ウマ娘―星天の路を往く― (アメリカ兎)
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主人公紹介

【主人公紹介】

霜天路(そうてんじ) (ひいらぎ)…主人公1。完全無敗のeスポーツゲーマー三冠王であり、通称「薄命の無敗王者」「無敗の暁」。ゲームにおいて無類の強さを誇り、そのあまりの強さから「別次元」とまで言われるほど。冷酷な印象を受けるが、当人に悪気はなく、また生まれつきの心臓病により血圧を上げると命に関わる。過去に心筋梗塞を引き起こし、担当医からは「次はない」と宣告されている。そのせいか異様に肝が座っている。

髪色…紺色の無造作ヘア

瞳…青

担当ウマ娘…オグリキャップ

出走レース…トゥインクルスター・クライマックス

 

霜天路(そうてんじ) (ごう)…主人公2。柊の弟。元地方トレーナーであり、中央へ推薦を受けていたが担当しているウマ娘達の教育に没頭していた。だが柊が中央のトレーナー試験に合格したと聞いた瞬間にすっ飛んできた問題児。身体の弱い兄とは対照に典型的な体育会系熱血漢であり、スタミナの使い方が幼稚園児レベル。得意料理はスパイスカレー。

髪色…紺色のオールバック

瞳…赤

担当ウマ娘…ナリタブライアン(他多数)

出走レース…アオハル杯

 

・エヌラス…主人公3。中央トレセン学園用務員兼トレーナー。秋川理事長が拾ってきた不審者。どう見ても自由業のような外見だが、実際はおもしろいお兄さんである。とある目的のために日本に滞在中。なぜかよくウマ娘に吹っ飛ばされているが無事で済んでいる。たづなさんには頭が上がらない模様。

髪色…黒髪のアシメ

瞳…赤

担当ウマ娘…マンハッタンカフェ(兼アグネスタキオン)

出走レース…アオハル杯

 

 

【キャラ紹介】

・マスター・ハーベルグ…中央トレセン学園近辺のアーケード街からさらに外れた和風喫茶店「よろづ」中央支店店主。顔立ちはべらぼうに良いが、口と性格と態度の悪さは一級。料理の腕はさらに一流に負けず劣らず。雇い主から日本へ留学させられたがウマ娘との交流には乗り気である。現在語学勉強中。

髪色…蒼のウルフカット

瞳…紫

 

・カオルちゃん…中央トレセン学園所属トレーナー。褐色黒髪のオカマ。最強のオカマ、オカマ故に最強。だがその風体とは裏腹に欠点が見当たらないほどに人間ができている。

担当ウマ娘…カワカミプリンセス

髪色…黒のドレッド

瞳…赤

 

風真(ふうま) (ぎん)…柊の数少ない友人でありゲーマー仲間。日々をバイトに追われ忙しないが、裏表のない快活な性格で人々に慕われている。

髪色…銀のショートヘア

瞳…緑

 

・クリス・クライング…ウマ娘向けのスポーツ製品やスタイリング剤を販売しているブランド企業の若き社長。堅実な経営手腕により業績を伸ばしている。物腰穏やかな性格で好青年を絵に書いたような親しみやすい柊の友人である。

髪色…銀のウルフヘア

瞳…青



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プロローグ

 

 ――勝利。それは、彼にとって日常で、当たり前のこと。

 

 歓声。沸き立つ会場。誰もがその決着を見届け、脳裏に焼きつける。

 世界チャンピオンを決める舞台に立つこと、既に三年連続。そして、三連覇を成し遂げた彼の顔は変わらなかった。ただ、天井を仰ぎ見て深く息を吐き出す。

 名実ともに手にした世界最強の称号に――やはり、彼はなんの感慨も湧かなかった。

 

 霜天路(そうてんじ) (ひいらぎ)

 無敗のままにeスポーツゲームで三連覇を成し遂げた彼は、その日……壇上から引退を宣言した。

 

 

 

「おい、柊。待てって」

「……」

 親友であり、eスポーツチームに誘ってくれた風真(ふうま) (ぎん)が電撃発表の後からも追ってくる。

 

「お前マジか……」

「ああ」

「……いつから引退するって考えてた?」

「ついさっきだ」

「…………お前マジか」

 長い付き合いだ。それが思いつきによるものではないことくらい銀はわかっている。

 柊の手にしている優勝トロフィーを手にするために誰もが血の滲むような努力と研鑽を積み重ねた。だが、それを手にした当人はすでに三度も頂点に座している。まさしく三度目の正直、柊はその舞台から降りることを選んだ。

 そこに自分の求める相手が現れなかったことに落胆しながら。

 

 銀は、短髪を掻き上げながら唸っていた。チームにおける大黒柱、メイン戦力にして教育係でもある人物が抜けた後にどう引っ張っていこうか考えて――すぐにあっけらかんと、満面の笑顔を向ける。

 

「まー、それがお前のやり方ってならいいかぁ! なぁに、お前いなくてもオレのチームが次も優勝貰ってくって証明してやるわ! ただまぁ、アドバイザーとしてくらいは顔出してくれよな」

「それは任せてくれ」

「んで? こっからどうすんだ」

「どう……」

「いやほら、お前身体弱いって言ってたし。その……」

「ああ……」

 病弱と言われれば、柊はその通りなのだ。だが、その病気というのがまた厄介なことに心臓病を患っている。

 最初、医者に成人するのは厳しいと言われた――しかし、柊はその年齢に達した。

 それから、いつ自分の胸の中にある時限爆弾が静まり返るのかわからない日々を送っている。ただなんとなく、漠然と、自分に残されている時間は長くないことだけは理解していた。

 

「…………」

 どうするか考えて――自分があまりに空っぽなことに気づく。他人と競うことに興味がなくなってしまった。

 ただひとつのことに打ち込み続けただけ。それが世界に通じてしまったこと。それだけでなく世界王者として君臨し続けた三年間……柊はあまりに退屈だった。

 求めたのは、自分と対等に肩を並べることのできる強者。――“絶対”が欲しかった。

 自分に迫る相手と勝負がしたかったが、それだけが叶わない。

 かといって自分のような難病持ちに何ができるだろう。

 

 思い悩む柊の背を軽く叩いて、銀が肩を組んでくる。対照的に、健康的に焼けた浅黒い肌と骨太の筋骨に恵まれた相手は快活に笑っていた。

 

「ま、飯でも食いに行こうぜ! オレ腹減ったしよ!」

「……そうだな。どこにする?」

「おう、それなんだけどよ。クリスのやつも来るってよ。三人で飯食うの久々だな」

「本当に久しぶりに名前を聞いたな」

「ま、アイツはアイツで仕事忙しいだろうし。今じゃウマ娘向けに色々展開してる会社の社長やってるしな。はーうらやま」

 ウマ娘――それは、自分とは無縁な存在だと柊はずっと思っていた。そもそも他人と交流すること自体が苦手で、銀のような面倒見のよい体育会系の方がよほど気が合う。だから、その単語が出てくるまで柊はすれ違う人々の中で主張するウマ耳と尻尾のことなど気に留めなかった。

 

 ウマ娘向け、といえば聞こえはいいが、ようは女性向けブランド会社の若き御曹司。それが、クリス・クライングという友人の肩書き。そして当人は絵に書いたような善人。経営手腕に関しても疑いの余地なく、堅実さの塊で確実に業績を伸ばしている。

 

 クリスとそれから程なくして合流して、三人で食事に向かったのだが――。

 

 

 

「……銀。たしかに俺はどこでもいいと言った」

「私も言った記憶があるよ」

「仕方ねぇだろ、金ねぇんだから……」

 銀がくぐった暖簾はラーメン屋だった。何か言いたげな柊に、銀はメニュー表を押しつける。クリスもこうした店舗に入る機会に恵まれなかったからか、物珍しそうにしていた。

 それぞれ決めたメニューを注文してから、届くまでの間に雑談に興じる。

 柊がeスポーツから引退すること。これからどうするかを決めていないという話題に、クリスは静かに耳を傾けていた。

 

「――ってわけなんだが、クリス」

「なるほどねぇ……柊、私の会社に務める気は? 君なら事務職向いてると思うけれど」

「……悪い。あまり興味が湧かないんだ」

「はは、だろうね。気が向いたらいつでも声を掛けてくれて構わないよ」

「クリス、オレは?」

「銀は自分の仕事あるじゃないか」

 おー人事、銀は転職に失敗した。とはいえ、柊の身を案じているのはクリスも同様らしい。

 ラーメンを啜りながら三人で笑い話を共有しつつ、あーでもない、こーでもないと話し込む。

 

「――ということがあってね。中々楽しかったよ、その時の会議は」

「はー……楽しそうに仕事できていいなぁお前は。こっちなんてヒィコラ言いながら仕事してるってのに」

「いやいや、私の方だって楽しいばかりじゃないさ」

 仕事の話題で盛り上がる二人に混ざれなくて柊は少し肩身の狭い思いをしていた。だが、それには銀もクリスも理解がある。仕方ないことだ。――“アレ”は事故だったのだから。

 

「うーん……そうだ。それなら柊、トレーナーにならないかい?」

「トレーナーに……?」

「そうなってくれた方が、私も君に対してサポートしやすいからね」

「……体の良い広告塔と見ていいか?」

「そう捉えてもらってもかまわない。ただ純粋に向いてると思ったからなんだけどね」

「言っておくが俺は――」

「よし、レース観に行こうぜ!」

「判断が早すぎる」

 止める間もなく、聞く耳持たずにレッツゴー。即断即決、それが銀の良いところでもあり悪いところでもある。

 会計を済ませて銀が手早く近場のレース場を調べてタクシーを引き止めた。もちろん全額クリスが支払い、銀に全額請求していた。そんなことばかりしているから借金が増えるんだぞお前は――などと柊が考えている間にもレース場に到着する。

 

 柊は観客席から慣れた空気を感じていた。会場の熱に浮かされるような、期待と興奮に満ちた雰囲気。ただそれを向ける相手が自分ではなく他人というだけ。

 周囲を見渡してみても老若男女問わず、ウマ娘もいれば子供もいた。ただ、その中に一人。目を引く人物がいた。

 緑色の制服に身を包んだ人間の女性。不意に、目が合ってしまう。だがその視線は柊に向けられているよりも、さらに後ろの方――クリスに向けられており、口元に手を当てて驚いていた。

 

「クリス、知り合いか?」

「まぁ、何度か顔を合わせた程度だけど」

「で、どちら様なんだあの美人さんは」

「どちら様って……あ、こっちに来た」

 小走りで駆け寄ってきた女性は軽い会釈と共にクリスに声を掛けてくる。

 

「こんにちは。もしかして、そちらの方は……クリス・クライング様ですか?」

「はい。お久しぶりです、たづなさん。あれから中央の方はどんなお加減ですか」

「お陰様で。その節はお世話になりました」

「いえいえ、こちらこそ。こちらの方達は、ご友人の……?」

 クリスが柊と銀の二人を紹介すると、お互いに挨拶も程々にして相手が懐から名刺を用意した。

 

「……中央トレーニングセンター学園、理事長秘書……駿川たづな……」

「中央って、めちゃくちゃでかいとこじゃねぇか……お前なんで知り合いなんだよ」

「んー……ビジネス?」

「今回は誰か気になる娘でも応援にきたんですか?」

 クリスはそこでたづなに今回のレース観戦の目的を話す。

 

「なるほど。柊さん……」

「eスポーツゲーマーやめたらこいつただの無職なんで」

「うるさいぞフリーター」

「それもダブルワーク」

「うっせ! 仕方ねぇんだこればっかりは!」

 つまり、銀も現時点ではフリーターである。

 

「もしよろしければ、私がウマ娘のレースについて幾つかお教え致しましょうか?」

「ご迷惑でなければお願いしてもよろしいですか」

「はい、お任せください」

 成り行きとは言え、銀もトレーナーとしての手ほどきを受けることになってしまった。

 今回観戦するレースはオープン戦、とはいえ基礎は同じ。パドックの見方から、ウマ娘の調子の見方。そこからレースの距離に始まり――気づけばたづなはヒートアップして解説に熱が入っていた。それに銀が気づいたが、柊はその解説に深く耳を傾けて頷いている。

 

「クリス、お前は説明聞かなくて大丈夫なのか?」

「いやほら、私はウマ娘向けの事業してるし基本は抑えてるよ」

「んにゃろう……! っていうか柊。おまえ確か弟さんがトレーナーやってなかったか?」

「――そうなのですか?」

「……まぁ、地方のですけど。連絡もほとんど取り合ってませんし」

 それでも年末年始には実家に帰ってきている。それ以外はほとんど連絡らしい連絡がないが忙しいのだろう。あったとしても精々がゲームの対戦の誘いだ。

 ――ちょうどその時、アナウンスが流れる。もうじきレースが始まる。

 新進気鋭のウマ娘達がパドックに姿を表していき、柊はその様子をジッと観客席から眺めていた。先程たづなから教授してもらったウマ娘の調子と、バ場の状態。

 

「たづなさんはどの娘に注目してます?」

「そうですね……今回はオープン戦ということもあって、予想がつかない展開も有り得ますし」

「柊、君は?」

「……そうだな。まだ判断材料が少ないが……俺は6番」

 それに少しだけ、クリスは意外そうな顔を見せた。

 

「理由は?」

「他に比べると少々小柄だが、さっきのたづなさんの説明からすると……仕上がっている、気がする」

 たづなは目を丸くして、柊の顔を見る。もちろん理由はそれ以外にも幾つかあった。それはまだ上手く言語化できていないが、たづなはそれにしきりに頷く。

 一度説明を聞いただけでそこまで絞れたというのなら、トレーナーとしての素質は十二分すぎるほどあるように思えた。まぐれや勘ではなく、未熟ながらもきちんとそれを口に出せるほど形にしている。

 そして、その意見もまたたづなの興味を惹いた。むしろ何故今までこれほどの逸材を見逃していたのかとも。

 

「今までレースの方などに関心を持たれなかったのが不思議なくらいです」

「……」

 たづなの言葉に、柊は沈黙する。それには銀とクリスも奇妙な沈黙を貫いた。

 それは触れていけない話題だったのか、しかしそれでもレースは始まる。

 ――レースの結果から言えば、波乱の展開はあったもののそれでも最後方から追い上げてきた6番のウマ娘が最後の直線で先頭に躍り出た。僅差で一着に輝いたウマ娘は観客席に笑顔を向ける。

 その結果に柊は少しだけ安堵した。だが後ろで銀は顔を覆っている。

 

「どうしたんだい、銀」

「……オレは8番の娘だと予想してたんだよなぁ」

「完全に趣味で選んだでしょ」

 クリスの言葉に銀は図星を突かれたのか、顔を背けていた。

 

「柊さんなら、きっとよいトレーナーになれます。中央でも活躍できるかと」

「…………中央、か」

 あまり気乗りしない様子で呟き、フードパーカーを目深にかぶる。

 

「俺の弟も、いつか中央で活躍できるトレーナーになると言ってましたよ。だから俺がこのままトレーナーになっていいのか、と考えてます」

「なるほど――」

 このまま自分が中央のトレーナーになってしまったら、それこそ弟の夢を奪うようなことになってしまうのではないかと考える柊に対してクリスは顎に手を当てて「ふむ」と一言唸った。

 

「私の知る限りでは、弟さんに限ってそれはないんじゃないかな? むしろ君が中央にいると知ったら俄然やる気を出すと思うよ。なにせ彼、君への対抗心が凄いからね。地方で燻っているような俺じゃないぜ、みたいな――」

「…………」

 それが容易に想像つくからこそ、少し困る。しかもそれで本当に中央に来る未来が見える。

 

「むしろやる気が無いアイツの姿が想像できない」

「あー……」

「ああ……なんつーか体力の使い方が幼稚園児だもんな……」

「それでも」

 たづなは少し身を乗り出して柊に迫った。その目を覗き込むように。

 

「それでも、きっと貴方との出会いを待つウマ娘が中央で待っていますよ」

「オレなら迷わず乗るし、なるな」

「そして後悔するまでワンセットかな」

「おいクリスてめぇこの野郎。柊、どうせお前こっから先やることねーならいいじゃねぇか」

 銀の言葉に少しだけ気が楽になる。――だが多分こいつなんも考えてない。弟そっくりだ。

 

「……そうだな」

 どうせ、いつ消えるかもわからない命の灯火だ。先のない人生。残り少ない寿命を、誰かの勝利のためだけに費やすのも悪くないかもしれない。

 自分が勝者でありつづけるのは、もう飽きてしまった――。

 

「――残りの人生、預けてみるのも悪くないな」

 

 

 

 …………そうして、一人の男が中央トレセン学園へとトレーナーとして編入されるのはそう遠くない未来の話。

 天才だった。勝利に対する渇望だけは、誰よりも。そのための努力を惜しまず、誰よりも打ち込んだ。その結果が評価されて――それは、彼が世界王者の座に君臨した時と同じような光景。だがこれより先、決定的に違うのは勝者として称賛されるのは柊が担当するウマ娘であること。

 それで構わなかった。

 それでも求めたのだから。

 自分が担当するウマ娘が挑むべき、“絶対”と“最強”を。

 

 ――その運命すら、狂わされていたのだとも知らずに。



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第1R 和風喫茶「よろづ」中央支店

 

 

 

 ――中央トレセン学園の付近に、その店は構えていた。アーケード街からやや離れた、通りの少ない喫茶店。元は居酒屋だったらしく、店内にはその名残がまだ残っている。しかしながら、まだ店内を改装中なのか店が開いている様子はなかった。最初こそぽつぽつと人の関心を引いたもののあっという間に忘れられる。

 その店がどんな店なのか。その店主がどんな人物であるか。それすら誰も知らない。

 

 その日は雨だった。夜から怪しかったが、陽が昇ってから急に崩れ始めて雨脚は止まる気配がない。それに悪態をつくのは、大きなツインテールが特徴のウマ娘。ダイワスカーレットだった。

 

「あ~~、もう。最悪!」

 頭から尻尾までずぶ濡れだ。ショッピングモールでコスメを買ってせっかく上機嫌だったというのに、本当に水を差してくる。空を見上げても分厚い雨雲に覆われており、ため息をついた。

 ここから学園の寮まではまだ少し距離がある。いっそのこと走って帰ってシャワーを浴びてしまおうかと考えるダイワスカーレットだったが、自分が雨宿りしている軒先を見てみた。

 

(お店の人の迷惑かしら……でも此処、営業してるの?)

 営業中の看板もなければ、暖簾も見当たらない。人の気配もしなかった。それでも一応、店の名前が書かれた看板だけは置いてある。

 

「……和風喫茶、よろづ……中央支店?」

 文字もどこか硬い印象を受けた。書き慣れていないのがわかる。

 本当に喫茶店なのかどうかすらも疑わしい視線でダイワスカーレットは店の入口を見つめた。店内も薄暗いままで人の気配もないのだから、いつ開店するのかもわからない。あるいは、なにかの保証金目当てで店だけ出した可能性もある。ニュースで最近そうした話を聞いた気がした。もしそうなら警察にでも連絡してやろう、と考えながら雨雲を赤い瞳で睨んだ。

 

(ここで時間潰してたって仕方ないわ)

 そう意気込んで、走り出そうとした矢先。背後の引き戸がガラリと音を立てて開けられる。

 

「きゃあっ!?」

 驚きのあまり、手にしていた袋を落としそうになったダイワスカーレットを見つめるのは――蒼髪の青年だった。顔立ちは整っているが、どこか近寄りがたい雰囲気を放っている。というのも明らかに不審者を見るような目をしていたからだ。だが、相手がウマ娘とわかったら警戒を解いたらしく、肩をすくめている。

 

「うちの店になんか用か」

「あ、いえ、その……」

 人がいたことにも驚きだが、それ以上にこんな若いとは思わなかった。

 …………ダイワスカーレットは何よりもそのエプロンのセンスを疑う。手足の生えた大根が走っているワンポイント。『大根RUN』――クソダサいが、当人の顔が腹立つくらいに良いので脳が混乱してしまう。

 その店員はダイワスカーレットを頭から爪先まで一通り観察してから「ほーん?」と一人で納得していた。

 

「雨宿りするなら別に店の中入りゃいいのに」

「……営業してたんですか、ここ」

「一応。ま、商売する気ほとんどねぇからいいんだけどよ。客こねーし」

 ぶっきらぼうな言い方をしながら若い店員は店の中に消えていく。雨宿りするくらいなら軒先で構わない。それに今はちょっと懐が寂しいのだ。

 どうしようか悩んでいる間にも雨は降り続けている。せっかくの週末気分がちょっぴり勿体無い気がした。

 店内から戻ってきた手にはタオル、それをダイワスカーレットに向けて放り投げる。

 

「人の店の前で雨宿りして風邪引かれても困る。いいから入ってくれ。どうせ暇してんだ」

 タオルまで投げられては断りきれない。導かれるままに店内へと入った。

 いざという時には走って逃げ出してしまえばいい。ウマ娘に追いつける人間など、まずいないのだから。

 

 

 

 ダイワスカーレットが警戒しながらも踏み入れた未知の店内は、想像以上に清潔で小ぢんまりとしていた。もともと昔ながらの居酒屋だったこともあり、木造の内装は和の心が見て取れる。しかしそれとは裏腹に覗く厨房は洋風の趣が見られた。和洋折衷。それでいて見慣れた環境なのは日本という特色からか。

 カウンターには席が五つ。テーブル席が三つ。二十人も入らない手狭な店内には他の従業員の姿が見られない。二階に続く階段が厨房の奥に見えるところから、寝泊まりも店でしているであろうことが考えられる。

 店内を見渡しているダイワスカーレットのもとに、ブランケットを持って階段を降りてきた若い店主は顎でカウンター席に座るように促した。

 

「寒かったら暖房つけるが」

「あ、ありがとうございます……お願いしてもいいですか」

「あいよー」

 なんともやる気の感じられない返事だが、何かとサービスが手厚い。渡されたブランケットを羽織ながらタオルで髪を拭いていく。

 

「あの、ここって本当に喫茶店なんですか?」

「元居酒屋。改装して喫茶店、ワンオペで俺が店主」

「え!?」

 驚いた。見たところ二十代前半といったところか。こんなやる気のない相手が店主だとは欠片も思わなかったダイワスカーレットは思い切り声に出してしまった。それを気にも留めていないのか若い店主はテーブル席で広げていた新聞や雑誌を片付け始める。

 分厚い辞書に、クロスワードパズルという組み合わせ。雑誌も『月間トゥインクル』や、他にもウマ娘の特集が組まれているものばかり。その中に男性向けファッション雑誌も含まれており、身だしなみに気を遣っていることが見て取れた。ただ、その雑誌の扱い方がぞんざいな辺り中身にしか興味が無いらしい。

 あくびをこぼしながら厨房に入ると、すぐに頭巾を取って髪をまとめる。手を洗ってアルコール消毒。手を揉んで刷り込みながらダイワスカーレットに向き直る。

 

「なんか温かい飲み物でも飲むか? コーヒーでも紅茶でも緑茶でもスープでも構わないが」

「えーっと……」

 店内を再度見渡して、ダイワスカーレットがふと気づいた。

 この店内に、メニュー表というものが存在しないことに。

 

(ぼ、ぼったくりとかじゃないわよね……!?)

「あー、金の心配ならしなくていいぞ。経緯はどうあれ、うちの最初のお客さんだしな。そんぐらいサービスする」

「……ほんとに?」

「マジで」

「……でも」

「んじゃこうしよう。金はいらないから、お友達に広めてくれ。宣伝費ってことで」

 まるでそう取り決めていたかのように店主は話をまとめた。

 

「俺はマスター、そちらさんは?」

「……店主だから?」

「え? ……ああいや、そうじゃねぇわ。俺の、名前が、そもそも。マスター・ハーベルグって名前なんだ。現在日本語と読み書き勉強中だ」

「それにしてはずいぶんと日本語お上手ですね」

「そりゃどうも。で、お名前は?」

「……ダイワスカーレットです」

「よろしく」

 これから先、よろしくするかどうかはまだわからないが。それでもこのやる気のない店主――マスターという青年はヒラヒラと手を振っている。

 何かと質問を繰り返された。そのついでと差し出された紅茶を口にしつつ、質問に答えて、同じように質問を返す。

 話をまとめると、日本に来たのはつい数ヶ月前。雇い主から三年間日本に滞在してウマ娘と交流しろ、と言われたらしい。その期日をどう過ごすか考えて、馴染みある喫茶店を開いた。ということだ。

 

「それならトレーナーになればよかったんじゃ……」

「やだよ面倒くせぇもん」

 ダイワスカーレットの疑問に、マスターはバッサリと斬り捨てた。下調べをした結果、自分には合わないと判断したかららしい。自分の滞在期間が限定されているのもある。そもそも他人の人生の面倒を見るというのが性に合わないという。なんと性格の悪い。それは自覚があるのか、マスターは肩をすくめる。

 

「よく友人に言われるんだ。口と態度と性格の悪さを直せって。そんで俺はいつもこう返すんだ。やだよ面倒くせぇもん、ってな。お節介な友人がいると苦労するよほんとに」

「は、はぁ……そうですか……」

 他人行儀な相槌しかしようがない。だが、先程から何やら手を動かしているところを見るになにか作っているようだ。何かを思い出したように厨房の奥へ消えていくと、綺麗に切り分けられたケーキを持ってきた。

 それをまた、手慣れた手付きで小皿に移すとダイワスカーレットの前に差し出す。

 

「実はまだ飲み物はそこらのインスタントに頼ってる状況でね。俺からすりゃそんなもんで金取る程度のメニューとは言えないんで、口直しにでもどーぞ」

「……いいんですか?」

「減量中なら下げるが?」

「食べないなんて言ってな……ません」

 どうにも、人を小馬鹿にしたような口ぶりに思わず素が出そうになる。

 まじまじとケーキを観察するが、至って普通のショートケーキ。苺が乗せられ、スポンジ生地にクリームを挟んだ二段重ねのケーキをフォークで切り分ければ驚くほど柔らかい。弾力で戻る生地を見て、崩れないうちに口に運ぶ。

 

「――――!」

 あまりの美味さに、思わず耳が立つ。口にした生クリームのきめ細かさ、スポンジケーキの弾力は期待を裏切らず、それでいて甘さがくどくない。ほのかに香るバニラエッセンスも香りで後押ししてくる。だが、それだけではない味の深みにダイワスカーレットは落ちる頬を手で押さえながら食を進めていく。

 

「美味しい……」

 思わず口をついて出てきたのは素直な感想だった。断面から見えていたスポンジ生地に挟まれていた色の違うクリームは、ストロベリーで味変。それでいて乗せられていた酸味の強い苺によるダブルベリー風味は一切れを完食するのに時間は掛からなかった。気づけば皿の上が空になっており、ダイワスカーレットがマスターの顔を見れば――ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら頬杖をついている。

 

「そりゃどうも。こっちも練習してた甲斐があった。流石に一日三食ケーキも飽きてきたしな」

「そんなに食べたら太りますよ」

「ジム行ってるから大丈夫」

 お店はいいのか? そんなダイワスカーレットの素朴な疑問に、マスターは手を叩いた。

 

「そうだ。せっかくだから持って帰ってくれよ。そうすりゃ宣伝にもなるし一石二鳥だ」

「え、いいんですか?」

「いいよ別に。男一人で寂しくケーキつついてる姿を想像してみろ。ほれ、トレーナーと食べるも良し。お友達と食べるも良し、そっちは親睦深めて俺は宣伝できてWin-Winな関係。なにか問題は?」

「えーっと……なら、お言葉に甘えて……」

「よっしゃ、ちょっと待ってろ」

 ――まさかホールケーキで用意されるとは思わなかったが。一種類だけならまだしも、出てくる出てくる色とりどりのケーキが次から次へと。ケーキ屋かと思うくらいに。

 

「ショートケーキにチョコケーキ、こっちはチーズケーキとフルーツタルト。んでウマ娘向けに考えて作ってたキャロットケーキに食べれる蹄鉄のチュロッキー」

「…………」

「なんだよその顔は。味見するか?」

「い、いえ結構です」

 これを全部一人で作って、一人で食べてたのかと思うと同情してしまう。四号サイズのホールケーキが三種類に、同サイズのフルーツタルト。一回り大きいキャロットケーキと、お徳用かと思うほど大量に用意されたチュロッキー。これだけでパーティーの主役を張れるほどの量だ。何故これほどの美食が用意されている名店を誰も見つけられなかったのか。ダイワスカーレットは頭を悩ませる。

 

「多分、お客さんが来ないのってお店の看板のせいだと思うんですけど」

「俺もそう思う。黒板注文して届くの待ってんだ」

「立地も……あまり良くないっていうか、目立たないですし」

「まぁそこは隠れた名店ってことで一つ」

「……商売する気あります?」

「いやあんまねーな。ウマ娘相手ならともかく」

 あっはっは、と店の赤字を笑い飛ばしながらマスターはケーキを箱に詰めていた。とんだ大荷物になってしまったが、そこは上手いこと中身を仕分けて手荷物に収めている。

 

「いやー助かる。明日は蹄鉄クッキー作ろうと思ってたんだがちょっと今日は作り過ぎて困ってたんだ。なんていうか興が乗っちまってなー。ついやりすぎる時があるんだ。ケーキ作るのそこまで得意じゃなくてよ」

「これだけ作っておいて!?」

 ダイワスカーレットは思わずツッコんでしまった。全部手作りかつ、得意料理ではないというマスターの言葉に唖然とする。高級スイーツ店で並んでいても遜色ないほどの出来栄え。完璧と言っても良い焼き加減と盛り付けをしておきながら、まだ得意ではないという。

 

「じゃあ、どんな料理が得意なんですか?」

「そうだな。パフェ作るのは割りと得意。ちなみに和食も勉強中」

「……料理好きなんですね」

「嫌いじゃないってだけさ。飯を粗末にするやつは大体ぶちのめすけどな。っと、そんな話をしてたら外の雨脚だいぶ弱まってきたな」

 マスターに言われて、ダイワスカーレットが耳を傾けると確かに雨音が遠のいていく。

 

「あの、これ。ありがとうございました」

「いいってことよ。宣伝よろしくなー」

 大荷物になってしまったが、それでも収穫はあった。確かにちょっと変な店主ではあったが、食べたケーキの味は確かに美味だったし、何よりも得意料理のパフェも気になる。

 ダイワスカーレットは尻尾を揺らしながら喫茶店よろづを後にした。

 

 

 

 寮へと戻ってくるなり、まずは大量のケーキとチュロッキーをフジキセキ寮長に差し入れる。ダイワスカーレットが持ってきたケーキの量には流石に苦笑いをしていたが、それでも手早く手配するとあっという間に食い意地の張ったウマ娘達の餌食になった。驚きの十割、大絶賛の嵐。どこの名店で買ってきたのかという質問に、素直に『喫茶店よろづ』という名前を挙げた。誰もその名前を知らなかった辺り、隠れた名店というステータスはマスターの狙い通りだったらしくたちまちウマ娘達の話題をかっさらっていく。その読みの精度に少し怖さも覚えつつ、ダイワスカーレットは自分の部屋へと戻った。

 そこでは同室のウオッカがベッドに寝転がりながらなにか雑誌を読んでいる。遠くから盗み見るとバイク雑誌のようだ。そんな物の何が良いんだか、などと思いつつわざとらしく咳払いをする。

 

「ただいま」

「おー。戻ったのか。目当てのやつは買えたのか? ってなんだその荷物」

「帰りに雨宿りした喫茶店で宣伝代わりによこされたのよ。アンタも食べる?」

「くれんのか? なら小腹空いてたし貰うぜ」

「はい。ベッドの上で食べてこぼさないでよね」

「――うっま! なんだこれ! こんな美味いチュロッキー初めて食ったぞ!」

 子供のような正直な感想に、ダイワスカーレットも気になってひとつだけつまみ食いした。

 蹄鉄の形に成型されたチュロッキーの端っこを齧れば、外はカリッと香ばしくメープルシュガーの甘さが引き立つ。それでいて生地そのものがくどくない。熱い飲み物があればさらに手が進むこと間違いなし。本能が告げる――これは危険だ。乙女を陥れる毒りんごに違いない。それを作る店主はさながら魔女ならぬ悪魔の手先だろう。

 

「おい、これどこで買ってきたんだよ!」

「買ったんじゃないわよ。貰ったの。宣伝してくれって頼まれて」

「どこで?」

「……アンタも知らないでしょうけど、喫茶店よろづってお店よ。知ってる?」

「よろづぅ? いや、聞いたことねーなぁ。でもなんでまた」

 ウオッカに事の経緯を話すと「へー」と、少し面白そうな表情を見せた。

 

「んじゃ、そこのマスターって良い人なんだな! オレも行ってみてぇなー」

「良い人だけど……なんていうか。モヤモヤするのよね」

 確かに。ずぶ濡れになった相手にタオルもブランケットも差し出して。それだけでなく温かい飲み物も無料だった。付け加えてデザートまでごちそうになって、それを宣伝費と割り切った――と考えれば確かにこれ以上無いほど“善人”なのだろう。だが、なにか裏があるように思えてならなかった。

 美味い話には必ず裏がある。特に、物事がトントン拍子に進んだ時は。

 

「なんか、お菓子を罠に釣られているような気がするわ」

「お前の考え過ぎだろ。でも本当にうめーなこれ! そうだ、トレーナーにも分けていいか?」

「……別にかまわないけれど。アタシの分も残しておきなさいよね」

 雨脚は立ち去り、空は曇天。

 それはダイワスカーレットの不安を表すように晴れる兆しがなかった。だがそんな思いとは裏腹に、和風喫茶店よろづが中央トレセン学園の噂になるのはあっという間の出来事だった。

 

 まるでそれを予期していたかのように――メディアによる「最強」を決定するレース、『トゥインクルスター・クライマックス』がURA合同で主催される。そしてそれとは別に、かつて存在していたウマ娘によるチーム対抗戦・アオハル杯の開催が決定された。

 トレセン学園生徒会長であるシンボリルドルフもまた、その開催を楽しみに待っていた。

 

 ――願わくは、その激戦を駆け抜けた“最強”と走ることを夢見て。

 そしてそれが……今は叶わないと知りながらも。



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第2R “最強”の称号

書きすぎた…


 

 

 

 ――“最強”とは、なにか。その答えは人それぞれだろう。

 例えば、絶対無敗の王者。

 例えば、最弱無敵の挑戦者。

 勝利を確信し、敗北を決して恐れず、挑戦を諦めない者。

 あるいは、敗北を知らない者こそを最強と呼ぶものもいるだろう。

 

 そうした意味では中央トレセン学園生徒会長、“皇帝”シンボリルドルフは最強のウマ娘だ。――少なくとも。

 ……“そうだった”が、今は正しい。

 

 無敗の七冠バとしての偉業を成し遂げたシンボリルドルフは、その後“四女神”の前で倒れていたところを発見され、すぐに保健室に運び込まれた。

 当初は、生徒会の業務とレース、メディアへの対応と多忙を極めていたからその過労だろうと片付けられた。だが、真相はそうではない――“走れなくなった”のだ。

 原因も理由も不明。ただ身体検査の結果、シンボリルドルフのウマ娘としての能力が失われていた。ウマ娘の体をなした、普通の女の子と変わりない。

 そのことで一時は騒然となり、シンボリルドルフも一度は会長の座を降りようとしていた。しかし、それを拒み、支え続けると決めたのは彼女のトレーナーだった。

 

 皇帝として。ウマ娘を導き、誰もが夢を叶えられる世界にしたいという夢に共感し、共に切磋琢磨し、偉業を成し遂げた普通の人間。誰もが夢物語と思った答えを叶えた功労者は、シンボリルドルフを中央トレセン学園へ引き止めた。何度も衝突して、その意見は断固として変わらない。

 ――他ならぬ彼女の走りを隣で見守り、支え続けたからこその意地だった。

 今は走れなくなったのだとしても、いつか。きっといつか。

 “絶対”は、返り咲く。今はまだその時ではないだけだ。

 いまだ誰一人として無敗の七冠バという偉業を成し遂げていないのだから。その舞台に上がる資格を持ったウマ娘が現れたその時に、きっとシンボリルドルフは走り出せる。

 彼女のトレーナーはそう信じてやまなかった。誇大妄想などと、シンボリルドルフも笑わなかった。ただその全幅の信頼を置かれて、裏切ることなど自分にできなかったのだ。

 

 ――それでも時々、夢を見る。走っている夢を。

 何もない暗闇の中を、ただゴールもわからないまま走る夢を。

 焦燥感に駆られ、背後からの影に怯え、闇雲に走り続ける。自分がなぜ走っているのか。どこを目指して走っているのかもわからない我武者羅で、無我夢中に手足を動かす夢を。

 ただ、背後から迫る影が囁くのだ。

 

 ――走ろう、と。

 

 自分の影に追い抜かれて、置いていかれて――暗闇の中でもがくように手を伸ばす。何もない暗闇に伸ばした手を取るものはなく、ただ孤独な闇の中にひとり置いていかれて……。

 

 

 

「――――――」

 シンボリルドルフは、目を覚ます。

 もう何度見たのか忘れた悪夢に胸の動悸が収まらない。早鐘を打つ鼓動に、深く息を吐く。

 就寝していたはずなのに、疲労が抜け落ちた様子は微塵もなく、それどころか泥のように身体が重い。まとわりつく不快感の正体は、熱病にうなされたような汗だ。

 嫌な夢だ、本当に嫌な夢だ。いつまでこの夢にうなされるのか。

 わかっていても抗えない。

 夢の中でなら、自分はかつてのように走れるのだから。

 

(……またこの夢か)

 ただ三度の敗北。――記録には存在しない、四度目の敗北。シンボリルドルフ自身、それが原因であることは朧気に理解していた。

 外を見れば、夜が明けようとしている。朝と夜の境界、曖昧な空模様。

 カーテンを開けて外を眺めれば、暁の地平線。空には、最後までただひとり輝き続けていた星があった。他の星々が光を失い、夜の闇の中へと消えていく中、煌々と輝いている。

 明けの明星――暁の空に輝く星を見て、シンボリルドルフは小さく息を吐き出した。

 あの闇の中には、何もなかった。空に輝く星星も、走りを称える観客も、肩で裂く風も。

 もしもあの虚無の宵闇の中にひとつでも輝く星があったのなら、それを目指して走ることができたのかもしれない。

 

 だからこそ、時代は求めているのだろう。

 新たな“最強”を。世の中の誰もが認める形で。

 メディアが求めている。

 世間が求めている。

 『トゥインクルスター・クライマックス』の開催も、アオハル杯の開催も、全ては時代を牽引する者の登場を待ち望んでのことだ。

 過去の栄光にすがり続けることなど、望まれていない。

 

(盛者必衰の理をあらはすとは、このことかな……)

 脳裏にトレーナーの姿が浮かぶ。熱意を持って、確固たる信念を持って、自分とは異なる目線で歩み続けてきた。だからこそ、自分が走れなくなった時も意気消沈など論外だった。

 ――いつか走れる時のためにも、俺は君を支え続けるよ。

 だがそこでトレーナーは走れなくなったシンボリルドルフだけでなく、他のウマ娘を兼任するようになった。それは、変わっていく時代の流れを汲むために。トレーナーとしての感覚を忘れないようにするために尽力してくれている。そのノウハウもすべて自分のためだ。

 いつかまた、共に駆け出す時のために。

 だが、伏してばかりもいられない。そんなトレーナーのために、牙を研ぐ時だ。

 不言実行。自分の身体が人間の女の子と同等になったとしても為すべきことは変わらない。

 

 

 

 ――霜天路柊は、頭を抱えていた。

 よもや、自分が中央のトレーナーとなった旨を連絡したその年に中央へと転向してくるとは思いもしなかったからだ。いつだってこいつは人の予想を遥かに上回ってくる。

 

 弟である霜天路(そうてんじ)(ごう)が、腕を組んでたづなの隣に並んでいた。

 

「――柊トレーナー、お待ちしておりましたよ」

「おう、兄貴! 久しぶりだな!」

「……なんでいるんだお前」

 柊の素朴な疑問に対し、號が不思議そうな顔をする。同じ紺色の髪ではあるが、髪をかきあげてオールバックにしているために弟の方が快活な印象であり、事実そうだ。

 

「なぜって……そりゃ兄貴が中央のトレーナーになったからだが?」

「いや、そうではなくて……」

「元々地方では中央推薦受けてたしな! いてもたってもいられずすっ飛んできた!」

 たづなに事情の説明を求めると、こちらも少々困り顔をしている。

 

「覚えてますか? 私と初めて会った日のこと」

「ええ……」

「あの後、地方トレセンのトレーナーである弟さんのことを調べさせていただきました。とても素晴らしいトレーナーであると思い、推薦させていただいたんですが――」

「まぁなんだ、俺も当時は担当のスケジュールだなんだと色々立て込んでいたからな。一度は断ってすっかり忘れていたんだが、兄貴がいるなら話は別だ! 絶対に負けないからな覚悟しろ!」

「……というわけでして」

「うちのバカが迷惑そうで本当に申し訳ありません」

「いえ、そのようなことは。むしろトレーナーとしての素質は、兄弟共々本当に素晴らしいと思います」

 ウマ娘のメンタルケアにこれほど適した人材もそういない。やや根性論に傾倒している節があるものの、それを補う形でケアリングを欠かさない気配り上手な一面も地方では評価されていた。記録が伸び悩むウマ娘に辛抱強く付き合う忍耐力もある。

 天賦の才、というやつだろう。

 この兄弟はそうした勝負事に対する才能に恵まれている。だからこそ、たづなは声を掛けたしURAからも推薦を受けた。

 

「とにかく、これからよろしく頼むぞ兄貴! トレーナーとしては俺の方が先輩だからな、遠慮なく頼ってくれ」

「体力仕事は全部投げるつもりだ。――號」

「なんだ兄貴」

「相変わらず元気そうで何よりだ。安心した」

「何を言ってるんだ、こっちの台詞だぞそれは? なんだったら飯はちゃんと食ってるか? きちんと寝てるだろうな? ゲームばっかしてないだろうな?」

「積もる話は後にしろ、説明会があるんだ」

「そうだった。ではたづなさん、兄貴ともどもご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんが今後ともよろしくお願いします」

 頭を深く下げる號と共に、柊はトレーナー説明会へと向かう。

 メディア主催のトゥインクルスター・クライマックス及びアオハル杯に関する説明だ。

 

 

 

 ――柊は説明会が終わったあとの学園内の案内を聞きながら敷地を見渡す。ターフとダートの両方に対応したレース場。トレーニングセンターの名に恥じぬ充実した施設の数々。ウマ娘達の寮にトレーナーの利用する寮の案内。ただその敷地があまりに広大すぎるためか全部見て回るだけでも運動になる。激しい運動ではないにせよ、柊にはそれが多少なりとも苦痛だった。

 一通りの説明が終わる頃には日が傾いている。そして最後に、自分たちが担当するウマ娘の模擬レースに関しても日程の説明などがされた。

 

 ――春。それは出会いと別れの季節の風物詩。

 柊は嫌いだった。だがそれは名前のせいではない。

 春に良い思い出がなかったからだ。

 出会いも別れも自分には関係の無い。この胸の鼓動がいつ消えるともしれない自分から、外部と隔たりを作った。

 だからゲームの世界ならば、自分がいなくなっても平気だと思っていた――銀と出会うまでは。

 いつしか世界王者として当たり前の場所に立っていて、飽きてしまった。

 トレーナーとして再出発したのも、自分の心境に少しくらい変化があったからだろう。

 それでも結局、それを「ゲーム」として捉えてしまった。少々不確定事項は多いし、確率なんてものも目に見えるわけではない。決められたエンディングがあるわけでもない。

 だがそれでも――目指すべき目標ははっきりしている。

 

 柊が立ち止まったのは、女神像の前。その周囲には立入禁止のロープが張り巡らされており、一人の用務員が噴水の清掃に精を出していた。

 少々、というか。かなり。オブラートに表現したとしても人相の悪い用務員だが、汗水を流しながらせっせと掃除している様はなぜか似合っている。

 立ち止まった柊に気づいたたづながその視線の先にいる相手を見て頷いた。なるほど、と。

 

「あちらの方が気になりますか?」

「え? えぇ、まぁ……」

「では、紹介しておいた方がいいですね。大丈夫ですよ、顔は少々……怖いかもしれませんがとても話しやすい方ですので」

 そうして、たづなが用務員の名前を呼んだ――日本人のような黒髪だが、その名前は異国のものなのだろう。

 

()()()()さーん!! こちらへ来ていただけますかー?」

「へ? なんか用ですかー、たづなさーん」

 ザブザブと噴水の掃除をキリのよいところで切り上げて、エヌラスと呼ばれた用務員がずぶ濡れの長靴を履いたまま作業着姿で駆け寄ってくる。

 

「こちら、中央トレセン学園の用務員兼トレーナーのエヌラスさんです」

「どうもよろしく」

「今年から中央に配属の霜天路柊です。よろしくおねがいします、こっちは弟の號」

「よろしくお願いしますっ!」

「弟さんめっちゃ元気良いな。それで、たづなさんはなんか俺に用でも?」

「いえ。柊トレーナーさんが気にしていた様子だったので。エヌラスさんは学園の用務員として雑用をこなしながらも、トレーナーでもありますので何かあった時は遠慮なく。遠 慮 な く! 頼っていただいて結構ですよ」

 なぜか圧のある紹介に、なにかやらかしているんだろうなこの人、という空気だけは感じ取れた。なんとなしに視線で尋ねてみると「ははは……」と空笑いしながら目を逸らしている。なんかやらかしてんなこの人?

 

「なにやらかしてるんですかこちらの方は?」

 そこはせめて聞かずにしておけばいいものを、虎の尾を踏むことに躊躇なし。號が間髪入れず早速聞いていた。

 たづなはその質問に対し、ため息をつきながら話し始める。

 

「ええ、たくさんやらかしてますね。そうですよねエヌラスさん?」

「うっす……ホントすいません……」

「器物破損とかその他諸々。理事長が拾ってきた方なんですが、住所不定無職であったということもありこちらの厚意で学園に住み込みで働いていただいてます。もちろんお給金も出てますので」

「火を見るより明らかに訳ありな人なのでは?」

「その訳あり込みで衣食住を提供してくれるならタダ働きほど高い仕事もない。安心してくれ、俺の社会的信頼度なんてものは野良犬以下だ」

「それに疑問を抱かないのは人としてアカンのでは?」

「…………生活に困窮した人間って、割と何でもやるんだぞ」

 とてつもなく実感のこもった声で言われたのでそれ以上は霜天路兄弟も何も言えなかった。

 訳ありだが、悪い人ではなさそうだ。だが、どうしてもひとつだけ気になる。

 

「すいません。その、最後にひとつだけ聞いてもいいですか」

「おう、聞いてくれ」

「…………左目のその刀傷は?」

「…………………………」

 伸ばした前髪で隠してはいるが、隙間から覗く赤い瞳。その左目に縦一文字の刀傷。相当の深傷のようだが、少なくとも意図してつけられるような傷ではない。そんなものゲームの世界でしか見たことがないし、住む世界が違うことの証明書でしかない。

 

「……………………」

「…………………………あの?」

 沈黙。その間、誰もしゃべらないものだからひたすらに気まずい空気が流れる。

 

「じゃあ! たづなさん、後はお願いします! 俺この後もゴミ回収とかしてくるんで!」

「はい、よろしくお願いしますね。エヌラスさん」

「逃げた……」

「恐ろしく速いな」

 清掃道具を片して走り去っていくエヌラス用務員の健脚は最早ウマ並と言っても過言ではない。

 どうやら個性的なのは中央に所属しているウマ娘だけではないようだ。

 まず間違いなく、退屈することはないだろうと柊は予感していた。

 

 

 

「そういえば兄貴は部屋を借りたのか?」

「俺はトレーナー寮だが……お前は?」

「ふっ、そこは安心してくれ。駅が近くてスーパーも近い、お家賃ちょっと高めのお部屋を一室借りて一人暮らしだ。ふははどうだ羨ましかろう」

「いや全く」

「光速ネット回線引いて快適空間」

「俺と交代しろ、號」

「誰がするか!」

 中央トレセン学園からの帰り道。数年ぶりに兄弟で肩を並べて街を歩いていた。

 だが話すのは他愛のない話ばかり。やれ新作のゲームがどうだ、銀やクリスといった友人の話。両親が家を出る時に少し寂しそうだっただの、たまには家に帰ってやれだのと互いに言いたいことを言い合う。

 

「む、しまった。今日の夕飯何も買ってないどころか冷蔵庫の中身がなんもなかったことを思い出した。というわけで兄貴、買い物に付き合ってくれ」

「俺は買ってきた飯があるから一人で行け」

「くそ、この薄情兄貴! 覚えておけ! なんかあったら電話よこせよ! すぐ行くからな!」

 別れ際に捨て台詞を置いて、號が雑踏の中へと消えていく。

 まっすぐ寮に向かって、今後のスケジュールを計画しようと柊はパーカーのフードを被って街の中を歩いた。

 人混みの中は、それほど好きではない。だが、嫌いにはなれなかった。すれ違う人々が自分に無関心でありながらも、自分のその無関心の輪の中のひとりに紛れ込むことができるから。

 気を紛らせる人々の話し声。すれ違う女性の香水。自分を追い越していく男性のタバコの臭い。誰もが肩を並べて、平等に無関心という居心地の良さはなんとも言えなかった。そうした不干渉の空間に身を置いていられるのもまた気楽に思える。

 

(號の奴は、俺のことを気にしすぎだ……)

 あれやこれやと世話を焼いてくるのが、うるさくて敵わない。

 ――どうせ自分に残された時間はそう長くないのだから。

 

 柊がパーカーのフードを目深に被り直そうとして顔を上げて――。

 強烈に、目を惹く相手がいた。

 それは雑踏の中で当たり前のように立っている芦毛のウマ娘だった。

 トレセン学園の制服に袖を通して、ただぼんやりと突っ立っている。だが何か考え事をしているのか顎に手を当てたまま困った顔をしていた。

 ウマ娘など、確かに見慣れている。彼女たちは日常で、隣に立っていることなんて珍しくもない存在だ。

 それなのに、何故か――柊はそのウマ娘を見て、息も忘れてしまう。

 見惚れた? それは違う、と断言できる。

 何故なら恋心などというもの、胸の内に存在しないのだから。

 

 ――可能性を見た。まるで地に落ちた星を目の当たりにしたような衝撃だった。

 それが今、雑踏の中で困り果てている。不干渉の空間において、それは輪を乱さぬ当然の行為であり、常識的な行動だ。

 だから、自分も当然そうあるべきだ――そのはずなのに、気づけば足は動いている。

 

「うぅん、困ったな…………」

「……、なにか困ってるのか?」

 なんて声をかけるか迷って、困った相手に向けて、困ったように声を掛けてしまった。相手は目を白黒させて、少し驚いている。

 

「あー……すまない。通りすがりの新米トレーナーだ……」

「そ、そうか。えぇと……うん。少し困ってる」

「どうかしたのか?」

「道に迷ってしまったんだ」

「……なるほど、迷子。行き先は?」

「ショッピングモールに行きたかったんだが、その……まだ道に不慣れで……」

「そうだったのか。なら案内する、ついてきてくれ」

「いいのか? ありがとう、新米トレーナーは良い人だな」

「……霜天路柊だ」

「オグリキャップだ。よろしく頼む」

 手を引くでもなく、二人で肩を並べて歩く。

 

「その、柊……霜天路トレーナーは、何をしてたんだ?」

「柊でかまわない。帰り道の途中だったんだ。まぁ大した用事もないし、ショッピングモールは見ておいて損はしないだろうしな」

 

 

 

 ――前言撤回。損した。柊は見覚えのある人物の後ろ姿にこめかみを押さえた。当の相手はこちらの存在に気づいて朗らかな笑顔をみせている。そのせいで周囲がざわついていた。

 

「やぁ、柊。中央トレーナー試験の合格おめでとう、元気かな」

「……なんでいるんだ、クリス」

「うん? なんでって……仕事だから」

「社長直々に店頭に顔を出すほどの?」

「そりゃあ打ち合わせは対面でやった方が捗るじゃないか」

 それはそうだが、なぜよりにもよってこのタイミングなのか。クリスはすぐにオグリキャップに気づき、人当たりのよい笑顔と共に挨拶を交わす。

 

「この子は君の担当?」

「いや。街で迷子になっていた」

「ああ。迷子だったところを霜天路トレーナーに助けてもらったんだ」

「へぇ~。そうなんだ。てっきり君が担当するかと思ったんだけども……うん、いいね。良いコンビだ。様になってるよ」

「それは……ありがとう?」

「オグリキャップちゃん、柊はちょーっと口数少なかったり言葉が足りない時があるかもしれないけれど。大丈夫、勝負事に関して彼は天才的だから。トレーナーとしては新米だけどそこは私が保証するよ」

「そうなのか? それなら私も心強い」

「勝手に決めるな、クリス」

「おや。君もそのつもりでオグリキャップちゃんに声を掛けたんじゃないかな」

 そうではないと言えば、嘘になるかもしれない。

 

「そのつもりだったのか、霜天路トレーナー」

「……そこは君の判断に委ねる。だが、俺の目標に君の力が必要だと感じた」

「へぇ、もうトレーナーとしての目標を決めてるのか。聞かせてもらってもいいかい?」

 

「――無敗の七冠バだ」

 

 柊の掲げる目標に、クリスが絶句する。オグリキャップもまた、驚きに満ちた表情をしていた。

 冗談でも口にできる目標ではない。それを成し遂げたウマ娘は今でも、過去にも一人だけだ。

 ――“皇帝”シンボリルドルフ。打ち崩すべき相手ただ一人だけを見据えている。

 

「最強に挑む以外に、何がある」

 柊にとって、勝負とはそれだけだ。

 絶対の頂に君臨する王者に挑む。その“挑戦権”として、前代未聞の無敗の七冠バを目指すと豪語しているのだ。

 トレーナーとしての勉学に励む内に、柊はこれまでの記録を遡った。そして見つけたのだ、最強のウマ娘を。そしてそれは、中央トレセン学園生徒会長でもある。最強の膝下で、最強に挑むためのウマ娘を育成する。少々予想とは異なる展開を見せたが、「トゥインクルスター・クライマックス」において得られるものが“最強”の称号であるというのならば変わりはない。

 

「――――無敗の、七冠バに……私が?」

「なれるかどうかは君次第だが……なる、というのなら俺はそのためにこの命の全てを費やす覚悟がある」

 なぜそこまでの覚悟があるのか、クリスは知っている。その上で押し黙る。

 だが、オグリキャップは驚いたまま考え込んでいた。トップクラスの中央であっても、更にその頂点を目指す言葉に一切の躊躇がない柊の言葉。新米トレーナーが口にするには、あまりに妄想が過ぎる理想だ。

 

「……おやおや、これはまた。タイミングが良い、というべきなのかな」

 困ったような声に振り返ると、そこには“皇帝”シンボリルドルフその人がトレーナーと並んで立っていた。クリスとは既に顔なじみなのか、気さくな挨拶を交わしている。

 

「おや、お元気そうで何より」

「もしや……クリス社長と、そちらの柊トレーナーは知人だったのかな?」

「隠しているつもりはなかったんですが。まぁそうですね。今の会話、聞こえてました?」

「盗み聞きをするつもりはなかったんだ」

 一言謝罪を挟み、シンボリルドルフは柊の顔を見た。流石に失礼だと思ったのか、パーカーのフードを上げる。

 そうして見つめ合ったのは数秒のこと。その瞳の奥にある意思の強さに、シンボリルドルフは笑った。

 

「君のことは色々と聞いているよ。なんでも注目されているとか」

「まぁ、その辺りは私が勝手に調べたという方が正しいのかな」

 短髪の偉丈夫なトレーナーが柊に手を差し出す。体格の良さもあるが、清潔感のあるフォーマル・スーツ姿は様になっている。

 

「はじめまして、霜天路柊くん。私はルドルフのトレーナー、神無月(かんなづき)國弘(くにひろ)だ。お会いできて光栄だよ、世界王者」

「……どうも。その様子だと、俺の自己紹介は省いても大丈夫そうですね」

「はは、すまない。君の名前は昔聞いたことがあったからね――さて、君の志高い目標は尊敬に値する。彼女のトレーナーとしても鼻が高い」

 國弘は気まずそうに笑いながら、少々気が重い様子で口を開いた。

 

「その新進気鋭の出鼻を挫くようで大変心苦しいんだが――彼女は今、走れないんだ……」

「――――――――」

 事の経緯を國弘が簡潔にまとめる。

 ()()()()の周囲に立ち入り禁止のロープが巡らされていたのも、それが原因だ。生徒達に余計な不安を与えないために。そしてシンボリルドルフ自身が、新たな犠牲者を出さないためにも許可したのだ。

 

 最初から、柊の目指した“最強”の相手は壇上から降りている。始まる前から終わっていたのだ――だが、それでも柊の瞳は変わらなかった。

 

「……それでも」

「――君は」

「それでも俺は。メディアが求める“最強”の称号を求めます。その玉座が空だというのなら、むしろ都合がいい」

 執念じみた勝利への渇望。狂気にも似た勝者への願望。その無尽蔵とも思える原動力に、國弘は気圧される。

 

「約束してくれますか。神無月トレーナー。俺がもし、担当ウマ娘と共に“無敗の七冠バ”を成し遂げたその時は、勝負してくれると」

「……いや、しかし」

「言葉を借りるなら――“絶対”は、ないんでしょう」

「――――」

 それは、いつか聞いた言葉。他でもない、シンボリルドルフ自身の口から出した言葉だ。

 レースは何が起きるかわからない。だからこそ、絶対はない。しかし、かの“皇帝”は口にした。

 

 ――絶対はない。だがこのシンボリルドルフの走りは、絶対を約束しよう。

 

「……そうだな。ああ、絶対なんて言い切れないな。その時に彼女は、かつての走りを取り戻していると私は信じているよ。その挑戦を、私は受けて立とう。真っ向から――ルドルフ、君はかまわないかい?」

「ふふ、聞かずとも私の答えを知っているだろうに」

 困った笑顔を浮かべながらも、シンボリルドルフはやはり、どこか嬉しそうだった。

 

「さて、大体の話もまとまったようだし。柊、送っていくよ。オグリキャップちゃんも」

「いいのか?」

「オグリキャップ、買い物がしたかったんじゃなかったのか?」

「……そうだ、忘れるところだった! 急がないと」

「だ、そうなので私たちはこれで。お時間取らせてしまって申し訳ありません」

 会釈するクリスに、國弘は軽く手を振る。

 

 

 

 少し慌ただしく走り去っていく三人の背中を見送ってから、シンボリルドルフと共に買い物を済ませた。

 その帰り道の車内で、ポツリと呟く。

 

「……絶対はない、か」

「まさか、彼からそんな言葉が返ってくるなんて思いもしなかった」

「ふふ、そうだね」

「……怒ってるかい、ルドルフ?」

「真逆。その逆だよ。私は今、とても嬉しいんだ」

 柊の瞳。あの闘志に満ちた瞳。挑戦者の目。

 長らく忘れていた。自分に真っ向から挑んでこようとする者など、しばらく見ていなかったから。強者に敬意を払い、その矜持と理念に共感したその上で――超えると断言してきた。

 それが心地よかった。心底、嬉しく思った。

 

「ルドルフ……彼のことを、待ってあげよう」

「随分と彼の実力を買っているね」

「ああ。彼の世界王者としての実力は本物だ。その……私もゲームにうつつを抜かしていた時があったものでね。その中でも彼は“無敗の暁”と呼ばれていた」

「無敗の――」

 病的なまでの正確なコマンド入力。その精度もさることながら、即興で逆転までの道筋を導き出す圧倒的な計算速度。最早、勝利に取り憑かれた狂人とまで言われた。だがその無敗の世界王者はある日を境に、舞台から姿を消してしまったのだ。それからは言うまでもなく、大波乱だったという。

 

「きっと彼は、君と同じように頂点からの景色が退屈だったんだろう。自分一人だけが勝って、自分一人だけが喜ぶのには飽きたんだ」

「………………」

「ああ、誤解しないでくれよ? 君の隣には私がいたんだから」

「わかっているよ。忘れた事など、これまで一度たりとてない」

「ならよかった」

 だが――國弘は車を運転しながら、柊の目を思い出す。

 生まれつき心臓病を患っていながらトレーナーを目指した理由は、きっと残り少ない人生を賭けて臨むつもりなのだ。それでも彼は“最強”であることに拘っている。

 その理由を聞きそびれてしまったことに、少しだけ國弘は残念がった。



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第3R 霜天路號、出遅れ波乱のスタートダッシュ

 

 シンボリルドルフの失脚。ウマ娘としての身体的特性の喪失は、一時注目の的となった。それはメディアのみならず、学園内でも。しかし、彼女の功績を知らぬ生徒はいない。無敗の七冠バとしての地位は揺らぐことなく、皇帝は生徒会長の座を退くことはなかった。

 だがしかし、それはとあるウマ娘も望まぬ注目を浴びることとなる。

 

 ──マンハッタンカフェ。

 

 シンボリルドルフの証言による“黒い影”の存在。それが彼女の“お友達”ではないかという噂がまことしやかに流れた。だが、まったくの嘘偽り、根も葉もない噂であると同時に、それを否定できる判断材料を誰も持ち合わせていなかった。

 ただ一人の“例外的存在”を除いては。

 

 ──秋本やよい理事長が拾ってきたという謎の人物、エヌラス。

 

 彼女にとって、彼の言葉は到底信じられないものだった。

 

「マンハッタンカフェの“お友達”とやらは無罪だ。その日は彼女と併走してたのを俺が見てる」

 

 あろうことか。彼の口から出てきたのは誰の目にも見えない存在であるはずの“お友達”に対する弁護だった。もちろんそれを正直に信じた生徒はいない。何故なら彼は身元不明の外国人だ。それでもその一声は、確かに矢面に立たされたマンハッタンカフェの孤独な心に寄り添い、軽くしてくれた。

 

「それでもまだ彼女を疑うというなら、俺がトレーナーになって彼女の無実を証明する。ありがた迷惑かもしれんが」

 

 ──かくして、トレセン学園用務員兼トレーナーとしてエヌラスの激務の日々が幕を開けることとなる。

 

 

 

 最初こそ疑心暗鬼の眼を向けられていたエヌラスだったが、マンハッタンカフェの信頼を得るまでそう時間はかからなかった。

 旧理科準備室を主な行動場所としている彼女と、もう一人のウマ娘──アグネスタキオンの同意を得るためにとった行動は簡潔なものだった。

 

「私としても君には興味が尽きないところだったんだ。これは実に都合が良い。カフェのトレーナーとなるのは私としても喜ばしいからね、特に異論はないよ。ただ、ここは知っての通り私と彼女の共用スペースだ。君も使うというならひとつ条件がある」

「なんだ?」

「私の実験に付き合ってもらうよ。もちろんデータもとらせてもらう。手始めにこの栄養剤を飲んでもらいたいんだ。おぉっと、もちろん断るなんてのは」

 話が終わる前に、エヌラスはアグネスタキオンの手から虹色に光る謎の栄養剤が入った試験管を引ったくると一息に飲み干した。

 

「ほらよ。んじゃ文句無しってことで今後ともよろしく」

 空の試験管を返すエヌラスに、アグネスタキオンは高笑いと共に共用スペースの利用を快諾した。ただひとつ、誤算だったのは彼がバカのような免疫力を有しているせいで何ひとつ実験データが取れないことだったが。

 

 そんな、ある日のこと。

 

「あぁそうだ。時にエヌラストレーナー? 君は最近話題になっている霜天路トレーナーのことは知っているかい?」

「どっちの」

「兄の方さ。弟くんの方もまぁ話題にはなっているけどね」

 それなら名前で区別してくれ、と思いながらエヌラスはアグネスタキオンの話に相槌を打つ。なにしろトレーナーとしての目標に「無敗の七冠バ」を挙げたのだから。ベテラントレーナーである神無月國弘がシンボリルドルフと成し遂げた偉業を彼は志した、という事で何かと話題になっている。

 その弟である號トレーナーも、まぁ、なんというか話題に挙がりがちだが……それはともかくとして。

 

「まぁ知り合いではあるな。それが?」

「率直に聞くと、彼の印象について聞きたいのさ」

「特に悪い印象はないな。人を寄せつけない雰囲気はあるが」

 中央のトレーナー達からもどちらかと言えば孤立している。極端に交友関係が狭い。話している姿などそれこそ彼が担当することになったオグリキャップくらいだ。

 アグネスタキオンは「ほうほう」と頷き、続きを促している。エヌラスは言葉を探して柊トレーナーについて素直な感想を述べた。

 

「あー……まぁなんか弟さんとは真逆のタイプだな。勝つことしか頭に無さそうだし、それ以外のことに一切興味なさそうな? 何してんのか誰も知らないし目撃情報もとんと出てこない。俺もそこまで姿を見ることはないな」

「ふゥん、なるほどねぇ……ならもうひとつ尋ねたいのだけれど。彼と交流を深める気はあるかい?」

「……変な実験に付き合わせるつもりならやめとけ? 身体弱いって話なんだから」

「私をなんだと思っているんだい? 気になるのさ。いったいなにが彼をあそこまで勝利に拘らせているのか。同じトレーナーである君なら聞きやすいと思ってねぇ」

「そんぐらい自分で聞けよ……」

「私は私で実験で忙しいのさ。誰かさんは全く参考にならないし」

 それはそれで興味が尽きないようだが、話が別。

 とにかく、アグネスタキオンとしては柊トレーナーの勝利への執念、その原因が知りたいらしい。

 

「……まぁそれとなく聞いてはみるけどよ。俺も柊トレーナーは気に掛かってたし」

「おや、珍しい。てっきりウマ娘にしか興味がないものだと思ってたよ」

「病人を気遣う神経くらい持ち合わせてるつもりなんだけどなぁ俺は! 探してくりゃあいいんだろうがチキショウめぇ!」

 

 

 

 柊はオグリキャップと無事にトレーナー契約を結ぶことができた。だが、その弟である號はアオハル杯に注力するのみならず、波乱の中心地に身を置いている。

 秋本理事長が海外への長期滞在期間中、その理事長代理人を務めることとなった樫本理子との対立が原因だった。教育方針の違いによる騒動はやがてアオハル杯を通じた勝敗によって決着をつける形で一応は落ち着いている。

 そのため、樫本理事長代理が率いるチーム・ファーストとのレースを視野に入れたメンバー集めに奔走していた。

 

「……中々集まらんな!」

 腕を組み、何故か自信満々に號トレーナーは現状を憂う。

 樫本理事長代理の提示した中央の教育方針はウマ娘達から非難の嵐だった。自由すぎる校風に対し、徹底的な管理体制を敷こうとしていたのだから反発されるのは当然のこと。一部のウマ娘はそれを良しとして樫本理事長代理のチームに参加しているが、一方の號は自分の担当するウマ娘と契約すら結べていない。

 そんな號だが、不思議とウマ娘達からは信頼を寄せられている。

 なんとかチームと呼べるようなメンバーが集まってはくれたが肝心の担当バがいないのでは面目が立たない。それに関しても本人は危機感を確かに覚えている。覚えているし痛感してもいるのだが、焦ったところで仕方ない。仕方ないのだが以下略。疑心暗鬼の堂々巡り、無限ループってこわい。

 

「まぁなんとかなるかぁ! 今日もトレーニング張り切っていこう!!!」

 號のメンタルの前にはそんなものカスの役にも立たないが。

 

「うーっす、號トレーナー」

「む、エヌラスさん! おつかれさまです」

「いやいやそっちこそ。相変わらず調子は芳しくないか」

「なんとかします! マンハッタンカフェも今日はよろしく頼む!」

「……はい」

 威勢がいいというか勢いがあるというか、號トレーナーは常にこんな調子だ。

 エヌラスも用務員としてやるべき仕事が山積みだが、トレーニングの時間になると必ず担当バであるマンハッタンカフェと共に號のチームに顔を出している。アグネスタキオンもまたデータ収集のために時々顔を出すが、チームに加入する気はない。あくまでマンハッタンカフェのサポートに徹していた。

 

「いや悪いな。トレーナーなのにチームに預ける形になっちまって」

「いえ……大丈夫です。ちゃんと貴方のメニューはこなしてみせます」

「一応聞いておきたいんだが、號トレーナー。なんかこう、怪奇現象とかオカルト現象とかに悩まされたりとかはないよな?」

「いえまったく心当たりがありません! 仮に遭遇しても多分気にしないので!」

「本当に気にしなさそうで心強いわ。じゃあカフェ、またあとでな」

「む、エヌラスさん。今日のメニューは」

「おっと忘れるとこだった。これ頼む、それと柊トレーナーを知らないか?」

「兄貴ならオグリキャップのトレーニングでプールの方に行くと言ってました!」

「わかった、ありがとよ」

 エヌラスが後手に號と別れ、それから学園の方に去っていく。その後姿を見送ってから、號は準備体操をしていたチームメンバーを集合させる。

 

 

 

 元々地方でも複数のウマ娘を担当していたことから、手慣れた様子で指示を飛ばす號を生徒会室から見下ろす姿があった。

 國弘は霜天路兄弟の素質に驚く。

 兄にしたってそうだ、新米トレーナーだというのに既にオグリキャップはタイムを縮めつつある。

 弟の方も、ウマ娘に寄り添ったアドバイスや激励の言葉で力強く背中を押していた。チームだけでなく、学園全体の士気向上に一役買っていた。

 彼らと肩を並べることができる環境は、確かにアオハル杯に相応しい舞台と言えるだろう。

 問題は、號トレーナーが担当するウマ娘が未だ決まっていないことだ。彼の担当バ、ということは即ち柊との対決であることも同義。

 

「……ナリタブライアン。そういえば君も、まだ担当トレーナーが決まっていなかったんじゃなかったかな」

「余計なお世話だ。あんな暑苦しいのと組む気はない」

「そうだろうか? 私は君と相性が良さそうだと思うけどね」

「どこがだ」

「君の気風に臆することなく隣に立てる人材だと私は見ている。それに強者へ挑むのは望むところだろう。君が良ければ私の方から声を掛けておくが」

「余計なお世話だ。だが、そこまで言うなら少し見てくる」

 生徒会室のソファーで横になっていたナリタブライアンが起き上がり、大きく伸びをすると申し訳なさそうな表情を見せるシンボリルドルフと目があった。

 

「彼の目標は大きく二つある。一つ、樫本理事長代理のチーム・ファーストに勝利すること。二つ、柊トレーナーのオグリキャップに勝利すること。どちらも一筋縄ではいかない相手となるだろう」

 ナリタブライアンが耳を立て、それから小さく頷く。

 

「単刀直入に言おう。あの兄弟は只者じゃない、気を引き締めてかかってくれ」

「……ふん。どうするかは私が決めることだ」

 生徒会室を後にするナリタブライアンがいなくなってから、國弘は隣のシンボリルドルフに視線を向けた。

 

「彼女にとって良い刺激になればいいのだけれどね、お節介だったかな?」

「私が懸念しているのは、むしろ彼のチームがそれで萎縮してしまわないかどうかだよ」

 シンボリルドルフの言葉に、國弘は「しまった」という顔をする。チームへの影響力を考慮していなかった。

 

「ふふっ。まぁそこも含めて、彼のお手並み拝見といこう」

「いやはやまったく、私もまだまだだな。日々精進のつもりではいるんだが」

 歳はとりたくないものだ。そう付け加えてから、外を眺める。ちょうどそこでは、號トレーナーのチームが合同練習を始めたところだった。



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第4R 勝負への執念。勝利の理由

 

「國弘トレーナーに言われて様子を見にきただけだ」

 ナリタブライアンの第一声は極めて簡潔なものだった。それに號もまた快い相槌で返し、会話が一度区切られる。

 タイキシャトル、マチカネフクキタル、ライスシャワー、ハルウララ。そしてエヌラスの担当バであるマンハッタンカフェ。以上が號トレーナーの率いるチームメンバーだった。

 チームとして活動する以上チーム名を提出しなければならないのだが、そちらも期日が迫っている。このままではアオハル杯以前の問題だ。

 

「…………」

 確かに士気は高い。全体的に空気も悪くなかった。だが、ナリタブライアンはそれに少なからず居心地の悪さを覚える。

 

「おい」

「ん?」

「……着替えてくる。少し待ってろ」

「わかった」

 

 制服で様子を見ていたが、ジャージに着替えて戻ってくるとアップを始めた。それになにを言うでもなく、號はタイムの計測とレースの運び方、仕掛けるタイミングのアドバイスを出す。

 

「少し借りるぞ」

「かまわん!」

 言うや否や、ナリタブライアンは走り始めた。身体を慣らすために速度を抑えていたが、戻ってくると號に声をかける。

 

「私と走りたいやつはいないのか?」

「ならフクキタルとライスとマンハッタンカフェだな! タイキとウララは距離の問題で休憩!」

「ほぎゃあ!? わ、私もですか!?」

「ん? 走れるだろう、中距離」

「い、いえ確かに走れますけれども〜……」

「いつもの占い的によろしくないか? なら外すが」

「いえそんな滅相もありません!」

「ならばよし! 準備始め!」

 暑苦しい。だが嫌な暑さではない。快活な印象が強いからか爽やかな雰囲気の方が強かった。ただ熱弁を奮うだけでなく、そこに相手への配慮もある。だからだろうか、その期待に応えようとする意気込みがチーム全体から感じ取れるのは。

 だからだろうか。ナリタブライアンにとって、居心地の悪さを覚えるのは。

 

「……チッ、調子の狂う」

「そちらからの申し出だ、思う存分走ってくれ」

「そのつもりだ」

 あわよくば、その減らず口を黙らせて鼻っ柱を折るつもりでナリタブライアンはマチカネフクキタルとライスシャワー、マンハッタンカフェと共に走り出す。

 

 

 

 悪くない走りをする。それがナリタブライアンからの印象だった。だがそれまでの話。

 結果から言えば、模擬レースはナリタブライアンの勝利で終わる。

 

「……ふむ、なるほど」

 號は結果を受け止め、一人納得したように何度も頷いた。模擬レースとはいえ負けは負け。足りない部分も見えてきた。勝敗に対するスタンスはあくまでストイックに徹する。勝ちは勝ち、負けは負け。それ以上でもそれ以下でもなく、結果だけが全てだ。時の運もあるが、それも引き寄せてこそ。

 

「ナリタブライアン、今後の課題も見えてきた。感謝する」

「それだけか?」

「? それだけとはなんだ」

「負けておいてそれだけか、と聞いているんだ」

「なら逆に尋ねるが、勝って満足か?」

 悔しくはないのか。結果に付随する感情の是非に、しかしナリタブライアンの待ち望んだ声はなかった。

 

「私はチームに欲しくないのか?」

「そうだな、戦力面で言えば申し分がない。欲しいかどうかで言えば、是非加入してくれると助かる」

「アンタの担当もまだ決まってないだろうに」

「そこはそれ! なんとかするしな!」

 調子が狂うことこの上ない。それとなく目配せすると、察したマンハッタンカフェが会話に混ざる。

 

「その、號トレーナーさん……ブライアンさんはトレーナーになってくれないかって言いたいのでは……?」

「……正直な話、アンタの話題は事欠かさない。挑む相手も強敵難敵だらけだ。私も走る相手はその方が望ましい」

 利害の一致、共通した認識の共有。ナリタブライアンが號に求めるのは、つまりそういったものだ。担当トレーナーが決まらない現状ではそれすらままならないが、この男となら飽きる走りをさせないという確信があった。

 マンハッタンカフェに言われてようやく合点がいったのか、ぽんと手を叩く。

 

「なるほどそうか! 実力を見せてくれた方が早いな、確かに! だがナリタブライアン、お前にひとつだけ聞きたい」

「なんだ」

「俺が担当するのは構わんが、君に覚悟の是非を問う」

「無いように見えるか?」

「違う」

 ナリタブライアンが眉を寄せる。どんな厳しいトレーニングだろうと、どんな相手とだろうと走る。そういった覚悟だと思ったが、違うと断言された。

 

「違うとはどういう意味だ?」

「俺が言う覚悟、というのは──“負け続ける覚悟”があるか、という事だ」

「……なにを言ってるんだ?」

 普通は勝利を求めるものだ。誰だってそのはずだ。負けるためにレースなどしない。それも連敗するであろう口ぶりに、ナリタブライアンは思わず鼻で笑ってしまった。

 

「俺にとって兄貴とはそういう“絶対の壁”だ。越えられん相手だ。兄貴が選んだオグリキャップも、いずれそうなるだろう。それでも俺は挑むし、俺が担当する奴にもそうさせる。俺と負け続ける覚悟があるならかまわん」

「…………」

 武者震いをさせる。そんな口振りだった。度胸と勢いと威勢だけだと思っていた、だがそれは霜天路號の上辺でしかない。

 この男の本質は、兄に対する執念だ。

 

「ぶっちゃけた話。俺にとって樫本理事長代理も國弘トレーナーも知ったことではない。そんなものは二の次、俺の敵は兄貴だけだ。アレに勝てたその時になら、他の誰にでも勝てる。買いかぶりの誇大妄想だと言われても構わんが、事実これまで俺は兄貴に全敗している。そんな相手に「今度こそは」と中央に来た」

「トレーナーとしての経験は、アンタのが上だろう」

「そんなものが何の役に立つ。……負けて悔しいのもわかる。泣くほど後悔するウマ娘など、何度でも見てきた。自分の足と走りが、求めた勝利に届かなくても走り続けるやつなど何処にいる。ここにいるのは走るためだろう、違うのか」

「…………」

「勝てる戦いなどより、勝てるかわからない勝負の方が面白い」

 ナリタブライアンは胸中で霜天路號に対する認識を改める。そして同時に、國弘トレーナーの観察眼にも。なるほど確かに、皇帝を目にかけるわけだ。

 

「あの兄貴に。夜空に輝き、落ちることのない星のような男に。ただの一度でも足を地につけさせることができるのなら──俺はもう思い残すことなど何もない。俺の人生に何か意味があったのとしたらそれだけだ。……つまらん身の上話だった、忘れろ!」

「気が変わった」

「うん?」

「私と契約しろ。明日中にでも。チームトレーナー兼任でも構わない」

「そうなるとチームと合同練習する形になるが」

「なら、いい刺激になる。退屈させるようならそれまでだ」

 手を差し伸べて、ナリタブライアンは薄く笑う。

 きっとコイツなら、飽きるような走りをさせてくれないという確信があった。

 

 號は差し出された手を見てから、握手を交わす。

 

「ならよろしく頼むぞ、ナリタブライアン」

「ブライアンでいい」

「そうか。それで早速なんだが──一度言ってみたかった」

「なんだ?」

「こんなこともあろうかと! 俺はトレーナー契約書だけは常日頃持ち歩いている! お前がサインするだけだブライアン! あとは提出するだけだ!」

「…………」

 もしも本当に運命の巡り合わせというものがあるのなら。

 ──今日という日を忘れないだろう。

 ナリタブライアンは呆れながらも、ぶっきらぼうにボールペンで契約書に名前を記入した。

 

 

 

 ──エヌラスが温水プール室に向かう道中でボイラーの定期点検作業に付き合わされること三十分。ようやく業者から解放されてプールサイドで柊を探す。

 どうしてこう人が予定を立てた日に限って余計な用事ばかり舞い込んでくるのか。ただでさえ顔つきのせいで中等部からは怖がられているエヌラスが今はちょっとお天道様に向けられない顔をしていた。何処の世界に左目に刀傷のある用務員がいるというのか。

 

「あ、いた。おーい、柊」

「……エヌラストレーナー? なにか用ですか」

「めっちゃ探した。具体的には一時間ぐらい」

「学園広いですし無理もないかと」

「半分ぐらい業者のせいだけどな……」

 なんで俺が立ち会わないといけないんだ、等と愚痴をこぼす様を生暖かい目で見守られた。

 柊の視線の先では、オグリキャップがスタミナトレーニングの真っ最中。水着姿でプールを泳いでいた。

 

「最近、なにか変わったことはないか」

「特には」

「そうか。ならいいんだ。もしなんか、こう……超常的な被害とか、オカルトチックな問題に直面したら真っ先に相談して欲しいんだわ」

「はぁ……かまいませんが。どうして?」

「そりゃまぁ。マンハッタンカフェのトレーナーとして、な」

 エヌラスの言い分からすれば、自分の担当に降りかかりそうな火の粉は払っておきたいらしい。ちょっと、いや過分に変わった人だなと思いながら柊は了承した。自分の手に負えない問題に直面した時は遠慮なく頼らせてもらおうと考えて。

 

「学園での生活、慣れたか?」

「あまり。なにしろ中央は広すぎて、俺のような持病持ちにはつらいですね」

「はは、まぁそん時も頼ってくれ。たづなさんばりに東に西に走り回らされてるから」

 思い返せば、見かける時は大抵忙しそうに走っている気がした。ウマ娘ばりに。

 

「ところで、世間話をしに?」

「あー、まぁちょっとした交流も兼ねて。本来の目的としては、ちょっとした疑問を解消しに──どうしてそんなに勝利することにこだわるのか、気になってな」

「……普通では?」

「普通の奴は無敗を掲げないんだよ。一応俺も経歴には目を通させてもらったけども、ちょっと常軌を逸してるというかなんというか」

「……弟のためです」

「はい?」

 エヌラスは思わず聞き逃しそうになって素っ頓狂な声が出る。

 弟のため、と。確かにそう言った。学園内でも兄弟揃って話題に挙がることが多いからか、すっかり有名人だ。しかし、二人が会話しているところはほとんど見かけることがなかった。何かと衝突の多い姿からそこまで仲が良さそうにも見えない。

 喧嘩するほど、とは言うが柊がそういうタイプにも思えなかった。

 

「俺のせいで勝負の舞台から降りた弟がトレーナーをやっていなかったら、俺もトレーナーになろうとは思わなかったでしょうね」

「……そうか」

「ええ、まぁ。……たった一人の、馬鹿な弟のために俺は“最強”であり続けたい。どんな勝負の舞台であったとしても。お前の兄貴は誰よりも強かったんだと、胸を張ってほしい。それだけですよ」

「その結果として、弟さんを叩き潰してでも?」

「あいつくらいですよ、今だに俺の背中を追ってきてくれるのは」

 あまりにも無敗であり続けた。eスポーツチーム内でも、どこか敬遠されがちだった。疎外感を覚えていたが、そんなもの気にも留めなかった。団体戦で結果、敗北することはあっても個人戦績だけは独占状態。他のプロチームからスカウトの声もかけてもらったこともある。金も積まれたこともある。メディアにも取り上げられたこともあった。だが、そのどれもが勝利には程遠かったから全て断っている。

 ただ退屈だった。勝利するだけの日々が。

 

「……お兄ちゃんは大変だな」

「ええ。馬鹿な弟がいると、特に」

「悪いな、時間取らせちまって。俺もまだやること山積みだか──」

 ピリリリリリ。エヌラスが言い終わる前に、単調な着信音。通知画面には「たづなさん」の文字。

 

「はいもしもしエヌラスですぅ。……今向かいまぁす! 悪い柊、また今度な! そのうちなんかどっか飯でも食いに行こうぜ! じゃあな! はいすいませんただいま参りまぁす!!」

「ご武運を」

 軽く手を振ってダッシュで廊下に消える姿を見送る。

 

「……あの人ほんと見てて飽きないな」



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第5R 喫茶店よろづ、早朝営業中

 

 

 

 ──朝、目を覚ます度に安堵感を覚える。自分の左胸に手を当てて、規則正しいリズムの鼓動が変わらないことを確かめて。

 どくん、どくんと脈打つ命に深く息を吸い込み、眠気と共に吐き出す。何度か深呼吸を繰り返したのち、身体を起こす。

 それが霜天路柊の、毎朝のルーチン。自分がまだ生きていることの再確認から彼の一日は始まる。

 

 トレーナー寮の間取りは申し分ない。流石は中央といったところか。風呂トイレ別、よりも柊はネット回線などの方に注目していた。

 新品のモニターとテレビ台。実家から就職祝いがてら送られてきたものだが、ゲーム機とアーケードコントローラーまで一緒にされていた。

 テーブルの上はウマ娘のレース資料と映像記録の山束。何かと使う機会が多いだろうとデスクトップパソコンまで送られてきている。冷蔵庫に電子レンジに洗濯機、と。そういった生活必需品はあまり出番がなく、新品同然のまま部屋で鎮座していた。

 家電製品の良いところは放っておいても騒がないということだ。柊はため息をつくと、スマフォの画面に視線を落とす。

 

 時刻は五時前。外が明るくなり始めた頃。天候、晴れ。通知画面には一件のメッセージ。

 

『引っ越しの荷解きが終わらん!』

 from 號。バカな弟の無計画さに呆れつつも手伝えることなど何もないので柊はそっとスタンプで返答しておく。がんばれ。

 

 トレーナー業に勤しんでいても休暇は休暇。担当のオグリキャップにも休むように言ってある。

 柊も積極的に外出をするようなタイプではない。そのため休日は自然と部屋に引きこもる形になるのだが──着信音。

 

「……はぁ」

『がんばれとはなんだ兄貴、起きてるなら手伝いに来てくれても構わない』

 ご丁寧に『お願いします』のキャラスタンプ付き。

 丁重に『お断りします』のスタンプで返した。

 

 付き合っていたら寮にまで突撃されそうなので、柊はスマフォを置いて洗面所に向かう。

 休日をどう過ごすか。新進気鋭の新米トレーナーとしては、過去のレース記録などを参照にこれからのトレーニングメニューやスケジュールを立てるべく動くべきだが……年内の大まかな方針は既に計画済みだ。問題はそれにオグリキャップがついて来れるかどうかだが。

 あまりに素直で素朴な担当の姿を思い浮かべて、問題はないと判断する。

 

 冷蔵庫を開ければ、食材はまったくの空。留守を守る冷蔵室は静かに冷えていた。

 何はともあれ、まずは食事の確保をしなければ始まらない。

 

 

 

 コンビニへ向かいながら毎日それで済ませるのは割高になると考え、食費を節約するための手段を模索していると、不意に食欲をかき立てる香りに誘われる。

 早朝のアーケード街はシャッター街同然に開店時間を待つばかり。営業中の店舗など、それこそ二十四時間営業のチェーン店くらいだ。

 ファストフード店では無い。近くにもそんな店舗は見当たらない。だがどこから? 柊が周囲に目を配ると、その店舗に辿り着いた。

 とても信じられないことだが、朝六時前だというのに既にその店は暖簾をかけている。更に信じられないことに、見間違いでなければ確かにそこに書かれている文字は『喫茶店よろづ』だ。喫茶店がこんな朝早くからやっているのか、と軒先の黒板に視線を向ければ『朝食あります』の文字。

 

 柊は目頭を押さえた。

 もしや俺は少し寝ぼけてるのか? 軽く揉んでから再び視線を向ける。

 喫茶店よろづ営業中。朝食あります。見間違いなどではなく、確かにそこは営業中のようだ。しかし人気が無い。それどころかあまりに目立たな過ぎる。

 興味が惹かれた。財布の中身を一度確かめてから、興味本位で暖簾をくぐりながら扉を開ける。

 

「おわ、マジで客来た。いらっしゃいませー」

 客に向けた第一声がそれか。柊は一抹の不安を覚えた。

 調理中だからか、センスを疑うエプロンに、髪をうなじで結っているだけでなく三角巾までつけている。その上マスクもしていた。

 

「空いてる席にどーぞ、できればカウンター席の方が助かりまーす」

 なんともゆるい。真面目に仕事する気など欠片も感じられない。

 柊は指示通りにカウンター席につくと、すぐにお冷が出された。店内を見渡してもメニュー表などどこにも見当たらず、かといってお品書きも出される気配はない。

 

「……あの」

「あー、朝飯? 少々お待ちをー。ところで洋風と和風どっちが良い?」

「……和風で」

「朝はがっつり食べる?」

「いえ、食は細い方なので」

「はいよー」

 これまた適当な相槌。しかし、柊の目の前ですぐに朝食が用意される。

 よそった白米は粒が立ち、湯気を漂わせていた。間もなく差し出されたのは浅漬け。小松菜のおひたしに、それから遅れて汁物。

 

「ちなみになんか苦手な食べ物とかアレルギー持ちとかは?」

「特にこれといって」

「んじゃあ魚焼くんで少々お待ち」

 じゃあってなんだ。まさにこれぞ誰もが想像する和風朝食セット、そんなテイストで柊の目の前には小盛りの皿が見事に並べられる。

 

「冷めないうちにどうぞ。おかわり欲しかったら遠慮なく」

「……いただきます」

 一口食べてから、柊は驚いた。自分でも不思議なほど箸が進む。

 米本来の甘さ。浅漬けも小松菜も味の青さが抑えられている。汁物に口をつければ、熱で風味を飛ばさない程よい加減。具材は豆腐にわかめと鉄板中の鉄板。少食と言ったからか、量もそれほどではない。

 

「魚お待ちどー」

 焼き鮭が追加される。予め骨を取り除かれており、箸で身をほぐせばほろりと崩れており、塩辛さが益々食欲をかき立てる。白米の甘さが恋しくなるような味わい深さに舌鼓を打つ。

 しかし、蒼髪の店員は何か納得いかない様子で唸っていた。

 

「う〜ん?」

「どうかしましたか」

「いやぁ。米に漬物、味噌汁に焼き魚と並べたはいいがなんか足りねぇなぁと思って。もうちょいこう、明るい色ほしいな。日本人の定番朝食って何よって感じ。もう一品追加するなら何が良い?」

 察するに、日本人ではないらしい。その割にはペラペラと舌が回る。だがクリスという身近な外国人を思い浮かべ、そういうものなんだろうと柊は考える。店員は返答待ち。

 

「……家だと玉子焼きとか出てましたが」

「なるほど、んじゃ追加するか。まだ食える?」

「まぁ」

 なんというか話しやすい店員だ。積極的に声をかけるでもなく、かといって仕事に熱中してる様子もない。フレンドリーではあるが、必要以上に踏み込んでこない。

 目の前で卵を割り始め、調味料を少々追加。手早くかき混ぜて熱した調理器具に垂らす。火が通ったら巻き始め、端に寄せる。残っている溶き卵を流し込み、何度か繰り返す。

 清潔感のあるまな板の上に巻き終えた玉子焼きを乗せて静かに包丁を通すと小皿に盛りつけて柊の前へ。残る半分は自分の手元に寄せていた。

 

「玉子焼きお待ちどう」

「……これ厚焼き玉子では?」

「……マジで?」

 しかも、だし巻きである。厚意で追加されたものにケチをつける気はない。口にすれば、やはり期待を裏切らない味付け。これは大当たりを引いたと頷く柊の前で店員が手を合わせる。

 

「いただきまーす」

「……食うんだ」

「そりゃそうだよ。俺の朝飯ついでだもの」

「変わった喫茶店ですね」

「ただの趣味」

 喫茶店経営が? 聞けば、料理そのものが趣味らしく喫茶店経営はあくまでもついで。売上の方は、まぁ悪くない。だが良いとも言えないらしい。それでも生活に苦はないのでヘラヘラと適当に営業している、とのこと。

 

「興味本位で聞くんだけど。こんな朝早くからこんなよくわからん喫茶店の何出てくるかわからん朝飯食べようってよく思ったな」

「……興味本位で」

「あ、おかわりいる?」

「いえ結構」

「なら空いてる食器下げるわ。なんか食後のデザートとか」

「朝から?」

「ダメかぁ」

 客のことをよく見ている。それだけにサービスも手厚い。元居酒屋という間取りを活かした営業に、閑散とした店内の空気も心地よかった。友人の家に食べに来たような感覚を覚える。恐らくそう思わせるだけ店員の口がうまいのだろう。腕は確かだ、間違いない。それでいてとっつきやすい。

 食後の胃を休ませるために緑茶を含むが、インスタント品らしく素朴な味。曰く、飲み物にはそこまで力を入れてないらしい。

 

 話題選びも個人的なことではなく他愛ないものばかり。そればかりではなく聞き上手でもある店員、マスターは話題に事欠かない。とにかく話の引き出しが多かった。

 時計を見れば、朝の七時前。すっかり話し込んでしまっていた。

 

「そろそろお会計の方を」

「おっとそうだった。忘れてた」

 会計を忘れるとはどういうことか。

 

「俺の朝飯ついでだし、コンビニ弁当絶許価格でこんなもん。初回サービスってことにしとくわ」

「市場破壊にも程がある」

 コンビニ弁当に何か恨みでもあるのか、満足度だけでお釣りがくる値段だった。

 

「週末は朝飯やってるからたまに食いに来てくれると俺も助かる」

「平日は?」

「んー、弁当サービスでも始めっかなー。どう思う?」

「……ここ喫茶店なのでは?」

「いーじゃねーの細かいことは」

 たしかにその通りだが、いっそ定食屋でもやればいいと思いつつ柊はマスターの作る弁当に興味が湧く。考えることは同じだったのか、目が合った。

 

「アンタ飯作らなさそうだし、弁当サービス試してみる?」

「……値段次第で」

「そらそうか。んじゃ弁当は月額制で。とりあえず一週間こんなもんでどう?」

 べらぼうに安い。破格の値段設計に物申すが、安さの秘訣は仕入れ先。なんでも開店祝いに近隣の八百屋だの魚屋だのと挨拶回りに出て上手いこと口車に乗せて安く仕入れているとのこと。趣味ではあるが抜かりなし。

 

「受け取りに来れない時は連絡くれると助かるのでこれ連絡先」

 あれよあれよという間に流れで喫茶店の弁当サービスを受けることになってしまった。

 

 店を出てから柊は受け取ったメモ帳のページに目を落とす。そこにはどこかぎこちない筆跡で『喫茶店よろづ連絡先』と番号が書かれていた。

 その下には『店主 マスター・ハーベルグ連絡先はこちら』と個人情報。そんなものを気軽に手渡すな、と思いつつも電話帳に登録しておく。

 

(変わった店だったな……)

 しかし嫌いではない。これからも機会があれば足を運ぶことにしよう。柊は腹の満たされた足取りでコンビニへ向かった。

 

 

 

 一人、静かな店内でマスター・ハーベルグは食器を洗う。こんな早朝から店に来る客がいたことに驚いた。案外需要があるのか、と早朝営業を継続するように心がけつつ、欠伸をひとつ。

 

「……あれが霜天路柊、ねぇ? ま、どうでもいいんだけどな。俺の仕事の邪魔さえしてくれなきゃ、誰だって」

 食洗機に食器をぶち込みスイッチオン。乾燥を待つ間に手を拭いて、メモ帳を取り出す。

 

「とりあえず飯のレパートリー増やさねぇとだな」

 ボールペンを走らせる。作った料理を書き出してから、唸った。

 

「メシに関しちゃ退屈だけはしなさそうだし、どっか食いに行くか……」



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