妹ノ下雪乃さんとのラブコメは間違っていない。 (kuronekoteru)
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妹ノ下雪乃さんは今日も頑張っている。

 

「……兄さん、そろそろ起きて」

 

 千葉の閑静な住宅街にある一軒家、その一室に鈴を転がすように美しい声が鳴り響いた。

 変わらず寝息を立てる男にくすりと微笑を浮かべるのは二人の女の子。

 

「ありゃりゃ、これは全然起きないパターンですなぁ……、じゃあ小町は朝ご飯の方やってきますのでごゆっくり♪」

 

 恭しくもう一方の少女に声を掛け、音を立てないようにドアを閉じたアホ毛がトレードマークの少女は比企谷小町。毎朝の料理当番は基本彼女が受け持ってくれている。理由は、毎度変わらずこんな朝になるからだ。

 

 雪乃は部屋から遠ざかっていく足音を念入りに確認すると、こっそりと掛け布団を捲る。八幡のベッドに不自然な程に空けられているスペースは昔から変わっていない。

 

 ゆっくりと膝を立ててシーツの皺を増やし、両の手をついて少年の緊張感のない寝顔に自身の顔を近付けていく。

 

 雪乃は彼の耳元に口を寄せると小さな声で囁いた。

 起こさないように、けれど反応はもらえるような匙加減で。

 

「……5分だけだから良いでしょう?」

「んー? あと5分……いや10分……」

 

 一見成り立っていない会話に彼女はしたり顔になる。言質を取ったつもりになっているのだ。

 小さい子どもなら充分な程に開けられた場所に、彼女はころんと身体を横にする。制服に皺が付かないように気を付けながら。

 

 今日も今日とて微笑ましい微睡みの時間を過ごしている二人の少年少女。少年の名は比企谷八幡、比企谷小町の兄であり総武高校の二年生。

 

 もう一人の名前は雪ノ下雪乃、訳あって幼少期から大半を比企谷家で暮らすようになった。

 

 それは出来の良過ぎる姉である、陽乃と比較されることが多くなっていた時期のこと。社交性に少し問題を抱えていた雪乃の育て方に悩む、雪ノ下の父親がある男に出会ったことが原因だった。バーで隣に座ったその男は口を開けば娘が可愛いだの、息子も大事にしてくれているから安心だの自慢話をしており、酒の勢いもあり気が付けば子育てのコツを訊いてしまうのも仕方がなかっただろう。

 そしてまさか、気が触れて娘を数日預けただけで「帰りたくない」と泣きだされる状況になるとは思いもしなかったのだ。

 

 実際には週末や長期休みに実家にも帰ることもある状態なので、無論養子縁組の制度も使ってはいない。そのため八幡と兄妹関係はないし、同じ高校二年で歳の差もないのだが兄と呼び慕っている。そう、ずっと慕い続けている。

 誰にも気付かれていないと思っているが、近しい人で気付いていないのは想い人だけだった。

 

 きっちり10分間だけ八幡の寝顔を見つめて過ごすと、いつも通りにベッドから音もなく脱出。ベッドシーツの皺を伸ばして痕跡を可能な限り消していく。そして、枕元に腕を組んで立つと大きな声を発した。

 

「兄さん、そろそろ起きてくれないと遅刻してしまうから置いていくわよ」

「んん、待ってくれ……。一人で電車に乗るなんて危ないからやめてくれ…………」

 

 寝起きの一言目から溢れるシスコン発言、でもそれは受け取り方次第で大きく異なる。

 

「なら早く支度して頂戴、……それとおはよう、兄さん」

「おはよう――――雪乃」

 

 今日も礼儀正しく背筋が伸びている後ろ姿に挨拶をして、八幡は一日を始める。扉から消えていく艶のある黒い軌跡を見送ると、少し慌ただしく着替えの準備。万が一にも置いて行かれないように気を付けて。

 

 扉の外では、紅潮してしまった顔を隠し切った彼女が微笑む。小町の下へ急ぐ意思はあるけれど、上がった口角を降ろすまではどうにも動くことは出来ない。八幡の部屋から漏れ出る、焦って準備を行う音を聞いている瞬間が好きなのも理由の一つだったりするのだろうが。

 

 * * *

 

 通学には総武本線の最寄り駅までは電車を利用し、そこからはバスに乗り換え。半刻程度の道のりは基本二人きりで行動していたが、付かず離れずの距離感に会話も最低限なので甘い出来事など殆ど起き得ない。

 しかし、八幡は時折雪乃の周りを見渡しては危険そうな人物が居ないかを確認していた。少しでも不用意に彼女に近付こうとする輩が居れば、即座に立ち位置を入れ替えて自分が壁になるのが当たり前になっている。

 

 春、新学期の始まったばかりの季節には乗車人数が多くなりやすい。研修のために関東に来ている社会人も居るのだろうし、自主休講を覚えていない大学生ばかりだろうから。

 本日もまた毎年恒例の満員電車となり、彼らは仕方なく乗車ドア付近に並んで乗り込んでいく。雪乃を壁際に追い込み、自分が壁となるお決まりの陣形。しかし、普段なら自分に背を向ける雪乃と今日は向き合う形になっていた。

 

「……悪い、なるべく離れるから」

「私のことはいいから、無理して腕に力を入れ続けなくても良いわよ」

 

 負担はかけまいと八幡が見栄を張っていることは雪乃には案の定筒抜けだった。だがしかし、彼はそれでも意地を張り続けるしかなかった。

 

「いや、そういうわけにはいかん」

「なぜ?」

「……それは、言わねーけど」

 

 思春期男子の事情に疎いであろう人間に説明するのは気が引ける。それが雪乃なら猶更だろう。

 

「慣れておかないと将来苦労するわよ?」

「勝手に察するのやめてね、あと雪乃クラスの女なんて居ないんだから慣れる必要はない」

 

 それはそうだろう。日本中探しても、目の前の少女と張り合える見目麗しい女性はそうは居まい。だが、そんな少女の言の葉に籠められた想いに気付けない男もそうそう居ないだろう。

 

「ふふっ、煽ててくれても苦労するのが早まるだけよ」

「……どういう意味?」

「直ぐに分かるわよ」

 

 八幡はなおも腕には力を入れたまま、雪乃の発言に対し頭に疑問符を浮かべている。彼が努力し少しだけ空間を作ってくれると、雪乃がバレないようにそっと近付いていたから距離は変わらないというのに。

 

 彼女は離れることを許すつもりなど毛頭ないのだから。

 

 

 二人は満員だった電車から降り、駅に隣接しているバス停まで向かうと丁度良く目的地行きのバスが到着した。エアブレーキの空気を放出する音とともに開けられた扉から乗車し、定期券代わりにスマートフォンをタッチさせる。そして、ぽつぽつと席の空いている車内を見渡した。二つ並んだ席は残念ながら存在してはいない。

 彼らは特に言葉を交わすことなく後方車両側へと歩いた。窓側だけ埋められた後方の席に前後で座ることにしたのだろう。

 

 彼らは学校では基本的にあまり関わらないようにしていた。この特殊な関係性を知っているのは一部の教師くらいで、下手に他の生徒に周知されると邪な誤解を受けることになるのは必然。八幡は自身だけなら構わないが、雪乃がそんな目で見られるのはどうしても嫌だったようで。

 中学までは雪乃が私立に通っていたため、公立だった八幡とは別々の学校生活を過ごしていた。念願叶って同じ高校に進学したことを喜ぶ雪乃を説得するのは大変に骨が折れる出来事だったが、そのお陰で彼らの1年次は平穏な学校生活を送ることが出来た。

 

 数分の乗車の後、総武高校前の到着を知らせる案内が流れると、停車を求めるボタンに付随する赤い光が誰かの手によって灯される。もう周りには学校の生徒が少なくはない。

 

 鞄を肩に掛けバスから降りると、二人は最後に視線で挨拶を交わす。これが彼らの毎日のルーティーンだった。次に会話するのは放課後までお預けで、校門までの道のりは八幡が数メートル離れて歩いていく。

 それは本気で走れば1秒で辿り着ける距離。学校内で関わることは諦めても、雪乃を守ることは決して諦めていなかった。

 

 校門まで辿り着いた雪乃は急に足を止める。彼女に合わせて自分まで止まっては周囲から怪しまれてしまうため、八幡は前進するしか選択肢が無い。彼女にとって、そんなことは勿論承知の上。

 

 聞き間違える筈もない足音が手の届く場所まで近付くと雪乃は振り返る。

 誰もが目を留めるであろう、美麗な容貌に不敵な笑みを携えて。

 

 そして彼の方へと更にもう一歩、特別な関係でしか有り得ない立ち位置まで寄って口を開いた。

 

「じゃあ後でね、――――八幡」

 

 周囲から鞄の落ちる音が鳴り響いた。

 

 桜舞い散る新学期、波乱に満ちた学校生活の予感が八幡の胸をよぎる。

 彼女の言っていた『苦労』の意味を痛いほどに理解するのは、そう遠くはない未来。

 




こんな八雪も良いよね……って妄想で書きました。
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妹ノ下雪乃さんが昼休みにやって来てしまった。

 

 今朝の校門で起きてしまった事件の影響を心配していた八幡だったが、彼のクラス2-Fでは特に話題に上がってはいなかった。誰かと話した訳ではなく、ただ周囲の会話を盗み聞きしていただけなのもいつも通り。

 一瞬の出来事だったから、それほど多くの人数は見ていないから、そんな理由で自分を無理矢理にでも納得させたのは心の平穏のため。噂が広がるのに少しラグがあることなんて、彼が考えれば直ぐに分かる筈なのに。

 

 

 午前中の授業が終わり、教室に昼休みの開始を告げる鐘の音が鳴り渡る。粛々としていた室内の空気は一気に温度を上げ、クラス中の人間が各々の目的のために動き始めた。

 

「っべー、めっちゃ腹減ったわー」

 

 教室後方でヘアバンドをした男が声を大にすると、その周囲では笑い声が連鎖する。八幡はその声に内心ながら同意をし、大切な弁当の入った包みを持って席を立とうとした。彼の胃袋も愛する妹たちの手作り弁当を欲して、ぐーぐーと叫んでいる。

 

 その時、教室内で笑い声とは程遠いどよめきが起こる。

 

「……おい、あれって」

「……こっち側に来るなんて珍しい、誰かに用事があるのかな」

 

 それもその筈、2-Fの教室に雪乃が突然と来ていたのだから。

 彼女の見目麗しさに男子だけでなく、女子までもが注目をする。それはカースト最上位の人物も例外ではなかった。

 

「……雪乃ちゃん、か」

 

 陽キャと呼ばれる、明るく目立つ人物が集まるグループの中心の一人、このクラスのリーダーとして認識されている葉山隼人が独り言を呟く。

 隣でその言葉を聞いてしまった、もう一人の中心人物である三浦優美子は酷く苛立ちを覚えた。そして、文句を言うべく雪乃に向かって歩き始める。明らかに怒りの籠った足音に気付いた葉山も彼女を制止するために焦り顔で追従した。

 

 一方、雪乃は八幡の後ろ姿を見つけると嬉しそうに微笑んだ。そして、こっそりと音もなく移動を始める彼の背中を逃がす訳もなく、足早に近付いて背中を軽くパンチ。

 

 雪乃とは対照的に苦い顔をしている八幡は振り向くこともできない。振り向けば最後、平穏な学校生活は終わりを告げる可能性が高いのだから……。

 

 雪乃は反応なしの振り向かない背中を横から覗くと、彼の手に大事そうに抱えられている弁当箱の包みが目に入った。

 

「ねぇ、お昼に行くのなら一緒に食べましょう?」

 

 当たり前のように誘い掛ける彼女の言葉に、またしてもクラス内がざわめく。

 

「おい、雪ノ下さんが男子をお昼に誘ってるぞ」

「……まじかー、死にてー」

 

 そんな男子の苦しみの声で溢れる最中に、派手な化粧と明るい金髪の少女、三浦優美子が雪乃の前に到達してしまう。彼女は不満気な表情を隠すこともなく仁王立ち。

 

「ちょっと、あんた人のクラスに来て騒がしくするのやめてくれない?」

 

 雪乃はその声の大きさと、威圧するような物言いにビクリと震え上がった。怒りの声に反応して八幡も否応なしに振り返り、雪乃のすぐ横へと回り込む。

 

 この時、優美子は隣にまで来ていた隼人──想い人に気付き失敗したなと思っていた。理由は想い人に醜い自分を見せてしまったこと。

 そしてこの状況ならば、目の前の雪乃が簡単に想い人に縋ることが出来てしまうから。

 

 直情的になってしまった彼女だったが、決して頭が悪い訳ではない。墓穴を掘り、敵のアシストをしてしまったことが悔しくて唇を浅く噛んだ。

 

 だが、雪乃はちらと心配そうにしている八幡だけを見やると、すぐに優美子に真っ直ぐに向き合った。そして、申し訳なさそうに口を開く。

 

「その、ごめんなさい。悪気はなかったのだけれど、彼に用事があったから……」

 

 優美子は噛んでいた唇をぽかりと空ける。

 

 彼女は自分が嫌な態度を取っていることは分かっていた。だからこそ、口論になるか、隼人に助けを求めるかを予想していたというのに。

 

 勘違いをしていたのだ、自身の有名さを理解している癖に人のクラスにずけずけと入り込むような肝の太い人間だと。それに、雪乃からは隼人を狙っている気配など微塵も感じることはない。

 

 だからこそ、雪乃の対応が彼女の胸に響いた。

 

「…………可愛い。じゃなくて、あんた隼人と知り合いなんでしょ?」

 

 本音が溢れてしまったせいで、訊かないつもりだった質問まで口から零れ落ちる。

 

「ええ、一応親が知り合いだから会ったことはあるけれど」

「なんか特別なことがあったり……」

 

 一度零れてしまえば、漏れ出る不安を止めることは出来なくなっていた。隣に立つ隼人に聞かれているとは分かってはいるけれども。

 優美子は自分から喧嘩を吹っ掛けた癖に伏し目がちに答えを窺う。

 

「いいえ、特別なことなんて彼とくらいよ、ね?」

 

 雪乃はキッパリと答えを否定をすると、隣に立つ八幡を軽く指差して見やると嬉しそうに微笑んだ。高嶺の花で有名な彼女が特別だと言い張る男を優美子は訝しげに見つめる。

 

「んで、あんたは誰?」

「ふふっ、同じクラスなのにあなたは知られていないのね、流石だわ」

 

 その事実が可笑しくて、雪乃はくすくすと笑う。矛先を向けられた八幡は引き攣ったような顔。

 

「いや、クラス替え直後なんだから仕方ないだろ。こちとら()()()()()みたいに有名じゃないんだよ」

 

 微笑んでいた雪乃の口元には分かりやすい弧が描かれる。そして、刃のように鋭い視線を彼へと突き刺した。理由があろうとも他人行儀な呼び方を彼女は許してはくれない。

 

「……比企谷八幡だ、そのよろしく」

「ふーん、……私は三浦優美子、一応よろしく」

 

 二人のやり取りを見て、確かに唯ならぬ関係なのが伝わりはしたものの、何が雪乃をそこまで惹き付けているのかを優美子は理解出来ずにいた。それでも二人が気になってしまうのは、彼らを繋いでいるモノに彼女が求めている関係性があるような予感がしていたから。

 

「雪ノ下さん今日はごめん。まぁ……その、いつでも来ていいから」

「……ええ、ありがとう三浦さん」

 

 優美子は雪乃の感謝の言葉を聞くと、満足そうに自席へと戻っていく。その軌跡が奏でる、軽やかで爽やかな小気味良い足音を隼人は聴き届けた。

 そして誰も傷付くことなく、平和に解決した光景を前に思わず声を漏らす。

 

「…………すごいな、君たちは」

 

 称賛の声を上げた彼は二人に手を差し出す。顔見知りなど関係なしに、二人をもっと見ていたくなっていたから。

 

「比企谷君と雪乃ちゃん、良かったら一緒にお昼はどうだい?」

 

「いや、飯は誰にも邪魔されずに一人で食べるつもりなんで」

「あら、そんなに私の作った――」

 

 八幡は続く言葉が火薬であることを即座に察し、急ぎ彼女の口を手で抑えることに成功()()()()()()。「何を言おうとしているんだ」と文句を伝えようとした彼に向けられたのは、周囲からの奇異の視線。

 

 状況を飲み込めずにいた彼の手に、薄い艶やかな唇から熱い吐息が鋭敏に伝わる。

 突然に唇に触れられ、口を無理矢理に抑えられた雪乃は丸くなった目を次第に細めていった。

 

 言葉を閉じ込めることで、より大きな爆弾を投下したことに漸く気付いた八幡は、ゆっくりとその手を雪乃の口から離していく。

 

 隠されていた彼女の頬はすっかり朱色に染まっていた。

 

「…………八幡のえっち」

 

 雪乃の消え入りそうな微かな声が、八幡の耳朶だけを確かに震わせる。

 そのまま雪乃がこほんと軽い咳払いをすると、彼女の上気した頬の熱は彼へと移動していた。

 

「私は『彼』と二人で食べるから、ごめんなさいね」

 

 妙に意識して三人称の言葉を発音すると、雪乃は八幡の腕を掴んで教室を出ていってしまった。

 手を差し出していた隼人は、珍しく苦笑いを浮かべて二人を見送る。

 

「……まさか、雪ノ下さんに彼氏が居たなんてねー」

「…………まじかー、死にてー」

 

 無事、一部始終を見ていたクラスメンバーの殆どが誤解をしていた。

 

 その中でただ一人、雪ノ下の振る舞いをキラキラとした尊敬の瞳で見つめていたのは、明るい髪色をしたお団子頭の少女だけだろう。

 

 * * *

 

 雪乃に連れて来られた場所はベストプレイスと呼んでいる特別棟の一階、保健室横の心地良い風が吹く憩いの場。と言うか、俺が普段から昼食を取っているコンクリートで固められた段差だった。

 

 何で知っているんだよと思ったが、その前に雪乃にはキツく言わねばならないだろう。

 

「おい、間違いなく雪乃との関係が誤解されちまったぞ」

「あら、別に誤解ならいいじゃない。事実がバレてしまうことを恐れているのだから、誤解が広まる分には構わないでしょ?」

 

 雪乃は一体誰に似たのか、屁理屈にも思える理論を淀むことなく喋る。

 

「それに、元はと言えば兄さんが悪いんじゃない」

「いや、だって雪乃が自分が作った弁当とか言おうとしてたから」

「それは事実でしょう」

「だからバレたら困るんだろうが……」

 

 俺のお説教モードを易々と切り抜け、雪乃は横に置いておいた俺の弁当の包みを空けていく。蓋が外されると、色とりどりの美味しそうなおかず達がお見えになる。

 そのまま丁寧な所作で箸入れから黒いプラスチック製の二本一対を取り出し、右奥に座している売り物のように形の綺麗な卵焼きを掴んだ。

 

「それはバレても困らないわよ、別に一緒に住んでいなくても同じ弁当を食べている人たちだっているのだから」

「いや、バレる可能性だってあるだ――」

 

 俺の言葉を遮るように、甘い出汁の匂いが漂う卵焼きが口元に触れていた。

 

「はい兄さん、卵焼き、……あーん」

 

 反射的にあむりと口を開き、それを受け入れる。美味い、美味すぎる……。

 だがしかし、美味しい卵焼き如きで絆される俺ではないので、よく味わうように咀嚼をしてから再び口を開いた。

 

「……あのな、俺は雪乃に平穏な学校せ――」

「はい兄さん、唐揚げもどうぞ、……あーん」

 

 文句は口を塞がれて言うことが出来ない。

 妹の『あーん』に逆らえる兄など千葉には存在していないのだから。

 

「……うめぇ」

「ふふっ、私お手製だもの。ご飯も食べる?」

「自分で食えるっての」

「私からでも食べられるでしょ、……はいあーん」

 

 嬉しそうに微笑み差し出される一口分の白米、それを躊躇なく口に放り込んでもらう。

 こんな調子じゃ会話も碌に出来ないんだよなー、なんて悪態も出てこないのはお腹が空いていたからに違いない。

 

 * * *

 

 結局、お昼休みギリギリまで食べるのに時間が掛かってしまった二人は、今後の対応策を何も練ることが出来なかった。

 八幡は手に持っていた雪乃の箸と空になった弁当箱を包みに戻し、自身の弁当箱と重ね合わせて腕に抱え込むと口を開く。先程までの行為に今更ながら襲い掛かる羞恥心と戦いながら。

 

「今日も最高に美味かった。で、誤解させた件だけど……」

 

 彼の目に入ったのは、海側へと戻っていく暖かな風をくすぐったそうにする雪乃の姿。彼女はそのまま特別棟の方へと歩を進めると、スカートを棚引かせながら振り返る。

 

 そして、昔から変わらない稚い笑顔を彼に見せた。

 

「――兄さん、私が待ち望んでいた学校生活は平穏じゃなくて、こんな風に一緒に過ごすことだけなのよ」

 

 雪乃の最後の最後まで可愛らしい唇を塞ぐ行為に、八幡は返事も出来ない程に言葉を失っていた。「また放課後に会いましょう」と口にし、楽しそうに教室へと戻っていく彼女を追うことも出来ない程に。

 

 今回、残念ながら雪乃の思惑から外れてしまったのは、ただの一点だけ。

 

 最後の一手だけは、彼の口をしばらく閉ざすことができなかったのだから。

 

 




結構とんでも設定ですが、受け入れてくれる方が多くて嬉しかったです。
またご感想頂けると嬉しいです!


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妹ノ下雪乃さんと奉仕部と我が家。

 

 『高校生活を振り返って』 2年F組 比企谷八幡

 

 結論から言おう、高校生活は素晴らしいと言わざるを得ない。

 皆は何時、どんな時に高校生として充実していると感じるのだろうか。部活動で仲間と汗をかいて笑い合った時、それとも学校行事で活躍した時、はたまた恋愛的なイベントを体験した時だろうか。私は朝、目覚めた瞬間から感じている。制服姿という視覚から、目覚ましの声からは聴覚で高校生活の素晴らしさを訴えかけてくるのだ。

 自身も制服に袖を通してリビングへと向かうと、愛らしい妹たちが美味しい朝ご飯を作って待ってくれている。忙しない朝のひと時を彼女らと過ごす毎朝が始まりの1ページとして刻まれるのだ。

 通学の時間も私は好きだ。清閑とした朝に合わせて会話は控えめに、動き始める街々の生み出す音を黙って聴きながら歩いて。混雑する公共交通機関も守りたいものがあれば気にもならない。

 昼時には愛らしい妹たちの手作り弁当を独りで誰にも邪魔されることなく食し、海側から流れる風と、海へと還っていく風に身を委ねる。憩いの時間だ。

 放課後には特に何でもない当日の出来事を語らい合いながら帰宅する。こんな時間が続けばいいと思ってしまうのは、夕焼けの緋色を反射する黒い宝石のような長い髪、私を映す瞳が笑い掛けてくれるから。

 まさに充実した高校生活だ。私から青春を謳歌していない者たちに言えることはこれだけであろう。

 

 諸兄姉よ、かねて妹を求めたまえ──。

 

 

「なんだね、この文章は……」

「高校生活を振り返ってというテーマで作文を書いただけですけど」

 

 放課後、八幡は国語を担当する教師から呼び出しを食らっていた。彼は何故呼び出されたのかを本気で理解していないので反省の色は微塵もない。

 

「……高校生活に関係あるのかね」

「関係しかありませんが」

 

 彼女、平塚静は八幡と雪乃の関係を知っている側の数少ない先生の一人である。教員室の彼女の机上にある灰皿には煙草の吸い殻が詰め込まれており、教師という職業のストレスの多さが垣間見えた。

 スーツの上に白衣を纏う彼女は生活指導も担当しており、度々彼のような問題児を呼び出しては説教をしている。しかし、今回ばかりは相手が悪い。

 何を言っても暖簾に腕押しだと気付いた平塚先生は分かり易く溜息を吐く。

 

「はぁ、定義的にシスコンと言っていいのか分からんが重症だな……。ちょっと付いてきたまえ、雪ノ下にも先に声は掛けてあるから既に来ている筈だ」

「いや、雪乃もいるなら勿論迎えに行きますよ」

 

 気怠そうにしていた八幡の目は雪乃の名前が挙がると急激に精気を取り戻していた。放課後になったのに、未だ会えていない彼女を迎えに向かうことに何の躊躇いがあるのかと言わんばかりに。

 

「平気で下の名前を呼ぶな、…………独り身が辛くなるだろう」

 

 だが、代わりに平塚先生の気力が一気に削がれていた。

 

 

 二人は特別棟にある、プレートに何も記載されていない空き教室に到着した。先導する平塚先生がノックもせず扉を開けると、中からは春の暖かな風が流れ込む。その風に微かに乗る嗅ぎ慣れたサボンの匂いが彼の鼻腔をくすぐった。

 窓の空けられた教室内、雪乃は本を片手にぽつんと置かれた椅子に綺麗に背筋を伸ばして座っていた。そして、開かれた扉から覗かせる八幡の姿を確認すると揶揄うような笑みを浮かべる。

 

「……あら、そこの校内で私の彼氏と話題になっている人は兄さん?」

「おい、誰のせいだと思っているんだ、総武高の有名人代表で愛しの雪乃さんよ」

 

「君たちは何故そこまで綺麗に歪んだ関係を築いているんだね……」

 

 平塚先生は二人の関係性をまじまじと見て、聞いて呆れ返っていた。だが、それでこそ甲斐があると気合を入れ直し、彼らをこの場所へと連れてきた目的を語り始める。

 

「まぁ良い、君たちには他人への関心と関わりが圧倒的に足りていないことが分かった。だから、これから二人には奉仕部として奉仕活動をしてもらうぞ」

 

 『奉仕』、その言葉にいち早く反応したのは思春期真っ盛りの男子。

 

「ちょっと待ってください、雪乃にそんなことさせる訳にはいきません」

「あら、私は毎日兄さんに奉仕をしているじゃない」

「頼むから俺以外に奉仕しないでください……」

 

 平塚先生は目の前で繰り広げられる会話、そして勢いよく下げられた八幡の頭を引き気味に眺めていた。もう改善は不可能なのではと一瞬考えが及びそうにすらなるが、勢いよく顔を振ると同時に迷いを振り払う。

 彼女は大方予想通りではあるものの、あんまり乗り気じゃなさそうな彼らに対してある提案を思い付く。若い者なら乗らざるを得ないビッグウェーブのような提案を。

 

「どちらがより奉仕……いや、問題を解決出来るかどうか、勝負で雌雄を決するとしようじゃないか。若いのはそういうの好きだろう?」

 

 彼女の定義する若者というのは、無論自身も含まれていた。何なら彼女の趣味嗜好だけが大いに反映されていると言っても過言ではなかった。

 

「勝った方が負けた方に何でも命令できる、ああ勿論いかがわしいことは──」

「構いません」

 

 雪乃は命令権の詳細な条件を遮るように強く言い切った。

 仮に勝負の最終判定が高校を卒業する頃だとすれば、その時には二人とも成人していることになる。だから命令が如何わしくても厭らしくても一向に構いはしないだろうと彼女は考えていた。寧ろ、彼女にとってはある種保険として利用してしまおうという算段すらあった。

 

「では、勝負をしましょう、兄さん」

 

 彼女の自身に満ち足りた言葉と態度を前に、八幡はただ不敵に笑う。彼にはもう笑うしかない。

 

「ははっ、俺が雪乃に勝てる要素は力くらいなんだが?」

「なら力で押して、倒せばいいじゃない」

「…………はい?」

 

 雪乃も大概思春期真っ只中だった。

 

 

 陽の光も随分と傾き、夕方と言って差し支えない時間になった頃。

 

「……じゃあ生徒から相談があれば解決すればいいんすね」

 

「ああ、一応内申に色を付けるくらいはしてやるから頑張ってくれ。……それに、君たちみたいな生徒を見てあげるのも大人の役目だろうからな」

 

 そう言葉を口にすると、平塚先生は背を向けて教室を後にする。去り際に見せた別れの挨拶代わりのハンドサインと白衣を棚引かせる歩き姿が妙に様になっていた。

 

 八幡は平塚先生からの説明を受けた今となっては、奉仕部に所属して活動することに抵抗はもう無くなっていた。雪乃と部活動を共に出来るなら望むところであるし、朝や昼休みの事件も同じ部活仲間ってことで何とか誤魔化せるかもしれない、……なんて甘い願望を持っていたから。

 

 だが、彼には一つどうしても腑に落ちないことがあった。そのことを黙々と自分の分まで帰り支度をしてくれている雪乃に問い掛ける。

 

「それにしても、なんで雪乃も連れて来られたんだ?」

「……さあ?」

 

 自身が妹にしか興味が無い人間だと難癖を付けられて奉仕活動を命じられたことはギリギリで理解出来たのだが、完璧超人の雪乃が何故に同じ罰を受けさせることになってしまったのだろうか。そのことに疑問に頭を悩ます八幡とは対照的に彼女は涼しい顔で言葉を返し、鞄から取り出したスマホで帰りのバスの時刻を確認する。

 

「では、早く帰りましょうか」

 

 家で自分たちを待ってくれている人が居る。それを理由に、彼女は珍しく忙しない態度を見せてまで八幡を急かしていた。

 

 今までは時間差で正面玄関から出発していた二人だったが、最終下校時刻が近く残っている生徒も少ないために並んで上履きからローファーへと履き替えた。そのまま屋外へと進むと、夕陽で長く伸びる二人の影が重なり合う。落ちた桜の花びらを再び舞い上げ運んでいく暖かな風は、雪乃の美しい艶やかな黒髪をも自然と靡かせていた。

 

 まだ校庭にはサッカー部を始めとした多くの部活動に励む生徒が残っていたのだが、八幡の視界には彼らが映り込むことはない。

 

 彼と並ぶ校庭の反対側には、多くの生徒に見せびらかす様に機嫌良さそうに歩く雪乃が微笑んでおり、彼は当たり前のようにそんな彼女に見惚れ続けていたのだから。

 

 * * *

 

 我が家の玄関扉を開くと安心する匂いが俺の鼻腔を抜けていった。嗅覚から帰ってきた実感を得ながら履き慣れた皮靴を脱ぐと、雪乃が自身の靴と合わせて綺麗に並べ直してくれる。その大和撫子な振る舞いに感謝の念が尽きません。

 

「ゆきねぇもお兄ちゃんもお帰り~」

「ただいま、小町」

「おう」

 

 わざわざ二階から降りてまで小町が出迎えに来ると、雪乃は優しい声色で言葉を返していた。この二人のやり取りを見ているだけで寿命が伸びていく。二人を嫁に出す気は一切ないので、最低でも三人分の老後の資金をちゃんと貯めないといけないですね。

 

「……おやおや、今日はゆきねえ何だか嬉しそうですなぁ?」

「ふふっ、後でゆっくり話すわ。まずは晩御飯の準備をするから待っていてね」

 

 小町の頭を軽く撫でると、雪乃は洗面台へと流れるように向かった。撫でられた小町は満足そうに彼女の後ろ姿を見送る。雪乃の背中が見えなくなると、小町は俺の方へと向き直ってしみじみと呟く。

 

「……お兄ちゃんも幸せ者ですなぁ」

「おう、小町も毎日朝食ありがとな」

 

 君たちさえ居てくれたら、俺はずっと幸せに決まっているじゃないか。

 

 

 それから一時間もしないうちに炊飯器が晩御飯の時間を知らせた。

 

 炊き立てのご飯、そして空腹をくすぐる芳醇な味噌の香りが漂うリビング。テーブルの上には、さば味噌煮と味噌汁、水菜とツナのサラダとご機嫌な和食が並んでいた。

 俺の向かい側にはいつも通りに雪乃と小町が並んで座って手を合わせている。俺も二人に倣い手を合わせて「いただきます」の声を唱和させた。

 

 全員で食事前の挨拶を終えるや否や、小町が雪乃に前のめりになって話し掛ける。

 

「ねぇねぇ、今日の学校で何があったの?」

 

 お椀を持ち上げようとしていた雪乃は一旦その動きを止め、小町の方に顔を向けるとわざとらしい困り顔を作って口元を緩ませた。

 

「そうね、兄さんに無理矢理唇を塞がれたり、俺に奉仕して欲しいって言われたりしたわね」

「お兄ちゃん……?」

 

 丁寧に取られた出汁で作られた味噌汁の風味を堪能していた俺へと向けられたのは疑いの目。待て待て、待ってくれと俺は即座に弁明の言葉を口にする。

 

「おい、誤解を招く言い方はやめろ。事実だとしても、もう少しエピソードを挟んで薄めて話してくれ。じゃないと居た堪れなくなってしまうだろ」

「事実なんだ……」

 

 疑いが晴れたのか、懐疑的だった視線は普段通りの残念な者を見る瞳へと変化してくれた。今日も比企谷家の美味しい料理が並ぶ食卓は依然として平和に満ち満ちている。

 

 

 全員の入浴が終わり、リビングでは髪を乾かし合う神聖な光景が繰り広げられている。湯上り姿をまじまじと見る訳にもいかないので、俺はさも興味ないですよとアピールするようにスマホアプリを無心でタップしていた。

 

 仕上げの冷風によるドライヤー掛けも終わったのか、ファンの大き目な音が鳴り止み彼女らの聴き心地の良い声だけが耳朶を打ち始める。

 

「ゆきねぇ、寝る前に少しだけで良いから勉強見てくれる?」

「もちろん良いわよ」

 

 来年には受験を控えている小町が雪乃に勉強を教えてくれとお願いをしている。来年一年だけにはなるが一緒の高校に通えるチャンスがあるため、最近の小町は勉強好きでもないのに熱意を持って取り組んでいた。妹のために俺も人肌脱がせてもらうとしようじゃないか。

 

「小町さんや、たまには俺も見てやるぞ」

 

 小町からの感謝の笑みを期待していた俺だったが、残念ながら向けられたのは困惑顔。いや、それも可愛いんだけどね。

 

「お兄ちゃんも国語系は成績良いけど、数学とか理系は普通じゃん……」

「おい待て、期末は平均より高かったんだぞ」

「学年一位のゆきねぇに教えてもらってるんだから当たり前じゃない?」

「兄さんは公式の記憶は早いのだけれど、応用問題に弱いのよね……」

 

 二人からの言葉に耐えかね、俺はぐぬぬと顔をしかめるしかなかった。俺も小町に教えたいのに……妹との触れ合いを求めているというのに…………。

 俺からの熱烈な視線を受け取った小町は呆れ顔ながらに軽く溜息を吐くと、苦笑い寄りの可愛らしい笑顔で優しい言葉を投げ掛けてくれた。

 

「お兄ちゃんにはゆきねぇが忙しい時にはお願いするよ。でも今日はゆきねぇにじっくり聞きたいこともありますので!」

 

 小町はウィンクに敬礼みたいな手振りを添え終えると、「じゃあ行こう」と雪乃に呼び掛けて彼女の自室へと向かうために階段を降りていく。やや騒がしい小町の足音を聴き届けると、雪乃も髪を拭いていたタオルを片手に立ち上がった。俺も二人が居ないのであればリビングに居る意義もないので、僅かに疎外感を抱きながら雪乃の後を追う形で階段を降りていく。

 

 普通の一軒家なので大した時間も掛からずに階段下まで到着してしまうと、俺は雪乃に一日の終わりの挨拶を告げるために口を開いて「おやすみ」と彼女に告げた。

 

「おやす、……えっと、そんなに寂しそうな顔しないで、勉強ならまた見てあげるから」

「来月中間あるしな、まぁその時は頼むわ」

 

 小町に対するような優しい声色と表情に、自然と彼女の提案に甘えるように乗っかってしまう。実際、二年生に進級してから始まった数学ⅡとBが異常に難しくて困っていたところだし。

 

「あら、否定しないのね。そんなに寂しいならまた一緒に寝てあげましょうか?」

 

 雪乃のその言葉で俺が寂しさを否定しなかった、いや出来なかったことに気付かされた。普段よりも多くの時間を共に過ごせたからこそ、今日が終わって離れてしまうことが寂しかったのだ。

 

 だが、先程までの優しい顔色ではなく揶揄うような笑みを浮かべる彼女に甘える訳もなく。

 

「何歳の頃の話をしてるんだよ。別に寂しくねーよ、ほら小町が待ってるぞ」

「ええ、おやすみなさい、兄さん」

 

 早く行ってあげなと手首を振るように動かすと、雪乃は軽く首肯をして別れの挨拶を告げた。そのまま俺は自分の部屋の前へと歩みを進めると、その扉を開く前に軽く振り返った。最後に後ろ姿を見るくらいはしても許されるだろうと。

 

 だがしかし、俺の目に入ったのは雪乃の名残惜しむような表情だった。彼女は会話していた場所から一歩も動いておらず、俺の方へとずっと手を振り続けてくれていたように思える。

 

 雪乃は一瞬丸くした目をすぐさま元に戻すと、内緒話をするように小さな声で囁いた。

 

「一応、部屋の鍵は空けておくわね?」

 

 恥ずかしかったのか、雪乃は言い終わると反転して小町の部屋へと駆け込んでしまう。残された俺は暫しの間、その場でただ呆けていた。だって────。

 

 カマクラのためにいつも鍵開けてるでしょ、君。

 




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雪ノ下雪乃はそうして彼に出会っていた。

 

 それは、私がまだ小学校に上がる前の頃だった。

 

「……雪乃ちゃんはお姉さんとは違って、子供らしい素直さで良いね」

 

 社交場で父の影に隠れていた私に掛けられた言葉を、私は素直に受け取って頷いていた。その人の顔は今でも思い出せる。柔和な笑みを浮かべる優しそうな初老ぐらいの男性だった。

 姉に比べて不出来と言われることが多かった私は、そのことが嬉しくて母に帰るなり報告をしていた。それを聞いた母は黙って私の頭を撫でてくれたけれど、直ぐにソファーから立ち上がって父の部屋へと足早に向かっていく。

 どうして行ってしまうのか分からなかった私は、こっそりと父の部屋の前まで歩いて聞き耳を立ててしまった。

 

「無理して雪乃をああいう場には連れて行かない方が良いと思いますよ」

 

 愚かだった私は、母のその声色で漸くあの言葉が褒めていなかった事に気付くのだった。この日、この時から、私は段々と他人が怖い存在かもしれないと認識をし始める。

 小さかった私には相手の何を信じれば良いのかが分からなかった。表情も言葉も声色も、何もかも上辺だけは取り繕われているかもしれない。そう思うと、日ごとに臆病になっていく。だから私は知り合いと会うことでさえ極力避けるように変わっていった。

 

 私が父に連れて行かれることを拒否をするようになると、代わりに姉が外出する頻度が更に多くなった。姉はきっと多くの人に愛想を振る舞い褒めてもらうのだろう。ただでさえ差のあった私と姉の評価は、従前よりも顕著に現れるようになってしまった。

 

 そんな時だった。父が私にだけ知り合いの家に暫く泊まるように言ってきたのは。

 

 何かあった時の為にと父から渡された子供用携帯電話を手にして向かった家には、優しそうな女性と怪しげな男性の夫婦、そして大きな歳の差は無さそうに見える兄妹が待っていた。

 

 何かあったらすぐに連絡するように念を押すと、父は私を運んできた車に乗って去っていく。耳に残っていたのは父の言葉よりも、私を置いて行った車の大きな排気音。これから私はどうしたら良いのだろうか。

 

 黙って見送った道路の端には、巻き上げられた落ち葉と砂埃が言葉にも出せない私の不安のように積っていた。

 

 

 ここで暫く過ごして欲しいと案内された部屋は、自分の部屋よりも幾分か狭く感じた。兄妹の部屋は二人で一つだそうで、私は机とベッドが用意された場所に一人で佇む。

 

 そこで遂に我慢出来なくなり、貸し与えられた部屋で私は一人で静かに泣いていた。きっと私は姉とは違って不出来だから捨てられてしまったのだろうと。室内には私の小さな泣く声だけが反響し、誰にも届くことなく消えていく。それがまた一段と私の心を削り、独りぼっちになった悲しみを一人で慰めるしかなかった。

 

 だが、静寂も一人の世界も長くは続かなかった。

 

「おーい、でてこいよー」

 

 扉の外から私を呼び掛ける男の子の声がした。歳が近いから遊んで来いなどと両親に言われて嫌々やって来たのだろう。

 けれど私は彼の到来を挽回するチャンスだと思い込み、服の裾で涙を拭くと扉の方へとゆっくり歩いた。携帯電話はあるのだから、頑張ったことを父に伝えたら帰れるかもしれないなんて淡い期待を胸にして。

 

 臆病な自分を抑えながら扉を開けると、身長は殆ど変わらないのか、私の目の前には自分より少しだけ大人びた彼の顔。そして何が可笑しいのか分からないけれど、男の子が私に得意げに笑い掛けてくる。私も彼に合わせようと意識をして笑顔を作ろうとしていた。

 

「おお、やっとでてきたな……。えっと、どうかしたのか?」

 

 彼は私の顔を見るなり、みるみると分かり易く笑みが失われていく。また何か失敗をしてしまったのだろうかと不安になった私は、押し込めた筈の涙を一粒落としてしまった。

 

「おい、だいじょうぶかよ。なぁ、……ぐすっ、どこかいたいのか?」

 

 目の前の男の子もどうしてか涙し始める。彼の涙声を聞いている内に堰を切るように止め処なく流れてしまう大きな粒がフローリングを叩いていった。止めなくてはいけないのに、私の身体は言うことを聞いてはくれない。

 

「ぐすっ、ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 嗚咽交じりに謝る私を小さくて細い、けれど温かい腕が包み込んでくれた。そして私の耳元には泣いている彼の嗚咽が煩い程に響き始める。私も彼の身体にしがみつくように腕を回し、掻き消されてしまう程度の泣き声をあげていた。

 

 煩かった彼の声を有難いと思えたのは、泣いてしまう私を分かってくれて、それでも尚受け入れてくれて、感情表現の苦手な私の分まで補ってくれた気がしたから。

 

 

 そのまま泣き疲れて寝てしまった私たちは、彼の両親に部屋のベッドへと一緒に運ばれていた。後から聞いた話だけれど、私たちはどちらも手を離そうとはしなかったらしい。

 私が痛みを感じて目を覚ました時、目の前にある男の子の顔に驚くよりも先に、彼の目元が酷く腫れていたことを嬉しく思っていた。

 

 この人は表情も言葉も声色も、涙だって本物かもしれないと。

 

 暫く彼の顔を寝転がったまま眺めていると、不意に男の子の瞼が開いた。彼は起きると目を大きな丸にしたが、すぐに私の目元に優しく触れて言葉を紡ぐ。

 

「いたそうだけどだいじょうぶか、……えーっと、ってまだじこしょうかいをしてなかったな。そっちのなまえは?としは?」

「名前は雪乃で5才、こういう時は自分から言うものでしょ」

 

 私は可愛げもなくそんな風に返していた。けれど彼は気にすることなく、嬉しそうに私の名前を何度も呼び始める。

 

「ゆきのか、おれは6さいだからおにいさんだな。それとゆきの、おれのいもうとのなまえもかわいいんだぞ!」

 

 彼は結局自身の名前を明かさずに大きな声で話し始める。そして、その声に共鳴するように扉の外からはバタバタと騒がしい足音。私は何事かと怪訝な顔を浮かべたけれど、彼はその音を聞いて嬉しそうに笑い始めた。

 

 間もなくして、バンと勢い良く扉は開けられた。そこには彼に似た顔をしている小さな女の子の姿。

 

「おにいちゃん、もうおきてるー?」

「おー、小町!」

 

 小町と名前を呼ばれた彼の妹は、相も騒がしく私たちの下へと早足で駆けてくる。そのままの勢いでベッドに登ると、兄の身体の上にまで乗っていく。最終的には彼を下敷きにしてうつ伏せに寝転がった。

 二人にとっては特段珍しいことではないのか、彼は気にすることなく妹の頭をわしわしと撫でて甘やかす。その光景が私には眩しく見えた。

 

 普通、兄妹とはこんなにも寄り添った関係なのだろうか。もしかしたら、自分も姉に素直に甘えても良かったのだろうか。眼前で触れ合っている筈なのに自分には遠い光景に思え、枯れたと思っていた瞳がまた潤みそうになる。

 

 二人を直視出来なくなった私は次第に俯いていくと、突然に頭部に軽い衝撃を受けた。

 

 何事かと伏せていた視線を上げると、私の頭上で手を動かす彼の笑みが見えた。今思えば、丁寧でも優しくでもない撫でまわし方だったけれど、私がその時に最も欲していたモノだった。

 

「……まだ、全然足りない」

 

 だから、その手が止まってしまわぬようにぽしょりと言葉を零す。余りにもへたっぴな、私なりの甘えるような言葉を。

 

「おう、まかせとけ」

「ずるいー、こまちもなでてー!」

 

 我が儘な少女たちの言動で彼は笑って両方の腕を必死に動かし始める。その腕は、息を切らせて彼が根を上げるまでずっと動き続けてくれた。

 疲れ果てて妹さんに顔パーツ弄りを無抵抗でされる彼に、私は最後に言葉を伝える。今回ばかりは搔き消されないようにはっきりと。

 

 その横顔を見詰める眼差しには、もう涙する気配もありはしないから。

 

「…………ありがとう、お兄さん」

 

 彼がにこりと笑ったのを見て、私も久し振りに自然と頬が緩む。それは、ずっと忘れていた感覚。その時、私は彼がどうして泣いてくれたのか分かった気がした。

 

 

 夏の終わりも近かったある日。

 私は初めて彼に出会い、そして──兄に甘えることを覚えた。

 

 




短いけれど過去のお話でした。
登場人物に悪い人は1人もいません。


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妹ノ下雪乃さんは奉仕活動を始める。

 

 閑静な住宅街に小鳥のさえずる鳴き声が響き渡った。春の暖かな陽射しは窓から差し込み、レースの隙間を通過して床を反射し、やがて俺の瞼へと伝搬されていく。取り込む空気も春のお陰か、幼い頃に嗅いでいたような好ましい匂いを強く感じた。

 

「ふふっ、……あら、そろそろ時間ね」

 

 ぎしりとベッドが軋み、僅かに揺れる感覚で俺の身体は覚醒へと導かれる。俺は微睡みたい気持ちをぐっと抑え、瞼をゆっくりと開いていった。そして、いつもと同じ第一声を発する。

 

「おはよう、雪乃……」

「…………お、おはよう、兄さん」

 

 ベッドに座っていた美しい黒髪を纏う背中に声を掛けると、どうしてか驚いたような表情で雪乃が振り返る。また俺何かやっちゃいましたか? まあ恐らく、珍しく彼女が声を掛ける前に目覚めたからなのだろう。目をぱちくりとさせているのがとても愛らしい。

 

「……わ、私は朝ごはんの準備を手伝ってくるから、兄さんは早く着替えてリビングに来て」

「おう、今日もありがとうな」

 

 いつもより足早で出ていってしまった雪乃を見送り、大急ぎで寝間着から制服へとフォームチェンジ。日朝でもない金曜日の朝から可愛さと癒しを大量摂取した俺は、脳内で変身BGMを流して気分良く支度をしていく。

 リビングで待ってくれている二人に、今日も今日とて良い一日が訪れることを願いながら。

 

 

 今朝も電車内は新年度恒例の満員で無事筋トレが捗ったのだが、バスでは運良く二人並んで座れる席を発見することが出来た。車窓から覗かせる街並みを背景に、造り物のように美しい横顔を眺める朝はいとおかし。ああ、何て良い朝なのだろうか。

 

 そんな至福の時間は一瞬で流れていき、俺たちを乗せたバスは目的地の一つ前に到着した。次に停車する場所を告げるアナウンスに混じり、車内では他の生徒の話し声が多く聞こえ始める。

 そろそろ目立たないよう意識を切り替える為にスイッチを入れていると、お隣さんから制服の裾を静かに摘まれる。可愛らしいその行為に先程の意識はいとも簡単にぶっ飛んでしまい、俺は周囲の視線を気にすることなく雪乃に耳を寄せていた。

 

「もう私たちのことは噂になっているのだから、堂々と並んで登校しても良いんじゃないかしら」

「……いや、まだ何とかなるかもしれないから様子を見た方が良いだろ」

 

 昨日に浮かんだ奉仕部加入の件をそこはかとなく良い感じに利用するという、誰が誰にどう伝えるかは一切考えていない欠陥を除けばギリギリ及第点の案が俺には残っていた。

 だがしかし、雪乃は俺の言い分に不満があるのか、不服を訴えるようにムッとした表情で口を開く。そして、引く意思など一切ないと言わんばかりに言葉を投げ掛けてきた。

 

「逆に離れて歩く方が目立つまであるわよ」

「いやいや、流石にそれは無いだろ」

「……そう、ただでさえ話題の私が一人で歩いていたらどうなるかしらね」

「そりゃお前なぁ……」

 

 俺は雪乃の問い掛けに想像力を働かせていく。

 

 気になっていた校内随一の美少女が噂になってしまった翌日、眠れない夜を過ごしていた男子高校生は普段より早めに登校すると、校門へと続く道を一人で歩く彼女を偶然に見掛ける。噂になっていた相手とやらは隣には居ない。やはり、あの噂はデマだったのだと確信した。

 鬱々としていた気分が春の陽気のように軽やかになっていく。桜舞い散る中、芸術作品のように美しい歩き姿の彼女の元へと俺は走り出す。徹夜明けのテンションも相まって少年は彼女に声を──。

 

「雪乃さんよ、手でも繋いで行くか?」

「そこまでは恥ずかしいからしなくて大丈夫よ……」

 

 

 二人並んで校舎に入り、残念ながら教室の違う雪乃と暫しの別れを惜しみながら辿り着いたF組の入り口。ドアを開けても誰にも見向きもされず、静かに自席で読書をして過ごす時間が俺は気に入っていた。

 午前の授業が終われば雪乃と部室でお昼を食べる約束をしているし、俺の高校生活の充実度が鰻登り状態。平塚先生に苦言を呈されてしまった作文も是非に書き直させてもらいたい。今ならもっと愛を詰め込める気がするので。

 

 そんなことを考えながら俺はいつも通りに静かに扉を横へ動かし、突き刺さる視線を無視して黙って自席へと向かう。あの、その、向かいたいのでこっちに来るのやめてください。

 

「ヒキオじゃん、おはよ」

「……おはようございます、三浦さん?」

「は?タメなんだから敬語も、さん付けも要らないし」

 

 腕組み金髪ギャルに真正面から威圧され、俺は余裕で戦慄していた。昨日は一瞬乙女に見えたけど今はほんと怖い。あとヒキオって何って突っ込みたいけど怖くて出来やしない。というかですね、何か用があるのでしょうか……?

 びくついた視線を彼女に向けていると、三浦は組んでいた腕を楽にして、その片方で自身の首に触れ始める。そして、居心地悪そうにそっぽを向いた。

 

「……その、雪乃は今日も昼休みにヒキオのことを迎えに来る感じなん?」

「いや来ないけど」

 

 雪乃も最初は迎えに来るとか言っていたのだが、目立つし噂に歯止めが効かなくなりそうなので全力でお断りをしていた。頭ごなしに駄目だと言うのではなく、「待ち合わせだと嬉しい」と伝えて渋々了承を勝ち取る。長年のお兄ちゃんとしての経験が生きましたね。

 昨日は雪乃の気まぐれだったことにして、発言権の強そうな三浦に部活の件も合わせて適当に情報を流せば万事解決かもしれないと思い始めていたのだが──。

 

「なんでだし。あーしは来ていいって言ったのに……」

 

 雪乃が訪れないことを伝えると、目の前の彼女はあからさまに落ち込んだ表情を見せる。自分のことを『あーし』と呼ぶことに多少面を食らってしまったが、それ以上に何とかしてあげなくてはと責任感が湧いていた。

 

「別に昨日のことを気にしてる訳じゃなく、単に待ち合わせ場所を決めたからってだけで……」

 

 何だか誤解させるような言葉も言い辛くなり、気が付けば隠しておきたかった真実を口から漏らしていた。

 

「……あっそ、なら別にいいや」

 

 俺の言い分を聞いている間、前に垂らしている縦ロールを指で遊ばせていた彼女は、またしてもそっぽに顔を向ける。だがしかし、今度は居心地が良くない訳ではなく、ただひたすらに安心した顔を背けていた。素直じゃない感じが懐かしくて微笑ましくなる。

 

 始業時間も近付き、教室には続々と登校してきた生徒と朝練を終えた運動部が入り乱れ始める。その中にはあの葉山も混じっており、三浦の意識はそちらへと向けられた。

 逆に居心地が非常に悪くなった俺は軽い会釈をして即退散の構え。判断が早いと脳内で天狗に褒められること間違いなしの動きで彼女の横をすり抜けていく。

 

「…………あんがと」

 

 クラスの喧騒に掻き消されてしまいそうな声が耳に届いた。直後に快活に響かせる足音が聞こえると、俺は振り返りもせずに自席へと歩みを進める。将来的に彼女なら雪乃と仲良くしてくれるかもなんて期待を胸に抱きながら。

 

 * * *

 

 放課後、昼休みに続いて奉仕部の活動拠点である特別棟の空き教室へと足を運ぶ。扉を開けば、やはり先に来ている雪乃が出迎えてくれた。

 陽当たりの良い窓際に並べた二人分の机に隣り合って座ると、俺たちはどちらともなく鞄から文庫本を取り出す。電子書籍が便利な時代ではあるが、実物のページを捲る感覚が俺は好きだった。あと、好きなラノベなんかはファンとして物を持っておきたいというのも理由の一つだろう。

 

 依頼人が来るまではやることが無いことは分かり切っていたので、俺たち二人はページを捲る音を半刻近く鳴らし続けていた。やがて浅い吐息と本を閉じる音が聞こえると、俺はその発信源へと顔を向ける。

 

「兄さん、奉仕部の活動は週に1日にしない?」

「……良いけど、なんでだ?」

 

 平静を装って理由を問いたものの、内心では二人で過ごすのが嫌になってしまったかを酷く心配していた。俗に言う遅れてきた反抗期かもしれないと。

 小町も俺の干渉を煙たがる時期があり、俺はその間は結構なダメージを受けながら日々生きていた。癒しと間を取り持ってくれる雪乃が居なければ立ち直れなかったかもしれない。雪乃が反抗期になったら、なんて想像したことはなかった。想像出来なかったのではなく、絶対にしたくなかった。

 

 だが、彼女からの返答はとてもあっさりしたものだった。

 

「帰りが遅くなると小町が一人で寂しがるんじゃないかしら」

「……ふぅ、そうだな。じゃあ週0にしよう」

「部活動の体を成さなくなるわね…………」

 

 美しい姉妹愛に知能が著しく低下してしまったが、依頼も来ていないのに無理に残る必要性は無いのではないだろうか。そもそも、この奉仕部という存在は周知されているのかも甚だ疑問ではある。

 その確認も含めて、今後のことを平塚先生に相談に行こうと雪乃に話をしていると、廊下から誰かの足音が聞こえ始める。その足音は奉仕部の部屋の前でピタリと鳴り止み、間もなくして扉が叩かれた。

 

「どうぞ」

「し、失礼しまーす……。えっ、ヒッキーとゆきのん?!」

「二年F組の由比ヶ浜結衣さん、ね」

 

 暴言と甘言を一声で言い切るお団子頭の少女。名を由比ヶ浜結衣と言うらしい。

 

 全く関係は無いのだが、男と女とでは視え方が異なるらしい。女性は色の違いを見分けることに優れ、男性は動く物体を目で追うことが得意だと言われている。動きに強いが故に、一瞬だけ揺れ動く柔らかそうな物体に視線が引っ張られることもあるかもしれないが、俺は強い意志で目線を保っていた。

 

 あとヒッキーは兎も角、ゆきのんというのは非常に可愛くて良いと思います。

 

 一方で本人は難色を示しており、俺と由比ヶ浜を交互に見ては俯き、やるせない表情をしている。そんな顔も可愛いぞ、ゆきのん。

 俺が慈愛の瞳で見つめていることに気付くと、雪乃は軽く咳払いをして由比ヶ浜に向き直った。

 

「彼程度で引き篭もりと称されるのであれば、残念ながら私もヒッキーになるわね」

「そんなつもりで言ってないよ!? 比企谷だから、ヒッキーじゃん!」

「そう、それなら私もヒッキーになりそうね」

「あれ、もしかして惚気られてる……?」

 

 初めは若干棘のあった語気も二言三言交わしただけで平時へと戻り、何だか楽しそうに会話をしている。雪乃が小町以外の女の子と仲良くしている姿をあまり見たことがなかったので、物珍しさと微笑ましさで観葉植物になりたい気分になっていた。実際ここまで喋っていないので、置物にはなれちゃっているのだが。

 

「それで、由比ヶ浜は何をしに来たんだ?」

「ここに来れば相談に乗ってくれるって平塚先生に聞いてたんだけど……」

「なるほど、それなら座って頂戴」

 

 彼女が奉仕部の初めての依頼人だと分かると、雪乃は教室に積んである椅子を一つ持ち出して机の前へと置いた。そして、座した由比ヶ浜と改めて相対する。ちょっと面接官みたいで気分が良いと思ってしまったことは口には出さない。

 

「私、人の顔色ばかり気にして自分の意見が言えないことが多くて。でも、ゆきのんはちゃんと優美子に言いたいことを伝えていたように見えたから……」

 

 先程までの元気の良さはどこへやら、彼女は落ち着いた様子に暗い声色で話し始める。確かに三浦の威圧するような態度の前で素直に思ったことを伝えるのは常人には難しいだろう。

 

 隣に座る雪乃にどう返そうかと耳打ちをすると、「私に合わせて」とのオーダー。

 

「由比ヶ浜さん、人の顔色を伺えるなんて、それはすごいことよ。社会に出れば必須のスキルなのだから、別に落ち込む必要はないわ」

「そうだぞ、昔は雪乃もあまり得意じゃなかったしな。因みに俺は今でも全然できないから社会が怖い」

「えっ、ゆきのんが?」

 

 自虐ネタはある程度仲良くないと拾ってもらえないことを痛感したが、雪乃の思惑通りの兆しが見える。これは失敗してメンタル下がり気味の小町によく使う手法だ。

 

「……そうね、私は人の顔色を覗って話すのが苦手だったのよ。私が受け取った表情と内心がリンクしていない人が多くてね、他人が怖くなってしまったこともあったわ」

 

 雪乃も由比ヶ浜の声色が明るくなったことに安心したのか、自身の過去の話をを粛々と語り始める。由比ヶ浜もその言葉に真剣に耳を傾けていた。

 

「……どうやって治したの?」

「考えていることが全部顔に出ちゃう人たちと接していたら、自然と怖くなくなったわ」

 

「そして、思ったことはちゃんと言おうと思ったの。迷惑だったとしても、伝えなくちゃダメだって教えてくれた人が居たから」

 

 雪乃はそこまで口にすると、小さく俺の方に目配せをして微笑み掛ける。その笑みを前にして、俺は何だか気恥ずかしくなって頬を指先で掻いていた。……そんな昔の話覚えてないっての。

 

「素敵な人だね、私も会ってみたいな」

「あら、私から紹介をしてあげるつもりはないわよ」

「あははっ、ゆきのんいじわるだ」

 

 由比ヶ浜が明るい笑顔の花を咲かせると、それに呼応した雪乃と二人で笑い合う。嫌味も屈託もありはしない笑みを浮かべるその顔は、元来彼女が持っていたであろう鮮やかな桃色で綺麗に染まっていた。

 

 ひとしきり笑った後、由比ヶ浜は息を大きく吐いて伸びをする。

 

「分かった、私頑張ってみるね」

「ええ、三浦さんならあなたが自分の意見を言っても、きっと嫌な顔なんかしないわよ。むしろ喜んでくれるんじゃないかしら」

「うん、ありがとう。……それとね、もう一つだけ良いかな?」

 

 由比ヶ浜は納得したように頷くと、改めて雪乃の目を真っ直ぐに見つめた。きっと彼女は、自分の思った願いを、今日ここに来た本当の理由を言葉にして伝えようとしてくれている。

 

「私とね、友達になって欲しい」

「…………ええ、喜んで」

 

 雪乃も彼女の真剣な瞳を見つめ返すと、柔和な笑みで首を縦に振った。

 

 人と人とが友達になる瞬間を初めて見たかもしれない。彼女たちならば、思ったことを素直に言い合えるような深い仲になるのだろう。望んだとしても簡単には手に入らない眩しい間柄というのは、まったくもって羨ましい限りだ。

 

 不意に桜の花びらが風に乗って室内へと入り込む。それはまるで、二人の出会いに祝福をしているかのようで。間違いなく異性が居ては出しにくい話題もあるだろうし、その一枚をそっと指で挟んで俺は席を立とうとした。

 だが、立ち上がる際に音を出してしまったせいか、由比ヶ浜の目線がこちらへと移り変わる。その顔には変わらず笑顔が咲いたままで、俺の胸が少しだけチクリと傷んだ。

 

「ヒッキーもだからね!」

「まじかよ……」

 

 俺はこの後、暫く一人で頭を悩ませることになるのだが、理由は彼女と友達になるかどうかなどではなかった。ただ、自身の由比ヶ浜に対する罪悪感と向き合い、友達ならば素直に謝罪すべきかをずっと苦悩する──。

 

 無意識とはいえ、伸びをする彼女の大きな膨らみをガン見していたことを。

 

 * * *

 

 電車の大きな揺れとは異なる、細やかな揺れが太腿あたりに微かに伝わる。恐らく制服のポケットに入れられたスマートフォンが何かを知らせているのだろう。

 

 夕焼けに染まる車内の中で画面が映し出されると、そこには由比ヶ浜からのメッセージが届いたことを知らせる通知。

 当たり前だが俺にではなく、雪乃に来ているので内容までは見てはいない。こういう盗み見は嫌われる原因になるかもしれないと分かりつつも、特に隠そうとする素振りも無い雪乃には時折行ってしまう。小町は普通に隠すし、見たら怒るから気を付けようね。

 

「今度クッキーを一緒に作りたいそうよ。これも奉仕部の活動ってことで良いのかしらね」

 

 材料費を部費で宛てがうつもりだろうか。流石に比企谷家の食費部門のお財布を握っているだけあって、こういう所はしっかりしている。けどね、きっと奉仕部に部費は割り当てられてないと思いますよ。

 

 不慣れな手つきでフリック入力を試みている姿をぼんやりと眺めていた。思えば、雪乃には学外でも遊ぶような友人は今まで居なかった気がする。願わくば、由比ヶ浜が彼女の初めてのそういった間柄になって欲しいものだ。

 

 その後も微笑ましい気持ちで見続けていると、雪乃は思い掛けないタイミングでこちらへと視線を向ける。その手に持つ画面には、由比ヶ浜がアイコンに設定している彼女の写真が拡大表示されていた。

 

「兄さん、一応確認しておきたいのだけれど」

「……なんだ?」

 

 静かに怒っているようで、単に落ち込んでいるような、それとも訝しんでいるかにも取れる複雑怪奇な表情。違いがわからない人にはただ可愛く映るだけだろうが、明らかに平時とは異なる様子の雪乃も同率世界一位で可愛い。

 

「兄さんはその、やっぱり由比ヶ浜さんみたいな人の方がタイプ?」

 

 予想だにしなかった問い掛けに、俺は返事に窮してしまった。由比ヶ浜とは色々と正反対だから、どちらが男受けするのかと言われると難しいかもしれない。それに負けず嫌いの一環なのだろうが、雪乃もそういうのを気にする年頃になったのかと感慨深くもなる。 

 兄心としては成長を喜ぶべきだと分かりつつも、それより寂寥感を強く覚えてしまう。そんな色んな感情をない交ぜにしたような想いで、正真正銘の本心をを口にした。

 

「…………俺の好みは昔から雪乃と小町だよ」

「ふふっ、兄さんは相変わらずね」

 

 その反応を最後にお互い口を閉ざすと、時間だけが過ぎていった。

 

 電車がガタンと強く揺れると、俺の肩には柔らかな温もりが寄り掛かる。その長い睫毛を有する双眸は閉じられていて、静かに規則的な呼吸をしていた。折角端の席に座ってもらったのに逆側へと傾いてしまったことが可笑しくて口角が上がってしまう。

 今週も毎朝早起きをしてお弁当の準備をしてくれているのに、夜も小町の受験勉強の監督や自身の学習を励んでいるのだから疲弊していて当然だろう。もう間もなく最寄り駅だが、少しの間だけでも休ませてあげたい。

 

 叶うならば、いつまでもこうして隣にいて欲しい、なんて俺には贅沢過ぎる願いだ。電車が必ず次の駅へと辿り着いてしまうように、きっといつかは────。

 

 気付けば、寂しさを紛らわすように手のひらを彼女の頭へと触れさせていた。それはもう長い間求められていない行為。

 昔よりも美しく伸びた髪と大人らしい雰囲気を纏う姿には少々不相応だろうけれど、大切にしたい気持ちは相も変わらず残っていたから。

 

 

 起こさないように優しく頭を撫でると、眠る雪乃があの頃のように笑ってくれた気がした。

 




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比企谷小町は何時だって二人の妹である。

 

 ゆきねぇの朝は早い。

 

 千葉県千葉市。

 閑静な住宅街の一画にある一軒家。

 そこがゆきねぇ、そして小町たち比企谷家の住処です。

 

 世界でも有数の素晴らしい姉。

 小町は、このゆきねぇの一日を追いました。

 

 

 世間ではお休みの人も多い土曜日だというのに、ゆきねぇは早朝から出勤する両親に朝御飯を振る舞っています。平日は無理でも、休日くらいはやってあげたいと口にしていました。小町も最近は甘え切ってしまっているので見ていないのですが、うちの両親は泣いて喜んでいることでしょう。

 

 小町が8時過ぎくらいに起きると、ゆきねぇは大体ソファーで我が家のアイドル猫こと、カーくんと一緒に寝ています。カーくんがゆきねぇで暖を取っているのか、ゆきねぇが湯たんぽ代わりにしているのか。恐らく後者だと小町は睨んでいます。

 その寝顔はさながら天使のようで、普通の人だったら一瞬で駄目人間にされてしまうところです。うちの兄は既に駄目おにいちゃんはおしまい!になっている可能性もあります。お隣どころか一緒に住んでいる天才美少女が居るのだから仕方がありません。

 

「……んん、おはよう小町」

「うん、おはよー。ゆきねぇ、今日も朝御飯ありがとうね!」

 

 眠気眼を擦り、伸びをする姿がカーくんとシンクロしています。100点です。取れ高充分過ぎて普通の番組ならここまでの映像を散々引き伸ばしたり、CMを挟んで溜め演出を過剰に使ってお終いまであります。

 ですが、今回は小町プレゼンツなのでまだ終わりません。小町には重大な使命があるのですから。

 

「お兄ちゃんもそろそろ起こす?」

「ふふっ、休みの日くらいはゆっくりと寝かせてあげましょう」

 

 ……うーむ。今日、というか昨日の夜からゆきねぇの機嫌がいつもより良いんですよねぇ。何かあったのかと訊いたら「それは友達が出来たからかしらね」って。本当にそれだけなのでしょうか。

 

 いいえ、あれは絶対に兄と何かあったに違いありません。小町レーダーがびんびんに反応したのですから。

 ですが、余りにも突っつき過ぎるのも野暮なので、ここは一旦ステイです。良い方向に進んでいるのであれば、小町がこねくり回す必要はないので。

 

「じゃあ今日もお願いできる?」

「ええ、もちろん良いわよ」

 

 小町はゆきねぇに勉強を見てもらっています。決して楽はさせてもらえませんけど、小町に合わせた勉強法を考えてくれるので心地が良いのです。

 

 あと兄とは違って良い匂いなのもポイント高い。小町が問題を解いている時に放っておいてくれるのはどっちも一緒なのですが、こればっかりは仕方がありません。別に兄が臭いとか思っている訳ではなく、どちらかと言えば小町にとって好きな匂いには分類されていますよ、ええ。

 

 

 お勉強の合間に休憩がてら家事を手伝ったりしていると、時刻はそろそろお昼前。残念ながら、兄はまだ起きてはきていません。この残念は兄にしか掛かっていませんので悪しからず。小町にとってはむしろチャンスとも言えるのですから。

 

「そろそろ息抜きに小町がお昼ご飯作るよ」

「あら、私も一緒に作るわよ?」

 

 世界有数の良姉は当たり前のように手伝ってくれる気でいます。小町としては一緒にお料理をしたいところなのですが、ようやくの使命を進めるチャンスを無駄にするわけにはいきません。

 

「ううん、ゆきねぇはお兄ちゃんを起こしてきてよ。小町、ご飯は出来たてを食べて欲しいな♪」

 

 ゆきねぇも誰に似たのか、小町の前では理由がないと兄に近付きません。姉の意地なのか、秘密の恋心隠しなのかは分かりませんが。

 小町の音符まで付いているようなお願いを聞くと、ゆきねぇは渋々首を縦に振ってくれました。ちょっとだけ悪いことをした気分になりますが、未来を想えば仕方がないのです。

 

「たぶん20分程で出来るので、まぁその間に頑張ってくださいね~♪」

 

 その間は小町はどうしても目が離せないので、だから何をされていても大丈夫ですとゆきねぇの背中を強く押しました。早く既成事実でも作って小町を安心させて欲しいものですね。

 あと、兄の部屋の前に洗面台へと身嗜みチェックをしに行っちゃうのですが、これは恋心を隠す気があるのでしょうか。

 

 

 自分で言うのもあれですが、小町は料理が得意です。手際よく食材を切り、フライパンに油を引いて火を通していきます。そして溶き卵と一緒に炊飯器のご飯と合わせて炒めていけば小町特製チャーハンの完成です。片手間で作っていた中華スープも良い具合になりました。味付けも基本は味覇をぶち込むだけなので、中華料理はお手軽なのです。

 

 ……おっと、お昼ご飯の香りに釣られたのか、寝ぼけ眼の兄がパジャマ姿のままに登ってきました。

 

「おはよ、お兄ちゃん」

「ん、めっちゃ良い匂いするわ」

 

 本能のままに言っているのでしょうが、気軽に褒めてくれるのは兄の良いところです。小町ポイントを進呈してあげましょう。使い道は鋭意検討中です。

 おや、待てども起こしに行ったゆきねぇの姿がまだ見えません。てっきり、兄に続いてすぐに上がってくると思っていたのですが。

 

「あれ、ゆきねぇは?」

「んー、なんか焦って自分の部屋に戻って行ったが」

 

 おやおや、どうしたのでしょうか。兄の様子を見るに大したイベントは起きていない筈なのですが……。

 小町はこれでも理解のある妹なので、こういう時の鉄板イベントは予想が着きます。寝言で愛を囁かれたパターンか、寝相で急接近パターンか、はたまた朝の生理現象──ああ、兄のそういうネタは考えたくないのでこれ以上はやめておきましょう。

 

「んー、盛り付けは任せていい?」

「おう、唯一得意なやつだ」

 

 兄は料理が出来ません。いいえ、これには語弊がありました。

 料理をする機会があまりにも無かったのでやれません。ただ、手伝おうとはしてくれるので、小町とゆきねぇは盛り付けと食器洗いを担当してもらうことに決めたのでした。

 

 残りは兄に任し、小町は階段を降りてゆきねぇの部屋へと足を運びます。決して音を立てないように忍足です。おしたりじゃありません、心も閉ざしません。

 

 小町は施錠されていない扉をこっそり開いていきます。くふふ、一体どうしたのでしょうか──。

 

 あら。

 

 あらあら。

 

 あらあらあら、ゆきねぇはなんとベッドでうつ伏せになってパンさんのぬいぐるみに顔を埋めてます。足も小さくパタパタとさせておりますよ。

 

 なるほど、…………なるほど?

 

 改めて忍足で階段の中腹まで登り直しまして、普通に向かい直しましょう。何が起きたのかは正直分かりませんでしたが、ゆきねぇの可愛い姿が見られたので良しとします。取れ高充分です。もう3時間特番だとしても充分な量になっているでしょう。

 

 足音も聞こえるように立て、ドアもいつもより大きめにコンコンと叩きます。そして、ちゃんと「どうぞ」と返事が来るまで開けずに待機をします。これが女の子の部屋に来る時のマナーなのですよ。

 

「……んんっ、どうぞ」

「ゆきねぇ、お昼もうできたよー」

 

 扉を開けば、ゆきねぇは澄ました表情で優雅に座っていました。先程までの行動を見ていなければ、小町もお姉様とお呼びしたくなっていたに違いありません。でも小町さんは見ていましたので。こまみて。

 

「ありがとうね、小町」

「ううん、小町も良いものを見せて頂きましたので♪」

 

 おっと、本音が出てしまいました。ほら、ゆきねぇもちょっと首を傾げちゃってますよ。……ほんとに何してても可愛いなこの人。

 

 

 無事に誤魔化すことに成功し、今は食後のゆったり時間をリビングで過ごしています。

 L字のソファーにゆきねぇ、小町、兄の順で座ってしまったのはミスでした。無意識で二人の間に座ってしまうのは小町の悪い癖です。

 まぁ、逆に考えましょう。離れていれば言葉を交わすしかコミュニケーション方法がないので、二人も話し易いでしょう。理由をあげちゃったと考えれば良いのです。

 

「そう言えば、今週もあっちの家の方に行かなくていいのか?」

「帰ってきて欲しい、とは言われているけれど」

「……けど?」

 

 ゆきねぇは雪ノ下家にもたまに帰っています。基本は長期休暇でたまに週末といった感じでしょうか。最近はあまり帰っていないので、そろそろ催促が来ているとは小町も思っていました。

 

 ゆきねぇは膝に乗せたカーくん、小町、そして兄へと順番に視線を動かすと口を開きます。

 

「兄さんと小町とカマクラが一緒に来てくれるなら考えるわよ?」

「……俺たちは兎も角、カマクラは知らない場所だと落ち着かないだろうな」

「そうよね。今年は小町の受験勉強もあるし、帰るにしても年末くらいにしようかしらね」

 

 予想通り、二人は自然とお喋りをしています。でも小町はここで終わる女じゃありません。更なるアシストだって果たしてみせましょう。

 

「……小町は勉強したいから、二人でお出かけでもしてきたら?」

 

 受験生という称号は非常に便利で素晴らしいです。嘘です。一日でも早く終わって欲しいと心の底から思っておりますが、特に用事がない日でも「勉強するから」の一言で全て片付けることが出来るのは便利ですよ。

 

 二人して小町を見つめてきました。ここで小町がニコニコしていれば、気にせず二人でデートと洒落込んでくれることでしょう。ラブコメ主人公の親友ポジが妹にいるなんてイージーモードも良いところですね。

 

「小町が行かないなら、スーパーに買い出しくらいでいいか」

「そうね、小町が来ないのなら遠出はしたくないわね」

 

 あれあれ、どうも予想していた反応とは違いますよ。確かに、二人はインドア派だけれども、三人で出掛ける時は楽しそうにしてくれてるじゃん!

 

「いやいやいやいや、小町のことは気にせずお好きに、どうぞどうぞ~♪」

 

 しかし、一度で諦める小町ではありません。押して駄目ならもう一度押してみる。小町は諦めの悪い女に育ってしまいました。

 ふふん、小町が猫撫で声を使ってゆきねぇを落とせなかった経験は殆どありませんよ。ほら、二人でどこか行こうって早く兄を誘うのです。ほらほら。

 

 小町がにんまり笑顔で見続けていると、ゆきねぇはクッションを口元まで抱えてぽしょりと言葉を溢しました。

 

「休みの日くらいは小町とも一緒にお出かけしたいのに……」

 

 …………は? なにそれ反則じゃん。ちょっと、これで落ちない男の人って居るの? 女の小町ですら落ちそうだよ。おい、お兄ちゃん見てるか? って滅茶苦茶ガン見してるなこれ。

 

「ふぅ、仕方ないなー、小町もどこへでもお供しますよ。護衛はお兄ちゃんに任せとけばいいから、小町たちはお洒落して行きましょう♪」

 

 仕方がありません。プランBで行きましょう。プランBは何かって、無いですよそんなもん。ここから先は行き当たりばったりです。ええ、普段通りとも言えますね。

 

「任せとけ、撃退用の催涙スプレーは常備してる」

「男らしさの欠片も無くて小町的にポイント低いよ……」

 

 もうちょっと少女漫画のヒーローみたいな助け方をして欲しいものです。残念な兄は女心を全く理解出来ていない。これは小町ポイント低いです。使い道は鋭意検討しているのだから、張り切って溜めるべきですよ。

 

 ですが、兄は小町の残念な者を見る目にも負けず得意げにサムズアップ。

 

「確実性を重視してるんだよ、万が一にも追い払えないのは困るからな」

「急激にポイント高になったよ!」

「えっ、ポイントの価値が上がって貰えるポイント減ってない?」

 

 兄の言っている意味が小町には分かりません。ポイントの価値は常に高いですし、使い道も鋭意検討中です。

 

「私も合気道を齧っているから、小町のことも守ってあげられると思うわ」

「……ゆきねぇは一緒に守られていようね」

 

 もう一人の得意げな姉にも小町は残念な目をしてしまいました。

 二人が妹離れしてくれる日はまだまだ遠いんだろうなぁ……。こんなのだと、小町も離れ難くなっちゃって困りますね。

 

 小町はソファーから立ち上がり、しっかりと二人の手を取りました。素敵な姉とちょっと変な兄、どちらの手も同じように。

 

「お兄ちゃんもゆきねぇも早く準備して行くよ!」

 

 今は小町にしか出来ないことをしよう。きっと、二人の架け橋になれるのは小町だけだろうし。それに、小町がお姉ちゃんとお呼びしたいのはゆきねぇだけだと、既に心に決めちゃってますので。

 

 

 ──だって小町は、二人の妹なんですから。

 




初の小町視点になります。
いつもと違う様に書けるのは楽しかったです。


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妹ノ下雪乃さんは中二病でも恋してた。

 

 憩いの休日が終わり、またしても憂鬱な月曜日がやって来てしまった。憂鬱と言っても、憂う要素は朝早く起きなくてはいけないくらいなもので、特段に嫌なことは別に無いんですけどね。

 強いて言えば、今日は雪乃と一緒にお昼を食べられないことが辛い。つい最近まで一人で食べていた癖に大袈裟だと思われるかもしれないが、それは雪乃とお昼を食べていない側の意見だろう。神よ、取り上げられるなら最初から与えて欲しくはなかった。嘘です。明日は一緒に食べるのでありがとうございます。

 

 そんなアホなことをHR前の教室で一人考えていると、明るい髪色と顔色を引っ提げるお団子頭の少女が机の前に現れた。雪乃の友人であり、俺の友人でもある、由比ヶ浜結衣。そして、今日の雪乃との昼食を奪ってきた張本人。いや、俺も誘ってくれたのだが、なんか色々と気を使いそうなので遠慮しただけです。

 

 自然と教室に居るところを見るに、本当に同じクラスだったようだ。

 

「ヒッキー、やっはろー」

「おう、……ってか何それ、知らないけど流行ってるの?」

「うーん、多分あたししか使ってないから流行ってはいないと思う」

 

 オリジナル挨拶かよ。固有(オリジナル)って書かれていると急にお洒落になるから、俺も昔は色々と考えたものだ。男子は早々に卒業を求められるのに、この歳まで続けても許されるのは女子高生だからだろう。羨ましい。

 

「そいえばさ、聞いてよ! ゆきのんがさ、私も奉仕部に入るって言ったら反対してきたんだけどね、何度かお願いしたら許してくれたんだー。優しいよね、ゆきのん」

 

 嬉しそうに語る由比ヶ浜の声色は朗らかで、聞いている身としても悪い気はしない。その話は知っているしね。雪乃が優しいし、可愛いのも知っている。雪乃のことなら大体何でも知っている。知らないことも、これから知っていきたい所存。

 

「どうしてヒッキーがドヤ顔するの?」

「ふふ、これは古参にしか分かるまい」

「……こ、高三? 来年まで教えてくれないの?!」

 

 アホの子、由比ヶ浜と雪乃の話をするのは存外に楽しかった。小町以外と雪乃について語る機会は殆どないので新鮮味があり、友人との時間に心地良さを感じるには充分な出来事であった。

 

「そう言えば、あの件については大丈夫なのか」

 

 自分たちの話ばかりしているのもあれなので、先日の由比ヶ浜の依頼について遠回しに訊くことにした。随分と婉曲な質問に対して、彼女は少し考える素振りを見せるだけで容易に辿り着く。彼女の察する能力は決して馬鹿になど出来なさそうだ。

 

「……頑張ってみるよ、ゆきのんとも約束したからね」

 

 そう口にした由比ヶ浜は、小さい握りこぶしを作って小さく笑っていた。

 

 

 午前中の授業も終わり、昼休みを告げる音が鳴り響くと教室には喧騒が訪れる。各自が共に過ごす相手や場所、もしくは購買へと移動を始めていた。

 俺もお腹が告げる文句を諌めつつ、鞄から大切な弁当箱を取り出していく。そして、先日までの憩いの場へ足を運ぼうと席から立ち上がろうとした、その時だった──。

 

「ごめん、あたし今日は他の友達と食べる約束してるから」

 

 後方から由比ヶ浜の少し強張った声が聞こえてきた。きっと、今朝にも話した通りに意思表示を頑張ろうとしているのだろう。

 

 だが、俺はこれを聞いて良いものか判断に迷っていた。友達だからと、彼女の努力を把握しようとするのは気持ち悪がられるかもしれない。ただの友達すら碌に作ってはこなかったのに、いきなり異性の友人なんて出来たのだから、その対応を俺は図りかねていた。

 

 迷った挙句、彼女らの話を聞き届けずに教室を出て行くことにした。心配する気持ちが無い訳ではないが、由比ヶ浜の見せた強さと、三浦の優しさを僅かではあるが知っているので、きっと問題は起きず円満に解決されるであろう。

 

 これが友達としての適切な距離感だと信じて、俺は何時もの場所へと向かっていった。

 

 * * *

 

 放課後、今後の奉仕部の活動頻度について相談に行った帰りに部室へと向かうと、部室の前で雪乃と由比ヶ浜が扉を少しだけ開いて中の様子を窺っていた。「どうかしたのか」と声を掛けると、揃いも揃ってびくりと跳ね上がる。その反応は驚いたカマクラに似ているが、雪乃の愛おしい縋るような瞳をあやつはしてはくれない。

 

「びっくりしたぁ……」

「ねぇ、中に変な人が居るのだけれど」

 

 軽く頭を下げて驚かせたことを詫びると、俺は同じように中をゆっくりと覗き始めた。俺はいま血眼になっていることだろう。雪乃を怖がらせることが万死に値すると、何が何でも教示しなければならない相手がそこには居るのだから。

 

 やがて視界に入ってきたのはコートを羽織り、指ぬきグローブを装着した男が一人。……なんだ、あいつだったのか。

 

 安心と諦念が入り混じった溜息を吐き、俺は扉をそのままの勢いで開いていった。すると、空いた窓から吹く風に乗って紙束が舞い踊る。その紙々すらも演出かのようにコートを靡かせ、逆光を纏う彼の姿は確かに絵になっていた。

 その男が不敵に笑うのを見て、俺もフッと口角が上がりそうになる。そして、挨拶代わりに言葉を呈した。

 

「おい、散らかすんじゃねーよ」

「あっ、はい」

 

 笑みを引っ込め、そそくさと散乱していた紙を回収していく。彼がぽっちゃり体系の割に俊敏な動きを見せている間に、雪乃たちも警戒を解かないまでも室内へと足を踏み入れることが出来た。

 無作為ではなさそうに回収した用紙を並び替え終えると、漸く男は自己紹介へと入る。黒縁眼鏡越しに、ただ俺の目だけを真っ直ぐに見て。

 

「ふっ、今更貴様に名乗る必要は無いが、新顔が見えるので改めて名乗ろう。我は剣豪将軍・材木座義輝(ざいもくざよしてる)であるぞ」

「……えっ、剣豪?」

「由比ヶ浜、剣豪の方は無視していいぞ」

 

 そう、彼の名は材木座義輝。俺とは体育でペアを組む時に余った者同士という、薄くも暑苦しい繋がりがあるだけの男だった。

 疑問符を浮かべながら真面目に考えていそうな由比ヶ浜を眺めていると、不意に右袖がくいくいっと引かれる。その方向へと目線を動かすと、やたら滅多に可愛らしい顔が俺の耳元へと近付いてきた。

 

「中二病、懐かしいわね」

「おいやめて」

 

 やめてやめて、中学時代のことを思い出させるのはやめてください。そういうお年頃だっただけだから、神界日記も政府への報告書もとっくに書くの辞めたから。そんな吐息交じりの囁き声で、耳を擽るよりも心をざわつかせるのは勘弁して。

 

「創造神に破壊神と……何だったかしらね?」

 

 ──永久欠神だよ……って、おいやめろ。

 

 

 結局、由比ヶ浜にも材木座の足利義輝ベースで作られたキャラクター性と共に中二病について軽く説明し、今日奉仕部へと赴いた理由を俺が先導して訊いていた。材木座が雪乃たちとまともに喋れる筈もないし、近付けたくもなかったので。

 

 そして渡されたのが、先程の散らばったA4用紙。そこには42字×34行で整頓されている文字列がびっしりと印字されていた。

 

「それは我が書いたラノベの原稿である。とある新人賞に応募したいので感想が聞きたいのだ」

「ジャンルにもよると思うが、なろうとかに投稿すれば?」

「……我は酷評されたくない、されたら筆が折れる自信があるから無理だ」

 

 目立つ格好をしている癖にメンタルは人並み。個人的には感想が付くだけマシだとも思ったが、そこは人それぞれだろう。

 依頼という形式である以上、俺は読むことには文句はなかった。知り合いが書いた小説なんて、正直興味がそそられるに決まっているのだが……。

 

「スキャンして追加で二人分印刷するのは面倒だから、PDF形式で送ってくれ」

「あっ、はい」

 

 そうして、俺は初めて材木座と連絡先を交換することになったのだった。

 

 * * *

 

 材木座が書いた小説は、異世界転生して勇者パーティーに追放されたけど、本当は世界最強魔法剣士でフェンリルも使役できるチート能力持ち主人公のハーレム物だった。送られてきたデータに不備がないか確認の際に斜め読みしただけなので、詳細はこれから読まねばならない。

 雪乃が心を込めて作ってくれた美味しい夕飯を食べ、湯上り後の幸せ気分には少々荷が重く感じる。賞を取りたい気持ちは分からんでもないが、人気の流行り要素の盛り方がえぐい。オリジナル性で勝負出来なかったのだろうか。

 

 これ以上の文句は読んでからにしようと、俺は渡された用紙を手に取ってベッドに重い腰を掛ける。そして、開幕1行で勇者から追放されるシーンに頭を痛めていると、コンコンと扉から小さなノックの音が聞こえた。

 

「雪乃、どうかしたのか?」

 

 叩く音から大概はどちらか分かるので、俺は名前を呼びながら音の方へと向かって扉を開く。そこには案の定、可愛らしいパジャマの装いで頬を赤らめる雪乃の姿。少し湿った長い艶髪からはサボンの香りを放っている。元が良過ぎて3割増しかは分からないけれど、湯上りゆきのん、最高。

 

「ひとりで読んでいると色々と不安定になりそうだったから、一緒に読んでもいい?」

「おう、それならリビングで読むか」

 

 俺の部屋には学習用の机に付属している椅子しか置かれていないので、二人で読むならソファーの方が良いだろう。

 

「……いいえ、ここで良いわよ」

 

 そう答えると、雪乃は俺の横を通り抜けてベッドに腰を降ろした。そして、その隣をぽすぽすとはたき始める。どうも隣に座れということらしい。

 

 希望通りベッドに隣り合わせに座ると、俺たちは互いに紙面と画面に向き合った。

 雪乃と一緒ではあるが、俺がこれから立ち向かうのは容易な敵ではない。そのことを肝に銘じて、俺は再び勇者に追放されるシーンから読み始めるのであった。

 

 暫く黙って読み進めていくと、幾らでも文句が口から飛び出そうになる。先ず何よりも読み辛い。接続詞が多いのはまだ良いのだが、助詞の使い方がおかしな所為で一つの文章内で意味が繋がっていない。前後の文章から正しい助詞を類推しようにも、あまりに描写が飛んでいる場面が多く、場面想像に頭を悩ませ続けなければならなかった。

 

 頭痛が痛いので軽く頭を抑えていると、その腕を引き離すかのように袖が引かれる。視線を隣へと移すと、同じ思いをしているであろう雪乃が疲弊した顔で見上げていた。

 

「兄さん、少し横になって読んでもいい?」

「…………雪乃が嫌じゃなければ別に良いけど」

 

 俺の答えを聞くと、雪乃は慣れた動きでうつ伏せに移行する。ここまで寛いでいる姿を見たのは何時ぶりだろうか。ベッドの上には真っ直ぐに伸びる細くて長い綺麗な足。それが余りにも目に毒なので、俺は退けておいた掛け布団を彼女の腰まで掛けることにした。

 その足に触れないよう丁寧に事を終えると、雪乃は振り返って何かを察したかのような表情を向ける。そのまま奥へもぞもぞと移動して、明らかに距離を取られてしまった。見過ぎて引かれたかもしれない。死にたい。

 

「兄さんも疲れたでしょうし、隣どうぞ、…………兄さんが嫌じゃなければ」

 

 嫌な訳がないが、躊躇してしまいそうになるのは何故だろうか。それはきっと、不安で高鳴ってしまった鼓動の所為。しかし、今日は疲労と雪乃の親切心を理由にして、彼女の言葉に甘えることにした。

 

「何だか懐かしい、こうして昔は一緒に本を読んだりしていたわね」

「……そうだな、今はこんなのを読まされているが」

 

 狭いシングルベッドなので、うつ伏せで並ぶと顔は近いし柔らかな二の腕は当たる。それでも雪乃は嫌な顔を一切見せない。そんな状況は確かに昔を思い出すには充分だったろう。

 子供の頃は小町も一緒に川の字に並び、雪乃と二人で絵本を読んであげた記憶もある。大きくなった今は二人が限界で、彼女たちの成長を喜ぶべきか、以前とは同じようにいられなくなったことを憂うべきなのか分からなかった。

 

 心ここにあらずで枕元に置いた原稿用紙のページを捲ると、雪乃はある一文を指差して首を傾げる。そこに記載されていたのは魔法剣士である主人公の奥義名。

 

「ここの魔法剣技名『幻紅刃閃(ブラッディナイトメアスラッシャー)』は流石に無理がないかしら。兄さんなら、どうルビを付ける?」

「ふっ、……『幻紅刃閃(ファンタズム・メアリー)』だな」

「くすっ、どっちもおかしいわね」

 

 俺の方はオサレ感あって格好良いと説明するも、認めてもらえず笑い続ける雪乃。その後も二人でページを捲っていると退屈はしなかった。オマージュを超えて普通にパクリ表現の連続、出会って即惚れるチョロインたち、特に意味のないフェンリルの存在。どれもこれも一人では苦言を呈したくなるが、二人でなら笑い話になった。そうして、遂に最後のページへと辿り着く。

 

 その頃には時計の短針もてっぺんを過ぎており、隣からは可愛らしい寝息が聞こえていた。寝顔があまりにも天使で思わず写真を撮りたくなる。額縁に入れて飾ったり、部屋中に貼っても目に痛くはないだろう。俺が痛すぎるが。

 起こすのも可哀想なので、どうしようか悩んでいると廊下から小町の歩く音が聞こえ始める。それからノックもなしに扉が開かれた。

 

「あれ、ゆきねぇもう寝ちゃったの?」

「気付いたら寝てた。ってか俺はどうすれば良いと思う? 写真は撮ってもいい?」

 

 小町は考えている素振りを見せながらも雪乃の寝顔をこっそりと撮影する。そして、脳内で選択肢にすら上げていなかった結論をあっけらかんと口にした。

 

「そのまま一緒に寝れば?」

「いやいや、流石にそれはダメでしょ……」

 

 男女七歳にして席を同じうせずって言葉があるくらいなんだから、同衾なんて以ての外でしょうに。記憶を辿ればその歳以降も普通に一緒に寝ていた記憶もあるけどね。

 

「だって小町のベッドは貸したくないし、ゆきねぇのベッドを勝手に使うのもダメでしょ。ソファーで寝て、お兄ちゃんが体調を崩したら、ゆきねぇは自分を責めちゃうよ」

 

 小町にしては珍しい正論のオンパレードに、なかなか返す言葉が出てこない。その隙に小町は部屋の照明を落として、小さく「おやすみ」と呟いて去ってしまった。

 大きな声も、大袈裟に動くことも出来ない状況で俺はゆっくりと目を閉じる。眠れる筈がないと思っていた俺の意識とは無関係に、心地良い寝息の音とサボンの香りによって、安らかな眠りが間も無く訪れたのだった。

 

 

 

 

 ────朝日の眩しさに目が覚めると、もぞもぞと隣から動く音がした。その横顔を覗き込むと、こちらを寝惚けて見ていた雪乃の瞳がまん丸へと変容する。ここまで驚いた顔は初めて見たかもしれない。

 

「えっ、きょ、今日はたまたま寝てしまっただけなのよ、いつもではなくて……」

 

 全く怒ることなく、ただただ動揺している姿は『今日もゆきのん可愛いで賞』を受賞した。ここ数日は毎日受賞している。週末から設立されたので、ここまで逃した日は一日もない。

 

「いや、そんなこと分かってるって。……というか悪かったな、隣でそのまま寝ちまって」

「…………別に気にしないで大丈夫よ」

 

 昨夜の状況を思い出したのか、雪乃は徐々に落ち着きを見せ始めた。ただ、頬は依然として赤いままで、恥ずしかったことに変わりはないのだろう。やはり他の選択肢を選ぶべきだったろうか。

 

 自責の念に駆られて俯くと、俺の頭にぽすんと音がしそうな軽い衝撃。押し付けられた馴染みある感触はどうやら枕のようで、犯人を見上げようにも視界は遮られてしまっていた。

 

「まだ時間に余裕があるから、もう少し寝てていいわよ」

「それなら寝かせてもらいますけど……」

 

 一体、俺は何故頭を押さえ付けられているのだろう。その疑問が解消されるのに、さして時間は掛かりはしなかった。

 ただの一呼吸分の僅かな時間で、疑問だったことさえ忘れてしまったのだから。

 

「……それと、本当に幸せな一晩をありがとう、兄さん」

 

 言うや否や、呆ける暇さえ与えてもらえず、俺の顔には掛け布団まで覆い被せられてしまう。そのまま、雪乃はパタパタと忙しない足音を響かせて部屋を出ていった。

 自身の火照った顔を冷まそうにも、布団に染み付いた残り香が熱を下げることを拒否しているため、暫く寝付けそうにもない。時間以外の余裕なんて俺には残されていなかった。

 

 俺に出来たのは、ただひたすらに悶え続けることだけ。

 それも、彼女の温もりさえ残り続ける布団の中で。

 

 

 今回の教訓、もとい材木座の依頼に対する俺からの答えを述べよう。

 自分の好きを詰め込むのは構わない、自分が表現したいことだけを描くのも構いはしない。日本語も自分で読んで理解出来るのであれば良しとしよう。だが、これだけは言わねばならない。

 

 ──ヒロインは絶対に妹にするべきだ。

 

 




ご愛読ありがとうございました。
材木座先生の次回作にご期待ください。

それから感想と評価、本当にありがとうございます!


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妹ノ下雪乃さんとテニスの王子様。

 

 気付けば月を跨ぎ、新緑眩しい季節がやってきた。燦々と降り注ぐ太陽からの視線が初夏の気配すら感じさせている。

 その暑い青空の下で行われる体育授業、その種目が陸上からテニスへと変更になった。我が校の体育は3クラス合同の選択希望制であり、今回のもうひとつの選択可能種目はサッカーである。残念ながら、前回の相棒であった材木座はサッカーの方へと吸収されてしまったようだ。希望者が偏り、じゃんけんという名の真剣勝負に負けてしまったのだから仕方あるまい。

 

 俺としてもペアを組んで打ち合う相手を失ってしまったので、今日からは顔馴染みの壁さんにお世話になるしかあるまい。体育教師の厚木(あつぎ)を何とか言い包め、俺は一人コートから外れていった。

 これは正に、漫画の描写でもよく見る、延々と壁打ちをしている主人公の光景になるだろう。全く同じ場所に打ち返し続けて、ボール1個分の跡しか残さない。

 当初はその高みを目指そうかとも思っていたが、実際に打ってみても跡なんて殆ど見えることはなかった。

 

 そんなこんなで、何故か見ていて愛着が湧く壁さんとラリーをしていると、突然と何処からかボールがひゅいっと飛んできた。それを拾いに近付いてきたのは、茶髪にヘアバンドをしている男。由比ヶ浜曰く、『とべっち』だったろうか。

 

 そのボールは足元近くに転がり落ちたので、俺は手で拾って投げ返してやる。すると、難無くキャッチした彼は、如何にも軽そうな口調と態度で話し掛けてきた。

 

「めんごめんご〜、……ってヒキタニさんじゃん」

「ヒキタニって誰だよ、俺は比企谷だ」

 

 俺は何度も口にしたことのある訂正の言葉を無心で放った。実際、読み方が複数ある萩原、渡部、我妻のように読み間違いを強制する苗字もあるので、ある程度は仕方がない。特に我妻は本当に酷い、高確率で間違えちゃう。

 

「……あれ、そうだっけ? まぁ、あだ名ってことでよろしゃす!」

 

 あまりに軽すぎる言動にずっこけそうになったが、これは由比ヶ浜の所属しているグループでは当たり前の対応なのかもしれない。彼女も三浦も呼び方に『ヒキ』までしか使ってくれてないしね……。それに呼び間違いを愛称とするのは鉄板ではあるので、この男を責める気には到底なれなかった。

 

 その後、とべっちは手刀のポーズで感謝と謝罪を笑顔で振り撒きながら、元居たコートの方へと足早に戻っていった。彼の周りだけ重力が弱いんじゃないかと思う程に色々と軽々しかったが、何だか憎めない不思議な男である。

 

「さっきのマジで魔球っしょー!」

「あはは、あれは取れねーわー」

 

 何だかやけに騒がしい声がしていたコートは、奴が居た場所だったらしい。騒がしいも特徴に追加しよう。

 そこでは、あの如何にも好青年代表みたいな男──葉山も楽し気に笑っていた。彼の周りには多くの人が群がっており、その中心でラケットを握り込んで周囲に何かを教えている。顔も良ければ性格も良いらしい。

 

 俺にしては珍しく他人を気に掛けているのだが、それは決して僻みから来るものではない。では何故か。理由は簡単、ぐうの音も出ない程のイケメンで、雪乃の知り合いだから……。

 

 お兄ちゃんは、誰であろうと、絶対に、許しません。

 

 そんな憎悪とも呼べる強い気持ちを込めて、俺は壁に渾身のサーブを繰り出していく。この時、俺は初めて壁に綺麗なボールの跡を残すことが出来たのだった。

 

 * * *

 

 後日の昼休み、またしても俺は略奪者である由比ヶ浜に雪乃との時間を奪われていた。遠くでは、先月までは行われていなかった女子テニスの自主練習が行われている。その光景と爽やかな風がもたらす葉擦れの音に癒されながら、俺はゆったりと愛妹弁当に舌鼓を打ち鳴らしていた。

 だが眼前でぽつりと最後に残っているのは、偶然にも雪乃とお昼を食べられない日のみに存在するようになったプチトマト。それを嫌々咀嚼をして、綺麗に空となった弁当箱を閉じていく。雪乃と二人で食べる時は、最初から最後まで幸せたっぷりなのにね……。

 

 俺がしみじみとトッポに通ずる感傷に浸っていると、後方からパタパタと二人分の足音が近付いてきた。一つは元気で快活さを感じる音。もう一つは聞き間違える筈もない、愛らしい足音。

 

「わぁ……、本当にこんなところで食べてるんだ」

「おい、俺のベストプレイスを馬鹿にしたか? 取り敢えず表に出ろや」

「残念ながら、ここが既に表よ」

 

 冗談交じりに喧嘩腰になると、愛する雪乃から気持ちの良いツッコミが入る。俺は満足気に振り返ると、そこにはやはり雪乃と由比ヶ浜が立っていた。

 仲睦まじい二人は、海側へと戻っていく風に髪とスカートを手で押さえながら隣に寄ってくる。比較的長めの雪乃ですら不安なのに、由比ヶ浜の短さでは不意に見えてしまうのではないかと心配にもなった。

 

「ちょっと暑くなってきたから、風が気持ちいいねー」

「だな、……ってか何か用事か?」

「由比ヶ浜さんが飲み物を買いに行こうって言うから、序でに色々と確認をね……」

 

 そう口にすると、雪乃は俺の顔から手元の弁当箱までをざっくりと眺める。彼女の言う確認とは、まさか生存確認だろうか。流石に一時間程度で干からびるにはまだ気温が足りていない。というか、雪乃と小町を置いて簡単にはくたばらないぞ。

 

 そのような他愛もない話を三人でしていると、テニスコートで練習をしていた女テニの子が、校舎側へと向かって来る様子が視界に入った。由比ヶ浜はジャージ姿の彼女を知っているようで、稚さを感じる明るい嘆声を漏らすと、話し掛けるために一歩前へと足を踏み出していく。由比ヶ浜は見るからに小顔なのに、とても顔が広い。

 

「さいちゃん、テニス部の練習おつかれさま!」

「ありがとう、由比ヶ浜さん」

 

 ショートカットに中性的な顔立ち、そして華奢で色白。そんな美少女と言って差し支えない彼女は、首に巻いたタオルできらりと輝く汗を拭きながら労いの礼を告げていた。

 明るく声を掛け合う二人の様子を共に見ていた雪乃は、頬に手を当て場にそぐわない訝し気な表情を浮かべている。その表情のまま、自身を疑うような声色でそっと言葉を漏らした。

 

「……ノーマークだったわね、どうしてかしら」

 

 妙な言い回しが気になりはするが、恐らく雪乃は彼女を知らなかったのだろう。部室に初めて来訪した由比ヶ浜のことは当たり前のように知っていたので、よもや同学年の全生徒を把握しているのかと思っていたのだが、流石にどうも違ったらしい。

 

 見覚えのない庇護欲を誘うような顔立ちをぼんやり眺めていると、さいちゃんと呼ばれていた子は不意に俺の方へと視線を移す。そこには屈託のない微笑が添えられていた。

 

「比企谷くんだよね。前から格好良いと思ってたけど、テニスも上手で憧れちゃったよ」

「お、おう……どうも?」

 

 珍しく真正面から他人に褒められ、少しばかり照れてしまいそうになる。それにしても、現在女子は体育館での授業の筈なのに、まるで見ていたかのような口振りに違和感を覚えた。

 

 湧いて出た疑問に首を傾げていると、サボンの良い香りが急に強くなる。隣を見やれば、いつの間にか肩が触れてしまいそうな距離に雪乃が座っていた。そして、世界一可愛らしい横顔から、平時よりも一層に真剣な声を発する。

 

「急にごめんなさい、私は雪ノ下雪乃。あなたのお名前を聞いても良いかしら?」

「うん、僕は比企谷くんたちと同じクラスの戸塚彩加(とつかさいか)です。雪ノ下さんのことも勿論知っているよ」

「……えっ、すまん、クラス替え直後だからか知らなかった」

「えっと、一年生の時も同じクラスだったんだけどなぁ……」

 

 ボクっ娘にテンションが上がって話に割り込んでしまうと、戸塚はあからさまに落ち込んだ様子を見せる。由比ヶ浜も「そもそもクラス替え直後じゃないし」とドン引きの言葉と視線を俺へと向けていた。今回は完全に俺が悪いので、何とか良い感じの言い訳を見繕い、直ぐさまフォローを入れようと試みる。

 

「あー、……クラスの女子で認識してるのは由比ヶ浜と三浦くらいなので」

「あはは、僕男の子なんだけどなぁ……」

「……なるほど、それなら知らなくても無理はないわね」

 

 俺はあまりにも非現実的な真実に絶句しているのだが、雪乃は雪乃で不穏なことを独り言のように呟いている。これが俺のことを言っているのであれば、女子しか認知していない不埒な男でないことを早めに訂正しなければならないだろう。だがきっと、自身が知らなかったことを言ってるだけって信じるからね……。

 

 そんな願うような視線で雪乃を見つめていると、今更ながらに肩が触れる程の距離感だと気付いた様子。顔をそっと赤らめ、ほんのばかり座る位置をずらしていく。可愛い。そうして拳一つ分の距離を作ると、彼女は戸塚に向かって、綺麗な艶めく長い黒髪を垂らすように頭を下げた。

 

「戸塚くん、さっきは失礼な物言いをしてごめんなさい……」

「ううん、別に失礼だとも思わなかったし気にしてないよ」

 

 男と分かっても尚、いや寧ろ可愛く見え始めた戸塚が身振り手振りを添えて対応している。雪乃の物言いが失礼だったかは分からないが、完全に失礼だった輩に心当たりがあったので、俺も便乗して頭を下げていった。

 

「俺は間違いなく失礼だったわ、すまん」

「本当だよ、もう。……さいちゃんごめんね? あっ、あたしたち奉仕部って部活をしてるから、もし困ったことがあったら言ってね。お詫びってわけじゃないけど協力するよ!」

 

 由比ヶ浜も一緒に頭を下げて謝ってくれていた。その姿、行動はまるで母親か姉のようである。

 彼女の時折見せる大人びた表情や、相手を畏まらせない気遣い方などから年上感を抱くことはあるのだが、こうして第三者も交えて行動されると実感が凄い。あと横から見える包容力と母性の塊みたいな物も本当に凄い。

 

「……えっと、それなら頼んでもいいかな?」

 

 その言葉を口切りに、戸塚は我が奉仕部にある依頼をもたらしたのだった。

 

 * * *

 

 次の日の昼休み、俺たち奉仕部は戸塚と共にジャージ姿でテニスコートへと来ていた。不幸にも道中で拾ってしまった材木座もおまけ付きで。

 

 戸塚の依頼は、簡潔に言えば『テニスが上手くなりたい』というものだった。自身の為よりも部全体としての未来を憂いての願いだったことから、昼休みも返上で協力することになっている。

 お弁当は空いた時間にささっと食べられるようにと、由比ヶ浜と戸塚の分も合わせて雪乃が色鮮やかなサンドイッチを作ってくれていた。本当に天使。戸塚も天使に見えることもあるし、由比ヶ浜も割と女神寄りな気もするので、此処は天上かもしれない。嘘です。天井もありはしません。

 

「やばっ、ゆきのんのサンドイッチほんとに美味しい!」

「わ、我にも一口だけ頂けないでしょうか……」

「多めに作ったから、一つくらいなら別に構わないわよ」

 

 あんな酷い小説を読まされたというのに、雪乃は意外にも材木座に対して好意的に接していた。何なら、「また書いて欲しい」とすら口にしていたのだから驚きである。俺と一緒に読んでいた時は結構辛辣なことを言っていた記憶があるんですけどね……。

 

 まぁ、今のところは執筆に対するモチベーションが上がるばかりで、雪乃に対して妙な行動を取ったりはしていないので見逃している。先程も戸塚に対してデレデレだったし、単純に可愛いに対しての耐性が低いのだろう。

 俺は世界一可愛い妹たちとひとつ屋根の下で過ごしているので耐性は世界最強レベル。最近は日々可愛いが更新される雪乃にボコられている気がしなくもなくもなくはないが。

 

「では、そろそろ特訓を始めましょうか」

「うん、よろしくお願いします」

 

 テニスという競技において、どうすれば上手く強くなれるのか。その答えは人によって異なるだろう。だがしかし、間違いなく共通している部分もある。それは『筋力』だ。お願いマッスルと祈るのが手っ取り早い。

 だから、初日は戸塚の実力を測りつつ、足りていない筋力を鍛える手筈になっている。筋肉を付けることでダイエット効果が期待できると聞き、由比ヶ浜と材木座も一緒に腕立て伏せを始めていた。材木座は兎も角、由比ヶ浜に必要は無い気がする。

 

 何だか艶めかしい声が聞こえる気もするが、それを無視して今後の練習メニューを相談するために、雪乃と二人で木陰へと向かっていく。それにしても、蛍光グリーンの正直ダサいジャージですら可愛く見える雪乃は本当に国宝級の造形美。

 

「この調子だと、そう簡単にはいかなそうだな」

「そうね。……けれど私だって筋力はないのだし、動きだけでも身に着ければ上手くはなれると思うわ」

 

 確かに雪乃も筋力は無いのだが、それを補って余りまくる程の圧倒的なセンスが備わっていた。大抵のことは三日もあればマスターしてしまうし、漫画のようなテクニックすら彼女の前では不可能にはなり得ない。無論、光る球や「滅びよ……」みたいな技は出来ないけどね。あれはテニヌであって、テニスではない。

 

 自信に満ちている愛らしい横顔を信じたい気持ちは勿論あるのだが、ことスポーツに於いては感覚の違い過ぎる者への指導は難しいだろう。特に天才とそうじゃない者とでは、並大抵以上の努力か愛でもないと埋めることも出来ない、大きな溝があるのだから──。

 

 そんな拭えない不安を抱えたまま、俺は別箱に用意されていたサンドイッチをぱくりと口に含む。雪乃謹製の調度良い塩気の効いたベーコンレタスサンドに舌鼓を打ち、溢れ出る感情を言葉として漏らしてしまった。

 

「……美味い、毎日食べたいくらいだ」

「ふふっ、兄さんには毎日作ってあげてるじゃない」

 

 下手をすればプロポーズのようにも聞こえてしまう言葉に、雪乃は嬉しそうに微笑んで応えてくれる。本来であれば、『毎日味噌汁を作って欲しい』だろうが、これは実際に毎晩雪乃が作ってくれているので今後も使うことが出来ない。一生大切にするも、世界で一番愛しているも、今と何ら変わりはないので不適当であろう。そのような生産性のない、馬鹿げたことを考えてしまうくらいには浮かれてしまっていた。

 

 隣に座る彼女も、自身の弁当箱からトマトの挟まったサンドイッチを取り出して、その小さな口で少しずつ頬張っていく。特段に気を使って会話をする必要もない、極めて穏やかな時間。依頼を請け負っている最中の忙しい昼休みではあるが、木陰で並んで食事をする時間が取れるのであれば文句はある筈もない。

 自然と口元を綻ばせて、俺はもう一つのサンドイッチを手に取った。柔らかな白いパンの間には、ぎっしりと卵が挟まっている。これもどれも大好物だ。

 

 二日振りとなった雪乃との昼食は、やはり最後まで──幸せだけが一杯に詰まっていた。

 




戸塚の依頼編の前編でした。次回は後編になります。

また、多くの感想と評価を頂き誠にありがとうございます!
お気に入りも気が付けば1000を超えていて驚きでした……。
今後とも、感想等頂けると嬉しく思いますのでよろしくお願いします。


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妹ノ下雪乃さんとエースをねらう女王様。

 

 次の日となる特訓二日目、俺と戸塚は本格的な練習の前にウォーミングアップを目的とした軽いラリーを行っていた。パコンという小気味よい音と共にボールが放物線を描きながら往復していく。

 他の連中はというと、雪乃は由比ヶ浜と木陰で涼みながら俺たちを鑑賞しており、材木座は一人で新技の開発と銘打ってドングリで遊んでいた。何とも纏まりのない集団である。

 

 本日行われた体育の授業では、戸塚の相方が不在だったお陰でペアになることが出来た。そのため、もうある程度は戸塚の実力も分かってはいる。

 彼女……ではなく、彼は努力をしているだけあってボールコントロールの基礎は出来ているのだが、華奢な身体通りの軽くて遅い球がネック。

 

 俺が力を籠めて打球を放つと、返球されるボールは戸塚の思っていた方向へ飛ばずにコート外へと逸れていく。それをバウンドする前に何とか追い付き、ラケットの先で掬い上げるように宙へと舞い上げ、落下するボールを空いている左手で掴み取った。

 

 戸塚には若干申し訳ないことをしたが、俺は完璧なキャッチングの気持ち良さに得意げな微笑を浮かべてしまう。すると、木陰の方から由比ヶ浜がぱたぱたと走ってくる様子が目に映った。

 その後方には、眩しい陽射しから目を守るように手のひらで傘を作り、ゆっくりと由比ヶ浜の影を追ってきている雪乃の姿。

 

「ヒッキーって本当に上手だったんだね……、あたしちょっと見直しちゃったかも」

「おい、由比ヶ浜の中で俺のイメージどうなってるんだよ」

「えっ、……ほんとに聞きたい?」

 

 真顔で訊かれてしまったその言葉に、俺は怖くて首を横に振ることしか出来やしない。しかし、俺がぶんぶんと顔を必死に振ると、彼女は直ぐさまに無邪気な笑顔を見せつけてきた。よもや、この俺がアホな子に揶揄われただと……?

 

 その笑みへの仕返しに、俺が開くは邪気たっぷりの罵倒語ディクショナリー。最初の言葉『阿呆』を唱える準備をしていると、俺が曇らせるまでもなく彼女の笑顔に翳りが見え始めた。その原因は、背後へと迫り来る大小入り乱れた複数の影──。

 

「あー、テニスしてるの誰かと思ったらユイたちだったんだ……。ねぇ、あーしらも一緒にやってもいいっしょ?」

「邪魔しちゃって、すまない……」

 

 そこには、三浦と葉山、それにとべっちと後は知らない三人の陽キャ集団。男四人に女子二人、総勢六名の中々の大所帯に俺は引き気味の視線を送る。

 この場の全員を知っている由比ヶ浜にとっても、この状況は居心地良くはないだろう。友達グループと別の友達グループの架け橋になるのは、俺が想像しているよりもきっと過酷な重労働だ。

 

「ごめんね、あたしたち遊んでる訳じゃないんだ……」

「は? 戸塚以外はどう見ても部外者のヒキオと……あ、やっぱり雪乃もいんじゃん」

 

 三浦は俺たちをぐるりと見渡すと、雪乃の存在を発見して嬉しそうに口角を上げる。年端の割に厚化粧で覆われた屈強な目元の所為で、まるで虎が遊ぶ獲物を見つけたかのような迫力が滲み出ていた。

 平和なテニスコートが急に、サファリパークの猛獣危険エリアになるじゃん……。

 

「あら、こんにちは三浦さん」

「ん、雪乃もテニス出来るなら、あーしとテニスしようよ」

 

 一方、愛らしい猫みのある雪乃は、スコティッシュフォールドのぺたりとした耳のように眉を下げていた。なにそれ、可愛い。急に猫カフェになるじゃん……。

 

「今は戸塚くんの練習に付き合っているのだけれど……」

「ふーん、……なら雪乃があーしにもし勝てたら、戸塚の練習は代わりにあーしが見てあげるし」

「ま? これってスポ根の激熱展開じゃね……?」

「あはは、困っちゃったな……」

 

 雪乃と戸塚は小動物みたいに困り果てているが、対岸のとべっちを始めとした男軍団が「うおー!」と喧しく盛り上げる。混沌とし始めた状況の中で、事態の収拾を図るために先ずは由比ヶ浜に耳打ちをした。

 

「なぁ、あんなこと言ってるけど三浦ってテニス経験者なのか?」

「経験者どころか、中学時代は県選抜にも選ばれてるくらい……」

 

 ……まじかよ。意外とって言い方は失礼かもしれないが、超ハイスペックじゃん。まさか、スポ根で抑圧された中学時代の反発で高校生はあんな派手な見た目になっちゃったのだろうか。

 しっかりと似合っちゃってはいるけれども、テニス要素が抜け切れずお蝶夫人っぽさが残っていますわよ。

 

 仮に、三浦が本当に部活動経験もある実力者なら、素人の俺たちが教えるよりも断然に良いに決まっている。奉仕部に来た依頼ではあるが、下請け、外注、アウトソーシング……色々と言い方はあるけれど、戸塚が望みさえするなら指導者の変更も検討せねばなるまい。

 

 未だに「あはは……」と困惑顔を浮かべる戸塚の肩をそっと叩く。同じ男とは思えない、ふんわりとした優しい香りを纏わせながら、戸塚は上目で俺の顔を見つめた。

 

「どっちに見て欲しいかは、試合が終わってから戸塚が決めれば良い。人のプレーを近くで見るのも練習としては悪くないし、二人にやらせてもいいか?」

「うん、……それなら僕が審判をやるね」

「……じゃあ任せたぞ、雪乃」

 

 雪乃は小さく首を縦に振ると、「絶対に勝つわ」と勝利宣言。結局、今の俺に出来るのは雪乃に任せることだけなのだが、無責任な他人任せじゃないだけマシな部類であろう。

 

 雪乃任せ、何とも安心感のある言葉だ。

 

 * * *

 

 戸塚を始めとした必要メンバーの了承も得たので、雪乃と三浦のタイブレーク形式の一本勝負を行うことになった。何ゲームもやるのは時間的に厳しいだろうし、雪乃もあまり体力がないので短期決戦を俺が申し出た結果である。

 しかし、いざ始めようにも三浦は雪乃を連れて、女子テニス部の使用する更衣室へと入ったきりなかなか戻ってこない。制服ではやりにくいのだろうが、ジャージを着ている雪乃まで連れて行くことはなかったんじゃなかろうか。

 

 遂に待望の扉が開き、近付いてきた雪乃たちを見るや否や、周りからは黄色い歓声と野太い声が上がる。

 淡いピンク色を基調とした二色のラインが入ったテニスウェアに、すらっと綺麗な足が映える短い白のスコート。無論、アンダースコートも履いているのだろうが、家でのパジャマ姿並みの脚部露出に俺は憤慨して走り出す。

 

 そして、雪乃の元へと即座に辿り着くと、羽織っていたジャージを脱いで彼女に押し付けるように手渡した。

 

「……せめて、これを腰に巻いてくれ」

「…………似合っていなかった?」

 

 雪乃はしゅんとした声色で、恥ずかしがるようにスコートの裾を手で押さえる。愛らし過ぎる仕草に頭がくらくらしてしまいそうになるし、実際に足元はふらふらと揺らめいた。

 

「世界一可愛いし似合ってるけど、周りには男も居るんだから気を付けてくれ」

「…………うん」

 

 彼女の稚い返事を聞き届けると、後ろを向いて野郎共に威嚇代わりに睨み付ける。葉山は元々三浦しか見ておらず効果が無かったが、材木座を含む他四人は視線を何処か遠くへと投げ去った。

 

 その後、三浦は雪乃の腰に巻かれたジャージを見て不愉快そうな目を俺へと向けてきたり、普通に舌打ちをされたりもしたが、無事に二人はコート上へと降り立った。

 審判台にはホイッスルを持つ戸塚が座り、その高台から笛の音がテニスコート周辺へと響き渡る。

 

 ──そして、試合が始まった。

 

「あーし、手加減とか苦手だからァッ!」

 

 強い言葉と共に速いサーブが雪乃側のコートへと打ち込まれる。雪乃は外へと逃げていくボールを追って数歩サイド側に移動するも、ラケットを振ることなく見送っていた。

 

「す、すご……」

「悔しいが、……サーブを返せないのでは、雪ノ下嬢に勝ち目は無いか……」

 

 先制点は三浦のサービスエースが勝ち取った。その事実に周りからは割れんばかりの大きな歓声が上がる。……というか、いつの間にやら暇を持て余した生徒がテニスコート周辺にぞろぞろと集まって来ていた。

 

「YU・MI・KO! YU・MI・KO!」

 

 大勢は葉山と三浦の味方なのだと証明するように、三浦の名前をコールする声が伝染して大きくなっていく。

 だが、そんな有象無象にも負けない黄色い声が耳朶を打った。

 

「ゆきのん頑張ってー!」

 

 由比ヶ浜の声援を聞き届け、雪乃は微笑を浮かべて頷く。

 先に点を取った三浦は気分を良くして口角を上げるが、姿勢はしっかりと腰を低く下げてリターンの構え。サーブ権のある雪乃はボールを高く宙へと投げ上げ、肩から手首までを綺麗に伸ばして高い打点で球を捉える。

 

 彼女の美しいフォームから放たれたボールは、先程の三浦が打ったサーブと同じコース、同じ速度で風を切り裂き進んでいく。三浦はしっかり反応しラケットに当てたものの、残念ながらボールは明後日の方向へと飛んでいってしまった。

 

「フハハハハハ! 我は雪ノ下嬢ならやってくれると信じていたぞーっ!」

「手のひらドリルかよ……」

 

 雪乃を褒め称えるように材木座や由比ヶ浜が熱く沸き立つ中、三浦はラケットのガットを指先で弄り冷静に雪乃を見つめる。その瞳はまさしく狩りを行ってきた者の鋭さであった。

 

「……次は返すから」

 

 さっきまでの余裕の笑みを引っ込め、彼女は更に腰を低く落としていく。立ち位置も若干外側へと寄り、同じコースを狙われた場合には必ず返せるようにと考えているのだろう。

 

 三浦のリターン準備が整ったのを確認すると、雪乃は何度見ても惚れ惚れするフォームから先程と寸分違わぬ位置へのサーブを打ち込む。そのバウンド予測地点から、早めに返球予測地点へと三浦は回り込んでいた。

 だが、跳ね上がるボールはアウト側ではなく、センター側へと曲がっていってしまう。予想していた軌道とは異なるボールの動きに三浦の顔は唖然としていた。

 

「……うそ、キックサーブじゃん」

「ゆきのん、すごいすごい!」

 

 由比ヶ浜を始め、三浦側を応援していた生徒すらも雪乃の美技に酔いしれ、歓声を上げていた。もうそこにはアウェーな空気は存在していない。

 

「……もしかして、雪ノ下嬢は強いのか?」

「まぁ、控えめに言っても俺よりは断然上手いぞ」

 

 昔は二人で出来るスポーツは大概一緒にやったものだが、始めて二日もすれば歯が立たない状態になるのが恒例行事であった。こっそり裏で練習しまくって、久し振りに遊んでリベンジするのもまた恒例。

 まぁ、流石にテニスはもう追い付けないレベルにまで到達されてしまったのだが……。

 

 * * *

 

 その後はあっさり雪乃が勝つと思っていたのだが、三浦も元千葉県代表なだけあって互角に競り合う状況となっていた。お互いが得意のサーブで作った有利性をキープし合って、ブレイク叶わずにスコアを重ねていく。雪乃が格好のせいで、全力で走ったりしていないのも大きな理由なのだろうが。

 

 現在のスコアは6-5で雪乃がマッチポイントを握っている。一進一退の熱い試合展開に、観客は一球一球に熱の入った視線を注いでいた。

 

「あーし、負けるの嫌いだから」

「……奇遇ね、私もよ」

 

 二人が爽やかな汗を流しながら言葉を交わし合うと、雪乃は立ち位置を普段よりも随分とアウト側に寄せた。センター側に打たれると厳しいポジショニングだが、何か狙いがあるのだろう。

 三浦はここまでのプレイからして、小細工を使うような選手ではない。雪乃が何か企んでいることは察しつつも、普段通りに全力でサーブを打ち込んできた。勿論、狙いはエースを狙ったセンター側。

 

 だが、雪乃は三浦がボールを投げ上げるよりも早くにセンター側へと走り出していた。

 返球タイミングに猶予を作った雪乃はその場でくるりと一回り。そして、その遠心力を利用するように三浦の全力サーブを空高く撃ちあげた。

 

「…………ま、まさかこの技は隕鉄流星(メテオドライブ)?!」

「いやー、これは流石にアウトっしょー」

 

 明らかにアウトになると思われる放物線を描いていくボール。だが、海側へと戻っていく強い風の影響を受けて横に逸れていくと、ギリギリラインの内側に着地する。

 ほぼ自由落下とはいえ、コートに着地する際の速度は馬鹿にならない。だから、着地したタイミングで打ち返すことは三浦にも出来なかった。

 

「チッ……」

 

 次にボールがバウンドしたら三浦の負け、その事実に三浦はただボールだけを見て追いかけていく。残念ながら、もう一度強く吹いた風が球の軌道を更に過酷な道筋へと変貌させる。

 勝ちを確信した俺は、勝利が決まった雪乃へと視線を移した──。

 

 そこには笑みは無く、ただ浮かぶは焦燥感に満ちた表情。

 震える唇の動きから、まさかと思い俺は急ぎ振り返って名前を叫んだ。

 

「おいっ、三浦、危ない!」

 

 だが、俺が叫ぶよりも早くに彼女の行き先のフェンスへと回り込んでいた男が居た。

 激突してしまうと思われていた三浦を葉山は抱き締めるように受け止める。抱き締められてしまった彼女は、次第に顔を真っ赤にすると彼のシャツを黙って握り締めていた。

 

 それを見届けた観客が大いに騒ぎ出してしまうのは致し方ない。誰にも責められはしないだろう。

 

「HA・YA・TO! フゥ! HA・YA・TO! フゥ!」

 

 練度の上がった一体感のあるコールに、指笛まで吹き乱れるお祭り騒ぎ。まるで青春映画の大団円のようで、大変に上等な見世物であった。

 

「ぐぬぬ、これではどちらが勝ったのか分からんな……」

「んだな。……けど、無事で良かったんじゃね」

「……そうだね、優美子も怪我もないしすごく幸せそう」

 

 見続けていた視線の先では、葉山が歓声に乗せられてかは分からないが、彼女の頭をよしよしと撫で始めている。あれが人前で出来るのだから、イケメンリア充というものは本当に末恐ろしい……。

 

 このまま見ているのも三浦に悪い気がしてきたので、そっと雪乃の方に視線を向けると、彼女もそんな二人を微笑ましそうに眺めていた。

 やがて歓声も落ち着きを見せた頃、彼女は何やら小難しい顔をして俺たちの元へと小走りで向かってくる。

 

 柄でもないが、勝利の祝いにハイタッチでもしようかと手を挙げると、手の届くところまで辿り着いた雪乃の足から急に力が抜けてしまった。

 前のめりで倒れそうになる彼女を難無く受け止めると、汗ばんで湿った髪と背中に張り付いたシャツが手に触れる。だが、鼻腔に広がるのは彼女の爽やかなサボンと甘い香りだけ。

 

「どうした、……そんなに疲れちゃったか?」

 

 優しく声を掛けるが、体操着の胸の部分を掴まれるだけで答えは返ってこない。どうしたものかと、体調確認と労いを兼ねて背中をぽんぽんと叩くも、その手は一向に離れることはなかった。

 

「…………その、まだ足りない」

 

 俺の胸の中で、雪乃はぽしょりと言葉を漏らす。幼かった頃の彼女を彷彿とさせる声色に、俺は先程にまじまじと見せつけられた行為を無意識にしてしまった。

 

「ヒキタニさん、やっぱパネェわぁ~……HI・KI・TANI! フゥ!」

「HI・KI・TANI! フゥ! HI・KI・TANI! フゥ!」

 

 ヘアバンド男、とべっちによってヒキタニコールが巻き起こる。無論、衆人環視の生暖かな目は殆ど俺と雪乃に向けられていた。違ったのは材木座くらいであろう。

 

「リア充死すべし、慈悲は無い」

「比企谷君かっこいいなぁ」

「……ヒッキー、意外と大胆だね!」

 

 俺は羞恥心から声にならない声を漏らすも、優しく頭を撫でる手は止められずにいた。自動発動してしまうお兄ちゃんスキルが今は憎らしい。だが、それ以上に胸の中で疲れ果てている雪乃が愛らしい。

 

 最後に、俺は小さく言葉を叫んだ。彼女が驚いてしまわぬように小さく。フェンス外で見ている遠くの人間には表情で思いの丈を伝えるべく、思う存分に怖い顔をしているつもりで。

 ここは動物園でも映画館でも、ましてや猫カフェでもないのだから──。

 

「こちとら見世物じゃねーんだよ!」

 

 

 依然として鳴り止まない歓声、コールが響き渡る中に小さな笑い声がこだまする。

 それは、周囲の直ぐ傍に立つ三人の笑顔、そして抱き締めた胸の中から確かに聞こえていた。

 

 




戸塚の依頼後編でした。
前回に引き続き、評価やご感想誠にありがとうございます!
それと誤字修正も本当に助かっています……。

次回もどうぞよろしくお願いします!!


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妹ノ下雪乃さんが描く未来予想図。

 

 金色輝かしいGWも平和に過ぎ去ってしまい、中間試験も二週間前となる平日の朝、俺は教室で黙々と一枚の紙と向き合っていた。その上部には、『職場見学希望調査票』と大々的に記載されている。

 どうしたものかと頭を悩ませていると、教室後方からは朝練終わりの連中がぞろぞろと入室し始めた。疲労感のある野太い声が多い中、俺の耳元には明るく優しい声。

 

「おはよう、比企谷くん」

 

 そこには、練習後にも関わらず満足そうに微笑む戸塚の姿があった。相も変わらずジャージ姿なのだが、授業中もこれで許されるのだから我が校の規則はゆるゆるである。ゆるゆりでもあって欲しい。

 

「……三浦の指導は大丈夫か?」

「うん、作ってくれたメニューは結構厳しいけど、他の部員も練習にハリが出て喜んでるよ」

 

 結局、戸塚の練習、もといテニス部の練習を見ることになったのは三浦であった。元々彼女が言い出したことではあるのだが、戸塚からのお願いに大した抵抗も見せずに了承をしていた。

 戸塚も「面倒見も良いんだよね」と笑っているし、きっと三浦は女の子や可愛い者にはおかん気質なのだろう。たまに騒がしい彼女らのグループを横目に見てしまうが、一員の眼鏡女子にティッシュを渡している姿も俺の記憶には新しい。

 

「本当なら、奉仕部が力になれたら良かったんだが……」

「雪ノ下さんのは、……あまり参考にならなそうだったからね、あはは……」

 

 まぁ、最後にあんな奇抜な動きを見せられては、苦笑いをしてしまうのも致し方ないだろう。

 少し気まずそうに目線を下げた彼の視線の先には、俺が頭を悩ましていた一枚の紙。それを見て、戸塚は「あっ」と小さな嘆声を上げた。

 

「そういえば、職場見学もうすぐだね。誰と行くかはもう決めちゃった?」

「いんや、クラスに同性の知り合い戸塚しかいないし」

「ほんと? じゃあ一緒に行こうね!」

 

 戸塚の提案に考える素振りも見せずに頷くと、穢れを知らないのかと疑いそうになる無垢な笑顔が向けられた。何かと煩わしい他人の視線が増えている教室だったが、戸塚のような人がいるのであれば少しは気が晴れよう。

 

 

 その日の放課後、奉仕部の基本週一の部活動がのらりくらりと始まっていた。特に依頼がなければ週に一度で問題はないと平塚先生への確認は取れたので、俺は全力で迷える子羊が来ないことを祈るだけである。

 何時の間にかに増えている空気清浄機の動作する音は、女二人でも由比ヶ浜のお陰で十分姦しい声に掻き消されていく。ここでも女性陣の話題は職場見学の話へと移り変わっていた。今の二年生にとって最新のホットニュースなのは間違いないのだろう。

 

「……えっ、ヒッキーちゃんと企業調べてるの?」

「おい、どういう意味だよ」

「だって、働きたくないとか言うタイプかと思ってたから……」

 

 雪乃から俺の情報を伝えられ、刺されても別に痛くもない由比ヶ浜の矛先が俺へと向けられた。

 それにしても失礼な奴だ、俺は働きたくないに決まっているだろう。だがしかし、二人の愛する妹を養うためには仕方がないのだ。狙うは高給で残業が少ない、リモートワークだろう。イモートワークなら最高。何だそれ。

 

「高給で自由時間の多い、そんな夢のような業界はないもんかねぇ……」

「今だと、ユーチューバーとかぶいちゅーばーとか?」

「あんな見えないコンプラで雁字搦めになっている存在を続けられる気がしねーわ」

 

 もし俺がチャンネル開設をしたとしても、トーク内容の9割は雪乃と小町がカワイイヤッター! になるに決まっている。稼げねぇよ、俺の親父以外誰が見に来るんだよ。コメント欄に親父の『わかる』だけが並ぶぞ。

 

「……大丈夫よ、働き口に一応当てはあるから。今回は気軽に興味のあるところへ行きましょう?」

 

 静かに話を聞いていた雪乃が優しく微笑む。決して雪ノ下家の事業何ぞではなく、きっとイモートワーク可能な仕事を斡旋してくれるのだろう。うわー、将来が楽しみだなー。

 

 俺が見たくもない将来のビジョンに憂いていると、由比ヶ浜の手にあるスマートフォンが間を置かずに三度の振動をした。彼女くらい友人が多くいると、連絡も引っ切り無しに来るのであろう。

 由比ヶ浜は慣れた動きで指紋認証を使いロックを解除すると、画面をまじまじと見つめる。そして、段々と不快感を示すように顔を歪めていった。

 

「……由比ヶ浜さん、どうかしたの?」

「うーん、クラスラインに捨て垢っぽいので嫌な書き込みがされてて……」

 

 心配そうに彼女に声を掛けた雪乃は、情報確認のために俺の方へと視線を投げる。だが、俺は何の情報も持っていないので首を横に振ることしか出来ない。

 

「ヒッキーはあたしが招待してるのに、クラスのグループに入ってないもんね」

「全く興味ないしなぁ……」

 

 俺たちの会話を聞いて、雪乃は少しだけ安心した顔を見せる。由比ヶ浜の声色に深刻そうな影を感じなかったからなのだろうか。それにしては、俺の顔を見過ぎな気もする。うん、今日も可愛い。

 

「んんっ、……で、どんな書き込みだったの?」

「うーん、なんかあたしのグループの男子の悪い噂みたいなのが──」

 

 ブーッブーッ、と由比ヶ浜が話している最中にまた振動の音が響き渡る。また何か悪い書き込みでもあったのだろうかと心配していると、その表情は驚きから苦笑いへと変貌していった。

‎ そして、ボソッと「じゃあ、全部嘘なんだろうな~」なんて軽い口調で独り言を呟いてすらいる。

 

「どうした、また何か来たのか?」

「えっ、うーん……気にしないでお幸せにね!」

「おい、どんな日本語だよ……」

「良いから良いから、そんなことより中間試験も近くて憂鬱だね~」

 

 えらく雑な話題転換に、隣に座っている雪乃と共に苦笑してしまう。俺としては、クラスの知らない奴の噂話に特に興味はないので、由比ヶ浜が気にしていないなら構いはしない。

 しかし、残念ながら由比ヶ浜の選んだ転換先は彼女にとっては大きな失敗であっただろう。何故なら此処には、勉強を教えることに慣れている学年一位の秀才が居るのだから。

 

 * * *

 

 千葉県市川市八幡(やわた)が生んだ至高のファミレス、サイゼリヤに俺たち三人は足を運んでいた。勉強なら別に学校や図書館などの無料で使える施設で十分なのだが、勉強会ならファミレスかカフェが良いと駄々をこねるアホな子に押し切られた結果である。

 まぁ、折角来たのであれば、ミラノ風ドリアは食べたい所存。全店舗完備のドリンクバーを始めとした低価格で美味しいラインナップは若年層、特に学生の味方だ。間違い探しもたまに鬼難易度で盛り上がること間違いなし。ああ、サイゼリヤって最高じゃん……。

 

 そんな素晴らしいサイゼの4人掛けのボックス席で、体面に座る二人の講習会の様子をぼーっと眺めている。分からない場所が分からない、そんなお手上げ状態の由比ヶ浜に手取り足取り教える雪乃。

 かれこれ一時間が経過しているが、ひたすらシャーペンが紙の上を走る音が鳴り続けている。大した休憩時間を設けずのスパルタ雪乃学習塾、しかもマンツーマンで教えてもらえる。……そろそろ俺も分からない振りをするべきだろうか。

 

 悩みに悩んで唸り声まで上げていると、雪乃はこちらに視線を向けて首を傾げる。久しぶりに合った綺麗な瞳に微笑みで返すが、どうも彼女の反応が鈍い。何なら俺の目を見ていないまであった。

 

「ねぇ、……あれは一体誰かしら?」

 

 雪乃の視線の先、俺の後ろを振り返って見てみると、そこには愛しの小町が楽しそうに笑っていた。レジの前に居る小町の横には見たこともない男子中学生。

 その二人の背中が退店と共に遠ざかっていく。サイゼ様に迷惑を掛けるのは憚られるので、発狂しそうになる気持ちを無理矢理に押し込めて冷静に言葉を返した。

 

「知らん……知らん…………」

「二人ともどうしたの、怖い顔して?」

 

 ちょっとお洒落なインテリア雑貨の店名みたく言葉を返すと、由比ヶ浜は明らかに変わった雰囲気に困惑している。彼女に状況を説明しようにも、俺と雪乃の関係が詳らかになってしまうので、差し当たっては適当に誤魔化すしかなかった。

 

 

 一切勉強に身が入らなくなった俺は、心配する由比ヶ浜に見送られながら早々に帰宅することになった。先に帰っていた小町は勉強のためか部屋に篭っていたので、聴き取り調査も夕飯の時間まで延期となる。その間も、延々と悶々とした時間を部屋で一人過ごしていた。

 

 食事の準備が整ったことを知らせてくれる雪乃に連れられ、ぽとぽと階段を登ってリビングへと入ると、デミグラスソースと味噌汁の良い匂いが鼻腔を擽る。だが、食欲は何時ものようには湧いてはこなかった。

 

 食卓に三人で席に着いて、いただきますを唱和させる。目の前にはデミグラスソースが掛けられたハンバーグとパプリカ入りの色鮮やかなサラダ、豆腐の味噌汁と炊き立てのご飯。どれもこれも美味しそうだが、それよりも今は小町に真相を訊かねばらない。

 

「…………小町、サイゼで一緒に居た男子は一体誰なんだ?」

「ん、……あー二人とも居たんだ? あれはただの友達、今は相談を受けてるんだ~」

 

 最悪の事態を一先ず回避した俺は、胸中に溜まっていた息を大きく吐き出した。視界に入る雪乃の箸が動き出すのと同時に、安心感を抱いた菩薩のような心持ちで小町に軽い追加質問。

 

「なるほどな。取り敢えず、相談内容とそいつの名前と住所と連絡先を教えてくれ」

「……え~、じゃあどれか一つだけならいいよ♪」

「住所を教えろ」

「残念、小町は知りません!」

 

 襲撃を未然に防がれ、手が出せなくなった俺はハンバーグに手を付けることにした。その厚みのある肉塊を箸で押さえると、中からじゅわりと肉汁が溢れ出してくる。

 いつの間にやら湧いていた、強烈な空腹感を刺激する見た目と匂い。俺は気が付けば、食欲旺盛な男子高校生のようにおかずとご飯のシャトルランを繰り返していた。ああ、今日も雪乃のご飯は最高に美味しい……。

 

 

「なんかね、お姉さんの帰りが遅くなってるんだってー」

「アルバイトかしらね。一応、学校に許可を取れば大丈夫だとは思うけれど……」

「それがさ、帰ってくるの朝五時とからしいよ……」

 

 俺が問いただすまでもなく、相談内容は雪乃が上手いこと聞き出してくれていた。由比ヶ浜もそうだが、女子は悩みに関する内容を引き出すのに手慣れている気がする。俺であれば絶対に質問形式で訊いちゃうのだが、雪乃は雑談かのように自然な反応。

 

「お姉さんは、ゆきねぇたちと同じで総務高校の二年生らしいよ。川崎沙希(かわさきさき)さんって知ってる?」

 

 小町は雪乃だけでなく、俺の方にも顔と目線を交互に向ける。黙々と食事を楽しんでいたのもあるが、少しばかり疎外感のあった二人の会話に入るチャンスに飛びつくように回答した。

 

「いや、知らんな」

「知っているわよ、兄さんと同じクラスの背の高い人よね」

「何でお兄ちゃんが知らないのさ……」

 

 小町は分かり易い呆れ顔を浮かべるも、自身の隣に座る雪乃の顔を見て「まぁいいか」と表情を戻す。雪乃が知っていれば話は進むもんね。ごめんね、クラスメイトも知らない不甲斐ない兄で……。

 

「その沙希さんはね、高校一年生までは真面目だったんだって」

「……何か思い当たる節はなかったのか?」

「特にないってさ。弟の大志(たいし)くんも四月から塾に通い始めて会う時間も少なくなったらしいし……。あと、下の兄妹が多いから、お世話とか手伝いで話す時間が取れないってさ」

 

 取り敢えず大志って名前はしかと覚えたが、確かに小町からの断片的な情報からでは思い当たりそうな点は特には見つからない。

 だが、雪乃は違ったらしい。顎に置いていた手を降ろして、下げていた目線も俺と小町に合わせていく。そして、ゆっくりと口を開いた。

 

「……進路に学費、それに自分の将来と色々考える時期よね」

「うちの両親なら俺の分は出してくれなくても、雪乃の分は出してくれるから気にせず選べよ」

「私の分は、私の両親が出してくれるわよ……」

 

 余計な言葉を挟んだ所為で、小町に可愛い顔で睨まれてしまう。だが、雪乃は気にすることなく言葉を紡ぎ続けてくれた。

 

「でも、出してあげたくても出せない家庭だってあるでしょうね……」

「……なるほど、そういうことか」

 

 まだ憶測でしかないが、確かに可能性としては有り得るだろう。朝方まで働いてでも今の時期に稼ぎたい理由、そして高校二年生の受験を意識し始めるタイミング。弟の入塾と兄妹の多い家庭環境も合わせれば、自身の学費を稼ごうとしていてもおかしくはない。

 

「明日、川崎と話してみるわ。小町は俺たちに任せて受験勉強に集中していいぞ」

「……うん。よろしくね、ゆきねぇ!」

「ええ、任せて」

 

 美しい姉妹愛がそこにはあった。俺はちょっとだけ枕を濡らした。

 

 * * *

 

 次の日の昼休み、俺は大幅に遅れて登校してきた川崎に何とか声を掛け、無事に奉仕部の部室へと連れていった。長い髪をポニーテールで纏めている長身の彼女は、終始不機嫌そうに拒もうとしていたが、弟の名前を出すとギラリとした視線を向けた後に嫌々と付いてきてくれた。

 

 そして今、俺と雪乃の目の前で鋭い牙を隠そうともせずに、自身とその家庭に干渉されることへの苛立ちをぶつけようとしている。だが、色々と準備を整えてきた俺らには臆することなど何もない。

 

「川崎さん、あなた最近帰りが遅くて弟さんが心配しているらしいわね」

「はぁ? あんたらカップルには関係ないでしょ」

「カップル……」

 

 何で怯んでるんだよ、いや怯ませるなよ!

 

 いきなり出鼻を挫かれてしまったが、俺は幾ら睨み付けられても別に怖く……いや、普通に怖いです。と言うより、うちのクラス怖い女子多くないですかね。それとも、世の中の女子って皆怖いの?

 

 だがしかし、ここで押し負けては小町に合わせる顔が無くなってしまうだろう。それは死活問題であり、到底許されはしない。

 俺は踏ん切りを付けると、ぼんやりと立ち尽くしている雪乃の盾になるように前に出て、淡々と用意してきた言葉を繰り出していった。

 

「川崎、お前は学費を稼ごうとしているんじゃないか? それも、家族に迷惑を掛けないように自分の力だけで」

「……だったら、何なのさ?」

「成績優秀で授業態度も真面目なら、特待生扱いで授業費免除の学習塾がある。それに、これも成績優秀が条件だが、大抵の大学には返還不要の奨学金もある。時給で考えたら、バイトするよりも効率的だぞ」

 

 俺は川崎の目に正しく映るよう、スカラシップ制度について調べていたスマホの画面を逆さまにして差し出す。

 彼女は訝しみながらも、それを受け取って目線を動かし始めた。猜疑心で強ばった表情は、時間と共に次第に解きほぐされていく。

 

「……弟さん、本当にあなたのことを心配していると思うわ。あなたが下の子を気にするように、下の子だってあなたを気にしている筈よ」

「あんたに何がわかるのさ……」

 

 言葉こそ未だに棘が残っているが、その声色にはもう刺々しさは残っていない。川崎がやり場を無くした視線を床へと落とすと、雪乃は穏やかな表情で首を静かに横に振った。

 

「分からないわよ。……だから、私たちの言葉には耳を傾けなくても構わないけれど、弟さんの話はちゃんと聞いてあげて」

 

 優しく諭すかのように、雪乃は自身の願いを俯く彼女に吐露していた。自分が幼い頃に姉や両親に気持ちを伝えることが出来なかったからこそ、伝えようとしてくれている川崎の弟に肩を入れているのかもしれない。

 下の子からの正直な言の葉を受け取り、川崎は顔を上げると優し気な笑みを見せた。きっと、この表情こそが、本来の真面目に頑張っている姉の顔なのだろう。

 

「……ん、分かったよ。あんた、家族想いの良い奴だったんだね」

「どうかしら、世間的には親不孝者な気もするけれど……」

「ふーん、そうは見えないけど。……あのさ、あたしも勉強頑張ってみることになると思う。だから、分からないことがあったら訊きに行ってもいい?」

 

 その視線はただ真っ直ぐに、並び立っている俺と雪乃へと向けられる。互いの意思など確認するまでもなく、俺たち二人は真摯な想いに頷いて応えていた。

 

 

 その後、攻撃的であった物言いや態度を深々と謝罪して、川崎は何処かへと微笑を携えて去っていった。

 残された俺と雪乃は、暖かな風を取り込むように窓を開いていく。揺れ動くカーテンの間で佇みながら、彼女は晴れ渡る空を見上げた。

 

「進路のこと、将来のこと……皆も遠からずに考え始める時期なのよね」

「……だな、雪乃は何になりたいとかあるのか?」

 

 聞いてはこなかった彼女の将来設計、それが知りたくなって俺は問い掛ける。すると、雪乃はこくりと恥ずかしそうに首肯した。

 

「……訊いてもいいか?」

 

 きっと、彼女なら何にでもなれるであろう。どんな願いであろうとも、間違いなく俺を始めとした彼女を大切に想う者達が背中を押してくれるのだから。

 雪乃は人差し指を薄桃色の唇にそっと当て、可愛らしい笑みで小さく囁いた────。

 

「まだ秘密よ、兄さんの手助けが必要不可欠だけれどね」

 

 そう口にし終えると、昼時に吹く風がレースカーテンをふわりと吹き上げていく。雪乃は腰まで流れる美しい黒髪を手で押さえていると、程なくして彼女の姿は白に包まれてしまった。

 万が一にも肌を傷付けないよう、俺は透過する白の生地を丁寧に掴んでいく。まるでベールを持ち上げるかのように彼女を救い出すと、そこには頬をすっかり朱色に染めた雪乃の姿。

 

 不意打ちの不幸に見舞われて赤面する彼女を前に、何も分からない俺は困ったように笑い続ける。もう一度吹き始めた暖かな風が、やがて二人を包み込んでくれるまでは。

 

 再び舞い上がる真っ白なレース。次は閉じ込めてしまわぬように、そっと柔らかな手を取って彼女を連れ出していく。今はもう、分かりもしない将来に悩む必要などありはしない。

 

 雪乃の描く未来予想図に自分が居たことを、他の何よりも嬉しく思えるのだから。

 




前回も感想や評価、そして誤字報告ありがとうございました!
次話もお読み頂けると嬉しいです。


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妹ノ下雪乃さんだって癒されたい。

 

 六月も中旬になると、じめじめとした梅雨の様相が次第に強まってくる。暑い程に燦々と輝いていた太陽も顔を覗かせる機会がすっかり減ってしまい、空にはどんよりとした灰色の雲が常に付き纏っていた。

 最後にまっさらな青空を見たのは何時だったろう。そう思い悩んではみるのだが、特に気にしてもいなかった空模様なんかより、思い返されるのはここ一ヶ月の出来事で──。

 

 五月末に行われた中間試験、雪乃の勤勉で愛らしい家庭教師振りのお陰で成績も幾分か上がっていた。あの由比ヶ浜ですら、ぎりぎり平均点を取れなかった教科……の方がまだ多いのだが、それでも以前よりは目に見えて上昇したらしい。

 誠に雪乃様様なご本人は、相も変わらず学年一位の成績を叩きだしていた。

 

 テスト返却が終わった頃に行われた職場見学は、何故か葉山が同じグループに入ることになった所為で、クラスの殆どの連中が一緒の企業を希望する事態に。

 もう中学時代の社会科見学と何ら変わりはなかったのだが、彼が選んできた企業は文句の付け所がない程にエンタメに富んでいた。大手の電子機器メーカーの製品内部構造の展示は男心を擽って仕方がない。一番に目を輝かせていたのは、同行していた平塚先生だったが……。

 

 他に変わったことは、戸塚と連絡先を交換したこと、川崎が遅刻をしなくなったこと、そして何時の間にか奉仕部にエアコンを始めとした生活家電が幾つか設置されていたことくらいだろうか。

 奉仕部がどんどん快適になっていくので、人付き合いの悪そうな川崎ですら偶に部室へとやって来ることがある。勿論、体裁としては雪乃への勉強に関する質問をしに来ているだけ。

 

 そんな日々を過ごしていた、ある土曜日の朝のことである。

 

 

「──おい、小町……、今年もやるみたいだぞ!」

「なっ、何ですと……? 絶対にスケジュール空けとかなきゃ、……って今日じゃん、早く行くよ!?」

 

 珍しく早めに起きた俺は、雪乃謹製の朝御飯を食べた後に青い鳥系SNSをぼけーっと眺めていた。流れてくるのは今期アニメの感想やラーメンの画像、尊み溢れる百合百合しい二次創作イラストが主なのだが、ふと目に留まったのは開催される度に行っていたあるイベント。

 

 画面に表示されている情報を見て、小町は目も口も大きく開けて大喜び。そのままパタパタとスリッパを鳴らしながら、洗濯物を干している雪乃の下へと駆け付けた。

 

「ゆきねぇゆきねぇ、今年もわんにゃん博やるってー!」

「にゃんにゃん博…………。兄さん何しているの、早く行きましょう」

 

 聞き間違えなのか、噛んでしまった言い間違いなのかはさて置き、珍しい雪乃のはしゃいだ様相に俺の口角は自然と上がっていった。わんにゃんだろうが、にゃんにゃんだろうが構いはしない。何故なら、私がそう判断したからだ。

 

「じゃあ、さっさと準備して行くか!」

「うんっ、小町も四十秒で支度するよ!」

 

 比較的静かな雪乃を間に挟んで、俺と小町は胸の前で拳を握って頑張るぞいのポーズで宣誓の言葉を放つ。兄妹三人揃ってかなりの動物好きなので、皆が皆テンション高めに浮かれていたその時、ガチャリと音を立てて寝室の扉が開かれた。

 

「……おい、バカ兄妹。朝っぱらからうるさいぞ」

 

 寝室という名の混沌から這い出てきたのは、ぼさぼさ髪に今にも床へと落下しそうな眼鏡を携えた母親の姿。ワーカーホリック気味の両親が土曜日朝に家に居るなんて稀であり、俺と小町は久しぶりに隈の深い目元をぼけーっと眺める。

 

 だから、いち早く反応したのは比企谷トライアングルの中心に位置した雪乃であった。

 

「お義母さん、折角の休日にごめんなさい……」

「雪乃ちゃんはうるさくしてなかったでしょ。寧ろ、いつもご飯ありがとうね。それに本当に可愛い、…………好き」

 

 母は感謝の言葉を口ずさみながら近付き、腕を広げたかと思えば突然の抱擁。雪乃は「きゃっ」と、猫好きらしい小さな叫び声を上げるが、本当の猫みたく暴れることはせずに大人しくされるが儘になっていた。

 

「すいません……。すいません序でに、三人で出掛けるから今月分の小遣いを下さい」

「別に構いやしないけど、あんた本当に気を付けなさいよ?」

「言われるまでもなく分かってるよ。二人を危ない目に遭わせるなって言いたいんだろ……」

 

 両親の小町への愛情は恐ろしい程に深い。末っ子で女の子というのもあるのだろうが、雪乃と共に家事をこなしてくれるわ、明るく可愛らしい笑顔を見せてくれるわで小町は比企谷家の宝の一つとして扱われていた。

 もう一つの宝を大事そうに抱えながら、母親は彼女らにするような慈しみの瞳を俺へと向ける。そこに巫山戯た雰囲気は無く、小さく吐いた溜息の後にぼそっと言葉を溢した。

 

「はぁ……、あんたの心配をしてんのよ」

「えっ、母ちゃん……」

 

「もし小町や雪乃ちゃんに怪我でもさせたら、うちと雪乃ちゃんのお父さんにあんた絶対消されるわよ?」

「……おい、純粋に俺の心配をしろ」

 

 ちょっとばかし熱くなっていた目頭が急激に冷めていく代わりに、今は惰眠を貪り続けているであろう親父に苛立ちを覚えてしまう。母親と共に働いて養ってくれていることに感謝が尽きることはないが、可愛い妹達が俺に懐いている様を見る度に為にもならない小言を垂れてくるのは勘弁して欲しい。

 近付いてくる女は美人局だと思って気を付けろと口煩く言ってくるのだが、赤の他人なんて気を付けるまでもなく気になったことすらなかった。

 ただ、重々しい程の説得力がある『働いたら負け』は効いているからやめて欲しい。愛する二人を養おうという俺の気力を削いでくるのはやめろ。

 

「ちゃんと手を繋いでいくから心配しないで大丈夫だよー。だから、三人分のお昼ご飯代もちょうだい!」

「はいはい、財布取ってくるから待ってなさい」

 

 小町に催促されると、母親は名残惜しそうに雪乃から手を放して寝室の方へと離れていく。漸く解放された雪乃はホッと一息を吐いて少し乱れた髪を整えていた。

 再び音を立てて扉が開かれると、出てきた母親の手には複数の紙幣。野口さんが四人と諭吉様一人が指の間に挟まってゆらゆらと揺らめく。

 

「はい小町、お昼ご飯代と交通費で四千円ね」

「わーい、ありがとうお母さん!」

 

 俺が以前に昼食代を請求したら五百円だった筈なのだが、小町からお願いすると一人当たり倍額になる。これは比企谷家の謎の仕組みの一つであり、理由は未だに解明されていない。

 そして、もう一枚を貰うために手を差し出したのだが、諭吉様は俺の手の上に降り立つことなく素通りしていった。

 

「はい、雪乃ちゃんにはお小遣いね」

「……えっと、もう今月分は両親から振り込まれているし、お義母さん達からは受け取らないって決めていた筈でしょう?」

「…………なら、これは八幡のお小遣いだから受け取って」

「おい待って」

 

 人の小遣いを自由に使える資金として扱う母親に文句を放つ。毎日ご飯も作ってくれるし、さっきも洗濯物を干してくれていた雪乃に貢ぎたい気持ちは痛い程に分かるのだが、俺が痛手を負うのは勘弁である。

 雪乃も俺の小遣いなら構わず受け取るなんてこともないため、差し出されている諭吉を両の手で押し戻そうとしながら、未だに愛らしい困った表情を浮かべていた。

 

「あのね雪乃ちゃん、これは八幡のお小遣いを始めとした家計を管理する練習になるのよ?」

「……それはどういう意味?」

 

 雪乃は母親が言っている意味が理解出来ずに首をこてんと横へ傾ける。俺も全く分からないので彼女とは反対方向に首を傾けていった。

 

「あの子は財布の紐が緩いタイプだから、将来は雪乃ちゃんが紐やら手綱やらを握ってくれると助かるわ」

「その、仰っている意味はよく分かりませんが、一先ず練習として受け取っておきます……」

 

 眼前で俺の小遣いが母親の手から雪乃の手へと渡っていくにも関わらず、俺の心中は存外に穏やかであった。色々と言い訳を見繕ってはいるが、結局は雪乃に貢ぎたいだけなのだろう。親父も母さんからとは別に小町に小遣いを渡しているしね。

 

 俺は満足そうに部屋へと戻る母親にそっと耳打ちをする。表向きには済んだ俺の小遣い受け渡し、それを雪乃には内緒でちゃんと渡してもらう為に。

 俺は分かっていますよと、余裕の笑みを拵えて再度請求すると、振り返った母親の顔には心底呆れた顔。

 

「はい? だから雪乃ちゃんに渡したから、使う時に必要額だけ渡してもらいなさいよ」

「まじかよ……」

 

 まさか、俺に擬似的なヒモ体験をさせることで、俺を穀潰しに仕立て上げるつもりだろうか。社畜の両親だからこそ、子供には同じ苦しみを追従させない為の精一杯の愛情かもしれない。いや、絶対に違うな。

 

 俺は幾分かの不便さと、若干の浮き立つ気持ちに身を委ね、「さらば諭吉」と心の中でそっと呟くのだった。

 

 * * *

 

 イベント会場である幕張メッセまではバスに乗って約十五分の短い旅。会場内は多くの家族連れやペット連れの人々で賑わいを見せていた。

 連れているペットは小型大型問わず犬が多いのだが、中には猫を抱えている方もいるため展示だけでなく擦れ違う愛猫にも雪乃は注意が持っていかれる。

 

「…………にゃー」

 

 その様な空間だから、離れてしまわぬように小町は雪乃の右手をささっと取る。もう片方の手は俺が軽く添えるように握った。昔は小町が真ん中であったが、雪乃の方向音痴が発覚してからは立ち位置が入れ替わっている。

 

 右に見える楽しそうな横顔には、真っ直ぐに下ろした黒髪に隠れる普段のおさげではなく、耳の上の高い位置で結んだ可愛らしい尻尾のような束が踊るように揺れ動いていた。小町側からも同じ踊りが見えていることだろう。

 高校生にしては少々稚い髪型ではあるが、雪乃はこのイベントでは昔から毎度変わらずに続けていた。大変に似合っていて可愛らしいのもあるが、揺れ動く二つの尻尾を見た猫が興味を持ってくれるのが嬉しいらしい。

 

「あっ、お兄ちゃん、今年はポニーの乗馬体験できるみたいだよ!」

「ポニーも良いよな……出来ればサイドテールもして欲しい…………」

「…………にゃー」

「ねぇ、お兄ちゃん聞いてる?」

 

 催促する小町の示し先に目をやると、そこにはポニーの乗馬体験が出来るブースがあった。一回五百円と有料ではあるのだが、かなりの人気のようで長蛇の列が形成されている。

 千葉市の動物公園に行けばもう少し安い価格で乗馬可能ではあるのだが、こういったイベントの場で乗れる機会は少ない。他にもウサギやモルモットのような小動物と、蛇を始めとした爬虫類に触れ合えるコーナーも用意されていた。

 

「取り敢えず、ちゃんと回るのは雪乃の猫欲を満たしてからにするか」

「そうだね、今年は特に酷いもんね……」

「…………にゃー」

 

 その後、俺たちが真っ先に向かったのはペットの展示即売会のブース。昔に我が家のアイドル猫ことカマクラに出会った思い出の場所でもある。

 手前にある犬ゾーンを一旦スルーして、辿り着いた先には世界の多くの猫種に溢れた猫の楽園が待っていた。長毛種、短毛種問わずに色とりどり、多種多様な猫が集合している光景は圧巻で、雪乃だけでなく俺と小町も息を吞んで眺める。

 

 だが、動き出した雪乃によってリール代わりの腕が引っ張られていくと、間もなくその世界に俺たちは入り込むことになる。簡単には抜け出すことの出来ない、そんな夢の世界に──。

 

 

「……この子、もふもふで可愛い」

「お兄ちゃんほんとにもっふもふだよ、ラグドールだって!」

 

 人語を取り戻した雪乃と共に小町は愛らしい子猫達を思う存分にもふっていた。何処かへ行ってしまう心配もありはしないので、雪乃の両の手は猫と触れ合うために解放されている。

 二人に大好評のラグドール、俺も目の前でごろんと寝転がる子猫を優しく撫で回していく。ぬいぐるみを意味する種名に相応しい大人しさと触り心地が堪らない。これは雪乃も小町も絶賛する訳だ。

 

 きっと、帰ったらカマクラに嫌な顔されるのだろうと分かってはいても触れてしまいたくなる。飼い猫って他の猫の匂いを付けていると不機嫌になるのよね。嫉妬しているみたいで可愛い。猫みのある雪乃も偶には嫉妬してくれたりしないかな、なんて馬鹿げた妄想をしてしまう。

 

 …………それにしても、かれこれ一時間以上もふり続けているんだよなぁ。

 

「あのー、そろそろ昼飯にしないか?」

「うん、実は小町もお腹空いてたからいいよー」

 

 二人に声を掛けると、小町が早速に振り返って笑顔で賛同してくれる。だが、もう一方の雪乃は徐々にもふる手を緩めてはいるけれども、なかなか振り向いてはくれない。

 気持ち良さそうに目を細めるラグドールの頭を最後にひと撫でし、非常に名残惜しそうに雪乃はその手を離していった。

 

「…………ええ、続きは昼食を取ってからにしましょうかね」

「今年はにゃんにゃん博になりそうだね……」

 

 小町は諦めにも似た表情を浮かべると、雪乃の手を取り入口の方へと歩き出す。俺は二人の仲睦まじい姿を眺めながら、その背中をゆっくりと追いかけていった。

 来た道を戻る途中、先程はスルーしてしまった犬で溢れるエリアへと再び足を踏み入れると、小さな嘆声と共に小町が指を差したのは遠くに見えるのぼり旗。

 

「あっ、犬のトリミングだってー、……猫はしてくれないのかな?」

「猫は基本的には自分で毛繕いを行うから、人の手で行ってあげるのは定期的なシャンプーと爪切りくらいで充分よ」

「おー、確かに小町たちがカーくんにしてあげてるのはそれくらいかも」

 

 然も自分もやっているかのように口にしているが、その凡そ全ては雪乃が一人で行っていた。俺も代わりにカマクラの爪を切ろうとした経験はあったけれど、散々嫌がられて顔に傷を負っただけで終了。雪乃の膝の上では大人しくされるが儘になっているのにね……。

 それにしてもカマクラさん、雪乃の膝上でゴロゴロ甘えては爪を切ってもらえるし、風呂場ではシャンプーもしてもらえるわで贅沢が過ぎる。前世では世界でも救ったのだろうか。

 

 俺も徳を積んで来世は猫になるべく、全能である永久欠神を目覚めさせるべきかを検討していると、トリミングを終えたばかりのミニチュアダックスフントが欠伸交じりに歩いてきた。リードが壊れてしまったのか、その首には付けるべき線が無ければ飼い主も見当たらない。

 

「あら、あの子はもしかして……」

 

 その犬は雪乃の方を見るや否や、ばうばう鳴きながら一目散に駆け出してくる。何事もなく彼女の足元まで無事に辿り着くと、雪乃も小町もその小さな頭を撫でるために足を折り畳んでいった。

 俺は急ぎ彼女らの前に立ち、周りに対して番犬のようにガルルと威嚇する目付き。ショートパンツの小町は兎も角、雪乃はスカートなのだから気を付けて欲しい。

 

 俺の威嚇など気にもせず、逃げてきた犬は雪乃の足元でごろんと転がり二人に好き勝手に撫で回されていた。余りにも懐き過ぎている気がするが、やはり世界一可愛い妹達に対してだからだろうか。来世は猫じゃなくて犬になるのもありかもしれない。

 

「──ごめんなさい、サブレどこ行っちゃったのー?」

 

 酷く焦ってはいるが耳馴染みある聞き慣れた声、その主は忙しない足音を響かせながら俺たちの方へと近付いてくる。音の方に視線を投げると、明るい桃色混じりの茶髪で結われたトレードマークのお団子が揺れていた。

 

「おーい、この犬の飼い主って由比ヶ浜か?」

「あっ、うちのサブレです。ありがとうございます……ってヒッキー?!」

「……あら、やっぱり由比ヶ浜さんのお家の子だったのね」

 

 そこに立っていたのは、我らが友人の由比ヶ浜であった。彼女の手には繋がれていないリードが強く握り締められていたが、飼い犬の存在をその目で確認すると表情と共に次第に緩んでいく。

 

「ふぅ、ゆきのんもありがとね。何だか首輪が壊れちゃったみたいで、リードが…………って、あれ?」

 

 由比ヶ浜は二人と同じようにその場で屈み、雪乃への感謝の言葉を口にしている途中で違和感に気付き疑問の声を上げた。一つは恐らく雪乃の見慣れない髪型であろう。耳にした声から雪乃だと分かってはいたのだろうが、実際にその様相を目に入れるとポカンと口をあんぐり。

 

 そしてもう一つは、彼女にとっては面識のない人物がそこに居たからに違いない。

 

「あっ、どもども。小町は小町と申します」

「えっと、由比ヶ浜結衣です。多分妹さん、だよね……? えっ、どっちの?!」

 

 由比ヶ浜は完全に戸惑い切っており、首をぶんぶんと振っては俺と雪乃を交互に見やる。

 定義上は俺の妹なので、どちらのかと言われたら俺の妹であろう。雪乃の妹でないかと言われたら異を唱えたくなるが、仔細を説明する訳にもいかない。

 

 小町もその辺りは充分に把握している筈だが、念を押してアイコンタクトで気を付けろと指示をする。小町は俺の視線を受け取ると、こくんと首肯をして可愛らしい敬礼ポーズを決めた。無言でも意思疎通が図れるのだから、兄妹の絆って素晴らしい。

 

「小町はゆきねぇの妹です♪」

「おい、小町さんや?」

 

 ──訂正、全く伝わっていませんでした。

 

「へぇ、ゆきのんの妹さんだったんだ、すっごく可愛いね。今日のゆきのんもびっくりするくらい可愛いけど」

「えっと、……ありがとう、由比ヶ浜さん」

「えへへ、小町もありがとうございます!」

  

 由比ヶ浜はあっさりと二人の間に溶け込み、みるみるうちに女性三人で華やかな姦しい会話を楽しみ始める。雪乃からある程度の話を聞いていた小町は、由比ヶ浜をまるで旧友だったかのように受け入れ懐いていた。

 

 

 お互いの自己紹介を済ませると、由比ヶ浜は肩に掛けていた犬用のキャリーバッグにサブレを抱え入れて立ち上がる。続く二人の様子から、どうやら彼女も一緒にお昼ご飯を食べることになったらしい。

 

 四人で纏まり再び入口へと向かう最中、前を歩いていた由比ヶ浜は歩く速度を落とすと、ひょっこり俺の隣に並び歩く。彼女の山の麓ではサブレも身体の力を抜いてリラックス状態。やはり来世は犬にしようかしら。

 

「……小町ちゃん、あんま似てないけどヒッキーの妹なんだってね」

「おう、正真正銘の俺の妹だぞ」

 

 小町がちゃんと俺の妹宣言をしてくれていたのは喜ばしいのだが、そもそも余計なことを言わないで欲しかった。由比ヶ浜が正解するにしても、誤解するにしても、事態がややこしくなる可能性だってあっただろうに。

 

 しかしながら、今日の状況がもう既に立派な別解を突き付けていたことを、続く彼女の言葉によって否が応でも気付かされてしまった。

 

「ふふっ、もう家族ぐるみの付き合いなんだねー」

 

 由比ヶ浜は明るい声色で揶揄うような言の葉を投げ掛けてくる。だが、嫌味でも何でもなく、彼女から見た当たり前の感想なのだろう。小町が俺の妹であろうが、雪乃の妹であろうが決して変わりはしない唯一つの事実。

 

「…………まぁ、そんな感じかもしれん」

 

 由比ヶ浜は羞恥に塗れた俺の返答を聞き終えると、エールの言葉と共に俺の肩を優しく叩いて満足気に二人の方へと戻っていく。小町は帰ってきた彼女とサブレを熱烈歓迎するように楽しそうな笑い声を響かせていた。

 

 一方、雪乃は歩みを止めて俺の顔を薄目でまじまじと見つめてくる。その頬は僅かばかりの膨らみを帯びていた。

 

「……ねぇ、二人で何の話をしていたの?」

 

 やがて立ち止まっていた雪乃に追い付くと、彼女は俺の隣にずいっと歩み寄って耳元で囁く。今日も今日とて世界一可愛い横顔が近くなり、纏めている髪束の一つが二の腕にビシビシと当てられて擽ったい。

 彼女の質問に別に大した話ではないと答えるも、俺に対する細められた視線も可愛い頬も戻りはしない。どうしたものかと考える合間、俺は誤魔化すように前方で笑い合う二人に視線を向けていった。

 

 視線の先では、いつの間にやら小町と由比ヶ浜が仲良く手を繋ぐ光景が映し出される。入口付近は人が多いので、きっと小町がいつもの癖で手を伸ばしたのだろう。

 ただ、元気の有り余る小町が大きく腕を振るので、まるで大型犬の散歩のような絵面になってしまっている。

 

「あんな感じで首輪も外れたんだろうな……」

 

 小町のあまりにも大きな動きに由比ヶ浜の肩が心配になり始めていると、俺の手甲には体温低めな細い指先がちょこんと触れていた。方向音痴な彼女が離れると迷子になってしまうのは必死なので、悩み迷うことなく手を差し出して受け入れていく。思えば、雪乃から求められたのは初めてかもしれない。

 

 自然と上がってしまう口角、隣からは浅く息を吐く小さな音。

 

 その吐息が余韻へと移り変わる頃、二人の手から距離という名の隔たりは音と共に消えてしまった。彼女から伝わってくる温度は平時よりも幾分か温かい。

 

 理由を確かめるように見つめた自身の手には、柔らかな彼女の指が一本一本丁寧に織り込まれていた。

 

「────これなら、そう簡単には外れないでしょう?」

 

 そう口にして揶揄い上手の悪戯な笑みを向けると、雪乃は先導するように腕を引っ張り前を歩み始める。引かれる俺はただ呆然と、上機嫌に揺れ動く二つの尻尾を眺めることしか出来はしない。時折見せてくる彼女の小悪魔的な行動には連戦連敗、負けっぱなしである。

 

 

 いつしか、会場の人混みに紛れて歩く二人の立ち位置は忽ち逆転していた。それは道標にしていた小町たちを雪乃が見失い、あからさまに壁へと向かい始めてしまったから。それが、雪乃が前から隣へと移動してきた理由。

 

 俺が前に出たのは、気付いてしまった所為。今日に限っては隠れることの出来ない彼女の耳が、これまた見たことも無い程に赤く染まっていることを。

 

 唯一無二の弱点に恥じらう彼女のことを微笑ましくなって、気が逸って、守りたくなった。そんな当たり前の理由。高鳴る鼓動は、喧騒に掻き消されて聞こえはしないから。

 

 

 今はただ、熱い程に火照った、離れることのない貝殻を引き続ける。

 




前回に引き続き、評価やここすき、ご感想誠にありがとうございます。
自分でも気に入っている文章を評価してもらえて嬉しかったです。


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妹ノ下雪乃さんとの買い物はデートになってしまう。

 

 梅雨前線が一旦遠のき薄く白い雲が広がる空の下、場所は学生のデートスポットとして有名な南船橋のららぽーと入口前。その立派な顔は駅出口から高架下を抜け、燦々とした光を反射する歩道橋を渡った先に、来るもの拒まずの余裕さが堂々と構えられている。

 左手側に見えるIKEAの方には大学生や社会人が恋人との生活を考えて訪れたりするらしいが、お値段以上のニトリ派なのであまり詳しくはない。把握しているのは鮫が居ることだけ。

 

 本日、ただでさえ人目を引く雪乃と二人並んで訪れてしまったのは、とある目的を果たすため。事の発端は、昨日のわんにゃん博から帰った後の小町の偉大な発見であった────。

 

 

「おー結衣さんアイコンまで凝っていて女子力マシマシだなー。……って、えっ、もう来週すぐに誕生日じゃん!」

 

 本日入手した由比ヶ浜の連絡先にまじまじと見入っていると、愛すべき小町は角が割れている画面をソファーにぽすりと落とす。そういうことしてるから割れちゃうんでしょうに……。

 

 ペット同伴可能なテラス席で一緒に昼食を取った際にも、シンパシーを感じるのか二人はえらく仲良くしていた。そういった二人だから誕生日も教え合ったりするのだろう。

 

「へぇ、由比ヶ浜さんはプレゼント欲しさに誕生日を教える人だったのね」

「裏声やめて気持ち悪い。それにゆきねぇはそんなこと言わないでしょ……」

 

「……えっと、呼ばれたかしら?」

 

 丁度良く不機嫌顔をしたカマクラを抱えて、階段を登ってリビングへと入ってきた雪乃は可愛らしく首を傾げる。その手には帰りに買っていたチュールの袋。

 そのままカマクラと共にソファーの端に腰掛けると、小町は彼女に向かって前のめりに「結衣さんの誕生日知ってるよね?」と質問を投げていく。そこには焦りと期待が入り混じっているように思われた。

 

 だが、雪乃はその言葉を聞いて静かに首を横へと振ると、お腹に顔を埋めて丸くなるカマクラを撫で始める。俺だけ伝えられていなかったら如何しようかと思っていたが、同じく知らなかった彼女の横顔は少しだけ寂しそうにも見えた。

 

「もう、二人とも連絡先知ってるんだから見たら分かるじゃん……」

 

 呆れるような口振りで見せられた画面には、確かに由比ヶ浜を始めとした友人たちのが誕生日が月毎に分けられて記載されていた。

 いや、その誕生日カレンダーなんて機能知らないんですけど周知されているものなんですかね。メニュー画面見ても何処にもリンク無いんだけど。

 

 雪乃も撫でる手を止めてまで必死に探しているが、そこには辿り着けていない様子。我ら兄妹、小町以外は電子アプリ系がちょっと苦手であった。だからこそ本もアナログが好きなのだろう。知らないと見えない、触れられない物には抵抗があるから。

 

「こほん、まぁそれは良いのです。ただ、明日小町は予定がありますので、二人きりでお買い物デートに行ってきてもらいます♪」

「買い物は構わんが、その前に小町の予定って何だね?」

「……友達と勉強会。女の子しかいないから気にせず行ってきなさい」

 

 しっしっ、と小町の鬱陶しそうな素振りを見ては安堵の溜息を吐く。その呆れ顔の奥では顎に手をやり小難しい表情を浮かべる雪乃。だが、不意に目が合うと素早く顔を逸らして綺麗な横顔だけを視界に残した。

 もしかしなくても、やはり小町が居ないとお出掛けしたくないのだろうか。それとも初めての友人に贈るプレゼントに思い悩んでいるのだろうか。

 

 どちらにせよ、今の自分に出来ることは明日のエスコート準備、暴漢対策グッズの用意を怠らないことだけであろう。そんな甘い考えを抱いて、俺は何の心構えもせずに眠りへと誘われてしまうのだった──。

 

 

 入口の自動開閉ドアを通り抜けると、香り高い珈琲の匂いが乗せられた冷たい空気が肌へと纏わり付く。今日もスタバは若い女性で賑わっており、店外まで伸びている列が自然と目に入った。

 

 そこに並んでいる女性にすら注目を向けられているのは隣に並び歩く雪乃。今日の彼女はやけにお洒落な装いをしている。

 上には首回りと袖に幅広のフリルがあしらわれた白いブラウスを羽織り、下は黒のミニスカートを履いて長く美しい脚線美を描いていた。それにハーフアップと言うのだろうか、綺麗な艶のある黒髪が後ろで複雑に編み込まれている。

 

 まるでどこぞのお嬢様のような相貌に、玄関で目にした際には暫く立ち尽くしてしまった。雪乃の隣で微笑を浮かべる小町の揶揄いの言葉が無ければ一生見ていた可能性すらある。

 本来であれば、そこで指摘するべきだったのだろう。誰もが振り返る整った顔立ちに、人目に付けば惚れ惚れする小町監修のトータルコーディネート。小町趣味のせいで少しばかり露出過多なのが八幡的には心配しかない。

 

 そこで、事前に雪乃から今月分の小遣いを受け取ってある財布の潤沢さにかまけて、俺は彼女にとある提案をすることにした。

 

「まぁなんだ、……取り敢えず、そこにある服屋から見るか」

 

 俺が指差したのは入口近くにあるレディース服の専門店。雪乃は返事の代わりに「由比ヶ浜さんのサイズを知っているの?」とでも言いたげな、じとりとした湿度の高い眼差しを向けてきた。

 ただ、実際に言われてはいないので、俺は特段の弁明をすることなく店へと靴を叩いていく。意識するのは普段よりも背筋をピンと伸ばすこと。

 

 なるべく彼女が周りからの視線に晒されないように。

 

 

「……これなんか良いんじゃないか?」

 

 手にしたのは、落ち着いた青色の生地で作られたロング丈のフレアスカート。腰部には大きなリボンベルトが付いており、女子高生の可愛い真っ盛りな年頃にも調和してくれそうだった。

 値段と言う戦闘力も樋口さんには遠く及ばない。肌触りの良い生地に凝ったデザインでもレディースはメンズと比べて安く感じる。学生でもお洒落が楽しめるように配慮してくれているのだろうか。

 

「これ、試着してもらっていいか?」

「…………私が着ても参考にはならないわよ」

 

 隣で口を噤んでいた雪乃が携えていたのは、相も変わらず梅雨模様のじめっとした瞳。こういう顔も可愛いんだよね、分かる。

 だがしかし、俺が女性店員に微笑ましい目で見られながらも、必死になって探していた目的は果たしたい。無論、趣味じゃなかったら申し訳ないので、強くは言えないのだが。

 

「その、雪乃用に見てたから参考にしかならんが……」

「……えっ?」

 

 二回、三回と長い睫毛を有する双眸が瞬かれる。疑問の声を上げる彼女に釣られて、俺も「ん?」と会話にもならない鼻音を発した。

 

 見たところ嫌がる素振りではないので、首を傾げ合いながらも手に持った衣紋掛けを前に差し出していく。すると、彼女の手のひらは少しずつ花開き、ゆっくりと時間を掛けて床と水平へと垂れ下がっていった。

 

「……あの、えっと、…………試着室はあっちかしらね」

 

 ぽかんと困惑した表情を浮かべた儘に、彼女の手は確かにスカートを受け取り終える。そして、その青い布地を顔の高さまで持ち上げると、くるりと更衣室の反対側へと顔を背けてしまった。

 

 さっきから視線を送り続けていた店員さんが慌てて正しい方向を指し示すと、羞恥で顔を真っ赤にした雪乃と目が合う。もう一生方向音痴で居て欲しい。

 

 

 その後、満面の笑みを浮かべる店員さんを隣にして、謎の緊張感を抱きながら更衣室のカーテンが開かれるのを待っていた。「お兄さん、彼女さんが可愛くて仕方ないんですね」と声を掛けられても苦笑交じりに肯定しか出来ない。この店に入ってから、そんなにシスコン発言していましたかね……。

 

 無意識に可笑しな発言をしていないことを祈り始めるその時、カーテンからひょっこり顔を覗かせる雪乃が視界に入った。

 そのままカシャリと幕が開いて全容が映し出されると、居た堪れなかった店内が天上へと移り変わる。千葉に天使が舞い降りたかもしれない。

 

「その、……どうかしら?」

 

 先程までの服装が白と黒のコントラストを意識したきれいめファッションだとすれば、今は爽やかな青とフェミニンなシルエットを取り入れた清楚系へと変貌していた。僅かに覗かせるふくらはぎも健康的な範疇。

 

「…………可愛い、世界一可愛い。──いや、宇宙一可愛い」

 

 俺は透かさず隣で拍手していた店員さんに声を掛け、そのまま着て行くからとタグ処理と会計を願い出る。

 

 それを聞いた雪乃は自分で払うと主張していたが、完全に俺の我が儘なので無理矢理に押し返し、相も変わらず微笑ましい視線を向けられながらも店を後にした。

 

「……色々とありがとう、兄さん。それとごめんなさい」

 

 雪乃は俺の手元に吊るされている、黒い布地が入った紙袋を見やって言葉を漏らす。その表情の大部分は垂れ下がった前髪に遮られて伺うことは出来ない。

 

「まぁ、あれだな。短いのも似合うけど、ああいうのは家でだけ着てくれると助かる」

「あっ、あれは小町が兄さんの……」

 

 未だに納得し切れていない彼女に追加で我が儘を告げると、雪乃も慣れない恰好に今更恥ずかしくなったのか、顔を上げては思い出すように頬を朱に染めていく。

 しかし、焦って出た言葉は続きはせず、代わりに別の言葉が落ち着いた声色と合わせて零れ落ちた。

 

「それに、管理するどころか無駄遣いまでさせてしまって……」

「何言ってんだ? スカート代だけで雪乃を無料で独占出来るんだから、有意義どころか得まであるぞ」

 

 俺の本心からの戯言を聞くと、彼女は一瞬理解出来ずにぽかりと口を開ける。そして、直ぐさま馬鹿みたいと口にし破顔した。

 何を着ても様になるのは間違いないが、やはり雪乃には何よりも笑顔が似合う。

 

 人目も気にせず暫く笑い合って、互いの目尻には小さな雨粒が垂れ落ちる。だが、俺へと向けられるのは晴れ晴れとした眼差し。

 

 そこに反射して映る自身の瞳も、きっと彼女と同じに違いなかった。

 

 * * *

 

 二人で取った昼食は、スフレオムレツを上へと贅沢に乗せたドリア。卵白をメレンゲに仕立てたふわふわのオムレツと、トマトソースの熱々ドリアが相性抜群。

 猫舌なので食べ切るまでに結構な時間を要したのだが、対面には小さな口で冷ましながら頬張る雪乃が居るので幸せでしかない。あまりにも見過ぎたお陰で、彼女に冷ましてもらえた特別な一口の味を俺は一生忘れないだろう。

 

 店を出ると身体は満足感と充足感に満ち満ちていた。すっかり目的を果たした気で居るのだが、ここからが漸く本題の由比ヶ浜のプレゼント選び。昼食時にした作戦会議の結果、服やアクセサリー類は避けて雑貨、小物系に絞ると決めたものの該当する店は未だに多い。

 

 目に付いた店から物色するべく大通りへと出ると、その矢先に背筋に冷たいものが走った。

 

「──くんくん、雪乃ちゃんの匂いがする……。あっ、やっぱり雪乃ちゃんだ! おーい、雪乃ちゃん、正真正銘のお姉ちゃんですよー!」

 

 雪乃に似た綺麗な声質は通りがよく、遠く離れている距離からでも構わず耳朶を打つ。

 

 音の発信源に嫌でも目が動くと、そこには輝きを放つ女性を中心に華やかな男女数名の集まり。言葉を発した本人は、周りの人らに手刀で切るかの如く謝り倒し、こちらへと一目散に駆け寄ってくる。恐らく、別行動することを彼らに告げていたのだろう。

 

「……どうする、逃げるか?」

「残念ながら、見つかった時点でその選択肢は取りようがないわね……」

 

 艶のある黒髪は肩に触れる程度で揃えられ、雪乃と同様の透き通るような白い肌。久しぶりに見る彼女、雪ノ下陽乃(はるの)さんは実妹の雪乃にも劣らない端正な顔立ちで楽しそうに笑顔を振り撒く。

 雪乃に加えて小町まで可愛がり、お砂糖過多の甘い甘い対応をしてくれている素敵で凄い姉貴分。傍から見ているだけで血糖値が上がりそうなのが困り者。

 

「うわー、弟くんは酷いなぁ……。お姉ちゃん泣いちゃいそうだから、君は雪乃ちゃんを置いて帰っていいよ?」

 

 だがしかし、俺に対する対応はかなり塩分高め。血圧まで上げてくる本当に困ったさん。

 

「兄さんが帰るなら私も一緒に帰るわよ」

「冗談は置いといて、二人は何しに来たのかな? ……まさかデートじゃないよねぇ?」

 

 雪乃の帰宅宣言に陽乃さんは透かさず手のひらを返すも、冗談は変わらず続けていた。確かに小町はデートという言葉を使っていた気もするが、本日は明確な別の目的がある以上違うだろう。

 無論、デートでも構わないのでノーと答えはしない。伝えるのは疑いの余地がない事実だけ。

 

「可愛くお洒落してきた雪乃と、友人の誕生日祝いを買いに来ているだけですね」

「そうね、兄さんは素敵なスカートを見繕ってプレゼントしてくれたけれど」

 

「……こんな事は言いたくはないけど、それは立派なデートだね」

 

 陽乃さんはガクッと項垂れ、分かり易い落ち込んだポーズを見せる。しかし、即座に軽い咳払いをして出来の良い姉の笑顔を取り戻した。

 

「ではでは、このお姉ちゃんもプレゼント選びを手伝ってあげましょう! こう見えて毎年毎年、可愛い妹たちにあげる物には頭を悩ませているからね」

 

 散々に悩んだ結果なのだろうが、陽乃さんからの誕生日プレゼントは年々豪華になっていた。

 今年の小町には若者向けブランドの長財布、雪乃には保湿効果が良いと噂のお高いドライヤー。雪乃は実用性を求めるところがあるので、きちんと相手に合わせて選んでいるのだろうけれども。

 

「そう言えば、もうじき姉さんも誕生日だけれど、何か貰って嬉しい物はある?」

「うーん、雪乃ちゃんがくれる物なら何でも嬉しいよ!」

 

 来月の初旬、七夕の日は陽乃さんの誕生日。毎年小町たちと祝っているので、今年も何かしらの催しが開かれるのであろう。

 やはり悩ましいのはプレゼントで、今までに気遣い抜きで喜ばれた記憶はまるで無い。可愛いが過ぎる妹達には例年大喜びで抱き締めているというのに……。

 

 えっと、別に柔らかそうな肉体に抱擁されて羨ましいと思っていたりはしませんよ、うん。

 

「……じゃあ、俺からは何も要らないですかね?」

「あはは、弟くんはその立ち位置を貸してくれるだけで良いよ」

 

 明るい声色であっけらかんと放たれた言葉。お得意の冗談ではなく、本気で言ってそうなところが本当に怖い。一見完璧な笑顔にしか見えないのに、陽乃さんに向けられたその目だけは全く笑っていなかった。

 

「それで、贈る相手はどういう娘なのかな……?」

 

 

 場所は移り変わって、キッチン雑貨店。お洒落な鍋やフライパンを始め、キッチンや食卓を彩る素敵アイテムが勢揃い。台所を主戦場としている雪乃にとって、使い道や利便性の高さを推し量るのに苦労はしないだろう。

 

 このお店を選んでくれたのは、由比ヶ浜の話を聞いてくれた陽乃さんであった。

 

 料理下手だったとしても興味があれば全くもって問題なし。そう判断した彼女は迷うことなく広大な面積を誇るららぽを闊歩して導いてくれた。

 優れた美貌と天井知らずの高いスペック以外は色々と似ていない姉妹ではあるが、両親から受け継ぐ方向感覚を雪乃の分まで根こそぎ持っていってしまったのだろうか。

 

「じゃじゃーん、どうこれ似合うでしょ?」

 

 実力に見合った有り余る自信とシックな紫色のエプロンを羽織って笑うは陽乃さん。

 

「……まぁ、見てくれは似合ってますけど、中身的にはもっとシェフっぽいのが良いんじゃないですかね」

「君は本当に可愛くないなぁ……」

 

 文句を言う割にはやたらに絡んでくるのは何故なのだろうか。笑顔から呆れ、はたまた悩み顔へと表情をころころ変えながら、陽乃さんは包丁が並ぶ一角へと向かっていく。雪乃は喜びそうだけれども、きっと普通の女子高生は包丁を欲しがらないですよ。

 

 すっかり雪乃基準になっている姉の後ろ姿を眺めていると、不意に鈴を転がすような声で呼び掛けられた。

 

「これなんてどうかしら?」

 

 振り返った俺の視界に入ったのは、胸元に猫の足跡があしらわれた薄手の黒いエプロンを身に着けた雪乃の姿。ゆったりと回って、後ろ手に結ばれた腰紐のリボンを見せつけてくれる。

 

「めちゃくちゃ良い、すごいよく似合ってる、……世界一可愛いよ」

「……私は由比ヶ浜さんに似合うかを訊いたつもりだったのだけれど」

 

 彼女は余裕の笑みを浮かべながら、「もうそればっかり」と愛らしい小言を垂れる。そのままエプロンを脱いで折り畳むと、大事そうに胸元へと抱えていった。

 

 そして、近くの棚に鎮座してあるピンクの物を選び取ってば広げていく。デザインを始め、生地の造りやポケットの数なんかを確認しているのだろうか。色も黒よりはピンクの方が由比ヶ浜らしい気もする。

 

「よし、これにするわ」

「……い、一応着けて見せてもらってもいいか?」

 

 ピンクエプロンの雪乃も見たい、そんな当たり前の欲望から口が勝手に開かれる。何なら記憶だけでなく記録させて頂きたいので、大慌てでポケットからスマホを取り出しさえしていた。

 

「……だめよ、だって二着も必要ないもの」

 

 しかし、微笑む女神はどちらも許してはくれず、背中を向けてレジの方へと一人向かってしまう。

 悲しむよりも嘆くよりも、今は急いで由比ヶ浜へのプレゼントを選ばなければならない。そのことに気付いて、俺は陽乃さんに相談してまで贈り物を見繕い始める。

 

 思い起こせば真っ先に浮かぶ眩しい笑顔、それを傷付けたくはない。可能ならば喜ばせてあげたいと思うのは、友人として何も変なことではない筈だから。

 

 * * *

 

 不規則に揺れる車内には、水平線へと帰る夕陽が挨拶代わりに赤を差し込んでいる。眺め入ってしまいそうな夕焼けの景色を見るのもそこそこに、俺は深めに腰を掛けて大きく息を吐いた。それは、不慮の事故要素との邂逅が精神と肉体に疲労を蓄積してくれた所為。

 

 左隣で疲れた顔を見せずに微笑む雪乃の手には、エプロンが二着入った買い物袋と大きなパンさんのぬいぐるみが抱えられている。その相も変わらず目付きの悪い白黒パンダはクレーンゲームの景品で、陽乃さんと兄と姉の矜持を懸けて取り合った戦利品であった。

 妨害、暴言、何でもありの交代制だったが、あまりにも取れず雪乃の瞳に哀しみが宿った辺りで協力戦に移行。そこから僅か数プレイで無事に雪乃の手に渡らせることが出来た。

 

「それ、気に入ってくれるといいな」

「……そうね、私のより厚手の物にしたから、軽い事故が起きても無事に済むでしょうし」

 

 由比ヶ浜の希望で以前に行ったクッキー作り。彼女は焼成の途中でオーブンを開けようとしていた記憶もあるし、色々と危なっかしいから備えるのは正しいのだろうが、エプロンは防御力を期待して贈る物ではないだろう。

 しかしきっと、由比ヶ浜が台所へと立つ回数は今よりも多くなる筈だ。折角もらったプレゼントを使ってみたくなって、機会を求めて、そしていつか上手にもなる。陽乃さんもそう考えて、あのお店をチョイスしてくれたのだろうから。

 

「兄さんには貰ってばかりね……」

 

 雪乃は胸に抱えたぬいぐるみに顔を埋めながらに呟く。パンさんの爪がぎちぎちと恐ろしい音を立てているが、彼女の愛らしさで充分に緩和され気にはならない。

 

「日頃の感謝を考えたら足りないくらいだろ。……いつもすまないねぇ」

「ふふっ、それは言わない約束でしょ?」

 

 古来から続くお約束のやり取りによって、二人を取り巻いたのは弛緩し切った空気。釣られて緩んでしまった俺の口は、気が付けば今夜の料理を手伝いたいと告げていた。

 

 理由はただ、彼女のエプロン姿が見たいだけ。

 

「では、餃子でも作りましょうか」

 

 ほんの僅かに目を丸くし、小さく嘆声を漏らすと彼女は小町も一緒に三人で包もうと提案してくれた。脳裏に浮かぶ幸せな光景に、俺は迷うことなく首肯と共に了承の意を伝える。

 

 食い気味の反応に注がれたのは外気と変わらない温かな視線。

 だが、それを揺れるつり革へと向けると何かを思い起こしたのか、やがて意地の悪い笑みを浮かべ始めた。

 

「……そう言えば、兄さんのエプロンも取っておいてあったわね」

「ねぇ待って、それ小学校の家庭科用に買ったドラゴンのやつだよね?」

 

 八幡、それ以外のエプロン着けたことない! と焦って反応するも、雪乃は揶揄いの笑みで言葉を続ける。こういう部分はしっかり姉ノ下さんの影響を受けちゃっているのよね……。

 

「あら、似合っていたわよ?」

「全然嬉しくないんだよなぁ……」

 

 何故、あんなドラゴンと派手な雷エフェクトが描かれている物を選んでしまったのだろうか。因みに同時期に選んだ裁縫箱も当然のように龍絵印刷(ドラゴンスタイル)

 小学校男子の心だけを狙い撃つ巧妙な罠に、過去の俺も例外なく嵌められてしまっていた。

 

 今日一で楽しそうな様相が目の前で明るい声を上げている。お洒落に着飾っている雪乃の飾らない表情、そんな彼女を見れる立ち位置を陽乃さんは欲しがっていたのだろうか。俺はこの席を彼女に、いや他の誰にだって譲る気など毛頭ある筈もないけれど。

 

 次の瞬間、視界を遮ったのは羞恥に塗れた自身の手。恥ずべき黒い歴史とエゴに苛まれた醜い顔、欲望を両の手で覆い隠して蓋をする為に。

 

「……それなら、また二人で一緒に選びに行きましょう」

 

 しかし、誘いの先触れを紡ぎながら、細い指が俺の左手を優しく引き剥がしていく。開かれる先には愛する彼女の瞳と薄い唇、夕陽に染まった柔らかな笑みが待っていた。

 

「──今度こそ、独り占めさせてあげるから」

 

 喧騒の中で耳朶を震わせたのは、甘い甘い誘惑を孕んだ言の葉だけ。

 

 車輪が線路を叩く走行音も、周りの乗客の発する音も、目的地を告げる案内の声すら今は届きはしない。その甘美な誘惑に瞬きも、息の仕方さえも忘れてしまったから。

 

 開かれた扉の先に進んだ雪乃はくるりと翻って手招く。

 ふわりと舞い上がる美しい軌跡を描いていたのは、払拭したい薄暗い黒ではなく、彼女に似合う青春を彩る鮮やかな色。

 

 その青がきっと、焦がれた想いを大切に拾い上げて繋ぎ止めてくれた気がした。

 

 




遂に登場、姉ノ下さんでした。
前回も感想やここすき等ありがとうございました!!


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