Ghost of Inazuma (神秘放射ほしい)
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稲妻の冥人

「はるか昔、この稲妻が雷電将軍に平定される前の話です」

「そのお方の故郷は、魔神率いる魔物たちに襲撃されてしまった」

「島の侍すべてが力を合わせ決戦を挑むも、その非道なまでの戦いに生き残ったのはただひとり」

「島民の娘に治療を受けどうにか起きてみれば、そこには魔物に占領され、変わり果てた故郷のみがありました」

「彼は復讐を誓います。侍としての意地も、戦いの正道も、武士としての誉れを捨ててでも魔物を殺し、島を解放すると。島民たちを守ると」

「援軍も望めず、一人だけで島を周り、すべての敵の拠点を破壊し、村を解放し、民の頼みを快く聞き入れ、ただひたすらに魔物を殺す」

「魔物の将を殺し、力を求め敵に寝返った牢人を殺し」

「いずれ敵たちは彼の姿を、名前を聞くだけで震え上がるほどになりました」

「そしていつしか島民たちは彼のことをこう呼ぶようになりました。我々を守るために冥府から黄泉帰った侍だと。島の救世主だと」

「曰く」

 

 

「稲妻の冥人(くろうど)

 

 

 

「……すっげぇぇ!!!本当にたったひとりで島を助けたのか!?」

「ええ。稲妻の古い文献には必ず冥人の文字があります。そして彼がいなければ今の自分はいないとも」

 

 桃色の髪をした少女と、宙に浮かぶ人物が話をしている。そこは珊瑚宮の屋形。雷電将軍の目狩り令に反発する者たちをまとめ上げるそこになぜ彼らがいるかと言えば、その反幕府軍に参戦するからである。

 

 と、そこまで口を開かなかった少年が桃の少女に目線を向ける。あまり見かけない服装をした彼こそが参戦を期待される反幕府軍の戦力、旅人の空だ。

 

「それで、その冥人さんは魔神を倒せたの?」

「はい。それまでに得た力と知恵の全てを使い、嵐の中討伐せしめました」

「えええ!?ひとりで魔神を!!ホントに人間かよ!?」

「正真正銘人間ですよ。この稲妻に生まれた武士の一員、元素の力も扱えぬ侍が、島を救ったのです」

 

 その少女、珊瑚宮心海はどこか得意げだ。島民ならば誰もが知る英雄を語れることが嬉しいのだろう。

 

「海は魔神の力で大きく荒れ、しかも魔神配下の魔物が見張っていたので島から逃げることも外部から援軍を呼ぶこともできませんでした。救援に行けないことをもどかしく思っていた雷電将軍は、嵐が晴れてすぐに仲間を連れて海を渡りました」

「けどすでに魔神は討たれ、嵐が晴れたのもそのせい……」

「そういうことです。その後、冥人は戦いで負った傷を癒して快復してからは雷電将軍を主とし、稲妻を治めるための戦いに身を投じました」

「……なんかその人、旅人みたいだな!強いのだってそうだけど、旅人だってこないだ魔神倒したし、こうやって戦いに参加してるだろ?」

「うーん、そうかな?それにしてもその話をなんで今俺に?」

 

 当然といえば当然の疑問である。ここには決起集会のために集まったのだし、なによりもうじき決戦だ。これからの作戦の概要や参戦したことへの感謝などならわかるが、おとぎ話をされる理由が旅人には思いつかなかった。

 

「……今、幕府側には特筆すべき戦力が幾つかおります。頭にして最大戦力の雷電将軍。その側近たる九条裟羅に、幕府の侍たち。そして中でも最大の障壁となるのが、ひとりの侍、境井仁」

「え?雷電将軍がいちばん強いんだろ?なんでその境井…って人が問題なんだ?」

「そこが先ほどの話と繋がります。たったひとりで幕府軍と並ぶほどの脅威……」

「その、もしかして……」

 

 何かを察した旅人が唾を飲みながら尋ねる。できれば外れて欲しい、そもありえない予想は、残念ながら覆ることはなかった。

 

「その通りです、旅人さん。侍、境井仁。その二つ名を、冥人と言います」

 

 かつての英雄が今、主のために冥府より帰還する。

 

 

 

 ○○○○

 

 

 

「おお、どうどう」

 

 1人の男が馬屋から嘶く馬を宥めながら出てきた。髪を団子に結い、甲冑など身に付けず袴姿だ。太刀と小刀を差したその風貌はまるで牢人のように見える。

 

 宿から出てしばらく、城下町を抜け広い道に出たところで馬に跨る。晴れ上がって広い空とそこに輝く影向山に目を細めて、ゆっくりと馬を歩ませ始めた。

 

 かつて追い求めた青い空に、多少いざこざがあるとはいえ概ね平和な世界。街道を行けば魔物に襲われ死に瀕する民は無く、小さな村が拠点にされることもない。冒険者協会や神里の者、幕府の侍たちの尽力で人里の周りには牢人の1人もいない。人売りも根絶され悲しい思いをする子どもも増えない。

 

 その好き陽気に満足して、これまた慈しむように周囲を見て歩く。主や仲間とともに戦いに明け暮れた頃は考えも出来なかったこの景色に、自らも関わっているのならば感動も一入なのだろう。

 

 少しばかり与えられた暇を余すとこなく楽しむために、彼は街道を旅することを選んだ。一日で戻らなければいけないため大した旅程ではないが、今を感じるためならば一番だろうと思ってのことである。

 

 また数時間馬を走らせれば魚が美味いと評判の料亭があると彼は聞き及んでいた。とりあえずそれを目的として道を歩いていく。

 

「……ぃやあ!助けてぇ!!」

「っ!悲鳴!」

 

 町からでて2時間ほどの、ちょうど町と料亭の間ころに着いた時だ。少し離れた森のほうから女性の悲鳴が聞こえてきた。彼はそれを捉えた瞬間手綱を操り襲歩で悲鳴の元へ急ぐ。

 

 彼が知っている世よりも確かに穏やかであるとはいえ、その時に生きる者にとっては危険が多いのも事実だ。特に戦う術も持たない百姓などからすればもってのほかである。やはり牢人は絶えないし、彼の知らぬ魔物が島に繁殖している。盗掘を生業とする破落戸どももこの稲妻には多く入ってきた。直接見たことは無いが、絡繰のような魔物もいると彼は聞き及んでいた。

 

 そのどれかに襲われているのやも、そうあたりをつけて馬を走らせる。どうか俺が着くまで無事でいてくれ、と。

 その時、梢の向こうから1人の女性が走ってきた。随分と疲弊している様子だ。その姿を見て彼は安堵すると共に気を引き締める。

 

「無事か!?」

 

 女性も彼と馬を見てそちらに寄っていた。刀を佩いていること、なによりもその堂々とした態度に安心したのだろう。

 

 すぐ近くに来た女性と話すため彼は馬を降り、今度は呼びかけではなくもっと柔らかく声をかけた。

 

「何に襲われた?人数はお前だけか?」

「は、はい!山菜を採っていたらヒルチャールに襲われてしまって……ああ!追いつかれました!来ます!」

 

 ヒルチャールとは新たな魔物である、と男は知っていた。近年、この国のみならずさまざまな場所で増えて問題になっているとも聞き及んでいる。

 

 その習性は獰猛、知性は感じられるが稀薄で娯楽のために人や獣を襲い、殺す。そのような敵であると、男は認識していた。

 

「下がっていろ」

 

 女が走ってきた方向から、茂みを動かす音が大きく聞こえてくる。戦いの邪魔にならない程度かつ問題なく守りきれる距離で女を待機させて、男は刀を抜く。

 

 まるで工芸品のような刀だと、後ろから見た女は思った。白雪のような鍔に鈍く煌めく刀身。重なる三角形の紋が表されたその刀を、侍は高く掲げ頭の横あたりで構える。相手に大きく衝撃を与えるための構え、岩の型だ。

 

 茂みから抜けてきたその人外の姿を捉えたその時、侍は大きく名乗り上げた。それが伝わるかどうかは関係ない。ただ、相手をしてやるという気迫でもって発するのだ。

 

「我が名は境井仁!死にたい者から俺の前に出よ!」

 

 その意味はわかってはいないだろう。だがそこに含まれる挑発の言葉を感じ取ったヒルチャールが、その棍棒を振り回して侍に突進する。彼我の距離はそう離れていないというのに侍は刀を構えたまま避ける素振りも見せず、突進するそれではなく、その背後にいるヒルチャールたちを見ていた。

 

「棍棒が二、弓が一。盾を持つ小さいのと大きいのが一ずつ」

 

 問題ない。そう結論付け、すぐそばまで迫った棍棒の対処をすることにした。

 迫るヒルチャールはこの侍を馬鹿にしていた。こちらを挑発し武器を構えたくせに一歩も動かず、自分と目も合わせず背後の仲間たちを気にしている。怖気付いたのだと内心笑いながら、その眼前の臆病者に棍棒を振り下ろした。

 

 そして、確かに殺意を乗せたその棍棒は気付けば宙に流れ、その瞬きの間にヒルチャールは物言わぬ屍となりその場に落ちた。

 

 『受け流しの極意』。相手が振った武器に一瞬だけ刀を合わせ、またその瞬間に力を抜く。そしてすぐ打ち合った箇所に力を入れ、攻撃を横に弾く。

 

 敵を殺さんと殺意と勢いのつけられた武器を逸らされれば、どのような達人だろうとよろめいてしまう。そして侍は、境井仁はその一瞬の隙を見逃さない。

 

 棍棒を打ち逸らし、帰す刀でその首を勢いよく斬る。そのたった一瞬の、それでも修羅のような戦いにヒルチャール達はは足踏みする。それどころか2体ほどは完全に怖気付いてしまい、武器を取り落として逃げ出してしまっている。

 

 そして、それを見逃すほど侍は優しくなかった。走り出し、背を向けたそのヒルチャールたちに懐から取り出したそれを2本同時に投げつける。小型の刃物、愛用している暗器のくないである。

 

 2本は誤ることなくそれぞれの首に刺さり、その場に死体を増やしていく。残ったのはほとんど腰が引けている盾と棍棒を持った者と、こちらに狙いをつける弓、そして衰えることのない殺意を持った大盾だ。

 

 次は棍棒と大盾が同時にかかってきた。先ほどのやられた仲間を見てか、無闇に仕掛けることはしないようだ。大盾が侍の正面に、盾はその背後に回り囲い込むように動いていく。だが男はそれを止めるそぶりもなく、ただ見るのみだ。まるで何を仕掛けようが問題ないと、敵ではないと言うかのように。

 

 ヒルチャールたちの緊張が張り詰めていく。前衛の2体が油断なく武器を構えたところで、弓兵が矢を放った。

 

「voida!iste nwdo!」

 

 それは仲間に対した言葉であった。いくらヒルチャールといえど誤射してはまずいとは考える。そういったとき、弓に背を向けている仲間がいるときは大声で呼びかけ、体勢を低くするよう呼びかけるのだ。

 

 そしてその習性もまた、侍は知っていた。弓兵が叫んだ瞬間視線を矢にのみ向け、放った瞬間素早く踏み込んで矢を躱し、踏み込みの勢いそのままに弓兵に向かって走る。矢を避ける体勢を取っていた2体のヒルチャールは、それを止めることが出来ないでいた。

 

 走り来る明確な死に、弓兵は怯まず矢を番えた。この近さなら避けられないだろうと、ある種希望的観測を以て。

 

 そしてその期待は裏切られることになる。確かに避けはしなかった。侍は勢いよく飛んでくる矢を、走りながら刀で弾いたのだ。

 

 最早どうすることもできない弓兵に、その走りの勢いを乗せた刀が迫った。速さをそのままに振り抜き、胴を断つ。崩れ落ちるヒルチャールを横目に、侍は刀をさらに高く、頭の上に構えた。

 

 大盾が怒りに任せて突進を仕掛けた。何も考えないなかば反射のような攻撃であったが、その圧倒的な質量攻撃はいくら侍といえども受け流すことはできない、強力な攻撃となる。

 

 侍は刀を上部に構えたままその突進を見据えていた。向かってくる脅威に怯まず、ただ待ち構える。

 

 大盾が侍に触れようと、その矮躯を跳ね飛ばさんと力を入れる。まさに当たろうとしたその時、侍は横にズレた。なんてことは無い、ただ数歩分の距離を移動し、攻撃を避けただけである。

 

 だが大盾兵にとってはまるで、侍が透けたように見えたのだ。それほどの瞬間、それだけの刹那。攻撃が触れるその一瞬前に回避することで敵は完全な隙を晒すことになる。

 

 『後の先の極意』。空を流れた大盾兵が勢いのままに通り過ぎるまでの一瞬の間に、その大盾を構える腕の肩を刀で突いた。片腕を使えなくされ思わず大盾を取りこぼしてしまうものの、その突進の勢いが無くなるわけではない。重心が変えられたことによりその速度は行き場を無くし、より遠くまでヒルチャールの身体は流れることとなった。

 

 そうして危険な攻撃を避けた侍は、刀の届かない所まで突進していったヒルチャールを追うことなく、先ほど背後に回ってきた盾と棍棒を構えたヒルチャールがいた場所に視線を向ける。だがヒルチャールはそこにおらず、向こうで茂みに隠れている女性に向かっていた。

 

「下衆めが!」

 

 もはや勝てぬと察したのか、それともせめて一矢報いようとでもしたのか。恐怖で動けない女性に向かってヒルチャールはバタバタと手足を動かし走り寄る。

 

 ここからくないを投げるのはダメだ。外さない自信はあるが、万が一がある。射線が重なってしまっているため遠距離攻撃はできない。

 

 そう判断した侍は走りながらぐっと身を屈め脚に力を込める。強く、強く踏み込む為に。頭上に構えていた刀を腰溜めにし、素早く、大きく地面を蹴り飛ばす。

 

 その棍棒が女性を襲わんとしたその時、森に一陣の風が吹いた。そのように錯覚してしまうほど、強く、疾く踏み込んだ刃が、ヒルチャールを切り飛ばしていた。

 

 十歩ほどの距離をたった一歩の踏み込みで跳び、防御不能なまでに練り上げられたその鉄色の光は、銘を『紫電一閃』という。かつて男が空の雷を見て編み出した、最速の一撃だ。

 

「……凄い」

「大事ないか?」

 

 女性は襲われかけたことすらも忘れ、ただひたすらにその剣戟の美しさに心を奪われていた。今の閃きはまるで、雷電将軍のかの一撃にもひけを取らない……。そう思えてしまったのだ。

 

 どこか呆然としているが、怪我もないようだと判断した侍は後ろを向き直る。未だ殺しきれていない大盾兵が、潰された腕とは逆に盾を構えにじりよって来ていた。

 

 仲間の攻撃も、自身の攻撃も悉く反撃された大盾兵は、もはや自分から攻撃することなく、相手の剣を防御して怯んだ隙を攻撃しようと考えた。故に油断なく大盾で全身を覆い、ゆっくりと侍へと近寄る。

 

「もうしばしそこで待っていろ」

 

 女性を安心させるように努めて柔らかい声を掛け、再び刀を上方に構える。それは水の型。連撃に優れた、流水のような怒涛の攻撃を得意とする型である。

 

 ヒルチャールと侍が一対一で相対した。このときヒルチャールが忘れてはいけなかったのは、先ほど利き腕を潰されたせいで盾の握りが悪いこと。そして眼前の人間の強さを誤っていたことだ。

 

 ヒルチャールは朧気ながらも、その侍の刀の構え方に意味があるだろうと理解していた。先ほども今も刀を上に掲げている。ならばそれはこちらに対して何か有効な構えなのだろうとも。

 

 故に、その構えが崩れたときを狙って接近し、刀を無効化する。そう考えた。

 

 そして次の瞬間、侍のその構えは変わった。頭の上から、左脇のすぐそばに刀を構え、足は開いて重心を落とす。それを見た大盾は好機を逃すまいと刀が届く距離まで接近する。

 

 一撃。やはり打ってきた!大盾兵はその衝撃の強さに少し怯むが、予想が当たったことにほくそ笑んだ。あとは刀の振り回せないほどの距離まで詰めてしまえばこちらの勝ちであると。

 

 二撃。右に振られた刀は続けて袈裟斬りに大盾を襲った。大盾兵は疑問に思う。これまで戦ってきた刀を持つ人間は、己が盾で弾いてやれば手を痺れさせまともに振れなくなったというのに。

 

 三撃。刀は再び左から右へ斬り抜く。あるはずのないその3つ目の衝撃にヒルチャールは驚愕する。確かに二撃目を打てた者はいた。だが三撃だと!?

 

 四撃。右肩口から左下へ強く打ち抜ける。想定すらできなかったその連撃にヒルチャールの方の腕が痺れてきている。まずい、このままでは盾が捲られる!

 

 五撃。左下に構えられた刀は、より一層の踏み込みでもって逆袈裟に振り抜いた。その最後の攻撃は大盾を大きく捲り、何の防御もない体を曝け出すことになった。

 

この連撃は体を傷つけるのではなく盾を剥がすことが目的であったのだと、ヒルチャールがそう気付いたときには遅かった。もしかしたら健常な利き手ならばいくら侍といえど弾くことはできなかったかもしれない。それを見越して、先ほど肩を潰しておいたのだとも今更ながらに察した。

 

 返す刀で盾を持っていた腕の腱を斬られ、もはや両手どちらでも持てそうにない。どうにか身体が流れてよろめくことだけは防いだが、攻撃手段も無くなってしまった。

 

 ヒルチャールが怯んでいた視線を侍に戻す。もうあの刀から繰り出される攻撃が全て脅威であるとは理解した。両腕を潰された今勝ち目は無い。どうにか刀を避け、すぐさま逃げるべきだと。

 

 そしてその判断は、なにより刀のみを注視することとなってしまった。それが最も大きな過ちであるとも知らずに。

 

 刀が動いたら避ける。それのみ考えていたヒルチャールは、侍が上体を落として足を振り上げたことに気づくのに遅れた。その動きの中で刀はほとんど動かなかったためだ。そのせいでヒルチャールは自身へと飛んでくる蹴りを対処することができなかった。一撃目は腹に、二撃目は胸に。斬撃ではないその打撃に思わずたたらを踏んだヒルチャールに対し、侍は上段から大きく袈裟斬りに振り抜いた。

 

 月の型。自分よりも大きく強靭な敵への対応に優れた型である。

 

 足元がおぼつかないところに強い斬撃。ヒルチャールはもはや身体がよろめくことを耐えられなぞしなかった。その勢いの乗った突きが喉笛に刺されば、ヒルチャールはなす術もなく、その場に崩れ落ちる。

 

 残心を解き、刀を素早く手元で回して血払いし納刀する。血で塗れながらもその流麗な立ち姿を、どこからか吹いた風が巻き、落ち葉が舞う。殺伐とした場であるのに、それを見た女性は美しいと、そう思ってしまった。

 

「終わったぞ」

「は、はい!ありがとうございました!いったい、貴方がいなければどうなっていたことか……」

「抜かるでないぞ。森に入るときは複数で、可能なら戦える男を連れるといい」

 

 まずい!これは別れる流れである!女性はそれを察知した瞬間続けて侍に話しかけることにした。これほどの剣技を持つ者と知り合いになっていて損はない、そう判断してのことである。その内に多少の下心が芽生えていたこともまた、当然のことであった。

 

「あぁあの!私、いちっていいます!これ、手拭いです!返り血をお拭きになって下さい!」

「感謝する」

 

 思わず名乗りながら懐から手拭いを出して押し付けてしまったが、なんの問題もなく受け取ってくれたので良しとした。それにしてもこの男、名はなんと言うのだろうか。先ほどヒルチャールへ名乗りを上げていたが、大声だったことと女性からは背を向けていたこともあってよく聞こえなかったのだ。また女性は無意識であるが、その名が聞き覚えがありすぎて受け止めきれなかったと言うこともある。

 

 女性が名を聞くべきかどうか思案していると、侍は手拭いで血を拭き終えたようで一息ついていた。そしてその手拭いを見て、衝撃を受けたような顔をしていた。当たり前ではあるが、多量の血を拭ったせいでもはや使い物にならないほどにまで汚れてしまったのだ。

 

「……すまぬ。金を払おう、幾らかかった?」

「ぃいえいえ!!大丈夫ですよ!命をお助け頂いたのにお金なんて求められませんよ!」

「いいや。それでは武士が廃れようというもの。この境井仁、施しには礼をもって返そう」

 

 ん?さらりと名を言ったがなんと言った?境井仁とはまるで聞き覚えしかない名である。稲妻の民なら誰もが知るおとぎ話で昔話。人間として最大の英雄。聞き間違いでないなら、確かにその名を名乗ったようだ。

 

 もしや騙りであろうか。いやそうに違いない。かのお方はずっとずっと前の人だ、生きている筈がない。確かに信じられないほど強いようではあるが、彼の名を騙るなぞ不届きであると女性は思った。だがしかし、騙りであるにしてはあまりにも堂々とし過ぎている。まるで牢人とは思えぬほどのその立ち振る舞いは、確かに武士を感じさせるものだ。

 

「あの、すみません。ご職業を伺っても……?」

 

 おずおずと切り出されたその疑問は確かに妥当なものであると侍は思った。金銭の話をしているのだからそれに直結する職について訊くのは当然であると。

 

 だからこそ包み隠さず、言った。

 

「今は故あって将軍様の懐刀を勤めている。今日は暇を頂いた故、向こうの料亭まで飯を食べに行こうとしているのだ」

 

 境井仁、将軍の懐刀、あれほどの剣技、この民への誠実な態度。間違いない。

 

「冥人さまあぁあ!!!???」

 

 森に女性の声が響き渡り、その声は影向山を超えて紺田村まで聞こえたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

噂が広まる

冥人の帰還

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○○○○

 

 

 

「聞きましたよ、仁。貴方、先の休日に料亭の奉公娘を助けたようですね」

「は。 森より襲われる声が聞こえたため、魔物どもを倒し救助した次第です」

 

 稲妻城上方、将軍の執務室。侍、境井仁は先日とは打って変わって黒い甲冑を身につけている。胸には刀と同じ連なる三角、境井家の家紋が記されたそれは、かつての戦陣の折より愛用している境井家の家宝だ。

 

「将軍様より、人と関わる度に名を名乗れとの言伝でしたので確りと。将軍の懐刀が、冥人が戻ってきたと。民はそう認識しておるようです」

「……仁、前も言ったはず。二人のときは敬わずとも結構です」

「ならばこちらもお断り申したはず。かつてとは違い、我らは肩を並べる仲間ではなく、主君を守るための部下であるのです。いかような場でも主には敬意を持たねば侍ではありませぬ」

「ッ!……武士の誉れは捨てたと聞きましたが?」

「あれは緊急時故でごさいます。将軍様とともに戦うようになってからは毒も捨て、また誉れに恥じぬよう生きております」

 

 ああいえばこう言うのだ。執務を休憩し茶を嗜みながら会話していた雷電将軍はそのイラつきを隠せないでいた。

 

 かつての盟約を頼って呼び戻すことはできた。彼さえいれば百、いや千人力だと。しかし今のこちらの立場を知った彼は記憶にある友人としての振る舞いどころか、侍と将軍の間柄に恥じぬ行動と言葉遣いを徹底し始めた。ならばと将軍命令でかつてのように接しろと言っても、今では関係が違うと一点張りだ。

 

 あの頃の仲間はもういない。眞も死に、思い出話ができるのもこの目の前で畏まる男ひとり。そんな者に、それだけ大事な者に、敬語など使われてたまるものか。

 

 時を越えて再び稲妻の地に降り立った冥人は、差し当たっては外敵の徹底排除よりも友であり上司である彼女の乱心を止めようと邁進していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

─────────

将軍の懐刀

─────────

現在の稲妻に名を広めよ

 

 




好評なようなら続けます
最後の特殊タグで遊んでみたかった。


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新たなお役目

続くみたいです
原神キャラと仁さんが喋るだけなら無限に書けそうなんですけど私以外の誰に需要が?


 

「仁殿、少しいいでしょうか」

「九条殿」

 

 それは仁がこの現代の稲妻に来て少し経った頃である。雷電将軍の執務室から出てきた仁に声をかけたのは天領奉行の重役、九条裟羅その人だ。

 そのまま裟羅が移動して行くので仁も同行し、歩きながら話を進める。

 

「将軍様よりお聞きになられたかもしれませんが、今後仁殿には『将軍の懐刀』になって頂きます。しかし、稲妻幕府に所属する以上どこかの奉行に席を置いていただきたい。よって、仁殿は私たちの天領奉行の特別顧問役として就任していただくことになります」

「特別顧問とはどのようなお役目でしょうか」

「敬語……」

「何と?」

「いえ。……特別顧問にこれといった役職はございません。言うなればお目付役、と言ったところでしょうか。具体的な権限といたしましては将軍様に次ぐ決定権を持たせるものとし、直属の侍衆をお付けする予定です」

 

 明朗な説明に対し、疑問を浮かべたのは仁だった。天領奉行は今眼前にいる九条裟羅の父が管理する部署だ。明確な長がいるのにも関わらず特権を許して仕舞えば風紀が崩れる原因になりうる、そう考えた。

 故に仁はこう返した。

 

「ならばそのお役目、謹んでお断り申す」

「なっ!?」

「恐らくは私の過去の功績を鑑みての判断でありましょうが、かような立場、身に余りまする」

「いっ、いえ!そんな!仁殿に不足などありません!私どもはこれでも役不足な役職をお付けすることを心苦しく思って……」

「ありがたいですが、やはり向いているようには思えませぬ。……私とてかつては侍の身、人を率いることはできますが、危険の矢面に立つことこそ本懐と考えておりますゆえ」

「そ、そんな……。……いえ、わかりました。再度殿や父に相談してみます」

「かたじけない」

 

 本当に渋々、といった様子で頷く裟羅。

 ですが、とその言葉が続く。

 

「元々お願いするはずだった他の侍との稽古、それには変わらず付き合っていただくことになります。どのような結論になるかはわからないですが、役職によってはそれに加え町の警邏などの天領奉行のお役目もすることになりますが宜しいでしょうか」

「承知いたしました。誠心誠意お勤めしましょう」

「……それと、これは個人的なお願いになりますが――」

 

 事務連絡が終わり、てっきりこれで解散だと思っていた仁は思わず胡乱げな目を裟羅に向けていた。

 未だ現世に来てそう経っていないため大した交流などできていないものの、仁にとって裟羅の印象とは仕事人といったものだった。心の底から雷電将軍を尊敬し、支え、仕えようとしているのは少し話しただけでも察することができたし、実際そう行動していたからだ。天領奉行の役人としての模範であろうと普段から言動を律していることに、仁は尊敬と少しの憧憬で眺めていたのだ。

 

 そんな彼女が、今この時のような勤務時間真っ最中とも言える場で私語な入ることに驚きが勝った、それゆえの視線であった。

 

「――……もう少し言葉遣いを気の抜いたものにしていただきたいのです」

「それは……」

 

 それは仁にとってはだいぶ信じられない類の話であった。役職がどうあれ、仁と裟羅では『先輩と後輩』という明確な上下関係が存在するからである。侍と言うものは規律や年功に厳しい。それは御恩と奉公という勤務形態が原因のひとつではあるが、現代にあるこの奉行にとってメンツとは何よりも優先すべき財産であるからだ。

 民を庇護するお役目を将軍より頂いている奉行たちがナメられること、それ即ち将軍が侮辱されていることにもなる。そうなってしまえば幕府の威信が傷ついてしまうし、政治的にもよろしくない。

 

 民にはいい意味で畏れてもらわなければならない。そのためには身内から厳しくするのはある意味当然であるとも言える。

 それなのに、模範たろうとする裟羅からそれを蔑ろにしてくれというようなお願いをされるとは仁にとっては予想だにしなかったことだ。

 

「理由を聞いても?」

「……幼い頃より冥人のお話には親しんできました。その寝物語に語られる英雄に敬われることが、なんというか……違和感があります」

「……そう言えど我らは役人の身。上下は確りと付けなばなりますまい」

「そう、ですよね。無理を言いました。ですが心に留めておいていただけると幸いです。……では私は先ほどの仁殿のご要望を上申いたしますので追って知らせましょう」

 

 そう言って先ほど歩いてきた廊下を引き返していく裟羅。

 仁はその後ろ姿を少し確かめたあと、ひとつ息を吐いた。歩きながら話していたせいで気づけば窓のそばまで来ていたようだ。

 

欄干にもたれて城下町を見下ろせば様々なものが見える。数多くある食事処や宿の竈には煙がたなびき、鍛冶場からは鉄を叩く音がする。船着場からは威勢の良い船乗りたちの歌が響き、天守のすぐそばの広場では子ども達が笑いながら追いかけ合う。

 

 「活気がある。人が多く生きている証だ。俺のやってきたことは、このためにあったのだな……」

 

 万感のため息と共に吐き出すように呟いた。

 初めて今の稲妻をみた時は思わず涙ぐんでしまった仁だ。果てしない時が経っていると聞かされた時、いったいどれほどの惨状になってしまったかと身構えたのは仕様のないことであった。かつて仁が死んだ時、平和の兆しなど小指の爪ほども見えていなかった。それでも仲間達なら成し遂げてくれると信じて眠りについたのに、急に起こされて助けを求められたのだ。あれよりも非道くなっているものだと思いながら町を歩く人々を見た時の仁の驚きは察するに余りあるだろう。

 

「いかんな。町を見て泣いてはまた影に笑われる。……いや、将軍様か」

 

 軽く頭を振って再び歩き出す。このあとは仁のかつての武具を保管していると言う社奉行の頭に挨拶に行かないといけないのだ。

 軽い足取りのその背をさらに押すように、子ども達の笑い声と鳥の唄声が風に乗り流れ込んだ。

 

 

 

 

 

 

「……とのことでございます」

「ならん!かの冥人を現場で働かせるだと!?それこそ幕府の威権に傷がつきかねん!」

「しかしそうさせた方が民にとっては良いことなのでは?知らせはしないとはいえ、誰もが知るような英雄に直接守られているとなれば――」

「では境井殿には何とお名乗りいただく?警邏の者が名を騙るなどあり得ていいことではない!」

 

 天領奉行、九条家当主の執務室には怒号が飛びかっていた。なぜなら今まさに九条孝行をはじめとする天領奉行の重役たちがある『上申』に頭を悩ませていたからだ。

それはまさに、目下最も重視すべきである人物よりの要望。

民に触れ合いたい、下級武士のように下働きをしたい───という。

 

「……全く、我らに何の相談もなく救国の英雄を復活させるなど将軍様も結構なことをなさるものだ。大体、あの境井仁ご本人かも定かでは……」

「おい」

 

 ある一人の役人のぼやきをまた誰かが窘める。それは今目の前にしている問題に疲れての発言なのだろうか。あろうことか一国の、そして彼ら自身の主人に対して苦言を呈したのにも関わらず不快そうにしている役人たちは驚くほど少ない。まさにこの稲妻幕府が一枚岩でないという証拠のような現場であった。そして、それを将軍自身が許しているということの。

 

「……」

 

 一段高くなった畳に座り、目を瞑って静かに話を聞いているのはこの部屋の主である孝行ではなかった。紫電色の着物に身を包む女性、雷電将軍その人であった。

 将軍自らこの場に来た時、先に集まっていた役人たち全てが驚愕に顔を歪めた。確かに最終的には将軍に判断を委ねることになる案件とはいえまさか会議の場に直々に訪れるとは誰も想像すらしていないことであったのだ。よもや何かしらの沙汰を下されるかと身構えた役人達とは裏腹に、議論に参加するでもなく静かに耳を傾けるだけの存在に、次第にいつも通りの場の温まり方になってきたところであった。

 

「将軍様」

「ええ」

 

 他の役人達と同じ畳に控える娑羅が雷電将軍に合図を送る。紛糾し始めたこの議場にまるで少しも動じていない二人。それはまさに、この展開が予想通りの物であったからだ。

 

「話をまとめる。境井仁の要望は概ね通したいが、幕府の威信を考えればそれは難しい。相違ないか」

 

 これまで目を瞑っていた雷電将軍がおもむろに立ち上がり、役人たちを睥睨しながらそう唱える。大きな声ではなかったが、荒れ始めた部屋を一言で落ち着かせるような、そんな凄みのある声であった。

 

「は、左様でございます」

「ならばよい。私が沙汰を下す。――境井仁を『奥詰衆』の相談役としよう。丁度『奥詰衆』を民たちと触れ合わせる試みを考えていた。境井仁にはこの役目をつけるものとする」

 

「───そして、境井仁の名は隠さない。むしろ積極的に流布するように」

 

 それを聞いて思わず奥歯を噛んだのは孝行であった。『奥詰衆』とは将軍直属の精鋭部隊のことだ。これを受け入れて仕舞えば境井仁に命を出すことが将軍以外にはできなくなってしまう。

 雷電将軍の武力に、降って湧いたような特大の権威の塊。これらを利用すれば()()もそう難しいことではなくなると思ったのに――。

 

「まあ、それなら……?」

「私はいいと思う」

 

 どうやら場は受け入れる雰囲気であることを読んだ孝行は表面上は周りに合わせて頷いておくことにした。将軍は変わった、少し前から感じていたことだ。以前ならそもそもこの会議にも参加していないはずだ。

 やはり冥人には何かがある、孝行はその疑念を強めずにはいられなかった。

 

「異論は……ないようだな。ならばこの場は終いとする。それぞれ、仕事に励め」

 

 

 

 ■

 

 

 

「ということで、仁殿のお役目は相談役――とは名ばかりの、職務の形態としては天領奉行の侍と大して変わりのないものになりました。なるべくご希望に沿ったものになったことだと思います」

「ええ、相違なく」

 

 後日、また仁と娑羅が話し合っていた。元は仁のわがままとも言えるような発言によるものであるためか、少し恐縮気味に見える。

 

「……その権力はともかく、肩書では私よりも仁殿の方が上になられましたね」

「……はい、有難いことです」

「――ならば!私を敬うような言葉遣いは改めた方がよろしいかと!」

「また、そのような……。いや、言う通りだ」

 

 はじめは嫌味の類かと思われた娑羅の言葉が予想もしないところに着地して。窘めるつもりだった仁は思わず小さく吹き出してしまった。意思は固そうだと察した仁は折れることにした。もはや言葉を崩したとて顰蹙を買うような身分でもなくなってしまったのだと力説されて仕舞えば面白さが勝ってしまったのだ。

 少し相好を崩したその態度に、ならばと言いかけた娑羅を仁が遮った。

 

「俺だけが敬われるのもおかしな話だ。どうだ、九条殿……いや、娑羅。ここは()()と行かないか」

「そっ、そんな……!いや、そうです――そうだな、仁。今後とも、我らで将軍様をお支えしよう」

「ああ、よろしく頼む」

 

 稲妻城天守。国の行く末を左右するようなその場所で、場違いとも思えるような笑い声が響き合った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

─────────

新たなお役目

─────────




浮世草なので短め
口調エミュレートが不安でなりません。違和感があれば教えていただけると幸いです
早いとこ原作稲妻編終わらせて仁さんには旅に出てほしいですね
あと多分この世界の演武伝心では最後に仁さんが出るんでしょうね。綾華と旅人が力を合わせて仁さんと戦う姿が見たいです。


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訓練─1

ひと月たってて驚きました。
前回のアンケート、ご協力ありがとうございました。拮抗していたようなので、私のやりやすいように原作稲妻編が終わってから、時系列通りにやってみたいと思います。


『かの冥人が侍の訓練指導役に就任』───。

 

 この知らせは稲妻城のみならず城下町まで広まることとなった。

 歓喜に沸く者、懐疑を抱く者、驚愕に歪めた者、幕府の侍を志す者。それを聞いた平民たちの反応は実に様々であり、そしてそれも無理のないことであった。冥人・境井仁の名は全ての人が知っていた。だからこそ、今この時を生きているかのような発言が気に掛かったのだ。

 

 彼はもう死んでいる、そうおとぎ話には書かれている。

 よもや境井家の末裔であろうか、そんな説すら立ってしまうほどであった。

 

 町に大きな動乱をもたらしたその知らせから数日、またもや町は驚きに揺れることになる。

 幕府の管理する掲示板には新たにこう張り出されていた。

 

『幕府軍公開演習、有志の者は指導役との手合わせ可能』

 

 ───と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

─────────

人心

─────────

 

 

 

 

 

 

 

 

「───ふぅっ。終いだ、各々休息に入れ」

 

 汗を拭いながら告げたのは境井仁。『奥詰衆』の相談役とはなったものの、初めから決められていたお役目である侍達への訓練や教練は果たさなければならない。そういう契約だ。

 そして、仁はその職務を持て余すことなく果たすことができていた。もともとは武士として叔父や境井、志村の侍と共に訓練は日常的にしていたことに加えて、いつかの日の海賊たちを率いた経験が活きていたこともあるだろう。

 

 しかしなにより、仁の教えを受ける侍たちの士気が非常に高いことこそが訓練を円滑なものとしていた。境井仁の全ての言葉を聞き、全ての動きを観、その全てを少しでも己のものとしようとする態度は教えを受ける彼らからすれば至極当たり前なものでしかなかったが、現代における自分の影響力をまだいまいち把握しきれていない仁からすればただ感心するばかりだ。こんなにも役目に忠実であるなら稲妻の今後も安泰である、と。

 

 境井仁の武芸とは一対一の剣戟に収まらない。対複数人、対獣の類、対複数の弓兵。二桁に及ぶ敵をどのように己一人で殺し切るか、完全に囲まれた時に誰から突破するか。およそ刀ひとつで成し遂げるには夢物語であると言ってしまいたくなるようなそれらを、論理的に、時には実践を交えて教えられてしまえば、侍たちは信じるしかないのである。目の前にいるこの男こそが、稲妻の英雄であるのだ。この時幕府内に境井仁のことを疑うものはすでに一人もいなくなっていた。

 

「お疲れ。今日も精が出るな」

「娑羅か」

 

 挨拶や礼をしながらめいめいに散って壁や隅で休み始めた侍たちを何をするでもなく見つめていた仁は、振り向いた先にいた同僚であり友人から水を差し出された。天領奉行の重役、九条娑羅その人だ。手拭いで汗を拭きながら受け取った水筒を煽る。

 

「……しかし、仁の教えは目を見張るものがあるな。少しだけ組み手の様子を見させてもらったが、彼らの動きが先月と比べると段違いだ」

「まあな、厳しくやっている。……それ以上に彼らの姿勢には助けられる。俺の教えの全てを食らわんとばかりだ」

「それはそうだろうな。かの冥人どのからの言葉だ、聞かん方が信じられん」

「ならば娑羅にも稽古をつけてやろうか」

「願ってもない、と言いたいところだがな。あいにく私にはもうお前が冥人ではなくただの侍にしか見えん」

「ほう、言うではないか。俺に憧れていると言ったのは誰であったか」

 

 水を飲み干した仁と娑羅の目が合い、どちらからともなく破顔した。仁にとっては懐かしい、居心地のいい会話。まるであの――。

 

 思わず郷愁に駆られそうになった思考を無理やり追いやって、仁はこの先のことを考え始めた。数日前に将軍より告げられた公開演習への準備は着々と進んでいる。この演習は冥人の実力を民、ひいては反幕府勢力へ見せつけることにあるのだろう。実際にそう言われたわけではないが仁は理解していた。

 反幕府軍への抑止力。そうあれと期待されることには否やはないものの、ではどのように表現して、牽制とするか。そうして思いついたのが希望者との手合わせである。今この稲妻には在野の実力者が数多くいるというし、中には名の知れた者もいるだろう。もしそんな者どもを一蹴することができればわかりやすいのではないか、そう発言したのは仁だった。

 

「娑羅。お前、弓を扱うのだったな」

 

 ふと思いついた仁が眼前の彼女にそう切り出す。

 その言葉通り、九条娑羅の弓の腕前はかなりのものであった。そもそも実力がなければ将軍の御付きになど成れてなどいない。ゆえに娑羅は特に疑問もなくうなづいた。

 

「今、空いているか」

「ああ。午後まで予定はないが……」

「よし、少し付き合ってくれ。……聞け!休憩は終わりだ。これより、この九条娑羅どのと俺で組む。俺は刀のみ、娑羅どのは弓のみで相手しよう。どちらかに一本入れられたらその時点で今日の訓練は終いとする!初めはお前からだ、立て!」

 

 なかば強制的に訓練に巻き込まれた娑羅は少し呆れたような顔をしながらも弓を取り出し、どこか楽しげであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――境井仁?」

「はい。……ああ、トーマはここの生まれではないから知らないですよね」

「ああいや、流石にどのようなお方かくらいは知ってるさ。父に聞かされたこともあるし……」

 

 神里屋敷。……ではなく、稲妻城下にある茶屋の一間。金髪に長身のその身を赤い衣装で飾る青年が、眼前にある湯呑みを怪訝そうな瞳をしながら下げた。

 青年、トーマはもともとは稲妻の人間ではない。モンドからこの国に渡り、社奉行を勤める神里家の家司として生活していた。今この場にいるのはそのトーマと、主家である神里綾華の2人だけだ。窓の外から喧騒が飛び込んでくる。

 

「その様子では、やはり理解しきってはいないようですね。……まず、境井仁――"冥人"の名は稲妻の人々全てが知っていると言っても過言ではありません。その武勇も。もはや何年前かもわからないような英雄、将軍の語る"最強の人間"。そういう存在だったのです。……少し前までは」

「……幕府のあの御触れ、か?」

「そうです。何の理由か、境井仁が現世に帰ってきた。そしてそのままかつてのように雷電将軍に仕えている。……これがどれほど、稲妻の民を、私たちの心を動かすことか」

 

 良くも、悪くも。そう言って締めた言葉は、その内容通り様々な感情が揺れ動いているようにトーマには感じられた。

 生まれついてより聞かされるおとぎ話の主人公、その回生。それ自体は綾華当人にとっても歓迎するべきだと思っているのだろう。綾華も神里流を修める武人のひとりであり、その実力も飛び抜けている。そんな彼女にとっては、剣において悪を切り伏せた冥人という存在はまさに憧れでもあるのかもしれない。

 だが、今はいささか時期が悪い。そう思わざるを得ない状況であった。

 

 その心中を真には理解できないことを悟ったトーマは綾華の言葉の続きを待つが、何事かを考え込んでいるのか押し黙ってしまっていた。少しの間沈黙に包まれた茶室に、外の雑踏が響いている。

 思案の邪魔をしてはいけない。なんとなしに窓の外を見たトーマは、民衆がドタバタと動き回っている様子が見えた。どこかに向けて走っていったり、興奮した様子で周りに話しかけていたり、内容までは聞き取ることができない。

 

「……?やけに騒がしいな。何だ」

「っ!ああ、もうですか。……さて、トーマ。境井仁の、冥人の実力をこの目で見るいい機会です」

 

 湯呑みのお茶をちょうど飲み切った綾華が立ち上がり出口へと向かいながら、身分を隠すための市女笠を深く被り直した。いまいち何かわからないトーマは少し慌ててそのあとに着く。

 

「えっと、今日これから何か……?」

「ええ。数日前にトーマも見ている筈ですよ」

「今日……?ああ、そういえば……!」

 

 先ほどの会話と、先日の記憶をもとにトーマはその事実を思い出した。幕府の侍たちに冥人が剣を教えていること。そして今日、それが初めて公になること――。

 何が目的かを悟ったトーマに、綾華は振り向いて微笑んだ。

 

「行きますよ、幕府の公開演習に」

 

 

 

 

 ――タァン!

 

「……よし、いかほどか」

「はっ、はい。……中心より一寸五分のズレです」

「ふむ、鈍ったか」

 

 ――タンタンタンタァン!

 

「ご、……5秒です……」

「悪くないな」

 

 城下町をさらに下った先にある野原、そこには簡易的ではあるが幕府の陣が敷かれていた。とは言ってもその目的がために一定間隔で刺された杭に縄を結んだ簡素なもので、陣の中は簡単に見ることができた。

 陣にいるのはおよそ50人ほどの侍。3つほどの塊になって各々修練を進めている。今行っているのは型の確認、軽い組み手、そして弓の的当て。それぞれの塊ごとに教練役のような者と教えを受ける侍たちがいるようだ。

 

 木漏茶屋を後にして公開演習を見にきた綾華とトーマが目にしたものはそれら侍たちと、その陣を取り囲む大勢の人の姿であった。

 

「なるほど、街にまったく人影が見えない訳だ」

「もしかしたら町人のほとんどがいるのでは……」

 

 その盛況さを見て呆然と呟く2人。

 実際のところ町人のみならず周囲村々や離島からも観客がいたりするが、それはこの2人には預かり知らぬところである。

 

 あの数の人の群れに混ざるのは気苦労しそうだと考え、そのままなんとなしに演習と人々を観察する、そして、少し離れて群衆を見ていた2人は気づいたことがひとつあった。――明らかに人々の視線が集まっている場所がある。

 この場において視線を集める者などひとりしかないだろう。視線の先、今は弓術の訓練をしている一団の中にはとりわけ関心を集める者がいた。その男が的を射るたびに周囲からはざわめきが漏れている。

 

 団子に結った髪、白い鉢巻。黒い甲冑には二つ連なる三角形の家紋。

 

「お嬢、あの方が……」

「ええ。冥人、境井仁様で間違いないでしょう。……あの甲冑は私たち神里家が保管していたものです。私は居合わせることが叶いませんでしたが、お兄様が冥人様にお渡ししたと言っておりました」

 

 今、その冥人は弓を手にして的を睨んでおり、およそ一五間ほど離れた位置には5つの的が置いてある。それも横一列に並べられたものではなく、そこにある大岩に貼り付けられた物や大岩の上にある物、岩のすぐ側に置いてある物など高さや距離もバラバラだ。

 

「あれを、狙うのでしょうか……?」

「確かにあれほどの距離離れた的を狙い撃てれば射手としても優秀といえるだろうけど……」

 

 いささか、弱い。ふたりが抱いた感想としてはそれが正しいだろうか。

 今、仁が弦を引こうとしている弓は四尺ほどで、あまり大きい方ではない。確かにその大きさの弓でこの距離の的を射抜けられればその腕は確かなものであるが、言ってしまえばその程度の弓使いならどこにでもいるのだ。この場が、実質的には境井仁のお披露目だと悟っている2人からすれば拍子抜けとも取れる取り組みであった。

 

 無論、全ての行動が反幕府派への牽制にするとは思ってはいないものの、境井仁といえば弓においても英雄であると綾華は知っていた。あれは脚色だったのだろうか、なんて考えてしまった時――。

 

 時間が止まったような、そんな気がした。

 

 これだけの人がいるにも関わらず、まるで夜の原のごとき静謐さ。実際にざわめきが止まった訳ではない。そう感じさせるほどの気配、殺気。

 幻視すらもたらすその集中力を放ったのもまた、境井仁であった。

 

 境井仁が一度大きく息を吸い、吐き出す。そしてまた大きく吸って――。

 

 気づけば、的には矢が突き刺さっていた。

 

「え、え?」

 

 目を離した訳でもないのに、知らぬ間に矢を放ち終えている。いや、たった数秒のうちに起きた出来事と信じられないその光景に混乱してしまったのか。

 目を白黒させるトーマの横、綾華は驚きながらも冷静に見据えていた。

 

「……1秒に満たぬ間に矢を番え、放ち、中てる。それを5回過たずに繰り返す。もとより疑ってはいませんでしたが……なるほど、真に冥人であられるようです」

 

 市女笠を傾かせ、覗き見えた眼光はまさに侍のそれであった。お忍びでの敵情視察とあってその装いも普段の袴と甲冑を合わせた姿とは異なりただの町娘のようであるが、その瞳を見れば武人と一目でわかるほどの鋭さ。

 あれほどの絶技を持つ相手が敵に回ったのだと本当の意味で理解したからこその視線。そこには最早冥人への憧憬は映ってはいなかった。

 

 綾華やトーマ、他この公開演習を覗き見る武人たちとは異なり、稲妻の民たちからすればそれらの弓術もただの見せ物にしか過ぎなかった。ああ、かの冥人とはかようでなくてはと、老若男女めいめいにその実在を信じさせるものであったのだ。

 最初の御触れを端に発された冥人への懐疑も最早晴れつつある。実際に人々に囲まれ、己の一挙手一投足に歓声やざわめきが漏れることを確認した仁は、そう確信した。

 

 はじめの訓練を弓としたのは意図あってのものだ。刀での打ち合いというのは素人目には分かりづらい要素も多くあり、演劇にあるような殺陣というのは分かりやすい部分を強く見せるからこそ迫力が生まれる。実際の剣の場も確かに迫力はあるだろうが、人々に実力を見せつけるという点ではあまり向かないと仁は判断した。単調な型の稽古などもそうである。

 短弓から弦を外しながら仁はざっと侍たちを見回す。確かにこの場が実質的には仁のみのための場であるとはいえ公開演習の形を取っているのだ。彼らに教えねば意味もない。

 

 他の稽古をする者たちを見て、それぞれも順調に励んでいる様子を見て仁は少し安堵した。このように見世物になってしまうことで緊張や平常を欠くこともあるのではと危惧していたが、杞憂に終わったらしい。

 一度休憩でも取らせようかと思っていたがその必要も無さそうだと判断し、予定通りに今度は長弓を取り出す。仁の身柄ほどもある、大きく太い強弓である。

 

「そこもと、的を」

 

 補佐役を走らせ、新たな的を置かせた。三十間ほど離れた場所に3つ並べ立てたそれらは、的もそこまで大きな物ではなくちょうど人の胴体くらいの大きさに見える。

 それを見た観衆は期待にざわめき始めた。これほど離れたものを狙い穿つのか、いやいや伝承ではもっと離れた距離でも射殺している、それならこれくらいできるはずだ、そんな騒音。

 

 人々の声を聞き取った仁は僅かに頬を緩め、しかし次の瞬間にはきりりと的を見据えた。

 再度放たれる、武に関わりのある者なら誰でも気づけるほどの集中。矢を放とうとしているのだ。

 

 側に置いてある矢筒から取り出したのは、その長弓に見合う拵えの長さの矢。それを――

 

「3本……?」

 

 2本とって次矢とするなら分かるが、3本とは。弓に携わる者が疑問を覚えたのも束の間、それら全てを指に挟み、そのまま3本とも弓に番えてしまったのだ。

 ざわめきは歓声へと変わった。見せてくれるのか、そう言わんばかりに。

 

 そうして放った矢は、それぞれ違わず的中した。

 

 快音を立てて倒れる的と同時にわっと歓声が上がり、仁は残心を解いた。その顔は少し満足げだ。

 

 興奮する群衆とは打って変わり、それを見ていたひとりの在野の弓使いは白けた顔だ。3本、同時に放つなど自分でもできる。実用性に欠けた演舞としての矢だ、と。

 彼は稲妻の生まれではなかった。大人になり、武者修行として稲妻を訪れ磨いた弓の腕は確かなもので、だからこそこのごろになって行く先々で聞く冥人とやらの技を見ようと思いここに来たのだ。

 

 伝承とは誇張されるものかと、弓使いが少し落胆したその時。補佐役が新たに的を設置した。今度は3つ並べるのではなく、間隔をあけて置いたようだ。それぞれ支柱の高さも違う。

 それらの的をまた、仁は的中させた。

 

 次の的は大きさが小さいようだ。先ほどのものが人の胴体くらいなら、今度は人の頭くらいか。しかも支柱の高さは六尺ほど。ちょうど人の頭のある位置に的を置いている。

 弓を引き分け、数秒溜める。その所作のあいだにも両腕はブレることはなかった。

 そうしてまた、中てる。

 

 ここまで見た弓使いは理解した、慄いた、敬服した。先ほどの思考を改めよう、これは演舞などではない。この距離の的を射抜く、それはつまりこの弓は実用に足ると言っているのだ。かの冥人は、これほどまでに現実離れをした技を持っているのだと。

 

 同時撃ち。鹿神の加護を得る仁だからこそできる絶技。3本の矢で相手を寸分違わず狙い穿つ、仁の弓の到達点。

 

 観衆の高揚を見て、己のお披露目はここまでで良いだろうと仁は判断した。あとは幕府軍の誠実な訓練への態度を示して、信用を得ることが大事だろう。長弓の構えを崩し、それまで仁の訓練を後ろから見ていた弓兵たちに指導を始めたようだ。

 

 それを遠くから観察していた綾華たちは、冷静に、しかし興奮を抑えられずにいた。

 

「弓も一流であると知ってはいたけど……あそこまでなんて」

「ええ、話で聞くのとはまた違う……。想像するだけだった技を見られるなんて。あれほどの弓を持つ者が今この稲妻にどれほどいるでしょうか」

 

 ひいては、反幕府に。もし乱戦となった際にあの弓の腕は危険にすぎる。対抗できる者がいなければいいように射抜かれ、死んでいくのみになってしまう。

 また考え込む綾華に対して、トーマは心配げな顔で見つめていた。せっかく尊敬すべき偉人の技を見る機会が得られたのに、それを素直に喜ぶことのできない状況が憎く感じる。

 邪魔をするのは申し訳ないが、それでも今は楽しむことを念頭に置くべきだ。対策や思案ならこの演習を見た後でもできよう。トーマは綾華にそう助言した。

 

「しかし……決戦ももう近いかもしれないのに」

「それでも。お嬢、冥人様のお話好きなんだろ?」

「……そうですね。せっかくの場です。落ち込んでは勿体ない」

 

 力量を見定めるという目的は変わらない。しかし、少しでも楽しもうとする感情がその鋭い視線に含まれるようになった。

 

 

 




だいぶ長くなったので分けます
綾華ってトーマ相手に敬語でしたっけ?ゲーム見直しても綾華がトーマと話している場面が見つからなかったので教えていただけると幸いです

与太話ですが、仁さんと魈って相性よさそうですよね
ふたりともダークヒーローになることをわかっていて、それでも人のために行動し続ける心の強さがあるので
あと面をつけるという共通点があります。原神の元素爆発モーションの中で一番好きなのは魈ですし、ghost of tsushimaでは仁さんが境井家の面頬をつけるムービーが一番好きです 性癖ですね


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