【完結】ロッシュリミット/TS転生してモブを主人公と勘違いする話。 (潮井イタチ)
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1/イントロダクション・エレクトロクション

 闇の中、男が追われていた。

 

 何に追われているのか、

 どうやって追われているのか。

 

 奇妙なことに、分からない。

 男自身でさえ、わかっていないのかもしれない。

 見る限りでは、ただ彼が必死に走っているようにしか見えなかった。

 

 だが、その涙混じりの顔は、本物の焦燥感に塗れている。

 これが命のかかった逃走であるのだと……少なくとも男がそう信じているということを、否応なしに確信させる。

 

 助けは呼ばない。いや、呼べない。

 男はむしろ、人との接触を避けてここまで来たのだ。

 だってこの現代に『アレ』を持っていない人間なんていない。

 ダメだ。『アレ』に近づいたら死ぬ。

 殺されてしまう。

 

 使われなくなった地下駐車場――そこが、男の目指した隠れ場所だった。

 ここなら誰も居ない。『アレ』だって無い。

 

 だから、ようやく一息つこうとして――

 

「――あのー、すいませーん、ここ、この間から工事で立ち入り禁止になってましてー」

「ひ……っ!?」

 

 ヘルメットを被った作業員数人に出くわし、呼吸が止まった。

 照らされるライト。立ち竦む男。

 滝のように落ちる冷たい汗。全身の震えが止まらない。焦点の合わない目は、瞳を異常に痙攣させている。

 

「……あのー、ちょっと、聞いて……聞こえてます?」

「警察……いや、救急車……?」

 

 困惑したように囁き合う作業員たち。

 その内の一人が、ポケットの中のスマートフォンに手を伸ばした瞬間だった。

 

 着信音が鳴った。

 全員の携帯電話から。

 

「なんだ……非通知?」

 

 軽やかな木琴。電子的な和音。シンプルなアラーム。有名曲のサビ。

 それぞれのサウンドが鳴り響き、止まらない。

 音量と周波数、そして、画面の明るさが、機器に許された限界を越えて上昇していく。

 それぞれが慌てて画面をタップするが、彼らの携帯はもう何の反応も返さなかった。

 

 直後、臨界。

 

 超輝度の液晶から、青と紫の稲妻が散る。

 

『……磁……』

 

 溢れ出した電磁力は獣の形をしていた。

 迸る電撃が、四足歩行を取って唸り声を上げる。

 

『磁、磁……ッ』

 

 突如として現れた超常の雷獣。

 気づけば周囲は、まるで破損した映像のような虹色混じりの砂嵐(ノイズ)に歪んでいた。

 獣が恨みがましい眼で男を睨むと共に、砂嵐(ノイズ)の一部が鮮明に――文字化けを含んだゴシック体の文字列へと変わっていく。

 

【ニートは縺輔▲さと自殺しろ】【甘え繧なカス】【引き縺薙bりが生きてていいわけねーだろ】【お前縺何様だよ】【親に迷惑縺けてるっていい加減自覚しろ】【害虫】【何被害者面し縺ヲ繧だ】【人権無い】【馴れ合蜷医キモい】【最低限の知性も無い】【自慰なら一人でやってろ縺ナ猿】【言い訳するな】

 

 血を流すように、魔獣の体表から零れる罵詈雑言。

 一歩、一歩と、躙り寄るように怪物が近づき、腰を抜かして尻もちをついた男が、それでも必死に後退ろうと足を動かす。

 

「ちが……ちがっ……! そんな、そんなつもりで書き込んだんじゃ……ほ、本当、軽い気持ちで……! 待って、謝る、謝るからッ!!」

 

 悲鳴と命乞いが聞き届けられることはない。

 作業員たちも、全員がただ、青い顔でそれを傍観することしか出来なかった。

 あり得ない。なんだこれは。現実じゃない。こんなわけのわからないことがあるはずない。

 そんな常識への批判文は、何一つ受け入れられぬまま。

 

 雷光が牙になって瞬く――

 

 ――その、直前。

 

『磁、ギッ?!』

 

 刃の輝きが、矢となって怪物を貫いた。

 どこからか擲たれた一撃が、男を喰らおうとしていた魔獣の影を吹き飛ばす。

 

 攻撃が放たれてきた場所。

 

「――こちら、切断業者(マスプロカット)

 

 そこに、少女が立っていた。

 

 小柄な少女だった。年齢は恐らく、中学生ぐらい。

 丈の短いノースリーブの黒いドレスに、上から羽織ったミリタリージャケット。両の腕に巻かれた白い包帯。

 目深に被ったフードから溢れて(なび)いているのは、淡い桜色のロングヘアだ。

 覗き込めるはずの顔の造形は、作為的なほど絶妙にフードに隠されて分からない。だが、それでも整った顔立ちであることだけは直感できる。

 

「既知超常脅威、コード:感電死の猟犬(エレクトロクション)022号を捕捉しました。現場に民間人が数名……いえ、未遂です。被害はありません。はい、即座に終了します」

 

 少女が耳元に当てていた手を離し、どこかへと繋いでいたのであろう通話を打ち切る。

 

 はぁ、と形の良い唇から零れる、疲れ切った小さなため息。

 振り払うように顔を上げる。半ば無理矢理に吊り上げられる口角。フードの中から一瞬だけ、シグナルレッドの眼光が魔獣に向けて煌めいた。

 

「――よーし! じゃ、陰気臭い伝奇モノの導入シーンはここまで! こっからは僕の僕によるみんなのための痛快アクションってことで! 張り切っていこっかぁ!」

 

 唐突なほど場違いに明るい声音。邪魔をされた怪物が咆哮を上げ、少女を不快げに威嚇する。

 彼女は気にも留めない。宙に向けてひるがえされる、細く白い少女の手。

 

「再現率30%――カッターナイフ具現!」

 

 直後、何十本ものカッターナイフが何も無い虚空から現れ、射出された。

 

 貫く。貫く。貫く。連続する風斬り音。鋼の刃が群れを成して、魔獣の体を打ち据える。

 

 だがしかし、怪物の体にダメージは無い。

 何故か。実体が無いからだ。

 あれは雷、電磁波の塊。物理的な手段でどれだけ攻撃しても、損傷を与えることは出来ない。ただいたずらに体を怯ませるだけで、有効な被害を受けさせられない。

 

 五月雨のような攻撃を耐えながら、怪物が少女に向かって牙を剥く。

 口腔内に貯まっていく、大エネルギーを帯びたプラズマ球。

 ()()が来る――誰もがそれを直感した。

 

 しかしそれと同時に、少女も準備を終えていた。

 左手で右の手首を握り、右の中指と人差し指を目標へ。まるで拳銃を構えるように。

 

 怪物の口内から、プラズマのビーム砲が放たれるのと全く同時――

 

「ダメージバレット――(スラッシュ)(シュート)

 

 ――指先から射出された紅色の斬撃波が、ビーム砲ごと怪物を両断した。

 少女の腕に巻かれた包帯の一つが反動の衝撃に剥がれ飛ぶ。露わになった箇所から覗く、傷一つ無い瑞々しい肌。

 

 断末魔は呻くように。

 引き裂かれた稲妻の獣が、ただの電磁波に還っていく。

 

 対処を終えた少女は怠そうに手を下ろしつつも、活気溢れる雰囲気で男性たちに声を投げた。

 

「大丈夫でした?! 怪我は……無さそうですね! よかった! もう安心して良いですよ、後で事後処理の人たちも来ますからね!」

 

 作業員たちがいつの間にか止まっていた呼吸を再開し、追われていた男が力を抜いてへたり込んでいた。

 

 ――この街には、都市伝説がある。

 電脳世界に潜む猟犬。見れば必ず事故に遭う標識。幽霊だけが登校する一年零組。この世の全てが借りられるレンタル屋。

 日毎に語られ、日毎に消えていく幾つもの伝説。

 その中で、未だに掠れぬたった一つの物語。

 

 街の影でただ一人、人智及ばぬ真の脅威に立ち向かっている、本物の英雄。

 

 その少女の名は――

 

「ですので、やはり……はい、記憶処理については……はい、そうですか、分かりました。いつも通り『通り魔被害』の適用で」

 

 ばしゅん、と音を立てて、少女が取り出した小さな機械から、白亜の光が閃く。

 

 直後、これまでの超常現象の全ては、少女を除く全員の脳内から消え去っていた。

 男も作業員も、あれほどの異常事態を何も覚えていない。

 ただ、『男性が通り魔に追われていて、通りすがりの警察協力者がごく普通の手段で撃退した』――それが彼らの記憶に残る、欺瞞されたエピソードの全てだった。

 

 困惑しつつも礼を言う彼らへ言葉少なに頷き、少女は背を向けて去っていく。

 

 誰も居ない場所まで来た途端、消え去るドレスとミリタリージャケット。

 

 入れ替わるようにただのセーラー服に身を包んだ少女は、誰にも聞こえない声で、一人小さく呟いた。

 

 

「……さっきの、何作目に出てくる敵だっけ?」

 

 

 


 

 

 

 ――あれ、これ僕が好きだったゲームの世界じゃね?

 

 ってのに気づいたのは我ながらかなり早かったと思う。多分転生してから半年かそこら。

 転生なんてオカルト現象起きてるぐらいだしこの世界、ごく普通の現代社会に見えて実はファンタジー系のアレなんじゃないのぉ? と思って注意払ってたらその辺の公園にふっつーにゲームの(エネミー)がいた。

 ちなみに僕以外の常人(モブ)には見えてなかった。昔、小学校の男子に教えてやったら死ぬほどビビってビーバーの絶叫みたいな悲鳴上げてたのを覚えている。ウケる。

 

 ゲームジャンルは一人用アクションRPG。恋愛要素は控えめだが、各ヒロインに対応した大筋を違えない程度のルート分岐アリ。

 

 この現代社会の裏では、我らの想像も及ばぬ人智を越えた多くの存在がひしめいている。

 人々の安寧を守るため、世間に知られることなくこれらの脅威を仲間と共に打ち倒せ――とか、まあそんな感じのよくある現代伝奇モノだ。ややSF風味だけど。

 

 前世ではかなりの人気を誇っており、シリーズ化もされ、新作の初週売上は余裕で十万本突破。

 アニメ化・ソシャゲ化・コミカライズ・ノベライズその他諸々のメディアミックスも当然のごとく行われ、そのほとんどが上々の売上を記録しているゴリゴリの商業的成功作である。

 

 で、まあそんな感じの人気作ではあるものの、世界観的には大分ダークっていうか陰鬱で陰惨だ。

 そこらの路地裏でポンポン人が変死・発狂死・凌辱死する上、「人々の安寧を守るため」ってんで関係者は全員記憶処理され、被害者はその辺で適当に焼却される。メン・イン・ブラックだ。こわい。この作品には犯罪暴力セクシャル薬物その他諸々含まれます。

 

 しかしながら、そんな陰鬱さを吹き飛ばす主人公たちの輝きこそがこの作品最大の魅力だった。

 

 鬱だの胸糞だの曇らせだの知ったこっちゃねえとばかりに疾風怒濤の浄化(カタルシス)を通り道に残していき、行き詰まった盤面もどうしようもない状況もおおむね友情努力勝利でブチ抜き最終的には大体腕力で解決する。

 

 結果として時折そうはならんやろという感じの無茶なストーリー展開がなされることもあるのだが、その辺もなんやかんや誤魔化されるぐらいにとにかくキャラに魅力がある。

 

 特に僕の最推しであるメインヒロインの一人、星住(ほしずみ)御天(ミソラ)ちゃんなんかはスピンオフでもキャラ人気が出過ぎてスピンオフのスピンオフだのスピンオフのスピンアウトだのスピンオフのIFだのスピンオフの過去編だのなんだのかんだのまで展開している。全部は僕も追え切れてなかったけども、スピンオフの過去編については特に人気だしオススメ。満身創痍になりながらギリギリのところで単騎で()()()の市民を守り切った回はシリーズ通して見ても最高のベストバウトだと思う。今思い返しても泣ける。あっていうかヤバい言ってるそばから涙出てきた。感極まって死にそうってか死にたい。

 

 そんな感じで好きな作品ではあるものの、転生したいかどうかって言うと9:1でしたくない。

 うん。したくないよ基本的にはほぼ日刊世界の危機だよこの世界。滅びの頻度が半端ない。

 つーかなんと言ってもモブの命が塵埃に過ぎる。人命は脅威存在のおやつじゃないぞ。

 

 というわけでしたくない。したくなかった。

 したくなかったのだが……。

 

 ――でも僕ってほら、チート転生者だし?

 ――TS転生ピンク髪スレンダー美少女だし?

 ――みんなから色んな意味でちやほやされてるし?

 ――所属組織である『軍』でも諸々の意味で一目置かれちゃってるし?

 ――前世で最推しの原作ヒロインと週二で会って二人きりでお話する仲だしぃ?

 ――って言うか不本意ながらもそのヒロインの出番奪ってメインキャラばりに活躍しちゃってるしぃー?

 

 まあこれならバリバリに転生しちゃうって言うかむしろ本懐遂げてるまであるよね!

 

 現状、僕のスペックだと終盤の敵やボス格には及ばないとはいえ、本編開始前の今の時期ならレベル的に特に苦戦する敵もいなくて原作のネームドが出ない限りは基本的に無双状態なんだよね。うーん鍛え上げて身に付けた強大な力で弱者を思うようにあしらう時の気持ちよさと優越感。

 

 こんな楽な仕事してるだけなのに学校とかも簡単にサボれちゃうし、所属してる『軍』の秘密組織パワーで受験も受けてないのに原作の舞台になる高校の入学も確定してる。今日なんかは中学の卒業式までブッチしてきたほどだ。今更我が師の恩とか歌ってらんねーわ! 前世含めて何度目だよ卒業証書授与って感じだしね!!

 

 そんなこんなで本日もサクッとお仕事を終えて、現在はさっきも言った最推しの原作ヒロインである御天(ミソラ)さんと二人っきりでデート中なのである!

 

「というわけで! 今日も今日とて大活躍だったわけです! もー最近は脅威存在の量も質も落ちに落ちてまして! 毎度毎度楽勝も楽勝であーあーこのままじゃ腕錆びついちゃうなーほんとになー!!」

「…………」

 

 無言。いつものことだ。いや、うん。自分の言動がウザいことぐらい流石に自覚している。別に普段からこんなんじゃないし。御天(ミソラ)さんの前でだけだ。

 

「あ、そういえば今日中学の卒業式あったんですよ卒業式! かったるいのでほっとんどサボっちゃったんですけどー、仲良い後輩とかー、高校が別になる子とかもうべちゃべちゃに泣いちゃっててー、いやそこはちょっと悪いことしちゃったなーってなっちゃいました! やー友達多いのも困りものですよねー!!」

「…………」

 

 返答無し。うーん悲しい。好感度がカスになっていく確信! せめてもの心配りとばかりに投げ出されたおみ足をマッサージさせていただく。膝関節を曲げ伸ばし。ぐにぐに。うわ、細い。

 

「えっと、そうだ! 今度、集合写真とか持ってきますね! しばらく春休みで暇なので何なら毎日来ても……あ、いや、流石に迷惑かな?! その、そういえば僕の方も予定あったんでした! 卒業旅行とかカラオケとかなんとかかんとか……」

「…………」

 

 返事は無い。御天(ミソラ)さんはぼーっと天井を見上げたままだ。いやー最近はなんかもう視線も合わせてくれないな。多分もう飽きられてる。呆れられてるかもしれない。仕方ないよね。美人は三日で飽きるって言うし。すいません可愛くて。

 

「あっいえ、心配せずともお仕事の方はちゃんとしますよもちろん! 烏滸(おこ)がましくも御天(ミソラ)さんの代理なわけですしー! あーでも最近は本当危険度も下がって治安やらも良くなってきてるんでらくらくなんですけどね!! 僕もう才能バリバリですし『軍』の皆さんも待遇良くしてくれてますしお給料も良いですし!! 何ならもうこのままずっと御天(ミソラ)さんの代わりやってても全然大丈夫っていうか……」

「…………」

 

 言葉は返ってこない。

 ……えっと、他に何話そう。まだ時間は残ってるし……。

 

「……あの、ですから、その……」

「…………」

「心配することなんて何も無くて……」

「…………」

「僕はもう、毎日ずっと楽しくって……」

「…………」

「今日も、御天(ミソラ)さんと会えるのすっごい嬉しくて……だってほら、僕の命の恩人だし……ずっと憧れてた人だし……」

「…………」

「……だから、本当、人生幸せで……」

「…………」

 

 言うことが思いつかなくなった。

 

 ピ、ピ、ピ。

 僕の声でかき消されていた心電図モニターの音が、静かな部屋の中に響いている。

 

 病室の中っていうのはどうしてこう、心が沈んでくるんだろう。

 酸素が薄いような気がして、息が苦しい。

 御天(ミソラ)さんはどうなのだろうか。苦しいのかな。苦しくないと良いな。自発呼吸が出来ない状態で人工呼吸器で自動的に空気を送られるのって、どんな風に感じるんだろうか。想像できない。

 

 最近はもう、ずっと顔色が悪いような気がする。

 血行の問題じゃないんだろうなと思う。それでも、寝たきりで関節や筋肉が拘縮し(こわばら)ないように、ゆっくり、痛まないように、身体をマッサージする。

 

 ……もうあんまり、触覚とか痛覚、無いらしいけれど。

 

 早く面会時間が終わって欲しくて仕方なかった。

 そんな自分が泣きそうになるほど嫌だった。

 

「……すぐ、良くなりますから……」

「…………」

「もう少しで、物語(ストーリー)が始まって……助けてくれる人が……主人公(ヒーロー)が来る、から……」

 

 いけない。

 命を賭けて助けてくれた人に、助けられた僕が、こんな顔をしていちゃいけない。

 せっかく助けた相手が、幸せになっていないんじゃ、助けた意味がなくなってしまう。

 

 面会時間が過ぎて、僕は笑顔で手を振って病室を後にする。

 

 病室が付設されているのは、公的な医療機関ではない。

 人智を超えた脅威を人知れず排除する、世界的な対超常性組織――通称『軍』が所有する、地図に載っていない軍事施設の一画だ。

 

 俯いて廊下を歩いていく。

 その途中で、背の高い、黒いスーツ姿の女性と出くわした。

 

「司令官……」

「……今日も、星住の見舞いか? 在城(ありしろ)

 

 司令官の言葉に、僕は小さく頷きを返す。

 

 本名、在城(ありしろ)(キザミ)。コードネーム、切断業者(マスプロカット)

 それが、今世における僕の名前だ。

 

 どうせ無理だと分かっていながら、僕はいつも通り、司令官に確認する。

 

「あの……超常物品の利用申請なんですが――」

「却下だ」

 

 内容を聞くより早く、司令官が僕の言葉をにべもなく切り捨てる。

 

「確かに、我々『軍』はおよそ万能薬(エリクサー)と呼べる絶対の超常的治療薬を所持している。傷の程度・症状の軽重に関わらず、ありとあらゆる人体への悪影響を超常由来のもの含めて、完全に取り除き回復させることができるアイテムを。その総所持数は現在、二十九個であり、そして全てが使い捨てだ」

 

 言いながら、司令官が廊下の壁を顎で指し示す。

 正確には、そこに延々と続く、回復の見込みが無い『軍』のエージェント達の病室を。

 

「七十四名だ。エージェント・星住――コードネーム・星図製作(スターチャート)と同等に有用で、同等かそれ以下の状態の者が、だ」

 

 知っていた。そう言われることは。

 

「――言いたいことは、分かるな?」

「……はい」

 

 すいませんでした。

 そう言って立ち去ろうとする僕を、司令官が引き止める。

 

在城(ありしろ)

「…………」

「お前とさして年も変わらんとはいえ、星住も『軍』のエージェントだ。こうなるのも覚悟の上で、あの二百人を守ろうとしたのであって――」

()()()()です、司令官」

 

 そうだ。

 ()()()()()()()()()

 僕が居たから、一人増えた。

 

 だから、ああなった。

 

「おい、在し――」

 

 堪えきれなくなって、気づいた時にはその場を走り去っていた。

 

 ……物語(ストーリー)に介入する気なんて、無かった。

 無かったつもりだったのだ。

 

「っ、ぐ……ぅ、ぅう……!」

 

 思い出したくないのに思い出してしまう。忘れてはならないあの日のこと。その時の自分の愚かさと一緒に。

 

 ただ、性別が変わっただけの今世が、前世とあまり変化が無いように感じられて。

 せっかくの二周目なのに……なんだか、パッとしないなと、思って。

 このまま、端役(モブ)のままで終わるのが、少しだけ、嫌、で……。

 主役たちと、少しぐらい、関われたら良いな、って……。

 

 本当に、屑だ。

 死ねばいいのに。

 

 もう頭の中はぐちゃぐちゃだった。見舞いの日はいつもこうなる。本当はもう行きたくない。そう考える自分を殺したくなる。

 一人で住んでいる安アパートの一室に帰って、崩れるようにフローリングに倒れ込んだ。

 見れば、足元に卒業文集が置かれていた。クラスの誰かが届けに来ていたのだろう。面倒くさかっただろうな。きっと押し付け合いになったはずだ。ろくに学校に通ってもいない僕に、友達なんて一人も居ない。

 

 ……ああ、そう言えば、また御天(ミソラ)さんに適当なことを言ってしまった。

 後で、僕の写っている集合写真を上手い具合に画像合成しておかなきゃいけない。

 

 春休みの全てが仕事で埋まった予定表を見ながら、僕はただ無気力に項垂れていた。

 

 


 

 

「貴官のこれまでの調査により、ついに、コード:感電死の猟犬(エレクトロクション)()()が判明した」

 

 翌日。

 司令官に呼び出されやってきた、『軍』の作戦拠点。

 ゲーム内でも、何度か主人公のホームとなる場所でもある。

 

 手渡される書類。そこに、対象の名前と身元が記されていた。

 咄嗟に、静かに目を逸らす。それでも相手が人間で、女性であることは分かった。

 

「当然だが、能力者だ。そして、これまでにネット越しに四十人以上殺した大量殺人犯でもある。これ以上の被害者を出す前に――終了(ターミネート)しろ」

「……了解です」

 

 それ言ったら僕なんて百六十八人殺してるけどね。『軍』じゃ超常性を終了することを人殺しとは言わないけれど。

 とはいえ、今回はまだ気が楽な方だった。

 何の罪も無い感染者や、記憶処理が効かなくなってしまった人、自身が孕んでいるものに無自覚な母体なんかを相手にするよりは余程良い。

 もうこういう悪人の相手だけさせてくれないかな。

 

「今回のターゲットは極めて凶悪な超常性を有しており、仮にこの呪殺的能力が広範に拡散すれば、最悪、人類が終わる。心してかかれ。いつもの事と思って聞き流すんじゃあないぞ」

 

 末尾の一文が本当に酷い。最近こればっかだ。『本編』が近づいて来てるせいで明確に敵の質と量が上がっている。毎度毎度ミスったらワンチャン人類の危機とか、切実に勘弁して欲しい。マジで病む。

 

「そして、当脅威に関する有意義な報告を迅速かつ詳細に挙げ、対応策を考案した貴官には、任務完遂時に相応の評価が下される」

「……!」

 

 それは、つまり――

 

「有り体に言えば、昇進だ。……更にもう一つ階級が上がれば、例のアイテムの使用申請も、場合によっては、検討できる」

「っ――ありがとうございます!」

「可能性の話だ。それに、これはあくまでお前のこれまでの成果に過ぎん。数々の問題行動に関して目を瞑ったこともなければ、多大なる貢献を軽んじもしていない」

 

 言って、彼女は普段の鉄面皮をほんの少しだけ緩めてみせた。

 

「……しくじるなよ」

 

 僕は大きく頷き、頭を下げた。

 

 まあこの司令官、最終的には主人公陣営を裏切って大量殺戮をおっ始めるのだが。

 それでも現在は時系列的に信用できるので、内心で素直に感謝した。……できればもっと、素直に背中を預けられる相手が欲しい。

 

 拠点を出て、バスに乗って移動する。

 別に、秘密組織のエージェントだからって、特別な手段で現場に向かうわけじゃない。

 というか、そんなことしてたら目立つ。

 この情報化社会における隠蔽工作のコストは相当なものだ。毎回の記憶処理だってタダじゃないし、軽度の認識異常を引き起こす装備でも確実に顔を隠しきれるわけじゃない。

 

 降車して徒歩で現場に向かった。

 その通り道で、何か喧騒が聞こえる。とはいえ、剣呑な響きじゃない。

 何かのキャンペーン、催し物だ。派手なコスチュームに身を包んだ人たちが、子供相手に風船やら何やらを配っている。

 

 この街は、仮装系のイベントが多い。これも『軍』やその他組織の差し金だ。

 ハロウィンの日に本物のおばけが混ざっていたって誰も気づかない。

 同様に、魔術師の衣装を纏ったコスプレイヤーの中に、本物の霊的(オカルト)装備に身を包んだ軍人が居たって誰も気づけない。

 

 僕が着るあの馬鹿みたいな袖無し戦闘服(ドレス)も、あの形と縫製にオカルト的な意味があるから着ているのだ。具体的には致命傷を防ぐまじないとかそんな感じ。ゲームシステム的に言えば「HPが一定割合以上の時、即死ダメージを受けても蘇生する」とか、「被クリティカル時ダメージ軽減」とかそんな感じである。ちなみに特殊効果が多い分、防御力は低い。ステータスの数値に出すとどんなもんだろう。三桁はいかないか。

 

 ……それにしても、現場近くにこう人が多いと厄介だ。

 ターゲットの居場所は、ごく普通の住宅地の一画である。戦闘の規模によっては目撃者が増えて大規模な記憶処理が必要になるし、最悪、巻き込む。

 

 ――そうなったら、評価に響く。

 

「…………」

 

 人命より先にそういうことを考える自分が嫌になる。

 御天(ミソラ)さんだったら絶対こうじゃない。あの人の代わりなんて絶対に務まらないし務まっていない。人としての根本がゴミなのだ。相も変わらぬ自分本位。自罰的な言動をしておきながら大本では何も反省できていない。成長が見られない。改善しようという努力がない。表面だけ取り繕った汚物。実際自信持って誇れる部分が顔しかない。できればもっとこうビジュアル方面で活用されたい。無理か。もう人の顔とかまともに見れなくなってきてるし。コミュ力無いし。暗いし。鬱だ。

 

 ……駄目だ、このままじゃパフォーマンスが落ちる。

 自家中毒でメンタルをやっている場合ではない。今回だけは失敗できないのだ。これまでどれだけやらかしてきたと思っている。挽回するためにどれだけ時間を無駄にしたと思っているのか。これで失敗したら全てがパアだ。

 

 思えば、大体にして無理があった。

 この世界には『軍』の他にも『企業』や『結社』などの、様々な手法で超常性と関わる組織があるが、そのどれもが程度の違いはあれど敵対状態だ。

 原作では最終的にどの勢力にも属さない主人公がそれらの組織を協力させ、最終決戦に挑み大体解決させる。

 本編より状況の悪くない過去編時点ならもっと楽にそれが出来るんじゃないかと思って僕も諸勢力に渡りをつけてはみたのだが、普通にどの勢力にも信用されない蝙蝠扱いされて終わった。『軍』での立場も地に落ちた。最初の頃は一応何人かでチームを組んでたのに今じゃ基本ソロだ。多分上層部の何人かにはさっさとしくじって死ねばいいぐらいに思われてる。

 

 大体、コミュ障にあんなこと出来るわけなかったのだ。でもやらずに終わるよりは……いや、何頑張っただけ偉いみたいなことを……僕はこれだから……ああ、もう。言ったそばからこれだ。そういうところだ。本当に。

 

 もう何も考えるな。意思の無い戦闘マシーンになってればそれで上々だ。

 どうせ、僕なんかは本物じゃない。ヒーローにはなれない。御天(ミソラ)さんは今も苦しんでるのに。あの人がいないことで、物語(せかい)にとてつもない迷惑がかかっているのに。これ以上、どれだけ下らない偽善にあの人とこの世界を付き合わせるつもりなのか。

 

 だから、大人しく、戦うことだけを考えて――

 

「あっ」

 

 目の前で、小さな男の子が風でキャンペーンの風船を受け取りそこねて、空に舞い上がった。

 ジャンプ一回じゃ足りない。僕は咄嗟に電柱に向かって跳躍し、側面をキックして二回分の高さを跳んだ。

 風船の紐を掴んで着地し、男の子に手渡す。

 

「――はい」

「わ」

 

 おお、と周囲でどよめきが上がった。……しまった、なに目立ってるんだろう。馬鹿じゃないのか。っていうかさっきあんなこと考えたばっかなのに……。

 自己嫌悪で死にたくなりながら、無理に笑いかけて、そのままその場を走り去った。「お姉ちゃんありがとー」と投げられる声が背中に痛い。

 

 それでも、ほんの少しだけ気持ちが軽くなった気がした。

 

 


 

 

 現場にたどり着く。

 本当に普通の住宅地だ。どこにでもある一戸建て。

 

 付近で待機していた男性現地隊員に挨拶する。

 服装はスーツ姿で、どこにでもいるサラリーマンのよう。

 だが、その実は『軍』の調査員だ。

 戦闘能力は無いが、調査や細かい事前準備、民間人との交渉に関しては彼に一任出来る。

 

「ターゲットは?」

「二階の南側の部屋に。ただ、一階のリビングに民間人がいます。母親ですね。十分な調査が出来ていないので匿っている可能性もありますが、ほぼ間違いなくターゲットが超常性であるとは認識していません」

「……そうですか」

 

 何も知らない母親の前で、娘を殺すわけだ。

 仕方がない。

 仕方がないのだ。

 最低でも四十人殺した大量殺人犯だ。もし一般の法廷で裁けるのならどう弁護したって死刑だ。

 記憶処理が済めば、娘が人殺しだと知らないまま終わり、親に人殺しだと知られないまま終われるのだから……むしろ有情だ。

 

 そう思わなきゃやってられない。

 

「避難させましょうか」

「いえ……ターゲットを警戒させたくありません。感知系に備えて、狙撃や強行突入も却下で。……都合の良い勧誘か何かを装って、母親にターゲットを呼び出させることはできますか? それなら一秒以内に終了できます。必要なら追加の暗示系アイテムに関して本部に問い合わせてもらっても構いません」

 

 無警戒時の人間が脅威に反応するには身体機能として平均一秒かかる。これは能力者相手でも変わらない。どんなに強力な能力を持っていようと、交戦開始一秒以内に仕留めればそれで終わる。

 仮に不死系や高防御、食いしばり持ちでも、奇襲完全成功時は確定でスタンが取れるので、そのまま封殺が可能だ。まあこれがゲームでのボス格のような一定ランク以上だとそういうわけにもいかなくなるのだが、その場合は対象が放つ多量のエネルギー反応等で事前に察知できる。今回の相手はそうではない。

 

 これだけ聞くと罠や狙撃が有効なようにも思えるが、こちらは相手が感知系の能力を持っていた際に厄介なことになる。

 先ほど交戦開始一秒以内と言ったが、感知系持ちは『罠を仕掛ける』『狙撃銃で狙う』といった害意のある事前準備の段階の時点でそれを『交戦開始』として知覚できるのだ。

 逆に言えば、「ブッ殺す」と心の中で思ったならその時スデに行動を終えることができるシチュエーションにさえ持ち込んでいれば、感知系は意味をなさない。他の能力者と同じように、交戦開始一秒以内に殺すだけでいい。

 

 こんなことをせず真っ向から戦う場合もあるのだが、能力者相手にこちらから仕掛ける場合は奇襲が基本だ。不意を打った方が確実で、被害が出ず、速い。

 

 現地隊員がインターホンを押す。

 出てきたのは……普通の壮年女性だ。

 取り立てて悪人にも、善人にも見えない。どこにでもいる普通のおばさん。

 

 スーツ姿の成人男性と、セーラー服の女生徒という取り合わせに少し怪訝な顔を浮かべていたが、その辺りは暗示を混じえつつ現地隊員が上手く誤魔化した。……なんか話の流れで僕が元引きこもりで生の体験談がどうのって話にされていたが、まあいい。

 

「なるほど、では、娘さんは特に現在までにアルバイト含め就労経験は無いと――」

「はい、本当にお恥ずかしい話なのですが……私も夫も、あの子のために、できることをしてあげたのに……どうしてあんなどうしようもない子に――」

 

 ……聞きたくない。

 いつもいつも細かいところで、この世界は幻でもなんでもない実在する現実なのだと僕に実感させてくる。 

 ゲームでも語られてない行間じゃこういう陰気臭いやり取りあったんだろうな。

 システム的なアレもあるけど、こういうの聞かされたその日の晩にカラオケとか行けちゃう主人公たちメンタル鋼過ぎる。

 

 出来うる限り二人の話から注意を背けていた僕だったが、しかしその途中で、話の何かが気に留まった。

 

「学校での問題行動と言うと、具体的には――」

「その、あの子が高校生だった頃の話なのですが、校舎裏で火遊びをしていたという電話が学校から来て。それだけでもとんでもないことなんですが、同級生の子に火傷まで負わせて――」

「それはまた――」

「しかもその同級生というのが、さっきも言った社長の娘さんで――私と夫がどれだけ苦労したと思っているのか、あの子は分かってないんです……! 信じられない、うちの子があんなろくでもない――」

「心中お察ししますが――」

「そんな簡単に割り切れる話じゃ――!」

「奥さん、どうか落ち着いて――」

 

 …………。

 ……何か……既視感があった。

 何だ? 別に、この神経質そうな母親と知り合いってわけじゃあないし、似た相手を知っているわけでもない。既視感があるのは「人物」じゃなくて「会話」……いや、「展開」?

 

 現地隊員が淡々とした様子でどうにか母親を落ち着かせ、ターゲットを呼びに行かせる。

 行かせていいのか――そんな直感がよぎる。だが、警戒させたくないと言ったのは僕だ。余計な行動を起こすわけには……いや、しかし……。

 

 無駄に焦燥感を抱いたまま、僕は動けなかった。ただ警戒して、耳を澄ませることしかできない。

 二階から響いてくる扉のノック音。それが段々と激しくなって、さっきの母親の怒声が響いてくる。「いつまで怠けてばかり」「いい加減にしなさい」「こんな風になるならいっそ――」、マズい、マズい、マズい。具体的にどうすればいいか分からないが、絶対に良くない。

 

 扉を強引に開けるような音。それを聞いて、ようやく僕は動いた。

 階段を駆け上って、パソコンのモニターだけが点いた薄暗い部屋を覗く。

 

 くたびれたパジャマ姿の、若い、女の人だ。

 膝をついて、無理矢理抑えつけるように母親に肩を掴まれていて、それで……泣きそうな顔だった。

 後悔と、罪悪感を、諦観で煮詰めたような表情。

 毎日のように鏡で見るのと同じ顔。

 

「だって、灼きたく、なかった」

 

 僕はもう全部理解して、何もかも嫌になって逃げ出したくなった。

 

「わたし、怒りたく、ないのに。なかったのに。……助けてくれなかったじゃん……パパも……ママも……」

 

 どこかから火花の音がして、一瞬、電灯が明滅する。

 

「い、虐めのことだって、言ったのに……学校だって行きたかった……全部、わたしのせいなんでしょ……いいよ、もう。もう、いい……」

 

 パソコンのモニターにグリッチノイズが走った。静電気が弾ける直前みたいな音がして、白いスパークが部屋の外に散る。

 中の母親は気づいていない。そして、甲高すぎて聞き取れない、金切り声を叫んだ。「何をわけのわからないことを言って」とか、多分、そんなことを言ったのだと思う。

 

 女性が「ひっ」と小さく声を上げ、絶望の表情で眼を瞑る。

 

「嫌――殺したくなッ」

 

 二人の間に、電荷が渦を巻いて収束して――

 

「、っぎ」

 

 ――咄嗟に割り込んだ僕にブチ当たった。

 威力自体は大したことなかった。一般人に当たってもまず殺せないレベル。

 ただ、それでも全身が痺れた。動けない。もつれ込むようにターゲットとぶつかる。

 

 結果として、そのまま交戦開始より一秒経過。

 ターゲットの身体から稲妻が迸って――部屋の中央に、天井に頭が届くサイズの雷獣が現出した。

 電磁波を乗せた咆哮。体表に砂嵐が走って、血を流すように母親の心無い言葉が文字列になってバラバラ落ちる。

 

 ギン、と怪物が母親を睨めつけて、女が絶叫を上げた。

 

『磁、磁磁――』

「伏せろッ!!」

 

 僕は叫んで、動くようになった手から斬撃波を放つ。

 包帯が弾け飛び、傷の無い肌が露わになる。

 

 威力を調整する余裕は無かった。

 壁と屋根の一部が斬り飛ばされて、床が崩落する。

 現地隊員と母親は無事だったが、僕とターゲットは二階から落ちた。

 

 このままじゃ地面に叩きつけられる。

 落下する彼女に向かって手を伸ばした――先ほど、一軒家の壁をブチ抜く威力の斬撃を放った手で。

 恐怖に怯える悲鳴が上がって、僕は紫色の雷撃に吹っ飛ばされた。

 

「が、ひゅ……!」

 

 全身が麻痺する。苦鳴もまともに上げられず、濁音混じりの息が喉から漏れる。

 落下の衝撃。

 受け身は取れなかった。

 だが、この程度の高さの落下では、僕の身体はさしてダメージを受けない。

 

 しかし、相手は違った。

 攻撃力はともかく、防御力はほとんど一般人並だった。服に滲んだ血の赤色。痛みに泣いている。

 命に別状は無さそうだが、骨の何本かは折れているだろう。

 

 そうだ――ようやく思い出した。彼女も登場人物だ。

 御天(ミソラ)さんの過去編ノベライズに出てくるキャラクター。物語としては酷くありきたりなエピソードで、挿絵も無かったし、名前やプロフィールはちゃんと覚えていなかったが、それでも大筋は覚えている。

 

 御天(ミソラ)さんのポジションに僕が居座っていることを除けば、ここまでの流れは概ね同じだ。

 彼女は幼少期に突如として雷を操る能力を発現した能力者だ。

 心理状態や感情の動きに応じて不意に発動するそれを制御することできず、結果として塞ぎ込むようになり、他者を傷つけることを恐れ、学校内での虐めで起こった能力の暴発を期に、社会の中で生きることを断念する。

 元々不和の気配があった両親にはそれらの事情は理解されず、家に引きこもるようになった彼女はネットの中で居場所を得る。

 

 が、彼女の能力は恐るべきことにインターネット越しにさえ機能した。

 吐き捨てられる無責任なコメント。悪意に溢れたレスポンス。そう言ったものに対して揺れ動かされた精神が能力を発動させ、画面の前に居る相手を殺す。そして、その事実に気づいていない。知らないのだ。己の能力がそれほどに強大であることを。

 

 しかし、最終的には星住(ほしずみ)御天(ミソラ)による懸命な説得と、心を打つ呼びかけによって覚醒。能力を完全に掌握することに成功し、『軍』のエージェントの一人として様々な協力を行ってくれるようになるとか、そんな話の流れのはず、で……。

 

「いや……嫌だ……痛、い……! 来ないで……助けて……!」

「…………」

 

 なんて言って説得するんだっけ?

 

 頭からざっと血が落ちる。

 激しい運動もしていないのに息が苦しくなって目眩がした。

 なんだ。なんだっけ。思い出せ思い出せ思い出せ。だってマズい。元々何のためにここに来たと思ってる。落ち着かせるんだ。説得しろ。心を救え。早く。

 そうしないと――

 

「……はい、すぐに応援を! 即時終了は失敗です! エージェント在城が対応していますが、ターゲットの超常性によるものか、異様に動きが鈍く――感電死の猟犬(エレクトロクション)を終了する追加人員を――!」

 

 早く。

 早く。

 早く!

 

 口を開いた。

 

 乾いた息しか出なかった。

 

「……はっ、はっ、はぁ、はぁ……ッ!」

 

 苦しい。

 頭が回らない。

 

 恐怖によるものか、二体の雷獣が追加で出現する。訓練してきた僕の身体は、精神の不調の中でも的確に反応し、両手の斬撃波で怪物を斬り飛ばす。

 

「ちがっ、違うんです――ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……! 許して……嫌だ、違う、わたしだってこんな、こんなぁ……っ!」

 

 彼女が必死に後退る。

 駄目だ。行くな。言うんだ。言え。助けろ。ちゃんとやれ。やらなきゃいけない。

 

 足を引きずりながら、僕から離れる彼女が崩れかけの自宅の扉に手をかけた。

 

「誰か、助け……ママ……っ!」

 

 扉が開き、母親が出てくる。

 

 

 そして、突き入れた。

 

 手に持った包丁を。

 

 娘の腹に。

 

 

 

 

 

 

「こ……この、バケモノ……ッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

「――――あ」

 

 視界が真っ白に染まる。

 零距離の雷鳴が鼓膜を叩く。

 キーンと耳鳴りがして、光で塗りつぶされた世界が段々元に戻っていく。

 

 真っ黒に炭化した人型の炭が、包丁を握ったまま崩れ落ちる。

 腹部から大量に出血した女性が、輝きの無い眼で泣いている。

 

 そして、全長二十メートル近い巨大な雷の獣が現れた。

 

「あ、ああ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」

 

 誰の慟哭か分からないが、とにかく誰かが叫んでいる。自分の声であるような気もする。

 

 衣装を戦闘服に切り替える。

 無秩序に迸って、無関係の民間人に落ちそうになった雷撃をその身で受けた。

 全身を焼く電撃傷。痛くて、痺れて、もう逆に何も感じない。

 

 また、来る。

 迸る雷。着弾地点に移動していては間に合わない。

 麻痺する腕を無理矢理掲げて、呟いた。

 

「ダメージバレット――(ライトニング)(シュート)

 

 まるで、先ほどの光景を逆回しにするかのよう。

 僕の腕からさっき受けたのと全く同じ雷撃が迸って、雷獣が放つそれを撃墜する。

 

 同時に、それこそ逆回しにしたかのように完治する電撃傷。

 これが僕の超常性(のうりょく)だった。

 

「再現率65%――カッターナイフ具現」

 

 一メートル大の巨大なカッターナイフを具現化させ、スケートボードのように飛び乗る。

 そして、そのままカッターナイフを浮遊させ、怪物のそばまで飛行した。

 上空に移動し、射線を上に逸らすことで地上への被害軽減を試みる。

 

「ダメージバレット――(スラッシュ)(シュート)

 

 両手から斬撃波を放つ、放つ、放つ。その度に腕の包帯が弾けていく。

 先ほどまでは一撃で倒せていたが、サイズが大き過ぎて完全には削りきれない。ダメージが入ってはいるが、殺し切るには残弾が足りない。

 

 だが、構わない――斬撃波を集中連射して、道脇の消火栓を引き裂いた。

 撒き散らされる大量の水。雷が水の中に放電して、怪物の体が崩れていく。

 

 一気に、本体へと距離を詰める。

 斬撃波の残弾はもう無い。飛行するカッターナイフから飛び降り、新たに長剣サイズのカッターナイフを具現化して突進し――

 

「――がッ」

 

 女性から稲妻が放たれて、僕は道路脇の塀に叩きつけられた。

 

 戦闘服(ドレス)は耐えたが、ミリタリージャケットが灼き切れる。

 本当に、すごい力だ。あれだけやって、腹も刺されて、まだ余力があるとは。

 バチバチと放電し続ける最後の稲妻。もう半ば無意識だろう。生存本能が勝手に能力を使っているようにさえ見えた。

 

 電撃に圧力なんてものは無いが、それでも壁に押し付けられる。

 能力を用いて受けたそばから受けた電撃をそのまま返す。が、相殺できない。

 相手の方が威力が強い――強くなり続けているからだ。

 

 終わるとすればどちらかが死ぬ時だろう。

 なんて、他人事みたいに考えた、その時だった。

 

 どこからか小石が飛んできて、彼女の側頭部に当たった。

 攻撃の威力が緩む。

 僕は稲妻を無理矢理弾き飛ばし……衝撃にふらつく彼女を、殴った。

 

 それでようやく、電撃が止まった。

 

 小石が飛んできた方向を見た。

 

「……わたし……」

 

 さっき、風船を取ってあげた男の子が居た。

 巨大雷獣から助けた人たちが、こぞって僕に感謝を告げていた。

 

「だ、って……」

 

 そう言って、彼女が意識を失った。

 

 僕は、死にたくなった。

 

 


 

 

 ――懲戒処分通知。

 

 在城(ありしろ)(キザミ) 殿。

 貴殿は、去る感電死の猟犬(エレクトロクション)終了任務において、同超常性の終了失敗ならびに、『軍』外部の超常性研究機関――『企業』に、これを不正に取引した。

 同超常性は現在も『企業』内部にて保護および研究されており、もたらされる将来的な危険性は計り知れない。

 

 同行為は、超常性対処組織『軍』と、平和の中で生きる人々に反旗を翻す重大な秩序違反である。

 よって、軍規則32条に基づき、次のとおり懲戒処分を行う――

 

 


 

 

 階級が降格され、僕は独房に入れられた。

 

「……あー……」

 

 とは言っても、『軍』はいつでも人手不足だし、僕はそこそこ有能な戦力でもあるから、その内出されるだろうけど。

 給料って何ヶ月ぐらい無しになるんだっけ……いや、いいか、どうでも。僕の能力あれば食べなくても死なないし。

 

 いやあ、しかしすごいなあ僕は。自分の立場を犠牲に殺されるはずだった罪無き女性の命を救うなんて、まるで物語の登場人物だ。

 

 まあ『企業』も大概ろくな組織じゃないけどな。あいつらにとっちゃ超常性なんてモルモットの一種だろうし。そうでなくてもアレほど危険な能力者、どんな非人道的な封印措置が取られるかわかったもんじゃない。

 

 でも最後には、主人公が来て大体助けてくれるんだろうし。そしたらチャラだ。

 

「ぅ……ぁ……」

 

 うん、頑張った。

 僕は頑張った。

 頑張ってる。

 

「誰、か……」

 

 ……頑張ってるのに、な……。

 なんで、誰も褒めてくれないん、だろう、な……。

 

「誰か……褒め、て……」

 

 冷たい床に横たわりながら、僕は一人で泣いていた。




次回からラブコメになります(断言)。


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2/マスカレード・ビギニング

 ここまで全部、夢だったらしい。

 

 僕は目を覚ました。

 見慣れない天井だ。いいや、見慣れた天井だ。

 机の上には、包帯も薬も置かれていない。部屋の収納には野暮ったい男物の服が吊られている。

 床にゲーム機があって、その隣に、例のシリーズのパッケージが転がっていた。

 

 ……夢だ。

 そうだ、夢だ。

 あんなのは夢に決まってる。

 酷い悪夢だった、本当に。

 

 早く起きて一日を始めよう。

 無味乾燥な人生だとばかり思っていたけれど、今なら何でも出来る気がする。

 

 思い返せる限りの悩み、後悔、葛藤、将来の不安。

 どれも取るに足らない瑣末事に思えて仕方がない。

 

 だからさっさと布団から出よう。

 カーテンを開けて、顔を洗って、出かける用意をしよう。

 

 全部夢だ。夢だったんだ。

 僕は何も悪いことなんてしていなかったんだ。

 もう何もかも忘れてしまっても、大丈夫なんだ。

 

 だから、布団から出ても、いいんだ。

 鏡に映る僕の顔は、どこにでもいる、ありふれた、だけど何と戦うこともない、世界の命運なんて背負うはずのない、ヒーローやヒロインなんて見合うはずのない、普通の、普通の、普通の、普通の青年の顔であるはずなのだから。

 

 だから。

 

 起きても。

 

 大丈夫なんだ――

 

 


 

 

 ――そして、枕元でアラームが鳴った。

 

「……ぁ……」

 

 鈴を揺らすような声が、喉から響く。

 

 寝ぼけ眼を擦る腕が痛い。

 包帯の下の傷がずきずき痛んで、頭が一気に覚醒しそう。

 

 寝起きだってのに動悸が酷かった。不安感もだ。自律神経の切り替えが上手くいっていないのだ。

 それでも習慣ってのは強いもので、フラつきながらも体が勝手に立ち上がる。

 顔を洗うために洗面台の前に立って、鏡を覗く。

 

 ――ごく当たり前に、ピンク髪の美少女が、光の無い眼で立っていた。

 

 朝っぱらからもう何もかも嫌になった。

 

 衝動的に机の上の、プラスチックとアルミの包装シートを手に取る。

 中から薬を出そうとして、もう一個も残ってないことに気がついた。

 そこで、昨日、今月の分が全部無くなったことを思い出す。まだ十二日なのに。

 ……お医者さんに言ったら追加でくれるかな。くれないだろうな。

 

 のろのろと顔を洗って、歯を磨いて……朝の支度をしていく。

 気合を入れなければならない。今日は、高校の入学式なのだから。

 ゲームの『本編』が始まるのは来年からだが……主人公自体は今日、僕と一緒に入学してくるはずだ。

 

 ただ、主人公の名前はプレイヤーが入力する方式なので、誰が主人公かは特定できない。

 メディアミックスでの名前にしてもアニメとコミカライズで違ったし、事前に調べた限りではそのどちらの名前も入学者の中にいなかった。

 

 公式ビジュアルもフルフェイスのマスクを着けた戦闘時のものしかないし、学校舞台のADV(アドベンチャー)方式日常パートでも、主人公の立ち絵だけはない。

 

 尺を詰めるために日常パートがほぼカットされたアニメでもそれは同様。素顔は鼻から下しか映っていない。

 

 唯一コミカライズでは普通に素顔が描かれていたが、黒髪黒目(いや、黒とも限らない。白黒だから)のどこにでもいる少年、って感じなので、特定は無理だ。加えて、この世界がコミカライズ版の描写を採用しているとも限らない。

 

 主人公の周りのキャラクターに関しても、基本的には本編開始である二年生になってから関わる人物ばかり。

 よって周囲の人間関係から逆算して当たっていくこともできないし、経歴・出身地・家族構成なんかも「高校への潜入にあたり、身元は一般的な男子生徒のそれに偽装されている」みたいな一文で済まされていたはずなので、そこで絞り込むこともできない。

 

 唯一確定しているのは、男子生徒なことぐらいである。

 

 そんな具合で今日という日まで散々考えたが、今年の時点で主人公を発見するのはまず無理だ。

 

 どんよりと瞳を濁らせつつ、僕は着替えを終える。

 フィクションにありがちな、デザインに凝った派手な制服。一応、普通の学校の制服であってもギリあり得るかあり得ないかぐらいの絶妙なラインではある。

 

 ……似合っては、いると思う。美少女だから。

 

 僕は伸びっぱなしの前髪をヘアピンで留め、スカートを折って短くし、鏡の前で☆マークが舞ってそうな感じの可愛いポーズをとり、言い放つ。

 

「――わたし、在城(ありしろ)(キザミ)! 年齢は今年で十六歳(前世算だとそろそろアラフォー)! 今日からは華も恥じらう女子高生! 一見どこにでもいるピンク髪スレンダー病み系美少女なわたしだけど、その実は世界的秘密組織『軍』の第一線エージェント! そして更にその実は異世界からの転生者! 今は前世で推しだったヒロインの代理をしてて、おかげで毎日がとっても充実して人生幸せいっぱい! 中学校までは学校と任務の二重生活で大忙しだったけど、高校からは素敵な学校生活が送れると良いなっ★ きっつ」

 

 無理だわこれ。僕は死ぬほど頑張れば喋れる(会話ができるとは言っていない)タイプのコミュ障だが、もう昨日も一昨日も一昨昨日もその前も、あーていうか最後の休みいつだっけ。

 

 とにかく、任務任務任務でろくな精神力が残ってないってのに、ここからさらに活発系女子高生ロールは流石に無理だ。本気の本気でメンタルがやられてしまう。

 

 大体今の今まで女子らしいことなんてろくにしてきてないのだ。

 例の事件があって『軍』に入ったのは性差も無いような小学生の頃だし、それ以降は巻き込まないために家族とも離れてほとんど一人で暮らしてたから、女の子の常識なんて欠片も無い。

 

 再現できるのは所詮、元男の偏った知識とキモい偏見で構成されたハリボテの女子像だ。無理に溶け込もうとしても、秒でハブにされて陰湿にイジメられる確信がある。

 そうでなくても僕美少女だから絶対(そね)まれる。僕美少女だから。

 

 どうせ主人公が出てくるの来年からなんだし、今年はもういいや中学と一緒で。

 僕はヘアピンを外して前髪を下ろす。スカートも元に戻す。学校じゃずっと寝てよう。

 

 いつも通りだ。何も変わらない。

 薄っぺらい交友関係なんて、広げても無意味で煩わしくて邪魔なだけだ。

 

「…………」

 

 ……それでも少しは、何かが変わるかなと期待する僕も居た。

 

 結局、特別なことは、何も無かった。

 

 


 

 

 ――教室。

 

 入学から半月ほど経ったけれど、まだクラスには初々しい雰囲気が残っていた。

 それでもある程度はグループが出来てきて、休み時間にはリラックスした雰囲気で雑談の声が聞こえてくる。

 

 そんな中、僕はただ一人、机に向かっていた。

 

 クラスメイトとは未だに一度に十秒以上会話していない。別にいい。精神年齢二回り違うんだからどうせ会話なんて合うわけないし、無理に話合わせてもどっちも辛いだけだし、だいたい僕は元男なんだから女子の話題についていけないし、男女間で友情なんて成立しないし、そもそも友人ってのは数じゃなくて質だし、任務あって忙しいし――あああああなんで急に今世で昔書いた「二周目の学校生活で今度こそやりたいことリスト!」のこと思い出すんだやめろやめろやめろ。友達なんて要らない可愛い彼女なんて欲しくない陽キャになんて憧れてない文化祭でバンドやりたくないキラキラした青春に夢なんか見てないもうやり直したいなんて思ってない!

 

「ぜぇ、はぁ、ふぅ……っ!」

「(ヤバ……)」「(大丈夫かなアレ……)」「(先生呼ぶ……?)」

 

 息も絶え絶えでルーズリーフに書き取っているのは、授業の予習復習……ではなく。

 

「(思い出せ……確かプロローグの描写が……一章時点のやり取りから察するに……なんで用語集ちゃんと読まなかった……ネットでの考察……やっぱり公式ビジュアルの背格好から……いや明らかに各媒体で頭身が違う……)」

 

 確かに、主人公の特定は無理だと言った。

 が……やっぱり、諦めきれない。

 だって、この学校の、この学年の、この男子生徒数百名の中に――少し探せばすぐそこに、彼は居るかもしれないのだ。

 

 無駄だと分かっていても、(つの)っていくのは焦燥だ。

 何かしていなければ落ち着かない。

 何もしていない事実が、堪えきれない。

 こんな日々があと一年も続くことに……耐えられない。

 

 御天(ミソラ)さんが明日まだ生きている根拠も無いのに。

 僕が今日一日を生き延びる自信すら、無いのに。

 

 がりがりと主人公のキャラデザをシャーペンで描き記す。

 これであってたか? あってるはずだ。記憶があやふやなのでここまででもう何パターン描いたか覚えてないが、思い出せる限りではこれが一番近い。

 

 僕の記憶力なんてそう大したものじゃない。

 もろもろの身体能力は強化されているが、知能面に関する作用は僅かなものだ。

 

 いや、やろうと思えばたぶん強化は出来たのだろう。けど、あいにく僕はVIT(ぼうぎょ)型だ。努力値もINT(かしこさ)には恐らくほとんど入ってない。現実だとステータス見れないから実際のところはわかんないけど。

 

 一応、現時点では誰も知らないあるステージでドロップする想起神経刺激剤なんかも飲んだりしてるのだが、それでも忘れるものは忘れるし、元から曖昧にしか認識してなかったものは、曖昧にしか思い出せない。

 

 それに、ゲームだと想起神経刺激剤はただの忘却状態回復アイテムだったが、現実では副作用もあって、常用すると他の記憶が抜け落ちる。

 

 一応、ストーリーでは若年性認知症の少年――三船(みふね)(カナデ)くん。十三歳。余命数ヶ月。実は『企業』の悪役によって病気に見せかけた記憶処理をされている。クエストをクリアするとお守りをくれる。父親の形見。装備すると行動阻害耐性とクリティカル率がまあまあ上昇――を、治療するためのクエストアイテムを兼ねていたし……優先度の低い記憶から消えるようにはなってるから、大丈夫だとは思うのだけど。

 

「あー、しろあ……じゃない、在城(ありしろ)さん? 次、体育だけど」

「うぇっ、あっ、は、はい」

 

 クラスメイトに言われて、慌ててルーズリーフをバインダーに挟んで閉じる。

 

 変に挟んだせいで紙にちょっとシワが出来たが、どうせこんな描き殴りに意味なんて無い。

 

 主人公がこの装備(スタイル)になるのも、『本編』が始まる二年生になってからだし……そこら中に貼り出したって、主人公本人にすら何かの創作キャラかと思われて見過ごされるだけだ。

 

 もう教室には誰も残っていない。

 僕は廊下に出て、自分のロッカーからジャージを取り出し……

 

「あ」

 

 ……ジャージ、忘れた。

 体操着はあるが、半袖だ。

 

 これじゃ腕が見える。

 正確には、腕に巻いてる包帯が見える。

 そうなると、リストカットしてると誤解されて、生徒指導室に呼ばれる。

 いや、してるんだけど。

 

「あー……」

 

 どうしよう。

 見学だと単位つかない。

 『軍』の任務の都合上、高校はギリギリまで休むつもりだから、無駄なところで単位落としたくないのに。

 

 だいたいこの高校だって、本当は僕を中卒で働かせたい『軍』を言いくるめて入学したのだ。

 単位落としたからって、中学みたいに秘密組織パワーでどうにかしてはもらえない。

 あぁ。あとでスケジュール調整し直さなきゃだろうか。睡眠時間削って。

 面倒臭い。だるい。眠い。鬱。

 

 悪あがきに、僕ら『軍』や『企業』のエージェント達の物質具現機(マテリアライザー)を使って、ジャージの具現化を試みる。再現率、0.1%。一秒間具現化できれば御の字程度の再現率だった。終わった。

 

 しんどい。なんだってジャージ一つ忘れただけでこんな気持ちにならなきゃいけないんだろう。

 溜まっていた疲れが急に肩へとのしかかってきて、膝から崩れ落ちそうだった。

 こんなしょうもないことで(へこ)みたくないのに、なんだか泣きたくなってくる。

 

 いや、日常のしょうもない失敗なのが逆に良くないんだ。

 これが命懸けの任務中だったら、逆に(へこ)んでる暇なんて無い。

 だけれど、残念なことに今は余裕がある。

 (へこ)んで、落ち込んでる余裕が。

 

「ぅ、ふぐ、うぅっ……」

 

 廊下の壁にもたれかかって、へたり込む。

 床のリノリウムが膝に触れて冷たい。

 もうこのまま動かずにいたい。

 

 何分ぐらいそうしていたか。

 自分では長く感じていただけで、案外、数十秒ぐらいのことだったかも。

 

「――、――――。――」

「――――」

 

 いつの間にか、そばに誰かが立っていて、僕に話しかけていることに気がついた。

 いや……何か、無意識のままに返事した気もする。変なことは、言っていないと思うけど。

 

 顔を見る気力が無い。

 だが、うつむいた視界にスラックスの裾が入ってくる。スカートじゃない。男子生徒だ。

 そいつは手を差し伸べてきて、というか半ば強引に僕の腕を取り、立ち上がらせようとした。

 

 うぅ……セクハラだ……いくら僕が美少女とはいえ……。

 

「ほら。き……在城(ありしろ)お前、ジャージ忘れたぐらいでそんな――」

「――あ」

 

 その拍子に僕の袖がめくれて、白い包帯が晒された。

 そいつの体が一瞬引いて、気まずそうに顔を逸らすのが分かった。

 

「……あー、その。……ええい」

 

 言って、そいつは肩に下げていた袋からジャージを取り出して、僕に無理やり、押し付けた。

 入学したばかりで、汗も染み込んでない新品の匂い。それと一緒に、柔軟剤の香りがする。

 

「え?」

「だから……えーと、そう、アレ。俺、今日元々体育サボるつもりだったから」

 

 じゃ。と。

 そう言ってそいつはどこぞへと去っていく。

 

 ……あ、そうか。貸してくれたのか。

 咄嗟に呼び止めようと思いながら礼を言おうと思って、僕は彼の背中に声を投げた。

 

「ありゃがっ、」

「何?」

 

 噛んだ。

 

「あ……洗って、返します」

「あ、はい。どうも」

 

 なんか敬語になった。振り返った彼が困惑した顔で会釈する。

 そこで初めて顔を見た。黒髪黒目。中肉中背。反対の手にマジックでなんかメモってる。顔色が悪い。顔は悪くない。顔色の悪さに印象持ってかれる程度のモブ顔だけど。

 没個性ってほどじゃないが、平凡な男子だ。

 

 ……ていうか、誰だっけ?

 クラスメイトじゃない気がする。隣の組の子かな。体育の授業、クラス合同で体力テストだったし。

 

 ともあれ、せっかく貸してもらったのに、遅れちゃまずい。

 僕はバインダーを適当にロッカーへ突っ込んで、扉を無理矢理閉める。

 

 その拍子に何か落ちたような気もするけど、構ってられない。あと一、二分でチャイムが鳴る。どうせ大事なものは入ってないから別にいい。

 

 走り去ろうとした僕に、何か小さく、呟くような問いかけが聞こえた。

 

「――こういうの、今でも好きなのか?」

「え?」

 

 うまく聞き取れなかった。

 確認しようと思って、振り返ろうとし――そこでチャイムが鳴った。

 

 僕は慌てて、体育館の方に駆け出す。

 どうせジャージ返しにいくんだし、あとでもいい。名前も聞いていないけれど、名字ならジャージの胸のところに書いてある。

 

「もぶ……守部(もりべ)?」

 

 やっぱり、知らない名前だった。

 

 


 

 

 僕こと在城(ありしろ)(キザミ)には、度重なるスパイ容疑がかかっている。

 

 敵対戦力の故意な見逃し。

 複数の他組織との密談・内通。

 独断での情報・物資・超常性の引き渡し。

 

 他の人員だったら粛清されてないのがあり得ないレベルの利敵行為。僕だって、相手の立場ならコイツさっさと消した方がいいんじゃねえのと思う。

 

 一応言っておくと、別に『軍』は部下を平気で処刑する悪の組織じゃない。

 むしろ逆だ。根本的には平和に生きる人々を守るための、秩序側の組織。

 

 そしてだからこそ――平和を乱す裏切り者には冷酷だ。

 本来ならば。

 

 これだけやっててまだ消されてないのは、司令官による執り成しや酌量等もあるが……。

 一番大きいのは、僕がそれなりに強力で、替えの利かない戦力であるからだ。自分でも言うのも何だが。

 

 基本的に『軍』に僕のような能力者は少ない。

 まずほとんどの能力者は自然発生だ。人工的に生み出すことは出来ず、一般人が死の間際などで突如覚醒することが多い。

 

 一般人であるから能力の制御法を学ぶことも出来ず、大抵が感電死の猟犬(エレクトロクション)の彼女のように強くなり過ぎて暴走するか、弱くなり過ぎて何の力も無い無意味な能力になってしまうことが多い。『天候を操る力』が『外出時に晴天になる確率一割増し』に劣化とか。

 

 そんな具合で使い物になる能力者ってのはほとんどいないのだが……僕の場合は、原作から制御法を学んでいたから、上手い具合に調整することができた。効果範囲を自己対象に限定してしまったのは無限に後悔してるけど。

 

 だけど、替えが利かないってことは、捨て札にならないってことじゃない。

 トランプで勝つのに、エースやジョーカーは必ずしも必要ではない。

 

 忠誠と有用性を示せなければ、いつかは粛清される。

 仮に粛清されなかったとしても、階級は上がらない。万能薬の使用許可も降りない。

 

 だから――

 

「撃て、とにかく撃て! あのバケモノを近づけさせるな!」

「見た目に惑わされるな――ヤツは超常性だ! 人間じゃない!」

「『軍』め……壊し屋どもめ! この研究の価値が何故分からない!? アレは『企業』に必要なんだ、貴様らの短絡的な考えで終了していいものじゃない!」

 

 ――僕は銃雨の中、『企業』の人間達と戦っていた。

 

 夜。路地裏。

 周囲には『企業』の社員らによって、空間迷彩と、周辺を遮音するドローンが展開されている。

 民間人に暗闘を知られる恐れは無い。軍事に寄りがちな『軍』には無い、科学に優れた『企業』特有の技術だ。

 

 目的は、この路地の奥に隠された研究所。

 そこで使用されている、危険なアイテム……限定的だが物理法則すら改変できる超常物品の破壊だった。

 

「ッ……」

 

 大口径の銃弾が、むき出しになった僕の肌に突き刺さる。

 しかし、大したダメージじゃない。ろくな防御貫通も乗っていない物理属性のみの銃弾じゃ、戦闘態勢に入った僕の防御力を貫くことは不可能だ。『企業』はオカルトを毛嫌いしているから、エンチャント系の技術が発展していないのである。

 こんな程度のかすり傷じゃ、()()()()()()()()()()()()

 

「再現率30%――カッターナイフ具現」

 

 僕は刃引きしたカッターナイフを虚空に具現化し、社員たちに向けて射出する。

 手加減はしている。……当たり所が悪け(クリティカルす)ればこれでも死ぬか、後遺症が残るだろうし……尋問の結果によっては『軍』に処分されるかもしれないけど。

 

「…………」

 

 失敗したくせに……。御天(ミソラ)さんみたいにできなかったくせに……。

 無意義な自己満足で人死にを避けた結果、それ以上の死人を出すわけだ……。

 

 心が削れていく。

 だけど、止まることはできない。

 先日の『企業』との取引で失った信頼を取り戻すためにも、この任務を拒否するわけにはいかなかった。

 

 カッターナイフが社員たちに衝突し――

 

「――っな」

 

 ほとんど効いてない。

 勢い良く飛翔した刃は、彼らの身体に命中した瞬間、勢いを失って地面に落ちる。

 衝撃が吸収されている。いや、それだけじゃない。刃引きしたとはいえカッターナイフが当たったのに、装備にほとんど切り傷がついていない。

 

 物理属性耐性――あるいは、武装属性耐性か。遠隔攻撃のダメージ軽減という可能性もある。

 いずれにせよ、これじゃカッターナイフによる攻撃は通用しない。

 

 だが、僕が再現率15%以上で具現化できるのは刃物だけだ。

 15%(それ)以下の再現率じゃ、耐久力と持久力が低すぎて根本的に武器として使えない。

 

 秘匿された高度科学技術で作られた物質具現機(マテリアライザー)は、あらゆるものを具現化することが出来る。

 だが、それには対象の深い理解と、物質や形状に対する適性が必要だ。

 

 火炎放射器、電撃砲、光学銃。

 これらを使ったエネルギー属性なら物理耐性は機能しないが、刃物への適性しか持たない僕に具現化することは不可能だった。

 

「くっ」

 

 長剣サイズのカッターナイフを具現化し、懐に踏み込んで斬りつける。

 

「がッ――!」

 

 それでようやくダメージが通った。

 やはり、完全に無効というわけじゃない。少しずつならダメージは通る。無力化もできる。

 時間はかかるけれど、持久戦ならこの数でも僕の能力と防御力で競り勝てる。

 

 だが……。

 

「マズい……早く、早く……!」

「時間は!? あとどれだけ残ってる!?」

 

 社員たちが焦っている。

 これは、どっちだ?

 このまま時間を稼いで得られるのは、相手の不利か、それとも、僕含めた全員の危機か。

 

「ダメージバレット――(スラッシュ)(シュート)!」

 

 悩んだ末、短期決戦に切り替えた。

 紅色の斬撃波が放たれ、包帯が弾け飛び、傷一つ無い肌が覗く。

 社員の一人が持っていた銃器が斬り飛ばされ、装備が裂かれて血が散った。

 

 このダメージは防御力や耐性じゃ軽減できない仕様だ。純粋なHPで耐えるしかない。

 とはいえ威力は調整してある。そしてクリティカルや乱数によるダメージのブレも発生しないので、実のところ、こっちの方がカッターナイフよりもむしろ手加減がしやすい。

 

 ただその代わり、弾数に限りがある。

 相手の数と包帯の数はほぼ同数。

 使い切ってしまえば、彼らが警戒している何らかの脅威に対応できない可能性があるが……仕方がない。

 間に合わなかった場合はカッターナイフのみか、()()()()での持久戦に切り替えるしかないだろう。

 

 ピストルの形にした指先から斬撃波を連射する。だが、無駄弾は撃たない。一発ごとに一人、確実に数を減らしていく。

 

 最後の包帯を使い切った。

 まだ一人、残っている。カッターナイフ……いや、一人相手なら絞め技で対応した方がいい。

 戦いの中で瓦礫になったアスファルトを踏みしめ、苦し紛れに放たれる弾丸を掻い潜って、右手で最後の一人を掴んだ。

 

 瓦礫まみれの地面に叩きつけるわけにはいかない。壁に押し付け、ギリギリと締め上げる。

 

「ぐっ、ぎっ……!」

 

 僕の腕を引き剥がせない彼の腕。無意味にもがく足。

 はたから見れば、大の男が小柄な少女に片手一本で抑え込まれて抜け出せないという、異様な光景だ。それもそうだろう。僕はVIT(ぼうぎょ)型だが、それでも普通の人間よりはSTR(ちから)が高い。

 

「ま、待て……待って、くれ……」

「…………」

「アレは……アレが、無ければ、開発、環、境が……むす、この、治療や、く……」

「…………っ」

 

 ――『軍』は、決して悪の組織ではない。

 だが同様に――『企業』も、決して悪の組織ではない。

 

 超常的脅威の危険性を重く見る『軍』。

 超常的脅威の有用性を重く見る『企業』。

 前世で見た設定集によれば、元々は一つの組織だったらしい。

 それは方針の違いであって、どちらが一元的な善であり悪であるのか、決めることはできない。

 

 この世界では、最後には『軍』も『企業』も、様々な組織が主人公の働きで一纏まりとなって、巨悪(ラスボス)に立ち向かう。

 ……だから、そんな……そんな人々が……悪だけであるはずが……ない。ないのだ。

 

 知っている。

 それは知っている。

 そんなことは知っている。

 

 知っている、けれど。

 

 僕にだって、償わなければいけない人が――

 

「――があああっ!」

「っあッ!?」

 

 振り解かれた。

 言葉に気を取られた? いや、違う。相手が上手だった。無為にもがいているだけだと思っていたが、見れば、その足で僕が足場にしていた瓦礫を蹴って、バランスを崩させたのがわかった。

 

 懐から取り出されようとしている拳銃。

 マズい。あの程度でダメージを受けはしないが、この状況。クリティカルの可能性がある。

 そうなれば、低確率でスタンを取られる。その後の乱数が下振れすれば、あるいはハメ殺しにされかねない。

 

 僕は全力で彼の射撃を妨害しようとして、しかし。

 

「――――」

 

 拳銃を引き抜いた瞬間、何か、お守りのようなものが、懐から一緒に零れ落ちた。

 

 男の目が一瞬、そちらに向かう。

 気が逸れた。僕は拳銃を弾き飛ばし、今度こそカッターナイフを突きつける。

 尻もちをついた男は歯を食い縛ってこちらを見て、しかし、諦めたように地面へ……いや、そこに落ちたお守りへ目をやった。

 

 僕は構わずに、彼の意識を刈り取ろうとして、

 

「……(カナデ)……」

 

 その言葉に、腕を止めた。

 

「まさか――三船(みふね)(カナデ)?」

「ッ!?」

 

 俯いていた男が顔を上げる。

 

「十三歳……いや、現時点だと十二歳? 行動障害型の若年性認知症で……余命はあと二年無いはず」

「バカな、何故知って――」

「そうか、死んだ父親……『企業』の社員に……」

 

 僕はカッターナイフを投げ捨て、膝をついて倒れた彼――三船(みふね)さんと、視線を合わせた。

 

「治療薬があります」

「何だって……?」

「町外れの廃病院――その地下に、『結社』がかつて作っていた想起神経刺激薬が。施設は放棄されたんですが研究自体は完成していて……危険ではあるんですが、機材もまだ動いていて、治療薬が手に入ります。だから、その……」

 

 ……言葉が浮かばない。

 もっとよく考えれば、ずっと円満な解決法がある気がする。こんなやり方が模範解答なわけがない。どう考えたって中途半端だ。

 だけど……物語の登場人物でも何でもない僕には……これ以上のことはできなかった。

 

「……お……お願いします、どうか、投降してください……。(カナデ)くんには、後で必ず治療薬を届けます……。上には、どうにか、穏当な扱いになるように取り計らいます。から、だから……」

 

 せめて――せめて真摯に訴えるために、両手を地面につけて、三船(みふね)さんに頭を下げる。

 

「……こ、これ以上、『軍』の評価を落とすわけにはいかないんです……ぼ、僕にも、助けなきゃ、いけない人が……」

「…………」

 

 しばらく、無言の時間が流れて……。

 地面を見ていた僕の視界の端に、バサリ、と、『企業』製の防具が落ちた。

 

「――わかった。投降する」

「!」

 

 顔を上げる。彼は既に、無防備な状態で両手を上げていた。

 

「だが……私以外にも、隊員の中に同じような事情の者がいる。どうか、そいつらの家族も助けてやってくれないか……」

「っ、はい……! 約束します……!」

 

 おかしな話ではあるけれど――やっと、救われたような気持ちになった。

 これで良かったとは思わない。思えない。

 

 でも、僕はやったのだ。

 本来なら『本編』では既に死んでいたはずの人。主人公にも助けることが出来なかった人物。

 そんな命を拾うことができた手応え。だけどそれ以上に、主人公の真似とか、御天(ミソラ)さんの後追いとかじゃない、僕の、僕自身の存在と行動が、ようやくこの世界に認められたような、そんな気が――

 

 

「なるほど、『企業』を裏切るか。死ね」

 

 

 ――瞬間、横合いから飛来した何かが、三船(みふね)さんの身体を勢いよく吹っ飛ばした。

 

「――え?」

 

 一八〇センチ近い成人男性の体が、軽々と、人形のように宙を舞う。

 全然、間に合わない。

 どしゃり。

 砂袋を地面に落とすような音がして、アスファルトに彼の体が叩きつけられた。

 

「……あ、あっ……」

「クズめ。わざわざ能率を上げてやったというのに、それに報いることも出来んとは。何のために私が家族愛などと下らんモノしか誇れない貴様らを取り立ててやったと思っている?」

 

 白衣。白衣の男だった。

 コツ、コツと、足音を立ててこちらに歩んでくる。

 おそらくは研究員(ホワイトカラー)。戦闘に優れているようにはまるで見えない細身。不健康そうな顔。だが、その瞳に宿る、鬼のように残酷な眼光。

 

「ふん、しかしなるほどな。研究成果で家族を治療できるように()()()()()、馬車馬のように働くのは分かっていたが……こういうリスクもあるわけか。勉強になった。死んでいいぞ、切断業者(マスプロカット)

「ぅ、う、うぅあああああアアアアアッ!!!」

 

 無数のカッターナイフを具現化しながら、僕は男に飛びかかる。

 まだだ。まだ三船(みふね)さんが動いて、呼吸しているのが見えた。今すぐに治療すれば間に合う。

 

「お・ま・えが死ぃ、ねえええええッ!!!」

 

 こんな相手に手加減なんかしてやらない。

 その全身をナイフで串刺しにして、蜂の巣に、

 

物質具現機(マテリアライザー)、起動」

 

 男の手の中で浮遊する、幾何学的なラインとリングを纏った、黒い箱――物質具現機(マテリアライザー)

 

 直後、虚空から、一メートル近い巨大な棒が現れて、僕のカッターナイフが静止した。

 

「な……?!」

 

 物質具現機(マテリアライザー)のコントロールが効かない。

 制御を奪われた? いや、違う。男が自身の物質具現機(マテリアライザー)で具現化したあの棒。赤と黒で塗り分けされた、長細い直方体。

 これは――

 

()()()3()1()5()()――()()()()()()()()

 

 飛来するそれ。

 SとNの文字が刻まれた棒磁石が、僕の胴体を鐘のように突き上げた。

 

「お、げ……!」

 

 苦鳴と共に血反吐を吐く。

 凄まじいスピード。物質具現機(マテリアライザー)だけじゃここまでの速度は出せない――磁石の反発力を用いた加速だ。

 

 空中に弾き飛ばされる僕。だが、どうにか体勢を立て直して、具現化した巨大カッターナイフを足場に空中で踏ん張りをかける。

 

「……硬い。今のでブチ抜くつもりだったが……なるほど、能力者か」

 

 そして僕は思い出す。あのクエストにおける黒幕、磁石の物質具現機(マテリアライザー)使いである、ボス(エネミー)のコードネーム。

 

「デ……磁束結合(デッドコイル)……!」

「知られているか。前線にはそう出ていないつもりだったがな」

 

 マズい――あいつは防御力こそ低いが、武装属性の攻撃を全て無効化する。

 

 思わず自分の腕を見るが、包帯は全て使い切っている。斬撃波は撃てない。

 今受けた一撃のおかげで補充は出来たけれど、流石にこれだけじゃ決め手にならない。

 

 だが、スタンだ。

 このゲームはバランスがまあまあ酷いので、スタンさえ取れれば大体どうにかなる。

 かなり難しいが、スタンを取った状態でこれを当てて、昏倒状態を発生させるしか……。

 

 ……いや、待て。ゲームの時には武装属性は完全無効化だったけれど、現実になったこの世界なら、あるいは。

 

「……再現率100%! カッターナイフ具現――オーステナイト系ステンレス!」

 

 大剣サイズのカッターナイフを両手に携え、僕は足場のカッターを蹴り、白衣の男――磁束結合(デッドコイル)へと落下する。

 ヤツから飛んできたいくつもの棒磁石が身体を掠めるが、僕の持つカッターナイフには反応しない。弾き飛ばしてもくっつくことさえ無い。僕は一直線に突き進む。

 

 いける。オーステナイト系のステンレス鋼は、(スチール)と違って磁性を持たない。

 

 ゲーム内じゃ剣も銃も、金属素材を使った武装属性攻撃は全て無効化されていたけれど、これなら――!

 

「ローレンツ力も知らんのか? ゴミめ」

 

 景色が吹き飛ぶ。

 突如として手に持っていた巨大カッターナイフがもぎ取られ、無防備になった僕に、頭上から数メートル近いサイズの棒磁石が叩きつけられた。

 

 地面に叩きつけられる身体。メキメキと音を立てて、いくつかの骨が折れる。

 

「いぎっ、がっ、ぁ……!」

「私が具現化した磁石は磁力を自在に調整できる。フレミングの左手なぞ赤子でも知ってる常識だろうが。例え磁性を持たずとも、導体である限りは――ああ、いい。蛮人に説明するだけ時間の無駄だ」

 

 しくじった――ゲームの描写の方が正しかった。

 身体を押し付けられる中、どうにか、僕は右手を相手の方に向ける。

 

「ダメージ、バレット……!」

 

 そして、受けたダメージを紅色の衝撃波に変えて射出するが、しかし。

 磁束結合(デッドコイル)の周囲に現れた黒い壁が、それを防ぐ。――砂鉄だ。磁力によって操作しているのだ。

 

 黒はそのままこちらに襲いかかり、僕の身体に纏わりつき、拘束する。

 なんとかしてもがくが、そもそもが砂だ。蟻地獄に呑まれたみたいに意味が無い。

 

「ご、ぎゅ……っ!」

 

 また、腹部に衝突する棒磁石。

 抵抗できない。がん、がん、がん、と、それこそまるで鐘みたいに、何度も何度も底面が僕の身体を殴打する。

 

 視界が揺れる。霞む。

 僕本体より耐久力の低い戦闘服(ドレス)がボロボロになって、破れる。

 能力を使ってダメージを排出しようにも、断続する衝撃が僕の意識を途切れさせる。能力を使う隙が無い。

 

「埒が明かんな――なら、これで死ね」

 

 ずらり。

 そんな擬音めく動きと共に並ぶ、レールのような磁石の群れ。

 渦巻き逆巻く磁力線の形を描いていく、真っ黒な砂鉄のライン。

 レール……ローレンツ力……そうか、レールガン……あいつの必殺技だ……効果は確か……ああ、いや、駄目だ、どう考えたって耐えられない……。

 

 ぐらぐらと揺れる景色。

 鈍麻する思考に反して、意識は張り詰める。

 

 まだ視覚は機能しているはずなのに、前が見えない。

 だが、音は聞こえる。

 曰く、死の間際でも、聴覚だけは正常に機能にすることが多いのだと言う。

 

 これ、どこで聞いた豆知識だったかな……。ああ、そうだ、前世で死ぬ直前だ……。

 だから、皆さん、言葉をかけてあげてくださいとかなんとか、医者が言ってて……。

 

 皆さん――そう、そうだ。

 前世では、僕は、案外、知り合いの多い方だった。

 

 今世ほどじゃないが、人付き合いは苦手で……だけどそれでも、友達付き合いは頑張っていた。

 

 結構、無理をしていた。

 身の丈に合わないぐらい友達を作って、それを維持しようと、必死になってた覚えがある。

 

 そんなだから、割と相手にとって都合の良い人間になってた気がする。

 当時はそんなこと考えなかったけれど。

 

 だからまあ、辛いことの方が正直多かったけれど……それでも、楽しい記憶は、あった。

 

 ……あった気が、した。

 

 病室にみんなが集まってきて、言葉をかけてくださいとか言って……それで、なんて言われたんだっけ。

 ああ、うん。覚えてないような振りをしたけれど、やっぱり無理だ。しっかりはっきり思い出せる。

 

 誰も、僕のために言葉なんて投げなかった。

 

 正直ダルそうだったもんな、全員。

 別に僕、誰とも特別に仲良いわけじゃなかったし。

 もっともらしい言葉は全部、隣にいる誰かの顔色を伺いながら言われていた。

 

 何が「すぐに良くなる」だ。今日中には死ぬって言われたの聞こえたよ。「また遊びに行こう」ってなんだよ。お前、僕が来るといつも嫌そうにしてただろ。「何度でもお見舞いに来るから」って言ったヤツ、僕が死ぬって言われてホッとしてたじゃん。

 

 ああ、でも、まあ、そこまで悪し様に言うもんでもないか。

 みんな多少は、雰囲気に酔ってるところもあったんだろうしね。クソだ。

 

 ……本当に、嫌だった。

 嘘をつかれたのが、じゃない。

 

 僕が本当のものを何も築けなかったのが、だ。

 

 楽しい記憶もあったのに。

 あった気がしたのに。

 

 全部が全部、最後にゴミだと気付かされた気がした。

 

 誰か一人ぐらい、僕のために何かを言ってほしかった。

 

 僕を想ってくれるだれかがほしかった。

 

 本物のなにかが、ほしかった。

 

 矛盾しているけれど。

 物語に出てくるような、あり得ないような、偽物みたいな、本物が。

 

「……ね……い……」

 

 だから、こそ。

 

「……死ね、ない……」

 

 だからこそ。

 

「死ねない……! 死ねない、死ねない、死ねない死ねない死ねない死ねない死ねないッ――死にたくない!!」

 

 もがく腕が、地面を圧し割る。

 

 嫌だ。

 死にたくない。

 ちゃんとやりたい。

 御天(ミソラ)さんに償いたい。

 その気持ちを嘘にしたくない。

 こんなところで終わりたくない。

 誰かにとってのなにかでありたい。

 

 本物になりたい。

 

 能力によって、僕の、()()()()()()()が具現化する。

 背中から翼のように伸びて、血のように滴る、毒々しいショッキングピンクの輝き。それが纏わりつく砂鉄をにわかに崩壊させて、少しずつ拘束を解いていく。

 

 磁束結合(デッドコイル)がたじろぎ、慌てる気配。

 ヤツの必殺技はもう放たれる直前だ。間に合うか。間に合わなくても間に合わせるしかない。

 

 全力を賭けて拘束から逃れようとした――

 

「――――」

 

 その時だった。

 

 

 誰かが、いた。

 

 

 路地の先から、静かに――足音も立てずに歩んでくる、男。

 黒い。夜の闇に溶けるような姿だ。真っ黒なコートに、真っ黒なフルフェイスのヘルメット。

 加えて、何かの合金できていると思しきプロテクターが、それらを意味があるのかないのか分からない配置で鎧っている。

 

 手に持っているのは、空色に淡く光る何か。柄の部分が輝きを反射させて、金属光沢を放つ。

 剣だ。ぼんやりと輝く、光の剣。

 

「な……」

 

 ――あり、得ない。

 彼。彼が――彼が『登場する』のは、来年のはずだ。

 

 この段階で、この時系列時点で、彼が登場人物でも、知り合いでも、ヒロインでも何でもない僕を助けに現れるなんてそんなこと、あるはずが、無い。

 

「何だ、貴様……『軍』の援軍か? 違うのならそこで止まれ。邪魔をするな――殺すぞ」

 

 磁束結合(デッドコイル)が言った。

 まるでありきたりなチンピラのような恫喝。だけど、そこに込められた殺意は本物だ。そんなのは誰にだって伝わる。

 これを浴びてまだ来れるのなら、それは、本物の殺意を向けられて……それでもなお、生き延びてきたような、生き延びてこれたような、本物の戦士のみのはずで――

 

「――――」

 

 ――そして、一歩。

 彼は踏み出し……駆け出した。

 

「……警告はしたぞ、蛮人」

 

 ヴン、と音を立てて巨大な棒磁石が具現化し、磁力線に沿って周囲の砂鉄が浮かび上がる。

 

 彼が走り寄ってくる。様子見のつもりなのか、そう速くない。

 いや――剣を振りかぶった。勢いよく踏み込もうとしている。斬りかかるのか。この距離から。

 

「駄、目……磁力ッ……!」

 

 だけど、マズい。あの光の剣だって、武装属性――金属部品が使われていることは間違いない。磁束結合(デッドコイル)には全て無効化される。

 

「馬鹿め。私には玩具に等しい」

 

 両者の間に働く引力。

 彼の手から光の剣がすっぽ抜けて、男へと飛んでいく。

 

 飛んでくる剣を、磁束結合(デッドコイル)は片手で受け取ろうとし――

 

「フン。近接武器などで、この私をどうにかできるとでも――()()!?」

 

 ――()()()()

 

 僕のカッターナイフのように、磁束結合(デッドコイル)の眼前で停止するはずだったであろう剣が、そのままヤツの顔面へと命中し、その身体をぐらりとよろめかせる。

 よく見えなかったが、こちらに取っては運悪く柄の部分に当たったのか、磁束結合(デッドコイル)の顔からは血は流れていない。

 

 しかし、奇襲成功。スタン状態だ。

 

「バカな、何故効か――」

 

 そのまま彼が近寄って、男のみぞおちに拳を突き入れる。

 漏れる苦鳴。素手攻撃の威力なんてゲームでもたかが知れていたが、ボスの中でも防御力の低い磁束結合(デッドコイル)にはそれでも有効だったらしい。

 

 そのまま彼が白衣の男を殴る、殴る、殴る。

 実戦慣れした動きではあるが、思ったより荒っぽい。喧嘩殺法だ。

 何度か彼に向けて苦し紛れの磁力が働くが、それも何故か効かない。金属製と思しきプロテクターを着けているはずなのに。

 僕の頭の中に、心当たりのあるいくつかの無効化スキルが思い浮かんだ。

 

 そのまま彼が男を殴り飛ばし、距離を取った。

 

 そして叫ぶ。

 こちらに向かって。

 

「――今だッ!」

「えっ。あっ、はい!」

 

 言われて、立ち上がる。

 連続のスタン状態により、僕を拘束していた砂鉄の効果時間は既に切れていた。

 

 僕は右手をピストルのように構え――

 

「ダメージバレット――(インパクト)(シュート)!!」

 

 ――紅色の衝撃波を、無防備な男に向けてぶちかました。

 

 白衣が吹っ飛び、路地の塀に叩きつけられる。

 その衝撃によって、手から物質具現機(マテリアライザー)が零れ落ちた。

 

 僕に蓄積されていた打撃のダメージは排出され、腹部の傷がいくらか消え去る。

 

 昏倒状態に入った磁束結合(デッドコイル)を無力化。拘束具を具現化して縛り付けた。

 この拘束具は再現率が低いので武器としては使えないけれど、人一人拘束するだけの強度は十分にある。

 

「そうだ、三船(みふね)さん――」

 

 ――いや、大丈夫だ。見れば、倒れていた彼に、いつの間にか応急処置が施されていた。

 このまま放っておけばまずいだろうが、今すぐにどうこうってことは無いだろう。……通常の治療であることから考えるに、回復スキルは持ってないらしい。まあ、彼はアタッカーの方が効率的だったからゲームじゃ僕も持たせなかったけど。

 

 まだ腹部はズキズキと痛んでいるけれど、そんなのはもう気にならない。

 

 ああ。やっと、だ。やっと。やっと来てくれた。

 僕は彼に――主人公に向けて、振り返る。

 今まで、この世界に生まれてから、一度もしたことがないような、本当に晴れやかな笑顔を浮かべて。

 

「あのっ、本当にありがとうございます! どうか、お礼を――あれ」

 

 居ない。

 

 え。

 え?

 なんで?

 

「なんでぇ……?」

 

 僕は困惑しながら、ただ呆然と路地裏に立ち尽くしていた。

 

 


 

 

 バタバタとした足音が、路地裏を出て、街の中を駆けていく。

 

 ヘルメットの中からくぐもって響く、ぜえぜえという息の音。

 取り付けが甘く、ガシャガシャ揺れるプロテクター。

 杖代わりにされて、地面に擦られる光の剣。

 

 どれもが、主人公(ヒーロー)なんて言葉とは程遠い有様だった。

 

「ハァ、ハァ、ハァ……! ヤバい、ヤバい……ヤバ過ぎた……ッ! いやッ、というか――」

 

 ――やっちまった。

 

 そう思いながら、守部(もりべ)(サバキ)は走っていた。

 

 ()()のデザインを元にした、コスプレ衣装で、走っていた。

 

 夜中だが、周囲には通行人がちらほら見える。

 (いぶか)しげに守部(もりべ)を見ている者もいるが、この街は元よりコスプレイベントが盛んだ。不自然に思いつつも、また何かのイベントだろうと見過ごされていく。

 

 そうだ。それもよくなかった。

 徹夜で作っていたコスがついに完成したことでテンションがアガってしまったのが第一の原因であるが、それに加えてこの街がこのような街であるから――守部(もりべ)もイケるかなと思って、つい、出てしまったのだ。外に。

 

「(でも、もうやめよう……ッ! いや、絶対にやめるッ! 駄目だ、コスプレ徘徊とか! 大体木刀持って出歩いてるだけでも普通に警察に補導される!)」

 

 言って、飛び込むように自宅に帰宅し、中学の修学旅行で買ってきてしまった木刀を投げ捨てた。

 

 そう、木刀。プラ材で装飾して、衣装にも使っている金属風の樹脂スプレーで塗装し、最後に蓄光塗料で光らせてみた木刀。

 

 自分でもかなり良く出来たと思える造形だったが、これももう仕舞っておこう。そう決意する。

 

 衣装を脱ぎ捨て、押入れに片付ける。

 それにしても、あの白衣の男をぶん殴った手がズキズキと痛い。

 喧嘩の経験はそれなりにあるが、あそこまで全力で人を殴ったことはなかった。

 

「つーかおかしいだろ……どういうことだよ、あのヒョロさであんなに硬いって……」

 

 もしこういうことやるなら、何か、鉄板入りのグローブとか、そういうものを……。

 

「(いや、だからもうやらないんだって……!)」

 

 口の中でつぶやき、乱暴に椅子に座り込んだ。

 

 はぁ、とため息をつきながら、守部(もりべ)は棚の上の、埃の積もった写真立てを見やる。

 

「……でも、あっちは……」

 

 中に入った写真には、子供の頃の守部(もりべ)と――

 

「これからも、続けるんだろうな……(キザミ)のやつ」

 

 ――男の子っぽくやんちゃに笑う、ピンク髪の少女が映っていた。




ラブコメになりました(断言)


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3/オーディナリーズ・オリジン

 守部(もりべ)(サバキ)は、どこにでもいる普通の男子高校生である。

 

 この手の入りから語られるキャラクターなんて大概が全く普通の高校生なんかじゃあないだろうが、少なくとも(サバキ)自身に「特筆すべきその他の事項」なんてのは存在しない。

 

 中肉中背、中庸中立。

 平凡な能力、平凡な家柄、平凡な経歴。

 人生何も無いと言えるほど平らでもないが、何かあると言えるほど尖ってもいない。

 

 平凡な人間なんていない、人はみんな特別だ……、

 なんて言説を唱えるのであれば勝手にすればいいけれど、他の誰になんと言われたって、守部(もりべ)(サバキ)は自分を特別な人間だなんて思わないし、定義しないだろう。

 

 だから、特筆すべきものがあるとするなら、それは彼自身ではなく――その隣に居た、「彼女」についてであるべきだ。

 

 自身にまつわる関連項目の中で、唯一特別だと思える彼女。

 桜色の髪を靡かせる、子供らしくて大人びた、年の離れた青年のような同い年の少女。

 在城(ありしろ)(キザミ)

 

 彼と彼女の関係をカテゴライズするなら「幼馴染」だ。

 けど、家は三軒離れていたし、親同士の仲も顔を合わせれば軽く立ち話をするぐらい。当然家族ぐるみの付き合いなんてなくて、近所付き合いも大してない。

 しかし、小学校の頃にはもう知り合いだった。

 

 どういうきっかけで話し出したのかは覚えていない。

 席替えで隣になっただとか、帰る道がいつも一緒だったからとか……そんな程度の、覚えてられないような、ありきたりな理由で話かけて知り合ったのだと思う。

 

 正直、あんまり感じのいい女の子ではなかった。

 その頃から可愛らしい顔はしていたが、見るからに同年代を子供扱いしていて、それを取り繕うともしないで……。

 

 でも、それに文句を言わせないぐらいの大人びた態度と、子供離れした能力――そして、誰も知らない真実を知っているような謎の雰囲気。

 明らかに孤立しながらも、彼女には先生も誰も「他の子ともっと仲良くしましょう」なんて言わなかった。

 

 だが、守部(もりべ)(サバキ)はそんな少女の、在城(ありしろ)(キザミ)の隣に随分と長く居て……友達であったように、思う。

 

 それはやっぱり、何か(サバキ)が特別だったからとか、特別なことをしたからとか、そんな劇的な理由ではなく――家が近くて、いつもクラスが同じで、席が近くなりやすくて、だからなんとなく話す機会自体はあって――なんて、つまらない理由の積み重ねによるものでしか無かったけれど。

 

 しかし、(サバキ)にとってはともかく、(キザミ)が彼を友達と思っていたのかは、今となっては定かではない。

 

 思い返せばいつも、年下の男の子か、弟を観るようなそんな素振りで、同い年の友達として扱われたことは、ついに一度もなかった気がする。

 お姉さんぶった大人目線。顔に似合わない中性的で活発な振る舞い。常に自分と周りを隔てて、それを当然だと思っているような、自身を特別と確信する人間にしか出せない独特のオーラ。

 

 子供の狭い視野での捉え方であったかもしれないけれど……あの頃の(サバキ)にはその彼女のどれもが神秘的で、魅力的に見えていた。

 

 正直な話、好きだったのだと思う。

 もっとも、それは小学生のませた恋愛感情なんかじゃなく、憧れとか、興味とか、羨望とか……そういうものがごちゃ混ぜになった末の、未成熟な好意ではあったが。

 

 でも、そんな子供の好意を、彼女は少し照れ臭そうに受け取っていた。男の子みたいにいたずらっぽく笑って、それからちょっとずつ、心を開いて、距離を詰めてくれるようになっていた。

 

 で。

 

「ほらほら(サバキ)、あれ見える? 誰も気づいてないけど、公園の隅でうずくまってるあれ。バケモン」

「ヴヴォァアアアア゛ア゛ァーッ!?!?!?」

「すげえ声出ててウケる」

 

 それなりに仲良くなった結果として見せられたのが、()()だった。

 

 曰く、超常性。曰く、都市伝説。曰く、脅威存在……

 

 気づかされてみれば、そいつらはそこらじゅうにいた。

 日常に入り込むほど多くはなく、日常から覗き込めないほど少なくはない。

 少し意識の焦点を合わせて探せば、子供の足でも届くほど近く、すぐそこにいるもの。

 

 幼い(サバキ)はビビった。それはもうビビりにビビり倒した。

 大人にも相談したが、当時小学生である彼の言葉なんて誰も信用しなかった。

 今にして思えば、信用されないであろうことを見越して彼女はこれを暴露したのであろう。カスである。

 

 思い返すとトラウマになってもおかしくないような恐怖体験だったと思うのだが、なんだかんだ慣れた。

 

 わざわざ手を出そうとしなければ特に何も起こらないというのもあったし、結局のところいるものはいるのだからと諦めたというのもあったし、女子の(キザミ)が全くビビってないのに男子の自分がビビるわけにはいかないという意地もあった。

 

「レベル1のザコなら棒でシバくだけでもイケるでしょ」

 

 その(キザミ)がわざわざ手を出そうとするので、いてもたってもいられずついて行ったり、危うい目に逢いながら逃げ帰ってきたり、時々凄まじく神秘的な光景を目の当たりにしたり、そんな冒険にワクワクする自分も居たりで……いつの間にか、慣れた。

 

 あの頃は特別感があった。

 自分が、何かの物語の主要人物であると信じて疑わなかった。

 

 でも、彼女はそんな風には思ってなかったらしい。

 

「なあ(キザミ)、たまに書いてるけど、それ何?」

「これ? 主人公(ヒーロー)だよ。見つけた時に覚えていられるように――忘れないように書き留めておかないと」

「いねえじゃん、こんなの。ライダーとか戦隊とか、あいつらがテレビで()()と戦ってたこと一度もないし。何も知らねえ大人の作り話だろ」

「『彼』は居るよ」

 

 真剣な声で、彼女は言った。

 

(サバキ)も、もし見つけたら教えてね。僕、こういう人たちと一番仲良くなりたいから」

「……でも(キザミ)おまえ、友達作れねえじゃん」

「作れないんじゃなくて作らないの。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。ただのモブとなんて話すだけ無駄だよ。だからこういう――本当に、相手のことを想ってくれる人と、仲良くならないと」

 

 その彼女の、彼に向けて話していながら、彼のことをまるで意識していない様子に――無性に、心がザラついていた。

 

 よくわからないが、何かがイヤだった……いいや、違う。

 何がイヤだったかなんて分かっていたが、それを認めたくなかったのだ。

 

「困ったらこの人たちに助けてもらうといいよ。そこらにいるザコの対処法は色々と教えてきたけど、それでも(サバキ)()()()()なんだから。本当に強いやつにはどうしようもないし」

「…………」

「ほらこれ、覚えておいた方がいいキャラね。今はまだいないけど、そのうち――わっ、あっ、何すんの!」

 

 差し出されたメモ用紙を、ビリビリに破いたことを覚えている。

 

 その日はそのまま喧嘩別れした。

 ……というには、彼の方が一方的に拗ねていた気もするが。

 

 大人気ないと言いながらなだめていた彼女も、最後には多少イラついた様子で「今度この人に会ってくる」とかなんとか言って別れて、それで――

 

 


 

 

 

 

 

 


 

 

 ――何かがあった。

 

 その時期の記憶は混濁している。

 今なら、『彼ら』が特殊な記憶処理を広域かつ長期に渡って施したのだと分かるけれども。

 

 それは表向き「大きな火事があった」ということになっていて。

 気が付いた時には焼け跡の復興があり得ないほど迅速に終わっていて。

 

 そして。

 

「えー、在城(ありしろ)さんなんですが、実は休みの間に急な都合で別の学校に転校することになり……」

 

 そういうことになっていた。

 

 でも、その直後はまだ……自信があった。

 何の自信かと言われると難しいが、ここからまた何か始まって、よくわからないけど円満に解決して、最終的には彼女が帰ってきて、元の日々に戻れるんじゃないかという……根拠の無い、自信。

 

 何もできなかった。

 

 転校先の学校とか、火事の時にあった出来事とか、色々調べてはみたのだけれど、何もできなかった。

 

 具体的に何をすればいいのかもよくわからなかった。

 思えば、これまでの冒険だって、なんとなく彼女についていっていただけで――その破天荒に振り回されたり、危険な目に遭うのを助けたり、二人で協力したりするようなポーズを取ってはいたけれど――そんなのは、ただ、彼の主観の話で。

 

 大抵のことは準備も何もかも彼女一人でやっていたし、小学生にとっての『危険な目』なんて彼女は些細なトラブル程度にしか思っていなかっただろうし、二人で協力してやったことは金か手間か時間をかければ一人でも出来たことだった。

 

 それに気づき、落ち込み……。

 それでも、()()は自分たち二人しか知らないことなのだからと、今まで冒険した、()()がある場所に通ってみたりもした。

 

 こんなものがあるなんて、他の人間は誰も知らない。

 だから、ここで待っていれば、その内に彼女がやってくるんじゃないか、と――

 

「――こちら現地隊員。既知超常脅威、問題なく駆除完了。……記憶処理……いえ、目撃者はないと思われます。はい、これから後始末を――」

 

 そして、世界の裏側では、二人だけの秘密なんて、当たり前の事実に過ぎないことを知った。

 

 どうにか『彼ら』の後始末をかわして、しばらく経ってからもう一度来てみると、不気味で神秘的だったその場所は、どこにでもあるコンビニに建て変わっていた。

 

 考えてみれば、当然の話だった。

 あんなバケモノがそこら中にいるのに、世界が終わる気配がない。誰かに知られてすらいない。

 なら、当然、そこには日常を守る誰かがいて、人目につかないように隠していたに決まっているのだ。

 

 そしてそれはきっと、なにか劇的なものですらない。

 

 ……いつだったか、両親の仕事を調べてきなさいだとか、そういう学校の宿題があった。

 

 彼の父親は環境省の公務員だかなんだかで、ビールを飲みながらライフラインがどうのインフラがどうのと言っていて、ちゃんと聞いてすらいなかったが……「日々の生活を守る大事な仕事」だというのは、覚えていた。

 

 多分、『彼ら』もそうなのだろう、と思った。

 英雄的行為でも何でもない、ただの害獣駆除。毎日のお仕事。誰も知らないだけの、普通の労働。

 

 今まではしゃいで見ていたものは、そんな程度のものでしかない。

 実感した。痛感した。

 

 ……そして、守部(もりべ)(サバキ)は……()()()

 

 自分が特別だなんて、全く思えなくなったのだ。

 

 主役でも主要人物でも何でもない、ただの端役(モブ)

 守部(もりべ)(サバキ)がこの世界で担っている役割なんて、そんなものに過ぎなくて。

 そして多分、在城(ありしろ)(キザミ)はそうではなかったという……それだけの話なのだ。

 

 だが、きっとそれでよかったのだ。

 無理に近づこうとしても、良いことなんてあるはずが無い。

 それは場違いで、分不相応な話で、イカロスの翼よろしく思い上がりのしっぺ返しを受けるのが目に見えている。もしくは、星間限界(ロッシュリミット)を越え、主星の重力に粉砕される衛星か。

 

「…………」

 

 だけど……せめて何か、知りたかった。

 

 何を知りたいのか、自分ですら分からなかったけど。

 

 中学に上がり、平凡な日々を過ごし。

 その(かたわ)らで……内申が上がるわけでも、就職に有利になるわけでもないのに、なんとなく、休日の趣味ぐらいの気持ちで、身の回りの、やや不思議な程度の些細な超常性を探して、冷やかして、ちょろまかして……少し虚しく、満足していた。

 

 そして普通に中学を卒業して、普通の高校の入試に受かって。

 春休みをダラダラと、いつものように適当に、不思議なものを探して過ごしていた、ある日だった。

 

「何だアレ」

 

 デカい雷の怪獣がいた。

 

 そしてそれと戦う、淡い桜色の髪の少女を見た。

 

 そして、戦いの中で少女の被っていたフードが破けて、その中に幼馴染の顔が、

 

「――こちら事後処理班。目撃者の記憶処理を開始します」

 

 見えたところで『彼ら』にその記憶を吹っ飛ばされたが、『彼ら』はアレで案外ずさんなところもあると(サバキ)は知っていた。

 

 理念的に無理も無いが、基本的に一般人をナメているのである。

 

 ので、記憶を消される前に、そこで起こったことを買い物メモに見せかけた暗号で腕にマジック書きした。

 

 ついでに謎装置に記録を消されないよう――原理は全く分からないがこれまでの経験でそういう装置があることは知っている――茂みの中に隠して撮影させておいたスマホを後から回収して、その時あったことを知った。

 

 そして、帰宅後。

 

「……やっぱ(キザミ)だよなぁ、これ」

 

 五年近く会っていないけれど、他人の空似とは思えなかった。

 電磁波の影響であまりはっきりした映像にはなっていなかったが……それでも分かる。あのシグナルレッドの鮮やかな眼光。神秘的な立ち居振る舞い。派手な戦闘服(コスチューム)を纏って、誰も太刀打ちできないような怪物に立ち向かう彼女の姿。

 

 ――主人公(ヒーロー)みたいだ。

 

 と、ごく自然にそう思った。

 

「…………」

 

 少し嬉しかった。

 幼馴染だった少女はやっぱり特別な存在だった。

 端役(モブ)である自分とはこうしてすれ違うのがせいぜいの、特別な相手だったのだ。

 

 そう思った。

 

「…………」

 

 それでも、何か、知りたかった。

 何かが何なのかは、やっぱり自分でも分からなかったが。

 

 そして、そのまま何事もなく高校に入学し、半月が経った時のことであった。

 

 ジャージを持って体育の授業に行こうとした時。

 ロッカーにもたれかかるピンク髪の女子生徒の姿を見た。

 

 

 というか在城(ありしろ)(キザミ)だった。

 

 

「(なんか普通に学校に居る……)」

 

 なんか普通に学校に居た。

 

「ぅ、ふぐ、うぅっ……」

「(泣いとる……)」

 

 泣いていた。

 

 恐る恐る、近づいて様子を見る。

 

 小柄な身体だ、と最初に思った。

 うずくまっているせいもあるが、女子の平均身長よりは低いだろう。

 当時は同じぐらいの背だったから、余計に小さく思う。体型も全体的に細く、スレンダーだ。

 

 顔は伸ばしっぱなしの前髪に隠れていて、陰気な印象。

 この高校の特徴であるデザインに凝った制服もあまり着こなしているとは言えず、全体的に華やかな印象は感じられない。

 

「(まぁ、昔からあんまり女の子っぽい奴ではなかったけども……)」

 

 本当に泣いているのかと、軽くかがんで、前髪の奥の顔を覗き込む――美少女であった。

 

 思わず、たじろぐ。

 春休みの時に一度見てはいるけれど、あの時は遠目だったし、そもそも覚えていない。撮った映像だって、そこまでしっかり映っていたわけではなかった。

 

 けど、こうして近くで見るとはっきり分かる。

 可愛い。物凄く。

 昔から可愛い容貌ではあったけど、そこにはまだ子供っぽさが残っていた。

 しかし今は、あの頃から見え隠れしていた美しさが、花が開くみたいに綺麗に咲いている。

 

 でも、その目はぎゅっと瞑られ、顔はやっぱり涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。

 何を言えばいいかもわからないまま、(サバキ)は居ても立っても居られず声をかける。

 

「えっと、その……どうした?」

「……ージ……」

「え?」

「えぅ……ジャージ、わすれた……。ジャージ忘れたぁああぁ……!」

 

 マジかコイツ。守部(もりべ)(サバキ)は戦慄した。

 

 ジャージの忘れ物――ジャージの忘れ物? 高校生にもなって忘れ物で泣いている? 逆にどうしろと?

 内心頭を抱えつつ、とりあえずはこうして五年越しに再会したのだし、久闊を叙しておくべきかと口を開く。

 

「あー、その、ていうか分かるか? 俺だよ、守部(もりべ)(サバキ)。小学生の時、仲良かった――」

「知らない……誰……」

 

 あまりにも無慈悲な言葉に青少年のハートが木っ端微塵に砕け散りかけた。

 

「い……いや、ほらせめて顔見ろって(キザミ)、あのさ、今は体育あるけど、この後なにか――」

「名前呼びキモ……」

 

 あまりの口撃力に一瞬死んだかと思った。

 

 ショックで倒れそうなところをギリギリで堪え、食いしばる。

 だがしかし、それでもガクガクと震える膝。たった二撃で足に来ている。

 

 もうこうなればヤケである。せめて顔ぐらいは向けさせようと、半ば強引に腕を取った。

 

「ほら。き……在城(ありしろ)お前、ジャージ忘れたぐらいでそんな――」

「――あ」

 

 袖がめくれて、白い包帯が目に入る。

 

 これを見せたくなかったからか、と一人得心する。

 一瞬、リスカでもしているんじゃないかと思っていたが、あれだけの戦いをしていたのだ。今日も傷ぐらい負っていても何もおかしくはない。

 

 一旦泣きやんだ彼女の顔をもう一度見て――

 

「……っ」

 

 ――思わず、体を引いた。

 

 きらきらと輝いていたシグナルレッドのあの瞳が、あまりにも暗く、病み澱んでいたから。

 

 だから……何か言うべきだと思いながら、何を言っていいかもわからなくなってしまって。

 なんとなく他人行儀な態度でジャージを貸して、それを他人行儀な態度で彼女が受け取って、そのまま、体育館の方へと去っていこうとした、その時だった。

 

 足元に、よれた紙が一枚落ちた。

 

 拾い上げる。

 昔、彼女の描いていた主人公(ヒーロー)のイラストが描かれたルーズリーフだった。

 

「――こういうの、今でも好きなのか?」

「え?」

 

 反射的に問いかけてしまって、彼女が振り返る――その直前に、チャイムが鳴った。

 慌てて(キザミ)が体育館の方へと駆けていく。

 

「…………」

 

 手に持ったルーズリーフをじっと眺めた。

 ……彼女は、一体どういう気持ちでこれを描いたのだろうか。

 

 こういうものになりたかったのだろうか。なれたのだろうか。どうしてああいう風にしているのだろうか。どうしてこういう風にしていたのだろうか。

 

 自分は、どうすべきなのだろうか。

 そもそも、何かできることはあるのだろうか。

 

「…………あー」

 

 知りたいまま知れなかったことを、ようやく言葉にして自覚する。

 

 自分は。

 

 ずっと。

 

 

 彼女の気持ちが、知りたかったのだ。

 

 


 

 

「……それがなんでああなった……?」

 

 テンション上がってコスプレ姿のまま街に出て、いつものように妙な気配のする場所を徘徊して――最終的に彼女と戦っていた白衣の男をボコった、その翌日。

 

 (サバキ)は学校に行く支度をしながら、昨日のことを思い返していた。

 

「(……しかも、いつの間にかアレ拾ってきちまったし……)」

 

 ごちゃごちゃと物が置かれた机。

 その上に、白衣の男が落とした謎のアイテム――幾何学的なラインが刻まれた黒い箱が置かれていた。

 

 机の上には他にも、色んな場所から拾ってきた超常性のアイテムが並べられている。

 とはいえ、そう大した代物ではなく、永遠に砂が落ち続ける砂時計とか、水が零れないコップとか、裏しかないのにトスするとたまに表が出る十円玉とか、そういった何の役にも立たない物ばかりだ。

 

 それと同じようにいつもの癖でコレも拾ってきてしまったが、明らかに今までの弱い超常性アイテムとは雰囲気が違う。

 

 部品の一つに刻まれていた、製品名と思しき文字列を見る。

 Materializer……直訳で「物質化させるもの」、でいいのだろうか。熟語に言い換えるなら物質具現機といったところか。

 

 昨日の晩に軽く中身をバラして構造を見てみたが、複雑な上に、明らかに現代の科学では無さそうなナニカが使われていてよく分からなかった。

 大体、この極小のあやとりのように絡められたこの炭素繊維に一体何の意味があるというのか。何かしら規則性のある動きをしているのは分かるが、こう、結び目理論的ななんやかんやが使われているのだろうか? よく分からないがライデマイスター移動的な。

 

 とりあえずユーザ認証か何かをしていると思われる部分は普通の電子部品だったので、適当に外して弄ったが、正直あんまりよくなかったかもしれない。それを言ったら分解している時点でだいぶよろしくないのだが。

 

「……再現率3%、コスプレ衣装具現? お、出る」

 

 物質具現機に手を当て、思念的な何かを読み込ませる。直後、自分で作った昨日のコスチュームが虚空から音も無く出現した。

 

 白衣の男や、(キザミ)のように、磁石やカッターナイフを出せないか試してもみたが、上手くはいかなかった。どうも、自分で一から作るなどして構造を理解したものや、普段から使って慣れ親しんでいるものでなければダメらしい。推測だが、その上で更に個人差もありそうだ。

 

 ……構造はともかく、どういう物かは大体分かって充分に満足はしたのだが、しかしどうするべきだろうか、これ。(サバキ)は眉根を寄せて首を捻る。どこかに捨てるというのも何だか怖いし。

 

 ……(キザミ)に引き渡すのが、多分、一番良い選択肢だと思うのだが。

 

「……でもなぁ……」

 

 その場合、自分は勝手に彼女の描いたデザインのコスプレで深夜徘徊していた妙な変人、もとい変態になるわけである。

 

 大体、コスプレで深夜徘徊がしたかったわけではないのだ。いや、衣装が完成してテンションが上がったのは事実だが、それでも最初思っていたのはそういうことではなくて……。

 

 悩んでいる内に、学校に到着する。

 自分の教室に向かおうとして、その途中。

 

「――あ」

 

 廊下をうろついていた、ピンク髪の少女と出くわした。

 

「え、ええと、も……守部(もりべ)、くん? お、おはよう……ございます……」

「おう……。おはよう」

「あ、あの、これ、ジャージ……」

 

 苗字呼びに地味に凹む。

 この数年で随分と暗く内気になった様子の幼馴染からジャージを受け取る。

 何も言えずにそのまま教室に向かおうとしたが、その直前、「あのっ」と、いくらか上擦った彼女の声に呼び止められた。

 

「この――この格好してた人知らない? 見てない? 他の人にもその、聞いてるんだけど……」

 

 言って、彼女が見せつけてきたのは、やはりと言うべきか、例のキャラクターのデザイン画だった。手を伸ばし、紙を受け取る。

 しかし……

 

「(……なんか美化されてね?)」

「え? な、なに?」

「いや、なんでも……」

 

 明らかに前見た時より脚が長い。頭身もやや高く、全体的にシルエットが引き締まっている。昨日の有り合わせの中古素材で作ったコスプレ姿の(サバキ)とは似ても似つかない。

 

「一応、見たかな……家の前とかで……」

「っ、本当に!? 具体的には!? どこ行ったか分かる!?」

「あー、うーん、えー、でもちゃんとは見てないかなー……。その時視界悪かったしなー……。その後どこ行ったかは……強いて言えば学校の方カナー……」

「そ、そっか――ありがと、良かった、もしまた見かけたら僕に教えて! お願いします!」

「アッハイ」

 

 紙を返そうとした手をぎゅっと両手で握られる。本当にこの手と指で戦っていたのか疑うほど柔らかい。目にかかる前髪の奥でぱぁっと華やかに笑顔が咲いたのを見て、心が謎に縮こまった。

 

「……あー、あの、さ。在城(ありしろ)はなんでこの人探してんの?」

「え? えっと、それは……昨日、夜にその人が助けてくれて……。だから、また――いや、お、お礼言いたくて……会いたいし……。きっと、その、ヒーローみたいな人だと思うから……」

「うーん、そっかぁ……。……いや、俺がこういうのも本当にアレなんだけど、この格好で夜中に歩いてるとか怪し過ぎないか? なんかたまたま助ける形になっただけのただのコスプレした不審者だったりしない?」

「ちっ――違っ、絶対違う! なんでそういうこと言うの!?」

「あ、はい……なんかすいません……」

 

 本気の涙目で怒られ、(サバキ)は頭を低くする。全てが自業自得であるため、何もかもがつらい。

 気まずい気持ちを覚えながら、頬をかいて逃げるように会話を打ち切ろうとする。

 

「じゃあ、まあ……その、ほどほどにな……。ほら、人探しって難しいから、あんまり根詰めてもよくないし……」

「うん――あ、その、すごい助かったから……ごめん、怒って……」

「ああ、いや、いいよ。気にしてない」

 

 その後は、一日中ずっと上の空だった。

 

「(……もし俺のただのコスプレって分かったら、アイツどうするんだろうな)」

 

 泣くか。怒るか。それとも、嫌われるか。

 想像して、憂鬱な気分になる。

 

 そしてその逆に。

 もし、自分が本当にヒーローだったなら、その時彼女に向けられる視線を想像して――

 

「……ッ!」

 

 ――ガン! と突発的に額を机に打ち付けた。

 

「おい、今なんか音したが大丈夫か守部(もりべ)ー」

「なんでもありませーん……」

 

 授業をしている数学教師に生返事を返す。

 

 そうだ。

 別に守部(もりべ)(サバキ)は何も、彼女に嫌われたいわけでも、好かれたいわけでもないのだ。

 

 浮ついた下心でやったわけじゃない。

 ただ、彼女が……彼女(ヒーロー)が。

 特別な人間が。

 

 一体どういう気持ちでいるのか、それが知りたくて――

 

「…………」

 

 ――もう少し真面目にやってみようか、と思った。

 

 それは彼女に好かれたいからとか、嫌われたくないからとか、そんな理由ではなくて。いいや、それもあるかもしれないけれど。

 

 ……ただ、ここでやめたら、そんな理由で、言い訳をし続けることになってしまうと。

 

 そう思った、だけなのだ。



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4/パッシング・イーチアザー

 数日経った。

 あの一件以来、彼は現れていない。

 

 もちろん、学校で色々聞きこんだり、僕なりに色々と調べてはみた。

 だけど、僕個人の情報収集能力なんて所詮、素人に毛が生えたようなものだ。

 

 一応、お婆さんの荷物を持っただとか、迷子の子供を案内しただとか、そういう些細な噂は聞いたけれど……。

 この街にはコスプレでゴミ拾いをしたりだとか、仮装でボランティア活動をするイベントもあるので、本当に彼のことなのかどうかは……正直疑わしい。

 

 その程度の善行なら、誰にだって出来ることだ。

 

 背格好や声で絞り込めないかとも思ったが、身長は高校生男子の平均ぐらいだったし、声についても「今だ!」の叫び声しか聞いていない。これじゃ絞り込みなんてとても無理だ。

 

 一応ダメ元で上層部に申請もしたのだが、たったあれだけの接触では『軍』の組織力を使った捜索も行えないだろう。

 

 しかしそれでも、希望は持てた。

 彼の覚醒を促進するイレギュラーがあったのか、何らかの理由で『本編』の開始が早まったのか。

 それは分からないけれど……それでも、既に、主人公は居る。

 

 もう、誰かのために動き始めている。

 

「…………」

 

 だってのに、僕は。

 

「コ、殺サナイデ……、殺サナイデ、殺サ、」

「再現率18%、多目的ナイフ具現――ガラス繊維強化プラスチック」

 

 また、こんな仕事だ。

 

 街の郊外。月明かりが照らす廃ビルの中。

 

 超常性の頭部にナイフを撃ち込む。

 最近作れるようになった非金属ナイフだ。まだ訓練を始めたばかりだから再現率は低い。

 しかし、殺傷力は十分だった。

 

 どさりと倒れる怪物――見た目は、腕のような(あしゆび)を生やした異形のカラスだ。

 

 放射線を使った遺伝子操作で生まれた、何らかの実験生物、らしい。

 最近この街で多く見つかっているが、起源については不明。

 

 大抵は暴れ回っているが……たまに、知能を持って大人しくしているやつもいる。

 今倒れたコイツみたいに。

 本当、嫌になる。

 

「ガ……ァ……」

 

 怪物が呻く。まだ、息があった。

 ……せめて、早く楽にしてやるべきだ。

 僕はナイフを振りかぶり、今度こそ、息の根を止めようと――

 

「――そこまでだよ、切断業者(マスプロカット)

 

 直前、声があった。

 バッと勢いよく振り返る。警戒はしていたはずなのに、気づけなかった。

 

 青い髪の少女だ。年頃は僕と変わらない。

 顔につけているのは、僕のフードと同じ効果を持つ、認識阻害の目覆(バイザー)だ。

 

 今はバイザーに隠されているが、僕は知っている。

 その下には、活力ある表情が似合う、愛らしくも凛々しい、整った面立ちがあることを。

 

 僕と同じく特殊な戦闘服を着ているが、魔術的な力を用いて作られた『軍』の戦闘服(ドレス)とは違う。完全に科学の力のみを用いて作られた、全身に密着して大人びたボディラインを露わにする、近未来的な――『企業』の戦闘衣(スーツ)だ。

 

 知っている。

 ゲームのキャラとしてもそうだし――この世界でも、何度か顔を合わせている。

 

「……水質調査(レイニーアーツ)

 

 本名、虹崎(にじさき)雨色(アメイロ)

 この世界の主要人物(メインキャラ)にして、御天(ミソラ)さんと同じ――メインヒロインの一人。

 

 こういう任務での偶発的遭遇でもそうだし、学校でも既に何度か遠目に見ている。

 ゲームでは主人公のクラスメイトであり、クラスの人気者なあの子が実は……というポジション。ちなみに、御天さんは主人公より年上の先輩枠だ。

 

 彼女は『企業』に所属しており、『軍』の御天さんとは敵対関係なのだが、時には市民を守るために協力することもある。

 

 任務での遭遇の中で互いの力量と善性は認めており、主人公が来て『本編』が始まってからは仲間として協力するようになる。

 理念の違いで度々衝突こそするものの、険悪にはなりきらない……言うなれば、ある種の友情があるライバル関係として描かれていた。

 

 だけど……その、本来なら快活さを宿すべき顔は、今、剣呑にこちらを見つめていた。

 

「それ以上はダメだ……武器を離し、」

 

 彼女の言葉を遮って、僕は怪物の脳天を貫き、息の根を止めた。

 

 虹崎(にじさき)さんの表情が険しく歪む。

 彼女は『企業』の人間だ。『軍』のように超常性を終了することには否定的だし、特に彼女はヒロインに相応しい、善性かつ人道的な志向を持っている。特に、害意の無い超常性の保護をしている彼女からすれば、僕の所業には嫌悪感を覚えて当然だ。

 

 ……こんな関係で、何をどうすれば友情ができるって言うんだろう。

 

 命を奪う感触が手に残って、心が沈む。息が苦しくなる。

 それでも、御天(ミソラ)さんみたいに対応するために、明るい顔と声音を作って虹崎(にじさき)さんに話しかけた。

 

「い、いやほら、こっちもお仕事だから! こ、これも仕方ないっていうか……。その、巡り合わせが悪かったよね! ふふ、僕が居合わせたのが運の尽き、なーんて……」

「…………」

 

 返事は無かった。彼女が物質具現機(マテリアライザー)を右手に構える。

 

「……大人しく、投降してほしいんだ。ボクが、絶対に……悪いようにはさせないから」

「あ、あー、や、優しいな―! 水質調査(レイニーアーツ)ちゃんってば良い人だよね! なんか口調も被ってるし、もし違う形で出会っていたら、僕たちは友達になれたかもしれな、」

()()()1()0()0()0()()――H()2()O()()()ッ!!」

 

 迸る飛沫の音。

 露を玉と散らせながら、彼女がその手の内に水の槍を形成した。

 

「すぅ――ぜ、りゃあッ!」

 

 小さく息を吸い、叫びと共に突き出す腕。

 間合いの外からの、槍の刺突――しかしそれは勢いよく伸び、ウォーターカッターと化してこちらへと迫りくる。

 

 咄嗟に躱す。

 だが、回避してもなお、次々と迫り来る激流の刺突。

 それらをカッターナイフで弾きながら、どうにか撤退する方法を探る。

 

 彼女は『企業』のエリートだ。そう簡単には倒せないことは上層部も分かっているし、任務自体は既に達成している。……撤退しても評価は下がらない。

 

「君みたいな子は、もう――戦うなッ!」

 

 だが、この攻撃の本気具合。

 殺す気までは無さそうだが、手足の一、二本は吹き飛ばす覚悟で攻めてきている。

 

 ゲームやスピンオフでは、御天(ミソラ)さんと彼女が戦闘になることはあっても、せいぜい小競り合いぐらいで済ましていた。

 

 どちらも本気でやり合えばただでは済まないことは分かっていたし、理念は違えど正義ある相手と命の取り合いまでをする必要は無いと思っていたからだ。

 

 けれど、これは……違う。

 彼女は、自分が死んでもいいほどの覚悟で、僕に戦いを仕掛けている。

 

 ……なんで僕は、やることなすこといつもいつも、本当に……上手くいかないんだろう。

 

 嘆く頭を切り替える。

 一通り考えたが、何とかして彼女の動揺を誘わなければ逃走も出来そうにない。

 

「再現率100%――替刃具現!」

 

 カッターナイフの刃のみを具現化し、装甲代わりに腕に纏う。

 そのまま突進し、水の一閃を右腕に受けた。

 

「ぐ、ぅっ――」

 

 貫かれはしない。しかし、爆発のごとく弾ける飛沫。

 腕が吹っ飛びはしなかったが、それでも完全にへし折れる。

 だが、ダメージは溜まった。これでこちらも彼女のウォーターカッターを再現できる。

 

 今度は胴体に刃の装甲を纏った。

 準備完了。角度と位置取りも良い。

 

 また、迫り来る激流の一突き。

 防御出来るとわかったからか、かなり遠慮の無い一撃だ。こちらとしては助かる。

 

 僕はそれを腹部で受けて――

 

「なッ」

 

 ――そのまま、土手っ腹をウォーターカッターに貫かれた。

 

 ……ように、見せた。

 

「っぐ……ダメージバレット、(ウォーター)(シュート)……」

 

 腹部にウォーターカッターを受けると同時、背中から先ほどのウォーターカッターを放出したのだ。

 彼女には、自分の攻撃が一直線に腹部を貫いていったように見えただろう。

 

 僕のウォーターカッターによって背後の窓ガラスが割れる。

 一瞬、殺してしまったかと動揺する彼女の隙をついて、廃ビルの外へ跳び出した。

 

「待っ、」

 

 地面に着地。逃走。

 そのまま、どうにか、撒いた。

 

 ため息をつく。

 

「――うぷ」

 

 それと同時に、口からびしゃ、と血が溢れた。

 ……防御はしたが、内臓に傷がついたかもしれない。

 

 腹部に手を当て、ダメージを淡い光として排出し、傷を癒やす。

 必ずしも弾丸として排出する必要は無い。戦闘用に改造はしたが、僕の能力は本来治癒能力なのだ。

 

 負傷が大きくて、完全には治り切らない……けれど、虹崎(にじさき)さんと戦わずに撤退できて良かった。

 

 女の子の体に傷なんて付けていいわけがない。

 それに……もう、これ以上、僕のせいでヒロインが苦しむところなんて見たくなかった。

 

 本当なら、仲良くしたい。

 僕だって心は男だから、普通に可愛い女の子が好きだし……それを抜きにしたって、御天(ミソラ)さんも虹崎(にじさき)さんも、二人とも凄く眩しくて、良い人で、尊敬すべき人物だ。

 

 傷つけたり、苦しませたりなんて、そんなこと、出来るわけがない。

 

 ……でも、どうして、御天(ミソラ)さんみたいにできてないんだろう。

 スピンオフでのやり取りはちゃんと踏襲してるし……ライバルに相応しい力量だって見せて、市民のために一緒に戦ったりのイベントも、全部こなしたはずなのに。

 

 なぜか、虹崎さんの顔は、僕と会う度に険しくなっていっている。

 

 一体何が足りないのか、わからない。

 血の足りない頭で考えながら、ふらつく足取りで、僕は帰路を辿っていった。

 

 


 

 

 ようやく家に帰った頃には午前五時を過ぎていて、時計を見たくなくなったところまで覚えている。

 

 眠い。

 やろうと思えば眠気もダメージとして放出することは出来るけど、アレは後がつらくなる。眠気覚ましになるだけで、別に睡眠が取れるわけじゃないのだ。

 

 通学路を歩いていく。

 学校近くの踏切に立って、電車が通り過ぎるのを待つ。

 ……長いんだよな、ここの踏切。

 

 疲れの取れない身体を電柱に預ける。

 少しだけ楽になった。思ったより心地良い。

 せめて、踏切が下がっている間だけでも、休んでおこう。

 

 僕は少しだけ目を瞑り……

 

 ……。

 

 …………。

 

 ………………。

 

「――おい、キザ……在城(ありしろ)! 起きろって! もう予鈴鳴ってるぞ!」

「うぇ……?」

 

 瞼を上げる。

 電車はとっくに通過していた。

 学校の方から聞こえる予鈴のチャイム。

 目の前には見覚えのある男子生徒がいて、僕に焦った声をかけてきている。

 

 ……マズい。遅刻する。

 

 全力で走れば間に合うだろうけど、僕の全力ってのはつまり時速50kmとかそんなのだ。もし人目についたら、『軍』に大目玉を食らうのは間違いない。

 

 どうする。どうしよう。

 焦る僕に、男子生徒……ああ、そうだ、ジャージ貸してくれた子だ……守部(もりべ)くんが、こちらに来いと手招きする。

 

「近道通るぞ!」

「え……いや、近道って言っても……」

 

 普通の足じゃ、直線距離を通ったって間に合わない。

 困惑しつつ、言われるがままについて行き、そして――気がつけば、学校の前にいた。

 

「っ!?」

 

 今のは……錯覚とか、記憶が飛んだとかじゃない。

 分かりづらいが、明らかに時空が歪んだ。何か距離を縮めるような超常性エリアを通過してきたとしか思えない。

 

「い、今の」

「あー、たまたま見つけたんだよ。ここ通るとスゲー早いから」

 

 ……超常性に気づいていない?

 ただの近道として認識しているということだろうか。確かに、認識に作用する効果もあるのか、距離が縮んだことがほとんどわからなかった。

 普通の人間じゃ、偶然通ったとしてもまず異常に気づくことはできないだろう。

 

 一応、『軍』に報告はしておかなきゃだろうけど……この程度なら、記憶処理も必要ない、か……。

 

「あ、ありがとう……でも、その、あの道、これからはあんまり通らない方が良いと思う……。ほら、薄暗くて、見通し悪かったし……」

「ん……いや、まあ、そうだな。そもそも早めに登校しろって話だしな。つーかお前もあんなところで寝るなよ、俺が言えた話でもないけど……」

 

 気まずそうにしつつ、目を擦っている。彼も大概、眠そうだ。

 

「……そっちも夜更かしか?」

「え、あ、うん。その、色々やること多くて……五時ぐらいまでずっと」

「そっか、スゲーな」

「べ――別に、凄くないよ」

 

 うつむいて、僕は言う。

 こんなこと無関係な彼に言ったって何の意味もないのは分かっているけれど、それでも否定せずにはいられない。

 

「だ、大体全部、僕のせいでやらなきゃいけなくなったことだし……それだって全然上手くいかなくてさ。昨日も、何も挽回できないまま終わっちゃって……何かもう、やってること全部意味無くって……。だから本当、何も凄くなんか……」

「あー、いや、違う。そうじゃなくて」

 

 違わない。僕は何も、慰めて欲しくて卑屈なことを言ってるわけじゃ――

 

「そんなに大変なのに、頑張ってるのが凄いな、って。自分のせいとかやらなきゃとか意味無いとか、そういうの、抜きにしての話」

「――っ」

 

 誰にでも言えそうな、ありきたりな言葉だ。

 

 でも、なのに、一瞬だけ……泣きそうになった。

 

 そこで、チャイムが鳴る。

 気がつけば、僕らはもう教室の前まで来ていた。

 隣のクラスの彼が、慌てて自分の教室へと駆けていく。

 

 そして、去り際に僕の方へ振り返って、言った。

 

「マジでヤバかったら言えよ、手伝うから」

 

 そう言って……言うだけ言って、教室に入っていった。

 

 …………。

 

 ただの一般人が手伝えることなんて……別に、無いのに。

 相手のことを本当に想って、無理難題を成し遂げたり、命懸けで頑張ったりなんてのは……端役(モブ)にはどう足掻いたって出来ない、主役たちの特権なのに……。

 

 ……だから、今浮かんだ「嬉しい」とか「手伝って欲しい」なんてそんな感情は……ただのぬか喜びで、疲れ切った頭が出した、些細な気の迷いだ。

 

 でも、だけど……ちょっとしたことぐらいなら、手伝ってもらってもいいかもしれない。

 

 少なくとも僕よりは交友関係も広いだろうし……ダメ元で、軽くでいいから、主人公に関して調べてもらったりとか……。もしかしたらってこともあるかもしれないし……。

 

 そんなことを考えながら、半分寝た状態で午前の授業を終えて、昼休み。

 隣のクラスの扉を開けて、守部(もりべ)くんの姿を探す。

 

 ……居た。前の方の席だ。廊下側。

 他のクラスに入るのはちょっと抵抗感があるけど……って、なに普通の学生みたいなこと考えてるんだろう、僕。

 

「あの、守部(もりべ)くん? その、頼み事があるんだけど……」

 

 そうして、用意しておいたビラを見せて、人探しの相談をする。

 妙に気まずそうにしていたのが気になったけれど……でも、思ったよりは会話が弾んだ。

 彼が聞き上手なのか……自分でもよく分からないが、まるで久しぶりに会った友人相手のような気軽さがある。

 

「だからさ、その、これ千枚ぐらいコピーしてこようと思うんだけど……。いくつか考えたんだけど、この『C案』の付箋貼ったやつが本決まりで……」

「全校生徒に配る気かお前。いや、コピーしてもいいけど千枚は要らない。絶対に要らないから。十枚ぐらいでいいから」

「じゃあ間を取って四百九十五枚で……」

「そこで間を取るな。俺コピーしてくるから在城(ありしろ)は座ってろ」

「で、でも……」

 

 いいからと言って、少し強引に彼が『C案』の付箋が貼られたビラを持って席を立つ。

 ……確かに、何百枚もコピーしても二人じゃ配り切れないか。

 

 しばらく待つ。

 が……彼が帰ってこない。

 どうしたんだろう。もしかして、途中で面倒くさくなったんだろうか。

 

 気になって様子を見に行く。

 

 自習室前の廊下。

 紙を用意すれば生徒も使用可能なコピー機の前で、誰か……こちらに背を向けた女子生徒と会話をしている。

 

「ボクの方は切羽詰まってるの! そんなよく分からないコスプレの人探してる場合じゃないんだってば!」

「いやでも五千枚は多いって! なんでお前らやることそう極端なんだよ!」

「あ、あの、どうし――」

 

 声をかけた僕に、女子生徒が振り返る。

 

 青いミディアムヘア。空色の瞳。

 元気ある快活そうな顔。愛らしくも凛々しい、整った面立ち。

 身長は女子の平均ぐらいだけど、スタイルは年齢に見合わず大人っぽい。それが本人のボーイッシュな雰囲気とギャップになっていて、爽やかなのに妙な色気がある。

 

 バイザーを取った素顔を見るのは初めてだけど、ゲームで見たことがある僕にはすぐに分かった。

 

 昨日戦った、もう一人のメインヒロイン――虹崎雨色だ。

 

「に……虹崎、さん……」

「ん? ボクのこと知ってるの? どっかで話したことあったっけ?」

「あ、いや……」

 

 任務では、互いに認識阻害装備をつけた状態でしか会ったことがない。

 ゲームで素顔を知っている僕に対し、虹崎さんは無反応だ。

 

 ……今まではきっかけが無かったけど……チャンス、かもしれない。

 任務で会った時は何故か険悪ムードになるけど、初対面だと思ってる今なら、普通に友好度上げれるんじゃないだろうか。

 日常パートで友達になっておけば、任務の方でも、もう少し仲良く話せたりとか……。

 

「ああ、悪い在城(ありしろ)、ちょっと虹崎がコピー機占領してて……」

在城(ありしろ)ちゃん? 友達? 守部(もりべ)クンの彼女だったりする?」

「……いや、違うけど……、とにかくお前そろそろ印刷やめろって。いい加減インク使い過ぎで怒られるぞ。ていうかそういう真っ当な人探しなら警察に相談した方が――」

「それはそうなんだけど違うのー! 色々あって捜索願いも出せないし、とにかく色んな人に聞いて回るしか――」

 

 ……仲が良さそうだ。

 何人もいる友人の一人、ってぐらいの距離感だけど……昨日、僕と戦ってた時とは全然違う。

 

 うらやましいな、と思った。

 僕だって、本当は虹崎さんと友人になりたいのに。

 あんな元気で可愛い女子に、明るく、楽しそうに話しかけられたいのに……。

 

「…………」

 

 一度目は全部無意味だったけど……二度目の人生なら、そういう学園生活送れると思ってたのにな。

 

 虹崎さんが仕方なさそうにコピー機を止め、ビラの束を持ち上げる。

 もう、今にも行ってしまいそうな感じだ。

 

 どうしよう。早く話しかけないと……いつものこの感じじゃなくて、明るく……でも、そんな急に陽キャモードに切り替えられない……。

 

「まあ、足りなくなったらその時また来ればいっか。じゃ、ボク早くこの子たち探さないといけないから!」

「うん……? そっちも人探しなのか?」

「そうだよー、ボクの知り合いの小学生たちなんだけど……ちょっと事情が特殊で、警察にも相談できないし、探しにいける人も少ないしでさ。暇だったら手伝ってほしかったけど、そっちも忙しいんでしょ?」

「ああ、まあ一応、」

「あのっ」

 

 もうこうなったらこのモードのままいくしかない。

 守部(もりべ)くんの言葉を遮ってしまったけど、どうにか虹崎さんに声をかける。

 

「そ、それ、僕も手伝います……! 僕に出来ることなら、何でも……」

「ほんと!? ありがとっ、すっごい助かる! 在城(ありしろ)ちゃん大好き!」

「うぇ、あ、え、えへへ……」

 

 に、虹崎ちゃんに……ゲームのヒロインに現実で大好きって言われちゃった……。

 多分誰にでも言ってあげてるんだろうけど、それでも嬉しい。

 

 口元が緩みそうになるのをどうにか抑える。ニコニコと笑顔で話しかけてくる彼女に辛うじて言葉を返しながら、ビラの束を半分持った。

 

「じゃあ行こっか! 昼休みなら中庭前廊下が人通り多いから、そこでやろう!」

「あ、は、はい!」

「おーい在城(ありしろ)、こっちはどうするんだ?」

「えっ、い、いやそれは――」

 

 慌てて振り返る。

 でも、そのせいで僕の肩が守部(もりべ)くんの手にぶつかって……彼の持っていたビラの束が、地面にバラバラと撒き散らされた。

 

「っと」

「あっ、ご、ごめ、」

 

 拾わないと――

 

「――在城(ありしろ)ちゃん、どうかしたー? 早くしないと昼休み終わっちゃうよー」

「え、あ、あっ」

 

 もう曲がり角の向こうに行ってしまっていた虹崎さんが、遠くから声をかけてくる。

 

 早く、早く行かないと。でも。

 足元では、守部(もりべ)くんが散らばったビラを拾い集めている。

 僕から頼んだことで、僕のせいで落とした物だ。

 僕が拾い集めるべきだけど、でも。

 

「っ、」

 

 物語の主要人物と……普通の男子生徒。

 なら、どう考えたって、虹崎さんの方を優先するべきに決まっている。

 

 せめて……後でちゃんと謝ろう。

 

 普段の諸々で感じてるものに比べれば、なんてことのない罪悪感だけど……。

 それでも、確かに刺さる小さな棘を感じながら、僕は彼女の方へと走っていった。

 

 


 

 

 日の暮れ切った、薄暗い夕方。

 結局、ろくに配れなかったビラの束にため息をつきながら、守部(もりべ)(サバキ)は学校を出る。

 

 しかし、ため息をつくのは、何も、ビラを配り切れなかったからではなく……。

 

「(……別に、あそこまで申し訳なさそうな顔しなくていいんだけどな……)」

 

 元々は(サバキ)のせいで行うことになった人探しだ。

 

 だったら、緊急性の高そうな虹崎の方を優先するべきだし、それに――

 

「――じゃ、この子たちについて、何か気づいたら教えてね! あ、でも、無理はしなくていいからね。危ない目にあったらよくないもの。今日は本当にありがとう!」

「あっ、い、いえ……は、早く見つかると、良いですね……!」

 

 校門の向こう側。校庭の方に、遠目に見える二人。

 少し気まずそうにしながらも、虹崎に向かって嬉しそうにはにかむ(キザミ)の姿があった。

 

 虹崎と話したかったのか、仲良くなりたかったのか……。

 詳しいことは分からないが、ずっと暗い顔をしていた彼女が嬉しそうなら、それが一番だ。

 

 ……しかし、と、(サバキ)は手に持ったビラを見つめる。

 自分のコスプレではなく、虹崎から一枚貰った、子供の写真と似顔絵が入った方を。

 

「……これ、明らかに()()絡みだよなあ……」

 

 独り言をつぶやく。

 虹崎雨色が『彼ら』の一員であることには、何となく気づいていた。

 

 (サバキ)も『彼ら』については、「いくつかの組織があって、組織同士で敵対することもある」ぐらいしか知らないので、虹崎がどんな組織の、どういう役職の人員なのかは分からないが……それでもきっと、間違いない。

 

 彼女と知り合ったのも、(サバキ)がそこらの超常性に関わっていた時に出会ったのがきっかけだ。

 その超常性絡みのことに関しては記憶処理をされたので覚えていないが、『超常性を忘れさせられた』ということは認識できる。

 

 どうも、『彼ら』が普段使っている装置で弄くれるのは、直近数時間の記憶だけらしい。

 偶然超常性を目撃した民間人にはそれで十分なのだろうが、最初から超常性を探すつもりで動いている(サバキ)には不十分だ。

 

 もっと大掛かりで手間のかかるやり方をすれば、それ以外にも色々と出来るようではあるが……今のところはそんな目には合っていない。たぶん。

 

 もう一度、ビラをじっと見つめる。

 超常性の発見が趣味の(サバキ)は、一般人が調べないような情報を普段からそれなりに集めている。

 あまり深いところを突っつき過ぎると『彼ら』に見つかるので程々に浅い部分を掬って推察しているだけだが、それでも分かることはあった。

 

 ビラの内容と、脳内のそれらを組み合わせることで、心当たりがいくつか思い浮かぶが……。

 可能性の高い場所は虹崎も探しているだろうし、選択肢を全部当たろうとすると、流石に候補が膨大過ぎる。

 

 何かしら追加情報があれば、もう少し当たりをつけられそうではある。

 しかし、何が間を繋ぐ情報(ミッシングリンク)なのか分からない状況ではどうしようもない。

 

 一応、いつも通りに怪しい場所をブラブラと寄り道しながら帰宅していると、道路にしゃがみ込んで電話をしているスーツ姿の男性が居た。

 

「(ん……あのマンホール……?)」

 

 彼の足元。道路にぽっかりと開いた穴。

 一見、蓋が開いてしまっていることに気づいたサラリーマンが、危険だからと市役所かどこかに報告しているようにも見えるが……違う。

 

 ――電話している彼の口から、声が異様に小さくしか響いてこない。

 

 イヤホンで音楽を聴くフリをしながら、こういう時のために用意している手製の集音器を『彼ら』と思しき男性にこっそりと向けた。

 

「『はい、はい……ザザ……下水道に見せかけた地下通路……この街の外に繋がって……手に負えません……『軍』上層部に要請……切断業者(マスプロカット)の応援を呼んでくださ……ザ……はい、『結社』の過激派……首魁である違法刺激(ブラックドープ)の討伐任務を彼女に……『企業』から盗み出されたと思しき超常性……。何らかの強化を施して……、その超常性兵器の終了も任務に……? はい、了解です……。…………』」

 

 通話が切れる。

 サラリーマン風の男性は、スマートフォンにしか見えない特殊な通信機を懐にしまい、それとなく周囲を見張り出していた。

 

「…………」

 

 何も聞いていない素振りで傍を通過した(サバキ)の心拍数が、にわかに上昇する。

 

 切断業者(マスプロカット)――確か、あの白衣の男も、(キザミ)のことをそう呼んでいた。

 ……今の男性は、(キザミ)が所属している組織の一員、なのだろうか。『軍』とかなんとか言っていたが……。

 

 どうする。いや、どうするも何も、どう出来るというのか。そもそもどうにかする必要があるのか。

 

 まず、あのマンホールは男性に見張られている。入っていくことはできない。

 (キザミ)を応援に呼ぶということは、彼女よりは弱いのだろうが、それでも『彼ら』の一員だ。拳銃の一つぐらいは懐に隠し持っていても不思議じゃない……いや。

 

「(いけるか……? 朝の近道みたいな超常性エリア……そうだ、二丁目のビルのエレベーターとか、隠しコマンド打ち込めば、たまに街の外の変な地下遺跡に繋がるし……あそこの通路、確かこのマンホールの方角に伸びてたような……まあ、その時は、なんかヤバそうだったから逃げたけど……)」

 

 いや、待て、待て、待て――と、理性が反論を探す。

 入っていけたところで、(サバキ)に何が出来るというのだろう。

 

 前の時はただ、運が良かっただけだ。

 守部(もりべ)(サバキ)はただの高校生で、運動神経だって人より少し良いくらいで……スポーツならサッカー部の連中の方がよっぽど上だし、喧嘩だって隣の席の田中の方がずっと強い。

 

 そんな、『結社』だとか、過激派だとか、違法刺激(ブラックドープ)だとか……明らかにヤバそうな連中と事を構える力なんて無い。

 

 拳銃を持った成人男性一人にすら勝てない程度の、ただの一般人(モブ)に、出来ることなど……。

 

「…………」

 

 だが、そもそもあの地下施設が、この件に関わっているかなんて分からない。

 

 もし、確認してみて何かあったなら、偶然見つけたフリをして、それとなく(キザミ)か虹崎に連絡すればいいし……何も無かったのなら、その時はただ徒労に終わるだけで済む。

 

「……5、閉、2、閉閉開閉、4、2、3、1、閉、1、1、1……っと」

 

 エレベーターの扉が開く。

 外に見えるのは、薄暗い空間だ。照明は設置されているが、数が足りていない。必要な部分だけを照らしているらしく、(サバキ)が居る場所まで光が届いていなかった。

 

 見える範囲に広がる空間は、下水道とか地下鉄などではあり得ない、削り出したような岩盤むき出しの地下空洞。全容は掴めないが、それでも空気の感じで、巨大な閉鎖空間であることがなんとなく分かる。

 

「っ……」

 

 遠くから聞こえてくる、ドタドタとした複数の足音。

 まだ、さっきの話に関係しているかは分からないが……間違いなく何者かがいる。それも、大人数。

 

 ……せめて、顔だけでも隠しておくべきだろうか。

 (サバキ)は懐から物質具現機(マテリアライザー)を取り出し、脳内のイメージを送り込む。

 

「(再現率5%……コスプレ衣装具現)」

 

 虚空から音もなく現れ、学生服の上から纏う、手製のスーツとヘルメット。

 一応、以前よりしっかりした造りに改良してあるので、少しは防具として機能するようになっている。……まあ、気休め程度だが。

 

 ヘルメットの中に仕込んだボイスチェンジャーの状態を確認する。

 そのまま、もう少し近づいてみるかと思った、その瞬間だった。

 

「――おい、お前、そこで何してる?」

「っ!?」

 

 バッと振り返る。

 両者共に影の中。薄暗くてよく見えないが……それでもシルエットぐらいは分かる。

 (サバキ)と同じようにフルフェイスのヘルメットを被り、何らかの銃器を持った、アサルトスーツの兵隊。

 

 呼吸が止まる(サバキ)だったが、かけられたのは緊迫感の無い、平坦な調子の声だった。

 

「合図が聞こえなかったのか? ここに残ってる部隊は全員、司教様の前に集合だ」

「――――、あ、ああ……わかった」

 

 薄暗い中、似たようなヘルメットを着けていたことが幸いした。

 どうやら、彼らの仲間だと勘違いされたらしい。

 

 男が先に照明のある方向へと歩いていき、その姿がはっきりする。

 やはり、装備の大まかなシルエットが似ている。しかし、デザイン自体は違う。

 

 このまま出ていけばバレるだろうが……。

 

「(再現率4%……コスプレ衣装、再具現)」

 

 これなら、今の衣装を多少いじるだけで再現できる。

 手に形だけ似せた、射出機構の無いハリボテの銃器を持って、前へ。

 

 バクバクと脈を打つ心臓。

 他にも同じ装備の兵隊が集まってくるが、まだ誰も、(サバキ)に違和感を抱いている様子は無い。

 

 辿り着いたのは、他よりは整えられた様子の広間。

 しかしその内装は、あまり科学的な雰囲気のしない……オカルティックな物が多い。

 

 武装しているが、実質的には宗教団体か何かなのだろうか。

 集まった兵隊たちもそこまでしっかりとした整列はしておらず、ぞろぞろと、部屋の中央を取り巻くように集合しているだけだ。

 

 (サバキ)はなるべく遠巻きに……周囲に気取られず、いざという時はすぐに離れられるような位置に、さり気なく移動する。

 

 そして、部屋の中央に、誰かがやってくる。

 背の高い、神父服の男だ。柔和な顔をしていて、薄笑いで目を細めている。

 

 恐らくはあれが『司教様』……あるいは例の違法刺激(ブラックドープ)とやらなのだろうが……

 

「……ッ!?」

 

 しかし、その背後に、手を拘束された複数人の子供が、酷く怯えた様子で着いてきていた。

 

 ――昼に虹崎雨色が探していた、小学生の子供たちだった。

 

「(どうする……!? いや、この状況じゃどうしようも……!)」

 

 滝のように流れる汗。

 目が充血していく感じがする。

 何をどうすればいいのか分からない。

 

 (サバキ)が焦燥に駆られる中、神父服の男が子供たちと兵隊たちに向けて、何やらよく分からない演説を始める。それをありがたそうに聞いている兵隊たち。

 

「――分かってくれたかな? 君たちのような未来ある子供が、『企業』の狭い研究室に閉じ込められるなど、あってはならないことなんだ」

「やだ……怖い、帰して……」

「ただ君たちは他とは違った超常性(ちから)を持っているだけ。それは誇りこそすれ、隠されたり、消し去られたりしていいようなものではない。君たちだって誰に憚ることなく、ありのままの自分で世間に認められたいはずだろう?」

「助けて、お姉ちゃん……!」

 

 そして、神父服の男が、懐から銀色の注射器を取り出す。

 

「だからね――君たちは、君たちを虐げる不条理な世界に、反逆する権利と義務がある」

 

 それは、(サバキ)が咄嗟に行動を起こそうとするよりも早く。

 流れるような動きで一人の少年の腕に押し当てられ――何らかの薬液を、その体内に注入した。

 

「いぎッ、がッ、あぁあああアアアアア!!!」

 

 (サバキ)の見ている前で、少年の体が、異常な形へと、膨らむ。

 

 全身から急速に生える黒い体毛。まるで熊のような毛皮が、顔も見えないほどに少年の体を覆い尽くす。さらに、脇腹から新たに生えだす二本の腕。元あった両手足と、その腕が見る間に異形に伸びて、全身が膨らみ、変形し――まるで熊と蜘蛛を醜悪に混ぜ合わせたような、巨大な怪物へと変貌を遂げる。

 

「素晴らしい。今日は君の祝福すべき日だ。君は今、自由を勝ち取るための力を手にしたんだ。今までの実験動物たちはろくな戦力にならなかったが、やはり、能力者が素体となると質が違う」

「オギッ、グブッ、ギ、ギ、ィイイイ――」

「再現率50%、注射器具現」

 

 暴れだそうとした怪物に、神父服の男が虚空から出現させた注射器を打ち込む。

 

 急速に大人しくなり、どこか酩酊した様子の彼。

 神父服の男が告げる。それは、柔らかく少年のことを慮るような話し調子ではあったが、あちらの通路に向かって侵入者を殺せという命令だ。

 

「今の君なら、物質具現機(マテリアライザー)使いのような各組織のエリート相手にも、十二分に渡り合えるだろう。ほら、行ってくれるね?」

 

 地響きを立てて、怪物が通路の向こうへと歩いていく。

 恐怖に泣き喚く子供たちに、神父服の男が困ったように人差し指を口に当てた。

 

「大丈夫だよ、心配することはない。あの体躯では一緒に遊ぶのも難儀するだろうし、普通に彼と話したいという君たちの感情は理解できるとも。ほら……一本だけだが、ここに解除薬がある。いい子の君たちなら、どうすればいいかは分かるだろう?」

 

 ギリ、と(サバキ)の拳が握りしめられ、グローブの擦れる音を立てた。

 

「出来るなら、例の感電死の猟犬(エレクトロクション)にも協力して欲しかったところだが……まあ、『企業』から救出できなかった以上は仕方がない。次の秘薬の調合まで、もう少し時間がかかる。子供たちは離れた場所に匿っておいてくれたまえ。見張りは二人で十分だ。そろそろ『軍』の襲撃が来るだろうから、そちらに人員を割いておきたい」

 

 そうして、一部の兵隊を連れて神父服の男が去っていき、他の兵隊たちが解散する。

 残った何人かの兵隊が相談して、その内の二人が子供たちを牢屋か何かの方へと連れて行った。

 

「…………」

 

 逃げるべき、だ。

 今ならこのまま、逃げ延びられる可能性は高い。

 

 そもそも、成り行きとは言えこんなところまで入り込んでしまった時点でかなりマズい。

 

 当初の目的通り、確認は出来た。

 後は虹崎にでも連絡すれば、それで十分のはずだ。

 

 そうすれば『軍』だか『企業』だかの戦闘員が来て、子供たちを助けてくれるのだろうし……それに、敵の拠点に直通で行ける方法を教えたというだけでも相当な貢献になっているはずだ。

 大体にして、(サバキ)が何かをする義理も義務も無いのだから。

 

 だが。

 

「(……解除薬は一本……次の秘薬の調合には時間がかかるって言ってたけど……それは、子供たちが助けられるより後なのか……?)」

 

 …………。

 

 ……やらねばならない、のだろう。

 

 やれるかなんてわからない。

 なんの意味もないかもしれない。

 ただ自責したくないだけかもしれない。

 やったところで無意味に終わるかもしれない。

 

 そんな理由で逃げ出したって良いのかもしれない。

 

 しかし、それでも……。

 

「(あいつが……(キザミ)が、そういうことから逃げてないのなら……、それでも、頑張ってるのなら……)」

 

 やるべき、なのだ。

 守部(もりべ)(サバキ)が、本当に在城(ありしろ)(キザミ)の気持ちを知りたいと思うのならば。

 近づき過ぎれば破滅するだけの、分不相応なただの端役(モブ)に過ぎないのだとしても……

 

 できる限りのことは、頑張らなければならない。

 

 目立たないようにゆっくりと子供たちが連れて行かれた方に歩いていると、急に周囲がバタバタとし始める。『軍』の物質具現機(マテリアライザー)使いの襲撃……(キザミ)がやってきたらしい。

 

 根拠は無いが……今なら、いける。

 

 駆け出す。地下空洞の奥、牢屋と呼ぶには簡素な鉄扉の部屋。

 子供たちが閉じ込められたそこで、二人の兵隊が見張りに立っていた。

 

「どうし、」

「司教様がお呼びだ! どちらか片方、すぐに向かってくれ! 詳しいことは分からないが、子供たちの状態について聞きたいことがあるらしい! その間は自分が替わる!」

 

 心臓の音がうるさい。バレるな、バレるな、バレるなと必死に祈る(サバキ)を前に、見張り二人は少しだけ困ったような様子で話し合い、鍵を置いて持ち場を離れる。

 

 緊張に息が切れる。さっきの片方がここから離れるまで、誤魔化しきれるだろうか。

 焦燥した様子の(サバキ)に、残った片方が声をかけた。

 

「そう緊張するな。襲撃が来て焦る気持ちは分かるが、我々には司教様がいる。ここまで襲撃が来ることはない」

「あ、ああ……、だけど、ここが直接襲撃される可能性は……」

「それも無いだろう。直通の道は全て封鎖してあるし、そもそもこの拠点に繋がる道が判明しただけで、この拠点の位置そのものはまだどの組織にもバレていないからな」

「……ワープ系の超常性エリアなんかもあるんじゃないのか? アレは大丈夫なのか?」

「心配性だな。そりゃあ偶発的に繋がることはあるが、あの手の超常性は探すのに地味な手間が何年もかかる割に、大概の使い勝手が悪くてリターンが少ない。どの組織もそう多くは把握していないし、そもそもそんな確率の低いことを気にしていたらどうしようも、な……い……?」

 

 じゃき、と、ハリボテの銃器を見張りの頭に突きつけた。

 

「それを聞いて安心した……銃を捨てろ。防具も外せ。不審な動きをした、と俺が判断したら撃つ」

「な、ば、バカな……!」

「聞こえなかったのか? 早くしろ」

「くっ……クソ、分かった! 捨てた! 外した! これで――がッ!?」

 

 そして丸腰になった男をぶん殴る。

 ……これで気絶なり何なりしてくれればよかったのだが、現実じゃそういうわけにもいかない。

 

 ボコスカと泥臭い取っ組み合いをしながら殴り合い、最初の一撃と、武装の差でどうにか(サバキ)の方がマウントを取ることに成功。男を無力化した。

 

「っ痛ってぇ……ただの丸腰のおっさん相手にこれかよオイ……」

 

 ヘルメットの中が鼻血で濡れている。顎のあたりに生温かい血が溜まって気持ち悪い。

 

 鍵を手に取り、鉄扉に差し込む。

 扉の向こうでびくり、と震える気配がしたのに気がついて、衣装を再具現して元のコスチュームに戻した。

 

「……大丈夫か?」

「っ、だ……誰!?」

「安心してくれ、君たちを助けに……いや、探しに来たんだ。ほら」

 

 虹崎からもらったビラを見せる。

 子供たちも、虹崎には心を許していたらしく、おかげで後のやり取りはスムーズに進んだ。

 

「じゃあ、一緒に行こう。奴らに見つからないような逃走ルートには当たりをつけておいたけど、それでも慎重に――」

「……たっちゃんは?」

 

 その言葉に、(サバキ)の体が一瞬止まった。

 

「っ……あの、変な薬を打たれた男の子か?」

 

 子供たちが、あの少年……たっちゃんについて、口々と声を上げる。

 どれほど優しくて、どれほど良い子なのか。どのくらい仲が良くて、どのくらい心配していて、どのくらい大切なのか……。

 そして、自分たちがどれだけ彼を助けて欲しいと望んでいるのかを。

 

「(……無茶言うなよ……)」

 

 それは、無理だ。

 どう考えたって、これが限界(リミット)だ。

 これ以上は、いくら何でも死ににいくようなものだ。

 

 命懸けと、自殺は違う。

 

 このまま、子供たちをどうにか宥めすかして、地上まで逃げおおせるのが最善策に決まっている。

 

「っ、」

 

 ドォン、と地下空洞を揺らす地鳴りの音。

 戦っている……恐らくは、(キザミ)が、あの神父服の男と……。

 

 ……あるいは、(キザミ)が、この子たちの心配している、たっちゃんと。

 

 いや……たっちゃんを心配しているのは、この子たちだけでなく、虹崎もそうか。

 昼に、虹崎と話していた(キザミ)が、嬉しそうにしていたのを思い出す。

 

 ……もし(キザミ)がこのまま戦って……どうしようもなく、たっちゃんを死なせて……殺してしまったとして。

 

 それを虹崎が知ったとして。

 それを(キザミ)が知られたとして……。

 

 そうなったらきっと……その時、守部(もりべ)(サバキ)に出来ることは何も無くなる。

 

 だけど、今なら。

 

「…………。……ヤバい時は手伝うって、言っちまったもんな……」

 

 これ以上、(サバキ)一人に出来ることは無い。

 一般人一人でどれだけ足掻いたところで、こんな領域にある何かを解決して、救うことなんて、出来るはずがない。

 

 でも、それでも……。

 

 そう出来るはずの女の子を、手伝うぐらいなら。

 

 


 

 

 超常性保護協会『結社』は、迫害された超常性たちが助け合うために築かれた、『超常性の保護』を目的とする互助組織である。

 

 元々は『軍』や『企業』と同じく、真っ当な志の下に生まれた集団だったが……大きくなった人の群れは、長い年月の中で膿を生む。

 

 科学の匂いがしない、オカルトの内装に彩られた広間。

 多くの兵隊たちに囲まれながら、神父服の男――違法刺激(ブラックドープ)が、水晶玉を台に置き、念を込める。

 

 現れたのは、魔術的なホログラム。

 水晶玉から放たれた光が、映像となって遠隔地の光景を映し出していた。

 

「なるほど、切断業者(マスプロカット)……『企業』の階級はそう大したものではなかったはずだが、思ったよりも手強い」

 

 投影されているのは、黒い毛皮を纏った巨大な蜘蛛……異形と化して暴走する少年と、それに相対するフードを被った桜色の髪の少女。

 

「しかし、『軍』に所属しているはずなのに優しい子だ。彼を殺さないように手加減をしている。ふむ……そうだな、君たち。彼女の説得に行ってきてくれないかな。今はこのような姿だが、あの少年がれっきとした人間であることを、もっと明確に伝えてあげてきて欲しい」

 

 目を細め、柔和な笑みを崩さないまま、兵隊の一人に違法刺激(ブラックドープ)は淡々と告げる。

 

「ああ、何なら保護している子供たちに協力してもらっても構わない。彼らが『友達を殺さないで』とでも嘆願すれば、きっと彼女も手を止めてくれるだろう? その上でなお、『軍』の理念に準ずる素振りを見せるようなら、仕方がないと諦める他ないだろうがね」

 

 自身の言葉に疑いなどまるで持っていない、邪気の無い口調。

 同様に、その発言を当然のこととして受け止める、了解しました、という淀みない頷き。

 

 彼らは自らの行動に疑念などまるで抱いていない。

 一切の迷いなく、『結社』過激派の兵隊たちが、広間の外へと出ていこうとした、その時だった。

 

 広間の外から、一人の兵隊が、息を切らせて走ってくる。

 

「お――お待ち下さい、司教様! 襲撃です! 『軍』に引き続き、『企業』の攻撃が!」

「何? ふむ、参ったな……子供たちを取り返しに来たか。なら、切断業者(マスプロカット)の方に誘導しようか。『軍』と『企業』は犬猿の仲だ。上手くかき回せば、勝手に喧嘩をして――」

「い、いえ、違います! 直接です! ()()()()()()()()()()()!」

 

 何――?

 と、違法刺激(ブラックドープ)が、その言葉の意味を問い質すよりも早く――、

 

「――ぜ、え、りゃあああアアアアアッ!」

 

 地下空洞の天井が、割れる。

 

 天から地へと、流れ下る激流。

 滝が落ちてきたかのような瀑布が、広間に居た兵隊たちを飲み込んだ。

 

「っと――! 別に疑ってたわけじゃないけど、本当にピンポイントで拠点にぶち当たるなんて……!」

 

 そして、水と共に落下してくる、高度科学で作られた戦闘衣(スーツ)姿。

 顔情報を隠す認識阻害のバイザーを着けて、手に透明な水の槍を持った――青い髪の少女。

 

「……なるほど、水質調査(レイニーアーツ)。君のような『企業』の一線級が来るとは」

 

 水の一撃を直接受けたはずの違法刺激(ブラックドープ)だが、しかしダメージはほとんど無い。

 

 びしょ濡れになった神父服を少しだけ鬱陶しそうにしながら、それでも目は笑ったままに、男は水質調査(レイニーアーツ)――虹崎雨色の姿を静かに見やる。

 

 目元は隠されているが、それでも強く歯を食いしばって、虹崎は違法刺激(ブラックドープ)に気炎を上げる。

 

「たっちゃんを、返してもらう……!」

「返してもらう? そうやって人間をモノ扱いするのは良くないな。超常性を研究材料としか見ていない。君たち『企業』の悪いクセだ」

「ほざけッ!」

 

 槍の一撃がウォーターカッターとなって違法刺激(ブラックドープ)に迫る。しかし。

 

「遅い」

「っ!?」

 

 悠々と躱し、接近してくる、体格に似合わぬ俊敏な動き。

 瞬きの内に距離を詰められた虹崎へと、違法刺激(ブラックドープ)が手に爪のように握り込んだ三本の注射器を突き入れる。

 

「くっ、H2O具現!」

 

 足裏からのウォータージェット。

 (すんで)のところで注射器をかわし、虹崎が神父服との距離を取る。

 

「やはり。槍を持ってはいるが、近接が得意というわけではないらしい」

「こ、のぉ!」

 

 間合いを無視する突きの連打。

 常人ならば蜂の巣になるだろうそれも、違法刺激(ブラックドープ)は意に介さない。

 

「もう少し強化しておこうか。()()()5()5()0()%()――()()()()()()()()()()

 

 新たな薬液が充填される注射器。

 それを、違法刺激(ブラックドープ)は自分の体へと突き入れ、注入する。

 

「は、や――!?」

「私を捉えたいのならば、奇襲か、意識外の一撃でなくては無意味だ。やるならば最初の一撃で仕留めるべきだったね」

 

 攻守が逆転する。違法刺激(ブラックドープ)から放たれる徒手空拳の連撃をギリギリのところで回避していく虹崎。だが、ついに捉えそこねた一撃が、その脇腹に命中する。

 

「が……! っの、まだ、まだ……ッ!」

「思っていたよりもよく躱す。しかし、私一人に手一杯になっていていいのかな?」

 

 周囲から連続して響き渡る、銃器を構える音。

 水の範囲攻撃から復帰した兵隊たちが、虹崎に続々と銃器を向けていく。

 

「……くそっ!」

 

 悪態をつく虹崎。

 流石に、これはマズい。周囲の兵隊たちだけならばどうとでもなるが、あの神父服――違法刺激(ブラックドープ)だけはどうしようもない。

 

 明らかに、今の虹崎では相対するに必要な力量(レベル)が足りていない。

 奴一人を相手にするだけでも全集中力を発揮している。これ以上の意識の余裕は無い。

 

 一度撤退するべきか、否か……逡巡する時間すらも足りない。

 悩んでいる間にも、彼女に向けられる銃口の数は次々と増えていく。

 

「ご無事ですか、司教様!」

「見ての通りさ。私一人でも問題は無いが、君たちの援護があればより手早く済むだろう」

 

 鷹揚に頷き、神父の姿に相応しい態度で兵隊の一人を自身の後ろへとかばう。

 

「で、ですが司教様を矢面に立たせるなど……!」

「構わないとも、下がっていたまえ。立場の上下ごときを気にして、無駄に戦力を損耗するなど愚かなことだ。私のことは好きに扱うと良い」

「じゃあ遠慮なく」

 

 ――ゴキィ! と、直前まで違法刺激(ブラックドープ)を慮っていた兵隊が、手に持った銃器を神父服の側頭部へとフルスイングした。

 

「は――?」

「が……あ、っな……ッ?!?!」

 

 水撃を悠々と回避していた違法刺激(ブラックドープ)のこめかみにクリーンヒットする一撃。

 本人が言っていた通りの、奇襲かつ意識外の一撃が、『結社』屈指の実力者を見事にスタンさせた。

 

 兵隊達のアサルトスーツから、真っ黒なプロテクタースーツに服装を変化させながら、男が虹崎に向けて声を投げる。

 

「虹さ――水質調査(レイニーアーツ)ッ! やれッ!」

「え、あ――うんッ!」

 

 (ドウ)、と迸る激流の一閃。

 ウォーターカッターの一撃は見事に敵の正中を撃ち抜き、吹っ飛ばし、広間の外、通路の奥にその長身を叩きつけた。

 

「やったか!?」

「いやっ、まだだよ! あれだけじゃ、流石に――ッ」

 

 虚を突かれ、反応の遅れた兵隊たちから放たれる銃撃の嵐。

 

「マズいッ! 何とかしてくれ!」

「っ、了解!」

 

 虹崎から渦となって展開し、二人を守る水の防壁。

 

「お前一人でアイツとこいつらに勝てるか!?」

「兵隊たちだけならどうとでもなるけど、アイツはちょっと……! というかキミ、何者!? 所属は!? いやそれより、物質具現機(マテリアライザー)使いなら、相性の良い具現化物と戦い方教えて! ボク、合わせるのは得意だから、協力して――」

「なら、こいつらどうにか頼む! アイツは俺が抑える! こっちには絶対に通さないでくれ!」

「あっ、ちょ、ちょっと! 話聞いてよ!」

 

 通路の奥へと消えていく黒仮面。

 

「(抑えてくれるってんなら、そりゃやりやすいけどさ――!)」

 

 水の槍を薙ぎ払う。

 水圧よりも水量に力を割り振った、貫通力よりも制圧力重視の範囲攻撃。

 兵隊たちを飲み込んでいく激流。何人かは防御するが、命中した内の一部がスタンする。

 

「再現率30%――粘着性形状記憶リキッド!」

 

 隙を晒した者たちに放たれる液体弾。

 命中したそれはスライム状の拘束具となって、兵隊たちを無力化していく。

 

 そしてそのまま、数度の応酬。

 どうとでもなる、と言った言葉の通りに、虹崎雨色は危なげなく兵隊たちを無力化していき――

 

「――これで、ラストッ!」

 

 僅かな消耗のみで、全員を戦闘不能にした。

 

「(ヨシ! 早く、あの黒い人の手助けにいかないと――!)」

 

 身を翻し、通路の奥へと向かおうとする虹崎。

 

 ――だが、その瞬間、広間の壁にビシリと亀裂が入る。

 

 割れる岩盤。弾ける瓦礫。

 壁を突き破って吹き飛ばされてきたのは、黒い毛皮を纏った蜘蛛のような巨体の異形。

 

「ギュイ、ギ、ィ、イ……イ……」

「たっちゃん――!?」

 

 その姿に、虹崎雨色は瞠目する。

 確かに彼は超常性保持者だが、ここまで酷く異形化した状態は見たことが無い。恐らくは『結社』の魔術的な秘薬による、能力の過剰なブーストか。

 

 しかし、何者も寄せ付けぬだろうその威容は、今はダメージを受けて脚をガクつかせていた。

 

 彼に攻撃を行ったであろう相手が、砂煙の中から足音を立てて現れる。

 相手も無傷ではないようで、足取りがふらついてこそいるが、しかし手には何らかの刃物を持ち、臨戦態勢を解いていない。

 

「待って! 話を聞いて! 今はただ、『結社』の秘薬で力を暴走させられているだけで、この子、は――」

 

 砂煙の晴れた先。

 立っていたのは、フードの破れたミリタリージャケットと、ノースリーブの戦闘服(ドレス)を纏った、青ざめた顔の……二重の意味で、見覚えのある少女だった。

 

切断業者(マスプロカット)……いや、在城(ありしろ)ちゃん……!?」

 

 


 

 

「どうやら、誘導は上手くいったらしい……『軍』と『企業』の引き合わせに成功したようだね」

 

 神父服の男――違法刺激(ブラックドープ)が、手に持った水晶玉から投影される光景を見ながらつぶやく。

 

切断業者(マスプロカット)水質調査(レイニーアーツ)、そしてあの子……戦闘の状況としては三つ巴ではあるが、ふむ、全員決め手に欠けているな。順調に消耗していっている」

 

 先ほどの虹崎による攻撃も、違法刺激(ブラックドープ)にはほとんど堪えていない。

 まだまだ余裕はあると言った素振りで、黒仮面に向けて滔々と語りかけている。

 

水質調査(レイニーアーツ)と協調していたところから見るに、君も『企業』の所属なのだろう? 悠長に時間稼ぎをしていていいのかな? このままでは全員消耗し切ったところで、私が漁夫の利を頂く形になってしまうと思うのだがね」

「……。……黙ってろよ。俺がお前をブチのめせば済む話だ。コイツでな」

 

 相手に示すのは光る木刀。

 プラ材で装飾してあるのは変わらないが、今回はたった今の即興でさらにゴテゴテと羽のような飾りも追加している。

 

 十本近く具現化されたそれらは、円陣となって黒仮面の周囲を意味ありげに浮遊していた。

 

 無論のこと、ただのハッタリである。既にヘルメットの中もプロテクタースーツの中も、冷や汗によってびしょ濡れであった。加えて目は四方八方に泳ぎまくり、声はブレブレに震えている。

 しかし、ギリギリのところでフルフェイスのヘルメットと、仕込んだボイスチェンジャーがそれを覆い隠してくれていた。

 

「ならば来たまえよ。いつまでもそうやって守勢に回っているだけでは埒が明くまい?」

「……埒が明かない、って思ってるのはお前の方なんじゃあないのか? 違法刺激(ブラックドープ)

 

 柔和の笑みの裏で、神父服が本当に小さく、舌打ちをする。

 

「(……全く、さっさと斬りかかってくれればあの妙な武器の効果もはっきりするものを。あれでは迂闊に触れられない)」

 

 黒仮面の身のこなし自体は大したことがなさそうだが、何の警戒もなく突っ込んでいくわけにはいかない。

 

 物質具現機(マテリアライザー)使いは、その全員が各組織のエリート級の人員だ。

 野良の使い手もいないわけでは無いが、そのほとんどが各組織のエリート達から物質具現機(マテリアライザー)を奪い取った強者であることは間違いない。

 

「(神秘の匂いは無い。動きの軽さから見るに、重量もさほどない。単純な斬撃・打撃を目的とした武器ではなさそうだ。『企業』の所属……科学を用いた武器ではあるのだろうが、熱は感じられない。単純な高熱やレーザーなら、受けたところで即時治療出来るが……あれが放射線や、人体に害のある特殊な電磁波の類なら、私の薬では回復できない可能性がある)」

 

 数々の薬品を用いた肉体強化を主体とし、近接戦闘に特化した違法刺激(ブラックドープ)には、遠隔から攻撃する手段が無い。

 

 注射器の投擲程度は可能だが、それが命中するのは全くの素人だけだ。

 各組織のエリート揃いである物質具現機(マテリアライザー)使いには通用すまい。

 

 水晶玉の光景からするに、現状、広間での三つ巴は水質調査(レイニーアーツ)の優勢だ。

 ここに来るまでの数々の兵隊と怪物相手の消耗が尾を引いているのか、切断業者(マスプロカット)の動きは酷く、鈍い。

 

 このままいけば、勝利するのは水質調査(レイニーアーツ)だろう。

 黒仮面の狙いは彼女が合流するまでの時間稼ぎ。そして、二人で連携してこちらを撃破しようという算段か。

 

 片方が消耗した状態とは言え、物質具現機(マテリアライザー)使いの二人がかり……。

 違法刺激(ブラックドープ)ならばまず間違いなく勝てる戦力差ではあるものの、それでも敗北の目が存在しないわけではない。

 

 待っていたところで、未知の武装による攻撃を警戒する必要があるというのなら……今、ここで強引にでも攻め立てておくべきか。

 

 違法刺激(ブラックドープ)がそう思った瞬間だった。

 

「……いくぞ」

「!」

 

 黒仮面の傍を浮遊していた光剣の一本が、勢いよく飛翔する。

 

 しかし、狙いは神父服ではなく――

 

「(――上!? いや、これは!)」

 

 天井に吊られていた照明が、剣によって破壊される。

 

 光を失い、暗闇に落ちる通路奥。

 黒い装束を纏った黒仮面の姿が闇に溶け、光の剣だけがぼんやりと空中に浮かぶ。

 

 そして、それらの光剣たちが一斉に、四方八方へと解き放たれた。

 

「見え透いた手だ……!」

 

 違法刺激(ブラックドープ)は意識を耳に集中。

 風切り音を頼りに、()()()()()()の奇襲を躱していく。

 

「(やはり……! 狙いは、光る剣を見せた上で、光らない剣を具現化しての奇襲! だが、無駄に装飾に凝るからだ……これなら風切り音で十分に察知出来る!)」

 

 迫ってくる音にのみ集中し、暗闇の中、攻撃を回避する。

 

 無作為なほどに乱れ飛ぶそれら。しかして攻撃が通用しないことが分かったのか、次第に攻撃は止み、動きを止めていく。

 

「エージェントにしてはお粗末な策だったな……さて、次はどうする? まだ何かあるというのなら見せてみて欲しいのだが……。…………。…………?」

 

 少しずつ、闇に目が慣れてくる。

 そして分かった。

 

 居ない。

 

「な、に……?」

 

 隠れている? いや、この通路奥に隠れられるような物陰は無い。

 ならば逃げたのか? 風切り音を囮にして、迫ってくる音のみに集中するように――離れていく足音に意識を向けさせないように?

 

 だが何のために? 違法刺激(ブラックドープ)は暴走状態のあの子を操作できる。

 故に、あの三つ巴に合流したところで、一対一対一が、二対二対一になるだけ。

 

 戦力差はさして縮まらず、自分が不利になるだけでは……。

 

「……まさか」

 

 違法刺激(ブラックドープ)は自身の懐に手をやる――解除薬が無い。

 

「最初の時点で、既に……!」

 

 


 

 

 迫り来る水撃の群れを、僕は必死になって躱していく。

 思うように動けず、いくつもの攻撃が体を掠めて、皮膚が裂け、血が弾ける。

 

「もう、止まってよ……! 昼に、一緒になって探してくれたでしょう!? キミには無理だよ、殺せない……殺しちゃいけない!」

 

 けど……本当に痛いのは、本気で、僕のことを想って放たれる言葉の方だった。

 

 破れたフードは慌てて具現化し直したけど、もう手遅れだった。切断業者(マスプロカット)在城(ありしろ)(キザミ)の名前は、既に完全に彼女の脳内で紐付けられてしまっている。

 

「け、けど、だけど、それでも――」

「『軍』の任務なのは分かってる! でも、キミには向いてないよ……! こんなこともうしちゃいけない! 任務で何度も見てたよ……見てただけのボクでも、キミが優しいことぐらい分かるよ!」

「う、あ、ぁ」

 

 僕のことを拘束しようと放たれる形状記憶リキッドの液体弾を反射で回避する。

 心なんてとっくに折れている。もう、身体に覚え込ませた動きだけで戦っているような状況だった。

 

 通路脇の壁に追い詰められる。

 また回避できない一撃が迫るが、異形化して暴走する少年が横槍を入れて妨害した。

 理性は無いように見えるけれど、三つ巴のバランスを崩せば自分が無力化されることは分かっているようだった。おかげで、こんなやってられない戦いが続いてしまっている。

 

「こうなったら無理矢理にでも連れて行く……! これ以上、キミを戦いの世界なんかに居させやしない! だってキミは、優しくて、()()()()()()()()()()()()()()()()なんだから――!」

「あ、あ、ああ、あああああああ――!!!」

 

 嫌だ。

 それは嫌だ。

 それだけは嫌だ。

 

 向いてないから、出来ないから、無理だから、普通だから、なんて――そんな理由で諦めたくない。

 

 償いも、恩返しも、罪滅ぼしもまだしていない。

 これを取られたら、僕は、僕は本当に終わってしまう。

 

 リフレインする前世の記憶。「すぐに良くなる」「また遊びに行こう」「何度でもお見舞いに来るから」なんて、あと数時間で死ぬ僕にかけられる無責任な声。

 

 それが、その声が、自分の、在城(ありしろ)(キザミ)の声で、再生、されて――

 

「うぅ、ぎ、ぃ、ぁああああああああああああッ!!!!!」

 

 具現化する精神的ダメージ。

 背中から翼のように伸びて、血のように滴る、毒々しいショッキングピンクの輝き。

 

 それが、迫り来る、水の一撃を崩壊させようとした――その時だった。

 

「――え」

 

 真っ黒なコートに、フルフェイスのヘルメット。手に携えた光の剣。

 

 

 主人公が、僕の目の前に、立っていた。

 

 

 伸びてきていた水流の一撃が、ビタリと止まる。

 

「っ、キミ……!」

「はぁ、はぁっ……気持ちはわかるが、そこまでだ……に、水質調査(レイニーアーツ)……」

 

 ゲームやアニメで聞いたのとは違う、低い声。

 息を切らせたような様子で、懐から取り出した、何かのアンプルを彼女に見せつける。

 

「暴走状態の、解除剤だ……。一本しか無い……早く、あの子を拘束してくれ……」

「盗ってきたの……?! 違法刺激(ブラックドープ)は!? まさか、倒して……」

「まだだ……。だから――」

 

 ――ヘルメットの前面が、こちらを向いた。

 

「頼む。キ……切断業者(マスプロカット)。ここは俺がなんとかする。アイツを倒してくれ――お前にしか、出来ない」

「あ――」

 

 どくん、と心臓が大きく脈を打つ。

 顔が熱い。身体中の血の流れが速い。わけのわからない気持ちで、心が弾けてしまいそうになる。

 

「わ――分かった!」

 

 叫んで、通路の奥に駆け出す。

 今までで一番身体が軽い。自分でも驚くほどの速度で足が地面を蹴って、一直線に突き進む。

 

「待って……! あの子一人じゃ、アイツには――!」

 

 背後から響いてくる虹崎さんの声も、今は耳に届かない。

 

 身体が軽くて、脚が駆けて、心は跳ねて。

 なんだか、なんだか、なんだか、もう――

 

切断業者(マスプロカット)……! 一人とは舐められたものじゃないか。たかだか水質調査(レイニーアーツ)に手こずる程度の力量でこの私に、」

 

 

 ――辛い気持ちが全部、身体の外に出てしまったようだった。

 

 

「ダメージバレット――(ダメージ)(シュート)

 

 具現化する全てのダメージ。

 右手から剣のように伸びて、命のように燃える、鮮やかなローズレッドの輝き。

 

 振り上げた一撃が、天地を両断する。

 

 爆発する赤の煌めき。

 まるで地震のような巨大な揺れ。

 地下施設の天井が大きく裂けて、見上げて覗ける、わずかな星空。

 

 直撃した違法刺激(ブラックドープ)の身体は吹き飛んで、たった一撃でピクピクと虫の息になっていた。

 

 


 

 

「こんなに、強かったんだ……」

 

 元の姿に戻り、すぅすぅと寝息を上げる少年を抱えながら、虹崎さんがつぶやく。

 ……本当なら、この少年を終了するのが僕の任務なのだけど……。

 

「お前の任務は確か、『『結社』によって強化された超常性兵器の終了』だろう。この子はもう、そうじゃない」

 

 彼が言った。……確かに、その通りだ。

 ていうかなんで知ってるんだろう。いや、むしろ知ってて当然か。主人公だし。

 

「今日のところは撤退するけど……、でも、やっぱり、キミには……」

 

 彼女は何かを言おうとして、言葉を呑むように首を振った。

 

「……ううん、今はいいや。また今度、じっくり話そう! それじゃ!」

 

 そうして、去っていく。

 

 残されたのは、僕と彼の二人きり。

 もう少しで『軍』の部隊による後始末が来るだろうけど、今は静かだ。他には誰もいない。

 

 どうしよう。何を言おう。一応今なら戦闘服(ドレス)のおかげもあって陽キャモードで対応出来るけれど、何を言っていいのか思い浮かばない。ていうかアレ虹崎さんと口調ダダ被りだし。

 

 だが、僕がそう逡巡している内に、彼がそろそろとどこかへ立ち去ろうとしているのが見えた。

 

「ま、待って!」

 

 慌てて捕まえる。流石に、今回ばかりは僕の方が速かった。

 

「その、ありがとうございます! 今日も、この間も! 本当に感謝しててっ、お願いします、何かお礼を……!」

「ああ、いや……大丈夫だ。俺は何も、そんなつもりじゃ……。それに、敬語もいいんだ。俺は大した者じゃないし、年だって同年代だ」

「そ、そうで――そう、かな? じゃあ敬語はやめるけど、でも、お礼はさせて? そうだ、名前も聞かせてよ、今度一緒に会おう!? ぼ、僕に出来ることなら何でもするから、ね、ね!?」

 

 彼の手を取って、胸元に寄せる。マスク越しだが、確かに彼が動揺する気配がした。

 

「ち、違う――いや、俺は本当に大したことはしてないんだ」

「そんなことない! 君がいなかったら僕なんてどうなってたか分からないし、こんなに頑張って助けてくれたのに、大したことないなんて、そんなこと――」

「――頑張ってたのは、お前の方だよ」

 

 自然な手付きで、ぽん、と彼の掌が僕の頭の上に置かれた。

 

「あ、え?」

「俺はただ、頑張ってたお前の手伝いをしただけだ……いつもこんな風に戦ってるなんて、誰にだって出来ることじゃない。俺がいなかったらどうとか、そんなのは関係無い。……本当に、凄いよ。今なら、心の底からそう思う」

「え……」

 

 じわ、と目尻に涙が滲んだ。

 嬉しい。嬉しいのに、瞳が潤むのを止められない。なんだろう、これ。

 

 ちゃんと対応しなきゃいけないのに、どうしていいか分からない。湧き出す感情が抑えきれなくなって、頭がぐちゃぐちゃになりそうになる。

 

「あ、あ、ぼ、僕、いや、その、えっと――」

 

 そのまま、話は終わったとばかりに手を振って、帰っていこうとする彼。

 感極まって、何を言っていいか分からなくなって、いつもの僕に戻りそうになった、その時だった。

 

「――っ、危ない!」

「!?」

 

 彼に向かって飛んできた注射器を手で弾く。

 軌道を逸し切れず、彼のスーツのポケットの辺りに掠って、裂けた。

 

 かすり傷程度だが、わずかに血が舞い散って、僕の戦闘服(ドレス)に付着する。

 

「こいつ……いつまでも、しぶといッ!」

 

 岩盤に埋まっていた違法刺激(ブラックドープ)にカッターナイフの尻をブチ当てて、気絶させる。

 今度こそちゃんと拘束具を締めて、何も出来ないようにガッチリと固定する。

 

「っていうかこれ……ああもう、やっぱり……!」

 

 居ない。今の隙に逃げてしまったようだ。

 

 周囲を見渡し気配を探り、『軍』の探知機なども起動させたが、それでも存在は感知出来ない。

 何を使ったのか知らないが、今の一瞬でかなり遠くまで移動されてしまったようだ。

 

 はぁ、とため息をつく。

 せめて、名前ぐらいは聞いておかなきゃいけなかったのに……。

 

「ん?」

 

 そう思う僕の前で、ひらひらと何かの紙片が宙を舞っていた。

 

 ぱし。掴み取る。

 掌の中にあったのは一枚の……見覚えのある、付箋。

 

「え……守部(もりべ)くん?」

 

 僕の字で『C案』と書かれた――昼に、ビラに貼って渡した付箋だった。



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5/グリッチング・スクランブル

 翌日。

 

 早朝……まだ生徒の少ない朝早くから、僕は学校に来ていた。

 

「…………」

 

 隣のクラスを覗き込む。

 まだ日が昇り切っておらず、薄暗い教室の中。生徒は一人も居ない。

 

 守部(もりべ)くんの席は、確か……ここだ。

 学校に来る前、『軍』の需品科から借りた次世代型解析キットを使い、机から彼の皮膚片を採取する。

 

 ここから先は時間がかかるが、超技術で作られた解析キットを使っているところを見られたらマズい。

 他の生徒が来る前に教室を出て、トイレに隠れた。

 

 そして、守部(もりべ)くんの皮膚片と、昨日僕の戦闘服(ドレス)に付着した、主人公の血液。

 二つを解析キットを使ったDNA鑑定で照合し……。

 

「(……。やっぱり……)」

 

 完全に、一致した。

 

 確定だ。

 彼は――守部(もりべ)(サバキ)は、この世界(ゲーム)の主人公だ。

 

 解析待ちの間に、トイレの外から少しずつ朝の喧騒が聞こえだしていた。いつの間にか、もう結構な生徒が登校してきているらしい。

 

 女子トイレにも人がやってきて、居づらい雰囲気になってくる。……なんで女子高生っていつもトイレの鏡の前でたむろしてるんだろう。

 

 僕は解析キットを鞄の中にしまい、トイレから出る。

 一瞬、ちらりと、陰気臭くて華やかさの無い、目の下にクマを作った女子高生を鏡で見た。

 

 ……しかし、どうしよう。

 守部(もりべ)くんが主人公ってことは当然、彼と話して、協力を仰がなければならないわけだけど――

 

「――あ」

「っ、……よう、おはよう、在城(ありしろ)

「お、おはよう……ございます……」

 

 軽く手を上げて挨拶をした彼に、挨拶を返す。

 他にも何か言うべきなのだけど、急な遭遇で頭がいっぱいいっぱいになって、何を言っていいかわからない。

 

 僕が黙っている内に、彼は廊下を通り過ぎて……自分の教室へと入っていった。

 

「…………」

 

 ……気付いてない……のかな。

 

 ゲームのストーリーでは、主人公は序盤から終盤まで仲間集めに終始している。

 最終目的が「『軍』『企業』『結社』などの複数の組織と協力を結び、一丸となってラスボスを撃破する」という形である以上、多くの組織にコネクションを持つ必要があるし……単純に、戦力が多いほど出来ることが増えるというのもある。

 

 だから、もし僕のことを『軍』のエージェント――切断業者(マスプロカット)だと気づいているのなら、彼は確実に声をかけてくるはずなのだけど……あの素振りを見る限り、そういった様子は無い。

 認識阻害装備の効果で、顔を覚えられなかったようだ。

 

 まあ、ゲームでも御天(ミソラ)さんや虹崎(にじさき)さんとは、最初は謎のエージェントとして遭遇し、その後彼女らが学校内に居ることを知り、探す……という流れだったし、そういう意味では順当かもしれない。

 

 なら、僕の方から声をかけるべきだ。

 そう思って、彼の教室に入ろうとして……。

 

 昨日、落ちたビラを拾わなかったことを、思い出す。

 

「っ……」

 

 さっき、鏡で見た自分の姿を思い浮かべ、最初に彼にジャージを貸してもらった時のことを思い浮かべる。

 そして昨日の、彼にかけられた言葉。

 

『アイツを倒してくれ――お前にしか、出来ない』

 

 ……い……、――()()

 あんな言葉をかけられた僕の正体が――切断業者(マスプロカット)の正体が、こんな僕だなんて、知られたくない。

 

 逡巡する。でも、そんなことを言っている場合じゃない。

 彼に御天さんを助けてもらわないといけないのだ。変なプライドなんかにこだわっている余裕は無い。

 

 そんな風に教室の前でまごついていた僕の前に、ずい、と一人の女子生徒が回り込む。

 

「――おはよっ、在城(ありしろ)ちゃん。ちょっと時間ある?」

 

 青いミディアムヘアに、ボーイッシュな口調――虹崎さんだった。

 

「えっ、あっ……は、はい……」

「あ、消音領域は張ってあるから、『軍』や『企業』のことについて話しても大丈夫だよ。ボクから一メートル以上離れなければ何を話してても外には漏れないから。……でも、他の人に近寄られ過ぎるとマズいかな。もうちょっと隅寄ろっか」

 

 口の前に人差し指を当てながら彼女が言い、僕たちは廊下の端に移動する。

 任務時の口調で話すべきか、素で話すべきか迷ったけれど、どちらも知られているのだから今更だと思い、素のままで僕は彼女に話しかける。

 

「……あ、あの……昨日はその、すいません、でも、その……」

「ううん、いいよ。その辺はお互い様でしょ? 昨日とか、ボクだけだったら違法刺激(ブラックドープ)は倒せなかったし……普段の任務だって、キミが手加減してるのにこっちは本気でやってたんだもん。トータルで考えたら謝らなきゃいけないのはボクの方だよ」

「そ、そんなことは……一応、えっと、二人とも仕事でやってることだし……」

「そりゃ、お互いに譲れない部分があるのは仕方ないけど、学校にまでそれを持ち込まなくてもいいでしょ? それを持ち出したら極端な話、今この瞬間に戦いを始めなきゃいけない」

「それは、その、そうですけど……」

「だったら、日常(ここ)でぐらい友達でいても良いってボクは思ってるんだけど……在城(ありしろ)ちゃんは、違う?」

「い、いえ……」

 

 彼女の顔がまともに見れない。

 だけど、俯いたままどうにか心を振り絞って、僕はか細い声を返す。

 

「僕も、学校では……虹崎さんと、友達で居たい、です……」

 

 虹崎さんの顔がぱぁっと明るくなるのが見えた。

 手を握られ、顔を寄せられる。元々半径の狭そうな彼女のパーソナルスペースが、より狭くなった感じがする。

 

 思わず顔が熱くなる。当然だ。こんな可愛い子相手だ、男なら誰だってドギマギするに決まっている。

 モテない男だった前世でも、コミュ障女子な今世でも、ここまで女の子に距離を詰められたことはない。距離が近すぎて、女の子の良い匂いがする。いや僕も身体は女の子だけど、僕からする匂いは鉄臭い血の匂いだ。

 

「よかった――うん、やっぱり、事情も知らないのに強引に止めようとするの、良くないとは思ってたから。ああいう人が居るなら、ボクももうちょっと、落ち着いてキミのことを知ろうとしてもいいのかなって」

 

 ……何だか、恥ずかしい。一応、精神はいい年した男のはずなのに……年下の女の子にすごく配慮されてしまっている。

 

「ところであの黒仮面の人って『軍』の所属……じゃないよね? 『企業』の物質具現機(マテリアライザー)使いは全員把握してるし、過激派を粛清しに来た『結社』の正式エージェント、ってわけでもなさそうだったし……」

「あ、えっと、虹崎さんは彼の正体が誰なのか気づ――知らないんですか?」

「うん。組織に所属してない人なの? フリーランスっていうか」

「組織に所属してないのはそうですけど、その、違うんです。色んな人を助けてる、えっと――ヒーローっていうか」

「へえ……! いいじゃん、凄いな、居るんだねそういう人! 『企業』のエージェントとしては純粋に褒めれないけど、こんな業界じゃ早々出来ることじゃないよ! 装備もイカす感じだったし!」

「で、ですよね……!」

 

 共感を得られた僕は、頬を熱くして相槌を打つ。自分が褒められたように嬉しかった。

 

「ん? ていうか黒仮面の人、守部(もりべ)くんがビラ配って探そうとしてた人だよね?」

「あっはい。僕が彼に頼んで、探すのを手伝ってもらってて……」

 

 というかそう考えるとつまり、僕は本人に本人を探すよう頼んでいたことになる。あの時はわからなかったけれど、そりゃ気まずい顔して当然だった。

 

「そっかー。じゃあ見つかってよかったじゃない」

「いえ、でもその、その後に逃げられて……」

「え、そうなの? そっか、じゃあやっぱりボクも探すの手伝おっか?」

「あっ、いやそれなんですけど――」

 

 と、そこまで言って、僕は思い至る。

 

「……あの、もし、虹崎さんが彼のことを見つけたら、どうするんですか……?」

「とりあえずコネは作っておきたいかな? そういう人なら望み薄かもだけど、もしかしたら『企業』の方でスカウト出来るかもしれないし」

 

 ……確かに、ゲームじゃ彼はどこか一つの組織に所属することはなかった。

 

 だが、その選択肢が無かったわけじゃない。目的のための支援や後ろ盾を受けるなら、どこかの組織に入る方が楽だった。

 しかしそうなると、その組織内での信頼や立場を得てからでないと、自由に動くことが出来なくなる。

 

 最低でも一年はその組織に腰を落ち着けないと、自由には動けない。今はそんな時間の余裕が無いから、どこにも所属せずに動いた方が良い……とか、そんな話があった覚えがある。

 

 ゲームでは、彼が世界の危機を知って動き出すのは高校二年。

 今は、高校一年の始め。

 

 ――時間の、余裕がある。

 

 もし彼が『企業』に所属してしまったら……『軍』の僕は、どうなるんだろう。

 ……いや、大丈夫だ。彼はそんな、組織のしがらみなんかに囚われるような器じゃない。

 

 でも……でも、彼は良くても、『軍』の方はどうだろう。

 野良の傭兵に協力を仰ぐのはよくても、敵対組織の所属員を関わらせるような真似を許すだろうか――否だ。あり得ない。

 

 そうなると、万能薬は手に入れられない。

 御天(ミソラ)さんは……助けられない。

 

「……っ」

 

 心が(こわ)ばる。

 

「あれ、どうしたの? ボク手伝わない方がいい……?」

「いっ、いやそのっ、そういうわけじゃ、ないんですけど……」

 

 話している内に予鈴が鳴って、二人、教室の方へと戻っていく。

 

「あ、ねえねえ、在城(ありしろ)ちゃんって前髪上げないの? 任務の時は顔見える感じにしてたじゃん」

「いえ、あれは戦闘の邪魔になるからやってただけで……学校じゃ別に……」

「えー勿体ない。せっかく可愛い顔してるのに――」

「いや本当に大丈夫なので――」

 

 その途中――

 

「って、守部(もりべ)クンじゃん」

 

 移動教室に向かっていた守部(もりべ)くんと出くわした。

 

「ねえねえ、昨日のビラ配ってたのってどうだった? なんか収穫あったー?」

「……いや、何もねえけど……っていうかお前ら二人、もう仲良くなったのか」

「昨日から友達だけど? あ、そういえばさ、ボクの方の人探しなんだけど、実は昨日見つかったんだよね。だからそっち手伝おっかなーって」

「いいって、別に……。昨日の分のビラ配りゃ十分だろ。ていうかお前みたいな極端なヤツいたら見つかるものも見つからねえよ」

「えー? そんな言い方ないじゃんかー、ねえ別に迷惑かけるわけじゃないんだからいいじゃん、ねーってば」

 

 言って、ぐいぐいと距離を詰める虹崎さん。

 守部(もりべ)くんが距離を取ろうとするが、躱しきれていない。言葉では邪険にしつつも、表情と態度はドギマギしている。

 

 ……そりゃ、そうだ。あんなに可愛い子に距離を詰められたら、男なら誰だってドギマギするに決まっている。当たり前だ。

 

 もし、虹崎さんが守部(もりべ)くんの正体を知って……そして、『企業』に所属するように彼へ要求した時……彼は、どうするだろうか。

 

「…………」

 

 断るとは、思えなかった。

 

「ん? あ、あれ、在城(ありしろ)ちゃん?」

 

 気がついたら、僕は守部(もりべ)くんの腕を引っ張って、虹崎さんから引き離していた。

 

「あ……。……あの、ちょっとその、守部(もりべ)くん、困ってるので……」

「えー? でも――」

「さ、探すのは僕たち二人で大丈夫ですから……虹崎さんは大丈夫です、えっと、手伝わなくても……」

 

 何故か、いつの間にか呼吸が苦しい。少し泣きそうになりながら虹崎さんの方を見た。ぐい、と更に彼の腕を引っ張って、彼女から距離を取らせようとする。

 

 だけど、なのに、彼は僕の手を振りほどこうとしていて――

 

「いや、在城(ありしろ)……お前も近いから……」

「え?」

 

 言われて、思わず、僕より背の高い彼の顔を見上げた。

 

 

 ――ドギマギしていた。

 

 

「ん、え……?」

 

 照れてる?

 彼が?

 

 ……僕に?

 

「っ――」

 

 急激に顔が熱くなる。

 何故かわからないけれど、虹崎さんに詰め寄られた時より熱い。わけがわからない。

 

 呆然としている内に、彼が手を振り払って「急がないと遅れるから」とか何とか言って、移動教室の方へと小走りに去っていく。

 

「へー……ほー……ふーん……」

 

 背後で虹崎さんが何か感嘆している。

 

 振り返ると、さっきまでと同じようににこやかにしている彼女が居て……。

 だけど、その笑顔の質が、さっきとは少し違っている気がした。

 

「――好きなの?」

「え、え……? 何が……?」

 

 何のことだろう。

 本気で分からなくて、僕は首を傾げる。

 

 そんな僕を、虹崎さんはイタズラっぽい笑みを浮かべて、流し目に見る。それは普段のボーイッシュな雰囲気の彼女ならまずしない表情で、蠱惑的なギャップがあった。

 

「ボクは良いと思うけどな、守部(もりべ)クン」

「い、良いって……?」

 

 まさか、彼が主人公――黒仮面であることに気づいたのだろうか。

 いや、だけど、それならわざわざこんな言い方はしないはず……。

 

「ぶっきらぼうっぽい風だけど実際のとこかなり人が善くて優しいし? 何か際立ったとこがあるわけじゃないから目立たないけど、小器用で大抵のことは何でも要領よく(こな)しちゃうし? お洒落とかには興味無さそうだけど、顔だって整ってる方だしー。ぶっちゃけこう派手にキメてる人よりさ、ああいう男子の方が付き合うならいいかなーって思ったりー、なんて?」

「え、あ、へ?」

 

 つ、つまり……。

 虹崎さんは……守部(もりべ)くんのことが好き、なのか?

 

 え?

 あれ、でも、なんで?

 だってそんな、まだこの段階じゃ恋愛的なフラグも立っていないはずだ。彼が主人公だって気づいてもいない。

 

 そんな状態で、虹崎さんが彼を好きになる要因なんて……いや、でも、当然なのか?

 常識的に考えて、最初から気になってもいない相手を好きになったりなんてしないだろう。ゲームの中じゃ語られていなかっただけで、虹崎雨色は最初っから主人公の本質的な良さに気づいていて、無意識に惹かれていた、なんて裏設定があっても何もおかしくなんてない。

 

 そうだ。だって、彼女は、御天さんと同じ、メインヒロインなのだ。

 

 主人公と最初から運命的に結ばれている存在。

 世界そのものに、彼と結ばれることが望ましいと祝福されている女の子。

 

 だったら、御天さんが居ない今、順当に行けば……。

 彼と彼女は親密になり、好き合って、互いの秘密を共有するようになるに、決まっている。

 

「っ……!」

 

 だ――ダメだ。

 それは、ダメだ。

 そうなったら、彼は『企業』に行ってしまって、僕は、僕は……。

 

「あー、でも今の感じだと、在城(ありしろ)ちゃんも結構脈アリそうな感じだったしなー」

「え、え――」

「まあでも流石になー。今の在城(ありしろ)ちゃんにだったら負ける気はしないかなー」

「う……」

 

 それは……そうだろう。

 僕だって自分が相当な美少女だという自信はあるけど、虹崎さんはヒロインに相応しい本物の美少女だ。

 

 陰気で暗い僕と違って天真爛漫でキラキラしていて、最高に女子高生らしい華やかさがある。

 

 スタイルはゲームの美少女キャラらしく当然のようにモデル顔負け。これに比べたら、小柄で細身な僕なんて幼児体型もいいところだ。スレンダーなんて聞こえの良い言葉で誤魔化す気もわかなくなる。

 

 髪だって一見動きやすさ重視のスポーティな感じだけど、ちゃんと手入れして、気を遣ってセットしていることは一目で分かる。伸ばしっぱなしのままにしている僕とは全然違うし、目の下にクマだって出来ていない。

 

 見た目の話だけじゃない。内面だってこんなツラが良いだけの僕と違って、腐った部分の一切無い物語の主役そのものの完璧なヒロインだ。

 

 口調だって被ってるけど被ってるだけで、無理に演じてるだけの僕じゃ彼女みたいな天然には敵わない。そもそも素の口調がもう守部(もりべ)くんに知られちゃってるし。

 

 畢竟するに(つまるところ)、完全な上位互換。

 僕なんかが勝てるはずないなんて、そんなの僕が一番分かっている。

 

 大体……そもそも、僕は元々男なのだ。

 女の子としての魅力なんて出せるわけないし……そんな、元男が、前世では二十歳過ぎの成人男性が、無理に女の子のフリをしたって、気持ち悪いだけに決まっている。

 

 というかそんな、仮にその辺り上手くやれても、それで男子に好きになんてなられたって困るのだ。

 僕は女の子の方が好きだし、男と付き合う気なんてそんなの、あるはずがない。

 

「せっかく素材は良いのになー。在城(ありしろ)ちゃんがもうちょっとお洒落に気遣ってたらわからなかったけど、これじゃあなー。せっかくだし、今度お試しで付き合ってみたりとか提案してみよっかなー」

「う、うう、うううううう……!!」

 

 駄目だ。

 そんな軽い気持ちで彼を……彼を、と、取られるなんて、いくら虹崎さんでも、許せない。

 

 まだ……今ならまだ、何とかなるはずだ。

 虹崎さんが本気になっていない今なら、僕でも、こんな僕でも、どうにかなるはずだ。

 

 そうだ。

 これは何も、僕が主人公に好きになってもらいたいとか、そんな気持ちの悪い話をしているのではなく……御天さんを助けてもらうために、仕方なくやっていることなのだ。

 

 なら、それなら僕は、何だって出来る。

 しなければならない。

 

 授業中、僕は言いようのない焦りを感じながら……机の下のスマホで、この街で一番の美容院の調査と、そのためのスケジュール調整をし続けていた。



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6/ラヴブレイン

 よく分からないが、美容院というのは予約が必要なものらしい。

 というわけで、自分のスケジュール表を確認してみた。

 

 ――空いてる日が無かった。

 

「う、うう、うううううう……!」

 

 僕は『軍』拠点の廊下で、ぐったりと壁にしなだれかかる。

 明日も任務、明後日も任務、明明後日も任務、任務、任務……。

 

 他組織の介入等により、当日や前日になって予定が変わることはあるものの、それじゃあ予約なんて取れない。

 

 美容院がダメならせめてとばかりに美容系の雑誌や化粧品のカタログなんかを読んではみたけれど、具体的に何をどうすればいいのか全く分からない。TCGのルールも知らないのにカードパックの新弾や現環境のトップメタを紹介されているようなどうしようもなさがある。

 

「ゆ、有給休暇……」

 

 無いわけではない。

 無いわけではないが、何せそもそもからして組織名が『軍』である。

 部署にもよるが、いつ有事が来るか分からないような組織で休暇など、早々取れたものではない。

 最低でも一ヶ月以上前には申請をしておかなきゃならないし、それだって諸々の兼ね合いによっては無かったことになりかねない。

 

 特に、今は『本編』が近づいて来ていることによる敵の質と量の上昇……つまりは繁忙期状態だ。最悪、申請しただけでも評価に響きかねな――

 

「――おい、こんなところで何をやっている、在城(ありしろ)

「うぇあ!?」

 

 振り返る。背後に立っていたのは、黒いスーツ姿の、鋭い目付きをした背の高い女性。

 僕の部署の司令官だった。

 

「……体調が悪いなら医療班に連絡するが」

「あ、いやっ、違うんですその、休暇欲しくて……あっ」

 

 言っちゃった……。

 司令官が怪訝そうな目でこちらを見る。それもそうだろう。御天(ミソラ)さんのために『軍』での評価を上げようと必死な僕は、今まで彼女にこの手の要求をしたことがない。

 

「休暇……やはり、体調が悪いのか? なら、一般の病棟より『軍』の医療施設の方が都合が良い。例の万能薬ほどではないが、科学・魔術・超常、それぞれを用いた複合的な治療が――」

「ちっ、違っ、そうじゃありません! 体調は別に悪くなくて、えっと……」

「では、なんだ」

 

 表情一つ変わらない鉄面皮で、司令官が僕に向けて問いかける。

 彼女の眼差しは真剣で、下手に誤魔化せば真実を語るまで追求されることが文字通り目に見えていた。

 

 僕は枝毛を弄りながら、恐る恐る、白状する。

 

「……び……」

「び?」

「び、美容院……行きたくて……」

「何?」

「その、あの、このままだとちょっと、えっと、人と会う時に困るっていうか……ど、どうしても必要なことで……」

「…………」

 

 司令官が黙りこくり、じろじろと僕を眺め回す。恥ずかしくなって後ろ手に隠した化粧品のカタログも多分見られたと思う。

 視線の一つ一つに僕が震える中、彼女は懐からタブレット端末を取り出し、何がしかの情報を確認していく。

 

「……直近で休暇を入れるのは、厳しいな」

「で、でで、ですよね……! 忘れてください本当に、髪とか別に実際どうでもいいんでっ、」

「お前、確か今日の任務は延期になっていたはずだな? この後何か予定はあるか?」

「え……? い、いや、ないですけど……」

 

 司令官が「そうか」と呟き、振り返って歩き出し……背中を向けながら、僕に着いてくるよう合図する。

 

 慌てて着いていく。

 彼女が行く先は、廊下の果て、軍事施設の外、駐車場、車内、市街地……。

 

「……???」

 

 街の高級美容院だった。

 

「あ、あの、えっと……? その、でも、予約……」

 

 まるで構わず司令官は中に入っていき、僕は否応なしに慌てて着いていく。

 

「お客様、ご予約は――」

「無い。だが金はある」

 

 トン、と、あまりにも自然に、しかし確かに重みのある音を立てて、司令官が札束を置いた。

 僕は驚く。店員もそうだ。突然の大金に瞠目している。

 が、だからと言ってはいそうですかわかりましたとはなるはずがない。

 

 冷や汗をかきながら、困りますと連呼する美容師に、司令官は懐から、スっと――何かの回数券のようなものを、ちぎって、掲げた。

 

「『とても手軽な借用書(ラヴ・キング・スピーク)』――特定の制限の下、適切な対価を支払うことによって、法律や契約、権利に倫理、あらゆる規則や手続きを無視して、一時的に対象を所有することができる超常性アイテムだ。今からしばらく、この店を借りる」

 

 言葉の通りになった。掲げられた回数券が焼け焦げ消え去る。店員が困惑しながら札束を受け取り、司令官を奥へと案内し始める。

 

「ちょ、ちょっと司令官――何やってるんですか!?」

「このアイテムは消費する以外の方法では破壊できん。使い方によっては非常に危険な超常性を、処理するついでに有効活用しただけだ」

「み、民間人相手にそんなの使っていいわけが……! 大体、私的使用には罰則だって……!」

「私的使用に当たるかどうかを決めるのは司令官である私だ。さっさと行け」

 

 な、なんて職権濫用……!

 いや、確かに彼女はゲームでは終盤裏切って敵に回るが、それまでは基本、真面目な司令官だったはずだ。

 そもそもの出番が少ないからアレだけど……この手の悪ふざけをしているのは、ゲームでもこの世界でも見たことがない。

 

 何か羽目を外したくなるような事でもあったのか……。

 司令官が記憶処理装置でビカビカと店員や客の記憶を改竄するのを見ながら(それやるなら別にアイテムは要らなかったんじゃないだろうか)、僕は彼女に問いかける。

 

「あの、でも、お金……」

「これは特殊な工程を踏んで処理しなければならない超常性アイテムの終了任務だ。つまり、経費で落ちる。――いいな?」

「アッハイ」

 

 鋭い目で睨まれ、僕は何も言えずにすごすごと引き下がる。

 別に僕が悪いわけじゃないのに、謎のいたたまれなさがある。逃げ出しそうになる僕の首根っこを司令官が掴んで、抑え込むように座席に座らせた。

 

「で、どうセットしたいんだ、在城(ありしろ)

「え、え、えっと……わ、分かんないです……」

「そうか」

 

 美容師の方に向き直り、淡々と、僕の辞書には無い語彙でオーダーをする司令官。

 急な状況に混乱させられたまま、あれよあれよと展開が進んで――

 

「ふむ。まあこんなものか」

「……????」

 

 ――サラサラになった髪を撫でられながら、僕は司令官と一緒に美容院を出た。

 少し頭を動かす度に自分の髪から良い匂いがして落ち着かない。別にそこまでバッサリいった訳でもないのに、なんだか頭や顔への感覚が違う。

 

 超常性の終了手順と全く同じ口調で、手入れがどうこうと言った話を無表情に語る司令官。

 未だに困惑しながら唯唯諾諾と頷く僕に、司令官はふと、口を止める。

 

「な、何か――ぁぅ!?」

 

 顎を掴まれた。

 無理矢理目線を合わせられ、じっと顔を覗き込んでくる。

 

「……前髪で分からなかったが、クマが酷いな」

「あ、は、はい……その、睡眠不足で……」

「オレンジ系のコンシーラーはあるか?」

「……? こんしーら……??」

「チッ、そこからか」

 

 美容院を出て、向かう先は『軍』の拠点ではなく、化粧品売り場で、そして――

 

「――というわけで化粧についての基礎は一通り教えたが、他にもこれらは負傷の隠蔽にも応用できる。私も現場に出ていた頃には使っていた技術だ。いくらお前に治癒能力があるとは言え、民間人に戦闘の跡を悟られないためにも覚えておいて損はないだろう。『軍』の教練プログラムにもこの手の技術は取り入れておくべきかもしれんな……まあ、その辺りは後で考えるか。銃器の手入れなどとは違って、この手の技術に正解など無い。が、それでも抑えておけば間違いの無いポイントはある。それと在城(ありしろ)、睡眠不足に悩むならカフェインは減らせ。完全に中毒だ。それじゃ睡眠薬も効かん。完全に断つまではいかなくてもいいが、量と摂取する時間帯は制限しろ。眠気を覚ましたいなら目薬でも刺せ。それと、目元の血行改善のために――」

 

 拠点に戻った後、かつて『軍』に入った直後に受けたスパルタ講義に勝るとも劣らぬ情報量を叩きつけられ、目を回す。

 どうにかこうにかついていき、今まで名前も知らなかった化粧品を使って、薄くではあるがどうにか言われた通りに化粧を施し、改めて鏡を眺め直した。

 

「…………あ」

 

 ……わ……割と、良いんじゃ、ないだろうか。

 指示通りにやっただけだけど、整えられた髪も相まってなんだか垢抜けた感じがする。いつもの暗さも、病んで荒んだ感じもなくて……。前まではこう、可愛いは可愛いんだけどどこかイロモノ感というか……そういうのがあったけど、今はまるで御天(ミソラ)さんや虹崎(にじさき)さんみたいな、正統派の美少女だ。自分の顔なのになんだかドキドキする。

 

「あのっ、司令官、こ、これ、どうですか……!?」

「見れはするな。七十点だ」

「ぅ……」

 

 自信をへし折られそうになる僕だったが、それより先に、司令官が僕の肩を掴んで、引っ張った。

 

「まずは姿勢を直せ。背筋を伸ばして胸を張れ。八十点にはなる」

「え、あ」

「次に、自信を持て。暗い顔をするのをやめろ。それで九十点だ」

「そ、そんなこと言われても――」

「最後に、作り物でいいから、笑え。時々でいい。こんな風にな」

 

 言って、司令官が鉄面皮を綻ばせ、微かに、優しい笑みを浮かべてみせた。

 思わず目を丸くする。笑顔は見間違いかと思うほどすぐに消えて、彼女の表情はいつも通りのそれに戻った。

 そして、じっ、と。できるかどうか問いかけるように、鋭い――いや、真っ直ぐな瞳が僕を見る。

 

「こ、こう……?」

「満点だ」

 

 頷き、司令官が立ち上がる。

 

在城(ありしろ)。『軍』の司令官として、私がお前にできることは無い。する気もない」

「っ……」

「だが、私人としては別だ。大人が子供の面倒を見るのに理由は要らん。次からは、言え。私は察しが悪いからな」

 

 用事が無いなら早く帰れ、と言い残し、司令官はタブレット端末片手に部屋を出ていった。

 

「…………」

 

 なんであの人、裏切っちゃうんだろうな……。

 ……これも、守部くん(主人公)に頼めば、解決してもらえるのだろうか。

 

 そんな風に思いながら、その日の僕は『軍』の拠点を後にした。

 

 


 

 

 翌朝。

 鏡の前で、自分の姿を確認する。

 

 ……変じゃない、はずだ。

 今までの伸ばしっぱなしとは違う、整えられた髪型。

 校則に違反しない程度の化粧に、ギリギリ文句は言われないぐらいに改造した制服。

 羽織ったジャケットはいくらか着崩して、スカートは短めに。ちょっと太ももの包帯が見えてしまっているけれど、そこまで目立たない、と思う。

 学校指定の簡素なリボンは、昨日あの後買ってきた可愛らしいものに取り替えられている。

 髪留めも今まで使っていた実用性重視のやつじゃなくて、ちゃんと、お洒落な……

 

「……う、うぐ……」

 

 ……な、なんでだろう。今になって急に恥ずかしくなってきた。

 別に、女の子っぽい格好なんてこの十五年で何度もしてきたし、今更それに特別強く羞恥心や抵抗感を感じるわけじゃない。大体、普段の任務で使ってる戦闘服(ドレス)なんて、この制服とは比べ物にならないほど派手で露出度も高い。

 

 そもそも、性差に関する違和や不都合こそあれど、自分の容姿については僕は普通に気に入っているはずなのだ。

 元男として思うところはあるものの、それでも見目が良いに越したことはないに決まっている。何なら鏡に向けて可愛いポーズすることだってある。

 

 先天的なものなのか、治癒能力の副作用か知らないが、この過酷な生活の中でも何故かある程度キープされている可憐さ。

 それが磨かれるのは僕にとっても喜ばしいことのはずだ。実際、今だって、これまで感じたことのない高鳴りが、胸の奥から溢れてきている。

 

 正直、滅茶苦茶可愛い。

 今まで、御天(ミソラ)さんの代理として形だけやってはいたけれど、イマイチ様になっていなかったパッションな振る舞いも今なら似合う。

 腰のあたりに握り拳を当てて、もう片方の手は顎の辺りでピースにしてウィンク。どんなポーズをしてもこれならバッチリ決まっている感じがして楽しい。

 

 プレイヤー目線で考えても、今の僕のキャラデザならメインヒロインは間違いなく張れる。パッケージに映っていればジャケ買いもワンチャン有り得るだろう。

 少なくとも、僕だったらこんな子が仲良くしてきたら平然としてはいられないし、守部(もりべ)くんだって、その、好きになってくれるはずで……、

 

「…………」

 

 思えば、他人のために着飾ったことなんて、今まで一度も無かった。

 恥ずかしいのはきっと、それが理由だ。

 だって今、鏡に映っている僕はまるで、気になっている男の子に好かれようと、お洒落を頑張っている女の子のようで――

 

「っ……!」

 

 ――ち、違う。なんだそれは、気持ち悪い。

 いや、字面だけなら特に間違いでもないけれど、そこに含まれる意図は通常解釈されるだろうそれとは全然別だ。

 

 そもそも僕は男だし、これだって彼の協力を得るために仕方なくやっていることなのだ。

 そうだ。仕方なく、仕方なく、だ――必要だから、やっているだけのこと。

 本当は男なのに、女の子のフリして、着飾って、男に好かれようと媚びるなんて、気持ち悪いし、嫌に決まってるし……だからそんなのは、恥ずかしいに決まっている。

 

 僕は手早く準備を終えて、背筋を伸ばして、顔を上げた。最後にもう一度だけ自分の姿を確認し、家を出る。

 登校中、いつもより刺さってくる視線の数が多い気がした。

 

 学校に辿りついて、守部(もりべ)くんの姿を探す。

 どうやらもう教室に来ているらしい。隣の教室の扉の窓を覗くと、眠そうな顔で守部(もりべ)くんが席に着いていた。

 

 僕は早速扉に手をかけ、声をかけようとして……。

 覗き窓のガラスに映る自分の姿を見て、足を止めた。

 

「…………」

 

 これからこの格好で顔を合わせる、わけだ。

 元男としての価値観で客観的に評価してみても、かなり魅力的だとは思う。

 他の女子と比べると流石に少し浮いている気はするけれど、別に違和感があったり、個性的過ぎて引くってほどじゃないし、普通に考えてもまず問題無い範囲。

 

 主人公の周りにはもっとド派手なデザインのキャラが集まってくるわけだから、それに比べたら僕なんて全然大人しい方だ。

 

 でも、昨日の僕と今日の僕とで比べると……ちょっと、張り切り過ぎじゃあ、ないだろうか。

 一週間ぐらいかけて徐々にならともかく、昨日の今日でこれだ。流石にギャップがあり過ぎる。

 

 ……引かれるかも、しれない。

 扉の前で立ちすくむそんな僕に、横合いから入ってくる青い影があった。

 

在城(ありしろ)ちゃん?」

「あっ、虹崎(にじさき)さ、」

 

 名前を言い切るより早く、虹崎さんが目を輝かせて、僕の手を握った。

 

「――可、愛、い~!! すっ、ごい良いじゃん! これからずっとそれでいこうよ、めちゃくちゃ似合ってる!」

「え、で、でも、」

「ねえ守部(もりべ)クン来て! 早く来て! 凄いよほら、はーやーくー!」

 

 虹崎さんが強引に守部(もりべ)くんを呼び寄せて、ダルそうにしながら彼がそれに答える。

 

 咄嗟に逃げ出そうとしてしまった僕だったが、がっちりと手首を掴まれていて動けない。ヤバい、レベル自体はまだ僕の方が高いはずなのに、この子ステータスがSTR(ちから)主体だ。VIT(ぼうぎょ)主体の僕じゃ勝てない。

 

 そして、ガラガラと扉を開けて教室を出てきた彼と、目が合った。

 

 守部(もりべ)くんが驚いたように息を呑む。

 恐る恐る、彼の目を見た。

 彼も、固まったように僕を見つめた後……、……照れたように、顔を背けた。

 

「あ……」

 

 ひ、引かれたんじゃ、ない、よね?

 虹崎さんが興奮した様子で僕と守部(もりべ)くんに言葉を投げる。

 

「ね! めっちゃ可愛くない!? もう余裕でビジュアル売り出せるレベルだよこれ! 守部(もりべ)クンもそう思うでしょ!?」

「あ、ああ……そう、だな……」

 

 歯切れ悪く彼が言う。

 だが、目は合わせてくれていない。僕は不安になって、思わず、無意識に彼の服の端を摘んだ。

 一体僕は何やってるんだろう。咄嗟の行動に後悔しつつ、それでも、半ば勢い任せに問いかけた。

 

「ど――どう、思う?」

 

 彼は動揺したようにこちらを見た後、目を泳がせて、言った。

 

「いや……良いと思う。大分、可愛い」

「っ、」

 

 それは、照れ臭そうに、言い淀みながらの言葉ではあったけど……だからこそ、確かに本物で。

 心を内側から撫でられるような嬉しさが、胸の奥から溢れてくる。

 

 ……あ、そ、そうだ。お礼言わないと。

 司令官も、時々でいいから笑顔を見せろって言ってたし、ちゃんと、喜んでいるところを見せないと……。

 

在城(ありしろ)ちゃんって、笑ってる時そんな感じなんだ」

「え?」

 

 僕は、自分の顔に手を当てる。

 すごく、頬が熱い。そして、気が付かない内に、口元が完全に綻び切っていた。

 

「~~~~っ……!」

 

 ち、違……違う!

 これは単純に、彼に協力してもらえる見込みが出来たから、嬉しくなって笑みを作ってしまっただけで――だからそんな、全然、褒められて嬉しくなったとか、そんなんじゃない!

 

 そうだ、そうなのだ。これは言うなれば、彼の、主人公の力を利用するためにやっているだけで、だから、いくら主人公とはいえ、男に可愛いなんて言われて嬉しいなんて、そんなこと思うはずがないのだ。むしろ気持ち悪くて、なんだか、さっきから背筋がぞわぞわするのも、嫌悪感のせいで……!

 

「あの、あっ……ありがとっ……! その、それじゃもう、チャイム鳴るから……っ!」

 

 だから、顔がこんなに熱いのも――男相手に媚びなきゃいけない屈辱感とか、そういうののせいに、決まってる……!

 

 


 

 

 走り去っていってしまった(キザミ)を前に、守部(もりべ)(サバキ)は呆然と立ち尽くす。

 子供の頃、学校で会ってから、超常性絡み――全部ひっくるめて照らし合わせても、あんな(キザミ)は見たことがなかった。

 

 何が『良いと思う』だ。何が『大分可愛い』だ。あり得ないほど魅力的だった。心臓が止まったかと思った。というか今も止まってるんじゃなかろうか。

 

 彼女が美少女なのは最初から分かっていたし、ちゃんとすればもっと可愛いんじゃないかとは――同時に、彼女が可愛いのは自分だけが分かっていればいいとか浅ましいことも――思っていたけれど、あそこまでとは思わなかった。

 

 正直、あんなに自信なさげにしているのが信じられないほどだ。(サバキ)としても自分が主観的になっている自覚はあるが、それでも明らかに他とはモノが違う。

 まだ彼の教室に居る虹崎のように、周囲から浮いてはいるものの、それも仕方ないと思えるほどの格の違い。

 

 それだけの美少女が、ふにゃふにゃに溶けたような、心から喜んだような笑みを浮かべて、しかも、そんな笑みを浮かべていることに後から気づいて顔を真っ赤にして――これで心を奪われなかったら逆にどうかしている。

 

「…………」

 

 ……だが、一つ、気がかりなのは……。

 

「……なあ、虹崎、在城(ありしろ)のやつ、なんで急にあんな……」

「んー? さあねー、どうしてかっなー?」

 

 ニヤニヤ笑いで言う彼女。(サバキ)は頭を掻く。これじゃどういうつもりで言っているのか不明だ。

 

「……お前と在城(ありしろ)は、アレのこと、実はもう知ってるのか?」

「え? アレって何?」

 

 きょとん、とした顔で虹崎が首を傾げる。

 これは多分、本気だろう。演技でやっているなら相当な役者だ。

 大体、(サバキ)が黒仮面であることを知っているなら、二人がそれを追求してこない理由がわからない。

 

 虹崎にバレていないということは、(キザミ)にもバレていないということだ。一昨日に子供たちから聞いた話、『企業』の方が情報調査については得手らしいし……あの日に二人が得た、黒仮面についての情報量も大した差があるとは思えない。まさかそんなピンポイントで虹崎が去った後のほんのわずかな時間に(キザミ)だけに身元が判明する手がかりを落としてきたなんて、そんな奇跡は無いだろう。

 

 だから、アレは黒仮面ではなく、普通に(サバキ)に向けられた笑顔であるはずで……。

 

「(……だけどアイツに他に何かしたっけ、俺)」

 

 守部(もりべ)(サバキ)は思い返す。

 

 ジャージを貸した。

 

 いや待て。(サバキ)は思う。いやいやいや、待て待て待て……それだけで、『アレ』なのか?

 

「(ちょ……チョロ過ぎる……!)」

 

 マズい。これからはこのチョロさで、あの美少女具合を晒すというのか――遠くない内に絶対に騙される。

 

 (サバキ)は慌てて立ち上がる。焦りにいてもたってもいられず、虹崎に対して話しかけた。

 

「なあ虹崎、在城(ありしろ)のことなんだが――」

「分かってる分かってるって、ボクに任せてよ、ね?」

 

 本当にわかっているのかどうなのか。

 不安に困惑する(サバキ)に、彼女は二枚のチケットを掲げ、不敵な笑いを見せるのだった。



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7/プリミディテイト・アンコンシャス

 夜、繁華街の外れ。

 少し離れた場所にあるビル達の明かりはまばらで、届いてくる光は薄暗い。

 照明も足りず、建物の陰になって月明かりも差さない、闇だけがある寂れた空間。

 

 そこに、青く輝く異形の怪物達がいた。

 

 ……主人公が見つかっても、僕の、『軍』のやることは変わらない。

 

 弾け飛ぶ白い包帯。

 僕は手から紅い斬撃波を放ち、青褪めた光を放つ目玉型の超常性にダメージを与える。

 

『g■w■o――!!』

 

 悲鳴を上げるように嘶く異形。どこかへと逃げ出すそれ。

 周囲にはまだ複数の目玉が残っていたが、本体らしき個体が逃げ出したことで、統率が崩れた。

 

 いくつものレーザーが魔眼から放たれる。

 が、僕を補足しきれていない。全弾回避しつつ構える物質具現機(マテリアライザー)

 

「再現率30%――カッターナイフ具現!」

 

 カッターナイフを具現化し、刃部分を一枚ずつ折って射出。

 マシンガンのように放たれる替刃の一枚一枚。そのそれぞれが青い目玉の群れを貫いていく。

 地面に落下し、青い煙となって消え去る目玉。

 僕は無傷のまま、現場の制圧を終える。

 

 ここ数日、調子が良い。

 

 何と言うか、心に余裕がある気がする。

 おかげで視野も広い。目詰まりしていた何かが取れたような感じがある。

 

 手早く処理を完了。

 僕はそのまま、奴が逃げた方向に向かおうとし――

 

「――――」

 

 超常性と同じように眼球を青く輝かせた、スーツ姿の男性と出くわした。

 苦しそうに悶える彼。その眼球の光が徐々に輝度を増していき、バチバチと周囲にスパークを散らす。

 

 涙を散らしながら僕を睨む青い瞳。

 そして、稲光のようなレーザーが、僕の体へと、

 

「ダメージバレット――(スラッシュ)(シュート)!」

 

 放たれる前に、物陰に潜んでいた超常性を終了した。

 

 魔眼で操られていた彼の眼から、光が消える。

 力が抜けてへたりこむスーツの男性。息を切らしながら礼を言う彼。

 安心させるための笑顔を返しつつ、事後処理班の方へ向かうよう促し、次へ。

 

 本当に、ここ数日は調子が良い。

 

 きっと、手応えがあるからだ。

 物事が良い方向に進んでいる、良い方位に進めているという、手応え。

 

 あれからしばらく経ったけど、守部(もりべ)くんからの反応は結構良い、と思う。

 

 他の生徒からも話しかけられる機会が増えたのには困っているけれど、でもそれは何かの勘違いじゃなく、客観的に見ても上手くやれているってことだ。

 

 ……でも、なんて言うか、もう少しこう、好感度じゃなくて、えっと……そう、友好度を上げておきたい気持ちがある。当然、無論、打算的な意味で。

 良いと思う、とか、大分可愛い、程度じゃ少し不安だ。

 今の段階で『軍』のエージェントだと明かすと、逆に距離を取られるかもしれない。

 

 そもそもあのゲームは、ドラマパートが半端な状態で仲間を戦闘要員に加えてしまうと、友好度を上げるのが逆に面倒になる。戦闘パートで手に入る友好度より、ドラマパートで手に入る友好度の方が圧倒的に大きく、戦闘要員はドラマパートの機会が減少するからだ。

 

 仕様的に仕方がないのだが、何度も共に戦った仲間より、一、二回ほど一緒に遊んだ友人の方が仲が良い、なんて事態がしばしば起こる。

 だから、ドラマパートはさっさと(こな)してしまわないと、正体を知らせることも出来ない。

 最悪、後から虹崎さんに友好度で追い抜かれてしまう。

 

 ……まあ、そう言いつつ、あれからそこまで学校で話せているわけではないのだけども。

 

 だけどもういい加減、どうにか慣れてきた。

 最近は彼の方からも話しかけてきてくれるようになったし、きっと友好度も上がってきている。この世界じゃ数値で確認は出来ないけれど、そろそろイベントの一つや二つ起こってもおかしくはない。

 

「(……イベント……)」

 

 ゲーム内であったイベントを思い返す。

 御天(ミソラ)さんや虹崎さんが、主人公と一緒に学校を帰ったり、行事を楽しんだり、休日に二人きりで遊びに――デートに行くシーン。

 

 僕は、彼女らのいる位置に、今の自分の姿を当てはめたシーンを想像して――、

 

「――~~~っ!!」

『■■ァーッ!?』

 

 弾ける包帯。

 いくつもの傷痕(ダメージ)を一気に消費して、先ほど取り逃がした超常性にトドメを刺す。

 

 違う……! 全然違う! い、いや、仮にそうなったとしても、そうなるとしても、それは仕方なくそうするだけなのだ。あくまで御天(ミソラ)さんを助けるために、仕方なく、いつも通り仕方なく、御天(ミソラ)さんの代わりとして、嫌々で、ひ、ヒロインみたいなことをするだけで……!

 

『■■■――!!』

「わっ」

 

 と、そこで、まだ息があった超常性が襲いかかろうとしてきているのに気づき、振り返り様に斬撃波を放って終了した。

 

 ……おかしいな。このレベル帯ならアレだけ撃ち込めば確実に仕留められるはずなんだけど。

 ステータスが一際VIT(ぼうぎょ)に振れた個体だったのか、限定的な無効化あるいは食いしばり系のスキルを持っていたのか。

 

 もしくは……。

 

「……威力が落ちてる?」

 

 気のせいかな、と呟いて、僕は見つめていた掌を下ろす。

 

 ともあれ、今日のところはこれで終わりだ。

 最後は少しグダついてしまったけれど、それでもいつもより時間が早い。これなら、明日も好調子のままで迎えられそうだ。

 

 さっさと帰って寝てしまおう。睡眠時間は確保しておくべきだ。寝れる時に寝ておいた方が良い。

 ……いや、でも、今の時間なら、この間、虹崎さんの言っていた店もまだ閉まっていないかもしれない。

 

 前に私服なんて持ってないと言った時、教えられた店だ。

 別に要らないと遠慮する僕に、必要になるとか何とか主張していたが、確かに、これからは学校外でも彼女らと行動する機会が増えるかもしれない。

 

 今のうちに行っておくべきだろうか。

 守部(もりべ)くんとも、その、一緒に出かけるかもだし……

 

「…………っ」

 

 先ほどの想像が、また脳内に浮かび上がりそうになって、僕は必死に頭を振る。思考を中断させる。

 

 やっぱり、今日はもう、まっすぐ帰ろう。

 任務を終えたその日の僕は、足早に帰路を辿っていった。

 

 


 

 

「――なあ在城(ありしろ)、土曜でも日曜でもいいんだが、今週末って時間あるか?」

「ふぇ」

 

 隣のクラスを遠慮がちに覗いて、彼がそれに気づいて来てくれるのが、お決まりになった昼休み。

 

 守部(もりべ)くんがそう言って、見せてきたのは二枚のチケットだった。

 

 隣町。この地方都市の中心部にある、世界的な規模を有するコングロマリット――まあ、『企業』の表の顔なのだが――が、建てた、巨大総合商業施設の、全店無制限利用パス。

 要塞みたいに巨大な建物で、実際のところ『企業』の秘密基地でもあるのだが、そんなことはどうでもよくて。

 

「え、あの、それ、って」

「なんていうか……一緒に行こうと思って。まあ、忙しかったらっていうか、嫌だったら別に、」

「い、行く! 嫌じゃない! 全然!」

「おう……」

 

 思わず、反射的に僕は答える。

 土日の予定なんて当然埋まってる。御天(ミソラ)さんのお見舞いだって行けなくなる。でも、それでも、この提案を――このチャンスを逃すわけにはいかない。

 

「でもあの、それって、虹崎さんから貰ったやつじゃ……? あ、いや、なんとなくそう思っただけなんだけど……」

「あ、あー、そうなんだけど、好きなヤツ誘えって言われたし」

 

 このチケットは、『企業』のエージェントに社内表彰で贈られる自社の商品券みたいなものだ。

 本当なら彼女とのデートイベントの時に使われるアイテムだったはずなのだが……いいの、かな。僕なんかに使っても。

 虹崎さんじゃなくて、僕を選んでも。

 

 そう、デートだ。

 デートイベントだ。

 

 僕と、彼で。

 

「……っ!」

 

 だから違う。

 そうじゃなくて。

 嬉しいなんて全く思ってなくて。

 男相手にデートに誘われるなんてそんなの、嬉しいなんて思うはずがなくて。

 仮に嬉しいのだとしてもそれは、主人公みたいな憧れの相手と一緒に遊べるからとか、そんな気持ちのはずで。

 

 大体、アレだ。あのデートイベントはヒロインの好感度を――じゃない、女性キャラとの友好度をかなり上げて、それで初めて発生するイベントだったはずだ。普通にプレイしていれば発生するのは物語の中盤ぐらいの進捗度になってからのはずで、だからそんな、まだ話し始めてから一週間程度の僕がそこまで好感度上げられてるはずがなくて、そんな僕がチョロいみたいな、いや、だからこれはそういうんじゃなくて、普通に一緒に外出するだけとか、きっとそんな感じのはずで……!

 

「それで、日付なんだが」

「ちょ、ちょっと待って! 上の人、じゃなくて、家の人にか、確認するから!」

 

 教室を出て、スマホ型の特殊通信機で司令官に連絡を入れる。

 

 主人公がどうの、なんて説明しても伝わるとは思えない。

 それでも、現状で明かせそうな情報を可能な限り開示して、どうにか日取りを弄ってもらえるよう、必死に懇願を――

 

『――あぁ、分かった分かった。土曜の任務は『企業』が対外的に経営している施設の、一般人に紛れ込んでの偵察、および調査だ。それで良いな?』

「は、はい! ありがとうございます!!」

 

 見えていないのは分かっているけれど、何度も頭を下げる。

 

『その日は星住(ほしずみ)の見舞いもあったはずだが、そちらはどうする』

「あっ、いえ、多分、医療棟の閉鎖時間までは長引かないと思うんですけど……。あ、でも、もしかしたら……」

『そうか。なら、医療棟にはそのように伝えておこう』

 

 再度感謝を告げた後、通話が切れた。

 良かった……これで、気兼ねなく彼と一緒に出かけられる。

 

 あ、でも、私服どうしよう。今週末までに買いに行ける時間が無い。

 せっかく、昨日行ける機会があったのに逃してしまった……いや、今日の任務なら、可能な限り早く終わらせれば間に合うかもしれない。

 

 教室に戻って、デ、じゃない、外出の待ち合わせ時間と、待ち合わせ場所を彼と決める。

 

「――じゃ、午前一〇時に、駅の北口で」

「う、うん……!」

 

 その後の授業は全く頭に入ってこなかった。

 プランというか、どこに行くかは彼が決めてくれるそうだけど、それでも脳内でぐるぐると想像が巡る。

 

 当然、不安もあるけれど……大丈夫だ。上手くいく。

 前世では気を遣うのは得意だった。やろうと思えば今だってちゃんと出来るはずだ。彼が選択肢をどう間違えたって、パーフェクトコミュニケーションだったことにしてみせる。

 

 それで、上手くいったら、その時は友好度がかなり上がっているだろうから、その時に……。

 

「…………」

 

 ……その時に、全部、打ち明けて、助けてもらおう。

 

 そうしたら、終わりだ。

 

 全て終わる。

 全部解決する。

 助けてもらえる。

 御天(ミソラ)さんにも償える。

 もう、苦しまなくて、済む。

 

「…………」

 

 はず、なのだけど。

 

 妙な……胸騒ぎがする。

 重要なことを何か一つ、見逃しているような。

 

 ……気のせいだ。きっと。

 

 一日の授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。

 僕は引っ掴むように鞄を手に取り、息せき切って『軍』の拠点へと駆け出した。

 

 通学路を逸れる。民間人には認識出来ない工夫が施された敷地を抜け、施設の中へ。

 司令官に任務への出立を伝えようと、彼女の執務室をノックする。

 

 が、返答無し。

 ……? おかしい。確かに、いつもより早く来たとはいえ、この時間なら確実に執務室に居るはずなのだが。

 

 ここに居ないとすると、司令室の方だろうか。

 他の部署の拠点がどうかは知らないが、この拠点で司令室が使われることは滅多に無い。ほどほどに重要だが、あまり使わない書類の保管場所みたいな扱いになっている。

 僕もあまり立ち寄ったことはないけれど、それでもどこにあるかぐらいは当然覚えていた。

 

「司令官――?」

 

 司令室を覗く。

 中には、黒いパンツスーツを纏った鉄面皮の、いつも通りの姿の彼女が居て――その隣に、金髪の白人女性がいた。

 

「……?」

 

 誰だろうか。少なくともここの所属員じゃない。

 黒のブラウスにトレンチスカートの私服姿。司令官と対等な感じで話しているところを見るに、それなりに地位の高い人間なのだろうが……登場人物(ネームドキャラ)だろうか?

 ゲームに出ていたとしても、私服に着替えられるとなかなか判別が付かない。

 

 それと……声を抑えているのでよく聞こえないが、どうも会話に違和感がある。

 二人とも、時々不自然に間を置いて黙り込む時があった。イヤホンで通話でもしているのか、何か、見えない三人目の人物とでも話しているような――

 

「――っ、在城(ありしろ)

 

 部屋を覗き込む僕に気づいた司令官が、驚いたように少したじろぐ。

 それは何か後ろめたいことをしていた人間の動きで、僕はなんとなく事情を察した。

 

 ……どう、すべきだろうか。

 仮にこれが内通の現場だったとして、今ここで深入りするべきか否か。

 

 物語的に考えれば、干渉した方が良いに決まっているけれど……。

 

「…………」

 

 ……いや、やめよう。

 彼女の計画が動き出すのは『本編』の中盤になってから。

 『結社』の過激派が『企業』から盗み出した、危険度Aの超常性による、最終決戦にも繋がる一連の騒動。一年以上先の話だし、ここは見逃してしまっても問題ないはずだ。

 

 僕が無理に手出しをするより、主人公に任せてしまった方が良いに決まっている――自分で彼女を問い詰めるのが嫌という気持ちを誤魔化しながら、僕はそう結論づける。

 

「えっと、あの、司令官。例の案件の対処に向かおうと思うのですが……」

「あ、ああ――分かった、問題ない。何かあれば連絡しろ」

 

 司令官と話していた女性の視線を努めて気にしないようにして、了解と頷き、部屋を出た。

 

「…………」

 

 大丈夫。

 

 大丈夫だ。

 

 きっと、大丈夫。

 

 


 

 

 運悪く、今日は数が多かった。

 

 薄暗い廃ビルの中、気味の悪い音を立てて蠢く超常性の群れ。

 見た目としては、複数種類の昆虫を混ぜ合わせて作ったグロテスクな小鬼か。

 基本的には体当たりで突撃してくるが、酸や糸など、時折昆虫の特徴を使った特殊攻撃もしかけてくる。

 

 とはいえ、特段搦め手を使ってくるわけでも、民間人を人質に取ろうとするわけでもない。

 単純に強く、数が多く、知能も持たずに暴れ回るだけの脅威存在。

 

 普段ならむしろ感謝して倒していただろうが……さっさと片付けなければならない今日は間が悪い。

 

「くっ」

 

 具現化したカッターナイフを一斉掃射。

 しかしながら、所詮は点の攻撃。威力は十分なものの、命中率が足りずに回避される。

 これじゃ、能力を使っても同じだ。攻撃範囲の拡張にも限界があるし、そもそも僕は持久戦向けの性能をしている。範囲攻撃の持ち合わせはなく、対多数を高速で処理するのにも適していない。

 負けはしないが、絶対に時間がかかる。

 

 ゲームだったらこういう時に強いのは虹崎さんなのだが――と、そう考えた瞬間。

 

「再現率1000%――H2O具現!」

 

 横合いから飛び込んできた青い人影が、激流の槍で一息に虫の小鬼達を薙ぎ払った。

 

「虹崎さん……!?」

 

 廃ビルの中に着地する、近未来的な『企業』の戦闘衣(スーツ)

 思わず身構えるがしかし、彼女は手を上げつつ目覆(バイザー)を少しだけ外す。

 

「待って! 今日は大丈夫、こっちも終了任務だから!」

「え……? ですけど……」

「いつもならともかく、この程度の実験生物なら時間とコストさえかければ一般の科学力でも再現可能だからね――捕獲して研究する必要も無いし、ただ民間人に被害が出るだけだから終了しろってさ。調べても出処(でどころ)は分かりそうにないから。放射線で遺伝子改造されてるし、この間のカラスみたいなのと同じっぽくはあるんだけどね」

 

 確かに、『企業』も何でもかんでも保護して研究するというわけではない。

 ゲームでも、虹崎さんは普通に汎用エネミーを倒していた。無限湧きするタイプの敵は一体確保すれば十分だからと、民間人の安全を鑑みて処分することも多くある。

 

「でも、この分ならボクが手出しするまでもなかったかな、在城(ありしろ)ちゃん一人で十分そうだったし……ていうかぶっちゃけ、在城(ありしろ)ちゃんの方がボクより強いし」

「い、いえ、助かりました。今日はちょっと、急いでたので」

「ん、そうなの? 何か用事?」

「はい、その、服買いに……」

 

 そう言った僕を見て、バイザー越しでも分かるほどに虹崎さんがきらんと眼を輝かせた。

 

「へー? 前に私服なんて要らないって言ってなかったっけ?」

「あ……ぅ……それは……」

 

 言えない。デートに――じゃないけど、誘われたから服が要るなんて。そんなの、女の子みたいだ。恥ずかしい。

 顔が熱い。黙り込む僕に、虹崎さんは装備を解除して手を差し伸べた。

 

「せっかくだから、一緒に行こ? 今ならまだお店も閉まってないからさ」

 

 彼女がぱちりとウィンクをする。

 その仕草は凄く可愛らしくて、メインヒロインとしての説得力に満ちていて、僕なんかよりよっぽど魅力的で……。

 

 何か、言葉に出来ない焦燥があった。僕は思わず、口を開く。

 

「あ、の――守部(もりべ)くんに週末、えっと、遊びに行こうって誘われて」

「! そっかようやく――じゃなくて、そうなんだ、良かったじゃん!」

「で、ですけど、虹崎さんは……いいんですか?」

「? 何が?」

「その、守部(もりべ)くんの、こと……」

 

 うつむきながら、僕は言う。一瞬の間を置いて、彼女が答えた。

 

「あっ、あー、ウワー在城(ありしろ)ちゃん良いなー。ズルいなー。ボクだって守部(もりべ)くん気になってるのにー」

「っ……」

 

 僕の中で、ズキズキと痛むものがある。

 咄嗟に思考に蓋をした。一つの懸念が、形を得る前に遮断される。

 

 下を向く僕の腕を、しかし彼女は手に取った。

 

「で、でも、それとこれとは別! 友達だもん、応援するよ! ほら、守部(もりべ)くんみたいに――あ、いや何でもない、とにかくボクが一番在城(ありしろ)ちゃんに似合う服コーディネートするから、ね!?」

「あっ」

 

 連れて行かれる。『企業』のコングロマリットが提携している専用タクシー(『軍』にはこの手の便利な交通手段は無い。羨ましい)を使って、前に彼女が言っていた洋服店へ。

 

 特別に高級店というわけではなさそうだが、良い店だ。

 カジュアルな服もあるが、リーズナブルな印象は……あんまり無い。僕は値札を見て顔をしかめる。

 

「あ、っと。在城(ありしろ)ちゃん――」

「い、いえ、大丈夫です……最近は仕事多くて、余裕あるので……」

 

 僕が減給されがちというのもあるが、基本的に『軍』より『企業』の方が資金源がデカく、懐の余裕がある。ゲームでも『企業』のクエストの方が報酬がやや良いという形で地味な差別化がされていた。

 

 それでも最近は幸か不幸か、脅威存在の増加によって『軍』からの特別手当も増え、僕の財布も前より厚くなっている。少なくとも、服代程度で困窮したりはしない。

 

 僕の言葉に、虹崎さんが深々と同意し、ため息をつく。

 

「最近大変だよね、色々と。『企業(ウチ)』でももう事故が増えてて」

「やっぱりそうなんで……え、あっ、これ着るんですか……?」

 

 手渡された服に気後れする。

 な、なんて言うか、こう、お洒落過ぎないだろうか。いや、今更女の子の服に抵抗感があるわけでもないし、僕は美少女だから何着ても似合うとは思っているのだけれど、僕みたいな暗いタイプのキャラがこんな服着ちゃったらちょっと……お洒落頑張ってる感というか……。

 

「研究してる超常性が、明らかに活発化しやすくなってるらしくてさ。逃げ出したの捕まえるために夜中に叩き起こされたりとか、本当に勘弁して欲しいよねって」

「あ、あの、虹崎さ……」

 

 試着室に連れ込まれ、着せられ、鏡を見せられる。

 僕の貧弱なファッション語彙じゃろくに形容できないが、センスがあるのは間違いない。

 可愛いし、似合ってもいるとも思う。

 

 けどやっぱり、ちょっとセンスがあり過ぎる。も、もうちょっと普通のが良い。

 これじゃその……デートのために張り切ってお洒落してきたというか、そんな感じの印象に……。

 

「そのせいでこないだは『結社』の過激派にも襲撃されて、あの子たちは誘拐されるし他にも危険なモノが色々持っていかれるしでさ――」

「!? 危険ってまさか、危険度Aの……!?」

「う、ううん。そこまでじゃないよ。確保難度も管理難度も、最大でC止まりだったはず――まあ、それでもヤバいのには変わりないんだけど」

 

 その言葉に僕はほっと胸を撫で下ろす。

 どうやら、『本編』の展開が前倒しになる恐れは無さそうだ。

 

「良かった……なら、まだ安心ですね」

「そうだね。じゃ、デートに着ていく服これで良い?」

「あ、はい……って、あ、ちが、あ、あ……!」

 

 


 

 

 当日は晴天だった。

 降水確率は八〇%だったはずだが、どうやら残りの二割を引いたらしい。

 

 何度目かも分からないが、身にまとった自分の私服を見下ろし、顔を熱くする。

 虹崎さんに選んでもらった服。あの後僕も色々と抵抗して、どうにかシンプルめな格好にしてはもらったけれど、それでもまだ恥ずかしい。まるで、年頃の女子高生みたいなファッションだ。

 

 恥ずかしい。こんな気持ちを我慢し続けることになるなら、もっと遅く来れば良かった。なんで一時間も前から来ちゃったんだろう。

 

 駅の北口で、僕はまた彼の姿を探す。

 早く来ないだろうか。さっきから声もかけられたりもしてるし。ほら、また……

 

「……あ」

 

 いや、違う。守部(もりべ)くんだ。

 学校とは全然印象の違う私服姿だったから、一瞬気づかなかった――格好良い。

 

「……。……!?」

 

 格好良い――格好良い? いや、うん。別におかしな思考ではないはずだ。主人公の私服姿なんだからセンスがあって当然だ。キャラデザ担当者のセンスなのか、傾向としては虹崎さんが僕に選んだファッションと似ている気がする。

 

 でも――。

 でも、なんでそれで、心拍数が上がっているのか分からない。

 ……分からない、本当に。

 

 立ち尽くしていた僕へ、彼が少し慌てたように小走りで駆け寄ってくる。

 待たせたと思ったのだろう。でも、現在時刻は待ち合わせの十五分前だ。早く来てしまった僕が悪いんだからそんな、別に気にしなくてもいいのに。

 

「悪い、早く来たつもりだったんだけど……」

「う、ううん! 僕もほんのちょっと前に来たとこ、で……!」

 

 声が詰まる。あまりにも典型的(テンプレート)な発言だったから。安いラブコメじゃあるまいし。それで恥ずかしくなっている僕もどうかしている。

 

 思わずうつむき加減になりつつも、盗み見るように彼の顔を横目で見た。

 別に彼も、そこまでこういうのに慣れてるってわけじゃないようで、いつもよりほんの少しキョドっていて――でも、すぐに気を取り直したように「じゃあ、行くか」なんて言い始めた。

 

 ……ズルい。僕はまだ全然動揺したままなのに。そんな、慣れた友人と遊びに行くみたいに。

 

 二人、並んで歩いていく。

 駅からすぐ近くにある、巨大総合ショッピングモール。

 飲食・服飾・家具・娯楽。その他何から何まで、世の中の大抵の商業施設が揃っている、地上何十階だかの、縦に積んだ商業区みたいな建築物。

 

 学校じゃこんな風に隣り合って歩くことなんてあまり無い。彼の方を向いて見上げる。

 ……そう、見上げる。彼のほうが身長が高いから。男子としては平均的なそれだけど、女子としても小柄な僕とは、頭一つ以上違う、背。

 

 だから、当然、歩幅は僕の方が小さくて……彼は、それに気遣って、歩幅を合わせてくれている。

 僕の中の男としての価値観が、背で負けているのが嫌とか、気遣われたくないと言っているのに、わけも分からない安心感と嬉しさがある。全部任せてしまってもきっと大丈夫と、そんな風に思えてくる。

 

 向かった先は映画館だった。

 今日の予定については彼に一任している。今日見る映画についても、既に予約してくれていて……。

 

「……え、こ、これ見るの?」

 

 彼の予約していたのは……なんて言うか、有り体に言ってB級というか……そんなジャンルの作品だった。

 いや別に僕は嫌いじゃないけれど、少なくともデートで、じゃなくて、女の子と一緒に見るようなジャンルじゃない。

 

 もちろん、昔はこの手のジャンルを何本も見ていた僕から言わせてもらえれば、こういう映画にも当然名作はたくさんある。少なくとも一括りにB級で括っていいようなジャンルじゃないし、見もしないで世間的な風潮を元に端からB級と決めつけるような輩には嫌悪感を覚えるほどだ。

 

 だが……だがそれでも、如何せん玉石混交である事実は否定できない。良くも悪くも当たり外れが激しいジャンルだ。前世はかねてより、今世でも特に興味無さそうだった近所の小学生(名前なんだっけ)と連れ立って足繁く映画館に通っていた昔の僕ぐらい慣れ親しんでいれば良し悪しの区別も付くけれど、これは流石にどうだろうか。

 

 ……もしかして、ADVに付きもののネタ選択肢を選んじゃった感じなのだろうか。

 確かに、来る前にどんな選択肢を選ばれてもパーフェクトコミュニケーションだったことにしてみせるとは誓ったけれど、あんまり誰の目に見ても退屈だとヨシと楽しく話せたことにするには無理が……。

 

 あ、いやこれ、あの監督の作品か……。それなら期待でき……でも、この監督はこの監督で当たり外れが大き……ん、けどこの手のあらすじなら……?

 

 劇場が暗くなって、映画が始まる。

 

 ……。

 …………。

 ………………!

 

 二時間後――。

 

「――すっ、ごい面白かったね!!」

 

 映画が終わった後、僕は居ても立っても居られず興奮して彼に話しかけていた。

 

「ね、ね、守部(もりべ)くんはどのシーンが良かった!? 僕はさ、終盤のあの流れは勿論なんだけど、中盤の三人が集まるシーンであった、あの――」

 

 と、過去に良作に当たった時と同じように、一緒に見た相手に思いっきり感想をぶつけて……、それで、ふと冷静になって。

 

 彼がやや苦笑いをしつつも温かい目でこちらを見ていることに気づいて――顔から火が出そうになった。

 

「っや、あ、あぅぅ……」

 

 や……やっちゃった……? マズい、どうしよう、これじゃ完全にオタクだ。今、絶対滅茶苦茶早口だった。いつもこんななのに、急にあんな……!

 思わず黙り込み、うつむいてしまう僕に、しかし彼は優しげに話を合わせてくれる。

 それが恥ずかしくて、照れくさくて、嬉しくて……。

 

 劇場から出た頃には昼頃で、食事時にちょうどよかった。

 ついていった先はお洒落な雰囲気の店が並んでいて、カップルも多くて気後れし……ん、でも、そこに入るんだ。

 別にダメってわけじゃないけど、男女で入る感じの店では……あ、今はお金もったいなくて全然だけど、昔こういう料理よく食べて――

 

 ――。

 ――――。

 ――――――!

 

「――どうだった?」

「お……美味しかった、です……」

 

 軽くで済ませるつもりだったのに、久しぶりの味に思わず大量に頼んでしまって、八分目をゆうに超えたお腹を抱えて店を出る。

 べ……別に満腹だからってパフォーマンスが落ちるほど僕も常人じゃないけれど、それでも、僕はもっと、こう、人間力じゃともかく、精神年齢的には彼より二十は年上のはずなのに、こんな……!

 

 というか……おかしい! 明らかに僕の好みを知り過ぎている!

 

 今も色々と連れて行ってくれているが、映画ほどピンポイントではないものの、明らかに僕が楽しめそうな場所ばかり。

 

 まさか……。

 まさかだが……。

 まさか、守部(もりべ)くんは――。

 

「…………」

「……どうした?」

 

 

 ――攻略wikiを、見ているのか?

 

 

 だって普通に考えたらこんな選択肢は選ばないだろう。

 まさか僕の攻略ページがあるとは思えないが、それでも可能性は……

 

 …………。

 

 無いな。

 

「えっと……この後、どうするのかなって」

 

 既に一通り巡って、彼が提案していた予定はほぼ終えている。

 僕の問いかけに、守部(もりべ)くんは「あー」と、困ったように頬を掻いた。

 

「いや、思ったより時間余ったんだよな。予定じゃもう少し良い時間になってる予定だったんだけど。今からだと何してもちょっと中途半端な時間になりそうだし――俺はいいけど、在城(ありしろ)はこの後何か予定あるんだろ?」

「あ、う、ううん。大丈夫。上、じゃなくて、家の人には遅れるかもって言ってあるし……」

 

 確かに今まで、僕は任務以外で御天(ミソラ)さんのお見舞いを欠かしたことはない。

 本当ならここで切り上げて、病室に向かった方がいいのだけれど……。

 

 でも、今日は……。

 

「…………」

 

 ……必要な、ことだから。

 

 もっと彼と一緒に遊びたいという本音が、罪悪感になって胸を刺す。

 その内実から、目を逸らす。

 

 守部(もりべ)くんは案内板を見て、うーんと悩んでいた。

 このモールは本当に大きいから、色んな施設があり過ぎて候補が絞れないのだろう。

 

 彼の目線がカップル御用達という感じのフロアの案内図へと向かう。

 それは……それも悪くないけど、出来たら、僕は……。

 

「――いや、やっぱゲーセンでも行くか」

「! う、うん……!」

 

 男女でゲームセンターというのは賛否が分かれるだろうが、僕は嬉しかった。

 別にゲームセンターが好きなわけじゃなくて、友達と行くのが好きなのだ。前世から。

 

 いや……まあ、この手のみんなで遊びに行くタイプのやつは大半ハブられてたし、誘われても基本奢らされてばっかだったけど……でも、だからこそ、ちょっとした憧れがあった。

 

 今世でも友達とゲーセンに行ったこと、なんて、なかっ、た、し――?

 

 ――あれ?

 あったっけ?

 よく、思い出せない……?

 

「変わんないな、ホント……」

 

 守部(もりべ)くんが何か呟いていたけれど、意味がわからなくて、僕は首を傾げていた。

 

 


 

 

 その後は……うん、とにかく楽しかった。

 

 取れもしないUFOキャッチャーで一喜一憂して。

 年甲斐も無くガンシューティングに本気になって。

 ちょっとパンチングマシーンに本気出しかけたりして。

 熱に浮かされてプリクラで顔寄せて写真取ったりもして……。

 

 こういうのは本当に……本当に本当に久しぶりで……。

 

 ずっとこんな時間が続けばいいと思った。

 この瞬間だけは、何もかもから目を逸らせていた。

 終わったら、また、僕は戦って、償って、向き合い続けなければいけないけれど……そこから逃げるつもりはないけれど、でも。

 

 もう、大丈夫だ。

 もう大丈夫なのだ。

 これからは彼が助けてくれる。救ってくれる。

 明日からはただ、彼に任せて、彼の言う通りにしていればよくて……。

 それだけで……もう、何も間違わずに済む日々が、やって来てくれるから。

 

 一ゲーム終えて、一区切りついたところで、少し疲れた様子の彼が言った。

 

「ちょ……ちょっと休憩しないか……?」

「え? 僕は大丈夫だけど、(サバキ)がそう言うなら、っ」

 

 と、そこまで言って、僕は咄嗟に口を抑えた。

 

 え?

 あれ?

 なんで、どうして、いつの間に、それが自然みたいに、彼のことを下の名前で呼び捨てにして――、

 

「あっ、あああのっ、ご、ごめん守部(もりべ)くん、か、勝手に下の名前で、それも、呼び捨て……!」

「ああ、無意識だったのか……。俺も途中名前呼び捨てにした気がするし別に、っていうか、いや――」

 

 少し照れ臭そうに頬を掻きながら、彼は言う。

 

「――そっちの方が、良いな。お前には、呼び捨てにされた方が嬉しい」

「ぇっ、あ――」

 

 クラクラする。急にそんなことを言われてしまって、嬉しくて、ドキドキして。

 

 ゲームセンターの外に出て、落ち着いた場所のベンチに座る。

 彼は、さっきの言葉が気恥ずかしかったのか、何も喋ってくれない。

 僕は耳元で髪を弄りつつ、話題を変えようと思って、なんとなく浮かんだことを問いかけた。

 

「あ、あの……さ、(サバキ)、は……なんで今日、僕のこと遊びに誘ってくれたの……?」

「それは、まあ……。俺の個人的な目的っていうか、ワンチャン思い出したりしないかなとかってのも一応あるけど……」

「?」

 

 首を傾げる僕に、彼は言う。

 

在城(ありしろ)は、いつもずっと、こう……色々、頑張ってて。気張ってるみたいだったから。気晴らしになったらな、って思って」

「え――」

 

 思い出す。彼が主人公だと知った日の朝。まだ彼を普通の男子生徒だと思っていた時。

 僕がやったことの無意味さも、その自業自得も、償うべきことも、全部抜きにして、ただ、「頑張っているのがすごい」と……単純に、ありふれた、だけど本物の言葉で、褒めてくれた彼。

 

 あ。

 あ――、

 だめだ――、

 まずい、いけない――、――()()

 

「っ……!」

 

 違うのに。

 仕方なくなのに。

 だって僕は違くて、本物の女の子じゃなくて、だからこんな、こんな、こんな――、

 

 頭が沸騰するその直前、窓の外で雷の音が鳴り響いた。

 

 ――雨だ。

 ゲームセンターの中に居た時は気づかなかったけど、結構な本降り。

 雨音は少しずつ激しく変わっていって、見る間にザーザー降りになっていく。

 

「……傘、買ってくるか」

「え、い、いいよ……! 駅まですぐ近くだし、走っていけば……」

「いやこの勢いだとそれでもびしょ濡れになるだろ……。前から学校の置き傘用に予備欲しいと思ってたし、ちょっと待っててくれ」

 

 彼がここからそう遠くない日用品売り場へと向かっていく。

 ベンチに一人残る僕。

 

「…………」

 

 すき――好き。

 ありえない。そんな、そんなの、そんなこと。

 でも、でもだけど、それでもだって、どうしようもなく、嬉しいのだ。

 

 僕のことを考えてくれる人。

 僕のことを想ってくれる人。

 ……その振りをしていただけの、上っ面でしかなかった前世の彼らを思い出して、息が苦しくなる。死んでいく僕の前で、ただ自分の外聞しか意識しなかった彼らを思い出して、心が苦しくなる。

 

 けれど、彼は違う――主人公だから。

 

 僕のことを本当に考えてくれる人。

 僕のことを本当に想ってくれる人。

 僕のことを、諦めないでくれる人。

 

 ……本物だ。本物なのだ。前世の僕が最期まで築けなかった、本物のともだち。本当なら有り得ない、物語の中だけの、絶対に壊れない、絶対に消えない、本物の、本物の、本物の絆。

 

 彼は僕のことを裏切らない。彼は僕のことを助けてくれる。遊んでくれる褒めてくれる優しくしてくれる大切にしてくれる。上っ面じゃない、僕を利用するためじゃない、自分の外聞を守るためじゃない、ほんとの、ほんとの、本当の、偽物なんかじゃ絶対に無い本心で、そうしてくれる、理想の――

 

 

 

「――〝だけどそんな相手に、自分なんかが見合うはずがあるのでしょうか〟」

 

 

 誰かの、声。

 誰かの声で――内心に封じていた僕の思考が、そのままに再生された。

 

「〝そもそも相手に全て任せて寄りかかっている時点で何が本物と言えるのでしょう?〟〝支えあってこその友愛と親愛ではありませんか〟〝自分から何かしたことなんてこれまで一度たりともなかった〟〝それなのに?〟」

「っ、あ、」

 

 僕は隣を振り返る。

 振り返るまで誰かがいるとわからなかった。

 すぐ隣に座っているそれから、感じ取れる、気配が無かった。

 

 あり得ない。

 どんなエージェントでも、超常性でも、いくら何でもこの距離まで接近されて、背後を取られて、僕が気づけないなんて、そんなこと。

 

 様々な超常性に触れる中で、恐怖なんてろくに感じなくなっていたのに――心が竦む。手が、震える。

 

 修道服を着た、金髪の美女、だった。

 いや、修道服じゃない。修道女(シスター)が頭に乗せている黒いベールを被っていたからそう思っただけで、着ているのはトラッド感のある黒のジャケットと、スリットの入った丈の長いトレンチスカート。

 

 この前、司令官と話していたあの女性であることを思い出す――だけど、そんなことはどうでもよくて。

 

「〝全くもって釣り合わない〟〝あの人も一人で何でも出来るわけじゃない〟〝あの人たちと同じように、自分が助けてあげなければいけないのに〟〝そんな風に出来る自信が全くない〟〝いいや絶対に出来ない〟〝出来るはずがない〟」

「や……め、て……」

 

 痛い。大動脈に氷水を流し込まれたみたいな。

 僕の脳内で再生される前世の記憶。プレイ画面。ストーリー。

 御天(ミソラ)さんや虹崎さんが主人公のために活躍するCG・シーン・スキット。それが僕の、在城(ありしろ)(キザミ)の姿に置き換えられて――すぐに崩れる。

 

 プレイ画面がヒビ割れる。

 かくあるべきストーリーが破綻する。

 彼女たちが勇気を振り絞る場面で逃げ出す僕を幻視する。

 わずかな可能性を手繰り寄せるはずの展開で挫折する僕が見え始める。

 

「ああ失礼。いえ別に、何も心が読めるわけではないのです。ただ、()()()()()()()()()()()()()。でも、傷つけたいわけではありません。むしろ、あなたのためを想って言っているのですよ?」

 

 雨。雨に混じって聞こえてくる耳障りの良い声。耳障りが良いだけの声。

 

 苦しい。息が苦しい。呼吸が出来ない。

 女が、何か、何かを言っているけれど、それに全く反応できない。

 

「ええ、無理をするべきではありません。出来ないと分かりきっていること、やったところで無駄でしょう? 辛いのならばやめていいのです。諦めてしまった方が賢いに決まっています。理想になんて手を伸ばすべきではありません。自分の限界(リミット)は正確に把握しなければ。あなたが頑張らなくたって、あなたのことはきっと誰かが救ってくれるのですから――」

「――そこまでだ」

 

 ガチ、と撃鉄の音が小さく響いた。

 息を切らして、顔を上げる。

 背の高い黒スーツの女性が、ベンチに座る修道女の頭部に、真っ黒な拳銃を突きつけていた。

 

「し……司令官……」

 

 周囲がにわかにざわつきだす。だが、あまりにも堂々と拳銃を突きつけているせいで、誰も逆に本物だと確信しきれない。

 加えて、金髪の修道女も、まるで怯えた素振りを見せずに、あら、とたった今気づいたように平然とした表情で、司令官の顔を見上げている。

 

「それ以上私の部下に手を出すな、過剰曝露(オーバードーズ)

「おや。(わたくし)、もしかしてまた何かやってしまいました? 善意のつもりだったのですけれど」

 

 チッ、と司令官が舌打ちをして、具現物だったのだろう拳銃を虚空に消す。

 

「……行け、在城(ありしろ)

「え、で、でも、」

「いいから行け。……何を言われたか知らないが、コイツの言ったことは気にするな」

 

 それ以上何も言わずに、僕に背中を向け去っていく司令官。何事もなかったかのようについていく修道女。

 そして、何の説明もなく、また、ベンチに一人残される僕。

 

 ……行けって……どこに。

 

 無意識に、彼がいる日用品売り場の方に向かいそうになって、足が止まった。

 足を、止めた。

 

 …………。

 

 ……ああ、そうだ。

 

 御天(ミソラ)さんの、お見舞いに行かないと。

 

 


 

 

 心電図モニターの音が、ナースステーションの方から、静かな病室の中に響いている。

 

 今日はそれに加えて、ぴたぴたと、僕の前髪から垂れる雨滴の音。

 濡れている。虹崎さんに選んでもらった服。

 傘は、持っていなかったから……。

 

「…………」

 

 御天(ミソラ)さんは目を瞑っていて、動かない。

 寝たきりなだけで、意識はあるのだけど……寝てる、のかな。今日は。

 

 病床の隣、座り慣れた丸椅子に座る。

 物音に反応して、御天(ミソラ)さんが一瞬だけ無感情に目を開けて……疲れたように、すぐに閉じた。

 

 最近は、感情の動きも無くなってきているように思う。

 当然だ。もう、四年もこんな、首から下が何も動かないような状態のままなのだから。

 

「……あの、御天(ミソラ)、さん……」

 

 おか、しいな。もっと、明るい声を出したつもりだったのに。

 

「実は僕、この間、主人公に会ったんです……仲良くもなって……やっぱり、本当に、良い人で……だから、すぐに、彼に、助けてもらえる、から……」

 

 雨滴が床に落ちる。

 

「も、もう少しなんです……もう少しで、全部元にっ、ちゃんとした形に、戻っ、て……僕なんかじゃ、なくて、ちゃんと、御天(ミソラ)さんが、ヒロインに……幸せ、に……」

 

 病室の床に、ずっと、雨の滴が落ちている。

 

 僕の体が乾き切っても、ずっと。



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8/ユア・ベスト・ナイトメア

 薄暗い、牢獄だった。

 

 超常性対処組織『軍』の、とある拠点地下に作られた尋問室――そこに、一人の男が繋がれている。

 

 違法刺激(ブラックドープ)と呼ばれていた『結社』の過激派、その首魁。

 かつての底知れない不気味さは面影もない。二回りも老けたような覇気の無い顔を晒して、特殊な拘束具に強化された肉体を完全に抑え込まれている。

 

 他の過激派は別室に捕らえられているか、情報を吐かせた後に記憶処理によって民間人に戻されている。が、彼だけは独房だ。

 

 科学特化の『企業』、科学とオカルトの『軍』に対し、『結社』はオカルトに特化した組織である。その一派閥を束ねる首魁ともなれば、どんな神秘を隠し持っているか知れたものではない。厳重かつ特別な対処がなされるのも当然だった。

 

 しかし、彼の絶望に沈んだ顔を見る限り、もはやその心配も不要に思えた。

 その項垂れた様に再起の目はなく。

 寒々しい牢獄の中でただ一人、無力に鎖へ繋がれるまま。

 

 だが。

 ギィ、と音を立て、その重い独房の扉が開かれる。

 

「……三分だ」

 

 黒スーツを纏った、背の高い女性。

 この施設の司令官が、自身の背後に立つ金髪の修道女(シスター)に向けて言う。

 

「三分以内に話を切り上げろ、過剰曝露(オーバードーズ)。それ以上は許さないし、許せない。……分かっているだろうが、当然()()もだ」

「ふふ――そんなに不安にならなくても大丈夫ですよ、司令官さん。ええ、ただ()()()に彼の顔を見せるだけなのですから、ね?」

 

 チッ、と、舌打ち。それ以上は話すのも嫌がるように、司令官が無言のまま、顎で彼女の入室を促す――そして、姿()()()()()()()()()()にも。

 

 物音に反応し、違法刺激(ブラックドープ)が顔を上げる。

 そして、驚いたように目を見開き、唇を震わせ……

 

「な……何故……」

 

 息せき切って過剰曝露(オーバードーズ)――ではなく。

 彼女のすぐ隣の、()()()()()()を見つめ、言った。

 

「何故ですか、()()よ! 我らが悪魔、模範的な悪魔(デモニクス)! あなたがッ、お前が我ら『結社』に捧げた観測は完璧かつ完全であったはずッ!!」

『何故と言われてもねえ』

 

 あるはずのない返事が、虚空から返った。

 

『僕の観測は完璧なだけで絶対ではない。そもそも予言をより良い形にしようとすれば、予言から外れるのは至極当然の話じゃあないか。今の君の状況は、より良い未来――ああ、君が、君らが『()』に――()()()()()()()()()()()()()()()』に、滅ぼされることを回避しようとした結果に過ぎない。何か勘違いしているようだが、黙ってついてくるだけで成功する勝利のレールに乗っているとでも思っていたのかな?』

「……ッ!!」

 

 一人でに空気が震え、高いとも低いとも言えない虚数的な周波数が神父の耳を打つ。

 饒舌かつざっくばらん。しかして無機質なその声は、『だが』と、その逆説の接続詞に、ほんのわずかな感情を滲ませた。

 

『確かに――奇妙ではある。確率的にあり得ることとは言え、明らかに、何者かが、君たちにとって望ましくない選択肢を選んで掴み取っている。君らニンゲンの使っている物理学、あれは良く出来てる。形而超学的カルツァ=クライン運命理論に基づいた高次元の観測がここまで逸れるというのは、()()()()()()の外的要因無しではまずあり得ない……ふむ。十五年前、『彼』の誕生を阻止しようとしたタイミングで何かしら流れ込んだ可能性は高い』

 

 もしその声に人の姿があったのならば、眉根を寄せて考え込むような、そんな口調。

 

『僕とて何もしていなかったわけじゃない。微かな蝶の羽ばたきが台風にならないよう、逸れた運命は逐次修正していたはずだ。だが、磁束結合(デッドコイル)とか言ったか。『本来』なら僕の走狗になる彼の運命があの時確かに乱された――僕の修正力を超えて』

 

 もはや違法刺激(ブラックドープ)のことなどまるで意識していない。声だけでそれが分かった。ただ己の思索に没頭する者特有の独り言が、何もない空中から連続して多重に零れ落ちる。

 

『あの瞬間に、世界にかかった負荷は尋常なものじゃなかった。時間の流れさえも止まりかけた』

『この神父の敗北だって、修正はした。そうだ、いつも通りに最悪の結末に収束するはずだった』

『だが突破された。運命は冗長化され、肥大化され、圧倒的かつ多大な物語によって突破された』

『変革しつつある物語の修正も、さしたる意味は持たずただ世界に負荷を与えるだけに終わった』

『負荷がかかるたび、時が淀んでいる。延びている。遅れている。これ以上の停滞は許されない』

『運命は巡らず、宇宙は進まず。時間という法則は失われ、最悪の場合、因果が一周しかねない』

 

 もはや全くついていけずにただ聞くことしかできない神父をよそに、『早めなければならない』、と声は言う。

 

『だからこそ、『企業』を抜け出してきた。こうなったらもう、量より質を求めるしかないだろう。一年後に始まる『本来の物語』など、もはや待ってはいられない』

 

 過剰曝露(オーバードーズ)。そのように呼ばれた修道女(シスター)がゆっくりと動く。

 神父の頭に向けて自身の掌をかざし、按手の礼典(サクラメント)さながらに。

 

『というわけで、悪いがラスボスは彼女ということにするよ。本来なら君にも四天王の最初の一人程度の格はあったが、生憎その物語はここで終わりだ。()()()()()()()()()()()()()()C()()()()()を『企業』から盗み出してくれてありがとう、違法刺激(ブラックドープ)。君が子らにそうしたように、せめて有効に使われてくれ』

 

 修道女(シスター)の掌が迫る。

 光を遮り、自身の顔に影を落とすそれを前に、神父は声を震わせ言う。

 

「ま、待て……待ってくれ、過剰曝露(オーバードーズ)……ッ! わたっ、私がこれまでしてきた『結社』への貢献を思い出してくれッ!」

「ええ、まったく。あなたの名前を諳んじるだけで、あなたの偉業と偉勲が尽きることなく浮かんできます。前々から言っていた通り、(わたくし)はあなたのことを一番に尊敬しているのですから。ああ、なんと悲しい。ああ、これを惜しいと思わずになんと思えばいいのでしょう。ああ、これを苦痛と感じずになんと感じればいいのでしょう。ああ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」

「ッ……!! ま、て……! ま、まだッ、まだ私には利用価値がある、そうだろう!? まだ私は『結社』に貢献出来る、世界のために寄与出来るッ! やめろ、違う、私はこんなところで薪に使われて良い人間などではッ――!!」

 

 とん。

 頭に手を置いて、修道女(シスター)が悪魔に言った。

 

「かの者を贄に捧げます」

『承った。汝がかの者に捧ぐ甚大な愛を手数料とし、これより加工を開始する』

 

 形容し難い音。

 かつて人間であった人型のダイヤモンドを手に持って、修道女(シスター)は背後の黒スーツの女を振り返る。

 

「いくらか縮んではしまいましたが……これなら価値は十分でしょう?」

「……そうだな。それほどのサイズのダイヤモンドは天然でも人工でも存在しない。これほど価値がある物品を対価とすれば、私のとても手軽な借用書(ラヴ・キング・スピーク)で、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 牢獄の外へ。

 医療棟に延々と連なるエージェント達の病室を見つめながら、司令官は唇を噛み締める。

 

「(……もう少しだ。必ず終わる、終わらせる……だから……)」

 

 例え、この選択の果てに自身が破滅するとしても――

 

「(もう少しだけ耐えていてくれ、星住(ほしずみ)……そして、在城(ありしろ))」

 

 ――それでも、彼女らだけは救える未来に到れるはずだと、信じながら。

 

 


 

 

 何も、深く考えることなんてないのだ。

 

 そうだ。僕が、御天(ミソラ)さんや虹崎さんみたいに、主人公の仲間として、メインヒロインとして活躍出来るわけがないのなら、それこそ順当に。

 僕なんかは早く、さっさと、今すぐにここから降りて、本当のヒロインである彼女らに、僕の代わりに……いいや、彼女らの代わりである僕の立場を返してしまえばいいだけのこと。

 

 大体、何が「好き」、だ――気持ち悪い。

 

 僕は元男だ。

 いくら身体が少女のそれだからって、中身は男なのだ。

 それも、前世では既に成人、精神年齢で考えれば三十代後半。

 

 信じられない、あり得ない。本当にどうかしている。

 こんなのはただの気の迷いだ。きっと、思春期の女子の肉体から分泌される女性ホルモンが、一時的に脳に影響しているだけに過ぎないのだ。

 

 冷静になって考えてみればいい。

 いくら主人公だからって、なんだって僕が男なんかを好きにならなければならないのだ。理由が無い。付き合うなら、虹崎さんや御天(ミソラ)さんのような美少女の方がよっぽど良いに決まっている。

 

 大体守部(もりべ)(サバキ)なんて、よくよく考えてみればさして魅力的な要素があるわけでもない。

 

 顔は整ってるけど、薄い顔だからそう思えるだけで、単純な容姿ならいくらでも上がいる。

 立ち居振る舞いにも覇気が無くて、主人公だなんて信じられないほどに自信なさげ。

 コミュニケーションだってそんなに得意そうじゃない。口調はぶっきらぼうで、でもそれは言葉を選んでどうにか捻り出した結果として言葉数が少なくなる面があって――違う、そうじゃなくて。

 

 性格も、性格だって……。

 ただ、優しいぐらいしか褒めるところなんてなくて……。

 

 …………。

 

 だから、とにかく。

 早く、言うのだ。在城(ありしろ)(キザミ)

 

 僕は君の正体を知っていると。

 その力で、僕の命の恩人を助けて欲しいと。

 そして、どうか、僕なんかじゃなくて、彼女と共に助け合って、幸せになって欲しい、と……。

 

 学校で、人気(ひとけ)のない廊下に守部(もりべ)くんを呼び出して。

 僕は、彼と向き合って、それを言おうとしている。

 

「…………」

 

 早く。

 

「……在城(ありしろ)?」

 

 言え。

 

「あの、さ……。…………」

 

 なのに、僕の唇は、動かなくて。

 

「……あー、こないだ、やっぱり俺、なんかやらかしてたか……? 言い訳するつもりじゃないんだが、本当に全然――」

 

 ……落ち込んだ様子の彼へ、まず弁明しようとしてしか、息を吸えない。

 

「……その、違うよ。(サバキ)のせいでじゃなくて、えっと、急に用事入っちゃって……」

「そうか……? それなら良いんだけど、濡れて風邪とか……」

 

 だから……やめて欲しい。

 そんな風に、こっちに気を遣わないで欲しい。

 

 大丈夫。大丈夫だ、大丈夫――。

 好きでもいい。何度も助けてくれたんだ。好意を抱いて当然だ。

 だけど、それは男女とか、恋とか愛だとかの好意じゃない。友達としての好意だ。

 

 だから大丈夫。

 例え彼が御天(ミソラ)さんや虹崎さんとくっついたって、僕と彼が離れ離れになるわけじゃない。友達のままでいられる。

 

 ……友達でなら、ずっと……。

 

 曖昧な思考で、とりとめのない生返事を返しながら、ぼんやりと、僕は言う。

 

「あの……僕たち、ずっと、友達だよね?」

「は? そりゃ、当、ぜ――」

 

 そこまで言って、彼は押し黙る。

 一瞬の不安。しかし、僕が思い悩むよりは早く、彼は口を開く。

 

「――いや、やっぱ、そうだな。……放課後、時間あるか?」

「え、うん――」

「じゃあ……後で、校舎裏来てくれ。……言わなきゃいけないことがあるから」

 

 休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴る。

 

 言わなきゃいけないこと。言わなきゃいけないことってなんだろう。

 わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。だけどきっと。わからない。わからない。もしかしたら。わからない。わからない。わからない。――わかりたくない。

 

 わかりたくないから。

 そんなんじゃないはずだから。

 僕は彼の後ろを、誰にも気づかれないように、静かについていって。

 

 虹崎さんと彼の会話を、盗み聞いた。

 

「え、そうなんだ! じゃあ、今日、在城(ありしろ)ちゃんに告白――」

 

 違う。

 違う、違う、違う!!

 

 走る。鞄も持ち帰らずに、午後の授業を放り出して学校の外、帰り道をひた走る。

 一人暮らしの安アパートに駆け込む。フローリングの床に倒れ込む。

 

 高鳴る胸に手を当てた。

 それは、疾走の後の心拍数なんかじゃないのが分かりきっていて――そんなんじゃない!

 

 今月分の薬を全て飲んで、目を瞑った。

 

 


 

 

 ここまで全部、夢だったらしい。

 

 

 僕は目を覚ました。

 見慣れない天井だ。いいや、見慣れた天井だ。

 机の上には、包帯も薬も置かれていない。部屋の収納には野暮ったい男物の服が吊られている。

 

 床にゲーム機があって、その隣に、例のシリーズのパッケージが転がっていた。

 

 ……夢だ。

 そうだ、夢だ。

 あんなのは夢に決まってる。

 酷い悪夢だった、本当に。

 

 早く起きて一日を始めよう。

 無味乾燥な人生だとばかり思っていたけれど、今なら何でも出来る気がする。

 

 思い返せる限りの悩み、後悔、葛藤、将来の不安。

 どれも取るに足らない瑣末事に思えて仕方がない。

 

 だからさっさと布団から出よう。

 カーテンを開けて、顔を洗って、出かける用意をしよう。

 

 全部夢だ。夢だったんだ。

 僕は何も悪いことなんてしていなかったんだ。

 もう何もかも忘れてしまっても、大丈夫なんだ。

 

 だから、布団から出ても、いいんだ。

 

 鏡に映る僕の顔は、どこにでもいる、ありふれた、だけど何と戦うこともない、世界の命運なんて背負うはずのない、ヒーローやヒロインなんて見合うはずのない、普通の、普通の、普通の、普通の青年の顔で――

 

 


 

 

 布団を跳ね除けて起き上がる。

 水面から顔を出すように、息を切らして鏡を覗く。

 

 ――ごく当たり前に、ピンク髪の美少女が、光の無い眼で立っていた。

 

 僕は安心する。

 

「あ、あ、ぁ、あ……!」

 

 自分の全身を余すところなく触れて、自分が、彼の好きな女の子の身体であることに安堵して……。

 

「嫌だ、嫌だ、やだ……やだぁ……!」

 

 破裂しそうなほどの嬉しさに、僕は絶望して、震えていた。



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9/タイムアウトエラー

 好き。

 好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き――大好き。

 

 何千層のオブラートで覆い隠しても、突き破って溢れる想い。

 

 取られたくない。絶対に、絶対に取られたくない。

 だって彼は僕を最初に好きになってくれたのだ。他の誰かから奪ったんじゃない。卑怯なことなんて何もしていない。

 

 なんだって僕が彼のことを譲らなければならない。

 彼に相応しいヒロインだとか、本編通りにしないと世界が滅ぶだとか、もうどうだっていい。『物語』になんてもう配慮してやらない。

 

 だいたい、たかだが十五歳の男子高校生に世界を救わせるなんて時点で土台間違っているのだ。

 選ばれし者の宿命だとか、意思を託された人間としての使命だとか、大いなる力には大いなる責任が伴うだとか、そんなのは知ったこっちゃない。

 

 逃げよう。逃げればいい。放っておいたってもしかしたら世界は勝手にどうにかなるかもしれないじゃないか。

 どこか遠い、人里離れた島で、世界が滅んでも簡単には壊れないようなシェルターを誂えて、最後の日まで、完全に日の尽きるカウントオーバーまで、ゆっくり静かに過ごしたって誰にも文句は言わせない。

 

 知ったことじゃない。

 平和に生きる人々なんて知らない。顔も見たことないような相手のためになんで戦わなければならない。

 世界を守りたい人々なんて知らない。僕らを巻き込まずに、自分の力だけで勝手に立派に頑張っていればいい。

 彼を取ろうとする虹崎雨色のことなんて知らない。何もしなくたって幸せになるような人に、僕から奪う権利なんてない。

 

 今も病院で寝たきりになっている、星住御天(ミソラ)のことなんて――、

 

「――っ!!」

 

 ガン、ガン、ガン、と、カッターナイフを自分の手首に叩きつける。何度も。切り落とすような勢いで。

 痛みに中断される思考。分泌されるエンドルフィン。鈍麻する脳。血が噴き出す。流血する。本当に瀉血したいのは罪悪感だ。こんな出血量が何の罪滅ぼしになるものか。

 

 痛い、痛い、痛い。でも、常人より遥かに頑丈な体が、目で見てわかる速度で傷を治癒していく。けど、治癒速度が高いだけで治癒機能そのものが他と変わるわけじゃない。ここしばらくで何度も何度も切った結果のケロイド状。気味が悪い。気味が悪い。こんなの彼に嫌われる。そんなの嫌だ。イヤなのに、そうなってしまえばいいとも思っている。

 

 いっその事、彼が主人公じゃなければいいと思った。そしたら何の憂いもなく彼と幸せになれる――馬鹿な。馬鹿が。御天(ミソラ)さんを救えてもいないのに。それじゃ御天(ミソラ)さんは救えなくなってしまうのに。僕みたいなクズに、やることもやるべきことも何も出来ていないクズに、何の酌量があって幸せになりたいなどと言えるのだ。

 

 ああ、必死に好意に蓋をしていたのは、罪悪感を刺激されたくなかったからだと今になって自覚する。

 仕方なくやってることだ、必要だからやってることだ、本当は嫌だけどどうしようもなくやってることだ。

 

 そんな風に言い訳をしないと、きっと後ろめたさで息が出来なくなってしまうから。

 

 楽になりたい。早く楽になりたい。早く御天(ミソラ)さんを助けて欲しい。この罪悪感から解放して欲しい。許して欲しい。仕方がなかったって言って欲しい。なんて浅ましい。

 

 嫌だ。こんな自分が嫌だ。もっと綺麗な僕でいたかった。もっと素晴らしい僕で出会いたかった。

 

 もっと強くて、賢くて。

 ずっと優しくて、善良で。

 可愛くて、愛嬌にあふれて。

 皆に好かれて、頼りにされて。

 困難に挫折しないで、苦難を乗り越えて。

 迷いなく善行を為せて、間違いなんて一つも為さない。

 そんな理想の僕じゃないと、ヒロインじゃないとダメなのに。

 

 だからこんな、こんな僕じゃ。

 元男で、本物の女の子ですらない、こんな僕じゃ――

 

「――っあ、」

 

 あの夢を想起する。脳内に浮かぶ、朧気な前世の自分の顔、姿。

 

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌。

 呼吸が止まる。息が吸えない。喘いで、喉に手を当てて、酸欠に眩みながら鏡を覗く。

 

 鏡面に映っているのは涙目の女の子だ。

 目を腫らした、それでも愛らしい、長いピンク髪の。

 

 僕は安心する。してしまう。中身は何も変わっていないのに。女の子のガワで彼を騙しているだけなのに。これからも彼を騙せることなんかに安堵なんてしちゃいけないのに。

 

 もういい。全部忘れてしまいたい。前世の記憶なんて全て忘れてしまいたい。携帯用記憶処理装置を手に取り、私的使用を禁止するためのロックがかかっていることを思い出し、安全装置をぶち壊す。そこまでやって不意にバカバカしくなって投げ捨てた。

 

 うずくまる。夢を見るのが怖くて、目を瞑れない。

 あれは幸福な夢だったはずなのに。あの夢を見ている間は自分の罪と失敗を忘れていられるはずだったのに。今はもう、悪夢でしかなくなっている。

 

 もういい。あの世界になんてもう帰りたくない。

 あんな、僕のことを誰もかけがえがないと思ってくれない世界なんて。

 

 あの世界。前世。前世では生まれつき病気がちだった。体が弱くて、色んな人に迷惑をかけてきた。

 

 子供の頃はなるべく手がかからないように頑張った。父さんが家族を捨てて、母さんが一人で頑張っていたから。自分のことは自分でやって、心配を跳ね除けて、愛情を遠慮して、思いやりが不要なように見せた。結果、母さんの心は離れていった。新しく出来た父親と一緒に、その間にできた妹のことばかり見るようになった。あの家の中で、僕は医療費を食うインテリアだった。

 

 友達が欲しかった。家族よりも深い絆の。そんなものは築けなかった。病気がちで入院しがちで留年生。そんな僕は、思いやれば教師の覚えがよくなる内申点の稼ぎ所に過ぎなかった。そんなものを、コミュニケーションに不慣れな僕は友情だと思った。

 

 大学に進学してから付き合いはどんどん希薄になっていって、繋ぎ止めようと必死になった。色んなことを手伝った。雑用を全部任せてもらった。お金を貸した。愛想笑いが帰ってきて嬉しかった。数合わせに連れて行ってもらって楽しかった。そういう風に思い込もうと頑張った。

 

 大学を卒業する前に病気になった。誰もお見舞いに来なかった。

 震える手で遺書を書いて、死ぬ前にどうしても誰かに会いたくて、寂しくて、病院の先生に友達を呼んでもらうように頼んだ。

 ICUの外。適当な普段着で集まってきた友人達が、久しぶりじゃんこれ終わったらどっか遊び行こうぜとか言って、げらげら笑っている。聞こえる。そして、しばらくして病室に入ってきて、神妙な顔でこちらを覗き込んで心配してくる。やめてくれ。ふざけるな。人工呼吸器に阻まれて声は出ない。

 

 そして、死んだ。

 泣いたフリの顔たちに囲まれながら、僕は死んだ。

 

 僕は大切にしまった一枚の紙片を取り出す。

 ほとんど悪ふざけみたいに撮ったプリクラ画像。二人とも明らかにぎこちなく緊張していて、でも楽しそうに笑いあっていて。僕が自動音声の指示を真に受けて彼に抱きついてしまった写真では、彼が照れて真っ赤になっていて。

 

 そこに写る僕は当然可愛い女の子だ。だから彼が照れている。それが嬉しい。彼を喜ばせられるのが嬉しい。もっと喜ばせたい。もっともっと、なんでもしてあげたい。君に可愛いって、守りたいって、大切な友達だって思ってほしい。

 

「とも、だち……」

 

 友達。友達。本当に大切な、僕のことを本当に大切に思ってくれる、僕の本当の友達。

 ああ、でも。もうとっくにそんな関係じゃ気持ちが溢れてしまうことぐらいわかっている。

 

 頭を撫でて貰いたい。頑張ったねって褒めて欲しい。一緒にゲームして遊びたい。二人で旅行にいってみたい。可愛い服を着て、可愛いって褒められたい。抱き締められたい。キスもしたい。まだ少し拒否感が残っているけれど、それでも。

 もし嫌な気持ちが嬉しさで塗りつぶされたなら、それはとても幸福だと思うから。

 

 えっちなことだってしてみたいし、してあげたい。僕の男の部分がとても嫌がっているけれど、それをねじ伏せて女の子に、彼の女の子に変えられちゃうのは、きっとものすごく幸せだ。彼の手で僕の男の部分を殺されたい。女の子になりたい。愛されたい。愛されたい愛されたい愛されたい愛されたい。

 

 服の内側に手を入れる。自分を慰めるのは苦手だった。なんだかみじめな気分になってしまうし。それに、どうしても自分の体が男を相手にするために出来ているって思えてしまって。

 暗い部屋の中、うずくまって声を抑える。脳を掻き乱す快感と、蕩けるような背徳。今は純粋に気持ちいい。出来るなら優しくされたいけれど、僕は頑丈だし、痛いのには慣れてるから乱暴にされても大丈夫。そんなことを考えてから、気味の悪い妄想に吐きそうになる。

 

 ほんの少し凪いだ思考で考えるのは、あの修道女――過剰曝露(オーバードーズ)のことだった。

 ゲームでは影の薄いキャラだった。善行のつもりで悪事を為す悪人。ラスボスを復活させようと企む危険度Aの脅威存在、模範的な悪魔(デモニクス)の配下で……何度か主人公たちに嫌がらせをした後、後半の司令官による虐殺イベントに巻き込まれ、気がついたらいなくなっていたお邪魔ボス。そんな程度の扱いだったはずだ。ドラクエⅢで例えるならカンダタぐらいのものである。

 

 ……倒そうと思えば倒せる、と思う。一対一なら。虹崎さんの話じゃ模範的な悪魔(デモニクス)はまだ『企業』に確保されたままらしいし。あれの補助がないのなら、耐久戦に持ち込めるだろう。そうなれば、HPの削り合いでは防御と回復で有利な僕が勝つ。

 

 だが倒したところで意味は無い。理由は先ほど述べた通りだ。倒しに行こうと思って会いに行ける相手でもなし……ああ、でも、あの女を倒せば模範的な悪魔(デモニクス)の計画を遅らせるぐらいのことはできるのか?

 模範的な悪魔(デモニクス)はこの世界のラスボスの前座。大魔王の一段前に座す魔王のようなもの。人間と契約を交わし、その個人にとって主観的な価値あるものを、万人にとって客観的な価値あるものに変換する『悪魔の取引』を行う存在だ。

 

 あのゲームにおける鬱要素の一角を担っていて、飢えた子供に母親を食料に変換しないかと提案したり、戦いで死に瀕した兵士に戦友を破壊兵器に変換しないかと持ちかけたり。そうやって人間を壊して自分の手駒に変えていく、文字通りの模範的な悪魔。

 

 少しでもアレを損なうことができるなら、やる意味はあるかもしれない。模範的な悪魔(デモニクス)さえ倒せば、ラスボスが復活することもないのだ。

 だけど、司令官が過剰曝露(オーバードーズ)と内通している以上、『軍』の支援は受けられない。いや、逆に妨害されるまであるだろう。そうなれば倒すのはほとんど無理だ。

 

 そんな風に、僕はぼうっと、益体のないことを考え続ける。気を逸らす。

 

「…………」

 

 ……こんなことしてる場合じゃ、ないのに。

 

 彼と放課後に待ち合わせだってしてたのに――ああ、でも、窓の外。とっくに日が沈んで真っ暗だ。もう彼も待ってなんかいないだろう。

 また勝手に帰って、約束をすっぽかして……嫌われたかもしれない。嫌われた方がいい。嫌われたくない。また、頭の中がグズグズになる。何かをしないと。そんな焦燥だけが募っていく。

 

 ……まだ、『本編』が始まるまでには時間がある。

 もう少しだけ、待ってくれたっていいはずだ。

 諦めるための時間をもらっても、いいはずだ。

 

 幸せになりたいなんて思わないから。

 主人公に好かれたいなんて贅沢なこと言わないから。

 こんな気味の悪い人間が彼に愛されていいわけがないから。

 本当なら救われるはずだったたくさんのものを取りこぼしてきた僕に、そんな資格が無いことぐらいわかっているから。

 

 諦めるから。

 諦めるから。

 諦めるから。

 必ず、諦めるから。

 

 もう少しだけ。

 もう、少しだけ。

 この心地良さを、もう少しだけ、味わわせて欲しい。

 彼に想い焦がれていて、彼に恋い慕われている、いじらしくて愛らしい、女の子のフリ(ヒロインごっこ)をさせて欲しい。

 

 だから――

 

「っ、」

 

 ――突如として、『軍』の通信機が鳴った。

 条件反射的に手に取り、応答する。体に染み付いた動きで準備をして、『軍』の拠点へと赴く。

 

 夜風が冷たい。頭が冷える。

 街並みは静かだ。遠景の繁華街が煌めいている。

 何度も守ってきた地方都市。幾度も取りこぼしてきた街の人々。

 今この瞬間も、この世界のこの街では、どこかで誰かが傷んでいる。

 

 僕には、どうにかする責任がある。

 どうにか出来る力がある。

 

 ……ずっと、かけがえのない人間になりたかった。

 

 世界を救えるたった一人の勇者なんかじゃなくていい。

 ただ、信じられる誰かに、大切に思って欲しかった。心の底から死んで欲しくないって思われたかった。特別な、他の何とも引き換えに出来ない、交換可能性の存在しない人間になってみたかった。

 

 だから物語に、主役たちに関わりたかった。普通の人間なんて信用できなかった。フィクションに登場するような理想の人々なら、僕をそんな風に想ってくれると思った。

 

 きっと、彼はそう想ってくれる――主人公だから。僕が彼の好意を跳ね除けたって、ずっとかけがえのない友達だって想ってくれる。虹崎さんだってそうだろう。顔の無いモブキャラとは、統計上の数字とは、僕はもう違うはずだ。その思い入れは他の大事なものより軽くても、誰かにとってかけがえのない人間にはなれたはずだ。

 

 なら僕はそれでいい。それでいいはずだ。欲しかったものは、本当に欲しかったものはもう手に入れた。

 

「――――」

 

 夜道を、部活帰りの高校生カップルとすれ違う。

 どこにでもいそうな男女。本当に恋心があるかどうかの保証なんてない。すぐに別れて別の人間と付き合ったって何もおかしくない。

 普通の、一般的な、ドラマチックな物語になんてなりそうもない恋人たち。

 

 あんなのは要らない。

 あんなのは求めてない。

 

「――――」

 

 なのに、僕の脳内に描かれるこの幻視は何なのか。

 頭が痛い。子供の頃の僕と(サバキ)が思い浮かぶ。家が近かったからとか、席が近かったからとか、そんな適当で、ぼんやりしていて、運命なんてまるで感じない理由で幼馴染みになっている、僕と彼。

 世界の命運になんて全く関わりのない、明日にはどっちかが引っ越して離れ離れになって、数年後にはああ、そういえばそんなヤツも居たな、なんて関係性になっていても何も不思議じゃないどこにでもいる二人の子供。

 

 違う。この世界(ゲーム)の主人公は、幼少期から戦闘の訓練を受けていて、様々な苦難の中を過ごしてきて、だから、こんなのはただの白昼夢で、そもそも彼と出会ったのは高校に入学してからで。

 

 それなのに、そうだったらいいと思った。

 彼がどこにでもいる、僕と幼馴染みの男の子でもいいと思った。

 主役たちと何の関わりもないまま、どうでもいい僕が特別じゃない彼と一緒に過ごしていく人生が、欲しいと思った。

 

「……在城(ありしろ)?」

 

 気づけば、いつの間にか『軍』の拠点に辿り着いていた。

 

「おい、どうした? 顔色が――」

「何でも、無いです」

 

 僕の顔を覗き込んでくる司令官に言い放つ。どうせ、彼女に言ったって解決するような話じゃない。いいや、そもそも答えの決まっている問いに、模範解答の分かりきっている問題に、僕が回答するのを先延ばしにしているだけなのだ。

 

 それに、どうせ……どうせ僕を、僕らを裏切る人間が、いいや、既に裏切って敵と内通しているような人間が、そんな心配してくるような素振りを見せないで欲しい。

 

 司令官がわずかに目を逸らし、微かに舌打ちをしてから、僕の方へ向き直った。

 

「……そうか。では、本題に入ろう」

 

 言って、資料を差し出してくる。

 分厚い紙束。司令官がこんな風に物理媒体で資料を手渡してくることは今までなかった。

 

 受け取ったそれは、初めて見るはずなのに、どこか見覚えのある表紙。

 

「落ち着いて聞いてくれ――私は、『軍』外部の組織、『結社』の過激派、その一員と秘密裏に取引をしている」

「…………」

「お前もショッピングモールで会っただろう。あの修道女、過剰曝露(オーバードーズ)のコードネームを与えられているエージェントだ」

「…………」

「これは任務ではなく、密命だ。エージェントの中で最も信頼できるお前にのみ明かしている」

「…………」

「これから一ヶ月ほど、この街を離れ、別の拠点支部に所属しろ。星住(ほしずみ)もそちらの医療施設に移すつもりだ。詳細は説明出来んが、逐次指令を送る。遠隔地から私の動きをサポートして欲しい」

「…………」

 

 言う、のか。僕に。

 手元の資料。めくる気もしないそれに視線を下ろす。中に書かれていることを既に知っているそれを。

 

 この街の全ての超常性を善悪問わず終了し。

 超常性を持つ人間を善悪問わず皆殺しにし。

 それを阻止しようとする『企業』を滅ぼす、計画書を。

 

「……断るのならば、それでもいい。元からお前だけは助けるつもりだった。仮にお前が本部にこのことを通達しようとしても、私の権限ならば握り潰せる」

「そう、ですか」

 

 どうやら、彼女はこの時期から既にこの計画に向けて活動を開始するらしい。知らなかったな。

 僕は、資料を司令官に突き返す。

 

「話って、それだけですか?」

「……、そうだ」

 

 そうですか、と僕は言う。

 

「なら、お断りします」

「……そうか」

「今日はもう、帰ります」

「……ああ」

 

 司令官に背を向けて、『軍』の拠点を立ち去った。

 

「…………」

 

 分かってる。

 こんなの駄目だって分かってる。

 ちゃんと彼女を説得したり、計画を止めたりしなきゃ駄目だって分かってる。

 話の流れとして、普通に考えて、そうすべきだって僕はちゃんと分かっている。

 

 こんなのはおかしい。こんな話を聞かされて、こんな風に放っておくなんて、物語だったらあり得ない。

 

「…………」

 

 でも僕にはそんなの、出来ない。

 出来る気が、しない……。

 

 そういうの、上手くやろうとして、ずっと失敗してきた僕には。

 

 でも、もう少しだけ。

 それでも、もう少しだけしたら、主人公を連れてくるから。

 彼に全部解決してもらうから。助けてもらうから。まだ『本編』は始まらないから。

 

 まだ時間の猶予は、あるはずだから……。

 

 もう、少しだけ……。

 

 


 

 

 ただ一人、司令官は部屋の中心で立ち尽くす。

 

「…………」

 

 在城(ありしろ)(キザミ)から突き返された資料。

 

 この街の全ての脅威存在と超常性保持者を模範的な悪魔(デモニクス)の力によって()()()()、『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ……思えば、昔の自分はこうではなかったはずだ。

 あらゆる超常性は悪だった。彼女と、彼女の愛する人々の人生は、超常性によって無惨に残酷に醜悪に踏み躙られ、奪い取られ、貶められてきた。

 

 全て同じように踏み躙ってやりたかった。そんなものを守ろうとする『企業』もまた。

 この『軍』の中で、彼女のそんな思想に異を唱える人間などいなかった。

 

 だけど。

 彼女は、彼女が思うより人間味があった。

 復讐より先に、大人であることが勝ってしまった。

 

「…………」

 

 ……計画は、一人でも進めるつもりだった。

 

 (キザミ)が賛同するなら可能な限り彼女に配慮する形で受け入れるつもりだった。否定するなら反論のための理論武装はしてきていた。悩むようなら説得材料は十分に用意してあった。

 

 だから、結果がどうあろうが迷うことなどなかったはずだった。

 それでも、あんな反応が返ってくるとは思っていなかった。

 

「…………」

 

 悩んだ。

 本当に、この力を使っていいのかと、迷った。

 

 そして――

 

「――では、そろそろとても手軽な借用書(ラヴ・キング・スピーク)をお借りしてもよろしいでしょうか、司令官さん?」

過剰(オーバー)曝露(ドーズ)……」

 

 彼女の背後から、声があった。

 

 金髪の修道女。否、黒いベールを被っているからそのような印象を抱くだけで、着ているのはトラッド感のある黒のジャケットと、スリットの入った丈の長いトレンチスカート。

 まるでそこだけ地球の重力が働いていないかのような、浮遊感を感じさせる地に足のつかない立ちふるまい。見る者を不安にさせる態度。

 

 悩む。迷う。苦悩を噛みしめる。

 そして、司令官は問いかける。

 

「……その前に、答えろ。答えてくれ、過剰(オーバー)曝露(ドーズ)。お前は、」

()()()()()()()()()()()()()

 

 虚空から、声が響いた。

 

『しかし分からないな、どこでブレた? 彼女は「とても手軽な借用書(ラヴ・キング・スピーク)で所有したこの地方都市を僕に捧げて、超常性が無力化される街に変換する」――()()()()()()()()()()()()()()()()

「な――」

 

 一瞬、呆然とする司令官に、修道女が平然と、畳み掛けるように言う。

 

「いえいえ、騙すと言っても悪気があってのことではないのですよ? ただ、()()()()()()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と思っただけでして――」

「っ、()()()3()8()5()%()!! ()()()()M()9()2()()()、」

()()()1()0()0()()――()()()()()()()()

 

 物質具現機(マテリアライザー)の具現化は、複雑な構造物よりも単一物質を具現化する方が早い。

 

 修道女の掲げた両手の間で、迸る核熱の爆轟。

 チェレンコフ光の青ざめた輝きが世界を灼く。

 

 何もかもが消し飛んだ『軍』拠点跡地で、修道女と悪魔は宣言する。

 

『残り時間も後少ないからね。悪いが巻いて行こう』

 

 猶予は無い。

 たった今この瞬間から、全ての終わりは始まった。



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10/マスカレード・クロージング

 頭が回らない。

 眼に映る情報を処理出来ない。

 ただ網膜に描画されるだけの風景。

 

 煙。瓦礫。医者。心電図。怒号。司令官。手術中。ICU。

 

 病室は嫌いだ。

 お見舞いは嫌いだ。

 苦しんでる人に何もしない奴も嫌いだ。

 

 ――そして、僕に出来ることは何も無い。

 

 頭が回らない。

 心に抱く感情を処理出来ない。

 ただ脳内に描写されるだけの情動。

 

 言い訳がしたい。

 責任転嫁がしたい。

 自己正当化がしたい。

 

 そんな恥知らずなことだけは、絶対に考えないようにしていたのに。

 

 何が悪かったのだろう。

 何もかも僕が悪かった。

 

 中身も読まずに突き返した資料を読む。焼け焦げてボロボロの。

 

「…………」

 

 ……どうして。

 裏切るんじゃなかったのか。

 悪いことをするはずじゃなかったのか。

 色んな人をひどい目に合わせるはずじゃなかったのか。

 

 こんなのはおかしい。

 こんなのは知らない。

 だから、僕のせいじゃない――そんなわけがない。

 

 おかしいことに気づかなかったのは誰だ。

 知ろうとさえしなかったのは誰だという。

 

 もう何もかもが手遅れだ。

 でも、そんなのは今更なことなのだ。

 

 苦しくて、考えることを投げ捨てた。

 

 やるべきことは変わらない。

 早く償え。責任を取れ。罪科以上に救済しろ。

 そんなことをしても許されないことぐらい分かっている。

 それでも、許して欲しかったからこれまでやってきたはずだ。

 

 だから、僕はそうしようとした。

 戦おうとしたのだ。

 したのに。

 

『まあ、この時点じゃ「軍」のエリートでもこんなものか』

 

 ――なんで、もうあいつがいるんだ。

 

 認識能力が追いつかない。記憶整理が出来ていない。

 ここがどこかも曖昧で、どうやってここに来たのかも分からない。

 ただ、何も出来ずに吹っ飛ばされて、ボロボロになって地面に転がっていることは確かだった。

 

 でも、あれは……模範的な悪魔(デモニクス)は、終盤のボスのはずで……虹崎さんだって危険度Aの超常性が解放されたりはしてないって……。

 それに、人々の強い祈りとか……大切なものへの思い入れとか……そういうものを喰らわないと、力を発揮できないみたいな設定だってあったはずで……。

 

『うん。僕としても最終的な採算ならそちらの方が良いんだがね。そこの彼女――過剰曝露(オーバードーズ)は、価値観と精神が狂っているんだ。彼女はどんなものにも凄まじく強い思い入れを抱けるし、その上でそれをあっさり僕に捧げられる異常者なんだよ。だから実のところ、妥協していいならバッドエンドにはいつでも入れるんだ』

 

 ……何だそれ。反則だろう。明らかに後付けじゃないか。

 ああ、でも……ゲームの描写を踏まえれば、考察材料自体はあったかもしれない。そう言われてみれば、ストーリーでの立ち回りについても納得できる部分が色々ある。

 

 それに、勝てると分かりきっている相手に勝ったところで何にもならない。

 そう、主人公なら。ヒロインなら。主役なのであれば。

 こういう逆境にこそ、果敢に挑むべきなのだ。

 

 だから――、

 

「貴女、勝つ気無いですよね?」

「――――」

 

 場違いににこやかな笑みを浮かべながら、修道女が言った。

 

「そんなの誰も求めてないじゃないですか。正直な話、言い訳がしたいだけでしょう? 痛い目に遭っているところを見せれば反省になるとでも思ってます? ちゃんと相手のことを想って行動しないとダメですよ?」

「待っ、て……」

「ただの捨て身じゃ貴女が自己満足するだけで誰も救えません、それでは泣いたフリと何も変わりませんよ? 他人の顔色を伺って、自分が善人とさえ思われればいいなら相手の苦悩はお構いなしですか?」

「ちがう……ちがう、違う違う違う……! だって、だって他にっ――!」

 

 僕には、他にできることが、何も。

 駄目だ。そうだ。頑張らないと。ちゃんとやらないと。

 勝て。勝つんだ。ここで勝てば償いになる。こいつらさえ倒せば世界は救える。

 

 もう『軍』の上層部も過剰曝露(オーバードーズ)模範的な悪魔(デモニクス)の危険度は分かっているはずだ。これを倒せばその功績は計り知れない。万能薬の使用許可だって出るかもしれない。

 そうすれば御天(ミソラ)さんと司令官だって救えるから。

 

 勝つから。

 頑張るから。

 本気でやるから。

 ちゃんとやってみせるから。

 だから。だから、だからだからだからだからだから――。

 

「あの、誰か探してます? 目が縋ってますよ?」

「――――、ぁ」

「いいんですよ? 辛いなら助けを求めても。もう自分じゃ無理だって諦めているのでしょう? 我々の仕事が終わるのにもまだ時間がかかりますから、早く叫んでみてはどうですか?」

「ち、が……ぼく、僕は、ちゃん、と……」

 

 心はもう限界だった。

 敵の目の前なのに、いつの間にか俯いていた。

 修道女の方から青褪めた光が溢れたことで、俯く自分に気がついた。

 

「なら、やりましょうか。――再現率100%」

 

 爆ぜる。

 熱を無防備に受けて初めて、自分がろくに戦闘態勢を取っていなかったと知る。

 爆風に煽られ、ゴロゴロと瓦礫まみれの地面を転がった。全身が痛くて、どこが傷ついたか分からない。

 まず最初に顔に手をやって、傷だらけになっていることに気づいて泣きたくなった。そんなこと、気にしている場合じゃないのに。

 

「た……」

 

 もう無理だ。

 僕なんかには、最初からこんなこと出来なかったんだ。

 だから、それがこの世界のヒロインの資格を失う言葉だって分かっていても。

 

「助、けて……(サバキ)……」

 

 もう、僕にはそれしか言えなかった。

 

 逃げる。走る。ふらつきながら。

 あまりにも無様に。誇りなんて欠片も無い。魅力なんてあるわけない。

 困難な敵へ立ち向かいもせずに、すぐに逃げ出す、どこにでもいそうな、ただのやられ役。

 

 前に、違法刺激(ブラックドープ)との戦いで、彼に任された時のことを思い出す。

 嬉しかった。本当に嬉しかった。僕にも出来るんだと思った。こんな自分にも価値があるって思えた。誰にも認められなかった頑張りを認めてくれた。

 

 なのに、その価値を、頑張りを、今の僕は自分から投げ捨てている。

 

「やだ、いやだ、ゆるして、我慢したから、がんばったから……! 嫌いにならないで、嫌いにならないで、嫌いにならないで……!」

 

 転んだ。

 涙で視界が歪んでいて、足元が見えなかった。

 頭がいっぱいいっぱいになって、上手く立てない。後ろから、奴らがやってきている。僕のレベルじゃどう足掻いたって勝てない敵が。

 

 過剰曝露(オーバードーズ)の掲げる両手から、キィン、と、蒼い光が煌めいた。

 広範でありながら精密な放射線が迸り、周辺生物の遺伝子を改竄していく。

 

 上空を飛んでいたカラスが、いつか処理した怪物に変異する。

 側溝に潜んでいたトカゲが、恐竜のように巨大化し暴れ回る。

 足元を這っていたミミズが、ホラー作品の如き触手に変わる。

 

 もう、一般社会への隠蔽なんて考えてもいないらしい。溢れ出した怪物たちが一般人を襲っていく。

 助けなきゃいけないのに、何故か、どう頑張ってもその選択肢を逃走行為より優先できない。

 

 違う。これは仕方ないからだ。早く(サバキ)に会って助けを求めなきゃいけないからだ。そっちの方が正しい選択だからだ。

 この期に及んで、そんな自己弁護に思考のリソースを割いてしまう。

 

 ゾンビみたいに体をドロドロに溶かした大型犬サイズのネズミが、倒れる僕の元へと飛びかかってきて――、

 

「――再現率1000%、H2O具現ッ!」

 

 横合いから伸びてきた水流の槍が、異形の一部を薙ぎ払った。

 

 青いミディアムヘアに、全身を密着して覆う『企業』の戦闘衣(スーツ)

 背中からウォータージェットを噴射し、高速で飛んできた少女が、僕のそばに着地する。

 

「大丈夫、在城(ありしろ)ちゃん!? 任務中だけど一時休戦っ。今は協力して、」

 

 奴らの方を向いてそう言っていた虹崎さんが、僕の顔を見た瞬間、言葉を止めた。

 

「――っ、分かった! 大丈夫、すぐに避難して! ここはボクが食い止めるから!」

「だ……。だ、駄目です、かて、勝てない、勝てないから……!」

()()()()()()()()()()()()()()()()!!」

「――――」

 

 なんで。

 なんで、当然みたいに、そんなセリフが言えるのだ。

 

「はぁ、は、ぁっ……!」

 

 苦しい。息が出来ない。

 こんなの卑怯だ。あり得ない。ズルい。

 レベルだけなら僕の方が上で、虹崎さんより強いはずなのに。

 こんな風に差を見せつけられたら、ただの凡人(モブ)である僕はどうすればいいんだ。

 

「うぅ、う、うう……!!」

 

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌。

 僕だってちゃんとやりたいのに。

 僕だってちゃんと頑張りたいのに。

 

 こんな……こんな風に、ろくな償いもせずに、誰かのことを本気で思いやりもせずに、それっぽく見せかけるだけの、普通の人間になんか、なりたくなかったのに。

 

 でも、つらくて。

 ただひたすらに、心がつらくて。

 

 悩み、立ち竦む足。

 前に進むのは怖くて。後ろに下がったら諦めそうで。

 

 そして――、

 

「現地隊員、到着しました!」

「街全域を対象とした大規模な事象改変が進行している! 今は『企業』と連携して対処しろ!」

 

 一斉にやってきた『軍』の兵隊たちに押し退けられて、二、三歩後ろに下がってしまった。

 名前も知らないような、ゲームだったら名前欄に「隊員A」と書かれて終わるような、そんな彼らが、勝てもしない相手にまるで臆せず立ち向かっている。

 

 物語だったら、そんな勇気に感動して奮起するべきなんだろうな、と、他人事みたいに思った。

 

「――――」

 

 無理だ。

 どう足掻いたって、僕には、無理だ。

 

 諦める。

 あきらめた。

 もう、分かってしまった。

 自分がどうしようもないやつだって。

 

(サバキ)……(サバキ)(サバキ)(サバキ)(サバキ)……。助けて……助け、て……」

 

 力があるのに何もしないまま、僕は民衆に紛れて逃げていく。

 惨めで、情けなくて、恥知らずで。

 それでも。それなのに。

 

「嫌いに……ならないで……」

 

 僕はまだ、彼に好かれていたかった。

 

 


 

 

 早朝だった。

 街中に響き渡る避難勧告に、守部(もりべ)(サバキ)は目を覚ます。

 慌てて着替え、窓から街を見渡した。

 

「……何だこれ」

 

 空が、割れている。

 まるでディスプレイに硬い物を叩きつけたかのようなヒビ割れ。蜘蛛の巣めいた真っ黒な筋が幾本も青空に走って、中から夜空が覗いている。

 

 突発的な竜巻による極めて稀な光学的現象などと報道されているが、どう考えても異常だ。

 警報を何度か確認し、ニュースを手早くチェックして、これが通常の災害ではなく、間違いなく超常性絡みであると確信する。

 

 だとすると、本当に危険かどうかは分からない。

 彼ら――『軍』や『企業』による何かしらの隠蔽工作の一環という可能性もありうる。

 

 が、だとするならもう少し上手く、通常の災害に見せかけた勧告をするだろう。

 よほど切羽詰まっているのは間違いなく、詳しいことは分からないが指揮系統も混乱しているかもしれない。司令官的な役職の人間が死んだとか。

 

 ともあれ、このような事態で(サバキ)が出来ることなど、当然何も無い。

 昨日、(キザミ)が突然帰ったのはこれが理由だったのかもな、などと思いつつ、避難の準備を始める。約束をすっぽかされた時はまあまあ凹んだが、そっちの方が自分の精神衛生的に良い。

 

 途中、チラ、と、未だに改修を続けている例の装備を横目に見た。

 

「…………」

 

 だが、あの地下施設の時とは状況が違う。

 あの時はたまたま運が良かっただけだ。悪運が強かっただけだ。

 今回は情報の優位も何も無い。むしろこちらの方が情報不足だ。加えて、(サバキ)しか助勢に入れなかった前回とは違い、今は大勢のエージェントで対処にあたっているのだろう。ならば、(サバキ)が一人加わったところで戦局に影響など与えられるはずもない。

 

 ……だけど、それでも、心配ではある。

 自分なんかが心配したってどうなる訳でもない相手ではあるけれど。

 

 だとしても……。

 はぁ、とため息をついて家を出た。

 

 否、出ようとした、その瞬間だった。

 ぴんぽーん、と場違いに呑気なインターホンが鳴る。

 

 こんな時に宅配でもあるまいし――そんな風に思いつつも、ドアを開けて。

 

「……在城(ありしろ)?」

 

 玄関前に、身体中に傷を作った彼女が立っていた。

 

 制服ではない。いつか見た、黒いノースリーブのドレス。両手足に巻いた白い包帯。謎の効力で顔を認識できなくさせると思しきジャケットのフードを、今は降ろしてしまっている。

 

 動揺と困惑。

 瞠目する(サバキ)が何かを言うより早く、(キザミ)が、崩れるように彼の胸元へと倒れ込む。

 

 慌てて受け止めて、予想外の軽さに驚いた。まるで、魂が全て抜け落ちてしまったかのような。

 何も言えない。何も言えなくなってしまう彼に、在城(ありしろ)(キザミ)が零すように呟く。

 

「……て」

「っ?」

「……たすけて……」

「え、あ……?」

 

 混乱する。言われた言葉を再認して、さらに。

 

「助けて……助けて、助けて、助けて……! 出来ない、勝てないの、僕じゃ、僕じゃもう、どう、しよう、もぉ……っ!」

 

 胸元が湿っていく。シャツが濡れる。

 どうして良いのかわからない。きっと、上手い解答があるはずなのだ。彼女を落ち着かせて、宥めて、適切な精神状態を与える方法が。

 だけど、口下手な自分には何も思いつかない。

 

「わ――わかっ、た……」

 

 何がわかったというのだろう。こんな、その場凌ぎの、適当な相槌じみた言葉。

 しかし、それでも、口にしてから思い直す。

 嘘ではない。それも、確かに本心だ。

 

「助ける……助けるよ。俺に出来ることなら、何でも手伝うから……」

 

 地面に落としてしまっていたバッグを片手で抱え直す。

 言葉に嘘は何ひとつない。自分に出来ることなら――そうだ、自分に出来ることなら何だってしてみせる。

 

 なんで彼女が自分に助けを求めてきたのか、あれが何なのか、何が起こっているのかも何も分からない。

 けれど、それでも大丈夫だ。

 (キザミ)は、在城(ありしろ)(キザミ)は、自分の幼馴染みがこんなところで泣き喚くだけの人間であるはずがない。

 

 きっと、何か巡り合わせが悪いだけなのだ。前の時みたいに、状況が不利に働いてしまっているだけなのだ。彼女の心を追い詰めてしまっている些細な原因があって、(サバキ)がその目詰まりを取ってやればいいだけなのだ。

 

 出来ることなんてたかが知れている。

 それでも、彼女が、上手くやれるように。

 (サバキ)が必死で、命懸けで状況を整えさえすれば、彼女は、きっと。

 

「行こう、在城(ありしろ)。事情は途中で説明してくれればいいから、だか、ら――」

 

 彼女の手を引いて歩き出そうとした彼の足が止まる。

 (キザミ)が動かない。彼女の体から残っていた力が抜けて、支えるのも間に合い切らずにへたり込む。

 

「も……」

「――――」

「もう、むり、で……」

 

 ぼろぼろと。

 俯いた顔から、大粒の涙が溢れて、零れ落ちる。

 

「ちがう……でも、頑張った、頑張ったの、に……ちゃんとや、やって……違う、でも、それでも、僕だって、ぼく、だってぇ……!」

 

 嗚咽。本当に大声で泣き喚きたいのを、そうしたって何もおかしくないほどの激情を、必死に抑え込んで漏れる声だった。

 

「頑張った、頑張ったの、頑張って頑張って頑張って、それで、それでも、だめ、駄目だったから……だ、だから……」

 

 すがるような目が、(サバキ)を見上げる。

 

「き――嫌いに、ならないで……」

「――――」

 

 彼の見ている前で、(キザミ)戦闘服(ドレス)が解けて、ただの制服に変わってしまう。

 

「さ、(サバキ)が主人公なんでしょ……?」

「は……?」

 

 (キザミ)が笑顔を浮かべる。必死に、媚びるように、泣き笑いの。

 彼女の笑顔は、好きだった。

 それでも、こんな笑顔は見たくなかった。

 

「知ってる、知ってるから……本当は凄くて、ただの高校生なんかじゃなくて、幼少期から過酷な戦闘訓練を受けてて、特別な力を持ってて、頑張ればどんな相手にも勝てて、この世界で最強で、それで、それで、全部、全部助けてくれるんでしょ……? そうだよね……?」

「ち、違……待て、(あり)し、ッ!」

 

 飛びかかるように。押し倒されて、懐を探られる。取り出された物質具現機(マテリアライザー)を、目の前に持ってこられる。

 

「ほ、ほら……! これ、そうだよね!? 知ってるんだから、ね、ね!?!?」

「違う……違う……! 待ってくれ在城(ありしろ)……! 違うんだよ、それは、磁束結合(デッドコイル)が落としたやつで……それに……ほら、これ……ッ!」

 

 この弱々しい姿のどこに秘められていたのかと思えるほどの強い力に呼吸が詰まる。

 それでも、手を動かして、立てかけてあった光る木刀を手に取る。

 柄に取り付けたプラスチックのパーツを外し、木目と、刻まれた「京都土産」の文字を見せつける。

 

「ほ、ら……! 違うんだ、全部、お前の勘違いで……俺が、お前のことを騙してしまっただけ、で……!」

「な、ん、なんでッ、そういうこと言うの、やめて――やめてよッ!!」

 

 叩きつけた彼女の拳が、部屋の床をブチ抜いた。

 

「……あ……。ご、ごめん、ごめんね(サバキ)、弁償するから、あや、謝るから……」

「…………」

 

 ……なんだ、これは。

 

「だ、だから嫌いに、嫌いにならないで。好きなの、好き、大好きだからッ! 頭撫でて、可愛いって言って、一緒に遊んで……! お願い、お願い、お願い――」

 

 分からない。

 どうしたら良いのか、わからない。

 

 だから、思ったままのことを、するしかなかった。

 

「……嫌いになんて、ならない……」

「あ……」

 

 手を伸ばす。

 頭を撫でる。

 渾身の力で上体を起こして、彼女の小さな体を抱きしめる。

 

「助ける……絶対に助ける……助けるから」

 

 本当に、ただ、思ったまま。

 

「俺も、お前のことが、好きだから……」

 

 だから。

 今はただ、彼女のことを癒やしたかった。



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11/ロッシュリミット

 守部(もりべ)(サバキ)はどこにでもいる普通の高校生である。

 この手の入りから語られるキャラクターなんて大概が全く普通の高校生なんかじゃあないだろうが、少なくとも(サバキ)自身に「特筆すべきその他の事項」なんてのは存在しない。

 

 ……だから、特筆すべきものがあるとするなら、それは彼自身ではなく――その隣に居た、「彼女」についてであるべきで。

 

「…………」

 

 あるべきな、はずで。

 

 でも、違ったのだろうか。

 結局のところ、特筆すべきその他の事項なんてのは、所詮は欄外に記すべき、それこそその他のどうでもいい事項に過ぎなくて。

 人間の構成要素はつまるところ、誰にでも当然あるような基本的なプロフィールだけで決まっていて。

 

 特筆すべきその他の事項――受けたダメージを攻撃に変換する能力を持つ、超人的な運動性能を有する、幼少期に異様に大人びていた、誰にも知りえない何かを知っている――なんてのは、本当に取るに足らないことで。

 

 彼女という人間を構成しているのは。

 

 十六歳の女の子で。

 能力はあるのに要領が悪く。

 人間嫌いのくせに寂しがり屋で。

 頑固で融通が効かないけど傷つきやすい。

 

 そんな、誰にでもあるようなプロフィールだったのだろうか。

 

 全部が全部、守部(もりべ)(サバキ)が勝手に抱いていた、固定観念と固定幻想に過ぎなかったのだろうか。

 

「…………」

 

 ……きっと、疲れているのだ。

 (サバキ)がではない。(キザミ)がだ。

 彼女はいつだって疲れていた。高校で再会した時から、ずっとグチャグチャだった。

 

 追い詰められていたのだろう。ずっと。ずっと。何年も。

 もしかすると、小学校で(サバキ)と別れたあの日から。

 だから、それで彼女の心が弱いとか、普通の女の子に過ぎないとか、頑張っても何も出来ないただの人間だとか言うのは……違うだろう。

 

 仮に実際そうであったとしても、だ。

 こんなに追い詰められた姿が、本当の彼女であるわけがないのだ。

 そして、そんな追い詰められた彼女との間に線を引いて、深く踏み込まなかったのが(じぶん)なのだ。

 

 ……彼女の気持ちが、分からなかったから。

 

「…………」

 

 人間の心が段階的に壊れていくことは存外少ない。

 張り詰めた風船や、ヒビ割れたガラスのようなものだ。

 閾値を越えた瞬間、一息に破砕する。

 

 きっかけの軽重などどうでもいい。

 些細な失敗、大きな変化。

 ホルモンバランスの乱れに、トラウマの再帰。

 

 条件さえ揃えば、一気に人は駄目になる。

 それまでのそれからはあり得ないぐらいに……終わってしまう。

 

 フライパンを振って、チャーハンを炒めた。

 自炊はするが、得意ではない。栄養バランスを特に考えず、手間のかからない適当に作れるレシピを雑にローテーションしているだけだ。

 

「…………」

 

 出来上がったチャーハンを、(キザミ)が食べている。

 大した味でも無いのに、本当に美味しそうに。

 

 聞けば、前に一緒に出掛けた時の昼食以来、何も食べていなかったらしい。

 三日前だ。

 

在城(ありしろ)

「?」

「ご飯ついてる」

 

 自分の顔を指して言う。

 きょとんとした顔をする(キザミ)

 そして、えへへ、と照れ臭そうに笑って、頬についた米粒を摘んで食べた。

 

 そんな風に笑顔を見せる彼女の目は、虚ろだ。

 

「あの――あの、ね。今度は、僕、ご飯作るから……料理、あんまり得意じゃないけど……」

「……そっか、楽しみだな」

「ほ、ほんと?」

「うん。すっげえ嬉しい」

「え、へへ……だ、だめだったら、ちゃんと練習するから……」

 

 言って、彼女は、体を寄せて。

 

「ごはんじゃなくても、何でも、するから……。僕にできることなら、なんでも……」

「……。……そ、っか……」

「何にもできないけど……で、でも、ご飯作ったりとか、洗濯とか、掃除とか、普通のことは、できると思うから……。え、えっちなことでも、何でも……なんでも、する、から……だから……」

 

 それはとても、哀れな姿で。

 ……声はまるで、縋るようで。

 

「……嫌いに、ならないで」

「……ならないよ。なるわけない」

 

 言って、彼は、抱き締めた。

 

「ごめん、なさい……」

 

 いつの間にか、彼女の瞳が滲んでいた。

 

「ごめんなさい――普通で、普通以下で、ごめんなさい。諦めて、怠けてて、心が弱くて、心が折れて、頑張れなくて、勇気がなくて、悪いこともして、人に迷惑かけて、何も気づかなくて、気付こうとしないで、善意を踏みにじって、取り返しのつかないことして……」

「謝らなくたっていいよ……」

「僕が悪い……僕が悪いんだよ……。全部知ってた、全部知ってたから、全部っ、僕の責任なのに! なのに、良くないって分かってたのに、勝手に大丈夫って思って、御天(ミソラ)さんに会いに行って……良くないって分かってたのに、勝手に大丈夫って思って、どうせ司令官は悪い人なんだから、って……! また、また、ぁ……っ!!」

「お前のせいじゃ、ないよ……」

「それで――それなのに、辛くて、こわくて、痛いの嫌で、死ぬのも嫌で、勝ち目が無いからって、戦おうともしないで……! でも、でも、それなのに、それなのに、君に嫌われたく、なくて……! こんな屑を、こんな屑なのに、好きでいて欲しくて……!」

「好きだよ……。お前が何しても……何も、しなくても……」

 

 ……誰にも、彼女を「心が弱い」などと責められるものか。

 

 世界が滅ぶ責任など、一体誰がどうして背負える?

 仮に背負えたのだとして、背負って潰れずにいられるものか。

 背負ってしまったとして、背負って狂わずにいられるものか。

 

 例え仮に、本当にそれが彼女の責任だったとしても。

 誰でも、きっと誰か解決すると悪事を見逃したことぐらいあるだろう。

 良くないことだと自覚し分かっていながら、犯した過ちがあるはずだ。

 

 そして、そんな負い目があるのに――。

 

 命を懸けないこと。

 絶望に挑まないこと。

 無理だから諦めること。

 苦痛に挫けてしまうこと。

 圧倒的な力に恐怖すること。

 出来ないことをやらないこと。

 

 そんなのは。

 それがやれないことは。

 それで泣いてしまうのは、心が折れてしまうのは……。

 ……そうなって、当たり前のことなのだ。

 

 だって(キザミ)は。

 在城(ありしろ)(キザミ)は。

 

 

 ――物語の登場人物なんかじゃ、ないのだから。

 

 

 自分のせいで世界が滅んでいく実感なんかに耐えられるわけが……ない。

 

 (サバキ)だって、そうだろう。

 出来ないと分かっていて、やろうなんて思えるわけがなかった。

 

 出来ることがあったから。

 出来るかもしれなかったから。

 たとえ、自分に出来なくても……彼女なら出来ると思ったから。

 

 だからやろうと思ったのだ。

 

 守部(もりべ)(サバキ)には何もできない。

 今、ここで、好きな女の子を慰めることしかできない。

 

 ……何の意味も無いのに。

 

 こんなことをしていたって、何も解決しないのに。

 彼女のために奇跡を起こして。

 不可能を可能にしてみせて。

 世界を救うべきなのに。

 

 そんなことはできない。

 できないから、やれない。

 

 窓の外で、青空のヒビ割れが少しずつ広がっている。

 自分の住む街が、訳の分からない白金の輝きに染められる。

 遠くで、爆発と、黒い煙が上がって、咆哮と喧騒が聞こえてくる。

 

 誰に言われなくても、理解できた。

 

 ――全てが終わるの(ゲームオーバー)だ。

 

 


 

 

 夜になった。

 

 空の亀裂は最初に比べて十倍以上に拡大している。

 黒かったそれは、夕方になってから青白い不気味な光を覗かせて、夜空に眩い光を灯していた。

 

 街はよく見えない。電気が止まってしまって、どこも明かりがついていないからだ。

 だが、時折強く輝く亀裂の光で、遠景がキラキラと白金に輝いていた。

 

 恐らくは、この地方都市の半分近くはもう、そうなっている。

 道も、家も、ビルも、全てがプラチナに変わってしまっている。

 ……いや、あるいはそのように見えるだけの別の金属か、未知の物質なのかもしれないが。

 

 どうであれ、おそらくは明日の朝か――遅くとも昼には、自分たちがいるここも、白金色に変わってしまうだろう。

 そして、明後日には地方都市全体が。

 

 (キザミ)に聞いた話によると、敵は、この街全体を『価値あるもの』に変換した上で、あらゆるものを所有できる超常性アイテム……とても手軽な借用書(ラヴ・キング・スピーク)とやらを使い、街を対価に世界全てを所有するつもりらしい。

 

 で、所有した世界を悪魔に捧げることで、より良い世界を作ってもらうそうだ。

 

 バカみたいな話だった。

 

 辺りは静かだ。

 時折遠くで爆発やらの音が響いてはいるが、それも最初より大人しい。

 もう近所の住民はとっくに避難を済ませたのだろう。避難場所には自分たちの学校が指定されていたはずだが、行ったところで何の意味があるとも思えない。

 

 小さなキャンプ用照明が灯る薄暗い部屋で、テレビがチカチカと光を瞬かせる。

 

 電気が止まったので、使っているのは趣味で遠出する際に使っているポータブル電源。昔、親戚から譲ってもらった廃車のバッテリーを改造して作ったものだ。

 

 テレビの電波ももう来ていない。

 液晶に映るのは、対戦ゲームのプレイ画面だ。

 

 二人、コントローラーを動かす。

 (キザミ)はゲーム自体数年ぶりと言っていたが、単純なスキルではもう既に(サバキ)より上手い。

 

「やっぱりアイテム有りにしようよー……。ステージもランダムで……」

「でもアイテム有りだと勝てないしズルいって言ってたじゃん」

「だってずっと戦場と終点だとつまんないし……」

 

 とはいえ、イマイチ想定外に弱く、またキャラ性能以外の仕様を把握しきれていないので、シンプルなタイマンでなければまだ彼の方が優位だった。

 

 ランダム性を付与した瞬間、途端に勝てなくなって、いつぞやのジャージ姿の(キザミ)がうなる。

 電気が止まる前に風呂には入ったが、当然着替えなど持ってきていなかったので(サバキ)が貸した服だ。

 物質具現機(マテリアライザー)があれば例の戦闘服(ドレス)といつもの制服は作れるそうだが、寝巻きにするにはどちらも不向きだった。

 

 ランダムに降ってくるアイテムをぽいぽいと投げた。

 (キザミ)も対抗してアイテムを使ってくるが、アイテムを取るのに躍起になって隙を晒したり、使うのに失敗して自爆したりどうにも上手くない。

 

 諦めてアイテムを全無視した(キザミ)が攻撃を仕掛けてくる。

 様々なアイテムで撹乱する(サバキ)だが、徐々に優位を詰められ……そして。

 

「あ」

 

 場外に吹き飛ばされる。

 アイテム有りにしてからの初勝利に、(キザミ)がやったー、と子供みたいに喜んだ声を上げた。

 

「そんなはしゃがなくてもいいだろ」

 

 苦笑しつつもプレイを切り上げて、テレビを消す。ちょうど、そろそろバッテリーの電源も切れそうな頃合いだった。

 

「だって、友達とこういうゲーム遊ぶの、初めてだったから……」

「いや、そんなこと」

「だってそうだし。昔、近所の子が遊びに来たことあったけど、あれゲームがしたくて来ただけって言ってたし」

「あー……」

 

 (キザミ)の家族に、(キザミ)がボーイフレンドを連れてきたのどうのとからかわれて、赤い顔で否定したことを思い出す。

 

 ふと、横を見る。思い出に浸る(サバキ)の隣で、(キザミ)が額に手を当てて俯いていた。

 

「……どうした?」

「あ、いや、ううん。ちょっと頭痛がしただけ……大丈夫」

 

 灯りを消した。だが、裂けた天から溢れる青白い光が、薄いカーテンを貫いてくる。

 だから、ぐい、と(サバキ)のシャツの裾を引く、彼女の表情がよく見えた。

 諦観に濁り切った、泣きそうな暗い瞳も。

 

「……一緒に寝ても、いい?」

「……。……いいよ」

 

 優しい声が出せたと思う。

 泣きたくなるほどに。

 

 横になった。一人用のベッドだ。大して大きくもない。

 いくら(キザミ)が小柄でも、二人で入れば密着する形になる。

 

 互いに背を向け合って、くっつけた。それでも、体温と呼吸音、肌の感触は伝わってくる。同じシャンプーを使ったはずなのに、明らかに違う女の子の匂いも。

 

 こんな状況なのに、どこか緊張して顔を熱くする自分がいた――いや、違う。同時に、どこか冷めた気持ちの(サバキ)もいる。

 

 彼女の心拍は落ち着いている。

 まだ起きているのか、もう眠ってしまったのか分からないが……きっと、目が覚めたらそれこそ全てが夢だったみたいに、何もかもが解決していることを夢見ているのかもしれない。

 

 (サバキ)がそうしてくれることを、信じているのかもしれない。

 

「…………」

 

 だけど、そうはならない。

 絶対に、ならない。

 

 苦しませてしまうのだろうな、と思った。

 どれだけ泣かせることになるのか、想像もつかない。

 

 本当に……本当に本当に本当に。

 自分に隠されたスーパーパワーだの、秘められた真実だの、都合の良い運命だの、そんなものがあれば良いと思った。

 今ここで、この世界の主人公になれるのであれば、何を犠牲にしたって構わないと思えた。

 

 ただ、部屋の中は静かだ。とても。

 ありきたりなセリフだけど……今、この瞬間。この世界には、自分たち二人しか存在しないんじゃないかと感じてしまう。

 

 滅んでいく世界で、自分が主人公で、彼女がヒロイン。

 

 そうだったら良かった。

 そうだったら良かった。

 そうだったのなら、良かった。

 

 そうして、一分か、一時間か。

 短くて長い時間が過ぎて。

 

「……まだ、起きてる?」

 

 そう、訊かれた。

 

「……起きてるよ」

 

 答える。

 

 沈黙。

 しばらくして返ってくる、静かな声。

 それは微かに、だけど確かに震えていた。

 

「もしさ……前世の記憶があるって言ったら、信じる……?」

「……あるんじゃないか……そういうことも……」

 

 もしそうだったとしても今更、別に……。驚くような話でもない。

 この世に不思議なことがあるなんて、そんなこと……とっくの昔に彼女から教えられている。

 

「それで、僕の前世が、さ……」

「ん……」

「男の子だったら……嫌、だよね……?」

「……正直、どうでもいいかな……」

「……。そっか……」

 

 いつの間にか、彼女が体の向きを変えて、(サバキ)の背中に抱きついていた――いや嘘だ。大嘘だ。いつの間にかではない。彼女が寝返りを打つ瞬間を確かに認識していたし、結果として心拍数は無限に上昇している。首筋をくすぐる滑らかな感触の桜色の髪。仄かに温かい吐息。というか普段うつむきっぱなしで上半身の線が出ない着こなしばかりしていたので全然分からなかったが思ったより胸がある。確実に平均よりデカい。背中にぎゅうっと押し付けられる柔らかい感触。前世が男とかマジでどうでもいい。

 

 ……本当に、どうでもいい。

 

「ね……」

「ど、どうした」

「終わったら、また……一緒に遊びに行きたいな……」

「……。そう、だな……」

 

 彼女には見えているのだろうか。

 カーテンの隙間、窓の外。

 遠くに見えるあのときのビルが、今この瞬間、白金に染まっていくこと。

 

「だから、あした、からも……」

「うん……」

「ずっと……」

「…………」

「……ずっ、と……」

 

 彼女の声が静かになっていく。

 彼女の吐息が穏やかになっていく。

 

「……(キザミ)?」

 

 つい、小学生の頃の呼び方で呼んでしまって。

 だけど、返事は返ってこない。……眠ってしまった、のだと思う。

 

 (サバキ)の目も、微睡んでいる。

 このまま目を瞑って、幸せな穏やかさに身を任せてしまいたかった。

 

「…………」

 

 だけど。

 背中から回されている彼女の手をどけて、ベッドから静かに立ち上がる。

 

 彼女を起こさないよう、慎重に服を着替えて。

 スマートフォンと、使いそうな道具や工具を手に取った。

 この数年間で手ずから集めてきた、さして役にも立たない超常性アイテムもいくらか。

 最後に、机の上の物質具現機(マテリアライザー)を持ち上げて。

 

「……行く、かぁ……」

 

 情けない声を出して。

 ただのコスプレでしかない黒い衣装と、光るだけの光の剣を持って、家を出る。

 

 守部(もりべ)(サバキ)は主人公ではない。

 不可能を可能にすることはできない。

 奇跡を起こすようなことはできない。

 

 勝算も無いような相手に、それでも、と希望を信じて立ち向かっていくことなど出来はしない。

 

 ならば何故、今、自分はこうしているのか。

 

 勇気があるからか? 違う。

 正義があるからか? 違う。

 ただ愚かだからか? それも違う。

 なら愛の故からか? 残念ながら、それも違う。

 

 ではならばどうして。

 勝算も無いような相手に、こうして挑むことができるのか。

 

 答えは一つ。

 

 

 

 

 

 

 ――勝算が、あるからだ。

 

 

 


 

 

 

 それは、今までの何よりも穏やかな眠りだった。

 死の瞬間よりなお静かで、生の最初よりなお暖かい。

 

 その中で、一つの幸せな夢を見た。

 いつだったか幻視した穏やかな思い出。幼少の頃の彼と僕。

 

 世界の命運になんて全く関わりのない、どこにでもいそうな二人の子供。

 運命的な出会いなんて欠片も無い、仲が良いだけの幼馴染の少年と少女。

 

 御天(ミソラ)さんや『軍』に関わることなんてなくて、二人で普通に中学に上がって、高校生になって。

 身に宿っている能力なんて使い所もなく持て余して、迷惑そうな彼を振り回して物語に登場もしないような些細な超常性を冷やかして、ライトノベルに出てきそうな変な部活を作って二人で過ごしたりして……。

 そして……。

 

 …………。

 

 でも。

 そうだったとしても、そうはならない。

 そんなどこにでもいるような、どこにでもあるような絆、僕はきっと、信じられない。

 

 本物が欲しい。本物だけが欲しい。

 

 僕のことを本気で想ってくれて、本当に大切にしてくれて、本物の親愛を注いでくれる、物語の登場人物みたいな、本物の友達。

 本物の絆。

 そんなものじゃないと信じられないから、ここまでずっともがいてきた。

 

 ……だけど。

 この世界に、本当の友達は出来たけれど。

 

 僕自身は、本物なんかじゃ、なかったのだ。

 ――本物なんかに、なれやしなかったのだ。

 

 不遜にも太陽に手を伸ばして溶ける蝋の翼。

 主星に近づき過ぎて粉砕されてしまう衛星。

 

 僕には出来ない。出来ない。出来ない。出来ない。出来ない。出来ない。出来ない。出来ない。

 

 命を懸けられない。償いを果たすこともできない。やるべきことなんてまるでやれない。

 僕のせいなのに。

 全部、僕のせいなのに。

 僕は逃げてしまった。諦めてしまった。

 自分の責任で世界が滅茶苦茶になっていく実感が、あまりにも怖くて、辛くて……。

 

 ……目を、逸らした。

 全部、彼に委ねてしまった。

 

 本当は、僕だって。

 僕を本気で想ってくれる誰かと、同じように。

 

 誰かを本気で想いたかったのに。

 誰かを本当に大切にしたかったのに。

 誰かへ本物の愛を注ぎたかったのに。

 

 誰かのために、命を懸けたかったのに。

 

 僕はゴミだ。

 僕は何にもなれなかった。

 心底軽蔑して、憎んで、嫌った前世の彼らと、僕はなんにも変わらなかった。

 

 でも、もういい。

 彼が愛してくれるならそれでいい。

 僕はゴミだけど。クズだけど。何の役にも立たないけど。彼のために何もできないけど。何もしてあげられないけれど。

 

 それでも、もういい。

 

 ……もう、いい……。

 

 目を覚ます。

 二度の生の中で一番の安心感。

 静かで、穏やかで、幸福な気持ち。

 

 隣に彼はいなかったけれど、目の前で床に座って、壁に背中を預けている。

 

「おはよ……」

「ん、ああ……おはよう……」

 

 返事が返ってくるだけで、ひどく幸せな気持ちになる。思わず顔がはにかんでしまう。

 寝ぼけ眼を擦りながら布団から出て、彼のそばへと近づいていく。

 

「……えへ」

 

 起きたばかりの、曖昧な意識。

 隣に座って、肩に体重を預ける。

 

「ね……今日は、どうする……?」

「……どう、すっかな……」

 

 彼もまだ起きたばかりなのか、声がぼんやりとしている。

 込み上がってくる愛おしさ。彼の肩に寄りかかって、猫みたいに顔を擦りつけてみた。僕の方が寝起きで体温が高いからか、少し冷たく感じられる。もたれる僕の体重を支えようと、彼が反対側の床に手をついた。べちゃりと少し粘質な液体が跳ねる音。真っ赤なそれが、彼から借りたジャージに付着する。

 

 ……………………………………………………。

 

 ……え?

 

「さば、き……?」

 

 血。

 

 血が。

 血溜まりが。

 赤い血溜まりが。

 

 彼の、脇腹の辺りから、真っ赤な血が、零れて。

 

 なん、で?

 

「さ、(サバキ)……?」

「どう、した……(キザミ)……」

「っ――、」

 

 下の名前を呼び捨てにしてくれる。嬉しい。とても嬉しい。でも、なのに。

 こんなに嬉しいはずなのに、頭が、いたい。

 

「だ――大丈夫、なんだよね……?」

「ああ、まあ……でも、ちょっと……しくじった、かな……」

 

 彼は答える。そう答えてくれる。

 だけど、だけど。その瞳は、どうしようもなく虚ろでしかなくて。

 

「心配、すんなよ……」

 

 そうだ。彼は主人公――本当に?――なのだ。

 だからこんな傷、こんな程度の傷、こんな常人なら動けなくなる程度の傷、どうってこと、無いはずで。

 

「お前、は……(キザミ)は、ちゃん、と……」

 

 痛い。

 痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

 

 頭が、痛い。

 

 名前を呼ばれる度、内側から刺激される脳髄。蘇生される記憶。

 

 違う。

 違う違う違う。

 だって、だって彼は。

 

 彼は。

 

「ま……待ってて、今、何か……!」

 

 慌てて立ち上がって、体を棚にぶつける。

 高い棚の一番上から何かが倒れて、床に落下した。

 

 ……写真立て、だ。

 

 

 

 

 子供の頃の彼と僕が、写っている。

 

 

 

 

「――う」

 

 ……こんなの。

 

「……う、うう、ううううう……!!」

 

 こんなの、って。

 

「……(キザミ)……?」

 

 彼を取られたくないと思った。僕が彼のヒロインならいいと思った。数あるヒロインなんかじゃないメインヒロインになりたかった。二人だけで生きたかった。

 

 嬉しいのに。

 確かに嬉しい僕もいるのに。

 だけど、よりにもよってこんな。

 

 こんな、形で……。

 

 僕は、泣きながら、彼の手当をして、そして。

 

「ごめん、ね……」

 

 ロックの壊れた、記憶処理装置を、彼に向ける。

 

「待、て……」

「全部、本当に全部、僕のせいだったんだよ、ね……」

「ちが、う……待て……」

「もう巻き込まないから……嘘つかないでいいから……無理しなくていいから……傷つかなくていい、から……」

 

 傷ついて欲しく、ないから。

 だから。

 

「待ってくれ……(キザミ)……――!!」

「さよなら……(サバキ)

 

 白亜の光が瞬いて。

 彼の意識と……記憶が、失われる。

 専用のカートリッジを使った、長期記憶に干渉する特別な記憶処理だ。

 

「…………」

 

 僕は、本物になれなかった。

 僕は、何にもなれなかった。

 

 僕は世界を救えない。

 物語に何一つ関われない。

 運命をまるで変えられない。

 

 主人公のヒロインでも何でもない僕は、ただの在城(ありしろ)(キザミ)は、だけど、それでも。

 

 例えこの世界が滅んでも。

 例え誰に償うこともできなくても。

 例え、この世界に、主人公が存在しなかったとしても。

 

 それでも。

 

 ――彼のことを、失うわけには、いかなかった。



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12/ゲームオーバー

 頭の中が混沌としている。

 周囲の状況を把握することができない。

 

 ただ一つ分かること。

 何かが足りない。

 大切な何か。

 

 まるで、脳の一部を強引にもぎ取られたような。

 命ではなく、精神にとっての致命傷。

 

 自分が誰で、どういう人間なのか、まるで思い出すことができない。

 

 いや、分かる。分かってはいるのだ。

 自分の名前が守部(もりべ)(サバキ)で、普通の男子高校生であること。

 

 だけど。

 だけど違う。

 

 そうじゃ、ない……。

 

「……っ」

 

 横になっている状態から、体を起こそうとして、脇腹が痛んだ。

 血の滲む感触。周囲の誰かが何か、無理をするなだとか、声をかけてくる。

 どうにか支えられつつ体を起こして、辺りを見渡した。

 

 学校の……体育館だ。

 避難してきた人たちが集まっている。

 

 そうだ。避難だ。

 警報が発令されていて、竜巻がどうの気象災害がどうの言われていたはずだが……何だかピンと来ない。

 

 どうやら怪我をしてここまで運ばれてきたようで、何かのスタッフらしき人が慌ただしく動き周りながら様子を見ている。

 ただ、その内の何人かの顔に、見覚えがあるような気がした。

 

 ふと、ポケットから何かが零れ落ちる。

 訳の分からないガラクタだ。統一性も無く乱雑な。何やら大切に扱われていたような形跡があるが、何だってこんな物を後生大事にしていたのか分からない。その中の、表も裏も裏面の、何のために作られたんだが分からない十円玉を、指で弾いて掌に受け止める――表が出た。

 

「……ん?」

 

 何だこれ。

 いや、それも気になるが、それより掌に何か。

 文字が、マジックで書かれている。

 

 夕飯の献立と買い物メモだ。

 だが、カレーとチャーハンと焼そばぐらいしか作らないような(サバキ)が、わざわざこんなものを書くわけがない。

 

 だからこれは。

 

「暗、号……?」

 

 解読する。

 出てきた文は――、

 

「『企業の三船(みふね)さんにあの薬を貰え』……?」

 

 誰だ。というか、企業ってどこの企業だ。

 わけがわからないまま、近くにいたスタッフの人に「企業の三船さんを知らないか」と問いかけて、そして、その人が少し驚いたような顔をして……。

 

 小学生ぐらいの元気そうな男の子を連れた、どこか見覚えある男性の前に通された。

 

 あの時は手当てをしてくれてありがとう、とか言われたが、何のことだか覚えが無い。

 そう言うと、彼は逆に納得したような顔をして……ひと粒の錠剤を取り出した。

 

「恐らくだが――飲まない方がいい」

「はあ」

 

 わざわざ取り出しておいてそんなことを言わなくても。そう思って、曖昧な返事をしてしまう。

 

「きっと、君にとっては忘れていた方が良いことなんだろう。その傷も、そのせいで負ったものなのだと思う。……具体的なことは言えないが、しかし……」

 

 覚悟が必要なのだと、彼は言う。

 確かに、普通に考えてこんな怪しい薬、飲むわけも無い。治療十分理解合意(インフォームドコンセント)も何もあった話ではなかった。

 

「…………」

 

 脇腹の傷は今もズキズキ痛んでいる。泣きそうなほど。

 彼らの話によると、全治何ヶ月だかかかるらしい。

 これ以上痛い目になんて遭いたいわけもない。

 

 だけど同時に。

 

 これ以上痛い目になんて、遭うわけもない。

 

 そうも思った。

 

 今、ここに、胸の中に感じる、喪失感以上の痛みなど。

 

 だから。

 

 飲んだ。

 

「――――」

 

 ――()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そして思い出す。

 あの日聞いていたのだ。

 彼女の戦いを偶然目撃してしまって。

 出ていくかどうか、死ぬほど迷っていた物陰で。

 

 磁束結合(デッドコイル)との戦闘前、彼女が、三船さんに、そういう治療薬があると言っていたこと。

 

「…………」

 

 周囲の制止を振り切り、立ち上がって体育館を出た。

 激痛。曰く、安静にしていなければ命に関わるらしい。それもそうだろう。大体にして無理がある。体を起こすのさえ辛かったのに、歩く、走る、言わんや戦うなど。

 

 記憶を掘り起こしても、ここまでの傷を負ったことはない。

 せいぜい、違法刺激(ブラックドープ)との戦いの時が最大だ。

 

 ……そう。違法刺激(ブラックドープ)との戦い。

 街の外にある、あの時の地下施設。

 望みがあるとすれば、アレだ。

 

 ふらつきながらも、足を前に。

 物質具現機(マテリアライザー)は無い。恐らく、彼女が持ち去っていったのだろう。

 

 構わない。元々ただの高校生だ。

 そんなものが無くたって、大した違いでも無い。

 

 必要な物はただ一つ。

 

 彼女さえいれば、彼には何も要らなかった。

 

 


 

 

 楽しいことを考えようと思う。

 この戦いが終わったら、なんて、死亡フラグも良いところかもしれないけれど。

 

 結局のところ、やることははっきりしている。最初から。

 勝てばいい。勝ちさえすればいいのだ。難しいことは何も無い。そうすれば世界は救われる。

 

 司令官を助けて、御天(ミソラ)さんを助けて、(サバキ)を助けて。

 今までの過失を全て帳消しにしてみせて、責任を果たして……。

 そうなったら、もう『軍』もやめてしまおう。機密保持のために、超常性に関わる記憶の全部を消されてしまうかもしれないけれど、そうなったって構わない。

 

 前世の記憶さえ、もう要らない。

 そんなものは最初から要らなかった。

 男だったときの記憶なんて、むしろ邪魔なだけだ。

 僕が、在城(ありしろ)(キザミ)が、彼のことが大好きな女の子であったなら、他のものはもう何もなくていい。

 

 主人公じゃなくても、登場人物じゃなくても、彼は本物だ。本物なのだ。

 他の誰がそう思わなくても、僕だけはそうだって知っている。

 

 彼さえ居れば良い。

 何も知らない、覚えていない二人でまた学校に通えたならそれでいい。

 そうだ。これが終わったら今度からは一緒に登校しよう。朝は家まで彼を起こしに行こう。僕は彼の幼馴染の女の子だったんだから。朝ご飯を用意してあげて、学校までの道を一緒に歩いて。授業中にこっそり目でやり取りしたりして、昼休みだって一緒にお弁当食べて。放課後はどうしよう。今までずっと帰宅部だったから、同じ部に入って一緒に活動したりもしたいけれど、彼が部活動をする気が無いならそれでもいい。朝はそんな余裕が無いかもしれないけど、下校の時は手を繋いで帰ったり――彼女でも無いのにそれは変かな。なら告白しなきゃ。付き合うところから始めないと。彼は本当に魅力的なひとだから、そう簡単にはいかないかもしれないけれど、それでも。頑張って。努力して。

 

 彼の隣で、恋人つなぎで手を繋いで歩くのは、きっとすごく、幸せだと、思うから。

 

「ぜぇ、か、ひゅ……! ゔ、うう、あ、ああ……!!」

「傷が治っていくので勘違いしていましたが、流石に取れた腕を生やすことはできないのですね。でも大丈夫ですよ、世の中には片腕でも頑張って生活している人たちがいるんです。どんなに苦しい怪我を負って病を患っても、諦めなければ誰だって幸せになることができますから」

 

 そんな――そんなことを考えてないと、もう、耐えれ、ない、から。

 

 包帯がどうなんて、そんなレベルで済む話じゃもうなくなっていた。

 

 涙で視界を歪ませながら、僕は攻撃を連続で放つ。

 苦しい。苦しい。僕はとても苦しい。今までで一番のダメージだ。

 だから、攻撃の威力だって、今までで一番に、高くなっているはずなのに。

 

「ああ、もしもし。すいません、今少し立て込んでいて。ええ、大丈夫ですよ、大したことではありませんから。ふふ、そうですか。アリサもマイナも元気にやっているのですね。当然ですよ、カイリ。私はあなたたちの幸せを一番に考えているのですから――あの、申し訳ありませんが電話中なので静かにしてもらえないでしょうか?」

 

 なのに。弾かれる。片手間で。

 あいつ自身の力じゃない。攻撃力と殲滅力は凄まじいが、過剰曝露(オーバードーズ)自身の耐久力と生命力はそう大したものじゃない。

 

「で、りゃ、あああああああああ――ッ!!」

「おっと」

 

 攻撃に移ろうとした瞬間、奇襲をかけた虹崎さんの一撃に、体勢を崩され隙を晒す。

 

「ダメージ、バレット――!」

 

 失われた僕の腕から、その断面から、砲弾のように放たれる紅色の斬撃波。

 最大出力。斬撃とは言ったが、幾重にも重なって渦を巻いたそれはもはやドリルに近い。

 まともに食らった過剰曝露(オーバードーズ)の胸元に空く、風穴。当然ながら致命傷。ゲームでは質の良いボス用装備を身に着けていたが、現在の時系列ではそれが無いのだ。

 

 だけど、ヤツは平然とした顔で。

 

模範的な悪魔(デモニクス)よ」

『ああ。誰にする?』

「アリサ――は、まだ育ててから一年なので少し思い入れが足りない気がしますね。カイリで」

『承った』

 

 電話口の先から聞こえてくる、何かが倒れるような音。子供たちの困惑の悲鳴。

 

 そして、過剰曝露(オーバードーズ)の胸に空いた風穴が消える。治癒する。

 返す刀で爆裂した青い閃光が、既にボロボロの虹崎さんを吹き飛ばした。

 

「ああ、まだ十歳になったばかりだったのに。あの孤児院は年上の子たちが一斉にいなくなってしまったから、これからは僕がみんなの面倒を見るって意気込んでいたんですよ? ああ、もう彼に好きだったハンバーグを作ってあげることもできないのですね」

「う、あ、あ――!」

 

 巨大カッターナイフを渾身の力で――片腕だけど、それでも――振るう。

 

 昨日と今日、ずっと酷使されていたのだろう過剰曝露(オーバードーズ)の持っていた武器が壊れて、吹き飛ぶ。

 白金に染まりかけのビルを突き破って、ゴロゴロと転がる。

 

 だけど、ヤツが吹き飛んだ先に、避難している最中だった、母娘らしき女性と少女がいて。

 

「逃げ――ッ!」

 

 パチンと指を鳴らした瞬間、過剰曝露(オーバードーズ)の周囲に集まってくる怪物たち。

 包囲されて逃げ場が無い。母親が娘をかばって、その場にうずくまる。

 

「や、やめて……! 何でもするから、この子は、娘だけは――!」

「素晴らしい献身です。これほど美しい光景が他にありましょうか。この聖なる人々を決して失いたくないという気持ちが胸の中に溢れてきます。私が今抱いている感動はまさに計り知れません――()()()()()()()()()()()()()模範的な悪魔(デモニクス)

『承った』

 

 絶叫。

 全身の骨を二百六本、まとめて折り畳むような音が響いた。

 

 出来上がったのは、人肌で装飾された血と肉の大剣。

 ゲームでのランクなら、恐らく終盤の最強武器にも匹敵するだろうそれを抱え、修道女が僕に斬りかかる。

 

「ぐっ、う、ううううう……!!」

 

 いやだ。つらい。くるしい。ありえない。こんなのもういやだ。女の子が泣いている。

 

 振り回される一撃。青褪めた爆光を纏う核融合付与斬撃。

 無数のカッターナイフを津波のように具現化し放つ。

 が、海を裂くようにそれも切り裂かれて。

 

 ごっ、という鈍い大きな音。

 遅れて、響き瞬く爆轟。

 

 僕の体のど真ん中で炸裂するそれは、どこか遠くで起こったことのようにも思えて。

 

 浮遊感。眼下を高速で流れていくプラチナに染まった景色。

 白金化したビルに叩きつけられ、壁に蜘蛛の巣状の巨大なヒビが入る。ずる、と血を擦りつけながら壁面を滑った後、落下。地面に衝突。

 

 まるで、乱暴な子供に扱われる、玩具みたいな。

 

『さて、もうじきこの街の変換も終わるかな。『残基』の消耗も大きくなってきたころだろうし……本気を出していいよ、過剰曝露(オーバードーズ)

「あの子達を残基なんて言うのはやめてください、模範的な悪魔(デモニクス)。ともあれ、本気と言ってももう特に我々を妨害する方々もいなくなってしまったようですが。――『結社』主導で進めている紛争地帯への援助基金と、難病患者への治療支援と、万能薬の人工製造における極めて重要な発見と、災害級脅威存在の封印三つで」

『承った』

 

 青褪めた輝きが膨れ上がる。跳ね上がった力の桁は想像もつかない。

 一体、あの平然とした顔で、どれだけのほどのものを犠牲にしたというのか。

 

「…………」

 

 楽しい、ことを、考えようと、思う。

 この戦いが終わったら、なんて、死亡フラグでしかないけれど。

 

 また彼と一緒に出かけて。彼に頭を撫でてもらって。彼と一緒にご飯を食べて。彼に寄り添って甘えて。彼と同じ音楽を聞いて。彼に可愛いって言ってもらって。彼ともっと仲良くなって、彼に、彼と、もっと、もっともっともっともっと――

 

「――――」

 

 でも、それさえ。

 もう、要らないから。

 彼さえ居れば、僕には何も要らないから。

 

 僕が死んでも、彼が生きていてくれるなら、もうそれでいいから。

 死ぬなんて所詮、一度経験したことに過ぎないから。

 

 振るわれる一撃を、(おの)ずから受け入れる。

 

 致命傷。

 それを攻撃に変える。

 文字通り全身全霊のカウンター。

 右手から剣のように伸びて、命のように燃える、鮮やかなローズレッドの輝き。

 

 振り上げた一撃が、天地を両断した。

 

 爆発する赤の煌めき。

 まるで地震のような巨大な揺れ。

 

 即死ならばあるいはと思って放った、決死の斬撃波は。

 しかし。

 

「また罪の無い子供たちが犠牲になってしまったのですが。あなたは、命をなんだと思っているのですか?」

 

 通用、しなくて。

 

「……なんで……なんでこんなこと……! ふざけるな、命が大切だって言うなら、もう、やめろ、やめろよ……!」

「大切だからこそ、現状を良くしていかなければいけないでしょう? 現実はこのように厳しいものですが、ならばなおさら自分たちにできることは最大限の努力をもって成し遂げていかなくては。それが私の、ささやかながらも心からの願いなのです」

 

 過剰曝露(オーバードーズ)はずっと、きこえが良いだけのまるで意味の通らないことをほざいている。いいや、本人の中では何かしらのロジックが通用しているのかもしれなかったが、正気の人間に理解できる理屈なんかでないのは確かだ。どちらにしろ、言葉での話し合いなんて土台無理な話だった。

 

 丸っきり、一回目の時の焼き直し。

 

 頑張ってるのに。

 僕は、ようやく、命を、懸けているのに。

 でもだけど、それでもそれだけじゃダメなのだ。

 命を懸けるなんて、()()()()()、この世界の登場人物はみんな当たり前にやっていることだから。

 でも、僕にはこうやって戦う以外に何もできない。

 

 過剰曝露(オーバードーズ)が有している『代償』の総量は莫大だ。このままどれだけやっていたって、模範的な悪魔(デモニクス)との契約のシステムを断たない限りはどうにもならない。

 

 どうしたらいいのか、分からない。

 普通に考えて、こんな土壇場で逆転の秘策なんて思いつくわけがない。

 

 傷は深い。治癒が追いつかない。

 このままじゃ死ぬ。

 死んでしまう。

 ――それが、とても怖い。

 

 僕は当たり前に、死ぬのが怖い。

 一度経験したことだから耐えられるなんて、そんなわけがない。

 経験して分かることなんて、それが耐え難いということだけでしかない。むしろあの暗さを、苦しみを、絶望を、分かっているからこそ耐えられない。

 

 こんなところで死ぬのは嫌だ。こんなところで、死ぬのは嫌だ。

 しあわせになりたい。善い人生だったって思いたい。

 

 助けて、欲しい。

 

「……っ」

 

 命を懸けたはずなのに。

 それなのに。

 僕はまだ。

 

 ――もし、この世界に主人公がいるのなら、今、ここに来て欲しい。

 

 そうしたら、今ここで死んでも、何も構わないから。

 僕なんて、世界を救うための時間稼ぎをした、ほとんど犬死にの名前の無い誰かで、いいから……。

 

 霞んでいく意識の中で、少しだけ。

 君は物語の登場人物なんかじゃないってわかっているけれど。

 それでも、それでも世界を救う特別な誰かが、君だったならいいと。

 

 そう思った。

 

 

 

 

 

「――――――」

 

 

 

 

 

 そして。

 

 (サバキ)が、僕の目の前に、立っていた。

 

「……。え……?」

 

 なんで。

 記憶は消したはずだ。

 こんなところに来る理由なんて何も無いはずだ。

 

 だけど彼は立っている。

 顔を真っ青にして、体勢は不安定で、脇腹からは上着にまで血が滲んでいて、倒れそうになりながら、それでも。

 

とても手軽な借用書(ラヴ・キング・スピーク)……」

 

 あまり枚数の残っていない、ボロボロの回数券の束を、掲げる。

 

(キザミ)から、話は聞いてた……。お前らが吹っ飛ばした『軍』の施設で、予備を……」

「純粋な疑問なのですが、それがどうしたというんです?」

 

 血を吐くような声を、修道女が切って捨てる。

 

「今更それを使ったところで何か意味があるんですか? ほとんどが『価値あるもの』に変わったこの街をまるごと所有するために必要な対価は、もう誰にも払えな――」

「――この街は無理でも、お前の持っている『代償』の全てを所有することなら?」

 

 切り返す声。

 一瞬だけ、過剰曝露(オーバードーズ)が目を見開いたような気がした。

 

「『価値あるもの』を対価に世界全てを所有しようって言うぐらいだ……。この白金――『価値あるもの』は、先進国の国家予算を全て合わせたって所有し返せないほどの額なのかもしれない……けど、お前の『残基』さえ封じることができれば……」

「確かにそちらなら対価さえ用意すれば、まだ所有することはできるでしょう。ですが、私に命を預けている人々がどれだけいるか知らないようですね。それだけの対価、どの道用意することは」

「あるだろうが、『価値あるもの』が……。足元に、こんなに広がってる……」

 

 笑うように、修道女はため息をついて。

 

「ですから、この街は、この『価値あるもの』は私のものなのですから、」

「二丁目のビルのエレベーターは、隠しコマンドを打ち込めばこの街の外の地下施設に繋がる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「――――、な」

 

 今度こそ、確実に目を見開いて。

 過剰曝露(オーバードーズ)は、初めて絶句したような表情を見せた。

 

「他にも二十四箇所、俺が知ってる超常性エリアの全てを、昨夜の内にこの街の外に繋がるように調整しておいた……。その途中でお前が作った怪物にやられたけど……さっきこのゴタゴタに乗じて、『価値あるもの』に変わった土地の権利書を、不動産屋から盗み出してきた」

 

 千切って、掲げる。

 

「『とても手軽な借用書(ラヴ・キング・スピーク)』――特定の制限の下、適切な対価を支払うことによって、法律や契約、権利に倫理、あらゆる規則や手続きを無視して、一時的に対象を所有することができる超常性アイテム。今からしばらく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 返答の代わりに、修道女の掌から青白い爆発の閃光が溢れ出す。

 

 咄嗟に防ごうとした。だけど、間に合わない。

 臨界する青褪めた光が(サバキ)に向かって放たれて――狙いを逸れた。

 

『……磁……』

 

 過剰曝露(オーバードーズ)の持っていた電話から迸った、雷の獣。

 四足歩行の電磁力が、唸りを上げてヤツの腕に噛みついている。

 

 視界の端で、吹き飛ばされた虹崎さんが、通信機を持って苦痛混じりに笑みを浮かべていた。

 

『磁、磁……ッ!!』

「――邪、魔を」

 

 吹き散らされる。

 だけど、その一瞬の隙に。

 

「再現率3150%――ミサイル具現」

 

 昼空を斬り裂く流星が、過剰曝露(オーバードーズ)を叩き潰した。

 そして、その光に騎乗するようにして、落ちてきた人影が一つ。

 

「――こちら、星図製作(スターチャート)

 

 長い銀髪を風にたなびかせて、数年間寝たきりだったなんて信じられないような覇気のある表情で、真っ白な病院着を纏った鮮烈な少女が、通信機に向けて語りかけている。

 

「分かってるってば、司令官。っていうかあなたこそ寝てなさいよ、そっちまだ集中治療室でしょ。世界を救うのに必要だのなんだの上層部に適当こいて、万能薬ガメてさ。後でどうなったって知らないからね?」

 

 その上で「ま、もう勝ったようなものかもしれないけれど」。そんな風に言って。

 そして、彼女が――御天(ミソラ)さんが、こちらを振り返る。

 

「や、(キザミ)ちゃん。久しぶり――ってことも無いか。いっつもお見舞い来てくれてたもんね」

「み、御天(ミソラ)、さん……」

 

 嬉しくって、謝りたくって、感情がグチャグチャで、もうわけがわからなくって、涙が出た。

 

「ごめんなさい……ごめん、なさい……! ずっと、謝りたくて、あの時のこと、ずっと……!!」

「なんで謝るのさ――キミのせいじゃないよ」

 

 彼女は苦笑しながら言う。

 

「うん、私もずっと言いたかった。二百人だろうが二百一人だろうが何百人だろうが関係ないし、キミがどんな子だったって関係ない。例え何がどうだったって、私はキミを助けるんだからさ」

 

 片手を突き上げ、星の瞬きに似た光を迸らせる彼女の物質具現機(マテリアライザー)

 

「イメトレの時間は腐るほどあったからね。陰気臭くて悲痛なシーンはもうおしまい。こっからは私の私によるみんなのための痛快アクションってことで――張り切っていこっか!!」

 

 上空で具現化される無数のミサイル。

 それは無数の光の尾を引いて、流星群となって。過剰曝露(オーバードーズ)に向け一斉に落下していく。

 炸裂する輝きの軍勢。空の亀裂よりなお鮮烈に、星の光が空を引き裂いていく。

 

「こ――こんな、こと、が――」

 

 修道女が苦鳴をあげる。

 

「なんとか――なんとかしてください、模範的(デモ)な悪魔(ニクス)――。アリサもマイナもユウキもコウトもレインもセイラもハツカもクウナもハインもマリカもケイトもアリアもシルアもテイクもリキもライムもマルドも、私の大切なものは全て、捧げ、ますから――」

 

 しかしそれすら気にならないほどに、今の光景は、綺羅綺羅しくて。

 

 隣でふらつき、倒れそうになった(サバキ)を、僕は支える。

 彼は何かを言おうとしたけれど、喉に血が詰まって、苦しそうに咳き込む。

 

「だ、大丈夫……!? 無理しないで、喋らないでいいから……!」

「ッ……ああ、うん……。でも、さ……言ってなかったことが、あったから……」

「そんなの、後ででも――」

 

「――ちゃんと、告白してなかったな、って」

 

 そんなの。

 それこそ、後でも良かったのに――諦めてさえ、いたのに。

 嬉しくて……嬉しくて嬉しくて嬉しくて。僕は、頭が、真っ白になってしまって。

 

 ああ。やっぱり、彼が、彼こそがこの世界の主人公だった。『本編』なんて、力の有無なんて関係ない。彼は本当の意味でこの世界で誰より強くて負けなくて僕を助けてくれて何もかもを救ってくれる本当の主人公だと思っ、

 

 

 


 

 

 

 目の前が真っ白になった。

 

 

 


 

 

 

 何もかもが、吹き飛んでいる。

 視界の全ては炎に染まって、空さえもみんな紅い。雲も消えて亀裂だけが浮かんでいる。

 

『大切なものは全て捧げると言ったね』

 

 黒く焼け焦げた白金の街。

 その中心で、何かが、何かを、喰らっていた。

 

「な、ぜ――」

『どんなものも大切に思っている君が、一番に大切に思っているものはね――君自身だよ、過剰曝露(オーバードーズ)

 

 女が虚空に捕食されて、消え去る。

 

 そして、光臨。

 圧倒的な力の塊だった。

 サイズにしておよそ三十メートル。

 構造色によって仄かに彩られた人型の虚空。

 

 完全体になった模範的な悪魔(デモニクス)がそこにいた。

 

 これが さいごの たたかい だ。

 

 そんなメッセージが頭に浮かぶ。

 

 でも、本来ならヤツは終盤のボスだ。

 光臨と同時に炸裂した衝撃波。それによって吹き飛ばされた虹崎さんと御天(ミソラ)さんが既に復帰して戦いを挑んでいるが、まるで相手になっていない。

 

 虫を払うような雑な攻撃で、二人がまとめて吹き飛ばされて、地面に叩きつけられる。

 

 でも。

 でもそんなことは今は、どうでもよくて。

 

「――(サバキ)

 

 彼が。

 上半身しか。

 残って無くて。

 

 ……おか、しい。

 だってあんなの、ゲームだったら戦闘開始前のイベントムービーの、ちょっとした演出としてのボスの強さを表現するための攻撃に過ぎなかったじゃないか。あれ自体は攻撃なんてほど上等でもなくて、本当にただ魔王が魔力を真の力を発揮しただとか大魔王が現れただとかそういうものに過ぎなくて、実際虹崎さんも御天(ミソラ)さんもアレには簡単に対処して受け身もとって、僕だってそんなのでやられるわけなくて、だから彼が。

 本当の意味で主人公のはずの彼が、こんな。

 

 こんな。

 

 ただの、モブみたいに。

 

(キザミ)……あのさ……」

 

 普通の声だった。

 

「俺、お前のことずっと、特別な人間だと、思ってて、さ……」

 

 もしかしたら、本当はこの程度、なんてことないんじゃないかと思えるぐらいに。

 

「本当はそうじゃ、なかったけど……(キザミ)は、普通の女の子だったけど……でも、それでも、俺は……最後には……」

 

 静かだけど、それでもいつもの調子の声。

 

「最後には……(キザミ)が、世界を救ってくれるんだ、って……思ってる……」

「――――」

「だから、ずっと……こうやって、これて……」

「――――」

「お前のことが好きだから……お前を、助けたかったから……」

「――――」

「何もできないってわかってたけど……本当は……そう思ってるだけで、終わりたくなかったから……」

「――――」

「この気持ちが偽物だって……お前に、思われたく、なかったから……」

「――――」

「この世界に主人公が、いる、なら……俺は……お前がそうなんだって……思いたい、から……」

「――――」

「俺なんて、ほとんど、犬死にの……名前の無い誰かで、いい、から……」

「――――」

「世界を救う、特別な誰かが、お前、だったなら……」

「――――」

「おれ、は……」

 

 そして。

 

 守部(もりべ)(サバキ)は、普通に死んだ。

 

 運命的なんて言葉とは程遠く。

 劇的なんて言葉にもならない。

 

 主人公補正も、ご都合主義も、何も、何も、何もなく。

 

 

 ただ、死んだ。

 

 

「…………」

 

 歩いていく。

 もう誰も残っていない決戦のフィールドを。

 登場人物でもなんでもない僕がただ一人、主役みたいに。

 

『結局、この期に及んで、()は現れなかったな』

 

 仄かに構造色に彩られた、世界の敵の前に立って。

 

「――あ、」

 

 叫んだ。

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 能力によって、僕の、()()()()()()()が具現化する。

 背中から翼のように伸びて、血のように滴る、毒々しいショッキングピンクの輝き。

 

「殺して、やる……」

 

 それは超大に、噴き出すように、火口のように、地獄と繋がる扉のように、爆ぜて、爆ぜて、爆ぜて、何メートルも、何十メートルも、何百メートルも、どこまでもどこまでもどこまでも、闇色の光を炸裂させながら伸びていく。

 

『……バカな。これは……』

「僕が殺してやる……僕が、僕が、僕が、この、僕がッ!! お前を殺してやる!! 死ね!! 死んでしまえ、模範的な悪魔(デモニクス)ッ!!!」

 

 激突。

 振るわれる痛みの翼が、悪魔の一撃とぶつかり合って、世界に新たなヒビを入れる。

 

 闇と虹が大地を焼く。混濁したエネルギーが天を揺らす。

 飛翔して一秒に数百度もぶつかり合った。宇宙を砕くような衝撃の螺旋。あらゆる破壊を凝縮したエネルギーが、黒い光に変換されて地球を染める。

 

 悪魔が天球に輝く星の一つを炎の矢に変えた。押し寄せる大火力の壁。

 本来ならば、ゲームならば、ギミックを利用して回避するそれを、ただの力技で迎撃して斬り飛ばす。

 

 ショッキングピンクの翼が悪魔を打ち据える。

 殴りつけるような一撃が悪魔の体を白金のビルに叩きつけ、否、そのまま貫いて。

 

 物質具現機(マテリアライザー)から放たれる莫大量の禍々しい光。血の色を纏ったカッターナイフの刃群が、竜巻の如く僕の周囲で渦を巻く。大量の鋼の刃が、竜の形を取って牙を剥く。

 

「がッ――」

 

 噛み砕こうとする一撃を、ヤツはしかし打ち破って、僕に破滅の光を浴びせてくる。

 とても耐えられないような一撃を、しかし僕は耐えた。

 

 不可能を可能にした。

 だけどその事実は、とてもとても虚しくて。

 頑張ったことを褒めて欲しい人は、もういなくて。

 

 吹き荒れる翼が、力を増した。

 

 楽しいことを、考えた。

 楽しいことを、考えた。

 楽しいことを、考えた。

 

 その全てが苦しくて泣きそうで辛くてどうしようもなくて取り返しがつかなかった。

 だから、僕は勝てもしない相手と戦えた。

 

 一体どれだけ、そうしていたか。

 

 次第に体が動かなくなって。

 視界が真っ暗に眩んでいって。

 

 悪魔が掌の間でブラックホールみたいなものを作って、投げた。

 

「――――」

 

 避けられない。

 足が、もう、動かない――、

 

「ッ!」

 

 瞬間、横合いから飛び出してきた虹崎さんが、足裏からウォータージェットを噴いて、僕の体を抱き抱えながら飛び退いた。

 

 回避される直撃。しかし、ブラックホールが引力を生じて、僕たちの体を飲み込もうとしてくる。

 

「――行って!」

 

 攻撃から逃がすように、僕の体が投げ飛ばされた。

 飛翔したミサイルに立ち乗りした御天(ミソラ)さんが、僕を受け止めて、引力に飲まれないように、否、引力を利用して加速しながら、ブラックホールの脇をかすめて、悪魔に向けて飛んでいく。

 

 痛みの翼が収縮する。ショッキングピンクの輝きが僕の掌の上で凝縮する。

 右手から魔剣のように輝いて、死の如く噴き上がる、禍々しいシグナルレッドの輝き。

 

 悪魔の力が縮退する。星雲を加工して生み出したような銀の刃が作られる。

 左手から聖剣のように煌めいて、人の如く呪われた、神々しいスターシルバーの輝き。

 

 斬り上げる。

 斬り下ろす。

 

 二つがぶつかって、天地が両断される。

 

 押し負ける。勝てない。咄嗟に御天(ミソラ)さんを蹴り飛ばし逃がす。

 だが、見れば、あまりのエネルギーに、悪魔の体も崩壊を来たしている。

 例え僕がこのまま消し飛ばされたとしても、こいつも道連れだ。それは間違いない。

 

 ……なら、いい。

 だったらもう、いい。

 

 何か、とても凄いことができたのだと思う。

 世界を救って、誰かを助けることができたのだと思う。

 

 僕は御天(ミソラ)さんに償えて、本当に価値のあることができて、誰かにとっての何かであれて、本当のものを築くことが、できたのだと、思う。

 

 でも。

 ずっとそうでありたかったそれは。

 

 何もかもが、くすんでいて。

 

 だから。

 

 だけど。

 

「――――」

 

 これこそが、彼が僕に遺してくれたものなのだ。

 

 出力が限界を越えた。

 

 血色の剣が悪魔を斬り裂いて、本物の虚空へと還していく。

 それに表情があったわけではないけれど……納得がいかないような、困惑したような感情を浮かべて、消えていく。

 

「う……」

 

 勝った。

 勝利した。

 

 だけど、こんなの。

 

「さば、き……」

 

 涙がぽろぽろと零れて、僕の落下する軌跡を少し遅れて辿っていく。

 

 そして、僕は墜落する。

 

 もう、彼の居ない街へ。

 

 


 

 

 どことも知れない場所だった。

 

『…………』

 

 物語の行間のような、誰にも語られない場所で。今まさに消えいくそれは、模範的な悪魔(デモニクス)は、ただ黙ってそこにいる。

 

 ふと、そこに、音も立てずに歩んでくる男がいた。

 

『何……?』

 

 黒い。夜の闇に溶けるような姿だ。真っ黒なコートに、真っ黒なフルフェイスのヘルメット。

 加えて、何かの合金できていると思しきプロテクターが、それらを意味があるのかないのか分からない配置で鎧っている。

 

 彼は光の剣の代わりに、ボロボロになった回数券を掲げて、何か重要な――この世界にとってとても大切な何かを代償に、模範的な悪魔(デモニクス)そのものを借用する。

 

守部(もりべ)(サバキ)……。何故――いや、そうか』

 

 そして、彼は言う。

 

「――俺の力と運命、そして存在。この身に纏わるありとあらゆる物語の全てを生贄に捧げる」

『それと引き換えに、君は何を求める?』

「そんなものは、決まっている」

『そうか。承った』

 

 行使される一つの契約。

 自身が消失していく中、悪魔は、なんてことのない雑談のように少年に向かって問いかけた。

 

『だがいいのかな。まだ君が打ち倒すべき脅威はいくつも残っている。主人公がいなくても、世界がこれから続いていけると?』

「構わない。ここでゲームオーバーだ。もうこの世界の主人公は俺じゃない――あいつらだよ」

 

 そうして、どこにでもいるような普通の男子高校生を救って。

 

 世界を救う特別な誰かは、この世界から消え去った。

 

 


 

 

 ここまで全部、夢だったらしい。

 

 僕は目を覚ました。

 見慣れない天井だ。いいや、見慣れた天井だ。

 机の上には、包帯も薬も置かれていない。部屋の収納には野暮ったい男物の服が吊られている。

 床にゲーム機があって、その隣に、例のシリーズのパッケージが転がっていた。

 

 そう。

 

 (サバキ)と時々遊んでいる、大乱闘のやつだ。

 

「う~……」

 

 布団から出て、カーテンを開ける。

 出かける用意をするために、まず顔を洗った。

 

 鏡に映る僕の顔は、いつもと同じ、ピンク髪の女の子だ。

 

 片腕で簡単な朝ご飯を用意するのにも大分慣れてきて、支度が大体終わった頃、(サバキ)が朝のランニングから帰ってきた。

 

「……なんで普通に俺の家いるの?」

「居たらだめ?」

「ダメじゃないけど」

 

 ふと、夢の内容を思い出してしまって、彼の胸元に飛び込んだ。

 汗臭いまま抱きつかれるのを彼は少し嫌がったけれど、僕は別に構わない。そりゃ、男の汗の匂いなんて前までは僕だって嫌だったけれど、(サバキ)のなら別だ。

 そういうところ、自分が段々女の子になっていってる感じがして、ちょっと、嬉しい。少し変態っぽい気もするけれど。

 

 普段ならシャワーを浴びるまではこんなことはしないので、彼が少し疑問に思った顔で僕に問いかける。

 

「……何かあった?」

(サバキ)が夢でモブみたいに死んでた……」

「おう……まあそうなっても何もおかしくはないけども……」

 

 む、と睨む僕に、彼が気まずそうな顔をした。

 

「いや、でもだから最近こうやって鍛えてるんだろ」

「だからって彼女との時間減らしてまでジム通ったりしなくてもいいじゃん」

 

 ぶーぶー言いながら食卓について、朝食を摂る。

 あの時の戦いで僕は片腕になってしまったので、ご飯は彼に食べさせてもらう。別に全然一人で食べれるしというか『企業』で作ってもらった高性能な義手があるから日常生活にももう特に支障は無くなっているし何なら戦闘も全然できるけれど、それでも片腕なので食べさせてもらう。

 

 ……でも、確かに。

 なんであの時彼が死ななくて、なんで僕が勝てたのか。

 正直なところ、今でもよくわからない。

 

 普通の人間である僕たちに、運命が味方したなんてそんなことは、思わないけれど。

 味方してくれるものがあるとするなら、それは神や運命なんかじゃなく、きっと優しいどこかの誰かだ。

 

 着替えて、学校に登校する。

 その途中。通学路の途中で、御天(ミソラ)さんと出くわした。

 

「あのね(キザミ)ちゃん。別にさん付けじゃなくてもいいのだけど? そもそも同級生でしょ」

「でも俺も四回留年して既に成人してる人を呼び捨てはどうかと思いますよ」

「おい守部(もりべ)。おい。私はいいけど(キザミ)ちゃんが後ろめたさで泣きそうになってるんだけど。責任取って腹を切りなさい」

 

 僕達の四歳年上で、四年入院していた御天(ミソラ)さんは現在、僕達と同級生だった。

 万能薬が老化にも効いたのか、それとも御天(ミソラ)さんが元々童顔なのかは分からないが、正直二十歳とは思えない。

 こんなことがあったのに、もう精力的に活動し始めている彼女は本当に強い人だ。

 本当ならあのことを償うべく一生かけて公私ともに尽くさなければならないと今でも重々思っているのだが、御天(ミソラ)さんは自分のために生きていいと言ってくれている。……十代の四年間を失った重みが、そんな簡単に割り切れるわけがないのに。

 

 司令官は今もまだ入院中だが、近々復帰する予定らしい。この間会った時にそう聞いた。……最近は、お見舞いに行くのにも抵抗感が無くなってきた気がする。

 僕としてはもっとみんなゆっくり穏やかに平和に過ごして欲しいし、そのために必要なことは何でもするつもりなのだけど。

 

 せめて彼女の負担を減らすべく、任務の方を頑張ろうと思っている。

 まあ、最近は脅威存在の発生も落ち着いてきたし、任務を抱えても御天(ミソラ)さんが勝手に取っちゃうので困っているのだが。

 

 お昼は虹崎さんと会って、四人一緒に話している。最近はここ四人でグループになっている感じだ。男一、女三。(サバキ)からすれば黒一点状態である。男としては嫉妬するし、女としても嫉妬する。困った、良いことが無い。まあそれはそれとして。

 

「あの人、外に出る許可が降りたんですか?!」

「うん。電気の制御も出来るようになってきたし、お腹刺された傷も治ったしね。……ま、それ以外の問題も色々とあるけどさ」

 

 何もかもが都合良く、解決したってわけじゃない。

 世界規模の脅威存在を討伐し、『軍』での地位を取り戻したって言っても、それでも立場として不安定なことには変わりない。いや、むしろ立ち位置としては前よりも難しくなっている気もする。

 

 でも、前とは違って、今はもう一人じゃない。

 

 やれることは、増えている。

 失敗も、挫折も、未練も、少しずつ。

 ゆっくりだけど、取り返していっている。

 

 そして、学校が終わって……。

 結局部活には入らないまま、二人で隣を歩いて下校して。

 

 別に、片腕でも、恋人繋ぎはできるから。

 

 そうして夜は、街に繰り出す。

 ――『軍』のエージェント見習いである、(サバキ)と一緒に。

 

 ……二人で記憶処置を受けて、誰でもない誰かに戻るって道も、確かにあったのかもしれない。

 だけど僕らは二人とも、何かに、なりたかったから。

 例えそれが勘違いやすれ違いの結果で生まれた願望だったのだとしても、きっと、ようやく、何か、形の無い何かに、少しずつでも近づけていっていると思うから。

 それを手放したくないって……二人で一緒に、思えたから。

 

 僕らはまだ。

 今も、特別な何かに近づくために、戦っている。




これにて完結です。三ヶ月の間、応援ありがとうございました!
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