チャンプルジムリーダー見習い(仮) (ホネホネ)
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不良少年と非凡サラリーマン


見切り発車!出発進行!



 

「アンタがアオキさん?」

 

上目遣いの三白眼と、ポケットに手を突っ込んだままの片足重心。

怪我をした野生のポケモンより強くこちらを警戒するその少年と初めて会った時の第一印象は、正直に言ってこうだった。

 

(うわ……めんどくさそうな子だな……)

 

 

 

 

 

1年ほど前に結婚してガラルに移住した姉から、親戚の少年を預かって欲しい、というお願いをされたのは春先のことだった。

 

その少年というのが、姉の結婚相手の父親の再婚相手の連れ子……らしい。

 

15歳だというその少年は、2年ほど前にシングルマザーだった母親が男性と──この男性というのが、姉の夫の父親である──再婚し、実家暮らしだった男性の息子──この息子というのが姉の夫である──と4人で暮らし始め、それから1年ほどで義理の兄が結婚し、その実家に義理の姉──これがアオキの姉である──がやってきた……というもうこの一文だけで如何に家庭環境が面倒なことになっているかがわかると思うのだが、複雑な家庭環境にいたのだそうだ。

 

多感な思春期に新しく父が出来、兄が出来、姉が出来たというわけだ。その心情察するに余りある。自分だったら絶対に嫌すぎるからだ。

御多分に洩れず彼も、ほぼ他人の家でほぼ他人と共に暮らすというのは当然かなりのストレスだったようだ。

 

居心地の悪さから逃げるように家に寄り付かなくなり、相棒のポケモンたちとガラル中を回ってポケモン勝負にばかり明け暮れてしまったらしい。

せめてジムにチャレンジするという気概があるのならまだ応援できたが、その意思もないらしく、碌に連絡をせずにあちらこちらを回って辻斬りのようなことをしていて困っている……のだそうだ。

 

まして姉家族の中にはポケモン勝負ができるトレーナーがいないために、少年と同じ土俵に立って話をすることできない。

 

頭を抱えた彼らはじゃあポケモン勝負なら……と割と雑な理由で、他地方でジムリーダーをしているアオキに白羽の矢が立った。

 

少しだけ預かって欲しい。

もしも可能なら彼と同じ目線に立って対話をして欲しい、と。

 

姉が困り果てて自分を頼ったことはわかっていたし、自分とは正反対の明るく誰とでも仲良くなれるような性格の姉だからこそ、環境に馴染めない少年の気持ちがわからないのも理解できている。

 

(……だとしてもやり方が違うだろう……)

 

「オレのこと、放っておいてくれていいから」

 

迎えに行った港からチャンプルタウンまでの空飛ぶタクシーの中で少年はそう吐き捨てるように言った。

 

狭いタクシーの中、アオキは右隣に座る少年へ目を向けた。まだ成長途中といった体付きの彼は、窓縁に肘をついて窓の外を眺めている。出会ってから約10分。まだ、彼とまともに目が合っていない。どうしたものかと思いながらアオキを口を開いた。

 

「いえ、そういうわけにはいかないので」

「わけもクソもねえだろ。母さんたち頭おかしいって。普通ほぼ見ず知らずの他人に人の子供の世話頼むとかおかしいじゃん。アンタの迷惑考えてねえよ」

「…………」

 

ぐうの音も出ないほどの正論だった。

少年は苛立たしげに足を組むと、アオキの言葉を待つ気もなく乱暴な口調で続けた。

 

「オレ1人で暮らすから。アンタからはあっちに適当に言っとけばいいよ。こっちに来てから大人しくなりました〜いい子にしてます〜とかさ。あの人たちはそれで満足だろ」

「……確かに。それもひとつの手です」

「だろ?いいじゃん、それで。オレはあの家から離れられたら何でもいいし」

「さぞかし居心地悪かったでしょうね」

「最悪。母さんが再婚するからって引っ越して友達と会えなくなったし、知らねえ家に知らねえ人がいるし、全然オレんちじゃねえよ、あそこ」

「嫌でしたか?」

「……別に。母さんが幸せならそれでよかったからさ。でも……」

 

……オレは普通でよかったんだ。

 

彼はそう小さく呟いた。

こういう時、なんて声をかけたらいいのかわからない。自分が経験したことのない悲しみや苦しみに寄り添うのは、ドラマや小説なんかで見るよりずっと困難だ。適当な慰めは彼の精神を逆撫でするだけだろうし、その傷をより深いものにしてしまうかもしれない。

 

結局のところ、アオキは可もなく不可もない普通のことしか言えなかった。

 

「お気持ちお察しします」

「……ハッ、そりゃどーも」

「それはそれとして現状あなたはこのパルデアでは自分以外に頼る人間がいないと思いますので、立っている者は上司でも顎で使えの精神でとりあえず自分を頼っておいていいと思います」

「は?」

 

不意に少年はポカンと口を開けてアオキの方を見る。

その時に初めて目が合った。

ツンツンとした短い黒髪と、少し灰色がかった黒い瞳。

改めて見ると案外まだ幼さの残る顔つきだ。

……それもそうか、15歳なのだから。

 

「一人暮らしをするにしてもパルデアへ住民票を移して生活基盤を整えてからですし、それまでの仮宿は必要でしょう。当分はうちに泊まってください。何より一人暮らしは金もかかる……。そんなに急いで決める必要は無いかと」

「……アンタさ、それマジで言ってんの?」

「マジです」

「……なんで?知らねえガキなんかほっとけばいいじゃん」

 

……何故、と言われても少し困る。

アオキは彼に返す言葉を探すために長考する。

それを少年はどこか焦ったそうに見つめていた。

 

「……強いて言えば、」

「言えば?」

「行く当てのない子供がいたら、力になるのが普通の大人だからです……」

 

それがアオキにとって当たり前の判断だったから、としか言いようが無い。

 

けれどアオキの言葉に少年は訳がわからないという顔をしてから、訝しげに「……きっしょ」とだけ言った。

自分よりずっと若い子にストレートにキモがられて流石にちょっとショックだった。

 

「…………とりあえず街に着いたら飯にしましょう。腹が減りました」

「なんか結構マイペースだな、アンタ……」

 

彼はそう言ってから、肩を落として溜息をついた。窓縁で頬杖をついて、沈黙。狭いタクシーの中、風の音とイキリンコの羽ばたく音ばかりが聞こえる。

けれど、不思議と居心地の悪い空間ではなかった。

少なくとも、アオキにとっては。

 

チャンプルに着くまであと数十分はあるだろう。

背もたれに深く腰をかけて、アオキも窓の外へ視線を向ける。

広大なパルデアの大地。自分にとっては見慣れた景色が、隣に座る少年には初めての景色だということに気がつく。

 

……説明とか、したほうがいいのだろうか、観光案内みたいに。

 

「……ヤシオくん」

「あ?なんだよ」

「あちらに見えるのがパルデアの大穴です」

「知ってるわそんくらい見りゃわかるだろ」

「はい……」

「…………」

「…………」

「…………アオキさん」

「はい、なんですか」

「……あれ、なに」

「…………」

「…………」

「……いや、自分もちょっとわからんです……なんですかね、あれ」

「なんなんだよマジでアンタ……」

 



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飯は黙って食う派

 

チャンプルタウンに到着したアオキは少年──ヤシオを連れて宝食堂に入った。

昼時からは少し外れていたからか、食堂はそう混んでおらずアオキはヤシオと共にカウンターに座ることができた。

 

「……あ、ヤシオくんはアレルギーとか無いですか」

「そういうのは店に入る前に聞いとけよ……ねえけど」

「あと食べたいものありますか?」

「それこそ店入る前に聞けよ……オレがカロス料理食べたいとか言ったらどうすんだよ」

「……ここはホウエン料理がうまいです」

「じゃあ聞くなよ」

 

半目で(なんだよこいつ……)という視線を隠しもしないヤシオにアオキはなんとなくそっちの方が楽だな、と思った。

大人だからといって過剰な期待をされるのはむしろ困る。

アオキは妹弟はいないし、育児の経験もない。年上の同僚のように教鞭を取る立場でも無いから、ティーンエイジャーに対する正しい接し方もわからない。ならばハードルは下げておいたほうがいい。

頼り甲斐のない大人、そんな評価で十分だ。

 

「あら、アオキさん、珍しいお連れさんだねえ」

 

声をかけてきたのは宝食堂の女将だった。

カウンターの内側からいつも通りの明るい笑みを向けられてアオキは軽く頭を下げてからヤシオを手で示した。

 

「親戚の子です。色々あって少し預かることになりまして……」

「……っす」

 

思春期特有の恥じらいからか少し素っ気なく会釈するヤシオの態度に女将はさして気にする様子もなく「ま〜若い!」と笑った。それから2人の顔を見比べて言った。

 

「確かに!よく見たら目元なんかアオキさんそっくりだねえ!」

 

その言葉に、アオキとヤシオは顔を見合わせる。

言うまでもなく、1ミリたりとも血など繋がっていない。

そんな2人の微妙な表情に気がつくこともなく、女将は他からの注文を受けてさっさと調理場へ向かってしまった。

 

「ハッ、そっくりだってよ」

「世の中適当なもんですよ……」

 

ヤシオは手に取っていたメニュー表をカウンターに置くと、片肘をついてアオキを見た。

 

「てかアンタここの常連なんだ」

「まあ、そうですね」

「いつも何食ってんの」

「……ざる蕎麦とかですかね」

「好きなの?」

「それもありますが、食べてる途中で仕事で呼び出されても蕎麦なら伸びないし、冷めるとかも無いので……」

「嫌な理由過ぎるだろ。オススメなら食おうと思ったけど食欲失せるわその理由」

「ああ、そういう意味ならここはなんでもうまいです」

「全部うまいってそれが一番困るんだよ。メニュー多いから迷ってんだろうが」

「自分は生姜焼き定食にします」

「……アンタさあ……いやもういいわ。オレもそれにする」

 

ヤシオはそう言うと店員に向かって手を上げて、よく通る声で「すいませーん!生姜焼き定食2つお願いしまーす!」と注文をした。自分には出せない声量だ、と思った。

注文を待つ間、アオキはふと言いたいことがあって彼の名前を呼ぶ。

 

「そうだ、ヤシオくん、」

「あのさあ、そのヤシオくんってやめてくんね」

 

隣の少年に少し見上げるように睨まれた。

なんのことか分からず彼を見つめたまま黙り込むと彼は続ける。

 

「君付け、きしょい。呼び捨てでいいから」

「はあ……わかりました。では、ヤシオと」

「おう」

「そういうふうに言ってもらえると助かります」

「は?なにが?」

「嫌なことは嫌だ、と。言ってもらわないと伝わらないですし……正直自分は察しが良くないのでそういう気遣いを期待されると困ります……」

「……あっそ。じゃあそのボソボソした喋り方もやめたら?」

「改善できるかは別ですが……」

「ハッ」

 

ヤシオは鼻で笑う。少しバカにしたような笑い方だったが、嫌そうな声ではなかった。

 

運ばれてきた定食を2人手を合わせてから食べ始める。アオキは食べ始めてすぐに隣から小さく聞こえた「うっま」という言葉で全て満足した。奢りがい、という意味なら十分だ。

それきり、食べている最中に会話は無かった。

 

それから食事を終えて、アオキが食事代を支払う。

レジに立つアオキの少し後ろに立っていたヤシオは「アオキさん、ありがと」とさらりと礼を言った。

不良少年然とした態度を見せるヤシオだったが、ところどころで育ちの良さを見せることにアオキは気がついていた。

今は反抗期だが元々は案外礼儀正しい子なのかもしれない、となんとなく思う。

 

……そう思ってから、本当に礼儀正しかったら人に「きしょい」とか言わないか、と自分の考えをすぐに改めた。

多分、普通に年相応なだけだ。

 

「そういやアンタ、さっきなんて言おうとしたわけ?」

 

店を出てから、ヤシオに尋ねられる。

アオキは一瞬何のことかと思って、それから思い出す。食事前に彼に話しかけたちょうどその時、君付けをやめろと言われて話が途切れたのだった。

 

「……ああ、大したことではないんですが、」

 

こちらを見上げるように見つめる少年の目を、アオキは見つめ返す。

 

「ポケモン勝負、しませんか?」

 

ガラルではどうか知らないが、パルデアではこうやってバトルに誘うのだ。

 



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腹から声出せ

 

「……アオキさん、ジムリーダーってマジ?」

「マジです」

「ふーん」

 

チャンプルタウンに屋外バトルコートはない。

そのため街の外へ出て、ある程度人やポケモンがいない場所まで向かう。先を歩くアオキから半歩下がった隣をヤシオが着いてきていた。

 

ポケモン勝負に誘ったアオキに、ヤシオはあっさりとうなづいた。

想像よりあっさりと承諾されたことにアオキは少し拍子抜けをする。

 

そんなヤシオのさして緊張する様子もない反応から、恐らく彼が露骨に態度に出さないだけでバトルに多少なりとも自信があることが察せられた。

証拠不足な自信を抱けるだけの若さが眩しい。

 

なだらかな原っぱの中、周囲にひと気がないことを確認してからこのあたりでいいかと立ち止まる。

それからヤシオがモンスターボールを2つ、上着のポケットから取り出したのを見て口を開いた。

 

「公式戦でもありませんし、腹ごなしです。2対2でトレーナーによる道具の使用は無しというルールでいいですか」

「いーよ」

 

両手の手首をぷらぷらと揺らして軽く準備運動をするヤシオへ背を向けてアオキは数メートルほど距離を取った。

そうして振り向いた瞬間、バチリと目が合う。

 

こちらを伺うような、警戒するような、それでいながら隙があれば喰らい付いてこようとするかのような、好戦的な少年の瞳。

 

それを見た瞬間、アオキは自分の中のトレーナーとしての闘争心が沸き立つのを感じた。

 

仕事じゃない。業務じゃない。

とはいえ、あくまでも異邦人たる彼の力試しだ。

わかっているのに、まだ相手の実力も知らないのに、本気を出してみたくなる。そんな感覚。

そんなアオキへ、不意にヤシオが口角を上げて笑った。

 

「アンタ、そういう顔もすんだ」

「……さて、はじめますか」

 

2人はボールを構える。

そしてそれを素早く相手の方へ向かって投げた。

 

「頼むぜ!プクリン!」

「お願いします、ネッコアラ」

 

投げられたボールの中からそれぞれのポケモンが出てきた時、2人は相手のポケモンを見て思った。

 

((案外可愛いポケモン連れてるんだな……))

 

すぐに切り替えて、向き合う。

 

「いつも通り行きましょう。ネッコアラ、あくび」

 

アオキの指示で夢うつつ、ゆらゆらと体を揺らしたネッコアラがふああと大きなあくびをした。

 

──基本的にアオキのパーティは火力だけで押し込むような戦術を使うようなものではない。

 

あくびや蛇睨みといった状態異常の搦手で相手のペースを崩し、崩れたところを的確に打ち込み削っていく。揺らがせるのは相手のポケモンではなく、むしろトレーナーの精神のほうだ。

想定外の状態異常に対応できるのか、そもそも状態異常を想定内に出来ているのか。

特にジムへの挑戦者に対してはそこを見ることが多い。ポケモン勝負も結局はトレーナー次第なのだから。

 

そういう意味もあって、いつも初手にネッコアラを選んでいた。

ぱっと見ではあまり強そうに見えない、むしろ可愛らしくうつらうつらと眠そうにしている様子に経験の浅いトレーナーは容易く油断するからだ。

 

……とはいえ、そこで揺らいだり油断するようなら、ヤシオは初めからあんな目をしないだろう。

 

「試合中に敵のあくびにつられるほど柔なメンタルしてねえよな!マジカルシャインだプクリン!」

 

あくびという技は、それ自体がバトルに似付かわない緩い技だ。だからこそ相手があくびにつられるほど油断していたり、不意を打ったり、近距離で行ったりする必要がある。

つまるところ、勝負中にはそうそう通る技ではない。

だからこそ、ネッコアラの見た目に油断したバトル開始直後がむしろ狙い目なのだ、本来ならば。

 

しかし今回はトレーナーからの叱咤激励と特殊技での距離の確保によって、ヤシオのプクリンにあくびは届かなかった。

 

プクリンは気合満々に鳴き声を上げて全身から眩い光を放つ。プクリンの体から360度波状に放たれる範囲の広い技。

それゆえに避けることは難しい。

なればこそ、攻めを選ぶ。

 

「距離を詰めます。攻め込みましょう」

 

枕木を盾にしたネッコアラがプクリンへ向かって無理やり距離を詰めていく。多少のダメージは想定の範囲だ。

 

攻撃を恐れずに突っ込んでくるネッコアラの姿にヤシオが微かに動揺し、それがプクリンに伝播する。

が、彼はすぐに切り替えて声を張った。

 

「大丈夫だ。緩急をつけてマジカルシャイン!」

 

ヤシオがそう指示した途端、先ほどまでより溜めが少ない分弱い攻撃が来たかと思うと、すぐにしっかりと溜めてから打った攻撃が交互に繰り返される。

 

繰り返される緩急のある波状攻撃にネッコアラの進みが遅くなるが、今は距離を詰めなければ話にならない。

 

というよりも、距離さえ詰めてしまえば、ネッコアラのパワーとスピードなら打ち勝てる。

プクリンは特殊攻撃が得意で体力はあるが、案外打たれ弱いところがあるからだ。

 

突くならばそこだ……とアオキが考えていることくらい、きっとヤシオには伝わっているのだろう。

だからこそ、距離を詰められないための緩急のある波状攻撃だ。

 

「まあ、悪手ですが」

 

溜めの少ない弱攻撃が来た瞬間にネッコアラは力づくでその攻撃を突破した。

そして次の攻撃が来る前に素早くプクリンへ距離を詰めて飛びかかる。

 

攻撃を打ち出す直前で動けないプクリンの顔にネッコアラの影がさした。

 

「ウッドハンマー」

 

ネッコアラが枕木を使って渾身の力でプクリンの体を一閃したのと、アオキが指示を口にしたのはほぼ同時だった。

 

「……ッ!プクリン!」

 

撃ち抜かれたプクリンの体は大きく弾き飛ばされる。

芝生の上を転がる手持ちポケモンの姿にヤシオが咄嗟に名前を呼ぶ。

 

ネッコアラを近づけさせたくないというのなら、緩急をつけた攻撃に転じるのは悪手だ。

多少溜めがあってでも最高火力を維持したまま攻撃を続け、ダメージを与えつつ、攻撃の余波でネッコアラを弾き飛ばし続けるべきだった。まだ判断が甘い。

 

アオキは自分がジムチャレンジ用の加減をした技構成の縛りを捨てて彼と戦っていることを自覚しながら、先輩トレーナーとして冷静にヤシオの判断の弱さをつく。

 

「ネッコアラ、とどめを」

 

そして、体力のあるプクリンならばまだ完全に意識を飛ばしていないこともわかっている。

芝生に倒れ伏しているプクリンへ素早く距離を詰めたネッコアラ。

そして、手に持った枕木を叩きつけようとしたその時。

 

「今だ!プクリン!」

 

 

「             !!!!!!!」

 

 

瞬間、凄まじい爆音が空気を激しく震わせた。

 

遠くの木に止まっていた鳥ポケモンたちが飛び立つ。

大地を吹き抜ける風が一瞬掻き消える。

真空のような無音の時間が続き、やがてゆっくりと音が世界に戻ってくる。

 

その爆音がプクリンの大きな鳴き声だと気がついたのは、痺れる鼓膜が落ち着いてからだった。

 

「……ハイパーボイス、ですか」

 

それを至近距離で受けて吹き飛ばされたネッコアラの小さな体は宙に放り出されて、そのまま受け身を取る間もなく地に叩きつけられる。

 

これまで蓄積していたマジカルシャインのダメージと、ウッドハンマーの反動、それから避けようもない至近距離で受けたタイプ一致のハイパーボイス。

 

それはネッコアラを動けなくさせるには十分なものだった。

 

「……してやられました」

「ハッ、してやったぜ」

 

上手く決まったことに彼自身少し驚いているような様子のヤシオと、ふらつきつつも起き上がったプクリンがドヤ顔を作ってアオキを見てくる。

不思議と腹は立たない。むしろ愉快な気分だった。

ネッコアラをボールへ戻して労いの言葉をかけてから、アオキは次を考える。

 

……本来であればネッコアラの後にはノココッチを出そうと思っていた。

この勝負はあくまでもヤシオの実力を見る為のものだったから。

 

けれど予定を変更して、アオキはジャケットの内側の中から相棒のモンスターボールを手に取る。

途端に警戒を見せるヤシオとプクリンに、アオキは一瞬表情を緩めてからボールを投げた。

 

「先手を取るぞ、プクリン!マジカルシャ、」

 

ヤシオが指示を出すよりも前に、プクリンが目を回して地面に倒れ伏す。

 

「……は?」

 

倒れたパートナーに気がついたヤシオが何が起こったのかわからないと言ったような顔で目を丸くした。

それから、遅れて理解する。

 

目にも止まらぬ速さでボールから飛び出してきたムクホークがそのままプクリンへ燕返しを打ち込んだのだ、と。

 

プクリンを倒したムクホークはヤシオの目の前を悠々と飛び、主人の元へ戻る。

バサリバサリとゆったりとした羽の音だけがその場に響いた。

 

「プクリンはあなたを信頼している。いいパートナーですね」

 

自分のそばに舞い戻ってきたムクホークを一度軽く撫でてからアオキはヤシオを見つめた。

 

「ですが、まだ活かしきれていない。……それはヤシオ、トレーナーたるあなたの責任です」

 

猛禽類のような瞳に捉われて、ヤシオは握った自分の拳が微かに震えているのを感じた。

 

もしもそれを他人に指摘されたのなら、反抗期真っ盛りのヤシオは「武者震いだわ!」と強く反論するだろう。

けれど、本当は彼自身わかっていた。

 

目にも止まらぬ速さの攻撃。

今になって気がついた自分の判断ミス。

自分よりずっと強いトレーナーからの叱咤。

……あ、勝てない、と気がついた時の足元が揺らぐ感覚。

 

その全てが15歳の彼の心を揺るがせて、まるで巨大なポケモンに威嚇をされたみたいに怯んでしまったこと。

 

ヤシオの思考がそのまま止まりかけた時、ポケットの中の2体目のモンスターボールが彼を叱咤するように揺れる。

 

それにハッと気がついたヤシオは慌ててプクリンをボールへ戻すと、すぐに次のボールを投げようと投球フォームを取って……一度その体勢を元に戻した。

 

それから両手で握ったボールを自分の唇に寄せて、ゆっくりと深呼吸をする。

小さくうなづいてから、ボールの中の仲間に言葉をかけた。

 

「……ごめん、オレの判断ミスだ。でもさ、最後まで一緒に足掻いてくんねえかな」

 

当然だとばかりに揺れるボールに、ヤシオは年相応の少年の笑みを見せる。

 

「ありがとう」

 

そうして今度こそ、真っ直ぐにそのボールを投げた。

 



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反省点と関連性

 

「ガアァッッ!普通に負けたァ!!」

 

芝生の上にひっくり返ってバタバタと暴れるヤシオは全力で悔しそうだった。

……元気だな、とアオキは年若い少年を眺める。

 

結論から言うと、アオキが勝った。

過程はともかく初めからヤシオをボコボコにして勝つつもりで戦っていたのだからまあ当然の結果だ。

 

アオキは転がるヤシオのそばに歩み寄ると、そのまま芝生の上に胡座をかいて座り込んだ。

 

「では、反省会にしましょうか」

「ダァッッ!オネシャス!」

「素直…………」

 

「反省会」という言葉に跳ねるように起き上がったヤシオは素直にアオキの前に座って向き合う。向上心はしっかりとあるらしい。

2人向き合いながら、今の試合を振り返る。

 

 

──プクリンを倒されたヤシオが2体目に出したのはメスのイエッサンだった。

 

やはり可愛らしいポケモンを仲間にしているのだなと思いつつ、仮にもジムリーダーとしてノーマルタイプのエキスパートを名乗っているアオキとしてはその時点でなんとなく察しがついていた。

 

ヤシオが完全に下手を打ったであろうことに。

 

ボールから出てきたイエッサンが柔らかながら油断のない物腰で軽く一礼をすると、その特性によりサイコフィールドが広がった。

それから素早くリフレクターを貼って防御を固めつつ、ムクホークの動きを制限する。

そのまま距離を保ちつつ、タイプ一致とサイコフィールドによって強化されたサイコキネシスでムクホークへの攻撃を繰り出し続けた。

 

とはいえ、元よりスピードとパワーのあるムクホークだ。

繰り出される攻撃を避けつつ、ヒットアンドアウェイを繰り返すことでやがてイエッサンはダウン。

 

……というわけで、アオキの勝利である。

 

「自分の敗因はわかっていますか?」

「……プクリンを引かせるタイミング」

「その通りです」

 

ヤシオのイエッサンは完全にサポート型だった。

相手が物理特化ならリフレクターを、特殊特化なら光の壁を張って状況を整える。これは普通ならば先発のポケモンの役割である。

 

先に場を整えてからエースに暴れさせる。

そうするのが王道だが、あえてしていないということはそれこそが戦略の一部だったのだろう。

アオキは口を開いた。

 

「……間違っていたら指摘してください。自分が考察するに、ヤシオの本来の戦略としては先鋒のプクリンに散々暴れさせて瀕死になる前に一旦引かせ、次にイエッサンを出してリフレクターを張って場を整える。遠距離攻撃で削りつつ、壁の効果が消える前に「癒やしの願い」でプクリンを完全復活させて有利な状況にした上で相手に実質3対2の状況を押し付ける……そういう想定だったのではないですか」

「全部バレてんじゃねえか!そうだよ!」

「2体目にサポート型のイエッサンが出てきた時に流石に察しました……一応ノーマルタイプの専門なので……」

 

頭を抱えて呻くヤシオにアオキは追撃する。

 

「ネッコアラを倒した時点で一度プクリンを引かせていればよかったものを……調子づいてこのままいけると思ったんですね……」

「う、ぐぐぐ………」

 

図星だったらしく何も言えなくなるヤシオに、アオキも思わず肩を下げて小さく笑みをこぼす。

若さゆえの慢心には少なからず身に覚えがある。あまりにも懐かしく青い。眩しいくらいに。

 

「とはいえ結果はともかくきちんと練られた戦術は良いかと。ハイパーボイスも不意を突かれましたし」

「だろ?まあ、オレらもあの場であんな上手く決まると思ってなかったけどよ」

 

褒めると素直に嬉しがる。

 

「プクリンとの連携は良かったです。だからこそ、ヤシオの指示が冗長過ぎるのが目立ちます」

「……じょーちょーって何?」

「ダラダラ無駄に長い、という意味です」

「言い方ッ!」

 

弱点を指摘されると少しムッとする。

 

「あくびを打たれた時も、2体目を相手取る時も、プクリンはあなたの意図をちゃんと察しています。試合中にあくびなんかに流されないし、2体目が来たら自分から先手を打って主導権を握る、それくらいのことはわかっているでしょう」

「いちいち言わなくても伝わってるっつーこと?」

 

キョトンと小首を傾げるヤシオに、アオキはなんだかんだ案外素直にアドバイスを受け止めるものだな、と思った。

 

「時と場合によります。でもハイパーボイスの時はあなたがタイミングを取ってやるだけで上手くいっていました。細かい指示はなくともプクリンに伝わっている。そうでしょう?」

 

芝生に座り込むヤシオの隣で、回復させたプクリンが少年にくっついてニコニコと笑っていて、イエッサンは遠慮することなく彼の腿を枕にして寝ている。ヤシオもまた寄ってきた2匹の頭を慣れた手つきで撫でていた。

反抗期の彼と一緒になってガラル中を回っていたのだというのだからこの3人の信頼は強いだろう。

 

だからこそ、指示は端的でいい。

バトル外でしっかりコミュニケーションを取っていれば、それはきちんとバトルの中でも生かされるのだから。

 

「あとは単純にあなたのメンタルの問題です。相手がどんな行動をしても動揺しないこと」

「でもさあ、それムリじゃねえ?だって想定外なことされたらビビるじゃん」

「バトルの相手はあなたではないので、相手が想定外のことをしてくるのはむしろ想定内だと考えましょう。というか、ネッコアラが距離詰めてきたくらいでビビってたらどうするんですか」

「ムギギ、だってマジシャ打ってんのに無理やり距離詰めてきたヤツ初めてだったんだもん……」

 

指摘されたところは彼としても図星なのだろう。もごもごと言い訳をしながらも反省した様子を見せる。

そんな様子にフォローするように付け加えた。

 

「ビビってもいいですが、それを表に出さないようにしてください。自分のポケモンにも動揺は伝播しますし、相手トレーナーにも付け入られるだけなので」

「理屈はわかるけどよ……。じゃあアンタはビビった時どうやって顔に出さないようにしてんの?」

「特別何かをしていたりはしないですね……あまり顔に出ないと言われるので……」

「なんだよ、参考になんねえなあ……」

「敢えて口に出すのもいいかもしれませんね。「ああ追い詰められた。でも意外と気持ちの余裕はあるな」とか」

「あー、わざと声に出して気持ちを切り替えるってわけか」

「そうですね。それから……」

 

と、アオキはさらに言葉を続けようとして、ふと自分がヤシオへの指導に微かに熱が入っていることに気がついた。

 

打てば響くようにヤシオが反応してくれるということもあるだろうが、それにしたって熱心なジムチャレンジャー相手にだってここまで話をしたことはない。

 

……何故だろう、と自問自答する。

 

別に彼とこんな話をしなくたっていい。

バトルが終わったのだから、それで終わり。放っておいたっていい。

彼が強くなろうがなるまいが、バトルをしようがしまいが、アオキの人生には一切関係がない。

 

けれど、楽しかった。

実力が拮抗した相手とするギリギリのバトルとはまた別の、どこか導くような、同じ方向を向いて歩くような、そんな楽しさ。

 

今だって思っているのだ。

彼が今よりもっと強くなったらどうなるのだろうか、と。

 

……なんか、思考がオッサンくさいなとは自分でも思うが。

 

「アオキさん?……アオキさーん?」

「……これが、年齢……」

「は?」

「あ、いえ、なんでもないです」

「じゃあなんだよ……」

「…………」

「…………」

「…………」

「また動かなくなったよ、このオッサン……」

 

顎に手を当てて考えながらアオキは思った。

 

……多分彼はもっと強くなれるだろう。

彼も彼のポケモンも戦略もパーティ構成の面でも。

何よりも彼本人に強くなりたいという意志を感じる。

それに、複合タイプとはいえノーマルポケモンばかりを連れているところに親近感もあった。

 

とまで考えたその瞬間、アオキはハッとする。

 

「ヤシオ」

「お、おお、なんだよ……再起動繰り返すのやめろよな、怖えから……」

 

長考して固まっていた相手から不意打ちで名前を呼ばれて肩を跳ねさせるヤシオ。

その反応を気にすることなく、アオキは少年へ問いかけた。

 

「ノーマルタイプの専門トレーナーになる気はありませんか?」

 

 






前回からバトル描写がありますが、筆者は非対戦勢です……
実際の対戦環境の事を考えてはいけない……


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1人と2匹の反抗期

 

ポケモン勝負は好きだったが、それは仕事にした瞬間にポケモン勝負の好きだったところが奪われた気がした。

 

チャレンジャーへの手加減、自分にだけ制限のかかったルール、全力を出せないバトル、上手く言葉にできない不満。

そういうものが積み重なった時に、心の支柱に小さなヒビが入ったのを感じた。

 

トーナメント式のリーグ戦やバトル専門施設が無いパルデアにおいて、リーグ所属の職業トレーナーが全力を出してポケモン勝負をできる機会は少ない。

 

四天王を兼任している自分はまだ恵まれている方だ。

例え全力のバトルが年に一度程度しかできないとしても。

自分の本来の専門タイプが使えないとしても。

 

わかっている。

不満があるのならば、他所へでもどこでも行けばいいのだと。

ここじゃなくても生きていける。

自分がいなくても世界はまわる。

人生は一度きりだ。

自分のしたいことをすればいい。

 

……けれど、自分は夢や憧れというものを何よりも優先して生きてきたわけじゃない。

 

そのために犠牲にされるものに目を向けた時、捨て去られる安寧は自分が愛したものだった。それを足蹴にしてまでこの場所を去ることに意味があるのか。小さな不満を抱えつつ、変わらない毎日を、微かな安らぎを愛しながら生きることは矛盾しているだろうか。

 

誰もがみんな自分のしたいことだけをして、そのためだけに生きていけるわけではない。

理想のためだと言って、足場のわからない暗闇を行くことを無条件に肯定できるほど子供ではない。

 

蜃気楼のように漠然とした理想のために、安定した穏やかな生活を捨てられるか。

 

その思考の果てが、今のアオキの変わらない生活だ。

 

 

 

 

 

 

「ここが自分の自宅です」

「デカ!一軒家じゃん!」

「まあ、持ち家ではなく賃貸ですが……」

「……どういうこと?」

「借りてる家ということです」

 

そうか……子供はそりゃあ自分の住んでいる家が買ったものなのか借りてるものなのかとか、マンション買った方がいいのか賃貸のままのほうがいいのかとか、固定資産税とか管理費とか考えたことないよな……とアオキは思った。

 

ピンときていない顔で「ふーん」とだけ呟いて家を眺めるヤシオへ「上がって下さい」と声をかけつつ、アオキは先に中に入る。

 

 

──チャンプルタウンの外れにある、築年数がまあまあ古い代わりにまあまあ悪くない金額で借りている二階建ての一軒家が現在のアオキの自宅だった。

 

四天王として飛行タイプの育成が必要となった時に、自宅に広さが欲しくなって引っ越したのがキッカケだ。

リーグからいろいろ補助がついて思っていたより自己負担が少なかったので、この金額でこの広さの家に住めるならむしろ得だなと思ってあっさりと引っ越した。

 

「2階に空き部屋があるのでそこを使ってください。先に送られてきた荷物はその部屋に置いてます」

「ん、ありがと」

「先にリビングへ。自分の手持ちを紹介します」

「……おう」

「大丈夫です。何かあったら守るので」

 

これからのことを想像して微かに緊張を見せるヤシオに、アオキはそう声をかけた。

 

 

──トレーナーの友人や恋人を、手持ちポケモンが認めてくれない問題。

 

これは恐らく全トレーナー共通の悩みだろう。

ヤシオを預かるとなった時に一番先によぎったのがこの問題だ。

 

アオキとヤシオが上手くやれたとしても、アオキのポケモンが、あるいはヤシオのポケモンが相手のトレーナーやポケモンを受け入れてくれない可能性は十分にある。これはある種の相性の問題なので仕方がない。

 

一度バトルをしているおかげで、ヤシオのポケモンはアオキを受け入れてくれたらしい。アオキのネッコアラとムクホークもヤシオを敵として見做している様子はない。

 

そこは良い。

 

問題はアオキのほかの手持ち、主に飛行タイプのポケモンたちである。

癖の強いポケモンではないため、大事にはならないと思うがこういった相性は理屈ではない。合わない時はどうやっても合わないのだから。

 

本当にどうしようもないのならば相互に無視し合えばいい。

……のだが、たまに合わないを通り越して、敵意を向けられることがある。

 

特に飛行タイプは縄張り意識の強いポケモンが多い。

段階を踏まずにヤシオをこの家に出入りさせると、ポケモンたちからは自分のテリトリーに入ってきた侵入者だと認識されてしまうかもしれない。

そんな最悪の事態を避けるため、アオキが同伴の上で顔合わせをさせることにした。

 

一旦廊下にヤシオを待たせてから、先にアオキがリビングに入る。

飛行タイプが飛べるよう吹き抜けになったリビングへ入るとアオキに気がついた手持ちのポケモンたちが止まり木から視線を向けてきた。普段ならばすぐにこちらへ寄ってくるポケモンたちが来ない。

流石に客人──彼らにとっては侵入者か──がいることには気がついているらしい。

 

アオキは庭につながるリビングの大窓を開くと、庭先にボールを投げてトロピウスを出す。

それからリビングの中に今日外へ連れ出していたネッコアラ、ノココッチ、ムクホークの3体も出した。

ほかの手持ちは家の中でボールから出て留守番をしていたのでこれで全員だ。

 

「紹介したい人がいるので集まってください」

 

そう声をかけた時、大抵は素直に寄ってきた。

庭のトロピウスも窓から頭を入れて話を聞く体勢だ。

ただし、やや不満な顔で寄ってこなかった数少ない手持ちもいた。

 

「……チルタリス、ウォーグル。来なさい」

 

それが名前を呼んだ2匹だった。

個別に名前を呼んでこちらへ来るよう伝えるが、バトル中の指示ではないことも相まってか、渋々止まっていた天井の梁の一段下に降りただけで近寄ってくる様子がない。

 

……ウォーグルは正直予想の範囲内だ。

アオキの手持ちの中では気性が荒い子であるし、そもそも無条件に他人を認めるような質ではない。ヤシオと一度勝負をさせて、彼がウォーグルを納得させれば問題ないだろう。

 

ただ、チルタリスとなると話は別だ。

チルタリス特有の気まぐれさと、ドラゴンタイプ特有の気位の高さ。

この子に関しては単に勝負でわからせるということが難しい。下手に負かすと拗ねて余計に拗れるかもしれないからだ。

 

……困った。

アオキが小さく溜息をついたのを見て、ムクホークが2匹を叱るように鳴き声を上げたが、ウォーグルは反抗するように鳴き返し、チルタリスはプイッとそっぽを向いた。

 

仕方ないが待たせ続けるわけにもいかないのでヤシオをリビングに呼ぶ。

余所者だから気に食わないだけで、急に攻撃を仕掛けてくるほどではないだろう。

 

「ヤシオ、いいですよ」

「……オレ入って大丈夫?」

「大丈夫です、何かするようなら力づくで止めるので……」

「ん、頼むわ。正直オレじゃ対処できねえもん」

 

そう言いながらヤシオとボールから出した彼の手持ち2匹がリビングに入ってきた瞬間、ポケモンたちの目線が彼らに集まり、リビングにピリッと緊張が走る。

ヤシオは自分に向けられる警戒を肌に感じながらゆっくりと歩いてアオキの隣に立つ。

間を置かずに、全員へ紹介するようにアオキが口を開いた。

 

「彼はヤシオくんです。自分の、えーっと……義理の弟……?です」

「……あー、そっか、一応そうなんのか……」

 

アオキの姉の配偶者の弟なので普通に考えると義理の弟になると思いそう言ったのだが、ヤシオには微妙な顔をされた。気持ちはわからなくはない。義理とはいえ兄弟と呼ぶには複雑で、微妙に遠い距離感なのだ。

 

「これから……いつまでかは未定ですが、この家で預かることになりました。15歳の、見ての通り子供です。リーグトレーナーの手持ちが大人げないことをしないようにしてください」

 

そう言いつつウォーグルとチルタリスのほうへ視線を向けたが、2匹は変わらず不満気な顔をしてばかりだ。

それからアオキは緊張した様子のヤシオの背を掌でふれて、挨拶をするよう促した。少年は一度うなづいてから一歩前で出る。

 

「ガラルから来たヤシオです。急に知らないヤツが来て驚かせたと思います、すみません。今日からお世話になりますんで、よろしくお願いします」

 

それからヤシオは自分の後ろに隠れ気味だったプクリンとイエッサンを前へ出すと2匹を紹介した。

 

「プクリンとイエッサンはオレの友達です。コイツらも一緒に暮らすけど、よろしくお願いします」

 

アオキは頭を下げたヤシオのその背に手を置いてポンポンと軽く叩いた。

すると、顔を上げたヤシオの肩にムクホークが飛んできて、彼の髪を羽根でぺしぺし撫でる。

やや困惑したヤシオは撫でられるまま、アオキへ目を向けた。

 

「……オレなにされてんの?」

「ムクホークは自分と一番付き合いが長くて、まあ、手持ちの中だとリーダーみたいな役割をすることが多いので……敢えて周囲にヤシオを認める姿を見せることで、他の面々もあなたを受け入れやすいような空気を作ってるんだと思います……」

「気遣いエグ……優しすぎじゃん……」

「我が手持ちながら驚きました……」

 

ヤシオはホッとしたような顔で笑って「ムクホーク先輩ありがと」と言った。

知らない家の中の出来上がっている関係性の中に入っていくのは、やはり緊張する事だったのだろう。

下手をしたら、親の再婚でできた新しい家族に馴染めなかった彼のトラウマを刺激しかねない。

そういう意味でも、受け入れる体勢を明確に見せたムクホークの気遣いはアオキとしても有り難かった。

 

そうしてなんとなく緊張した空気が弛緩した頃、ヤシオが思い出したように口を開いた。

 

「あ、そうだ、アオキさん」

「はい」

「大したもんじゃねえけど、ほら、ガラル土産のウェルシュケーキ。アンタにはこれから世話になるし。これ、ポケモンも食えるやつだから」

 

反抗期の割に変なところ真面目だな……と思った。

まあ、反抗の理由は家庭環境だから、そこから離れたら素の彼が出てくるのも当然か、と思いながらアオキはヤシオが渡してきたものを見る。

 

ヤシオが鞄から取り出したのは挨拶用の土産だった。

ガラルのお菓子ブランドのロゴが入った透明ビニール袋の中には、パンケーキのような焼き菓子。

 

それに気がついた瞬間、アオキは「あ」と声を出した。

 

「ヤシオ」

「おう」

「……これはお菓子ですか?」

「そう、薄いスコーンみたいなや、」

「伏せて」

「え?」

 

甘い物好きのチルタリスがヤシオの側頭部に勢いよく突っ込んできたのはその時だった。

 



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師匠(仮)と弟子(仮)

 

リビングにチルタリスのハミングが響いている。

 

「よく言いますよね。良いトレーナーはポケモンに懐かれる、と」

「オレじゃなくてお菓子に懐いたんだろ……」

 

ダイニングテーブルの前に腰掛けたヤシオ。

その隣の椅子には機嫌の良さそうな顔でチルタリスが座っていた。

 

嘴にウェルシュケーキのカスがついていることに気がついたヤシオがそれを指で取ってやると、チルタリスは楽しそうにヤシオの指に食いついてその食べカスさえも平らげようとする。

甘噛みとはいえ最終進化の鳥ポケモンに指を食われてヤシオはビビった。

 

ヤシオが土産に持ってきたお菓子を見た途端、掌ドリルライナーとばかりにヤシオに懐いた甘いもの好きのチルタリス。

先ほどまであんなにそっぽを向いていたというのに、今はもうすっかりヤシオの存在を許していた。

ふわふわの羽で顔面をモフられながらヤシオは微妙な顔で口を開いた。

 

「……あんさ、アオキさん」

「はい」

「……ウォーグル先輩、大丈夫?」

 

反対派仲間だったチルタリスに一瞬で裏切られたウォーグルだけが、なんとなく所在無さそうに天井の高い梁に止まったままヤシオをじっと見ている。

ヤシオは流石に困った顔をして頭を掻いた。

 

挨拶が落ち着いたところで一旦お茶にしようと土産のウェルシュケーキがポケモンたちにも配られたのだが、ウォーグルだけがこちらに寄ってこないためにまだ食べていなかった。

このままではチルタリスにウォーグルの分まで食べられてしまうだろう。

 

それを心配に思ったヤシオが問いかけるのに、ダイニングテーブルの向かい側に座るアオキは小さく息を吐いてから答えた。

 

「ウォーグルは本来群れの中で暮らすポケモンなので、基本的に群れの総意に従います。多分、今は意地を張っているだけです。そのうちタイミングを見て折れますよ」

「そっか。なんかストレス与えちゃって悪りいな」

「いえ、こちらこそすみません。気分は良くないでしょう」

「気にしてねえよ。つか、本来ならあの反応が普通だろ」

「客人相手に敵意を向けることが?……それが普通の反応なら、あなたは今ごろ全員につつかれて外に追い出されてます」

「……んん、まあそうだけどさ」

 

うなづきながらも、ヤシオはぽつぽつと呟くように言った。

 

「でもさ、ウォーグル先輩からしたらオレがどんな奴かまだわかんないわけだし、怖いだろ。警戒すんのは当たり前じゃん。……ほら、群れのためにもさ」

「……なるほど」

 

……あなたもそうだったんですか?

家族だ、といって自分のテリトリーに入ってきた新しい異物を前にした時、あなたも怖かったんですか?

……なんて、そんなことを聞けるほどデリカシーが無いわけじゃない。

 

不意にヤシオは土産のウェルシュケーキを手に立ち上がると、無防備な足取りでウォーグルのいる梁の下あたりに向かっていった。

アオキのポケモンたちと交流していたプクリンとイエッサンがそれに気がついて、ヤシオとウォーグルの方へ意識を向ける。

イエッサンは何かあったらすぐにサイコパワーで主人を守れるよう手を空け、プクリンも普段の笑顔を潜めてじっとヤシオとウォーグルの方を見ていた。

 

「ウォーグル先輩」

 

そんな手持ちたちの不安を他所に、ヤシオは普段通りの声音で声をかけた。

ウォーグルは彼をじっと見つめながら、止まり木を数段降りてくる。距離としては2メートル弱くらいだろうか、声を張るほどでもない声音でヤシオは話しかける。

 

「あのさ、オレ、ガラル地方出身なんだけど、そこにワイルドエリアっていう自然区域があってさ、たまにウォーグルが飛んでるのが見えたんだよ」

 

ウォーグルはじっとヤシオを見ていた。そんなウォーグルに彼はアオキに話しかけていた時のようにごくフラットに、緊張している様子もなく声をかけている。

その様子を見たアオキは、もうどちらも大丈夫だなと思った。

 

「でもさ、飛んでるし、群れだしで近づけねえからさ、今日こんなに近くで姿が見れて、実は結構嬉しい」

 

ウォーグルが小さく鳴いて、ヤシオに近づこうと止まり木から足を離すとゆっくりと翼を開いて降りてくる。ヤシオもまた一歩近づいて、それから相好を崩した。

 

「やっぱ近くて見るとカッケェなあ、ウォーグル先輩」

 

コレお近づきの印、とウェルシュケーキを差し出すと、ウォーグルはヤシオの肩に止まって、警戒する様子もなくそれを食べた。

数口でさっさと食べてしまったウォーグルに、チルタリスが少し残念そうな顔をする。

 

それからウォーグルはヤシオの肩に乗ったまま、嘴で少年の髪を痛くないくらいの力加減で引っ張ったり梳いたりし始めた。

なかなかの重さのポケモンを肩に乗せたままのヤシオはされるがまま、けれど戸惑ったような顔でアオキへ視線を向ける。

 

「アオキさん」

「はい」

「……オレなにされてんの?」

「毛繕いです。たまに自分もされます」

「ああ、うん……まあ、嫌われてんじゃねえならいいか……」

 

そんな少年を見つめて、アオキはやはり思った。

 

「ヤシオ」

「あんだよ」

「さっきの話の続きをしましょうか」

「なに?晩飯の話?」

「それもしたいですが、ポケモン勝負の後にした、専門トレーナーの件です」

「ああ、そっちか」

 

ウォーグルを肩に乗せたまま、ヤシオがダイニングテーブルに戻ってくる。

アオキがウォーグルの目を見つめると、彼は少しバツの悪そうな顔でクルルルと喉を鳴らした。

この子とはヤシオがいない時に少し話をする必要がありそうだ。

子供相手に大人げないことをしたことへの叱りと、相手からの歩み寄りに応えたことへの褒め言葉を。

 

ヤシオはテーブルに頬杖をついたまま、上目遣いでアオキの発言を待っていた。応えるように口を開く。

 

「……ヤシオ、先程あなたとバトルをした時なんですが、」

「おう」

「自分はとても楽しかったんです」

「あ?なんかムカつく」

「いえ、皮肉とかではなく……。あなたには伸び代があるし、自分の頭で考える力も学ぶ意欲も……恐らく、才能と呼ばれるものもある」

「なんだよ急に……きっしょ……」

 

ぽつぽつとアオキが言葉を紡げば、ヤシオは眉間に皺を寄せて怒っているような照れているような顔をしながら話を聞いていた。

 

「見ている限り、あなたはノーマルタイプのポケモンと相性が良さそうです」

「プクリンとイエッサン連れてるだけだろ」

「自分の手持ちとも友好関係を構築できてます」

「ウォーグル先輩は?」

「すぐに仲直りしたでしょう」

「チルタリス先輩はノーマルタイプじゃねえよ」

「進化前はノーマルです」

「……なんかズルくね?」

「狡くないです。それにもしもあなたがトレーナーとして強くなりたいと思うのなら、なにか一本、腹に芯があった方がいい」

「だからノーマルタイプを専門にしろって?」

「いえ、しろとは言いません。最終的に決めるのはヤシオ自身なので。自分はあくまでも薦めるだけですよ」

「……意外とゆるいな」

「他人の人生に関わるので強くは言えません。責任取れないですから」

「…………アンタってちゃんとしてんのか、そうじゃねえのかわかんねえ人だな」

 

頬杖をついたまま、どこか呆れたような半目でこちらを見つめるヤシオに、アオキは否定も肯定もしないまま口を開いた。

 

「まあ、それはそれとして。ヤシオ、あなたはプクリンやイエッサンと仲良くなるのに何か苦労はありましたか?」

 

突然のアオキからの問いかけに、けれどヤシオは特に考えることもなく答えた。

 

「ねえよ」

「はい、自分も今の手持ちを育てるのに苦労したことはありません」

「……それがなんだよ」

「向いている、という話です。あなたはノーマルタイプを育てる適性がある。よく言うでしょう、好きなことよりも向いていることを仕事にした方がいい、と」

「向いてるからノーマルタイプの専門トレーナーになれって話ってことか」

「まあ、結論そうですね」

「ノーマルジムリーダーとかいって自分は飛行タイプ育ててるくせに」

「……それは別の業務の都合です」

「あっそ。つか話が長えわ。端っから結論だけ言えばいいじゃん」

「それであなたが納得するならそうしてたと思います」

「…………あ?今オレのせいにした?」

 

アオキが目を逸らすと、ヤシオは小さく「にゃろ……」と呟いた。

ポテポテとした足取りでプクリンがこちらにやってきた。途端にヤシオの隣の椅子に座っていたチルタリスが逃げるように飛び立つ。それをキョトンとした顔で見送ってから、プクリンはさっきまでチルタリスがいた椅子に腰掛けた。ヤシオはその頭を撫でる。それから口を開いた。

 

「で、本音は?」

「……なんのことですか」

「ダルい。そういうのいらねえから」

「…………」

「話せや、オラ」

 

少年の瞳に見つめられて、肩を落とす。

単純なのか、そうでもないのか、判別が難しい。

 

別に今までヤシオに言っていた話が嘘だというわけじゃない。敢えて自分に都合のいいことを口にしなかっただけだ。

けれど彼にバレてしまったのだから、それは隠しきれなかった自分の瑕疵だ。

何がなんでも隠さないといけないようなことでもなし、正直に答えるのがこれからの信頼関係という意味でも最善だろう。

溜息をひとつ吐いてからアオキは口を開いた。

 

「実は自分の本職はポケモンリーグの営業なんです」

「……え?なに、急に」

 

唐突なアオキの言葉をヤシオはキョトンと目を丸くした。

その反応を予測していたアオキは説明するように続ける。

 

「ジムリーダーは本職ではなく、兼業のほうです。副業と思ってもらっても構いません」

「……ジムリーダーなのに?」

「パルデアは専業ジムリーダーの方が少ないですよ。ガラルのようなリーグ制度もありませんし。……で、ぶっちゃけその副業のせいで本業に影響が出て困ってます」

「え?オレ今何の話を聞かされてんの?」

「ジムリーダーを辞めて本業に集中したい気持ちがままあります。ただでさえ履いている草鞋が多いので、脱げるものは脱いで他に専念したい。いや本当アカデミーの宝探し期間とかまともに営業に行けないですしそのくせタスクは溜まる一方ですしその月はノルマがいつもギリギリになるし数字だけ見られて成績が微妙とか文句言われますし……」

「オレがわからん話すな!結論から言え!」

「あなたがトレーナーとして実力をつけてジムリーダーになってくれたら自分が辞められるのではないかと思ってます」

 

アオキの言葉にヤシオは絶句した。それから叫ぶ。

 

「それが現役ジムリーダーの発言かよ!ってかオレへの勧誘全部下心じゃん!なんだよ才能あるとか適当なパチこきやがって!サイテー!弄ばれた!訴訟!」

「それは嘘じゃないです。信じて、自分の目を見てください」

「に、濁ってる……!」

 

ヤシオは椅子から立ち上がるとアオキを指差して喚いた。

 

「なんだかんだ言って結局全部アンタの都合じゃん!」

「はあ……まあ、そうですね。ヤシオのせいではありませんが、ぶっちゃけ自分も姉貴たちの思いつきに振り回されてあなたを預かってるので、多少は自分の利益を求めます」

「ダッ……!ぐっ………!いやまあそうだけど!そう言われたらなんも言えねえけど!」

「あなたも大人の勝手に巻き込まれた側ですから、自分自身の利益を望んでいいと思います。もちろん無理にとは言いませんが、もしも興味があるのなら自分はあなたを受け入れて、……そうですね、トレーナーとしての指導くらいならしますよ」

 

肩を怒らせてキャンキャンしているヤシオを前に、アオキはマイペースを崩さずに言葉を続ける。

するとヤシオはアオキの「指導をする」という言葉に揺らぐものがあったのか、突然「う……」と口籠った。

 

ヤシオは今日アオキと勝負をして、手加減された上でボコボコにされたし、考えていた戦略も全部バレていたという有様である。

ジムチャレンジをしていなかったとはいえ、ガラルでそれなりに経験を積んできたつもりだったヤシオとしては完全に鼻っ柱を折られたとしか言いようがない。

 

っていうかこのオッサンちゃんと強えし、なんか的確なアドバイスされたし、まあこの人にちょっと褒められて悪い気はしなかったっていうか……別に嬉しくはねえけど……と、反抗期の複雑な少年心だ。

 

それになにより、現状頼る人がいない彼にとっては──今のヤシオにとっては、故郷の実母さえも頼ったり助けを求めたりする対象にはなり得なかった──アオキがタクシーの中でなんともなしに言った「自分を頼っていい」という飾り気のない言葉はただの言葉以上の安堵を伴っていた。

……例えそれをアオキ自身は知らないとしても。

 

急に黙り込んだヤシオに、子供への伝え方を間違えたかと思ってアオキはフォローを入れるように口を開いた。

 

「……あ、いえ、別に今すぐ答えを出せとは、」

「それってさ、アンタがオレの師匠になる……ってこと?」

 

アオキの言葉はすぐに、少年の少し警戒するような、試すような、戸惑うような、……期待するような、そんな問いかけに遮られる。その少し揺らいだ瞳を見つめながらうなづいた。

 

「まあ、一般的にはそうなりますかね。自分が師匠で、あなたが弟子、と」

「……んむ………ううん、それは、わりと、いや待てよ、ちょっと待って」

「はい」

「作戦会議!プクリン!イエッサン!集合!」

 

号令をかけると、イエッサンがヤシオのそばにやってきて1人と2匹がぎゅっと集まる。

彼らは額がくっつくくらい顔を寄せ合って「どうする?」「ぷーぷくぷ」「んんきゅるる」「えーでも知らんオッサンだぜ?」「ぷぷ?」「きゅうきゅっ」「ほんとお?」と話し合いをし始めた。

……アオキの目の前で。

 

(……目の前だから全部聞こえてるし、知らんオッサンって言われた……)

 

表情にわかりづらいながらちょっとしゅんとしたアオキを、飛んできたオドリドリが応援し始めた。かわいいね。

 

1人と2匹はアオキを気にすることなく会議を続ける。

そしていくらかの問答の後、なにやらうなづきあって、ヤシオが立ち上がった。顔を上げたアオキと、仁王立ちするヤシオの目が合う。

それからヤシオはビッとアオキを指差して言った。

 

「師匠(仮)な!」

「はい?」

「だから師匠(仮)!オレ、アンタのことまだ全然知らねえし、会って数時間だし、つかそもそも信用してねえから!そんな奴まだ師匠とは呼べねえだろ!」

「はあ……」

「だからアンタはオレの師匠(仮)!」

 

そう言い切るヤシオの後ろでイエッサンがアオキに向かって両手を合わせて(うちの子が生意気でごめんね……)という顔をしている。プクリンはその隣でニコニコしていた。かわいいね。

 

ツンデレはともかくとして、ヤシオはアオキの誘いに承諾してくれた……とまではいかずとも、前向きに考えてくれている、と考えてよいのだろう。フンス!と腕を組んで仁王立ちをするヤシオに、アオキは普段通りのどこか気の抜けた表情で小さくうなづいた。

 

「……はあ、わかりました。ではヤシオは自分の弟子(仮)ということで……」

「おう!」

「よろしくお願いします」

「シャス!」

 

後ろのイエッサンがアオキへサムズアップしながら(ありがとね……)という顔をしていた。トレーナーの心情を察したプクリンは嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねている。

 

……と、そんなわけで、義理の兄弟である2人は同居初日に師弟関係(仮)となったのだった。

 

 



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朝はがっつり食う派

 

鳥ポケモンの囀りでアオキは目を覚ました。

まどろみ、うつらうつらとしながらゆっくりと体を伸ばす。寝返り、カーテンの隙間から差し込む光がもう朝になったことを教えてくれる。ちらりとサイドテーブルの置き時計を見れば、まだアラームの時間より早い。

 

……もう、すこしだけ。

再度瞼を落とした時、チルタリスのハミングが聞こえた。綺麗な歌声に癒されながら耳を澄ませた時、チルタリスの声に混ざって人の声が聞こえた。

 

……ひと?自分はここに一人暮らしなのに?

 

反射的にガバリと起き上がって、周囲を見渡す。アラームを事前に止めた。それから足音を立てないようにゆっくりと寝室を出て、リビングへ向かう。

吹き抜けのリビングは朝日を取り込んでキラキラと光っていて、特に荒らされた様子はない。

声はキッチンのほうから聞こえていて、アオキは段々と覚醒しつつある頭でそちらへ向かった。

 

「ふんふふん……愛してーるのエールをあげーる……」

 

小さな鼻歌。それにあわせてチルタリスが透き通るような声で歌う。

キッチンに入ったアオキの視界には、ダイニングテーブルの上でハミングするチルタリス、皿を手に忙しなく動くイエッサン。

それから、こちらに背を向けてコンロと向き合いながら鼻歌を歌う少年。

 

……そうだった。

自分は昨日から親戚の子を預かることになったのだ。

そう、この少年の名前は、

 

「……ヤシオ」

「ウォアッ!って、アンタか!飯もうちょいだから顔洗ってこい。寝癖やべえよ」

「……はい、おはようございます」

「ん、ああ、おはよ」

 

名前を呼ぶとびっくりした声をあげてヤシオが振り返る。

自前なのか纏っているエプロンは桃色のもので、なんとなく彼の相棒のプクリン色だから選んだんだろうなと思った。

鼻腔をくすぐる朝食の香りに後ろ髪引かれつつ、言われるがまま洗面所へ向かう。なんか重いと思っていたら腕にネッコアラがしがみついていた。

 

 

──ヤシオが朝食を作りたいと言ったのは、昨晩、夕食を取るために外へ出た時だった。

来来来軒の油の染み付いたテーブルを挟んで向かい合い、ラーメンのお供に餃子を食べつつ、ヤシオが言った。

 

「アンタって朝食う派?」

「がっつり食います」

「もしオレが朝飯作ったら食う?」

「……そういう気は遣わなくていいんですが」

「アンタに気を遣うとかじゃねえんだよ。人んちに世話になってんのにオレがなんもしてねえって状態が嫌なだけだわ」

「あなたって、案外真面目ですよね……」

「んだコラ悪口かオラ」

「いえ、あなたのしたいようにしてくれたほうが自分としても楽です。あと飯を作ってもらえるのは正直有難い」

「ん」

 

自分の家だと思って好きにしてください、と言おうとして、やめた。普通に考えて他人の家をそう簡単に自分の家だとは思えないだろう。

こちらが言わずとも、彼がそのうち慣れていけばいい。

 

「……自分は替え玉しますが、ヤシオはどうしますか」

「する」

「すみません、替え玉ふたつ。……あと餃子とチャーハンも。あ、ヤシオも食べますか?」

「チャーハンはいらねえ」

「じゃあ餃子はふたつ、チャーハンはひとつで……。あ、半チャーハンじゃなくて通常サイズので……はい……お願いします……」

「デブ」

「え?……今デブって言いましたか?」

「は?言ってねえけど?」

「……なんだ、聞き間違えか……」

「……んへへ」

(子供だな……)

 

そんなこんなで、ヤシオが家事を手伝ってくれることになった。

 

回想終了。

 

 

顔を洗ってダイニングに戻ると、ヤシオがちょうど完成した料理をテーブルに置くところだった。

彼が手に持ったものを見てアオキは思わず問いかける。

 

「……それはなんですか?」

「あ?だし巻きそぼろ丼」

「だし巻き、そぼろ丼……?」

「いや、アンタが朝はがっつり食う派だって言ってたから……。え?朝がっつり食うって丼物いけるって意味であってるよな?」

 

何かをやらかしたのかと思ったのか、こちらの顔を見て焦ったようなびっくりしたような顔を見せるヤシオにアオキは首を振ってみせた。

 

「あ、大丈夫です。その認識はあってます」

「ああ、ならいいけどよ」

「初めて見る料理だったので気になっただけです。朝食ありがとうございます」

「……おう」

 

少しホッとした顔を見せたヤシオは彼自身の分とアオキの分のふたつの丼をテーブルに置くと腰掛けた。アオキもその正面に座る。

 

「いただきます」

「ん」

 

先ほども口にしたが、目の前にある丼はアオキにとっては人生で初めて見るものだった。

 

白米の上にそぼろが敷き詰められていて、さらにその上に切られていない焼いて出来上がったままのだし巻きがドンと置かれている。だし巻きの上にかけられたネギが彩りとして丁度いい。

シンプルながら、かなりインパクトがある丼だ。

 

だし巻きを箸で一口大に切ってから、そぼろや白米と一緒に口に運ぶ。だし巻きがなかなかに分厚いのもあって、一口が大きくなった。大口を開けて食べる。瞬間、思わず呟いた。

 

「旨い……」

 

素朴な味付けのだし巻きと、ご飯に合うよう少し濃いめに味つけられたそぼろがとにかく合う。

噛んだ瞬間にじわりと口の中に広がる出汁の味と、それをかき消さないのにしっかりと味のある肉、そのふたつを支える白米の存在が、頭の回っていない表現をするなら『完璧』だった。

 

「え、うま……え?なんですかこれ……うっま……旨すぎる……」

「うるせえ!世辞はいらねえ!静かに食え!」

「いや世辞とかじゃなくて……うま……」

「卵と肉なんだからうまいに決まってんだろうが!」

 

ストレートに褒められて照れたヤシオが声を荒げるが、アオキとしてはそれどころではない。

確かにだし巻きの形は少し崩れているし、そぼろが玉になっているところある。そういった隙はありつつも、むしろそれがいいとすら感じる。どう表現すべきか迷うが、店で出てくるような料理というよりは、家庭料理として完璧だった。自分の家で予告なくこれが出たらかなり嬉しい、というあの感覚。

 

箸が進むアオキの様子を、ヤシオは褒められたが故の照れと嬉しさを仏頂面で隠しつつ伺う。

共に生活をする上で、食の好みが合わないというのは大きな問題だ。

だからこそ、ヤシオは一番最初に自分の料理のレパートリーのうち、かなり自信があるほうの料理を選択してアオキに提供した。それが割と好評のようで、内心とても安堵している。なんとも思ってないふりをしつつ、ヤシオも食事を進めた。

 

「……あの、」

「んだよ」

「おかわりってありますか」

「え?いや、だし巻きはねえよ。白米とそぼろならまだあるけど」

「すみません、もらいます」

「おー……マジで朝から食うなあ、アンタ……」

 

空になった丼を手に炊飯器へ向かうアオキを見ながら、ヤシオはむず痒そうな顔をした。

そんなヤシオと目があったイエッサンが笑顔でサムズアップする。思わずぎゅっと眉間に皺を寄せた。……反抗期なんだよこっちは。

 

 

とまあ、そんなこんなで、

 

「いつまで飯食ってんだ今日仕事なんだろうが!」

「……朝から旨いもん食ったので今日はもう休日にしたいです……」

「うるせえ!とっとと準備しろ!」

 

だとか、

 

「流石にアンタの部屋には入んねえけど、家の掃除とか洗濯くらいはしとく。家にいるアンタの手持ちには飯やっとくけど、誰にどのフードとか指定あんの?」

「すみません、助かります。飛行タイプの子たちは今日留守番なので、こっちの引き出しのフードを。それぞれ袋に書いてある記載の通りにしてくれれば大丈夫です」

「おう、わかった」

 

とか、

 

「ああ、ヤシオ」

「なんだよ」

「忘れてました。合鍵を渡しておきます。出かける時は戸締りだけお願いします」

「あんがと。ちょっと買い物行こうと思ってたんだわ」

「出かける時も、自分の手持ちの子は基本家の中で好きにさせておいてください。トロピウスも、本人がボールに戻りたいと言わなければ庭にいさせていいです」

「ん、おっけ」

「困ったことがあったらこちらのことは気にせず連絡してください。すぐには出れないかもしれませんが、折り返しますので」

「おう」

「では、いってきます」

「ん、いってら」

 

などと、やりとりを交わしてから、アオキは家を出て、ヤシオはスーツ姿で出かける彼を見送った。

それから音を立てて閉じた玄関扉を見て、ヤシオはストンと気が抜けたように肩を落とす。

 

「……なんか、久しぶりに人が出かけんの見送ったわ」

 

足にくっつくプクリンの頭を撫でながら、思わずそう呟いた。

 

 



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華麗なる憂鬱、のちの夕食

 

プライベートでは親戚の子を預かるという大きな変化があったが、それを理由に仕事に影響が出るということはなかった。アオキは普段と変わらないし、それ故に周囲に変化を悟られることもない。

 

仕事の合間に少しだけ、作業の手を止めて(朝飯旨かったな……)と思い出したりはした。

アオキがたまに停止して長考するのはいつものことだったから、周囲は気にも留めない。

 

その日は営業資料作成や会議が中心で、特にトラブルに巻き込まれることもなく定時頃に上がれた。

そのまますぐ家に帰ることもできたが、なんとなく足が向いて本屋に寄る。

 

すぐに目的の本棚へは向かわず、軽く本屋をぐるりと一周してから、特に目ぼしいものがないのを確認して、足は『教育』関連の本棚へ向かう。

 

ポケモントレーナーという職業や立場が一般的なこの世界において、そういった専門書や教育本というものは巷に溢れかえっている。アオキ自身10代の頃には学生としてバトルについても学んだ経験があったし、現在では職業トレーナーではある。

 

しかし、教えるという方面においては初心者であった。

 

自分の都合が8割とはいえ、ヤシオに対してトレーナーとしての指導をすると言ってしまった手前、ある程度今後彼に何をどう教えていくかを考える必要がある。

知識的な部分は──つまり状態異常についてとか道具の効果だとか──教えられるが、その程度のことは既にヤシオもわかっているだろう。

教えなくてはならないのは、もっと別のところ、勝負の中での立ち回りや考え方、相手の手の読み方、有利状況の押し付け方、三次元的思考……つまりは実践的な部分だ。

 

目についたバトル学の教本を手に取る。

……こういうのでいいんだろうか。

パラパラとめくって軽く中身を見るが、やはり初学者向けの知識的な話ばかりだ。

こういう学ぶ側ではなく、教える側の、つまりは教師側のための本を読んだほうがいいのかもしれない。生徒への教え方の本とか、そういう……

 

「アオキ?」

 

不意に声をかけられたのはその時だった。声の方へ目を向ける。

そこにいたのは同僚であるハッサクだった。

反射的に軽く会釈をする。それから内心面倒な人に見つかったな、と思った。

 

「……ハッサクさん。お疲れ様です」

「珍しいですね、こんなところで会うとは」

 

アオキが手に持っていた教本へハッサクが視線を移したのに気がついて、見られたくないところを見られたような感覚に陥る。

きっと何故この本を手に取っているのかだとか、その背景だとかを聞かれるような気がして、持っていた本を興味なさそうな素振りで本棚へ戻した。

 

「おや、あなたも教育に興味が?」

「……いえ、休日に読む本を探し歩いていたらこの本棚まで来ただけです」

 

咄嗟に嘘をつく。ハッサクは嘘に気がついているのかいないのか、笑みを見せて答えた。

 

「そうでしたか、それは少し残念ですよ。アカデミーも人手不足ですからね」

「ああ、教員の総入れ替え、でしたっけ。ハッサクさんも大変なことに巻き込まれましたね……」

「教鞭を取るのは久々ですからね。小生自身、学び直しといったところですよ」

 

苦労を苦労と感じていないような明るい声音に、この人のそういうところが合わないな、と改めて思う。

盛り上がるわけでもない会話と、業務に影響を与えない程度の微かな苦手意識。

そんな居心地の悪さに早くこの場から離れたいと感じた。

 

少し足を引いて、それから「すみません、そろそろ帰るので」と呟くように口にする。

ハッサクは「そうですか」と特に引き留める様子もなくアオキが去ることを許した。お疲れ様でしたとそう言って、彼の横を通って書店の出口へ向かおうとしたその時。

 

「アオキ」と、呼び止められる。

感情を表に出しすぎないよう心がけて、振り返った。

 

「小生でよければ、いつでも相談には乗りますですよ」

「…………」

「学問の扉は万人に開かれているものなのですから」

 

見透かしたようなその目が、苦手だ。

 

「……はい、失礼します」

 

それだけ言って、彼に背を向けて歩き去る。

本屋を出て、タクシー乗り場のほうへ歩みを進めながら思考を巡らせた。

 

本当にヤシオを成長させるというのなら、アカデミーにでも通わせて、資格と知識のある教師のもとで学ばせて、同級生たちと交流させて、広い世界を見させて、ライバルの1人でも作らせて、切磋琢磨させたほうがいいのかもしれない。

 

(……つい最近までいじめ問題があった学校に、か?)

 

いじめ問題があり、それによって教員の総入れ替えがあり、アカデミーは混乱の最中だ。

一番余波を受けているのはいじめの被害者生徒たちと、いじめ問題に関わりがなかった生徒たちだろう。急激な変化とそれに伴う混乱。頼るべき大人たちにもまともに頼れず、不良じみた生徒も増えてきていると聞く。

 

そこに、案外繊細な部分のある少年を行かせるのは冷静な判断ではないと思った。

 

そもそも家庭問題も人間関係だ。

急激に変化して拗れた人間関係に耐えきれず、心を守るために逃走を選んだ少年を、複雑な人間関係ばかりの学園というコミュニティに放ることが果たして良いことなのか悪いことなのか、アオキにはまだ判断がつかない。

 

だからといって自分が良い教師になれるかといえば、そんな自信もないのだけれど。

 

そのうち本人に意思を聞いてみるか。

そう思うが、どうであれまだ先の話だ。まずヤシオにはこのパルデアという場所に慣れてもらう必要がある。少なくとも出会ってまだ2日の現在考えることではない。

 

(疲れたな……帰ろう……)

 

タクシーに乗り込んでから、上昇する感覚の中で溜息をつく。

 

自分のことだけで手一杯なのに、他人の人生まで抱えようとしているのは大きな過ちだったかもしれない。

姉貴からの頼みだからと引き受けたこと自体が間違いだったか。

他人の人生に、例えその一端だけだとしても関わるということへの覚悟が足りていなかったことは否定できない。

気の強い姉とのやりとりが面倒で、流されるままヤシオがこちらに来ることを受け入れたところはある。

人との対話から逃げた結果、より大きなものと向かい合わなくてはならなくなった。

 

結局は自分の行いの結果なのだけれど。

 

深みに嵌まり込む思考を止められないまま、アオキはチャンプルタウンの自宅まで辿り着く。

 

玄関の前に立ってから、もはやここが自分だけの家ではないこと、自分のためだけの安息の場所ではないことに微かなストレスを感じてしまう。

それから、そう感じる自分に微かな自己嫌悪。

誰に嫌われようと、自分だけは自分を嫌いたくないのに。

落ちる肩を戻せないまま、自宅玄関の扉を開く。

 

その瞬間、キッチンから香るスパイスの匂いにノータイムで腹が鳴った。

 

「……え」

 

家の中からものすごくいい匂いがする。

玄関で靴を脱いですぐに上がる。

廊下からリビングに繋がる扉をヤシオのイエッサンが開いた。誰がやってきたのか確認に来たのだろう、アオキを見てから、微笑んで受け入れるように扉を大きく開く。

リビングへ足を踏み入れたアオキはそのままダイニングキッチンへ向かった。

 

「ん、おかえり。アオキさん」

 

朝と同じプクリン色のエプロンをつけたヤシオが振り返って、なんでもないようなフラットな声でアオキを迎え入れる。

 

……ただそれだけのことで、唐突に息の仕方を思い出した。

吸って、吐いて、言葉を紡ぐ。

 

「……ただいま、帰りました」

「おう、お疲れ。カレー出来てるけどすぐ食う?先に風呂入る派?」

「……食べます。すぐ着替えてくるので」

「おー、じゃあその間によそっとくわ」

 

リビングを通って一階の奥にある自室に向かう。

その途中、留守番だった自分の手持ちたちを見てみると、みな穏やかな様子で過ごしていたようだ。

アオキが帰ってきたことに気がついた彼らがわらわらと寄ってくるからそれを撫でたり適度に構いつつ、堅苦しいスーツを脱ぐ。

鞄を定位置に置き、ジャケットを脱いで、ネクタイを解き、スラックスを脱いで代わりにルームウェアを履く。とりあえず風呂に入るまでの間のための楽な服装になってから、すぐにまたダイニングへ戻る。

 

ダイニングのテーブルにヤシオが2人分のカレーを置いているのが見えた。おかわりができたらいいな、とコンロの上の大鍋へ視線を向けてしまう。

アオキが戻ってきたことに気がついたヤシオは仏頂面のまま口を開いた。

 

「手ェ洗ってこい。飯はそれからだ」

「…………はい」

 

言われるがまま洗面所へ行く。

手を洗って戻ってきたアオキを見て、ヤシオは「おし、飯にしようぜ」とニッと口角を上げた。

 

「いただきます」

「おう」

 

目の前にあるのはカレーだった。ライスカレー。

見た目はかなりシンプルだ。特別何か目立つトッピングがあるというわけでもなく、ニンジンやジャガイモといった一般的な具材が入った、家庭的なごく普通のカレー。

大盛りにしてくれているのは朝のアオキの食欲を見たからなのだろう。気遣いが有難い。

 

スプーンで軽く混ぜてから、山盛りに掬って、食べる。

 

舌の上に乗せて最初に感じたのは熱さ。ルーも白米も出来立てでとても熱い。下手に喉に流し込むとむせてしまいそうなくらいだけれど、その熱さがむしろ良い。

それから広がるのはマイルドで心地の良い辛さ。舌の上で少しざらつくスパイスも癖が強すぎず、アオキの口によく合う食べやすいバランスだった。生クリームかヨーグルトか、辛味の中に微かに感じる甘味や酸味がむしろカレーの味をより深いものにしている。

しっかりと煮込まれて柔らかい具材が混ざったルーと白米を絡ませて口に入れれば、それだけで多幸感に包まれる。

一口、二口と食べ進め、初動を満足させてから、ようやく息を吐くみたいに呟いた。

 

「……ああ、旨い」

 

思わず溢れた言葉に、照れ屋なヤシオの眉間にぎゅっと皺が寄ったのが見えたから、アオキは黙って食べるのに専念する。カレーは飲み物とはよく言ったものだ。するすると流し込むみたいに胃の中に収まっていく。

 

食べる手が止まらないアオキの姿をチラリと見たヤシオは、普段は無表情な彼が表情や仕草や食べるスピードなどで「旨い!」とカレーの感想を表す様にめちゃくちゃに照れていた。

 

でも本当は嬉しくて、少しチラチラとアオキの方を伺いつつ自分も食事を続けていると、ふとした拍子にパチリとアオキと目が合う。

 

するとアオキは何を思ったのか唐突にスマホを取り出すと何かを確認してすぐにまた仕舞う。

突然の謎の行動にヤシオが思わず問いかけた。

 

「……今のなんだよ」

「いえ、朝から旨いものを食べさせてもらってるのでもしかしたら忘れていただけで今日が自分の誕生日だったかと思って」

「なわけあるか!アンタの誕生日なんか知らねえよ!」

「……カレー、本当に旨いです。ありがとうございます」

「……っ!ガラル人ならこんくらいのカレー誰でも作れるっつーの!!」

「おかわりもらいます」

「好きに食え!!!」

 

立ち上がり、おかわりをよそうために炊飯器を開く。

 

ヤシオの褒められ慣れていない様子にからかい半分で褒め続けてみたい気持ちが生まれたが、ふとこんなに料理が上手い少年が褒められ慣れてないということがあるのか?と不穏な方向に思考が進んだ。

 

10代でこのレベルの料理ができれば例え世辞でも大人は褒めるだろう。ハッサクなら多分号泣している。

 

料理をする機会はあったが、他人に提供する機会がなかった。もしくは、他人に提供することもあったが、評価されたことがなかった。

どちらにせよ、……いや、想像だけで話を進めるのは早計か。

 

「炊飯器開けたまま長考してんな!早く閉めろ!」

「あ……」

 

気がつくと炊飯器がピーピーと鳴いていて、ヤシオに怒られた。

 

 

 

 

皿くらいはこちらで洗うと申し出たのだが、ヤシオにきのみを抱え込んだホシガリスみたいに威嚇されたので大人しくリビングのソファに座る。

 

テレビのリモコンを持ったプクリンとチルタリスが音楽番組を見ているので、知らないバンドの曲を聴き続ける羽目になった。家主にチャンネル権がない。

 

ふとリビングを見渡すと普段より綺麗な気がした。

床や棚に埃は積もっていないし、なんだか特に窓が綺麗な気がする。まさか窓掃除までしたのだろうか……?

 

ヤシオが来て2日目。

ポケモンたちも過剰にストレスを感じている様子はないし、アオキ自身、気がつけば自宅に帰る途中に感じていたあの微妙な憂鬱さが消えていることに気がついた。

 

洗い物を終えたヤシオがリビングに来て、アオキの隣に座る。彼が座ったことでソファが軽く沈み、それがアオキにも伝わった。

彼は興味があるのか無いのか、腕を天井へ向かって伸びをしつつ音楽番組を眺める。その横顔に声をかけた。

 

「ヤシオ」

「ん」

「週末は自分も休みなので、大きな街に買い物に行きませんか。あなたも来たばかりで生活に足りないものも出てくると思いますので……」

「あー、そうだな。それは助かる」

「……なにか欲しいものがあるんですか?」

 

急ぎ必要なら明日にでもアオキが買ってきてもいい。

そう思って問いかけると、隣に座るヤシオにじっと顔を見つめられる。ちょっと呆れたようなその表情に首を傾げると、彼が口を開いた。

 

「アンタのワイシャツ」

「……はい?」

「今日洗濯して見たんだけどアンタのワイシャツもう首元ダルッダル。何年着てんだよ、新しいの買いに行くぞ」

 

……違う、そうじゃない。

 

思わずそんな顔でヤシオを見つめたが、彼はテレビを見て「あ、ネズじゃん!」と表情をパッと明るくして前のめりになったから何も言えなかった。

 

 



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賢人曰く「ツンはデレのための助走」

 

アオキとヤシオの同居生活は驚くほど穏やかに続いていて、平日はアオキが一日の大半仕事で家にいないとはいえ、特に諍いやストレスなど無く過ごしていた。

 

(……割と、快適だな)

 

独り身で三十路過ぎの男が一人暮らし慣れをしてしまうと、もう他人と暮らせなくなるとよく聞くが案外そんなことはなかったらしい。

正直意外だ。自分はパーソナルスペースに他人がいることにストレスを感じるタイプだと思っていたのに。

 

日曜日の昼過ぎ、食事を終えてソファに座ると膝の上にカラミンゴが乗っかってきて動けなくなる。寄せてくるその頭を撫でながら、ふと窓辺を見た。

陽の光が差し込む窓辺でプクリンの毛繕いをする少年の背中が視界に入る。

プクリンはされるがまま世話をされていた。多分いつものルーティンなのだろう。他人の慣れた手つきを眺めながら、ふと思考が動く。

 

ヤシオを預かって、とりあえず1週間ほど経った。前述した通り、現在のところ関係性に問題はない。

 

昨日の土曜日など、ヤシオと2人でテーブルシティまで買い物に出かけている。

 

朝出かける前、アオキの私服を見た15歳の少年に「ダッッッッッサ!!!え!?私服ダッッッッサ!!!え!?やだ!!オレアンタの隣歩くのヤなんだけど!!!」と言われて着替えさせられたり、テーブルシティに着いた瞬間真っ先に紳士服屋に向かわれて仕事用のワイシャツと私服を買わされたり、昼食を取ってから食べ歩きをしたり、ヤシオからの「あのポケモンなんてーの?」という質問に答えたり、トイレットペーパーと洗剤を買ったりした。

 

……あれ、ヤシオの買い物してなくないか?

それに気がついて、帰路に就きかけていた足を止めた。

 

問いかけても「特に買いたいものとか無いんだけど」と返すばかりのヤシオに「このまま帰ると立場が無いので奢らせてください。この通りです」「直立不動じゃねえか」と強請り倒して、キャップと手持ちの子たちへのお土産を買わせてもらう。初めて他人に貢いだ……と思った。

 

キャップについては初めこそ「別にいらないけどアンタがそこまで言うなら……」とさして興味なさそうな顔で店に入ったが、入ったら途端にかなり真剣に選んでいて、手に取ったものを被っては「アオキさんこれどう?」「こっちは?」とこちらに聞いてきた。

 

……なんか割と可愛いところあるなと思った。

 

ただそれぞれのキャップの違いも、彼に何と言ってやれば良いのかも分からず、とりあえず「良いと思います」「かっこいいです」「似合ってます」をローテーションしていたら普通に怒られた。

 

「褒めんの下手すぎ!褒められ甲斐がねえ!」

「褒められることに甲斐を求められても……」

「せめてもうちょいだけ本気で褒めろよな」

 

黒いシンプルなキャップを被ったヤシオにそう言われて、考え込む。こちらを覗き込むような視線を受けながらうなづいた。

 

「じゃあ、言います」

「おう」

 

こちらを見つめる目を、見つめ返す。

 

「……コンテストとかあったら、」

「ん」

「あなたが優勝だと思います」

「……今のが本気の褒め?」

「わりと……」

 

途端に噴き出された。腹を抱えてけらけらと笑って、それから「下手くそ!」と口角が上がったまま言われる。

それから被っていたキャップを脱いだヤシオはそれをアオキに向かって渡した。

 

「ん、買ってくれんだろ、シショー」

 

そう言って、笑顔を向けられる。

経験のない呼び方に違和感。嫌ではないが妙にむず痒い。

冗談だとわかっていたけれど、向けられた笑顔や言葉から気を許されたことが感じられてしまって、咄嗟に返事に迷う。

渡されたキャップを受け取りながら、結局つい憎まれ口を叩いてしまった。

 

「……不良にタカられてる時ってこんな感じなんですかね」

「は!?可愛い弟子のオネダリだろうが!」

「……はあ、可愛い……可愛い……?」

「ア゛!?」

 

弟子可愛いかもしれない。

 

回想終了。

 

 

……弟子、可愛いかもしれない。

 

回想を終えてもそう思った。

そう思ってから自分が師匠らしいことを何一つしていないことを思い出して真顔になる。詐欺では?

 

「すみません、ヤシオ。少し話いいですか」

「ん、なに」

 

ソファと窓辺、お互い今の位置のまま話をしてもよかったのだが、ヤシオはわざわざ作業を中断してソファまで来てくれた。

こちらとしては有難いが、毛繕いを中断させられたプクリンからの「そのお話は私のもふもふタイムを中断してまでする話かしら?ん?こちらにも聞かせていただける?」という視線が痛い。

 

──これは本当に余談なのだが、この1週間程度でプクリンはアオキの家の中のヒエラルキーの上位に立った。

 

そもそも別に元から明確なヒエラルキーがあるわけではないのだが、なんとなくムクホークがリーダー役だとか、ノココッチは穏健派だとかそういうレベルの話だ。

 

それを前提に手持ちたちの様子を見ていると、プクリンはどうやらポケモンたちの中だと発言権が強いらしい……というのが最近の観察から見えてきている。

 

基本ポケモンは弱肉強食の側面が色濃い。

つまるところ、単純に強ければ立場が強くなる。

そういう意味だとプクリンはこの中では比較的強いポケモンになるだろう。

 

なぜなら、冷凍ビームを覚えているからだ。

 

閑話休題。

 

アオキの隣、ソファが1人分空いている。

ヤシオがそこに腰掛けようとした時、アオキの膝の上にいたカラミンゴがするんとそこに滑り込んだ。

 

「お」

「え」

「ンゴ」

「プクゥ……?」

 

なんで?

 

思わずカラミンゴを見るが、何食わぬ顔でアオキの隣、ソファの上に座り込んでいる。座る場所を奪われたヤシオが変な体勢で固まっていた。

 

……弟子が手持ちにいびられている……?

何とも言えない空気に周囲は静まり返り、プクリンに至っては「ハァ?」みたいな顔をしているが、カラミンゴは肝っ玉なので意にも介さず欠伸をしていた。……え?メンタル強……。

 

「カラミンゴ先輩、アオキさんの隣がいいンゴ?」

 

変な語尾でヤシオが問いかけると、カラミンゴが肯定するように「ンゴ」と鳴いた。それから何か言いたげにヤシオに向かってブンブンと首を振る。

 

アオキは自分の手持ちなのでカラミンゴが伝えたいことがわかった。

ヤシオもカラミンゴのジェスチャーで察したのか、「え、ああ、うん……」と困惑しながらも先輩の言うことに従って、……アオキの膝の上に腰掛けた。

 

……なんで?……いや、わかるが、え?

 

ジェスチャーから察するに、カラミンゴはヤシオに「俺はアオキの隣に座るから、お前そっち座れよ」と言いたかったらしい。

自分の言った通りにした後輩を見て、カラミンゴは満足げに「ンゴ」と鳴いた。

 

「……えっと、ヤシオ」

「え、流石にごめん。重いよな」

「気にしないでください。あの、カラミンゴは自分の膝に乗るのが好きなので、」

「あの、わかる。好意なんだよな、多分。自分の好きな場所を譲ってくれたっていう……」

「それです……」

 

アオキの家の中の関係性において──プクリンは当然例外とするが──アオキの手持ちから見てヤシオは後輩という立場である。

ポケモンたちなりに、可愛がったり、世話をしたり、見守ったりするべき生き物と認識されているのだろう。

……うん、手持ちたちが弟子を可愛がっているようでよかった。

それ以上は考えないことにした。

 

ヤシオもそう思ったのか、あまり体重をかけすぎないようにしながら「話ってなに?」と促してくれた。

 

「はい、トレーナーとしての指導の話なのですが、」

「ああ、うん」

「明日から平日は毎日1日1回、トレーナーとバトルをしてください」

「……1回だけ?」

「1回だけです。勝敗にどうこうは言いませんが、勝つつもりで戦ってください。まあ、言われなくてもそうするでしょうが」

「まあ、そりゃあ」

「1回だけなのでよく考えて勝負をしてください。万全の準備と戦術を用意して、最善手を選ぶことに努力をすること……」

「おう」

 

素直にうなづく彼に少し安堵。

それから、本題を切り出した。

 

「そしてあなたがした勝負を、毎日夕食の後にでも自分に教えてください」

「…………教えるって、例えばどんなことを?」

「相手がどんなポケモンを出して、どんな試合運びをしたのか、その時にあなたが何を考えていたのか、そういうあたりです」

「……それだけ?」

「それだけです。まずは」

「まずは」

 

言葉を鸚鵡返しして、首だけでこちらを振り返って不思議そうな目を見つめてくるその顔を見る。疑問はありながらも、その内容に不満はないようだ。

 

「頑張れそうですか」

「たりめえじゃん」

 

目の前の背中を軽く掌でポンポンと叩く。

それを受けたヤシオは立ち上がると、振り返ってアオキを見た。

 

「では、明日から」

「ん」

 

そんなわけで、明日から頑張ろうね!という運びになったのだが、この指導はとあるちょっとしたトラブルによって数日延期することになる。

 

 

さて、そのトラブルが起こったのが、その日の夜。

 

リビングの灯を落として、アオキもヤシオも互いの部屋に戻り、もうそろそろ寝るか、といった頃のこと。

 

就寝の準備をしていたアオキの部屋にノックの音が響いたのがことの始まり。

この家でノックができる者は限られていて、そうなると自然と誰が来たのかは察せられる。

 

扉を開けば想像通りそこにはヤシオがいて、ヤシオの後ろにはプクリンとイエッサンもいた。

 

「どうかしましたか」

「……あのさ、床でいいから今日アオキさんの部屋で寝させてくんねえ?」

 

枕を抱えたヤシオと、その後ろで毛布を持っている2匹。ヤシオはやけに仏頂面をしていて、後ろの2匹はなんというか……なんと表現していいのかわからない顔をしていた。

 

「……とりあえず、中へどうぞ」

「ん」

「プ!」

「キュ」

 

1人と2匹を中へ招き入れた。そうすればヤシオはどこか俯き気味に、プクリンは元気よく、イエッサンはアオキに一礼をして入ってくる。

私室であるが故に椅子は一つしかないため、彼らをベッドに腰掛けさせた。

プクリン、ヤシオ、イエッサンの並びで座る彼らに、アオキは椅子に座りながら問いかける。

 

「どこで寝てもらっても構わんのですが、一応理由を聞いてもいいですか」

「…………」

 

元気なく俯いているヤシオが、少し顔を上げて伺うようにアオキを見る。言いづらそうな顔をしながら、いつもよりずっと小さな声で呟いた。

 

「……言っても笑わねえ?」

「まあ、努力はします」

「…………」

 

何か言いたげな目で見つめられたが、もしかしたらこれからヤシオがめちゃくちゃに面白いことを言うかもしれないので下手な約束はできなかった。

少し躊躇うヤシオの背中をプクリンとイエッサンが撫でる。それに慰められて、ヤシオが口を開いた。

 

「……お、」

「お?」

「…………おばけいる……部屋に……」

 

俯きながら強張った顔でそう言う弟子にアオキは思った。

 

 

弟子、可愛いかもしれない……。

 






土曜日のお出かけのところ、最初「シショー」ではなく「オニーチャン」って言わせてたんですが、アオキさんが出頭しようとしたのでやめました


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眠りにつくまで日曜日【前編】

 

深夜、屋根裏の方から妙な音がするのだという。

 

「妙、とは?」

「足音いっぱいみたいな音とか、あと、なんかガリガリってひっかくみたいな音とか、金属を引きずるみたいな音とか呻き声とか……」

「どっかから入り込んだポケモンじゃないですか」

「ポケモンじゃなかったらどうすんですか!!?」

「声がデカい……」

 

怯えて縮こまるヤシオへ「じゃあ今から屋根裏を見に行きましょうか」とアオキが提案したら「今から!?夜だぜ!?!?」と裏返った声を上げられた。

 

「明日でもいいですが、明日は自分が仕事で日中いないのでヤシオ1人で頑張ることになります」

「やだ!!!ムリ!!!今来て!!!!」

「声がデカい……」

 

懐中電灯を手に持って階段を上がる。騒ぎに目を覚ましたオドリドリがアオキの肩に止まって付いてきてくれた。

 

前々から思っていたがやはりプクリンとイエッサンが姉貴分で、ヤシオが末の弟といった関係なのだろう。

アオキたちの後ろをプクリンとイエッサンに手を繋いでもらったヤシオがへっぴり腰でついてくる。

 

(……今脅かしたらすごい勢いで転がり落ちていきそうだな)

 

ふと思い浮かんだ考えは、オドリドリの羽根ビンタで止められた。流石にしませんよ、という意味も込めて喉元を撫でてやる。

 

 

 

階段を上がって少し廊下を進んだ右手、1週間前まで空き部屋だったその場所が現在のヤシオの部屋である。

ちなみにヤシオの部屋の真下がダイニングキッチンに当たる。

 

中はまだ仮宿といった様子で、以前アオキが使っていた机や本棚などはあるが、そこにヤシオの痕跡はほぼ無く、送られてきたスーツケースが彼の棚代わりになっている。

敷かれた布団を踏まないように、彼の部屋に入って、天井を見上げた。

 

音がするのは天井裏だと言っていたが、今は特に音はしない。天井を指差しながら振り返ってヤシオへ視線を向けると、壁際の本棚を背にした彼はブンブンと首を縦に振った。

 

正直よくわからないが、オドリドリは天井のある一点をじっと見つめ続けているので何か感じるものはあるのかもしれない。

 

「ヤシオ」

「ウォァア!なに!?」

「(名前呼ばれただけでビビってる……)……押し入れから天井裏に繋がっていたと思うので見てきます」

「え?マジ?心臓剛毛じゃん……」

 

ビビり倒しているヤシオを背に、押し入れを開けてその上段に登った。狭っ苦しいその空間を広げるように、ベニヤ板の天井を押し上げる。

天井の戸をずらせば、先にオドリドリが天井裏の中へ入ってくれた。懐中電灯を手に、アオキも天井裏へ頭を突っ込む。

当然ながら中は真っ暗で、家にとりあえず置いてあるだけの懐中電灯の明かりではごく一点をぼんやりとしか照らせない。

 

「オドリドリ、何かいますか」

 

そう問いかけるが、決して夜目が効くわけではないオドリドリだ。その目に見えているものはアオキとさして変わらないようだった。

少し奥の方へ入ってくれたが、積もった埃で羽根が黒く汚れて嫌そうだ。無理して入らなくて良いと声をかける。

 

「なんかいんの!?!?」

「今のところいないです」

「いねえ方が怖えけど!?!?」

「暗くてよく見えないので……」

 

一旦、天井裏から頭を引っ込めて、電灯の明かりが眩しい部屋へ視線を移す。

 

「特に音もしませんし、今のところは…………」

 

何もいないようですよ、と言いかけたアオキの視線はヤシオのほうを向いて止まった。

 

正確には、ヤシオの後ろ。

彼が背にしている本棚のある一点。

それでアオキもまたようやく理解した。

 

「なに!?今のところは……なに!?急に止まって長考に入るのやめてくんない!!泣くぞ!!!」

 

ビクビクしながらこちらを見るヤシオ。

彼の隣にいるプクリンとイエッサンはとっくにそのこと(・・・・)に気が付いていて、気がついた上で放っていることが2匹のどこか揶揄うような表情から感じられた。

思えば、アオキの部屋に来た時からこの2匹は変な顔をしていたのだ。

 

今思えば、ただ単に笑うのを堪えていたのだろう。

 

それに気がついて、アオキは心の中で思った。

 

……いいですか、ヤシオ。

姉貴分っていうのはそういう生き物なんです。

それが自分にとって面白ければ、弟が泣こうが喚こうが構いやしないんです。

抵抗?……無意味ですから諦めましょうね。

 

「……ヤシオ」

「なに!?なんなの!?こわいこわいこわいって!!!!」

「泣かないで聞いてください」

「なになになになに!?!?」

「……ゆっくりと、落ち着いて、後ろを振り向いてください」

「なんれえ!!!!にゃんでそんな怖いこというのッ!!!!」

「泣かない泣かない」

「ウッ………ウゥ………」

 

半泣きになりながら、喉を引き攣らせて深呼吸をしたヤシオは右手で左胸を、そしてなぜか左手で股間を押さえながらゆっくりと後ろを振り返った。

 

前述したが、この部屋は元々空き部屋であり、使わなくなった机や本棚がある物置のような場所だった。

 

ヤシオの後ろには空の本棚がある。

そして彼が振り返ったその先、彼の顔の目の前、空のはずの本棚の中にそのナニカはいた。

 

真っ黒でふわふわとした掌くらいのサイズのナニカが2つ。

それがヤシオの視界に飛び込んできた。

 

目の前にいるナニカに気がついてヤシオが固まる。

そのふたつのナニカはヤシオの視線に気がつくと、それぞれ大きな口をカパッとひらいて、鳴いた。

 

「「ア゛!!!」」

「オ゛ォア゛アア゛ァア゛ァア゛ッッ!!!!!」

 

絶叫しながらひっくり返って倒れるヤシオを、イエッサンが笑いながらサイコパワーで抱き止めた。

 

 



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眠りにつくまで日曜日【後編】

 

「埃まみれで真っ黒になっていますが、あれはワッカネズミというポケモンです」

 

ヤシオは呆然とした顔のまま、ぺたりと床に座り込んでいた。

完全に思考が停止している弟分を見てプクリンが彼の頭をよしよしと撫でている。

アオキもまた彼のそばに膝をついて「大丈夫ですか」とその背中に手を置いた。

 

ヤシオを驚かせた真っ黒なワッカネズミはそのまますぐに逃げ出そうとしたのだが、イエッサンのサイコパワーで宙に浮かされて捕まっている。

宙で足をバタバタしながら浮いている様は落ち着いて見るとむしろ可愛らしいのだが、今のヤシオはとにかく思考が停止し切っていた。

 

「………やばい、心臓超痛え……」

 

ようやく意識を取り戻したヤシオの最初の言葉はそれだった。両手で左胸を押さえて息を深く吐く。

 

「え?なに、え?ポケモン……?」

「はい、餌か巣の材料を探して入り込んだのでしょう。古い家ですから」

「2匹いる……」

「2匹で1つのポケモンです」

「え?……ああ、ダグトリオみたいな……」

 

ヤシオは立ち上がると、宙に浮かされたままのワッカネズミを恐々と見た。ワッカネズミはそれぞれヤシオを見ると大口を開けて「「ア゛!」」と鳴く。

正体がポケモンだとわかったからか、ヤシオはもうビビることなく「声デカ……」と呟いた。アオキは無言でブーメランだと思う。

 

「オレが聞いてた音ってこいつらの足音とかってこと?」

「はい。さっきオドリドリが天井裏でクッキー缶を見つけてくれました。金属音というのはそれだと思います。キッチンから盗んだんでしょう」

 

埃で少し汚れたオドリドリが羽を大きく掲げてドヤッ!とする。

それを見たヤシオが「先輩、かわい〜」と言うと、プクリンが(浮気……!)とばかりにヤシオの脚を小突いた。

片脚をカクつかせたヤシオはプクリンへ言い返す。

 

「でもプクリンはさあ、おばけの正体がポケモンってわかっててオレのことビビらせたじゃん……」

「ププププ!プククー!」

「何が?」

「プクプ!」

「……まぁたそういうこと言う……」

 

ヤシオはプクリンの頭を撫でてから、ヤシオはアオキへ顔を向けた。

 

「とりあえずこの子ら外に逃してくるわ」

「はい、自分は天井裏の戸を戻しておくので」

「ん、ありがと」

 

イエッサンとプクリンと共にヤシオは階段を降りた。

そのまま玄関からワッカネズミとやらを放り出しても良いのだが、埃まみれなのが気になって一旦洗面所でそのポケモンを洗ってやることにした。

洗台に栓をしてから、ぬるま湯を出してそこにポケモン用のシャンプーを垂らしてから軽く泡立てる。

 

「イエッサン、いいよ」

「きゅ!」

 

サイコパワーで浮かせていたワッカネズミを洗台の中に移動させると、能力を解除した。

 

「ア゛!!」

「ア゛!!」

「夜だから静かにしろよな。洗ったら外に逃してやるから」

 

自分がおばけにビビって散々大声を上げたことを棚に上げたヤシオは2匹を泡のお湯で撫でるように埃を拭ってやる。

少し洗ってやるだけでお湯が黒く変色していく。

 

「汚れやば過ぎじゃん」

「ア゛!」

「ア゛!」

「お前らほんとは何色?あ、白いな」

「ア゛」

「ア゛」

「お湯熱くねえ?気持ちいい?」

「ア゛〜」

「ア゛〜」

「何言ってんのか全然わかんねえ」

 

思っていたより大人しく洗われるワッカネズミをウォッシュしてから、自分のバスタオルで水気を拭ってやる。

ある程度乾いてからその2匹の首根っこを掴んで、玄関の外へ出て、地面に置く。

それから視線を合わせるようにしゃがみ込んで2匹へ言った。

 

「じゃあな、ちゃんと野生で暮らせよ」

「ア゛!?」

「ア゛!?」

「声でか……そんなんじゃ天敵にすぐ見つかっちまうぞ。って、コラコラ家に入ろうとすんな」

「ア゛?」

「ア゛?」

「いやアオキさんち居心地いいのはわかるけどよ」

「ア゛」

「ア゛」

「だからここはアオキさんち……っていうか、アオキさんのテリトリー!領土!縄張り!ってこと!ほら、ここは怖い鳥ポケモンとかいっぱいいるから、別んとこ行ったほうがいいって」

「ア゛ー」

「ア゛ー」

「クソ全然逃げねえ……ああもう、ほら!ここにいるとお前らなんかすぐ喰われちまうぞ!ガオー!」

「……」

「……」

「急な無反応やめろ」

 

ヤシオはガクリと肩を落とすと溜息をついた。

それから「……まあいいや、じゃあな」と呟いてワッカネズミに背を向けると、そのままさっさと家の中に戻る。

これ以上構うと情が湧く気がしたからだ。

 

玄関に入って靴を脱ぐ。

すると、その時ちょうど上の階から降りてきたアオキと鉢合わせした。

 

「あいつら外に逃してきたわ」

「…………そうですか」

「ん」

「ひとつだけ聞いてもいいですか」

「なんだよ」

「あなたの足に引っ付いてるのはなんですか?」

「……ウォワ!」

 

外に逃したはずのワッカネズミに足にしがみついていた。

びっくりしたヤシオが見下ろすと2匹は大口を開けて「「ア゛」」と口を揃えて言った。

 

「なんだよお前ら。そんなにアオキさんちがいいのかよ……」

「いえ、多分ですが自分の家がというよりは……」

「ア゛」

「ア゛」

「マジでお前らが何考えてんのかわかんねえ……」

 

しゃがみ込んで2匹の頭を指でつつくヤシオ。

それを尻目にアオキはリビングに一度引っ込んでから、あまり普段使っていない棚を軽く漁って、それからまた玄関に戻った。

 

「ヤシオ」

「ん、なんだよ、アオキさん」

 

アオキは空のモンスターボールをヤシオに渡した。

ヤシオはそれをキョトンとした顔で見つめる。

 

「……え、なにこれ」

「懐いてるようなので……」

「懐いてはないだろ別に」

「まあ、それは別に良くてですね、」

「いいのかよ、適当だな」

「追い出すにも抵抗するようですから……それなら一旦きちんと捕まえて、あなたの保護下に入れたほうがいいかと」

「オレ、こいつらのこと何も知らないんだけど」

「何事も初めはそういうもんです」

「まあ、そうだけどさあ」

 

渋々といった顔でボールを受け取ったヤシオは、それをワッカネズミに近づけてから問いかける。

 

「入る?」

「「ア゛!」」

「声でけえし、何言いたいのかわかんねえし……って、勝手に入ってる……」

 

ヤシオはどうしようとばかりにアオキを見上げる。

しかしアオキは静かに首を横に振った。

どうしようもこうしようも、人間の意思に関係なくポケモン側から懐いてきた時は割ともうどうしようもない。

人間側に拒否権がないという意味で。

 

「……明日からバトルを、と昼に言いましたが、少し延期にしますか。そのポケモンと交流するのが優先かと」

「交流ねえ……」

「捕まえて手持ちにするにしろ逃してやるにしろ、相互の対話と納得は必要ですから」

「確かにな。ま、とりあえず明日考えるわ。今日はもうねみいし」

 

ボールを手にヤシオは立ち上がって、それからひとつ欠伸をした。

それから階段に足をかけて、何かを思い出したように立ち止まって肩口で振り返る。

 

「あ、そうだ、アオキさん」

「はい」

「アオキさんの部屋のベッドの下にいた子ってアンタの手持ち?」

「……はあ、どの子のことでしょうか」

「どのって言われても、ベッドの下にいた黒くて毛の長い子だよ。見たことねえ子だったし、ベッドから出てる毛しか見えなかったから、名前とかはわかんねえけど」

 

……先んじて言っておきたいのだが、アオキの手持ちでヤシオと顔を合わせていないポケモンはいない。初対面の時に全員と顔を合わせている。

 

それに、例えヤシオの見間違えであったとしても、毛の長いポケモンなどアオキの手持ちにはいなかった。

 

……果たして彼は一体なんの話をしているのだろう。

 

「まあ人見知りとかなら無理させなくていいけどさ、そのうち挨拶させろよ」

「……え……あの……ええ……」

「んじゃ、おやすみ」

 

欠伸を手で隠しつつ階段を上がっていくヤシオの背を、アオキは困惑を隠せないまま見送る。

 

そんなアオキを階段の途中に立って見下ろしていたイエッサンが苦笑……というか「あーあ」となんだか可哀想なものを見る目をして、静かに首を横に振った。

それから、ヤシオに続いて2階へ上がっていってしまう。

 

「…………え?」

 

アオキだけがひとり、取り残された。

 






ププププ!(ほんとに!)プククー!(いるのー!)
「何が?」
プクプ!(おばけ!)
「……まぁたそういうこと言う……」


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蛇足を解決する妖精


なお、タイプ相性のことは考えないこととする




 

「……なんか、いるんですかね」

 

ヤシオが去った後、玄関に立ち尽くしたままのアオキは思わずリビングのその先、自室のあるほうへ目を向ける。

そこまで気にはしないけれど、そんな意味深なことを言われると流石に部屋に戻りづらい。

 

そんなアオキをオドリドリが応援してくれる。かわいい。

その喉を撫でつつ「今日自分の部屋で一緒に寝てくれませんか?」と言ったら、そのふわふわの羽根を顎元に当てて「やだ」の顔をされた。

そっか……やだ、か……怖いですもんね……。

 

とはいえ、明日も仕事なのだ。よくわからないものがベッド下にいようがいなかろうが、明日のためにも寝ないといけない。

アオキはずりずりと足裏を引き摺るような歩き方でリビングへ行くと、籠の中で寝ている何も知らないネッコアラを抱えて自室へ向かった。一蓮托生になってもらう。

 

「お」

 

アオキの自室の前には何故かヤシオのプクリンがいた。アオキに気がつくとニコ!と笑う。

 

「……なにかご用ですか」

「ププ」

(……わからん)

 

アオキが自室の扉を開けると、とたとたとプクリンが先に入った。何の用だろうかと思いながら腕の中のネッコアラを撫でつつ、プクリンを見る。

 

すると彼女は唐突に口を大きく開けて鳴き声を上げた。

 

それは、それを聞いたアオキにそういった分野への知識が少なかったからかもしれないが、そう、感覚としては、鳴き声というよりかは……

 

(……歌?いや、歌というより、これは、もっと……)

 

呪文みたいだ、とそう思ったその瞬間。

 

部屋の中の空気がヒビ割れたような、あるいは何かを無理やり捻じ曲げたかのようなラップ音が一度だけ響いた。

 

突然の音に思わず肩が跳ねる。

……それきり、無音。

 

今のは何だったのか、とプクリンの背を見つめる。

すると彼女はいつも通りの笑顔を浮かべたままアオキの方を振り返った。

それからアオキに向かって「ドヤ!」と胸を張る。……わからん。

 

「ププリ!」

「え、はい、ありがとうございました……?」

「プ!」

「…………?」

「プ!!」

 

もう一度「ドヤッ!」とされる。

それから向けられた「なんか私に言うことあるわよね?」という視線に、アオキも思わず長考。

それから、もしかしたらこれだろうか、と思って口を開く。

 

「……えーっと、あの、かわいいです、とても」

「プリ!」

 

プクリンは満足げな顔をしてうなづいた。

……先ほどヤシオが、クッキー缶を見つけてドヤッとしたオドリドリを「かわいい」と褒めたのを気にしていたようだ。

 

それならば、褒め言葉は自分ではなくヤシオ本人に言ってもらった方がいいのではないかと思ったが、まあ、誰でもいいから自尊心を満足させたかったのだろう。

代用品扱いされたアオキだったが、別に不快ではなかった。ポケモンの可愛らしいジェラシーに巻き込まれただけだ。稀によくある。以前コルサの手持ちポケモンの大乱闘に巻き込まれた時に比べれば……いや、この話はやめておこう。

 

それはさておき、アオキの部屋にいたナニカについては結局よくわからないが、プクリンが終わらせてくれたようだ。

理屈はよくわからないが、きっとそういうものなのだろう。

 

「プクリン、ありがとうございました」

 

改めて礼を口にすると、プクリンは片手を軽く上げたままとたとたと歩いてアオキの部屋を出て行った。

 

結論としてはただそれだけ。

それ以上のことは知らないし、知ろうとも思わない。

 

その後アオキはよくわからないながらネッコアラを抱いて寝たし、朝までぐっすりだった。

 

 

 

 

それからこれは余談なのだけれど、翌日ヤシオは昨晩自身がアオキに言ったことをすっかり覚えていなかった。

 

起きてきたアオキを見てもあの話題を掘り返すことはなかったし、それとなく「昨日寝る前に話したこと覚えてますか?」と聞いてたらこんな回答が返ってきた。

 

「覚えてるよ。ワッカネズミ優先だから1日1バトルは延期って話だろ」

「…………はい」

 

ちらりとイエッサンを見たが、彼女はポーカーフェイスのままアオキに微笑みかけるだけだった。

まあ、世の中知らなくていいこともあると言うことだろう。

 

特にそれ以上のことはなく、アオキもリーグへ出社する。

その日は職員出入り口で偶然上司であるオモダカと顔を合わせた。内心で(ワ…………)と思った。

 

「おや、アオキ、おはようございます」

「……おはようございます……」

 

「今日は良い天気ですね」などと声をかけてくるオモダカに適当に応対しつつ、アオキは彼女を、正確には彼女の長く豊かな髪を見てふと思った。

 

ヤシオが見たという「黒くて長い毛」とは、人の毛髪だったのではないか、と。

……なんとなく今そう思っただけで、別に確信があるわけではないのだが。

 

ふと、記憶が連鎖して思い返される。

ヤシオが言っていた、屋根裏から聞こえたという音の話。

 

(「足音いっぱいみたいな音とか、あと、なんかガリガリってひっかくみたいな音とか、金属を引きずるみたいな音とか、」)

 

(「呻き声(・・・)とか……」)

 

足音やひっかき音や金属の音はワッカネズミが出したものと考えて良いだろう。

 

…………呻き声、とは?

 

あのワッカネズミは特徴的で大きな鳴き声を上げていた。万が一にでも呻き声とは聞き間違えないだろう。

 

昨日プクリンがどうにかしたのはアオキの自室にいたナニカだ。それが屋根裏の呻き声と同一のものならいい。

 

でも、そうじゃなかったら?

 

(……まだ、何かいるんだろうか)

 

……まあ、古い家だしな。

アオキは今の自宅が立地の割にかなり安く借りられたことを思い出して、……それだけ。

害が発生するようならまた考えるが、現状は特に何かをする気もなかった。ヤシオについても近くにプクリンとイエッサンがいるのだから大丈夫だろう。

 

「アオキ?聞いていますか?」

「……はい、聞いています……」

 

まったく聞いていなかったが反射で返事をした。テメェ嘘つけよ……という上司の目線から逃げつつ、営業部の自身のデスクへ向かう。

 

さて、金曜日にどこまで仕事を終わらせていたのだったか。そんなことを思い返しながら、アオキは溜息をひとつ吐いた。

 






ヤシオはおばけじゃないものを「おばけだ!」ってビビるのに、マジもんだけは何故かさらっとスルーするタイプ。
アオキさんはそういう系のものは何も見えないし聞こえないし感じないし気にしないタイプ……というイメージです。


また、活動報告でも書いたんですが、ちょっとエッチな話(単発短編)が書かなくてはいけない(使命感)ので、こちらの更新ペースがゆっくりになるかもしれません。エッチな話は書くのにパワーが必要だからね。
というか今までほぼ毎日更新だったのがおかしいだろ!こちとら社会人だぞ!


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ねずみばくおんぱ

 

「ヨーグルトが一番いいっぽいんだよな」

「……はあ」

「ほら、食いつきが良い」

 

ダイニングテーブルの上に置いた浅い皿に大きなスプーンで5杯ほどヨーグルトをよそってやると、ワッカネズミはそこに頭を突っ込んで食べ始めた。

あっという間に粗方食べ終えると皿まで舐めるほどだ、確かに食いつきが良い。

 

皿まで舐めているワッカネズミを見たヤシオは「ハッ、浅ましいネズミ共め……」と悪役みたいな台詞回しで言った。

急な悪役ムーヴどうした?と思っていたら、それから「いっぱい食えよ……」とヨーグルトをさらに数杯よそってやっている。ツンデレのツン発言だっただけのようだ。

 

「思い返せば作ってた飯がなんか減ってるとか、そういうことはちょこちょこあったんだよな」

「そうでしたか、自分は気がつかなかったです」

「アオキさんかなって思って放ってたけど」

「……え?」

 

15歳の少年から、摘み食いするような大人だと思われていたらしい。……え?

 

 

勝手に住み着いていたワッカネズミを発見したその翌日のこと。

アオキが仕事を終えて帰宅し、夕食を終えた後に──今日の夕飯はグリルチキンだった。チキンを漬けるのにヨーグルトを使ったとかなんとか──新しい手持ちの様子を聞いた結果が冒頭だ。

 

「そうだ、ヤシオ」

「ん」

「昼飯の弁当、作ってもらってありがとうございました。うまかったです」

「ああ、別にいいよ、オレの分のついでだし」

「だとしても助、」

「ア!!」

「ア!!」

 

ワッカネズミのクソデカボイスにアオキの米粒ボイスが掻き消された。それにヤシオがちょっと笑って、それからワッカネズミたちに言う。

 

「うるせえって。つかお前らのおかわりはもう無しな。太んぞ」

「ア!?」

「ア!?」

「……なんか、声変わりました?もっとガラガラ声だったような」

「埃まみれのとこにいたから喉悪くしてたっぽい。ちょっと治ってきたよな」

「アー!!!」

「アー!!!」

「あんまデカい声出すなって。安静にしろ」

「ア……」

「ア……」

「素直……」

 

アオキは「手持ちに入れるのか?」を聞くつもりだったがやめた。少なくとも逃す・逃がされると言う選択肢は双方になさそうだったからだ。

 

「……ワッカネズミはバトルに出すつもりですか?」

「本人たちには割とその気があるっぽいんだよな」

 

テーブルから降りていったワッカネズミは2匹揃ってリビングにいるウォーグルに歯を剥き出しにして突っ込んで行っている。

が、気だるげなウォーグルの羽根の羽ばたきでかるーく吹き飛ばされていた。

それを見たヤシオが苦笑した顔でアオキを見た。

 

「……あー、とはいえこいつらがまともにバトルできるかどうかはわかんねえけどな」

「……育成もトレーナーの仕事ですから」

「ま、確かにな」

 

ヤシオは吹き飛ばされてリビングの床をコロコロ転がるワッカネズミの首根っこを掴んで回収すると、それぞれをスウェットの左右のポケットに突っ込んだ。そこから頭だけひょこりと顔を出すワッカネズミ。

 

ちょっと可愛いなと思っていたら、近づいてきたプクリンがヤシオのポケットからワッカネズミの片割れを引き摺り出して突然走り出した。

 

「あ!こらプクリン!いじめんな!」

「アアー!」

 

引き離されたもう片割れがポケットの中から悲痛な鳴き声を上げる。捕まえたワッカネズミを手に、走りながらその手をブンブンと振り回すプクリン。それを追いかけるヤシオ。

 

そんな彼らを見て溜息をついたイエッサンがプクリンの足元にサイコキネシスをかました。

途端に「プ!」とすっ転んでワッカネズミを手放したプクリン。

イエッサンはその勢いで床に転がり落ちたワッカネズミの片割れを拾い上げると、その頭をよしよしと撫でた。

 

……まあ、新しい手持ちと既存の手持ちのポケモン関係もなかなか大変だ。トレーナーが上手く取り持ってやらないといけない。

 

「家の中で対話をするより、ある程度外で発散させた方がいいかもしれませんね」

「あー、なるほど、それもそーかもな」

 

プクリンを抱き上げて……というより、両手で引っ捕まえたヤシオがうなづいた。プクリンはその短い手足をバタバタして暴れているが、その度にヤシオに抱え直されて逃げられないでいる。

 

「明日から始めてみましょうか」

「1日1バトルを?トレーナーとのバトルだろ?今の状況で?」

「ポケモンは割と実力主義的なところがあるので、手っ取り早いかと」

「アンタも意外と脳筋的なところあるよな……」

「わかりやすいでしょう。プクリンは新人に自分の実力を見せられるし、新人はそこでやる気を見せれば良い」

 

アオキはヤシオに捕まっているプクリンへ視線を向けた。その大きな瞳が合う。

 

「どうであれ、今はあなたがヤシオのエースなんでしょう?」

「プ!」

 

プクリンはその小さな手をギュッと握って拳を作って自信満々に見せた。

ヤシオはその頭にコツンと拳を落として「ワッカネズミいじめたことについてはオレまだ怒ってるからな?」と叱る。

 

「今日はプクリン1人だけで押し入れで寝ろよ」

「プク」

「やだじゃない」

「プクー!」

「やだじゃない!」

「リビングで喧嘩しないでください」

 

こうして見ると本当に姉弟みたいだな、と思った。

 

アオキはふと自分の幼少期に姉とした喧嘩のことを思い出す。

脳裏に想起される、泣きながらこっちへ向かって「あんたなんかもうしらない!」と喚いた幼い頃の姉の姿。

 

あの時、姉貴はなんで俺を殴ったんだったっけか。

……どうして、泣いていたんだったか。

 

 

 

 

 

さて、話は翌日の夜まで飛ぶ。

 

夕食を終えたアオキとヤシオはダイニングテーブルで向き合っていた。ポケモンたちはみなリビングで過ごしていて、その楽しそうな声が2人がいるキッチンまで届く。

 

「どうでしたか?」

「バトル?ワッカネズミ?」

「……では、バトルのほうからで」

 

1日1回ポケモン勝負をして、そして自分がどんな勝負をしたのかをアオキに話すこと。

それがアオキからヤシオへの最初の指導だった。

 

どうぞ、とばかりにアオキが目で示すと、ヤシオは少し考えるように視線を上に向けながらぽつぽつと話し始めた。

 

「んんえっと……街を出て、とりあえずぶらっとしてたら、トレーナーっぽいお兄さんがいたから、声かけて勝負さしてもらってえ……」

「はい」

「待って、メモ帳見ていい?」

「どうぞ」

 

ヤシオはポケットからメモ帳を取り出すと、走り書きで書かれたそれをざっと眺めてから、再度アオキを見て口を開いた。

 

「ん…………うん。で、相手が手持ち1匹だって言うから、オレもプクリンだけで行った。んで、お兄さんが出したのがワナイダーって子で、オレその子見んの初めてだったけど、見た目的に多分虫タイプ、ワンチャン草複合……?って思って、最初は様子見の意味も込めて冷凍ビーム打った」

「はい」

「そしたら一瞬でワッと張った糸で塞がれた」

「スレッドトラップですね。それでどうしましたか?」

「冷凍ビームを地面に打ってあっちの足場を悪くした。動きづらくさせたのと、妙にこっちに近づきたがってたから、それ対策」

「はい」

「あと糸を飛ばして拘束しようとしてきたりしたから、遠いとこからマジカルシャインで削り切ったって感じ」

 

おしまい、とばかりにメモを閉じてこちらの顔を見るヤシオにアオキは小さくうなづいた。

 

「まずはお疲れ様でした」

「うす」

「聞いている限り、タイプ相性のわからない相手にも考えて立ち回れていますのでそれは良いかと」

「ん」

「遠距離攻撃というプクリンの得意状況を保ち続けられていたというのも良いです」

「……ダメなところは?」

「特には無いです」

「え、ねえの」

「はい、聞いている限り良くできていたと思います。というかバトルの内容はそこまで心配していません。あなたならそうそう下手は打たないでしょう」

「そ、そーお……」

 

アオキがそう評価すると、ヤシオは照れたように視線を揺らしてから小さくうなづいた。アオキはヤシオのメモ帳へ一度目を落としてから口を開く。

 

「むしろあなたの中で反省点や疑問点があるのなら話してください。むしろそれがメインなので」

「あー、えーっと、じゃあ、勝負の後にワナイダーが虫タイプってのをトレーナーのお兄さんから聞いたんだけど、」

「はい」

「だとすると、オレの手持ちだと決め手がねえなって」

「……なるほど。弱点をつかれるわけではないが、安定した立ち回りができない、ということですか」

「ん、そうなるな」

 

今のプクリンの技構成では弱点はつけないし、イエッサンはむしろタイプ相性が悪い。

テーブルの上で自身の両手の指を絡ませたヤシオは、アオキの言葉にうなづいてから見つめる。その視線を受けてアオキは口を開いた。

 

「まあ、当たり前ですが、幅広いタイプに有利を取れるよう対策はしますね。とはいえ、等倍相手ならば戦術や立ち回りで対応は可能です。今日のヤシオがそうだったように」

「ああ、うん、まあ、それはそうだよな」

「なので、むしろ優先的に考えるべきは弱点タイプと半減タイプです。例えば、自分の手持ちの場合はノーマルタイプが中心なだけあって格闘に弱く、鋼と岩相手には威力が弱まります」

 

相槌を打つヤシオに、アオキは言葉を続ける。

 

「岩対策として草技、鋼対策として格闘や地面技は確保してますし、格闘相手にはムクホークが、……まあ、結果論的にではありますが、いますね」

「まあ、そりゃそうだよな……そういうことをジムリーダーのアンタが考えてないわけねえよな」

「あなたのプクリンは幅広く刺さりやすい氷技を持っている分、誰相手でも立ち回りやすいのがいいと思っています」

「うん」

「反面、苦手な鋼タイプへの対策が取れていないのが弱点かと」

「やっぱ炎技あった方がいいよな……そしたら今日も有利取れたわけだし」

「そうですね。まあ、とはいえ技構成にも限界もあるので、いろいろな障害をすっ飛ばした自分個人の意見としては、ぶっちゃけ仲間を増やした方がいいとは思います。これは簡単な話ではありませんが」

「あー、新しい仲間……。うー、育成知識、新しい子の生活環境整備、育成、既存手持ちとの関係……」

 

テーブルの上に突っ伏して呪文のように呟くヤシオにアオキも肯定するようにうなづく。

 

「その通り、容易ではありません。出会いや相性もありますし」

「だよなあ。現状できることっつーと、プクリンに炎技覚えさすことかな……いや、そうなるとプクリンへの負担が、んんんん……火炎放射大文字問題……」

 

頭を抱えるヤシオにアオキは小さく息を吐いてから「たくさん考えてください」と少しだけ口元を緩めて言った。

 

「既存のチームで新しい立ち回りを考えるのか、負担を増やしてでも新しい仲間を入れるのか、その判断もトレーナーの仕事です」

「はあい」

 

テーブルに片頬をつけていたヤシオは上体を起こすと、すとんと肩を落としてそう返事をした。

 

「困ったらいつでも相談してください」

「…………ん」

 

アオキは再度テーブルに突っ伏したヤシオを静かに眺める。そうしていると、ヤシオの服や髪を使ってワッカネズミが彼の頭頂部までクライミングしてきた。2匹コンビと目が合う。

 

「ワッカネズミはどうでしたか?」

 

アオキはヤシオに向けてそう問いかけたのだが、名前を呼ばれたと思ったのか、アピールするようにワッカネズミたちが彼の頭の上でぴょこぴょこと跳ね始めた。

その度に突っ伏していたヤシオの額がテーブルにゴツンゴツンとぶつけられる。

 

「痛、痛。ねえ、オレの頭の上でジャンプすんのやめてくんない……」

 

そう言いながらヤシオが顔を上げると、頭から振り落とされないようにワッカネズミたちが彼の髪を掴む。それはそれでまた痛かったらしく、ヤシオが呻いた。ちょっと涙目になりながらヤシオはアオキからの問いかけに答える。

 

「あー、それで、ワッカネズミなんだけどさ、」

「はい」

「なんか、バトル終わってから3匹をそのへんに放ってたら勝手に交流してたらしくて、なんか仲良くなったみたいなんだわ」

「それはよかったですね」

「それで、ハイパーボイスをさ、プクリンがワッカネズミに教えてやったらしくて、」

「仲良くなりましたね」

「それはいんだけどさ、オレが弁当食ってて、プクリンもイエッサンも目を離してた隙に、ワッカネズミがハイパーボイスで近くにいた野生のポケモンの鼓膜を片っ端から破壊してて、」

「お」

「慌てて野生のポケモン抱えてポケモンセンターに連れてって事情説明したら、お姉さんに「手持ちの子の行動はちゃんと制御できるようになってくださいね」って怒られた……」

「ああ……」

「オレもめっちゃ叱ったけど、なんか、こいつらに効いてる気がしないんだよな……」

 

ヤシオの頭からテーブルに降りてきたワッカネズミは、ヤシオがテーブルの上になにげなく揃えて置いていた両掌の上に乗ると2匹ぎゅっとくっついて寝転がった。

お前たちの話をしているというのにこの態度。

むしろ指の位置が悪くて寝辛いのか、ヤシオの指を好き勝手に引っ張ったり曲げたりして良い感じの寝やすい角度を模索している。

 

それを見下ろして眺めていたヤシオは、ふと顔を上げてアオキへ問いかけた。

 

「オレ、舐められてんのかな?」

「……懐いてはいるようですから……単にそういう性格なんじゃないですか?」

「だとしてもふてぶてしいな……」

 

手持ちとの関係や距離感に悩むのもトレーナーの仕事なので頑張ってほしい。アオキはそう思った。

 



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ヘルタースケルターナイタークライマー【前編】


思ったより長くなったので、前後編に分けました。
少しずつ、罅を入れていきます。




 

「アオキさん、金曜飲みに行かん?」

「行かんです……」

「近所に良さげな店見つけてん。ハッサクさんも来れる言うとったから18時半からでええ?」

「無視……」

 

昼休憩にリーグのカフェスペースでヤシオが作ってくれたクソデカタッパー弁当を食べていた時、アオキはチリに絡まれた。

飲みに誘われただけなのだが、アオキの心情としては絡まれた、というのが一番適切だった。

 

チリは椅子を引っ張ってくるとアオキのそばに置いてそこに足を組んで腰掛ける。それから「ええもん食べとるやん」とさらに絡んできた。

 

「アオキさん、作ったん?」

「(弟子が)作りました」

「ほーん。で、飲み行かん?」

「行かんです」

「かーらーのー?」

「行かんです」

 

そんなやりとりをしていると近くを通りがかった営業部の若手がチリに向かって元気良く挙手をした。

 

「はい!はいはいはい!チリさん!俺空いてます!なんなら営業時間外は全部チリさんのために空けてまあす!」

「ほんまー?でもごめんな、チリちゃん可愛い子としか飲まれへんねん。自分はちょっとイケメン過ぎるなあ」

「エーン!アオキさんくらい可愛くなってから出直します!」

「おん、そうしてや」

「……え?なに?怖…………」

 

腕で涙を拭いながら走り去っていく青年の背を見送る。

なんか怖い会話に巻き込まれた。え?本当に怖い。可愛くない中年のオッサンを茶番に巻き込まないでほしい。

 

「……さっきの彼ですが、」

「え?おん?」

「営業部の若手エースで大学時代はゴリゴリの運動部でしたし今でも積極的に飲み会の幹事をやってくれるような方なのですが、酒にめっぽう弱く、カルーアミルクのような甘いカクテルしか飲めない上にグラス1/3も飲んだらその場で丸くなって寝てしまうような人です」

「……かわええとこあるやんけ」

 

チリは若手が去っていった方をチラリと見てから、再度アオキへ視線を向ける。

どこかこちらを揶揄おうとしているような顔つきにアオキは平穏な昼休みが崩れることを予感した。

 

「アオキさん、恋人と同棲始めたって噂なってんで」

「…………は?」

「お、その反応ってことはガセやったん?」

「ガセもガセです……大体なんでそんな話が出てきたのかもわからんのですが……」

 

するとチリは人差し指か順に一本ずつ指を立てながら答えた。

 

「ひとつ、スーツもシャツも鞄も靴まで、最近急に身綺麗になった。ふたつ、前まで毎日ぼんやりした顔で外に食べに行ってたのに近頃は持ってきたお弁当美味しそうに食べとる。みっつ、定時退社しとる。大体この3つやな」

「シャツがだいぶよれていた(と弟子に指摘された)のでちょうど良いと思って全部新調しました。弁当は(弟子の)手作りです。定時は帰宅時間です。以上です」

「ダウト」

 

チリはニヤニヤと笑う。

アオキは気にせず弁当の中に入っていたハンバーグを箸で切り割った。すると、冷めて固まってはいたけれど中にチーズが入っているのが見えて、ふと手が止まる。

……毎朝、ヤシオの手作りなのだ。ついでだと言って聞かないけれど、本当にわざわざ、自分などのために。だからこそ、惑う。

 

……時折、確認したくなる親切の理由。それからその奥にある本質だとか。

浮かんだ疑問をハンバーグと共に飲み込む。

踏み込んでいいラインをずっと考えている。今も考え続けている。

 

「いや、ダウトっちゅうか、嘘はついとらんけどほんとのことも言っとらんやろ」

「……否定はしません」

「迷惑かもしれんけど、同僚として心配しとるだけや。ハッサクさんもやで」

「…………迷惑とも思ってませんよ」

 

アオキは、ヤシオを保護し、導く大人が自分ではなくてもいいのだと知っている。

 

自分に白羽の矢が立ったのは全くの偶然であり、数少ない選択肢から他者によって最善だと信じられて選ばれた結果であっただけで、その選択の幅さえ広げられれば自分以上の存在などきっといくらでもいるのだ。

 

それは人生経験の豊富な教職者であるハッサクかもしれないし、誰とでもフラットに向き合えるチリかもしれないし、未来と他者の可能性を心から信じているオモダカなのかもしれない。

 

……だからきっと自分である必要はなかったし、そうであるべきなのだ。

なればこそ、いつか自分が力不足になった時に、自分以外にヤシオが助けを求められるようにしておくべきなのだろう。

 

アオキは小さく息を吐いた。それを見てチリは笑う。

 

「ま、とりあえず金曜18時半やから、よろしゅうな」

 

 

 

 

 

「というわけで、金曜は同僚と飲みに行かないといけなくなったので晩飯は大丈夫です」

「ふーん、楽しそう」

「家にいる方が楽しいです……」

「出不精」

「今デブって」

「言ってねえよ」

 

ダイニングテーブルの椅子に腰掛けたアオキは皿を洗っているヤシオの背中を眺めながら息をついた。

食器が当たったり擦れたりする音や水が流れていく音がする。生活の音が心地いい。

 

「酒ってうまいの?」

「人によりますが、自分はあまり好きではないです」

「なんで?味?」

「水分で腹が膨れて飯が入らなくなるので……」

「ああ、そう……まあ、アンタんちの冷蔵庫って酒ねえもんな」

「前はいくらかありましたよ。あなたが来るので処分しましたが」

「そうなの?」

「子供が手の届く範囲に酒や煙草があるのは良くないので」

「ふーん」

 

子供扱いに不満を見せるかと思ったが、そんな様子もなかった。呟くように言って、それきり。

来たばかりの頃に比べてヤシオのトゲは無くなってきている。そもそもが警戒故のトゲだったのだから、その警戒が緩めばトゲが無くなるのも当然か。親しみ故の口の悪さはあるが、それを不快に感じたことはない。

 

洗い物を終えてタオルで濡れた手を拭くヤシオが振り向いた。それからアオキの向かいに腰掛ける。何とは無しに、定位置。アオキは口を開いた。

 

「それで、さっきも言った通り金曜は飲み会なので、多分深夜に多少なりとも酔って帰ってくると思います」

「おう」

「なのでこれをあなたに託します」

「…………なに、これ」

「パンチグローブです」

「なに?怖い怖い怖い急に意味わかんねえ挙動すんのマジでやめてなに?」

 

パンチグローブとは拳を保護するためのグローブである。あとパンチ技の威力が上がるし、相手に接触せずに攻撃できる。

唐突にそれを差し出したアオキにヤシオは普通に怯えた。人間、おばけよりも意味のわからない行動をしている人間の方が怖いものだ。

そんなヤシオへアオキはぽつぽつと話し始めた。

 

「酒が飲める年齢になってからはずっと一人暮らしだったので、酔って帰ってきた時の自分の挙動がわからんのです」

「どーゆーこと?」

「自分では自覚がないだけで酒が入ると攻撃的になったり暴力的になったりしてしまう人もいて、自分は自分自身がそうでないと自信を持っては言えない、という話です」

「……酔って起きたら目の前で人が顔腫らして気絶してたことでもあんの?」

「いえ、そんなことがあったら流石に断酒してます……というか捕まってます……」

 

まだ若い時にテーブルシティで酔って意識が無くなって朝起きたら東パルデアの砂浜にいたことは流石に言わないでおこうと思った。あれは綺麗な朝日だった。

とかく酔っている時の自分が何をしているのかわからないのが怖い。

 

「そういうわけで、もしあなたが身の危険を感じたら躊躇わずこのパンチグローブを使ってください」

「ええ……」

「……ヤシオ、人間の殴り方はわかりますか」

「怖いこと言い出した……」

「基本的に顔面を殴られると威力が弱くても人間は怯むので狙うならそこです。撃つ場所を狙う余裕があるなら顎を。脳が揺れると人は倒れます」

「なになになになに!?経験談!?!?」

「…………」

「急に黙るな!!!」

 

ヤシオの反応が面白くて揶揄う。

まあ、それはさておき。

 

「とはいえ、あまり酔わないように飲む量をセーブするので大丈夫だとは思いますが」

「ああ、そうしてくれよ。流石に正当防衛でもアンタのこと殴りたくはねえわ」

「まあ、何もないと思いますからこちらのことは気にせず普段通りに過ごしていてください。寝る時も鍵は閉めてもらっていいので」

「おう、わかった」

 

 

 

「……セーブするって言ってたじゃん、アオキさんさあ……」

 

金曜の深夜、玄関先でぶっ倒れているアオキを見つけたヤシオは腰に手を当てて苦笑した。

 

 



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ヘルタースケルターナイタークライマー【後編】


生々しくはないと思うのですが、嘔吐の描写と、嘔吐の処理の描写があります。

また、作者は体調不良や精神不調の表現としての嘔吐がめちゃくちゃ好きなので今後予告なく出てくるかもしれません。
(でも苦手な人いたらコメントとかで教えてください。注意文つけるようにします)



 

金曜の夜、日を跨ぐ頃。

 

眠りに就こうと布団の中に入ったところで、玄関から大きな物音が聞こえた。

ヤシオは(アオキさん帰ってきたんかな)と思いつつ、そのまま目を瞑って眠ろうとしたのだが、一度玄関で物音がした後、それ以降リビングへ向かう足音が一切聞こえなかったのが気になる。

 

念のためと思って布団から這い出たヤシオは付いてきてくれたイエッサンと共に、寝息を立てている他の子を起こさないようにゆっくりと階段を降りていく。

 

で、玄関先でぶっ倒れている恩人を見つけた。

 

「アオキさーん?生きてっかー?」

「…………ぃ……」

「こんなに静かなのに何言ってんのか全然聞こえねえ」

 

いつものスーツ姿で、靴も履きっぱなし。廊下の壁に顔を向けた体勢で横になって転がっていた。

そばに片膝をついて覗き込む。

すると、多分ヤシオ同様に様子を見にきたのであろうパフュートンがアオキに捕まった上、やわこい腹に顔を埋められているのが見えた。

されるがまま、抵抗のないパフュートンと目が合う。

 

「せ、先輩……!」

「クウ……」

 

パフュートンに嫌がっている様子はないが、だからといってこんな硬い廊下にアオキと共に放置しておくわけにもいかない。

軽く肩を叩いてアオキの意識を覚醒させる。

 

「アオキさん、お疲れ。大丈夫か?」

「…………す………」

「なんて?」

 

もぞもぞと動いたかと思うと、仰向けになろうとするアオキをヤシオは慌てて止めた。万が一嘔吐でもしたら気管に詰まって洒落にならないことになる。

腕から抜け出したパフュートンの手助けもあって、なんとか横たわっていたアオキの体を起こして廊下に座らせる。

脚を玄関に出したまま座り込んでぼうっとしているその体を、背中に当てた片手で支える。

 

「アオキさん、靴脱がすぞ」

「………ぃ……」

「ジャケット脱げる?」

「……………す」

「ネクタイ外すから」

「………ぁ……」

「大丈夫?気持ち悪くねえ?」

「……ぅぇす…………ゔ……」

「ダメそう」

 

少し笑ってから、体を支える役目をパフュートンに任せて立ち上がる。

イエッサンにキッチンからタンブラーとペットボトルの水を持ってくるよう頼んでから、廊下の途中にあるトイレの電気をつけて扉を全開にした。暗い夜に、人工的な光が眩し過ぎるくらいだ。

ほとんど引き摺るみたいに彼をトイレまで連れて行ってやる。

 

その時、ヤシオはふと微かな懐かしさに胸が痛んだ。

……少なからず幸福であったと知っている。

戻らない日々がやむを得ない罅を残す。

 

「……ヤシオ?」

 

その時、比較的はっきりとした声音で名前を呼ばれて、ヤシオの意識が現在に戻る。

 

「お、アオキさん、気がついた?」

「……すみません……いらん世話を……」

「いーって。大丈夫?」

「…………」

「おっけ、吐けそうなら吐こうな」

 

便器の前に座り込んで俯く彼の背中をゆっくり摩る。

アオキの指の先は微かに痙攣していて、顔を覗き込むと唇が青白い。

飲んだことはないけれど、そういう姿を見るたびになんで大人は酒を飲むんだろうといつも思う。

 

「飲み会楽しかった?」

 

気持ちの悪さを紛らわせるかと思い、アオキへ問いかける。

そうすれば彼は床の一点を見つめたまま呻くように言った。

 

「びっ、……くりするくらい、叱られました……」

「んはは、なんでだよ」

「……どうであれ、一度、懐に入れた、ものを、いつか……放り出す前提で、向き合うのは、やめろ、と」

「んん?難しい話してんねえ、大人は……」

「いえ……簡単で、単純な、話です。人と人とが、向き合うとは、そういうこと、でしょう……」

「そっか、そうだね」

「そう、そうであってほしい、と、っお゛え………」

「あああ……」

 

便座に手をついて苦しそうに声を出したアオキの背にヤシオは手を置く。

心配そうにそばに来て見上げるパフュートンへ、大丈夫だとばかりにアオキはその背を撫でた。が、その指先が痙攣していてむしろ不安げな顔をされる。

 

「アオキさん、水飲める?」

「はい……いえ、……ちょっと、だめ、そうです。かお、あげるだけで、きもちわるくて……」

「しんどいか、ちょっと首元緩めるからな」

「はい……」

「じゃあ、一回吐くか。そっちの方が楽になるよな」

「はい……え?」

「口ん中に指入れるから、噛むなよな」

「え?まっ、」

「無理しないでいいから」

 

胃が痙攣する感覚を、アオキは久しぶりに感じた。

嘔吐きと共に背中がびくりと跳ねる。目の前が真っ白に飛ぶ一瞬。体の中身はマグマが沸いているように熱いのに体の表層は凍りついたみたいに冷たくて手が指先が震える。

一方通行のはずの道を逆流するぬるま湯みたいな粘ついた液体。ゴボゴボと溺れるみたいな音。嗚咽、生理的な涙、咳き込む。溝みたいな口の中。鼻に付く酸の臭い。汚してしまった、他人の手。

 

「大丈夫?まだ吐いたほうがいい?」

「も……い ゛、です……」

「そっか、アオキさんこれ水。一回口ん中濯ごう」

 

ヤシオはアオキの手元に水の入ったタンブラーを近づける。

それを受け取ろうとしたのに、アオキの手は震えていてうまく掴めずに倒してしまう。溢れた水に濡れる床。頭が痛む。

 

「っ……すみません……」

「気にすんな、大丈夫だって」

「いえ、本当に申し訳ないです……すみません……」

 

子供に酔っ払いの世話をさせて、ましてこんなものを見せてしまったことが本当に申し訳なくてアオキは繰り返し謝る。

それにヤシオは小さく笑って、いつも通りの声音で言った。

 

「なんで謝んの。オレ謝って欲しいなんてアンタらに一度も言ったことないだろ」

 

ふと、その言葉に、違和感。

アオキは思わず顔を上げてヤシオを見つめる。向けられている心配そうな視線に、気のせいか、と流しかける。

……しかし残る違和感。

何にそれを感じたのか、自分でもわからないのだけれど。

 

「アオキさん、大丈夫か?」

「はい、だいぶ楽になりました」

「ん、ならよかったわ」

「なんだか、人の介抱に慣れてますね……」

 

ふと呟くようにそんなことを口にすれば、少年は少し表情を緩めて微笑んだ。

それなのに、微かに空気がささくれ立つ様な感覚。

 

「……ん。母さんが、再婚する前は、こう、酒を飲むことが多い仕事してたから」

「ああ、なるほど……」

「…………」

「そのおかげで今自分は助かってます……久しぶりに吐きました……」

「……口ん中不味いだろ、濯げって」

 

覚束無い手を助けられながら今度こそ掴んだタンブラーで、口の中に水を含んでから軽く濯いで吐き出した。それを数回繰り返して、そこでようやく喉の渇きに気がつく。

空になったタンブラーは何も言わずとも注がれて、今度は中の水を飲み干した。

 

まだ脳がぐらつく様な感覚はあるが、かなり正気に戻ってきたと思う。

便器の蓋を閉めて流しながらヤシオは問いかけてきた。

 

「立てそう?」

「はい、だいぶ落ち着きました」

「風呂は今日諦めろよ。さっさと寝ろ」

「はい……」

「仰向けで寝んな。吐いたら死ぬ」

「はい……」

 

イエッサンとパフュートンに付き添われながらアオキは自室へ入る。

玄関に放られたままになっていたジャケットやネクタイや鞄を拾って、ヤシオがその後をついて来てくれた。

部屋に入った途端ヤシオに「立つな、座れ」と言われたので素直にベッドに腰掛ける。

 

ジャケットをハンガーに掛けるヤシオの背中を見ていた。

それを終えた彼はアオキに向かってこんなことを言った。

唐突に、本当に唐突に。

 

「……アオキさんって、オレのこと(・・・・・)どこまで知ってんだっけ」

 

ヤシオは振り返って、珍しく硬い表情でアオキを見た。

本当のことを言うと彼のその質問の意図はよくわかっていたのだけれど、アオキはまだ酔っているふりをして惚けた。

 

「……作るメシが全部旨いこととか……お化けが苦手なこととか……あと、結構、字が綺麗ですよね……」

 

そう言いながら、なんでもない顔で足元にいたパフュートンを抱き上げて膝に乗せる。

こんな誤魔化しなど、エスパータイプのイエッサンにはバレていたのかもしれない。でもきっと彼女はそれを伝えないだろう。

ヤシオはじっと探る様にアオキを見てから、呟くように口にする。

 

「……アンタって、なんで……」

 

ヤシオは何かを言いかけて、すぐに「なんでもない」と素っ気無く言った。ちっともなんでもなくない声だったけれど、そう言うしかない時があることくらいわかっている。

 

「おやすみ」

 

ヤシオはそう言って部屋を出ようとする。その背中へ向けて伝えた。

 

「おやすみなさい。それから、何から何までありがとうございました」

「…………ん」

 

出ていく彼がどんな顔をしていたのかは見えなかった。

イエッサンが戸惑いの滲む表情でアオキを一度見て、それからすぐにヤシオを追って部屋を出ていく。閉じられた部屋の扉。その向こうで段々と足音が遠ざかっていく。

 

背中から倒れる様にしてベッドに横たわる。自己嫌悪。

去っていく足音を聞きながら、アオキは何も気がついていない顔をして対話から逃げたことが本当に良い選択だったのかを考える。

 

本当は知っている。聞いている。

何故彼がここに来ることになったのか、決定的な事件のことも。

 

ただ、自分には彼の傷に触れる覚悟がない。当たり前だ。それは部外者たる自分には重過ぎる。義兄弟だとか師弟だとか言っても、所詮は赤の他人だ。今のまま、上辺だけの心地いい関係を継続することの何が悪いのだろう。

 

けれど彼が本当はなんでもないわけじゃないことくらいわかっている。

それでも耐えることで現在を継続をし続けようとする気持ちだって理解できる。

 

黙って何もかもを受容していればやり過ごせる。

一時的な痛みはあれど、いつか周りも諦めてくれる。

それが普通の状態になれる。

 

……痛みを鈍化させることが、普通?

違う、そんなわけがない。

いつまでも耐えられるわけじゃない。

そんなもの、いつか崩れる。

だから彼がああ(・・)なったと知っているのに。

 

「……ああ、だめだ、思考が纏まらん」

 

微かに整髪剤が残った髪を自分の手で乱す。

思考の中で自己矛盾ばかりを繰り返してしまう。

 

そんなアオキへもう寝ろとばかりにパフュートンが優しく体当たりをしてくる。その度に心地の良い香りがふわっと部屋に広がって、眠気を誘う。

 

着替えて、寝よう。アルコールが入った頭で正常な判断などできるわけもない。まして、夜。深夜の思考なんて碌なことにならない。

 

アオキは溜息を吐いてから、着ていたシャツを乱雑に脱いだ。

 



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ピーナッツバター・パトロン

 

目が覚めた時には日がすっかり上がっていた。

記憶が混濁している。寝覚が悪い。歯磨きをしないで寝た時のあの、口の中が気持ち悪い感覚。ついでに昨日風呂に入っていないことを思い出した。なんとなく、ダメ人間になったような自己嫌悪。

 

時間を確認する意味も込めてスマホを手に取ると、メッセージが来ていた。開くとそれはハッサクからのもので「ボブって結局なんだったのですか?」とある。多分酒の席でした話なのだろうが、いかんせんまったく覚えていない。ボブ。誰だ、ボブ。スマホの画面を落とす。結局時間を見てなかったことを思い出してまた付ける。9:28。泥酔した翌朝にしては早起きだ。

 

起き上がると途端に残っていた酒のせいか脳味噌がぐらつく様な感覚に陥る。当たり前だが、パフュートンはベッドからいなくなっていた。あの子は早起きだ。微かに開いた部屋の扉。出て行った跡が見えた。

立ち上がり、自室から出る。テレビの音やポケモンたちの鳴き声に、日常を感じながらリビングに入る。

するとソファに座ってテレビを見ているヤシオと目があった。

 

「うわ、昨日ゲロ吐いた人だ」

「……事実なのに罵倒みたいですね……」

「ゲロリーマン」

「罵倒……いえ、事実なんですが……」

 

ソファの上に腰掛けて、膝の上に座らせたプクリンをなでなでしながらヤシオは不機嫌そうな顔をして、のっそり起きてきたアオキへそう言った。

土曜の朝の明るいバラエティ番組の音声とは裏腹に、ヤシオはなんだか怒っているような気がする。

 

「……なんか、怒ってますか?」

 

アオキは機嫌の悪い相手に「機嫌悪いんですか?」と直で聞くことしかできない右ストレートしか打てないボクサーみたいな男だったので、ヤシオも流石にちょっとイラッとした。上目遣いで、寝癖だらけのアオキを見る。

 

「……アンタの目に怒ってるように見えんならそうなんじゃねえの」

「はあ……」

「…………」

「…………」

 

怒らせたようなのだが理由がわからず──いや十中八九昨晩の泥酔や嘔吐が原因なのだろうが、昨日の時点でヤシオはそこまで不機嫌ではなかったはずだ。後になってオッサンのゲロ処理させられたのにムカついてきたと言われたらなにも言えないが──、とはいえそんなヤシオを放っておくわけにもいかない。

アオキが居心地悪そうにリビングのマットの上で小さく足踏みしたり足元を通ろうとしたノココッチを避けたりしていたら、ヤシオに怒られた。

 

「……ああもう!そのへんでウロウロすんな!」

「あ、はい」

「昨日の夜アンタの世話してる間にプクリンが起きちゃってそん時にオレがいなくてびっくりして夜泣きして拗ねちゃって機嫌取るのが大変だったからアンタに八つ当たりしてるだけだわ!」

「まあまあ正当な怒りでは……?」

「うるせえ!アンタなんかもう知らねえ!スーツのクリーニングには自分で行けよ!ベッドのシーツとかは洗濯機に入れとけ洗うから!風呂沸かしてるからさっさと入れ!朝飯は冷蔵庫ん中!」

「もう知らねえとは一体……?いえ、ありがとうございます……」

 

礼を言ったらヤングースのように歯を剥き出しにして威嚇された。ヤングースの特性は威嚇ではないが。

しかし「もう知らねえ!」と言いつつ、めちゃくちゃに世話を焼いてくれる。一般的なものを知らないのでわからないが、弟子ってそういうものなのだろうか。多分違う気がする。

 

 

 

自室のベッドから回収したシーツ、それから昨晩ベッドの外に脱ぎ捨てたシャツも拾って洗濯機に入れる。

シーツとシャツは分けた方がいいのかとか、風呂入るためにこれから脱ぐ下着とかはどうしたらいいのかとかわからなくて、手を止める。

自分だったらもう全部まとめて洗ってしまうけれど、ヤシオがいつもどうしているのかわからなくて、結局全部洗濯機に投げ込んだ。怒られたらその時は怒られよう。

 

風呂に入る。湯船に溜まったお湯はいつから張ってくれていたのかわからないがしっかり温かい。

古い家なのもあって保温機能は死にかけだ。独り身だったから自分が入るタイミングで湯を張れば良くてなにも困っていなかったけど、今は以前とは少し違う。きっとうまくタイミングを測って湯を沸かしてくれたのだろう。有り難さと共に、自分のダメさが露見して溜息。

 

湯船に浸かってゆっくりしていたら、風呂場の脱衣所の方で物音がした。多分ヤシオが洗濯を回すために来たのだろう。足音が多いから、プクリンかイエッサンも一緒にきているようだ。

洗い物を全部洗濯機に突っ込んだことを叱られるかと思ったが、曇りガラスの向こう側の彼は何も言わずに洗濯機を起動させた。

機械が揺れる音、水が溜まっていく音、リビングへ戻っていく足音。それが遠ざかってから、深く息を吐いた。

その時ふと、昨晩の酒の席での記憶が蘇る。

 

(「アオキはその少年のことを愛しているのですか?」)

 

泣きながらアオキを散々叱って、その果てに年上の同僚はそう問いかけてきたのだった。

 

愛、愛……。言いたいことはわかる。恋慕や所謂愛情だけではなく、友情や家族愛やシンパシーなどといった相手への想いもあの人にとってはすべてが愛なのだろう。

……言い方がいちいち仰々しいのだ。

しかし、愛、か。比較的嫌いな言葉ではある。

 

だって、『愛しているから大切にする』というのならば、それは愛していなければ他人を大切にできないということだろう。

それを肯定したら、大切にするという行為の根源が愛だけにされてしまう気がした。

そんな不確かなものを自分の行動の指針になどしたくはない。

 

確かにアオキはヤシオのことを1人の人間として好いているし、1人の子供として守るべきだと思っている。

それはアオキ自身の意志であり、大人の義務であって、愛などという不確かな感情によるものではないのだから。

 

「……そういう考えが潔癖だと言われたら、どうしようもないが」

 

呟いた声は洗濯機が回る音に掻き消された。

 

 

 

 

「アオキさん、ついでにピーナッツバター買ってきて」

 

スーツをクリーニングに出すために家を出ようとしたら、そう声をかけられた。同時にエコバッグと近所のスーパーのポイントカードを渡される。

 

ピーナッツバターはワッカネズミの好物だ。

ヤシオのワッカネズミは特にヨーグルトにピーナッツバターをかけた物を至上のご馳走と捉えているらしく、事あるごとにそれを要求してくる。

ちなみにヤシオもアオキも(そんなにうまいのか……?)と思い、ワッカネズミに隠れてこっそりヨーグルトにピーナッツバターをかけて食べてみた。

ヤシオは「あ、結構好き!」と言っていたが、アオキは個々の味が強くて(別々に食べた方が美味しい……)と思った。

 

閑話休題。

 

ちなみにイエッサンは切れ目を入れた厚切りのトーストをたっぷりのバターで焼いて紅茶と共にゆっくり食べるのが好きで、プクリンはヤシオが食べているものを一口もらうのが好きだ。

 

再度、閑話休題。

 

「はい、それだけでいいですか?今なら謝罪点稼ぎのためにアイスとか貢ぎますが」

「……そういうのって、普通オレに聞かないで黙って買ってきて稼ぐもんなんじゃねえの?」

「……確かに」

 

謝罪の意味を込めて何か買ってきてあげようと思ったのだが、確かに貢ぐなら事前に聞いてはダメだった。そんなことも自分で考えられないのか?となる。なっている。反省する。

とはいえ、聞いてしまったのは仕方ないので質問を重ねた。

 

「ヤシオはバニラとチョコならどっちが好きですか」

「イチゴ」

「あ、はい」

 

甘いものも嫌いではないが、おやつよりも三度の飯が好きなアオキにとっては、若者が好きそうなアイスというものがなにか想像つかなかった。

最近はアイスもものすごく種類がある。とはいえ、何が好きかを聞いたら先ほどの二の舞になってしまう。スマホで調べつつ行くか……。

そう思っていた時、ヤシオが口を開いた。

 

「……別にこれはオレの話じゃねえけど、」

「え?」

「……シャーベット系よりクリーム系のアイスの方が好き……あと、ゆっくり食べたいから棒アイスじゃなくてカップのやつ……」

 

すごいぞこの子、全部教えてくれる。

「勉強になります……」と頭を下げれば、ヤシオは「ん」と素っ気無くうなづく。

 

「では、行ってきます」

「いってら」

 

 

 

そんなわけでスーツをクリーニングに出してから、スーパーに寄って帰ってきたアオキ。

荷物をダイニングテーブルの上に置いてから、リビングでノココッチと遊んでいるヤシオを呼んだ。

 

「なに?」

「アイスを買ってきたんですが」

「おう」

「あなたへの昨日の謝罪と感謝の意味も込めて、」

 

アオキはエコバッグから業務用のバカでかい三色アイスを取り出してテーブルの上に置き、その上にさらにヤシオのために買ってきた、ちょっと結構かなりまあまあちゃんと良いお値段がするイチゴ味のカップアイスを乗せてから続けた。

 

「なんか合体させたらパフェが作れそうなものを買ってきました」

「……お、おおおお……!」

 

エコバッグから、チョコスプレーやアラザン、コーンフレーク、生クリーム、チョコソース、バナナ、苺、チョコ菓子、ビスケット、エトセトラ……そんなものが出てきて、ヤシオは思わず歓声を上げた。謝罪点稼ぎまくり大成功だった。

 

「エ!パフェ作っていいってこと!?」

「はい、そういうことです」

「戸棚の奥にあった絶対一回も使われてないビールジョッキとか使っていい!?」

「そんなものあったんですか……使ってください。ジョッキも本望でしょう……」

「じゃあまずチョコペン用の湯煎から……いやまずデザイン案考えるの先か!」

 

明らかにテンションが上がっているヤシオの様子が気になったのか、ヤシオの手持ちたちだけでなくアオキのカラミンゴまでダイニングに顔を出した。

そのカラミンゴの首をつたってテーブルの上に上がってきたワッカネズミを見た瞬間、アオキはとあることに気がついて「あ」と一音こぼす。

 

「ん、どしたの、アオキさん」

「……あの、すみません、ヤシオ」

 

アオキは肩を落として溜息をついた。

 

「ピーナッツバター買ってくるのを忘れました」

「…………」

「…………」

「……オレはいいけど、こいつらが許すかな?」

 

ヤシオが指差した先にはテーブルの上のワッカネズミ。

 

2匹は揃って顔を真っ赤にしたかと思うと、アオキへ「「アア!?」」と大口を開けて怒った。

 

謝罪点爆下がりである。

 






以下、独り言です。

とっととヤシオの過去とか将来とかの話をガンガン進めて行ったほうがいいんだろうなと思うんですが、それはそれとしてアオキさんとヤシオが家の電球を変えたり、2人とも寝坊して大慌てで朝の支度したり、深夜にソファに座って映画を見て寝落ちしたり、でっかい肉の塊を焼いたりするような日常話もずっと書いていたい気持ちもある。でも日常っていつかぐちゃぐちゃに砕け散る日が来るから美しいというのも事実じゃないですか……(ろくろを回す)


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血が繋がっているだけの他人

 

それが仕事であれプライベートであれ、夜更けに掛かってくる電話は大抵は厄介事だ。

自室のベッドの上で胡座をかきながらアオキは思った。

 

「ヤシオくん元気?」

「……そう頻繁に電話してこなくていい……」

「するに決まってるでしょ。あたしが責任者みたいなもんなんだから」

 

電話口から聞こえてくる溌剌とした姉の声に、アオキは思わずスマホのボリュームを数段下げる。

姉がこの前に電話してきたのは2日前だ。その前は5日前だったか。こんなに短期間に何度も姉と連絡を取り合ったことなど人生で一度もない。すべてヤシオが来てからだ。

 

姉と仲が良いか、と問われたらアオキは間髪入れずにNOと答えられる。おそらくあちらもそうだろう。

血が繋がっていることだけが微かな繋がりで、それがなかったら恐らくろくに会話をすることもなく人生を終えていただろう関係。

姉弟とか家族とか関係なしに単純に精神的な距離が遠く、関係性が希薄だった。成人してからは特に。少なくとも姉の方には歩み寄る心構えはあったのだろうが、自分にはなかった。そのまま、今に至る。

 

それが変化したきっかけが、ヤシオがパルデアに来たこと。

ガラルに嫁に入った立場ながら、かなり強行してヤシオをアオキの元に送り出した張本人こそが姉である。

 

「ちゃんとヤシオくんにご飯食べさせてる?困らせてない?体調悪そうだったり辛そうな顔してない?」

「……ハア……」

「ねえアオキ、人に聞こえるように溜息つくのやめなさい。大人でしょ」

「……俺が日中仕事に出てて自分だけ家にいるのを気にしてるみたいで料理とか家事とか、積極的にやってくれてる」

「やだ良い子〜!いやほんと良い子よね、あの子」

「……でも姉貴から聞いてた印象とは違った」

「あたしも自分が知ってるヤシオくんとあんたから聞いたヤシオくんが全然違くてびっくりした。オッサンって言われたってほんと?ウケるよね、まあ実際アンタ老けたし、段々父さんに似てきたもんね」

「…………チッ」

「あんたマジでそれやめなー?聞こえてるからその舌打ち」

 

姉と話をすると毎回微妙にイラつくあたり、本当に性格の相性が悪いのだなと思う。

もっと簡潔に話してほしいし、この電話の目的を達成したら早く切ってほしい。というかこの電話の目的がわからないことがストレスになりつつある。

そう思っていた時、不意に姉が切り出した。

 

「アオキ、真面目な話していい?」

「初めからしてくれ……」

「あんたから見たヤシオくんってどんな子?」

「反抗期の子供」

「へえ、反抗してくんの?」

「…………」

「なわけないよね。素直だもん、あの子」

 

姉はそう言って笑った。それから溜息を飲み込むような音が電話の向こうから聞こえた。姉は言葉を続ける。

 

「……ヤシオくんさあ、あたしらの前でもいつもそうだったよ。ニコニコしてて、家事も手伝ってくれて、お母さん以外には敬語だったけどそりゃまだ距離感あるに決まってるよねって気にしてなかった」

「……ああ」

「言い訳になるけどさ、全員環境の変化に戸惑ってたし、なんとかうまく適応しようとしてたんだよ。あたしなんか一番部外者だったしね、他所の家に嫁に入るわけだし、義理の家も再婚したばっかだって言うし、ガラルなんて全然知らない土地だし、まあ正直、結構ストレスもあったもの」

 

愚痴混じりに姉はそう呟いた。後に立たなかった後悔の跡が滲む声。

重ったるい空気が嫌になってアオキはちょっかいを出す。

 

「なんだ、言い訳か……」

「だから最初にそう言ったでしょ。大体あんた以外の誰に言い訳ができるってのよ。なんか文句あんの?」

「別に……」

「はいはいはい。で、あたしは大人だし、そういうの何とかできる性格だからなんとかなった。けど子供はそうじゃないよね。こんなこと普段ならわかるはずなのに、あんだけ大人がいて結局誰も気がつけなかった」

 

大した相槌など打たなくても勝手に話す姉の言葉を聞きながら、アオキもなんとなくわかっていた。

 

特定の誰かが悪かったわけじゃなくて、その時その場所その人その言動その性質、あらゆる事象がうまく噛み合わなかっただけだ、と。

 

結局のところ、……ただ間が悪かっただけなのだと。

 

「で、あんたにも前話したけど、結局()()なっちゃった。酷いもんだよね、そこまでいかないと誰も気が付かなかったんだから」

 

悔い入るような姉のその声音に、流石のアオキも多少気を遣った。

 

「……別に、姉貴たちだけが悪いわけじゃないだろ。そっちが気が付かなかったんじゃなくて、ヤシオが隠し通しただけだ。15歳なんて、大人が思うほど子供じゃないし、馬鹿でもない。嘘や隠し事くらいいくらでもできる」

「…………はー、あんたにフォロー入れられるって、やっぱ相当のことよ」

「は?」

「は?」

 

「は?」に対してより威圧の強い「は?」が返ってきた。

……何故姉という生き物は「は?」という一言でこんなに威圧してくるのだろう。抵抗する気が失せる。アオキが無言になったのを確認して姉は続けた。

 

「今思えばね、ヤシオくんずっと「大丈夫です」しか言わなかったんだよね。それに気がついた時、あたしは10代の時のあんたに似てるって思った」

「……俺に?」

「そう、あんたもそうだったよ。いっつもつまんなさそうな顔で「なんでもない」って言ってばっかり。何がしたいの、どうかしたのって聞いても「なんでもない」。ウザすぎて何回か殴ったもんね」

「……あれそういう理由で殴られてたのか……」

 

思い出してげんなりする。子供の頃は割と頻繁に殴られていたからだ。

 

「ヤシオくんはあんたと違って愛想良いしニコニコしてたし、状況も状況だったからね、気を遣ってるんだなって思ってたけど。違ったね、あんたと同じタイプよ」

「悪口……」

「あんたは対人関係を面倒くさがって言わなかった。ヤシオくんは対人関係に気を遣って言わなかった。似てるけど違うの。はい、悪口はあんたにしか言ってないー」

 

姉はアオキに向かって露骨に舌打ちをした。3回。面倒くさがっていたわけではない、と言いたいことがなくもなかったがアオキは無抵抗を貫いた。説明するのも難しいし、理解されるとも思わない。

いくらかの沈黙、それから耐えきれなかった姉の深い溜息が聞こえた。

 

「……ぶっちゃけ、あたしは子供の時からあんたが何考えてんのか全然わかんなかった。多分だけどあんたもあたしのこと嫌いだったでしょ?」

「…………」

「ヤシオくんがあんたに似てるなら、きっとあたしはわかってあげらんない。で、男連中はもっとダメ。お義母さんはもう気持ち的に参っちゃってたし、ヤシオくんもあたしたちに気を遣って家に寄り付かなくなっちゃった。こうなった時点でもうあたしらじゃ助けらんないって思った」

「家庭崩壊……」

「やめなー?マジ。で、白羽の矢が立ったのがあんた」

「スケープゴート……」

「……アオキ、口が過ぎるの本当にやめなさい。今パルデアにいたらあんたのこと殴りに行ってるわ」

 

若干本気でキレつつある姉の声音。殴りに来れないとわかっているから電話口で煽っているのだ、とは流石に口にしなかった。

 

「溺れてる子がいたら、たとえ地上で砂嵐が起きててもまずは助けるでしょ?それと同じ。ヤシオくんにとってここはもう安らげる家なんかじゃなくて、息ができない水中でしかない。だからまずここから離すべきだって思った」

「…………」

「……ねえ、あんたから見たあたしは間違ってる?」

 

どこか迷いのあるような声音に、アオキは溜息をついた。

それから、敢えてそれを口にする。

 

「……姉貴がお節介で世話焼きなのは知ってる」

「うん」

「今回のやり方の全てが正しいとは思ってない」

「……うん、そうだよね」

「でも、最善を尽くしたこともわかってる」

「うん……」

「なんで俺なのか、とは未だに思うし……」

「でも、あんたの前では笑ってくれたんでしょ?」

 

その言葉で、ヤシオから向けられた笑顔のことを思い出す。

別に何か特別なことをしたわけじゃない。

食事して出かけて話をして、ただ共にごく普通に暮らしていただけだ。

……その理由はいまだによくわからないけれど。

 

「……だからやっぱあんたのとこに行かせて正解だったって思ってる。……ヤシオくんがあたしのことを家から追い出した奴だって恨んだとしてもね」

 

姉はそう言って、少し鼻を啜る。

そうだった、姉はよく笑って、よく泣く人だった。

彼女のそういうところがアオキは苦手で、……少し羨ましかった。それを唐突に思い出す。

 

「歳とるとダメ。子供がしんどい目に遭ってるのが本当にダメなのよ。なんかもうオッサンのあんたなんかマジでどうなってでもいいからヤシオくんには心穏やかに過ごしてほしいワケ」

「……言いたいことはいろいろあるが……ヤシオは姉貴を恨んでないと思う。そういうことができるなら多分こうなってないだろ」

「そう、そうかな、そうなのかな……あたしにはわかんないや……」

 

ごめん、と姉は呟くように口にする。

彼女の弱々しい声は調子が狂うから嫌だった。

けれど今更何を言ってやれば良いのかわからなくて、無言を貫く。

少しの沈黙の後、姉は取り繕ったような声で笑った。

 

「夜遅くに悪かったわ。もう切るね、聞いてくれてありがとう、アオキ」

「本当に悪いと思ってるなら電話の回数減らしてくれ……正直めんどい」

「ほんと一言多いのよね、あんたは……。まあいいや、じゃあね」

「姉貴、一個だけ」

「ん、なに?」

「……確かに俺は姉貴のことが、……子供の時から苦手だった」

「……うん、知ってるよ」

「でも、嫌いだったことは一度も無い」

「そっか」

「ああ」

「うん、ありがとう。おやすみ」

 

 

姉なんて、血が繋がっているだけの他人だ。

一緒に暮らすなんて絶対に無理だし、特別なにか用が無ければ連絡をすることもない。姉の結婚式のご祝儀に3万しか入れてなくて普通に母親に怒られた。

 

けれど、互いの人格形成に大きく影響を与え合ってしまったことは確かで、それがどうしようもなく煩わしくて、それでいながらこの世界で唯一の存在だ。

 

姉に関しては「なんでもっとうまくやれなかったんだろう」とは思わない。

今のこのどうしようもない距離が、一番良い距離だとわかっている。他人からはどう見えようとも。

 

アオキは愛を信仰しない。

だから家族も恋心もセックスも信仰していない。

そんなものがないと他人と関われないなんて、他人を大切にすることもできないなんて、馬鹿げているからだ。

 

それを聞いたらきっと姉は「潔癖だ」と鼻で笑うだろう。

なまじその反応が想像できるから、姉のことはやはり苦手だ。

あの人は愛を信仰したうえで、それがなくても人を大切にできるから。

 

羨ましいとは思わない。

成れないものには憧れないから。

 

 

……疲れた。寝る前に少し喉を潤したい、

そう思って、部屋から出た。

 






以前、活動報告で書いていた話ですが、順調にいけば今夜独立した短編として上げます。
ご興味あったらよろしくお願いします。


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轣ー濶イ縺ョ豌エ譖懈律

 

「火炎放射と大文字、アンタならどっちにする?」

「そうですね……自分なら、」

「アンタなら?」

「フレアドライブです」

「この脳筋物理戦法がよ!」

「先手を取って高火力で殴る。シンプルなのが一番強いので……」

 

 

「ごめん!アオキさん!バトルで倒されたワッカネズミがしょげてトイレに立て籠ってるからまだ晩飯出来てねえ!」

「そうですか……じゃあ今日は外に肉でも食いに行きますか」

「おい聞いたか!ネズミども!アオキさんの金で肉食えんぞ!」

「ア!!!」

「ア!!!」

「出てきた!!!」

「タカられた……?」

 

 

「チャンプルタウンの外の坂の上に変なトンネル?っていうか、門が閉まってるところあるじゃん。あれってなに?」

「……心霊スポットらしいですよ」

「は!?!なんでもっと早く言わねえの!?!?」

「夜は割と…………なんというか、まあ、近寄らんほうがいいです」

「なに!?なんで言い淀んだ!?怖い怖い怖い!!ぜってえ昼も近寄んねえけど!!!」

「はい、そうしてください」

 

 

「飛行タイプってずるくない?」

「よくこの家でその発言ができましたね……」

「ぐぇっ……待ってチルタリス先輩違うから、悪口とかじゃなくて……はい、すみません……申し訳ありません……」

「それで、その心は?」

「いやなんか普通にこっちが手ぇ出せない上空に行かれるとどうしようもねえから……」

「そういう相手を上からタコ殴りにするのが快感だとムクホークも言っています」

「それアンタの気持ちだろ……ムクホーク先輩すげえ首を横に振ってっんぞ」

 

 

「アオキさんってさ、10代の頃に手に入れられなかったものってある?」

「なんですか、急に……」

「んーん、心理テストみたいなもん」

「はあ……」

「なんでもいいから」

「……じゃあ、そうですね、」

「うん」

「…………強いて、言えば、」

「おう」

「一等賞、とかですかね……」

「ふーん」

「なんなんですか」

「それってさ、一生執着するもんなんだって」

「……確かに心理テストじみてますね……」

「実際のところ、どう?」

「…………あまりピンと来ないです」

「ま、そんなもんか」

 

 

 

 

日々は緩やかに、しかし確かに流れていく。

 

季節の変わり目。

上着を羽織らなくなった。

窓を開けるのに抵抗が無くなった。

日が伸びてきた。

ここに来てもう随分経って、季節が変わりつつある。

 

この生活に慣れつつある。

異邦人ではなくなりつつある。

「おかえり」と「ただいま」に違和感を覚えなくなった。慣れていく、慣れている、異常だったはずの過去が今という普通になっていく。自分の生活、暮らし、日常。この日々を楽しく幸福だと思うたびにそれがなぜあの場所だとできなかったんだろうと思う。どうしてうまくできなかったんだろう。何がだめだったんだろう。その理由がわからないからきっと今の安寧の日々もいつか過つとわかっている。この日々の終わりを考えないといけない。このままでは良く無い。知っている。変わらない生活の果てに何も残せないまま。きっと期待には答えられない。期待?違う、前提が、あれは期待ではなくて、ここにいていい理由を提示されただけだ。見たくない事実から目を逸らす。背く。何も変わらないとわかっている。眠っていたら夢を見た。夢の中の自分には姉がいて彼女は笑って手を引いてくれていたから母さんも父さんもいるということになっていたということになっていたということになっていたということになっていた。あ?都合の良い夢だと気がついた。だって姉はいない。手を引いてくれる人はいない。魘されている自分の声に気がついて深夜に目を覚ます。熱い寒い痛い。喉が酷く渇いていて水を飲みにキッチンへ行く。ぐらつく階段、どこまでも長い廊下、誰もいないリビング、その向こうにある部屋から溢れる微かなあかり。電話をしている声が聞こえた。何故なのかを知っている。どうしてなのかを知っている。誰のせいなのかを知っている。だから本当は間違っているとわかっている。曖昧な所在。空中に浮かんでいて地に足がついてないみたい。なんでここにいるのか。ゆらゆらふわふわぐらぐらがたがた。いつもそう。自分は誰かにとっての負担で障害で錘で不要な鎹。そんなものになっている。いつもリカバリーを考えている。平らにするため。1を与えられたら、1を与える。そうして0にする。そういうふうになっているはずだ。そうでないといけない。変わらないための理由が欲しい。普通であり続けるためにも努力が必要だ。ここにいるために走りつづけなくてはならない。そんなことしてもいつか転がり落ちて無意味になるのに。いつか、いつか、いつかいつかいつか、いつかって、そう終わりを考える。うまくやれないのなら誰もいないところで1人になったほうがいいのに。なんでここにいるんだろうって自問自答。ダイニングテーブルが目に入ってフラッシュバックする脳髄。暖かくて明るい部屋。笑ってみせる。凍りついたみたいに静まり返った食卓でみんながオレを見ている。笑ってみせる。視線視線視線視線。さっきまでのみんなの明るくて楽しい笑い声が耳に残っている。酸の臭い。ぬるま湯みたいな温度。流れ落ちるドロドロとした感触。汚い。気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。全部がめちゃくちゃになってんだって、オレがめちゃくちゃにしたんだって気がついた。早く戻さないと早く戻さなきゃ早く戻して早く戻す早く戻せ早く口の中ごめんなさいごめんなさいごめんなさい気がつかなくてごめんなさいこんなことさせてごめんね苦労させてごめんね××にしてあげられなくてごめんねってねえなんで謝るの。オレ謝って欲しいなんて一回も言ったことないよ。ずっと楽しいよ幸せだったよ。ちゃんと××にされてたよ。オレが受け取った愛情はあなたにとっては違ったの。これは愛情と呼べるものじゃなかったの。ならきっとおかしいのは、おかしいおかしい、おかしいから、オレがおかしい、オレが悪いから。普通になれなかったのが悪くて、普通にできればよかったのに。普通に生きたい。普通になりたい。普通に、普通が、普通でよかったのに。手に入れられなかったら、きっと、一生執着する。嫌だ今欲しい。今じゃなきゃダメなんだ。普通に、まともになって、生きてみたい。だけどあなたみたいにはなれない。だって、オレは、

 

「ヤシオ?」

 

深夜、電気の落ちたダイニング。ぼんやりとした背の高い影がそこにあった。

心配そうな声の中に、大人が隠し事をする時の色もあって、相手からは見えないのをいいことにオレは笑った。

 

「ちょっと喉が渇いてさ」

「……そうでしたか」

「うん」

 

冷蔵庫を開けた瞬間、眩し過ぎる人工的な光が目を焼いた。すぐにミネラルウォーターのペットボトルを手に取って、閉める。目の裏に残る光の影。眩しいものは苦手だ。心地良いくらい微かな光源を頼りにグラスへ水を入れて、それから飲む。半分ほどまで減ったペットボトルを揺らして向こうに見せる。彼は受け取った。

オレは戻ることにした。何事もなかったみたいに部屋に戻って、何事もなかったみたいに寝て、何事もなかったみたいに明日を迎えればいい。そうすればなかったことにできるから。きっと彼も気がつかない。だって隠し事は得意で前だって誰も気がつかなかった。だから、

 

「ヤシオ」

 

名前を呼ばれる。引こうと思っていた脚を、どこに着地させればいいのかわからなくなる。

まるで陰を踏まれたみたい。明かりなんてほとんどなくて真っ暗なのに。どれが誰がなにがどこまでどうしてなんで影なのかわかんないのに。

 

「……どうかしましたか」

 

問われる。どうしたんだって、聞きたいのはこっちのほうなのに、その人はそう言ってどこか心配そうな声を出すから、オレはそれが嫌だったから笑った。笑った。笑ってみせた。笑ってみせた。笑ってみせた。みせた。みせた。

 

「なんでもない。大丈夫」

 

そう言った瞬間、あの人が怯んだのがわかった。

 

その理由は知らない。脚を引いた。おやすみって言って、背を向けた。大丈夫。明日になれば何事もなかったみたいに出来る。覚えてないって顔をして、また変わらない日々を継続できる。……ほんとうに?浮かんだ疑念を振り払う。部屋に戻る。待っていてくれたイエッサンが悲しそうな顔をしている。彼女が、彼女たちが助けを求めて欲しいことを知っている。手を握ることしかできない。握り返されたことが嬉しかった。許してほしい。

 





「10代の頃に手に入れられなかったもの」云々の話については、大好きなイトイ圭先生の漫画『花と頬』より


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目をそらす木曜日

 

鳴き声ではなく、確かに泣き声だったと思う。

 

日が昇ったばかりの早朝、プクリンが泣きながらアオキを叩き起こして助けを求めてきた。

 

明らかな異常事態にすぐにアオキの目は覚めて、寝巻きのままプクリンを追って自室を出る。

リビングに向かえばイエッサンがサイコパワーを使って空中に水の入ったペットボトルやらグラスに入れた氷やらを浮かばせてから慌てた様子で階段のある廊下へ向かっていくのが見えた。

騒然とした様子にアオキの手持ちたちも動揺しているのか、リビングにやってきたアオキの元に寄ってきては不安そうな鳴き声を上げる。

彼らを宥めてリビングで待機するよう指示してから、プクリンに先導されるがまま2階へ向かった。

 

2階にあるヤシオの部屋へ入ると部屋の真ん中にある膨らんだ布団が目に入る。

枕元には氷を入れた袋をさらに布で包んでいるイエッサンがいた。アオキはそのそばに黙って膝をついて、様子を見る。

 

すると思っていた通り、布団の中には赤らんだ顔のまま荒い呼吸を繰り返す弟子の姿があった。

 

触らずともわかっていたが、額に触れると体温にしては熱い温度が感じられる。

発熱。単純な話、風邪を引いたようだ。

 

心当たりはある。

季節の変わり目。まして慣れないパルデアの気候だ。

それに慣れない他人の家に来てからそれなりに時間が経ち、ようやく少しずつ慣れてきた頃だったから、ちょっとばかり気が抜けたのかもしれない。

色々なものが重なって体調を崩した。

恐らくそんなところだろう。

 

「イエッサン、ヤシオの首元に氷嚢を当ててやってください。自分は体温計とか薬を取ってきます」

 

アオキとてそれなりに一人暮らしをしてきたわけなので、体調を崩した時用の準備はしている。一人暮らしでの体調不良は助けを求める相手がいなくて、場合によっては洒落にならないこともあるからだ。

 

ヤシオの額から手を離す。掌に移っていた高い体温が、手を離した途端に冷めていく。

ヤシオは唐突に身動ぎして、布団の外に手を出し、それから掠れた声で呟いた。

 

「プクリン、プクリン……」

「プリ」

「あたまいたぃ……」

「プルリ」

 

呼ばれたプクリンはすぐにヤシオのそばに来てその手を握り、もう片方の手で頭を優しく撫でる。それから彼のそばに寄り添うように寝転がると、母が子にするように小さく子守唄を歌ってやっていた。

愛しい子が痛みを忘れて眠れますように、と。

 

その様子を静かに見つめてから、アオキは音を立てないよう静かに部屋を出て階段を降りる。

リビングで待っているようにと言った指示に従いながらも上の様子が気になっていたのだろう、アオキの手持ちたちはリビングから廊下へ繋がる扉の前にぎゅっと集まっていた。彼らへ声をかける。

 

「ヤシオが風邪を引いてしまったみたいです……待ちなさいオドリドリ、応援は大丈夫ですから。チルタリスも歌は大丈夫です、寝かせておいてあげましょう。ウォーグルも、上に行こうとしているの見えてます。戻りなさい」

 

不安がる手持ちたちに心配いらないと伝えつつ宥めていれば、その間にパフュートンが体温計を見つけて持ってきてくれる。

それを受け取ってからキッチンへ向かい、引き出しに入れていた風邪薬を手に取る。

しかし飲ませるにはその前に何かを胃に入れさせる必要があることを思い出した。

 

その時、キッチンにイエッサンがやってきた。

彼女へ、今はヤシオを寝かせておいて、次に起きた時に体温を測り、軽く何かを食べさせてから薬を飲ませたいことを伝える。

そうすれば彼女は微笑んでうなづいた。

 

あまり寝ている人のそばに何人もいても良くないだろうと思い、「たまに様子を見に行きますが、もしヤシオが起きたら自分を呼んでください」とだけ言って、ヤシオが寝ている間のことは彼の手持ちに任せることにした。

イエッサンは笑って自身の胸を軽く叩く。

それから製氷器に水を入れてから、冷凍庫から再度氷を取り出して2階へ戻って行った。

 

アオキはリビングに戻って立ち尽くす。妙に静かに感じる朝だ。

ソファに腰掛ければ、その隣にムクホークが腰掛けてアオキの膝に嘴を置いて見上げてくる。

その体を撫でてやれば掌に感じる温もり。

それが今は無性にありがたかった。

 

時計を見る。普段ならようやく自分が起きてくるくらいの時間だった。

何をしたら良いのかわからず、けれど寝直す理由もなくて、ただ座ったままぼうっとする。

自分の膝の上によっこらしょと乗ってきたカラミンゴに嘴を蹴られたムクホークが怒っているので撫でて仲裁する。

なんとなくテレビをつけたが流れる音がうるさく感じられて、軽く番組表を見たくらいですぐに消した。

 

いつもなら家を出ている時間を過ぎた頃に、仕事を休むことを職場に連絡する。

トレーナーとしての仕事も営業としての仕事も、急ぎ対応する必要があるものや今日でなくてはならない業務が無くてよかった。

 

冷蔵庫の中の冷や飯で適当に卵雑炊を作る。

目分量だが味見した限り少なくとも食べられるレベルのものになっている。それを自分の朝飯にして、残りは起きてきたヤシオが食べられそうなら温め直そうと思った。

 

一度様子を見に行こうと階段に少し上がったところで、降りてこようとするイエッサンと鉢合わせる。

こちらに気がついたイエッサンが笑ってヤシオの部屋に戻っていくから、彼が起きたのだろうと思った。いいタイミングだ。

 

部屋に入ると、ヤシオは上半身を起き上がらせたまま、膝の上に乗せたプクリンにぎゅうと抱きついて、プクリンの頭に顎を乗せたまま空中をぼーっと眺めていた。

相変わらず赤らんだ顔のままで、早朝に見た時と変わらず熱は下がっていなさそうだ。

アオキは布団のそばに座ると、ヤシオに声をかけた。

 

「おはようございます」

 

するとヤシオはアオキの方へ顔を向けてから「……ます」とぼんやりと答えた。ポヤポヤしているな、と思った。

ヤシオへ体温計を差し出すと、彼はそれをじっと見てからアオキの顔を見つめる。

 

「なに」

「熱を測りましょうか」

「ん、なんで……?」

「熱くないですか?」

「さむい……」

「なので測りましょう」

「そっか……」

 

弱々しい手が体温計を受け取る。

プクリンとくっつきながらじっと体温計が鳴るのを待つヤシオは、ふとアオキを見てからこてんと首を傾げた。

 

「……いま、なんじ?」

「えっと、9時半くらいです」

「……ああ。…………え?」

 

彼は瞬きを数回繰り返してから、ハッと目を覚ましたような顔で慌て出した。しまった、とアオキは思った。

 

「アンタ!仕事!遅刻!」

「だ、」

「今日!平日!木曜!」

「あの、だいじょ、」

「プリリー!」

 

慌てて起き上がろうとするヤシオをプクリンが慌てて止める。

その時、体温計が測定を終えたことを知らせる音を鳴らした。その音に気がついて一瞬生まれた沈黙の合間にアオキは口を開く。

 

「ヤシオ、大丈夫です。今日は休みなんです」

「え?」

「昨日言いませんでしたか?少し前の休出の代休があって、早めに消化しろと人事から言われて仕方なく今日取ったんです」

「きゅーしゅつ……」

「休日出勤です。休みの日に仕事をしたから、別の日に休みを取れと急かされたという話です」

「……聞いてない」

「言ってなかったかもしれません」

 

アオキは嘘をついた。

大した嘘ではないが、多分墓場まで持っていく。

 

ぼおっとした顔で見つめて合う2人に焦れてか、プクリンがヤシオの服に手を突っ込んで体温計を取り出す。ヤシオはくすぐったそうに身を捩った。プクリンから体温計を受け取ったアオキは表示を見て呟く。

 

「8度5分……」

 

ちゃんと風邪だ。

病院へ連れて行くことも検討するレベルの風邪だ。

 

「風邪ですね」

「そうなの」

「ソーナンス……」

「え?」

「なんでもないです」

 

今いらんこと言ったな、と自省した。

それから何もなかったみたいな顔で話を続ける。

 

「今日は家で安静にしましょう。薬を飲んで寝て、もしそれでも熱が下がらなかったら病院に行かないとですが」

「びょーいん」

「嫌いですか」

「あんまり……」

「最終手段です」

「ん」

「朝飯は食えそうですか。雑炊があるんですが」

「……アンタが作ったんか」

「はい。一応一人暮らし歴は長いので食べれるものにはなってます」

「食べてみてえ」

「持ってきます」

「いや、降りる」

「大丈夫ですか」

「うん、今ちょっと熱いから布団から出たい」

 

本当は嫌がっても布団の中にいさせて汗をかかせたほうがいいのだろうが、むずがるようにそう言うから少し甘やかすような心地でそれを良しとした。

飯を食べさせて、薬を飲ませたらまた寝かすのだから今だけはいいだろう。

 

布団から抜け出そうとするヤシオの背中に、イエッサンが厚手のカーディガンを掛ける。

彼は「ありがと」と言ってから、イエッサンを引き寄せてその角にさらりとキスをした。

何故かアオキが動揺して、咄嗟にプクリンを見てしまった。

 

いいんですかアレ。

さっきまであなたを抱いて寝てた男が他の女にキスしてますが。

 

そういう気持ちで視線を送ると、目が合ったプクリンはアオキを視線にキョトンとした顔をする。

それからヤシオの手を取ると歩行を手伝うように一緒に階段を降りていった。

アオキは思わずイエッサンを見る。彼女もまた特に気にすることなく、布団を整えている。

 

……あれ?これ、関係を邪推している自分が悪いのか?

 

何とも言えない気持ちになりながらアオキも下階へ向かった。

 

 

 

鍋の中の卵雑炊を温め直しながら、雑炊と粥の違いってなんだろうとアオキはぼんやり思った。思っただけで特に調べる気はないので、ずっとなんだろうと思っているだけだった。

 

プクリンはリビングに行き、アオキの手持ちたちと話をしていた。多分、情報共有だろう。

ソファの上に立つプクリンの話を、周囲にいる手持ちたちが粛々と聞いている様子は演説みたいで少し面白かった。堂々としたものである。

 

ヤシオはダイニングテーブルに腰掛けたまま、アオキを待っている。

アオキは温め直した雑炊をスープ皿に入れてテーブルに置いた。それから念の為に言っておく。

 

「無理して食べないでください」

「でもオレ腹減ってるし」

「いえ、不味かったら無理せず捨ててくださいという意味です」

「なんだそりゃ」

 

ヤシオはちょっと笑って、それから「いただきます」と手を合わせた。匙で掬って、湯気の立つそれを少し冷ますために息を吹きかける。

それから、一口。はふはふと熱そうにしながらゆっくりと咀嚼して、嚥下する。ふ、と息をついてから、つぶやくように言った。

 

「……すげえうまい」

 

もしその声音と表情が嘘なら、もう永遠に彼の本心はわからないだろうな、とアオキは思った。

安堵の息をついてから、彼の前の席に腰掛ける。

 

「よかったです……。最近うまい飯に慣れてしまったので、自分の料理じゃどうにも劣る」

「なんかいいもん食ってんの?」

「……はい、あなたと同じものを食べてます」

「…………」

 

意味を理解したらしいヤシオが照れた顔をして、それから口を噤んで雑炊を食べ進める。とりあえず食欲があるようでよかった。

 

「雑炊になんか、……味噌入れてる?」

「はい、実家がそうだったので」

「今度教えて。オレも作りたい」

「……目分量なので教えるほどでもないんですが、まあ、はい」

 

釈迦に説法という言葉が浮かんだ。それと妙な擽ったさも同時に感じる。

自分が料理を褒めた時にヤシオがキレるほど照れていた時の気持ちがわかるような気がした。

 

「照れますね」

「……真顔で言うなよ」

「でも、嬉しいです」

「ん、わかるわ。自分が作った飯で美味いって喜んでもらえんの、結構好き」

「料理人に向いてるんじゃないですか」

「どうだろうな、料理人って逆に人が喜んでるところ見え辛いんじゃねえのかな」

「ああ、厨房からだと客は見え辛そうですしね」

「わかんねえけどさ」

 

今度ハイダイやカエデに聞いてみよう、とアオキは思った。

と、その時、テーブルの上にこれまで姿が見えなかったワッカネズミが現れた。

外へ出ていたのか、2匹は草や土に少し汚れていて、けれどそれを気にすることなく、それぞれが持っていたきのみをヤシオのそばに置いた。

ラムの実とオレンの実だった。

ヤシオはスプーンを置くと、ワッカネズミを見つめた。

 

「オレにくれんの?」

「アア」

「アア」

「探してきてくれたんだ?」

「ア!」

「ア!」

 

ヤシオは2匹の頭を撫でてから2匹に視線を合わせる。

 

「ありがとな、すげえ嬉しい。……でも何も言わないでおまえらだけで外行かないで。オレのために外行ってなんかあったらやだよ」

「ア……」

「ア……」

「うん、木の実は大事に食べるよ。でも今はどこにも行かないで。オレと一緒にいてよ……」

「ア……!」

「ア……!」

 

ヤシオのどこか甘えるような声音にワッカネズミたちは顔を赤くしながらヤシオのカーディガンのポケットに潜り込んだ。

ポケット越しに2匹を撫でながらヤシオは「ありがと、だいすきだよ」と言う。

一連の流れを見たアオキは思わず口にした。

 

「……そうやってプクリンやイエッサンも落としたんですね」

「おと……え?なに?手持ちには別にこれくらい言うだろ……」

「自分はそんなには……」

「いや言えよ」

「ごもっともなんですが……」

 

普段気丈な人が弱った時に甘えてくると世話焼きな者ほどコロッといってしまうとはよく聞くが、それを初めて間近で見た。

感心していたら訝しげな顔をされたので、話題を変える。

 

「木の実、どうしますか」

「うん、食べるわ。せっかくだし」

「洗って皮を剥きます。……ワッカネズミも、いいですか?」

「アオキさんが食べやすくしてくれるって。盗るわけじゃねえよ」

「ア!」

「ア!」

「大丈夫だって。アオキさんありがと」

「わかりました」

「あ、アンタにも大好きって言ってやろうか?……あはは、なーんてな!」

「大丈夫です、なんらかの処罰を受けそうなので」

「なんで?どういう思考?」

 

オレンもラムも甘味が少なく基本人間が生で食べるものではない。だが、そう大きくないサイズなことと、ワッカネズミの好意だとわかっていることからヤシオは食べることを選んだ。

アオキは木の実を軽く洗ってから、包丁で皮を剥き、一口サイズよりやや小さめに切り分ける。

 

「……むしろ、体調不良に気が付かなくてすみません」

 

木の実を皿に置いて、一本爪楊枝を刺してからヤシオに出す。

そうしながらアオキが言うと、ヤシオはちょっとムッとしてから「なんでアンタが謝んだよ」と言った。

 

「他人の体調なんかそうそうわかるかよ」

「いえ、でも昨晩キッチンで会った時に少しふらついていたので」

「…………」

 

黙り込むヤシオを前に、アオキは昨晩のことを思い出していた。

姉との電話を終えて、水を飲もうとキッチンへ行ったら同じことをしようとしていたヤシオと鉢合わせたのだ。

その時から彼の体が妙に揺れていたから、どうかしたかと聞いたのだが、何でもないと言われたのもあってスルーしてしまっていた。

「何でもない」というヤシオの言葉に、直前の姉との昔話を思い出して少し虚をつかれたところはあったが、今思えばすでに体調不良の兆候は出ていたのだろう。見逃していた。

 

「昨晩、アンタとここで会ってたの夢かと思ってたわ……」

 

不意にポツリとヤシオが呟く。

 

「いえ、降りてきてましたよ。喉が渇いた、と」

「そっか……なんかいろいろ夢見てごっちゃになってるっぽい……」

「ああ、体調悪い時は変な夢見やすいですから」

 

ヤシオは木の実を口にした。咀嚼と嚥下。

それからワッカネズミに「すげえうまいよ」と伝える。ポケットの中から2匹の喜ぶような鳴き声が聞こえた。

 

雑炊も木の実も少量だったからか、ヤシオはすべて完食する。それから風邪薬を飲んだ。

それから再度、プクリンに手を取られながら2階に上がる。アオキも(さら)のタオルを数枚持って行った。

 

「とりあえず今日はゆっくり寝てください。熱いでしょうが布団をしっかり被って汗をかくように」

「ん、わかった」

「昼近くになったらまた様子を見にきます。プクリンたちもあまり気を張りすぎないように」

「ププリ」

「きゅ」

「「アア」」

 

外に出かけて汚れたワッカネズミを布で拭きながらイエッサンは微笑み、プクリンは当然のようにヤシオに添い寝をしている。

アオキが部屋を出ようとした時、ふと布団にくるまったヤシオが問いかけてきた。

 

「アオキさん」

「はい」

「アンタ、なんで今日休み取ったの」

「……休日出勤の代休で……」

「そうなんだけど、そうじゃなくて、だって今日木曜じゃん。休み取るなら金曜とかにして連休にしたほうがいいんじゃねえの」

 

アオキは振り返って、墓場まで持っていくと決めた時から考えていた言葉を口にする。

 

「……平日ってよく午後にテレビで古い映画を流すんです」

「ああ、あるよな」

「子供の頃に見て、好きだった映画が今日流れるんです。せっかくだと思って、だから休みました」

「……なんてやつ?」

「『ミツハニーのささやき』」

 






次回、実在の映画『ミツバチのささやき』の内容に触れます。


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お前も同志になるんだよ!!!


すみません、書きたいところを好き勝手に書いていたら本題に辿り着きませんでした!
『みつばちのささやき』うんぬんの話は次回に持ち越しです。




 

「オレもその映画見たい」とヤシオが言った。

「……今より熱が下がったら」とアオキは返した。

すると大人しく布団に潜り込む少年。

それを見てから階段を降りる。その途中でふと思った。

 

彼が自らなにかをしたいと言ったのは初めてではないか、と。

 

パルデアに来たのは姉の判断で、トレーナーとしての指導はアオキの提案で、家事や調理はヤシオ本人の希望だったが少し意味合いが違う。

これまでのそれらとは異なる、誰かのためとか誰かからの提案とかじゃない、ヤシオ本人がしたいことを口にした。そんな気がする。

 

そのことに気がついたアオキはリビングに戻ってから床に両膝をついて、擦り寄ってくるノココッチを抱きしめた。なんとなく、そういう気分だった。

 

 

昼食としてうどんを茹でた。

卵と味噌を入れてから、卵雑炊と似たような味付けになっていることに気がつく。今作った分はさっさと自分で食べて、ヤシオ用に別の味付けのものを作ろうかと思ったが、「いい匂いしたから」とヤシオがプクリンと手を繋ぎながら2階から降りてくるほうが早かった。

 

「……腹減ったんですか」

「だってうまそうな匂いしたんだもん。なに?」

「うどんです。朝と同じ味付けですが」

「そういうのが好きなんだ?」

「……いえ、そういうわけでは」

 

ふとリビングのほうから視線を感じて、そちらへ目を向けるとアオキの手持ちたちが温かい目でこちらを見ていた。その視線にアオキは反論したくなる。

 

別に朝にヤシオが褒めてくれたからまた同じものを作っちゃった、とかそういうことではない。

ただ単に味付けがワンパターンなだけだ。食う専の独り身三十路の男の料理スキルの問題なので誤解しないでほしい。

まあ多分、手持ちたちはアオキがそう思っていることを理解した上であの目をしているのだろうが。そうであってほしい。

 

ヤシオは「熱下がった」と言い張りながらテーブルに腰掛けた。

念のため彼の額に掌を当ててみる。まだ熱はあるが、朝よりはマシになっている気がする。

部屋で1人寝続けていろ、というのは若い彼には酷な気もして、無理しないことを条件に午後はリビングで映画を見てもいいと許可した。

 

「寝てただけなんで腹は減ってないかもしれんのですが、食えるだけ食ってください」

「ん、いただきます」

 

そうしてダイニングテーブルで向かい合った2人は味噌煮込みもどきうどんを昼飯として食べる。ヤシオはうまいと笑って完食した。

 

 

食後、イエッサンが着せた厚手のカーディガンを着て、プクリンが持ってきた毛布に包まって、ワッカネズミを頭に乗せたヤシオはソファの端に座っている。

 

毛布の中にはプクリンも潜り込んでいて、ヤシオは当たり前のように彼女を膝の上に置いて抱きしめている。彼らはくすくすと顔を寄せ合っては楽しげに笑って何かを話していた。

 

ダイニングで皿を洗っているアオキは、手伝いをしてくれるイエッサンになんとなく「ヤシオとプクリンは本当に仲が良いですね」と口にする。

 

するとイエッサンはアオキを見上げてから、ニコー!と笑うと「でしょー!」とばかりに腕をぶんぶん振った。

 

「んきゅ!きゅるる?」

「え?すみません、なんか質問されてます?」

「きゅるきゅきゅるきゅるるんきゅきゅんきゅきゅきゅんるるきゅるんるるきゅるるるきゅっきゅうんきゅるんきゅるる」

「何を言っているのかわからないですけどすごい早口……」

「きゅわっきゅわっきゅっきゅきゅるるんんんきゅるるきゅ〜〜?きゅきゅるんきゅるるんわんわうわんわんわんきゅんきゅん」

「ずっと喋る……」

 

イエッサンはニコニコしながらハイテンション身振り手振りで何かを伝えてくれる。多分、彼らの可愛いエピソードを語ってくれているんだなと思った。ちょっとアオキには何を言っているのかわからなかったが。

 

言っていることがアオキに伝わっていないと気がついたイエッサンが「じゃあ脳に直で送る?」というジェスチャーをしたので流石に断った。エスパータイプはそういうところがある。

 

しかしこれがO・SHI・KA・TSUか……。

軽い気持ちで話題を振って申し訳なかった、とアオキは反省する。

 

 

──さて、これは余談だが、イエッサンはヤシオとプクリンのにっぴきコンビのガチ勢だった。

 

彼女はイエッサンという種族特有の世話焼き属性が強めな上、妙に薄幸オーラのある少年と彼の守護神をしているプクリンの関係性に脳を焼かれて、自ら手持ちになることを志願したタイプの個体(オタク)だ。面構えが違う。

 

本人は「CPの可能性を考慮しつつも現状はコンビとしての関係性に美しさを見出している。未来は無限大であり、どうであれ2人のより良い未来を心から祈っている。それはそれとして間に入ってこようとする輩は私がこの手で息の根を止める」と玄人の顔で供述している。

 

閑話休題。

 

 

アオキはイエッサンに握手を求められたが、自分はまだその格には至っていないので丁重にお断りした。

が、無理やり握手させられた。強制的になかよしにされる。イエッサンが生まれながらに覚えている『なかよくする』という技の真髄を見た。

 

……これ、プクリンとヤシオが仲良くしているところに割って入った生命体をブチ殺す同盟ではないですよね?

 

アオキは怖くなったので話を変える意味も込めて、リビングのヤシオへ声をかける。

 

「……ヤシオ、アイス食べますか」

「え、なんで?デザート?」

「なぜと言われても……風邪引いた時ってアイスじゃないですか?」

「なにそれ、しらん……パルデアルール?」

「……やめておきますか」

「んーん、食べる」

 

前に買った業務用アイスを器に入れてスプーンと共に手渡す。そうすれば素直に喜ぶ子供の姿になんとなくホッとした。

……本来は大人の自分がこうやって食事とかの世話をしないといけないんだよなあ……と反省する。

 

ヤシオはアイスを数口食べると、羨ましそうな顔をするプクリンに顔を寄せた。

 

「プゥ……」

「プクリンもアイス食べてえの?」

「プリ!」

「ん、あーん」

「プー……」

「あむ」

「プリ!プリリィ!」

「あはは!ごめんって、ほら!」

「……ムー?」

「今度は嘘じゃねえって、な?ほら、あーん」

「……プー……リ!プリリ!」

「うまいなー?」

「プリー!」

 

ヤシオがあーんしてあげるふりをして、プクリンが食べようとした瞬間にスプーンを引っ込めて自分がアイスを食べてしまう……けれどその後に怒ったプクリンを宥めつつ今度こそ本当にあーんしてあげている……というじゃれあいをしている。

 

それを見ていたアオキの視界の端で、イエッサンが笑顔のまま静かに自身の心臓を押さえているのが見えた。

それからアオキの脚をぺしぺし叩いて「これ、これだよ、これ……」と表情でアピールしてくる。彼女はこういうのが好きらしい。

 

ところがイエッサンは、アイスに気がついて自分たちも食べたいとヤシオの肩にワッカネズミが降りてきたのを確認した瞬間、真顔で素早く移動し、ワッカネズミを確保、2匹へ自分が持っていたアイスを与える。

 

ふぅ、間に合った……みたいな顔をしているイエッサンにアオキは気がついた。

 

……イエッサンがよくワッカネズミの世話をしているから、両者は仲がいいのかと思っていたがそれは違う。

 

これはただ単にイエッサンが、手持ち仲間でさえもプクリンとヤシオの間に入れたくないくらい強火ガチ勢なだけだ。

 

え?自分はこのイエッサンに同志認定されてしまったんですか?

もしうっかり自分がプクリンとヤシオの邪魔をしたらどうなるんですか?

 

背後から銃を突きつけられている気持ちになりながらも、ヤシオの「アオキさん、映画始まんぞ」という声を無視することもできず、若干居心地の悪い気持ちになりながらアオキは彼の隣に腰掛けた。

 





◇更新とかについてのおしらせ

話のストックが溜まってない+私生活で舞踏会(暗喩)に出なくてはならなくなった+ソシャゲのバレンタインイベントに毎年命をかけている、という理由から2/14くらいまで更新が多分出来なくなります。

今までほぼ毎日更新してたのは頑張ってたからじゃなくて、溢れ出る創作へのパッションを早く外に出さないとしんどいからでした。気持ち悪いから早くゲロ吐きたい、と同じ感じです。更新できない期間はゲロ我慢大会時期ですね。

あとストックがめちゃ減ったため執筆優先にして、後でコメント返信しようと思ってたらもう何もかもが間に合わなくなってました。
今回の更新分のコメントから返信再開させてください。
それまでにもらったコメントはスルーする形になっちゃって申し訳ないんですが、ちゃんと読んでます!ありがとうございます!


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目を合わす木曜日



『ミツバチのささやき』の政治批判的解釈をベースにした『ミツハニーのささやき』の政治批判的解釈の話が出てきます。は?

とりあえず、パルデア地方の近現代史の捏造がすごいです。全部オレが考えた捏造クソ歴史です。SV本編の記述と矛盾してたらすみません……絶対矛盾してそう……。

『ミツバチのささやき』ファンやスペイン史好きの方がいたら本当にすみません。自分も『ミツバチのささやき』に脳を焼かれたオタクです。許してください。



 

『ミツハニーのささやき』という古い映画がある。

 

舞台は今から80年近く前のパルデア中部にある小さな村。年老いた父と若き後妻、それから幼い姉妹が中心人物で、主人公は妹のアナ。

 

彼らの家庭環境は微妙だ。大人たちは過去に深く傷つき、その傷に雁字搦めになって動けずにいる。

それ故に幼い姉妹の天真爛漫さが際立つ。

 

ある日村にやってきた移動映画館でアナは『フランケンシュタイン』の映画──最早知らない人がいないだろうが念のため説明しておくと、この映画はフランケンシュタインというマッドサイエンティストが様々なポケモンの体を継ぎ合わせて作った肉体に人間の脳を入れて完璧な生命を作ろうとした結果、怪物を生み出してしまうというスリラー映画である──を見る。

幼い彼女には作中に登場する怪物が恐ろしいものだと思えなかった。姉の「怪物の正体は精霊」「目を閉じて『私はアナ』と呪文を言えば友達になれる」という言葉をアナは信じて、いつか精霊と友人になれることを夢見る。

 

そんな最中、町外れの廃墟に逃亡者の男が──彼が何者なのか、詳しいことは作中では説明されない──逃げ込み、その廃墟を遊び場としていたアナと鉢合わせてしまう。けれどアナはその男へ食べ物や父親のコートを渡して親切にしてやる。まるで映画の中の精霊と出会ったかのように。

しかし2人の交流はすぐに途絶える。深夜、恐らく警察だろう男たちに逃亡者の男は見つかり、翌日には廃墟に血痕を残して姿を消す。

 

逃亡者へ食糧やコートを渡していたことが知られたアナは問い詰める父から逃れるように森の中へ走り去り行方不明になってしまう。村人は総出で松明を持ってアナを探すが見つからない。

 

その夜、アナは森の中で眠り、精霊と出会う夢を見る。

翌朝アナは村人に無事発見されるが、家に戻った彼女は口も効かず物も食べない。

精神的なショックだろうと医者は判断し、大人になるにつれてこの出来事も忘れていくだろうと言った。

 

けれど、部屋で1人になったアナは窓辺に立って口にした。「私はアナ」と、あの呪文を。

大人たちの想定を他所に、精霊のこともあの逃亡者のことも決して忘れないと誓うかのように。

 

物語はアナの呪文と共に、彼らの家庭が少しずつ再生していく予感を見せながらエンドロールへ向かう。そんな、話。

 

アオキがそれを見たのはもう随分前、子供の頃のこと。父親が連れて行ってくれた映画館でそれを見た。

 

アオキの父親は寡黙で物静かで、休日もリビングのソファで本を読んだりたまに庭をいじったりしている大人しい人だった。

そんな彼の唯一の趣味がシネマ鑑賞で、ごくたまにふらりとミニシアターのようなところへ行って古い映画を見るのが好きだった。たまにその趣味にアオキを一緒に連れて行ってくれた。

 

そこで見た、今もなお覚えている数少ない映画の一つが『ミツハニーのささやき』だった。

この物語のなにが、どうして、どのように幼い頃のアオキの琴線にふれたのかは今もわからない。

 

アナが逃亡者とお別れしたのが悲しかったのかもしれないし、決して忘れないとアナが抗う様が綺麗に思えたのかもしれない。

もしくはもっと単純に、物静かな映画の雰囲気が恐ろしく感じられたのかもしれない。

ただ事実として、今も心の中に残っている。

 

映画を見終えた後、何故か涙をこぼしていたアオキへ父はその理由を問わなかった。

散々上着やスラックスのポケットを漁って、結局ハンカチを見つけられなかった父はシャツの袖を引っ張って、それでアオキの涙を拭いた。

その時に父の袖口から香った香水が、今はアオキの自室の棚にある。

 

 

 

 

「この映画ってあんまポケモン出てこないんだな」

 

映画の途中でふとヤシオはそう呟いた。ヤシオは毛布に包まったままで、プクリンは映画には興味なかったのか、彼の腕の中ですっかり寝入っている。

 

テレビの中で、主人公のアナは姉と共に線路のそばで遊んでいた。この線路はもうパルデアにはどこにも無い。失われた景色だ。

 

『ミツハニーのささやき』において、ポケモンはほとんど登場しない。

出てきたとしてもそれは背景に映り込んだ虫ポケモンや鳥ポケモンくらいで、まともに出てくるのはタイトルにもなっているミツハニーだけ。

そのミツハニーも舞台装置としての役割ばかりで、登場する時間も非常に短い。

今流行りのポケウッド映画のようにポケモンが主役になれる現代映画とはまるで異なる作品だ。

 

「……この映画は大体今より80年ほど前のパルデアの田舎町がモデルなんですが、その当時のパルデアというのは、政治的にかなり不安定なところがあったんです」

「ん?……ああ、うん」

 

ヤシオは自分の呟きにアオキが答えようとしてくれていることに気がついて相槌を打つ。それを受けて、アオキも言葉を続けた。

 

「国土のほとんどがかなり険しいこの地方において、人が生きて、近代文明を確立していくためには開拓が必要不可欠となります」

「……ガラルでいう産業革命とか、そういう感じのやつ?」

「はい。ですが当然のことながら、近代化のため街を作るにしろ、線路を引くにせよ、未開拓の土地へ人の手を入れるということはその自然の中で生きているポケモンたちの住処を奪うことでもありました」

「……そう、なっちゃうよな」

「とはいえ、近代化しなければ人が生きるには厳しい地方です。ポケモンを追いやってでも人が生きる場所を作るべきと考える者もいれば、ポケモンの行き場を奪って得た場所で生きることは正しくないと考える者もいました」

「うん……」

「上手く双方の意見を良い場所に着地させられたらよかったのですが、結果的に極端な考えと極端な考えで政治的に争うことになってしまった。……そして、結論として言えば、ポケモン排他派が政権を握ってしまった。その時期こそが、この映画の舞台設定です」

 

ヤシオは自分の腕の中にいるプクリンが今眠っていてくれてよかったな、と思った。彼女にはあまり聞かせたくはない話だ。

 

「排他派と言っても政権を握っていた時期はそう長くはありません。とはいえ、地域にもよりますが、ポケモンと共にいるだけで迫害を受けるような時期もあったそうです」

「……やだね」

「はい、本当に。アナの両親は、描写を見るに親ポケモン派として政治的活動を行っていた人々です。しかし結果的に敗れて心折れ、田舎町で養蜂家として暮らしている。……内心では今もポケモンを大切に思ってはいるものの、養蜂家としてミツハニーを育てる以外に共に生きる道を見つけられずにいて、……諦めてしまっています」

「……そういう仕事だからって理由をつけないと、人はポケモンと一緒にいられなかったってこと?」

「その通りです」

 

アオキの隣で話を聞いていたヤシオは、テレビをじっと見つめながらもプクリンを少し自分の胸に抱き寄せた。手放さないように、とばかりに。

 

「監督は親ポケモン派であり、政権批判としてこの作品を作ったとも言われています。しかし当時は当然親ポケモン的な表現のある書籍や映像は厳しく規制されていました」

「だからそもそも映画に出せねえんだ。ポケモンと一緒にいちゃいけないから」

「はい。そのため、登場するフランケンシュタインの怪物や逃亡者はポケモンのメタファーだと言われています」

「……めたふぁー」

「比喩表現のことです。本当はポケモンを登場させたいけど、できないから代わりに人が演じている怪物や逃亡者を出しているのではないか、と」

「ん、……アナは怪物と友達になりたいって思ってて、あの逃げてきた人と仲良くなってたけど、あれは本当はポケモンと仲良くなりたいってこと?」

「はい、あくまでも考察ですが。そしてアナという少女はパルデアという地方そのものの暗喩であり、結論、アナ(パルデア)怪物(ポケモン)と友達になりたかったのだ、とも」

 

映画の中で、それまでどこか硬い表情だったアナは廃墟の中で出会った逃亡者が手品を見せてくれたことで表情を柔らかく緩める。

 

……その夜、銃声を最後に逃亡者はこの廃墟から血痕だけを残して消えてしまうけれど。

 

「つまるところ、ただそれだけの祈りの映画です。いつかこの土地で人とポケモンが共に平和に暮らせますように、と」

「うん……」

「……話し過ぎました。映画の内容には関係のない話です。気にせんでください」

「ん……」

 

父親の手を逃れて森へ駆けていくアナの姿は、幼い頃のアオキにはある種の自由を得たようにも見えた。

隣に座る彼にはどう見えているのだろう。

どのような形であれ、家族という枠組みから離れた今の彼にとっては。

探ることはしなかった。問いかけることも、また。

 

「……これ、人に言ったこと無いんだけど、」

 

不意にヤシオはそう切り出した。映画は終わり、エンドロールが流れている。アオキは黙ってうなづいて、言葉の続きを促した。

 

「歴史の授業とかで、昔は王様とか、そういう地位が高い人が権力の象徴として、」

 

ヤシオはそこまで言ってから、小さな寝息を立てているプクリンの長い耳をぺたんと手で押さえて、微睡の中でさえ絶対に聞こえないよう耳を塞いだ。それから言葉を続ける。

 

「……プリンとかプクリンの毛皮を服に使ってたって話を聞いた時、オレはすごく……嫌だった」

「……はい」

「別に、関係無いし、ただそれだけなんだけど」

「その感覚は、理解できる気がします」

「だってさ、こんなにあったかいのに」

「それで充分です。だから大切にしたいと、それだけでいいんです」

「……ん。そう思った時のことを、ちょっと思い出しただけだから」

「……はい」

 

大したことではないと、なんでもないのだと、プクリンを抱きしめながら強がる少年を前に、アオキはそれ以上何も言わなかった。

ハンカチを持っていなかったから、かつての父のように伸ばした袖の端で彼の目元を黙って拭う。ヤシオは黙って、されるがままアオキの袖越しの指を受け入れた。

 

「映画はどうでしたか」

 

なんとはなしに、そう問いかける。そうすればヤシオは一瞬鼻を啜ってからアオキを見て答えた。

 

「つまんなかった」

「あ、はい」

「画面がずっと単調だし、セリフ全然ねえし、ストーリーよくわかんねえし、ポケモン出てこねえし、1人だったら寝てた」

「……否定はできないですが……」

 

ヤシオは素っ気無くそう言って、それからアオキから目を逸らして続けた。

 

「でもアンタの話が聞けたのは、ちょっと楽しかった」

「……それなら、よかったです」

「詳しいんだな、歴史とか。……ジムリーダーってそういうもん?」

「……そうですね、ジムリーダーはトレーナーとしての模範ではあるべきですから。それを差し引いても、この地方で長年ポケモンと共に暮らしている以上、知っておくべきだとは思っています」

「たまにちゃんとしてんな」

「……普段ちゃんとしてないみたいな言い方……」

「……あのさ、アオキさん」

「はい」

「……気を悪くさせたらごめんなんだけど……」

 

ヤシオはそう言い淀んでから、いくらかの間を置く。

アオキはそれを黙って待った。

何度かの躊躇いの後にヤシオは再度口を開く。

 

「……多分、オレはこういうふうに映画を見たりとか、その後にゆっくりと話をしたりとか、そういうことを、母さんとしたかった……んだと思う……」

 

少年は俯きながらそうぽつりと呟いて、グッと何かに耐えるような顔をした。それからハッとして、顔を上げてアオキを見る。

 

「ちがう、アオキさん、あの、オレは、アンタと話したくなかったとか、どっちが上とか下とか代わりとか、そういうんじゃなくて、」

「大丈夫です。わかってます。……今日自分とそうしたように、ご母堂ともゆっくり話すタイミングが欲しかった、というだけのことでしょう」

「……うん」

 

一瞬内心に生まれた躊躇いをアオキは踏破して、これまでずっと触れないでいようと思っていた部分に足を踏み入れる。

本当はずっと考えていた。

ヤシオの家庭のことについては、部外者である自分は関わらない方が良いのではないか、と。

 

何故、その考えを改めたのか、その理由は自分が一番わかっている。

アオキは確かに部外者だが、けれどもう他人ではないから。

ヤシオという少年のことをもう他人だといって、手を振り払うことなどできなくなってしまった自分に気がついているから。

静かに口を開いて、踏み込み、問いかける。

 

「……ヤシオは親御さんとこうやってゆっくり映画を見て話す機会はなかったんですか?」

「ん、無かったな、今思えば。なんていうかさ、そもそもうちはオレが6歳の時に円満離婚したんだけど、」

「ちょっとストップしてもらっていいですか」

「あ?なんだよ」

「いえ、自分の辞書には円満離婚という言葉が載ってなかったので……」

「んーとさあ、オレが生まれた時に両親が話し合った結果、オレが6歳になったら離婚するって、そういう前々からの約束だったらしいぜ」

「…………」

 

ちょっと思ってたより前提が重いな?とアオキは思った。

新しい家族とうまくやれなかったとかそれ以前の問題な気がしてきた。

というより、これはそもそも……

 

「で、話戻すけど、離婚してからは母さん仕事で忙しかったからさ。仕事行く前とか帰ってきてからとかに話をしたりはしたけど、どっか旅行に出かけるとかそういうのはあんまりだったかな」

「……ちなみに6歳以前に父親とは……」

「もっとねえな。あの人、家にいたことほとんどないから。今会ってもわかんねえかも」

「…………」

「あ、でも思い出した!ちっちゃい時に母さんとガラルのリーグ戦を見に行ったことはあんだよ。2部リーグだったけど、当時のオレからしたらそんなの関係ないし、でっかいスタジアムでポケモン勝負が見れてすげえ楽しかった」

「それは、よかった」

「うん、トレーナーになりたいって言ったら応援してくれたし、オレが急にププリンを連れて帰っても怒んなかった。一緒に暮らしていいって!オレそん時すげえ嬉しかったんだよ!」

「……はい、それはよかったですね」

 

ヤシオは目を覚ましたプクリンを撫でて抱きしめて、子供みたいに笑う。

その笑顔を向けられて、アオキはなんとなく底冷えするような感覚を覚えた。

 

自分がかいた汗が冷えて、寒気がする。

薄々察していた核心に触れかける。

 

ヤシオは母親からは愛されていた。

その自認に間違いはないだろうし、母親もまた女手一つで彼を大切にしてきたのだろう。それはいい。そこじゃない。

 

問題は、結局のところヤシオが知っているのは母と子の関係だけだ、という点だ。

 

一対一の、完結していて、閉鎖的な関係。

家族というコミュニティというものは、それ自体が家の内部で完結するがために閉鎖的になってしまう。

それは仕方のないことだと言えるだろう。生活のルーティンや家特有の食事の味付けのように、自分の家の普通が自分にとっての常識になるのは誰だって経験があるはずだ。

 

だからこそ、知らない。

ヤシオは母子という親子関係は知っていても、家族という複数の人間による閉鎖的な関係性を知らない。

父親を知らない、兄を知らない、姉を知らない。

 

……つまるところ『家族』というコミュニティを知らない。

『家族』という関係性がどうやって構築されて運営されていくのかを一切知らない。

 

そんな人間が、新しい環境で急に他人を『家族』として扱うことなんてそうそうできるわけがない、という話だ。

 

ずっと疑問に思っていたのだ。

人数の程度の差はあれど、ヤシオの新しい家族もアオキも、ヤシオにとっては出会ったばかりの異物だ。

居心地の悪い他所の家、その中をうろつく見慣れない他人、嫌でも他人に気を遣う環境……その条件はガラルもパルデアも変わらない。

 

なのにどうして、ガラルの新しい家族とはうまくやれなくて、アオキとは上手くやれたのか。

 

それはパルデアではアオキとヤシオが一対一の関係性だったから。

そして、アオキが『家族』では無かったから。

おそらく、ここに帰結する。

 

……出会ってすぐに師弟関係を構築したことが大きな分岐点になっていたとは思わなかった。

 

とかく、家族を知らない子供が、右も左もわからないまま『家族』というコミュニティを受け入れようとした。

当然、無理に決まっている。少なくともヤシオにはそれができなかった。

だって知らないのだから受け止められるはずもない。受け入れ方を知るわけがない。

飛び方を知らない人間の背中に急に羽をつけたからといって飛べるようになるわけじゃない。知らないのに飛ぼうとして崖から踏み出し、失墜した。ただそれだけの、当然の結末。

 

けれど、それに大人が気がつかないのも無理はない。

だって普通なら知っているから。

他の大人は『家族』を当たり前のように知っているから、知らない人間の視点など持てなかった。飛べる側に飛べない側のことなど理解できるわけもない。段々と慣れて行くと、いずれ理解ができると、時が解決すると、そう思い込んでしまう。

 

その果てに生まれた断絶だ。

そしてきっとそのことに、ヤシオは気がついていない。

 

「……あのさ、アオキさん」

 

少しの喜びと照れを滲ませた表情でヤシオはアオキの名前を呼ぶ。

……どうしてだろうか、その口を今すぐ手で塞いでしまいたい気分だった。

 

「アンタには迷惑だっただろうけど、オレ、ここに来て良かったって思うんだ」

「……それは、どうしてですか」

 

ヤシオは素直に笑みを浮かべて、言葉を続けた。

 

「だってさあ、初対面のアンタとなんだかんだこうやってうまくやれたんだぜ?次帰った時はきっと今度こそガラルの新しい家族とも上手くやれる気がすんだ」

 

……そう屈託なく相好を崩す少年を前に、一体誰が否定の言葉を吐けるというのだろう。

 

あなたの夢は叶わない。家族を知らないあなたはきっとまた、あの時と同じ痛みを繰り返す。

……なんて、言えるわけもない。

 

「……そう、だと、いいですね」

 

映画を思い出した。

父親の手を逃れて森へと逃げて行くアナの姿。

いつか、子供の頃の自分はそんなアナを見て自由を夢想した。

 

けれど、今になって思う。

 

あの時の父親は、守るべき大切な我が子が己の手を振り払って危険な森へと走り去っていくのを、一体どんな心地で見ていたのだろうか、と。

 

 



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ディオネア・フューチャー

 

翌日にはすっかり熱が下がりヤシオはすっかり元気になった。

だが、アオキは師匠権限で週が明けるまでは家で安静にして、家事もしないことを約束させた。ヤシオからは非常に不満げな顔をされたが。

 

「飯作るくらいいいだろ」

「朝と夜は自分が用意しますし、昼は適当に出前をとってください」

「……オレ昨日超汗かいたから寝巻きとか洗わないといけねえし」

「土日に自分がまとめてやるので大丈夫です」

「やることなくてヒマじゃん!」

「手持ちの子を構ってやってください。あなたのことをとても心配していたので」

「ん……そうだけどさあ」

「……それに自分も心配なので。仕事に行っていて目の届かない分、家で安静にしていてくれませんか」

「…………なんだよ、もう」

 

渋々といった様子で、しかしヤシオは安静にすることを約束してくれる。

やはりストレートに感情に訴えられるのに弱いらしい。チョロい……と思うと同時に、そういうところだぞ……とも、思った。

 

 

 

 

そんなわけで木曜は休みを取ったが、翌金曜には仕事へ向かったアオキ。

しかし彼には金曜、どうしてもしないといけないことがあった。

いや実際はどうしても金曜にしなくてはならないわけではなかったが、思い立ったが吉日というやつだ。

 

「本日は急なお呼びたてにも関わらずお時間いただきありがとうございます、ハッサクさん」

 

ポケモンリーグ本部にある会議室で、アオキとハッサクはテーブル越しに向き合っている。

仕事の話ではないから業務後で構わないと言ったアオキへ、1on1という名目で時間を空けてくれたのはハッサクだった。

 

「構わないのですよ!むしろアオキが小生を頼ってくれて嬉しいくらいですとも」

「はい。では、さっそく本題なのですが、パルデアでの養子縁組についてご相談したく呼びさせていただきました。実の両親が健在である未成年の養子縁組を進めるにはどういった手順から始めるべきでしょうか」

「アオキ」

「はい」

「ちょっと待ってくださいです」

「はい」

「……え?」

「はい」

 

これにはハッサクも困惑した。

普段は大人しく面倒ごとを嫌う同僚から、面倒ごとの塊のような相談をされたのだから。

 

前提を把握し切っていないハッサクはいったんちょっと待ってとばかりに掌をアオキへ向けると考え込む。

実の両親が健在である未成年の養子縁組……?どういう……あ、えっ?

数秒のシンキングタイムの後に口を開いた。

 

「……もしかして、虐待児の保護の話をしていますか?」

「いえ、違います。実の両親が健在である未成年を養子にする方法について伺っています」

「……理由を聞いても?」

「……?……実の両親が健在である未成年を養子にしたいからです」

「……え?……ええと、何故養子にしたいのですか?」

「………………その子供の生育に、親や家族という関係性が悪影響を与えると思ったから……でしょうか……」

「……ほう、なるほど……」

 

なるほどと言いつつハッサクは正直、アオキが何を言っているのか全然わからなかった。

 

とある子供にとって親や家族という関係性は悪影響だ。

けれど、その子の親や家族にはなりたい。

……明らかに矛盾だ。

しかしアオキの様子を見るに、そんな矛盾した発言をしていることに彼自身が気がついていないようだった。

 

流石になんか変だな?と思ったハッサクは一旦アオキから話を聞くのではなく、話を引き出す方向に切り替える。

 

同僚して交流していくうちに知ったことだが、この自称『平凡』な同僚は驚くほど我が強い。

下手に真正面から否定したり、異なる意見をぶつけると2度とこちらを頼らなくなる可能性があった。

それは避けたい。アオキとハッサクの関係が崩れるだけならいいが、なまじ子供に関わる分下手なことはできない。

ハッサクはこれまでの人生の経験をフル活用して慎重に質問を考え、口にする。

 

「相談にあたって齟齬のないよう確認したいのですが、その子供というのは以前飲んだ時にお話ししてくれた、ガラルから来た親戚の子であっていますですか?」

「はい。……酒の席ではありがとうございました。ハッサクさんの言っていた通りです。内心ではずっと、自分はあの子にとっての最善では無いと、だからこそより良い場所や人があるのなら彼をそこへ行かせるべきだと思っていました。ですがハッサクさんの言っていた通り、そんなまるでいつか放り出すかのような思考で向き合うのは良くなかったです。腹を括って自分の子にします」

 

……あれ?これ、養子縁組という突拍子もない思考に行かせたのは小生の発言のせいってことでは?

 

……いや、まだ話を聞いていない。

もしかしたら、アオキの突拍子もない思考にもきちんとした理論や順序があるのかもしれない。ハッサクは居住まいを正した。

 

「そ、そうですか。では念のため確認しますが、アオキ、大前提としてその少年との同意は取れていますですよね?」

「…………」

 

露骨に目を逸らされた。ダメそうだ。

流石のハッサクも説教モードになる。

 

「……アオキ、随分と思考ばかりが先走りましたね」

「ですが、ヤ……彼は自分によく懐いています」

「だとしても同意が取れていないのであれば話は進められません。今のあなたの考えは誘拐の思考とさして変わりはないのですよ」

「……今日はあくまでもそうする必要になった時に適切に対応できるよう準備をしたいというだけの話です……」

 

本当か?とハッサクは怪しんだ。

怪しんだが、ここでこちらが頑なになれば我が強いアオキもまた頑なになって2度とこの話を振られなくなるかもしれない。

ハッサクは自分が折れたように装いながら、話の主軸を別の方向へ誘導させようとする。

 

「……はあ、わかりました。とはいえ、大前提として相手との同意を取ることと、法に触れない手段であることを守ってくださいですよ。それが普通なのですから」

「……それは、そうですね……はい」

 

普通という言葉を持ち出せば、アオキは一瞬動きを止めて、それから微かに理解を示したような顔つきを見せた。

普通を好む彼がそれを忘れて逸脱しようとしたのだから、ある意味では相当のことがあったのだろうと察することはできる。……それはそれとして、だいぶ頭のネジが外れているような気はするのだが。

 

「……確認したいのですが、養子にしたい子というのは以前の酒の席で話をしたガラルから来た15歳の少年のことであっていますか?」

「はい、その通りです」

「確か、あなたは言っていましたですね。彼は年相応に無知なところはあるものの、善良で思いやりのある少年だと」

「ええ、今もその認識に変わり無いです」

「ところでアオキ、今後結婚の予定は?」

「……ありません。……確かに養子縁組の審査において、受け入れる側が夫婦であることは優位に働きます。しかし結婚していることが絶対の条件では無いことは確認済みです」

 

独身であるということが養子を受け入れる側としては不利な条件になるのではないかと遠回しに指摘されたと思ったのか、アオキは先回りするようにそう答えた。

ハッサクは苦笑しながら否定するように首を横に振る。それから再度口を開いた。

 

「いいえ、制度や条件はどうだっていいのです。それよりも問題は『負い目になる』可能性の方です」

「……負い目、ですか」

 

呟くアオキにハッサクはうなづいた。

 

「もしあなたの言う通り、その子が善良で思いやりのある人ならば、あなたが少年のために手を尽くすことへ彼が罪悪感を覚える可能性があることを忘れてはいけませんですよ」

 

ハッサクは、他人に「その人はどんな人なのか?」と聞かれた時に答える性格こそがその人に対する最も強い印象だ、と考えている。

 

上記の質問をされて「物静か人だ」と答えるならば、回答者にとってその人物はよほど物静かな印象が強かったのだろうし、「怒りっぽい人だ」と答えるならば、きっと相手を怒らせた経験があったり、怒っている姿の印象が強く残っていたりするのだろう。

 

アオキは「善良で思いやりがある」と言った。

きっと、そう思うに至った理由があるのだろう。

ましてアオキはそれなりに人生経験のある大人であり、中立中庸な質の人間だ。人間の持つ優しさや思いやりなど既に知っている。

知った上で、その少年をそう評したのだ。きっとよほどだ。

 

そしてハッサクの教師としての経験上、他者への思いやりが強い人は反面、自罰的な面を持ち合わせていることが多いことを知っている。

誰かを思いやれる分、周囲に過剰に気を遣ったり相手の心理に合わせてしまったりするのだろう。

その自体は誰にでもある感情だが、問題なのはそれを過剰に持ち合わせ過ぎてしまうことだ。

 

「15歳の養子を引き取るとなると、アオキ、あなたの人生も大きく変化してしまいます。結婚したいと思っても子を持っているということが障害になるかもしれないし、仕事の幅も狭くなってしまうかもしれない」

「……その程度、自分は構いませんが」

「あなたはそうかもしれません。ですが、その少年の立場になってみるとですよ、あなたのような働き盛りの男性が、たかだか数ヶ月前に出会った自分のために己の人生を犠牲にしようとしているように見えてしまうのではないですか?」

「…………それは……」

「恋愛も結婚も仕事も、たとえアオキが自身の意思で選ばなかっただけだとしても、そういう性格の人からしてみれば『自分がいたせいで己の人生を選べなかったのではないか?』と考えてしまうものなのですよ」

 

そして『自分のせいなのではないか?』という疑問は、程度はあれど『自分さえいなければ……』という自己否定の思考に移りやすい。

 

……とまあ、色々言ってきたが、果たしてその少年が本当にそういう質なのかは会ったことも話したこともない以上ハッサクにはわからない。

だが、暴走するアオキをやんわりと止めるためにも子供側の視点から情に訴えかけてみることにした。

 

そんなハッサクの目の前でアオキはじっと固まって長考している。若干ハラハラしつつ、ハッサクはアオキの反応を待つ。

そうしていくぶんかの沈黙の後、アオキは小さく口を開いた。

 

「……確かに、そういう思考に至ってもおかしくないような子ではあります」

「そうでしたか」

「あの子と2人で話し合ってみようと思います」

「ええ、小生もそれが良いかと」

「相談に乗ってくださりありがとうございました」

「気にしないでくださいですよ」

「ところでこちらは養子縁組申請の書類なのですが、ハッサクさん、念のためサインをいただけたりしますか」

「いただけたりしませんです。アオキ、順序」

「……はい」

 

チッ、ダメか……みたいな感情が透けて見えるアオキを叱りつつ、その書類はハッサクが預かることにした。怖いので。何がとは言わないが、怖いので。

 

それからハッサクは生まれた老婆心のまま、口を開く。

 

「小生が言うのも変な話かもしれませんですが、あまり『家』や『家族』という枠組みにこだわる必要もないと思いますですよ」

 

そこからなんとか逃げおおせたハッサクの生存バイアス故の意見だと言われたら何も言えないが、家や家族というコミュニティには良い面もあれば、当然悪い面もある。

その良い面に救われる人もいれば、悪い面に押し潰される人もいる。ただそれだけのことだ。片方だけを見て正誤を判断できるほど容易いものではない。

 

けれども少なくとも、絶対に『こうでなくてはならない』という決まった形など人生には無いのだ。

だから、人は自由に好きな場所で在りたい自分のまま生きていい。

 

「何も親や家族という在り方に拘らずとも、アオキにとっての最善でその少年の力になってやればよいのですよ」

 

そう言って微笑むハッサクに、アオキも思うところがあったのか、微かに眉間に皺を寄せながらじっと黙り込む。それから「……少し、考えてみます」と小さく呟いた。

 

 

 

 

 

 

さて、その日は定時で上がって帰宅したアオキ。

自宅のリビングにやってくると、アオキの言葉に従って今日は大人しくしていたのだろう、普段ならキッチンに立っているヤシオがソファの上で丸まって昼寝をしていた。

昼寝といったが、もう昼というか夕方を過ぎて夜になりつつある時刻だ。

 

ヤシオが眠るソファのそばにはプクリンがいて、アオキがリビングに入ってくると手を上げて「プリ〜」と笑顔を見せる。アオキも「はい、ただいま帰りました」と答えた。

 

ブランケット一枚を纏ってソファで心地良さそうに眠っているヤシオを起こすのは少し申し訳ない気持ちがあったが、あまり寝過ぎても夜眠れなくなる。そう思って彼の肩を軽く揺らして起こした。

 

「ヤシオ、起きてください」

「……ん、んん………」

「お待たせしました。晩飯を宝食堂で買ってきたので食べましょう」

「……アオキ、さん」

「はい」

「おかえり……」

「ただいま」

 

寝ぼけ眼のヤシオは唸りながら伸びをしつつソファから起き上がる。それからおそらく無意識だろう、そばにいたプクリンをよしよしと撫でた。撫でられたプクリンは喜んでソファに上がりヤシオに抱きついてはもっと撫でろと要求している。

 

……ヤシオとプクリンの交流を見るたびに、アオキはイエッサンの笑顔とサムズアップが脳裏をよぎるようになってしまった。

そのイエッサンはヤシオが起きたのを見て、彼が包まっていたブランケットを回収して丁寧に畳んでいる。多分内心ではフィーバー状態なんだろうな、と思った。

 

それはさておき、まだ眠そうな顔ながら目を覚ましたヤシオは改めてアオキへ声をかけた。

 

「アオキさん、おつかれ」

「ありがとうございます」

「……なあ、オレ今日マジでなんもしてねえんだけどいいんかな」

「たまにはそういう日もいいでしょう」

 

大きな欠伸をするヤシオに、アオキはふと問いかけてみた。

日中にハッサクとした話。それから、ハッサクにされた「同意」と「順序」のことを思い出す。

逆に言えば、順序を守る第一歩としてきちんと同意が取れれば、あの人ももう何も言わないということだろう。

 

「……ヤシオ、これはもしもの話なんですが、」

「なんだよ、急に……」

「もし、自分があなたの父親だったらどう思いますか」

 

アオキはヤシオの瞳を見て問いかけた。

もしも彼がそれを良しとしてくれるのならば、そういう未来があってもいい。アオキはそう思った。

犠牲などではなくて、2人で選んだ一つの選択として。

 

ヤシオはアオキの問いかけに不意を突かれたように一瞬キョトンした顔をする。

それからふっと柔らかく笑ってその唇を開いた。

 

「えー、ムリ。絶対やだ」

 

笑顔で普通に拒否された。

まあ、現実なんてそんなもんである。

 

「………………そう、ですか……」

 

しかし、ノータイムで「ムリ」「絶対」「やだ」のコンボは流石に効いた。素直にちょっと悲しい。

肩を落とすアオキに、ヤシオは楽しそうに笑いながら続けて言った。

 

「だってさあ、アオキさんはもうオレの師匠じゃん。父親なんかより絶対そっちのほうがいいし」

 

……アオキは家族というコミュニティに守られて生きてきた側の人間である。

だからこそ、同じようにヤシオに守るのならば家族になるべきだと思った。

それが責任であり、彼に対する誠実さだと思った。

……思っていた、けれど。

 

「……ヤシオ」

「ん、なに」

「……光栄です」

「は?なにが?脈絡なさ過ぎて怖」

 

よく考えてみれば、父親というものはなろうと思えば子供の同意なくなれる──だから実際ヤシオには彼が望まずとも実の父親と義理の父親がいるのだ──が、師匠は弟子側の同意と意思がなければなれない。

 

弟子から望まれたからこそ、師匠になれる。

 

つまるところ、父親より師匠のほうがすごい。

超すごい。

超えらい。

かっこいい。

勝ってる。

 

そしてヤシオの発言からして、彼にとっても父親より師匠のほうが上らしい。

それに気がついて、アオキは少し、いや、まあまあ、かなり、結構、がっつり自尊心がくすぐられるような心地があった。

 

元より案外プライドの高い所があるアオキだ。常より気に入っていて、将来性を見込んでいる少年から素直に懐かれれば悪い気などするはずもない。

微かに満足げな顔をしながら、ヤシオの視線に合わせて屈んでいた背中を伸ばして立つ。それから口を開いた。

 

「……晩飯にしましょうか」

「それはいいけど、結局さっきの質問なんだったんだよ……」

「いえ、職場でそんな話題が上がったので試しに聞いてみただけです」

「ふーん?」

 

よくわかっていないながらもそれ以上突っ込む気のないヤシオに、アオキは(晩飯の弁当の唐揚げをあげよう……)と思った。

 



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てんしのキッス


トレーナーとポケモンがとっても仲良し♡な表現が出てきます



 

とある日のこと、アオキが仕事を終えて自宅に帰ると、いつも通りヤシオが夕食の準備をしていた。

 

「ただいま帰りました」

「ん、おかえり」

「今日の晩飯はなんですか?」

「ハンバーグ。デミグラスのやつ」

「最高ですね……」

 

帰宅したことを伝えるためにダイニングキッチンに顔を出して声をかける。普段通りの会話、普段通りのキッチン。そこに一つだけ、目新しいものがあった。

 

ダイニングテーブルの上に置かれたグラスと、そこに挿された数本の花。

花屋で売っている売り物の綺麗な花というよりは、野原で摘んできたような、そんな素朴さのある可愛らしい花だった。

 

「……こちらの花は?」

「ああ、今日もらったんだよ。せっかくだし飾った」

「はあ、頂き物でしたか……」

「おう」

「……女性から、ですか」

「え?いや女性っていうか、ポケモンだよ。前に野生のラッキーが怪我してたから手当してやったらお返しにって、今日くれた」

「ああ、なるほど……道理で……」

 

道理で、リビングでパンチグローブを嵌めたプクリンがイエッサンと共にスパーリングしている訳だ。

 

「プリィ!プリィ!プリャァ!」

「ぎゅ!きゅきゅ!」

 

決して物理的な攻撃力は高くないはずのプクリンだが、その小さな手でイエッサンが構える防具へ向かって撃つパンチは重く鋭い。

短い間隔でスパァン!スパァン!というパンチの音がリビングに響いている。

いつも笑顔な彼女が殺気立っているところからも、その真剣さがわかるだろう。

 

2匹の周囲にはアオキの手持ちの中の女性陣がいて、プクリンを応援するように鳴き声を上げたり、羽を広げたりして激励を飛ばしている。

 

それよりもっと離れたところで男性陣は若干怯えたような顔でそんな女性陣を見つめていた。

ワッカネズミに至っては部屋の隅で互いを抱きしめ合いながら震えている。アオキもちょっと怖いなと思った。

 

「……あの、ヤシオ、プクリンは大丈夫なんですか?」

「あー、あれのこと?ストレス溜まってんのかな。たまにああいうことすんだよ」

「たまに、あるんですね……」

 

……いうまでもなく、プクリンはヤシオのことが好きだ。

 

いつもヤシオにくっついているし、抱っこされたがるし、ヤシオがいないと寂しがるし、ワッカネズミが手持ちに加わった時はヤシオが彼らに構っているのを見て怒っていたし、ヤシオがオドリドリを「可愛い」と言った時も嫉妬していた。

 

出会った当初の彼女の印象は『ヤシオの姉役』だったが、プクリンへの現在の印象は『束縛が激しいガールフレンド』。それに尽きる。

 

大変そうだなと思うが、慣れているというのもあってか、ヤシオは一切気にしていないようだ。

ヤシオもプクリンには何かと構っているし、非常に可愛がっている。相思相愛と思っていいのかもしれない。ややプクリン側からの愛が重い気もするが。

 

とかく、ヤシオのことが大好きなプクリンだ。

彼女は彼に近づく有象無象を決して許しはしないだろう。

 

まして、恋仲となるとさらに厳しそうだ。

お相手が相当プクリンに気に入られない限り、ヤシオに恋人ができる日は来ないだろう。自分が一番に優先されない状況をプクリンが良しとしないに決まっているから。

 

それにプクリンが良くても第二の壁としてイエッサンがいる。彼女もまた強火な女性である。

 

……改めて認識したが、ヤシオはなんだかものすごくクセの強い女性に囲まれている気がする。

 

そんなヤシオへ花を贈る女性──まあ、ポケモンなのだが──が現れた。

プクリンとイエッサンとしてはもう気が気ではないだろう。そりゃあスパーリングもする。最終的に全てを解決するのは圧倒的な『力』だからだ。

 

「アオキさんもいつまでも見てねえで着替えてこい。プクリンたちももう遊ぶの終わりにしろよ、メシの時間だぞ」

 

プクリンたちを(ワア……)と思いつつ眺めていたらヤシオに怒られた。

プクリンたちもヤシオから遊びは終わりと言われているが、多分彼女たちからしたら決して遊びなどではないのだろうと思う。

 

とはいえ、ヤシオから声をかけられたプクリンは途端にきゅるるんという瞳でヤシオに駆け寄ってその脚にしがみついた。

 

「ん、プクリンどうした」

「ププ」

「飯にするからもう遊ぶの終わりにしような」

「プリ!」

「おし、いいこ」

「プリュ〜」

「なに?だっこ?はいはい」

 

ヤシオは強請るプクリンを抱き上げては撫でてやる。プクリンはヤシオの肩口にしなだれかかって満足そうだ。

 

そうやって好きな人の前で露骨にかわいこぶってアピールするプクリンは一周回って物凄くいじらしい気がしてきた。

反面、その様子に一切気がついていない、もしくは気がついていてもあっさりスルーするヤシオのほうが唐変木なのかもしれない。

ぼんやりと彼らの関係性を眺めていたらプクリンを抱き上げたヤシオと目があった。

 

「飯だっつってんだろ!とっとと着替えてこい!アンタのハンバーグだけソースかけないで食わすぞ!オラ!」

「えっ……」

 

足で尻を蹴られた。自分には急に厳しい……。

 

 

 

 

 

夕食はヤシオが言っていた通り、煮込みハンバーグだ。

ナイフがなくとも箸だけで切れるくらい柔らかいハンバーグにはキノコがたっぷり入ったデミグラスソースがかかっていて、単独でも十二分に旨いが白米と共に口に入れると極上だった。付け合わせの焼きアスパラやポテトサラダ、人参のグラッセも付け合わせと呼ぶには勿体無いくらいだ。

旨い……と、いつもながらじんわり感動しながら味わう。

そんなアオキを見て、ヤシオはちょっと笑った。

 

食べている時は喋らない派の2人が無言で食べ進めていると、ひと足先にリビングでの食事を終えたプクリンがやってきた。

 

彼女はヤシオの隣の椅子に腰掛けると、黙ってテーブルの上の花瓶を眺める。

眺める……というよりは睨みつけているといってもいいかもしれない。

大口で白米を食べていたヤシオはプクリンの視線に気がつくと、箸を置いて小首を傾げた。

 

「花、気になんの?」

「……プ」

 

ヤシオは花瓶に手を伸ばすとそこから黄色い花を一つ手に取る。それからその花をプクリンの長い耳の付け根に結ぶようにそっと飾った。

 

「プ!?」

「ほら、可愛いよ」

「プ……プリゥ……」

「ん、やっぱプクリンはなんでも似合うな」

「ンクゥ……」

 

他の女から貰った花を飾られて、プクリンは一瞬怒ったように膨らみかけた……けれど、ヤシオが「可愛い」と褒めたがためにあっさりと陥落して頬を赤らめる。

熱くなった頰に手を当てて恥ずかしがるプクリンへ、ヤシオは「なに照れてんの?」と言いながら頭を撫でて微笑みかけた。

 

アオキはそれを真正面から直視して(ワ……ワ……!)となった。

 

ナチュラルボーン女誑し。これはプクリンも彼女面する。こんなお姫様扱いされて彼女面しないわけがない。むしろヤシオが彼氏面していると言ってもいい。これはヤシオが悪い。

 

「……ヤシオ」

「ん、なんだよ」

「……過去に女性関係で揉めた経験は無いですよね」

「は!?ねえよ!あってたまるか!」

「誰にでもこんなことを……?」

「こんなことってなんだよ!褒めただけだろ!」

「今のは褒めるって言わんでしょう……口説くが正しいかと……」

「正しくねえよ!」

「念のため、プクリンとの関係性を確認してもいいですか」

「何を確認するってんだよ!トレーナーと手持ちに決まってんだろうが!ねえ、プクリンもなんか言ってやって……」

 

プクリンは椅子の上に立つと、ヤシオの肩に両手をつき、ちょっと背伸びをして、少年に顔を寄せる。

それから無防備なその頬へふれるだけのやわらかいキスをした。

 

「え?」

 

びっくりした顔のヤシオと目があったプクリンは、ふにゃりと嬉しそうに笑う。それから椅子を降り、どこか楽しげな足取りでダイニングを去っていった。

 

「……え?」

 

頬に残る柔らかい感触。ヤシオは思わず確かめるように、ふれられた箇所を指先で撫でる。

ダイニングに残された男2人、顔を見合わせた。

 

「お、」

「えっ!?えっ!?なに!?これ、おれ、え!?」

「おめでとうございます……」

「なにが!?ねえ!なにが!?」

「ププリンの頃から一緒なんですよね……距離が近いが故に気が付かなかった感情に思春期になってから気がつく……すごい……幼馴染モノの真骨頂を見ました……」

「やめろや!!!!」

「見てください、イエッサンの姿を」

「は!?……ってイエッサン!?なんで!?」

 

一部始終を見ていたイエッサンはリビングの真ん中で良い笑顔(グッドスマイル)のまま倒れ伏していた。

そんなイエッサンにちょこちょこと近づいたワッカネズミは彼女の様子を確認してから、ヤシオへ顔を向けて静かに首を横に振った。手遅れらしい。

手持ちたちの異常事態に顔を真っ赤にしてパニックになったヤシオが喚く。

 

「ねええ!!!もおお!!意味わかんない!!アオキさんが変なこと言うから変な空気になったあ!!!するじゃん!!ちゅーくらい手持ちとするじゃん!!!するって!!!するよ!!!ほらおいでワッカネズミ!!!昨日もおやすみのちゅーしたじゃん!!首を横に振るな!!!来い!!!今更照れんな!!もじもじすんなーー!!!」

「……ヤシオ、責任という言葉を知ってますか」

「アオキさんのバカ!!!!!」

 

ヤシオは立ち上がると食事の途中なのも気にせず早足でダイニングを出る。

 

「ヤシオ、どこへ」

「プクリンのとこ!!!」

 

バタバタと足音を立てて2階へ向かっていくヤシオに、リビングの女性陣がワーキャーと沸き立つ。

いまだに倒れているイエッサンは唇を噛み締めたまま笑顔でサムズアップしていた。ワッカネズミは静かにお互い抱きしめあっている。もうめちゃくちゃでてんやわんやだ。

アオキは内心で面白がりながら、マイペースに食事を再開した。

 

その時、女性陣の輪をうまく避けてダイニングにムクホークがやってきた。彼はアオキを何か言いたげな顔で見つめる。

相棒のその表情に思わず相好を崩して腕を差し出すと、ムクホークは黙ってアオキの腕に掴まった。一度バランスを取るように大きく翼を広げて、閉じる。それから跳ねるように肩の方へ移動した。柔らかい羽毛がアオキの頬に触れる。

 

「……少しちょっかいをかけすぎましたかね」

「…………ピィ」

 

嘴の丸みを帯びたところで軽く頭を叩かれる。

流石にやりすぎじゃないか、と。

 

アオキの手持ちの中でもムクホークは一番のしっかり者で、世話焼きだ。ヤシオのこともプクリンのことも後輩としてよくよく可愛がっている。それ故の苦言だろう。

 

「でも、見えている地雷なら早めに除去したほうがいいに決まっているでしょう?人とポケモンの関係は時折難しいところがありますし……」

「ピュイ……」

「何よりヤシオの今後の人間関係に関わりますから、彼らは一度腹を割って話したほうがいい」

「……キュ」

「荒治療なのは……まあ、否定はしません」

「キュイ」

「ふふ、そうですね」

 

アオキの頬へ自身の頬を擦り寄せてくるムクホークをアオキは静かに受け入れた。その柔らかな感触を楽しみながら、応えるようにムクホークの嘴へ自身の唇を当てる。

 

リビングの喧騒を他所に、静かなダイニングでそっとスキンシップを取るアオキとムクホーク。

 

それをダイニングの入り口で目撃してしまったワッカネズミは思わず赤面して互いの目を塞ぎ合った。

 



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真夜中のムーンロマンス

 

これは私の眼がまだ赤く、生の意味さえ知らなかった頃の話だ。

 

自分がどこで生まれたのか、私は知らない。

物心がついた頃にはすでに孤独であった。

群れを逸れたのか、あるいは群れが絶えて自分だけが生き残ったのか、そもそも群れで生まれたわけではないのか。

答えを知る術は最早なく、実のところさして興味もない。

 

しかし野生として生を得た幼き頃の私に、世界は厳しかった。

群れに守られることは無く、まして鋭い牙や爪を持たない小さな生き物が一体どうやって生き延びていくというのだろう。

 

他の群れの縄張りを避け、強い個体から身を隠し、落ちて腐りかけた木の実を口にし、泥水を啜り、時に強風に飛ばされまいと嵐の夜をずっと木の根を掴んで過ごしたこともある。常に気を張り、満腹を知らず、眠りを恐れた。

ただ生きるために生きていた。

死にたくなくて生きていた。

他に生きる理由なんてなかったから。

 

そんな日々の果てに、判断を誤った私はうっかり他の群れの縄張りに足を踏み入れてしまう。

 

当然、その群れに襲われた。

初めこそ私は手を振り回し、短い足で必死に走って抵抗する。

けれど多勢に無勢、数の暴力に勝てるわけもなく、やがて私は囲まれた。力無く倒れるしか無い私を追い出そうと彼らは攻撃をする。

その場を離れようにも歩けず、攻撃されては立ち上がることさえできない。

 

次第に私は……諦めた。

倒れ伏したまま、傷つけられることを受け入れた。

その果てに命を落とすことさえも、弱者ゆえに当然の結末だと。

そうして私は全てを手放すように目を瞑った。

 

その時である、私の運命がやってきたのは。

 

運命は頼りない細い木の枝を手に走ってくると、鋭い爪を持つポケモンの群れに立ち向かった。

大声を出して、木の枝を振り回して威嚇すると、怯んで離れた群れから私を抱き上げ、すぐに再度駆け出す。私は曖昧な意識のまま、彼の腕に抱き締められていた。そこで体力は尽き、意識は消える。

 

次に意識を取り戻した時、私は人間の暮らす街にある建物──後にここがポケモンも保護・回復するポケモンセンターという施設だと知る──にいた。

私は混乱したが、暴れることはなかった。死ならば受け入れるととっくに覚悟していたからだ。

 

しかし、私に死が訪れることはなかった。

怪我を治され栄養を与えられた私は、私の運命と再会する。

 

「……大丈夫かよ、ちび」

「プ……?」

 

私の前に現れた少年の服はボロボロで、顔にはたくさんの絆創膏が貼られていた。その理由に見当がつかないほど私は愚かではなかった。

 

……この少年に救われたのだ、と。

それを理解した瞬間、私はなぜ彼がそんなことをしたのかがわからなかった。

 

だって、私には救われる理由がない。

彼が怪我をしてまで、その身を危険に晒してまで私を助ける理由がどこにも見つからなかったから。

 

私はどうして?と問いかけたが、彼に私の言葉を伝わらなかった。

彼は首を傾げてから、私の頭を撫でるだけ。

 

それは暖かい掌だった。

生まれて初めて、痛み無く他者の体温を知った瞬間だった。自然と溢れた涙に、私の運命はぎょっとした顔をして私から手を離す。それが悲しくて、寂しくて、私は咄嗟に彼の手を掴んで、もう一度撫でてほしいと強請った。そうすれば彼は静かに撫でてくれる。それが嬉しかった。それが「嬉しい」という感情なのだと、運命が私に教えてくれたのだ。

 

私は彼の手に抱きついて、泣いていた。

時間が経って、彼が帰らなくてはならなくなっても私が離さないものだから彼は困った顔をする。それでも手を振り払うことなくずっと私のそばにいてくれた。

彼は手を離さない私を見て困った顔をしながらも口角を上げて笑って、この施設にいる人間の成体に問いかける。

 

「このププリンって、オレが引きとったらだめですか」

 

私が抱き締め続ければ、泣き続けていれば、彼は私の望みを叶えてくれる。

それを知ったのは多分この時だ。

 

 

 

私は彼の住む巣で、彼と彼の母と共に暮らすことになった。

彼の母君は驚きながらも簡単に私を受け入れてくれて、彼とよく似た笑顔で私を撫でてくれた。その手も優しくて暖かかったのに、私はどうしてか彼に撫でられるほうが心地よかった。

 

彼らと共に暮らす巣は外敵に襲われることもなく、餌に飢えることもなく、雨曝しになることもなく、暖かく、穏やかだった。

 

なのに、私はずっと怖がってばかりいて、夜に眠ることさえ恐ろしかった。

今のこの平穏はすべて夢で、次に目が覚めたらまた外の世界で怯えながら暮らさなくてはならなくなるような気がして仕方なかったのだ。一度知ってしまった体温を失うことなど、もう私には耐えられなかった。

 

「だいじょうぶ」

 

夜が来ると恐怖と不安で泣いてしまう私に彼はそう言って笑ってくれた。

彼と同じ毛布に包まって体温を感じながら、私は幸せだったのに、眠ることが怖かった。無防備な自分を晒すことが恐ろしかった。雨の夜は、嵐の夜は彼の体にしがみついて震えていた。

 

その度に彼は根気よく私を撫でて「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言ってくれた。

やがて睡魔に負けて彼は眠ってしまうけれど、ずっと私を抱き締めていてくれたから、いつもなんとか夜を越えることができていた。

 

そんな日々を何度も繰り返して、とある日。

とても暖かく、天気の良い昼下がりのこと。

 

陽の光が降り注ぐ窓辺で、スマホをいじりながら彼が寝っ転がっていた。そばにある携帯ラジオからは音楽が流れていて、私は彼の腕に身を寄せながら、小さな鼻歌を聴いていた。温かな彼の体温。降り注ぐ日差し。流れるバラードに合わせて体を揺らす。

 

「ププリン、この曲好き?」

 

彼の問いかけに私はうなづく。

本当は曲じゃなくて彼の鼻歌が好きだったのだけれど、そんなことを言ったら照れて歌ってくれなくなってしまうかもしれないから言わなかった。

 

「オレも好き」

 

それは音楽のことだとわかっていた。けれど、彼が私の目を見て、笑ってそう言ってくれたから、私は今だけ愚かな勘違いをすることにした。

 

「ププリン」

 

彼に名前を呼んでもらうのが好きだ。その笑顔も、声も、撫でてくれる掌も、抱き締めてくれる腕も、彼の全てが好き。大好き。

 

「ププリンはかわいいな」

 

鋭い爪や牙を持たずに生まれてよかった、とこの時初めて思った。彼を傷つけずに済むから。

彼にかわいいと思ってもらえる私に生まれてよかった。優しく撫でてもらえるから。

 

あの辛く厳しい野生での日々はきっと、今この瞬間のためにあったのだとさえ思えた。

私は伝わらないと知って、それでもなお彼へ告げる。

 

「プププリ」

 

きっと私の言葉は彼には伝わらないだろう。それでも構わなかった。

この行為に意味なんてなくても、彼に伝えられたらそれで良かったから。

そんな私に彼は寝転がりながら微笑んだ。それから彼も口を開く。

 

「ん、オレもだいすき」

 

私の「だいすき」に彼は「だいすき」で応えてくれた。

彼が私の言葉を、気持ちを理解してくれた。

それを知ったその瞬間、小さな私の体の中にある小さな心臓が大きく鼓動する。

こんな気持ちは初めてだった。

こんなにも幸せを感じたのは生まれて初めてだった!

 

あなたの掌が好き、その体温が好き、小さな鼻歌が好き、同じ布団で眠ってくれる優しいところが好き、怖いのにポケモンの群れに立ち向かえる強さが好き、母君のために料理の練習をしている頑張り屋さんなところが好き、笑った顔が好き、強がりなところも好き、あなたが好き。あなたが大好き。ほんとうに、ほんとうに大好きなの。

 

私はそっと目を閉じて、それからゆっくりと目を開く。

その時にはもう私の瞳は赤くなどなかった。

 

彼の瞳に映る私はそれまでより一回り大きくなっていた。

驚いたような彼の表情がやがて心からの喜びに満ちた笑顔に変わる。

それから私の新しい名前を呼んでくれた。

 

その声が優しくて、私の空色の瞳から涙が溢れる。

あなたの優しさに報いたいとそう思った。

 

その夜、私は初めて彼の前で無防備に深い眠りにつくことができたのだった。

 

 

 

 

 

現在暮らしているパルデアにある巣の2階、普段彼と共に眠っている部屋で、回想を終えた私は静かに窓辺に座っていた。

 

窓枠で切り取られた空にはまんまるい月が昇っている。それを見るたびに郷愁じみた感情が心の中に生まれるのはどうしてなのか。

わからないが、きっと種族としての性なのだろう。そうに決まっている。だって、個としての私がいるべき場所は遠い月などではなく、私の運命の隣だけなのだから。

 

私は私の運命を心から大切に思っている。

彼を守りたい。この世界のあらゆる苦しみや悲しみから彼を守ってあげたい。ただそれだけだ。

 

一時は、人は人の群れの中で生きるのが正しいと思い、彼が新たな群れの中で生きることを受け入れ、身を引いていた時期もあったがアレは過ちであった。

 

群れを知らぬ私が今更群れの中で暮らせないように、我が運命もまた今更生き方を変えることはできなかったのだ。

もっと早くに気がつき、その手を取って一緒に逃げてやればよかった。もしも時を戻せるのならばきっと私はあの時に戻るだろう。

 

だからこそ、今度こそ彼を守りたいのだ。

 

私がまるで頭のネジの緩い独占欲の強い(つがい)面をしているのにももちろん理由がある。

 

私が彼を心から愛している姿を見せれば、それは周囲への牽制となるからだ。

彼を溺愛する私を見れば、ヤシオへ邪な感情を抱く者も怯んで離れていくし、それでもなお近づいてくる者は往復ビンタでしばき回していいという判断ができる。

 

そう、すべては彼を守るためだ。

そのためになら私は周囲からメンヘラ激重束縛彼女面プクリンとか思われても構わない。

 

……というか、気を抜くと私の運命は変なのに好かれる。

 

今の手持ちの連中もそうだ。

 

イエッサンは気立ての良い女だが、時折私とヤシオを見て寒気のする笑みを浮かべているし、たまに深夜、眠っているヤシオのスマホを使って変なサイトを眺めていることを知っている。

趣味はそれぞれだからそこまで口出ししたくはないが、もし私の運命を困らせたり悲しませたらマジビンタすると一度釘を刺した。効いているかはわからない。それ以外は気の合う良い友なのだが、そこだけが何よりも問題だ。

 

それから、新参者のワッカネズミとかいう畜生共。あれはダメだ。あいつらは私のヤシオを自分たちの『イッカ』に加える腹づもりでいる。

……いや『イッカ』に加える、というのが具体的にどんなものなのかはわからないが、なんかこう……気持ちが悪い。よくわからないながら、もし私の運命を困らせたり悲しませたらマジビンタすると一度釘を刺した。効いているかはわからない。今度どこかのタイミングで庭裏に呼び出してちゃんと締めておくべきかもしれない。

 

あと、ヤシオの師匠を名乗るあの男も気になってはいるが、彼の手持ちたちの話を聞くに悪い人間ではないらしいので一旦置いておく。

ヤシオも懐いているようだし、大丈夫だろう。大丈夫じゃなかったらマジ往復ビンタで全てを終わらせる。

 

それよりもなによりも1番の懸念事項は、今日ヤシオに花を渡してきたあのメスポケモンだ。

あのメス、私の運命がちょっと優しくしただけで色気付いた目で見やがって。ヤシオは怪我をしていたのがお前じゃなくても手当くらいしていたというのに調子に乗らないでほしい。大体すぐにぽんぽん卵を産むようなメスを私のヤシオに近づけさせられるわけもない。次寄ってきたらマジビンタをする。これは確定事項だ。

 

とまあ、私がこうやって気を張っているという話をすると、この家のメスの鳥ポケモンたちなどは「いい子ちゃんしてないでさっさと彼の種で卵産んどきな」「結局認知を迫るのが一番早いっしょ」と暴論を言い出す。

まったく、これだから鳥ポケモンは発想が野蛮で困る。人間にとって子という存在は我々が思うよりずっと重いのだ。人間と暮らしているのにそんなことも知らないのだろうか?

……それとも彼女たちのトレーナーの倫理観か?

だとしたら私は私の運命を連れてこの家を飛び出す。

 

そもそも誤解のないようにしておきたいのだが、私はヤシオと番になりたいわけではない。

彼を大切に思っているが、私は人とポケモンが結ばれるには多くの障害があることを知っている。ただ穏やかに普通に生きたいだけの彼の生活を壊したいわけじゃない。

ただ、彼を守りたいだけだ。

 

「プクリン」

 

不意に名前を呼ばれて、振り返る。

そこには思っていた通り、私の運命がいた。

 

食事の途中だったろうに、私を追いかけてここまでやってきてくれた彼にふと胸の内が温かくなる。彼に一番に優先されたいなどと我儘を言うつもりはないけれど、優先してもらえたらそれはもちろん嬉しいに決まっている。

 

電気のついていない部屋の光源は月明かりだけで、ヤシオは灯りをつけず静かに私の隣へやってきた。私の右隣で、人間特有の長い足を抱えるようにして座り込む。それから私が見ていた窓の外へ目を向けて口を開いた。

 

「今日って満月だったんだ」

「プ」

「綺麗だな」

「……プリ」

 

並んで静かに月を眺めていた。開いた窓から入り込む微風が、少しだけ他者の体温を求めたくなるくらいに涼しくて、お互いに少しだけ距離を詰める。

私は彼の横顔を見つめた。その緊張と照れと戸惑いが滲む少し硬い表情に思わず笑えば、気がついた彼が「……なに笑ってんだよ」と少し唇を尖らせる。

 

「プリュ」

「元はと言えば、プクリンがアオキさんの話に乗ってあんなことするから……」

「プリリ?」

「……いや、プクリンのせいじゃねえけど」

「リリ」

「…………ん」

 

ヤシオは左腕を広げて私を抱き寄せると、私の頬に頬を寄せて柔らかい毛並みに擦り寄った。

 

「……オレはプクリンが好きだよ」

「プリ」

「愛とか恋とか責任とか……そういうのはわかんねえけどさ」

「プク」

「すげえ可愛いって思ってるし、大事だし、ずっと一緒にいたいって思う」

「リィ……」

「……それじゃだめ?」

 

だめなわけがない。この身に余るほどの喜びだ。

私は立ち上がり、真正面から笑顔で彼を抱きしめた。そうすれば彼も応えるように抱きしめ返してくれる。

それだけで十分で、それだけで幸せだった。

 

ヤシオは私を抱き締めたまま、ころんと床に背をつけて転がる。

自然、私が彼の上に乗っかる形になったけれど、彼は私の重みなど気にすることなくぎゅうと腕に込める力を込めた。

 

「ってかさ、さっきのプクリンのちゅー、あれどういう意味だったの」

「プリ、プリプイ、プププリ」

 

顔と顔を寄せ合ったまま、ふとそう問いかけられる。

あれはなんというか、その場のノリと、牽制と、心からの愛情だ。

 

あの師匠を名乗る男の要らぬ心配や変な邪推が煩わしかったというのもある。私はヤシオが大好きなだけなのに。

もしかして愛に理由や意味を持たせないと満足できないタイプの潔癖か?プクリンそういうのどうかと思う。

 

私はヤシオが好きで大好きで愛している。

そしてヤシオもまた私のことが好きで大好きで愛している。

それで十分だろう。

 

私は2人きりなのをいいことに、階下でしたように彼の頬に唇を押し付ける。そうすればヤシオはくすぐったそうにふにゃふにゃ笑って「なんだよ今度は」と言いながら彼の方からも私の頬に口付けた。

 

「プププリ」

「ん、オレも大好き」

 

今度のはノリも牽制でもない、ただの『大好き』のちゅーだ。

 

私は今以上のものを望みはしない。

けれどもしも、もしもあなたが私を望んでくれるというのなら、私は私の全てでもってあなたに応えるだろう。

……それを言葉にしてあなたに伝えることはないけれど。

 

まあ、それはそれとして、閉じた部屋の扉の向こう側で盗み聞きしている連中はダメだ。強めにしばく。

私はニコニコしている私の運命の頭を撫でてから、扉へ向かい、勢いよく開ける。

 

「あ、どうも……」

「んきゅ」

「キュイ……」

「「ア……」」

 

ヤシオの師匠と、彼の手持ちたちと、ヤシオの手持ちたち。全員が扉の外で聞き耳を立てていた。あ、バレた……という顔をする面々。

 

その中で唯一、妙に湿度の高い笑みを浮かべていたイエッサンの横っ面を私は躊躇いなくビンタした。瞬間、即座に返ってきた「ありがとうございます!」の鳴き声に鳥肌が立つ。

 

それから、外の連中に「あと2時間……いや、3時間はここに来ないでくれる?」と吐き捨ててから、扉を閉める。

 

それから、聞き耳を立てられていたと知って顔を真っ赤にしているだろう私の運命をよしよしするために振り返ったのだった。

 

 







趣味で登場人物それぞれにイメソンが設定していますが、プクリンネキのイメソンはOfficial髭男dismの「イエスタデイ」です


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あなたと踊りたい

 

ヤシオは平日に毎日ポケモン勝負をして、家に帰ってから夕飯の後アオキへどんな戦術でどんな戦略でどう考えてどう勝負をしてどんな結果だったのかを話す。

そしてアオキから問われる「じゃあこの時こうだったらどうしていたのか?」「相手がこんなことをしてきたらどう判断していたか?」という様々な仮定を考えて答えを出すという指導を、2人はずっと続けていた。

 

つまるところ、実践をした上で、実践では得られなかったパターンについて思考するという作業の繰り返し。

 

この指導の真意についてヤシオは一度アオキに聞いたことがある。「なんでこんなことしてんの?」と。その問いかけにアオキはこう答えた。

 

「……そうですね、これは何事においてもなんですが、いわゆる強い人というのは様々な視点を持てる人だと思っていいです」

「視点?」

「はい、勝負の全体を俯瞰的に把握できる大きな視点を持ちながら、相手のごく小さな一挙一動を見逃さない細かい視点を持つ。その上で、それらをさらに多角的な視点で見ることができる人……。視点を持つ人に、視点を持たない人が勝つというのは不可能です。見えない人は、そもそも自分が見えてないことに気が付かないものですから」

 

アオキはいつも通りのぼそぼそとした話し方で言葉を続けた。ヤシオはそれに静かに耳を傾ける。

 

「だからあなたにはそういう視点を持って欲しいんです。あなたが勝負をして見えた視点を聞いた上で、自分から見える視点をあなたに伝えて、あなたに考えてもらう……。これまで平日に毎日しているのはそれです」

「ふーん、そう思うと贅沢なことしてもらってんだな。ジムリーダーから見えてる視点ってわけなんだもんな」

「……まあ、あなたにとって有益であれば何よりですが」

 

平日に1日1人とポケモン勝負をするというアオキからの回数制限はすでに解かれていて、最近では相手が見つかれば1日3回くらいは勝負をしている。

 

「なんで最初1日1回だったんだよ?」とアオキに聞いたら「1日に何回もやったら勝負の内容を忘れてしまうかもしれんと思ったので」と返された。

単純に記憶力の問題だった。確かに1日に何回も勝負したら最初の勝負とか忘れがちになってしまうけれども。

別段記憶力がいいわけでもないヤシオは早々にメモをつける癖がついた。

 

メモを見つめながらヤシオはふと口を開く。

 

「さっきバトルした人、先週も戦った人じゃん?」

「んきゅる」

「やっぱこの辺りに住んでるトレーナーとはほぼ戦ったと思うんだよな」

「ア」

「遠出したいけど、午前に洗濯とか掃除とかして、夕方には晩飯の用意で家帰るってなると、あんま遠く行けないし……」

「アア」

「もし遠く行くとしてさ、行くならそのままもうジムチャレンジしに行った方が良さそうじゃね?」

「プルァ……」

「今夜にでもアオキさんに聞いて確認するか」

「ラッキー」

「…………」

 

相槌を打ってくれる手持ちたちの中、聞きなれない鳴き声にヤシオは恐る恐る隣へ視線を向けた。

 

なんか、いるんだよなあ……。

 

当然のようにヤシオの隣に別に手持ちでもなんでもない桃色のポケモンが腰掛けていた。

そして、反対側のヤシオの隣にいるプクリンがやけに殺気立っている。

怖い……とヤシオは素直に思った。

 

 

トレーナーとのバトルを終えて、原っぱで手持ちの子たちと弁当を食べて簡易的なピクニックをしていたヤシオ。

天気はいいし、風は穏やかだし、バトルには勝ったしで悪くない気分だ。ワッカネズミの世話を焼くイエッサンに、ヤシオの腕を取ってぎゅっとそばにくっつくプクリン。そこまでは普通のいつも通りの景色だ。

 

その輪の中に何故か当然のような顔でいる、ラッキー。

 

そう、ヤシオの唯一の懸念が、朝からヤシオを出待ちしていたこのラッキーなのだった。

このラッキーは少し前にヤシオが怪我の手当てをしてやり、そのお返しとして昨日花をくれた彼女である。

 

そんなラッキーは今日、ヤシオが家を出たら普通に玄関先にいた。

それだけでもヤシオは驚いたが、それ以上にラッキーを視界に入れたプクリンが何の躊躇いもなくビンタしたのにも本当にびっくりした。1発じゃなかった。往復ビンタだった。怖かった。びっくりしすぎて咄嗟に左胸と股間を押さえた。

 

「ワー!やめろプクリン暴力はだめ!」

 

しかし構わず手を振りかぶるプクリンの目が本気すぎて、ヤシオは慌ててその小さいおててを掴んで止める。その可愛いおててからなんであんな「ゴバァン!」みたいな音と威力が出るのかわからなかった。

 

しかし、プクリンにノータイムで殴られたラッキーはその拳を黙って受け入れ、受け入れた上で微笑んだ。

それを見たプクリンが(……ほう、やるな)みたいな顔をしていた。ヤシオは怖かった。目の前で何が起こってるのか全然わかんなくて怖かった。仕事中の師匠の迷惑とか一切考えずに鬼電をしようかと思った。

 

よくわからないながら、ヤシオはラッキーに「こんにちは……」とだけ言って、プクリンが殴りかからないようその手を取って家の敷地を出た。

 

……が、ラッキーはついてくる。

何も言わずにずっとついてくる。

プクリンに殴られたのに気にせずついてくる。

ポケモン勝負の最中も、休憩している時もそばにいる。

 

こちらに敵意や悪意はないようだし、ラッキーがここにいたいなら別にいていいのだが、その目的がわからない。

ヤシオは一度深呼吸をして、それから隣にいるラッキーに声をかける。

 

「……あ、あの、ラッキー……?」

「ラッキー」

「えっと、オレに用とかあんの……?」

「ラッキー」

「……え?」

「ラッキー」

 

そう鳴いたラッキーは微笑みながら、ヤシオを見つめてうなづいた。それから小さくて短い手を伸ばして、ヤシオの頭を彼が被っているキャップ越しによしよし撫でる。

それだけだった。なにもわからない。全然わからない。降りる沈黙と降り注ぐ暖かい日の光。吹き抜ける風は心地よいのに、妙に居心地が悪かった。

 

「えーっと、ラッキー?」

「ラッキー」

「あの、手当したことなら気にしなくていいから。オレが勝手にしたことだし、昨日お花くれて、オレも嬉しかったたから、それでチャラっていうか、おあいこっていうか……」

「ラッキー」

 

ラッキーは微笑みながらうなづくばかりだ。今度は頬をふにふにと撫でられる。

もしかしてオレの手持ちになりたいんかな、と思っていると、ヤシオとラッキーの間にプクリンが入った。

そしてヤシオに触れているラッキーの手をべシンと叩き落とす。

ヤシオを背中で守るようにしながら、彼女はラッキーと向き合った。

 

「プクプ、プリャ?」

「ラッキー」

「……プリャァ」

「ラキ、ラッキー?」

「グググァ……?」

「……プクリンそんな怖い声も出せんだ……」

 

急にラッキーに対して低い声で唸ったプクリンに、ヤシオが思わず呟くと、即座に振り返ったプクリンはきゅるるんという瞳で「プリュ?」と可愛子ぶった。

その可愛い顔にヤシオはちょっとホッとする。ヤシオはプクリンにはちゃめちゃに甘やかされてきたので、プクリンの怖い顔とか怖い声とか全然知らなかった。

プクリンはそれからまたすぐにラッキーへ視線を向けると、なにやら彼女と会話を続ける。

 

「プリリ、ププリ、プリ」

「ラッキー……?」

「プリ!」

「……ラッキー」

「……プリャァ゛……?」

 

ヤシオには2匹の会話の内容がわからないが、会話を重ねるほどに2人の間の空気が悪くなっていることだけは理解できた。明らかに至近距離で2匹がガンをつけあっている。

それから突然2匹は立ち上がったかと思うと、ヤシオから少し離れたところにある原っぱで向かい合う。

 

「プリャァ……」

「……ラッキー」

 

2匹はそう一言だけ交わした。

次の瞬間、躊躇いなく殴り合った。

 

間違いなく顔面に決まる拳。しかしどちらも倒れることなく第二撃の拳を放つ。丸くてふわふわでころころのピンク、そんな可愛らしい体を俊敏に動かして2匹はお互いを殴る、殴る、殴る。

 

穏やかな昼下がり、風は優しく吹き、日は暖かに降り注ぐ。

そんな原っぱで、ゴッ!とかガッ!みたいな殴打の音が響いていた。

 

「ワ……!ワア…………!」

 

そんな2匹をヤシオは怯えながら見ていた。

怖くてもうなんかちいさくてかわいい声しか出せなかった。

思わず近くにいたイエッサンを引き寄せて抱きついたし、黒いキャップを被ったヤシオの頭に乗るワッカネズミも互いを抱き締めあって震えている。

 

ヤシオにとってプクリンは可愛い女の子だし、ラッキーも大人しくて可愛いイメージだった。

そんな2匹のHiGH&LOWみたいなタイマン。女の子に対する幻想しか知らない少年には刺激が強すぎた。

 

イエッサンにしがみついて「エーン!」と泣くヤシオ。

くっつかれたイエッサンはニコッと笑うと、慣れた手つきでヤシオのスマホを操作して躊躇いなくアオキへ電話をかけた。

 

さて、営業の途中にサボタージュ……いや、休憩中だったアオキは急に弟子から来た電話に驚いて、それからすぐに出た。

 

「はい、アオキです。……ヤシオ?」

『んきゅ、きゅるる、る』

「ああ、イエッサ、」

『エーン!』

『『アーー!!』』

『ンルルルゥクィー!』

『プルルルゥリャー!』

 

泣き声と悲鳴と怒号。それから殴打の音。

アオキは弟子が集団に暴行されているのかと思った。

 

「……っ、ヤシオ……!ヤシオ、大丈夫ですか。無事ですか」

『エーン!アオキさんん……』

「ヤシオ……何があったんですか……」

『うええ、プクリンが、ラッキーとタイマンはってるぅ……』

「……はい?」

 

思わず聞き返した。半泣きになっている弟子の声の後ろからは変わらず殴打の音とプクリンとラッキーの気合の入った声が聞こえてくる。

プクリンとラッキーがタイマン。そうか……全然よくわからない。

 

「……よくわかりませんが、わかりました。ヤシオ、緊急事態のようなので今からそっちに向かいます。場所を教えてもらっても……」

『きゅ!』

「ああ、もう位置情報が来てますね……」

 

イエッサンはできる女なので、アオキに電話をかけてすぐに位置情報を彼に送っていた。

アオキに電話をかけ、位置情報を送り、念のためプクリンVSラッキーの証拠動画を撮りつつ、半泣きのヤシオの背中をよしよし撫でる。判断の早い、できる女なのである。

 

 

 

そんなこんなで位置情報の場所に来たアオキが見たものは、原っぱに座っているヤシオが自分で作ったお弁当をラッキーにあーんされているところだった。……何故?

ニコニコ顔で卵焼きを差し出すラッキーと、恥ずかしがりながらも口を開くヤシオ。思わず気が抜ける。

 

「……ヤシオ、あなたはまた女性を……」

「またってなんだよ!」

 

またヤシオがメスポケモンを引っ掛けてきた……。

そう思って肩を落とすアオキに、ヤシオがきゃんきゃんと噛み付いた。

 

──余談だが、アオキはこの時、以前自分が買ってやったキャップをヤシオが被っているのを見てちょっと嬉しかった。普段アオキとヤシオは家の中で話をすることの方が多いため、ヤシオがキャップをかぶっている姿を見ることはなかったのだ。閑話休題。

 

「……こちらのラッキーは?」

「昨日お花くれた子だよ」

「ラッキー?」

 

ラッキーがアオキを見てきょとんという顔をしたので、アオキはヤシオのそばに近寄ってから名乗った。

 

「ああ、はじめまして、アオキと申します……。自分はヤシオの兄で師匠で保護者です」

「え?……ああ、まあ、そうか……」

「ラッキー!」

 

そう言うと、ラッキーはアオキへ握手を求めてきた。とりあえず応える。それからアオキは周囲へ向けた。

ヤシオのスマホをいじっているイエッサン。ヤシオの肩に乗っているワッカネズミ。それから顔中に手当てをされたプクリンがあぐらをかいたヤシオの脚の上でスヤスヤしている。

 

「とりあえずヤシオ、何があったのか聞かせてもらっていいですか」

 

アオキはヤシオのそばに座ると問いかけた。

ヤシオはどう説明すべきかと少し困った顔をしつつ、アオキを見上げて口を開く。

 

「……あー、えーっとまず、家を出たらラッキーが玄関前にいて、」

「……まあ、はい」

「ラッキーがずっとついてきて、」

「……はい」

「怒ったプクリンがラッキーとタイマンしたんだけどさ、」

「はい」

「決着つかなくって、結局2匹でいろいろ話をしたらしくてよ、」

「はい」

「プクリンが言うにはさ、」

「はい」

「ラッキーはオレのお母さんになりたいんだって」

「…………ヤシオ」

「いや嘘じゃなくて、だってプクリンがそう言うんだもん」

「いえ、嘘だと思ってるわけではなく……」

 

肩を落とす。ヤシオが人当たりがいいのはわかっているし、押しに弱いのもわかっている。しかし何事にも限度があるだろう。

 

「……優しいのはあなたの良いところですが、時には嫌なものは嫌、駄目なものは駄目と言えることを必要かと……」

「別に嫌じゃねえけど」

「ヤシオ……」

「だってさあ、こんなのどうせごっこ遊びだろ?なあ、ラッキー?」

「ラッキー」

 

ラッキーは否定も肯定もせずにただ微笑むだけだ。

アオキは思わず警戒の目でラッキーを見る。

 

確かにラッキーはイエッサン同様に人の世話をすることが好きなポケモンだ。気に入った相手の世話をしたい、と思うのは別に悪いことじゃない。

しかし何事にも距離感はある。

ポケモンとしてトレーナーを世話したい。それならまだいい。

しかし、自分を母親、トレーナーを息子に見立てて世話をしたがるのは、側から見ているアオキとしては流石に恐怖が勝る。

そんなアオキへヤシオは苦笑した。

 

「大丈夫だよ、アオキさん」

「……どうしてそう思うんですか?」

「多分だけどさ、この子、オレを通してなんか別のものを見てるだけっぽいんだよね」

「それは……」

「オレに構って世話して、それでラッキーが満足するならいいだろ」

 

ヤシオはラッキーが差し出してきた唐揚げを「ん、ありがと」と言って口にする。

それだけでラッキーは幸せそうに微笑んだ。

 

アオキは大人として、トレーナーとして言いたいことがないわけではなかった。

トレーナーとポケモンという関係をベースとするのなら、ヤシオとラッキーの関係は明らかに健全なものではないからだ。

……しかし、ヤシオがその関係を受け入れたのも事実だ。

それに何より意外なことにプクリンやイエッサンがラッキーを受け入れている。

ラッキーが本当に害のある存在ならば、2匹は彼女を受け入れはしないだろう。

 

「……わかりました、あなたがそう言うのなら」

「ん、ありがとな」

「ですが、もし自分があなたたちを見ていて看過できないと感じることがあったら、その時はまた話をさせてください」

「おう、了解」

 

ヤシオもラッキーが普通ではないらしいことくらいわかっていたし、だからこそプクリンが過剰に反応したこともわかる。

 

そして、今アオキが自分を心配してくれているということも。

 

「んふふ……」

「……なんで笑ってるんですか、ヤシオ」

「あ?別になんでもねえよ。ってか、アンタ仕事放って来ちまっていいのかよ」

「ああ、大丈夫です。外回りなので……ちょうどサボっているところでしたし……」

「大人のくせに……」

「適度に力を抜くのが大人のやり方です」

「…………ん、まあ、でも、仕事中だったのに、その、わざわざ来てくれて、あ、ありがと……」

「はい」

「……おう」

「…………」

「…………いや、仕事に戻れよ!」

「え?」

「え?じゃねえ!」

「ヤシオ」

「あ!?」

「……腹減りませんか?」

「オレは今食ってんだよ!」

「あ、そうか……」

「…………」

「…………」

「ああもう!弁当は夜に回すから旨いとこ連れてけよ!」

(ちょろ……)

 

ヤシオのこういうところが他人につけ込まれるんだろうなあと、アオキは思った。

 







イカれた擬似家族を紹介するぜ!

・アオキさん
ヤシオの兄であり師匠です。通してください。

・プクリン
ヤシオの運命です。ヤシオが望むなら妻でもいいです。通してください。

・イエッサン
ヤシオのお姉ちゃんでーす!通してくださーい!

・ワッカネズミ
ヤシオの両親です。ヤシオは我々『イッカ』の一員です。通してください。

・ラッキー
ヤシオの母です。通してください。
(生まれるはずだった卵をなくして精神を病み、自傷行為を繰り返していた時に何も知らないヤシオから手当てを受けた。現在はヤシオを自分の卵から生まれた我が子だと思い込むことで心を保っている。この事実をヤシオは把握していないが、ヤシオの手持ちは全員なんとなく察した上でラッキーを受け入れている)

・ヤシオ
実の親と、戸籍上の親と、親を名乗るポケモンが複数いるが、ガラルにいる実母(人間)しか親と認めていない。


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トライアングル・コネクション

 

普段はあまり欲を見せないから、彼がしたいと言ったことはできる限り叶えてやりたいと思う。

 

「……アオキさん」

「はい」

「あのさ、オレこの辺りのトレーナーとはほぼ戦ったっぽくて、だからちょっと遠出して他のトレーナーとバトルしようなって思うんだけど、」

「はい」

「家事とかやってるとあんま遠く行けねえし、でももしせっかく遠出するなら普通のトレーナーとやるだけじゃなくて、その、ジム戦とかしてもいいんじゃねえかなって思って、」

「はい」

「だから、アンタから見たらまだ実力不足かもしんねえけど、ジムに挑戦すんのもアリかなって思ってるんだけど、アンタとしてはどうなわけ?」

 

だから夕食の後、いつものようにダイニングテーブルで向かい合った時、モゴモゴしながらもジムに挑戦したいと言った時は素直に嬉しかった。

 

「力不足とは思いませんよ。ジムチャレンジ、あなたがしたいと望むのなら自分は応援します」

「……そっか」

 

ヤシオは少しはにかんで、うなづいた。

まあ、それはそれとして。

 

「ヤシオ」

「なに」

「あの、完全に任せきりにしている分際での発言じゃないのですが、家事はそんなに頑張らなくていいです……」

「……ん?」

「掃除機とか毎日かけなくていいですし、洗濯物も何日かにいっぺんとか、あと飯も作るの面倒だったら自分に連絡してくれたら適当に買って帰りますし……」

 

アオキがそう言えば、ヤシオはキョトンとした顔をした。それから小首を傾げて口を開く。

 

「や、でもオレ、アンタんちの居候だし、そんくらいしねえと」

「そんなこと考えなくていいです。あなたが料理ができなくても家事ができなくても、自分はあなたをここにおいてました」

 

アオキはそう言ったが、ヤシオはやや訝しげな顔をした。

 

「それ、オレの料理がマジで不味くても言えたんだろうな?」

「……まあ、あなたの料理にまんまと胃袋を掴まれたことは否定しませんが」

「ほーらみろ!」

「それでも、子供を放り出すようなこともしませんよ」

「…………そうだろうけどさ」

「まあ、それはともかくとして、あなたは少し手を抜くことを覚えてもいいかと」

「…………」

 

口を噤むヤシオに、彼の服を伝ってワッカネズミが登ってくる。それからぴょんとテーブルに降り立つと、ヤシオの掌にくっついた。ヤシオは2匹を指でふにふにと捏ねくり回しながら、少し考え込むような顔を見せる。

 

「……手を抜くって、例えば、」

「はい」

「買ってきた惣菜を皿に移して晩飯のおかずにするとか?」

「ヤシオ」

「なに」

「皿に移さなくていいです」

「え」

「買ってきた時のパックに入れたままでいいです」

「ひえ……!」

「表示を見ないで適当に1200Wでチンしましょう」

「ヒッ……!プラスチックのパックが溶ける……!」

「アー!!!」

「アー!!!」

 

反応が良くて遊んでいたら、いじめていると思われたのかワッカネズミに威嚇された。

落ち着けとばかりにヤシオはワッカネズミを指先で揉み揉みと撫でる。喉を撫でられた2匹は「ンアアア」とうっとりした。

 

「……じゃ、じゃあ、明日はオレ掃除機もかけないし洗濯機も回さねえぞ。いいのか」

「いいと思います。夕飯も自分が買ってきましょう」

「そしたら明日は庭の草むしりしかしねえからな!」

「……ああ、はい」

 

一番しなくていいやつだ……と思った。

ヤシオは「トロピウス先輩と今度庭をキレイにしようって話してたんだよ」とグッと拳を握る。

 

「はあ……花でも畑でも好きにやってもらって構いませんが……」

「マジ?野菜育てよっかな」

 

アオキは飲み会の幹事とかを引き受ける人間を宇宙人だと思っているが、多分ヤシオはそっち方面の生き物なんだろうなあと思った。一般的に面倒とされることを苦に感じない稀有なタイプだ。

それを良い子だと評するのは簡単だったが、それなりに社会経験を積んできたアオキとしては都合よく利用されないかの方が不安だ。

 

「……ヤシオ」

「なんだよ」

「もし何年も連絡を取っていない知り合いから電話が来て会おうと言われても安易に1人で行かないでくださいね……」

「え、なんだよ、急に……」

「いえ、あなたはなんというか、壺とか絵とか押し売られそうで……」

「……アンタはオレをなんだと思ってんだ」

「なんでもその場ですぐに「はい」と返事をするのではなく、一旦持ち帰って落ち着いて考えるべき時があることも知っておいてください……」

「なにその具体的なアドバイス……経験者?」

「……違います」

 

違くない。実を言うと何年も連絡を取っていない知り合いから電話が来て会おうと言われてノコノコ行った経験はある。

ただアオキは勧誘とか押し売りとかそういう言葉による搦手に滅法強かったので、なんか15分くらいで勝手にあっちが帰った。ヤシオにあのなんとも言えない虚無感はあまり味わってほしくない。

 

「……」

「……」

「……アイス、食べますか?」

「食べる」

 

思い出したら空しくなったので話を変える。

風邪の時の甘やかしの時のおかげか、アイスを食べる時に諸々を用意するのはアオキ、というのがこの家の暗黙の了解になっている。

食べると答えたヤシオはワッカネズミを肩に乗せてからダイニングを出て、リビングのソファに座った。

 

 

アイスを食べたりテレビを見たりとのんびりと夜を過ごす。ポケモンたちもリビングでそれぞれ好きに過ごしている。

 

オドリドリとチルタリスに「新しいメス増えてるじゃない」「それでいいの守護神」とつつかれているプクリンは「……でもヤシオは私の運命だし……」と何か言い訳じみたことを言っていた。

当然そんな言い訳を許すわけのないメス鳥ポケモン2匹に「なにが運命よ!」「立場にあぐらかいてるメスから負けんのよ!」と羽根を広げて叱られている。

 

そんな彼女たちを他所に、新しく手持ちに加わったラッキーはたまにヤシオの元にやってきては世話を焼いたり、パフュートンと和やかに話をしたりしている。

 

アオキとヤシオはテレビでやっているグルメ紀行番組を眺めながら、やってきたカラミンゴに物理的に絡まれたり、ムクホークにアオキが、ウォーグルにヤシオが毛繕いされたりしている。

イエッサンはヤシオが(いいな……)と思った飲食店を片っ端からスマホのブックマークに入れる作業をしていた。

 

そんな時間を過ごし続けていくらか。

パルデアの穴場グルメを紹介する番組を見つつアオキは呟く。

 

「流石にハイダイさんやカエデさんの店は有名過ぎて逆に取り上げられませんね……」

「…………」

「……?」

 

静かになった隣に、ふと視線を向けるとヤシオがソファに座ったまま寝こけていた。

 

すう……すう……と一定の間隔で寝息を立てる子供の姿に思わず時計を見る。

21時前、15歳の少年が寝るには早い時間だが、今日はラッキーを仲間に加えたりと色々あったようだし、疲れたのだろう。

 

せっかく寝たのを起こすのも忍びないし、このまま2階に連れて行ってやるか、とソファから立ち上がった時、ラッキーとプクリンがソファに寄ってきた。恐らく2匹もアオキと似たようなことを考えて来たのだろう。

1人と2匹で微妙な距離感を保ちながら牽制し合う。

 

「……ヤシオは自分が抱き上げて2階に連れて行くので、あなた方はここで休んでていいですよ」

「ラッキー、ラキラキ、ラッキー」

「ププ、プリャ、プクプ」

 

ラッキーはブランケットを手に、眠っているのだからこのままソファで寝かせておいてやるべきだと主張した。

対してプクリンはちょっとだけヤシオを起こして私が2階に一緒に行ってから歌で寝かしつけると言っている。

三者三様の意見で対立した。

アオキはプクリンと目配せをし合ってから口を開く。

 

「まずソファで寝かせておくのは絶対無いです」

「プリ」

「ラッ!?」

「ソファで寝て起きた時の体のバキバキ感は凄まじいんですよ……」

「プクプク」

 

まずは共通の敵を潰す。

アオキの意見に同調するプクリンは「それだから人間文化を知らない野生は……」と、やれやれとばかりに首を振った。

ラッキーはショックのあまり涙目になった。

 

プクリンは一歩前へ出て「プップリ」と言って胸を叩く。自分がヤシオを2階に連れて行くから下がってろ、という意味だ。

しかしその意見はすぐさま潰される。

 

「え、こんなに気持ちよく寝ているヤシオを起こす気ですか……?」

「ラキラキ。ラッキー?」

 

ラッキーも「あまりにも思いやりが足りなすぎる。それで相棒を名乗る気?」と眉間に皺を寄せる。

正論アタックを受けてプクリンは床に崩れ落ちた。

 

アオキは「なので自分がヤシオを抱えて上に連れて行きます」と言ったがその発言もまたすぐに叩き潰される。

 

「プッキュ」

「ラ?」

 

アオキには2匹の言葉はわからなかったが、多分「きっしょ」「は?」的な言葉なのはわかった。

ポケモンとはいえ年若い女性にそう言われてちょっとショックを受ける。

 

三つ巴状態のまま、1人と2匹は互いを伺い続けた。

と、その時のことである。

ソファで眠っていたヤシオの体がふわりと浮き上がったのは。

 

「……え?」

「んきゅきゅ」

 

イエッサンはサイコパワーでヤシオを浮かせると、床で待機していたノココッチの背にゆっくりと降ろして寝かせる。

ヤシオを背に乗せたノココッチは床をのこのこと這いながら2階に続く廊下へ向かっていった。そんなノココッチの頭の上でワッカネズミがわっしょいわっしょいと跳ねている。

イエッサンはヤシオが落ちないようサイコパワーでフォローしつつ、すやすや眠っているトレーナーを運ぶノココッチの後に続いて歩いて行く。

それからリビングを出る前に、揉めていた三つ巴のほうへ振り返った。

 

「きゅる!」

 

ばちーんとウインク。

そして手を顔に当てて、勝利の決めポーズ。

こうやって敢えて自分が掻っ攫うことで、プクリンは危機感を覚えて今後ヤシオへのアプローチを強めるだろう。

 

そう!推しコンビの新規展開!

敢えて自分が雨となって降ることで、地を固める!

 

イエッサンは推し活のためなら、自らの身を危険に晒すことを厭わないタイプのオタクだった。

ゾクゾク……いや、ワクワクする……!

 

「グググァ……」

 

プクリンの唸り声と、風を切るシャドーボクシングの音を背に、イエッサンは興奮に体を震わせた。

 



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ねずみおおさわぎ

 

ヤシオがジムチャレンジを始めて数週間、その道程は順調に進んでいる。

 

宝探しでもない時期にアカデミー所属ではない年若い少年が次々とジムを撃破していっていることは、ポケモンリーグ内でも噂になっているらしく色々と話を聞くようになった。

 

「ああ、あの黒いキャップの子ですか〜。初めてのジムチャレンジって言ってましたけど、ポケモン勝負自体は経験があったみたいでしたね〜。負けちゃいました〜。あ、でもその後に本気でバトルして欲しいって言われたので戦りましたよ〜。結果?うふふ〜、ちょっとやりすぎちゃいましたね〜」

 

「む、あのエキセントリックな少年……エキセントリック少年ボウイのことか。よく覚えているぞ。まだ荒削りなところはあるが、見どころのある試合運びをする思春期だった。勝負の後に家にいる草ポケモンのために植物を育てたいと言っていたので相談に乗ったが、それがどうかしたか?」

 

「覚えてるよー!あのプクリンの子だろー?生放送って知って大慌てで帽子のツバを下げて照れてる姿……!シュッとしてるクールそうな男の子のボールから出てくる可愛い系ポケモンたち……!ギャップ萌えで地味にバズってたみたいでさあ、同接がシビルドン登りだったよ〜!」

 

「ウオ、あの親切な少年のことならよく覚えてるとも!オイラが段ボールをひっくり返して転がしちまった野菜を一緒に拾ってくれたんだい!ポケモン勝負もこっちの勢いに呑まれることなく捌いていたなあ。しかし、なにか急用でもあったのか、勝負が終わったら慌てて帰ってしまったんだい……」

 

ちょうど今日、ヤシオが順調に4つ目のバッジを手にしたということはリーグで勤務しているアオキの耳にも入ってきた。

その騒ぎは、話題の少年がアオキの親戚の子だと知るわけもない他の四天王も「宝探しでもない時期の挑戦者は珍しいですね」「ポピーもきになりますの!」「順調やしひょっとしたらリーグにも来るんとちゃう?」と話題に挙げるほどだった。

 

「アオキのジムの方にはまだ来てないのですか?」

「そうですね。まだジムでは会ってないです」

「おじちゃんもたのしみですか?」

「……仕事ですから。来たら相手するだけです」

「なはは、アオキさんらしい反応やね」

 

どうせ来る。ジムにも、リーグにも。

あの子が自分自身のペースで駒を進めるのを、こちらはただ待っていればいい。

 

それはそれとして、ヤシオが4つ目のバッジを手にしたと聞いたアオキはその日の帰りに少し寄り道をして『ムクロジ』でケーキを買って帰った。

普段はそんなに師匠らしいことをしているわけでもないのだ。この地方のジムを半分も攻略したのだから、たまには存分に褒めてやるべきだろう。

 

日も落ちた頃、アオキはチャンプルタウンの自宅へ戻り、いつものように鍵を開けて玄関に入る。

 

「ただいま帰りました」

 

そう声をかけるが返事がない。

それだけではなく、もう日も暮れたのにリビングの方に明かりがついている様子もない。……留守だろうか?

 

キッチンの様子を見に行こうと、一歩足を踏み出した瞬間、2階に繋がる階段から慌てた様子で今日留守番をしていたウォーグルが降りて来た。降りて来たという、最早転がり落ちて来たと言ってもいいくらいの慌てようだった。

 

「ウォーグル?どうしたんですか」

「キュイ、キューイ!キューイ!」

 

悲痛に聞こえるほどの鳴き声を上げた手持ちの姿に、アオキも異常事態があったらしいことを察して、彼を肩に掴まらせてから階段を上がる。

 

階段を上がってすぐヤシオの部屋へお邪魔する。

そこには今日留守番をしていたアオキの手持ちたちがすでに集まっていて、押し入れの前にはヤシオの手持ちたちがいた。

手持ちがここにいるということは家には帰っているはずだろうに、ヤシオが見つからない。

 

アオキがやって来たことに気がつくと、ポケモンたちはみな思い思いに鳴き声を上げてアオキに何かを訴える。そして最終的にどうしたらいいのかわからないという顔で閉じた押し入れを見つめた。

 

アオキはケーキの箱を手に持ったまま部屋の中に入ると、プクリンのそばに寄った。

何があったのかを目で問いかけるが、こちらを見上げるプクリンはしかし何が何やらわかっていないような困った顔をしているばかりだ。

ラッキーに至っては困惑してしまってイエッサンに支えられなければ立っていられなそうなくらい動揺しきってしまっている。

 

何があったのかはわからないが、ポケモンたちはみんな押し入れを見つめている。

どうやら彼は押し入れの中にいるようだ。

アオキは近くの机にケーキ箱を置くと、ぴたりと閉じた押し入れの引き戸に向かって声をかけた。

 

「……ヤシオ、ただいま帰りました」

「…………」

「…………」

「………………おかえり」

 

何があったかを急に聞いたら答えてくれないかもしれないが、ただいまと言ったらおかえりと返してくれるだろうなと思ったら本当に応えてくれた。根が素直……と改めて思う。

 

「今日もお疲れ様でした。リーグのほうでもあなたの噂を聞きますよ。優秀なトレーナーが現れた、と」

「……知るかそんなこと」

 

お、珍しく反抗期モードだ。

出会った当初ならともかく、最近では滅多に見せない反抗期モードにアオキは少し驚く。

 

「4つ目のバッジを手に入れたそうですね。おめでとうございます」

「なんもめでたくない。オレもうトレーナーやめる。バトルしない」

「……なにがあったんですか」

「………………」

 

ヤシオは答えない。鼻を啜る音が、引き戸の向こうから聞こえる。泣いているようだ。

ジム戦には勝ったらしいし、別に辛勝だったというわけでもなかったそうだから、ポケモン勝負の内容や結果で辞めたくなったわけではないだろう。

 

「ヤシオ」

「もういい、ほっといて。弟子なら他に見つけてよ」

「話を聞かせてください。困っていることがあるなら相談に乗りますから」

「…………うるさい、もう遅いんだよ……」

 

もうほとんど泣きじゃくっているような声音に、ポケモンたちが動揺する。特にヤシオの手持ちが酷く戸惑い、不安げにしているようだ。

プクリンもイエッサンもラッキーも……と、その時、アオキはふとあることに気がついた。

 

ワッカネズミがいない。

 

「……ワッカネズミに何かあったんですか」

 

アオキがそう問い掛ければ、押し入れの中の泣き声が大きくなる。

……まさか……と思っていると、押し入れの戸が細く開いて、そこからワッカネズミの2匹がそっと顔を出した。

 

2匹は特に怪我をしている様子もなく、元気そうだ。アオキも思わずホッとする。

ワッカネズミは顔を見せるとすぐに引っ込んで中に戻ってしまった。おそらく泣いているヤシオのそばについてやっているのだろう。

 

「……ヤシオ」

「…………」

「それは師匠の自分にも話せないことですか」

「…………」

「……自分はあなたにとってそんなに頼りないですか」

 

狡い言い方をしている自覚はあった。

けれど、この鍵さえ付いていないこの押し入れの戸はヤシオ本人に開けてもらわなくてはならない。アオキがこちらから開けたってそんなのは無意味なのだ。

 

だから、ただ静かに待つ。

耳鳴りさえ聞こえるほどの沈黙に耐える。

暗い夜がさらに暗くなり、灯りをつけていない部屋では視界がぼんやりとしている。ただ、待った。

 

「…………」

「…………」

「……アオキさん」

「はい」

「……オレ、ワッカネズミにひどいことしちゃった」

「なにが、あったんですか」

 

そう問えば、押し入れの扉が開く。

ゆっくりと、躊躇いながらも開かれた押し入れの上段にはやはり泣きじゃくるヤシオがいて、そして彼の頭の上にはいつものようにワッカネズミたちが……。

 

1、2、3。

ヤシオの頭の上にいる小さくて白い影を数える。

……1、2、3。

比較的大きいのが2匹と、小さいのが1匹。

 

増えている。1匹。確実に増えている。

アオキが気がついたことに気がついたヤシオは、ひぐひぐと喉を鳴らして泣きながら言った。

 

「……オレ、今日の朝も、こいつら、……っ、撫でたりして、世話してたんだよ……ぐすっ……なのに、お腹に赤ちゃんいるの全然気づかなくてぇ……バトルに出しちゃった……どうしよう……攻撃も受けさせちゃったあ……」

 

そう言い切った瞬間にもうダムが決壊したようにビャーっと泣き出したヤシオに、慌て出したのは頭の上のワッカネズミ……ともい、イッカネズミだ。

頭の上で小さいネズミを抱っこしながらてんやわんや。ヤシオの髪を毛繕いして宥めようとしたり、肩に降りて頬を撫でたりしている。

 

「ああ……ヤシオ、あの……それは、その……」

「勝負終わって気がついたら赤ちゃん増えてた!手持ちの子が妊婦さんになってたのも気付かないとかトレーナー失格じゃん!やめる!オレもうトレーナーやめる!トレーナーの資格ない!もうバトルしない!トレーナーカードも捨てる!」

「ヤシオ、落ち着いて……」

「エーーン!」

「あああ…………」

 

泣き喚く子供を宥めた経験などあるはずもないアオキもまた、ネズミたちと共にてんやわんやした。

アオキのてんやわんやがポケモンたちにも伝わって、更にてんやわんや。もうみんなパニック状態だった。

 

アオキはとりあえずヤシオの背中に手を当てて「大丈夫です。大丈夫ですから落ち着いて……」と、ひゃっくりをするたびに震える背中を何度も摩ってやった。

 

ヤシオは泣いて泣いて散々泣いて、ようやく落ち着いたのか、泣き止んだヤシオは目を腫らしたまま、ひっくひっくと喉を鳴らす。アオキは変わらず背中を撫でながら、ゆっくりと声をかける。

 

「……大丈夫です、ヤシオ。驚くかもしれませんが、落ち着いて聞いてください」

「………ん」

「ワッカネズミのことなんですが、あれは進化です」

「…………は?」

「イッカネズミに進化したんです」

「は?んなわけないだろアンタはお母さんが子供産んだらそれを進化っていうのかよ適当なこと言うな生物学って知ってるか」

「気持ちはよくわかるんですが、そういう生態なんです……」

「……え?……あ、え、コイルがレアコイルになるみたいなってこと?」

「そう……かもしれないですし、そうじゃないかもしれんのです」

「……なんて?」

「あの小さい子はもしかしたらどこかでパートナーと逸れてしまった小柄なワッカネズミなのかもしれませんし、成長によって体が分裂するポケモンなのかもしれませんし、本当に子供を授かったのかもしれません。よくわからんのですが、ワッカネズミ……というか、イッカネズミはそういうポケモンなんです」

「……え?」

「ただ、少なくとも自分はあなたが手持ちの子の変化に気が付かないようなトレーナーだとは思いません。ポケモンですし、少なくとも胎生動物ではないんじゃないかと……」

「……たいせい?」

「卵ではなく、お母さんのお腹の中から生まれることです」

「でも、卵も見てない……」

「でしょう?だから、生まれたのではなく、進化なんです」

 

ヤシオは目元を真っ赤にしたまま、呆気に取られたような顔でアオキを見つめる。

そのタイミングで部屋の電気がついた。視線を向けると、ノココッチが体を起き上がらせて壁のスイッチを押してくれたのが見えた。

 

急に明るくなった視界に目を細める。

ふとヤシオの頭の上にいたイッカネズミが降りて来て、押し入れの上段にぺたんと座り込んでいる彼の腿の上に乗っかった。

 

3匹をヤシオはじっと見る。

3匹もまたヤシオを見つめる。

見つめ合って、それから大きい2匹が大きな口を開いた。

 

「ア!」

「ア!」

 

それに続くように小さな1匹も口を開く。

 

「ァ!」

 

それを見て、ヤシオは呟いた。

 

「……お前らって、家族なの?」

「アー?」

「アー?」

「ァー?」

 

3匹とも首を傾げる。

ヤシオもまた首を傾げて、問いを続ける。

 

「……でも、一緒にいたいんだ?」

「ア!」

「ア!」

「ァ!」

「……オレとも一緒にいてくれんの?」

「アー!」

「アー!」

「ァー!」

 

3匹はぴょんぴょんと跳ねて、それからヤシオの体にすりすりと擦り付いた。

ヤシオは少しびっくりしたような顔をして、それからふにゃりと相好を崩す。それから、小さな1匹へ掌を差し出した。小さい1匹はその掌へ飛び乗る。

 

「ん、よろしくな、ちび」

「ァ!」

「んへへ……」

 

1人と1匹の交流に、おそらく親役だろう2匹が感動の顔をしている。お互いを抱き締め合いながら、ぴょこぴょこ跳ねていた。

部屋にいるポケモンたちもヤシオが笑みを見せたことで安心したらしい。空気が和らぐのを感じた。

 

その瞬間、ぎゅるるるると腹の音が鳴る。

ヤシオの腹だった。

 

「……ケーキあるんですが、食べますか」

「……ん」

 

ヤシオが若干照れたような顔で押し入れから出てくる。

アオキはケーキの箱を持って、部屋の床に座り込む。つられてヤシオも座る。アオキが箱を開けたのを見て、ヤシオはギョッとした。

 

「え」

「ケーキってのは手掴みで食うのが一番うまいんですよ」

「い、いいのかよ……」

「いいんです。あとケーキなんですが、全部うまいので適当に多めに買ってきました」

「多いな……」

 

当然のように10種類ほどのケーキが詰まっている箱を覗き込んでヤシオは呟いた。「好きなものをどうぞ」とアオキが言えば、ヤシオはじっと眺めてから苺のショートケーキを手に取る。

 

アオキも箱の中へ手を入れて、洒落た名前は忘れたが色々なフルーツが乗っかったケーキを手に取る。フィルムを剥がして、二等辺三角形の一番鋭角なほうから、大口を開けて食べる。

そうすれば、ヤシオも恐る恐る慣れない手でフィルムを剥がして食べ始めた。

 

「うま」

「でしょう?」

「でも行儀悪いな」

「行儀悪く食う日も必要なんですよ」

「そうなの?」

「そうです」

「そっか」

 

床に座り込んで、夕食も食べずにケーキを手掴みで食べる……なんて、青少年に悪いことを教えている。

しかし深夜のラーメンにしろ、配達ピザへの追いチーズにしろ、小さな罪悪感は飯を旨くするちょっとしたスパイスなのだ。

 

散々泣いたからか、腹が減っているらしいヤシオは2つ目のケーキへ手を出す。……食えているのなら大丈夫だ、とアオキはその様子に安堵する。

 

「しかし、イッカネズミが3匹家族というのも珍しいですね」

「そうなんだ?」

「はい、一般的には4匹家族なんですが……」

 

と言いつつ、アオキはヤシオの黒髪に糸くずがついているのが見えて、彼の髪へ手を伸ばす。

そうして特に他意無く彼の髪に触れた瞬間、ヤシオとアオキの間にイッカネズミが割り込むように入って来た。

 

「アア!!!」

「アア!!!」

 

イッカネズミの大きい2匹は、小さい1匹とさらにその後ろにいるヤシオを守るようにアオキの前に立つと、口を大きく開けて威嚇してきた。

 

…………アオキは思うところがあって、ヤシオから手を引く。

すると2匹は威嚇をやめた。

 

小さい1匹に手を伸ばす。

大口を開けて威嚇された。

 

手を引く。

2匹は威嚇をやめた。

 

もう一度ヤシオの髪を撫でる。

大口を開けて威嚇された。

 

「……アオキさん、さっきからなにしてんの?」

「……なるほど……4匹家族でしたか……」

「え?」

 

大きい2匹と、小さい1匹の3匹家族だと思っていたが、それは違う。

大きい2匹と、小さい1匹と、ヤシオの4匹家族なのだ。

 

このネズミたちは当たり前のように自分たちのイッカにヤシオをカウントしている。しかも、自分たちの守るべき子供としてのカウントだ。

ヤシオをイッカにした時点で、彼らの自認としてはもうイッカネズミに進化していたのかもしれない。

 

……え、怖。

アオキも流石に思った。

 



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スーパーハイパーエスパー!

 

イエッサンはスーパー優秀でハイパー可愛いエスパータイプなので野生の時はそれはもうモテにモテた。

爆モテだった。コイキングの池に餌を撒くような、もう入れ食い状態って感じ。

 

可愛くてごめーん!っていうか、なんで私が謝んないといけないの?可愛い私にありがとうでしょ?私が可愛くて嬉しいんだもんね?ってなもんだった。

狩りなんかしなくてもオスからの貢物で生きてられたくらい。

野生ってなに?って感じ。

毎日チヤホヤされてあらゆるオスからモッテモテで………超つまんなかった。

 

可愛い可愛いって、結局私の見た目しか見てなくない?

確かに私は他のイエッサンよりツノの形が綺麗で毛並みも良くて体色のバランスが絶妙で顔のパーツもそのバランスも完璧だけど、そういうのじゃないんだよね。

 

イエッサンはスーパー優秀でハイパー可愛いエスパータイプだから、自分の本心なんてとっくにわかってた。

 

イエッサンは狩りくらい自分でできる。頼んでもないのに貢がれても困るし、勝手に私の能力をスポイルしないでって感じ。だってイエッサンはできる女なのだから。

恋愛だって追われるより追いたいタイプだし、愛されるより愛したい。だからこのままじゃダメだ。自分の好きに生きなきゃ。

 

やんなっちゃった!

イエッサンはある日あっさり今の棲家と取り巻きのオスたちとバイバイして1匹で引っ越した。

ガラル中を回っていい感じの引越し先を探す。

 

ハロンタウンの長閑さも、ターフタウンの穏やかさも良かったけど、なんだかんだでルミナスメイズの森に落ち着いた。エスパータイプやフェアリータイプが多い場所って、みんな互いの性質をそれなりに理解しているから変なトラブルが少なくていい。

 

森でのんびり暮らしつつ、たまに森を出てラテラルやアラベスクあたりを散歩したりする毎日。

煩わしさから抜け出せて快適な日々。

……でもなんだか退屈なのは事実だった。

 

自我のある生き物ってやっぱり強欲なのかも。

より良いもの、より良い現在、より良い生活、より良い自分を望んでしまう。なまじエスパータイプで頭が良くて感受性が豊かな分、現状維持に魅力を感じない。

 

そんな頃にイエッサンが出会ったのが、1匹のトレーナーを連れているメスのプリンだった。

 

ルミナスメイズの森にやってきたその2匹を見た瞬間、イエッサンは「げー!」と思った。

野生生活を謳歌しているイエッサンとしては、トレーナーと一緒にいるポケモンとかマジダサい!って感覚だった。

ポケモンとしてのプライドってある?

人間によしよしされないと何もできないってワケ?

 

そう思ったのはイエッサンだけじゃなかったみたいで、他のフェアリーやエスパータイプたちも不愉快そうな顔でそいつらを邪魔しに行った。ざまーみろ!ポケモンセンターのぬるま湯に帰してやるよ!

 

でも野生の連中はあっさり返り討ちにされた。

 

人間の的確な指示とプリンの洗練された技のコンビネーション。連戦ならこっちに分があると思ってさらに何匹かがかかっていったけど結果は同じ。あっさり転がされておしまい。

 

この森にいるポケモンたちだって別に弱いわけじゃないのに、なんであのちっちゃいプリン1匹が、なんで弱っちい人間が一緒にいるだけで勝てちゃうんだろう?

 

イエッサンは気になってその2匹を尾けた。

いやこれはストーカーとかじゃなくて、観察とか研究とかだから。

 

2匹は毎日森に遊びに来てはキャンプしてカレー作ったり、ボールで遊んだり、テントの中で一緒に昼寝したり、抱っこしたり、頭を撫でたり、プリンと人間はウザいくらいにラブラブ。

でも見ていくうちになんかわかってきた。

 

弱っちい人間はポケモンが一緒にいないとまともに外も歩けないけど共にいてくれるポケモンを理解しようとしてくれる存在。

そんな弱いくせに自分の力を最大限に引き出して今以上の自分にしてくれる人間を、ポケモンは好きになっちゃうのかも。

 

多分、世界が広がるってそういうことなんだろう。

1匹と1匹が一緒にいて、1匹じゃ行けないいろんなところに行って、いろんなものを見て、いろんな経験をして、互いを信じて、信じ合って、対等に認め合う。

 

……それって、愛じゃない?

 

それに気がついた瞬間、イエッサンはなんとも筆舌難いトキメキを感じた。

私が本当に見たかったのはそういう景色だったのかもしれない。そう思った。

 

……私は別に愛されたかったわけじゃない。

でもどうせなら傷ひとつない愛らしい顔じゃなくて、擦れた掌を褒めて欲しかった。狩りの結果を与えられるんじゃなくて一緒に狩りに行きたかった。尽くされるんじゃなくて、同じ目線で歩いて欲しかった。

今になって、そんなことに気がつく。

 

愛は愛によって報われる。

目の前の景色はそれなのかもしれない。

 

不思議と羨ましいとは思わなかった。

美しい宝石を見て美しいと思っても、自分自身が宝石になりたいとは思わないみたいに。

 

けれど、ずっと見ていたいと思った。

この宝石を自分の手中に入れて、大切に守っていたい。

 

んきゅる!(ってことで!) んきゅるんわんわ!(あなたたちのテントの壁になりにきました!)

プリャァ!?(なんだこいつ!?)

「お、イエッサンだ。プリンの友達?」

ププリ!プププーリ!(いいえ!不審者よ!)

きゅ、んきゅっきゅきゅいきゅーん(あ、こちらお近づきのきのみでーす)

「お、ご丁寧にどうも、テント上がってく?」

きゅーい!(わーい!)

プャアア!!!(いやあ!!!)

 

イエッサンは可愛いのですぐに2匹の愛の巣にお邪魔できちゃった。人間も可愛い子には油断しちゃうのねえ。

もしかしてイエッサンが超絶可愛いから、この人間のオスもちんちくりんのプリンより可愛いイエッサンのことが好きになっちゃうかも……。

 

挨拶がわりにイエッサンは人間の手をとって、世界一可愛いお顔できゅるん!と笑顔を見せた。

 

これで簡単にメロメロになっちゃったら、イエッサンはもう愛なんて信じられない。

この人間もプリンもここで殺して、エスパーポケモンで徒党を組み、人里を襲う悪魔と化そう……と思った。

 

で、人間の反応がこれ。

 

「ん、よろしくな、イエッサン。プリンに友達がいたみたいですげー安心したわ」

 

路地にこびりついた吐瀉物を見るような目でイエッサンを睨みつけてくるプリンの頭を、ニコニコ笑いながらナデナデして人間はそう言った。

その瞬間、スーパー優秀でハイパー可愛いエスパータイプのイエッサンは完全理解してしまった。

 

あ、このオス、マジでプリンのことしか考えてないわ。

 

目の前に絶世の美女がいてこの反応なのだから、そうなるともう仕方ない。この人間とプリンの間にある愛を認めるしかないだろう。試し行動に成功したイエッサンは嬉しくなってしまった。

そうそう!こういうのよ!こういうの!こういうのが見たかったのよ!これが純愛ってやつ!?!?

 

ニッコニコしていたら、プリンが急に人間の耳にヘッドフォンをつけて音楽を流し出して耳を塞いだ。人間はキョトンとしながらもされるがままだ。

プリンはそれからイエッサンをテントの外に引き摺り出し、テント裏に連れて行く。

プリンはもう怒り狂った顔でイエッサンの胸ぐらを掴んだ。

 

「私の運命に色目使うたァいい度胸じゃない……。その度胸に免じて、ポケモン勝負じゃなくてただのステゴロで相手したげるわ……」

「え?ちょっ……」

 

プリンはその桃色の可愛いおててでもう容赦遠慮なくイエッサンの顔面を殴った。もうボッコボコだった。

 

流石に不審に思ったヤシオが来てくれなかったら、イエッサンの可愛いお顔のパーツのバランスがめちゃくちゃ歪んでしまっていただろう。助かった。

 

「……プリン、友達をいじめたの……?」

プップリ(勝手に転んだ)

きゅ、きゅっきゅい……(か、勝手に転びました……)

「なーんだ、そっか。イエッサン、このあたり暗いから気をつけてな」

 

あーあ、唐変木。

ヤシオに手当てされながらイエッサンは思った。

でもこのプリンはこんな唐変木なオスがいいんだもんね。ほーんと、愛ってへーんなの。

 

 

 

……とまあ、そんな楽しい回想から帰ってきて、現在パルデア地方はチャンプルタウンのスーパーにて。

 

イエッサンはスーパー優秀でハイパー可愛いエスパータイプなので、気がついていた。

 

精肉コーナーで思っていたより安かった肉のパックを手に夕食どうしようかな、とヤシオが考えていることを。

 

そしてイエッサンはできる女なので、野菜コーナーのキャベツが安かったことを伝えてあげるのだ。

そうすればヤシオは「お、そしたらカツにするか」と笑ってくれた。それから「流石イエッサンだな」と頭を撫でてくれる。

 

昔はトレーナーの手持ちになったポケモンをバカにしていたけど、今やイエッサンもその仲間入りだ。そうなったことに後悔は少しもない。

 

頑張り屋で案外抜けていてでも繊細な人間と、それを愛して守ろうとするプリン──今はもうプクリンだけど──の2匹は、イエッサンが思っていた通り、面白くて、楽しくて、尊かった。

 

いやー見つけちゃったよね、世界の真理。

知らない奴が近づいて来ると警戒して彼を守ろうとするプクリンがヤシオによしよしされるとふにゃふにゃになってしまうところとか可愛いし、ヤシオはヤシオで博愛主義みたいな顔しながらプクリンのことは無意識に特別扱いしてるんだから可愛いのだ。トキメキー!

 

思い返してウッキウキのイエッサンに気がつくわけもなく、スーパーのカゴを手に歩くヤシオは隣を見てふと唇を開いた。

 

「ラッキー、欲しいものある?お菓子とか買ったげよっか?」

「ラキッ……!」

 

イエッサンと共にスーパーに来ていたラッキー。

彼女は初めてのスーパーにおっかなびっくりしてヤシオにピッタリくっついてばかりいた。

そんな彼女へヤシオが軽く膝を曲げ、視線を合わせてそう口にすると、ラッキーはパアアッと表情を明るくした。ヤシオはカゴをイエッサンに任せると、ラッキーの手をとってお菓子コーナーへ足を進める。

それからラッキーの隣にしゃがみ込んで棚を一緒に眺めた。

 

ラッキーはハートやらお花やら可愛らしいパッケージのお菓子に目移りしては楽しそうにしている。

それを微笑ましく見つめるヤシオ。

 

そんな2匹を眺めながら、イエッサンは(やっぱりねえ……)と思う。

 

最近の大きなトピックといえば、新しく手持ちに入ったラッキーだ。

 

このラッキーがどんな子かを端的に言うと、ちょっと頭のネジが吹き飛んでて自分をヤシオの母親だと思い込んでいる子だ。

 

イエッサンはスーパー優秀でハイパー可愛いエスパータイプなので、ラッキーがどうしてそうなってしまったのか知っている。

それにポケモンには倫理観とか個人情報保護法とかアウティングとかそういうのないから、危機管理として普通にプクリンに共有した。

 

ラッキーの雑音ばかりのグチャグチャな記憶を覗いて見たのは、彼女が野生にいた頃に偶然見つけた卵を守り育てようと必死になっていた記憶。

それから、彼女の願いが叶わず、野生の残酷さの波に飲まれて彼女は守り育てたかった卵をなくしてしまったこと。

大切なものをなくしてしまったことを受け入れられなかったラッキーは、またしても偶然現れたヤシオをあの卵から生まれた我が子だと思い込むことで心の安寧を得ている。

 

イエッサンから見ても不健全でグロテスクな構図だな〜とは思う。

 

でも、野生のままある程度まで成長したイエッサンは割と世界の残酷さを理解していたから可哀想とは思わない。そのあたりは結構そっけないのだ。

 

だって仕方ないじゃん。結局弱い奴は死ぬし、弱い奴は自分も仲間も群れも子も卵も守れない。

ラッキーが弱かったのがいけないし、自分の弱さを自覚せずに卵を守ろうと抱え込んだのが悪い。

卵を守ってやりたいと思った優しさまで否定するつもりはないけど、そういうのを肯定してやるのはプクリンとかヤシオとか優しい子に任せる。イエッサンは優しくないから。

 

……っていうか、薄々わかってたけど多分このラッキーって、ヤシオの手持ちの中でも一番年下なんじゃないかな。……ああ、なんか増えてたチビネズミは別としてね。

 

彼女の記憶を覗くに、多分卵を拾ったのもピンプクから進化したばっかの時みたいだし。

今だって、お菓子コーナーを眺めて目をキラキラさせてどれにしようかなって選んでる。

いくら人間文化に慣れてないからって、あの目の輝かせようは歳を経た成体の落ち着きには程遠い。

 

ヤシオもラッキーのこと、少なくともお母さんとは思ってないし。

多分いいところ、最近都会にやってきたばかりの妹分くらいの感覚じゃない?

 

頑張ってお母さんらしくしっかり振る舞おうとしているみたいだけれど、そもそも彼女の中のフワッフワなお母さんのイメージをトレースしているから結局無理が出てきている。

ヤシオの頭を撫でたり、毛布をかけてあげようとしたり、そばにいようとするけど、それくらい。多分根っこのところでは何をしていいのかわかっていない。

 

イエッサンだって野生育ちだから、お母さんって存在はヤシオの実の母しか見たことないけど、なんかもう全然違う。距離感とか接し方とか、そういうのがね。

 

だからそのうち、彼女が見ている優しい世界は破綻すると思う。

っていうか、破綻した方がいいと思う。

 

野生のまま1匹で勝手に狂ってるだけなら壊れたままでも構わないけど、私のトレーナーを巻き込むのならそうはさせないから。

どんなに辛くてもどんなに苦しくても、目の前の現実を見させてやる。

目の前にいるのはあなたの理想の我が子じゃなくて、ヤシオっていう1匹の人間なんだってね。

 

だって彼はあなたの都合のいい人形じゃない。

ヤシオのお母さんが大切に育てて、プクリンがずっと守り続けて、彼の師匠が未来を信じてくれた人だから。

私が見守り続けると決めた、宝石の輝きの片割れだから。

 

「イエッサン」

 

ラッキーの隣にしゃがみ込んだヤシオがこちらを見てそう呼びかけた。おいでと手招く掌に無意識に足が進む。

 

「イエッサンはどれにする?あと、プクリンとイッカネズミの分も一緒に選んでくんねえ?内緒で食べたって知ったらあいつら絶対怒るもん。ね、ラッキー」

「ラッキー!」

 

ねー!と顔を見合わせて笑うヤシオとラッキー。

それを見て、親子みたいだという奴はきっとこの世界に1匹だっていないだろう。

 

それがどんなに優しくても醒めた方がいい夢もある。

夢から醒めて彼女がもう一度立ち上がろうとするのなら、イエッサンだって手を貸すことはやぶさかではない。

 

そんなことを考えながら、イエッサンはお気に入りのキャンディを手に取ってカゴの中へ入れた。

 

 



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Dance on the table

 

季節はすっかり初夏。

直射日光が照りつける真昼の世界はどこまでも明るく、その明るさに目が焼かれそうなほどだった。

 

休日にテーブルシティにやってきたアオキとヤシオ。

ヤシオはいつものキャップに半袖のTシャツだったし、スーツのイメージの強いアオキでさえ青のシャツにスラックスと普段より薄着だった。

それでもじんわりと汗ばむ夏の始まりの頃。

 

2人は、テーブルシティの日陰のベンチでスマホを手に何やら話をしていた。

 

「……この時期に厚手のコートを売ってる店なんてないんじゃないですか」

「オレもそう思うけどさあ、無いと困んだよな」

「ナッペ山は年中雪山ですからね……」

 

ジムバッジを4つ集めたヤシオは次にチャレンジするジムとして、フリッジジムとナッペ山ジムを選んだ。

ところが2つのジムは雪山の中にあるジムだ。

平地では半袖半ズボンで過ごせても、雪山を登ればそうはいかない。夏場でもナッペ山では防寒具が必須だ。

 

とはいえ、世間は夏。

厚手のコートや防寒具なんて売っているわけがない。

 

うーんと唸るヤシオはスマホでテーブルシティにある服屋を調べている。そんな彼の隣でアオキはぼうっとしている……ように見えて、どこかにコートを売ってそうな店は無かっただろうかと思い返していた。

 

「アオキさん、キャンプとかの店は?そこならコートとかあんじゃね?」

「キャンプ……確か登山用品の店がどこかにあったような……」

「え、どこどこ、思い出して」

「………………」

「いやスマホで探した方が早いか」

「………………」

「んー、『テーブルシティ 登山用品』で検索……」

「…………西側の通りだったような……」

「あー、住所ここらしいんだけど、わかる?」

「東ですね……多分住所的にデリバードポーチの方の……」

「え?デリバードポーチって西側じゃね?」

「え?」

「え?」

 

デリバードポーチは大手チェーンなのでテーブルシティだけでも3箇所あるが、テーブルシティはめちゃくちゃ広いので自分がよく行くデリバードポーチは固定化してしまっていることが多い。

そのため、いつものデリバードポーチにはよく行くが、あまり使わない他のデリバードポーチの場所はよく知らない……ということがよくある。

なのでテーブルシティの地理の話をする時の目印としてデリバードポーチを使うのはやめた方がいい、とテーブルシティ在住者は語る。

 

「え?結局東?」

「地図上だとどうなってますかね……」

「地図……これ?」

「ありがとうございます……やっぱりデリバードポーチがここにあって……ん?」

「だから方向的にはあっち……だよな?」

「おそらく……」

「よくわかんねえけど、とりあえず行ってみるか」

「よくわからんのですが、そうですね」

 

スマホを手にあっちを向いたりこっちを向いたりしながら、アオキとヤシオは頭にはてなマークを浮かべつつ立ち上がり、恐らくこっちだろう方向へ歩き出す。

 

「ってか、アンタって職場がテーブルシティだろ?毎日この辺通ってんじゃねえの?」

「この街は広いのでよく行くところしか把握してないんですよ……飯屋なら大体わかるんですが……」

「逆に飯屋なら把握してんのがすげえよ。めちゃくちゃあるだろ、この街」

 

ヤシオは辺りを見渡す。

広い街、休日だからかたくさんの人やポケモンが楽しげに道を行き交っていた。それだけで心が高揚する心地。

そんな足取りの軽い少年へふとアオキは声をかけた。

 

「ヤシオ」

「ん、なに」

「少し、聞いておきたいことがありまして」

「うん」

「ラッキーのことです」

「可愛いよな」

「可愛いのはいいんです。それより彼女の例の、母親になりたいとかいう話の件です」

 

できるだけ日陰を通って歩く。

日差しを避けるために被ったキャップだったが、黒いから熱を集めて仕方ない。

ツバを掴んで一瞬キャップを脱ぐ。汗ばんだ髪をぐしゃぐしゃと掻いてから被り直す。

 

「……あれさ、本気で言ってると思う?」

 

ヤシオは隣を歩くアオキの横顔を見上げて問いかける。そうすればアオキは考え込むように一瞬視線を上に向けて、それから口を開いた。

 

「……特に野生での話ですが、ポケモンは生存のために天敵や人間を騙すことがあります」

「なんとなくわかる。騙し討ちとか、あとタマゲタケとか」

「はい。ですが、嘘をつくというのはあまり聞いたことがないです」

「おお」

「相当人間や人間社会に慣れていたり、そういう性質のポケモンならまだしも」

「……少なくともラッキーの場合、そんな嘘つく理由もねえんだよな」

 

ヤシオは一度深く息を吐いた。

自分が思っているよりラッキーの件がヤバそうなのは、近頃妙にピリピリしているプクリンやイエッサンの様子からも感じていた。

ヤシオは特別危機感や害を感じていないが、少なくともプクリンたちのストレスにはなってしまっている。

解決できるのなら早めにした方がいいのだろう。

 

「ラッキーは本気でオレの母親になりたがってる……というか、なった気分でいるんだよな」

「彼女の中ではそうみたいですね」

「理由がわからん」

「……これは経験則ですが、願望というものは大抵2パターンに分けられるもんです」

 

唐突にアオキはそう言った。

ヤシオはキョトンとしながらもうなづいて彼の横顔を見る。

 

「新しく得るためか、失くしたものを補うためかのどちらかです」

「……んー?ピンとこねえ」

 

ヤシオの反応にアオキは続けた。

 

「例えば……そうですね、あなたが新しくキャップが欲しくなったから今被っているものとは違うものを買う、というのが前者です」

「普通だな」

「普通です。後者は……そうですね、あなたが今被っているキャップを失くしたから新しいものを買う……でしょうかね」

「まあ、その気持ちもわかるけどな」

「はい、結論0を1にするか、マイナスを0にするかの違いです。別にどっちにしろ1を得るのだからさして問題はない」

「じゃあいいじゃん」

「でもキャップが欲しいのにスーツを買うのは矛盾しているでしょう?ラッキーがしているのは恐らくそれです。母親になりたいからといって、子を作るのではなく、他人の子を我が子だと思い込むのは間違っています」

 

そして、もしも後者の上で矛盾していたら面倒だ。

つまりは失くしたキャップの代わりに新しいキャップを買いたいのに、スーツを買っている状態。

どちらにせよ、願望と実情が捻れていて、間違った状態になっていることは確かだ。

 

アオキははっきりと断言した。その上でヤシオに言う。

 

「間違っているとわかっているのなら早めに対処した方がいい。……歪んだ羽根は曲がって育つ。今は良くても、いずれ気付かぬうちに飛べなくなって墜落しますよ」

 

前を向いて歩きながらそう言ったアオキに、ヤシオも流石に察するものがあった。

アオキはヤシオを心配した上で、見えている問題を放置している現状を叱っている。

一度受け入れると決めたのなら、それに見合うだけの対応をしろ、という話だ。

図星を突かれてヤシオは肩を落とす。

 

「……ん、そうだよな……ごめん、アオキさん」

「あ、いえ、その、わかってもらえたならいいですので……」

 

わかりやすくシュンとしたヤシオに、怒られ慣れてはいても怒り慣れていないアオキは内心で少し焦った。そこまで強く言ったつもりはなかったからだ。

え、なんかもう少しフォローいれたほうがいいか……?と内心焦っていたところで、ヤシオが口を開いた。

 

「……でも、実際どうしたらいいんかな」

 

困ったように眉を下げてそう呟く弟子に、アオキ自身も考えながら答える。

 

「……正直言って、自分にもわかりません。自分を人間の実母だと思い込んでいるポケモンと会ったことはないので」

「んん、そうだよな……」

「ですが、ラッキーはポケモンセンターで働く個体もいるほど知能の高いポケモンです。対話をしてはどうですか。伝えられた言葉を理解することは彼女にもできるかと思います」

「……ラッキーと話してみる、か……」

「ただし、あなたとラッキーの2人だけにならないようにしてください。対話によって混乱したラッキーがあなたに危害を加えないとは言えません」

「え……?」

「ですから、するなら対話する環境を整えた上で、です。あとその際は自分もそばにいさせてください。いざという時はラッキーを瀕死にさせてでも止めます」

「……そんなに?」

「そんなにです」

 

プクリンが彼のことを守りに守っているからか、ヤシオは少し色々なことへの危機感が足りていない。

恐らく、他者からの狂気や悪意に晒された経験が殆ど無いのだろう。良いことなのだが、少し心配にもなる。

 

……とはいえ、仕方ないか、とも思う。

ヤシオの前でラッキーはどこまでも穏やかで、可愛らしい、幼い少女なのだから。

 

「……アオキさん」

「はい」

「あとでまた相談させて」

「もちろんです」

 

地図上ではこの辺りに店があるはずなのだが、それらしい店が全然見つからない。

仕方なく昼食の意味も込めて近くの飲食店に入った。

 

 

でっかい平鍋のまま運ばれてきたアホみたいな量のパエリアを一定のペースで黙々と食べ続けるアオキを正面に眺めながら、ヤシオは普通の量のガスパチョを口にする。暑い日の冷製スープは体に沁みる。

夏バテではなくとも夏は食欲が少なからず落ちるものだが、なんとなくアオキが夏に物を食えなくなっているのは想像できないな……とヤシオは思った。旬のものをもりもり食ってそうだ。

 

食事中に話をする質ではないが、その時はそんな気分だったからヤシオはアオキに声をかけた。

 

「あのさ、ナッペジムとフリッジジムって近いんだろ?せっかくなら泊まりがけの連チャンで挑戦しようと思うんだけど、あのへんって泊まれる場所ってあんの?」

 

ヤシオが問うと、アオキは口の中に溜まっていたパエリアを咀嚼し、嚥下し切ってから答えた。

 

「……ジムの受付があるビルがあるでしょう?あそこは宿泊施設も兼ねているので、ジムチャレンジの予約の時に宿泊したいことを伝えれば泊まれます」

「へー、便利じゃん」

「ただ、ナッペジムに泊まるのはおすすめしませんね」

「なんで?」

「あのジムだけ街とかじゃなくて山ん中にポツンとあるジムなんですよ……飲食店とか民家とかが一切無い上に天候が荒れやすいので、下手したらジムバトルどころではなく宿で缶詰になります」

「やべーじゃん」

「はい……だったらフリッジで観光したり飯食ったりしたほうがいいです」

「なるほどなー。じゃあ初日フリッジ行って泊まって、天候見ながら次にナッペってスケジュールで行くかな」

「それがいいかと」

 

先に食事を終えたヤシオがテーブルに肘をついて、店の外、通りを歩く人々を眺めている。パエリアを食べながらアオキはその横顔を見つめる。

 

「ヤシオ」

「ん、なに」

「コート、良ければ自分のを貸しますが」

「マジ?いいの?」

「はい、構いません」

「……ありがてえけど、なんでそれを家出る前に言ってくんなかったの?」

「今思いついたので……」

 

ヤシオは呆れたように「家出た意味ねーじゃん」と笑ってからテーブルの下でアオキのふくらはぎを戯れるみたいに足の甲でぺちぺちと蹴った。アオキは無抵抗だった。

 

「サイズが合えばいいんですが……」

「アンタ、結構タッパあるからなー」

「まあ、多少合わなくても一時的なものですから。あなた用のものは冬になってから買いましょう」

「ん、そだな。ありがと」

「いえ」

「これからどうする?」

「どこか行きたいところはありますか?」

「んー、強いて言えばCDショップとかだけど、アンタを付き合わせるほどじゃねえし」

「構いませんよ、行きましょうか」

「あと、花屋さん行きたい」

「花を買うんですか?」

「ん」

 

ヤシオはうなづく。それから「ほら」と胸の前でワヤワヤとジェスチャーをした。

 

「手持ちになる前にラッキーがオレに花くれたじゃん。そん時飾った花にプクリンが興味持ってたみたいだったから。花が好きなら綺麗なの買ってってやろうかなって」

「…………」

 

あれは花に興味があったのではなく、ヤシオに花を贈った相手に怒っていただけだ……ということが彼にはどうにも伝わっていない。

鈍感というか……唐変木というか……。

 

「でもプクリンだけに買ってったらちょっとアレじゃん?だから、1匹に1本選んで花束にでもしてもらおうかなって」

「……そういう感性と配慮はあるのに何故……はあ……」

「なんで溜息ついた?」

「いえ……。いいと思いますよ。感謝の気持ちは日頃から伝えるに越したことはありませんから」

 

そんなわけで食後、元々の目的から外れて2人はCDショップに向かってヤシオがネズの新譜を買ったり、花屋に行って花を買ったりした。

 

「お、アオキさんも花買うんだ」

「あなたが買うのに自分が手ぶらで帰るのも居心地が悪いので……」

「いいんじゃね?先輩たち喜ぶと思うよ」

 

ヤシオが1匹につき1本、異なる種類の花を選んだのに対して、アオキはストレートかつシンプルに赤いバラの花を手持ち1匹につき1本、合計9本の花束にした。

赤いバラの花束を持つアオキにヤシオは歓声を上げる。

 

「すげー、アオキさんプロポーズしに行くみてえじゃん」

「まあ、一生一緒にいてくれという気持ちで手持ちになってもらっていますから、そういう意味ではそうですね……」

「……アンタって、そういうところちゃんとしててカッコいいよな」

「……そうですか?普通のことだと思いますが……」

 

 

 

 

 

 

花束を手に家に帰ってきた人間たちを見て、ポケモンたちは少なからず反応した。

それぞれのトレーナーの元へ「なにそれなにそれ」とばかりに近寄ってきた手持ちたちを撫でながら落ち着かせる。

 

リビングの窓辺、カーペットに座り込んだヤシオは囲んでくるポケモンたちをそばに座らせると、花束を見えるように傾けて口を開いた。

 

「花束を買ったんだよ、みんなっぽい花を1本ずつ選んできた」

「プリ?」

「まず、この白くてちっちゃくていっぱい咲いてる花があるだろ?カスミソウって言うんだって。これがイッカネズミたちな」

「ア?」

「ア?」

「ァ?」

「んで、この薄紫のポンポンってあるのがパンジー。これがイエッサン」

「んーきゅ!」

「この薄いピンクでちょっとちっちゃめの、この花がニチニチソウだって。これがラッキーね」

「ラッキー!」

「で、この1本だけあるピンクのバラがプクリン」

「プッ、プリ……!」

 

1匹1匹に自分が選んだ花を伝えていく。花より団子なのか、ピンときていない顔のイッカネズミ以外は分かりやすく喜んでくれた。喜びのあまり抱きついてきたプクリンを受け止めつつ笑う。

 

「1匹につき1本って決めたからさ、バランスとかわかんねえし、種類も少ないけど、みんなで1個の花束ってことで、これからもよろしく」

 

抱きついてくるプクリンの背中を撫でつつヤシオはそう言って相好を崩す。

頭の上に乗っかってきたイッカネズミはぴょこぴょこ跳ね、ラッキーもおずおずとヤシオのそばにくっつき、イエッサンは尊さに微笑みながらラッキーとは反対側からヤシオにくっついた。

 

そんなリビングの様子を背に、ダイニングに立つアオキはさっさと花束を解きながら口を開いた。

 

「ああいう細かな説明は期待しないでください。自分は1匹に1本、全員に同じ色のバラを買ってきました」

 

周りを囲む彼の手持ちたちがアオキの手元を眺める。淡々と赤いバラの花束を解き、水道水を底の深いグラスに汲んで、倒れないようバランスよく花を挿していく。

 

「……花はいつか枯れますが、あなたたちへの気持ちが変わることはありません。引き続きよろしくお願いします」

 

アオキがそう言って花をグラスに挿し終えた瞬間、空を飛べるものは宙から、そうでないものは地から、アオキに飛びついてもうラブラブちゅっちゅ好き好き大好き超すりすりといった具合だった。

 

パルデアでも五指に入るポケモントレーナーたるアオキは当然自身の手持ちを愛しているし、それに相当するだけの信頼と愛を手持ちから返されている。

手持ちとしては「今さらそんなこと言われなくてとわかってる!」「けど普段そういうことを口にしないアオキがそんなことを言ってくれるなんて!」「花束付きで!?」「超愛してる!」という気持ちだ。

 

手持ちからもうワッシャワッシャ揉みくちゃにされるアオキは無抵抗に揉みくちゃにされまくった。

一体どんな人間が鍛えに鍛えられたポケモン9匹にじゃれつかれて抵抗出来るというのだろう。されるがままだった。

 

とはいえ、ずっとそうされるわけにもいかないアオキはある程度好きにさせたあたりで手持ちを撫でて落ち着かせて抜け出る。

 

「ヤシオ、コートの件、今いいですか」

「ん、大丈夫!ってか、アンタのほうが大丈夫か?」

「大丈夫です……少し揉みくちゃにされただけなので……」

 

花を水に生けるのを手持ちに任せて、ヤシオは髪の毛や服がめちゃくちゃに乱されたアオキの後について彼の自室に入る。

アオキがクローゼットを開いて冬物を探している間、ベッドの縁に腰掛けているヤシオはアオキへ口を開く。

 

「改めてだけど、アオキさんありがとな、コート」

「いえ、あるものを使わない間に貸すだけなので気にしないでください」

「んー、そうは言ってもなー。あ、じゃあさ、今日なんか食べたいもんある?なんでも作るけど」

「いいんですか?では、お言葉に甘えて……あの、あれ、ナスの、そぼろのやつがいいです」

「……辛いやつ?」

「辛くないやつです」

「そぼろ餡掛けかな」

「多分それです」

 

アオキは昨年の冬に着ていたものではあるがいつ買ったものなのかは全然覚えていないアルスターコートを手に取ると、ヤシオへ向かって広げた。

そうすれば、立ち上がった彼はアオキが持っているコートへ腕を通す。

身長差があるアオキのコートは成長中のヤシオにはまだ大きく、通した袖の先からは指の第二関節までしか出てこなかった。

 

「スーツの上に着る用に買ったものなので身幅が広めなんですよ……」

「ほんとだ、デカい」

「チェスターコートもあるんですが、あれは襟元が広く開くので防寒には向いとらんのです」

「んーん、こっちでいいよ。カッコいいし」

「ヤシオ、前を閉めてみてください。そう、襟は立てて問題ないです」

「こう?」

「はい、いい感じです。……やはり少し襟元が開いてしまうので、フリッジについたらマフラーだけでも買ったほうがいいですね」

「ん、わかった。……暑いから脱いでいい?」

「はい、どうぞ」

 

アオキはヤシオが脱いだコートを受け取ってから、ふとあることに思考が至って固まる。それからおずおずとヤシオへ問いかけた。

 

「……臭くなかったですか」

「え?なにが?」

「コートです」

「や、別に?普通にアオキさんの匂いだなって感じ」

「…………クリーニングに出します」

「なんでだよ。すぐ使うっつってんだろ」

 

ヤシオに普通にコートを持っていかれた。

──余談だが、アオキは次の冬にこのコートをいたく気に入ってしまったヤシオに借りパクされる。

 

 







カスミソウ「幸福」「無邪気」
紫のパンジー「思慮深い」「揺るがない魂」
ピンクのニチニチソウ「優しい追憶」
ピンクのバラ「可愛い人」「美しい少女」「愛の誓い」
1本のバラ「あなたしかいない」

赤のバラ「あなたを愛してます」「愛情」「情熱」
9本のバラ「いつも一緒にいてください」

※アオキさんのノココッチはジム戦時と再戦時で別個体説がありますが、本作では同一ノココッチとさせてください


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あなたとは踊れない


非常に今更な注意書きではありますが、死に関するセンシティブな描写・表現があります。
特に生まれる前の子の死に関する表現がありますので、何卒閲覧にご注意ください。





 

「もう1匹くらい仲間増やそうかなって思ってんだけ、」

「飛行タイプをおすすめします」

「食い気味」

 

今日の夕食は魚介パエリアだった。

ヤシオの「パエリアって家で作れんのかな?」という好奇心ゆえの献立だ。そのおかげでアオキは家で旨い飯が食えてホクホクだった。

 

夕食の後、洗い物を終えたヤシオがダイニングテーブルでアオキと向き合っていつものように話をする。脱いだ桃色のエプロンが椅子の背に掛けられていた。

 

「飛行タイプがいると勝負が三次元的になっていいですよ。前にあなたも言っていましたが、高いところに飛べば地面からの攻撃が届かなかったり、広い視野で物を見ることができたりします」

「おお……!なんかカッケェ!」

「あとは移動手段としても有用ですし。鳥ポケモンに乗って風を切るのは全人類の浪漫ですよ」

「わあ……!」

 

ヤシオが目を輝かせた。それにアオキは少し口元を緩める。

元は業務命令故とはいえ、アオキは飛行タイプ使いのひとりでもある。その上相棒はノーマル複合のムクホーク。

飛行タイプの良さはなんだかんだで理解しているつもりだし、なんとなく弟子が自分の手持ちに似たポケモンを使ってくれたら嬉しい。

それに、ヤシオにはなんとなく飛行タイプのような機動力のあるポケモンも似合いそうだと思っていたのだ。

 

「ヤシオ」

「おう」

「ムクホークはいいですよ」

「え、ムクホークはやだ。先輩はカッコいいけどアンタとかぶるから」

 

容赦なくオソロを断られたアオキは普通にちょっとショックだった。そっか……やだ、か……。

猫背になるアオキをよそにヤシオはぐっと腕を上げて伸びをする。

 

「ま、そのへんはまた追々考えるけどさ」

「そうですか……」

「じゃ、ぼちぼち行ってくるわ」

「はい、気をつけて」

「ん、アオキさんもなんかあったらよろしく」

 

ヤシオはプクリンが入っているモンスターボールをベルトにセットしてから立ち上がる。それからリビングでイエッサンと共にソファに座って話をしているラッキーへ声をかけた。

 

「ラッキー」

「ラキ?」

「ちょっとふたりで散歩に行こっか」

「ラッキー!」

 

唐突な声掛けにラッキーはキョトンとしてから、けれどヤシオの誘いに喜んでソファを降りてやってきた。

近づいてきて、ヤシオの腰にピッタリとくっつくラッキーをよしよしと撫でる。

 

ラッキーを見送ったイエッサンはヤシオへウインクをして、イエッサンの頭に集合したイッカネズミはヤシオに向かって手を振る。……が、重かったのかイエッサンが頭をぶんぶんと振ったことで3匹は彼女の頭から落下していった。

 

そうやって見送られたヤシオが掌を差し出すと、ラッキーは嬉しそうにその手を取る。彼女の歩くペースに合わせてヤシオはゆっくりと玄関へ向かった。

 

 

 

 

 

ナッペ山の2つのジムに挑戦する前に、ラッキーの件を解決できるならしたいと言ったのはヤシオだった。

 

「どうなるかわかんないけどさ、話すだけ話そうかなって」

 

何もしないわけには、やっぱいかないしな。

そう言うヤシオは相変わらずフラットな様子をアオキへ見せた。それから言葉を続ける。

 

「でさ、ちょっと悪いんだけど、ラッキーとふたりきりにして欲しいんだよね」

 

その言葉を聞いて、アオキは無意識に眉間に皺を寄せた。ヤシオとラッキーをふたりきりにする……あまりしたくないことだ。

 

「……正直、容認しかねますね」

「あはは、過保護」

「大事な弟子です。無警戒とはいかない」

「ん、心配ありがと。でもさ、ラッキーとは外行ってさ、ふたりで話したいんだよ」

 

彼もそこだけは譲らなかった。

アオキが肯定の言葉を口にしないままでいると、ヤシオは苦笑しながら「何も考えてないわけじゃねえよ」と言う。

 

「ちょっとプライベートな……まあ、自分の家族のこととか、そういう真面目なこと話したいからアンタに聞かれんのは恥ずかしいってだけ。ボールに入れとく形だけど、プクリンにはずっとそばにいてもらうし」

「……外というのは、街の外ですか」

「それがいいかな。なんかあっても街の中でバトル起こすよりいいだろ」

「……いざという時、すぐに助けられるようにしておきたい」

「じゃあ、なんかあったらオレはすぐにイエッサンに助けを求める。イエッサンならサイコパワーで察してくれるからスマホより早いし。んでイエッサン経由でアオキさんにヘルプ頼む……ってのはダメ?」

「……家から街の外へは時間がかかります」

「行く場所は事前に決めておくからさ」

「…………」

 

……アオキの心配が杞憂であればそれでいいのだ。

けれど杞憂で済まなかった時が一番恐ろしい。

いくらラッキーが生物的には温厚で攻撃力がそう高くないとはいえ、基本的に人間はポケモンには勝てないものだ。もしもラッキーが混乱して、万が一にでもヤシオを敵とみなしてしまったら……。最悪の想定はいくらでもできる。

 

「……自分のムクホークを、あなたとラッキーの上空で待機させていいですか」

「先輩を?」

「はい、いざとなったら彼の判断で割って入らせます」

「それはなんつーか、別に全然構わねえけど……」

「自分としてはそれが最大の譲歩です」

「……アオキさん、なんか怒ってる?」

「…………気を揉んでいるだけです」

 

思わず自分の眉間に触れた。それが普段からついている皺なのか、今の内心に渦巻く感情故のものなのか判断がつかない。少なくともご機嫌ではないアオキの様子に、ヤシオはむしろふっと微笑んだ。

 

「アオキさん、ありがとな」

「…………」

「アンタがそうやって心配してくれるから、オレも危ない橋も渡れんだよ。困ったら助けてくれる人がいるってわかってるから後先考えずに頑張れるしさ」

「……はあ、甘やかし過ぎましたかね」

「そーだよ、アンタのせいだから仕方ないだろ」

 

そう言ってヤシオはニッと笑ったから、アオキももう折れるしかなかった。

 

「怪我の無いように。危険を感じたら身を守る行動を一番に選んでください」

「ん、わかってる」

「…………はあ」

「まーた溜息ついてる」

「誰のせいですか……」

 

 

 

 

 

心配をかけてしまったな、とアオキに相談した時のことを思い返しながらヤシオは内心で苦笑した。

どうにも自分の周りには過保護なメンツばかりが集まる。プクリンもイエッサンもアオキさんも心配性だ。……オレが危なっかしくて心配させてるだけと言われたらそれまでだけど。

 

ラッキーの小さな手を握りながら、家を出て、街を出て、静かな夜の野原に出る。少し涼しい柔らかな夜風が頬を撫でては去っていく。

 

「風、気持ちいいな」

「ラッキー!」

 

隣を歩くラッキーは楽しそうだ。にこにこと機嫌良く笑っては、軽やかな足取りで進んでいく。

その歩調に合わせつつ、さりげなくヤシオが空を見上げれば、満天の星空の中に大きく翼を広げたひとつの影が見える。守られている、ということに安堵を感じた。

 

「このへんで少し座ろっか」

 

野原の真ん中でヤシオがそう声をかけると、ラッキーは笑顔でうなづいた。1人と1匹、並んで座りながら辺りを見渡す。

満天の空、どこからか虫ポケモンの鳴き声、吹き抜ける夜風、遠くに見えるチャンプルタウンの明かり、少し冷たい野原の草花。

 

「ラッキー、夜は怖くない?」

「ラキ」

 

ヤシオがそう問い掛ければ、ラッキーは怖くないと首を振った。それに安堵して笑みを見せれば、ラッキーはそう言ったヤシオこそが夜を怖がっているのでは無いかと思ったのか、不安そうに彼の顔を見つめる。だからヤシオも首を横に振ってみせた。

 

「ううん、オレも大丈夫だよ」

「ラッキィ……?」

「夜は好き。静かだと音楽を聴くにもいいからさ」

「ラッキ」

「でも、ラッキーは辛かったことを思い出しちゃうんじゃないか?」

 

ヤシオは体育座りみたいに脚を抱き抱えたまま、隣に座るラッキーを見つめた。彼女はきょとんと首を傾げる。ヤシオは微笑みかける。

 

「ラッキーが大事な卵を亡くしちゃったのって、今日みたいによく晴れた夜だったんだろ?」

「…………」

 

ヤシオは脚を抱えていた腕を解くと、その両腕でラッキーをぎゅうと抱きしめた。ラッキーは何を言われたのかわかっていないような、しかし何かに耐えるような表情のままヤシオの腕に包まれる。

 

「ごめんね、オレが無理言ってイエッサンから聞き出しちゃったんだ。……アオキさんにも秘密にしてね。内緒にしてたことを知ったら、きっとあの人、怒るよ」

「…………」

「ラッキー、辛いことを思い出させるね。でも忘れちゃダメだよ。ラッキーの大事な子とオレは違うだろ、間違えたらあの子がかわいそうだよ」

「…………ラ、ラキッ……ラキッ!」

 

ラッキーは慌てた様子でヤシオの腕を振り払うと、彼の手が届かないところまで距離をとった。それから、取り繕うような、子供の冗談を笑うみたいなそんな表情を見せた。

けれどヤシオが変わらず穏やかな顔でラッキーに微笑みかけるから、彼女は笑みも繕えなくなって呆然とした顔をする。

 

「ラッキー」

「ラ、ラ、ラキッ!ラキッ!」

 

ラッキーは否定するように何度も首を横に振った。

違う。そんなはずはない。私の子はあなたで、あなたはここにいるのだと。

そんなラッキーの願望を、少年は優しく否定する。

 

「ラッキー、ごめんね。でも本当のことを言わないといけない」

「キッ!キィッ!」

「オレはね、ガラルで生まれたんだよ。卵じゃなくて、15年前に人間のお母さんのお腹から。胎生って言うんだって」

「ラキィ……!」

「写真見せてあげる、これがオレの母さん。美人だろー?オレのためにいっぱい働いてくれて、優しくて、大好き。今度一緒に会いに行こうよ、ね」

「キィ!」

 

ヤシオが差し出すように見せたスマホをラッキーはバチンと叩いて弾き飛ばした。けれどヤシオは気にせず、少しだけラッキーに近づく。

もうすぐにでも触れられる距離にヤシオが入った瞬間、ラッキーは嫌がるように手を振り回した。それがヤシオの頬に当たる。

 

瞬間、主人の命令を守るために急降下するムクホーク。

ラッキーへ向かって爪を立てて落下してくる大鳥から、けれど守るようにヤシオは彼女を抱きしめた。そうされて仕舞えば少年を傷つけるわけには行かず、爪を下げて地上に降り立つ。

 

「ごめん、先輩。でも大丈夫だから」

「ピュイ……!」

「……ラッキー、辛かったな。卵の中の子に、会いたかったのに会えなくなっちゃったんだもんな……」

 

腕の中でラッキーはむずがる子供のように泣いて手足をばたつかせて抵抗する。体を何度も叩かれて蹴られて、それでもヤシオは手を離さない。

 

「でもダメだよ、ラッキー。だって、その子のことを覚えてるのはもうラッキーしかいないんだから。ラッキーが覚えてなかったら、誰がその子のことを覚えていてあげられるんだよ」

「ラァ!ラァア!!」

「嫌なんて言うな。嫌じゃないだろ。大切なんだろ。忘れたふりなんかやめろ。お母さんになりたかったんなら、自分の子供のことくらいちゃんと覚えておいてやれよ」

 

ラッキーは大声で泣き喚いた。

そんなことを言われてしまったら、もう狂ったふりなんてできなくなってしまうから。

目を逸らして、無かったことにしてしまえば、心は軽くなるかもしれないけど、それじゃああの子が初めからいなかったことになってしまう。

生まれなかったけれど、生まれられなかったけれど、あの子は確かに自分の腕の中にいた。小さな卵の中で生まれる日を待っていた。あの柔らかな温みを、無かったことにすることなんてできるわけもなかったのに。

 

──覚えている。今夜みたいに星の綺麗な夜だった。

群れ同士の縄張り争いに巻き込まれて、逃げ場を失って、守るために必死だったけれど、あの小さくて脆い卵は数多の群れに踏み潰されてしまった。

 

何よりも悲しかったのは、自分にとっては命よりも大切だったものが、他者にとっては足蹴に値するような瑣末なものだったということ。

誰にも一瞥されることなく失われた命を自分は心から悼んだはずなのに、いつしか今の自分は事実から目を逸らして、それを同じことをしていた。

 

ごめんなさい。

守ってあげられなくてごめんなさい。

あなたを忘れようしてごめんなさい。

代わりを求めてしまってごめんなさい。

 

ラッキーは彼の腕に抱き締められながら、ただ泣いていた。

もういなくなってしまった子を、会えないままだったあの子を想って、声をあげて涙を流す。

その温もりに縋りながら、救われながら、本当は自分を抱き締めてくれる彼のことを何も知らなかったことを知る。

 

……あなたを代わりにして、あなた自身を見ようとしなくて、ごめんなさい。

 

彼女は滲む視界のままゆっくりとヤシオの腕から抜け出す。

それから少しだけ距離を取り、涙を拭って目の前の少年の顔を見た。

 

彼と共にいるようになって何度も見てきたはずなのに、初めて見る顔だった。初めて、彼の顔を正しく認識した。

そっと近づいて、その頬に触れる。撫でる。確かめる。黒い髪、灰色がかった瞳、穏やかな微笑み。

 

……そう、あなたって人間なのね。

 

少し伸びた背丈であなたを見つめる。

どうしてか泣きたくなる気持ちを抑えて笑って見せたら、あなたは微笑み返してくれた。

 

「改めてになるけど、オレはヤシオ。人間で、トレーナーなんだ」

「……ハ、ハピィ……ハピナス」

「うん、ハピナスはこれからどうしたい?」

 

目の前の彼はそう「これから」を問いかけてきた。

 

……確かに、そう、初めはあなたを我が子だと思いたかったから、あなたの元へ向かった。

けれどそうしようと思った原初は、卵を亡くして己を傷つけることしかできなくなった私にあなたがそっと手当てをしてくれたからだ。

そのささやかで善良な優しさが嬉しかったから、あなたを好きになった。そんな、どこまでも単純な論理。

 

それは今も変わらない。

あなたはヤシオという人間で、トレーナーで、……我が子ではないけれど。

 

一緒にいることを選びたいと思った。

この身を裂くような痛みがこれから先永遠に絶えないとしても、きっとあなたはそばにいてくれるだろうから。だから私もあなたのそばであなたの痛みに寄り添いたいと思う。

 

ハピナスはゆっくりと近づいて、それからそっと彼を抱き締めた。

そうすれば応えるように背中に回される手。

ヤシオはハピナスのくるくるの巻き毛を撫でた。

擽ったさに笑えば、笑い返される。

そして彼はぐぐっと腕を天に伸ばしてから、ころんと草原に背中をつけた。

 

「あーあ!なんか腹減ったな!」

「ハッピー」

「なー?ムクホーク先輩も腹減ったよな」

「ピュ」

「……今からオレらだけで宝食堂行ってイモモチ食わね?他のみんなに内緒でさ」

「キュイ!?」

 

ダメダメ!と羽根をばたつかせるムクホークだったが、ヤシオが「じゃあオレとハピナスとプクリンだけで行くけど、先輩は外で待ってんの?」と言われてしまった。それはちょっと寂しい。

だからといって先に帰ったらアオキに何故後輩たちを置いて1匹で帰ってきたのか聞かれそうだし……。

 

「……ピ、ピィィ」

「よっしゃ!じゃあ行こ!プクリンも出ておいで!」

「プリィ!」

「ハッピィ!」

「ピュイィ……」

 

ああああ……という顔をしながらもヤシオの肩に掴まるムクホーク。ぴょこぴょこ軽い足取りでプクリンとハピナスが前を歩く。ヤシオはムクホークを撫でながら「先輩共犯ありがと〜」とにこにこ笑った。

 

 

 

「女将さん!イモモチ!」

「あら、ヤシオくん、いらっしゃい!今日はアオキさんと一緒じゃないのかい?」

「そー、今日のオレら不良だから晩飯食ったのにこんな時間にアオキさんに内緒でイモモチ食べる」

「あっはっは!年頃だねえ!大丈夫かい?」

「大丈夫大丈夫、すぐ食べて帰るからバレねえって」

「残念ながらもうバレています」

「エッ」

 

背後にアオキがいた。

 

「ムクホーク」

「ピェッ」

「ヤシオ」

「……はい」

「女将さん、イモモチは持ち帰りで」

「はいよ!……ま、あんまり叱んないであげなね」

「……彼らの反省度合いによります」

「……アオキさん」

「はい」

「なんでバレたの?」

「……イエッサンに思考見られているの忘れてたんですか?」

「え?イエッサンって助けを呼んだらキャッチしてくれるだけじゃねえの?え?オレが考えてること常に全部見られてんの?……え?オレのプライバシー常日頃から守られてなかったりする?」

「そのあたりはイエッサンと話し合ってください……」

 

イエッサンに「話し合い終わったのに帰らないで夜食食べに行ってるよ」と告げ口を受けて宝食堂にやってきたアオキ。

ふとヤシオたちが囲っているテーブルへ目を向ける。

やってきたアオキを前に小さくなっているムクホークと、アオキを気にすることなくお冷を飲んでいるプクリン……それから、いつの間にやら進化しているハピナス。相変わらず幼子のようにヤシオにくっついているが、その瞳に狂気はなく落ち着いた様子に見える。

 

恐らく、彼女との対話は成功したと思っていいのだろう。

アオキはヤシオを見つめてから、彼の左頬を自身の中指の関節でトントンと指摘するように触れた。

 

……ヤシオの頰がかすかに腫れている。

 

アオキの指摘に気がついてか、彼は苦笑しながら口を開いた。

 

「えーっと、ちょっと、拳で語り合った」

「一方的に語られたの間違いでは?」

「あー、でもオレも結構しんどいこと言っちゃったからおあいこ」

「…………」

「先輩のこと怒んないであげてくれよ。助けようとしてくれたのにオレが我儘言って見守ってもらったんだ」

「……まったく、誰も彼もあなたに甘い」

「アオキさんが一番甘やかしてくれるけどな……」

「自分はいいんです。師匠なので」

「そういうもん?」

「はい」

 

持ち帰りのイモモチはアオキが受け取った。

手持ち無沙汰になったヤシオは右手をプクリンと、左手をハピナスと繋ぐ。

 

「両手に花ですね」と言ったアオキの言葉には少しの揶揄いが含まれていたけれど、ヤシオは「だろー?」と素直に笑うだけだった。

 

 

 

 

さてヤシオは後日、一泊二日でフリッジジムとナッペジムに挑戦しバッジをゲットしてきたヤシオは「ハピナス鬼強え」と言いながら帰ってきた。

 

余談だが、ライムのフォロワーであるヤシオは彼女に空のモンスターボールにサインを書いてもらった。

そして家で興奮した様子でアオキへいかにライムがSWAGでDOPEだったかを語ると、彼はちょっと拗ねた。

 

「ライムさんが好きなんですか……」

「好き!超かっけえから!」

「……まあ、といってもアーティストとしてですよね」

「え?ん、ああ、まあどっちかといえばだけど……」

「戦ってみて、自分とライムさんのどっちが強く感じましたか」

「ア、アオキさん……」

「でしょうね」

 

圧をかけてくるアオキに、ヤシオはめんどくさい師匠だなあと思いながら笑った。

 






ラッキー編のイメソンはこめだわらの「自堕楽」。
ジム戦はひとつひとつ書いていたら本当に終わらないで泣く泣くスキップしています……。

>……え?オレのプライバシー常日頃から守られてなかったりする?
守られているわけがない。


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平穏の背景は不穏


精神不調に伴う嘔吐やパニックの表現があります。ご注意ください。
描写ゆえに食事前・食事中の閲覧は控えた方が良いかもしれません……。




 

ヤシオがマイペースにジムチャレンジを進めて、6つ目のバッジを手に入れて少しした頃。

 

アオキの他地方への出張が決まった。

出張といっても、1泊2日の短いものだ。

実際の拘束時間は数時間程度で、あとはほぼ自由時間のようなもの。

たまにある、ものすごく割りがいい出張だ。

 

「手持ちも全員連れて行くので、その間は家で好きに過ごしていてください」

「おう、わかった。気をつけて行ってこいよ」

 

明日の朝に出て、明後日の夕方にはパルデアに戻る。

一晩不在にするだけのことだ。ヤシオは生活力もあるし、彼の手持ちもいるから特に問題はないだろう。

外食しちまうか!とプクリンの手を取ってリビングでぐるぐる回っているヤシオを見ながら、アオキは小さく息をついた。

 

 

そして翌朝、出張の割に少ない荷物で出かけるアオキは、ヤシオとその手持ちたちに見送られて家を出た。

 

「では、いってきます」

「ん、いってらー」

 

そして玄関扉がバタンと閉じた瞬間、ヤシオは両腕を上げて手持ちたちとワー!とリビングに走って、カーペットにスライディングした。手持ちの面々も真似してカーペットに滑り込む。

 

アオキが不在の間は家事もジムチャレンジも休んで、のんびり過ごすつもりだ。

 

「飯は全部出前とか外食で済ましちまおうな!」

「プリ!プルリ!」

「夜更かしもするし、朝寝坊もする!」

「んっきゅ!んっきゅ!」

「暇な時に水回りの掃除しようとか思ってたけど……」

「ア……」

「ア……」

「ァ……」

「ま!いっか!」

「ハッピー!」

 

リビングのローテーブルに小型ラジオを置いてBGM程度の音量で適当なチャンネルを流す。

カーペットでイエッサンとゴロゴロしたり、ラジオの曲に合わせてプクリンと歌ったり、ハピナスと踊ったり、イッカネズミと遊んだりした。

 

それからカーペットに俯せに寝転んで、組んだ腕に顎を乗せながら、レースカーテン、その先のガラス窓越しに庭を眺める。

よく晴れた午前の光が深緑に降り注いでいて綺麗だ。

眺めながら膝を曲げて足先をパタパタさせる。パタパタパタパタパタパタ…………しかし、のんびりするのにも飽きてきた。

暇だし何かしたいなと思ったが、思いつくのは料理とか家事とかそんなものばかり。

 

「何もしなくていいって暇だな……」

「ァ?」

「…………オレってもしかして趣味ねえのかもな」

「ァー」

「ちび、今日何食べてえ?」

「ァ!ァァ!」

「ピーナッツバターグレープゼリーヨーグルトかあ……好きだなあ……」

 

オレ、ヨーグルトにはマーマレード派なんだよ……。

呟いたヤシオにイッカネズミの小さな1匹は抗議するように彼の髪を引っ張った。

 

「いった!なんだよ!」

「ァァァー!」

「否定してない!好みの話じゃん!」

「ァァ!!」

「言い方あ!!」

「ァァッ!!」

「ねえ!2匹!ちびがヤなこと言うんだけど!」

「ァァァ!」

「ア!」

「ァ……」

「ア!!」

「なんでオレまで怒られんの!?」

「ァーァ!」

「なんか一言多くないこいつ!?」

「ア!」

「ア!」

 

最終的に喧嘩両成敗でヤシオもちびもイエッサンに怒られた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……お久しぶりです」

「はい、お久しぶりです、アオキさん」

 

その人に会うのは数年ぶりで、以前会った時が初対面だった。

以前会った時にまともに会話したのは挨拶の数分程度で、碌に顔も覚えていないはずだったのに、待ち合わせた喫茶店に入り、店内を見渡してすぐにその人だとわかった。

 

漠然とした雰囲気というものだろうか、それが見慣れた彼によく似ていたからだ。

 

「最後に会ったのは、姉の結婚式の時でしょうか……」

「そうですね、その節はありがとうございました」

「いえ、こちらこそ。今も姉が世話になっています」

 

姉の義母であり、ヤシオの実母である女性はテーブルの向かい側で微笑んだ。

彼女のその微笑みが見慣れた弟子のものに似ていて、アオキはそこに水より濃い血を見る。

 

ガラル地方はシュートシティの喫茶店だった。

アオキは出張先であるガラルに来たついでに、ヤシオの母親と話をすることを決めた。人様の子を預かっているために定期的に連絡は入れていたが── そうしないと姉が煩いので──、この出張のタイミングであえて時間を作って会う時間を作った。

アオキは面倒ごとは嫌いだが、しかし営業として働いている経験から対面で会話をすることの利点もまたよく理解していたからだ。

 

出張で何度かシュートシティに訪れたことのあるアオキは敢えてこの喫茶店を選んだ。

シュートシティはヤシオの現在の実家がある街であるし、レトロな雰囲気の漂うこの喫茶店はそう客数が多くない上にテーブル間の距離が広いことを以前仕事で利用した際に知っていた。

つまるところ、プライベートな話をするにはうってつけの場所だ。

 

向かい合い、互いに珈琲を注文する。

他人でありながら他人ではない人間と会話しなくてはならない時の、微かにストレスのかかる緊張感。何から話すべきかと考えるよりも先に、彼女はアオキに向かって頭を下げた。

 

「改めてになりますが、この度は親の私が至らぬばかりに、無関係のアオキさんにまでご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありません」

 

下げられた頭と、喉を締め付けたような声音。

……今となってはヤシオがいる生活が普通になりつつあるが、そういえばそうだ。

アオキはほぼ無関係の立場でこの件に巻き込まれていたのだった。

それを思い出したアオキはヤシオによく似た黒髪を見つめながら口を開く。

 

「いえ、お気になさらないでください……というより、正直なところ自分に謝られても困ります……」

「…………それは……はい、そう、ですよね」

「責めているわけではないんです。……正直言ってヤシオ、くんが来てから生活の質が上がっていて自分としてはむしろ得をしているような立場なので、謝られても実感が無いというか……」

「……はい?」

「……えーっと、彼が作る飯はなんでも旨いです」

 

キョトンとした顔がヤシオによく似ているな、と思った。

ぽかんと小さく開いた口に気がつきながら、アオキは続けた。

 

「預かっているとはいえ、自分は平日仕事で家を空けています。その間、彼は家事をしたり自分の手持ちの世話をしてくれたりと……本当に助かってます」

 

そこまで言ってからアオキは人の息子をハウスキーパーのように扱き使っている事実を伝えてしまったことに気がついた。普通にダメな発言では?

やっちまったな……と思いながら、ヤシオの母親の方を見れば、彼女はアオキの言葉が予想外だったのか目を丸くしたままこちらを見つめていた。それから彼女は苦笑する。

 

「そう……そうですか。あの子、どこでも変わらないのね……」

「ガラルのほうでもそうでしたか」

「ええ、特に再婚する前は私が仕事で家を空けることが多かったので、よく息子が家事をしてくれていました」

 

彼女は懐かしむように目尻を下げた。それからアオキに微笑みかける。

 

「……パルデアであの子がどんな様子か、教えていただけませんか?」

「自分で良ければ、はい」

 

アオキはぽつぽつと日々の中での彼の姿を彼女に伝えた。

出会った当初の印象から、一緒に暮らし始めた頃の話と、現在の様子。パルデアで新しく仲間にしたポケモンの話や、ジムチャレンジをしていること、休日に一緒に出かけたこと、季節の変わり目に風邪を引いたこと、彼が作ってくれて旨かった料理の話……。

 

不思議と話すことは絶えることなく浮かんでくる。

彼女が嬉しそうに聞いてくれることもあって、アオキは自分事ながら珍しくよく喋っていると思った。

アオキが流石に話し過ぎただろうかと思い始めた頃、目の前の彼女は嬉しそうに笑いながら口を開いた。

 

「ヤシオは本当にあなたに懐いているんですね」

「……そうであればいいと思っています。パルデアで彼は自分以外に頼る当てがないでしょうから……」

 

そう言ったアオキに彼女は微かに信頼の表情を見せた上で、目を細めて言った。

 

「……失礼な発言かもしれませんが、本音を言うととても驚いて……というより、不思議に感じています。どうして新しい家族はダメだったのにあなたには心を開いたのか、と……」

 

戸惑いが滲む瞳で彼女は正直にそう口にした。

 

……ヤシオが新しい家族というものに慣れることができなかった、という話をアオキは彼を預かる前から話には聞いていた。

そして新しい環境へのストレスを感じたまま長期間を過ごした結果、家族団欒である夕食の場でパニックを起こしてしまった、と。

 

具体的に何があったのか、詳しいことはわからない。あえて知ろうともしなかったのも事実だ。

ただ、何故新しい家族とは上手くいかなかったのに、アオキとうまくやれたのかについてならとっくに見当がついていた。

 

「……自分はヤシオが来る前はここまで長期間子供と交流したことはありませんでした。つまるところ、人間の子供についてはよくわからんのです」

 

そう唐突に言ったアオキを彼女は静かに、言葉を待つように見つめた。無言ながら話の続きを促されてアオキは口を開く。

 

「ポケモントレーナーとしての経験をもとに話すんですが、一般的に、人の手で卵から孵されたポケモンはその後野生の群れで生きていくことができないんです」

「……それは聞いたことがあります」

「自分はヤシオの状況はそれと似たものだと考えています。彼は貴女の手で育てられました。つまりは、親子や母子というものはよく理解しています。それが彼にとっての当たり前の家族の形ですから」

「そう、かもしれません……」

「その代わりに世間一般的に想像される家族というものを知らんのだと思います。両親がいて、兄弟がいて、場合によっては祖父母などといった近親者が複数名存在する、そういう形の家族というコミュニティを理解していないんでしょう」

 

アオキがそう言えば、彼女は少なからず訝しげな顔をした。

 

「……一般的な家族というものがわからないから、父親や兄とどう接して良いのかわからなかった、ということでしょうか?」

「逆に言えば、自分はヤシオにとって家族ではない他人だから、上手くやれたのでしょう。ごく端的に言えばそういう理由と思います」

「なんとなく、納得はできますが……でも、それで、あんなになるものでしょうか……」

「……あんなに、とは?」

 

彼女の言葉に引っかかるものがありアオキがそう問いかける。

すると目の前の彼女は真剣な顔つきで、しかし眉間に皺を寄せてどこか息苦しそうに口を開いた。

 

「……アオキさんにはヤシオを預かっていただく前に、少しお話をしたと思います。その、あの子が夕食中にパニックを起こしてしまった、という話を……」

「はい、」

「あの時にみんなでどんな話をしていたかというのは覚えていないんです。ただ、家族でテーブルを囲んで話をしていた時に夫の冗談にみんなが笑って、笑ってた時に、同じように笑っていたはずのヤシオが急に、」

 

 

 

 

 

静まり返った食卓で、みんながオレを見ていた。

視線、視線、視線、視線。

 

さっきまでのみんなの笑い声が鼓膜に残っている。オレはそれに合わせて笑いながら、笑った顔を必死に作りながら、母さんが作ってくれたグラタンに今まで食べていたものをすべてぶち撒けていた。

綺麗で温かくて美味しそうな香りがしていた料理に、ぐちゃぐちゃでめちゃくちゃで嫌な臭いのするトッピングが追加されて気持ち悪かった。

 

「あはっ、あは、あ、は、あぉ、ぉおえ゛ぇ……」

 

喉を逆流する固体の感覚。まだ胃の中で分解される前のそれらがテーブルの上にぐちゃぐちゃと戻る。止まらない吐き気を必死に抑えようとしながらけれどそれがもう堪えられないところまで来ていることを知っていた。

鼻につく酸の臭い。喉を通るぬるま湯みたいな温度。喉が締まる。息が上手くできない。ドロドロとした感触。口を押さえようとした指の隙間から全部落ちる。生温い。汚い。気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。

みんなが見ているのがわかった。見ている。視線が、視線が、さっきまでの笑い声が全部消えて、オレのせいで、みんな楽しそうだったのに、全部がめちゃくちゃになってんだって、オレがめちゃくちゃにしたんだって気がついた。

戻さないといけない。時間を、なんでもなかったから、大丈夫だから、続けて、いいから、オレのことは放っておいて。

 

もど、もどさないと、まきもどして。なにもなかったことにしないと、なにも、まきもどす、戻す、もどす、巻き戻して、自分が出したもの、全部口の中に、戻して、入れて、戻して、直して、何も無かったみたいにする。だから、大丈夫だから、全部食べるから、母さんの料理、おいしいから「ヤシオくん!」

 

お姉さんがオレの手を掴んで、止めさせる、けど、やめて、汚しちゃうから、オレが、汚いから、落ち着いてっていわれる、けど、大丈夫、オレは落ち着いてる、なにも大丈夫なのに。ちゃんとやれるから、ちゃんとかぞくに、うまく、できるはずだから。そうじゃないと、かあさんがかわいそうだ。

 

「っ、あ、ヴぅゥぐギィぃぃ……」

 

逆流する感覚。ぼたぼたと落ちる汗か涙かわからないもの。体の中身を全部ミキサーにかけたみたいな気持ち悪さ。体が強張る。石になったみたいに、耐える。呻く、唸るみたいな呻き声と全力で走った後みたいな発汗。大丈夫だよ、大丈夫だからね、と抱きしめて、オレを必死に落ち着かせようとしてくれたお姉さん。もしも、まだ、いつか、オレに姉さんがいたら、この人みたいな人がいいって思った。ガクガクと四肢が引き攣る。呼吸がうまくできない。視界が壊れた液晶みたいに黄色とか緑とかピンクとかビリビリと目を壊す。崩れる、決壊していく、から、オレはオレを抱きしめてくれたこの人の体にさえ嘔吐してしまう。気色の悪い音と共に酸の臭いが、たぶん、きっと、りそうてきだった、家族のけしきをよごした。大丈夫、大丈夫ってオレの背中を撫でる人が、目の前にいるのに、オレはここじゃないどこかに必死に祈るみたいに助けを求めていた。やだ、やだ、こわい、たすけて、プクリン、プクリン……

 

「プープクプ?」

 

ふと気がつくとオレはソファに座っていた。

隣にはプクリンがいて、いつも通りの笑顔でオレを見ている。それだけでひどく安心した。プクリンがオレに手を伸ばすから、いつもみたいにぎゅっとプクリンを抱き締めてドクドクと跳ねる心臓の音が落ち着くのを待った。

 

「プクプ?」

「ん、大丈夫」

 

それからオレは立ち上がって、なんとなくダイニングキッチンに向かう。

するとそこにはアオキさんがいた。テーブルのいつもの椅子に腰掛けて、黙って座っている。アオキさんはオレを見るといつも通りの無表情で口を開いた。

 

「…………腹が、減りました」

 

オレはうなづいて、コンロの上にあった鍋に火をかける。蓋を開けなくてもそこにカレーがあるとわかっていたし、炊飯器の中には米がある。戸棚を開いて、カレー皿を用意して、米とカレーをよそって、アオキさんの前に出す。

 

「いただきます」

「おう」

 

その人が無心でカレーを食べているのを、オレは反対側の椅子に座ってじっと眺めていた。

 

自分が作った料理を誰かが食べてくれるのが好きだ。

料理を始めたきっかけは仕事で忙しい母さんの負担を減らしたかったから。オレが料理を作ってみせれば母さんはすごく喜んでくれた。それが嬉しくて、なにより料理をするのが楽しくなって続けていたけれど、やがてそれが母さんを追い詰めていっていたことにも気がついていた。

 

「いつもごめんね、ヤシオ。無理して家事なんてしなくていいんだよ」

「……ヤシオに家のことばかりさせちゃってごめんね」

「お母さんなのに、料理も作ってやれなくてごめんね」

 

なんで謝るの。オレ謝って欲しいなんて言ったことないよ。

もっと上手になったら喜んでくれるかなって、その時は思っていたけど、今ならわかる。

多分、母さんには母さんの中で理想の母親像があるんだって。きっとその理想の母親は子供のために仕事をして、料理もして、家事までしている人なんだろう。だからオレが家のこととか料理とかしてるのは、母さんにとっては本当はしんどかったんだろうなあ。上手くやれない自分を責められてるみたいに感じてたのかもしれない。そんなことないのに。

 

理想の母親像。理想の家族像。誰が決めたのか知らないけど、そういうものがあって、でもオレにはよくわからない。

オレの中に理想の母さんなんてないから。

いつも通りの、仕事を頑張っていて、いつも笑顔で、優しくて、疲れててもそれをオレに見せないようにしている母さんが好きだよ。そういうことをちゃんと伝えておけばよかったんだろうなあ。

 

新しくできた父さんや兄さんが良い人なのはよくわかっている。気を遣ってオレ1人の部屋を用意してくれたし、一緒に出かけようと誘ってくれたり、オレだけじゃなくてプクリンやイエッサンとも仲良くしようとしてくれた。

でもオレが上手くやれなかった。その人たちにとっての理想の息子とか、理想の弟ってなにかわからなかった。何が自分に求められているのかわからなくて、普通の息子とか弟ってなにかわからなくて、何をしたら良いのかわからなくて、自分の一挙一動がすべて間違っている気がした。父さんも兄さんも誰も何も悪くないのに上手くやれない自分が嫌になっていく。勝手に追い詰められて、勝手に崩れ落ちて、勝手に家族をめちゃくちゃにしちゃった。

 

……うん、でもさ、本当のことを言うとオレは普通でよかったんだ。

母さんがいて、オレがいて、プクリンとイエッサンがいる、そういう生活がオレにとっての普通だったから。

でも母さんにとってそれは普通じゃなかったんだね。

母さんも普通が良かったんだよね。

……わかるよ、ごめんね、本当にごめん。

 

「ヤシオ」

 

ふと、目の前でスプーンを握っているアオキに名前を呼ばれた。

オレはもうその時にはこれが自分が見ている夢だとわかっていた。

だから、目の前の人に笑って問いかける。

 

「……アオキさん、カレーうまい?」

 

そう言えば、彼は微かに目尻を下げてから口を開いた。

 

「旨いです」

 

恥ずかしくて嫌がってるフリしちゃってたけど、オレさ、アンタがそうやって普通に褒めてくれんの、嬉しかったんだよなあ。夢だと知っているから、口が緩む。

 

「オレ、アンタのところに来れてよかったよ」

「そうですか」

「……アオキさんはなんでオレのこと受け入れてくれたの」

 

アオキさんは答えなかった。当たり前だ、これはオレの夢の中だから、オレが知らない答えは出せない。

 

「アオキさんは、オレといて……しんどくない?」

 

わかっていて、問いかけを続けた。オレが知らない答え。もしもアオキさんが答えてくれたとしたら、それはオレがあの人にそう言って欲しいと願っているからだろう。

 

「ヤシオ」

「ん」

「自分はあなたといて楽しいです」

「そう」

「はい」

「そっか」

 

本当にそうだったらいいなあ、と思った。

 

 

 

「プミュ………プリュ………プム……」

 

プクリンの可愛らしい寝言でヤシオは目を覚ました。

アオキの家のリビングのカーペットの上で、転がっていていつのまにか眠ってしまっていたらしい。すぐ隣で寝ていたプクリンがころんと寝返りを打ってヤシオにお腹を見せる。

 

体を起こして辺りを見渡せば、プクリンもハピナスもイッカネズミもみんなカーペットの上で眠っていた。

窓から差し込む日は暖かく、流れる時間は穏やかで、平和なその光景に思わず笑みが溢れる。

 

……何か夢を見ていた気がする。

夢はたった数秒前の微睡みの中の出来事だったのに今はもう忘却の彼方にいってしまった。少し思い出そうとしたけれど、戻ってくるものは何もなかったから夢への執着を手放して、1匹だけ起きていた彼女へ声をかける。

 

「イエッサン」

「きゅ」

 

イエッサンは出前のチラシをカーペットに並べて、それを眺めていた。ふと時計を見れば時間は昼の12時を過ぎたところ。ヤシオは這うようにしてイエッサンのそばに行くと、彼女の隣に座って問いかけた。

 

「昼、何食べようか」

「んきゅ〜きゅ」

「ん、そうだな、迷うな」

 

ピザやバーガーや寿司や中華、蕎麦。様々なチラシを眺める。その時ふと、本当になんとなく、そう思って、口にした。

 

「イエッサン、オレのこと助けてくれた?」

 

どうしてそう思ったのか、何に対してそう思ったのか、わからないけれど、唐突にそう思い至って問いかける。

けれど、イエッサンは否定も肯定もせずにっこりと笑ってみせるだけだった。

 

その時、目を覚ましたプクリンがヤシオのそばにやってきて、甘えるように寄りかかってくる。

その寝ぼけ眼にヤシオは「プクリン、寝言言ってたろ」と笑って彼女を撫でた。

 

 

 

 

 

 

 

ヤシオが夕食の場でパニックを起こして吐いてしまったという話を、アオキは以前からざっくりとは聞いていた。

 

詳しく聞けば、ストレスによる嘔吐と、自分がそれをしたということにパニックを起こして、半狂乱で自身が吐いたものを胃の中に戻そうとしたり過呼吸になったりして、最終的に軽度の痙攣を起こすまでになってしまった、と。

その後、落ち着かせたヤシオの身体を綺麗にさせて、部屋で彼を休ませたが、家族が気がついた時には書き置きを残して手持ちと共に家を出て行ってしまったのだという。アオキとしてはさもありなんとしか言いようがない。

 

自分の元に預けられたのだから、余程のことがあったのだろうと思っていたが、まあ、確かにヤシオにも、ヤシオの家族にもなかなかの傷を残しそうな出来事だった。

確かにここまでとなると、それまで通りガラルの家で家族と過ごさせるということはできないだろう。その家という環境にいるだけでヤシオにはストレスになるし、フラッシュバックしかねないからだ。どこか遠く、ガラルから離れたところで穏やかに過ごさせよう、となるのにも理解はできる。

 

……しかし自分が以前、泥酔して帰ってきた挙句ヤシオの前で嘔吐した時は、下手したら彼のトラウマスイッチをオンにしていたんだな……と気がついてアオキは流石に反省する心地があった。

 

「……ヤシオが今後ガラルに戻るべきか、パルデアに居続けるべきかについてはまだ話せる段階ではないと思います」

 

若干冷や汗をかきながらもアオキはヤシオの母に向かってそう言った。

彼女は深く息を吐いてからアオキを真っ直ぐに見つめて「そうですね」とうなづいた。

 

「ヤシオは……きっと私が帰ってきて欲しいと言えば、自分の気持ちを押し隠して、無理をしてでも戻ってきてくれるでしょう。でも、そんなことを望みたいわけではないんです。あの子が心穏やかに過ごせるのが一番ですから」

「自分も同意見です。ヤシオがどうしたいのか、それに尽きると思います」

 

今のところ、2人が話せるのはそこまでだった。それ以上の話をするのならば、ヤシオがここにいる必要がある。彼の意見を無視して進められる話ではないから。

 

「アオキさん、本当にありがとうございます」

 

彼女はそう言って改めて頭を下げた。アオキも「いえ、こちらこそ」と言って軽く頭を下げる。大人なんて案外無力だと再度思い知る。

支払いをして、店を出る。去り際にヤシオの母にアオキは問われた。

 

「アオキさんは、あの子といてつらいと感じたことはありませんか?」

 

その問いかけからして、きっと彼女はヤシオといてつらいと感じたことがあったのだろう。その理由はアオキにはわからない。けれど、それを理由に彼女からヤシオへの愛情を疑うこともしない。

愛情だけで成立する関係なんて、親子や家族であってもあり得ないから。

アオキは彼女の少し引け目のあるような瞳を見つめながら答えた。

 

「……いえ、自分はヤシオといて楽しいですよ」

 

嘘をつく理由も意味もなかったから、アオキは本当の気持ちを答えた。

それによって、目の前の人は傷つくのかもしれないとしても。

 

彼女はアオキが想像していた通り、一瞬痛みを感じたような表情を見せてから……安堵したように笑顔を見せた。

 

「すみません、変な質問をしてしまいましたね。どうか忘れてください」

「……いえ、お気になさらず」

「今日はありがとうございました。それでは、また。お仕事頑張ってください」

「ありがとうございます……では、さようなら……」

 

そうやって、背を向けて別れた。

いくらか離れてから、疲労の混じった溜息を吐く。ほぼ初対面の人間相手に真面目な話をしなくてはいけないなんて、疲れるに決まっている。

 

「……腹が減った」

 

そう呟いて、アオキは腹を膨らませられる店を探してシュートシティをゆっくりと歩き出した。

 



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おかけになった電話は、

 

「プクリン、アイスうまい?」

「プリ!」

「ん、よかった」

 

テーブルシティの屋台で買ったストロベリーアイスをプクリンが食べていた。

彼女の隣、ベンチに並んで座ったヤシオは美味しそうにアイスを食べるプクリンを見つめて表情を綻ばせる。

 

プクリンと2人きりで過ごすのは久しぶりだった。

アオキの家で暮らしてからはアオキや彼の手持ちが日常的にそばにいたり、新しい手持ちが増えたりと周囲に誰かがいることが当たり前になっていたからだ。

 

実家にいた頃もヤシオの母やイエッサンが同じ家で暮らしていたが、母は仕事で家を空けることが多かったし、イエッサンはたまにヤシオとプクリンを2人きりにして彼女だけ1人になろうとすることがあった。

そのため、プクリンと2人きりになるタイミングは今よりも多かったのだ。

イエッサンが何故1人になろうとするのかはよくわかっていないが、エスパータイプで人の感情に敏感なところがあるからたまには1人でゆっくりと落ち着きたいこともあるのだろう、とヤシオは思っている。

 

そして今日、他の手持ちたちはみんなリュックのモンスターボールの中。ヤシオはプクリンと本当に久々に2人きりで外へ出かけていた。

 

何故かイエッサンがそうするように他の手持ちたちに働きかけていたらしい。ヤシオとプクリンがゆっくり2人になれる環境を設定した上で満足げな顔でボールに入っていったイエッサンの顔。

よくわからないが、プクリンはそんなイエッサンを見て妙に複雑そうな顔をしていた。

 

「なんかイエッサンたちに気ィ遣わせちゃったかねえ」

「プ?」

「ま、いっか。たまにはプクリンとこうやって2人きりで過ごさねえとさ」

「プク!」

「今日は2人でゆっくりしような」

「プリュ!プリュ!」

「プクリン、オレにも一口ちょうだい」

 

そうねだってみれば、プクリンが持っているコーンアイスをヤシオの口元に近づけてくれる。それに小さく噛みついて、アイスの冷たさと甘さを楽しんだ。

ピンク色のストロベリーアイスはプクリンの好物だから、アイスを食べるとなるとヤシオもついストロベリー味を選んでしまう。

ヤシオが食べているとプクリンがいつも一口欲しがるから、せっかくならプクリンが好きな味を選んでやろうと思ってしまうから。

 

「今年さあ、海行こうぜ、プクリン」

「プリ?」

「ほら、オレら割と内陸のほうで育ったじゃん。あんま海に縁がなかったっつーか」

「プープリリィ」

「な?パルデアって結構砂浜とかビーチとかあるし、遊びに行こうぜ」

「プリ!プリリ!」

「だろー?ほら、プクリンも麦わら帽子とか買ってさ、可愛くして出かけようぜ」

「プ、プーリ……?」

「ん?ああ、デートでもいいし、みんなと一緒でもいいけど……」

「プ、プーリ!プーリ!」

 

絶対に2人きりでデートがいい!と手をパタパタさせて主張するプクリンにヤシオは笑って彼女の耳元をくすぐるように撫でた。

そうすればプクリンは気持ちよさそうに喉を鳴らして彼の手に擦り寄る。

その姿を見てヤシオは思った。

 

こう言ったら語弊を招くけれど、可愛い女の子に好かれるのは嬉しい。

だからプクリンが自分に対して好意を寄せてくれることは勿論ものすごく嬉しいことだ。

例えそれがあくまでもトレーナーに対する好意であっても。

 

オレの手持ちは女の子ばっかりだから機会が無いけれど、いつかプクリンも素敵なオスポケモンと出会って恋に落ちたりするのかもしれない。

そう思うとなんだか寂しいような嬉しいような、不思議な気持ちになる。

プクリンがいろんな意味でヤシオのことしか見ていないことなど知る由もない彼はそんなことを考えるのだった。

 

「……思ったけど、アオキさんが海にいる姿って想像つかねえな」

 

ふとそんなことを思ってヤシオは呟く。

ヤシオにとってアオキの見慣れた姿とはスーツ姿かダルダルのスウェット姿で、水着とか海辺っぽいファッションとか、そんなものはまるで想像がつかなかった。少し前、一緒に出かけた時に初夏らしい薄いシャツ姿を見たはずなのに。

 

「アオキさんと先輩たちも誘ってみんなで海行くのもいいかもな……」

「…………プィ」

「あははっ、拗ねんなって。大丈夫、それとは別にプクリンと海に行くからさ、ほら、デートデート」

「プ……」

 

さっき自分とデートしてくれると言った舌の根も乾かないうちに他の相手と海に行きたいと言うなんて!本当にデリカシーのない男!ヤシオじゃなかったら往復ビンタをしていたところだわ!……と、彼女は少し機嫌を悪くしてむくれる。

 

そんなプクリンの様子に気がついて、ヤシオは横からむぎゅっと彼女に抱きついて「ごめんってば〜」と情けない声を出した。

 

「プクリンが1番優先に決まってんじゃん。な?」

「プム……」

「ほら、麦わら帽子買いに行こうぜ。あとさ、オレの水着とかプクリンが選んでよ、かっこいいやつ」

「……プ」

「オレとプクリンのデートなんだろ?行くまでの準備も一緒にしようぜ」

「……プリ」

 

甘さのある優しい声音でそうねだられて、プクリンはもうあっさりと許してしまいたくなる。

……仕方ないだろう、惚れた弱みなのだから。

内心ですっかり許しきってしまいながら、プクリンはまだ怒っているぞという表情をヤシオに見せる。そうすると媚びた様子もなくさらりと「プクリンは怒ってても可愛いな」と言われた。

 

このシチュエーションでそんなことを言われたら逆に怒りたくなる者もいるかもしれないが、プクリンとしてはもう毒気が抜けて仕方なかった。

こんなことで嫉妬したり怒ったりするだけ無駄だ。

だって、相手はどうしようもないくらい唐変木なのだから。

 

プクリンは溜息みたいに体の中に溜め込んでいた空気を吐き出すと、ヤシオに抱きついて、さりげなく彼の首元に唇を押し当てた。

そうすればそのままぎゅっとして、抱き上げてくれる。

 

 

そうして2人きり、テーブルシティの店々を梯子しては海デートのための買い物や、それとは関係のないウインドウショッピングや、買い食いやら、存分に休日を楽しんだ。

 

「プクリンは可愛いからなんでも似合うな」

 

花柄のリボンが巻かれた麦わら帽子を試着したプクリンに、ヤシオがふにゃりと笑ってそう言ったから、彼女の中ではもうこの麦わら帽子以外に価値はなくなってしまった。

絶対にこれがいい!とねだって買ってもらう。

このままかぶって帰ってもよかったけれど、それでは特別感が無くなってしまうから被らずに彼の手を握った。

 

そんな2人の買い物を終えて夕方頃、ヤシオのスマホに着信が入った。「お、アオキさんだ」とヤシオが呟いた途端、プクリンはちょっと機嫌を悪くする。プクリンの邪魔をするのはいつもあの男だ……と。

ヤシオが着信を取ると、音声だけの電話が繋がる。

 

「ん、アオキさん?」

『はい、お疲れ様です、ヤシオ』

「お疲れさん。出張楽しかったか?」

『……出張とは楽しいものじゃ無いんですよ……』

「あはは!アンタこっち帰ってきたんか?」

『はい、ついさっきテーブルシティに戻ってまして……』

「マジ?オレも今プクリンとテーブルシティにいるけど」

 

ヤシオが声のトーンを上げてそう返すと、アオキは『そうなんですか』とほんの少しだけ驚いたような声音で返した。

 

『……ではこの後、合流して飯でも行きますか』

「おお、いいじゃん。アオキさん今どこいんの」

『自分は今、中央広場の……っと、すみません』

「ん、どした?」

『……同僚と鉢合わせました。後ほど掛け直します』

「おー、りょーかい」

 

電話が切れて、ヤシオはスマホをポケットにしまうとプクリンへ視線を下げた。

 

「アオキさんと飯行くぞ」

「プィィ……」

「なーに?拗ねてんの?」

「プリ!プーリ!」

「プクリンが1番だって。飯食って帰ったらまた可愛い格好見せてよ」

「プリュ……」

 

ヤシオは笑ってプクリンの頭を撫でる。それから「合流しやすいように広場向かっとこうぜ」と彼女の手を引いた。

 

テーブルシティの中心部にある広場は、夕方の帰宅時間だからか人波で溢れていた。待ち合わせには少し厄介なくらいの人の群れ。

その端でヤシオは周囲を見渡していた。上手い具合にアオキさん見つけらんねえかなと思いながら、あたりをきょろきょろする。

 

と、その時、広場の中心近くでスーツ姿の男性を見かけた。

帰宅時間、スーツ姿の男性なんていくらでも歩いているが、その少し丸まった背中を見ただけでヤシオはアオキだとわかった。

 

「お」

 

アオキの目の前に、電話で話のあった彼の同僚と思われる人物の姿がいるのが見えた。

遠目だから顔まではよく見えないが、小柄で細い体つきと長い緑色の髪からして女性だろう。それに気がついた瞬間、ヤシオは内心で揶揄うような気持ちが生まれた。

 

「お!プクリン!なあ!見て見て!アオキさんが女の人といる!」

「プリィ?」

「アオキさんって何歳だっけ?そういう話聞いたことねえけど、まあ大人だし恋人とかフィアンセの1人や2人いるだろ」

「プィ」

「2人はいたらだめか」

「プープリ」

「……あのさ、思ったんだけど、もしあの人に恋人いたらさ、オレが居候してんのすげー邪魔じゃね?」

「……プクプ」

「あの人もいい歳だし、仕事も忙しそうだし、恋愛とか結婚ってなったらさあ……オレいないほうがいいよな」

「プリプ……」

 

いつか、今のこの安寧の生活も終わる。

終わらせないといけなくなる。そうなったらどうしよう。ガラルに帰んのかな。ガラルに帰って、今度こそ新しい家族と上手くやって……………上手く、上手くってどうやるんだろう。

ガラルの家の食卓に座った瞬間に、あの時の失敗がフラッシュバックする予感がした。もしまた同じことをしたら今度こそ、きっともう、本当に、救いようがなく、なにもかもが終わる気がした。取り返しがつかなくなって、もうガラルの家には帰れなくなる、今度こそ本当に帰る場所なんて無くなってしまう、と──

 

「プクプー!」

 

思考が深みにハマりかけた時、プクリンの声に意識が現実に帰る。

ハッとして、彼女を見る。心配そうな顔でこちらを見る彼女はヤシオの手を取って、労るように撫でてくれた。その優しさにふと安堵する。

 

「ん、ごめん、ありがとな、プクリン」

「プープ」

 

視線を少し離れたアオキの方へ向け直す。

話をしている2人の間に、顔見知りなのか、まだ幼い童女がいることに気がついた。同僚の女性とアオキと、その幼子で何か話をしているのが見える。

幼子は楽しそうに笑って見せると、それからふとアオキに向かって抱っこをしてほしいとばかりに腕を伸ばして強請る。

アオキは少し困ったように眉を下げてから、しかし同僚女性にも言われたのか、持っていた鞄を地面に置いて、その幼子を抱き上げる。

 

そんな景色を、ヤシオは遠く離れたところから見ていた。

穏やかな3人の姿を見て(……なんか、家族みたいだな)とそう思った。

父と母と娘。それはまるで、理想的な、家族の肖像。

 

──瞬間、ヤシオは激しい吐き気に襲われた。

 

「……あ、エ?」

 

胃が激しく痙攣して、中身が逆流しようと蠢く。貧血を起こしたように目の前が鮮やかでショッキングで様々な色色色で埋め尽くされて夕方のテーブルシティが一瞬で掻き消える。ぶわりと噴き出した冷や汗によって全身の体温が低下していく感覚。指先が冷たい。足が震える。立っていることがままならない。自分が今まっすぐ立てているのかしゃがんでいるのか倒れているのかわからない。え?なんで?と思った。オレなんで今急にこうなってんだ?

 

「プリ!?プ、プリ!」

「はぁっ、は、は、ぁっ、ぷ、ぷくり……」

 

咄嗟にプクリンの手を掴む。怖い。誰かの体温と接続していないと自分がどこにいるのかもわからなくなりそうだった。足元のぐらつくような感覚。(ヤシオが悪いわけじゃないからね)(お母さんとお父さんで納得して決めたことなの)(目を離した間に非常階段から落ちたらしいよ)(お前といると辛いことばかり思い出す)(かわいそうに)(まだ若いんだから再婚でもすればいいのにねえ)(ああでもあの人こぶつきだから)(いつも苦労ばっかりさせてごめんね)家族って幸せですか?美しいですか?尊いですか?わからない。オレはいつも『家族』というものの邪魔をしてばかりだ。きっとオレは『家族』に近づかないほうがいいんだ。壊しちゃうから。オレがいなかったら両親は離婚しなくてすんで、オレがいなかったら母さんが苦労することもなくて、オレがいなかったら再婚だってもっと早くできてて、オレがいなかったら新しい家族ももっとうまくやれてて、きっとオレがいないほうがアオキさんもよかったのかな。アンタも誰かと家族になるのかな。だとしたらオレは邪魔かな。ごめん。うまくやれなくてごめん。気持ち悪いよね。こんなことでこんなふうになってるオレが1番おかしいんだよね。わかってる。誰も悪くないから多分きっとオレが悪いんだ。黙って、今までみたいにじっと黙ってやり過ごして気がつかないふりして見えないふりして聞こえないふりして耐えていれば良かったのに。どうしてそれさえできなくなっていくんだろう。

 

浅く息を吐く、吐く、吐く。呼吸がうまくできない。吸い方を思い出せない。プクリンの手を握ったまま、自分がしゃがみ込んでいると気がついた。込み上げるなにか。口元を押さえる。脂汗みたいに滲み出る涙。気持ち悪い。スマホが鳴っている。アオキさん。出ないといけない。迷惑をかけてしまう。なんでもない、大丈夫だから、もう一度大丈夫な自分を取り戻して、元に戻すから、巻き戻して、前に戻して。ああああああ着信音がうるさい。頭が痛い。痛い、いたぃぃぃ

 

「ちょっ、ちょっ!キミ、大丈夫!?」

 

誰かがそう声をかけて、そばにしゃがみ込み、ヤシオの背に掌を当てながら彼の顔を覗き込む。ぐちゃぐちゃになった視界ではその人の顔がよく見えないけれど、触れられた掌の温度に、なんとか息の仕方を思い出す。

息を吸って、吐いた。……おえっ。

 

 

 

 

 

 

チリとポピーの2人組に会ったのは本当に偶然のことだった。

最近は四天王の業務もほとんど無かったから、彼女たちと会うのは久しぶりだ。長引きそうな話を、この後用事があるからと早々に切り上げてもらって別れた。深く息を吐く。

出張帰りと意図しない人との関わり合いに少し疲れた。

 

それにしても、こちらの都合でヤシオを待たせてしまった。

そう思いながら再度電話をかけるが、何度コールしても出ない。

タイミングが悪かったのだろう。少し待ってからかけ直すか、それより前に着信に気がついたヤシオが掛けてくるかもしれない。

アオキは近くのベンチに腰掛けてから考える。

 

……晩飯はどこに連れて行こうか。

前にテーブルシティに来た時にパルデア料理の店に行ったから、今日は別の店にするか。頭の中でいくつか候補を上げてみる。

どこに行くかはヤシオと合流してから、彼と話して決めよう。

これからのことを考えて、家に帰ってきたかのように心地になる。

 

電話はまだ鳴らない。

 







主人公を曇られるのが1番楽しいまである。
それはそれとして、やっぱプクヤシよ。もしくはヤシプクよ。


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反抗期宣言

 

『アオキさんマジでごめん!急にスマホのバッテリー切れちゃってさ!』

「……ああ、そうでしたか。それならよかったです。何かあったのかと……」

『ほんっとごめん!待ちぼうけにさせちゃったよな』

「気にしないでください。トラブルはそういうものですから」

『……ごめん。あの、ほんとに』

「大丈夫ですよ。……今はどちらに?」

「え、あ、今は、あの、充電貸してくれた、えーっと、友達といて」

『……友達、ですか』

「そう!あの、アレ、ほら!オレさ一時期めっちゃバトルしてたじゃん!平日毎日のやつ!アレの時に知り合った人でさ!街で偶然会って!」

『……はい』

「同い年くらいの子で、アカデミー?……の子で、ちょっとあの、話が盛り上がって」

『…………はい』

「だから、今日の夕食なんだけど、えーっと、本当に申し訳ないんだけど、……ド、ドタキャンしてもいい……?」

『……ヤシオ』

「ん、うん……」

『なにか変なことに巻き込まれてないですか?』

「え!し、してない、ほんと、マジで」

『…………自分の助けが必要だったりはしませんか?』

「大丈夫、マジで大丈夫だから……」

『…………』

「……ア、アオキさん、あの、ほんとごめん」

『……いえ、帰る時にまた連絡をくれますか。迎えに行きます』

「あ、いや、そこまでしなくても」

『人様の大事な子を預かってる身です。心配くらいさせてください』

「……ん、ごめん、ちょっと、あの、切るから。あの、電波的な、アレが……」

『はい、何かあったらすぐに連絡をください』

「うん、ありがと……」

 

アオキとの通話を切ってから、ヤシオは頭を抱えた。

いや、マジで、オレ、嘘つくの、下手すぎる。

 

「あー、はは、どう?なんとかなりそ?」

そう問いかけてきた同い年くらいの少年にヤシオは頭を抱えたまま首を横に振る。

 

「ぜっっったい不審がられてる……なんか、すげえ怪しまれてた……」

「だと思うよ……正直傍から聞いてるボクから見てもも喋り方とかすごい不審だったもん……」

「だよなあ、ああもうオレのバカ……」

「まあまあ!でも見逃してくれたっぽいし!大丈夫っしょ!」

 

そう言ってサムズアップしてくれた共犯者に、ヤシオは「はは、ははは……」と乾いた笑顔を浮かべた。

電話をしていたヤシオの背中にくっついていたプクリンが彼の前に回ってきてぎゅむと抱きついてくる。

それを受け止めて背中を撫でながら、口を開いた。

 

「……ってかマジ関係ねえのに巻き込んでごめんな、ピーニャ」

「謝ることじゃないってば。こういうのってほら、困った時はお互い様ってやつじゃん?」

 

電話をかけている間、プクリンと共にそばで見守ってくれていたピーニャ。

彼こそが、テーブルシティでメンタルブレイクしたヤシオに声をかけて介抱してくれた彼だった。

 

さて、ピーニャはアカデミーのはぐれものたちで構成されたスター団の幹部であり、あく組チーム・セギンのリーダーである。

つまるところ、アカデミーとはちょっとした因縁があり、アカデミーのお膝元であるテーブルシティにはあまり近づきたくなかったのだが、その日はどうしても大事な用事があって街に出ていた。

 

そして目の前で体調を崩した同い年くらいの少年を見かけてしまった。

元来の真面目さと善良さと世話焼きな性格のために、ピーニャに彼を放っておくという選択肢は無い。

 

彼が人混みでパニックを起こしたのかと思い、広場を離れて、ひと気の少ない場所に連れて行った方がいいと判断したピーニャだったが、しかしスター団である故にテーブルシティでは目立ちたくなかった。

 

その結果として、彼は嘔吐少年を自分の本拠地であるチーム・セギンのアジトに迎え入れることにしたのだった。

 

「さっきの電話の人ってお父さん……じゃないよね?あっ、ごめん、これ聞かない方がよかったかな……?」

「ああ、もうマジで全ッ然気にしないでいいよ。そう、オレ今親の再婚とかで色々あって親戚んちに預けられてんの」

「あー、ごめん。想像しかできないけど大変だったよね……」

 

労わるように細められた目に見つめられてヤシオは少し居心地が悪くなる。……大変だった、という言葉を肯定するのはなんとなく違和感があって、否定も肯定もしきらずに呟く。

 

「別に大変とかはないけどさ……」

「あー、でもその親戚の人となんかあってしんどくなって吐いちゃった的な感じ?」

「……なんでわかんの?」

「あー、経験値?体調悪くて吐いちゃったとかじゃなくて、精神的なやつだろうな〜ってわかっちゃうんだよね」

「……もしかして、ピーニャも経験者?」

「まあ、ちょっと前にだけどね」

 

苦笑してみせる彼に、ヤシオは思わず静かに右手を差し出した。ピーニャは笑いながらその手を握って笑う。

 

見つかった共有点に、二人の間にまだあった警戒と壁が薄れた。

 

 

 

 

スターモービルのある大きなテントの中で、キャンプ用のような簡易的な椅子に座ってヤシオはピーニャと向き合って話をしていた。

出会って一時間も経っていないが、歳が近く、ピーニャがヤシオの境遇に理解をしてくれそうだと感じたこともあり、ヤシオはあっけらかんと身の上話を始めた。

 

「オレさあシングル家庭で育ったんだけど母親が2年くらい前に再婚して引っ越して新しい父親と兄貴ができて兄貴っつってもめっちゃ年上でそれだけでうわマジかしんどって思ってたら家に慣れる前に兄貴が結婚して義理の姉さんが増えて全然馴染めねーっつーかなんかその家、家っつっても全然自分の家って感じしねえんだけどそこをなんかまだ慣れてない人間が歩き回ってんのがしんどくて寝ようとしてても人の足音で起きちゃうみたいな野生ポケモンみたいな警戒心バリマックスみたいな状態で生活してんのマジでエグいストレスヤバみってか父親とか兄貴とかとどう接していいのかわかんねえしなんかわかんねえけどもうオレ無理!ってなって家族で飯食ってる時にストレスマッハでゲロ吐いて食卓阿鼻叫喚って感じでもっと居心地悪くなって家出してあーやっぱオレ家族無理かも家族アレルギーだわって思ってたらちょっとガラル離れようぜって話になってパルデアの今の親戚んちに預けられてその人はすげえいい人なんだけどいい歳なんだよ別にすげえ歳食ってるとかじゃなくてこのくらいの年齢なら仕事めっちゃ忙しいし多分恋人とかできてるとか婚活してるとかしててもおかしくないだろうなって想像つく系の年齢なわけでそうなるとこっちの事情で居候してんのってマジ迷惑じゃんって思ってたらなんかその親戚の人が女の人と話してるの見てあーですよねオレみたいな穀潰しが居候しててすいませんってなってたらなんかちっちゃい女の子もそばにいてうわ3人いると家族っぽいねって思った瞬間即家族アレルギー発症してゲロアウトピーニャインって感じ?わかる?」

「まあ、なんとなくは」

「マジ?天才じゃん」

「いやあ、激ヤバだね、そのアレルギー」

「アレルギーつっても夫婦は大丈夫なんだよ!」

「ア?」

「ア?」

 

ヤシオは彼の近くをちょこまか歩いていたイッカネズミの大きい2匹を引っ捕まえるとピーニャに見せた。

 

「で!親と子もいける!」

「ア?」

「ァ?」

 

ヤシオは大きい1匹をフーディーのポケットに入れると、大きい1匹と小さい1匹を掴んでピーニャに見せる。

 

「でも、夫婦と子供が揃うとダメなんだよ……」

「ア……」

「ア……」

「ァ……」

 

ヤシオは3匹を揃えて膝の上に乗せる。イッカネズミはされるがまま、特に怒ったり困惑することもなくヤシオにむぎゅむぎゅと撫でられる。

 

「そ、そうなんだ……この子達は大丈夫なの?」

「こいつらはなんか大丈夫。ポケモンだし、3匹一緒にいるだけで別に家族って確定したわけじゃないらしいし。群れだよ、群れ。な?」

「ア!」

「ア!」

「ァ!」

「元気がいい……」

 

謎理論だったが、ピーニャも別にイタズラに彼のアレルギーを発症させたいわけではないので、そういうものかととりあえず納得した。うなづくピーニャにヤシオは口を開いた。

 

「あのさあ!」

 

ヤシオは前のめりになってピーニャの目をじっと見た。急に声を張ったヤシオにピーニャはのけぞって一瞬驚きながらも、その表情の真剣さに「うん」と相槌を打つ。

 

「オレんちっておかしい!?」

「……いや、ほら、いろんな家庭があるしさ」

「オレっておかしい!?」

「大変そうだなって思うし、詳しくないからよくわかんないけど一回ちゃんとメンタルクリニックで診てもらった方がいいんじゃないかとは思うだけで、別におかしいとは思わないよ」

「正直にゆってぇ!?」

「……あー、そんな家庭環境とメンタルじゃあ、そりゃゲロの一つや二つや三つや四つくらい吐くよね……」

「やっぱオレんちおかしい!?」

「ヤシオくんちをおかしいとは思わないけど、キミがそんな状態になってるのはおかしいっていうか普通にやばいと思うよ」

「オレってやばい!?」

「やばいと思う」

 

ピーニャが答えると、ヤシオはしゅんと肩と眉を下げる。

どちらかと言うと男の子らしい顔つきのヤシオだが、そうもしゅんと落ち込んだ様子を見せられるとどうにもピーニャの中の世話焼き属性が疼くような心地があった。

 

「とりあえず、マジでお疲れ様でスター」

「スター?」

「……それでさ、ヤシオくんはどうしたいの?」

「ど、どう、って、言われても……」

 

その瞳に戸惑いを見せたヤシオに、ピーニャは笑みを見せた。足元に寄ってきた自身のコマタナを抱き上げて、膝の上に座らせる。

捕まえたばかりの頃はそっけなかったのに、最近になってようやく懐いてくれた新しい相棒。大人しく座った手持ちを撫でながら口を開いた。

 

「……ボクらスター団ってさ、実はアカデミーの元いじめられっ子たちばっかりなんだよね」

「……え?ってことは、もしかして、ピーニャも?」

「うん、ボクらの学校ってちょっと前まで結構荒れててさ、その時ボクは生徒会長で、そんな学校を変えたくて色々頑張ってたつもりなんだけど、むしろ反感買っちゃっていじめられてさ」

「……そうだったんか……」

 

自分ごとのように辛そうな顔をするヤシオにピーニャは否定するように首を横に振った。

 

「あ、でも今は大丈夫だよ!仲間のみんなと一緒にいじめっ子に立ち向かって、そのいじめっ子たちはもうアカデミーからいなくなったからさ!」

「ん、それならよかったけど……」

「それでさ、ここにいるみんな、ボクみたいにいじめられてたり、なんとなく学校に居場所がなかったり、家にも帰れない子とか結構いるんだよね」

 

スター団が大人たちからどう思われているのか、ピーニャは知っていた。

けれど、こうやって幹部として中にいるからこそわかることもある。スター団のアジトは大人が思うよりずっと平和で、安心だ。だからこうやって人が集まる。みんなが本当は穏やかに過ごせる場所を求めていることを知っている。

ピーニャはヤシオのこれからについての話を始めた。

 

「辛いことから逃げちゃダメっていう人もいるけど、ボクはあんまりそう思わなくてさ。……だから、キミが家族とかその親戚の人といるのがしんどいなら、このまま家を出ちゃうってのもありなんじゃない?」

 

ピーニャにそう言われてヤシオは何を言われたのかわかっていないような顔でキョトンとした。

 

「え?」

「……あー、それは無し系だった?」

「か、家族とか、大人と一緒に暮らさないってありなん!?」

 

予想外のことを言われたのか、ものすごくびっくりした顔をするヤシオに、ピーニャはちょっとびっくりしながらもうなづく。

 

「いや、ボクもわかんないけど、別にダメではないんじゃないかな?アカデミーだと寮暮らしの子も多いし……」

「エッ、あ、いや、でも、別にアオキさんと暮らすのがしんどいってわけじゃねえんだよ……」

 

ピーニャは急に出てきた固有名詞に(多分親戚の人のことなんだろうな)と思いながら、特にそこに触れることはなく続けた。

 

「ヤシオくんは今日これから親戚の人の家に帰って、今まで通りにやってけそう?もう吐いたりしないって思える?」

「う……それは……や、でもオレが頑張れば……」

「そうじゃなくても、ボクに言ったみたいに辛かったこととかしんどかったことを伝えられる?」

「んぐ………ううん………」

 

しどろもどろになって口籠るヤシオにピーニャはできるだけ優しい声を出すように心がけて言葉を紡ぐ。

 

「ボクは無理に頑張ったりしなくていいと思うんだよね。……経験談で申し訳ないけど、大人ってさ、見えてても見ないふりすることってあるんだと思う」

「見ないふり?」

「うん、まだ大丈夫かなとか、面倒だなとかって思って、ボクらが困ってても敢えてそのままにしておくっていうかさ。さっきの電話の時もそうだったっしょ?親戚の人、ヤシオくんが様子おかしいってわかってても、大丈夫って言ったら放っておいてくれたし」

「そ、それは、面倒とかじゃなくて、オレのことを心配して、考えてくれたからで……!」

「うん、ボクもそうだと思う。だからヤシオくんが家に帰って、今まで通り大丈夫に振る舞ったら何も言わないでくれるんじゃないかな」

「多分、そうだと思う……」

「……でもさ、それでいいの?」

 

ピーニャはそう言ってヤシオの瞳を見つめた。

少し灰色がかった彼の瞳は戸惑いと困惑に揺れている。彼が困っていて、疲れていて、どうしたらいいのかわからない状態だとわかっていた。

だからこそ、放っておくことなどピーニャにはできない。

 

いつか、マジボスが手を差し伸べて一緒に戦ってくれた時のように、自分も誰かを助けることができると信じたいから。

 

「このまま帰っても、多分また同じことを繰り返しちゃうんじゃない?」

「…………そ、それは、う、んん……」

「そうなったらヤシオくんも親戚の人もつらいじゃん?だから、これはボクの提案なんだけど」

 

ピーニャはとっておきの内緒話をするみたいに少しだけ声を潜めて言った。

 

「一回、めちゃくちゃに困らせてみようよ」

「……え?」

「本当は大丈夫じゃないこと、その人にもわかってもらえるくらいにさ」

 

 

 

 

 

 

日もすっかり暮れて、青少年が出歩くには遅い時間になった頃、自宅に戻っていたアオキのスマホにヤシオからメッセージが届く。

迎えを頼む連絡かと思い、肌身離さず持っていたスマホの画面を覗けば、そこにはこんなメッセージがあった。

 

『ごめんアオキさん!オレ反抗期だから家出するわ!』

『とりあえず3日くらい!』

 

スマホを見たまま固まるアオキの肩にムクホークが止まり、大丈夫かとアオキの頬に羽毛を擦り付ける。

長考の後、ゆっくりと深く溜息をついたアオキは吐き出した息のまま、呟いた。

 

「普通、家出する時はわざわざそんな宣言しないんですよ……」

 

あと多分反抗期も自称しないし、家出する期間も連絡しないものだ。……真面目か。

 

根っこの善良さの抜けない弟子の反抗期宣言に、アオキは笑っていいのか困ればいいのかわからなくなってしまった。

 



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