

 ついさっきまでの山猫軒の、いかにも古いレストランテという廊下の漆喰の壁はなくなり、どこまでも続くような宇宙が広がっていた。

 対峙していた巨大な醜い鳥―――〈よだか〉が飛び回るたびに、まるでペンキで塗りつぶされるように景色が黒く変わっていき、最後には誰もが知る宇宙そのものにまで変貌を遂げていたのである。

 宇宙そのものでないことはわかる。

 無重力でもないし、呼吸も苦しくはならないからだ。

 見た目だけの宇宙だ。

 そして、脱出するためには少し離れたところにある扉から行くしかない。

 

『鉄砲と弾丸をここに置いて行ってください』

 

 と金文字で書かれた扉から。

 

「鉄砲をもって飯を食う訳にはいかないが、だからといって無防備にはなれないぜ」

 

〈よだか〉はどこかに飛んで行ったままだ。

 だが、彼女を見逃してくれるとは思えない。

 レイは〈神腕〉を構えた。

 退魔巫女の中でも屈指の攻撃力を誇る、明王殿家の跡継ぎだけが使える神の手だ。

 いざというときに一番頼りになるものだといっていい。

 もっとも、最近のレイは少しこの腕のことを疎ましく思っていた。

 

(結局、〈神腕〉がなければオレはただの粗暴な女でしかねえ)

 

 ここ数か月、レイを悩ましているのはそのことだった。

 仲間たちにはない恵まれた神通力を持っているだけで、若手の退魔巫女でもイチ、ニを争う実力者と呼ばれていることに疑問を覚えていたのだ。

 何か特別なきっかけがあった訳ではない。

 闘士としての在りようについての問題だ。

 

「こんなのに苦労しているようじゃな……」

 

 下を見ると、無限の星の連なりが飛んでいる。

〈よだか〉はこの宇宙を飛ぶ攻撃機として着かず離れずのヒット&アウェイを仕掛けてい来るのだ。

 そもそも〈よだか〉は侵入者である巫女たちを足止めするために配置されているはず。

 だったら、時間を稼ぐために、宇宙空間を擬したフィールドを用意したとしても不思議はない。

 だが、迂闊な動くことはできない。

〈よだか〉から放たれる殺気の類いが尋常ではないからだ。

 隙を見せれば確実に致命傷を与えられる。

 すぐにでも先行している或子を助けに行きたいので、完全に足止めを許している状態であった。

 

「―――っつう訳にもいかねえんだよ」

 

 初めて会ったときから、不倶戴天のライバルになった。

 まともに()り合って二戦二敗と負け越している間柄だが、御子内或子にとって最大のライバルは自分であると自負している。

 他の同期たちは、あまり仲間内での序列について執着することはないが、実力が拮抗しているからこそずっと気になり続けていた。

 純粋に強さを追い求めることの競争相手として。

 つい最近まではそれで済んでいた。

 しかし、最近はややスタンスが変わっている。

 レイは一人の少年のことが気になっていた。

 色恋の問題ではない。

 そう自分に言い聞かせてはいたが、実際にはそれに近いだろう。

 平安から伝わる名家・明王殿の後継ぎとして、妖怪退治の退魔巫女として、殺伐とした世界を生きていたから浮ついた気分にはなれないだけかもしれない。

 ただ、その相手が問題なのだ。

 

(どー考えても、或子に気があるんだよなあ。或子のバカもまんざらではなさそうだけど……)

 

 要するに嫉妬なのだが、気になる少年とライバルがいい雰囲気というのがなんとなく許せない。

 悶々として暮らしているうちに、今まで誇りに思っていた〈神腕〉が厭わしくなってきた。

 もしかしたら、これのせいで自分は損をしてきたのではないか。

 そんな風に卑下をしてしまう自分がいた。

 女としては得難い破壊力を与えてくれて、色々な意味で無敵の存在にさせてくれる、この産まれながらの贈り物(ギフト)の存在がマイナスに働いているのでは。

 もちろん、授けてくれたご先祖に感謝はしている。

 多くの人々を守れたのも事実だ。

 ただ、平凡な少女としての暮らしは送れなかった。

 千葉県内の女子高に通っている時は、それなりに年頃らしい生活はできているものの、やはり浮いてしまっていることは否めない。

 他の同期もおそらく同じような境遇だろう。

 物心ついたときには、〈神腕〉の巫女として実家の神社どころか成田山の神事にまで駆りだされていたレイには、やはり普通の生活というのは難しいのだ。

 だから、色恋の経験もないし、彼氏なんて考えたこともない。

 それなのに、あの少年に出会ってしまった。

 正直な話、彼女の「格」に相応しい相手ではない。

 千葉最大の神社である成田山の格式に匹敵するのが、レイの実家なのだから。

 だが、そんなものでは止められないほど、彼女はあの少年のことが気になっていた。

 強くは……ない。

 神通力も……ない。

 ただ、頭が良く知恵が働き勇気を備えている。

 簡単に聞いただけで、あの爆弾小僧をどれだけ助けてきたのかが手に取るようにわかるのだ。

 普段ならばただのど素人の高校生を退魔の現場に近寄らせるなんて、〈社務所〉は絶対にしない。

〈護摩台〉を造るための人手としてならともかく、それ以上のことは普通ならやらせない。

 それなのに、少年は御子内或子と一緒に多くの現場に立ち入っているのは、完全に上が黙認しているからだ。

 何故か?

 音子からの話を総合すると、少年には〈一指〉という強運があるらしい。

 最後の最後まで足掻いてもがいて這いずり回ったものが、限界のギリギリで発揮する絶対的な強運。

 古代中国の文献にも載っているものの、実際にそれを備えたものはほとんどいないという、最後に立っている勝者(ラストマン・スタンディング)のための運。

 そのせいだろうか。

〈一指〉を利用して妖魅との戦いを有利に運ぶためか。

 いや、違う。

 おそらく〈社務所〉が黙認しているのは、彼の機転と勇気と〈一指〉を利用して、或子という媛巫女を守らせるためだ。

 御子内或子の独特の立ち位置については、噂程度でしか知らない。

 家にまで遊びに行って泊まり込んだこともあるというのに、親友といってもいい相手の事情がほとんどわからない。

 だが、彼女が〈社務所〉にとって特別な存在になっているということだけは知っていた。

 その或子を鍛え上げる必要性と守らなければならない必要性の二つの相反するものをクリアするために、升麻京一という少年は選ばれたのだ。

 或子と少年は裂けがたく結びついている。

 そう考えるとレイの片思いは成就しないだろう。

 似たような想いでいるはずの、神宮女音子も同じだ。

 あの二人の間には割りこめないかもしれない。

 だが……

 

「戦いでも色恋でも、いつまでもあいつの後背を舐めてばかりはいられねえんだよ」

 

 レイはいつもの劈掛掌の構えを解いて、別の構えに切り替えた。

 ここ数ヶ月、マスターするのに必死になってきた大技のために。

〈神腕〉の左右の両腕に宿っている。

 威力に差はない。

 とはいえ、片腕だけでも十分すぎる破壊力があることから、どちらかが当たるだけで勝負をつけることは容易だった。

 だから、今まで対の〈神腕〉を同時に使う機会は滅多に無かった。

 だが、これからレイが使うのはそれだけではない。

 単なる打撃だけでなく、螺旋の捻りまで加えた掌打だった。

 或子の得意技である発勁を自分なりに改良した、中国拳法劈掛掌の使い手であるレイだからこそ可能な極限の双掌打である。

 妖気が後ろから迫ってくる。

〈よだか〉がついに燐によって燃え盛る炎の鳥となってとどめを刺しにやってきた。

 醜い顔をさらに歪めて。

 

「―――よだかは虫を食べずに飢えて死のうとまで決意した、優しい奴なんだよ。おまえみたいに、おかしな妖魅の手下になんか絶対になる奴じゃねえ……」

 

 身体を灼けば、ひかりになれる。

 

 そんな窮地に至れるのならば、強くなることも無駄ではないだろう。

 レイは肉体を捻り、掌をくっつける。

 そして、背後の宇宙から飛んできた〈よだか〉目掛けて、カウンターで合わせた。

 不動明王が与えたという降魔の利剣に匹敵する〈神腕〉の破壊力に、螺旋の捩り、レイの裂帛の〈気〉が重なり合った一撃が過たず、〈よだか〉の歪んだ嘴に命中する。

 宇宙全体からすれば小さいが、大きな光がレイを包み込んだ。

 燐とともに燃え盛る〈よだか〉は爆散する。

 その瞬間、もう一度劈掛掌の連続技を叩きこみ、ある方向に消えゆく妖魅を誘導した。

 ローマ字のWの形をした星座のある場所へ。

 

「よだかの星は―――そこにないとな……」

 

 優しく哀しいよだかの場所はそこだからだ。

 燐の火が消えると同時に宇宙の幻も消えた。

 妖魅の力がなくなったのだろう。

 相変わらず山猫軒の中だが、それはこの先に待ち受けるものをぶっ倒せば終わることだ。

 レイは先行する親友のあとを追った。

 

 



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料理店の行き止まり

 

 

『どうか帽子と外套と靴をおとりください』

 

 黒い扉に書かれた金文字を流し読みして、注文をまったく無視して或子は先に突き進んだ。

 どうせ注文主も聞いてもらえるとは思ってはいないだろう。

 この山猫軒に潜むものたちは、単に物語をなぞっているだけだ。

 物語の中の二人の若い紳士のように、自分の都合のよいように解釈して疑いもせずに進むとは考えてもいないだろう。

 もちろん、或子もそのつもりだ。

 時間がないのはわかっていた。

 ついさっき結界の外部で異常なまでの妖気の高まりがあったのを感じていたからだ。

 妖魅や妖怪の類いではありえないほどの巨大な妖気。

 或子はその正体も薄々見当がついていた。

 

「神さまの召喚か……」

 

 宮沢賢治の魔導書〈春と修羅〉を用いて行われるというのならば、おそらく風の神イタクァが目的だろう。

 日本ではなじみの薄い神だが、アメリカでもアジアでも大陸部ではよく知られている。

〈社務所〉の調査でも賢治とイタクァの関係は確認されているのでまず間違いはないはずだ。

 多くの人を風で空に巻き上げて生贄とする血に飢えた神―――いや邪神である。

 賢治はその邪神の信者であったようだから、彼が生きていたとしたらきっと召喚を目論むことだろう。

〈春と修羅〉初版本にはその呪文が記されていたのであろうから。

 だが、そんなものをこの東京で召喚させてたまるものか。

 或子は無限に続くかと思わせる扉をどんどんと蹴り開けていく。

 罠があるかもしれない。

 しかし、慎重に進んでいく暇はない。

 自分自身の勘と運を信じていく。

 もし、この世に御子内或子を必要とするものがいるとしたら、たかが罠ごときで彼女を遮れるはずがない。

 傲慢ともとれる自負心を抱いて、或子は突撃を続ける。

 新しい扉を開いたとき、

 

『いろいろと注文が多くてうるさかったでしょう。お気の毒でした。もうこれだけです。どうかからだじゅうに、壺の中の塩をたくさんよくもみこんでください』

 

 と書かれている。

 或子はにやりと不敵に笑った。

 

「……ということは、この扉を開けたら子分どもが待ち構えているってことだね。ふん、長くイラつかせてくれたもんだけど、もうおしまいにしてやる」

 

 逃げることなどありえない。

 御子内或子の足は前に進むためについているのだから。

 幾つめかは覚えていないが、或子は黒い扉をまたも乱暴に蹴り開けた。

 もう一枚、これまでの二倍のサイズの扉があり、大きな鍵穴が二つついていて、銀色のフォークとナイフの形が切りだしてあった。

 例の金文字には、

 

『いや、わざわざご苦労様です。しかし、大変残念な出来でございます。仕方ありませんが、そのままおなかにお入りください』

 

 とあった。

 或子の記憶にある文言とは違う。

 すべての注文を無視してきた彼女に対して立腹しているらしいことがわかる。

 だが、物語をなぞらえて言いなりになるなんてことはできない。

 鍵穴からこちらを見つめる二つの黄色の目玉がキョロキョロと動いていた。

 何かがあの扉の向こうで様子を窺っているのだ。

 妖魅特有のオパールの瞳を持って。

 

『ダメだ、ダメだ。こっちのいうことを聞きやしない。まったくなんて客だ』

『あたりまえさ。今どき、注意書きを忠実に守るような行儀のよい客がいるわけがない。やっぱりいつもの通りにギャルソンを用意しておくべきだったんだ。親分の言うことを聞くべきだったんだよ』

『だけど、もともとの間抜けな文章を書いたのは親分だ。悪いのはあっちじゃないかな』

『どっちでもいいよ。どのみち、あんなに美味しそうな相手でも骨だってわけてくれないんだ』

『それはそうだけど、料理をするのは僕らの責任なんだぜ』

『じゃあ、呼ぶか。―――おい、お客さん。早くいらっしゃい。お皿も洗ってあるし、付け合わせのサラダも用意してあるんだよ。あとは、あんたらと綺麗に盛り合わせればいいだけなんだ。はやくいらっしゃい』

『いらっしゃい、いらっしゃい。なんなら、フライでも天ぷらでもどれでも構いませんよ。下ごしらえはできていないけれど、まあ何とかなるでしょう』

 

 舌なめずりをしているのが想像できる猫なで声が聞こえてくる。

 誘っている。

 扉の奥から或子を骨までしゃぶりつくそうと誘っている。

 

『いらっしゃい、いらっしゃい。さっきまでの勢いはどうしたのですか。足が竦んで動けないのですか。―――へい、ただいま。じきに持って参ります。……では、こちらからお伺いしてもよろしいんですよ』

『早くいらっしゃい。親分が、お客さんを待っていらっしゃるんですから。なにを愚図愚図してらっしゃるんですか、このノロマめ』

 

 身じろぎ一つしない或子を、怯えてしまって動けないと見たのだ。

 

『なんたることだ。肩が震えている』

『泣いている! 泣き声を漏らしている!』

『所詮はただの人の小娘であったということか』

『用心して無駄であった! これではさっさとフライにしてしまうしかないではないか。面白くもない』

『面白くなし』

『親分の眼も曇られたものだ』

『では、さっさと―――』

 

 その明らかに或子を舐めきった台詞が止まった。

 宙に呑み込まれた。

 或子は泣いてなどいなかった。

 漏らしていたのは泣き声などではなかったのだ。

 低く低く、やがて廊下全てを揺るがせて鳴り響くような哄笑の凄まじさは、もはや、ただの少女のものの範疇には留まらなかった。

 ぐいとまっすぐにねめつけた視線は、扉の奥のものをもたじろがせた。

 唇を吊り上げた笑いは、たじろがせたものを石へと変えた。

 

「―――この程度のレストランテが客に注文をつけるというのかい? は、ちゃんちゃらおかしいね!

 

 或子は両腕を組んで、仁王像のように言い放った。

 

「注文の多い料理店は、どっちもどっちの悪党同士による収奪の物語だというけど、それは物語の上でのことさ。キミたちは、ここでただの通行人をお客様にしたてあげて餌食にしてきただけのただ化け物じゃないか! 少なくとも、悪いのは確実にキミらだ!」

 

 そして、指を突き付け、

 

「人を害する化け物どもめ。太陽神天照大神の力をお借りした〈社務所〉の媛巫女が恐ろしくないというのならかかってくるがいいさ!」

 

 或子の発した啖呵に対して、扉の奥のものたちは、さっきまでの態度とは打って変わった弱腰で、

 

『なんか恐ろしい客みたいだよ』

『親分が言っていたのとだいぶ違うんじゃないかな?』

『ちょっと強そうだよ。僕たちの予想よりもずっと強そうだよ』

『でも、行くしかないんじゃないかな』

『―――行くしかないのかな』

『親分がキレたら僕たちも終わりだから』

『それはこわいねえ』

『僕わからない』

『僕たちしっかりやろうねえ』

『そうだね、カンパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ』

 

 こそこそと話し合いをしたかと思うと、いきなり扉が開いて、赤と青の二つの色の毛皮を持つ人よりも大きな怪猫が或子目掛けて襲い掛かってきた。

 或子は慌てもせずに構えを取り、そして迎撃する。

 さらに奥にはまだ親分と呼ばれる敵がいる。

 こんなところで手こずっている訳にはいかないのだ。

 

 

 



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二匹は仲良しの猫

 

 

 蒼赤二匹の巨大な猫たちは、左右から或子目掛けて襲い掛かった。

 ともに上半身だけは人間と同じ服を着て、蒼い方はブラウンのチョッキ、赤い方は黒の背広をネクタイとともにまとっていた。

 かつて〈化け猫〉と戦った経験のある或子だったが、左右から爪を振るってくる二匹を相手にすることは至難の業であった。

 使ってくるのは手首から先をスナップさせるいわゆる「猫パンチ」で、一瞬の速度がただの振り下ろしのテレホンなものとは違って速い。

 見切りの達人でもある或子でさえ、両者からの攻撃を凌ぐのに全集中力を駆使しなければならなかった。

 

「ちぃ!!」

 

 扉の奥で舌足らずに喋っていたときとは、比べ物にならない獰猛さに、思わず後退してしまう。

 ただでさえ、或子よりも大きい相手が二匹だ。

 さばくので手一杯といえた。

 

『あれ、あれあれ?』

『なんで抵抗するのさ。さっさと僕たちにやられて食材になってもらわないと塩を揉みこむ時間がないじゃないか』

『クリームを塗る時間もね』

『香水もかけないとならないんだよ』

『ああ、忙しい忙しい』

 

 二匹の猫たちは、どことなく人間を思わせる貌をして、まさに猫なで声で或子を話しかけてきた。

 まだ元々の物語に倣って、或子たちを取って食おうという企みは捨てていないようだった。

 

「残念だけど、ボクぐらいの美少女だと身持ちが堅くなってね。好きでもない口の臭い相手に食べられてあげる訳にはいかないのさ!」

 

 減らず口ならば或子も負けない。

 ハッタリと煽りも戦術の一環だ。

 こういう口技もみっちりと〈社務所〉の修業場では仕込まれる。

 あまり使わないが、寡黙な質の音子や藍色でさえ、その気になったらえげつない駆け引きをすることもできるのだ。

 

『生意気な人間だね』

『さっき脅かされたのもちょっと腹が立つから、お腹を割いて、腸を引きずり出してあげちゃおうか』

『それよりも両腕をもいで、右と左を付け替えてあげようよ』

『首を切って、脚の先に結び付けてしまおうか』

『いいね、いいね、それはいいね』

『僕たち一緒にやろうねえ』

 

 猫の貌がさらに人に似たものになっていく。

 鼻づらが引っ込み、ヒトと獣の合いの子のようになっていった。

 さっきまで四足だったのに、気が付くと後脚で立ちあがり、或子に猫パンチを浴びせかけてくる。

 本来、四足獣が立ち上がると、全体のバランスが悪く長く維持できるものではない。

 だが、この人の服を纏った二匹の大猫は、器用に人間同様に歩き始めた。

 動きもしなやかでぎこちなさは見当たらない。

 もともとこちらの方が真の姿だと言わんばかりに。

〈化け猫〉というよりも、〈人猫〉といった方がいい容姿に変化していく。

 

「広異記にある踵のない虎人の同類ってことかな。それとも、此夕渓山対明月―――中嶋敦の山月記か? どのみち、ネコ科の妖怪ってのに間違いはないけどねっ!」

 

 猫たちにとって真の姿を見せたのは、実のところ動きやすくなるためであり、これでさらに或子を圧倒できるはずであった。

 だが、JKの退魔巫女にとっては違っていた。

 逆に立ってくれた方がやりやすかった。

 なんといっても、御子内或子は立ち技最強を誇るのだから。

 ブラウンのチョッキの猫の前肢を挟んで極めると、そのまま捩りあげ、床に叩き付ける。

 猫は関節をとられた痛みから従わざるを得ない。

 頭から床にぶつかった。

 

『ジョバンニ!!』

 

 背広の赤い猫が仲間を助けるために駆け寄るが、一足早く立ち上がった或子のヤクザキックを腹に受けてたじろぐ。

 当初圧されていたのは、二対一という数的不利があったからだ。

 うまく各個撃破に持ち込めれば……

 或子の得意とする形に持ち込める。

 

「でりゃあ!!」

 

 或子はカンパネルラと呼ばれている赤猫の背後に回り、へそで持ち上げて、ブリッジで頭から落とした。

 バックドロップだった。

 ここは〈護摩台〉ではないから三秒フォールはルールとしてない以上、スープレックスはダメージを与えるためにしか使えない。

 得意のジャーマンよりもバックドロップを選んだのはそのためだ。

 そして、起き上がろうとするカンパネルラの首筋に跳びあがってギロチンドロップを叩きこむ。

 ダブルドロップだ。

 そして、そろそろと近づいていた青猫―――ジョバンニに対して向き合い、猫パンチにカウンターを合わせて崩拳を叩きこむ。

 プロレス技と中国拳法のコラボレーションが基本的な或子の戦い方だった。

 それが通用する限り。

 この二匹の人猫は、以前の〈化け猫〉ほど野生というわけではなかった。

 だが……

 

 クシュン

 

 耐えきれずに或子はくしゃみをした。

 攻められていたときはなんとか堪えていたが、やはり自然現象には勝てない。

 いや、自然現象とはいいきれない。

 おそらくはジョバンニとカンパネルラの二匹の猫ッ毛が彼女にとって軽いアレルギーを引き起こしているはずだからだ。

 倒した〈化け猫〉の呪いともとれる猫毛アレルギー反応が、急激に目の奥に涙をにじませ、鼻孔を刺激し、くしゃみを誘発していた。

 よく見ると手に湿疹がある。

 ただの猫アレルギーではなく、妖魅から放出される妖気が増幅していることだろう。

 欧米で猫の呪いと呼ばれるものがこれであった。

 むずむずとする眼窩と鼻孔に気を取られないようにしなければならない。

 

『カンパネルラ~』

『情けない声を出すなよ、ジョバンニ。僕たちはこいつをサザンクロスの駅に降ろさなればならないんだからさ』

『……そうだね。僕らがやらなくちゃならないだもんね。意地悪なザネリを始末する時のようにさ』

 

 相棒から手を差し伸べられてジョバンニは立ち上がった。

 猫アレルギーのせいで動きが止まっている間に、再び状況は二対一に戻ってしまう。

 或子は舌打ちをした。

 本当なら、あそこで畳みかけていかなければならないところなのに。

 

『仕方ない、銀河ステーションに行こうか。そこでなら、このお客様を簡単に捌いて腑分けできるってもんだ』

『いいねえ、カンパネルラ。僕らで一緒にやろうねえ』

 

 次の瞬間、或子の観ている景色は一変した。

 

 

 



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天地にただ一人

 

 巨大な木箱に詰めた大量のダイヤモンドをいきなり黒い重油の上にばらまいたように、目の前が明るくなった。

 或子がまばたきを三回している間に、視界のすべてが広大な銀河系に変貌していた。

 自分自身がちっぽけな星にしか思えないぐらいに広い宇宙の片隅に、或子は立ち尽くしていた。

 幻覚であることは言うまでもない。

 だが、あまりにも突拍子もない幻覚であった。

 催眠術らしきものをかけられた記憶はないので、おそらくはこの建物自体にこの宇宙を映し出す機能があるのだろう。

 

「厄介だなあ」

 

 呑気に或子は言い放つ。

 努めて冷静にならないのは、敵の意図がどこにあるにせよ、片っ端から迎撃してしまえばいいのだからという理由である。

 彼女にとっては至極簡単な話だからだ。

 少し離れた場所に縦横無尽に曳いてある列車の線路が見える。

 すでに元ネタを看破している或子にとってはその意味ははっきりしていた。

 

「銀河鉄道ねえ。どこまでも元のお話を踏襲してくる」

 

 ジョバンニとカンパネルラの名前を聞いただけで、この〈迷い家〉が物語を見立てて罠を張っているということは一目瞭然だ。

 それ以前にここが注文の多い料理店である以上、賢治の童話をグロテスクに変貌させて力としているのはわかっていたことだが。

 魔導書〈春と修羅〉を利用して何かをしようと企む(すでにおおよそは判明していたが)相手は、やはり相性のいい同作者の童話をもとに守護の結界を張っているのだろう。

 さっきレイが足止めしていた〈よだか〉といい、この二匹といい、有名だからこそ顕現すれば力も増える。

 邪魔をしようとする或子のような敵を排除するためにはいいチョイスといえた。

 

「だけど、どうして猫なんだろうね。ジョバンニとカンパネルラが」

 

 もっともな疑問を口にして、いると線路の上に例の二匹が現われた。

 

『僕らが一緒にかかってもやれなかったねえ』

『やり方が悪かったのさ。ジョジンニ、ここからはね、登って遊んで行こうよ』

『そうだね。それがいい』

 

 なんと赤い猫はひらりと飛びあがると、蒼い猫の肩の上に降り立った。

 親亀子亀ならぬ親猫子猫という様相だったが、単純に高さが二倍になる。

 二対の視線に上下から睨まれた。

 すぐに敵の戦術的意図がわかった。

 

(普通ならばともに動きが鈍くなる無意味な形だが……。 妖怪ともなると話は別ということかな)

 

 とはいえ、時間もない。

 様子見をしている無駄な時間はないものとして、まず突っかけてみた。

 同じ線路上を走り、一気に間合いを詰めると、いきなりの飛び蹴りを下段にいる蒼猫に向けて放つ。

 蒼猫は前肢を十字にして或子の足裏を防ぎ、その瞬間、肩の上の赤猫がくるりと回って或子の背中に降り様に爪を振るった。

 身をよじって躱した或子だったが、蒼猫からもやってきた攻撃に対して巫女装束の白衣を切り裂かれる。

 いや、白衣が犠牲になった程度で済んだというべきか。

 或子であっても間一髪で刃の洗礼をようやく免れたというぐらいの奇襲でもあった。

 人間の眼は上下に見る対象が移動すると捉えきれないという欠点がある。

 鍛え上げた超人的な反射神経を持つ或子であっても、ベースとなる人間機能の限界をふりきることはできないのだ。

 彼女を救ったのは、経験と勘の二つであった。

 特に何十もの妖怪とリングで死闘を繰り広げたことによって培われた戦いの経験値は、他の退魔巫女同様に彼女にとって最大の武器の一つでもある。

 

「ちょいや!!」

 

 無理な姿勢でサッカーのバイシクルシュートのように蒼猫の腹を蹴りあげ、或子はバク転をしながら二匹から少しでも離れる。

 体勢を立て直さないと。

 だが、予想していた追撃はなかった。

 二匹は彼女を追うのではなく、再び上下に合体した。

 今度は逆に上に蒼猫ジョバンニ、下に赤猫カンパネルラである。

 そこでようやく或子には敵の戦術的意図が呑み込めた。

 

(攻防一体の構えということだね。しかも、完全にカウンター狙いだから下手に突っかかればどちらかにやられる。―――天地拳とでも言うべきなのかも)

 

 或子にとってみれば、かつて〈手長〉〈足長〉という妖怪と戦ったときを思い出す戦法だ。

 ただし、あっちは共に半巨人族といってもいい巨体の妖怪だったのでスピード自体はたいしたことがなかった。

 しかし、この魔猫二匹はあまりにも素早い。

 下を狙えば、上が回り込んでくる。

 上を狙えば、下から突いてくる。

 かといって、この場をさっさと放棄して隣の親分と呼ばれているもののところへといくと完全に挟み撃ちだ。

 あの魔猫たちを振り切って奥に向かったとしても振り切れる可能性はない。

 左右に揺さぶる?

 だが、この大宇宙を模した幻覚のおかげで足元に何があるか定かではない状態だ。

 もし罠でもあったら致命的なことになる。

 ただの段差でも危ないぐらいなのだ。

 はっきりと行き詰った。

 あの魔猫の天地拳を打ち破り、どうにかして先に行ってこの〈迷い家〉を消滅させなければならないというのに。

 どういう訳か、さっき感じた巨大な妖気は消えてしまっているが、それでもあんなものが近くにいるというだけで人々にとっては危険極まりない。

 

 今、ここで動けるのはボクだけなんだ。

 ボクがなんとかしないと……

 

 そう或子が悲壮な決意をしたとき、後方にある彼女が入ってきた扉が開いた。

 

「或子、待たせた!!」

 

 やってきたのは頼りになる親友だった。

 

「ボクだけじゃなかったっけ」

 

 或子は自分が焦っていたことを悟った。

 焦りは隙を産み、焦慮は好機を逃す。

 そんな基本を忘れかけていた。

 戦いは一人でするものじゃない。

 ボクは代表であるけれど、それは後ろで応援してくれている人があってのことだ。

 いい気になってはいけない。

 調子づいてもいけない。

 皮肉にも戦っている宮沢賢治の言葉が頭をよぎった。

 

(世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない)

 

 きっと賢治はこの思想の果てになにかを得たのだろう。

 世界ぜんたいのために戦うべき時はある。

 

「レイ!!」

「なんだ!?」

「肩を借りるよ!」

 

 ひらっと或子はレイの肩の上に乗った。

 まるで目の前の二匹の魔猫のように。

 

『なんだって!!』

『おかしいよ、あのお客様!』

 

 驚いた様子の二匹の魔猫に対して、或子は言った。

 

「同じ状況下なら、ボクがキミたちなんかに負けるはずはないね」

「ちょっと待て、或子……てめえ、ひとに勝手に乗りやがって……」

「うるさい、〈神腕〉」

 

 或子は魔猫を指さした。

 

「レイちゃん、GO!!」

「最悪だ、てめえは!!」

 

 レイは親友を乗せたまま飛んだ。

 鏡に映った自分たちを見るような戦法に魔猫たちは戸惑い、蒼猫は本能的なおそれも手伝って反射的に飛びあがった。

 同じ目の高さにいる或子目掛けて。

 だが、同じ高さの足場があるというのならば……

 

「ボクの方がキミよりも遥かに強い!」

 

 跳躍し、くるりと背を向けてからの、ローリング・ソバット!!

 降魔の利槍が妖魅を刺し貫く。

 そして、ともに落下しながらの、ニースタンプ。

 床に落ちたとき蒼猫ジョバンニは完全に動けなくなっていた。

 

「よそ見すんな!」

『なに!?』

 

 上段での決着がついてしまえば、下段もそれに倣う。

 破壊力では退魔巫女最強のレイの〈神腕〉から繰り出される、アックスボンバーがカンパネルラの顔面を粉砕した。

 こちらも一対一ならば当然というマッチアップであったのだ。

 床に伸びて動かなくなった二匹とともに銀河系は消えていく。

 もともとの廊下に戻っていった。

 

「……さあさあ、おなかにおはいりください、だとよ」

「おなかって、「お腹」のことかな」

「オレはともかくてめえは食っても腹を下しそうだがな。肉片になっても暴れ回りそうだ」

「キミだって筋張っている癖に」

「なんだと! オレはなこう見えても着痩せして女らしいふっくらとした……」

 

 レイが必死に自分のスタイルを説明しようとしているのに、或子は無視してさっさと歩きだし、扉に手を掛ける。

 躊躇なんて一切なしに開けるところがいかにも御子内或子であった。

 

 奥にはまだ敵がいる。

 

 だが、気にする必要はない。

 或子には頼りになる親友が傍にいるし、〈迷い家〉の外には絶対的に信じられる少年もいる。

 彼女のやるべきことはただ一つ。

 

 進んで倒す。

 

 ただそれだけなのだ。

 

 











すいません、どうもパソコンに不具合が出たのか、投稿時に二度押しをしてしまっているようです。
注意していきますが、もし再度同様のことが起きた場合も勘弁していただけたら幸いです……


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御子内或子の秘密

 

 

 御子内さんたちが山猫軒に突入してから、三十分ほど経過した。

 今のところ、なんの変化もない。

 たゆうさんがやってきてからもすでに十五分は経っている。

 この内部で何が起きているのか、不安で仕方がないところだ。

 いくら御子内さんとレイさんの最強タッグでも、さっきの風の子供のような強敵がわんさかといたら、もしかして……と悪い想像をしてしまう。

 

「……おまえ様は不安そうな顔をしている癖に、意外とどっしりとかまえておられるんですね」

 

 たゆうさんに話しかけられた。

 彼女はいつのまに用意した木のイスに座って寛いでいた。

 ちなみに、目の前には炭が入った七輪があって、それで暖を取っている。

 きっとさっき金属の棒を出すのに使った、『アポーツ』という術で呼び出したものだろう。

 なんというか、見慣れた巫女の子たちとは次元が違う気がする。

 七輪の上で焼いていたせんべいを火箸で引っ繰り返しながら、たゆうさんは言う。

 

「御子内さんは―――強いですから」

「そうですね」

 

 一枚だけ、うまく焼けたのか、たゆうは手に取って割ってみた。

 パリンといい音がした。

 どうやら火が通ったらしく、醤油をハケで塗ると、そのままもう一度だけ炙る。

 

「一枚、食べますか?」

「いただきます」

 

 焼きたてのせんべいを頬張ると、やっぱり熱かった。

 外が寒いのでものすごく美味しく感じる。

 

「……御子内さんって……他のみんなとは違うんですけど、どうしてなんですか?」

 

 ふと、僕は疑問に思っていたことを口にした。

 僕はみんなとそれなりに仲はいいけれど、彼女たちからは聞いてはいけないことのような気がしたからだ。

 直属の上司であるこぶしさんという方面もあったが、彼女の立場では言いづらいこともあるかもしれないし、そういうチャンスもなかった。

 だから、たゆうさんに茶飲み話のように聞ける今がチャンスと考えたのである。

 

「んんん……確かにあの子だけはちょっと毛色が違いますねえ」

「はい。音子さんやレイさん、てんちゃん、藍色さんたちは永く続いた神社の跡取りだったりしますけど、御子内さんは普通の家庭の出身みたいでした。古武道の家系の出身らしい皐月さんとも雰囲気が異なりますし……」

「或子の両親にもお会いなされたのかしら」

「対面はしていませんが、ちらっと拝見しました。……御子内さんのお父さんは、僕には普通の男性に見えました」

 

 皐月さんたちの家でハロウィーンパーティーをしたときのことだ。

 横顔だけだったが、優しそうな普通のおじさんだった。

 御子内さんの持つ意志の強さやオーラは微塵も感じ取れなかった記憶がある。

 

「それはそうでしょう。あの子は養女ですからね。あなた様が眼にされたのは、或子の養親なのです」

「御子内さんが……養子?」

「ええ、そうです」

 

 それは僕が知っていい内容だったのだろうか。

 少なくとも、たまに彼女から聞くご両親の話はとても普通の家族のもののようだったし、お父さんと交わしていた会話も平凡な父娘のものだった。

 養子と養父母が必ずしもよそよそしい訳ではなく、大多数の家庭では血がつながっている家族と同じ営みがなされているのは承知している。

 ただ、養女として育てている娘が〈社務所〉の退魔巫女というのは平凡とはいえない。

 勝手で醜い先入観かもしれないけれど、家業として巫女になっているみんなとは違って、うまくいかなくなるのではないかと邪推してしまうのだ。

 そして、それを僕みたいな第三者が知っていいことなのだろうか。

 

「家庭内はうまくいってますよ。養父母ももとは〈社務所(うち)〉の関係者ですから、理解はしてくれていますしね。それに、あの娘はとても気立ての優しい、まっすぐな良い子ですから、両親にとても可愛がられています。あなた様の心配するようなことはありませんからね」

「なら、良かったです」

「ええ。―――まあ、媛巫女にするまでは時間がかかってしまいましたが、それでも思った以上に立派に成長してくれて嬉しいですね」

 

 このたゆうさんの眼を欺くことはとてもできそうもないから、きっと彼女の言葉通り、御子内家の一家団欒は明るいものなのだろう。

 胸をなでおろした。

 でも、それならどうして御子内さんは退魔の巫女になったのだろうか。

 本当のところ、疑問は尽きない。

 

「神社の跡継ぎとか古武道の関係者以外で、〈社務所〉の巫女になるってよくあることなんですか?」

「稀にあります。もともと強力な神通力をもって産まれた子や妖魅と深い関りを持っていた子などが偶然見出された場合に、〈社務所〉で保護されることが」

「じゃあ、御子内さんも?」

「或子の場合はかなり特殊なけぇすでしたけどね。手遅れにならないうちに、五行山から助け出せたのは僥倖でした。あのまま放置されていたら、あの娘も今みたいに明るい子にはなれなかったかもしれません」

「五行山……?」

 

 よくわからないけれど、御子内さんが今のご両親に引き取られる以前、何かおかしな扱いを受けていたということだろうか。

 それとも、今の彼女からすると信じられないような立場にいたか。

 

「花果山で産まれた美猴もかくや、というべき媛巫女に育ってくれたのは、わたくしにとっても良いことでしたね」

 

 たゆうさんが彼女に愛情をもって接してくれていることはわかった。

 でなければ、こんな慈愛に満ちた顔はできない。

 

「ですから、わたくしはこれからもあの娘が強く正しく成長していくだろうと信じております。そして、今回のこの程度の逆境も凌げない風には育ててはいませんよ」

 

 だが、それはかなり無理筋な無茶ぶりなのではないだろうか。

 少なくとも、たゆうさんがさっき倒した風の少年とその正体の巨人は、偽神―――神の偽物だったのだ。

 そんなものにただの人間がかなうはずがない。

 まともな人間ならそう思うはずだ。

 だけど、僕はたゆうさんの言葉に頷いた。

 というよりも、御子内さんとレイさんを信じた。

 

「そうですね。きっと、彼女たちなら無事に戻ってきます」

 

 いつものように。

 そう信じるのだ。

 たゆうさんは美味しそうに自分の焼いたせんべいを齧っていた……

 

 



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最果ての晩餐

 

 原典では、注文の多い料理店の描写はここで終わる。

 山猫と思われる妖魅は姿を現さないし、餌食になる寸前だった二人の都会から来た紳士も目撃していない。

 二匹の白熊のようなイヌと「にゃあお」というような動物の叫びが聞こえてきただけだ。

 だから、注文の多い料理店こと山猫軒が幻覚であったとしても、その正体は不明のままで終わる。

 或子とレイの戦いはついに予習のできない範囲へと突入することになった。

 ―――広い部屋だった。

 レストランテというには殺風景で、ラウンドテーブルと椅子が三つ置かれただけの、窓のない部屋だった。

 花瓶の中に百合の花が一輪だけ飾られていた。

 だが、人影はおろか、怪しい場所さえも見当たらない。

 油断なく室内を見渡した二人は、やや拍子抜けしてしまった。

 

「ここまでの廊下と同じなのかな?」

「それはねえだろ。()()としたら、ここだろ。少なくとも賢治の原典では、ここに連れ込まれるということが『おなかにおはいりください』だからさ」

「ということは……」

 

 或子はとことこと無造作に近寄り、椅子を引いてそれに座った。

 

「お、おい」

 

 思わず声を掛けたレイに対して、

 

「料理にして食べてしまおうというのでなければ、お客様扱いなのかもしれない。だったら、着席して料理を待つのもマナーだ」

「―――てめえのくそったれ度胸にはおそれいるよ」

 

 親友ばかりを危険にさらすわけにはいかないと、レイも続いて座った。

 そうすると、何もなかった奥の壁に扉が現われた。

 これまで書かれていた金文字はない。

 ただの扉だった。

 そして、ゆっくりと開く。

 向こう側からやってきたのは、黒いハンチングを被り、カソリックの司祭の着るカソックのような丈の長い服と同色のパンツを履き、縁が太くレンズの丸いロイド眼鏡をつけた青年だった。

 髭はおろか、すべての体毛がなさそうな、蛇のようにぬめっとした印象を与える。

 蛇というよりも鳥に進化する寸前の爬虫類だと、レイは感じた。

 或子でさえ、どことなく癇に障る男だと偏見を持ったぐらいだ。

 青年はゆっくりとテーブルまで近づいてくると、最後に空いたイスに腰掛けた。

 

『―――ようこそ、山猫軒へ』

 

 乾いた東風を思わす声であった。

 耳にした瞬間、理由もなく痛みが走るような。

 単なる打撃ならばともかく内部へ浸透する痛みについては、さすがの巫女たちも処置できない。

 無視できる程度の痛みと割り切るほかはなかった。

 

「てめえがここのオーナーなのか?」

 

 レイは敵意剥き出しの状態で口を開いた。

 すでにわかっている。

 こいつが、()()だと。

 さっきの蒼猫・赤猫と〈よだか〉のどちらもこいつの手下だということについてもである。

 だが、文字通りテーブルについた以上、交渉の余地はあるのかもしれない。

 この会話がただの時間稼ぎだという可能性も忘れてはいなかったが。

 

『そうだ。ほら、これを私が持っていることがその証拠だといっていいだろう』

 

 青年が懐から出したのは、一冊のわらばん紙で印刷された本だった。

 表紙にはタイトルの春と修羅、著者として宮沢賢治の名前がある。

 現在のようにイラストなどはついていないシンプルなデザインのものであった。

 めくらずとも、本全体から漂う妖気から本物であることは疑いようがない。

〈社務所〉どころか、日本中の退魔機関が魔導書と位置付けた書である。

 

「そこの江戸東京博物館から盗んで来たのかい?」

『いいや、もともとこれは私のものだ。わけあってよそに預けておいたら、勝手に晒しものになってしまっていたから取り戻しただけなのだ』

「だったら、この〈迷い家〉の結界はなんだい? 取り戻すだけでいいなら、こんな大袈裟なことはしなくていいはずだろ」

『―――何十年ぶりに手元に戻るのだ。ついでに悲願を叶えるための一歩を踏み出すのも悪くはないはずだ』

「悲願ってなんだよ?」

『もちろん、ほんとうの幸いとは何かを模索することだ』

「―――邪神を使ってかい?」

『イタクァはただの風の神さまだ。邪神などではない』

「ボクらには同じさ。八百万がひしめくボクらの国では、一柱や二柱、邪神が潜り込んでいても気にはしない。ただ、そいつがこの世に災害をもたらすというのならば、話は別だ。始末させてもらう」

 

 或子にとって自明の理だ。

 だが、ハンチングの青年は、

 

『実はね、この世界に生きているものは、みんな死ななけぁならんのだ。どんなもんでも最期には死ぬように。エリートでも、インテリゲンツァでも、プロレタリートでも、つまらない乞食でも、だ』

 

 息継ぎもせずに続ける。

 

『人間も、人間以外も、馬でも牛でも鳥でも鯰でもバクテリアでも、みんな死ななけぁいかんのだ。私もおまえたちもいつかは必ず死ななけぁならんのに、なにを拒む? 死ぬときは潔く、いつでも死にますとこういうことで行くべきなんだ。いっこうなんでもないことさ』

 

 青年は「死」がなんでもないことであるという。

 言葉で平等を訴え、死ぬこともまた同じく公平であると語った。

 

『だから、イタクァがやってくれば死ぬことを受け入れたって別に問題はない。あるかもしれないが、それは些細なことだ。死ななけぁならないことに比べたら、本当に些事でしかないのだ』

「些細なことかどうかは、キミが決めるものではないんじゃないか。第一、キミがボクらの代弁をする立場にあるのかい?」

『ある。私はおまえたちの考えを知るために、おまえたちに成り代わったという想像をしたことがある』

「それでどうなったんだよ。死にたくねえってことになるだろ」

『逆さ。私は死んでもいいと思った。当然のことだ。それからあとのことについて、もう私は知らないのだ。だったら死んでもいい』

 

 青年は訥々と真理を噛んで含めるがごとく言った。

 話の内容よりも、その口調に感じ入って説得されてしまう、そんな喋りだった。

 筋が通っている、いないに関わらず、信じていい内容だと感じられるがごとく。

 だが、彼女は間髪入れずに否定した。

 

「ボクは嫌だね。はい、論破」

「まあ、ちぃと気に入らねえが、こればっかりは或子に同意だな」

「だろ? キミはボクらを代弁して死を許容したといっているけど、そんなことはない。キミの語っているのは死をもたらす側の理屈だ。死を受け入れる側からみた世界ではない。さらに死にたくないと思う側からすれば、死んでから価値を与えられても何の意味もないことだ。それをいかにも、代弁してあげましたというような偽りの論理にボクらが従うものはないね」

「―――もっとわかりやすく言ってやれよ」

「そうだね」

 

 或子は頤に指を一本当ててから、

 

「ちゃんちゃらおかしいから、顔を洗って出直してきやがれ! ってことだね」

 

 青年は顔色こそ変えなかったが、わずかに眉をしかめた。

 

『話が通じない、ということでよろしいか?』

「違うよ」

『では、なんだ?』

「―――キミがなんのつもりでこんなことをしているかは知らないし、どういう力で〈迷い家〉なんてものを顕現させたのかもしらない。ただ、為すすべもなく殺されるのは誰だってゴメンだってことさ!」

 

 或子とレイは目配せといった合図もせずに、息の合った呼吸で目の前のテーブルを蹴り飛ばした。

 ひっくり返った天板は、ハンチングの青年に当たる直前に触れもしないのに半回転し、床に倒れていった

 青年が何をしたかなんてことはわからない。

 ただ、或子たちはたった今青年が語ったばかりの「悪」の理屈を許してはならないと考えていた。

 

『やはり、交渉は決裂か』

「当然だぜ! 悪いがこっちを尊重しているように見えて、実際は侮蔑しているようなやつの言い分が聞けるかってんだ!」

『……けらをまとひおれを見る農夫 ―――ほんたうにおれが見えるのか?』

「見えるさ! 宮沢賢治の不断のテーマは死者と生者の対話だ。それなのに、キミは死者を作り出すことしか興味がない。生きているボクらでは見えないと勘違いをしている。そんな勘違いを押し付けられては困る!」

 

 御子内或子は跳躍した。

 青年の直前で縦に回転し、胴回し回転蹴りを放つ。

 こんな奇襲的な大技が通用するとは思っていない。

 ただ、ぶつけたかった。

 人の死を支配しようとする論理を操る舌の根を切り取ってやりたかった。

 浴びせ蹴りが青年の肩を打った。

 そして、二人はもんどりうって倒れる。

 尻に敷いたまま、まっさきにマウントをとった或子は狂犬の打拳を放とうと右手を振りかぶる。

 だが、青年は或子に組み敷かれたまま、怨嗟に満ちた嘲笑を浮かべる。

 

『……たかが定命の人の身で痴れ事をほざくか』

「残念だけど、ボクらはその定命の人間にとっての決戦存在でね。この関東で何か悪さを企んでいるのなら、まずはボクらを始末することだ。でなければどんな悪事も門前払いさ!」

『では、そうさせてもらおう』

 

 青年は見下した顔のまま言った。

 

 

 

 

 



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魔導書〈春と修羅〉

 

 

 組み伏せたハンチングの男へ一撃を加えようとした瞬間、或子は襟元を引っ張られて、強引に剥がされた。

 

「なっ!!」

 

 この強引なまでの膂力をもつものには覚えがある。

 明王殿レイの〈神腕〉だ。

 彼女が無理矢理に或子を引き剥がしたのだ。

 だが、その理由もすぐにわかった。

 彼女がマウントをとっていた場所に一陣の烈風が吹きすさんだのだ。

 それは風と呼ぶにはあまりに鋭すぎ、そして尖っていた。

 例えるのならば風のギロチン。

 もし、あのまま拳を振り下ろしていたら或子の首は無くなっていたかもしれない。

 

「気をつけろ! 先走り過ぎだ!」

「ごめん!」

「手の内をよく観てから動け、バカが!」

 

 罵倒しながらも親友を助け出したレイの隣に並ぶ。

 確かに今の一瞬、或子は敵を倒すことばかりに気を取られ過ぎていて、反撃を考慮していなかった。

 あのままいけば、レイの言う通りに御子内ではなくて、御/子内になっていたところだ。

 

「らしくねえ真似すんな。―――ここには京一くんがいねえんだから、自分で知恵もきちんと働かせろや」

「く、レイに説教されるとは……!」

「てめえ、ホント、たまにぶん殴りたくなるな」

「うるさいなあ。あと、ボクの京一の名前を馴れ馴れしく呼ばないように」

「そっちこそうるせえよ」

 

 二人が見ている中、青年が膝を曲げることもせずに、おきあがりこぼしのごとく立ち上がった。

 勢いもつけずに、バネ仕掛けの機械のように撥ねあがったのである。

 たったそれだけで青年が人間ではないことがわかった。

 上着のポケットに手を突っ込んだままの青年は猫背のまま、彼女たちを無感情に上目遣いで舐め上げていた。

 その手が出てきた。

 一冊の本を開いて片手に持つ。

 その書の名は―――〈春と修羅〉初版本。

 風に乗って空を翔ける邪神を喚び出すための魔導書であった。

 一見、聖書を片手に説法をする神父のようにさえ思えるが、彼が説くのはヒトの世に災いをもたらすための呪詛と苦悶でしかない。

 引き起こされる災禍は多くの人々が涙を流し、害され、死に向かう地獄への片道切符なのである。

 すべて或子たちが欠片も求めていないものばかりだ。

 

「くるかな」

「だろうよ」

 

 二人が構えを取った途端、爆風が室内を蹂躙した。

 彼女たちは知らなかったが、これは先ほど、山猫軒の外で御所守たゆうが風の少年と戦ったものと同質の魔で造られた風であった。

 その洗礼が二人に襲い掛かる。

 風自体には巫女たちを傷つける力はなかったが、荒れ狂う力の奔流は十分すぎるほどに巫女たちを翻弄した。

 例えば、人は膝の高さまでしかない水に浸かっただけでも、その流れが強ければまったく身動きがとれなくなる。

 それと同様に強すぎる風が四方から吹きつければ、身動きなど一切できなくなる。

 従って、かろうじて可能なのは膝をつくことだけであった。

 

(風の邪神の力の一端だね……)

(こりゃあ、そんじょそこらの風の妖怪なんか比べ物にならねえな)

 

 言葉を発することも不可能な圧力ではあったが、或子たちはその程度で屈するほど弱い精神力は有していない。

 あくまで人間としての範疇であるとしても、遙かに常人を超えた鍛え方をしたメンタルの持ち主であるのだ。

 指向性のある風に纏わり付かれ、動きを封じられた二人は、次に敵が仕掛けてくる攻撃を受けるしか道がない。

 だが、挑まれた技はすべて受けきるのがレスラーとはいえ、単なる妖怪とは決して呼べないレベルのものと正面切って渡り合うのは得策とはいえなかった。

 なんとか起死回生の一手を打とうと顔を上げた或子の目に、風の中を游ぐように動く影が飛び込んできた。

 何かがいる。

 この魔術が発生させた妖風の中を自在に游ぐものが。

 しかも、その影は鋭敏すぎる巫女たちの視界に捉えられないほどに素早く動くのだ。

 ただでさえ風によって瞼も開けにくい環境で、正体不明の物体に襲われるなど危険極まりない。

 レイは舌打ちをした。

 操り手はあのハンチングの青年だろうし、ポイントは〈春と修羅〉であることは間違いないというのに、間合いにたどり着けないのだから。

 その彼女に対して、親友が嫌味ったらしく言った。

 

「―――で、どうするんだい? ボクにあれだけ偉そうなことをいうんだから、きっと突破口も思いついているんだろうね」

「特にねえな。まあ、あいつは賢治本人じゃねえから、なんとかなるだろうさ」

「―――本人じゃない?」

 

 思わず或子は問い返した。

 今、魔道書を開いて呪文を唱える猫背の立ち姿をした青年のことを、彼女はこの事件の原典を創作した作者本人だと睨んでいたのだ。

 昭和八年に死んだ賢治が生存しているはずもないが、この世界では未練を残して逝った人間たちが霊となって残留していることはよくあることである。

 生前に〈魔術師(ドルイド)〉であったという人物なら尚更だ。

 それに青年の見た目は伝わっている写真によく似ていた。

 ゆえに、或子はあのハンチングの青年を、宮沢賢治の怨霊もしくはその呪術的残留思念と判断していた。

 だからこそ、レイに自分の仮説を否定されたので驚いたのである。

 

「何を根拠に? ボクにはどう見ても本人に見えるけど」

「てめえ、あいつの台詞をよく聞いてなかったのかよ」

「台詞って?」

「あとで、フランドン農学校の豚を読め。あいつの台詞はその中の登場人物の校長の思想そのままなんだよ。おそらく、奴も原典から力を得た傀儡だな。力は強そうだが、正体は他の化け物どもと変わらねえ」

 

 さすがに絶句した。

 もしかして、まだハンチングの青年の裏に黒幕がいるというのか?

 

「さあな。とにもかくにもオレたちの仕事はこの〈迷い家〉を撤収することだ。邪魔するやつは片っ端から追い出せばいい」

「やれやれ、地上げ屋かい、ボクらは」

「文句言うんじゃねえ。もともと、このヤマはてめえの縄張りだろうが」

「あー、忘れてたよ」

 

 しらっと聞き捨てならないことを言ってから、或子はじっと腰にとりつけた糸車を見た。

 この糸車から伸びた糸の先は彼女の世界と繋がっている。

 その繋がりを守るためにはこの〈迷い家〉という異世界を潰さなければならない。

 ならばやることは、ただ一つだ。

 

「じゃあ、レイ、いつもの通りに突っ込むか」

「そうするしかねえな」

 

〈社務所〉最強のタッグはやはり似たもの同士であった……

 

 

 

 



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巫女二人

 

 

 ぐんなりとした風が吹き、二人の巫女の肉体をがりがりと削っていく。

 それなりに広いとはいえ、所詮はただのレストランテの一室でしかなかった部屋の中は、宮沢賢治風にごうごうと荒れる風によって立ち上がることさえできない圧力に満ちていた。

 或子もレイも時間が経っていくにつれて強くなる勢いに、もはや為すすべもないという状態のようであった。

 しかし、巫女たちは吹き飛ばされて壁に激突しないように床を掴みながら、丁寧に呼吸を繰り返し、調息と練気を続けていた。

 全身に満ちる〈気〉を溜めこみ、これからただ一度は訪れるだろうチャンスを窺っているのだ。

 或子もレイも、一撃を加えられれば絶対に必倒できると自信を持っていた。

 ただ、問題は―――一つ。

 

(どうやって、一撃の隙を産みだすかってことかな?)

 

 高らかにおぞましい呪文を念じ、風を吹き荒らしているハンチングの青年までの距離は約二十メートル。

 不断ならばものの数歩で辿り着く距離もこの猛風の只中を突き進んでいくのは至難の業だ。

 さらに時間が足りない。

 二人の巫女は、青年の詠唱が続くにつれて高まっていく妖気の純度を感じていた。

 間違いなく普通ではない勢いで妖気が増している。

〈迷い家〉という結界の中では収まりきらないほどに密度が増加し、あと数分後にはこの山猫軒はおろか、包み込んでいる結界ごと吹き飛ばしてしまいかねない。

 そして、最終的には、その妖気の収束がもたらすものは―――

 

「……おいおい、そろそろイタクァが来ちまうぞ。なんとかしろ、爆弾小僧」

「レイこそ、踏ん張ってくれないかな。あと、ボクのことをダンシィ呼ばわりするのは禁止」

「ちっ、しょうがねえなあ。……あとでさっきのダーツを、もっかい勝負だぞ。今度は負けねえかんな」

 

 諦めたような深い溜息を吐くと、レイは顔を伏せた。

 反撃を諦めた訳ではない。

 力を一か所に集中するためだ。

 正確には、「二か所」に。

 彼女が先祖から受け継いだ〈神腕〉の掌にだ。

 さっき〈よだか〉相手に振るった双掌打をもう一度使えるぐらいの〈気〉を練り上げてまとめていく。

 ただし、〈気〉というものは飛び道具ではない。

 本来、ゲームや漫画の主人公のようにビームのごとく放てる代物ではないのだ。

 自分の妖気を武器として飛ばすことができる妖怪はいるとしても、〈社務所〉の退魔巫女でそんな真似ができるものはいない。

 では、どうするのか。

 レイが選んだのは……

 

「オレが盾になる。スリップストリームだ。いいな……」

「わかった。ジェットストリームアタックだね」

「ちげえ。三人もいねえだろ」

「頑張ってくれ、踏み台」

「……あとで京一くんに言いつけてやる。或子がオレを捨てゴマに使ったってな」

「ちょっ、卑怯だぞ!」

 

 慌ててなされた抗議は無視した。

 言い分に腹が立ったのもあるが、実際のところ、時間がないのも事実だからだ。

 早くしなければこの帝都にヤバい邪神が召喚されてしまう。

 そんな喜劇に近い悲劇など起こさせてはならないのだ。

 レイは踵に力を入れて立ち上がった。

 通常ならブレーキに使うためのつま先よりも、力を入れやすいからだ。

 そして、四つん這いの体勢から膝に力を入れて、ぐいっと身体を持ち上げた。

 ごうごうと吹きすさぶ風の中、強引すぎる勢いで立ちあがる。

 立っているだけでも奇跡のような状態の中、両の掌を合わせる。

 すると、左右の〈神腕〉から増幅された〈気〉の連なりが接続し、全身を駆け巡り始めた。

 双掌打同様に〈気〉を集め循環させるのだが、その際に〈神腕〉というバイパスを通すことで威力を高めるのである。

 増幅された〈気〉がレイの全身に金剛仁王もかくやという力を与えた。

 一歩踏み出しても、身体はぶれることなく正中線を軸に保つ。

 二歩……三歩……

 風の圧力を受け止めても、一切揺るぐことはない。

 だが、受け止めた前半分は霜が振ったように白くなっていく。

 あまりに強い風が低温度を作り上げているのだ。

 しかし、それでもレイは歩みを止めない。

 止めたら終わり。

 また再度動けるのかもわからないのだから。

 また、一歩。

 さらに、一歩。

 背中に或子を庇いながら。

 この速度ではスリップストリームの本来の意味があるわけもないが、風の抵抗から後続を守りつつ進むということでレイにとって同じだった。

 

 一歩……

 一歩……

 

 オレ、どうしてこんな冷たくて苦しいことをしているんだ、とさえ考えずに、レイはただ歩き続ける。

 たった十歩だけで全身が切れるように痛くて堪らないというのにレイは進んだ。

 彼女が或子を庇うことで、親友は万全とはいわなくても敵を完全に倒すだけの体力を維持できる。

 ―――はずだ。

 可能性を数字で表したら、本当に低いものにしかならないかもしれなくても、彼女はひたすらに信じた。

〈神腕〉を持っていなくても、術なんてほとんど使いこなせなくても、自分の背中にいる馬鹿者は―――絶対にやり遂げてみせる。

 それだけを信じた。

 そして、主観時間では長い長い歩みの後、レイはその手でハンチングの青年の肩を伸ばした手で掴んだ。

 すでに握力と呼べるほどの力は残っていない。

 天地開闢以来のすべての生命を憎悪する怨霊のような白い顔のまま、青年を睨みつける。

〈春と修羅〉の呪文をほうほうと唱えていた青年もそうなって初めてレイの存在に気が付いた。

 まさか、こんな傍にいるとは思っていなかったのだ。

 尋常ならざる暴風の中を接近してくるものなどいるはずがないと、無神経に高をくくっていたのである。

 だから、彼は油断していた。

 何も知らなかった。

 明王殿レイという不屈の女を見くびっていた。

 かつ―――

 

「でやああああああ!!」

 

 親友の無私の犠牲を決して無駄にしないために、彼女を止めたいのを必死にこらえて牙を研いでいた御子内或子を理解していなかった。

 レイの背中にぴったりと貼り付くことで、魔風による体力の減少を極限までおさえていた或子も、いつもよりは遥かに消耗しきっていたが、それでも友の戦いを無駄にすることはできない。

 彼女はすべての〈気〉を拳に集め、レイの背後からまろび出ると、渾身の力をこめた正拳突きを撃ち放つ。

 その拳は〈春と修羅〉の表紙に当たったが、稀代の魔導書の秘めた〈魔力〉が或子の拳を弾いた。

 力が及ばなかったのだ。

 愕然となりながらも、或子は弾き飛ばされまいと踏ん張る。

 踏ん張らないと、すべてが無駄になる。

 意味がなくなる。

 そんなことはさせない。

 

「ぎぃぃ!!」

 

 歯を食いしばった。

 一瞬で眼が充血する。

 全身の毛細血管が破れそうになった。

 どれほどの血を噴きだしたっていい。

 この一撃を無敵にしてくれるのならば。

 或子の奥歯が一つ割れた。

 ガリっと割れた。

 さらなる力がこもる。

 そして、青年は見た。

 或子の瞳の虹彩が金色に輝き、黒い眼球が〈気〉の効果によって赤く、炎のごとく真っ赤に燃え上がるのを。

 

火眼金睛(かがんきんせい)だと!!』

 

「どりゃああああ!!」

 

 悪名高き詩集ごと、或子はハンチングの青年の胸に拳を叩きこんだ。

 捩るような一撃。

 

「喰らえ!!」

 

 退魔巫女・御子内或子のすべてを賭けたストレートは、ただの捻りの入ったパンチでしかなかった。

 だが、その一撃はすべてを破壊して電磁ブレイクする兵器に匹敵した。

 青年が吐いたのは血ではなく、黒い油であった。

 人ではないことの証し―――玄油である。

 そして、或子が踏み込んだ左脚を地につけるとともに、青年は吹き飛んでいき、〈春と修羅〉は綴じ紐が切れてバラバラに散った。

 風も止み、轟音は消えていく。

 

「―――やっ……た……じゃねえ……か」

「ああ、レイ。ボクたちの勝利だ」

 

 倒れていく親友を支えながら、或子は勝どきを小さく呟いた。

 

「ボクとキミが勝ったんだ……」

 

 レイの口元に、満足の笑みが浮かんだのを或子は嬉しそうに見つめていた……

 

 

 



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さういうものに……

 

 

 突然、鼓膜につんざくような痛みが走った。

 エレベーターで何十階も上へと向かう時に感じるあれに似ていた。

 その理由として思いつくものは、気圧の変化によって中耳が刺激を受けるというものなのだが、原因として考えられるのはただ一つだ。

 僕たちが迷い込んでいるこの結界―――〈迷い家〉が消滅したのだ。

 しかも、さっきから僕のような神通力のない素人でもわかるぐらいに、例の山猫軒の中では風船が膨らむように風が溢れていて、それが何の前触れもなく消滅していた。

 風が止んだというか、消えたことで、おそらく真空状態のようなものが生まれ、気圧が変化したのだろうと推測した。

 そんなことが自然現象としてありうるかは不明だが、それ以外の説明がつかないのだから僕は納得するしかない。

 だが、理由なんてものよりも僕には優先すべきことがあり過ぎた。

〈迷い家〉が消えるというのならば、内部に突入した御子内さんとレイさんの安否についてが何よりも気にかかる。

 まさか、結界と一緒にどこかに消えてしまうなんてことはないよね!

 僕が半狂乱になりそうなぐらいに、周囲を見回していると、ちょいちょいと手が引っ張られた。

 視線を落とすと、それは僕が指に巻いていた糸であった。

 アリアドネの糸。

 神話において、迷宮の中のミノタウロスを倒すために勇者テセウスが使ったという脱出のための切り札。

 それがどこからか僕の指を引いているのだ。

 反対側の先端についた糸車を持っているのは、―――御子内さんしかいない。

 僕は糸を握った。

 何も届きはしないけれど、せめて彼女たちがここに帰れる道しるべになれれば、なんていうどうしょうもないことを願った。

 子供が満月に祈るように。

 普段、神頼みなんてしない人間がたまに信心深くなったって意味はないだろうけれど、御子内さんたちが戻れるのならばなんだってしてやる。

 そんな気分だった。

 

「―――どうやら二人とも無事のようですねえ」

 

 隣にいたたゆうさんがいつの間にか椅子から立ち上がっていた。

 暖を取っていた七輪はもうない。

 どこからか取り出した時同様、何処かへと戻してしまったのだろう。

 同様に椅子もなくなっている。

 彼女は遠くの一点をじっと見据えていた。

 僕にはそこには何も見えない。

 彼女にしか見えないものということだろうか。

 だが、確かに僕の指に結びついた糸の先はたゆうさんの視線と同じ方角を向いている。

 

「二人とも……大丈夫なんですか……?」

「だいぶ消耗しているようですが、どちらも五体満足のようですね。さすがはわたくしの孫たちというところですか。褒めてあげましょう」

 

 たゆうさんはおっとりと巫女たちを褒め讃えた。

 彼女の言うことが正しいのならば、二人は健在でいるということだ。

 生きていてくれたというだけでも素直に嬉しい。

 糸を引く力がさらに強くなったと感じたとき、今まで見えなかった巫女装束が忽然と姿を現した。

 並んでではなく、片方が片方をおんぶして歩いている。

 背負われているのはレイさんで、背負っているのは御子内さんだった。

 二人の身長差を考えると逆のような気がするが、それだけレイさんに重い負担がかかったということだろう。

 御子内さんの足取りはいつも通りに確かだった。

 

「御子内さん! レイさん!」

 

 僕は急いで駆け寄った。

 近づくと、レイさんがかなり消耗しているのがわかった。

 荒い息を吐いて、とても辛そうに眼を閉じている。

 ただ、口元には柔らかい笑みが浮かんでいた。

 大切なことをやり遂げて満足を得た漢のものだった。

 ただ、皮膚が赤くなっていてほとんど凍傷になる寸前だというのはわかった。

 救急車を呼ばないと。

 

「或子、そこに救急車を待たせてあるからレイを連れておいき」

 

 たゆうさんの声がすると、御子内さんが目を丸くする。

 

「お義祖母ちゃま! どうしてここに!?」

「わたくしがいる程度で驚いていてどうするのですか? おまえ様のやるべきことはまず戦友を無事に医者のところに連れていくことですよ」

「は、はい!!」

 

 どうやら、たゆうさんには滅法弱いのか、御子内さんはその言葉に弾かれるように急いで大通りの方へと駆けだしていく。

 お義祖母ちゃまなんて、いつもの男らしい御子内さんらしくない呼びかけ方にびっくりしたけど。

 救急車に向かう途中で僕にウインクをして、背負った親友と共に救急車に乗り込む彼女を見守る。

 見たところ、外傷らしいものはなかった。

 良かった。

 風の邪神の眷属なんてものと戦ったはずなのに無傷でいてくれて。

 でも、いつか彼女たちはあれと同じようなものたちとまた戦わなければならないのかと思うと、とても平然とはしていられそうにない。

 いつも戦っている妖怪たちよりも遥かに格上の連中ばかりなのだから。

 

「―――心配ありませんよ。伊達や酔狂であの小娘たちをあそこまで育て上げた訳ではありませんからね。少しぐらいの入院はするでしょうけれど」

「そうなら……いいんですけど」

 

 今回、邪神召喚なんてものをギリギリ防いだけれど、彼女たちの戦いについては誰も知らない。

 どれだけ命を懸けたかについたって理解してくれる人はいない。

 でも、御子内さんたちは丈夫な身体をもって、欲は少なく、いつも静かに笑って戦い続けるだろう。

 みんながその勲を知ることがなかったとしても、褒められもせずとも、苦にもされずとも、そういう風にきっと生きていくはずだ。

 

 何にも負けずに、ね。

 

 



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第40試合 未練恋歌
夜の恋歌


 

 

 差し出された安っぽいチケットを受け取ってから、御子内さんとその催しとの親和性のなさに僕は引きつった。

 

「なんだい、その顔は? ドナドナされた子牛だってそんなにも哀しそうな顔はしないに違いないぞ」

「―――だってさ。例えば、長州力が渋谷のクラブでフィーバーしていたら、誰だってこういう顔になるんじゃないかな。年末のカウントダウンをしているときに、一週間も同じトランクスを履いていたことを思い出した気分といってもいいかな」

「長州力をそんなことで引き合いに出すんじゃないよ。あと、最後の妙な例えはなんだい。キミ、もしかしてビミョーにボクを残念な子扱いをしていないか」

「そんなことはないよ」

「棒読みはやめたまえ」

 

 あまり彼女の機嫌を損ねたくはないが、誰だって一言ぐらいはあるだろう。

 少なくとも、あまりツッコまない僕だからこの程度だが、いつも辛辣な音子さんあたりだったらどんな氷点下発言が飛び出すかしれたものではない。

 

「だいたい、京一は何か誤解をしているよ」

「誤解。あー、そういう方向性もあるね。人間関係にすれ違いや勘違いはよくあるものだからね」

「その投げやりな返しはなんだい。まったく、最近の京一はボクを蔑ろにしすぎだ。なにかというとレイとか音子ばかり褒めるし」

「そんなことはないよ(二度目)」

 

 そもそも、このチケットでいくイベントが問題なのだ。

 安っぽいというのは、チケットぴあとかで販売されるものではなく、運営サイドが作った手作り感満載の見た目のせいである。

 しかも、その演目というのが……

 

「地下アイドル……のライブ?」

「何が地下なんだい? ああ、地下にあるライブハウスでやるからか。○×ビルB2とあるからね」

「地下ってのはそういう意味じゃないんだけどね」

 

 要するに、地下アイドルとはメディアにでて露出する従来型の芸能人ではなくて、ライブやイベント中心に活躍するアイドルのことを指す言葉なのである。

 売れっ子になる前のAKB48とかもこの部類に含まれるはずだ。

 昔は難しかったかもしれないが、各種SNSが発達し、個人の情報発信が容易になった現代においては、既存メディアを通さないでイベントの告知や曲の販売ができるようになったおかげで、地下アイドルも活動しやすくなったということのようである。

 僕なんかはテレビに出たりする人たちの方がなじみ深いので、こういうアイドルのことはほとんど知らない。

 だからか、ちょっと引き気味になってしまう。

 ただインディーズバンドというのも昔からあったし、こういうものは意外と普通なのかもしれない。

 そんな地下アイドルのイベントのチケットを御子内さんが持ってくるという事態に戸惑ってしまうぐらいだ。

 もっとも、会話からすると御子内さんもあまりよくは知らないっぽいけどね。

 

「で、このチケットがどうかしたの?」

「明日の夜だから、京一も行くんだよ」

「……拒否権とかないのかな」

「国連安保理の常任理事国入りできてない京一にはない権利だね」

 

 まあ、だいぶ昔から僕にそんなものが与えられていたことはなかった。

 妹の涼花なんかも、いつのまにか僕よりも態度がでかくなっていて、兄を馬車馬のようにこき使おうという女になってしまったし。

 僕はどうも女運というものがないようであった。

 この間も、なんだか中野の猫耳藍色さんから〈護摩台〉設置のバイトをしてくれないかと話がきたこともあるが、〈社務所〉の女の子たちは僕を労働力としか思っていないみたいで凹む。

 この時の藍色さんのお願いは結局聞いてしまったから、バイト料のおかげで僕の貯金は増えるが自由な時間は無くなる一方となる。

 最近は、こぶしさんとのLINEの回数も増えたし、私生活が〈社務所〉の関係者塗れとなっているのは少々不本意である。

 僕、〈社務所〉からするとただのバイトなのだし、そろそろ拒否権が与えられてもいいのではないかと思っているのだけどね……

 

「音子や藍色にまでいい顔しようとするから自分の時間がなくなるんじゃないか。これが八方美人の末路だろうね」

 

 年がら年中、僕を引っ張りまわす元凶が冷たく突き放す。

 御子内さんと出会ってから、こういうことばかりである。

 

「別にアイドルがボクの趣味という訳ではないよ。〈社務所〉に入ってきた助けを求める声を叶えるためにいくんだ」

「ああ、妖怪退治なんだ。そういうことは早めに行ってよ」

「自分が勝手に誤解した癖に勝手なもんだ。これだから、男の子は御し難いっていうのさ」

 

 うわあ。

 御子内さんに勝手とか言われたぞ。

 世界わがまま選手権があったらそうとう上位に食い込めること間違いなしの御子内さんに。

 これは凹む。

 

「―――でも、確かにアイドルとか、芸能界って魑魅魍魎が蠢いているイメージはあるよね。何か事件があってもだいたい納得できる感じがある」

「まあ、そうだね。ボクなんかあまり芸能界には興味がないから、クラスの友達の話とか、こぶしが喋るゴシップ程度しか知らないけどさ」

「えっ、あのこぶしさんが?」

「あいつ、もういい歳だってのに婚活もしないでジ○ニ○ズの男性アイドルの追っかけとかやっているから、みんなに心配されているんだ」

「……意外だなあ」

 

 あの男装の麗人みたいな女性にも泣き所はあるんだ。

 男性アイドルファンとは思っていなかったけど。

 

「そうでもないよ。こぶしはそっちの方面には顔が利くからね。というか、利くように色々と細かい仕事を受けたりしてるんだよ。〈社務所〉を通さない妖怪退治とかやったりして、わりと芸能界にパイプを作っているみたい」

「―――ゲーム目当てにメーカーのイラスト仕事を引き受ける漫画家みたいだね」

「うちも意外と公私混同するやつがいるんだよ。媛巫女の総括がやっているってのは問題だけど。……この間だって、来年あたりに日本で一番人気のある男性アイドルグループが解散するってネタを仕入れてきて深刻そうに悩んでいたなあ」

「それって、漢字一文字? アルファベットで四文字?」

「後の方。まったく、あれが上司なんだからお困りだよ」

 

 それが事実だとしたら、相当深い部分とのパイプがあるんだ。

 まあ、〈社務所〉もなんだかんだいって影響力強そうな組織だし、あっても損はないってことかも。

 

「いいじゃない。コネとパイプはいくらあっても困ることはないんだから。それで、また話を戻すけど、その地下アイドルの子が襲われているの? それとも、その子が妖怪なの?」

 

 この話の流れだと、そのどちらかが有力になるかな。

 

「……禰宜が下調べをしてくれた範囲だと、アイドル自体には別に怪しいところはない。ただ、問題となるのは彼女の歌っている唄なんだよ」

「唄が問題なの? 音痴で下手くそとか」

 

 ぼえ~とか音がする―――訳はないか。

 

「違う。要は、この子が歌っているのが、もしかしたらダミアの『暗い日曜日』なのかもしれないということだよ。しかも、歌そのものにおかしな妖気がこもっているらしい」

「『暗い日曜日』? あの、聞いたら自殺してしまうっていう噂の?」

「そう。知ってたんだ」

「うん、まあ」

 

 その曲の名を聞いて、僕はなんともいえない戦慄を覚えた。

 聞いたら自殺してしまうという曲。

 いくら無敵の御子内さんでも、そんなものを追って大丈夫なのだろうか、と心配になったのだ。

 だから、もう文句を言う気分にはならなかった。

 彼女が嫌だといっても、強引について行かなくてはならないと感じたのである。

 昔から、物理系最強は特殊・精神攻撃に弱いのが常だ。

 もしかしたら、この事件は彼女にとって最悪の相性かもしれない。

 だったらいざというときにこの女の子を助けるために付き添うべきだ。

 そう、僕は心に決めるのであった。

 

 



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アイドルグループ〈不死娘〉

 

 

〈不死娘〉というのが、そのアイドルグループの名前だった。

 名前だけみると、凄く物騒でゾンビかなにかみたいな印象しかないのだが、彼女たちのHPを調べてみると、大津絵の藤娘をモチーフにした衣装の五人組だった。

 黒の塗り傘に藤づくしの豪華絢爛な着物、藤の花枝に模したマイクを使ったパフォーマンスが売りのグループらしい。

 最近の浴衣のようにミニスカにするのではなく、裾は長くしてスリットで綺麗な足を強調し、肩が剥き出しになるほど襟が広いという色っぽさがある。

 もともと藤娘は、花魁や遊女からはじまったと言われていることもあり、十代の女の子ばかりとは思えない芳醇な色気がアピールポイントなのだろう。

 セットアップを見ると、十曲あって、オープニングはその藤娘モチーフで行い、途中はやや「和」をテーマにした衣装で行い、最後はもっとも派手な基本で〆るという形のようだった。

 グループ名に相応しい不気味なカラーも十分に出して、おどろおどろしい曲調も網羅したエンターテイメントのようである。

 

「―――ボクの格好もたいがいだけど、ここの連中も随分だな」

「そうだね」

 

 御子内さんの意見もわからなくもない。

 何故なら、150人前後しか入れないような小さなスタジオは、コスプレといっても過言ではない和装の客たちで溢れていた。

 きちんとした着物は数人しかいないが、コンセプトは確実に「和装」だとわかるものばかりだ。

 一番多いのは、十二月だというのに浴衣っぽい格好であるが、中には忍者みたいなものもいるし、どうみても某ソウルソサエティの死神みたいなコスプレもいる。

 御子内さんの改造巫女衣装がまったく浮いて見えないことから、このけったいな状況がわかるよね。  

 

「へい、巫女さん、着慣れているね。バッチリ似合っているぜ」

「ありがとう。仕事のユニフォームなんでね」

「本職かよ、ヒュー!」

 

 知らない客が気楽に話しかけてきたが、全体を見渡してみるとやはり雰囲気がよくない人たちもいる。

 ライブというのはお祭りでもあるのに、ある一定の層はお葬式のように静まり返っている。

 聞いたら自殺する曲を歌っているアイドルのライブというのも納得だ。

 他のコスプレが華やかな分、その対比が異様なほどだった。

 もしかしたら、その曲目当てに来ている人たちがいるのかもしれない。

 

「……例の歌は何番目の演目なんだい」

「八番目だね。リーダーの波佐(はざ)琥珀(こはく)のソロだ」

「そろそろ悪い噂が立っていることにも気がついていると思うのに、よくセットアップに含めたものだね」

「深い理由があるらしいからね」

 

〈社務所〉の事前調査係である禰宜たちが調べたことによると、このアイドルグループの持ち歌のほとんどは同じ作詞・作曲家のものらしい。

 立ち上げのときに、その人物がグループコンセプトを提供し、スタッフも用意して、曲まで準備したということだ。

 要するに、プロデューサーだったということである。

 ただ、ある程度グループが軌道に乗った時点で離れていき、今は別の人物がプロデュースを続けている。

 恩人といっていい初代プロデューサーのために、ずっとライブではある一曲だけは続けているみたいだ。

 それが例の「聞くと自殺したくなる曲」ということである。

 すでにたっている悪い噂とかつての恩義の狭間で、スタッフもキャストも苦労しているんだろうなと想像できる話だ。

 

「義理堅い子たちだ」

「商業の論理にべったりでないとしたら、むしろそういう仁義に篤い方が受けがいいんじゃないかな。実際、熱心なファンに対してはサービスがしっかりしているみたいだし」

「でも、このままいくと、楽しみに来ている客たちも離れてしまわないかな。悪目立ちしている感じがある」

「だから、〈社務所〉に話がきたんじゃないかな。変なメディアに嗅ぎつけられる前に解決したいからということで」

「なるほど。退魔巫女であった、こぶしまでツテを頼って連絡して来た関係者がいるのかな」

 

 僕もそんなところだと思う。

 ネットで調べてもまだ〈不死娘〉の曲についての噂は広まっていない。

 おそらく個人のSNSで語られている程度で収まっているのだろう。

 これからどうなるかはわからないけれど。

 げんに、さっきも確認した通りに、自殺させる曲目当てらしい昏い雰囲気の人たちが結構混じっている。

 次に犠牲者が出たら、おそらく爆発的に噂が広まるだろう。

 

(自殺したのは、ここのライブに参加した客とCDを購入した客、それに動画投稿サイトで観たという三人。しかも、全員が自殺結構前に例の曲を聴いているというのは確かなようだ)

 

 それぞれの足取りを追うと、ライブの客は例の曲が流れた直後にライブハウスから出ていき、少し離れた駅のトイレで首を吊った。

 CDを聴いた人は、その曲ばかりを繰り返しリピートしているiPadを耳につけて自殺。

 動画投稿サイトの場合は最後に見た曲の履歴として残っていたそうだ。

 それらがどうして噂となったのかの経路は不明なのだが、デマや嘘の類いではないことは確かだ。

 実際にそうやって三人が亡くなり、共通項として、例の曲が浮かび上がっているのは間違いない。

 もっとも、歌詞を見てもメロディーを聴いても、どこにも自殺を誘発するようなものはない。

 ただ、調査をした禰宜は、「聞けばわかりますが、妖気のようなものが漂っている気はします。私らでようやく感じ取れるレベルなので一般人にはわからないと思いますが。まあ、繰り返し聞けば感受性の鋭い若い子なら影響を受けてもしかたないかって感じですね」と言っていた。

 

「ただね、曲そのものに妖気がこめられることなんてありえないんだよ。歌い手にそういう意図がないと。音楽の曲なんて、極論すれば譜面に書いてある楽譜さ。表現する人間の問題のはずなんだ」

「やっぱり、そうだよね」

「だから、わざわざ生の演奏を聞きに来たのさ。ボクたちならば捉えられる妖気の機微みたいなものもあるだろうし、いざとなったらすぐに動けるしね」

「このライブハウスに妖気みたいなものは漂っているの?」

「……それがね。まったくさ。多少、幽霊みたいなものはいるけど、それだって酷いものじゃないし、拍子抜けだ」

 

 幽霊ぐらいはいるのか。

 もう慣れたとはいえ、この薄暗くて退廃的な雰囲気のある地下のライブハウスに幽霊がいると知ると、途端に居心地が悪くなる。

 しばらくして、客がいっぱいになると(それぐらいの人気はあるってことだ)、前説がなされて、暗転する。

 中央にバミテープの淡い光が浮かび上がった。

 暗いステージ上を人が動く気配がして、止まった。

〈不死娘〉たちがポジションについたのだろう。

 そして、鳴りだす、リズムと三味線のさざめき。

「和」のテイストが売りのアイドルらしいオープニングから始まり、スポットライトが当てられて、藤娘の格好をした五人組が着物らしからぬハイテンションなダンスを始めた。

 色気を出すためではなくて、むしろ動きやすくするためのスリットなのかもしれない。

 とにかく、藤娘のイメージとは違う激しさだ。

 数パターン踊ったのち、一曲目の口火が切られる。

 タイトルは、「月のハンマー」。

 夜の暗闇をハンマーでぶち壊せというテーマが感じ取れるなかなかにエキサイティングな曲だった。

 隣にいる御子内さんが、ふんふんと曲に合わせてリズムをとっているところが可愛かった。

 こういうのを受け入れる下地はあるらしい。

 普段、がさつすぎるタイプなのでギャップがある。

 

 月のハンマー 打ち鳴らせ ♪

 月のハンマー 砕き割れ ♪

 

 時折、琴の音色も混じるなかなかにセンスのある曲だった。

 ほとんどすぐ、僕らはアイドルグループの楽し気なライブに惹きこまれ、時間が経つのも忘れていった……

 

 



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スーイサイド・ソング

 

 

 アイドルのライブというのは、なかなかに夢の空間だ。

 華やかな衣装の女の子が一生懸命踊って歌っているのを、サイリウムを持って詰めかけたファンが声をからして応援する。

 武道館のような整った施設と違って、地下アイドルが活動拠点しているようなライブハウスみたいなところは、客観的にカメラで撮影したりすると安っぽいのだが、その興奮の中に入ってしまうと溶けるように一体になれる。

 狭く、暗い、室内というシチュエーションが、ある意味では黒魔術のサバトのような異様な盛り上がりを演出するのかもしれない。

 とりあえず発光するサイリウムを御子内さんの分も用意しておいてよかった。

 こういう場所には不慣れなはずの彼女もノリノリになって、周りに合わせて適当にMIXを打っている。

 珍しい光景だなあと思ってしまった。

 正直な話、僕の友達の退魔巫女の中では、御子内さんが一番この手のノリにはついていけないような気がしていたから、まさに意外な一面という感じだ。

 七曲目の「努々(ゆにゆに)マニマニ」が終わると、四人がそれぞれ上手と下手にはけていき、舞台にセンターの波佐だけが残った。

 彼女の見せ場が始まったのだ。

 それは僕たちが待っていた場面でもある。

 波佐がこれから歌うのは例の「聞くと自殺してしまう歌」だからだ。

 御子内さんが例に出したダミアの「暗い日曜日」は曲調と歌詞がダウナーなものだから、当時の社会の閉塞状況と結びついて自殺したくなるような気分にさせたのだろう。

 バンドマンの技術の高さもあったのかもしれない。

 だが、基本的に打ち込みで流れる今どきのアイドルソングでそんな風にはならないと思う。

 しかも、サイトにあげられたような動画やCDに入った曲で、だ。

 ここに来る前におそるおそる僕も予習してきたが、おかしなところはなかった。

 御子内さんもありえないと言っていたぐらいだ。

 だから、ライブで実際に聞いて判断しようということなのである。

 

「始まるよ」

「そうだね」

 

 しっとりとしたメロディが流れだす。

 自殺のイメージとは違う拍子抜けの甘いメロディからのソロのラブソングだ。

 いい曲なのだろうというのは掴みでわかる。

 

 

 靴の踵を三回鳴らして あの世界に戻りたい

 あなたと並んだ あの場所に

 道路沿いの街路樹が よりそった二人に見えてくる

 小さな希望を詰め込んで 彷徨い始めたあの時代

 口ずさむ曲は幸せだった日のイリュージョン ♪

 

 

 ―――昔を懐かしむ詩だった。

 まだ十代の僕らと同い年ぐらいの子たちが歌うには早すぎる。

 ただ、あまりにも詩と曲がマッチしていて、これはと唸らざるを得ない。

 何度か耳にしておいたが、生で聴くとさらにぐっとくる。

 自殺したくなる曲なんて悪評が立っても、〈不死娘〉がセットアップから外せないのがわかる。

 確かに、この色々とキワモノ的なものをつめこんだグループにとっては宝物にしなければならない代表曲だろう。

 気になるのは、この歌が始まった途端に妙に静かになった一画があることだ。

 どうもこの歌の悪い評判を真に受けている連中っぽい。

 

「京一、あれ」

 

 御子内さんの指の先には、舞台上方に据え付けられたスポットライトがあった。

 眩しいけれど目を凝らすと、そこで人間が動いている。

 注意してみないとわからないがスタッフだろうか。

 

「えっ」

 

 ちらっと見えたのは、ロープだった。

 しかも、その先端を自分の首に巻こうとしている。

 僕ら以外の客はステージ上のアイドルばかりに集中していてまったく気が付いていないけれど、あれはもしかしたら首吊り自殺の準備なのだろうか。

 この曲が流れている最中であるのだから、なおのこと可能性は高い。

 

「……止めないと」

「でも、それだとこのライブが中止してしまう。しかも、ライブ中に自殺未遂なんか起きたらスキャンダルだ」

「でも、放っておくわけには」

「ボクが術を使う。京一は最前列に行って、あの人物が飛び降りようとしたら受け止めてくれ」

「……できるの?」

「ボクの方でタイミングを計る。柏手を二拍したら、術がここの室内に効力を発揮するからその間に助け出してくれ。京一は、一度目の柏手が聞こえたと同時に全身を緊張させてくれれば免れるから」

「よくわかんないけれど、了解」

 

 僕はイスがあっても立ち見しかいない客席の隅を前へと進む。

 誰も座っていないのである意味では動きやすかった。

 当然、歌に聞き入っているファンからすれば迷惑な行為で、舌打ちとかではすまず、小突かれたり肩をぶつけられたりしながら、なんとか最前列に行った。

 普通の状態なら僕だって絶対にこんなことはしない。

 だけど、ステージの上で危険な行為をしている人物はもうすぐ飛び降りるかもしれないのだ。

 狭い小屋とはいっても、照明のぶら下がっているセットは高さが三メートルある。

 首つり自殺というのは、ドアノブにタオルを引っかけてもできるものなので、あれだけの高さがあれば十分だ。

 飛び降りる瞬間にでも受け止められれば大丈夫か。

 でも、こんなライブ中にあそこまでいけるかな。

 もう少し近寄りたいけど、さすがに最前列の中央まで行くと喧嘩にでもなりそうだ。

 御子内さんが術をかけるというけれど、それの効果もわからないし……

 そして、そろそろ歌が終わろうとするとき、セットの上の人物がすくっと立ちあがった。

 さっきまでは四つん這いで色々と動いていたのに、はっきりと立つだけの仕草となったのだ。

 

(くる!)

 

 僕は確信した。

 御子内さんだってわかっているはずだ。

 ならば、今しかない。

 

 パン

 

 聞いたことのないような大きな響きの柏手の音がした。

 室内を波のような()()が広がっていく。

 準備して緊張していなければ僕まで()()()()()()()()()()()()()

 この時にもっていかれるのは間違いなく「意識」である。

 一度の柏手だけで、百五十人が完全に静止したのだ。

 それは観客席のファンたちだけでなく、ステージにいる波佐琥珀も、セットの上の怪しい人物も。

 ただ、あんなところで突っ立っていたのだから、静止したショックでバランスを崩すのも当然のことだ。

 頭からステージ目掛けて落下しそうになる。

 僕はわき目も降らず落下地点に飛び込んだ。

 頭からではなく、微妙に背中からだったので受け止めやすかった。

 正直、宅配便のバイトで運んだ冷蔵庫や〈護摩台〉を設置するときの資材の方が重かったのである。

 僕が助けたのは、なんと藤娘っぽい衣装の女の子だった。

 つまり、〈不死娘〉の一人なのだ。

 助けることができてホントに良かった。

 僕が受け止めたと同時に、またも柏手が鳴った。

 再び、例の揺らぎのような波が室内に螺旋のように広がり、僕はまた()()()()()()()()()()()

 なんとか耐えたけど。

 

「京一、上手に下がれ!! 数秒したらみんなの意識が元に戻る!!」

「あ、うん!」

 

 アイドルを抱きかかえたまま、僕はステージの上手に飛び込んだ。

 見ると、他のメンバーとスタッフさんらしい人たちまでが何人か静止していたけれど、数人は何が起きたかわからず戸惑っていた。

 突然、乱入気味の僕に対しては落ちてきたメンバーを助けてくれたということがわかったらしく、必要以上に警戒されなかったのは助かる。

 あとで御子内さんに聞いたところによると、〈人払い〉という導術の応用で人の意識を数秒間麻痺させるというものらしい。

 常日頃から全身に〈気〉を通わせている退魔巫女にはまったく無害で、僕がやったようにくるのがわかって準備していれば「意識」を持っていかれることはないそうだ。

 完全に閉じられた部屋でないと効き目が薄いということだが、今回は曲に全員の神経が向いていたおかげで、裏で控えていたスタッフやキャスト以外にはほぼ完ぺきにかかったということである。

 もっとも、曲の流れている最中に「意識」がとんだことで、ライブの段取りは完全に混乱した。

 全員、何が起きたかわからないのだからそれも当然だ。

 そのせいもあって、今回のライブはここでお開きということになり、不完全燃焼のまま終了とされたのである。

 ファンは、もやもやした感覚を残したまま、ライブハウスから出ていき、通常は行われるハイタッチもなされなかった。

 そして、完全に客がはけた後、僕と御子内さんは〈不死娘〉の楽屋にお邪魔させてもらった……

 

 

 



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暗い日曜日

 

 

 ダミアの「暗い日曜日(Sombre dimanche)」は1933年に発表された。

 ハンガリーの首都ブタペストのレストラン「キシュ・ピパ」でピアノを弾いていたセレシュ・レジェーが作曲し、店のオーナーであったラースロー・ヤヴォールが作詞を担当している。

 当時、世界大恐慌の真っただ中であったハンガリーでは、この歌を聴きながら、あるいは聴いたあとで自殺する者が続出したことから、販売や放送が禁止されることになったという。

 それに限らず、欧米や日本でさえ、この曲を聴いて自殺するものが数百人出たと噂されている。

 なぜ、この曲を聴いて自殺する人が増えたかという答えに辿り着いた心理学者はいない。

 最初に歌ったのはパール・カルミールだが、多くの歌手によってカバーされて、最も有名なカバー歌手がシャンソン歌手のダミアだった。

 ダミアの歌うこの曲は、恋を弔う歌であり、「自分の生命よりもあなたのことを愛していた」こと、「苦しさに耐えられなくなったら日曜日に死のう」と歌ってはいるものの、自殺することを決めたものではなかった。

 それだけ恋に真剣であったからこそ、今は辛くて仕方ないという気持ちを歌い上げている。

 悪評通りの自殺を推奨する歌ではないことが重要である。

 もっとも、「暗い日曜日」には、バックワード・マスキングと言う手法が使われてると言われている。

 バックワード・マスキングとは、曲を逆再生する事で歌詞が変化して別曲になるというものであり、通常再生では普通の曲に聞こえても聴き手の深層心理はバックワードを確かに認識しているのだという。

 そして、この曲にはバックワードには死を連想させる言葉が羅列されている。

 作曲家であるレジェーは1932年12月にこの曲の歌詞と曲を作って、一度は著名な出版社に投稿し発表しているが、元の歌詞は使われず、ラースローの歌詞が使われた。

 レストランのオーナーであったラースローは当時婚約者を失ったことで失意の底にいたが、なぜ、彼の詩が使われたのかについては不明な点も多い。

 もし、バックワード・マスキングを意図的に使っていたというのならば、レジェーではなく別の誰かがこの曲を自殺を誘発するものに仕立て上げた可能性は高い。

 第二次大戦が挟まってしまったために、現在では誰が「暗い日曜日」に関与したのか、まったくわからなくなってしまっているのではあるが……

 ただ、大恐慌と戦争という二つの人類への逆境が産みだした徒花であったといもいえるかもしれない。

 それがダミアの歌い上げた「暗い日曜日」なのである……

 

 

              ◇◆◇

 

 

 僕としては、聞くと自殺したくなる曲なんてありえないと思っている。

 だから、多少の抵抗はあったが事前に〈不死娘〉の曲も聴くことができた。

 その歌―――「夢のポジション」は、ごく普通の失われた恋の歌というものだったから、恐ろしいともおもわなかったけれど。

 ちなみに、「暗い日曜日」同様に逆再生とかも試してみたけれど、おかしなことはなかった。

 もし、問題があるとしたら、曲そのものではないと思う。

 実際にライブ中に飛び込みがでそうとなった限り、まず何かがあるとは考えられるけれど。

 

「―――やっぱり、もうアレ歌うのは止めようよ、コハちゃん」

 

 サブ・リーダーを勤めるアヤコさんが言った。

 他のメンバーも頷く。

 首にロープをかけて飛び降りたナナミさんというメンバーはまだ気を失ったままで、楽屋の隅で横になっている。

〈不死娘〉のメンバー四人とプロデューサー兼マネージャー、そして彼女たちの個人事務所の代表がここに集まっていた。

 他にも関係者はいるのだが、さすがに内容が内容なので人数を絞ったのだ。

 あとは、僕と御子内さんがお邪魔させてもらっている。

 

「でも、アレはなっちゃんの……」

「そのなっちゃんのせいで、〈不死娘(うち)〉らが終わっちゃったら本末転倒じゃない」

「確かにそうなんだけどさ……」

「なっちゃんだって、自分の歌が原因で〈不死娘〉が終わったら死ぬに死ねないよ」

「アヤコ! まだなっちゃんは死んでない!」

「でも、連絡だってつかないんだよ! 同じじゃん!!」

「言っていいことと悪いことの区別がつかないの、あんたは!!」

 

 言い争いを始めたリーダーたちを、あと二人が困った顔で見ていた。

 怯えた翳もさしているし、このままいけばグループ解散もありえる暗い雰囲気だ。

 揉めている原因は「なっちゃん」という人のことなのだろう。

 グループ名のプロフィールを思い起こすと、「なっちゃん」というあだ名に該当しそうな人は一人しかいない。

 立ち上げ時の初代マネージャーだった篠崎菜津子という女性だ。

 

「なっちゃんだって、わかってくれるよ! だいたい、なっちゃんが毎回セットアップにアレを入れてくれって頼んだわけじゃないじゃん!」

「あんただって知ってんでしょ! なっちゃんがあの曲を凄い大事にしていたの! 私たちが歌うことにしたときの、なっちゃんの嬉しそうな顔を忘れたの! あんた、そんなこと言ってなっちゃんに顔向けできんの!」

「それでうちらが潰れちゃったら、なおのこと駄目じゃん! もっと駄目じゃん! コハの頭堅すぎ!」

「堅いとかどうとかじゃないの!」

 

 マネージャー兼プロデューサーは、二人の言い争いよりも僕らの方が気にかかるらしい。

 ちらちらと様子を窺われている。

 さっきから御子内さんがずっと黙っているが気になるのだろう。

 彼女はと言うと、僕のディスクマンでずっと〈不死娘〉のインディーズCDを聴いていた。

 僕らの視線に気が付いたのか、御子内さんは顔を上げた。

 芸能事務所の社長と目が合う。

 この社長は中年の髪の薄い男性で、所属のタレントといえるのは〈不死娘〉とあと二人ぐらいという零細の中の零細の代表なのだが、もともと大手で仕事をしていたらしい。

 独立して今の事務所を立ち上げたばかりだという。

 こぶしさんの知り合いで、今回〈社務所〉に連絡をしてきたのも彼だ。

 何年も前に妖怪絡みのトラブルに遭遇したのだろう。

 だから、退魔巫女のことを知っているのはこの人しかいない。

 逆に、メンバーもマネージャーも僕らのことを一切知らないのでやや遠巻きにしている感じだ。

 まあ、改造巫女装束の御子内さんとどう見ても高校生の僕なんか、胡散臭いといえば胡散臭いし仕方のないところである。

 

「やっぱり何度聴いてもこのCDにはおかしな気配はないね。例の自殺した人たちの中にCDを聴いていたという被害者がいたようだけど、それはこれと同じものなのかい?」

「い、いえ、おそらくライブの生音源をCDに焼いた特別版だったと思います」

「なるほど。やっぱり、ライブ絡みか。まあ、でないとこんなことにはなりもしないか」

 

 御子内さんは耳からイヤフォンを外して言った。

 

「―――だいたい事情はわかったよ。こちらの調べとも一致するしね」

「あのー、さっきから気になっていたけど、あなた、本物の巫女さんなの?」

「本物だよ。それは間違いない」

「でも、その……なんか変な格好だし……」

 

 どこが、という顔をされたので、僕は「さあ」と返しておいた。

 もう御子内さんの格好なんて今更だ。

 まだステージ衣装のままのメンバーが混ざっているので、逆にいつもより違和感がないぐらいなのに。

 

「ボクはキミらにまつわる妖魅絡みの事件を解決にきた、まあ妖怪退治の専門家さ。ちなみに、彼はボクの助手の京一。そんなに長くは掛からないから、四の五の言わずに協力してくれると助かる」

 

 長くはかからないと簡単に言われて、ここにいたメンツは鼻白んだ。

 この曲にまつわる自殺の話はもう一ヶ月も謎のまま彼女たちにのし掛かってきたのだ。

 そんな気楽に解決できるのなら苦労はない。

 御子内さんたちのことを知らなければ、それこそ反発を覚えかねない発言だ。

 ただ、僕は経験則上、彼女の言うとおりになるだろうと思っていた。

 なんといっても退魔巫女は何があっても力技で物事を解決するのが信条で、たいていの事件は物理的にどうにかなるものだと理解させられていたからである。

 

「―――「夢のポジション」を歌うのはリーダーさんだけかい?」

「いえ、とりあえず皆練習はしているわ。ソロ曲って少ないから。ステージで歌うことがあるのは私とアヤコぐらいだけど」

「歌っていて何かおかしなことは? あと、キミが自殺したくなったことはあるかい?」

 

 琥珀さんは首を振った。

 横に。

 

「歌っている最中に、()()()()()()()と、感じたことは?」

 

 この質問に対して、わすがに間があった。

 結果として否定されたが、少なくともおかしすぎない程度に違和感はあったのだろう。

 御子内さんも納得顔をしていた。

 

「……京一、そのなっちゃんというマネージャーの行方は?」

「行方不明らしいのは本当。禰宜さんたちが戸籍謄本まで調べたけど、死亡届はでてないことぐらいまでしかわからなかったらしいよ」

「……じゃあ、その女性が行方不明になった理由は?」

「それも不明。でも、ちょうどいいから、ここの皆さんに聞いてみたら?」

 

 御子内さんはふわりと室内を見回した。

 メンバーもスタッフもなんだか目をそらす。

 何かある。

 僕らでなくても、誰でもわかることだった。

 

「なっちゃんは関係ないんじゃないですか?」

 

 琥珀さんは言うけれど、たぶん彼女の本心じゃない。

 だって、みんなの顔に書いてあるから。

 

「別にそうでもいい。でも、ボクは知りたいんだ」

 

 耐え難い沈黙が続いたのち、彼女たちは口を開いた。

 なっちゃんという女性について。

 

 

 



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なっちゃん

 

 篠崎菜津子こと白本(しらもと)菜月(なつき)は、とあるメジャー芸能事務所が売り出したアイドルグループのメンバーであった。

 八人組のグループの一人として、彼女もデビューし、1stシングルから5thシングルまでの中核として活躍していた。

 最初はバラエティ番組とタイアップしても鳴かず飛ばずであったが、自分たちだけの看板番組を東京だけの局で始めたとこで徐々に人気が出て、最終的には日本でも何番目かに有名なグループにまで上り詰めた。

 菜月は、顔は十人並み、ぐいぐいと前に出ていくタイプではなく、アイドルとしてはやや押しの足りない女の子だった。

 ただ、シンガーとして歌うことを夢見ていても、バラエティの恥ずかしい企画にも文句ひとつ言わずにグループのために尽くす努力家でもあった。

 事務所のプロデューサーは全員を平等にではなく、いわゆる「格差売り」をすることでまずはメインの数人の人気を高め、それから他のメンバーも売り出していくというやり方をとっていた。

 普通ならば、他に比べて地味な役回りだった白本菜月も最終的にはそれなりの人気を得られたであろう。

 事実、グループのファンの中でも彼女を推しているものは多くはなかったが、まったく皆無という訳でもなかったのだから。

 グループのリーダーとエース格二人、このあたりから売りだしていき、なんとか他のメンバーの名前も出始めたとき、公開オーディションによって新人を取り、この新人が爆発的に売れた。

 菜月からすると、「売れてしまった」ことになる。

 芸能界は年功序列や芸歴ではなく、人気が命だ。

 人気があるものが正しい。

 事務所は、新人を新しくエースに据えると、彼女を中心とした「格差売り」プロデュースを開始した。

 それは、菜月の売り出しよりも優先されるということである。

 そして、幸か不幸かその戦略は当たる。

 新人がもてはやされることで、この公開オーディションによる新人を増やすという手法に味を占めた事務所はどんどん新人たちを増やしていった。

 つまり、結果的に旧メンバーは干されるということになる。

 そのまま、菜月は徐々に居場所を失くしていき、番組の収録にさえ呼ばれなくなった。

 ライブにでることまでは禁じられなかったが、ライブ中のMCでもほとんど話を振られることなく、どんどん埋没していくのは止められなかった。

 芸能界というところはそういうところである。

 前に出ない菜月が悪いのであり、彼女を応援しないファンや推さない事務所が悪いのではない。

 まして彼女の場所を奪った後輩も悪くはない。

 誰かを恨む筋合いはないのだ。

 かといって割り切れるものではなく、菜月の素行は徐々に荒れていった。

 だが、仮にも人気アイドルグループのメンバーである。

 日本における大人気もののエース格ならばともかく、メンバーでありさえすれば、不人気と呼ばれるものに目をつけるお調子者たちはいる。

 数が多すぎて事務所の監視の目が届かないのをいいことに、菜月やその他のメンバーを口説いて遊ぼうとするものたちが。

 人気に左右されて、あまりの格差にやる気を失くしていて菜月たちは、簡単に男の口車に乗ってしまった。

 誘われるがままに、怪しい合コンに参加し、未成年なのに飲酒をし、タバコを吸う真似をした。

 誰が見ているとも知れない路上で抱き合い、ホテルで肉体関係まで結び、それを写真に撮らせ、仲間内で自慢し合う。

 男たちは、菜月たちに惚れていたのではなく、「有名グループのアイドル」と付き合っていることを愉しんでいただけであり、彼女たちの立場も仕事も愛情もただ弄んだ。

 自分たちはいい大学を出て、いい会社にコネで就職する予定であり、彼女らはただの遊び女でしかないと割り切っていた。

 だから、ガードも甘く、自分たちの短慮が引き起こすだろう問題の大きさに気づかない。

 この交際が写真週刊誌にすっぱ抜かれ、菜月たちは事務所から簡単に見捨てられて解雇された。

 当時はまだSNSも発達していない時代であったからこそ、粛清は素早く、苛烈で、救いようがなかった。

 アイドルでなくなった少女たちを男は無造作に捨てる。

 ただ遊びたいだけであった彼らにとって、価値のなくなった菜月たちは無用の長物でしかない。

 連絡先も変えられ、会うこともできなくなった。

 そこまで支えてくれたファンも、男遊びを暴露された彼女たちには厳しかった。

 多くのアイドルには処女性が求められる。

 つきあえるはずもないが、彼女たちに対して一方的な神聖さを求める層からすれば、彼氏がいたということは裏切りにしかならないことだからだ。

 ファンもある意味では勝手気ままに、男たち同様に彼女らを捨てたのである。

 また、この頃の菜月にとっては酷いエピソードがある。

 彼女が解雇される寸前、彼女と数人のでるサイン会があった。

 当然、スキャンダルの影響で解雇寸前の菜月たちは謹慎処分を受け不参加ということになる。

 当時、子供向けのアニメの主題歌を歌っていたこともあり、菜月はわずかではあるが小さな子供のファンもいて、その子たちがサイン会には参加していた。

 応援する彼女のためにプレゼントを用意していた幼女がいて、その子は菜月が会場にいないことを知って泣いてしまった。

 

「どうして、なっちゃんはいないの?」

 

 と、哀しそうに泣いたという。

 プレゼントだけは他のメンバーが受け取ったが、幼女はサインももらわずに母親に手を引かれて帰っていった。

 その映像が残っている。

 そして、菜月はその映像を突きつけられることになった。

 自分の仕出かした不始末のツケとして。

 しばらくして、事務所を解雇された菜月は芸能界を引退する。

 もういられないとわかったからだ。

 彼女の居場所は失われた。

 一緒に男と遊んでいたメンバーとも二度と顔を合わすことがなかった。

 

 ―――数年後、名前を変えた菜月はわずかに残ったコネを使って、独立したばかりの社長とともに小さな芸能事務所の立ち上げに参加し、一つの地下アイドルグループの企画を成立させた。

 それが〈不死娘〉。

 大手の力を借りずに彼女が育て上げたアイドルたちである。

 

 

            ◇◆◇

 

 

「なっちゃんは、二年かけてグループのイメージと曲を用意して、あたしたちを選んだんだ」

 

 アヤコさんが言い、琥珀さんが引き継いだ。

 

「なっちゃんの時代と違って、ネットが発達しているから、それを使って今までにない売り出し方をしようって張り切っていた」

「実際、他のグループの研究もして、スポンサーも厳選したうえで、私たちを搾取しない人たちを集めたんだ」

「なっちゃん、アイドルを食い物にしようとする連中には詳しいから……」

 

 全員が、白本菜月の素性を良く知っているようだった。

 純粋にアイドル活動がしたいというメンバーを中心にしているせいで、下手に有名になりたいだけちやほやされたいだけという女の子はいないらしい。

 ある程度、白本菜月の理想は叶っていたのだろうか。

 ただ、彼女はいなくなった。

 夢が結実したようなグループの成長を見届ける間もなく。

 菜月がいなくなったのは先々月のことだ。

 前触れもなく消えた彼女のあとは、別のマネージャーが引き継いで、今そこにいる人に代わったそうだ。

 

「―――先々月なら筋は通るね」

 

 御子内さんからすると、白本菜月が今回の妖魅事件の最大の被疑者であることは疑いないのだろう。

 

「でも、なっちゃんがそんなこと!」

「するはずがない、か。でもね、こういう妖魅絡みにおいては、悪意や敵意だけが人を呪うとは限らないんだ。愛や思いやりが、人を地獄へと突き落とすことも多いんだよ。キミらも怪談や昔話でごまんと知っていただろう?」

「……白本菜月が原因であれば、何故か、という動機の部分は構わないということだよね」

「そう。ボクの京一の言う通りだ。「夢のポジション」という曲には自殺を誘発するような何かがあり、それを書いたのが白本菜月であるというのならば、彼女を疑うのが筋というものさ」

 

 確かに「夢のポジション」の作詞・作曲は初代マネージャーだという。

「暗い日曜日」の例を待つまでもなく、呪われた曲だというのならば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「でも、なっちゃんが……」

「だから、その初代マネージャーが犯人かどうかはこれからつきとめる。―――社長さん、もう少しこのライブハウスを借りていてくれるかな?」

「あ、ああ。不知火さんから、あんたの頼みは全部聞けと言われている。私も、〈社務所〉の巫女の言うことは全部聞くべしと身に染みているからわかっているよ」

「社長はこぶしが巫女だったときのことを知っているの?」

「ああ。凄い女の子だったよ」

 

 御子内さんは微笑んだ。

 

「こぶしが現役だった頃なんて、だいぶ昔だよね。じゃあ、現在の〈社務所〉の媛巫女の力もいい見物になると思うよ」

 

 そう言って、御子内さんはテーブルの上に置いてあったヘッドホンマイクをつけた。

 激しいダンスが必要だったり、舞台が広すぎたりするときに、声量をアップするために使うマイクだった。

 何をするつもりなのかはわからない。

 

「どうするつもりなの?」

「簡単さ」

 

 彼女はマイクの位置を直しながら、

 

「ボクが「夢のポジション」を歌ってみる。みんなは観客席から声を出してくれ。あと、誰か音響をチェックしてサポートよろしく」

 

 こともなげに言う。

 御子内さんの歌はカラオケで聞いたことがあるけど、アイドル本人の前で歌うって相当度胸いるよね。

 確かに上手いけど……

 

「それで何かわかるの?」

「んー、普通に口寄せするだけだよ。こう見えてもボクも巫女だから霊媒の真似事ぐらい習っているしさ」

 

 ―――霊媒。

 まさか、彼女がイタコみたいなことができるなんて初耳だった。

 

「さて、白本菜月が来るのかどうか、ちょっと試しに霊媒(うた)って霊媒(おど)ってみせようかな!」

 

 なんでノリノリなのさ、君は。

 

 

 

 



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リ・ライブ

 

 

 イントロが流れ、そのリズムに合わせて、御子内さんがボックスを踏んだ。

 1、2、3、4……の単純なリズムだが、その踏み方はとても素人とは思えない。

 先ほど、ライブ中に波佐琥珀さんがやったのと同じ動きである。

 そばにいたメンバーたちが唸った。

 

「あれ、もしかして……コピられてる?」

 

 彼女たちが驚くのも無理はない。

 御子内さんはライブで一回、動画で数回見ただけの振り付けを完璧に再現できているのだ。

 僕のように素養がないのは論外だが、ダンスの動きや振り付けというものは規則性があり、きちんと習っているものにとっては初見の振りであったとしても十分にまねができるものなのだそうだ。

 しかも、御子内さんレベルで自分の身体を自在に動かせるものであるのなら尚更である。

「夢のポジション」自体はスローテンポの曲であることから、しっとりとした動きが必要ではあるが、退魔巫女は十分にメロディに乗りきれていた。

 何度かカラオケで観たことがあったけど、御子内さんは歌だけでなくてダンスもわりと上手いのだ。

 

 靴の踵を三回鳴らして あの世界に戻りたい

 あなたと並んだ あの場所に

 道路沿いの街路樹が よりそった二人に見えてくる

 小さな希望を詰め込んで 彷徨い始めたあの時代

 口ずさむ曲は幸せだった日のイリュージョン ♪

 

 御子内さんの声は、女の子らしいものよりはややハスキーよりだ。

 だからだろうか、波佐琥珀バージョンのものに比べると歌詞が強く響いてくる。

 歌詞の意味を考えさせられるというべきか。

 そして、僕はこの曲がラブソングの体裁をとっているが、実のところ、別のテーマを内包していることがわかった。

 御子内さんの歌い方一つの問題なのだろうけど、僕にもようやく朧げながら浮かんできたので見えてきたというところか。

 

「……並んだ街路樹ってのは、ステージにたったときの仲間たちのことなのか」

 

 歌の主観的な立場の人物は、過去を思い出している。

 その人物の過去には共に並んで立った人たちがいて、その人たちとは疎遠になってしまいもう会うこともない。

 だが、記憶の中の彼女たちはまだ生きていて、自分の足元だけが幻のようにかすんでいる。

 ……そんな歌だ。

 靴の踵を三回鳴らして故郷に帰るのは、オズの魔法使いのドロシーのフレーズだが、故郷に帰りたがったカンザスの女の子のための魔法の呪文でもある。

 つまり、この曲は過去に戻りたかった女の子のためのものなのだ。

 そして、帰りたがったのはおそらくただ一人。

 白本菜月。

 彼女しかいない。

 

(作詞も作曲も彼女だというのならば、制作テーマから読み取れる真意はもう言うまでもないだろう)

 

 白本菜月は過去に帰りたかったのだ。

 正確にいうのならば、所属していたアイドルグループのメンバーのもとに。

 自分のせいですべてを捨ててしまった彼女が望むのは当然とも思える想いだ。

 その心を一つに集約したのがこの曲。

 未練の塊が収束したという意味でならば、呪詛にも等しい。

 聴いたものが自殺したとしても来歴を考えればわからなくもない。

 ただ、それだけで、何にも死ぬとは思えない。

 死んだら聴いてしまうデッドエンド・シンフォニーやストリンガー・レクイエムではないのだ。

 

 踵を三回鳴らして あの頃に戻りたい ♪

 

 間奏に入った。

 だが、僕たちに特に変化は感じ取れない。

 さっきの波佐琥珀のものと比べたら、まったくといっていいほど……

 

「―――異常は……ないね」

「はい。あの巫女の人、マジで上手ですけど変な感じはないです」

「やっぱり、別に「夢ポジ」がおかしい訳ではないんじゃないスか」

「そうですよ! なっちゃんが変なものを仕組んだとか噂されるのは我慢ならないんですけど!」

 

 メンバーたちが騒がしくなる。

 普段から練習している彼女たちにとってはただのいい曲でしかないのだから、当然である。

 むしろ、噂の方がおかしいということだろう。

 

「でも、さっきサチが首つろうとしたんだよ! おかしいのはホントじゃん! あのサチがどうしてライブ中に死ななきゃならないのさ!」

 

 そうなのだ。

 曲を聴いて外部で死んだものたちはともかく、現実にさっきステージ上で自殺しようとしたものはいたのである。

 事実無根というわけではない。

 ついさっきまで元気よく歌って踊っていたものが首を吊ろうとするはずがない。

 だからこそ、御子内さんは実地で歌って試してみるつもりなのだろうが……

 

 パチン

 

 突然、御子内さんのヘッドホンマイクが火を噴いた。

 顔を一瞬しかめただけで、彼女はゆっくりと頭から外す。

 そして、床に静かに置いた。

 

「―――来たみたいだね」

 

 中空を睨みつけながら言う。

 そこに何かがいるのか、僕には視えないし、他の人も同じはずだ。

 だのに、琥珀さんがぽつりと呟いた。

 

「なっちゃん……」

 

 と。

 他のメンバーも、

 

「嘘! なっちゃんが見える!」

「どうして浮いているの!」

「幽霊みたい! でも、なっちゃんだ! なっちゃんだよ!」

 

 と叫び出した。

 でも、僕にはわからない。

 中空に、初代マネージャーの霊でもいるのか。

 昔と違って霊感が発達している僕に視えないはずがないのに。

 

 ()()()()()()()()()()()()!?

 

 

 



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夢のポジション

 

 僕には視えない。

 でも、メンバーたちには視えている。

 つまり、そのことが指し示す答えは……

 

『ストップ!』

 

 御子内さんが手を挙げて音楽を止めた。

 さすがというべきか、彼女もアイドル達と同じ空間をずっと見続けている。

 僕なんかでは及ばないが、御子内さんレベルの神通力の持ち主ならば視通せるのだろう。

 霊力ではなく神通力―――神に通じる力―――と呼ぶのもわかる気がする。

 

「やっぱり、出てきたか…… ステージで歌ってみればわかりそうな気がしたけど、勘頼みでも当たるときは当たるね」

「御子内さん、僕には何も視えない」

「私にもだ……」

「え、波佐くんたちにも何か視えるのか…… 白本くんがいるとかいないとか言っていたけど……」

 

 僕たちとアイドル達に見えている世界は、まるで別次元のように差があるらしかった。

 少なくとも、御子内さんとアイドル以外には変なものは欠片も視えていない。

 ライブハウスの片隅に漂っているものと思われる()()()()()()()()()()()()()()()()()

「いや、あそこに視えないの!」

「なっちゃんじゃない!」

「でも、どうして…… あたしたちだけにしか見えないっての?」

「嘘、怖い!」

 

 アイドル達は抱き合って震えあがっていた。

 すぐ傍に幽霊が浮かんでいたら無理もないことだけど、こちらには視えないのでまったく実感がない。

 一年以上、退魔巫女と付き合ってきた僕にはよくわかる。

 ごく一部の人間にしか視えない霊というのは、人にとって自分の気が狂ってしまったんじゃないかと疑えてしまうほどに怖い話なのだから。

 彼女たちもそういう気分なのだろう。

 

「……どういうことなの?」

「だいたい聴いたら人が自殺する曲なんてナンセンスなんだ。『暗い日曜日』だって散々技巧を凝らして作られてはいるけれど、実際にはアレを聴いて死んだ人はいないはずだ。まあ、女にフラれて欝々としていた人間の作詞だから落ち込んでいるときに聴いたら、自殺のきっかけになるのはわかるけれど」

「でも、「夢のポジション」でも三人が……」

「もっと原因をよく調べてみることだね。引き金を引いたのはまた別の原因があると思う」

 

 だが、実際にそこに白本菜月の霊らしきものが浮かんでいるというのに……

 

「なんのことはない。この事件そのものは、なっちゃん―――白本菜月の郷愁の想いが招いたボタンの掛け違いなのさ」

 

 御子内さんがスタッフに声をかけると、少しして彼がマイクを抱きかかえてやってきて、アイドルたちに配った。

 残った四人がそれを受け取る。

 

「何をするの?」

「とりあえず、合唱でもしてみる。どうも、あそこの霊を動かすには歌の力が必要みたいだからね」

 

 彼女の指示に従って、マイク持ったアイドルたちがステージに上がり、そして、室内の一角を恐る恐る見上げる。

 相変わらず僕には何もわからない。

 ただ、何かがそこに()()ということだけはわかる。

 漂う雰囲気がそれを告げている。

 

「―――いいかい、恐れることはない。「夢のポジション」を歌ったとしても、ボクも波佐琥珀も自殺したりはしなかった」

「でも……ハルミが……」

 

 ハルミというのはさっきステージ上で僕が助けた人だ。

 

「大丈夫、ボクを信じてくれ。それに、キミらの方が白本菜月については詳しいだろうし、人柄も熟知しているんだろ? 彼女を想って歌ってみてくれ」

「なっちゃんを……」

「ああ。アイドルへの道を見失ってしまった彼女がようやく手にした実感がきっとキミらなんだよ。キミらが呼びかけなければ応えてくれないだろうさ」

 

 靴の踵を三回鳴らして あの世界に戻りたい

 みんなと歩いた あの道に

 花壇のチューリップが 笑い合った二人に見えてくる

 大きな夢を膨らませ 彷徨い終えたあの時代

 踊る曲は軽やかだった日のイリュージョン ♪

 

 いつのまにかセンターが御子内さんになっていたが、そのまま五人で「夢のポジション」を歌っていく。

 藤娘の衣装に囲まれた巫女装束というのは中々にシュールだが、初めて合わせたとは思えないハモり方だった。

 アイドルたち四人はやや怯え気味なせいで、御子内さんがひっぱりあげないと歌うこともさえできそうもない状態なのに、彼女が先頭に立っているだけで安心して歌えているようだ。

 しかし、おかしな光景だ。

 僕らは妖魅による怪奇現象の解決に来たはずなのに、やっていることは巫女レスラーによるアイドルソングの熱唱である。

 御子内さんも色々と言いながらもアイドルっぽい振付をして、一生懸命歌っているのがなんともいえない。

 

「うまいな」

 

 社長さんが無意識なのだろうが褒めていた。

 わりと適当雑把にやっているように見えても指先にまで力がこもっているせいか、素人目に見ても御子内さんの存在感は凄まじい。

 おそらくいつものように〈気〉を練るための調息をして、全身に巡らせているからだろう。

〈護摩台〉で戦っているのと変わらない感覚なのだろうね。

 でも、例えアイドルのように歌っていたとしても、彼女がやることは退魔なのだ。

 妖魅の事件解決が彼女の役目だった。

 

「視えた!」

 

 ついにライブハウスの天井に貼りつくようにしてこちらを見下ろしているうすぼんやりとした例の姿が浮かび上がった。

 白本菜月らしき霊は、四肢の先を天井と壁に貼りつけたさかさまの格好なのに、首だけは180度ねじ曲げて真正面からアイドルたちを見ていた。

 白目がない、黒い眼窩が陥没したかのような不気味な顔をして、口には締まりがない。

 とても生きている人間とは思えないところがいかにも霊体だ。

 だが、悪霊の類いには思えない。

 僕には何か哀しい叫びをあげるオブジェクトにしか思えないのである。

 

「―――泣いているの?」

 

 だから、わかったのだろうか。

 天井に虫のごとく貼り付いた彼女が泣き腫らしていることが。

 

『ウギュギュギョ……』

 

 霊のどこからか秋の羽虫のような音がした。

 物と物が遠慮なくこすり合うとこんな音がする。

 そして、僕はこの音の正体を悟った。

 泣き声だ。

 嗚咽だ。

 あの霊が涙をこぼしている。

 

「……歌を聴いているのか? それとも、ステージが羨ましいのか?」

 

 僕にはわからない。

 わからないでもいいことなのかもしれない。

 ただ、いえることは()()は自分がプロデュースしたアイドルのステージを愉しんでいるに違いないということだけだ。

 自分のしくじりによって失くしてしまった大切な場所を懐かしく思い出すための代替行為かもしれないが、それでも彼女は満足できるかもしれない。

〈不死娘〉のメンバーが真意をきちんと受け取ってくれるのならば。

 

 靴の踵を三回鳴らして―――

 

 ステージに帰ろう。

 もう戻れはしない懐かしい舞台へ。

 

「―――あまりに霊の未練が強いと、心に隙があるものにとっては毒になるのさ」

 

 すべてが終わってから御子内さんが言ったことが心に響いている。

 白本菜月が抱いた新しい情熱が逆に作用してこんな結末になってしまったことを嘆くように。

 

「自ら捨てた夢は絶対に取り戻せはしない。白本菜月は大人になってようやくそのことに気づいて、希望を持った後にまた絶望したんだよ……」

 

 曲が終わったとき、もう、不気味な霊はライブハウスのどこにも残ってはいなかった……

 

 

 

 

 



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未来が繋がればそれでよし

 

 

 結局のところ、事件は解決をしなかった。

 いつもと違って、巫女レスラーたる御子内さんの鉄拳制裁で片付くような案件ではなかったということなのだ。

 御子内さんは、〈社務所〉に連絡をつけると、朝までに注連縄を張った祭壇と洗米一合、お酒一升を用意させてお供え物とし、祝詞をあげ、お祓いをして浄めるという儀式を行った。

 よく地鎮祭などで行われる儀式だ。

 このライブハウスだけでなく、〈不死娘〉というグループ全体のための祈祷という形で厳かに行われた。

 普段の〈護摩台〉を使った派手な戦いとはまったく異質なまでに、しっとりとした御祓いを御子内さんが行う。

 むしろ、いつものやり方の方が一般的でないので、今回は依頼者たるアイドルたちも率先して参加してくれた。

 こういう巫女さんらしい神事にも携われるのかと、少しだけ感動してしまったぐらいだ。

 

「じゃあ、行こうか」

 

 朝になって、僕らはライブハウスを出ると、タクシーを拾っていつものように八咫烏に案内されてとある場所へと向かった。

 僕らが儀式をしている間に、八咫烏が白本菜月の霊の痕跡を辿っていたのだ。

 普通ならば辿れないところを、「夢のポジション」を聴くことで顕現したからか、可能になったという話だった。

 正直な話、御祓いというのはブラフで、僕らの本当の狙いは霊の本体である肉体の在り処をつきとめることだったのである。

 

「あれかな」

「うん」

 

 神奈川県相模原市の外れにある、荒れ果てた林の中だった。

 壊れた木製の柵で囲まれていたが、普通に侵入しようとすればできないことはない。

 第一、車道らしいものも塞がれずに残っている。

 車ごと侵入できるなんて、管理もされずに緩々だったに違いない。

 僕らはタクシーを帰すと、そのまま奥に踏み込んだ。

 十分も歩かないうちに、車道から少し離れた場所で八咫烏が鳴いているのが聞こえた。

 

「そっちか」

 

 白いカングー2が停まっていた。

 カングーはフランスのルノー車が製造している小型MPVで、本国よりもここ日本でのほうが人気があるとまで言われている車種だ。

 居住性と積載性能に優れ、何よりも安全性が高いということで、もしかしたらルノー車としては日本で一番売れているかもしれない。

 人の気配はまったくしない。

 フロント部分に溜まった木の葉の山がしばらく打ち捨てられていたのを物語っていた。

 停車しているガラスのリア側はスモークされていて、中が見えない。

 運転席から中を覗き込んだ御子内さんが、いたたまれないという風に顔をしかめた。

 僕にはそれだけで内部が想像つく。

 近寄ってみれば、車の内側からガムテープのようなもので目張りしてあることが一目瞭然なのだ。

 だから、わかる。

 あれは―――()()()()と。

 

「……白骨化寸前だ。腐臭がしないのがふしぎなぐらいだね」

「そうなの?」

「もともと脂肪の少ないスリムな体系の女性だったようだから、死体になってもさほど変化はなかったんだろう。死んだのが11月の冬になる時期だということもあったみたいだし」

 

 僕はカングーの内部を覗いたりはしなかった。

 無残な死体を見たくないということでなくて、見てはいけない禁忌があるような気がしたからだ。

 白本菜月という元アイドルの死を冒涜する気がしたのだ。

 例え、自分から死を選んだ人であったとしても、屍を辱めるようなことはしてはいけない。

 御子内さんの助手をするようになってから特に意識し始めたことだった。

 

「じゃあ、ライブハウスで見た霊は……」

「完全にこの女性のものだろうね。死んでからも彼女の曲への―――いやアイドル活動への未練がああいう形になったのかな」

「死んだのはこんな遠い場所なのに……どうしても育てたアイドルのもとに向かったのか」

「自分がなれなかったアイドルというものへの執着かもしれないよ」

「だったら、白本菜月のいたグループに行けばいいんじゃないか」

「……そこは()()()()()()よ。数年前に解散した」

 

 そっか。

 じゃあ、彼女にとってはもうステージと呼べる場所は〈不死娘〉のものしか残っていなかったのか。

 

「人間の執着って色々な形になるんだね……」

「ボクらの誰にだってそういうことはある。例外はない。ボクでもキミでもね」

 

 白本菜月の遺体をどうするかは、〈社務所〉と例の芸能事務所の社長が相談して決めるだろう。

 アイドルたちにはいつ事実を報告すればいいかも含めて。

 彼女たちにはショッキングすぎる結末であったことから、慎重な対応が要求されることになるだろうしね。

 初代マネージャー兼プロデューサーが自殺して、その未練が悪霊となり曲を歌う人たちに影響を及ぼしていたなんて。

 あまりいい話じゃない。

 

「いや、いい話だと思うよ」

「そう? 僕はそうは思わないけど」

「別に白本菜月は人を呪って祟った訳じゃない。ただ、迂闊にもやってしまった大きなしくじりに人生が左右されたことを受け入れられなかっただけなんだ」

「哀しい終わりじゃないさ」

「でも、……後に続いたろ。昨日の地下アイドルたちがいつか、陽の当たる場所に出てって白本菜月よりも素晴らしいグループになって、ファンを楽しませるかもしれないじゃないか。それこそ、未来は決まっていないんだから」

 

 僕にはなんともいえない。

 御子内さんたちが、いつだって暗闇の世界の中で妖魅相手に戦っているのと同様、薄暗がりから出ていけない人もいるかもしれないのだから。

 ただ、僕の巫女レスラーはあまり気にしないのだろう。

 自分が選んだ道というよりも……

 

「誰かが歌って踊って、それを愉しめる世界にいられるのって楽しいことじゃないか」

 

 陽気な世界を、支えるために。

 

 

 



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第41試合 イブ鬼譚
カナダより来るもの


 

 

 カナダ最大の都市トロント。

 冬になると豪雪地帯ともなる都市だが、この年はまだそれほど多量の雪は降っていなかった。

 そのトロントの郊外にある一軒の廃屋の中から、一人の少女が出てきた。

 防寒用の革ジャンを羽織った警官と違い、なんと厚着らしいことを一切していない涼し気な格好のままである。

 しかも、白い衣と緋色の袴という、いわゆる日本のミコ・スタイルなのであった。

 風が強いため、アップにまとめた黒髪から雪の粒を掃いながら、巫女の少女はカナダ騎馬警察――――RCMPのパトカーで待っていた警官たちのところにやってきた。

 

「どうでした? お知りになりたいことはわかりましたか?」

「ああ。だいたいのところハネ」

 

 警官のフランス語交じりの英語を簡単にヒヤリングでき、なおかつ同じ言語で会話ができるという、ありがたい異国の客人はさっさとパトカーの後部座席に滑り込んだ。

 運転席のカナダ人警官が聞いた。

 

「もう、何もなかったと思うんですが、あれでよろしかったんで?」

「十分に足りるよ。私たちにとってはだけど」

「なら、良かった。ただ、異国の客人に好奇心交じりの質問をさせていただきたいんですが、よろしいですかな」

「どうぞ」

「メルシー」

 

 パトカーが走り出し、トロントの田舎の景色がガラス越しに流れていく。

 全面的に白い。

 まだ、雪が本格的ではないとはいえ、さすがに北国だ。

 雪が風景の主役である。

 

「何が聞きたいのカネ?」

「まるでロバート・ピクトンやクリフォード・ロバートみたいだったと噂されている殺人鬼が住んでいた家に、わざわざトーキョーから女の子が訪ねてくれば、誰だって骨までしゃぶりつくしたいぐらいに気になりますや」

 

 助手席の黒人警官が肘で小突く。

 やりすぎるなよという警告だ。

 なんといっても、この日本のオリエンタル風の少女はICPOとFBIのお墨付きでやってきた、ある意味でのVIPなのだ。

 地元警察が雑に扱っていい相手ではない。

 もっとも巫女の少女の方はくだけた性格らしく、不躾な態度にも軽く応じていた。

 

「あの家に住んでいたという、その殺人鬼は結局見つかっていないのカナ?」

「ゲイリー・ブラン・キューザックは間違いなく私ら警官の銃弾を山ほど食らって、ウッドバインビーチの奥に流されていきましたよ。当たっていることは血の量でわかります」

「でも、死体は見つからなかった」

「なにぶん真夜中のことでしたんで。でも、野郎がオンタリオ湖で銃でくたばったか、溺れてくたばったかはともかく、死んじまったのは確かでしょうや」

 

 オンタリオ湖は観光地でもあるカナダ有数の湖だ。

 

「死体が見つかっていなければなんともいえなくないカナ?」

「ですがね、そのあともうゲイリーの仕業らしい事件は起きなくなった。だから、あいつは死んだ。そうとるのが正解なんじゃないですかね」

「ゲイリーを真似た殺人は起きなくなったんだヨネ」

「そうですよ。ゲイリーみたいな仮装をして殺す模倣犯(コピーキャット)はいない訳でもなかったが、あいつしかできそうにない殺し(ヤマ)は一切起きてませんや」

 

 警官はかつて担当した事件を思い出して身震いした。

 仲間に気づかれたら、どれだけ揶揄われるかわからないが、どうしたって記憶を喚起する度に怖気が走るのはとめられない。

 

「そこまで印象的な事件だったンダ」

「そりゃあ、そうでしょ。あれ以来、警察(うち)の担当者はクリスマスを素直に祝えなくなった。メリークリスマスじゃなくてハッピーホリデーでさ」

 

 それは最近増えてきたイスラム教徒への配慮のためだが、警官たちにとっては別の意味があるらしい。

 巫女は英語のファイルに目を通しながら数葉の写真を手にした。

 裏には「ゲイリー・ブラン・キューザック」とナンバリングが手書きしてある。

 貴重な犯行現場の写真であった。

 

「ホントだ。夢にまででてきそうダネ」

「そうなんでさ」

 

 助手席の黒人警官までなんともいえない表情になった。

 

「かつてトロントを震撼させた大量殺人鬼。―――ゲイリー・ブラン・キューザック。またの名を―――」

 

 巫女は鬼の名を呼んだ。

 

「〈キラー・サンタ〉か……」

 

 写真に写っているのは、白のトリミングのある赤い服にナイトキャップを被って、白いヒゲを蓄えた人物が分厚い刃の鉈を振るって、人を殺害しているシーンであった。

 しかも、被害者はまだ十歳ほどの子供ばかり。

 巫女が持っている写真だけで数人が襲われている。

 すべて隠し撮りではなく堂々と撮影しているらしく、ブレらしいものもほとんどない鮮明なものだった。

 撮る方も撮られる方も狂気の沙汰としか思われない悪夢の光景であった。アングルであった。地獄絵図であった。

 

「こんなものが野放しにされている可能性があるって……」

 

 巫女はおそらくは西だと思われる方角を見て、

 

「しかも、海を越えるなんて……どんなトナカイのそりにのってんノヨ」

 

 と、面倒くさそうにごちるのであった……

 

 

        ◇◆◇

 

 

「……クリスマスが中止になった」

 

 突然、御子内さんが愕然とテーブルに倒れ伏した。

 一緒にお茶をしていたみんなの視線が集まる。

 彼女はスマホを両手で握りしめたまま、わなわなと震えている。

 どうやらさっききた連絡に問題があったらしい。

 

「……何かあったの、或子」

「あったんスか?」

 

 蒼さんと切子さんが心配そうに声をかける。

 今年のクリスマスイブは平日だが、もう冬休みに入っているということもあり、簡単なパーティーをしようということになっていたのだ。

 ハロウィーンの時と違い、〈社務所〉の関係者は妙に忙しいらしく連絡がつかず、暇そうな二人から声がかかると御子内さんが簡単に飛びついたのである。

 JKらしく振る舞おうという彼女の活動方針としては、こういうイベントは欠かせないからだろうか、パーティーの準備を開始しようとした矢先の出来事であった。

 

「仕事が……入った……」

 

 御子内さんの仕事というからには妖怪退治なんだろうけど、まあ間が悪い。

 ちょうど彼女のテンションがマックスになりかける寸前だったからね。

 蒼さんも切子さんも、僕たちが妖怪退治の仕事中に知り合った同い年の女子高生で、クラスメートと〈社務所〉の関係者とか以外では珍しい外部の友人たちなのだ。

 ボサボサのカールのかかった髪型をして、「~ッス」と喋る眼の大きな女の子が大地蒼さん。

 お団子頭でちっちゃいクールビューティーっぽい、訥々と語るけど辛辣な内容ばかりなのが切子さん。

 ともに御子内さんには大切な友達である。

 

「いや、或子ちゃんの仕事の方が優先でしょ。でも、クリスマスに仕事ってなんだか社畜みたいでカッコいいッス」

「カッコイイ……」

「(そんなことはないけどね)」

 

 夢を失くした哀しいカナリアのような御子内さんを慰める友人たち。

 実にいい光景なんだけど……

 

「……何があったの?」

 

 彼女の助手であるところの僕としては他人事ではないので、どんな仕事なのか聞いておきたいところではある。

 最近、立て続けにわけのわからない事件が増えていることもあり、まず予習というか事前調査しておいた方がいいことが多いからだ。

 

「カナダに行っていた同僚から連絡が入ってさ……」 

 

 カナダ?

 それはまた遠いね。

 

「これから住所を送るから虱潰しに当たってくれだって。どんだけ大変だと思ってんだよ、アイツ……」

 

 御子内さんにしては随分と嫌そうな態度だった。

 皐月さんと話をしている時並みにかったるそうだ。

 

「妖魅事件の調査? それなら禰宜さんに頼めばいいんじゃない?」

 

〈社務所〉の事件の調査担当は、禰宜と呼ばれる役職の人たちだ。

 人手不足だからあまり酷使はできないけれど、実戦部隊である退魔巫女を投入する前に事件の概要をさらっておくのは必要なのでたいていは彼らにお願いすることになる。

 たまに最初から御子内さんたちが絡むこともあるが、基本的に分業制だ。

 だが、今回は別だったらしい。

 

「……住所の先で戦いがある可能性が高いからボクらでないと困るんだと。ふざけろ、あのバカ」

 

 うーむ、皐月さん以上に毛嫌いされている相手がいるということが驚きだよ。

 とはいえ、要するにその住所に赴くと物騒なことになりかねないということか。

 禰宜は調査専門で戦う力のない人ばかりなので、無理させる訳にはいかないということだろう。

 

「カナダからどんな用事なんスか?」

 

 蒼さんが口を開いた。

 彼女も友達のことなので心配しているようだ。

 こう見えて肝も据わっているし、頼りになる女子高生なのである。

 

「或子って日本の妖怪専門なんでしょ。どうしてカナダなの?」

 

 切子さんも不思議がっている。

 それは僕も同様だ。

 御子内さんの言っていることが正しければ、わざわざカナダまで何かを調べに行った巫女がいるということなのだから。

 

「えっと―――これさ」

 

 スマホの検索で御子内さんがみつけたホームページは、よくあるオカルト専門のサイトのもので記事の見出しには……

 

『全世界の子供たちを恐怖の渦に叩き込む“殺人サンタ”現われる!!』

 

 という煽情的なものがデカデカとあった。

 ……殺人(キラー)サンタ。

 非常に恐ろしい語感を持つ単語である。

 僕たちの人気者であるサンタクロースが人を殺すとでもいうのだろうか。

 

「どうやらこいつが日本にも上陸したらしい。今回、ボクがやらなければならないのはこいつ退治ということみたいだ」

 

 また、面倒な仕事を任されたものである。

 

 



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妖魅〈殺人サンタ〉

 

 

 初めに向かったのは、武蔵立川市から近い、八王子市だった。

 経費節約のためにバスに乗り継いで、北にある団地を目指した。

 二十棟ほどのあるなかなか大きな団地群で、入口のところに広場があってモミの木がクリスマスツリーに飾りつけられていた。

 

「第二棟の102号室か……」

 

 目的の住所は簡単に判明した。

 バス停を降りてすぐのところだったからだ。

 僕の隣を歩く御子内さんの様子におかしいところはない。

 つまり、はっきりとわかる妖気のようなものはないということだ。

 妖気は妖怪やそれに準ずる妖魅存在が放つ気配のようなものなので、それがないというのならば少なくとも近くにはいないということである。

 まあ、100%当てになるものではないということは経験則的にわかっているけど。

 102号室には人の住んでいる様子はなかった。

 表札もないし、郵便ポストもガムテープで塞がれていた。

 どうやら無人で誰も住んではいないようだ。

 しかもかなりの歳月が経っている。

 

「外れ、かな」

「みたいだね。……でも、この住所を廻れってどういうことなの?」

「んー、あのアホの言うことだと……この住所はトロントの郵便局で仕入れたそうだよ……」

「あんたら、なにをしてんだ?」

 

 僕らの会話に誰かが口を挟んできた。

 振り向くと、六十歳ぐらいのお爺さんがゴミ袋を片手に立っている。

 手には軍手をつけていて、作業着姿だ。

 このスタイルから想像できる仕事はそんなに多くない。

 

「団地の管理人さんですか?」

「ああそうだ。……あんたらは見ない顔だが、そこの部屋はもう誰も住んじゃいないよ」

「それはわかるよ。ただ、ボクらはここの住人に話があってきただけでね。どこに行ったか教えてもらえないかな」

「さあね。私らも知らんよ。あんなことがあったあとじゃ、久保さんだって出ていきたくもなるだろう」

 

 御子内さんは手元のFAX用紙を見て、

 

「久保達彦というのは……?」

「達彦? ああ、そこに住んでいた久保さんのお子さんだよ。その子が変質者に殺されたんだ。そのせいで久保さんちは一家でここから出てったのさ」

「殺されたって……本当ですか」

「ああ、もう十年になるかな。ちょうど今頃の季節だったかな。ほら、団地の出入り口にクリスマスツリーがあったろ。あれを用意したくらいだと鮮明におぼえておる」

 

 十年前に殺人事件があって、ここの部屋の子供が殺されたということか。

 なんともやりきれない話だ。

 僕らがまだ小学校低学年の頃だから、ほとんど同年代だね。

 

「犯人は逮捕されたんですか?」

「いや、まだだ。あんまりに惨い話なんで、団地の大人たちも警戒したんだが、犯人らしいものも見当たらないし、他に事件も起きなかったんで警察もお手上げだったらしい」

「そうですか……」

 

 それ以上の情報はもらえそうもなかったので、僕らは管理人と別れた。

 細かい情報はネットで検索した方がいいかもしれない。

 十年前の話だし。

 場合によっては〈社務所〉のネットワーク頼みになる。

 

「あった。―――『クリスマスの準備を終えた団地で起きた悲劇』。これだね」

 

 久保達彦くん、当時九歳がクリスマス直前の23日に団地内で行方不明になり、翌日に死体となって発見された。

 首筋に鉈のような刃物で何度も斬りつけられて、大量の出血をしたことで死亡したものと推測される……と。

 犯人は不明。

 どうやら、八王子署に捜査本部が設置されたが、犯人の目星すらつけられなかったらしい。

 同じころに有名芸能人が覚せい剤で逮捕されていたせいで、ほとんど報道されていないみたいだから、僕の記憶にもない事件だ。

 

「……なるほど。イブに起きた子供殺し。いかにも、殺人サンタのやりそうな事件だ」

「その殺人サンタが犯人ということでいいの?」

「ああ。まさか、カナダの殺人鬼がこんな極東までやってきていたなんて、誰も想像もできなかったみたいだね。でも、しまったな。これだと、もうこのリストに載っている住所では事件が起きている可能性がある」

 

 実はよくわかっていなかったんだけど、この住所って何のリストなの?

 

「わざわざ、うちの巫女がカナダまで行って手に入れてきたのは理由があってね」

「というと?」

「日本とは違って外国だと、エアメールは一度郵便局で留め置かれてから、住所を控えられて、それから配達されることになっているんだ。特にアメリカとカナダではテロ対策として州によってやられている。ある意味では検閲なんだけど、911からはわりと平然となされているらしい」

「そのリストの住所はそういうものなのね」

「ああ。これは、カナダのとある家に配達されたエアメールの送り手の住所をメモしたものなんだ」

「だから、わざわざカナダに行かないと開示してもらえなかったんだ。個人情報だもんね。……で、とある家って?」

 

 御子内さんはカバンからファイルを出して、僕に見せた。

 そこにはある殺人鬼による連続殺人事件が丁寧に整理されて、まとめられていた。

 

「〈殺人サンタ〉ゲイリー・ブラン・キューザックの隠れ家だった場所さ」

 

 27人の子供を殺した殺人サンタの肖像がそこにはあった。

 

「ゲイリーは、サンタクロースの格好をして子供たちに近づいて拉致して殺すという手口の殺人鬼だった。だから、基本的には冬場しか活動しなかったみたいだけど、それで27人という数字は異常だね」

「多いね……」

「こいつは、ボランティアで出張サンタみたいなことをやっていて、カナダにあるサンタの家という名目で世界中から送られてくるサンタへの手紙への返信なんかも引き受けていたんだ。サンタクロースの真似の泰斗みたいなものかな。犯行が発覚する前は、テレビや雑誌のインタビューを受けたりして、地元の名士でもあったらしい。世界中の子供たちに夢を届けるサンタさんってことで有名だった」

「うわ……」

「ところがその正体は、クリスマスシーズンになるたびにカナダの子供を殺して回る殺人鬼だったという訳さ。昔のカナダではこいつの噂で持ちきりだったそうだよ。で、ある時、へまを犯して警察に見つかり、銃でハチの巣になるまで撃たれて、オンタリオ湖という湖に落ちていった。残念なことに、死体は見つかっていない」

 

 なるほど、それで〈殺人サンタ〉なのか。

 

「でも、それだともう死んじゃっているよね。亡霊になってバケて出たとでも―――あっまさか……」

「そうだ。皐月とヴァネッサ・レベッカの話を思い出せばいいだろうけど、北米アメリカには〈殺人現象(フェノメナ)〉というおかしな妖魅事件がある。ゲイリー・ブラン・キューザックもその一つになったんだ」

「しかも、カナダだけじゃなくて、日本にまで来ているってこと? どうして?」

「それがこのリストなんだ。生前のゲイリーに、『サンタさん宛』の手紙を出した子供たちの住所がこれなのさ。警察官に射殺されても〈殺人現象〉として存在することになった〈殺人サンタ〉は、自分をサンタクロースだと信じている無邪気な子供たちを標的にして、今でも元気に殺し回っているという訳だ」

 

 だから、住所を虱潰しに探し出して、しかもその先で戦いがあるかもしれないと用心しろと言うことなのか。

 でも……

 

「でも、待って。達彦君の件は十年の話だよ」

「うん。〈殺人サンタ〉はもう日本に上陸している。今から探していては間に合わないかもしれない」

「じゃあ、どうするの? リストにある子供をすべて守る訳にはいかないよ。その〈殺人サンタ〉の行動を読まない限り、被害者はでる。そのカナダに行った同僚さんには何か考えがあったんじゃないかな!」

 

 すると、御子内さんは難しい顔をした。

 何か歯にものが挟まったような、そんな複雑な表情だった。

 

「確かにあいつなら……」

 

 改めて、御子内さんはFAX用紙のリストを精査し始め、そして顔を引きつらせた。

 驚きと苦悩が入り混じっている。

 

「どうしたのさ?」

「ちっ、そういうことか。なんとも雑な依頼だと思ったよ。まさかこういう狙いがあったとはね」

 

 そういって、彼女はリストをぎゅっと丸めると僕に押し付けた。

 非常に珍しい感情的で乱暴な態度だった。

 

「リストの最後を見なよ! あー、くそ、気がつかなかった!! まさかこういうこととは!」

「最後?」

 

 言われた通りにリストに目を通した僕は、最後の行に見慣れた名前を発見した。

 確かに、これは御子内さんを直に指名したのに等しいものだろう。

 なぜなら、そこにあった名前は……

 

 

 池田切子。

 

 

 だったからである。

 

 

 

 



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サンタクロースへの手紙

 

 

 池田切子は、らしくないことをするのが好きな子供だった。

 それは彼女が物心ついた頃から変わらず、17歳になった今でも同じだった。

 例えば、どういうことでらしくないことをするかというと、女の子はピンク色を好むという親や祖父母の押し付けに対して青や茶色の服を選んだり、お人形遊びの場に戦車のミニチュアを乱入させたりということだ。

 彼女のことを単に男の子っぽいと評する大人もいたが、切子にとっては要するに「女の子らしさ」というものをもとめる周囲への反発があったのだろう。

 幼稚園に入ったころには、すでに楚々とした物静かな美少女になるのは間違いない整った顔つきだった切子があえて男の子っぽいものに興味を示すのは、確かに「らしくない」行為そのものだったからだ。

 小学校に上がると、今度は「切子らしい」と周囲が考えることの逆を選ぶようにしていた。

 冷めた性格、熱くならない性質、クールさを信条とするような振る舞い……

 池田切子とはそういう子供だと知れ渡り始めると、常に逆張りをし始めるようになる。

 典型的なのが、友達選びだ。

 彼女が無二の親友として選んだのは、口調からして軽い感じで頭の悪い男の子のような陽気な子供だった。

 それが今でも付き合っている大地蒼である。

 もっとも、単に「切子の友達らしくない」タイプというだけではなく、蒼の持つ中々くじけることを知らない前向きな性格に魅かれたからという理由もあるのだが、それこそ「らしくない」ので口にはしなかったが。

 蒼とは小学校入学時にクラスが一緒になってからほぼいつもつるんでいるという関係で、高校生になった現在でも変わらないままとなった。

 おかげで凸凹コンビと言われていたが、それも「らしくなく」て最高だとおもっていた。

 他にも切子はあえて逆張りをし続け、それがいわゆる厨二病の一種だとわかっていてもやめられなかった。

 最たるものは、一年前に出会った巫女との付き合いだった。

 その巫女とはかつてない妖怪退治という珍しすぎる事件で出会ったのだが、普通ならば危険で避けて通った方がいい相手だというのに、切子は積極的に彼女と仲良くなろうとした(実際に切子と蒼は妖怪に殺されかけたというのに)。

 面倒なことに積極的にかかわる切子、という「らしくない」行動を採りたくなったからである。

 そして、付き合ってみると相手の巫女はとても気の合う相手だった。

「らしくない」ことをして蒼と親友になって以来の、当たりだったといえる。

 相手が高校生にして仕事をしているという忙しい立場であるからか、たまにしか会えない関係ではあったが、それでも切子にとっては大切と呼べる間柄になった。

 子供の頃から、ずっと「らしくない」ことにこだわってきた切子にとっては嬉しい誤算であった。

 そんな風にいつも「らしくない」ことばかりを選んで生きてきたのが、彼女なのである……

 

 

          ◇◆◇

 

 

「そういえば、私、サンタクロースに手紙書いたことある」

 

 クリスマス会をするつもりだった御子内或子がいなくなってしばらくしてから、切子はぽつりと呟いた。

 マクドナルドのフライドポテトLサイズを親の仇のように頬張っていた親友の蒼が顔を上げた。

 

「へ、なんスか?」

 

 間抜けな顔をしている。

 理知的で幼いながらクールビューティーとして確立されている切子とは正反対の顔だ。

 だからこそ一緒にいて心地よいのかもしれないが。

 

「……だからサンタクロースへの手紙」

「サンタさんへ?」

「小学校の頃にあったじゃない。海外にあるサンタクロースハウスにプレゼントしてほしいものを書いた手紙を送るって企画。それのこと」

 

 すると、蒼はニシシと笑いながら、

 

「切子らしくないことしたッスね。切子はもう小学生の頃から、そんなの子供っぽくてやってられないわみたいな感じだったのに」

「私らしくないからしたの。もう幼稚園の頃にはサンタクロースなんていないとわかっていたけど」

 

 そんな冷めた子供がサンタクロースの実在を信じていたら、いかにも「らしくない」だろうなという理由でしかない。

 

(私って子供の頃からそんなことばかりしてたのよね)

 

 少し自嘲気味になってしまうのもしかたない。

 とはいえ性分なので止める気はないが。

 

「へええ。自分なんか、つい最近までサンタさんがいるものだと信じてたんだけど、みんなは早熟ッスね。感心ッス」

 

 蒼は逆に信じていたらしい。

 今の情報社会でサンタが作り話であることに気づかないなんてどれだけ鈍感なのよ、と切子は毒づいた。

 親友の毒をまともに受けても蒼にとって致命傷にはならないのだけれど。

 

「で、それがどうかしたんスか? 幼少のみぎりの恥を暴露して笑いを取ろうという寸法なんスか? 切子にしては芸のないトークッスね」

「恥ではない。……あなた、どうして私がサンタクロースに手紙を出したら恥になるというの」

「だって、切子なら『本当はいないって信じているけど、サンタクロースがいる方に賭けるわ! だって夢があるもん!』とかへそ曲がりで思っていそうだからッスからねえ」

「―――そ、そんな馬鹿なこと思ってない」

「間があった上、どもったッス。図星だったのかあ」

 

 さすがは間が抜けているとはいえ親友だ。

 鋭い。

 実のところ、「らしくなさ」を追求していた子供の頃、切子は「サンタクロースはいないということをしっているけれど、万が一でもいるかもしれないと思うのが自分らしくない」という逆の逆の理由でサンタを信じていた切子なのである。

 だから、蒼の言い分が正しい。

 しかし、心を読まれるというのは、例え親友であったとしてもまっこと腹の立つことである。

 

「うるさい」

「へえ~。そんな恥ずかしい記憶を、或子ちゃんが〈殺人サンタ〉退治なんてものを振られたから思い出したということッスね」

「だから、恥ではない。……カナダからというのが気になっただけ」

「そういえばカナダとか言ってたッスね。サンタさんだとフィンランドあたりだと思ってたッス」

「フィンランドよりはカナダの方が返事をくれるサービスがあったの。だから、そっちを選んだ」

「なーる。もらえるかどうかわからないプレゼントよりも現物の手紙を欲しがったと。いかにも欲深な切子らしいッスね」

「―――そんなことない」

 

 またも図星をつかれる。

 腹が立つったらありゃしない。

 

「で、変事はもらえたんスか」

「うん、まあ……」

「あーあ、部屋のどこかに大切に保管しているということッスか。親とかに知られたらバツが悪いからッスね。ホント、切子ってわかりやすい」

「そ、そんなことなっ!!」

 

 これ以上喋るとドツボにはまる。

 だから、切子はもうこの話題には触れないように黙ることにした。

 

「―――でも、或子ちゃんが〈殺人サンタ〉とかいうのが日本に来たといってましたねえ。そんなの本当にいたとしたらショックっスね。いち、サンタさんファンとしては」

「でも、サンタクロースの格好をした人殺しがいたのは事実」

「悪い子にはプレゼントの代わりにナイフの切っ先をプレゼントっスか。いやな話ッス」

「でも、〈殺人サンタ〉なんてただの噂だから」

「或子ちゃんも大変ッスねえ」

 

 彼女たちの友達である退魔巫女は、そんな噂にも対処しなくてはならないのか。

 まったく正義の味方というのも大変な仕事である。

 と、その時まで切子は楽観視していた。

 明日の24日、クリスマスイブに合わせて蒼が泊まりにくるというので掃除をしておかないと呑気に考えるまで。

 だが、そんな彼女にショッキングな危険が迫っていることへの予感は欠片さえもなかったのである。

 

 



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無辜な子供を狙う悪魔

 

 

「でも、久保さんの事件は十年前なんでしょ? どうして、今更……あ、そうか」

「わかったかい。わざわざ()()()がカナダに行ったのは、そういうことさ。ボクらは知らなかったけれど、去年の段階でもまだ世界中で〈殺人サンタ〉騒ぎが存在していて、世界のどこかで誰か子供が殺されていたのさ。しかも、調べてみたらその子供はまだ生きていた頃に〈殺人サンタ〉宛に手紙を送ってよこした子だったのだろう」

 

〈殺人サンタ〉ゲイリー・ブラン・キューザックという男がカナダの騎馬警察によって射殺されたらしいのは、ちょうど十一年前のことだ。

 そして、久保達彦くんが殺されたのは十年前。

 本当にゲイリーが〈殺人現象〉となっていたとしても、何千キロもの離れた日本にまでやってきて子供を殺すなんて、通常ならばあり得ない。

 いったいどんな化け物なのだろうか。

 いや、前回の御子内さんが撃退した殺人鬼〈J〉の不死身ぶりを考えると、北中米の〈殺人現象〉というものは日本に住んでいる僕らの感覚とは桁外れに違うと考えた方がいいのかもしれない。

 日本でいう妖怪よりももっと得体のしれない人の怨念がそのまま殺人という概念になってしまつたかのような不気味さがある。

 

「カナダで死んだかもしれない殺人鬼が日本にまで来るなんて……いったいどうやってそんなことに」

「ボクの考えだけど、おそらく生前の自分に送られてきた手紙の住所を辿っているのだろうね。確か、ボクの記憶ではこういう風にサンタクロースに手紙を送るというイベントはだいぶ前から行われていて、世界中の子供たちがやっているはずだ。ゲイリーという奴がやっていたのは、自分のところにわざわざ手紙を出した子供をターゲットにして悦に入るということみたいだからね。そして、多分、ゲイリーはカナダから来た分の手紙がなくなったから、今度は世界中から来た分の子供を殺し回ろうとしているんだろうさ。まったく、なんとも律儀な怪物じゃないか」

 

 と、御子内さんがはき捨てる。

 怒りのあまりキレかけているようだ。

 

「―――じゃあ、このリストの子供たちは」

「日本からゲイリーに手紙を出した純粋で無邪気な子供のリストさ。今、〈社務所〉の禰宜に日本警察のデータと照合させている。こんなこと、〈社務所〉だけでカバーできる範囲じゃない」

 

 そして、数十分後、リストは恐ろしい結果で染めあがった。

 二十人前後いた子供の名前はほぼすべて消え、転居によって住所を変えたと思われる数人以外は生存が確認できなかったのだ。

 関東に限らず、日本中の子供たちが!

 しかも、おぞましいことにその子供たちのほとんどは同時期の十二月二十三日前後―――要するにクリスマスだ―――に消息を断っている。

 生死が確認できたのは久保達彦くんぐらいのもので、彼は惨殺死体として見つかっているが、他はどうなったのかさえわからない。

 そして、さらに、さらに不気味なことに、転居して住所が変わった子供たちの中にも行方不明者がでているのである。

 それは去年から始まっていた。

 唯一、まだ安否が確認されているのは……

 

「切子だけとはね!」

 

 どうして、彼女だけが残っているのだろう。

 二十人の手紙を送った子供のリストはもう赤い線で埋め尽くされているのというのに。

 切子さんは親友の蒼さんとずっと一緒だったといっていたのを覚えているので、転居したということもなさそうなのに。

 

「いや、切子は同じ学区内で何度か引っ越しをしていると聞いたことがある」

「同じ学区内で? そんなことがあるの?」

「あいつが家族と住んでいたマンションというのが、ちょっと前の耐震工事偽装問題でやり玉に挙がった建物だったんだよ。それで、建設会社が耐震補強工事をしている間に別の部屋に移って、一年ほど経ってから戻ってきたんだけれどこれまでとは別の部屋で不便になったとかいうことで、やっぱり納得できないと半年もしないで引っ越したと聞いているね。その時の引っ越しでも、不動産会社が用意した代替の部屋経由だったそうだから、短い間に何回も住所を変更しているんだ。たぶん、それが原因だったんじゃないか?」

「引っ越しが多かったから、居場所がなかなかつきとめられなかったってこと? まさか、そんな……。ストーカーじゃないんだから……」

 

 だが、僕の経験則でしかないが、現代の妖魅というものは意外と生きている人間と似たような行動しかとらない。

 まだ見たことはないれども、もしかしたらインターネットで情報収集をしている妖怪がいたっておかしくないぐらいだ。

〈殺人サンタ〉がカナダからきた妖魅だとすると、頻繁に引っ越しをした切子さんの足取りを追いきれずにいた可能性は十分にある。

 怪物に土地勘なんてものがあるのかはわからないけれど、〈殺人サンタ〉は元々人間が化けた〈殺人現象〉なのだから思ったよりも超常の力がなかったといことはありうるのだ。

 その他の転居した子供たちを殺すのに八年近くかけた〈殺人サンタ〉だとしたら、その仮説があっていたとしてもおかしくない。

 

「他国のことはボクにはどうにもならないけれど、もしかしたら今夜にでも切子が狙われるかもしれないとなったら、みうやるしかない」

「イブは明日だよ。でも、〈殺人サンタ〉が動くとしたら今日のうちみたいだね」

「……京一、クリスマスの忙しい時期に悪いんだけど」

「〈護摩台〉を設置するんだね。どこがいい?」

「切子のマンションの隣に児童公園があった。そこにしよう」

 

 僕たちはすぐに行動を開始した。

 まず、〈護摩台〉を設置するための資材をその住所に運び込むように〈社務所〉に連絡を取る。

 突貫になりそうなので人手も依頼した。

 御子内さんはすぐに切子さんたちに電話をする。

 僕らと別れてから、二人は切子さんの家で遊んでいたらしい。

 おかげですぐに捕まえられたし、彼女たちに警告を発することができてラッキーといえた。

 でないと、御子内さんが到着するまでに彼女のもとに〈殺人サンタ〉が現われたときに対処ができないからだ。

 八王子からだと一時間以上はかかる。

 それまでに〈殺人サンタ〉がやってこないことを祈るしかない。

 一番いいのは、切子さんが狙われずにクリスマスが無事に終わることだが、僕だけでなく御子内さんが異常に焦っているということは、彼女の勘が危機を告げているのだろう。

 戦国時代の武将と同等といっていい野生の勘働きを持つ御子内さんの勘が!

 

「急ぐよ、京一! 切子はボクたちの友達だ! 絶対に守る!」

 

 背中に冷たい汗が流れる。

 これが恐怖というものだ。

 僕もあのリストを見たときの恐ろしさは忘れられない。

 二十人の子供の名前に「行方不明」と書かれたリストの。

 遥々異国のカナダからわざわざ子供を殺しにくるような狂った化け物の所業を。

 

(でも、少し気にかかることがある)

 

 御子内さんにこのリストを渡したという〈社務所〉の同僚はいったい何を考えているのだろうという問題だ。

 少なくとも、その同僚さんはこうなることを見越していたことは間違いない。

 切子さんの名前をわざわざ最後に配置していたのも何かの企みのはずである。

 だが、いったいなんのために……

〈社務所〉の中で御子内さんに対して含むものがある人がいるということなのか。

 それとも……

 

「いや、気にしちゃダメだ」

 

 僕は自分の頬を張った。

 今はそんなことを気にしている暇はない。

 一刻も早く切子さんたちのところにいかないと。

 少なくとも〈殺人サンタ〉が動くのは23日の夜だ。

 もう時間的余裕はないのだ。

 間に合ってくれ。

 僕らはそんなことを祈りながら先を急いだ。

 

 

 

 



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視えない恐怖

 

 

 日が暮れてから友達からかかってきた電話に、さすがの切子も凍りついた。

 もたらされた情報には、確かに覚えがあったはずだ。

 小学生になった直後ぐらいに、学校の教師の音頭にのって書いた「サンタクロースへの手紙」。

 どんな内容だったかまでは覚えていないが、実際に返事がきたことも記憶にある。

 まさか、十年近くたってそんなものが災厄となって降りかかってくることになろうとは想像をはるかに超えていた。

 スピーカーモードで聞いていた隣の蒼も驚きを隠せない。

 

「―――切子が、その〈殺人サンタ〉に狙われているってことッスか!?」

「まだ確定じゃない。私が危ないってだけ」

「同じことじゃないッスか! ヤバいッスよ! 逃げる準備をしないと!」

 

 蒼は座り込んだ切子を立たせようとするが、彼女はそれを断った。

 だいたい、どこに逃げればいいのか。

 切子にとっては自分の家以外に行けそうなところは思い当たらなかった。

 

「どこに?」

「警察とか……」

 

 蒼の現実的な提案に対して首を振って否定する。

 彼女は去年、妖怪〈ぬりかべ〉の事件に遭遇している。

 その時に、一般人にとっては妖魅にまつわる事件は認識されないということに気が付いた。

 そもそも妖怪や幽霊というものは、ほとんどの人間の目には映らない。

 彼女たちも実際のところ、退魔巫女である御子内或子と接触しなければ視界にすらはいらなかったのだ。

 何故か、と切子は考えた。

 半年ほど色々と仮説を立てた結果、一つの彼女なりの結論を出した。

 或子が言うところの「妖魅事件」について、彼女が所属する〈社務所〉などだけではなく、他の公共機関も隠蔽するのが自然となっているのは何かしらの無意識な反応ではないのかということだ。

 例えば、「閲覧注意」というタイトルがついていればインターネットを頻繁にする人間でも、その情報は避けたがるものだ。

 怪しいタイトルのサイトを踏めば、ウイルスが感染するとわかっていれば、よほど無知か対策を講じられる人間以外は無理にクリックしないものである。

 つまり、人間は危ないというものに対して意識的・無意識的に避ける習性がある。

 それは妖魅に対しても同様だ。

 しかし、たまに時折妖怪のようなもものがカメラなどに撮影されることの説明がつかないが、それに対しても答えはある。

 おそらく、()()()()()()()()()のだ。

 自分では対処できそうにないレベルの妖魅だと無意識―――もしかしたら魂と呼ばれるものかもしれない―――が判断すると、例えはっきりとした証拠があっても記憶から抜けてしまう。

 研究者にでもならない限り、おそらく自分が見たものを完全に忘却してしまうのかもしれない。

 では、どうして切子や蒼が〈ぬりかべ〉のことを覚えているのか。

 答えははっきりしている。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 退魔巫女として、理不尽にも降りかかる超自然の存在に対して敢然と立ち向かい、それを撃破することのできる人間たちの決戦的存在を。

 言い換えれば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なのである。

 かの条件を満たすことで人は、真の闇を見据える力を備える。

 切子や蒼が妖怪を見たことがあるのは、そのおかげであろう。

 

(霊能力でもついたのかも)

 

 とはいえ、今回のことはそういったレベルの話ではない。

 原因となっているのは十年前に彼女が出した手紙の存在だ。

 電話越しの会話としばらくして送られてきたメールによると、問題となっているのは〈殺人サンタ〉という殺人鬼だ。

 しかも、本物は十年前に死んでいるというらしい。

 まったく何がなんだかわからない状況というしかない。

 だが、少なくとも彼女の友達は信じられる戦士であり、頼れる巫女なのだ。

 或子の言い分を120%信じないなんてことこそ、まさにありえないことだった。

 

「―――警察はあてにならない。こんな話、誰も信じない。私たちが信じていいのは〈社務所〉、中でも或子と京一だけ」

「あれ、どうしてッスか? 他の巫女さんでもいいんじゃないッス」

「……京一からのLINEに変な忠告があった。それを踏まえただけのこと」

 

 京一の忠告は平たく言えば「とにかく気を付けろ」ということでしかなかったが、切子としては注意するに越したことはないことだった。

 

「〈殺人サンタ〉というのが本当なら、自分と切子はどうすればいいんスかね」

「逃げるのは論外。隠れるしかない。でも、逃げ場はない」

「切子んちに立て籠もるの?」

「―――それしかないかも」

 

 その瞬間、部屋の電灯が消えた。

 他の電源と直結している光も途絶えた。

 停電であった。

 いかにも、殺人鬼がやってくる寸前という狂いかけたシチュエーションが始まっているのだ。

 予感はしていたとしても、現実に直面すると震えが走る。

 まさかという疑問を胸の中で掻き消した。

 あの日、あの時、自分たちの通う学校へ忍び入った彼女たちが遭遇した怪奇のことを思い出せばいい。

 単に好奇心から侵入し、妖怪〈ぬりかべ〉に身体の半分を呑み込まれたときのことを。

 

「マジで〈殺人サンタ〉来るんスね!」

「信じていなかったの?」

「まさか! 自分、切子のいうこと疑ったりはしないッス」

 

 蒼は慎重に窓に近づいた。

 この部屋は三階建てのマンションの三階に当たる。

 窓から入ってくる可能性は低いはずだ。

 だが、蒼は普段の間抜けさからは比較にならない慎重さを発揮し、窓に向かうと、そっとガラスに手をかける。

 ピーンと耳をつんざく奇妙で鋭い音が聞こえ、切子の部屋のガラスが割れた。

 横合いから突きだされた太い指が蒼の手首を掴もうとしたが、咄嗟に引いたことで免れる。

 二人は見た。

 その指は赤い生地と白い縁取りをした袖に包まれ、窓の上角からこちらを覗き込む淀んだ黄色く丸い瞳を。

 明らかに白人の―――黒々とした血飛沫で薄汚れた顔を。

 

『―――I got it!!(みーつけた)

 

 耳障りなバスの声が切子たちの耳朶を穢した。

 やはり、怪物は予感の通りに切子の元へとやってきていたのだ。

 

 

 



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〈社務所・外宮〉の月巫女

 

 

 切子さんの家族が住むマンションはJR中央線の国立駅南口の大学通りをまっすぐに進んだ場所にあった。

 クリスマスシーズンということで、一橋大学に続く駅前の並木道は様々な飾りが施され、道行く人たちを魅了していた。

 豊富なイルミネーションは夜になるとさらに彩を増し、LEDを駆使したロマンチックな幾何学模様やデフォルメされた可愛らしいキャラクターが陽気に舞い踊っている。

 かき入れ時ということもあってか、サンタクロースの恰好をした店員などが店の内外で忙しそうに働いていた。

 イブが明日ということもあり、まだ本番という様子ではないが、それでも普通ならばワクワクしてしまいそうな光景だった。

 一足早くカップルが手をつないだり腕を組んだりしながら散歩していた。

 もっとも、僕らは〈殺人サンタ〉なんていう悪夢の産物から友達を守らなければならない切迫した状況にあったからか、道すがらそんな人たちを微笑ましく見ることはできなかったけれど。

 

「あった!」

 

 何度かお邪魔しているという御子内さんが1棟のマンションを指し示した。

 三階建てで各階に六部屋がある中規模なマンションだった。

 比較的最近建てられたもののようだし、お値段もそこそこするだろう。

 BMWに乗っている蒼さんの家もそうだが、切子さんちも結構裕福っぽかった。

 すぐ隣にはわりと広い児童公園があるのがわかる。

 国立市は左派系の政治家が強く、こういう生活環境を快適にするものを重視する傾向があるそうなので、日頃からよく手入れをされている感じがある。

 ただ、子供が遊べそうな遊具がなく、ベンチと花や木といった植物ばかりなところに、無用なトラブルを避けようとするせこさみたいなものが見て取れた。

 サイズとしては、〈護摩台〉を設置するには十分な広さだ。

〈人払い〉の術を掛けてもらい、その間に設置してしまえば見事なバトルフィールドに変わることだろう。

 ただ、要求しておいた資材がまだ到着していなかった。

 必要な資材を六トントラックから降ろして、それを組み立てて設置するには、最低でも三時間はかかるのにこれでは間に合わない。

 僕としては、もう資材の荷下ろしぐらいは終わっているものだと期待していたというのに。

 随分と遅れてしまっているのは、年末だからだろうか。

 

「これは参ったね。仕方ない、とりあえずボクは切子たちのところにいこう。最悪の場合、簡易結界だけで〈殺人サンタ〉を迎え討つことになるから、京一はここで用意しておいてくれ」

「うん、わかった」

 

 簡易結界というのは、呪法加工を施したワイヤーを使い一定の区画を囲むことで行う簡単な結界のことだ。

 コツさえ掴めば巫女たちのように神通力を持たない僕でも張ることができるもので、御子内さんはわりと多用している。

 ここ最近の傾向として、巫女レスラーらしい〈護摩台〉を使っての試合(たたかい)ができない妖魅が増えていることもあり、僕が簡易結界を張る役になることが多い。

 効果としては正式な結界である〈護摩台〉に比べたらかなり落ちるものになるのだが、それでも妖魅と人間との力の差を埋めてくれることになるので無駄にはならない。

 かつてウサギの妖怪〈犰〉と戦ったときは、御子内さんでさえほとんど手も足も出ない状況に追いやられたことがある。

〈犰〉自身が古くて強い妖怪であったということもあるが、〈護摩台〉という結界がなければ十回に八回は負けることになるという。

 人間と妖魅にはそれだけ大きな力の差があるのだ。

 以前の殺人鬼〈J〉のときは、元が人間であったものだからなのだろうか、簡易結界だけで御子内さんが圧倒してしまっていたこともあり、相当強力な妖怪でもない限り簡易結界でもなんとかなることは確かだ。

〈殺人サンタ〉の出自を考えれば元は〈J〉と同じ人間でしかないので、簡易結界があればそれで足りるはずだ。

 だが、僕たちはどうにも嫌な予感がしてならなかった

 STAR WARS風に言うなら、「I've got a bad feeling about this」である。

 どうにも胸騒ぎがしてならない。

 相手の狙いが親しい友達ということは滅多にないことだけど、それだって皆無という訳ではない。

 じゃあ何故なのか?

 それは、僕たちが一度切子さんから引き離されたということにある。

 あの被害者になるだろうリストの末尾に、わざわざ切子さんを配置したのはそのせいだ。

 その意味がまったくもって不明なのだった。

〈社務所〉の同僚―――退魔巫女のはずだ―――から依頼されたもののはずなのに、御子内さんが乗り気でなかったのもおかしいが、やはり何か作為があるようにしか思えない。

 ここまでに今まで感じたことのない違和感があったのである。

 

「……面倒なことにならなければいいんだけど」

 

 だけど、そんな僕の予感は最低なことに的中してしまう。

 いつまでたってもやってこない〈護摩台〉の資材を諦めて、児童公園に簡易結界を張りだした時、僕に向けて声を掛けてきた人がいた。

 

「オマエが御子内の助手なのカネ?」

 

 振り向くと、見たことのない巫女装束の女の子が立っていた。

 御子内さんたちのものとは違い、一切改造をしていない。

 逆に見慣れていなさ過ぎて不自然さを覚えるくらいだ。

 しかも、この巫女さんは異常なほどに髪が長く、お尻のあたりまで伸ばしている。

 ワンレンというものだろうか。

 レイさんも長いが、その彼女でも腰までなので、さらに長髪なのだ。

 さらにいうと、眉のところでばっさりと直線に切る、広瀬すずのようなカットは日本人形っぽさがある。

 

「あ、はい。―――もしかして、貴女は〈社務所〉の媛巫女なのでしょうか」

「そうダネ。(わたくし)は〈社務所・外宮(げくう)〉の月巫女(つきみこ)ダヨ。よろシク」

 

 ……。

 なんだ、聞いたことのない名乗りと単語だったぞ。

〈社務所・外宮〉というのも、月巫女というのも、僕は知らない。

 一年ぐらいしか〈社務所〉関係と携わっていないとはいえ、はっきりと未知の単語だとわかるぐらいだ。

 いったい何者なんだろうこの人は。

 なんとなく初対面の印象は、〈社務所〉の重鎮である御所守たゆうさんを連想させるけれども、それよりも遥かに若い。

 たゆうさんは正直言って術で若作りしているのがわかるけれど、この人は本当に二十歳ぐらいなのはわかる。

 なのに、たゆうさんのような得体のしれない底なしの恐ろしさを感じる。

 さらにいうと、この人はきな臭い。

 落ちたばかりの不発弾か火薬の傍にいるような、いつでも容赦なく炸裂しそうな不穏な気配がある。

 長く隣にいて欲しくない。

 首筋にちりちりと痛みが広がり、警戒しろと本能が囁くのだ。

 

「なるホド。〈一指〉の相ダ。今時分は大陸でも滅多にお目にかからない貴重(レア)な運勢の持ち主ダネ。たゆう婆さんが御子内の傍に貼り付けて置くわけダ」

 

〈一指〉がわかるのか。

 本当にこの人は何者なんだ。

 

「―――さてさて、御子内にそれほどの価値があるのかないのか、巫女の癖に巫女であるのかないのかわからないようなアイツに意味があるのかないのか、様子を見させてもらうとしようカネ」

 

 にたりと笑った。

 地割れのように歪んだ笑みであった。

 はっきりと巫女とは思えない。

 僕はきっぱりと悟った。

 

 この人はヤバい、と。

 しかも、そのヤバさは僕の御子内さんに祟るものである、と。

 

 これが、僕たちが高校三年生になる直前に突然やってきた、〈社務所・外宮〉の月巫女―――神撫音(かんなね)ララとの因縁の始まりであった。

 



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妖魅〈殺人サンタ〉Ⅱ








すみません。
最近、パソコンが不調でたまに二重投稿になってしまうようです。
当初は酒の飲みすぎかなと思っていたのですが、普通に予約投稿しても同じ状態になってしまうことがわかりました。
これからも注意はいたしますが、読者の方々にご迷惑をおかけしていることを深くお詫びいたします。











 

 蒼が危機を免れたのは偶然ともいえない。

 当たり前のことであるが、彼女はこの結果を予期していたわけではなかった。

 だが、視えていたとはいえる。

 大地蒼は()が良かった。

 視力がいいというだけでなく、広角な周辺視野の持ち主であり、かつ、彼女はいわゆる鷹の目といわれる俯瞰した視点でものを上から見ることのできる特技も有していた。

 スポーツ選手になれば、コートの中を縦横に眺めることができるゲームメイカーとして活躍できたであろう。

 本人にその気がなかったうえ、運動能力に秀でたものがなかったことから、眼を活躍させる行動を諦めていただけである。

 かつて、〈ぬりかべ〉に切子が捕まったときは、その眼に映らない妖怪相手であったことから役に立たなかったということだけであった。

 だが、今回はガラスが割れたことを即座に把握したことで、やや周囲を視ることが可能だったのである。

 そのおかげで、蒼はベランダの出入り口の上方に蜘蛛のように貼り付いていた白いトリミングの入った赤い服の化け物に気が付いた。

 正確には、何かありえないものがいるという程度であったが、たったそれだけでも蒼の生物としての危機意識を爆発させるには十分であった。

 不用意に伸ばした腕を引き、掴まれる寸前に逃れることができたのである。

 何もない空間をぎゅっと握った手から蒼は跳び退った。

 気持ち悪かったからである。

 ガラスが割れたことの驚きもあったが、なめし皮のような黒い皮膚と芋虫のような太い指が人間のものというよりも類人猿のそれに近かったからであった。

 だからであろうか、『―――I got it!!(みーつけた)』という耳障りな喋りに震えあがりそうになった。

 さらに、頭の中で、「ガラスが割れてしまったッス! 弁償しなきゃならないッスかああああ!!」などといったどうでもいいことが渦巻いてしまったせいで足が止まる。

 窓の上片隅からこちらを見ている黄色い不気味な双眸から逃れるべきなのに、蒼の身体が停止した。

 飛び降りるのではなく、頭の位置が舐めるようにすーと下がり、首だけが浮いているような奇怪な動きである。

 しかし、耳に入った言葉は本物である。

 ヒアリングには自信のある切子は英語であることを聞き取っていた。

 太い指が窓の桟にかかる。

 材質に罅が入るほどの強い握力であった。

 

 ピキピキピキ……

 

 窓枠が悲鳴を上げる。

 赤いナイトキャップの下の薄汚れた灰色の髭面と、黄色い双眸で飾られた黒い貌が微妙に歪む。

 嗤ったのだ。

 それだけで蒼はこのサンタクロースを捻じ曲げて模したような化け物が、人の範疇に入る事実を強く思い知らされた。

 またも足が竦んでしまう。

 表情のなかった〈ぬりかべ〉と対峙したときとはまったく違う恐怖のために。

 

「蒼、逃げる!」

 

 無理やりに彼女を引きずって部屋から出たのは切子だった。

 自分の部屋の惨状を目の当たりにしても、何よりも大切な親友を守るために切子は意地を振り絞った。

 

 逃げなければ!

 逃げて、逃げて、逃げることが立ち向かうことだ。

 最後まで足掻いて姥貝てジタバタしていれば、きっと勝機が訪れる。

 巫女装束をまとった勝機が!

 

 切子は勝手知ったる自分の家という地の利を生かしてリビングに転がり出ると、蒼の手を掴んだまま玄関へと走る。

 その際、立て付けの悪かったカラーボックスタイプの本棚を引き倒して、追ってくるのを難しくする小細工をした。

 台所に向けてややカーブを描いて抜けると、鍵を冷静に開けて外に出る。

 乱暴に戸が開かれる音と、何かが派手に転んだような音、それぞれが続いて聞こえた。

 おそらく追ってきた化け物がすべすべの表紙の雑誌を踏んで転んだのだろう。

 時間があればもっと細かい仕掛けもできたが、あの程度で時間が稼げるのなら御の字だった。

 テンパってしまった親友(あお)と違い、まだ切子は冷静さを保っていた。

 外に出ると池田家はマンションの隅であることから、他の部屋へ続く共用の通路と左右に屋上へと通じる階段、下へ降りる階段がある。

 他の部屋にはまだ明かりがついていて、今の音を聞きつけて住人が顔を出すおそれがある。

 その時に、〈殺人サンタ〉はどう動くだろうか。

 容易に想像がつく。

 

(あいつの狙いは私)

 

 或子からの連絡が正しければ、さっきのあいつは切子を襲っているのだ。

 ただ、その過程で邪魔をするものは排除しようとする機械的な化け物のように感じられる。

 つまり、池田家の騒動を聞きつけた近所の住人が危険にさらされるおそれがあるということだ。

 私の不始末を他人に押し付けることはできない。

 

「どこに行く気ッスか、切子!? 下に逃げた方が確実ッス! その方が或子ちゃんとの合流も早い!!」

「でもね、蒼。近所迷惑になる」

 

 切子は決定的に言葉が足りない。

 だから誤解される。

 今までもよくあったことだ。

 でも……

 

「屋上に行くッスね! まったく、そういうの切子らしいッス!」

 

 蒼はさっきまでガチガチに怯えていたというのに、箍が外れたかのようになっている。

 ただ、切子らしい……とはどういうことだ。

 

「突然変なことに巻き込まれて、きゃーきゃー言っているのなんて切子らしくないッスからね! あんたは何があったってどーんと構えて、姑息に、卑怯にちゃちな手段で切り抜けなきゃ! 大丈夫ッス、どんな手を選んでも生き残るのが切子のやり方ッスよ!! 自分も一口乗るッス!!」

「バカにしてる」

「そんなことないッス!!」

 

(まったくあなたは間抜けのようで頼りになるんだから)

 

 切子は玄関の扉越しに圧力が増えたことを悟る。

 すぐ後ろにアイツがいる。

 逃げなければならない。

 屋上に。

 袖を握った力を強くする。

 

「行く」

「そうッスね!」

 

 二人は屋上目掛けて駆け上がった。

 このマンションの屋上には他に階段も梯子もなく逃げ場は完全になくなる。

 袋のネズミだ。

 ただ、自分から選んだのは理由がある。

 あの化け物による被害を他に与えないため。

 一年前に自分を盾にして彼女たちを救った友達がしてくれたように。

 降ってわいたような不幸な出来事だって為す術もなく受け入れるなんてしてたまるか。

 第一、サンタクロースはいい子にしている子どもたちにプレゼントを配ってお祝いする優しさの塊のはずだ。

 あんなのはサンタじゃない。

 絶対に違う。

 否定しつくしてやる。

 小さな切子が手紙を書くことをしたのは、ただらしくないことをしたかっただけではなく……

 

「ただサンタクロースに会いたかっただけ。アイツなんかじゃない! 絶対に!」

 

 切子たちはマンションの屋上に追い詰められた。

〈殺人サンタ〉はゆっくりと姿を見せる。

 二メートル半はあろう身長と薄汚れたサンタ服、右手には黒ずんだナタを持ち、トレードマークの白い豊かな髭は野犬の毛のように灰色に縮れている。

 何より、体全体が歪にふらふらと揺れていてまともに立ってさえいない。

 黄色い瞳は狂気に溢れていた。

 人間……とはいえない、禍々しいもの、凶々とした鬼か悪魔。

 暗黒のおぞましいマイナス思念が恨みとともに人になったとしか思えない怪物であった。

 かくも近寄り難いものがいていいのか。あの妖怪〈ぬりかべ〉ですらまだ直視できたというのに!

 だが、切子と蒼は畏れなかった。

 逃げる方法はまだある。

 手摺を乗り越えて飛び降りればいいのだ。

 死ぬかも知れないが、殺されるよりはマシだ。

 二人は目配りをすると、手摺をこえようとした。

 さすがの〈殺人サンタ〉も戸惑う。

 まさか、自殺を選ぶのかと。

 だが、二人はそんなことを選ぶ気はない。

 戦うのだ。

 最期の最期まで。

 殺人鬼ごときにいいようにされるのは、「自分たちらしくない」!!

 らしくないことをしてたまるものかよ!

 

「さすがにそこから墜ちるとボクでも死ぬから、止めた方がいいね」

 

 

 普通の女の子よりもハスキーで、誰よりも頼もしい声が聞こえた。

 ああ、この声を待ちわびていた。

 我知らず目元に水の溜まりができる。

 

「ボクの友達を弑いたげようとするのなら、まずは振り向くことだね、ゲイリー・キューザック。いや〈殺人サンタ〉かな」

 

 そう、天上天下唯我独尊ともとれる言葉を叩きつけ、御子内或子は友たちの窮地に辿り着いたのであった……

 



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足取りは正義の重み

 

 

「或子」

「或子ちゃん!」

 

 二人の声が重なった。

 息せき切りながらも、屋上の入り口に辿り着いた御子内或子は拳を握りしめて〈殺人サンタ〉を睨みつけていた。

 形のいい唇からは荒い息を吐き、ここまで必死に全速力で走り続けてきたことがわかる。

 ゼエゼエ、ハアハアと鼓動と荒ぶる呼吸を抑えながら、或子は一歩一歩屋上を歩む。

〈殺人サンタ〉は無表情に彼女を見ていた。

 いや、無表情というよりは不可解な生き物を眺めるような、曇った視線であった。

 何故か?

〈殺人サンタ〉は、〈殺人現象〉に分類される妖魅であり、北中米の伝説めいた化け物だ。

 人間ゲイリー・ブラン・キューザックであったときから、同族である人という生き物を快楽のためのみに殺してきた。

 アメリカ軍の調査によると、人間の中には一定数、同族を殺したとしても罪悪感を覚えないものがいるらしい。

 人は誰しも人殺しをしたら、罪悪感に囚われ、自分の仕出かしたことを悔い、懺悔したくなるというのはフィクションの世界のことで、同族殺しをしたとしてもまったくもって気にはならないものたちはいる。

 だが、それは彼らがおかしいからではなく、単に同族を殺すこと=タブーであるという感覚が欠如しているだけなのだ。

 歴史上続いている「人殺しはいけない」ということは、要するに種の存続にかかわる本能であると考えればタブーとして位置づけるのが正解である。

 ただ、それを納得させる基準として、人類は「宗教」や「道徳」といった枠組みを用いてきて、二十一世紀の現在ではほとんど成功と言ってもいいぐらいに普遍的な価値観として広がっていた。

 しかし、そもそもその価値観を持っていたとしても意に介さない精神の持ち主がいたとしたらどうであろう。

 彼ないしは彼女は、なんの躊躇いもなく人を殺し、死体を隠し、何食わぬ顔で日々の生活を送る。

 その他大勢の人間たちが一生悩む罪の意識を一切感じることなく、ただ普通に生きていける精神構造を持つものたちはかなりの割合で存在するのだ。

 ゲイリーはその一人だった。

 もつとも、あくまでも人を殺しても何とも感じない精神構造を持つだけでなく、彼の場合は特定の趣向をもって殺すことで触れずに射精をするほどに昂揚するという特異性があったのである。

 男性の睾丸はちょっとした刺激で縮み上がり、男根が興奮のあまりに勃起するとしても、全身にドーパミンを初めとする危険な脳内麻薬が分泌されると自然と収まる。

 ゆえに戦いの興奮に酔って勃起しながら戦うバーサーカーのような生き物はまさに想像の世界にしか存在しないとされていた。

 だが、ゲイリーはその特例であった。

 彼は殺しによって性的に興奮し、殺戮によって射精した。

 しかも、無垢なる少年少女―――架空の物語やお伽噺に夢中なる子供たちを手にかけるときには、には特に。

 かくして、サンタクロースのボランティアをしながら子供たちの手紙を物色し、カナダ中を恐怖のどん底に叩き落した殺人鬼が生まれた。

 生前のゲイリーは自宅前を取り囲んだ警官隊や、彼の正体を見抜きとめようとしたものたちと何度も接触していた。

 そのものたちはどいつもこいつも、震えていた。

 サンタの姿をしながら、犠牲者の返り血や死体を喰らったときの粘液に塗れた薄汚れた彼を恐怖しながら見ていた。 

〈殺人サンタ〉もターゲットの子供たちだけでなく、彼を阻止し、子供を守ろうとするものたちを蹂躙することに喜びを感じていた。

 場合によっては、子供を腑分けし解体している最中よりもずっと。

 哭き叫ぶ父親や母親を子の前で踏みにじることの愉しさよ!

 結局、妖魅〈殺人サンタ〉になってもゲイリーの嗜好は変わることなく、十年以上、世界中を跳び回りながらクリスマスシーズンに実体化し、彼を信じて手紙を送ってきたバカな餓鬼どもを殺し回ってきた。

 今年の子供は、手紙を送ってきた歳よりも十年も経ってしまっていたが、まだ嬲り甲斐はある年頃だ。

 しかも、窓から覗き見たとき、思わず涎が出るように可愛らしい。

 東洋の菊人形のようだ。

 さぞかし興奮する悲鳴をあげて、血液の迸りを魅せてくれることだろう。

 何度も逃げ回られたせいで、妖魅の感覚をもってしても居場所を突き止めるのに苦労した甲斐があるというものだった。

 隣にいた友人らしい女の子も一緒に殺してあげよう。

 二人を横に並べて友達が縋り付いて命乞いをするのを見物させてあげよう。

 なんて親切な俺様なのだろう。

 この極東の黒い髪の餓鬼どもはどいつもこいつも嗤わせてくれる。

 ―――と思っていたらなんと逃げられた。

〈殺人サンタ〉は少し驚いた。

 獲物が逃げることは普通だ。

 わざと逃がして追い詰めて遊びに興じることもする。

 だが、あの黒髪の東洋人の餓鬼は見たことがないほど冷静に彼の手からすり抜けようとしていた。

 そんなことを許すことはできない。

 もっとも、所詮は知恵の足りない餓鬼。

 馬鹿の証拠に逃げ場のない建物の屋上へと逃げやがった。

〈殺人サンタ〉はよく知っている。

 子供は自分勝手で愚かで間抜けで、少しビビらせるだけで涙を流しながら逃げることしかしないただの生きた玩具でしかない、と。

 

 せいぜい喚け。

 せいぜい逃げろ。

 

 おまえらを嬲って、俺の邪魔するものを掃除して、一分一秒でも愉しませろ。

 愉快な子兎ども。

 ナタをもってサンタクロースのお爺さんがやってくるぞ。

 バカな子供を、プレゼントを待ち望む欲深な餓鬼を、解体するために。

 

 ―――なのに、なのに。

 

 ようやくディナーにありつけたと、愉しもうと思っていた矢先にやってきたサンタのような紅白の衣をまとった餓鬼はなんなのだろう。

 俺を、〈殺人サンタ〉を一切怖れていない眩しい眼光はなんなのだろう。

 酷く不快だった。

 

 彼は知らない。

 

 それはこの日本に限らず、世界中で闇に生きるものから人々を救ってきた陽のものが放つ光だと。

 三千世界に輝き渡る光の印だと。

 サンタを信じる無垢なる子供たちを玩具にして弄ぶという取り返しのつかない悪業を重ねてきた妖魅に対して、一歩も引かずに立ち向かおうとする大文字の正義の使いであるのだと。

 大義を背負うものはそれだけ騒々しく、誰よりも絢爛に双眸を炎で滾らせる。

 そして、その日本古来の巫女の衣装をまとう少女は、友達を守るためにやってきたのだ。

 息をする暇さえも惜しんで駆け上がってきたのである。

 

「わざわざ他人の国に土足で上がり込んだ挙句、勝手放題に振る舞い、ボクの友達を狙おうなんて、誰も許さないが特にボクが許さない……」

 

 御子内或子はずんと踏み出した。

 マンションの全棟が震えるような重い踏み込みだった。

 彼女に宿った正義の重みに違いない。

 

「化け物。―――キミに明日のクリスマスイブは拝ませない!」

 

 

 



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〈殺人現象〉

 

 

 御子内或子の見たところ、〈殺人サンタ〉なる妖魅は間違いなく〈殺人現象(フェノメノン)〉と称される類いにあたる。

 日本ではまずお目にかからない妖魅なのだが、或子自身が遭遇するのはこれでもう二度目だ。

 最初に見かけたのは夏の終わりに千葉県にある廃工場跡地であったから、まだ二ヶ月と経っていない。

 もともと人間であった殺人鬼が妖魅に変貌を遂げたものであり、その過程で超常の能力を得てしまった存在と言えばいいのであろうか。

 妖怪の持つ秘儀と似たようなものだと解せばいい。

 工場跡地で戦った〈J〉は或子を怯ませるほどの不死身さと特有のバタフライ・エフェクト的悪運を有していた。

 眼前の〈殺人サンタ〉は強力な指の力があるだけではなく、他にも何かがあると思われる。

 とはいえ、どんな能力を持っていようと友達を執拗に狙う化け物を野放しにしていい理由はない。

 或子はいつものように構えた。

〈殺人サンタ〉の武器は右手に握ったナタ。

 左手は背中に回され、白い袋を担いでいる。

 サンタクロースらしいといえばらしいが、あの袋の中にプレゼントならぬどんなものが納められているか油断はできない。

 ぐぐと睨みあったのち、或子は仕掛けた。

 後の先は御子内或子の闘法ではない。

 烈火のごとき先の先、先制攻撃からの完全制圧こそが彼女が好む最強の戦いだ。

 ナタの一撃を避けるように身を逸らしてのローキック。

 当たったら、もう一度蹴る。

 当然のこととして、〈殺人サンタ〉の反撃があるが、それは彼女からしたら欠伸が出るほどに遅い。

 ただの人間相手ならば効果があるかもしれないが、百戦錬磨の退魔巫女に通じるものではない。

 三度目のローキックで〈殺人サンタ〉の膝が落ちた。

 すると、身長差のおかげで顔面がいいところにやってくる。

 そのまま、或子は得意のハイキックを叩きこんだ。

 

『Shit!!!』

 

〈殺人サンタ〉は喚いた。

 言葉が通じる。

 それだけで妖魅の神秘性は薄れ、剥き出しになった下品な本性だけが曝け出される。

 こいつは〈J〉よりも小者だ。

 或子はそう判断した。

 座り込んだままナタを横に振るってくるが、簡単にスウェーバックして躱すと、手をとってそのまま懐に潜り込んで一本背負いで投げ飛ばす。

 両ひざをついているので重いはずの〈殺人サンタ〉をやや寝転ばす形で投げた。

 巨体がマンションの屋上のコンクリートに叩き付けられる。

 近づくと、据えた汗と小便の臭いがして不快だったが、腐りかけの妖怪が発する瘴気に比べればどういうことはない。

 大の字になった〈殺人サンタ〉に棒立ちの姿勢からエルボードロップを敢行した。

 それでさらに傷みつける。

 妖魅としての力は薄い。

〈護摩台〉なしでも戦える相手だということだ。

 とはいえ、用心のために本来ならば〈護摩台〉の結界があった方がいいし、あれがないと封印という手段が使えない。

 プロレスリングみたいだなどと京一がぶつくさ言うこともあるが、或子としてはあの舞台は結界としての最適解だと思っているので問題はなかった。

 だから、それがない場所での戦いというのはやや不安な面がある。

 完全に武力で制圧するのは、いくら力の差があっても厄介なのに変わりはないからだ。

 

「或子!!」

 

 普段、決して声を張り上げない切子の応援が背中に当たる。

 頼もしい。

 応援のエールは元気を与えてくれる。

 あれがあれば戦える。

 

「でりゃああ!!」

 

 立ち上がろうとした〈殺人サンタ〉に高い位置のドロップキックを放った。

 高い鼻の折れる感触がした。

 

『Who are fuck you!!』

 

 或子には英語はわからない。

 だが、言いたいことはわかる。

 

「ボクは御子内或子! キミらみたいなのをぶっ潰す退魔の巫女(デモンベイン)さ!」

 

 斜めに袈裟切りをする手刀を放ち、肩口を破壊する。

〈殺人サンタ〉の右腕がだらんと落ちた。

 いける。

 或子が更に嵩にかけて攻めたてるため、飛び膝蹴りを放とうとしたとき、左に背負った白い袋が付きつけられた。

 ぎゅっと紐で縛られた口が開く。

 何か黒いものが蠢いた。

 次の瞬間、白い袋の内部から獣臭い匂いとともに長い顔が或子の肩に噛みついた。

 白い袋そのもののサイズからは決してでてこない大きさの獣の頭であった。

 頭から生えた放射状の捩子くれた角を二本持ち、耳まで裂けた口からは草食獣のものらしい臼状の厚い歯と長い舌が出ていた。

 馬のものよりも毛皮が豊かで濃い顔は―――トナカイのものであった。

 肩に食い込んだ歯は犬歯のように尖っていないからか、白衣を貫いてまで或子の皮膚を傷つけることはなかったが、それでも万力レベルの力がかかれば激痛がくる。

 或子は油断してはいなかった。

 仲間の誰よりも御子内或子は油断という言葉を辞書から消している。

 いけると判断したのは、油断からではなくこれまでの戦いの経験からでた勘であり、まさかというものでさえはなかった。 

 袋の中から鼻づらをつきだしたトナカイは、いかにもサンタクロースを象徴する生き物であるが、今までどこにも存在がなかったので警戒できなかったともいえる。

 だから、まさか……

 

「プレゼントならぬトナカイって……!!」

 

 袋からでてきたトナカイは、絶対に元のサイズや重量を考えればありえないことであったが、それは人の世界の理だ。

〈殺人サンタ〉の世界では当然のことなのだ。

 そこを見誤ったのが或子の失敗だった。

 トナカイの恐るべき馬力が或子を引きずり回し、回転させ、癇癪を起した幼児が嫌いな人形を投げ捨てて遊ぶように退魔巫女を弄んだ。

 そして、解放された瞬間にコンクリートの上をバウンドしながら転げ回った。

 受け身も一切とれない落ち方だった。

 見守っていた二人が息を飲むほどに酷い落下だった。

 

「或子おお!!」

「或子ちゃん!!」

 

 絶叫が屋上に響き渡る。

 彼女たちの大事な友達に起きた痛々しい出来事が我知らず叫ばせたのだ。

 だが、御子内或子はぴくりとも動かなかった。

 地球上でもっとも危険なのは、トラや獅子などのような肉食獣ではなく成長しきった草食獣だと言われている。

 なぜなら、草食獣の大半は牛や馬のように巨大に成長し、シマウマなどはライオンなどに飛びかかられても弾き飛ばせる強い筋力を備えているからである。

 それがわかっているからこそ、子供を守るために戦うゾウやキリンなどには、よほど飢えない限り肉食獣は近づかないのだ。

 或子はその膨大な膂力をすべて叩きつけられたのである。

 無事でいられる訳がなかった。

 それをわかっていてか、〈殺人サンタ〉は屋上に伏した退魔巫女には目もくれず、切子たちの方に向かってきた。

 普段の〈殺人サンタ〉ならば邪魔をする障害物はすべて排除してから、ターゲットをバラバラにする。

 自分を守るものが為すすべもなくやられる姿を見せつけてからの方が、泣きわめく子供の絶望がさらに深くなるからであった。

 ただ、今回ばかりは〈殺人サンタ〉もやや余裕をなくしていた。

 或子にやられた部分が打撲となっていたからだ。

 だから、すでにトナカイの馬力で投げ捨てられ動かなくなった或子よりも、まず彼に手紙を送ってきた異国の子供を手にかけるほうを優先した。

 もう抵抗されることもないだろう。

 あれだけ強力な守護者がいなくなった以上、子供にあるのはもう絶望しかありえないはずだから。

〈殺人サンタ〉はにたりと嫌らしく嗤った。

 右手は動かないので、左手にナタを持つ。

 これで足を切断して動かなくしてやろう。

 それよりも隣にいるチリチリ髪の友達から始末してやろうか。

 また子供の返り血で服が赤く染まることを想像すると、勃起する。

 性的衝動が抑えられない。

 まあ、抑える必要などないのだけれど。

 

『Hey,pretty girl. Did finished the prayer to God?』

 

〈殺人サンタ〉はターゲットとした子供をさらに絶望の淵に叩き落すために、猫なで声で話しかけた。

 へい、可愛い子猫ちゃん。神さまへのお祈りは済んだかい? でも助けなんてもうこないんだけどね。君はこのまま神に召される―――いや地獄にいくんだよ。

 ふと気がついた。

 屋上の柵を乗り越えた先にいる二人の女の子の目にはどんな意味での絶望が映っていないということに。

 変だな、と感じた。

 これまでのおぞましい活動の数々において、こんな反応をされたことはなかった。

 幾らなんでもここまで追い詰めればどんな子供だって顔をしわくちゃにして泣き腫らすはずなのに。

 

『Why?』

 

 すると、日本人形のような女の子が口を開いた。

 

「―――まだ終わってない」

「そうッスね」

「まだまだ」

「ッスよ」

 

 ただの強がりではない。

 彼が与える絶望と同じぐらいの―――それ以上の希望が彼女たちを支えているのだ。

 しかし、その希望はどこからくるのか。

 びくん、と〈殺人サンタ〉は背筋に寒いものを感じ取った。

 冬の冷気ではない。

 あえて例えるなら熱くて熱くて仕方のない炎に焦がされたかのようだった。

 後ろに何かいる。

 振り向いてみるのを怖れさせるような何かが。

 躊躇っていても仕方ないと〈殺人サンタ〉は意を決して振り向いた。

 

 いた。

 

 一人いた。

 

 俯きながらも拳を握り雄々しく立ち上がろうとしている巫女が。

 

『Who are you?』

 

 思わず、問うた。

 

「……ボクはまだ死んでいないよ」

 

 答えは明瞭。

 御子内或子はまだ戦えるということだけを雄弁に立ち姿だけで語っていた。 

 

 



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クリスマスの奇跡

 

 

 巫女装束のいたるところが裂けていたが、御子内或子は無傷のように見えた。

 この世ならざる妖魅である〈殺人サンタ〉でさえ眼を剥く不死身ぶりを示しながら或子は立ち尽くしていた。

 コキコキと首の骨を鳴らし、手首をスナップさせて腱が無事かどうかを確かめている。

 影響なしとわかると、顎をしゃくって、敵を見下ろした。

 

「まさか、このボクをあの程度で再起不能にしたと思っていたんじゃないよね? だとしたら、欧米の妖魅は色々と甘いよ」

 

 トナカイが肩に噛みついてきた瞬間、或子は全身の〈気〉をすべて防御に注ぎ込んだ。

 表皮と特に脆い腱、そして関節部が異常に曲がらないようにしたのである。

 軽功卓越のために回している〈気〉を駆使し、衝撃に備えたのだった。

 そのため、何百馬力もあろうかというトナカイのぶん回しからの、硬いコンクリートへの投げ捨てという暴虐を受けてもほぼ無傷ですませられた。

 これはかつて習った〈金剛体〉という防御術である。

 全身を石猿のように堅くするため、動きが鈍くなり、反撃がまったくできなくなるというデメリットがあったため、「こんなアストロンみたいな技使えねえよ」と明王殿レイあたりからは不評を買っていた技である。

 部分的に〈金剛体〉を使うことのできる媛巫女もいるのではあるが、高等技術である気功術のさらに高等技術ということから或子たちの世代には使い手はいなかった。

 咄嗟に使って、トナカイのあの嵐のように蹂躙から逃れられただけ或子はまだ使いこなしているとはいえるのであるが。

 

「どうやらその真っ赤なお鼻のトナカイがキミの秘儀というか、手品のタネのようだね。もしかして、そいつを使ってカナダからやってきたのかな? だが、もう終わりだ」

 

 敵の手口はもうわかった。

 あとは打倒するだけだ。

〈護摩台〉がない状態だと封印は難しいが、完全に斃してしまえば問題はない。

 できれば、隣の公園で升麻京一が用意しているはずの〈護摩台〉まで引きずっていきたいところだが、これだけ狡賢い妖魅だとすると眼を離すことはできないし、もうその段階ではない。

 

「でやあああああ!!」

 

 或子は再び舞った。

 稲妻のような振り下ろしからのスカイフックを〈殺人サンタ〉の肩口、鎖骨のあたりにぶち当てて、それから回転を利用しての回し蹴り一閃。

 それだけで〈殺人サンタ〉の肩は破壊される。

 気にするべきはプレゼント袋のトナカイだけだ。

 腕をとってアームホイップで投げ捨ててから、今度は自由に動かないように左手から距離を取りつつ警戒する。

 またトナカイに噛みつかれるのを警戒してのことだ。

 しかし、あとは普段通りの御子内或子であった。

 巫女装束はボロボロであったとしても、彼女の心も体も疲れ知らずにうごきまわる。

 不潔な殺人鬼は為すすべもなく打たれ、蹴られ、投げられた。

 これまで彼によって虐げられてきた多くの魂や命のお返しとばかりに、或子は正義の形をした台風のごとく妖魅を叩きのめす。

〈護摩台〉の上ではできる自爆上等の技を諦め、的確な体捌きを駆使して、巨漢の殺人鬼を追い詰めていった。

 戦闘機械。

 まさにその名に相応しい戦技の冴えをみせて、御子内或子は〈殺人サンタ〉に対して最後のトドメとして延髄切りを放った。

 

『……!!』

 

 声すらも上げられずに、サンタクロースの形を模した妖魅の殺人鬼は崩れ落ちる。

 仰向けに倒れたその鳩尾に体内の〈気〉をすべて籠めた一撃を放った。

 これ以上ないほどの手応えが或子に伝わる。

 白い袋の中でトナカイがもぞもぞと蠢いたが、外に出てこないように或子の足によって口を塞がれると、すでに出番は回ってこなかった。

 或子は袖口から札を取り出すと、バシっとひっぱたくように貼りつけた。

 

「急急如律令!! 降魔滅入!!」

 

 巫女としてはあまり使わない呪言を唱える。

 これは妖魅の力を抑えるためのものであった。

 

「これでよし。……こぶしに連絡して今後のことを決めようか」 

 

〈殺人サンタ〉を完全に無力化したことを確認しても、或子は決して妖魅から眼を離さなかった。

 

「或子……」

「やあ、無事だったかい? 間に合ってよかった」

「或子ちゃん。大丈夫ッスか」

 

 切子と蒼がおそるおそるやってきた。

〈殺人サンタ〉そのものは恐ろしいが、必死になって自分たちを守ってくれた友人が心配なのだ。

 そんな友人たちを笑って受け入れると、或子はようやくコンクリートの上にへたり込んだ。

 疲れ切っていた。

 隣の公園で京一と別れてから、〈殺人サンタ〉の気配を察知して、全速力で切子の部屋経由で屋上まで辿り着いたあと、呼吸も整えないまま戦いを開始したせいであった。

 なんとか呼吸が落ち着くと、スマホを懐からだして〈社務所〉の統括である不知火こぶしに連絡をし、〈殺人サンタ〉の後始末を依頼する。

 すぐに妖魅封印の担当が来るということになったので、到着を待たなければならない。

 その間、公園にいる助手の少年を呼び出して撤収を指示しないと……

 

 トゥルルルルル トゥルルルルル トゥルルルルル……

 

 だが、いつまでコール音が鳴っても少年は呼び出しに応じなかった。

 しばらくして留守電に切り替わる。

 

「おかしいな。京一は何をしてるんだろう」

 

 立ち上がって、マンションの屋上の端まで歩くと公園を見下ろす場所まで歩いた。

 樹が邪魔をしていたがなんとか全体が見渡せた。

 しかし、公園には誰一人として見当たらない。

 人払いの術を掛けてあるとしても、〈社務所〉の関係者となった彼だけは絶対にいるはずなのに。

 

「あれ?」

 

 或子はもう一度コールしてみたが、また留守電に切り替わって終わりだ。

 

「まったく。京一はどこにいっているんだい。しょうがないなあ」

 

 まあ、しばらくしたらあっちからやってくるだろう。

 封印担当が到着したら或子が行ってもいい。

 疲れ切っていることもあり、それ以上深くは考えなかった。

 明日はクリスマスイブだし、みんなで楽しく過ごすことにしよう。

 京一にもプレゼントを用意してあるし、あっちも何か準備していてくれることだろう。

 ここぞというときにボクが渡したらきっとびっくりするに違いない。

 そんなことを考えるとワクワクして仕方なかった。

 

「やっぱりJKはクリスマスにパーティーをするものだからね!」

 

 御子内或子はJKなのでパーリーピーポーになっても当然なのである。

 あとはいつも一緒の相棒がいれば、それでオッケー。

 

 

 

 

 だが、クリスマスイブになっても助手の少年は或子のところにやってこなかった。

 クリスマス当日になっても、26日になっても、27日になっても―――

 

 

 

 

 

 升麻京一は家にさえ帰ることがなかったのである……

 

  

 

 



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第42試合 妖魅ゲーム
ゲームスタート


 

 

 瞼をこじ開けても、何も見えてこなかった。

 僕の部屋という感じがしない暗闇の中だった。

 もしかしたら、どこか知らない場所で寝てしまったのだろうか。

 

「……えっと」

 

 だいたい枕元に置いておくスマホが見当たらない。

 というか、枕もなければ僕が寝ているのは布団の上でさえなかった。

 身体が痛い。

 寝転んでいる場所を撫でてみると、記憶にある触り心地の冷たい材質をしている。

 指で軽く叩いてみた。

 聞き覚えのある音がした。

 コツコツと。

 これは……マットの感触だ。

 巫女レスラーたちが試合(たたかい)をするための結界である〈護摩台〉に敷くマットと同じものだった。

 というと考えられるのは、御子内さんの妖怪退治のために〈護摩台〉設置中に寝てしまったとか、その辺かな……

 でも、こんな真っ暗な場所にきた記憶はない。

 それ以前にほとんど何も思い出せないのは問題なんだけど。

 起き上がって頭を掻こうとしたとき、手が引っ張られた。

 

「ん?」

 

 右手首に妙な圧迫感があった。

 手さぐりで触れてみると、何かが巻かれている。

 表面が金属のようでもあるが、爪が立てられるのでそこまで硬い材質ではない。

 だが、問題なのはじゃらっとした明らかに鎖とわかる長いものと繋がっていることだった。

 手首に巻き付いて鎖がついている物品となると、思い浮かぶものは一つしかない。

 僕は鎖を握りしめると引っ張ってみた。

 ぴんと張った先が何かに繋がっているのがわかった。

 

「いや、もうだいたい想像ついたけど、いったいどういうことなのやら……」

 

 まったく光源のない中で無闇に動き回るのは危険なので、そっと手探りをしつつ慎重に動いてみた。

 周囲には特に何もなさそうだ。

 ただ、尻の下にあるのがマットだとすると、ここが〈護摩台〉の上の可能性が高いから、この辺に……

 指が横に伸びたロープにぶつかった。

 下から確かに三本のロープが張られているのがわかる。

 ここが〈護摩台〉ならば当然のことだけど、四方を囲むコーナーポストを結ぶロープが張られているのだ。

 やはり〈護摩台〉なのか。

 理由はさておき、ある程度既知の場所にいるということで多少安心できた。

 でも、僕がこんな手錠をはめられて縛られているのがどうしてなのかという問題は解決していないけど。

 ふと気が付くとお腹も空いていた。

 しばらく何も食べていないようだ。

 この空腹具合だと、一日ぐらい何も食べていないかな。

 ずっと寝ていたのだろうか、身体の節々が痛くなっていた。

 夏に盲腸で入院したときのことを思い出した。

 あの時も二日ほど寝込んでいたせいで似たように体調が悪くなっていたし。

 

 パン

 

 いきなり、天井の一点に照明がついた。

 すべてという訳ではないが、室内が見渡せるようになった。

 僕がいるところは予想通りの〈護摩台〉だったのだが、ロープはテンションがきちんとしておらず弛んでいて、コーナーポストは三本しか立っていない。

 しかもマットはボロボロでどう見ても何年も放置されていたようにしか見えない。

 室内は打ちっぱなしのコンクリート、装飾ではなくて普通に剥き出しのままで、天井にはパイプやら鉄骨やらが突きだしている。

 視界が確保されると、今度は充満しているかび臭さが気になり始めた。

 ここがどこだかはさっぱりだけど、少なくともまともに使われているところではなさそうだ。

 

「まったく、夢なら覚めて欲しいんだけど」

 

 さすがに夢でないことぐらいはわかる。

 逃げなければいけないということも。

 でも、僕の手についた手錠の鎖はコーナーポストの一柱に頑丈に巻き付き、無骨な錠前でがっちりと鍵が掛けられていた。

 手錠も本物のようだし、どうやっても逃げ出せそうな状況ではなかった。

 どうやって逃げ出すのかということよりも、もっと気になることがあったということもあった。

 僕が手錠で縛り付けられているのは赤コーナーのポストだったが、反対側の青コーナーは立っておらず、代わりに液晶テレビが置いてあった。

 よく見ると、主電源のランプがついている。

 まだ電気は通じているようだ。

 もしかして、僕が観られるようにしてあるのか。

 そう思っていた矢先、ブウンと音がして画面に光が灯った。

 テレビの番組が始まったみたいだ。

 どこかからのリモコン操作か、それとも自動的にスタートする仕組みだったのか、どのみち何かしらのアクションが起きてくれたのは助かる。

 ずっと放っておかれるのはむしろ苦痛だからね。

 始まるのがどんな番組なのかと目を凝らすと、画面にはややうすぼんやりとした映像が映った。

 映し出されたのは、秋田のなまはげのような仮面を被った赤鬼の人形だった。

 なんとなく腹話術の人形のようである。

 赤鬼の人形の頭部がわずかに動くと、

 

『やあ、京一くん。ゲームをしよう』

 

 と、明らかに加工されたコンピューターボイスで話だした。

 でも、ここで名指しされるのはあまり嬉しい気分ではない。

 だって、この環境で名前を呼ばれるというのは人違いで拘束されている訳ではないことの証拠に他ならないからである。

 間違いなくターゲットは僕ということか。

 

「ゲームってなにをするんですか?」

 

 とりあえず返事をしてみたが、双方向の通信みたいなことはできないだろう。

 

『これからあなたは幾つかの試練を受けることになる。それをすべてクリアしてあなたは脱出できることになる。できなければ、ゲームオーバーだ。誰も助けに来ないこの地の底で死んでいくことになる』

 

 腹話術人形らしく、口のあたりが開閉しているので実際に話しているように見えなくもない。

 話をしている相手は影さえも映っていないけど。

 

『生きるか死ぬかはあなた次第だ。ほとんどの人間は自分の知恵と勇気をまともに使えないで、使わないまま死んでいく。一度地獄に踏み込んだ以上、知恵と勇気以外の何もあなたを救ってはくれないのだ』

 

 愛と正義だけが友達の人もいるよね。

 

『さあ、ゲームを始めよう』

 

 人形がそういうと、テレビの画面が消えた。

 電気が落ちたのか、そういう仕様なのかはわからないけれどとにかくいきなり音が無くなるのは怖い。

 そして、今まではなかった天井高い位置に赤いデジタルの時刻表示が点いた。

 いや、時刻ではなくて、時間だ。

 一から始まって、秒ごとに数が増えていく。

 どういう意味だろう。

 タイムリミットではなくて単にプレイ時間ということだろうか。

 まあ、とりあえずゲームってものをクリアしないとならないということはわかった。

 

 その意図はさておいたとして。

 

 



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まさか……

 

「いったい、いつになったら京一くんは見つかるんだよ!! あ、やべ!!」

 

 超常の力を持つ〈神腕〉で思わずテーブルを叩きそうになり、慌てて引き留める明王殿レイ。

 テーブルの危機を察知して自分の分のコーヒーカップだけを緊急避難させる神宮女音子。

 なにはともあれケーキだけは守ろうとした熊埜御堂てん。

 レイの襟首を掴んで引っ張った猫耳藍色。

 四人の親友たちの一瞬の慌てっぷりを見てもいなかった御子内或子。

 

〈社務所〉における最強の戦力である五人の媛巫女は、かつてない戸惑いと煩悶に苦しんでいた。

 

「―――ミョイちゃんが焦ったって何も解決しない」

「でも、スーパー音子さまぁ。京一先輩が見つからなくて、もう三日ですよー。いくらなんでも時間がかかりすぎです。72時間ってタイムリミットをもう越えてるんですよー」

「てんさん、それは災害が起きたときのタイムリミットと言われている72時間の壁のことでしょう。今回の場合は誘拐事件の被害者が無事に生存できる猶予期間だから、96時間じゃにゃいですか」

「あ、それですー。……じゃあ、まだ三日だからあと24時間ありますねー」

「ねえよ! つーか、おめえらももっと京一くんのことを心配しろよ!」

 

 この場にいる巫女たちの焦燥度の差というものがあるのなら、おそらく、最も低いのは藍色であり、次にてんであろう。

 二人はそれほど行方不明になった升麻京一と親しい訳ではないからだ。

 とはいえ、藍色もてんも彼にはでっかい恩があることを忘れるほど薄情ではなかったが、他の三人のあまりの焦燥ぶりに居たたまれないものを感じていたので、わざと明るく振る舞って見せただけなのである。

 だが、目に見えてイライラが止まらないレイ、火の鳥を模したマスクの後頭部の紐をしきりに弄っては、縛り直すことを無言で繰り返す音子と―――じっと双の拳を見つめて俯いている或子は、まったくもって変わることがなかった。

 

「だいたい、京一先輩を誘拐した相手ってわかったんですかー? 先輩もけっこうやりますから、どんな妖怪に恨まれていたって不思議はないですからねー。あ、祟り検査もやっておくべきって言っておいたんですよ、夏に盲腸したときに。それなのに、京一先輩、怖いからってやらなかったんですよー」

 

 てんは、ついさっきこの集まりに合流したばかりだ。

〈社務所〉の現代の若手ホープが勢ぞろいするのは、ハロウィーンパーティーの時以来だったが、もともと親しいもの同士だった。

 ただ、簡単な事情の説明を受けただけで他には何も教えてもらっていない。

 これでは意見すら言えないではないか。

 

「そのうちひょっこり帰ってくるんじゃないですかー」

 

 実のところ、てんとしては有り得る内容だと思っていた。

 それほど多く顔を突き合わせた訳ではないが、升麻京一という少年には侮れないものがある。

 一筋縄ではいかないというか、煮ても焼いても食えそうにないというか、どんな窮地に陥っても平然と生きて帰ってきそうなところが。

 妖怪の〈ぬらりひょん〉と違う、生の人間のぬらりひょんとでも呼ぶのもいいんじゃないかと思っていたところだ。

 だから、先輩たちの焦慮がよく理解できない。

 

「うん、そうですね。みんにゃ、しっかりしよう」

 

 巫女ボクサー猫耳藍色も同意見だった。

 升麻京一に関しては、復帰の際に骨を折ってもらったことと、〈怪獣王〉事件の時に助けてもらい、あまつさえ秘密保持に協力してもらった恩義がある。

 助けたいと思ってはいたが、彼の持つ知恵や勇気、そして強力な運を考えると、自力での帰還も不思議ではないと思えた。

 長い付き合いではないが、それでもアレは自称とは異なり、()()()()()()()()()()()()()()だと断言できる。

 だいたい、普通の少年が、彼女たち退魔巫女と友誼を結び、何度も妖怪退治の死線を潜り抜けられるはずがないのだから。

 

「……」

 

 ところが、三人の退魔巫女はそんな楽観的な発言にのるそぶりさえ見せなかった。

 むしろ、さらに落ち込んでいく。

 

「どうしたんですかー」

「変ですよ、あにゃたたち」

 

 さすがにおかしいと怪しみだした二人に対して、或子が口を開いた。

 

「藍色やてんのいうことはわかるよ。普段のボクなら、京一を信じて待つこともできるだろう。だが、今回ばかりはちょっと事情が違うんだ」

「事情ってにゃに?」

「藍色はしばらく〈社務所〉から離れていたから迂闊なことを言えないと知らされていないことなんだよ。てんも夏にデビューしたばかりだし、おそらくかかわったことがないだろう。だから、キミも知らなくて当然だ」

「……どういうことにゃんですか?」

「えー、てんちゃんハブだったんですかー?」

 

 二人の知らない事情がある。

 思わず身構えてしまった。

 少なくとも、ごく普通の話では百戦錬磨の或子たち三人をここまで焦らせることはできない。

 では、何があったというのか。

 

「―――藍色、キミは日本のものではない〈鎌鼬〉と戦ったと聞いている」

「うん、秋にね」

「ボクもインドからきた蚊の妖怪や〈ドッペルゲンガー〉なんかとやりあった」

「江戸前のタヌキたちは外から来たハクビシンのギャングとまだ小競り合いを続けているぜ」

「あたしも、〈殭尸〉とやったかな」

「……うーん、全部外国の妖魅ですねー。我が国ではあまり見ないようなー」

 

 てんが指摘したのはそれらの共通点だ。

 つまり、すべて外から持ち込まれた妖魅ということである。

 

「今までこんなことはなかっただろ? ボクら〈社務所〉の媛巫女の仕事は日本の妖怪退治で、外来種のおかしなものと戦うことなんてほとんどなかった。おかげで知識も経験もなくていつも苦労させられている」

 

 道場で受けた訓練や座学が使い物にならないというのは、命を掛けるうえで危険すぎることだ。

 彼女たちはもともと常軌を逸して優秀だったから生き残っているが、かつての退魔巫女ならばどれだけ犠牲者がでているかわからない。

 

「……でも、或子さん。確か、関八州と甲信越以外の妖魅に関して、〈社務所〉には専門の〈境外社(けいがいしゃ)〉があったんじゃにゃかった? そこが外国の妖魅とかの研究をしていたんじゃ……」

「ああ。〈社務所・外宮〉。そう呼ばれている部署があって、そこの巫女を月巫女というんだけど……」

「覚えています。でも、月巫女にゃんてみたことにゃいですよ」

「―――ボクらの代にはいなかったからね。それで〈社務所・外宮〉は、ちょっと前まで海外の調査も行っていた。他国の退魔組織との連携も〈社務所・外宮〉の仕事だった」

「へえ、国際的ですねー。海外と協力ですかあ……って、ちょっと待ってくださいよー。じゃあ、セクシー皐月先輩はその〈社務所・外宮〉の人なんですか?」

「いや、皐月のアホは違う。御所守のお義祖母ちゃまがわざわざ派遣しただけで関係はない。もっとも、皐月の派遣が〈社務所・外宮〉と無関係とまではいかないようだけどね」

「どういうことにゃんですか?」

 

 或子は天を仰いだ。

 

「〈社務所・外宮〉がなにを考えているかはわからない。ただ、あそこは〈社務所〉には内緒でなにやら画策していたということさ。あまりにも秘密主義すぎてお義祖母ちゃまたちが権限の一部をとり上げてしまうほどにね」

「にゃるほど、組織内での権力抗争みたいにゃものがあったわけですね。……でも、そのことと今回の京一さん誘拐事件にどんにゃ繋がりがあるんですか?」

 

 藍色の疑問について、てんは思いついたばかりの回答をだした。

 

「わかりましたー! 京一先輩誘拐事件の犯人は〈社務所・外宮〉の人たちなんですねー」

「まさか、そんにゃことがあるわけ……」

 

 笑い飛ばそうとした藍色の顔がこわばる。

 或子たちが真剣そのものだったからだ。

 正解としかいえないほどに。

 

「―――犯人は同じ〈社務所〉の巫女だってこにゃの?」

 

 それは藍色にとってまさに青天の霹靂とでもいってもいい恐るべき告白であった……

 

 

 



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知恵と……

 

 

 どうやらタイムリミットはなさそうだ。

 それだと、数字が増えていくあの電光掲示板はいらない訳だから。

 あれに僕を焦らせる意図があるのなら、逆に数字が減っていく仕様になっていなくちゃならない。

 要するに、今すぐ動きださなくてもしばらくは大丈夫ということである。

 とはいえ、助けが来るか来ないかわからないシチュエーションにおいては、時間が有り余っているとはいえない。

 実際に僕はお腹が空きだしているし、咽喉を潤すものはない。

 つまり、誰かが来てくれるのをひたすら待つことは死ぬことと同意だということだ。

 30年間待っていればいい某ロビンソンとは立場が違う。

 ただ、状況の確認は必要だ。

 

「まず、僕の記憶ではついさっきまで御子内さんが〈殺人サンタ〉と戦うための〈護摩台〉の設置をする予定だった。……だけど、いつまで経っても資材が届かないから諦めて聖練したワイヤーで簡易結界を張ることにしていたんだっけ」

 

 そのあと、確か、すごくおかしなことがあったような。

 首をひねった途端、思い出した。

 あの巫女さんだ!

 さっきからどこからか見られているような気がしてならないのも、あの時後ろにいたあの人の視線を感じたときと同じだった。

 

「〈社務所・外宮〉の月巫女と名乗った人が話しかけてきたんだ……。それでいきなり意識がなくなって……。そうすると、犯人はあの人か」

 

 頭を打って意識をなくすと、その間の記憶が定着せずにぶっ飛んでしまうと聞いたことがある。

 おそらくそこまでいかなくても記憶に一時的混濁が起きるような衝撃でも与えられたのだろう。

 全身をチェックしてみると、首筋に慣れない痛みがある。

 ここをやられたのだろうか。

 十中八九、あの巫女さんの仕業なのだろうが、今の段階での決めつけは厳禁だ。

 

「〈社務所・外宮〉ね……。外宮ってのは、神宮の外にある別の神さまの社とかいうことだったから、〈社務所〉とは異なった外部組織って意味だろうか。あと、月巫女って、名前なのか役職なのかわからないけれど」

 

 御子内さんたち退魔巫女は、正式な名乗りとしては「〈社務所〉の媛巫女・御子内或子」とか名乗るから、おそらく正式には〈媛巫女〉という役職なのだろう。

 そうすると、〈社務所・外宮〉の巫女さんは〈月巫女〉という役職の可能性がある。

 ならば、あの女性の本名は別にあるものと考えるのが妥当だ。

 

「さっきの声の人かなあ?」

 

 僕はテレビから流れてきたコンピューターボイスのことを思い出した。

 あれに特徴的な喋りはなかったのは、誰だか特定されないためか。

 至極簡単に考えると、犯人はあの月巫女以外考えられないんだけど……それはミスリードの可能性もある。

 迂闊に断言はできない。

 僕はテレビまで手を伸ばしてみた。

 残念なことに、手錠のおかげでまったく届かない。

 手錠の鎖の長さは一メートル。

 おかげでどんなに頑張っても半分までしか伸びない。

 反対側にある液晶テレビまではどうあがいても無駄だ。

 手錠がよく刑事ドラマで見掛けるような金属製でない分だけ痛くはないのが救いともいえた。

 

(でも、よく考えるとあっちの方が手の肉を削り取る覚悟があれば逃げやすそうだ。これだとぴったりとしているせいで、そういう荒業が効きそうにない)

 

 赤コーナーをよくよく探してみると、南京錠で鍵がばっちりとかかっていて、さらに別の鎖でグルグルまきにされているから、どんなに引っ張ってもびくともしない。

 つまり、僕が逃げ出すには、鎖を切るなり鍵を見つけ出して南京錠を開けるなり、もしくは手を切断するしかないわけだ。

 

(時間制限があって、ここに糸鋸なんかあったら終わっていたかも。自分の手を切断してでも逃げなきゃならないからね)

 

 少なくとも今の時点ではそこまで切羽詰ってはいない。

 しかも、さっきの映像によると、

 

「ゲームをしよう」

 

 と言っていたのだから、ゲーム=遊戯か勝負の要素があるはずだ。

 そこが見えてこない。

 ただ僕を監禁したいだけならこんなことはしないだろう。

 そういう考えを元にして、僕は服のポケットなんかを漁り始めた。

 相手がゲームを望むのならば、クリアーのためのヒントを用意しているはずだ。

 まったくのノーヒントではゲームとしての公平性に欠ける。

 あの映像を見る限り、あいつは僕の「知恵と勇気と運」を試したいみたいなので、それなりのヒントを出してくるだろう。

 でなければクリアーなんて無理ゲーすぎる。

 

「あった……」

 

 僕は〈護摩台〉設置のための自前のツナギしか着ていない。

 これは両袖の部分と膝から下がファスナーとボタンで外すことができるという便利な品で、ワークマンで見つけたときは結構感動した覚えがある。

 ちなみに僕は軍手とか作業着を頻繁にワークマンに買いに行くので、そこの店員さんと仲良くなってバイトしないかと誘われるぐらいである。

 そんなことはどうでもいいか。

 ツナギには財布とかスマホは入っていない代わりにポケットの中に銀色に輝く鍵があった。

 知らない形だ。

 家のものではないし、自転車とかのものではない。

 あえて言うなら……

 

「この南京錠かな」

 

 だが、鍵穴には嵌らなかった。

 となると、どこの鍵だ?

 見渡してみてもそれらしいものはマットの上にはない。

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 仕方なく今までは故意に見ないふりをしていた、〈護摩台〉の外に視線を移す。

 高い位置にあるのは通常の設計の通りだからだろう。

 ただ、僕の経験からするとやや偏っている。

 御子内さんの寸前の見切りに影響が出るかもしれないレベルではないけれど、僕だったらやらないぐらいだ。

 ビー玉を転がしたらわりと勢いよく転がっていくはずである。

〈護摩台〉の上から見ると、下もただのコンクリート張りの床だ。

 少し下に光るものが転がっていた。

 ポケットに入っていたものはと別の鍵だった。

 感じからすると、あっちの方が南京錠のものかな。

 何故かというと、僕が必死になって手を伸ばせばギリギリ取れそうな位置にあるからだ。

 計算された配置という訳である。

 だったらバランス的にはあれが正解の可能性は高い。

 

(でもなあ……)

 

 わかっている。

 わかっているんだ。

 こういうパターンでの場合、起こり得ることはそんなに多くはない。

 人生の一シーンにおいて、こんなメタな状況に陥ることなんて普通はありえないけれど、あのとき、妹を守るため御子内さんに〈高女〉との戦いを頼んだ僕が深入りしたのはそういう世界だ。

 だから、〈護摩台〉から落ちないように僕が背中の筋肉が吊りそうなぐらいに腕を伸ばしてみたら、すぐに答えが出た。

 

 ガシ

 

〈護摩台〉の下、通常ならばマットへの衝撃の緩和のために空洞になっていて、場合によっては緩衝材代わりの資材を詰め込んだりする場所から、何かが飛び出して来て、僕の手首を何回転もして巻き付いてきた。

 一瞬、正体が不明すぎてわからなかったので、思わず手を引いてしまったが、巻き付いたものは外れない。

 いや、正確には剥がれない。

 感触が伝わってきたのだ。

 ベタリと粘着質の物質が吸いつくように貼り付いてきたという感触を。

 だが、粘っこいものではなかった。

 それは吸盤だった。

 小さな吸盤がびっしりとくっついた触手がその正体だった。

 

 そして、その触手は僕の手を決してはなさそうとはせずにぎゅっと下に向けて力をこめてきた。

 僕を〈護摩台〉の下の空洞に連れ込もうとしているのだ!

 

 

 

 



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古伝<一指>

 

 

「ボクに〈殺人サンタ〉の件を押し付けてきたのは、神撫音(かんなね)ララだ」

 

 御子内或子は憮然とした顔で言った。

 内心では怒り狂っているのだが、さすがにそれを表に出すことはできないからだ。

 

「神撫音ララ? 二学年上の先輩だったかにゃ。確か、沖縄の人だったよね」

「あー、知ってますよー、那覇城で琉球王族を守る一族の末裔って話でしたよねー。てんちゃんが道場に入門したときはもうデビューされてましたからあったことないんですよー。沖縄の(てぃ)の使い手でしたっけ」

「沖縄空手以前の沖縄武術。あたしたちは少し知っている」

「へえ、ララさんって沖縄にゃんだ。でも、西の出だって少にゃいのに南にゃんてもっとめずらしいですよね」

 

 或子がはっきりと批判できないのは、神撫音ララが二つ上の先輩であり、かつて何度か指導を受けたことがあるからだ。

 ただの同僚と呼ぶには問題がある。

 

「神撫音は沖縄で三つ目のキジムナーを退治しちまったらしい。それ以来、沖縄の妖怪たちに狙われることになって関東にやってきたって話だ。で、〈社務所〉の媛巫女としてそだてられることになったと聞いたな。英語がペラペラで何か国語もいけるから、〈社務所・外宮〉に配属されたらしいぜ」

「知ってる。ララから直接聞いたことがある」

「てめえは神撫音と少し親しかったからな」

「―――昔のことだよ。あいつが京一を攫ったというのなら、ボクにとっては不倶戴天の敵になるということだからね」

 

 或子と親しい音子が複雑な目つきをした。

 

「もともと、この話を振ってきたのはララなんだ。〈殺人サンタ〉が今年は日本に行く可能性がある。彼に手紙を送った日本の子供たちのリストを手に入れたから調べて欲しい。そう、あいつが言ってきた。ボクも〈殺人サンタ〉のことは知っていたし、没交渉気味ではあったとはいえ先輩の頼みだ。クリスマス会を取りやめにしてまで任務に入ろうとしたんだけど……」

「でも、グレート或子先輩。それだけではララ先輩が絡んでいるとは……」

 

 てんとしてはなかなかに信じ切れないところだった。

 

「あいつから送られてきたリスト自体がおかしかった。この十年の間にもうほとんどの子供たちが〈殺人サンタ〉の毒牙にかかっていたというのに、わかっていながらボクに調べさせようとした。そのくせ、最後にボクの友達の切子の名前をわざと配置するやり口。アイウエオ順なら最初の「池田切子」をだよ。ボクを思い通りに操ろうとする意図がみえみえだ」

「それだけじゃない。或ッチが〈護摩台〉の資材搬入を頼んだ禰宜に、途中でキャンセルの知らせが入った。或ッチの名前で」

「どれもこれも、ボクを動きまわして京一と引き離すためとしか思えない。揺さぶりをかけてきたんだ」

「あいつらの狙いは京一くんだったんだよ」

 

 それに対しては藍色が異を唱えた。

 

「いや、京一さんを拉致するんだったら、普段、彼が一人の時を狙えばいいんじゃにゃいの。或子さんと一緒にいるときをわざわざ狙う必要はにゃいよね」

「それはそうですよー。或子先輩がいなかったら、てんちゃんなら三分あればおつりが来ますからねー」

「―――それは簡単。或ッチに対する示威行為」

「或子がいるときに拉致れば効果は何倍もあるだろうしよ」

「ボクの目の前で京一をさらって、それが自分たちの仕業だとわかるのならば下手に動かないだろうというのも意図にあるだろうね」

 

 だから、闇雲に動き回れず悶々としているという訳である。

 或子たちがこんな場所で集まっているのは善後策の相談も兼ねているのだ。

 京一の奪還と〈社務所・外宮〉との関係をどうとるか、その他もろもろについて。

 

「でも、なんでこんな方法で或子先輩にちょっかいを掛けるんですかねー。ララ先輩というか、〈社務所・外宮〉さんたちの目的が不明ですよねー」

 

 てんからしてみれば、仲間割れのような真似でしかない。

 古今、仲間割れというのは権力争いや金目当てのものというのが相場だ。

 妖魅退治が基本の〈社務所〉の媛巫女とは縁のないもののはずである。

 

「ボクの考えでは、〈社務所・外宮〉の狙いは―――」

「にゃんですか?」

「京一の〈一指〉だと思う」

 

〈一指〉。

 古代中国から伝わる特殊な条件でしか発動しない絶対的強運。

 升麻京一というただの高校生の少年が〈社務所〉という退魔組織に関わって無事でいられる要因の一つである。

 或子はそれが原因だと推測したのだ。

 

「でもお、〈一指〉って確かに珍しい運勢ですけど、てんちゃんたちを敵に回してまで確保する必要があるものとは思えませんけどねー。京一先輩だってなんだかんだいって、将来は〈社務所(うち)〉に奉職するのは決まったようなものじゃないですかー」

 

 彼女の言う通りに、すでに京一の進路は決まっているといっても過言ではない。

 最近、上司に当たる不知火こぶしなどは京一に対して、神道系の学部のある大学への進学を熱心に勧めているぐらいだ。

 そこは〈社務所〉も噛んでいる大学で、進学すればここにいるてんを除く四人とは同級生になることは間違いない。

 やはり一年にも及ぶ助手生活で適性が見込まれ、禰宜の人手不足を補えるという判断であった。

 大学を出る前にすでに就職先が決まっている状態なのなら取りこむために無理をする必要はない訳である。

 てんの疑問はそこにあった。

 単に拉致してしまうだけならいつでも出来た。

 だが、ただの誘拐では或子や彼の友人たちである巫女たちが必死に行方を追うだろう。

 場合によっては或子の友人である〈裏柳生〉という諜報組織までが猟犬になるとなれば、長く隠匿しておくことは不可能となる。

 そのため、誰が誘拐したかを明確にし、或子たちに釘をさす意図をもってわざと妖怪退治中に引き離すなどという面倒な真似をしたというのはわかった。

 だが、なんのために、となると答えは出ない。

 升麻家はごく普通の家庭だ。

 財産もないし、血統に特別なところもない。

 妹の涼花こそ、妖魅に好かれやすい体質であることは報告されているが、それとて一般人の平均に比べたらの話であり、〈社務所〉が把握している最悪の霊媒体質の足元にも及ばない。

 京一本人もごく普通の高校生であり、ドを越しているほど呑気なところがあるとしてもそれは個性のレベルだ。

 だから、一般通念でいえばたいして誘拐する価値はない。

 あえて言うのならば、〈一指〉という強運だけなのだが……

 

「〈一指〉って、最後の最期まで足掻きに足掻いて、もがきにもがいたあげく、最後に発揮される指先一本ぶんのほんのわずかだけど絶対的な強運というものでしたよねー。〈一指〉を持った武芸者とか学者とかには最後に栄光をもたらすものでしたっけ? 京一先輩じゃあ、どんなに頑張っても危険なものにはならないでしょぅから、警戒したって無駄ですよー」

 

 てんの考えは、〈社務所・外宮〉が滅多にない運勢を警戒しているということに否定的だ。

 

「まさか。いくらあいつらでも京一くんのことを敵視している訳はないだろ。もっとちげえ内容だ」

「……シィ。ミョイちゃんの言う通り」

「だろうね」

「えっ、それはどういうことにゃんだい?」

 

 或子は足と腕を組んだ。

 

「〈社務所・外宮〉にはもっと違う狙いがあるのは間違いない。そのために、ボクの京一を攫って今頃は試験をやっているはずだ」

「試験ってんですかー。てんちゃん、勉強は苦手なのでー」

「そっちじゃない。おそらく〈一指〉の力を計る気だ。もしくは、ボクたちもしらない秘密が〈一指〉にあるのか……」

 

 どのみち、或子にとっては長すぎる時間になりそうであった……

 

 



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勇気と……

 手首に、〈護摩台〉からカエルの舌のような勢いで飛び出して来て巻き付いた触手を見ても、升麻京一の様子にはたいした驚きはなかった。

 普通の少年とは明らかに違い、落ち着き払って触手を観察している。

 グイグイと下方に引っ張られる。

 五センチほどの太さしかない触手であったが、引っ張る力は強いものらしく、京一の身体が前に屈む。

 このままでは肉体ごと〈護摩台〉の外まで引っ張りだされることになるだろう。

 そうなると、手についた手錠によって彼の身体は左右に圧力をかけられて、最悪そのまま八つ裂きにされてしまうおそれがある。

 なのに京一が落ちついているのは、巻き付いてきたのがツナギの袖であったことから、その部分を外してしまうことで圧迫から逃れたのだ。

 彼の着ているツナギは袖の部分がファスナーで脱着可能なものであったのだ。

 彼は最初から何かが手に仕掛けてくることを予想してそういう防御策をとっていたのである。

 もし、他にこのことを観察している者がいたら感心の声を上げたであろう。

 升麻京一は〈護摩台〉の下からなにかあることを完全に想定していたのだ。

 おそらく、触手の存在は彼の考えとは違っていたかもしれないが、それでもたいしたものだと考えられるだろう。

 ツナギを犠牲にして、京一はその間に落ちていた鍵を掠め取る。

 このあたりも抜け目ない。

 着ている服を犠牲にするというアクロバティックな動きのため、身体を変に捩ったせいでかなり痛々しい格好ではあったが、なんとか京一は目的の鍵を手に入れることに成功した。

 触手は外れた袖をそのまま、引っ張って〈護摩台〉の下に消えていった。

 おそるおそる様子を見ていると、ぷっと消えたはずの袖が上に向けて飛んできてマットに落下してきた。

 絡みついていた部分が千切られてなくなっていた。

 

「美味しくなかったみたいだね……」

 

 どうやら、触手によって引っ張られた先には鋭い歯のついた口が待ち構えていたようである。

 ざっくりと切り裂かれていた。

 京一はとてつもなく嫌そうな顔をして、しばらくボロボロになったツナギを見つめていた。

 

「……タコの手のついたサメでも飼ってんのかな」

 

 京一はじっと〈護摩台〉の外を見た。

 彼が不用意に動こうとしないのは、降りた途端に何かが起きるという確信があるからだろう。

 実際に、手を伸ばしただけで襲われたのであるから。

 しかし、この年齢にしては警戒心が異常なほどに強いことがわかる。

 

「うーんと、やっぱりここから外には出れそうにないか」

 

 そう呟くと、鍵を手にしてコーナーポストに近づく。

 鍵穴に差しこむとガチャリと音がして外れた。

 これで鎖が取れて自由になる。

 京一の手にはまだ手錠がついたままだが、それは右手に巻きこんでしまう。

 

「さて、じゃあまずやるべきことは……」

 

 そのまま、マットの反対側にある液晶テレビに近づく。

 だが、簡単には近寄らずできる限り、左右から観察して様子を窺っていた。

 背面に何かがあるようだが、とくに正面にはおかしなことはないと判断すると、ようやく傍にいく。

 用心深い少年だった。

 テレビの裏側から伸びているケーブルを引くと、これも〈護摩台〉の下に伸びている。

 ということは京一にはどうにもならないということだ。

 彼の足元のマットのさらに下には、さっきの触手と恐ろしい牙をもった何かが潜んでいる可能性があるのだから。

 触らないように背面を見ると、さっきはわからなかったが、人形がくっつけられていた。

 なまはげに似た赤鬼の人形だった。

 かなり大きい。

 立たせてみれば三十センチぐらいはあるだろう。

 金属のフックでひっかけられている。

 さっき映像で見たものと同じだ。

 手にはなまはげらしい小さな包丁を持っているが、これは金属でできていて生々しい。

 一瞬怯んだものの、京一は少し下がると手錠の鎖の先端を掴み、投げ輪をする要領でその人形にぶつけた。

 ちっと舌打ちがどこからかする。

 同時に背面に引っかかっていた人形がぎろりと睨みつけてきた。

 誰かが動かしているようには見えず、まるで生きているかのごとく、小さな包丁を振り上げる。

 

『ヤッタナ!! タタイタナ!!』

 

 腹話術の人形のように、開閉用のギミックのついている口が開いて、耳障りな声を発した。

 すでに人形とはいえず、癇癪を起した小さな子供といってもいい。

 だが、子供と呼ぶにはあまりにも鬼気迫るものがあった。

 

『キサマ、コロシテヤルゾ! オレヲダレダトオモッテイヤガル、コロシテヤル!! ケケケケケ、コロシテヤル! キサマノホソイチンコヲモットホソクシテヤルゾ! イタクテナイテモユルシテヤラネーゾ!!』

 

 怨嗟の言葉を発して、包丁を突きつける人形。

 

『ヨッコラショ』

 

 自分をつり下げていたフックを器用に外して、赤鬼の人形は飛び降りた。

 オットットと着地の際にバランスを崩すが倒れずにはすむ。

 それから、ようやく包丁を新しく構え直すと、

 

『コロシテヤル!!』

 

 と叫んだが、当の目標はすでに彼の傍にはいなかった。

 少し離れたところで、かつて自分を縛っていた鎖を手に取ると、振りやすい範囲で回転し感触を掴む練習をしている。

 

『―――ナニヲスルキダ?』

 

 すると、少年は答えた。

 

「いや、君を撃退するための準備だよ。予想だと爆発したりするんじゃないかなと思っていたけど、まさか普通に動くとは思わなかった。えっと、僕には鉄鎖術みたいな武芸はないから、悪いけど手加減できないんでヨロシク」

『ナンダトオオオオオ!!』

 

 赤鬼にとっても、自分にとっても予想外の展開が繰り広げられそうであった。

 

 

 

 

 

 

 



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運と……

 

 

 液晶テレビにつり下げられていた腹話術の人形もどきは、僕に小さな包丁を突き付けていた。

 刃渡りは五センチぐらいだけど、あれでも刺されたり切られたりしたら重傷になりかねない。

 アキレス腱とか顔面とかの急所を狙われたら危なすぎる。

 だから、近づけさせないために鎖を振るうしかない。

 

『コロシテヤルゾ!!』

 

 なまはげ似の赤鬼人形が脅してきた。

 操られてるのではなく、やはり意志があるようだ。

 そんなことだろうと思った。

 あのテレビが爆発したりする可能性があったから、警戒して近づいてみたところ、背中にあいつがぶら下がっていた。

 見たところ、さっきの映像に使われていたものだったけど、どう考えたってあんなところにあるのはおかしい。

 誰だって用心するだろう。

 あまりにも怪しくて距離をとって鎖をぶつけてみたところ、やっぱりというか動き出した。

 しかも言動からすると、とてつもなく狂暴そうだ。

 殺してやるを連呼してくるぐらいだからね。

 そうしたら、「何をする気だ」と聞いてきたので、

 

「いや、君を撃退するための準備だよ。予想だと爆発したりするんじゃないかなと思っていたけど、まさか普通に動くとは思わなかった。えっと、僕には鉄鎖術みたいな武芸はないから、悪いけど手加減できないんでヨロシク」

 

 と素直に答えたら、

 

『ナンダトオオオオオ!!』

 

 仰天していた。

 意外と面白い反応をする妖魅だ。

 リアクション芸人みたいなものだろうか。

 とはいえ、僕としては冗談抜きで必死にならざるを得ないんだけど。

 だって、僕の足下にはこちらを噛みきろうとする非実在生物みたいなのがいるぐらいなんだから、この人形がどれだけ危険なのか考えるだけ無駄ってもんだ。

 危険度でいったら同等とみるべきだろう。

 

『テメエ、オレトヤリアオウッテノカ!!』

「うん、まあね」

 

 先手必勝で僕は鎖を叩きつけた。

 人形は必死で避ける。

 かなり素早い。

 動物でいったら猫ぐらいの速さがある。

 間合いに入られたら厄介だ。

 僕は鎖を回し、今度は横に薙ぐように振るった。

 イメージとしては宮本武蔵の敵である鎖鎌使いの宍戸梅軒である。

 別に僕は鎖鎌なんか扱ったこともないけれど、お手本があるとないとでは大違いだからだ。

 さすがに人形の身であるからか、鎖の一撃は恐ろしいらしく、惜しいところで躱された。

 とはいえ、体勢を崩させてしまえばこちらのものだ。

 僕は嵩に懸かって攻めたてた。

 

『ヒィッ、ヒッ!!』

 

 甲高い声をあげながら逃げ続ける人形。

 笑える絵面だけど僕もこいつも必死だ。

 

『テメエ、フザケンナ! オビエテニゲルノガテメエノヤクメダロ!! オトナシクヤラレヤガレ!!』

 

 僕を脅迫し続けながら、人形は隙を窺うようにちょろちょろする。

 どうやら僕の反撃はこいつにとって想定外だったらしい。

 まあ、多分そうなんだろう。

 テレビにぶら下がっていたこいつは、普通なら「なんだろう」といって手に取ろうとするところを襲う予定だったのだ。

 差し出した手を包丁で切られれば、動揺してパニックを起こしてテンパるだろう。

 一度恐怖を与えてしまえば、こいつの思うがままになり、ほとんどの人は為すすべもなくやられてしまうはずだ。

 きっと僕をそうやって始末するつもりだったのだ。

 だけど、そうは問屋が卸さない。

 

「悪いけど、人間というものは最初からいい心構えさえしっかりしていればどんな苦境も乗り越えられるものみたいだよ」

『ナンダトオオオオ!!』

「それに、いくらなんでもあんな怪しい置かれ方しているものに不用心に触る訳ないでしょ。君さあ、人間舐めすぎ」

 

 こいつではなくて設置した相手が僕を舐めていたのかもしれないけれど、どうでもいいことだよね。

 罠をかけるのならばもっと回避不可能なものにしないと。

 

(……まあ、わざわざゲームという以上、生き残る手段を用意してあるみたいだけどさ)

 

 逃げ出すために不用意に〈護摩台〉の下に降りれば化け物に食い殺される。

 鍵に気が付かなければ鎖から解き放たれない。

 不用意に人形に触れば、動き出して襲われる。

 どれも一つ間違えれば惨たらしく殺されてしまう罠の数々だ。

 ただ、それらの罠を回避することは少し考えればできるようになっている。

 実際に僕は考えることで避けることができた。

 時間さえあれば可能なことだ。

 もし、タイムリミットが定められていたら難しかったかもしれないが。

 ―――すると、あのカウントはなんなのだろう。

 

『コロシテヤル!! ギャ!!』

 

 焦れたのか特攻してきた人形に見事に命中した。

 きっと脳みそがちっちゃいに違いない。

 僕が誘っていることに気が付かないとは。

 もし、こいつが僕を本当にやりたいのならば人形としての利点を生かして足を使った攪乱をし続けて、隙をつくのが一番だったはずだ。

 もっとも、こんなに見通しのいい〈護摩台〉の上では隠れる場所もない人形には不利な場所でしかない。

 だからこそ、最初に脅かして機先を制することが必要だったはずだ。

 

「ちょっとごめんよ」

 

 鎖の一撃を受けて転がっている人形を踏んづけると、そのままグルグル巻きにした。

 壊してしまうという手もあるが、せっかく話ができるのだ。

 危険のない範囲で利用させてもらおう。

 

『ヤ、ヤメヤガレ、コノニンゲンメ!!』

「謝ったじゃないか。それでいいよね」

『ザケンナ! テメエ、ノウミソガカラッポナノカ!?』

「うるさいなあ……。ホラー映画の登場人物がいつもいつも君たちみたいなのにいいようにされると思ったら大間違いだよ」

 

 完全に人形を固めて、さらに重い南京錠までぶら下げてあげた。

 これでもう動けないだろう。

 意外と簡単に終わって助かったよ。

 僕だって伊達に御子内さんや退魔巫女たちと一緒に活動していたわけじゃない。

 この世にある妖魅という存在がどういう風に人を襲ってくるかは経験としてだいぶ学習している。

 勇気をもって立ち向かえばたいていのものを退治はできずとも、対峙することは不可能ではないのだ。

 御子内さんが教えてくれた。

 

「じゃあ、次はどうするか……」

 

 僕は周囲を見渡した。

〈護摩台〉の外にはでられそうにない。

 いくらなんでも正体不明の化け物がいるのだから、下手な行動は命取りになる。

 すると、あとは……

 

「やっぱりこの液晶テレビかな……?」

 

 僕はもう一度テレビに近づいて、人形のぶら下がっていた背面を見た。

 フックがとりつけてあった他にないかと観察してみると、文字のようなものが書いてある。

 本当に小さかったが、何とか読み取れた。

 

「―――テレビをつけろ?」

 

 特に怪しくもない指示だ。

 また、なにか危険なことでもあるのかと思っていたのに……

 ただ、他に手もないし、従ってみようかな。

 前に戻ると、僕はとりあえず人形に聞いてみた。

 

「テレビをつけるとどうなるか知ってる?」

『―――ジゴグニオチロ』

「わかりやすい返答をありがとう」

 

 僕は鎖の先をもつと、トップロープ越しに人形を外に出して、そっと下ろした。

 釣りでもする要領だ。

 何をしようとしているのか悟ったのか、人形が身体をゆすり始めた。

 

『ヤ、ヤメヤガレ、テメエ!! ザケンナ! コロスキカ!!』

「あれ、下に何がいるかわかっているんだ」

『アタリマエダ!! アイツハナンデモクッチマウバカナンダ!! クワレチマウ!! ノンケデモダ!!』

「それは知っているけど、人にものを頼む態度じゃないね」

『ブッコロスゾ!!』

「―――君が?」

 

 僕はもう少しだけ人形を縛った鎖の位置を下げた。

 さっき触手に巻き付かれた高さギリギリまで。

 

「誰を殺すの?」

 

 ちょっと揺さぶった。

 すると、人形はもがかなくなり、

 

『マテ。マッテクダサイ』

 

 と弱気な口調になった。

 さっきから思うに非常に人間臭い妖魅だ。

 

「テレビをつけるとどうなるか、知っているの?」

『―――クロカミノオンナノバケモノガデテクル』

「ありがとう。助かったよ」

 

 僕は人形をマットの上にそっと横たえてあげた。

 落としてしまってもよかったのだけど、妖魅相手の約束破りは祟られそうなのでやめておいた。

 まだ利用価値ありそうだし。

 

(ただ、黒い髪の女が出てくるって……テレビの中かな)

 

 何だか知らないが、この室内はびっくり箱にでもなっているのか。

 どうすれば逃げ出すことができるのか、はっきりいって未だに糸口すらつかめないというのは厄介極まりなかった…… 

 

 

 

 

 



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升麻京一という少年

 

 

 鎖で拘束したなまはげ風の赤鬼人形からまんまと秘密を聞き出した升麻京一は、そのまま液晶テレビに近づいた。

 先ほどから顕著なのだが、この少年は慎重で用心深い癖に行動そのものは大胆だ。

 動き出す前に様々に試行錯誤を繰り返しているからだろうか、何があっても冷静沈着なところがある。

 映像の中で人形が口走った「知恵と勇気」に関してはすでに遺憾なく発揮しているといえた。

 仕掛けられた三つの罠は無事に回避して、それだけでなく人形という喋るヒントまで手中に収めている。

 知恵と回転の速い頭脳があり、想像力の豊かさを十分に持っていることは証明していた。

 さらに、動き出した人形を怖れることなく制圧する度胸。

 とても単なる高校生のものではありえなかった。

 だが、これまでの升麻京一の経歴には一切特別なものはない。

 一年前、妹である升麻涼花(しょうますずか)がとある妖怪につけ狙われた際に、関東一円の妖怪退治を請け負う〈社務所〉の媛巫女・御子内或子に助けられたことから、現在のように助手としての仕事をアルバイトとしているのが特別といえば特別だった。

 たった一年ほどとはいえ、妖怪退治に関わるということはまともな体験とは言えないだろう。

 それまでの経歴を考えると、一年間でここまでタフな性格になったともいえる。

 

「さてと、どうしようかな」

 

 京一は画面をじっと見つめる。

 スイッチの存在には気づいているらしい。

 もう一度触ることなくテレビを観察する。

〈護摩台〉に繋がっているケーブルをつまみあげ、軽く首をひねる。

 それから、何度も表面を観察した。

 眉間にしわが寄っている。

 

「―――ねえ、君」

『オレニハナシカケルナ。ジゴクニオチロ、ニンゲンメ』

「拗ねないでよ」

 

 人形からこれ以上聴きだすのは無理と見たのか、もうそれ以上は話しかけなかった。

 代わりにマットの上を歩き始めた。

 動物園の熊のようであった。

 なにをするでもなくウロウロとあてもなく歩くだけ。

 それで何が起きるというのでもない。

 前後左右、満遍なくマットの上を彷徨い続ける。

 どれだけ動き回ったのだろう、しばらく黙ったまま中央に立つと独り言をぽつりと呟いた。

 

「……ここでテレビをつけると黒髪の女が画面からでてきて僕は襲われる。ただ、どんな妖魅だとしてもでてきたら僕が逃れることは不可能。このゲームにおいては生き残る方法は常に一つはあって、この場合は電源をいれないこと……。いや、必ずしもそうとは限らない。黒髪から僕を守ってくれる人がいればいいわけだ。御子内さん? 違う、彼女が来れるかどうかは不明だし、きっと他の手段が……」

 

 俯いていた顔を上げた。

 

「そういうことか!?」

 

 そして、彼は何かを思いついたすっきりとした顔をしてマット上の全てを見渡した。

 

 

           ◇◆◇

 

 

「―――おそらく京一は試されている」

「試される?」

 

 或子は重々しく言い捨てた。

 

「うん。どういう方法かまではわからないけれど、ララはきっと京一をどこかに監禁しつつ、何かをさせているはずだ。おそらく命がけの……ゲームのようなものを」

「ゲームって……」

「京一の〈一指〉の運を引きだすためなら、あいつの命を賭け金にする必要がある。ただ、意味のない妖怪退治みたいなことはやらせないはずだ。ララはそのあたり計算高い女だよ」

「ああ、そういえば、神撫音は道場時代もそんな悪戯をしていたっけ。あれ、あとでかなり問題になったよな」

「昔を思い出せばわかるように、遊びでさえ命を賭けさせる女だ。〈社務所・外宮〉としての使命があるのだったら、どんな手を選ぶか知れたものじゃない。今回も〈殺人サンタ〉に切子の命を狙わせたようにね」

 

 まだ子供と言ってもいい年頃に、御子内或子が神撫音ララから受けた印象はあまりいいものとはいえない。

 今回、助手を強引に拉致されたことだけでなく、彼女の想像通りならば京一はとてつもなく危険な目にあっているはずだからだ。

 

「京一先輩なら、いつもみたいに飄々とくぐり抜けてくれますよー」

「グラシアス」

 

 てんは慰めるように呑気な声を出し、音子が礼を言う。

 別にスーパー音子さまに言ったわけじゃないのになー、とてんは内心で思いつつ、先輩たちの気持ちになって静かにすることにした。

 もうこうなったら、京一先輩が自力で無事に戻ってくることを祈るしかないのだから。

 

「ララは京一が難問に挑んでいるのを近くで観察しているはずなんだ。なんとか、アイツまでに京一が辿り着いてくれれば助かるんだけど……」

「根拠はあるのかよ」

「自分の目で見たものしか信じないのが、あの女の特徴なんだ。〈殺人サンタ〉のためにわざわざカナダまで行ったのもそのせいさ。あいつが主犯ならきっと傍にいるはずだ。気がついてくれ、京一―――」

 

 或子は八百万の神に祈った。

 彼を今の境遇に巻き込んでしまった彼女としてできることは、もうそれしかなかった。

 

 

        ◇◆◇

 

 

 升麻京一はマットの上をじっくりと眺めていた。

 逃げ場をさがしているのか、それとも別のものを見つけようとしているのだろうか。

 転がっている人形を拾い上げると、何を考えているのか鎖による拘束を解き始めた。

 ジャラジャラと鎖がマットに落ち、人形を解放されると同時に放り投げる。

 さっき自分の命を狙った怪物をあまりにも呆気なく解き放ったというのに、少年は躊躇もせずに行った。

 無造作に扱われた赤鬼の人形の方こそ何が起きたかわからず、きょとんとしている状態であった。

 だが、少年の行動には理由があった。

 鎖の端を掴むと、自分が軸になって風車のようにマットの中央で回転を始めたのである。

 コーナーポストに当たらないギリギリを見切って、力の限り回転させる。

 もし、他に誰かがマットの上にいたら絶対にぶつかってしまうように乱暴な行いであった。

 だから、それを避けるためには()()()()()()()()()()()()()()

 これまで姿を隠すために使っていた術を解いて、咄嗟にしゃがみ込む。

 升麻京一の振るった鎖の勢いは、鉄鎖術の達人のものに比べれば実に大したことのないものであったが、やはり金属であり、まともに受けたら大怪我をしかねない。

 やむをえないことであった。

 それに、もう目的は達したともいえる。

 

「やっぱり隠れていたんですか。道理でさっきから視線を感じるし、おかしいとは思っていたんですよね」

 

 京一は姿を現した私を驚きもなく見やった。

 まさか見抜かれていたとは思わなかった。

 

 私が月光の色に似た布を被る〈月の羽衣〉の秘術を用いて、彼の目に映らないように()()()()()()()()()()()()()()

 

「さすがに驚いたヨ」

 

 確かに或子の助手に―――いや、〈一指〉の持ち主に相応しい頭脳と肝っ玉と、運の持ち主であったようである……

 

 



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ゲームクリア

 

 

 僕はある意味では突然姿を現したも、長い黒髪の巫女さんを見つめた。

 この間(僕の主観時間では三時間も経っていない)、後ろから声を掛けられたときは夜だったので気が付かなかったが、意外と肌が健康的な褐色をしていて、彫りの深い顔つきをしている。

 ひと目で南国の出身だとわかった。

 日本人形のような髪型とはあまりあっていない気がする。

 いや、クレオパトラヘアーだと思えばいいのか。

 少なくとも、外国の血を引いているっぽいイメージはあった。

 

「―――えっと、〈社務所・外宮〉の月巫女さん……でしたっけ?」

「月巫女は役職ダヨ。私は神撫音(かんなね)ララ。あなたが助手をしている御子内の先輩にあたるネ」

「はあ」

 

 その格好といい、この狭い〈護摩台〉の上で僕に一切見つからずにずっと姿を消していた魔法といい、まず本物の〈社務所〉の関係者だろう。

 年齢からいっても御子内さんたちの先輩というのもわからなくはない。

 僕をここまで攫ってきたのは予想通りにこの人だったわけだけれど、じゃあどうして、と考えるとわからない。

〈護摩台〉の下の怪物も、赤鬼の人形も、テレビの画面からでてくるという女も、どれも下手を打てば殺されていてもおかしくない罠だ。

 僕を殺す気ならばいつでも殺せただろう。

 逆に、こんなに傍に隠れていたということはいざとなったら助けてくれるつもりだったとも解せる。

 そうそういい方に考えることはできないけど。

 なんといっても僕は拉致・監禁されているのだ、ストックホルム症候群でも発症しない限り、この人は敵でしかない。

 

「動くナヨ!!」

 

 いきなりララさんが怒鳴った。

 一瞬、ドキっとしたが、その視線の先に僕にこっそりと近づこうとする赤鬼人形がいて、手に包丁を握っているということでわかった。

 鎖を使うために解放してやったのに、性懲りもなく僕を襲おうとしていたのだ。

 だが、ララさんの一喝によって完全に硬直している。

 恐れのこもった造り物の眼で彼女を見上げている。

 もし生き物であったなら冷や汗を大量に流していたに違いない。

 

『ベ、ベツニオレハ……』

「もうあなたの仕事は終わりダヨ。余計なことをするというのならば、―――選べ」

『イヤ、ナニモシナイ、モウナニモシナイ!!』

 

 ララさんはにこりと笑って、

 

「そう。たいみそーちー。邪魔をしないでその辺に座っていナヨ。私が彼と話をしている間はネ」

『……ハイ』

 

 やけに素直に狂暴な人形は隅っこまでいってぽつんと座り込んだ。

 体育座りだ。

 関節が曲がるもんなのだね。

 

「……で、ララさんはいったい僕になんの用なのです? こんなところに閉じ込めて、変な罠をかけて。何度死んだっておかしくない話ですよ。だいたい、この画面から出る女の怪物をどうにかしてもまだ実は次があったんでしょ」

「どうしてそう思うのカナ?」

 

 僕はポケットの中にあった鍵をだした。

 

「これの使い道がなかったからです」

「―――正解。実のところ、画面(そこ)からはでてきた〈呪殺女〉をどうにかできたあとに、使うことができるようになっていたんダヨ。つまり、あなたは全部のイベントをクリアしないでゲームクリアをしてしまったということダネ。想定外だ」

 

〈呪殺女〉……また恐ろしい名前だ。

 そんなものと対峙せずにすんで助かったよ。

 ただ、ララさんの言い草だと僕は持ちかけられたゲームをクリアしたと認められたようだ。

 人形を止めたことからして、もう危害を加える気はないみたい。

 

「―――どうして私が隠れていることに気が付いたんダネ? 私の〈月の羽衣〉だけでなくて、気配さえ完璧に近い形で消していたはずなのだケド」

 

 よほど隠形の法に自信があるのだろう。

 僕に見抜かれたことが気になって仕方ないらしい。

 ついさっきわかったばかりだから、あまり偉そうに言えたものではないんだけど、とりあえず説明をしておくことにする。

 

「―――この〈護摩台〉の上で起きていることは一つ間違えれば死んでしまうものばかりでした。でも、最初に『ゲームをしよう』と言われた通りに、やり方さえきちんと考えやれば切り抜けられるものばかりです。例えば、下に落ちている鍵はいかにも怪しいし、手を伸ばせばギリギリ届く距離に置かれている。ただ何もない下に降りることはどう考えても誘われている。つまり、何かあることは予想できる。そして、こういうときは大抵下に何かが隠れていることが多い。皐月さんたちの家にいる〈ベッドの下の怪物〉みたいなものがね。だったら、用心して望めばいい」

 

 僕は最初の罠について語り、次に赤鬼人形についても説明した。

 

「次に僕が気にしなければならないのは、あの液晶テレビでした。あんなところにむき出しで置いてあるのはどう見たって変です。だから、触るのも近づくのも用心していたら背面に人形がぶら下がっている。〈社務所〉の扱う妖魅事件では人形が勝手に動き出すものは山ほどありますからね。注意するに越したことはないと思っていたら、案の定、動きだしました。あいつ自体は危険とはいっても僕程度でもなんとか凌げる妖魅ですけど、それでも不用意に手を出していたら終わっていた。これも知恵があれば切り抜けられるものです」

 

 人形は不本意そうに僕を睨んでいた。

 

「残った液晶テレビには「テレビをつけろ」と指示があったけど、素直に従えばどんなことになるかはわからない。最悪、爆発でもされたら逃げ場がないし。かといって、他に手もないから捕虜にしておいた人形に訊ねたら教えてくれた。黒い髪の女が画面から出てくるって……。最初はララさんのことかと思ったけど、人間がそんなことできないし、ゲームの一環だと思うとそれについても対策を練っておく必要がある。そこで閃いたんですよ」

「何をダイ?」

「―――確かにこのゲームは僕にとって危険極まりないけれど、でもどこかで助かるようにできている。実際、僕はいくつか切り抜けましたし。でも、それができなかった場合、どこかに保険は掛けてあるのか?ということが気になりました」

「……」

「もしも、僕がしくじって最悪死んでしまったら、そのときは不慮の事故として片づけられてしまうのか。―――それはありえません。少なくとも、僕がこんなところで理不尽に殺されでもしたら絶対に御子内さんが許さないからです。音子さんもレイさんも、場合によっては美厳さんも報復に出るのはわかっています。友達が不条理に殺されたら、絶対に仇をとってくれる人たちだからね。そうなったとき、彼女たちと全面戦争をするほどのリスクをとれるものだろうか。……まず、そんなことはないはずでした。だったら、どうなるかはわかります」

 

 僕は室内と〈護摩台〉を見渡した。

 

「どこかに隠れていて、僕がどうしようもなく失敗したときにすぐにでてこれるように見張っているはずです。でも、室内がこれだけ広いと、咄嗟に駆け寄るのは難しいし、隠れるとしたらマットの下しかない。だけど、さっき歩き回ってもそんな場所はなかった。なら、どこにいるのか? 気になっていたのは、僕を観察するような視線があることでした。そして、僕には透明人間の友人がいます。彼のことを思い出したとき、だいたいの目星がついたんです」

 

 よく考えれば、御子内さんや美厳さんじゃないのだから、遠くから僕を見張っていたとしても気がつくはずがない。

 僕が何となく感じる程度なら、相当傍にいなくてはならないはずだ。

 ありうるとしたら、もうそれしかない。

 ()()()()姿()()()()()()()()()()()()()、と。

 あとは、どうやって引き摺り出すか、それだけのことである。

 僕の予想通りに引きずり出された神撫音ララさんだったけれど、あまり気にはしていなさそうだった。

 まあ、そうだよね。

 彼女は僕を相手にゲームだかテストだかをしていたのだから、クリアされたとしてもどんな感慨もないはずだし。

 

「大したものダヨ。まさか、これほど頭が回るうえに度胸があるとは思わなかった。見出した御子内の目か、それとも成長させた手法カナ? どのみち、あなたは自分の選択でクリアを勝ち取った訳ダネ」

「じゃあ、どうして僕を誘拐までしてこんなことを強制したか教えてください。僕の感じからすると、もう何日も監禁されていそうだし、家族を心配させてしまったと思うんで相応の謝罪も要求します」

「賠償はいらないのカネ?」

「あなたの一存ではないでしょうし、そのあたりを聞いてからにします。〈社務所〉の予算だって不足しているみたいですから」

 

 すると、ララさんは、ニヤリと笑った。

 野獣のようだった。

 語尾の変なイントネーションといい、顔つきといい、他の退魔巫女のみんなとはまったく違う印象を押し出してくる人だった。

 僕の知っている巫女たちとは人種が違うようにさえ感じる。

 ただ、なんとなく御子内さんと同じ匂いをさせているところが奇妙ではあった。

 

「簡単ダヨ。私らが確認したかったのは、〈一指〉という運命の相をもった人物がどの程度使い物になるかということだったのだからネ」

「やっぱり〈一指〉狙いですか……。で、なんのためにこんな回りくどい真似を。言っておきますけど、僕は怒っていない訳ではないんですよ。場合によってはホントに報復させてもらいますからね!」

 

 僕の必死の恫喝もあまり聞いてはいないようだった。

 結構、命がけであなたのいうゲームをクリアしたというのに嘲笑られる覚えはないというのに。

 

「いいネ、そのぐらいの気迫も欲しいところダヨ」

 

 そうニヤニヤと笑い続けながら、ララさんは僕をこんな目に合わせた理由について衒いもなく喋りだした……

 

「ゲームオーバー、ダヨ」

 

 



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ずっとこれから

 

 

 新宿の戸山公園の裏手にある〈社務所〉の提携する病院に、僕は検査のために放り込まれた。

 カレンダーをみると、もう二十八日。

 クリスマスは完全に過ぎてしまい、五日も無断外泊してしまった計算になる。

 スマホを返してもらって慌てて家に連絡を取ってみると、どうも涼花がうまく話をまとめて置いてくれたらしく、それほどの大事にはなっていなかった。

 御子内さんの頼みを聞いての涼花の骨折りだったらしいけど、どういう風に両親を丸め込んだのか不思議でならない。

 うちってそんなに放任主義ではないはずなのに……

 とはいえ、家に戻ったらきちんと涼花と口裏を合わせる必要はあるだろう。

 幾らなんでも五日の無断外泊は問題だ。

 狭くて古い個人病院で、簡単な血液検査やらをしていると、病室にドタドタと複数の足音が聞こえ、扉を開けて御子内さんたちがやってきた。

 

「京一!!」

 

 御子内さんだけでなく、音子さんやレイさん、てんちゃんや藍色さんまでが後ろに控えている。

〈社務所〉の退魔巫女、若手の勢揃いという訳だ。

 どんな妖怪がやってきても撃退できそうなメンツであった。

 みんな、酷く顔色が悪い。

 僕を心配していてくれたということだろうと思う。

 特にすぐ近くにいて、ララさんに迂闊にも攫われた僕のことを一番に責任に感じていたであろう御子内さんがヤバすぎる。

 本当に彼女らしくない。

 だから、少しでも安心させるために、僕はできるだけ穏やかに微笑んで見せた。

 

「やあ、みんな。メリークリスマス」

「もう終わっているよ!!」

 

 ツッコミが早い。

 

「とはいえ、僕の主観時間では二日と経っていないんだよ。まだクリスマス気分さ」

「神撫音に酷いことされなかったか? あいつ、道場時代から無茶なことばかりやる先輩だったんだ」

「大変ではあったけど、そこまで危険ではなかったよ。傍で見守っていてくれたみたいだし」

 

 嘘ではなけれど、正確な事実という訳でもない。

 実際、僕は何度か危険に直面して死にかけた。

 だが、終ってしまったことで彼女たちをこれ以上心配させることはない。

 

「マジか? 無理してねえか?」

「うん。京いっちゃんが望むなら、あのガングロにモンゴリアンチョップを叩きこんでもいい」

「音子さんもレイさんもありがとう。でも、本当に大丈夫。この検査だって、栄養が足りてないかとかのチェックなんだから」

 

 わざとらしくならないようにガッツポーズをする。

 それで安心させられるわけではないが、僕ができる最大限ではあった。

 てんちゃんや藍色さんはなんとかなりそうだが、比較的付き合いの長い三人はこの程度では駄目のようだ。

 レイさんは憤怒の表情だし、音子さんも冷たく激怒している。

 僕が何日も監禁されていたというだけでなく、あの試験というものをさせられていたことに怒髪冠を衝くという様子だった。

 彼女たちからすると、友達が苦しめられたことに対して立腹しているのだろう。

 魂がとても熱い女の子たちだから。

 

「大丈夫だよ。心配しないで」

 

 御子内さんが一番重傷っぽい。

 もっとも親しいということもあるだろう。

 僕をこの世界に引き込んだ原因は彼女だから、もしかしたらそのことを気に病んでいる、そんな顔をしていた。

 だから、細くて小さい肩を叩いて、僕は言った。

 

「僕は君の助手を止める気はないからね。これからも、ずっとね」

 

 すると、彼女は唇を尖らせて、不服そうに、

 

「―――当たり前だよ。キミはボクに〈護摩台〉のあの重い資材を運べと言うのかい? ボクはこう見えてもか弱いJKなんだ。力仕事は男子がやるべきだろう」

 

 と、減らず口を叩いてきた。

 無理をしているのは僕にだってわかる。

 

「これからもよろしくね。助手を解雇したりしたら、武蔵立川まで直訴しに行くよ」

「あ、あたりまえだよ。―――き、京一のことは裏柳生も狙っているからね。美厳になんて、ボクの京一をくれてやるものか!!」

「ありがと」

 

 僕は改めて握手を求め、彼女もそれに応じる。

 友情の握手(シェイクハンド)だ。

 巫女レスラーはこれを絶対に裏切らない。

 

「みんなも、これからまたよろしくね」

 

 彼女たちは力強く頷いてくれた。

〈社務所・外宮〉という身内がしでかした不祥事に罪悪感を覚えていたのかもしれないけれど、あちらのしたことと友情にはなんの関係もない。

 今まで通りにやっていけたら、とそんなことを考える。

 だが―――

 

 あの時、ララさんの吐いた毒が僕にも回りつつあるのは自覚していた。

 彼女はこう言ったのだ。

 

 

「もうすぐ、数多(あまた)の異国から死の嵐がやってくる。イタクァにも匹敵する、いやそれ以上の大嵐ダヨ。殺戮の季節風だネ。そのとき、〈護摩台〉なんてものを使っている媛巫女が防風壁にさえなれるとはあなたも思わないんじゃないか。―――そう、私たちに必要なのは確固たる武力サ。そうは思わないカネ」

 

 

 そのためならなんだってやる。

 僕の〈一指〉のようなレアな運勢でさえもフルに活用して。

〈社務所・外宮〉がどのような嵐を想定しているかはわからないが、何か確信があって動いているのに違いない。

 それはきっと御子内さんたちに対しても同様だ。

 近いうちに〈社務所・外宮〉はまた何かを仕掛けてくるだろう。

 ……そのとき、御子内さんたちを少しでも護れたら。

 

 妹を助けてもらったときから、ずっと恩義のある人たちのために僕がしなければならないことはまだ尽きてはいないのだ。

 

 

 

 

 



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第43試合 情念怨感
心を読む妖魅


 

 

 獣すら通るかわからない山中を一人の女が歩いていた。

 宙を行くような、ふらふらとした足取りで、靴すらも履いていない裸足だった。

 まとっているものは一枚の白い着物で、帯すらもひたすらに白い。

 双眸はうつろで、まるで幽霊のようでさえあった。

 女は枯れた落ち葉の上をただ進んでいる。

 奥多摩の遥か奥深く。

 しかも真冬だ。

 とてもではないが常人がする行為ではない。

 ゆえに女のこの奇行を見咎めるものはいない―――はずだった。

 

『おめ、どこに行く気だ』

 

 女に声をかけたものがいた。

 だが、姿は見えない。

 彼女が進む山中には隠れる場所が豊富に存在し、そのどこかに隠れつつ話しかけたのだろう。

 擦れたような、竹が喋ればこういう声だろうという印象だった。

 実際、女の歩くすぐそばには手入れがされずに放置された竹林があった。

 その竹林そのものが喋ったかのようである。

 

『ここから先はいかね方がいい。里っ子が入っちゃいけん。進むと死ぬぞい』

 

 声の主の目的は忠告だったらしい。

 真冬の深山を着物一枚で歩く女をこれ以上進ませてはならないという忠告の意図があるある行為だったのだ。

 ある意味では、親切心からでた台詞のように思える。

 

「―――」

 

 しかし、女は歩みを止めようとしない。

 聞こえているのか、いないのか、まったくの無視だった。

 声の主も戸惑っているようだった。

 竹林の横を通っても足取りに遅滞はなく、姿も見せない声の主を探すそぶりもないのだ。

 耳が聞こえなのか、それとも……気が狂っているのか。

 そのどちらであってもおかしくはないぐらいに、女の様子は尋常なものではなかった。

 

「見つけたぞ!」

「やっとかよ……!! おい、急げ、陽が暮れちまうぞ!!」

「わかってますぜ、アニキ!!」

 

 突然、騒々しい声がして三人の男たちがやってきた。

 女の歩いてきた道ともいえない道を登ってきたのだろう。

 男たちも女と同様に山登りに相応しい格好をしているとはいえなかった。

 赤字に金の龍の刺繍が入ったスカジャンにジーンズ、金のネックレスというチンピラまるだしの格好の若者と、縞の入った背広とスラックスにサングラスというヤクザそのものの中年男性。

 そして、三つ揃えの黒服にポマードがべったりとしたオールバックがついているくるという、ひと目で素性が知れる三人組だった。

 もちろん、奥多摩の山中でハイキングをするような連中とは誰も思わないだろう。

 そんな物騒な男たちは白い着物の女との距離を狭めると、肩を荒々しく掴んだ。

 

「待てよ、おい」

「もう逃がさねえぜ!!」

「タカ、さっさとふんじばっちめえ」

「へい」

 

 スカジャンの若者が背負っていたロープを手にした。

 その先には犬の首輪のようなものがついていて、女の手にそれを巻き付けた。

 抵抗もされないので作業は容易に終わった。

 むしろ、男たちに強引に扱われているのに女の顔にはどのような感情さえも浮かび上がらないというのが不気味そのものであったが。

 薄気味悪く思いながらも、男たちは女をまるで犬でも引きずり回すかのようにロープで引っ張りながら来た道を逆送していく。

 女もなすがままにされ、男たちに抵抗もしない。

 言葉の一つも発しないのだ。

 

「気味がわりいな、ホントによ」

「しかたねえ。こいつに逃げられると困るのはこっちなんだ。いいか、逃げられたのはてめえのせいなんだからな、タカ」

「すいやせん」

「このボケが!!」

 

 縞スーツがスカジャンの背中を蹴り飛ばした。

 容赦のない本気の蹴りだ。

 そんなものを受けても粛々と従うところに二人の関係性が見て取れる。

 

「言い加減にしろよ、佐藤サン。あんたらの不始末に俺も混ぜんじゃねえ」

「うるせえわ。てめえだって同罪よ」

「なんだと、コラ」

「やんのか、てめえ」

 

 黒服と縞スーツが睨みあったとき、竹林の奥から三人のものとは違う声が聞こえてきた。

 

『……れんず? 変な奴だな』

 

 びくっとした三人は、ブンブンと顔を回して声の主を探そうとした。

 

「だ、誰だ!?」

 

 女と違い、男たちはどこからともなく聞こえてくる声を無視することはできなかった。

 しかも、この声が口にした名前を彼らはさっきから呼んでいない。

 

「誰かいるのか!? で、出て来い!!」

 

 だが、声の主は姿を現さない。

 おかげで恫喝も空回り気味だった。

 

『坊主ではにゃあずな。山伏かあなあ。まじない師かあ』

「出て来いって言ってんだ!!」

 

 男たちがどれほどがなり立てても声の主は平気の平左だった。

 それどころか面白そうでさえある。

 

『こげんなとこ、来るんだからきっとおかしげなやつらばあ思うとったが、やっぱり里っ子の考えることはわからげんなあ。反魂(はんこん)かあな。―――しびとがかえってくるのなあ』

 

 その言葉を耳にして、男たちは咄嗟に懐にしまっておいた拳銃を引き抜いた。

 男たちはすべてヤクザであった。

 全員が群馬の過疎で消滅した村で、拳銃を撃つ訓練をしていざというときに備えていた武闘派である。

 だから、躊躇なくロシアから密輸入した自動拳銃であるトカレフとマカロフを引き抜いた。

 それにここは奥多摩の山奥である。

 銃声は誰にも聞きつけられないはずだ。

 何より、この声の主は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 生かして帰すのはおろか、何者であるのかツラを拝まなくては自分たちの身の破滅に繋がるかもしれない。

 

「誰だ、出てきやがれ!!」

「おい、こいつ、聯頭(れんず)のことを知っていやがるぞ。どうやって知りやがったんだ? おまえ、喋ったか?」

「そんな事しませんって! あんな薄気味悪いやつの話なんか誰が喜んでしまスカッて!!」

「……だよな。俺だって口にしてねえ」

「じゃあ、どうして聯頭の名前が出てんだよ」

 

 男たちは拳銃を竹林に向けて構えた。

 おそらくはここから聞こえてきたはずだ。

 それにざっと見て隠れているとしたら、ここしか思い当たらない。

 

「出てこいや!!」

 

 力の限り叫んでみると、

 

『まさかお化けでもでるのかよ、と思ってんなあ。おめ、怖がり過ぎだあ』

 

 黒服はびくりとした。

 確かに彼は「お化けでも出んのかよ」とビビっていた。

 そこを見透かされたのだと思った。

 少なくとも、彼は常識的に考えて、

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 だから、竹林からのっそりと体格のいい裸の男が出てきたときも、ごく普通の反応しかしなかった。

 しかし、それが彼の生涯において最大の過ちであったと気が付くことは決してなかった……

 

 

            ◇◆◇

 

 

『という訳で皐月ちゃん。お仕事に行きなさい』

「いやです」

 

 刹彌皐月(さつみさつき)はディナーの最中にかかってきた上司からの携帯電話ににべもなく応えた。

 だいたい真面目に働く気がないのに、「仕事しろ」と言われても否と応えるしかないではないか。

〈社務所〉の媛巫女としての任務はアメリカに出向した時点で果たしているし、今回の帰省はある意味では休暇と思っているからだ。

 一月ほど前に栃木まで出張のような妖怪退治にも行ったことだし、こんな師走の忙しい時期に仕事なんかしたくない。

 皐月は基本的に怠けた人生を送りたくて仕方ない派なのである。

 そんな相棒を、ヴァネッサ・レベッカ・スターリングは何とも言えない顔つきで見つめていた。

 労働が最大の美徳とは思わないが、少なくともローティーンの頃からFBIに属していたヴァネッサからすると皐月の性格は軽蔑すべきものがある。

 ただ、こんな自堕落な少女だというのにヴァネッサは決して嫌いにはなれなかった。

 本国(ステイツ)で何度も命を助けられた、人の殺意を視て、あまつさえそれを掴んで投げることができるという非常識な少女のことを。

 

『青梅市と奥多摩の中間あたりに〈サトリ〉が出たの。あの人の心を読む妖怪については、あなたの刹彌流との相性がいいわ。だから、()()()()

 

 有無を言わさぬ命令だった。

 まだ初潮が来る前からの先輩ということで分は悪いが、年末年始といえば悪魔ルシフェルでさえ休暇をとるのだから、皐月としてはなんとしてでも働きたくない。

 ここはなんとしてでも誤魔化さなければ。

 

「どうして〈サトリ〉なんて危険なものとうちが戦わなければならないんすかね。それに青梅市あたりは或子ちゃんのテリトリーじゃないですか」

『今は或子ちゃんに頼めないからあなたにお願いしているのよ。いい、皐月ちゃん。まだ()()()()()()()()()という限度で引き受けた方がいいわね』

「ひっ」

『あなた、刹彌流が()()()()()()()ことを忘れた訳じゃないでしょうね』

 

 そこで勝負あった。

 皐月は〈社務所〉の道場での日々を思い出して、背筋が凍りついていくのを感じていた。

 

『で、お返事は?』

「……誠心誠意頑張ります」

『よろしい』

 

 皐月は知らなかったが、この時、東京を護る退魔巫女である御子内或子は〈社務所・外宮〉とのトラブルのせいで身動きがとれなかったのである。

 例え、動けたとしても最高のパフォーマンスは出せないであろう状態のため、まとめ役である不知火こぶしとしては無理をさせたくなかった。

 ゆえに、遊軍として待機扱い出会った皐月を指名したのだ。

 それに性格を除けば戦力としては申し分のない実力者だ。

 

「……まったく、せっかくのお休みだというのに。ねえ、ネシー。日本人ってエコノミックアニマルのワークホリックばかりだよね」

「ええ。その通りですけど、たまには働いた方がいいのがいるのも事実ね。例えば、目の前にいる女の子のくせにポルノ雑誌を購入して部屋に持ち込もうとしている人とかね」

 

 皐月は手の中にあるAmazonの箱をそっと背中に隠した。

 何故、バレている?

 18歳未満御断りのエッチな本を虚偽申請してまで購入したことが!

 

「ハハハハ、ご冗談を」

「いいから、そのポルノ雑誌を部屋に置いてきなさい。わたしも同行しますから、さの〈サトリ〉なる妖怪を退治しに行きますよ。それが、退魔巫女としての皐月の仕事でしょうに」

「―――はーい」

 

 こうして、刹彌皐月とヴァネッサ・レベッカ・スターリングの二人は東京都奥多摩市に降りてきた妖怪〈サトリ〉の絡む事件に挑むことになったのである。

 

 

 

 



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妖怪<サトリ>

 

 

 青梅市に入ったところで、腹ごしらえに地元のソバを食べに入った先で、ヴァネッサ・レベッカ・スターリングは用意された資料に目を通していた。

 FBIの女捜査官にとって必須ともいえるプロファイリングのスキルを持つ彼女が、日本の妖魅事件においても何か貢献できるのではと考えたすえの行動であった。

 ただ、アメリカの殺人鬼と違い、やはり極東の島国の妖怪ではさすがに分が悪い。

 彼女にとってわからないことが山ほど存在していた。

 

「―――この……〈サトリ〉によって重傷を負わされて、病院に担ぎ込まれた三人ってどうして全員前科持ちなの?」

「んー、どれどれ」

 

 十割ソバを啜っていた皐月が差し出された書類を見る。

 一週間前に、地元の病院に緊急入院した三人の写真付きの書類なのだが、一目見てわかる通り、警察によって作成された部外秘の捜査報告書の写しであった。

〈社務所〉と警察には密接な繋がりがあり、このような情報の交換は秘密裏に頻繁に行われている。

 警察からすると、〈社務所〉の管轄の事件などは手に負えないものばかりであり、無理に反発し合うよりは協力体制をとった方がいいということなのだろう。

 以前の殺人鬼〈J〉の事件の時のように連絡の行き違いがない限り、〈社務所〉と警察は共同歩調をとるのが通例だ。

 

「全員が傷害か暴行、あと恐喝の前科があるんだね。へー、怖い。びびっちゃって足が竦んで立てなくなりそう。ネシー、うちを抱っこして」

「……二人は広域指定暴力団に所属して、もう一人は六本木を根城にする半グレの構成員。どうして、そんなギャングみたいな連中がこんな田舎にいたのかしら。しかも、妖怪に襲われて半死半生なんて」

「そりゃあ、ハイキングじゃないの? ヤクザだってたまにはサンドイッチとバナナをもって野山を散策したくなるんだよ。ハイレハイリフレハイリホー、ハッハッハッハッ、おまえはよくやった森へ帰ろう」

 

 真面目に答えない相棒にため息をついて、ヴァネッサ・レベッカは、今度は病院のカルテのコピーを差し出した。

 

「鎌を振るって襲ってきたらしいよ。全身に鎌のによる切り傷がついていて、助けがきたときにはほとんど血まみれだったみたいだわね。……ただ、命に別条がない程度だということが不思議」

「なんで?」

「何故かは知らないけど、この妖怪は殺す気はなかったみたい。……別の目撃者によると、上半身は裸で、下半身は猿のように毛むくじゃらの姿をしているんですって。手には鎌のような武器を持っていて、能面みたいな硬い貌をしているそうよ」

 

 今度、差し出されたのは鳥山石燕の『今昔図画続百鬼』に記された〈覚〉という妖怪の図だった。

『飛騨美濃の深山に()り 山人呼んで覚と名づく 色黒く毛長くして よく人の(こと)をなし よく人の(こころ)を察す あへて人の害をなさず これを殺さんとすれば、先その(こころ)をさとりてにげ去と云う』

〈覚〉についての記述はそうある。

 ただ、今回、奥多摩に出たという〈サトリ〉とはあまり似ていないようだ。

 

「この図だけだと猿の変化みたいだけど、被害者の話を聞くとどうも違うよね。猿っぽいのは下半身だけか。パンツ履いていないからきっと剥き出しなんだろうな」

「あと、鎌っぽい武器を持っている点が違うわよね」

「鎌程度じゃどうでもいいよ。オカマだと困るけどね。うちはバイだけど、どっちつかずってのだと立ち居振る舞いに迷うからさ」

 

 一言喋るたびにどうしても下ネタみたいなものを入れてこないと気が済まない皐月にうんざりしながらも、ヴァネッサ・レベッカは事件の分析を続ける。

 ソバ屋の一番奥を陣取っているので、他の客には話が聞き取れないからか、資料もテーブルの上に派手に広げた。

 店側もアメリカ人の美少女である彼女をやや遠巻きに眺めていた。

 話しかけづらいのだろう。

 日本人のこういうシャイな面は、良い時もあるし悪い時もある。

 今回は放っておいてもらえるのならば願ったりだが、普段はもう少し積極的になって欲しいというのが彼女の希望だ。

 もっとも、彼女だけならばともかく隣に紫色のメッシュの入った黒髪に、金属のトゲやらスタッドのついた黒い革ジャンをアレンジした改造巫女装束のキツイ美少女がいたりしたら、まともな人間ならこちらから呼ばない限り絶対に近寄っては来ないか。

 ヴァネッサ・レベッカが逆の立場だったとしてもきっと避けて通ったであろう。

 日本人が内気だということを抜きにしても。

 

「他のお客さんもこないし、もう少しくっついてもいいかな。寒くてさ、ネシーに温めて欲しいなあ。ほら、ぎゅっとぎゅーと」

 

 ……ここまで図々しくなってほしくはないが。

 イタリアの男でさえもう少し慎ましやかだと思わざるを得ない。

 

「皐月。わたしが一生懸命分析をしているのは、()()()のお役目なのよ。人の心を読むなんていうモンスターと戦わなければならないんだから、どんなに用心しても足りないんだからね」

 

 だが、ヴァネッサ・レベッカの忠告も皐月には馬耳東風のようだった。

 いくらなんでも弛み過ぎだとも思うが、それにしてもあまり警戒をしていないようだ。

 珍しいわね、と不思議になった。

 

「ねえ。いつもの皐月らしくないわね。あなたは本当に怠け者で、セクハラ好きで、いい加減で、お調子者だけど、戦いに関しては結構シビアなはずよね。どうして、そんなに弛んでいるの?」

 

 すると、〈社務所〉の異端の退魔巫女は、

 

「だって、〈サトリ〉って普通の人には強敵かもしれないけど、うちの刹彌流柔(さつみりゅうやわら)にとってはそんなに危険じゃないもんねー」

「どうして? 考えていることを読まれるって、いくら強い人でも対処に苦労するんじゃないの?」

「それは普通の戦いが先の先を奪い合おうとするものだからなんだよね。どっちが先に仕掛けて、先手必勝、それがノーマルじゃん。〈サトリ〉と戦う場合は心を読まれるからどうしてもそのさらに先を行かれることになる」

「確かにそうね」

「でも、うちの刹彌流は、相手の発する殺気を視て、掴んで、投げる。敵の殺意が前提なんだよ」

 

 その原理のよくわからない武術には何度も助けられた。

 理屈はともかく使い方は理解しているつもりだった。

 そして、ヴァネッサ・レベッカは頭の回転の速い少女である。

 だから、皐月の言いたいことが瞬時に呑み込めた。

 

「……〈サトリ〉が敵の思考を読んで後の先をとるような戦いをしたとしても、妖怪自身がだす殺気を視てしまう刹彌流の方が結局は先に動けるということ?」

「ピンポン大正解!!」

 

 ……どこからともなくタイミングも知らせずに撃ってくる弓矢を手で掴んでしまうという、人間業とは思えない芸当をする刹彌流の使い手を相手にすることは疲れる。

 ヴァネッサ・レベッカは素直に感想を抱いた。

 心を読まれても殺気さえ視えれば先に投げ飛ばせるって……

 

(冗談でしょ?)

 

 と言いたくなるが、皐月の余裕といい役目を言いつけた不知火こぶしの態度といい、おそらく間違ってはいないのだろう。

 FBIの報告によると、アメリカにも心を読む〈殺人現象(フェノメノン)〉がいたことはあるが、殺害排除するのにどれだけの警察官が犠牲になったか。

 それを相性の問題もあるが、皐月一人で片づけてしまうというのである。

 日本と〈社務所〉の恐ろしさを実感した彼女であった。

 

(だけど……やはりおかしいわね)

 

 ヴァネッサ・レベッカは書類を見て捜査官らしい勘が疑義を唱えるのを覚えていた。

 

(他の目撃者は〈サトリ〉に接触した後、脅かされてさっさと逃げ出せたというのに、この三人はどうしてこんなになるまで傷つけられたのだろう。しかも、山には不似合いなマフィアとギャングだし……)

 

 彼女はこの事件には何か裏がありそうだと推理していた。

 そして、それは図らずも正解するのである。

 

 

 



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二人静か

 

 

 妖怪〈サトリ〉は、奥多摩に点在する鍾乳洞にいた。

 年末の真冬ということもあり、普段の温度が15~17℃という鍾乳洞の中の方が氷点下に達する外部よりも温かい。

〈サトリ〉は妖怪であり、自然界に湧いて出る息吹のような存在であつたから、暑さや寒さに行動を左右されることはない。

 もともとが歳を経た動物が変化した妖怪でもなければ、外気などどうにでも無視できるものなのだ。

 それなのに、どうして〈サトリ〉が寒さを避けるために鍾乳洞にいるかというと……

 

『おめ、やっぱあ、そういうもんなんだなあ』

 

 本来、〈サトリ〉の言葉には感情はない。

 喜怒哀楽のうち、あえて似たものをあげるとしたら喜ぐらいしか心の揺れを持ってないのだ。

 だから、〈サトリ〉にとって特に嬉しいことでもない限り、能面のような顔にしわが寄ることはほとんどなかった。

 それなのに、今の〈サトリ〉は喜色満面の笑みに近いしわを浮かべていた。

 彼は喜んでいるのだ。

 目の前にいる女の存在を。

 

『……おめ、里っ子にしちゃあ思っちょること変わらんからいいわあ』

 

 さっきまで無目的に歩き回るだけで止まろうともしなかった女も、今は暗闇の中、〈サトリ〉の前で静かに座っている。

 座っているとしては不自然な背筋の丸め方であったが、〈サトリ〉はそんなことを気にしない。

 

『里っ子はわからんことばっか思っちょるけえ、わいは苦手じゃあ。こないだの男衆もそりゃあわからんことばっか頭にあったなあ』

 

〈サトリ〉はこの前のことを思い出した。

 深山幽谷の奥底で動物や草木を友として存在している〈サトリ〉にとっては、人間というものは面倒くさいものでしかなかった。

 思考を読むこと自体は愉しいが、常日頃から一緒にいたくはない生き物であった。

 まだ鳥や兎、石や植物の方が落ち着ける。

 ただ、人の心を読み取り、場合によっては餌食として食らってきた妖魅としてはたまに人里まで近づいてみたくなる衝動に駆られてしまう。

 幸い、今年の冬は奥多摩の彼の住処にも雪が降らないので、これ幸いと人里まで降りてきたのだ。

 もし、美味そうな人間がいたら攫って食べるもよし、人間の益体もない思考を読み取って楽しむもよし。

 彼のような妖怪にとっての天敵が現われたらすべてを捨てて逃げられればそれで問題はなかった。

 冬ということでほとんど里人には出会わなかったが、何人かには遭遇した。

 腹もすいていないこともあり、〈サトリ〉は心を読んで脅かしてやるだけで満足してしまっていた。

 女に出会うまでは。

 なんとこの女は里っ子でありながら、考えることがほとんど石や植物と変わらないのである。

 そのくせ、時折、人間らしい心がぼんやりと浮き上がり、〈サトリ〉にとってはそれを読み取るのが遊びのようでとても楽しかった。

 面白い里っ子を見つけた、と〈サトリ〉は考えた。

 だから、この女を連れていこうとした三人の男衆を叩きのめした。

『ぺすとる』なる武器を持っていることを除けば、百年前の武士とは比べ物にならない程度の貧弱なものたちだった。

〈サトリ〉が思わず手加減できずに骨まで叩き折ってしまうほどに貧弱でつまらない相手。

 彼の住処の傍にある峠に住む化け物めいた集落のものたちと比べたら、ミミズを引きちぎるよりも容易かった。

 三十年ほど前に拾った鎌で斬りつけると鳥のように甲高い声で鳴いた。

〈サトリ〉は里っ子の脅したときの恐怖や動揺のさまを見るのは好きだが、死ぬ寸前の断末魔にはいつも同じなので興味がなかった。

 だから、殺しもしないで放置したまま、女だけを担いで奥へと帰った。

 自分の本来の住処では、この女が凍え死んでしまうかもと思い、誰も近寄れない渓流の傍にぽっこりと口を開けた鍾乳洞に連れてくる。

 女は一言も口をきかない。

 里っ子らしい思考も、たまに浮き出る程度で〈サトリ〉でなければ石ころと大して変わらないと思ってしまうぐらいである。

 だが、それでも〈サトリ〉は嬉しかった。

 四六時中けたたましくものを考えている里っ子より、このぐらいの方が一緒にいて落ち着ける。

 変化のない暮らしに飽きていた彼にとっては久しぶりに楽しい日々になりそうであった……

 

 

         ◇◆◇

 

 

 奥多摩駅まで辿り着くと、今度は日原鍾乳洞に向かう道に右折する。

 まだ雪が降っていないからか、通行止めにはなっていないが、この時期は鍾乳洞の営業が休止しているため、対向車はいない。

 工事の車両などもいないせいもあり、カーブを曲がるときにクラクションを鳴らしても無意味な状況が続く。

 奥多摩の道は大きく曲がるカーブが多いが、平坦なものが多いため、運転そのものに苦労は少ない。

 日本の狭い道に慣れつつあるヴァネッサ・レベッカのプリウスαは、パワーモードのまま楽々進んでいった。

 

「あれ、青梅と奥多摩の境って話じゃなかったっけ。あ、わかった。ネシーってば、うちと二人っきりでしっぽりと濡れようとあえてこういうルートを……」

「少し黙って」

「あいあい」

 

 相棒の減らず口を黙らせるために、ヴァネッサ・レベッカはカーステレオの音量を上げた。

 セットしたUSBから軽快な音楽が流れる。

 アニメソングだった。

 しかも、既存の歌手ではなく出演の声優が主題歌を歌うような深夜に流れるタイプのものである。

 日本に来てからというもの、彼女が学業の傍らアニメばかりを観ているのは、スターリング家の女としてまともな学生生活を送れなかったことへの代償行為の一つであった。

 特にお気に入りなアニメが、ほとんど学園ものだということからも見て取れる。

 そして、ここ数ヶ月の生活は彼女にとってかけがえのないものになろうとしているのだ。

 FBI捜査官としてやらなくてもいい、皐月のお役目の手伝いを買って出るのもある意味ではその埋め合わせである。

 

「なんすか、これ?」

「京都アニメーションの新作なのよ。知らないのかしら?」

「うち、アニメには興味ないんだよ。あるのは女体の神秘と男性の秘密だけ」

「ほんと、よく巫女をやっていられるわよね。神様にお仕えする神職なんでしょう」

 

 皐月は開いた窓の枠に肘をついて、外を眺めてながら、

 

「行き場所がなくて〈社務所〉に拾われた感じだからね、うちは。親父は五年ぐらい前から世界放浪中だし、実家の道場は兄貴分の一番弟子が継いでいるし、ほんと行き場がないからねー」

「……年末年始に帰ったりはしないの?」

「しないねー。ずっとネシーと一緒に乳繰り合っている方がいいぐらいだ。懸念していたクリスマスも無事に終わったし」

「そうね」

 

 殺人鬼に狙われるフェロモンと運命を垂れ流しているというスターリング家の女にとって、クリスマス前後というのは高確率で危険がやってくる日なのである。

 最も危険なのはハロウィーンやイースターだが、クリスマスに暴れ回る怪物も少なくはないからだ。

 だが、ここしばらくヴァネッサ・レベッカが警戒していた〈殺人サンタ〉というカナダ産の殺人鬼についてはなんとこの日本で始末がついたという話であり、人知れず安堵したのは事実である。

 あとはこの一年ほど、全世界で確認されている〈キラー・クラウン〉という大量殺人鬼なのだが、こちらは何故だか都会には現われないのであまり警戒はしていない。

 

「―――せっかくの忘年会イブだというのに」

「なにそれ?」

「年末恒例のマラソン宴会だと、23日がクリスマスイブイブで、24日がクリスマスイブで、25日がクリスマスで、26日がアフタークリスマス。27日が忘年会イブで、28日が忘年会本番、29日がアフター忘年会。30日が大晦日イブで、31日が大晦日。一日が新年会といかないとならないんだ。それをすべて乗り切ってこそ、新年を大切に迎えられるんだよ。わかるかい!?」

「……凄いわね。さすがジャパン」

「ああ、これが日本の文化さ!!」

 

 あまりにも長い宴会時間にヴァネッサ・レベッカが絶句しているのを横目で見ながら、

 

(まあ、嘘なんだけどね)

 

 内心で舌を出す刹彌皐月である。

 

「……兄弟子はうちに帰ってくるように言っているけど、まああんな殺人鬼もどきと一緒にいるのは気が休まらないからいいか。やっぱり」

 

 しばらくすると、日原鍾乳洞へ続く道とは反対側に行き、観光客も近寄らなそうな支道に辿り着いた。

 プリウスαを路肩に止めると、二人はトランクから登山用のリュックを取り出す。

 ヴァネッサ・レベッカ用の装備だ。

 彼女はさらに懐に法務省から許可の下りている拳銃を忍ばせている。

 いざというとき、日米安保条約に基づく超法規的処置として発砲が許されているのであった。

 

「ネシーは簡易結界用のワイヤーを一応頼むね。〈サトリ〉だったら、うちだけでも楽勝なんだけどさ」

「油断をしてはダメよ。人の心を読んでから反撃できるということは、〈サトリ〉という妖怪は人間離れした反射神経と思考回路を持っているということでしょう。いくらあなたでも油断したら負けるわ」

「―――ま、それもそっか」

 

 皐月の格好は改造巫女装束のまま変わらない。

 全身に〈気〉を巡らせることができる退魔巫女にとって、この程度の体温調節は容易な業だからだ。

 ただし、いざという時に備えて指先が凍りつかないように手袋だけはしっかりと嵌める。

 これで準備はできた。

 

「さて、〈サトリ〉退治にしゅっぱーつ!! でっぱーつ!!」

 

 退魔巫女とFBI捜査官は意気揚々と奥多摩の山中に踏み入っていった……

 

 



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〈サトリ〉といずみ

 

 

〈サトリ〉は、まともな人間ならじっとしてはいられない寒さの鍾乳洞の中で、震えることもなく体育座りをしている女を見た。

 人の心を読む妖怪して、〈サトリ〉の眼は人間の感情を色として視ることができ、考えていることを聞き取ることができる。

 共感覚と呼ばれる特殊な知覚現象は、音を矢印として捉えたり、色を数字で視てしまうなど体験させることがあるが、〈サトリ〉の力はそれをさらに神がかり的に強くしたものといえた。

 人間の放つすべての情報要素を、テレパシーのように受信できるのである。

 そのため、〈サトリ〉の前に立ってしまった人間たちは、心を完全に読み取られてしまう。

 人間だけでなく、動物や鳥類、植物や石のような鉱石にまでその力が及ぶ点が妖怪としての〈サトリ〉の恐ろしさといえた。

 そんな彼でさえ、女の心はほとんど読み取れない。

 むしろ、だからこそ〈サトリ〉は楽しんでいたともいえるのであった。

 

『……おめ、名前なんてんだ』

 

〈サトリ〉の言うことを女は聞き取っている。

 だが、言葉の意味が女の内部に浸透するのには短くない時間が必要であった。

 ただし、〈サトリ〉はその時間をじっと待ち続けることができた。

 何百年も孤独に生きてきた妖怪には一時間や二時間の沈黙など苦痛ですらないのだから。

 

(いずみ……)

 

 女の心にようやく一つの名前が浮かび上がった。

〈サトリ〉の誰何に応えるものであるため、()()()というのが女の名前であることは間違いないだろう。

 いずみ。

 妖怪には読み書きはできないので字はわからないが、〈サトリ〉は女のことをこれからは「いずみ」と呼ぶことにした。

 

『おめはいずみいうんか。泉のことか? わいも水の考えとるこたあわからんから、泉っつうんならおめに似合いの名だな』

 

〈サトリ〉はいずみの名前が気に入った。

 石や植物のように考えていることが不変というわけでなく、動物のように三大欲求ばかりでなく、辛抱強く耳を傾けさえすれば聞こえてくる女に美しい湖の景色を見たからだ。

 相手の姿も見えないぐらいに暗い鍾乳洞で向き合いながら、〈サトリ〉はいずみに問いかけ続けた。

 

『いずみは、花あ好きか。わいは好きだ。草の中でも花が咲くときだきゃあ、明るい気持ちになっているのがわかるかんだ。花が咲くときの、ぽっとした温かさが、わいは好きだ。おめはどうだ』

 

 その問いにいずみの心が答えたのは一時間後だった。

 いずみの心の最深部に小さく浮かんだ、

 

(白詰草)

 

 白い花のイメージもついてきた。

 その花の名前を〈サトリ〉は知らなかったが、見たことはあった。

 白詰草はもともとオランダ人から献上されたものであり、野生化したのは明治以降の花なので妖怪である〈サトリ〉の名前まではしらなかったのだ。

 ただ、綺麗な花だという認識はあった。

 いずみが好きだと思うのも頷ける。

 花期は春から秋にかけてなので、今の季節はどこにも咲いていない。

 

『そういやあ確か……』

 

〈サトリ〉はぽつりと呟いた。

 独り言が多いのは彼の癖だ。

 他の妖怪との接触もなく(妖怪の考えていることすら読み取れるので、他にも敬遠されてしまうのだ)、独りで暮らしてきた〈サトリ〉は思ったことをつい口に出してしまうのである。

 自分からサトられるように振舞ってしまっているともいえた。

 

『あとで、ちぃと行ってるくあ。―――なあ、おめ、お天道様あ好きか。わいは好きだあ』

 

〈サトリ〉はまたいずみに話しかける。

 話し合いでができたことが嬉しくて仕方ないからだった。

 彼の人生でも滅諦になかった楽しい時間はまだ終わらない……

 

 

          ◇◆◇

 

 

 皐月たちが山中に入ってしばらくすると、上空からカアと一鳴きして八咫烏が降りてきて、巫女の手の上に捕まってきた。

 その姿はまるで日本古来の鷹匠のようである。

 

『巫女ヨ 久シブリダナ』

「そうだねえ。あんたとは久しぶりかな」

 

 ヴァネッサ・レベッカもさすがに喋るカラスというものには驚く。

 万物に神が宿るという八百万の神を疑いもなく受け入れる日本人と違って、キリスト教圏内の欧米人には馴染みにくいことであるからだ。

 とはいえ、そのことをいちいち口にする必然性はない。

 

「〈サトリ〉を見つけたのかい。うちはあんまり長く山の中にいたくないんだよ」

『妖怪ハミツケラレナカッタ。ダガ、別ノモノヲ見ツケタ。巫女ニハソレヲ告ゲニキタ』

「何さ。まさか裸の美女の群れとか!」

『ソンナモノデハナイ』

 

 皐月の減らず口をさっさと切り捨て、八咫烏は言った。

 

『ココノ反対側―――武州カラ、大勢ノ人間ガヤッテキテイル』

「ぶしゅう?」

「ネシー、だいたい埼玉県側のことだと思ってくれればいいよ。……警察の山狩りかい? ほら、怪我人が出ているからさ」

『違ウダロウ。元々、反対側ニアル寂レタ集落ニイタ連中ノヨウダ』

「集落? そんなのあったっけ?」

 

 ここに来る前に確認した地図にはなかったはずだ。

 皐月とてとりあえずその程度の確認は怠っていない。

 

『何十年モ昔ニ捨テラレタ集落ダロウ。オソラク今ハ誰モ住ンデイナイハズダ』

「……なんでそんなところに人が大勢いるのさ?」

『司直ノ眼ガ届カヌ場所デ善カラヌコトヲシテイタ輩ドモデアロウナ』

「わかるの?」

『ドウミテモ堅気デハナイ。アレハ筋者カ極道モノノ類イダ』

 

 警察の目の届かぬ場所にヤクザやチンピラが溜まっていればだいたいは善からぬことを企んでいるに違いない。

 確かに八咫烏のいうことはもっともであった。

 皐月も納得するしかない。

 しかし、ヤクザがどうして大挙して押し寄せてきているのだろう。

 まさかピクニックという訳でもあるまいに……

 

「サツキ。素性のしれないものというと、病院に担ぎこまれた三人の仲間かもしれませんわよ」

「……ああ、あのヤクザと半グレのチンピラかあ。仲間の仇でもとりにきたのかな?」

「ジャパニーズ・ヤクザって仲間の報復のために妖怪と戦うのかしら?」

「まさか。あいつらは根っからのクズだよ。そんな殊勝なことはしないさ」

『確カニ巫女ノ言ウ通リダ。トテモ〈サトリ〉ヲ退治ニキタトハ思エヌ。武装サエシテハイナイヨウダシナ』

「……武器はない? じゃあ、なんのために押し寄せてきているのかねえ……?」

 

 さすがに皐月にも想像がつかない。

 ただ一つ言えることは、武装してはいないとはいえ大勢のヤクザが反対側からやってきているということだ。

 そのことが皐月たちの〈サトリ〉退治に悪影響を与えなければいいが……

 

「うーんと。じゃあ、八咫烏はそいつらはいいから、〈サトリ〉を上から見つけてくれないかなあ。もし遭遇したら、うちとネシーが片づけておくから。年末の忙しい時期にヤクザと遊んでなんていられないからさ」

 

 多数のヤクザを相手にしたとしても「遊んでやる」と言い切れるのが、さすがは〈社務所〉の退魔巫女である。

 鍛え方の度合いが違いすぎる。

 ヴァネッサ・レベッカでさえ舌を巻いてしまう。

 

『ワカッタ。吉報ヲ待テ』

 

 そういうと、八咫烏は再び天に向けて飛び立った。

 頼りになる鳥類を地上から見送ると二人は歩き出す。

 妖怪〈サトリ〉退治には何かしら波乱がありそうな面倒な予感を抱えながら。

 

 

 



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冬の花吹雪

 

 

〈サトリ〉がいずみを連れてきたのは、天国であった。

 いや、天国というのが相応しい、様々な種類が咲き誇るお花畑であった。

 十二月ももうすぐ終わり、新年を迎えようとする時期に、奥多摩の山中とは思えないほどに美しい花たちが咲き乱れ、芳しい香りを放ち続ける。

 周囲の葉の散った枯れ木たちが羨ましがるように乱舞する花の群れは、とてもこの世のものとは思えない。

 しかも園芸の知識のあるものならばすぐに看破したであろうが、この一画にある花畑で咲いているのは春、夏、秋、冬、花期がいずれも異なるものばかりなのである。

 人工的なビニールハウスで育てているものならばさておき、自然界においてこのような生育の仕方はありえない。

 どのような奇跡が起きれば、こんな美しい混沌の光景が生まれるのであろうか。

 

『―――このあたりはな、竜神の背びれが飛び出している場所だで、いつ来ても花が咲いとるんだあ』

 

 竜神とは龍脈―――地球の生命エネルギーともいえるレイラインのことである。

 妖怪である〈サトリ〉は、そもそも自然の力の動きについて詳しく、人間では理解できない龍脈の存在さえもはっきりと認識していた。

 この花畑はその龍脈の力がわずかだけ漏れ出ている場所であり、地球そのものの力がすべての季節の花を咲かせるという奇跡を演じているのだ。

 そうでなければこのような奇跡は起きるはずがない。

〈サトリ〉はいずみの手を引いて、花畑の隅に案内した。

 足の踏み場もないほど咲き乱れている花を一株も踏むことなく〈サトリ〉は歩く。

 この妖怪には花の声さえ聞こえているのだ。

 だから、無造作に歩いているようで絶対に踏むことはない。

 いずみはそんなことはできるはずもないので、花を何本も踏みつぶしてしまうが、〈サトリ〉は仕方のないことだと割り切った。

 里の人間に、彼と同じことはできるはずがないのだから。

 

『これだあ』

 

 そっと跪くと、〈サトリ〉は一輪の花を指さした。

 白いふっくらとした花が咲いていた。

 白詰草(シロツメクサ)

 クローバーの名で親しまれているシャジクソウ属の多年草である。

〈サトリ〉が指さした辺りは、その白詰草で溢れていた。

 根元には三小葉からなる複葉が生え、時折四小葉のものが見つかると「四つ葉のクローバー」として幸運の御守りとして珍重される。

 日本には1800年代にオランダからもたらされ、明治に入ると野生化して様々な場所に広がっていくことになる。

 外来種であるがゆえに、本来ならば奥多摩のこの寒い地域に根付くものではないのだが、この辺り一帯だけは例外なのか、他の植物と同様にすくすくと育っているようであった。

 

『おめ、が好きなのはこいつかあ』

 

〈サトリ〉の問いに対して、いずみは、

 

(うん、大好き)

 

 と、しばらくしてから心で答えた。

〈サトリ〉は嬉しくなって眼を細める。

 彼はこういうくすぐったくなるようなやりとりを欲していたのかもしれない。

 人間という、何をするかわからない生き物と暮らすことはできないが、さりとて孤独のまま生きるのは耐え難いこともある。

 妖怪でありながら、人の心が読めるがゆえに、人に近い妖魅である〈サトリ〉にとっていずみは夢のような生き物であった。

〈サトリ〉が懸命に心の奥底まで探ったとしても、ほとんど何も読み取れない。

 だけれど話しかければ応えてくれる。

 嬉しかった。

 同族もあまりおらず、たった一体で生きてきた彼にとって、いずみは初めて出会った希望のような生き物であった。

 

『……おめ、ずっとわいと暮らすか?』

 

〈サトリ〉は思わず願望を口にしてしまった。

 しかし、いずみは答えなかった。

 初めて会ったときと同様、心にはどんな言葉も浮かび上がってこない。

〈サトリ〉は後悔という言葉を知らない。

 だが、この時、彼は自我を持って以来、初めて後悔という言葉に近い感情を覚えた。

 それは―――「哀」という感情であった……

 

 

                 ◇◆◇

 

 

 ヤクザたちの山狩りの指揮を執っていたのは、一人の背の高い坊主であった。

 黒い法衣を着込み、さらにその上にインバネスのようなマントをまとっている。

 しかし、その右肩の部分が不自然なほどに盛り上がっていて、まるで頭が二つあるように見えることから、この坊主は「聯頭」と呼ばれていた。

 聯とは連なることであり、二つで一つのものを表すときに使われる語であり、右肩の異常な盛り上がりと本物の頭が、まるで奇形のようだと揶揄してつけられた異名であった。

 聯頭自身は意外と気に入っている名前ではあったのだが。

 

「……まだ、見つからんのか、若頭ぁ」

「ワリいな、奥多摩(こんなやまおく)で一人を探すなんてすぐに終わるこっちゃねえ」

「見つからんとなって痛い目を見るのは拙僧ではなくて、ぬしらだということを忘れるなよ」

「わかってるよ。ったく、本当にこっちなのか?」

「うむ。麝香(じゃこう)の匂いがこちらから漂ってきておる。あの娘、すでに呼吸はせぬから吐息は漏らさぬが、服に縫い付けた匂袋は役に立っておるとみえる。どれ、ここからは拙僧が案内役兼猟犬役を勤めるとしよう。いやいや、それよりはトリュフを探す豚の役かも知れぬがな。ガッハハハハ」

 

 聯頭はくんくんと鼻を鳴らすと、手にした錫杖を鳴らしつつ、歩き出した。

 そのあとを二十人のヤクザが慌てて追う。

 すでに朝からの捜索で疲れ切っているとはいえ、ここで休んで手を抜けばどうなるかぐらいはわかっている。

 ヤクザの頭は親分や兄貴分からの暴力にだけは強く反応できるように躾けられているからだ。

 

「てめえら、聯頭殿に引き離されるなよ。なんとしてでもあの女を戻さなきゃあ、うちの組がやべえんだからな!!」

「へい、合点だ!!」

 

 威勢のいい掛け声とともに子分どもがついていくのを、一番後方で見つめながら、全体の指揮を執らされている年配の若頭は歩き出した。

 

「ったく、どうして俺がこんなわけのわからんシノギのケツ持ちをしなきゃならんのだ。半グレどもの尻拭いなんぞさせんじゃねえよ……」

 

 思わず本音がでる。

 上からの命令に無条件に従えるほど辛抱強い性格であれば、ヤクザのようなゴミになどなりはしない。

 若頭は不服しか頭になかった。

 しかも、名目上は指揮者だが、あの胡散臭い坊主のいうことを黙って聞かねばならぬ身だ。

 腹立ちもしようというものである。

 

「もともとはあいつらが、手あたり次第女をヤク漬けにしたせいじゃねえか……。くそ、忌々しいぜ」

 

 あまりにも腹が立っていたので、激情のままに通りすがりの木を蹴飛ばそうとしたとき、

 

「思ったよりはいい殺意じゃん」

 

 と、横から声がした。

 だが、その声の主に気づく前に足が誰にも触られていないのに、ぐいっと引きずられるように勝手に動いた。

 

「なっ!?」

 

 若頭はそのまま仰向けのまま大地に倒れてしまう。

 枯れ葉が敷かれているとはいえ尻をしたたかに叩き付けてしまい、尾てい骨あたりの筋肉が悲鳴を上げる。

 すぐには起き上がれなかったが、彼の目の前にロック歌手のような派手な格好をした巫女が屈みこんできて見下ろしてきた。

 

「あんた、武術とかやってた系のヤー公みたいだね」

「なんだてめえは!!」

「うちは広瀬アリスっていうんだ、よろしくね。ちなみに妹はすずで、お母さんは広瀬香美」

「バカ野郎、ロマンスの神様にそんなでっけえ娘がいるか!!」

「―――律儀に突っ込まれちゃったよ。参ったなあ」

 

 得体のしれない巫女に対して手を伸ばしたが、その手は宙を掴んだ。

 ロック巫女が何もない空間を車のハンドルを切るように回した途端、凄まじい激痛とともに腕が捻じ曲がる。

 

「ぎゃああああああああ!!」

 

 中年男の叫びが渓流に響き渡る。

 だが、あまりに深山のため、先に行った子分どもには届かなかった。

 

「なかなかいい殺気を出すもんだから、技が出しやすいったらありゃしないよ。オジサン、刹彌流のいいお得意様になれるよ」

 

 刹彌皐月はヤクザ者を相手にしてもまったく普段と変わらない陽気で呑気な笑顔を浮かべた。

 他人の殺気を視て、掴んで、投げるという古武術・刹彌流柔の使い手である傾いた少女は、木に当たり散らそうとした若頭の殺意を利用して投げ飛ばしたのである。

 

「雑魚なんかいくら捕まえても仕方ないから、オジサンに聞こうか。さて、いったい、何があってあんたらは山狩りみたいなことをしているのかな? 〈サトリ〉を狩ろうって訳じゃないよね? で、どうしてなのかなあ」

 

〈社務所〉の媛巫女の中でもヤクザの人権など欠片も認めていないのは、もともとサイコパス気味の熊埜御堂てんと、そしてこの刹彌皐月の二人だともっぱらの評判なのである……

 

 

 

 

 

 



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山狩り

 

 

 朝になり陽が昇りきったのを確認してから、〈サトリ〉はいずみを連れて、鍾乳洞から出た。

 人には道とは言えない獣道を、枯れ枝をかき分けながら進む。

 以前、いずみを乱暴に連れていこうとした男たちがつけた首輪とロープが木の枝に引っかかり、彼女は苦鳴をあげた。

 

『……そんただ邪魔なものはいらんよな』

 

〈サトリ〉は愛用の鎌をだして、首輪の合成繊維をそっと切った。

 錆びついて歯零れだらけの古い鎌が、最新の合成繊維を抵抗もなく断ってしまう。

 これは鎌の鋭さではなく、〈サトリ〉の技術であった。

 力を最大限に発揮すれば万物の声を聞くことすらできるかもしれない〈サトリ〉という妖怪にとっては、物質の呼吸を聞き取ることは容易い。

 その呼吸に合わせて刃を立てる。

 ただそれだけのことだった。

 

『どだ? 邪魔なものはとってやったど』

 

 すると、今までは〈サトリ〉の問いかけに対して応えるのに一時間はかかっていたいずみの心に、初めてすぐに何かが浮かんできた。

 

(……ありがとう)

 

〈サトリ〉は眼を丸くした。

 まさか、普通の人間に戻ったのかと。

 そんなことがありえるはずもないからこその〈サトリ〉の驚きであったが、同時にいずみに礼を言われたことが純粋に嬉しくもあった。

 彼の感覚ではとりたてて善行を施したという訳ではない。

 いずみにとってだけでなく、自分にとってもうっとおしかったから排除しただけのことだ。

 それなのに礼を言われてしまった。

 無機質な妖怪の心に照れのような色が灯った。

 

『行くべ。こっちだ』

 

〈サトリ〉は自身を襲った変化を悟られぬように、顔を背けていずみを促がした。

 目的地はそれほど遠くない。

 そこにつくまでに、この顔面に貼りついた赤い強張りが外れていてくれればいいが。

 初めてとも思える動揺への対処に、〈サトリ〉は苦労することになる……

 

 

              ◇◆◇

 

 

「サツキ、あれじゃないかしら」

 

 ヴァネッサ・レベッカが木陰から指さした先に、渓流まで降りて何やら探しているらしい男たちがいた。

 通常の道を外れて、長い竿のような棒を動かしながら何かを探している。

 警察による山狩りを思わす行動だが、大々的なそれと違い、人数はあまり足りていない。

 皐月が見たところ、二十人といったところだった。

 

「……何か、探しているみたいだねえ」

「さっきの八咫烏が言っていた連中よね」

「だろうね。確かに武装はしてないみたいだし、探し物をしている感じなのはわかる。ただねえ、もう少し格好をねえ」

 

 明らかにヤクザといえる派手な背広のものたちと土方のような格好の者たちが、寒さをしのぐために色々と着込んでいて統一感はない。

 藪を竿で突いたりして何かを探しているのは明白なのであるが、それはどうもやらされている感があり動作もキビキビとしたものではなかった。

 何人かはかったるそうに竿に顎を乗せながらサボったりしている。

 それを見て怒鳴っている男がリーダーであろうか。

 

「てめえ、サボってんじゃねえよ! 夜までに見つけねえと、明日もここに残ることになるんだぞ! しっかりしろや!」

「うっるせえいぞ!! てめえらが逃がしたから悪いじゃねえか!! 俺らに押し付けんじゃねえ!!」

「くそが、殺すぞ!!」

 

 と一触即発の状態になっている。

 上の方から見下ろす形の皐月たちには気づく様子もない。

 

「暴力的だなあ。世界はこんなにラブとピースに溢れているのに」

「……お尻に触らないで、セクハラ女」

「当ててんのよ」

「死んでなさい―――」

 

 どさくさに紛れて尻を撫でてきた皐月の頭を小突き、ヴァネッサ・レベッカは双眼鏡を出して男たちを観察する。

 確かに慣れていない動きではあるが、山狩りの最中であるらしいことはわかる。 

 だが、男たちが竿で突いたり覗きこんだりしているのは、かなり大きめの茂みに限られていて、地面には何もしていない。

 ヴァネッサ・レベッカの記憶ではあのやり方は、物ではなく人を狩り立てるためのものだ。

 そして、男たちの会話から導き出される答えは一つである。

 

「人間を探している。いや、狩り立てているようね。仲間を痛めつけた妖怪を人間だと誤解しているのかしら」

「さっきもいったけど、ヤー公なんて所詮クズの集まりだからそんなことはしない。有り得るとしたら、さっき八咫烏がいっていた集落に誰かを監禁していてそれに逃げられたってことじゃないかな。AV展開だよ、AV」

「サツキの言い分も一理あるかもね」

 

 事情のわからない女性を監禁して、無理矢理にポルノ産業の餌食にしようとしていたという解釈はありえる。

 だが、他にも財産目当てで資産家を誘拐していたりとか、そういうアングラな非合法活動の結果というのも捨て難い。

 それならば三人も病院送りになったというのに、警察に泣きついたりしないのもわかるし、警察側が捜査を渋っているのもわかる。

 もっとも後者は妖怪絡みだと予めわかっていたからに過ぎないのだが……

 

「ちょっと待ってて。一匹捕まえてくる」

 

 ヴァネッサ・レベッカの返事も聞かずに皐月が飛び出していき、五分ほどで一人のチンピラを担いで戻ってきた。

 小柄な男ではあったが、十代の女の子である皐月が軽々と背負って山道を登ってくる姿は異様なものがある。

 当の皐月自身は自分の異様さなど毛ほども感じていないので、拉致して来たチンピラを無造作に投げ捨ててから、タオルで手首を固めて縛り、樹にロープで縛りつけた。

 

「な、何をしやがる!!」

 

 気絶していたところをビンタで叩き起こされると、チンピラは意味が分からず叫び出したが、皐月に顔を踏まれると途端に黙った。

 ロッカーらしいロンドンブーツで踏まれると痛みが凄まじいものになるからだ。

 

「静かにしてくんない。あと、仲間に助けを求めたりしたら、チ○コ潰す」

「て、てめえ……」

「うちの後輩に教わったんだけど、痛みもなく足首の関節って外せるんだよね」

 

 というと、皐月はチンピラの足首を掴み、軽く捻った。

 足首がありえない方向に曲がる。

 あまりにも異常なのにまったく痛くないということにチンピラの脳みそがついていけずに呆けた顔になった。

 何をされたかわからないのだ。

 骨を折られたのでもないのに、足首がおかしなことになっている。

 

「ああああああ……」

「いい。同じことはそれこそ、どこにでもできるんだよ。―――よしわかったら、うちの言うことをきちんと聞いてくれ」

「あああああああああああ……」

「もう煩いなあ」

 

 あまり気の長くない皐月は、今度は逆の足首も外して曲げた。

 それで勝負ありだ。

 チンピラも自分が置かれた環境をようやく理解する。

 目の前の小娘どもは悪魔に違いない、と。

 逆らうとどういうことになるのか想像もつかない。

 そもそも、仲間と一緒に山狩りもどきをしていたらいきなり目の前が暗くなり、気が付いたら樹に縛り付けられていたのである。

 どんな恐ろしいことが起きたかすら理解できなかった。

 

「あんたらは誰を探してんの?」

「誰って……よ……」

 

 意外と歯切れが悪い。

 つまり、はっきりと部外者にはいえない相手ということだ。

 若いが捜査官としてのキャリアも豊富なヴァネッサ・レベッカはチンピラに生じた躊躇いを犯罪に関わるものだと読み取った。

 彼女たちがロッカー風巫女と外国人であるということを差し引いても、一般人に協力を求められるような内容ではないということだ。

 ポケットに触れてみると、サイフが入っていた。

 五万円ほどと山ほどの整理されていないレシートが詰め込まれていて頭が悪そうだった。

 

「……八王子の人間みたい。免許証が八王子市になっているわ」

「地元じゃないのか」

「あと……財布の中に名刺がある。うわ、暴力団員の名詞ってるものなのに。暴対法にひっかからないのかしら」

「見つかったら不利になるようなものを作るのは、ヤクザがバカしかいないからだよ」

「それもそうね。あら」

「どったの」

「これを見て」

 

 皐月に差し出されたのは小さなビニール袋とその中に入った黒いゴミのようなものだった。

 

「乾燥大麻ね」

「うわー、さすがヤー公。頭が悪いわ」

「これだけで警察に突きだせるわよ」

「な、なにをしやがる! 返せ!」

 

 縛られているうえ、皐月による拷問があったからか反抗の勢いは減少している。

 

「これを財布ごと警察に引き渡されたくなければとりあえず、You、喋っちゃいなよ」

 

 ここまでやることでようやくチンピラは観念して口を開き始めた……

 

 



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大切なものは踏みにじられて

 

 

(綺麗―――)

 

 いずみの心に浮かんだ純粋な称賛の声だけでもういい、と〈サトリ〉は思った。

 心を読める妖怪の自分にとって、ここまで落ち着ける人間は初めてだったから、一緒にいたいと願っただけだ。

 所詮、妖魅と人では共にいられない。

 まして、いずみは―――

 

「なんじゃあ、ここはあ!!」

 

 美しいまでの静寂をぶち壊す胴間声が轟いた。

 ゆっくりと〈サトリ〉が振り向くと、花畑の入り口ともいえる部分にわらわらと人間たちがやってきたところであった。

 品のない獣……猿のような顔をして、口から漏れる息でさえも臭そうな連中だった。

 暴力と恫喝を振りかざして、金に執着し、弱いものを虐げて遊ぶクズたち。

 ヤクザであった。

 どやどやと無遠慮に美しい花畑に侵入してくる。

 素朴に咲いた花たちをどうでもいいものとして踏みにじりながら。

 

「……おいおい、もう冬なのになんだよ、ここ」

「うわ、薄気味わりい」

「キモいわ」

 

 この男たちにとっては奇跡の花畑も理解できない不気味なものとしか映らない。

 だから、踏みにじるだけでなく、乱暴に蹴り飛ばし、可憐な花びらを無意味に散らせた。

 様々な色で満ちた空間が、ヤクザたちのいる部分だけは泥と土で真っ黒に染まる。

 

「おい、アレ」

「ひゅー、やっば、聯頭さんの言う通りかよ。キショい坊主だと思ってたけど、マジ受ける。ほんとに臭いがしてんのかよ」

「ラッキーだぜ。これで夜にゃあ組に戻れる」

「―――で、あいつ、誰よ?」

 

 ヤクザたちはこの花畑の片隅で白詰草を愛でていた〈サトリ〉といずみに気が付いた。

 彼らの目にはまずいずみが映り、ついで膝立ちをしていた妖怪を見る。

 座っているからか、上背のある〈サトリ〉には気が付かなかったのかもしれない。

 

「おい、野郎、マッパだぜ」

「信じられねえ。真冬だっつーのに」

「―――あいつじゃねえのか、タカなんかをやったってのは?」

 

 ヤクザたちは眼を合わせた。

 自分たちの仲間が病院送りにされ、仕方なく奥多摩まで出張ってきたことを思い出したのだ。

 その原因を作ったのが〈サトリ〉だと本能的に悟ったのだ。

 無意識のうちに手にしていた竿だけでなく、懐に入れておいたナイフやらドスやらを抜きだす。

 危険を感じたのである。

〈サトリ〉に対して。

 彼らからすると、女を気味の悪い花畑に連れ込んだ真っ裸の変態でしかないはずなのに、武器を取らねばと思ってしまったのだ。

 

「てめえが()()を連れ出しのかよ?」

 

 躊躇なく花畑を踏みにじりながら、ヤクザは〈サトリ〉たちに近づいた。

 警戒しながらも、所詮、二十対一ぐらいにしか考えていないのだ。

 だから、〈サトリ〉がどういう存在なのか想像さえしない。

 

「悪いけんど、()()はなうちの組のもんで、どいてもらえるかな」

「さっさとどけや、こら」

 

 近づいた段階で〈サトリ〉にはヤクザの心が読めた。

 前の三人組と一緒だ。

 いずみを連れていこうとするだけではなく、酷い扱いをしようとしている。

 ほんのわずか前だったら、〈サトリ〉はそこまで気にしなかったろう。

 妖怪としての自分を舐めた人間を叩きのめし、時には殺して食べてしまえばいいだけのことだった。

 だが、今の〈サトリ〉は違う。

 いずみを傍に置いておきたかった。

 どのみち、彼女は―――

 

『れんず……って坊主が邪魔なんだな』

 

 ぽつりと言った。

 訛りの強い〈サトリ〉の言葉だったが、ヤクザでも十分に聞き取ることはできる。

 

「!!」

 

 聯頭の存在はあまり知られていないはずだ。

 なぜ、目の前のこの気味の悪い全裸の男が知っているのか。

 それに、立ち上がったこいつの見事なまでに鍛え上げられた体格と能面のような顔はなんだ。

 本当に人間なのか。

 もっと、別の、得体のしれない何かではないのか。

 ヤクザたちは一歩下がった。

 踏みにじられた花々の痛みの声を〈サトリ〉は聴いた。

 

(いたい)

(いたい)

(いたい)

 

 かつてない荒ぶりを覚えた。

〈サトリ〉は彼の楽園を土足で穢すものどもを許す気はなかった。

 ただ、一言だけ花たちには謝る。

 

『こいつらの血と腸で汚しちまうけど勘弁なあ』

 

 錆びついた鎌を掴んだ。

 

『里っ子がこんただとこに来たのなら、死んだってしかたねえよなあ』

 

〈サトリ〉は山の掟を―――妖魅のルールに従って、愚かな人間に鉄槌を下し始めた……

 

 

           ◇◆◇

 

 

「いったいあんたらは何を探しているのさ。ヤクザ……えっと鬼道会だっけ? そう大した組織じゃないのにこんな大人数を繰り出してさ」

 

 自分の所属について知られているということに若頭は衝撃を受けたらしく呼吸を止めた。

 皐月やヴァネッサ・レベッカという少女二人が、どういう素性のものたちか理解できずに困惑しているということもあるだろう。

 

「どうして……俺が鬼道会だと……」

「そりゃあ、病院送りになった連中に二人もいればね。あと、一人は六本木の来栖連盟でしょ。色々と厄介な半グレだとは聞いているよ」

「いや、あれだ……そのだ……」

 

 言葉を濁し始めた若頭だった。

 

「どうするの、サツキ? 他の連中、奥に行ってしまうわ」

「強引に口を割らせるしかないみたいだ。二度と女を抱けない体にしてあげようかなあ」

 

 皐月としては真っ裸にしてマジックで落書きをして写真に撮るぐらいにしておこうという程度だったが、すでに足首をありえない角度で曲げられている若頭からすると恐ろしさのあまりに震えあがる話であった。

 ヤクザは暴力を商売にしているが、逆に自分が暴力を加えられることについての恐怖もよくわかっている。

 身内を売ることに決めたら、あとは一気呵成だ。

 堰を切ったようにペラペラと喋りだした。

 

「お、俺たちは女を探している」

「女? なんか予想通りだなあ。で、どんな女なの? うちの好み?」

「サツキ、真面目に聞きだしなさい。ふざけすぎて拷問にかけなくてはならないのはコストに見合わないわ」

「ちぇっ、はーい」

 

 ヴァネッサ・レベッカに説教をされて、なんとか真面目になる皐月であった。

 

「どんな女の人なのかなあ」

「―――それは……六本木で俺らの組がケツを持っているガキどもが、家出娘を売り飛ばすシノギをしてたんだけどよ……」

 

 皐月は眉を寄せて顔をしかめた。

 やはり()()()()()()()()()()()()の関係か、と。

 

「帰るとこもなくて、泊まるあてもねえ、終電を逃したような連中だ」

「―――神待ち少女って奴かな」

「ああ、そいつだ。奴らは電子掲示板を作って、それで良さげなのを物色していたんだ。それで、チョロそうなのを()()()()して店に下取りに出していた」

 

 下取り、ね……

 皐月はその中古品を扱うような単語に反吐が出そうになった。

 つまり、女を中古にするようなことをしてからの話ということだからだ。

 まったくクズのやることはいつの時代もたいして変わらない。

 刹彌流の直近の先祖もそれはそれはクズと極道と渡世人を嫌っていたものである。

 

「それで奥多摩の過疎でなくなった村の跡地で監禁(かこ)っていたという訳かな。逃げ出されちゃ困る訳だ」

「……ああ、そうだよ」

「でも、サツキ。それではあのブッデズムのプリーストが説明つきませんよ。どう考えてもギャングには思えませんでした」

 

 ヴァネッサ・レベッカが指摘したのは、聯頭(れんず)という坊主のことだった。

 確かに皐月もあれはおかしいと感じた。

 まともな坊主ではなく、おそらくは外道の類いだろうが、あんなものが多量のヤクザを顎でこき使っているは変だ。

 やはりまだ裏がある。

 

「あの坊主はなんだい? 特にうちと商売敵という訳じゃないけど、ヤクザとつるむにしてはちょっとおかしいよね。あいつのことも説明してよ」

「聯頭は……」

「早くしてくんない。うちもあまり気の長い方じゃなくて、思わず鼻の骨を外したくなるんだよう」

 

 鼻には軟骨しかない。

 

「わ、わかった! 話すよ! だから、乱暴すんなよ!!」

 

 反吐が出そうな命乞いをしながら、若頭は口を容易く割った……

 

 

 

 

 



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血の花

 

 

「……あの村は、もうヤバくなっちまった女を溜めとく場所だったんだよ」

 

 鬼道会という暴力団の若頭は観念したのか、ポツポツと喋りだして。

 ヴァネッサ・レベッカが懐から取り出したデリンジャー拳銃に脅されたこともあるが、何より皐月の得体の知れなさにビビってしまったのだ。

 刹彌流の使い手は殺気を視るだけでなく、自らも指向性を持って放射することが可能となる。

 縛り上げたときから、冗談口を叩きながらも皐月は若頭に向けて強弱をつけながら殺気を放ち続けていた。

 人間も生き物であり、例え殺気を感じ取れることができなくても無意識に緊張が続くことになる。

 つまり、皐月が無言でずっと殺気を当てまくれば、通常の神経では耐えられない恐怖に曝されることと同じストレスが加えられるのだ。

 若頭はそれに屈したともいえよう。

 ほんの数分間で三十代の若頭は、五十代の初老になったかのようにげっそりとした顔つきに変わってしまった。

 ヴァネッサ・レベッカは相棒の巫女が何をしたかは理解していたが止めることはしなかった。

 下手な拷問よりも効果的であり、しかも対象者も何かをされている認識がないという便利なやり方だからである。

 

「ヤバくなるって?」

「キメセクさせすぎたとか、具合いが悪くなりすぎとか、そういうんだ。そうなっちまうと、もう内蔵もイッちまってるから、腑分けもできねえ」

 

 憎々しく語る内容の黒さに若頭は異常さを感じていないようだった。

 それは皐月の腕のさえとヴァネッサ・レベッカの持ち出した銃のおかげだった。

 まさか二人が世の中にはびこる妖怪を倒す巫女とFBI捜査官とは露にも思っていないのだ。

 見た目などはともかく、ヤクザに等しい同類だと見做しているせいだった。

 ただの女子供にしては肝が据わりすぎていた。

 

「ふーん……」

 

 皐月は苛つきを無理に押し殺した。

 傍にいるだけで腐りそうな気色悪さだが、なんとか我慢をしたのだ。

 元々、皐月は行き場がなかったから〈社務所〉の退魔巫女になった女だから、ご大層な使命というものは持っていない。

 人を護るとか、正義のためなんて考えは微塵もないのである。

 だからこそ、一般の人間の素直な感覚というものをほとんど喪っていない。

 罪のない女を道具のように扱って恥じない者達に対して怒りを覚えるのは当然だ。

 彼女が目の前の恥知らずを叩きのめさないのは、縛られた結果身動きとれないのを考慮しているだけであった。

 日本よりも遙かに凶悪な犯罪の多いアメリカの出身であるヴァネッサ・レベッカは、相棒よりも胸糞の悪い事件への耐性が強く、自我をさらに抑制できる力を持っていたので、彼女が情報を引き出す役に替わる。

 皐月が目に見えて剣呑な雰囲気を醸し出し始めたからである。

 これ以上はマズいと判断したのだ。

 

「……それで、そこから逃げた人を追っているというわけなのですね。どういう人なのか詳しく教えてください」

 

 逃げ出した何者かを追っていた三人組が妖怪〈サトリ〉によって重傷を負わされた。

 ならば、その人物が〈サトリ〉について知っている可能性は高い。 

 時には人食いとなる凶悪な妖怪と接触したというのならば、早く救出しなければならないだろう。

 皐月とヴァネッサ・レベッカは一刻早く〈サトリ〉を見つけ出して退治する必要ができたようだった。

 だが、若頭は口を噤んだ。

 それ以上喋るのを拒否するかのように。

 

「黙ってちゃわからないよ。ちゃっちゃと口を割りなよ」

 

 軽い口調だったが、明らかに必要以上の力をこめて、若頭の足を踏みつけた。

 ヤクザなど人間とも認めていないのだ。

 刹彌流はそもそも宮家の護衛を任せられるものたちの末裔であり、恥知らずの下郎に優しくする謂れはない。

 

「いてえ、いてえ!! いうよ!! 言うからやめてくれよ!!」

「―――早くしろよ」

「俺たちが探してるのは女だ。もともと来栖連盟の連中が家出娘として拾ってきたやつだ。すげえ可愛いかったから、あっという間に連中にものにされちまったらしい。でも、しぶとく抵抗するもんだからクスリを打って飼ってたんだよ。そのうち、うちの組の幹部に上納されたりして、よろしくやってた」

「……で?」

「だけど、やっぱりクスリのやりすぎでよ……」

 

 

            ◇◆◇

 

 

〈サトリ〉は凄まじいまでの高い身体能力と反射神経、そして判断能力を有する妖怪であった。

 視界に入ったすべてのものたちの心を読み取り、次の動作を知ると、それを上回る速度で先手を打つのである。

 この妖怪の恐ろしさは、心を読み取る相手をいくつも同時に設定して、それぞれに対して思考を並列処理できるところにあった。

 しかも最大で十の処理が同時にできるのである。

 ゆえに、花畑に土足で踏み入ってきた二十人のヤクザの半数以上の心をほぼ把握していた。

 

(なんだ、この化け物は! 逃げた方がいいのか、それとも手にした竿で叩くべきか? どうすればいい)

(やべえ、なんかやべえ、後ろに下がろう。他の連中に任せればいい。右足から下がって三歩分逃げよう)

(銃、銃! どうすればいいんだっけ? 引き金が動かねえ! どうすればいい? 誰か教えてくれ!)

(ヤクザを舐めんじゃねえぞ、この素っ裸野郎!! 叩き殺してやる。右のパンチをお見舞いしてやるぜ!)

 

 そんなヤクザたちのどうでもいい思考を並列に分析し、考えるよりも早く肉体が躍動する。

 手にした錆びついた鎌は、硬すぎて切れないはずの骨さえもバターのように切り裂いた。

 最初の一振りで二人のヤクザの手首があっけなく落ちた。

 返す刀で一人の太鼓腹を切断する。

 腹圧でとびだした血液と内臓が花畑を真っ赤に染め上げた。

 ヤクザたちが事態を把握するよりも速く、〈サトリ〉は銃のグリップを握り、安全装置を外すのも忘れて引き金に指を掛けているチンピラの顔を抉り取った。

〈サトリ〉も銃は知っている。

 妖怪といえど、命中すれば無事ではすまないだろうということも。

 不老ではあったが不死ではない妖魅である〈サトリ〉にとって、銃は特に危険視するべきものであった。

 もっとも、銃のように狙いをつける必要がある武器は心の読める彼にとっては躱すのも難しくはないのであるが。

 あっという間に四人が戦闘不能に陥ったことを、ヤクザたちは理解できなかった。

 所詮はゴロツキの類。

 本当の殺し合いになったらまともな反応など望むべくもない。

 一方の〈サトリ〉は完全に妖魅として、人に害なす存在としての意義を果たそうと動き出していた。

 逃げようとしたヤクザの背中を脊髄までも断ち切り、恐慌に駆られて殴りかかってきたものの腹につま先を叩きこみ、そして突き出した首を落とした。

 時間にして三十秒もかからなかっだろう。

 二十人近くいたヤクザたちは瞬く間に全滅した。

 錆びた一丁の鎌を手にした妖怪のために。

 

「おい、おまえたち―――拙僧を置いてさっさといくでないぞ。まったく御仏に仕えるものをなんだと思っておるのだ」

 

 そこに僧侶らしく履いていた草鞋の紐が切れたことからその修繕を行うために遅れていた聯頭がやってきた。

 そして、花畑の中の血まみれの地獄絵図をみて硬直する。

 驚きのあまり前を見やった聯頭は、血の海に立ち尽くす妖怪の姿を確認した。

 逞しい筋肉のついた身体と能面のような顔を持つ妖怪を。

 聯頭はやはり僧侶であり、外道であったとしても世の妖魅についての知識はふんだんに有していたことから、すぐに〈サトリ〉の正体を見破った。

 

「……おぬし、妖怪ではないのか? こんなところで何をしておる、この汚らわしい妖怪変化風情め!!」

 

 妖怪とわかっていながらたいした度胸である。

 しかし、どんな度胸があろうなかろうと〈サトリ〉にとって何も変わらない。

 聯頭という坊主の心を読んでしまえばそれで終わりだった。

 

『おめが聯頭か……。いずみの胸に鬼の字を書いたのは、おめだな』

「ほお、拙僧の心を読んだか。どうやら〈サトリ〉のようだが、こんな人里に近いところに貴様のような化け物がいるとは聞いたこともないぞ。ははーん、さてはねぐらを追い出されたはぐれものだな」

『……おめ、地獄の鬼のような里っ子だでな。とても嫌なことばかり考えている』

「なに、妖怪ごときに拙僧のことをとやかく言われたくはないな。おや、後ろにいるのはいずみくんじゃないか。これは助かった。おまえのおかげでその娘を父親の元に返すことができそうだ。感謝するぞ、妖怪」

 

 足元に死体が山のように転がっているというのに、聯頭にはすでにまったく怯んだ様子もなくなっていた。

 この僧侶も〈サトリ〉同様、まるで妖怪のように脳髄が崩れ落ちているに違いなかった。

 いずみに対して手招きをしても反応がないので、自分から近づこうとしたところに〈サトリ〉が間に割って入る。

 

『おめにいずみはやらねえ』

 

 すると、聯頭は目を丸くしてから、爆笑した。

 

「なんと!! もしや、おまえ、妖怪の癖に人間に惚れたというのか!? 人の心を読む〈サトリ〉ともあろう妖魅が!? ハッハッハッハッこれは傑作だ!」

『……』

「なるほど、懸想したものを連れて帰ろうとする極道どもを皆殺しにしたのも頷ける。惚れた女を守るためだからなあ!! ―――だが、滑稽すぎる」

 

 はっきりと見下した冷たい目つきで、聯頭は言った。

 

「おまえがご執心のそのいずみという女は、とうの昔に死んでいるというのになあ!! まあ、妖怪が死人に恋をしたとしてもそれは不思議ではないことか。所詮、化け物だ。死人と懇ろになる程度がお似合いという訳だな!!」

 

 いずみを指さして、

 

「拙僧が朝鮮半島から伝わるコトリバコの秘術で()()()()させた骸がそんなに気にいったのか、この薄汚い化け物め!!」

 

 聯頭は厭らしい虚仮にしきった笑みを浮かべていた……

 

 



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死人返り

 

 

「覚せい剤を打ちすぎたせいで、もうどうしょうもなくなっちまった女がいたんだ。頭はイカレててまともに口をきくこともできやしねえ。文字通りのアッパッパーさ。来栖連盟はそういうのはさっさと殺しちまって山の中に捨てるのがいつもことだった」

 

 若頭は残酷で薄汚れたことをどうでもよいことのように口にした。

 

「……来栖連盟のガキどもはいつものようにさっさと運んで殺して埋める予定だった。殺しちまっても滅多に外には出ねえし、海に捨てるよりは確かだからな」

「そこに問題が出た訳ね」

「ああ。……あいつらがしゃぶりつくした女が、愛知の大企業の社長一族の娘だったんだよ。あそこにはY組があんだろ。社長一族がY組を使って娘を返せといってきたのさ」

「……でも、もう娘さんは」

「死んでたよ。あのクソ餓鬼どもは加減ってもんを知らねえ。だってのに、Y組は娘を返さなきゃあ戦争だとか脅してきやがる。ところが、このご時世だぜ。暴対法もあるってのに、あんなところとやりあっていられねえ。特に去年はY組は神戸と分裂したばかりで、何をしでかすかわからねえぐらいに追い詰められていたしな」

 

 日本最大級の暴力団の分裂劇については、ヴァネッサ・レベッカもよく知っていた。

 ヤクザの魔の手は彼女の故郷アメリカにまで伸びていたこともあるからだ。

〈殺人現象〉や殺人鬼専門とはいえ、彼女もれっきとしたFBIの一員なのだ。

 悪の組織についての情報は常に更新している。

 

「日本でも最大級の企業と最大規模の暴力団の要求があったということね。その女の子がどういう素性だったのかはさておき、あなた方はその子を無事に帰さなければいけない状態だったと」

「でもよ、やっぱりもうイカれちまった以上、どうにもならねえ。鬼道会(うち)が見つけたときにゃあ、もう死んじまっていたのさ、そこの村でな。来栖連盟がさっさと穴を掘って埋めるところだった」

 

 つまり、抗争が起きる寸前だったのだ。

 

「だけど、おれたちの親分(おや)もケツ持ちの企業も、マジでの抗争なんてしてほしくねえ。なんとしてでも抗争だけは避けようと、アイツを呼び出した」

「あいつ?」

「聯頭だよ。あの生臭坊主は、死んだ人間を生き返らせることができるんだ。だから、うちの組では大枚はたいてあいつを雇ったんだよ。そしたら、せっかく生き返ったと思ったのに逃げ出しやがった……」

 

 その話を聞いて、皐月が問いかけた。

 

「外法を使ったの? あの聯頭という坊さんが?」

「……なんだかしらねえけど、韓国のなんとかって本にあるらしい。それで女は生き返ったんだよ」

「〈俾官雑記(ヒカンザッキ)〉にあるという死人返りの邪法のことだね。死者の薬指からとった血で死人の体の一部に鬼の文字を書くことで死者を生き返らせっていう反魂の法。そんなものを使える法師がいるというのも驚きだけど、実際に生き返ったってのがまた驚きだよ」

「……そんなものがあるの?」

「うん。朝鮮半島ってシャーマンの力が強いうえに、地学的にも死者の呪いを増幅させやすい龍脈が通っているんだよね。だから、その手の呪詛についてはものすごく強力なのさ。しかも死人返りってさ……」

 

 死んだ人間が生き返るなんて、ゾンビ映画ぐらいしかピンとこないアメリカ人のヴァネッサ・レベッカには理解しにくい話だった。

 もともとハイチの土着の呪いであったゾンビーをロメロの映画のように広めてしまったアメリカ人には、その手の想像力が欠如しているのかもしれない。

 かろうじて思いつくのはペットセメタリー程度だ。

 

「まさかくたばっちまったもんが生き返るとは思わねえから、油断したバカどもが間抜けにも逃がしちまった。かといってY組がうちにつきつけた女を返す期間は年内だ。だから、俺らは必死こいてこんな山奥で探し回っていたんだよ。―――これでいいだろ。さっさと縄を解いてくれよ」

 

 皐月たちを同業だと勘違いをしている若頭は解放を求めたが、皐月は完全に無視した。

 正直なところ、このヤクザのことなど考えている余裕はない。

 彼女たちの目的はもともと人里に降りてきた妖怪〈サトリ〉の撃退だ。

 一般人の被害は出ていないとはいっても、人の多い青梅まで顔を出しているとなると野生の熊など比較にならないほどの危険な相手だ。

 早めに対処しなければならない。

 だが、そこにこんな連中が絡んできた。

 そして、おそらくすでにヤクザたちと〈サトリ〉はその死人返りで甦った女を巡って衝突している。

〈サトリ〉がどういうスタンスをとっているかはわからないが、ヤクザどもが山中を我が物顔で行き来すれば絶対に妖怪が絡んでくるだろう。

 つまり、事件は厄介な方向に進んでいるということだ。

 皐月としてはなんとしてでもヤクザたちを引き返させて、〈サトリ〉を刺激しないようにしなくてはならない。

〈サトリ〉という妖怪の凶暴さを伝え聞いている退魔巫女としては当然の考えであった。

 

「急いで追わないとならないね」

「そうね。罪がないギャングなんていないけど、妖魅のカテゴリーに入っただけで殺されるかもしれないというのは放置できないわ。サツキ、あなたしか倒せそうにない相手なんだからしっかり」

「オッケー、オッケー、七つの山は僕一人で引き受けた♪」

 

 最近のアニメ好きのヴァネッサ・レベッカにはわからない古いネタで応えると、皐月はまともな道さえもない山中を走り出した。

〈社務所〉の道場にいた頃に、散々、山の中を駆け回るやり方は叩き込まれている。

 道のないビルの屋上から屋上を闊歩する技術―――フリーランニングよりも高度な、山の民である山窩のための移動法だ。

 皐月以外の巫女たちも総じて使いこなせるようになっている。

 どんな道すらも通常人の三倍の速度で走り抜けられる、まさに(ましら)のごときだった。

 

「なんだありゃあ……」

 

 あまりの速度に若頭が舌を巻いた。

 あの速度で山中を高速移動など、野生の動物でもなければできない。

 しかし、それができるように鍛え上げられるのが〈社務所〉の媛巫女なのである。

 

 

        ◇◆◇

 

 

「鬼道会の手前言うことはしなかったが、その娘はもう死んでいる。生き返った訳ではない。仮初めの命を手に入れただけだ。人間としての魂は残っていないし、拙僧が見たところ記憶すらもないだろう。なんといっても死人返りで得ただけの生命でしかないからのお」

 

 聯頭はへらへらと〈サトリ〉に説明をした。

 しなくてもいいのに、あえてするのは挑発のためだろう。

 

「どうせ、見せ札だ。生きているように見せかけて、日本最大の組をだまくらかすためだけのな。生者のような心はいらないし、魂だって必要がない。そんなものに、惚れてしまうのがいかにも闇に巣食う妖怪だよなあ。まったく滑稽じゃわい」

 

〈サトリ〉は聯頭の告白に嘘がないことを読み取っていた。

 だが、驚きはない。

 彼はいずみが死人であるということにとうの昔に気づいていた。

 生きているものが、あんな深くに心を隠していることなどありはしないからだ。

 問いかけて一時間でも帰ってくること自体が奇跡でしかないこともわかっていた。

 なぜなら、死人だからだ。

 いずみの内部にあるのは、生きていたころの残滓。

 残留思念。

 妖怪〈サトリ〉でなければ読み取ることすらもできない、かすかな反応。

 だが、それでも良かった。

〈サトリ〉はいずみと一緒にいた数日間が楽しかった。

 生きたヒトとは相いれなくても死んだヒトとは一緒になれる。

 それだけでいい。

 いずみは死人でありながら、花を見て(綺麗)と思い、花を(大好き)と言った。

 そこに嘘はなく、心があった。

〈サトリ〉はこんな冬の最中であっても温かいものに包まれていたのである。

 だから、彼からいずみを奪おうとするものは許さない。

 ヤクザであろうと僧侶であろうと。

 血に塗れた錆びた鎌を握りしめる。

 

『殺す―――』

 

〈サトリ〉が歩を進めようとしたとき、聯頭が手で印を結び、真言を唱え始めた。

 朗々と読み上げられる真言に集中しているせいか、〈サトリ〉にも聯頭の心が読みにくくなる。

 

「オン ソンバ ニソンバ ウン バザラ ウンハッタ―――」

 

 その詠唱が広乗った途端、いずみの膝が崩れ落ちた。

 苦しそうに胸を押さえる。

 何かが起きているらしいことに〈サトリ〉は気が付いたが、いずみを助ける術は彼にはなかった。

 聯頭が唱えている真言が原因なのだろうか。

 

「―――降三世(ごうざんぜ)明王真言……だったっけ? また、過去・現在・未来の三つの世界を収めるシヴァ神を超力によって降伏し、仏教へと改宗させた五大明王の一尊なんて珍しい真言(もの)を使うんだねえ」

 

 そのとき、また新しい登場人物が花畑に現われた。

〈サトリ〉にはまったくわからないロック歌手を模した巫女装束の少女の姿をして。

 

「なんだかわからないけれど、修羅場ということだけは理解したよ」

 

 刹彌皐月がついに〈サトリ〉に追いついたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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―――哀

 

 

 花畑の存在自体については、皐月に驚きはなかった。

 幻想的な光景などというものは〈社務所〉の退魔巫女を続けていれば、幾らでも拝めるものだからだ。

 それにこの事件に赴く前に、夏ごろに同期の御子内或子が遭遇した奥多摩の事件についてのレポートは読んでいた。

 書いたのは升麻京一という少年だが、よく整理されたレポートであまり書類仕事が好きではない皐月にもわかりやすかったということもある。

 奥多摩を通っている日本の霊的エネルギーの龍脈が、ここ最近乱れておかしな現象が多発していることも承知していた。

 だからという訳ではないが、幻想的に咲き乱れる花畑に対しても虚心坦懐に受け入れてしまうことは難しくなかったのだ。

 彼女にとって扱いが困ったのは、そこにいた三人の関係性だった。

 

(あいつは……〈サトリ〉だよね。妖気もあるし、伝承にある通りだし)

 

〈サトリ〉という種族とは言えない妖怪については、〈社務所〉でも十分に目撃例や退治例が採集されているので認識はできた。

 問題はその前にいる坊主―――聯頭という外道の僧侶と、〈サトリ〉の背後にいて何やら苦しんでいる女の存在だった。

 あの白い着物は屍衣だということは、例の死んでしまった家出娘で、聯頭が生き返らせたということになる。

 だが、三者の立ち位置はどうにも把握できない。

 まるで、〈サトリ〉が娘を僧侶から庇っているようにも見えるが、どうしてそんなことになっているのか。

 神ならぬ皐月には思いも及ばぬ展開になっているようであった。

 ただ言えることは……

 

「降三世明王法といえば、過去・現在・未来を支配するというシヴァを倒した降三世明王の真言だけど、闇ではその外法的な使い方が伝わっているそうだね―――」

 

 もともと神社の出身ではない皐月の知識ではおぼつかないところがあるが、以前、習ったことのあるものならわかる。

 

「シヴァはその力をもって時空の制限を一切受けない神であったというね。時間と空間という神々でさえも縛るはずの法則を超越して、あらゆる時と共に存在し、すべての空間に接することができたという。その「ひとつにして全てのもの」「全てにしてひとつのもの」という力を奪ったのが降三世明王という伝承があり、過去・現在・未来においてその真言は力を発揮するという。死人返りという過去を甦らせる邪法にはお似合いの真言(マントラ)ということみたいじゃん」

 

 聯頭の唱える真言の正体を皐月は見抜いた。

 そして、それが指し示すものも。

 

「坊主の格好をしているけど、あんた、外法の魔術師じゃないのか? うち、あんたみたいなの、マサチューセッツやボストンで見たことあるなあ。どいつもこいつも人間とは思えない外道揃いだったけどさ」

 

 皐月は花畑に踏み込んだ。

 

「―――確か、ヨグ・ソトト教団とかいったっけ。まったく、あっちの連中も大概だけど、あんたみたいなのもホント、胸糞悪いよ。事情はわからないけど、とりあえずあんたは拘束させてもらう。〈サトリ〉は後回しだ」

 

 すると、聯頭は、

 

「おぬし、〈社務所〉の媛巫女か? ……関東鎮護の武闘派というが、拙僧も初めて見るぞ」

「あんたには関西訛りがあるね。大方、上方の仏狂徒に追われて流れてきたんだろうけど、関東で邪法を広めようとするのなら、それはうちらの敵そのものさ」

「―――吠えるな、小娘」

「ヤー公の手先よりはマシじゃん」

 

 だが、先に動いたのは〈サトリ〉だった。

〈サトリ〉は遅れてやってきた巫女よりも聯頭を方を殺すべきだと考えていた。

 真言を唱えるときの強烈な精神集中のせいで心を読み取ることが難しくなっていたが、巫女との会話の際に隙ができた。

 そして、聯頭がいずみに対してなにをしたのかも把握した。

 

 このニンゲンは殺さねばならぬ

 

 単純な衝動に従って、鎌を振りかざし、〈サトリ〉は花畑を駆けた。

 やはり一輪の花も折らず、踏みつけもしない、優しさに満ちた足取りで。

 

 殺す

 

〈サトリ〉は一瞬にして聯頭の目の前に辿り着き、鎌を振り下ろそうとした。

 だが、振りかざして、喉元を掻き切ろうとした瞬間、〈サトリ〉の眼の前に離れたところに立っていたはずの巫女が現われた。

 彼よりも早く動いて割って入ったのだ。

 

「気持ちはわかるけど、させるわけにはいかないんだよね」

 

 皐月の手が伸びる。

 双手は鷲掴みの形だ。

 何もない空間を掴み取る。

 そのとき、皐月の目には〈サトリ〉の放つ殺気が黄色の煙のように見えていた。

 妖魅黄土と呼ばれる色であった。

 殺気を視ることのできる刹彌流の使い手だからこそ視認できる色。

 それを服の襟元を掴むようにがっしりと捕らえ、勢いの赴くままに引きつける。

〈サトリ〉は触られてもいないのに何故か自分の身体が引き寄せられていくのを感じた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「チャェストオオオオオオ!!」

 

 裂帛の気合いとともに、〈サトリ〉を投げ飛ばした。

 妖怪にすらわからない古武術・刹彌流柔による秘儀である。

〈サトリ〉は受け身も取れぬまま、地面に叩き付けられた。

 そこには花は咲いておらず、一枚の花弁さえも散らなかった。

 あえて皐月が避けたのは明白である。

〈サトリ〉はその恐るべき技によって頭から叩き付けられ、動くことさえもできなくなった。

 人によく似た妖魅故に、〈サトリ〉の耐久性はそれほど剛くないのだ。

 だが、反撃しよう思えばできない訳ではない。

 事実、〈サトリ〉は落下の衝撃を受けても鎌を手放していない。

 しかし―――

 

『……花どもが、いたいって言ってねえや』

 

 万物の心を読める〈サトリ〉にだけはわかった。

 妖怪である彼にすら先回りするほどの速度で回り込んでいながら、一切の花を踏まずにいたという事実を。

 そして、〈サトリ〉を投げる際に花を散らさないように土が剥き出しの場所を選んだということも。

〈サトリ〉は人の心が読めるからこそ、相手の真価を間違えずに読み取れる。

 だからわかる。

 あの、巫女は―――善きものだと。

 

『やりあいたかあ、ねえよな……』

 

 巫女が僧侶を〈サトリ〉から護ったのは、あいつが善きものであるからだ。

 それもわかる。

 

「―――聯頭とかいったけど、あんたについては、うちで拘束させてもらうけどいいかな。死人返りなんて邪法を使ってヤー公に与するなんてとてもじゃないけど認められないんでね」

「……関東最高の退魔組織〈社務所〉か。だが、拙僧はただの僧侶だ。拘束しても無駄になるぞ。それに、ヤクザが黙っていないかもしれんぞ」

「この有様を見ればヤー公なんて何もできないって」

 

 周囲に蠢く二十人ものヤクザの死傷者を見て、さすがの皐月も陽気には振る舞えない。

 とにかく、下手人である〈サトリ〉よりもこの事態を引き起こした邪法の使い手を拘束する方が先決だと考えたのだ。

 

「下手なことを考えない方がいいかな。うちにはあんたの動きがお見通しだから」

 

 攻撃をする際に、どんな人間でも殺気を発する。

 である以上、皐月の不意を突いて他人に害を加えようとする真似は誰にもできない。

 聯頭がどんなことを企もうと皐月は問題なく処理できるはずである。

 だから、気が付かなかった。

 他の退魔巫女だけでなく、普通の人間ならば音やその他の気配ですら敏感になっただろうに、皐月はあまりにも殺意そのものに特化しすぎた。

 だから、わからなかった。

 

「ま、待て!!」

 

 いつのまにか皐月の後ろに近づいていたいずみと、その手に握られたナイフに。

 だから、反応できなかった。

 何の感情も見せないいずみが聯頭をナイフで刺してしまったことに対して。

 死人には殺意がないから、皐月は油断してしまったのだ。

 

「おぬし、何をするぅぅぅ!! おぬしを生き返らせてやったのは、拙僧だぞ!! 金を出したのはこのヤクザどもだぞ!! おぬしは恩を仇で返すのか!!」

 

 聯頭は胸に深々と突き刺さったナイフを信じられないものを見る眼で見つめながら、叫んだ。

 明らかに断末魔のものであった。

 自分が死にゆくことに気がついてしまったのだ。

 

『……死んだ人間が涅槃から喜んで(けえ)ってくるもんかよ。おめは、いずみに恨まれてんだよ。復讐(かたき)討たれんたんだよ。ざまァねえ』

 

〈サトリ〉は哀しそうに言った。

 本来は優しい娘であったはずのいずみが、恨みから人を刺してしまったことを悲しんでいるのだ。

 しかも、こんなに美しい花園で。

 

『ちげえか。もうここは血と腸で汚れちまってたなあ』

 

 ほんのわずかな時間、妖怪と死人が寄り添った世界はもうない。

 操り手の聯頭が死ねば、いずみの死人返りも解ける。

〈サトリ〉はもういずみがいなくなることを悟っていた。

 

『もお、終わりだあな』

 

〈サトリ〉には、喜怒哀楽の、哀がないはずなのに―――

 それなのに能面のような顔から涙が零れることを止めることはできそうになかった……

 

 

 

 



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第44試合 巫女レスラー・ゼロ
狼の呼ぶ声


 

 

「ここで待っているんだ」

 

 俺は布団にくるまって体育座りのまま震えている女子大生にできる限り優しく話しかけて、下手に動かないように釘を刺すと、閉じたカーテンの隙間から外を見ました。

 もちろん、隠れていることがわからないように、自撮り棒に手鏡をつけてそっとです。

 相手が相手なのでそのぐらい石橋を叩いて渡る用心は必要でしょう。

 少なくとも窓の外には誰もいませんでした。

 ここが三階だということを考えれば、窓から侵入される可能性は低いはずです。

 ただし、普通ならば。

 俺が籠城を決め込んだこのマンションの一室に迫りくる危機を考えると、三階だからやってこないとは断言できません。

 少なくとも、俺がこの部屋に匿っている女子大生から聞き取りをした範囲と、これまでの事例からすると、やってくるならこの窓が一番確率が高い。

 

「それは……なに……?」

 

 女子大生が俺の持っているものに気が付きました。

 ごく普通の大学生の持ち物にしてはとても異様なものだからでしょう。

 彼女の目に不安と恐怖が宿りました。

 とはいえ、今回ばかりはこれがないと超困るんですけど。

 だから、気にしてはいられません。

 

「拳銃ですよ。まだチェコスロバキアだった頃に製造された自動拳銃でCz75―――のモデルガンです。端的にいえば玩具ですね」

 

 俺はグリップのところの東京マ○イの刻印を見せました。

 それで納得するかはわかりません。

 まともな女の子は東京マ○イなんて知らないはずですから。

 ただ玩具という俺の言葉を完全に信じてはいないようでした。

 まあ、仕方のないところでしょう。

 そうでなければ、こんな危なすぎる状況下でモデルガンを振り回しているバカな奴ということになってしまいますから。

 

 ―――まあ、本当にモデルガンなんですけどね。

 

 とりあえず、玄関のドアの強度は確認してあるので、あれをぶちやぶって入ってくるということはないでしょう。

 浴室もトイレも窓はないし。

 壁なんか障害にもならないという化け物であったのなら、立て籠もること自体がそもそも意味がない。

 だったら、車か単車を用意して逃げ回った方が遥かに楽です。

 時間があったら武蔵立川の実家に置きっぱなしのゼファーを用意してもよかったのですが、事態は緊急を要するものだったのでそこまではできませんでした。

 それに逃げ回っていても仕方ない。

 まだ素直に立ち向かった方がマシというものです。

 怪奇現象やら怪物やらに立ち向かうときの基本は一つです。

 無闇に恐れずに挑戦し戦うこと。

 そうすることでようやく逆転の目がでてくるのですからね。

 

「……朋輪(ともわ)くん。やっぱり警察に行こう。このままだと殺されちゃうよ……」

 

 女子大生―――尾野屋亜香里は震えながら言った。

 このままいけば自分だけが殺されるのではなく、助けを求めた従姉妹が紹介してくれたこの俺にまで迷惑がかかると考えたんでしょうね。

 元凶は自分にあるとしても、そのことでお人好しにも駆けつけてくれた見ず知らずの人間まで危険に曝すことはできない。

 少し喋っただけでも、この尾野屋がそういう人であることはわかります。

 俺はこの女性の従姉妹と友達なんだけど、やっぱりあの尾野屋の血筋なんだなと嬉しくなる感じがしました。

 

「そもそも警察が信じてくれないから、あなたは尾野屋を頼ったんでしょう? それであいつは、あいつの知り合いの中で唯一この手の事件に立ち向かえそうな俺に救助を要請した。だから、俺はここにいるんです」

「でも……あの化け物は……」

「まあ、化け物の類いであることはわかります。あんなの絡まれることになった不運についてだけは同情しますけどね」

 

 この亜香里と合流した立川駅の改札で、俺たちは正体不明の男に襲われたのです。

 そいつは薄汚れたボロの服を着た、いかにもホームレスという風体でありながら、魂まで震えあがるような憎しみに満ちた眼をしていました。

 男は産まれてこの方一度もカミソリを当てたこともないかのように剛毛のヒゲを生やし、ツバのない帽子を被って、人混みの中を歩いてきました。

 汗と小便の臭いでとてつもない悪臭を発していて、すれ違う人たちが勢いよく鼻を押さえないとこらえきれないほどでした。

 LINEの会話ですぐに亜香里と合流したら、彼女というか俺たちめがけてくる男に気が付き、聞いてみました。

 

「あいつ、かな?」

 

 亜香里は恐怖で引きつった顔で頷きました。

 ただのホームレスのストーカーならばまだいいんだけれど、尾野屋からの連絡ではそんな範疇ではくくれない相手のようでした。

 男は亜香里よりも俺を強く睨んできました。

 おそらく、彼氏だと誤解されたんでしょう。

 俺が聴いていたのは、「自分の従姉妹がとても人間とは思えない相手にストーカーされているから助けてやってほしい」というものだったから、相手は亜香里に好意を抱いているに違いないはず。

 そんなストーカーが一見男連れの彼女を見て逆上するのはわかります。

 だから、普段ならもう少し隠れているはずなのに、人目も憚らず姿を現したというわけだったようです。

 立川駅の中央改札は人通りがある割には、広い通用口となっているので、隠れ場所が少なく、男がやってくる様子がよくわかりました。

 俺はとりあえず彼女を庇って、男と対峙する。

 汚れまくっているが、やはりただのホームレスではなかったようです。

 眼光が異常なほど、肉食獣めいて鋭い。

 これはそれだけでまともな相手ではないと感じました。

 周囲の人たちもおかしい雰囲気に勘付いたようで、何人かが警察官のもとに駆け寄っていきます。

 喧嘩かトラブルの類いだと思ったのでしょう。

 普通ならそう考えます。

 でも、俺はそんな些細なものとは考えていませんでした。

 随分と久しぶりのことになりますが、これから起きるのは殺し合いになるだろうと勘が告げていたからです。

 二十メートルほど近づいたところで、男は立ち止まり、のけぞって大きく息を吸い、それから吐きだしました。

 裂帛の雄叫び。

 戦場ではなく、荒野でイヌ科の凶暴な生き物が哭く声。

 狼の……コエ。

 男がかっと開いた口腔には、鋭い肉きり歯が生え、とても人のものとは思えない突き出した鼻づらに変化していく。

 脚の関節が逆方向にねじ曲がり、踵が割れてなくなっていく。

 手の甲には夥しい剛毛が生えそろい、爪がぐいぐいと延びて、刃物のように尖りだす。

 ああ、俺にもわかりました。

 こいつは、こいつは……

 

「ああ、あああ……!!」

 

 亜香里が芸もなく狼狽えています。

 彼女は薄々わかっていたが、やはり目の前で変貌《メタモルフォーゼ》されてようやく真実を把握することができたようでした。

 そんな俺だってこんなことが起きるなんてさすがに想像していなかった。

 かなり危険な変質者程度だと思っていたのに、まさか―――

 まさか―――

 

「狼男だったとは……」

 

 異常に気が付かないどんくさい通行客を突き飛ばして、狼男が駆け寄ってくる。

 まだ人間の面影はあるけれど、どうしたってただの怪物でしかないのです。

 俺は狼男と接触し、その牙が首筋に届く寸前、身体を捻り、ホームレスらしい薄汚れたコートの襟を掴み、左手は抜き手にして逆に喉元に突き立てる。

 本気でやれば咽喉ぐらいに穴があけられるはずの抜き手でも窪みもしない頑丈な皮膚のせいで邪魔されました。

 咄嗟に攻撃を切り替えて、腰をまわして投げる。

 小さなころから習い覚えた室賀流柔術の基礎的な投げを使ったのです。

 古武道の柔術なので、今の柔道と違って投げるというよりも転ばす形になるのですが、それでも背中からコンクリートに叩き付ければ呼吸ぐらいは止まります。

 狼男も生物であったらしく、息を吸ってはいてぐらいのするのでしょう、動きが完全に止まりました。

 一瞬だけですけど。

 でも、それだけで俺は十分でした。

 三十六計逃げるに如かず。

 以前、下手に踏みとどまって失敗した経験から、俺は危ないとみたら一直線に逃げ出すことができるという高度な判断力を学習していたのです。

 亜香里の手をとって、一心不乱に逃げ出したおかげか、狼男がすぐに追いかけてくることはなかった。

 俺の投げに驚いたせいもあるとは思いますが。

 ただ、完全に撒けるなんて思っていません。

 だって、亜香里の言うことに従えば、

 

「あの人……イヌみたいに臭いを嗅いでつけてくるの」

 

 だそうなので、この俺が一人暮らしをしているマンションだって文字通りに嗅ぎつけられる恐れがあるからです。

 では、どうすればいいのか。

 

「まあ、頑張って撃退してみせましょうか。ちょっと考えもありますし」

 

 亜香里の不安そうな顔がうっとうしいけれど、俺も恨みを買っているかもしれないので、やることはやらないといけないんで真面目にすることにしました。

 狼男のストーカーと殺し合いみたいなことをする羽目になるとは……

 実は姉もこういう目にあったことがあるし、俺もその時に病院送りにされたという過去があるのです。

 まったく、どうやら俺の家系は呪われているようですね。

 いや、実際のところ、俺だけなのかもしれませんが。

 

 ピンポーン

 

 そのとき、インターホンの電子音が鳴りました。

 意を決して応答してみます。

 相手が狼男の可能性があるからです。

 でも違いました。

 

〔――301号室の住人かな。ボクのいうことを良く聞いて欲しい。ボクはキミを狙っている〈人狼〉から助けるために来た。信じてもらえるのなら、返事をしてもらえないかな?〕

 

 狼男のものとは全く違う、若い女の子の声がインターホンから流れてきたのでした。

 

 

 

 

 



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やってきた大後輩

 

 

 俺のマンションは出口にカメラなんていうものがついている高級志向ではなく、オートロックすらついていない普通の建物でした。

 ですから、住んでいる301号室まで直接尋ねられてしまうなんてよくあることです。

 一応、用心して覗き穴から外を見ると、一人の女の子が立っていました。

 目にした途端、一度、穴から顔を離してゴシゴシと手で擦ります。

 視界に入ったものがよくわからなかったからです。

 正確に言うと、「信じられなかった」というべきでしょうか。

 基本的に俺は物事に動じないタイプだと周囲には言われています。

 その俺が自分の目に映ったものを疑うのだから、それがどのぐらいおかしなものかというのは、誰にでもわかることでしょう。

 

「―――悪いけれど、巫女さんの押し売りはお断りだよ」

 

 上半身は首元から赤い襟が覗いている白衣、下半身には緋色の袴を履いて、腰の前で紅の紐でとめている巫女装束。

 ただの巫女装束とは言えないのは、左右の手首に巻いた革のリストバンドと、地下足袋と草鞋の代わりに革のリングシューズを履いていることでした。

 誰がどうみたってまともな巫女ではないような。

 だが、顔は―――正直に言うととても可愛かった。

 肩までの髪を結ってアップに上げているおかげで、体育会系的な運動少女っぽい印象があるのに、顔の造作そのものは小さめで、アイドルにでもなったらとても人気が出そうな可愛いタイプの女の子です。

 巫女さん、というと疑問符が出るけれど、醸し出す雰囲気の神秘的な色彩は紛れもなく本物としか思えなかった。

 とはいえ、どうして俺たちのところに巫女さんがやってきたのかということはさっぱりわかりません。

 

〔別にボクは押し売りに来た訳じゃないよ〕

「それはわかっている。どうして巫女さんがきたのか、そこがさっぱりわからないってだけだ。見たところ、あんたはコスプレでそんな格好をしている訳じゃなさそうだしな」

〔そりゃあそうさ。ボクは正真正銘の巫女だからね。……ちなみに、キミ、301号室の住人だよね〕

「ああ」

〔確か、武蔵立川高校の卒業生だったと思うけど、どうかな?〕

 

 武蔵立川高校というのは、俺が去年卒業した学校です。

 大学に入ってからは一度も訪れたことはないけれど、それなりに愛着は残っていて、まさかその名前を聞くとは思いませんでした。

 ちなみに一応は進学校ですが、中学の時にそこを選んだのは実家から歩いて通える距離だったからというだけのことです。

 そう言えば、うちの姉も武蔵立川出身ですが、進学理由は同じだったと聞いていました。

 

「……なぜ、そんなことを知っている?」

〔いや、ボクも武蔵立川の生徒なんだ。キミのことは現・生徒会長から聞いたことがあるんで、名前に覚えがあったという訳さ〕

「現・生徒会長?」

〔ああ。ボクとは三つ違いだからすれ違いだけど、美厳(みよし)のバカは一つ年上だから同じ時期に通っていたはずだね〕

 

 ―――みよし?

 三好、いや、美厳かな?

 すぐに頭に浮かんできたのは、俺が三年のときに入学してきたいつも気怠そうで、それでいて数ヶ月前まで中学生だったとは思えないほどにムンムンとした色気をばら撒いていた後輩でした。

 当時生徒会の役員をしていた俺は、顧問教師の推薦で入ってきたその後輩―――柳生美厳の面倒を見させられたのです。

 優秀といえば優秀ではあったけれど、怠惰で働かない後輩だったのでとても教育に苦労した覚えがありました。

 

「柳生のことか?」

〔そいつだね。だから、キミの噂はかねがね聞いているよ。―――〈お化け退治〉の先輩だってね〕

 

 俺はそんな綽名をつけられていたとは思いませんでした。

 お化け退治と言ったって、俺が高校時代にやったことはそんなにたいしたことはないし、回数だって一度か二度程度でしかないのですから。

 説明していませんでしたが、今匿っている女子大生尾野屋亜香里を助けるために、従姉妹のひかりが俺を呼び出したのは、そういう過去の実績のようなものに基づいてのことだったのです。

 そして、俺は多少ではあったけど、古武術を齧っていたこともあって、いざというときは頼りになると覚えられていたのかもしれません。

 

「……わかった。今から鍵を開ける。だが、気をつけろよ。さっき俺たちを襲った狼男があんたを押しのけて入ってくるかもしれないリスクがあるんだからな」

〔わかっているよ。でも、まあ、ボクを押しのけようとするのはかなりのリスクだから、多少でも頭が回ればしないとは思うけどね〕

 

 俺には理解できないほどの随分な自信をもって、変な巫女は断言しました。

 怪しみつつも、俺はドアを開けます。

 さっきの狼男を警戒しつつ、いつでもすぐに閉められるように力を加えながら。

 幸いなことに、あいつはなにもしてこなかったので、巫女は堂々とした振る舞いをしたまま部屋の中に入ってきました。

 この部屋に女の子が入ってくることはないことはないのですが、一日のうちにまつたく面識のなかった相手が二人もやってくるのはまずほとんどありえないことでしょう。

 俺は性格についてはお世辞にも善いとはいえないものですから。

 

「……朋輪くん、誰なの?」

 

 奥にいた亜香里が問いかけてきました。

 それはそうでしょう。

 あんな狼男に狙われているということがわかって、命からがら逃げてきたというのに、そこにのこのこと人がやってくるなんてありえることではありません。

 

「キミが〈人狼〉に狙われているって女性(ひと)でいいのかな」

 

 堂々と入ってきた巫女は、亜香里に声をかけた。

 亜香里はいきなり現われた巫女の美少女に驚いて開いた口が塞がらない状態でした。

 

「え、ええ……」

「キミとそこにいるボクの高校のOBの先輩を襲った〈人狼〉は、すぐに立川駅の南口の住宅街の方に消えたそうだ。警察が緊急検問をしようとしたが、状況を把握できなかったのでまだ実施されていない」

「……そうなの」

「ところが、だ。ボクの所属しているところがだね。数日前から、キミと〈人狼〉のストーカートラブルについては把握していたこともあって、とにかく可及的速やかにそいつを退治しなくてはならないことになった。で、ボクが八咫烏(プロモーター)に呼ばれてやってきたということさ。ボクも立川市民だし、同じ市民の誼で協力させてもらうとしよう。これで理由はわかったかな」

 

 さっぱりわかりません。

 

「あなたは……本当に何者なの?」

 

 言っていることはわからないが、亜香里はこの巫女に気を許しかけていました。

 追い詰められていることで、誰かれ構わず味方認定してしまっているのかもしれません。

 内心、俺一人だけでは心細かったということもあるのでしょうか。

 巫女―――イコール怪物退治の専門家というイメージもありますしね。

 

「ボクは、御子内或子(みこないあるこ)。―――関東で人に仇なす妖怪変化を退治する使命を持った〈社務所〉の媛巫女さ。ついでにいうと、そこの朋輪先輩の高校の後輩でもある。だから、素性は先輩が保証してくれるね」

 

 こちらが想定もしていない台詞を吐く巫女さん。

 初対面の自称・後輩をどうして俺が弁護しないといけないのでしょうか。

 まったく信じられない話です。

 

「或子ちゃん……でいいの?」

「ああ、どう呼んでくれてもいい。とにかく大船に乗った気持ちでいてくれよ。ボクと先輩がキミを怪物から救ってあげよう」

 

 たいしてない胸を張る自称・後輩の巫女。

 いったい、この女の子は何者なのでしょうか。

 そして、あの狼男の正体は。

 

〈お化け退治〉とかいう大層な二つ名をもらっていても、普通の大学生の俺にとっては荷の重い話であるとしか言えませんでした……

 

 

 

 



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恐怖の遠吠え

 

 

「私が、あの男性を初めて見かけたのは、大学のサークルで参加した炊き出しボランティアのときでした」

 

 尾野屋亜香里がぽつぽつと喋りだしました。

 もともと俺は彼女の従妹から聞いていたのですが、本人の口からというのは初めてです。

 何故かというと、亜香里と落ち合ってすぐにあのストーカーの狼男に襲われ、逃げたり、隠れたりするのに精いっぱいだったからでした。

 もう少し余裕があったら、俺も彼女に水を向ける余裕ぐらいはあったでしょうけど。

 

「炊き出しといっても、地震とか災害の被災者相手のものではなくて、ホームレスとかそのあたりの人たちも含めて、100円でカレーをお腹いっぱい食べてもらおうっていう企画なんです。わりと有名なカレー専門店に協力してもらって、本来なら700円はするものを安く配ろうって感じの」

「ふーん、でも、それって何か意味があるのかい?」

「寄付を募るということと、いざというときの災害ボランティアの練習みたいな感じですか。もともと、東日本大震災の311のときにボランティアを体験した人たちが立ち上げたもので、これから何かあったらすぐに駆けつけられるようにということなんです」

 

 だいぶ後のことになりますが、このボランティア活動をしていた団体は2016年の四月におきた熊本の地震のときなどに炊き出しの活動に出向いています。

 このカレーのときの経験が活かされたのは間違いないようです。

 まあ、閑話休題ですが。

 

「なるほど。キミはその模擬炊き出しの手伝いをしていたという訳だね」

「はい。私はカレーをよそる役をしていたのですが、そのときに彼がやってきました」

「ふむふむ、続けて」

 

 御子内或子と名乗った、俺の高校の後輩にあたる子は、まだ学生らしいので二十歳の亜香里からすると二、三歳は下のはずだが、力関係のものは完全に逆転しているようでした。

 偉そうな態度というのではなく、人間としての強度のようなもので遥かに上回っているのでしょう。

 だから、亜香里は促されるままに年下の御子内後輩に説明を続けていました。

 

「実際、彼のことを覚えているかといったら曖昧なんですけど、この炊き出しは二か月に一度の割り合でやっていて、なんとなく前にもこの人来たなあ程度の記憶には残っていました」

「貰って、食べて、また並ぶみたいなことはしなかったんだ」

「さすがにしていたら、私以外にも覚えていたとは思います。ただ、さっきも言った通り、ホームレスの人も多かったから目立ってはいなかったと思います。でも、そのときに私は『また並ばれてるんですね』と声をかけたはずです」

「対応としては普通だね。それで、そいつはどうしたんだい?」

「単純な気まぐれだったんですが、あの人、目を細めて笑ったんです。優しい感じでした。だから、きっと私も笑い返したんだと思います」

 

 ―――それはマズい。

 俺は直感的にその行為のまずさを悟りました。

 二つ上のエキセントリックな姉がいますし、俺だって女というものについては詳しい自信があります。 

 そこから導き出される意見としては、

 

「女が親切にしてくれたからといって、好意があるとは限らない。いや、まったくないと思っておいた方がいい」

 

 というものがありましたね。

 つまり、本人がどういうつもりかはさておき、あの狼男は完璧に誤解してしまった可能性が高いということなのです。

 

「それから、しばらくして、大学やバイトの周辺であの人を見かけることが増えました。最初は偶然かと思ったし、見たと思ったらいなくなっていたので気のせいだと考えていました……」

「でも、違ったと」

「うん。色々な場所で見掛けたんだけど、そのうち、私の通学路でばかり見掛けるようになっていったんです。しかも、気が付いたら、実家に近い方に近い方になっていって……」

 

 それから亜香里は警察にいったそうです。

 でも、桶川ストーカー事件を引きあいにださなくてもわかる通り、警察というものは事件性を感じられたとしても起きていない事件については対処できません。

 ここで一般の人は誤解しているむきがあるのですが、警察というのは日本国憲法で保障されている人権の中でも高位にある人身の自由を、令状を伴うことで侵害できる逮捕権という強力な権力を有しています。

 令状なしでは、現行犯逮捕などでしか認められない逮捕権というものは、他の行政機関にも与えられていない、法治国家では最強レベルの武器なのです。

 ですから、これを持つ警察の権力行使はなによりも抑制される必要があり、そのために事件が前置されていること―――つまり事件発生から出ない基本的に動くことができないのです。

 ですから、こういう場合に警察を無能だと罵ることはフェアではないということですね。

 話を戻しましょう。

 

「警察には相談したんですが無駄でした。でも、そのうちに実家の回りにあの人が現われるようになり、家の中が変な感じになりました。家に戻ると、中のものが勝手に動いてしまっているような……」

「……なにがだい?」

「ぬいぐるみとか、本とか…… うちのお母さん専業主婦だから勝手に部屋の掃除でもしたのかと思ったんですけど、私は自室ぐらいはマメに掃除する方なので滅多に入ってこないんです。確かめてもしてないって」

「キミはその男が潜り込んだのでは疑った訳だ」

「はい……。でも、そんなバカなことはないはずなんです。母がほとんど昼間は家にいるのに、気づかれないで二階の奥にある私の部屋入るなんて……」

 

 そこで亜香里は息を呑み、

 

「馬鹿でした。私が。……昨日、家に帰って何気なく外を見たときにはっきりとわかったんです」

「……」

「道を挟んだ隣の家の屋根の上に、あの男の人が四つん這いでこちらを睨んでいることに。すごく怖い顔をしていました。私のことをじっと睨んでいたんです。咄嗟にカーテンを閉めましたけど、男の人は四つん這いのまま、まるで犬のように手で咽喉を掻いていました。手、というよりも前肢みたいで」

 

 あまり考えたくもない光景ですね。

 

「それから、しばらくしたらウオオオオオオンって遠吠えみたいなのがすぐ近くから聞こえてきて、うちの近所は犬を飼っている家が多いから、普段はそういう泣き声がしたら連鎖反応でどこも続いてくるのに昨日に限ってはまったく静かでした。あとで近所に住む幼馴染に聞いたら、彼女の家の飼い犬はしっぽを股の間に挟んで怯え切ったまましばらく震えていたそうです……」

 

 犬が尻尾を股に挟むって、相当怖い目にあったときの行動です。

 要するに、その遠吠えが犬にとってはそこまで恐ろしいものだったということの傍証ということですね。

 ただの遠吠えだけで耳にした犬たちをそこまで怯えさせるってどういうことよ、と思いますがまあ狼男だったというのなら納得するしかありませんでした。

 亜香里はその夜だけはなんとかブルブル震えながらも乗り切ったらしいのですが、もう耐えきれなくなっていたようです。

 そこで自分が知っている中で一番頼りになる従姉妹に連絡したということのようでした。

 警察がダメで、家の中に入られているというのなら家族も危険。

 自分がどうしたらよいかわからなくなり、最後に縋ったのが従妹というのは普通だとありえないことですが、俺にはわかりました。

 彼女の従妹である尾野屋ひかりは、子供の頃からとても根性の座った女で、今でも度胸だけはたいしたものだからです。

 ちなみに父親が某組の暴力団員であったことが原因なのだとは思いますけど。

 それで、助けを求められたひかりがさらに話を振ってきたのが俺、という訳なのです。

 先ほどの御子内後輩がいっていた通り、高校自体の俺はちょっとしたオカルト事件みたいなものをいくつか解決した実績がありました。

 しかも腕っぷしも確かなのです。

 中学時代からの知り合いであるところの尾野屋が俺に白羽の矢を立てるのも当然と言えば当然なのかもしれません。

 そして、残念なことに俺はお人好しなのです。

 元同級生にお願いされるままに、尾野屋亜香里と会うことになってしまいました。

 やっぱり同級生は見つけ次第始末しないとね。

 後始末が面倒ですから。

 

「……なるほど。かなり危険な状況にいたことは明らかなようだ。こちらの先輩との接触があったことで事態は激しく動き出したようだけどね」

「朋輪くんは悪くないと思う」

「そりゃあそうさ。先輩は相手が〈人狼〉なんていう怪物だとは知らなかったんだからね。せいぜい、性質の悪いストーカー程度の認識だったのだろう」

「ちょっと前に三鷹で女の子がストーカーに殺されたとき、屋根伝いに二階の窓から侵入されて、クローゼットの中に隠れていたってことがあっただろ。屋根ってきいて、そのときのことが頭に浮かんでな。急がなきゃという気持ちになったのは確かなんだよ」

 

 その話を聞いて御子内後輩は、

 

「まったく無謀な勇気だけは買うけれど、もし先輩に何かあったら嘆くのはこちらの亜香里だ。もう少し慎重になった方がいい」

「いや、待ってくれないか。いくらなんでも、相手があんな狼男だとは考えないだろう。いくらなんでも」

「で、先輩が用意したのが、それかい?」

 

 俺は手にしたモデルガンを見せました。

 だが、御子内後輩は鼻で悪うことはせず、

 

「……()()()()()()のかな?」

「狼男だから」

「材料はどこから」

「貰い物のフォークがあったんで、ペンチで切って使うことにした」

「なるほどね。無謀ではあるけれど、無茶ではないのか。いいさ、それでいこう。〈お化け退治〉の先輩のお手並み拝見と行こうか」

 

 すると、御子内後輩はすっくと立ち上がり、顎をしゃくる。

 外に出ろということのようでした。

 なんのつもりなのでしょうか。

 あの狼男が待っているかも知れない外に出ろ、とは。

 

「―――まずはあの〈人狼〉を止める努力をしないとね」

「どういうことなんだ?」

「結界を用意するのさ。妖怪変化、怪物魔物を自由にさせないためのものを」

 

 そういうと、御子内後輩は小鳥のよう軽快に俺の部屋を出ていったのです。

 

 



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妖怪〈人狼〉

 

 

 御子内後輩が俺たちを連れてきたのは、少し歩いたところにある幼稚園の前でした。

 昨今の幼稚園は、様々な外的要因から園児たちを守るために、柵やらネットやらが張り巡らされ、一種の檻のようにさえ見えます。

 もっとも、あの狼男の恐ろしさを体験している俺たちにとっては、ここに来るまでの移動に気を取られ過ぎていました。

 

「先輩は、あの自分の部屋で迎え撃つつもりだったのかい?」

「まあね。下手に逃げ回るのは危険かもしれないからさ。立川駅からはタクシーを使ったから、すぐには追ってこれないとは思っていたけど、だいたいおかしな奴って行動力がハンパないものだし」

「〈人狼〉の嗅覚は狼そのものよりは劣るけれども、人間の何倍というのは伝わっているね。中島敦の「山月記」のモデルになった〈人虎〉でさえ、一つの山を越えた先から臭いだけを頼りに獲物を追跡できたというほどだ。同じ、虎狼の類いだとすると〈人狼〉もそうとなものだと思う。タクシーでの移動では時間稼ぎがいいところだろう」

「―――その〈人狼〉ってなんなんだい?」

 

 俺の疑問に対して、御子内後輩は答えてくれました。

 

「お隣の半島とそこに繋がる大陸に巣食う、妖魅―――化け物の一種だね。普段は人間の姿をしているが、狩りのときになると踵のない獣の姿になる。踵というのは、人間の理性の象徴だという説もあるから、おそらくはその具現化なんだろね。心のないケダモノってことかな。だから、先輩のいう狼男でも間違いはない」

「踵が理性の象徴ね…… 鬼が三本しか指がないというのと一緒かな」

「よく知っているね。さすがは元生徒会書記。優秀だ」

「生徒会なんて雑用の処理がうまい奴がなるところさ。優秀かどうかは関係ないだろ」

 

 少なくとも俺の価値観ではそんなところなのです。

 全学年の最優秀生徒(トップガン)で構成されたエリートグループなんて漫画の中でしかありえません。

 

「優秀さ。見ず知らずの人間に助けを求められて、我が身を省みずに駆けつけてしまうぐらいには、人間としても上等だしね。ボクは先輩の後輩になれて良かったと思いかけているところだよ」

 

 御子内後輩はこっ恥ずかしいことを口にしながら、幼稚園の門を勝手に開けてずかずかと入っていきます。

 よく見ると、施錠されていません。

 鍵を掛け忘れたというのではなく、最初から開放されていたという感じでした。

 この幼稚園と御子内後輩の間にどんな関係があるのでしょうか。

 疑問を感じつつもついていくと、普段ならば園児たちが黄色い声をあげながらお遊戯をしたりする運動場に出ました。

 そこで俺は信じられないものを見ます。

 なんと、それは……

 

「プロレスの……リング……?」

 

 6メートル四方に鉄製の柱が立った白いマットが、やや盛り上がった台の上にセットされていて、柱にとりつけられた器具から三本のロープが張られています。

 体育の授業で使用するようなマットがそれぞれ四方に並べられていて、仮にマットから落ちても大丈夫そうでした。

 しかし、俺の感覚では天地がひっくり返ってもプロレスとかで使用されるリング以外にはありえないものなのです。

 俺たちいつのまに新日本プロレスを観戦しにやってきてしまったのでしょう。

 おかしい。

 狼男―――〈人狼〉に追われているはずの俺たちはどうしてこんなものに遭遇してまっているのでしょうか。

 だって、ここは幼稚園の運動場のはずなのに。

 ところが俺たちを案内してきたはずの御子内後輩は、このリングの上で受身をとったりロープのテンションを確認する作業したりして、まったく平然としたものでした。

 さっきは異様に感じた黒い靴はリングシューズだったのか、とても馴染んでいるように見えます。

 それどころか、マットの上でウォーミングアップをする彼女は完全に自分のホームであるかのように堂々とした振る舞いなのです。

 いったい、何があれば……こんなことになるのか。

 

「朋輪くん……私、何が何だか……」

「それは俺も同じだね。この非日常的な世界についていけてない」

「―――よし、悪くない出来だ。けっこうきちんとした結界になっているようだね」

 

 満足気に少し汗を流しながら御子内後輩は降りてきました。

 俺たちの前に立ち、

 

「この〈護摩台〉を設置する場所にキミたちを連れてくるまでがわりと賭けだったんだが、何も起きなくてラッキーだったよ。この〈護摩台〉というのは、妖怪の力をボクらと五分《フィフティ》にする結界でね。これがないと、今のボクではまともに正面切っては戦えないんだ」

 

 彼女が白衣の袂から祓串(はらいぐし)を取り出して、フンと振るとなんだか空気が澄んでいくような錯覚を感じました。

 

「空気を正常化した。これでキミたちも少し落ち着いただろう」

「それはなんなの?」

「練気した〈気〉を祓串の紙垂を使って拡散したのさ。神経が昂ぶっている人間には効果がある。どうだい、楽になったはずだ」

「う……ん、さっきまで吐きそうだったのに楽になったわ……」

「ならいい。ただ、妖怪退治のために拳と技だけでなくて、こういう術も使わなくてはならないというのはまったくもって腹立たしいが、ボクもまだまだ見習いから抜け出たばかりだから仕方ないか」

 

 呆気に取られていた亜香里が口を開いた。

 

「ねえ、或子ちゃん。この……リング……」

「〈護摩台〉のことかい?」

「えっと、ご……まだい? でもいいんだけど、これって誰が用意したものなの? こんなところに作っちゃっていいの?」

 

 そうでした。

 プロレスリングがあるということだけでなんとなく麻痺していましたが、実のところ、問題は他にもいくつかあって、亜香里が聞いたのはそのことなのです。

 もう色々なことがごっちゃになっていて仕方がない状況でした。

 

「この〈護摩台〉を用意したのは〈社務所〉の男衆だ。人手が足りなくてボク一人の専属って訳にはいかないにしくてとても面倒だけど、その分結界としての効力はお墨付きだね。妖怪を越えた半神相手でもいいところまでいくらしいし。で、ここに作ったのは広い場所が、あのマンションの傍ではここしかなかったからかな。普通は神社の境内や公園を使うんだけど、幼稚園ってのは初めてだ。まあ、子供たちの陽の気が残留しているから意外といい場所かもしれない。今度、御所守の義祖母ちゃまに幼稚園の運動場の積極的使用を意見具申してみようかな」

 

 こちらが口を挟む間もなく、御子内後輩は色々と教えてくれたが、ほとんど意味が分からなかったです。

 それぞれの単語の意味はともかく、世界観とか、たぶん、そういった類のことですね。

 俺もかつてオカルトに何度も遭遇したことがありますが、はっきりいって想像もできない世界が世の中にはあるようでした。

 

「じゃあ、二人とも上に登ってよ。おそらく、もうそろそろ〈人狼〉がやってくる」

 

 御子内後輩は空を指さしました。

 美しい満月が浮かんでいます。

 

「満月の下の〈人狼〉は手強い。伝説の通りに。……能力が比類ないレベルにまで上がるからさ」

 

 確かに俺の知っている限りでも満月というのは狼男に凄まじい力を与えるって言いますけれど……

 

「つまり、こうやって満月が出ているときの〈人狼〉は臭いを嗅ぎ取る力も強くなっているはずさ。……そらね」

 

『ウォォォォォォォォォォォォォン!!』

 

 以前、聞いた雄叫びが物理的な衝撃を与えるように轟いてきました。

 幼稚園の校舎の上に、そいつはいました。

 さっきのように人間になる寸前ではなくて、ほぼ完全に上半身は狼そのものになった怪物ホームレスが。

 満月を背にして、俺たちを見下ろしています。

 血の色をしていました。

 俺たちの喉笛を噛みきるためにペイントを用意したかのごとく。

 本物の怪物が襲い掛かろうと迫ってくるのです。

 ですが……

 だけど……

 

 御子内後輩は、

 

「さあ、勝負だ、〈人狼〉! ボクが最強のチャンピオンを目指すための第一歩となってもらおうか!!」

 

 と、敢然と雄々しく宣言するのでした……

 

 



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死闘突入

 

 

 数時間前に立川駅の改札口で見掛けたときは、まだ普通の人間の面影を宿していたのに、今のあいつは完璧に人の真似をしたケダモノという形でした。

 ホロボロのトレンチコートをはちきれんばかりの筋肉で押し出し、前かがみというか、四つん這いの格好で幼稚園の学び舎の屋上からこちらを見下ろしています。

 赤ずきんちゃんなら、「どうしてお祖母ちゃんのお口はそんなに大きいの?」と聞いてしまいそうなぐらいに耳まで裂けた獣の口から、牙と多量の涎があふれ出ていました。

 映画のCGのぬるりとした動きとは違う、あえて例えるのならばドキュメンタリーの動物ものを観るような不思議な感覚でした。

 ただ、それでも言えることは、あいつには今まで俺が遭遇してきて怪異と同様に現実感を与える凄味があるということです。

 どんよりと濁った黄色い眼に睨まれると、無我夢中で逃げ出したくなるような。

 俺がさっきあいつを古武術で投げ飛ばせたのは、咄嗟だったことと、多摩とはいえ人の多い駅の改札で、まだ表の太陽の満ちた世界に踏みとどまっていられたからだったのかもしれません。

 はっきりいって、夜になって満月を背景にして立つ、幻想的かつ圧倒的な恐怖の存在を目の当たりにしてさっきと同じ真似ができるとは思えませんでした。

 それは亜香里も一緒です。

 いや、俺なんか比べ物にならないほど恐ろしいかもしれません。

 完全にあいつのターゲットとなっている彼女にとっては、もう自分を抹殺に来た死神そのものにしか映らないはずです。

 しかも、彼女からしてみれば、ただ炊き出しでカレーを配ってあげただけで、本来ならなんの接点もない相手です。

 一目惚れとかそう言うことだと思いますが、狼もどきの怪物らしく匂いを追って、女性の回りを文字通りに嗅ぎまわり、家の中に勝手に入り込んだ挙句、厭らしい欲望を遂げようとしているのは、あいつの勝手であって亜香里にはなんの罪もないことなのです。

 ごく普通のイベントの主催者側にいただけで、亜香里はあの狼男に好意をしめしたわけでもないのに、独善的な思い込みで彼女の周囲を徘徊し、探り続ける変質者でしかない。

 あの狼男は、怪物であるという一点を除けば、ただのストーカーなのです。

 最初は優しい眼をしていたと亜香里は言っていました。

 でも、それはきっと気のせいです。

 彼女に対して狼男が持っていた好意を亜香里が読み取ってしまっただけ。

 一目惚れの片思いといえば聞こえはいいかもしれませんが、あいつは俺が彼女と合流して話を聞こうとしただけで勘違いして正体を見せてしまうぐらいに独善的な怪物なのです。

 あんな奴に亜香里を渡してはならない。

 俺はそう決めて、子供の頃から習っていた古武術・室賀流柔術の構えを取りました。

 勝てるなんて思えません。

 でも、理不尽に傷つけられる女性(ひと)がいたら絶対に助けなくてはならない。

 室賀流の始祖のように、俺は戦う決断をしなければならなかったのです。

 ところが、そんな俺をはるかに飛び越すようにして、

 

「いいかい、キミたち二人は囮の餌だ。あいつがこの〈護摩台〉に入ってきたら、すぐに転がって外に逃げるんだ。大丈夫、一度、この中に上がってしまえさえすれば、条件を満たさない限り、キミたちを追うことはできなくなる」

 

 御子内後輩が断言しました。

 つまり、彼女のいうことを真に受けるというのならば、このプロレスリングにあの〈人狼〉は閉じ込められるということなのでしょうか。

 もっとも、気になることがあったので俺はもう一つ質問を重ねました。

 

「条件ってなんだ? あいつがなにをしたらここから逃げ出してしまうんだ?」

 

 永遠に閉じ込められるとは思えないけど(それだと封印という言葉を使いますよね)、なんとなく気になってしまったのです。

 

「うん、簡単だ。ボクを倒すことさ」

「えっ?」

「この〈護摩台〉の中に入った妖怪は、このボクと一対一の戦いをして勝たねば外にでることはできないんだ」

「……妖怪と戦う? 一対一で……? 誰が、誰と? え、何を言っているの或子ちゃん」

 

 俺たちは御子内後輩の言うことが欠片も理解できませんでした。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?

 

「誰がって、ボクに決まっているだろう。このボクの技と力があいつを打ち砕くんだよ!!」

 

 拳を握り、こちらに見せつける御子内後輩。

 疑う余地もなく彼女はあの狼男とタイマンを張ると言っているのでした。

 あまりのことに唖然としている俺たちを尻目に、御子内後輩は狼男に対して指を突き付ける。

 

「さっさと降りて来い、妖怪変化め! キミの御執心の彼女とその彼氏はここにいるぞ!! そんなところで寝取られ男(コキュ)気分でいて楽しい訳がないだろ?」

 

 別に俺は亜香里の彼氏でも男でもないのですけど……

 

「……何をする気なんだ?」

「この〈護摩台〉はね、人間と妖魅との力の差を限りなく五分(フィフティ)にまで下げてくれる結界が張られているんだ。この中でならば、普通ならば為すすべもなく殺される人間でもあの怪物たちと渡り合えるようになる」

「妖怪と正面から戦える……?」

「ただし、この中ではボクたち退魔巫女が昔々から使っていた巫術や導術の類いが効かなくなってしまうんだ。この祓串(はらいぐし)やお(ふだ)でさえほとんど効果を発揮しないという不利益が生じる。だから、ボクらは妖怪と素手でやり合わなければならない。―――でも、負けない」

 

 御子内後輩はにやりと牙を剥きだす。

〈人狼〉もかくやという程の獰猛な笑顔でした。

 

「先輩も、キミの柔術であいつと戦えるけど、どうだい?」

「―――あいつと素手で……?」

「おや、少しやる気みたいだね。でも、やめておいた方がいい。さすがに普通の人間ではあいつら相手では厳しい。ボクらのように鍛え抜かれた媛巫女でなければ、妖怪変化をぶっとばし、押さえつけてフォールを奪うことはできないからさ」

 

 ワオォォォォォォォォォォォォォ!!!

 

 屋上にいた〈人狼〉が飛び降りて着地しました。

 音が一切しない身軽さを披露してきます。

 そして、四つ足で一気に運動場を駆け巡り、このプロレスリングの周囲を二周してから、バネでもついているかのように物理法則を無視したような跳躍をする。

 前に向いて走っていたはずなのに、一瞬屈んだと思ったら、真横に九十度跳ねあがって飛んでいたのです。

 次の瞬間には、リングの頭上に〈人狼〉は跳ね上がったまま、俺たち―――いや、亜香里めがけて大口を開きます。

 牙がずらりと並んだ狼の口腔。

 赤く見えるのは舌でした。

 ついに狼は付き纏っていた赤ずきんを喰らおうと襲い掛かってきたのです。

 ですが、その恐るべき襲撃は下から撥ねあがったパトリオットミサイルのようなキックによって吹き飛ばされます。

 

「キミの相手はボクだよ、〈人狼〉め」

 

 御子内後輩のコンパスの足が左右に開き切ったかのような蹴りは、確実に〈人狼〉の顎を捉えていたことに、柔術の心得がなければ気が付かなかったかもしれません。

 ただ言えることは、妖怪と一対一で素手で戦うと宣言するだけあって、なんとも美しく体重の乗り切った蹴りでした。

 

『打死你!!』

 

〈人狼〉が何かを叫びました。

 それは俺の乏しい知識でもわかります。

 この怪物はおそらく本当に中国大陸からやってきた〈人狼〉だったのです。

 

 



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人の恋路も邪魔しなければならないときがある

 

 

 白いマットの上に降り立った〈人狼〉は、紛れもなくオオカミそのものでした。

 こんなものを一度でも投げたというだけで、俺は師匠に頭を撫でて貰えるに違いありません。

 あの殊勲のときは、まだ普通のストーカーではないかと思っていたおかげで肉体がスムーズに動いたのですが、相手が完璧な怪物だとわかってしまったら、同じように動いてくれるとは限らなくなります。

 少なくとも、この〈人狼〉のまともではない素早さと敏捷性に対応できるかは難しいところでしょう。

 俺が習った柔術はあくまで人間相手の業であり、かつ、表技の抜刀術の添え物として編み出されたものであるから、刀を腰に差した状態でこそ真価を発揮する技であるのだから。

 この〈人狼〉を倒すなんて、素手どころか武器を持っていても至難の業でしかないと思いました。

 しかし、次の瞬間、どこからともなく、

 

 カアアアアン

 

 という鐘の音―――いえ、ゴングの音でしょうか、そうとしか聞こえないものが鳴り響いたのです。

 

「二人ともすまないな!!」

 

 別段ぼおっしていた訳ではありませんが、俺と亜香里は御子内後輩に蹴り飛ばされてリングの外に落下していきました。

 尻からみっともなく落ちたので、とてつもなく痛い思いをしてしまいます。

 その俺たちを追って、〈人狼〉が向かってくるのですが、どういう訳か恐ろしい怪物はリングに張られたロープを掴んだまま、やってこようとしません。

 俺たちを睨み続けて入るのですが、それ以上は何もしてこないのです。

 何が起きたかもわかりませんが、直観的にこの〈人狼〉はもう俺たちを追うことができなくなっているのだと悟りました。

 何故か?

 それは御子内後輩が説明してくれた通りなのでしょう。

 このプロレスのリングにしか見えない場所に張られているという結界のせいなのだと思います。

 これが、まるでごきぶりホイホイに入ったGが逃げられなくなるように、スポイト型の罠に入ったウナギが抜け出せなくなるように、一度取り込まれてしまったら易々とは外に出られなくなるようになっているのでしょうね。

 だから、目の前に俺たちがいるというのに、歯噛みするしかない〈人狼〉は牙を鳴らしながら威嚇を続ける。

 

「ひぃっ!!」

 

 執拗な脅しと威嚇に、亜香里は尻もちをついたまま動けなくなったみたいです。

 腰が抜けてしまったのでしょう。

 一メートルも離れていない頭上から、カチカチと鋭い牙の鳴る音と咽喉から捻りだされる唸り声は、動物園で猛獣の檻の扉が開いてしまっているぐらいに命の危険を感じさせました。

 

「―――大丈夫だ、亜香里。こいつはそのリングから降りられない」

「でも!!」

「大丈夫だ!! だから、大丈夫だ!!」

「そう―――大丈夫さ!!」

 

 ロープ越しに手を伸ばして爪で引っ掻こうとする〈人狼〉の首根っこを捕まえて、気合いとともに後方へ投げ飛ばし、ロープの反動で返ってきたその胸板にドロップキックを放った御子内後輩が叫びました。

 

「妖怪退治はボクの仕事さ。キミたちは黙って観ていてくれればいいよ!!」

 

 倒れた〈人狼〉の首筋目掛けて、足を落とすギロチンドロップをかまそうとするが、一足先に立ち上がった怪物に足首を掴まれて放り捨てられる。

 後輩が見掛けよりも軽いというより〈人狼〉が馬鹿力なのでしょう。

 それでも、トンボを切って着地するところに、巫女というよりも軽業師的な体術を感じさせます。

 というか、本当にあの子、素手で〈人狼〉と戦う気ですよ!

 冗談半分に聞いていましたけど、まさかマジで本音100%だったとは思いませんでした……

 

「だっしゃあああ!!」

 

 御子内後輩は地刷りの歩法で近づくと、〈人狼〉の腹目掛けてナックルをかまします。

 でも、俺が見ている限りでも、〈人狼〉の腹筋はかなり堅そうです。

 とてもじゃないが、御子内後輩の細腕では蚊が刺したほどにも通じそうにない……

 はずだったのに、なぜか、激しく〈人狼〉が後方にのけ反りました。

 何が起きたかはわかりません。

 ただ、自分自身の眼を信じるというのならば、〈人狼〉が下がったのは御子内後輩の打撃をまともに食らった衝撃のせいだと思います。

 つまりは、それだけ御子内後輩の打撃力が腹筋の防御力を上回ったということなのです。

 あり得ない、と俺は舌を巻きました。

 なぜなら、実際に掴んで投げた経験から言わせてもらえば、〈人狼〉の身体は表皮も含めてとんでもなくしなやかで堅いのです。

 それをぶち抜くパンチなんて。

 しかも、御子内後輩は高校一年の女の子なのですから。

 

『キサマ!! ジャマスルナ!!』

 

〈人狼〉が吠えました。

 さっきの中国語とは違う、訛りこそあるが十分に聞き取れる日本語でした。

 ジャッキー・チェンの映画でも観ているかのような光景です。

 狼そのものとなった声帯から人間の言葉を無理矢理に引き出しているようにも感じました。

 野生の獣のものとは違う、明確に人間の憎悪を吹きださせて襲ってくる〈人狼〉の圧力を真っ正面から弾きかえして、御子内後輩は言葉をぶつけてきました。 

 

「女に惚れたってんなら、きちんと前から行くべきだね。前から行く機会を見つけるために四苦八苦するのも恋愛の醍醐味だろうけど、相手のことを無視して自分勝手に暴れまわるのは、恋とは言わない。それはただの執着だ。独りよがりの妄念だ。恋愛は絶対に美しいものではないけれど、綺麗なものと信じることをボクは推すね。相手が自分の思い通りにならないからといって、暴力を振るったり競争相手を排除したりするのは、亜香里を不幸にするだけでしかない。まして」

 

 そして、御子内後輩は構えました。

 

「キミのやっていることはただのストーキングだ!! どうやって大陸から日本に渡ってきたかは知れないけれど、この国ではね、女を誘拐して嫁にするような真似は決してゆるされないんだよ!!」

 

〈人狼〉の返事は一つ。

 雄叫びを上げて、自分に説教をする娘を殺そうとすることだけでした。

 

『打死你ァァァァァァ!!』

 

 再び、〈人狼〉は中国語で何やら叫びました。

 おそらく、「死ね」とか「殺す」とかその類いでしょう。

 一度、四つ足に戻ってから陸上のクラウチングスタートのように身をかがめながら〈人狼〉はダッシュを駆けていきました。

 襲い掛かる両の前肢。

 鋭く尖った爪と牙の三段攻撃。

 右……左……そして牙。

 それらをなんと紙一重で避けると、御子内後輩は〈人狼〉のバックに回り込み、胴体を抱え込みます。

 

「フン!!」

 

 そのままへそで投げるカール・ゴッチ式のバックドロップ。

 前傾姿勢であるためか、首筋から見事にマットに叩き付けられた〈人狼〉が痛みで吠える。

 ダウン攻撃はさっき防がれたことから用心してか、巫女は今度は〈人狼〉が立ち上がろうとするのを待ってから、回し蹴りを放った。

 左前肢を曲げてガードしようとした〈人狼〉の意図を掻い潜るように、右からの蹴りは軌道を変化させて、まるで平仮名の「て」の字を書くように逆方向から命中しました。

 見覚えがあります。

 あれは空手の「掛け蹴り」です。

 あんな高速で変化する軌道は全国大会でも見たことがありませんでした。

 この段階でようやく俺も御子内後輩がガチであの〈人狼〉と素手でやり合おうとしているということが理解できました。

 

 それがどれだけ無謀なことか、かつて人間の世界に潜んでいた怪物に病院送りさせられたこともある俺からすると、よくわかります。

 このリングの形を()()した結界のおかげかもしれませんが、それでも素手で戦うなんて無理・無茶・無謀の暴走行為です。

 今になってやっとわかりました。

 さっき、部屋にやってきた初対面の彼女の言うことに従って、籠城していたはずなのに外に出てしまった理由が。

 あの巫女の少女のまっすぐで熱い瞳を信じてしまったからでした。

 彼女にすべてを任せてしまってもいいと委ねてしまったのです。

 

 ただ、それは少しだけ間違っていました。

 

 俺の後輩である御子内或子は、まだ経験がなかったのです。

 

 この〈人狼〉との戦いが、彼女にとって初めての独り立ちの戦いであり、命を賭けた死闘としての妖怪退治の初陣でもあったのです。

 その経験のなさが、戦いが長引くにつれて顕著になっていきました……

 

 



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あの魔物を撃て!!

 

 

 リング上で(御子内後輩に言わせると〈護摩台〉という結界らしいのですが)戦う巫女と〈人狼〉の戦いは五分を越えても互角のままで、十分を越えたあたりから優勢な方がはっきりとしてきました。

 俺たちにとって望まない方向―――つまりは御子内後輩が押され始めてきたのです。

〈人狼〉の最も危険な部位である爪と牙による攻撃こそ躱しきっていましたが、御子内後輩の攻撃はことごとく信じられないタフネスさによって受けきられていました。

 巫女の一撃が軽いはずがないのは俺にもわかります。

 ただ、それらを何十発と受けても倒れない〈人狼〉が化け物すぎるのでしょう。

 少なくとも、御子内後輩の放つ蹴りや拳、八極拳の鉄山靠《てつざんこう》といった技のダメージが低いなんてことはありえません。

 肉を叩くときでさえロックのドラムを力一杯スティックするぐらいの音がするので、軽く見積もっても何十キロという重さを備えているはずです。

 それでもスタンドし続ける〈人狼〉がとてつもないのです。

 思い返せば、俺が柔術で投げたときもすぐに立ち上がってきたのは、技が不十分だったからではなくて、あいつがタフすぎたからなのでしょうか。

 逆に、テクニックで上回るからか嵩に懸かって攻めたてていた御子内後輩の息が荒くなってきています。

 額に滝のような汗が流れていました。

 さすがに十分もこんな恐ろしい怪物と命を賭けて戦うということはそれだけ消耗するということなのでしょう。

 ただ、俺には彼女の戦い方の瑕疵がわかっていました。

 それは、スタミナの配分が出来ていないということです。

 初っ端からトップギアにあげてくる戦法もアリなのですが、この〈人狼〉相手には噛みあわないやり方でしかない。

 御子内後輩としては、最初のうちに仕留められればよいとしての選択だったのでしょうが、結果としては間違いだったといえます。

 ただ、武術をやってきた身としては、それは選択ミスというよりも経験のなさからくる焦りのようなものがあった気がします。

 御子内後輩は明らかに経験不足で、持ち前のテクニックのようなものが活かしきれていませんでした。

 一つ一つの技はいい。

 なのに後先を考えない突貫のみを続けているのです。

 頭を使っていないということが見て取れました。

 単に突っ込めばいいだけで、勢いに任せて攻めるだけなのです。

 

「それじゃあ……ダメだ」

 

 思わず口に出てしまいました。

 御子内後輩が必死に戦っているのはわかります。

 それが亜香里と俺を護るためであることも。

 でも、それではダメなのです。

 もし、俺たちを守ろうと考えていてくれるのなら、そんな行き当たりばったりな戦い方ではいけません。

 なにより、御子内後輩自身がこのままではジリ貧に陥ってしまい、最後には彼女が倒される結果になります。

 俺たちを助けようとした結果、彼女までが犠牲になることは望んでいません。

 できることなら、助けてあげたい。

 

「或子ちゃん! 頑張って!!」

 

 亜香里が声を張り上げた。

 自分を守る相手がいなくなったら、亜香里が襲われるなんて利己的な考えからの声ではなく、ただ一生懸命に戦う御子内後輩を応援したいという真摯な想いからのものだったと思います。

 心底、彼女は声援を送り続けていました。

 

「頑張れ、或子ちゃん! 負けないで、或子ちゃん!」

 

 だけど、そんな亜香里の声は御子内後輩には届いていないようでした。

 とてもではないが、そんな余裕はないみたいです。

 さっきまでと変わらず〈人狼〉相手に組みあっては投げ、当たっては殴り、ただプロケス的な戦いを繰り返し続ける。

 まだ、あのゴングみたいな鐘が鳴る前はもっと余裕があったはずで、俺の部屋に着いた時の不遜で自信に満ちた態度がまったく鳴りを潜めている状況なのです。

 何があったのか、答えは簡単でした。

 やはり彼女は経験値が足りず、戦いのプレッシャーのために頭が回っていないのです。

 それだけでなく、周囲を見ることも聴くこともできず、ただ目の前の敵を我武者羅に斃そうとしているだけ。

 会って数時間もたっていませんが、おそらく普段の彼女ならもっとうまく戦えるような予感がします。

 でも、今はできない。

 きっと本来は彼女のために後ろから支える誰かが必要なのでしょう。

 しかし、今、そんなことができるのは―――俺しかいません。

 視野が狭く、焦りに遮られている彼女を助けられるのは。

 

「きゃあああ、或子ちゃん!!」

 

 亜香里の叫びは、御子内後輩が〈人狼〉の力任せのラリアットを喰らい、場外に吹き飛ばされたことによるものでした。

 敷かれたマットに肩からもんどりうって倒れる御子内後輩。

 危険な落ち方でした。

 下手をしたら首の骨を折りかねない。

 それでも彼女はまた意識を保ったまま、すぐにでも立ち上がろうと膝をつきます。

 その時、どこからともなく、

 

 ワーン、ツー、スリー……

 

 カウントが流れ始めました。

 もしかして、これは二十カウント。

 プロレスのリングアウトルールを宣告するためのものでしょうか。

 さっきのゴングと同じでどこから聞こえてくるのか皆目見当もつきませんが、これが流れ出したということは一から二十まで数えられたら御子内後輩が負けるということになるのかもしれません。

 そうしたら、リング上の結界から自由になった〈人狼〉が亜香里とついでに俺を殺そうとするでしょう。

 御子内後輩と一緒に。

 そんなことはさせません。

 俺を頼ってくれた女性と、助けようと獅子奮迅の戦いをしてくれた後輩を、見殺しになんてできない。

 倒れた御子内後輩にとどめを刺すためか、〈人狼〉がのっそりと降りてきた。

 どうやら場外乱闘ということになったら、リング上の結界が緩くなるらしいです。

 このままで亜香里が危険です。

 亜香里を背中で庇うように回り込んで、俺はブルゾンの裏に隠していたCz75を抜きました。

 そのまま銃口を突きつけます。

 

 ニヤリ

 

 人の顔をした狼なのか、狼を模した仮面なのか、〈人狼〉は嘲笑したようでした。

 銃なんか効かない、とでも言っているのでしょう。

 確かに、伝説の狼男はどんな武器でも傷つけられず、銃弾さえも通さない鉄の皮膚を持っていると伝わっています。

 こんな、玩具の拳銃なんかまったく歯が立たない、脅しにもならないことはわかりきっていることです。

 でも、俺はCz75を突き付ける。

 

「―――近寄ると撃つ」

『ばかジャネーノ』

 

 外国人らしい発音と訛りをもって〈人狼〉は喋りました。

 

『コノ変テコリンナ、巫術師(ウーシューシー)デモ俺ニ傷ツケラレナイノニ、ソンナモンガ効クワケネーダロ』

 

 御子内後輩はやっと片膝を立てたところでした。

 フラフラしています。

 すぐに戦える状態じゃあないです。

 

「効く効かないは関係ない。俺は、この亜香里に助けを求められてそれを受けた。だから、背中に庇って悪いやつから絶対に助ける」

『ヘッ、侠客ノツモリカヨ。水滸伝デモヨンデロ』

「おまえにはわからないだろうよ。それにおまえなんかから、罪もない子を助けられるというのなら幾らでも身体を張れるさ」

『言ッテロ、馬鹿ガ』

 

〈人狼〉はなんの警戒もせずに腕を伸ばして、俺たちに近寄ってきた。

 銃を警戒する素振りすら見せません。

 完全に舐めきっているのです。

 邪魔をする手強い敵を退けたという自信もあって、ただの人間の俺のことなんて虫けら程度にしか考えていないのでしょう。

 だから、俺がCz75の引き金を引いても例の超反応はしませんでした。

 でも、それが俺の狙いでした。

 

 パン

 と、違法レベルに圧縮したガスが噴出し、チャンバーの中に入っていたBB弾ならぬ必殺の弾丸が発射される。

 弾丸は本来ならば〈人狼〉の肉体に弾き返されていたでしょう。

 でも、俺がCz75にこめておいたのは、部屋に戻ってから急いで削りだして作った特製の弾丸だったのです。

 

『ヘッ?』

 

〈人狼〉は間抜けな声をあげた。

 心臓の真上にあたる部分にぽっかりと穴が開いて、妖怪とは思えない紅い血飛沫があがりました。

 まさか、傷つけられるとは想定もしていなかったのでしょう。

 でも、これは俺が最初から狙っていたままでした。

 俺が用意していたのは、フォークの歯を一本ペンチで切断して形を整えて作った即席の弾丸でした。

 材質は―――銀製。

 

 魔を退けるという銀製の弾丸は、やはり言い伝えの通りの力を発揮して、不死身の魔物に一矢を報いたのでした……

 

 



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先輩から後輩へ

 

 

〈人狼〉はこの世ならぬといっていい叫び声を、痛みをこらえきれずに発しました。

 わかります。

 きっと、今までこれほどの痛みを受けたことがないからなのでしょう。

 

 狼男は「銀の弾丸で殺せる」というのは、『倫敦の人狼』と『狼男の殺人』という映画のオリジナル設定だと言われていますが、実は中国における人が獣に化ける怪物も銀の刃物で刺し殺せるという伝説からの剽窃だという説もあります。

 なぜ、大陸において特に銀が獣人に効くと言われているかは、銀に含まれる成分などよりは、狼男などに力を与える月光を切り裂く魔術的意味があるからというのです。

 夜に輝く月の光は銀に例えられ、関係性が深いのは確かでしょう。

 だからかどうか、銀の武器は月の光によって強化される獣人にとって力の源を破壊する致命的な攻撃になるようです。

 そして、俺が銀製のフォークから削りだしただけの粗雑な弾丸でさえ、銀であるというだけで〈人狼〉の堅い皮膚を貫きました。

 人間ならば致命的ともいえる傷を負っても即死しないのはさすがのタフネスといえます。

 さっきまで御子内後輩の攻撃を喰らってもふらつく程度で倒れもしなかった怪物が、苦痛の呻きを洩らしながら膝をつく。

 効いている。

 やはり魔物を倒す銀の弾丸は効果があるようだ。

 

『テメエエエ―――』

 

〈人狼〉の発する怨嗟の言葉がまるで物理的な塊にでもなったかのごとく、俺たちを颶風となって吹き飛ばします。

 三メートルは離れていたというのに、見えない柔らかい壁でもぶつけられたかのように衝撃に俺たちは転倒しました。

 いったい、何が起きたのか。

 風が吹いた訳でもなく、気のせいでも錯覚でもありません。

 本当に不可視の意味不明なものに俺たちは飛ばされたのです。

 

「きゃあ!!」

 

 俺たちは思わず叫んでしまいました。

 いったい、何事が起きたのかと。

 しかし、身体がほとんど痺れたまま動かないのです。

 全身に電気が流れたかのように。

 このままではいくら手負いとはいえ、目の前の〈人狼〉に頭からバリバリと食べられてしまうかもしれません。

 だけど、どうしようもなく身体が動かない。

 今度こそ絶体絶命、危機一髪となったとき―――

 

「―――I'll huff and I'll puff and I'll blow your house in.  確か翻訳すると、『こんな家なんか、おれさまの自慢の息で、ふき飛ばしてやるさ』だったかな。―――三匹の子豚で狼が言う台詞さ。修験道の不動金縛りの術である〈心の一方〉のように、生き物に咆哮で瞬間催眠をかけて気絶させるのが〈人狼〉の秘儀のようだね。ネタがわかったらそいつはもう通じないけどさ」

 

 ようやく立ち上がることができたらしい、御子内後輩がマットによじ登りながら戻っていく。

〈人狼〉は俺たちではなく、しぶとく起き上がった敵を睨んでいました。

 こちらには目もくれません。

 まるで俺たちが身動きとれない以上、もういつでも始末できると言いたいかのようでした。

 

「おい、〈人狼〉。ボクはまだやられていないよ。キミがその二人を自由にしたいというのなら、まずボクを倒してからにすることだね。―――でないと、いつまでも〈護摩台〉の結界からは逃れられないよ」

 

 這いずるようにマットを進み、ロープを掴んでかろうじて自分を支えているにも関わらず、御子内後輩はまだそんな減らず口を叩きます。

 粘り強い、などという言葉では語りつくせないほど、しぶとい性質の持ち主なのは間違いありません。

 リング下にいる〈人狼〉を挑発してマットに戻そうとしていました。

 

「早く戻って来い。カウント20になったら、キミの負けでそのまま封印されるぞ。それではボクの気が晴れない。少なくとも、ボクの手で倒さなくては退魔巫女として失格となってしまうからね。それに―――」

 

 御子内後輩は俺たちを見やり、

 

「巫女でもない先輩が必死に他人を守っているのに、ボクはちょっと自分のことしか考えていなかったような気がする。〈社務所〉の媛巫女の存在意義を忘れていたみたいだ。だから、その失態を取り戻すためには―――」

 

 怪物に恐れ知らずに宣言しました。

 

「キミを完膚なきまでに叩きのめさないとならない。上がってこい、怪物。胸に穴が開いた程度で、戦えなくなるような安っぽい妖魅じゃないだろう? ストーカーを続けたかったら、やっぱりボクを倒すことだね!」

 

 ストーカーと言われたことに腹を立てたのか、〈人狼〉は凄まじい勢いでマットの上に登り、御子内後輩目掛けて駆け寄っていく。

 やはり速いです。

 しかし、その怪物を正面から御子内後輩は迎撃する。

 

「でりゃあ!」

 

〈人狼〉の頭部をブレーンバスターの要領で右腋に抱え込むと、密着した怪物の腕を自分の頭の後ろへ持って行きました。

 その態勢のまま御子内後輩は左腕で〈人狼〉の片腿を抱え込むと、のけ反るように後方へスープレックスとして投げます。

 マットにぶつけたと同時に固めました。

 敵の勢いを利用して、さらに投げの衝撃を一切逃がさないように繰り出されるフィッシャーマンズ・スープレックスホールドでした。

 いかに肉体の表皮が堅くても内臓にかかる負担からは免れない。

 しかも、ただの投げと違って受け身が取れないより強い力がかかる技です

 フォールの態勢に入ったせいか、どこからともなく、

 

 ワン……

 ツー……

 

 とカウントが刻まれてきましたが、スリーとなる前にクラッチを切り、〈人狼〉は御子内後輩から離れました。

 最後までスリーカウントが刻まれたらどうなるかはよくわからなけれど、とにかくまだ決着はつかないようです。

〈人狼〉は今度こそ牙と爪を巫女の柔肌に食い込ませようと襲い掛かります。

 もうスープレックスによって投げられないように、絶妙な距離をとりつつ、さっきまでと同じ素早さで御子内後輩を削ろうとしてきます。

 もともとテクニックでは相手を凌駕する御子内後輩はそれを簡単に凌ぎきり、それどころか、逆手に手首を極めると籠手返しの要領で投げ捨てたりしました。

 序盤の勢いと力任せの戦い方とは違う、相手をいなす呼吸を交えての攻防を展開し始めます。

 別人のようですが、なんとなく理由はわかりました。

 勝利に逸ることは戦い方を狭くし、判断を悪くする元です。

 さっきまでの彼女はそのせいで〈人狼〉を倒しきれず、逆にピンチを迎えることになってしまっていたのです。

 でも、何かのきっかけで御子内後輩は自分を取り戻したのか、自分の血気を抑えて、〈人狼〉に勝つための戦法に切り替えたのです。

 タフな相手を倒すために、敵の力を利用して投げては隙を見て痛めつけるという戦いに。

 そして、その戦術の変更は結果を残します。

 何度目かのダウンのあと、なんとかして立ち上がろうとした〈人狼〉の膝が崩れます。

 ここまでの間に、御子内後輩が与えてきたダメージがついに不死身の怪物の膝を笑わせたのです。

 御子内後輩はチャンスの前髪を掴み損ねるほど、ぼうっとしていたりはしません。

 彼女はその一瞬を逃さず、高く跳躍します。

 全身を浴びせるように倒れこみながら、身体を横にして、半回転させつつ、シューズの外側面を〈人狼〉の顔面にぶちあてる後ろ回し蹴り―――フライング・ニールキックでした。

 かの前田日明が発展させ得意技とした、必殺の大技。

〈人狼〉はまともに顔面に受けて悶絶します。

 しかも、そのまま両膝をついてしまいました。

 それだけのダメージを喰らったということなのでしょう

 またも、御子内後輩は背後に回り込むと、こんどは両腋の下から両腕を通して、〈人狼〉の後頭部あたりでその両手を組んで羽交い絞め(フルネルソン)にしました。

 両腕を強く締め付けることにより、〈人狼〉は身動きが取れなくなります。

 

「これで終わりだああああ!!」

 

 気合い一閃!

 御子内後輩はさっきのバックドロップのように丹田に力を籠めると、そのまま後方にブリッジをします。

 

 飛龍原爆固め(ドラゴンスープレックス)!

 

 フルネルソンの体勢のまま相手を後方に投げるという、相手の頸椎を痛めるだけでなく背中、呼吸器まで破壊する大技中の大技でした。

 ニールキックのおかげで朦朧となっていたのか、抵抗もできずに投げ捨てられた〈人狼〉をブリッジしたままで押さえつけていると、またも

 

 ワン……

 ツー……

 

 とカウントが刻まれだし、最終的に、

 

 スリー……

 

 3カウントがとられると、カアアアアンとゴングが鳴り響き、〈人狼〉の姿が擦れていき、数秒後には消滅してしまいました。

 いったい、何があったのか、どういう理屈なのか、さっぱり理解できませんでしたが、御子内後輩の晴れ晴れとした顔からは決着がついたということだけはわかりました。

 隣を見ると、ようやく俺同様に金縛りが解けたらしい亜香里も呆然としています。

 助かったということがすぐには呑み込めないのでしょう。

 少しして御子内後輩がこちらにやってきました。

 

「お見苦しいところを見せてしまったね。とりあえず、〈人狼〉は封印したから、それで許してほしい」

 

 あの怪物を素手で倒したらしい女勇者は謙虚にそう言った。

 表情に晴れ晴れしさはあったが、自慢げでもなく、増長しているのでもないところがこの少女らしいと思いました。

 

「ボクは力で物事を解決しようとしてばかりいる。師匠には言われたんだけどね。いつか力では解決できないことにぶちあたったとき、どうすればいいか、まだわかっていない」

「でも、或子ちゃんは私を助けてくれましたよ……」

「今回はたまたまだよ。ボクよりも、むしろ、先輩のおかげだ」

「俺?」

 

 俺は最後に〈人狼〉に銀の弾丸を当てただけです。

 そのあとでもあれほど動き回られるということは、あまり役に立たなかったという可能性もあるぐらいでした。

 

「先輩が、自分の危険を顧みずに身体を張ったことであいつを止める時間ができた。キミが勝利の鍵だった。ボクはそれに便乗しただけさ」

「そんなことはないだろ」

「いや。ボクはまだまだ未熟だということさ」

 

 御子内後輩は夜空を見上げて、

 

「―――いつか、ボクにも力だけでなくて心や知恵で難事に立ち向かう術を教えてくれる師が現われてくれればいいんだけどね。先輩のように」

「俺はそんなたいしたことないぜ」

「謙遜しなくていいよ」

 

 後輩はトップロープ越しに地上に降り立ち、

 

「―――()()()()で、そんなに強靭な心をもってあんな妖魅に立ち向かって他人を助ける。先輩は本当に〈お化け退治〉のヒーローだ」

 

 そう言われても俺は嬉しくありません。

 だって、なんのために―――

 

「俺、とか、その乱暴な男みたいな口の利き方のせいで、どうみても亜香里の彼氏に見えてしまうから、〈人狼〉をあそこまで嫉妬させてしまったんだろうけどね。先輩、けっこう美人だから、()()()()()()()()()()()()んじゃないかな」

 

 ほっといて欲しいです。

 せっかく、努力して女の子らしさを出そうとしていたりしているというのに。

 内心はともかく外面だけはボーイッシュになってしまうのは、姉の影響なんでしょうけど。

 ただ、御子内後輩に言われたくはないですね。

 

「色々と勉強させてもらった。ありがとう、先輩」

 

 自分だって男の子みたいに握手を求めてくるというのに、自分だけは別格だみたいなところが、まったく生意気な後輩です。

 俺は少しだけ理不尽な気分になったものでした……

 

 

 



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第45試合 インベーダー秘宝街
高学歴は腐りものである


 

 

 郵便局を出た直後、七條悟郎(しちじょうごろう)は自分がとんでもないミスを犯したことに気が付いた。

 

「あ、性別の欄に丸つけるの忘れてた! 配偶者欄にも! 書類不備だ! ―――うわー、こんなのだから書類選考で弾かれるんだよな……」

 

 七條はハローワークから紹介された先に、大量に履歴書を送るためにパソコンで作成しているため、こういうつまらないミスをよくする。

 ルーチンワークと化しているからというのもあるが、もともと粗忽ものなのだ。

 

「せめて面接まではいってくれ……」

 

 祈るような気持ちで、郵便局に後ろ髪を引かれながら七條は歩き出す。

 すでに半年以上、就職活動をしているのだが、まったくもって結果が出ていない。

 いくらなんでもこの外れ方はないだろうと思わなくもない

 七條は世の中に対しての恨み節で満ちていた。

 もっとも、彼以外のものからすれば、「もう少しガンバレ」程度の努力しかしていないのではあるが。

 

「運が悪いだけじゃないか……。俺はコミュ症だからな」

 

 コミュ症―――いわゆるコミュニケーションが病的に下手な人間のことであるが、七條は自分がそういうものだと思い込んでいた。

 だから、三十過ぎてはじめた就職活動がまったくうまくいかないのだと信じていた。

 実のところ、問題はそこにはなかったのであるが。

 

「はー、親には文句言われるし、友達は出世しているし、世の中はろくなことがない。あああ、すべてが嫌だ」

 

 ため息をつくと幸せが逃げるというが、今の七條は不幸そのものなのでいくらやっても構わない。

 

「うちに帰って、まとめサイトでも見よう」

 

 100パーセント後ろ向きな予定をたてて、七條は駅前から家の方に歩き出す。

 実家暮らしなので、家賃を払う必要がなく、そのことがさらに七條の就職活動を杜撰なものにしているのだが、そういう苦労はしたくないと逃げ出すぐらいだらしない男であった。

 とぼとぼと道を歩いていると、

 

「七條さん」

 

 後ろから声を掛けられた。

 平日の昼間から住宅街をうろちょろしている三十男に話しかけるとは、なんて勇気のある男であろうか。

 もしくは警察だろう。

 お巡りさん、あの人ですみたいな通報があったとしたら理解できる。

 少なくとも今の七條は負のオーラをまとった怪しい人物に違いはないのだから。

 

「……なんだ、升麻くんか」

 

 身構えて振り向くと、見知った顔が立っていた。

 学生服を着て、通学カバンを背負っている。

 首に白いマフラーを二重巻きにしているところはかなり子供っぽい。

 近所に住む高校生で、たまに派遣のアルバイトで一緒に働いている相手だった。

 升麻京一。

 七條にとっては最近では親しいといっていい間柄の少年である。

 昔は細っこくて痩せっぽちだったが、ここ一年ほどで筋肉がついて逞しい感じに育っていた。

 普段は若いというだけで嫉妬心が溢れてくるのだが、さすがの七條もこの少年相手にだけはわりと気負わず会話ができる。

 

「今日も派遣ですか」

「いや。……履歴書を出しに行ったんだよ。そろそろ、きちんとした会社に行きたい。もう肉体労働は懲り懲りだ。派遣の連中に色々と言われるのももう嫌だ」

「それは七條さんが、東大出身ということをバラしてしまったからですよ。いくらなんでも赤門出のエリートが倉庫で働いているなんて思わないですからね」

「いや、東大でたなんて一言も言っていないぞ」

「今の東大学長がどうとかよく口走るからバレるんです。自重しておけばいいのに。悪目立ちしちゃったんですよ」

 

 七條は東京大学の法学部出身だった。

 だから、エリートである。

 インテリでもある。

 だが、学業以外には根気がなく、人間関係の構築も杜撰で、社会に出る段階で派手に蹴躓いたのであった。

 そうすると、世間は高学歴に対して冷たい。

 本人が持ち腐れるままに放置していたとしても、世間様はそんなところを見逃してくれず、だいたい好奇の眼差しでみて皮肉を言ってくる。

 七條は無駄にプライドが高いのでそれでさらに閉じこもることになる。

 そうこうしているうちに、就職もできず、大学の同期がいい感じに出世していくのを横目で見ながら、その日暮らしを続ける羽目になっていった。

 

「升麻くんみたいに空気を読んで無視してくれればいいのに」

「いや、一般人からすると東大生なんて珍獣は滅多にお目にかかりませんからね。ジロジロ見たくなるというものですよ」

「やめてくれ…… 俺はのんびりとしていたい。むしろチヤホヤしてほしい」

「すぐに本音を口にするのはやめましょうね。大人なんですから」

 

 升麻はこの手の変人の相手に慣れているので、七條を無駄に傷つけないところがよかった。

 最低限の気を遣ってくれるところが七條的にも居心地のいい相手だった。

 

「どうだい、お茶でも飲まないか」

「お金あるんですか? 貯金とかしなくていいんですか?」

「升麻くんまでお袋みたいなこというなよ。大丈夫だ、これも明日の活力のためだし、情報交換は必要なんだと思うぞ」

「いいですけど……」

 

 駅まで引き返して、ファストフード店にでも行こうかと思っていると、七條のポケットにしまっておいたガラケーが鳴りだした。

 着信だ。

 どうせ派遣会社だろう、と期待もせずに画面を見ると、登録していない知らない番号であった。

 おそるおそる耳に当てる。

 

「もしもし、七條でございますが」 

『七條様でいらっしゃいますか? こちら、フラン・コーポレーションの人材採用係の関口と申します』

 

 七條の脳みそがフラン・コーポレーションを検索し、数週間前に履歴書を送った記憶が出てきた。

 そういえば電話も郵便での連絡もなかった。

 無視されたのだと思っていたのだが、実は審査が続いていたのか。

 ここで七條はまずい事実も思い出した。

 フラン・コーポレーションがなんの会社だったか覚えていないのだ。

 適当に送りまくった履歴書と職務経歴書のせいで、一つ一つのことを把握できていないのだ。

 そういえばハローワークの窓口係には自分のキャパシティを越えた応募はやめたほうがいいと言われていたのにもかかわらず、「俺は東大出で記憶力もいいし百ぐらいは余裕余裕」となめてかかっていたせいで覚えていなかったようだ。

 でなければ、いくらなんでも職種ぐらいは覚えているだろう。

 

「お世話になっております。貴社に応募した件でございましょうか」

『はい。七條様のご都合がよろしければ面接を執り行いたいのですが』

「あ、ありがとうございます! いつでも大丈夫です! 私は貴社に採用されることを心待ちにして……」

『では、本日、午後六時からということでよろしいでしょうか。急な話でとても申し訳ないと』

「き、今日!?」

『はい。こちらの一方的な事情で申し訳ありませんが、急なことでありますが、是非本日中に面接を行いたいのです。七條様のご都合はよろしいでしょうか? 本日が無理ということならば、この件はなしということにするしかないのでございますが……』

 

 七條はこれが駆け引きの類いであることに気づいていた。

 契約関係があればパワハラに踏み込んでいるといってもいい。

 当日に面接をして、しかも冬の六時といえば完全に暗くなっている。

 とてもではないが、通常の面接としてありえる時間帯ではなかった。

 しかし、就職に飢えていた七條はそれらのリスクをすべて呑み込んだうえで、

 

「わかりました。面接場所を教えていただけますか」

『場所は―――』

 

 吉祥寺の駅前のビルを指定された。

 場所としては簡単なところであった。

 アポをとりつけると、フラン・コーポレーションの人事担当は電話を切った。

 午後六時まではあと三時間ほど。

 いくらなんでも早すぎる気はするが、とにかく面接にでればうまくいけば就職できるし、文句の多い母親にも言い訳ができる。

 七條としては行くしかない、というところであった。

 ただ問題が一つある。

 

「良かったですね」

 

 升麻京一が会話の内容から読み取ったのか、応援してくれる。

 頭の回転の速い子は呑み込みも速い。

 

「ありがとう。応援されついでに頼みがある」

「なんですか」

「ついてきてくれ!!」

「―――はあ?」

 

 予想通りの反応がされたが、七條としてはここは絶対にひけないところだ。

 

「俺一人では心細い。面接までは何回もいってきたが、夜中にやるなんて初めてだ。とてもじゃないが一人では心細い。一緒にきてくれ! 一生のお願いだ」

「七條さん、三十一歳でしょ? そんなの一人で行ってください」

「頼む、そんなことを言わずに。友達だろ!?」

 

 いつ友達になったんだ、と京一は思ったが、もともとお人好しの彼としては必死に頭をさげられては押し切られるしかない。

 コミュ症といいながら、京一に対してはやたらとグイグイくる一回りも年上に苦手意識を感じながら、了承のうなずきを返した。

 

「さすがは升麻くんだ。君は大物になるぞ!」

 

(順風満帆のレールから疾風の勢いで外れていった元エリートに言われてもなあ)

 

 相変わらず、空気を読んでツッコミを自重することのできる升麻京一であった……

 

 

 



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京一の勘は何かを告げる

 

 

 悟郎から詳しい話を聞いた京一は首をかしげた。

 なんともおかしい話だからだ。

 いきなり当日の、しかも夜に面接をするものだろうか、と。

 

「その、フラン・コーポレーションってところの求人票は持ってますか?」

 

 最近のハローワークでは、パソコンを使い、求人票が印刷できるようになっている。

 求職希望者はパソコンの画面にペンでタッチして、それらを選び、後に受付に向かうというシステムなのである。

 悟郎が足繁く通っているハローワークもそのシステムのはずだ。

 

「えっとちょっと待ってくれ」

 

 いつも持ち歩いているカバンから取り出されたのは、求人票の束であった。

 先ほど、郵便局で書類をだしたときに必要かもしれないと念のために用意しておいたものである。

 穴を開けて黒紐を通してあるのが、いかにも勉強と事務処理に長けた男の持ち物らしい。

 悟郎という男はこういった面では几帳面なタイプであるのだ。

 書類に丸をつけることは忘れる癖に、いざというときのために用心して参考にできる書類をできる限り持ち歩くようにはするという男であった。

 

「確か、この中に……」

 

 だが、どんなに悟郎が探しても束には入っていなかった。

 

「あれ、閉じ忘れたかな……。いや、記憶にはあるんだよ。俺はこう見えても東大生だから記憶には自信があるんだ。某法務大臣経験者みたいな瞬間記録能力なんかはないけどな」

「じゃあ、紹介状の控えはどうですか? 履歴書を送ったということは、当然、紹介状がハローワークから出てて、その控えは受け取っているはずです」

「……升麻くんはよくしっているなあ」

「七條さんに聞いたんですけど」

「そうだっけ。―――えっと、紹介状の控えはこっちなんだけどな」

 

 もう一つ出てきた紙の束の中にも入っていなかった。

 さすがに呑気な悟郎も頭を捻った。

 彼の性格では、この手の書類は確実にファイリングしておくのが常だからだ。

 一社だけがともにないなんてことはありえない。

 

「控えもないなあ。あれ、どうしてだ?」

「七條さん、確かにハローワークから貰ったんですね。紹介状を」

「そりゃあそうさ。ハローワークの紹介先は原則としてあそこからの紹介状がなければ相手にしてくれない。まれに、履歴書なしなんてところもあるけれど俺が送ったところにはないぞ」

「じゃあ、そのフラン・コーポレーションってどんな会社でした? それだけあるともう覚えていないと思いますけど」

 

 京一の言葉を悟郎は鼻で笑った。

 東大出を舐めるなよ、ということだ。

 その癖、すぐには思い浮かばない。

 自慢のオツムにまるで靄がかかったかのように記憶がはっきりしてこないのだ。

 ここで自分も焼きが回った、と考えるような殊勝な人間ではなかった。

 

「名前は記憶にあるが、たぶん、どうでもいい業務しかしていない会社なのだろう。そこまで熱心に覚える価値がなかったようだな」

 

 と、会社のせいにした。

 

「はあ。……そんなだから、そんななんですよ、七條さんは。でもいいです。とにかく、求人票も紹介状もないということがわかれば」

「探せばきっとあるぞ」

「はいはい、そうですね。仕方ないですから、僕もつきあいますよ。吉祥寺なら、三十分もかからないですから」

「やっぱり来てくれるのか、いや、持つべきものは年下の親友だなあ」

 

 京一は苦虫を潰したような顔をした。

 

(また、どういう訳かこの手のタイプに好かれるんだよな、僕って)

 

 クラスメートの桜井慎介といい、この学歴持ち腐れの七條悟郎といい、なんだかダメな男には好かれやすいのが京一の悩みであった。

 しかも、それ以外にも透明人間や狸の一族やらに好意を寄せられており、普通の高校生としては頭を抱えざるを得ない状況でもある。

 前世で相当悪いことをしたのではないか、と真剣に悩むほどなのであった。

 まともな男の友達が少ないというのは、相談相手もいないということであり、さすがに凹む話だった。

 常日頃からバイトに明け暮れたり、妹と対戦ゲームばかりをしていた悪影響であり、自業自得といえなくもないのだが。

 とはいえ、京一の本心としてはただ悟郎が心配というだけではなかった。

 この話に潜むおかしな点に気が付いたのである。

 

(今日の急な面接といい、求人票と紹介状の控えがいつの間にかなくなっていたことといい、ちょっと嫌な予感がする)

 

〈社務所〉という退魔組織に曲がりなりにも一年ほど関わっていた経験から、京一には勘のようなものが発達し始めていた。

 それは実のところ、彼自身も気が付いていない、〈一指(ひとさし)〉という稀に見る強運が育てたものだったのであるが。

 御子内或子についていくことで接した修羅場で培った観察眼と洞察力、ありえないことをありえるものとして仮定できる想像力、異常な事態に遭遇しても落ち着いて思考を巡らすことができる判断力、ただの高校生が努力の果てに手に入れた宝石の数々である。

 この時点で、〈社務所〉という組織において、升麻京一が退魔行の重要な戦力と考えられていることを知らないのは、関係者では本人だけであろう。

 

「とりあえず、行きましょうか。途中で腹ごしらえをしたりしながら」

「行こう行こう。まったく、あの派遣の力仕事をせずにすむとなるとこれほど嬉しいことはないな。欣快にたえんわ。はっはっはっ」

「……せめて仕事中はそういうこと言わなければよかったんですよ」

 

 京一は力仕事専門だったので、よく倉庫の構内作業で悟郎と一緒になったが、なにかというとこういう台詞を吐くので、派遣先の従業員にも派遣仲間にも鼻持ちならないやつと思われていた。

 わりと初対面の段階で悟郎の性格を見抜いていたので、京一自身はたいして気には留めていなかったが、ごく普通の労働者からすれば嫌味なやつと考えられ、孤立せざるを得なかった。

 チーム作業となる仕事では、それはストレスの原因となる。

 悟郎が派遣仕事から一日も早く逃げ出したくなったのも当然であろう。

 

「では、いきましょうか」

 

 こうして、升麻京一は知人を伴われて、得体のしれない職務面接会場へと赴くことになったのである……

 

 

             ◇◆◇

 

 

「にゃんだ、升麻さんからのLINE? わたしに(にゃん)の用だろう」

 

 知人から友達にランクアップした少年からきた連絡に、猫耳藍色《ねこがみあいろ》は首をひねった。

 少年の相棒は御子内或子であり、何かあったとしたら自分に連絡が来るとは思えない。

 彼にとって最も頼りになるのはあの爆弾小僧しかいないはずなのだから。

 では、どうして藍色(わたし)に?

 

〔あけましておめでとうございます。年末以来ですね。藍色さんはお元気ですか?〕

〔にゃ、おけましておめでとうございます 元気にやってます。新年早々、一件妖怪退治しました〕

〔お疲れ様です。ところで、頼みたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?〕

〔何でしょう?〕

〔今、吉祥寺に向かっているのですが、駅前で何か妖魅絡みの案件が起きている形跡はありませんか?〕

〔???? 特にないです〕

〔そうですか。もしよろしかったら、吉祥寺まで来れませんか?〕

〔或子ちゃんじゃなくてもいいんですかな?〕

〔御子内さんと合流している時間はなさそうなんです。藍色さんは中野ですから、すぐですし。お願いできませんか。〕

 

 藍色は少し考えてから、OKのLINEスタンプを張った。

 実際に吉祥寺はすぐそこだ。

 時間にして十分もあれば足りた。

 退魔巫女はいつでも常在戦場の精神でいるので、いくと決めたらすぐに動ける。

 

「……戦いとにゃったときに強い武力がにゃいのは心細いでしょうしね」

 

 年末のことを思い出すと、あの少年を放っておくことはできそうになかった。

 あの神撫音(かんなね)ララの試しさえ退けた人間だということだけでなく、いつか〈社務所〉にとって重要なキーマンとなる気がするからである

 それに、男の子に頼られるというのは悪くない気分だった。

 

「わりと好みではありますしにゃ」

 

 化け猫の血統である猫耳家の女なら、そのぐらいの軽い気持ちでもいいかもね、と言い訳をしなくてはならないのはやや業腹ではあったが。

 

 



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きょーでー出陣する

 

 

 問題のビルは、吉祥寺駅の井の頭公園のある反対側に降りて歩いてすぐのところにあった。

 なんだか知らないけれど、白い壁面の瀟洒な六階建てのビルだった。

 入口はロビーがあるほどではないけれど、それなりに広さがとってあって、待ち合わせや歓談ができるようにソファーとテーブルが置いてあり、それぞれ区切られている。

 受付には、二人の制服を着た女性がいて、まるでホテルのようだった。

 ガラス越しにその様子を見て、

 

「このビルみたいですよ」

「マジかよ。もうちょっと安っぽいとこだと思ってたわ」

 

 その気持ちはわからなくない。

 このビルが大通りに立っていたらともかく、ここは裏路地を使うような、あまり景観がよいとはいえない場所だからだ。

 すぐすこに飲み屋やカプセルホテルがあって、規模は小さいとはいえこんな立派で豪勢なものがあってよさそうな立地ではなかった。

 だから、ここに来るまでの間に、名前倒しの雑居ビルを想定していたというのに、予想外だったのである。

 

「……看板とかでてませんね」

「自社ビルっぽいな。なんだか気後れして来たぞ」

「七條さん、東大出なんですから普通ならもっと立派な会社に行けたでしょうに。こんなに気後れしてどうするんですか」

「俺は大企業にも高級官僚にも興味はないんだ。もっと自分らしく生きていきたい」

「さいですか。でしたら、どこでもいいから就職したいとか言わないでください」

「それはそれ、これはこれだ」

 

 うん、やっぱりダメな人だ。

 人生のピークが大学受験で終わっているのだろう。

 そういえば大学在学中も彼女ができなかったと零していたけど、まあ僕が女子大生でも七條さんはお断りかな。

 一言でいうと()()()()()()だし。

 

「とりあえず、時間になる前に面接会場についておくのは大事です。いいですか、急いで準備したので背広とか多少ヨレてますけど、それを弾き飛ばすような知性の煌めきを面接官に見せるようにするんですよ」

「まかせろ。俺はこう見えても東大出だ」

「七條さん、聞かれない限り、こっちから東大出という言葉を使うのは禁止です。いいですか、絶対に自分から東大関係の話題を振ってはいけませんよ」

 

 すると、七條さんはものすごい不思議そうな顔をして、

 

「どうしてだよ。自分のアピールポイントを強く主張しろと就活セミナーでは言っていたぞ。その方が好印象だからって。ということは、俺の一番のアピールは東大法学部をいい成績で卒業したということじゃないのか」

 

 というので、僕は脳天がヒリヒリするのを感じながらも返した。

 ちなみに卒業時に主席とか次席とか、創作物のキャラクター設定のようないい成績ではなくて、どうも中の中ぐらいの成績だったのが七條さんらしい。

 彼のいういい成績ってのは、つまり留年とかをしないですんだことだったり、ABCDの評価があったとしたら、Bばかりで過ごしたという程度のことだ。

 可が山のようで、優が三つしかない加山雄三の芸名よりはマシというぐらいのことであろう。

 まったく褒められたものではないけれど、東大法学部に入ったというだけでお釣りはくるのだろうし良しとしておくか。

 しかし、こっちの意図を汲んでくれないというのは面倒なことだ。

 

「いいですか。一般の中小企業なんかに、俺は東大出だ!なんて自己アピールしていたらドン引きものですよ。普通は、募集しても応募なんてしてこないものですから」

「俺はするぞ」

「あなたは例外。でも、例外を一般論にまとめ上げるのは問題でしょ? ですから、七條さんはあっちが喰いつかない限り学歴をひけらかしちゃあダメですよ」

「―――面倒くさいな」

 

 あんた、それだから書類選考で弾かれまくって、わずかに掴んだ面接のチャンスも棒に振ってきたんだよ。

 ああ、ダメだ。

 ツッコンんじゃいけない。

 この手の人はおだてて褒めまくって心の隙を突かなくちゃ。

 

「でも、そこさえクリアすれば七條さんの有能さならばなんとでもなりますから。―――有能だけど馬鹿な人って結構いるけど」

「なんかいったか」

「いや、なにも。とにかく、いいですね。東大出はNGワードですから」

「わかったよ。まったく、升麻くんはうちのお袋よりもしっかりしているな」

 

 うーん、無職の高学歴の三十男を家に置いてくれているお母さんて素晴らしい人だと思いますよ。

 僕がそんなことをしたら、まず涼花に蹴っ飛ばされて、次に母親がエアガンで撃ってくるからね。

 

「わかった。とりあえず行ってくる」

「あ、ネクタイ曲がってます」

 

 前から七條さんのだらしない首周りを直してあげて、身なりを整えさせる。

 胡散臭い企業でももしきちんと就職ができればそれに越したことはないだろう。

 まったく神にでも祈りたい気分だった。

 

「頑張ってくださいよ。僕は外で待ってますから」

「面接会場まで来てくれないのか?」

「学生服が付き添いで来るのは変ですってば」

 

 なんで捨てられた子犬みたいな顔をしているのか。

 肝心なところでメンタルが弱い人だな。

 でも、ここで下手に親心を出すと高確率で失敗するであろうから、心を鬼にして僕はその場を離れる。

 しばらくは僕の背中を目で追っていたようだが、ついてきてくれないとわかると意を決したのか、ようやく七條さんはビルの中へと入っていった。

 やる気はありそうだ。

 ()()()()()()()()()なんとかなるかもしれない。

 だが、僕はきっとまともではないだろうと睨んでいた。

 何故なら―――

 

「何してるの、分福茶釜?」

 

 七條さんが入っていったビルを見渡せるところにある路地裏の、エアコンの室外機の裏に隠れている一匹のタヌキに声をかけた。

 びくりと固まって硬直した。

 首だけが動いているが、肉体は完全に固まってしまっている。

 腰を抜かしてしまっているのかもしれない。

 よく道端でタヌキが轢かれていることがあるのだけど、この野生動物の癖に腰を抜かす習性だけでなくて、その爪の形のせいだとも言われている。

 タヌキは車にびっくりしてスタートダッシュかまそうとする際、隠していた爪をにょっと出するのだけれど、これがアスファルトに食い込みすぎて、身動き取れずに棒立ちのまま轢かれてしまうだそうだ。

 逆に地面が土なら、無事に逃げられるらしいが、まあいかにもどんくさいタヌキの話である。

 

『な、なんでわかった!?』

「なんでって……」

 

 江戸の妖狸族らしい幻の術(確か、幻法っていったっけ?)を使って、自分の姿を小さくして隠れていたつもりなのだろうが、僕にははみ出した尻尾が見えていたのだ。

 一般人ならば、外は暗いし、なんだかわからないものでしかないだろうが、僕は経験上その手のものは見過ごさなくなっていた。

 むしろ、そのぐらいでないと、退魔巫女の妖怪退治には付き合えない。

 驚いて硬直しているのはタヌキの癖だ。

 ちなみにこのタヌキは、いつもの茶釜を被っていないが、名前を〈三代目分福茶釜〉といい、僕とは時折LINEで連絡を取り合う仲である。

 いつのまにかタヌキと友達付き合いをする羽目になっているのがとても哀しい。

 

『ワシの完璧な隠形の法を見破るとは、さすがは兄弟(きょーでー)だ。久しぶりの再会だなあ』

「僕はタヌキの兄弟を持ったつもりはないよ」

『いやいや、巫女の姐御たちでさえ一目置く兄弟(きょーでー)と契りを交せたことをワシは誇りに思っておるぜ』

「だから、タヌキと契った記憶はないって。盃を交換したこともね」

『いやいや、タヌキの餓鬼(チビ)どもの間じゃあ、兄弟のことを『叔父貴』と呼ぶ連中も増えているっていうぜ。なんといっても、ワシらだけでなくて〈五代目隠神刑部〉とも五分の兄弟盃を交したって侠客だからな、あんたは』

 

 ……話がデカくなっている。

 ちなみに〈五代目隠神刑部〉とは、〈のた坊主〉事件のときに知り合ったのだけれど、兄弟の盃を交した覚えはない。

 清水の次郎長みたいな渡世のヤクザじゃないんだから……

 しかし、今でもまだ東京にいるはずだけど、元気にしているだろうか。

 確か、土佐弁で喋る〈三代目金長狸〉とともに長引くハクビシンとの抗争に精を出していると聞いている。

 

「で、君はどうしてあのビルを見張っていたのさ。教えてよ」

『それはこっちの台詞だぜ、兄弟。あんたがノコノコやってきたときには肝を冷やしたもんだ。だが、あそこに入らんでいてくれて助かった』

「どういう意味だい? それだと、あそこはとてつもなく危険な場所のように聞こえるけど……」

 

〈三代目分福茶釜〉は肩をすくめ、

 

『ふー、何も知らずに入ろうとしていたのかよ。これだから、妖魅の臭いに鈍感な人間は困るぜ。どんくさいったらありゃしない』

 

 人間よりもさらにドンくさい生き物に言われたくはないな。

 僕は君らのお仲間が、前に民家の外壁フェンスを越えようとよじ登ってるを見かけたけど……

 →目と目が合い3秒ほど硬直

 →慌ててフェンスを乗り越えようとしてずり落ちる

 →迂回して駐車場から民家の庭へ逃亡

 っていう醜態を晒しているところを覚えているぞ。

 なんというか、タヌキは臆病なところがあるくせ微妙に人間を舐めてるからそんなことになるんだよ。

 

「まあ、ちょうどよかった。キミらが警戒しているということは、あそこは妖魅的に危ないということなんだね」

『そうだぜ』

「だったら、教えてくれ。今、僕の友達があの中に入っていった。彼を救い出さなくちゃならない。手を貸してくれ」

 

 すると、〈三代目分福茶釜〉はニタリと笑い、

 

『なんでもしてくれるなら、手助けしてやるぜ、兄弟(きょーでー)

 

 と、腹黒いことを言いやがった。

 



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妖魔面接

 

 

「君らが、あの建物をマークしている理由を教えてくれないかな。内容によっては、七條さんをすぐにでも救出に行かなきゃならないから」

 

 多少気がはやってはいたものの、妖魅関係において焦りは禁物である。

 情報を取得することができない切羽詰った状況ならばともかく、今はここに頼りにはならないが信用はできる知古がいる。

 こいつを利用しない手はない。

 

『そも、兄弟(きょーでー)はどうしてここに来たんだい?』

「質問を質問で返すとキラークイーンに吹き飛ばされるよ。……さっきの友達の付き添いだよ。仕事の面接のために、友達は呼ばれたんだ」

『なーるほど、なるほど。奴らの手口だな。兄弟のダチに仕事の紹介をしたのは誰だい?』

「―――ハローワークだよ」

 

 すると、分福茶釜は股間のあたりをぎゅっと握った。

 やはりタヌキの妖魅らしく、えらくでっかいキャンタマがついている。

 このユーモラスな仕草は、このタヌキが緊張していることを表していた。

 

『人間の公共施設に影響を及ぼし始めているとはよ。……こりゃあ、さっさと追い出さねえとヤベえな。ジジイの言う通りだ』

「……〈初代分福茶釜〉からの指令なのかい、これは?」

『おおよ。ワシらの総大将の指図さ』

「で、どんな妖魅の仕業なんだい? タヌキが関わっているとなると、例のハクビシンたちかな?」

 

 江戸の妖狸族と外来のケダモノであるハクビシン一族が、この日本の首都の暗部で激しい抗争を繰り広げていることは知っていた。

 聞いた話では、ハクビシン一族の超がつくほどの武闘派だけは、人間に害を及ぼす恐れがあったため〈社務所〉の退魔巫女の誰かが潰したらしいが(僕と親しい五人でもこぶしさんでもないらしい)、その残党との争いは続いている。

 僕の知っている〈三代目金長狸〉と〈五代目隠神刑部〉もそのために地元に帰らずにいるはずだ。

 だから、この分福茶釜の行動もそれではないかと推測した訳だけど……

 

『いいや、奴らじゃねえ。もっと、別の意味ではヤバい連中だ』

「……ヤバい? 東京の妖怪の一族では最大派閥のタヌキがそんなに警戒する相手って、なんなの?」

 

 僕には想像もできないけど、分福茶釜が明らかに強い警戒色を発していることは見て取れた。

 かつて後楽園ホールの聖地で、御子内さんと音子さんと激闘を繰り広げた英雄タヌキ、江戸前の五尾の一匹がここまで緊張するなんて……

 

「なんなの、そいつら? 連中というからには、集団ってことだよね。しかも、断片的な情報からでもだいぶ薄気味悪いんだけど」

 

 まず、僕が知っているのは、あのビルのフラン・コーポレーションというものの背後にいるということと、ハローワークに求人を出しておきながら何かしらおかしな情報操作をしているということ。

 次に、結構目に見える地雷である七條さんを強引に面接まで連れだしたことと、そのビルは立地に見合わない高級な建物だということ。

 さらに、東京で最大勢力の妖狸族の精鋭が見張りなんてことをしているということ。

 これらを考えると、まったくもって尋常な相手ではない。

 しかも、その活動について、関東で一番の退魔機関である〈社務所〉が把握していない可能性があるというのだ。

 

「しまったな…… 御子内さんにも声をかけるべきだった」

 

 今更悔やんでも始まらないが、今からでも間に合うだろうか。

 

『なんだ、兄弟(きょーでー)は御子内の姐御は呼ばなかったのか。じゃあ、誰が来るんだ』

「……? 〈社務所〉の巫女が来ると思うんだい?」

『万事用心深い、兄弟が何も考えてねえはずはねえだろ。あんたは最初からこの話を疑っていたようだからさ。それに、あんた、「にも」ってつけたじゃねえか。だったら、最低一人は呼んでいるはずだ。ちげえか?』

 

 タヌキというのは意外と抜け目ない。

 どんくさい上に間抜けなところは多いが、やたらと狡賢くもあり、機転も利く。

 確かに、この東京で江戸時代から隆盛を誇る妖魅たちである。

 僕の発言をきちんと覚えていたらしい。

 

「―――すぐに来るよ。猫耳藍色(ねこがみあいろ)さんを助っ人に呼んでいるから。狭いところだと、巫女ボクサーのフットワークが使えないけど、あの人は古武術の使い手でもあるし大丈夫だろう」

『ほお、猫の姐御か。なら、いい。ワシとあんたと猫の姐御だけいればなんとかなるだろうさ』

君側(タヌキ)の援軍は?」

『ねえ。今回は見張りだけの予定だったからよ。日が過ぎれば、八ッ山がくるはずだが、あんたは待たねえよな』

「当然さ」

 

 僕は静かな建物を睨みつけた。

 

「七條さんはあんなでも友達だ。だったら、助けに行かないとならない」

 

 分福茶釜は言った。

 

『それでこそ、ワシらの兄弟(きょーでー)だ』

 

 だから、タヌキと兄弟盃を交した覚えはないって。

 

 

             ◇◆◇

 

 

 受付で名前を告げると、六階の会議室へ向かうように指示された。

 七條悟郎は黙っていればそれなりに落ち着いたインテリに見える。

 内実はどうあれ、激しい知的競争に勝ち抜いてきたことによる知性の光は本物だからだ。

 それを活かせないのは、彼の自業自得なのではあるが。

 エレベーターを使って移動し、六階に着くと、すぐに会議室というプレートのついた部屋を見つけた。

 六階までにしてはすぐに到着したので、随分と高性能なエレベーターだと悟郎は感心していた。

 扉が開けっ放しだったので、ノックをしてから中に入る。

 普通ならば、面接会場までは社員が案内をするなどするところなのだが、七條は社会経験が圧倒的に足りないのでその異様さに気づくことはなかった。

 

「失礼します」

 

 誰もいない空間に一礼をする。

 隠しカメラで見張られている可能性を吟味したからであった。

 升麻京一が耳にしたら、「ドッキリカメラじゃないんですからありえませんよ」と一笑に付してしまう考えだが、悟郎としては真剣に検討するに値する懸案である。

 

(……まて。時間通りに来たのに、ここに誰もいないということは、ラノベ的にはどんなパターンが考えられる? 透明化できる能力者が俺を見張っているとか、千里眼が遠くから観察しているという可能性があるな。なんのためだ? ククク、簡単な話だ。俺を〈組織〉からのスパイだと警戒しているからだ。残念だったなあ、俺は〈組織〉の人間ではないが、そちらの意図を見抜いた以上、絶対に尻尾はださんぞ)

 

 派遣のバイトをしながら、家でライトノベルという青少年向けの小説を書き散らかすのを趣味としている悟郎には、あまり有意義ではない妄想癖があった。

 とはいえ、暴走して来たトラックに撥ねられたり、クスリ中毒の通り魔に刺されたり、不治の病で病死したりした結果、こことは違う異世界にいって謎の超能力(チート)を得て冒険をするという今どきのライトノベルではない。

 悟郎が好むのは、現代日本を舞台にして超能力をもった高校生たちが謎の怪物や超人と戦ったりするジャンルであった。

 

 厨二よりは、邪気眼。

 

 これが悟郎の書くライトノベル―――ラノベの合言葉である。

 常日頃、派遣仕事で引っ越し作業をしたりするときも、「この家には悪霊が棲みついていて、引っ越しして来た家族を呪い殺してしまうのだろう」などという、家主が聞いたら張り倒してしまいそうな妄想を浮かべていたりしていた。

 他にも、中国から来たコンテナの荷卸しをしている最中に、一番奥のところに積んであるはずのダンボールが実は抜き取られていて、そこにもしかしたら何かが潜んでいたりするのではないか、というホラーのネタを想像したりもした。

 とりあえず、一事が万事、悟郎はライトノベルのネタを考えるか、大学時代に専攻していた国際私法や民事訴訟法のことばかり思い出している男だった。

 それが楽しかったこともあり、実のところ、「働いたら負け」だとずっと思っていたぐらいである。

 ただし、そんな彼に世間様は厳しかったのだが。

 

「あ、いいネタを思いついた。メモしておくか」

 

 この場でスマホを出すよりは、用意しておいたノートに書き込む方が絵になるか、と悟郎がカバンを漁っていると、

 

 キィ―――バタン

 

 扉が閉まった。

 入って来た時には開いていたので、そのまま放っておいたのだが、風でも吹いたのだろうか、と顔をあげる。

 

(うわっ!)

 

 悟郎は目を剥いた。

 彼の座っている椅子の反対側に、いつのまにか、知らない男が立っていたからである。

 しかも二人も。

 まったく気が付かなかった。

 すぐに自分のたった今までの行動を洗い出し、問題はなかったかを吟味するが、特に瑕疵はなかったと判断する。

 

(よし、大丈夫だ。なにもしくじってないぞ)

 

 それから、二人の男に対して立って挨拶をした。

 

「初めまして、今日、求職の面接に参りました、七條五郎と申します」

 

 噛まずに言えた!

 その程度でも悟郎には快挙であった。

 これで落ち着いて面接に挑めるゾ、と思っていたのに、面接官だと思われる二人から帰ってきた言葉は予想外のものだった。

 

『七條悟郎サンですね。あなたにおききしたいことがあります』

「―――はい、なんでしょう」

 

 名乗りもせずに無礼な面接官だな、と悟郎は思った。

 しかも、話し方がまるで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 見た目は普通の日本人なのに、まるで外国人と会話しているようだ。

 

『あなたはこの国の最高学府の出身だときいています。確か、国立東京大学―――』

 

 おお、マジか。

 真っ先に俺の最大のチャームポイントに食いついてきたぞ。

 みたか、升麻くん。

 やっぱり自分のストロングを活かさないとな。

 

 しかし―――

 

『人間はどうしてあんなにも美味(びみ)なのかな』

 

 と、震えあがるような問いかけをしてきたのである。

 

 



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人間は美味なるものか否か

 

 

(ククク、おいでなすった)

 

 悟郎は口元が緩んで愉しそうな笑いが浮かばないようにするのに苦心した。

 

(人はどうして美味なのか、だと? ほおほお、そういう判じ物めいた問答で俺を試そうって訳ね。OKOK、クールに行こうじゃないか。俺が伊達に赤門を出ていないってことを証明してやるぜ)

 

 彼の思考は、二人の面接官が彼に向って発した『人間はどうしてあんなにも美味なのかな』という言葉は、要するに彼の知性を試そうとする手段だと認定したのだ。

 真っ先に彼の学歴について問いただしてきたことからの推測である。

 こういう一見、雲に巻くような質問を発して、相手方の知性の煌めきを確かめようという作戦だな。

 

(ここで、相手の意図を読もうとして質問を聞き返すのも手だが、英語のヒアリングテストじゃあるまいし、パードン? なんて言っちまったら評価を下げるかもしれない。ここはシンプルに勝負を受けるのが肝要だぜ)

 

 悟郎は分析を開始した。

 面接官と思しきものの台詞は三つだ。

『七條悟郎サンですね。あなたにおききしたいことがあります』

『あなたはこの国の最高学府の出身だときいています。確か、国立東京大学―――』

『人間はどうしてあんなにも美味なのかな』

 というものだ。

 しかも、男たちの会話の抑揚のなさから、はっきりと疑問形で語られているとは思えないが、問答を仕掛けてきていると考えるのが妥当だろう。

 最初の二文は確認、問題は最後の問いかけだ。

 まず、意味を単語ごとに分解してみよう。

 

(人間―――広い意味での人間であることは間違いないだろう。会話の流れなどから特定の人物を指しているとは思えない。これは確定。次に、美味だけど、カニバリズム的に美味しいという意味と、美味しい地位にいる等の()()()()の可能性もある。まあ、前者は気持ち悪いし犯罪だからありえないとして、やはり後者だろう。しかし、立場的にうまみがあることを「美味」と称することは通念上少ないことだから、一端とりあえずおいておくか)

 

 悟郎は思考の並列処理ができる。

 だから、二つのことを同時に考えることができた。

 定義建てをするのと同時に、文脈も検討を開始していた。

 

(どうして~なのか? というのは、理由を聞いているのは間違いない。構文としてもおかしくないしな。わざわざ「あんなにも」と強調しているは、「美味」にかかっているとみていいだろう。文脈としては問題ない)

 

 結論としては、

 

(「美味」がなんなのか、それを応える必要がある)

 

 悟郎はそこから思考を巡らす。

 

(俺が東大出の超絶エリートであることを知って仕掛けてきたのである以上、この答えは複雑なものであることは確定済みだ。そして、複雑な問題は常に二つから三つ以上のシンプルな悩みが絡まっているからややこしく見えてくるだけで、実際のところは答えそのものはシンプルなものに落ち着くはず。……つまり、そこに俺の真価を問うている訳だ。ククク、法解釈の場合と同じく、俺がこの問いにズバっと端的に答えたら、こいつら、きっと腰を抜かすぞ……)

 

 途中から問題の検討よりも自己アピールに偏っていくところが、七條悟郎という男のダメな部分であるのだが、本人にはまったく理解できていなかった。

 大学に合格してまずやったことは、クラスで対立していた生徒に対するアピールという名の自慢話であり、その後、大乱闘になったことについてはまったく悪びれていないという清々しい過去を持っているほどである。

 まともな神経の持ち主ならば、面接官の態度と問いに異常を感じ取って当然と言う状況で、自分のアピールばかり考えているというのは尋常ではないだろう。

 そんな彼の様子を、幾分おかしな目で見ている二人組について疑問を感じることもないのが、悟郎のある意味では大物な性格であったが。

 面接官らしい男の一人は、やや奇異に感じられるぐらいに腕の長い男であった。

 着ている背広がぴたりと袖まで揃えられているので目の錯覚のように見えるが、実際にその手はぶらりと下げると膝のあたりまではあった。

 しかも、口を開くとぐちゃぐちゃの醜い歯並びをしていて、まともな人間ならば正視に絶えないレベルである。

 こちらが悟郎に問いを投げかけた方である。

 片方もまともな容姿とはいえない男であった。

 ―――猫背、なのだ。

 ノートルダムにいるカジモドまでではないが、不格好といってもいいぐらいに背中が曲がっている。

 そして、斜視だった。

 下からねめあげるような視線をずっと悟郎に向けている。

 さっきから一言も発しないが、観察だけはじっと続けていた。

 二人組は、吉祥寺の夜景も見えない暗い窓を背にして、五郎を窺っている。

 獲物を狙う爬虫類のように。

 しかし、七條悟郎は自分に降りかかる寸前の異変についてまったく気が付かない。

 

「―――そうですね。仮に、問いについての答えが、人間自体が生物としての食肉として扱われるとしたら美味なのかどうかですが、それはノーですね。なぜなら、人間は肉も魚も穀物も分け隔てなくとります。それは雑食であるということです。生物界において雑食は肉が締まる原因になりますから、基本的に美味しくない。例えばタヌキなんかもそうですよね」

 

 これは前提の話だったのだが、悟郎の説明を聞いた二人組はわずかに狼狽えた。

 

『タヌキだと!? 七條悟郎サン、あなたはタヌキを食べたことがあるのか!?』

「いや、ないですよ。話だけです。喰いやしませんってあんなもの。タヌキ汁なんてカチカチ山でしか縁がないものです。……話を戻しますね。ですから、人間を食べるなんてたいして美味しい訳がなく……いや、脳みそはわりと美味しいと聞いたことがあるな。なんでしたっけ、ああアラドキン酸なんか脳神経発達に欠かせないもので、それが他の部位にはない味になるって話を聞いたことがありますね。アラドキン酸は頭のいい人間ほど強いらしいですから、私なんかはもうフルに分泌しているに違いないですよ。うんうん、すると私の脳みそは最高級の珍味ですな。それはさておき……」

 

 すでに二人組を完全に聴衆と誤解しきってしまった悟郎はさらなる説明をしようとするが、その時、どこかからなにか大きな音が聞こえてきたような気がした。

 上かも知れないが下かもしれない。

 そこまで鋭敏に感性は悟郎にはない。

 体感的に揺れた感じはないので、地震ではなさそうだが、いったい何かあったのか。

 とはいえ、彼の思索についてはどうでもいいことだ。

 すぐに忘れてしまった。

 

『どうした』

 

 長い腕の男が、そのリーチを利用して普通ならば届かない位置に置いてあった内線電話をとる。

 とても異常な光景だったが、自分の思案に没頭している悟郎はまだ気が付かない。

 迫りくる跫音を聴くことすらできないほど無防備であった。

 

『―――妖狸族だと』

『どうした同胞よ』

『……一階にタヌキどもがきている。いくさになるぞ』

『ふん、地上を這いずり回る畜生どもが我らの敵になると思うか』

(ねぐら)から〈獣〉をだそう』

『そうだそうだ。同じケダモノどうしで噛みあわせればよい』

『そうだそうだ』

 

 二人の会話を聞きもせずに、悟郎はまだ頭を捻っていた……

 

 

           ◇◆◇

 

 

 分福茶釜は、(まぼろし)を解いて、一メートル八十センチの大タヌキの姿でフラン・コーポレーションビルの入り口から入っていった。

 普段は最大限の隠形の術で潜んでいる妖狸族が、本来の正体を現すというのは、それだけの理由があることなのだ。

 そして、彼らの敵もその程度では驚きもしないということである。

 つまり、あそこの受付にいたお姉さんたちも見た目でわかるような普通の人間ではない、ということだった。

 ウィィィンと自動ドアが開き、分福茶釜がくぐり抜ける。

 ホテルのような受付に二人の女性、テーブルに三人のサラリーマン風の男性たち、それらが一斉に睨みつけてきた。

 これでわかった。

 彼らは一切、妖魅としての大タヌキを怖れていない。

 それどころか敵愾心を持っている。

 ここにいる五人は紛れもなくただの人間ではなかった。

 

喧嘩(でいり)じゃ、喧嘩じゃ、この間抜けなモグラどもめ! 江戸より続く帝都の地下はワシらタヌキの縄張りじゃ! 出ていけ、この泥臭い化け物どもめ!!』

 

 君らタヌキも大概ケモノ臭いけどね。

 と、ツッコんでいる暇はない。

 五人の男女は服を着たまま、変化していく。

 ふさふさと生えてきた毛のせいで小さい眼は埋まってしまい、耳もなくなってく。

 鼻が長く伸びて先端に醜い突起ができ、さらに管状になって、口よりも前に突出していった。

 手は外側をむき大きく円形な前肢と変わり、五本の爪が生えてきて、いかにも地下で土を掘って暮らすのに適した様子になる。

 指に半分ほど、水かきがついていて、泳ぐこともできるというのがわかった。

 服の布地のない部分は全身が細かい毛で覆われ、まさに獣人という姿になっていった。

 分福茶釜の言う、モグラそのもの。

 彼らこそ、この東京の地下に最近激増している妖魅の一族―――

 

土竜(むくらもち)〉族であった……

 

 



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この世界の下側で

 

 

 海外のビジネスマンが日本に来たとき、先輩から教えられることがあるという。

 それは、「地下鉄にあまり乗るな」である。

 別にマンハッタンのサブウェイのように強盗が頻繁にでるとか、暴行事件が日常茶飯事だとか、落書きが酷くて憂鬱な気持ちになれるといかいうことではない。

 あまりに正確なダイアルで運行されていて、それに慣れてしまうと本国に戻ったときに苛立って仕方なくなってしまうから、という理由だった。

 もちろん、ジョークだ。

 これに付け加えて、「日本でケーキ屋に入るな」とか「寿司やてんぷら以外の日本食を覚えるな」とかがある。

 日本での地下鉄というとだいたいは東京がイメージされることから、まあ、これは都内で暮らしている外国人向けのお話だろう。

 ちなみに日本では地下鉄における事件というものは、ほとんど認められず、平和であることがまさに平常運転ということであり、世界的には奇跡ともいわれている。

 だが、実際はそうではないそうだ。

 地下に広がった空間や施設というものは、結局のところ、地上の人間の目に触れるものではなく、その中で蠢いているものどもがいたら滅多に発見されないだろう。

 今回、江戸時代からこの東京を根城にしてきた妖狸族が敵愾心を顕わにしている元凶は、その地下で蠢いていた妖魅の一族であった。

 

『―――奴らはモグラだあ』

「モグラ? あの土を掘って移動する? アマゾンの仲間の?」

『ワシらタヌキがハクビシンどもとやりあっているのをチャンスと見たんだろうさ。わらわらとどこからともなくやってきて、地上にちょっかいをかけてきやがった』

「どんなちょっかいをかけてきたの?」

『最初のうちは、一人でいる人間を攫っていたのさ。そのうち、どんどん大胆になって知恵をつけてきやがって、家出人やらホームレスやら、後腐れがなさそうなのを狙い出した。あと、チンピラや風俗業の女とかもだ。あいつらは、急にいなくなっても怪しまれねえからな。―――奴らは肉食だ』

 

 ……日本では1956年以降、毎年8万人以上が行方不明になっているという。

 その中には、すぐに見つかったものもいるだろうけど、戸籍のしっかりした国でもこれだけの人がいなくなるのだ。

 自分の意志で行方不明になったものだけではなく、他者の関与によるものもあるだろう。

 そして、わずかだろうけど、妖怪をはじめとする妖魅の餌食になったものもいるはずだ。

 僕の隣にいるタヌキたちのように、人間社会に溶け込んでいる連中と違って、文字通りに人間を食い物にする妖魅によって。

 

「モグラの妖怪ってことか。君らとやりあっているということは、相当な数がいるんだね」

『正確な数はわからねえ。やつら、地下にいるからな。こっちの監視の目が届かねえんだ』

「……〈社務所〉は動いていないの?」

 

 関東を鎮護する退魔巫女の組織である〈社務所〉が、そのモグラ妖怪の脅威を認識していないというのはあり得ない気がする。

 

『薄々は勘付いているだろうが、動いていねえな』

「どうして?」

『〈社務所〉の巫女たちの一番の情報源は、空を飛んでいる八咫烏や同じ人間たちからだ。ワシら以上に、地面の下には不如意なのさ』

 

 確かにそうだ。

 八咫烏は神出鬼没だけど、それは地上で妖怪や悪霊たちに襲われている人たちを見つけ出すことに関してだけだ。

 トンネルや地下施設まで届く千里眼がある訳ではない。

 だとすると、〈社務所〉がいまいち把握できていないのもわかる。

 

「―――わかった。七條さんも餌として目をつけられたということだね。でも、ハローワークとか介して、どんな理由があるのかな」

『そりゃあ、吟味してんだろ』

「吟味?」

『ここしばらくで奴らが餌にしていた人間は、下衆な言い方をすれば底辺層だ。栄養が偏っているのもいれば、クスリ漬けもいるし、刺青で変な味がついているのもいる。それは飽きてきたんだろ』

「ああ、ハローワークだけじゃなくて、もっと色々なところに触手を伸ばして人狩りをしているということか……。正社員やバイトを募って、自分たちの舌に合いそうな人を探している訳だね」

 

 反吐が出そうになる。

 妖怪退治なんてものに関わってから、幾度となく嫌な話は聞いてきたけど、これはなかなかシビアにきつい。

 自分の住んでいる世界の、()()()そんな非情なことが日々行われていたということか。

 足元がむずがゆくなる。

 僕の中にある、熱いマグマのような衝動が抑えられない。

 

「……七條さんはお眼鏡にかなったということか。急いで助け出さないと、あの変な人まで食い殺されてしまう」

『兄弟《きょーでー》の話の通りだとすると、あんたのダチってのはおそらく脳みそを狙われてんな』

「まさか。七條さんが東大出身だから?」

『ああ。オツムの良さでは折り紙付きってことだろ。しかも、ハローワークの履歴書に嘘を書くわけがねえから、経歴は本物だ。いっちゃあなんだが、公共の職業紹介所にそんな出物が流れてくることはそうはねえ。だから、モグラどもは一刻も早くあんたのダチを確保しようとしたんだろうさ』

 

 そこまで聞いたら、あとはもう簡単だ。

 七條さんを助けに行く。

 まだ頼みの綱の藍色さんは来ていないが、時間がない。

 少なくとも建物の受付で騒ぎを起こせば、少しは時間稼ぎができるはずだ。

 しかし、歩き出した僕の二の腕を分福茶釜に掴まれた。

 

『どこにいくんだよ、兄弟(きょーでー)

「七條さんを助ける。騒ぎを起こす」

『あんなモグラの巣につっこむのはいくらなんでも無茶だ。巫女の姐御たちならともかく、兄弟みたいな普通の人間じゃあ飛んで火にいるフェニックスだぜ』

「放せ。時間がない」

『そうじゃねーよ。……ワシが行くっていうことさ』

 

 すると、分福茶釜はいきなりいつもの大タヌキの姿の戻って、さらに全身を名前の通りに鉄製の茶釜で覆い尽くす。

 まるで、聖闘士が聖衣(クロス)をまとうように、八部衆が神甲冑(シャクティ)を装着するように、完全な防備が完成する。

 かつて、御子内さんですら砕けなかった鎧である。

 これによって、分福茶釜はただの化けダヌキから、〈三代目分福〉に変身する。

 

「分福茶釜……」

『行こうぜ、兄弟(きょーでー)。ダチのダチはダチも同然だからな』

 

 押しつけがましいけど、分福茶釜の心意気は感じ取れた。

 七條さんを救うためには、やっぱりこのタヌキの手助けが必要なのは間違いない。

 江戸前の英雄タヌキ、五尾の一角である〈三代目分福茶釜〉の。

 

「ああ、頼むよ、タヌキの兄弟」

 

 僕はこれが終わったら兄弟盃ぐらい交わしてやってもいいかなという気分になっていた。

 

 

 



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妖怪〈土竜〉族

 

 

「端的に言えば―――」

 

 悟郎が今までの前置きを決算して、結論を出そうとしたとき、二人の面接官の様子が変わった。

 二人でひそひそ話を続けた後、腕の長い方がそそくさと会議室から退散していったのである。

 自分の話に夢中の悟郎も、聴衆が一人になってしまったことで、やややる気がそがれてしまったが、それでも講義(彼の中ではプレゼンどころの騒ぎではなくなっていた。すでに面接というものの本分すら忘れていた)を途中で打ち切るのは業腹なのでしつこく続けることにした。

 話し出したら悦に入って止まらなくなるのが、彼の悪い癖の一つであった。

 この癖を派遣仕事の休憩時間にやってしまうのだから、彼よりも頭の回転が良くないものには当然善くは思われない。

 もし、この場に升麻京一がいたら、「そこが悪いんですよ。度し難いとかいわれちゃうパターンですね。せめて僕ぐらいがいないと、悟郎さんは暴走しすぎるんですから」と苦言を呈するところであった。

 もちろん、それがないから七條悟郎はこれまでの人生において塗炭の苦労をしているのであるが。

 

「人間が美味になるとは……つまり―――」

 

 これまで振るってきた弁舌の終焉に相応しい最期を飾ろうとタメを作ったとき、

 

『まて』

「……はい?」

 

 猫背の面接官が手を挙げて止めた。

 またも喋りを遮られた形になって、今度こそ不愉快そうに口元を歪める悟郎。

 だからあんたはダメなんですと、どこからともなくツッコミが入れられそうな態度である。

 しかし、猫背の面接官はそんな彼の態度に気分を害した様子は見せない。

 むしろ、なんの反応も示さなかった。

 悟郎の話になんの興味もないのだろうとわかる。

 

『あなたの面接はしばらく休憩にさせてもらう』

「なにかあったんですか?」

『ライバル会社のものがクレームにきたので対応しなければならない』

「―――ああ、どおりで」

『失礼』

 

 そういうと、猫背の面接官までが会議室から出ていってしまう。

 一人取り残された悟郎はもう一度着席し、手持無沙汰になったからか、ついに自分のスマホを取り出して電源をいれた。

 インターネットにアクセスしようとしたが、まったく繋がらない。

 

「おかしいな」

 

 建物の六階ぐらいでは、電波に影響があるはずもないのに、「圏外」の表示になっている。

 掲げてもうんともすんともいわない。

 Wi-Fiまでは期待していなかったとしても、これではスマホのネット機能は役立たずに等しい。

 悟郎はスマホは諦めて、カバンの中から文庫本を取り出した。

 執筆の参考にしているライトノベルだったが、電車等で読むことを考慮してブックカバーはつけたままだ。

 この文庫の出版社の公募に挑戦する予定なのだが、アニメ絵の表紙は少し照れくさいからである。

 

「こういう、わちゃわちゃした会社は俺には合わないかもな」

 

 内定すらもらっていないのに上から目線なことを呟き、ライトノベルを読み始める東大卒業生であった……

 

 

            ◇◆◇

 

 

『しらざあ、言ってきかせやしょうか。江戸前の五尾が一匹、〈三代目分福茶釜〉たあワシのことよ』

 

 白波五人男のような口上を述べてから分福茶釜は、ロビーの中央に立つ。

 人間の服を着たモグラたちが前と左右を囲んできた。

 大きさは分福茶釜の方が上だが、相手が五体となるとさすがに不利か、と思いきやタヌキには怯む様子もない。

 それどころか余裕すら感じ取れる。

 普段は粋がっているだけでだらしないタヌキではあるが、さすがに命のやり取りの場に遭遇すると一気に気合いが入るらしい。

 聖地・後楽園ホールでの試合を思い出す。

 一方、対峙しているモグラたちは、眼が白く濁っていて、やはり地中の生物であることがわかるし、手の爪は土を掻くのに適した巨大なものだ。

 ただ、土を掘るだけのものにしては鋭く尖りすぎている。

 完全な凶器としての爪を持っていた。

 あれに斬りつけられたら、おそらく塞がりにくい危険な傷を抉られることは明白だ。

 だが、分福茶釜は平然と前進した。

 全身が鉄の茶釜で覆われているせいで、短い脚が鎧から出ている程度のみっともない体型だが、その短足を見事にちょこちょこ動かして進むのだ。

 ユーモラスな動きでありながら、実は理にもかなっている。

 モグラたちが上下から飛びかかって、鋭い爪で切り裂こうとしても茶釜に遮られて傷つけることができないのだった。

 御子内さんが手をこまねいていたように、この完全茶釜装甲《フルアーマー》を纏った分福茶釜を倒すには露出している手足か顔を狙うしかない。

 しかし、そんなことは百も承知しているだろう。

 分福茶釜は胴体を前面に押し出した、まさに制圧するというスタイルで進みつつ、モグラ人間たちを蹂躙していく。

 手にしている真ん中に突起がついている小型のシンバルのような盾を振るいながら暴れ回る。

 

『ギィエエ!!』

『やかましいわ、このモグラどもめ』

 

土竜(むくらもち)〉族は五体いても、分福茶釜一匹にかかりきりとなっている。

 完全に僕はノーマークだ。

 その時、分福茶釜がウインクをしてきた。

 パチンというよりも、バチンというような下手なウインクだったが言いたいことはわかった。

 

(ここはワシに任せて先に行け!)

 

 とかいうカッコいいポジションになりたいのだろう。

 確かに君はそういう役が似合いそうで、もしアニメ化されたのなら声優は室園丈裕とかの地味だが実力派がキャスティングされるタイプだ。

 いや、そういうどうでもいいことは後回しにして、とりあえず分福茶釜の気持ちを汲んで、僕はこそこそとロビーを抜けた。

 エレベーター前について、中に入りこむ。

 

「七條さんは面接場所は六階とかいっていたよな……」

 

 僕は六階のボタンを押す。

 すぐに動き出した。

 開閉もそうだがレスポンスのいいエレベーターだ。

 

(あれ?)

 

 僕は違和感を覚えた。

 上に昇っている感覚がなかったからだ。

 むしろ、下に降りているような……

 突然、閃いた。

 今、僕たちが相手にしている妖魅の正体を。

 奴らはモグラなのだ。

 モグラは地中に生きる動物であり、そいつらが地上六階なんぞにいると思うか?

 もし、奴らが巣を作るとしたら……

 エレベーターは止まり、扉が開閉する。

 そのとき、僕の目の前には、星型のイソギンチャクのような鼻を持った不気味なモグラ人間が待ち構えていた。

 

 僕は悟った。

 

 このエレベーターには細工がしてあり、奴らの棲家である地下へと誘い込むための罠であるということを。 

 



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地底紀行

 

 

 おそらくはホシバナモグラであろうモグラ妖怪は、僕を見てぎょっとしたようだった。

 まさか、誰かが()()()()()とは思っていなかったのだろう。

 ここは彼らの地下王国。

 上に行くと見せかけて、獲物を逃がさないように連れ込むための場所だからだ。

 もっとも僕だって好きでやってきてしまった訳ではない。

 ある意味では不可抗力だ。

 自分から罠にはまりに行くなんて、我ながら迂闊だったとしかいえない。

 とはいえ、一瞬の判断ならばエレベーターの中で予測していた僕の方に分があったようだった。

 急いで、床を蹴ると二本足で直立する背広姿のホシバナモグラの脇をすり抜ける。

 モグラというよりは、オケラに近い長い腕のせいで咄嗟に僕を止めることができない。

 廊下を逃げたからと言ってどうにかなるものでもないけれど、狭いエレベーターの内部で追い詰められるよりはマシだった。

 僕は奥へと進む。

 一見、地下の施設とは思えない、ふつうのオフィスの一画のようだった。

 ただし、窓がない。

 連れ込んだ人間が不審を覚えないように異常なまでに明るくしているのが、逆に地下鉄の構内みたいだ。

 しかも、広い。

 上の建物は瀟洒ではあるが所詮は雑居ビルで狭そうだったのに、この地下はかなり広い。

 地下鉄でいえば乗り換えがある霞が関やそのあたり並みに広いのである。

 とてもではないが、吉祥寺駅の地下とは思えない。

 エレベーターで降りた時間からするとあり得ない広さだ。

 つまり、そこから想像できることは二つか三つ。

 中でも僕が怪しいと思ったのは、ここがきっと結界内だということだ。

 御子内さんたち退魔巫女が〈護摩台〉という妖魅封じの結界を張るように、モグラどもは獲物を封じ込めるためにこの空間をでっちあげているのだ、と。

 これほど広大な空間を用意できるということは、モグラによる地上侵略はかなりの勢いで進んでいるのだろう。

 もし、生きて帰れたら、〈社務所〉の重鎮の御所守たゆうさんにでも訳を話して、対策を練ってもらおう。

 とてもじゃないけれど、妖狸族だけに任せておくことはできないはずだ。

 

『キュピィィィィィ!!』

 

 可愛い声でホシバナモグラが叫んでいる。

 僕を取り逃がしたことが悔しいのだろう。

 しかし、アメリカやカナダに棲息しているホシバナモグラの妖怪とはちょっと意外だった。

 絶対に日本にはいない動物だからだ。

 脳裏に年末に僕を監禁した神撫音(かんなね)ララさんの顔が浮かぶ。

〈社務所・外宮〉という部署の一員である彼女は、外来種ともいうべき海外からやってくる妖怪・妖魅との戦いが増えてくるという予測を立てていた。

 それがこれからさらに激化していくとも。

 もしかしたら、今の〈土竜(むくらもち)〉族とのこのトラブルもまたその一環なのかもしれない。

 日本の固有種ともいえるタヌキたちが、ハクビシンと戦っている間をつくようにここまで力を伸ばしたモグラたちとはいえ、いきなり地上侵略を始めるとは思えない。

 もしかしたら、さっきのホシバナモグラが日本のモグラ妖怪を煽動して教唆した可能性は高いかも。

 そうだとしたら、一体一体倒していく、まさにモグラ叩きをするよりも、あのホシバナモグラをピンポイントで倒していく方が早いかも。

 

「……そうすればこんな恐ろしい人攫いの事件もなくなるか」

 

 となると、生きて帰れたらなんてことは言っていられない。

 腕の一本、脚の一本ぐらいはくれてやっても、必ず地上に戻らないと。

 僕一人だけの問題じゃなくなるのだから。

 

『キュピイイイイ』

 

 後ろからモグラが追ってくる。

 いくら広いとはいっても、所詮は地下の施設だ。

 僕は簡単に追い詰められた。

 背中に白い壁を背負って、やってきたホシバナモグラと対峙する。

 

「……七條さんをどうした?」

『七條? 最高学府を出たという人間のことか。あいつならばあとで巣に持ち帰って、脳みそだけ切り分けてパーティーのメインに据えてやる』

「脳みそだけ?」

『頭のいい人間の脳みそはうめえからな。我らの世界では垂涎の的の珍味よ。ただ、そう簡単には手に入らねえ。だいたい育ちもいいし、周りも優秀なのが揃っていて拉致するのも難しい。だから珍味なんだがね』

 

 ホシバナモグラの喋りにはやはりたどたどしい訛りがあった。

 人間の言葉になれていないというよりは、やはり想像通りに外国から来た妖怪だからだろう。

 

「……だから、七條さんを誘き出したのか」

『おうよ。まさか、職業安定所にあんな出物があるとは思わなかったぞ。最高学府、しかも法学部なんてそうは見つからない』

「でも、七條さんなんか食べたら腹を壊すよ、きっとね」

 

 この点、僕には確信があった。

 とんこつラーメンに含まれたこってりとした豚の脂が腹痛をおこさせるように、七條さんなんか食べたら絶対に痛い目にあう。

 でも、彼を妖怪のディナーになんかさせてたまるものか。

 例えどんな変人でも友達は友達だ。

 

『だが、おまえも美味そうだ。脳みそだけでなく、全身から美味そうな匂いがしている。なんだ、おまえ、なんだ』

「なんだとは、何さ。僕は君らみたいなのに執着されるようなものじゃない」

 

 美味そう、なんて言われて喜ぶ馬鹿はいない。

 

『とりあえず味見はあとだ。おまえもいただこう』

「勘弁してくれないかな」

 

 僕は全身を硬直させた。

 殴られても平気なように。

 その様子を見て、ホシバナモグラは長い手を伸ばしてくる。

 掴まえて手籠めにするつもりなのだろう。

 どうしようもなくおぞましいけど我慢した。

 だって―――

 

『いてえ!!!』

 

 僕の首に巻いてるマフラーを掴んだホシバナモグラが熱いものにでも触ったかのように、激しく手を放した。

 ジュッと白い湯気が上がっている。

 かかった。

 やはり妖怪相手には効く。

 僕のマフラーに巻き込んである護符の依り抜きが妖怪の身体を灼いたのだ。

 一般人にとってはなんてことはないけれど、僕に不用意に触ろうとする妖怪相手には効果的な護身武器だ。

 この事を知っている分福茶釜が僕に触らないのはそういうことである。

 僕ももう完全な素人じゃない。

 護身のために策を巡らすのはあたりまえであった。

 それに、こいつら〈土竜(むくらもち)〉族は頭がよくない。

 警戒することすらせずに、こちらの策にかかってくれて助かったよ。

 これでまた時間が稼げた。

 僕は折り返し、もと来た道を戻る。

 すぐにエレベーターに到着した。

 一階行きのボタンを押す。

 たぶん、こっち側は仕掛けがないはず。

 ウイーンと一階からカゴが上がってくる。

 もうすぐだ。

 だけど、そのわずかな時間の間にホシバナモグラは再び僕に追いついてきた。

 

『ニンゲンめ……!!』

 

 護符に焼かれた痛みに眼が血走ったモグラが僕めがけてやってくる。

 報復のためにその爪が容赦なく僕の身体を掻き切ろうとする。

 

 ガチャ

 

 エレベーターの扉が開く。

 だが、もう間に合わない。

 逃げることも隠れることもできない。

 モグラの爪を喰らって僕は死ぬのか。

 

 しかし。

 

「にゃんと危機一髪でしたね」

 

 耳元で囁く声が聞こえたかと思うと、電光石火の左ストレートがカウンターとなってホシバナモグラの顔面―――星型の触手の生えた鼻づらを撃ち貫いていった。

 覚えてる。

 忘れることはない、その一撃を。

「ボクの同期の中で最も美しい戦いをする」と御子内さんが評したボクサーの打撃を。

 

〈社務所〉の退魔巫女の一人、猫耳藍色さんがやってきてくれたのだ。

 

「―――話は〈三代目分福茶釜〉に聞きましたよ。〈土竜(こいつら)〉を殲滅すればいいんですにゃ」

 

 かつて、あの御子内或子とさえ引き分けた最強の巫女ボクサーという援軍はなによりも頼もしいものとして僕の目には映っていた……

 

 

 



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誰の目にも入らず終わる

 

 

 今、降りてきたエレベーターの籠の中にいた藍色さんの左ストレートを受けて、ホシバナモグラの妖怪は派手に吹き飛んでいった。

 20から30キロ程度の体重(ウェイト)差などものともしない必殺のパンチ。

 ホシバナモグラの特徴的な鼻は約22本の突起でできていて、アイマー器官と呼ばれる、神経細胞と繋がることで触れたものの情報を読み取ることができる。

 そうやって餌を見分けるのだが、星型の器官から得た触覚情報を処理する「大脳皮質領域」が、他のモグラに比べて大きくなっていて、ただのモグラに比べて知能が発達していると言われている。

 この外来種のホシバナモグラの妖怪が日本のモグラたちを支配下に納めて、地上侵攻を開始したということが今回の原因なのだろう。

 こいつらが何匹いるかはわからないが、おそらくそんなに多くはないだろう。

 とりあえず、まずはこいつらを殲滅することが喫緊の課題だろう。

 

「藍色さん、このホシバナモグラが敵の首魁だ! 倒してくれ!!」

「承知しました!!」

 

 吹き飛んだ巨体に追いついて、さらに連打を胴体にぶち込む。

 動物型の妖怪の多くは腹筋がさほど鍛えられていることはない。

 なぜなら、四足獣については腹を見せることは弱点を見せることと言っても過言ではないほど弱い部位だからだ。

 内臓のすぐ傍だからというだけでなく、筋肉自体もそれほど堅くない。

 特に藍色さんが相手をしているモグラなんて、地下で暮らしている以上、天敵もいないだろうし、戦うことなんてまずないはずだ。

 だから、藍色さんの前後のフットワークを交えた、コンビネーションによって、顔面・胸・腹・腋を打たれても反撃すらままならない。

 このまま一方的な攻撃でKOできるかも。

 しかし、相手が例え木偶人形だとしても、藍色さんは油断しない。

 なぜなら、妖怪たちは常に共通の特徴―――秘儀と呼ばれる恐ろしい武器を隠しているからである。

 この〈土竜(むくらもち)〉族もきっと隠している。

 

『ギィピャアアアア!!』

 

 モグラの右爪が振るわれた。

 壁の表面が何条もの傷を伴って切り裂かれる。

 堅い粘土層ですら掘り進むモグラの力がサイズとして人間大になればどれだけの破壊力になるのか。

 しかし、コンクリートも簡単に破壊するモグラの力も、藍色さんのボクシング技術にかかれば当たらないそよ風のようなものだ。

 簡単なスウェーバックとダッキング、そして前後の移動だけでことごとくモグラの爪を躱す。

 御子内さんの連続攻撃ですらものともしない藍色さんの技術は、狭い廊下においてでさえ色褪せることはない。

 インファイトもアウトボクシングも自在にこなす、まさにオールマイティタイプのボクサーにかかれば、動きの鈍いモグラでは相手にすらならない。

 喉元を突かれ、モグラが膝から崩れ落ちた。

 倒れるのに巻きこまれないように藍色さんはバックステップで下がる。

 僕は邪魔にならないように、エレベーターの扉に背中をつけた。

 軽い震動を感じた。

 つまり、エレベーターが動いているってこと?

 でも、手元にある表示も頭上のパネルでもエレベーターは動いていない。

 まさか、また何か起きるのか、と思って身構えた瞬間、

 

 ドゴン!!!

 

 と、とんでもない衝撃音が落雷のように鳴り響いて、同時に扉が横には開かずに僕を吹き飛ばす。

 何かがエレベーターのカゴから飛び出してきたのだ。

 黒い、巨体が背中から滑るように廊下に現われた。

 前肢についた五本の爪と、黒い体毛の隙間から覗く白い眼、鼻づらについた不気味なイソギンチャクのような触手、そのくせ胴体にはサラリーマンの破れた背広がまとわりついている。

 もう一匹のホシバナモグラの妖怪だった。

 だが、すでに誰かにボコられた跡がはっきりと残っている。

 まさか、もう一人、誰か退魔巫女が来てくれたのか。

 しかし、照明が壊れて真っ暗になったカゴの中からのっそりと顔を出したのは、全身を鉄の茶釜で覆い包んだ大タヌキだった。

 

「分福茶釜っ!!」

 

 エレベーターのカゴの天面がぽっかりと空いていた。

 上から突き破られた結果によるものだろう。

 どうやって突き破ったかもすぐにわかった。

 分福茶釜はわずかに足を引きずっていて、全身がボロボロの状態だった。

 つまり、こいつはエレベーターの縦のシャフトをホシバナモグラとともに落下してきたのである。

 動かないカゴに乗ることなく、無理矢理に一階の扉をぶち開けて、雨のように降ってきたのだ。

 全身を鉄の茶釜で覆ったとしても、中身はタヌキが妖怪変化した生身でしかないのだからダメージはそれ相応に食らったに違いない。

 下手をしたら、落下の衝撃で死んでいてもおかしくはない無茶だった。

 だが、こいつはあえて無茶を承知でやったのだろう。

 なんのために?

 言う必要もないことだね。

 

「助かった! さすがは江戸前の五尾だ!」

『なに、兄弟(きょーでー)を助けに来ただけだぜ。猫の姐御には先に行かれちまったがな』

「ありがとう! 兄弟(ブロス)!!」

 

 僕の呼び声に応えて、分福茶釜は親指を立てた。

 嬉しそうな顔しないでよ。

 分福茶釜は仰向けに倒れてピクリともしないホシバナモグラを踏みつけて、廊下に出てきた。

 ふらふらして、足をひきずっていても、闘志は落ちてなんかいない。

 いいぞ、タヌキの若旦那!

 

『モグラども、これ以上、ワシらの街で好き勝手にはさせねえぞ』

『ギャピィィィ!!』

 

 踏みにじり、叩き潰して、タヌキは進む。

 通路の反対側からは、一階のロビー同様にワラワラと変化したモグラどもが群れを成してやってきていた。

 藍色さんも自分が倒したホシバナモグラを完全に沈黙させ、敵の集団を迎え撃とうと両手の腱を伸ばしつつ、不敵な笑みを浮かべている。

 いかにも御子内さんの親友の一人だ。

 どれほど敵が軍勢を繰り出して来ようと、欠片も怯んだりはしない。

 

「どうやらわたしの臨時の相棒は貴公のようですね、タヌキ殿」

『そのようじゃ、猫の姐御』

「あのモグラが何匹いるかは知れませんが、残らず殲滅するまでわたしらは帰れにゃいことを覚悟してくださいね」

『もとより、承知。もともとこれはワシらタヌキが買った喧嘩じゃ。それに―――火事と喧嘩とタヌキのきんたまは江戸の華よ!』

 

 一人と一匹の人獣コンビか並び立つ。

 狭い廊下を舞台に、命がけのサバイバルマッチが始まろうとしていた。

 でも、僕には手助けはできない。

 友達を応援するだけだ。

 

「頑張れ、藍色さん、分福茶釜!」

 

 次の瞬間、戦いの嵐が巻き起こった。

 タヌキと人間、それに対してモグラ、どちらの勢力が生き残るかの雌雄を決するための。

 

 

 

 

         ◇◆◇

 

 

 

「―――あれ、升麻くん、どうしてこんなところにいるんだい?」

「迎えに来たんですよ。七條さんが遅いから」

「駄目じゃないか、勝手に入ってきたら。最近、こういうところの保安厳しんだぜ」

 

 悟郎は大きく欠伸をした。

 どうやらラノベを読みながら寝てしまったらしい。

 本は足元に落ちていた。

 

「あらら、ヤベ」

 

 それを拾い上げてから、升麻京一以外は誰もいないことに気が付く。

 

「フラン・コーポレーションの人は?」

「さあ。僕が受付の人に聞いたら、六階にいるから迎えに行ってもいいと許可を得たのできたんです。目、覚めましたか?」

「まあね。……なんだ、面接はもう終わりかよ。つーか、最初から真面目に面接する気なかったんじゃねえのか、この会社。おっと、いけね」

 

 会社批判だととられるとヤバいと思って口を噤むが、今の不平を聞いていたのは目の前の少年だけだった。

 

「もう、帰っていいそうですよ。もうそろそろ九時ですから」

「なんだよ、適当な会社だな。面接通ってもこんなところ、絶対に就職しないことにするわ。いくら俺の心が広くても、こんな適当なところに勤められるか」

 

 七條悟郎的にはアリかナシかで問われたら、ナシに決まっている会社であった。

 そんな彼の憤慨を生暖かい目で見つめながら、京一は言った。

 

「じゃあ、帰りましょうよ。特になにごともなかったみたいですし」

「そうするかな」

 

 廊下に出ると、さっきとは違う場所のような気がした。

 

「どうしました」

「いや、さっき来た時って窓があったかなあって……」

 

 窓から見える夜景はなかったような気がした。

 だが、ここに来たとはすでに夜だったから覚えていないだけかもしれない。

 昼間なら間違えることはないのだが……

 

「気のせいじゃないですか。最初から、七條さんがきたのは、()()()()()()()()よ。まかり間違っても()()()()()()()()()()()()()たし」

 

 記憶の齟齬に首をひねる七條を連れて、京一は非常階段を下る。

 

「エレベーターは使わないのか?」

「夜八時以降は使えない規則らしいです 

「面倒だな。やっぱり、この会社は止めよう。なあ、升麻くん」

「ええ、そうですね。こんな土臭いところ、いいことはありませんから」

 

 受付にもう誰もいない一階ロビーを抜けて、二人はビルの外に出た。

 もうほとんどの階の電気は消えていたから、七條悟郎はなにもおかしいとは思わずに吉祥寺駅に向けて歩き出す。

 足下に広がる地下の通路で、どれだけ激烈で命がけの死闘が繰り広げられたかについて、彼が何かを知ることは一切なかったのである……

 

 



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第46試合 夢へ鎮め
田舎町の悪夢


 

 

 昨日、ルームメイトが三か月の留学から帰ってきたせいで、室内の空気が妙にざわざわしていた。

 貴瀬久子(たかせひさこ)は、そのざわつきについて、単に一人暮らしに慣れてしまっていたからだと思っていた。

 元々、大学に入学して、二年以上同じ相手と生活していたのだから、すぐに感覚も元に戻るだろうと楽観していたこともある。

 友達が買ってきてくれたアメリカ土産を堪能しつつ、わざわざ用意した日本食でもてなして、遅くまでビールを飲んだ。

 寮に住む他の部屋の友達も来てくれたが、一応、就寝時間というものが定められている関係上、10時には帰ってしまい、宴会は二人きりということになってしまったのだ。

 とはいえ、つもる話は山のようにある。

 頼まれて録り溜めしておいたテレビ番組や漫画雑誌の類いを肴にして、深夜まで飲み明かした。

 それから、ツインベッドの寝室の布団に潜り込んだのだが、久子はすぐには寝付けなかった。

 飛行機での長旅の疲れもあるのか、すぐに泥のように眠り込んでしまったルームメイトを恨めしそうに睨んだ。

 

「ねえ、亜紀(あき)。ちょっと起きてよ。亜紀ったら」

 

 少しゆすっても軽くいびきを掻くだけで起きる気配はない。

 

「まったく…… あんたが怖いことをいうから寝れなくなったかもしんないのに。勝手なやつだ」

 

 久子は眼を閉じた。

 寝る前に亜紀がしていた話を思い出す。

 確か、彼女の留学が早めに切り上げられる原因となった事件についてだった。

 

(ネトル・ストリートだっけ? 亜紀がホームステイしていたアメリカの街って…… そこで人殺しがあったんだよね)

 

 彼女たちの在籍している大学と提携しているアメリカの大学に通うために、亜紀はすぐ近くの住宅街でホームステイをしていたということだ。

 その街で、信じられない連続殺人事件が起きたというのである。

 十人近い、ハイティーンの若者が次々と謎の殺され方をしたというのだ。

 

「―――みんなね、お腹から何かが出てきたみたいな死に方をしていたの」

「何かが出てきた?」

「そうなの。こう、お腹がぶわっと膨らんで、そこが破裂したみたいな感じ」

 

 亜紀が手にしていたハムを丸めて、中から突くようにすると、脆い表面が破れて指が顔を出した。

 死体の見立てなのだろう。

 想像するだけでもグロテスクだった。

 

「北○の拳?」

「まあ、北斗○拳ね」

「それって病気か何かじゃないの? 殺人事件ってことはないでしょう」

「いや、あたしもそう思ったの。でも、ホームステイ先の両親とか同級生とかなんてもう論調が『○○に殺された』一色になっちゃって、あっという間に大学に誰もこなくなっちゃったの。いや、驚いたわ」

「なによそれ」

 

 ビールをぐびぐび飲みながら、

 

「信じちゃってるのよ、町中のみんなが殺人鬼の都市伝説を」

「都市伝説ってなに」

「うんとね。ネトル・ストリートにはその昔、学生運動があったらしいの。日本のものとはちょっと違うんだけど……。 なんていうかモルモン教徒みたいに変わった教義のカソリック宗派がいたらしくてね。その宗派の子息を中心とした政府の方針に反対するデモを学生たちがやって、その際に、なんていうか暴徒っぽくなってしまった」

「ロサンゼルス大暴動みたいなものか」

「それで、町中が大騒ぎになったんだけど、そのどさくさ紛れに十数人の高校生が一軒のお店を襲撃した」

「強盗しちゃったわけね」

「ううん。お金とかは関係なくて、そこは雑貨店だったんだけど、今でいうSMグッズみたいなものも売っている店で道徳的に問題があると言われていた」

 

 数十年前のアメリカの田舎町なら、そういうのは迫害の対象になってもおかしくないのかな。

 ただそれだけで襲われるのは変だ。

 

「問題は売っているものじゃなくて、店主だったのよ。……えっと、サミュエル・ブレイディだったかな? サム・ブレイディと呼ばれていた」

「もしかして、変質者かなんかだったの?」

「まあ、そうね。小児愛者で、強姦魔で、連続殺人鬼だったらしいから」

 

 うわ、と久子は口を押さえた。

 平和で凶悪犯罪の少ない日本ではあまり聞かない単語のオンパレードだからだ。

 

「町ではずっと有名だったらしくて、そのデモの日に勢いづいた学生たちがプラカードだけじゃなくて鉄パイプとか片手で殴りこんだの。学生たちは、店内を滅茶苦茶にしただけでなくて、通りにサム・ブレイディを無理矢理引き摺り出すと殴る蹴るのリンチを始めた。その間に他の学生がサムの店に火をつけることもした。別に彼らも命を奪うつもりはなかったと思うけど、大切な店が燃えているのをみたサムはそのまま自分の身も顧みずに戻っていってしまったの」

「―――死んじゃわない?」

「当然、死んじゃった。あとで、警察が燃えてなくなった店を調べたら地下室が見つかって、そこで窒息死していたサムの死体と彼の行っていた殺人とかの悪事の証拠が見つかったの。何十件もの事件の証拠がね」

 

 ……サムの店を放火した学生たちも酷いが、それが冤罪でもなかったということがショックだった。

 アメリカってやっぱりそんな風に凶悪事件が多いんだな。

 しかし、私刑(しけい)は認められないかも。

 ただ、殺人鬼サミュエル・ブレイディは死んだのにその後なにがあったのだろうか。

 亜紀の話はまだまだ続く。

 

「それからしばらくして、町の子供たち……ハイティーンの高校生の中に奇妙な噂が広がったの」

「噂……?」

「みんなの夢に、サミュエル・ブレイディが出てくる。そして、油断をしていたら夢の中で殺されるっていう噂だった」

 

 息を呑んだ。

 なぜか、笑い飛ばすことができなかった。

 亜紀の口調などは抜きにしたとしても、サム・ブレイディの話に潜む狂気のようなものを感じ取ってしまったからかもしれない。

 

「それで……夢に出てくるぐらいで本当に殺されるわけがないじゃない」

「ううん、殺されたの。―――夢でサム・ブレイディに出会った学生たちは、みんな、殺されたの。お腹を中から突き破られるっていう、ありえない殺され方でね」

 

 ―――亜紀の話はそれからもまだ続いたが、どれも非現実的すぎて恐ろしいものばかりだった。

 ただ、それが原因で亜紀の海外留学は半年の予定が三か月にまで短縮してしまったのである。

 

(まったく、酷い話だよね。亜紀もとんだとばっちりだ)

 

 ルームメイトの不幸を思うと可哀想になる。

 訪米前の楽しそうな亜紀を覚えているからなおさらだ。

 楽しみにしていた留学が無残な事件のせいで短縮してしまったというのは同情に値する。

 

「ついてないよね、亜紀は……」

 

 さすがにそろそろアルコールが回ってきて瞼が重くなってきたころ、隣のベッドで寝ているルームメイトが苦しそうな呻きをたてはじめた。

 

「……ううう」

「どうしたの、亜紀? 飲み過ぎ? 大丈夫?」

 

 だが、亜紀はどんなに揺すっても目を覚ます様子はない。

 それどころか、呻きはさらに強くなり苦しそうに息遣いが荒くなっていく。

 汗は額だけでなく、パジャマをまるで濡れ雑巾のように湿らせていった。

 手で押さえつけてもガクガク震えるのを止めることさえできないのだ。

 

「亜紀、亜紀!」

 

 しかし、亜紀は絶対に目を覚まさない。

 荒く息をする唇から一言だけ漏れた。

 

「―――やめて、サム・ブレイディ!! あたしは関係ない!!」

 

 その瞬間、

 

「いやあああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 

 亜紀の断末魔の叫びと共に、その腹部が信じられない隆起を見せて持ち上がり、膨大な血飛沫と共に破裂したのだ。

 そして、久子は目撃した。

 

 亜紀の小柄な胴体から飛び出てきたのは、鋭い凶器のような爪を伸ばした男の左腕であった。

 女の胎内の血に塗れた腕の持ち主は、手首から先だけでなく、二の腕、肩まで出てきて、最後は頭まで妖々と現われた。

 どうやって出てくるのか、どこに隠れていたのか、そんなことは無意味だとばかりに堂々と出現してきた。

 

『―――Uhm Where I am(ここはどこだ)?』

 

 狂気しか感じられぬ登場をした男は久子にもわかる英語でそう呟いたのであった……

 

 









「巫女レスラー」はパロディがやたらと多い作風なので、もし元ネタにお気づきの人がございましたら感想の方にあげてもらえるとコメンタリーすることができるのでよろしくお願いしますm(__)m


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殺人悪夢〈サム・ブレイディ〉

 

 

「夢に見たこともない男が出てくることは、わりとあるんだよ。確か、『This Man(ディスマン)』だったかな?」

 

 今回の事件の現場に向かうための電車で、御子内さんが解説を始めてくれた。

 

「確か、2006年に女性が一人、ニューヨークの精神科に訪れた。彼女は自分の夢の中にいつも同じ男が現れる説明した。それを聞いた医者が、試しにその男の人相を描かせると、太い眉で、特徴的な大きな口、ギラギラした目をして、髪の薄い頭をした男のモンタージュが出来上がった。別の日に違う患者がきたとき、そのモンタージュが机の上に置きっ放しになっていた。すると、その患者がモンタージュを見てこう叫んだ。『私の夢にいつも出てくる男だ』 とね」

 

 同じ男を二人の人間が夢の中に出たのか。

 それはオカルトな話だね。

 御子内さんは話を続ける。

 

「この精神科医は、仲間の医師に呼びかけてモンタージュ作成を大規模に実施してみたんだ。すると、幾人かの患者の夢に、この男らしき人物が出没していることがわかった。そこで、その精神科医と仲間たちはこの夢に出てくる男を『This Man(ディスマン)』と名付けて、インターネット上にホームページを設置して情報を集めてみる。そうしたらアメリカどころか、インド、フランス、中国など世界中から数千人が見たことがあると体験談を寄せてきたんだ。で、この謎の男のことが世界中で話題になった」

 

 凄い話だ。

 人間の集合的意識的か何かが引き起こした現象だろうか。

 でも、きっとわりと印象的な顔の映画俳優かなんかだろうね。

 実際の世の中というはあまりおかしなことはないから。

 

「まあ、タネを明かすとヨーロッパの広告会社の仕掛けらしいんだけどね。口コミを利用してどのぐらいに情報が拡散するかっていう、えっとバイラル・マーケティングの実験だったそうだ」

「―――っ!」

 

 騙された。

 世の中というのは僕が思っているよりもさらに悪辣だ。

 そんなオチってないよね。

 

「って、じゃあ今回、御子内さんが倒す予定の妖怪というのは、口コミが関係しているの?」

「いや、違う。問題なのは、夢に出るという男の話さ」

「でも、それはバイラル・マーケティングの一環で……」

「世界中、歴史的にも、実は夢を媒介にした妖魅の類いは少なくないんだ。つい最近だって、てんが夢を食べる〈獏〉を封印したらしいけど、夢というのは人間とは切っても切れない関係にある。だから、夢の中を移動するような妖魅はわりと報告されている」

 

 夢の中を渡る妖魅……

 そんなものがいるのか。

 

「少なくとも、ボクが受け取った助けを求める声はそういう悲鳴をあげている。夢の中に出る殺人鬼が友達を殺したってね」

「夢の殺人鬼?」

「そう。アメリカに留学してきて帰ってきた友達が、夢の中にでる男に悩まされていたらしい。そして、腹からそいつらしき男が出てきて、友達は無残に殺されてしまった。今は、生き残った女の子の夢に潜んでいる可能性がある。今回、倒すのはそいつさ」

 

 だいたい話はわかった。

 しかし、そんなことができるのだろうか。

 夢の中にいる殺人鬼を倒すなんて。

 

「まあ、やってみるしかないね」

「……そんな楽観的な」

 

 このあたり、いつも御子内さんは深く考え込んだりはしない。

 可愛い顔して脳筋なんだよね。

 

「他にわかっていることは?」

「直接、その殺人鬼に憑りつかれているっている女性に会ってからかな。ほとんど錯乱気味だし、ここ数日寝ていないらしくて支離滅裂なんだ」

「なんで寝ていないの?」

 

 って聞くだけ無駄だった。

 夢の中にでる殺人鬼というのならば、寝たら終わりだからだろう。

 睡眠というのは、人間の三大欲求の一つだし、それが無理に奪われれば精神だっておかしくなる。

 うちのクラスの桜井が「女と付き合う前に、そいつに睡眠障害がないかきいておくべきだぜ」なんて偉そうなことを言っていたのは、健康にまつわる眠りの影響と大切さについての話だし。

 人間の心はわりと快適な睡眠に左右されるのだ。

 

「御子内さんは毎日よく眠れているの?」

「ボクは毎日八時間は睡眠時間を確保しているし、お布団に入ったらそく就寝だよ。寝不足なんてほとんどないかな」

「だろうね」

 

 これも聞く必要のない話だった。

 

「でも夢の中にいて実体のない相手を倒すなんてできるのかな……。まって、そんなのに殺されるってどういうこと? 夢の中から出てくるの?」

「彼女は実際に友達が殺されるところを目撃しているそうだ。まあ、それが夢でなかったという保証はないけどね。ただ、殺された友達の死体には、どうやってかはわからないがお腹の内部から破裂した痕跡があるそうだ。彼女の証言と一致する」

「ああ、アメリカ留学していたっていう……」

 

 そのとき、僕の脳裏にある人物が浮かんだ。

 アメリカで、殺人鬼関係で、夢の中。

 以前、聞いたことがある。

 あれは確か千葉県でプリウスαの後部座席にいたときのことだ。

 

「ちょっと待って」

 

 僕はLINEで()()に今大丈夫かというメッセージを送る。

 すぐに返事がきた。

 電車から降りると、僕は改めてスマホで連絡を取ってみた。

 

「……もしもし、ヴァネッサさんですか? 升麻京一です」

〔Hello、升麻サン。お久しぶり。それで私から何を聞きだしたいんですか?〕

「話が早くて助かります。実は……」

 

 そして、僕の勘は今回はうまく的中したのである。

 

 

           ◇◆◇

 

 

 そいつは、黒い服を着ているという。

 左手には鉤爪をつけて、ハンチングを被り、顔を仮面で隠している。

 仮面はパーティーのジョークで使われそうな白いムンクの「叫び」を意識したデザインで、ユーモラスであるが悪趣味でもある。

 最初は誰だかわからない。

 だが、そいつについて知っていて、名前を呼ぶと、仮面の男は自分から名乗るという。

 

I’m(おれは) Sam Brady(サム・ブレイディだよ)

 

 そこで初めて人は、自分が夢を見ていてサム・ブレイディが殺しにやってきたことに気が付く。

 ネトル・ストリートの住民は、みな、この狂気の殺人鬼の都市伝説を衆知しているからである。

 この殺人鬼から逃れる方法はたった一つだ。

 悪夢から自力で覚めること。

 それによって、逃れることができたものも多く(そうでなければこの話自体が伝わっていない)、不可能とは思われていない。

 ただし、そこに至るまではとてつもなく困難で、障害ばかりと言われている。

 もっとも、一度でもサム・ブレイディの夢から自力で脱出できたものは、それ以降も逃げることができるようになるため、悪夢の殺人鬼は面倒くさがって襲わなくなるというのも伝えられていた。

 だから襲われた人たちは、なんとしてでも逃げるために必死の努力をしなければならないのだ。

 

「……亜紀は、布団に入る少し前に、『もしかしたら、あたしもサム・ブレイディの夢を見ちゃったかもしれない』って言ってました。アメリカをでる日のことらしいです。たまたま、ですけど乗っていたタクシーがブレイディの放火された店の前を―――何もない更地なんだそうです―――を通ったとき、変な声を聞いてしまったといっていました。それがもしかしたら、サム・ブレイディの呼び声だったのかも、と冗談交じりですが言ってました」

 

 貴瀬久子さんは、二十一歳で僕らよりも四つ上だ。

 しかし、睡眠不足と友達の死体を目撃したショックでほとんど憔悴しきっていて、子供のようになっていた。

 九州のご家族には事態を知らせていないらしく、付き添いはいない。

 いたとしても、困ることになっただろう。

 娘が夢の中の殺人鬼に狙われているなんて、理解できるはずがない。

 最悪の場合は、精神病院行きだ。

 

「警察にこのことは話したのかい?」

「ええ。ほとんどのお巡りさんは信じてくれませんでしたけど、一人だけ変わった方がいて、あたしにこの神社へいけと教えてくれました」

 

 ここは杉並区にある、「夢間神社」という神社の社務所の一室だ。

 僕と御子内さんは、その夢の中の殺人鬼サム・ブレイディという妖魅に憑りつかれたらしい女性と対面していた。

 会った瞬間に、憔悴しきった顔色だけでなくて、纏う黒いオーラのようなものに気が付いた。

 僕でわかる程度なのだから、相当なものだろう。

 この女性(ひと)は確実に善くないものに憑かれている。

 

「……詳しい事情をもう少し聴こうじゃないか」

 

 夢の中の殺人鬼。

 

 そんなものと巫女レスラーは戦うことになってしまったのであるが、果たして勝ち目はあるのだろうか。

 

 

 



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妖夢冒険

 

 

 夢間神社は、都内だけでなく関東全域の「夢」にまつわる祈祷などを一手に引き受けるオカルト界では有名な場所だ。

 僕たちが思っている以上に、日本では夢にまつわる問題が多く、その対策を練るための情報集積場という扱いになっているらしい。

 貴瀬久子さんをここに導いた警察官は、おそらく〈社務所〉のこともわかっていて、さりげなく紹介という形をとったのだろう。

 その警察官は、「夢の中の男が殺した」という普通なら眉唾物の貴瀬さんの訴えを真剣に捉えたのだろう。

 実際、殺された亜紀さんの遺体を見れば、あまりの異常さに貴瀬さんの証言を信じる気にもなるだろうけど。

 

「……真っ先に疑われるだろう久子が、早々に解放されたのは、やはり殺害方法のとんでもなさだろうな」

「お腹の中から男性が出てくるって証言を裏打ちさせる検視結果も出てるしね」

 

〈社務所〉が手に入れた警察の初動報告では、事件の異様さが強調され過ぎていて、逆にとりとめのないものになっていた。

 もしかしたら、アメリカから亜紀さんを追ってきたものがいるのではないかと、成田の入管まで捜査員を派遣しているらしいし。

 ただ、僕らとしては犯人は特定できているので、あとは退治すればいいという段階だ。

 もっとも、どうやって退治するかが問題なのだけど。

 

「……〈護摩台〉はこんなのでいいの?」

 

 今回、僕が用意しているのはただのリングタイプの〈護摩台〉ではなくて、その周囲にさらに金網のような柵を用意するものだった。

 なんていうか、こういうのって……

 

「電流爆破デスマッチみたいだよね」

 

 電気も流さないし、爆発する火薬も仕掛けないけど、こうやって丈夫な柵で囲むのはとても不安だ。

 夢間神社の境内は広いからこそできる仕様なのだが、立てる際にフォークリフトを使わなければならないのがまた面倒だった。

 1t未満の立って乗るタイプだが、何度も使っていて慣れたものだった。

 自分でいうのもなんだがわりと器用にリングを囲む柵を立てていると、夢見神社の神主さんが話しかけてきた。

 わりときさくな人なのだが、ちょっと御子内さんというか退魔巫女を怖がっているようにもみえる。

 巫女たちは怖くなんかないのにおかしなことだ。

 

「君は若いのに、そんなフォークリフトなんか器用に運転するね。免許はあるのかい?」

「……すいません、まだ18歳じゃないのでもってないんです」

 

 無免許なのでした。

 でも、正直なところ、〈社務所〉の仕事をするのにフォークリフトはよく使うものなので、違法を承知でやっている。

 誕生日になったら即免許を取りに行く予定だ。

 

「まあ、〈護摩台〉を設置するのに人力ばかりというのも難しいし。私は見なかったことにするよ」

 

 見逃してもらった。

〈社務所〉の関係者はどうも順法意識がない人が多いが(僕も含めて)、この神主さんも同様なのだろう。

 フォークリフトがないと僕だけでこんな大規模なものは作れないので仕方のないところだ。

 

「京一、もう大丈夫かい?」

「うん。着替えは終わったの」

「ああ」

 

 御子内さんが社務所から貴瀬さんを連れてやってきた。

 彼女は白い着物を着ている。

 和服は初めてだと言っていたけれど、着付をやったのは御子内さんなので、かなりぴっちりと決まっていた。

 とはいえ、別にお洒落でやっている訳ではない。

 これは霊的戦闘服とでもいうべき格好なのだ。

 御子内さんが言うには、貴瀬さんにはすでにサム・ブレイディという殺人鬼の霊が憑りついている状態らしい。

 僕にでも視てわかるぐらいなのだから、相当強い悪霊なのだ。

 しかも厄介なことに通常の御祓いは通じないということなのである。

 何故かというと、サム・ブレイディが憑りついているのは貴瀬さんの身体や霊体ではなく、そことは次元を越えて違う世界ともいえる「夢」そのものなのだという。

 夢というのは、僕らの認識では脳が見せている記憶とかそういう科学的に分析できるものなのだが、実のところ、幽界というこの世界とは関わりが深いが別の世界に繋がった意識の橋が見せる現実であるというらしい。

 幽界とのホットライン、人の魂が見せる別の現実、それを「夢」というのだそうだ。

 もちろん、別の解釈も存在し、場合によっては今語られている夢とは別の「夢」もあるという話だ。

 それだけ人の精神というものは複雑怪奇なのだろう。

 話を戻すと、殺人鬼サム・ブレイディが憑りついているのは、その「夢」の部分であって、従来の悪霊退治(エクソシスト)では通用しないのだそうだ。

 だから、御子内さんは通常とは違うやり方を選んだ。

 

「いいかい、久子。キミはいったん寝ることになる。これは説明したね」

「う、うん」

 

 年上相手に呼び捨てというのが、さすが御子内さんである。

 

「当然、夢の中では例のサム・ブレイディが現われるだろう。そして、キミの友人を手にかけたように、キミを襲う。でなければ、奴の存在意義がないからだ。人を殺すという妄念に憑りつかれた夢の怨霊のね」

「……」

「キミも体験したように夢の中で襲われていることは、魘されている様子からわかる。だから、キミがやつに遭遇したらこちらで京一が起こす」

「起こせるの?」

「京一にはこちらが用意した特製の気付けの鼻薬を渡してある。どんなに邪魔されても絶対に起こせるって代物だ。だから、それで久子は助かる」

「でも、それじゃあどうにもならないよ。貴瀬さんが寝てしまったら、また襲われるだけだ」

「大丈夫。そこは任せてほしい」

 

 御子内さんはドンと胸を叩いた。

 きわめて平均的な胸囲が揺れる。

 

「ボクも一緒にキミの隣で眠るから」

 

 久子さんが目を丸くした。

 一緒に寝るってどういうことだろう。

 

「調査によると、サム・ブレイディは他人の夢を渡る殺人鬼の怨霊だ。だから、現実にはでてこない。逆にいえば、奴の移動は夢と夢でないとできない。近くに誰かが寝ていなければならないんだ」

「でも、亜紀が死んだときは……」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。奴がその際にキミの夢に渡ったのでなければ、今、キミの中にいることの説明ができない」

 

 はっきりとした明晰夢であったからこそ、気が付かなかったということか。

 でも、そうなると……

 

「僕が貴瀬さんを起こすとなると、御子内さんはどうなるの?」

「当然、ボクが夢の中でサム・ブレイディと戦うことになる」

 

 きっぱりという巫女レスラー。

 だが、いくらなんでも夢の中で戦うことなんて、できるものだろうか。

 できたとしても、勝つことなんて不可能だとしか思えない。

 

「そこも大丈夫だ。さっき、ネシーから話を聞いたしね」

「ヴァネッサさんから?」

「ああ。京一が電話してくれたおかげで、ネシーと話ができた。さすがはネシーだ。サム・ブレイディについてもよく知っていて、重要なヒントをくれたのさ」

「夢の中で戦うことについての?」

 

 不敵に笑う御子内さん。

 勝算がある、ということか。

 じゃあ、僕はそれを信じるしかない。

 僕の巫女レスラーがまたしても不利な状況を引っ繰り返して逆転勝利をもぎ取ることを。

 

「じゃあ、準備をしよう。夢で暴れるけったクソ悪い怪人を退治して、亜紀さんとネトル・ストリートの人たちの仇をとろう!」

「もちろんさ」

 

 この金属の柵もそのための罠の一つなのだ。

 見ているがいいさ、夢の中の殺人鬼。

 生きている人間を甘く見ていらんことをしまくって倒されるのは、絶対におまえなのだからな。

 

 



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黒い鉤爪の男

 

 

 気が付いたら、貴瀬久子は高校時代の母校の教室に立っていた。

 どういうわけか、すぐにここが夢の中であるとわかった。

 夢だから、卒業して三年も経ってから久子が制服を着て、所在無げに立っているのだろう。

 しかも、窓から外は真っ暗で夜だとわかる。

 煌々と月光が輝くこんな真夜中に学校にいたことはない。

 一瞬だけ思考が曇ったが、自分が夢の中にいるということだけははっきりと認識できた。

 起きていたときに交わしていた会話の影響だろう。

 

「サム・ブレイディ……いるの!?」

 

 久子は叫んだ。

 彼女のルームメイトを無残に殺害した、夢に潜む殺人鬼が必ずいることはわかっている。

 そして、もう何度も夢の中に現われては、久子を執拗に揶揄い続ける悪鬼は、今度こそ彼女の命をとろうとするだろう。

 なぜなら、殺人鬼を追い詰めようとする白い力が動き出しているからだ。

 母国のアメリカにはない、邪悪な妖魅を打ち倒す正義の力が。

 

「出てきなさい、殺人鬼!」

『……カカカ、うるせえ嬢ちゃんだぜ。そんなにラブコールを送らなくてもすぐに出てってやるぜ。俺と哀愁デートしようぜ、マジで』

「黙れ、変態!!」

 

 教室の前の扉から、のっそりと男が入ってきた。

 黒いコートと革のパンツをまとった、ハンチングを被った男だった。

 左手にはナイフのように鋭い鉤爪をつけて、顔には白い仮面をつけている。

 何度も夢で遭遇したことのある男だ。

 名前もよく知っている。

 サミュエル・ブレイディ―――夢の殺人鬼だ。

 アメリカですでに何十人もの若者たちを無残に殺してきた、超常の連続殺人鬼。

 久子のルームメイトまで手に掛けた怪物であった。

 

『ようやっと日本語? ってのを覚えたぜ。睡眠学習はまったく良く効くよなアア』 

 

 カチカチカチと手についた刃を鳴らしながら、黒づくめの殺人鬼―――サム・ブレイディは教壇に腰掛ける。

 数日前までは英語しか喋らなかったのに、いつのまにか日本語が流暢になっていた。

 サム・ブレイディは自分が宿主にしている久子の記憶から言葉を学んだのだ。

 盗んだといってもいいかもしれない。

 

『んー、俺をどうにかしてやろうと思っているんだろ、あんた。で、どうにかできると思っているのかい?』

 

 仮面の奥から甲高い嘲るような声をだす。

 爪で教壇の天板を何度も引っ掻きながら、サム・ブレイディは獲物である久子を揶揄い続ける。

 これが彼の嗜好だった。

 逃げられない獲物をいたぶって弄んで、最後に切り刻んで殺す。

 

『何をしているんだい?』

 

 気が付くと、後ろから肩を抱かれていた。

 爪が久子の眉に添えられていた。

 

『メイクアップするなら、眉毛のお手入れは必要だよねえ』

 

 耳孔に生温かい息を吹き込み、背筋を冷やすと、今度は仮面をずらして耳たぶを甘く噛んできた。

 好きな男にされれば快楽で喘ぎたくなるような行為も、不気味で恐ろしい殺人鬼にされれば怖気が走る気持ち悪さだった。

 長い間、くちゃくちゃと舌で弄ばれ、湿った耳たぶを乱暴に吐き出すと、サム・ブレイディは首の後ろから服の中に手を差し入れた。

 

「やだ!!」

 

 さすがに耐えきれず払いのけたが、その手を掴まれて、くるりと回転して向き合う形になる。

 最悪のダンス相手だった。

 

『あんた、わりと年を食っているねえ。東洋人は年齢がわからないからいけない。俺の好みはミドルからハイティーンなんだけどねえ』

「……や、やだ」

『大丈夫だよ。触ってごらん。俺の股間のビッグボスとポケモンはあのときの火事で焼けちまってないから、床の上でのラテンダンスはできないのさ』

 

 掴まれた手が殺人鬼の股間にさしだされたが、確かにそこにはどんな突起物もなかった。

 

『俺を殺したバカな学生どものせいで、こんなにされちまったんだよ。だから、そのお返しに俺がもっと楽しい死に方をプレゼントしてやっているという訳。わかるぅ?』

 

 本人としてはただの復讐のつもりなのだろうが、もともとはこの殺人鬼の犯した悪行の報いなのだ。

 ただの卑怯な報復に過ぎないのだが。

 生前も死後もアメリカで多くの殺人を重ねてきた怪物は、薄汚い執着をみせて、久子の顔を撫でた。

 

「やめて、やめて……」

 

 どんなに拒もうとしてもここは夢の世界。

 今までに何人かには逃げられてきたが、だからといってそれがサム・ブレイディにとっての致命的なしくじりということにはならない。

 逃げた獲物はいずれ始末するとしても、自在に操ることのできる夢の中、しかもそこに憑りついている彼をどうにかできるものはいない。

 少なくとも、アメリカでの彼は無敵の存在であった。

 かつて一度だけ失策を犯して一時的に夢の外にでられなくなり、趣味の殺人がなかなかできなくなることもあったが、彼を止めることができるものなど皆無であった。

 例え異郷であったとしても、それは変わらない。

 人間が夢を見る生き物である以上、彼は無敵だ。

 知識は憑りついた相手から得ればいいし、死霊であることから食べ物も必要がないから飢えることさえもない。

 だから、遠く故郷ネトル・ストリートを離れた外国でもこれまで通りに好き放題に振る舞えばいいのだ。

 誰も邪魔はしない。

 しかも、この国では彼のことを知るものは少なく、さっさと姿を隠してしまえばアメリカから敵が来ることもないだろう。

 サム・ブレイディの天国はまだ無限に広がっているのだ。

 そう彼は高をくくっていた。

 

『―――そう考えると、あんたのお友達についてきてよかったぜ。東洋人の女の泣き叫ぶ声というのもオツなものだったしなあ』

 

 サム・ブレイディは仮面をとった。

 そこにあったのは、もう死んでしまったルームメイト・亜紀の顔であった。

 しかし、亜紀ではあっても亜紀ではない。

 朗らかだった友達は、あんな歪んだサディズムに満ちた狂笑は浮かべたりはしない。

 気持ち悪い下品な目つきで舐めまわしたりはしない。

 友達の顔を奪って穢しているだけだ。

 

「亜紀を殺した癖に……」

 

 許さない。

 この化け物め。

 夢の中だろうがなんだろうが、友達を殺されて黙っていられるものか。

 許してたまるものか。

 

『殺したからどうだっていうのかな~。殺しましたよ、それで何か?』

 

 まだまだサム・ブレイディは久子をいたぶるつもりだった。

 そのために、すぐに殺さずに何日もいたぶっていたのだ。

 さて、どうやって殺そうか、悪魔の悪戯に相応しいやり方を舌なめずりして探しながら。

 悪魔の蹂躙がまたも一人の女を手に掛けようと這いずってきたとき、

 

「―――なんて悪趣味な奴だ。こういうのはやっぱり入国禁止にしないといけないね」

 

 教室の後方の扉が音をたてて開いた。

 

『なんだ、あんたは?』

「キミがサム・ブレイディか。薄汚い殺人鬼に名乗るのは心外だけど、化け物相手だろうとボクらのやり方は変わらない」

 

 白衣と緋袴、黒いリングシューズを履いた、闘志あふれる美少女が顔を出した。

 関東を鎮護する〈社務所〉に属する退魔巫女にして、最強の巫女レスラー・御子内或子が夢の中であろうと助けを求める声を聞きつけてやってきたのである。

 

「行くぞ、メリケンの殺人鬼!!」

 

 

 



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闘夢と悪夢

 

 

「やはり夢の中というのは、ふわふわしていて動きづらいものだね」

 

 手を握ったり閉じたりして感触を確かめる。

 確かに現実世界とは微妙に違う。

 プールに肩まで塚っているような重さを感じていた。

 さすがに自分の肉体ではなく、夢の世界に入り込んだだけあって勝手が違う。

 彼女がどうやって「夢」に入ったかというと、それは夢間神社に伝わる特殊な儀式によるものだった。

 夢などという形而上学的な世界についても、太古の昔から研究は続けられていた。

 例えば、夢のお告げを初めとする不思議な事象は数限りがなく、サム・ブレイディのように夢の世界に巣食う怪物の存在も確認されていたのだ。

 それら夢にまつわる現象について集積し、解析し、研究するために徳川家康が江戸の外れに秘密裏に用意したのが、夢見神社の前身であった。

 江戸の幕府が滅び、明治政府ができると同時に現代では〈社務所〉と呼ばれる退魔組織が明治天皇の勅令により設置される。

〈社務所〉は京都から帝都に遷られる際に、明治天皇が連れてきたものたちを中心として、新しく再編された組織なのであった。

 今では廃仏毀釈といえば、悪政の見本のように考えられているが、明治政府のこの政策の裏では〈社務所〉によるオカルトの世界―――闇の蠢く世界への強い干渉がなされていたのである。

 明治天皇は自ら京都から連れてきた退魔の家のものたちを要所の宮司に据え、帝都・東京の霊的安定を促がした。

 特に朝敵とされている平将門を祀る成田山には「明王殿」を、川崎大師・平間寺の近くには「神宮女」を、神田明神には「熊埜御堂」を、内藤新宿には「猫耳堂」を配置するなどの策を巡らせた。

 また、天皇家の守護として禁裏に出入りしていた「御所守」「刹彌」「豈馬《あにま》」を〈社務所〉と繋がりをもたせ、武力も増強させた。

 さらに、山梨・栃木・群馬の各地の元天領における霊的安定を保つために、全国各地から集めた道々のものや修験者出身の退魔師を送る。

 このように、明治天皇は表の政治の裏側において、首都となる東京ひいては関東一円を護る霊的仕掛けをたんまりと施していたのである。

 夢間神社は元々幕府の管轄であったが、大政奉還にともない明治政府の一部門となり、〈社務所〉とのパイプを用意された神社であった。

 その理由は「夢」の世界の守護。

 そして、その神主である宮司には、他人の夢に霊的な力を持つものを送り込む呪法が伝承されていたのである。

 升麻京一が用意した〈護摩台〉の上で、貴瀬久子と御子内或子は寄り添うように眠りにつき、呪法の力で或子は久子の夢に「同調」した。

 同床異夢ならぬ異床同夢である。

 或子はサム・ブレイディのように、夢の存在と化し、久子の夢に渡ったのである。

 

『……まさか、あんた、俺みてえに死んでるのか? いや、ちげえな。どうみても生きている人間だ』

「そうだよ。ボクはキミを倒すためにきたんだ」

『倒すだってぇ、この俺をか? ドタマいかれてんじゃねえのか!? ここをどこだと思っていやがる!!』

 

 サムからすれば或子の言っていることは無意味な戯言だ。

 彼の言う通り、ここは夢の世界。

 殺人鬼のホームだ。

 思い出のグリーングラスなのである。

 この世界でサム・ブレイディをどうにかできる敵などいない。

 

「こうするのさ!!」

 

 或子は走った。

 そのまま久子を捕まえているサムの顔面に腰の乗ったパンチを突き立てる。

 あまりの速さにサムは反応もできずに、獲物を手放して吹き飛ぶ。

 

『なにしやがる!?』

「まだ終わりじゃないぞ!」

 

 或子は勢いをキープしたまま縦回転で踵落としを放つ。

 テコンドーのネリチャギとは違う、鎌のように頭を砕く蹴りだ。

 鉤爪がついた左腕では間に合わないと、サム・ブレイディは右手を防御に回した。

 だが、巫女レスラーの脚力はその腕ごと脳天を破砕する。

 

『おおおぉぉぉん、あはぁはぁぁぁ!! よくも俺の腕をぉぉぉぉ!!』

 

 サムの右腕はおかしな方向に直角に折れ曲がっていた。

 

「まだだ!!」

 或子は縦にチョップを放った。

 木の枝ぐらいなら切れる手刀だ。

 それは鉤爪のついた左腕にあたり、なんと切断してしまう。

 

『お、おおおおぁぁぁおおおお!!』

 

 両腕がなくなるか破壊されたサムは身も蓋もない叫びをあげて、床に這いつくばる。

 切断面からはどす黒い血が溢れていた。

 嘘みたいに脆い、と思ったとき、サムは痛がるふりを止めた。

 傷をものともせずに立ち上がり、

 

「ん、ふふふふ」

 

 と笑うと、気合いとともになくなっていた腕が生えてきて、折れた骨までもが元に戻る。

 さすがに驚いた或子に対して、左右から殴りつけ、斬りつけ、鉤爪を躱して体勢を崩した彼女の腹を蹴った。

 なんとか十字受けで防いだものの、細身とは思えない異常な怪力によって或子は黒板まで飛んでいった。

 背中に〈気〉をこめて衝撃を防ぐ。

 夢の中でも〈気〉は使えるようだった。

 しかし、信じられない力だ。

 

「ケケケケ、俺の悪夢へようこそ」

 

 サムはケタケタと笑った。

 手を挙げて或子目掛けて振ると、その動きに合わせて教室の机と椅子が触れてもいないのに飛んでいく。

 まるでサイコキネシスでも使っているかのように。

 間一髪左に跳んだ或子だったが、次の瞬間、いつ移動したのかさえわからないサムに背後を取られる。

 

「そこ!!」

 

 振り向きざまにバックブローを放つが、サムは黒い霧になって消えた。

 

『よそ見をすんなよ、姉ちゃん(ビッチ)

 

 鋭い爪が顔面を狙った。

 巫女レスラーの超反応がそれをなんとか躱すが、髪の毛を持っていかれた。

 正体不明の風圧が彼女を弾き飛ばした。

 まったく想定していない方角からの風だった。

 今度は窓に激突し、ガラスが割れる。

 なのに外に出たりしない。

 まるでクッションでもあるかのように跳ね返り、床を転げた。

 

『ここは俺のホームだぜ。どうやって入ってきたかは知らねえが、お客様は大切にもてなさなきゃあなあ』

 

 サムは鉤爪を擦り合わせ耳障りな音を立てる。

 殺人鬼の指揮に従って、再び動き出した机と椅子が或子の前身を覆いかぶさる。

 貌と右腕以外はすべて動けなくなった。

 

『ケケケケ、なかなかキュートじゃねえか、ベイビー』

 

 サムは爪で或子の前髪を梳かす。

 可愛らしい顔が剥き出しになった。

 机と椅子の重さによる苦痛で歪んでいく。

 

『なーに、すぐには殺さねえ。殺すときはまあ初めてだから痛いだろうが、そのうち気持ちよくなってケツを振りだすぜ』

 

 爪を或子の腕に振るい、掌に血の筋を作る。

 彼の得意の遊びだった。

 どんなに夢の中でいたぶっても弄んでもそれで被害者が目を覚ますことはない。

 だから、身体に傷でメッセージを作るのが好みの遊びだった。

 

『日本だとどういうのが喜ばれるかなあ。ご馳走さまか? あんた、処女みたいだし、穴の一つや二つ空いていた方が楽しいだろう』

 

 もう動けない或子をどうやって苦しめるかが、目下のところ、サムの楽しみとなっていた。

 ここでもう一人の最初の獲物のことを思い出した。

 こっちのよくわからない闖入者はさておいて、まずは順番通りに食べていくのがマナーを守る文明人のやることだ。

 

『おーい、久子ぉ。ちょっとこっちにおいで』

 

 教室を見渡してみたが、彼と或子以外には誰もいなかった。

 隠れられるスペースもないし、ここはサムの意志のままに操られる空間なので、彼の許可なしに出られるはずがない。

 出した覚えもない。

 それなのに、いつのまにか久子がいなくなっていた。

 どういうことだ?

 サムは首をひねった。

 まさか、目を覚ましたのか。

 だが、その場合でも彼に悟られることなくというのは難しいはずだ。

 今まで迂闊にも逃がしてしまった相手は、外から強引に叩き起こされたから目覚めたのであって、その場合はしょうがなく見逃していただけだ。

 また、いつか殺せばいい程度のことで。

 では、どうやって?

 久子はどこに行ったのだ?

 

『どこに行ったあ? おいおい、ジョークとしちゃあ面白くねえぞおお』

 

 どんなに呼んでも日本人はでてこない。

 

『でてこいやあ、黄色い豚が!!』

 

 癇癪を起してあらん限りの声で叫んだ時、ガシッと足首を掴まれた。

 身動き取れないはずの或子の仕業だった。

 

『後にしてくれねえか。あんたは後回しなんだよ』

 

 だが、巫女レスラーは微笑みながら答えた。

 

「いや、久子への予約はキャンセルだ。まずはボクが相手をしよう」

『邪魔だ、お呼びじゃねえってんだよ!!』

 

 足首を掴んだ或子をもぎ離そうとするが、少女のものとは思えない握力によって阻止された。

 

「いいよ、京一!! 掴まえた!! こいつを引き摺り出せ!!」

 

 その言葉の意味をサム・ブレイディはすぐに理解した。

 周囲の景色が一変し、日本の学校の教室が彼ですら見たことのあるセットになっていたからだ。

 四隅に赤と青のコーナーポストがたち、白いマットが敷かれたプロレスリングのセットに。

 

『ここはどこだ!? ここはどこだ!? どうして俺はこんなところにいる!? 俺はなんでプロレスリングになんかいるんだ!? ここは夢か? 俺の夢じゃねえぞ!?』

 

 サムはがなりたてたが、普通ならそれで答えが返ってくるはずがない。

 普通ならば。

 

「ボクの現実世界にようこそ、夢に潜む〈殺人現象《フェノメナン》〉サム・ブレイディ」

 

 御子内或子は赤いコーナーポストに寄りかかりながら言った。

 セコンドには升麻京一が立っていた。

 さらに後ろには貴瀬久子。

 

『なんだよ、ここは……?』

「もうキミは逃げられないよ。この〈護摩台〉の外にも、夢の中にもね。さて、決着だ。今までに殺してきた人の分だけ後悔するがいいさ」

 

 夢の中の殺人鬼を現実に引き摺り出し、今度は巫女レスラーのホームでの勝負が始まろうとしていた。 

 

 



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ドリーム・カム・トゥギャザー

 

 

 久子さんと〈護摩台〉の中央で横になって眠っていた御子内さんが、苦しそうに呻いた。

 夢間神社の神主さんを見ると、強く頷き返された。

 僕たちの目論見が確かならば、久子さんの夢の中で御子内さんと殺人鬼との戦いが始まっているはずだ。

 つまり、タイミングを絶対に間違ってはいけない状態だということである。

 夢の中の状況は現実世界からでは窺い知ることができない。

 実際には、夢の世界があるかないか、そんなことも考えなければならないはずなのだが、僕は多少の非現実的なことなど簡単に受け入れてしまうようになっている。

 御子内さんが夢で戦っているというのならば、僕は信じて彼女を現実に戻さなければならない。

 共に考えた手筈を信じるのだ。

 可愛い彼女の寝顔を見つめる。

 かなり苦しそうだ。

 悪夢にうなされているのだから、当たり前だ。

 だが、手筈に従えば、彼女は起死回生のチャンスを待っているはず。

 そして、必ず掴み取るだろう。

 じっと待つ。

 

「―――ううう」

 

 形のいい唇が歪む。

 奥歯が軋む音がした。

 歯を食いしばっている。

 痛みに。

 しかし、まだまだ。

 その間に神主さんが久子さんを揺り起こしていた。

 鼻に夢間神社特製の、どんな悪夢を操る妖魅相手からでも逃れられる気付け薬を当てて、無理矢理に眠りから覚まさせる。

 恐怖に引き攣った表情のまま、久子さんは覚醒した。

 キョロキョロと見渡し、僕と神主さんを見て安堵のため息を漏らす。

 よし、この女性は助けられた。

 あとは御子内さんだ。

 

「ぐっ!」

 

 かわいい顔がさらに歪む。

 こちらまで痛みを感じるようなしかめっ面だ。

 そして、口が開いた。

 

「いいよ、京一!! 掴まえた!! こいつを引き摺り出せ!!」

 

 彼女は眼を閉じたまま、まだ意識は寝ているはずだから、これはただの寝言でしかなかった。

 だけど、これは打ち合わせ通りの言葉だ。

 つまり、御子内さんはチャンスの神様の前髪を掴み取ったのである。

 

「起きろ、御子内さん!!」

 

 同じように鼻頭に気付け薬を擦り付ける。

 頭をあげて、鼻孔がよく嗅ぎ取れるようにして。

 それでかっと眼が開く。

 御子内さんも覚醒したのだ。

 同時に、彼女の右手の先に黒いコートを着た仮面とハンチングの男が出現する。

 瞬き一つする間に、こんな男がどこから現われたのかさっぱりだった。

 夢の世界から現実に引き摺り出してきたということなのだろう。

 

「こいつが、殺人鬼サム・ブレイディ」

 

 サム・ブレイディが自分を取り戻すまでの数秒、僕は御子内さんを抱えて赤のコーナーポストに行く。

 チャンピオンのための場所だ。

 そこに御子内さんを立たせる。

 現実に帰ってきた衝撃から完全覚醒は遅れたが、さすがの精神力で御子内さんは復活し、〈護摩台〉のマットの中央でまだぼうっとしている殺人鬼を睨みつける。

 

『ここはどこだ!? ここはどこだ!? どうして俺はこんなところにいる!? 俺はなんでプロレスリングになんかいるんだ!? ここは夢か? 俺の夢じゃねえぞ!?』

 

 殺人鬼ががなりたてる。

 あいつはまだ現実に適合していない。

 こちらの仕掛けた罠にはまったことをわかっていない。

 

「ボクの現実世界にようこそ、夢に潜む〈殺人現象フェノメナン〉サム・ブレイディ」

 

 御子内さんが言った。

 ようやくサム・ブレイディはこちらに気が付いた。

 驚愕に目を丸くしている。

 

『なんだよ、ここは……?』

「もうキミは逃げられないよ。この〈護摩台〉の外にも、夢の中にもね。さて、決着だ。今までに殺してきた人の分だけ後悔するがいいさ」

 

 殺人鬼にはまだ事情が呑み込めないようだった。

 僕たちが意図的に夢の世界からあいつを連れ出したということを。

 

「……ヴァネッサさんに助言を求めておいて良かったですね」

「そうだね」

 

 僕たちは今回の敵サム・ブレイディの正体を知ったときに、あいつがアメリカからきたということを聞いた。

 そして、日本にいるFBI捜査官の友人のことを思い出した。

 携帯で連絡を取るとやはり彼女―――ヴァネッサ・レベッカ・スターリングはサム・ブレイディのことを知っていた。

 

『―――元々南部では〈殺人現象〉が多く確認されやすいのです。どうも、南北戦争時代に呪われた所業が増発した結果なのでしょうけれど』

「そいつは本当に夢の中に現われるの?」

『Well…… 残念だけれどわたしたちスターリング家の女でも、そいつには遭遇したことないわ。でも、被害者の夢の中を動き回る怪物めいた〈殺人現象〉のことは有名だった』

「有名? もしかして、何度も現われているの?」

『確か、ネトル・ストリートという街に出たということは聞いています。私の母が捜査に行くという話だったのですが、その前に事件が終息してしまったようでした』

 

 終息したということは、ネトル・ストリートでのサム・ブレイディの殺人は誰かが止めたということだ。

 つまり、夢の殺人鬼は止められる。

 

「どうやって、サム・ブレイディを止めたんですか?」

『細かい話はわからないけれど、殺人鬼に狙われていた女の子が追い詰められた建物を燃やして焼き殺したという話よ』

「―――夢の中の人物を? どうやって?」

『外に出す方法があるみたい。入り込んだ夢で肉体のどこかに触れられている状態で、夢を見ている人間が覚醒すると、その部分が現実世界に行ってしまう、という話よ』

「夢を見ている人間が……」

 

 それだけ聞けば大丈夫だった。

 夢間神社の神主さんと話し合った結果、僕たちは睡眠を導入しやすい薬によって久子さんと御子内さんを同時に眠らせて殺人鬼を誘き出すことにした。

 この神社には夢の中に霊力の高いものを送り込む秘術があったから、それは容易だった。

 夢の中に御子内さんが入れたら、彼女がサム・ブレイディを捕まえて合図を送る。

 そうしたら、現実世界の僕らが睡眠者たちを起こし、絶対に触れない怪物を表に引き摺り出す。

 これが作戦の全貌だった。

 そして、僕たちは賭けに勝ち、チャンスを掴んだ。

 夢の殺人鬼は現実にでてきた。

 御子内さんの拳が届く世界に。

 

 カアアアアン

 

 ゴングが鳴った。

 コーナーポストから離れた御子内さんは、構えをつくり、マットの中心に立ち尽くす殺人鬼に近寄る。

 左手に鋭い鉤爪をもつ怪物は、もう夢の中にはいない。

 無敵でも不死身でもない。

 

 ここは現実世界。

 

 御子内或子の戦場なのだ。

 

『俺を、俺を、夢の中から……!!』

 

 鉤爪が大きく振るわれたが、そんなものでは彼女に通じるはずがない。

 もともとはただの商店主でしかないサム・ブレイディでは、格闘技の達人であり、最強の巫女レスラーである御子内さんに触れることすらできないだろう。

 

「どっせい!!」

 

 その正義の拳が腹を貫く。

 奇想天外な夢の中ではないリングの上で戦いはついに始まったのだ。

 

 



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夢から覚めたら

 

 

〈社務所〉の退魔巫女たちの敵となる妖魅・怪異は強さがバラバラである。

 例えば、年末に御子内さん・レイさんコンビが倒した神クラスがトップクラスで、次に太古から存在する神獣・聖獣、現象が実体化した純粋な妖怪、動物が変化した妖怪、人間の思念が怪物化したもの、現身《うつしみ》のない悪霊・死霊の順となるだろうか。

 僕が助手となってから遭遇したものたちでは、化け兎の〈犰〉と〈泥田坊〉あたりが強かったと思う。

 純粋な妖怪になると、〈護摩台〉の結界の力がないと御子内さんでさえ苦戦するレベルとある。

 だが、今、彼女が戦っている夢の中の殺人鬼サム・ブレイディは、はっきり言って強敵などというレベルではない。

 左手につけられた鉤爪は鋭く、当たればこの間のモグラの妖怪のように引き攣れた傷ができる凶器だが、御子内さんには通用しない。

 もともとがただの商店主であって、鍛え抜かれた戦士ではないからだ。

 同じアメリカから来た殺人鬼である〈J〉が次元の違うタフネスと膂力で対抗して来たのに対して、サム・ブレイディは恐ろしいものが何もない。

 あいつが強いのは何でもありの夢の世界だけなのだ。

 現実に引きずり出された時点で御子内さんが負けたりはしない。

 

「でやあああ!!」

 

 ロープに飛ばして、戻ってきたサム・ブレイディに振り向きざまのフライングニール・キックを低高度でぶちあててダウンさせる。

 そんなものを受けたこともないだろう、マットでもだえ苦しむ殺人鬼。

 無理矢理に首筋を掴んで立たせると、そのまま屈みこんで足を払う。

 中国武術の後掃腿《こうそうたい》のようだが、足を払うよりも痛めつける技になっているのでおそらく橋本真也の水面蹴りだろう。

 倒したサム・ブレイディの左足にコブラツイストの要領で御子内さんが左足をセットする。

 そのまま敵の右足の付け根部分を両手で抱えるようにロックしながら後方へとのけ反って、倒れこんだ。

 倒れこむ勢いを最大限利用して、ブリッジの首を支点にしながら反時計回りに〈護摩台〉上をくるくると回転する。

 

回転揺り椅子固め(ローリング・クレイドル)!!」

 

 掛けられた側の三半規管を狂わせることもできるし、一緒に股裂きを決める技であった。

 転がり続けるスピードが速ければ速いほどダメージがあるといわれている。

 体幹が強く体力のある御子内さんが使うと、あっという間に十回転は突破してしまう。

 回転が増えるたびに『ギィエエ!!』とサム・ブレイディが叫ぶ。

 かなり痛いのだろう。

 御子内さんがこんな寝技を使うことはあまりないので、僕も初めて見る。

 いつもの彼女の戦いはだいたい体格差のある厳しいものばかりなので、普通の人間サイズの殺人鬼など滅多にない。

 だからこそ、いつもとは違う寝技に移行できたのだろう。

 十回転したところで、御子内さんは敵を解放した。

 当然、助ける気はない。

 コーナーポストによじ登り、トップに仁王立ちになる。

 そこから撃ち放たれる水平ドロップキック!

 高い位置からのドロップキックは、飛距離も長く、仰向けのままマットと水平となる形で、背中から着地する。

 だが、それだけでは終わらない。

 着地した直後に反対側に駆け抜け、別のコーナーポストによじ登るともう一度同じミサイルキックをぶちかます。

 あの空飛ぶ巫女レスラー音子さんを彷彿とさせる空中挙動だ。

 無駄が多いように見えて、実は冷静沈着な判断に基づく、いかにも御子内さんらしい戦い方を見せつつ、こんな派手な技を披露するなんて……

 

『て、てめえ、ふざけるなよ……小娘ェ……』

 

 すでにサム・ブレイディの膝はガタガタだった。

 あとはフォールして3カウントをとってしまえば、封印することができる。

 特にあいつは夢に潜む死霊でしかない。

〈護摩台〉にかかればすぐに終わる。

 だが……

 

(妖魅には常に―――切り札(ひぎ)がある)

 

 かつて多くの巫女を屠ってきた凶器が。

 

「夢の中では世話になったね。でも、もうキミが自在に操れる場所(フィールド)はない。立ってボクと正面から戦うしかないぞ」

『カーカッカカ、小娘が調子に乗るなよっ! 大人の男をコケにしたらどうなるか、あんたのプッシーに教えてやるよ!』

「清らかな女の子に叩き付ける言葉じゃないな」

 

 三度、ドロップキックを放ち、サム・ブレイディの口をふさぐ。

 どうやら彼女は怒っているらしかった。

 夢の中という自分にとって安全な場所から弱い女子供をいたぶって殺すという、殺人鬼のやり方に本気で憤っているのだろう。

 僕にはわからないが、きっと潜り込んだ夢の世界でも彼女を怒らせる真似をしでかしたのだと想像もつくけど。

 

「よっしゃ行くぞ!!」

 

 腕をロックしてから前に投げる。

 殺人鬼は為すすべもなくマットを這う。

 しかし、その左手の爪はまだ殺意の光りを輝かせている。

 まだ、()()()()()()()()()()

 白い仮面が外れた。

 火傷で引き攣った皮膚が醜く歪んでいる。

 

『近づいたな』

 

 サム・ブレイディが誰にいうのでもなく呟いた。

 言葉に強い力があった。

 僕にもわかった。

 あいつは切り札をだす。

 

『死ね!!』

 

 左手首が捻られ、指先が御子内さんに向けられる。

 それだ。

 

「御子内さん!!」

 

 と叫ぼうとしたが、無意味だった。

 僕の声が届かないという訳ではなかった。

 たかが薄汚い殺人鬼の姑息な作戦など、人々を守るという修羅場を数えきれないほど潜ってきた僕の御子内さんには無意味だという意味だ。

 サム・ブレイディの鉤爪がまるでナイフのように五本まとめて飛んだ。

 ロシアがソ連だった頃にスプリングで刃を飛ばすスペツナズ・ナイフという武器があったが、それと同じ効果を五本の指すべてが備えていたのだ。

 しかも初速は弾丸並みだった。

 直撃すれば鉄板さえも貫くような勢いの爪の矢であった。

 しかし、そんなものは簡単に御子内さんが受け止めてしまった。

 奇跡のような反射速度で()()()()()()

 できるできないは関係ない。

 ()()()()()()のが、彼女なのだ。

 小さな掌にすべての爪を握りしめて、彼女は言う。

 

「こんなものか?」

 

 怒りをこめて言う。

 

「こんなもので女や子供を殺しまくって楽しかったのか?」

 

 心優しき巫女は、心ない殺人鬼を決して許さない。

 

()()()は消えろ」

 

 御子内さんはサム・ブレイディをまたもロープに向けて投げ捨てた。

 バランスを崩して、よたよた走りながら、殺人鬼は弾力によって跳ね返されて戻ってくる。

 サム・ブレイディの真っ正面に立ったままジャンプして両肩に乗った。

 すらりとした両脚でサムの頭を挟みこむ。

 上半身を振り子の錘のように振って後方にのけ反り、サム・ブレイディの股へと潜りこむ。

 すべての物理法則を利用して殺人鬼をフロント回転させながら、がっしりと両足を掴んで回転エビ固めの要領でフォールに持ち込んだ。

 一見、フランケンシュタイナーと同じだが、御子内さんはサムの頭部をマットに痛烈に叩きつけてダメージを負わせていたので、これは―――

 

高角度前方回転エビ固め(ウラカン・ラナ)!!」

 

 あまりにもアクロバティックすぎる技であった。

 

『オ……オオオオ』

 

 後頭部を破壊する勢いで叩き付けられたサム・ブレイディは断末魔を上げた。

 そのまま、スリーカウントが流れ出し、「3」となった途端、死霊の殺人鬼は煙となって消えていく。

 何十年にもわたって、多くの人たちを夢の中で殺してきた下劣な殺人鬼の最期であった。

 僕の隣で無言のまま御子内さんの戦いを見つめていた久子さんが呟いた。

 

「―――亜紀……」

 

 亡き友への鎮魂の声だった。

 亜紀さんは―――これで成仏してくれるだろうか。

 あなたを殺した奴は正義の人に退治されたので安心して眠ってください。

 もし、死んだ人に声を届けられる機械を作った人がいたら、ノーベル賞ではたりないだろう。

 それはすべての人の願いなのだから。

 

「京一」

「なに、御子内さん」

 

 彼女は戦いが終わって、荒い息を吐きながら言った。

 

「長い悪夢もこれで終わりさ」

 

 彼女の足下にある多くの人の血を吸った爪も消えていく。

 長い長い悪い夢の、呆気ない幕切れだった……

 

 



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おはよう

 

 

 見覚えのない夜の異国の街を歩いていた。

 道幅が広いし、停まっているピックアップトラックなんかも日本ではお目にかからない車種だ。

 クライスラーかフォードのものだろう。

 フォードの車だと、WRCに出場するフィエスタ程度しか知らないから、すぐにはわからない。

 とはいえ、こんなにアメ車がある国といったらアメリカ以外にはないだろう。

 ただし、僕はアメリカどころか海外に出たことがないので、町並みからして「夢」だろうなと当たりをつける。

 楡の多い並木道は、人っ子一人いない。

 日本のものとは違う大きな家も灯りが漏れておらず、誰も住んでなさそうだった。

 外灯だけがぽつぽつと周囲を照らしていた。

 

「京一!」

 

 前から女の子がやってくる。

 見慣れた改造巫女装束にリングシューズを履いた美少女だった。

 手を振りながらにこにこと笑っている。

 何かいいことが御子内さんにあったのだろうか。

 

「御子内さん、ここどこかわかる?」

 

 とりあえず聞いてみた。

 情報がないと何も先に進まないからだ。

 

「いや、誰もいない無人の街みたいだ。通りには人影はないね」

「……じゃあ、悪いけど家の中に入るか。どうもアメリカだと勝手に入ると銃で撃たれちゃう悪い印象があるけど」

「フリーズだけは聞き逃さないようにしないとならないってやつだね」

「そうそう」

 

 ざっと見渡すと、コテージが連なったような建物があった。

 派手なネオンがついているし、普通の家とは違うもののようだ。

 

「あそこに行ってみよう」

「あれ、きっとモーテルだよ」

「なんだい、それは?」

「……宿泊施設かな」

「好都合だ。それならいきなり撃たれたりはしないだろう」

 

 先頭に立って歩きだす御子内さんの後を追う。

 モーテルがどういうものかよくわかっていないのは考え物だ。

 また、変な想像をして真っ赤になって照れるに違いないのだから。

 

 ……予想に反して、受付にも誰もいなかった。

 古ぼけたジュークボックスから懐かしいカントリーミュージックが流れ出しているだけで、人がいる気配もない。

 

「どういうことだろう」

「客室も見てみようか」

 

 いったん、外に出てモーテルの一室のドアを開けてみる。

 さっきの話のように注意しないと撃たれるかもしれない。

 だが、モーテルの部屋にも誰もいなかった。

 大きめのベッドと机、ソファーなんかが置かれているだけのシンプルな室内には飾り付けすらない。

 ベッドメイキングだけはしっかりとされていた。

 何かないかとベッドに近寄ると背後から押し倒された。

 

「うわ!」

 

 ベッドの上で振り向くと、御子内さんが僕に覆いかぶさってくる。

 両手を取られて身動きが取れない。

 彼女は僕を組み敷いたまま、見下ろして舌なめずりをした。

 

「ねえ、京一、……いい機会だから、()()()か」

 

 牝の顔をしていた。

 こんな御子内さんは見たことがない。

 少なくとも僕はね。

 一年にわたる付き合いだが、ここまで色っぽい表情を見せたことはないだろう。

 

「するって、何をさ」

「もちろん、セックス」

 

 御子内さんがこんな卑猥な言い方をするのも初めて聞いた。

 違和感ばかりだ。

 無理しているというよりも極めて自然なのが不思議だけれど。

 しかし、まあこのまま流される気はないし、なにより()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のに腹が立った。

 だから、吐き捨てた。

 

「―――いい加減にしてくれないか、()()()()()()()()

 

 僕の言葉に、御子内さんは目を丸くする。

 彼女っぽさがなくなった。

 外見はそのままで、まったくの別人のようだった。

 

『……何故、わかった?』

「昨日の今日じゃないか。こんなにはっきりとした明晰夢をみれば、誰だって君を疑うに決まっている。……封印されたんじゃなかったの?」

『あの忌々しい鐘の音が鳴る寸前に一部だけ、あんたの夢に潜り込んだのさ。巫女や神主はともかく、あんたには霊能力がなかったからな』

 

 そっか、あの時か。

 でも、よかった。もし久子さんだったら、また繰り返すところだったから。

 

「それで僕を殺すの?」

『あんたはまだ殺さねえ。夢の中で散々怖がってもらわなきゃならねえからな』

「なんのために?」

『俺が力を取り戻すためよ!! あんたの恐怖が俺をこの世に呼び戻す!! 力のほとんどは封印されちまったが、まだ大丈夫だ。俺は不滅のサム・ブレイディさまなんだ!!』

 

 御子内さんのかわいい顔を下品に歪めるな。

 吐き気がする。

 

「……夢の殺人鬼として恐怖を得ることで力を取り戻す。逆に考えれば、今の君はただの残り滓な訳だ」

『滓だと!! てめえ、俺をバカにするのか!?』

「だって、そうじゃないか。―――それに、いい加減に僕の御子内さんを侮辱するな!」

 

 僕は拘束を外し、御子内さん=サム・ブレイディの顔面に頭突きをかました。

 鼻を潰されのけ反る顔は、焼けただれた殺人鬼のものに戻っていた。

 服装までが黒いものに変わる。

 

『な、なにをおおおおお!!』

「何をしやがるか、だって? 残念だけど、君の力は僕程度を捕まえておくこともできないほど弱っているんだ。だから、本気を出せば敵わない」

『たかが、人間が―――!』

「生きている人間を舐めるなよ、幽霊の癖に」

 

 ここは僕自身の夢の中だし、できると思ったらできそうなので、御子内さんの真似をして崩拳をサム・ブレイディのどてっ腹に叩き込んだ。

 苦鳴をあげて吹き飛ぶ殺人鬼。

 どうやら見取り稽古も効果があるらしい。

 

「僕は君を怖れないし、恐がらないから、どうやったって復活は叶わないよ。このまま朽ちていけばいい」

 

 そうやって、僕は最後に御子内さんっぽくローリング・ソバットを放った。

 我ながら完璧なトドメの一撃だった。

 これで勝負あり。

 仮面もなくなった黒づくめの殺人鬼はもう動けない。

 最後っ屁のつもりだったろうが、すでに君は詰んでいたんだよ。

 

『くそ、くそ、くそ、たかがジャップの餓鬼に! この俺が!!』

「そういう調子にのった、いらんことしぃが敗因だと理解した方がいいね。さようなら、夢の中の殺人鬼。二度とでてくんな」

『くそ、くそ、くそ!』

 

 サム・ブレイディはまだ悪態を放ち続ける。

 だが、下半身から徐々に薄れていく身体の消失が肩まで達したときに、憎悪の眼差しを僕に向けて、

 

『覚えておけよ、餓鬼ぃぃぃぃ!! てめえは、このあと、手酷い裏切りにあうぞ!! 仲間や友人だと思っていた連中にこっぴどく裏切られ、独りぼっちになり、絶望の淵に叩き込まれる!! そうなってからてめえが泣きっ面を見せるのを、地獄の底で楽しみに待っているぜ!! 正義面をしたてめえのような餓鬼がどん底を這いまわるのを酒でも飲みながら嘲笑ってやるぜ!! そして、俺のアレをしゃぶらせてやらあ!!』

 

 と、呪いを発した。

 こいつに未来が予見できるはずがないから、きっとこれはただの脅しだ。

 僕の人生を口で左右しようとするただの呪いだ。

 だから、恐れる必要はない。

 

「それで?」

『……なんだと? バッカじゃねえのか、てめえはそのうちに破滅するんだってことだよ!!』

 

 僕は鼻で笑った。

 

「残念だけど、たとえ君の予言通りのことが起きたとしても僕は負けない」

『はあああ~!?』

「僕には〈一指(ひとさし)〉という強運がある。最後の最後まで努力してもがいて諦めなければ逆転できるという強い運が。―――だから、君の言うことが実現したとしても、僕は最後まであがいてジタバタして苦しんで、最後まで戦って勝利を掴む」

 

 一拍おいて、

 

「君が望む悪夢なんて見ない」

 

 むしろ自分が絶望しきった顔つきのまま、サム・ブレイディは消えていった。

 最期に、

 

『畜生がああああああ―――!!』

 

 と、断末魔の叫びを残しながら。

 完全に消滅したのを見届けてから、僕は大きく伸びをした。

 夢の中でも疲れるものは疲れるんだな。

 

「¦I'll be back《またもどってくる》ぐらい気の利いたコメントをすればいいのに」

 

 所詮、悪夢なんて眼が覚めたら忘れるものだ。

 

 ―――さあ、明日になったらおはようとでもいおうか。

 

 

 

 

 



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第47試合 巫女たちのフィールド
それいけ〈ミコミコファイターズ〉!!


 

 

「いいかい、実際に一度は試合をやってみないと感覚が掴めない。サッカーとフットサルはまったくの別物だけれど、どういうものかを身体で体験してみるのはいいことだ。だから、思いっきりやることだよ、いいね」

 

 五人はうんと頷いた。

 正直、昨日やったパス、シュート、ドリブルの練習だけで試合―――しかも大会をやるのは無理がある。

 だが、それは普通ならば、の話だ。

 僕の目の前にいる五人は普通という表現からはまったく遠い存在だからだ。

 身体能力と運動神経だけでもなんとかなるだろうと思える。

 

「君たちには昨日何時間もフットサルWCの決勝戦の録画を見せたよね。基本的にはあれを再現できればいい。ルールはわかっているね」

「了解だ、監督!」

「おおよ。基本は覚えた。応用もバッチリだ!」

「シィ、京いっちゃん!」

「わかりました!」

「やっちゃっていいんですよねー、ラクショーでーす」

 

 とりあえず、揃えられた五人を中心にして、チームの軸をつくらなければならない。

 仲のいいみんなだから、息はぴったりだと思うんだけど……

 

「……レイさんはピヴォをお願いします。(ダイアモンド)のトップの位置に立つポジションです。預けられたボールを納めて、それから左右のアラにパスを出したり、ターンをしてシュートまで行ってください。本番ではそのままワントップのFWを頼みますから」

「わかったぜ、京一くん」

 

 フットサルのユニフォームを着るとレイさんの胸の大きさが強調されるのでとても眼の毒である。

 それでも普段の巫女姿に比べるととても清楚に感じた。

 あれはヤンキーすぎる。

 本人はやる気満々で指を鳴らしているのだが、フットサルでは手を使ってはいけないということはちゃんと理解していてくれているのか心配だ。

 

「御子内さんと音子さんは左右のアラになります。サイドに開いたり、中央に絞ったり、とにかくボールに触れて最後はシュートで終わってください。本番のときも、左右のサイドを頼みますからね」

「任せろ!」

「シィ……」

 

 二人ともレイさんよりはサッカーを観たことがあるので、あまり詳しくは説明しなかったが、初心者であることは変わらない。

 まあ、身体能力が洒落にならないのでなんとかなるだろう。

 音子さんの覆面は大会主催者に認められなかったせいで、珍しく素顔を晒しているからか、なんというか周囲の男たちの視線の集まりが半端ない。

 ただでさえ美人ぞろいなのに、SNS上でバカみたいに知られている彼女がいるとどんな混乱が起きるか見当もつかない。

 御子内さんを初めとしてみんな髪を結っているのでうなじも綺麗で見惚れてしまう。

 

「僕とてんちゃんはダイアモンドの最後尾のフィクソをやる。ボール奪取と守備のポジションだよ。サッカーにおいてはボランチかアンカー、もしくはCB(センターバック)をやることになるのでそのあたりをしっかりと覚えておいて。僕がパスを左右に散らすのもやるから、できたら真似してみてね」

「わっかりましたですよー。敵の骨をすべて叩き折ってみせますよー」

「それはファールどころか退場だから」

「骨を外すのはー?」

「やめて」

 

 と、こんなことを言っているが、実はてんちゃんは中学の体育の授業でフットサルをやっているそうなのでまともに計算できる戦力となっている。

 最近の中学校では、バスケやドッジボールの代わりにフットサルをやったりするらしい。

 初心者なら技術もそんなにいらないから取り入れやすいのだろう。

 サイコパスロリータと呼ばれている彼女だが、なんだかんだいって頭脳派で後方の指揮者役は任せられる。

 

「藍色さんはゴレイロ。サッカーでいうところのゴールキーパーです。キャッチはできなくてもとにかく外に弾きだしてください」

「わかったにゃ」

「あと、ゴレイロからのスローは昨日練習した通りです。藍色さんは肩もいいので期待していますから」

 

 藍色さんは足が使えない、というより蹴りがうまくないのでフィールドプレイヤーには向いていないのからゴレイロしかできないのだ。

 ボクサーとして特化しすぎている。

 同じ手業中心といえばレイさんもそうなんだが、彼女の場合は〈神腕〉があるので、下手に手で処理させたらボールが破裂しかねない。

 それだったら、本番に備えてポストプレイを覚えさせた方がいいと判断した訳だ。

 実際、練習は少ししかやっていないが藍色さんの動きはかなりゴレイロ向きだった。

 

「ポジションはこれで行くから。随時変更していくけど、とりあえずこの陣形は崩さないように。予選リーグは三試合、トーナメントになっても三試合。優勝はしなくてもいいけど、できたら勝ち進んで全試合を戦って、フットサルというかサッカーを体験してみて。あと、ケガはしないように。本番のメンバーは十一人ぴったりしか用意できなかったんだから、怪我人をだしている余裕はないんだよ」

 

 このフットサル大会はあくまで練習だ。

 御子内さんたち退魔巫女の本当の仕事は、深夜に用意されている試合に勝つことなのである。

 スタミナ的な問題はあるけれど、それに関しては問題ないメンツなので心配する必要はなかった。

 技術は足りなくてもそれは身体能力で補える集まりだし。

 ただ、何よりも経験が足りなすぎる。

 それをなんとしてでも速成させなければならないのだ。

 なんといっても、本番の相手はもともとサッカー大学代表レベルの選手たちなのだから。

 

「このコートの次の試合が僕たちの第一試合になるから、もう準備しておいて。最初から全開で行くよ」

 

 フットサルは五人でやるスポーツだ。

 ミニサッカーだと思われているが、つきつめるとかなり異なるものである。

 とはいえ、僕ら素人ならサッカーと同じで考えていいだろう。

 サッカーとの違いは、参加選手が十一人から五人に減り交代は自由。

 スローインがなくキックインとなり、オフサイドがないということだろうか。

 Fリーグなどでは五回ファールをすると相手側に直接フリーキックが与えられるとか、レッドカードを受けて退場した場合、ピッチ上の選手数が減ったチームは、退場の時から二分経過後か、相手チームよりも人数が少ない状態で失点した場合に初めて選手を一人補充できるなどの違いがあるけど、普通の草大会では採用されていない。

 まあ、そのあたりは臨機応変に行くか。

 なんといっても、てんちゃん以外はサッカーもやったことのない人たちだし。

 

(しかし、この状態でフルコートのサッカーを一試合やるというのははっきりいって無謀なんだよな……)

 

 まったく無茶苦茶なミッションに挑むことになってしまったものだ。

 しかも相手は男性のサッカー選手揃いというのだから……

 

「第二コート、第二試合始めまーす。チーム〈フェインテスタ〉とチーム〈ミコミコファイターズ〉は集合してくださーい!!」

 

 審判と運営が僕らを呼んでいた。

〈ミコミコファイターズ〉というのがうちのチームの名前である。

 わかり易すぎて草が生えそうである。

 命名したのは我らの巫女レスラーだ。

 相変わらずセンスがない。

 

「いくぞ、みんな! 初戦をしっかりととっていくぞ!」

「オオオオ!!」

「大きな大会は初戦への入り方が重用だからな!」

「イエエエエイ!!」

 

 サッカー初心者ぞろいの癖に言うことだけは立派だ。

 さっきは仲がいいからチームワークもあるだろうと思っていたけど、これならなんとかなるか。

 

「では、第一試合を開始します!!」

 

 僕たちは並んで、相手チームと握手を交わした。

 相手は大学生のチームっぽかった。

 ユニフォームは統一されているし、ガタイのいいのもいる。

 少なくとも見た目では勝てそうにない。

 しかも目つきと顔つきからして、僕たちを甘く見ている。

 多分、安パイのカモだと思っているのだろうね。

 まあ、それはそうだろう。

 全員で六人しかいないし、そのうち男子は僕だけ。

 さらに言うと、女の子は全員稀に見る美少女揃いでしかも全員が高校生と中学生だ。

 おかげでギャラリーの数がとんでもないことになっている。

 他に試合のないチームや観客がほとんど集まっているのではないか。

 色々と声が聞こえてくるが、僕の耳に入るのは「あの男、なんだよ」みたいなものなのでちょっと悲しい。

 どうせ僕はただの凡人だよ。

 放っておいてほしい。

 

「キックオフ!!」

 

 僕たちはそれぞれのポジションにつく。

 最初は僕がフィクソの位置に入って、とりあえずどういう風に試合を進めていくかをてんちゃんに見せることにした。

 実は僕はこう見えても小学校のときは、ちょっとサッカーを齧っていたので少しはやれる自信がある。

 日本代表の試合も、Jリーグもできる限り観るようにしているし。

 しっかりと部活しているような人たちには勝てないけどね。

 

 ピイ

 

 ホイッスルが鳴ったと同時に、中央にいた音子さんとレイさんがボールに触れて、こちらに折り返してきた。

 僕は右に開いていた御子内さんにワンタッチで渡す。

 すると、彼女は一瞬だけゴールを確認すると、思い切り鞭のように身体をしならせてロングシュートを放った。

 センターラインの向こう側からのキックオフシュートだった。

 普通の五号球よりも小さくて重いフットサル用のボールがゴムまりのように歪み、しかも恐ろしいことに無回転のままゴールに飛んでいく。

 昨日の練習の時から、御子内さんの放つキックはほとんど回転がかからないので、すでに仕様としかいいようがない。

 相手チーム〈フェインテスタ〉のゴレイロは、女の子だらけのチームからいきなりロングシュートが来るとは思っていなかったことと、無回転特有のブレ球のせいで目測を誤り、手をかすかに動かしただけで抜かれてしまう。

 

「ゲット!!」

 

 てんちゃんが叫ぶ。

 御子内さんのシュートはゴレイロの脇を抜けて、ネットに突き刺さった。

 

 ピピピィィィィィ

 

 先制点は僕たち〈ミコミコファイターズ〉が奪ったのであった。

 

 

 



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ナイト・トレーニング

 

 

 豹頭まきは気配がしたので、家の外を窓から覗いてみた。

 弟が実家のドアからこっそりと出ていくところだった。

 

「やっぱり……」

 

 時計を見ると、ちょうど深夜零時をすぎたところだった。

 いつもの時間だ。

 これから数時間経たないと弟は帰ってこない。

 しかも、帰ってきたときには全身が土まみれになっている。

 どうみても普通に夜遊びをしているようには思えない。

 さらにおかしなことに、弟は汚れたジャージを洗濯籠に放り込んできているのというのに、母親が「汚れたものはもっと前に出して」と文句を言っても聞き入れないのだ。

 というよりも自分が汚したことに対して何も覚えていないということだろう。

 さりげなく夜に何をしているかを聞いても、「ずっと寝ていた」というだけなのである。

 惚けているようには見えなかった。

 年子で一つ下の弟だが、生意気とはいえ、姉に堂々と逆らうような少年ではなかった。

 そもそも中学までは有名な緑色のなでしこリーグ・チームの下部組織の選手であり、高校に入ってからは自らフットサル部を作って、出来立ての弱小なはずのチームを全国三位にした名選手の姉は弟からしても尊敬の対象であったからだ。

 姉の後を追うようにサッカーを続けているため、体格は良いが、技術的には劣るというのがコンプレックスのはずだった。

 むしろ背が150センチにも満たないまきからすると身長のある弟が羨ましくて仕方ないのだが、人は永遠にないものねだりをする生き物なのだろう。

 だからこそ、まきは弟に対して強くはでられなかった。

 夜歩きのせいか、日に日にやつれていく弟を黙って見守るしかなかった。

 しかし、そろそろ我慢できなくなっていた。

 両親が弟の行状に勘付く前に、せめて何をしているかをつきとめなければならない。

 まきは、冬の凍てつく寒さに耐えられるように、ジャージを分厚く着こんで弟を尾行することにした。

 弟―――風太(ふうた)は、軽いランニングをしながら後ろも気にせずに進む。

 

「ただのランニング……練習なのかな」

 

 だが、四時間も五時間も走るだけのはずはない。

 それに帰って来た時はいつも土や泥で汚れているのだから、走る以外になにかがあるはずだ。

 もしかしたら、喧嘩でもしているのだろうか。

 それとも危ない奴らに目をつけられて、私刑(リンチ)でもされているのか。

 そんなことになっていたら、どうしたらいいのだろう。

 優秀なアスリートとはいっても、まきはただの女の子だ。

 もしものときは、どう動けばいいのか想像もできなかった。

 

「あ、曲がった」

 

 風太が道を変えた。

 すでに実家から一キロほどは離れているので、あまり馴染みのないあたりだったが、風太が向かう先には多少思い当たる場所があった。

 

兆勝(ちょうしょう)大学のグラウンド? でも、あそこってもう閉鎖しているよね……」

 

 弟が向かう先には、一時期はやったキャンバス移動の余波で閉鎖された大学の運動場があったはずだ。

 とはいえ、現在は鉄条網に囲まれて誰も入れないはずだが。

 まさか、そんなところに行くはずもないと疑いながら尾行を続けたが、実際のところはそのまさかだった。

 誰が仕業なのか、開け放たれた出入り口を抜けて入っていく。

 暗い、灯りもない、場所を抜けていくと、なんともう電気も通っていないはずの夜間照明が煌々と照りつける中、グラウンドを何人もの少年たちが走り回っていた。

 単純に数えて、十数人。

 中にはジャージを脱ぎ捨てて、踏むの寒空の下トレーニングシャツと短パンになった風太もいた。

 全員がサッカーの練習をしていた。

 走っている者もいたり、ストレッチをしているものもいた。

 リフティングもパス練もいた。

 風太も走りながら黙々と汗をかいているようだが。

 ただ、不気味なのは誰一人として口をきかないことだ。

 彼らがやっているのは練習前の個人個人のアップの作業だが、普通ならこういう時は仲間とだべったり声をあげたりしながら気分を上げていくものだ。

 まったく知らない者同士ということでもなければ口をきかないということはありえない。

 なのに、少年たちはじっと押し黙ったまま、アップをし続けている。

 あまりにも異様な光景だった。

 まきは風太を連れ戻すつもりだったが、異様さに気圧されてなにもできなかった。

 

「オス!!」

 

 突然、全員が声を上げた。

 いつのまにか、さっきまではいなかった者たちが、グラウンドの中央にたっていた。

 周りの少年たちとは一回り違う完成された体格の持ち主たちだ。

 

 ひーふーみーよー

 

 四人いる。

 いるのだが、顔が見えない。

 顔の部分だけ墨でも塗られたかのように真っ黒で判別できないのだ。

 見えるのは身体だけだ。

 しかも、その体格と歩き方にはなんとなく覚えがある。

 誰、という訳ではなく、間違いなくサッカー選手のものだというレベルなのだが。

 

「プロ……ううん、ややワイドが狭いから大学生ぐらい? もしくはユースをでて一年から二年の体格かな……?」

 

 プロの選手のものにしてはやや鍛え方が甘い。

 十代でもこのぐらいの鍛え方はいるが、十年身近でサッカー選手を見てきた経験上、まきにはそれが感じ取れた。

 四人の選手らしい連中もまた何も言わずに、今度は混ざってサッカーらしい練習を始めた。

 どうも四人組はコーチのようであった。

 鳥かごを作ってのボール回しから、シュート練習、二対三、四対五、ラインの上げ下げ……

 どれも普通の練習だ。

 おかしなことはただ一つ。

 誰一人として、さっきの挨拶を除いては口をきかないことだけ。

 風太は饒舌ではないが、仲間といるときはそれなりに喋る少年だ。

 それなのに幽鬼のように黙ってボールを蹴り続ける姿は異様だ。

 見たことがないくらいに。

 しはいえ、まきは弟の夜歩きの原因がサッカーの秘密練習だとわかって安堵した。

 かなり不気味ではあるが、これならまあいいだろう。

 と思って、こっそりと帰ろうとしたとき、まきは四人の一人がかなりそばを駆け抜けたを見た。

 その顔も。

 

「!?」

 

 咄嗟に口を押さえたから良かったようなものの、下手をしたら悲鳴で存在がばれるところだった。

 あまりにも不意打ちに、恐ろしいものをみてしまったからだ。

 それは本当に恐ろしいものだった…… 

 

 

            ◇◆◇

 

 

「―――やっぱり或子にしか話せそうになかったんだ。ごめん」

 

 突然、呼び出された僕は、御子内さんと同じ高校の友達である豹頭まきさんの会話に付き合わされることになった。

 と言っても、武蔵立川高校の話ではなく、御子内さんにとっての本職である巫女としての仕事である。

 御子内さんは隠しているつもりなのだが、やはり親しい友人たちには退魔巫女であることがバレているらしかった。

 

「ボクの本職がバレているのはどうしてだろう?」

「いや、むしろバレていないと思っていた方がびっくりだよ」

 

 そういえば夏に〈七人ミサキ〉と戦ったときには、もう豹頭さんたちには知られていたような覚えがある。

 武士の情けか、篤い友情か、どちらにしても理由はどうあれ、豹頭さんや鳩麦さんたちは御子内さんを適度な距離感で見守っていてくれたということだろう。

 

「弟さんはその後はどうなったの?」

「風太はそのままいつも通りに日が昇る前に帰ってきた。トレーニングシャツも汚れていて、洗濯籠に入っていた」

「ふーん、それで見た感じはやつれている、と。牡丹灯籠だな」

 

 牡丹灯籠とは、日本三大怪談の一つで、とある浪人が美しい娘と一目惚れする。

 娘は夜になると牡丹灯籠を下げて、浪人のもとにやってきて逢瀬を重ねるが、日ごとにやつれてゆくことになる。

 実は娘は幽霊だったのだ。

 浪人は寺の住職に娘の正体を告げられ、家中の戸にこれを貼って期限の日まで籠もっているがいいとお札を渡される。

 浪人は指示通りに閉じ籠もっていると、娘は家の外で、中に入れず恨めしげに呼びかけてきた。

 このまま行けば助かるだろう最期の日に、浪人は朝になったという娘の嘘に騙されて、お札を剥がして外へ出てしまい、殺されてしまうというものだ。

 結末なんかは色々と違うが、とにかく筋立てはこういうものである。

 今回の豹頭さんの弟さんのケースにも当てはまらないものではない。

 

「それで、まきは何を見たんだい?」

 

 確信となる事実の開示を求めた。

 それ目にしたからこそ、豹頭さんは御子内さんに助けを求めたのだ。

 友達ではなく、巫女としての本職での彼女に。

 

「顔に―――穴が開いていたの」

「見間違えではなくて? 貌に痣があったりすると、光の加減ではそう見えることもあるからね」

「ううん。それは間違いない。本当に、穴を通して、向こう側の光景が見えたから」

「コーチらしい四人全員かい?」

「うん。全員。どうみてもおかしかった」

 

 なるほど、夜な夜な少年たちを集めてサッカーをしているだけでも変なのに、顔に穴の開いた男たちがコーチなのか。

 それはまさに怪談案件だ。

 

「じゃあ、ボクはそいつらを退治すればいいのかな?」

 

 御子内さんは簡単に言うけど、どんな相手かわからないのは問題だ。

 とりあえず正体ぐらいは確認しておくべきだろうと提案した。

 操られている風太くんたちのことを考えると、ただ鉄拳制裁で解決するとも思えないことから、この提案は受け入れられた。

 緊急を要する事件ともいえなさそうだし。

 それから、僕らはまきさんに案内されて、深夜の練習を探りに出向いたのである。

 



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死霊たちの夜更け

 

 

「―――今日も練習やっている」

 

 昨晩と同じように、夜中に動き出した弟さんを追って、僕と御子内さんを含めた三人は兆勝大のグラウンド跡に潜り込んだ。

 二日目ということでまきさんは慣れたものである。

 昼寝をして眼が冴えているということもあってか、元気そのものだ。

 なんでも体力的には御子内さんに匹敵するタフさを誇るらしい。

 人間じゃないね。

 カア、と頭上から聞き慣れたカラスの鳴き声もする。

 八咫烏が夜だというのに飛び回っているのだろう。

 

「どれどれ」

 

 茂みの端っこからグラウンドを見ると、やはり少年たちがサッカーの練習をしている。

 だいたい中央にいる四人組が例の穴の開いた男たちだろうか。

 男たちを含めても二十人ぐらい。

 それほどの数の人間たち、しかも元気が取り柄のような男の子たちが一切喋りもせずに黙々とボールを蹴っているのはなかなかにシュールだ。

 

「でも、基本的な練習ばかりだね」

 

 僕の記憶が正しければ、やっている練習はごく普通のものばかりだ。

 あまりにも異常なことをしているという訳ではなく、その辺の学校の部活でも見ていればよく行われているものだらけだ。

 対面パス、対角から走りこんでのワンツー、DFに見立てた三角コーンを躱してからのシュート……

 どれも僕にさえ経験がある。

 

「御子内さん、どう?」

「―――死霊だね、あの四人は。遠目からでもわかる」

「やっぱり。人に憑りついているの?」

「だろうね。さっきの弟くんのやつれようは間違いなく霊障(れいしょう)だ。放っておけば魂がボロボロになるかもしれない」

 

 さすがに本職の御子内さんの目はごまかせない。

 と言っても、素人の僕でもあの四人が生きていないことはわかるんだけど。

 

「ん、一か所に集まったぞ」

「あー、あれだと紅白戦のチーム分けじゃないか。昨日はここまでは見ていなかったけど」

「十一人はいなさそうだけど?」

「九人ぐら数がいればフルコートでも足りるよ」

「人数が足りなくても、他がそれだけ走ればいいだけだからな」

 

 こちらの予想通りに、少年たちはコーチの死霊を含めて九人同士のチームに分かれて試合を開始した。

 コーチは審判も兼ねているらしい。

 前線の人数を減っているのは、やはり防御(ディフェンス)重視していることだからだろう。

 わりと自然な最終ラインの上下を指導しているのは動きでわかる。

 ただ、そっちでも声が足りないし、コーチの指示というよりも命令にロボットのように従っているにしかみえなかった。

 考えての上下動とは思えない。

 コーチの合図に絶対的に服従しているだけだ。

 しかし、そのせいもあってか、防御に関してはどちらのチームもかなり精度が高い。

 創造性のない攻撃(オフェンス)では、ペナルティーエリアどころかバイタルにさえ侵入できないのである。

 声を掛け合って連携を確認してさえいないのに、たいした防御だった。

 

「ふーん、うまいものだね。あの四人組は別格だし」

 

 四人はそれぞれキーパー、CB(センターバック)、ボランチといった位置で少年たちに指示を出している。

 他の選手が豹頭弟同様に十四~五歳ばかりなのに比べると、四人だけ明らかに大人の体格を有していることもあるのだろう。

 フィジカルが段違いだし、足元も確かだ。

 限りなくプロに近い。

 

「だね。3バックでの守りのシステムも堅いし……」

 

 九人だからという訳ではなく、どちらも最初から三人のDFによる守備体型のようだった。

 比較的守りが堅いのはそういうこともあるだろう。

 通常は四人での4バックだから、あの四人の指導の賜物だろうか。

 

「いや、升麻くん。あれは3バックじゃない」

「え、どういうこと。最終ラインは三人で守っているけど」

「確かにそうだけど、あれは3バックではなくてフラットスリーだ」

「まさかフラットスリー? そうなの?」

 

 まきさんは指を使って、三人のDFを指した。

 

「三人の統率をとるのが中央じゃなくて、三人がそれぞれで判断をして最終ラインの上げ下げをしているし、動きがそれぞれCBのものだ」

「……言われてみると」

 

 普遍的に用いられている3バックとは中央にストッパー型を置くものだが、それとは確実に異なる。

 これは、以前、日韓W杯の時に見た日本の戦術そのものだった。

 それで僕は閃いた。

 

「あれがフラットスリーだとすると……」

 

 僕はスマホで検索を開始した。

〈社務所〉からのバイト料がかなりいいので、スマホに関しては最新型の高性能機を使うことにしている。

 おかげで調べものは相当楽になっていた。

 常に検索しやすく弄くっているのもあるけれど。

 それで今回もすぐにヒットした。

 

「あのコーチの死霊の正体がわかったよ」

「マジ?」

「本当かい?」

「この人たちだと思う」

 

 僕は当時のニュースアーカイブから一つの記事を引っ張り出してきた。

 もうネットニュースが普及している頃だから、意外と簡単に手に入るのだ。

 それは2001年の記事だった。

 

「あー、わかった」

「何々……『試合前日に起こった悲劇。大学サッカー部員事故死』か……。四人死んでいるのか。四人はキャプテンとレギュラークラスばかりだった、と。事故の内容は、四人が移動のために乗っていた車に飲酒運転のトラックが激突したことによるもの。酒のせいで対向車線にはみ出てきて激突、四人には何の不注意もなかった、か」

「関東大学リーグの入れ替え戦直前に起きた事故だね。これのせいで兆勝大は二部に降格して、その後、大学自体の不祥事で受験者が激減、数年後にはこのグラウンド手放すことになり、さらにいうと兆勝大サッカー部はほぼ廃部寸前になった。……もし、この事故がなくてチームが勝ち進んでいたら、別の運命が待っていたかもしれない」

 

 この記事にある事故にあった四人があの死霊のコーチたちならば、彼らが何をしたいかわからなくもない。

 サッカーがしたいというだけではないだろう。

 

「しかし、どうしてわかったんだい? まきもすぐに理解したようだし」

 

 とりあえず説明するか。

 

「あのコーチたちが教えているフォーメーションのフラットスリーというのは、日本ではそんなにメジャーなものではないんだ。ただ、爆発的に取り入れられたことがあった。それは2000年から2002年までの短期間なんだけど。それ以降は、ほとんど使われていない。通常の4バックに戻っちゃったからね。だから、それを子供たちに教えている連中もそのぐらいに死んだんじゃないかと目星をつけた」

「どうしてさ?」

「2002年のW杯の日本代表の監督だったフィリップ・トルシェが採用した戦術がフラットスリーなんだ。使いこなすのはかなり難しいんだけど、やっぱり時代ごとの代表のシステムって取り込むチームが多くて、もし日本でフラットスリーを採用しているとなると、やはり当時のことを知っている人になるだろう」

 

 あとは簡単だ。

 

「そして、彼らはもう死んでいる。新しくデータのアップデートがないということは死んだ当時の知識のままということだから、フラットスリーを使うなら亡くなった時期は特定できるということだ」

「だから、2002年付近が怪しいということか。なるほど。相変わらず、その手の閃きは京一らしい」

 

 日韓W杯の時は僕はまだ幼稚園児だったから、あまり覚えていないのが残念だ。

 まきさんも同様だろう。

 この事故のことはほとんど知らないはずだ。

 

「……死んで十数年たってから、近所の子供たちを集めてサッカー教室を開いているってことかな」

「それだけ聞くと、力技で消滅させるのは気が引けるな」

 

 女の子二人はたぶんに同情的になってしまったが、僕としては死霊(かれら)をこのまま野放しにしておく訳にはいかない。

 それは豹頭風太君のやつれようからわかる。

 牡丹灯籠の例えが出たけれど、この深夜の練習を放っておいたら、きっとあの子たちは壊れてしまう。

 肉体的にも精神的にも。

 だから、できるなら早いうちに止めなければならない。

 でも、どうすれば……

 

『……(われ)ガ交渉シヨウ。アレラガ蹴鞠(けまり)ノ使イ手ナラバ、我ガ適任デアロウ』

 

 気が付いたら、後ろに八咫烏が降りていた。

 まきさんは喋るカラスに腰を抜かしかけているが、これが一般的な反応だろう。

 

「……おまえがやるのかい?」

『我ラ八咫烏ハ、蹴鞠(けもの)ノ守護神デアル精大明神ノ使イダ。アノ者ドモモ蹴鞠ノモノナラバ我ノ言イ分ヲキクデアロウ』

「どういう交渉をするんだい?」

 

 御子内さんからすると、いつもの力技でいってもいいのだが、相手方の事情を加味するとやや引け腰にならざるをえないのだろう。

 

『―――試合ヲモチカケヨウ。アヤツラト巫女タチトノ真剣勝負ダ!』

「えっ……」

 

 こうして、御子内さんたち率いる巫女チームと死霊のコーチ率いる少年たちチームとのサッカー対戦が喋るカラス―――八咫烏によってマッチメイクされたのである。

 

 



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巫女の力は万理に通じる

 

 

 フットサルというのは、攻防の切り替えの早さで言うと、サッカーよりも遥かにバスケットボールに近い。

 何しろ、ゴールとゴールの間が極端に近いのだ。

 素早い人物ならすぐに敵陣地に侵入して、シュートにまで持ち込めてしまう。

 おかげで、四人のフィールドプレイヤーはボールを奪われたらすぐに意識を切り替えて、守備に入らなければならない。

 だから、一人がサボるとすぐに失点しまうことになる。

 休めないのだ。

 交代が自由なのはそういう攻防の速さから体力がすぐに尽きてしまうのを考えてのものだと思われる。

 プロのFリーグの選手ですら、数分動いたら交代をするなどして体力を温存する。

 こういう草大会は運動不足の人間が多いので、すぐに体力不足に陥ることになるのだ。

 しかし、御子内さんを初めとする退魔巫女ばかりの〈ミコミコファイターズ〉のスタミナは底なしだった。

 むしろ、僕の体力が尽きるので、てんちゃんと交代しなくてはならないのだ。

 最初動きの悪かったみんなは、御子内さんの先制ゴールの直後に同点にされ、さらに勝ち越される。

 だが、前半終了間近になると慣れてきたのか、一気に動きが良くなっていく。

 中央に位置して、上下動を中心とするレイさんは、相手選手のチェックに対してほとんど無敵なのである。

 巨乳の女の子ということで、ややスケベ心に駆られたのか、やりすぎなボディチェックをしてくる相手を手で完全に抑えてしまう。

 サッカーでの腕の使い方というのは難しいのだが、もともと〈神腕〉のおかげで力のあるレイさんの場合、軽く押さえただけで大の男が動けなくなるのだ。

 おかげでその前に行けずに封じられ、レイさんに預けて落とすだけの単純なポストがやりたい放題になるのである。

 落とされたボールを捌くのは、僕とてんちゃんの仕事で、左右どちらかのアラに渡す。

 音子さんの素早い動きは、サッカーのものではなく、バスケだろうが、天性に近いスピードで躱していく。

 一方の御子内さんは、恐ろしいことにボールの回転を完全に見切っている。

 足元に来た強いパスですらちょんと触っただけで、浮かしたり、速度を変えたり、ボールタッチが異常なのだ。

 サッカーというのは足を使うスポーツなので、自在に操るといっても限度がある。

 だが、御子内さんはボールの回転と速度を見切って、止まっているかのごとくに蹴れるのである。

 そして、彼女はシュート以外に()()()()()()()()

 どういうことかというと、彼女のドリブルタッチは当てるのではなく押すようにするのである。

 だから、必要以上にトラップが流れない。

 回転と速度を見切り、力加減さえ計算する彼女はボールコントロールの天才だった。

 トラップさえ成功すれば、あとはシュートの精度だけである。

 

「音子!」

 

 元気な声で叫ぶと、ゴール前に走りこんでいた音子さんにパスを出す。

 コースこそ良かったが、あまりに早すぎるパスだったので普通ならば反応もできない。

 なのに、音子さんは完全にぴったりと合わる。

 音子さんについていたフィクソの選手は完全に振り切られていたのでドフリーだ。

 ミートというわけにはいかなかったが、当てれば一点というパスに見事につま先を合わせるだけでたいしたものだった。

 

「ゴール!!」

 

 これで前半終了間際に、〈ミコミコファイターズ〉は同点に持ち込んだ。

 

 

            ◇◆◇

 

 

「ゼイゼイ、どう、動きはわかった?」

「わかりましたですよー。あとはてんちゃんにお任せください」

 

 僕はさすがに限界だった。

 十分走り回るのは大変だ。

 隣でけろっとした顔をしているモンスター達が羨ましいよ。

 

「音子さん、最後のシュート良かった。マーク外すの上手いよ」

「グラシアス」

「御子内さん、無理にシュートに行かなくてもいい場合があることをわかった?」

「まあね」

 

 御子内さんはシュートを意識しすぎて、無理な姿勢やポジションからの外しが多かった。

 打てば全部ゴールマウスの枠に収まるからたいしたものなのだが、キーパーとの縦のラインをディフェンスに切られると簡単に止められてしまうのだ。

 そこからのピンチが二失点に結びついているのだから、ケアしないとならない失敗である。

 だから、途中で御子内さんに「音子さんに合わせて」とアドバイスした結果なので、これは良かったと言えるだろう。

 そして、恐るべきは藍色さんだった。

 ゴレイロとしての彼女が防いだシュートは八発。

 どうしてもゴレイロに責任のない二失点を除けば、手が届く範囲ならば全て弾き飛ばしているのだ。

 読みが鋭く、相手の目線すらも見えているのが強みだった。

 キャッチできないのが弱点だが、二失点目のパンチングミス以外はだいたい問題ないところか。

 セーブ数を考えると、かなり高いといえるだろう。

 

「どうして入んねえだよ!!」

 

 大学生たちが地団駄踏んでいるのが、むしろ気持ちいい。

 

「で、みんな、どうだった?」

 

 ミーティングはしておかないとならない。

 この短い時間にできることをするのが大事だ。

 ハーフタイムに真面目に取り組めない選手は結局ものにはならないのである。

 

「思ったより当たっては来ないんだな」

「レイさん、本番ではもっと体をぶつけてくると思う。ただ、どれほど体格差があっても妖怪相手ほどじゃないから、耐えられると思う」

「わかった」

 

 フットサルでは接触厳禁だが、大学生ぐらいではレイさんを揺るがすこともできないことがわかったのは収穫だ。

 あの死霊のCB相手でもやりあえそうだ。

 

「御子内さんと音子さんは、今でもやれる。ただし、本番はオフサイドがあるから気をつけて」

「ああ」

「シイ」

 

 ……オフサイドってわかってんのかな?

 まあ、この二人はテレビでの代表の試合ぐらいはみているし、大丈夫か。

 それにしても左右のアラの突破力が凄すぎる。

 相手側はほとんど二人を捉えきれてないぐらいだ。

 このあたり、サッカーが云々というより身体能力・運動神経・修羅場の経験値の累積がありすぎるのだ。

 露骨なファールを狙っても触れることさえできない大学生チームが苛立つのもわかるというものだ。

 

「藍色さんはナイスセーブ。次は、ボールを取って、前にいる仲間に向けてスローするようにしてみて。ペスカドーラ町田にいるイゴールみたいに、キャッチしたら前に投げる。動画見せたよね」

「うん、観ました」

「あんな感じの高速スローを仲間の胸から足に向けて投げて。みんなは反射神経が抜群だから、確実にチャンスに結びつく」

「はいにゃ」

 

 初めての試合とは思えないほどにうまくいっている。

 スタミナに不安がないのも助かる。

 とりあえず、フットサルとはいえ、やることはこれで学べるだろう。

 

「よし、後半はてんちゃんが入って、何かあったら彼女に預けること。てんちゃん、バックパスは禁止だから、追い込まれたらすぐにセーフティファーストで外に出しちゃって」

「わかりましたー」

「とりあえず予選三試合は戦術とか無視して展開していこう。誰か疲れたら、僕と替わろう」

 

 まずそんなことはないだろうけど。

 だって、十分走っても息切れ一つしてない人たちにスタミナの心配なんかしても仕方ないでしょ。

 

「じゃあ、僕からたまに声をかけるけど、それ以外は好きにやっていよ」

 

 サッカーは自分の好きにやっていいスポーツだ。

 ベンチからすべての指示が出る訳ではない。

 サッカー偏差値というか、どういう風に動けばいいかを考えることができて、それを自在にこなせなくてはならないのである。

 さて、今日の夜に迫った死霊サッカーチームとの試合のために、みんながどの程度やれるのか、確認するとしようか。

 

 

 



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布陣完成

 

 

 結局、僕らの〈ミコミコファイターズ〉予選リーグは一位で通過したが(二勝一分け)、次のトーナメント二回戦準決勝で敗退し、三位決定戦も負けて、四位で終わった。

 とはいっても、僕たちに勝ったチームは初心者どころの騒ぎではなく、近所のプロチームのユースであったり、元フットサル選手がいたりしたので順当な成績といえるだろう。

 初心者ばかりの女の子のチームを無理矢理ねじ込めたのが不思議なぐらいの大会だったのだから。

 

「いや、君ら凄いわ。ほとんど素人だろ?」

 

 優勝チームのキャプテンに話しかけられた。

 

「は、はい。そうです」

「なんか場違いな子たちだなあ、とかバカにしてたけど、はっきり言って驚いたわ。別になでしこの下部組織って訳でもないんだろ。それで、あの動きは信じられない」

「スポーツよりも格闘技の方の子達なんで」

「道理で。フェイントがあんなに効かない相手は初めてだよ」

 

 素直に称賛された。

 他にも色々な人に話しかけられたが、だいたいは御子内さんたちを讃える声だった。

 一人だけ、芸能事務所のスカウトみたいな人がいたけど、それは丁重にお断りした。

 御子内さんたちにも直接声をかける人がいて、中にはナンパ目的もいたけれど、だいたいすげなく追い返されていたのはさすがの対応である。

 でも、とりあえず目的にしていた六試合出場は叶ったし、経験値もわずかではあるが入ったことだろう。

 

「どうだった?」

 

 みんなに聞くと、やはり手応えはあったようだ。

 ほとんど昨日まで素人同然だったレイさんたちまで何かしらのものは得たという顔をしていた。

 

「じゃあ、これから深夜まで少し休んで、夜はあのグラウンドで試合だ。それに勝つことで、四人の幽霊を成仏させて、サッカー少年たちをこちらの世界に取り戻す。いいね」

「おう!!」

「やらいでか!!」

 

 しかし、本当に十分ハーフの試合を六回もこなしたというのに、ほとんど疲れた顔をしていないというのはどうなんだろ。

 この女の子()たちってスタミナは化け物だよね。

 なでしこでいったら川澄奈穂美か田中陽子ぐらいのスタミナなんじゃないだろうか……

 

 しかも、彼女たちは試合までの間に、こぶしさんによって差し入れられた炭水化物と肉類をたらふく食べてもまだ元気いっぱいだったのである。

 

 

           ◇◆◇

 

 

 深夜、豹頭風太君がいつものように家を抜け出す頃合いに、ようやく今日の試合のメンバーが勢ぞろいした。

 できるなら、その前に連携の確認どころか、どのぐらいやれるのかの確認をしておきたかったのだが、さすがにスケジュールを合わせることができなかったのだ。

 まったくの初対面の人もいる関係上、直前に少し練習をしておきたかったのだけれど、仕方ないか。

 とにかく、十一人。

 サブとして一名確保できただけでも御の字としておかないと。

 ちなみに集まったメンバーは、以下の通りだ。

 フォーメーションは最近では普通の4-3-3。

 

 GK 猫耳藍色

 SB(左) 柳生友埜

 CB ロバート・グリフィン

 CB 升麻京一

 SB(右) 柳生冬弥

 MF(アンカー) 熊埜御堂てん

 MF(左) ヴァネッサ・レベッカ・スターリング

 MF(右) 豹頭まき

 FW(左) 神宮女音子

 FW(ワントップ) 明王殿レイ

 FW(右) 御子内或子

 

 SuB MF 刹彌皐月

 

 という布陣である。

 同期であり、まきさんとも学校が同じということから、皐月さんとヴァネッサさんに声を掛けたら、なんとヴァネッサさんはアメリカでサッカーをやっていた経験があったのだ。

 確かにアメリカの白人、特に女子の間では習い事としてサッカーが好まれると聞いたことがある。

 日本でいう、水泳やピアノに近いものなのだ。

 ちなみに、アメリカのAV(アダルトビデオ)のジャンルには「サッカーマム」という、子供たちを送り迎えする母親をテーマとした枠があるらしい。

 これは同じクラスの桜井のからの情報であり、僕の好みとは一切関係がないことを追記しておく。

 少しプレーを見たら、ヴァネッサさんはかなりうまかった。

 アメリカ女子代表のミーガン・ラピノーのようなプレーをする攻撃型のMFだった。

 おかげで、だいぶこちらの構想もまとまり、中央の逆三角形のMFの最後尾に、素早くて堅いてんちゃんをアンカーとして配置し、両インサイドハーフとして全国三位のまきさんとヴァネッサさんを置くことができた。

 インサイドハーフというのは、いわゆるトップ下が二人になり、守備もこなすポジションといえばわかりやすいだろうか。

 有名どころではスペインのイニエスタとかがやっている。

 どちらも経験とセンスが問われる要なので、ここに経験者を配置できたのは助かる。

 しかも聞くところによると、二人とも適正ポジションらしいのでフィットしないということはないだろう。

 誤算だったのは、皐月さんである。

 なんと、彼女は球技がまるで駄目なのだそうだ。

 加えて団体競技も。

 ボールを蹴ることもほとんどやったことがないというのでサブに回すしかなかった。

 だから、彼女の出番が来ないことを祈るしかない。

 

 ちなみに守備の中心となるCB(センターバック)は僕とロバートさんの二人になった。

 ロバートさんはイングランドの出身というだけあって、さすがにサッカー(こっちではフットボールか)に詳しく、あとラグビーをしていてガタイもいいのでCBをお願いすることにした。

 体格関係は彼に任せて、僕は他の仕事に当たれるというメリットもあるし。 

 

 予想以上に豪華になったのは、両SB(サイドバック)だった。

 退魔巫女たちに匹敵する能力の持ち主がいないかと聞いたら、御子内さんが連れてきたのが関東の忍び組織〈裏柳生〉の総帥・柳生美厳さんの妹二人だった。

 友埜さんと冬弥さんは、双子で同じ武蔵立川高校の生徒の上、御子内さんたちと同級生であることから、今回のことは簡単に引き受けてくれた。

 ただ、まきさんにだけは忍びであることは内緒にするという約束の元で。

 さすがに忍びは秘密組織だからね。

 それでこの二人が激しい上下動を必要とするSBに相応しい人材だったのである。

 体力は退魔巫女たち同等、しかも陰に徹することもできるから、無駄走りも黙々とこなす、まさにSBの鏡。

 友埜さんに至っては、左足で正確なクロスを蹴ることができるので、左右から放り込み放題になるのである。

 しかも、フィジカル的には御子内さんとガチでやりあえるレベルなのだ。

 息の合った釣瓶の動きができるのも双子ならではというとこだろう。

 

「美厳姉さまの命令できましたけど、升麻さまにはいつもお世話になっていますので、不肖、この冬弥、お役に立てると思っています」

「たまには、こーいうのもいいねー。うわー」

「お願いします、友埜さん」

「ま・か・せ・て」

 

 ポニーテールの友埜さんは普段はおきらくごくらくな、てんちゃんみたいに陽気な人なので、特に説明しなくても仲間になってくれたようだった。

 とにかくこれで戦力としては十分になった。

 女の子だらけであるが、男子チームとだってやりあえるメンツだしね。

 相手の死霊チームは、四人の大学生と高校生・中学生の混合チームだ。

 W杯で優勝したなでしこジャパンの強さの基準が、だいたい中学生のトップチームぐらいであると言われているが、それはフィジカル面でのことだ。

 人間よりもはるかに巨大な妖魅さえも倒すことのできる退魔巫女たちが、大学生男子程度に力負けをするはずがない。

 むしろ、普通ではない退魔巫女の方が有利だ。

 技術的なものでは、まず負けるはずだ。

 連携の部分でも。

 そのあたりでは五分。

 だから、この試合はかなり接戦になるものと思われる。

 

「……まあ、やるしかないか」

 

 どうなるかわからない、死霊の率いるサッカーチームとの戦い。

 今までの直接的な戦いとはうって変わって常識的な戦いが始まろうとしていた。

 

 

 

 



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編成失敗

 

 

 死霊のコーチに率いられた少年たちは、一様に虚ろな顔をしていた。

 認識すらも曖昧になっているらしく、風太君は実の姉と相対しても反応らしい反応を示さない。

 あまりのことにまきさんが激しく叱咤して揺さぶって、ようやく「やは、姉さん」程度なのだ。

 正直なところ、意志のないロボットかゾンビのようだ。

 これではサッカーなんてできないんじゃないかとも思うが、この前の下見の段階では異常にファイト溢れたプレーをしていたのでそんなことにはならなそうだった。

 むしろ、黙々と機械的にプレーされた方が怖い。

 記憶に新しいところだと、中国で行われたアジア杯での日本代表が海外のファンから「マシーンのようだ」と評されたことがある。

 中国からの度重なる嫌がらせやブーイングにも屈せず、おかしな判定で失点したり、仲間が退場をしたとしても黙々と得点をして優勝したことをそう見たのだ。

 この少年たちは、その日本代表とはまた違う次元で機械のようにプレーし続ける。

 その点で不気味な対戦相手といえるだろう。

 一方の、我らが〈ミコミコファイターズ〉(みんな気に入ったらしく改名に応じてくれなかったのだ)は……

 

「こら、レイ!! しっかりボールを止めろ!!」

「うるせえ、てめえはあれが止められるっての!? 音子なんて、走りもしなかったぞ!!」

「あんなのただのルーズボール。追うだけ無駄」

「いーや、鈴木隆行なら全速で追ったに違いない!! 音子やレイには金狼の魂が足りない!」

「そんな京いっちゃんの受け売り、あたしにはカンケーない」

「そうだ、そうだ!! てめえの下手なパスを棚に上げるな」

 

 まったく息が合わなくなった前線の三人が姦しく怒鳴り合っている。

 どうも互いの距離が長くなったら、雑なパスが増えだしたので、責任をなすり合い始めた。

 距離がないときは、退魔巫女のとんでもない運動神経で処理できていたものが、遠くなったことでボールの弾道予測をしなければならなくなって経験の足りない彼女たちではどうにもならなくなったらしい。

 ただ、パスの精度というものは一朝一夕ではあがらないものだ。

 これはこの三人でのパス交換は期待できないな。

 つまり、御子内さんたちは最後のシュートによるフィニッシュに専念させるしかないか。

 そうなると、パスの供給源に期待せざるを得ないのだが……

 

「やはり、女子サッカー最強はステイツに決まっているわ。なでしこはもう魔術(マジック)の種が尽きたも同然よ。きっとドイツにも勝てないわ」

「ふざけないで。ロンドンの敗因は、フィジカルを重視しすぎたことによるパスサッカーの否定のせい。日本女子のアジリティを活かしさえすれば、パワー重視のアメリカなんて物の数ではないわ。だいたい、ワンバックの引退で力技がなくなって大丈夫な訳ないでしょうし」

「モーガンがいます。リリィも。なによりホープ・ソロが健在です」

「あれ、そろそろロートル……」

「○uck!」

 

 あの穏やかで知的なヴァネッサさんが、「Fから始まる悪い言葉」をいっちゃうぐらいに興奮していた。

 弟を助け出さなくてはならないはずのまきさんも、サッカー小僧というか馬鹿の地金が剥き出しになっている。

 広い意味では仲が良さそうだが両インサイドハーフがあれで中盤は機能するのだろうか。

 でも、この二人のパスが最後の頼みかもしれないのに……

 

「―――てんちゃんがやるから大丈夫ですよー」

「ありがとう。てんちゃんが頼もしく思えるなんて僕も末期かもしれない……」

「失礼なこと言われている気がしますねー」

「そうだ、京一。てんなんかに任せたら中央を簡単に突破される。何があったとしても、中央のラインだけは守るべきだぞ」

 

 臨時の相方になってくれたロバートさんがやってきた。

 包帯グルグル巻きのラガーマンにしか見えないが、この〈ミコミコファイターズ〉の中で唯一、しっかりとした男性ということで僕の心の支えになっている。

 ただ、この人の問題は……

 

「しかし、君ら日本人はなんでフットボールと言わないんだ。アメリカの影響を受けすぎだ。アメリカなんてFIFAランクもたいしたことのない国のサッカーなんて呼び名を使うべきではない」

「……いや、日本にサッカーをもたらしたのは」

「クラマーだろう。ドイツ人だが、彼らもフットボールはフットボールだ。確かに今となってはどうにもならないが、目が覚めたのならばすぐにでもフットボールに切り替えていこうと思うのが日本人というものではないのか!」

 

 と、強烈なサッカーの母国的な発言をかましだすのだ。

 しかも熱烈なプレミアリーグファンで、あのフィジカルコンタクトだけはナンバーワンのリーグこそ至高!と持論を展開しまくって五月蠅いのである。

 しかも、尊敬しているのがリオ・ファーディナントというぐらいにもうゴリゴリパワー重視な動きでもう筋肉バカなのであった。

 普段はそれなりに思慮深い人なのに、これだからフーリガンは。

 

「友埜ちゃ~ん、冬弥ちゃ~ん、うちとプレーしないプレー!! どんなプレーでもムフフ最高になれるってもんだよ~」

「邪魔ですわ!」

「いやーん、変態、すごーい」

 

 ちなみに同じ武蔵立川高校ということで、親しくなる機会を窺っていたという皐月さんは相変わらずのゲスいノリで双子の柳生姉妹に粉をかけていて、つれなくされていた。

 柳生姉妹は生徒会の役員ということもあり、学校では近づきにくいのだそうだ。

 とはいえ色香に迷った皐月さんの気持ちもわからんでもない。

 あっちはもう絡みたくないぐらいに桃色すぎる。

 そもそも、柳生さんちは四姉妹すべてエロエロな色気満々の女の子ぞろいなので僕としてもあまり近づきたくない人たちなのだ。

 美厳さんと御子内さんが不倶戴天のライバルであるから、僕が柳生と親しくしていると相棒がお怒りになるのであるし。

 まったく、小学生みたいな意地は張らないでほしいものだ。

 

 ……と、ここまでのチームメイト紹介でわかってもらえたかと思うが、このメンバーを御して中学生男子+死霊大学生四人相手にサッカーで勝って、成仏させるというのはそれはそれは厄介な話だということを言っておく。

 なんていうか、スペックは高いのに自滅しそうなチームだった。

 これだったら色々と考えないで、御子内さんを野に解き放った方が早かったかもしれない。

 別に音子さんやレイさんでも構わないけど。

 ちなみに、一人黙々と、ボールを高く投げてキャッチをする練習をし続けている藍色さんに惚れてしまいそうだということはあえて言わない。

 

 

           ◇◆◇

 

 

 それから、しばらくして僕たちと死霊少年サッカー団との試合が始まった。

 四人の死霊コーチは、それぞれGKとDF、CMF(セントラルミッドフィルダー)、FWに入っている。

 背番号からしてもたぶん、もともとそのポジションだったらしいことが窺える。

 1,5,8,11だからだ。

 兆勝大で事故死したのはキャプテンとレギュラーという話だったけど、そのメンツがいなくなったら瞬く間にチームが崩壊すること間違いなしだろう。

 そして、彼らが加わったことでゾンビみたいな少年たちのチームに強さが宿った。

 

(どうなるかわからないな)

 

 カアアアア

 

 八咫烏が鳴いている。

 なんと、あいつらが審判をやるらしい。

 僕とよく争う個体以外にも別の八咫烏たちがやってきて、上空を廻っている。

 とてもシュールな光景だった。

 あとで、いみじくも音子さんが言っていた、

 

「こんな馬鹿っぽい退魔業、今までに聞いたこともない」

 

 という言葉に相応しい試合が遂に幕を切って落とした。

 



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先制点はどちらが奪る?

 

 

 喋るカラスが主審と副審という、前代未聞のサッカーの試合がキックオフした。

 先攻のボールは我らが〈ミコミコファイターズ〉で、案の定というかやはりというか、最初にレイさんがちょこんとボールに触れたと同時に御子内さんが思い切り敵ゴール目掛けてシュートを放った。

 キックオフ・シュートという奴だ。

 さっきの大会の初戦でうまくいって味を占めたのか、実は六試合中三試合までこれをやっている。

 僕が言うのもなんだが、御子内さんは調子に乗って有頂天になってしまうタイプでもあるのだった。

 正式なフットサルのコートは縦が38m~42m、横が18m~22mとなっているが、サッカーのピッチは90m~120m、横が45m~90mである。

 要するに、二倍以上あるということなのだ。

 脚力のある御子内さんでも正確にハーフラインからゴールを狙うことは難しい。

 

「しまった!!」

 

 やっぱりボールはゴールまで届かず、死霊のキーパーに軽くジャンプキャッチされてしまった。

 

「しまったじゃねえよ。おまえ、やっぱそれ禁止な」

 

 あえて蹴らしてあげたらしいレイさんに嫌味を言われ、いーっと反撃をしているところが妙に可愛い。

 とはいえ、ボールは相手陣内に入った。

 あっちの攻める番だ。

 普通のサッカーならば、前線がボールホルダーとそのパス先になる選手にチェイスをかけて、好きには蹴らせないようにするのが定石だが、ほとんどが素人のうちのチームの場合はそこまで組織だった守備はできない。

 トップの三人には、ボールを持った相手と自陣のゴールの間に立って「切る」ことだけを要求した。

 それだけでも相当パスコースは限定されるのでOKだ。

 まあ、当たり前だけれども、相手チームの中心は大学生の死霊たちなので、ボールはそこに集められることになる。

 組み立てや、攻撃の起点はすべて死霊たちから行われるのだ。

 ボランチの選手はさすがに上手く、適正な位置で受けられるたびにインサイドハーフが引きずり出されてパスを回されることになった。

 アンカーに配置したてんちゃんはほとんどトップ下の子へのマークについていて、2トップのケアはほとんど最終ライン全員でケアしなければならないという面倒くささだった。

 僕とロバートさんの間に死霊のFWが入り込み、もう一人のFWが左右へ動き回るのだ。

 その度にSBの二人が吊りだされるので4バックのラインは崩されまくりなのだった。

 もっとも、正直、こんな急造のバックラインで組織的な守りができるはずもないので、僕らはできる限りベタ引きで戦っているから問題はなかった。

 死霊FWのミドルシュートさえ注意しておけば、中学生男子のシュートなどあまり警戒する必要はないのだ。

 なんといっても、こっちのGKは背こそ低いが、最強の巫女ボクサーなのだ。

 とんでもない反射神経で真っ正面から打たれた程度ならすべて弾き返してしまう。

 だから、縦を切っておけばさほどの危機にはならない。

 

「押し込まれているぞ、升麻。どうする?」

「やっぱり戦術が古いのが助かりましたね。スリートップを4-4-2で防ぐのは難しいですから。といっても、あっちはさっきから修正できていない。やっぱり、幽霊ですからねデータの即時更新はできないようです」

 

 しかも、あっちのチームには監督がいない。

 状況を的確に分析し、切り札となる選手を投入したり、相手チームの長所を見抜いて対応させるベンチもいないのだ。

 それは致命的だ。

 サッカーに限らず試合も戦いも流れというものがあり、常に一定のままで終わることはない。

 一流はその流れというものを見逃すことはなく、読み損ねることはなかった

 それがどんなものであっても。

 そして、僕の友達たちは全員が一流の退魔巫女とFBI捜査官と女忍びであった。

 

「或子サン!」

 

 弾き飛ばされたボールを拾ったヴァネッサさんが、ダイレクトで前に蹴りこんだ。

 声が聞こえてから動いては間に合わない。

 御子内さんはそれよりも先に裏にダッシュした。

 いわゆる「ボールを呼び込む動き」というものだ。

 これはパサーがボールを蹴る前に動き出すことから、釣られるようにそちら目掛けてパスを送ってしまうのである。

 仲間の動きの質を熟知していないとできないものだが、試合が始まって以来、ずっと御子内さんを見続けていたヴァネッサさんだからできるものだった。

 ボールは最終ラインのSBを通り越して飛び、御子内さんはギリギリでオフサイドにならずにタッチラインでボールを確保する。

 副審の八咫烏は何も鳴かない。

 ゴール前にはすでにレイさんと音子さんとDFが飛び込んでくる。

 クロスを上げても間に合わない。

 ここは一旦戻すか。

 バックパスを受けようと、オーバーラップしていた冬弥さんが近寄る。

 それにつられてSBの少年が寄せるが、御子内さんの狙いはそっちだった。

 SBの裏をかいて、中央にドリブルをする。

 ボールの回転を見極めることができる御子内さんらしい鋭いドリブルだった。

 ペナルティーエリアの中に侵入する。

 そうなると、死霊のCBがでるしかない。

 フリーでシュートを打たせる訳にはいかないからだ。

 例え吊りだされて中が薄くなったとしても。

 だが、コースは塞がれている。

 180センチのCBは存在だけで壁になる。

 それを横に躱して撃つ技術は彼女にはないはず。

 無駄を承知で撃つか?

 

「嘘っ!!」

 

 チョコン

 

 御子内さんが軸足を置いて、蹴り足のつま先が上を向いた。

 吸いつくようだったボールがありえない孤を描く。

 ループキック。

 退魔巫女のとんでもない身体能力と戦いのセンスがここに来て爆発した。

 手を使わなくては防げないキックに、本物の選手だからこそCBは見逃すしかなかった。

 もちろんキーパーも予想していない。

 味方CBの体で影になっていたこともあるが、まさか中のまさかだろう。

 誰もこんなパスがでるなんて考えていない。

 しかし、このボールの軌道に飛んでいたものはいた。

 

「どっせいぃぃぃぃ!!!」

 

 横っ飛びで叩き付けるようにヘディングを当てたのはレイさんだった。

 御子内さんのパスを知っていた訳ではないだろう。

 だが、「或子のバカのいつもの手口」を知り尽くしている親友にとっては予想の範囲内だったのだ。

 しかも、もしレイさんが外していたとしてもその先にはなんと音子さんがボレーキックを用意していた。

 彼女の動体視力ならば外すことはないだろう。

 恐ろしいことに二人とも御子内さんがやることを信じて動いていたのだ。

 あれだけいがみ合っていたというのに、さすがの友情と信頼がそこにあった。

 レイさんのヘディングシュートは過たずゴールネットに突き刺さった。

 

『カアアアア!!』

 

 先制点は〈ミコミコファイターズ〉。

 得点者は明王殿レイであった。

 

 



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失点

 

 

 サッカーに限らず、すべての闘争において、先制は大事である。

 自分たちに流れというものを一気に引き寄せることができるからである。

 さっきも言ったが、一流の戦士というものはどいつもこいつもこの流れというものを感覚的に掴んでいるものだ。

 ヴァネッサさんはFBI捜査官であって戦士ではないが、御子内さんが見せた超一流の動き出しに思わず釣られてパスを出してしまい、そのスイッチを入れる役割を担った。

 そのパスに何かを感じたのか、レイさんと音子さんだけでなく柳生冬弥さんも走り出した。

 今が好機だと。

 サッカーでいえば遥かに場数を踏んでいるとまきさんでさえも感じていなかった風を掴んだのだ。

 結果として、先制点が生まれた。

 サッカー歴二日、試合をしたのは初めてというメンツがベイルとクリスチアーノ・ロナウドのようなコンビプレイで点を取ったのだから。

 御子内さんたちにしては派手にはしゃいでいた。

 まだ決着もついていないのに珍しい。

 スポーツだから油断していたのだろうか。

 そこを突かれた。

 

 カアアアア

 

 ハーフラインから試合が再開してすぐに、なんと、死霊のボランチと中央のCBが一気に前線に上がってきたのだ。

 守備の要である二人が、である。

 だが、予想していてしかるべきだろう。

 その二人はポジションでいえば、ボランチとセンターCBでしかないが、もし当時の日本代表にあてはめて考えてみれば、()()()()()()()()()なのである。

 共に試合の流れによっては、スルスルと上がっていき、マークを掻い潜って前線を強化する攻撃もできる守備の選手であった。

 死んだ大学生たちがどれだけ代表を研究していたかは知らないが、そのポジションに入るのならば同じ作戦をとってもおかしくはない。

 逆に新戦術はないだろうと高をくくっていた僕らの油断だった。

 かつての古くなってしまった時代遅れの戦術でも、絶対に機能しないとは限らない。

 流行すたりの問題でしかないともいえるのに。

 おかげで先制して浮足立っていたディフェンス陣がなんなく切り裂かれてしまう。

 だから、上がってきた二人についてマークの受け渡しができず、トップ下の選手についていたてんちゃんがボランチに吸い寄せられるように動いてしまった。

 そうなると、トップ下がフリーになる。

 リスタート直後の緩い時間帯に、トップ下にボールが渡った。

 しかも前を向かせてしまう。

 何かしてくる!

 意識する前に、最終ラインに死霊のボランチが割り込んできた。

 FWをケアしていた僕とロバートさんの間に。

 渋滞が起こった。

 ロバートさんがマークを見失いあぶれた。

 その瞬間、ボランチの陰になっていたてんちゃんが突っ込んでくる。

 後を追うので必死すぎて、周りを見ていなかったのだ。

 おかげで仲間同士が激突することになる。

 てんちゃんとロバートさんの正面衝突。

 が、そこはさすがというか、てんちゃんはロバートさんの肩に手を当てると、無理な体勢で袖釣り込み腰のような形でふわりと投げる。

 あまりにも速い、さすがはコマンドサンボの使い手。

 味方相手に何をやってんだ、と思う間もない。

 あとで考えると彼女なりに相棒の透明人間にぶつかって怪我をさせないようにという配慮だったのだろうが、そんなに高く投げなくてもいいだろうに。

 ロバートさんは抵抗もできずにバンザイの格好のまま宙を舞った。

 

 カアアアアア!

 

 八咫烏が鳴いた。

 何が起きたかと思う暇もない。

 ファールを取られたのだ。

 でも、てんちゃんが味方の選手を投げ飛ばしたからファールを取られたということではない。

 そんなバカなジャッジ、ACLでも()()()()()()()

 ファールというよりもハンドを取られたのだ。

 投げ飛ばされたロバートさんの両手目掛けて、トップ下の選手がボールを当てたのだ。

 不可抗力だと思えなくもないが、次の八咫烏の行動のせいで腑に落ちた。

 八咫烏はゴールエリアの上を鳶のように回りだした。

 そこはPKポイントだった。

 ペナルティーエリアの中でのハンドは場合によっては厳しく判定される。

 しかも、その結果としては、

 

「PKェェェですとー!!」

 

 文句を言ったのは当然原因となったてんちゃんだ。

 八咫烏に食って掛かる。

 喋るカラスに抗議するミニスカの巫女というよくわからない光景が始まった。

 てんちゃんが退場させられてはたまらないと藍色さんが後ろから羽交い絞めにするが、それでもおさまらない。

 

「殿中で、殿中でござる!!」

「掴まれている方が言う台詞じゃにゃいって!!」

「放してください、ミラクル藍色センパイ! この鶏がらスープにてんちゃんの鉄拳をお見舞いするんでーす!!」

「審判に暴言吐いちゃ駄目だって!!」

 

 二人の回りに仲間が集まるが、実はもう一つ人だかりがあった。

 ピッチ上で投げられたロバートさんが痛んでいたのだ。

 でっかいだけあってあんな倒れこみをするともう自爆に近い。

 町田ゼルビアの井上選手が清水エスパルスの大前元紀の上に降ったときなみに、大きな衝撃が襲ったのだと思われる。

 頭を打ったわけではないようだが、背中を打ってかなり痛がっている。

 様子を見ていた友埜さんが×を作った。

 ロバートさんは少し休ませないといけないようだ。

 CBが不慮の退場というのは困るし、残っているサブの選手は―――アレなのでちょっとマズいところだが仕方ない。

 八咫烏が無情にもイエローカードをあげていることもあり、大事を取ってやすませるしかあるまい。

 しかし、まさかこんなことになるとは……

 

「イエローは厳しくないかな?」

 

 まきさんに言うと、

 

「昔、福西崇史がジュビロのときに、鈴木隆行に対してやったプレーみたいでしたね」

「なに、どうしてみんなそんなに鈴木隆行に詳しいの?」

 

 といううんちくが返ってきて、どうすりゃあいいのかな。

 

 ちなみにボールをセットしたのは死霊のFWで、こういうときの雰囲気のある選手だった。

 顔に黒い穴が開いていて見えないこともあり、GKが目線を追うようなことはできそうもない。

 カアアアアと八咫烏が合図をしたことで、FWは何歩か下がって、それからキックをした。

 おそらく初めてのPKに対応できず、さすがの藍色さんも逆を突かれてしまう。

 

 失点。

 

 そして、やや遅れて、前半終了の鳴き声。

 

 僕らはハーフタイムの直前に追いつかれてしまったのだ。

 しかも、後半には頼りになるプレミアのフーリガンがいない状態である。

 まだ半分あるのか、それとも半分しかないのか。

 僕らの奇天烈な試合はまだまだ予断を許さないのである……

 

 



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ドーピング

 

 

 前半終了間際に同点に追いつかれたのはよくない。

 特に、先制直後の隙を突かれて、PKで失点なんて最悪だ。

 加えて、守備の要でもあるCBを失い、負傷交代するとあっては……

 

「うふふふ、うちが入ったからには畝傍(うねび)に乗った気分でいてくれていいよお。畝傍だから途中で行方不明になっちゃうんだけどね!!」

 

 皐月さんがどうでもいいことを言いながらアップをしていた。

 ちなみに畝傍というは、明治19年に日本に回航される途中、シンガポール出港後行方不明となったフランスで建造された日本海軍軍艦である。

 ある意味、タイタニックよりも先行きが怪しい。

 だが、ロバートさんの代わりになるのはこの人しかいないのだから仕方ない。

 でも、サッカーをやったことも観たこともほとんどないということを知って、どうにもならないと嘆息してしまった。

 

「だいじょーぶ、俺たちのフィー○ドとシュ○トはちゃんと全巻読んでいるからさー。ところで、センターバックってどこ? ア○ル? 後ろの穴といったら、それでしょ!」

 

 元気満々で下ネタをぶっぱなしてきている。

 だが、〈社務所〉の道場や同じ高校で刹彌皐月がどういう人物かある程度知っているらしいメンバーはほとんど無視しているところが凄い。

 もしかしたら困っているのは僕だけだろうか。

 

「皐月さん、刹彌流は封印してくださいよ。審判は八咫烏です。もし、皐月さんが殺気を投げたら絶対にファールとってきますからね」

「そうなん? カラスの分際で生意気だなあ。おーい、おまえら、うちが焼き鳥にして食っちまうぞ!!」

「とりあえず挑発しないでくださいよ。……ところで、あっちのチームの選手って殺気とかだしてますか?」

「ちょっとだけね。フェイントとかには出しているね」

「蹴るのや動く方向の予測はできますか」

「やってやれないことはない。やってできるがNN(なかだしにんしん)

「―――はい、おまかせします。相手の出した殺気を邪魔する方向に立つのを心掛けてください」

 

 シュートやパスを撃つ時も殺気が出ているとすると、彼女ならばそれを読み取って攻撃のリズムを狂わせられるかもしれない。

 ぶっちゃけ雑魚かなと思っていた皐月さんにも使い道があるようだ。

 それだと、システムを変更するか。

 

「てんちゃんは下がって、僕とCBのコンビを組んで。ロバートさんの高さがなくなったから、空中戦はこの際捨てよう。皐月さんは僕たちの前に出て、まきさんとダブル・ボランチで」

「なに、そのダブルチン○ンって」

「……まきさん、頑張ってね。で、ヴァネッサさんは真ん中に入ってトップ下になって。3トップはそのまま、サイドのディフェンスも捨てる。ただ、いいところから放り込みはさせないように、プレスはかけて」

 

 前半戦を終えたおかげで、御子内さんたちはプレスのなんたるかをだいたい把握していた。

 ゴール前にいい浮き球さえあげさせなければ、柳生姉妹のサイドはわりと鉄壁なので、あとは中央をケアするだけだ。

 まだ少年たちのチームなので力はないし、やりあえるレベルである。

 

「よし、後半も同じようにやっていこう」

「「「「おおおお!!」」」」

 

 円陣を組んで、僕らはピッチに戻った。

 だが、試合は半分を過ぎ、確実に変化していた。

 四人の死霊選手たちの様子がおかしくなっているのである。

 ぽっかりと黒い穴が開いたような顔はそのままだが、全身の筋肉がさらに膨張し、マッチョを通り越してゴリラになっていた。

 ただでさえピチピチだったジャージが、もうはちきれんばかりに膨れ上がり、太ももなんて御子内さんの腰ぐらいはある。

 さらにいうと背筋の盛り上がりは異常だった。

 ノートルダムのせむし男よりはバランスがとれているといえるぐらいの、異常な瘤のようであった。

 

「……京一先輩。ヤバいですよー。あいつら、男の子たちの生気を吸い取って、パンプアップしています」

「パンプアップで済むレベルじゃないよね」

「てんちゃんたちならともかく、パツキン先輩やなでしこ先輩は接触させちゃダメです」

「ヴァネッサさんとまきさんはとにかく四人には近づかないように言うか」

 

 この二人ははっきりいえばただの人間だ。

 清浄なる〈気〉を使える巫女ならばともかく、あんな状態の幽霊と接触したどうなるかわからない。

 あいつらとの戦いは退魔巫女たちに頼むしかないだろう。

 ただ、僕はかなり腹が立っていた。

 

(なんだよ、さっきまで幽霊の癖に一生懸命生前のプレーでやってきたのに、負けそうになったらそんな卑怯なことをするのかよ……)

 

 さっきの奇襲は素晴らしかった。

 守備の主力であるCBとボランチを一気に上げてマークをはがすなんて、普通ならチャレンジできない方法だ。

 操られているだけにしか見えない少年たちは、戦力でもありお荷物でもあるというのに、指示するだけでうまくチームを動かしていた。

 牡丹灯籠よろしく少年たちに憑りつきつつ、サッカー指導をしていたのはこの足でボールを蹴るだけの不自由なスポーツを愛していたからに違いない。

 自分たちが事故死したせいでチームは降格し、廃部寸前にしてしまったという後悔が彼らを死霊にしたのだろう。

 だから、試合に負けたくない、負けてたまるかという気分になるのはわかる。

 だが……

 だからといって……

 

「やっていいことと悪いことがある」

 

 四人の死霊以外の少年たちの顔が異常なまでに青白くなり、さっきまでよりも激しくやつれていた。

 明らかにわかる。

 あの四人の死霊が、少年たちの生気を吸い取ったのだと。

 今までの経験から、死霊となった人間が生きている者たちから生気を吸い取ることはよくあることだと知っていた。

 これまでも深夜の練習のためにやってきた少年たちがやつれ始めていたけれども、それは死霊と接触し、被るべき当然の代償としての霊障だった。

 しかし、今、四人は教え子たちから力を吸収することでパワーアップを果たそうとしているのだ。

 それは勝つための手段かもしれないが、結果は手段を正当化しない。

 さっきまでのサッカーに情熱を燃やしていたはずの彼らは、許されないドーピングに手を染めたのだ。

 スポーツの世界に政治を持ち込むことと、ドーピングをすることはすべての裏切りである。

 アスリートも、アスリートを応援する者も、絶対に許さない。

 

 カアアアア

 

 八咫烏が鳴いて、後半が始まった。

 リスタートは死霊チーム。

 FWはすぐにボールを下げて、ボランチに預ける。

 こっちも二倍以上に膨れ上がっていて、さっきまでとは体格が違いすぎた。

 さらに後ろのキーパーはもうほとんど巨人だ。

 あれではゴールマウスの三分の一が塞がれたも同然だ。

 普通にシュートしただけでは完全に防がれる。

 どうすればいい。

 ボランチでありながらボールを配給する役―――レジスタにもなっているキャプテンマークに死霊の足が止まった。

 その目の前に御子内さんが立っている。

 もともと彼女のいた右ハーフの位置にはヴァネッサさんが張っていた。

 ポジションチェンジだ。

 もう一人の死霊CBにはレイさんがついている。

 彼女の〈神腕〉ならこんなサイズ差どういうこともない。

 マッチアップした御子内さんが言う。

 

「キミ、勝つためになりふり構わないという場合でもやってはいけないことがあるということを知っているかい?」

 

 死霊は答えない。

 答えることができないのかもしれない。

 

「ボクは、強いものが、道を示すべき立場のものが、弱いもの、導かれるべきものを踏みつけるのが嫌いだ。何よりも嫌いだ。だから、キミたちがボクたちに勝つことを優先してやってはいけないことに手を出したことを糾弾する」

 

 いつものようにパンチもキックしない。

 ただ、御子内さんはいつもと同じに敵と対峙する。

 

「ボクたちがキミらを否定する。負けて後悔するがいいさ」

 

 何倍もの体格差をものともせずに、御子内さんはボール奪取のデュエルに挑む!

 

 

 

 



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試合終了

 

 

 御子内さんはサッカーの初心者だから、守備の際に不用意に飛び込みそうなところがあった。

 だが、超一流の闘争者である彼女は同時に超一流のアスリートでもあった。

 六試合分のフットサルとフルコートサッカー前半だけで、なんと守備に必要な間合いというものを完璧に掴んでいた。

 足の駆動部を把握して、蹴るという動作を熟せる範囲を邪魔する程度の距離感をとる。

 そうすると、ボールホルダーはパスに必要なキック力を確保できないのだ。

 フットサルと違って広いコートでは勢いのないパスは仲間に繋がらない。

 かといってフォローを期待できない。

 なぜなら、死霊たちは自分達以外の少年から必要な生気を搾取してしまったせいで、された方の運動量が極端に減ってしまったのだ。

 それだけではない。

 さっきまで見せていた少年たちの動きの質までが劣化していた。

 だから、御子内さんを振り切るためには自分だけでやらなければならなくなったのだ。

 例えサッカーでは素人といえども、卓越した運動神経を誇る巫女レスラーを一気に振り切るなんてプロでも無理だろう。

 死霊ボランチは力任せに御子内さんを抜こうとする。

 腕を掴み、強引に身体をぶつけるチャージを越えたファールにしかならない。

 だが、御子内さんは倒れない。

 身体つきは小兵といっても体幹の鍛え方と〈気〉による強化は、巨人たちをへそでスープレックスできる女の子なのだ。

 ボランチの体当たりをいなし、さらに足を伸ばすことで横からボールをかっさらった。

 上手いプレーだ。

 柔よく剛を制す。

 そのまま、ペナルティーエリアの外、いわゆるバイタルに入り込む。

 あとはシュートに持ち込めるかどうかだ。

 自陣の低い位置で相手にボールを奪われるなどあてはならない失態を犯したボランチは、背後から御子内さんのユニフォームの袖をこらえ切れずに握りしめた。

 そして、無理矢理に引っ張る。

 

 カアアアア

 

 今度こそ、ファールだった。

 しかも八咫烏は嘴に黄色いカードを咥えて提示する。

 イエローカード、警告一枚目。

 今のプレーはそれだけ悪質だということだ。

 といえ、引き倒された御子内さんは気にも留めないというポーカーフェイスで立ちあがる。

 イエローカードの意味は教えてある。

 チャンスを潰されたというよりも、相手のそこまでの覚悟を受け止めたという顔だった。

 少年たちから生気を抜きとるような真似は許せないが、結局、それは何が何でも勝ちにこだわるという想いの強さだと承知しているからだ。

 相手の勝ちたいという気持ちは本物だ。

 だからこそ、御子内さんは負けない。

 

「FKはまきが蹴ってくれ」

 

 ボールをクラスメートに渡して、御子内さんはペナルティーエリアに入る。

 まきさんのキック力では直接にシュートは狙えない。

 それに相手のGKも膨張していて、とてもじゃないがそんな隙はない。

 誰かに合わせた方が得策だ。

 こぼれ球も狙えることだし。

 少年たちと三人の死霊が壁を作る。

 凸凹しすぎていて歪な壁だった。

 あれだと逆にGKにとっては見づらい。

 僕はエリアに入らなかった。

 通常と違って、セットプレー要因になれるほどの体格もないから。

 ボールの位置は、ゴールからみて斜め右。

 誰に合わせるか……

 まきさんが助走する。

 御子内さんと音子さんが攪乱し、レイさんが進み出た。

 普通ならばさっきヘディングシュートで高さをアピールしたレイさんだが。

 まきさんの左足が振りかぶられ―――

 蹴った。

 

 真横に。

 

 そこに走りこんでいたのは、ヴァネッサさんだった。

 FW三人を囮にしたトリックプレー。

 矢のようなミドルシュートは地を這って進み、陣形の崩れた壁の足下をすり抜ける。

 GKの予想していない場所だった。

 普通ならばそのままゴールだ。

 だが、少年たちの生気を吸い取って肥大化したGKの伸ばした足が辛うじて当たる。

 弾かれた。

 だが、キャッチされていないのでボールはルーズになる。

 その一瞬を見逃していないものがいた。

 抜け目ないリングの上の風の精霊。

 神宮女音子が誰よりも早く反応して押し込んだ。

 ふぁさ

 とネットが揺れ、静かにボールを包み込んだ。

 

 カアアアアアア

 

 再び、〈ミコミコファイターズ〉の得点、そして勝ち越し点だった。

 貌のない死霊たちまでが茫然としていた。

 完全に裏を突かれたからだ。

 3トップが素人であったとしても、最初の日米インサイドハーフは経験者であり、この手のプレーは熟知していたことを忘れていたのだろう。

 ドーピングしたフィジカルだけで勝てるという考えの甘さが招いた失策だ。

 死霊たちにとっては痛恨のミス。

 どうにもならないところだった。

 だが、このピッチ上の二十二人の中で誰よりも早く動いたものたちがいた。

 ゴールに転がったボールを拾い、走ってダッシュでセンターまでいくものたちがいた。

 ボールをセットし、すぐにでもリスタートできる、反撃の準備をするものたちが。

 

「風太……?」

 

 まきさんが呟く。

 それは彼女の弟だった。

 風太君だけではない。

 少年たちは全員がさっさと自分のポジションにつき、再スタートを今か今かと待ち構えていた。

 彼らはまだやる気なのだ。

 勝つ気なのだ。

 まずは同点。

 そして、最後は逆転。

 勝つ。

 絶対に勝ってみせる。

 彼らはゾンビのような顔色と動きをしていたが、態度だけは決して譲らなかった。

 表情が物語っていた。

 彼らは―――

 

「ふーん、コーチのためにも負けられないって感じだね」

 

 御子内さんが言った。

 

「そういうの嫌いじゃない」

 

 音子さんも言った。

 

「漢気があっていいじゃねえか。オレも気に入ったぜ」

 

 レイさんも。

 ―――勝つために自分たちの生気を奪い取った死霊のコーチであったとしても、その恩に報いんと少年たちが戦おうとしている。

 僕のようなどっちつかずと違い、根っから体育会系のみんなはその在り様を善しとしたようだ。

 コーチのために。

 例え、相手が死んでいて、もしかして悪霊であったかもしれなくても。

 気が付くと、みんな微笑んでいた。

 どんな経緯で始まったものであれ、同じスポーツの同じ土俵で勝負している者同士わかり合えた気がしたのだろう。

 やるからには手は抜かない。

 結果として、死霊たちが成仏させられても仕方ない。

 だけど、正々堂々とやりあった結果ならば、それでいいじゃないか。

 死霊たちも自分の位置に戻った。

 彼らも同じ想いだったかもしれない。

 そして、また八咫烏の鳴き声が響き渡り―――

 

 僕らと少年と死霊のチームの試合はまた再開した……

 

 

         ◇◆◇

 

 

「……うちの弟、なんかうまくなってんの」

 

 あの激戦が終わって、何週間後。

 たまたま出会った豹頭まきさんが僕に言った言葉だった。

 

「何がですか?」

「サッカー」

「……ああ」

 

 風太君はあのあと、ご両親に完全に悟られる前に普通の生活に戻った。

 夜ごとに通っていた死霊のサッカースクールのことについては覚えていなかったらしい。

 だから、まきさんとしてはすべてなかったことにするというつもりだったのらしいのだが、

 

「足元の技術はそれほどではないんだけど、ポジションの取り方とかさ、動き出しとか……。誰かにマンツーで教わんなきゃできないレベル」

 

 さすがは緑のなでしこチームの下部組織出身だ。

 選手を見抜く力はケタ違いである。

 

「だからさ、あの連中に感謝しなくちゃいけないのかなあ。はむ」

 

 食べていた肉まんを頬張って、表情を隠すのはどういう気持ちなのだろうか。

 

「そんでさ、あの時の子たちって、みんな顔馴染じゃなかったはずなのに、日曜日とかに集まって練習したりしてんの。自主的に」

「……記憶にないはずじゃあ」

「って言ってたのは風太だけだから、あいつが嘘ついてたらわかんない」

 

 それはそうだ。

 別に無理して自白させるものでもないしね。

 

「もしかしてあたしらのやったことってお節介だったのかな」

「それはないですよ。あのまま放っておいたら、霊障に憑りつかれていたのは確からしいですから。あのタイミングでないともっと酷い結果になっていたはずです」

「―――でもさあ」

 

 朝陽の中、消えていく四人を見送っていたときから、みんなの胸にはそういうトゲのようなものが刺さっていたらしかった。

 御子内さんたちも似たようなことを言っていた。

 

「マジ考えちゃうんだよ。あたしらとあいつら、ガチンコでぶつかった仲だから」

 

 理解しあった敵を失くした喪失感なのだろうか。

 いつもの退魔と比べても釈然としない気持ちはあった。

 

「でも……」

 

 僕は言った。

 

「でも、楽しい時間だったじゃないですか。なんでも忘れられるような」

 

 あの短い時間は本当に楽しかったはずだ。

 スポーツというもののよい面を限りなく信じられるような。

 

「まあ、そうだね。―――いい試合だったよ」

「そうですよ」

 

 僕とまきさんはなんともいえない晴れやかな表情で笑った。

 それは、情熱に身を焦がしたアスリートの気高い笑顔だった……

 

 

 

 



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第48試合 蜘蛛の理
そのサラリーマンは何をしていたのか


 

 

 その日、僕は珍しく混雑した駅のホームにいた。

 夜遅くまで〈社務所〉関連のバイトがあって、池袋駅前のマンガ喫茶で一晩過ごしてからの朝帰りだった。

 年末の無断外泊でだいぶ叱られたけれど、最近、両親はあまり僕のしていることに口を出さなくなった。

 見捨てられたという訳ではない。

 それなりに心配されているのは実感しているし、妹の涼花経由で両親が色々と探りを入れてきているのもわかっている。

 どうも何か両親にとって劇的なことがあったらしくて、僕の不規則な生活についても見て見ぬ振りする方針になったらしい。

 僕の貯金残高はなんだか凄いことになっていて、この一年で五百万を越えたことから大学の学費は十分に溜まっている。

 なんだか〈社務所〉の不知火こぶしさんが暗躍していて、御子内さんたちが進学するだろう神道系の大学への推薦枠もとれそうになっている。

 とりあえず、これからの進路という意味ではあまり問題はなさそうだ。

 僕にも特に不満はない。

 ここで自分の人生に対して何か不満でもあったら、葛藤みたいなものがあるのかもしれないけれど、平々凡々に生きてきた僕は今の充実感の方が大事だった。

 将来への不安はあるけれど、気の合う相棒も仲のいい友達もいるし、遣り甲斐のある仕事もある。

 漠然とした不安に身をゆだねて、現実にあるものを蔑ろにはできない。

 その環境を許してくれる両親には感謝しかないというところだった。

 ……とはいえ、期末試験も近い時期に高校生が朝帰りというのはよくないことではあったので、さすがに怒られるかな。

 まだ早朝だというのに、結構駅は混んでいる。

 以前ここに来たとき、僕は女の子の格好をして、いやらしい痴漢妖怪相手の囮なんかをしていたのであまりいい印象はない。

 山手線の乗り場で次の電車を待っていると、何か背筋がざわついた。

 最近、たまに感じる勘働きだ。

 一年以上御子内さんたちとつきあって修羅場を体験したことで、鈍い僕でも成長するのか、嫌な予感のようなものを察知できるようになっていた。

 とはいえ、野生のケダモノのような御子内さんと違い、どういう質のものかまではわからないけれど。

 だから、目立たないようにしてキョロキョロとしてみた。

 妖怪―――か、幽霊か―――

 けれども、僕がおかしいと感じたのはゆっくりと歩いている一人のサラリーマンだった。

 眼鏡をかけて髪はきちんと整えた、清潔そうな二十代後半の人である。

 地味なコートを着て、首元には紺のマフラーを巻いて普通なら誰も気にも留めないタイプだろう。

 僕がおかしいと思ったのは、()()()()()()()()()()ことだった。

 手ぶらで仕事にいくサラリーマンというのはあまりいない。

 軽くしていても、書類入れぐらいは持っているものだ。

 だからどうして持っていないのか、ということが気になった。

 そして、キョロキョロしていた僕とは真逆に、彼は一点だけを食い入るように見つめていた。

 いや凝視していたというべきか。

 まったく他を見ていないから、何度か他人にぶつかっていた。

 その度にぶつかられた相手は睨みつけるのだが、地味なサラリーマンはどこ吹く風だ。

 視線を外しもしない。

 となると、視線の先が問題となるか……

 

(あの男性(ひと)だろうな)

 

 乗り場の先頭に文庫本を読んでいる彼と同年代のなかなかのイケメンのサラリーマンがいた。

 背も高く涼し気な印象がある。

 文庫は講談社のもので、ごく普通のジャンルだった。

 若手のサラリーマンとしては、憧れたくなるぐらいに決まっている。

 シャツの襟ぐりもアイロンで綺麗に整っていて、左手の薬指に指輪がはめられているし、おそらくは既婚者だろう。

 イケメンをじっと睨むように凝視し続けながら地味なサラリーマンは近づいていく。

 手がポケットから出てきた。

 何かを掴むように手をワキワキさせる。

 ここで僕はさすがにピンときた。

 僕は逆に地味なサラリーマンだけを見続けて、人波をかき分けながらそちらに向かう。

 

〔間もなく電車が参ります 白線の内側まで下がってお待ちください〕

 

 駅構内にアナウンスが響き渡る。

 地味なサラリーマンがイケメンのすぐ後ろにつく。

 これでだいたい予想はついた。

 間に合うだろうか。

 ポケットの中から丸い平べったい缶を取り出し、蓋を開ける。

 歩きながらなのであまりうまくはいかないが視線を落としている時間はない。

 サラリーマンの手が伸びる。

 イケメンの背中に向けて。

 ぶるぶると震えているのもわかった。

 一度広げた掌が閉じられる。

 止めるのか。

 いや、また広げた。

 今度は躊躇わないかもしれない。

 僕はサラリーマンの隣に立った。

 用意しておいた缶の中のベタついた粘液を指先につけて、裏拳で殴るようにノールックで指を突き立てた。

 人差し指と中指がサラリーマンの額に触れた。

 サラリーマンの全身がびくんと震え、今までずっと凍りついていたような表情だったのに、一気に熱が戻ったかのごとく汗が噴き出す。

 開き切っていた瞳孔が収縮する。

 何が起きたのか、頭の中で嵐が渦巻いているに違いない。

 彼がやろうとしていたのは……

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 目が覚めれば、当然自分の仕出かそうとしていたことに苦しむのは当然だ。

 僕はイケメンどころか周囲の人間が誰も勘付かないうちに、サラリーマンの手を引っ張りここから離脱することにした。

 最初は訳が分からず抵抗していたが、自分の置かれた立場に気が付いたのか、すぐに黙ってついてくるようになる。

 僕らはホームからいったん降りて、駅中のコーヒーショップに入った。

 サラリーマンを空いている椅子に座らせると、二人分のコーヒーを買って席に戻った。

 疲労困憊した顔で座っているだけで、こちらを見ようともしない。

 コーヒーを差し出すと、ようやく僕の方を見た。

 

「君は……」

「まず、これをどうぞ」

 

 僕はポケットから手鏡を出して渡した。

 手鏡といっても、どこにでも売っているような品ではない。

〈照魔鏡〉と呼ばれる、不可視の妖魅さえも映しこむというアイテムだ。

 昔と違って、強い地縛霊ぐらいなら見えるようになったとはいえ、神通力のない僕のために〈社務所〉が用意してくれたものである。

 使う時は、ペルセウスがメドゥーサを視るときみたいにかざしながら用いる。

 とはいえ、今回は〈照魔鏡〉としてではなく、ノーマルな用途なのではあるが。

 

「額に塗ったものを拭いてください」

 

 鏡を覗き込んだサラリーマンは目を丸くする。

 額に桃色の点のようなものがついていたからだ。

 サイズからして一円玉大。

 彼には覚えのないものだろう。

 

「なんだ、これ……?」

 

 僕はさっきの缶を開けて中身を見せた。

 同じ色のねっとりとしたものが詰まっている。

 

「これは桃の実の成分と金属粉、そして動物の脂を練りこんだもので、これを額のチャクラの位置につけると魔が差している思考をすっきりとさせて、我に帰ることができるものです」

 

 要するに魔除けだった。

 こちらは〈照魔鏡〉と違って、僕が中華街の元華さんから貰ったものだ。

 おそらく大陸の道教の道士様が使う丹の一種だろう。

 妖魅に接触すると頭の中にどろりとした粘液がまとわりつくように、考える能力というものをはく奪されることがある。

 それは妖魅のもつ妖力が人を狂わせるからなのだが、その状態ではまともに働くことはできない。

 だから、それを避けるために僕はたまにこれを額に塗っている。

 いざという時の用心のためだ。

 今回は、明らかにおかしなサラリーマンの様子を見て、もしかしたら魔に憑かれている可能性を考慮して塗り薬を使ってみた。

 そうしたら善く効いたという訳だ。

 

「魔が差していた……というところですか。駄目ですよ。人を殺そうとしたら」

「……君は医者……じゃないな……もしかして霊能力者とかそういった職業の人なのか……」

「僕は学生ですよ。制服着てますし」

「あ、そうか……高校生みたいだ」

「でも、まあバイトで御祓いみたいな仕事に関わったりしてもいます」

 

 副業といえば、副業だね。

 それに退魔師みたいなものは、高校生と兼業していると逆に絡みやすくて受け入れやすいかも、と思い真実ではなくても嘘ではないことで安心させることにした。

 

「そうか……霊能力者から見ても俺はおかしく見えていたのか……。もしかしたら、あのまま柳を殺してしまったかもしれないのか」

「柳さん? さっきの男性ですか」

「ああ、柳萩人(やなぎはぎと)。中学生の頃から親友だった」

 

 親友を突き落としかけたというのか。

 この人は。

 いったいどうして。

 

「……おれの彼女から、夫を殺してほしいと頼まれたんだ……」

 

 ん……夫を殺してくれという依頼をしたのが、この人の彼女ってことは。

 

「不倫相手ってことですよね」

「ああ。おれは柳の奥さんから頼まれたんだよ。親友を……柳を殺してくれって……」

 

 ―――いや、未遂に終わってよかったですね。

 そんな陳腐な感想しか僕からは出てきそうになかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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不倫の果てに……

 

 

 要するに、この地味なサラリーマンは、中学時代の親友の奥さんと不倫をして、不倫相手から夫を始末するように持ち掛けられた、ということだね。

 親身になって話を聞いてあげるのが馬鹿らしくなってきたな。

 僕ぐらいの年齢だと、不倫の恋というものに嫌悪感が大きくて、とてもじゃないが同情してあげられない。

 もっとも、元華さんから貰った〈鎮静の顔料〉を使って精神を落ち着かせないと、罪のない人間が一人確実に死んでいたとなると放っても置けない。

 お節介になると思うけど、話ぐらいは聞いておくべきだろう。

 それで落ち着いて変なことを考えなくなるかもしれないし。

 

「……あ、僕は升麻京一と言います」

「おれは奥寺瑛作です」

 

 とりあえず名刺とメールアドレスも交換する。

 奥寺さんの名刺にはわりと有名な商社のロゴが刻印してあった。

 エリートに属するのだろう。

 

「霊能力者だけど、高校に通っているのか……」

「いえ、そっちはバイトでして。本職は高校生ですから」

「ああ、そうだよな。霊能力者じゃ食っていくのは難しそうだ」

 

 なんとなく誤解されているような気がする。

 

「今回は、魔に差されていた奥寺さんを止められましたが、奇跡的な偶然ですからね。もうしないでください。あと、あまり年上にいいたくありませんけど、不倫も止めた方がいいですよ。誰も幸せになりませんから」

「そうだよね」

 

 しょぼくれて俯く奥寺さんには、不倫が悪いことだという認識はあるようだ。

 少なくとも背徳的な恋とやらに溺れて、俗にいうラリっている様子はない。

 後悔とか罪悪感でどうにもならなくなっている感じはする。

 相手は中学時代からの親友の奥さんとなれば、「寝取ってやった」みたいな歪んだ優越感よりもそっちの方が先立つのだろうか。

 恋愛というものは不思議なもので、どんなことでも起こり得るという話だから外野がとにかく言えるものではないけれど。

 でも、実際人死にが出る事態になったら口を出さずにはいられない。

 

「……おれ、晴海とするまで童貞だったんだ」

「―――それは」

 

 思いもよらない告白をされた。

 

「初めて女の人を抱いてさ。それから、彼女のことが忘れられなくて。言われるままに呼びざれてはホテルやあの人の家にいって、いろんなところでやって……」

「はあ」

 

 生々しいなあ、もお。

 

「それで、告白された」

「……なんて」

「柳がDV男で、晴海をいつも殴るんだって。結婚半年ほどでおかしくなって、気に入らないことがあると殴ってくるんだって。泣きながら言われた」

「はあ」

「それで、柳を殺してくれって。逃げ出したいって。胸の中で泣かれた」

 

 中学時代からの親友を手に掛けようとしたのはそのせいなのね。

 正直なところ、僕に言わせてもらうと奥寺さんは晴海さんという女性に利用されている気がする。

 初体験の女性の色香に迷って人殺しまで決意してしまうというのは、だいぶおかしくなっていると思う。

 しかも相手は中学時代の親友だ。

 普通ではない。

 だから、あんな思いつめた顔でいたのだ。

〈鎮静の顔料〉を使わなければ止められなかったかもしれないとは尋常ではないし。

 それからぽつぽつと奥寺さんの懺悔を聞きながら、だいたいの状況を把握する。

〈社務所〉の管轄の妖魅絡みのものではなく、男女の痴情のもつれといったところだろうか。

 なら、吐きださせるだけ吐きださせてそれで終わりということにしよう。

 僕も授業があるのであまり長くは付き合えない。

 家にいったん戻れないけれど、人助けだとしたらしょうがないところだ。

 

「―――もうやめた方がいいですよ、不倫なんて」

 

 まあ、僕が言えるのはだいたいその程度だ。

 

 

               ◇◆◇

 

 

「……やっぱ人妻の色香だよなあ」

 

 昼休みに購買で買ってきたパンを食べていたら、何故か自分の机をくっつけてきて弁当を食べ始めたクラスメートの桜井がスマホを見ながらアホなことを言っていた。

 スマホの画面には結婚してから久しぶりにドラマにでる女優の画像があった。

 どうも昔グラビアでもならした人らしく、セクシーというよりもむんむんとした色気が漂っている。

 

「こういう美人と一発やりたい」

「君がそういう発言をすると、僕まで女性陣に白い眼で見られるので自重してくれ」

「……俺なんかじゃ人妻は相手にしてくれないよな」

「そっちの自嘲じゃない。―――というか、桜井って年上は懲り懲りとかいっていなかったっけ?」

「俺のストライクゾーンは極限まで広いぞ。熟女の良さもそのうちにわかるはずだ」

「たった二言で矛盾してるよね」

 

 クラスの女子数人が僕らを困った顔で見ている。

 止めて欲しい。

 僕まで同類にカウントされるかもしれないのは遠慮したいところだ。

 

「ちなみに升麻はどうよ。人妻、好き?」

「不倫予備軍みたいなことはいいたくないね」

「ノリの悪いこと言うなよー。今は人妻の三割は浮気してんだぜ」

 

 どこからそんな馬鹿知識を仕入れてきたのか知らないけれど、あまり真に受けない方がいいよ。

 だいたい酷い目にあうから。

 

(そういえば奥寺さんはどうなったかな)

 

 数日前に少しだけ話した地味なサラリーマンのことを思い出す。

〈社務所〉の仕事を始めてから、色々な人と出会うようになったけれど、あの人は妖魅・オカルト関係ないところで印象深かった。

 不倫やめたかなあ……

 

「人妻のむっちり感が~」とか「きっと床のスキルも高いんだろうな~」とか下品な妄想を垂らしまくるクラスメートを聞き流しながら、僕はスマホのメールをみる。

 奥寺さんからのものはない。

 さすがに胡散臭い高校生霊能力者にまた話をする気にはならなかったか……

 とはいえ、()()()退魔師であるところの御子内さんたちに通すべき話でもない。

〈社務所〉はただでさえ人手不足で、最大戦力である退魔巫女は普段はできる限り休みを取らせていざという時に備えさせなくてはならないはずだ。

 僕の判断では〈社務所〉に連絡するレベルの問題ではない。

 だから、個人的に連絡を取り合うのならばともかく〈社務所〉を絡ませるほどではないと思う。

 

 その時、スマホに通知が入った。

 僕のスマホのデータ欄と同期して必要そうな情報があったら選択して通知するようにセットしておいたのだ。

〈社務所〉の仕事には意外とどうでもいい事件が発端となるものが多く、アンテナを十分に張り巡らせることで妖魅事件を発見しやすくするのだ。

 こういう小さな努力が、僕だけではなく御子内さんたちの安全を確保することにつながる。

 彼女たちのためにもやっておかなければならないものはたくさんあった。

 これはその一つだった。

 

(……自殺者情報?)

 

 池袋駅で男性が飛び降り自殺をしたというものだった。

 今朝がたのことだった。

 あまりのことに目を見張った。

 飛び降りた男性の名前も載っていたからだ。

 

 その名前は……

 

「……奥寺さん」

 

 都内の会社員・奥寺瑛作(27)とあった。

 

 

 

 

 



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責任の行方

 

 

「あなたの判断は間違っていないと思います」

 

 ……奥寺さんの自殺のニュースを聞いて、僕は凄まじい自己嫌悪に陥った。

 その日の授業は最後まで受けきったものの、家に帰るまでのわずかな間に何度も吐き、部屋に駆けこむや否や閉じこもった。

 ネットで奥寺さんのことについて漁りまくったが、事件性もないただのサラリーマンの自殺として片づけられてしまい、ほんのわずかな話題にもならない。

 僕と少しの間だけ一緒にコーヒーを飲んだ地味なサラリーマンの死は、ほとんど誰の記憶にも残らない出来事として瞬く間に消費されてしまったのだ。

 ただの数字か、無意味なセンテンス。

 あの男性の人生はいったいなんだったのだろう。

 だが、忘れさられるだけの無意味な人生であったとしても、もしかしたらそれは変えられたかもしれないのだ。

 他の誰でもない僕の行動によって。

 あの時、僕が奥寺さんともう少し話し合っていれば、親身になって付き合っていれば、こんな残酷な結末は迎えなかったのかもしれないのだ。

 僕は判断を誤った。

 もっと、真剣に向き合うべきだったのだ。

 それから二日、僕は学校を休んだ。

 何も考えたくなかったということもあったが、これからの進路について漠然とした疑問を抱いてしまったからだ。

 御子内さんと同じ大学にいき、〈社務所〉の仕事に就くという進路もあったが、それは僕にとって相応しいことなのだろうか。

〈社務所〉の仕事が合わないということではない。

 退魔巫女のみんなのように人助けをする高潔な魂とともに何かをすることが、僕のような人間にとって相応しくないのではないか、ということだ。

 奥寺さん一人も助けられなかった僕が、偉そうに他人を救う仕事を選ぶなんて傲慢なことではないだろうか。

 自分から正義の味方を名乗るなんてできない。

 僕はつまらないただの高校生だったのだから。

 ただ、罪悪感はあった。

 奥寺さんに対しての。

 せめて、葬儀に顔を出したいと思った。

 そのため、気が滅入って仕方がなかったが、〈社務所〉の退魔巫女統括である不知火こぶしさんに連絡を取った。

〈社務所〉の情報網ならばきっと奥寺瑛作の住所や葬儀の日取りまでつきとめられるだろうと考えたからだ。

 かといって、御子内さんたちに連絡をとるのは憚られた。

 彼女たちと一緒に何かをやる資格が僕にあるのか、そこが問題だったからだ。

 その点を誤魔化し、目を瞑って振る舞う自己欺瞞の挙句、彼女たちの迷惑になることだけはしたくなかったから。

 だから、こぶしさんだった。

 二人きりで会うことは初めてだったが、それでも彼女にしか聞けそうにない。

〈社務所〉の他に人には聞きづらいことでもあったからだ。

 そして、池袋の喫茶店で事の次第を説明してすぐに彼女から言われたのが、

 

「あなたの判断は間違っていないと思います」

 

 という言葉だった。

 

「でも、僕がきちんと奥寺さんと向かい合ってさえいれば……」

「それは結果論です。少なくとも、あなたは奥寺何某という男性が人殺しという業を背負うことを防ぎきった。そのあとで、彼が自分の人生について悩み苦しんで死を選んだとしても、あなたには関係のないことです」

「……でも」

「デモデモダッテはいい加減にしましょう。奥寺瑛作は死にましたが、それは普通の悩める人間としてのせいであり、同胞を殺した穢れた存在ではなかったということで慰められるべきです」

 

 こぶしさんはそう言う。

 年齢は僕らよりも十歳ほどは上の、綺麗なお姉さんに慰められても、心は軽くならない。

 奥寺さんはもう死んでしまったのだ。

 

デモデモダッテ(そういう)訳ではないのです。なんといえばいいのか、わからないのですけれど……」

「〈社務所〉の媛巫女に引き合わせて相談させれば良かったということですか? それだって、あなたの判断は間違っていませんよ。或子ちゃんたちは常に死と隣り合わせの戦いを繰り広げています。一見妖魅と関わりのなさそうな事態にまで、彼女たちに任せたりしていたらいくらあの子たちが頑丈でも色々と保たなくなります。或子ちゃんたちを気遣ったあなたの考えは正しい」

 

 だったら、僕がもっとあの人とメールをしたり、連絡を取っていれば良かったのかも。

 それでもなんとかなった可能性はある。

 

「机上の空論ですね。少し、京一さんは驕っているのではありませんか。―――人間は赤の他人の人生を幾つも背負えるほど強い生き物ではありません。できて、家族や友達までです。会って数時間の人間についてまで責任を負おうとするのは、傲岸です。それこそ驕りです」

 

 こぶしさんは辛辣だった。

 頭を思いっきりぶん殴られた感じがする。

 彼女の言っていることは事実だ。

 まだ餓鬼でしかない僕にも十分に伝わった。

 しかし、だからといって、すぐに割り切れるものではない。

 僕は奥寺さんが伸ばしていた蜘蛛の糸を手繰り寄せてあげられなかったのだから。

 

「ところで、京一さんが使ったという顔料を貸してください」

 

 元華さんから貰った例の〈鎮静の顔料〉を手渡した。

 蓋を開けて、中身を一掬い取って匂いを嗅いでいた。

 それから納得した顔で、

 

「なるほど。桃の清浄な気を取り出して、妖魅の嫌う金属粉と混ぜ合わせたうえ、海亀の脂で固めたものですか。確かにこれなら、魔が差している者でも鎮められることでしょう」

「やっぱり。僕も何度かお世話になっています」

「ただ、これは普通の状態での思考の混乱や混濁、寝不足などに効果はないでしょうね。京一さんの言う通りに奥寺瑛作が不倫関係の果てに人を殺そうと思い詰めていただけならば、これはフリクスを食べるよりも効き目がなかったはずです」

 

 なんだか引っかかった。

 どういうことだろう。

 

「つまり、これは実際に魔に憑かれた結果、おかしくなったものにしか効かないということです。数々の退魔業のときに京一さんを助けたのは、あなたが何かしら妖魅による影響を受けていたからなのでしょう。試しに、何も関係ないところで使ってみてくださいな。スースーするだけでどんな効果もないはずです」

「でも、奥寺さんには……」

 

 ここで僕は気が付いた。

 確かに、この顔料は彼に効果があった。

 親友をホームから突き飛ばそうとしていた奥寺さんを正気に戻すという効果が。

 だが、こぶしさんの意見も正しいのならば、それはすなわち……

 

「奥寺さんが親友を殺そうとしたのは、―――妖魅に唆されていたからってことですか?」

 

 それしかないではないか。

 

「はっきりとはしないけれど、その可能性はあるわ。だから、京一さんに頼まれたというだけでなくて、奥寺瑛作の自殺については詳しく調べさせてもらったの」

 

 こぶしさんがテーブルに広げたのは、ファイル二冊分の調査報告書だった。

〈社務所〉の禰宜が真剣に作成した資料の山だ。

 たった二日で、これだけのものを……

 さすがは関東最大の退魔機関である。

 

「京一さんの話からすると、奥寺瑛作と不倫関係にあったのは、この女性―――柳晴海(やなぎはるみ)。二十四歳よ」

 

 隠し撮りとかではなく、証明写真のような真正面の顔だった。

 どうやって手に入れたかは不明だ。

 奥寺さんが骨抜きになっただけあって、かなりの美人である。

 通った鼻筋といい、大きな目といい、宝塚の美人俳優のようだった。

 人妻の色香というものはないが、おそらく結婚前の写真だろう。

 

「もし、気になるというのなら、この女を探ってみたらどうかしら。京一さんは実際に自分で動かないと納得しない男の子でしょ」

「……そうかもしれません」

 

 こぶしさんの言うことは事実だ。

 奥寺さんの自殺がもし別の要因であるというのなら、それを解明しなければ僕は立ちいかなくなるかもしれない。

 胸の中のもやもやと向き合うにはそれしかなさそうだ。

 

「このことは御子内さんたちには内緒でお願いします。迷惑を掛けたくない」

「それはいいけど、もしこの女が妖魅だったりしたらどうするのかしら? あなたは自分の身を守れるの?」

「僕のことはどうでもいいです。自分ぐらいは自分で守れなければ、結局、何もできやしませんから」

 

 意地のようなものだった。

 僕にも譲れないものはあるのだ。

 すると、こぶしさんは愉快そうに笑った。

 ほっこりする微笑みだった。

 

「わかったわ。或子ちゃんたちには内緒にしておいてあげる」

「ありがとうございます」

「礼はもう一つばかり欲しいわね。もう一つ、ありがとうございますって言葉が」

「……え、あ、どういう?」

 

 彼女の発言の意図が読み切れない僕の額を、人差し指で突っついて、こぶしさんは言った。

 

「今回はわたしがあなたの護衛をしてあげるわ。年上のお姉さまのエスコートなんてそうはないから、喜んでちょうだいね。わたしも可愛い男の子の相手なんて初めてだから楽しませてもらうわ」

 

 と、〈社務所〉の媛巫女の統括にして、かつての退魔巫女である不知火こぶしさんはにっこりと口元を吊り上げた……

 

 

 

 

 

 

 



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蜘蛛の罠が待つ

 

 

 柳萩人(やなぎはぎと)の家は、ごく普通の一軒家だった。

 いや、普通とはいえないか

 まだ二十代後半のサラリーマン夫婦が池袋から電車で二駅ほどの場所に、こんな家を持てるなんて相当のお金持ちでないと。

 

「えっとですね。この家は柳萩人名義になっていて、登記もされています。ご両親が、質屋のチェーン店を経営していてかなり裕福な家庭の出身だったようですわね。」

「新婚の息子のために、新築ではないとはいえ都内の一軒家を丸ごとプレゼントですか。凄いなあ」

 

 築二十年程だろうか。

 夫婦だけで暮らすには贅沢な気がする。

 猫の額ほどだけど庭もあるし、駐車スペースには車が止めてあった。

 フォードのフィエスタだ。

 アメリカのビッグスリーのフォードだが、このフィエスタはヨーロッパフォードの車でWRCでも上位に食い込む名車だった。

 日本でもフィエスタなら買ってもいいという車好きは多い。

 とはいえ、これも年齢と職業を考えると身分不相応だ。

 

「あれは、なんですか?」

 

 僕は庭の一角を指さした。

 何かがキラキラと光っている。

 無数の光が浮いているように見えた。

 

「―――蜘蛛の巣ですわね。まったく、わかりやすすぎる」

「どういう意味ですか?」

「京一さん、よく観察してみてください。この家の敷地内には色々なところにピンと糸が張り巡らされているはずです。ほら」

 

 腕を掴まれて、引きよせられるとこぶしさんのいい匂いがした。

 シャンプーとかではなくて、きっと香水だ。

 鼻につくほどではない、とても優しい匂いだった。

 大人の女性という感じである。

 

「見えますか」

 

 身体を擦りつけるようにして、こぶしさんの指の先を視る。

 ぴったりとした黒い手袋をはめた彼女の手は軒の一角を指していた。

 光る糸がここにも張られていた。

 近くにあるからわかるが、間違いなく蜘蛛の糸だった。

 それを踏まえてよく見渡すと、確かに至る所に蜘蛛の巣が張っている。

 手入れが為されていないという訳ではないだろう。

 木の葉やゴミなんかは綺麗に掃き掃除されているようだったし、特別汚いという様子はない。

 フィエスタのボンネットや窓ガラスさえも汚れていないのだから。

 それなのに、こんなに大量の蜘蛛が湧いているなんて……

 

「あれ。でも、蜘蛛自体はいないんですね」

「いいところに気が付きましたね。ここにはたくさんの巣が張っていますが、主人であるはずの蜘蛛はいない。要するに、巣を張っただけで蜘蛛が放置しているということです。では、それはなんのために?」

「……荒れた感じをつくるため、とか」

「いえ、ちょっと違います。これは、ある意図を有しています」

 

 そういうと、こぶしさんは最も近くにあった蜘蛛の巣を二本の指先で切り裂いた。

 ベルリンに降る赤い雨みたいな一閃だった。

 凛々しい男装はしているのに普段はのんびりしたお姉さんっぽく見えるが、この人が格闘技の達人であることは知っている。

 確か、截拳道(ジークンドー)

 截拳道は、あのブルース・リーが幼少期より学んだ詠春拳などのカンフーを土台に、レスリング、ボクシング、サバット、合気道、柔道などのさまざまな格闘技、技術を取り入れて作った武道―――いや、哲学かもしれない―――である。

 截拳道(ジークンドー)の意味は、「相手の拳を()つ(防ぐ)道」という意味であり、単なる武術としてだけでなく「生きていく上で直面する障害を乗り越える方策や智恵」

 ということでもあった。

 そんな截拳道(ジークンドー)をこぶしさんがどうやって習い覚えたのかはさすがに知らない。

 ただ、彼女の強さは後輩にあたる御子内さんたちと比べてもまったく遜色ないはずだ。

 むしろ、経験が豊富な分だけ後輩を遥かに上回っている可能性が高い。

 とは言っても、実のところ、僕はこぶしさんの戦いについては松戸での〈口裂け女〉事件で少しだけみたことがあるだけだ。

 どんな技を使うのかはあまりわからない。

 こぶしさんは退魔巫女の統括ということで、まず実戦にでることはないらしい。

 あの時は関東のほとんどの退魔巫女を集めてもまだ人手が足りない戦いだったからだが、たいていの場合は出陣しないのだ。

 そもそも、この年上の女性と二人きりで行動するということ自体わりと初めての体験のような気がする。

 しかし、どうして今回に限り僕なんかに付き合ってくれる気になったのだろう。

 

「来るわね」

 

 すると、玄関の脇についているインターホンが押してもいないのに反応した。

 

『何か、御用ですか?』

 

 若い女の声だった。

 インターホン越しでもわかる、何か異様な響きがあった。

 あえて言語化するのならば、それは―――誘惑するかのような色気だろうか。

 艶にして色、だ。

 桜井が言っていた「人妻の色香」というものだろうか。

 だが、感覚的におかしいということもわかった。

 僕が一年以上つきあってきた退魔巫女との妖怪退治で培ってきたものが囁くのだ。

 

 警戒しろ、と。

 油断するな、と。

 

「―――柳晴海さんでしょうか?」

『晴海は私ですが……』

「よかった。わたしは不知火というものです。あなたの御友人のことについてお話があって伺いました」

『友人……ですか?』

「はい。奥寺瑛作という方です」

 

 インターホンは沈黙した。

 奥寺さんの名前がこの静けさを呼び起こしたのだろう。

 そして、晴海さんという女は何を思っているのか。

 

『……お入りください。お茶でも飲んでいってくださいな』

「ありがとうございます」

 

 切れたインターホンをしばらく見つめていたが、こぶしさんが動き出したのでそれについていく。

 

「……さて、ここから先は敵地と思った方がいいわね」

「敵地、ですか」

「ええ。この家の中は妖怪の棲家よ」

「晴海さんは妖怪……ということでいいんですか」

「そう、十中八九あの女は〈絡新婦(じょろうぐも)〉よ」

 

絡新婦(じょろうぐも)〉。

 

 その妖怪が奥寺さんを自殺に追いやったのか……?

 

 僕はこの事件の顛末をぜひとも知らなくてはならない。

 強く、そう決意していた。

 

 

 



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妖怪〈絡新婦〉

 

 

 玄関で僕らを出迎えてくれた女は、一見、ごく普通の美人の奥さんという様子だった。

 縦じまのふっくらしたセーター、膨らんだスカート、黄土色のカーディガンという格好は()()()()という感じである。

 彼女がおかしいとすぐには誰も思わないだろう。

 ただ、僕は玄関の扉が開いたと同時に漏れ出してきた冷気にぞわりと鳥肌が立つのを感じた。

 理由は一つだ。

 この女性の目は()()()()()

 少なくとも太陽の下を歩くことはできそうもない、まさに()()()()()()()という有様だった。

 やや上目遣いにこちらを見てくるのが、探られるようで不愉快だ。

 口元が捻じれている。

 美貌に相応しいものではない。

 有名大学のミス・キャンパスにありがちな、いかにも将来はテレビ局のアナウンサーになりそうな顔だちなのに、この双眸があるだけでしくじっている。

 出会った人間の半分は憂いのある瞳とみるだろうが、残りの半分は昏い眼と嫌うことだろう。

 

「あなたが不知火さん? 私が柳の家内です」

「初めまして、奥様」

「……どうぞお上がりください。こんなところで話をするのもなんでしょうから。ところで、あなたは?」

 

 奥さん―――柳晴海は僕と視線を合わせた。

 三和土にいる僕と眼を合わせたのに、やや上目遣いなのが微妙に恐ろしい。

 とはいえ、ここで怯んでいる余裕はない。

 

「奥寺さんの知人です」

「あなた、高校生ぐらいしか見えないけれど?」

「高校生で間違っていません」

「そう。とにかく上がってくださいな。少しお話をしましょうか」

 

 柳晴海はこちらを一瞥すると、そのまま家の奥へと入っていく。

 昼間なので玄関に電灯がついていないからか、建物の中はとてつもなく暗い。

 太陽光を採り入れる窓がないのだ。

 ないというのか、塞がれているのか、はたしてどっちだろう。

 それに空気が淀んでいるからだけでなく、妙に湿気が多いようだった。

 総じていうと、建物が全体的に闇の中に沈んでいるといえた。

 ほんの数歩だけで、柳晴海の姿が消えていく。

 ……ように見える。

 いや、溶け込んでいるのか。

 薄暗い暗闇そのものに。

 

(わかりやすいぐらいに、妖怪変化っぽいね)

 

 さっきこぶしさんは、彼女のことを〈絡新婦〉と呼んだ。

 一応、最近は妖怪やオカルト、いわゆる妖魅の存在についても勉強することにしたおかげで〈絡新婦〉のことも知っていた。

 

〈絡新婦〉。

 

 美しい女に化ける女郎蜘蛛について〈絡新婦〉という漢名をあてた妖怪のことである。

『太平百物語』や『宿直草』といった書物でも取り上げられ、鳥山石燕の「画図百鬼夜行」に描かれていた。

 伝承そのものは日本全国に広がっていて、特定の地域に固まっている訳ではない。

 大蜘蛛というと、かつて大和朝廷との争いに敗れた日本の先住民族とも言われる土蜘蛛系のことを思い出してしまうが、〈絡新婦〉はあまり関係がなさそうだ。

 むしろ、インドから中華大陸、台湾、朝鮮に分布するジョロウグモそのものだと考えるのがいいかもしれない。

〈絡新婦〉の伝承が全国にあるということからそう解するのが適当そうだ。

 

 この妖怪は、特に美しい女の姿に化けて男を誘う―――夫を作ろうとするのである。

 子をなしたあとで捕って食らえる栄養も兼ねた夫を。

 たいていの男は美しい妖魔に誘われて、それを拒むことはできないだろう。

 伝承では〈絡新婦〉の言葉を疑う男の活躍によって、〈絡新婦〉は正体を見破られて倒される運命なのだが、それまでにどれだけの犠牲が出たことか。

 それは、きっと、この家でも同じことになっていたのかもしれない。

 

「どうぞ」

 

 一番奥の、リビングに案内された。

 薄暗い部屋だった。

 雨戸が閉められ、人工の光が照らし出すだけの、どうみても薄暗闇の空間だった。

 一言で表現するのならば、「巣」の中だ。

 妖怪・妖魅がひきこもるための。

 子作りをするための。

 僕は柳晴海がまぎれもなく妖怪〈絡新婦〉であることを確信していた。

 こういうことは滅多に無いのだけれど。

 人間に化けた妖怪が、こうもはっきりと顕現するなんてことはそうはないからだ。

 普通はぎりぎりまで正体を見せない。

 

「……あなた方、何をしにここに来られたの? 本当に、奥寺くんの知り合い? 私をたばかっているのではなくて?」

「わたし自身は違うわ。こちらの彼が奥寺瑛作の知人なのは間違いないけれど」

「そう。確かに、嘘をついている目ではなさそうね。もっとも、私に男の嘘を見抜く目があるとは思わないけれど」

 

 柳晴海は自嘲気味に言った。

 どうも疲れ切っているようだった。

 

「どうやら、あなた、不知火さんだっけ? なんとかいう化け物殺しの組織の人間のようね」

「知っているの?」

「まあ、わたしも古い女だから。こんな姿で大学にまで通っていたけれど、もう何十年生きてきたかわからないぐらいよ」

「〈絡新婦〉。……でいいのかしら?」

「人間どもはそう分類するわね。蜘蛛の妖魅としての私たちを」

 

 簡単に自白を採集してしまった。

 こうもあっさりと妖怪であることを認めるなんて。

 ソファとテーブルを挟んで、僕らと対峙する女は、自らが妖怪であることをあまりにもあっさりと肯定したのだ。

 大学に通っていたと言っていたっけ。

 それは奥寺さんの言っていたことそのままだった。

 

(―――おれは大学で彼女と出会い、憧れていたんだ。同じ想いをもっていた奴らはたくさんいたから、ライバルには事欠かなかった。でも、結局は大学も違うはずの柳が射止めたんだ)

 

 大学で奥寺さんはこの女と出会ったといっていた。

 

(……たまたまうちの大学の文化祭にやってきた柳が、彼女を見初めて積極的にアタックしていたんだ。それで結局、彼女の心を射止めたのは柳だった)

 

 この女はそんな頃から、生贄の男を探していたのだ。

 

「それで奥寺さんも餌食にしたんですか」

 

 僕は柳晴海―――〈絡新婦〉に訊ねた。

 彼を池袋駅で自殺するように仕向けたのはあなたなのか、と。

 

「していないわ」

「嘘だ!」

 

 嘘をついている。

 絶対に。

 この妖怪は、絶対に彼を殺すか、もしくはその引き金を弾いたはずだ。

 そうでなければ彼が自殺を選ぶとは思えない。

  

「あなたが嘘をついていないという保証はない! あなたは人の世界に潜り込んで来た妖魅じゃないか!」

「すべての妖怪が嘘をつくというの? あなた、意外とわからずやね」

「―――奥寺さんは言っていた。あなたが自分の夫を殺してくれと唆したと。実際に、彼はあなたの囁きに負けて旦那さんを殺そうとした。あなたが唆したんだ! それを嘘だとは言わせない!」

 

 だが、僕の弾劾を受けても〈絡新婦〉は身じろぎもしない。

 まるですべてが心外だとでも言わんばかりだ。

 妖怪のくせに。

 

「あなたは、自分が夫である柳さんにDVを―――ドメスティックヴァイオレンスをされていたと嘘をついて、お人好しの奥寺さんを唆した。あなたに惚れてしまっていた奥寺さんはその言葉を鵜呑みにしてしまった」

「残念ね。私が夫にDVを受けているのは本当のことよ。だから、私が奥寺くんを騙したなんてことはないわ」

「それも嘘だ! あなたは自分が妖怪であることを隠して、柳さんと結婚し、奥寺さんを人殺しにしようとした。僕が止めなければあの人は殺人犯になっていたはずです」

「ああ、あなたが奥寺くんを止めたという人なのね。へえ、それでわざわざこんなところまで来るなんて……」

 

〈絡新婦〉は昏い目で笑う。

 

「おめでたいわね。()()

「あんた!!」

 

 立ち上がろうとした僕の腕をこぶしさんがとった。

 

「まあまあ、落ち着いてください。京一さん」

「こぶしさん……」

「この女性(ひと)が〈絡新婦〉だとしても、わたしがいる限り何もできはしませんから」

 

 こぶしさんは男装の麗人らしく、長い脚を組んで余裕の表情だ。

〈絡新婦〉の怖い睨みも効き目がない。

 

「でも、こぶしさん……」

「とりあえず落ち着いてください。あなたにしては珍しく苛立っていますよ。冷静さも欠いています」

「あ……」

 

 それは確かにそうだ。

 僕らしさというものがあるとして、今の態度はまったくいつもと違う。

 客観的に自分の行動を見られない。

 

「あなたは奥寺瑛作を助けられなかったということに関して後悔が強すぎるのですよ。それは悪いことではありませんが、褒められたことでもありません」

「……どういうことですか?」

「それはそのうちにわかるはずです。さて、〈絡新婦〉。いえ、柳晴海と呼べばいいのかしら? あなたには訊きたいことがあります」

「何も答える気はないわよ」

「でしたら、拳で語るまでですね。その美しい顔にどれだけわたしの鉄拳を受けても黙っていられるか、試してみましょう」

 

 僕を引っ張ってソファーに座らせるのと逆に、こぶしさんは立ち上がった。

 黒い革の手袋をきゅっと締める。

 

「現役は退いたとはいえ、わたしも〈社務所〉の媛巫女だった女ですよ。たかが化け蜘蛛ごときには負けはしません」

 

 不知火こぶしさんは、〈絡新婦〉を前にしてもまるでランチでも食べに来たかのように平然とした顔をしていたのだった。

 

 

 

 



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截拳道VS妖怪

 

 

 首元がやや癖ッ毛のショートカット、アニエスベーのぴったりとしたスーツ、そして手の甲に五角形の晴明紋のついた黒手袋をつけた男装の不知火こぶしさん。

 若い巫女たちにはない、落ち着きと柔らかさを兼ね備えた美貌の麗人だった。

 テーブルの反対側に座っている〈絡新婦〉が身じろぎもせずに見つめている。

 

『―――〈社務所〉の媛巫女。明治の大帝の肝入りで作られた神造組織でしたっけ。しつこく、我らの同胞を狩り立てていると聞いていますわ』

「昔と比べて、だいぶ様変わりしましたけどね」

 

 柳晴海―――〈絡新婦〉の声がしわがれ始めた。

 まるで喉の乾いた老婆のようだ。

 さっきまでの艶っぽい瑞々しさは完全に失われつつあった。

 一度、閉じられた瞼が上がったとき、白目の部分は消えてしまい、黒と黄色い斑点のような輝きだけになった。

 どことなく、曜変天目茶碗《ようへんてんもくちゃわん》の、瑠璃色あるいは虹色の光彩の取り巻きのようであった。光を当てると角度によって七色の虹となる国宝のあれである。

 ただ言えることは、国宝の茶碗の美しさとは違い、妖の毒々しさに満ちた黒い光輝だということであった。

 少なくとも人間のもつ瞳ではない。

 

「無駄な抵抗は止めなさい。この距離でわたしの截拳道の拳を躱せるとは思えません」

『ほざけ、ニンゲン。白い糸のしがらみさえなければ、あなたなど恐れる道理はないわ』

「では」

 

 アチャッ!

 

 短い裂帛の気合いとともに膝から下がしなるような蹴りが〈絡新婦〉に向けて放たれる。

 この距離で避けることはできない。

 だが―――

 すっと羽毛が風で舞うように〈絡新婦〉が後方へ飛んだ。

 こぶしさんの蹴りが当たる寸前にその風圧によって飛ばされたかのような柔らかい動きだった。

〈絡新婦〉自身のものとは思えないが、計ったようなタイミングからするとこぶしさんの攻撃を偶然避けたものではないはずだ。

 後ろに飛んだ〈絡新婦〉はキッチンの上に蹲踞のように飛び乗った。

 

「ほお、いい動きですね。バルーニングを使った回避術ですか。さすがは蜘蛛ということです」

 

 バルーニングとは、蜘蛛が糸を使ってタンポポの種子のように空を飛ぶ行動のことを言う。

 一か所に集まっている蜘蛛の幼生たちが周囲に飛び散るために使うものだが、うまく上昇気流に乗ると中国大陸から日本にまでやってくることもある。

 そのバルーニングを敵の攻撃からの回避のために使うのは、蜘蛛の妖怪ならではといったところか。

 ただの主婦然とした〈絡新婦〉の全身にキラキラした光沢が見える。

 きっとあれが蜘蛛の糸のはずだ。

 あれをいったいどうやって使ったのかはわからないが、あれほど鋭いこぶしさんの蹴りを躱したのは素直に凄い。

 

『ニンゲンごときが私に歯向かおうというのか』

「〈護摩台〉がなければあなたたちと五分でやりあえない子供たちならばともかく、わたしはこう見えても強いですからね」

 

 膝が上がった。

 足元にあった小テーブルを爪先でひっかけて、なんと宙に浮かす。

 そのテーブルが宙にある状態のまま、「ホアチャア!!」と気合と共に蹴った。

 サッカーボールでリフティングする要領なのだけれど、ボールの代わりにしているものがはっきりいっておかしすぎる。

 しかも、テーブルがまっすぐ〈絡新婦〉まで飛んでいき、台所の縁にぶつかって爆散した。

 ガラスの天板が割れたのだ。

 左脚を軸足にして、ほとんど動かさないで上半身の捻りだけでそんな真似をするなんて……

 さすがは御子内さんたちの先輩であり、彼女たちを束ねる統括だ。

 しかし、こぶしさんだけを見ている訳にはいかなかった。

〈絡新婦〉も同時に動いていたのだ。

 あっちは冷蔵庫と天井の隙間にぴたりと背中から貼りついている。

 どうやってあんな風に貼り付けるのものなのか。

 しかもその動きはテーブルが割れたのとほぼ同時だった。

 やはり蜘蛛の化身。

 動きの一つ一つがまともな人間のものとは桁が違う。

 ただし、こぶしさんは平然としたものだ。

 ここには妖怪の力を減じる結界を張る〈護摩台〉もないし、ワイヤーを用いた簡易結界も張られていない。

 真っ向からの力勝負だというのに、さっきまでと変わらない。

 彼女の落ち着きようは、去年、〈社務所〉の重鎮であるという御所守たゆうさんを思わせる。

 この領域に御子内さんたちが辿り着くのは随分と先のことになるだろうな。

 僕が彼女のそんな姿を見ることができるかはわからないけれど。

 

「ホォォアイヤァァ~~~」

 

 ジークンドーの使い手らしい、怪鳥の声をあげて、こぶしさんが構える。

 ただの中国拳法と違い、上下に揺れるフットワークと腰を落として斜めに構える独特の構えだ。

 前肢は伸ばして、後ろ肢を曲げる。

 ブルース・リーはフェンシングも取り入れていたというから、その名残が窺われる。

 両掌を掴むように固定して、喉の奥をクゥゥゥゥゥと鳴らす。

 

「フゥ~~~ アチャ!!」

 

 こぶしさんが前進した。

 中国拳法の歩法とは違う、高く掲げたハイキックを何度も連発して、その勢いで突き進む。

 天井に貼りついていた〈絡新婦〉が慌てて、避けても鞭のようにしなる足技が追い詰める。

〈絡新婦〉はふわりと動くが、そんなのはお構いなく嵐のような蹴りの連撃が追いかける。

 仕方なく地に降り立った〈絡新婦〉の胸に、「アタァ!」と拳が突き刺さる。

 

『チィ!!』

 

〈絡新婦〉がその拳を両手をクロスさせて防いだ。

 思った以上に動きがいい。

 見た目、ただの美人でしかなかったが、やはり妖怪なのだ。

 人とは違う、妖魅の力がある。

 

『ニンゲンめ!!』

 

 その手が殴りかかるが、それは当たる前にこぶしさんの肘に遮られる。

 

「アチャアア!!」

 

 ジークンドーの独特のパンチが腹を抉る。

 吹き飛ぶ〈絡新婦〉が僕の脇を過ぎ去っていった。

 狭い居間の中での戦いだ。

 僕が下手に動くとすぐに巻き込まれる。

 さっと二人から離れようとした時、僕は〈絡新婦〉の首元を見た。

 まさか、というべきものがそこにはあった。

 たった今の短い攻防を思い出す。

 こぶしさんの攻撃には、()()()()()()()()()()確かになかったはずだ。

 なのに、どうして、それがある?

 しかも、僕の記憶に寄ればそれは出来たばかりのものではない。

〈絡新婦〉のはだけたセーターの首筋から覗いていたものは、紫に腫れた()であった。

 

 なぜ、〈絡新婦〉の肌にそんなものがある。

 

 よく考えれば、妖怪のふっくらとしたセーターはもしかしてその痣を隠すためのものではないのか。

 この家の中はそんなに寒いものではない。

 暖房もよく効いている。

 だから、そんなセーターを着ている必要性はないはずなのに……

 

 まさか……

 

 まさか、そういうことなのか……?

 



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Don't think. Feel!

 

 

「京一さん、人から何かを感じましたか? 己を知るとはそういう事です」

 

 こぶしさんが静かに言う。

 截拳道の一つ一つの技を出す前の甲高い怪鳥の声とは別人のような優しさだった。

 なぜ、そんなことを僕に聞くのか。

 

「あなたはあなたが考えたように変わるのです。やっていることが正しいか間違えているかなど、考えるのはまだ早いと思いますよ」

 

 ああ、僕を諭しているのだ。

 奥寺さんの死に責任を感じて、御子内さんたちからも離れようとしている僕を。

 

「―――だから、本来、媛巫女統括として実戦にはでないはずのこぶしさんが一緒に来てくれたのですか」

「我々〈社務所〉は、あなたに返しきれない借りがあります。わたしの大切な後輩たち、来たる災厄に備えて鍛えぬかねばならぬ巫女たち、をなあたは幾度となく表から裏から支えてきてくれました。或子ちゃん、音子ちゃん、レイちゃん、藍色ちゃん……。きっと、あなたがいなければ今の体制は維持できなかったでしょう」

「でも、バイト代も頂いていますし」

「金で代償にできるものを借りとは言いませんよ」

 

 僕は今まで最善を尽くしていたと言えるのだろうか。

 奥寺さんの自殺によってつきつけられた課題こそ、僕がこれから克服しなければならないものだ。

 僕はもっと自分を磨かなければならない。

 

「限界などはないんです。ただ、うまくいかない時があるだけなんですよ。でも、そこに留まっていてはいけません。それを超えて行かなくては」

 

 こぶしさんは語る。

 

「わたしの截拳道の始祖の言葉を送りましょう。

 心を空にしろ

 形をなくせ

 形をはっきりさせるな

 水のように

 ボトルに水を入れたらボトルに変形し

 ティーポットに水を入れたらティーポットに変形する

 水は流れ

 水は壊すこともできる

 水になれ、友よ

 ―――あなたは紛れもなく我々退魔の巫女の友です」

 

 涙が出そうになった。

 僕は滅多に泣くことはない。

 そういう性質だ。

 だけど、截拳道の始祖からの言葉が染入るように入り、水というよりも涙になりそうだった。

 

『グゥゥゥゥゥ』

 

〈絡新婦〉はまだ健在だ。

 見たところ、ほぼ完ぺきな妖怪で、まともに戦えば御子内さんたちでも〈護摩台〉なしでは相当の苦労をするだろう。

 なのに、そんな〈絡新婦〉を圧倒するこぶしさんの強さよ。

「実戦は6秒以内に終わらせる」という始祖の思想に基づいて、超短期決戦が求められているからだろうが、まさに早すぎる手際だった。

 

「―――何か、思いついたんですか?」

 

〈絡新婦〉についてのことだろう。

 だから、僕は答えた。

 

「はい」

 

 彼女は微笑み、

 

「では、わたしはどうすればいいのですか。指示してください」

「……えっ?」

「人を助けたくてもすべての人を救うのは無理なのです。せめて、できるのは助けを求める声をあげたものだけでもなんとしてでも救うこと。声をあげないものを救うのは、八百万の神の領域。人の為しえることではありません」

「―――そう……ですね」

「あなたには、そんな独善を持ってほしい。全部を選ぶことはせず、自分のできるものだけをして欲しい。あなたの知恵と勇気を直接に求めるものをまず助けてほしい。……そこでわたしは問います」

 

 僕は口を噤んだ。

 

「あの、妖怪を、どうすればいいのですか、と」

 

 答えはシンプルにして、わかりやすい。

 

「―――無力化してください」

「退治しなくていい? 封印も?」

「今は、まだ」

「奥寺瑛作のことについてはどうします?」

「おそらく、僕がするべきことではありません」

「―――わかりました」

 

 会話を続けながらも、こぶしさんは一切、〈絡新婦〉から目を離さない。

 さすがというべきか。

 御子内さんたちと同じだ。

 戦闘中に油断なんて決してしない。

 そんな彼女が今の僕の様子を察してくれている。

 申し訳なくてまたしても泣きたくなる。

 

「さて、〈絡新婦〉。うちのものが、あなたを無力化しろと言っています。大人しく制圧されてくれますか」

『フザケルナ、ニンゲン!! ワレハイニシエヨリイキル妖魅デアルゾ! 貴様ラニヤスヤストクッシタリハセヌ!!』

 

 伏せていた顔を上げた〈絡新婦〉の額に幾つもの黒い眼が現われる。

 咥内には凶暴な牙が生え、さっきまでの美貌は悪鬼羅刹のそれへと転じてしまう。

 振り乱した髪は針金のように強張り、綺麗な肌はぬめぬめした表皮へと変貌する。

 軟らかいセーターを内側から貫いて、蜘蛛のものと思しき触手のごとき肢が伸びてきた。

 まさに蜘蛛。

 恐ろし冥府のアラクネー。

 人と同じ大きさでありながら、人間を食べる絶対の捕食者であることが一目瞭然の怪物がそこにいた。

 

「さてと、感じますね」

 

 こぶしさんが截拳道の構えを前傾に変える。

 一気呵成に攻め切るつもりなのだろう。

 だが、最初の一歩がでない。

 何故かというと、居間のあちこちに蠢く―――まさに、虫が動くだ―――小さな蜘蛛の群れが湧いて出たからだ。

 水辺にでるという蜘蛛の集合が〈絡新婦〉であり、この家は蜘蛛の巣そのものであった。

 何十という蜘蛛が這いまわり、こぶしさんを囲もうとする。

 あんなのに一斉に集られたら、いくら〈社務所〉の退魔巫女でも。

 そして、蟲どもは美貌の麗人に向けて這いより、バルーミングで飛びつこうと舞った。

 

「京一さん、〈気〉を強く持って丹田に力を籠めて! アチャアアアアア!!」

 

 こぶしさんが叫んだ。

 その指示通りにできる自信はないけれど、できる限り根性をいれて踏ん張る。

 怪鳥の声とともに気合いが僕の身体の芯にまで辿り着く。

 全身を硬直させ、内臓を殴られたような感覚だった。

 もし、指示を聞いていなければ気を失っていたことは確実だ。

 棒のように倒れないのが不思議なくらいに、意識がもうろうとする。

 何があったのか。

 颶風を身体で浴びたような痛みだった。

 ただ、僕より被害甚大なのは小蜘蛛どものほうだった。

 なんと、挑みかかった全匹がこてんと倒れて動かなくなったのだ。

 まるで殺虫剤を浴びせられたかのような光景だった。

 

『ナゼ!!』

 

〈絡新婦〉が驚愕に慄く。

 

「〈(しん)一方(いっぽう)〉。松山主水から伝わった秘技をみるのは、さすがに初めてなのかしら妖怪変化さん」

 

(しん)一方(いっぽう)〉。

 またの名を不動金縛りの術という、瞬間催眠術だ。

 武芸者の中には、これを〈気〉を飛ばすことで様々な過程を抜きにしてかけることができるものがいる。

 そして、不知火こぶしさんは〈(しん)一方(いっぽう)〉の使い手であり、まったくの外傷も与えずに小蜘蛛を鎮圧したのだ。

 

『クソ、ナラバ火ヲ吐クノダ!!』

 

 次の蜘蛛たちが湧きだし、鳥山石燕の「画図百鬼夜行」で描かれているように小さな口から火の玉を吐いた。

 間違いない。

 これは妖怪として〈絡新婦〉の秘儀だ。

 四方八方を囲んだ小蜘蛛から放たれる火の玉は、確実に相手を撃ち抜いて火の海に変えるはずであるから、きっと奥の手に違いない。

 しかし、鳥山石燕の図画にあるということは逆にすでに周知の事実だということである。

 こぶしさんほどの強者が用意をしていないはずがない。

 手を伸ばすと、その掌にはいつのまにか黒い棒が握られていた。

 三十センチほどの棒が二本、鎖で連結している武器だった。

 呼び出したのは、おそらく御所守たゆうさんも使っていた〈呼び寄せ(アポーツ)〉の秘術。

 

「アチョオオオオオ!!」

 

 始祖譲りの叫びとともに、その武器が高速回転を開始する。

 使いこなすには地獄の修練が必要とされるその武器の名は「ヌンチャク」。

 その難しすぎる武器を二つも手にして、こぶしさんは飛んでくる火の玉を片っ端から叩き落していく。

 

「アチョ! アチャ!!」

 

 とんでもない加速と動体視力だった。

 御子内さんの眼も凄まじいが、こぶしさんのものはそれをはるかに上回るかもしれない。

 あとで聞いた彼女の二つ名は〈神の眼〉というそうだ。

 それだけとんでもない速さでくるものを見切れるのだ。

 そして、息もつかせぬヌンチャクのアクションが終わったとき―――小蜘蛛どもはすでに火を吐くこともできなかった。

 すべて、すべて叩き落したのだ。

 ヌンチャク二本で。

 

「―――ホオオオオオオオオ」

 

 これまでにない大音声とともに、ブログレッシヴ・インパクト・アタックが炸裂する。

 最短直線距離を貫く拳が〈絡新婦〉の胸を撃つ。

 そのまま息もつかせぬ連打が続き、〈絡新婦〉が完全にノックアウトされて倒れるまで十秒もいらなかった。

 

「アチャア!!」

 

 こぶしさんが残心をみせたところで、もう勝負はついていた。

〈護摩台〉や簡易結界さえも遣わずに、純粋な妖怪をKOする。

 完成された退魔巫女の真の実力を僕は目の当たりにしたのである……

 

 



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蜘蛛の巣は破れた

 

 

 柳萩人は、自分の家に辿り着いたとき、かつてない違和感を覚えた。

 建物も敷地にも変化はない。

 だが、よくよくみると足りないものがあった。

 庭にも建物にも異常にとりついた蜘蛛の巣がどこにも見当たらないのだ。

 古い、お化け屋敷のようだと思ってはいても、ある理由から意図的に見逃してきたはずの、蜘蛛の巣がどこにもなかった。

 普通の人間ならば喜ぶべきところなのだが、柳にとってはまったく逆だ。

 蜘蛛の巣がないということの意味合いが、柳と他人にとってはまるで違うのだった。

 

「どういうことだ?」

 

 柳は鍵を開けて、自分の家に入った。

 都内の一軒家であり、ほぼ新築のままだ。

 まともに購入すれば八千万は越える家だったので、少なくとも名の知れた一流企業に入ったとはいえ、三十歳にもなっていない柳程度の若造が買えるものではない。

 本来ならば。

 

「おい、晴海」

 

 玄関口で妻―――を呼ぶ。

 いつもならばすぐにやってくるのに、声すらも戻ってこない。

 おかしいと思い、いつも妻―――がいるはずの居間に入る。

 電灯は点いていて、誰かがいるのはわかっていた。

 だが、そこにいたのは見知らぬ少年だった。

 隣にはパンツスーツ姿のショートカットの女がいる。

 こちらも知らない顔だ。

 妻―――の友人だろうか。

 夫の出迎えもしないで、自分の友人たちを接待していたということか。

 しかし、晴海にこんな友人がいるはずが……ない。

 そういう女なのだ。

 

「誰だ、あんたら?」

「お邪魔しています。柳萩人さんですね」

「ああ、そうだ」

「僕は……特に名乗る気はないのですが、京一でお願いします」

 

 隣にいる女は一言も口をきかない。

 紹介する気もないらしかった。

 

「……あんたら、どうして俺の家にいるんだ。あと、()()のは、どうした?」

 

 居間は朝とは様相を変えていた。

 ソファーに囲まれていたガラスのテーブルがなくなっていて、台所がぐちゃぐちゃになっている。

 まるで誰かが乱闘をしたかのような酷い有様だ。

 強盗でも現われた、のか?

 だとしたら、目の前の二人はその犯人ではないのだろうか。

 その理屈に辿り着いたとき、柳はすぐにでも逃げるべきだったと後悔した。

 犯罪者と対峙してなにか痛い目にあうことは耐えられない。

 柳は自分がするのならばともかく、他人から何かをされることは耐えられない性分の持ち主だった。

 

「奥さんは出ていかれました。僕はそのことを伝えるために残っています」

「……な、晴海がでていった…… どういうことだよ!」

 

 柳は戸惑った。

 妻としている女が出ていったということが信じられないのだ。

 なぜなら……

 

「奥さんにあなたが掛けていた呪詛はこちらの女性が破りました。もう、法的にはともかく、異種的契約は解除されたとみるべきでしょうね」

「どういうことだ! おまえ、俺と晴海のことを知っているのか!」

「全部、わかっています。あなたが、〈絡新婦〉という妖怪と夫婦の契りを結んだことも、妖怪の力を使って裕福になったことも、〈絡新婦〉の懇願を聞いてあなたを抹殺しようとした奥寺瑛作さんを逆に突き落として殺したことも」

 

 少年は淡々と、柳にとっては致命的ともいえる秘密を暴露しはじめた。

 それが柳萩人の人生を終わらせるものだとわかっていての振る舞いであることは明らかだった……

 

 

           ◇◆◇

 

 

 柳萩人は顔を青くしていた。

 しかも、僕の発言を聞いたときに視線を右に逸らした。

 僕の経験上、都合の悪いことをきいたときにこういう眼のやり方をする人は嘘をついているか、図星をつかれている場合だ。

 

「もうすべてわかっています。もともと、あなた自身には瑕疵はない。実家がお金持ちで若くていい男であるあなたを餌食にしようとした晴海さん―――〈絡新婦〉が悪いのでしょうが」

「何のことを言っているのか……。それより、ここは俺の家だぞ!! でてけよ! 警察を呼ぶぞ!!」

 

 虚勢であることは明白だ。

 

「そんなに怒鳴らなくてもいいです。すぐに出ていきますから。ただ、あなたがこの家に縛っていた〈絡新婦〉はもう戻りません。蜘蛛の妖怪が与えてくれるという富と名声ももう尽きるでしょうね」

「待て!! 本当にアイツは、蜘蛛女はどこかにいっちまったっていうのか! マジなのか!? あの呪《まじな》いはどうなったんだよ!?」

 

 この柳萩人の父親は、幾つものチェーン店の質屋を経営する金持ちだ。

 だから、この家も親からの結婚祝いだと思っていのだけれど、実は違っていた。

 柳萩人は自分を餌食にしようと近づいてきた妖怪〈絡新婦〉を、どこで仕入れてきたかわからない呪術を使って逆に虜にしていたのである。

 オカルト的には蜘蛛は知恵者の化身であり、コツコツと巣を作り上げていく過程となぞらえて「努力が成功につながる」ことの象徴であるとされていた。

 特に水辺に湧く蜘蛛はそういうものらしい。

 座敷童の正体が蜘蛛ではないかという説もあるほどだ。

 だから、蜘蛛を捉えることで富と名声を得る呪法というものがかつて存在していたのも不思議ではない。

 もともと柳の家の繁栄をもたらしたものもその蜘蛛を捉える呪法による結果だったのかもしれない。

 獲物を糸で絡めとるはずの蜘蛛が、逆に人間によって縛られるというのは皮肉な話だった。

 夫となった柳萩人によって呪縛された〈絡新婦〉は、クモの雌らしく雄を殺すこともできずに、ただ夫婦として暮らすことを強制された。

 この点、柳が普通の夫ならば平和な暮らしを送れたかもしれない。

 しかし、彼は〈絡新婦〉である晴海が奥寺さんに打ち明けたように最悪のDV男だった。

 

 あのとき、〈絡新婦〉のはだけたセーターから覗いていたものは、紛れもなく痣であったのだ。

 夫であるはずの柳から頻繁に受けていた暴力の証しであった。

 

〈絡新婦〉が妖怪だということを知っているからか、あまりにも殴る蹴るが激しかったらしい。

 あまりのことに耐えきれずに奥寺さんに助けを求めるほどに。

 呪法の縛りがあって術者を殺せない〈絡新婦〉は奥寺さんに「夫《あいつ》を殺して」と訴えた。

 それで奥寺さんは惚れていた女の代わりに親友だった男を殺そうとした。

 これが事件の真相だった。

 ただし、これだけではない。

 

「自分の裕福な暮らし向きや名声が実は虜にしている妖怪のおかげだということを知られたくないあなたは、〈絡新婦〉に唆されて駅のホームで突き落とそうと魔が差しかけた奥寺さんからの謝罪を素直には受けきれなかった」

「……っ!?」

「奥さん―――と思っているかどうかは怪しいところですけど―――と親友が不倫した挙句、自分を殺そうとしていたことよりも、あなたは自分の生活が脅かされたことが我慢ならなかった。〈絡新婦〉のことを奥寺さんがどれだけ知っているかもわからない。だから、あなたは口封じも兼ねて、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 今度こそ、柳は崩れ落ちる。

 妖怪との欲得まみれの結婚生活よりも、中学からの親友を疑心暗鬼の挙句に殺してしまったことを見抜かれたのがショックだったのだろう。

 イケメン顔が五歳ほど老けたかのようだ。

 

「……あなたにもう少し、優しい心があればこんなことにはならなかったと思いますよ。僕はあなたを警察に告発する気はありませんけれど、もし、親友であった奥寺さんのことを思う気持ちが少しでもあるのなら、自首することをお勧めします」

 

 すると、崩れ落ちたまま呆然としていた柳が言う。

 

「あんなどんくさい奴、親友なんかじゃねーよ。……知ってっか。カマキリの雌に食われる雄ってのはな、雄の中でもどんくさい奴だけなんだよ。スマートな奴は、馬鹿な女になんか食われたりしねえんだ……」

 

 自分がスマートだというのだろうか。蜘蛛ならぬ蟷螂を例えに出すのは皮肉のつもりだろうか。

 まあ、別にいいさ。

 僕の知ったことじゃない。

 

「そうですか」

 

 僕はそのままこぶしさんと一緒に柳家を後にした。

 お互い会話はない。

 メルセデス・ベンツ・W222のところにまで戻ってようやく彼女が口を開いた。

 

「……奥寺瑛作の死についての責任はとれたかしら?」

「自殺でないということがわかっただけで、僕の責任はなくなるのでしょうか」

「そうね。でも、今回のことにあなたに責任があるというのなら、それはただの考え過ぎね」

「……でしょうか」

 

 こぶしさんはこちらを見ない。

 

「あなたは、普段からよく考えて知恵の力というものをよく示してくれているわ。〈一指〉の強運よりも、私たちからするとその思慮深さにこそ助けられているの。ただ、考え過ぎのきらいがあるわね」

「考え過ぎですか」

「ええ。今回の件、奥寺瑛作を助けようと思わなかったのは、第一に或子ちゃんたちへ負担をかけさせまいということを考えてしまったからでしょ。そうでなければお節介を焼いたはずよ」

「―――そう、かもしれません」

 

 確かにその通りかもしれない。

 

「だから、あなたは時には最大の長所である考えることよりも、感じた心のままに決めることも必要よ。―――Don't think. Feel(かんがえるな、かんじろ)ね」

 

 有名な截拳道の始祖の言葉だ。

 まさか、僕への忠告になるとは思わなかったけど。

 

「……そうですね」

 

 僕は感じる。

 最近頭を占めていた、このまま〈社務所〉の関係に、御子内さんたちとついていくのは、僕のようなつまらない人間がするべきではないのではないかという疑問への答えを、思考ではなくて感情で判断するために。

 

 そして、僕の瞼の裏に浮かんできたのは、頼もしい御子内さんの背中だった。

 

 ならば答えはもうでたも同然だ。

 

「―――御子内さんと一緒に退魔行を続けていいでしょうか。僕なんかで良ければ」

 

 すると、こぶしさんは握手のために手を差し出してきた。

 戦闘用の手袋は脱がれていた。

 これは仕事ではなくて、私人としての握手ということだろう。

 それを握り返すと、

 

「わたしたちはあなたを頼りにしているわ。信じてくれていいからね」

「ありがとうございます」

 

 僕はちょっと涙を流してしまい、こぶしさんの熱い握手から手を放せなくなっていた……

 

 



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第50試合 妖精伝承
アイルランドからの贈り物


 

 アイルランドの工芸品はその製品は、森と湖が生み出した芸術品、妖精が人の目を覚まさせるために作ったなど、様々な賛辞で讃えられるほどに美しい。

 自然の温もりに満ちた、日本でもファンが多いことで知られている。

 大手商社で働く父親が、アイルランドを含むブリテン一帯で商品を精力的に買い付け回っていることから、豊ノ橋凜花(とよのはしりんか)もアイルランドインテリアについて女子高生としては詳しかった。

 寂しい思いをしているだろう娘のために、父親が頻繁に現地の品を買っては送りつけてくるからだ。

 中学時代に母親を事故で亡くし、長期出張の多い父親のせいで、一人でいることの多い凜花にとってはうっとおしくもあり温かい気持ちにもなれる品ばかりだった。

 不器用な父親なりの愛情表現だと思っていた。

 ただ、今回に限っては父親に対してイライラせざるをえない。

 なぜなら―――

 

「こんなおっきい衣装箪笥(クローゼット)を送られてもどうにもなんねえっての」

 

 伝法な口調で言い切ったのは、夕方になって届けられた高さ2メートル幅1.5メートル、奥行き1メートルほどのクローゼットのせいだった。

 父親にメールで苦情を申し立てたら、

 

〔絶対に値打ちものだから、確保しておいた。凜花の誕生日プレゼントに相応しいだろ。一週間後には帰る〕

 

 という返事がきてそれっきりだ。

 一週間後には彼女の誕生日がある。

 そのために帰ってきてくれるというのは父親らしい優しさの顕れで凜花としても嬉しいのだが、だからといってこのサイズのクローゼットは困る。

 いくら二人暮らしの一軒家といっても、置く場所に困るものは困るのだ。

 

「あたしが結婚して出ていくとき用なのかなあ」

 

 それならばわからなくはないが、凜花としてはできたら、旦那となる男にはこの家に住んでもらい、(やもめ)となる父親と暮らしたいと考えていた。

 たまに変なことをするが、父親の直哉は愛すべき中年男であり、凜花としては放っておけないたった一人の家族でもある。

 もし、彼が再婚するというのならそれはそれで構わないが、亡くなった母親以外の誰かに惚れることなどなさそうな男でもある。

 一途というよりも、面倒くさがりなのだ。

 おそらく、凜花が結婚してでていったとしても独身生活をエンジョイすることは間違いない。

 娘への愛情と自分の生活は割り切れるドライさも有しているからだ。

 だからこそ、直哉としては娘が結婚したらでていくであろうことを前提にこんなものを買い付けて送ってきたに違いない。

 

「できはいいんだけどね……」

 

 よく乾燥した古い白木を使い、表面には薄い石膏が塗られていて、手作りの質感が出ているうえ、正面の扉にはニカワをふんだんに使った豪奢な浮彫が仕立てられている。

 素人の日本人でさえ、これは相当の逸品だとわかる品だった。

 凜花自身、ものは悪くない。むしろ好みだといえた。

 古いのはアンティークだからと割り切れば、大事にしてもいいと感じられる。

 とはいえ、この日本家屋そのものの豊ノ橋家に置くには場違いすぎる。

 

「……どうするかなあ」

 

 後ろに回ってみる。

 壁につければ絶対に人目につかないはずの背面板さえもしっかりと仕上げられていて、さすがの趣きがあった。

 ただ、一つ気になるのは、妙な窪みがあったことだ。

 傷ではないし、意匠でもなさそうな、指をひっかけられそうな窪みであった。

 

「なんだろ、ここ」

 

 二本の指を不用心に差しこむと、カチリと音がした。

 何かボタンのようものを押した感触だった。

 すると、背面板の一部が軽く動いた。

 扉のようなものになっている。

 隠し扉?

 凜花は直感的にそう理解した。

 動きそうなので、触ってみると観音開きに開く扉のようだった。

 巧みに偽装されているせいか、そう簡単には見つからない造りだ。

 窪みに気が付かなければわからないはずだ。

 

「へえ」

 

 中には特に何もなかった。

 厚さはほとんどなく、小物を入れておくにしても狭すぎる。

 ただ、異常だったのは、ちょうど中央部分に妙なものが引っかかっていたことだった。

 大きさでいえば十センチほどだろうか。

 長くて細い―――人形の腕のようだった。

 それが太い釘によって打ち付けられていた。

 人形の腕らしいのは小さな掌がついているのがわかるからだ。

 肩の付近までしかないので、胴体がどのぐらいかわからないが、普通の人間とサイズ変換するなら全体としては三十センチもないだろう。

 干からびているせいか、それとも元々地黒なのか、腕は全体的に黒ずんでいた。

 どういう意味があるにしても、凜花にとっては不気味な装飾でしかない。

 

「気持ち悪いなあ。えーい、とっちゃえ」

 

 凜花はティッシュペーパーを手に巻き付けて、そのまま無理矢理に黒い人形の腕を引っ張り上げてとってしまった。

 意外とスムーズにとれたのが不思議だった。

 釘自体、錆びついていて相当古いものだから手こずると思ったのに。

 

「えいや」

 

 そのままティッシュにくるむと、ゴミ箱に腕を捨ててしまう。

 

「ここはへそくり入れにでもしますかね」

 

 元通りに扉を閉める。

 一週間、面倒だとはいえこのクローゼットは居間に置いておくしかない。

 父親という男手が帰って来てから、この迷惑な誕生日プレゼントの処遇は考えるとしよう。

 そう決めると、凜花はそのままソファーに腰掛けてテレビの電源を点ける。

 気持ち悪い人形の腕のことなどすぐに忘れてしまった。

 

 だが、もしも、彼女がこの腕について調べていたのなら、のちの恐怖を体験せずに済んだかもしれない。

 ネットで検索するにしても、色々と条件があるのだが、もし彼女が的確に答えを探し当てていたのならば、それはこういうワードでするべきであった。

 

 アイルランド 妖精の腕 富をもたらす呪い

 

 そして、正解のページを見つけたとして、その最後にはこう記されているはずだ。

 

 何らかの理由があって釘から外してしまったら、その腕の持ち主が妖精の群れ(ホード)を連れてこれまでなされていた搾取の仕返しにやってくる、と。

 ―――邪妖精となって。

 

 

 

 ……だが、凜花はまだその事実を知らずにいた

 

            

               ◇◆◇

 

 

「―――横浜の青葉区にだね、妖精の専門家がいるんだ」

 

 小田急線の新宿から小田原行の急行の中で、御子内さんが事件のことを説明しだした。

 なんでも、今回はイギリスから来た妖精が関わっているらしい。

 詳しいことは現地についてからということらしいが、僕には幾つか頭を捻らざるを得ない疑問点があった。

 まず、横浜というと、たまプラーザのあたりには神宮女音子さんの実家があって、彼女の縄張りのはずだ。

 わざわざ都下の多摩から埼玉県西部・南部一帯を担当している御子内さんがいく必要はない。

 音子さんも他に匹敵する強い退魔巫女だからだ。

 

「音子のバカは体調不良だということだよ。あいつ、季節の境目にはよく熱を出すんだ。だから、たまにこういう風にボクや藍色が代行することになる」

「はあ」

 

 あと、ブリテンの妖精が関係するとなると、てんちゃんのところで居候をしている透明人間のロバート・グリフィンさんにも声をかけた方がいいのではないかという点だ。

 彼の家系が透明人間としての力を持っているのは、その肉体に流れる妖精の血のおかげだということであるから、適任なのじゃないだろうか。

 ただ、それに関しても、

 

「この間の新宿の〈砂男〉の時もそうだけど、あっちから来た妖精関連の妖魅にロバートを接触させるのは問題があるらしい。だから、はっきりとブリテンの妖精が関わっていないという保証がない限り、てんとロバートのコンビは関わらせないというのが〈社務所〉の方針なんだそうだ」

 

 非常に納得のいく話だった。

 あの〈砂男〉事件のようなことが、この横浜でも起きないとも限らないということなのか。

 そこでまず在野の妖精研究者を尋ねて事件の概要を把握しようということなのだろうね。

 

「でも、妖精って外来種の妖魅に含まれるんでしょ? だとすると、管轄は〈社務所・外宮(げくう)〉なんじゃないの。神撫音ララさんのいる」

 

 ララさんの名前を聞くと、心底嫌そうな顔をする御子内さん。

 年末に僕を拉致・監禁した事件のせいで、彼女にとってその名前は禁句に等しくなっているようだった。

 被害者に当たる本人自身はそんなに気にしていないのに、僕の友達の方がいまだに憤っている。

 

「〈社務所・外宮〉の連中はまた何か企んでいるみたいで、まったく動向が掴めない。あいつら、何をするかわからないくせに、自分たちの本分を疎かにして最悪だ。本当なら、妖精なんかが我が国に入る前に検疫したりするのもあそこの仕事なのにさ」

 

 御子内さんはぷんぷんだ。

 激おこ、という奴だろう。

 万事からっとした性質の彼女にしては相当根に持っているっぽい。

 

「……おっと、次の青葉台という駅で降りないと」

「あれ、横浜って? ここ、町田市あたりじゃないの?」

「町田はもうちょい先じゃないのか」

「まあ、町田は神奈川みたいなもんだし、別にいいか」

 

 地方の人は知らないかもしれないが、町田市というのは神奈川県でも横浜市でもなく、一応は東京都に含まれる。

 場所的に神奈川県の飛び地みたいになっているが、それは紛れもない事実なのだ。

 ただ、地域の住民にとってはどうなのかはしらない。

 でも、この間、神奈川テレビで「今期に挑む神奈川のサッカーチーム」という特集をやっていたとき、横浜Fマリノス、川崎フロンターレ、湘南ベルマーレに含まれて「町田ゼルビア」があったのがとても印象的であった。

 そこは横浜FCじゃないのかよ、とテレビの前でツッコんでしまったほどである。

 ちなみにJ3まで行くとYSCC横浜、SC相模原なんかがあるので、そっちを紹介するべきじゃないかなとも思ったが。

 まあ、とにかく町田というのはなかなかひと癖もふた癖もある地域なのだ。

 閑話休題。

 

「さて、降りるか。この駅から、確か桐蔭学園方面に行くと聞いていたんだけど……」

 

 タクシー乗り場を探して歩いていると、御子内さんが急に立ち止まった。

 

「どうしたの?」

 

 だが、彼女は静かにしろ、というニュアンスのジェスチャーをして何も答えない。

 珍しいことがあったものだ。

 僕の知る限り最強の巫女レスラーである御子内或子がこんなに警戒色を顕わにするなんて……

 いったい何があったというのだ?

 このとき、僕の目には何故か少し前の雑踏を歩く、一人の白いコートと帽子姿の背の高い青年が一瞬だけ映っていた。

 

「あれは……」

 

 あの青年が御子内さんを警戒させているのか。

 隣にいる御子内さんが、ここまで獰猛な野生の獣のような睨みつけ方をしているのを見るのは随分と久しぶりであった。

 はたして、あの白いコートの青年は何者なのであろうか?

 

 

 

 

 

 








この第50試合「妖精伝承」をもちまして、今回の巫女レスラーの投稿はひとまず打ち止めとさせていただきます。
理由は、某アルファポリスさんの歴史・時代小説大賞に一本応募するのと、それ以外の別作品の準備が忙しくなってしまったからです。
続きについてはまた秋にでも投稿したいと思っていますので、よろしくお願いいたします。
先が気になる方は、カクヨムか小説家になろう版をどうぞよろしく。

ちなみに拙作「邪神本能寺」はコロナウイルスとかいろいろあってまだ発売されません。いったいどうなるんでしょう。

では、あと一話、お付き合いくださると幸いです。


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妖精研究家

 

 

「どうしたの?」

 

 青葉台駅前の歩道で立ち尽くす、いつもと違う御子内さんの肩をゆすった。

 白衣と緋袴、リングシューズという普段通りの格好なのに、まるで別人にでもなったかのようだった。

 身体が完全に堅くなっている。

 視線を合わせただけで人を石にする蛇女と遭遇したかのごとく。

 

「御子内さん!?」

 

 しばらく揺すっていて、ようやくこちらを見た。

 額に汗が浮いていた。

 

「いや、なんだか知らないが、とてつもない力の波動を感じてね……。面目ない。ボクとしたことが」

 

 本当に珍しいことだった。

 年末に神の眷属ともいうべき怪物と戦っても、いつものように凛として振舞っていた最強の巫女レスラーがらしくもない戸惑いを見せている。

 いったい、本当に何があったのだろう。

 

「もしかして、さっきの白い帽子とコートの人のことかな?」

「白い……? いや、特におかしなものは見てないよ。―――けど、なんだろう、ボクの全身が瘧にかかったように震えているんだ。こんなこと、滅多にないんだけれどね」

 

 非常に気になるのか、何度も掌を握ったり開いたりを繰り返す。

 不調というより、自分のみに何が起きたのかまったく理解できないという様子だった。

 でも、おかしい。

 あの白いコートの青年を目撃していないのか。

 霊力も神通力も足りない僕程度ですら、明らかに普通ではないと見抜けてしまったというのに。

 むしろ、逆か?

 強い力があるからこそ、さっきの青年が灯台下暗しで映らなかったのかもしれない。

 つまり、僕にとっては巨大な山のようであったとしても、御子内さんにとっては目の前の壁だったという感覚か。

 そうでなければ説明がつかないところだ。

 もっとも、ではさっきの白いコートの青年が何者であったのか、という問いには一切答えられないのだけれど……

 少なくとも、御子内さんが見せている極端なまでの過剰反応を考えると妖魅かそれに近い存在の可能性が高い。

 

「とにかく、あのバスに乗ろうか。えっとなんとかいう学園にいく途中のバス停で降りればいいはずだ」

「タクシー使った方が早くない?」

「それもそうだ」

 

 僕たちはあえてバスを使わないことにした。

 学生がたくさんいるバスに乗ることは、改造巫女装束姿の御子内さんが目立って仕方ないということもあったが、さっきの怪現象ともいうべき異常を警戒してのことだ。

 僕にとっては白いコートの青年が何者かわからないということであるが、御子内さんからすると自らの野生の勘が善くない未来を予知したと考えたのに違いない。

 戦国武将や過去の剣豪もかくやというぐらいに、御子内さんは危険を察する勘が鋭く、何かとてつもなくまずいことが起こるのではないかと危惧したのだと思う。

 だとすると、大勢を巻き込んでしまうバスや電車での移動はできる限り避けた方がいい。

 そのあたり、僕も同意見であった。

 

「……この住所に行ってくれないか」

 

 御子内さんの差し出したメモから読み取った住所をカーナビに入力するドライバー。

 いつものことであるが、御子内さんの紅白の格好に驚いているのか、ちらちらこちらに視線を向ける。

 まず間違いなく、こういう場合、僕のことは誰も気にしない。

 案の定、このドライバーも僕が最後に支払いをするまで存在に気がついていないようだった。

 まあ、太陽の隣に黒点があってもよほどきちんと目を凝らさないと見えないから仕方がないか。

 

「相原千夏子……か。この家で合っているようだ」

 

 辿り着いたのは、一軒の古い洋館だった。

 横浜という土地は意外と丘や谷がたくさんあって、土地の高低差が激しいところがある。

この洋館のある辺りもすっぽりと小高い丘に囲まれていて、盆地のようになっていた。

 人が住んでいるらしい家も点々と存在しているが、僕たちが目指していた洋館の周囲には他の住宅は建てられていなかった。

 この洋館だけが唯一といっていい。

 冬なので枯れた植物の蔦に覆われた鉄柵がやや不気味ではあるが、柵から見通せる敷地内は綺麗に手入れされていて、まるで公園のようだった。

 かなり広い敷地なので個人で手入れるのは相当大変だと思うけれど、その苦労に相応しい趣きを感じさせる。

 左右対称に植えられた植物が計算された庭園であることを主張して、終の棲家にしたくなるような美しさを醸し出していた。

 こんな日本の片隅とは思えないほど、西洋趣味―――いや、西洋そのものの洋式庭園に僕は眼を奪われた。

 綺麗なものだ。

 冬の時期でも()()なのだから、花が咲き乱れる春、緑が萌えて繁茂する夏、紅葉が物悲しくも寂しい秋、それぞれの季節だったらどれほど素晴らしいだろうか。

 隣を見ると、御子内さんも同じ心持ちらしく、柵越しに見つめる洋式庭園に見惚れていた。

 どれだけ、心を奪われていたのかはわからないが、門の脇にある木戸から顔をのぞかせて一人の女性に声を掛けられるまで僕らは身じろぎもしなかったのは確かだ。

 

「あなたたちが〈社務所〉の巫女さん?」

「うん、キミが相原千夏子さんか。妖精研究家の?」

「そうよ。初めまして」

 

 初対面だったが、僕はすぐに彼女に好意を抱いた。

 年の頃はアラフォーを通り越して、もうすぐ五十代に達するかもしれない。

 なのに、見た目が若々しいだけでなく、澄んだ瞳をもった温和で少女のような女性だった。

 茶色のカーディガンとコットンのスカートは、目立たないが彼女にぴったりな清楚さを感じさせ、知性を感じさせる眼差しも文学少女みたいだった。

 学者、研究者というよりも、童話作家や芸術家といった雰囲気である。

 しかも、僕らにかけられた声は春風のように優しい。

 きっと自分の世界をしっかりと持っている人なのだろう。

 そういう人は基本的に誰にでも優しく接することができるのだ。

 

「〈社務所〉のことは聞いているわ。実際に連絡を取ったのははじめてだけどね」

 

 ちょっと驚いた。

 妖怪退治を専門とする退魔機関である〈社務所〉については、一般の人はほとんど知らないし、知っていたとしてもあまり好意的ではない。

 オカルト界隈に対する恐怖や畏怖といった負の印象が強いからだろう。

 この千夏子さんのような普通の女性が、〈社務所〉について詳しく知っていて、しかも連絡を取ることができるなんて不思議だった。

 てっきり、八咫烏がまた連絡を付けたのかと思っていたのに。

 

「入ってちょうだい。詳しいことは中で説明するわ」

 

 僕らは千夏子さんの洋館に招き入れられた。

 その際、玄関の前にいつもの〈護摩台〉用の資材を運ぶ八tトラックがやってくるのが見えた。

 特に手配しておいた覚えはないから、御子内さんが連絡しておいてくれたのだろう。

 とりあえず、千夏子さんに話を聞いてから、どこか広いところに〈護摩台〉を設置することになりそうだった。

 やはり、今回も妖怪退治なのだろうか。

 いや、話を聞いている限り、()()退治っぽい気はするけどね。

 

「―――一昨日、私の知人の男性が倒れた娘さんを担ぎこんできたの」

 

 洋館の中央にあるテーブルで僕たちは対面した。

 かなり、立派な樫の木製のテーブルで間違いなく輸入の高級品だ。

 この間、こぶしさんが蹴り壊したようなイケアの製品とは比べ物にならない値段であるはずだ。

 ここで乱闘はしてほしくない、とつい御子内さんを見やってしまったほどである。

 

「どうして、ここに? ボクのみたところ、ここは医療施設ではないと思うけど」

「そうね。普通ならば、お父さんは倒れて意識のない娘さんがいたら、まっさきに病院に連れていくと思うわ。ただ、そのお父さんには知識があったの」

「どんな知識なんだい?」

「それは……」

 

 千夏子さんは、手元に置いてあったA3版はあろうかという本をゆっくりと開いた。

 装丁はシンプルなものであったが、開かれたページの美麗さは筆舌に尽くしがたいものがある。

 カラフルというよりも、色鮮やかといった方がいい、油絵具で描かれた美しいイラストが中心となった、まさに「本」というものだった。

 宗教絵画、教会のステンドグラスに似たタッチと色合いの画集というべきか。

 とにかく、僕らはこの洋館の庭を見たときのように魅了された。

 なんというか、この洋館にあるものはすべてがすべて美しいのである。

 ただし、千夏子さんが僕らに見せたのはそういう芸術的なだけのものではなかった。

 それは血のごとく紅い尖った帽子を被った醜い妖精の絵だった。

 そして、妖精の手の中にはどす黒い液体に塗れた斧が握られていた。

 

「アイルランドで最も恐ろしい妖精の一体、〈赤帽子(レッドキャップ)〉です」

 

 あまりに精緻に描かれていることから、今にも動きだしそうな妖精の絵だった。

 まさか、この絵は……

 

「これは本物の〈赤帽子〉をモデルにして描かれたものだと言われています。描いたのはアーサー・コナン・ドイルという有名な作家ですが、それはどうでもいいことです。問題なのは、わたしのところに運ばれてきた女の子にこの〈赤帽子〉が憑りついてしまったということです」

 

 妖精に憑りつかれたって……

 幽霊じゃあるまいし、そんなことがあるのか。

 

「そんなことって顔をしていますね。でも、ヨーロッパではよくあることなんですよ。人が妖精に憑りつかれて、その力に振り回されてしまうということが」

「……よくあることなんですか」

「ええ。妖精に憑りつかれた人間が、その邪悪な波動に振り回されて、善くないことをし続けることを、ブリテンでは〈邪妖精憑依(アンシーリー・コート)〉と呼びます」

 

 千夏子さんは、妖精研究の泰斗らしくはっきりと断言した。

 

 

 

 



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邪妖精〈赤帽子〉

 

 

「〈邪妖精憑依(アンシーリー・コート)〉……」

 

 何だか知らないが、忌まわしい響きのする単語だった。

 ただの英単語でしかないはずなのに。

 

「ボクには初耳だ。それはどういうものなんだい?」

 

 相変わらず御子内さんは年上に対しても遠慮がない。

 無礼というよりも、屈託がなさすぎるというべきだろうか。

 天衣無縫と言った方がいいかもしれない。

 袖すり合うものすべてと腹を割った話し合いができ、気が合えば友となり、気楽に飲み食いをして仲良くできる性格なのだ。

 その代わり、敵対したのならば容赦や呵責など欠片ももたずに殺し合いもできる豪放磊落な面も有しているし、尊敬すべきものは心底敬うこともの出来る懐の深さも兼ね備えている。

 まさに英雄(ヒーロー)に相応しい女の子なのである。

 

「アイルランドに限らず、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国、いわゆるイギリスにある四つの「国」および諸島には、現在も妖精や魔物が息づいて、神々もまた眠りについています」

「うん、そうらしいね」

 

 ここで一般常識のある人間なら、そんな馬鹿なヨタ話があってたまるか、と科学的常識を振りかざすところだが、生憎僕たちはもう数えきれないほどの妖魅に遭遇して戦ってきてリアルの外側にいる。

 日本に妖怪や死霊が蠢いているのならば、イギリスに妖精や魔物がいたってなにもおかしくはない。

 実際、僕の友達のロバートさんは妖精の血を引いた透明人間だしね。

 

「私が妖精研究家となったのは、あなたたちぐらいのときにロンドンにあるリトル・ヨコハマという街に住んでいたときの体験のおかげなの」

「ほお。聞いたことがあるよ。何十年も前に日本人街になったという地域だね」

「僕もテレビで見たことあるかな」

 

 リトル・トーキョーではなくてリトル・ヨコハマなのは、最初に移り住んだ日本人たちが横浜市の出身だったからという話だった。

 とはいえ、彼らは移民ではなくて、あくまで住んでいるだけだ。

 イギリスに短期滞在する日本人たちが寄り添って暮らしているコミュニティというだけで、他国に自分たちの街を作ったという訳ではない。

 例えば、日本の中華街とは違う、どちらかというと日本人が多いホテルみたいな場所らしい。

 千夏子さんもきっとロンドンに短期滞在したビジネスマンや大使館関係者の娘さんだったのだろう。

 

「そこで妖精と出会うことがあってね。それ以来、日本に戻ってもこういう風に妖精の研究して生活しているのよ。ほら、本も出しているわ」

 

 棚のところに置いてあるいくつかのハードカバーの本や文庫を手渡された。

 著者の名前のところに、「相原千夏子」となっている。

 この女性の執筆した本だ。

 

「他にも、短大で講義とか、研究書の翻訳とかもしていてね。日本ではわりと名前の知られた研究者なのよ。これでもね」

 

 確かにこの客間にまでずらりと高そうな洋書が並んでいて、いかにも研究家という感じだった。

 これだけの個人の蔵書はそうはお目にかかれないだろう。

 

「なるほど。キミが妖精学の泰斗だからこそ、倒れた娘の父親がまっさきに頼ってきたということだね。ということは、倒れた理由がひと目ではっきりとわかる状態だということだ」

「ええ」

「どんな様相なんだい? 例えば、慄然たる思いがするとか、狂気じみた異形だとか、這いずりまわる冒涜的な姿、とか名状しがたい悍ましさ、とか……」

 

 いったいどこの変態海洋生物の神話の怪物かな。

 

「百聞は一見に如かずね。客間のソファーに寝かせているから、ついてきて。紹介するわ」

 

 二階に上がる階段も幅広で豪奢であった。

 インテリアも素晴らしく、楽に飾られた多くの幻想画がほとんど博物館のようである。

 とても、この女性一人で住んでいるとは思えない。

 僕みたいな一般人からすると、「掃除が大変なんじゃないか」という平々凡々な感想しか出てこなかった。

 階段を昇りきり、二階に辿り着いた一番端の部屋がお客さん用の部屋らしい。

 ノックもせずにあけるということは、中の人へはその必要がないということだ。

 

「この子よ」

 

 ベッドではなく、ソファーだということがよくわかった。

 なぜなら、横たわった女の子はパジャマやジャージの類いではなく、見たこともない緑色のふわふわとした、そのくせところどころがボロボロの毛布のような服を着ていたからだ。

 さらに驚くべきは頭に乗っかった巨大な三角の帽子。

 工事現場のコーンを思わせるほど大きく、鍔広の旅人帽《トラベラーズハット》だったが、その表面にはどす黒い真っ赤な汚れがついていた。

 いや、赤く塗られていたというべきか。

 緑色の服とはまったくマッチしない、だが、そのくせ妙に似つかわしいともいえる奇妙で不気味な取り合わせだった。

 はっきりしていることは、この眼を閉じて寝ている女の子のものではないということだ。

 どう見たって、お仕着せられた不似合いの格好だとしか思えない。

 では、どうしてこんな奇怪な服装をしているのか……

 御子内さんが寝ている女の子の手を掴んで持ち上げた。

 

「この奇妙な服と肉体が一体化しているな。同化、しているというべきか。これはどういうことなんだ」

「わかるの?」

「まあね。服というよりも、皮膚になっている感じだ。もしかして、帽子もそうなのか」

「そうよ。一見、そうは思えないでしょうけど、帽子の底の部分が頭皮とほぼ癒着しているわ」

 

 癒着しているということは、接着剤か何か、そういうものを塗られてくっつけられたということだろうか。

 

「……おそらく、この女の子―――豊ノ橋凜花ちゃんというのだけれど―――に憑りついた妖精の力のせいね。着ぐるみではなくて、変身したと考えるのが理解としては正しいところよ」

「変身……魔女っ子みたいなものかい」

「そうね。クリーミーマミとかそのあたり」

 

 ……なるほど、千夏子さんあたりの世代だとそういう例えになるのか。

 

「じゃあ、原因はどうしてこんな格好になったのか、ということか。キミに心当たりはあるのだろう」

「あるわ」

「しかも、わざわざ〈社務所〉に連絡をとってボクらを呼ぶということは、それだけの危険があるということだね。さっきからこの家の内部を観察していたら、至る所に妖精除けの呪いらしいものがかかっている。それなのに、ボクらが必要ということだ」

 

 言われてみれば、確かに玄関の扉や壁、天井、あるいは床にまでなにやら奇妙な絵が描かれたり彫りこまれていた。

 思い返してみると、ケルトのルーン文字に似ている。

 あまり日本では見たことのない、リーズの花束やら、トゲのついた葉っぱなんかも飾ってあった。

 あれはもしかして魔除けのお呪いだったのだろうか。

 

「凜花ちゃんには、さっきも言ったブリテンでも最悪の妖精である〈赤帽子〉が憑りついています。そして、彼女はほぼ妖精と同化しているわ。―――ブリテンでは人間が妖精の力を得ることを〈妖精憑依(シーリー・コート)〉というのだけれど、この子についているのは邪悪な〈赤帽子〉だから〈邪妖精憑依(アンシーリー・コート)〉。狂気を振りまく危険極まりない存在になっているの」

「つまり、目を覚ました途端、この女の子は手の付けられないぐらい暴れ出すということか」

「ええ。ただ憑りついただけでなく、この姿といい、赤帽子といい、間違いなく〈邪妖精憑依(アンシーリー・コート)〉になっているわ。正直言って、私では止められないほど強力な存在なのよ」

 

 確かに千夏子さんにそんな力はなさそうだ。

 彼女は在野の研究家にすぎないのだから。

 はっきりとした武力が求められる局面なのだろう。

 

「凜花ちゃんのお父さまには帰ってもらったわ。少なくとも、彼まで犠牲になることはない」

「それはキミが犠牲になっても構わないということかい。千夏子は、この凜花という娘の知り合いか?」

「いいえ。お父さまとは何度かお会いしたことがあるけれど、この子とは初めてよ」

「キミがそこまで体を張るほどの関係性は見えないね。優秀とはいえど、一介の妖精研究家なのだろう?」

「理由があるのよ」

「理由? 聞いてもいいかい?」

 

 千夏子さんは少し遠い目をした。

 昔々を思い出すような。

 

「―――私の友達が、昔、妖精に襲われたことがあってね。私自身も、その時にこの〈赤帽子〉に狙われた経験があるのだけれど。それ以来、妖精に困らされている人に会うと助けてあげたくなっちゃうのよ」

「キミは助かった。では、お友達は?」

「……いなくなっちゃった」

 

 そうか。

 もしかして、償いの気持ちがあるのかもしれない。

 極東の島国にすむ日本人が、世界の反対側にあるセカイの妖魅である妖精を研究しているというのはそういう背景があるからか。

 

「わかった。では、キミの代わりにボクが拳を振るうことにしよう。いざという時の仕事はボクが引き受ける」

 

 しばらくしたら、この邪妖精に憑りつかれた凜花さんが目を覚ますだろう。

 その時に彼女を取り押さえられるのは御子内さんだけだ。

 

 きっと凜花さんを助けよう。

 千夏子さんのためにもね。

 

 

 

 



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シーリー・コート

 

 

 ルルルルル

 

 僕のスマホに連絡が入った。

 画面を見ると、さっきこの洋館の前にやってきていた〈社務所〉の8tトラックの運転手からだった。

 何度も現場で顔を合わせるので、連絡先の交換なんかもしてしまっている相手だった。

 

「もしもし、升麻です」

『あ、坊主か。リングの資材、どうするんだ?』

「〈護摩台〉設営できそうな場所がないんですよ」

『このでっけえ家の裏に、全部降ろせそうな空き地あったぞ。確認したか?』

「そうなんですか? 方角は?」

『西側かな。そろそろ、西日が差しそうだぜ』

 

 西といえば、この部屋の窓から見えるかな。

 と、窓辺によってみると、どうやら木がほとんどない空き地になっているようだった。

〈護摩台〉を設置するなら、問題ないかもしれない。

 

「トラックつけてもらえますか?」

『いや、ちょっと狭くなるな。()()()しなきゃならねえかもしれねえぞ』

 

 横持ちとは、長距離トラックなどが積み込み先に間に合わない場合などに、他のトラックに引き取ってもらう場合を言うんだけれど、場合によっては大型車が入れない狭い場所に積み込みできる所まで運ぶこともいう。

 現場や運送会社によって、意味合いは異なるが、今回は後者にあたることをいう。

 つまり、直接に資材を降ろせないので、手間がかかるということである。

 

「台車は持ってきてますよね。お手伝い、お願いできます?」

『おお、いいぞ。車つけておくから、すぐに来いよ』

「はい」

 

 台車では運べないものもあるが、急げばなんとかなるだろう。

 豊ノ橋凜花という女の子に憑りついた妖精〈赤帽子〉がいつ目を覚ますのか、わからないが御子内さんが戦わなければならないこともありうるので、準備はしておくにこしたことはない。

 だから、僕は御子内さんたちに声をかけると、そのまま外に出た。

 改めて見ると、廊下や出入り口に様々な意匠のインテリアがつけられているが、もしかしたらこれがすべて魔除けのアミュレットの類いなのかと思うと、厳重などというレベルではない。

 千夏子さんがどれほど妖精を警戒しているか、驚くべきほどだ。

 僕たちが対・妖怪対策をしているように、彼女はこの極東の島国でも妖精の脅威を感じなければならない経験をしたということだろうか。

 それとも、普通に考えれば地球の反対側だというのに、こんなところまで妖精がやってくる可能性があるということかもしれない。

 実際に、〈赤帽子〉という妖精がすぐ傍にきていることを考えるとその用心が当たっていたということだけど。

 

「……妖精か。厄介な相手だよね」

 

 僕は玄関を出ると、これまた儀式的な魔除けの術がかけられているらしい通路を抜けて、木戸から外に出た。

 さっきは感じなかったが、不思議な空気の変化が内と外に存在していた。

 清澄さがまったく異なる。

 妖精界と人間界の違いのようなものだろうか。

 空気に混じりものがない世界から、汚れた現世に戻ってきた感覚だ。

それだけこの洋館とその敷地の外に断絶があるということかも。

 

「……もしもし、ちょっとよろしいですか」

 

 後ろから声を掛けられた。

 さっきまでは誰もいなかったはずの背中から。

 振り向くと、塀に寄りかかるようにして立っている青年がいた。

 真っ先に目についたのは、青年がまとっている白い壁であった。

いや、壁のように広がって見えただけで、それは単なるふわりとしたコートでしかなかった。

 複雑に入り組んだ立体構成によるマント類似のフォルムをした斬新かつ珍奇なデザイン――何枚の布が連なっているのか判断もできない――のコートを着て、同色の変わった帽子を被っている。

 その下に艶のある黒い髪と、七色の奇妙な輝きを放つ瞳、ひどく緩んだ笑顔を浮かべた、優しそうでかつ端正すぎる美貌を備えた青年であった。

 膝の力が抜けそうになったのは、青年の微笑みの効力だろうか。

 とにかく男の人とは思えないほど綺麗なのである。

 頭がくらっとしそうなほどの美貌とはまさに彼のことだろう。

 宵の月でさえも彼に魅かれてしまうかもしれない。

 しかし、問題は彼の貌ではない。

 見覚えのある白いコートはさっき青葉台駅の前で見たものだった。

 貌こそ見てはいなかったが、確かにさっき、御子内さんが異常なまでに警戒心を顕わにした相手だった。

 どうして、こんなところに。

 いや、偶然ではないのか。

 妖精退治に来た退魔巫女と偶然二度も遭遇するなんてありえない。

 もしかして、この青年は僕らの後をつけてきていたということかも。

 思わず睨みつけると、青年は手をあげて制した。

 

「そんなにいきりたたないでください。ぼくには貴方をどうにかする気なんてありませんから」

 

 優しい語り口調と人当たりだった。

 とても、妖魅の類いとは思えない。

 でも、僕はこういう一見穏やかそうな人物でさえも、とてつもなく危険な存在になるということを知っている。

 だから、警戒を緩めることはできなかった。

 

「警戒されると困りますね。せめて、少しお話させてもらえませんか」

「……あなた、何者ですか?」

「それはいい質問ですね。いいでしょう、自己紹介させていただきます。ぼくはシーリー・コート。〈妖精(シー)〉です」

 

 その名を聞いて、僕は凍りつきそうになった。

 

「シーリー・コート……!?」

 

 さっき千夏子さんから聞いた話を思い出した。

 妖精に憑りつかれて力を得た存在……

 それが確か、「シーリー・コート」だったはず。

 でも、洋館の中で眠りについている凜花さんはアンシーリー・コートと呼ばれていたっけ。

 

「貴方がこの洋館の中で見たのはきっとアンシーリー・コートでしょ。ぼくはシーリー・コート。アンがついているのとは、まったく性質が違います。だから、安心してくださってかまいませんよ~」

 

 UN(アン)というのは否定の接頭語だから、この青年のいうことが正しければ性質が違うということは事実かもしれない。

 ただ、御子内さんがあれほど警戒することを加味すると絶対に気を許せない。

 尋常ではない力を持つということはそれだけ危険な存在にならないとも限らないからだ。

 しかも、この美貌だ。

 まず間違いなく人間ではないし。

 

「中の様子が知りたいんです。もし良かったら教えていただけないですか」

「……どうして自分でいかないんですか。僕に訊くよりも、自分でいった方が早いですよ」

「そうもいかないんです。例えば、この木戸に柑橘類の汁で描かれたルーン文字。これは妖精の出入りを禁ずる意味があるんですよね。ただの妖精だけでなく、このぼくでさえこっそりお邪魔するのはできない、とても厄介な御守りなのです。かといって、無理矢理に押しかけて千夏ちゃんに警戒されるのは避けたいですし……」

 

 ぼくでさえ、とか中々自意識過剰な性格っぽい。

 言葉の端々に自分の力に絶対の自信を抱いていることが窺えるし。

 話を続けていると気が抜けそうなぐらいに飄々としているが、明らかにこの青年は超がつくほどに人外の存在だ。

 これまでの僕の経験でも、ここまで化け物じみている相手は見たことがない。

 あえて言うのなら、御所守たゆうさんが倒した〈ウェンディゴ〉だろうか。

 あれは邪神の眷属であったという話だから、それに匹敵するというだけでとんでもない化け物だ。

 ただ、このシーリー・コートという青年が易々とは入り込めない魔術の防禦陣を敷いているなんて、千夏子さんもたいした人なんだな。

 

「どうでしょう? 協力してもらえませんか」

「悪いですけれど、僕にはどう考えても妖魅の初対面の貴方を信用する根拠がありません」

「ふむ。その通りですね。やっぱり、日本ではシーリー・コートの名前は通じませんか。だったら、引き返していただいて、千夏ちゃんに伝言を届けてくれませんか」

「伝言?」

「はい。シーリー・コートがやってきた、それだけでいいよ。ヤアヤアヤアはつけなくていいから」

 

 ビートルズか、というツッコミは想定済みということか。

 わりと俗なことを知っているみたいだ。

 ただ、僕はそれよりもこのシーリー・コートが言った「千夏ちゃん」という言葉が気になった。

 千夏子さんのことを、愛称で呼ぶのか、と。

 まさか、知り合いなのか。

 そのことについて、尋ねようとした時、

 

 ガシャアアアアン

 

 ガラスが割れたものらしい破壊音が耳に入ってきた。

 聞こえてきたのは確かに洋館の方―――僕が出てきた方向だ。

 そして、それは絶対に何か悪いことが起きた合図のようなものである。

 僕はシーリー・コートの「ああー、ちょっと待ってくださいよお。お願いがあるんですけどー」という呑気な声を無視してきた道を引き返した。

 きっと凜花さんに憑りついた妖精〈赤帽子〉が暴れ出したに違いないのだ。

 

 

 

 



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アンシーリー・コート

 

 

 升麻京一がでていったことに相原千夏子は気が付かなかった。

 彼女の神経は、ゆったりとしたソファーでぐったりと横たわる少女の方に集中していたからだ。

 細かい顔色の変化や発汗量などに注意する。

 豊ノ橋凜花に憑りついた妖精がいつ覚醒するかを警戒していたからだ。

 

「〈赤帽子(レッドキャップ)〉…… また、あんたたちなの」

 

 この凜花とほぼ同い年のとき、千夏子はロンドンの屋敷で〈赤帽子〉に襲われたことがある。

 そのときの妖精は、伝承の通りの小人の姿であったが、恐ろしく凶暴で執念深く、かつ、色欲と強欲に塗れた化け物だった。

 あの時に受けた恐怖は欠片も忘れたことがない。

 自分で初めて見た人外の存在である妖精というだけでなく、現代の切り裂きジャックという噂がたつほどに多くの人間を殺害して回っていたのが〈赤帽子〉だったからだ。

 あることが切っ掛けでこの邪妖精に狙われた千夏子と友人は、慣れた自分の家の中で執拗に狙われたことで死にかけたのである。

 

〈赤帽子〉―――は、邪恵なゴブリンの一種である。

 ゴブリンとは妖精族のうちでは泥棒や悪党にカテゴライズされる、浅黒く小型で、鉱夫たちにとっては鉱脈を示してくれる親切な『ノッカー』と呼ばれていることでも知られている種族であった。

 決して善に属するものではなく、むしろ敵対する悪の方が強い存在だが、そのくせにどこかでお調子ものな印象が強い。

 悪いこともしでかすが、基本的におっちょこちょいで失敗ばかりを繰り返す憎めない小鬼。

 嫌われてはいるけれど、必ずしも排斥の対象にはならない悪戯もの。

 伝えられている多くのお伽噺でも彼らはそういう扱いを受けるのが通常であった。

 だが、〈赤帽子〉と呼ばれる種族は、邪鬼(ゴブリン)の中でも最も狡猾で、悪辣極まりない、まさに悪鬼といっていい妖精種族なのだった。

 主として城や砦の廃虚に住みつき、特に忌まわしい地域、過去において不穏な事件の発生した呪われた土地を好み、そこで凄惨な殺戮の宴を繰り広げる。

 人々が忌み嫌うのも当然の怪物たちなのだ。

 そして、一見ユーモラスとも思える名前の由来もまことに忌まわしい。

 彼らは手にした手斧で、たまたま通りがかった人間の首を両断して、その内臓をひきずりだすと戦利品とでも呼べる相手の血潮を染料のように使って、上質な生地と一級な針仕事で拵えられた大きな帽子を染め上げるのだ。

 しばらくして血が乾き色褪せると、また運悪く通りすがった人々を見つけては惨殺して、新しい鮮血で染め直す。

 故に赤帽子―――〈レッド・キャップ〉なのであった。

 邪妖精の中の邪妖精。 

 御子内或子も、かつて聞いたことのある名前だった。

 悪戯好きな妖精などという範疇を軽く逸脱した、悪鬼羅刹の邪鬼について。

 視線を眠り続ける凜花の手元に落とす。

 その女の子らしい手には、どす黒い汚れが染みついた手斧が握りしめられていた。

 少なくとも少女が手にするものではない。

 漂う死の臭い噎せそうなほど、その手斧は不気味な存在感を放っていた。

 着ている服は緑だというのに、赤い帽子とこの手斧。

 さすがに千夏子の言うことを全面的に信じざるを得ない。

 そもそも、 関東随一の退魔機関である〈社務所〉に八咫烏を通さずに連絡を取り、数多いる退魔巫女の中でも最強を自負する自分が派遣されるのだ。

 或子が知らないだけで、相当オカルトなどを含む澱の世界で信頼されている人物なのだろう。

 先ほどからのテキパキとした魔除けの護符の配置や、様々な薬効のあるドライ植物の飾りつけなどの動きに淀みがない。

 

(普段から意識して妖精対策をしているということみたいだ。いや、違うか。もうすでに何度もこういう脅威に接したことがある動きだ。……思っていた以上に、この女性《ひと》は素人じゃないな)

 

 そうなると、さすがの或子にも気になることができた。

 

「―――キミはどうやら妖精対策については、わが国ではトップに含まれる人材みたいだけど、どうして今回に限ってはボクたちに繋ぎを取ったんだい?」

「ただの妖精事件だったら、わたしでもなんとかできるわ。妖精の嫌う薬剤や植物、護符もたんと仕入れてあるから。そんなに多くはないけれど、日本でも妖精に纏わる事件は起きているの。そういうときにアドバイザーとして招かれたりすることはあるわ。〈社務所〉のことを知ったのは、そういう事件に関わったときのことね」

「なるほど。かくいうボクも〈砂男〉とぶつかったことがある」

「……ドイツの〈砂男〉かしら?」

「出身はイギリスっぽかったけど」

「だとすると、ディオゲネス・クラブのコッペリウスのことね。数代昔の当主が妖精の〈砂男〉のシーリー・コートと婚姻したという伝承があったけど、まだ力の継承が続いているとは驚きだわ」

 

 或子は驚いた。

〈砂男〉については部外秘となっているはずだ。

 千夏子の推理は既存の知識頼りのはずなのに、はっきりとコッペリウスの名前まで出してきたからだ。

 

(なるほど、妖精研究家。伊達ではないということだね)

 

 ただ気になることがあった。

 

「〈砂男〉のシーリー・コートと婚姻したって、どういうことだい?」

「簡単よ。妖精と人間の血統が混じる場合というのは、人間に妖精が憑りついていたときにだいたいが限られるから。日本や世界でいう妖魅との混血というのは、妖精に限るとあまり見当たらないの。そもそも、妖精自体アストラル体の幽界の存在であって、実体と呼べるものがないし」

「幽霊、でもないのかな?」

「そうね。あえて言うなら、精神思念体かしら。生命力(プラーナ)という力で主に構成されているからSF的な意味でもないけれど。もともとトゥアハ・デ・ダナーンの神だったともいわれているし、他国の妖魅とは次元の異なる存在ではあるわ」

「……なるほど」

「だから、はっきりと写真に写ることもあるの。コティングリー妖精事件のようにね」

 

 或子にしてみれば、なんとも奇怪な話だ。

 今まで習ってきた常識がやや覆されるようでもあった。

 

「……その女の子が、〈赤帽子〉のシーリー・コートになったから、キミはそこまで警戒しているのかな」

「アンシーリー・コートね。その通りよ。シーリー・コートの場合は、人間が妖精の力を手に入れるパターンが多いけれど、アンシーリー・コートの場合は妖精が人の肉体を奪ったと考えた方がいいの。そうなると、正直、手に負えなくなるわ。普通、妖精の力を御せる人間はそうはいないから、遅かれ早かれアンシーリー・コートになってしまうとも言われているけれど」

 

 凜花が妖精に憑りつかれた理由はわかっていない。

 彼女の誕生日に合わせて、アイルランドから帰ってきた商社の営業マンである父親が、居間で倒れている娘を発見し、同時にその異常な変身に気が付いたのだ。

 父親の声を聞いて、一度だけ意識を取り戻した凜花が、

 

「よ、妖精があたしの中に……」

 

 という言葉を発したことで事態を把握したのである。

 凜花の父親は、出張先のアイルランドで何度か不可思議な体験をしていた経験から、娘の状態が妖精によるものだと推理した。

 まともな常識的判断からすると、それはあり得ない発想であった。

 だが、異国で幾度となく怪奇と向き合ってきた腕利きビジネスマンはその突飛な発想を大胆にも受け入れた。

 そして、かねてからアイルランドの工芸品について詳しく、さらに妖精研究の泰斗である千夏子に連絡を取ったのだ。

 娘にふりかかった災厄をなんとかするために。

 

「……凜花ちゃん(このこ)をわたしに預けたあと、家に戻った豊ノ橋さんは居間に置いてあったクローゼットの裏側が観音開きなっていることに気がついたの。それは特別な仕掛けという訳ではなくて、あちらではよく行われるものよ」

「なんなんだい?」

「妖精の一部を釘で貼り付けることで、家内安全を祈願する呪術よ。クローゼットというのは珍しいけれど。普通はベッドか特別製の金庫みたいなものを使用するから」

「ふーん、妖精の力をねえ」

「まあ、通常は妖精を模した人形なんかで代用するものだけど、おそらく問題のクローゼットに使われていたものは本物だったのでしょうね。しかも、妖精の中でも最凶に近い種族の……」

 

 つまりは〈赤帽子〉のものか。

 いったい、どうしてそんなものがクローゼットに貼り付けられ、凜花に憑りついたのか、細かい事情はわからない。

 だが、千夏子はすぐにでも対処しなければ最悪の事態に発展すると見当をつけた。

 かつて〈赤帽子〉に襲われた彼女だからこそ言える。

 アンシーリー・コートと化した〈赤帽子〉が産まれてしまったとしたら、それは眼に映るものを皆殺しにせずにはいられないような悪魔そのものになると。

 

「なるほど。わかったよ。凜花が目覚める前に、なんとかして封印できるようにしよう」

 

 と、或子が言った瞬間、ぐったりとしていたはずの凜花の手斧を持った腕が上がり、横に振るわれた。

 その延長線上にあった窓ガラスがすべて吹き飛ぶほどの烈風を伴って。

 凜花の眼が開く。

 妖魅のもの特有の黄色いトパーズの輝きと共に。

 

『ここはどこだ!?』

 

 邪妖精〈赤帽子〉の第一声は、十代の少女の声を奪って放たれたものであった……

 

 

 



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切断する風の魔術

 

 

 まずい。

 

 それが一番初めに思い浮かんだ感想だった。

 まだ、〈護摩台〉は設置していないし、せめてもの対抗策である簡易結界ですら張っていない状況だからだ。

 これまでの経験上、これらの結界の助けがないと純粋な妖怪相手の戦いは、7:3ぐらいの割合で退魔巫女側が不利になる。

 もともと力のある妖魅相手だとすると、8:2ぐらいまで差が開くこともあった。

 例えば、兎の妖怪〈犰〉を相手にした時のことである。

 どんなに鍛え抜いた彼女たちといえども、それだけ人外の存在と人間との間には差があるということをまざまざと思い知らされるのだ。

〈社務所〉の重鎮・御所守たゆうさんや統括の不知火こぶしさんぐらいまで達しなければ、〈護摩台〉の助けを借りてようやく勝率を五分までひきあげられる程度。

 そして、今回の敵である妖精はまず間違いなく、力のある強敵のはず。

 

(もっと急ぐべきだった)

 

 しかし、起きてしまった現実は変えられない。

 想像できる状況は、寝ていた凜花さん(もしくは〈赤帽子〉)が目を覚まして暴れ出したのだろうということだ。

 僕が行っても足手まといにしかならないかもしれないが、場合によっては錬金加工したワイヤーを使った簡易結界を張る手助けぐらいはできる。

 結界があれば、わずかでも御子内さんの助力になるだろう。

 だから、僕は行く。

 

 二階の客室に戻ると、室内は想定通りの状況になっていた。

 目を覚ました〈赤帽子〉と御子内さんが対峙している。

 千夏子さんを背中に庇いながら敵を睨みつける御子内さんと、広い窓枠の上に器用に立ちつくしている緑の服と赤い旅人帽、手斧を持った凜花さん(in 〈赤帽子〉)。

 窓ガラスはすべて割れていて、カーテンはおろか室内の装飾や壁紙もボロボロになっていた。

 絨毯ですら、壁の端に乱暴にまとまっている。

 何か物凄い量の風が吹き荒れたような光景だった。

 ほんの数十秒でこの有様か。

 やはりただものではない。

 

「……〈フェア・デアルグの風の魔術〉ね。懐かしいものを見たわ」

 

 この光景を目の当たりにしても、千夏子さんは気丈なままだった。

 素人目にも危険極まりない相手に対して一歩も引くことがない。

 

「なんだい、それは?」

「ケルトに伝わる風の魔術よ。万物を切り裂く円環状の風の刃物を作り出すの。〈赤帽子〉はよく使うわ」

「なるほど。風だから不可視だし、受ける訳にはいかないほど危険ということか」

「ええ」

 

 言われてみると、〈赤帽子〉の周囲には風が渦巻いているようにみえる。

 あのあたりだけ妙に空間が歪んでいるからだ。

 耳に入ってくるゴオゴオというのは風の音か。

 まだ昼間とはいえ、天井の電灯まで破壊されたことで暗くなった室内は、罠が張り巡らされた密林のように危険な空間と化していた。

 無闇に動けば切り裂かれるということか。

 だが、そんなことで攻撃を躊躇うような消極的な性格だったら、御子内さんは今までの脅威の戦績を手にしていない。

 まだ十七歳だというのに、彼女が倒してきた妖魅は限りなく三桁に近づいているのだ。

 その根底にあるのは旺盛な闘争本能から来る恐ろしいまでの積極性だ。

 御子内さんはじっと風の魔術が作った壁の瑕の一つを凝視した。

 付き合いが長くなってきたこともあって、彼女の考えが手に取るようにわかった。

 彼女が見ていたのは瑕の「深さ」だったのだろう。

 どんな深く見えても数ミリ前後。

 鋭利な刃であったとしても、退魔巫女特有の気功術によって練られた〈気〉を纏えば、その程度では致命傷とはならないと見切りをつけたのか、一歩前にでる。

 

()坤一擲で行こうか」

 

 御子内さんはいつものレスリングスタイルは止めて、藍色さんのようにピーカーブーで構える。

 筋肉によるカーテンを閉める。

 急所である顔面さえ防ぎきればそれでよしともいえる特攻スタイルだ。

 それで最接近して一撃を放とうということか。

 ただ、それだと〈赤帽子〉に憑りつかれている凜花さんの肉体まで傷つくおそれがある。

 はたしてどうする気なのか?

 

「でやあああああ!!」

 

 いつもの叫び声とともに、御子内さんが特攻する。

 クロスした腕にビシッビシッと赤い痕が生まれていく。

 僕の目には見えないが風の魔術が切り裂こうと襲っているのだろう。

 普通ならば皮膚ごと肉を裂く風の刃物を〈気〉のガードで弾きながら、瞬きをする間に〈赤帽子〉に肉薄する。

 だが、敵もさるもの、自分の防禦陣を突破してタックルかナックルをかまそうとしてくる寸前に窓枠から外へと跳んだ。

 普通ならばバックで二階から飛び降りるなんて着地もできないし、無謀すぎる行動だった。

 いかに御子内さんから逃れるためといっても。

 しかし、やはり妖魅―――妖精の類いだ。

 空中で舞いつつ、なんと空中三回転までして庭に着地した。

 いなかっぺ大将ですらあそこまで綺麗な着地はできないだろう。

 身体が羽毛ででもできていないと不可能な動きだ。

 それどころか、着地と同時に手を振るうと、手斧がくるくると回転しながらブーメランのような軌道を描いて、窓から顔を出した御子内さんを狙い撃つ。

 

「ちぃ!!」

 

 かろうじて左手の甲で弾き飛ばすが、赤いものが舞った。

 血飛沫だ。

 御子内さんが傷を負ったのだ。

 白い衣の袖口が赤く染まる。

 

「御子内さん!」

「大丈夫だ! 京一は千夏子を連れて守ってくれ! あいつはボクが止める」

「まだ〈護摩台〉は用意してないよ!」

「設営まで待ってくれる相手ではないだろう。なんとかやってみる!」

 

 そのまますっと自分も庭に降り立つ。

 二階から程度では怯みもしない。

 彼女はとんでもない運動能力の塊なのである。

 

「千夏子さん、あいつを凜花さんの肉体から追い出す方法ってありますか?」

「……あるわ。さっきからやろうとしていたのだけれど、意識が回復しなくて。少しでも凜花ちゃんの意志があればできる方法もあるんだけれど……」

「どんなものです?」

「ヨモギグサを干したものをナタネ油のランプの火で燃やして、匂いの気付けをする予定だったの」

「準備は?」

「まだ。さすがにシーリー・コート状態になっている人間を起こすべきかどうかが不明だったから調べていたの。シーリー・コートになりかけている人間は下手すれば二十年も姿が変わらないまま眠り続けたりもするから、慎重に事を運ぶ必要があるから」

 

 シーリー・コート状態って、人間に妖精が憑りついている場合のことだっけ。

 そんなおかしなことがあったら、眠り姫じゃないけれどおかしなことになってもおかしくない。

 ……あ、眠り姫ってもしかしてそういうお話なのか。

 ただ、そのとき、僕の頭に浮かんだものはもう一つあった。

 

「―――さっき、この洋館の外であなたに伝言を頼まれました。いうべきかどうかわからないんですが……」

「伝言?」

「はい、物凄い綺麗な男性があなたに『シーリー・コートがやってきた』と伝えてくれと」

 

 千夏子さんの顔色が変わった。

 赤く興奮状態に。

 

「その男性って、まさか白い外套と帽子の格好かしら?」

「あ、そうです。見た感じは日本人でしたけど……」

 

 千夏子さんが呆然とする。

 どういう心境だったのだろうか。

 彼女の心からはおそらく庭で戦っている巫女レスラーも邪妖精も残っていなかったに違いない。

 

「―――そうなの。シーリー・コートが来たのね……」

 

 ぽつんと、懐かしそうに、遠い目をして彼女は呟いた……

 

 

 

 



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大妖精の力

 

 

「おーい」

 

 窓の外から声がした。

 いや、そんな気がした。

 耳元で直接呼びかけられたような、そんなテレパシーじみた声だった。

 何事かと思ってそっち側に視線を向けると、なんと三メートル以上ある庭と外部を隔てる鉄柵の上にさっきの白いコートの青年がいた。

 鉄柵に立っている訳ではない。

 先端についている尖った忍び返し風の飾りのさらに上に、()()()()()のだ。

 僕も一年以上、御子内さんたちと付き合ってきて大概のトンデモ出来事には耐性ができていた方だが、あんな風に幽霊でもないのにふわふわと飛んでいる人間を見たのは初めてだった。

 しかも、おそらく、手品のタネはない。

 あの青年の能力なのだ。

 空を飛ぶ人間の登場に戦慄していると、

 

「千夏ちゃん、お久しぶり。そっちに行きたいんだけど、妖精対策がしっかりしすぎていて、ぼくでも入れないんだけどどうしたらいいかなあ?」

 

 と、呑気な発言が聞こえてきた。

 さっきの声はやはりあの青年か。

 声を張り上げているというのでもないのに、こんな至近距離でも聞こえてくる奇怪な喋り方である。

 宙に浮いているのと同じぐらい信じられない。

 

「シーリー・コート、いくらあなたでもここには潜り込めないわよ」

 

 千夏子さんはわりと平然と受け答えをしている。

 この距離でも会話が成り立つのを当然と捉えているようだ。

 しかし、この二人、やはり知己の関係だったか。

 

「それだと、庭で戦っている〈赤帽子〉を排除できないんだけど、ぼくの仕事なのに。でも、千夏ちゃんちの庭にすら入れなくて困っているんだよ」

「……残念だけど、一体でも妖精をうちに入れる訳にはいかないの。例え、それがあなたでもね。あの〈赤帽子〉に憑りつかれた女の子を一人、助けるためであったとしても」

「うーん、はっきりいって、あいつは強敵だよ。人間じゃあまず勝てないんじゃないかな。長い間、片手をクローゼットなんかに縫い止められていた怨みでほとんど発狂しているしね」

 

 どうやら、こちらの事情を完全に把握しているらしい。

〈赤帽子〉がどういうものかも、だ。

 見たところ、ややケルト風な顔立ちだが完全に日本人のようなのに、妖精としか思えない青年だ。

 まったく得体が知れない。

 

「この家の守りを解くと、〈赤帽子〉にまで逃げられてしまうから仕方ないわ」

「……とは言ってもね」

 

 ここで僕が口を挟んだ。

 

「すいません! あの、今、そこの庭で戦っている巫女さんを助けたいんです。あなたならわかるかもしれない。いったい、どうすればいいですか!?」

「貴方はさっきの少年だね。それはぼくも同じ気持ちなんだけど、ここの敷地内には一歩も立ち入れないんだ。千夏ちゃんが許してくれないからさ。ぼくにできることは、そこに道具を送り届けること程度かなあ」

 

 道具を送り届ける?

 どの範囲で?

 ざっと見渡すと、彼が浮いているのは西の方向だ。

 だとすると、傍にトラックがあるはずだ。

〈護摩台〉設営の資材を乗せた8tトラックが。

 

「……そのあたりに僕たちが用意したトラックがあります。その中に巫女に助力するための結界を張るための資材が入っていまして、それをなんとか使えないでしょうか」

「ううんと、あっ、あるね。あれが結界用の資材なの? ―――なるほど、聞いたことがある。東洋の魔術の形式だね。うんうん、それを使おうか。じゃあ、ちょっと待っててくれないかな」

 

 すると、青年はどこかへと飛んで行ってしまった。

 なんとも奇妙なタイプだ。

 飄々としすぎていて、呆気にとられる。

 

「……あの人、なんなんですか?」

「シーリー・コートよ。しかも、大文字のTHEがつく、本物の大妖精」

「えっと、シーリー・コートって妖精の力を得た人間だってことでしたけど、あの人もそうなんですか?」

「普通のシーリー・コートではないわね。彼は特別」

「特別?」

「ええ。〈目に見える法廷(シー・リー・コート)〉、〈外套を着た妖精(シーリー・コート)〉、〈妖精王の宿り木(シーリーコ・ト)〉。アイルランドにある妖精の郷エルフヘイムから抜け出した妖精たちを連れ戻すために特別な力を授かっている本物の大妖精ね」

「……僕には日本人みたいに見えましたけど」

「もとは私の従兄弟ですもの」

「―――!?」

 

 どういう経緯を経て、千夏子さんの従兄弟があんな物凄い人外になったのかわからないけれど、彼女の懐かしそうな顔の前ではなにも聞けそうにない。

 ただ、あの青年が御子内さんの助けになるということだけはわかった。

 どういう風になるのかまではわからないけれど。

 

「でりゃあああ!!」

 

 手入れされた植物が広がる庭で、ぽんぽんと撥ねる〈赤帽子〉相手に苦戦を続けている彼女の助けになればいいが。

 

 ……御子内さんはさっきからほとんど〈赤帽子〉に近寄れない。

〈護摩台〉のようなリングがある場合と違って、敵は不用意に近寄ってはこないからだ。

 いつも思うが、あのプロレスリングのような場所は結果を張るのに都合がいいことと、接近戦に持ち込むにはとてもいい環境なんだと思う。

 正直、飛び道具や術で戦うとなったら人間と妖魅では彼我戦力差が馬鹿にならないから。

 バネ足ジャックのように飛び跳ねて戦う〈赤帽子〉が、手斧を投げたり、風の魔術を駆使してくると素手の御子内さんはほとんど防戦を強いられるだけだった。

 せめて簡易結界をとも思うが、庭に吹き荒れる万物を切断する暴風を見ると、僕が降りていっても怪我をするだけだ。

 ただの足手まといにしかならない。

 だから、歯がゆい。

 

『ケーケケケケケケケケケケケッ!!』

 

 奇怪に嗤う妖精が手斧を振るうと、その度に御子内さんの周囲が爆ぜる。

 風が爆発しているのだろう。

 日本の数多の妖怪とはまったく違う戦闘パターンだ。

 いわゆる外来種を相手にすると、退魔巫女たちはいつも苦戦する。

 初見というだけでなく、それだけ尋常ではない相手が多すぎるのだろう。

 

「妖精ってそんなに日本に来るものなのですか?」

 

 何か打開策はないかを探ろうと聞いてみた。

 

「日本ぐらい遠くなると、滅多に来ないけどね。今回は凜花ちゃんのお父様が彼女の誕生日プレゼントに送ったクローゼットの中にあの〈赤帽子〉の腕が偶然に縫いつけられていたのが原因みたい。そういう稀なことがでもない限り、これまでは日本では滅多に妖精事件は起きなかったの」

「でも、千夏子さんは〈社務所〉にもアドバイザーとして呼ばれるって」

「最近、グローバル化とかでとみに増えてきたのよ。妖精の関わる事件がね。日本だけでなく、世界中でこの手の事件が増えているから、きっとシーリー・コートも大忙しのはずよ」

「……どうして、日本人の千夏子さんの従兄弟さんがシーリー・コートってのになったんですか」

 

 すると、彼女は目を伏せ、

 

「さっき話した、ロンドンでいなくなっちゃった友人ってね、彼のことなの」

「えっ」

「ロンドンのリトル・ヨコハマでいなくなったわたしの友人にして従兄弟。人間であることを止めてから、特別なシーリー・コートとして、妖精界の揉め事処理役になってしまったのが彼よ」

 

 日本人に見えたのも当然か。

 本当に純粋な日本人なのだから。

 どういう経緯なのかはわからないが、千夏子さんの従兄弟のことが、彼女をして妖精研究の道に進ませたことは想像に難くない。

 

「……では」

 

 と、言いかけた時、妙な空気を感じて、また窓の外を見る。

 御子内さんと〈赤帽子〉が戦っているだけで変化はないはずだが、その一画の陽が翳っていた。

 なんだ、と見上げて驚愕する。

 陽が翳ったのは事実だ。

 それをしているものが問題だった。

 四角い見慣れたものだが、こんな角度で拝んだことは一度もない。

 

「〈護摩台〉!?」

 

 そう、それは巫女レスラーたちが闘う舞台となる〈護摩台〉であった。

 トラックに積み込まれていたはずの資材がきちんと組み上げられて、しかも宙に浮かんでいるのだ。

 驚きで口が塞がらない。

 いったいどんな力がこんなことをしているのか。

 さすがに異常に気がついた御子内さんがその真下から脱兎のごとく飛びすさる。

 同時に〈護摩台〉が物凄い勢いで落下したというのに、どういうことかほとんど音もたてずに、庭にいつものように戦いの舞台が設置された!

 たったの数分で僕らが何時間もかけて設営するものが用意されてしまったのである。

 かつてないほどの大掛かりな設営だった。

 こんなことは普通の人間には不可能だ。

 普通の人間には。

 ということは、やったのは……

 

「これでいいのかな。あとは任せたよ、人間の女の子」

 

 そこには、遥か高みから下に向かってのんびりとした口調で言うシーリー・コートの姿があった。

 

 

 

 

 

 

 



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開け、門

 

 

 突如として()()()()()プロレスリングに即座に反応できたのはやはり場慣れしている御子内さんだった。

 いかに人外の妖魅である妖精といえど、目の前にどでんと現われた〈護摩台〉には気を取られてしまっても仕方がないところだろう。

 すかさず〈赤帽子〉の背後に回り込んだ御子内さんが腕を掴んで、〈護摩台〉のマットの上に突っ込んだ。

 もんどりうちつつ、マットに押し込まれた〈赤帽子〉が悪鬼の形相になる。

 とてもではないが、ベースとなった少女の面影などない。

 あちらの言い分では「何をする!」と言ったところか。

 隙を突かれた形になっているのだからそれも当然。

 だが、〈赤帽子〉を追って御子内さんが〈護摩台〉に入り込んだ途端、聞き慣れたカアアアアンという(ゴング)が鳴り響く。

〈護摩台〉のもつ、妖魅の力を巫女と五分にさせるという結界が機能をはじめた合図だった。

 御子内さんがずっと耐え続けて待っていた瞬間の到来だ。

 これで〈赤帽子〉はピョンピョン飛んで逃げられない。

 実際、さっきまでのように撥ねて逃げようとしたが、頭上でなにやら引っかかるものがあったらしく、そのまま無様に落下してきた。

 意味が分からんという顔をしながら、頭を押さえる〈赤帽子〉に御子内さんのタックルが入る。

 霊長類最強の吉田沙保里並みに早く、腰に突き刺さるタックルが緑色の妖精の腰に入った。

 そのままマウントをとる。

 組み敷いた〈赤帽子〉が暴れないように肩を押さえながら絞めた。

 憑りつかれた凜花さんを傷つけないようにという攻撃なのだろうが、そんな悠長なことをいっていられる場合ではなかったかもしれない。 

 ぶあ、っとマットに再び風が荒れ狂い、顔面をガードした御子内さんを吹き飛ばす。

 恐ろしいほどに効果的に風を操る妖精だった。

 風なんていう形のないものを器用に攻防一体に使いこなすため、組み技・打撃技主体の巫女レスラーでは後手に回らざるを得ないらしい。

 しかも、組みついても振り切られるとなると……

 数多の幽霊に憑かれた人間同様に、真っ正面から戦うと御子内さんの力だと傷つけてしまいかねない相手なのが厄介だった。

 どうすればいい?

 

「―――巫女の女の子は〈(プラーナ)〉を使えるみたいだけど」

 

 見上げると、白いコートのシーリー・コートはまだ浮いている。

 こっちを見ていた。

 

「ええ。プ……プラーナというのに含まれるかどうかはわかりませんが。彼女たちは〈()〉と呼んでいます」

「同じ生命力の一種さ。細かいことは気にしちゃ駄目だぞ」

 

 雑だな!

 

「だったら、〈赤帽子〉を押さえこんで直接あの赤くて薄汚い帽子に〈気〉を流し込んでみなよ。きっとそれで外れると思う。〈赤帽子〉はあの帽子に血を塗りこむことで力が出る。逆にいえば、帽子が弱点なんだ」

「わ、わかりました」

「頑張ってね~」

 

 なんというか軽すぎるアドバイスをもらったが、それでも効果的な忠告に違いない。

 これで御子内さんがあの邪妖精に勝てるというのならば縋るしかないだろう。

 万馬券よりは確実なギャンブルだし。

 

「御子内さん!!」

 

 僕は叫んだ。

 

「その帽子に試しに〈気〉を叩きこんで! なんとかなるかもしれない!」

「了解だ!!」

 

 御子内さん自身、打開策の発見に苦慮していたこともあってか、僕の適当なまた聞きアドバイスをすぐに実行し始める。

〈赤帽子〉の帽子そのものに触れることはなかなか難しいとしても、あの風の魔術による防御を崩して肉薄すること自体はできるはずだ。

〈護摩台〉の狭いマットの上では例の竜巻状の風は使いにくいらしく、〈赤帽子〉の攻撃は手斧による乱暴で雑な連打に切り替わっている。

 動きが早いので苦労しているが、手斧自体はどうということがない。

 以前の夢の殺人鬼サム・ブレイディみたいに素人そのものなのだ。

 退魔巫女たちが絶対的に無敵なのは、鍛え上げられた格闘スキルの差もあるのだろう。

 持って生まれた素質と肉体能力だけでは戦いには勝てない。

 研鑽と努力こそが、戦士を頑強に作り上げる。

 その意味で〈社務所〉の退魔巫女たちはすべて真の戦士揃いだった。

 ロープの反動を利用して、左右から揺さぶりをかけながら反応を見るが、その程度では〈赤帽子〉は動じない。

 横合いからカニバサミを仕掛けても、その程度の奇襲ではまるっきり意味がない。

 だからマット上を吹きすさぶ颶風に耐えながら、御子内さんは隙を窺うしか、あの赤い帽子を狙う術はない。

 

 ―――はずだった。

 

 息を止めながら観戦を続けていた僕は、御子内さんがあえて風に耐えているということがわかった。

 手斧による致命傷と風の魔術による時折の斬撃については躱すことに集中してじっと様子を見ている。

 いや、呼吸法からすると、ずっと練気を続けているのだ。

 普通の彼女ならばすでに必要なだけの〈気〉は蓄えられているはずなのに、それをさらに増やしているのだ。

〈気〉でもって何かを行おうとしているかのように。

 基本的に彼女たちの気功は外に向かうものでなく、内に作用するものだ。

 要するに人の能力を高めるためのものと言っていい。

 だから、彼女が練っている〈気〉は御子内さんの潜在的な能力をあげるためのものであることは間違いない。

 しかし、普段でも段違いの能力をさらに高めて何をするつもりなのだ。

〈赤帽子〉が近づき、容赦のない前蹴りが腹に突き刺さる。

 いつもの彼女なら躱せていたものだが、為すすべもなく食らってしまう。

 死なない程度の業ならば受けてしまっても構わないということだろう。

 嵩に懸かって蹴りつける〈赤帽子〉。

 手斧だけは防ぐものの防戦一方、凌辱され、リンチされる一方の御子内さんだったが、目は死んでいない。

 ガードした手の隙間から覗く眼光は鋭いままだ。

 手斧の柄が振るわれた。

 額に当たり血が飛び出る。

 血飛沫。

 それが両眼に入ったのか、さすがの彼女の顔も歪んだ。

 隙を見逃す怪物ではない。

〈赤帽子〉が渾身の力を籠めて刃物を叩きつけた。

 これは避けられない。

 目を塞がれている状況ではいくらなんでも無理だ。

 

「御子内さん!!」

 

 僕は叫んだ。

 

「うらあ!!」

 

 のけ反っていた御子内さんが上半身を戻す。

 同時に―――退魔巫女が()()()()()()

 正面と斜め左右に三人の御子内或子が出現したように見える。

 対峙している〈赤帽子〉なら尚更だろう。

 まるで分身の術だ。

 しかし、人間が分身なんてできるはずがない。

 つまり、御子内さんは超人的な歩法を使い、幻惑させているだけなのだ。

 それがどれほどのものなのかは想像もできない。

 人の限界を越えた動きを―――わかった、さっきの〈気〉で引き出したのだ―――見せて、邪妖精に襲い掛かる。

 

『キィェエエエエエ!!』

 

〈赤帽子〉は手斧を振るった。横に。

 そうすればすべての御子内さんを捉えられる。

 

 ―――訳がない。

 

 分身の術と思われるぐらいに引き上げられた限界的機動がそんなもので破られるはずがない。

 手斧は無意味に宙を切った。

 そして、次の瞬間、〈赤帽子〉の背後に御子内さんは飛んでいた。

 後方高く舞い上がり、両足を〈赤帽子〉の首にかけて、固定して、捻る。

 勢いに負けて妖精は横に転がされ、マットに倒れる。

 御子内さんが両手を合わせ、肘を赤い帽子目掛けて突き立てた。

 あの肘には彼女の極限まで高めた〈気〉がこめられているはず。

 そんなものを受ければ、〈赤帽子〉の帽子とて潰れる。

 やられた瞬間、妖精には何が起きたかさえわからなかっただろう。

 上から見ていた僕らでさえも一瞬すぎて不明だったのだから。

 あとで技を出した本人から解説をしてもらってようやく把握できたという程度なのではあるが。

 倒れた〈赤帽子〉は10カウント後に消えていった。

 今回は憑りつかれていたということもあって、消えていったのは緑の服と赤い帽子だけであったが、それにしても極限の戦いだった。

 さすがの御子内さんがバテてマットの上で倒れてしまっているほどに。

 

「大丈夫?」

「うん、まあ、なんとかね」

「動けるかな」

「もうちぃと待ってくれないかな。……あんなもんを開くと身体がバキバキでしばらくは立ち上がることもできそうにないからさ」

 

 ここまでバテた彼女をみることはほとんどない。

 

「凜花ちゃん、凜花ちゃん」

 

 千夏子さんが凜花さんを介抱していた。

 命に別条はないらしいが、まだ気絶したままだ。

 なんだかんだいって、今回、僕らはまだ豊ノ橋凜花という女のことまともに喋るどころか起きている顔を見たことさえない。

 まったく、いつもとは違う退魔の仕事だったね。

 

「あいつ、まだいるよ」

 

 御子内さんが頭上を仰ぐと、そこには確かにシーリー・コートが飛んでいる。

 

「ボクは動けそうにないから、京一が話を聞いておいてくれないか。場合によっては、あいつも倒さなくちゃならないしね」

 

 御子内さんのために〈護摩台〉を用意してくれた恩はあったとしても、彼の正体はまだ不明なのだから、その用心は当然のものといえた。

 

 

 

 



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たった一つの決めたやり方

 

 

 凜花さんの意識はすぐには戻らなかったが、さっきまではまったくなかった寝返りをうつ行為などもし始めていたので、遠からず目を覚ますだろうと思われた。

 彼女と御子内さんを楽にさせてから、僕と千夏子さんは洋館の玄関まで向かった。

 未だ閉ざされた門の外には、例の白い青年―――シーリー・コートが所在無げにぽつんと突っ立っていたが、僕らを見てにっこりと微笑んだ。

 心の芯まで温かくなるような、そんな微笑みだった。

 

「―――えっと、〈赤帽子〉はどうしたのかな?」

「あなたの目的はこれでしょう、シーリー・コート」

 

 千夏子さんが手にしていたのは、一本の腕だった。

 十センチほどの大きさで、まるで人形のもののようだ。

 ただ、僕はこれが凜花さんの口の中から吐瀉物と一緒に蟲のように這い出してきたところを目撃しているので、人形のものみたいなんて牧歌的な気持ちにはなれない。

 おそらくはこれが原寸大の妖精・怪物こびと〈赤帽子〉の腕なのだろう。

 こんなものがどうやって女の子の口の中に侵入してしまったのかはわからないが、千夏子さんに言わせると「この腕が持ち主のもとに帰ろうとしたら、人間の肉体を乗っ取るしかない訳だから、きっと夜中に這いまわって凜花ちゃんに潜り込んだのでしょう」と恐ろしい話をしていた。

 怪談の猿の手じゃあるまいし、こんなものがてけてけと這いずり回っている光景は想像もしたくない。

 ただし、御子内さんにやられてようやく憑りついていた肉体から出てきたという訳だ。

 こんな風に見えてもまだ動いているのが、生きていることの証しとでもいうのか、無気味でしょうがなかった。

〈護摩台〉に封印されずにいたのは、おそらく凜花さんの体内に潜り込んでいたからだろう。

 ほぼ同化していたことも理由の一つだろうが。

 

「この汚らわしい腕をさっさと〈妖精郷〉に帰してちょうだい」

 

 鉄の柵越しに千夏子さんが腕を伸ばした。

 シーリー・コートも手を伸ばしたが、すぐには受け取らない。

 男とは思えぬ美貌をしかめて哀しそうに言った。

 

()()()()()()来てくれないんだね」

「無理よ。もう、あなたは()()()()の存在。わたしとはもう交わることもない光と影になったのよ」

「とはいっても千夏ちゃん。ぼくはまだ」

「帰ってちょうだいな、シーリー・コート。わたしの親戚はもう死んだのよ。あなたはただの残骸。人間ではないんだから」

 

 冷たい言葉だったが、決して本心ではないと思いたい。

 でなければ、千夏子さんの足が微かに震えていたりはしないはずだ。

 シーリー・コートはしばらく哀しそうな顔をして、無言のまま踵を返した。

〈護摩台〉を宙に浮かせて庭に落とすなんていう、ありえない超現象を引き起こしたはずの人外の化生にしては普通の青年のような背中を見せて。

 

「いいんですか?」

「いいのよ。わたし、今年で四十八になるけど、あの()、幾つに見える?」

「二十代前半……いや二十歳ぐらいに」

「本当なら、もう七十二歳なのよ。あの人は」

「え……」

 

 妖精の力があるとはいっても、そんな……年齢には見えない。

 不老不死、ということか。

 

「時の流れが違う人間と妖精は共にいるべきじゃないわ。だから、わたしは研究はするけれど彼らと共生しようとはしない。むしろ、人間と妖精の接点を失くしたいと思っているぐらいだから」

「そんなものなんですか」

「そのうち、あなたにもわかるわ。人間と妖精―――あなたたちなら、人と妖魅と言い換えるのかしら? それは共に生きる存在ではないということを」

 

 千夏子さんは自分に言い聞かせるように、そのまま洋館に戻っていった。

〈赤帽子〉の痕跡を消すためだろう。

 なぜか、そんな気がした。

 彼女はできることならば妖精とは関わりたくない。

 しかし、関わらなければ消せない痛みがあるから、嫌なことだとわかっていても続けているのだろう。

 きっと僕程度のお子様では踏み込んではならない大人の傷痕なのだ。

 

「―――千夏ちゃんは難しく考えすぎなんだよね、うんうん」

 

 愕然と振り向いたら、去っていったはずのシーリー・コートが門柱にもたれかかって腕組みをしていた。

 さっきの胸が締め付けられるような表情も雰囲気も欠片もない。

 春風駘蕩とした飄々さだけが漂っている。

 あれ、もしかしてさっきまでのは―――

 

「演技、だったんですか?」

 

 だとしたら、かなり千夏子さんが可哀想なんだけど。

 

「そういう訳じゃないよ。千夏ちゃんとは顔合わせづらいのは事実だしね。っていうか、ぼくも仕事できているものだからやることはやらないとね」

 

 ビジネスライクなことを言っている。

 ただ、そのあと、どういうわけか足元のあたりを思いっきり踏みつけて、

 

「おまえたち、うるさいよ。密告したければすればいいだろう。シーリー・コートが故郷に帰ってきたからって遊んでいたってね。ただし、そのあとでおまえたちをパックの熱い接吻(ベーゼ)の刑に処してやるからさ!」

 

 不可視の何かに向けて毒づいていた。

 傍から見ると残念な美形だが、あれほどまでの奇跡を見せつけられたら素直にそういうものだと納得せざるを得ない。

 きっとあそこには僕には視えない妖精か何かがいて、それとシーリー・コートは会話をしているのだろう。

 もっとも、可哀想な子供のいうところの()()()()の可能性もわずかだが存在はするのだけれど。

 

「……仕事って〈赤帽子〉を捕らえることですか?」

「あたり。でも、それだけでもない。最近、この国―――ぼくの故郷なのだけれども―――に色々とうちの〈妖精郷〉から脱走者が入り込んでいるんで、それの調査をしなければならないんだよ」

 

 まさか、ロバートさんのことだろうか。

 それは黙っておこうと心に決めた。

 

「……さっきの巫女さんにしようかなと思ったんだけど、貴方でもいいや。一つ、忠告しておくよ」

「なにを……ですか?」

 

 シーリー・コートは口に手を当てて、

 

「今年の夏ぐらいに、イギリスがEUを離脱するから。ついでにアメリカの大統領もおそらくあの威勢のいいアンクル・サムになるよ」

「どういうことですか」

 

 急に訳のわからないことをいいだす青年だった。

 あまり世界情勢に詳しくない僕でも、イギリスのキャメロン首相がこの間、国民に対してEU残留を問う国民投票を実施すると発表したのは知っているし、アメリカ大統領選挙に過激な発言を乱発するトランプという候補がいることも知っている。

 だけど、イギリスほどの大国がいくらなんでもヨーロッパの秩序をぶち壊しに走るとは思えないし、腐ってもアメリカがあんな過激な人を大統領にするはずがない。

 自由と民主主義を謳っている国なんだよ。

 だから、シーリー・コートの言っていることは眉唾ものだった。

 しかも、なんで急に政治の話が……

 

「世界はこれからグローバリゼーションは鳴りを潜め、自国と同盟国だけの保護主義になっていくだろうね。人と物、情報の行き交いよりも自国の秩序と安定が大事になっていく。どこの国もね」

「……だから、その」

「でも、ぼくや貴方がいる世界は違う。闇の奥底、淀んだ澱の中、あちらの世界。―――そこでは先鋭的すぎるグローバリゼーションが始まっている。あらゆる妖魅や怪物、死霊や魔物が、人間とともに他国や他の地域に赴き、何も知らない民草や同類を刈り取っていき、地獄を産みだす魔界のグローバリゼーションさ。それが始まっている」

 

 何かが引っかかった。

 シーリー・コートの言い分に、僕の記憶にある何かが。

 

「なぜ、イギリスがEUを離脱するか、わかるかな。あの国では家しか買えない。土地は買えないんだ。土地を手に入れることができるのは貴族だけで、売買できるのは正確には借地権だけ。貴族がもっていない土地の残りは女王様のものだ。……その土地を独占している貴族たちが決めたのさ」

「どうして?」

「さらに真実を言うと、大陸からやってくる化け物どもと戦うための足枷にならないように妖精たちと眠り続けている神々、英雄たちが働きかけたんだよ。大陸とは距離を置けと、ね」

 

 妖精は言う。

 

「現在、世界は乱れに乱れている。何故か? それは地球の表面に走る、星の力であるレイ・ラインが暴走し、濁流となって世界中を駆け巡っているからだ。星の力は、何千年も眠っていたものたちを呼び起こし、そいつらがまた、眠っているやつらを焚きつけ、さらに連鎖していく」

「レイ・ライン……ってまさか」

「世界の秩序は乱れに乱れた。これから闇の妖魅や魔物たちの跳梁跋扈が始まる。この世の闇が活性化する。それはイギリスでもアメリカでも―――このぼくの故郷でも、だ」

 

 シーリー・コートは自分の故郷に警告を与えに来たのか。

 

「だから、貴方たちも備えることだ。モラルを産みだすのは()だ。晒し首だけが世界を守る。鉄拳と鉄剣のみが贖える。―――最強の守り手を育てることだね。それだけがこの国に生まれた美しい恋人たちを護る、たった一つの冴えた手段なんだよ」

「あ、なたは……」

「健闘を祈るね」

 

 僕の肩をぽんと叩くと、そのまま彼は消えてしまった。

 手を門の中に差しこむことができたということは、きっと本当はここの敷地にも入れたに違いない。

 でも、あの妖精なりの考えがあって、御子内さんと僕にすべてを委ねたのだろう。

 あと、千夏子さんにも。

 

 瞬間移動でもするかのように消失した妖精の言葉を思い出す。

 色々と言葉を誤魔化してはいたけれど、彼の忠告はきっとこれからの世界の行く末を案じたものなのだろう。

 最近、日本に増えたという外来種の妖怪や怪物のこと、そして年末に僕を誘拐した神撫音ララさんのこと、あの風の邪神の眷属。

 すべてが迫りくる災害の予兆となっている。

 いつか、そう近い将来、きっともっと恐ろしい災いがこの日本に襲い掛かるだろう。

 そのとき、僕や御子内さんはどうするのだろうか。

 

「……いや、まあ、御子内さんだしね」

 

 僕は首を振った。

 未来がなんとなく想像ついた。

 脳裏の中で何年後かの彼女がこれまでのように元気に戦っている姿が浮かんだからだ。

 

「あの御子内さんが為すすべもなく死ぬなんてありえない」

 

 だったら、僕はついていくだけだ。

 もう随分と前に決めておいたことをやるだけ。

 

 それはとても簡単なことのような気がした……

 

 



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