【完結】それでも死にたくないな、と貴方は笑って言ったのだ。 (しゅないだー)
しおりを挟む

#1 眠りに就くにはまだ早く

 

 

 十八の歳にお前は贄になるんだよ。

 貴い御方の血肉となって、次の百年まで芥屋を栄えさせるんだ。

 

 物心付いた時からずっとそう言われ続けていたからだろうか、さして抵抗感はなかった。"贄"とは何を指すのか理解できるようになっても、まあそれで良いだろうと思っていた。自分一人の命程度で一族がまた百年安泰ならば、それは釣り合いが取れているのを通り越して儲けものだろう。

 ただ。

 

「えっと、あの……頭を上げてもらっても……? っていうか誰!? ここどこ!?」

 

 ただ、その相手がこんな華奢な少女だとは聞いていなかった。

 色素が薄いのか雪を思わせるような透き通るような肌に、少し乱れた白髪は絹糸を思わせた。不安げに辺りを見回す様は、どう理屈を付けても歳相応の女の子にしか見えない。

 これが本当に、昔から言い聞かせられていた自分を喰らう祟り神なのだろうか。というか、それよりも。

 

 この胸の高鳴りは何なのだろうか。顔がやけに熱く感じるのはどうしてだろうか。

 

 喰われる覚悟はとうの昔に決めていた筈だ。なら、何故さっき自分は一瞬死にたくない(・・・・・・)と思ってしまった? 

 何一つ分からないまま、腕の中の彼女をそっと抱き直す。そうしていなければ、何だかこの手から滑り落ちてしまうような気がして。

 

 

 

 

 

 

 それが恋だと気付いた時には、もう手遅れだったのだけれど。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 自分について一言で説明するならば、一般的な男子高校生と言う他ない。

 彼女は生まれてこの方いた試しがないが、友人は多少いる。数学は割と得意だが英語は壊滅的で、模試では下から数えた方が早い。

 強いて変わった所を挙げるならば、生まれ育った家が少々特殊であるという事くらいだ。

 

 それは年明けから程なくしてのある日の事だった。冬休み中の補習に友人と参加した帰り、途中で何か食べて帰ろうかと話していた時。

 ポケットの中で鳴った通知音に少し顔を顰めながらもスマホを取り出し、画面を眺める。それが"仕事"についての連絡だと理解すると、すぐに電源を落とし自転車のペダルに足を掛けた。

 

「悪い寅地(トラジ)、バイトが入ってしまった。また今度な」

 

「またかよ、そんなクソみたいな臨時シフト入れるバイト辞めちまえよ。じゃあこの後一緒にパチ打ちに行く約束は?」

 

「していない。高校生らしく大人しく家で勉学にでも励んでいろ」

 

 膨れる友人に今度埋め合わせの約束をして指定された現場へ、夜の始まりを告げるチャイムに急かされる様に自転車で急ぐ。

 到着した時には既に辺りに止まったパトカーのサイレンが喧しく鳴り響いていた。自転車を適当に停めて野次馬の間をすり抜ける。

KEEP OUT(立入禁止)』と書かれた黄色いテープを潜ると、それに気付いた制服の警官が駆け寄ってきた。まだ新人だろうか、若いだろうにその顔付きからは疲労が滲み出ている。

 

「何やってんだ君! 早く出ていき……」

 

 唾を撒き散らしながら捲し立てる警官の肩に、ぽんと皺の刻まれた手が置かれる。初老に差し掛かろうかというコートの男が彼に二言三言話すと、幽霊でも見たかのような顔をこちらに向けて警官は去っていった。

 

「ああ、半年ぶりくらいか? 新年早々悪いな一砂(イッサ)、急に呼び出しちまって」

 

「お久しぶりです、金本(カナモト)さん。家のお務めですから貴方が気にする事ではありません」

 

 金本という名の刑事は「相変わらず可愛げないな」と呟きながら歩き始める。最近禁煙を始めた、と語る彼の指は物欲しそうに擦り合わされていた。

 

「『女が暴れてる』って通報が入ってな。署の若いのが何人かで行ったらしいがすぐに応援要請だよ」

 

 そんな話を聞きながら、腹を布で押さえて呻いている警官の横を通り過ぎる。じわりと溢れ出している血はその傷の深さを物語っており、顔の裂傷はまるで何かに喰い千切られたかのようだった。

 

「大の大人が数人がかりで押さえ込んでもどこ吹く風、挙げ句の果てに素手で腹を裂かれた奴までいる。あれはお前らの管轄だろ?」

 

 まだ少し遠くではあるが、漂ってくる禍々しい雰囲気に立ち止まる。特有の獣臭さとさっき聞いた特徴から、(おおよ)そ相手が何であるか絞れた。

 

「狐憑きですね。あの人も運が悪いな、相性が良い。これほど定着しているのは中々お目にかかれませんよ」

 

 そう自分が指差した先には恐らく喰い千切ったのであろう、まだ血の滴る猫の首に嚙り付く女性の姿があった。その顔は醜悪に歪み、此方の声が届いている様子もない。端的に言って正気を失っている。

 

「分からねえよ、とにかくだな……どうにかできそうか?」

 

「あれぐらいならまだ外せます。一応聞いておかなければいけないんですが『伊勢(イセ)』や『水無(ミズナシ)』には声を掛けていますか?」

 

「いいや、俺は『芥屋(アクタヤ)』一筋だからな」

 

「有難いですけど、おじさんに口説かれてもぞっとしませんね」

 

 軽口を叩きながら学ランの第一ボタンを留め、ゆっくりと女の方へ歩き出す。此方に向かって威嚇するように歯を剥き出しにする姿は、もはや人よりも獣に近付いていた。

 円を描くように、左の掌を指で軽く撫でる。

 

「──(オン)

 

 そう唱えた瞬間、撫ぜた部分が(にわか)に熱を持って脈打ち始めた。それを察知したのか、女が半歩後ずさる。これが何かを理解している訳ではないのだろうが、距離を取るのは正解だ。野生の勘というものは中々捨てたもんじゃない。

 ゆっくりと足を進める。それと同じだけ相手が後退する。

 後ろが袋小路である事を理解したのか、自棄になったかのように手近にあった物を女は蹴り飛ばす。人の膂力では有り得ない速度で飛んでくる異物を、何とか右手で捌き切りながらひたすらにただ前へ。

 

 だが、ポストが根元から折れる(・・・・・・・)のが見えた時には流石に肝を冷やした。瞬間、赤い鉄塊が異様な勢いで此方に吹っ飛んでくるのを流石にこれはどうしようもないと、転がるようにして何とか避けた。

 

 効果は無いと悟ったのか四つん這いになり唸り声を上げる女に対して、半身に構える。涎が滴り落ちる口から覗くのはもはや歯というよりも牙だった。

 時間にして数秒程だろうか。痺れを切らした相手が、爪を振り乱し飛び掛かって来る。当たれば深手は免れないが、如何せん獣の動きだ。

 

 単調が過ぎる。

 

 一撃を躱しざまに、掌底を女の腹部に叩き込んだ。泥を叩くような嫌な感触が手に伝わる。

 一瞬の沈黙の後、鼓膜が割れるのではないかと思う程の金属音にも似た断末魔が辺りに響くと女は勢い良く嘔吐し始めた。

 まるで憑き物が落ちたように、その表情から毒気が抜けていく。倒れ伏した彼女を警官に任せ、その場にしゃがみ込む。

 目を凝らせば吐瀉物の中に一匹、異様な気配を放つ細長く黒い蚯蚓(みみず)が蠢いていた。

 狐憑きの正体であるそれを摘むと、一思いに握り潰す。溝をさらったような生臭さが辺りに漂う中、金本さんの方へ向き直る。

 

「終わりました。四ツ足の類は特に身体に負担がかかるので、なるべく早く病院に連れて行くのをお勧めします」

 

 一通り伝達事項を述べると、家に連絡を入れる。この後は今回の目撃者に対する事後処理部隊が来る手筈になっていた。彼らに引き継ぎを済ませれば、晴れて本日の仕事は終了という訳だ。

 緊張で筋張っていた身体を伸ばしていると、金本さんに何かを差し出された。目を向ければ少し縒れた一万円札が風に靡いている。

 

「報酬は上の方でやり取りされている筈ですが」

 

「受験生っつったら何かと物入りだろ。小遣いだよ」

 

「自分は大学には行きません、家業を継ぎますので。ですから気を使って頂かなくても結構です」

 

「……頭は悪くないのにな、勿体無い。ま、何にせよ卒業旅行くらい行くだろ。取っとけ」

 

 無理やり学ランのポケットに皺くちゃの紙幣をねじ込まれる。これ以上断るのは失礼に当たる、仕方無く頭を下げて受け取ってその場を後にした。

 どうもあの人は自分の事を孫か何かと重ね合わせて見る癖がある。近くにいた警官達の、化物でも見るかのような視線の方がまだ慣れているような気がした。

 何となく感じるこそばゆさに首を竦めると、家路を急ぐ。

 

 

 

 

 

 

 

「……あれ、何なんですか?」

 

「俺も詳しくは知らんがね、まあ適材適所って事だろ。俺達が相手するのは人間、それ以外のはそういう連中(・・・・・・)に任せてりゃいい」

 

「いや、そうじゃなくて、あの子供は!? 大の大人が束になっても何もできなかった相手に、あんなのまるで、あの子の方が余程……!」

 

 金本は聞きたくないとでも言うように指を一本立てた。

 

「あいつは人間だよ。ちょっとそういうのが得意な家に生まれたってだけのな」

 

 忌々しさにも似た不機嫌そうな声は、夕暮れの橙色に解けて消えていった。

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 引き継ぎを済ませ帰宅した頃にはすっかり日が暮れていた。スマホにはさっきのドタキャンに対して不満気な友人からのLINEが来ていたが、一旦無視する事とする。それよりもまず、今日の仔細について父へ報告する方が先だった。マフラーを解き、乱れた髪を軽く直しながら廊下を歩く。

 

 

 ガス燈が電灯に変わっても、人の噂話がSNSに取って代わられても。

 妖怪変化と呼ばれるものは確かにそこに存在している。悪魔や怪物など呼び方は多数あるが、自分達の業界ではそれらを『怪異』と呼んでいた。

 基本的に世間一般でイメージされる妖怪と大差はない。

 

 ただ一つ違うのは、あくまで怪異はそれだけでは何も成し得ない(・・・・・・・)という事だ。先の狐憑きのように小さな蚯蚓であったり他にも見た目は様々だが、単体では無害だという点で共通している。

 厄介なのはそれらが人に取り憑いた時だ。

 宿主の理性を失わせると同時に、時にはその形すらも変えさせ人外の力を与える。そうなってしまえば、自分達に取れる手段は限られている。

 

 取り憑いている怪異を宿主から追い出す『外し』。

 取り憑いている怪異ごと宿主を殺す『刈り』。

 取り憑いている怪異を宿主に縛り付ける『封じ』。

 

 そして自分の生家である芥屋家は、その中でも代々"外し"の技術を研ぎ澄ませてきた怪異祓いの旧家だ。

 その時の権力者に雇われ、一般人の手には負えない怪異による被害に対処する事で生計を立ててきた。今であれば警察から依頼を受け、その地域や規模に応じて一族の者を派遣する形になっている。

 そういった家系は他にも複数あるが、中でも芥屋は伊勢や水無という二家と引っくるめて御三家などと呼ばれていた。父や他の親戚は自分達が図抜けていると思っているらしいが。

 

「それで、今回の首尾は?」 

 

「狐憑きが一人、恙無く外してきました。経過も問題ないらしいです」

 

「良い出来だ。芥屋は伊勢のような畜生とも、水無のような無能とも一線を画していなければならん」

 

 父が満足そうにしている事は喜ばしいが、他家とはいえ同業者の悪口はあまり愉快ではない。適当な理由を付けてその場を後にしようとする自分の背中に、父の恍惚とした声がぶつけられた。

 

「嫡流にも負けん稀代の才能。ああ、お前は本当に私の誇りだ……きっと良い贄になる」

 

 何度となく聞いた言葉に頭を下げると、静かに襖を閉めた。

 幼い頃から言われてきたが、自分にはどうも怪異祓いの才能があるらしい。実はあれだけ偉そうなことを言っておきながら、父は庶子でしかない。ただその父から生まれた自分には光るものがあったらしく、一族の中でも稀代の才能だと褒めて頂いている。

 

 そして昔から自分達(芥屋)には、まるで呪いのように言い伝えられている言葉があった。

 

 百年毎に芥屋の最も才ある者を捧げよ、と。

 

 そもそも自分達のように道具も持たず、己の肉体だけで怪異に挑むという祓い方は同業者からしても普通ではないらしい。まあ確かに映画を見ても、妖怪退治や悪魔祓いには式神やら聖水やら大体何かしらの小道具を使っている。

 では何故自分達にそんな事が可能なのか。その理由は至極明瞭だ。

 

 芥屋の血を引く者は押し並べて皆、呪われている。

 

 初代が悪名高い祟り神の一柱を封じてからの事らしいが、子孫である自分達にもずっと昔からある種の呪いが刻まれている。

 だが先祖達はそれを抑え付け、苦にするどころか更なる活用法を見つけ出した。具体的にはその呪いを取り憑かれている人間に流す事で、強制的に怪異を引き剥がし──祓う方法を編み出したのだ。磁石の同じ極同士を近づけたら弾き合うのと同じような理屈らしい。

 そしてその呪いは芥屋にしか効果がないため、結果的に無傷で人を救えるという訳だ。

 

 だが、年々その呪いは強まりつつある(・・・・・・・)。祟り神の封印が年月の流れによって緩んでいるのが原因だと聞く。一族の中でもまだ耐性の低い幼子などでは、既に気が狂ってしまった者もいるとか。

 それを抑えるために必要なのが神に捧げる贄で、当代においては自分らしい。

 嫌ではないのか、と問われれば微妙な所ではある。毎日が楽しくないわけではないし、たぶんこれから先も生きていればもっと胸踊る事があるのだろう。

 しかし庶流に過ぎない自分が当代一の才能と讃えられて、おまけに一族の繁栄までもたらせる機会などそうない。

 家では厳格な態度を見せている父が集まりで本家に行った際、自分よりも歳若い当主に(へりくだ)って頭を下げる様を何度も見てきた。

 芥屋ではそれくらい、本家と分家の間に埋められない差という物がある。

 自分の一砂という名前も『一粒の砂に過ぎない』という戒めを込めて本家の人間に名付けられたらしい。

 要は自分の立場を弁え、あまり図に乗るなという事だ。

 

 そんな中で、本家の人間を超えて自分が贄に選ばれたという事実は父にとってはさぞ誇らしかっただろう。幼い頃から『お前はきっと良い贄になる』と言い聞かせてきた父を責める事は誰にもできない。

 

 つまりこれは(くじ)のような物で、当たったのがたまたま自分であるだけだ。であれば与えられた力とその責務を全うする。

 とどのつまり、そういう話に過ぎない。

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 儀式の日が来ても、特に感慨はなかった。味噌汁と焼き海苔、白米で朝餉を済ませる。拍子抜けするほどいつもと変わらない、なんて事のない味だった。

 もう行く事もないため、高校へ欠席の連絡を入れる事もせずに本家の屋敷へ父と向かう。自動車の窓からいつもの街並みを眺めながら、ふと思い立って寅地に『さよなら』とLINEでスタンプを送る。

 小学生の頃からの付き合いで、"バイト"が忙しくすぐに友達を無くしていた自分にとって唯一親友と言える相手だった。これで少しの心残りもない。人生最後の昼寝でも楽しむか、と目を閉じた。

 

 

 

 

「一砂君、久しぶり! 元気してた? 何か食べたい物とかあったら作らせるよ」

 

 目が覚めた瞬間、張り付けたような笑顔が視界一杯に入り込んでくる。矢継ぎ早に話しかけてくる様にただでさえ寝起きの頭は朦朧とした。

 

「いえ違明様、もう既に一砂には身支度を済まさせております。いつでも、贄に」

 

「誰だっけ、君」

 

 氷のような視線が、その言葉は冗談ではないと示していた。本家にとっては分家の人間など目を引くような才能でもなければ、名すら覚えてもらえない。

 

「……一鼠(イッソ)でございます」

 

「あーそうそう、一鼠君だった。じゃあ準備も出来てるらしいし始めようか」

 

 そう言いながら、男は後ろに広がる鬱蒼と茂った森の中へ足を踏み入れた。

 

 芥屋(アクタヤ) 違明(イメイ)

 まだ三十そこそこでありながら当主となった、本家の実力者だ。

 

 当主直々の案内を受けながら、じっとりと湿った枝葉を掻き分けながら進む。本家が管理しているこの森の奥に、その社はあるという。

 

「依代を封印するのに場所は関係ないんだけどね。管理が面倒臭いから十二日後にはここに戻ってきてくれると助かるよ、前の贄は無理だったからわざわざここを買い取らなきゃいけなかった」

 

 飄々と告げる当主の言葉が引っ掛かった。

 

「十二日後? 自分は今日、贄になるんだとばかり」

 

「ごめん、それ内緒にしてたんだ。そして着いたよ」

 

 未だに仔細を伝えられていなかった事に対して憮然とすると同時に、何があるのかとも困惑していた。しかし立ち止まった当主が指差した物に目を向けた瞬間、立ち尽くす。

 

 人ほどの大きさだろうか。透き通るような透明な石が大樹の下に鎮座している。鼓動を打つかのように不規則に揺れるその中には、一糸纏わぬ少女が眠っていた。

 

 血を垂らして、と小刀を渡される。振り向けば父と当主はその石に向かって跪いていた。

 深く息を吸う。十八年間言い聞かされてきた役目が終わるのだ。左の掌を刃ですっとなぞる。軽い痛みと共に滴り落ちる赤い雫をその石に落とした瞬間、石だと思っていた物がどろりと溶け出した。慌てながらも二人に習い、跪く。

中に閉じ込められていたのであろう少女は立ち上がると、跪いて頭を下げている自分達に目を向けた。鈴を転がしたような、軽やかな声が響く。

 

 

 

 

 

 

 

 

「えっと、あの……頭を上げてもらっても……? っていうか誰!? ここどこ!?」

 

 少女は本当に心の底から困惑しているようだった。キャパが限界を迎えたのか、目を回して倒れる彼女を咄嗟に抱きとめる。柔らかくて、今にも潰してしまうのではないかと不安になった。

 どうすればいいのか、と当主に視線で訴えかける自分に彼はあっけらかんと言い放った。

 

「君の役目は変わらない、でももう一つ仕事があってさ。この十二日の間で、彼女とできるだけ仲良くなってもらいます」

 

「……は?」

 

「だって一砂君が生真面目なのは芥屋なら誰でも知ってる。そんな君に前もって伝えておいたら絶対にこの子の事を単なる祟り神としか見られないでしょ? それじゃ駄目なんだ」

 

 そう言われて、腕の中の少女に目を落とす。すうすうと立てている寝息は本当に人のようで。

 

「君には彼女を普通の女の子として大事にしてもらう。時間をかけて、彼女にとっても君が大事な物になるように。そうして初めて、君が喰われる事に意味が生まれる」

 

 何と言えばいいかも分からず、天を仰ぐ。何処までも透き通るような青い空。抱えた腕の中で確かに聞こえた命の音。

 

 それが自分と彼女(心依)の、最後の十二日間の始まりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

#2 貴女に名前を付けるなら

 

 

 彼女が目覚めたのは帰りの車の中だった。神様というものは車で送り迎えできるという事をこの歳になって初めて知った。

 同じ後部座席の隣に座っていたからか、彼女は毛布に包まりながら自分に尋ねる。

 

「だ、誰……?」

 

芥屋(アクタヤ)一砂(イッサ)と申します。そうですね、これから暫く貴女のお世話をする事になる者です」

 

「そう……ですか……じゃあ、あの、私って誰……?」

 

 自分が『何』なのか、分かっていないのだろうか。どうしたものか、と助手席に座っている当主に目で指示を仰ぐ。言っちゃっていいよ、との言葉に自分の中での整理も兼ねて簡単に洗いざらい説明する事にした。

 

「貴女は神様なんです。それで此方の事情ではあるのですが、自分と貴女は端的に言って相思相愛にならなければいけないようです。頑張りましょう」

 

「なんて?」

 

 当主の心底可笑しそうな爆笑が、車内に響いた。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 

 

 一つ。彼女に決して自身が芥屋一砂を喰い殺す祟り神である事を知られてはならないという事。

 二つ。彼女と自分の命を、何を犠牲にしてでも守る事。

 三つ。彼女を愛し、そして愛される事。

 

 

 それが当主から言い含められた三つの『生贄としての芥屋一砂の務め』だった。一つ目と二つ目に関しては然程難しくはない。自分が努力すれば良いだけの話だ。

 ただ、三つ目だけはどうしても己の力だけでは解決できない。というかそもそも人を好きになった記憶という物が、自分には生まれてこの方なかった。どれだけ関係を深めようとも十八になれば全て無意味になるという事実が、気付かない内にそれを忌避させていたのかもしれない。

 

 

 そしてまた彼女について分かっている事も、両手の指に足る程度しかない。

 言葉が問題なく通じるだけでなく、驚くべき事に現代における一般常識は大方頭に入っていた。しかし家族や年齢など自分の事については何も分からないと彼女は言う。記憶喪失の症状にも似ているが、私見を述べれば『忘れている』というよりも端から『欠落している』という方がしっくりとくる。

 

 ただ、話している分にはクラスメイトの女子と殆ど変わらないように思えた。

 見た目で言っても自分と同じ十代後半といった様相だが、正確な所は不明だ。肩まである白髪や透き通るような肌は外国の血が混じっているというよりも、アルビノに近い印象を受ける。

 

 まあつまり、殆ど何も分かっていないに等しいという事だ。便宜上『依代様』とお呼びしているが、本当の名前すら知らない。そもそもそんな物があるのだろうか。

 しかし目下のところ問題は別にあった。

 

「ねえ、一砂くーん。お腹空いたんだけど」

 

「昼餉にはまだ少し早いのですが……」

 

 彼女は二日目にして現代を満喫していた。いや、満喫し過ぎていた。

 炬燵に潜り、自分から召し上げたスマホでYouTubeを見ながら煎餅をぽりぽりと食べている様は色気も何もあったものではない。楽だからという理由で自分の高校のジャージを着ている様は、神性よりは怠惰という二文字の方がよく似合う。

 

「依代様……その、少し行儀が良くないかと」

 

「っていうかその依代様って何? それが私の名前なの?」

 

「いえ、そういう訳ではないんですが。何と説明すればいいんでしょうか」

 

 見るに見かねて苦言を呈するも、どこ吹く風である。

 一糸纏わぬ彼女を抱きとめたあの時から一日。惑う頭で父と共に依代様を自宅へ迎え入れた自分は、何故かその彼女に対して朝からろくろを回し続けている。来た当初は不安げな様子を隠せていなかったが、一晩経つと先程述べたリラックスっぷりを見せつけていた。正しく人間離れした豪胆さという他ない。

 

 元々この屋敷には自分と父しか住んでおらず、部屋は幾らでも余っているという状況だった為に一人増えた程度では問題は無い。家を訪れる者も週に一度、雇い人が掃除などの家事をして去っていくのが関の山。

 つまり見知らぬ少女が突然増えていても、それを気にするような人間はこの近辺には存在しないのが救いだった。

 

 

 それにしても、と顎に手を当てる。

 寝そべって無邪気にけらけらと笑う様はまるで無垢な子供のようだった。神様というのはそういうものなのだろうか。

 疲れたのかスマホの電源を落とすと、彼女はぐるりと寝返りを打つ。

 

「でもさ、君のお父さん酷くない? 『愚息はもうすぐの命ですので、なにとぞ御慈悲を』とか何とかさ。冗談にしても面白くないし。その……愛がどうとかさ……」

 

「いえ、自分は本当に十一日後に死にます」

 

「いや嘘つけ、何でよ」

 

 愛し、愛されろといきなり言われても無理がある。

 そう判断した自分と父は恥も外聞も捨てて泣き落としにかかる事にしたのだが、それもそれで逆効果だったらしい。まあそもそも『自分は貴女に喰われて死にます』と言える訳もない。

 

「こう……余命幾ばくもない難病に罹っているんです」

 

「ピンピンしてるじゃない」

 

 返す言葉もないため、押し黙る他なかった。

 気まずい沈黙が辺りを包むのに耐えられなかったのか、彼女が机を叩いて立ち上がる。

 

「……じゃ、仮にそれが本当だったとして! なんで君のお父さんはそれをにこにこ笑顔で言ってんの! 頭おかしいでしょ! お母さんだって怒るんじゃないの!?」

 

 おかあさん、という五文字は、自分の頭の中では瞬時に像を結ばなかった。数瞬おいてようやく彼女が何を言いたいのか理解する。しかし何故彼女が怒りを露わにするのかまでは、よく分からなかった。

 

「母は何も言いません。自分を産んですぐに死にましたから」

 

 母は怪異と関わりもない、嫁に来ただけのただの一般人だったと聞いている。しかし、芥屋の呪いは血に宿る。

 父に抱かれて赤子という呪いを腹に宿した母は、自分を産み落として一年も経たぬ内に衰弱して死んだ。

 

「仕事の関係で芥屋には金だけは腐るほどあります。大方母も、借金の(かた)に売られてきた一人でしょう」

 

 嫁いで子を産めば死んでしまうような家に、誰が嫁に来たがると言うのだろうか。芥屋の人間は、生まれてくる時に自身をこの世で最も愛してくれる一人を奪っていく。

 

「それに自分は父も可哀想な人だと思っています。芥屋は昔からずっと本家の血と才を至上としてきましたから。それでも生き抜く術だけは教わりました」

 

 父には教える才はあっても、自身で怪異を祓う才がなかった。

 芥屋での資質とは、如何に自分の血に刻まれた呪いを扱えるかにある。自身の身体を蝕まない程度にその封を解き、相手に流す事で怪異を外す。代々練り上げられてきたその技術を怪異と渡り合えるまでに使いこなすには、天性のセンスが必要だった。

 自分が一族切っての才と言われる所以は先祖返りにも似た血に刻まれた呪いの濃さ、そしてそれを自由自在にコントロールできる所だ。

 お前は私の誇りだと言う時の父の眼差しの中に、嫉妬と少しばかりの憎悪が隠れている事に気付かない振りができるようになったのはいつからだっただろうか。

 

「だからという訳ではないのですが、自分は誰かを……一般的にどう愛せばいいのか分かりません。不足や不手際があったら申し訳ないですが、精一杯努力しますので──むぐ」

 

 しますので、まで言いかけた所で彼女が口を塞いでくる。

 

「……いや、重い重い重い! ほぼ初対面の女の子にぶつける身の上話じゃないから!」

 

 今まで女子と接する事を避けてきた過去の自分を恨んだ。自己開示は相手の警戒心を解くのに最適だと何かの本には書いてあったのに。

 

「それにさ、怪異がどうのこうのいきなり言われても信じらんないって。大体私もなんだっけ、神様? 確かに記憶ないけどさ、本当に普通の女の子だし」

 

 もう一つ分かっている事がある。彼女は自分自身が何なのか理解していない。何なら怪異の存在すら認知していないようだ。

 揶揄われていると思っているのか、彼女はしばらく頬を膨らませていたが突然「いい事思い付いた!」と叫んで手を打った。

 

「じゃあさ、私に名前付けてよ。『あのー……』とか『もし……』とか声掛けられるの飽きたんだよね」

 

「自分が、ですか?」

 

「君しかいないじゃん、だって私起きてから一砂くん達三人としか会ってないんだよ。あのイメイっておじさんは胡散臭いしさー、君のお父さんは私見るだけでぺこぺこするしさー。あ、あとイカリさんもいたっけ。あの人もなんか怖いし」

 

 可愛いのを一つ頼むよ、とウインクしてくる彼女をまじまじと見つめる。自分達もそれなりに呼びやすい物でなければ意味はないだろう、となると。

 依代だから依子というのは少し安直だろうか、と暫く考え込む。

 

「では心依(コヨリ)という名はどうでしょうか。心の依り所と書いて、コヨリ」

 

「ふーん……いいね! 響きも可愛いし、心依か。いいじゃん、ふふん。コヨリちゃんポイントをあげよう」

 

「貯まると何かあるんですか」

 

「私の気分が良くなるよ。改めましてよろしく、一砂くん」

 

 それはとても重要な事だ。コヨリちゃんポイントを貯めていく事がきっと彼女と関係を深めてゆく指標となるのだろう。

 

「よろしくお願いします、心依様」

 

 その様付けもどうにかならないかなあ、と頬杖をつきながら彼女はくるくると指で髪を巻く。

 

「まあ愛だの恋だのはよく分かんないけどさ、お互いまだ何にも知らないんだから。あとちょっとで死ぬなんて悲しい事言わないでよ、そんなんで好きになるとか無理だからね」

 

「そういうものですか」

 

 とかく女性というものは難しい。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

「おい、一砂」

 

 廊下を歩いていると突然後ろから声を掛けられる。振り向くとそこには神経質そうな顔が此方を睨み付けていた。当主から派遣されてきた、自分と心依様への"護衛"の一人だ。

 何故護衛など付ける必要があるのか、と聞いたところ当主には「君達は御馳走だから」とだけ告げられた。正直に言って要領を得ない。

 本家筋の手練れを四人ほど集めたらしいが、自分達の前に姿を現すのは目の前の彼だけで後は常につかず離れずの位置で待機しているという。依代──心依様に精神的な疲労を与えない為らしい。確かに四六時中見知らぬ男達に纏わりつかれるのはあまり気持ちが良いものではないだろう。

 

 

 芥屋(アクタヤ) (イカリ)

 当主である違明の腹違いの弟で、本家の次男に当たる。一族の中でも筋金入りの武闘派で、幼い頃から体術の稽古をよくつけてもらっていた。

 数十人を超える怪異祓いを縊り殺したあの『後ろのメリーさん』を祓った功績で、他家にもその評判は知れ渡っている。

 

 普段は芥屋の主力として全国各地を行き来している彼が、自分達に付きっきりだという時点でほんのりときな臭さを感じるような気もした。単にそれほどまでにこの生贄の儀に力を注いでいる、というだけかもしれないが。

 

「庶流の小童が自惚れるなよ。コヨリなどと馴れ馴れしい、センスの欠片もない名前を付けて悦に入るな」

 

「お疲れ様です、錨さん。もっと良い名を考えろという事ですか?」

 

「変な名前など付けず依代様とお呼びしろという事だ!! 汲み取れ!!」

 

「すみません」

 

 怒られてしまった。怒られてしまったついでに、自分の務めについて何か参考にできる事がないか訊ねてみる事にした。本家筋は他家や政府との折衝もあり、自分達よりは人付き合いに精通している。

 

「あの、差し支えなければ教えて欲しいのですが。錨さんは誰かを好きになった事はありますか?」

 

「ん? 知ってるだろ、俺は既婚者だぞ。当然、妻一筋だ。大学で出会ったんだがな、一目惚れだ。四年かけて口説き落とした時には本当に……もう……」

 

 何かを思い出しているのか、彼は涙ぐんでしまった。

 いつも肩肘を張っているため感じこそ悪いが、この人が意外と親身で話好きだという事を自分は知っている。

 

「けれど、そういえば奥様は一般人でしたよね」

 

 言外に子はどうするのか、と問う。

 

「ああ、俺達は子は作らんぞ。兄貴がいるから血が絶える事もないしな。それにあいつには俺より後に死んでもらわなければ困る。老後を一人で迎えるのは寂しいからな」

 

 傲慢だと思った。その振る舞いは本家の次男坊という立場だからこそ許される。だがそれを貫き通せる程に誰かを好きになれる、という事に対しては羨ましくも思った。

 

「ただでさえ俺達(芥屋)は普通の暮らしなど望めないからな。好きになった女にくらいは、普通の幸せをくれてやりたいだろ」

 

「普通の幸せ、ですか」

 

 参考になったかどうかはともかく、礼を言ってその場を後にする。

 しかし普通とは一体何だろうか。きっとその答えを持ち合わせている者はこの家にはいないのだろう。

 

 しんみりとした気持ちのまま部屋に戻ろうとした時、立て続けざまにLINEの通知音が鳴り響く。一体誰だろうか、と考えながらスマホを開いた。

 

『なんで学校休んでんだあのスタンプは何だ説明しろ根暗野郎、出てこい』

『〇〇駅のマックにて待つ』

 

 昨日友人に今生の別れをスタンプで告げていた事をすっかり忘れていた。何やら怒っているようだ、どうしたものかと考える。行くべきか行かざるべきか、それが問題だった。

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 自分にとっては慣れ親しんだ道でも、どうやら彼女にとっては新鮮な景色らしい。道の草花にまで興味を示しながらのんびりと歩く様は大型犬を思わせた。

 友人に駅に呼び出されている、という事を彼女に伝えると「それは行くべきだ。何なら私も暇だからついていく」という旨の返事が返ってきての事である。特に家の者に待ったをかけられる事もなかった為、恐らく護衛が後をつけているのだろう。

 

「友達は大事にしなきゃ駄目だよ、一砂くんってただでさえ友達少なそうだし。どんな人なの?」

 

「……ティッシュみたいな男ですかね」

 

 寅地(トラジ) (キヨシ)は自分にとってたった一人の親友と言える。

 ピンク色に染めた髪をセンターパートにし、軽薄そうな顔に違わず吹けば飛ぶような軽い男である。

 小学六年生の折に自分と同じクラスに転校してきた事がきっかけで付き合い始めたが、手先が器用で何にしても要領が良い。つまる所、軽くて使い勝手の良い(ティッシュみたいな)男である。

 

 強いて欠点を挙げるなら重度のギャンブル中毒である所だ。未成年であるにも関わらず素知らぬ顔でパチスロ店に(たむろ)し、長期休暇の際には県外の競馬場に遠征してはGⅠレースとやらに敗北しているらしい。

 

 彼には自分の家業について伝えていない。というか言って信じる奴は中々いないだろう。

 正直に言って、なぜ彼が自分にここまで構うのかずっと分からずにいる。ただ、自分も彼の事は嫌いではなかった。

 

 

 駅構内のファストフード店の中に奴はいた。自分達を見つけた途端不機嫌そうな顔でつかつかと詰め寄ってくる。

 

「お前さ……あんな意味深なスタンプ一つだけ残されて、2日も学校来てないお前に対して俺がどんな気持ちだったか分かる!?」

 

「すまん、分からない」

 

「バカがよ。それがお前、いざやって来たら女連れって。大丈夫? 美人局とかじゃない?」

 

「だから言っただろ、今親類が泊まりに来てるんだ。休んでいたのも彼女をもてなすためだ」

 

 自分と彼女を見比べては「似てねえけどな……」と寅地は呟いた。自分でも苦しい言い訳だとは思うが、こういった事は言い張った者勝ちだ。その後も「お前がいない間に学校で〇〇先生のヅラがバレた」だとか「クラスの〇〇がフラレた」だのいつものような下らない雑談に付き合わされる。

 

 本当に心底下らない時間ではあったが、何だか懐かしかった。自分が歳相応の学生と言えるのは、寅地と会話している時くらいだったのかもしれない。

 

「まあいいや、心依ちゃんだっけ? マジでこいつ頼むよ、堅物だからさ。楽しい事いっぱい教えてやって」

 

「うーん、考えとく」

 

 さっき買ったハンバーガーを美味しそうに頬張っている彼女の姿に来て良かった、と初めて感じた。

 

「お前、昔からなんかふらっといなくなりそうで怖いんだよ。何かあったら相談しろよ、友達だろ」

 

 それはできないんだ。そう心の中で謝っておく。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 寅地と別れた後、何故か自分達は帰らずに切符を買ってホームで電車を待っていた。どうせだからもう少し遠出しようよ、という彼女のリクエストである。

 彼女をベンチに座らせ、自分は立って辺りを警戒しながら会話のきっかけを探していた。

 

「心依様はどこか行きたい所でも?」

 

「んー、別にない! ないけど一砂くんは私と仲良くなりたいんでしょ? ならそのくらい付き合ってよ、大体あの家息が詰まるじゃん。なんか湿気てるし」

 

「すみません」

 

 まだ退勤ラッシュの前という事もあって、人の数は然程多くなかった。

 あのお友達も心配してるんだし死ぬとか言っちゃ駄目だよ、と改めて釘を刺される。本当の事ですからとはとても言えず、頷いておくと彼女はぽつりと呟いた。

 

「私だって死なれたら困るもん。私、頼れるのが君しかいないんだからさ」

 

 そう呟く彼女の横顔は夕日に照らされて、よく表情が読み取れなかった。

 ただ一言、努力しますとだけ答えた時にぞわりと背筋に嫌な気配が走る。

 すぐにその原因は分かった。

 

 同じホーム、自分達より車両三台分は離れた所にその男はいた。

 

「谺。縺ッ窶ヲ窶ヲ繧? ∩窶ヲ窶ヲ谺。縺ッ窶ヲ窶ヲ繧? ∩縺ァ縺吮? ヲ窶ヲ」

 

 人の喉では発声できないような唸り声、小刻みに震える身体。

 

 恐らく何らかの怪異に取り憑かれている。

 

 迂闊だったと唇を噛み締めるが、今考えるべき事はどういう対策をとるかだった。幸い纏っている気配が薄い事から、このホームのどこかで少し前に取り憑かれたのだろう。

 祓うにしても人が多過ぎる、事後処理が面倒だ。幸いまだ怪異としての特徴が表出する様子もなさそうだったため、ここでは放っておく事に決めた。一般的な怪異であれば取り憑かれて早い者で数時間、遅ければ数日かけて変異する。

 あの男は精々数分前という所だろう。ただ、離れておくに越した事はない。

 

「心依様、とりあえず次の電車に乗り──」

 

「なあ、そこのお二人さんは電車って好き? いやさ、満員電車ってあるじゃん? めっちゃ嫌われてるけど俺は結構好きなんだよね、あれ。どうしてかって言うとさ」

 

 いつの間に座っていたのだろうか。彼女が座るベンチの隣に一人、見知らぬ男が腰掛けていた。ロング丈のグレーのダッフルコートに、緩やかなダークブラウンのスパイラルパーマ。恐らく大学生だろう、新手のナンパの類だと判断して彼女の手を引く。家に帰り着く時間は多少遅くなるが必要経費だ、あの怪異が憑りついている男にも距離が取れる。

 

「行きましょうか」

 

「まあ待てって。最後まで聞いていけよ、寂しいだろ。どこまで話したっけ? ああ、なんで満員電車が好きかって所だった」

 

 馴れ馴れしく話し掛けてくる姿に二人で顔を見合わせる。一刻も早くこの場を離れたい自分達を意に介する様子もなく、彼は一人で喋り続けた。

 

「俺みたいな(なり)してても皆スマホ見てっから、気使わなくていいんだ」

 

 男が此方にその顔を向けた瞬間、否が応でもその異形に気付いた。

 目や鼻、口。およそ人体において顔と呼ばれる部分を構成するパーツが、その男からは全て欠落していた。ある筈の物がない、ただそれだけの事なのに背筋に怖気が走る。その様相を認めた刹那、瞬時に頭の中に駆け巡ったのは一つの怪異について。

 

 

 八尺災害の落とし仔。水無の負の遺産。たった一人の百鬼夜行。

 のっぺらぼうと呼ばれている怪異の姿が其処にあった。

 

 

 隣にいる彼女が怯えたように息を漏らすのを聞いた瞬間、考えるよりも先に左拳が相手の顔を渾身の力で打ち抜いていた。辺りの乗客から悲鳴が上がるが、どうでもいい。続けざまに返しの右をねじ込もうとした時、腹に重い鉛を叩き付けられたような衝撃と共に世界がひっくり返る。

 

「おいおい、初めて会った人には挨拶からだろ? こういう所で親の躾が出るんだよな」

 

 蹴りをもろに喰らったのだと理解した時には迫り上がる吐き気に堪えかねて、その場に血の混じった昼食を吐き戻していた。内臓は傷付いているかもしれないが、恐らく骨は折れていない。まだやれる。

 饐えた臭いのする吐瀉物が付いた口を震える手で拭うと、呆然としている彼女に告げる。

 

「……っ、心依様、今すぐこの場から離れて下さい」

 

「いや、無理無理! 一緒に行こ、置いてけないって!」

 

「早く!!」

 

 声を荒げた自分の姿に一瞬驚いた素振りを見せるも、彼女が急いで構内の方へ走ってゆくのを見送る。異変に気付いた錨さんか他の芥屋がすぐに保護するだろう。がくがくと揺れる足に拳を叩き付け、何とか立ち上がる。

 牽制するように構える自分に対して、相手は興味も無さそうに明後日の方を眺めていた。

 

「女の子には優しくしろよ、少年。大声出して脅かしちゃ駄目だ、まあ咄嗟の判断にしちゃ悪くはない。どうせ近くに他の芥屋が待機してるんだろ? なら百足巫女はそいつらに回収させて、自分は目の前の化物退治に専念。悪くない、悪くはないな」

 

 怪異と基本的に意思疎通が図れる事はない、奴等は本能として人を害する存在だ。だからこそまるで人間であるかのように話し、感情を見せる個体には少なくとも三人以上で対応するのが鉄則とされている。

 それは即ち、相手が宿主の身体を自由自在に使いこなす高位の怪異である事の証明に他ならないからだ。

 

「でもそれじゃあさ、モテねえよ」

 

 自分が視界の端に捉え続けていた、奇声を上げる男をのっぺらぼうが指差す。

 瞬間、男の身体が弾けるように消えた(・・・・・・・・・・)。それと同時に吹き荒ぶ黒く生臭い風に思わず目を閉じる。

 

 

 

 

 再び目を開けた時、すぐに異変に気付いた。まだ上っていた筈の太陽は消え失せ、とっぷりと日が暮れている。駅の外を眺めても黒く塗り潰されたような景色が広がるばかりで、まるで駅ごと何処かに飛ばされたようだった。よく見れば駅自体の構造すらも変わっている。

 

 特に異様なのは、線路やホームのあちらこちらに服を着たマネキンが転がっている事だった。人形は怪異の定番だ。胸騒ぎと共に案内板を確認して、愕然とする。

 

 

 

 

 

きさらぎ
 

 やみ
かたす 

 
  Kisaragi

 

 

 

 

「……最悪だ」

 

 あり得ない筈の駅名が、現代的な案内板に記されている歪さに言い様もない不安感が込み上げて来る。これはまず間違いないだろう。 

 

 自分だけではなく一般人を含めたこの場にいる者全てが今、恐らく怪異の胎の中にいる。

 

 

 きさらぎ駅。

 日本で最も有名なインターネット発のオカルトの一つ。

 ある日普段乗っていた電車がきさらぎ駅、いわゆる『異界』に繋がった……というものであり、そのバリエーションは多岐に渡る。そこで何かに出会ってしまった者、無事に帰れた者、消息の分からぬ者。

 

 昔から語り継がれてきた妖怪や人の口伝てに編まれてきた都市伝説とは違う、電子の海から生まれた現代の怪異。

 

 

 怪異とは人に取り憑く事で初めてその真価を発揮する。

 故に知性が在ろうと無かろうと、出来る限りその宿主を長く維持する為に力を注ぐ。その怪異に適した"形"に人体を変化させていくのもその一つだ。

 

 ただ、現代に生まれた(・・・・・・・)物の中には人の身に到底収まらない力を持った規格外の怪異が存在する。昔から語り継がれてきた妖怪とは違い、その存在が人の身体に受け容れられる前に知れ渡り過ぎたもの。

 電子の海を泳ぐ現代の都市伝説、それらには意志などない。瞬く間に宿主の身体を喰い破り、束の間の『現象』としてその場に表出する。

 故にそれはもはや怪異ではなく────災害の名を冠するのだ。

 

 

 

 のっぺらぼうは芝居がかった仕草で歪んだ時刻表をなぞる。目の前の怪異が『きさらぎ駅』を手引きしたと見て間違いなかった。

 何故、という理由までは今考えている余裕が無い。

 

「さて問題だ、少年。"彼女"は今どこにいるでしょうか? あっ駄目だ、教えちゃいけないんだよな」

 

 こちらに構う事もなく顔に手を当て、一人でぶつぶつと呟いている相手から目を逸らさぬまま辺りを確認する。

 少なくとも十数人はこのホームに、向かい側にいる人達も合わせれば自分一人でまとめ切れる人数ではない。中にはのっぺらぼうを見て腰を抜かしている老人もいる。非常に面倒な状況だった。

 

「いや、ワンサイドゲームも面白くないな。ヒントをやるよ、お前に残された時間は三十分(・・・)だ。さあどうする? 俺を祓うか、あの子を捜しに行くか、此処にいらっしゃる一般人の皆様を守るか」

 

 三十分というのが何を指し示すのかは分からないが、確かに自分がやらなくてはならない事は複数ある。

 

「物事には優先順位がある。よくいるよな、課題放り投げてゲームやったり下らない事で時間を浪費してる奴。ああいうの勿体無いと思うね、俺は」

 

 聞けば聞くほどまるで人間のような口振りに目眩がするようだった。人語を解する怪異を相手にした事は何度かあったが、ここまでの個体はお目にかかった事がない。手汗の滲む拳をもう一度握り込む。

 

「早めに告知してやったんだ、締切は守れよ。人として当然の事だろ」

 

「もうお前は口を開かなくていい。声だけで耳障りだ」

 

 出し惜しみをするつもりはなかった。妨害を防ぐ為に目の前の怪異を一撃で外した後、すぐに彼女を探し出し保護する。最も優先されるべきはそれだ。

 

「いや悪い悪い、喋り過ぎるのは俺の良くない癖なんだ。普段話のできる奴がいないから嬉しくなっちゃってさ。お口にチャックしないとな、まあ口なんて付いてないんだが」

 

 気怠そうに立ち上がる姿は一分の殺気も無い。

 

「笑えよ、のっぺらぼうジョークだぜ」

 

 表情など無い筈の顔が、嘲笑うように歪むのを確かに見た。

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 

 

 

 駅構内にいた百余人を巻き込んだその一夜は、後世では『きさらぎ災害』の名で記録に残っている。

 その場に居合わせた芥屋家が対応したが、死者一名を含む重軽傷者を多数出してしまった事態は怪異祓いにとってかの『八尺災害』に次ぐ失態だとされている。

 

 その中でも芥屋一砂が取ったある行動は、その場にいた一般人にとって余りにも受け入れ難いものであった。それは後に警察と蜜月の関係であった芥屋が見限られる一因になったのではないか、とも考察されている。

 

 

 夜が今、幕を開ける。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

#3 英雄にはなれない

 

「……一砂くん? どこ?」

 

 逃げろ、と言われて走り出した筈なのに。

 気付いた時には駅ではなく、古びたトンネルの前にいた。伊佐貫と薄っすら書いてあるのが読めたが、中は真っ暗で何も見えない。

 線路の上に立っている事から駅の近くにいるのは間違いないと思ったけど辺りを見回しても家の明かりすら一つもない。とりあえず線路を伝って駅まで戻ってみよう、そう歩き出そうとした時。

 

「ひっ……」

 

 進もうとした方向から急かすように太鼓の音が小刻みに聴こえる。それは段々と近付いてくるようで、どこか心の奥深くにある隙間に入り込んでくるみたいで。ここにいるだけで不安な気持ちが溢れ出しそうになって座り込んでしまう。

 

 逃げろ、逃げろと声がする。

 

「もうやだ……」

 

 何かに追い立てられるように、ここよりはマシだと信じて暗いトンネルの中に足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 心依様を探しに行く事は叶わず、未だ足場の悪い狭いホームの上で自分はのっぺらぼうと紙一重の攻防を繰り広げていた。線路の上やベンチに服を着たマネキンが転がっているのが気になるが、きさらぎ駅と関連づいた話は無かった筈だ。今は考えても仕方ない。

 護衛もそれぞれ別の場所に飛ばされたのか、未だ此方に応援に来る気配はない。つまり現状は単独で祓う他ないという事だろう。

 

「──ッ」

 

 顎を目掛けて放った掌底が虚しく空を切る。

 

 強い。

 何度か拳を合わせた時点で、目の前の相手がいつも祓っている怪異とは別格だと理解した。奴等は人の身体に取り憑き、その身体能力を限界を超えて引き出す事ができる。だがそれ故に肉体をコントロールし切れずに、動きとしては狐憑きのように単調になる事が多い。

 だが、今自分の前に立つこの怪異は。

 

 のっぺらぼうが顔をふいと逸らす。仮に奴に瞳が付いていたならば、その視線の向く先にはゴミ箱の陰に隠れて震える母子の姿があった。

 一般人に手を出されれば対処のしようがない事に気付き、一瞬動きが鈍る。早く逃げろ、と叫ぼうとした時だった。

 

「余所見すんなよ、妬けるだろ」

 

 瞬間、顔に軽い痛みが走ったかと思えば腹部に相手の拳がめり込んでいた。遅れて内蔵を揺さぶられるような吐き気が込み上げて来る。

 

「が、ぐ……」

 

 ブラフで気を反らし、左のジャブで動きを止めてからの抉るような右のボディブロー。そう文字にすれば増々その異様さが際立つ。なんで人外がボクシング齧ってるんだ。

 嘔吐きながらも放った返しの裏拳は掠りもしない。

 

「大した事ねえな、生贄くんも。いや、俺が強過ぎるだけだったりしてな」

 

 巫山戯た口調で、その実自らの身体を余す事なく使いこなしている。獣の馬鹿力を持った格闘家と殴り合わせられているようなものだ。正攻法でやっていれば身体が持たないと判断して距離を取り、深く呼吸する。多少の生傷は承知の上で速攻しかない。

 

「お、やる気になった?」

 

 芥屋の呪いは血に宿るが、普段はそれに蝕まれる事がないように縛り付けている。怪異との戦闘時のみ、適宜呪言を用いて一時的にそれを解き放つ事で奴等と初めて渡り合えるようになる訳だ。勿論呪われた血を身体に巡らせる訳だからデメリットも相応にしてある。

 故に並の怪異であれば、呪いを流す為に片手の封を解く程度で済ませるのが定石だ。だがこの相手はそうもいかないらしい。

 

「……(オン)

 

『怨』とは芥屋家に伝わる、最も普遍的な呪言の一つだ。自らの血に刻まれた怨みを活性化させる事で、呪いを表出させる。そのまま相手を殴ったり蹴りを入れる事で呪いを流し、怪異を宿主から外すのが芥屋のやり方だ。だがこの呪言には怪異を祓う上で無くてはならない副産物が存在する。それが怪異に対抗し得る膂力だ。

 

 封を解いた芥屋の血は全身を駆け巡る。人ならざるものの呪いが掛けられたそれは、肉体への負担と引き換えに人外に近い身体能力を自分達に与えるのだ。あたかも取り憑いた宿主の能力を最大限に引き出す怪異のように。

 

 

 全身の血液の凡そ六割。これが今、自分が封を解ける最大限。まるで身体中に溶岩が流れているのではないかと錯覚するほど、灼け付くような痛みが走る。脳が沸騰しそうだ。

 

「絶対身体に悪いだろ、それ。もっと命大事にしてい──」

 

 爪が刺さり血が垂れるまで握り込んだ拳を、真正面から相手の顔に叩き込んだ。先程までとは一線を画す速度のストレートに反応できなかったのか、肉の感触が直に伝わるのを感じながらそのまま殴り抜ける。勢いで吹っ飛び時刻表に激突している姿を見て、やっと溜飲が下がるようだった。並の怪異であればこの一発で宿主から外れる筈だが、相手にその兆候は見られない。

 

「勘違いするな。自分の命は生まれた時から人を守り、お前ら(怪異)を根絶やしにする為だけにある」

 

 のっぺらぼうは高い祓いへの耐性を持っている、という噂は本当だったらしい。だがそんな事は関係無い。

 立ち上がったのっぺらぼうが、がくりと膝を落とす。その顔はまるで火傷を負ったかのように爛れ、煙を上げていた。

 祟り神に呪われた血は外しに使わなかったとしても、それだけで怪異に対して毒となる。宿主の身体から出て行きたくなるまで痛め付けるだけだ。

 

「あ〜……痛え……やっぱ血が濃いな。当代一の才能ってのは伊達じゃないか」

 

 何のつもりか踵を返してのっぺらぼうが走り出す。意表を突かれ、一瞬反応が遅れた。その先には先程の母子がいる、まだ逃げていなかったのか。

 

 間に合わない。

 そう思った時、母が子を突き飛ばすようにして逃がしのっぺらぼうの前に立ち塞がった。

 

「母親の鑑だな!」

 

 嘲るような口振りと共に奴が母親に触れた瞬間、彼女の顔が中心に向かって音を立てながら渦を巻くように歪んでいく。

 

「あっ、ぎっ、痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!」

 

 母親の断末魔にも似た絶叫が構内に響き渡り、思わず顔が引き攣る。

 ぷちん、と何かが潰れるような音を立てたあと彼女は倒れ伏した。僅かに揺れる身体から呼吸をしている事は分かる。

 

「はい、美人さんの完成」

 

 ふらりと立ち上がったその顔は隣にいる怪異と同様に、目鼻口が溶けたように消え失せていた。そのまま正気を失ったが如く此方に向かって突っ込んでくる。

 

「っ、お前……!」

 

 (むじな)の逸話だ。

 顔の無い女に出会った商人が逃げ出した先々でも顔の無い人間達に脅かされ続ける、のっぺらぼうを取り扱った話。

 高位の怪異の中には、自らを語る話に紐付いた力を得る者がいる。恐らくこののっぺらぼうは狢を何らかの形で『他者をのっぺらぼうに変える』話として解釈している。

 

「あ、こんな美人さんだけどちゃんと人だぜ? 酷い事しないよな、人だもんな」

 

 のっぺらぼうの軽口を無視しながら冷静に思考を巡らせる。

 掴みかかってくる母親を捌き、三割程度の力で回し蹴りを叩き込んだ。よろけはしたものの大したダメージは入っていなさそうだ。

 しかし、その数秒後。

 母親の顔面が先程とは逆方向に捻れ、元の顔に戻ったかと思うと意識を失って倒れ込む。どうやら一時的に憑かれているのと同じ状態のようだ。

 

「お前は外し辛いが、増やした方はそうでもないらしいな」

 

 呪いを流せば戻せるのが分かっていれば十分だ。あの本体以外はそれなりの力で対処すれば人に戻せる。手数を増やされるのは厄介だが、リカバリーは効く。

 

 そう思っていた時だった。のっぺらぼうが愉しげに呟く。

 

「そろそろかな」

 

 それと同時に、駅のあちこちに転がっていたマネキン(・・・・)達が動き出す。悲鳴を上げる一般人に襲い掛かる姿は、紛れもなく怪異だった。

 きさらぎ駅じゃなかったのか、と思考の処理が追い付かず手が止まる。

 

「タイムリミットの話したじゃん、三十分って。今回のきさらぎ駅の宿主用意したの俺なんだけどさ、前から気になった事ない? 一つの肉体に二つの怪異を憑かせたらどうなるのか」

 

 背筋に悪寒が走る。

 

「きさらぎ駅とマネキンの怪。きさらぎ駅が強過ぎてさ、すぐに潰されずに尚且つそこそこ長持ちする怪異を選ぶの大変だったんだぜ」

 

 マネキンの怪。

 これといって特定の話を指す訳ではなく、マネキンに関連した話の総称だ。元より人形をモチーフとした怪異は強力になる傾向がある。日常的に見かけるとはいえ、そのサイズや雰囲気はより人間に近しい。いずれもマネキンが勝手に動き出すといった話であり、通常の人形と比べてそのサイズ感からより物理的な恐怖を与えるのが特徴だ。

 

 

 奴の言っている事が本当なら、何故あれほど早く怪異が表出したのかという理由としても納得が行く。

 一人の人間に同時に二つの怪異が取り憑くケースは聞いた事がないが、目の前の相手ならやりかねない。

 

「でもこのやり方って怪異にも人間にも負担が大きくてさ。この規模だったら持つのは三十分くらいだろうな。十二時の鐘の音で綺麗さっぱり、はいおしまい。シンデレラみたいで綺麗じゃないか?」

 

 三十分経った時どうなるのか、のっぺらぼうの口振りからして想像に難くない。恐らく最悪のケースとしては、駅にいる者を全て巻き添えにしてこの空間ごと消滅する。

 

 今は事態を収めるのが先決だと、近くにいたマネキンに呪いを込めた掌底を打ち付ける。樹木を殴り付けるような鈍い痛みが走るが、構っていられない。

 次の個体を外そうと振り向いた瞬間、腕を掴まれる。目を向ければ、そこには外した筈のマネキンが立っていた。

 

「あー、駄目駄目。人じゃないからさ、外そうとしても意味無いよ。本体叩かないと。それかさ、壊しちゃえば?」

 

 のっぺらぼうの言葉を鵜呑みにするのは癪だったが、咄嗟に全力でマネキンの頭を殴り付ける。頭部が胴体から吹っ飛ぶと流石に動きを停止した。

 そしてある事実に気付く。

 

 マネキンも、のっぺらぼうに変えられた人間もどちらも顔が無い。

 そしてマネキンもなまじ関節を隠すように服を着ているせいで一目では見分けが付かない。

 

「躊躇うなよ。その間にもどんどん増やしてっから」

 

 その言葉通り、のっぺらぼうはターゲットをもはや自分に向けていなかった。ホームを飛び回り、乗客達を片っ端からのっぺらぼうに変えている。非常に不味い状況だった。

 

 今、マネキンの怪とのっぺらぼうの二種類が混ざっている。

 マネキンに対しては首を折るなど壊して無力化しなければ効果はなく、のっぺらぼうには呪いを流し込んで外す必要がある。そしてどちらが人間であるかを瞬時に見分ける方法は今の所ない。

 仮に判別できたとして、それをこの局面で行っている余裕がある筈もない。

 

 詰んでいる。

 

「本当は分かってんだろ、最適解。殺すんだよ。人だろうがマネキンだろうが首の骨折っちまえば動かなくなるんだからさ」

 

 その言葉と共にいつの間にか背後に立っていたのっぺらぼうに殴り倒される。反撃せんと立ち上がろうとした時、それを圧し潰すように数多のマネキンとのっぺらぼうが自分の身体にのしかかった。

 手足すら動かせず、呼吸もままならない。

 

「期待外れだな、暇潰しにもならない。ワンパターンなんだよ、お前。殴る蹴るだけじゃなくてもっと頭使えよ。挙げ句の果てに甘っちょろい対応しやがって」

 

 前髪を掴まれ、頭を強引に引き起こされる。今の自分では勝てない。となれば出来る事は応援が来るまで時間を稼ぐ事くらいだ。

 

「……っ、お前は、何が目的なんだ」

 

「あ? 目的? んなもん決まってんだろ」

 

 芝居のかかった表情でのっぺらぼうはくるくると回ってみせる。

 

「暇なんだよ。この暇を潰す為なら何だってやるよ、俺は。というかそもそも考えてみろ。芥屋が潰れて喜ぶ奴は山程いるだろ」

 

 血を流し過ぎたのか頭が上手く回らない。肺が押し潰されて息をするので精一杯だった。

 

「本当になんで時間が差し迫ってからじゃないと選べないんだ? 考えろよ。お前が一番今すべき事は何なのか」

 

 抜け出そうと藻掻いても、指一本も出せそうにない。

 

「教えてやるよ、生贄くん。お前がこいつらを殺せなかったせいで俺を祓う事もできず、彼女も守れず、結局残った全員も死ぬ」

 

「殺すなら自分だけにしろ……!」

 

「あー、もういいわ。喋んな。時間ギリギリになって騒ぎ出す奴が一番みっともない。黙って死んでくれ」

 

 自分の喉に冷たい手が添えられる。

 首を折られるのか、絞め殺されるのか。ただ客や心依様が無事に帰る事ができるのを祈りながら、目を閉じる。

 

 

 

 

 

 それは一瞬だった。

 

 自分の身体にのしかかっていたマネキンやのっぺらぼうが轟音と共に蹴散らされた。何が起こったか飲み込めない自分をよそに、尚も立ち上がろうとする怪異達を縫い付けるように、その手に五寸釘が次々と突き刺さっていく。

 

「──(コン)

 

 その一言と共に、怪異達の動きが止まった。

 血を塗り付けた五寸釘を刺す事で呪いを流し、呪言でそれを活性化させる。見覚えのある戦闘法に、安堵から少し涙が滲んだ。

 

 ふわりと翻る藍色の着物の裾が視界に入る。

 

「顔を上げろ。常に背筋を正せ。立ち居振る舞い一つで彼我の格付けが決まると教えているだろうが」

 

「……すみません、錨さん」

 

 外しの家系にあって、殺す事を厭わない芥屋家の主力。自分が怪異祓いとして優れているのはあくまで血が濃いというだけだ。

 故にその立ち回りも応用力も、芥屋最強という言葉は彼にこそ相応しい。

 

 芥屋錨、その人が立っていた。

 

「芥屋の名に泥を塗るな。あの三下は俺が相手をしておくからとっとと依代様を探しに行け、お前では相性が悪い」

 

 その言葉通りだった。不甲斐ない結果を晒した事を恥じながら、乱れた服を整える。

 

「……まあ弱音を吐かなかった事は評価してやる、上出来だ。あと遅れて悪かった」

 

 思わぬ労いの言葉に驚いて足が止まりかけたが、ぐっと堪えてホームから線路に飛び降りる。心依様が何処かに飛ばされているというならば、それは紛れもなくこのきさらぎ駅という怪異の中心である筈だ。

 つまり駅そのものではなく線路を歩いた先にあるトンネル、更にその向こう。物語としての終着点であるに違いない。

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 顔の無い怪異を前にしても、その男の表情は揺らがなかった。

 

「寂しかったぜ、錨くん。日本全国津々浦々を巡っても俺の相手がちゃんとできるのはお前くらいだもんな」

 

「その身体で俺の名前を呼ぶな。虫唾が走る」

 

「つれない事言うなよ、友達だろ」

 

 その言葉で初めて錨の表情に翳りが差す。だが次の瞬間には再び毅然とした態度でのっぺらぼうを見据えた。

 

「俺はお前のような怪異など友人にした覚えはない。それなりに目を掛けてきた……弟分が世話になった礼をするだけだ」

 

家畜(・・)の間違いだろ、殺す為に育ててきたんだから。全くそんな奴だと思わなかったよ、やっぱ六年前の事引き摺ってんの? 芥屋がもっと強ければ間に合ったのに、ってさ」

 

「その顔で。その身体で。その声で喋るな。疾く死ね」

 

 刃物を構えるように五寸釘を握る姿は取り付く島もなかった。研ぎ澄まされた殺意が彼の潜ってきた修羅場の数を物語っている。

 

「返してもらうぞ。それはお前の物じゃない」

 

「落ちてたから拾っただけだ。返したら一割くれんのか?」

 

 その無貌に投げられた釘が突き刺さる。

 怪異はそれを引き抜くと、表情の無い顔で笑った。それが開戦の合図だった。

 

 

 

 

 八尺災害。

 六年前に起こった怪異による最初にして最大の災害であり、多くの一般人や対処に当たった怪異祓いの命を奪った事で知られている。

 当時から警戒されていたインターネット発の都市伝説『八尺様』が、怪異祓い達の想定を超える四ヶ所に同時発生した(・・・・・・・・・・・)事からその悲劇は始まる。

 八尺様達は東京、大阪、名古屋、福岡の主要都市に侵攻し、未成年者を主に数千人の死者を出した。それだけに留まらず、強大な怪異の瘴気に当てられ多くの怪異が芽吹く現象"百鬼夜行"が発生してしまった事も被害に拍車を掛けた。

 御三家を筆頭に分散して処理に当たり、一夜で解決に導かなければ死者は数万人にも及んでいたと言われている。

 

 東京の個体は芥屋(アクタヤ)(イカリ)を中心とした芥屋家の精鋭が時間をかけて削り、正攻法で祓っている。錨自身は「多少の危険は承知の上で速攻を掛け、他の都市に応援に行くべきだ」と主張したが、当主である違明に制止されている。彼が早期決着を主張したのは、他家のとある友人の身を案じたからだとも言われている。

 

 京都の個体は当時まだ二十五歳であった現当主、伊勢(イセ)辰時(タツトキ)が片腕をもがれながらも単騎で首を圧し折った。このクラスの怪異を単独で討伐した記録はそれ以前になく、事実上『伊勢』が怪異祓いとして最強だとされる所以になっている。

 

 大阪の個体は封じでは右に出る者はいないとされていた水無(ミズナシ)家が、嫡男である蛍蛉(ケイレイ)の指揮で自らの身体に八尺様を分散して封じ込める事で無力化した。一般人を利用する事の多い水無家だが、彼はそれを良しとしなかった。その甲斐もあってか、被害としては大阪が最も少なかった。

 

 福岡の個体には九州のみならず、中四国の怪異祓いも応援に駆け付けた。

 総力戦の末に討伐する事はできたものの、攻め手に欠けた事から長引いてしまい結果として一般人、怪異祓いの双方とも最も被害の大きい地区となってしまった。

 

 今もその影響は残っており、八尺災害の際に生まれた怪異は通常の物より強力かつ老獪だとして強く警戒されている。

 そしてその中でも異彩を放っているのが、のっぺらぼうだった。

 

 

 怪異としては些か古く、恐れられている訳でもない。その名前や特徴は寧ろどこかユーモラスな印象すら感じさせる。

 だが彼が怪異の中で危険視されている理由は、他でもないその宿主にあると言われている。八尺災害の終端に生まれ落ちたそれは、多くの怪異祓いが掃討戦に移る中で一人虫の息と化していた男を見つけた。

 

 その男は八尺様をその身に封じたは良いが、予想を超える反動に衰弱していた。

 先に述べた御三家の嫡男、水無蛍蛉である。

 本来であれば怪異祓いが取り憑かれる事はまず無い。もし仮に取り憑かれたとしても、周りの人間が迅速に祓うだろう。しかしその場には同じように八尺様をその身に封じた水無の者しかおらず、ほとんどが反動に耐え切れず事切れていた。

 不運に不運が重なり、当代切っての才能と人格者だと謳われていた水無蛍蛉は怪異の手に落ちた。

 

 嫡男と主力の家人を失い、あまつさえ新たな脅威を生み出してしまった水無は御三家の中でも無能と謗られ、名家としてもほぼ名前だけの存在となっている。

 

 

 恵まれた肉体に裏付けられた高い祓いへの耐性、そして怪異の中でも異質なほどの知性と底知れない悪意。その二つがのっぺらぼうを単なる怪異ではなく、脅威に押し上げた。

 日本各地に出没しては多くの怪異の種をばら撒き、混沌と化した惨状を眺める愉快犯。

 

 それが、のっぺらぼうがたった一人の百鬼夜行と呼ばれる所以である。

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 トンネルを走り抜けた先、二つの人影が見える。一人は少女で……もう一人は男。逸る気持ちを全て力に変えるように、ひたすらに足を踏み込んだ。

 

「心依様!」

 

 その声に気付いたのか、彼女が振り向く。確かに自分の探し人だ。涙が滲んだ跡はあるが、外傷もなさそうだと安堵する。

 側にいる男は正気のようだが、その身体からは怪異の気配が立ち上っていた。見た目もあのホームで奇声を上げていた男と一致する。間違いなく彼が"本体"だ。

 

「あのね一砂くん、太鼓の音が聞こえてきて、もうわーっ! ってなっちゃって、トンネルに入っちゃったんだけどこの人がいてね、本当に良かったの!! 聞いてる!?」

 

 彼女も大変な事が山程あったのだろう。パニックで言葉こそ縺れていたが何となく意味は分かる。ただ、その前にやらなければならない事がある。

 ノーモーションで男の腹に掌底を叩き込んだ。数m吹き飛んだが緊急時なので仕方ない。

 

「げほっ、ごほっ、何なんだ君ィ!?」

 

「ちょっとちょっと!? このおじさん普通だよ、乱暴駄目だって!」

 

「すみません、火急でして。貴方も失礼しました」

 

 そう彼に目を向けた瞬間、頭が真っ白になった。立ち上る気配は一向に薄れない。怪異を吐き戻す兆候も見られない。全力で打った筈なのに。

 

 外れていない。

 見立てが甘かった。もうこの男は、怪異が取り憑いているというレベルではない。その肉体そのものと同化している。

 

「一砂くん……? 何してるの……?」

 

「何なんだよぉ……助けてくれよ……いきなり顔がないお化けが出てきた次は、知らない少年に殴られて『次は、やみ。次はやみです。お降りのお客様は

 

 三十分がタイムリミット、のっぺらぼうの言葉が頭を過る。もう時間がない。

 自分がやらなければ、心依様が死ぬ。

 

 自分がやるしかないのだ。

 怯える男を地面に引き倒し、馬乗りになると固く拳を握り締める。早鐘を打つ心臓を抑えるように深く息を吸う。今から何が起きるか想像できたのか、頻りに身を捩って逃げようとする男を見下ろす。歳は三十を越えているだろう。左手の薬指には指輪が嵌っている。子供だっているかもしれない。

 考えるな。

 

 余計な事は考えるな。

 自分しかやれないのだ。

 これ(・・)は人じゃなく、怪異なんだから。

 そう高く拳を振り上げた。

 

 ────────────────────────────────

 

 

 一砂が祓ったのだろうか。空間が綻び、急激に不安定になりつつある駅を見て芥屋錨はそう考える。

 その足元には右腕を数本の釘で地面に打ち付けられ、這いつくばるのっぺらぼうの姿があった。

 

「やっぱ強いな、錨くんは。傷一つ付けらんねえ」

 

「きさらぎ駅も、お前ももう終わりだ。何を企んでいたかは知らんが徒労に終わる。残念だったな」

 

 そう呟いて錨は釘をのっぺらぼうの額に狙いを定めた。

 

「……ははは」

 

「何がおかしい」

 

「俺さ、嘘は吐かないんだ。この世で唯一嘘を吐く生き物は人間だけだから。そんなのと一緒にされるのはごめんだね。でも言うべき事は言わず、言わないでいい事を言うのは大好きだ」

 

「はっきりと言え」

 

「あの生贄くんに『タイムリミットは30分だ』って伝えただけだよ。まあ、それは俺にとって(・・・・・)なんだけど」

 

「……?」

 

「今回はきさらぎ駅とマネキンの怪を混ぜた。二つの怪異を同時に憑かせたらどうなるか知ってるか?」

 

 その口振りは、出来の良い悪戯を褒めてもらおうとする子供にも似ていた。

 

「お互いに主導権を握ろうと喰い合って、結局一定時間で消えるんだ。つまり君らがどうこうしなくても勝手に事態は収束する。宿主も無事、駅に閉じ込められてた人も帰る事ができてハッピーエンド。でもさ」

 

「タイムリミット、って聞いた生贄くんはどういう想像を膨らませるかな? もしかしたらこう思うんじゃないか? 『三十分までに終わらせられなければ自分達を含め、全員がドカン!』とかさ」

 

「きさらぎ駅は殴って外せるような並の怪異とは訳が違う。本来は宿主の身体と深く同化した後、すぐ喰い潰す。今はマネキンの怪のお陰で成り立ってるようなもんなんだ。だから外しは効かない」

 

 幾重にも重ねられた、悪意の罠。

 錨の脳裏に、生真面目ではあるが人を助ける事を是としその仕事に誇りを持つ一砂の顔が過る。

 

「外そうとしても上手くいかない、あの怪異が言っていたタイムリミットまで時間がない。追い詰められた彼は、守るべき女の子を前にしてどうする(・・・・)と思う?」

 

「お前は、何がしたいんだ」

 

 人を可能な限り多く害するという怪異の本能に反し、その目的すら読めない。だからこそ対処が遅れたと言ってもいい。

 

「芥屋が潰れて喜ぶ奴はそれなりにいる。生贄くんが罪悪感に苛まれて喜ぶ奴も、まあいるって事。お喋りは好きだけどまあ、これくらいにしとくか」

 

 そう言うなりのっぺらぼうは、数多の釘が刺さっていた右腕を引き千切るようにして地面から剥がした。咄嗟の事に反応が一瞬遅れ、もう一度捕縛する前に大きく距離を取られる。

 

「右腕は返すわ。寒くなってきたからな、次会う時まで風邪引くなよ」

 

 友人と同じ声を残して、怪異は闇に溶けるように消えていった。

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 これは怪異なんだ。人じゃない。

 

 もう左手の感覚は無かった。ただ握り締めた拳を、潰れた頭に何度も叩き付ける。その度に響く鈍い音と頬に飛び散る血が、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。

 

「やめて一砂くん、その人死んじゃう、死んじゃうから!」

 

 縋り付くようにして止めてくる彼女を背中に感じて拳が止まる。止められるなら、止めたかった。けれど今自分には彼女を、多くの一般人を守り通す義務がある。

 そっと振り解くと、鼾をかいている男に向き直りまた拳を振り上げる。無意識の内に自分がごめんなさい、と呟いているのに気付く。一体誰に対してかも分からないまま。そしてまた何度も殴り付ける。

 何度も。

 何度も。

 何度も。

 

 気付いた時には、線路の上ではなく元のホームに戻っていた。恐らく怪異を祓ったからだろう。峠を越した事にほっと息を吐き、立ち上がって彼女に手を差し伸べる。周りの乗客もマネキンによって傷付けられてはいるが、少なくとも命に別状はなさそうだ。

 

「まだ近くに怪異がいるかもしれません。早く離れましょう」

 

「……」

 

 何故か彼女は怯えたような瞳で自分を見るばかりで、答えてくれなかった。他の一般人も何故か自分の事を冷ややかな目で見ている。張り詰めた雰囲気の中で、一人の少女が自分を指差してこう言った。

 

「……人殺し」

 

 そう言われて、自分の左手をじっと見る。ねっとりとした血がこびり付いて、まだ微かに震えるそれは紛れもなく何かを殺した手だった。

 自分の足元には、顔を判別する事もできないほど砕け散った怪異の残骸がある。そう、これは怪異だ。人じゃない。

 

 パトカーのサイレンが鳴り響いたかと思うと、武装した警官達がホームに次々と降りてくる。その中には見知った顔もあった。

 何故だか分からないけど、その人には見られたくなかったのに。人の良さそうな皺だらけの顔が引き攣るのに耐えられなくて、何とか説明しようと足を踏み出す。

 

「一砂、お前」

 

「あの、違うんです、金本さん。これは、本当に違って、あれ」

 

 何が違う? 

 

 自分が殺したのは怪異だ。

 

 違うだろ。

 

 お前が殺したのは。

 

 

 ああ、そうか。

 十八年間生きてきて、自分は今日初めて人を殺したのだ。

 

 そう認めてしまうと、何だかどうしようもなくなってしまって。

 怯える彼女に、憤怒と侮蔑の視線をぶつけてくる彼らに、何と弁解すれば良いのか分からなくて。

 

 膝に力が入らなくなって崩れ落ちる。

 何か大事な物を取り零してしまったような気がして、少しだけ泣いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

#4 愛している、が届かない

 

 

 形式として警察に連れて行かれたが、自分でも拍子抜けするほどあっさりと釈放された。怪異が関係している事と芥屋が警察と懇意にしている事を照らし合わせてみれば、驚く事ではなかったが。

 駅に配置されたマネキンによって怪我をした者は多数いたが、死者は一名だけだったらしい。自分が頭を砕いたあの宿主だ。

 

「一砂がんな事する訳ねえだろうが!」

 

 別室で話を聞かれている最中、そう金本さんの叫ぶ声が聞こえてきて目を伏せた。たとえ事情がどうであれこの左手にはあの頭骨を割る感触が、洗っても洗っても取れそうにない血の臭いが染み付いている。

 

 人殺しの手だ。

 

 警察署を出た時には既に日はとっぷりと暮れていて、空には頼りなげに三日月がぼんやりと浮かんでいた。俯いて帰り路を行こうとした時、叱咤するような厳しい言葉が飛んでくる。顔を上げると淀んだ瞳をした錨さんが立っていた。

 

「情けない面をするな、士気が下がる。家に帰るまでに元の仏頂面に戻しておけ」

 

「……すみません」

 

 今回の一件で自分と心依様が狙われていると判断した当主は更に増援を呼んでいて、明朝には到着するらしい。

 家に残っている者は彼女の護衛に回されているが、自分に対しては錨さんが単独で迎えに来たということになる。アンバランスなようだが、彼がそれほどまでに別格の強さを誇っている証左だ。

 

「増援と言っても雑兵だがな。まあ陽動くらいにはなる」

 

 傲慢な口振りにも思えるが、事実だから仕方ない。血が薄ければ高位の怪異に対して然程効果は見込めないし、何なら動きが目立ってしまうデメリットもある。

 それでも頭数を揃えるメリットを当主は優先したのだろう。

 

「ところで話は変わるんですが、あの話は本当なんですか」

 

 きさらぎ駅の中でマネキンが暴れた際、錨さんを含めた護衛はその鎮圧に追われていて此方に応援に来るのが遅れたそうだ。それでも処理を済ませ、ホームに向かおうとした最中にそれを見つけたという。

 

 夥しい量のマネキンが破壊された痕跡。

 即ち『芥屋以外の誰か、若しくは何か』が其処にいたという事だ。

 

「ああ。単純な腕っ節なら恐らく俺より上だ」

 

 怪異を祓っていたという事は少なくとも敵ではない筈だ。けれどそれなら何故正体を明かす事もしないのだろうか。何とも言えない薄気味悪さが漂っていた。

 元々自分も錨さんも無口な方だからか、すぐ会話は途切れる。少し心地悪いな、と思っていると彼が徐に口を開いた。

 

「"刈り(殺し)"は初めてだったか」

 

「……はい。今までの怪異は大抵一度殴れば外れましたから」

 

 のっぺらぼうも、きさらぎ駅も自分の天敵のような存在である事を改めて痛感する。外せない相手に対して、自分は物理的にも精神的にもなす術が無い。

 

「お前は甘過ぎる。血に驕る事なく更に修練を積め。そんな事だから俺相手にすら組手で一本も取れんのだ」

 

 錨さんに一本取れる人間は少なくとも芥屋には存在しない。

 自分が彼に稽古を付けてもらうようになったのは、確か八歳の頃からだった。その当時、錨さんは今の自分と同じ十八歳の高校生だったが長期休暇の際には怪異退治の武者修行として既に全国を旅していたという。

 分家の末端である自分は、本家の人間に御目通りを願う事も本来は難しい立場だ。そんな自分が本家の次男坊である錨さんに稽古を付けてもらえたのは、(ひとえ)に贄だという事が大きいだろう。死なれては困る、しかし芥屋の人間である以上は怪異に対して挑まなければならない。

 

 つまるところ、自分は死ぬ為に(・・・・)死なないよう鍛えられてきた。

 にも関わらず、錨さんとの稽古は楽しかった事を覚えている。

 いや、稽古自体は厳しいものだったのだが。何とも説明が難しい。ただ兄弟のいない自分にとって、昔は彼が歳の離れた兄のように思えていたという事だ。きっと構って貰えるだけでも嬉しかったのだろう。

 そう考えると、いつからこんな他人行儀にお互い接するようになってしまったのか。

 

「人を、傷付けるのが怖いんです。今までは怪異に憑かれてるからって自分に言い聞かせてきました。でも、あのきさらぎ駅の宿主は確かに」

 

 そこまで言いかけて吐きそうになる。こんな事でこれから心依様を守れるのだろうか。情けなくなってまた俯く。

 

「ふん、庶流の小童が一丁前にお悩み事か」

 

 そう言って彼は足を止めた。

 

「お前がした事は決して褒め称えられる事ではない。理由はどうあれ人命を奪った事に変わりはない」

 

 思わず目を瞑る。

 己の咎を突き付けられる罪人の気分だった。

 

「だが、蔑まれる事でもない。お前の判断があの場にいた者全ての命を救った。礼を言う」

 

 驚いて錨さんの方を見ると、彼は此方に目をやる事もなくただ遠くを見据えていた。

 

「顔を上げ、背筋を正せ。己を責めて考える事を放棄するな。それは楽になるための卑怯な道だ。自分にとって何が最善か、常に思考を巡らせろ。そして選び取った答えにだけは胸を張れ。地獄までその罪を引き摺ってやると吼えろ。一分の悔いも残さないように、全てを燃やし尽くして」

 

 そこまで言って、彼は口を噤んだ。

 

「それでも死にたくないな、と最期に言えるような人生にしろ。満たされないくらいが俺達には丁度良い」

 

 それでも死にたくないな。

 己の命を擲つ事も厭わない芥屋の人間にとってそれは何とも情けない言葉だと感じた。それを芥屋の中でも高い立場である錨さんが呟くのが何とも可笑しくて、自分を気遣って慣れない冗談を飛ばしてくれるくらいにはまだ好かれていたのだと少し嬉しくなった。

 

「あと十日しか生きられない人間には些か酷ではないですか」

 

 こちらもお返しに冗談めかして返すと彼は暫く押し黙ってしまった。その後、何故か言い淀みながら目を逸らす。

 

「男子三日会わざれば刮目してみよ、と言うだろう。庶流の小童でも変わるには十分な時間だ」

 

 会話が止まる。冬の寒夜ではあるが、数日前に比べると微かに吹き付ける風は柔らかくなっていた。春も近いのだろう。

 

「お前は少し、優し過ぎる。恨んで当然なんだ、本当は」

 

 ぼそりと錨さんが呟く。

 どういう意味か測りかねて聞き返すと「何でもない」と少し不機嫌になっていた。

 

「そういえば依代様を救った褒美を忘れていたな。望みの一つくらいは叶えてやる、俺にできる事なら好きに言え」

 

「いえ、そんな自分には勿体無い……あ、なら今から自分が何か言っても気にしないで下さい。少しだけでいいので」

 

 そう言うと彼は不可解そうな顔をしたが黙って前を向いた。

 

「錨(にい)ちゃん、なんて。はは……すみません」

 

 ずっと昔、幼い頃にそう呼んでいたのを思い出して何となく懐かしくなってしまったから。甘ったれるな、といつものように叱られるかと思って首を竦めていたがいつまで経っても怒声は飛んでこない。

 どうしたんだろう、と顔を向けると。初めて錨さんは自分の方を見た。そして何だか泣きそうな顔で少し笑った。

 どうかしましたか、と尋ねると彼は照れ臭そうに頭を掻いてぶっきらぼうに呟いた。

 

「いや、随分と背が伸びたと思ってな」

 

 それでもまだ錨さんの背には届かない。けれどそれが今はどうしてだろうか、嬉しかった。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 家に帰ると父への挨拶もそこそこに、心依様の部屋に向かう。

 他の手段を考え付かなかったとはいえ、随分怯えさせてしまった。許して頂けるかは分からないが、嫌われる訳には行かない。

 襖越しに声を掛ける。

 

「心依様。遅くに失礼します、少しお時間よろしいでしょうか」

 

「……一砂くん? いいよ、どうぞ」

 

 少し沈んだ口調ではあったが返事があった事に安堵する。襖を開けると部屋の隅の方に縮こまるようにして座っていた彼女から、程近い場所に腰を下ろす。

 

「今回は自分の至らなさで憂き目に遭わせてしまい申し訳ありませんでした。次はこのような事が無いよう努めますのでどうか──」

 

「一砂くんはさ。あのおじさんを殴りたかったの?」

 

 遮られるようにそう言われて困惑する。そんな筈がないだろうと一喝したかったが、そういう訳にもいかない。

 

「滅相もないです」

 

「だよね。じゃあそれは私のため?」

 

 暫く迷って頷く。やらなければあの場にいた全員が恐らく死んでいたが、それでも自分が拳を振るえたのはきっと彼女がいたからだ。

 すると彼女は悲しそうに目を伏せた後、自分の頬に手を添えた。彼女の手はほんの少しひんやりとしていた。

 

「やりたくない事はやらなくていいよ。本当は分かってた、多分一砂くんがああしてなかったら私達はどうにかなっちゃってたって」

 

「いや、しかし」

 

「それで死んじゃうんだとしても。私も一緒に死んであげるから」

 

 言葉を失った。そんなの本末転倒だと言おうとして胸が詰まる。声が震える。そうしてやっと、自分が泣いている事に気付いた。

 

「だからもっと、自分を大事にして。一砂くん、ホームで泣いてたじゃん。君が泣いてる所見たくないよ」

 

 何故か彼女もそう言うと泣き出してしまって、二人で顔を見合わせて涙まみれになりながら笑った。

 顔を拭いた後、気になって「どうしてそこまで自分なんかに命を預けてくれるのか」と尋ねる。すると彼女は少し恥ずかしそうに顔を逸らした。

 

「いや〜だって私、記憶も何もないしさ。不安なんだよね、私って本当にここにいるの? って。でも一砂くんは命を懸けて私を守ってくれるし、好きになってくれるんでしょ?」

 

 それで十分だよ、と彼女は呟いた。なら自分もそれに報いない訳にはいかない。

 

「ではお詫びとお礼に、一つ何でも申し付けて下さい。自分にできる事なら何でもします」

 

 錨さんの真似をしてそう言ってみる。

 

「何でも!? 言ったよね、よーしどうしよっかなー」

 

 彼女は少し考えた後、ぴんと指を立てる。

 

「じゃあ様付け禁止、これからタメ口ね。はい、決定!」

 

「それだけは勘弁」「男に二言はないよね」の押し問答の末、暫く逡巡していたが意を決して口を開く。

 

「心依。これでいいか?」

 

「……なんかちょっと、面と向かって呼ばれると照れるね」

 

 そう言われると何だか自分の方まで照れ臭くなって顔が熱くなる。けれど不思議と悪くない心持ちだった。

 

 その時。

 たーん、とでも形容すればいいのだろうか。何かが弾けるような音が遠くから聞こえてきて顔を見合わせる。

 

「何だろ、花火かな? 冬なのにね」

 

「流石に酔狂過ぎないか」

 

 さっきの破裂音は自分達への祝砲だったのではないかと考えてしまうくらい、心が晴れやかだ。何でもない会話で笑い合う時間さえも、彼女と一緒なら不思議と心地良い。

 こんな簡単な事を忘れていたんだな、と自分を恥じると同時に気付けた事に安堵した。きっとまだ遅くはない。

 

 伝えなければ届かない、たったそれだけの大切な事。

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 夜も更け切った丑三つ時。

 屋敷からそう遠くない木陰に芥屋錨は座り込んでいた。

 屋敷の周りには怪異避けの呪いが張ってあるため、護衛達はそれを更にカバーするように主に屋敷周辺に待機している。と言っても怪異がこの近辺まで来た試しはない。恐らく本能で芥屋の住む場所を忌むべきものとして避けているのだろう。

 

 意を決したように彼は着物の袖からスマートフォンを取り出し、電話を掛ける。深夜にも関わらずすぐにそれは繋がった。珍しく少し緊張した声色で錨が口火を切る。

 

「俺だ。なあ、兄貴よ。一砂を贄にする以外に本当に方法はないのか」

 

 交渉が上手くいかないのか、次第にその口調は刺々しくなってゆく。それでも乞い願うように辛抱強く彼は話し続けていた。

 

「そんな事は分かっている。分かっているが、あれはまだ子供だ……ちっ、もういい!」

 

 業を煮やしたのか、一際大きな声で叫ぶと電話を切る。拗ねたように草地に身を投げだすと、月を眺めてぼやいた。

 

「無力だな」

 

 草を踏み締めるような音がした。こんな時間に誰だろうか、と彼は上体を起こして視線を向ける。

 

 幼さの残る顔立ちの少年が月明かりに照らされて立っていた。

 

 怪異の気配はない。

 少女にも見紛うような銀の長髪が夜風に吹かれて靡いた。まだ小学生くらいであろうその少年はおずおずと声を掛けてくる。足が悪いのか、その手には杖が握られていた。

 

「あの、道に迷うてしまったんじゃけど。よかったら教えてくれん?」

 

 訛りの入った言葉はこの地域ではあまり耳にしない。しかしこんな夜更けに子供が迷子とは塾か何かだろうか、そう不審感を抱きながらも優しく話し掛ける。

 

「構わないがそれよりも、夜遅くに子供が一人で出歩いているのは良くないな。家の者に送らせるから少し待ってくれるか」

 

 そう言って彼がスマートフォンを取り出した時だった。

 

「芥屋いうお家はどこですか」

 

 聞き間違いか、と思い錨は目を瞬かせる。いや、聞き間違いであってくれと願うのは彼の甘さだった。

 

「……ご両親の連絡先を覚えているか?」

 

「父ちゃん母ちゃんはおらんよ。おじさんもおばさんも、いとこのがっちゃんもみーんなおらんよ。死んじゃったもん」

 

 錨の背中に駆け上るような怖気が走る。目の前の相手が怪異であってほしいと彼は生まれて初めてそう願った。

 

「あんたはよお知っとるじゃろ?」

 

 そう笑って、少年は杖の先を錨に向ける。

 杖のように偽装されているが、それが獣を撃つ為の長銃だと錨が気付いた時には破裂音と共に既に腹を弾が貫通していた。

 歯を食いしばり痛みを堪え、溢れてくる血を片手で抑えながら袖に忍ばせた釘を投げ撃つ。

 少年は猿のような身のこなしでそれを避けると間合いを取った。明らかに戦闘慣れしている。

 初撃を諸に食らってしまったのはあまりにも重いハンデだった。

 

 だが異変を感じ取れば他のポイントに待機している芥屋の者がすぐに駆け付ける手筈になっている。最短で三分といった所だろう。それさえ凌げばどうにかなると、朦朧とし始めた意識を取り戻すべく頬を叩く。

 

「忘れた? なら鵺殺しの出雲って言ったら覚えとるじゃろ」

 

 そう子供が言った瞬間、錨の動きが止まる。そこを見逃さず、子供は再び彼の身体に狙いを定めた。破裂音の後、足の腱を撃ち抜かれて崩れ落ちる錨の腕に銃口が押し付けられる。

 

「楽に死ねる思うなよ。人殺しが」

 

 無邪気さにも似た悪意が、幼い少年の顔で笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 

 意識を取り戻した瞬間、背中の肉が削られているような痛みを感じる。ぼやけた視界が少しずつ動く夜空を映し出していた。何かに引き摺られている、と気付いて視線を自分の足先にやる。先程の少年が自分の足を片手で掴んで、何処かへ運んでいた。

 抵抗しようとするが、手足は動かない。首を動かして確認すると、腱を断ち切るように撃ち込まれたのだろう弾痕がぽっかりと空いていた。それを認めてしまったためか、じわじわと痛みが迫り上がってくる。

 胴体にも何発か撃たれた形跡があり、引き摺られる度にごぽりと鮮血が溢れ出していた。そしてやっと気付く。

 

 恐らく、ここで俺は死ぬ。

 

 そう思うと何だか可笑しくて、笑おうとしたが血痰が絡んで上手く声も出せなかった。

 

 思えばつまらない人生だった。

 

 二十八年も無駄に生きてきて何も残せなかった男にはお似合いの結末だ。怪異でも何でもないただの子供に殺されて死ぬ。

 

 

 本家の次男坊なんて物に生まれこそしたが、この血に刻まれた呪いは薄かった。芥屋の呪いは愛されて産まれた者ほど濃く、強くなるという。

 

 つまり俺は愛されていなかったという事だろう。母は物心付く前に死に、父から掛けられた言葉は「身体に気を付けるように」くらいしかない。何の事はない、俺に求められていた役割は妻を娶り子を産ませ、本家の血を絶やさぬようにする事だったから。だから怪異を祓えようがそうでなかろうが、関係は無い。寧ろ危険な現場に出ない分、その方が都合が良かったのだと思う。

 

 けれど幼い頃からそれがどうにも癪で仕方なかった。きっと骨の髄から俺は芥屋になり切れなかった。俺をまるで種馬のように見る家の者共を見返してやろう、それだけの動機で血に頼らない祓い方を身に付けた。

 外しを代々継いできた芥屋にとって、伊勢の刈りを彷彿とさせる俺のやり方は気に食わなかったようだがこの稼業は実力が全てだ。

 

 家のやり方に俺が反発しようが誰も文句は言えなかった。まだ高校を卒業したばかりだったが既に祓いで俺よりも優れた者は誰もいなかった。

 一砂に初めて会ったのもそのくらいだったと思う。今回の"贄"だ、鍛えてやってくれと紹介された時には「無愛想な餓鬼だな」という印象を抱いた。

 事実、痛みに鈍いのか多少扱いても音を上げない。けれど褒めてやると、少しはにかんで笑う姿は歳相応の少年だった。産まれた当初からその役割を定められている事にも、ある種の共感を抱いていたのだと思う。あの子の方がずっと辛い役回りには違いないが。

 数年に渡って稽古を付ける内に、一砂もそれなりに俺を慕うようになった。兄貴とあまり上手く行っていなかった事もあって、俺もあいつを弟のように可愛がっていた。それがいつの頃からか、あいつも俺もお互い他人行儀になってしまった。

 

 

 いつから俺は変わってしまったんだろうか。

 いや、分かり切っている。六年前の八尺災害だ。各都市に八尺様が侵攻したあの晩、俺はずっと他家の友人(水無蛍蛉)を心配していた。水無の封じは、高位の怪異に対しては効果が薄れてしまう。故に速攻で自分達の持ち場を終わらせ、助太刀に行く。

 そう考えていた俺に兄貴(違明)は言い放った。

 

 水無に加勢はしない、と。

 

「兄貴、水無が助力なしに一晩持つと思ってるのか!? そんな悠長に時間をかけている暇はないだろ!」

 

「僕が当主だ、だから芥屋ならこの判断に従ってもらう。まあ君が一人で名古屋まで行って助けに行くというのならそれでも構わないけどね」

 

 いくら俺が芥屋の中で優れていると言えど、たった一人でどうにかなるレベルの怪異ではなかった。縋るように周りの連中を見回す。どいつもこいつも目を逸らして、自分の事しか考えていない濁った瞳をしていた。

 唇を噛み締める俺に対して、子供を宥めるように兄貴はこう言った。

 

「それに錨、考えてみなよ。水無が潰れればその分のシェアは僕達が握れる。伊勢の連中も美味しい思いをするのが癪ではあるけど」

 

 その結果、俺の友人は顔の無い怪異(のっぺらぼう)に乗っ取られる事になる。そして兄貴の目算通り、水無は潰れた。当代一の実力だと謳われていた筈の俺の手には、何も残らなかった。

 

 

 そしてやっと、初めて悟る。たとえ自分一人が反抗しようとも、それでこの腐った連中は動かせないと。

 ならばいいだろう。俺が誰よりも強く、正しい芥屋になってやる。そして誰にも俺のやる事に異を唱えさせない。その想いだけを胸にあの日から模範的な芥屋として振る舞い続けた。

 

 いや、何も残らなかったなんて事はないな。

 

 俺の隣にはいつも千代(チヨ)がいてくれた。

 箔を付ける為だけに通っていた大学で、彼女と初めて出会った時の事を今でもよく覚えている。

 ベンチに座って文庫本の頁を手繰るその指が、本当に綺麗だったから。そんな何でもない仕草だけで、息が止まるような一目惚れだった。

 少し度の強い眼鏡をかけていて、肩まで伸びた黒髪に触れるときょとんと目を丸くする。それが何ともいじらしくて、やめてよと何度も叱られた事を覚えている。

 

 彼女には本当に悪い事をしたと思っている。俺なんかではなく普通の男と結婚して、普通に子供を産んで、そんな平凡ながらも悪くない未来があっただろうに。

 だからせめて欲しいものは何でも買ってやる、やりたい事はなんでもやらせてやると言ったのに。そう俺が言うと決まって彼女は困ったように笑って「貴方がいれば何も欲しくはないんだけど」と呟いて。

 

 俺には自分がとてもそんな値打ち物だとは思えなくて、苦々しく感じながらも「そうか」なんて気の利かない返事しかできなかった。

ならばもっと彼女に相応しく在れるように、と遮二無二怪異を祓い続けた。そんな事をするくらいならねぎらいの言葉でもかけて、一緒にいてやるべきだったのに。

 

 でも俺はそれを選ばなかった。大義の為と言い訳して何度も手を汚した。

 全ては只管に実績を積み、兄貴を当主の座から引き摺り下ろして俺が上に立つ為に。そして家同士の諍いも、代々継がれる血の(しがらみ)も全て取っ払う。誰も傷付かない己の理想を体現する。

 

 

 本当はそんな大層な物が欲しかったんじゃないのに。

 

 俺は何が欲しかったんだっけ? 

 

 ああ、そうだ。

 

 千代との子供は欲しかったな。

 男の子だと祓いに参加させられるから女の子が良い。

 いや、家とは縁を切って普通の勤めに就けばいいか。稼ぎは少なくなるだろうが、悪くない。田舎の不便な土地にでもいいから小ぢんまりとした家を建てて、週末は三人で買い物に行こう。

 それで千代達が服を買ったりしている間、俺は手持ち無沙汰で外に立ってる。娘の買い物にくらいちゃんと付き合ってよね、と買い物袋を下げて頬を膨らませる千代に俺は「悪い悪い」と大して悪びれもせずに謝るのだ。

 それで帰り道に三人で少し贅沢に外食でもして、帰って娘を風呂に入れながら「俺もいつかは嫌われるようになるんだろうか」なんて考えて、暖かい布団の中で千代の寝顔を眺める。

 

 なんで俺はこっちを選べなかったんだろうな。

 

 もう誰にも傷付いて欲しくなかったからこの道を選んだ筈なのに、俺は何も救えなかった。愛した妻を一人残し、友人も取り戻せず、自分を慕ってくれた少年を務めから逃してやる事もできない。

 

 一砂を見る度に辛かった。俺達があの子に寄って集って重過ぎる荷を背負わせてしまったから。

 

 もし神様が、本当に神様なんてものがいるのなら。どうかあの子達が逃げ出せるように。押し付けられた務めなんて投げ出して、誰も知らない何処かへ逃げ出せるように祈った。

 

 目が霞んで月明かりが金平糖のようにぼんやりと映る。もう痛みすら感じなくなってしまって、なんだかとても寒くて眠い。

 今はただ、無性に千代に会いたい。

 俺がただいまと言うと、彼女はおかえりなさいと返す。何でもないやり取りが恋しかった。

 

 目をつぶればこれは全部夢で、起きた時には暖かい布団の中だ。

 ずっと照れ臭くて言えなかった事も今ならきっと言えるのに。

 

 

 愛している、くらい言っておけばよかったな。

 鉄錆びた味のする喉から絞り出すようにそう呟くと、もう何も見えなくなった。きっと気付くには少し遅過ぎた。

 

 伝えなければ届かないなんて、簡単な事に。

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 

「兄ちゃん兄ちゃん! こいつ結構強かったで。でも儂に『オン! オン!』って言っててさあ、オットセイの物真似しとるんかなって笑っちゃったもん。怪異と勘違いしとらんかったら危なかったかもしれんなあ」

 

 まだ齢は十にも満たないだろう。あどけない顔付きの少年が月明りの下、何かを引き摺って歩いていた。灰をまぶしたような緩やかな長髪は飛び散った血で汚れている。左腕に本来は獣を撃つための長銃を携え、空いた片手で引き摺り運ぶそれを雲の切れ間から差し込む月明りが照らし出す。

 

 時折石とぶつかり鈍い音を立てながらも、力無くその四肢は垂れ下がっている。紛れもなくそれは人だった。

 だが全身に穴を空け、夜空を映し出す虚ろな瞳にはもはや光はない。藍色の着物は泥で汚れ、袖に忍ばせた釘が鈍く光る。

 

 

 芥屋 錨その人であった。

 

 

「よくやったね、(ナギ)。でも芥屋は外ししか能がないからね、それしか知らないんだ。けれど馬鹿にしてはいけないよ、そもそも怪異祓いに人を想定した対策(・・・・・・・・)を求める方が酷だから」

 

 兄ちゃん、と呼ばれた男は銀縁の眼鏡に付いた血を拭う。彼も齢は十五ほど、まだ少年だと言える年頃だった。しかしその足下には同じように銃で撃たれた複数の遺体が転がっている。拷問でも受けたのか無惨に皮を剥がれているが、いずれも芥屋の精鋭の亡骸だった。

 

「兄ちゃんは三人か、じゃあわしの負けかな……」

 

「どうだろうね。でも薙が殺したその人の方が、僕が相手した三人合わせてよりも強かったと思うよ。薙の勝ちでいいんじゃないかな」

 

「……!! わしの勝ち! また兄ちゃんに勝った!」

 

 無邪気に喜ぶ弟とそれを慈愛に満ちた瞳で眺める兄。そう言うには憚られるほど、その身体は硝煙と血の臭いが染み付いている。

 

「家まで攻め込めれば良かったんだけど、思った以上に手強くて時間かかっちゃったね。夜が明けたら流石に分が悪いや、明日に回そう」

 

「はーい! じゃあこいつもここに捨てとこ」

 

 そう言って薙と呼ばれた子供は亡骸の山に錨を打ち捨てた。滑稽に折れ曲がった手足は何処か糸で吊られる操り人形のようにも見えた。

 

「明日はいよいよ本丸だよ」

 

「楽しみじゃね」

 

 そう笑い合いながら二人の少年は闇に溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

#5 誰がその咎負う者か

 

 

 

 夢を見ていた。

 

 その中では何と言えばいいんだろうか。私ではないけれど、それは確かに私だった。

 深い森の中で誰かと大きな樹の下に腰掛けていて、霧雨が降りそぼる中で彼の肩に首を預けながら名も知らぬ鳥の鳴き声を聴いている。何故だかその人の顔は靄がかかったようにぼんやりとしていたけど、不思議と怖くはなかった。

 隣に座っているだけで安らぐようで、いつまでもそうしていたかった。彼が何かを私に囁く。上手く聞き取れなかったけれど、嫌な感じがして首を振る。色彩すらぼんやりとした夢の中で、彼の首筋を流れる雨滴だけが蜜のように甘く香る。

 

 

 なんだかお腹が空いたな。

 

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 錨さんが死んだ。

 銃で撃たれていた事から、怪異ではなく恐らく人間に。

 そう父から聞いた時、とうとう自分の頭がおかしくなったのかと思った。いつもと同じように少し肌寒い、そんな朝の事だった。平時と変わらない仏頂面で淡々と告げる父を前に、どうしてか自分から出てくるのは愚にも付かない半笑いだった。

 冗談だ、そう言って頷いてくれるのを待つ。だが父は自分を失望したように見るだけだった。

 

「呆けるな。傷からの失血死らしい、この屋敷も危険だと当主は判断なされた。場所を変えるから荷物をまとめておけ」

 

「いや、錨さんが死ぬ訳ないじゃないですか。父様だって知ってるでしょう、あの人がどれだけ強いか」

 

 自分で喋りながら、何だかまだ夢の中にいるみたいだった。

 目眩がする。足元が覚束なくなって座り込む。

 

「錨さんが、死ぬ訳ない」

 

 溜息を吐いて父が部屋から出て行く。これからどうすればいいのだろうか。ぼんやりとしながらも言われた通り荷物をまとめ始める。

 不思議と悲しくはなかった。きさらぎ駅で人を殺してから、自分も畜生に堕ちてしまったのだろうか。あれだけ長く世話になってきた筈なのに、涙の一滴も出ない。

 

 スーツケースに衣服を詰めていると、誰かが部屋をノックした。ドアを開けるとそこには心依が不安げな顔で立っている。放っておく訳にもいかず、一先ず部屋に招き入れた。

 普段自分が使っているベッドに腰掛けて、足をぱたぱたと遊ばせる仕草は小さな体躯と相まって彼女を幼子のように見せる。

 

「ねえ一砂くん、なんか皆ドタバタしてるけど何かあった? 他の人に聞いても『もう少しでこの家を発ちますから』しか言わないし」

 

 多分、誰も知らせていないのだ。それはそうだ、自分が原因で人死にが起こったなんて聞いて喜ぶ者は誰もいない。だが。

 

 常に思考を巡らせろ、という錨さんの言葉が不意に過る。

 

 自分達はいつも隠し事ばかりだ。そんなの誠実じゃないだろう。そっと深く息を吸い込むと彼女の瞳を見つめる。緋水晶のように透き通っているそれは、やはり目の前の彼女が人ではないのだろうと感じさせた。

 

「錨さんが死んだ」

 

「え」

 

 彼女はぱちくりと目を瞬かせた。陰鬱な雰囲気が漂う屋敷の中、その仕草一つだけで空気が華やぐような気がした。

 

「それって、もしかして私が」

 

 続きを言おうとした彼女の口に指を当てる。微かに触れる吐息がくすぐったい。

 

「君のせいじゃない。自分達はそういうものだから。決して君のせいじゃない」

 

 口下手な自分がこの時ばかりは憎らしくて仕方なかった。彼女の不安を取り除いてあげたいのに、いつも自分は空回ってばかりだ。

 

「心依に一つお願いがある」

 

 そう言うと、彼女は顔を上げて自分を見つめた。

 

「何があっても離れないでいて欲しい。自分は弱いから、大事な物をすぐ取り零す。でも君が近くにいて離れないでいてくれるなら」

 

 そっと手を取る。朝の冷気に晒されて冷え切った彼女の指先を温めるように包む。

 

「この世の何からであろうと君を守り通す。怪異だろうが人だろうが誰にも君を傷付けさせない」

 

 彼女は微かに頷いた。

 そして消え入りそうな声で呟いた。

 一砂君はどこにも行かないでね、と。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 スーツケースを片手に、心依と共に部屋を出る。家の外では当主が父と共に自分達を待っていて、今すぐ出発する事を告げた。それでも自分はどうにも諦められなくて、当主に目を伏せながら訴える。だってまだ、死に顔すら見られていないのに。

 

「錨さんの葬式も出せないんですか」

 

「時間がないから仕方ないよ。それに顔を見たら多分一砂君はショック受けちゃうからさ、見ない方がいい」

 

 当主はそう言って自分と心依を車に乗せた。辺りには五台、自分達が乗った物と同じ車種が用意されている。昨日言っていた通り、数十人近い芥屋が増援として庭に立っていた。

 

「これから君達をより人目につかない所に送っていく。でも確実にこの屋敷の場所はバレているし、相手は錨を殺した腕利きだ。後を付けられて結局正攻法で勝負じゃ勝ち目がない、だから囮を用意した」

 

 彼曰く、全く同じ車を六台同時に走らせる事で相手を撹乱させるらしい。

 敵が何人程かはまだ判明していないが、目立った騒ぎも起こさずに事を済ませている手際から少数精鋭の可能性が高い。ならば時間を稼ぐ事ができるこの策はあながち下策でもない。まさか六分の一をピンポイントで引いて自分達の乗っている車を追ってくる事はないだろうし、相手の戦力を分散させられれば勝機はあるかもしれない。

 

「じゃあ一砂君。もう会えないかもしれないけどお務めはしっかり果たしてね、依代様と仲良くするんだよ」

 

 父と当主も別の車に乗るらしい。敵に追われたらそれなりに足止めできるように五台の車でそれぞれ戦力を分散させているとの事だが、錨さんを一晩で仕留めた相手に果たして通用するだろうか。

 

「ああ、あとこれを渡しておこうと思ってね。君なら使えるさ、周りには注意して」

 

 そう言って当主に何の変哲もない小瓶を渡される。中には薄汚れた包帯の切れ端のような物が数枚入っていた。微かに動いているようにも見えるそれは、以前に見覚えがある。

 

「これって……」

 

「三分が限度、それ以上は多分身体が受け付けない。一回一枚にしておいてね」

 

 使わないに越した事はないが、頷いてそれを懐に収める。父は相変わらず自分に見向きもしなかった。心依が来てから何故かずっと機嫌が悪そうではあったが、今生の別れになるかもしれない局面であっても声の一つも掛けて貰えないのは少し寂しいような気がする。

 

「父様。今まで育てて頂き、ありがとうございました」

 

 返事は無い。それでも頭を下げ、車に乗り込む。

 走り出してからも父が此方を見る事はなかったが。それに気付いたのか知らないが、心依が自分の手をそっと握る。なんだかそれだけで心の奥の方にある何かに暖かな灯が点ったようで。

 

 目を閉じてこれからの事に思いを馳せる。

 あと九日で、自分達はどこまで行けるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 一砂達が車に乗り込んだあと、周りにいた芥屋もそれぞれ己の車に向かおうとした時だった。

 

「えーと、一鼠君だっけ?」

 

 当主、芥屋違明は隣に立っている男の肩に馴れ馴れしく手を置く。

 贄として息子が近い内に死ぬ筈だというのに、顔色一つ変えない一鼠に対して彼は不思議そうに尋ねる。

 

「別に咎めるつもりはないけど、一砂君にもう少し優しくしてあげたら? それともこれが君なりの父親として出来る事ってやつなのかな」

 

「いやはや、そんなつもりは無いのですが当主様に不快な思いをさせてしまったなら申し訳ありません。あいつは些か甘い所がありまして、優しい言葉なんて掛けてしまえば未練が出るかもしれませんからな。死にたくない、などと」

 

 媚びへつらうような笑みを浮かべながら返す一鼠に興味を失ったのか、違明は生返事をしつつ話を変えた。

 

「ところで昨夜の襲撃の件、妙だと思わない? 確かに手練れではあるだろうけど、うちの警備体制について詳らかに知っていなければあそこまで手際良く四人も片付けられないよ」

 

「つまり当主はこう……仰りたいのですか?」

 

 何処からか情報が漏れている。

 正確に言えばこの儀式の詳細を含め、芥屋を気に入らない者達に対して情報提供している者がいる。違明は暗にその可能性を匂わせていた。

 

「ならばこの撹乱も無意味なのでは? 息子達がどの方向に向かう車に乗っているか伝えられてしまえば、簡単に後を追われてしまいますよ」

 

「うん。だから一砂君達の行き先、君を含めてここにいる一族に伝えてあったよね。あれ全部嘘だから。運転手しか知らない」

 

 それを聞いて周りにいた芥屋は思わず自分の隣に立っている者にぎょっとした眼差しを向ける。この中に裏切り者がいる、その可能性が提示され剣呑な雰囲気が辺りに漂った。

 

「でも正直何かしらの手段で見つかるんじゃないかなとは思うよ。まあ別にバレてても良いんだ。人事は尽くしたけどどうにもならないって事は世の中に沢山あるから」

 

 訝しむような表情で一鼠は違明の次の言葉を窺う。

 

「これは試練だ。吊り橋効果って分かるかな」

 

 それは心理学において吊り橋の上のような不安や恐怖を強く感じる場所で出会った人に対し、恋愛感情を抱きやすくなる現象の事を指す。

 心霊スポットに男女で来るような輩もその口だ。

 

「追い詰められれば追い詰められるほど、贄と巫女は強く互いを求めるようになる。愛されれば愛されるほど呪いが濃くなるように。ただでさえ損害が出てるんだ、こちらも利用させてもらわなきゃ元が取れない」

 

「しかしそれで一砂達が死んでしまえば本末転倒では?」

 

「いやいや、一砂君は負けない。僕が選び、錨が手塩にかけて育てた贄だもの。早々滅多な事はないよ、それに保険も掛けてあるし」

 

 そう言って違明は着物の袖から幾本かの小瓶を取り出した。その中には先程一砂に渡した物と同じ包帯であったり何かしらの鉱物、肉片などが収められている。

 

「錨にも才能があればなあ」

 

 心の底から残念そうに、彼はそう呟いた。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 

 この車に乗っているのは全部で四人。自分と心依、そして運転手と護衛一人だ。見た事のない顔だったが、当主が選定したという事はどちらも腕が立つ筈だ。錨さん程ではないにしても。芥屋に限らず多くの家には、他の家への牽制を兼ねて対人訓練を積んだ人員がいるという。

 この二人もきっとそういった要員なのだろう。

 

 車中でも心依の口数は少なかったが、窓から景色を眺めていると次第にその瞳は輝きを取り戻していった。興味深そうに外に映る物を指差して「あれ何?」と頻りに訊ねてくる様は、妹がいたらこんな感じなんだろうと自分に思わせる。

 やはり一般常識は持っているが、彼女には致命的に"体験"という物が欠けているらしい。神様というのはそういうものなんだろうか。

 

 そんな事をぼんやり考えていると、突然スマホの着信音が車内に鳴り響いた。画面を見れば寅地からで、助手席に座っている護衛に「学校の友人なんですが出ても構いませんか」と尋ねる。彼はしばらく思案していたが「なるべく早く済ませろ」と言って許可してくれた。

 

「なんだ、今忙しいんだ。用件だけ伝えろ」

 

『あ、おい一砂! お前マジで三日連続欠席はヤバいって、白丸先生もうカンカンだぜ。家電にも出ないってぼやいてたし』

 

 担任の名前を出されて思わず顔が頭に浮かぶ。贄という自分ではなく、ただの高校生に引き戻されるような気分だった。

 

「あー……忌引だ忌引、そう言っておいてくれ。だから家にはいない」

 

『え、誰か死んだん!? いやそうじゃなくて自分で言えや! お前本当に卒業できなくなるぞ!? 一緒の大学行こうって言ったじゃーん』

 

「だから俺は大学には行けないって言ってるだろ」

 

『家の都合ってやつだろ。そんな家出ていっちまえよ、俺アパート借りるからさ。ルームシェアして二人で無敵パチプロ軍団になろうぜ』

 

「バーカ。万年収支マイナス野郎のくせに」

 

 変わらない調子で会話ができるのが嬉しくて、どうにも話を切り上げられない。護衛の人に睨まれるようにしてようやく通話を切る。

 

「楽しそうだったね、一砂くん」

 

「……そうだろうか」

 

 何となくはしゃいでいたのを気取られるのが恥ずかしく、仏頂面で答える。いつしか車は街を抜け、深い山道に差し掛かっていた。路面はひび割れており、ガードレールも所々崩れ落ちている。行政はちゃんと仕事をしろ。走っているのも自分達が乗っている一台だけで、いよいよ来る所まで来たという感じがあった。

 

「山ばっかりで飽きちゃったな……ね、一茶くんしりとりしない?」

 

「しりとり? 構わないが……」

 

「そうそう、こういう時の定番だよね。護衛さんと運転手さんだっけ? 一緒にやりましょうよー」

 

 返事はない、まあ当然だろう。それを意に介する事もなく、心依はどこかウキウキとした口調でしりとりを始めた。

 

「リンゴ、はい次護衛さんね」

 

「ゴマ」

 

 いや、やるのかよ。さも当たり前のように続行されるしりとりに、どこか力が抜けるような思いがする。

 

「次、一砂くんの番だよ」

 

「……ま、枕──」

 

 そう言いかけた時だった。窓から見えたのは、自分達を猛烈なスピードで追い抜こうとするもう一台の車だった。

 

 妙だな、と感じた時にその違和感に気付く。開いた窓から、銃口のような物が此方を向いていた。咄嗟に心依の頭を掴んで伏せさせる。

 

 何かが弾けるような音の後、大きな衝撃と共に車が急激に減速していく。

 反動で身が投げ出されそうになるが、シートベルトのお陰で何とか無事に済んだ。

 

「いたたた……な、なに……?」

 

「すまない心依、もう少しそのままで」

 

 頭をさすりながら起き上がろうとする彼女にそっと耳打ちする。

 シート越しに見える運転手の頭は、銃弾に貫かれてどろりとした血を垂れ流していた。どうやら車が止まったのもタイヤを撃ち抜かれたのが原因のようだ。西部劇をやってるんじゃないんだぞ、そう悪態をつきながら護衛に目を向ける。幸いにも彼は無事なようだった。

 

 件の車は自分達の前方5mほどに停車しているが、特に動きはない。だがいつ此方に対して仕掛けてくるか分かった物ではない。

 

「私が時間を稼ぐ。その間に少しでも遠くに逃げなさい」

 

 護衛がそう告げてドアを開ける。その手には本来は祓いで使うのであろう短刀が握られていた。急いで自分と心依のシートベルトを外し、荷物を準備する。

 窓越しに向こうの車から誰かが降りる音、それに続いて会話だけが聞こえてくる。

 

「あ、こっち来た。すみません、贄と巫女を出してもらえますか?」

 

「……お前らどこまで知って、な、子供……?」

 

 護衛の驚愕したような声の後にぱん、と乾いた音が響く。それは昨夜聞いた物と一緒で、初めてあれが銃声だったと気付いた。一拍遅れてどさりと重い音がする。恐らくどこかを撃たれて護衛が地面に倒れ伏したのだろう。

 逃げる時間などある訳がない。

 

「え、遅過ぎん? ハエ止まっとるんか思うたんじゃけど」

 

「ひ、や、やめ」

 

「人様がお願いしよったら返事は『はい』か『いいえ』じゃろ? 兄ちゃん、こいつぱーぷーじゃ」

 

「子供だからって躊躇いました? そうやって生まれた一手の遅れが次の二手に繋がるんです。二手遅れれば四手先まで無駄になります。どんどんツケを払えなくなっていって、最後に残るのは後悔だけですよ」

 

 何か枯れ枝を踏み折るような、小気味良い音が聞こえてきた。その後、護衛の啜り泣く声だけが辺りに響く。

 

「まだ車の中にいますよね? とりあえず話をしましょう、この状況で言うのも信じてもらえないかもしれないですけど傷付けるつもりはありません。手荒にはしたくないんです」

 

 心依と顔を見合わせる。あまりにも異常なこの状況に彼女の身体は震えていた。

 

「ど、どうしよう一砂くん」

 

「ここで逃げても追い付かれる。一旦出よう、とにかく自分の後ろに」

 

 彼女の前に立つようにして、ゆっくりと車外へ出る。そこには全部で三人の姿があった。地面に這いつくばり、指をあらぬ方向にへし折られている護衛。

 そして猟銃を携えた子供が二人。兄弟なのか、二人とも灰をまぶした様な銀髪に薄い緋色の瞳が印象的だった。どこかその風貌は心依にも似ているような気がした。

 だがそれよりももっと目を引くのはその若さだ。

 

 兄と思しき少年は精々十五歳、弟に至っては十にも満たないだろう。しかし銃を持ったその立ち姿は洗練されていて、彼らが潜ってきた修羅場の数を感じさせる。

 

「流れ弾が当たると危険なので所定の地点で待っていて下さい。終わったらまた連絡します」

 

 そう少年が乗っていた車に告げると、音も無く走り去っていく。

 

 何故自分達の乗っている車がバレた? 

 目の前の兄弟は一体何が目的だ? 

 他にも仲間がいるのか? 

 

 疑問は溢れて尽きない。だが今自分のやるべき事は、この場をどう切り抜けるかだ。

 

 常に思考を巡らせろ。

 まずは目の前の相手が何なのか、それを探る為に観察する。使っている得物から会話の内容、今見聞きした全ての物に思いを巡らせた。

 

 猟銃を使う戦闘スタイル。

 特徴的な方言。

 そして子供に似つかわしくない実力の高さ。

 

「もしかして、出雲か……?」

 

 そう自分が呟くと、眼鏡を掛けた少年はにっこりと笑ってお辞儀をした。そしてまだ彼の足下で息のある護衛に、目を向ける事もなく引き金を引いた。飛び散った血と脳漿が乾いた地面に染み込んでいく。

 

出雲 (イズモ)(コウ)と言います。これは弟の(ナギ)。単刀直入に言います、その女を渡して下さい。そうすれば貴方の命は保証します。そのように上から言われているので」

 

 その言葉と共に弟、薙が此方に銃口を向けた。

 

 

 出雲家。

 中四国ではそれなりに名の売れていた怪異祓いの家系だ。

 一族全てが山中に住み、普段は猟を行って生計を立てており、系統としては銃や罠を用いた刈り(殺し)を行っていた。特に獣憑きなどの動物をモチーフにした怪異を祓うのを得意としており、山中での祓いにおいて彼らの右に出る者はいなかった。さらに現代の怪異である山の怪(ヤマノケ)、そしてその性質から長らく多くの怪異祓いの手を煩わせてきた(ヌエ)を殺した事で中四国最強だったとも囁かれている。

 鵺殺しという厳つい異名はそれに由来する。

 

 しかし最強だった、というのは他でもない。

 

「出雲の人間は、皆死んだ筈だ」

 

 出雲家は御三家によって取り潰し、身も蓋もない言い方をすれば全員殺されている。

 自分の言葉に鋼と名乗る少年が嘲るように返す。

 

「死んだ、じゃない。殺したの間違いでしょう?」

 

 出雲家が取り潰された理由は他でもない。当主が怪異(山女)と交わり、子を生したからだ。

 憶測ではあるが、芥屋を模倣しようとしたのではないかと言われている。

 生まれついて呪いをその血に宿している芥屋のように、怪異に子を産ませる事でその力を引き継げないかと目論んだのだろう。

 

 だが怪異を祓う者としてそんな悍ましい事が許される訳がない。

 

 その情報を手に入れた御三家、と言ってもその時には既に水無は弱体化していたため、芥屋と伊勢が出向いて彼らを怪異ごと粛清した。自分はその遠征に参加させてもらえなかったため、聞いた話ではあるが。本来は母胎である怪異と子さえ処分すれば穏当な処分で済ませるつもりではあったらしい。

 しかし彼らの抵抗があまりにも激しく、結果的に幼子から老人まで全て殺すしかなくなってしまった。そう聞いている。

 

 

 

「……心依を渡したとして、どうするつもりだ」

 

「殺しますよ。それで僕らの仕事は終了です」

 

 やはり彼らは単独犯ではないらしい。先程の発言を踏まえると、誰かに頼まれた下請けのようなものだろう。彼らが芥屋を恨む理由は分かるが、それだけが動機なら自分達だけに狙いを付けない。

 

「一つ最初に言っておきます。僕らが名乗った理由は、貴方と仲良くできると思っているからです。だってきっと、僕らと貴方は同じような物だから」

 

 その口調は本当に心の底から自分を憐れんでいるようだった。だが彼らが錨さんを殺したのは間違いない。それだけで目の前の相手を信じない理由としては十分だった。

 

「分かってるでしょう? 彼女がこのまま生きていれば、貴方は死ぬんですよ」

 

「……え、ちょ、一砂くんどういう事!?」

 

「聞くな心依。耳を塞げ」

 

 依然として薙の銃口は自分達に向いている。彼女を一人で逃せばすぐに撃たれて終わりだ。何故か目の前の二人は自分を殺すつもりはないらしい、ならばこのまま近くに置いておけば誤射を恐れて彼女に手出しはできない。

 

 そもそも何故出雲に生き残りがいる? 芥屋と伊勢で遺恨が残らないよう全員を殺したと聞いているのに。

 その瞬間、一つの可能性が光芒のように脳裏を過ぎった。

 

 

「まさか、伊勢か」

 

 

 のっぺらぼうの「芥屋が潰れて喜ぶ奴は他にもいる」という言葉が蘇る。

 芥屋と並ぶ名家である伊勢にとって、自分達が潰れればそれは即ち彼らが怪異祓いとしての権勢を握る事ができるのを意味する。

 

 それに対して鋼は肯定も否定もせず、少しだけ感心したように目を丸くした。そして昔話を一つ、そう言って口を開く。

 

「あれは確か五年前ですかね。僕らが住んでいた山に大勢の人が押し寄せて『お前達は過ちを犯した』って。当然何の事か分かりませんでしたが、両親や親族は僕に薙を抱かせて戸棚の奥に隠したんです」

 

 恐らく、それが出雲征伐だ。聞いて此方に利がある訳でもないだろうが、今はとにかく時間が欲しい。

 

「隙間から、皆が殺されていくのをずっと見ていました。叫び出しそうになるのを、薙の事を考えて必死に堪えて」

 

 その当時の事を思い出しているのか、微かに彼の指先が震えている。

 

「でも結局伊勢の本家筋に見つかってしまいました。僕らも殺される、そう思いました。けれどあの人は『こいつらは使える。殺すのは勿体無いから鉄砲玉にする』って。僕らだけが生き残りました。どうしてか分かります?」

 

 そこまで言って鋼は微かに笑った。それは半ば諦めたようでもあり、自分に何かを言い聞かせているようでもあった。

 

「……お前達が怪異と当主の間に生まれた子だから、だな」

 

 そう答えると彼は「正解です」と手を打ち鳴らす。乾いた拍手が、どこか滑稽に山中へ響き渡る。

 

「別にそれほどの事でもないんですけどね。人よりほんの少しだけ身体が強い、それだけです。僕にとっては伊勢も家族を殺した連中には違いありませんが、それでも生きていたかった」

 

 そう言って、足下の死体を助走もつけずに蹴り飛ばした。70kgはある筈の成人男性がいとも簡単に転がっていく。

 

「それからは薙と一緒にただひたすら鍛えられて、言われるままに殺してきました。怪異も、人も。滅んだ筈の一族って足が付きにくいんですね」

 

 自虐めいた笑みを浮かべながら彼は続ける。傍らの薙はよく理解できていないようなのが、哀愁を誘った。

 

「今回は芥屋を一人殺せば一年。何不自由なく満足に過ごさせてもらえる契約です。巫女を殺せば薙を学校に行かせてくれるそうです」

 

 そう言って鋼は自分の後ろにいる心依を指差す。

 

「人殺しだと蔑みますか? でも外しを使えない僕らからすれば怪異を祓うのも、貴方達を殺すのも大して変わらないんです」

 

 きっと、彼らをこの境遇に追いやってしまったのは自分達の責任でもある。それだけに何も言えなかった。

 

「僕は自分でこの道を選びましたが、薙はそうするしかなかっただけだ。この子は今からでも学校に行って普通の生活を送る権利がある。まだ間に合う、きっとそうだ」

 

 祈るように、彼はそう溢す。

 

「……わしは別に兄ちゃんがおれば、いいんじゃけど」

 

 それを受けて、ぽつりと薙が呟いた。身体に染み付いている血と硝煙の奥に目を凝らせば、そこにはただのまだ幼い兄弟が立っている。考えれば考えるほど、拳が鈍ってしまいそうだった。

 

 

「失礼、話が長くなりました。それで先程も言いましたが、巫女さえ差し出してもらえれば貴方の命は取りません。上の命令でもありますし、貴方もある意味芥屋の被害者ですから」

 

 彼らの指す"上"とは、恐らく伊勢の事だ。だが伊勢が自分を率先して生かす理由は見当たらない。

 そして彼女を差し出せば自分の事は見逃すと言う。まあこちらに関しては答えはもう決まっているから別にいい。

 

「何か言えや、わりゃ何も考えれん本家の奴隷なんか?」

 

 苛々した様子で薙が答えを急かす。歳通りの生意気盛りなのだろう。

 

「いや、少し考えていた。仮に自分が贄でなかったとしたらどうするか。それでもやっぱり自分は心依を守るだろう」

 

 背中にいる彼女がぎゅっと服の裾を掴む。無表情で鋼は銃口をこちらに向けながら尋ねた。

 

「何故ですか?」

 

「自分は彼女の事が好きだからだ」

 

 そう口に出した途端、自分の中で(つっか)えていた何かがすとんと落ちたような気がした。

 ああ、そうだ。贄や務めなど関係無く、自分は彼女の事が。

 

 学ランの袖に仕込んでいた釘を振り抜き、遠心力で飛ばす。咄嗟の事に二人とも銃身で防御したのを見るや否や、心依を車の後ろに死角になるように隠した。

 

「……仕方ないので死なない程度にやらせてもらいますね」

 

「降参するなら早よした方がええよ」

 

 

 二人の雰囲気が一変する。明らかに自分の事を人ではなく、獲物として見る狩人の目だった。

 袖口から何本かの五寸釘を取り出し、構える。錨さんの持ち物を、無理を言って貰ってきたものだ。

 

 もう一度牽制のために投げようとした瞬間、握っていた指ごと釘が吹き飛んだ。

 

「あーあ、じゃけえ言ったのに。まあ指なら死なんか」

 

「あ、ぐっ……!」

 

 アドレナリンが大量に出ているのか、ぽたぽたと垂れる血を見ても妙に現実感はなかった。左手の人差し指と中指は根本から吹っ飛び、薬指も第一関節から先がない。白い骨が覗く様は悪い夢のようだった。

 

 それでも退く訳にはいかない。そのまま欠けた拳を振りかぶって鋼に突っ込む。涼し気な顔はいとも簡単にそれを避け、片手と足捌きだけで地面に転がされた。

 

「──よいしょっと」

 

 起き上がろうとした瞬間に左腕を掴まれ、肘の関節に沿って踏み折られた。

 関節が平時では有り得ない方向に曲がり、遅れて痛みがやってくる。耐えられず呻き声を上げる自分に、薙は顰めっ面をしながらも念入りに自分の左腕を蹴り壊した。脳の許容量を越えた痛みに視界が白く明滅する。強く舌を噛んで痛みで気を失う事だけは何とか避けた。

 

 

「まだやるんなら右腕も折るけど、どうする?」

 

 

 そう顔を近付けてきた薙に、舌を噛んで溜めていた血を思いっ切り吹き掛けた。目や口の中にも入ったのか、目を擦りながら頻りにぺっぺっと唾を吐いている。

 

(オン)……!」

 

 芥屋の呪いはそれ単体では他の人間に害を齎さない。ただ自分ほど濃い血であれば、僅かな時間ではあるが他人に混ざった己の血を媒介として擬似的に呪いを押し付けられる。

 その瞳に、口に。自分の血はさぞ絡み付いた事だろう。

 

「あ、目が、い、ああああ!!」

 

 立ち上がると、思わず銃を手放して叫ぶ薙の頭を残った右手で掴む。そして渾身の力でその顔面に膝をねじ込んだ。

 

「薙!!」

 

 そのまま倒れ込むようにして距離を取る。薙の元に駆け寄る鋼の姿が見えた、これでまだ時間が稼げる。呼吸を整えていると耐えられなくなったのか、心依がこちらに駆け寄ってくる。

 本来であれば叱る所だが、今だけはそれが都合良かった。

 

「あ、一砂くん、う、腕が……! それに、血もいっぱい出てる……もういいから! もう私置いてっていいからもうやめよ!!」

 

 べったりと口から溢れた血を服で拭ってから、そっと彼女の頬に触れる。

 

「心依。自分は死なない、君も守る。だから一つだけお願いを聞いてくれ」

 

 何があってもずっと耳を塞いでいて欲しい。

 

 そう伝えて心依の両手を握り、耳に充てがう。彼女が泣きそうな顔をしながらも言う事を聞いてくれたのを確認すると、立ち上がって鋼に向き直る。呻く弟を動転しながら心配する姿は、ただの兄だった。

 

「安心しろ。失明はしない、少し時間を置けば見えるようになる」

 

「……殺してやる。その女を置いて行けば命は助けてやるつもりだったけど、やっぱり殺す」

 

「いいや、死ぬのはお前だ。それが嫌なら今すぐ弟を連れてここから失せろ」

 

 懐から当主に貰った小瓶を取り出す。その蓋を開け、中に入っていた包帯の切れ端を握り締める。それは生きているかのように奇妙に蠢いていた。口の中に放り込み、一息に飲み込む。

 

「もう一度言う、弟が大事なら今すぐ連れて帰れ。自分は確かに忠告した」

 

 そう告げてすぐ、身体が焼け付くように熱くなって倒れ込む。何処からか現れた包帯が全身に巻き付き、自分の視界を奪った。暗い泥の中に沈み込んでゆくような感覚に溺れていく。

 

 頭の中で何かが頻りに囁いてくる。

 

 斬れ。奪え。殺せ。犯せ。汚せ。

 

 

 たとえ出雲を滅ぼした咎が自分達にあろうとも。その咎にまだ、押し潰される訳にはいかない。

 

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 出雲鋼は怪異祓いである。

 弟と共に伊勢に拾われ鍛えられ、怪異と伊勢の意に沿わぬ人間を数多屠ってきた。たとえそれが人であれ怪異であれ、彼が一度銃口を向けた獲物に対してそれを下ろす事は決してなかった。

 

 そんな彼は今、生まれて初めて恐怖を覚えている。

 目の前の、腕もへし折れた死にかけの相手に。

 

 何か得体の知れない襤褸切れを飲み込んだかと思うと、全身が包帯に覆われていく。粉々に折れていた筈の左腕さえ、包帯で強引に形を整えられている。その急激な変貌は紛れもなく怪異の兆候だった。

 

「……有り得ない」

 

 自身に怪異を植え付ける。

 自我を失う自殺行為に等しいそれを今、相手が選択する意味が理解できない。

 

 獲物の動きが止まる。身に纏う雰囲気が、見た目の変化を差し引いても明らかに異なっていた。手には何処から現れたかも知れない、禍々しい雰囲気の日本刀が握られている。

 逃げろ、逃げろと全身の細胞が悲鳴を上げているのを鋼は感じていた。けれどそれでも逃げられなかったのは。

 

 彼は傍らで気を失っている弟にもう一度目を向けた。震える指で引き金に指を添え、目の前の相手に狙いを付ける。

 

 

 それを意に介した様子もなく怪異(・・)は鋼を見据え、ゆっくりと口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トンカラトン、と言え

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

#6 我がその咎負う者ぞ

 

 

 

 (コウ)、と僕を名付けたのは父さんだった。

 強く硬く、何者にも折られず弟を守れる兄になれ。

 薙が生まれてからはよくそう言われていた。母さんは普段暗い部屋の中に閉じ込められていて、顔を見た事は数えるほどしかない。けれど暴れ出したりする事は一度もなかった。

 

 伊勢や芥屋は出雲(僕達)を「怪異を使ってより強い子を残そうとしていた」と言うけれど。僕だけはそれが違う事を知っている。

 

 父さんは確かに母さんを愛していた。でもそれは誰も知らなくて良い。

 

 今でもあの日の事をたまに夢に見る。

 僕らが生まれていなければ、父さんも母さんも死なずに済んだんだろうか。いや、あいつらが来なければ僕らだって今も普通に暮らせてた。

 

 薙だって人殺しにならずに済んだし、歳相応に友達だって作れたはずだ。

 

 それに本当は僕だって学校に行ってみたかった。銃の撃ち方だけじゃなくて、もっと他に。何か分からないけれど、もっと他に何かあったはずなんだ。

 

 

 あ、これ。

 走馬灯ってやつじゃないか。

 

 

 

 

 

 そう気付いた瞬間、腹部に抉るような衝撃が走った。それが斬撃(・・)だと気付いたのは一拍遅れての事だったが。

 咄嗟に構えた銃身が、真っ二つに叩き斬られていた。何をされたのかも全く分からない。

 ただ一つヒントとなるのは。

 

 トンカラトン。

 

 昔から伝えられてきた妖怪ともインターネットを通じて瞬く間に広まった都市伝説とも違う、謂わば第二世代の怪異。

 

 全身が包帯に覆われた姿で自転車に乗って現れ、見定めた人間に「トンカラトンと言え」と強制してくる。その人間が怯えたり途方に暮れてトンカラトンと言えなければ、手に持っている日本刀で斬り殺される。

 何を思ったのか知らないが、目の前の相手はその怪異を無理矢理自分自身に植え付けた。そのせいで戦況は優位からこちらの不利まで追い込まれている。

 

「はっ、はっ……!」

 

 死が喉元まで迫っていた感覚に今更ながら足が震え、呼吸が乱れる。武器も失った、薙は手負い。

 詰み。そんな言葉が脳裏を過ぎった。

 

トンカラトンと言え

 

「ト、トンカラトン!」

 

 先程のような斬撃は飛んでこない。やはりこれがトリガーだ。

 問い掛けから数えて大体一から二秒、その間にトンカラトンと言えなければ高速の斬撃が飛んでくる能力。対処法が確立されている代わりに威力が恐らく増強されている。

 

「──ッ!」

 

 全力で背中を向け、走る。今あいつの目には自分しか映っていないはずだ。刀の届く範囲から距離を取りつつ、薙からあいつを引き離すにはこれしかなかった。

 だが。

 

「来いよ!!」

 

 苛立ち紛れに叫ぶが、相手は此方を追ってくる気配がない。急激な変容に肉体が追い付いていないのか、それとも何か策があっての事なのか。どちらにしても相手の意識を此方に向かせなければ、薙が回復する時間すら碌に取れない。一旦引き返そうとしたその時だった。ゆっくりと、だがはっきりと聞き取れる大声で怪異は叫んだ。

 

トンカラトンと言え

 

 待てよ、数十mは離れてるだろ。

 呆気に取られた次の瞬間、駆け上るような斬撃が右の太腿を縦に割った。

 

「あ、が……!」

 

 勘違いしていた。あの日本刀はブラフで、本当は。

 恐らく声が届けば何処にいようが必ず届く、不可避の斬撃。迂闊だった、怪異がそんなただ斬るだけの単純な攻撃を仕掛けてくる筈がない。

 足をやられ、碌に動けない僕へ奴は歩みを進めてくる。

 

 這ってでもその場を離れようと背を向けた瞬間、左足に焼けるような痛みが走る。呻きながら振り返ると、怪異が手に持った日本刀で地面に縫い付けるように刺し留めていた。

 

 最早抵抗どころか逃走の術すら失った僕に、ゆっくりと怪異は馬乗りになった。包帯に覆われているその顔からは何の表情も読み取れない。痛い。怖い。死にたくない。

 目を背けた一瞬、自分の喉に深々と貫手が突き刺さる。呼吸ができなくなり、猛烈な痛みで咳込みながら地面をのたうち回った。

 

トンカラトンと言え

 

 死ぬ。

 

「ト……カ……」

 

 潰れた喉からはたった六文字すら絞り出せなかった。数秒にも満たないその刹那、怪異が僕を見下ろす。

 

 何故か彼は泣いていた。そんな風に見えただけかもしれないけれど。

 不可避の斬撃が、袈裟懸けに僕の胴体を裂いた。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 三分。

 迫り上がる吐き気に任せるまま、地面に胃の中の物を吐き戻す。頭の中でずっと殺せと何かが囁き続ける幻聴が止まらない。誰でもいいからこの胸に溜まるどす黒い澱をぶつけたい。広げた吐瀉物の中に、小さくはなっているが飲み込んだ包帯がまだ蠢いていた。

 

 これがトンカラトンの幼体だ。

 

 本来、怪異に取り憑かれた時点で自力でそれを外すのは難しい。だが芥屋であれば怪異の方がその血の濃さに耐えかね、ある程度の時間で体外に抜け出そうとする。

 それを上手く使えば短い時間ではあるが、怪異の力を利用する事ができる。逸話に基づいた能力を振るい、人外の膂力を行使できるだけで並の相手には引けを取らないが、怪異を憑かせる事にはもう一つ大きなメリットがある。

 

 自分の左手に目をやれば、吹き飛んだ指や粉々に砕けていた骨が治癒していた。怪異に対して一般人が無力なのは、この桁外れの再生能力が大きい。余程の高火力でなければ傷付けられず、あまつさえ失った四肢すら場合によっては回復する事もあるという。

 さらに怪異に憑かれた時点で、年を経るにつれて肉体が衰えるという事も殆どなくなる。実質的な不老不死という訳だ。もちろん怪異の強弱によって差はあるが。

 弱い物であれば戦況を覆すには至らず、強過ぎれば己自身を乗っ取られる。負担も相応にかかり、いくら治癒すると言えども怪異が外れてしまえば急激な変動でその直後はろくすっぽ戦えなくなるだろう。

 

 故にこれは賭けで、自分はそれに勝った。

 

 袈裟懸けに斬られ、血を垂れ流しながら地面に伏す鋼を一瞥する。怪異との間に生まれた子というのは伊達ではないらしい。もはや戦う事はできないだろうが医者に見せれば助かる程度には息がある。

 

「……何か言い残す事はあるか」

 

 足元に転がっていた石を手に取る。拳大のそれは叩き付ければ人の頭を割る事など造作もないだろう。

 自分がそう尋ねると、譫言(うわごと)のように鋼は呟いた。喉を貫手で潰したが、掠れ声で会話できるくらいには回復しているようだ。やはり治りが早い。

 

「薙、だけは許してください。都合が、いいって、分かってます。でも、弟なんです。もう僕にはそれしか残ってないんです」

 

 何の同情心も湧かなかった。逃げろと忠告までしてやった。なのに自分達を殺しに来た相手を何故許さなければならない? この二人をここで逃がせば、自分の切り札であるトンカラトンもどの辺りに潜伏しているかも全て筒抜けになる。

 殺す以外の選択肢はない。

 

「お願い、します。兄ちゃんを殺さんでください、お願いします」

 

 まだ目は開いていないが、決着を感じ取ったのか薙が地面に頭を擦り付けて乞い願う。まだ年端もいかない幼子のその様子に自分は怒りすら覚えた。

 

「甘えるな」

 

 錨さんが殺さないでくれと言っていたらお前らは逃がしたのか。そんな訳がないだろう。

 

「お前達が殺したのは……!」

 

 そこまで言って初めて気付いた。手に持った石を固く握り締める。

 

「なら、返してくれよ。あの人を。錨兄ちゃんを返せよ」

 

 どこまでも烏滸がましい話ではあるが。自分はやっぱり、あの人の事を兄のように慕っていたらしい。溢れそうになる涙を目尻で拭い、石を地面に落とす。二人の胸倉を掴んで言い聞かせるように叫ぶ。

 

「どこへでも行け。次にその顔を見たら今度は必ず殺す。絶対に殺す」

 

 理解できない物を見るような目で、二人は自分を見た。

 

「お前達の事情なんか知るか。殺した人間の事を考え続けろ。地獄までその罪を引き摺っていけ。お前達が殺した奴らにも一人一人名前があって家族がいて、誰かにとっての大事な人だったんだ。忘れるな」

 

 一息でそう吐き切ると、目を伏せたまま何も言葉を発さない二人を突き放して踵を返す。

 そのまま車の陰に隠れたままの心依の方へと向かう。後ろで二人がよろよろと立ち上がり、山を下っていく気配がするが何の言葉もかけなかった。

 

 彼女はちゃんと言いつけ通り耳をずっと塞いでいたらしい。ただずっと陰から様子は見ていたようだ。心配そうな面持ちでそっと声を掛けてくる。

 

「……一砂くん」

 

「分かってるんだ、こんなの芥屋への裏切りだって。錨さんが見てたら叱られると思う」

 

 戦って、改めて分かった。

 あの二人は確かに強いが、錨さんには及ばない。たとえ不意打ちされたとしても一人は確実に持っていくだろう。それだけははっきりと言える。

 それでも彼らに目立った傷の一つもなかったという事は。

 

「あの人は少し、優し過ぎた」

 

 なら自分が錨さんに対してできる事は、その選択を尊重する事だけだ。それがたとえ(はなむけ)にはなり得ないとしても。

 

「後悔してる?」

 

「……不思議なんだが、していない。良くないけど悪くもないって感じだ」

 

「なら良かった」

 

 そう言って彼女は笑った。少し背伸びして自分の頭を撫でてくる。まるで幼子を褒めるように。

 

「今一砂くん、いい顔してるもん」

 

 自分は彼女に出会ってからきっと、少しずつおかしくなってしまっている。

 死にたくないなんて思ってしまったし、敵は逃がしてしまうし、芥屋を第一としてずっと生きてきた筈なのにそれすら彼女の前には。

 痛む身体を引きずりながら心依の手を取る。まだ夜は明けないが、少なくとも二人とも生きている。今はただ、それだけで良いと思えた。

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

「ひ~、これどこまで行くの?」

 

「とりあえず一息つけそうな所までだ」

 

 先程の道路から脇に入り、未整備の山を自分達は登っていた。

 とりあえず当主に連絡を取ろうとしたがあまりにも田舎だからか、スマホに電波が入らなかったからだ。かといって道路を辿って山を下るには自分が消耗し過ぎている。今、人にせよ怪異にせよ出くわせば心依を守り切る自信がなかった。

 

「頑張れ心依。一晩どこか木の(うろ)ででも休んだら、朝には山を下る」

 

 傾斜としてはなだらかだが、やはり整備されていない地面は歩くだけで彼女の体力を削る。肩で息をしている心依の背中を押しながらひたすら山の上を目指した。

 

「違明さんもなんでわざわざこんな所選んだんだろうね」

 

「そうだな……まあここまで辺鄙だと人が寄り付き辛いのと、後はこの辺りはどうしてか怪異の発生数が少ないらしい。人からも怪異からも心依を守るにはここが都合良いからだろうな」

 

 怪異は人に憑くという性質上、どうしてもこういった山などに比べれば人の多い都会で発生する事が多くなる。ただ街で憑いた後にその怪異の性質から山に入るケースもあり、それらを踏まえた上でもこの近辺の怪異発生率は低かった。

 

「あっ、何か建物あるよ!」

 

 そう声を上げながら心依が駆けていく。小ぢんまりとした建物だったが壁は所々朽ち果て、全体に葛がびっしりと張り付いている。いつ建てられたものか見当も付かない。歪んではいるものの屋根にぽつんと残った十字架だけが、ここが教会か何かであった事を示していた。

 

「人は……いなさそうだな」

 

 まあ検めずともこんな辺鄙な山中に人が居るはずもないだろうが。

 一通り辺りを確認してから扉に手を掛ける。多少軋んではいるが、思ったよりもスムーズに開いた。中は埃っぽくはあるものの、放置されているとは思えないほど家具もそのままの姿で残っている。

 一晩過ごすには十分だ。

 

「なんか秘密基地みたいでわくわくするねー」

 

 木製のベンチに寝転がりながら自分を見上げてくる様子に行儀が悪い、とちゃんと座らせた。途端に鳴り出す腹の虫に彼女が赤面する。黙って背負っていた鞄を下ろすと、中にあった携帯食と残り僅かだが水の入ったペットボトルを差し出す。

 

「もぐ、それでさ……あの子達、言ってたよね。私がいたら一砂くんが死ぬって」

 

 真剣な表情で心依が尋ねてくる。忘れていてくれればと思ったがそうもいかないらしい。

 当主には口止めされていたが、彼女の事を考えれば話しておくべきかもしれない。彼女は人間ではなく、神なのだと。

 

「……山を下る時には話す。約束する。自分もまだどう話すべきか考えあぐねているから」

 

 本当に自分は話せるのだろうか。これはただの問題の先送りに過ぎないのかもしれない。そう思えども今はこう言うしかない。

 

「それじゃあさ、なんで私達が狙われてるのかは教えてよ。あと誰に狙われてるのかも」

 

「多分、伊勢だ。怪異祓いの同業者。詳しくは話せないが心依がいるだけで芥屋の益になる。それは裏を返せば他の怪異祓いにとっては都合が悪いって事だから」

 

 伊勢家。

 当主の辰時(タツトキ)が特に強かったと評判だが、ある事件(八尺災害)で片腕を失ってしまったと聞く。けれど不思議とそれで伊勢の力が落ちたようには感じなかった。表には出てこないが腕の立つ奴がいるのかもしれない。

 

「まあ、今の所はそれでいいや。っていうかこれ口の中すごくパサパサする……ペットボトルも空になっちゃった」

 

「……車から予備を持ってくるのを忘れたな。仕方ない、湧き水でも探してくる。ここで待っていてくれ」

 

「私も行く、一人でいるのはさ……ちょっと怖いよね……」

 

「怪異が少ないにしても獣に出くわす可能性だってある。大丈夫、すぐ戻るよ」

 

 

 

 

 そう言って廃教会を出ると辺りを散策する。耳を澄ませば微かに水の流れる音がする事から、水源はそう遠くないのが分かる。

 音を頼りに歩きだそうとしたその時だった。

 

 何かがへし折れるような轟音が突如近くで鳴り響き、思わず地面に伏せる。恐る恐る顔を上げると、特段周りに異常はない。だが、何か大木でも倒れたかのような異音であったのに何も起きていない訳がない。そう辺りを見回すと、夜の闇の中にようやくひとつだけ先程と違う物を見つけた。

 

 誰かが数m先に立っている。

 

 修験者のような服装に身を包み、その手には錫杖が握られていた。人間離れした体躯、そして朱色に染まった顔から高く突き出した鼻。目を引くのは胴体から伸びる逞しい二枚の翼。

 

「──っ、(オン)!」

 

 掌底を叩き付けようと足を踏み出した瞬間、突風と共に天地がひっくり返る。気付いた時には頭から地面に叩き付けられていた。

 痛む身体を奮い立たせ、何とか起き上がる。先程の轟音の正体がやっと分かった。

 あれは天狗倒しだ。夜中に深い山の中で木を切り倒すような轟音が鳴り響くが、翌朝確認しても特に変化がないという怪現象。そして目の前の相手がそれを起こしたというのなら、まず間違いない。

 

 

 天狗。

 古い怪異ではあるが知名度、逸話共に最上級の妖怪と言っていい。土地によっては神と同一視すらされている事もある。

 

 トンカラトンを使うか? あれは言葉を認識する相手であれば無差別に周りにダメージを与えられる代物だ。幸い心依は教会に残してきた。天狗は高位の怪異だ、人の言葉も理解しているだろう。ただ。

 

「ぐっ……!」

 

 脳髄を何かに食い荒らされるような。不快な痛みが頭を襲い、また殺せ殺せと幻聴が囁き出す。今トンカラトンを使って、人に戻れる確証はなかった。

 左腕にも鈍い痛みが走る。地面に叩き付けられた事で、先程の出雲戦で出来た傷がまた開いたようだ。そこから流れ出してきた血を手に取ると、袖に仕込んでいた釘に塗り付ける。

 

「──(コン)

 

 トンカラトンが使えなくとも、まだ自分には四肢が残っている。武器もある。終わるにはまだ早過ぎる。

 

 あくまで継戦の意を示した自分に対して、天狗は醜悪な笑みを浮かべ地面に手を突き刺す。そのまま持ち上げた土塊を振りかぶる。

 

 いや、天狗礫にしては凶悪過ぎるだろうが。自分と同じくらいの大きさはあるぞ。思わず顔が引き攣りながらも、釘を構え直したその時。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うるさいぞ、そこ」

 

 のんびりとした声が山中に響く。

 

 なんでこんな所に人が、早く逃げろ。そう思った次の瞬間だった。

 地を割るようにして突如地面から現れた大蛇が目の前の怪異の全身を呑み込む。人間を優に超える体格を持つ天狗を難なく丸呑みにする、異形としか言いようのない巨体。中で暴れているのか膨れた腹から轟音が響いていたが、大蛇は蜷局を巻いてそれを押し潰していく。ものの数秒で何も聞こえなくなった。

 自分が呆気に取られていると、そのまま大蛇は地に空いた穴に引っ込んでいった。

 

「縄張り争いなら他所でやってくれ……なんだ、人か。珍しいな」

 

 浅黒い肌に青い瞳。歳の頃は二十そこそこの青年にしか見えないが、古びたキャソック(神父服)はその雰囲気によく似合っていた。蛇を思わせる特徴的な瞳孔は少し目を合わせるだけでこちらを萎縮させる。

 

 天狗だって決して弱くはない、寧ろ怪異の中でも最上級だ。それを苦もなく退ける様子はもはや怪異の域には収まらない。

 かといって怪異祓い、というか人間である訳もない。

 

 

 

「……誰だ?」

 

 聞きたい事は山ほどあったが、それを絞り出すので精一杯だった。

 

「誰だ、ってこっちの台詞だが……そうだな、分かりやすく言えば君らが言う所の」

 

 ──────神様ってやつか? 

 

 青年は楽しそうにそう笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 

 

 

「一砂くん、お帰りー……って誰!?」

 

 自称神様の青年と二人で教会に戻った時、出迎えてくれた心依はそう素っ頓狂な声を上げた。

 

「ここ、俺の家なんだけど」

 

 そう言って青年は頭を掻く。汲んできた水をまだ混乱している心依に渡し、主祭壇に腰掛けている彼の元へ歩みを進める。結局まだあの答えの意味をよく理解できていない。

 

「神とは結局どういう事なんだ……ですか」

 

「君さ、喧嘩腰なのか敬語使うのかどっちかにしろよ」

 

 笑いながらも青年は歌うように何かを呟き始めた。それに耳を澄ます。

 

 宇賀神(ウカノカミ)(ミズチ)大蛇(オロチ)夜刀神(ヤトノカミ)

 彼はつらつらと蛇に由来する神や怪異の名を挙げていた。

 

「あの辺と似たようなもんだと思っといてくれればいい。似てるだけで俺は原典とは違うけどな、同じ蛇神でも俺は『この山一帯を守護する神』として定義されてる」

 

 蛇神。日本では古来から信仰されてきた旧い神だ。日本各地にその逸話が点在している事から知名度は非常に高いと言えるだろう。

 

「仮に貴方が本当に神だったとして……何かこうイメージと違う気がする」

 

「イメージってなんだよ、失礼だな」

 

「もっと怪物じみたものを想像していた」

 

 心依はあと九日後に自分を喰らうという手筈になっている。今の姿のままでは考えにくいから何かしら変化が起きるとは思っていたが。

 

「大体君の連れのお嬢さんだって神様じゃないの。そうだよな!」

 

「……え?」

 

 心依が首を傾げる。自分が頭を抱える。青年はきょとんとした顔をしている。

 

「あ、もしかしてこれ言っちゃ駄目だったか?」

 

 青年を突き飛ばすようにして心依が此方に猛突進してきた。胸倉を掴まれぐわんぐわんと揺さぶられる。もうなるようになれ。

 

「ちょ、まっ、どういうこと!? 私が神様!? 説明! 説明プリーズ!」

 

 観念して彼女に話せるだけの事を話す。芥屋が彼女を目覚めさせた事。彼女が芥屋に力を与え、それで他家や怪異から狙われている事。

 

 彼女が九日後に自分を喰ってその儀式が完結する事だけは、胸に秘めたままにしておく。

 

「んー……ま、まあ。分かった、分かりました。でも大丈夫だよ、神様だか何だか知らないけど私は何も変わらないと思うよ」

 

 言ってくれて嬉しい、そう屈託無い笑顔で笑う。大事な事を隠し続けるのは、騙しているのと大差ない。それなのに彼女は、自分達を許してくれた。

 

「いや、残念だけど違う」

 

 蛇神を名乗る青年はそう呟いた。意味を上手く飲み込めない自分達を見て親切そうな声色で彼は続けた。

 

「知らないのか? いや、知らされてこなかったって所か。暇だから教えてやるよ」

 

 主祭壇から身体を起こすと、青年は欠伸をしながら語り始める。

 

「そもそも妖怪なんてのは神が堕ちた姿だって言われてる物もいる。そしてそれは間違っちゃいない」

 

 何故か、嫌な予感がした。これ以上聞けば、後戻りできないというそんな予感。

 

「神も怪異と同じだよ。人に憑く。一定の期間を経れば宿主の精神を食い潰して表に出てくるのさ」

 

 嘘だ。そんなの当主も誰も言っていなかった。知っているのなら教えてくれるはずだ。隣を見れば心依の顔が青褪めている。

 

「神は昔から人に敬われ、人を救うものとして定義されてきた。妖怪を始めとした怪異は反対に人を脅かし、人に災いを齎すものとして定義されてきた。違いなんてそんなもんだ」

 

 動悸が激しくなる。

 

「……待ってくれ、それじゃ心依は」

 

「まだ人間だよ、まだな。見た所そうだな……あと九日ってところか?」

 

 怪異に憑かれた物は実質的に不老不死となる。

 彼女は人としての一般常識はあるが、実際にそれを体験した事は殆どない。それは何かしらの要因で記憶を失くしているのからだと思っていたが、そうではなくて人格(・・)というものすら食い潰されて儀式の度にリセットされているとしたら。

 なぜ当主は十二日という日付を設定した? 

 その瞬間、ある可能性が頭に浮かんだ。

 

 怪異の潜伏期間。

 

 封印から目覚めようとする祟り神を呼び起こし、十二日で縁を結び、喰われる事でまた封じる。自分はそう聞いていたが、本当は。

 

 

 もし、彼女が神に憑かれているだけのただの人間であったとしたら。

 彼女は一体いつから生きている? 不老不死の身で彼女は何回それを繰り返してきた? 何年自分達(芥屋)は彼女を縛り付けてきた? 何人の彼女(・・・・・)を、自分達は殺してきた? 

 

 

「どういう目的で連れ回してんのか知らないが。このままだとお嬢さん、本当に神様になっちゃうぜ。何回目かは知らないけどな」

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 

 芥屋一砂が出雲兄弟を退けて一日後の事。

 特に何の感慨も無さげに男はそう呟いた。

 

「出雲の倅達は失敗したらしいな」

 

 豪奢な部屋の中で黒のスリーピーススーツを身に纏い銀縁の眼鏡を掛け、椅子に深く彼は腰掛けていた。右腕で頬杖をつき、左腕はそこにあるべき場所に存在していない。彼こそが伊勢の当主、辰時だった。

 

 それに向かい合うように、まだ年若い青年が一人。

 

「あー……二人の処遇は俺が決めていい?」

 

「好きにしろ、お前の拾い物だからな。そしてもう十分猶予は与えた。次はお前が行け」

 

 そう辰時が告げると、青年は顔を顰めた。気安い口調の中には親しみ、そして少しの尊敬が窺える。

 

「マジで行かなきゃ駄目かー、やりたくないな」

 

「自分が死ねばお前が伊勢を継ぐ事になる。伊勢を率いていくのなら友だろうが切り捨てる覚悟を持て。それを養う為に表にも出さず、長い時間をかけてお前をわざわざこの仕事に付けたんだからな」

 

 

 青年は溜息を吐いたあと、そっと溢す。

 

 分かってるよ、兄貴。

 (ピンク)色の髪がふわりと揺れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

#7 初めまして、さようなら

 

 

 

 

 神と怪異は本質的には同じで、九日後には今の心依は食い潰される。そんな事がある筈ないと一笑に付せないのは、心の中でそれが真実だと認めてしまっているからだろうか。

 

「まあもう少しこの辺にいるのは構わないが、九日後には出ていってくれると助かる。そっちのお嬢さんに暴れられるとまず間違いなく俺は勝てないからな」

 

 言葉が耳を素通りする。ぶつけられた情報が頭の中を掻き回して気分が悪い。もし蛇神の言っている事が本当なら、どの道彼女に待ち受けているのは死に他ならない。なら自分は、芥屋は。

 

「嘘を、吐くな」

 

 そう喉から絞り出す。力が抜けたように隣で心依が腰を下ろしているのが横目に見えた。

 

「いや、嘘じゃないが……もしかしてこれも言わない方が良かったか? いや、マジでごめん。知らないよりは知ってる方が大抵の事は良いと思ってたんだが。じゃあ、ごゆっくり……」

 

 申し訳なさそうな顔をして蛇神が教会から出て行く。星明かりだけがステンドグラスを通して自分達を微かに照らす。座り込んだままの心依に声を掛けようとして、息を呑む。暗い夜のように濁った瞳が自分を見つめていた。

 

「ねえ、まだ隠してる事あるんでしょ? もう、顔見れば分かるようになっちゃった」

 

 言うべきか言わざるべきか逡巡するが、もう我慢の限界だった。彼女の為ではなく。もうそれを抱え続ける事に自分は耐えられなかったから。心依にとっては何より残酷な事実を、自分は己が楽になりたいというだけで吐き出した。

 

「……君は神になって最後に、自分を喰い殺す。それで初めて儀式は完成する。黙っていてすまなかった」

 

 怒るでもなく、悲しむでもなく。諦めたような表情で彼女は頷いた。それを見ているだけで心の奥底を抉り出されるような、味わった事のない感情が滲み出てくる。

 

「うん、なんとなくそんな気はしてた。あのね、夢を見たんだよ」

 

 自分(心依)が知らない自分(誰か)の夢。

 その隣にいたのは君じゃない、顔も知らない誰かだったけれど。それでも私はその人の事が好きだったんだって。顔も名前も思い出せないのに、それだけは身体に刻み込まれたように覚えてる。なのにずっとお腹が空いてて。

 

 ぽつりぽつりと彼女は呟く。

 

「私もそのうち、誰かになっちゃうのかな。次の"私"の夢になって、それで」

 

 そのまま押し黙ってしまう。どうする事もできず、ただ心依の肩に手を置く。その時やっと気付いた。彼女が身体の震えを懸命に押し殺している事に。

 

「私、死にたくない。一砂くんを殺したくない。でも、どうしたらいいか分からないよ」

 

 すまない、と謝罪にもならない薄っぺらい言葉をただ吐き続ける。

 自分はどうすればいい? このまま戻れば、儀式は恐らく上手く行く。自分は彼女に喰われ、芥屋は救われる。けれどそれじゃ心依が何も救われないじゃないか。

 逃げる? でも逃げた所で、彼女が神になるのを止める方法を自分は知らない。自分よりも格上の天狗を難なく退けた蛇神が、彼女には勝てないと明言している。なら自分一人で抑えられる訳がない。

 

 彼女に掛けてやれる言葉は何一つとしてなかった。ただ彼女の指先がこれ以上冷え切らないように手を握っている事しか自分にはできなかった。ただ静寂だけが降り積もっていく教会の中で、宛もないまま眠りに就く。

 微かに聞こえる寝息と時折自分を握り返してくる手。それだけが、自分達が確かにここに生きていた証だった。

 

「一砂くん、まだ起きてる?」

 

「ああ。眠れないか?」

 

「ううん、そうじゃなくて。私ね、嬉しかったんだ。あの銃を持った二人がいたでしょ? あの子達から私を助ける時に『自分が贄じゃなくてもきっと彼女を助ける。自分は彼女の事が好きだから』って言ってくれたの」

 

「……」

 

「私も好きだよ、一砂くんの事。おやすみ」

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 

 朝、小鳥の囀りで目を覚ます。硬い床で寝こけていたにしては清々しい目覚めだと目を擦って、十数秒。

 取るものも取り敢えず、ぶち破るように教会を出る。心依の姿がどこにもない。彼女の名前を叫びながら山中を駆ける。心依が何処かに行く理由はどこにもない、用でも足しに行ったのか水を取りに行ったのか知らないがそう遠くには行っていない筈だ。

 

「おはよう。朝っぱらから元気だな」

 

 岩に寄り掛かって肩で息をしていると蛇神が声を掛けてきた。乱れた呼吸を整えて彼に問う。この山一帯の神というならば何か知っている筈だ。

 

「心依を、見ていないか」

 

 ああ、見た。行き先も何となく見当がついてる。

 蛇神の言葉に安心しながらその場所を問うと、彼はただ首を振った。

 

「いや、言わないが。あの子も知って欲しくなさそうだったし」

 

「な、いや、意味が分からない! 数が少ないとはいえこの辺にも怪異が出ない訳じゃないんだろう!? そうでなくても猪なんかと出くわせば十分危険だろうが!」

 

「だって、あの子死ぬ気だったぜ。ならその選択を尊重してやろうと思うだけだ。大方君を喰い殺すくらいなら、その前に自分で命を絶ってやろうとか考えてるんじゃないか」

 

 全部知っていると言わんばかりに飄々とした顔で告げる彼に、拳を握り締める。悪いのは目の前の男じゃない。彼女に何も告げず、背負わせ続けた自分だ。

 

「……っ、そこまで分かってるなら何故止めないんだ」

 

「知らねえよ、神は一個人に肩入れしない。そういうもんだ。それに君にとっても都合良いんじゃないか? このままだと君は死ぬしかない。それがもっと長く生きられるんだ、万々歳だろ。それにあの子はともかく、あの子に憑いてる神は嫌いでね」

 

 死にたくない、と思い始めたのは事実だ。けれど、それは。それでも生きていたいと思ったのは。

 

 彼女が隣にいるからだ。彼女の事をもっと知りたいと思ったからだ。彼女に降り掛かる苦難を退けると決意したからだ。彼女の幸せを、ただ願ってしまったから。

 

「自分は死んでも構わない。だから彼女の居場所を教えてくれ」

 

 つまらなさそうに蛇神は問う。そんな月並みな答えは聞き飽きたとでも言うようだった。

 

「教えた所でどうするんだ? 結局君が死のうがあの子の行く末は変わらない」

 

 それは初めからずっと自分に付いて回っていた問題だった。ただそれを考えるのが嫌で、無意識に視界から遠ざけていた。

 自分がいなくなったあと、彼女は一体どうなるのか。

 

「自分は……彼女に贄として喰われる事が、使命だった」

 

 そう言って彼に今までの経緯を話す。自分達が芥屋という怪異祓いの一族である事。怪異、そしてもう一つの有力な一族である伊勢に狙われている事。

 

「でも、ずっと大事な事から目を逸らしていた。どの道自分が喰い殺された後に彼女がまた百年封じられる事は分かっていたのに。その後の事は考えないようにしていた」

 

 蛇神は何の感情も湛えていない瞳で自分を見つめている。負ってきた咎を過不足なく見透かす裁定者のように。

 

「芥屋の為に命を使う事は惜しくない。それは今でも変わらない。でも『常に思考を巡らせろ』と教わった。だから必死に考えて結論を出した」

 

 育ててくれた父に。顔も見た事のない母に。鍛えてくれた錨さんに詫びる。自分はこれからどうしようもない罪を犯す。

 

「彼女には何の咎もない。なら芥屋に正義は無い」

 

 初めて蛇神が笑った。贔屓の野球選手が不調明けでやっとヒットを打った、そんな笑みだった。

 

「自分は彼女を何者からも守り通すと約束した。怪異からも伊勢からも、なら芥屋からもだ。自分は絶対にそれを違えない」

 

 自分がそこまで言った時、再び彼は口を開いた。

 

「詳しくは知らないが、それは君……自分の家を裏切るって事になるんだろ? 怪異からも他の人間からも狙われてるのに、更に味方が敵に回る。勝算はあるのか?」

 

「ない。だからどこまでも逃げ続ける。とりあえず九日逃げ切って、後の事はそれから考える」

 

 そう言い放つと、心底可笑しそうに蛇神は破顔した。

 

「俺は肩入れできないが……そうだな、じゃあこれをやるよ」

 

 彼は首元に手をやると、何かを剥ぐような動作をした。そしてそのままそれを自分に差し出す。恐る恐る受け取ると、それは朝陽を透かして鈍く光る。

 

「これは……鱗?」

 

「君、懐に碌でもない物入れてるだろ。怪異の幼体とかそんな所か、まあ使わないに越したことはない。あれは吐き出そうがどうしようが、確実に少しずつ使い手の精神を蝕んでいく」

 

 心当たりはあった、使用後の頭痛や幻聴だ。これも渡してくれた当主からは特に聞かされていない。

 寂しい話ではあるが。彼はやっぱり、自分の事を人ではなく贄としてしか見ていなかったのだろう。

 

「特にもう一つの方(・・・・・・)。そっちは最悪だ、最期まで人でいたいなら使うな」

 

 確かに自分はトンカラトンではない怪異の幼体をもう一つ所持している。トンカラトンは何体かストックがあるが、そちらは正真正銘の使い切りだ。

 

「そうは言っても、本当にどうしようもなくなったら君は使うんだろうな。だからそれをやる」

 

 そう言って先程渡してきた鱗を指差す。どこか禍々しくも神々しい、それを目にしているだけで細胞の一つ一つがざわつくようだった。

 

「神を降ろす覚悟があるなら使ってみればいい、君の身体が保つかどうかは知らないが。使い方は同じだ、反動は怪異の比じゃないがね」

 

 ごくりと喉が鳴る。数秒の後、礼を言ってそれを懐に仕舞った。そして改めて蛇神に向き直る。何にしても、どうしても彼に聞いておきたい事が一つあった。

 

「……貴方が言っている事は恐らく真実なんだと思う。だが、何故貴方がそれを自分に教えてくれるのか理由が分からない。だから、少し恐ろしい」

 

 本音だった。彼が自分達に嘘を吐くメリットはない、だがわざわざお節介を言う道理も無い。人は理解できない物に恐怖を感じるという。それをまざまざと感じる日が来るとは思わなかったが。

 神の気まぐれと言われれば、返す言葉もない。だが彼は額に手を当て、言葉を絞り出すように唸った。

 

「なんで、か? そうだな……まあ俺がそもそも『人にそうあってくれ』と願われて生まれたのもある。この身体の元の持ち主も良い奴だったんだろ。うーん難しいな、まあ一言で言い表すなら」

 

 どこか遠くを見つめながら蛇神は呟いた。

 

「俺は人間が好きなんだよ。動物の中で何かに縋って、祈るのは人間だけだ。それがたまらなく愛おしい」

 

 あの子はこの先の滝壺だよ、そう言ってある方角を指差した彼に頷く。まだ間に合う筈だと、そう信じてただ険しい山道を再び駆け出す。

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 

 叩き付けるように水塊が絶えず溢れ落ちる滝壺を、心依は座って眺めていた。辺りに散る飛沫でしとどに濡れた彼女の姿は酷く儚く映って、ただ綺麗だった。

 

「心依」

 

 自分が後ろから声を掛けると、彼女は驚いたように飛び上がる。取り留めのない事でも考えていたのだろう。

 

「え、あ……ちょっとマイナスイオンでも浴びようかと思って、えへへ」

 

 もう戻るね、と言って自分の横を通り過ぎようとした彼女の手を掴む。湿った手はひんやりとしていたが、それでも芯には確かに熱があった。

 

「水死はやめた方がいい。最も苦しい死に方の一つだと昔の作家が言っていた」

 

「へ、変な事言わないでよ。死にたくないって言ったじゃん、私」

 

 もう何かを騙るのも、騙られるのもうんざりだった。誰かを傷付けるのも、誰かに傷付けられるのにも飽き飽きとしていた。十八年間生きてきて大した物を拾う事もできず、なのに大事な物ばかり取りこぼしてきた。

 もう下を向くのはいいだろう。

 

「自分がしたお願いを覚えているか」

 

「……離れないでいてくれ、ってやつだよね」

 

 沈黙が辺りを包む。それでも今度は心依から目を逸らさない。彼女は誤魔化すように笑みを貼り付けていたが、次第に顔を歪めながら下を向いた。

 

「っ、でも! どうしようもないじゃん! 私がいたら一砂くんが死んじゃうんだよ!? 痛いのも苦しいのも嫌だけど、私のせいで人がそうなるのはもっと嫌なの! 助けてもらってばかりで、私何もできてないのに」

 

 堰を切ったように心依が言葉を吐き出す。恐怖に身を震わせる事はあっても、それでも彼女は毅然としていた。弱音を吐く事はなかった。それは偏に彼女が人を超越した神だからだと思っていたが、誤りだった。

 

 心依は決して特別な何かではなく。歳相応の少女に過ぎないのだから。

 

「錨さんも死んじゃって、護衛や運転手さんも死んじゃって、私の周りにいるとどんどん皆死んじゃうじゃん。それでも我慢して生きて、結局最後は私も繋ぎなんでしょ? なら、もういいよ。もうこれ以上誰かが嫌な思いをする前に私一人が死ねばいいじゃん」

 

 半ば自棄になったように、滝壺の方を向く彼女に掛ける言葉はもう決まっていた。自分達は、ここから始まる。

 

「一緒に逃げよう」

 

 そう言って心依を抱き寄せた。冷たく暗い滝壺から引き離すように。

 状況を整理できていないのか、彼女はわたわたと「あ、え、その」と洩らしながら顔を赤くしている。

 

「行ける所まで行こう。行き止まったらそれはその時考える。自分は約束を絶対に守る」

 

 自分の言葉を聞くと、また冷静さを取り戻したのか冷たい声色で彼女は問を投げ掛けた。自分自身に近付く人間を突き放すように、棘のある口調が飛ぶ。

 

「意味、分かんない。一砂くん、死んじゃうんだよ? 違明さんだってお父さんだって錨さんだって裏切る事になっちゃうんだよ?」

 

「好きな女の子一人助けられないなら、今までの自分が全部嘘っぱちになってしまう」

 

 それを聞いて彼女はバカ、とぽつりと呟いた。何度もバカ、と繰り返しながら自分の胸を叩く。次第にそれは安心し切ったような嗚咽に変わりながら、ただ時間だけが過ぎていった。

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 

 傷が癒えていない事もあって、それから三日を山中で過ごした。幸い水場はあったし、教会の中で雨風を凌げる。食べ物も蛇神が魚や山菜などを提供してくれた。

 心依は夜になるとよく歌を口ずさんだ。それは聴いた事のない節回しだったがどこか懐かしく心が安らいだ。自分が褒めると彼女は少し照れたように笑って、また歌い始める。それを聴きながら眠りに就く。

 

 本当に取るに足らない短い日々ではあったが。初めて彼女と過ごした、穏やかな時間だった。

 

 

 出立の日、蛇神は街へ出るのに最も近い道まで案内してくれた。本当にこの山には怪異が少なかったと改めて思う。

 彼は自分自身をこの山を守護するものとして生み出されたと言っていたが、そもそも怪異と発生の原理が同じなら宿主がいる事になる。選ばれたのだろうか、押し付けられたのだろうか、それとも偶然なのだろうか。いずれにしても、きっとそれにまつわる物語を自分が知る事はこの先もない。

 

 ふと疑問が生まれる。心依は、彼女に憑く神はどうやって生まれたのだろうか。何を願って生み出されたのだろうか。

 そんな事をぼんやりと考えていると、心依にくいくいと袖を引っ張られる。気付けば「本当にこいつ大丈夫か」と言いたげな視線を蛇神にぶつけられていた。

 

「あ……本当に世話になりました」

 

「えっと、お世話になりました!」

 

「いいよ、俺も暇潰しにはなったし。頑張れよ」

 

 それだけさっさと告げると、また彼は山の中に戻っていく。最後まで神らしからぬ気安い男だった。心依と二人で顔を見合わせ、くすりと笑う。ひとまずは道路まで出ようと足を踏み出した時。

 

 地を割って巨大な蛇が頭を覗かせる。隣で音も無く心依が泡を吹いて気絶している。そういえば彼女は天狗戦を見ていなかった。

 

「最後くらい神様っぽい所を見せてやろうと思ってな。餞別だ」

 

 ちろちろと燃えるような舌を動かしながらよく通る声で蛇は話し続ける。

 

「ヒントをやるよ、君。呪いも祝福もその本質は同じだ。向ける方向が違うだけで、どちらもそれは何かを願っている」

 

 呪いも祝福もその本質は同じ。真反対のようで、それはどこか腑に落ちた。

 

「呪いを解けるのは、それもまた別の呪いだけだ。期待してるよ、君らには」

 

 言いたい事は言ったといわんばかりにまた勢い良く蛇は地中に潜っていく。ぽっかりと空いた奈落から、一つ言い忘れた事があったと声が響く。

 

「俺は人間が好きだが。とりわけ頑張ってる人間は大好きだ」

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 

 ひたすら道路に沿って歩き続ける。行きもそうだったが、この辺りは車通りが少ない。というより全く通っていない。本質的にこの山周辺が人の領域ではないという事を本能で感じ取っているのだろうか。

 途中で休憩を挟みながらようやく街に出た時には、既に日が暮れかけていた。それと同時にやっと電波が入り、携帯には無数の当主達からの着信が入っていた事に気付いてげんなりとする。寅地からの『寂しい~』というLINEにだけはスタンプで返しておく。

 自分には友人が少ない。というよりも、寅地くらいしかいない。当主が「友達なんか作っても後で辛くなっちゃうだけだよ」と言って、作らないように言われていたから。

 だから常に仏頂面、ぶっきらぼうな口調で人から遠ざけられるようにしていた。それでも付き合ってくれた友人は、約束の度にバイトという名の祓いが入ってドタキャンする自分に閉口して去っていった。

 なのに寅地だけは、ずっとこんなつまらない自分の側にいてくれた。父も彼だけは黙認してくれていた。

 

「ちょっと一砂くん、休も……」

 

「ああ、すまない。どうも自分は人に合わせるのが苦手だな……」

 

 近くにあった公園に入る。もう既に日没を告げるチャイムが鳴ったからか、子供の姿はなかった。ブランコに腰掛けてゆらゆらと揺れている心依に自販機で買った缶ジュースを渡す。

 喉が渇いていたのか、夢中になって缶に口を付ける彼女を眺めながら自分はある重要な問題について考えを巡らせていた。

 

 即ち、今晩をどこで過ごすかだ。

 芥屋からも逃げる以上、家に戻る訳にはいかない。金は多少ある、だがホテルは……ホテルはなんか色々と不味い気がした。心依の護衛であるからには、一晩であろうと彼女から目を離すのは良くない。

 ただ同室、同室は年頃の男女としてはそれも非常に良くないのではないか。悶々と考えを巡らせていると、肩に手を置かれる。

 何の気なしに振り返ったそこには。

 

 

 

 何も映し出さない無貌。吸い込まれてしまいそうな虚無。

 のっぺらぼうの姿があった。何故か片腕は無くなっているが。

 心依に離れているように目で合図する。彼女は緊張したように唾を飲み込みながらも、そっとブランコから降りて物陰に隠れた。だがのっぺらぼうは彼女に興味を微塵も示さなかった。

 

「なあ、どこ行ってたんだ? いや、お前はどうでもいいわ。錨くんはどこだよ?」

 

 どう答えるべきなのか、正答が分からなかった。とりあえず嘘を吐くメリットは今の所ない。

 

「……錨さんは死んだ」

 

「お前が見つからなかったからさ、他の芥屋探して聞いたんだよ。何かいきり立ってたけどちょっと優しく聞いたらすぐ教えてくれたんだよな。でもそいつも『錨は死にました』って、何人聞いても皆そうとしか答えないんだ」

 

 早口で捲し立てる姿には平時の余裕は無い。刺激しないようゆっくりと距離を取りながらも、相手からは目を離さない。

 

「嘘を吐くなよ、死ぬ訳ないだろ。あいつは俺が殺すんだったのに、ああもう黙れ、煩い」

 

 ぶつぶつと呟きながら頭を掻き毟る様子は、きさらぎ駅での飄々とした彼とは全く様相が異なっていた。気付けばもうとっぷりと日が暮れており、頭上には数多の星が光る。人通りは不自然に掻き消えていた。

 

「錨くんはあんなに強いんだから、でも僕を助けてくれなかっただろ? 違う、うるっせえなあ!!」

 

 ────ずっと違和感があった。

 のっぺらぼうの宿主は水無の跡継ぎ、そして錨さんの友人だったと聞いている。だから奴が錨さんについて知っているという事自体はおかしくない。だが怪異は定着すれば宿主の人格を食い潰す。なら何故、のっぺらぼうはこれほどまでに錨さんに執着しているのか。

 

 のっぺらぼうは決して強力な怪異ではない。そして水無は己の身体に怪異を封じる事で祓ってきた、謂わば耐性持ちだ。自分が思うに、本当は。

 彼は喰われ損ねたのではないか。心を喰い荒されながらも、死ぬに死ねなかったのではないか。怪異を憑かせた時に苛まれる幻聴や頭痛。それがより極まってそこから逃げられなかったとしたら。

 彼に残された選択肢は、狂う他になかったのだとしたら。

 

「お前、本当はのっぺらぼうじゃなくて。水無蛍蛉じゃないか?」

 

 目の前の怪異の動きが止まる。かと思えば、かたかたと不安定に揺れ出した。

 

「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ」

 

 藪をつついて蛇が出たらしい。明らかに様子がおかしくなったのっぺらぼうを蹴り飛ばして距離を取る。

 

「錨くんなら僕を殺してくれる殺せ犯せ奪え汚せなんで助けてくれなかった僕から出ていけよ誰だよ俺は顔がない顔がない返してくれよ全部返せ錨くんは死なない僕は誰も殺してない」

 

 変質していく。もう目の前の相手はただののっぺらぼうではない。前に戦った経験から搦手無しの1vs1なら決して勝てない相手ではない事は分かっている。

 ただこの様子のおかしさ、そして騒ぎになった時に芥屋や伊勢に発見されるリスクを考えると戦り合うのは愚策だろう。

 そう一歩後退りした時。

 

 何かが自分の頬を掠めた。数秒経って、切れた皮膚から血がつうと垂れる。目の前の怪異が放った拳だと気付いた時には、もう逃げられる段階ではない事を理解してしまった。

 そっと懐の小瓶に手を伸ばす。

 

「心依! 耳を塞いでろ……!」

 

 トンカラトンの使用もやむ無しと考えた瞬間。

 突然のっぺらぼうの身体が突然裂けた。

 

「助けてくれよいつになったら終わる錨くんが死ぬ訳ない……は?」

 

 呪詛のように譫言を呟いていたのっぺらぼうも痛みで気を取り戻したのか、困惑している。それと同時に彼の身体から噴水の如く血が吹き出した。人であれば頸動脈に当たる部分を、鋭い刃物で断ち切られたのだろう。のっぺらぼうが地に倒れ臥す。

 

 いつの間にか、近くにもう一人誰か立っていた。

 

「外せない怪異は刈るしかないのにさ。やっぱお前、優しいよ」

 

 その青年はギターケースを背負い、手には一振りの刀が握られていた。まだべったりと血糊のついたそれは月明かりを反射して鈍く輝いていた。それが自分と同じ高校の学ランと妙に乖離していて、まるで今漫画かアニメの中に入り込んでしまったのだと錯覚してしまうようだった。

 

 

 寅地清。

 自分のたった一人の友人。

 

 

 数日前の彼とは全く異なる雰囲気を纏いながらもその顔は、その髪型は、確かに自分の知っている寅地だった。

 

「なあ一砂。頼むから心依ちゃん置いてどっか行ってくれないかな。それでお前が芥屋に追われるようになるんなら、俺達が絶対に守ってやるからさ」

 

「……何、言ってるんだ。お前何か変だぞ、寅地」

 

「俺の名前は寅地清じゃない。でも名乗ったらもう戻れなくなる。分かってくれないかな、これで」

 

 駅でマネキンを壊した芥屋でない誰かの存在。あの時、寅地も確かに駅にいた。

 電話が掛かってきた後にタイミング良く襲撃してきた出雲。あの電話で位置が分かっていたとしたら。

 

 ずっと見ていたのだ、きっと。

 

「お前、全部嘘だったのか」

 

 それに答える事もなく、寅地は下を向いた。

 

「トラジってそれさ、本当は名前じゃなくて渾名なんだ。今何時、はいトラジってね。可愛くて結構気に入ってんだ」

 

 ギターケースを肩から外し、地面に置く。見かけからは想像できないような鈍い音が地を揺らす。中に何が入っているのか想像もつかない。

 

「どうしても駄目か? お前とはダチでいたかったんだけど」

 

 その声色は嘘を言っているようには思えなかった。

 

「神様っつったって怪異と変わらない。百年にも渡って数百人はいる芥屋に力を与え続ける化物なんて核みたいなもんだ。それが人の形をして歩いてる。何かあったとして、お前に止められる保証はないだろ」

 

「そりゃ呪いが強けりゃお前らの力も強くなるかもしれない。でもな、それってハイリスクのギャンブルなんだよ」

 

 黙っていると、寅地は水を得た魚のように更に喋り続けた。まるで自分の説得は必ず届くと信じているかのように。

 

「お前は聞かされてないかもしれないが、百年前に芥屋の人間の四割が死んでるの知ってるか? 祟り神を封じるのに費やしたコストだ。それが今年は違明、あのイカレ野郎が当主なんだろ」

 

「怪異を使っての人体実験、芥屋に少しでも害があると見做せばすぐに排斥、でも口は立つし能力だってある。そんな奴があの手この手で百年前よりずっと祟り神を強くしてる、もし芥屋で抑え切れなかったら一般人にも被害が出るんだぞ」

 

 一般人に被害が出る、と言われても不思議と自分の心は凪いでいた。

 

「好きとかじゃないんだよ、頭冷やせ。大体おかしいだろ、家がどうとかさ。そんなもんの為にお前が死ぬ必要なんてねえだろ」

 

 苛立つように、何かに縋るように。彼の語調はどんどん荒くなっていく。それはどこか、祈りにも似ていた。

 

「一砂が責任を負う必要なんてない。彼女が人でなくなる前に俺達が楽に終わらせてやる。これは仕事だけど、友達としてもお前の為に言ってる」

 

 一息に喋ったからか、微かに寅地の呼吸が乱れる。期待するような眼差しで見つめる彼に、自分は既に決まっている答えをぶつけた。

 

「……確かに自分が死ぬ必要はないかもしれない。だが、心依が死ぬ必要もない」

 

 言葉を交わす度に、これが夢ではないと痛感する。お互いにそれが分かっているからこそ、これ以上もう言葉で解決する事はない。

 寅地は諦めたように顔を曇らせた。

 

「まあ今更こんな事言っても信じてもらえないと思うけどさ。俺、何だかんだ楽しかったんだよ。小学生の頃からお前と馬鹿やってるの」

 

「奇遇だな、自分もだ」

 

 そう言うと彼は何かを言おうと口を動かそうとした後、顔を歪めて押し黙る。そのまましばらく下を向くと、全てを吹っ切ったように寅地は顔を上げた。そこには最早何の感情も読み取れなかった。

 

「じゃあ、そろそろやるか。俺もお前も、死ななきゃ止まらないだろ」

 

 そう言って寅地は手に下げていた刀を再び構えた。その動作はあまりにも流麗で、見惚れてしまいそうになる。彼もずっと修練を積んできたのだろう。自分と同等、もしくはそれ以上に。

 

「名乗れよ」

 

 目を逸らさず、そう言い放つ。

 

「……初めまして、芥屋一砂。怪異祓いは伊勢が次男坊。虎時(トラトキ)だ」

 

 伊勢虎時。

 もう何年もの付き合いになるのに、自分は目の前の友人の名前すら知らなかった。それが何だか可笑しくて、哀しくて。

 

 多分お前も、自分と同じなんだろう。やらなければならない事に縛られて、やりたい事が見えなくなる。そうでなければそんな顔をする筈がない。

 

「そしてさようなら。お前らの逃避行はここで終わりだ」

 

「いいや、自分達は更に先へ進む。そこを退いてもらう」

 

 無表情を貫く寅地に不敵に口角を上げてみせる。最期くらいは笑って別れたいから。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

#8 そして少女は恋を知る

 

 

 

 薄ぼんやりとした電灯が照らす公園で、自分と寅地は対峙していた。

 頬を掠めるように突き出された切っ先を、紙一重で避ける。その太刀筋には紛れもなく殺意が篭っていた。躱して一撃入れようとした拳が虚しく空を切る。

 分かってはいた事だが相手の得物は刀、つまりリーチが自分よりもずっと長い。となれば距離を取るのは下策、ただひたすらに前に出て攻め続けるしかない。

 だが。のらりくらりと柄で拳を捌く寅地にはまだ計り知れない余裕があるように見えた。

 

「なあ、一つ聞きたいんだけど。お前、今本気でやってるか?」

 

 突然手を止めたかと思うと、寅地は此方を睨み付けながらそう問う。質問の意図が分からず困惑している自分に溜息を吐くと、彼は刀を握り直すように軽く振る。

 

「死ぬ気でやれよ。殺すぞ」

 

 その瞬間、手首が落ちた。

 何かの比喩ではなく、そのままの意味で。間合いを測るように伸ばしていた左手、それが痛みを感じる間もなく地面に転がっている。その様は悪い夢のようで、現実味の欠片もなかった。

 

「──っ!?」

 

 一拍遅れて噴き出す血に、強制的に思考を引き戻される。

 斬られただとかそういうレベルではない。

 何も見えなかった(・・・・・・・・)

 その一太刀はもはや何らかの怪異の力ではないかと疑ってしまうほどで。目の前の相手が人として逸脱していると言える力量を持っている証左に他ならなかった。

 

「芥屋は怪異を自分に憑ける奴もいるんだっけ? 安心しろよ、俺はそんな下手物じゃない。正真正銘、ただの人間だ」

 

 まだ痛みは無い。あまりにも鮮やかな切り口に、恐らくまだこの身体は斬られた事にすら気付いていない。

 

「芥屋とか水無とは真逆でさ。伊勢は自分達の血に拘らない。アスリートとかそういうひたすらに強い肉体を、溢れる才能を持った人間を呼び込んでずっと子を作って継いできた。作りからして違うんだよ、お前らとは」

 

 芥屋は血を以て怪異を祓う。

 水無は継いできた儀式を以て怪異を祓う。

 なら、何の特色も持ち合わせていない伊勢はどうやって両家に並び立ってきた? 八尺災害の際、伊勢の当主は素手で(・・・)怪異の首を圧し折った。

 

「腕の骨が疲労で折れるまで毎日馬鹿みたいに刀振って、死なない為に小さな村一つでしか聞かないようなマイナーな怪異の事まで頭の中に詰め込んで」

 

 刀をまるでペン回しのようにくるくると弄ぶ。

 

「人にすら負けるような奴が怪異に勝てる訳ないじゃん? だから俺達は文字通り死ぬ程、死ぬまで鍛えてる。単純などつき合いで人のお前に負ける訳がない」

 

 学ラン越しにすら隆起する筋肉がそれを誇大広告ではないと表していた。

 単純な暴力。

 それが伊勢の本質だとしたら。自分は人のまま、その本家筋に勝てるのか? 

 否。無理だろう。

 

「使えよ。あるんだろ、とっておき(怪異)

 

 こいつはどこまで自分の事を知っている? 

 挑発するように寅地が手を広げてみせる。何か対抗策があるのか、それとも素で怪異を憑けた自分に勝つ自信があるのか。だが、いずれにしても自分に選択権はないと歯噛みする。

 

「……心依」

 

 陰に隠れている彼女に見えるよう、耳を塞ぐジェスチャーをする。

 そして懐から小瓶を取り出し、地面に叩き付けた。割れた硝子片の中で蠢くトンカラトンの幼体を掴み、一息に飲み込む。これが最後の一匹、斬られた手を止血する必要は無いだろう。

 

 (じき)に治る。

 

 また割れるような頭痛と共に、飛び出した包帯が全身を覆っていく。健在の右手には何処かから現れた日本刀が握られていた。擽ったいような奇妙な感覚が斬られた左手首の断面を駆け巡る。視線を向ければ、物凄い速度で肉が盛り上がり再生を始めていた。

 

「マジで化け物じゃん。治るから良いとか思ってんじゃないだろうな」

 

 蔑むような口調は、どこか憤りにも似ていた。

 ただ、今それよりも重要な事は他にあった。前回使った時よりもずっと意識がはっきりとしている。それが良い事か悪い事なのかは定かではないが、少なくとも今は自分にとって追い風だ。

 

トンカラトンと言え

 

「……あ? トンカラ──」  

 

 そのワードで察した寅地が言い切る前に、日本刀を叩き付ける。刀身で受け止められはしたものの、怪異の膂力で強化された一撃は相手に一瞬の隙を生んだ。

 そして今の自分には、その一瞬さえあればいい。

 

 

 不可避の斬撃が寅地の胴を薙いだ。何かを引き裂くような異音が辺りに響く。

 

「──っ」

 

 そのまま仰向けに寅地が地面に倒れてゆく。そして何度かの痙攣の後、動かなくなった。それを怪異に侵されてノイズの混じった視界で確認して、自分のやった事に気付いた。動悸が激しくなる。

 

 まだ、間に合うだろうか。今から医者に見せればまだ助かるかもしれない。伊勢の人間は丈夫だと自身でも言っていたのだから。けれどこいつは自分達を殺そうとした。

 

斬れ。奪え。殺せ。犯せ。汚せ。

 

「うるさい……! 黙ってろ……!」

 

 頭の中で頻りに声がする。以前よりもずっと脳髄に響くそれに気が狂いそうだった。早く吐き出さないと。いや、それよりもまず心依の無事を確認しなければ。

 

 寅地に背を向け、震える足を踏み出した時。

 

 

 腹部がじんわりと熱を持った。目を向ければべっとりと血の付いた刀が自分の身体から飛び出しているのが見えた。ぽたぽたと地面に鮮血が滴り落ちていく。

 味わった事のない感覚に全身の細胞が警鐘を鳴らしている。

 抜かなければ、と定まらない手で刀身を握った瞬間にそれは物凄い速度で引き抜かれた。一際強い痛みが背中を襲う。弾みで落ちた指などもはや誤差だった。

 

 転がるようにしながらも、何とか後ろを向く。そこには涼しい顔をした寅地が立っていた。

 落ちている掌大の肉片は、自分の背の肉だろうか。抉られたようにささくれて裂けた断面が電灯の明かりを照り返してぬらぬらと光っていた。

 

「怪異はすぐ傷が治るからさ。ただ斬るんじゃ駄目だ。治りが遅くなるように抉り取るんだ。離れざまに傷口を刻んでおくと尚良い」

 

「な、んで……」

 

 寅地は無表情で学ランを脱いだ。その下には一文字に傷付いてはいるが編み込まれたチョッキのような装備が仕込まれており、先程の一撃はそれで防がれたらしい。

 

「対怪異用の防刃装備。浄めて祈った高耐久の素材で作った鎖帷子みたいなもんだよ、高いのに一発でお釈迦にしやがったな」

 

 血を失い過ぎて頭がくらくらとする。背中に意識を集中させても痛みが増すばかりで治癒する気配は殆どない。

 

「そんな物、どこで」

 

「お前らがおかしいんだよ。俺達は人が使えるもんなら何でも使う。刃物でも銃でも防具でもな。特別じゃない俺達は工夫する事でずっと生き延びてきた」

 

 血と脂で汚れた刃を脇で拭うと、寅地はギターケースを拾って肩に掛けた。淡々と距離を詰めてくる相手にとにかく離れなければ、とよろけながら後退りする。が、何かがぶつかる感触に振り返ればもう後ろにはコンクリートの壁しかなかった。

 

 決死の覚悟で振り上げた左腕を、縫い止めるように寅地は壁ごと刀で突き刺した。腱が断ち切られたのか、ぴくりとも動かない。

 

「小学校の自由研究でさ、二人で山に入って昆虫標本作ったの覚えてるか? 蝶や黄金虫なんかをこんな感じに針で留めて、お前は『殺すのは嫌だな』って嫌がってたけど」

 

 呻く自分に何の感慨もない口振りで彼はそう言うと、ギターケースを足で蹴り開けた。中には幾本もの刀がぎっしりと詰まっているのが見える。

 

「得物持ち運ぶ時にこれに入れてると職質されなくて済むんだよな。っていうかさあ! 心依ちゃんはこいつがこんな目に遭ってるのになんで出て来ないの? 全部君のせいなんだけど!」

 

れて……!」

 

 そう叫んだ瞬間、二本目の刀が右腕を突き刺す。磔のような格好になった自分の胸倉を勢い良く掴んで、寅地が吐き捨てる。

 

「この期に及んでまだ他人の心配かよ! お前の事見てきたけどな、ずっと嫌いだった! その『自分は死んでも構わない』みたいなスカした面!! どうせ自分なんかって拗ねたような目が!!」

 

 捲し立てる言葉は怒気に溢れているのに。

 なんで、言ってるお前が泣くんだよ。

 

「怪異憑かせたら心まで人じゃなくなるのか!? 違うだろ! 痛いって言えよ! 逃げたいって言えよ! お前は人間だろうが!!」

 

 自分は、見誤っていた。

 これは自分と彼との殺し合いだと。そんな事は全く無かった。

 始まってからずっと、自分は寅地から本気の片鱗すら引き出せていなかった。ずっと死なないように手加減されていた。自分にとってこれは命を奪る戦いだったのに、寅地にとっては心を折る為の戦いでしかなかった。

 

 

 生まれて初めて、悔しい(・・・)と感じた。

 

 

「口ばっか動かして手足の一つも出てねえじゃん、悔しいとかそういうレベルにいないって気付けよ。守りたいだのほざいていい訳ないだろ、お前みたいな奴が」

 

 三本目の刀を取り出すと、自分の腹部に寅地は狙いを定めた。

 

「もう、いいだろ。嫌われようがどうしようが、お前をただの高校生に戻してやる。巫女を殺して、来た芥屋も全員殺す。お前は寝てろ」

 

 そのまま流麗な太刀筋が月灯を反射して流れ星のように光った。腹の肉を抉られたのだろう。何かが身体からぼどぼどと垂れる感覚があったが、もはや痛みを感じる機能すら喪失しているのか目を向ける気力もない。ただ焼けるように熱い。

 しかし僅かながらに再生している感覚から死ぬ事はないと分かった。トンカラトンを自浄作用で吐き出す頃には、丁度良く人間として瀕死の自分が地面に転がっているのだろう。きっと、それも含めて全部寅地の掌の上か。

 

 霞む視界には、まだ血の滴る刀を下げて心依を探す彼の姿がある。

 守らないと、そう藻掻こうとした時。

 

 ぷつり、と何かが切れたような感覚があった。これ以上は保たないというのが本能で分かる。意志に反して手足が全く動かず、頭から地面に倒れ込みたくなる。

 トンカラトンを憑けても、本気を出させるには至らなかった。それほどまでに実力差が開いているならば、初めから無理だったのだろう。今はただ、眠たい。

 

 けれど、それでも。

 

────それでも。

 

 

 筋肉だけで縫い付けられていた両腕を、刀ごと壁から引き剥がす。腱を切られて動かない腕に構わず、倒れ込んだ際に懐から零れ落ちたそれを這い蹲って飲み込む。人でいたければ使うな、と言われたもう一つ(・・・・)

 

 それは小さな菅の一本に過ぎないが。

 

 暗転する意識の中、音に気付いて寅地がこちらを振り返る。勝負はまだ終わっていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 

 伊勢虎時は目を疑った。

 完膚無きまでに叩きのめした筈の友人が、まだ立ち上がってくる事に。

 そしてすぐにその異常性に気付く。

 

縺雁燕縺ォ縺ッ雋? 縺代◆縺上↑縺

 

 もはや言葉の体を成していない唸り声を上げる姿は、先程の包帯に覆われていた時とあまり変わらない。強いて言うならば、山伏のような装束をその上から身に纏い、その表情は深く被った菅笠で隠されている。だが、そんな変化は些細な事であった。

 

 血溜まりの中から骨を軋ませ、人ではあり得ない方向に関節を曲げながら起き上がる。それが、一人。二人。三人。四人。五人。六人。

 

 

 七人いた(・・・・)

 

「一砂、お前、お前……何入れたんだ馬鹿!!」

 

 全く同じ様相をした七人に、寅地は怒りと焦燥で声を荒げる。何を入れた、と口では問いつつも彼は既にその怪異の目星がついていた。

 

 

 トンカラトン×七人ミサキ。

 

 七人ミサキは中四国に伝わる集団死霊の怪異である。

 その最大の特徴は常に七人いるという事だ。

 彼らに取り殺された者もまた七人ミサキとなるが、犠牲者がその怪異に変身するという点でトンカラトンと親和性がある。

 

 だからこそ崩れそうになる肉体で、引き裂かれそうな精神の中で。その二体同時憑依は辛うじて成立した。

 七人とも同じようにトンカラトンの日本刀を携え、ただ一点に倒すべき相手を見つめている。一砂の死に体の身体を突き動かしているのは、妬みという負の感情だった。

 

 強さが欲しい。負けたくない。対等でありたい。

 

 自身の命すら今まで大して執着のなかった彼にとって、初めてと言っても良い誰かに対して向ける自分の為の負の感情。

 呪いとは、即ち誰かに対してぶつける歪な想いであり。彼は齢十八にして、漸く己の真価を発揮した。

 

繝医Φ繧ォ繝ゥ繝医Φ縺ィ險? 縺

 

 鉄板を爪で引っ掻いたような金属音を一人が喉から絞り出すように叫ぶ。

 次の瞬間、不可避の斬撃が虎時の刀をへし折り身体ごと吹き飛ばした。壁に叩き付けられる瞬間、身を捩って受け身を取る。

 折れた刀を地面に捨てると、服に付いた砂埃を払いながら歩き始めた。

 

「……七人全員トンカラトンか? 本体は? そもそも一体でも殺していいのか?」

 

 懸念される可能性を呟き、言語化する事で状況を整理していく。彼にとって祓いのルーティンの一つだった。

 

「やっぱさ。お前、俺には勝てないよ」

 

 困ったように、意識の無い友人へ虎時は笑い掛けた。

 七人全員が金切り声を上げた瞬間、地面に転がったままのギターケースを渾身の力で蹴り上げる。それは高速で端の一人の頭部にぶつかり、その首を圧し折った。

 

「七」

 

 衝突の拍子に砕け散ったギターケースから、中に仕舞われていた幾本もの刀が飛び出した。その内の二本を手に取り、勢いで抜刀する。

 そして迫り来る七回の不可避の斬撃を。

 

「六」

 

 二刀で巧みに逸して受け切り、あまつさえすれ違い様にもう一人の首を落とした。黒い汚泥を断面から撒き散らしながら倒れる残骸を蹴倒すと、残る五体へ一歩踏み出す。

 

「五」

 

 首の下から差し込むように二刀を捩じ込み、挟み斬る。刃が肉に絡んで抜けなくなったが、確かに殺した。飛び散った血を拭って視線を周りに向ける。

 

「四」

 

 後ろから斬り掛かってきた一刀を躱し、フロントネックチョークの要領で首を絞め上げ、そのまま折る。枯れ葉を踏んだ時のような乾いた音がした。

 

「三」

 

 先程首を折った個体の刀を奪い、手近にいた一体を胴薙ぎにする。鍛え上げてきた膂力を以て振るう一刀は、受けた筈の刀すら叩き折りながらその身体を両断した。

 

「二」

 

 逆手に持ち替え、菅笠の上から脳天に刃を突き立てた。痙攣の後に倒れ臥した身体を蹴り飛ばし、最後の一体に向き直る。

 この間、僅か十秒にすら満たなかった。

 

「一」

 

 腰から捻り、回転を加えた抉るようなボディブローを叩き込む。数瞬の硬直の後、血で染まった吐瀉物を大量に地面に吐き出し始めた。

 数十秒経ってそこにあったのは、人の姿に戻って倒れている一砂の姿と。

 吐瀉物の中で蠢く二匹の怪異を踏み潰す虎時の姿があった。

 

「見分け付かなそうに見えたけど、やっぱ腹抉っといて正解だった。一体だけ腹に血が滲んでたんだよ。つまりお前が本体だ」

 

 気絶しているのか、微かに呼吸で胸が上下する以外は一切の反応を示さなくなった一砂を見下ろしたあと、彼はスマホを取り出し電話を掛けた。

 

「……兄貴? 終わった、ああ。一砂は死んでないって一鼠さんに言っといて。俺は今から巫女殺すから」

 

 命を賭した覚悟すら届かなかった友人を憐れむような目で見ると、背を向ける。が、その足はすぐに止まった。

 

「……お前はさあ」

 

 もはや意識はない筈なのに。一砂の手は引き留めるように、縋るように虎時の裾を掴んでいた。

 

「お人好しも大概にしろよ!! 本気で殺すぞ!!」

 

 怒りのままに蹴り飛ばす。彼が憤っているのは何に対してか、自分自身でもよく理解できていなかった。自分の心配を無碍にする友人に対してか、友人一人すら説得できない自分に対してか。

 

 だが彼の怒りは次の瞬間、最高潮に達した。

 蹴りを叩き込もうとした時、後ろから何かにぶつかられて狙いが崩れる。目を向ければ決着を感じ取ったのか、一砂を庇うように心依が傷だらけの身体を抱き締めていた。それが虎時にはどうにも不快で仕方無かった。

 

「謝ってよ、一砂くんに」

 

「あ?」

 

 低い声で拳を鳴らす。素手で十分だと虎時は理解した。その華奢な首を折ってやれば、それでこの二人の悪夢のような逃避行は終わるのだと。

 だが震える声で彼女は一砂くんは、と言って生唾を飲み込む。

 

「貴方の事、大事な友達だって言ってたのに」

 

「……もう黙ってろよ」

 

 心依は芥屋一砂が自身を助ける理由が今ひとつよく理解できていなかった。彼の利益になるからだろうか。哀れみだろうか。好きだと言われても、それだけで誰かの為にあれほど身を粉にできるのだろうか。嬉しくはあったのだけれど。

 

 彼女は今、震える足で自身を殺そうとしている男に立ち塞がり、自分ではない誰かの為に怒りを向けた。そしてそこまで彼女を突き動かす気持ちが、彼が自分に向けていた物なのだと気付いてしまった。

 

 これが恋だと言うのならばそんな物、知りたくはなかったのだ。

 

 彼女は心の底からそう思ってしまった。

 

─────君がもし、本当に誰かを許せなくなったらこれを飲むといい。君が怒る為の力をくれるから。大丈夫だよ、何があっても君の王子様が助けてくれる。

 

 芥屋家に来た初日、一砂君には内緒だと言う違明に渡された髪束。彼がトンカラトンを自身に憑けた時から、これもそれに準ずる物だと彼女は理解して震えた。私にそんな物が扱える訳ない、と。そんな事は決して無かった。

 

 それでも死んで欲しくないから、そう貴方に笑ってそれを食んだ。

 

 

 

 

 

 

 伊勢虎時は自身が冷静さを欠いている事を自覚できていなかった。長年怪異祓いとして経験を積んできた彼ならば、その結論に辿り着く可能性は十分あっただろう。

 だが彼は思い至らなかった。

 

 芥屋の本質は誰かを怨み、呪う事であると。

 そして自分自身が希薄である依代にそういった負の感情を齎すのは、自身を大事にしてくれる誰かが傷付く事ではないかと。

 

 

 彼はその日、初めて()を目撃した。

 

 何かを心依が飲み込む。気付いた彼が手を伸ばした時には、溢れ出る妖気が黒い風となって流れ出した。思わず目を閉じ、開いた次の瞬間。

 視界に映ったのは、倒れた一砂を慈しむように取り囲む異形の肉体。

 

 

─────大百足。

 

 古くは藤原秀郷、俵藤太の百足退治の伝承で広く知られている。

 妖怪という括りではあるがその特徴として蛇や龍と敵対しており、特に先に挙げた俵藤太の百足退治では龍神すら退けていた。山を七巻き半にすると伝えられている体躯は比類する物などなく。

 

 即ちそれは、神を超える怪異。

 

 だが、彼が目を見開いたのはそこではなかった。

 公園を優に覆い尽くす巨大な百足の下半身に、一糸纏わぬ人の上半身。色白の身体に淡雪のような髪が腰まで垂れ、特徴的な赤い瞳が夜の闇の中で爛爛と輝いている。虚ろな殺意が向けられる中、虎時は滲む手汗を拭った。

 

「聞いてない、聞いてない……! あのイカレ野郎、混ぜやがったな……!」

 

 彼女の胴体には、腕が六本付いていた(・・・・・・・・・)

 人ならざる下半身と女性の上半身、そして呪う事を主とする芥屋と相性の良い怪異は特徴からして一つしか考えられなかった。

 

 其は旧き神と新しき怪異の落とし仔。

 否、これはもはや神でも怪異でもなく。

 

 ■月■日、午後■時■■分。

 

 神級災害:仮称"百足巫女"、或いは姦姦蛇螺(カンカンダラ)

 ■県■■市にて一回目の顕現。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

#9 花に嵐を越えていけ

 

 

 

 伊勢からの連絡を受けた後、芥屋一鼠はほっとしたように息を吐いた。息子と巫女が突如消息を絶ち、護衛と運転手の死体が見つかってから数日経っての事であった。

 携帯の電源を落とし、暫く考え事に耽る。本当にこれで良かったのだろうか。これから先、芥屋はどうなるのだろうか。しかしその淀んだ瞳は暗い達成感に潤んでいた。

 少しの間身を隠し、その時が来たら一砂を迎えに行く。そう考えをまとめた彼が夜の闇に溶け込もうとした時。

 

「いや……本当に気付かなかった。ずっとそうやって爪を研いでたんだね。感服するよ」

 

 襲撃を避けるため別の場所に潜伏していた筈の当主、芥屋違明の姿がそこにあった。確かに別れた筈だと一鼠は心中で歯軋りしながらも、袖に忍ばせた小刀をそっと手に添える。

 

「……何がでしょうか? そんな事より違明様、どうしてこんな所に!? 危険ではないですか」

 

 早鐘を打つように鳴る心臓を胆力で抑え込み、白を切る。だが違明はただ首を振った。その表情は残念そうでもあったが、ほんの少し興味深そうな風にも取れる。

 

「よく考えてみれば君しか情報を漏らせる人はいなかった。一砂君の動向を誰よりもよく知っていて、人間関係まで管理できる。君が僕に内緒で彼に許した友人が、まさか伊勢の次男坊とはね」

 

 もはや一鼠の言葉に答える事もなく。彼の咎を一つ一つ暴くように、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

 

「理由が知りたいな。金かな? それとも何か嫌な事でもあったのかな?」

 

 本当に心の底から分からない、そんな違明の口振りに彼は(はらわた)が煮えくり返そうな思いだった。

 

「私と、一砂から。妻を奪っただろうが……!」

 

 十八年にも及ぶ芝居に幕が下ろされる。しかし違明は眉をほんの少し上げただけだった。

 

「ああ。一砂君が産まれる時に、母体に飴女(あめおんな)産女(うぶめ)を憑けた事? でも仕方ないじゃないか」

 

 飴女。

 子育て幽霊とも呼ばれる古い怪異であり、夜な夜な飴を買っては自分が遺した子供にそれを与え育て続けた逸話がある。

 

 産女。

 姑獲鳥とも書き、死んだ妊婦が化けたものとされる。先の飴女ともルーツが似通っている怪異であり、両者の共通点は子に執着した怪異(・・・・・・・・)である事が挙げられる。

 

「一族の中で落ちこぼれだった君だからこそ、平凡な恋愛結婚ができたんだと思うけどさ。それじゃ駄目なんだよ。普通じゃ駄目なんだ」

 

 芝居がかった調子で手振りを交えながら話し続ける様に罪悪感は一切感じ取れなかった。

 

「愛されるほど呪われて産まれるなら、もっと人には到底抱え切れないほど(人間をやめるほど)愛してもらわないと。あの子があれだけ血が濃いのは、僕のお陰みたいなものなんだけどな。まあお母さんは死んじゃったけども」

 

 小刀を振り翳して飛び掛かった一鼠を体捌きのみでいなし、地面に叩き付ける。地面に落ちた得物を蹴飛ばすと、嘲るように彼は続けた。

 

「だけど君は誤った。本当に奥さんが望んだ事を考えるならもっと早く一砂君を連れて逃げ出すべきだったし、彼に本当の事を話しておくべきだった。芥屋に復讐したい、そんな情が君の唇を噛んで耐えるような十八年を無駄にしたんだ」

 

 殺意が形となったならば、一鼠のそれは違明の身体を幾重にも刺し貫いただろう。だが、そんな事は起きない。

 

「息子にすら悟られないようにステレオタイプな父を演じて。全てを台無しにできるよう頑張って立ち回ったね。でも一砂君の事を考えるならさっきも言ったように彼を連れて逃げるべきだったし、芥屋に復讐したいなら一砂君を殺すべきだった。そっちの方が楽だろう?」

 

 ただ淡々と事実を述べられ、一鼠は顔面を蒼白にしながら押し黙る。

 

「何にしても中途半端だったんだよ、君は。あれもこれも、と手を出して。結局君が成せた事は何一つとしてないまま今日が終わる」

 

 違明は小瓶に入れていたある怪異の幼体を取り出すと、何の躊躇もなく飲み込んだ。

 音を立てて形を変えてゆく相手に、一鼠は諦めたように項垂れた。

 

「君と違って、僕のやる事は最初から一貫してる。飛び切り愛されて(呪われて)生まれた贄に、もっと呪われて(愛されて)もらう。百年先も芥屋は続く。その為に僕はいる」

 

 芥屋一鼠。

 庶子の出であり才能(愛される事)も無く、ただ搾取されるだけの人生ではあったが。そんな彼にも一輪の花のような喜びは確かにあった。

 だからこそ、それはあっさりと摘み取られてしまう物であったが。

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 

 山を七巻き半には到底満たないが、それなりの広さである公園を覆い尽くすようにそれは鎮座していた。蠢く多肢は一つ一つが人の腕のような形をしており、視界に入れるだけで不快感を覚える。

 グロテスクな下半身とは対照的に、もはや人ならざる者としか形容できない程の妖艶な雰囲気を漂わせながら心依──否、百足巫女は伊勢虎時を見下ろしていた。

 

 (虎時)は今後を嘱望されている一流の怪異祓いであり。非公式ではあるが、兄に次いで単独で巨頭オ(怪異災害)を討伐した経歴を持つ。

 だが、そんな彼でさえ出せたのは「これは無理だ」という身も蓋もない結論であった。

 元々が神と称される怪異である大百足に、現代怪異の中でもトップクラスの実力と危険度を誇る姦姦蛇螺(カンカンダラ)が混ぜられている。

 

「もう、人がどうこうできるものじゃねえだろ」

 

 そう口に出してしまった瞬間、心が折れそうになる。それでも彼が震える手で刀を握り直したのは。百足巫女の足下に倒れている一砂に目を向けると、大百足と姦姦蛇螺についての知識を総動員する。

 

 大百足の伝承通りならこれが効く筈だ。

 

 虎時は緊張で乾いた口から何とか唾を吐いて刀に塗り付けた。俵藤太は矢に唾を付けて射た事で百足を倒すに至った逸話がある。

 力押しが困難であるなら、まずはその怪異の逸話に則って打開策を探す。そんな祓いのセオリーに従って彼は深く息を吸うと、飛んだ。そのままの勢いで百足を思わせる下半身に刀を突き立てる。硬い外皮を刺し破り、柔らかい肉を抉る感触があった。いける。

 

 どれほど強大であろうとも、どれほど底が見えなくとも、刃が通るなら殺せる。

 

 しかし、彼が培ってきたそんな哲学はいとも簡単に打ち砕かれた。

 貫いた筈の刀身が、何故か弾き出されている。傷痕に目を向ければ、そんな物はどこにもなかった。

 

「──は?」

 

 今度は目を離さぬように刃をもう一度叩き付ける。違和感の正体はすぐに判明した。確かに傷は付く、だがそれ以上の速度でその箇所を再生していた。

 規格外。月並みではあるが、そんな表現しか浮かばない。

 

「核でもぶち込めってか」

 

 軽口を叩き続ける事でしか己の平静を保てない事を自覚しながらも、まだ彼の心は折れていなかった。

 

 

 百足の肢からぽとり、と雫が垂れる。それは地面に垂れ落ちると、ぶすぶすと煙を上げた。人の腕を思わせる肢がまるで虎時を指差すようにゆっくりと動き出す。その瞬間、彼は背筋に氷柱を差し込まれたような悪寒に身震いした。

 数多の死線を潜り抜けた事によって培われた勘が、竦む身体を強制的に動かす。咄嗟に近くに嵌っていたマンホールの蓋を引き上げると盾のように構えた、次の瞬間。

 

 猛烈な衝撃に盾代わりの蓋ごと虎時の身体は吹き飛ばされ、宙を舞う。

 

「っ、あ、化け物が……!」

 

 呻きながら身体を起こす彼の瞳に映ったのは、百足巫女が再び何かを自分に向けて撃ち出す姿だった。それを転がるようにして何とか避けると、再び刀を握り直す。

 飛沫が掛かった箇所が火傷したように焦げている事から、何らかの毒液を高圧に圧縮して飛ばしていると推察できる。受けたマンホールに目をやれば、既にぐずぐずに溶けて奇怪なオブジェのようになっていた。

 

「……斬っても意味無し、受ければ死ぬ、無茶苦茶だろ」

 

 自分は失敗した。

 彼は薄々それを感じ取っていた。躊躇せずに心依ちゃんを殺していれば。出雲に任せず、時間が経つ前に自分でケジメをつけていれば。

 これは己の甘さが招いた失態であり、ならば自分の手で決着を付ける。幸いにも百足巫女の攻撃は脅威だが、避けられない事はなかった。そして万が一の為、一定時間が経てば応援が駆け付けるようになっている。とりあえず手数を増やしてからだ、虎時がそう気合を入れ直した時。

 

 百足巫女は歌うように口を開いた。

 それはもはや人の言葉ではなかったが。何故か彼にはその漢字も、読みも脳髄に直接流し込まれるように理解できた。

 

 

 (オン)

 

 

 その瞬間、突如視界が真っ赤に染まる。全身を走る激痛に立っていられなくなり、地面に転がって嘔吐いた。何も見えないが口の中に広がる鉄錆びた味からそれが血液だと分かる。目から、鼻から、口から、全身の穴という穴から搾り取るように出血が止まらない。

 

 再び彼が霞む視界を取り戻した時には、まるで鎌首を(もた)げるように百足巫女が曳航肢(えいこうし)を此方に向けていた。滴り落ちる雫はここからでも饐えた臭いを撒き散らしている。

 

 ああ、死ぬのだ。

 

 もはや立ち上がる気力もなく、虎時は目を閉じる。潰されるなら頭がいい。痛みを感じる間もなく一瞬で逝ける。全てを薙ぐ、風を切る音がした。

 

 

 

 何故だろうか。まだ生きている。ゆっくりと彼が目を開けるとそこには。

 自分を庇うように立ち塞がり、胴体を刺し貫かれている一砂の姿があった。毒液で肉が焼け焦げる悍ましい臭いが辺りに漂う。

 

「あ、え、お前、何やってんだよ……!」

 

 死に体の身体を奮い起こすと、肢を引き抜かれてゆっくりと倒れる友人に縋り付いた。

 

「病院、救急車、早く、誰か、誰かいないのかよ!!」

 

 パニックで呂律もろくに回らないまま叫ぶ。百足巫女は自分が傷付けた相手を視認すると違う違うという風に首を振り始めた。終いには涙を流しながら自らの身体を地面に叩き付け始める。

 

「大、丈夫。自分は、大丈夫だ」

 

 一砂はそう声を掛けると、立ち上がって百足巫女の元に歩いていく。地に伏せて泣き続ける彼女をそっと抱きしめて大丈夫だと囁き続ける。母親にあやされて眠る赤子のように、巫女の動きが止まった。数分の後、その巨体はまるで霧に溶けるかの如く。

 辺りを覆っていた百足は掻き消え、一糸纏わぬ姿になって寝息を立てる心依と一砂だけがそこに残されていた。

 

「……どうして」

 

 自分は間に合わなかったのだと、虎時の瞳から涙が溢れる。自分の問い掛けを「何故庇ったのか」だと思ったのか、彼は膝の上で眠る心依の髪を撫でながら答えた。

 

「心依に人殺しをさせたくない。出自はどうであれ、今の彼女はそうであるべきだ。それに」

 

 振り返ったその顔は、先程の鬼気迫った表情ではなく。学校で、帰り道で、いつも遊んだ場所でよく見せていた照れ笑いだった。それがどうにも虎時にはやるせなくて。

 

「お前は友達だ。それで十分だろ」

 

「馬鹿が……! お前、分かってるだろ!!」

 

 胴体を穿たれた筈の傷が、既に完治している。それはもはや人では有り得ない。虎時の怒気を孕んでいた声が、次第にか細く震えていく。

 

「俺、本当にお前を助けたかったんだよ。余計なお世話って思うかもしれないけど、でもお前と一緒に大学行きたかった。本当なんだ」

 

 虎時の瞳に映っていたのは、時折七つにブレる一砂の姿だった。人ならざる治癒速度とそれが指し示すのは一つしかなかった。

 怪異の乱用による定着。遅かれ早かれ、彼の精神はトンカラトンと七人ミサキに食い潰される。それは彼自身が選んだ末路ではあったが。

 

「ごめん、ごめん」

 

 突っ伏して、許しを乞う友人の肩に一砂は手を置く。もういいのだ、そう言わんばかりに。

 

 芥屋一砂は人ではなくなってしまった。

 たったそれだけの事実だが。伊勢虎時の心を折るのには十分だった。

 少しだけ暖かくなった夜風が、彼らにとって最後の春の訪れを告げていた。

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 どれくらい時間が経っただろうか。

 酷く頭が痛む。人でいたいのなら使うな、そう言っていた蛇神の言葉の意味が今ではありありと分かる。

 

 殺すしかないよ。

 なんで助けなきゃいけないの? 

 全部放り出して遠くへ行こう。

 彼女のせいでこうなったんだ。

 寅地は元々友達なんかじゃなかった。

 誰も自分を好きじゃない。

 会いたいなあ。

 

 頭の中に、七人いる(・・・・)

 今こうして思考を回している自分が、本当に芥屋一砂なのか。そんな事すら確信が持てなくなる。裸体の心依に自分が着ていた上着を羽織らせ、起こさないように背負った。

 

「……どこ行くんだよ」

 

 座り込んだままの寅地が此方に目をやる事もなく、そう言った。もうその声色に険は無かった。

 

「行ける所まで」

 

 ただ一言、そう返す。普段通りのトーンで話せただろうか。

 

「あっそ」

 

 彼は俯いたまま呟くと、裾を払って立ち上がる。抜き身の刀を一振り掴んだが、それはすぐに鞘に収められた。

 

「伊勢はもう降りる。兄貴にも無理だ、あれは。両腕あったらまだ分かんなかったけど」

 

「そうか。元気でな」

 

 交わす口数は少ない。それでもどこか自分の心は晴れやかだった。本当はずっと後ろめたく思っていたのかもしれない。全てを語る事のないまま、黙って姿を消す事を。

 

「……諦めるなよ。絶対足掻けよ、最後まで」

 

 ああ、と答えてやりたかった。でもそうすれば、こいつは期待してしまうから。

 だから何も答えずに此処を去る。自分はただ、お別れを言いたかったのだ。

 

 そう一歩踏み出した時、何処からともなく声を掛けられる。

 

「男子三日会わざれば何とやらって言うけれど。よく仕上がったね」

 

 当主、芥屋違明の姿がそこにはあった。

 何故か血に濡れた着物で満面の笑みを浮かべながら近付いてくる彼に、一歩踏み下がる。彼が自分達の元を訪れる理由は一つしかない。迎えに来たのだ、自分を贄にして心依を封じる為に。

 

「もう、やめましょう。こんなの間違ってる、彼女が犠牲になる必要なんてない」

 

 初めて当主にそう反抗した。庶子が本家に歯向かうというタブーを犯したにも関わらず、不思議と自分の心は落ち着いていた。

 だが彼は怒り出す事も無く、寧ろ感慨に目を潤ませている。

 

「本当に立派になったよ。でも、君は全国に数多くいる芥屋に連なる者達を見捨てるのかい? 僕らにとってこの力は生命線だ。一人の尊厳なんかの為に、それを無碍にするなんて。まあ、それに」

 

 疲れ果てたように眠る心依を彼は指差す。

 

「実際に見て分かったでしょ? 今回はあくまで負の感情に晒されて暴発した、謂わば前座。六日後には彼女の意思に関わらずああなる。そして規模は今回の比じゃない。詰んでるんだよ、もう」

 

 そこまで言った後、違明は寅地に視線を向けた。寅地は既に刀を構えて臨戦態勢に入っている。

 

「ん……君が伊勢の次男坊か。ここで殺しておいた方が後々の為になるかな?」

 

「調子乗んなよ、おっさん。何の自信か知らねえけど、多勢に無勢っての理解してから喋れよ」

 

 その言葉の直後、辺りを取り囲むように黒スーツの集団が集まってきた。恐らく伊勢の手の者が他にも潜んでいたのだろうが、思わずゾッとする。

 しかし彼は大して困った様子も無く、肩を竦めてみせた。

 

「困ったな。これだけ多いと骨が折れる、おーい」

 

 間延びした声で何かを呼ぶ。何故か無性に胸騒ぎがした。

 

「──イカリ」

 

 肉が腐り落ちるような。吐き気を覚えそうになる強烈な腐臭が鼻を突く。

 次の瞬間、暗がりから飛び出した獣を思わせる何かが端にいた伊勢の喉を裂いた。

 咄嗟の事に反撃の姿勢を取れないまま、更に数人が急所を噛み破られて崩れ落ちていく。その勢いのまま硬直して身動きの取れない自分に、それは襲い掛かってきた。

 

「待て」

 

 自分に噛み付く寸前、その言葉で怪異は動きを止めた。肉が絡み付いた糸切り歯まではっきりと見えるようだった。裂けた箇所から血が滲むほど大きく開いた口から饐えた臭いが漂ってくる。

 

「錨、さん」

 

 思わず言葉が漏れる。目の前に突き付けられる事実を、脳が理解を拒んだ。

 その乱雑に伸ばした髪は。ぼろぼろになってこそいるが、懐かしい匂いのする藍色の着物は。思わず吐き戻しそうになるのを堪える。

 

「死人憑き、ゾンビ、僵屍(キョンシー)、アンデッド、在此矣(ジェチャウイ)。死体を動かす怪異をね、日本だけじゃなくて海外の個体も含めて集めて全部入れてみたんだ。錨は強かったのに、勿体無いから」

 

 やっと理解した。目の前の芥屋違明という男は、善悪で動いていない。倫理観の枷も、愛情の鎖も備わっていない。ただ、芥屋を強く存続させる為だけに力を注ぐ化け物。

 

 芥屋の怪物だ。

 

「……なんで。なんでお前は!! そんなに家が大事なのか!? 肉親よりも!! 誰かが泣いて傷付いていても!! そんなあやふやな物の為にどれだけ犠牲にすれば気が済むんだ!!」

 

 そう違明に殴り掛かった瞬間、錨さんだったものに片手で掴まれ投げ飛ばされる。起き上がろうにも痛む頭のせいで碌にまっすぐ立てない。

 

 どうせ自分には何もできないだろう。

 錨さんとお揃いだ、やったね。

 もう楽になればいい。

 いつも大事な物は取りこぼしてからそうだと気付く。

 人間の振りはやめろ。

 化け物と化け物でお似合いじゃないか。

 帰りたい。

 

「……っ、黙れ黙れ黙れ!!」

 

 鳴り響く声を振り解くように、何度も地面に頭を叩き付ける。

 それを満足そうな様子で眺めると違明は踵を返した。もう用はないと言わんばかりに。

 

「最後の日に迎えに来るね。心依ちゃんと沢山思い出を作って、どうか楽しんで。それが次の彼女の呪いになるから」

 

 それだけ言うと、彼は寅地達を指差して「喰っていいよ」と錨さんだったものに囁いた。犠牲者が出ている事から明らかに彼らの士気は下がっている。肝心の寅地も大分消耗している。なら自分が止めなければ。萎える気持ちを抑え付けて拳を握りしめた時。

 

 怪異の横っ面を誰かが思い切り殴り飛ばした。ぐちゃりと音を立てて頬の肉片が削げ落ちるが、あっという間に再生していく。

 

「錨くんを、こんな雑魚と一緒に、すんなよ」

 

 もはや虫の息であった筈なのに。息も絶え絶えののっぺらぼうがそこに立っていた。片腕は千切れ、全身を乾いた血で染めながらもまだ立つ姿は表情こそ見えないが鬼気迫っていて。

 

「……面倒だな。ここは退こうか」

 

 伊勢とのっぺらぼうを交互に見たあと、そう呟いて彼は怪異を連れて姿を消した。途端に緊張の糸がぷつりと切れる。まだのっぺらぼうも伊勢の集団も残っているのに、違明があの場を支配していた事の証左と言えるだろう。

 のっぺらぼうが足を引き摺りながら何処かへ去っていくのを止める者は誰もいなかった。もはや彼を脅威として見做すには、あまりにもその後ろ姿が哀れだったから。

 

 あの怪異もですけど芥屋を逃していいんですか坊っちゃん、などと声が聞こえてくる。どうやら大多数の伊勢は自分達をこのままみすみす行かせる気はないようだ。

 

「黙れ。こいつらに手を出したら俺が殺す」

 

 行けよ、と寅地が首をしゃくる。

 ありがとう、と声に出さず呟く。唇の動きを読んだのか、彼は困ったように笑った。その笑顔を刻むように脳裏に焼き付けると、歩き出す。もう振り返らなかった。

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 

 橋の下でうたた寝していた所を、着信音で叩き起こされる。何度となく耳にしたそれに答えるかどうか数秒逡巡し、結局出る事にした。強く吹き付ける風の音がどうにも煩い。

 

「一砂か? 今、何してる?」

 

「……ご無沙汰です、金本さん。何って……家で課題をやってましたよ」

 

 そんな筈がなかった。寅地達と別れた後、行く宛もなく彷徨った果てに雨を凌げるよう橋の下に腰を落ち着けるのがやっとだった。

 血塗れの自分と半裸の心依を不審に思わずに泊めてくれる場所がある訳もない。未成年である自分が歯痒かった。

 

 ちっぽけだね、君は。

 どうしてこんな思いをしなければいけないんだろう? 

 どうせまた裏切られるよ。

 金本さんが自分に何をしてくれる? 

 電話を切れよ。お前の事なんか誰も好きじゃない。

 もう死んじまえよ。

 お腹が空いたな。

 

「嘘を吐くなよ。風の音が轟々聞こえてんだ、外だろ。どこ居るか言ってみろ、迎えに行ってやる」

 

 金本さんの声で正気を取り戻す。時間が経てば経つほど、自分自身の思考が削られるような。そんな嫌な感覚で満ちていた。

 疲れで頭が回らなかったのか、それとも誰にも身を寄せる事もできないこの状況で心細かったのか。気付いた時には今いる場所を、彼に告げていた。別に期待はしていなかった。誰かを信じ切るには、少々疲れ過ぎてしまったから。

 

 だから十数分の後、型落ちの乗用車に乗って本当に彼がやってきた時には思わず目を疑った。

 

「おいおい、服もろくに着てない女連れて深夜徘徊ね。遅めの思春期って所か? 乗れよ」

 

 もうどうにでもなれ、と心依を起こさないように抱き上げると彼の言う通りに車に乗る。乗り心地はそこまで良い訳でもなかったが、草地に比べれば天国のようだった。心依を後部座席に寝かせ、自分は助手席に座る。降り出した雨がぽつりとフロントガラスに落ちるのを見て、改めて金本さんに感謝した。

 走り出した車はもう人通りの絶えた道路を往く。煙草を燻らせながらハンドルを握る金本さんに尋ねてみる。

 

「あの、どこへ行くんですか」

 

「俺んちだよ。かみさんはいるがまあ気にせんだろ、ガキ二人をこんな天気で野宿なんかさせられるか」

 

 何を喋っていいか分からず、どうして自分に電話を掛けてきたのか尋ねた。

 

「質問ばっかりだな。伊勢から警察に情報統制するように指示があってな。まあ怪異絡みだろうが、何となくお前の事が気に掛かっただけだ。なんか面倒な事になってそうだが一晩くらい泊めてやるよ」

 

「……自分は人殺しですよ」

 

「知らねえよ、それだったら今の俺も規則破りで懲罰もんだ」

 

 沈黙が流れる。どうしてこの人は仕事で少しばかり付き合いのあるだけの自分を、こんなにも気に掛けるのだろうか。

 

「眠いなら、寝てていいぞ。腹も減ったろ、家に着いたら飯と味噌汁と……晩の残りくらいしかないが、食って風呂入って寝ちまえ」

 

 寝ている時だけは頭の中に響く煩い声も聞こえなくなる。でもこの古びた車に染み付いた煙草臭さがどうにも懐かしくて。

 

「もう少しだけ、話していていいですか」

 

「ああ。学校の話でも何でもすりゃいいさ」

 

 助手席のヘッドレストに頭を預けながら、取り留めもない話を続ける。この間友達と食べたラーメンが美味しかった事。学年末テストが思ったより取れていた事。近所の野良猫が少しだけ自分に懐いた事。それすら途切れた時。

 

「生きてりゃ、言いたくない事の一つもできるだろ。もしも言いたくなったら、それはその時に聞いてやるよ」

 

 ああ、自分は。こんな一言で救われるのだ。そう気付いた。

 ずっと、誰かに気に掛けて欲しかったのだ。

 深い泥のような眠りが脳をぐずぐずに溶かしていく。それに逆らわず目を閉じる。今くらいは何も考えずに眠りたい。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

#10 ありふれた二人の他愛ない話

 

 

 目が覚める。少しくたびれてはいるが、柔軟剤のふんわりとした香りの布団が心地良かった。何日かぶりの柔らかな寝床にもう少しだけ、と寝返りを打った瞬間。

 

「──っ」

 

 勢い良く跳ね起きて扉を開き、目に付いた階段を降りる。年季が入っているのか、一段降りる度に軋む音を立てるそれに嫌でも慎重になってしまう。聞こえてくる誰かの話し声を頼りに入った部屋には。

 

「おはよう。よく眠れたか?」

「■■くん、おはよう!」

 

 リビングに当たるであろうそこには、金本さんと心依の姿があった。向こうにあるキッチンでは彼の奥方だろうか、妙齢の女性がかちゃかちゃと皿を洗う音が聞こえてくる。

 

「……金本さん」

 

 昨夜の記憶を思い出す。確か金本さんに言われるがまま車に乗って、彼の家に着いた筈だ。けれど結局溜まった疲労に抗えず、そのまま寝こけてしまった。

 

「とりあえず、座って飯でも食えよ。腹減ってるだろ」

 

 机には焼き鮭に味噌汁、白米と漬け物といった和風の朝食が並べられていた。漂ってくる香りはそれだけで食欲を唆り、涎すら垂れそうになる。席に着くと頂きますの挨拶もそこそこに箸を取った。

 まだ湯気の立つ食べ物が胃の底からじんわりと身体を温めてくれる。脂の乗った鮭の皮ぎしが白米によく合う。いつぶりだろうか、こんな温かい食事は。

 気付けばあっと言う間に完食してしまっていた。熱いお茶を啜りながらほっと一息つく。心依が人懐っこそうな笑顔を浮かべて金本さんの奥方と台所で何か話しているのを眺める。

 きっと本来の彼女はそうなのだろう。歳相応に人好きのする性格で、皆に好かれる少女。そんな有るべき姿を自分達(芥屋)は奪って縛り付けている。

 

「すみません、寝床を貸してもらった上に食事まで頂いて」

「まあお前の家は複雑そうだからな。家出の一つか二つくらいあるだろ」

 

 事も無げにそう言って禁煙パイポを口にした。新聞を捲りながらテレビから流れるニュースを眺めている金本さんの姿はあまりにも普通過ぎて、何だか今までの激動の数日感が夢だったかのように思えてくる。

 

「娘も家を出て暫く経つしな。お前と彼女がそうしたいんならもう少し泊まっていってもいいぞ。かみさんもお前らの事気に入ってるみたいだし」

 

「……」

 

 分からなかった。どれだけ思考を巡らせても、何一つ分からなかった。

 

「どうして、ここまでしてくれるんですか」

 

 家の為に使ってきた人生だった。

 それとは関係無い、唯一自分で選んだと思っていた友人も結局は家絡みで。この大して長くもない人生の中で、自分に近付いてくる人間は皆何かしらのメリットを見出していた。そうでもなければ自分なんかに構う必要がない。目の前の金本さんだってその筈だ。けれど、どれだけ考えても彼が自分を助ける意味が見出だせない。

 警察という立場からすればメリットどころかデメリットの方が大きいくらいだ。固唾を呑んで金本さんがどう答えるのか見守る。彼はよく分からないという風に首を捻った。

 

「どうしてって、また変な事を聞いてくるんだな。大人なら子供が寒い思いしてたり怖い思いしてたら助けてやるもんだろ。それでも納得いかないんならお前が大人になった時に、誰かをそうやって助けてみろ。そうすりゃ分かるよ」

 

「……そんなものですか」

 

「人間、案外そんなもんだよ。どうする事もできなくなったら、意地張らずに弱音吐いて誰かに頼ってみればいいさ」

 

 その言葉にふっと肩の荷が下りた気がした。弱音を吐いても良かったのだ。誰かに頼っても良かったのだ。こんな簡単な事に気付けなかったから、きっとここまで来てしまったのだろう。

 

「すみません、ならもう少しだけお世話になってもいいですか?」

「ええ、大歓迎よお。若い子がいると部屋の雰囲気が華やいでいいわね」

 

 人の良さそうな奥方もにこやかな笑顔でそう言ってくれた。いつまでも甘える訳にはいかないけれど少しだけ安心した。

 柔らかなソファに身体を預ける。もし自分が死んだとしてもこの人達なら心依を助けてくれるだろう。

 

「……金本さんは自分が困ってたら助けてくれますか?」

 

「いいぞ、困ってる事があるなら言えよ」

 

「はい、そのうち」

 

 言える訳もない。訳もないのだけれど、そう言ってくれる人がいるだけで満たされていた。

 

「所でお前、あの子はこれか……?」

 

 そう言って彼はひそひそ声で小指を立ててくる。その古い仕草についくすりと笑みが溢れた。

 

「さあ、どうでしょうね」

 

「お前は顔は良いからな。少々陰気過ぎるけどそのうちできると思ってたよ」

 

どうでもいい会話が、ただ嬉しかった。

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 それから数日ほど金本さんの家で世話になった後の事。

 彼に我儘を言って最寄りの駅まで送ってもらい、電車で数駅。降りた先でまた暫く歩く。

 

「ねえ■■くん、これどこに向かってるの?」

 

「少しな。筋を通さなければいけない人がいる」

 

 記憶を頼りに閑静な住宅街を歩く。少し強くなった日差しに前を行く心依が帽子を被り直す。ふわりと揺れる春物の服は金本さんの娘の物を借りたらしい。楽しげに袖を風に靡かせる彼女を眩しく眺める。どうしても男所帯になりがちな芥屋では彼女にこのような服を着せる事もできなかった。自分の視線に気付いたのか、心依はくるりと振り返る。

 

「どうかした?」

 

「いや、似合っていると思って。その服」

 

「……意外とそういう事言えるんだね」

 

 少し照れたように彼女がはにかむ。本当はもっと違う道があったのかもしれない。こんな風に何でもない時間を積み立てて少しずつお互いの事を知っていく。恋だの愛だのなんてものは、本来そうやって育てていくものなのだろう。

 そのまま取り留めもない会話を続けて歩き、目当ての家の前で襟を正す。「少し待っていてくれないか」と心依にお願いして玄関へと進んでいった。

 

 深く息を吸って何の変哲もない家のチャイムを鳴らす。ばくんばくんと心臓の鼓動が煩い。数秒の後、間延びしたような声と共に扉が開かれる。そこから顔を覗かせたのは、少し度の強い眼鏡を掛けた黒髪の女性。ゆったりとしたシャツに袖を通す姿はまだ学生のようにも見えた。

 

「あら、確か■■君だったよね……? 大きくなったね! っていうかどうしたの、急に」

 

 芥屋千代。自分達と同じ姓ではあるが、呪いや祟り神とは全く縁の無い数少ない人間だ。一般人として嫁入りしたが夫の意向で芥屋との関わりも殆ど無い。自分は結婚式の時に顔を見たのが最後だったと思う。

 一言で言い表すならば、錨さんの妻である。

 

「お久し振りです、千代さん。その……」

 

 やはり、という思いが強かった。きっとこの人は錨さんが今どうなっているかを知らない。あの違明がそんな事をわざわざ伝える筈もないから。多分ここで少なくとも錨さんが戻ってくる事はないと伝えなければ、この人はずっとここで待ち続けてしまう。

 

「錨さんは、えっと」

 

 言うべき一言が、出なかった。言える訳がなかった。だって錨さんが死んだのは自分のせいみたいなものなのに。まだまだ未来があった筈の二人を引き裂いてしまったのは、こんなどうしようもない自分のせいなのに。

 顔を伏せる。そんな事をされても千代さんが困るだけなのに。言わなきゃ。言わなきゃ駄目なんだ。

 

 お前が悪いんだよ。

 代わりに死ねば良かったのに。

 この女も絶対そう思ってる。

 今からでも遅くないよ。

 もう疲れただろ。

 本当は許してもらいたいだけのくせに。

 会いたいな。

 

 頭の中に巣食う七人が苛むように呟き続ける。段々と統合されるように一貫してきたその意見は、最後には自分の人格そのものを喰い尽くすのだろう。でも駄目だ。まだ終われない。

 拳から血が滴りそうなくらい強く握り締めた瞬間、ぽんと靭やかな指が自分の肩に添えられた。

 

「……ううん、大丈夫。分かったから、あの人に何かあったんでしょ?」

 

「え、あ、なんで」

 

 なんで、と口走ってしまったのを慌てて押さえる。でも、もう手遅れだった。

 ほんの少しだけ寂しそうな笑みを浮かべると、彼女は扉を開けて玄関の壁にもたれ掛かった。そして少し震えた口で息を吸って、にっこり微笑む。

 

「帰りが遅すぎると思ってたんだ。それに錨君はいつも言ってたから。『もし俺の身に何かあったとしたら、多分■■が伝えに来るだろう』って」

 

 そんなの聞いてない。だって錨さんは自分の事なんか気に掛けている訳がなかった。いつも下らない事で怒らせてしまっていたし、迷惑ばかり掛けていて。きさらぎ駅とのっぺらぼうの時だって励ましてもらうばかりで、本当は元々友人だった怪異と対峙しなければならない彼の方が辛かった筈なのに。

 愚痴を吐かれているならまだしも、そんな信頼されている訳が。

 

「彼ね、いつも君の事を褒めてたんだから。筋は良いのに優し過ぎるって、あの人が言えた事じゃないのに。大学時代の頃からずっと『■■とラーメンを食べに行ったんだ、■■が今日はよく動けていた』って本当に君の話ばっかりだったんだよ? 私が妬けちゃうくらいに」

 

「……錨さんもよく千代さんの事を話してました。普段は仏頂面なのに、千代さんの話をする時だけはちょっと顔が緩んでて。誕生日前は柄でもないのに『……女性が喜ぶような贈り物に心当たりはないか』なんて言ってたり」

 

 ぽたり、と何かが自分の頬を伝って落ちる。悲しいのに嬉しくて。もっと話をしたかった。もっと色んな事を教わりたかった。もっと下らない血や家なんかに縛られずに、あの人と。

 

「ちょっと泣かないでよ。私まで何だか悲しくなっちゃうじゃない」

 

 震え声でそう自分を励まそうとする千代さんに申し訳なくて、笑おうとするのに溢れてどうしようもなくて。

 

「本当に死んじゃったんだ、あいつ。馬鹿みたい、沢山物をくれたり私を色んな所に連れて行って楽しませようっていつもあくせくしてたけど。本当に欲しかった物、何にも最後まで分かってなかった」

 

 どこまでも高く広がる空に春一番が吹き荒れる。心配そうにそっと塀の向こうから覗き込んでくる心依に気付くと千代さんは「彼女?」と涙を拭いて聞いてきた。慌てて否定する自分を可笑しそうに眺めると、彼女は心依と一緒に自分を部屋の中に招き入れてくれた。

 

「聞かせてよ。■■君から見た、あの人の話」

 

 自分が思っているよりも、きっとこの身は多くの人に愛されていた。呪われ、忌み嫌われ、捧げる事でしか誰かの役に立てないと思っていた自分を「そこにいてくれるだけで良い」と思ってくれる人がいた。

 もうそれだけで死んでもいいと思うくらいに嬉しいのに。それでも死にたくないな、と喜ぶ自分がいる。

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 死んでも良いから貴方との子供、欲しかったんだけどな。

 

 二人を招き入れ扉を閉める前に、宙を高く飛ぶ鳶に千代は目を細めた。どこまでも自由に飛んでいくその鳥に託すように放り投げた呟きは、春の麗らかな日差しに解けるように消えていった。

 願わくば、天の上にいる筈の貴方に届くようにと。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 夢を見ていた。

 ぼんやりと暗く温かい海の中で漂っているような、そんな夢。

 子宮の中を思わせる緩やかな波の中で一つだけ、微かに輪郭を持った何かがある。触れようと思えば触れられる距離にあるそれに、手を伸ばしてみようと思って留まる。

 

 触れてしまえば、何かを捧げなければならない。

 それでたとえどんな掛け替えのない物を得たとしても、その自分は自分でないのに(・・・・・・・・・・・・)

 別にいいでしょう、と誰かが囁く。本当はどうすればいいか分かっているのに、と誰かが嘯く。怖くないよ、と誰かが唆す。

 

 

────自分の名前すらもう、思い出せないのに? 

 

 よく知っている筈の誰かに似た顔が、そう言って笑った。

 

 

 

 

 

 

 額に付いた汗を拭って起き上がる。悪い夢を見てしまったせいか服全体がびっしょりと濡れていた。布団から出て水を飲みに行こうとした時、ふと足元に落ちている物に気付く。

 丁寧に包んでしまっていた筈の蛇神から貰った鱗が、黒く艶めいた光を放ちながら転がっていた。もう答えは分かっているだろう、とでもいう風に。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

#11 今際の際で愛を謳う






 

 

 

 常に誰かが囀り続ける、そんなまとまらない頭でずっと考えていた。そうでもしていないと、今のこの自分が本当に前と同じなのか分からなくなってくるから。

 

 神という物は、とどのつまりある種の機構(システム)なのだろう。

 蛇神の言から察するに、神とは何かを願われながら人より生み出され、その願いを叶える力を持つ。

 当然、代償はある。人柱と言い換えてもいい。生み出された神は怪異と同じように人の身体を依代とし、元の持ち主の自我を食い潰し願いを叶えるのに最適な人格と力を付与する。人柱となった当人にとっては実質的な死と言ってもいい。

 心依は恐らく「芥屋に力を与える」神として生み出されたのだと思う。

 彼女という依代が贄に対して好意を抱けば抱くほど、神となり贄を喰い殺した時にその感情は反転する。自分が愛した者を喰い殺さなければならない境遇へ追いやった、芥屋そのものへの呪いとなって。

 

 怪異も似たような物だ。自分がそれに程近い身となって初めて分かった。あれは人の澱みであり、妬みであり、怨み。ただ向けられるベクトルが違うだけ。

 

 ……スワンプマン、という思考実験がある。仮に思考も記憶も全く同じ人格があったとして、それを構成する物が違えばそれは本人と言えるのか。自分はそうは思わない。そこに至るまでに一緒に見たものが、一緒に食べたものが、一緒に共有した時間こそが人を人たらしめる。

 仮に心依の自我が食い潰されたとして、その後に新たに生まれる人格がもし彼女と全く同じ物だったとしても自分は納得できない。気付けるかどうかは別として。

 

 

 自分は、今の心依に恋したのだ。そして心依もきっと今の自分だからこそ、側にいてくれる。

 故にこの選択は不誠実だが、それでも誰にも明かしたくない。自分はただ彼女に笑っていて欲しいのだ。それだけだ。

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 二人の男が豪奢な部屋の中で向かい合って腰掛けていた。

 一人は銀縁眼鏡を掛け、冷徹な視線を相手にぶつけている。もう一人は髪を桃色に染め、決意を秘めた瞳でその視線を睨み返していた。二人とも座っているだけの筈が、交わされる視線で剣呑な雰囲気が辺りに充満する。

 

「……兄貴。俺さ、やっぱり行くわ」

 

 兄貴、と呼ばれた男はその言葉に眉を顰めた。まるで理解不可能な化物を眺めるようにして弟に当たる少年を値踏みする。その言葉の意味を推し量るように。

 

「芥屋にこれ以上資源は割けない。お前が手も足も出なかったのなら、人を集めたところで無駄死にだ。よってお前の提案は飲めない」

 

 それは暗に伊勢の芥屋に対してへの敗北宣言でもあった。こうなっては不本意だが芥屋に百足巫女を上手く封じてもらわなければ、こちらには止める術がない。だからこそ怪異として表出する前に手を打っておきたかった。

 今後の利権は彼らが握るという事を考えると、男は思わず溜息を吐いた。

 

「違えよ。人なんかいらない。俺は伊勢虎時じゃなくて、あいつの友達の寅地として行く」

 

 それを聞いて男はほんの少し目を丸くした。芥屋の贄と同じく、家の為だけに己を鍛え続けていた筈の弟が初めて自分の意志を表した事に。

 手の掛かっていた仔犬がいつの間にか牙の生え揃った狼に変貌していた事に気付かなかったのを恥じるかの如く、視線を伏せる。しかしそれもまた面白いと言わんばかりに、彼は微かに笑った。

 

「……好きにしろ。大学生になるのなら夜遊びの一つでも覚えておいた方が良い」

 

「スベってんだよバーカ、慣れない事すんな」

 

 兄の軽口をつまらなさそうな口調で一蹴した後、少年は扉を開けて出ていく。だがその表情は以前とは比べ物にはならない程に晴れやかだった。

 

「あ、兄貴。あんたの部下は連れてかないけど個人的に『行きたい』って奴らがいてさ。そいつらは連れてくわ。んじゃ」

 

 部屋を出た虎時の背に二人の少年が付き従う。その手には長銃が携えられていた。振り返る事もしないまま、彼は二人に問う。

 

「……お前らはさ、俺達も芥屋も嫌いだろ。ならなんで手伝うわけ?」

 

「あいつはわしも兄ちゃんも殺さんかったから。それは貸しじゃし」

 

「そんな感じです」

 

「……馬鹿ばっかだな」

 

 俺も含めて、虎時はそう小さく付け加えた。

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 人気の絶えて久しい廃墟にて、顔の無い怪異は片腕で自分を抱きしめるようにして蹲っていた。ぶつぶつと言葉にならない何かを呟きながら、時折怯えるように手を振り回し周りの建物と自分自身を傷付ける。

 

「僕は殺してない仕方なかっただってずっと頭の中がうるさいもう黙ってくれよだから殺してないって言ってるだろ!! 錨くんは助けてくれなかったからああなった!! 僕は悪くない!! 自業自得だろ!!」

 

 忘れ去った筈の過去に苛まれているのか、狂っていたとはいえ自らが行った悪業を目の当たりにして逃げ出したいのか、友人の変わり果てた姿に耐えられなくなったのか、はたまたその全てか。

 何れにせよ、怪異『のっぺらぼう』としても人間『水無蛍蛉』としても彼を彼足らしめる物はもう何も残っていなかった。最早その身体にこびり付いた罪は、彼を人とは認めない。されど自らを「人間だった」と認識してしまった彼は、怪異としても戻れない。

 そんな彼にできるのは自身を責め立てる頭の中の声に対して、意味の無い反論を続ける事だけだった。自己弁護と他人への責任転嫁、友人だった筈の錨が全て悪いとただ子供のように喚き散らし。

 

「……でも錨くんは、友達だ」

 

 怨嗟に塗れた慟哭の果てに、ふと零れ落ちた一言。それだけで憑き物が落ちたように、頭の中に鳴り響く自身を苛む声が止まるのを感じた。

 

 元々錨に執着していた理由を彼は思い出した。

 ただ、止めて欲しかったのだ。自分がもう人に戻れなくなって首を刎ねられる末路しか残っていなかったとしても、その刃を気の置けない友人に託したかったのだ。最早それは叶わず、錨は醜悪な怪異に堕とされたが。

 なら、やるべき事は一つだろう。

 

 人には戻れず、されど怪異ですらいられなくなった一人の男は立ち上がり、暗い廃墟から橙色の夕日が沈んでゆく方へ歩いていく。その顔から表情を読み取る事は不可能だが、どこかその後ろ姿は今までよりも心なしか軽やかだった。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 日もだいぶ傾いてきた昼過ぎ、町外れの小さな遊園地が車の窓から見えていた。隣に座る心依は興味深そうにそびえ立つ観覧車を眺めている。シートベルトを外し、車から彼女の手を引いて降りた。平日とはいえ閑散としている遊園地は営業しているのかどうか不安になる。

 

「■■、本当にここでいいのか?」

 

「ありがとうございます、金本さん。最後に心依と遊んでから家とも折り合いを付けようと思いまして」

 

 運転席から声を掛けてくる彼に笑ってそう返事をした。結局、今日までずっと彼と奥方に世話になってしまった。慣れない家事に二人で励むのも存外楽しかったし、もしかしたら家族とは本来こういう物なのではないかと思いを馳せられた。

 でも、もうこれ以上迷惑を掛ける訳にはいかない。

 

「そうか。ま、お前は本当に真面目過ぎるからな。これくらい気抜いたって罰は当たらん。心依ちゃんだっけか、こいつを頼むよ」

 

「いえいえ、こっちこそ結局ずっとお世話になっちゃいまして……奥さんにもありがとうございましたって伝えておいて下さい!」

 

 愛想良く頭を下げる彼女に好々爺然とした笑顔を向けた後、真剣そうな眼差しで自分を見つめた。

 

「事情は分からんが、それでも拗れてどうもならなくなったら連絡しろよ。俺はお前の味方だからな」

 

 その言葉に黙って頷く。それに足る力があるかどうかではなく、自分に対して真っ直ぐ向き合ってそう言ってくれるだけで本当に嬉しかった。

 また連絡します、そう返して金本さんが車を出して去っていくのを見送った。自分と心依はその姿が見えなくなるまで手を振っていた。

 

「さて。それじゃ楽しむか」

 

「えっと、ここって遊園地だっけ? 来た事ないから嬉しいけど……大丈夫なのかな」

 

 百足巫女と化していた時の記憶は心依には残っていなかった。それはきっと幸運な事だろう。起きた後の彼女には何とか自分が寅地を撃退できた事にしてある。

 もしもあの夜の事を覚えていたら、きっと心依はずっとその事を気に病んでいたに違いない。

 そして今夜、何がどうあろうとも自分と心依の道は分かたれる事になる。だから最後くらいしてみたかったのだ。普通の人が普通にする、普通のデートなんてものを。

 

「大丈夫だ。デートの一つくらいしたって罰は当たらない、金本さんもそう言っていた」

 

 彼女は顔を少し赤らめた後、照れたように笑った。そして自分の手を握ると、ゆらゆらと振りながら歩き出す。手持ちの残金は少ないが、残りを遊んで使い切るには十分な額だった。

 少し古びた門を抜け、園内のパンフレットに目を通す。ジェットコースターにメリーゴーラウンド、こんな小さな遊園地でも一丁前にパレードをやるのだと驚いた。

 心依と笑い合いながらどれに乗ろうか話し合う。時間はもうあまりないが、だからこそ愛おしいのかもしれない。彼女に手を引かれるまま、賑やかなアトラクションへと歩んでいく。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 日が落ち、星が瞬くまで遊び尽くした自分達は最後に観覧車に乗る事を選んだ。少し出来過ぎのような気もしたが、それでも心依にせがまれるまま揺れるゴンドラに乗り込んで地上から離れてゆく感覚を楽しむ。

 目を瞑っていると、くすくす笑いながら彼女は自分の頬を突いてきた。

 

「■■くんって意外と普通なんだね。ジェットコースターでずっと『うわーっ!!』って叫んでたし」

 

「呆れるほど普通の人間だよ、自分は。怖い物は沢山あるし、逃げ出したくなる時だって山程ある」

 

 随分と古いラブソングのメロディが微かに下から聴こえてくる。流れる時間に浸っていると、園内のキャラクターをモチーフにしたカチューシャを付けて心依は眠たそうに呟いた。

 

「私さ、今本当に幸せなんだ。死んでもいいくらいに」

 

 彼女は気付いている。自分がまだ人の形を保っている内に死ねば、目の前の相手を喰い殺さなくても済むと。

 殺していいよ、と暗に言う彼女の言葉に気付かない振りをして夜景に目を向ける。曇ったガラス越しに見える街の光は金平糖のようにぼやけて映った。

 

「なら一つお願いをしてもいいだろうか」

 

「またお願い? ……いいよ」

 

 自分の言葉に少し可笑しそうに微笑むと彼女は背にもたれ掛かったまま頷く。

 

「名前を、呼んでくれないか。自分が分からなくなって怖いんだ」

 

 しみじみと呟く。

 変なの、と訝しむように首を傾げた後、彼女は席をそっと立って自分の耳元で囁いた。

 

 

「好きだよ、一砂くん」

 

 

 ずっとノイズのように聞き取れなかった名前が、耳に馴染む。鈴を転がしたような声が心地良かった。

 一粒の砂に過ぎない、ずっとそう言われ続けてきた自分の名前が今なら愛せるような気がした。この名も、ここまでに至るまでの全ても。

 

 微かに吹く風にゴンドラは揺れながら、過ぎ行く今日と言う日を惜しむようにゆっくりと降りてゆく。願わくばこのまま地面に着く事がなければいいのに。そう願うくらいに良い景色だった。好きな人とこの世の天辺のように思えるほど高い場所から全てを見下ろすような時間。

 生温い夜に身を預けながら、きっともう届かない星を見つめていた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 

 

 観覧車を後にし、門に戻ろうとして目の前に誰かが立っている事に気付く。はっと心依の息を飲む音が間近に聞こえると同時に彼女を背中に隠した。

 

「駆け落ちごっこは楽しかったかい? じゃあそろそろ役目を果たさないとね」

 

 違明の姿がそこにあった。後ろには数十人近い男達が控えている。恐らく全員芥屋の手練れだろう。錨さんだったものの姿は見えないが、微かに漂う腐臭からそう遠くない所に待機しているのは間違いない。

 

「……一般人もいる場所だぞ」

 

「もう警察に話は通してある。ここはもう閉園、僕らしかいないよ」

 

 相手は周到に準備を重ねてきたようだ。

 それに対して自分は一人。しかも心依を庇いながら立ち回らなければならない。

 

「うっ……」

 

 突然気分を悪くしたように彼女が口を抑えて蹲る。慌てて様子を確認するとその足が歪に変形し始めていた。蛇とも百足ともつかない悍ましいそれに上着を脱いで掛ける。心依が晒し者になるのは許せなかった。

 

「やだ、いやだよぉ……」

 

 溢れる涎と向けられる視線は餌を前にした肉食獣を思わせた。前回の変異の時とは違い、彼女にはまだ意識が残っている。悪趣味だな、と舌打ちしながらも大丈夫だと彼女に言い聞かせて手を握った。

 

「最後の夜だもの、始まったんだよ。こうなったらもう止められない。大人しく贄になってくれると助かるんだけどな」

 

 この状況では周りにいる他の芥屋が目障りだった。違明と怪異一体ならば捌けない事はなかったかもしれないが、手数で勝る相手はシンプルに手の打ちようがない。

 好機と見たのか、思い思いの得物を手に此方へ迫ってくる。刀、槍、鉄鎖……差しでやれば勝てるレベルなのがもどかしい。

 

「名誉ある芥屋の怪異祓いが、こんな餓鬼を相手に随分と大仰な真似をするんだな」

 

「冗談はよしなよ。もう君は怪異みたいな物だろ」

 

 袖に忍ばせた五寸釘を握る。猿叫と共に振り下ろされた刀をそれで受け止めて弾き、相手の肩口に思い切り突き刺して殴り飛ばした。それと同時に死角から飛んできた鉄鎖が自分の顔面を打つ。歯の折れる嫌な感触と共に頬の肉が大きく削げたような痛みが襲ってきた。

 同じ芥屋である分、血で相手の目潰しをするいつもの手管も使えない。だが向こうも同士討ちを恐れて飛び道具が使えない。イーブン、いやそれでも此方の不利か。

 突き出された槍を肘で圧し折り、奪った穂を後ろにいた別の芥屋へ突き刺す。獣のような叫び声を受けてのたうち回るそれを蹴飛ばし、咥内に溜まった血の混じる唾を歯と共に吐き捨てる。頬に触れてみると、既に傷の再生が始まっていた。どうやら、いよいよ化け物の仲間入りらしい。

 

「……次、死にたい奴から来い」

 

 殺すのも殺されるのもうんざりだった。

 急所を避けて太腿を狙いはしたが、明らかに相手の士気は下がっている。虚勢に過ぎなかったが効果は覿面だったようだ。時間を稼いだ所で事態は好転しないが、打開策を練る暇が欲しい。

 だが。じりじりと自分を遠巻きにする芥屋に対して、違明がぽんと手を叩いて口火を切る。

 

「おいおい、よく見なよ。■■君は優しいからね、そこの槍を刺された彼も致命傷じゃないだろう? 恐れず突っ込んで無理矢理制圧しちゃえよ」

 

 思わず舌打ちした。流石に当主だけあって状況をよく見ている。その言葉で活気付いたのか、残りの十数人が雪崩れ掛かってくるのを捌けず地面に叩き付けられた。

 圧し潰すように四肢を封じられ、身動きの一つすら取れない。唯一動かせる首で彼らを見た。いい歳をした大人の集団が、一人の少女を食い物にする為に殺気立っている姿はどこか哀しかった。皆、誰一人として笑っている訳でもなく泣きそうな顔で必死に自分を取り押さえている。贄が捧げられなければ、芥屋に備わっている力はきっと消えてしまうから。

 

 ああ、そうだ。誰もがきっと怖いのだ。自分が必死に生きている日常を続けようと足掻いて、藻掻いて、苦しんでいる。それは悪い事ではない。

 

 でも。自分だって、心依が笑っていられる日々を作りたい。その為なら何でもやる。

 

 

 じゃあ殺せばいいだろう? 

 こいつらは自分を殺しに来ているのに。

 甘いなあ。

 そんなに人でいたいのかい? 

 心依を助けられなくなるぞ。

 ここは人が多過ぎる。減らしてから考えよう。

 子供みたいな我儘はやめろよ。

 

 

 頭の中に響き続ける自分を苛む声に、ただ笑う。否定する事など何一つとしてない。けれど。

 

「それでも子供みたいな我儘を通したいから、ここまで来たんだ。頼むよ」

 

 そう受け入れた瞬間、声がふっと消える。多分もう戻れない。次に言うべき言葉は既に分かっている。潰されて呼吸もままならない肺に、深く息を吸って酸素を送り込む。そしてたった一言、呟いた。

 

トンカラトンと言え

 

 数秒後、空を切る音と共に自分を押さえ付けていた芥屋の男達が倒れ伏す。彼らには皆一様に、胴を薙ぐような斬撃が加えられていた。上がる呻き声で辛うじて死んではいない事が分かる。

 

「……驚いた。もう本当は立っているのも辛いんじゃないか? 自分の名前も分からないんだろう? 殺したくてたまらないんだろう? 怪異だものね。あののっぺらぼうと同じ末路を辿るんだよ、君は」

 

 違明が平坦な口調で自分に突き付けてくる変化は、残念ながら当たっていた。全身に巻き付いてくる包帯は、自分の行動そのものを縛り付けるように軋んでいる。少し気を抜けばすぐにでも地面に転がっている芥屋を殺して回りたい衝動を抑えられなくなるだろう。

 

「…… 黙れ

 

 ぐちゃぐちゃになっていく思考を必死で冷ます。誰も殺さない。誰も殺させない。誰にも殺されない。心依を助けるのに誰かを犠牲になんて絶対にさせない。彼女が胸を張ってこれからも生きていく為に。

 

「怪異である事を一度受け入れてしまえばもう不可逆だ。君は最後の最後に人の尊厳すら捨てたんだ。全く嘆かわしいよ、■■君。それともトンカラトンと呼んだ方が良いかな?」

 

 自分の名前は聞き取れないのに、トンカラトンと呼ばれるとすんなり耳に馴染む。

 ああ、もうそうなっているのだろう(・・・・・・・・・・・)。こんな姿は見られたくないな。

 

「残念だけど、まだ人はいるんだ。君は……もう保たなさそうだね」

 

 その言葉通り待機していたのか、陰から新たに十数人が姿を現す。これ以上は本当に殺してしまう、それだけは絶対に駄目だ。化け物を見るような視線をぶつけられながらも必死で握り締めた拳を抑える。

 

「結局君もお父さんと一緒だよ。何も成せずに終わる」

 

 その言葉を聞いた瞬間、あらぬ想像が頭を過る。よく考えてみれば父は自分を贄として育てる事を望んでいた筈だ。なら、なぜこの局面であの人の姿がないのだろうか。

 

「教えてあげようか? 君のお父さんは最期まで君の事を愛していたとも。伝えなければ意味は無いのにね」

 

 その一言だけで、どうしてか鮮明にありありとあの人の最期が目に浮かんだ。震えた声で違明に問う。

 

「殺したのか」

 

「知りたいのかい? 君のお父さんはね……やめた、誰しも知られたくない事を墓場まで持っていく権利はある」

 

 殺してやる。溢れ出す殺意が、最後の箍を外した音がした。この衝動に身を任せてしまえば、きっともう悲しくも苦しくもなくなるだろうから。虚空からトンカラトンの日本刀を取り出す。

 

「君が誰かを怨むほど、呪うほど。贄として仕上がるんだよ」

 

 恍惚とした調子で続ける相手に刀を振り被る。今はただ目の前のこの男を黙らせたい。血を流させたい。痛みに悶えさせたい。錨さんを、父を、こいつが愚弄してきた人間よりも深い苦しみを与えたい。

 醜い衝動の赴くままにそれを振り下ろそうとした時。

 

 

 刃が彼に触れる瞬間、突如銃声が鳴り響いた。

 思わず手が止まると同時に違明も訝しげな表情を浮かべている。つまり、これは彼にとっても想定外。

 

「……はて」

 

 見ればどこからか放たれた銃弾は、芥屋の一人の膝を撃ち抜いていた。地面に倒れて虫のように藻掻くのを見てけらけらと笑う幼い声が夜に響く。

 

「兄ちゃん見た!? 膝ドンピシャじゃ、これでいいんじゃろ?」

 

「そうだよ、薙。殺すよりも負傷者を増やした方が相手に負担を掛けられるからね」

 

 聞いた事のある方言が木陰から漏れてくる。目を向ければそこにはつい数日前に相手をした出雲兄弟の姿があった。彼らもまた何も言わずに自分を少しの間見つめた後、他の芥屋を撃ち抜いていく。

 

「よお、元気か」

 

「……寅地?」

 

「何だその包帯、今更お洒落に興味でも出たのかよ」

 

 ギターケースを背負って気さくに声を掛けてくる姿は思い出したくもないあの夜と同じだった。けれどその声色はいつも一緒に遊んでいた寅地そのもので。

 

「……何しにきた。伊勢はもう降りるんじゃなかったのか」

 

 違えよばーか、と頭を叩かれた後に肩を組まれる。こんなに自分は血で汚れて、もう人ですらないのに。

 

「お前は友達だからな。それで十分だろ」

 

 意趣返しだと言わんばかりに彼は笑う。その一言だけで折れかけた心に火が灯った。身体を縛り付ける包帯を引き千切り、まだ自分である事を確かめる。

 

「じゃあ手伝ってくれ。頼む」

 

「仕方ねえな、友達だしな」

 

 何故か嬉しそうな顔で寅地は刀を構えた。それに合わせるように自分も刀を握り直す。それでも多勢に無勢ではあるが、さっきよりもずっと心が軽い。

 

「……弱ったな。足を壊されたら使い物にならないし」

 

 そう溜息を吐きながらも、最小限のステップだけで違明は二人の狙撃を躱していた。思えば彼は祓いの際にも指揮を務めていて、その実力を見せた事がない。彼自身もやれるなら相当面倒だ。

 

「虎時さん、すみません。当たらないので頑張って下さい、露払いはしておきますから」

 

「帰ったら練習しとけよ」

 

 鋼と名乗った少年は舌打ちした後、弟と共に再び木陰に身を隠した。そうは言えどもこれで大半の芥屋は戦闘不能に陥っている、十分過ぎる活躍に礼を言いたいくらいだ。

 

「もうこれで貴方の手札は殆ど切られた。大人しく退け」

 

 手札を使い切っているのはは此方も同じではあったが、自分達には後がない。しかし違明はそんなハッタリを意に介する事もなく「使いたくなかったんだけどな」とぼやきながら口笛を吹く。

 

「ゾンビと言えばブードゥー教が原典だけど。僕はロメロの映画が好きでね。知ってるかい? ゾンビに噛まれた人もまたゾンビになっちゃうんだ」

 

 闇から腐臭と共に現れたその怪異から目を背ける。液状に溶け落ちながらもずっと再生し続けている肉体は細胞自体が壊れているのか、身体から触手のように突き出している。

 最早人ではあり得ない筈のその姿に錨さんの面影が微かに見えて、それがどうにも痛ましくて、千代さんの事を考えると胸が詰まる。彼女の元に錨さんを帰してあげたかった。

 

「錨さんを玩具にするな……!」

 

「失礼だな。僕にとっても大事な弟だ、玩具なんかじゃない」

 

 怪異は怯えながら地面を這っている芥屋の一人に近寄ると、身体から伸びた触手を突き立てた。

 

「いっ、いやだ、やめてくれ、ああ……」

 

 断末魔の金切り声を上げると、男は沈黙した。開き切った瞳孔は確かに彼が死亡した事を示している。だが、しかし。

 その数瞬後、再び動き出したその身体はまるで錨さんだったものと同じように醜く崩れていく。

 そのようにして増えた死体は、同様に倒れている芥屋を餌食にして更にその数を増していった。恰もそれはゾンビ映画のパンデミックのように。

 

「鋼! 薙! やれ!!」

 

 焦りを帯びた寅地の怒号と共に放たれた銃弾は、生ける屍の頭を確かに貫いた。桃色の脳漿が飛び散り、地面に花を咲かせる。常人なら間違いなく死んでいる筈だが。

 

「……寅地、あの二人を連れて逃げろ。元々お前達は関係無い」

 

「うっせえ、黙ってろ」

 

 あれが人であるなら、いや怪異だとしても。確実に致命傷と成り得る位置に銃弾を受けながらも、それらは動きを止めなかった。ゆっくりと此方へ歩みを進めてくる死体達を眺めながら、違明は感動を抑えきれないとでも言わんばかりに震えた声で呟く。

 

「芥屋としては弱くて使い物にならなかった彼らでも、これなら役に立てる。皆芥屋としての務めを果たせるという訳だ」

 

 何となく彼に抱いていた既視感の正体を今悟った。蜂や蟻を思わせる、芥屋という『家』への絶対的な忠誠心。そこには悪意などなく、ただ自らを産み育てた血への愛情だけがある。

 

「お前の親戚マジで気持ち悪いな」

 

 軽口を叩いてこそいるが、寅地の首筋に汗が流れるのを横目に見る。

 殺せない相手にどうやって対処すればいい? トンカラトンは寅地や出雲兄弟がいるから使えない、そもそもこの死体達は斬撃程度で止まるとも思えない。

 

「君が大人しく巫女に喰われてくれるなら、そこの伊勢と出雲の残党の命は保障しよう。君の我儘で一体どれだけの人が迷惑を被るのやら」

 

 その言葉で嫌な想像が頭の中を満たしていく。死体に貪られ、冷たくなった寅地達の姿を。そんな事あっていい筈ない、自分は……どうすればいい? 心依と寅地達の、どちらを選べばいい? 

 

「また面倒臭い事考えてんだろ。んな事より自分の心配しろ」

 

 不安で呼吸が浅くなる自分の背中へ活を入れるように寅地が叩いた。軽い痛みと共に自分を苛む妄想がほんの少しだけ晴れる。

 そのまま近付いてきた死体の頭を肘で割りながら、その台詞を遮るように彼は叫ぶ。

 

「大体お前な、勝手な事喋んな! もっともらしい事言って、■■の事も心依の事も誰も考えてないだろ! そんなに贄だか何だか欲しいんならお前がなればいいだろうが!」

 

 首筋を引っ掻きながら、違明は遠い目で明後日の方向を眺めて呟いた。

 

「なれるものなら、なりたかったさ。でも僕にはその才がなかったからね」

 

 銃弾がどれだけ撃ち込まれようとも、寅地がどれだけ切り裂こうとも死体達は歩みを止めない。心依の身体も、もう下半身は人の形をしていない。掛けた上着すら突き破って蛇を思わせる触腕が顔を覗かせている。

 

「見ないで、やだ……!」

 

 手持ちの札をどれだけ切っても、どうしても後一歩届かない。まだ何かある筈なのに、心依も寅地達も無事に日常に返せる道はある筈なのに。

 懐に手を忍ばせ、しっとりと濡れている蛇の鱗に触れる。使うなら今だろうか。蛇神の『その代償は怪異の比ではない』という言葉が脳裏を過る。

 でももうやるしかない、そう強く鱗を握り締めた時。

 

 

 生ける屍と化していた筈の芥屋が何故か急に悶え苦しみ出した。

 何かが彼らの身体の中で(せめ)ぎ合っているかのように揺らいでいる。困惑する自分達に向けられたその顔からは目鼻口が抜け落ちており、まるで──マネキンを思わせた。その影響なのか、どれだけ攻撃しようとも進む事を止めなかった死体達の歩みが止まっている。

 

「これ、のっぺらぼうの……狢」

 

 きさらぎ災害の時に目撃した現象と全く同じだった。だが怪異同士の力は拮抗しているのか、結果的に死体達はその場から動けなくなっている。

 

「呼び捨てにすんなよ、少年」

 

 門の方向から歩いてくるのは無貌の怪異。錨さんに片腕をもがれた上に寅地に滅多斬りにされ、いくら耐久力に優れた人外といえど数日で再び立ち上がれる訳がないのに。

 

「水無の恥晒しが今更ヒーロー気取りかい?」

 

 嘲るような違明の言葉にのっぺらぼうは声だけで笑う。どこか乾いたそれは何かを諦めているようにも聞こえた。

 

「誰だよ、それ。俺はのっぺらぼうだ。錨くんは俺が殺すんだったのに、余計な邪魔してくれやがって」

 

 まるで自分に言い聞かせるかの如く、彼は何度もそう繰り返した。錨くんは俺が殺すんだったのに、と。その身体から立ち上る禍々しい妖気は怪異災害に次いで恐れられていた大怪異の風格を漂わせていた。

 

「錨くんは芥屋大事にしてたからさぁ……俺が全部ぶっ壊してやるよ、んなもん」

 

 のっぺらぼうは味方ではない。だが、少なくとも敵ではない。

 彼が一人で錨さんと死体達を止められるなら……自分と寅地は違明に専念できる。後手に回らされ、ずっと守りに走ってきたがここに来てようやく勝ちの目が見えてきた。

 

「友達が多いんだね、■■君。じゃあ、これが最後だ」

 

 違明が手にしたのは二つの小瓶。それを見た瞬間、背中に氷柱をねじ込まれたような悪寒が走る。トンカラトンと七人ミサキ。怪異を憑かせる事ができるのは自分だけだと、誰が言った? 

 中で蠢く二匹の蚯蚓を彼は躊躇無く飲み込んだ。だが自分と違って身体そのものが二匹もの怪異を受け付けないのか、乾いた黒砂のようにその身が少しずつ(ほど)けている。

 

(さとり)×天邪鬼(あまのじゃく)。僕も多分死ぬけれど、君達はもう僕には触れられない。だから朝まで踊ろうか。芥屋の夜明けは、きっともう近いよ」

 

 鼻から油のように黒く濁った血を垂らしながら、芥屋第■■代当主は静かに微笑んだ。

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 覚。

 古くから日本全国で伝えられてきた怪異であり、主に山中で現れる。そしてその最大の特徴は『人の心を読める』という点だ。そんな大層な能力を手に入れた人間が、人外の膂力を人に振るうとどうなるか。

 答えは簡単だ。

 

「君も本当は気付いてるんだろ? インターネットの発達や海外からの怪異流入に、怪異祓いのレベルが追い付かなくなりつつある事を!」

 

 着地を狩るように放った前蹴りは虚しく空を切り、カウンターとして叩き込まれた手刀が自分の膝関節を逆方向に圧し折った。表現し切れない痛みに思わず呻く自分に対して追撃を入れる事もしないまま、違明は距離を取る。端から時間稼ぎが目標らしい。

 

「御三家の水無は八尺様と相打ちになって、芥屋も外せないレベルの怪異が増え続けている! 伊勢のやり方は一般人の反感を買う、かと言って僕ら(怪異祓い)がいなくなればこの国は早々に怪異に蹂躙されて終わるのさ!」

 

 更に違明は、倒れ込む自分の頭を掠めるように不意打ちで寅地が槍の如く投擲した刀でさえ目を向けることなく軽々と避けてみせた。

 

「やっっばいって、マジで当た──」

 

 続きを言い切る前に寅地に肉薄した彼は、勢いを殺さぬまま的確に顎の骨を拳で撃ち抜いた。耐え切れず昏倒する寅地を足で退け、息一つ乱さぬまま彼は続ける。

 

「それを避けるには芥屋が強くなるしかない。何を犠牲にしようとも百年先も千年先もこの家が、この国が存続し続けるには一人の少女の尊厳を薪にする事など必要経費に過ぎない」

 

「自分はそんな家など廃れてしまえばいいと思うが」

 

 せめて憎まれ口の一つでも、と呟いてみせるが所詮は負け犬の遠吠えだ。覚を入れているからとはいえ、有り得ないレベルの未来予知に歯が立たない。自分が拳を握り締めた瞬間には、相手はもうその十手先を行っている。

 

「かもね。でも僕らを評価するのは百年先に生きる人々だとも」

 

 天邪鬼。

 今でこそへそ曲がりやひねくれ者の事を指す決まり文句のようになっているが、その本質は怪異と神の狭間のようなものだ。他人の心中を察するのが巧みで、それに逆らったような行動や言動を取る。その似通った性質はさぞかし覚と相性が良いだろう。

 

「今からでも遅くないよ。百年先まで語り継がれる人柱になれるのに」

 

「断る。自分にはもう、今しかない」

 

「……そっか。残念だよ」

 

 だが、それでも。

 未来予知じみた有り得ない精度には何か代償がある筈だ。犠牲にしている物がある筈だ。覚と天邪鬼、それに加えて違明の性質も細部まで記憶から起こして思考を回す。

 

 ……見えた。

 ようやく起き上がった寅地に気付け代わりの一発を見舞ってから耳元で囁く。

 

「起きろ寅地。勝ちの目が見えた」

 

「あ~いってえ~……マジで? 根拠あんのかよ」

 

「今この会話が成立している事が根拠だ。いいから行くぞ、只管攻め続けろ」

 

 訳分かんねえよ、とぼやく寅地と共に再び違明と向かい合う。トンカラトンにも「発声のプロセスを踏む必要がある」「受け切られる事がある」という弱点がある。

 この世には完璧な物など何一つとしてないのだ。だからこそ足掻く価値がある。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

「怪異になっても強いってのは反則じゃね?」

 

 腐肉を滴らせながら浴びせられる連撃を紙一重で避けながら、のっぺらぼうはそう嘯いた。元々彼は戦闘に適した怪異ではない。その性質を利用して人を動揺させ、周りの一般人を怪異として利用する事で大きな被害を齎してきた。周囲の人間をのっぺらぼうに変える能力も、動く死体に干渉するのが精一杯であり己の手足としては使えない。

 

「やっぱどこまでいっても錨くんには勝てない、か」

 

 のっぺらぼう単体の力しか持ち合わせていない彼が相手取るには、錨に植え付けられた怪異の数が多過ぎた。そしてそのどれもがゾンビやキョンシーなど一線級の知名度を誇っており。ただでさえ片腕を無くし、傷付いているのっぺらぼうが勝てる道理はなかった。

 奮戦も虚しく、細胞の異常増殖によって身体から触手のように突き出した肉槍を避け損ねて彼の身体は無情にも穿たれた。

 毒を流し込むかのようにのっぺらぼうという怪異が、動く死体として上書きされていく。自我そのものを引き剥がす痛みに耐え兼ね、思わず苦悶の叫びを上げながらのっぺらぼうは地を這いずり回った。

 

「が、ぎ、いってえ……なあ!!」

 

 身体に突き刺されたそれを無理矢理引っこ抜き、赤い血を地面に滴らせながら肩で大きく息をする。それでも尚、彼の意志は折れていなかった。

 

「んな訳ねえだろ。一回くらい俺の白星があったって罰当たんねえよな!!」

 

 そう啖呵を切りながらのっぺらぼうはポケットから油紙に包まれた何かを取り出す。その中には黒くその身をくねらせる蛸や烏賊に似た触手が入っており、彼はそれを暫し見つめた後で耳の中に突っ込んだ。

 

「心中しようぜ、錨くん。千代ちゃん待ってんだろ? せめて綺麗な姿で帰ってやれよ」

 

 その台詞と共に、彼の身体を内側から無数の触手が貫いた。倒れる事すら許さないと言わんばかりに触手は地面に突き立てられ、彼自身を覆っていく。

 十数秒にも満たない間隙で、のっぺらぼうの姿は激変していた。彼の身体をギプスのように包んでいる触手は遠目から見れば黒いスーツのようにも捉えられる。同じように触手に覆われた足は最早地から浮いており、元来の身長よりもずっと高い。

 

「……蜒輔′邨カ蟇セ蜉ゥ縺代k縺九i」

 

 最早言葉にならない声を発しながらも、それは確かに錨だったものへ歩いていく。それを防ぐように壁となって立ち塞がる死体の群れさえ、身体から突き出している触手だけで軽く一掃する。

 

 のっぺらぼう×スレンダーマン。

 無貌であるという共通点だけで無理矢理成立させた、怪異二体の強制憑依。

 

 スレンダーマンは元々アメリカの掲示板で生まれた怪異であり。その起源から怪異としての格は『八尺様』や『きさらぎ駅』と並ぶ。細身で異常に背が高く、黒いスーツを身に纏ったのっぺらぼうの男。

 日本古来の怪異である本来の『のっぺらぼう』では到底釣り合う筈のない規格外である。現に彼に僅かに残っていた自我は物凄い速度で侵食を続けるスレンダーマンに取って代わられようとしていた。

 それを意地だけで耐え凌ぎながら、ただ前に向かって進む。六年前に起きた八尺災害から始まった長きに渡る因縁、その決着は一瞬だった。

 

 触手を束ねて形成した、のっぺらぼうの体躯を遥かに超える巨大な槍を錨の身体に突き立てる。刹那とも永劫とも思える時間の果てに、彼の身を覆っていた腐肉がぼとぼとと零れ落ちていく。

 スレンダーマンによって強化されたのっぺらぼうの権能で、錨に巣食っていた怪異を上書きした結果だった。

 

「……悪いな、蛍蛉」

 

 もう既に事切れている筈の身体で、確かに彼は笑ってそう呟いた。それを看取ってのっぺらぼうは同じように笑いながら座り込んだ。

 

「お互い様だろ、錨くん」

 

 怪異の侵食に耐え切れず、のっぺらぼうの身体が霧のように溶けていく。最後に彼の顔を覆っていた白い面のような無貌が剥がれ落ちた。

 名残惜しむようにも満足したかのようにも見えるその表情は、誰に知られる訳でもなく夜露と共に消えていった。

 

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 正攻法でやっても覚と天邪鬼を憑かせた違明に勝てるビジョンはない。ただ、それは裏を返せば相手も同じ事を考えている筈だ。負けないようにその怪異の性質を弄る、そうでもなければここまで歯が立たないという事は有り得ない。

 

「寅地、右から頼む。合わせるぞ」

 

「今更そんな付け焼き刃でどうにかなる……かよ!」

 

 先程の会話で違明はわざわざ返事を待っていた。覚が憑いているならそれを待たずとも自分の心中を読めばいい筈だ。それをしなかった理由は一つしかない。単純に、できないのだ。

 

 挟み込むようにして突き出した二振りの刀を、最早未来予知とも呼べる精度でまた違明が躱す。だが逆に言えばそれしかできない。ヒットアンドアウェイで距離を取ってしまえば追撃は飛んでこなかった。当初それは時間稼ぎの為だと考えていたが、恐らく違う。

 

「貴方が憑かせた怪異は『自分に対して敵意ある行動』しか予知できない。こんな所だろう」

 

 そのくらいの縛りが無ければここまでの精度で行動を先読みできる筈がない、それに賭けた。追撃してこないのは『逃走』は敵意ある行動ではないから。

 

「……さあ、どうかな?」

 

 それでも彼は眉一つ動かさず、余裕ある笑みを浮かべている。二体同時憑依にその身体は限界を迎えている筈なのに、その佇まいに一切の動揺はなかった。遂に彼の右手が手首で折れ、地面に落ちて叩き割れる。夜風に吹かれて塵となっていくのを気にする素振りもない。正真正銘化物のメンタルだ。

 だがこちらも仕上げだ。

 

「何かあったら止めてくれ。信じてる」

 

「は? ちょ、■■、お前何する気──」

 

 屈み、街灯に照らされた自分の影に手を触れる。イメージするのはもう一人の自分。それが一人。二人。三人。四人。五人。六人。

 

 七人いる。

 

「それは自殺行為だろ」

 

 違明が笑う。

 七人ミサキの力で呼び出した分身は皆自分と同じ顔をしていた。いや、彼らにとっては自分自身がオリジナルなのかもしれない。有り得ない筈の景色に見ているだけで気分が悪くなる。今ここに立っている自分こそが本物だと、言い切る自信すら無くなっていく。

 一様に皆──ああ、傍から見ればこんなに怯えた顔をしていたんだな。

 

「頼むよ」

 

 自分のその一言で彼らは違明の方を向いた。ノーモーションで虚空からトンカラトンの刀を取り出し、斬り掛かる。だがそれにすら彼は動揺する事はなかった。

 

「こんなにいるなら少しくらい殺してもまあ大丈夫かな? でも贄は多い方がいいんだろうか」

 

 ぶつぶつと呟きながら流麗な動作で攻撃を避け、(あまつさ)え時折首を圧し折ったり刀を奪っては斬り殺して数を減らしている。数を増やそうと対抗できる物ではないようだ。しかし。

 その間隙を縫って、違明の懐に飛び込む。いつの間にか肉薄していた自分を見て、やっと彼の顔に焦りの色が見えた。それはそうだ。初めて予知で読めなかったんだろうから。

 

「な、有り得な──」

 

 手を開き、指で微かになぞる。今まで何度となく繰り返してきたルーティーンだ。

 

「────(オン)

 

 そのまま渾身の力で違明に掌底を叩き込んだ。諸に受けて吹っ飛び、地面に転がったまま立てなくなっている。

 そして数秒後、倒れ伏したまま彼は物凄い速度で嘔吐し始めた。広がった吐瀉物の中には二匹の蚯蚓が蠢いており、それが逃げ出す前に踏み潰す。

 

「……っ、げほっ、ごほっ、覚と天邪鬼を外したのか? 芥屋の血で、僕に干渉できる訳がない」

 

「今の自分にはトンカラトンと七人ミサキが。そして貴方にはサトリと天邪鬼が混じっている。芥屋同士ではない、そうだろう?」

 

 同じ芥屋なら確かに血を用いた祓いは効かないだろう。だが自分達はどちらも今、身体の中に怪異を入れている。言うなれば、血そのものがどちらも混じり物だ。その差異に賭け、自分は勝利した。

 

「お前……心配させやがってバーカ、何が『何かあったら止めてくれ』だよ」

 

「……まあ、色々とな」

 

 飛び付いてくる寅地に辟易としていると、違明は納得行かないという声色で自分に問うてきた。

 

「……君の動きが読めなかった。あれはどうしてかな」

 

「自分にとって祓いは誰かを傷付ける物ではない。貴方だって、助けられるなら助けたい。もう目の前で誰かが死ぬのはうんざりだ」

 

 実際にあのまま覚と天邪鬼を憑かせていれば彼の身体は砂となって消えていただろう。しかし彼は理解できないという表情を浮かべ、その後嘲笑うような笑みを浮かべた。

 

「確かに僕は君に一本取られたようだ。でももう巫女の変化は止められない! 端からこの十二日間の果てに君に結末を変える力なんてなかったんだよ!」

 

 まだ辛うじて心依の身体は人の形を保っていた。最後の最後でこんな博打に身を任せなければならないのがもどかしい。

 懐から包み紙を取り出し、剥がす。その中に入っていた蛇神の鱗を見て、彼は今から自分が何をしようとしているのか悟ったらしい。

 

「……やめろ。君が選ぼうとしてる道は、君に何の意味も齎さない。君自身が報われる事も救われる事もない、君の人生に意味なんて何もない!」

 

 掌底が効いているのか血を吐きながら顔を歪める違明に、ただ微笑む。縋り付きながら彼は続けた。

 

「……僕は君が嫌いな訳じゃない。ただ、人が生きてきたならそこに意味があるべきだ。何か残る物があるべきだ」

 

 きっと彼にとってはそれが本音なのだろう。例えそれが自分達の在り方を縛り付け、この身を苛む呪いだとしても。言うなれば彼もまた芥屋の被害者なのだから。

 

「貴方の事を許せはしないが、少しは理解できる気がしてきた。けれど報われたか、救われたかなんて事は自分で決める。それに呪いなんて、ない方がきっといいですよ」

 

 訝しげな顔をする寅地に大丈夫だから、と目配せをする。

 

「呪う方も、呪われる方も苦しむだけだから。もう終わりにしましょう、こんな事」

 

 黒く鈍く光る神の一部を口に含み、飲み下す。少し生臭く、苦かった。

 そして強く願う。自分が本当に望んでいた事を。

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 気付けば、最近ずっと見ていた夢の中にいた。ぼんやりと暗く、温かい海のような中を彷徨っている。ただ一つだけ違いがあった。

 

「……来ちゃったんなら仕方ないよな。まあ大体見てたけど」

 

 あの夜に山中で出会った蛇神の姿があった。同じように漂いながらも困ったように笑っている。釣られて自分も笑ってしまう。和やかな時間だった。

 

「じゃあ一応聞いておくか。お前は何を願って、何を捧げる?」

 

 あの夜から、多分この結末は決まっていた。

 

「心依が笑って暮らせる日々を。その為には『芥屋一砂』は死ねないから、だから捧げるのは自分の全てです」

 

 それを聞くと蛇神は納得したように頷いた。

 

「分かった。後は上手いことやってやるよ、契約成立だ」

 

 やっと肩の荷が下りた気がした。十八歳の餓鬼に背負わせるには余りに重い荷だろう。もうこれで何も考えなくて済む。そんな思考を見透かしたように蛇神は声を掛けてきた。

 

「お疲れさん。誰も彼もお前の事を『いつも誰かの為に頑張っている』人間としか見てないもんな」

 

 自分はそんな大層な人間ではない。それも分かってるよ、と言うような口振りで彼は続けた。

 

「本当のお前はいつも不安で、愛されたくて、けれど誰も信じられないから一人で全部やろうとしてるだけなのに」

 

 図星だった。自分はただ家の役目を全うしていれば存在している価値があると思い込んでいたから。だから彼女に「好きだよ」と言ってもらえて、本当に嬉しかったのだ。それだけで、自分は全部を捨ててもいいと思えたのだ。

 

「怖いだろ。不安だろ。別に泣いてもいいぞ、誰も見てないからな。一度くらい自分の為に泣きじゃくったって俺はお前を軽蔑しない」

 

 不安ではないと言えば嘘になる。悔いがないと言えば嘘になる。本当は自分(・・)で寅地と大学に行きたかったし、心依の隣にいたかった。

 でも、それはもう無理だから。

 

「最後は笑うって決めてましたから。だから泣かない。自分は、ここまでの歩みを何一つとして後悔していないから」

 

 虚勢だったけれど、声は震えていない。最後くらいかっこつけたって構わないだろう。

 

「じゃ、今際の際だ。時間はないけど愛でも謳ってこいよ」

 

 

 

 意識が戻る。

 次に眠ってしまえば、再び目が覚める事はないだろう。でも、もういいのだ。

 

 自分の願いは一つだけだから。

 芥屋一砂がずっと、心依の隣にいられるように。

 死んでもいいと宣う彼女が、いつまでも笑って生きていられる幸せな日々を歩めるように。

 

 桜と出会いが咲き乱れる春になっても、蝉の声と滲む汗に顔を顰める夏になっても、木枯らしと虫の声に耳を澄ます秋になっても、別れと白い息を夜に溶かす冬になっても。

 ずっと彼女を隣で守る、そんな神様に。何も怖い事はないのだ、そう言い聞かせて心依の顔をもう一度最後に見る。きっと届く事はないのだけれど、それでも言っておかなければならない気がする。

 

「初めて君と会った時から。本当に、ずっと君の事が好

 

 

 視界が暗転し、冷たく深い海に突き落とされたように意識が沈んでゆく。結局言えなかったが、芥屋の男なんて皆そんなものだ。

 次の自分(神様)は上手くやってくれる事を願う。まあ大丈夫だろう、なんたって全知全能だ。

 泡のように今のこの思考すら溶けてゆく。憂う事は何一つとしてなかった。寧ろ肩の荷が降りてほっとしたような気さえしている。生まれてからずっと、誰かの為に使ってきた人生なのだから。

 そう考えた後、ふと湧いてきた感情に笑みが溢れた。

 

 

 ああ。本当に、それでも死にたくないな。

 今なら心の底から笑ってそう言える。本当にこの十二日間は辛い事もあったけれど、幸せだったから。

 

 

 そっと目を閉じる。短いけれど、温かな夢を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 友人がいきなり得体の知れない物を飲み込み、伊勢虎時は狼狽していた。ただでさえ友人の身体はもう人とは呼べない。これ以上変な物入れんなよと心配しながら沈黙した彼の身体を揺さぶる。

 

「おい……一砂? おい、おい!」

 

 その声に反応したのか、ゆっくりと一砂が目を開ける。

 

「虎時。悪いが手伝ってくれ」

 

 その口振りに少なからず虎時は安堵した。いつもの友人に違いはなかったし、何ならずっと怪異に苛まれていた先程よりも調子が良いように見える。

 

「しかし手伝うっつっても何をだよ……殺すのか?」

 

 この変異速度では百足巫女として覚醒するのも時間の問題のように思えた。

 

「馬鹿な事を言うな。神も怪異もその本質は同じだ、やる事は一つと決まっている。違明で実演してみせただろ? 外すんだ」

 

 虎時には何故か、一砂の瞳が蛇の瞳孔を思わせるような輝きを一瞬放ったように見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年()少女()の物語は十二日間の旅の果てに、少年()少女()の物語となる。

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

#12 十二の夜を越えた先

 

 

 もうとっくに時計の針は零時を回り、灰色の雲が時折月を覆い隠す。十二日間の旅の終わりが刻一刻と近付いて来ていた。

 

「外す……んな事言ったって、そもそもお前の呪いと巫女の呪いは同じなんだろ!? 外せねえって!」

 

 語気強くそう言い放つ寅地の言葉を気にした様子も無く、淡々と彼は続ける。どこか達観したようなその落ち着きぶりは先程までの自らに巣食う怪異に苛まれて不安定だった頃とは別人のようだ。寧ろわざとらしいほどに『芥屋一砂』で全て塗り潰されているような。

 

「今の自分なら外せる。そうは言っても怪異としての百足に表に出てきてもらわなければならないが。お前は自分が心依に近付けるよう援護してくれ」

 

 要するに可能な限り巫女の気を引け、という事だと理解した彼は「分かった分かった」と返事をしながら刀に付いた血を袖で拭う。何もおかしい事はない筈なのに、何故か喉に小骨に引っ掛かったような違和感があった。

 

「何食ったのか分かんねえけど大丈夫なのかよ、お前」

 

「どこか自分に心配な所でもあるのか?」

 

 そう言われて虎時は友人の姿をもう一度眺める。外見に異常はなく、少し堅苦しい喋り方も出会った時から変わらない。ほっとしたように笑って、刀を肩に担いだ。

 

「いつだってお前見てたら心配事が尽きねえよ。仕方ねえから付き合ってやる」

 

 巨大な百足の下半身に一糸纏わぬ上半身、そこから突き出す六本の腕。虎時があの夜に公園で目撃した物とほぼ変わらなかったが、そのスケールは比べ物にならなかった。

 夜の遊園地を覆い尽くすような巨躯から発される叫声は、まるでこれから自らが行わなければならない事に対しての慟哭のようにも聞こえた。

 アトラクションを伝ってまだ動き続けているゴンドラに彼は手を掛ける。そのまま空中高くから蛇の瞳孔を思わせる瞳で百足巫女と化した心依を眺めて一人呟く。

 

「呪いを解けるのは、それもまた別の呪いだけだ。知ってるだろ? 蛇は祟るぞ」

 

 ■月■日、午前■時■■分。

 

 神級災害:仮称"百足巫女"、或いは姦姦蛇螺(カンカンダラ)

 ■県■■市にて二回目──そして最後の顕現。

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 違明や死体の群れとやり合った際に虎時は大きくダメージを受けていた。幾ら頑丈とは言えども、所詮はただの人である。腕は軋み、足は棒のようで、今すぐ地べたに寝転んでそのまま眠ってしまいたい。

 だが。

 

「前に一回……見たからな!!」

 

 百足を思わせる胴体から突き出す数多の触腕を刀一本で捌きながら耐え凌ぐ。それほどまでに彼を突き動かすのはただ一点、ずっと騙してきた自分を友人と呼んでくれた一人の言葉だった。幾度もの打ち合いの果て、巫女の本体が虎時の方を向いた。飛び散る酸性の飛沫に、触れただけで肉を引き千切るような触腕によってその身体は鮮血で染まっていたが。

歯を剥き出しにし、獣のように獰猛に笑う。

 

「こんだけ気引いたら十分だろ!」

 

「上出来だ」

 

 ゴンドラから飛び降りるようにして、全体重をかけながら頭を掴むようにして巫女の上半身を地面に叩き付ける。割れたアスファルトから舞い登る土煙が姿こそ隠していたが、巫女はすぐに身体を起こした。その身には傷一つ付いておらず、虎時は目の前が真っ白になるような絶望感を味わいながらも再び震える手で刀を握り締める。

 

「そんな物騒な物置いておけ、虎時」

 

 彼は慈しむように巫女の上半身を抱き締めていた。怒り狂いながら巫女は振り落とそうとするが、その身体は身動ぎ一つしていない。

 

 お前達ばかりずるい。

 私はあの人を喰ってしまったのに。

 これからもずっと救われない。

 

 そんな言葉にならない怨嗟と慟哭が巫女の身体の中に渦巻いているのを、彼は感じ取った。心依の前の代、そのまた前の代、ずっと続いてきた贄と巫女の歴史が今の芥屋を築き上げてきたと。

 けれど。

 

 その少年は最後まで誰も怨まなかった。血筋も、向けられた悪意も、どうしようもなかった自分の人生に対しても。だからこそ懸命に足掻き続けて掴み取った一筋の光は其処に届く。十二日間の苦難の果てにあったのは怨嗟ではなく、感謝だった。

 故にそれは単なる言葉遊びだったとしても、彼女を救うのは怨ではなく。

 

「──(オン)、か」

 

 そう笑いながら呟いて、彼は巫女の顔にそっと触れた。千年を超えて積もる怨みと共に、その巨躯が淡雪のように溶けて消えてゆく。

 後に残されたのは心ここにあらずではあるが無傷の心依と、その近くで微かに蠢く小さな百足の姿だけがあった。彼女の無事を確認すると百足を摘み上げ、嫌いなものでも見る時のように顔を顰めた。

 

「ま、こいつならこう言うんだろうな。俺にとっちゃ仇敵なんだが」

 

 誰にも聞こえない声でそう囁く。

 

「おやすみ」

 

 そう言って百足を握り潰した瞬間、風が大きく吹き上がる。夜空に向かって駆け抜けたその風切り音には、数多の「ありがとう」が混じっているようにも聞こえた。

 その後、彼は上着を脱いで一糸纏わぬ心依に着せて手を取る。春とはいえまだ冷える夜風に身を震わせながらも、彼女は自分の足で立って彼の胸に縋り付いた。

 

「……一砂くん、私、生きてる? 一砂くんも、生きてる?」

 

 まだ信じられないという風に、辿々しく自分達が生きているか健気にと訊ねてくる彼女を彼は優しく抱き締めた。あいつならきっとこうするだろう、と。

 

「ああ、全部終わったんだ。全部な」

 

 それを聞いて安心し切ったのか、彼女は泣き出した。まるで人として生まれ直すかのように。失った物は数多くあるが、芥屋の夜明けは日の出と共に確かに照らし出されていた。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 その日を境に芥屋の血に備わっていた呪いは解け、それに伴って全国に数千人程いた芥屋系列の怪異祓いはその力を失った。

 当主である芥屋違明はその責任を追及されると共に、今迄の非道な怪異を用いた所業や他家への干渉にもメスが入れられている。

 

 正否はまだ明らかにされていないが、中四国の怪異祓い『出雲』の取り潰しに関しても彼が出雲当主の妻に怪異を無理矢理憑かせたという疑いが出てきている。一説によれば彼らの上役に当たる『伊勢』の勢力弱体化や怪異を用いたより強力な怪異祓いの誕生を期待していた、など様々な噂が取り沙汰されているが何れにせよ真相は不明である。

 

 水無に続いて芥屋系列も前線に立つ事はできなくなり、実質伊勢が一手に祓いを引き受ける事となった。未だ増え続ける怪異に深刻な人手不足で悩まされているが芥屋の残党の希望者を募り、鍛えて伊勢に迎え入れる事でそれを解消しようとしている。今回でその力を示した出雲兄弟にはより高等な教育を受けさせた上で要職に付ける事も検討しているという。

 同様に今回の一件で大きな功績を上げた伊勢虎時は兄から当主の座を譲られたが「とりあえず大学卒業するまではパスで」と固辞した。この春からは同じく解決に寄与した友人、芥屋一砂と同じ大学に通う事となっている。

 

 芥屋錨の亡骸は妻である千代の元に送り届けられた後、荼毘に付された。死後一週間は経っていた筈だがその身体には傷一つなく綺麗なままで、彼女は訝しみながらも「最後に顔が見られて良かった」と安心したように笑った。彼の死に顔はずっと気に掛かっていたやり残しが晴れたような、そんな清々しい表情をしていたから。今でも一砂達二人と千代の間では交流が続いている。

 

 父を亡くし家を裏切った一砂と戸籍もない心依に関しては伊勢が国に働きかけ、身の安全を保障すると共に一般人として暮らしていけるよう取り計られている。事情を知り後見人となった金本という刑事の家で、今は二人とも世話になっているという。

 

 斯くして少年と少女の最後の十二日間は終わりを告げた。千年に及ぶ悪習を打ち倒し一人の少女を救った大団円の裏で、誰にも気付かれる事なく一人の少年が消えた事を誰も知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 

 

 

 

 じっとりと湿った枝葉を掻き分けながら、私はゆっくりと森の中を進んでいく。その後ろを付いてきながら一砂くんは誰かと電話で話していた。

 

「……だから無理だと言ってるだろ。もう自分は戦えない、一般人だからな。お前達みたいな筋肉馬鹿と一緒にするな、じゃあな」

 

「今電話してたのって寅地くん?」

 

「ああ。何でもまた強力な怪異が出現したそうだ。巣食うものだったか何だか、まあもう自分には縁遠い話だ」

 

 面倒臭そうに欠伸をしながらも付き合ってくれるのは有り難い。人間かどうかすらはっきりしていない私が金本さん達と一緒に穏やかに暮らせているのは、全部一砂くんが私を助けてくれたからだ。本当に感謝してるし、私じゃ返し切れない程の沢山の物を貰っている。人としての暮らしも、心依という名前も。

 けれど今日、私はもしかしたらその関係性を壊してしまうかもしれない。その恐ろしさを考えるとじっとりと手が汗で濡れる。でも、それでも私はやらなきゃいけない。そう拳を握り締める。

 

 そのまま歩き続けて辿り着いた目的地は一本の大樹。緑に色付いた葉が微風に揺れて心地良い音を立てていた。

 

「ここ、どこか覚えてる?」

 

 私がそう尋ねると彼はほんの少し思案した後、何のつもりだろうかと訝しみながらも答えた。

 

「ああ、覚えてる。自分と心依が最初に出会った場所だ」

 

 正解。

 でも違う。上手く言えないけど、違う。あの十二日から一ヶ月が過ぎていた。確かに全部ぐちゃぐちゃになって一砂くんを食べたくなってしまった私を助けてくれたのはこの人だけど、違う。

 

「貴方、一砂くんじゃないでしょ」

 

 言ってしまった。多分何を訳の分からない事言ってるんだって思われたかもしれないけど、でもそう思ってしまったんだから仕方ない。

 

「どうしてそう思ったのか聞いてもいいか」

 

 何故か目の前の彼はそれを否定するでもなく、ただその理由を尋ねてきた。

 

「一砂くんは、貴方みたいに強くない」

 

 この一ヶ月もずっと一砂くんと過ごしてきて、けれど何かが違うって思い始めた。上手く言葉じゃ言えないのがもどかしい。

 

「あの人はいつも肩肘張って前だけ向いてたけど、でも一人の時は座って俯いていつもこれで良いのかって迷ってた。それでも周りが一砂くんを誰も助けてあげられなかったから! 私、ずっと後悔してた。気付いてたのに、一砂くんが自分の名前も分かんなくなってた事。でも私、自分が無くなっちゃうのが怖くて心配してあげられなかった」

 

 最後の方はずっと彼も限界寸前だったのに、それがあの一夜で何一つ身体に不自由なさそうにしているのもおかしかった。最初はそれも無邪気に喜んでいたけど。

 

「貴方は見た目も、喋り方も、性格も一砂くんそっくりだけど。違う。違うの」

 

 言葉を紡ぐ度に少しずつその想いが確信に変わっていく。

 

「私が好きになったのは! ずっと誰かの為に頑張って、けれど自分の救い方は分からなくていつも悩んでた、そんなどこにでもいる十八歳の男の子なの!」

 

 私がそう叫ぶと彼は小さく「なんだ、分かってる奴もいるじゃないか」と呟いた。今まで見せた事もないような醜悪な表情で大樹の根元に音を立てて座り込む。

 

「ああ、この身体の持ち主が好きなんだっけ? もう無理だよ、契約しちゃったからな。こいつは本当滑稽だったよ、君にずっと笑ってて欲しいなんてさ。それで自分が消えてちゃ世話無い、結局あいつの人生に意味は無かったな」

 

 全部の意味を理解できた訳ではないけれど、目の前が真っ暗になる。多分一砂くんは私を助けるために、消えたのだ。私が独りぼっちにならないように代役を立てたのだ。

 

「一砂くんを、返してよ……一砂くんを馬鹿にしないでよ!」

 

 全部私のせいだけど。でも、一砂くんの人生に意味が無かったなんて言われて許せる訳がない。怒りで涙が滲む。そんな格好悪いの嫌なのに、一度それを自覚してしまったらもう止められなかった。

 溢れ出してくる涙を拭う事もせず、蹲って泣く。こんなのあんまりだって。一砂くんはいつも誰かを助けようとしてたのに、結局誰も彼を助けられなかった。

 

「泣いたな」

 

 目の前の誰かがそう呟いた。

 

「泣かれちゃ仕方ないな。俺は『心依がずっと笑っていられるように』って願われたのに、これじゃ契約不履行だ。しかもこっち都合なんて、熨斗付けて返してやらなきゃいけないじゃないか」

 

 何の事かさっぱり分からない私に対して、わざとらしくそう嘯くと彼は微かに笑った。その笑顔は前に何処かで見た、誰かに少し似ている気がした。

 

「ま、なんだ。とどのつまり俺は頑張ってる人間が大好きなんだよな。言ったろ?」

 

 その言葉と同時に、彼は突然膝をついたかと思うと嘔吐いて何かを吐き出した。黒い鱗に引っ掛かった……薄汚れた包帯の切れ端と一本の菅。

 咳き込み続ける彼に鞄から水の入ったペットボトルを渡す。喉を鳴らしてそれを飲んだ後、口を濯いでやっと立ち上がった。

 

「……心依?」

 

 その声はさっきと変わらない。けれどその不安げな響きは迷子になった子供のようで、確かに一砂くんだった。

 

「……バカ!」

 

 首に手を回して抱き着く。何も分からないといった様子だけど、震える手で抱き返してくる体温の温かさに何だか泣きそうになる。どれくらい経ったか忘れたけど、身体を離すと一砂くんは困惑した調子で口を開いた。

 

「自分はもう、終わったものだと」

 

 終わった、というのはきっとあの名前も知らない誰かに取って代わられる事を指している。私だったら絶対に耐えられない。自分があれだけ頑張ってきたのに、誰にも知られずに消えていって惜しんでもらう事もできないなんて想像しただけでも怖くなってくる。そんなの、悲しすぎるから。

 

「なんであんな事したの?」

 

 詰問する訳でもなく、ただ聞いた。だってまだ一砂くんがそれを選ぶ程に追い詰められた理由が分かってないから。なのに、まるで母親に怒られた子供みたいに彼は後ろめたそうに俯いてぼそぼそと呟く。

 

「自分が生まれたから父さんも母さんも不幸になって。人だって殺してしまって、のうのうと生きてて良い訳がないんだ。そんな道理が罷り通る筈がない。だから君を助けられただけで良かったのに」

 

 ああ、この人は優し過ぎるのだ。ずっと自分の選択を悔やんで、もっと良いやり方があったんじゃないかとそれに苛まれ続けている。彼にとって自分を犠牲にするという選択肢が一つの救いとなるくらいに。でも、もう一砂くんもそんな呪いから解き放たれていい筈だ。だって十分頑張ったもの。

 

「私は一砂くんがどうしたいのか、を聞きたいな。私の為とか道理がどうとかどうでもいいよ。一砂くんはどうしたいの?」

 

 私の答えは決まっている。

 私を救ってくれて、そして私が救ったこの人とこれからを生きていきたい。それだけで十分だ。彼は落ち着かなさそうに視線を動かす。本当に自分がそれを願ってもいいのだろうかと、助けられなかった人も多くいるのに、と前置きまでして。

 

 

 

 それでも君と生きていきたい、と貴方が泣きながら言ったから。

 私は笑って、ただその震える身体をもう一度抱きしめたのだ。

 

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 

 眠りに就くにはまだ早い少年が、貴女に名前を付けてから。

 たとえ英雄にはなれないとしても、愛しているの言葉が届かなかったとしても。

 誰が咎を我が咎だと背負い続け、幾度の「初めまして」と「さようなら」を繰り返して少年と少女は恋を知る。

 そして花に嵐を越えたずっと先で、ありふれた二人の他愛ない話が今際の際に愛を謳って終わるまで。

 

 ここからはそんな、十二の夜を越えた先の話。

 

 

 

 

 

 






無事完結までお付き合い頂きましてありがとうございます。
もし宜しければ最後に感想や評価など頂けると次の励みになります。
改めましてここまでお読み頂き、本当にありがとうございました!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

#?? されど怪は尽きる事無く

 

 

 

 気怠げにネクタイを解きながら男は呼び鈴のボタンを押した。

 歳の頃は二十代半ばといった所だろうか。仕立ての良いジャケットを腕に掛け、腕時計に目をやりながら暫し待つ。

 春の麗らかな日差しに照らされているその家は、小ぢんまりとしてこそいるが庭も付いておりどこか牧歌的な雰囲気が漂っていた。奥から聞こえる「はーい」という間延びした声と共に、少し軋んだ音を立てて扉が開く。

 中から顔を覗かせた女性は男の姿を認めると、その特徴的な紅い瞳を驚いたように瞬かせた。

 

「御無沙汰、心依ちゃん。ああいや、芥屋心依さんって呼んだ方が良いかな?」

 

 淡雪のような白髪をふわりと揺らして、彼女は男の戯けた口調に照れたようにはにかむ。

 

「寅地くんじゃん、久しぶり! 入って入って」

 

 にまにまとその顔を綻ばせながら手招きする女性──心依の左薬指には指輪が微かに光っていた。通された部屋を男は軽く見回す。家具や調度品も決して高価な物ではないが、落ち着きのあるデザインがこの長閑な一軒家にはよく似合っていた。

 

「一砂くんならお仕事だけど待つ? 夕食一緒に食べていってくれたらあの人も喜ぶと思うんだけどな~」

 

 その名を聞くと彼は懐かしそうに目を細めた。

 

「ん、お構い無く。仕事だろうなとは思ってたんだけどさ。俺も仕事中でね、近くまで来たからワンチャン顔でも見られたらって感じだったし」

 

「あー、なんか最近また手強いのが出てきてるんでしょ。ニュースでやってた」

 

 出された紅茶を一口含んで寅地と呼ばれた男はそれを聞いて思い出したように溜息を吐く。ソファに深く腰を下ろして眉間にできた皺を揉んでいる様子からは、拭い切れない疲労感が滲み出ていた。

 

「手強いって言うか、面倒だな。怪異を集めてはガキに植え付けて回ってる奴がいるんだよ。しかも元災害級の上澄みも混じってて最悪だ、くねくねにコトリバコとか」

 

 それなりに怪異について理解している者であれば青褪める事は間違いないビッグネームを耳にしても彼女にはピンと来ていなかった。

 

「それって強いの?」

 

「サシじゃ俺でも勝つ自信は無いね」

 

「そんなに」

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 七年前、芥屋の祟り神が祓われてから怪異はその様相を大きく変えた。

 元々増加傾向にあった怪異に対して伊勢の対処が追い付かず、政府が被害を減らす為にパニックを承知でその存在を公開し認めた事が切っ掛けである。

 怪異祓いの名家として双璧をなしていた芥屋、その贄自身の手によって当の事態は引き起こされたが。それは当人にとってすら予想だにしていなかった変革を齎したと言えるだろう。

 

 人に憑き、怪事件を起こす。そんな化物が身近に潜んでいると聞き、大多数の民衆は一笑に付した。しかし報道規制が解かれ、実際にその被害を見聞きするようになると状況は一変する。

 少しでも隣人の様子がおかしければ怯え、実際に怪異が憑いていようがいまいがお構い無しに密告が横行し、まるで中世の魔女狩りのような有様となった。強引な情報公開によって諸外国とも一悶着あり、国内のみならず国外にも問題を抱える羽目になったが数年を経て漸く事態が沈静化してきたというのが現状だ。

 

 しかしそれに対して怪異は新たな性質を獲得しつつある。

 その姿を隠すように、闇に潜るように。己の存在を宿主の体内で維持しながらも、あくまで人にその異能を齎すだけの機構であるステージⅠ。そしてそれに溺れた犠牲者の中で更に力を蓄え、まるで蛹から孵化する蝶のように怪異として暴虐の限りを尽くすステージⅡ。

 謂わば"二つの潜伏期間"を経る事で早期発見が以前より困難となっている。

 

 更にそれを後押しするように近年現れ始めた存在が、怪異の跳梁に益々拍車を掛けていた。

 幼い頃から電子の海(インターネット)を通じ怪談に慣れ親しんできた、新世代の少年少女。

 これまで災害と称されてきた『八尺様』『きさらぎ駅』『リアル』といったネット発の怪異すらその身に受け入れる事ができる慮外の怪異に対しての耐性は、人によってはステージⅡに至りながらも自我を保ち日常生活を送っている者もいる程である。

 

 

 その二つが合わさり、今の日本は表面上の出現数こそ少なくなったものの規模は遥かに強大かつ老獪な手段を取る怪異に悩まされていた。

 より正確に言えば怪異の力が明確に"人の悪意"によって振るわれるようになった、と言うべきだろうか。人が人を傷付ける為の手段として怪異が用いられる事すらある。

 

 伊勢を筆頭とした怪異祓いもこの現状には手を焼いており、対症療法的な処置を取るほかないというのが実情だ。

 基本的に怪異が憑いてしまえば、もう宿主は助からない。以前は芥屋の手によって早い段階であれば外す(・・)事ができたが、それが不可能になった今では宿主ごと殺す事でしか怪異を止める事はできない。

 政府は国民に対して『怪異に憑かれた場合、治療の為速やかに申告するように』という旨を発表したが、名乗り出る者は全体の10%にも満たない。

 すぐに殺される事はないにせよ、政府の管理下に置かれ何処かに閉じ込められるか、四六時中日常生活を監視されステージⅡに至った瞬間に処分されると分かってそれを選ぶ者は少ないだろう。

 治療する手立てなどない事は誰もが知っている。

 

 よって怪異による被害が表面化した時には、もう既に何もかも終わっている。救われる事は決してない。それはまるで真綿で緩やかに首を絞められるような、息の詰まる閉塞感を人々に与えていた。

 素知らぬ顔をして自分の隣に座っている人間が、実は怪異憑きなのではないか? そんな背中にべったりと張り付くような不安を誰しもが抱えながら生きている。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 

「……しかしあれから七年ね。まあ一時はどうなる事かと思ったけど何だかんだ丸く収まって良かったよ」

 

「よく言うよ、私の事殺そうとしてたのにさ」

 

「別に心依ちゃんが嫌いだった訳じゃない。ただ友達思いなんだ、俺は」

 

 物騒なやり取りとは裏腹に、二人の間には和やかな雰囲気が漂っていた。七年という月日は短くもあり、長くもある。それは殺すか殺されるか、という関係であった二人が紆余曲折の果てに笑いながら談笑するようになる程の時間だ。

 

「まあ、今は私も友達だもんねー。っていうか寅地くんはさ、そろそろいい人いないの? お兄さんにせっつかれたりしてるんでしょ?」

 

 恋バナしようよ恋バナ、と目を輝かせる心依に対して男はばつが悪そうに首筋を掻いた。

 

「浮いた話とかないない、仕事と結婚してるから……悪い、ちょっと電話。偉くなるのも考えもんだね、友達とお茶の一つものんびりできないってのは」

 

 喧しい音を立てるスマホを取り出すと、うんざりとした視線を向けながら耳に当てる。

 

「口裂け女? 女の怪異なら俺じゃなくて薙にやらせた方が早いだろうが、現場判断しろよ現場判断……マジ? 確かに巣食うもの(・・・・・)憑きがいるんだな? すぐ向かう、絶対逃さないよう見張っとけ。あんまり近付き過ぎんなよ」

 

 男は慌ただしく紅茶を飲み干すとジャケットを羽織り、席を立つ。その表情は先程までとは異なり、長年追い求めていた獲物を見つけた狩人を思わせた。

 

「ご馳走様。今度は晩飯食いに来るからさ、一砂によろしく言っといて」

 

 少し不安げな様子の心依に気付くと、彼は打って変わって朗らかな顔でそう別れを告げる。家を出て再び大通りへと向かう足取りは、何処か落ち着きがない。

 

 

 巣食うもの。

 

 それは電子の海から生まれた新しき怪異の一つ。人の中に棲み着き、他の怪異を歯牙にもかけない異質なまでの実力を持つ。詳しい事は殆ど分かっておらず、一つだけ判明している行動原理はただ宿主を守る事だ。

 だがそこに善悪の感情は一切存在しない。自らの住処を守る為だけに同族である他の怪異すら屠る様は寄生虫と揶揄される事もある。

 

 しかし物事の結果だけを見るとするならば。巣食うものは最も優秀な怪異祓いと言えるのかもしれない。

 

 何せそれは敗北を知らない、怪異を殺す怪異なのだから。

 

 

 

 

 

 芥屋の呪いは解け、神は人に堕ちた。

 されど世に人の恐れある限り、怪は尽きる事無く。

 

 

 

 

 

 

 






という訳で本作の七年後を題材にした新作『死んでもいいわ、と君に笑って言わせるまで。』を明日の夜辺りから毎週やっていこうと思います。
それなりに設定に変化があったり本作のキャラが登場したりもするので、もし良ければ読み返した上で明日からの新作も追って頂けると嬉しいでーす!


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。