岸辺露伴は動かない ──猫背の虎── (家葉 テイク)
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「『山月記』という小説作品がある──」
一人の男が、不意にそんなことを語り始めた。
額に横倒しにした稲妻のような特徴的なバンドを巻いたその青年は、壮年の男のような静かな老成と、少年のような瑞々しい好奇心を両立させたような、不思議な雰囲気を持っていた。
腰かけている椅子から身を乗り出し、テーブルに肘を突いて、もう片方の手でスマートフォンを見ながら、青年は続ける。
「『ウィキペディア』の情報によると作者は『
「ちなみに、青空文庫でも読める」「「著作権」が切れているからな……」
青年はスマートフォンを指でスクロールさせながら、
「この作品は創作者の「苦悩」を語った作品とも言え──」「作品を作ることを経験した人間なら、大なり小なり共感する部分はあるんじゃないだろうか」「もちろん、この岸辺露伴もこの小説は読んだことがある」共感はできなかったがね
青年──改め漫画家・岸辺露伴は、そう言ってからスマートフォンの画面電源を切り、懐に仕舞う。それから前へと視線を戻して、神妙な面持ちで続ける。
「この作品では、詩人としての夢に生きようとして挫折した李徴という男が、虎に変じた姿で登場する。『臆病な自尊心』『尊大な羞恥心』……そうした心の「パワー」が男を獣に変貌させた」「それは『精神のパワー』だ」「ぼくとしては、シンパシーを感じる事柄でもある」
「もっとも!」
と、そこで露伴は恰好を崩し、両手を広げてみせる。
おどけるような仕草は、あるいはこの作品に対する不満をあらわしているようでもあった。
「この男は、その『精神のパワー』を作品に活かすことはできなかった……」「人から虎に変貌するほどの圧倒的な「エネルギー」」「同じ『作品を世に送り出す者』としては、非常にうらやましいものなんだがね……」
「そこのところは、少しだけ不満かな」
そこまで言い終えると、露伴は手を下ろして頬杖を突き始める。
少々の沈黙。
「……どうしてそんな話を?」
「よく聞いてくれた。それがこのエピソードの「肝」なんだよ」
「
「いや……アレが正確な定義で「人間」なのか」「そこからしてぼくにもよくわからない」
「ぼくの
思い返すように視線を横合いに背けながら、露伴は言う。
僅かに畏れすらもにじませるその横顔には、冷や汗が一筋流れていた。
「一つ」「言えることがあるとするならば……」
そして、岸辺露伴は人差し指を立てて言う。
不思議な緊迫感を見る者に与える表情で、
「あそこにいたのは、『猫背の虎』だった」
…………。
「詳細についてはこのあとのエピソードで」
「ただまぁ……ぼくは気に入ったよ、
猫背の虎
どーでもいいことだが──
『集英社』の「本社」は東京都千代田区にあり、S市杜王町に住むぼくは基本的に『インターネット』で原稿データのやりとりを行っている。
しかし、この時代になってぼくも実感しているが、やはり人と人の付き合いで『顔を合わせる』というのはとても重要だ。だから、いつもの打ち合わせはともかく、何か大事なことがある場合は、ぼくも(しぶしぶ)『集英社』の「本社」に顔を出すことになる。
たとえば、『個展』の準備とか。
──二〇一八年、四月。
露伴は東京をブラついていた。
春の東京。ビルの谷間から覗く夕陽を見上げながら、露伴は此処に来るまでの経緯を思い返す。あれは数日前のこと──
「『個展』の目玉として、「壁画」を作成して欲しいィ?」
──S市内のとある喫茶店にて。
露伴の眉が、普段より一層不機嫌そうに顰められた。
しかし余人であればあっさりと気圧されて萎縮しそうな彼の怒気に対しても、それをぶつけられた張本人はケロリとしたもので、
「えェ」「はぁい」
「もちろん岸辺露伴先生というだけで」「十分な『注目度』は得られるかと思いますがァ~」
「やはり岸辺露伴の記念すべき一回目の『個展』ともなれば、そこにしかない「特別な体験」が必要……」
泉京花
漫画誌編集者
彼の対面の席に座る女──泉京花は、そう言って
「『今回の個展の為に書き下ろした特別な壁画』ッ! これ絶対ウケると思いませんかァ~!?」
「……………………」
キャハハーッ、とまるで文化祭の出し物でも考えているような調子の泉に、露伴は重苦しい沈黙を並べるしかなかった。
ミーハー。浅慮。岸辺露伴が最も嫌悪する価値観のひとつだった。
「だが……」「意外と「一理」あるかもな」
ただし、露伴という男はそこで心を頑なにするタイプでもなかった。
良くも悪くもマイペースかつ自己中心。相手がどうであれ『自分の美意識に適うかどうか』を第一優先とする露伴は、話した相手が誰であれ目の前の物事を真っ直ぐ見据える。
「わざわざ全国からこの岸辺露伴の「原画」を見に来るんだ……」
「スデに読者に見せたイラストじゃあない、そこでしか見られない「何か」を見せてやりたいってのは理解できる」
露伴は頷いて、
「いいよ」「それでスケジュールはいつだ?」
「確か『個展』の開催が「八月二四日」だったはず……」「レイアウトとか、色々な段取りを決めるとなると七月中には現地に行くべきかな?」
軽い調子で尋ねた露伴に対し、泉は真顔のまま、
「三日後です」
そう、断言した。
三日。その日数の重みを知っている露伴の表情が、一瞬だけ固まる。
そして、まるでギリギリまで積み上げたトランプタワーが一気に崩れ去るみたいに、その静寂は一気に打ち破られた。
「なにィィィ──ッ!?!?」
突然提示された、あまりにも急すぎるスケジュール。さしもの露伴も俄かに立ち上がって驚愕する。
そして半立ちのまま、露伴は震える指で泉を指差しながら、
「三日って……今四月だぞッ!?」「『個展』の開催は「八月二四日」だッ! 四か月以上も先だろう!?」
「そうなんですよォ~。でも色々と準備があってェ」「「資材の搬入」とか「建築作業の準備」とかを一つ一つコツコツ片付けていくと……三日後からの一か月間がベスト」「スケジュール的に無理そうなら……「壁画」自体厳しいかもですねェ~」
「この岸辺露伴をナメるなよッ」
困ったように言う泉に対し、露伴は短く吐き捨てた。
「べつに「納期」の短さを気にしているわけじゃあない。何メートル四方かは知らないが、壁画の一枚くらい一日で描けるさ」「ぼくが気にしているのはッ!」
「
露伴はそこまで一息で言い切ると、肩で息をしながらゆっくりと椅子に腰かける。
怒りと失望が入り混じって滲み出たような雰囲気だった。
「『個展』の内容はぼくも知っている……」「全体的なデザインイメージはデザイナーに任せているが、今やったら明らかに壁画と個展のデザインは並行作業になる」「どちらも「フィードバック」できない」
露伴はピンと人差し指を立てながら、
「『個展』というのはただテキトーに絵を並べればいいって訳じゃあない」「展示されているイラストの統一性や展示の配置、入場客の導線……」「すべての連なりに「調和」があって「物語」が作られて」「それ自体が「芸術」なんだ」
「並行作業なんてしたら、『個展』のテーマと「壁画」のテーマがバラバラになるッ!」「調和がとれないッ」
「えェ~? そんなの誰も気にしないと思いますけどォ~」
「
露伴は泉の言葉を遮るように、ヒステリックに言い捨てる。
心底当惑したみたいに頭を掻きながら、露伴は右手の人差し指で机の上をトントンと叩く。
「しかもなんだか疑いの気持ちも湧いてきたな……。「個展」のテーマをぶち壊すような意見、それ誰から出てきたんだ?」「ひょっとして『個展』の企画自体……」「
「う、うゥ~ん……」
怒りを滲ませながら問いかける露伴だったが、いち編集者にすぎない泉がこの問いに対する回答を持ち合わせているわけもなく。
というかそもそも、この案だって泉は上から提案されたことをそのまま露伴に提案し直しているだけなのである。変にヘソを曲げて個展の話にまでケチがつくのもまずいし、どうしようか──と泉が悩んでいると、
「……分かった」「三日後、「壁画」を描きに東京へ行こう」
仏頂面の露伴に対し、思わぬ承諾に泉は顔をぱあっと明るくさせる。
「だがッその場には『責任者』も呼べよ……。色々話を聞きたいからな」
「はい!」「分かりましたァ~」
「こちらの方から連絡を入れるようにしますね」
打って変わってニコニコと笑う泉だが、露伴の目的はもはや作業をしたその『後』にあった。
真意を聞かなくっちゃあ気持ちは収まらない……。
仕事はちゃんとしてやるさ。だが納得がいかなければ「責任者」は入れ替える!
その結果『個展』が潰れることになろうともなッ。
──そうして、露伴は東京にやってきたのだった。
ただ、たとえ巨大な壁画を描くと言っても、それは露伴にとっては朝飯前も良いところ。精々作業時間は一時間もあれば十分──という見込みもあり、露伴は予定の時間まで多少暇を持て余していた。
しかも、基本的に杜王町から出ない露伴だ。せっかくやってきた東京なのだし、この機会に東京観光としゃれ込もうと考えるのも無理からぬことだった。
「うえ~~~~」「飲みすぎた~気持ち悪り~」
「もう絶対呑まね──」チクショー
道端で倒れている酔っ払いを尻目に、露伴はひとり東京の街を歩く。
東京は、「人」の土地だ。
山や森は「神」の土地だが──ここ東京は人の手で湾を埋め立て、人の手で土台を築き上げてきた。
正真正銘「ゼロから人が作り上げた土地」……だからここには「人」しかいない。不可思議は何もない。
行き交うのは人、人、人。
平日夕方に差し掛かろうかという都会の街並みは、くたびれた社会人や学生の群れがまるでさざ波のように引いては押し寄せる。露伴はその波から逸れるように道の端を歩いていた。まるで、神に通り道の真ん中を譲る参道の作法のように。
「うえ~~~~」「飲みすぎた~気持ち悪り~」
「もう絶対呑まね──」チクショー
やっぱり「東京」に来たなら「浅草寺」の「雷門」は見ときたいな……。
……だが、此処からは少し遠いか。
そんなことを考えながら、露伴はスマートフォンを見る。
現在地は……「地図アプリ」によると「渋谷」駅のハチ公前。
ちょうどいいし、電車に乗ってどこか落ち着いたところに行きたいな。
人混みは「疲れた」。
「うえ~~~~」「飲みすぎた~気持ち悪り~」
「もう絶対呑まね──」チクショー
「……………………」
そこで、露伴はふいに足を止めた。
「なんだ……?」「そういえばさっきから……何かおかしい」「何か奇妙だ」
「あの酔っ払い……ずっとぼくの視界の端にいないか……?」
そこで初めて、露伴は道端で呻いている酔っ払いの姿を見た。
小汚いスカジャンを着たそいつは、意外なことに若い女性だった。大きなリボンをつけた三つ編みのおさげを横に流した──それだけを言うと地味な印象を与える髪型だが、真っ黒なマニキュアを塗った指先に右手の甲に刻まれたタトゥーは、まさしく『ロック』。
様子からして二日酔いであるはずなのに、その手にパック酒が握られていることも含め──『どうしようもない』タイプのように見えたが、不思議とその一挙手一投足には無視できない迫力があった。
「『下北沢』ァ……」
ぽつり、と。
酔っ払いの女が、そう呟いた。
「『下北沢』」「あと『三〇分』だっけ……?」
「急がなきゃ
うわ言の様に呻いて、女はそのまま駅の改札へと消えていなくなってしまった。
一人残された露伴は、地図アプリを操作して一人呟く。
「『下北沢』……」「『京王井の頭線』「六分」」
「なるほどな…………」
特に予定のない東京探訪に、明確な目的が芽生えた瞬間だった。
何かのお告げとか、サインがあったわけではなく……単純に人を見てした決断。
東京は「人」の土地だ。
人に導かれて行先を決めるのも……悪くはないのかもな。
そうして電車に揺られて六分ほど。
到着したのは、先ほどの渋谷よりは少し活気は落ちるが──しかし異様な雰囲気を感じさせる土地だった。
ファミレスには若者が屯し、道端には座り込む別の若者がいる。人生において交わりようのない混沌がそこにはあったが──そこには一つの共通点があった。
「『夢』だ」
「この街には──」「未だ芽吹かない『夢』が溢れ返っている」
それは既に夢を叶え、そしてさらなる夢を追い求めている最中の露伴からしてみればあまりにも青臭く──そしてどこか憧憬をおぼえる風景でもあった。
口元に僅かな笑みを浮かべ、露伴は街へと歩を進める。少しだが、既に露伴はこの街が好きになりかけていた。もちろん、煩わしさもあるし、住みたい街という意味では杜王町に遠く及ぶべくもないが──。
「さて……目下気になるのは」「さっきの『酔っ払い女』が呻いていたヤツだな」
『三〇分』──正確には電車移動の時間で六分が経過している為、諸々込みで残り『二〇分』といったところだが……。
「下北沢の住人なら知ってるか?」「ちょっと聞いてみるか……取材がてら」
呟きながら、露伴は道行く人を見渡す。
どうせなら、面白そうな人がいいな──とはた迷惑なことを考えていると、ふと露伴の目につく人物が視界の端からスッと入ってきた。
それは、陰気そうな少女だった。
色白の肌に、桃色の髪。見目は整っているように見えるが、自信なさげな表情と猫背気味な姿勢のせいで全部台無しになっている。
しかしそれは良さを潰して群衆に埋もれさせているというより──正が負に反転するみたいに特殊なオーラを漂わせていた。本人は、そのことにすら無頓着のようだったが。
ピンクのジャージで全身を包んでいるのは文句なしに『芋い』風貌だったが──背負った黒いギターケースが、そんな彼女にも『バンドマン』という夢を象徴する属性が備わっていることを明確に示していた。
「あー」「きみィ、ちょっといいかい?」
露伴はそんな彼女の二面性に興味を惹かれ、軽い気持ちで声をかける。このタイプの少女が突然知らない人物に声をかけられたらどうなるのか……という好奇心もあった。
「うぁっはっはい!?」
びくっ! と体を震わせて反応した少女は、しどろもどろになりながら露伴の方に向き直った。
ただし──その重心は限りなく後ろに傾いていた。『逃げ』の直前の体勢だ。だが、逃げる意志を持つには至らない。限りなく後ろ向きな受け身の姿勢だった。
「ぼくはとある『酔っ払いの女』が話していたのを聞いて渋谷からやってきたんだが……」
「『あと二〇分後』にこの下北沢で
「何か心当たりがあったら教えてくれないか?」
「あっ……」
丁寧に説明すると、目の前の少女もある程度気持ちを持ち直したらしい。
今にも吹っ飛びそうなくらいの勢いで目を泳がせていた少女の焦点が、ようやく露伴に合う。そしておそらく、その表情は露伴の言う『二〇分後の何か』に対しての心当たりもあるようだった。
「えっと……」
しかし、少女の視線はすぐに脇に逸れてしまった。
思い当たる節はある。しかしそれを切り出す勇気が出ない、といったところか。
「……」「…………」
「…………」
二人の間に、沈黙が横たわる。
焦れた露伴がもう一度切り出そうとした、その瞬間だった。
「あっ!!」
少女が、突然大きな声を上げる。
驚いた露伴が僅かに目を
「あっ多分その……それ、私たちです。その酔っ払いのお姉さん、知り合いで……あっこれから路上ライブを……」
「路上ライブ!」
その言葉に興味を惹かれ、露伴は声を上げる。びく! とまた少女の身体が跳ねたが、そこはもう露伴にとっては気にならないことだった。
この少女が路上ライブをするのか?
『気になるな……』
この一見引っ込み思案で何もできない少女のどこに、衆目に自分を晒すほどの「爆発力」があるんだ?
それはこの岸辺露伴の常識ではありえない発想だ……非常に気になるッ!
「そうか……」「是非見たいな。案内してくれないか?」
「それと、名前を聞いても?」
「あっ……あっ後藤ひとり……です……」
「フム」
「よろしく後藤君。ぼくは岸辺露伴だ。漫画家をしている」
読んだことあるかい?『ピンクダークの少年』
「あっすみません知りません……」
「…………………………」
あまりにも明け透けな否定に、プライドの高い露伴は憮然とした表情になった。
ただ、露伴もベテラン漫画家である。今を生きる女子高生くらいの年若い少女の知名度はあまりないことくらい自覚しているし──この出会いもまた、年若い少女の感性を知るヒントになるかもしれないとポジティブに捉え直した。
「……………………」
「……………………」
そこから、下北沢を歩く二人の間には沈黙が横たわった。
露伴は別に沈黙を苦とするタイプではないし、そもそも案内が主目的なので無理に会話をするつもりもなく──もちろん少女の挙動の観察は怠らないが──、少女──ひとりの方は相手を知らないと言ってしまった気まずさで話しかけづらくなっていた。
ただ、露伴と違いひとりの方はこうした沈黙を苦と捉えるタイプの感性の持ち主だったらしい。
「あっあの……岸辺……先生はどうして私達のライブに……? あっロックに興味が……?」
「いや、そんなにかな」
問いかけられた露伴は、ざっくりとした否定を入れた。
「正確には、ロックは良く聞く」「子どもの頃に出てきたプログレッシブ・ロックというのにハマってね」
「『レッド・ツェッペリン』から入っていって……」「初めて買ったレコードがイエスの『危機』」
話を聞いていくたびに、ひとりの顔がどんどん明るくなっていく。
彼女の距離感は分かりやすい。共通の趣味を持っている相手には心を開き、距離感が縮まる。そうでないか──そうと分からない相手との距離は果てしなく遠い。そうした彼女の様子に構わず、露伴は続けて、
「ただ、日本のロックはあまり聞かないね」
と、正直な発言をした。
ひとりの表情が、分かりやすく強張る。
「ぼくは仕事中に音楽を聴くんだが、歌詞が頭に入ってくるんだよ」「ロックの歌詞ってなんか……」「『気取ってるな!』とか『お前に言われたくない!』って感じがしないか?」「個人的に仕事にならないんだ」
「『GLAY』と『イエロー・モンキー』は好きかな」
「あっはい……」
ひとりの表情は、最早苦行を受けている修行僧のそれに近しいものになっていた。
露伴はそんなひとりの様子を見て少し面白くなって、
「なあ、いまどきはどういうバンドが人気なんだい?」「今ぼくが挙げたようなのも、多分きみからしたら古いだろ?」
「いまどきの女子高生ってのはどういうバンドが好きなんだ?」
「あっあっ……」
『いまどき』『流行り』。
ただでさえウマが合わなさそうな初対面の漫画家の男にそんなものを問いかけられたら、この陰気な少女のキャパシティをオーバーすることは露伴には容易に想像できた。
ただ──好奇心だった。そんな時にこの『陰気』だが『夢』に生きるこの少女の二面性がどういう反応をするのか。露伴の興味は既にそこに移っていた。
そして。
「あっ」
『それ』は唐突に来た。
ボッ!!
と、
「な……」
ほんの一メートルほどの距離でそれを目撃した露伴は、思わず一瞬固まり、
「何ィィ────ッ!!」「馬鹿なッ」「「体」がッ!?」
「『
しかし、驚愕はそれだけでは終わらない。
崩れたひとりの身体の欠片は、まるでぎゅうぎゅうに押し込めた押し入れの中身が飛び出すみたいにして露伴の方へと雪崩れかかってくる。
「う……うおおおおッ」「これはッ!?」
そして──間近に触れて、露伴は気付く。
『ウォー』『ウェアー』
露伴に崩れてきたひとりの身体の『破片』──その一つ一つに、デフォルメされたようなひとりの虚ろな表情があることに。
「これは……「攻撃」ッ!?」
「しまった……引き際を見誤ったかッ?」「刺激しすぎたッ!」「だが『ヘブンズ・ドアー』ッ」
言葉と共に、露伴の傍らに枠線だけで構成されたシルクハットの少年のヴィジョンーー『ヘブンズ・ドアー』が現れる。
その指先が、崩れた雪山のような様相を呈しているひとりに触れると──そこからバラバラと表面がめくれて開いた『本』のようになっていく。
「『本にする』……」「そういう「能力」がある」
「ついでに『本』にして読ませてもらおう」「スゴく興味が湧いた」
そう言って、半ばひとりの山に埋もれながら、露伴はページをめくっていく。
「どれどれ……」
「『漫画家の先生に知らないって言っちゃった……』『穴があったら入りたい』」「『日本のロック嫌いそう~!』『私たちのロックが嫌いな人を観客にしてライブやって満足させられる……?』『無理だ……今から帰りたい……』」
「…………妙だな……」「スタンドについての記述がない」「この少女はスタンド使いではない……?」
さらにページをめくっていくが、それらしい記述は存在しない。
後藤ひとり。一六歳。二月生まれ。秀華高校二年生。ライブハウス『STARRY』で活動している。現在は『未確認ライオット』のファン獲得に向けて路上ライブを毎週実施中。少しは演奏に慣れてきた……。
後藤ひとりの人生は、決して平凡ではないが、しかし波乱万丈というほど起伏に富んだものではなかった。一人の少女の、ようやく動き始めた青春。そんな内容でしかない。
「だいたい分かった。この少女には悪いことをしたが……ま、書き込んで忘れさせてやるからよしとさせてくれ」「あとでサインあげるよ」
「そうだな……『自分を否定されたわけじゃない。気にしない』『今の出来事は忘れる』……と書こうかな」
露伴の言葉に合わせ、『ヘブンズ・ドアー』がひとりの残骸の山に指先を触れようとした──その瞬間に。
『ギィ』
それは、ギター……
ようだったというのは、そのギターには二つの目があり、口があり、そして手足があるからだ。そのギターめいた生命体は、ジロリと物陰から、確かに露伴と『ヘブンズ・ドアー』のことを見つめる。
これは……
『スタンド』ではない……。
……ではないが……!
露伴が息をのんだ、直後。
バシイ!! と『ギター生物』は開いたひとりのページの端を掴むと、そのままドアを閉めるみたいにしてページを全て
「な……」
『スタンド』じゃあない……が、『精神』のエネルギーだッ!
なんてことだ……。初めて出会うタイプの存在だ。
「神」や「怪異」じゃあない。
ただの「人」ゆえのエネルギーッ!
「バカなこの少女『後藤ひとり』……」「『ヘブンズ・ドアー』を自力で解除したッ!?」
「そして」「うおおおおッ!?」「マズイ……」「呑み込まれるッ」
『ヘブンズ・ドアー』の能力が解除されてしまった以上、もはや露伴にはひとりに対し命令を書き込むこともできない。
さらに、異常は次々に発生していた。
「しかも……」「なんだこの感覚は」「「気力」が……どんどん萎えていくッ」
「まるで雨が降った翌日に道端で転がってる干からびたミミズみたいにッ」
「生涯で感じたことがない」「惨めな気分だ……」「これはッ!?」
心身に発生した変調に対し、困惑する露伴だが──そこで視界の端に、先ほどの『デフォルメされた虚ろな表情が浮かび上がったひとりの破片』が紛れ込む。
といっても、先ほどの破片とは桁違いに小さく──そのサイズは埃か、降り注ぐ雪くらいにまで細かくなっていたが。
それを見て、露伴は気付いた。
「まさか……」「
「『ミクロ』のサイズにまで分裂した『後藤ひとり』がッ!」「このぼくの心身に影響を及ぼしているのかッ!」
「無敵」だ……。
害意は存在しない。悪意すらもない……。これは単なる「リアクション」だ。驚いたり、悲しんだり、緊張したり……。ただの「感情」で、ただの「反応」。それゆえに「無敵」……。
そして同時に、露伴は悟っていた。
『山月記』に登場する虎に変じた「李徴」のように……。
秘密は「感情」のパワーなんだ。
この少女は、「感情」のパワーで
「だがこの岸辺露伴をナメるなよ」
「彼女の「感情」を生半可な覚悟で刺激したことについては」「申し訳なく思うし謝罪するが……」
「『ヘブンズ・ドアー』」
「ぼく自身への描き込みは依然可能だッ!」
露伴は、自分の腕に『ヘブンズ・ドアー』の指先を当てさせる。
そしてパラパラとめくれたページの一枚にさらに触れて、
「『後藤ひとりを完全に排出する』」
直後。
ドワッ!! と、露伴の全身から無数の胞子状になったひとりが噴き出した。
露伴は手で口元を押さえながら、
「ハァー」「ハァー」
「おそるべき才能だった……」「おそらくスタンドに目覚めれば凄まじいパワーのスタンド使いになるだろう……」「あるいは怪異に魅入られていたか……」
「此処が東京」「「人」の土地でよかった……」
ひとりの残骸の山から抜け出し、露伴は肩で息をしながら崩れたひとりの残骸の山を見下ろす。
一秒か、二秒か。
そうしていると、ひとりの残骸の山が独りでに動き出し、そして元の少女の形を取り戻していった。
「あっ……」
少女──後藤ひとりは、何事もなかったかのように肩で息をしている露伴と目を合わせてはさっとそれを逸らす。
露伴はそのこと自体には何も言わずに、口を開いた。
「非礼を詫びさせてほしい」
それは、素直な謝罪の言葉だった。
「きみの趣味に対してどうこう言う意志はなかった」
「配慮が足りなかった。申し訳ない」
「あっえっ……いや、そんな……! 全然……!」
露伴は真摯に頭を下げるが、応対するひとりはやはりまだ若干の緊張があるようだった。
無理もない──と露伴は考え、その場を後にしようとする。
「えっあの……?」
「失礼をはたらいてしまったからな」「今日の路上ライブは遠慮しておくよ。君も気持ちよくライブができないだろうし……」
(それに十分『ネタ』になる体験はさせてもらったからな)
これ以上は、この少女にとって悪い影響を与えすぎる。
日本のロックのことは露伴には分からないし──それどころか若干の悪印象すらもあるわけだが、しかし少女の領分にまで踏み込んで主張したいものでもない。ここはさっさと去ってしまう方が得策だろうと考えたのだが──
「あのっ!!」
そんな露伴の背中に、ひとりの声がかけられる。
振り返ると、ひとりは俯きがちで、震えながらも──しかし眼だけはしっかりと露伴のことを見ていた。
そこらに屯する若者と同じ──『夢』を背負った者の顔で。
「良かったら……見に来ませんかっ。私の趣味……じゃなくて、私達の、夢を」
その後、ぼくは下北沢の路上で目の当たりにすることになった。
『猫背の虎』を。
数時間後──
ぼくは作業前の打ち合わせの為に、『集英社』の「本社」ビルに足を運んでいた。
既に闇夜に半ば浸食された東京の空を窓に眺めながら。
会議室の席につく露伴は、不思議と上機嫌な様子でスタッフ達と会話を交わしている。そんな様子には気づかず、編集の泉がやってきた。
「どうもォ~……」「露伴先生ェ、今日の打ち合わせなんですがァ……」
泉も、露伴が今回の進め方についてご立腹なのは承知の上だった。それゆえになんとかその怒りを宥めようと決死の覚悟でやってきたのだが……、
「あっ泉君」「遅いねェ~」「まぁいいよ。お陰でスタッフとも話せたし」
「それじゃ、ミーティングと行こうか」「今日のぼくは気分が良いからな……「壁画」の方は三〇分で仕上げられそうだ」
泉の予想に反して、露伴の機嫌は過去最高に近いくらい良かった。
苦闘を覚悟していた泉は拍子抜けした表情で、
「あれェ……?」「露伴先生、なんだか乗り気ですね?」
「ああ……考えが少し変わってね」「バラバラの個性が紡ぎ合う総合芸術。そういうのも「アリ」だ」「フフ。やはり東京は「人」の土地。人が繋がって生まれる芸術の方が相応しい」
「それにぼくの方も…………」「モチベーションは十分だ」
熱狂のあと。
もうじき一番星が見えそうな夕暮れ時、露伴はライブを終えて撤収したひとり達に挨拶していた。
「感動させていただいた」
「演奏技術は粗削りだし、まだまだ発展途上に見えるが……」「歌詞に乗せられた『情念』、そしてバラバラの個性が集まって奏でる音楽はまさに「芸術」だった」
「スバラしかったよ」
「あっありがとうございます……。うへへ……」
褒められて調子に乗る辺りも単純で分かりやすいが、そうした人間性も含めてすっかり露伴は彼女のことを気に入っていた。
なんというか、冴えなさの中に見え隠れする人の良さや、さらにその奥にある荒々しい意志や強い心がグッと来るのである。
「ぼっちちゃん、この人はー?」
バンド仲間らしき少女が、ひょっこりと顔を出す。
彼女の他にも残り二人の少女達がその場におり──彼女達は『結束バンド』というバンドを組んでいた。もちろん、彼女達の演奏も含めて露伴は気に入っている。
「あっ漫画家の先生で……岸辺露伴先生っていう人です……」
「岸辺露伴!?」
紺色の髪をした少女が、ひとりの言葉に反応して飛び上がる。
「ぼっち……。たまに凄い人と知り合うね。絶対サインとかもらっておいたほうが良い。っていうか私が欲しい」
「リョウってばピンクダークの少年大好きだもんねー」
「ピンクダークの少年! 私も知ってます! ジャンプの漫画ですよね~! リョウ先輩好きなんですか? じゃあ私も読んでみようかしら……」
がやがやと賑やかな話し声が重なり合う。その中で、最初にひとりに声をかけた金髪をサイドテールにした少女はにっこりと笑い、
「でも……そっか。珍しくぼっちちゃんがライブ後に液状化してないから不思議に思ってたけど、この人が来てたから気合入ってたんだね」
「あっそうかも……です……」
少し照れくさそうに言うひとりに、露伴はふっと優し気に微笑む。
そして、改めて真剣な表情になると、ひとりに──いや目の前のバンド全員に向けて言う。
「先ほどの言葉を訂正したい。君の『趣味』と言ったが……」「正しくは『夢』だ」
「君の……君達の『夢』、心を打たれた」「本当に感動したよ」
そして──四枚のチケットを、少女達に差し出す。
「だから……よければこれを受け取ってくれないか?」「関係者用の招待チケットだ」「既にもらっていた」
「今年の八月二四日」「ぼくは初めての『個展』を開催する。そこに、是非とも君達を招待したい……」「そこで君達に見てほしいんだ。僕の『夢』をな」
「きっときみたちを感動させられるようなものを描いてみせるよ」
「はっ……はい!」
プロの漫画家じきじきに個展の招待チケットを手渡されるという事態におののくバンドメンバーをよそに、ひとりは物怖じしながらも迷わずそのチケットを受け取る。
──岸辺露伴の記念すべき最初の『個展』。
その目玉として、『満月の下、ギターを掻き鳴らしながら虎に変じる少女』の壁画が話題を呼ぶことになるのは、また別のお話。
『猫背の虎』──終わり
「うえ~~~~ん!! ぼっちちゃん達どこー!! 道迷った~~~~!!!!」
ぼっちちゃん、意外と康一君族だと思うんですよね。爆発力とかが……。
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