メンタルよわよわヤンデレ娘を救いたいだけの異世界召喚 (Gallagher)
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プロローグ

ヴァイスで大鳳のサインカード引き当てたので、感謝を込めて書きました。


 ーーこれは、死ぬな

 

 血と潮風が入り混じった匂いが鼻腔を突く。

 

 硬い石畳に倒れ伏した少年は、朦朧とする意識の中で血反吐と一緒に悪態を吐き捨てた。形容し難い激痛が下半身を蹂躙している。目だけを動かして、少年は耐え難い痛みの発生源を確かめた。

 

 ーーなんだよ、足ねえじゃん

 

 爆発に巻き込まれて、即死しなかっただけ運が良かったのかも知れない。膝から下の脚が衝撃波によって千切れ飛び、夥しい量の血液が地面に赤い水溜りを形成していた。ビーフジャーキーみたいに繊維状になったピンク色の筋肉が、剥き出しになっている。

 

 少年は激痛と恐怖に駆られ悲鳴を上げようとしたが、喉から出たのは「こひゅっ」と空気が漏れるような掠れた音だけだった。

 

 ーー痛い痛い痛い痛い痛い

 

 人体を流れる血液総量の二分の一、約1.5Lの血液を失えば失血性ショックを引き起こし死に至ると、どこかで聞いた覚えがある。おそらくもう、死は避けられないだろう。石畳を未だ朱色に染め続ける液体が止まる気配はない。

 

 すでに呼吸すら上手く出来ず、肉体は意識を手放しかけていた。

 

 「死なないでっ!死なないでっ!いやっ、いやっ、いやっーー」

 

 消えゆく魂を繋ぎ止めるように、女性の声が少年の鼓膜を震わす。下半身を蹂躙する激痛がほんの一瞬だけ和らいだ、気がした。この声はいったい、誰のものなのだろう。決して忘れてはいけない大切な人であることは、直感が告げていた。

 

 しかしあまりにも多くの生命を失い過ぎた肉体では、最期に彼女の表情を思い浮かべることすら叶わない。少年は裂傷を負い血塗れになった右腕を、声の方へと伸ばした。せめて、触れていたかった。冷たく、寂しい死を迎える前に、彼女の温もりを味わいたかった。

 

 もう目は見えていない。しかし伸ばした右手が、柔らかい感触に包み込まれたのは分かった。ぞっとするほどに、冷たい手だった。握り返してくれた彼女の手は、既に命の温もりを失いかけていた。

 

 「ごめん、なさい……」

 

 「ーーッ!」

 

 「恨んで、ください……不甲斐ない……私を」

 

 ーーどうしてどうしてどうして

 

 死の間際、少年の脳を支配したのは降りかかる理不尽への疑問だった。なぜ自分は殺されなければならない。なぜ彼女は死ななければなれない。なぜあのバケモノはこの国を襲った。

 

 ーーなぜ、なぜ、なぜ

 

 どれだけ考えても、答えは出なかった。けれど、意識が消失する瞬間。少年はただ、冷たくなった彼女の手を強く握りしめた。なぜそうしたのか、その答えだけは分かっていた。

 

 「次は、俺が君をーー」

 

 

 ーー守ってみせる

 



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第一章『リブ・アナザー・デイ』
第一章1『ここはジャポンですか?』


 

 「おいおいおい……マジかよ」

 

 視界を埋め尽くすほどの満開の桜に、少年は囲まれていた。ピンク色の可愛らしい花弁が微風に吹かれて揺れているが、そんな趣き深い光景に意識を傾けている余裕はない。血を想起させる鮮やかな赤で塗られた神橋の上で、少年は自信が置かれた状況を分析しようと試みた。

 

 短めの黒髪に、中性的な顔立ち。美男とまではいかないがそこそこ整っている方だろう。身長は百七十五センチほど、低くはないが特別大きくもない。捲ったワイシャツの袖から覗く腕には、僅かに血管が浮かび上がっていた。

 

 「こりゃあ、まずいことになった」

 

 桃源郷のような風景を横目に、少年はとりあえず橋の上に座り込んだ。

 

 数分前に会った白髪の女性から聞いた話によれば、ここは日本ではなく『重桜』という君主制国家らしい。その女性にはキツネのようなケモ耳が生えていたが、他の人々は全く気にする素振りを見せなかった。まるでそれが、当たり前の日常であるかのように。

 

 日本語は普通に通じた。加えて、街中の看板には漢字と平仮名が日本と同じように使われていた。

 

 ここまでは「日本政府がエイプリルフールで国号を変えたのかな」なんて思っていたが、江戸時代にタイムスリップしたかのような街並みと、着物を纏ったケモミミ少女の登場ですべてぶっ壊された。突き付けられた信じがたい現実を認めるしか、少年に残された道はない。

 

 「ああ。もう分かった分かった。これはいま流行のーー」

 

 

 「タイムスリップ異世界召喚って奴だな」

 

 

 海上に浮かぶ『航空母艦』を眺めながら、少年はまたもや深いため息を吐いた。

 

 

  


 

 

 

 春木晶(はるきあきら)が過ごしてきた十七年間の人生を表すのに『中途半端』ほど適当な言葉はこの世に存在しないだろう。

 

 メガバンクに勤める銀行員の父と専業主婦の母親の下に生まれて、特に不自由なく愛情を受けて育った。進学した高校の偏差値はぴったり六十で、この前の期末試験の成績は学年二十五位。

 

 「お前は顔が女っぽいから身を守れるようにしろ」という父親のアドバイスから始めたボクシングはまあまあ上達したが、県大会ベスト十六の壁を越えたことはなかった。

 

 何事も練習無しに平均よりは出来るが、結局すべてにおいて一流になれたことは一度もない。二流止まりの高校二年生、それが春木晶だ。将来の夢はもちろん安定の象徴である国家公務員。進学予定の中堅国立大学に向けた受験勉強の休憩中に、夜の空気を吸おうと家の玄関を出たらーー

 

 「なんだよこの中途半端な異世界召喚!どうせなら剣と魔法のファンタジーな世界に召喚してくれよ。この様子じゃ魔法は愚か冒険もねえよ!」

 

 アキラは橋の上から海に向かって鬱憤をぶち撒ける。もはや神様を職務怠慢で訴えたかった。家の扉を開いて外に出た瞬間には、すでに目の前は真昼の海だった。気が付けばアキラは巨大な島の最端部、海と埠頭を繋ぐ真っ赤な神橋の上に立っていた。

 

 「通行人Aの話から推測するに時代は第二次世界大戦期……だけど科学の発展速度が地球より早くて、文明レベルは俺がいた世界の二十世紀紀よりもほんのちょっと進んでる。いやマジで異世界要素ケモミミ娘しかねえ……」

 

 異世界要素は皆無に等しいが『重桜』は言葉を失うほど美しい国だ。四方を海に囲まれた島国で、至る所に桜が植えてある。ちょうど満開の時期を迎えているようで、島全体が華やかなピンク色に染まっているようにすら見えた。

 

 日本と同じ文化を持っているのか、遠くには神社の鳥居も見受けられる。島の中心には御神木らしき巨木が人々を見守るように聳え立っていた。

 

「でも奴隷にされたエルフちゃんも、魔王を倒す聖女様もいないんじゃ……俺ってただの住所不定無職の十七歳だぞ」

 

 綺麗な海を眺めながら、アキラは長いため息を吐く。

 

 召喚モノのお約束であるヒロイン候補の美少女が登場する気配は一切なく、周囲を包んでいるのは寄せては返す波の音だけ。そもそも、異世界に召喚された主人公が無双するような世界はいわゆる『中世ヨーロッパ風』であって近代的な法治国家ではない。

 

 この重桜国からしてみれば、戸籍に登録されていないアキラはこの国には存在しない『幽霊』のようなものだ。

 

 「クソっ。普通にやべえ。寝る前に妄想してた状況と全然違う。このままじゃホームレスになって飢え死に一直線だ」

 

 富士山は遠くで見るから美しいとはよくいうが、異世界だって現実で見るから楽しいのだ。こうして実際に放り込まれてみれば、異世界で生き抜くということの難易度がいかにぶっ壊れているかが分かるだろう。

 

 だが、このまま死体になって土に還り、綺麗な桜の養分になる気は無い。とりあえずは飯と寝床、そして日雇いの仕事だ。

 

 「城下町に行けば、何か分かるかもな」

 

 橋を渡ってすぐの所に、島の中心部へと繋がっているであろう坂が見える。

 アキラは神木の周囲を囲むようにして立つ巨大な城郭に視線を飛ばした。

 

 「とりあえず持ち物は……スマホとウォークマンと財布だけ……。まあ、最悪こいつらを売れば三日くらいは食えるか」

 

 この国の住民が友好的であることを祈りながら橋を渡り、かなり勾配がきつい坂をえっちらおっちら登り終えると、アキラの予想通り多くの人で賑わう城下町が目前に広がっていた。

 

 「おおっ……古き良き日本って感じがする!」

 

 ここが異世界であることを忘れてしまうほど、その街は完璧に『和』を表現していた。

 

 石畳で舗装された歩道の両脇には瓦屋根の和風建築が立ち並び、通りを行き交う人々の手にはみたらし団子や焼き串などが握られている。おまけに、味噌が焦げるいい匂いがどこからともなく漂って来た。

 

 観光地に来たかのような興奮に駆られ、思わずアキラは早足になる。

 

 「飯テロにも程があんぞ、こちとら文無しだって言うのに」

 

 夕食から何も腹に入れてないので、かなり小腹が空いた。正確に言えば文無しではないのだが、日本銀行券が重桜国で使えるはずないので、実質所持金はゼロ円。どうにかして金を稼がないと、食事は愚か三時のおやつにすらありつけなくなる。

 

 ぶらぶらと、行くあてもなくアキラは街を歩く。

 

 不思議な国だなと、アキラは街並みを眺めながら思った。空母を建造できるほどの科学力を持ち合わせているにも関わらず、鎖国でもしているのかと思うほど、西洋風の物が一切見当たらない。

 通りを行き交う人がケモミミの生えた若い女性ばかりというのも不思議だった。男が存在しないなんてことはありえない。戦争にでも駆り出されているのだろうか。

 

 やはりヨーロッパ生まれのブレザーは重桜国民には物珍しいのか、通行人はアキラに好奇の眼差しを向けてくる。

 

 「やっぱし、この国で洋服姿は浮くよなあ」

 

 職質とかされたら、面倒くさいことになるのは明白だ。異世界から来ました、なんて言ったところで信じてもらえないどころか『犯罪者予備郡』のレッテルを貼られてお縄だ。

 

 せっかく異世界に召喚されたのに豚箱暮らしは回避したい。

 しかし服を買おうにも金がないのでどうしようもない。

 

 「ドブさらいでもなんでもやりまーす」

 

 雇ってくれそうな場所を探し回るアキラだったが、それらしき所は見当たらない。ひよこみたいな生き物が店番をしているという、なんともファンタジーな光景を見ることが出来たものの、依然として収穫はナシ。

 

 もういっそのこと物乞いでもしてみるかと、ヤケになり始めたところでーー

 

 「ーー指揮官様ぁぁ〜」

 

 「わぶっ!?」

 

 派手な着物を肩まで着崩した黒髪ツインテールの美少女が、突如としてタックルをかましてきた。

 

 思考が一瞬でスパークする。処理容量を遥かに超えた情報が一気に脳内へ流れ込んできたせいで、ろくに受け身も取れずにアキラは地面に倒れ込んだ。

 

 腹部に圧迫感を感じ、何事かと視線を上に向けると、艶っぽく潤んだ真紅の瞳と目があった。ここのきてヒロイン候補の登場か!?と内心興奮するが、客観的に見たら初対面の人間に押し倒されているという異常な状況だ。

 

 いくら文化や風景が日本と似ているからと言って、ここが『日本国』でない以上、治安や政治状態が安定しているとは限らない。外務省が渡航禁止情報を出すような危ない国の可能性もある。

 

 「この火照り、そしてこのときめき……やっと会えましたわ、指揮官様!大鳳、不束者ですが、よろしくお願いします♡」

 

 「おい待てい(江戸っ子)」

 

 強盗発生率驚異の120%を誇る世紀末都市ヨハネスブルグでは、男性の四人に一人がレ◯プ被害に遭うと言う。それを聞いた時は、まさかそんなことないだろと鼻で笑い飛ばしていたのだが……

 

 「なんかすっごい柔らかいもの当たってる……あとめっちゃいい匂い……じゃねえよ!目が怖えっ!ハイライト消えてんじゃん!誰か助けてください!」

 

 たった今、笑っていられる状況では無くなった。このままでは開けちゃいけない扉が開かれる。直感がそう告げている。異世界に召喚されて初めてのイベントが逆レ◯プだと?今すぐ対象年齢を引き下げた方がいい。

 

 救助を要請したが、道行く人々はこちらを一瞥したあと、一目散に走り去ってしまった。いや、真っ昼間から男を押し倒すような人に関わりたくないのは十分分かる。だが、いくらなんでも逃げるに躊躇がなさ過ぎやしないか?

 

 アキラはなんとかこの状態から脱出しようともがくが、「大鳳」と名乗った着物姿の少女にがっしりと両腕を押さえ込まれた状態では、どうすることも出来ない。その細い身体のどこにそんな力が眠ってるのだ。アキラは思わず息を呑んだ。

 

 とりあえず、この少女は『指揮官』という人物とアキラとを間違っているのは確実だ。物語の歯車がたったいま動き出した、そんな気がする。

 

 「はあっ……恋焦がれた指揮官様の匂いっ。癖になっちゃいます♡」

 

 可愛い女の子に押し倒されるなんて夢のようだと思っていた。だが、妄想と現実は違う。それを異世界に召喚されるという異常事態から学んだアキラだったが、いま再びそれを再認識した。

 

 実際にそういう目に遭ってみて、最初に感じるのは紛れもない「恐怖」だ。全力を出して抵抗しても一切効かずに、そのまま相手の欲望のままに肉体を蹂躙される。力で叶わない相手に屈服させられるのが、これほど嫌な気分だとは。

 

 「ああっ……指揮官が女の子みたいに乱れて……いけませんわ。あまり私を興奮させないでくださいっ」

 

 互いの息遣いが分かるほど顔を近付けて、大鳳はアキラの頬を愛おしげに撫でた。艶やかな唇から漏れる呼吸は荒く、頬は上気し、鮮やかな布の隙間から覗く白い肌はしっとりと汗ばんでいた。あまりにも扇情的な大鳳の美貌に、恐怖も忘れてアキラはただ見惚れる。

 

 隠さずに言うのなら、アキラの気持ちは少し傾いていた。なんとなくで日々を生きてきたアキラに信念なんてものはない。好きな人も特にいなければ、初めては絶対に恋人となんて純情ぶった考えも持ち合わせていない。つまりここで一線を超えても、失う物は何もない。

 

 「や、やるなら……痛くしないでね?」

 

 「はいっ♡ぜ〜んぶこの大鳳に任せてください。まずはぁ……この邪魔なお洋服をーー」

 

 大鳳がアキラのネクタイに手を掛けた瞬間、

 

 「ーーお待ちなさい」

 

 凛とした声が大気を震わせた。

 

 大鳳が弾かれたように立ち上がる。同時に、拘束から解放されたアキラは乱れた服装を整えながら、ひとまず声の主から距離を取った。この国で油断は禁物だということは、身を持って経験済みだ。

 

 現れたのは赤と黒を基調とした着物を纏った、狐耳の美女。腰のあたりから九本の尾が生えている。獣人とでも言うのだろうか。とにかく俗に言う『亜人』であることは確かだ。

 

 アキラは警戒心を微かに漂わせながら、ゆっくりと後ずさる。いつのまにかアキラの袖にくっ付いていた大鳳が、「チッ」とおおよそその可愛げな見た目からは想像できない大きい舌打ちを漏らした。

 

 「あら大鳳。どうして目を閉じているのかしら」

 

 「これみよがしに毛深い尻尾を……大鳳の指揮官様に見せびらかす女狐がおりまして」

 

 「いや仲悪いなぁ!?」

 

 まずは深く息を吸い、アキラは脳に新鮮な酸素を供給する。異世界召喚からおよそ一時間が経過した。状況を整理しよう。

 

 舞台は和風ファンタジーな世界観で、狐耳や犬耳の女の子は一般的。おそらく鎖国していて西洋の物は見受けられないが、航空母艦を建造するなど科学技術は発展している。ケモミミが生えていない普通の人間はあまりいない。もっと言うと男が少ない可能性がある。

 

 (原因は戦争や疫病で男が大量に死んだか……それとも元々男がいないのか?いや、それはありえない。流石に単性生殖は無理がある)

 

 まあ、そこの違和感は後々詰めるとして、問題は大鳳だ。

 

 突如として現れた、愛が重い紅瞳の美少女。アキラを『指揮官』なる人物と思い込み白昼堂々エッチな行為に及ぼうとするなど、少し危ない空気を纏っているが、言葉遣いや佇まいは優雅で洗練されている。そして何よりもまず、胸が大きい。

 

 アキラだって思春期真っ盛りの男子高校生だ。いくら目のハイライトが消えていていようと、紛れもない美少女に好意を向けられて嬉しくない訳がない。好意というよりかはもはや愛に近いが。

 

 (ヒロイン候補が選択肢ミスったら刺してきそうなのは気のせいか?うん、気のせいだ)

 

 暗い妄想を振り払い、アキラは狐耳の美女に意識を向ける。

 

 「えっと……どういう状況かな、これ」

 

 「我が重桜艦隊の大鳳がご迷惑をおかけしたこと、心からお詫び申し上げます。私は無敵艨艟と讃えられる一航戦の赤城。貴方をお迎えに上がりました」

 

 美しい微笑を浮かべ優雅に一礼した狐耳の美女ーー赤城の言葉に、アキラは目眩すら覚えた。

 

 『艦隊』『一航戦』そして『赤城』。怒涛の如く押し寄せる情報の奔流に飲み込まれんと、アキラは必死で思考を回し続ける。要するに、目の前に現れた二人の女性は海軍に所属する軍人で紛れもない精鋭。そして大鳳はアキラをその『艦隊』の指揮官と勘違いしている。

 

 (なんとなく把握してきたぞ。多分、俺は『指揮官』としてこの世界に召喚されたんだ)

 

 世界はどうやらハルキ・アキラを見捨ててはいなかった。唐突に訪れたご都合主義展開にアキラは思わずガッツポーズ。これはもしかすると、世界の危機を颯爽と救った英雄としてモテモテハーレム生活も夢ではない。

 

 退屈な日常は終焉を迎えたのだ。

 

 今目の前に広がっているのは、喉が手が出るほどに待ち望んだ刺激的な非日常。左腕に触れる大鳳の柔らかな感触を堪能しながら、アキラは運命に感謝した。おっぱいまでもがまさかの異世界クオリティ。その破壊力は測定不可能。

 

 「いや、特に迷惑だとかは思ってない。ただ、少し混乱しているだけで……」

 

 「はあっ♡やっぱり指揮官様と大鳳は相思相愛。このまま愛の巣に直行ですわぁ〜」

 

 飼い主に甘える猫のように、大鳳はアキラにしなだれかかる。蕩けた表情を浮かべ、アキラの腕に頬を擦り付ける様子はまさしく猫のようだ。思わず頭を撫でたくなる衝動に駆られたが、

 

 「もしかして貴方は……その無駄に乳が大きいだけの淫売がお好みなのですか?」

 

 「いや違うっ!初対面なんで好きとかそう言うのじゃなくて!」

 

 赤城の尻尾が逆立ち、明らかに殺気が放たれ始めたので一旦ストップ。

 

 目のハイライトを消すのが重桜女性のお家芸なのか、だいぶ精神状態が不安定そうな二人を見てアキラは気を引き締めた。うかうかしてるとわりかし本気で刺されそうだ。やはり、美しい薔薇には棘があるのかもしれない。

 

 物凄い勢いで首を横に振るアキラを見た赤城は、やれやれと言った感じでため息を吐いた。

 

 「それなら良いんです。加賀がいきなり『姉様、人間の男が歩いている』と大騒ぎするので来てみれば、まさかそのオジャマムシと一緒だったとは……大鳳、今すぐそのお方から離れなさい」

 

 「お断りしますわ。大鳳と指揮官様は〜あの海よりも深い信頼で繋がっていますもの♡誰であろうと、引き裂くことはできませんわ〜」

 

 「いい加減にしなさい大鳳っ!これは命令っ」

 

 「二人ともタンマ!話が一向に進まねえ!」

 

 二人の美女が火花を散らし始めたので、すかさずアキラは突っ込みを入れた。大鳳がアキラの左腕をがっちりとホールドしたまま、赤城へ抵抗を表明する様にぷいっとそっぽを向く。豊満な二つの感触から死ぬ気で意識を逸らし、アキラは真剣な表情で赤城を見据えた。

 

 「信じて貰えるかどうか分からないけど……俺は、こことは違う世界から来たんだ。俺を……頭がおかしい奴だと思ってくれてもいい。ただ学生証とこのスマホってやつを見れば少しはーー」

 

 真面目な顔で『異世界から召喚された』なんて話をする人間の頭がまともなはずが無い。アキラだってそんな話をしてくる異常者とは関わりたく無いし、もし目の前にいたらすぐさま逃げて迷わず警察に通報する。

 

 それでも、話をしておかなければならないと思った。

 

 この重桜という国で、ハルキ・アキラと言う人間はあまりにも歪すぎるのだ。肌や髪の色、顔立ちは重桜人であるのに洋服を着ていて、いわば『オーパーツ』である携帯電話や音楽プレーヤーを所持している。

 

 まず、外国から潜入中のスパイを疑われて終わりだ。アキラの予想通り本当にこの国が鎖国しているのなら、問答無用で死刑の可能性だって捨てきれない。アキラは赤城に、いきなり異郷に飛ばされた不憫な漂流者であることを証明する必要があったのだが、

 

 「ーーそんな不安な顔をされずとも、存じ上げております」

 

 「へっ……?」

 

 さも当たり前のことのように言い切った赤城に、アキラは思わず気の抜けた声を上げた。

 

 大鳳はアキラが異世界から来ようがどこから来ようがどうでもいいようで、瞼を閉じてひたすら自分の匂いをアキラに擦り付けている。赤城はそれを見て一瞬露骨に顔をしかめて不快感を表明。しかしすぐさま表情を切り替え、説明を続ける。

 

 「神木の守護者たる『巫女』の導きで、貴方はこの世界に降り立った。この世界を『セイレーン』の脅威から救うために」

 

 「俺がこの世界に召喚されたその『セイレーン』とやらをぶっ倒すため……でもどうして俺なんだ。俺より強い奴なんて、星の数ほどいる」

 

 仮にその『セイレーン』とやらが世界を襲う悪い奴だったとして、立ち向かうための人間を召喚するのなら確実に強い人間の方が良い。肉体的にも、精神的にもだ。

 

 脅威的な反射神経と身体能力を持つプロボクサーや総合格闘家。単純な強さが意味をなさないのならば、厳しい訓練を積み重ね、様々な戦略的知識を備えた軍人でも良い。もしアキラが召喚する立場ならば、間違いなくそう言った人達を選ぶ。

 

 しかし赤城は、無知な我が子を諭すようにゆっくりと首を横に振った。

 

 「いいえ。『巫女』が貴方を選んだ。それはつまり……この責務に相応しいのは、貴方をおいて他にいないということ」

 

 この気持ちは一体なんだ。心臓が高鳴り、息が上手く出来ない。足も震えている。それなのに、体中が熱くてたまらない。激しくビートを刻む心臓から送り出される熱い血液が、血管を通じて全身に伝わっているのが分かる。これは、武者震いだ。

 

 普通の高校生が世界を救う英雄となる。待ち受ける冒険の予感に、アキラは強く拳を握りしめた。これだ。これこそ待ちに待っていた異世界召喚だ。

 

 「全人類の91%が死に絶え、世界の制海権の九割がセイレーンの手に落ちた今……貴方が最後の希望なのですーー」

 

 衝撃の告白に言葉を失ったアキラの元へ、赤城はゆっくりと歩を進める。大鳳が鋭い視線を飛ばすが、一向に構う素振りを見せずに赤城はそのまま互いの息が触れ合う距離にまで接近すると、

 

 「ーー私だけの指揮官様♡」

 

 アキラの頬に口づけをして、その桃色に艶めく唇を蠢かせた。

 

 「では、この赤城が指揮官様のこれからの住処……重桜の本丸にご案内いたします♡」

 

 「このゴミ虫ッ!死んじゃえばいいのにぃっ!」

 

 「重い!愛が重いよ大鳳さん!お願いだから仲良くしてえ!」

 

 アキラはひとまず、人が変わったように低い声で絶叫して暴れまわる大鳳をなだめることに全力を傾けることにした。

 



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第一章2『新居でのひととき』

 『何度も言うように……大鳳。あなたはただの護衛よ。くれぐれも無礼のないように』

 

 『言われなくとも、指揮官様のご寝室の警備は万全です。誰であろうと大鳳と指揮官様の愛の巣に立ち入ることはできませんわ♡』

 

 『はあっ……。指揮官様、大鳳に何かされたらすぐ赤城にご報告下さい。駆除、致しますので』

 

 『ーーでは、今日のところはごゆっくりお過ごしくださいませ』

 

 

 「こりゃ、一泊十万円ってレベルじゃないぞ……」

 

 高級旅館の一室を思わせる広い和室を見回し、アキラは呟いた。部屋の中央には味わい深い艶を放つ黒檀の座卓と、いかにも座り心地が良さそうな座椅子が置かれている。勇ましい青龍が天を登る様子を墨で描いた躍動感溢れる掛け軸も見事だ。

 

 「おまけに庭付きかい」

 

 障子を開いた先には、なんとも趣深い日本(重桜)庭園が広がっている。散った桜の花びらが漂う池の中で、色鮮やかな錦鯉が口をぱくぱくさせながら自由気儘に泳いでいた。

 

 「至れり尽せりで、そのうちバチが当たりそうだ」

 

 アキラはそこまで信心深い人間ではないが、ここまで良い事が続くと流石に不安になってくる。不運の後には幸運が待ってるとはよく言うが、逆バージョンが発生しないとも限らない。調子に乗らず、なるべく平常心で過ごすのが当面の行動指針だ。

 

 気が付けば既に太陽は沈みかけていた。

 

 池の水が地平線の彼方から放たれる残光を反射し、キラキラと煌めいている。なんとも美しい光景を写真に収めようとアキラはスマホを取り出したが、二度と充電は出来なさそうなので、電源を切ってズボンのポケットに押し込んだ。

 

 「空気が綺麗だ」

 

 「ーー指揮官様以外の人間が、殆どいなくなってしまいましたから」

 

 アキラの独り言に対してそう返したのは、部屋の隅で静かに立っていた大鳳だ。てっきり、二人きりになった瞬間すぐ「指揮官さま〜♡」とばかり抱き付いてくるものと思っていたから、赤城の言いつけを健気に守るその姿には少し驚いた。もっと言えば萌えた。

 

 テレビも無いので、アキラは座椅子に座ってただぼうっと外を眺める。鹿威しのカコンっという心地よい音が時折り響く。ふと後ろを向けば、穏やかな微笑を浮かべる大鳳と視線が絡み合う。

 

 和室を流れる幸せな時間。

 

 けれど、そんな浮ついた感情はすぐに消え去った。人類の91%が滅びたということは、もしこの世界の総人口が元いた世界と同じ七十二億人だったとして、およそ六十五億人もの人間が『セイレーン』に殺されたと言うことになる。

 

 瞼を閉じれば、想像してしまう。瓦礫の山と化した都市に燃え上がる海。逃げ惑う群衆、街を埋め尽くす血塗れの死体。そして、灰一つ残さずに尊い命を残酷に掻き消していく爆炎。

 

 未知なる敵に抵抗らしい抵抗も出来ずに死んでいったこの世界の人たちは、ハルキ・アキラに何を思うだろうか。きっと、今さら来たところで愛する人々は死んだ。もう手遅れだ。そんな風にアキラを罵るだろう。

 

 それでも、アキラは未知の敵『セイレーン』に立ち向かう必要があった。なぜなら『指揮官』しての職務を果たさなければアキラは住所不定無職に逆戻り。どこかの公園で野垂れ死に一直線だからだ。異世界で見つけた唯一の居場所を失う訳にはいかない。

 

 「冴えない高校生にはちょっとこの世界はハード過ぎだ……」

 

 だがアキラには特別な力もなければ知恵も勇気もない。これからのことを考えれば考えるほど、どうしようもない不安が襲いかかってくる。平和な日本では感じたこともなかった『死』の気配が、冷たく背筋を撫でる。

 

 そんなアキラが抱えた不安を見透かしたように、大鳳はアキラの隣に静かに腰を下ろすと、そっと彼の手を握り込んだ。大鳳の細く白い指が掌と絡み合う。人肌の温もりが凍りつくような不安をゆっくりと溶かしていく。

 

 「心配しなくても大丈夫ですわ。指揮官様のことは、大鳳がこの命に替えても必ず守り抜きます」

 

 「どうして……そこまでしてくれるんだ?」

 

 純粋な疑問だった。

 

 好意を抱いた相手に、それも初対面の人間に、果たして自分の命を捧げられるのだろうか。いいや無理だ。おまけに、アキラは絶世の美男子でもなければ、やること全てが中途半端で中身は薄っぺら。こんな男に命を捧げる必要性など全く持って皆無のはず。

 

 それなのに、大鳳のルビーを思わせる真紅の瞳はアキラを捉えて離さない。恋慕の情を隠す気はさらさらないようで、大鳳はアキラの膝の上に移動すると、真正面から彼の身体を抱き締めた。

 

 「一目惚れでしたわ。溢れる気持ちを、抑えることなど出来ませんでした」

 

 アキラの耳元で大鳳は囁く。甘い吐息が首筋を撫でるこそばゆい感覚が、アキラの理性を容赦なく溶かしていく。

 

 「大鳳たちKAN-SENは本能的に感じるのです。戦場を駆ける兵器でしかない私たちをーー心から愛して下さる殿方を」

 

 大鳳は両手でアキラの頬に触れると、そのまま下へ下へと掌を滑らせ、アキラの太腿の付け根に手を置いた。少し指を動かせば秘部に届いてしまうであろう位置を、大鳳は愛おしげに何度も何度も撫で続ける。

 

 「いまここで、大鳳を食べて下さっても構いませんわ♡」

 

 「ーーッ!?」

 

 「指揮官様も、ココ……苦しいですよね?大鳳も、疼いて疼いて……たまりませんの♡一緒にスッキリ、してみます?」

 

 (駄目だ!!スイッチ入った!!)

 

 タックルで吹っ飛ばされ押し倒された時と全く同じ目だ。さっきまでの良妻モードはどこへやら。大鳳はアキラへの愛を燃料に突っ走る暴走機関車へとフォルムチェンジ。こうなるともう赤城との喧嘩以外に止める道はない。

 

 (大鳳ママが恋しいよ!!割と本気で惚れかけた俺の純情を返して!!)

 

 アキラは腹を括った。深く息を吸って、吐く。脳を埋め尽くそうとする薄汚い欲望を、唇を噛み締めて掻き消した。痛みが走ると同時に口の中を鉄の味が満たすが、本能に任せて大鳳を汚さずに済むのなら安いものだ。

 

 「……大鳳が俺のこと好きになってくれたのは……嬉しいよ」

 

 紛れもない本音だった。心の底から嬉しいし、こんなに自分を思ってくれる女の子を悲しませたくはない。今すぐに「俺も好きだ」と告白すれば大鳳だって喜ぶだろうし、アキラだって欲望の赴くまま極上の女体を味わうことが出来る。

 

 しかしそれで本当に良いのだろうか。異世界に『指揮官』として召喚されたという理由だけで、本来ならば決して言葉を交わすことすら出来ないような素敵な女の子とそういう関係になって、本当にそれで満足なのか?

 

 アキラのやろうとしていたことはただのズルだ。あの世界で、自分の力不足で果たせなかった欲望を、この世界で都合よく発散させようとしていただけだ。

 

 「でもさ。もう少し、ゆっくりやっていこうぜ?デートすっ飛ばしていきなりベッドインはちょっとレベル高すぎな」

 

 「大鳳はっ!指揮官様になら全てを捧げてもいいと本気で思っていますわ!やっと会えたのに……指揮官様が離れて行ってしまうと思うと怖くて。だから……繋がっていたいんですっ」

 

 「よーし!じゃああれだ!今日の夜、二人で手を繋いで町をぶらぶら散歩しよう。そんでもって、一緒に寝よう。あっ!寝るってそういう意味じゃないからね。スリープの方!それでOK!?」

 

 「大鳳を……嫌いにならないでくれますか?」

 

 「そりゃもう当たり前田のクラッカーよ。いや、平成生まれなのに昭和の死語使うの恥ずかしいなオイ!」

 

 「ずっと……一緒にいてくれますか?」

 

 「あたぼうよ。一度捕まえたら離さないぜベイビー」

 

 冷静なコミュニケーションのおかげか、徐々に落ち着きを取り戻していく大鳳を見てアキラはほっと一息。『ほどほどに愛しなさい。長続きする恋はそういう恋だよ』とシェイクスピアは言ったが、それが本当なら大鳳の恋はアニメ原作のソシャゲ並みの早さで終了だ。

 

 決して自惚れてる訳ではないが、おそらく彼女の愛は、アキラが目の前でいきなりおしっこを漏らそうが「耐えきれずに粗相しちゃった指揮官様可愛い♡」みたいな感じで、決して消えないタイプのものだ。アキラは直感する。

 

 「ツ・カ・マ・エ・タ♡ふふふっ……いつまでもいつまでも、大鳳は指揮官様をお慕いしております」

 

 「あばらんちっ!?ちょっと大鳳っ!お胸で息が……で、き……」

 

 まあとにかく、大鳳と仲良くなれたのでひとまずは一件落着。

 

 この世のものとは思えないほど柔らかく、なんとも言えない甘い匂いが漂う膨らみに顔面を圧迫されて、アキラの意識は暗闇へと徐々に引きずり込まれて行った。

 



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第一章3『ご夕食のお時間です』

 意識が睡眠の深い海からゆっくりと浮上していく。

 

 疲労のせいかいつもより重い瞼を開けると、紅色の瞳がこちらを覗き込んでいた。アキラは少しほっとする。目覚めたら全部夢でした、なんてことがあったら多分三日は寝込むだろうから。

 

 あの世界が嫌いという訳ではないが、大鳳と二度と会えないなんて寂しいに決まってる。

 

 アキラは勢いよく体を起こすと、特大の欠伸を一発。外を見れば日はとうに沈んでいて、静かな闇が目前に広がっていた。淡い月光が寝起きの目には少し眩しい。

 

 「指揮官様……かなり長い時間お眠りになられてましたけど、もしかしてどこかお体の調子が……」

 

 「いや、ちょっと疲れて寝てたというか酸欠で意識を失ったというか……まあとにかく異常なし!」

 

 凝り固まった体をストレッチしながら、アキラはピースサインを掲げて無事を表明。召喚は夜から一瞬で昼だったから、時差ボケならぬ世界差ボケを発症していたのかもしれないが、少し眠ったのと非日常でアドレナリンMAXなおかげで、体はすこぶる絶好調。

 

 こう見えてアキラの肉体は人よりも頑丈だ。基本的に飽き性でマリオすら全クリしたことのないアキラだが、毎朝のランニングとダンベルを用いた筋トレだけは欠かさず行なっていた。そのおかげか、疲労に対する抵抗力はかなり高い。

 

 「では、ご夕食の準備が整ったようですので、今から大鳳がお持ちいたしますわ」

 

 「のえっ!?ご飯も食べさせてくれんの!?」

 

 予想だにしなかった本気のVIP待遇にアキラは驚愕する。寝起きのストレッチはひとまず中断。そういえばこちらの世界に来てから何も腹に入れていなかった。蓄えたカロリーは枯渇寸前だ。細胞が栄養を求めて悲鳴を上げている。

 

 「指揮官様の食事は三食全て専属のKAN-SENが腕によりをかけてご用意させて頂きます。どうぞご期待くださいませ」

 

 「食べ盛りの男子高校生には嬉しすぎんだろそれ!」

 

 「喜んでもらえて何よりですわ。そしてお口直しの甘味には、ぜひこの大鳳を……」

 

 「殿様気分でダメ人間コースをウィニングランする未来しか見えねえ!」

 

 和室の雰囲気にぴったりなモダンな掛け時計が示す時刻はきっかり午後七時。上機嫌に鼻歌を奏でる大鳳が夕食を取りに部屋を出たので、久しぶりにアキラは一人になる。

 

 アキラは一人の時間が苦手ではない。むしろ好きな方だと言って良いだろう。友達が少なかった訳でもいじめられていた訳でもないが、小学校の昼休みは一人でよく図書室に入り浸っていた。

 

 本が好きというよりかは、グラウンドで行われる鬼ごっことドッジボールに客を取られて閑散とした図書室が好きだった。窓の外から微かに聞こえる同級生の歓声を聞きながら、気儘にページを捲るのが楽しかった。

 

 冬は必ず暖房が付いていた。外で遊ぶ同級生を横目に頬杖をついて『かいけつゾロリ』を読むアキラに、司書の先生は「こんな寒いのに、子どもは元気だねえ」とよくぼやいた。それがアキラには嬉しかった。自分がほんの少しだけ、大人に近づいた気がした。

 

 「異世界でも、月の綺麗さは変わんねえんだな」

 

 上質な畳に寝転がって、アキラは夜空に浮かぶ朧月を眺める。趣深い和室から眺める月はぞっとするほど美しく、どこかで狼男が復活の遠吠えを上げていてもなんら不思議ではない雰囲気だ。

 

 「それに比べて、俺はずいぶんと変わっちまった。美女に囲まれて、立派な部屋で寝て」

 

 もしずっとあの世界にいたならば、普通に勉強し、普通に就職して、普通に働いて、運が良ければ素敵な女性と結婚して、月に一回くらいは温泉なんかに泊まって、そんなささやかな幸せを噛み締めて日々を生きていくはずだった。

 

 「こりゃまるでイスラームの王様だ」

 

 しかし、特に何もしていないのに可愛い女性から好意を向けられ、待っていたのは至れり尽せりのハーレム生活。辛うじて生き残った人類は海に面していない内陸国に避難したため、今やアキラは重桜国の天然記念物と言っていい。

 

 「まあ、使えるモノはなんでも使うのが俺のモットー。早くみんなと仲良くなっていちゃいちゃしてえ……」

 

 罪悪感が無いと言えば嘘になるが、いちいちマイナスな感情を引きずらないある種の『思い切り』と『潔さ』がアキラにはあった。

 

 相手の方から勝手に惚れてくれるという前代未聞のフィーバータイムを無駄にする気はない。先ほどは大鳳の前で紳士ぶっていたが、アキラは思春期をぶっちぎる高校二年生だ。それはもちろん、揉みたいし吸いたいししゃぶりたい。

 

 しかしあんなことやこんなことを楽しむには、もっとお互いに信頼を深めてからだ。その方が気持ちがいいと誰かが言っていたのを、アキラは思い出す。童貞のくせに知識だけは一丁前にある。まるで現場を知らないダメ上司だ。

 

 そんなことを考えていると「ーー指揮官様、ご夕食をお持ちしました〜」と大鳳が幼気な声と共に部屋に戻って来た。

 

 慣れた手つきで食事の準備を整えていく大鳳を見ながら、アキラは座椅子に腰を下ろす。

 

 座卓に置かれた御膳は豪華の一言に尽きた。見るからに新鮮な刺身に、揚げたての天ぷら。小鍋の中の出し汁がなんとも言えない芳醇な香りを漂わせながらぐつぐつと音を立てている。

 

 そして生粋の日本人であるアキラにとって何より必要なのは、

 

 「ピカピカの白米とお味噌汁……異世界に来ても和食を食えるなんて、もう死んでもいいぜ」

 

 食べ盛りの高校生であることを考慮してか、かなり多目に盛り付けられたご飯を見て、アキラは思わず感嘆のため息を漏らした。

 

 見ただけで分かる。絶対に高級なお米だ。これまで家で食べていた米とはまるで艶が違う。そして赤味噌を使ったであろう味噌汁の中から漂ってくるのは濃厚なまでの蟹の匂い。もう旨くない訳がない。

 

 アキラは胸の前で手を合わせ、まずは飢え死にしないで済んだことに心の底から感謝し、そしてーー

 

 「ーーいただきます」

 

 一礼してから箸を手に取った。

 

 現代日本で食事の有り難みを実感するのはなかなか難しい。文明が発達して食料生産が安定すればするほど、人間は『飢える』という恐怖を忘れていくものだ。

 

 しかしひとたび『食べ物が手に入らない』という状況に陥れば、空腹感は次第に恐怖へと変わる。腹が減るというのは、やはり生命が枯渇しているサインなのかも知れない。

 

 まずは味噌汁を啜ってから、透き通るような真鯛のお刺身にわさび醤油をちょんと付けて、一口。

 

 「うめえ……」

 

 思わず一気呵成にご飯をかき込む。細胞に栄養が染み渡っていくのが分かった。次は立派な海老の天ぷらに藻塩をちょいと振りかけて、一口。

 

 「うめえ……」

 

 噛むほどにプリプリの身から溢れ出る甘みが、塩味との相乗効果で倍増されて口内を満たす。気の利いた食レポをして大鳳を喜ばそうなんて浅はかな考えは、容易く消え失せた。

 

 「お口に合いましたでしょうか?」

 

 「びっくりするほど全部美味いよ!箸が止まらねえとはこのことだ!」

 

 アキラは物凄い勢いで料理を平らげていく。もっとゆっくり味わった方がマナー的には良いのだろうが、限界を超えた空腹感の前ではそんなことは不可能だった。

 

 「指揮官様。大鳳は今……幸せです」

 

 「俺も幸せだぜ!なんたって、こんな美味いもん食うのは十歳の誕生日ぶりだからな!」

 

 箸が止まらない様子のアキラを、大鳳が満面の笑みを浮かべながら眺めている。十七歳の少年が無邪気にご飯を食べる姿など、この世界では到底見ることはできないのだ。人類の殆どが滅亡し絶望が蔓延るこの世界では。

 

 「おっ!このお肉は小鍋でしゃぶしゃぶすんのか。マジで、しゃぶしゃぶ発明した奴にはノーベル賞上げた方がいいな」

 

 「しゃぶしゃぶは大鳳にお任せください。心を込めて……美味しいお肉をしゃぶって差し上げます♡」

 

 「はいアウトぉ!変な略し方したせいでエッチな意味になってるでしょうがっ!」

 

 「もう指揮官様ったら。こんな冗談にお顔を真っ赤にして……もしかして、アソコのお肉もしゃぶしゃぶして欲しいんですか?」

 

 「大鳳さん、盛りがってるとこ悪いけど俺いま食事中だからね!?」

 

 「さあ指揮官様、大鳳に向かってお口を開けてください。恋人のようにあーん♡して差し上げますわ!」

 

 「なんか恥ずかしいけど、ンマイなあ!!この肉ッ!!」

 

 大鳳が放つ卑猥な冗談にアキラが笑いながら突っ込んで、美味しい料理を楽しむ。それは普通の家族とは少し形こそ違うけれど、紛れもなくこの世界から失われた『幸せな食卓』だった。

 

 親から餌を渡される雛鳥みたいだ、なんてことを思いながら、アキラは大鳳が食べさせてくれる霜降り肉をゆっくりと噛みしめる。舌の上の味覚に全神経を集中させるため、視覚はシャットアウトしていた。

 

 飲み込むのが惜しい。ずっと味わっていたい。

 

 瞼を閉じ「ほっぺた溶けちゃう〜」と満足げなアキラを眺めながら、大鳳はつい先ほどアキラに肉を食べさせたばかりの箸を恍惚とした表情で舐めとり、

 

 「ーー指揮官様は絶対に大鳳が守ります。貴方の笑顔を……この身が朽ちるまで……」

 

 小さな声で、しかしその声色には悲痛なまでの覚悟を込めて、呟いた。

 

 しかし目の前の料理を堪能するのに夢中なアキラが、自分を見つめる大鳳の紅瞳に宿る熱情に、気付くことはなかった。

 

 夜は、深まるばかり。

 

 



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第一章4『ショタ狩りはディナーの後で』

 

 「温泉入る前に脱衣所でするトイレが一番楽しい……ソースはもちろん俺」

 

 異世界に召喚されてから初めてのトイレを済ませ、すっかりスッキリした様子のアキラはネクタイを緩めながら勝手な持論を展開した。

 

 たくさんのカゴが置かれた棚の上で、ぶうんと音を立てながら扇風機が回っている。

 

 洗面台の隣にある大きな窓からは夜店で賑わう城下町が一望できた。ひとっぷろ浴びてから、大鳳と夜の街を散策するのも悪くない。心臓の高鳴りを抑えられず、アキラはワイシャツを勢いよくカゴに放り込んだ。

 

 「いきなり混浴は流石にハードル高すぎるからな……」

 

 制服のズボンを脱ぎながら、アキラは羊を前にした狼のような表情を浮かべていた大鳳を思い出した。大鳳の豊満な肉体はもはや凶器だ。男子高校生には刺激が強すぎて、直視することは愚かゆっくり風呂に浸かることもままならない。

 

 夕食を終えたあと大鳳と一緒にお風呂に入るかどうかで一悶着あったが、「今日は初めての連続で疲れているから、ゆっくりしたい」とジャパニーズDO☆GE☆ZAを武器に頼み込んだところ、どうにか許してくれた。

 

 いつもの甘ったるい喋り方とは打って変わり、ぞっとするほど低い声で『大鳳の指揮官様に雌臭いゴミ虫が寄らないよう、大浴場は貸し切りにしておきますわ』とぶつぶつ呟いていたのが少し怖いが、まあ気にしていても仕方ない。

 

 デート五十回くらいで許してくれるのを祈るばかりだ。

 

 「大鳳には悪いけど、男一人でゆっくり入らせてもらうぜ」

 

 もちろん可愛い女の子と一緒に過ごすなんて男の夢だ。それが叶って心の底から嬉しいのは確かだが、異性との繋がりがこの世の幸福の全てとは思えない。

 

 男は一つ、おっぱいよりも大切な物を持つべきだ。性欲に流され誤った道に進みそうになった時、強制的に賢者へと引き戻す人生のバイブルを。アキラは本気でそう考えている。

 

 「フルチンよし。これより、温泉に突撃する」

 

 ボクサーパンツを足で宙に吹っ飛ばし、片手で華麗にキャッチ。適当にカゴに投げ捨て、手拭いを腰に巻き付けた。入浴という行為は有酸素運動並みにエネルギーを消費するので、紙コップに水を注いでしっかりと水分補給。

 

 空になった紙コップをゴミ箱に投げ捨て、アキラはスライドドアに手を掛けた。漂ってくる温泉独特の硫黄の匂いに、アキラのテンションは秒速でMAXになる。 

 

 「よっしゃあ!一番風呂は俺のもんだぜっ!」

 

 アキラは地下の大浴場へと繋がる階段を駆け下り、予想を遥かに超えるデカさに息を呑みながらも、爆速で体を洗ってから巨大な檜風呂に飛び込んだ。

 

 久しぶりに、ゆっくりと温泉を堪能出来るとアキラは思っていた。

 

 しかし、ここは異世界。

 

 主人公に降りかかる『イベント』を回避することなどーー

 

 

 


 

 

 「ーーやばい、やばすぎる、激ヤバだっ!」

 

 不可能だった。

 

 華麗なやばい三段活用を披露するのは、頭に手拭いを乗せて肩までお湯に浸かったアキラだ。

 

 大浴場が貸し切り状態なのを良いことに、数分前までわりと本気で熱唱し『風呂場でなぜか自分の歌めっちゃ上手く聞こえる現象』を堪能していたアキラだが、今の状況では声一つ上げることすら許されない。

 

 心臓が尋常ではない速さで拍動している。全身の毛穴から滝のように汗が流れ落ちていく。それが長時間の入浴でのぼせてしまったせいなのか、それとも極度の緊張がもたらしたものなのかは、アキラには分からなかった。

 

 ただ一つ判明しているのは、このままではアキラは『女風呂への不法侵入者』としてのレッテルを貼られ、この安息の地を追放されるということだけだ。

 

 「ーー誰か、いるのか?」

 

 後方から女性の声が聞こえ、アキラは反射的に湯の中に潜った。入り口から一番遠い泡風呂に入っていたのと、湯煙で視界が遮られていたおかげで発見こそされなかったが、気配だけは隠せなかった。

 

 当たり前だ。浴場で『歌が上手く聞こえる』のは硬い壁が音を反射しやすいから。ということは、アキラの動作が発した音も声と同じようによく響く。白色の濁り湯で良かった。透明な泉質だったら間違いなく即死だ。

 

 (大浴場は指揮官のために貸し切りって、大鳳が言ってたよな……)

 

 本当にこの大浴場が貸切だった場合は「今の時間は男風呂ですよ」の一言を伝えてあげるだけで問題は解決だ。余裕があるなら「お背中流しましょうか」と付け加えて夢の混浴タイムに突入しても良い。

 

 だがもしも、指揮官のために大浴場が貸切というのが大鳳の勘違いなら、その時点でゲームオーバー。悲鳴を上げられ、ぶん殴られてから、警察署に連行という怒涛の三コンボをお見舞いされることになる。

 

 さあ、どうする。

 

 刻々と肺から酸素が失われていく感覚を味わいながら、アキラはとりあえずこの危機的状況を整理することにした。

 

 ①大鳳が大浴場を貸し切る

 ②脱衣所で服を適当に脱いで風呂へ

 ③十分ほど前からChoo Choo TRAINを熱唱

 ④女性にバレる

 

 (いや、大鳳さん!!全然貸し切れてないよぉ!!)

 

 大鳳がどんな手段を使ったかは知らないが、とりあえず上手くいかなかったことだけは確かだ。

 

 そして、どう足掻いてもこの状況は詰みだ。

 

 息は無限には続かないし、見つからずに脱出できる経路はおそらくない。排水口から古代ローマにタイムスリップ出来れば万事解決だが、これ以上世界線をトリップするのは流石に遠慮しておきたいところだ。

 

 わりと本気で酸欠で意識が朦朧としてきたところで、アキラは覚悟を決めた。

 

 自分はこの世界では貴重な人間、それも戦争でたくさん死んだ男で、バックにはそれなりに強そうな大鳳が付いている。真面目に話せば穏便にこの場を収められる気がしないでもなかった。

 

 (ええい、もうどうにでもなれい!)

 

 アキラは最後の息を吐き出すと、勢いよく湯の中から飛び出した。

 

 肺に新鮮な酸素が供給され始め、酸欠でかすんだ視界が徐々に鮮明になる。アキラは荒くなった呼吸をどうにか鎮めようと努めた。二十秒ほどかかって、ようやく肺の痛みが和らいだ。

 

 酸素を取り戻すので精一杯で忘れていたが、ここからは死地へと飛び込むことになる。選択肢を違えば性犯罪者へとまっしぐらだ。

 

 アキラは顔に付いた水滴を強引に拭うと、ゆっくりと顔を上げた。

 

 「あっ、どうも」

 

 目の前には、もちろん裸の女性がいた。

 

 タオルか何かを巻いてくれていれば良かったのだが、生憎テレビの撮影でもないのでそんな幸運は期待できる筈もない。第一、湯の中に手拭いやタオルを入れるのは重大なマナー違反だ。

 

 「ほう…… お前が噂の指揮官か」

 

 だから、その美しい女性は一糸纏わぬ姿でアキラの目前に立っていた。

 

 特筆すべきなのは、頭部に生えた左右非対称の角だ。ドラゴンを想起させる禍々しい角は、やはりここが異世界であることを再認識させてくれる。

 

 艶やかな銀髪に、髪と同じ色をした宝石を思わせる銀瞳。惚れ惚れするほどに整った顔立ちには、底知れぬ自信が漲っているように見えた。女性にしてはかなり筋肉質な体型だ。しかしそれが、彼女の健康的な美貌を演出している。

 

 透き通るような白い肌は浴場の熱気でじんわりと汗ばんでいて、豊かな胸の先端に咲くピンク色の蕾は何にも覆われず外気に晒されていた。大鳳に勝るとも劣らないその大きさに、アキラは天を仰ぎそうになる。おお神よ、ここがエデンの園か。

 

 「せっかくの機会だ。男と一緒に風呂に入るというのも悪くない」

 

 「いや、ここ貸し切りなんだけど」

 

 「ふんっ。あのよく分からぬ妹分の言うことなど我は聞かぬ」

 

 「お、お、おう」

 

 吃った。いや、当たり前だ。素っ裸の美女が至近距離にいて動揺しない方がおかしい。

 

 銀髪の女性は驚いたように一瞬目を見開いたが、すぐに頬を緩めて、アキラの入る湯の中へとその艶かしい両脚を入れた。ちゃぷんと湯が跳ねる音だけが、広い浴場に響く。

 

 「我が名は白龍。『巫女』が召喚した男と聞いたので来てみれば……まだ毛も生えていないような小僧とは」

 

 アキラのすぐ隣に腰を下ろした白龍が、湯の中で大きく伸びをしながら言った。

 

 お互い裸で隣に異性がいるという状況にも関わらず、白龍は照れる素振りすら見せずに、すっかり寛いでいる。

 

 両手を頭に後ろで組んで「ふぅ〜」と息を漏らす白龍は、仕事帰りに銭湯でひとっぷろ浴びるおっさんのようで、なんだかアキラは不思議な気持ちになる。

 

 異性と風呂に入るなんて絶対に興奮する筈なのに、そういう気持ちが微塵も湧いてこないのだ。ただし、視線を少しでも下に下げたら終わりだ。見えちゃいけない突起が見える。

 

 「初対面から随分と失礼なこと言うな!!なんなら俺のイチモツ見て確かめてみるか?」

 

 「残念ながら、我には小僧の秘部を見て興奮する性癖はない。遠慮しておこう」

 

 「その小僧ってのやめろよ。俺はもう十七、あと一年で成人だ。その発言を今すぐ訂正しろ。これ指揮官命令な」

 

 「ハハハッ!お前ごときが指揮官として我を使いこなそうとするなど笑止千万!控えておれ!」

 

 「普通にその発言アウトじゃね!?軍法会議だ軍法会議」

 

 まさかの反抗に思わずアキラは突っ込むが、白龍はひらひらと飛んでいる羽虫でも払うかのように手を振るだけだ。

 

 勝気で自由奔放、そして揺るがない自負を持ち合わせている。『龍』の名に恥じない女性だと、アキラは少し感動する。

 

 なんだか久しぶりに、肩肘張らずに会話ができている気がした。

 

 やはり、異性とのコミュニケーションは何かと気を使うものだ。

 

 孔雀は雌の気を引くためにあのド派手な羽を見せびらかすが、人間だって同じようなものだ。女性の気を引くために高い香水を付け、お洒落なレストランに招き、甘い言葉を囁く。

 

 アキラだって、大鳳の前では普段言わないようなクサい台詞を平気で吐いてしまうから、やはり男というのはバカで悲しい生き物なのかもしれない。それが結構楽しかったりもするが、やはり気を使うというのは思いのほか疲れるものだ。

 

 「なんか……めっちゃ仲良い男友達と一緒にいる気分になってる自分が怖い」

 

 「ふんっ……馬鹿なことを言うな。だが、その気持ちは分からんでもないぞ。我も、恋とか言う甘ったれた馴れ合いに夢中になっている女を見ると……素っ首を叩き落としてやりたくなる」

 

 「いや風呂場で刀を抜くな!てか、そもそも刀は脱衣所に置いてこい!危ねえから!」

 

 「刀は我が魂、手放してしまったら……な、なんでもないぞ」

 

 いつの間にか、白龍は自身の背丈ほどの長さの太刀を抜刀し、その刃の切れ味を確かめるかのようにじっくりと刃先から柄までを眺めていた。

 

 アキラも一応は格闘技を齧っている、いわば『戦い』を知っている男だ。

 

 だからこそ分かる。

 

 今彼女が手にしている物は紛れもなく『戦う』ための道具だ。純粋に、ただ敵の生命を奪うことだけを目的に、それ以外の全てを排除した殺人のための道具……『武器』だ。

 

 一切の曇りなく磨き抜かれた刃が、光を反射して冷たい煌めきを放っている。白龍の刀に宿る冷酷な殺意、刀身から放たれる死の気配は、思わず息を呑んでしまうほどに美しかった。

 

 呼吸を止め、緊張した面持ちで刀を見つめていたアキラの頭の上に、白龍は薄く微笑みながらぽんと手を乗せる。

 

 「怖がらなくとも良い。我が斬るのは真に認めた強者だけだ。お前のような小僧は、黙って我の後ろに隠れていろ」

 

 「クソっ……馬鹿にされて悔しいはずなのに、親父におんぶされた時みたいに安心してる俺がいる……。いや、ダメだ!女の子に守ってもらう男って、側から見たらカッコ悪すぎんだろ!」

 

 わしゃわしゃと白龍に頭を撫でられ、アキラは赤面する。恥ずかしくもどこか懐かしい感覚に、思わず身を委ねてしまいそうになったので即座に湯船から脱出。火照った体を冷やすため、そのまま水風呂にダイブした。

 

 「危ねえ……貴重な男友達ポジの白龍にバブみを感じるなんて、あってはならねえことだ。犯してはならない禁忌だぜ」

 

 「トモダチ?ハハハッ!!全く笑わせてくれる。トモダチとは、互いに全霊で手合わせ出来る者のことを言うのだ。三下のお前では釣り合わん」

 

 「ハイこいつ絶対ぼっちだわ!友達一人もいねえわ!こじらせすぎて、おかしくなってんとちゃいますのぉ!?」

 

 「ほう、この我を侮辱するか。斬られることを恐れぬと見えるな?」

 

 かちゃりと抜刀の音が聞こえたので、アキラは「ごめんなちゃい!」と絶叫しながら水風呂から出た。流石に体が冷えたので、爆速で掛け湯を済ませて脱衣所へと続く階段に向かって走る。

 

 しかし、風呂場で『走る』と言うのは自殺行為だ。モンスターと同じエリア内でこんがり肉を食うくらいには、やってはならないことだ。

 

 至極当然、アキラはつるんと足を滑らせ、そして物理法則に従って一番重い頭から後ろへと倒れ始めた。

 

 「うおっ……!滑ったやべえこれ死んーー」

 

 後頭部を強い勢いで打てば、脳が損傷し死に至ることもある。

 

 しかし、どうやらこの時ばかりは死神もそっぽを向いたようだ。

 

 「まったく、手を掛けさせる小僧だ。まあそこが……少し可愛くもあるんだが」

 

 硬い床に打ち付けられると身構えていたアキラを包んだのは、暖かく柔らかい感触だった。自分と同じ温泉独特の硫黄の匂いと、シャンプーの甘い匂いが混じって、良い匂いとは決して言えないけれど、嫌いではない匂いで包み込まれる。

 

 「怪我はないか?」

 

 「ああ大丈夫。マジでありがとう。助かった」

 

 瞼を開くと、白龍の長い睫毛に縁取られた銀瞳がすぐ近くにあった。右腕に当たる尋常ではないほど柔らかな二つの感触をどうにか意識から排除して、アキラは安堵のため息を吐いた。

 

 「でも女の子に全裸でお姫様抱っこされてるって、走馬灯で流れたら俺きっと泣くよ」

 

 「それは嬉し泣きか?我はこう見えて、男が好む体型をしているからな。しかし大きな乳房など良い物でないぞ?刀を振るのには邪魔で仕方ない」

 

 「いや、たぶん自分が情けなくて泣く」

 

 「まあ気にするな。抱いてみて分かったが、お前はなかなか良い体をしている。女とは違う、真の戦士の肉体だ。脂肪が少なく、筋肉量が多いので体温が高い。頑強だがその内にしなやかさも秘めている」

 

 「お、おう。なんだ、めっちゃ褒められてる」

 

 「羨ましいものだ。お前たち男には生まれつき『狩り』のための機能が備わっている。なぜ人類はフネを女性として……いや、なんでもない。とりあえず、お前は宝の持ち腐れだ。強くなれ」

 

 「マンガ読んでてもずっと不思議だったけどさ!その見ただけで相手の強さ分かるヤツ本気で何!?」

 

 「ふんっ、そんなもの強者の勘だ。お前は我の足元にも及ばぬほど弱いが……その肉体の強さだけは認めてやる。だから、死ぬ気で鍛錬に励め。我とトモダチになれるようにな」

 

 白龍はそう言い残すと、アキラを床に下ろしてそそくさと脱衣所へと向かって行った。アキラは「弱くねえし、俺」とぶつくさ言いながら、とりあえずもう一度水風呂に飛び込むことを決めた。

 

 人生初の混浴はなんだかんだあったが、楽しい思い出になることは間違いない。

 

 アキラは手拭いを頭に乗せ直して、そんな風に考えた。

 

 



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第一章5『禁断の宴』

やっと死にます。


 

 「よっしゃ!!大鳳との初デート、気合入れていくぞ!!」

 

 波乱の混浴を終え無事に自室へとたどり着いたアキラは、箪笥に入っていた藍染の浴衣に袖を通した。帯を腰の位置で締める。自然と気持ちまでもが引き締まり、アキラは鋭く息を吐き出した。

 

 洗面台へと向かい、剃刀で伸びかけの髭を剃る。蛇口を捻り、冷水で顔を引き締めた。生憎ワックスは持ち合わせていないので、手で軽く髪の向きを整える。歯も三回磨いた。万が一キスをしてもおそらく大丈夫だ。

 

 アキラは鏡に映る見慣れた顔をじっと眺めた。

 

 大して特徴のない顔だが、アキラは自分の顔がそこまで嫌いではなかった。小さいありんこが、一生懸命に食べ物を運んでいるのを見るのと同じ感じだ。決して見てくれは良くないが、なんだか応援はしたくなる。そんな顔をしている。

 

 「よし。なんかよく分からんけど、風呂上りの俺はいつもの二倍イケメンに見える……ような気がする!うん、行ける!これならきっと大丈夫だ!」

 

 頬をぴしゃりと叩いて、アキラは居室を出た。

 

 早足で廊下を進み、城の正門へと繋がる長い階段を降りる。一歩一歩下へと進んでいくたび、拍動が加速していくのが分かった。相手がこちらに好意を抱いてくれているからこそ、嫌われたくないという重圧が背中に重くのしかかっている。

 

 しかしこの心臓の高鳴りは決して緊張のせいだけではなかった。これから月明りが支配する夜の町を二人きりで歩く。お喋りをしながら、恋人繋ぎとかして、ひょっとしたらお互いの唇を……心臓が刻むビートと共に興奮と高揚が、アキラの全身を駆け巡る。

 

 「ダメだ……楽しみすぎて吐きそう」

 

 明日からの生活に平穏は望めないということを、アキラは薄々勘付いていた。大浴場から指揮官居室に帰る途中、やけに城内が慌ただしかったし、敬礼をしてくる人たちの顔には緊張が色濃く浮かんでいた。

 

 指揮官という職務について詳しいことはアキラには分からない。しかしその名前の響きとある程度の知識から推測するに、重大な責任と使命を帯びていることは想像に難くなかった。

 

 指揮官とは、部隊を指揮し戦闘や任務を成功に導く者だ。強い権力を持つと同時に大きな責任を背負うことになる。大切な部下が敵の銃火に晒され呆気なく死んでいく光景を目の当たりにすることだって当然あるだろう。

 

 果たして自分にそんな重責が務まるのだろうか。

 

 白龍が帰ってから、アキラは風呂で何度も自問した。けれど答えは出なかった。そしておそらく、どれだけ考えたところで答えは出ない。

 

 だからこそ、アキラは深く考えて、そして考えるのをやめた。難しいことを考えれば気が滅入る。しかし可愛い女の子といちゃいちゃしていれば気分はハッピー。

 

 「人生たいていのことは何とかなる。未来なんて知ったことか。俺は今日という日を楽しんで生きるぜ」

 

 こんなことを言えば、アキラの倍以上生きてきた大人達から「何言ってんだこのクソガキ」とぶん殴られるのは目に見えているが、アキラなりに十七年間を生きて得た教訓だ。あながち間違いでもない……かも知れない。

 

 踏み締めるように、最後の一段を降りた。

 

 ゆっくりと深呼吸を一回。

 

 左胸を抑え、今にも爆発しそうな心臓を落ち着かせる。

 

 浴衣の乱れを素早く直し、アキラは重厚な門に手をかけた。

 

 「ーーッ」

 

 世界から、音が消えた。

 

 いや、違う。

 

 視覚に自分の全神経が集中しているのだ。この瞬間を脳裏に刻み込もうと、他の感覚が介入することを視覚が明確に拒絶しているのだ。

 

 無意識に、呼吸が止まる。

 

 全身に鳥肌が立った。

 

 古代ギリシアの彫刻が人々を魅了するように、彼女の美貌は見る者から言葉を奪い去る。美術品を思わせる洗練された美しさは、もはや人を超えた高位の神的存在であるかのように思えた。

 

 女神は、真紅のドレスを纏ってそこに立っていた。

 

 肩から胸元までを大胆に露出したその姿は、彼女の幼気な声色は全く正反対の雰囲気で、アキラは思わず背徳感を覚えてしまう。

 

 「指揮官様、大鳳は待ちわびていましたわ」

 

 彼女の銀鈴のような声がアキラの鼓膜を震わす。これから始める逢瀬を思い、アキラはゴクリと生唾を飲み込んだ。

 

 本能を呼び起こす甘い匂いがアキラに近づき、鼻腔を擽る。大鳳はアキラの左腕を抱き寄せ、そして耳元で囁いた。

 

 「あの橋を渡って、大鳳と二人っきりで人のいない所へ行ってみませんか?」

 

 アキラは目の前に架かる真っ赤な橋に視線を飛ばした。

 

 本陣と市街地との境目を流れる川の上に架けられたその橋は、千と千尋の神隠しに出てくる湯屋の橋によく似ていた。

 

 「行こうか」と、アキラは口に出そうとした。

 

 しかし何か本能的なものがそれを拒んだ。この橋を渡れば、()()()()()()()()場所へ行く気がして、アキラはその場に立ち止まった。

 

 おいおい、思い込みが激しすぎるぞ。アキラは大鳳に気付かれぬように自嘲した。千尋が渡ったあの橋は、この世とあの世を繋ぐ物だったという話を聞いたことがあったが、そのせいかもしれない。

 

 流石に考えすぎだ。

 

 不穏な妄想を振り払ったアキラは、大鳳に笑いかけた。  

 

 「二人きりになって何をするんだ?」

 

 「それはもう、指揮官様がやりたいことぜ〜んぶですわ♡」

 

 「じゃあ夜店で甘い物買って、あの高台の神社で一緒に食べようぜ。俺、夢だったんだよ。夜の神社で女の子と一緒にお参りすんの」

 

 「はあっ……そして指揮官様は淫らな欲望の赴くまま大鳳のナカに愛の丑の刻参りを……」

 

 「いや愛の丑の刻参りってなんだよ!?それもう呪っちゃってるし、ぜんぜん愛ねえじゃん!」

 

 「違います指揮官様。大鳳は指揮官様に、愛という決して解けない呪いを掛けるんです。たとえ死神でさえ二人を分つことは出来ませんわ」

 

 「その上手いこと言ったみたいな顔やめろ!めっちゃ可愛いな!」

 

 してやったりと言った風に自慢げな笑みを浮かべる大鳳の頬を、アキラは人差し指で優しく突いた。ぷにっと至福の感触が指先に走ると同時に、大鳳の顔がとんでもない勢いで赤くなる。

 

 耳の先まで朱色に染まった大鳳は、男を狂わせる程の色香を漂わせる姿からは想像できないほど、無邪気であどけなく、気が遠くなるくらいに可愛かった。

 

 そんな大鳳の目にして、アキラの胸中に愛おしさと同時に、嗜虐心が芽生える。

 

 キュートアグレッション。

 

 人間はあまりに可愛いすぎるものと遭遇すると脳を防御するために攻撃的衝動を引き起こす。今のアキラはまさにその状態だ。

 

 可愛いは正義とはよくいうが、限界を超えた可愛さは人間の脳の機能を停止させるほどの破壊力を持つ。即ち可愛いは兵器。核爆弾の発射スイッチに柴犬のシールでも貼っとけ。そうすればきっと戦争は無くなる。

 

 「大鳳は可愛いな。自分からエッチなこと言う割に、可愛いって言われただけで照れちゃうの?」

 

 「あ、あまり大鳳を揶揄わないでくださいっ!!恥ずかしくて顔から火が出そうですわ!」

 

 「ちょっと怒った表情もいとうつくし。もっと怒らせちゃおうかなぁ?」

 

 「まっ、待ってください指揮官様〜」

 

 アキラは大鳳の艶やかな黒髪を優しく撫でてから、勢いよく走り出した。後ろから大鳳の弱々しい声が聞こえ、アキラは小学生の頃好きだったバスケクラブの女の子を思い出す。

 

 ショートカットの彼女は、アキラの隣の家に住んでいて日が暮れるまでよく鬼ごっこをして遊んでいた。どう言うわけか二人が六年生になっても放課後の鬼ごっこは終わらず、よく同級生にバカにされた。

 

 『お前たち、付き合ってんのかよ』

 

 そう言われた日は一日中、彼女は機嫌が良かった。しかしアキラが『そんなんじゃねえし』と反論すると、頬を膨らませこちらを睨んできた。

 

 『もうそろそろ鬼ごっこやめね?俺は勉強しなきゃいけねえし、お前もバスケで忙しいだろ』

 『私が鬼になって捕まえておかないと、あんたはどこかに逃げちゃうでしょ?』

 『なんだよ逃げるって』

 『あんた、意外とモテるじゃん。だから捕まえておくの』

 『いやなんでさ』

 『あんたが好きだから』

 『ウェッ!?』

  『今度、一緒に保健の実技試験してあげる』

 

 「ーーうわっ!!クッソ恥ずかしい思い出フラッシュバックするじゃん!」

 

 結局は違う中学校に進学したのだが、甘酸っぱい思い出が蘇りなんだかアキラは気恥ずかしくなってしまう。

 

 どうしていきなり、もうずいぶんと前の出来事を思い出してしまったのだろうか。不思議に思いながらもアキラは橋を渡り終え、後ろを振り返った。

 

 大鳳が豊かな胸部をもはや暴力的とも言えるほど揺らしながら、こちらへと近づいてくる。

 

 きっと、今回の恋はハッピーエンドだ。そんなことを思いながら、アキラは駆け寄ってくる大鳳に向けて微笑んだ。

 

 両手を掲げて、アキラは大鳳をハグで迎え入れようとしてーー 

 

 

 

 

 

 

 「ーーあぶっ」

 

 衝撃波が、全身を貫いた。

 

 視界が真っ白く染まり、耳を裂くような爆音が響いたかと思えば、次の瞬間には何も聞こえなくなる。

 

 二秒ほどあって、背中に硬いモノが激突した。それが地面であることは、回復した視界に星空が映っていたから分かった。

 

 「た……ほぅ」

 

 アキラは大切な人の名を呼ぼうとしたが、喉から漏れたのはかすれた呻き声だけ。体を動かそうともがいたが、そこで自分の下半身がほとんど欠如していることに気づいた。

 

 まだ痛みは無かった。ただ、熱かった。熱くて、仕方がなかった。

 

 血がたくさん出ていた。動脈が切れたのだろう。心臓の拍動に合わせて噴水のように勢いよく血液が漏れ出すその光景は、父と見た戦争映画の主人公が死ぬシーンによく似ていた。

 

 朦朧とする意識の中、アキラの脳内でこれまで手に入れた情報が繋がる。

 

 ーーセイレーンだ。

 

 人類の91%を滅ぼした襲撃者。正体不明の人類の敵、そいつが攻撃を仕掛けてきたに違いない。主人公補正を無視した現在の状況に、アキラは狂犬のような表情で血反吐を吐き出した。

 

 状況を認識すると共に、アキラの全身を待ち構えていたように激痛が襲い始める。

 

 アキラは漫画やアニメのキャラではない。どこの骨が折れただとか、出血が多すぎる、などと言った風に自分の負傷を冷静に確認することなど出来る筈もない。

 

 「……い、てえ……あぃ……ぇぁ……」

 

 涙やら鼻水で顔面を汚く濡らし、おそらく糞尿も垂れ流しながら、ただみっともなく襲いくる激痛に声にならない呻き声を上げて、地面に這いつくばる。

 

 馬鹿だった。

 

 人生を舐めていた。

 

 異世界に召喚されたから、自分が主人公で、神に祝福された特別な存在だと思い込んでいた。

 

 しかしアキラはどこまでいっても凡人だったのだ。白龍の言う通り、吹けば飛ぶような弱者だったのだ。

 

 だから死ぬ。

 

 好きな女の前で、最悪の醜態を晒しながら、みっともなく生き絶える。

 

 「ーーぜんぜん、たりない」

 

 声が、した。

 

 スマホから流れる機械音声のような、無機質な女の声だ。

 

 アキラは首だけを動かして、その声の主を見た。

 

 白髪の女だ。金属のサメのようなモノが、背中に張り付いている。怪しく光る金色の瞳が死にゆくアキラを見下ろしていたが、瞬きする間に姿を消していた。

 

 ーーああくそ、足ねえじゃん

 

 爆発に巻き込まれて、即死しなかっただけ運が良かったのかも知れない。膝から下の脚が衝撃波によって千切れ飛び、夥しい量の血液が地面に赤い水溜りを形成していた。ビーフジャーキーみたいに繊維状になったピンク色の筋肉が、剥き出しになっている。

 

 アキラは激痛と恐怖に駆られ悲鳴を上げようとしたが、喉から出たのは「こひゅっ」と空気が漏れるような掠れた音だけだった。

 

 ーー痛い痛い痛い痛い痛い

 

 人体を流れる血液総量の二分の一、約1.5Lの血液を失えば失血性ショックを引き起こし死に至ると、どこかで聞いた覚えがある。おそらくもう、死は避けられないだろう。石畳を未だ朱色に染め続ける液体が止まる気配はない。

 

 すでに呼吸すら上手く出来ず、肉体は意識を手放しかけていた。

 

 「死なないでっ!死なないでっ!いやっ、いやっ、いやっーー」

 

 消えゆく魂を繋ぎ止めるように、女性の声がアキラの鼓膜を震わす。下半身を蹂躙する激痛がほんの一瞬だけ和らいだ、気がした。この声はいったい、誰のものなのだろう。決して忘れてはいけない大切な人であることは、直感が告げていた。

 

 しかしあまりにも多くの生命を失い過ぎた肉体では、最期に彼女の表情を思い浮かべることすら叶わない。アキラは裂傷を負い血塗れになった右腕を、声の方へと伸ばした。せめて、触れていたかった。冷たく、寂しい死を迎える前に、彼女の温もりを味わいたかった。

 

 もう目は見えていない。しかし伸ばした右手が、柔らかい感触に包み込まれたのは分かった。ぞっとするほどに、冷たい手だった。握り返してくれた彼女の手は、既に命の温もりを失いかけていた。

 

 「ごめん、なさい……」

 

 「ーーッ!」

 

 「恨んで、ください……不甲斐ない……私を」

 

 ーーどうしてどうしてどうして

 

 死の間際、アキラの脳を支配したのは降りかかる理不尽への疑問だった。なぜ自分は殺されなければならない。なぜ彼女は死ななければなれない。なぜあのバケモノはこの国を襲った。

 

 ーーなぜ、なぜ、なぜ

 

 どれだけ考えても、答えは出なかった。けれど、意識が消失する瞬間。アキラはただ、冷たくなった彼女の手を強く握りしめた。なぜそうしたのか、その答えだけは分かっていた。

 

 「次は、俺が君をーー」

 

 

 ーー守ってみせる

 

 

 

 

 

 

 



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