さよならより速く、私はあなたに逢いに行く (Werther)
しおりを挟む

さよなら一部/さよならより速く、私はあなたに逢いに行く
第一章 - Go!! リスタート


 その日は、蒸せ返るような暑い日だった。

 陽は街中にさんさんと照りつけ、ビルの壁や地面のアスファルトを焼いていた。溶けてしまいそうなくらい暑く、最高気温は今年最高を記録しているらしかった。そんな今朝のニュースをぼんやり思い出しながら、私はシャーペンでノートの隅をつつく。

 六時間目ともなると、教室は寝ている人が多い。疲れからか暑さからか、窓際の生徒は頭を机にくっつけている人がちらほらいた。それに対して先生は何も言わなかった。そのくらいの緩い空気。ぬるい風が吹いて教科書の縁を捲るように揺らした。

「はい、じゃあ今日はここまで、みなさん休みの間も課題はしっかりやるように」

 先生がチョークを置きながらそう言うと、すぐ後に慣れたチャイムの高い音が続く。教室はにわかに騒がしくなり、掃除のために教室の後ろのロッカーから箒を取り出したり、荷物をしまう音が混在して聞こえた。私も同じように机の上に散らばった荷物をしまう。

「四季、今日掃除当番じゃないだろ」

 ふと頭上から声が聞こえて、顔を上げるとそこには腰に手を当てたメイがいた。

「うん、そう」

「だよな、ほら、部活行こうぜ」

 メイはすでに後ろ手に鞄を下げていて、いつでも行ける様子だった。私たちの席は教室の後ろの方で、そこは人の出入りが激しかった。

「あ、待つっす〜!」

「待つですの〜!」

 聞きなれた声がして振り向くと、そこには部活のメンバーの、きな子と夏美がいた。

「二人とももう部活行くっすよね! きな子たちも一緒に行きたいっす〜!」

「夏美もLiella!の日常風景を撮影しながらお供しますの〜」

「やーめーろ」

 夏美が取り出した自撮り棒とスマホをひょいと片手で取り上げながらメイは言う。

「あ〜返すですの〜!」

 夏美はメイからスマホを取り返そうとしていたが、メイがくるくる動くから夏美はメイの周りを回りながらしまいには目を回していた。

「ふふん、まだまだだな、夏美」

 メイは得意そうに鼻を鳴らしていたから、その自慢げなメイはすごく可愛かったのだけれど、夏美も可愛そうだったから、メイの持っているスマホを後ろからつまみ上げる。

「ちょ、四季」

「メイ、あんまりからかっちゃダメ」

 私が地面を見下ろすと、メイも倣ってそうした。そこには夏美が目に渦を巻いてへたり込んでいた。

「な、夏美ちゃん、大丈夫っすか……?」

「お、お星様が見えますの……」

 きな子が夏美の肩を持って起こしていて、メイはいたずらっぽく笑っていた。メイは何をしていてもかわいいからずるい。なんでも許してしまいそうになる。

「ほら、部活行こうぜ」

 メイが教室のドアに手を当てながらそう言う。廊下の向こう側の窓から夏風が教室まで吹き込んできた。おもむろな涼しさに私は思わず目を細める。

 今日で、一学期は終わりの日。

 明日から、皆の待ち望んだ夏休みだった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「夏美のインフルエンサーパワーをフルに活用したLiella!日常風景盗撮計画が〜……」

「盗撮って言っちゃってるっす……」

「成功すればマニーががっぽり入るのですよ! それをLiella!の資金源にしてもっともっと人気を獲得しますの〜!」

 部室に着くなりやいのやいの言っている夏美ときな子を横目に、私は部室の扉をくぐる。窓は締め切られていて電気もついていない静かな部室では、埃だけがきらきらと宙を舞っていた。

「先輩たち、まだみたいだな」

 隣でメイが言って、私はそれに頷くだけでこたえる。メイはそれからカーテンと窓を開けてそこから顔を出した。

「あちぃ……まだ夏になったばっかなのにこの暑さはなんなんだよ……」

「今日、今年の最高気温更新なんだって」

 言いながらポケットから取り出したスマホの温度表示を見せると、メイは怠そうに上を向いた。

「こうも暑いし陽が長いと一日が長く感じるな。四季もそう思うだろ?」

「あ、うん、そうだね」

 暑くて私もぼうっとしていたから、なんだか浮いた返事になってしまう。メイが窓辺に手を引っ掛けて腕と足を伸ばして逆さまに私を見て笑っているのが見える。赤いくせっ毛がぜんぶ逆さを向いている。

「四季でもぼーっとすることあるんだな、かわいい」

「ちょ、ちょっとメイ、部室でかわいいはナシ……それに、かわいいのはメイの方……」

「いや、お前の方がかわいいだろ」

「や、やめて……」

 突然のメイの攻撃に私はなす術なんてなくて、メイはいつしか私を振り向いてまっすぐ見つめてそう言ってきた。

「またやってるっす……」

「あ〜これを撮影したいですの〜」

 二人の生暖かい目を感じながら、私は恥ずかしすぎてそのうちの片方……きな子の背中に隠れた。

「お願い……少しだけ隠れさせて」

「し、四季ちゃん⁉︎ ま、まぁいいっすけど……」

 メイの視線から逃れるために、とりあえずきな子の背中に私は隠れた。身体中暑いのは気温のせいか、それとも、メイのせいか。そんなの考えるまでもなかった。

「うぃっす〜! おや、一年生諸君早いね〜」

 ふと入り口から声がして振り向くとそこには千砂都先輩がいた。右手で作ったピースサインを掲げるお決まりのポーズをしている。私たちもそのポーズでこたえる。

「あ、ほんとだ皆来てる。早いね」

 その後ろからかのん先輩がひょこっと顔を出した。マリーゴールド色の髪が綺麗だなと、外苑西中学校にいた頃から思っていた。その頃、一度ステージを見ただけだったけど。その人もいつの間にか先輩になっていた。人生というのは数奇な巡り合わせの連続だと、つくづく思う。

 その時また扉の向こうの階下から何やら話し声が聞こえてきた。

「だからあんたが飲み物買ってきなさいって言ってるのよ……」

「可可はじゃんけんに負けただけで誰も飲み物買うとは言ってマセン。すみれが買いに行きやがれデス」

「なっ、あんた卑怯よ! 普通あの状況のじゃんけんは負けた方が買いに行くのが当たり前ったら当たり前じゃない⁉︎」

「知らないデス」

 がちゃり。と扉が回って頬を膨らませて睨み合った可可先輩とすみれ先輩が入ってくる。

「二人とも、またやってるの?」

 千砂都先輩が呆れ気味に言うと、可可先輩もすみれ先輩も声を揃えて「だって聞いて(くださいデス)!」と言った。

「可可と暑いし喉乾いたしどっちかが飲み物買いに行こうって話になってじゃんけんしたの、それで私勝ったんだけど可可は知らないってシラ切るのよ!」

「だって可可は一言も負けた方が買いに行くなんて話してないのデス、すみれが勝手にそう思っただけではないのデスか」

「なっ……あんた卑怯よ!」

 また睨み合いを始めた二人を見て千砂都先輩はやれやれとため息をついていた。かのん先輩が恐る恐るそんな二人に近づいて、あのー、と声をかける。

「私ちょうど自動販売機行くつもりだったから、よかったら二人の分も買ってこようか?」

 かのん先輩が言うと、すみれ先輩が眉を下げて「あんたねぇ……」と言う。

「いや、いくらついでとはいえ申し訳なさすぎるわ、私も行くから」

「なら可可も一緒に行きマス!」

 すみれ先輩が言うと可可先輩も続け様にそう言って、すみれ先輩はきょとんとしていて、かのん先輩はふふっと小さく笑った。さっきまでの空気が嘘みたいに晴れていた。痴話喧嘩、と言うのだとこの前千砂都先輩が楽しそうに言っていた。確かにそうかもな、と思う。それから三人は部室を出て行った。

「あら、皆さんもういらっしゃったのですね」

 三人減った部室が静かになったところで、入れ替わりに現れたのは恋先輩だった。長い黒髪のポニーテールが部室の扉を閉める時、振り向き様に揺れて、ふわりと宙を舞う。

「かのんちゃんたち今飲み物買いに行ったんだ、これでメンバーも揃ったし帰ってきたら練習始めよっか」

 千砂都先輩が隅の方で軽く柔軟運動をしながら言った。いつでも準備万端という様子の千砂都先輩を見て、私は思わず笑ってしまいそうになる。

 この部活は、不思議なくらい居心地がいい。今までずっと一人を好んできた自分にとって、それは思いがけない変化だった。

「ん? 四季笑ってるのか?」

「わっ……メイ」

 きな子の後ろに隠れていたはずの私の目の前にメイの顔があった。いつの間にか横から覗き込まれていたみたいだ。

「今日の四季なんつーか、かわいいな」

 メイはにっと歯を見せて笑うとそう言う。私はもう恥ずかしさで居ても立っても居られなくて、顔中に熱が集まるのが分かる。

「だ、だからかわいいは禁止……」

 私はきな子の後ろにまた隠れる。メイは何の気なしにそういうことを言うから、心臓に悪いんだ。

「……なんなんすかねこれは」

 その時、きな子が遠い目をしていたことなんか、私は露とも知らなかった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「はい、じゃあ今日の練習はここまでね! お疲れ様っ!」

 千砂都先輩がぱんっと手を鳴らしたその音は、雲ひとつない夏空に高く吸い込まれて消えていった。それに続いて一年生たちがばたばたと倒れていく。

「つ、疲れた、ですの……」

「きな子もっす……」

「私もだ……また元気にしてるの四季だけかよ」

 私は床に溶けかけのアイスクリームみたいになっている三人を見下ろしながら、そうしてる方が暑くないのかな、と思った。

 日陰に置いていた荷物からスポーツドリンクを取り出して飲むと、心地いいつめたさが喉を滑り落ちて行った。もうすっかりそこらじゅう夏の空気だった。

「……あれ」

 ふと、時計を見ると、いつもの練習終わりよりずいぶん時間が早いことに気づく。およそ一時間ほどだろうか、長針はいつもより手前を指し示していた。

「千砂都先輩、練習こんなに早く終わっていいんですか」

 同じく日陰に荷物を取りに来た千砂都先輩に、そう訊く。千砂都先輩は荷物を漁る手を止めると笑って、うん、と頷く。

「今日は一学期も最後の日でしょ、夏休み中も練習はしっかりやるし、今日くらいは早めに切り上げて皆ゆっくりしてもらおうかなって」

 千砂都先輩はほら、と言って首を伸ばし私の背後をおもむろに見遣る。そこには一年生三人が暑さと疲れで溶けていた。

「いつもあんなになるまで頑張ってくれてるから、よかったら今日は一年生で遊んできなよ」

 普段あんまりそういう時間ないでしょ、と言い加えて千砂都先輩は朗らかに笑った。

 その横で私のと同じスポーツドリンクを飲んでいたかのん先輩が話を聞いていたのかにこりと笑いかけてくる。

「あれ、かのんちゃん今日はりんごジュースじゃないんだね、珍しい」

 千砂都先輩がそう言うとかのん先輩ははにかんで笑う。

「うん、今日暑すぎだし、たまには飲んでみたいな、って思って。可可ちゃんの飲んでるオレンジジュースや、すみれちゃんのスプライトも美味しそうだなって思ったんだけどね、今日はこれにしたんだ」

 かのん先輩の言葉にふぅんと返すと、千砂都先輩は空を見上げた。かのん先輩もそうする。私も二人がそうするので同じように空を見上げた。油断すると重力ごと奪われて落っこちてしまいそうな青天井が街の端まで伸びている。

「夏が始まるねー」

 千砂都先輩が何気なく言った。

「そうだね」

 かのん先輩が短くこたえる。

 私は何も言わずに、ただ空を見上げていた。

 手に持ったペットボトルから、水滴が垂れて手のひらを濡らした。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「にしても、千砂都先輩も粋なことしてくれるよな」

「夏美もそう思うですの〜、これでLiella!の新規生の日常風景盗撮計画が捗りますの〜」

「だから盗撮って言っちゃダメっす……」

 片手に学生鞄を提げてほどほどに固まって歩いていた。すぐに出て来られてなんでも揃っていて遊びやすい場所と言えば、ここ、原宿だった。まだ夕方というには早い時間の原宿は学校帰りらしい制服姿の女子たちが多く、その手にはカラフルなアイスやらクレープやらが握られていた。私たちはその中を歩いていく。

 でも、今日の目的は私たちも同じだった。

「お、ここじゃないか」

 先頭を歩いていたメイが立ち止まり、そう言った。他のメンバーもメイが見つけたお店の看板を見つめる。

「そうっす、ここっすね!」

「綺麗なお店ですの〜SNS映えが良さそうな……」

 目をきらきらさせる夏美をきな子はジト目で見つめる。

「夏美ちゃんはそればっかりっす……」

「いーから、並ぼうぜ」

 メイが言ってお店の前にできた列の最後尾に並ぶ。私たちもそうする。

 店先にいるだけで、果物と砂糖とチョコレートの混ざった甘い匂いがしてきた。生地を焼いているらしい香ばしい匂いも。

「いい匂いっすね〜、メイちゃん流石っす〜」

「わ、私はたまたま見つけただけなんだけど……」

「またまた、そんなこと言ってますの〜」

「うん、メイは甘いものには目がないからね、私たちなんかより断然詳しい」

「ちょ、お前らなぁ!」

 赤面するメイがこちらを睨みつけてくるけれど、怖くもなんともない。

 今日、どこいく?

 さっき帰り際、その話題になった時メイが一番に手を上げてスマホの画面を差し出した。そこに表示されていたのは、メイの好物のスフレパンケーキや、色とりどりのクレープを扱ったお店だった。他に行く宛もなかった私たちはすぐにそこに行くことに決定した。

 列に並んでる間も、陽射しはじりじり照りつけ肌を焼いた。人混みの中だからか余計に暑く感じるし、少し目眩を覚えた。私は鞄からスポドリを取り出して一口飲む。見上げた空が高い建物たちに切り取られて影絵みたいに浮いていた。

 ほどなくして私たちの番になり、それぞれ注文をしてまた少し待つ。数分後、私たちの手にはそれぞれふかふかでふわふわのクレープが握られていた。

「みんなで写真撮るですの! はいっ、チーズ!」

 夏美がそう言って自撮り棒を向けてシャッターを切ったり、

「美味しそうっす〜、贅沢な放課後っすね〜」

 きな子がクレープをくるくる回して感嘆のため息を漏らしていたり、

「…………」

 みんなの前だから興奮しているのを必死に抑えてはいるんだけど口許の緩みを隠しきれていないメイが黙ってクレープを見つめたり、していた。

 メイのクレープはブルーベリークレープで、ブルーベリーがふんだんに盛られているばかりか、ホイップにもブルーベリーが練り込まれていて薄紫色に色づいているものだった。それは、メイの好物と好物だもの、隠しきれないくらい嬉しいよね。ほんと、かわいいんだから。

 私たちはクレープ片手に、街を見て回った。この街は店の中に入らなくても、建物やショウウィンドウを見ているだけで楽しい。

 歩行者専用道路の脇にある建物たちを見ていったのだけれど、やがてそれは途切れて車の多く行き交う大通りに出た。

「普段この辺までだから、今日もうちょっと向こうまで行ってみないか」

 メイは向かいの通りを指差しながら私たちを振り向いて言った。

「きな子も行きたいっす! 四季ちゃんも夏美ちゃんもいいっすよね?」

 メイときな子の視線に私は首を縦に振るだけでこたえる。隣で夏美もそうしたのが分かった。

 私たちは信号を待った。向かいの信号機の赤い点滅が上から減っていき、カッコウが鳴いているのがすぐそこから聞こえる。

 その時だった。

 ピリリリリリリリリ、と甲高いアラーム音が鳴った。何かと思って音のした方を見ると、メイの手に持たれたスマホから音は鳴っていた。メイは慌てた様子でそれを止めると、ふぅ、と軽く息を吐く。

「おっかしいなぁ、こんな時間にアラームなんてセットしてないはずなのに……」

 メイは言うとスマホをポケットにしまった。

「メイ、いっつも部活後自主練してるでしょ、それの終わる時間の目安にしてるアラームじゃないの」

「あぁ、そっか、言われてみればそうだな」

 私がメイに言うと、メイは納得した様子だった。

「あ、信号もう変わるっすよ」

「あ! あっちに何やら美味しそうなお店がありますの〜突撃してフォロワー数を伸ばすチャンスですの〜!」

 待ち切れないというようにきな子と夏美が先頭でこちらを振り向いている。私はそれがおかしくて笑ってしまいそうになる。

 信号が変わる。早足で歩いていくきな子と夏美が危なっかしくて、私の隣を歩いていたメイがおい、こけんなよ、と言いながら後を追う。なんだかメイ、二人の保護者みたい、と思って私はまた頬が緩む。

 叫び声が聞こえたのは、その数秒後だった。

 最初、女の人の絶叫が聞こえて、それが水たまりに石を投げ込んだ時波紋が広がるみたいに、背後で叫ぶ人が増えていった。

 と思った。

 一瞬だった。

 横断歩道を渡っていた人は蜘蛛の子を散らしたようになり、背中を向けて逃げて行った。

 そして、道路の先を見ると、大型トラックが逆走してこちらに突っ込んでくるところだった。

 私は横断歩道を半分と少し渡ったくらいのところにいて、トラックは真っ直ぐにこっちに走ってきていた。絶叫するみたいなエンジン音がよく聞こえる。

 逃げても間に合わない、と本能的に悟った私は、一歩も動くことができなかった。そこに立ち竦んだまま、間延びした一秒をぼんやり感じていた。

 トラックが近づいてくる。

 あぁ、私の人生、ここで終わりなんだ。ここまでなんだ。

 あと二十メートル。

 楽しいことばかりではなかったけどいいこともたくさんあった。特にそう、あなたに出会えたことはとても嬉しかった。

 あと十メートル。

 それに今ではこんなにたくさんの仲間に囲まれているのだって、信じられなかった。奇跡みたいな道のりだったと、思う。

 あと五メートル。

 もう目前に迫った死を前に見る、これは走馬灯というものなんだろうか。あなたの顔ばかり浮かんで最後まで言えないことばかり。こんなことになるなら、もっとたくさん言っておけばよかった。

「危ない! 四季!」

 その声が響くのと、身体に強い衝撃があって突き飛ばされたのと、目の前をトラックの側面が通過していくのを見たのは、ほぼ同時だった。

 りんごやなしを潰した時のような、ぐしゃりとも、ごしゃりとも言えない音がした。トラックは数十メートル進んでから動くのをやめた。その通った地面には片方だけタイヤ痕がついていた。それは、彼岸花みたいな真っ赤な色で。

 何が起きたのか理解できなかった。

 地面に私の持っていたクレープが逆さにひしゃげて落ちていた。

 静まり返っていたと思ったのに、一人が叫び出したのを皮切りに、人は皆また叫び始めた。皆逃げていくけれど、中にはトラックまで近づいて、何かを叫んでいる人もいた。夢を見ているみたいだった。それはそれは、悪い夢。

「四季ちゃん! 大丈夫っすか⁉︎」

 呼ばれて顔を上げると、不安と恐怖で顔をこわばらせたきな子がいた。

「私は、大丈夫……だけど、メイは」

 私が言うと、きな子は答えづらそうに目を逸らした。その後ろで夏美も突っ立っているのが見えた。

「夏美、メイは、どうなったの」

「それは…………」

 夏美もこたえずに目を合わせてもくれなかった。私は立ち上がり、トラックの方に歩き出す。どうやら足と手を擦りむいてしまっているらしく、歩くたびにひりひり痛んだ。

 トラックのタイヤ痕の横を歩いた。やがて人だかりができているそこにたどり着く。

 血。血。血。

 そこは、一面が血の海だった。赤い塗料をぶち撒けたみたいにそこらじゅう下手くそに塗りたくられていた。トラックの前方、その下のアスファルト、その色の中心には、頭がへんな方向に曲がったメイがいた。

「おい、救急車! あと警察も! 早く!」

「もう助からなくないあの子……?」

「こりゃ騒ぎになるな……」

 好き放題言う人々の隙間で私はふとトラックの運転席を見た。そこには黒いローブを羽織った、座っていても背の高い人がいた。まるで正体を悟られたくないと言っているかのような格好に、私は、でもこんなことをする人は変装をして当然か、と至極当たり前なことに思い至る。もう一度見ると、そこにいたはずの人は消えていた。ただ、それ以上頭はもう回らなかった。逃げたのなら取り押さえなきゃ、とか警察に連絡を、とかとても無理だった。

 周りから聞こえる囁き声を聞きながら、私は目の前の光景にどうしていいのか分からずにいた。

 メイが、死んでしまった。

 なんてそんなこと。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 搬送先の病院でメイは改めて死亡が確認された。

 私はきな子、夏美と一緒に病院に行き、そこの待合室で並んで待った。病院の廊下は白いフローリングで音もなく、長く奥まで続いていて、気持ちが悪かった。天井の照明も白々しく明るくて照らし出される私たちはまるで実験動物みたいな心地だった。

 やがて医師らしき人が警察官と一緒に出てきて、メイが死んだことを言いにくそうに口にした。

 きな子と夏美は泣いていた。泣くと言うより、涙だけ流して、理性を保てないという感じだった。あれは半狂乱、とでも言えばいいのだろうか。

 警察官が言うには「保護者に連絡をしたから今日は送ってもらって帰りなさい」とのことだった。

 きな子は両親が北海道なので、夏美の両親に送ってもらうことになった。二人が帰ってしまうと、辺りは急にがらんとしていた。病院の廊下はつめたくどこまでも続いていた。私たちは別れるまで、一言も喋らなかった。

 私は一人でそこで待っていた。

 なんで自分がこんなところにいるのか、どうしてしまったのか、それを考えていた。でも、考えても考えても、分からなかった。

 時折看護師が通りすぎて会釈していった。人はほとんどこの通路を使わないようで、辺りはしんとしていた。それはそうだ。だってここ、霊安室の前なんだもの。

「若菜四季さん、お迎えが来ましたよ」

 しばらくじっとしていると、警察官がやってきてそう言った。きな子と夏美が帰ってから二時間くらい経った気がするのに、向かいにかけられた時計を見るとまだ二十分しか経っていなかった。

「ではお母様、後はよろしくお願いします」

 そう言う警察官の後ろから出てきたのは、長髪の青髪を結ばずに垂らしただけの無造作なヘアスタイルの女性だった。

 でも、その人は私のお母さんではなかった。似てるけど、違う。

「四季、帰るよ」

 その人が口を開いて言った。私は驚いて声を上げてしまいそうになる。その声があまりに懐かしいような気がしたから。一度も聞いたことがないはずなのに、その声は必ず聞いたことがあった。

「うん」

 私は気づいたら返事をしていた。立ち上がって、その人に近づく。太ももまでの長さの白衣を着こなしている彼女は、病院内というのもあって医者に見えた。警察官は何も違和感はないと言うように私たちを見ていた。

 私たちは病院のおもてに停めてあった車に乗り込んだ。もちろん運転席に彼女が、助手席に私が、だ。それは病院にあまり似つかわしくない黒のスポーツカーだった。

 彼女は乗り込むなりすぐにエンジンをかけて、発進する。私がシートベルトをつける間の出来事だった。

「……シートベルトつけないと、捕まる」

「あぁ、そうかもね」

 私の言葉に彼女は大して気にする様子もなく、涼しい顔でアクセルを踏み込んだ。

 夜の大都会の景色が私の肩を通りすぎていった。煌びやかなイルミネーションが統一感なくごちゃ混ぜに光っていて、私はそれをぼんやり見ていた。あの光の全てに誰かの生活があるなんて考えられない、と思いながら。

「……私が不審者だったらどうするの」

 ふと運転席の彼女が言った。私は言われた言葉になるほど、と思いながら口では違うことを言っていた。

「あなたは、そんなことはしない。もしそうなら、病院で警察に突き出してた」

「ふぅん」

 彼女は無表情で言いつつ白衣の胸ポケットから煙草のケースを取り出し、流れるような動作でひとつ咥えて火をつけた。左手でその煙草を持ってあまり美味しくなさそうに煙を吐く。

「どうして、あなたは私を連れ出したの。私は、あなたに会ったことがある気がするのは、どうしてなの」

 今度は私が問う番だった。

 私が言うと、彼女はおもむろに窓を開けてこちらを横目で見た。

「それはね……」

 開け放たれた窓から夜風が吹き込んで乾いた目に染みる。彼女の真っ青な髪が後ろに吹かれてその耳が露わになる。低い位置にある、赤とオレンジの間くらいの色のピアス。それは────

 

「私が若菜四季だから、私は今から十年後の未来から来た、あなた自身だよ」

 

 彼女はそう言った。

 これが私のあまりに長い一日の幕開けだった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 やがて私たちの乗る車は見知った街並みに踏み入れて、見知った学校の前まで来た。そこは結ヶ丘女子高等学校で、私たちがさっきまでいた場所だった。さっきまでいたはずなのに、もうずいぶん前のことのような気がする。それほどまでにこの数時間での出来事は現実味がないことばかりだった。

「あの……私はどうしてこの時代にやってきたの」

「“私”じゃ分かりにくいから、シキでいいよ」

 ぬるい夜に黒光りするスポーツカーをいとも自然に校門の前に路上駐車しながら、シキはそう言った。私たちは揃って車を降りると、校門に近づく。

「私の目的はひとつだけ……そのためにこの時代に来た」

 呟くシキの長い髪に夜風がからまってはほどけていった。私はそれを見ていた。本当にこの人が私なんだろうか、と思って。

「とりあえず、行くよ」

 シキは言うと、私に近づいて腕と腕をロックした。そのまま私の腰を持つと飛び上がる。いとも容易く校門を飛び越えると、そのまま閉まっているはずの玄関をどうやったのか開けて中に入った。非常灯の灯りのみで緑色と赤色にぼんやり照らされている廊下は不気味で少し怖いと、こんな状況でもなければきっとそう思っただろう。

「未来の私は、なんでもできるんだ」

「なんでも、って訳じゃない。できることしかできない」

 私が言うと、シキはあまり嬉しくなさそうに言った。私たちは廊下を抜けて、階段を登っていった。

「私の目的の話だったね」

 前を歩くシキが、踊り場で私を振り向いてそう言った。窓から月明かりが差し込んでシキの周りにこぼれてひかっている。

「私の目的は、メイを死の未来から救うこと……それだけ」

 シキがそう言うのを、私はその口許の動きをたどりながら聞いていた。

「……できるの?」

「残念ながら、私一人じゃできそうにない。だから、あなたに協力してもらおうと思った」

 私がシキに追いつくと、シキはまた前を向いて階段を登り始めた。

 やがてたどり着いたのは、科学室。まだ入り口の扉には『科学愛好会仮部室』の紙が貼り付けられている。メイがやってくれたその貼り紙は、嬉しいから未だに外せずにいた。シキはそれを見て一瞬立ち止まり、でも何も言わずに扉を開ける。

 科学室はカーテンが開け放たれたままになっていて、窓じゅうから白い月明かりがこぼれていて眩しかった。シキはその端まで歩いていくと、くるりと振り返って私を見つめる。

「あなたは将来、メイを救いたいという願いのためだけに、タイムマシンを作るの。そしてこの時代にやって来る」

 シキはぽつりぽつりと話し始めた。その声は今の自分自身より幾分か低く、そして深いかなしみに満ちた声だと思った。

「だからあなたにメイを助ける手助けをお願いしたい、どう」

 シキの話は分かる点も多かったのだけれど、私は疑問に思うこともあった。シキはつめたい目でこちらを見ていた。

「質問……シキがタイムマシンを持っているなら、わざわざ私を過去に戻さなくてもシキ自身が戻ってやり直すのではダメなの」

 私が問うとシキはわずかに唇の端を歪めて、苦虫を噛み潰したような表情をした。

「……私は、すでにこれが一度目じゃない、自分で何度試してもダメだったから、過去の私に頼もうと思ったの」

 シキの言葉には緊張感と切迫感があって、私は何も言えなかった。

「……分かった、協力する」

 私は言いながら窓際のシキに一歩近づく。シキは目を丸くしてこちらを見ていた。今になって初めてシキの嬉しそうな顔を見たな、と私は思う。

「ありがとう、そしたらすぐに始めるから、こっちに来て」

 言われて私が近づくと、その隙にシキはまた煙草を一本取り出して火をつけていた。葉の焦げるわずかな音がする。

「煙草……美味しいの?」

「いや、全然」

 シキは心底不味そうにこたえると、煙草を咥えて自分の手を机の上にかざした。すると、シキの目の前に見たことのない装置が現れた。音もなくいきなりそれは現れたので、私は余計に驚いてしまう。

「……これも未来の技術?」

「そう、物質圧縮」

 シキは何でもないことのように言った。そして出てきた装置を触って何かを確かめていく。よく見ると、左側に数字が表示されていて、それはどうやら現在時刻らしかった。中央は何やら複雑そうで理解できない形状をしているが、右側はヘッドホンらしきものが引っかかっていた。

「これは……」

「私なら見れば分かると思うけど」

「タイムマシン、じゃなくて……タイムリープマシン」

「正解」

 私が言うとシキは嬉しくも楽しくもなさそうに「ピンポン」と言った。左手の煙草がやる気なさげに燻っている。

「私も、タイムマシンに乗るんじゃないの」

 私が訊くと、シキは煙草を床に投げ棄てて足で踏み潰してから、言った。

「あなたがタイムマシンに乗って過去に行くと、そこには過去の時点でのあなたがいる。つまり私も含めて若菜四季が三人いることになってしまう。それは困るから、私はタイムマシンを使うけれど、あなたはこれで記憶だけ飛んでもらう」

 シキは言いながら、タイムリープマシンを撫でていた。

「使い方は、あなたの思っている通り。左側のメーターが現在点で、ここに数値を入力してこのヘッドホンをつけるだけ。後は真ん中のボタンを押せば、過去に飛べる」

 私はその説明を聞いて、理解したとは思ったけれど、どうしても過去に戻ると言うのが、今ひとつ感覚的に理解できなかった。怪訝そうな顔を私はしていたのだろう、シキが私を見てふっと笑った。

「今起きてることが、信じられないって顔してる」

「まぁ、そうですね……」

「すぐにでも飛ぼう。もうこの時間軸で私たちができることはない」

 シキは私に装置の前を明け渡して、その脇に立つ。月明かりのみで照らし出された未来の機械はなんだか幻想的だ、と思った。

 シキが手早く数字を入力していく。私はヘッドホンを両耳にかける。

「目的地は今から五時間前、まだメイが生きている時点まで飛ぶ。いい、私たちは、必ずメイを救う」

 シキの声には意志の、信念の強さが滲んでいた。一体シキは、何年メイのことを想って、タイムマシンを完成させたのだろう。

「行くよ……若菜四季」

「うん、やって」

 私の声に合わせて、装置の真ん中のボタンがシキによって押される。途端に電流が装置の中心を走り、バリバリと焼けるような音がした。足元の地面が割れて重力を失ったみたいな激しい眩暈が襲い掛かり、吐きそうになる。隣でシキが何か言っていたけれど、聞こえない。

 最後に見たのは、白い稲妻みたいな電流だけ。

 私の意識はゆっくりと落ちていった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二章 - Departure

 目が覚めると、強烈な眩暈がした。それはなかなか止まなかった。脳ごと揺すられている感覚で、私は脳震盪というものがどういうものなのか知った。とても目を開けていられなくて、なんとか立っているだけで必死みたいな状況。前も後ろも右も左も分からなかった。

 やがて砂嵐みたいな音が遠のいていって誰かの話し声がぼんやり聞こえてきた。だんだん焦点も合ってくる。

「こうも暑いし陽が長いと一日が長く感じるな。四季もそう思うだろ?」

 気がつくと、そこは部室で、生ぬるい風が吹いていてきな子と夏美がいて、そして何より、メイが目の前にいた。

 メイが窓辺に手を引っ掛けて腕と足を伸ばして逆さまに私を見て笑っているのが見える。赤いくせっ毛がぜんぶ逆さを向いている。

「四季でもぼーっとすることあるんだな、かわいい」

「メイ……」

「どうした、四季」

「メイ……メイっ!」

 私は言うなりメイに飛びかかって抱きつく。突然の私の抱擁にメイはなす術なく、苦しそうにしていた。

「またやってるっす……」

「あ〜これを撮影したいですの〜」

 二人の生暖かい目を感じながら、私はメイを抱きしめるのはやめなかった。メイが生きてる、メイが生きてる。そのことがなにより嬉しかった。

「うぃっす〜! あれ、四季ちゃんとメイちゃんはなんで抱き合ってるの? お熱いね〜」

 ふと入り口から声がして振り向くとそこには千砂都先輩がいた。右手で作ったピースサインを掲げるお決まりのポーズをしている。と言うことは次に来るのは……

「あ、ほんとだ、二人とも仲良いね」

 その後ろからかのん先輩がひょこっと顔を出した。出てくるタイミングも全くそのまま一緒だった。

 その時、扉の向こうの階下から何やら話し声が聞こえてきた。もう誰が来るのか分かった。可可先輩と、すみれ先輩だ。

「だからあんたが飲み物買ってきなさいって言ってるのよ……」

「可可はじゃんけんに負けただけで誰も飲み物買うとは言ってマセン。すみれが買いに行きやがれデス」

「なっ、あんた卑怯よ! 普通あの状況のじゃんけんは負けた方が買いに行くのが当たり前ったら当たり前じゃない⁉︎」

「知らないデス」

 がちゃり。と扉が回って頬を膨らませて睨み合った可可先輩とすみれ先輩が入ってくる。

 どうなるか、全部見たことがあった。声のトーンから会話の間まで、何もかも一緒だった。

「二人とも、またやってるの?」

 千砂都先輩が呆れ気味に言う。可可先輩もすみれ先輩もお互いに引かなくて、それでかのん先輩が間を取り持とうとして何故か三人で一緒に買い物に行くのだ。

「あら、皆さんもういらっしゃったのですね」

 三人減った部室が静かになったところで、入れ替わりに恋先輩がやって来る。

「かのんちゃんたち今飲み物買いに行ったんだ、これでメンバーも揃ったし帰ってきたら練習始めよっか」

 千砂都先輩が隅の方で軽く柔軟運動をしながら言った。

「ちょっと四季……いつまで抱きついてんだよ」

「あっ、ごめん……メイ」

 私はメイを抱きしめていたことも忘れるくらい、ごく自然にメイを抱きしめていたから、言われて驚いて手を離す。メイは私の手から離れると、私を見て笑った。

「今日の四季なんつーか、かわいいな」

 メイはにっと歯を見せて笑うとそう言う。私はその声でその言葉をもう一度聞けるとは思ってなくて、嬉しくて頬が赤くなるのが分かった。

「かわいいは、やめてって……」

「いや、だってかわいいだろ」

 私は居ても立っても居られなくて部室を飛び出る。恥ずかしさが爆発してしまいそうだったからだ。

 でも、頭を冷やそうと廊下を歩いているうちに、さっきのシキとの会話を思い出した。

『私はタイムマシンを使うけれど、あなたはこれで記憶だけ飛んでもらう』

 そう言っていたということは、シキもこの時間軸に来ているのではないか。

 私は部活が始まってしまう前にそれだけでも確認しておこうと、科学室に走った。

 科学室は閉まっているはずなのに、取手に指をかけて開こうとすると無抵抗にがらがらと開いた。私はその中に歩みを進める。

「……うまく飛べたようね」

 その少し薄暗い科学室の片隅で白衣姿の長い青髪の女性が肘をついていた。

「顔が赤いようだけど、身体に不調はない」

 シキはさほど興味もなさそうに言うと、手元の機械────タイムリープマシン────を指で弄んでいた。

「……問題ない」

 私がこたえると、シキはそう、とまた感情の読み取れない声で言った。

「分かっていると思うけど、私たちは遊びに来た訳じゃない。勘違いはしないように」

 シキのつめたい朱色がこっちを見ていた。どうして、そんな目をするようになってしまったのだろう。とても彼女が同じ私だとは思えなかった。

「あなたは今後、ここにあるタイムリープマシンを使って、成功するまで何度もやり直すことができる。それと、あなたにひとつ渡しておくものがある」

 シキは言うと、白衣のポケットからそれを取り出して私に放った。私は慌ててそれをキャッチする。きゃべつ半分ほどの重さがずしりと両手に加わり目を落とすと、そこには深い黒色の拳銃があった。

「これ……」

「護身用、何かあったら使って、今後の世界ではタイムリープマシンと一緒に置いておくから持って行きなさい」

 シキはなんでもないことのように言った。やっぱりいつの間にかシキは煙草を吸っていた。

「色々と命を狙われることもあると思うから」

「……なんでそんなことが分かるの?」

 私が訊くと、シキはこたえなかった。ただ目を逸らすということもせず、じっと私を見ていた。

「時間遡行者って、大変なのよ」

 シキはそう言うと、白衣を翻して科学室を出て行った。出て行き様に、煙草の焦げ臭い匂いが鼻をくすぐった。

 私は渡された銃をスカートのポケットにしまうと、部室へと走り出した。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「にしても、千砂都先輩も粋なことしてくれるよな」

「夏美もそう思うですの〜、これでLiella!の新規生の日常風景盗撮計画が捗りますの〜」

「だから盗撮って言っちゃダメっす……」

 片手に学生鞄を提げてほどほどに固まって歩いていた。早めに終わった部活後、すぐに出て来られてなんでも揃っていて遊びやすい場所と言えば、ここ、原宿だ。それで、話の流れ的にも初回同様、ここに出てくるのは決まった。ただ、ここからが勝負なのだ。

 メイが提示したクレープ屋に行っては、また同じ未来になってしまう。それだけは何としても回避する必要があった。

 まだ夕方というには早い時間の原宿は学校帰りらしい制服姿の女子たちが多く、その手にはカラフルなアイスやらクレープやらが握られていた。私たちはその中を歩いていく。

「メイ……ここなんてどうかな」

 私がメイを呼び止めて、道の脇にあったお店を指差す。そこはかなりの長蛇の列ができているスフレパンケーキ専門店だった。メイが急に動きを止めて、じいっとそのお店を睨む。

「どうしたんすか? なんかあったんすか?」

 きな子がメイの後ろからひょっこり出てきてそう言う。

「あそこは最近SNSでバズってたスフレパンケーキ専門店ですの、あそこでLiella!が食事をすれば相乗効果で人気アップが期待できますの〜!」

 きな子の隣にいた夏美も持ち前の現金さを見せてそう言う。なんとなく、皆はそのお店に並びたいという雰囲気になっていた。

「今日は時間あるし、あっちのお店並んでみないか……?」

 メイが頬を赤らめて言うときな子も夏美も朗らかに笑って頷いた。

 ちらりと私の方を、子供が親におねだりをする時みたいにあざとく見つめるメイ。私はくすりと笑って、頷く。

「いいよ、みんなで並ぼう」

 それから四人で列の最後尾に並んだ。

 店先にいるだけで、果物と砂糖と蜂蜜の混ざった甘い匂いがしてきた。パンケーキの生地を焼いているらしい香ばしい匂いも。

「いい匂いっすね〜、メイちゃんが見つけたんすか?」

「わ、私は四季に教えてもらっただけで……」

「またまた、そんなこと言ってますの〜」

「うん、メイがすごく行きたいって言ってた」

「やっぱりっす!」

「ちょ、四季、適当言うなよ!」

 赤面するメイがこちらを睨みつけてくる。

 列に並んでる間も、陽射しはじりじり照りつけ肌を焼いた。人混みの中だからか余計に暑く感じるし、少し目眩を覚えた。私は鞄からスポドリを取り出して一口飲む。見上げた空が高い建物たちに切り取られて影絵みたいに浮いていた。その影絵の上の方を私は見つめて、んん? と首を捻る。

「ねぇ、夏美、この上のビルって取り壊しか何かになるの?」

 私が訊くと夏美は上を向いて空との隙間にできた影を見つめた。それであぁ、と小さくこぼす。

「あのビルは改修工事をしているらしいですの、先週からあの状態だとネットニュースで見ましたの」

「へぇ、そうなんだ」

 私は特に気にすることもなくその話題を切り上げた。

 列は最初いいペースで進んでいたのだけれど、半分を切ったくらいで急に進みが遅くなった。おまけにギリギリ日陰に入れない位置だったので直射日光が私たちの肌を容赦なく焼いた。

「あっつ……これ以上ここにいたら死んじまうぞ……」

「これはきな子たちがパンケーキになるのが先っすね……」

「夏美は食べるのは好きだけど食べられたくはないんですの〜……」

 やっとのところで立つのをキープしている三人を見ながら、私はメイのことを考えていた。

 そろそろ時間だ。

 ここには横断歩道も車もトラックもない。前回メイが死んでしまったようにはならないはずだ。周囲を確認しても、危なそうなものは何もない。甘ったるいお菓子の匂いがそこかしこに充満しているだけだ。

「メイ……もうちょっとで順番だから、頑張ろう」

「あぁ、そーだな……」

 私がメイに言って列が進まないか、顔を横にして店先を見つめた、その時だった。

 ピリリリリリリリリ、と甲高いアラーム音が鳴った。

「おっかしいなぁ、こんな時間にアラームなんてセットしてないはずなのに……」

 メイの手に持たれたスマホから音は鳴っていた。メイは慌てた様子でそれを止めると、ふぅ、と軽く息を吐く。

 そのままそれをポケットにしまった。

 叫び声が聞こえたのは、その数秒後だった。

 最初、女の人の絶叫が聞こえて、それが水たまりに石を投げ込んだ時波紋が広がるみたいに、背後で叫ぶ人が増えていった。

 と思った。

 一瞬だった。

 お店の前にできていた列に並んでいた女学生たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げて行った。数人が空を指差して何かを叫んでいた。

 私が空を見上げるのと、空から黒い影みたいな細長い物体が落ちて来るのと、ごしゃり、とスイカを無理矢理割ったみたいな鈍い音がしたのはほぼ同時だった。

 それから世界は静かだった。

 私は閉じた目を恐る恐る開く。

 世界は呆れ返るように真っ赤だった。馬鹿の一つ覚えみたいに赤い絵の具一色で塗りたくりました、とでも言うように地面は、ただただ真っ赤だった。落ちてきたのは二メートルほどの長さの鉄骨だった。鈍色に光るそれは、私は悪くありません、とでも言いたげに、影と同じ色をしていた。その下に、無垢な少女を下敷きにして。

「四季ちゃん! 大丈夫っすか⁉︎」

 呼ばれて顔を上げると、不安と恐怖で顔をこわばらせたきな子がいた。

「私は、大丈夫……だけど、メイは」

 私が言うと、きな子は答えづらそうに目を逸らした。その後ろで夏美も突っ立っているのが見えた。夏美も、何も言いたくなさそうだった。

 鉄骨は重くつめたく、その下からとろとろと樹液でも漏らすみたいに赤色の液体を流していた。メイの頭はスイカ割りのスイカみたいにぐちゃぐちゃに破裂していた。私はメイを護ることができなかった。

 私は気がついたら走り出していた。後ろできな子と夏美が何か言った気がしたけど、振り返らなかった。周囲にできた人だかりを掻き分け、パトカーと救急車のサイレンの音に耳を塞ぎ、ただ走った。

「メイ……ごめんメイ……私の、私のせいでっ……」

 走りながらこぼれる独り言は、誰に対する贖罪なのかも分からなかった。ただ「ごめん」と、何度も私はそう言った。涙が溢れて止まらなかった。

 やがて私は結ヶ丘女子高等学校に着く。正門を抜けて、走って、昇降口を抜けて、また走って、廊下を突き当たって、階段を駆け上がる。

 息を切らしてそこに飛び込むと、白い後ろ姿がゆっくりと振り向いた。

「……失敗、みたいだね」

 シキは起伏のない声でそう言った。私はシキには構わないまま、科学室の隅に置かれたタイムリープマシンの前に来る。ヘッドホンをつけて、時間を今日の夕方に合わせる。

「あなたがやり直す限り、私も付き合うよ。だってあなたは過去の私だからね」

 私は背中から聞こえる声に振り向かない。時間は今日の夕方を指した。飛ぼう。もう一回。

 私は装置の真ん中のボタンを押す。電流が装置の中心を走り、バリバリと焼けるような音がして、次に重力が無くなる。激しい眩暈が襲い掛かり右も左も上も下も分からなくなる。

「…………待ってて、メイ、今行くから」

 そして白い落雷みたいな電流が網膜に焼き付いて、私の記憶は再び、時を越えた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「四季、しーき!」

 耳に手を当てた時の砂嵐みたいな音がしていた。薄い膜一枚隔てた時みたいなこもった音が遠くから聞こえるようで、私は私の名前を呼ぶ声の方へ意識を向けた。だんだん解像度が高くなっていく。声がはっきり聞こえてくる。目も見えるようになってくる。

「おい四季、今日掃除当番じゃないだろ」

 ふと頭上から声が聞こえて、顔を上げるとそこには腰に手を当てたメイがいた。

「め、メイ……」

「ん? どうしたんだよ四季、幽霊でも見るみたいな顔して」

 メイは私の顔を見て苦笑してそう言った。きっと私は、ひどい顔をしていたのだろう。

「で、四季、今日掃除当番じゃないだろ?」

「そ、そう、だけど……」

 私がやっとこたえると、メイは歯を見せてにっと笑った。あぁ、メイが生きてる。メイが、生きてる。そのことが私の胸をいっぱいにした。今度こそ、必ず護ってみせる。

「だよな、ほら、部活行こうぜ」

 メイは後ろ手に鞄を下げていて、いつでも行ける様子だった。私たちの席は教室の後ろの方で、そこは人の出入りが激しかった。がやがやと騒がしく人混みが流れていた。

「あ、待つっす〜!」

「待つですの〜!」

 元気な声がして振り向くと、そこには部活のメンバーの、きな子と夏美がいた。二人とも、明るい顔久しぶりに見たな、と私は思い、それがこの世界の出来事ではないことに気づいてその気持ちをそっとしまう。

「二人とももう部活行くっすよね! きな子たちも一緒に行きたいっす〜!」

「夏美もLiella!の日常風景を撮影しながらお供しますの〜」

「やーめーろ」

 夏美が取り出した自撮り棒とスマホをひょいと片手で取り上げながらメイは言う。

「あ〜返すですの〜!」

 夏美はメイからスマホを取り返そうとしていたが、メイがくるくる動くから夏美はメイの周りを回りながらしまいには目を回していた。

「ふふん、まだまだだな、夏美」

 メイは得意そうに鼻を鳴らしていた。その自慢げな笑顔のメイを護りたいと心から思った。私は気がついたら、メイの手を取っていた。

「私と一緒に来て、メイは私が護る」

「はぁ? 何の話だよ、お前なんか変だぞ、そもそもこれから部活じゃねーか」

「いいから、来て」

「ちょっと、四季っ……」

 私は思いっきり怪訝そうな顔をするメイの手を取って、走り出す。夏美ときな子が後ろで何か言った気がしたけど、私はそれどころじゃなかった。おもてに出ると生暖かい夏の空気が手足に絡みついて心地悪かった。

 談笑しながら帰る生徒たちの合間を縫って私たちは駅まで走った。どうすればいいのかなんて分からなかったけれど、とにかく遠くに行こうと思った。ここにいたらメイは死んでしまう。だからなるべく遠くに行けばもしかしたら……そう思った。

 駅の改札にメイを押し込んでから、私もICカードをかざして中に入る。メイはまだ何が何だか分からないという顔で私を見ていた。

「おい、四季、何の真似だよ」

「後で説明する、今はまず、電車に乗ろう」

「はぁ? どこ行くんだよ、こんな時間から」

 メイの疑問はもっともだったろう。部活に行く途中にいきなり駅に連れ出されたら、誰だってそう思うはずだ。ただ今は全てを説明するだけの時間の余裕も心の余裕もなかった。

「後で説明するから、今はついてきて」

 私が必死にそう言うと、メイは切迫した感じを汲み取ってくれたのだろうか、ため息をついてから短く頷いた。

「約束だぞ、後で絶対説明してもらうからな」

 メイはそれだけ言うと、もう私に従ってくれるようだった。私はメイの手を握り、足早に歩きながらホームの方へ歩いて行った。

 駅のホームは帰宅する学生や社会人でごった返していた。私たちがそこに着くなり構内にアナウンスが流れて隣の三番ホームに電車が来るらしかった。

 行く宛はなかった。とにかく遠くに行こうと思った。都会だから危険が多いのであって、遠く離れてしまえばもしかしたら大丈夫かもしれない。そんな一縷の望みを私は抱いていた。

 やがて電車がホームに滑り込んでくる。人が吐き出されて、入れ替わりに人が吸い込まれる。私たちも手を繋いだままその流れに乗る。

 電車は当たり前だけど混んでいて、座れるところはなかった。私たちはドアの端の方で固まってじっとしていた。ふとドアに『痴漢注意』と『不審者注意』を促すシール状の貼り紙が目に入った。

 私は目の前のメイを見つめる。メイは今の状況がよく分からないとでも言うように目を泳がせていた。

 繋いだままの手があたたかかった。このぬくもりを離したくない、護りたいと、心から思った。

「四季、ちょっと、痛い」

 メイが小声で言ってきて、そこで初めて私は自分が握ったメイの手に力を入れすぎていたことに気づく。

「ごめん、メイ」

「ほんとに大丈夫か? 顔色悪いぞ」

 メイは私の顔を心配そうに覗き込みながら言った。

「ううん、私は大丈夫」

 私がこたえると、メイはあまり信じてなさそうにこちらを見た。

 それから電車はいくつもの駅に停まり、その度に人は入れ替わり、そしてだんだんと少なくなってきた。私たちは一度電車を乗り換えた。電車はいつの間にか東京ではなく、神奈川を走っているようだった。

 私たちは空いていた席に二人並んで腰かけた。クッションはごわごわしていて、指で触れると静電気をわずかに感じた。窓の外はまだ明るいけれど、なんとなくもうすぐ夕方になりそうな気配がする。

「なぁ、そろそろ話してくれてもいいんじゃないのか」

 メイが私に声をかけてきた。私も隣のメイを見つめ返す。

「四季は、一体何を隠してるんだ?」

 メイの群青が私を見据えていた。私は言葉に詰まり、何も言えなくなる。

「ひょっとして、海見たかった、とかか? それなら今日じゃなくても夏休みに行けばよかったのに」

 メイは首を傾げながらそう言う。

「まぁ、私は四季が言うならいつでも付き合うけどさ」

「…………」

「もし四季がよかったらさ、今度二人で海見に来ようぜ、晴れてる海は綺麗だろうから」

「……うん、私も」

 照れくさそうに笑うメイを見て、私もそうこたえていた。私はそれでふと思った。

 もしかしたらメイはこのまま死なないかもしれない。死んでしまうというのは杞憂で、メイはこのまま生きていて、全部私の思い過ごしかもしれない。そうだとすればメイにあなたはこれから死ぬの、なんて馬鹿げた話をするのはおかしいんじゃないか。

「メイ、あのね、実は────」

 ピリリリリリリリリ!

 私が口を開こうとしたその時、甲高いアラーム音が鳴った。その音にも聞き覚えがあった。メイのポケットのスマホから音は鳴っていた。メイは慌てた様子でそれを取り出して止める。

「おっかしいなぁ、こんな時間にアラームなんてセットしてないはずなのに……」

 私は一気に背筋が冷えていくのが分かった。そんなはずはない、と思いながらも、目の前でそれは起こっていた。

『次は、新松田、新松田です。御殿場方面にお越しのお客様はお乗り換えです。お出口は左側、降りましたら黄色い点字ブロックの内側をお歩きください』

 電車内にアナウンスが響く。あまり聞かない名前の駅名ばかりだった。

 電車は高い音を立てて徐々に速度を緩めていく。いくつもホームのある大きな駅が現れて、そのうちのひとつに電車はぴたりと収まる。

 私は行く宛もなかったし、これに乗ったまま行こう、と思っていた。扉が間の抜けた音を立てて開いて、何人か降りていく。乗ってくる人は誰もいなかった。

 ふと、ホームの中央に設置された濃い青色の椅子に黒いローブ姿の人がいるのが見えた。

「…………?」

 その人をどこかで見たことのある気がしたけど、なぜそう感じたのか私はさっぱり思い出せなかった。その人は俯いたような姿勢で、ぴくりとも動かなかった。

「四季? どうした?」

「いや、なんでも……ただ、あの人……」

 私は言いながら、もう一度ホームを見る。そこにはさっきと同じ姿勢の黒いローブの人がいる、さっきと違うのはその手がこちらを向いていること、そして遠目からでも分かる、その手に黒い拳銃が握られていること。

「逃げて! メイっ!」

 私は叫びながら立ち上がってメイの手を取って連れて行こうとする。メイは困惑して座ったままでいた。

「どうしたんだよ四季、やっぱお前おかしいぞ」

「いいから……早く逃げ────」

 て。と言おうとして、タァンと火薬の弾ける音が電車内まで響いた。私は握ったメイの手の抵抗がなくなるのを感じた。

 私が振り向いたのと、同じ車両にいた女性が叫ぶのと、電車の扉を閉める場違いなアナウンスが聞こえたのは、ほぼ同時だった。

 メイの頭は形は残っていたけれど、血でできた水風船を投げつけた後みたいな座席の上で、脳漿がべちゃべちゃに垂れていた。鉄錆のようなすえた匂いがして私は一気に吐き気が上がってくる。メイは、ぴくりとも動かなかった。私はそのままうずくまって地面に吐いた。

『扉が閉まります、ご注意ください』

 叫び声は伝播していった。さっきまで静かだった電車内は今や混乱と絶叫の渦だった。電車はゆっくりとホームを去っていく。私は地面に転がるメイを見ていて、はっとして窓の外を見る。

 黒いローブのそいつは、まだそこに佇んでいた。右手に構えた銃を胸元にしまうのが見えた。

「…………許さない」

 私は呟いて、奥歯をぐっと噛む。お前が誰であろうと、なんの目的であろうと、メイを殺すことは許せない、絶対に許さない。そう思った。

 私とメイ以外誰もいなくなった車内で、私はメイの血まみれの頬に触れる。まだわずかにあたたかく、手触りはぬるりとしていた。

「ごめん、次は必ず、助けるから」

 私は泣かなかった。早く、はやく学校に戻ってタイムリープマシンを。

 その気持ちだけだった。

 ひどく蒸し暑い夜が、始まろうとしていた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「四季、しーき!」

 タイムリープをするのはこれで何度目だろうか。何度目かも分からない『今日』を繰り返して、私は夢を見ているみたいな心地だった。ぼんやりする意識の中、私を呼ぶ声が聞こえていて、徐々に目が覚めてくる。話し声や歩く音が聞こえる。今回も、無事に飛べたらしい。

「おい四季、今日掃除当番じゃないだろ」

 ふと頭上から声が聞こえて、顔を上げるとそこには腰に手を当てたメイがいた。私は何も言えずにメイを見ていた。メイの身体が潰れていたり、メイの頭が赤色を吹いているのだったり、を思い出して、どうすればいいのか分からなかった。

「ん? どうしたんだよ四季、そんな難しい顔して」

 メイは私の顔を見て苦笑してそう言った。きっと私は、ひどい顔をしていたのだろう。

「で、四季、今日掃除当番じゃないだろ?」

 掃除当番。あぁ、そういえば、そんなのもあったっけ。なんだかずいぶん昔のことな気がして私はため息が出てしまいそうになる。

「メイ」

「なんだよ」

「私についてきて」

「はぁ? 何いきなり、それにこれから部活じゃねーか」

 私は言うと、鞄を引っ掛けてメイの手を掴んだ。走り出すと後ろからきな子と夏美の声が聞こえた気がした。人が行き交う廊下をすり抜けて、階段に着く。そこで、ふと、前の世界でシキに言われたことを思い出した。

『護身用、何かあったら使って、今後の世界ではタイムリープマシンと一緒に置いておくから持って行きなさい』

『色々と命を狙われることもあると思うから』

 そう言ったシキは真剣な顔をしていた。私は思い立って、メイの手を離す。振り向くとメイは困惑したような顔をした。

「お、おい、四季……」

「ちょっとだけ待ってて、すぐに戻るから」

 私はそれだけ言うと、階段を駆け上がる。そのまま走って廊下の突き当たりにある科学室に飛び込んだ。

 そこはいつも通りだったのだけれど、私は何かが違うことに気づいた。なんとも言えない苦い匂いがしていて、それは科学室特有の匂いとは別物だった。

 床に何か落ちていたので拾い上げる。それは、踏み潰されて消されて先の黒ずんだ煙草だった。その匂いには覚えがあった。

「…………シキ」

 もう来てるんだ、と思った。私は部屋の隅で沈黙しているタイムリープマシンの前まで来て、その周囲を探る。シキの言葉通りならそれはここにあるはずだった。

「……あった」

 その機械の後ろに沿うように、黒い凶器はじっと身を潜めていた。持つときゃべつ半分ほどの重さがあった。私はそれを鞄に放り込んでまた急いで駆け出す。

 階段を降りていくと、さっきと同じ場所にメイが居心地悪そうに立っていた。

「メイ」

「し、四季」

「私と一緒に来て、お願い」

「はぁ? 何の話だよ、そももそも一緒に行くってどこに」

「いいから、来て」

 私は思いっきり怪訝そうな顔をするメイの手を取って、走り出す。私はメイの様子を確認する余裕もなかった。おもてに出ると生暖かい夏の空気が手足に絡みついて心地悪かった。

 談笑しながら帰る生徒たちの合間を縫って私たちは駅まで走った。さっきは南に逃げてダメだったから、今度は北に行けるところまで行ってみようと思った。行く宛なんてなかった。

 駅の改札にメイを押し込んでから、私もICカードをかざして中に入る。メイは、つい数時間前そうであったように、まだ何が何だか分からないという顔で私を見ていた。あぁでも数時間前って、あなたは覚えてないんだっけ。

「おい、四季、何の真似だよ」

「いいから……いいからっ! 早く電車に乗ってっ!」

「どうしたんだよ四季、ほんとに変だぞ」

 メイはそう言ったけれど、私には時間の余裕も心の余裕もなかった。

「早く! お願い……」

 私が必死にお願いすると、メイは小さくため息をついて頷いた。

「分かったよ、でも後で絶対説明してもらうからな」

 私はメイの手を握り、足早に歩きながらホームの方へ歩いて行った。

 駅のホームは帰宅する学生や社会人でごった返していた。

 私たちは埼玉の方を目指した。理由はなかった。ただここから遠ざかりたかった。

 電車は当たり前だけど混んでいて、座れるところはなかった。私たちはドアの端の方で固まってじっとしていた。ふとドアに『痴漢注意』と『不審者注意』を促すシール状の貼り紙が目に入った。

「四季、大丈夫か? 顔色悪いぞ」

 メイは私の顔を心配そうに覗き込みながら言った。

「ううん、私は大丈夫」

 私がこたえると、メイはあまり信じてなさそうにこちらを見ていた。

 それから私たちは二度ほど電車を乗り換えた。電車はいつの間にか東京ではなく、栃木を走っているようだった。

 私たちは空いていた席に二人並んで腰かけた。窓の外はまだ明るいけれど、なんとなくもうすぐ夕方になりそうな気配がする。なんだかずっと夕暮れの中にいるような心地だった。終わることのない、抜け出せない、夏の夕暮れ。

「なぁ、そろそろ話してくれてもいいんじゃないのか」

 メイが私に声をかけてきた。私も隣のメイを見つめ返す。膝の上に置かれた鞄の中身がかたかた鳴った。

「四季は、一体何を隠してるんだ?」

 メイのその声にも、訊き方にも、覚えがあった。さっき別の時間軸でも、あなたはそう私に訊いたんだよ。

「この辺だったら餃子とか、温泉とかあるよな、ひょっとして、そういうのに来たかったのか? それなら今日じゃなくても夏休みに行けばよかったのに」

 メイは首を傾げながらそう言う。

「まぁ、私は四季が言うならいつでも付き合うけどさ」

「…………」

「もし四季がよかったらさ、いつか二人でこの辺旅行に来ようぜ、四季とだったら楽しいだろうな」

 そう言って照れくさそうに笑うメイを見て、私は何もこたえられなかった。私はふと思った。これ以上、隠す必要もないだろう、と。

「……メイ、あのね、私、あなたを助けに来たの」

 口が滑るように話していた。そろそろ、メイにも本当のことを伝えたかった。

「助けるって、何を?」

「それは、メイがこれから死────」

 ピリリリリリリリリ!

 甲高いアラーム音が鳴った。メイのポケットのスマホから。それはまるで、焼き増したフィルムの映像を見ている気分だった。

「おっかしいなぁ、こんな時間にアラームなんてセットしてないはずなのに……」

 私は一気に全身が緊張する。もう誰にもやらせない。ここで護りきってみせる。

 電車は高い音を立てて徐々に速度を緩めていく。ゆっくりになっていく景色に焦点を合わせる、その景色がじわりじわりと近づいてくる。そこにあいつが、いた。

 ホームの中央にぼんやりと突っ立っているのは、黒いローブ姿の長身の人。それは前の時間軸でメイを殺したあいつに違いなかった。

 電車がホームに停止する位置に近づく。私は鞄を開いて、その中にあるそれのつめたい持ち手をしっかり握る。手が震えていた。今から自分がしようとしていることが、恐ろしくて仕方なかった。

 電車が止まる。扉が開く。人が吐き出されていく。入ってくる人はいない。あいつが胸元に手を入れる。取り出された黒い銃口がこっちに向けられて。

「四季? どうしたんだよ」

「メイ! 伏せてっ!」

 私は言いながらメイを突き飛ばすと、鞄から銃を出して構える。メイが小さく悲鳴を上げる。そして、窓越しにあいつを狙い、躊躇なく引き金を引いた。一発、続け様にもう一発、二発。

 銃声よりもガラスの割れる音の方が大きかった。銃弾の当たったところから窓ガラスは円形にヒビが入り、一瞬遅れて粉々に砕けた。同じ車両にいたOLらしき女性が私を見て何か叫びながら一目散に逃げて行った。

「……あいつは」

 私は呟きながら、割れたガラスの向こうを見つめた。あいつはホームで膝をついて、おそらくだけど左肩から血を流しているようだった。黒いコンクリートに赤い染みができていく。

「ねぇ、メイ、もう大丈夫、こっちに────」

 来ていいよ、と言おうとして、その声はタァン、という軽くて重い音にかき消された。

 私が振り向いたのと、電車の扉を閉める場違いなアナウンスが聞こえたのと、銃声が響いたのは、ほぼ同時だった。

 メイの頭は後頭部から割られたように綺麗に血が噴き出していた。地面には水溜まりみたいに血が広がり、冗談みたいにメイはうつ伏せでぴくりとも動かなかった。

 ふとメイの後ろを見ると、その先の車両にもう一人、別の長身の黒いローブ姿の人が歩いていくところだった。

 私はそいつを追いかける。許せなかった。私のローファーには血がべったりついていて、歩くとねちゃりとしたし、赤色の靴形がついた。

「待て!」

 私が隣の車両に銃を構えたまま押し入ると、左右の座席から悲鳴が上がった。長身は背中を向けたまま立ち止まった。

「私は、お前を許さない」

「……若菜四季」

 私が言うと、長身は振り向いて、あろうことか私の名前を呼んだ。

「我々の目的はただ一つ……過去の保存、即ち米女メイの抹殺、邪魔だてするなら、貴方も敵と見做します」

 その声は女とも男とも取れる歪な声で、おそらく変声機を通じているのだろう、少し機械っぽい声だった。

「お前たちは、誰? どうしてメイを狙うの?」

「……こたえる必要はありません」

 長身はそれだけ言うと、また踵を返して向こうに歩いて行った。

「ま……待て!」

 私はもう一度銃を構え直して、声を張り上げる。長身は今度は止まらなかった。

「あぁ、そうだ」

 さらに隣の車両に移る間際、長身は振り返って私に言った。

「ここ公共交通機関だから、そんな物騒なもの振り回してたら捕まりますよ?」

 長身が私の後ろを指差すと、そこにはドア越しにすでに駅員と警官らしき姿があった。

「では」

 長身はそれだけ言うと歩いて去って行った。私は呆然としたままそこに取り残された。

 メイを、私はまたしても護ることができなかった。その哀しみと、絶望に私はただ怯んだ。早く、タイムリープマシンまで戻らなきゃ、もう一回、やり直さなきゃ。

「おい、そこのお前、手を上げろ」

 そう思って、ふらふら電車を降りようとしたところで、声をかけられた。

 振り向くと、体格のいい男二人がこちらに銃を向けていた。服装から、警官だとすぐに分かる。

 まずい。

 と思った。私は今銃を持っている。冷静に考えなくても、これが法律違反であることは分かる。それに電車の窓を壊したのは私だ。言い逃れできない罪が、いくつもあった。

 ただ、捕まることが問題なのではない。今のこの状況においてはタイムリープマシンまで辿り着けなくなることが問題だった。タイムリープマシンまで行くことができれば、私の罪はそもそも無かったことになる。ならば私が今やるべきことは、ひとつしかなかった。

「おい、聞いてるのか」

 警官のうち一人が怖い声で話しかけてくる。私はそれを見て、幸いまだ右手に握られたままになっている銃を思いっきり地面に向けて、引き金を引いた。

 コンクリートの削れる甲高い音がして、警官たちは怯み、手に持った銃をわずかに緩める。

 私はその隙に走り出す。幸い私のすぐ近くに階段があり、逃げやすかった。流行りの広告が立ち並ぶコンコースを抜けて、改札は、ICカードをかざす余裕もなかったから飛び越えて抜けた。全てはこの世界をリセットするために。

 駅を抜けると、すぐそこはバスの停留所になっていた。少し遠くで、タクシーが列になって並んでいる。

 私はどうやって高校まで戻ろうかを考えた。もう公共交通機関は使えない。お金もないからタクシーもアウト、ヒッチハイクは、今から行うには遠すぎるし無理があるだろう。

 そうこう考えていると、さっき撒いた警官が駅から出てくるのが見えた。気づかれるのも時間の問題だろう、と思い、唇を噛みながらとりあえずここを離れようと走り出そうとした。

 その時だった。

 駅前のバスとタクシーばかり並ぶ道に相応しくない、黒のスポーツカーが優雅に滑り込んできたのは。

「Any problem?」

 その窓が開いて、やたら流暢な英語が聞こえた。馴染みのある声だった。ついでに煙草のニコチンとタールの強そうな匂いも。向こうで、いたぞ、急げ! という声が近づいてくる。

 私は考えるより早く、その車の助手席に乗り込む。

「追われてるの、助けてくれない」

 私が短く言うとサングラスをした運転手は相変わらず不味そうに煙草を吸っていた。

「オーケー、ちょっと揺れるから、その辺に掴まってなよ……Do you understand?」

「Of course.」

 私がシートベルトをしているうちに、車はすごい急旋回をして車道に飛び出た。

「シートベルト、しないと捕まるよ」

 私が言うと、青髪ロングの彼女は携帯灰皿に灰を落として煙を吐いた。していたサングラスを窓から投げ棄てる。

「いいのよ、どうせこの世界にももう用事はないんだから」

 シキのつめたい声が、夜の宇都宮の飲み屋ばかりの通りに紛れて消えて行った。

「……どうして、知ってるの」

 私がシキを見て訊くと、シキはまるでこっちを見ずにアクセルを踏み込んだ。

「伊達に未来から来てないから、よ」

 窓を開けたままだったから、風が吹いてシキの髪を後ろに靡かせた。時々耳のピアスが覗いた。シキのそのピアスだけが、私とこの人を繋ぐ標であるように思えた。

「さっき、黒いローブの人たちに襲われたの。一度だけじゃない、前回も、ずっと前にも同じことはあった。あいつらはメイを殺すのが目的だと言っていた。一体、何者なの?」

 私があったことをかいつまんで話して訊くと、シキは無表情のままだった。じっとその横顔を見ていると、観念したようにシキはため息をつく。

「……やっぱりあいつらとは闘わなきゃならないのね」

「あいつら……?」

 シキは遠くを見るような目で、そう口にした。ぬるい夜気が車内に滑り込んでくる。

「教えて、あいつらって、誰なの」

「あいつらは、私と同じ、未来からやって来ている奴ら。政府によって組織された過去保全主義者による時間超越特殊部隊、通称────クロノ・ダイバー」

 シキは面白くなさそうに続けた。

「人を一人生かすか殺すかだけでも、未来には多大な影響が出る……バタフライ・エフェクトって知ってるでしょう」

 私は声には出さずにこくりと頷く。

「それを危惧して過去には特例事項を除いて干渉してはいけないとされているの、タイムマシン開発も政府の管理下で行われていたし、ましてや使用なんて以ての外だった。現存するタイムマシンは全て政府の管理下にあるとされているわ」

 シキは夜空に浮かぶ消えかけの星みたいにぽつりぽつりと話した。シキのその唇や、視線や横顔が哀しみに満ちていると思うのは、たぶん気のせいでもなんでもなかった。

「でも……じゃあどうしてシキはここにいるの」

 私は至極まともに疑問に思ったことを聞いた。車内を沈黙が包み、赤信号に突き当たり止まる。

「……それは、私が決まりより何より優先するものがあったから。私が何の目的で来たか、忘れた?」

 シキが言うと信号は青に変わり、ゆっくり車は進み始めた。私は、未来の自分の信念の強さを思い知って、それが自分自身であることに言いようもない戸惑いを覚える。でも、自分も確かに同じ気持ちだった。

「何としても、メイを助ける。それだけ」

「あなたなら分かるはず、私がどんな気持ちでこの時代にやって来たか」

 ごちゃ混ぜのネオンが、耳障りな喧騒が、私の肩を通り過ぎて行った。さっき法律を犯してまでメイを助けたかったことが思い出され、政府を裏切ったシキの気持ちが分かった気がした。

「…………シキ」

「ん」

「急ごう、メイを、助けに行かなきゃ」

「……そうね」

 私たちはそれから、一言も話さずに結ヶ丘女子高等学校まで戻ってきた。

 ひどくぬるい夜だった。

 科学室に白い稲妻が走って、そして静かになった。

 ねぇ、メイ、待ってて。

 私が、何回だって、あなたを助けに行く。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三章 - WE WILL!!

「にしても、千砂都先輩も粋なことしてくれるよな」

「夏美もそう思うですの〜、これでLiella!の新規生の日常風景盗撮計画が捗りますの〜」

「だから盗撮って言っちゃダメっす……」

「ん? おい四季、なんで立ち止まってんだ」

 目眩が収まり、平衡感覚と視覚が戻ってくると、メイが私を覗き込んでいた。私の手には学生鞄が提げられていたのだけれど、それを地面に投げ捨てて思わずメイに抱きつく。

「メイ……メイっ!」

 いきなり私に抱きしめられたメイは、あたふたしているらしかった。

「ちょっと、四季! ここ外だぞ! 離れろって!」

 言われて周りを見てみると、きな子や夏美はおろか、通行人の女子たちまで黄色い歓声を上げていて、それもそのはず、ここは歩行者専用通路のど真ん中だった。私はいそいそとメイから離れる。

「ごめん、メイ……」

「全く、今日の四季なんか変だな、熱でもあんのか?」

 メイは言いながら冗談半分、本気半分といったように苦笑して私を見ていた。

 陽はさんさんと照りつけ、私は喉が渇いているらしかった。ここは、夕方手前の原宿だ。今日は部活が終わるのが早かったから、一年生で遊びに来たのだった。これももう、何回目だろうか。通りをすぎる制服姿の女子の手のクレープやアイスクリームの色合いさえ、私はもう覚えてきてしまっているようだった。

「あ、メイちゃん、あのお店メイちゃんが好きそうっすよ」

 ふときな子がそう言った。きな子の指差す先を見ると、そこにはスフレパンケーキ専門店があった。

 私は胸がどくりと大きく脈打つ。そこは、いつだったか、私がメイたちの行動を逸らすために提案したあのお店だった。その時は私がここに行こうと提案したはずだが、この世界では違うのだろうか。ひょっとしてさっきの私の何気なく足を止めたのだけで、きな子の行動が少し変わってしまったのだろうか。

 ────バタフライ・エフェクト

 夜の科学室で、シキは呟いた。私はタイムリープマシンのヘッドホンをつけようとしていたところで、後ろから言われた言葉に驚いて振り向いた。

「この世界では、事象は収束するの」

 シキは煙草を科学室の綺麗な机に擦り付けると、地面に放る。

「例えば、メイが死ぬという事象があったとして、その手前の過去を少し変えたとする。でも世界はその事象に向けての進み方が変化するだけで、結果には変わりがない」

「…………」

「ただ、逆もある。それがバタフライ・エフェクト。これは過去のわずかな変化が未来に大きな変化をもたらすケースね」

 私は黙ってシキの話を聞いていた。科学室に差し込む月明かりも、もう何度見ただろう。

「要するに、過去改変って何が起きるか分からないの。だから行動がひとつ違うだけで全く違う結果が得られるかもしれない」

 シキは言いながらまた胸ポケットから煙草のケースを取り出す。

「私も色々試したけど……どれも思うようにはいかなかった。でも、あなたなら、と、そう思ってる」

 煙草をひとつ咥えてライターを擦る。一度、二度。火はつかなかった。

「…………切れた。ライター持ってない?」

 シキが訊いてくるので私は呆れてため息を吐く。我ながらえらいヘビースモーカーに育ってしまったものだ、と思いながら。

「ここ、科学室なのでそこら辺のガスバーナーでも使ってください」

 私が言い放つと、シキは不満そうにライターを後ろに放り投げた。

「では、行ってきます」

 私は言って、ヘッドホンをつけた。

 それが今から、時間で言えば六時間後、私の体感で言うなら三十分前の出来事だった。

「あそこは最近SNSでバズってたスフレパンケーキ専門店ですの、あそこでLiella!が食事をすれば相乗効果で人気アップが期待できますの〜!」

きな子の隣にいた夏美がそう言った。私は暑さのせいか、この同じ台詞を何度も何度も聞くという異常な状況のせいか、少し目眩がしていた。喉も乾いている。みんなで列の最後尾に並ぶ。だめ、ここも、この先はだって────。

 私が頭上を見上げたら改修工事をしているビルが見える。それは黒い影絵のように夏の空気にゆらゆら揺れている。

 店先にいるだけで、果物と砂糖と蜂蜜の混ざった甘い匂いがしてきた。パンケーキの生地を焼いているらしい香ばしい匂いも、もうこれで何回目かを数えるのも私は疲れていた。ふと、もう何十時間も寝ていないことに思い至る。でも、よく考えれば記憶だけを過去に飛ばしているのだから、身体は過去のものだろう。なんだか人間なのに人間ではないような気がしてしまって、私はおかしくもないのに笑ってしまいそうになる。

「いい匂いっすね〜、メイちゃんもこういうお店好きっすよね!」

「わ、私は別に……ま、まぁちょっとは気になるけどな」

「またまた、そんなこと言ってますの〜」

 みんなの会話も、聞いたことのある言葉ばかりで私は疲れていた。次に誰が何を言うか、大体は覚えてしまった。そして最期に起こることも。

 私は鞄に入っていたスポドリを取り出して一口飲む。人混みの暑さも、喉の渇きも何度繰り返しても変わらない。

 列は最初いいペースで進んでいたのだけれど、半分を切ったくらいで急に進みが遅くなった。これも、経験した通り。ギリギリ日陰に入れない位置で、直射日光が私たちの肌を容赦なく焼くのも、そう。

「あっつ……これ以上ここにいたら死んじまうぞ……」

「これはきな子たちがパンケーキになるのが先っすね……」

「夏美は食べるのは好きだけど食べられたくはないんですの〜……」

 やっとのところで立つのをキープしている三人を見ながら、私はこれから先に起こることを考えていた。

 そろそろ時間だ。

 この先、私たちの頭上高くから鉄骨が落ちてくる。そして、その時ちょうどその真下にいたメイが下敷きになって死んでしまう。何度見たか分からないメイの死に様がまぶたの裏に焼き付いて離れてくれなかった。

 頭上の青空がビルで切り取られている。あのうちのひとつから殺意が落ちてくる。私は、もうどうしていいのか分からなかった。

 列は全然進まなかった。きな子も夏美もメイも、直射日光に晒されて怠そうにしている。これから先にメイが死ぬなんて、夢にも思わないで。

 ピリリリリリリリリ!

 隣で、甲高いアラーム音が鳴った。

「おっかしいなぁ、こんな時間にアラームなんてセットしてないはずなのに……」

 メイの手に持たれたスマホから音は鳴っていた。メイは慌てた様子で止めるとそのままそれをポケットにしまった。

 私はもう、疲れていたんだと思う。

「メイ、こっちの方が涼しいから、場所変わってあげる」

「そうか……? うん、ありがとう」

 叫び声が聞こえたのは、その数秒後だった。

 最初は女の人の絶叫から始まる。それが水たまりに波紋が広がるみたいに、叫ぶ人が一人、二人と増えていく。

 そして一瞬のうちに。

 お店の前にできていた列に並んでいた女学生たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げて行った。数人が空を指差して何かを叫んでいた。

 私はそれを見なかった。全部分かっていたから、分かってしまっていたから。

 もう手遅れなはずだった。馬鹿な考えだと思う。メイの代わりに私が死ねば、なんてこんなの。

 私は繰り返す時の流れに、もうすっかり疲れていた。誰もが同じ道を、同じ歩幅で、同じ足の動きで、同じ手の動きで、同じ台詞で、同じものを持って動いている。狂った映画でも観ているような気分だった。

 ────メイ、幸せになってね

 私はそう思い、今度こそ目を閉じた。黒い影が近づいてきているのが最期に見えた。

「危ない! 四季ちゃんっ!」

 私が、備えていた体勢ごと押し飛ばされるのと、目の前で黒くて細長い物体が落ちてくるのと、ごしゃり、とスイカを無理矢理割ったみたいな鈍い音がしたのはほぼ同時だった。

 私は何が起きたのか理解できず、体勢を整えて目の前の状況をよく見る。そこには鉄骨が落ちてきている。鈍色に光るそれは、まるでこちらに無関心に転がっていた。そしてその下から、赤い液体が広がってきていた。じわり、じわりと絵筆に水を含ませたペンを紙に垂らした時のように、ゆっくりと広がってきていた。でも、その、下にいるのは、もしかして。

「四季! 大丈夫か⁉︎」

 呼ばれてはっとする。顔を上げた私の先には、メイがいた。

「メイ……どうして」

 目の前の光景が信じられなくて私は何度も瞬きをする。目を強く擦ってみても、やっぱりそこにメイはいた。しかも、生きて。でも、では、鉄柱の下敷きになっているのは……

「────っ、きな子と、夏美は⁉︎」

 私が突然叫ぶので、メイはびくりと肩を震わせる。その後ろで夏美も肩を震わせてこちらを呆然と見ていた。

 私はようやく歩いて、鉄骨に近づく。その下で頭部をスイカ割りみたいにぐちゃぐちゃにされているのは、淡い栗色の髪の少女で、ここにいたはずの人であることを考えれば、その人が誰であるかなんて簡単に分かった。

「…………きな子、どうして」

「四季、あんまり見るなっ……」

 私がふらふら近づこうとするとメイが制した。どうして、メイは死ななかった、なのになんで、きな子が代わりに死んでしまうのだろう。なんで、どうして、私。

 私は気がついたら走り出していた。後ろでメイと夏美が何か言った気がしたけど、振り返らなかった。周囲にできた人だかりを掻き分け、パトカーと救急車のサイレンの音に耳を塞ぎ、ただ走った。

「なんで……なんで……なんでなんでなんでっ!」

 走りながらこぼれる声は、もはや絶叫と言った方が近かった。道ゆく人たちが私を好奇の眼差しで見ていた。でも私は、そんなの気にせず叫び続けたし走り続けた。

 やがて私は結ヶ丘女子高等学校に着く。正門を抜けて、走って、昇降口を抜けて、また走って、廊下を突き当たって、階段を駆け上がる。

 息を切らしてそこに飛び込むと、白い後ろ姿がゆっくりと振り向いた。いると思った。私は声には出さずに口の形だけで呟く。

「…………また、メイは助けられなかった?」

 シキは起伏のない声でそう言った。私はシキのいる方に向かって歩く。これは、どういうことなのか、シキには訊きたかった。

「メイは、生きてるよ」

 私が言うと、シキのぼんやりしていた瞳に明確に色が灯り、私を見つめた。今まで見たことのない生気に溢れた目だった。

「どういうこと、説明して」

「メイが鉄骨の下敷きになって死ぬ世界で、その位置に私が立ったの。そしたらきな子が私を庇って……メイではなくきな子が死んだ」

 シキは私の発言を聞くと考え込むように手を顎に当てた。科学室は少し薄暗くて下を向いたシキの顔はよく見えなかった。

 私とシキの間を、静寂が支配した。時間が止まったみたいだった。もっとも我々は時間を越える人間である訳だが。

「…………まぁ、いいんじゃないの」

 おもむろにシキが口を開いてそう言った。その声は静かな科学室によく響いた。

「え?」

 私は何を言われたか分からず、頓狂な声を上げてしまう。今なんて言った?

「だから、メイが生きてるならいいんじゃない、って言ったの」

 シキはこともなげにそう言った。それは底なしにつめたい声をしていて、私は背筋が粟立つのを覚える。

「よ……よくない、だって、きな子は死んでるんだよ」

 私が言うとシキは私を実験動物でも見るみたいな目で見て言った。

「でもメイは生きてる、それで十分では?」

 私は、何を勘違いしてたんだろう。

 そう言われた時に、思った。

 自分だから、分かってくれると思ってた。自分だから、協力してくれると信じていた。実際、今まではその通りになっていた。

 でも違った。

 私はタイムマシンもタイムリープマシンも作ったことはないし、物質圧縮なんて知らないし、車にも乗らないし、ましてや煙草は吸わない。目の前にいるこの人は、確かに若菜四季だけど、私とは別の人間だった。

「嫌だ……こんなの、私は」

 私はシキの脇を抜けて、科学室の隅に置かれたタイムリープマシンに向かい合う。ヘッドホンをつけて、時間を再び今日の夕方に合わせる。

「やり直すの、また」

「当たり前でしょ、私は誰も死なせたりしない」

「…………ふぅん」

 私は背中から聞こえる声に声だけでこたえる。行こう。もう一回、過去へ。

「つまり、きな子が死ななきゃいい訳ね」

 シキが何か呟いたけれど、私はヘッドホンをつけていたからよく聞こえなかった。

 私は装置の真ん中のボタンを押す。電流が装置の中心を走り、バリバリと焼けるような音がする。もう何回目か、数えるのも忘れた。次に足元が割れて重力が無くなる。激しい眩暈が襲い掛かり右も左も上も下も分からなくなる。私は歯を食いしばってその感覚に耐えながら呟いた。

「…………待ってて、今度こそ、みんな助けてみせる」

 そして視界が真っ白になった。意識がだんだん遠のいていって、私はまた、音も色もない時間の隙間に彷徨い落ちていった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 目を覚ますと教室だった。

 先生が授業終わりの号令をして、チャイムが鳴って、私たちは四人で部室に行くことになった。もう何度やったか分からないやり取り。

 しかし私はトイレに行くからと断って、科学室に行った。そこにある凶器をとりあえずポケットに突っ込んで、私は部室へと向かった。もう何回繰り返したか分からない動きだ。

 ほどなくして話し声が聞こえてくる。

「夏美のインフルエンサーパワーをフルに活用したLiella!日常風景盗撮計画が〜……」

「盗撮って言っちゃってるっす……」

「成功すればマニーががっぽり入るのですよ! それをLiella!の資金源にしてもっともっと人気を獲得しますの〜!」

 夏美ときな子の声だ。私は部室の扉をくぐる。窓は締め切られでいて電気もついていない静かな部室では、埃だけがきらきらと宙を舞っていた。

「先輩たち、まだみたいだな」

 奥の方でメイが言って、私はそれにはこたえずにそこまで歩く。メイはカーテンと窓を開けてそこから顔を出した。

「あちぃ……まだ夏になったばっかなのにこの暑さはなんなんだよ……」

 私はメイを、きな子を、夏美を、順番に見ていた。さっきの世界ではみんな絶望と苦悩に歪んだ表情をしていたけど、もう二度と、そんな顔させないと強く思った。

「こうも暑いし陽が長いと一日が長く感じるな。四季もそう思うだろ?」

 メイが窓辺に手を引っ掛けて腕と足を伸ばして逆さまに私を見て笑っているのが見える。赤いくせっ毛がぜんぶ逆さを向いている。でも私は、何もこたえることができなかった。

「どうした四季、調子悪いのか?」

 メイが私を覗き込んでいて、上の空だった私はどきりとする。もしかして、私がこの時間軸の人間じゃないって、バレちゃったんじゃないか、と思って。

「う、ううん、大丈夫」

「そうか? ならいいんだけど」

 でも、そんなことはなく、メイは普通に私を心配してくれているだけだった。私は胸を撫で下ろして、ほっと息を吐く。

「うぃっす〜! おや、一年生諸君早いね〜」

 ふと入り口から声がして振り向くとそこには千砂都先輩がいた。右手で作ったピースサインを掲げるお決まりのポーズをしている。私以外の一年生三人がそのポーズでこたえる。私も慌ててそうする。

「あ、ほんとだ皆来てる。早いね」

 その後ろからかのん先輩がひょこっと顔を出した。これも変わらない。ひとつも変わらない。

「だからあんたが飲み物買ってきなさいって言ってるのよ……」

「可可はじゃんけんに負けただけで誰も飲み物買うとは言ってマセン。すみれが買いに行きやがれデス」

「なっ、あんた卑怯よ! 普通あの状況のじゃんけんは負けた方が買いに行くのが当たり前ったら当たり前じゃない⁉︎」

「知らないデス」

 それから頬を膨らませて睨み合った可可先輩とすみれ先輩が入ってくる。同じ、全部同じ。私は壊れた映写機みたいに同じところを何度も見せられるのにいつしか吐き気を覚えるようになっていた。

「二人とも、またやってるの?」

 千砂都先輩が呆れ気味に言うと、可可先輩もすみれ先輩も一歩も引かない様子だった。その先の台詞を、私は口の中だけで転がす。もう全部覚えていた。覚えたくて覚えた訳じゃなかった。

「可可と暑いし喉乾いたしどっちかが飲み物買いに行こうって話になってじゃんけんしたの、それで私勝ったんだけど可可は知らないってシラ切るのよ!」

「だって可可は一言も負けた方が買いに行くなんて話してないのデス、すみれが勝手にそう思っただけではないのデスか」

「なっ……あんた卑怯よ!」

 また睨み合いを始めた二人を見て千砂都先輩はやれやれとため息をついていた。かのん先輩が恐る恐るそんな二人に近づいて、あのー、と声をかける。私はそろそろ、これが現実なのかも怪しくなっていた。

「私ちょうど自動販売機行くつもりだったから、よかったら二人の分も買ってこようか?」

 かのん先輩が言うと、すみれ先輩が眉を下げて「あんたねぇ……」と言う。

「いや、いくらついでとはいえ申し訳なさすぎるわ、私も行くから」

「なら可可も一緒に行きマス!」

 すみれ先輩が言うと可可先輩も続け様にそう言った。

「あの」

 私は突然手を上げる。二年生の視線がこちらに集まる。これは、私が崩した流れだ。だからようやく現実が動き出した気がした。

「ちょうど私も飲み物買いに行こうと思ってたんで、かのん先輩と一緒に行きますよ、すみれ先輩と可可先輩、今きたばかりで疲れてるでしょうし」

 私が言うと、すみれ先輩と可可先輩は顔を見合わせて「まぁ……」と言っていた。

「私も、今日は四季ちゃんと行きたいかも、二人とも、どうかな?」

 かのん先輩が追い討ちをかけたことにより、二人は完全に折れた。

「じゃあ二人にお願いするわ……なんでもいいわよ」

 すみれ先輩が机に肘をついてそう言った。

「ありがとうございます、すみれ先輩はスプライト、可可先輩はオレンジジュースで良かったですよね」

 私が言うと、可可先輩とすみれ先輩は目を丸くして私を見ていた。

「なんで可可欲しいものが分かったのデスか?」

「私も……スプライト欲しいなんて言ったかしら……? 言われてみれば欲しいような気もするけど」

 私は内心しまったと思いながら、曖昧に微笑む。

「……なんとなくそう思ったんです、たまたま、ですよ」

「四季ちゃんすごいね〜、未来予知みたい! エスパー?」

 千砂都先輩がそう言って私はどきりとする。こういう人って動物的な勘みたいなものが冴えてるのかもな、と思う。

 私はこたえることができずにかのん先輩のすぐ隣まで来た。

「行きましょう」

「うん、行こっか」

 私たちが部室の扉を開けると、入れ替わりでやって来たのは恋先輩だった。

「あら、お二人はどちらに行かれるんですか」

 長い黒髪のポニーテールが振り向き様に揺れて、ふわりと宙を舞う。

「うん、ちょっと買い物に! もうみんな来てるから私たちが帰ってきたら練習始めよっか」

 かのん先輩が朗らかな笑顔でそう言って、恋先輩も頷く。いつもの、日常だ。今日でメイが死ぬことを除けば。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 自動販売機は買うとがこんと音はするくせによく上の方で引っかかって取れなかった。今日もかのん先輩が自分の買ったスポーツドリンクを取り出すのに苦戦していた。

「ごめんごめん! お待たせ〜」

 かのん先輩はスポドリとスプライト、私は同じスポドリとオレンジジュースを持っていた。

「一学期も終わるね、四季ちゃんは夏休み、どこか行きたいところとかあるの?」

 かのん先輩は何気なくそう訊いてくる。でも、その言葉は、うまく私の中に入って来なかった。私はもう何十時間も今日という日を過ごしている。夏休みなんて、一生やって来ないような気がした。

「かのん先輩、私……」

「ん? なに?」

 私は未来から来たんです、と言おうとして、何を言おうとしているんだ私は、と思って口を噤んだ。そんなの言ったって何にもならないし、そもそも信じてもらえる訳がない。かのん先輩の春の木漏れ日みたいな優しさに触れて、口が滑ってしまいそうになった。

「……夏休みは、海とか行きたいですね」

「いいね、海! よかったらLiella!みんなで行っちゃう?」

 私が言うと、かのん先輩は目を輝かせてそう返した。私は、でも、きっとその約束は果たされないだろうなとぼんやり思った。

「…………はい、いつか」

 でも、そうこたえた。それはきっと私の祈りだった。この長すぎる日を越えて、夏休みをみんなで迎えるんだ、という。いつかの時間軸でメイが私に言った言葉を思い出した。

 ────今度二人で海見に来ようぜ、なぁ四季

 私は胸がずきりと痛む。いつか、いつかこの闘いが終わったら、メイと二人で海に行きたい。そう思うと涙が出てしまいそうになった。手に持ったペットボトルがひどくつめたかった。

 その時だった。

 タァン、と軽い重い音が空から響き渡ったのは。

 私が本能的に顔を上げると、その上はちょうど、部室がある位置だった。隣を見るとかのん先輩もそっちを見上げていて、私が見つめているのに気づくとこちらを見て言った。

「今の……何の音……? 部室のある方からだったよね」

 私はかのん先輩の言葉に無言で頷く形でこたえる。嫌な予感がした。背筋を悪寒が走り、全身が不自然に緊張してこわばっている。

「行きましょう」

 私は言いながら気がついたら走り出していた。メイは、メイは無事だろうか。まさかもうあいつらが来たの。いやそんなはずはない、まだだって早すぎる。それともこの世界ではこうなるのが決められていたのか。

 ぐるぐる回る思考回路を何とか抑えつけながら私は階段を登っていく。さっきの音が、私の思うものではありませんように、と切に願いながら。

 最後の階段を登り切り、私は部室の扉の前に立つ。そこは恐ろしく静かで、私はそこに入る勇気がなくて立ち竦んでいた。そのうちかのん先輩が息を切らして上がってきて、私の隣までやってくる。そして、かのん先輩は私に一度目配せをすると、躊躇いなく扉を開けた。

 私はかのん先輩の後を追い部室に入っていく。入っていき、息を呑んだ。手に持ったペットボトルが床に落ちて鈍い音を立てる。

 ホワイトボードの隅に、すみれ先輩が可可先輩を抱き抱えて座り込んでいた。千砂都先輩は、立ったまま俯いて放心状態だった。部室の奥ではきな子と夏美が目を瞑って抱き合い肩を震わせていた。そして、そして。

 私は部屋の真ん中にある机が邪魔で見えないその子を探しに奥へと走る。私は何度も見た最悪の光景が頭を過った。

「メイ……メイっ!」

 私が叫ぶと、足元で何かが震える気配があった。目を落とすと、そこには赤髪の少女が頭を抱えて小さくなっていた。

「……し、四季?」

 私が目線の高さまで足を曲げて見つめていると、メイは恐る恐るといった風に顔を上げた。その目には恐怖と混乱の色が浮かんでいた。

「大丈夫、どこも怪我はない?」

 私が言うとメイはこくこくと頷いた。

「でも、でも私じゃなくて……先輩がっ……」

 メイは部屋の奥まったスペースを指差しながら言う。かのん先輩がメイの指差す方を見て呆然としているのが見えた。足元にペットボトルが二本、転がっている。

「恋、先輩がっ…………!」

 メイの悲痛な声の向く方に、私は目を遣る。

 真っ赤だった。

 鮮血、と言ってよかった。辺り一面赤い花が咲き乱れるように一色に塗られていた。壁とか、ソファとか、床とか、が。

 その中心に、恋先輩がいた。目を閉じてソファに横たわるその姿は、かわいらしく昼寝をしているようにも、或いは見えたかもしれない。しかしそうではないことは、誰が見ても分かった。だって彼女は、頭に風穴が開いていて、そこから赤い液体が、たらたらと垂れていたから。その秩序の崩壊そのものみたいな赤色は綺麗な部室の壁を、ソファを、床を、我が物顔で汚していった。

 私は何が何だかよく分からなかった。なんで恋先輩が? 部室でなぜこんな死に方を? 誰がやったの? あの未来から来た奴ら? ううん、でも動機がない。一体じゃあ、誰が。

 私が考えを巡らせて恋先輩を見つめていると、後ろで声が聞こえた。振り向くと、そこにはすみれ先輩がいた。なぜか恐れるような、憎むような目で私を見ていた。

「あんたじゃ、ないの…………」

「え?」

 すみれ先輩が何を言ったのか聞き取れなかった。すみれ先輩は拳をぎゅっと握りしめて唇の端を噛んでいた。

「だから、なんで恋を殺したのよって訊いてるのよ!」

 すみれ先輩はやけくそに言葉を投げつけるみたいに言った。

「…………え?」

 私は何を言われたのか理解できずに、間抜けな声を上げてしまう。すみれ先輩はまくし立てるように続けた。

「だってあれあんたでしょ! 白衣に青髪であの雰囲気……どう考えてもあんたしかいないのよ!」

「ちょ、ちょっとすみれちゃん、四季ちゃんがそんなことする訳ないよ……」

 すみれ先輩の主張に、千砂都先輩がそう言う。でもすみれ先輩は止まらない。

「説明してもらうわよ、あいつがあんたじゃないなら何者なのか、どうして恋を殺したのか、あんた自分が何やったか、分かってんでしょうね」

 すみれ先輩は敵意のある眼差しを向けてきていた。その目には私に対する明確な憤りが浮かんでいた。

 私は、ようやくここで何が起きたか理解してくる。私は恋先輩を殺してなんかいない。でも、私と同じ姿形をした人間になら、覚えがあった。

「何とか言いなさいよっ!」

 すみれ先輩が叫ぶ。私は何も言えずに目を逸らす。目を逸らした先、メイが私を見ている。その目は恐怖と不安に揺れている。私を見て、怖がっている。それは私の胸を抉るように辛かった。

 部室にいるみんなが、私を見ていた。不安の、恐怖の、忌避の対象として。誰も何も言わない部室は不気味なほど静かだった。開け放たれた窓から夏風が吹き込んで首筋に触れていった。

「で、でも、四季ちゃんは私とずっと一緒にいたんだよ⁉︎ 部室に来れるはずないよ!」

 かのん先輩がそう言ってくれる。でももう、私は疲れていた。そんなのどうでもよかった。

「かのん先輩、いいんです」

「し、四季ちゃん……?」

「私が、恋先輩を殺しました。それは、間違いありません」

 私が言い放つとかのん先輩が肩を震わせて立ち止まり、すみれ先輩も可可先輩も千砂都先輩も目を見開いて私を見た。振り向くと、きな子と夏美、そしてメイも私を見ていた。幽霊でも見たみたいな顔をして。

「だから、私が何とかします。恋先輩も、必ず助けて見せます」

 私が言うと、すみれ先輩はため息を吐いて机に手を置いた。

「あんたねぇ、何とかって、どうすんのよ。死んだ人間は生き返らないのよ」

「でも、私が、何とかします」

 頑なにそれだけ言うと、私は部室の扉をくぐろうとした。行くべき場所があったから。

 でも、そうできなかった。

 私の手は掴まれていた。その腕から肩を伝って、顔に視線を移す。その人はすみれ先輩だった。

「逃さないわよ」

 短くそう言うと、すみれ先輩はぐいと私の腕を引っ張った。

「あんたは今から警察に行くの、今自白もしたばっかりだしね」

 すみれの目はつめたく、でもある種の正義感が宿っていた。この人の眼差しは強いな、とぼんやり思った。

「ちょっとすみれちゃん! だから四季ちゃんじゃないって!」

「あんた今こいつが自分がやったって言ったの聞こえなかったの? あれは四季なのよ」

 かのん先輩が言っても、すみれ先輩は聞こうとはしなかった。私を掴む腕は力強かった。

「……離してください」

「嫌ったら嫌よ、大人しくしてなさい」

「そうですか……では、仕方ないです」

 私は言うなり、掴まれた手と逆の手でポケットからそれを取り出してすみれ先輩に向けた。どこからか悲鳴みたいな声が小さくする。私は何の躊躇いもなく、すみれ先輩に銃を向けていた。

「…………あんた」

「もう一度言います、手、離してください」

 だってどうせこの時間軸は棄てる。もう一回やり直すのだから、何をしたって同じだ。問題は、タイムリープマシンを使えないことだけ。ここですみれ先輩に止められることの方が、よっぽど問題だった。

「……離さないって言ったら、あんた撃つの?」

 すみれ先輩は呆れ半分といった様子で私を一笑する。もうこの部室はまともじゃなかった。それはそうだ、仲間が一人撃ち殺されて死んでいるんだから。

「…………ごめんなさい」

 私はそれだけ言うと、銃を天井に向けて、二回放った。鼓膜を突き破りそうな高い音が響いて、そこにいる人は皆驚いて耳を塞ぐ。それはもちろん、すみれ先輩も例外ではなかった。

 私は扉を開けて階段を駆け降りる。後ろで何か声が聞こえた気がしたけど、立ち止まることも振り向くこともしなかった。

 銃を手に握りしめたまま、放課後の廊下を駆け抜けた。それはアンバランスで、説明のつかない、非日常だった。

 ややもすると私の前に現れたのは科学室。私はその『科学愛好会仮部室』と書かれた貼り紙を指でなぞり、思い出に目を細める。そう、メイだけが生きてればいい訳じゃない。私は、みんな、助けたい。誰一人死なせはしない。

 扉を開けると、そいつはいた。骨格標本と亀の水槽の間で、片手に煙草を持って窓の向こうを見ているようだった。

「シキ」

 私は両手を後ろを隠して、彼女の名前を呼ぶ。シキは呼ばれるとゆっくり振り向いた。咥えた煙草の先が赤く焼けている。

「恋先輩を殺したのは、シキなの」

 私が言うと、シキは無表情で煙草の灰を落としてからゆっくり私を見た。

「そうだけど」

 シキはなんでもないことのように言った。私は頭をぶん殴られたような衝撃を受けて、ふらりとする。もしかしたら、何かの間違いじゃないか、そう一縷の望みに縋る気持ちはいとも容易く打ち砕かれた。

「なんで……なんで、こんなことしたの、恋先輩を殺したって、何にもならないのに」

 私は後ろ手に隠した静かなる凶器がべたついていくのを感じていた。科学室は昼でも少し薄暗い。

「ううん、違う」

「…………」

「今まで多くの世界線を見ていると、どうやらこの世界は若菜四季……あなたの周りで誰かが一人死ぬ、という事象に収束しているように思う。メイが死ぬ未来が大多数だけど、では先に誰かが死んでおけば?」

 シキは短くなった煙草を投げ棄てて足で踏み潰した。私は声を出すことができない。

「前回、メイの代わりにきな子が死んだ。あなたはそれが嫌だと言うから、だからこうしたの」

 シキは何も悪気ないようにそう言った。

「……つまり、恋先輩だったら、死んでもいい、と言いたいの」

「あなたは部活でもあの人とは一番距離があった。きな子が死ぬより、ずっといいと思うけど」

「だからって……殺すのは違うでしょう! それにこの後あいつらがメイを殺しに来る可能性だってある! そうなったらどうするの⁉︎」

 私が言うと、シキは退屈そうに私を見ていた。その瞳の赤色は寂れた色だった。それはシキの心そのものみたいな気がした。

「あいつらって……あぁ、クロノダイバーのこと。あいつらはこの世界にはもう干渉できないよ、私が葉月恋を殺したから」

 シキはそう言った。私はシキが何故そう言い切れるのかが納得できなかった。シキの言動は時々不可解だった。シキは一体、この世界の何を知っているの?

「さて、じゃあ私は帰る」

 シキは言いながら、煙草のケースを取り出して、そこに一本も入ってなかったのか、ケースごと棄てると奥へと歩いて行った。そっちには、タイムリープマシンがある。

「帰る……って、どこに」

 私が訊くと、シキは私を横目で見てこたえた。

「もちろん、未来に。もう私の目的は果たしたから」

「…………それ、どうするの」

 シキは歩みを止めない。私は首を嫌な汗が這うのが分かった。選択の時間が迫っていた。

「もちろん、持って帰る」

 カァン! と。

 金属の弾ける高い音がした。シキがこちらを振り向いて、私はシキに向かって銃を構えていた。

「…………行かせない、タイムリープマシンは、私がもらう」

 シキはわずかに驚いた素振りをしてみせたけれど、すぐに平静を取り戻して笑みを浮かべて言った。

「……嫌だと言ったら?」

 シキはつめたく、擦り切れた赤い瞳で、私を見ていた。シキはそれからまたタイムリープマシンに近づく。

 そして、銃声が響く。

 今度はシキの足元目がけて、弾を撃った。弾痕からうすく煙が立ち上る。

「あなたを撃ってでも、止めてやる」

 私は銃口をシキから逸らさないまま、じりじりと距離を詰めていく。世界は、硝煙と煙草の不愉快な匂いでいっぱいだった。

「私は誰も死なせない、メイもきな子も、恋先輩だって、他のみんなだって、護ってみせる」

 シキは相変わらずのポーカーフェイスで私を見ていた。今、私とシキは、明確に敵だった。どうして、こんなことになってしまったのだろう。同じ自分のはずなのに。

「……あなたの考えは素晴らしいと思う。でもね、世の中そう都合良くはできてないの。だから、ごめんなさい」

「どういうこ、と────」

 シキが一息にそう言うのと、その胸元から銃が出てくるのと私の右手に鋭い痛みが走ったのは、ほぼ同時だった。

 かしゃん、と音がして私の持っていた銃が科学室の床に転がる。右手を見れば、そこからは赤い血がとめどなく溢れていた。シキが私に銃を向けていた。理解するまでに数秒かかった。

「私はメイさえ助かればいい、それ以外の人なんて知らない、それでいいの」

 シキは淡々と話す。まるで機械が喋っているみたいだった。

「あなたは……私なのに、どうして、そんなことを言うの」

 私が言うと、シキはわずかに目を細めて、私のいる辺りを漠然と見つめた。

「……長い時間が経ったのよ、あなたが想像もつかないような、長い時間が」

 索莫とした声は空っぽの科学室に響いて、沈んで、溶けていった。私は一体、何を見てきたんだろうか。そんなの知る由もなかった。

 私はタイムリープマシンに触れる機会を窺っていた。でも右手は撃ち抜かれ、銃も床に転がっている、おまけにシキがこちらに向けて銃を構えている始末だ。正直お手上げだったけど、でもここで諦めてはいけなかった。せめて十秒、タイムリープマシンに触れさえできたら────

「おーい、四季、いるか……?」

 その時だった。

 入り口に赤いくせっ毛のあなたが現れたのは。

 私もシキも驚いてそちらを見た。そこにいる、生きてるメイを見て、シキは動きが止まる。

 今しかない、と思った。私はシキめがけて全体重をかけてがむしゃらにタックルをした。シキはバランスを崩し、白衣の裾が床に擦れて、そのまま背中から倒れ込む。シキの右手に持たれていた銃も床に落ちて乾いた音を立てた。私はそれを蹴り飛ばし、代わりに自分の銃を拾い上げる。

「お、おい四季、何やってんだよ」

 メイが声をかけてくるけれど、それにはこたえない。タイムリープマシンを左手で操作して、日付を入力する。ヘッドホンをつける。よし、これでいい。飛ぼう。

 タァン!

 と音がして、何かと思って目を落とすと、自分の制服のお腹の辺りが真っ赤に染まっていた。顔だけで振り向くと、少し離れたところでシキが、銃を私に向けて立っていた。

「四季!」

 メイが叫びながら私の元に駆けてくる。私はつん裂くような激痛で意識が朦朧として立っていられない。でも、しなければならないことがあった。行かなければならない場所があった。

 私はポケットに隠した凶器に上からそっと触れる。そして決意すると、それを音を立てないように取り出し、まだ使える左手で握りしめ、素早く振り向いて、引き金を引いた。

「Last Bullet……」

 私は短く呟いて、左手を下ろす。白衣の青髪の女性は、どこに弾が当たったかは分からなかったけれど、お腹辺りを赤く染めて、それから膝から崩れ落ちて倒れ伏した。

 私は、ようやくヘッドホンを耳につける。装置の真ん中のボタンを押す。白い電流が装置の中心を走り、バリバリと焼けるような音がする。それから、足元の地面が割れて重力を失ったみたいな感覚になって────

 銃声が響いた。

 鈍い痛みが胸を走ってそこを見れば、心臓がある場所から鮮血が噴き出している。

「四季っ!」

 振り向くと、メイがこちらに走ってくるところだった。その視界の隅、シキが血まみれの両手で銃を私に向けているのも見える。

 吐きそうになる。メイが何か言っていたけれど、聞こえない。

 意識が薄れてゆく。霞む視界の遠い意識の中、どうかお願い、飛んでください、と祈るみたいに目を閉じた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四章 - Liella!

 あなたと出会ったのは春のある日だった。その日のことを、私はよく覚えている。ひどくあたたかい陽だまりみたいな声が胸中に満ち溢れて、こぼれて、泣いてしまいそうになったこと。

 

 ────ずっと一人でいいって、思ってたんだ。あなたが私の前に、現れるまでは。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 かつ、かつ。という。

 石とも鉄ともつかないものが削れる音がしていた。覚束なく揺れる意識の中で、その音だけが鼓膜を通じて脳に滑り込んできた。

 なんだか長い夢を見ていた気がする。タイムリープマシンとか、未来の自分とか、クロノダイバーとか、きっとぜんぶ悪い夢の中の出来事だった。私はもう、死んでしまったのかな、と何となく思った。ぬるい風が頬に触れている。こんな心地いい中にいられるなら死んでもいいかもしれない、そう思った。

「はい、じゃあ今日はここまで、みなさん休みの間も課題はしっかりやるように」

 先生がチョークを置きながらそう言う。私ははっとして、顔を上げる。時計の針は数時間前を指している。私は、また、飛んだのだ。

 さっきの世界での出来事を思い出した。頭を撃ち抜かれた恋先輩、掴みかかってくるすみれ先輩、怯える可可先輩、私に向けられた銃口、鈍い痛み、メイの叫び声、血まみれのシキ、それと、それと。

 私はふと下を向いて自分の身体を確認する。制服はヨレも皺もない状態でよく肌に馴染んでいる。もちろん、銃創も血痕もない。それが当たり前であることに私は安堵し、ちゃんと飛べたことを改めて知る。

 久しぶりに聞くチャイムの高い音。それに続いて教室はにわかに騒がしくなる。放課後の少し浮ついた空気感。そういえば、今日から夏休みだっけ。私はあとどれだけ『今日』を繰り返すのだろう。分からない。分からなくて、私も同じように机の上に散らばった荷物をしまう。

「四季、今日掃除当番じゃないだろ」

 ふと頭上から声が聞こえて、顔を上げるとそこには腰に手を当てたメイがいた。私は、もうメイを見るだけで、どうしていいのか分からなかった。泣き出しそうになってしまう気さえした。

「メイ…………あのね」

「ん? なんだよ四季」

 教室の後ろの方の席の私たちの周りは、人の出入りが激しく、がやがやしている。メイはもう後ろ手に鞄を下げている。

「話したいことがある……今から私についてきて」

 私は立ち上がりながら言って、メイの顔を至近距離で見つめる。メイは驚いた様子で、わずかに私から離れてでも目は合わせたままでいてくれた。

 私も目を逸らさずに、真剣にメイを見続けた。そのうちメイははーっと息を吐くと、観念したように私を見て笑った。

「しょーがないな、四季がそんな真面目にする話、私が聞かない訳ないだろ」

 メイがそう言うので、私はありがとうの意を込めて無言で頷く。

「じゃあ行こう、メイ、ついてきて」

 私はメイの右手を掴んで、歩き出す。

「あ、待つっす〜!」

「待つですの〜!」

 聞きなれた声がして振り向くと、そこには部活のメンバーの、きな子と夏美がいた。

「二人とももう部活行くっすよね! きな子たちも一緒に行きたいっす〜!」

 きな子が元気に声をかけてくる。私とメイは振り向いて、二人に向き合う。

「あ〜ごめんな、ちょっと四季と行くところあるから、先部活行っててくれ」

 メイは頬をかきながらそう言った。それを聞いたきな子と夏美は顔を見合わせたかと思うと、ニヤニヤしながら教室を出ていった。

「ごゆっくり、ですの〜」

「先行ってるっす〜」

 行ったと思ったのに不意打ちで扉から顔を出してそう言う二人に、私たちは驚いてちょっと下がる。

「早く行けよ……」

 メイは手で二人を追い払う仕草をしながら、頬を赤らめて言った。

「行くよ、メイ」

 私はメイの手をぐいと引っ張って歩き出す。時を彷徨う私にとって、そのぬくもりだけが何よりの存在証明だった。

 校舎裏は湿っぽく、土の匂いがしていた。私たちは手を離して、その薄暗い影に身を潜めるようにして向かい合う。私たちは移動中は一言も喋らなかった。

「で……話ってなんだ」

 先に口を開いたのはメイだった。先に口を開いたというより、私が何も言わなかったので痺れを切らした、と言った方がよかった。

「…………」

 私は、話したいことはたくさんあるはずなのに、そのどれもがひとつも出てこなくて口を噤んだままになってしまう。私たちの間を色のないぬるい風が吹き抜けていった。

「おい、四季、どうしたんだよ」

 メイの優しい声が日陰に咲く花みたいに優しく私の胸の奥に触れる。あなたを、助けるために、私は何度も何度も、ここにやって来たの。

「ねぇ、もし…………」

「なんだよ、もう」

 メイの眉を下げた優しい顔が私を見ていた。もう、どうしようもなかった。口から言葉が、重力に従ってこぼれ落ちる。

「もし、私が未来からやって来たんだ、って言ったら……笑う?」

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「確かにそんな話信じろっていう方が難しいかもしれねーけどさ」

 部屋は静かだった。先に入ったメイは鞄を部屋の隅に置いて、そのまま奥のベッドにくるりと腰掛ける。

「四季がそんなに真剣になって言うなら、聞かないわけにもいかないだろ」

「…………メイ」

 私たちはメイの部屋に来ていた。両親はまだ帰って来ていなくて、部屋はどこも静かだった。

「ごめんね、部活休ませて……」

 私が呟くとメイははにかんで笑った。その顔がとても優しくていけなかった。

「気にすんなよ、四季のあんな真剣な顔見たら部活休むくらい何でもないって」

 メイは言いながら立ち上がると、窓の方に近づいてカーテンに手をかけた。私はそれを見ていて────

「開けないでっ!」

 気がついたら叫んでいた。メイは私の声に肩をびくりと震わせて、カーテンの隙間に差し込んでいた手を止めて私をゆっくりと振り向く。

 メイの私を見るその目に浮かぶ感情は、なんと言っていいのだろう。困惑とか、戸惑いとか、そういう曖昧な色を映していた。

「……開けちゃいけない理由でもあるのか?」

 メイが言って、私はそれにこたえることができなかった。だって、これから先に起こることは、あまりにもひどいから。

「言えない……」

 私は俯いて苦々しく呟く。それをメイに伝えるのは、あまりにも酷だった。私にとっても、メイにとっても、いや、そんなの都合のいい言い訳だったかもしれないけど。

「四季」

 ふと、淡いピンク色のカーペットを見ていた私のすぐ耳元で声がした。私は驚いて、顔を上げる。

「話してくれよ、どんな話だって私は聞くぞ」

 そう言うメイの顔はどこまでも優しかった。あぁ、私はメイのそんな優しさに絆されて、ここまで来たんだ。

「…………メイは、あと一時間で、死ぬの」

 口が滑るようだった。あれほど言えずに胸の底でわだかまっていた言葉がぽろぽろ口からこぼれ落ちた。

「…………」

 メイは何も言わずに私を見ているようだった。私はメイの顔を見ることができなくて足元をおろおろ見ていた。

 部屋には沈黙が満ちていた。私もメイも喋らないと、静かすぎて息を吸う音も、胸が鳴る音も、衣擦れの音さえはっきり聞こえるようだった。

「…………四季」

「……うん」

 呼ばれてようやく私は顔を上げる。メイは、やっぱり私を真っ直ぐに見ていた。

「それ、本当なんだな」

 メイの声は芯が通ったもので、私は息が詰まる。伝わっただろうか、と思って。

「……うん、本当」

 だから、私もメイのその透き通った群青をしっかり見つめ返す。この先に、未来があると、そう信じて。

「分かった、四季を信じる」

 メイはそう言って、真剣な表情で私に一歩近づいた。メイの綺麗な顔が間近に広がる。

「とりあえず、私たちはこれからどうするんだ」

「私たちはここにずっといる。カーテンは絶対開けちゃダメ、あとはなるべく二人で一緒に動く、それくらい」

「……分かった」

 私はメイが話を信じてくれた安心感からか、ふぅ、とため息を吐く。するとメイが私を見て小さく笑った。

「……どうしたの」

「いや、放課後になってから、四季初めて笑ったな、と思って」

 安心した。と言ってメイは歯を見せてまた笑った。私も少しだけ心に積もっていた記憶と過去の土砂が流れていくのが分かった。

「……よかった、信じてくれて」

「うーん、全部信じれてるって訳でもないんだけどな」

 私が安堵して言うと、メイは苦笑して言った。

「……そうなの?」

「まぁ、そもそも私があと一時間で死ぬ、なんて話、信じろって方が難しいよな」

「じゃあ、どうすれば信じてくれる」

 私が訊くとメイは両腕を組んで首を捻り考え込む仕草をした。

「そうだな……あ、私の秘密を言い当てられたら、私は信じると思うな」

 メイは思いついた、と言うように人差し指を立ててそう言った。

「メイの秘密……? 私そんなの知らない」

「だから今私が教えておけばさ、また四季が過去に戻った時にそれを言えば一発で私が信じるだろ、って話だよ」

 メイが言って、私はそれは確かにもっともだと思った。この世界を放棄した時のことを今から考えてどうするんだ、と思ったけれど、メイの提案は理解できるものだった。

「それは、確かに…………教えて、それは何」

 私が言うと、メイはすぐに何か言うのかと思ったら、もごもごと言い淀んで斜め下に視線を投げていた。

「…………やっぱ教えねー、やめた」

「どうして」

「四季に知られるのは恥ずかしすぎるんだよ」

 メイは小さくそう言うと、居ても立っても居られないという風に私にくるりと背を向けて、部屋の隅で静かにしている電子ピアノの椅子に腰掛けた。私もその後ろ姿にゆっくりついていく。

「…………メイさえよければ、聞いておきたい。私は……待ってる」

 私が言うと、メイは電子ピアノに目を落としたまま「あぁ」と一言言った。

 部屋は静かだった。照明ばかり眩しく、部屋は彩度が高かった。

「……時間までまだまだあるだろ、せっかくなら、聴くか?」

 メイは私を上目遣いで見つめてそう言った。子供みたいに素直で優しいお誘いだった。私は考えるより早く頷いていた。

「うん、久しぶりに、聴きたいな」

 メイはそれを聞くと、ピアノの蓋を上に開ける。メイの部屋にあるピアノは電子ピアノだけどアップライト型で、内部は電子音に合わせてハンマーアクションも搭載している最新式のやつだった。初めて私がメイの部屋を訪れた時に、見た目はアップライトなのに音量ボタンがついてる、と驚いてその時に教えてもらった。

 やがてメイは息を整えて鍵盤の上に指を乗せる。メイの指先は折れてしまわないか心配になるほど細いのに、でもしなやかで美しい。私は息をするのも忘れてそれを見ている。

 そしてゆるりとイントロが流れ始める。ピアノひとつだけから奏でられるその旋律は懐かしく、どこか切ない響きを孕んでいた。この曲は、私も、メイも、よく知っているはずだった。

「…………『未来は風のように』」

 私が言うと、メイは口だけで「セイカイ」と言った。

 イントロが終わると歌が始まる。メイの澄んだ声が出だしの歌詞を歌う。タイトルの名前と同じ歌詞からこの歌は始まる。

 メイは綺麗に、淀みなく歌った。私はその横顔をじっと見ていた。見ているだけ。

 歌は盛り上がりを迎え、伴奏はやや力強くなる。メイは目を閉じて音を泳いでいる。それをとても綺麗だと思った。メイが私に目配せをする。その言わんとすることは簡単に分かった。一緒に歌ってくれ、というのだ。

 私も隣に立って息を吸う。

 伴奏が一瞬途切れる。

 私たちは声を揃えて歌った。

 

「信じることが大事だと

 自分に言い聞かせたら

 もっと もっと 遠く目指してみよう

 小さな存在だけど 大きな夢があるから

 負けないよ さあ一緒に飛ぼうよ」

 

「本気で飛ぼう

 さあ一緒に飛ぼうよ……」

 

 最後のフレーズは私だけだった。メイのピアノがゆっくりと薄れてゆき、やがて部屋にはまた静けさが戻ってきた。ただ、さっきと違って部屋には黄金色のひかりの粒がこぼれているような気がした。

「…………四季、なんで泣いてんだよ」

「……え?」

 私は言われて、自分の瞳から涙がぽろぽろ落ちていることに気づいた。拭っても、拭っても、あとからあとから溢れてきた。

「あれ、おかしいな……あれっ、私…………」

「四季」

 名前を呼ばれて顔を上げると、春に抱かれるような柔い感触があった。一瞬遅れて、私はメイに抱きしめられていることに気づく。

「大丈夫、私はいなくなったりしない」

 ぽんぽんと頭を撫でられ、子供をあやすみたいにそう諭される。その声はどこまでも優しかった。晴れたある朝の何気ない牛乳くらい安心な心地がした。

「うん、うんっ…………」

 私はメイの身体をちぎれそうなほど強く抱いた。メイは苦しいとも離れろとも言わずにただ抱かれてくれていた。

 どのくらいそうしていただろう。真っ黒な電子ピアノの脇で私たちはひとつの体温として静かに灯っていた。

 私たちはそれから二人で座るには狭い椅子に腰掛けて、じっとしていた。

 私たちはその時音楽そのものだった。

 詩とか歌とかメロディーとか、和音とかコードとか知らなくて、私たちは正しく音楽そのものだった。私たちの身体とこころがあるべき場所にあるだけで、それはもう例えようもなく音楽なのだった。

 それをどう言えばいいんだろう。

 この心地よさともどかしさ。でも肩に触れるあなたのぬくもりが、あなたもそう思ってるって語りかけてくるみたいだった。

「ねぇメイ、私ね、メイに言いたいことがあるの」

「なんだよ」

 この時がいつまでも続けばいいのに、と思った。時間も忘れて溺れていたい、と。

 そんなこと、なんて、淡い夢。

「私ね、ずっと前からメイのこと────」

 ピリリリリリリリリ!

 甲高いアラーム音が私の声をかき消した。私ははっとする。メイのポケットから取り出されたスマホから音は鳴っていた。メイは首を傾げてそれを止めると、ふぅ、と軽く息を吐く。

「おっかしいなぁ、こんな時間にアラームなんてセットしてないはずなのに……」

 メイは言うとスマホをポケットにしまった。

 私は一気に身体が緊張するのが分かる。来る。今度こそ、護ってみせる。私は自分の鞄からメイに気づかれないように銃を取り出し、ポケットに隠す。

 その時だった。

 玄関の方で何か物音がした気がした。何か物を落としたような、引っ掛けたような音。少なくともそれが人為的なものであることは、簡単に分かった。

 私たちは声を潜めて、囁き声で会話する。

「今の、聞こえた……?」

「あぁ、私の家族じゃないな、こんな時間には帰ってこない」

 私はごくりと唾を飲み、扉の先にいるであろう誰かに意識を集中した。

 一秒。二秒。

 時間がひどく長く感じられた。静寂はべたついて耳に絡み、空気は重くのしかかってくる。

 でも、それが起きたのは一瞬だった。

 扉が急に開いた。私たちは部屋の奥に固まってそれを見ていた。

 そしてそこから、黒いフードを深く被った────おそらく体格から男────がいた。あいつらに似ていたけれど、違う、と私は思った。こいつはきっとこの世界線上の暴漢だ。その証拠に、こいつはあいつらみたいに銃を持っていない、その手には、銀色に光る鋭利なナイフが握られていた。私はそいつがじりじり距離を詰めてくるのを、どこまで来たら撃とうか考えていた。

 メイを奥に追いやって、私が前に立つ。私はポケットに手を突っ込んでグリップを握りトリガーに指を引っ掛ける。

 それでよかった。

 そのはずだった。

 私は、メイが襲われるものだと思って間合いを測っていたから自分に相手が飛びかかってくるなんて、考えもしなかった。本当に、間抜けだと思う。

 私は気がついたら横に殴られて倒れ伏していた。頬に鈍い痛みが走り、全身のバランスを崩す。淡いピンクのカーペットの一部が自分の鼻血で赤黒く汚れた。

「ぐっ…………」

 顔を上げると、そいつは手に持った銀色の狂気を振り下ろすところだった。私はもう迷う訳にはいかなかった。

 ポケットから取り出したその無機質な口を、そいつに向ける。

「四季、危ないっ!」

 そして、私がその引き金を引いて火花が散ったのと、そいつがナイフを振り下ろすのと、メイが私たちの間に入ってきたのは、ほぼ同時だった。

 ぽす。

 そんな軽い音がして、私の目の前で、暴漢が倒れていった。それだけでなく、間に挟まっていたメイも。そして私の頬には生暖かいものがかかった。

「メイ……メイっ! 大丈夫、メイ⁉︎」

 私は倒れたメイを抱き寄せて、その身体を確認する。右胸からとくとくと鼓動のリズムに合わせて赤色が辺りに溢れている。私は気が動転して何が起きたのか分からなかった。

「はは…………そんなもの持ってるなら、先に言えよ……四季が殺されるかと、思っただろ……」

 メイは弱々しくそう言った。喋るたびにごぼ、と水が込み上げるような音がしてメイは苦しそうだった。その口からも赤い液体が伝った。

「メイ…………ごめんなさい、メイ、私っ……」

「……五枚、なんだ」

「…………え?」

 脈絡のないメイの言葉に、私は一文字の疑問を浮かべる。メイの胸から溢れる赤色は鉄の匂いがしていて、私のスカートとブラウスをじわりじわりと汚した。メイは血まみれの手を伸ばして私の頬に触れる。それは生暖かくて、ぬるっとしていた。

「五枚なんだ……私が、お前に宛てて書いた、ラブレターの枚数」

「…………え?」

 メイはこんな時なのに微笑んでそう言った。私は聞き間違いかと思って、目をぱちくりさせてメイを見る。

「これが、私の、秘密……過去の私に言ってやりな、驚く、よ……」

「ま、待って! メイ! そんなの、私っ…………」

 私は最後まで喋れなかった。私が言おうとしたのを、メイは私の口にわずかに人差し指だけで触れて、止めてしまったから。

「お願い、な。こうならないように、助けてくれるんだろ、私を……」

 メイは泣き出しそうな目で私を見ていた。カーテンの向こうは夕暮れが始まっているらしく、カーテンはうっすらと茜色に染まっている。悪い夢みたいに、この部屋の全てがひどく綺麗だと思った。夕陽色のカーテンも、血まみれのメイも、見知らぬ人間の死体でさえ。

「メイ…………私もね、あなたに言わなきゃいけないことがあるの」

 私はメイを抱き寄せて、耳元で囁く。

「私ね、ずっと前からメイのことが────」

 かくん、と。

 その時腕にかかる重量が一気に増えた。私はバランスを崩して前につんのめってしまいそうになる。

「…………メイ?」

 私は震える声でメイの名前を呼ぶ。メイは瞼を下ろしていて、ただ安らかに眠っているだけみたいだった。もう胸から血も溢れていない。ただ、それが寝ているのではないことは、もう私が何度も見てきた光景のはずだった。

「……ごめんなさい、メイ、ごめん、なさいっ…………」

 涙が溢れてやまなかった。あとからあとから、ぼろぼろと溢れてきた。部屋中死の匂いがしていた。もうここはすっかり行き止まりだった。

 私はようやくメイの身体を横たえて、立ち上がる。メイの顔は綺麗だった。どこかの国のお伽噺みたいにキスをすれば目が覚めるんじゃないかと、思ってしまうほどに。

 その時、死んだと思っていた暴漢が、身じろいでうめき声を上げた。

「…………まだ生きてたの」

 私は自分の口から出るあまりにつめたい言葉の響きに自分で驚く。でも、身体は反対に、なめらかな動作でそいつに銃を向けていた。

 直後に銃声が四度響いた。

 頭に二発、胸に二発。暴漢はそれっきり動かなかった。私はそれを特に確認することもないまま、歩き出す。

 私はまだ、時間の狭間に迷い込む。

 メイとの約束を果たすために。今度こそ、今度こそ。

 おもてに出ると夕陽は深い血の色をしていた。

 私は孤独とか、絶望とかの感情を振り切るように、学校へと戻る道を走った。目からとめどなく溢れる涙には、気がつかないフリをしながら。

 陽はいつまでも、暮れなかった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 はっと目が覚める。

 そこは見慣れた教室だった。

 窓際の生徒は頭を机にくっつけて寝ている人がちらほらいた。教室の前にかけられた時計を見ると、時間は六時間目が始まったばかりを指している。ぬるい風が吹いて教科書の縁を捲るように揺らした。

 隣を見る。メイが下を向いてノートに何かを書いている。メイの胸には穴は空いていない。それが当然であることに私は言いようのない安堵を覚える。

 先生は黒板に丁寧に板書をしていた。

 私はおもむろに椅子から立ち上がる。静かな教室に私が立てた音は当たり前だけどよく響いた。クラスメイトたちが驚いたように私を振り向く。背を向けてチョークを黒板に触れさせていた先生も、それに気づいてゆっくりこちらを振り向いた。

「若菜さん、どうしたのかしら?」

 みんなの視線が痛かった。でも私にはそれを気にする余裕も時間もなかった。早く、速く、一秒でもはやく逃げなきゃ。

「米女さんが気分が悪いそうなので保健室に連れて行きます、お願いします」

 私が早口で言うと、隣でメイがこちらを見上げたのが分かった。私は席を離れると、怪訝な顔をしたメイの手を握る。

「ついてきて、後で説明はする」

「お、おい、四季っ…………」

 私が強く手をひくと、メイの手に持っていたシャーペンが床に落ちてかつんと音がした。私はそれを気にすることもないまま、メイを教室の外に連れ出した。先生が何か言っているようだったけど、どうでもよかった。

 私はメイの手を握ったままがむしゃらに走った。

「おい、四季、こっち保健室じゃないぞ」

 メイが後ろから叫ぶ声が聞こえて、私はこたえずに手をさらに強く握る。

「ここで少し待ってて」

 私は科学室の前まで来るとそう言ってメイの手を離した。メイは驚きと戸惑いで眉をひそめていた。私は振り向いて科学室の扉を勢いよく開く。ずかずか足を踏み入れて、その奥で風景の一部となっているタイムリープマシンの傍から黒光りする拳銃を取り出してポケットにしまう。学生服のスカートのポケットは小さくて、それを入れただけで歪に膨らんでいた。

「お待たせ、行こう」

「行くって…………どこへ」

 私のことを変なものでも見るような目で見ていたメイは、さっぱり分からない、と言うように首を傾げていた。

「…………遠くへ」

「は?」

「遠く、どこでもいいから、遠くに行こう」

 私はそう言った。

 行く宛なんてなかった。何をすればいいのかも分からなかった。どこへ行けばいいのかも。私には何も、分からなかった。

「四季、大丈夫か? なんか変だぞお前」

 メイは私を覗き込んで言った。そんなに私はひどい顔をしているだろうか。だってメイのため。メイのため、メイのため。

「ほら、授業戻ろうぜ」

 メイは私の脇を抜けて歩き出そうとしていた。

「駄目っ!」

 私は今度こそ叫ぶ。静寂の廊下にその二文字が反響して、ゆっくり沈んでいった。メイが肩を震わせて立ち止まる。振り向いて私を見る目が、困惑の色に揺れていた。

「いいから、私と一緒に来て……」

 俯いて、消え入るような声で私が言うと、廊下はまた静かだった。どう説明していいのか分からなかった。なんて言っても無駄かもしれなかった。私にはもう、何も分からなかった。

 俯いた視界の先、気がつくと、自分のつま先に向き合うように、誰かのつま先があった。

 はっとして顔を上げる。そこには、わがままな子供をあやす親みたいな優しい困り顔のメイがいた。

「いいよ、四季が言うなら理由があるんだろ、でも後で教えてもらうからな」

 メイは言うと、私をまっすぐに見て笑った。

「…………うん、ありがとう」

 私は言うなり、メイの手を掴む。メイはもうさほど抵抗もしなかった。

 そのまま、走り出す。廊下の窓から夏風が吹き込んで私たちの間を通り過ぎていった。

 どこへ向かうのかも知らず、どうすればいいかも分からず、私たちはただ、ただ風のように走った。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 どのくらい来たのだろう。

 どれだけのものを犠牲にして来たのだろう。

 ここが何回目の時間軸なのか、もう数えるのも辞めてしまった。私にとって、そんなことはもう些細なことだった。哀しいとか辛いとか、最初は思っていたはずだったけれど、もうよく分からなかった。それにシキとも決別した今、私の今の状況を話せる相手はどこにもいなかった。

 例えば。

 部室に行くたびに、先輩方が一人ずつやって来るのを見ながら、私は自分が未来から来ていることを、告白しようとする。でもその度に、そんなことをして誰が信じてくれるんだ、と思って口を噤む。練習が始まる。

 例えば。

 部活後四人で歩いている時に、今日はそっちの道じゃなくてあっちの道を通ろう、と言おうとする。もしくはもう帰ろう、と。でも私がそう言うのに首を傾げる姿を何度も見たから、私は何も言えない。

 例えば。

 交通事故で、転落事故で、通り魔に、変質者に、そうでもなければ奴らに、メイの頭が胸がお腹が引き裂かれて、そこら中に鮮血が舞うこと。あぁ、また駄目でしたと諦めてその時間全てをやり直すこと。

 例えば。例えば。例えば。

「おいっ、四季…………どこまで、行くんだよっ…………」

 走りながらとめどなく溢れる思考を遮ったのは、後ろからのメイの息切れした声だった。立ち止まって振り向くとメイはぜいぜい言いながら息を整えていた。

「ごめん、メイ……」

 周りを見ると、ここは知らない街だった。原宿みたいに人通りはそこまで多くなくて、どちらかと言えばオフィスビルと小規模な飲み屋の混合した少し古っぽい雰囲気の街だった。でも、ここがなんと言う街なのか、私にはどうでもよかった。

「おい、そろそろ話してくれてもいいんじゃないのか」

 私たちは信号で立ち止まる。メイが膝に手を当てながら私を見上げて言った。私は喉に重りがつっかえたように、何も言えない。真っ青な空をビル群がちぐはぐに切り取っている。

「私たち、何から逃げてるんだよ」

「…………それは」

 言おうとして、メイの方を見つめた。そして、息が止まった。

 交差点を挟んで向かいに、黒いローブの高身長の人が立っていた。それは今まで別の時間軸で幾度となく見てきた奴だった。黒いローブを着ているから顔までは見えなかったけれど、なんとなくこちらを見ていると、直感的に分かった。

「メイ、こっち!」

 私は暑そうに胸元をぱたぱたさせていたメイの手を掴んで、反対方向に一目散に走り出す。

「四季! どうしたんだよ!」

「いいから走って! 早く!」

 私たちはビルとビルの隙間の織りなす道を縫って走っていった。両脇にはオーセンティックバーや、スペインバルなんかの夜のお店がたくさん並んでいて、今はまだ陽が出ているから、それらはじっと黙って景色の一部になっていた。

 私は後ろをろくに確認もせずにただ走った。

 やがて通りにそれすら無くなると、室外機と吸水管だけがある路地裏に出た。奥はもう行き止まりらしかった。

 そこまで来て、私はようやくメイの手を離して、周囲の気配を確認する。路地裏は湿っぽく、少し埃臭いような匂いがしていて静かだった。どうやら、誰もいないみたいだ。

「一体何見たんだよ、四季。急にこんなところに逃げるみたいにして」

「それは…………なんでもないの」

「なんでもない訳ないだろ、四季、お前どうしちゃったんだ?」

 メイが心配そうに近づいてくる。私は時空を超えて襲いかかってくる恐怖の影を相手に怯んで、立っているのがやっとだった。足元のコンクリートが味気なく乾涸びている。

「あのね、メイ、実は────」

 私はとにかく何とか説明しようと口を開く。まだ時間はあるだろうか。それまでにメイに状況を分かってもらって逃げなければ。私は、何から、話せば。

 そう思ってメイを見つめた。

 その時だった。顔を上げてメイの顔が見える前に、私の身体は強い力で突き飛ばされた。二、三メートルほど後ろに飛んで、地面に転がる。膝と肘の辺りに鋭い痛みが走った。身体は、うまく動いてくれなかった。

 ようやく顔を上げると、両腕を後ろに組まされて壁に押し付けられているメイが見えた。メイを押さえているのは、黒いローブを着たあいつらだった。その後ろにもいつの間にか三人、同じ格好をした奴らがいて、そのうちの一人はさっき交差点を挟んだ向かいにいたあいつに違いなかった。

「メ、イ…………」

 私はぼやける視界の中何とか手を伸ばす。奴らは私を興味なさそうに一瞥すると、すぐにメイに視線を戻した。

「若菜四季……彼女も時間遡行者です、殺しますか」

「いえ、我々の目的は米女メイの抹殺です。それに若菜四季は将来タイムマシンを作るのです……今死なれては困ります」

 黒ローブの一人が言うと、長身のもう一人が喋った。それは変声機を通したような、女とも男とも取れる、少し機械っぽい声だった。その声には聞き覚えがあった。

「お前が…………お前が、メイを」

 揺れる視界の焦点を合わせて、私はよろよろと立ち上がる。

「動くな!」

 私がポケットに手を当てたところで、変声機越しでも分かる鋭い声がする。私は一瞬怯み、動きを止める。

「それ以上動くと米女メイを殺す」

「……動かなくても殺すくせに」

 私が言い放つと、長身の黒ローブは首を緩く横に振ったようだった。

「あなたは、相変わらず頭が良いですね……全く、久しぶりです」

 その言葉には含みがあった。でも、それがどういう意味なのかまでは私は分からなかった。何が久しぶりなのかも。

 長身はため息を吐きながら、ぽつりぽつりと話し始める。

「できればあなたとは闘いたくないのです、あなたは将来タイムマシンを作る、そして自分自身で過去に干渉して歴史を変える。つまりあなた一人いるといないのでは、全く別の未来になってしまう。これがどういう意味か分かりますか?」

「…………」

「あなたは特異点なんです。通常の物事はある事象に向かって収束していくけれど、あなたの場合は違う。あなたはこの世界を形作る取り外し不可能なひとつの鍵なんです。あなたがいなくては、この世界は成り立たない」

「…………だから何」

「米女メイのことは、諦めてください。私も心苦しく思いますが、世界には人一人の命より重いものがあるのです」

 四季さん。と唐突に名前を呼ばれる。さん付けであることに驚いたんじゃない。その呼び方には覚えがあるような気がして、どきりとした。でも何故そう思ったのか私にはさっぱり分からなかった。路地裏はじっとり濡れた空気が満ちていた。

「タイムマシンは正義の発明なんです。これを使えば無慈悲なテロも世界大戦も避けられる。だから平穏な世界の為、安易に過去を変えてはならないのです。それがたとえ、誰かを救うためであっても」

 黒ローブは淡々と言った。それは嘘ではなさそうだったけれど、本当でもないな、となんとなく思った。建前をすらすら言われているようなそんな不快な感じがあった。

「だから私たちは米女メイを殺します…………やりなさい」

 長身が言うと、一人が素早くメイを壁に押し付けて、もう一人がメイの頭に拳銃を突きつけた。それが苦しかったのかメイがううっと小さく声を漏らす。

 そしてその銃のトリガーに指がかけられる。もう後わずかでそれが引かれる、そう思ったその時だった。

「動くな!」

 私はそう叫ぶと、ポケットから銃を取り出して、構えた。

「動いたら……撃つ」

 その銃口の向く先は、あいつらではなく、自分の頭だった。

「……何の真似だ」

 長身が一歩前に出てきて言う。押さえつけられたメイが横目にこっちを窺っているのが見えた。私はもう、これしかない、と思っていた。

「私が死ねば、タイムマシンは未来で作られることはない、つまりお前らもこの時代にやって来ることはなくなるし、私が死ねばメイは私を庇って死ぬこともない、誰かが死ぬんじゃなくて、私が先に死ぬ……それが、私の辿り着いた答え」

 私は言って、拳銃を右のこめかみに当てて両手でそれを包むように握る。祈るように顔を上げると、建物と建物の隙間から細く伸びた空がばかみたいに綺麗だった。私はその空に向かって「さよなら」と言う。

 メイ。

 私の大切なメイ。

 あの春の日、声をかけてくれて本当に嬉しかったよ。

 はじめまして。って、照れ臭くてどこか懐かしいね。

 あの放課後、私に笑いかけてくれたのが本当に幸せだったよ。

 歯を見せて笑うあなたの笑顔は私の心のジグソーパズルのずっと埋まらなかったピースを埋めてくれた。

 ねぇ、メイ。

 科学に興味もないくせにいつしか科学室に来てくれるようになって他愛もない与太話してみて子供みたいに笑うのはいつも眩しかった。

 メイ。メイ。メイ。

 私は五月も好きなの。なんだか空気があなたみたいにぽかぽかしてるから、あなたが隣にいなくてもあなたを感じられるような気がしてしまって、私はずっと一人だったのに、離れていても伝わるぬくもりがあることを、こんな弱さだけで知ったの。

 ねぇ、メイ。

 伝えられないことが山ほどあった。

 言い足りないことが星の数だけあった。

 ばいばいと、私たちが家に帰るのに別れる時、私の言葉はいつも、書きかけの手紙のようにもどかしく終わってしまう。

 でもね、もう、いいの。今日で、ここで、メイとは本当にお別れ。

 メイ。

 私の大切なメイ。

 大好きとか愛してるとかそんな言葉でも足りないや。私にいっぱい奇跡をくれた。ありがとう、メイ。安っぽいと思うけど、最期にこれだけ言わせてください。

 

 ────メイ、あなたを、心から愛しています。

 

 私はメイの方を見る。何か私に向けて叫んでいるような気がする。でも私は世界中スローモーションになったみたいでその声は聞こえない。もう、いいの。

 ばいばい、メイ。

 そして路地裏に銃声がひとつ響いて、世界は静かになった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 死後の世界ってどんなものなんだろう。

 雲の上とかに天国はあるのかな、いや、私はたくさんの人を傷つけてきたから落ちるのは地獄かな。まぁどっちでもいいか。

 本当にメイには酷いことをしちゃった。許してなんて言えない。何回私のエゴに巻き込んで殺してしまったか分からない。でももう、おしまいだった。

 これでよかったんだ。私はぼんやりする意識の淵でそう思った。

 それにしても、死んだ後だっていうのにやけに湿っぽく、埃臭い匂いがしていた。折り畳まれた足はごつごつした感触に触れていて、あの世にもコンクリートはあるのかな、なんて思った。これじゃ生きてる時とあまり変わらない。

 右手で頭に触れてみる。あれ、頭がある。おかしいな、さっき銃で貫いたはずなのに。身体に触れる。あれ、身体もある。どうしてしまったんだろう。私は恐る恐る目を開く。ぼんやりしていた焦点がやがて合ってくる。

 そこはさっきの路地裏だった。黒ローブもメイもいた。ただ、さっきと違うのは、黒ローブは長身を除いた三人が地面に倒れ伏していて、メイの拘束が解かれていることだった。

 長身が忌々しく叫んでいる。

「誰だ⁉︎ 大人しく出てこい! 誰に手を出したか分かっているのか⁉︎」

 私は状況が掴めなくて混乱する。長身も狼狽しているのか上下左右を振り向きながら叫んでいる。

 私がそれを見ていると、後ろですたっ、と誰かが着地したような足音が響いた。誰だろう、と私は思う。そもそもこの先は行き止まりだから、建物の上から飛び降りても来ない限り、誰も来れるはずがなのに。

 私は振り向いて、言葉を失った。

 

 

 

「おまたせ! 二人とも! いや〜探すの手間取っちゃってさ、ごめんね!」

 

 

 

 その人は、色とりどりのまるでステージ衣装のようなものを着ていた。優しいラベンダー色の垂れ目で私を見ていた。春みたいに柔らかい声だった。その人のマリーゴールド色の髪が綺麗だなと、外苑西中学校にいた頃から思っていた気がした。そんなはずはないのに、その人は大人びた顔立ちでそこにいた。

 

 

 

「全く……あんた、銃は大切な人を護るためにあるのよ、自殺しようとするなんて、情けないったら情けないわね」

 

 

 

 その隣で金糸のような美しい長髪を靡かせてエメラルドグリーンの瞳でその人も言った。似た衣装を着ていたけれど、よく見るとデザインが微妙に違うようだった。前髪の両脇から、ぴょこんと髪が出ているのも変わらないけれど、やっぱりその顔や身体は記憶にあるその人よりずっと大人びていた。

 その人の下に私の拳銃がひしゃげて転がっていた。

「何ちょっとかっこいいこと言ってるの、すみれちゃん、いいから早くやるよ」

 言いながら、彼女は両手を広げて前にかざす。すると何もなかったところからアサルトライフルが出てきてそれを彼女は両手で受け止めて素早く構えた。

 その動きには見覚えがあった。いつだったか、シキがタイムリープマシンを初めて取り出した時のこと。物質圧縮、それは未来の技術のはずだった。なら、この人たちはまさか、そんな────

「ツッコミ雑っ! はいはい分かった、やるったらやるわよ、かのん……お姫様っ!」

 その人は言いながら腰元から何かを引き抜く動作をすると、腕を前に構える。そして構えた瞬間には先ほどより一回り小さいライフルが握られていた。そのまま路地の入り口の方へ向けて躊躇なく引き金を引いた。そこにいる黒ローブのすぐ前の地面が爆発するように抉れた。しかし銃自体はほとんど音がしなかった。

「わっ、すみれちゃん、サプレッサーつけてきたんだ、偉いね」

「あんたのなんでそんなデカい音すんのよ、過去に行く時は隠密行動が基本だから必ずつけようねってこないだ話したばっかでしょうが……なんでしてないのよ」

「えぇ……ちぃちゃんが、音出た方がかっこいいじゃん! って言ったから……?」

「…………これは後で二人とも説教ね」

 ごめんってば、といたずらっぽくその舌をぺろっと出す時の笑顔には覚えがあった。目の前の夢みたいな光景を、もう信じるしかなかった。

「すみれちゃん、敵逃げてる! 私は二人の確保行くからそっちお願い!」

「はいはい……仰せのままに!」

 その人はエメラルドグリーンの瞳をぎらつかせて、アサルトライフルを提げて走っていった。向こうでは黒ローブが角を曲がるところだった。やがてその人も同じところに消えていく。その間くらいの位置に、へたり込んだメイがいた。

「メイっ!」

 私は考えるより先に走っていた。わずか数メートルではあるけれど、とても長く感じた。

「大丈夫……メイ、怪我はない⁉︎」

 私がメイの肩を強く掴んで前後に振ると、メイは目を線みたいにして顔を顰めた。

「うぅ……だ、大丈夫、だからそんなに揺らすなよ……」

 メイは苦しそうに言った。とにかくメイが無事であったことに安堵し、私はメイの首元に抱きついていた。

「よかった……よかった、メイ…………」

 私はちぎれそうなほど強くメイの身体を抱いた。メイはそれになされるがままになっていた。

「えっと…………二人とも無事、みたいだね」

 後ろから遠慮気味に声をかけられて、私たちはそちらを振り向く。その人は、眉を下げて柔く微笑んでいた。見間違えるはずもなかった。その人の名前は、私たちの憧れの。

「あの…………あなたは」

 私が訊くと、その人はうん、とひとつ頷いて地面に座り込む私たちに目線を合わせて言った。

「私は澁谷かのん、今から十年後の世界からやって来た、かのんだよ」

 すっかり長くなったマリーゴールドの髪がさわりと風に揺れた。でもそれは、間違いなくかのん先輩だった。

「もちろんさっきのがすみれちゃんね! あ、ちぃちゃんと可可ちゃんも来てるよ」

 立て続けにそう言うかのん先輩を前に、メイは混乱した様子だった。

「え、かのん先輩……十年後ってなに……はは、私夢でも見てんのかな…………」

「混乱するのも無理はないけど、今はあんまり説明してる時間もないんだ、ほら立って!」

 そう言うとかのん先輩はメイと私の間に立ち、それぞれの肩を持ってぐいと持ち上げた。私たちは若干宙に浮きながら立ち上がる。すごい力でびっくりしてしまった。

「力強いですね、かのん先輩」

 私がそう言うと、かのん先輩はうん? と疑問そうにしてからあぁ! と得心したように頷いた。

「これ、四季ちゃんが作ったパワードスーツだよ、ちょっとの高さなら飛び降りてもへっちゃらだし、腕力も脚力も三、四倍引き出せるんだって、すごいよねぇ」

「…………」

「あ、あとね、デザインは初めてみんなで学園祭に出た時の衣装をモチーフにしてるんだって、四季ちゃんほんとに仲間思いだよね」

 言われてみると、確かにかのん先輩の着ているのはあの初ステージの衣装に似ていた。

 そして立て続けに私の名前が出たので、メイが私の方を向いていた。それに気づいたかのん先輩が、ううん、と首を横に振る。

「その四季ちゃんじゃなくて、未来の四季ちゃん。私たちの、今のリーダーなんだ」

 かのん先輩はそんな驚くべきことをさらっと言った。私が、リーダー? 一体何の?

 疑問符ばかりか浮かぶ私を見て、かのん先輩は、また優しく微笑む。その笑い方は大人びたかのん先輩でも少しも変わらない。

「自己紹介が遅れちゃったね」

 かのん先輩は私たちを交互に見て、それから目を閉じてすぅっと短く息を吸った。やがてそのラベンダー色が静かな闘気を宿して開かれる。心が静かに燃えているような気がした。

「私たちはRe:era!(リエラ)タイムマシンの開発者の四季ちゃんを中心とした政府非公認の時間超越特殊部隊…………それが私たち……Re:era!(時代を繰り返す者)だよ」

 かのん先輩は淀みなくそう言った。私はぽかんとしてそのかのん先輩の艶やかな唇を見つめる。

「リ、エラ…………?」

 メイがその名前を繰り返す。無理もない。何度もタイムリープをして時空も時間も越えてきた私でさえ、今の状況は理解できなかったのだから。

「うん、そうだよ! 時が経っても何があっても、私たちはリエラだよね、ってみんなで決めたの」

 かのん先輩は細長く切り取られた空を見上げながら懐かしそうに言う。

 そこへ、突然風のような速さで現れた人がいた。すみれ先輩だった。

「ごめん、追い詰めたと思ったんだけど逃げられたわ、あいつら空間転移は卑怯よねぇ……と、それどころじゃなかった」

 すみれ先輩は左腕に巻かれているリストバンドのようなものをタッチすると、目の前の空中に座標平面のようなものが浮かび上がった。すみれ先輩はそれをスワイプして回転させ、私たちに見せる。

「これがこの街の縮尺図、んで中心が私たちの現在地、で、周りの赤い点が…………」

 地図にはひしめくように赤い点があった。しかもそれはじわりじわりと近づいてくるようだった。これは……

「クロノダイバー、ですか」

 私が言うと、すみれ先輩とかのん先輩が驚いたような顔をした。

「あんた、よくその名前知ってるわね……」

「ほんと……あ、でもそっか、四季ちゃんから聞いてたのか、そうだよね」

 かのん先輩の言葉に、私は無言で頷く。メイは、訳が分からないと言いたげに私を見ていた。

「とにかく状況はかなりまずいわ、最終的には私たちは学校に行かなきゃならないけど、まずはこの包囲網を突破しましょう」

「……学校って、結ヶ丘ですか」

 私が訊くと、すみれ先輩は「そうよ」と短くこたえた。

「どうして、学校なんですか」

「……そんなの、私たちのタイムマシンがそこにあるからよ、決まってるじゃない」

 すみれ先輩は言いながら空中の地図をしまう。それからおもむろに耳に手を当てた。

「可可、千砂都、聞こえてる? 脱出経路の確保はできそう?」

 すみれ先輩はそう言った。どうやら右耳にインカムのようなものを装着しているらしかった。

「うん……うん……そう、分かったわ、ありがとう」

 言い終わり、こちらを振り向いたすみれ先輩の表情は思わしくなかった。

「経路は何通りか組んでくれたみたいだけど、どのルートにもあいつらは少なからずいるわ、なるべく少ないルートを選んで行くけど……まず間違いなく会敵することになる」

「なら……なおさら早く行かなきゃね」

 すみれ先輩の言葉にかのん先輩が素早くそうこたえる。二人は見つめ合って頷くと、私にはすみれ先輩が、メイにはかのん先輩がついた。

 なんだろう、と思ってすみれ先輩を見上げると、その綺麗な顔でにやりと笑われる。

「あんたから教えてもらったやつよ」

「え…………?」

 すみれ先輩はそう言うと、左足を私の右足に近づけた。そしてかちり、とすみれ先輩の足から伸びてきた輪っかが私の足首にはまる。これは……と思って、すみれ先輩を見ると、面白そうに口を開いた。

「足関節神経ブロック……一部シンクロ完了……よね?」

 すみれ先輩の左手が私の腰に回る。それ、未来でも使ってるんだな、私。ふふ、どのくらい改良されてるのか、お手並み拝見だ。

「そうですよ、私が作ったんですから」

 私が言うとすみれ先輩は満足気に頷いて後ろのかのん先輩と目配せした。メイとかのん先輩の足にも、同じものがついていた。

 その時、路地裏の向こうに黒ローブの姿が見えた。手には拳銃が光っている。

「行くよ! みんな!」

「ちょっと速いけど、我慢しなさい!」

 それを視認したかのん先輩とすみれ先輩が叫ぶ。

 そして私は体験したことのないスピードで、風を切って走り出した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五章 - Wish Song

 景色はカラフルな線みたいに流れていった。速すぎてスローモーションの映像を見ているみたいだった。足は可動限界を軽く超えている速さで動いているのに、不思議と負荷は全くなかった。シキ、なかなかやるな、と自分で自分に感心したことに苦笑する。

「……もうすぐ第一ポイントよ! 急に止まるから目回さないでよね!」

 風に紛れてすみれ先輩の声が聞こえる。私は大声で「はい!」と返事をする。

 やがて流れていた景色は、急に正しい色と形を取り戻した。私は前につんのめって、注意されていたのに目が回ってしまう。

「おっと……ほら、大丈夫?」

 すみれ先輩はそう言うと両手で私の身体を支えてくれた。

「は、はい……」

「よし、ならいいのよ」

 私は徐々に平衡感覚を取り戻していき、周りも見えてきた。

 どうやらここは、三、四階建ての雑居ビルの屋上らしかった。周囲を高いビルに囲まれていて、ここだけ凹んだみたいになっていた。なるほど身を隠すにはうってつけのポイントだったが、果たしてどうやってここまで登ったのかは気になった。いや、怖いから、考えるのはやめておこう。私は自分でシキの若干のマッドサイエンティスト気質が怖くなってしまった。

「すみれちゃん、レーダーに反応は」

 いつの間にか隣にいたかのん先輩が、そう訊いた。すみれ先輩は涼しい顔でまたさっきやったみたいに目の前の空間に手をかざして座標平面を出した。

「……見る限り、ここの近くにはいないわね、しばらくは大丈夫そう」

「あの……一度に走り切ってしまうのでは駄目なんでしょうか」

 真剣に空中に浮いた地図を観察する先輩方に、私は尋ねる。するとかのん先輩が私を見て、説明してくれた。

「このパワードスーツね、連続運用は五分が限界なの、それから使い切ったら十分はチャージに時間がかかるから、駄目なんだ」

「そういうこと、万能じゃないのよ、結構弱点あるんだから」

 かのん先輩に続いてすみれ先輩もそう言った。確かにそれならこんな変な場所に隠れるのも納得ができる、と思った。

「おい、四季」

 呼ばれて振り向くとかのん先輩と足を繋がれたままになっているメイが私を睨んでいた。

「十年後ってなんだよ、なんでそれ聞いてもそんなに平然としてんだよ、今の状況も…………四季は、何を知ってるんだ?」

 言われて私は怯んでしまう。どうこたえていいのか分からなかった。どう言えば分かってもらえるのかも。

「それは……」

 私は言い淀み、俯いてしまう。メイに隠していることは山ほどあった。時を繰り返す毎に隠しごとは増えていった。

「さっきの黒ローブの奴らも……なんで私たちを狙ってるんだ、知ってるんだろ、四季」

 なぁ。とこっちを鋭い眼差しで見つめるメイに、私は何も言うことができない。だってこれから起ころうとしていることは、あまりにも残酷だから。すみれ先輩がすぐ横で私たちを見ていた。

「私……四季がなんだか急に違う人になっちゃったみたいで、怖いんだ」

 メイはそう続けた。私ははっとして顔を上げる。メイは私をどこか不安そうに見ていた。まるで見たことのない人を見るかのような目で。

「メイ…………あのね」

 私はたまらず口を開く。繰り返す時の中で、抱えるものばかり増えていって、私の両手はもういっぱいだった。

「チャージ完了! みんな行くよっ!」

 言おうとしたのに、その言葉はかのん先輩の号令で遮られてしまう。それはそうだ。今は戦闘中なのだから、悠長に喋っている余裕などある訳がなかった。

「…………学校に着いたらこの子のことも私たちのことも全部教えてあげるから、もう少し我慢なさい」

 不安そうにするメイにすみれ先輩がそう言った。メイはそれを見て何か言いたげだったけれどこくりと頷く。今の私たちは、何としても奴らから逃れなければならなかった。

「じゃあ行くよ、みんな、準備はいい?」

 かのん先輩は言いながら隣のメイの腰に手を回す。私の隣ですみれ先輩もそうした。それから右手で輪っかを作ってOKサインをする。かのん先輩が頷く。

「第二ポイントまで走るよ! よーい、どんっ!」

 そして私たちはまた風のようになって、まだ明るい東京を走り抜けた。

 思っていたよりも行動はスムーズに進んだ。

 敵もいなければ、スーツを休ませるポイントも安全だった。かのん先輩とすみれ先輩は周囲をよく警戒していたようだけれど、私は、これなら無事逃げ切れるんじゃないかな、とぼんやり考えていた。

 これが嵐の前の静けさとも知らずに。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 第二ポイントも越えた私たちは、最後は結ヶ丘まで直接走り抜ける、とかのん先輩に言われた。

 景色はやっぱり色の線みたいになっていたけれど、その色合いだけでも見知った景色であることが何となく分かった。二人三脚をしてるみたいな姿勢なので、私の手はすみれ先輩の腰に回されていた。視覚からの情報がほぼないので、自然とその触れたところのしなやかさがよく分かる。元から綺麗な人だったけれど、十年経つと信じられないくらい美しくなっていた。

「もう少しよ! 頑張りなさい!」

 すみれ先輩の大声が風に紛れて聞こえて、私は回した手に力を込めることでこたえる。

 風を切る音と飛んでいるみたいな軽やかな浮遊感が続いていた。私はこれもそれも将来自分が作るのをうまく想像できなくて、おかしくもないのに笑ってしまいそうになる。

 やがて、速度が落ちてきた。色の線だった景色はだんだんぼんやりとだけど姿形を取り戻してゆき、そのうちいつもの景色に戻っていった。ここはどうやら学校の前の道路脇らしかった。でも、正門までは今ひとつ距離があった。なんでこんな微妙な場所で止まるんだろう、と思ってすみれ先輩を見上げると、その横顔には今まで見たことのない焦りの色が浮かんでいた。

「すみれ、先輩…………?」

「ちっ……やられた、シンクロ解除」

 すみれ先輩は苦々しく呟くと、足の輪っかが外れてすみれ先輩の方に戻っていった。それから私を一瞥して、早口で言う。

「説明してる時間はない、私とかのんで食い止めるから、あんたらは後ろに走りなさい」

 言いながら、すみれ先輩はまた何もない腰から小型のアサルトライフルを取り出す。じゃきり、と金属の擦れる小気味いい音がしてそちらを向くと、すぐ後ろでかのん先輩もライフルを構えていた。

「四季ちゃん、メイちゃん、走って!」

 かのん先輩が叫ぶのと、学校の正門から黒ローブの奴らが何人も出てくるのと、辺りに銃声が響いたのはほぼ同時だった。そこは突然、戦場と化した。

「メイ!」

 私はかのん先輩の後ろで呆然としていたメイの手を掴むと、学校と逆側に走り出す。メイは一瞬面食らった様子だったけれど、私に手を引かれるとはっとしたように手に力を込めてきた。後ろでは平和な日本とはとても思えないような銃声が響いていた。

 私たちはすぐに角を曲がって住宅街の隙間を走った。なるべく分かりにくそうな道を選んで走ったつもりだった。

 それで次の角を曲がってまた走り出そうとした時だった。私は足が止まった。

「おい四季、なんで止まってんだよ、早く行かないと……」

 メイが私の隣にやって来る。でも私の視線はそっちを向かない。道の先に、奴らが三人、いたから。

「メイっ! こっち!」

 私はメイの手を掴んで急いで駆け出す。回り込まれてしまっては、私たちだけで奴らの相手をするのはあまりにも無茶だ。とりあえず、かのん先輩たちと合流しないと。

 私はそう思い、来た道を戻った。次はここを左に曲がってあそこを右に……頭の中で経路を組み立てていきながら、足は緩めずに必死に走る。

 そして二つ目の角を曲がったところで、愕然とする。奴らがいたのだ。一体どうやって私の通る道を当てたんだろうと思いながら、私はすぐに引き返して別の道に向かう。ふと握られた手に力が入ってそっちを見ると、こんな時なのにメイが私を見てにっ、と笑った。私は不意打ちに胸がぎゅっと詰まる。この子を絶対に護る、そう強く誓った。

「メイ」

「ど、うしたっ、四季……」

「これが全部終わったらっ、メイに、言いたい、ことがあるの……聞いて、くれる……?」

 走りながら私が切れ切れに言うと、メイは私を見つめて言った。

「うん、私も、四季に言いたいことがあるんだ」

 それだけ言うと、私たちはまた前を向いて走り出した。別の道を通って、私たちはまた角を曲がる。しかしやっぱりそこにも奴らがいる。私たちは引き返す。そうしているうちに、気づいたら最初に奴らを見た道路まで戻ってきてしまっていた。

「これって…………」

「うん、完全に囲まれた」

 メイが私を見ながら言って、私はメイではなく敵を見つめながら言う。奴らはじりじりと距離を詰めて来る。

 気がつけば、前にも後ろにも奴らがいた。私は苦し紛れに路地裏に逃げ込む。でも、これは得策ではなかった。なぜならこの先は────

「行き止まり、ですよ」

 男性のような女性のような、機械音の混じった声がしてはっと振り向くと、そこには黒ローブの奴らが五人いた。そしてその先頭に、長身のあいつがいた。

「メイさんを渡してください、私たちは四季さんにまで手荒な真似はしたくありません」

 長身は言いながら、ローブの内側に手を突っ込んでするりと拳銃を取り出す。私はそれを見て、メイの腕を掴んでぐいと後ろに引っ張る。そして怪訝そうに私を見つめるメイの前に、私は両手を広げて立ち塞がった。

「…………なんの真似です」

 長身はこちらに銃口を向けながらそう言った。後ろの奴らも同じように私目がけて拳銃を構えている。

「メイはやらせない、メイを殺したければ、私を先に殺して」

「ちょ、四季、何言って……!」

「あなたたちに私を殺すことができる? タイムマシンが無くなったら困るんじゃないの」

 私が言うと、長身は黙って私を見ているようだった。やがて首を横に振ると、ゆっくり銃を下ろした。

「仕方ありません、あなたがそこまで言うなら……私たちはこうするしかないようです」

 私は思わぬ交渉の成立に驚き、次の言葉を待つ。これでメイは助かる、そう思ってメイを振り向くと、メイがいきなり叫んだ。

「避けろ、四季っ!」

 私は強い力に引かれて身体ごと地面に叩きつけられた。そしてその一瞬後に撃鉄の音が路地裏に響いた。私たちの後ろの建物のコンクリートでできた壁が、ぱらぱら砕けた。

 私は奴らを睨む。奴らは下ろしたはずの銃を全員が構えていた。

「では……二度と歩けない身体になるくらいは、覚悟してもらいます」

 地面に倒れ伏す私を、今度はメイが覆い被さるように庇っていた。私は、それを振り解くことができなくて、メイの下でじたばたした。

「四季は殺させねえ、四季は、私の大切な人なんだ」

 メイが力強くそう言う。黒ローブたちは何もこたえずにただ銃口をこちらに向けていた。

「…………やりなさい」

 長身がそう言って、そして路地裏には乾いた銃声がいくつも重なって聞こえた。

「…………」

 私はメイの頭を抱えて、メイは私の上に乗っかって、地面に倒れていた。私は今か、今かと自分の身体に加わるであろう痛みと衝撃に備えていたのに、それはいつまで経っても来なかった。

 恐る恐る目を開けると、長身の後ろにいた黒ローブたちはばたばたと倒れていくところだった。まさかかのん先輩とすみれ先輩が来てくれたの、と思って、私はその路地裏が切れる辺りを見つめた。

 でも、そこにいたのはかのん先輩じゃなかった。

 その人は、かのん先輩のと似たアサルトライフルを淡い栗色の髪の上に掲げて得意げに笑っていた。

 

 

 

「背中がガラ空き……っすよ?」

 

 

 

 その顔は、その声は、間違えようもなかった。服はかのん先輩やすみれ先輩と似たデザインのものだった。よく知ってるはずなのに、少し声には深みがあって、それがむず痒く心地よかった。エメラルドグリーンの大きな丸い瞳が私たちを柔らかく見ていた。首を振るとひとつに結われた後ろ髪がふわりと靡いた。

 

 

 

「あんまりどんぱちやらないで欲しいですの〜、銃弾だってわざわざ気を遣って非殺傷弾にしてるから安くないんですの」

 

 

 

 そしてその後ろから拳銃のトリガーに指を引っ掛けて、おもちゃでも扱うみたいにそれをくるくる回しながらもう一人が言った。淡い黄金色に先の紫がかった髪と、そこに乗っかるトレードマークの花飾り。やっぱり他の人たちと似た衣装を着ている。よく知ったその口調は、やっぱり大人びていて、私は嬉しさで胸が震えた。

「かのん先輩とすみれ先輩を大量の戦力で足止めしてる間に四季ちゃんとメイちゃんを少数で誘導して攻撃する……いい作戦ではあるっすけどね」

「ですが夏美ときな子を忘れられては困りますの〜、特に人気エルチューバーであるこの私を放っておくのはいけすかないですの」

「学校を中心に強力な磁場を張っておくのも作戦として悪くなかったっす、このスーツ、連続運用と磁場に影響されやすいのだけが弱点っすから」

 きな子はライフルを長身の黒ローブに向けながら、おどけて微笑んでそう言った。

「ほら、手上げるっす、あんたの味方はみんなおねんねしてるっすよ?」

 きな子は拳銃を目線の位置に構えながら、長身に狙いを定めていた。その後ろで夏美も同じように拳銃を向けている。

「そろそろその面拝んでやるっす、ほら、そのローブ外すっす」

 きな子が言うと、長身は首をゆっくり横に振ったようだった。私とメイはいつの間にか手を繋いでその様子を見ていた。

「…………まぁ、もう、隠す必要もないでしょう」

 長身は機械音ではなく、凛として澄んだ女性の声でそう言うと、きな子と夏美の方を振り返る。そしてローブのフードの部分に手をかけて、ゆっくりと後ろに下ろした。

 きな子と夏美の顔が驚きに固まり、二人とも手に持っていた銃器を頼りなく下ろしたのが見えた。

 そしてその人がこちらを振り向く。長い黒髪のポニーテールが、振り向き様に揺れて、ふわりと宙を舞う。それは見たことのある光景だった。

「お久しぶりです、皆さん…………わたくし葉月恋、と言います」

 そう言ってつめたく微笑む綺麗な顔立ちの女性は、遠い日の面影がある、間違いなくその人だった。

「恋、先輩…………?」

 きな子が困惑と混乱を混ぜたような表情を浮かべながら、そう呟いた。恋先輩は私たちから目を離して後ろのきな子を見つめる。

「え……だってきな子たちはメイちゃんと四季ちゃんを助けるためにこの時代に来たっす……クロノダイバーがメイちゃんを殺すのを防ぐために……なのに、なんで…………」

 きな子が定まらない眼差しを揺らして言うと、恋先輩は淡々と言った。

「私が、そのクロノダイバーのリーダーを務めています」

 私とメイはぽかんとしてそれを見ていた。きな子と夏美は訳が分からないと言いたげに恋先輩を見ていた。べたついたぬるい風が私たちの間を静かに吹きすぎていった。

「きな子ちゃん! 夏美ちゃん!」

 その時、路地裏の向こうから聞き慣れた声が響いた。そっちを見ると、かのん先輩は立ったまま、すみれ先輩は座ってライフルを構えた。

 そして二人は動かないその人を見て言葉を失いライフルを下ろす。

「恋、ちゃん…………?」

「恋、あんた生きてたの…………?」

 かのん先輩もすみれ先輩も目の前の光景が信じられないというように、恋先輩を呆然と見ていた。

「お久しぶりです、かのんさん、すみれさん」

 恋先輩は悠々とそう言った。その声には再会の喜びとか懐かしさとかはまるでなかった。胸の奥まで凍りついてしまいそうな、どこまでも色も温度もない声をしていた。

 恋先輩はそのまま出口の方────かのん先輩たちのいる方に歩いていく。突っ立ったままの夏美ときな子の間を通り抜けて、恋先輩はつかつかと歩いていく。

 私ははっとして叫ぶ。

「かのん先輩! そいつがクロノダイバーのリーダーでメイを殺そうとした張本人です! 逃しちゃ駄目です!」

 私の声が路地裏に何重にもなって反響して、かのん先輩はそれを聞くと決意したような瞳で恋先輩に向けてライフルを構えた。

「恋ちゃん、生きてて嬉しいけど、何してるの。恋ちゃんは、私たちの敵なの?」

 かのん先輩が困惑の滲んだ声で言っても、恋先輩は歩みを止めなかった。居心地の悪い空気が辺りをじわじわ侵食していた。

「質問にこたえなさい、恋」

 かのん先輩の隣で、すみれ先輩がライフルを低く構えて短く言った。そして躊躇なく引き金を引く。発砲音はほとんどなくて、恋先輩のすぐ前の地面が削れる音の方が大きかった。恋先輩はようやく足を止める。

「こたえるまで通さないわよ、あんた、ほんとにクロノダイバーのリーダーなの。何の目的でメイを殺そうとするの」

 すみれ先輩が言うと、私たちの前で夏美ときな子も振り向いて恋先輩に銃口を向けた。

「…………通してください、あなた方と話すことは、何もありません」

 私たちから恋先輩がどんな顔をしているかは分からなかったけれど、恋先輩はやっぱり色のない声でそう言った。すみれ先輩が舌打ちをするのが聞こえる。

「あんたねぇ! 仲間を殺して何がしたいのよ! 許さないったら許さないんだからっ!」

 すみれ先輩は激昂してライフルを装填するとまた恋先輩に向けて構える。でも、恋先輩は微動だにしなかった。それから辺りには沈黙ばかりが流れた。

 それを破ったのは恋先輩だった。

「かのんさんとすみれさんにより部隊は半壊……少数部隊のこちらもきな子さんと夏美さんにやられてしまいました」

 私たちは皆黙ってそれを聞いていた。恋先輩は喋り続けた。

「それに今や私も多勢に無勢……少しでも怪しい動きをすれば蜂の巣にされてしまうでしょう。私はもうメイさんを殺すどころかここから逃げることすらままならない」

 メイを殺す、と恋先輩が言った時に握られたままの手がびくっと震えて、私はその手にそっと力を込める。恋先輩の言葉は淡々としていて、熱を帯びることなく続いていく。

「でも、Re:era!の皆さん、私たちの勝ちです」

 でも、恋先輩の演説は、唐突に終わりを告げた。私たちは何を言われたのか分からずにぽかんとする。そしてその一瞬後、遠くから爆発音と、地響きが聞こえた。

「……なに、今の」

「学校の方だよ……嫌な予感がする」

 すみれ先輩の疑問に、かのん先輩がこたえる。もちろん、恋先輩に銃口を向けながら。でも、その向けられた銃口を恋先輩は笑顔で見つめていた。

「たった今、あなた方のタイムマシンと、四季さんの使っていたタイムリープマシンは破壊しました。これでもうあなたたちは時代を越えることはおろか逃げることさえできません……もちろん四季さんも」

 私たちは恋先輩の言葉をただ聞くことしかできなかった。あまりにも唐突だった。私は何があっても、あれさえあればなんとかなると思っていた。壊されるなんて考えもしなかった。

「ちょっと……嘘でしょ、じゃあタイムマシンに乗ったままの可可はどうなったのよ⁉︎」

「ちぃちゃんもだよ! あの二人は司令役としてずっとタイムマシンに乗ってるのにっ……」

 すみれ先輩とかのん先輩が今までになく敵意を恋先輩に向けているのが分かった。恋先輩はふいに私たちを振り向くと、笑ってるのに笑ってないような顔で笑った。

「あなたたちが助かりたければ…………メイさんをこちらに渡してください。三十分だけ待ちます。屋上で、お待ちしています」

 恋先輩はそれだけ言うと、歩き出した。かのん先輩とすみれ先輩が銃を向けたけれど、その間をいとも容易く抜けていった。きな子も夏美も、何もできなかった。

 路地裏の向こうは明るくて別世界みたいだった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 それからみんなで走って学校に向かった。辺りは人だかりができていて、何やら物々しい雰囲気だった。人数分の足音が高い青空に吸い込まれては消えていく。

 学校に着くと、私たちは先を走っていたかのん先輩とすみれ先輩に続いて裏庭に行った。もう生徒もみんな帰ってしまっていて、人目を気にする必要もなかった。

「可可っ!」

 すみれ先輩が叫んだ。学校という場所では到底見ないような上部が球状になっているその巨大な装置のようなものが何かは……言われなくても分かった。

「可可、可可っ! 無事なの⁉︎ 返事して⁉︎」

 すみれ先輩は取り乱した様子で、タイムマシンの入り口らしきところを叩いている。私はメイとまだ手を繋いだまま、それを見ていた。

「すみれちゃん、これっ…………」

 その時、夏美ときな子を連れてタイムマシンの裏に回り込んでいたかのん先輩が悲鳴を上げた。私たちは恐る恐るかのん先輩に近づく。すみれ先輩も私たちの後に続いた。

「────っ⁉︎」

 それを見て、私は言葉が出なかった。正面からだと焼け焦げているだけだったタイムマシンは裏から見るとその半分は熱でひしゃげて消滅していた。中が全部丸見えになっていて、そこには巨大なモニターとか、見たことのない配列のキーボードなんかが並んでいた。

「そんな、可可……」

「すみれちゃん」

 それを見て膝から崩れ落ちるすみれ先輩に、かのん先輩が近づいて上からぎゅっと抱きしめた。すみれ先輩の顔は苦痛と哀しみに歪んでいた。

「かのん……あんた……」

「すみれちゃん、まだ泣いちゃダメ、私たちは闘わないと」

「…………」

「すみれちゃんが哀しそうな顔してたら、可可ちゃんも哀しがっちゃうよ、ほら今は膝ついてちゃダメ」

「…………可可ね、一月前も言ってくれたわ、すみれは笑顔が似合いマスって。私が柄にもなく泣いてたからね、それからこの薬指にこれをはめてくれたの」

 すみれ先輩はそう言うと、自分の左手を揃えてくるくる回してみせた。その薬指に銀色の指輪がちらりと輝くのが見えた。

「あんたも、千砂都と、そうだったんじゃないの」

 すみれ先輩の瞳からは大粒の涙が溢れていた。かのん先輩も切なそうに眉を下げて、その涙をそっと拭う。

「うん、そうだよ。来月から一緒に暮らす予定だった。でも私たちの活動はそんなに甘いものじゃないから……って、分かってたんだけどなぁ……」

 私からはかのん先輩は後ろ姿しか見えなかったけれど、その背中は哀しみに満ちていた。夏美ときな子も、そんな二人に声をかけられないようだった。

「……部室に行きましょう」

 すみれ先輩が突然立ち上がりそう言った。もうその目に涙は浮かんでいなくて、代わりに強い決意の光が宿っていた。

「最後の作戦会議よ、あいつらを……いや、恋をどう叩くか考える、いいわね」

 すみれ先輩の言葉に私たちは強く頷くことでこたえる。握った手が震えていて、そちらを見るとメイだけが一人不安そうな目で私を見ていた。

「大丈夫、メイ、みんながいるから」

 そう言って私はメイの手を強く握った。今度こそ護る。そう強く誓って。

 それから私たちは部室に向かった。校内は当たり前だけど人がいなくて、普段だったらバスケ部とかバレー部の掛け声が聞こえてきそうな時間だったけど、そう言えば今日は学期の最終日で部活はあんまりやってないんだっけ、と思い出す。

 部室に行く途中、科学室の近くを通ったので、私は思わず「ちょっとすみません」と言ってみんなから離れる。そのまま廊下を走って、突き当たりにある科学室に入る。そしてその奥の机の上にあるはずだったものに近づいて、唇を噛んだ。

 タイムリープマシンは焼け焦げて炭のようになっていた。時間を示すメーターも、真ん中のボタンも、ヘッドホンもどれも同じ燻んだ色に落ち込んでいた。

 私はもう、これを使うことができない。この世界で、メイを助けるしかないんだ。

 私はそう強く決意し、科学室を後にした。

 それから私は廊下を過ぎて階段を上がり、慣れた部室へと向かった。でも、近づくにつれて何やら騒がしい声が聞こえてきた。なんだろう、と思いながら部室の扉を開ける。

「お〜久しぶりデスね〜!」

「わ、四季ちゃん⁉︎ かわいい〜私のこと、分かるっ?」

 そこには奥のソファですみれ先輩とかのん先輩にもみくちゃにされているグレージュのボブカットの幼い顔立ちの人と、さらさらの銀糸を両脇でお団子にした人だった。

「…………死んでなかったんですか」

 私はさっきのタイムマシン前でのやりとりを思い出しながら、思わず呟く。

 すると部室のみんなはしんと黙り込んで、それからソファの上の二人が堰を切ったように笑い出した。

「死んだって……あははは! かのんちゃんやすみれちゃんと同じこと言ってる! もーおかしいなぁ」

「千砂都の言う通りデス、なんで可可たちが死んだってことになるデスか、冗談はグソクムシくらいにして欲しいデス」

 それを聞いて二人の上のかのん先輩とすみれ先輩が顔を真っ赤にする。特にすみれ先輩はトマトになったみたいだった。可可先輩の両腕を押さえつけて顔を近づけて睨んでいる。

「あれで死んだって思わない方が不自然でしょうが、なにが冗談よ、なにが」

「ふん、知らないのデス」

「あんた、生意気ばっか言ってると口塞ぐわよ、黙りなさいったら黙りなさい」

 すみれ先輩が脅すと可可先輩は愉快そうにふふん、と鼻を鳴らした。

「ふぅん、どうやって塞ぐのデスか、グソクムシ? みんな見てる前でいつもみたいにする勇気がありマスか?」

「あっ……あんたねぇ!」

 可可先輩がくすくす笑って「冗談デスよ」と言った。千砂都先輩も楽しそうに二人とかのん先輩を交互に見ていた。

「私もこれくらい攻めてみようか? かのんちゃん」

 千砂都先輩はあどけない顔でかのん先輩の頬に触れながらそう言った。かのん先輩は頭を抱える。

「いや、いいです……」

 私はそれを見てくすりと笑う。夏美ときな子も部室の隅で笑っている。まるでいつもの部室みたいだったけど、ここにいるほとんどの人は未来から来ていた。

「おい、四季」

 ふと私を呼ぶ声があって、隣を見ればメイが私をまっすぐに見ていた。

「説明してもらうぞ、なんでみんなが未来から来たのか、あいつらが何者なのか、私がこの先……どうなるのか」

 メイが言うと、急に部室は静かになった。みんなが私たちを見ているのが分かった。私が何も言わないでいると、部屋の奥で「いいよ」と一言声がした。

 そっちを見ると、かのん先輩が私たちを見ていた。やっぱり髪、長くて綺麗だな、と思った。

「メイちゃんには、知る権利がある。全部教えてあげる。私たちがここに来た理由も、全部」

「…………」

「でも時間がないから、手短にするね。私たち、もうちょっとで闘いに行かなきゃなんだ」

「…………恋、先輩と?」

 メイがぽつりと言うと、かのん先輩はぴくりと肩を震わせて「うん」と言った。

「メイちゃんは、今日本当は死んでしまうの。でも四季ちゃんが作ったタイムマシンで、過去を変えようとした。それを邪魔する奴らが……あいつら、クロノダイバー」

 静かな部室では、埃だけがきらきらと宙を舞っていた。かのん先輩は続ける。

「四季ちゃんは、政府の管理下でタイムマシンを作っていたの。でも政府の支持する思想が過去保存……つまり歴史を変えてはならないとするものだったのね。でも四季ちゃんの目的はそれに反するものだった」

 かのん先輩は言いながら私をちらりと見る。

「四季ちゃんは政府の機関でタイムマシンを研究する傍ら、こっそり自分の家の地下を改造して自分が自由に使えるタイムマシンを作ったの。それを使って、四季ちゃんは過去に行った」

 私は声も出さずにかのん先輩の口が動くのを見ていた。

「でも、四季ちゃんがタイムマシンを使ったことを探知した政府がそれをもみ消そうと過去に部隊を送った……それで、私たちが助けに来たんだよ」

「あの…………」

「ん? どうしたの、四季ちゃん」

「タイムマシンは複数あったんですか」

 私は疑問に思ったことを言う。するとかのん先輩はおもむろに私に「ありがとう」と言った。

「四季ちゃん、私たちのためにタイムマシンをひとつ隠しておいてくれたんだ」

「それはでも……私じゃないです」

「ううん、それでも、だよ」

 かのん先輩は部室の上の時計を見上げる。そしてそこにある長針と短針を見て、ふっと息を吐いた。

「時間ね」

 後ろですみれ先輩が真面目な顔をして言った。きな子と夏美もこくりと頷く。

「決着をつけに行ってくるから、二人はここで可可ちゃんとちぃちゃんと一緒に待ってて」

 かのん先輩が言って、カラフルな衣装を着た四人は部室から出て行こうとする。

「ま……待って!」

 気がついたら叫んでいた。みんなが私を見ている。メイも、私を見ている。

「私も一緒に行きます」

 そう言った私を見ていたかのん先輩が、仕方なさそうにふっと笑った。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 屋上の扉の前は狭いし薄暗い。少し湿っぽくもあるここはどこか科学室に雰囲気が似ている。

 私はその手前の階段に身を潜めて、ことの成り行きを見守っていた。

「お待ちしておりました」

 凛然とした声がここまで聞こえてくる。何度聞いても、それは恋先輩の声だった。

「メイさんは、連れて来ましたか?」

 そう続けられる。私は少しだけ顔を覗かせてその様子を見た。手がじっとりと汗ばんでいて気持ち悪かった。

「恋ちゃん」

 かのん先輩の声だった。その声にさっきみたいな迷いや戸惑いは欠片もなかった。

「どうしてLiella!から何も言わずにいなくなったの、やっと会えたのに四季ちゃんの邪魔をするのは、どうしてなの」

 張り詰めた空気が流れているのがここからでも分かった。沈黙が重く深く沈んでいく。

「あなたたちに話すことは何もありません……早くメイさんを出してください、さもなくばこの時代であなた方は終わりを迎えるでしょう」

 恋先輩がそう言った。恋先輩はフードの部分だけを外して黒ローブを着ていた。屋上の四人は何も言えない。それはそうだ、自分達のタイムマシンは壊されているし、ここで恋先輩を撃っても未来に帰る術がない。さっき決着をつけてくる、と言ったけれど、あれも私たちを安心させるために言ったんじゃないかな、と思う。かのん先輩は、そういう人だった。

 もう万事休すだと思った。私はこの先に何が起きても、それは見たくなかった。きっと血が流れる、誰かが傷つく。そんなの、私。

 そして、その時壁に顔を押し当てて俯いていた私は、階段を登ってくる人に気づかなかった。その人がそのまま、私の隣を通り過ぎて行ったことも。私はふいに懐かしい匂いがした気がして顔を上げる。屋上の扉を抜ける赤いくせっ毛が視界の隅に映った。

 私は心臓がどくんと脈打つ。まさか、そんな、行っちゃ駄目なのに。

「────メイっ!」

 気がついたら私は屋上に飛び出していた。

 いきなり現れたメイと私に、先輩方は驚いた様子で目を丸くした。でもそれも一瞬のこと。左右に散開していたかのん先輩、すみれ先輩、きな子、夏美は恋先輩に、恋先輩は直線上にいるメイに、銃口を向けていた。一瞬だった。私はなんとかメイの肩を掴んでいたから、ぐいと引っ張ってメイの前に出て恋先輩のその射線を塞いだ。

「飛んで火に入る夏の虫とはこのことですね、よく来てくれました、メイさん」

 恋先輩は初めて嬉しそうな色を滲ませて言った。恋先輩に背を向けていた私はその顔は見えなかったけれど、きっとあまり見たくない顔をしているな、となんとなく思った。

「メイ、なんで来たの」

 私は抱きしめたメイの耳元で囁く。メイも私の腕の中で身を捩って私の耳元に顔を近づける。

「私が来ないと、みんな死ぬんだろ」

 その声は、声量こそ小さかったけれど、意志の強さとか、信念とかが写り込んでいて、私は深くそれを受け止めた。

「恋先輩と、話をさせてくれ、四季」

 メイはそう言って、私の腕を片方ずつ外してゆく。私はメイを止めることができなくて、私の拘束がほどけてゆくのをぼんやり感じていた。

 やがてメイは私の横をすり抜け、銃口を向ける恋先輩に向かい合った。

「初めまして……は変か、恋先輩」

「では、お久しぶりです……メイさん」

 私は二人が言葉を交わすのを、その後ろで呆然と見ていた。会話は穏やかで、いっそ和やかでさえあった。でもそうでないのは、誰かがひとつ引き金を引くだけでどちらかが死ぬ、ということ。

「恋先輩は、過去で何回も私を殺したのか?」

 メイは包み隠さずそう言った。恋先輩も表情ひとつ変えなかった。

「そうですよ、メイさんを、この手で何度も殺しました」

 恋先輩は嬉しそうでも、哀しそうでもなくそう言った。感情の起伏がほとんど見られなくて、壊れた人形みたいだ、と思った。

「なんでだ?」

 メイが腰に手を当てて訊く。いたって冷静そうだけど足がかすかに震えているのを、私は見逃さなかった。

「メイさんは、この世界に於いては今日死ぬんです。そうでなければ世界のバランスが崩れてしまう。私は、世界を守りたいのです」

 恋先輩は言った。それは嘘ではなさそうだったけれど、本当でもないな、と思った。建前をすらすら言われているようなそんな不快な感じがあった。その感覚には覚えがあった。

「…………分かったよ」

 沈黙と緊迫のなか、メイがぽつりと呟いた。

「私を殺せよ、恋先輩、代わりにここの奴らは殺さずに、未来に返してやってくれないか」

 メイは半円形に散らばる未来の先輩方の顔をくるりと振り向いて確認すると、真剣な声でそう言った。私はメイが何を言ったか理解できずに、ぽかんと口を開ける。

「メイちゃん! ダメだよそんな死ぬなんて……」

 かのん先輩が慌てた様子でそう言った。すみれ先輩も同意の面持ちでメイを見ていた。

「でもタイムマシン壊れてるんだ、こいつらのいう通りにしなきゃ結局全員殺される」

「考えようよ、考えれば何か方法があるはずだよ!」

 かのん先輩は、必死にメイを説得しようとしていた。けれどメイの決心は固いらしかった。その瞳の群青が揺らぐことはなかった。

「恋先輩……約束してくれるか」

「ここにいる皆さんの安全ですね……えぇ、約束しましょう」

 メイが言うと、恋先輩は満足そうに軽く頷いた。私はそれは駄目だと思うのに、声が出せない。もし恋先輩を殺せば、未来からやってきたみんなはこの時代に取り残される。そこを強襲されでもしたら、それこそひとたまりもない。だからと言ってメイが死ぬのは違う。私はもう、どうすればいいのか分からなかった。

「四季」

 ふいに名前を呼ばれて顔を上げるとそこには振り返ったメイがにっと歯を見せて笑っていた。

「今までありがとな、楽しかった」

「いやっ…………」

「じゃあな」

 メイはそれだけ言うとまた振り向いて恋先輩を見る。メイの手は、やっぱりまだ震えていた。

「恋先輩、いいぜ」

 メイは短くそう言うと、両手を上に上げる。恋先輩はそれを見てから、目線の少し下、メイの胸元に銃口を揃える。

 恋先輩の人差し指の先がトリガーにかかる。

「やめるっす!」

 きな子が叫んでライフルを構え直すと、メイがきな子の方を見た。私から見て背になっていたからどんな表情をしていたのかは分からないけど、きな子はメイを見て、驚いたような哀しいような顔をしてライフルを下ろした。

 そして今度こそメイは恋先輩に向き直る。恋先輩のつめたい銃口が不気味に円を描いている。

「さよなら……メイさん」

 誰かがメイの名前を叫んだ。メイはふと私を振り向いて、そっと笑った。

 そして屋上に、無機質な発砲音がひとつ響いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

終章 - 未来は風のように

 屋上の沈黙は一秒にも十分にも思えた。

 メイは撃たれて、鮮血を撒き散らし、そのアスファルトの上に倒れ、私は……そのはずだった。

 恋先輩の銃声が響き、みんなは構えた銃を撃つことも投げ棄てることもできず、ただ不恰好に状況を見ているだけだった。

 やがてその真ん中で、恋先輩の銃からは薄く煙が上がっていた。そして私の前にはメイがいた。メイは撃たれて死んでいる……はずだった。でもそうはなっていなかった。メイは怯えたように前を見て立ち尽くしていた。

 その、メイと恋先輩の間に、両手を広げて立っている人がいた。見慣れた気のする白衣の後ろ姿。その人の束ねてもいない髪はぬるい風に吹かれて無抵抗に揺れていた。

 その人は顔だけでゆっくり振り向いて、メイを見てほんの少しだけ微笑んだ。私は初めて笑った顔を見たな、と思った。

「久しぶり、メイ」

 風が吹いて、彼女の真っ青な髪が横に靡いてその耳が露わになる。低い位置にある、赤とオレンジの間くらいの色のピアス。それは────

「…………四季?」

 メイが信じられないものでも見るかのように呟く。そこにいたのは、シキだった。その白衣の背中姿の真ん中辺りが広く赤黒く汚れていた。それは今撃たれたものでないことは分かった。それを撃ったのは、私だ。

「四季さん、お久しぶりです」

 恋先輩が嬉しくなさそうに言って、シキはそっちを振り向く。

「恋さんも、お元気そうで」

 屋上にいる他のみんなは張り詰めた空気のまま二人を見守っていた。二人は言葉を選ぶようにぽつりぽつりと喋った。

「どうやって現れたんですか、パワードスーツは無力化しているはずですが」

「磁場の解除に思ったより時間がかかった、厄介でしたよ……でももうみんなのスーツも使える」

 恋先輩はそれを聞くと歯噛みしてシキに銃口を向ける。

「あなたは……いつも私の邪魔ばかりする…………何故なのですか⁉︎」

 恋先輩は初めて感情的になって叫んだ。シキの背中からは、赤黒い染みを塗り替えるように純粋に赤いものが溢れてきていた。どうやらシキはそこを撃たれたらしかった。

「恋さん、ひとつだけ、訊かせてください」

 シキは言いながら白衣を脱ぎ捨てる。その下から、他のみんなと同じ衣装が姿を現した。初めて九人でステージに立った学園祭の時の衣装にやっぱり似ていた。

「私は、メイが死んでから、傍であなたに支えてもらえて救われた。政府の研究室でも、あなたは一緒にいてくれて、私は少し、あなたのことをお姉さんみたいだと思っていた……それは、全部、こうするためだったんですか」

 シキが言うと、恋先輩は哀しそうに目を細めて吐き捨てるように短く言った。

「そうです」

「どうして…………」

「あなたがっ!」

 シキが困惑したように恋先輩を見ていると、恋先輩は突然堪えていた感情が堰を切って溢れ出したように叫んだ。

「あなたが、メイさんに必要とされているのが、憎かったんです」

 私はそろそろとメイに近づいて、その手に触れる。メイが驚いて私を見る。私は大丈夫だよ、と言うようにその手をぎゅっと握る。

「私はメイさんに見てもらえないのに、四季さんはいつもメイさんの隣にいる…………私はメイさんが死んで正直、ほっとしました。でも、四季さんはすごかった。タイムマシンを作ろうとするなんて、そしてまさかそれを完成させてしまうなんて……私は、四季さんの目的を察して、政府側に取り入りました」

 みんなは恋先輩の告白を聞いていた。『四季』の名前が出る度にメイがちらりと私を見るのが分かった。

「恋さん……メイのこと、好きだったの」

 シキは私たちを庇うように立ち塞がっていた。その背中は自分のはずなのに、とても同じ自分だとは思えなかった。あまりに多くの哀しみが刻まれている気がして。一体私は、どれだけの苦しみを越えてきたのだろう。それは私には想像もつかない時の長さだった。

「えぇ、最初はただのかわいい後輩でした……でも二人で話したり、一緒にゲームをしたりしているうちに、気づけば私はメイさんに惹かれていました。そんな気持ち、初めてだったんです……でも、メイさんは四季さんといつも一緒だった。私が入る余地は最初からなかったんです。だから…………」

 恋先輩は着ていた黒ローブを片手だけで脱ぎ捨てると、シキに向けて両手で丁寧に拳銃を構えた。

「手に入らないなら、壊れてしまえばいいと、思ったんです」

 恋先輩は、私とメイを除く他の屋上の面々と同じ衣装を着ていた。それは、シキが作ったとかのん先輩が言っていたものだ。それなら、恋先輩がそれを着ているのは、どうしてだろう。シキと恋先輩がどういう関係なのか、私にはさっぱり分からなかった。

「分かりました、恋さん」

 シキは決意したように呟くと、拳銃を構えた。その背中の低いところに小さく穴が開いていて、そこから血がたらたらと流れてきていた。さっき恋先輩の撃ったところに違いなかった。

「私はメイを必ず助ける、あなたはその邪魔をする敵です、どちらかがここで倒れなきゃいけない」

「えぇ、そうですね」

 シキと恋先輩は、お互いに銃を向け合っていた。私とメイは手を繋いだまま、それを見ていた。かのん先輩もすみれ先輩もきな子も夏美も、固唾を飲んで見ているようだった。

「恋さん」

「なんですか」

「私は、恋さんのこと、結構好きでしたよ」

 鳥が一羽、空の高いところを滑るみたいに飛んでいた。

「……そうですか、私は、あなたのことが嫌いでした」

「えぇ、知っています」

「ごめんなさい、そして…………」

「さよなら」

 そして二人の声が綺麗に重なった。それと同時に二人の衣装のカラフルな模様が光り出す。それから二人はいきなり姿を消すと、屋上に鋭い銃声が二発、ほとんど重なって聞こえた。

 私はメイを強い力で抱き抱えていた。メイを護りたい一心で、ただがむしゃらに押さえつけていた。

 屋上に音はなく、静かだった。私がゆっくり振り向くと、そこには抱き合うみたいな姿勢のシキと、恋先輩がいた。二人とも、片手でお互いの肩を抱いていて、もう一方の手でお腹に銃を突きつけていた。そして二人の下の地面には赤い水溜まりが広がっていた。

 他のみんなはそれを見て、構えた銃を下ろしていた。ただ、二人に近づくことはなかった。

「なんで、急所を外したん、ですかっ…………」

 恋先輩は口の端から血が溢れていて、途切れ途切れに言った。

「恋さん、こそ…………」

 シキも苦しそうにそう言った。二人はそれから握っていた銃を落とすと崩れ合うように倒れ込んだ。

「四季ちゃん、恋ちゃんっ!」

 かのん先輩が二人に走って近づく。はっとしたように他のみんなも駆け寄った。

「四季ちゃん、大丈夫⁉︎ 四季ちゃん⁉︎」

 かのん先輩がシキを抱き上げながら名前を呼んでいる。シキのお腹からは血が溢れてきていて、かのん先輩の白い手や足をその色で濡らした。

「私は、大丈夫…………まだ、死ねないっ……」

 シキは言いながら真上のかのん先輩を見て、それから横を向いて私とメイを見て、柔く微笑んだ。

 その奥ですみれ先輩は恋先輩を腕の中に抱えていた。その下も、シキと同様、真っ赤に染まっていた。

「メイちゃんっ!」

「メイメイ!」

 その時屋上の扉が開いて、可可先輩と千砂都先輩が転がり込んできた。私たちは驚いて二人を見る。

「メイちゃんお手洗い行くって言ってもなかなか帰って来なくて、もしかしたら……って思ったの、ごめんね、気付けなくて……」

 千砂都先輩は申し訳なさそうに言った。メイはそれを見ると苦笑して言った。

「千砂都先輩、私が勝手にしたことだから、いいんだ。それに四季が助けてくれた」

 メイは言いながら振り向いて、かのんの腕の中に収まるシキを見つめる。するとシキが何かを言ったのか、かのん先輩がシキの口元に耳を近づける。うん、うん、と数回頷いてから、かのん先輩は私たちを見て言った。

「四季ちゃんが、二人に話があるって、聞いてあげてくれるかな」

 シキはその赤い瞳で私たちを見ていた。そこには絶望とか諦観とかの色はなくて、どこかあたたかくて懐かしい、そんな色をしていた。

 私たちは一度見つめ合ってから手を繋いでシキの元へ来た。シキもかのん先輩の腕を離れて、よろよろと立ち上がる。

「シキ…………」

 私はシキのお腹を見て、目を逸らしたくなる。何発も銃痕があって、そこから音もなく赤色が染み出してきていたから。そしてそのうちの一発をやったのは自分だった。

「いいの、私だってあなたを殺そうとした、おあいこよ」

 申し訳なさそうに俯いた私に、シキはそう言った。メイが驚いたように私とシキを交互に見た。あぁそっか、この世界じゃメイはそれを知らないんだっけ、当然だ。

「あなたに、言っていなかったことがある。メイを助ける、唯一の方法について」

 シキは私をまっすぐ見つめてそう言った。私は息を呑む。

「教えて……どうすればいいの」

 私は呟くように訊く。長い長い時間の中を彷徨っていた。私はそれだけを追い求めていた。

「メイも、聞いてくれる? あなたと、そこにいる私の、話だから」

 シキは言いながら、メイを懐かしむような目で見つめた。メイもこくりと無言で頷く。そしてシキはゆっくりと話し始めた。

「メイ……あなたはこの世界では、もうすぐ死んでしまうの。それは、誰にも止めることができない」

 まだ空は青かった。雲ひとつない夏空だ。でももうすぐ、夕暮れが来そうな気もした。その前に、メイは。

「メイが助かって、かつ誰も死なない方法がひとつだけある……メイの死は、常に私がトリガーとなって引き起こされた。それは、私がメイを助けようとすればするほど、そうなっていったことからも自明」

 私もメイもじっとシキの唇が動くのを見ていた。メイと繋いだままの手が時々確かめるみたいにきゅっと握られた。

「だから、私とメイが、そもそも出会わない世界にしてしまえば、メイは死ぬことはない…………これが唯一の方法」

 シキはゆっくりとそう言い終えた。ぬるい風が私とメイとシキの間のスペースを過ぎていった。

 私たちは誰も喋らなかった。私たちの周りの、未来のみんなも、誰も。

 やがて口を開いたのはメイだった。

「おい……四季と出会わないようにするって、じゃあここにいる私はどうなるんだよ」

「あなたの記憶から若菜四季の存在は消されるの、消されたことにも気づかない」

「…………」

 メイはシキにそう言われて、愕然としている様子だった。私は慌てて口を開く。

「ちょ、ちょっと待って、タイムマシンは破壊されたはず……どうやって行くの」

「私が乗ってきたのがある、それを使って行くことになる……若菜四季、あなたがやるの」

 それは、あまりにも残酷な方法だった。私はどうすることもできずにただ立ち竦んでいた。

「……四季と、二人きりで話をさせてくれないか」

 メイが私を見て、言った。シキが頷いて、こたえる。

「分かった……ただもう時間がない、メイが死んでしまう時間まで、もう三十分を切った。だから二十分で、二人で話し合って、決めて」

 シキはそれだけ言うと、突然バランスを崩して私にもたれかかってきた。私は慌ててシキを支える。背中に回した両手がぬるりと濡れた。喋りすぎたシキはどうやら限界らしかった。

「メイ…………」

 私は隣を見て自分にも聞こえないくらい小さく呟くと、メイが気がついて私を向いた。そして桜が降るように柔く微笑んで、言った。

「私は大丈夫、だから四季、そんな顔するなよ」

 私は泣き出してしまいそうだった。

 メイの声があんまりに優しくて。

 メイの顔が儚くて。

 空は思い出を吸い込んだみたいに、深い青色だった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 私たちは何も言わずに手を繋いで歩いていた。部室を過ぎて、薄暗い階段を降り、廊下をまっすぐ突き当たる。

 その『科学愛好会仮部室』の紙が貼られている扉を開けて、私は中に入る。そこは少し空気がつめたくて、しんとしていた。棚に並んだビーカーやフラスコの数々も、ホワイトボードに書かれたいくつもの構造式も。

「おい、四季」

 ふと手が離されて、私はようやく振り向く。メイが真剣そうな顔をして私を見つめていた。

「もういいだろ、ここで」

「うん…………」

 私はようやく口を開く。メイのわずかに急いでいる通り、私たちには時間がなかった。たったの三十分にも満たない時間。

「最初にどうしても、訊いときたいことがある」

 私たちは科学室の隅っこで話した。それはまるで、二人でスクールアイドル部に入ろうと決めた、あの日のようだった。

「四季は、みんなみたいに、未来から来てるんだな?」

 メイはそうなんだろ、と言うように力強く言った。私はそんなこと一言も言ってないのに、どうして、と思って口を薄く開いたままメイを見ていた。

「分かるよ、そのくらい」

「メイ……」

「じゃあ、四季は、私が殺されるのを、何度も見てきたのか」

 メイの声は春の木漏れ日みたいにあたたかくて優しかった。私は視界がじわりと濡れるのを感じながら、ただ頷くだけでそれにこたえた。

 そっか。と短くメイは言った。その声は思いの外近くから聞こえて、私は驚いて顔を上げる。涙に滲む世界のすぐそこで、メイが柔く微笑んでいた。

「ありがとう、辛かったな」

 メイの声は夏の午後の清風みたいに穏やかで心地よかった。私はそんなメイに何も言えなくて、気がついたら抱きしめていた。

「メイっ…………私は、メイに生きていて欲しいの、それだけなのっ…………!」

 メイは私が突然抱きついたのに声を上げることもなく、逆に静かに背中に手を回してくれた。その感触は秋の落葉のように曖昧で儚いものだった。

「うん、ありがとう、四季。私はきっと他の世界でも、四季がいてくれて嬉しかったと思うよ」

 メイは耳元で慈しむように言った。あなたは何も知らないはずなのに、どうしてそんなに優しいかな、もう。メイはやがて私をゆっくり引き剥がすと、その群青で私を見つめて言った。

「相談なんかしなくても、四季のこたえは決まってる……そうだろ?」

 私はどきりとした。なんでそんなことまで分かるの、まだ何も話してないのに、と思って。

「だから、四季、分かりやすいんだよ、私が何年一緒にいると思ってるんだ」

 私がこたえずにいると、メイは呆れ気味に苦笑してそう言った。

「私がなんて言っても、四季は過去に行って私と出会わない世界を選ぶ……私が四季のことを全部忘れても、私が生きてる方がいいって、四季はそう言うんだろ」

 メイの声は冬の白雪のように科学室にしんしんと降りしきり音も色もなく消えていった。私は思っていたことを全部言われて、もう何も言うことがなくなる。

「四季、お願いがあるんだ」

「…………?」

「私が四季のことを全部忘れたら、四季も私のことは忘れてくれ」

「いやっ、そんなの…………」

 私が子供みたいに首を横に振ると、メイははにかんで笑った。その顔がとても寂しくていけなかった。

「覚えてても辛いことばっかりだろうからさ、だって私は何一つ四季のことを覚えてないんだぞ」

「…………」

「じゃあ、もう行こうぜ……早く行かなきゃ」

 メイはそう言って、踵を返す。このままだと本当にお別れだ。こんなところで。私はまだ、あなたに何も言えてないのに。あなたと私の距離が開いていく。でもまだ、私は。

「…………五枚、なんでしょ」

 私は思わず口を開いていた。メイの足がぴたりと止まり、辺りの時も一瞬止まったようになる。やがてメイがゆっくり振り向く。

「私に宛てて書いた、ラブレターの、枚数」

 私は胸がはち切れそうになりながらそう言う。胸がどくどくうるさくてその音がメイまで聞こえてしまうんじゃないかと思って怖くなった。科学室はこんな日でも薄暗くてつめたい。

「四季」

 ふと、名前を呼ばれて顔を上げると、そこには鼻先が触れてしまいそうなほど近くにメイがいた。私は息が止まりそうになる。

「…………ごめんな」

 メイはただそう言った。

 そしてその小さなつまさきをわずかに立てて、壊れ物に触れるみたいに私の頬に手を添えて、それからメイの整った顔が近づいてくるのを、私はただ感じていた。

 その時、確かにこの科学室の時間は止まった。私はこの時が永遠に続けばいいのに、と、本気でそう思った。

 だって魔法みたいな口触りだったの。それは季節のうつろいみたいに穏やかで、けどはっとするような鮮やかさで、私の胸に落ちてきた。

 やがて音もなくメイが離れていって、私たちの間にはいつもみたいな何気ない隙間ができた。

「ひどいよ……こんな、忘れられないことしておいて、忘れろなんて…………」

 もう誤魔化しようがなかった。私の視界はぐしゃぐしゃに歪み、堪えきれなくて言葉にできなかった想いが全て雫になって目からこぼれ落ちた。私はメイのことが、好きだった。

「ごめん」

 メイは言った。その声は私でなければ聞き逃していただろうけれど、わずかに震えていて、私は涙を拭ってメイを見る。そのメイの、へたくそな笑顔の縁をつう、とひとつ水滴が伝った。

「やっぱり、やだなぁ…………四季のこと忘れるの」

 メイは。

 メイは。

 メイ、は。

 そういう顔をするからいけないの。

 ずるいよ。

 だって、ほんとはそれ、私が言いたいことなのに。

「メイっ!」

 私は勢いよくメイを抱きしめる。その細い首筋に顔を埋める。春みたいな匂いがする。このぬくもりだけ感じていたいと切に思った。そうできないことを、誰より残酷に知っていながら。

「ごめんな、四季」

 メイは私の頭をゆるく撫でながらそう言った。私たちの影がひとつに伸びていた。

 刻一刻と迫るさよならの合図。

 目を背けても、無駄だった。

 私たちは今始まる今と、今終わる今の隙間でばらばらにならないように、無力な(わら)みたいに、必死に互いを抱きしめあっていた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 屋上に戻ると、もうあまり時間はなかったのだろう。未来のみんながそわそわして私たちを待っていた。

「……結論は出た?」

 かのん先輩が私たち二人の前に立って、そう訊いた。その目はひどく優しかった。

「はい…………シキの、私の、言う通りにします」

 私が決意を込めてそう言うと、屋上のみんなは私を見てほころぶように笑った。

「四季ちゃんならそう言うって、思ってたよ。ほら、ちぃちゃんが待ってるから、四季ちゃん急いで」

 かのん先輩は言いながら、屋上の奥を指差す。そこには千砂都先輩が上部が球状になっている巨大な装置のようなものの前でひらひら手を振っていた。それはさっき裏庭で見たものと瓜二つだった。何なのかは訊かなくても分かった。

 私はメイを置き去りにして千砂都先輩の元に駆け出す。そうでもしないと、後ろ髪を引かれてしまいそうで。

「ほんとにいいの、四季ちゃん」

 私が隣まで来ると、千砂都先輩は優しく眉をひそめてそう言った。この人の人を心配する時の顔は、ちっとも変わらないな、と思った。

「もう決めたんです……行きましょう」

 私がそう言うと、千砂都先輩は真剣にこくりと頷いてタイムマシンのハッチのような部分を開けた。そこの梯子を登っていき、上から私を呼ぶ。

「登ってきて! すぐ出発するよ!」

 私は聞き終わらないうちから梯子に手をかけていた。メイがこっちを見ていた気がしたけど、気づかないフリをした。

 船内に入ると、そこの空気は科学室みたいにつめたかった。

 千砂都先輩は巨大なモニターとか、見たことのない配列のキーボードなんかが並んでいるメインコントロールらしき椅子に座っていた。よく見ると千砂都先輩の座っている椅子の左右にふたつ、そこから四角形を描いて各頂点に来るように椅子がふたつずつ並んでいた。

「大きいですね」

 私が言うと、千砂都先輩はあぁ、と得心して笑う。

「九人乗りなんだ、このタイムマシン」

 千砂都先輩はそう言った。どうして九人なのかは、訊かなくても分かった。私は、やっぱりどこまでいっても私らしい。

 私は笑ってしまいそうになるのを堪えながら、千砂都先輩の左隣の椅子に腰掛ける。千砂都先輩に目配せして、頷く。千砂都先輩もそうする。

「じゃあ、少しだけ待ってて、設定しちゃうから」

 千砂都先輩は言うと、手元のキーボードのようなものをすごい速さで触っていた。するとすぐに宇宙船内部みたいだったタイムマシンの景色が上から透過されて、外の景色が見えるようになった。すぐ私の足元にメイがいて、私を緊張した眼差しで見上げていた。

「内側からしか見えてないんだけど……余計なお世話だったらごめんね」

 千砂都先輩は困り笑顔をしていた。目線は青白いモニターに注がれていて、手は動き続けたままだ。

「時代と場所は四季ちゃんが決めて、どうすればいいかは四季ちゃんが一番よく知ってるだろうから」

 千砂都先輩は横顔のままそう言った。私は、たぶんそう言われるだろうなと思っていたから、すぐにこたえる。

「三年と四ヶ月前、メイの小学校付近まで連れて行って」

 私が言うと、千砂都先輩はオッケー、と言って何かを素早く入力すると手を止めた。

「じゃあ、行くよ、初見だとすごいGだから覚悟してね」

 千砂都先輩は言うと、中心のボタンを押してレバーをふたつ引く。

 突然がくんと視界が歪んで、身体中が押しつぶされるような強い力が上からかかる。私は悲鳴にもならない声を上げる。やっとの思いで目を開くと、透過された外の景色が波打つようにぼやけてきていた。

 その下にいる、その人を私は見る。お別れもろくに言えなかったな、もう二度とあなたには会えないのかな、あなたと行きたいところも見たいものも星の数ほどあったな。

 重力がのしかかる。景色の揺らぎは下の方まで伝播していく。私は最後に、あなたの姿を見ておきたくて、目を凝らす。

 タイムマシンの外部がおもむろに発光する。

 何か言う、あなたが見えなくなる。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 タイムマシンはものの数十秒で静かになった。周囲は透過状態ではなく、タイムマシン内部の景色だった。

「着いたよ」

 千砂都先輩がそう言って、立ち上がる。私の後ろでハッチを開けてくれながら、私を振り向く。

「いい、四季ちゃんが信じたことをして、それがきっと正しことだと思うから」

 千砂都先輩は言うと、私の顔をじっと見て、にっと笑った。

「いってらっしゃい、先輩が待ってあげてるから、安心して行きたまえ」

 おどけて言う千砂都先輩は、私の知ってるあなたと何も変わらなかった。私は小さく息をひとつ吐いて、立ち上がる。

「いってきます、先輩」

 私は静かに梯子を降りていった。

 外は、雨が降っていた。

 灰色の雲が頭上には立ち込めていて、世界はどこも灰色にくすんでいた。はたはた、と。音もなく雨は街中を濡らしていた。

 私は傘など持っていないので、そのまま歩き出す。ここはどうやら広めの公園の隅の方らしかった。

 そこを抜けて、私は歩く。

 あまり通らない、メイが通っていたという小学校のある街を。

 どこに行けばいいのかは分からなかった。どうすればいいのかも。千砂都先輩はああ言ったけれど、そもそもメイに会える保証すらなかった。私はただブラウスもスカートも濡れて肌に張り付くのを感じながら、宛もなく灰色の街を歩き続けた。

 信号はカッコウと鳴いていた。待っている間、向かいの車線でトラックが水溜まりを跳ね飛ばして、誰もいない歩道を濡らした。私はそれをぼうっと、目で追いかけていた。

 私は歩いた。

 どこかへ行くような、どこへも行ってないような、そんな曖昧な心地のまま。

 雨。記憶のそれより鮮明に、私の胸を焦がすような。

 ふと、私の脇に、公園があった。それはさっきタイムマシンで降りてきたような広い公園ではなくて、住宅街の中にある小さなやつだった。空いてるスペースが寂しいから作りました、というようなそこは入ってすぐにベンチがあって、後は奥に錆びついたブランコがあるだけの簡素な作りだった。雨だからかなのか知らないけれど、誰もいなかったのでそこはかえってもの寂しく思われた。

 私は歩き疲れていたから、ふらふらとブランコまで歩いていってその片方に腰掛けた。

 じゃり、と濡れた鉄と鉄の擦れる音が座るとして、私はなんだか安心してそのチェーンを握った。不思議と懐かしい気持ちがした。

 空を見上げると、雨の筋が降ってくるのが見えた。私の額から頬を伝って、顎にかけて落ちていく。ブランコの下はみんなが蹴って削れているから水溜まりができていた。

 ぴちゃり。

 と、音がしたのは、その時だった。

 濡れた土と水を踏む音がして、ブランコが軋む。

 気がつくと、私の隣にも、誰かが座っていた。

 私はそっちを見ていないのに、そこに誰がいるのか分かった。何も言わなくても全て伝わってしまいそうな安心感。

 私たちはじっとしていた。時折ブランコのチェーンが思い出したように軋んだ。

「…………それ」

 口を開いたのは彼女だった。まだその声は高く幼さが残っていた。私はゆっくりと隣を見る。くせっ毛な赤髪の子が、その群青で私を見ていた。

「それ、お姉さんの血?」

 言われて私は自分の手を見ると、そこから赤黒い液体がわずかに垂れていた。私は怪我してないけど、と思って記憶を辿る。そして、あぁ、と思い至った。さっきシキを抱きとめた時に手についたんだろう。それが固まって、雨によってまた流れ落ちたのだった。

「うん、そうだよ」

 でも私は、否定するのも違う気がしたから、そうこたえた。実際自分の血だから、間違いでもなかった。

 彼女は何も言わずに私を見ていた。でもやがて二人して、ブランコの上の空を見上げた。灰色で、まるで夜と区別がつかない空を。

「私な」

 またしても彼女が口を開いた。私は今度はそっちを向かないまま、聞く。

「私、目つきも悪いし性格もこんなだからみんなから怖がられててさ」

 雨が少し強くなったようだった。頬を打つ雨粒が少し、増える。

「仲良くしようと思って頑張ってたんだけど、疲れちゃったんだ」

 彼女はそう言った。彼女はランドセルを背負っていた。私はそれを見て、どうしてか泣き出したくなった。

「大丈夫」

「…………え?」

 私が放った言葉は小さすぎたのか、彼女は首を傾げる。

「大丈夫、あなたは優しいから、いつか、いい友達に囲まれるよ、安心して」

 私が言うと、彼女はきょとんとしてその幼いながらも鋭い目で私を見ていた。私は、怖がられるのが嫌ならコンタクトつけなよ、と言いたくなるのを必死に堪える。

 灰色の街の中で、彼女の髪ばかりまぶしい茜色でいけなかった。

「……みらいはかぜのよう、に」

 気がつけば私は歌い始めていた。出だしは頼りなく、だんだん感覚を取り戻していくように。

「それでも進みたいんだ

 だって後悔したくないよ」

 彼女が私を見ているような気がした。

「あきらめない

 決めたから」

 私は雨を伴奏に歌っていた。それはあなたのピアノみたいに優しく私の声を包んでくれた。

「信じることが大事だと

 自分に言い聞かせたら

 もっと もっと 遠く目指してみようよ」

 自分で紡ぐ歌の歌詞が、心の奥の方の何か柔らかくてあたたかい大切な部分に触れる。この曲を私に教えてくれたのも、あなただった。

「小さな存在だけど

 大きな夢があるから

 負けないよ さあ一緒に飛ぼうよ」

 サビが終わる。私の声は途端にか細くなってしまう。なんで声が出ないのかと思ったら、私は泣いているのだった。あとからあとから、涙が出てきた。

「本気で飛ぼう……さあ、一緒に飛ぼうよ」

 私は最後のフレーズをぎりぎり歌い切って、顔を下ろす。自分の頬を伝うのが雨なのか涙なのか私には分からなかった。

 さく。と音がした。

 私が顔を上げると、隣にいたはずの彼女が目の前にいた。片方だけお団子にしているのも変わらなかった。彼女は歯を見せてにっと笑った。

「いい歌だな」

 彼女はそれだけ言った。その笑顔で、その声で、私はもう胸がいっぱいだった。

 気がついたら彼女を抱きしめていた。彼女の背は私よりもずいぶんと低いから、私は汚れるのも構わず水溜まりに膝をついて彼女を抱きしめた。つめたい雨の中なのに彼女はひどくあたたかかった。

「お願い…………」

「ん?」

 私は決意して、言葉をひとつひとつ選んでいく。

「外苑西中学校だけには、行かないでっ…………」

 私は膝立ちで彼女に縋っていたから、懇願するような姿勢だった。泣きながら、お願いをする私の姿は、きっと誰が見ても幼いものだっただろう。彼女は私の腕を払い除けることも、逃れようとすることもないまま、ただ立っていた。

「…………分かった」

 ふいに耳元で声がした。私は耳が彼女の声をキャッチしたことで他の情報がどうでもよくなる。雨音が遠くなってゆく。

「お姉さんがそう言うなら、なんか理由があるんだろ、そうするよ」

 私はそれを聞くと力が抜けてしまって、彼女を抱いていた手の拘束がするりと解けた。

 見つめ合うと彼女はいつもやるみたいに歯を見せてにっと笑っていた。私は見ていられなくて、立ち上がる。膝から下が全て泥に汚されていた。

 別れの挨拶もしないまま、私は歩き出す。錆びついたブランコを離れて、ベンチの脇を抜けて、公園を出ようとした、時────

「待ってくれ!」

 雨音にも紛れない澄んだ声で、私は射止められた。止まった足はうまく振り向いてくれることさえできない。私は顔だけで公園を振り向く。その真ん中、私を呼び止めた彼女を。

「お姉さんの、名前は?」

 彼女は躊躇いがちにそう訊いた。その群青が戸惑いと興味に揺れていた。私はふっと微笑んで、彼女をまっすぐ見つめて言う。

「私は、あなたがいくつもの四季を越えた先で、待ってるよ」

 私が言うと、彼女は謎かけにでもあったみたいに首を傾げた。何を言ってるのか分からない、という顔だった。でも、私はそれでよかった。

 私は振り向くと、住宅街を走り抜ける。両手の血はとっくに全部流れ落ちていた。

 私は走った。

 走りながら泣いた。

 上を向きながら走った。

 込み上げてくるものを抑えていたつもりなのに、気がついたら叫んでいた。

 嗚咽のような、咽び泣くような、自分でも発したことのない声だった。多分それは、慟哭と呼ぶのが最も近かった。

 私は来た道を泣きながら走った。最初に降り立った公園のその隅にあるはずのタイムマシンに近づく。

 しかしそこには何もなく、代わりに千砂都先輩が立っていた。私に気づくと軽く手を振って、手を左側の茂みにかざす。するとそこから住宅街の中ではあまりにも目立つ巨大な機械が姿を現した。私は驚きつつ千砂都先輩に近づく。

「こうやって隠すんだ〜、びっくりした?」

 いつもみたいにおどけた口調の千砂都先輩は、今の私には優しすぎた。もう、どうしようもなかった。

「四季ちゃん…………泣いてるの」

 私は雨に打たれながら、声も上げずに泣いていた。涙が止まらなくて、しゃくり上げるのを止められなくて、私はみっともなくわんわん声を上げて泣いた。

「四季ちゃん」

 そして、気がつくと私の身体はあたたかさと柔らかさに包まれていた。顔のすぐ近くに綺麗な銀糸があった。

「よくがんばったね」

 優しく幼子を褒める時みたいな言い方だった。えらいえらい、と子供にするように、私の頭を何度も撫でてくれた。私は雨と泥でぐしゃぐしゃだったのに、千砂都先輩はちっとも気にしてない様子だった。

「行こう、四季ちゃん……私たちの、それぞれの世界に」

 私は千砂都先輩からようやく離れて、向かい合う。身体の奥にはもう熱が灯っていた。私は、千砂都先輩の目をまっすぐ見つめて言う。

 ここは灰色の雨の街。

 私たちが生きるのは、楽しいことも苦しいこともある、あの街。

 大切な人の住む街。

 陽が沈む街。

 そこで、懸命に今を生きていくんだ。

 そうなんだ。

 分かってるんだ、私。

「はい、帰りましょう……私たちの未来に」

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 タイムマシンはまた数十秒で時を越えた。ほんとにこれを自分が作ったのかな、と不思議に思って私は自分座る椅子の固定された手すりをぺたぺた撫でていた。それを見ていた千砂都先輩がふふっと笑う。

「すごいでしょ、未来の四季ちゃんの科学力。ほんとなんでもできちゃうんだから…………っと、着いたよ」

 千砂都先輩が言う頃には地鳴りのようなタイムマシンの起動音も静かになっていた。

 私たちは立ち上がり先に千砂都先輩がハッチを開けて、私が後から降りて行った。

「おかえり、ちぃちゃん、四季ちゃん」

 一番に声をかけてきたのはかのん先輩だった。その後ろですみれ先輩も一安心するように息を吐いたのが見えた。

「四季ちゃん…………本当に、よかったんすか」

 すぐ隣できな子が泣き出しそうな顔をして言った。あなたのそういうところも、ちっとも変わらないんだね。

「うん、いいの……私が、選んだ道だから」

「でもっ、あんまりですのっ、四季さんがどれだけの想いで十数年生きてきたと思ってるんですのっ……」

 夏美はすでに泣きながらそう言った。全く、帰ってきた途端にこんなに賑やかだなんて、どこまであたたかい人たちなんだろう。

「しっきーはよく頑張りマシタね、えらいデスよ」

 可可先輩もそう言って近づいてくると、頭をぽんぽん撫でてくれた。千砂都先輩とはまた違う優しさの撫で方だった。私は胸に熱いものが込み上げるのが分かる。

「四季」

 はっとして名前を呼ぶ方を向くと、かのん先輩ときな子の間から、ぼろぼろの白衣をまとった青髪の長髪の女性がいた。その人が、私を名前で呼ぶのは初めてだった。それも、そんな優しい声で。

 その人は何も言わずに私の前までやって来た。お腹に包帯が巻かれていて、どうやら処置はしたらしかった。

 そして、その人はおもむろに私をぎゅっと抱きしめた。すごく強い力で、私は少し足が浮いてしまう。

「苦しい、よ、シキ…………」

 私が呟くと、背の高いシキは私の耳元に覆い被さるようにして、そっと言葉をこぼした。

「ありがとう……それと、私のエゴに付き合わせて、ごめん。たくさん傷つけてしまって、ごめん。辛い選択ばかり突きつけてしまって、本当に、ごめんね…………」

 シキは言い切ると、私の肩を両手で掴んで私を正面から見据えた。もう、そんなに辛そうな顔しなくていいのにな。ねぇ、私。

「あなたは私なんだから、悪かったなんて思わないで、私が同じ立場でも、私はきっと同じことをしていたと思うから」

 シキは私を信じられない、という目で見ていた。あなたのその人の言うことに驚いてばっかりなところも、全然変わってないんだね。

「シキ…………じゃなくて、私。来てくれてありがとう。みんなも、ありがとう。私は、嬉しかった」

 私は言いながら周囲を見渡す。かのん先輩、すみれ先輩、千砂都先輩、可可先輩、きな子と、夏美、それと……(シキ)

「あれ、そういえば、恋先輩はどこへ……」

 私が言うときな子が突然横に避けた。そこには後ろに手を縛られた恋先輩がいた。シキと同じようにお腹には包帯が巻かれていた。

「どうするんですか、恋先輩…………」

「私たちで、連れて帰る」

 私が訊くと、間髪入れずにシキがそう言った。みんなが驚いたようにシキを見る。特にすみれ先輩と夏美は何か言いたげだった。それを遮るようにシキは続ける。

「恋さんは、私と同じ研究室にいた仲間なの……それにみんなのことを忘れた訳じゃない。私たちはやり直せる……そう思う」

 シキは恋先輩を見つめながらそう言った。恋先輩は何も言わずにでもシキを見つめ返してはいた。そしてかのん先輩がよし! と声を上げると、みんなの前に出てきて両手を開いて声を上げた。

「これよりRe:era!は四季ちゃんのタイムマシンで未来に帰還します! 恋ちゃんも連れて行きます! 異論のあるメンバー、いる?」

 かのん先輩が言うと他のみんなはやれやれ、とでも言いたげに苦笑していた。

「こうなったかのんは言うこと聞かないからね、連れてくったら連れてくわよ」

「可可も賛成デス〜、レンレンもいた方が楽しいに決まってマス!」

「きな子は……四季ちゃんが言うならいいっすよ」

「夏美も文句はありませんの〜」

「決まりだね」

 かのん先輩が満足そうに言うと、その脇でシキが恋先輩の前まで来て腰を下ろした。

「恋さん、一緒に来てくれますか」

 シキが言うと、恋先輩は苦々しい顔をして目を逸らす。

「私なんかが…………いいんですか、こんなに皆さんのことを傷付けたのにっ……」

 恋先輩が言うと、シキはほんのわずかに沈黙して、それから恋先輩の頬を持って自分の方を向けて言った。

「過去には色々ありますよ、でも私たちは未来を生きるんです。私たちの時代で、これからを……私は、そこに恋さんも、いて欲しいんです」

 シキが言い終えると、恋先輩はぽかんとしていた。やがてその頬を涙が一筋音もなく伝う。

「ごめんなさい、四季さん……ごめんなさいっ…………」

 恋先輩はシキに首を垂れていつまでも泣いていた。街並みの向こうに夕陽がかかって、街は美しいパノラマのようだった。私たちは焼ける茜色のひかりまみれになりながら、全てが終わったのをただ、感じていた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「じゃあね、四季ちゃん」

「ばいば〜い、ういっすういっす、ういっす〜」

「風邪には気をつけなさいよ、あんた」

「ぷっ、すみれおばあちゃんみたいデス……」

「はっ、痴話喧嘩が始まる前に乗り込むっす! 夏美ちゃん、先行って!」

「了解、ですの〜」

 どたばたタイムマシンに乗り込んでいくみんなの別れの言葉を聞きながら、私は一人一人に手を振っていた。

「四季さん」

 呼ばれて隣を見れば、シキと恋先輩がいた。恋先輩は私にも申し訳なさそうにしていた。

「許してなんて言えません、私は軽蔑されて当然のことをしたんです……なんとでも罵ってください」

 恋先輩はそう言った。私はなぜだか、怒る気も軽蔑する気もこれっぽっちもなかった。自分が微笑んでいるのすら、なんとなく分かった。

「恋先輩」

 私は名前を呼ぶ。私にとってあなたはいつまでも恋先輩なのだから、そんな不思議そうな顔で見ないで欲しい。

「未来の私のこと、よろしくお願いします」

 私はそれだけ言った。その時シキが恋先輩の後ろで手をかざして、パキンという音がして恋先輩についていた手錠が砕けた。恋先輩は驚いた表情でシキを見つめた。

「先に行って、恋さん……私は四季に、話があるから」

 シキはそれだけ言うと、恋先輩から目を離した。それはまるで、あなたを信頼している、とでも言うように。そして恋先輩はタイムマシンへと姿を消した。後には私とシキだけが残った。

「お別れだね、シキ」

「うん」

「もう会えないかな」

「うん」

「そうだよね」

「……うん」

 私たちにはもう話すことがなかった。シキが私に話すことがあるなんて嘘だった。不器用な嘘は私譲りみたいだ。

「四季」

 ふと名前を呼ばれて、私は目の前を白いカーテンが風に靡いたような光景を目にする。何かと思ったけれど、でも、それは私の肩に落ち着き、ぱさりと音を立てた。見ると、シキのずっと着ていたくたびれた白衣だった。

「服濡れてるから、それでも着ておきなよ、変な人だと思われるよ」

「最後に言う言葉がそれ……?」

 私にかかる白衣はかすかにシキのぬくもりがしていた。私は気づかれないようにその裾をそっと手繰り寄せる。私より一回り大きくて、丈も合ってないその白衣を。

「ねぇ、私」

 私は私に話しかける。あなたはやっぱりシキじゃなくて私だよ。だから、ねぇ、そんな驚いた顔しないで。

「私は未来を生きてて、幸せ?」

 それは純粋な質問だった。夕焼けはますます赤く染まっていく。私の瞳と同じ色だ、となんとなく思った。

 その中で、未来の私は力強く頷く。

「うん……私は、辛いことも苦しいこともたくさんあるけれど、幸せだよ」

 私がそう言ってくれたので私は心底安心した。

「私も、この街で生きるよ、あなたが生きたこの街で」

 私が言うと私は顔を見つめ合わせて、それからぷっと吹き出して笑った。私は、私がタイムマシンに乗り込むのを、見送っていた。乗り込むところで、私は振り向いてこちらを見つめる。

「メイは生きてるよ、心配しないで」

 私は思わず倒れ込んでしまいそうになるのを、すんでのところで堪える。私はそんな私を見て楽しそうに笑った。笑うと結構かわいい顔するじゃん、私。と思った。

「また会えるかな」

「もう会えないよ」

「そうだよね」

「でも私たちは離れ離れじゃない、だって、私はあなたなんだから」

「うん、そうだよね」

「じゃあね、私…………未来で待ってる」

 私はそう言って、タイムマシンに乗り込んで姿を消した。すぐにその巨大な機械は唸り声を上げて光り輝き、私は眩しすぎて目を押さえる。ようやく光が収まってきて私が恐る恐る目を開けると、そこには夕陽が差すばかりの、空っぽな屋上があった。

 まるで初めからそこには何もなかったかのように、ただ風が吹いていた。夏の夕方のぬるい風に、私は目を閉じて道端の花みたいに揺すられていた。

 丈のまるで合ってない白衣の縁が靡いて、私は穏やかな気持ちになる。私はそのまま屋上を去ろうとした。去ろうとして、扉を開けた時に、ふと思い立って振り向いて、丁寧にお辞儀をした。深く、ふかく、感謝を込めて。

 私はそれから、夕暮れの校舎をゆらゆら歩いた。もうみんな帰っていて、どこもかしこも静かだった。窓から夕陽の茜色が差し込んで、私はあの子の髪の色だ、とぼんやり思った。

 どうしてだろう。

 別に目指している訳じゃないのに、私は気がついたらいつもの道を歩いていた。すっかり慣れたこの場所は、科学室の前だった。

 私は扉に手をかける。閉まっているかと思ったのに、それは予想外にがらがら音を立てて開いた。

 私は中に踏み入れる。そこの空気はつめたくて心地よかった。ふと、科学室のその奥を見る。その机の上に置かれていたはずのタイムリープマシンは、まるで初めからそうであるかのように何もなかった。私は全て夢だったんじゃないかと思って、窓の外を見つめる。もう煙草の匂いも吸い殻もどこにもなかった。

「おい、お前何してるんだ」

 その時、聞き慣れた喧嘩口調のアルトが耳をくすぐった。私は息が止まりそうなほど驚いて、振り向く。夕焼けの中、夕焼け色の髪をしたあなたが腰に手を当てて私を見ていた。

「ここは科学部の部室だぞ、部員以外は立ち入り禁止だ」

 あなたはつかつかと科学室に入ってきながら言った。私は泣きそうになるのを必死に堪える。その人は、確かに、私の前で、生きていた。

「あなたは……科学部の人?」

 私が訊くとあなたは怪訝そうな顔をして私を睨んだ。だからコンタクトつけなよ、と言いたいのをなんとか堪える。

「そうだよ、私が科学部の一人だけの部員で部長だ」

 あなたはそう言った。私はあぁ、そんなことになってるんだ、と思って悟られないように無表情を決め込んだ。

「科学…………好きなの?」

 私が訊くとあなたはなぜか慌てた様子でわたわたと手を振った。

「も、もちろん好きだぞ! 決してここからLiella!の練習風景が観察し放題だからとかそんな邪な理由じゃなくて私は…………って、あ……」

 あなたは墓穴を掘った、とでも言いたげに気まずそうに目を逸らした。唇を尖らせてもじもじしてるあなたは子供みたいだった。

「…………好きなの? スクールアイドル」

 私が呟くと、あなたはぱあっと目を輝かせて私に近づいて、手を取った。あなたの手のしなやかで柔らかい感触。

「スクールアイドル、お前も知ってるのか⁉︎ 私Liella!が好きで結女に来たんだ!」

 あなたは興奮した様子で話しかけてきた。私は、あなたの上目遣いで迫ってくるのにたじろぎながら、窓際へと追い詰められた。生き物のいない水槽が視界の隅でまどろんでいる。

「どうして、スクールアイドル、好きになったの」

 私はあなたの追求から逃れるために質問する。するとあなたは手を外して恥ずかしそうに頬をかいた。

「会いたい人が…………いるんだ」

 あなたは言葉を続ける。

「会いたい人?」

 私はそれを復唱する。あなたのそんな話は聞いたことがなかった。誰だろうか、Liella!のメンバーだろうか。かのん先輩? すみれ先輩? それとも別の人?

 あのな────。

 あなたはゆっくり口を開く。

「まだ小学生の時に、落ち込んでいる私に公園で歌を歌ってくれた人がいるんだ。名前は知らないし、顔も姿も、よく覚えてないんだけど」

 あなたは変な話だろ、と言って笑った。でも私はちっとも笑えなかった。

「そういえばお前みたいな髪色だった気がするな、もしかして…………いや、そんな訳ないか」

 もし。

 もし。

 もし、あなたに、それ私なんだよ、って言ったら、どんな顔するかな。疑われるかな、変な顔されるかな、もしかして笑われてしまうかな。

 あなたの記憶にほんの少しでもいられたことが嬉しくて、私はあなたの姿が滲むのを堪えきれなくて隠したくてあなたに背を向ける。

 あ、夕陽。

 ふと、窓からこぼれる優しい茜色が部屋中に滲んで溶けていった。私の瞳の色で、あなたの髪の色だ。

「…………私は科学が好きなの、科学部になら、入りたい」

 私が言うと、その声は夕暮れの科学室に心地よく落ちていった。私はそろそろと振り返って、俯いてあなたのつまさき辺りのタイルを見ていた。

 やがてあなたは春の訪れみたいに一歩踏み出すと、すぐに私のそばまで来てぶっきらぼうに言った。

 

 

 

「ねぇ、一緒に行かない」

 

 

 

 その言葉には聞き覚えがあった。三年前、もともといつも一人で、それで全然平気だった私に、あなたはそう声をかけてくれたんだよ。覚えてないと、思うけど。

「科学部に入るなら、部員は私とお前の二人だけだ……もう遅いから、帰りながら喋らないか」 

 あなたは照れ臭そうにはにかんで笑った。その表情は、いつか放課後、私も一人の方が好きなのかもな、と言って笑いかけてきた時によく似ていた。

 奇跡みたいな出会いばかりだった。人生というのは数奇な巡り合わせの連続だと、つくづく思う。私は目が潤んできたのを白衣の袖で拭う。その時、ふわりとニコチンとタールの強そうな煙草の匂いがした。何かと思えば、それは白衣に染み付いた匂いだった。もう、もう。

 私もようやく一歩を踏み出す。

「うん……嬉しい」

 私が言うとあなたは満足げに頷いて、扉のある方に歩き出す。私もその背中を追う。

 はじめまして。

 おやすみ。おはよう。元気ですか。また明日。

 そんな他愛無い、当たり前の挨拶も、全部またここから積み上げていこう。

 もしもその時がやってきても、私たちは走ろう。

 さよならよりも速い抜群のスピードで。

 いい。

 ここからでいい。

 私たちはもし離れ離れになっても何度だって出逢おう。

 そしてまた私はあなたと笑い合うんだ。

 時間も願いも、さよならさえも飛び越えて、何度だって私はあなたに逢いに行くよ。

 

 

 

「あ、自己紹介してなかったな……私は米女メイ、よろしく」

 

 

 

「初めまして、若菜四季……よろしく」

 

 

 

 私たちはそれから並んで歩いて帰路についた。

 夏休みが始まろうとしていた。

 沈み始めた夕陽が、世界をただひたすらに茜色に染め上げていた。

 私たちは優しく思い出を語るように、離れていた時間を埋めるように、お互いの心にそっと触れ合うように、ぽつりぽつりと言葉を交わした。

 そんな、夕暮れの帰り道。

 未来は風のように、僕らを呼んでるんだ…………なんてね。

 私たちが後日スクールアイドル部に入部するのは、それはまた別の話────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 〜終〜



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

さよなら一部/外伝
色づいて透明


 それを買ったのに理由はなかった。

 ただ何となく、自分に必要そうな気がした。それだけだった。

 私はリビングのソファに身体を預けて、量子力学について書かれた論文を読んでいた。論文はぺらぺらのコピー用紙が左上でホチキスで留められているだけの簡素なもので、それは大学の課題とも研究室のテーマとも関係ない内容だった。

 ふぅ。

 私は小さく息を吐く。

 いつの間にか没頭していたようで、少し動いただけで足や腕の関節が小気味よく鳴って痺れた。私は論文をソファに置いて、その場で立ち上がりぐいと伸びをする。音もなく緩やかに筋肉が弛緩してゆくのが分かった。

 私は台所に行って、冷蔵庫から牛乳を取り出して一杯飲んだ。ついでに流しの下の収納からせんべいを取り出して噛み付く。それは、私の嗜好ではなかった。もちろんこの部屋も一人にしてはずいぶん広い。

 リビングに戻ると、なんだかやけに静かな気がした。どうしてだろう、と思いながら窓際に近づくと、おもての景色はどこまでも灰色に沈んでいた。見ると、線のように細い雨が街を、電線を、アスファルトを、濡らしていた。

 私はその様子を、窓ガラスに人差し指で触れながら見るともなく見ていた。指先に伝わるつめたさと水の手触りは、そこから私の手のひらを伝い、腕を伝い、肩を伝い、胸の奥にまでそっと触れた。

 私は雨が嫌いじゃなかった。特にこんな静かな雨には、私は外に出かけたくすらなった。でも私は家でじっとしていた。外に出るつもりなんて微塵もなかった。

 私は買ってからポケットに押し込んだままになっていたその軽くて小さな箱を取り出す。振っても中身は音さえ立てない。それを使ってみようか、と思い蓋を開けた、その時だった。

「ただいま〜」

 玄関の扉が開く音にワンテンポ遅れて、そんな声が聞こえた。私はどきりとして、慌ててそれをポケットに隠す。別にやましいことをしている訳じゃないのに、どうしてか見られたくない、と思った。

「おーい、寝てんのか? まだ夕方だってのに……おい四季」

 あなたがそう言いながらリビングにやって来る。手には風船みたいに膨らんだレジ袋が握られていて、それは中身と擦れてかさかさ鳴いていた。

「おかえり、メイ」

 私はソファに置き去りにしていた論文の脇をすり抜けて、あなたの傍に寄る。あなたは台所にその重そうなレジ袋を置くと、私を見て歯を見せて笑う。

「あぁ、ただいま」

「メイ……」

「うん」

 私たちは言うと、そのまま顔を近づけて短く触れるだけのキスをした。おかえりなさいの合図(サイン)。どちらがやり始めたのかなんでもうとっくに忘れてしまった。照れも、慣れという言葉からも、私たちはほど遠かった。そっと、近づくだけみたいな自然さでそれは行われた。

「ご飯作っとくから、四季はシャワーでも浴びてきたらどうだ、どうせ勉強ばっかでろくに休憩もしてないんだろ」

 メイはレジ袋の中身をひとつひとつ手に取っては台所に置いたり、冷蔵庫に入れたり、していた。

 私はなんで何も言ってないのにそんなことが分かるんだろう、と不思議で、メイの後ろ姿をじいっと見ていた。するとメイが首だけで振り向いて、私を見ていたずらっぽく笑う。

「私が何年四季と一緒にいると思ってんだよ、そのくらい分かるって」

 メイは言うとまた手元をごそごそ漁り始めた。台所の床はつめたく裸足の足にはひんやりした。

「……晩御飯は、何?」

「餃子にする、この前テレビで宇都宮の特集やってて久しぶりに食べたいなって話しただろ」

 メイの背中姿がそうこたえる。そういえばそんなこともあったな、と思い出す。何年前か忘れたけど、メイと宇都宮に日帰り旅行に行ったことがある。本当に餃子が美味しくて、私たちは並んで待ったお店で出てきたその肉肉しい見た目と匂いに目を丸くし、出る頃にはもっと頼めばよかったね、と言ってくすくす笑った。

「……ありがとう」

「ああ、やっとくから、ゆっくりしてきな」

 メイが優しくそう言うので、私はその通りにする。リビングのソファの上で風景の一部になっていた論文を邪魔にならないようにすぐ前のテーブルに置いて、私はシャワーを浴びに行く。

 雨が降っていた。忘れたものを取りに帰る時みたいに、はっと思い出したような降り方だった。いつまでも、雨は降りしきり、それは街を流れ、地平線を流れ、地球の輪郭をまあるく緩く滑っていた。

 私はシャワーを浴びながら、その腕や足に当たる熱さを心地よく思う。メイが、今頃台所で餃子を焼いてくれている。私たちが二人で探して、二人で選んで、二人で過ごしたこの家で。

 私はこんなに幸せでいいんだろうかな、と思う。唇にはさっき触れたわずかな甘さと愛しさが残っていた。それはシャワーに触れても、もちろんちっとも流れなかった。

「おっ、さっぱりしたか?」

 髪の水分をタオルで適当に取っただけの姿で、私は部屋着に着替えて台所に行く。そこではエプロンをつけたメイがコンロの上のフライパンと鍋を前に楽しそうにしていた。メイはなぜかいつも楽しそうに料理をする。

「うん、ありがとう」

 私が言うと、メイは鍋に視線を戻しながら言う。

「もうちょっと待ってくれ、すぐできるから」

 私はそれなら、と思って、収納からグラスを二つ取り出し、すぐそこの二人がけのテーブルに置く。冷蔵庫から麦茶の入った細長いピッチャーを出して、同じ場所に置く。後は、箸とか、そのくらい。

「慣れたもんだよな、私たち」

 それを見ていたメイが苦笑混じりに言う。慣れたものだった。料理をする方はそっちに集中、してない方はお茶や箸を並べる。もう何年も暮らしてきてそれはすっかり習慣付いていた。なんだか私たち夫婦みたい、と冗談めかして思う。

「ん? 四季なんでちょっと笑ってるんだ?」

「……なんでもない」

「そうか?」

 それをあなたに言ったら、どんな顔するかな。顔を赤くするかな? それとももう恥ずかしがったりするのはなくて、そうだなって一言返してくれるかな? ねぇ、私とメイ、夫婦みたいじゃない?

 私は幸せでいっぱいになりながら、テーブルの上にたくさんの食器に乗った料理が増えていくのを見ていた。どこかの国のお城のパーティなんかより、それはずっとずっと素敵な光景だった。ここが私の居場所だった。

 メイと顔を合わせて、私たちは手を合わせて、いただきますを言う。私たちの慎ましくてささやかな幸せが二人分、雨を凌ぐ屋根の下、淡く灯っていた。

 それから私たちは食べ終わるとベッドに行った。食べ終えた食器も片付けずに、言葉もあまり交わさぬまま、ただ手だけ繋いで部屋を移った。

 私たちは互いの服を剥ぎ取って、壊れ物を扱うように、心の奥にそっと触れるように、優しく肌を撫でた。それは、私の知っている言葉では、たぶんセックスと言うのだけれど、私たちがしているのは、そんなカタカナ四文字の形式ばった行為じゃなくて、むしろなんて言えばいいのかな、きっと子供のじゃれあいに近かった。

 私はメイのピアノを弾く細くてしなやかな指が、私の肌に触れて、滑って、だんだん私とメイとの境界線が曖昧になっていくのを、ただ感じていた。それはとんでもなく甘美なことだった。

 私もメイのその引き締まったお腹に、美しい曲線を描く腰に、さらにその下に、指を添わせて、メイの口から吐息とも音ともつかぬ声が漏れるのを、もどかしい胸の奥で確かめていた。

 私たちのその行為は長く、時間をかけて行われる。終わりなんていつも見えなくて、いつまで経っても足りないままで、私たちはもっともっと、と子供みたいにお互いを手繰り寄せて離さなかった。雨降りの薄暗い部屋、清潔なシーツの海で私たちは正しく健康的にだらだらと溺れていった。

「なぁ、四季」

「うん?」

「私たちって、どこに行くんだろうな」

 二人でジグソーパズルのピースみたいにお互いの隙間を埋めながらセミダブルのベッドに横になっていると、メイがふとそう言った。部屋は静かだ。窓に触れているはずのわずかな雨音さえ聞こえない。

「私たち、出会って仲良くなって、スクールアイドル部入ってさ、色んな友達ができただろ、でももう今はあの頃じゃない、今こうしてるのも、いつか過去になっちゃうのかな、って」

 メイは雨だれの庇に打ちつける音みたいに優しい声でそう言った。私は二人暮らしなのにセミダブルベッドがひとつしかない部屋をそっと見る。ベッドを買う時に「どうせくっついて寝るんだからひとつでいいだろ」と言ったのはメイだった。その時の私がどれだけ嬉しかったかなんて、言葉じゃとても言えない。

「大丈夫だよ、メイ」

「四季……?」

 私は暗がりの中、メイのその春みたいに柔らかな匂いのする髪をかき抱いて耳許にそっと口を近づける。

「メイの過去にも今にも、未来にも、私はいるよ。たとえ離れ離れになっても、私が必ず逢いに行く」

 メイは身じろぎひとつせず、私の言葉を聞いていた。やがて私の背中に片方ずつ腕が伸びてきて、気がつくとぎゅっと抱きしめられていた。私の胸許にかかる吐息があたたかくて、それはどう考えても「今」だった。

「うん……もしそうなったら、待ってるよ、四季のこと」

 私はメイの頭を優しく、けど力強く抱く。私を抱くメイの腕にも力がこもったのが分かった。

 私たちは何も言わずにそうしていた。部屋は暗く、空気は少し濡れてつめたく、春にしては侘しげだった。私はメイの匂いと感触に深く溺れていた。

 やがてメイの腕に回している手がゆるやかに弛んだシーツに落ちて、ぽすり、と無抵抗な音を立てた。

「…………メイ?」

 私が呼んでも、返事はなかった。メイは、微睡(まどろみ)の最中に落ちていっているようだった。安らかな寝息が耳をくすぐった。メイの体温はあたたかかった。この世のどんな生き物より、メイのぬくもりを感じていたいと心から思った。

 私はそんなメイからするりと離れ、ベッドサイドに散らばっていた私のショーツと薄いTシャツだけ着てから部屋を後にする。台所の片付けだけでもしておいてあげよう、と思って。

 でも、リビングを通る時に床に何かが落ちているのが見えた。それは黒い、軽くて小さな箱だった。ポケットに入れていた気がしたけれど、シャワーに行く時に落としてしまっていたらしい。メイに見られなくてよかったと胸を撫で下ろしながら、私はそれを拾い上げる。

 ふと、研究室で着ている白衣の丈が合わなくなっていたことを思い出す。そろそろ買い替えなくちゃ。私も、メイも、変わってゆく。それでも、変わらないものもあって。

 私は手に握った小さな箱と、もう一つ、それを持ってベランダまで出る。つっかけを履いて、何もないのに狭いベランダの手すりに肘をつく。目に見えないけどやっぱりそこはじっとりと濡れていた。見上げた鈍色の空から、針のように細い雨が重力に従って落ちてきていた。私はずっと昔を思い出して、懐かしさに思わず目を細める。

 その箱からひとつを取り出して、私は無造作に咥える。そして手をアーチ状にして覆い、持ってきたライターで火をつける。

 じり、と葉の焦げる音がして、私は口から息をゆっくりと吸う。肺にまで染み渡る煙の臭いはお世辞にも気持ちがいいものではなかった。

 それを買ったのに理由はなかった。

 ただ何となく、自分に必要そうな気がした。それだけだった。

 なんでこんなもの買っちゃったんだろうな。私は思いながら、それを右手の中指と薬指で挟んで、灰を落とす。

 遠い昔を思い出したような気がした。ひょっとしたらこれは、昔を思い出すための道具なのかもしれない、と思った。それなら納得がいった。それにしても、慣れなかった。

 

 

 

 ────煙草……美味しいの?

 

 

 

 ふと。

 いつか、どこか。

 ずっと、遠くで。

 そんな声が聞こえた気がした。それを言ったのは誰だったっけ。

 私はもう一度短くなったそれを咥え直して、消えかかった思い出のように薄く、儚く降りしきる雨を見つめる。

 煙を吐いて、煙草を踏み潰して消す。吐いた煙が雨に紛れて透明になってゆくのをぼんやり見ていた。

 私は踵を返す。メイがもうすぐ起きるだろう。メイってばした後すぐに寝るけど三十分くらいで起きるんだから。そしたらテレビでも見よう。他愛もない与太話してみて子供みたいに笑い合おう。

 私は振り向いて、雨の街を見下ろす。さっきの質問……煙草が美味しいか、だっけ? 決まってるじゃん、そんなの、私。

 

 

 

「いや、全然」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

さよなら二部/Sayonara Super Starter
第一部 - 糸


 辞めようと思うの、ここ。

 そう言った。

 その声は思いの外響いて、なかなか消えなかった。

「え?」

 カウンターを挟んで向こう側、テーブル席を拭いていた人が、手を止めて声を上げる。

 だからね。

 もう一度、息を整えて、言う。

「辞めようと思うんだ、このお店」

 まっすぐに見つめた先、そこに静止するまんまるのルビーに見つめられていた。

 かのんはくっと息が詰まる。ずっと前から決めてたことだけど、いざ言うとこんなにも苦しいものなのか、と思って。

 かのんはカウンターの内側で手を組んだり解いたり、していた。片付けは少しも進んでいなくて、使った後のコーヒーミルでさえ、出しっぱなしだった。窓から夕陽がなだれ込んでくる。

「え、と、どういう……」

 綺麗なお団子は、昔から変わることのないトレードマークで、綺麗な銀糸で結われている。

 その口から、戸惑うような声が漏れるので、かのんはやるせなかった。ちぃちゃんの苦しそうな姿は、いつも見たくなくて。

「あのね、私たち、これからは────」

「やだっ!」

 かのんはびくっ、とする。

 千砂都の声があまりにも強くて、有無を言わせない拒絶だったから。

 かのんは両手をだらんと垂らして、思う。

 ちぃちゃんが、ここを好きなのは知っていた。ここでずっと昔から一緒にいて、これからもいつまでも一緒に生きていくと信じていたから。

 でも私は、独り立ちしたかった。家業をちぃちゃんと一緒に継いでやってきたこの数年間も本当に楽しかった。けれど、どうしても自分は自分のお店が持ちたかった。音楽が、歌が、できる場所が欲しかった。

 窓から溢れる夕陽がどろどろこのカフェの空気を溶かしていった。かのんは、自分と千砂都の境界線がひどく曖昧になっているような気がして気が遠くなった。

「…………」

 千砂都はじっと、俯いたまま黙っていた。かのんはそれを見ていた。ものすごく長い時間、見ていた。日が暮れほど。

「ごめん、私、帰る」

 ようやく沈黙を破ったのは千砂都だった。でも、その言葉は二人の間にある夕暮れに溶けて、かのんにはうまく受け取れなかった。

「あのね、説明させて欲しいのっ……」

 かのんは言うのだけれど、その声は弱々しい響きで、途中で夕陽にぶつかって落っこちてしまった。綺麗に磨き上げられたけど年季の入った木目の床に。

「ごめんなさい」

 千砂都はちいさくそう言うと、顔を合わせないまま、入口から出て行った。お客さんが来てくれた時に鳴るベルが当たり前だけど揺れて、ちりんちりぃん、と聞き慣れた音を立てた。

 その反響が、残響になるまで、かのんはじっと立っていた。手もとの、席の数だけミルクとシュガーを入れている、小さな容器が並んでいるのが馬鹿みたいだった。

 一人でそうして立っていた。いつの間にか辺りは薄暗くなってきていた。

「…………はぁ」

 一体、いつから。

 かのんはため息を吐く。

 一体いつから、私たちはこんなふうにがんじがらめになってしまったのだろう。

 何を言うにしても、躊躇うようになってしまった。こんなの、もう卒業したいのに。

 ゆっくり、かのんは思い出していく。

 

 ────もう、七年も前のこと

 

 まだ自分が、高校二年生だった頃の、ことを。

 目を閉じて、夜から記憶をたぐり寄せるように、かのんは呼吸をほそめていった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「はい、じゃあ今日の練習はここまでね! お疲れ様っ!」

 千砂都がぱんっと手を鳴らしたその音は、雲ひとつない夏空に高く吸い込まれて消えていった。その声を皮切りに、辺りでは人がばたばたと倒れていった。

「つ、疲れた、ですの……」

「きな子もっす……」

「私もだ……また元気にしてるの四季だけかよ」

 屋上の縁で、寄りかかって溶けかけのアイスクリームみたいになっている三人の近くに青髪の少女がいた。その子は、四季は、他の一年生のメンバーをじっと見下ろしていた。その日はものすごく暑くて、最高気温を記録しているらしかった。年々、最高気温というものは上昇していく。

 かのんは自分も若干の熱に浮かされながら、日陰に置いていた荷物からスポーツドリンクを取り出して飲む。とくとく、心地いいつめたさが喉を滑り落ちていく。その日もそこらじゅうすごく濃い夏の空気だった。

「……あれ」

 ふと、隣でそんな声がした。見ると、そこには四季がいた。その見ている先を追うと、時計があって、それがいつもの練習終わりよりずいぶん時間が早いことに気づいたのだろう。およそ一時間ほど、長針はいつもより手前を指していた。

「千砂都先輩、練習こんなに早く終わっていいんですか」

 かのんと四季の間で荷物を漁っていた千砂都に、四季がそう訊く。千砂都は手を止めると四季の方を向いて笑って、うん、と頷く。

「今日は一学期も最後の日でしょ、夏休み中も練習はしっかりやるし、今日くらいは早めに切り上げて皆ゆっくりしてもらおうかなって」

 千砂都先輩はほら、と言って首を伸ばし四季の背後をおもむろに見遣る。そこにはさっきのように一年生三人が暑さと疲れで溶けていた。

 かのんはそれを見て微笑ましく思っていた。

「いつもあんなになるまで頑張ってくれてるから、よかったら今日は一年生で遊んできなよ」

 普段あんまりそういう時間ないでしょ、と千砂都は朗らかに笑っていた。ちぃちゃんが笑ってると私も楽しくなるな、とかのんは思う。

 そうしていると四季がこちらを見ていることにかのんは気づき、にこりと笑い返した。四季はかのんと同じスポーツドリンクを飲んでいるみたいだった。

「あれ、かのんちゃん今日はりんごジュースじゃないんだね、珍しい」

 千砂都にそう言われて、かのんははにかんで笑う。

「うん、今日暑すぎだし、たまには飲んでみたいな、って思って。可可ちゃんの飲んでるオレンジジュースや、すみれちゃんのスプライトも美味しそうだなって思ったんだけどね、今日はこれにしたんだ」

 かのんが言うと、何故だか平坦な声色でふぅんと返すと、千砂都は空を見上げた。かのんもそうする。二人ともそうするので、四季も同じように空を見上げたようだった。油断すると重力ごと奪われて落っこちてしまいそうな青天井が街の端まで伸びている。かのんは上を向くと口が少し開いてしまうのが昔からおかしかった。

「夏が始まるねー」

 千砂都が隣で何気なく言った。上を向きながら。

「そうだね」

 かのんも短くこたえる。

 四季は何も言わずに、空を見上げているようだった。

 地面に置いたペットボトルから、水滴が垂れて、そこを黒く濡らした。

 それからかのんは上を見たまま呆けていたのだけれど、ぬっと青空に影がかかった。

「なにしてんのよ、かのん」

 逆光で暗くて見えなかったけれど、声で誰だかすぐに分かった。

「すみれちゃん」

 黒いシルエットのようなすみれに、空が覆い隠されていることにかのんはなんだかとても安心した。

「空、見てたの」

 かのんが言うとすみれは息を吐いて背筋を伸ばして、腰に手をあてる。

「ふぅん、なんか見えたの?」

 かのんはまだ上を見続けながら、こたえる。青い空には、雲ひとつない。

「ううん、なにも」

「なによそれ」

 すみれが言うのを聞いてから、かのんは荷物を手早くまとめる。隣ですでに準備を終えた千砂都と四季が待ってくれていた。向こうを見れば残りの一年生たちがのそのそと起き上がってくるところだった。

「今日は、みんなでどっか行く?」

 すみれがそう言うので、かのんはびくっとする。

 その質問については、言いたいことがあった。別に今日じゃなくてもよかったけれど、でもなんとなく、もう言わなきゃいけない気がしていた。

「あのさ、すみれちゃん」

 かのんは口を開く。思ったより真剣な声が出てしまって、その声の響きに自分で驚く。すみれも、千砂都も、四季でさえ、かのんを驚いたように見ていた。

 少しの沈黙が、夏風にさらわれていった。少しの沈黙。

「……一緒に自動販売機、行かない?」

 かのんがそう言うと、たちまち空気は弛緩して、かのんの後ろの二人なんかの息を吐く音が聞こえてきそうだった。

「いいわよ、そのくらい」

 すみれは事もなげにそう言うと、自分の荷物を掴んですぐに屋上の出口へ歩いていった。

「なにしてんの、行くんでしょ」

 かのんはようやくそこで自分がぼうっとしていることに気がついて、はっとした。

「ま、待って、いくから」

 立ち上がって、歩き出す。振り向き様に、屋上の反対の端の日陰にいた恋と可可に見られているような気がした。だからかのんは、その時千砂都にじっと見つめられていたことに、気がつかなかった。

 そのままみんなを置いて、かのんはすみれについて行った。

 

 屋上からすぐの階段は、いつも薄暗い。こんなに晴れている日でも、どうしてか、雨の日みたいな湿っぽい匂いがする。

 コゥン、と響く二つの足音が反響していた。

 すぐ下を見れば、すみれの頭のつむじが見えていてかのんはそればかり見つめていた。

 そのうち階段は降り切ってしまって、後は廊下を行って、校舎のすぐ傍にある自動販売機に行けばいいだけだった。

 かのんは、でも、この時間がずっと続けばいいのにと思っていた。胸がどくどくいってやまなかった。すみれちゃんの背中。さらさらの長くて、お人形さんみたいな金糸。

「かのん、なに買うの」

 すみれが振り向いてそう言った。

 すみれちゃん。

 口が滑りそうになるのを必死に堪えた。かのんは、ぎりぎりで理性に勝つ。これを言うことは、だって、負け確定だったから。

 おもてに出て、すぐのところにある自動販売機で、すみれは先にお金を入れて、ちょっと悩んでから、三ツ矢サイダーのボタンを押した。

「すみれちゃん、炭酸好きだよね」

 それを見てかのんが声をかける。がこん、と遅れて音がして、すみれは腰を下げて取り出し口に手を突っ込む。

「そうねぇ、まあ夏だし、美味しいわよ……メロンソーダとか、あればっ、よりいいんだけど、ねっ……」

 すみれは取り出すのに手間取っているようで、声が手の探るスピードに揺れていた。

「……ここ、取り出しにくいよね」

「そう、ねぇっ……」

「ね、もう一本私が買ったら重みで落ちないかな」

「いい考えじゃないの」

 すみれはかのんの提案を飲むと自動販売機の前をかのんに明け渡した。

 何を買おうか悩むのだけれど、なんとなく、スプライトが目についた。それを開けた時の夏らしい爽やかな音や、それを飲んだ時のすみれちゃんのすっとした顔。

 かのんはそのまま、ボタンを押していた。

 この自動販売機は買うとがこんと音はするくせに、よく上の方で引っかかって取れなかった。今回はがこんという音に続いて、三ツ矢サイダーが下まで落ちてきた。

「あ」

「やるじゃない、かのん」

 すみれが横からそれを取り出したけれど、かのんの買ったものは落ちてこなかった。

「でも私の落ちてこないよ」

「もう一個買う? そしたら落ちてくるわよ」

「えぇー、嫌だよそんなの」

「ふふっ」

 かのんがふくれっ面をすると、すみれはやさしく笑った。空が真っ青で溺れてしまいそう、とかのんはぼんやり思った。

「もうっ」

 かのんは曖昧に俯いて、なんとか自動販売機の内側のパカパカしたところに指さきで触れる。

「……すみれちゃん」

「なによ」

 自然と名前を呼んでいた。

 あのね。

 かのんは思う。

 あのね、すみれちゃんのそういうちょっとふざけたところがね、私は好きになったの。知らないだろうな。

「どこか、行かない」

 かのんは気がついたらそう言っていた。まだペットボトルを取り出そうと苦心していたから、なんとなく言ってみたくなったのかもしれない。あるいはそれは言い訳だったかも、しれない。ここは校舎の日陰になっていて涼しかった。

「……どこかって、どこよ」

「どこでも。どこかに、ふたりで」

 行こうよ。

 すみれに見られているのがかのんには分かった。それはそうだ。いきなりこんなこと言われたって、訳が分からないと思う方が自然だろう。

 遠くから運動部のかけ声が聞こえてきた。普段はもっと日が暮れてから聞こえる声が、今日はまだ早いのに。

 空気は夏休み前の独特な浮遊感を含んでいた。だから、だから私は。

「いいわよ、かのん」

 不意に、目が合った。かのんははっとする。すみれの瞳のエメラルドに、驚いたような顔が映っていて。

「付き合ったげる、行きましょ」

 予想外の肯定の言葉に、かのんは嬉しいはずなのに動きが止まってしまう。

 え、だって、すみれちゃんは、あの子のことが、好きなんじゃないの。なんで私と二人で一緒にいてくれるの。私なんかじゃ勝ち目ないの、とっくに分かってるのに。

 がこん。

「あ」

 スプライトが、音を立てて落ちた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 駅のホームは帰宅する学生や社会人でごった返していた。かのんはそこに着くと、南へ行こうと思って、小田急線まで行くことを考えた。向かいの三番線に電車がくるアナウンスが響く。

 やがて電車がホームに滑り込んでくる。人が吐き出されて、入れ替わりに人が吸い込まれる。かのんが前を歩いて、すみれはその後ろを何も言わずについてきた。

 電車は当たり前だけど混んでいて、座れるところはなかった。誰もがそうであるように、ドアの端の方で固まってじっとしていた。ドアに『痴漢注意』と『不審者注意』を促す黄色いシール状の貼り紙が目に入った。きっとこれはどの車両にも同じように貼ってあるんだろうな、とかのんは思った。

 それから電車はいくつもの駅に停まり、その度に人は入れ替わるけれど、常に満員だった。一度電車を乗り換えた。小田急線はすぐに東京を置いてけぼりにして、神奈川を走っているようだった。

 私たちはようやく空いた席に二人並んで腰かけた。クッションはごわごわしていて、すみれちゃんにはあまり似合わない色だなとかのんは思った。窓の外を流れる街並みの向こうの空は、さっきより赤みを帯びているような気がした。

「ねぇ、かのん」

「う、うえっ⁉︎ な、なに」

 いきなり声をかけられて、かのんは驚いて背筋を伸ばす。

「私たち、どこ行ってるの、こっち行っても、海しかないわよ」

 すみれはかのんを見つめながら、そう言った。

「そ、それは……」

 具体的に何も考えていなかったかのんは、口籠る。だってそうじゃない、夏休みの始まりの日で、普段と違ってみんな浮き足立って予定もある。すみれちゃんにこれを言うなら、一番都合の良い日が、今日だったの。

「……うみ、とか」

「はぁ?」

「海に行きたいなって、思って」

「……へんなかのんね」

 海だったらいつでも行けるじゃない。という言葉は飲み込んでくれたみたいだった。すみれがふっと目を逸らして、息を整えるのをかのんは見ていた。

(あのね、そういう私の気持ちを考えてくれるちょっとした優しさが、いけないんだよ)

 かのんは思いつつ、それは言わない。だって、言ってどうなるか分からないから。

「可可ちゃんとは、最近どうなの」

 そして、口が滑った。

 言ってしまった後、しまった、とかのんは思った。電車の揺れる等間隔なリズムが、二人を平等に揺らしていた。がたん、がたん、静かに、歌みたいに。

「……なんでいま可可の話が出てくるのよ」

 すみれは不思議そうな声でそう言った。かのんは反応が拒絶や嫌悪ではなかったことに心底ほっとする。

「ううん、なんでもない」

 かのんが無理やり話を終わらせてしまうと、後は本当に静かだった。

 電車のメロディに、身も心も満たされていくような。これも音楽かな、とかのんは思った。何気ない日常に潜む音楽。世界に歌を届けるのもいいけれど、いつかこんな風に誰かの日常にひっそりと居られたらいいかもな、と思っていた。きな子ちゃんたち一年生が入ってきてから、かのんはそう思うようになっていた。

『次は、新松田、新松田です。御殿場方面にお越しのお客様はお乗り換えです。お出口は左側、降りましたら黄色い点字ブロックの内側をお歩きください』

 電車内にアナウンスが響く。来たことのない駅名で、御殿場にはアウトレットが有名らしいということくらいしか知らなかった。

 電車は高い音を立てて徐々に速度を緩めていく。いくつもホームのある大きな駅が現れて、そのうちのひとつに電車はぴたりと収まる。

 扉が間の抜けた音を立てて開いて、何人か降りていく。乗ってくる人は誰もいなかった。

 そのまま電車は進んでいく。

 揺れて、揺られて。時間だけが過ぎていくようだった。本当に、この電車はどこかへ向かっているんだろうか、とかのんは不安になった。

「ねぇ、かのん」

「なに、すみれちゃん」

 呼ばれてかのんはすみれの方を向く。

「ほら、あっち」

 すみれは顎の動きだけで、窓の外を指し示した。かのんはそのまますみれの目線の先を追いかける。

 息が詰まった。

 窓の外。その遠くに、水平線が広がっていたから。そしてその真ん中に、赤と呼ぶより茜と呼んだ方がいいような、太陽が落ちていたから。

 沈黙の数だけ電車は揺れた。無抵抗に二人は揺られていた。窓から差し込む夕陽が電車の中を逃げ場なく満たしていく。

「きれいね」

 すみれが呟くので、今度こそかのんはびくっと肩が震える。そのまま言い訳がましく流れていく景色を見ていた。

 そんなことばかり言うのがいけなかった。だって、すみれちゃんのそういうところを、私は────

「かのん?」

 すみれに見つめられていて、かのんはまた意識をこちらに戻す。

「ううん、なんでもないの」

 かのんは平静を装って言った。

 電車は平然と街を過ぎていった。

 呆れるほど同じリズムを繰り返し。

 繰り返し。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 思えばここがターニングポイントなんだったような気がする。

 潮騒、暗闇、星くずとか。

 ほとんど音のしない海の、波打ち際をかのんは歩いていた。すみれが後からついてきていて、二人の間にはでも、会話はなかった。

 さくり。

 ローファーが濡れた砂に沈む感触。浜辺は小さくて、たまたまなのか誰もいなかった。

 大して歩ける距離もないので、かのんはなるべくゆっくり歩いた。これが終わるまでには、言わなければならなかった。ここに来てしまった理由も、その気持ちも。

 もう辺りは暗くて、海と反対側の街並みだけが煌々と光っていた。

「ねぇ、かのん」

 波間に紛れないその声が、かのんの鼓膜を揺らした。立ち止まってしまうには十分だった。

「そろそろ帰らないと、今日家まで着けるか怪しいわよ」

 かのんは振り返らないまま、すみれの言うことを聞いていた。もっともだ、と思って。

 でも何も言えなくて、また歩き出す。しゃくりしゃくり、と一歩ずつ足型がついていく。

「ちょっと、かのん」

 いきなりだった。

 かのんは片手を取られてぐいと引かれ、気がつくと、目の前にすみれの顔がいっぱいにあった。世界は鮮やかな絵画のように、静止する。

「え、なに……」

 すみれの瞳に、困惑したようなかのんの姿が映っていた。そこに吸い込まれてしまいそうで、だから自分が片手を取られてお姫様がされるみたいな抱きしめ方をされていることに気づくのには、時間がかかった。

「ちょ、すみれ、ちゃんっ……⁉︎」

 かのんは逃れようと身を捩ったけれど、すみれは的確にかのんを拘束していて、少しも動けなかった。すみれちゃんが拘束上手いのって、あの時もそうだったな、とかのんはぼんやり思い出す。いつか神社で拘束された日、楽しかったなぁ。

「かのん、あんた、何悩んでんの」

 すみれちゃんはすごく近くでそう言った。まっすぐに、信じられないほどやさしい声で。

 かのんは胸が軋むように痛む。

 いつからだっただろう。

 一体いつから、こんな気持ちになったんだろう。

 初めてすみれちゃんを目にした時から、

 

 ────ここ、スクールアイドル同好会の部室って、聞いたんですけど

 

 初めてすみれちゃんの心に触れられた気がした時から、

 

 ────すみれさん、あなたをスカウトに来ました

 

 初めてすみれちゃんと出たラブライブ、誰にも聞かれない声でそっと言われた時から、

 

 ────かのん、ありがとね

 

 いつから、だっけ。最初からな気もする。もう思い出と気持ちは二年分の暑さに溶けてしまっていて、どこが始まりかなんてさっぱり分からなかった。

「ねぇ、かのんったら」

 肩を揺すられて、意識が戻る。その視線に肺を突かれて、呼吸ができなくなりそうだった。

「すみれちゃん」

 口が動く。かのんはぼうとした頭で、途中の駅に捨ててきた空になったスプライトのペットボトルを思い出した。私もあれくらい軽くなれたらいいのに。

「もし、もしね」

 海がさぁ、と鳴いていた。

「もし、私がすみれちゃんのこと好きって言ったら、どうする?」

 言った後、世界は静かだった。波の音すら聞こえてこなくて、世界は本当に、時が止まってしまったみたいだった。

 一瞬はどんどん一瞬に近づいていった。耳に膜が張ったみたいにこもった音が聞こえた。

 かのんはすみれの方が見れなかった。こわくて。

「かのん」

 呼ばれて顔を上げてかのんは、また息が詰まった。

 だってすみれちゃん、とんでもなく申し訳なさそうな顔してるんだもの。

 返事をもらう前から、その気持ちが伝わってしまっていた。まっすぐすぎるすみれの性格を、かのんは少しだけ恨んだ。そういうところを好きに、なったんだけど。

「……帰りましょ、ほんとに帰れなくなっちゃうわ」

 すみれは言って、向こうの街並みを見上げた。かのんもそうする。

 終電逃したら、一緒にいられる? すみれちゃんの想い人のこと、一瞬忘れて、一晩くらい奇跡が見れない?

 ねぇ、すみれちゃん。

 声には出さず、かのんは口だけ動かす。

 可可ちゃんのこと、好きなんだよね。

 波音だけが残った。誰も何も、こたえずに。

 メイが交通事故で死んだのは、そんな日のことだった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 それから三年の歳月が流れた。かのんは都内の音大に推薦で行くことが決まって、とんとん拍子で時間だけが流れていって、二十歳になった、のも、未だに実感が湧かなかった。

 ふぅ。

 かのんはひとつため息を吐く。

 かのんは実家からでも十分に通える距離だから大学も実家から通っていた。

 もうすっかり寒くなって街路樹も葉は落ちている。石畳を踏んで、歩く。

 カフェの入り口と兼用な扉を開くと、ちりんちりぃん、と軽快な音が鳴った。

「ただいまー」

「あら、おかえりなさい」

 入ると左手にあるカウンター席の奥で、何か片付けをしていた様子の母が声をかけてくれた。かのんは特に会話もせずに通り過ぎようとした。

「あ、ちょっと」

 しかしもう少しのところで、かのんは呼び止められる。

「なに」

 短くこたえると、母はやさしく眉を下げて微笑んだ。

「今日同窓会なんでしょう、みんな元気だといいわね……楽しんできなさい」

 かのんは豆鉄砲を食らったような顔になる。自分の予定をあまり母に伝えてはいなかったから。

「なんで知ってるの」

 かのんが訊くと、母は逆にきょとんとして笑った。

「千砂都ちゃんに聞いたのよ、最近よく来てくれるから」

 入り口の横でまだまだ元気そうにマンマルが首を傾げていた。

 かのんはため息を吐いて、そのままカフェを後にして二階へ上がる。

 自室に飛び込んで、荷物を置いて、そのままベッドに飛び込んだ。ベッドの柔らかさに、身体がわずかに跳ねる。

「はぁ……」

 またため息を吐いてしまう。枕を引き寄せて、そこに顔を埋める。

 夕方。窓からは明け透けな夕陽が差している。部屋はオレンジ色がたぷたぷに満ちているみたいで、息がしにくかった。

 かのんはポケットからスマホを取り出して、メッセージアプリを開く。そのグループの通知を見て、既読はつけずにスマホを放り出す。

 行きたくないわけじゃなかった。行きたいとさえ思っていた。

 でも。

 かのんはベッドに上半身を預けたままひっくり返る。天井にも影が伸びている。そろそろ電気をつけなきゃ暗い時間だった。

 でも、私はあの人に会えるだろうか。

 かのんは思う。

 どうすればいいのだろう。あの日不器用な告白をして、何も言えずに破局した、あの人に、笑いかければいいのだろうか。久しぶり、と言えばいいのだろうか。

 でも行かない選択肢はなかった。だからせめてもの抵抗として、かのんは夕暮れに溺れていた。

 暗くなるまで、ずっと。

 呼吸の音が耳障りになるほど、静かに。

 

 しばらくしてから、ようやくかのんは立ち上がった。へんな姿勢でいたので首が痺れた。

 荷物をショルダーバッグに詰め込んで、着ていたままの服で出て行く。自室の暗闇は置いていく。

 おもてに出ると、つめたかった。

 もうすっかり辺りは冬の空気で、日が暮れてしまうとより、それははっきりと際立った。

 待ち合わせ場所は、二駅くらい向こうにある広い個室のある居酒屋だった。かのんは定期圏内だったのでそれをかざして、改札を通り抜ける。

 電車。扉を入ってすぐのスペースにかのんは立つ。どうせすぐ降りるから、と思って。

 窓からの景色を見ていると、その窓に自分の顔が映っていた。かのんはその情けない顔に苦笑して、吐いた息がガラスに作った白い靄を人差し指でそっとなぞった。つめたい。

 すぐ着いてしまって、目的地まで歩いた。

 繁華街なんて数年前まで用事がなかったのに、今や自分がお酒も飲める歳であることに、かのんは驚いてしまう。

「かのんちゃん」

 ふと、背中を押されて、声をかけられた。崩れた体勢を整えて、かのんは振り向く。

「ちぃちゃん」

 頭の両側に綺麗な銀糸をお団子にしている、その小柄な女性は、かのんの幼馴染だった。

「行く途中に会うなんて、偶然だね、時間もまだちょっと早いよ」

 千砂都は言いながら、かのんの隣のスペースに滑り込んだ。

「行こっか、かのんちゃん」

 かのんは言われて、うん、と短く頷いた。

 お店はすごく分かりやすかった。十人を個室で案内できる居酒屋なんて、この狭い都内ではなかなかない。外装と雰囲気だけでなんとなくここだろうな、とかのんは思った。

「予約した嵐千砂都ですけど……」

 千砂都が全部手続きを済ませてくれるのでかのんは後ろで入り口にあるとても大きい魚の入った水槽と、その水が入れ替わるところをじっと見ていた。なんだか魚くさい匂いがした。

「こちらへどうぞ、もう何人かお連れ様がいらっしゃってますよ」

 店員のお姉さんはそう言うと、滑らかにかのんと千砂都を案内した。奥の方で靴を脱ぐように言われて、さらにその一番奥に案内された。ふすまを開けると、そこは宴会用の細長いテーブルの置かれた細長い部屋だった。かのんはその奥にいる、何人かと目が合った。

「かのん先輩っ!」

 薄い栗色の長髪の女性が、嬉しそうに立ち上がった。

「落ち着くですの……ステイステイ」

 その人を宥めるように服の腰辺りを引っ張っているその子は、相変わらずふわふわの金髪だった。少し会わないだけで、こんなにも大人っぽくなるのか、と思って、かのんは驚く。ほんの少し前まで、みんな高校生だった気がするのに。きな子ちゃんも、夏美ちゃんも。

「かのんさん、千砂都さん、こちらへどうぞ」

 きな子と夏美の向かいの席に、流れる黒髪の綺麗な女性がいた。その人も、なんて言えばいいんだろう、艶かしくなっているような、気がした。

「ありがと、恋ちゃんっ!」

 千砂都が言って、恋の隣に嬉しそうに腰掛ける。かのんは自然とその隣に座った。

「んー、まだみんな揃ってないけど、先になんかつまんどこっか?」

 千砂都は手早くメニューを手に取って言った。お店的にも席だけ取られるの迷惑だろうからさ、と小さく言い加えて。

「賛成っす! きな子もうお腹ぺこぺこなんすよ〜、夏美ちゃんがダイエットってうるさくて……」

「当たり前ですの! 最近きな子は太り過ぎですの! ほらここの辺りの贅肉とか……」

「ひゃわっ⁉︎ さ、触んなくていいっすから⁉︎」

 なんて、目の前でわいのわいのされている間に、千砂都は恋にメニューを見せながら次々に頼むものを決めていた。

 そして躊躇いもなく呼び出しボタンを押すと、すぐに店員のお姉さんがやって来た。ついでに今来た二人分のお通しも持っていて、都合が良かったのだろう。

「お伺い致します」

 細長い電卓のようなものに、お姉さんは指をかけていた。置かれた小鉢に入った何かの魚には見向きもせずに、千砂都が口を開く。

「えっとー、枝豆、フライドポテト、唐揚げ、馬刺しとー、あと焼き鳥盛り合わせ、あと砂肝四つお願いします、あ、あと人数分の烏龍茶も」

「かしこまりました」

 お姉さんはそう言うと、すっと部屋から退場した。

 かのんはしかし、ここにいない人のことが思われてやまなかった。私がいつもちぃちゃんの隣にいるように、あの人の隣には可可ちゃんが……

「わぁ、すごく広いデスね」

「ちょっと遅れたわ、ごめんなさい」

 そう言いながら外套を手に抱えて入って来たのは、今まさに、かのんの考えていた人だった。

「可可先輩! こっち空いてるっすよ〜!」

「きなきなありがとデス、すみれもこっち来るデスよ」

「はいはい、行くったら行くわよ」

 急に賑やかになったこの場所で、かのんはでも、一人のことしか目に入らなかった。

「すみれ先輩は何がいいっすか? 全部美味しそうっすよ〜!」

「きな子、ダイエットを忘れてないですの……?」

「ひえっ……な、夏美ちゃん、まさかそんなぁ〜」

「ふっ、あんたらほんと仲良いわね」

 その金色の髪が居酒屋の安っぽい照明を浴びてきらきらひかっていた。

「可可は、何食べたい?」

 すごくやさしい声。聞いたことないような。

「うーんと、うーん……どれも美味しそうで決められないデス」

「じゃあもつ煮込み鍋とかどう? 上海にはこういうのはないんじゃない?」

 二人、一緒に暮らしてるんだって、聞いたの。かのんは胸が軋むのを感じる。隣で千砂都と恋が何かを喋っていたけど、うまく聞き取れなかった。

「夏美、ボタン押してくれる?」

「お安い御用ですの」

 すみれちゃん、高校卒業した後、モデルとして事務所契約したんだって。可可ちゃんが帰らなくて済むように、自分で家借りて、モデルとその専属ファッションコーディネーターとして働いてるんだって。目を背けたくなるようなニュース。どうして私は、ここに来たんだっけ。

 かのんは気がついたら立ち上がっていた。まだメニューと睨めっこしていた恋、千砂都と向かいの四人がかのんを驚いて見たようだった。

「ちょっと、お手洗い」

 かのんがいそいそと出口のふすまを開けると、そこには人が、立っていた。かのんは、ぴたりと立ち止まる。

「……お久しぶりです」

 よれた白衣に、知らない間に長く腰くらいまでになった青い髪。それに、耳の赤いピアス。

 場が、一気にしんとなったのが分かった。その人は、あの日からずっと、笑顔を見せない人で。

 だってそれは、あの事件を、思い出してしまうから。

「四季、ちゃん……」

 かのんが絞り出した声に、四季はつめたく赤い瞳を向ける。そのまま四季は、つかつかと座敷に入ると、かのんのいた席の隣に腰を下ろした。すぐに白衣の胸元からケースを取り出して、そのまま流れるような動作で一本手に取り、火をつける。

「夏美、ボタン押して」

 四季が感情の読み取れない声でそう言う。恋がテーブルの端にあった灰皿を頑張って四季の手元まで押し出した。四季はそれを何も言わずに受け取り、美味しくなさそうに深く煙を吐く。

「は、はいですのっ……」

 ボタンが押される。ピンポォンと間抜けな音が鳴る。かのんはそれをじっと見ていた。

 すると入り口に立っていたかのんは、やって来た店員のお姉さんに場所を譲る。

「生十杯ください」

 四季は短くそう言った。

「……かしこまりました」

 お姉さんはやや困惑した様子だったが、四季は涼しい顔をしていた。それをすみれが見ているのをかのんは見ていた。

 かのんは耐えきれなくて、そのままお手洗いを探しに行った。脱いだ靴を履いて、狭くてカクカクしている廊下を歩く。

 お手洗いを見つけると、そこにこもって、じっとしていた。どうすればいいのか分からなかった。かのんは頭を抱える。なんで私、すみれちゃんのことがこんなに好きなんだろう。どうしてあの日、曖昧だけれど振られた日、納得しなかったんだろう。

 長い、時間が経った。

 胸のつっかえがいつまでも外れてくれなくて、それをどうにかして欲しかった。ほんとは先輩として四季ちゃんの支えになってあげなきゃいけないのに。未だにこのLiella!のメンバーには、あの日の苦しみが深く刻まれている。メイちゃんの、死。

「かのんー」

 声がして、びくっと身体が跳ねた。それは今一番聞きたくて聞きたくない人の声だった。

「長いから心配して見にきたのよ」

 かのんはでも、動けなかった。胸がどきどきして、居酒屋のお手洗いという状況がより非日常を感じさせて、ふわふわしていた。

「ねぇ、かのんってば、いるんでしょ」

 かちゃ。

 つっかえ棒を入れるような鍵を外して、扉を開く。

「もう……どうしたの、気分悪いの? まだ何も食べてないじゃない」

 すみれの眉を下げた困り笑顔がかのんを見ていた。心配そうにしてくれる、誰より気遣ってくれる、そういうところが出会った時から、ずっと。

「……すみれちゃん」

「なに、かのん……わっ」

 気がつくと、かのんはすみれの手を取って、思い切り引き寄せていた。それは少し乱暴なくらいで、そのままかのんは個室の鍵を閉める。

「ちょ、っと、なにすんのよ……」

 すみれは冬でも少し薄着で、つけてもいないはずなのに制汗剤みたいな涼しい匂いがする。狭い個室にいると、かのんには余計にそう思えて仕方なかった。

「ちょっと、かのん、大丈夫なの」

 俯いたかのんを、すみれは覗き込んでくる。もう、我慢の、限界だった。

「すみれちゃん」

 かのんが名前を呼んだのと、顔を上げたのと、抱きついたのは、順番に起こったのだけれど、ほぼ同時のようでもあった。

 小さな箱の中、静かな時間が止まる。ずっと遠くからばかみたいな誰かの笑い声が聞こえた。

「すみれちゃん、私ね」

 あの時言えなかったことがあるの。

 かのんは言いながら思い出す。

 あの日、メイちゃんがあんなことになって、みんなは誰もが自分と、その一番大切な人の傍にいることが精一杯で、それ以外に何かを言うなんて、考えもつかなかった。私たちはあの夏から、未だ抜け出せないままで。

「すみれちゃんの、ことがね」

 だからなんだ、そんなこと言ってしまったのは。ちょっと昔に戻ったみたいな、気がして。

 かのんは言いつつ、すみれの胸にぎゅっと縋りつく。もうどうしようもなかった。

「好きなのっ……」

 狭い個室にぴたりと身を寄せて、じっとしていた。誰かが隣の隣の個室に入ってくるような音がして、かのんたちはそのままの姿勢で、じっとしていた。

 やがて水の流れる音と足音が去ってから、かのんはすみれの腕に剥がされて、見つめ合う。

 その瞳を見た時に、かのんはほとんど、絶望したと思う。

 そのエメラルドグリーンに浮かぶのは、複雑なものではなくて、単純な哀しみだった。

「ごめん」

 すみれは短くそう言った。他に何も言わなかった。それが全てだった。お酒が飲める歳になっても、煙草が吸える歳になっても、あの頃と少し背丈が伸びただけで、中身は何も変わっていない。

 そのまま時間だけが過ぎていった。

「私、可可と結婚しようと思うの」

 だからそう言われた時は、聞き間違いかと思ってしまった。かのんはもう一度すみれを見つめる。今度はすみれの方が目を伏せていた。

「私も、かのんのこと、好きよ」

 すみれはそのまま、そう言った。

 かのんはぶん殴られたようで、足もとから崩れ落ちそうになる。それはどんな拒絶の言葉よりも、残酷な告白だった。

「……行きましょ、みんなに心配されちゃうわ」

 すみれは言うと、鍵を開けて外に出ていってしまう。あの頃みたいにはぐらかしてもくれなかったし、待ってもくれなかった。

 かのんは呆然と、鍵の開いたままの個室で立ち竦んでいた。

 

 ────嫌だなぁ

 

 ふと、かのんはそう思って、気がついたら視界が歪んでいた。かのんは、泣いていた。涙が溢れて止まらなかった。どうしようもなく、あとから、あとから。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 やっと涙が止まってくれると、洗面台で簡単に身なりを整えてから、みんなのいる部屋に戻った。なにやら騒がしい様子だった。かのんは首を傾げながら、ふすまを開く。

「あー! 夏美ちゃん! それきな子の頼んだたこわさっすよ! 食べちゃダメっす〜!」

「こんな小さいの何個頼んだって一緒ですの、また頼むんですの」

 左手を見ればそれ。

「四季さん、生以外は飲まないんですか? ほら、簡単なカクテル類もあるみたいですが……」

「私は、これでいい。昔飲み屋に行って飲み屋のカクテルは当たり外れが激しいけど、生はサーバーで作るから誰がやっても大体同じ味がするのを学んだ」

 右手を見ればそれ。

「ふぇ〜しゅみれぇ……くらくらするデス〜……」

「ちょ、お酒臭っ! あんためちゃくちゃ弱いんだから外では飲んだらダメよって言ったじゃない!」

 手前にはそんな二人。

 かのんは阿鼻叫喚というかごっちゃごちゃな景色を前に呆然としていた。

「かのんちゃん、こっちこっち」

 手招きしながらそう言ってくれるのは、千砂都だった。一番奥の席はさっきまで恋が座っていたはずだけれど、いつの間にかかのんの座っていた席に移っており、その隣には四季がいた。四季の前にはぱっと見で数えられないほどの空になったジョッキが鎮座している。どんだけ飲んだの、四季ちゃん。かのんがちょっと引くくらいの量を四季は飲んでいた。当然、煙草も。

 かのんはその後ろを蹴り飛ばさないようにそろそろと抜ける。千砂都に招かれるままに、一番奥の空いた恋の席に腰掛ける。

「かのんちゃん用にお刺身取っておいたよ、もうみんな出来上がっちゃってるから、私たちだけでゆっくり楽しも」

 千砂都はそう言ってにこっと笑ったけど、その頬はみんな同様、少し赤らんでいるようだった。手もとにはコーラのようなものがグラスに入っている。マリブコークだろうか、とかのんは思う。ちぃちゃんのお気に入りだ。

「…………うん」

 でも今のかのんには、何を飲む気も、食べる気も起きなかった。目の前で、さっき自分を振った人が、婚約者といちゃいちゃしてるのを見ながら食べれるものなんてなかった。

 居た堪れない気持ちで、言い訳がましく端で鍋を突いていた。もつ煮込みを齧ってみた。すんでのところで戻しそうになるのを必死に堪えて、これはダメだな、と自分で結論づける。

 こんなの、みんなに出会う前以来だった。かのんはふと、思い出す。歌うことが怖くて、世界の何もかもから耳を塞いでうずくまっていたあの頃の私にとって、誰かといるのは恐怖だった。押し潰されてしまいそうで。消えて無くなってしまいたくて。

「かのんちゃん」

 ふと、声がして、隣を向けばそこには千砂都のまんまるなルビーがふたつ、かのんを見つめていた。

 かのんははっとする。その頬は赤らんでいるけれど、目には鋭い光が宿っていた。

「あのね、かのんちゃん」

 千砂都との距離がじりじりと詰まっていく。こんなに人がいるのに、みんな友達なのに、誰も見ていない。非日常と日常の境目で、目の前で雪崩のように全てが瓦解していくのを、どこか他人事のように感じていた。

 千砂都の両手がかのんの頬を掴む。そっと、持ち上げられて、かのんは最初から最後まで無抵抗だった。

「んっ……」

 ファーストキスは、マリブコークの味がした。

 誰も、見ていなかった。夏美はきな子と何やら揉めていて、可可とすみれは完全に自分達の世界、四季と恋からは見えない角度だっただろう。

 短い、触れ合いだった。離れた時に甘すぎる水音が耳に流れ込んできて、かのんはどうすればいいのか分からなかった。

「かのんちゃん……好き」

 かのんはどきっとする。千砂都のそんな声、聞いたことがなくて。

 でも────

 かのんは目を逸らす。

 でも、ひどくないかな、こんなの。

 すみれちゃんに振られて、ちぃちゃんに告白されて。確かに私はちぃちゃんのこと好きだけど、今これを受け入れることが正しいの?

 かのんは自問自答しているはずだったけれど、本当はもう答えは決まっていることに、心のどこかでは気づいていたのかも、しれなかった。

 かのんは千砂都の潤んだ瞳を見つめ返す。この苦しみが助かるなら、なんだってよかった。楽しそうにみんな笑っている。ここだけ現実から乖離しているみたいだった。

「ちぃちゃん」

「……なぁに」

 思ったより真剣な声が出たな、とかのんは思った。

「私が大学卒業したら、私のカフェで一緒に働かない……継ごうと思ってるんだ」

 ごみごみした居酒屋の奥の角部屋の奥の席で、かのんは千砂都にそう言った。酔ったきな子が呼び出しボタンを訳もなく何度も押すので夏美にぶん殴られていた。

「うん」

 千砂都はかのんに笑いかける。今まで見たことのないようなやさしい表情で。

「うんっ! うれしいな」

 それが、これから先ずっと適用される、約束だった。本当はもっともっと、ちゃんと話し合って決めるべきだったんだと思う。例えば、お互いの気持ちについて、とか。

 でも、しなかった。

 ううん、できなかった。

「かのんちゃん」

 あ。

 一瞬のキスが、一生に思えてしまうほど、愛おし過ぎたから。

 それがかのんと千砂都の、恋人関係の始まりだった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 季節なんてものは気がついたら通り過ぎていく。

 春も、夏も、秋や、冬だって、数えきれないほどあった。そのどれもは代わり映えなく、まるで同じであったような気がするのに、それなら今ここでこうしているのは、一体どういう訳だろう。

 かのんはぼうっとしながら窓の外を眺めていた。窓の形に切り取られた風景の中、木の葉が風に揺すられている。音はない。だって窓が開いていない。ただちらちらと光る木漏れ日が優しすぎてかのんは意味もなく目を細めた。時が経つのは、なんて早いんだろう。

「かのんちゃん、お〜い、かのんちゃんってば」

 ふと、耳元で声がして、意識を戻すとかのんのすぐ近くでまんまるのルビーがカウンター越しに下から覗き込んでいた。

「もう店じまいとは言えまだ仕事中だよ、かのんちゃんにしては珍しいね」

「あぁ……ごめんね、ちぃちゃん」

 かのんは言いながら、手もとのコーヒーミルを分解していく。今日も一日働いてくれてありがとう、とかのんは心の中でお礼を言いつつ、拭き上げてあげる。

 かのんはこの時間が好きだった。お客さんが帰って、人の気配がまだ残るのに、もう誰もいない時間。昔手伝いをしていた時とは違う、自分のお店の空気感。

 隣を見れば、千砂都がコーヒーカップを棚にしまっているところだった。昔から変わらない頭の両脇のお団子は時の流れをまるで感じさせないのに、覗く横顔にはもうあの頃の幼さはなく、小さく引き結ばれた唇などはもうすっかり大人びていた。二十歳の時よりもさらにずっと。

 でも、かのんにはずっと言いたいことがあった。それは本当は大学を卒業してこのお店を継いだ時から、やりたいと思っていたことだった。

「ちぃちゃん」

 かのんが呼ぶと、振り向いたその瞳が不思議そうに揺れていた。

「話したいことがあるの、今日仕事終わり……いいかな」

 放った言葉はコーヒーに溶ける角砂糖みたいに、この喫茶店の静かな空気にしゅらしゅらと溶けてその形をなくしていった。

「あー……ごめん、今日はこれからバイトあるから、また今度でもいいかな?」

 千砂都は少し逡巡した後、そう言って両手を合わせた。夕陽が天井を音もなく伝っていく。

「……うん、分かった」

 かのんが呆けていると、千砂都はテキパキと仕事を終わらせて、店中を綺麗にしてしまった。

 空中に動いた後の小さな埃が舞ってきらきらしていた。

「じゃ、今日もお疲れ様っ! また後でねっ!」

 千砂都はそう言うと、そそっかしく出ていってしまった。

 残されたかのんは、静寂に耐えかねてラジオをつけた。

『今年度もノーベル賞の受賞は日本の超天才科学者────若菜四季さんで間違いないかと世間では騒がれております! いやー多部門にて活躍されている彼女ですが、齢二十二歳にして物質をミクロ単位にまで圧縮して持ち歩く技術を開発! 依然として躍進が止まりませんねぇ! 今や日本の科学力は世界でもずば抜けたものになっている訳で、中には兵器としての利用が懸念されるあまり一般販売が禁止されている発明もある訳ですが、若菜さん、そのご自身の異例の天才ぶりについて、率直なご感想……いかがですか?』

 知っている名前が出たので、かのんは耳を傾ける。今や日本で彼女の名前を知らない人はいなかった。世間では『悪魔の科学者』などと言う人がいるのは、知りたくなくても知っていた。

『興味ない』

『あ、ちょっと! 若菜さん! もう一言だけでも! 何か今後の展望などあれば!』

 インタビュアーが食い下がる。四季ちゃん、きっとすごい嫌な顔してるんだろうな、とかのんはぼんやり思った。

 最近こういう偏向報道というか、見せたいものだけ見せられているような空気が強くなったような気がする。ここ数年で特に、信じられない話だけど消費税も所得税も、住民税でさえ倍以上になった。物価は大して上がっていないのに。

 かのんは聞いていられなくて、おもてに出る。思いっきり背伸びをして、深呼吸をする。もう暗くなった空気を思い切り吸い込み、同じ時間をかけてゆっくりと吐く。

 エプロンを着たままだったけれど、ちょっとそこまで散歩に出る。石畳を歩いて、近くで一番周りが見える開けた場所まで行く。

「ふぅ……」

 遠くからでも分かる、新宿の方から、空高いビルがたくさん密集して立っているのが見えた。それは光を浴びて薄い青色に輝いていて、代わりにその下の街は真っ暗だった。富も権力も名声も、技術の進歩というだけで持つ者と持たざる者で格差は広がるばかりだった。

 かのんは自分たちだけでなく、世界も変わっていくのを感じる。

 私もやることやらなきゃな、と思った。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 最初は歪な形だったかもしれない。

 少なくとも彼女のよく言うマルからは程遠かっただろう。

 でももう何年も、あの日から何年も経った今は、違った。年月によってだんだん整理されていった気持ちと心は、いつの間にかそういう形になっていた。

 日々のわずかなささくれと時々刺さる深い傷は、二人で庇い合えばいいことを知った。

 かのんは人のいなくなった店でグラスを拭きながら、遠くを見つめていた。

「たーてのいとは、わたし

 よーこのいとは、あなた」

 ひょこっと、カウンター席の下を掃除していた千砂都が出てきた。

「逢うべきいーとに、出逢えることをー

 ひとは仕合わせと、呼びまぁす……」

「なんて曲?」

 千砂都が訊いてくる。

「糸」

 かのんが短くこたえる。

「十五年くらい前の曲だよ」

「ふぅん」

 店内に流しているゆったりしたジャズっぽいBGMも切ってしまったから、二人だけのお店は哀愁さえ感じてしまいそうな静けさだった。かのんが鼻歌を歌うのは、珍しかった。

 ここももう四年になる。

 大学卒業後、実家のカフェを継ぐ形で、ここで仕事を始めた。自営業なのですごく安定しているわけじゃないし、社会情勢も良くないが、幸い母が培ってくれた土台があるおかげで、なんとか生活していけた。

 でも────

 かのんは思う。

 でも、私には、やりたいことがあった。

 それを幼馴染で恋人である千砂都に言うことだけが、うまくできなかった。何年も前からその話をしたかったのだけど。それになんだかその話を、避けられているような気もしていたから。

 はぁ。

 かのんはため息を吐く。

 千砂都とは大学も同じで、かのんは音楽科、千砂都はダンス科だった。付き合うようになったのは二十歳のあの日。そのままあの日の言葉通りに千砂都はかのんの実家のカフェで働いていた。千砂都はその傍、掛け持ちでたこ焼き屋や他のお店でバイトをしているらしく、休日でもあまり一緒にいる時間はなかった。

 かのんはふと、奥のテーブル席の下に雑誌が置き忘れられているのを見つける。

 カウンターから出ていってそれを所定の場所にしまおうとした。

 そして、息が止まった。

 その表紙を飾っていた女の人に、あまりにも見覚えがあったから。

 流れる金糸、髪の両脇でぴょこんと伸びているそのトレードマークも、すっかり大人びた容姿も、でもそのままあなたの姿だった。着飾った服が見事に映えていた。

「ん? どうしたの、かのんちゃん」

「う、ううん! なんでもっ⁉︎」

 かのんはでもそれを手に取ったまま、中身を見ることも、片付けることもできなかった。ただ背中に夕陽を浴びていた。

 雑誌は『ご自由にお読みください』のコーナーのなるべく取り出しにくい位置に隠すように置いた。

 だからかもしれない。

「ちぃちゃん」

「ん、なぁに?」

「……辞めようと思うの、このお店」

 そんなことを言ってしまったのは。

 その頃かのんは千砂都と喋るのは、どうも息が詰まるような気がしていた。

 千砂都は変化を好まない様子だった。なるべくなんでもそのままの形で残したがるような、どうしてそうなのかは分からなかったけれど、あまり外にも出かけなかったし、ものも買わないし捨てなかった。

「やだっ!」

 千砂都の拒絶の言葉が空虚なお店に響いて、しつこく残った。

 一体いつから、私たちはこんなふうにがんじがらめになってしまったのだろう。

 何を言うにしても、躊躇うようになってしまった。こんなの、もう卒業したいのに。

 二十七歳の、冬のある日だった。

 長い時間を思い出していたような気がした。

 かのんはようやく閉じていた目を開く。

 ずっと言いたかった言葉は、ひとつ小さなケースとセットにしてあって、だから今、一緒に渡そうと思った。

 それをポケットにつっこんで、千砂都を追いかけて、かのんも薄暗いおもてに飛び出す。もう街の隙間からどこでも見えるようになった超高層ビルの連なる方は、日本の科学の発展とその技術力を露骨に物語っていて、遠くからでも果てしなく眩しかった。

 かのんはそれには目を背けて、ただ走る。目的地は、そんなに遠くない、いつもの広場だった。まだここには変わらず屋台が出ていて、いつでも香ばしい匂いとソースの匂いがしている。移動販売車のそのうちのひとつ。

「すみません! ちぃちゃん来てませんか⁉︎」

 青のりの匂いのする店内に顔をつっこんで、かのんは叫ぶ。中にいた猫背のおばちゃんが驚いて見てきたけれど、かのんだと分かると頬をほころばせて言った。

「あらぁ、千砂都ちゃんなら今日は来てないわよ……バイトも今日はお休みだし……」

「そうですか、ありがとうございますっ!」

 おばちゃんが最後まで言い切らないうちに、かのんはもう、走り出していた。後ろで呼び止める声がするのを、振り切るように走った。後はもうあそこだ、とかのんは思った。

 路地を抜けて、いくつもの電灯を、何度も歩いた同じ道を、越えて。

 ようやく着いたそこは、住宅街の中にある、都内にしては広めの公園だった。半球の、穴がぼこぼこ空いたような形のへんな遊具と、横に長いジャングルジムと滑り台、あとシーソーと、ブランコがあった。

 かのんはそこに踏み入れた。昔はもっと色味が鮮やかだったような気がするけど、と思って、ここで遊んでいたのがもう数十年も前であることに驚く。もう私たちは二十七歳だった。

 ここで出逢ったんだよね。

 ここで仲良くなったし。

 ここでたくさんのことを話した。

 だからつまづいたら私たちはここに戻ってくればよかった。

「ね、ちぃちゃん」

 ブランコのチェーンを頼りなく握って、わずかに揺すられている千砂都に、かのんは声をかけた。その顔がゆっくり持ち上がる。

「……どうしてここが」

「分かるよ」

 千砂都に、かのんは最後まで言わせなかった。

「何年、一緒にいると思ってるの」

 その前まで、歩く。橙色の灯りがスポットライトみたいに二人を包んでいた。

「ちぃちゃん、あのね……」

「いやっ!」

 今度は千砂都が、言わせなかった。かのんは肩がびくっと震える。

「いやだよ、このままでいようよ……」

 千砂都は俯いて、そう言った。ブランコが悲痛そうにキィキィ鳴いた。

「ちぃちゃん」

 かのんは腰を折り、千砂都を覗き込む。隠しているのに隠しきれていない瞳から漏れた視線が、かのんとぶつかる。

「あのね、私、自分のお店を持とうと思うの」

「え……?」

 千砂都の目が見開かれる。かのんはくすりと笑ってしまいそうになる。ほら、やっぱり何か早とちりしてる。

「今のお店もいいんだけど、私は音楽ができるバーがやりたいなって思ってるんだ、それでずっと準備してたの、お金とか、色々」

 かのんが言うのを、千砂都はじっと見ていた。信じられない、というような顔で。でも、まだまだかのんには伝えたいことがあった。本当はサプライズのつもりも、あったんだけどな。

「一緒に来てくれない、ちぃちゃん」

「────っ⁉︎」

 息を呑む音がした。千砂都が固まったのが、かのんには分かった。

 今しかない、と思った。齢も二十七だ。公園の安いスポットライト、一昔前ならデートスポットとかもありそうなものだけど、生憎そんな時代でもなかった。かのんはポケットに入れていたそれを取り出す。丁寧に手に乗せて、ケースを開ける。

「ちぃちゃん、これ」

 そこに収まる丸いリングは、何より丸く、平穏に感じられた。

「かのん、ちゃ……」

 潤んだルビーがかのんを見ていた。

「これからも、一緒にいてくれたら、嬉しいな」

 かのんは清々しい気持ちで、その目を見つめ返してそう言った。恋人になった経緯は、歪だったかもしれない。でもそれから先に描く世界は、私たちに開かれていると、そう思ったから。

 かのんは垂れていた千砂都の手を掴む。千砂都がわずかに震えて、それから同じように握り返してくれる。

「うんっ……これからも、よろしくねっ……」

 そう言う千砂都の頬を水滴が伝った。そうして、涙が溢れてきていた。あとからあとから、きりもなく。

「うんっ……私も……っ!」

 かのんも、一緒になって泣いていた。姿形がいくら変わっても、どれだけの時が経っても、私たちはずっと私たちでいよう、とかのんは思った。

 寒い夜。ガラス玉を砕いたようなきらきらした公園の砂。見つめ合う瞳の中に必要なものが全てあるような気がした。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「いらっしゃいませー」

 今日も軽快になった呼び鈴のベルに、かのんは返事をする。

「お席はこちらへどうぞ〜」

 千砂都がその人を一番案内しやすい席に通して、メニューを渡したり、お水を持っていったり、してくれる。

 千砂都の調子はすこぶる良さそうで、かのんは母とも話し合いを済ませていて、あと二ヶ月もしない間にかのんたちは新しいお店に移れるかという手筈だった。平穏な日常。穏やかでただ糸を編むような日々。

 ジリリリリリリリリ

 そこに、あまり鳴らないお店についている電話が鳴った。かのんは珍しい、と思いながら、それを取る。

「はい、もしもし」

『……も、もしもしっ』

 その声には聞き覚えがあった。数年ぶりだったけれど、すぐに分かった。

「わぁ、久しぶり、きな子ちゃん……どうしたの?」

 えっと、その、と電話越しに狼狽えるきな子の声がする。

『た、大変なんっすよ……! ええっと、これはきな子は何から説明すればいいんすか……』

 電話の向こうで何やらガタガタと揉み合うような音がして『貸すですの』『なんっすか、もう』『あっ』と声がして電話が代わったようだった。

『かのん先輩? こちら夏美ですの』

「あぁ、夏美ちゃん、久しぶり〜」

『再会を喜びたいところですが、そうも言ってられませんの……かのん先輩、端的に言いますの』

 電話越しの夏美の声は張り詰めていて、かのんは店内に流れる穏やかなBGMとは裏腹にごくりと唾を飲む。

「な、なんだろう……」

 そして、すうっと息を吸う音。その直後に、信じられないことを言われることを、まだ夢にも思っていなかった。一瞬前。

 

『夏美たちで、メイちゃんを、助けに行きます……協力して、くれませんか』

 

 一瞬、耳に膜がかかったように、何もかもが聞こえにくくなった。かのんちゃん、ホット一ね。曲名も知らないメロウな雰囲気のBGM、メイちゃん。

 あの日、死んでしまった私たちの大切な仲間。忘れるはずなんてなかった。誰もが皆、なんとなくお互いに関わるのを控えたのは────特に四季ちゃんには────どうしていいか、分からなかったからだ。

「かのんちゃん?」

 すぐ傍で千砂都に覗き込まれていた。かのんははっとして、首を横に振る。

「う、ううん、なんでもないの!」

「そう……? あ、電話済んだら三番テーブルにお水お願いね」

『かのん先輩』

 うん。

 喉で声が止まる。へんな汗をかいている。ひょっとしたら自分は今、とんでもない分かれ道にいるのかもしれない、と思った。

「……そんなの、ありえないよ」

 だから言った。あの日諦めたように。だって人の命は絶対に戻らないから。

「メイちゃんは、あの日、事故で亡くなったんだよ……? 何言ってるの……?」

 かのんが言うと、受話器越しに息を吐く音が聞こえた。

『そう思って当然ですの、だから話をしにきたんですの』

「…………なに、を」

 そうしてたったの一言で、かのんの人生は、未だかつてなく大きく動き出すのだった。

 

『四季が、タイムマシンの開発に、成功しましたの。私たちで過去に、行きませんか?』

 

 ある寒い日のことだった。

 信じられないことが全て、現実になろうとしていた。それらは必然的な糸のように絡み合い、いつの間にか手の届かないところでひとつの形を成そうとしていた。

「かのんちゃーん、おみずー」

 遥か遠くに感じるカウンターの向こう側、千砂都が言った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二章 - おかえり、ただいま、おやすみなさい

 もし、あなたみたいな瞳になれたら、私はもっとあなたを惹きつけたデショウか。

 

 もし、あなたみたいな髪になれたら、私はもっとあなたの目を引けたデショウか。

 

 もし、あなたみたいな口になれたら、私はもっと大人っぽく見られたデショウか。

 

 もし、ううん、ホントはそんなの、どうでもよくて、

 

 もし、あなたと同じ言葉が母国語だったら、私は……可可は、もっとあなたに気持ちが伝えられたデショウか。

 

 ベランダから見上げる夜空には星一つない。可可が息を吐くと、それは白い靄になって空に(のぼ)っていき、散らばって消えた。

「はぁう……」

 情けないため息が口からは漏れるばかりで、ベランダの手すりに顔をつけるとつめたくて、吐いた空気は湿っぽかった。でも可可はあたたかいネグリジェを着ていたので、へっちゃらだった。

「今日は本当に帰ってくるのが遅いデスね……」

 振り向くと、なんとなくそういうことに決まったウォールナットで統一されたリビングとダイニングが広がっている。そこにあるのは一人分の気配ではなく、二人分の生活感だった。

 可可はもう一度ベランダの手すりに頬をくっつけて、まだつめたい部分を探していた。眼下には暗い街が広がっている。可可たちはあの暗闇に呑まれないように、ずっと昔にこの背の高いビルに引っ越したけれど、ここにいられるのはひとえに仕事が上手くいってくれていたからだった。

 可可は目を閉じて、思い出す。

 今の同居人とも出逢ってからもう、十年以上が経っていた。色々なことがあった。その全てが、今に繋がっていることを、可可はよく知っているつもりだった。

 でも、だから、納得いかなかったのだ。

 いつから────

 可可はぐっと唇を噛む。

 いつから、こんなことになってしまったのだろう。

 一日の終わりの心地よい疲労感とまどろみとぬくもりとつめたさの狭間。溶けていくチョコレートのような記憶を、可可は夜の中、ゆっくり掬い集めていった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「はい、じゃあ今日の練習はここまでね! お疲れ様っ!」

 あの日。千砂都がいつものようにぱんっと手を鳴らして、練習は終わった。辺りで気が抜けた風船みたいに倒れていく一年生たちを、可可は見ていた。

「つ、疲れた、ですの……」

「きな子もっす……」

「私もだ……また元気にしてるの四季だけかよ」

 言う通り、四季だけが立って残りの三人を見下ろしていた。可可も実は倒れそうだったのだけれど、一年生たちの手前、そんなことはおくびにも出せなかった。その日も最高気温を記録しているらしかった。日本という国は、どうしてこんなに蒸し暑いんでショウか、と可可は思う。

 とにかく喉が渇いたので、日陰に置いた荷物の方へと向かう。日陰はできる場所が時間によっても限られるので、なるべく校舎側に寄って、みんないくつかのグループに分かれて休憩するのが常だった。

 日陰に入ると、可可は一瞬目がちかちかした。光に慣れすぎて陰の方が眩しいなんて、おかしい話だ、と可可は思いつつ、自分の荷物からペットボトルを取り出す。

「可可さん、お疲れ様です」

「レンレン、おつかれデス!」

 そっと隣に来たのは、恋だった。そのいかにもお淑やかな女性らしい長い髪は、まだ日差しが残ってきらきらして見えた。

「可可さん、今日の柔軟すごく良かったですね、前よりずっと柔らかくなってます」

 恋は朗らかに笑ってそう言った。可可は、なんでこんなやさしい人と敵対してたんだっけ、と思いつつ、それがもうずっと前のことであることを思って、やっぱりにっこり笑う。

「ありがとデス! レンレンもダンスすっごかったデスよ」

 可可が言うと、恋は嬉しそうにまた笑った。

 それから二人は日陰で一緒に休んだ。可可はオレンジジュースを飲みながら、恋は水筒でお茶を飲みながら、言葉少なに、地面にへたり込んでいる方が暑いし熱いと気づいた一年生が順番に起き上がるのを、ぼんやり見ていた。その横顔がなんだかひどく切なそうだった。

「レンレン、何か……悩み事とか、あるのデスか」

 それで、ふと、口からそんな言葉が漏れた。

「え」

 恋は顔を可可の方に向けて、目を丸くする。可可はでも、続ける言葉が見当たらなくて、黙って前を見ていた。四季がメイに何かを言っていた。メイは赤くなっていて、照れ臭そうに笑う姿に、可可は胸の内でわずかな羨ましさを覚える。可可も、あのくらい素直になれたら。

「……可可さんこそ、なにか、悩み事があるのですか」

 真剣な声にはっとして可可が振り向くと、恋はその唇をきっと引き結んで真面目そのものな顔をしていた。二人は見つめ合っていた。けれど可可は、それがなんだかおかしくて、ぷっと笑ってしまう。

「いいえ、ナニも」

 そう言って立ち上がると、風が吹いて、可可の頬や首筋なんかをやさしく撫でていった。思わぬ涼しさに目を細めて、屋上のフェンス越しに遠くを見つめる。雲一つない青空だ。

 その下で、かのんと千砂都と四季が並んで座っていた。そしてかのんを見下ろすように、すみれが、立っていた。

 なにを話しているのかはなんとなく聞こえた。この隔てるものも何もないそんなに広くない屋上では当然のことだった。

「ねぇ、すみれ……」

 言いかけて、可可は口を噤む。それはかのんが、とびきり真剣な顔ですみれを見ていたから。

「あのさ、すみれちゃん」

 すみれも、千砂都も、四季も、離れていた恋でさえ、かのんを驚いたように見ていた。

 沈黙が風に流れていった。ピリピリした空気だと可可は思った。

「……一緒に自動販売機、行かない?」

 かのんがそう言うと、たちまち空気は弛緩して、かのんの後ろの二人と恋までも、息を吐いた。

「いいわよ、そのくらい」

 すみれはテキパキ準備をする。あ。呼び止めたいのに、声が出ない。なんでだろ。

「なにしてんの、行くんでしょ」

 かのんははっとして立ち上がる。

「ま、待って、いくから」

 かのんはすみれの後を追って、屋上を出ていった。可可はもちろん、恋も千砂都も、そんな二人をじっと見ていた。

 二人がいなくなると、辺りの空気は急に柔らかくなって、息がしやすくなったような気がした。可可はほぅ、と息を吐く。

「可可さん」

「ん? どうかしましたか、レンレン」

 名前を呼ばれたので可可は何気なく振り向く。動揺していることを、悟られないように。

「すみれさんと何かあったのですか……?」

 ばくん、と。

 心臓がひときわ強く鳴ったのは、多分もう少し風があったらその音は聞こえてしまっていただろうな、と可可は思った。そんなはずなくても。

「な、ないデスよ⁉︎ なんで可可があんなグソクムシと何かある訳があるのデスか……」

 可可が言うと、恋はこたえなかったので辺りはまた静かになった。

 その横を、ようやく歩けるようになった一年生三人を四季が率いて扉をくぐっていった。

「甘いものが食べたいっす〜夏美ちゃんいいとこ知ってないんすか〜……」

「そういうのは私の専門じゃありませんの、もっと訊くのに適任な人が、ほら」

「……呼ばれてるよ、メイ」

「……ん? わ、私か⁉︎ そ、そんなの私もあんまり詳しくないぞ……」

「じゃあみんなで竹下通り行かないっすか⁉︎ あそこならなんでもあるっすよ〜!」

 わいわい賑やかな声は遠ざかっていき、やがて扉の向こうで静かになった。千砂都は動かなかった。どこか遠くの、可可たちには見えない場所を見つめているみたいだった。

「レンレン」

 可可は呼んでから、振り返る。恋が「はい」と返事をする。

「ちょっと、先に行っててくれマセンか」

 可可が言うと、恋は一瞬きょとんとしたけれど、向こうにいる千砂都と可可の顔を交互に見ると、すっと納得したような顔になった。

「分かりました……では、また後で」

 そうして可可の横を恋が通り過ぎて、扉が開いて、扉が閉まって、辺りからさっきまであったはずのたくさんの人の気配はほとんど消えた。

 その時、千砂都がそれを目で追っていたみたいに可可には思えた。

「千砂都」

 可可は近づいて声をかける。もしかしたら千砂都は、いま自分と同じ気持ちかもしれない。そう思って。

「可可、ちゃん」

「どうしたのデスか、みんなもう行ってしまいマシタよ」

 可可はでも、それに触れられるだけの勇気を持っていなかった。本当に大切なことには、いつも自ら触れられない。すぐそこまでは来れるのに。

「……ねぇ、可可ちゃん」

 千砂都が俯いたまま口を開く。可可はその綺麗な千砂都の頭の形を見ていた。はい、なんデスか。

「どっか、行こ」

 さぁ、と。

 濡れた風が、千砂都の渇いたはずの声を夏の温度に湿らせていった。

「いいデスよ」

 可可の声も、夏風にさらわれて遠くへなびいていった。

 言うべき相手を互いに失った者の、声が。

 虚しく。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 駅のホームは帰宅する学生や社会人でごった返していた。

 可可たちは一番高い切符を買って、電車に乗った。

 宇都宮に行こう、ということになった。理由は千砂都が「丸い水餃子があるらしくてそれを食べたい」と言ったからだった。

 電車は当たり前だけど混んでいて、座れるところはなかった。可可と千砂都はドアの端の方で固まってじっとしていた。ふとドアに『痴漢注意』と『不審者注意』を促すシール状の貼り紙が目に入って、この表示は日本の電車では大抵どこでも見るな、と可可は思った。

 それから可可と千砂都は二度ほど電車を乗り換えた。電車はいつの間にか東京ではなく、栃木を走っているようだった。

 可可たちは空いていた席に二人並んで腰かけた。窓の外は夕暮れが近いみたいだ。夏の夕暮れはなかなか暮れない。

 それからしばらく何も言わずに可可は千砂都と並んで座ってじっとしていた。

 向かいの窓の向こうに知らない街が流れていった。空ばかり赤いので、景色は丸ごとオレンジジュースの中に溶かし込んだみたいだった。

「千砂都って、どうして丸いものが好きなのデスか」

 ふと、可可は訊いてみた。別に深く気になったわけじゃない。ただ電車の振動と、足もとにこぼれる夕陽と、わずかな沈黙の間を埋めるように、なんとなく訊いていた。そちらは向かずに。

「……丸いものに触ると、落ち着くから、かな」

 周囲にはもちろん人がいたので、絞ったボリュウムで千砂都は言った。当たり障りなく、けどそれ以上もないような、そんな答えだった。

「そう、デスか」

 それからは二人とも何も言わなかった。

 過ぎる街並みが黒い影のように切り取られているのを、ぼんやり見ていた。

 電車はいくつもの駅を越えた。長時間乗っているとたくさん停まるので、なんだか停まってばかりで進んでいないような気がした。

 人は、少なくなったり、逆に増えたりした。でも可可も千砂都も、席は最初の位置から変えなかった。角に行きマスか、なんて、とても言えなかった。

『次は、終点。宇都宮、宇都宮です。お出口は右側。お降りの際は段差にご注意ください』

 やがて電車は二度ほど似たような放送を繰り返してから、安っぽい音を立ててゆっくり停車した。

 炭酸を開けた時みたいな気の抜けた音を立てて扉が開く。すみれの顔が可可の脳裏にちらついた。可可も、飲んでみる?

「行こ」

「はい、デス」

 千砂都が平坦な声でそう言ったので、現実側に引き戻された。

 そのまま二人で電車を降りた。すぐそこの階段を降りて、流行りの広告が立ち並ぶコンコースを抜けて、切符を通して改札を抜けた。

 駅を抜けると、むあっとした空気が肌に絡みついてきた。

 可可は立ち止まって、辺りを見渡す。すぐそこはバスの停留所になっていて、少し遠くでタクシーが列になって並んでいた。

「どこか行く宛はあるんデスか」

 可可が隣の千砂都に訊いた。千砂都は一歩前に出て、その遠くのネオンの広がる街並みを見つめていた。可可はその後ろ姿を、じっと見ていた。もう一度名前を呼んでみたのに、返事はなくて、後ろ姿はかっぽり黒く型取られているようで、可可はむぅ、と自分の唇を尖らせた。

「千砂都、アナタが来たいって言ったのデスよ」

 そう言って、その肩を掴む。ぐい、と引き寄せて、こっちを向かせて。

 息が詰まった。

 煌びやかなネオンを遠くに背負う千砂都は、見たことない絵画みたいに綺麗だった。

 でも息が詰まったのはそれが原因じゃなくて、その両目から、涙がこぼれ落ちていたから。それは頬を伝い、顎まで届かないくらいのところで重力に耐えきれずに一粒ずつ、落ちる。

「…………千砂都」

 可可が名前を呼ぶと、千砂都は曖昧に微笑んだような、そのまま泣いてみたような顔で、そっと微笑んだかもしれなかった。

 夜景がほどほどに綺麗な気がした。可可は、何も言えずにただ千砂都の頬を流れ落ちる涙を見ていた。

「…………ねぇ、可可ちゃん」

 ようやく千砂都が口を開いた時、だからかえって驚いた。可可は、その顔をまっすぐ見つめることと、その声を聞くことしか出来なかった。

 夜景を背中に、千砂都は崩れるように笑う。

「好きな人に好きな人がいる時って、どうすればいいのかなぁ」

 その声は夜に溶けて、闇の一部になって消えていった。でも可可の耳の奥には残って消えてくれなかった。

「…………可可にも、分かんないデス」

 そう言ってしまうと、二人とも何も言わなかったので、辺りは静かだった。遠くで駅のアナウンスが流れているのが聞こえた。いくつかのクラクション。

 立ち止まっても、時間が過ぎていくばかりだった。可可は気づかれないようにすっと息を吸う。勇気を振り絞って、向き直る。

「晩ごはん」

「…………え?」

 夜風が生ぬるく吹きすぎていった。

「晩ごはん、食べに来たんデスよね、ほら、行きマスよ」

 宙ぶらりんだった千砂都の手を取って、可可はそっと歩き出す。

 なるべく顔を見ないように、してあげながら。

 

 コンクリートは踏んでもあまり音がしなかった。だから後ろを千砂都がどんなふうに歩いているのかよく分からなくて、可可は手を握る強さで、速くないか尋ねた。速いならぎゅっと、ちょうどいいならきゅっと。

 きゅっ。

 それからしばらくも行かないうちに、たまたま街中で時計を見かけて、時間を知って可可は慌てた。ご飯を食べて帰るには、あまりにも時間が足りなかったのだ。

 ぎゅっ。

「可可ちゃん」

 ふわり、と解かれる手。千砂都はもう、泣いていなかった。

「そこでご飯、食べよ」

 千砂都のやさしい声が、夜の宇都宮の飲み屋ばかりの通りに紛れて消えて行く前に、可可は頷いて応える。

「はいっ! 行きまショウ!」

 二人でようやく見つけた目的地に滑り込んで、その店内のまた夜風とは違ったむあっとした空気を顔中に浴びながら、可可は思った。

 

 私も、ずっと言う勇気がないんデスよ……

 どうすれば、いいんでしょうか、ねぇ────すみれ

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 駆け込んだ餃子屋さんは空いてたけど美味しくて、二人は食べると目を丸くして、見つめ合って、笑い合った。

 千砂都の言った、丸い水餃子なんてどこにもなくて、結局可可も千砂都も普通の餃子を頼んだ。テーブル席に向かい合って座って、出てきた餃子は想像していたのより一つ一つが巨大で、千砂都は楽しそうに笑っていた。可可もつられて笑った。

 ねぇ。

 なんデスか。

 私たち、こんなふうに喋ったこと、あんまりなかったかもね。

 そうかも、デスね。

 水餃子を食べに来たのなんて、とうの昔に忘れていた。可可は、今が楽しい方が大切じゃないのかな、と思って、細かいことは気にしないでいた。今なんで自分が、こんなお勤め帰りのサラリーマンが来そうな場所にいるのかも。

 餃子は食むと肉汁がじゅわっと滲み出て口内を満たした。その暴力的な旨みを、ほどほどに感じていた。齧った餃子の切れ目からは透明な液体が溢れていた。白いご飯がすごく美味しくて、箸を動かす手が止まらなかった。その端々で、細切れに、会話をした。

 可可ちゃん。

 なんデスか。

 今日、一緒に来てくれてありがとう。すごく楽しかった。

 それは、可可もデスよ。

 …………

 …………

 おいしいね。

 はい、おいしいデス。

 あのね、可可ちゃん、私の、

「私の好きな人、どうすれば振り向いてくれるかな」

 いきなり心臓に針を刺されたみたいだった。可可は喉に詰まらせそうになった餃子と、言いかけた言葉を、コップ一杯の水で流し込む。

 千砂都の目は本気だった。でも乙女の恋愛相談にはこの場はあまりにも不向きだった。天井端の古いテレビから音声ががさがさで何も聞き取れないよく分からないドラマが垂れ流されていた。

「それは…………」

 可可は、ふと、食べ物を食べた後の喜びからか、さっきよりは自分が楽観的にものを捉えているような気がした。人間のそんな単純さに気がついて、可可はぞっとした。今、可可、大丈夫って言おうとしまシタか……?

「……可可ちゃん?」

「なっ、なんでもないデスよ〜、ええっと、その……」

 ふと、目を逸らすと、さっきのテレビの中で男女が見つめ合っていた。安っぽいドラマのそういうシーンらしかった。

「…………」

 可可がそう言ったのは、本当にそう思ったかもしれなかった。あるいはちょっと出来心だったかも。

「キス、してみる……とか」

 可可が言うと、千砂都は目をまんまるにして、そのついでに持っていた箸を落としてしまった。それでも可可の方をじっと見ていた。

 長い時間が経ったような、すぐだったような気がする。

 食べよ。

 そう短く千砂都に言われて、可可ははっとして残りの餃子を食べにかかった。

 ねぇ、可可ちゃん。

 なんデスか。

 また、来ようね。今度は、みんなで。

 …………っ、はい!

 ふふ。

 なんで笑うデスか。

 ううん、なんでもない

 もー、

 二人は喋りながら、手を合わせる。

「……ごちそうさまでした」

 のんびりしている時間もなくて、なんならちょっと急がなきゃ帰れなくなるかもしれない時間で、可可たちは駅まで走り、滑り込みでぎりぎり終電に飛び乗った。

 食べた後に運動したのですごく疲れた。

 結局は食べた餃子は全然丸くなかったしそもそも水餃子でもなかった。でも────

「千砂都」

 来た時みたいに、隣り合わせのあなたに、声をかける。少しうなじが汗ばんでいるのは、暑さのせいか、走ったせいか。

「ん? どうしたの、可可ちゃん」

 その目を見つめて言う。今日はハナマルで、いいんじゃないかな、と思って。

「美味しかったデスね、餃子」

 丸くなかったけど。と付け足すと、千砂都が水餃子でもなかったね、と言って笑った。

 くすくす、と。

 人の少ない車内に押さえた笑い声がこぼれていた。

 向かいの窓に反射する二人の姿は、可可には来る時よりも楽しそうに見えた。

 何かが解決した訳じゃないけど、何かは良くなった気がする。

 可可はそう思うと、安心したのか急に眠くなってきた。

 まどろむ意識の中、寄りかかる体温に揺れる電車がゆりかごみたいで心地よかった。

 そのまま可可は、千砂都の肩に頭を預けて眠りについた。

 千砂都がやさしく頭を撫でてくれていることなんて、可可には知る由もなかった。

 可可が投げ出していた手に、そっと千砂都の手が絡まる。

 それはやさしく。

 きゅっ、と。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 そしてあの日から、一年半が経った。

 季節は似たように一周しただけのはずなのに、この冬が全然前と違うように見えるのは、自分が変わったからだろうか。

 ふぅ。

 可可は息をひとつ吐いて、それが白くぼやけて消えていくのを、ぼんやり眺めていた。手すりに腕を敷いて顔を預けて。

 その先に広がる遠い空の向こうに、これから帰る故郷があるのだった。いくつもの飛行機が、いつでも飛び立てるように羽を広げて待っている。

 帰ってくるのを家族は楽しみにしてくれているらしかった。でも、可可はまだ自分はここでやるべきことがあるような気がしていた。

 しかし現実は非情だった。

 可可が上海に帰ることは、誰にもどうすることも出来なかった。可可がどれだけ嫌だと言っても、他に方法はなかった。もう、時間も限界だった。

 ばいばい、Liella!のみんな。

 可可は心の中で呟いて、すぐ隣に置いていたキャリーバッグを引いて、歩き出す。

 最後に、あの人に、一言だけ挨拶ができたらよかったのにな。可可は思い、わずかに俯く。空港周辺の道独特の、小さな正方形のタイル張りの床。

「クゥクゥッ!」

 だから、びっくりした。

 そんなに強く名前を呼ばれるとは思っていなくて。それも今まさに望んでいた人が、都合よく現れるなんて。

 そっと、振り向く。

「…………なんデスか、すみれ」

 千砂都と一緒に宇都宮まで行ったあの日、可可たちの大切な仲間が一人、事故で亡くなった。あれ以来、そのショックで心に空いた穴を、お互いになんとか埋め合うことで生きていた。……可可は、すっかりすみれ頼りだった気がしマス。可可は、何もしてあげられて、いないのに。

「…………っ」

 すみれは肩で息をしたまま、黙って可可を見ていた。その澄んだ綺麗なエメラルド、もう一度だけ見れて嬉しいな。もう二度と見れないと、そう覚悟して卒業式も抜け出してきたのに。

「可可」

 すみれはようやく整った呼吸の分だけ近づいてくる。ここは二階の通路で、外なので辺りには人がいなくて静かだった。眼下にタクシーが二台、遠くに飛行機がおもちゃみたいにたくさん並んでいる。

「すみれ……こ、こないでっ……」

 可可は後ずさりながら、顔を背ける。触れられたら、なんだか二度と離れられなくなるような気がして、それで話半分に別れてきたのに、どうして追いかけてくるかな。

「可可、私ね……」

 すみれの声がいつになく真剣な色を帯びている。その先に言われることを聞いてしまったら、可可はもう取り返しのつかないことになると思った。

「だめデスッ!」

 今度はすみれが、肩を震わせて立ち止まった。すみれはなんの荷物も持っていなくて、ちょっと薄着だったからか、頬が少し赤らんでいた。

 空が信じたくないくらい青く澄み渡っていた。

「だめなんデス……すみれ……」

 消えてしまいそうな声で可可は言った。悲しみに満ちたその声は辺りに溶けて空気を重くしていった。

 でも、可可にはもう、すみれに何か言わせる気はなかった。言って自分の決意が揺らいでしまうのが怖かったから。その為に、出発予定日も予定時間も言わなかったのに、どうして。

「可可は、今まで散々、家族にワガママを言ってきマシタ……もう、十分楽しかったんデス……だから……だから、もう、いいんデス」

 可可は言いながら、その自分の声が震えていて、つっかえながらでしか喋れないことにはっとする。それで、顔が熱くて、自分が泣いていることに遅れて気がつく。誤魔化すように、必死にすみれに気づかれないように、顔を背けて前を向いた。もう、行かなきゃいけない時間だった。そういうことにしたかった。

「ばいばい……すみれ」

 呟いて、足を一本踏み出した。

 その瞬間だった。

 ぎゅっ、て。

 可可がバランスを崩したのと、わ、って短く声が出たのと、後ろから抱きしめられていると気がついたのはほぼ同時だった。

 世界はいきなり、鮮やかなスローモーションで流れた。見上げた空の雲の隙間に飛行機が飛んでいた。勢いよく手を離したキャリーバッグが地面に倒れて固い音を立てた。

「…………じゃないわよ」

「え?」

 後ろから抱きしめられたまま、耳もとで何かを言われる。可可は、その腕をそっとすり抜けて、振り返る。そして、息が止まった。

 その綺麗な瞳から、ぼろぼろと、涙が溢れていたから。もう、なんて綺麗な涙を流すんデスか、すみれは。

「ばいばい……じゃないわよっ!」

 すみれはほとんど叫ぶみたいに言った。辺りはすみれの声と遠い飛行機のアナウンスしか聞こえなかった。

「なんで勝手に自分で全部決めて、勝手にいなくなろうとしてんのよ……私は、あんたのことがね、ずっと……」

「だめデスっ!」

 今度は可可が叫んだ。すみれはびくっとして言葉を切らす。その先を、言わなかったのは、この時が辛くなるばかりだからなのを、二人とも理解していたはずだったのに。

「だめデスよ、すみれ……可可、もう行かなきゃいけないんデス」

 可可は言うと、横たわっていたキャリーバッグを持ち上げる。

「可可は、もう行きマス……」

 言ったら言うだけ、どんどんここに残りたくなってしまうから、可可は短くそう言った。後は、振り向いて、荷物を引いて、チケットを発券して────

 ふわ。

 一瞬、世界中の重力が消えてしまったのかと思うくらいの、浮遊感があった。また遅れて、気がつく。すみれに、抱きしめられていることに。全身全霊で、あるいは、縋りつくみたいに。

 そのまま世界の時間は止まった。すみれの身体があたたかいのに震えていることに、可可はやっと気づく。

「…………なさない」

「え…………?」

 すみれが何か言ったみたいで、可可は訊き返す。するとすみれは抱きしめる力をひときわ強めた。

「離さないわよ! さぁ離れてみなさい! 動かないったら動かないんだからっ!」

 すみれは可可の胸もとに顔を埋めて、そう言った。すみれの吐く息が透明になって登ってきたのが顔にぶつかってあたたかかった。

「バカですか、すみれは……」

 可可はもう、帰る気なんて無くしていた。でも行く宛もなかった。現実というのは、いつもどんな時も、目の前に高く立ち塞がる。

 そう可可は思ったのに、すみれは言うのだった。

「私と一緒に暮らしましょう、私、これからモデルとして働くつもりだから、可可はファッションコーディネーターになればいいわ、二人で、暮らしましょう」

「それ、は…………」

 夢のような提案だった。そんなことが実現したら、どんなにいいだろう。でも、現実がそこまで甘くないってことくらい、可可は高校生ながらにちゃんと知っていた。だから、首を縦には振れなかった。

「だめデスよ、すみ……」

 れ。までは、言えなかった。

 真下にいたはずのすみれの顔が持ち上がり、視界を埋めたと思った次の瞬間にはだって、もう、されていた。

「んっ…………」

 涙でぐしゃぐしゃの、ファーストキスだった。

 踏み込むのが怖かったのに、だから告白もしなかったのに。こんな、こんなの。

 とても長い時間唇を合わせていた。遅刻してしまいそうになるくらい。離れた時、そうしたくない、と心から思った。ようやく離れた可可は、なんとか声を絞り出す。

「ずるいデス……こんなの、帰れないじゃ、ないデスか……」

「帰さないって、言ってんのよ」

 すみれは真剣な声でそう言った。可可は、この人となら、なんとかなるかもしれない、と根拠もなく思い始めていた。

「可可」

 涙で滲む世界のすぐそこで、すみれが名前を呼んだ。少しずつピントが合ってきて、どんな顔をしているのかと思ったら────

「好きよ、あなたのことが」

 すみれははにかんで笑っていた。信じられないくらい、やさしく、すみれの頬を伝う涙を宝石のようだと可可は思った。

「ばか……ばかっ!」

「馬鹿はひどいんじゃない……んっ」

 今度は可可が言わせなかった。すみれの身体はところどころ汗ばんでいて、それをとてもとても愛おしいと思った。

 キスをしながら、そっと身体を重ねていた。長い時間、目の前に広がる広大な時間に挑む旅人のように、果てしもなくじっと、ただお互いを感じていた。

 二人の横を、飛行機がひとつ、何気なく飛び立っていった。

 そしてここで可可はずっと悩んでいたことに、決断を下した。青空は信じられないくらいくらい青く澄み渡っていた。

「好きデス……すみれ」

「うん、うんっ……どこにも、行かないで……っ」

「すみれの方こそ、浮気とかするんじゃないデスよ」

「バカねぇ、する訳ないじゃないの……」

 ぽつり、ぽつり、交わす言葉が青空に溶けて。

 可可はぼうとした頭の片隅で、消しちゃったみんなの連絡先、もう一度教えてもらわなきゃ、と思った。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 それからの日々は激動だった。

 決まっていたことはと言えば、すみれが本当に芸能プロダクションと契約していたことくらいのもので、日本にいるとは決めたけれど可可はもう家さえ引き払った後だった。

 新居というかすみれが家を借りるまでは、だからすみれの実家に居候させてもらうことになった。

 朝は大抵、卵かけご飯が出た。可可は卵の溶き方や醤油の入れる量なんかは、全部すみれの真似をした。毎晩可可は床に布団を敷いて寝たけど、本当は少し上にあるベッドに潜り込みたくて仕方がなかった。でもこの家が自分の家じゃないから、可可にはそんなことできなかった。

 新居を探すのは、思いの外すんなりいった。女の子同士で暮らすというのが駄目と言われる可能性を考慮して、別にそんなに広い家は必要なかったから、すみれが一人で住みますと言い張り、なるべく家賃の安くてちょっとだけ広い家を探した。すると本当に運良くそれは数件賃貸住宅センターを当たるだけで見つかった。

「……まぁ、このくらいなら、出世払いしちゃおうかしら」

「意味違いマセンか? それ」

 都内のマンションの上の方にたまたま、条件にしてはかなり安い部屋が空いていたので、ほとんど即決でそこに決めた。

 春。

 新居の窓を開けるとやわらかい風が入ってきて、鼻先をくすぐった。

「わぁ、ここが、可可たちの新しいおうち……!」

「もう、はしゃがないの……すぐにもっと綺麗になるわよ」

 とたとたとまだ空っぽな部屋を可可は子犬のように走り回った。すみれは呆れたように後から入ってくる。部屋はリビングとダイニングが一体になっていて、寝室が別にある、一人向けとはとても思えない贅沢な作りだった。もちろんトイレと風呂も別だ。

「すみれ、すみれ」

「なに、可可……っ」

 可可は走り回るのが楽しくなって、そのままの勢いですみれに抱きついた。すみれの口から次の言葉が出る前に。

「ありがとう、すみれ」

 可可は、心から穏やかに微笑んでそう言った。言われたすみれは目をまんまるにさせて可可を見ていた。

「いいったら、いいのよ」

 すみれは言うと、可可の両頬をつかまえる。

 あ。

 気がついた時にはもう、されていた。

 リビングの開けた窓から吹き抜ける風、がらんどうみたいな部屋の隅、互いに感じる唇の熱。

 ゆっくり触れるだけのキスは、何もかもを溶かしてしまいそうだった。

 薄く桜がかるような意識の中、可可は、ただこの人とずっと一緒にいたい、とひたむきに思った。

 その後近所を軽く散歩をした。原宿付近だったから、ウィンドウショッピングをするにもうってつけで、可可はすぐに自分たちの家のことが気に入った。特に、街角のショーケースの中にあるウェディングドレスに、可可は目を奪われた。それは単純な憧れもあったけれど、それだけじゃない。服飾を趣味に持つ人間として、ウェディングドレスというのは学びになる教材だった。

「可可、これ着たいの?」

 すみれが言う。

「ち、違いマスよ」

 可可が言う。

 すぐに水に流されるようにそこを立ち去る。誰からも忘れられていくような一ページだと、可可は思った。こんな日々が積み重なっていくのかな、とも。

 夏。

 すみれは芸能プロダクションから時々、あんまりぱっとしないような内容の仕事をもらってきてはそれに赴くか、そうでなければ近所のコンビニでバイトをして生活していた。

 可可もすみれと同じ場所でバイトをしていた。家が同じで、その家から一番近くて一番時給の高いバイトを探して同じ場所に落ち着くのは、当然と言えば当然だった。可可はすみれと同じ職場というのがすごく嬉しかったのだけれど、いざ仕事が始まってみるとシフトが被ることはまずなかったので、一緒に仕事をするどころか会うことさえほとんどなかった。

 可可は昼のシフトが多くて、すみれは日中は芸能の方の仕事がある日も時々だけれどあったので、夜勤が主になっていた。

 その生活スタイルがほとんど成り行きで────いや、最善を尽くした結果なのだけれど────確立されてしまうと、当然だけれど可可はすみれと会う時間が減った。でも心が離れている訳じゃなかった。むしろ二人で働いたお金で家賃を、光熱費を、Wi-Fi代を、どうしてもお金がなくてすみれの母に借りたマンションの初期費用を少しずつ、払っているとなんだか言いようもない信頼感のようなものが湧いてくるのを可可は感じた。

 一緒に暮らす家にお互いがいる気配は何にも変え難いと可可は思った。

 二人は贅沢もあまりしなかったし全部のものを半分にできたから、お金にはそんなに困らなかった。すみれが出たファッション誌のお金が、一ヶ月後の月末に振り込まれたりなんかして、その日はちょっとだけ美味しいものを食べた。

 だから、必然的に土日が大切になっていった。

 二人で過ごす時間。すみれが夜勤から帰ってきて、明け方のもうちょっと明るくなってきた頃にシャワーを浴びる音が寝室から聞こえる。可可は寝室でまどろんでいる。

 ベッドはセミダブルの、たまたま特価で売っていた一点限りのアンティークフレームのベッドだった。可可は頭の上に広がった、そのクジャクの羽のように広い木の模様に手で触れる。

「これにしまショウ」

「え」

 可可が言うと、すみれは思ってもなかったという顔をしてこちらを見た。白く明るいインテリアショップの、家具売り場の端で、安くなっているそれを見ていた。

「でも、これ、二つも置けないわよ」

 すみれが言った。可可は眉を下げて苦笑する。この人は鋭いのか鈍感なのかよく分からない、と思って。

「……一緒に寝ないの、デスか」

 可可はそっぽを向きながら言った。すみれがどんな顔をしているのかは分からなかった。

「……可可」

 呼ばれるままに、振り向いた。それはその声があんまりにやさしかったから。だからそこまで辿り着くまでは滑らかで、一瞬より短いようだった。

「んっ……」

 触れるだけのキスだった。声ひとつ漏らせなくて、離れていくまでひとつみたいだった。

「……誰かに見られてたら、スキャンダルになりマスよ」

 可可が言うと、すみれはそうね、と短く言ってから何も分かっていなさそうに笑った。

「嬉しかったの、可可が、そう思ってくれてることが」

 すみれの言葉はいつも素直すぎるくらいで、それは愚直すぎるくらいいっそ不器用で、この人の魅力だな、と可可は思っていた。喧嘩ばかりしていた、あの頃から、ううん本当は、初めて出逢った時から、ずっと。

 がちゃり。

 つめたく静かな寝室に扉を開く音が響く。遮光カーテンは朝でも部屋を夜にしてしまう。小鳥の囀りが聞こえるのがへんだった。可可は目を閉じて、寝たふりをしてじっとしていた。

「可可」

 空いていた────空けていたんデスが────隣の一人分のスペースに滑り込んでくる、お風呂上がりであたたかい体温。触れられてもいないのにその脚や手が細くしなやかなことが分かった。

「……ただいま」

 背中越しの声を、今すぐ起きて抱きしめようと可可は思った。でもせずに……ううん、できなかった。すみれのその両手で、そっと閉じ込められていたから。

 そうして、可可たちの休みはいつもその言葉から始まる。心の中で呟いて、まどろみのさ中へと落ちていく。

 おかえり、ただいま、おやすみなさい。

 すみれの吐息が首を濡らすので、可可は安心して意識を、手放した。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 秋。

 紅葉って意外と都会でもあるものだ。代々木公園にでも行けば一面の紅色を楽しむことができるし、そうしなくても街中にある木々は結構どれも真っ赤に色づいている。

 生活は滞りなく、水が流れるように変わらなく、でも確実に流れていった。

「最近、寒くなったわね」

 隣ですみれが言う。今日はたまたま二人の休日が平日だけれど被ったので、散歩に出ていた。

「そうデスね」

 可可は、でも、やりたいことがあったので、あまり落ち着かなかった。それは実はずっと前から考えていたことで、いつすみれに言うべきか、悩んでいた。

 歩道は二人並んで歩くと横を抜けれなくなってしまうので、すみれは時々後ろを見たりして、自転車なんかが来たら可可を庇うようにそっと端に寄ってくれた。

 可可は、そんな些細なやさしさが、これ以上ないくらい心の奥まで染み渡った。歩く、歩く。

「すみれ」

「ん、なによ」

 歩きながら口を開く。空は秋の高さをしている。クラクションの音がなぜか心地いいと思った。

「ワタシ、来年から服飾の専門学校に行こうと思いマス」

 可可が言うと、すみれは驚いたように立ち止まり、振り向く。

 風。風が吹いていた。二人の間を風が時間そのもののように流れていく。

「すみれがすごく有名になったら、可可と一緒に働きマセンか」

 すみれがモデルで、可可がデザイナー、デス。

 可可はそう言い加えて、じっとすみれを見つめた。すみれも可可を見ていた。うすく開いた唇が紅葉みたいかもしれなかった。

「可可」

 名前を呼ばれたのと、ふわって制汗剤ともつかない涼しい匂いがしたのと、抱きしめられたのは、どれから起きたかよく、分からなかった。

「なんで、そんな、嬉しいこと言うのよっ……」

 すみれの声は泣いていた。二人とも手ぶらで、だからお互いがお互いを抱くには十分だった。寒い街の片隅。

「私ね、可可の作る服も、それで表現したいことも、大好きなのよ」

 昔から、ずっと。

 そう言って、すみれは可可を抱きしめる力を少し強めた。すみれの方が背が高いから、可可はすみれの肩に顔を埋めるような格好になった。

「すみれ……あの」

「うん、なに」

 空高いところに月が薄く、のぼっていた。

「私、すみれの専属ファッションコーディネーターになりたいデス……ラブライブに挑んだ時みたいに、今度は、二人で」

 可可の口から出る言葉は、全て言葉以上の熱を孕んでいて、二人の間のつめたい空気を満たしていった。

 抱き合っていた手がどちらともなく、するするとほどかれてそのうち見つめ合っていた。道の脇にいて、そうしていたから道ゆく人は誰もが二人をちらりと見た。

「ねぇ、そんなに幸せでいいの、私」

 すみれの、その声が濡れていた。言いようもなく、とめどなく溢れるものを堪えるように。

「はい、だって、すみれがいなかったら、いま可可はここにはいませんから」

 可可は、やわらかく、語りかけるみたいに喋った。自分のその声も震えていることには、言ってから気がついた。

「じゃあ、あのマンションが、今日から私たちの個人プロダクションね」

「…………っ⁉︎」

「私、お金貯めるわ。可可と二人で会社ができるくらい、大きくなってやるから」

 ね。

 秋のそんなに広くない、歩道の片隅だった。

 可可は頷こうとして、でもできなかった。

 んっ。

 それはキスというより、ただひたすらにあたたかくてやさしい何かだった。

 風以外全部、ひどくぬるくてとくとくいってる気がした。

 可可はゆっくり、目を閉じた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 冬。

 可可は来年度から服飾の専門学校に行くために勉強をしていた。通える距離に大学自体はあったものの、入学金は高く、とても払える額ではなかった。だから奨学金について調べまくった結果、まだ通る見込みがありそうなものに応募して、後はひたすら祈りながら勉強をしていた。同時に、すみれと芸能活動をするためには何をするべきかも。

 すみれは自分の所属するプロダクションで徐々に実力をつけていて、仕事も少しずつだが増えてきていた。最近は特に読者モデルの仕事で人気を博していた。

 二人はそれぞれの理由でコンビニバイトから手を引いた。店長から二人とも気に入られていたので週二でもいいから入ってくれないかと言われたが、二人の決心は固かった。

「今年はなんか、色々あったわね」

 向かい合わせに座った小さなダイニングテーブルに肘を置いて、すみれが言った。

「そうデス、ね」

 下を見ると、夕飯を食べ終わった後のコーヒーに自分の顔が映っていた。

「上手くいくわよ、何もかも」

 言われてはっとして顔を上げる。頬に手を置いてにまっと笑うその言葉には、へんな説得力があって可可は訳もなく安心してしまいそうになる。まだ専門学校に行けてもないのに。まだそんな有名モデルでもないのに。

 苦しい日々の中で、それでもだんだんと培われていく感情が、何と呼ばれているのかを、可可は少しずつ知ってきた。

 雪の一度も降らない、寒いだけの冬だった。

 可可は胸があたたかくて仕方なかった。

 口の中でそっと、その言葉を繰り返していた。

 上手くいくわよ、何もかも。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 それからも物事はすごいスピードで、かつ二度と戻れない道を転がり落ちていった。

 可可はすみれにただただしがみついていたような気がした。あの日、空港で引き止められてしまってから、心の在り方はただ、ここだった。

 春が過ぎ、夏が過ぎた。

 可可とすみれは、いつか作る自分たちのプロダクションの、その本社であるマンションの七階の一室を『Tiny Galaxy』と呼ぶことにした。可可もすみれも、それを大いに気に入った。

 いいわね、私たちらしくて。

 ふふ、デショウ。

 うん。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 そして季節はどんどん過ぎていった。すみれは忖度も謙遜も使いこなして、ますます仕事を獲得していった。今や女性向けファッション誌で専用のコーナーを作られるくらいには大成していた。

 可可は専門学校に通いながら、家でもできる限りの勉強をした。個人経営事業主のサイトを見て回ったり、確定申告なんかのお金に関することも勉強した。可可は大学を卒業したら本気で''小さな銀河''を建てるつもりでいた。

 そんなある日。

 しゅぽ、という間抜けな音が、置き去りにしていたリビングのテーブルの上で鳴った。

「ん……っしょ」

 その時、ソファで濡れた髪をタオルで押さえていた可可は、身体を折り曲げてそれを手に取る。湯上がりでは反応しない指紋認証を早々に諦めて四桁のパスワードを入れる。

 開いたメッセージを見て、可可は一瞬固まる。

 ふぅ。

 小さくため息をついて、そのグループ名を見つめて、それからスマホの画面を落とす。

(もう、そんなに季節は過ぎたんデスね)

『Liella!同窓会(9)』

 それはもう今週の土曜日にあるらしかった。二日後か、と可可はスマホのカレンダーを見て思う。

 どうしようもなく一方通行の時間の流れに、抗いきれない無情を感じながら、可可は足もとのラグマットに目を落とす。この家はウォールナットの家具で揃えていたから、それもあたたかいこげ茶色をしていた。

「可可ー、あんた女の子なんだからドライヤーしなさいっていつも言ってるでしょー」

 くぐもった声がして、はっとするとすみれがシャワーから上がったみたいだった。

「い、今するデスよ……」

 すみれの声に誘われるがままに、脱衣所の方に行く。扉の茶色と壁の白色。

 一番奥のそこに入ると、ふわっと甘い匂いが鼻から入ってお腹の底まで染み込んできた。ボディソープやシャンプーだけでは説明のつかない、すみれの甘ったるい匂い。

「ほら、早くしなさい、髪痛めるわよ」

 すみれは可可とお揃いのネグリジェを着ていて、湯上がりだから頬が(ほて)っていた。可可は何年経っても見慣れないすみれのその姿から必死に目を引き剥がして、ドライヤーを洗面台の下から取り出して、洗面台に備え付けられたコンセントに差した。

「ねぇ、可可」

「……ん? なんデスか」

 可可はもう握りしめていたドライヤーのスイッチをオンにしてしまう。

「────」

 何も聞こえなかった。

「今言っても分かんないデスよ」

「──────」

 すみれの口の動きだけ、可可は追いかけたりしていた。

「すみれ、待ってくだサイ」

「────────」

 カチッ

 音が最後にして、脱衣所は最初の頃の静けさを取り戻す。

「……すみれの髪も、乾かしてあげマス」

「えっ」

 そこに投げかけた可可の言葉に、すみれは驚いたようだった。毎日同じベッドで寝ているくせに、ちょっと触れるだけで毎回新鮮な反応をするすみれが可可には愛しかった。

「ほーら、後ろ向くデス」

 二人もいると狭い脱衣所で可可は言うと、逃げ場のないすみれをひっくり返した。

「ねぇ、可可、あのね────」

 カチッ

「────────」

(そんな真剣な声で話すのは、今はだめデスよ)

 可可はすみれの長くて美しい、糸のような金髪を乾かしながら思う。

 すみれはいつもふいに可可にとって堪らなくなるようなことを言って、身も心もとろとろに溶かしてしまうのだった。特にこういう日常の些細な瞬間に。

 ずっとこの髪に触れていたい、と思った。可可は自分の髪を乾かすのは好きじゃないけど、すみれの髪を乾かしてあげるのは大好きだった。なんだか本当に心からの愛情表現みたいな気がして。

 カチッ

 長い時間の後、可可の丁寧な手櫛によって、すみれの髪はほどよくふんわりと熱を帯びていた。

「……いいデスよ」

 可可がそう言うと、すみれはゆっくり振り返った。いつまで経っても、間近ですみれを見ると胸がきゅっ、と締め付けられるの、どうにかならないデスかね、と可可は密かに思う。

「行きましょ、今日はせっかくのお休みなんですもの……まだまだ寝かさないわよ」

「ぷっ……すみれ、それ言いたかっただけじゃナイですか」

「ふふ、いいじゃない、別に」

 ドライヤーを元の場所にしまう。

「……今日はせっかくの、すみれのお誕生日デスから……ね」

 見上げたすみれがほころんで、その瞳が、やさしく細められた。

 それでなんだか奇跡みたいな気持ちになって、お互い見つめ合っていた。

 ちっぽけな宇宙の隅っこの、あたたかいだけの脱衣所で。

 

 リビングに戻ると、すみれは台所から冷やしていたそれらをテーブルの上に並べていった。

「…………結構買いマシタね」

 可可が感嘆ともなんともつかない声を漏らした。そのテーブルの上には、近くのコンビニである限りの、ぱっと見美味しそうだと二人で思った多種多様なお酒が並べられていた。

「今日から解禁なのよ、なんとか……ヌヴォーとかも、飲まなきゃ損じゃない?」

「ボジョレーヌーボー、のことデスか……? なんかすみれのイントネーション違わないデスか」

「うっ……⁉︎ い、いいったらいいのよ、そんなよく分からないもののことは……っ」

 あ、逃げた。

 これはほんとに知らないやつデス、と可可は思って、話題を逸らしてあげようとする。いつまで経っても変なところ知ったかぶりする癖も変わらない。

 可可は適当にテーブルの上の缶を一つ手に取って、すみれに差し出した。

「すみれはこれでも飲んでやがれ、デス」

「な、なんですって〜」

 言われたすみれは唇を尖らせていた。

 ほら、こうすればもう可可たちは違うこと考えてるデショウ?

「いいから、ほら」

 すみれの手にそれを掴ませる。ほろよいのグレフルソルティ味。

「すみれの初めてのお酒デスよ……ふふ」

 可可はそう言って、自分ももう一つ適当に手を取る。すみれより大人振りたくて、でもなんとなくお揃いがよくて、手に取った。スミノフアイスのグレープ。

 誕生日だから仕事も学校も休んだ。

 朝はとびきり遅くまで寝た。

 昼はいつも行かない交差点まで散歩をした。

 帰ってきてからケーキも食べた。

 とびきり美味しい手料理を二人で作ったし、滅多につけないテレビで、なんだか安っぽい作りのドラマも見た。

 今日ですみれは二十歳で、やっと可可に追いついた! と息巻いた結果がこのチョイスのまちまちなお酒の山だった。

「うん……ねぇ、可可」

 すみれが急に、真面目な声を出した。あ、さっきみたい。その綺麗な瞳から、逃れることができない。

「大好きよ、今までも……これからも」

 部屋の隅のエアコンの風の音が聞こえていた。

「私、あなたといられて嬉しいわ……ありがと」

 すみれが言い切って、そのまま可可は、呆然としてしまうと思ったのに、でもすみれに合わせて、手に持ったお酒を、開けていた。

「カンパイ」

 すみれが言うので、可可も続く。すみれは缶で、可可は瓶だったので、さっき見たドラマみたいにカンッ、と音は立てなかった。触れるだけ。

 そして二人だけの秘密の女子会が始まった。

 ……そのはずが、可可はそれを数口飲んだだけで、もう言動が怪しかった。

「ふぇ、あ、あれ……すみれが二人いて……アレ?」

 それに気づいたすみれに、可可はお酒をひったくられる。

「ちょ、あんた酔うの早過ぎじゃない……⁉︎ なんかワタシはお酒強いデスみたいな話してたじゃない……⁉︎」

「ふぇ……なんデスかぁ、すみれぇ……」

 可可はほとんど飲んだことがなかったけど、すみれの手前強がって飲めると豪語していた、そのお酒という未知の体験に完全に呑まれていた。目の前がふらふらして、思考がふわふわして、変な感じだった。

「あーもー……こりゃ外では飲ませられないわね……いいわね可可、あんた危ないから外で飲んじゃだめ……んっ」

 すみれの声は途中で途切れる。

 可可が、すみれが喋るのが煩わしくて、その唇を自分の唇でぴったり塞いでいたから。

 いつもはそこ止まりだった。でも、可可はもう熱に浮かされた頭で何も考えられなかった。

「────っ⁉︎」

 すみれの肩が震えたのが分かった。可可は、そのまま、ゆっくりと舌をすみれの中に入れていった。

「んっ……あっ…………」

 可可は自分の口から聞いたことのない甘い声が漏れるのを感じていた。すみれを思いながら、一人でしていた高校生の頃だって、こんな声は出なかったのに。

「ぷはっ……も、くぅ、くぅっ……」

 ようやく呼吸を取り戻したすみれは、まだ手に持っていたほろよいをテーブルに置く。そんなのこぼしちゃえばいいのに、と可可は思った。

「すみ、れ…………」

 可可はぼうとした頭ですみれの熱を、柔さを、水気を思い出していた。多分、今日がそうなるべくしてなる日なのだと可可は思った。

「ねぇ……」

 すみれはもう抵抗しなかった。ただ可可を待っているみたいに、真剣な顔をしていた。

 そして可可はソファの隅にすみれを追い詰めた。その金糸をかき分けて隠された耳朶(みみたぶ)をあらわにする。そこにそっと、顔を近づけて、言った。

「…………シよ」

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 昨日はなんだか記憶がないまま寝てしまったみたいだった。

 朝。遮光カーテンは全てを遮るけど、小鳥の囀りだけは遮れない。窓辺に留まる小鳥たちは、近寄ると飛んでいってしまうので、よく見たことがない。

 それでまどろんでいた意識がだんだんどっちが現実か分かってきた。こっち。

 ようやく目を覚ますと、真上に白い天井が見えた。まだ重たい上体を起こしてみると、近くには誰もいなかった。

 一人には広くてつめたいベッドシーツには当たり前だけど一人分の体温しか残っていない。

 まだ寝ていてもよかったけれど、起き出す。何も着ていないままで、ベッドを抜け出すと空気は肌につめたかった。

 ダイニングの隅の冷蔵庫まで歩いていって、牛乳を取り出して、キッチンに出されたままになっていた昨日のコップに注ぐ。それを飲む。

 はぁ。

 可可は、ため息なのかも分からない盛大な吐息を吐いて、その場でじっとしていた。

「もう、あの、グソクムシ……」

 可可は自分で久しぶりにその名前を呼んだな、と思って、今度は苦笑する。

 昨日、すみれは本当に大切そうにやさしく抱いてくれた。それなのに、翌日には可可が起きる前にいなくなっている。

 はぁ。

 今度は本気でため息を吐く。

 それからパンを一枚焼いてりんごジャムを塗って食べた。これ、かのんが好きだって言いそうだな、と思って、可可はふっと笑う。

 いくら触れ合っても足りなかった。どれだけ身体を重ねても、どれだけ言葉を交わしても、朝には全て消えてしまっているような感じだった。

 食べたものを片付けて、ようやく服を着て、可可はリビングからベランダの窓の外を見渡した。青い空ばかり見える。ここ数年で新宿以外の高い建物はほとんど無くなってしまった。二、三階程度の建物が連なる地域が広く続いていて、ここはまだ、大丈夫だった。

「…………可可の誕生日の翌日くらい、家族サービスしなサイよ」

 呟いた声は、もう七年間も住んでいるマンションの七階の一室に響いて消える。玄関の扉には『Tiny Galaxy』とポップに書かれた表札が飾られていた。

 少しずつ言いたい言葉と言えない言葉が増えていった。

 今日は可可の二十五歳の誕生日。

 その翌日の話だった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 夜になって、可可は星を見ていた。

 空の向こうに広がる銀河を見たくて、思えば自分は都会育ちで星空と呼べるような空をあまり見たことがないことに思い至り、だからこんなに憧れるのかもな、と思った。

 ────家族に連絡、しなくちゃな。

 可可は思って、でも何を言えばいいのかが分からなくて、自分の心がこの空みたいに真っ黒で空っぽに思えて、一瞬、息が止まる。

 ネグリジェのポケットに入れてみたその小さな約束の証は、可可の十数年間の想いそのもののつもりだったけど、いつまで経っても、その人は帰ってきてくれなかった。

 いつからだっただろう。

 可可は息を細く吐いて、考える。

 一体いつから、こんな気持ちになってしまったんだろう。

 細く吐いた息は白い線になって煙のように消えていった。悩みもこんなふうに簡単に消えてくれればいいのに、と可可は思った。

 年々、段々と、仕事は忙しくなっていった。最初は、一緒に仕事をしていた。ファッション販売能力検定の一級も取った。ちゃんと役に立つ能力を身につけたはずなのに、しかしいざ蓋を開けてみるとそんなものはあまり関係がなく、結局は本人がかわいいかどうかが評価されるだけの世界だった。

 すみれは、それを申し訳なさそうにしていて、なるべくタッグでやらせてもらえる仕事を選んでくれているようだった。

 最初は可可にはそれが嬉しかったけど、段々と負担になっていないかが不安になってきた。今やすみれは国民的モデルを飛び越えて、バラエティの世界でも、女優としても第一線を張る、今をときめくスーパースターだった。

 だから、仕方なかった。すみれの仕事を、いつしか玄関で見送るようになっていった。いつの間にか自分は家事ばかりしていて、家計の管理こそすれ、自分が働いた額なんてそのうちの微々たるものなのだった。

 だから、どうにもならなかった。

 可可はため息を吐く。

 あなたみたいな瞳になれたら、あなたみたいな髪になれたら、あなたみたいな口になれたら、一緒に芸能のお仕事とか、できたデショウか。

 可可はそう思ったけれど、でも、それは違うことも知っていて、だからせめて、あなたと同じ言葉が母国語だったら、可可は、もっとあなたに気持ちが伝えられたはずなのに、と思って、またベランダの手すりに頬をくっつけた。

 最近は、それだけじゃなかった。

 すみれは、家にいるときも上の空で、よく観察していればスマホばかり気にしているようだった。

 音は鳴らなかった。ただ上に向いた画面が明るくなって、メッセージが来たことだけを表示するメッセージが表示されていた。

 別に見られたくないことがあるのは、分かっているはずなのに、可可はもやっとしてしまった。ベランダに出て行って扉を閉めて、何やら話し込んでいる様子のすみれ。

 だから、こっそり聞いてやろうと思った。すみれは何年経ってもそういうプライバシーとかを大切にする人だったから、可可は大胆な作戦に出た。

 ある日、ソファの下に隠れてみたのだ。

 ソファは横に長いし、下に空間があって、そこは都合よくレースのカーテンを引いたように隠されていた。しかもそこに隠れれば部屋の全体の音を聞くことができた。耳をそば立てれば寝室も聞こえたかもしれない。

「ただいまぁ」

 すみれが帰ってきて、可可の名前を呼んでいる。でもまだ我慢。ここからじっとして、すみれの電話相手を特定してやるんだから。

「あれ、いないのー、可可ー?」

 その時だった。コロコロいうような着信音が聞こえて、すみれが止まったのが分かった。すぐに声が聞こえてくる。

「もしもし……? あぁ、驚いたわ、昼に電話してくることもあるのね」

 その言い方は、可可にしてくれる時のやさしいそれとも違うようだった。可可は知らないうちに奥歯を噛んでいた。

「……えぇ、えぇ、ありがとう。次会う時までには決めるから、その時でいいかしら」

 次会う、という部分が可可の耳の奥に残って離れてくれなかった。次会う、次会う、次会う……どこで? 誰と?

「合わなかったら、その時考えればいいわよ。そんなに問題じゃないわ」

 なんだか親しげな様子の会話は続いていった。可可は身体を綺麗にソファの下に収めたまま、じっとそれを聞いていた。埃臭かった。

「えぇ、ありがとね……うん、ばいばい」

 すみれはそう言うと、洗面台の方へと歩いていったようだった。可可は急いでソファから抜け出して、なるべく音を立てないようにしながら玄関の扉を大袈裟に開いて、閉じた。いつも通り、

「ただいまー」

 大きい声で、言った。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 日に日にすみれは帰ってくる時間が遅くなった。忙しくなってるのは分かっていた。可可は、縁のなかったテレビを見るようになった。すみれの出る番組は全部録画もしてリアルタイムで観た。

 いつの間にか一緒にいる時間より、画面越しに観る時間の方が長くなっていた。それを仕方ないんだと割り切ろうとする自分と、そんなの嫌だと叫びたくなる自分が毎日、せめぎ合っていた。

 もう限界を迎えそうだった。

 すみれとは、多分恋人なのだとは、思う。

 でも────

 可可は思う。

 でも、私はこのままじゃ、嫌だ、と。

 友達より、恋人より、もっとその先の関係性。確かに、告白もしたし、一緒に住んでるし、そういうこともする。これから先もずっと一緒にいるだろう。だからこそ。

 だからこそ、すみれとは、そうなりたかった。

 可可は、今日夜十時に帰ってくると聞いていたすみれの帰りを待ちながら、そう思い出していた。今まであったことを、とめどなく思い出していた。両手で掬い集めていた甘くて苦いチョコレートみたいな記憶が、夜に溶けて落ちていった。向こうの新宿の方にばかり光が集まっていて、可可はやるせない気持ちになる。

「ただいまー」

 その時、背中のガラス越しにくぐもった声が、聞こえた。可可はびくっとする。

「遅くなったわねー、可可、起きてるー?」

 可可は覚悟を決めて、ベランダから抜け出す。リビングに戻ると、誰かのいてくれるやさしさが、やさしすぎるような気がした。

 すみれは帰ったばかりではないみたいで、荷物なんかは寝室に置いてきたみたいだった。

 おかえりなさい。

 その一言が出てこなかった。ううん、なんの言葉も出てこななかった。すみれは歩いて、距離を詰めてきた。

「…………可可?」

 すみれがこちらを覗き込んでくるのが分かった。可可は少し俯いたままで、何も言えなかった。

 少し、暗闇に静かすぎるような時間が流れた。

「…………すみれは」

「え?」

 見上げたすみれの瞳のエメラルドが暗闇の中浮いていた。

「すみれは、可可のことが、嫌いになったのデスか……?」

 ぽつり、そう言っていた。段々離れていっている気がして怖かった。それは可可たちは、これだけ一緒にいても、最後の一歩を踏み出せないでいたからで。

 また少し暗闇が止まった。息を吐くのも重いような思い出まみれの部屋の中。可可はなぜか、ずっと昔、すみれと一緒にコンビニバイトをしていた頃のことを思い出していた。

「くぅくぅ」

 呼ばれて、はっとする。その顔はよく見えなかったけど、その声だけで、どんな顔をしているのかが分かった。

「こっち来て」

 すみれはゆっくりと背を向けて、二つしかない部屋のもう片方に歩いていく。可可もその後を追った。

 寝室は、当然だけど真っ暗だった。遮光カーテンは夜でさえ怖いくらい真っ暗にしてしまう。

「なんデスか……すみれ」

「見て」

 すみれが可可の後ろで言うのと、部屋の電気がつく音がしたのと、そこにあるものが照らし出されたのは、ほぼ同時だった。

「え…………?」

 白い、ふわふわの、レースに覆われた、フリルのついた、豪奢で上品な、それ。

 それが、白い灯りに照らされて、きらきらひかっていた。

「すみれ、これ……」

 振り向いた可可が言葉を切らす。だって、そこにいたすみれの顔が、とんでもなくやさしかったから。

「衣装作りは……ホントは、可可の仕事なんだけどね」

 腰に手を当てて、息を吐くすみれ。

「え……なんデス……」

 困惑する可可に、すみれは唇の端を吊り上げて、笑った。

「いいから、とっとと着なさい」

 それからすみれは、一人では着れないそれを着るのを、手伝ってくれた。寝室の隅にあるドレッサーの前で、ゆっくり、可可は着ているものを脱いで、下着姿になって、それからすみれにされるがままに、それを着ていった。

 しゅらしゅらと、布と布が擦れる柔らかくてくすぐったい音がしていた。永い、時間。

「はい、いいわよ」

 すみれがそう言って、可可は魔法にかかった。ドレッサーに映り込んだ、お姫様みたいな、自分のその姿。なんだか全部が嘘みたい(フィクション)で、でも本当(ノンフィクション)だった。

「よく似合うわ、可可」

「どうシテ……?」

 座っていた可可は正面の自分達を見つめる。すぐ肩の上にいたすみれ。その目と目が、鏡越しに合う。

「ずっと昔、まだここに引っ越してきたばかりの頃、街角で、憧れみたいに見てたじゃない……だから」

 言いながら、すみれは可可の手を取って、立ち上がらせて、そのまま自分の前に踊りにでも誘うみたいに連れ出す。

 やさしすぎる、その全て。

 すみれの瞳、髪、口、その言葉。

「可可、私と結婚してください」

 胸がぎゅっとしたのか、きゅってしたのかも、分からなかった。可可はただ溢れ出す想いを堰き止めるのに必死で、なんとか呼吸を整えていた。

「…………すみれ」

 可可が言うと、すみれはぎょっとしたように顔をわずかに引いた。可可の返事が肯定でも否定でもないことに面食らったのだろう。

 でも、可可の返事は最初から決まっていた。それを言うのに、助走が必要なだけだった。この長い長い十年という助走。

「…………よろこんで」

 ようやく可可は、そう言った。見上げたすみれは、その唇を薄く開いていた。そしていきなり、自分の腕で目もとを覆った。

「…………あぁ、よかったぁ……」

 その声は、聞き間違えることもなく涙に濡れていた。心から嬉しいのが伝わってくるような声で、可可は、最近のが全部すれ違いだったと知って胸があたたかくなった。もう、躊躇う理由はどこにもなかった。

「すみれ」

 可可は言うと、すみれの手を取った。すみれの手。何度触れたかも分からないその細くしなやかな指さき。

「すみれは笑顔が似合いマス……だから」

 そして可可はずっと隠していたそれを、はめる。

 可可が手を離したすみれの左の薬指。銀色のリングが銀河より尊く光っていた。

「泣かないでくだサイ……ね」

 可可は言いながら、自分の視界を滲んでいることに気づく。あれ、おかしいな。あれ。

「あんたも、泣いてるじゃない……っ」

「し、知りマセン……すみれの勘違い……んっ」

 最後まで言う前に、言葉は途切れた。

 背中と頭じゅうを抱き留められるように、そっと腕を回されていた。そして、すみれとはもう、呼吸する隙間もなかった。

(あ…………)

 可可は、初めてキスした時のことを、思い出していた。あの時くらい、涙の味がして、これも一生忘れないだろうと思った。

 そのまま、いつまでもそうしていた。愛おしさがそれ以上の感情になって身体を焦がしてしまうことを、なんと言えばいいのか可可には分からなかった。

 でも今はどうでもよかった。

 言葉はいらなくて、だから人は傍にいたりそれ故にすれ違ったりすることを、何十年も生きてようやく少しだけ知った気がした。

 日々の苦悩と悲しみと、喜びの隙間。

 果てしもないほどキスだけしていたかった。

 果てしもないほど、果てしも、ないほど。

「あ」

「うん?」

 ふと、思い出して、可可は口を開く。そういえばまだ今日は、言えてなかったと思って。

「おかえりなさい、すみれ」

 すみれは一瞬驚いたような顔をして、でもすぐにくしゃりとやさしく笑った。

「うん、ただいま、可可」

 夜。唇。ドレス。特価で売っていたアンティークフレームのベッドの傍で、ずっとずっと。

 疲れてシャワーを浴びたら、一緒に寝よう。今日はいつもよりひっついて寝よう。ただ近くにいるのを確かめ合って子供みたいに抱き合いたい。

「ねぇ、すみれ」

「うん」

 何もかも閉じ込めた寝室に声が響く。

「これからも、二人で生きていこうね」

「…………うん、当たり前、でしょ」

 それから取り留めもない世界の話とかいつまでもしていて、可可は意識がぼやけてきた。

 あたたかさに包まれて、可可はゆっくり意識を手放した。

 すみれ、ねぇ、すみれ。

 なによ、もう。

 夜だった。真っ黒な、星なんて見えない暗い夜。

 可可はここにある私たちの小さな銀河を抱えて生きていこうと思った。

 その日最後に流れ星を聞いた。それは忘れられないくらい、ごくありふれた、奇跡だった。

 

 

 

 ────おやすみなさい

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「ほら、すみれ、起きるデス、朝ごはんデスよ」

「え〜休みなのよ、もうちょっと寝るわ……」

「もうお昼デス! ほらせっかく用意したご飯なんだから食べてくだサイ」

「んん……ねむ……」

「……本当に家だとグソクムシみたいなんデスから」

 今朝はまぶしい白い光が窓からいっぱいに入ってきて、美しい気配だった。すみれの白い手脚がそれに照らされて綺麗だった。

 ようやく起きてきたすみれと遅めの朝ごはんを食べた。卵かけご飯を準備してあげるのが、結局どんな凝ったものを作るより喜ぶので、可可は張り合いのなさを感じていたが、喜んでくれるならなんでもよかった。

「あ、そういえば」

「なによ」

 ふと可可が思い出したように口を開く。

「最近誰かと楽しそうに電話してマシタけど、相手は誰デスか?」

 言われたすみれはきょとんとした。あ、頬にご飯粒ついてる。取ってあげたいな、と可可は思った。

「なんで可可がそんなこと知ってるのよ?」

「そ、それは……」

 すみれの言うことはもっともで、実は隠れて聞いてました、なんて可可には言えるはずもなかった。言い淀んでいると、すみれはそんな可可を見てふっと笑った。

「恋よ」

「え」

 可可は思いもよらない懐かしい名前に、思わず声が漏れる。

「ほら、ウェディングドレス選びとか、プロポーズの相談とか、色々ね、相手になってもらってたのよ」

「…………」

 可可はぽかんとしてそれを聞いていた。

「……でもなんで可可が知ってるの? 私、隠してたつもりだったんだけど……」

「え、えと、それは……」

 その時だった。

 テーブルにうつ伏せで置いていたすみれのスマホが、突然カラコロ鳴り始めた。会話はそこで一旦途切れて、すみれはそれを手に取ると画面を見てふっとほころんだ。

「噂をすれば恋だわ、せっかくだし可可も喋る?」

 すみれが楽しそうに言うので、可可もぱあっと笑顔になって頷いた。すみれが画面を何度かタップして、テーブルの真ん中にスマホを仰向けに置く。

『……もしもし、すみれさん』

「レンレン〜! お久しぶりデス〜! 元気でしたか?」

 可可が喋ると、電話の向こうでくっと息の詰まるような沈黙があった。可可たちは首を傾げる。

『可可さんも一緒なら、話が早いです』

「話? 話って、何よ」

 今度はすみれが言う。恋は再会を喜ぶような素振りも見せずに、また少し沈黙から、決意したように言う。

『……驚かないで、聞いてくださいね』

 その時はまだ、可可たちは何も知らなかった。平穏な遅い朝。白い光と卵かけご飯。人生は自分たちの想像を遥かに上回ることばかりで、まだ物語は始まってすらいないことに、そうして可可たちは、愕然とすることになる。

 

『四季さんが、タイムマシンでメイさんを救う計画を立てています。協力して、頂けないでしょうか』



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三部 - 美しき夏へ

 いつから、こんなにマニーに固執するようになったんだっけ。

 遠く広がる青空がまぶしいので手をかざしながら、夏美は思った。ベンチに預けた背中が照らされた日光の分だけあたたかかった。

 子供の頃、道端に落ちている百円がきらきらして仕方なかった時期が、あった。公園に遊びに行っても、両親に手を引かれて帰る時も、気がつけばアスファルトに光るものを探していたような気がする。

 それはきっと家が貧乏だったからだけじゃない。その頃から夏美は、才能も夢も何も持っていなくて、せめてそれを拾うことで、未来へと何か繋がるような気がしたからだ。

 どうしてなんだろう。

 あの頃の自分は本気でそう思っていた。

 だから、マニーが欲しかった。歳をとってから楽になると言ったのも、半分くらいは本当だった。

 はぁ。

 空気の抜けた風船みたいに肩を落とした夏美は、ため息を吐くと、今度は反対に思い切り空を見上げた。まぶしいくらい青い空は澄み渡っていて、夏美は少し気分が悪かった。

 大学用のそんなに大きくないリュックは今傍らに置かれており、夏美の身体と合わせてベンチを綺麗に占領していた。でも、こんな大学のキャンバス内にある、無駄にたくさん設置されたベンチの一つを独占したくらいで、怒る人はいなかった。そもそも大学という場所のベンチという中途半端な場所を利用している人を、夏美はあまり見たことがなかった。風が吹いて、束の間の涼しさを味わう。

 夏だった。

 直射日光はアスファルトを溶かすとかいう信じ難いようなニュースでさえ、昨今はまことしやかに囁かれていた。

 地球温暖化が世界を滅ぼすだのなんだのは十数年前から言われているが、ここ数年は、それを信じてしまいそうになるくらいには暑いな、と夏美は思っていた。風ばかり涼しくて気持ちが良くて、こうしていると溶けてしまいそうだった。このベンチは隠してくれない向こうの木漏れ日が、風のスピードで揺れる。

「はぁ……」

 今度ははっきり声に出して言う。時間というものは滑らかで、でも決して過去には戻らない。ジェンガの終わり際みたいに、ただただ高く積み重なった記憶のその頂上に、片足で立っているような、そんな不安定な気分だった。

 夏美はいくつもの木漏れ日がアスファルトに散らばるのを見ていた。

 あの日から────

 夏美は思う。

 あの日から、私たちは過去に囚われたままに、なっていますの。

 その日も今日みたいに蒸せ返るような暑い日だった。忘れることなんてできない、深い悲しみの記憶。

 ……悲しみ。

 その記憶を一言で呼んでしまうには、それはあまりにも深くて痛ましかった。でも、ならなんと名前をつけるべきなのかは、夏美には未だに分からなかった。

 夏美は目を閉じる。

 こうして熱と風と涼しさだけ感じていると、いつだってあの日を鮮明に思い出せる。まるで今、目の前で起こったことのように。

 何気ない日々に突然起きた、全てを変えてしまったあの夏の日を────

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「はい、じゃあ今日の練習はここまでね! お疲れ様っ!」

 ぱんっと鳴った手のひらのその音が、雲ひとつない夏空に吸い込まれて消えていくので、気が抜けて、へたり込んでしまった。

「つ、疲れた、ですの……」

 夏美が息を切らしながら言うと、隣で続け様に二人が地面に膝をついた。

「き、きな子もっす……」

「私もだ……また元気にしてるの四季だけかよ」

 うぅ、だの、あー、だの言っているきな子とメイとなんとなく近寄りながら、夏美たちは健康的な陽の光を逃げ場なく浴びていた。

「…………」

 四季が黙って見下ろしているのが、夏美には分かった。四季はもちろんだけれどメイを見つめていた。でも夏美には、今日の四季のその瞳はなぜか、いつものあたたかみがない気がした。

 夏美はなんとなく気になって四季を見ていた。すると四季は目を逸らして向こうに歩いていって、日陰の自分の荷物から飲み物を出して飲んでいた。いつも通りの四季だった。今のはなんだったんだろう、と夏美は思う。

「うぅ……今日もハードだったっすね……」

 後ろできな子が言った。

「夏休み前だからかな……いつもより千砂都先輩、気合い入ってたな……」

 その横でメイも言った。なんとなく二人の声から、上を向いているんだろうな、と夏美は思った。上は、怖いくらいの青空だった。

 そのまま夏美たちはその場で呼吸を整えていた。視界の隅ですみれが、その後を追ってかのんが、屋上の扉をくぐるのが見えた。風で声が流れてしまうので、誰が言う言葉も遠くまでは聞こえなかった。

「…………もう行こう」

 ふと気がつくと、四季が夏美たちのところまで来ていた。落ちてくる声はとても淡々としていた。

「あぁ……なぁ、行こうぜ」

 メイが立ち上がりながら言って、夏美たちを見た。四季とメイが夏空を背景に並んでいるとすごく映えるな、と夏美はぼんやり思った。

「はいっす! はぁ……なんかきな子、お腹空いちゃったっす」

 きな子がぴょん、と立ち上がって言った。夏美もゆっくり立ち上がる。まだ慣れない練習量の多さに腰が悲鳴を上げるのが分かった。

 誰ともなくみんなが歩き出すので、夏美もその賑やかさに包まれて続く。

「甘いものが食べたいっす〜夏美ちゃんいいとこ知ってないんすか〜……」

 隣に並んだきな子が気怠げに言うので、夏美はため息を吐く。きな子は自分が心を許した相手に対してはとことん懐くタイプみたいで、夏美はその感じが嫌いじゃなかった。なんとなく自分だけ、四季やメイより距離感が近いような感じ。

「そういうのは私の専門じゃありませんの、もっと訊くのに適任な人が、ほら」

 その人を見る。

「……呼ばれてるよ、メイ」

 その人を見る。

「……ん? わ、私か⁉︎ そ、そんなの私もあんまり詳しくないぞ……」

 夏美から四季、四季からメイへと会話はするすると回って、まとめるように自然な流れで、今度は後ろから声がした。

「じゃあみんなで竹下通り行かないっすか⁉︎ あそこならなんでもあるっすよ〜!」

 夏美の隣で、きな子が言った。

 その時、四季の後ろ姿がぴくりと震えた気がしたけど、気づいた時にはもう、やはりいつもの四季だった。

 

 原宿。

 まだ夕方というには早い時間のここは学校帰りらしい制服姿の女子たちが多く、その手にはカラフルなアイスやらクレープやらが握られていた。自撮り棒を掲げている人なんかもちらほらいて、それはこの場所が流行の最先端なのだと物語るようで、夏美はいつも立ち止まっては目で追ってしまいそうになる。

「にしても、千砂都先輩も粋なことしてくれるよな」

 前を歩くメイが、振り向きながら言った。その隣を四季の後ろ姿が歩いている。

「夏美もそう思うですの〜、これでLiella!の新規生の日常風景盗撮計画が捗りますの〜」

「だから盗撮って言っちゃダメっす……」

 夏美は原宿の女子たちに負けないように、大袈裟にインフルエンサーぶって言った。きな子はいつもみたいに夏美のツッコミをしてくれた。変わらない。いつも通りの日々。四季が前をゆらゆら歩いている。

「お、ここじゃないか」

 そうしてしばらく歩いた先、メイが立ち止まり、言った。他のみんなもメイが見つけたお店の看板を見つめる。

「そうっす、ここっすね!」

「綺麗なお店ですの〜SNS映えが良さそうな……」

 夏美は、やはりフォロワー数の増加こそが放課後の楽しみなのだと思い、目をきらきらさせていた。はっとすると、きな子にジト目で見つめられていた。

「もー、夏美ちゃんはそればっかりっす……」

「いーから、並ぼうぜ」

 メイが言ってお店の前にできた列の最後尾に並ぶ。でも、一人足りなかった。

「…………? 四季さん、何してるんですの?」

 夏美が振り返ると、店よりかなり歩いた先の道のど真ん中で、なぜか突っ立って真上を見上げている四季がいた。人混みに紛れて消えてしまいそうなその背中は、なんだかとても寂しそうで、やっぱり夏美は、今日の四季はどこかおかしいような気がした。

「四季ー! おーい! 何してんだよ」

 夏美の後ろでメイが叫ぶ。

 店先にいるだけで、果物と砂糖とチョコレートの混ざった甘い匂いがしてきた。生地を焼いているらしい香ばしい匂いも。

 四季が振り向いて、思い出したようにそっと笑った。その口が何か言ったけど、夏美たちには当然それは聞こえなかった。

「いい匂いっすね〜、メイちゃん流石っす〜」

「わ、私はたまたま見つけただけなんだけど……」

「またまた、そんなこと言ってますの〜」

「…………」

「お前らなぁ……」

 夏美たちが褒め称えるので赤面したメイが睨みつけてくるけれど、夏美は怖くもなんともなかった。

 ここ、行かないか?

 詳しくないなどと言っておきながら、メイが差し出したスマホの画面には、スフレパンケーキや色とりどりのクレープが映っていた。それも、きな子の行こうと言った竹下通りにあるお店だった。みんなはそんなやさしいメイのことが、大好きだった。

 列に並んでる間も、陽射しはじりじり照りつけ肌を焼いた。人混みの中だからか余計に暑く感じるし、夏美は少し目眩を覚えた。それに日焼けもあまりしたくなかった。見上げた空が高い建物たちに切り取られて影絵みたいに浮いていた。

 ほどなくして夏美たちの番になり、それぞれ注文をした。きな子と夏美が先に、メイがその後、なぜかぼうっとしている四季を引っ張って一緒に注文していた。

 また少し、待つ。

 数分後、夏美たちの手にはそれぞれふかふかでふわふわのクレープが握られていた。夏美はこれぞ青春の醍醐味! と思って自撮り棒を構える。

「みんなで写真撮るですの! はいっ、チーズ!」

 夏美がそう言って、数秒後に自動でシャッターが切られた。

「美味しそうっす〜、贅沢な放課後っすね〜」

 きな子がクレープをくるくる回して感嘆のため息を漏らしていた。

「…………」

 みんなの前だから興奮しているのを必死に抑えてはいるんだけれど、口許の緩みを隠しきれていないメイがクレープを見つめていた。メイのこういう素直なところに、四季は惚れたのだろうな、と夏美は密かに思った。

 メイのクレープはブルーベリークレープで、きな子のはストロベリー、夏美のは抹茶、四季はメイの頼んだモンブランクレープを手に持っていた。

 夏美たちはクレープ片手に、街を見て回った。この街は店の中に入らなくても、建物やショウウィンドウを見ているだけでも、というか、みんなとお喋りをしているだけでも楽しくていくらでも時間が過ごせた。

 歩行者専用道路の両脇にある建物たちを見ていったのだけれど、やがてそれは途切れて車の多く行き交う大通りに出た。夏美ときな子はその頃にはもう、クレープは食べ終わっていた。

「普段この辺までだから、今日もうちょっと向こうまで行ってみないか」

 メイが向かいの通りを指差しながら、夏美たちを振り向いて言った。四季が、さっきから何も言わなかった。夏美にはなんだかそれが気掛かりというか、不安だった。なんとなく何か、よくないことが起こりそうな気がした。

「きな子も行きたいっす! 四季ちゃんも夏美ちゃんもいいっすよね?」

 メイときな子の視線に夏美は首を縦に振るのだけれど、四季はやっぱり何も言わなかった。夏美は四季の脇を小突いて「ほら、返事」と言った。四季はようやくこくりと頷く。

 それから夏美たちは信号を待った。向かいの信号機の赤い点滅が上から減っていく。夏美はやっぱり気になって、振り向いて声をかける。

「ねぇ、四季ちゃん、なんだか今日────」

 

 ピリリリリリリリリ!

 

 甲高いアラーム音が鳴った。何かと思って音のした方を見ると、メイの手に持たれたスマホから音は鳴っていた。メイは慌てた様子でそれを止めると、ふぅ、と軽く息を吐く。

「おっかしいなぁ、こんな時間にアラームなんてセットしてないはずなのに……」

 メイは言うとスマホをポケットにしまった。

 でも、夏美が驚いたのは、その突然の爆音ではなかった。四季の身体が、びくり、と震え上がるように持ち上がったから。そういえば、今日今までずっと、四季は下ばかり向いていたことに夏美は今さら気づいた。

「あ、信号もう変わるっすよ」

 きな子が言うので、夏美もはっとする。向こうの道の先は、行き交う車たちでよく見えなかったけれど、ここにいたら何か嫌な感じがするような気が、夏美にはしていた。それで、あ! と大声を上げる。みんなに見られているのが分かった。

「あっちに何やら美味しそうなお店がありますの〜突撃してフォロワー数を伸ばすチャンスですの〜!」

 それを聞いたきな子も顔を綻ばせた。

 待ち切れないというようにきな子と夏美で先頭に立って、四季とメイを振り向く。でも四季は、全然笑っていなかった。

 信号が変わる。早足で歩いていくきな子が危なっかしくて、夏美は追いかける。後ろでメイがおい、こけんなよ、と言うのが聞こえた。なんだかメイは時々保護者みたいに思える時があった。

 そう、やさしい気持ちで思った瞬間だった。

 絶叫。

 絶叫だった。最初なんの音か分からなかった。

 本能的に、振り向いた。

 そしてそれを見た。

 一瞬だったと、思う。

 横断歩道を渡っていた人は蜘蛛の子を散らしたように逃げて行った。

 何かと思って人の叫び声の向かう先を見てみると、大型トラックが逆走して突っ込んでくるところだった。その先には、四季とメイがいた。

 トラックの大きさと速度的に、それはもう逃げても間に合わないと夏美は直感で分かってしまった。

 四季は動かなかった。メイが何か叫んでいた。きな子が叫んでいた。知らない人が叫んでいた。みんな叫んでいた。身体中が暑くて、地獄みたいだと思った。色とりどりの悲鳴がエンジン音で切り裂かれていく。

 夏美にはよく分からない。その瞬間のことを、どう表現していいのか。

 メイが四季を思い切り突き飛ばしたのと、トラックがメイを呑み込むように過ぎたのと、綺麗な放物線を描いてメイが吹っ飛ばされるのが、スローモーションのように一瞬に見えた。

 そして、りんごやなしを潰した時のような、ぐしゃりとも、ごしゃりとも言えない音がここからでもはっきり聞こえた。

 トラックは数十メートル進んでから動くのをやめた。その通った地面には片方だけタイヤ痕がついていた。それは真っ赤な色で、それが何から出た色なのかは、夏美たちからはよく見えた。よく、見えてしまった。

 血。赤。水。

 ぐちゃぐちゃ、という言葉では足りなかった。夏美はその時、言葉とか気持ちになる前に本能で拒絶する感覚を初めて知った。

 向かいの道路のトラックの少し前、頭から落ちたメイの頭部は半分以上ひしゃげて、そこから見たこともないような、異生物みたいなぐにゃぐにゃの何かが飛び出ていた。夏美がそれを言葉にすることは、脳が拒んだ。

 静まり返っていたと思ったのに、一人が叫び出したのを皮切りに、人は皆また叫び始めた。

 炎天下、トラック、直射日光、絶叫。

 眩暈のする頭の端で、人間は頭が重いので飛んだりすると頭から落ちて死ぬことが多いらしい、というネットで聞き齧りの知識を夏美はなぜか冷静に思い出していた。

「あ……う……あ……」

 後ろできな子が、立ったまま声にもならない声を口から漏らしていた。何かを指さそうと人差し指を立てているようだったけれど、その手は震えるばかりで、どこに向かうこともできていなかった。

 人は皆逃げていくけれど、中にはトラックまで近づいて、何かを叫んでいる人もいた。夢を見ているみたいだった。それか地獄にいるみたいだった。あまりに暑い夏のなか。

 夏美はメイから目を背けた。そっちで呆然として叫び声ひとつあげずに純粋に絶望しているような顔の四季。その足もとに、さっき買って全然食べていなかったクレープが逆さにひしゃげて、茶色いクリームが耐えきれず溢れていた。

 夏美はそれで、はっきりと吐き気を感じた。

 きな子が後ろで呆然とそれを見ているような気がした。世界中が喧騒に巻き込まれていく中、夏美はそこでうずくまった。メイのへんな方向に曲がった頭と飛び出たものの質感が脳にこびりついて離れてくれなかった。

「おい、救急車! あと警察も! 早く!」

「もう助からなくないあの子……?」

「こりゃ騒ぎになるな……」

 好き放題言う人々の隙間で、トラックの運転手が取り押さえられるところだった。警察が来る音がした。凄い勢いで辺りが閉鎖されていく。

 その白昼夢みたいな世界のど真ん中で、四季がふと、立ち上がった。

 その両腕は力無くだらんと垂れていて、右往左往する人だかりの中でただ揺るぎなく立っていた。夏美は何故だか目が離せずに、わずかに唇を開いる四季をじっと見ていた。そしてその唇が微かに動いた。なんと言ったか、今度は夏美にも聞こえた気がした。でも夏美には、見間違いだろうと思った。だって、本当に意味不明だったのだから。

 

 

 

 ────『助ける』なんて

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 搬送先の病院まで、夏美はきな子と四季と一緒に行った。乗ったのは救急車じゃなくて、パトカーだった。パトカーは後部座席に夏美はきな子と、四季は一人でそれぞれ分かれて乗った。なんだか車内は嗅いだことのないような匂いがしていて、それが非日常感をより煽った。きな子は俯いたまま、何も喋らなかった。当たり前だと思う。

 そして病院に着くと、そこの駐車場の車内で状況説明を求められた。

「辛かったら言わなくてもいい、言えたらでいいからね、落ち着いて……」

 物腰の柔らかいおじさんの警察官がそう言ってくれた。きな子が何か言おうとしたけど、母音が細切れに漏れるだけで言葉は一つも出なかった。

「……私が、説明しますの」

 それで夏美はちょっと落ち着いて、言葉が喋れるようになった。自分より混乱してる人が隣にいると落ち着くというのも聞き齧ったネットの知識だけど本当なのだな、と夏美は思って、自分がなんだかつめたい人間のように思えた。

 だって、メイが死んでいるのに、夏美はもう落ち着いてしまっている。

 これならマニーより人らしい心が欲しかったな、と夏美はこっそり自嘲する。

 搬送先の病院でメイの死亡を改めて言われた時も、夏美はだから、そんなにショックを受けないはずだった。あれだけ脳漿が四方に炸裂していて、生きてる方がおかしい。

 夏美はきな子と四季と病院の廊下で並んで座って待った。白いフローリングでずっと続いている廊下は音もなく、長く奥まで続いていて、気持ちが悪かった。天井の照明も白々しく明るくて、照らし出される夏美たちはまるで人目に晒された骨格標本みたいだった。

 やがて医師らしき人が警察官と一緒に出てきた。そこで、メイが死んだことを改めて口にされた。

 泣かないと思っていた。

 分かっているはずだった。

 なのに、気がつくと泣いていた。きな子も、泣いていた。それで、なんだか張り詰めていた糸がぷつんと切れてしまったようで、夏美は信じられないくらい、声を上げて泣いた。

 びょおびょお泣く情けない声は、廊下中にありえないくらいこだまして、めちゃくちゃに重なって聞こえた。

 単語をいくつも割ったように、切れ切れにしか聞こえない言葉の中で、時々「メイちゃん」というフレーズだけ耳に残った。

「保護者に連絡をしたから今日は送ってもらって帰りなさい」

 しばらくしてから────しばらくがどれくらいか夏美には分からなかった────警察官は言った。

 きな子は両親が北海道なので、夏美の両親の車で送ってもらうことになった。

 夏美は立ち上がり、きな子に手を差し伸べる。四季を一人で残していくのが心配だった。四季は一人、少し離れた細長い薄緑の固そうなクッションの椅子に座っていた。

 廊下を歩くと、見知った顔と姿形の男の人がいた。夏美は安心して、ゆらゆらと歩いて行ってその人に抱きつく。

「辛かったな……さぁ帰ろう」

 夏美の父親は熊みたいな人で、触れるといつもあたたかかった。夏美はこんな時だからこその、そのぬくもりを大切に思った。

「きな子ちゃん、だったかな……君は、一人暮らしなのかい」

 夏美を抱き留めてくれながら、夏美の父は後ろにいるきな子に言う。

「は、はい……」

「……きな子ちゃんは今日ウチに泊まっていきなさい、一人だと、辛いだろう……夏美も」

 父の言葉に、夏美はびっくりして、でも確かにそれが必然的な気がして、心から安堵したような気がした。

 病院の廊下はつめたくどこまでも続いていた。夏美はきな子と後部座席に乗り込んで、シートベルトをしなかった。

 息を吸うと、安心する我が家の車の変な匂いで、夏美は心の底から安心した。

 まだしゃくり上げるきな子の隣で、夏美は窓の外を過ぎていく街を、遠い空想の都市のように感じていた。

 

 その日、家に着いても夏美ときな子はほとんど会話をしなかった。きな子が先にお風呂に入り、その後に夏美が入った。きな子の入った後のお風呂は、不思議な匂いがした。お湯が肌に絡みつく感覚が気持ち悪くて、わずかな不快感は脳裏にさっきの光景をフラッシュバックさせた。夏美はその度に、襲いかかってくる吐き気を必死に堪えた。

 夏美が部屋に戻ると、きな子はその真ん中で脚をぺたんと地面につけて窓の方を向いていた。ドライヤーを渡したはずなのに、その長い髪は背中を包むようにきらきらと照明に光っていた。

 よく見れば、きな子のすぐ前の床にドライヤーが転がっていた。夏美はそれだけで途方もなく悲しい気持ちになる。ゆっくり、近づく。

「……きな子」

 名前を呼ばれたきな子の肩がびくりと震えたのが分かった。夏美はその顔を見てあげないようにしながら、ドライヤーを手に取った。

「髪、乾かしてあげますの」

 夏美はそう言ってきな子の後ろに回り込んだ。ゴテゴテした部屋の、自分好みの人形やクッションがなんだか今はひどく浮いている感じがした。

 たまらなくて、ドライヤーをつけた。

 辺りの静寂を上書きする風の音は、しかし生活として正しいものだったので、夏美は正当な言い訳を得られて安心して、ゆっくりときな子の髪を梳いていった。ドライヤーの熱があたたかくていけなかった。

 きな子の髪は長いので、乾かすのには時間がかかってよかった。それでも、全てふんわりとあたたかくなってしまうと、夏美は仕方なくドライヤーを切った。

 突然、気持ち悪いくらい静かになった。耳が痛くなるくらい、けたたましい静寂が辺りに満ちていた。

「…………」

 これからどうすればいいのか、夏美には分からなかった。きっときな子も、そうだったと思う。二人は何も言わずに────ううん、きっと言えずに────部屋の真ん中でじっとしていた。

 どれくらいの時間が経っただろう。

 夏美は思い切って立ち上がると、普段用事のないふすまを開けて、布団を取り出した。

「ほら、そこどけるですの」

 夏美が言うと、きな子はうんともすんとも言わなかったけれど、部屋の隅に退いてくれた。夏美は手早く布団を敷いていく。

「今日は、もう寝ましょう」

 夏美にはそれだけしか言えなかった。慰めの言葉とか、それかいっそもう一度泣くとか、どれも違う気がした。全てがちぐはぐなまま編まれた、穴だらけの布の上。そのかろうじて安全な部分で、自分の身体の重みに耐えているような、そんな気分だった。

 きな子はそろそろと、夏美の敷いたベッドの上までやってきた。夏美はその時も、きな子の顔を見る勇気がなかった。

「電気、消しますわよ」

 きな子が頷いたような気がしたので、夏美は電気を消した。そのままベッドに滑り込む。なんだかシーツがいつもより冷ややかな気がした。自分の呼吸音が耳について、胸が一定のリズムを刻んで拍動することが生きているので死ぬことを思わせた。血。血。血。アスファルトの上に巻き散らかされたべちゃべちゃの脳漿。

「うっ…………」

 夏美は明確にその光景を思い出して吐きそうになる。出そうと思えば出せたかもしれないくらい、喉元まで酸味が込み上げてきていた。

 暗い部屋、静かだった。夏美は、自分の生きている証の音と熱のその全てが''死''というものを想起させるので、逃げ場なく壁際を向いて自分の身体をぎゅっと抱いていた。一秒一秒の重みに耐えかねて、身体中が悲鳴を上げていた。

「…………夏美ちゃん」

 だから、気がついた時には、そうなっていた。

「え……」

 夏美の首と胸の間くらいに、何かあたたかいものが回されていた。それがきな子の腕だと気がつくまでに、どのくらい時間がかかったかは、夏美にはよく分からなかった。

「きな子……」

 夏美は無抵抗に抱かれていた。

「このまま……」

「え」

 すぐ首の後ろできな子の声がしてくすぐったかった。

「このまま、近くにいさせて、欲しいっす……」

 その声が泣いていることになんて、気がつかないはずもなかった。夏美は不恰好に、首元のきな子の腕に指を引っかけた。わずかに抱きしめられる力が強くなって、その切なさが夏美の胸を灼いた。

 そのまま、夏美は背中越しに感じるきな子のとくとくいうぬるいリズムと自分のそれが混ざって、境界線が曖昧になっていくのを感じていた。

 泥濘(ぬかるみ)に沈んでいくように、意識はどろどろと溶け落ちていった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 きな子はそれからもしばらく夏美の家から帰らなかった。学校が夏休みだったのもあり、着替えさえあれば生活できた。部活のグループは、誰も何も言わなかった。でもその沈黙は、誰も現実を受け止められていない何よりの証拠であるような気がして、夏美には見るのもしんどかった。

『Liella!(9)』

 スマホに映し出されたその変わらない数字を見るだけで、夏美の脳裏にはいくらでもあの炎天下の悪夢がまざまざと蘇ってきた。夏休みの練習はどうなったんだろう、とふと夏美は思った。

 きな子とはあまり喋らなかった。でも四六時中一緒に行動するようになった。離れているのはお手洗いとお風呂くらいのもので、後の時間は一緒にいた。ただ触れ合うことはあまりせず、傍にいるだけだった。でもそうしないと夏美たちは自分が壊れてしまうことを、なんとなく知っていた。夏美の両親もきな子がずっといることについては何も言わなかった。あの日に夏美の父が言ってくれた通りに、きな子と一緒にいさせてくれた。

 夏美はきな子との歪な夏休みを過ごした。きな子は半ば廃人のようにずっと体育座りで俯いていて、何かを思い出したように時々叫び出したりした。夏美はその度に傍に行って抱きしめてあげた。きな子が落ち着くまでいつまでも、いつまでも。

 日中はせめて夕飯の買い物に行ったりした。普段生活している場所からなるべく遠くにいたかった。

 その年の八月は本当に暑かった。毎年最高気温というものは過去最高を記録するのがお決まりらしい。テレビから絞ったボリュウムで流れる夕方のニュース番組を見ながら、父と母の向かいできな子と並んで冷奴を箸で切っては口に運ぶ、お通夜みたいな食卓が夏美には一番苦痛だった。

 雨。

 ある日、雨が降ると、外に出る理由が無くなるので部屋の中でじっとしていた。でもじっとしているのも苦痛だった。夏美はパソコンの前に座り、でもその画面ではデスクトップの待機画面が映っているばかりで、きな子は部屋の隅でいつも通りうずくまっていた。

「きな子」

 久しぶりに名前を呼んだ気がした。初夏のつめたい雨に濡れないものが、ボロ臭い鬼塚商店の二階に二人分、静かに灯っていた。

「これ、聴いてみるですの」

 夏美は言いながら、小さなゲーミングチェアを降りて、きな子の傍に腰を下ろす。そして、無線のヘッドフォンをきな子に手渡す。

「…………なんっすか」

 きな子はその手に持たされたそれを見て、無気力そうに怪訝な声を出して夏美を見た。

「いいから、聴いてみるですの」

 夏美は言って、きな子にそれをつけるように促した。渋々といった様子できな子はそれをつける。

 夏美はパソコンのモニターの前まで戻って、マウスを動かして、画面に映る三角形のボタンをクリックする。夏美にはそれがちゃんと流れ始めたのか、分からなかった。

 振り向いて、きな子を見つめる。きな子はじっとしていて、開いたままの窓から、はたはたという雨音ばかりが部屋に流れ込んできていた。呼吸するのさえ躊躇われるような、辺りは雨音に満たされてそんな気配だった。

 夏美はなぜか、あんなに凄惨な事件から始まったきな子との今のこの関係が、なぜだかとても懐かしく思えた。どうして懐かしい、と思ったのかは分からなかったけど、この気持ちは確かに懐かしさだった。雨、ヘッドフォン、八月。

 夏美はきな子の隣にもう一度腰を下ろす。室内用の音漏れを気にせずに選んだそれから漏れる細切れのシンセサイザーの音が、夏美の耳の一つ手前で雨音と同化して飛び込んできた。

 きな子は膝に顔を埋めてそれを聴いていた。夏美にそれは聞こえなかった。きな子がちゃんと聴こえているか、夏美は訊こうとも思わなかった。

 静かな時が水のように流れていた。

「…………いい歌っすね」

 ヘッドフォンを外しながら、きな子が言った。そう言うまで、何分経ったのか夏美にはよく分からなかった。

「なんて歌なんすか」

 きな子が続けて聞く。それは会話というより、重なり合った独り言みたいな感じだった。

「きみも悪い人でよかった……という曲ですの」

 夏美は静かに言った。ヘッドフォンからは夏美の好きな全然違うジャンルの曲が流れ始めていた。

「…………そう、っすか」

 そう言ったきな子の声が、雨のように聞こえたのは、でも夏美の思い違いでもなんでもなかった。

「────っ⁉︎」

 きな子は、泣いていた。ぼろぼろぼろぼろ透明な涙を流していて、その顔は悲しみというより、やるせ無さみたいなものが滲んでいるように夏美には思えた。

「夏美ちゃん」

「……きな子」

 夏美は、ごく当たり前にきな子を抱きしめていた。肩がじんわりと濡れて、そういえばきな子が涙を見せるのはあの日以来だな、と気づく。

 音楽は時として人と人の心を結ぶことがある。

 夏美はそれをこの部活で、あの人に、教えてもらった。歌の素晴らしさ、その先にある、尊い感情。

 思うと、夏美の視界は歪んでいた。あれ、と思った時には、夏美はもう泣いていた。涙が溢れて止まらなかった。心に穴が空いたように、そこから無力感がとめどなく溢れてきた。

 メイが、死んでしまった。

 私たちの友達のメイが、死んでしまった。

 ようやく状況が飲み込めてきた。堪えていたものが堰を切って溢れてしまって、そのまま夏美たちはいつまでも互いの涙雨に濡れていた。

 

 それからきな子は少しずつだけど喋るようになってきた。一日の大半を、夏美と音楽を聴いて過ごした。夏美の作っていたプレイリストやストックしていたエルチューブ用のネタ動画なんかを端から見ていった。

 そんな日々が続いた。何かがおかしいような、何もおかしくないような、平和すぎて狂ってしまいそうに当たり前が続いた。

 ある日、夏美はお手洗いに行った時にふと、思った。狭い木造のトイレの中、自分達は、ひとりぼっちではない、と。そしてきっと今一番苦しんでいる人がいることに、気がつかないふりをしていたことにも。

 気づいてしまっては、夏美にはもう放っておけなかった。スマホを取り出して、メッセージアプリを開いて、下の方に流れていたその人とのメッセージを開く。あの日から一度も連絡をしていなくて、だからそこにはあの日以前の日常の気配がそのまま残っていて、痛ましかった。フリック入力で素早く、思うがままに文字を打つ。

『大丈夫、ですか』

 違う、削除

『ご飯は食べてますか』

 これも違う、削除

『元気に、してますか』

 元気なわけないじゃない、馬鹿なのですか私は。

 結局、当たり障りない言葉さえ送れなくて、通話ボタンさえ押せずに、スマホを暗くした。

 きな子の傍にいるだけで、今の夏美には精一杯だった。

「四季ちゃん……あなたは、今どうしてますの」

 トイレの木目のついた扉に額を押しつけて、夏美は呟いた。

 今年の夏は狂ったように蝉が鳴いていた。

 吐きそうなくらい晴れた空が、その日もおもてで澄み渡っていた。

 ジィ。

 後ろについていた小さな窓に、蝉が一匹ぶつかって、落っこちていった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 制服の袖を通すのは、なんだか数年ぶりな気がした。

 快晴、学生鞄、通学路、など。

 全て当たり前みたいな顔をして夏美たちの前に開かれていたけど、それはどこか隔てられたもののようにしか感じられなかった。

 始業式には行かなかった。

 二週間くらいこの日々を壊さないように粘ってから、でも行かなくてはいけないと思って、行った。

 夏美はきな子と並んで、九月とはいえまだまだ暑い夏空の下を歩いた。地獄で閻魔様の前に出て行く罪人みたいな気持ちだった。

 昇降口、階段、廊下、越えて。

「────っ⁉︎」

 そして言い訳がましく後ろから入った教室で、それを見た。

 入って一番すぐの机に、白い花瓶に赤い花が三本生けられていた。

 メイの席だった。

 夏美は愕然として、その場に立ち竦む。きな子も後ろで、じっとしているみたいだった。

 その先に、青い髪の、赤いピアスの人が見えた。あ、来ているんだ、と思った。夏美はその人に話しかけたかった。

 でももう、ここにある全てが取り返しのつかないことが起こったと、物語っていた。何気ない真実に夏美たちは何度でも心をズタズタにされた。現実はあまりにも耐え難かった。

「四季、ちゃん……」

 夏美がこぼすと、その人は緩慢な動作で振り向いて、夏美を見た。その瞳はもっときらきらしていたはずなのに、その時夏美が見たのは擦り切れてくすんだ赤黒い瞳だった。

「構わないで」

 四季は短くそう言った。その言葉は有無を言わせぬ響きを含んでいて、夏美はびくっとした。強い拒絶だったからじゃない。その言い方が、四季らしからぬものだったから。

「あ、あの……っ」

「夏美ちゃん」

 振り向くと、きな子がその瞳を潤ませて夏美を見ていた。きな子の言いたいことが、夏美には痛いほど分かった。そしてそれを受け入れるべきだということも。

「……行きましょう」

 四季の後ろを抜けて、夏美はきな子を連れて席に着いた。教室中に澱んだ空気が満ちている気がした。

 それ以来、夏美は四季とは全く喋らないことになる。

 残暑と言うには暑すぎる夏だった。

 悲しみばかり鮮やかな夏。

 夕暮れが暮れてくれない、血まみれの世界。

 それ以来、夏美は夏が苦手になった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 日々は淡々と進んでいった。

 そこにいたはずの人が一人いなくなっても、そこは初めから穴が空いていただけみたいに、みんな避けて通っていくだけだった。そのうち花をかえる人も誰か分からなくなって、萎れた花が飾られているのが、何もないより悲しかった。本当に大事なのは花をかえる人であることを、誰も言おうとしなかった。

 部活には、行きたい人だけが行っているような状態だった。夏美はきな子と一緒にいたので、誰が出ているのかは知らなかった。けど、四季も行っていないのはなんとなく同じクラスにいれば分かったので、必然的に先輩方が行っているのだと夏美には分かった。

 きな子は冬には少し元気になってきて、自分の家で暮らすようになった。夏美の部屋はいきなりがらんとして淋しいだけの空っぽになった。

 四季は学校にこそ来ているものの、心ここに在らずといった感じで、ずっとどこか別の世界を見ているみたいだった。夏美には声をかけることができなかった。

 季節は飛ぶように巡っていった。同じようであるのに、何もかも違う春がきた。夏風が頬を滑り、秋惜しむまま世界は冬に落ちた。

「音楽大学、行こうと思うんっす」

「え?」

 だからそう言われた時は、一瞬何のことだか分からなかった。

「かのん先輩の行ってるところとは違うとこなんすけど……」

 きな子は照れ臭そうに言った。帰り道の公園で、寒空の下、背もたれのないベンチに詰めて座っていた。

「きな子、やっぱり歌が好きなんっす……その気持ちに気づかせてくれた夏美ちゃんには、感謝してるっす」

 きな子が言うことを、夏美はぼんやり聞いていた。そうか、もう、そんな決断をしないといけない時期だったんだな、と。本当に心が弱いのはきな子じゃなくて、一年以上が経ってもまだうじうじしてる自分の方かもしれない、と夏美は思った。

「そう……ですの」

「……夏美ちゃんは、進路、どうするんすか」

 きな子に訊かれてようやくはっとする。

 進路。

 誰しもの前に等しく開かれた、一方通行の時の流れ。山から海に流れ出る水たちのように、何があっても戻れない。

 夏美にもその時が迫っているのだった。白紙の進路希望書を提出するのも、もう言い訳は時効らしかった。

「……きな子」

「はい……? なんっすか?」

 裸の枝を伸ばした木の向こうが夕陽を隠そうとしてくれていたのに、隠しきれていなかった。

「大学受かったら、一緒に暮らしませんか……ちょっと離れてもいいから、二人で住める場所探して」

 夏美が言うと、遠くからザァ、と何かを攫うような音がした。木枯らしと呼べばいい季節だった。

 黙ってしまったきな子を、夏美はたまらず見つめる。そして、息が詰まった。

 きな子に泣きそうなほどやさしい顔で見つめられていたから。夏美は胸がぎゅっと締めつけられる。

「……はいっす! よろしくね、夏美ちゃん」

 そう言うきな子に対して、なんだかこの人とは長い付き合いになりそうな、そんな気がした。

 冬が始まっていた。

 でも進路をどうするかについては、夏美は、どうしても言うことができなかった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 そうしてまた季節は巡り、夏美たちの生活スタイルはそれぞれがらりと変わった。

 きな子は都内のそこそこ名の知れた音大の声楽科へ入った。夏美は都内でもあまり知られてない大学の理工学部に進学した。理系の勉強より現代文とか、文系の方が好きだったけれど、今を生き抜く為にはやはり理系だと思った。物理や化学はある程度一年生の頃から意識して学んでいたので、それが功を奏した。文系の勉強が社会に出てなんの役にも立たないことは、ネットの聞き齧りの知識でなんとなく知っていた。

 家は原宿からだと電車で四十分くらいの、やや離れた場所に借りた。家賃の割に綺麗な二階建てアパートの一階の角部屋は、ちょっと築年数が古い代わりに部屋が二つもあってそこそこ広かった。

 夏美はきな子と二人でそこそこネットの評判が良い賃貸住宅センターを訪ねて、その家の資料を見せられた。きな子と顔を見合わせて「内見させてください」と頼んだけれど、しなくてもここに決まっていた。夏美たちの思い描く二人暮らしというものに、本当に適した物件だった。

「ねぇ、夏美ちゃん」

「なん、ですのっ……」

 引越し代を渋って父に無理を言って出してもらったトラックから荷物を降ろしながら、きな子が声をかけてきた。夏美は手にぎりぎりの重さの段ボールを抱えていたので、そっちは見ずに返事をする。

「きな子、ほんとは実家帰ろうか迷ってたっす」

「え?」

 思わず持っていた段ボールを落としそうになるのを、すんでのところで堪える。

「でも夏美ちゃんがいてくれたから、夢を諦めずに今もここにいられるっす」

 きな子が空っぽのカラーボックスを抱き抱えながら、隣を過ぎていった。

「だからきな子は、嬉しいんす。夏美ちゃんと……ここに来られて」

 振り向いたきな子が言った。夏美はそれを綺麗だと思って見ていた。

 やわらかい風が吹いて、二人の隙間をとめどなくあたためていった。耐えきれなくて手を伸ばそうとして、自分が荷物をいっぱい抱えたままなことに、夏美は気がつく。

「……夏美も、ですの」

 夏美が訳もない罪悪感を覚えるようになったのも、この頃だった。

 春はなかなか消えてくれなかった。

 その夏も、だから春に晒されたままのような夏だった。

 吐きそうなほど晴れた空だけが記憶に刻み込まれていった。

 それでも上書きされないあの日を、夏美は思っていた。

 

 それからも日々は早かった。

 夏美は大学ではプログラミングを学んでエンジニアやFXでお金を儲けようと思っていたから、単位はしっかり取った。研究室に挨拶に行っておくと三年次の研究所編入がいいところになるという噂を聞いて、その通りにした。でももう三ヶ月も経つのに、理系の勉強は慣れなかった。

 きな子も声楽科で頑張っているらしかった。

 ある日、夏美が帰ってくると、リビングのラグマットの上で涎を垂らしてきな子が寝ていた。その近くに置いてあったノートを何気なく開いてみて、夏美は驚いた。

 全然何が書いてあるのか分からなかったのだ。五線譜に似たような和音が書かれていて、そこにいくつも注釈がしてあったり、赤線が引いてあったり、した。きな子はこんなことを毎日しているのか、と夏美はそのだらしのない寝顔を見ながら思った。

「かのん先輩と比べたら全然っすよ〜」

 きな子はよくそう言った。確かに、かのんは日本でも一番レベルの高い音大に行っていたことは、夏美も知っていた。

「…………きな子も、頑張っているじゃないですの」

 夏美は寝ているきな子に聞こえないように呟いて、ノートを元に戻す。

 きな子とは何か、深いつながりが出来つつあるような気が、夏美にはしていた。

 ちょっときな子の横に同じように寝てみると、ラグマット越しの床がやっぱり固くて、でもそれが不思議と心地よかった。黙っているとゆっくり眠気が頭を包んできた。

 夏美はそっと目を閉じた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「夏美ちゃん、同窓会しないっすか」

 ある時、きな子が言った。二人が一緒に暮らして、色々なことが落ち着いて、ようやくゆとりができてきた頃だった。

「……なんですの、いきなり」

 夏美はリビングのテーブルの真ん中に置いた赤色の汁の鍋から、豚バラ肉を掬いながら言った。

「きな子、なんかもう何年も先輩たちに会ってない気がするっす……」

 貧乏学生の夏美たちが安くて早くて美味しいからとよく食べるのが、鍋だった。それもなぜか大抵辛いやつ。

「まぁ……それには同意ですの……みんなずいぶん昔みたいな気がしますの」

 きな子が野菜が好きだから、白菜に加えてじゃがいもとか玉ねぎも入っていた。いつもレジに持って行く時、カレーの材料みたいだ、と思っていた。夏美はおたまをきな子に手渡す。

「そうっすよね、そこで夏美ちゃん! お願いなんっすけど……」

 夏美は豚肉にかぶりつく。電気代節約のために開け放した窓から夏風が吹き込んでカーテンを膨らませた。

「嫌ですの」

 豚肉は暴力的なくらい旨みが凝縮されている。夏の気怠い午後に食べる鍋はどこか退廃的だと夏美は思う。

「えー、まだ何も言ってないっすよ」

 きな子はじゃがいもばかり食べる。だからそんなにぷにぷにの頬に育ったんだろうか……関係ないか。

「どうせグループでみんなに連絡しろ、とか言うんですの。日程とか場所とか、段取りとか」

 じゃがいもを口に放り込む。キムチ鍋の素、ちょっと今回は入れ過ぎたみたいで辛かった。

「な、なんで分かったんすか⁉︎ きな子まだ何も言ってないのに……」

 夏美は目を丸くしたきな子をようやく見つめる。カーテンが揺れて部屋のスペースをやさしく奪っていた。

「分かりますの、何年来の付き合いだと思ってますの、もう」

 夏美は大袈裟にため息を吐いてみせた。きな子に見られている気がしていた。

「…………まぁ、やってあげますの、その程度のセッティングくらい」

 遠くで車の通る音が聞こえた。このアパートは車道が近い。でも音漏れはほとんどしなくて、そこも気に入っていた。

「…………夏美ちゃん」

 呼ばれて、顔を上げてはっとする。

「ありがとうっす、夏美ちゃんはいつも、やさしいっすね」

 きな子がふにゃりと笑って言った。

 夏美は返答に困って下を向くと、赤いスープがぐつぐついっていた。別にそれでよかった。

「火……弱めないと溢れますの」

「あ、ほんとだ」

 カチッ

 瞬間、音が、消えた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 その日夏美が一番驚いたことは、別にきな子が平気で未成年飲酒をしたことでも、当人たちは気づかれてないふうだったけれど、かのんが千砂都とキスをしている瞬間を目撃したことでもなかった。

 その人が、あまりにも変わり果てた姿で、夏美たち全員の前に現れたから。

「……お久しぶりです」

 都内の居酒屋の奥の座敷にその綺麗な声は浮いていた。夏美はその人の声が好きだった。久しぶりに会えて、嬉しくて、でも悲しかった。

 よれた白衣はところどころ黒く汚れていて、それを知らない間に長く腰くらいまでになった青い髪が隠していた。耳の赤いピアスは、それでも髪が揺れると見え隠れした。

 そこにいる誰も喋れなかった。その人は、あの日からずっと、無気力な亡霊のようになっている人で。

「四季、ちゃん……」

 四季は、かのんの声を無視すると、夏美の向かいの右前の席にすっと座った。千砂都の隣の隣の席だった。当然みたいに煙草を取り出して火をつけて、左の人差し指と中指でそれを挟み、口全体を覆い隠すように吸った。その動作はあまりに手慣れていて、夏美は大きな隔絶を感じた。

「夏美、ボタン押して」

 そう思っていると、名前を呼ばれた。夏美は身体がびくっと震えたのが分かった。本当に、本当に久しぶりに名前を呼ばれた気がした。あの日以来、一度もなかったのに。

「は、はいですのっ……」

 ボタンを押す。ピンポォンと間抜けな音が鳴る。かのんに見られているのにも、夏美は気づいていた。

「生十杯ください」

 やって来た店員のお姉さんに四季は短くそう言った。

「……かしこまりました」

 お姉さんは誰が飲むのか困惑した様子だった。そもそもここには未成年がまあまあ紛れている。それでも四季は涼しい顔をしていた。飲む気満々なのだ。

「…………」

 かのんがすみれを苦しそうに見ているのを、夏美はこっそり見ていた。

 それから座敷には人が減り、代わりに馬鹿みたいにたくさんの生ビールのジョッキが四季の前に展開された。四季はそれに特に感想も述べず、端から一杯ずつ一気に飲み干していった。その間に煙草を吸っていた。心の底から美味しくなさそうだった。

 そうして、酔い潰れた人の肩を抱えて歩く人や、勝手にお金だけ置いて帰る人なんかがいて、同窓会は幕を閉じた。

 その時はまだ、夏美は声をかけられなかった。

 吸い殻の溢れる灰皿の、まだ使えそうなところに煙草の先を押しつけて、無表情で親指と人差し指を擦り合わせる四季を見ていると、とても声をかけられそうにはなかった。

 きな子の肩を抱いて帰る、帰り道。

 ふたりぼっちの街灯が照らす影が、繁華街に短く溶けていた。

「…………夏美ちゃん、砂肝取ってぇ……」

 まだどうすればいいのか分からなかった。きっとまだ四季が、一番辛いはずなのは夏美にだって簡単に分かった。

「…………私は、本当は何がしたいんでしょうか、ねぇ、きな子」

 今はふらふらだけど、ひたむきで努力家な同居人にそっと声をかける。

 夏美は、夜の匂いで胸が苦しかった。

 歩いて帰るしかなかった。ただ、自分たちの家へ。

 

 目を閉じた記憶はなかった。ただ目が覚めると、白い天井が見えた。いつもの自室の天井だ。夏美は息をふーっと吐いて、倍以上の時間をかけてゆっくりと吸う。肺に空気がつめたく染みた。

 昨日はなんだかお祭りみたいだったな、と夏美は思った。

 久しぶりにあんなに笑った気がする。久しぶりにあんなに冗談を言えた気がする。視聴者数もうなぎ登りで、夏美は自尊心がそれで保たれているのが、なんだか虚しかった。

 春の日。

 みんなで行った飲み会の会場がどこにあるのか、もう夏美ははっきりと思い出せなかった。

「夏美ちゃーん、ご飯っすよー」

 寝室の扉が開いて、きな子が入ってきた。寝室にはダブルベッドが一台置いてあって、それで一緒に寝ている。別々に寝る方が夏美たちには不自然だった。それはあの夏、狭いベッドで泣きながら抱き合っていた日々があったからかも、しれなかった。

「なーつーみーちゃん」

 きな子が覗き込んでくる。この子はいいお嫁さんになるな、と夏美はぼんやり思った。

「…………もう、これ以上起きないなら今日一日オニナッツって呼ぶっすよ」

 それは脅しになっていない、と夏美は思ったけれど言わなかった。きな子のこういうよく分からないズレ方が、夏美は好きだった。

「…………じゃあ私もきなきな、って呼びますの」

 夏美が言うと、きな子はリスみたいに頬を膨らませて、どうやら怒っているようだった。

「ふん! そんなならもう次の動画では歌歌ってやらないっす」

 あ、じゃあ動画には出てくれるんだ、と思ったことは夏美は言わなかった。昼らしくあたたかい陽射しがカーテンの下から漏れていた。

「きな子」

「……なんっすか」

 夏美はシーツがとてもつめたいと思っていた。

「……ありがとう、すぐ行くから、待ってて」

 夏美の言葉を聞いたきな子は、目を丸くして、それからふっと笑った。

「……もう、待ってるんすからね」

 そう言うときな子は寝室を出ていった。夏美はなんだかはっきりしないような気持ちで、ベッドから降りた。

 床につま先が触れた時の冷ややかさを、とてつもなく鮮やかに感じた。

 もうみんなの声もよく、思い出せないのに。

 お昼に近い時間であることをきな子に説教されるまで、夏美はそこに突っ立っていた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 二十歳。

 夏美は学業の傍ら、家ではバーチャルアイドルとしてDJやグルメの紹介や独自の企画なんかをして、そこそこの広告収入を得ていた。

 あの事件があってから、Liella!は悲劇のスクールアイドルとしてその名が世間に知れ渡ってしまったので、当然夏美は名義を変えた。だが、本人の声があまり変わらなかったばかりか、キャッチフレーズや動画の方向性なんかはあまり変わらなかったので、すぐに特定された。何度かアカウントごと変えてみたけれどその度に何者かに暴かれたので、夏美は今は腹を括って素性を明かして活動している。

「……きな子も、エルチューブ、出てみたいっす」

 一ヶ月ほど前のこと。

 いつものように音楽雑談配信を夏美はしようとしていた。すると珍しくきな子もしたいと言ってきた。

「……別に、いいですのよ。声だけなら、すぐにできますし」

 そこで、成り行きできな子の生歌とkawaii future bassを即興でリミックスしてやった。きな子は目をきらきらさせて、画面を下から上に流れるコメントを見ていた。そういえばこの子、エルチューブに興味あったんだっけ、と夏美はふと思い出した。

 そしてそれが思いの外ウケて、以来音楽カップルチャンネルみたいに扱われることとなる。()()Liella!からのコンビがやっている音楽活動は、ゴシップとエモさ塗れのインターネットの世界ではバズるに決まっていた。夏美は分かっていたけれど、賞賛されるのは嬉しかったし、何よりお金が入れば生活が楽になった。それにきな子が楽しんでくれた。

『ゆーしえさんの Sunset tea cupを歌ってください!(2,000)』

『Yunomiのサンデーモーニングコーヒーをお願いします!(10,000)』

『somunia様のtwinkle nightをきな子ちゃんの声で聴きたいです。高校生ですが受験勉強の合間にいつも配信見ています、私にとっての心の支えです。ありがとうございます(500)』

『(50,000)』

 そんなメッセージがたくさん届いて、夏美ときな子は張り切って歌った。

 しかし、リクエストを消化する速度を増える速度が上回っていたので、そのうちあまりリクエストは求めないことにした。コメント欄で喧嘩が起きてしまうからだ。

 ふぅ。

 思い出し、夏美はため息を吐く。

 傍に置かれた大学用のそんなに大きくないリュックを拾い上げて、夏美はそれを背負う。

 人を待っている時、夏美は大抵、いろんなことを思い出していた。少し早く来すぎてしまったのかもしれない。

 ザァ、と夏風が夏美の髪にからまってはほどけていった。

「夏美ちゃーん!」

 風に乗って聞こえてきたみたいな声は、夏美を何より安心させるものだった。

「遅いですの」

 夏美が短く言うと、きな子はうぅ、と申し訳なさそうに頭を垂れた。

「申し訳ないっす……テスト終わった後友達に捕まっちゃって……」

 まぁそんなところだろうと思った、と夏美はため息を吐いて気持ちを切り替える。

「そんなことはいいですの。早く行きましょう、今日から夏休みですもの……ほら」

 夏美が手を差し出すと、きな子は一瞬ぽかんとした。きな子は口を半開きにしていることがよくあって、夏美はそこにトッポとか細長いものを突っ込んでやりたいと、ずっと前から思っていた。

「…………はいっす!」

 きな子は夏美の手をぎゅっと握って、隣に滑り込んできた。カップルチャンネルなどとネット上で呼ばれていることが、夏美の脳裏を過った。

 夏美は、自分は何がしたいんだろう、どこへ向かっているんだろう、と思うことが最近になって増えた。

 日々投げつけられるスーパーチャットは遅効性の毒のように夏美のアイデンティティを破壊していった。有名になればなるほど。フォロワーが増えれば増えるほど。何のために、あんなにフォロワーが欲しかったんだっけ。

「夏美ちゃん、どこ行くっすか?」

 きな子が純粋で羨ましかった。株でもFXでもシステムエンジニアでも、お金さえ、マニーさえあればなんでも良い自分は、薄汚れている気がした。あの日に喪った数多くのものの中には、夏美の夢もあったはずだった。きな子は果敢に、今日も現実と闘っているのに。

 配信窓を一回開くだけで一週間分の生活に困らないような広告収入を得ることができる夏美は、何が正しいのかもう、よく分からなかった。努力より単位より、視聴者の望むものを提供するクリエイターという名の奴隷。夏美は、すっかり疲れ切っていた。

「…………海月でも見に行きましょうか」

 やっと開いた口からは、そんな言葉が出た。きな子の手にきゅっと力がこもる。それが同意のサインであることを、夏美はよくよく知っていた。

「行こ、夏美ちゃん」

 このマニー塗れの世界で、夏美にはきな子だけが汚れていない唯一の美しいもののように思えた。

 いつから────

 夏美の見上げた空に、飛行機がひとつ、滑るみたいに飛んでいた。

 一体いつから、こんなにマニーに固執するようになったんだっけ。

 夏美は自分のことを本当に不思議に思った。

 木漏れ日が風の吹くままに揺れていた。

 夏が夏美は苦手だった。

 記憶にへばりついた血まみれの夕焼けが、剥がれて消えてくれないから。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 幼稚園の時には夢があった。

「私の夢は将来オリンピックで金メダルを取ること!」

 別に走るのは早くなかった。

 小学校の時もまだ夢があった。

「私の夢はノーベル賞を取れるような科学者になること!」

 算数さえまともに出来なかった。

 中学校の時はせめて出来そうな夢を選んだはずだった。

「私の夢はモデルさんになって世界を駆け回ること!」

 でも別にスタイルが良い訳でもとびきりかわいい訳でもなかった。

 諦めるくらいなら夢なんて語るなと人には大口叩いてた癖に、自分にはいつもどこか諦めている、そんな自分のことをなんて都合がいいんだろうとも思っていた。

「はぁ…………」

 夏美は深いため息を吐いて、キーボードの上に頬を預ける。

 自分は何がしたいのか、夏美にはもうよく分からなかった。大学四年生になって、日々の努力と軋轢のさなか、判断をするだけの余裕も時間もないまま、ただ日々だけが過ぎていった。

 でも今日夏美が重たい気持ちなのは、それだけではなかった。

 デスクトップ上に表示される今日の日付。忘れられなくても忘れられない、あの日がもう六年も前であることに夏美は途方もない気持ちになる。

 今日、さっき、原宿まで行ってきた。

 夏美は人の多い、相変わらずカラフルなアイスやクレープを食べている、自撮り棒を構えた女の子たちの間をすり抜けて歩いた。道行く人たちは皆、夏美を訝しげにちらっと見た。それは、夏美が暗い顔をしていたからじゃない。その両手に、花束を抱えていたから。

 夏美は竹下通りを抜けてそこまで歩いて、立ち止まる。炎天下のアスファルトに陽炎がゆらゆら揺れていて、遠い夏の日が見える気がした。

 夏美は横断歩道が赤になるまでその端に寄って、待った。そしてあの日のように辺りを見渡して、もう誰もそんなこと気にしていないのだと言われているような気がして、夏美は虚しくなる。これだから夏は嫌いだ。

 夏美は思いながら、近くの電柱にその花束をそっと置く。そのまま両手を合わせて、目を閉じる。上空からカッコウの鳴き声が聞こえ始めていた。

 そのまま、信号が二回変わるくらいの時間そうしてから、夏美は目を開いた。夏に長い時間目を閉じてから開くと、世界の彩度が落ちてうす緑色に見える気がする、と夏美は子供の時から思っている。

 夏美はそれから人混みに紛れるように歩き始めた。陽炎を踏みしめながら。

 道端に置かれた精一杯の花束を、誰も見ることなく歩いていった。

 はぁ。

 夏美はため息を吐く。

 原宿から電車を三つ乗り継いで帰ってきて今、時刻は昼下がりと呼ぶには遅すぎる時間を指していた。

 夏美は配信をしようかとも思った。目の前には歌配信をするようになってから買ったTHE FIRST TAKEみたいなコンデンサーマイクや、白いVRヘッドセットが所狭しと並んでいた。それも、二人分。

「────っ」

 夏美は、ふいに自分はきな子を利用してお金儲けをしているような気がした。楽に稼げて褒められるから、自分のそんな欲求の為に自分はきな子の夢を都合よく使っているような気がした。

「はぁ…………」

 ため息を吐くことが多くなったな、と夏美は思って、黒いモニターに映る自分を見つめていた。そんな時。

「…………背中がガラ空き、っすよ?」

 いきなり声がして、驚いて振り向くと、夏美の額に銃口が突きつけられていた。やわらかいその銃口。

「ばーん」

 きな子はおどけて言うと、その立てた人差し指の先を吹いてみせた。辺りに意味もない静寂が流れる。

「…………なんですの、それ」

 夏美が呆れてそう言うと、きな子はふふっ、と悪戯っぽく笑った。

「なんでもないっすよ」

 いつの間にきな子が帰ってきたのかは訊けなかった。ただ部屋にはきな子と暮らした証がたくさん並んでいて、夏美はそれを遠い現実のように感じていた。

「……ねぇ、夏美ちゃん」

「なんですの」

 そろそろ部屋は狭いような気もした。

「きな子たち、いつまでここにいられるんすかね」

「────っ⁉︎」

 いきなりの言葉に、夏美は胸がどくんと跳ねた。それは頑張って、考えないようにしていたことだった。いつまで経ってもつきまとう、進路、就職、面接、勉強。落ちぶれて取り残されないように、必死に輝こうとする星くずのように、夏美たちはいつまでも必死に輝き続けなればならなかった。悲しい記憶だけが歩いてきた道に(わだち)みたいに残っていた。

「夏美ちゃんの夢って、なんなんすか」

 きな子がひどく穏やかに言った。いつかも似たことを訊かれた気がした。風のつめたい冬枯れの公園で、その時二人はまだ高校生だった。

「……歳をとった時に困らないように、お金を稼ぐことですの」

 いつかも似たことを言った気がした。夏美は、椅子に座ったまま、首だけで後ろのきな子を見ていた。

「夏美は気づいたんですの。この世の中はマニーだけでは、生きていけない……だからせめてマニーくらいは、困らずにいたいんですの」

 夏美が言うと、部屋には沈黙が降り、なかった。

「ウソっす」

 きな子が短くそう言った。夏美は、そんなきな子を見つめる。その表情がみるみる悲痛なものへと変わっていく。

「夏美ちゃん、気づいてないかもしれないけど、ずっと、ずっと苦しそうなんっすよ……? 本当はどう思ってるのか、きな子にも聞かせて欲しいっす」

「それ、は……」

 もう進路を決めて次の場所へと行く時間だった。きな子は、どこに就職するんだろう。音大の声楽科なんて、どこにも就職できないと、ネットで聞き齧りの知識を夏美は思い出していた。

「ゆうやけがきれいで

 いぬーはーかわーいくて」

 ふと、きな子が小さな声で、歌い始めていた。

 夏美ははっとする。知っている歌だったからじゃない、きな子のその声が、泣き出してしまいそうに濡れていたから。

「やぼなーニュースにいーっしょに

 むーかーつーいてー」

 夏美はなぜか、きな子と歌ったtwinkle nightを、思い出していた。撮影環境としては不十分過ぎるこのアパートの一階の角部屋で。視聴者のリクエストに応えて歌を歌っていた毎日。

「だめえいーがでーわらあってー

 ばーらえてぃーみーてーないて」

 きな子と歌を歌うのが楽しかった。

 本当は、一番になるより、誰に褒められるより、好きなものを好きにやることがいいのだと、とっくにきな子に、気付かされていたのに。

「はしゃぎーまわるーすこしーさみしい

 ふたりーがいたー」

 カメラが回っていないので視聴者は一人だった。それがすごく素晴らしかった。寂しいくらいこの部屋は満ち足りていた。

「きみもーぼくとーおなじくらーい

 わるいひーとでよーかあったー」

 本当はずっと前から気づいていた。

 夏美の本当に欲しかったものは、お金じゃなかった。

 本当はお金じゃなくて居場所が欲しかった。

 本当は居場所じゃなくて、ただ傍にいてくれる人が欲しかっただけだった。

 分かってたはずだった。そんな簡単なこと。

「あしたーもまたーいきていたーい

 きみをすきでよーかあったぁ……」

 ゆっくり声だけのアウトロが消えていった。きな子の声は、出逢った頃よりずっと伸びやかに、しなやかになっていた。

「…………夏美も」

「うん」

 きな子の綺麗なエメラルドの瞳が夏美を映していた。歌の続きを歌うように、夏美はゆっくり口を開く。

「…………夏美も、本当は音楽がやりたいんですのっ……」

 口を開けば、自分の声もぐずぐずだった。きな子の歌は人を惹きつける不思議な魅力があると、出逢った時から思っていた。

「…………夏美は、きな子がっ、羨ましかったんですのっ……まっすぐで、努力家でっ……」

 夏美の口からぽろぽろこぼれ落ちる言葉を、きな子はそっと拾い集めて聴いてくれているみたいだった。

「夏美はっ……きな子みたいに、なりたかったんですのっ……」

 夏美が言うと、部屋は処理落ちした画面みたいに動かなかった。ゆっくり、ふりをつけて、呼吸をするのに時間がかかった。

「夏美ちゃん」

「なんですのっ……」

 泣き腫らした顔で見上げて、言葉が途切れた。きな子がとんでもなくやさしく笑っていたから。

「一緒にしよう? 夏美ちゃん……夏美ちゃんと、きな子の、二人で……二人だけの会社」

 きな子は冗談めかして、安心した子供のように泣きながら、大袈裟に手を開いてみせた。

「ね……CEO」

 きな子の声が、この部屋の静寂と似ても似つかぬやさしいそれに溶けていくのを、夏美は中途半端に身体だけ振り向いたままで聞いていた。

「……久しぶりに聞きましたの、それ」

「夏美ちゃんが最初に言ったんじゃないっすか」

 夏美が言って、きな子が言って、声はしっかりお互いに届いていた。

 夏美は少し胸の(つか)えが取れたような気がした。

「夏美ちゃん、辛かったんすよね……今日も、メイちゃんのところに、行ってたんっすもんね」

 いきなりそう付け足されて、夏美は心底驚いた。ずっと抱えてて、でもきな子には見せないようにしてきたのに。

「な、なんできな子がそれを……」

 夏美がうろたえていると、きな子は得意げににっと笑った。

「何年来の付き合いだと思ってるんすか」

 夏美ちゃん。

 そう言い加えて、きな子は笑っていた。多分今私たち、すごく清々しい顔をしてるだろうな、と夏美は思った。

 窓の外で、日が暮れていた。アパートの一階と向かいの建物のわずかな隙間に覗く空。

 その夕焼けはでも、もう汚れた血の色ではなくて、やさしく綺麗なものに、夏美には思えた。

「……夏美ちゃんみたい」

 きな子が窓の外を眺めて、言った。

「え」

「……美しい夏、って書くじゃないっすか、夏美ちゃんの名前」

 部屋の隅にひだまりができていた。そこだけとても、やさしくてあたたかい気がした。

「きな子、夏美ちゃんに逢えて、嬉しいっすよ」

 きな子が言った。

 そんな嬉しい言葉に返す言葉は、ネットの聞き齧りの知識では知らなかった。部屋の隅のひだまりに世界の秘密が隠されている気がした。

「……夏美も、嬉しいですの」

 呟いた声が言葉以上の意味を抱えている気がして、夏美は自分でびっくりした。

 やさしくてぬるい、あの頃の放課後みたいな時間だった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「オニナッツ〜、あなたの心のオニサプリ、オニナッツこと、鬼塚夏美ですの〜! 今日も相方のきな子と一緒に、歌っていきますの〜」

「みんなには悪いんすけど、今日はきな子たちの思い出の曲を歌っていこうと思ってるっす。だからリクエストは今日だけナシっすよ」

「じゃあ、さっそく一曲目から、聴いてください」

 夏美は配信のNGワードから『リエラ』を外した。

 だけど今日はLiella!の曲ではなく、夏美たちだけの軌跡の曲を歌いたかった。あの日ぼろぼろで、初夏の雨に濡れないように身を寄せて聴いたあの歌を。

 

「────きみも悪い人でよかった」

 

 美しいイントロが流れ始める。家賃の割に綺麗な、二階建てアパートの一階の角部屋に。

 音楽は時として人と人との心を結ぶことがある。

 夏美は透明で果てしない気持ちになりながら歌を歌った。何もかも抱えて生きていかなければならないけれど、それでも日々の隙間にこうしてわずかな喜びを見つけて、生きていくんだ。

 夏美はこっそり続けていた、誰の興味もないような自作のスムージーの動画もまた出してみた。再生回数はやっぱり微妙だったけれど、良いと言ってくれる人も少数だけどいた。夏美はきな子と配信や動画投稿の、その喜びも収益も、誹謗中傷もはんぶんこした。

 きな子は歌だけじゃなくて、作曲も出来るようになっていた。夏美は、プログラミング言語から情報工学系のことはなんでも出来るようになっていて、自作でパソコンを組み立てたり必要なソフトウェアを作成したりしていた。

 卒業の日は思ったより早くやって来た。

「あっ! きな子! だからお店で呼び出しボタン何度も押すなって言ってますの!」

 考えなきゃいけないことはたくさんあった。

「内見はいいっすかね……ね、夏美ちゃん」

 部屋は都内の完全防音の白い部屋になった。

「あーあー、マイクテスト、マイクテスト……夏美ちゃん! 早く歌おう!」

「わーかってますの! もう、ステイステイ!」

 VRヘッドセットはちょっといい黒いのになった。ショックマウントもマイクスタンドもコンデンサーマイクも全部性能の良い物に新調した。THE FIRST TAKEみたいだ、と今度は本当に思った。

「はい、じゃあ配信始めますわよ……いいですの、きな子」

「はいっす! いつでも!」

 そうしてゆっくり時間を重ねていくことを、人は人生と呼ぶのだと、夏美はだんだん知っていった。

「みなさんこんばんは! 今日もきな子たちのチャンネルにようこそっす!」

「早速一曲目、行きますの〜!」

 いつかも歌ったあの歌を。

 いっぱい笑おうってさ、歌おうってさ、伝えたいから、まだまだ遠くへ行こう。広がる、世界。

「Liella!より……追いかける夢の先で!」

 イントロの鐘の音が、流れ始めた。

 世界中を駆け巡る、流れ星になって。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 何かを創ることは楽しかった。

 夏美はそんな日々を過ごしていた。

 ずっとこんな当たり前な日々が続いていくと思っていた。

 夏美が二十二歳になった晩夏のことだった。

 いつもみたいにネットサーフィンをしていた。エルチューブのAIが自動でおすすめしてくる動画の一つに、見たことのある人がいた。

 心臓がばくんと脈打った。

 大型モニターに映るその人は、サムネイルだけでも誰か分かった。とんでもない世紀の大発明をしたと、書いてあった。

 夏美は手の動くままにその動画をクリックしていた。

 瞬くフラッシュ、尋常じゃない人だかり、その注目を一身に浴びる、長く青い髪のくたびれた白衣を着た人物。

 ────圧縮技術の発明は、どのようなご経緯で!

 ────ノーベル物理学賞としては最年少での受賞となりますが、ご感想を!

 ────世界中の科学力を以ってしても半世紀以上を超える発明だと言われていますが!

 好き勝手言っているインタビュアーたちに、その人はつまらなさそうに赤い瞳を向けているばかりだった。早く終わってくれ、と全身でそう言っていた。

 夏美はそういえば昔、自分はノーベル賞を取るような科学者になりたい、と言ったことをふと思い出した。

 どうしてだろう。

 ふと、たまらなく会いたくなった。

 向こうは覚えてないかもしれない。相手にしてくれないかもしれない。今やあの人は時の人で、一方の夏美はフリーターでしがないエルチューバーをやっている。まるで共通点がなかった。

 でも、ふとスマホを取り出してメッセージアプリを開いて、そのアカウントをタップする。

 六年前、まだ夏美たちが高校一年生だった時のまま、そこは時間が止まっていた。胸が軋むのが分かったけど、なぜか簡単に電話ボタンを押せた。アカウントが変わっている可能性の方が高いだろうと、そう思ったからかもしれない。勇気が出たのが遅すぎることへの言い訳かも。

 コールは永遠に続いていくようだった。配信部屋は防音室なので、音が吸い込まれて、黙っていると耳が痛いくらいだった。

『────プツッ』

 だから、それが途切れた時は通話が途切れたのだと、そう思ったのに。

『…………はい』

 全身を地面とか壁とかに強く叩きつけられたような、凄まじい衝撃だった。とてもこの世のものとは思えなかった。それが、その声が、変わらなさすぎて。

「……元気、でしたの」

 夏美は自分から出る声の神妙さに自分で驚いた。いちいちものすごい時間が経った気がした。

『元気か……分からない』

 色も起伏もない声が受話器から聞こえてきた。胸が刺されたように痛かった。

「……夏美の方は、色々ありましたの、本当に、色々」

 何を言うべきか夏美はよく分からなかった。

 だから、夏美は四季に、四季と別れてからのとびきり長い近況報告をした。

 きな子と一緒に暮らしたこと。大学に行ったこと。自分なりの生き方を見つけたこと。住む場所は二回変わって、マイクは三回変わったこと。それから────

「メイちゃんの命日には、毎年花を、供えてますの」

 夏美が言うと、スマホの向こうで初めて、息を吸うような鋭い音がした。

『……あれ、夏美だったの』

 四季の声が、ほんの少し色味を帯びた気がした。

「はい……私には、忘れないことくらいしか、できませんので」

 ()

『夏美、私はね』

「はい」

 また、()

『私は、メイを助ける為の、研究をしてるの』

「…………え?」

 ちょっと、()があって。

「な、何言って……だってメイちゃんはもう……」

『分かってる』

 ま。

 ま。

 ま。

『だから、研究をしてるの。私は日本政府を利用することも、厭わないつもり』

 ううん、そうするんだけどね。

 そう言い加えて、四季の乾いた笑い声が遅れて聞こえた。何を言っているのか、全然夏美には意味が分からなかった。

「なんです、のそれ……四季ちゃんの言ってることが、よく分かりませんの……」

 そして決定的な沈黙があって、夏美は数年越しに四季の思惑を知ることになる。ある日見た炎天下の下、四季の横顔が呟いた言葉の意味を。

『タイムマシンを、作ろうとしてるの。私はね』

 これが世界の崩壊への第一歩であることを、この時の夏美はまだ知る由もない。

 四季の声が冗談を言っているようには聞こえなくて、ただ夏美は、薄い板切れを耳に押し当てていた。

 永遠みたいな()の中。

 

 それからも日々は不可逆な変化を辿る一途だった。

 夏美はきな子とバーチャルエルチューバーとして歌やトークをするだけで生活ができるくらいの知名度を獲得していた。日中や空いている時間はきな子と一緒に公園に行った。

 夏。

 今まで見えていた陽炎の向こうの日々は現在とは違う場所だった。二度と戻れない場所だと思っていた。

 夏美はゆらめくアスファルトの先を見つめながら、思う。

(でも、四季ちゃんは戻ろうとしていますの。本気で、あの夏に────)

「ん? 夏美ちゃん、どうしたんすか?」

 アイスクリームの木の棒を咥えたきな子に言われた。夏美はそっちをちらっと見てから、また目の前を見つめる。

 夏美たちの生活はネット上でほとんど完結しているので、時々郵便局に行って現金を引き出して、近所の自動販売機で買い物をする以外では現金を目にする機会もまずなかった。

「あー、夏美ちゃん! アイスアイス! 垂れてるっす!」

「え、わ」

 きな子に言われて、慌ててそれを咥える。ソーダ味のアイスは、舌につめたくて美味しかった。

 日々は水のように、一方通行の流れを辿っていった。

 この先に待ち受けることなど思いもせずに、その晩も、夏美はきな子と冷奴を切り分けては口に運んでいた。

 ひどく懐かしい味がした。

「美味しいっすね、夏美ちゃん」

「……ですね」

 変わっていく世界を受け入れながら、なす術なく二度と戻れない道を流れていく。

 夏美は麦茶で、出かかった言葉ごと何かを流し込んだ。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 その翌年、またある日、ネット上を震撼させるニュースが夏美の耳に入った。

 その時は夜になろうかという時間で、ちょうど休日だったのできな子と長めの歌配信をやっていた。コメント欄が珍しく違う話題でいっぱいになっていて、言い争いまで起きているので、何事かと思って配信を中断して見てみると、その人が映っていた。

『空間の点と点を結んで人や物体を自由に任意の場所に移動することのできる技術を発表した世紀の天才科学者────若菜四季が今記者会見会場に現れました。この技術はノーベル物理学賞、化学賞の受賞が囁かれているばかりか、前年度の物質圧縮の技術同様に現日本政府で技術の独占をするとの方針を内閣総理大臣が発表したことで世論では疑問の声も上がっており、他国との緊張感の増す中でこのような技術が公表されたことによるより一層の戦争への不安が高まっております。繰り返します、任意の空間を自由にワープすることのできる技術が────』

 モニターに映る映像は阿鼻叫喚の渦という感じで、それは夏美の知っている日本語にすると、まさしく地獄だった。

 多分もう色々なことが手遅れになってきていた。夏美は定期的にネット上で囁かれる20××年世界滅亡説が頭を過った。

「ちょっとトイレ行ってきますの」

「え、夏美ちゃ────」

 夏美はきな子にVRヘッドセットを預けて、急いでトイレに駆け込む。スマホを取り出して、四季に電話をかける。コール音。出ない。切れる。もう一度……コール音、出ない、出ない、ぷつん。

 夏美が四季に何度電話をしても、繋がらなかった。

 その日以来、世界は大きく二つに分かれることになる。

 四季の技術を使う権利と地位と力を持つ上の人間と、夏美たちのように何も持たない人間。その中で必死に生きていく人たちは、新宿を中心に大きく発展した未来都市としか言いようのない圧倒的な技術力で造られた大都市と、その出涸らしとして周囲を取り囲む低所得者たちの暮らす昔ながらの街だった。

 その更に翌年だった。

 空間転移で新宿以外の街の邪魔な高い建物を平坦にして上空で交通網を整備する動きが起きて、その日渋谷付近の四階以上の高さの建物が全て消滅した事件は、思えば決定的だったと思う。それ以来、高い建物は恐れられていて取り壊しが多くなっていたばかりか、入居者もあまりいなかった。

 季節は飛ぶように過ぎていった。ネット上には若菜四季を崇拝する人や、悪魔だとなじる人や、関係なさそうに好きな音楽を出している人なんかがいて、今や世の中は、自分のやりたいことをするのが何よりだという考えだった。

 一度、何の気なしにつけたテレビに知り合いが映っていて、夏美は驚いたことがある。

 その人は世間の喧騒や絶望に呑まれることなく、凛々しい佇まいでそこにいた。今をときめくスーパースター────平安名すみれ、先輩。

「わ! すみれ先輩っす! モデルさんになってたんっすね〜綺麗っす〜」

 きな子がご飯を食べる手を止めてそう言った。食事は質素なもので、ご飯に味噌汁に、おかずはシャケの塩焼きとか……それさえなければ納豆とか。

 きな子みたいに結構楽観的にしている人もいたけれど、夏美にはそんなことできなかった。だって消費税も所得税も、住民税でさえ倍以上なっているのだ。物価は大して上がっていないのに。

「…………かのん先輩たち、元気ですかね」

「ん? なんか言ったっすか」

 きな子が首を傾げていた。

「い、いえっ! 何も!」

 夏美は大きく首を振る。なんとなく、この家では昔の人に関する話はしたくなかった。

 …………特に若菜四季の話は。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 ある日の夜だった。

 夏美はもう二十六歳になったというのに、生きるのはやっぱり難しくて、悩みの種が尽きることはなかった。

 でもきな子と一緒に暮らすのは楽しかった。家族と過ごすのとも違う、多分恋人とも違う、親友と言ってしまうには深過ぎる気がするこの関係は『きな子といる』という言葉以外では説明がつかなかった。

 そんな日々。

 その時夏美は、晩ごはんを食べた後のやんわりした空気感のリビングから出て行って、玄関近くの台所で、じゃんけんに負けたので洗い物をしていた。リビングから馬鹿笑いが聞こえてくる。きな子は世紀末だからかやけに増えたお笑い番組に夢中らしく、楽しそうに笑っていた。

 夏美はその声を聞いて、胸があたたかくなる。きな子の声はなんて人を幸せにするんだろう、といつも思う。時々煽られるけど。

 その時だった。何気なくポケットに突っ込んでいたスマホが震えたのは。

 何気なく気になって、水道水を止めて、Face IDで開けたスマホの、メッセージアプリのトーク画面に、

『今から来れる?』

 と表示されていた。

 そのスマホが手から滑り落ちて、床とぶつかって、かつんと音がしたのを、夏美はどこか他人事みたいに聞いていた。

 それを送ってたのが、なんでもない大学の上部だけの付き合いで連絡先を交換した子ならよかった。かつての先輩でもよかった、あるいは後輩でも。ううん、あなたじゃなければ、誰でもよかったはずなのに。

 夏美は笑い声の聞こえるリビングには戻らないで、コートも羽織らずに着ているままの服でおもてに飛び出た。

 外はすっかり寒くなっていた。でも夜の闇には星一つ見えず、黒い穴が空いただけみたいになっている。夏美はその冬空の下を走った。

 この時間に外に出ることは、ここ最近ではなくなっていた。それは外に出る必要が、そもそもあまりなかったからなのもあるが、それ以上に犯罪が多くなっていたからだった。

 三年前から、地域差はかなりあれど、元々そんなに裕福ではない夏美たちの住むような場所は特に治安の悪化が激しかった。見ないふりしてネットに篭るのは、だから都合がよかった。

 慌てて切符を買って改札をくぐり、やって来た電車にそのまま飛び込む。山手線の外回り。目的地はちょうど環状線の反対側にあったから、どちら向きに乗ってもそんなに変わらなかった。

 夏美は閉まったドアに背を預ける。手元の『痴漢注意』と『不審者注意』を促す黄色いシール状の貼り紙がぼろぼろに剥がれかけていた。そのまま座る気にもなれずに、なぜか青い光が空に何本も、何かを探すように照射され動いている新宿の方を見ていた。そこに近づくのを怖いと思った。

 その手前の、相対的に暗く見える街で夏美は降りた。誰もこの駅では降りないみたいだった。昔はあんなに人で溢れていたのに、いつの間にこんなになったんだろう。

 夏美は思いながら、人のまばらなコンコースを駆け抜けた。

 

 送られてきていた位置情報をマップで開いて、しばらく薄暗い繁華街を走る。もう、すぐそこみたいだった。

 裏通りに入るようにスマホに言われるがままに入る。一本道を入るだけで、景色はネオンの色が深く、ぐっと怪しくなった。店名が中国語で書かれていて、何のお店か分からないお店もちらほらあった。

 その中の建物の、外に螺旋階段のついた、一見して廃ビルにしか見えないところを、マップは指していた。夏美は間違いじゃないのかと思ってスマホを見つめ直した。

『そこの二階の奥のドア』

 見られているかのようなタイミングでのメッセージに、夏美はどきりとして辺りを見渡す。暗くて誰もいなかった。何もない、ように見えた。

「…………なんですの、もう」

 夏美は言われるがまま階段を登った。

 そのまま奥まで歩いていって、立ち止まる。暗闇の中でも分かるほど鉄錆の浮いたドアノブを見つめる。深呼吸する。ゆっくり吸う、そして吐く。ものすごい心臓がばくばくいってるのが分かった。

 夏美は勇気を出してそれを握り、回した。しかし思いの外それは容易く回った。

 そして足元を気にしながら、薄暗い廊下を歩いていった。すぐに、トンネルから出る時みたいに光が見えた。そこに足を踏み入れる。

「────っ⁉︎」

 夏美は息を呑んだ。

 バーだった。

 壁には一面にお酒のボトルが立って立体的に並んでいて、取りやすいように上下二段に分かれており、その下から青い光で照らされていた。この場所自体は薄暗い暖色系で照明も整えられているので、お酒だけがぼんやりと青く見えた。

 そしてその手前にある五席しかないカウンターの、その一番奥の席に、その人はいた。店内にはその一人しか姿が見えなかった。

 白衣の裾は椅子に座ると、地面にまでもついてしまいそうなくらい長かった。最後に見た時よりさらに長くなった青髪は、手入れも何もしていないのかぼさぼさだった。そしてその手には、煙草が(くゆ)っていた。

「あ、あのっ…………」

 夏美がその後ろ姿に言おうとすると、その人は空いている右手で空いている席の椅子をトントンと叩いた。

「ここ、座って」

 そして夏美は言われるがままに、その人の右隣の席に腰かけた。椅子は座る時に軋んでキィと鳴いた。

 無言。

「あのっ、久しぶりですねっ…………」

 また、無言。

 その人は手で口全体を覆うようにして煙草を吸うと、近くの灰皿に灰を落とす。それから心底不味そうに煙を吐いた。

「…………久しぶり」

 四季は、出会った頃より更に起伏のない声で言った。すでに吸い殻でいっぱいになった灰皿に、煙草をすり潰す。

 四季の前には緑色のボトルが置いてあった。手元にはロックグラスに注がれた琥珀色の液体。ウイスキーだ、と無知な夏美でも分かった。

「…………飲んでみる?」

 じっと見つめていると、四季に言われた。

「えぇ、いただきますの……」

 夏美が言うと、四季はグラスを手のひらですっと滑らせた。夏美の前にちょうどそのグラスが来る。そういうのはどこで覚えてくるんだろう、と夏美は思いつつ、目の前のグラスを両手で持ち上げる。そして一口飲んだ。

「────うえっ⁉︎ 不味っ……⁉︎」

 それは、夏美にはめちゃくちゃに不味かった。スモーキーというのがウイスキーの売りの一つだということはなんとなく知っていたけれど、これはスモーキーを通り越して、もはやゴムみたいな味がした。

「……よくこんなの飲めますわね」

 夏美が言う頃には、すでに四季は煙草を取り出して火をつけているところだった。ジッと葉の灼ける音がした。

「私、ウイスキーはこれしか飲めない、他のは味が、もうよく分からない」

 四季は言い終わる頃にはまた煙と戯れていた。

 ラフロイグ10年。

 それが四季の前に置いてあるお酒の名前だった。夏美は、どこでこういうのを見つけてくるんだろう、と心から疑問に思う。

「……そういえば、店員さんの姿が見えませんの」

 夏美はふと当たり前なことに気がついて、四季に訊ねる。

「……あぁ、ここ、私のセーフハウスだから、誰もいない」

 四季が顎で後ろを指し示すので、夏美はそちらを振り向く。思わず声が出そうになった。

 どこにも道がなかったのだ。

 初めから何もなかったかのように、そこは平坦な灰色の壁が続いていた。魔法にでもかかったみたいだった。夏美はもう、自分がいつもの世界にはいないことに、ようやく気がつく。

「夏美」

 顔を戻すと、今度はカウンターの内側に四季が立っていた。物音ひとつしなかった。隣に座っていたはずの四季の座っていた席には誰もいなくて、灰皿ではまだ煙が薄く立ち上っていた。四季の髪が揺れて、その耳に赤いピアスが覗いて見えた。

「…………協力して欲しい、話がある」

 四季はカウンター内側の、お酒を客に見せる用の高い部分に両手をついて、言った。

 夏美はごくりと唾を飲む。もうのっぴきならないところまで来ているのが分かった。でも、来るまでの不安な感じはもう少しもなくて、代わりになぜか、包み込まれるような安心感があった。

「…………聞きますの、四季ちゃんの、話」

 そして夏美はこの時には既に、不思議なことに四季に協力するつもりだった。

 目の前の高身長の四季が、初めて、微かにだけれど、唇の端を吊り上げた気がした。

 終わらない夏の物語がこうして、静かに幕を開ける。

 

 

 

「……How would you like to order?(ご注文はどうされますか?)



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四章 - Koi was lie.

 夜隅に転がる、月を見ていた。

 どうしてそんなところで立ち止まったのか、なんて分からない。

 ふと、立ち止まった。

 子供の時から歩き慣れた道は今や歩幅が大きくなってすっかり短く感じるのに、ある日唐突に驚いたりすることがあるのは、一体どういう訳だろう。もう自分はすっかり、大人になっているというのに。

 どうして────

 思い出し、恋は途方もない気持ちになる。真上の空を見上げる。こわいくらい空っぽで、ただ底なしの穴が空いているみたいだった。

 どうして、こんな気持ちになったんだろう。

 恋は夜闇に目を細める。

 この気持ちをどう表現していいのか分からない。

 かつてはそれは、あたたかいと、苦いの、幸せと、切ないの、間くらいの気持ちだった。物語やドラマの中だけだと思ってた、そのごくありふれているらしい感情には、でも向き合いきれなくて、だから自分は今こんなことをしていた。

 恋は納得がいかない訳ではなかった。でも、全てに頷ける訳でもなかった。だから今日も鞄の中には白衣が入っているのだし、新宿を護る為に上空を監視する光はここからでも眩しかった。

 煌々と光る街のあの中で、恋は暮らしていた。自分が何がしたいのか、何をしようとしているのか、もう何も分からなかった。

 遠い月を見つめながら、恋は思い出す。

 もう遥か彼方の出来事のように思えるあの日。

 全てを決定づけてしまった、あの日を。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 こわいくらい晴れた日だった。

 響き渡る足音、刻まれる手拍子、掛け声。ワンツー、ワンツー。上がる呼吸に周囲の熱が同化していく。

 みんなの声は青天井にぶつかって跳ね返って、何重にもなって聞こえた。眩暈がするほど暑い夏の中。

 その中で、恋はあの子の姿ばかりを、こっそり追いかけていた。

 それは今に始まったことではなかった。多分、あの子が部活に入ってきた時から、ずっとそうで。

「はい、じゃあ今日の練習はここまでね! お疲れ様っ!」

 千砂都がぱんっと手を鳴らして、その緊張感は一気にほどけた。一年生たちは一つの所に固まって、ばたばた倒れていった。

「つ、疲れた、ですの……」

「きな子もっす……」

「私もだ……また元気にしてるの四季だけかよ」

「…………」

 日差しの中、へたり込む一年生たちの、そのうちの一人を、恋は見ていた。

 片方だけお団子にした赤い髪に、帽子を被ったその姿を。でも、その人の傍には青い短髪の女の子がいて。

 恋は胸が苦しくなる前に、すぐに目を逸らす。毎日が最高気温みたいな夏。

 それを誤魔化すように日陰に入る。自分の荷物から水筒を出す。いくら苦しくても喉は乾いてしまうのが、恋にはなんだか情けなかった。

「可可さん、お疲れ様です」

 やるせなさを隠すために、そこにいる仲間にそう声をかける。

「レンレン、おつかれデス!」

 世間話。本当に見たい相手は視界の隅にいるのに、そっちは見れない。

「可可さん、今日の柔軟すごく良かったですね、前よりずっと柔らかくなってます」

 恋はできる限り朗らかに笑ってそう言った。可可は一瞬何かを考えてから、やっぱりにっこり笑ってくれた。

「ありがとデス! レンレンもダンスすっごかったデスよ」

 それから日陰は静かだった。可可はオレンジジュースを飲んでいて、恋は水筒でお茶を飲んでいた。

 恋は、その間ずっと、地面にへたり込んでいる一年生を見ていた。日差しの下にいる方が暑いし熱いと気づいて順番に起き上がるのを、ぼんやり見ていた。その子のことだけ、目で追っていた。

「レンレン、何か……悩み事とか、あるのデスか」

 ふと、隣からそう言われた。

「え」

 思わず漏れた声だけ本音だったような気がする。

 可可を見つめ返すと、でもそれ以上可可は何も言わずに恋の後ろを見つめていた。

 恋が振り返ると、一番嫌な光景が見えた。地面にへたり込んでいるその子に、メイに、四季が何かを言っていた。メイは赤くなっていて、照れ臭そうに笑っていた。あの子は、私の前ではあんな笑い方しないのに。恋は思い、ひどく虚しくなる。

「……可可さんこそ、なにか、悩み事があるのですか」

 それで話を逸らす為にそう言った。恋はその光景から目を逸らして可可と見つめ合った。それなのに、可可はすぐに吹き出してしまう。こっちは真面目に話しているのに、と恋は思う。

「いいえ、ナニも」

 そう言って可可は立ち上がった。風が吹いて、恋はにわかに涼しさを覚える。

「あのさ、すみれちゃん」

 かのんが何か言うのが聞こえた。ものすごく真剣な声だな、と恋は思った。一年生以外みんな、かのんのことを見つめているようだった。

「……一緒に自動販売機、行かない?」

 でも恋はすぐにメイを見ていた。メイのことしか見えなかった。

「いいわよ、そのくらい」

 メイの少し上気した赤い頬。

「なにしてんの、行くんでしょ」

 メイの地面に疲れた手のその指さき。ピアノを弾く手。

「ま、待って、いくから」

 かのんはすみれの後を追って、屋上を出ていった。それで急に静かになったから、恋は言い訳がましく、可可にいくつか質問をした。なんでもいいから誰かに自分の気持ちを悟られたくなかった。

 でも、ようやく歩けるようになった一年生たちが恋の傍を抜けて扉をくぐっていった。

「甘いものが食べたいっす〜夏美ちゃんいいとこ知ってないんすか〜……」

 仲良し。

「そういうのは私の専門じゃありませんの、もっと訊くのに適任な人が、ほら」

 仲良し。

「……呼ばれてるよ、メイ」

 仲良し。

「……ん? わ、私か⁉︎ そ、そんなの私もあんまり詳しくないぞ……」

 ……仲良し。

「じゃあみんなで竹下通り行かないっすか⁉︎ あそこならなんでもあるっすよ〜!」

 わいわい賑やかな声は遠ざかっていき、やがて扉の向こうで静かになった。その時、恋はなぜか千砂都に見られているような気がした。そんなにひどい顔をしていたのだろうか、と恋は思う。

「レンレン」

 不意に振り返った可可から呼ばれた。

「はい」

 なんだかつめたい声じゃなかっただろうか、と恋は思う。

「ちょっと、先に行っててくれマセンか」

 可可に言われて、恋は心底安心した。今日はもう帰ろう、と思った。向こうにいる千砂都と可可の顔を交互に見てから、理解を示すように頷いてみせた。

「分かりました……では、また後で」

 そうして可可の横を恋は通り過ぎて、薄暗い階段を降りていった。ここだけはどんなに真夏でも涼しくて心地がいい。一瞬で通り過ぎてしまうけど。

 そして恋は部室に入ろうとして、手が止まった。

「夏美ちゃーん、制汗剤貸してっす〜」

「自分の持ってこいってこの前も言いましたの! もう貸しませんの!」

「え〜ケチっすよ〜」

「まぁまぁ、きな子、私の貸してやるから、な?」

「メイは、甘すぎ……」

 だって、すごく和やかで穏やかな、笑い声や叫び声が聞こえてきたから。そこに入る気になんてなれなくて、その扉の前でいつまでも立ち竦んでいた。

 だからこっそり、階段の下が見える廊下に隠れて、恋は待とうと思った。一年生が帰ってくれないと、部室にはとても入る気になれなかった。

「なぁ、四季」

 いきなりだった。

 そこに隠れて、数秒か数分か分からないけれど、廊下の上から、色とりどりの足元が切り取られて見えた。

「…………なに」

 やがてその身体が踊り場から出てくる。先頭にメイがいて、その隣に四季がいた。

「夏休み、どっか行くか? みんなで一緒にさ」

「…………」

 メイが四季にそう言っていた。四季はいつもより無表情で、恋はそれがなぜか心に残って、なんと言うのか気になったから、物陰に隠れてじっと見ていた。

 でも、四季は何も言わなかった。ゆっくり四人は階段を下りて、やがて頭も見えなくなり、声も聞こえなくなった。

 恋は、ようやく部室に帰れるようになった、とそう思いながらも、本当はこうしたい訳ではなかった、とも思った。

 その考えを払うように恋は首を横に振ると、部室に戻って荷物をまとめた。そしてそのまままっすぐ家に帰った。

 そこでピアノを弾いていた。言いたい言葉は言えないから、代わりに歌で、と思って。

 いつまでも、いつまでも。日が暮れるまで歌っていた。

 その日が、この世界でメイを見る最後になるなんて、その時の恋はまだ、知らなかった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 その翌日。

 朝から狂ったように蝉が鳴いていた。外のどこにいるのか分からないけれど、雨みたいに叩きつけるように、蝉は叫んでいた。

 メイが事故で亡くなったのは、その日の朝のニュースで知った。

 恋はその時、メイドのサヤの用意してくれたフレンチトーストなんかを食べ終えて、普段は見ないテレビを何気なく見ていた。『次のニュースです』から始まるアナウンサーの神妙な声と共に、よく見知った地名と場所が読み上げられた。

 恋は身体が一気に硬直して、テレビ画面に目が吸い込まれるのが分かった。

『先日夕方、東京都渋谷区神宮前竹下通りにて、大型トラックが逆走し、信号を無視して横断歩道に突っ込み、学校帰りの女子高生が一人死亡したとのことです。辺りの幸せな空気は一変……一体何があったのでしょうか』

 恋は嫌な感じがして、いきなり不快な汗が身体中から噴き出すのが分かった。テレビはもう見慣れた街並みが広がっている。これ、全国ニュースだ、と気がつく。

『トラックと衝突したのは、米女メイさん(16)で、事故後搬送された病院で改めて死亡が確認されました。トラックの運転手は現場にて逮捕されて、現在黙秘しているとのことで警察は事情聴取を進めています。えー、一体なぜ、このような痛ましい事件が起こってしまったのか、現場と中継が繋がっております……』

 恋は頭をぶん殴られたみたいだった。

 一向に話が進まないアナウンサーと現場リポーターのやり取りを、恋は呆然と見ていた。なんて言いましたか、今。でも、変わった名前だから、聞き間違えようもなかった。米女、メイ。

 

 ────私の名前、全部一つにすると『数』って漢字になるんだ、おかしいだろ

 

 いつだったか、二人で音楽室にいる時に、メイがそう言ってくれたことがある。

 話の前後は覚えていない。ただそれを紙に書いてやってみて、本当だ、と驚いて感動したことしか覚えていない。な? と言って歯を見せて笑うメイの姿。

 耳障りなテレビの音を、でも消すこともできずに恋はじっと見ていた。地面が一部水溜まりのように変色しているところが映されて、恋はそれでいきなり、今食べた物を全て吐き出してしまいそうになった。

 その事実を受け止めるのに、それから先ものすごい時間がかかることになるのを、その時の恋はまだよく分かっていなかった。

 メイが死んだ。

 それが自分の全てを狂わせることになることも。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 夏休みは誰とも会わなかったから、すぐに過ぎた。恋の家は一人には広すぎて空虚に思えた。それは恋の心そのものみたいで、居るだけで苦しかった。飼い犬のチビの散歩も最低限度に控えた。

 時々、恋はメッセージアプリを開いてそのグループを見るのだけれど、それはあの日を境に何の報告も何の冗談も書かれていなくて、時間が止まってしまっているようだった。誰も何も言わないのが、かえってその事実を物語っているようで、恋は苦しさだけが募った。

 そうして夏が終わる頃、恋は久しぶりに学校に行った。夏休み中の部活の練習は無かった。そんな空気じゃないのは言わなくても分かった。

 鉛みたいに重い学生鞄を両手で吊り下げて、恋は通学路を歩いた。

 幸いだったのは、恋だけ音楽科だからクラスが違ったことだった。教室には部活のメンバーは誰も、いなかった。

「────っ」

 でも、恋が入ってきた時、明らかに教室の空気が変わった。

 ピリッとしたような、ビリッとしたような、張り詰めるような感じ。何かに気を遣って自分の呼吸さえ止めたくなるほどの、やるせない、居心地の悪い空気だった。

 そのまま席に着けば授業は始まり、お昼休みになり、また授業は続いて、そして終わった。何も頭に入ってこなかった。

 気がつくと教室はざわめきを取り戻し、数人ずつ固まって出ていっているようだった。恋はそれをぼんやりと聞いていた。誰も恋には構わなかった。

「…………あの」

 呟いた声が、今日初めて教室に入ってから発した声であることに恋は気づき、自分ではっとする。

 教室には恋以外誰もいなかった。ただ締め切られた窓と、後ろだけ半開きになったままのドアに囲まれて、けたたましいほどの静けさが満ちていた。

 恋は苦しくて、いたたまれなくて、立ち上がる。教室を後にして、半開きの扉は丁寧に閉めてから、廊下を歩いていった。静かな放課後の廊下に足音が何重にも反響して聞こえた。

 どうしてだろう。

 恋は部活に行くつもりはなかった。当然だろうと思う、でもだからといって、そのまま帰るにはまだ空は青すぎた。

 どうして、そこに行こうと思ったのか、分からない。

 ただ恋は気がついたらそこに向かっていた。部室へ向かうのとも、帰るのとも違う道、そこは。

「────っ⁉︎」

 思わず声が出そうになった。その部屋の扉の手前くらいに、細かい紙切れみたいなものが散乱していたのだけれど、その正体に気づいたから。

『科学愛好会仮部室』

 そう書かれていたらしい紙が、めちゃくちゃに破られていた。鋏で切った感じではなく、素手で破ったような乱暴な感じだった。

 誰がそれをしたのか、すぐに分かった。そんなことをする人は、そんな気持ちになるはずの人は、一人しかいなかった。

 恋はその紙切れを出来る限り踏まないようにしながら、その扉を開く。そこはするすると音もせず、無抵抗に開いてしまう。

 恋にはなぜか、そこの床一面がきらきらして見えた。そしてその真ん中に、その人がいた。

 目を奪われた。

 白衣を着た後ろ姿、青い髪は肩までで、その向こうの窓の外は青空だからこの部屋まで一面青色に見えた。

 そしてその人の左手には試験管が握られていた。それは、しかし、その人がそのまま手の内で、パキンと音を立てて割れた。真っ二つになった試験管は床に落ちてさらに砕け、きらきらしたものの一部になった。

 よく見れば、この床に散らばっているきらきらは、全部ガラスの破片だった。

 恋は呆然と扉を開け放したまま、廊下側に立ち、それを見ていた。その人の左手から赤いものが滴り落ちて、音も立てずに地面を汚していった。

「四季、さん…………」

 無数の破片にこの世界が映り込んでいた。ゆっくりと、恋の目の前で、四季が顔だけで振り向く。

「…………なんですか」

 四季はその血まみれの両目で恋を見ていた。恋はそれを見て、ぞっとした。まるで同じ生き物のように思えなくて。

 恋は何を言えばいいのか分からなかった。

 しばらく続いた沈黙に耐えきれなくて、恋は口を開いた。

「ど、どうされたんですか、これは…………っ」

 言い始めてから、恋は間違えた、と思った。どうしたもこうしたもなかった。恋が知っている情報と、ここで四季が行なっていたことが全てで、それだけだった。説明は不要だった。

 風が吹いて、廊下に落ちていた紙切れを科学室の中に持ってきてしまった。

「…………あなたは、何も思わなかったんですか」

 言いながら、四季はまた窓の外を見ているみたいだった。そっちにはいつもみんなで一緒にいた、屋上が見えた。

 何も思わなかったのか、と、そう問われて恋はかっとした。何も思わない訳がないじゃないですか。だってメイさんが死んだんですよ? 私は、メイさんのことが好きだったんですよ? そんなこと、ある訳が……

 恋は自分の作り出した沈黙に耐えかねて、そこに足を踏み入れる。隠した本音を、誤魔化すように。

「そんな訳……ないじゃないですかっ!」

 ぱきり、足元でガラスの砕ける音。絶対に元に戻らない、美しい景色を映す破片。

「メイさんが死んでしまったんですよ……⁉︎ 何も思わない訳、ないじゃないですかっ!」

 ぱきり、音が止まない。取り返しのつかない言葉の数々が砕けていく。

 ふわり

 そうして恋は気がつくと、四季を後ろから抱き締めていた。一瞬、重力というものを失くしてしまうほどの感覚があった。顔を埋めた四季の白衣はひどくつめたかった。

 そのまま粉々に砕かれた世界の上で、恋は四季を抱き締めていた。好きな人を失った者同士の親近感と、ほんの少しの、でも確かに感じた自分の奥底にある、ざまあみろという残忍な感情をどうにか隠すために。

「恋先輩」

 恋はいきなりのことに、どきっとする。名前を呼ばれたからじゃない、四季の手が、恋の腕を求めるように、引っかかったから。

「私、メイを助けるつもりで、生きています」

 四季はそう言った。それはさっきまでの冷酷な声ではなくて、確かに少しのあたたかみを感じられるものだった。

「…………どういう、ことですか」

 恋は、思わず訊ねる。助ける、なんて、もう死んだ人相手にそんな強い言葉を使える四季の思惑が、恋には分からなかった。

「タイムマシンを作って、過去に行くんです」

 四季が吐く言葉が恋の腕にぶつかって、体温と同化していった。恋はしかし、耳を疑った。タイムマシン、タイムマシン……とは、つまり、そういうものを指す言葉なのでしょうか。

「この世界を放棄して、メイを助ける……それが私の、目的です」

 でも、四季の言葉は揺らがなかった。恋は、まだ抱き締めたままのその四季のちいさなぬくもりを護りたいと、本当に自分勝手に思った。

「四季さん」

「はい」

 世界は少しずつ、壊れていった。割れていない試験管の一本もない科学室の片隅で。

「私も……その計画に、協力させてください」

 その言葉は全て本心ではなかった。ただ精一杯の嘘吐きだった。

 恋はただ四季を抱き締めていた。必死で護るように強く、壊れてしまえばいいのにと、心のどこかで思いながら。

 四季は返事をしなかった。

 割れた宝石をばら撒いたような床が、歩いてもいないのにぱきりと鳴った。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 恋が行く場所は学校。

 学校で行く場所は、教室と、昔なら屋上だった。

 でも、今は違った。

「今日は何の実験をされるんですか?」

 恋はそう訊いた。科学室の奥のテーブルに並んでいた四季に向かって。今日も、ここに来ていた。

「…………」

 四季はそのテーブルに何かを組み立てていた。左側に数字が表示されていて、それはどうやら現在時刻らしかった。中央は何かの構造のモデルのような物、右側はヘッドホンらしきものが引っかかっていた。恋にはそれが、まだ完成していない何かということくらいしか、分からなかった。

「…………いや、まだ、何もしません」

 四季は言うと、今組み立てた何かの装置を逆に分解し始めていった。

「あ……」

 恋は、四季がする実験が好きだったから、もったいなく思った。もっと見ていたかった。ここに来て、ここの空気を吸って、四季のするよく分からない実験を見ているのが恋は好きだった。そんな日々を過ごしていた。

「…………恋先輩は」

「はい?」

 開け放した窓から風が吹き込んで、するりと足もとにからみついてはほどけていく。

「恋先輩は、どうしてここにいるんですか」

 四季がつめたく言い放つ。

 恋は何も言い返せなくて、わずかに後ずさる。科学室の床が脚に引っかかった。

「……どうして」

 どうしてか、なんて、恋は考えなくても分かった。それは学校に来ても放課後いつも部活に費やしていた時間がないからで、かといってそのまま帰ってもだだっ広いお屋敷で一人、ゲームをする気にもなれなかった────ゲームをしたらむしろ思い出してしまって辛い────から、どうしようもなくて、同級生たちも皆それぞれ自分とその大切な人の心を護ることに必死で、誰も余裕なんてなかった。

 だからここに来た。

 ここに来れば四季がいた。いつも何かよく分からないことをしていて、時にこうして何かの装置を組み立ててみたり、それを分解したりしていく様を見るのが、恋は好きだった。

「……四季さんと、一緒にいると落ち着くんです」

 それは本心かもしれなかった。恋は他にどう言えばいいのか分からなかった。でも本心では、恋はメイのことが好きで、メイは四季のことが好きで、四季はメイを命懸けで救おうとしているほど、好き。

 ずきっ

 そんな音では済まなかった。恋は、喉もとまで込み上げるそれが吐き気であることに気がついて、すんでのところで堪える。

「…………恋先輩」

 そんな恋を、四季がわずかに不思議そうに見つめていた。恋は、自分が四季に、とんでもない本音を隠していることを悟られてしまわないように、必死に喉もとから溢れ出る何もかもを言葉ごと飲み込む。それはひどく酸っぱかった。

「な、なんでもないんです、四季さん……」

「…………」

 四季は何も言わずにしばらく恋を見ていた。もう季節も変わろうかというのに、空気はまだまだ熱を帯びている。でも科学室はクーラーもつけていないのになぜか涼しい。

「恋先輩」

 四季に呼ばれて恋はそちらを見つめる。

 いつの間にか用意されていた実験器具……と思いきや、ろうとにペーパーフィルターを差してそこに黒い粉を詰め込んだそれを、四季は用意していた。

「コーヒー、飲みますか」

 四季は相変わらず平坦な声で言った。でもその声にはわずかに、ほんのわずかに労いの意味が含まれているような気がして、恋は心がざわついた。

「……はい、お願い、します」

 一言ずつ恋が確認しながら言うと、四季はまた無表情のままでそれをいじり始めた。

 隣のガスバーナーを使って丸底フラスコで温めた水を、そのままろうとに通して、その下のビーカーに黒い液体がゆっくり落ちて溜まっていく。ここならではの斬新な淹れ方だったけれど、恋はそれをじっと見ていた。

 やがて落ち切ったコーヒーは二人分にはちょっと少なかったけれど、四季が科学室のどこかから出してきたコーヒーカップは少し小さいものだったので、分けて入れても貧相には見えなかった。恋は四季と座ってコーヒーを飲んだ。

「……あ、おいしい」

「……そうですか」

 四季は恋に対して別に嬉しくもなさそうに言った。二人はミルクもシュガーも入れなかった。

「…………四季さん」

 ふと、恋が口を開いた。思ったより真剣な声が出てしまった、と恋は自分で驚く。四季に対してはそんなのばっかりだった。

「タイムマシンを作る計画は、具体的にはどうするんですか」

 恋が言うと、四季はそのつめたく擦り切れた赤い瞳でどこか遠くを見つめた。

「まずは研究費が必要だから、日本で一番発言力のある大学の研究室に入る」

 四季はいとも容易くそう言った。その言葉には『そうなる』という有無を言わせぬ凄みがあって、恋はその迫力に少し気圧された。

「タイムマシンを開発するには準備が必要……理論ができていても、研究費は要るんです」

 四季は珍しく饒舌に喋った。理論ができている? と思ったけれど、恋はじっと黙って相槌すら打たないでそれを聞いていた。

 四季はすぐに黙った。

 風が吹いてコーヒーの水面を揺らして去っていった。

「……喋りすぎました、今のは忘れてください」

 四季は付け足すようにそう言った。しかし、もう恋には自分のやるべきことが見えてしまっていた。

「……はい、忘れます」

 また、嘘を吐いた。

 四季といると、恋は嘘ばかり吐いているようで嫌になった。それなのに、毎日放課後、ここに来ることは辞められない。こんなどっちつかずの自分、いっそ何かに専念できたらいいのに、と恋は思った。

 そしてそれは、思いのほか早く、見つかった。

(四季さんと同じ大学に行こう)

 恋のその思いつきは、すぐに固い決意になり、心の奥深くに根を張った。

「……四季さん」

「はい、なんですか」

 四季に言わなければならないことが恋には沢山あった。メイを好きだったこと、これからは四季を助けようとしていること。助けようと? していること。

「……いいえ、なんでもないんです」

「……そうですか」

 四季は興味なさそうに呟いた。恋はでも、もう本当は自分のやっていることの異常さに気がつき始めていた。

 好きな人が死んで、好きな人の好きな人が必死に好きな人を助けようとしていて、自分はその邪魔をする為に、好きな人の好きな人を、追いかけている。だから自分は、何がしたいんだっけ?

 だんだんと、倫理とか正義のネジが外れていくのが恋には分かった。それでも、もう恋にはそれしかなかった。

 四季に縋りついて生きること。

 追いかけて、どうしたいのかは分からなかった。協力したいのか、邪魔したいのか。ただ自分にはもうそれしか見えなかった。ついて行って自分が不幸になっても構わなかった。そんなことより大切なことがあった。

「四季さん」

「……なんですか」

 何度も名前を呼ぶと、流石に四季に若干の苛立ちの色が浮かんだ。でも恋は、四季の感情がわずかでも覗くことが嬉しかった。たとえそれが嫌悪や憎悪であっても。

「私、四季さんと一緒に、メイさんを助けたいです」

 またひとつ、嘘を吐いた。もうこれで何個目だろうか。数えても両手では足りないほど、嘘は積み重なっていた。

 四季は何も言わなかった。少し冷めたコーヒーを一気に飲み干して、心底興味なさそうな顔をした。

「……ご勝手にどうぞ」

 そしてそう、言った。

 恋のコーヒーカップに入っている黒い水面だけが、いつまでも静かに張り詰めていた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 恋は、それから放課後、科学室に行かなくなった。

 代わりに図書館に行くか、教室に残るか、もしくは家に直接帰るか、だった。娯楽はクラシック音楽と、チビの散歩だけにした。ゲームはしなかった。するだけ罪悪感と、焦げるような気持ちが胸を満たしていったから。

 そして恋がやることはもちろん、勉強だった。何もかも時間が足りないのは始める前から分かっていた。行こうとしている大学は日本一の誰もが認める名門大学で、ちょっと勉強したくらいで入れれる訳がないのも、よく分かっていた。

 でも恋は必死に勉強した。

 科学室には何度も行こうかとも思ったけれど、なかなか行くことができなかった。

 夕暮ればかり暮れない血まみれの夏はついに逝って、秋が来た。

 秋は風を吹かせ、果てしもなく心の空虚な部分を攫っていった。

 けれどそれも一瞬のことで、季節は冬。辺りは雪景色になっていた。黙っていると何もかも、雪に埋もれて消えてしまいそうだった。

 一度、ふと思い出したように科学室に行ったことがある。

 その時その扉にはもう何も貼られておらず、それが恋の虚しさを増した。ここにいるのがもう、その一人だけであるのを知ってしまっていたから。

 扉を開く。奥にその人がいる。退屈そうに窓の外を見ていた。

 恋はなぜかその時、メイのことを思い出していた。

 メイの手のひら、その細い指さき。ピアノを弾くときに、なぜか構えてから息を吸って弾く癖、その鍵盤が沈み込む時にこぼれ落ちるきらきらした音の粒。

 科学室に来ると、色々なことを恋は思い出した。ほんの半年前の生活、そこにいた人、もういなくなってしまった人、二度と会えない人。

 窓際に、その人の吐いた白い息が立ち昇っていくので、恋ははっとして意識を戻す。

 それが冬だったからじゃない。それは白い息というより、煙のように深く白く、冬の空気に紛れて消えていったから。

「…………四季さん」

 恋が呟くと、四季は緩慢な動作で振り向く。

 その左手に、それが挟まれていた。赤く焦げる葉先から、硝煙のような煙が線のように細く中空に伸びている、それ。

「……どうかしましたか」

 四季はさも当然かのように煙草を吸っていた。それを口から離すと、科学室の床に何も気にすることなく灰を指で叩いて落とした。そこにいたのは、前までの四季とは似ても似つかぬ誰かだった。

「…………」

 恋にはどう声をかけていいのか分からなかった。けれど立ち止まっているのも違う気がして、ゆっくりと科学室の中に入り、後ろ手に扉を閉める。そのまま一歩ずつ、四季のいる窓辺に近づく。

 四季はいつも通りの無表情で、恋を見つめていた。二人の間になんとも言えない沈黙が横たわっていた。四季は今吸っていた煙草を足もとに放って、脚で踏んですり潰す。それから白衣の胸ポケットから取り出したケースから新しいものを一本取り出すと、それを恋に向けた。

「…………吸いますか」

 左手の人差し指と中指で挟んだそれは、ひっそりと恋に狙いを定めていた。恋はそれをじっと見ていた。何を言うべきか考えていた。ここ、学校ですよ。未成年は喫煙しちゃ、ダメですよ。見つかったら逮捕されますよ。

 でも、その全てはどうでもいい指摘に思えた。だって、メイが死んでいるのだ。今さらその程度のことが、なんだっていうんだろう。むしろ、自分達みたいな人の拠り所として、こういうものはあるんじゃないだろうか。

「……はい」

 恋は小さく呟くと、四季の手からするりとそれを摘まみ取った。口に咥えてみる。なんだかこれだけで苦い気がした。

 四季がどこかから取り出したライターを、恋の口もとに近づける。

「……息、吸ってください、火がつかないので」

 シュ、っと火花の弾ける音がして、顔の前が熱くなる。恋は出来る限り息を吸った。

 そして咽せた。

「ゲホッ、ゴホッ⁉︎」

 一瞬だけ口の中に入ってきたその味は恋が人生で体験したことのないもので、思わず持っていたその一本を落としてしまう。

「……ご、ごめんなさい、私……」

 四季は何を見ているのか分からない赤い瞳で恋を見て、それから腰を折って床に転がっているそれをそっと自分の左手で摘んだ。

「────っ⁉︎」

 恋は驚きのあまり息が詰まった。

 四季は、火のついたまま床に落ちたそれを、自分の唇で咥えたのだ。落ちたことなど気にしないように。左手で、口もとを覆い隠すようにして。

 四季は細くゆっくり煙を吐く。四季の幼い顔立ちにそれは似合わないはずなのに、なぜだか恋はそれを受け入れていた。

 何もかもが壊れてしまっていた。それはあの日にメイを亡くしてから、何もかも。四季はもう一度、煙を吐いた。煙と一緒に、言葉も。

「恋先輩はこんなもの、吸わないでくださいね」

 恋はびくっとした。

 その言葉は、やさしい拒絶のように聞こえた。メイが死んでからの半年間、四季は一度も恋の言葉を肯定も否定も、しなかった。恋はだから四季の近くにいるのが心地よかった。ここにいれば泣かなくていい。ここにいれば苦しみは薄れる。ここにいればやるべきことも分かる。

 そんな、気がした。

 恋が二年生の冬の終わり際。

 その日が、四季が高校に来た最後の日だった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 恋は必死に勉強をした。

 試験、勉強、計算、お昼ご飯、勉強、タイマー、お手洗い、アラーム。数えられるほどしかやることはなくて、毎日は消耗品のようにただ擦り切れていくばかりだった。

 四季と同じ大学に行く、という目的だけの為に。

 部活のメンバーには誰とも会わなかった。グループチャットでも誰も何も発言しなかった。その日以前に放たれたくだらないメッセージに誰も返事ができないまま、止まっていた。恋はただメンバーが九人であるそのグループを見ていた。

 大学の不合格通知はぺらぺらの紙でやってきた。

 受かっていれば、新入生説明書などが同封されているから、分厚いのだと噂で聞いたことがあり、恋はポストに投函されていた、見知らぬ茶色の大きめの封筒を見た時にだから、あぁ、と思った。

 恋は頭が悪い訳ではなかったけれど、飛び抜けて秀でている訳でもなかった。一年半必死で勉強しただけで届くほど、そこは甘い大学ではなかった。

 春、夏、秋、冬。

 誰とも会わずに過ぎていった一年だった。話したのはメイドのサヤくらいのものだった。チビの散歩にも片手で数えるほどしか行かなかった。

 恋には将来したいこともなく、でもここにいたい訳でもなかった。

 高校三年生の恋は、そうしてついに、卒業式にも出席しなかった。目的はただ一つ、四季を追いかけること。それ以外はどうでもよかった。

 身も心もぼろぼろになった恋には、もうそれしか見えなかった。

 四季を追いかけて、傍にいたいという、因果関係のぐちゃぐちゃな願い。

 こうして恋は、浪人をすることになった。

 

 それからも季節も時間も落下する水のように呆気なく過ぎていった。

 浪人生活というのは、やらなければならないことは山ほどあるのに、時間をどう使っていいのか分からないから、狼狽えている時間の方が長い。

 無意味な、一年だった。

 恋はこれほど早く、空しい一年を初めて過ごした。

 覚えていることがないくらいに、何もない一年だった。時々勉強をするフリさえした。何かをしているフリ。そうしないと、精神がおかしくなってしまった。自分の異常性を自覚してしまうことが、恋には何より怖かった。

 桜を踏み締めて歩いた。

 夏風は袖を揺らして涼しかった。

 秋は紅葉が赤くて目に悪くて。

 冬は白い雪が降らなかった。

 そして恋はその年も受験に落ちた。

 十九歳だった。翌年は二十歳か、と恋はぼんやり思いながら、不合格通知をその前の年と同じように机の引き出しの一番奥にしまった。

 それからダイニングルームで食事を摂って、なんとなくリビングでテレビを見ていた。するとそこに、知っている顔が映っていた。

『××大学合格としては史上初の満点となる合格ですが、今どのようなお気持ちでいらっしゃいますか⁉︎』

『学内外から神童と呼ばれておられるみたいですが、新聞向けに何か一言お願いします!』

 インタビュアーたちがその人の周りに群がって、その人ばかりが青くて綺麗なので、カメラを持った人たちは、綺麗なものに群がる蟻にしか見えなかった。

『…………興味ない』

 その人は、心底嫌そうにそう言うと、踵を返して歩いていってしまった。あ、待ってください! もう一言だけでも!

 食い下がるインタビュアーたちの後ろ姿を見せられるだけで、その人がどれだけ嫌なのかが分かった。世間から見たその人の扱いは、よく光ってくれるスーパースターだった。

 恋は、テレビを消して、自室に戻る。部屋中に溢れている自分の努力の証。

 もう、やるしかなかった。恋はそうしてもう一年学んで、大学に挑むことを、決めた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 それから恋が二十歳になるある日、同窓会に参加しないかと、久々にグループで連絡が来た。夏美から来たそのメッセージを、最初何事かと思った。その時、恋はお風呂上がりで髪についた水気をタオルで押し当てて取っていた。すぐに勉強に戻るつもりだった。

 部屋の机の上に置いていたスマホに表示されるメッセージ。触れられないのですぐ消えて黒くなる画面。

「…………」

 恋は受験前だったけれど、なぜか行こうと思った。もしかしたら、みんなの前でなら、昔みたいに振る舞えるかもしれない。何事もなかったかのように、笑い合えるかもしれない。恋はそう思った。

 そして、そのずっと後の夜。

 ある都内の居酒屋の一番奥の座敷に乗り込んできたその人に、なんて言えばいいのか、恋は分からないはずだった。

 でも、なぜか口はするすると動いた。

 ────四季さん、何か食べませんか

 ────四季さん、生以外は飲まないんですか

 ────ほら、簡単なカクテル類もあるみたいですが

 ────四季さん、ほら、私が注文して差し上げますから

「……結構です」

 四季は恋が言った言葉には、大体無表情で拒絶した。生以外は飲まないのか、という問いに対してだけ、四季は比較的長めに口を開いて、生はどこで飲んでも味がある程度変わらないから、ということを説明してくれた。恋はへぇ、と思って聞いていた。その時に、ふと、恋は自分が二浪して二十歳になる年なのだから四季は未成年なのでは? と思ったけれど、それは言わなかった。そこでは四季は、さも当然であるかのように煙草をふかしていたから。

 ほんの少し、隣の席にいた。

 恋は久しぶりに四季の近くにいられて嬉しかったような気がした。それはまるで昔みたいな、あたたかくて中身のない、思い出そのものみたいな夜だった。ただ違うことは、ここにいるのが八人であること。そして、誰もが理性を失えるお酒というものを片手に、ちょっといい居酒屋の料理をつついたりしていること。そして、煙草の匂いが左肩越しにすることだった。

 恋は、四季と一緒に帰るつもりでタイミングを見計らっていた。

 でも、ある時四季がお手洗いに立ってから、ずいぶん長い時間帰ってこなかった。恋は長い間隣に誰もいなくて、そこにいるそれぞれがそれぞれの空気感で寄り添っているのに耐えかねて、外に出た。

「────っ」

 恋は息が止まった。

 その出てすぐの床に、一万円札が置いてあった。飛んでいかないようにいくつかの小銭を重石代わりにして。

 すぐに四季だと分かった。恋はその場でしばらく、立ち尽くしていた。空になったビールジョッキに残った泡が脳裏にちらついては消えていった。

 もう、四季がここには現れないことは分かっていた。本当に気まぐれなのだ、いつも、いつも。きっと四季は、あの日から、ううんそれより前からずっと、一人のことしか考えていない。

 恋は思い、自分もかつてはそうだったはずなのに、その気持ちがもう薄れていることに、そこで気がつく。

 愕然とする。

 今や、メイへの恋心より、四季への執着心の方が強くなってしまっていた。

 恋は立ちすくんで、遠のいていく居酒屋特有の金具の擦れる音や馬鹿みたいな笑い声、明るい物音の数々を聞いていた。

 恋はしばらくしてから振り返って座敷に戻り、出入り口付近にまとめていた荷物の中から自分のバッグとかけていたコートを取って、誰かに何か言われる前に部屋を素早く出た。

 帰って最後の詰めをしなくちゃ、と恋は気合いを入れ直す。もう三度目の受験は目の前だった。

「…………あ、お金」

 恋はそれを払わずに出てきてしまったことに、靴を履く段階で気がついた。

 それで、自分の財布から一万円を取り出して、恋は腰を屈めた。

 そこに置いてあった一万円をそっと持ち上げて、自分のを滑り込ませる。

「…………ごちそうさま」

 恋は目を閉じて呟いて、くるりと振り向いた。

 がやがやうるさい居酒屋の一番奥の座敷席。その入り口の手前に、二万円とちょっとが、静かに床に落ちていた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 春になっても、恋はいまいち実感が湧かなかった。

 ずっと引きこもって勉強ばかりしていたから、生活での娯楽といえばクラシック音楽を聴くかピアノを弾くかくらいのもので、外界と触れ合う機会など一度もなかった。五線譜より複素数平面の方が見る機会が多かった。

 だから実感が湧かないまま、恋は入学式に臨んだ。大きな大学、並び立つ人の中、恋は自分の学校とはすごい違いだ、と思った。

 恋は、努力に努力を重ねてついにここに入った。

 でもここに受かったことが嬉しいのではなかった。

 ここには、あの人がいるから、私がここまで興味もない理系の勉強を必死にやった理由の、その全てが、ここに。

 恋は胸がざわめき立つのを抑え込むように控えめな呼吸をして、人波に耐えていた。ここに、この学校に、このキャンパスのどこかに、あの人がいる。あの日以来、ずっと会えなくて、連絡さえ怖くて出来なかったあの人が。だから恋はこんなところまで来なくてはならなかった。

 恋はキャンパス内の、少し太い木の周りを囲うように設置された背もたれのないベンチに座りながら、そう考えていた。

 夏。

 でもその人とはすれ違いすらしないまま、日々は過ぎていった。

 学食に行けば会えるんじゃないかと思ったけれど、そんなことはなかった。木漏れ日がそこかしこで風に揺すられて、サァサァ葉の擦れる音を立てているだけで、日差しはじりじり肌を焼いた。果てしなく続いていきそうな夏の中で、毎日やるべきことをこなしていった。ただ成績だけは良いものを取ろうと思って、勉学は怠らなかった。

 秋。

 でもその人のことは風の噂で聞くこともなく、日々は過ぎていった。

 あんなに蒸し暑かったのに、その風はどこへ行ってしまったのか、今や木枯らしとも呼ぶべき乾いた風が、落ちた紅葉を攫っている。代々木公園にでも行けば紅葉を見ることができたかな、と恋は思って、ベンチから空を見上げた。青い空が抜けるように広がっている。ふと目を落とすと、最近勉強していく中で興味を持っている量子力学の本が膝の上に開かれて乗っていた。あの人に近づく為、最初はそれだけだったはずが、どうしてか、勉強そのものが楽しくなってきていた。恋は今や同学年では五本の指には入るほどの優等生だった。丸底フラスコでコーヒーを淹れてもらって喜んでいたあの頃とは訳が違った。身体も、心も。

 はぁ。

 吐いたため息が白い空気になって立ち昇っていくのを見ていた。

 気がつくと、息さえ白く染まってしまうほどに辺りは冷え込んでいた、冬。

 あの人には会えず終いだった。でも恋はその頃もう自分の勉強で充実していたし、生活のサイクルも完成していた。全てはだんだん過去の出来事になってきていた。かつては恋は、自分の好きな人の死から、訳も分からずここを目指した。縋りつくべき人へのそのぐちゃぐちゃに黒ずんだ感情だけを胸に残したまま、吐く息は白く透明だった。

 恋は、道行く人が皆服を着込んでいるのを見て、今自分の着ているコートが、去年の同窓会に着ていったものだな、と思い出した。なんだかそれは少しだけ前のようでもあり、もうずっと昔のことのようにも思えた。果てしもなく続いていく道の、ほんのわずかな出来事のように思える不可逆の変化。これを人は思い出と呼ぶのかなと、恋はぼんやり考えていた。

 こうして巡っていく一周、二周。

 変化し続けながら何も変わり映えしない日々を辿りながら、恋は生きていた。

 だからその時まで忘れていた。

 理系は三年次に大学の研究所に入ることになっていて、恋はすっかり大人びてしなやかになった指なんかを携えて、大学のあまり行ったことのない棟の行ったことのない部屋の扉を叩いた。講義室のような大部屋じゃないので、当たり前だけれど狭く感じた。

「失礼します、私、葉月恋と────」

 言いかけて、恋は言葉を切らせた。

 忘れてたのだ。自分が何の為にあれほど執着をしたのか。この何年も、四季が過ぎ去ることさえ忘れていたのか。

「…………え」

 その人は一瞬驚いたような顔をして、恋を見た。でもすぐに無表情に戻る。驚いたような声を初めて聞いたような気がして、その一文字が耳の奥に響いてよく残った。

 その人の青い髪は相変わらず長過ぎてぼさぼさで、白衣を包み込むように垂れ下がっていた。その人の赤い瞳に見つめられるのは、なんだかものすごく久しぶりな気がした。

「…………四季、さん」

 恋がようやく呟くと、立ち止まったその人が胸もとに抱えていた何かの書類から、何枚かが抜け落ちて、ひらひらと宙を舞った。

 地面に落ちた紙切れを踏まないように、恋はその人に近づく。じりじりと焼ける距離を、やっぱり誰も止めることができない。

「今日から当研究所配属になりました、葉月恋です……よろしくお願い致します、四季、先輩」

 そう言って恋は頭を下げた。精一杯の本音のつもりだった。でも何の反応もなかったので、恋は下を向いたまま、なかなか動けなかった。

「…………はぁ」

 やっと空気が動いたので恋が顔を上げると、わずかに眉を顰めるその人がいた。

「何しに来たんですか……恋先輩」

 そうして、また時計の針は動き出す。時間というものはある日突然止まったり、ある日突然猛スピードで動き出したりする。

 恋は果てしない気持ちで、またひとつ、嘘を吐いた。

「……四季さんを、助けに来ました」

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 出逢いと別れ。

 時間と空間。

 記憶と思い出。

 自然対数と現実世界。

 位相空間の連結空間。

 別に知らなくてもいいけれど知っておいた方がいいいくつもの常識。

 その中、この中、いつもの中。

 あり得ないくらい何もない中で何もかも起こってくれればいいのにと、恋は半ば本気で思っていた。

 恋と四季は、それからその研究所で、一緒に学校生活を送った。恋は、四季と同じように白衣を着た。まだ新品で、パリッとした白衣だった。

 ある日、四季がお昼ご飯を毎日栗オ・レ一パックだけで済ませていると知って、恋は大慌てで四季を学食に連れ出した。

 四季は最初、物凄く嫌そうな顔をしていたけれど、いざその日替わりのとんかつ定食とかが出てくると一瞬だけれど確かにその瞳に光を宿して、それから席について静かに食べるのだった。恋はそれを向いの席で見つめていた。はたまた隣の席で、安堵したように、いつも。

「……恋先輩」

「はい、なんでしょう」

 別の日、他のメンバーや教授たちは帰ってしまって誰もいない研究所に、二人ともそれぞれの用事で残っている時だった。四季が自分のデスクの椅子を回転させて身体ごと向き直り、歩いていた恋を呼び止めた。

「…………」

 四季がじっと恋を見ていた。

 四季にしては珍しく、何かを言いたげな様子だった。この研究所に来てから二ヶ月ほどだが、四季から何かを言ってきたことはなかったので恋は驚く。

「…………ど、どうかしましたか、四季先輩……?」

 恋が言うと、四季はまた一瞬だけ嫌そうな顔をした。

 どうしてなのかは分からない。ただ四季といるうちに、四季がどう思ってるのかが、何となく恋には分かるようになってきていた。表情とかも、ほとんど変化がないのに、空気だけでそう思えるのが恋自身にも不思議だった。

「その……」

「…………はい」

 四季は自分の投げ出した足もとを見ているみたいだった。恋は真面目な話かと思い、ごくりと喉が鳴るのが分かった。

「…………それ、やめてくれませんか」

「……それ?」

 恋が首を傾げると、四季はゆっくり顔を持ち上げて、言った。

「その、私のことを先輩って呼ぶの、調子狂うんで」

 四季は恋を嫌そうに見つめていた。でもその表情は完全な嫌悪だけではなくて、確かに別の感情が混ざっている気がした。それが何かは、恋には分からなかったけれど。

「……では、どうすればいいでしょうか」

「今まで通り、四季さんでいいですよ……」

 四季はどうもこうもないだろうと言いたげに吐き捨てた。でも、それはいいけれど、それなら恋にだって納得がいかないことがあった。

「じゃあ、四季さんも」

「……は」

 恋は四季に一歩近づいて、言う。四季に強気に出たのなんて、本当にいつぶりだろう、と恋は思った。

「四季さんも私のこと、恋さんって、呼んでくださいね」

 恋が言うと、四季の目尻がぴくりと動いた。それは今までで一番、四季の表情が動いた瞬間だと、恋は思った。

 二人とも何も言わないので、二人きりの部屋に恋の言葉はなかなか消えなかった。

「…………はぁ」

 四季はため息を吐くと、自分のパソコンをシャットダウンして立ち上がった。そのまま四季は恋の横をすり抜けて、入り口の方へ歩いていった。研究所の横開きのドアに四季は左手を引っ掛けて開く。

「…………あっ」

 恋はそこで、四季はいつも何も荷物を持たずにここにやって来ることに気づく。

 こちらを振り向いた四季の顔が、いつもより少しやさしいような気がした。

「……早く用意しないと置いていきますよ、恋さん」

 そう言って開いた扉が閉まらないように、四季は自分の背でそこにもたれていた。

 外の空気はもう夏のそれに近かった。

「はい! すぐ用意します! ちょっとだけ待っていてください!」

 恋は大急ぎで片付けを始めた。

 この後は、どうせ晩ご飯もちゃんと食べない四季に、晩ご飯を食べさせなきゃな、とそう思いながら。

 そのわずか二ヶ月後、追いついたはずの四季にまた置いていかれることになることを、この時の恋はまだ、知らない。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 軋むように蝉が鳴く声が、起きた時から窓を叩いていた。

 その日、いつも通り、電車を何本か乗り換えて行ったそこが、何かおかしいことに恋は気づいた。

 最初はただ人が多いだけかと思った。

 でも、歩いているうちに、どんどん人が多くなっていって、最終的には目的地はほとんど人だかりで封鎖されていた。

 しかも、そこにいる人たちは民間人ではなく、大きめの軽バンみたいな車からいくつもの肩に抱えるような大きなカメラを取り出した、マスメディアたちだった。

 何か大事件か大事故でもあったみたいな物々しい雰囲気に、恋はどうしようかおろおろするばかりだった。道端に寄って、自分の大学名を検索ボックスに入れて────目を疑った。

 よく知った人が、大講義室の壇上で、何かを発表している映像が映っていたのだから。

『物質圧縮というこの技術は最先端の物理学、化学、量子力学を以ってしても到底実現不可能な技術であることは説明せずとも皆様にも伝わるかと思います……ですが実際にそれが成されている様子を、我々メディアに公開しようというのです……』

 リポーターの困惑したような声に、世論も同様の様子だった。

 恋もまた同じだった。だってその人は、そんなこと誰にも、一言も言っていなかったから。恋たちがしている研究内容は、もっと範囲の限定的な、物質をどれだけ引き伸ばせるか、という最先端の医療用の技術のはずだった。

 だから、四季が裏で進めていたことなど、恋は少しも知らなかった。

 スマホの小さな画面を見つめながら、みしみし言う蝉の鳴き声を、いつまでも聴いていた。

 

 結局恋が研究室まで辿り着いたのは昼下がりと呼ぶにも遅い時間だった。

 大学はまだ内外共にすごい騒ぎで、当然メディアもネットも、そのまま大騒ぎだった。

 恋が廊下を駆け抜けてそこの扉を開くと、そこに、最初にここを訪れた時と同じ場所に、同じ人が立っていた。

「……はぁ、はぁっ、っ…………」

 恋は肺に入ってくる八月の生ぬるい空気が、いつもついている研究室の冷房によって冷やされた空気と入れ替わっていくのを感じた。でもいつもみたいに、それは落ち着いた感じではなかった。

「…………っ、四季、さん」

 恋が言うと、四季はゆっくりと身体を恋に向けた。奥の四季の荷物の少ない席が、いつも以上に空っぽに見えた。

 その時の四季の右手に、いつも四季が吸っていた煙草のケースが握られていた。喫煙禁止のはずのここで、先の焼けたそれを四季は咥えていて、それを空いた手で外すと、足もとに無造作に放った。

「…………ここも」

「え?」

 四季の言葉はその口から吐かれた薄い煙に紛れてよく聞こえなかった。

「ここも、もう、私には用事がなくなりました」

 四季はそう言って、研究室のピカピカに磨かれた床に落とした煙草を踏み潰してみせた。そのまま四季はそれを見ることもせずに、恋に向かって歩き出す。

 用事がなくなった? 四季さんは何をするつもりなの? 今朝の発表は一体何? 何をしようとしているの? あの、四季さん、私は────

「待って、ください」

 恋は言うと、扉の前に立ち塞がった。会わない間に身長は逆転されていて、高校生の頃は恋の方が高かったのに、今や四季の方がわずかに高いほどだった。

「……四季さんは、何をしているんですか、何であんなものを、作れたんですか、何をする、つもりなんですか」

 細切れに恋は言った。それは自分が動揺していることを、自分と目の前のこの人はもう違う世界にいるのだということを、自分で自分に教えているようだった。

「…………」

 四季は黙って右手に持っていた煙草のケースを白衣の左胸にあるポケットにしまった。

「……昔、恋さんに言った通りですよ」

 恋は言われる。考える。言われたこと、積み重ねてきた時間、自分達が何をしようとしてきたか、楽しくお勉強をする為に? 人々の未来に貢献することが私たちの願いだったはず……ですよね、あれ?

「私は、タイムマシンを作る為に、政府の研究機関に身を置きます……もう二度と、会うこともないでしょう」

 恋はそれを聞いて、いきなり死刑宣告をされたような気持ちになった。

 タイムマシン。

 遠い日に科学室で言われてから、聞いていなかった言葉。恋はあの時は四季の言葉を信じたはずだったのに、時の経過と共に、なぜか都合よく、それを忘れてしまっていた。そんなことは過去のことだと思い込んでいた。

「し、四季さ……」

「私はメイを助ける為だけに、生きています……そこを、退いてください」

 四季の放った言葉は、今まで恋と交わしてきたどんな言葉より熱がこもっていた。その熱の中心にいる、その人の名前。それを聞いた瞬間、恋は一気に身体が熱く脈打って、世界が大きく揺らめいた。

 何とか身体を支える為に、開いた扉を押さえ込むように恋は手を引っ掛けてもたれかかった。

 そんな恋の横を、四季はいとも容易く通り過ぎて行った。すぐに足音が遠ざかって、静かになる。遠くでつくつくぼうしが鳴き始めていた。

 

 ────私の名前、全部一つにすると『数』って漢字になるんだ、おかしいだろ

 

「────っ‼︎」

 ふと、ずっと昔、冗談めかして音楽室で話してくれた人のことを、恋は思い出した。その人に自分が抱いていた感情も、一気に。

 記憶の雨が降っていた。遠くの蝉時雨。だから時の雨と書くんだな、と恋はぼんやりした頭で思った。ミィん、ミィん、ジィィ。

 そうして恋は思い出浸しになりながら、ぬるい空気とつめたい空気の混ざり合う研究室前で、じっとしていた。

 踏み潰されて生き絶えた吸い殻が、すぐそこに転がっていた。

「…………私、メイさんの、こと」

 恋は言いながら、それがもうかつての感情とはまるで違うものであることに気づいてぞっとする。

 メイのことが好きか? 恋にはよく分からなかった。メイが好きな四季が好きか? 恋は首を縦には振れなかった。じゃあ四季のこの計画に賛成か? 恋の胸の不快感がそれを否と叫んでいた。

 そうして恋は気がついてしまう。

 四季が自分ではない人をずっと見つめていたことに。

 四季があの日に失ったもの全てを、本気で取り戻そうとしていることに。

 自分はその四季の壮大な計画の、ただの駒でしかないと言う事実に。

 恋はいつまでも動けないまま、そのことについて考えていた。

 あ。

 そして恋は突然思った。

 猛烈に、どうしようもなく、四季を不幸にしてやりたい、と。

 それは今まで胸の中に渦巻いていて、不定形だからずっと名前をつけずに誤魔化していた感情だった。次々と、それらに名前がついていった。共感、羨望、嫉妬、逆恨み。醜い感情が吹き出し、恋はこんなに高い場所まで羽ばたいてしまったことに、自分で勝手に絶望する。

「私ってば、最低、ですね……」

 呟いた声を慰めてくれる人は、もう別の人を追いかけて、今去ったばかりだった。

 つくつくぼうしが息絶えるまで、叫び続けていた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 それから四季は本当に研究所には現れなかった。

 季節は呆れるほど早く通り過ぎていった。

 夏はあの夏のように逝った。

 秋はあの秋のように枯れた。

 冬は深々と音もなかった。

 春にはそこらじゅう桃色が落ちていた。

 瞬きひとつすればもう、夏だった。何度目かも分からない、けれど今までのどれとも違う、夏。

 変わり映えしない日のうちに、四季は時の人になっていた。ノーベル賞を取り、その発明は軍事的利用価値が高すぎたせいで日本政府によって独占され、一部の人間の地位が極端に向上し、持つものと持たざるもので格差はみるみる増していった。

 恋はそれでも、やるべきことをこなしていった。日々は淡々と過ぎていった。自分が何をしているのかは、何も分からないまま。

 恋は自宅と大学の研究室を行ったり来たりした。季節の足音がする度に、新宿ばかり明るくなっていった。それは星の光を吸い込んだみたいで、その分他の街は暗くなっていった。

 そして恋が家に帰ると、何やらリビングの方が騒がしかった。

 恋はなんだろう、と思ってそちらに歩いていく。ちらりと顔だけ出してそちらを確認する。

「…………わ、わぁ……」

 そこで恋は、テレビの前に膝をついて画面に見入っている、メイドのサヤを見つけた。

「どうしたのですか?」

 恋が言いながら、リビングに入っていく。サヤが驚いたように恋を見つめて、それからまた画面を見て言った。

「……お嬢様の同級生ですよね、この方」

 サヤが見ている画面を恋も見た。そして、息が止まった。

 フラッシュを浴びるその姿。人々は阿鼻叫喚といった様子で、何を叫んでいるのかも分からなかった。それは記者会見というよりはもはや暴動に近かった。よれた白衣を着て退屈そうにその人はその渦の中心にいた。

「────っ」

 恋には、何も言えなかった。続々と投げつけられる非日常の嵐は、いつしか恋のいる日常さえ薄れさせていった。そして四季は、本気でタイムマシン開発に近づいていた。

 物質圧縮、空間転移。

 それが可能なら、後は膨大なエネルギーと光速移動ができれば、理論上はタイムマシン開発は可能だった。しかしもう自分は、それに関わることができない。恋はただ一人の無関係な傍観者であることしかできなかった。

 その瞬間だった。

 恋はこの世で一番最悪なことを思いついた。

 四季は、今までもずっと、世界を利用してきた。高校も、大学の研究室も、恋のことでさえ。そして四季は、研究をするには研究費が必要だと、ずっと昔に言っていた。四季の目的はただひとつだ。恋のことなど眼中にないくらい。それならきっと、次も同じだろう。

 恋は、四季がタイムマシン開発を中途で終わらせて、お金と場所だけ使って政府を裏切るつもりであることを、密告しようと思った。

 それは最悪の発想で、最悪すぎて思わず自分で乾いた笑いが漏れた。テレビ画面には地獄が映っている。恋はそこに飛び込む正義の執行人か、はたまた地獄の水先人か、まぁ、なんでもよかった。

「お嬢様、夕食の支度ができていますよ」

 サヤに呼ばれてはっとするまで、恋はぼうっと突っ立っていた。

 また、やるべきことが決まってしまった。

 恋は静かに息を吐いて、テレビを消す。

 音が、消えた。

 耳が痛いほど。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 それから恋は、現内閣の閣僚である法務大臣や文部科学大臣なんかを両親に持つ子に連絡をして、なるべく内閣総理大臣に近い人に連絡を取ろうとした。幸いというか恐るべきことに、日本を動かしているのはほぼここの大学出身のエリートばかりだったので、コンタクトを取ることは難しくなかった。おまけに恋は()()若菜四季の研究室にいた人間なのだ。怖いくらいするすると、恋の話は内閣まで運ばれていった。秘密裏にそれは行われて、恋は自分がとんでもないことをしようとしている感覚だけはあったけれど、止まることはできなかった。

 治安は目に見えて悪化していた。新宿に近い街にはかろうじて背の高いビルも残ってはいたが、それは新宿という名前の異常なまでの未来都市の下で、くすんでいた。

 そんな擦り切れたある日のことだった。

 恋が大学の卒業式から帰ってきた、その日、荷物は丸い筒一つだった。

 チビが死んでいた。

 玄関で、その白いもふもふの毛並みに指を埋めて、抱き抱えるようにサヤが泣いていた。サヤは帰ってきた恋を見ると、痛ましそうに目を逸らした。

 でも恋は泣けなかった。

 あの日、大切な人を失うという経験をして、それにずっと囚われて生きてきた恋にとって、生き物が死ぬのは当たり前だったから。

「……お嬢様」

 玄関で俯いていると、サヤに声をかけられた。

「お嬢様も、最期に撫でてやってください……チビは、お嬢様といるのが、大好きでしたから」

 恋は呆然としてそれを聞いていた。ふと思い出したように歩いて、サヤの隣に腰を下ろした。

 そしてその白い大きな生き物だったものに触れる。

「────っ」

 つめたかった。

 すごくすごく、冷ややかだった。

 それでふと、思い出した。

 チビはすごく小さかったことを。

 チビはすごく人懐こかったことを。

 チビはすごくあたたかかったことを。

 どうしてだろう。

 気がつくと、恋は泣いていた。さっき強がって泣かなかった分、余計に涙が溢れて止まらなかった。ぼろぼろぼろぼろ、涙が落ちてチビの毛並みを濡らしていった。

「……お嬢様」

 サヤが肩を抱いてくれた。恋は目の前のつめたい、かつて生き物だったなにかに触れながら、時間と空間について考えていた。どうして生き物は死ぬんだろう。どうして別れは訪れるんだろう。どうして、人はそれを選べないんだろう。

 恋は泣いた。サヤと一緒に、二人と一匹でいっぱいの、決定的に何かが欠落している玄関で。

 恋のポケットに入れていたスマホが震えて、恋は泣き疲れたのでそれを見る。

「────っ⁉︎」

 そこに、とある住所が貼られていた。恋がずっと知りたくて、ついに辿り着いたそこ。でも、どうしてこんな悲しいタイミングなんだろうか、と恋は思わずにはいられなかった。

 人生は何もかも変わっていく。生き物には寿命がある。時間には限りがある。

 それを越えようとするのは、冒涜かもしれなかった。

 でも恋にはもう何も残っていなかった。あるのはただ、四季を追いかけたいという、手段なのか目的なのかも分からないぐちゃぐちゃの感情だけで。

「サヤ」

「……はい」

 恋はゆっくり、口を開く。

「チビは庭に埋めましょう、綺麗な花を供えて」

 かろうじて、そう言うことができた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 春は嘘みたいに綺麗だった。

 恋はよりいっそう静かになったような自宅で、いつも通りサヤの作ってくれた朝食のハムエッグなんかを食べて、用意をして出かけた。朝食は美味しかったけど味がしなかった。

 恋は今日行く初めての場所への道を歩きながら、今までの何もかもを考えていた。自分がこの一年でやってしまったことも。

 もう後には引けなかった。

 改札にICカードをかざして、前はこんなに空いていなかったはずのガラガラのホームから山手線に乗り込む。たった一駅分しかないのに、無限にも長く感じられた。扉のところのガラスに自分の姿が映っていた。それはとても自分とは思えないほど悲しい顔をしていた。

 歩いて、恋はじりじりとそこに近づいていった。そこだけを求めていた。街中に木は一本もなくて、人工的に空間は統一されていた。

 新宿の内側。限られた人間しか入ることが許されない地域。

 やがてそこに辿り着く。

 ビルの入り口には何重にも認証装置がついていた。指紋、瞳孔、顔。

 恋はそれを淡々と受けて、ピーという音だけ鳴らして沈黙したそこを抜けた。入ってすぐの一階にはエレベーターが二つあるだけで、他には何もない。

 しかしその間にあるのは階数を押すボタンではなかった。そこには0から9までの数字が押せる電卓のような板が埋まっていて、恋はそこに数字を入力していく。

 最後まで押すと、いきなり左隣のエレベーターが開いた。恋はそこに乗り込む。このビルは上はもぬけの殻で、地下に行くしかないのだと、事前に説明されていた。

 ただ二つ『1』と『B5』しかない、そこの灯りが入れ替わるまで、ものすごい時間がかかったような気がする。小さな箱の中で、恋はじっと、扉に頭をつけて、待っていた。

 チィン

 緊張感のない音が響いて、ようやくそれは止まった。恋は扉が開いたのを確認してから、足を踏み出す。コツン、と高い靴音が何重にも反響した。

 恋は歩いた。薄暗くて長細い廊下を、奥まで。

 そしてそこにあった扉に手をかける。回して開くタイプのドアは、最近ではもう見ることがなくなっていたから、珍しいな、と思った。

「…………お邪魔します」

 恋がそう言ったのと、扉を回したのと、白い光が溢れたのと、その部屋の中心で、その人が振り返って恋を見たのは、順番に起こったようでもありながら、連続性がないようにも思えた。

「…………え」

 その人ははっきりと驚いた顔をして、恋を見ていた。

 その人の青い髪は相変わらず長過ぎてぼさぼさだった。白衣は前よりずっと汚れていて、ところどころに穴さえ空いていた。その人の赤い瞳は、実に二年ぶりだった。

「今日から当研究所配属になりました、葉月恋です……よろしくお願い致します、四季、さん」

 そう言って恋は頭を下げた。なんだかいつかも似たやりとりをしたことがある気がするな、と恋は思って、こう思う。私たちはひょっとして同じことを繰り返しているだけなんじゃないか、と。

「何しに来たんですか……恋さん」

 四季の問いに、恋はわずかに怯んで、でもすぐに体勢を立て直す。それから息を吐くように、そう言うのだった。

「……私もメイさんを、助けに来ました」

 ほら、また。

 言っちゃった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 それから恋の生活はほぼ全てそこでされることになった。シャワーがついているばかりか、仮眠室までついていたので、後は食事さえ摂れれば生活の大部分は成り立ったが、二人はあまり食事をしない生活習慣になっていたので、それも気にならなかった。それに近くにコンビニくらいはあった。

 恋は四季と、地下深くで一緒に過ごした。四季は寝る時間は三時間にも満たなくて、いつ寝ているのか恋にはさっぱり分からなかった。相変わらず煙草ばかり吸っていたので、研究室は煙臭かった。

 四季は恋の知っている通りタイムマシンの研究をしていて、もう構想は出来ているらしかった。後は現物を作るために様々な必要なパーツを揃える必要があるくらいだったので、恋が積極的に何かをすることはなかった。必然的に恋は四季の健康管理とか、進んでやろうとしない部屋の片付けや洗濯なんかをすることになった。

 恋は四季とあまり会話をすることがなかった。四季のしている諸々の作業を隣で見ていて、ただ時々小さく歓声を上げるばかりだった。四季がやることは全て、正に天才の所業で、必死に勉強してここまで来た恋でも、理解するのでやっとだった。

 恋はまたしても、その日々に慣れ始めていた。人間は自分の心地いい環境から動きたくなくなる生き物なのだと、恋はそこで知った。

 だから、その日、スマホのニュースが大騒ぎしているのを見て、恋は背筋が冷えた。

『渋谷付近の建物が一部消滅‼︎ 原因は昨年発表された悪魔の科学者の持つ空間転移装置を利用したものと思われ……』

 それは、四季に見せるべきニュースなのか、そうではないのか、もしかしてもう四季は知っているのか、恋は仮眠室のベッドの上でスマホ片手に逡巡していた。

 でも、恋には四季に言わなければならないことがあった。それは自分が、ここにいられる理由でもあった。

 ベッドを抜け出して、着替えなどを全て置いている研究室の中心の部屋へと向かう。人が暮らすことを想定して作られた場所ではないから、物を置く場所はそこしかなかった。薄暗くて、夏なのに肌寒い通路を抜けて、すっかり見慣れたそこに着く。

「……おはようございます」

 四季は今はパソコンに向き合って、何かの作業をしていた。まだ早い時間なのに。

「おはようございます、四季さん」

 恋は言うと、置いていた自分の持ち物の中から着替えを取り出して、躊躇なく寝巻きを脱いで、それを着た。ここには四季しかいなかったし、恥じらうことは最初の数回だけで、四季も何も気にしていない様子だった。だからお互いの前で下着姿になることも、自然に恋は気にしなくなった。

 その最後に腕を通すのは、もちろん、白衣だった。大学でそれは着ていたから、二年分だけよれていた。恋はここではこれを着て四季と過ごした。

 恋はそれからさっきの事件を思い出して、呼吸を整える。四季に向かって、呼びかける。

「四季さん」

 思ったより真面目な声が出て、恋は自分でその響きにびっくりする。

 いつも言葉には気づかされてばかりだ。言ってから、気がつく。

「……はい、なんですか」

 四季はそれを感じ取ってくれたのか、キーボードを打つ手を止めた。部屋は急に静かになる。この部屋は円形で、中心に、試作段階のそれが鎮座していた。その周りをデスクが囲んでいる。

「四季さんの発明は、軍事的利用価値が高いとされています……いつ戦争の引き金となってもおかしくないと」

 恋は自分が今から言う内容を、もう一度頭の中で整理し直していた。静かな二人きりの研究室に恋の声はよく響いた。

「だから今も四季さんは政府の監視下……私は、本当は、四季さんを監視する為に、政府から雇われて、ここに来たんです」

「…………」

 恋がそう言うのを、四季は黙って聞いていた。恋は口が動くままに、続けた。

「今まで黙っていたことは、謝ります……私が何の目的で来たかについては、言っていませんでしたもんね」

 恋が言葉切らすと、四季は珍しく興味を示した様子で、恋を見て言った。

「…………それで?」

「私は……メイさんを助けたい……だから、四季さん」

 本当に?

「私と、政府を裏切りませんか、私と四季さんの、二人で」

 それはでも、本当な気がした。恋はもはや、自分が何がしたいのかよく分からなかった。

「…………まぁ」

 四季が無表情で呟く。部屋の灯りがまぶしくて四季のピアスが一瞬きらめく。

「まぁ、いいですよ。私としても、政府側に内通者がいるのは助かりますし」

 四季は目を閉じて首を左右に捻っていた。恋はそのうちに自分が何を言われたのか理解する。

「で、ではっ…………!」

 四季が目を開く。その赤い瞳に恋が映り込んでいた。

「はい、よろしくお願いします、恋さん」

 そう、四季は言った。

 こうして、恋は四季と共闘戦線を組んだ。

 内容はこうだ。

 日本政府はタイムマシンを利用して国力を上げることに躍起になっている。今や『若菜四季』というたった一人の人間は、圧倒的な科学力を持っていて、所有している国が圧倒的に強い、という認識にまでなっていた。だから四季は政府によって新宿の地下研究所にいたのだ。

 だから、まずタイムマシンを作ったフリをする。

 しかし完成直前で、完成はさせない。それとは別に組み立てて置いたもう一つのタイムマシンで、恋たちは過去に飛んで、それで過去改変を行う。

 そのための隠れ蓑として、政府側に過去に行けると思い込ませる為の、恋と四季は協力しているんだと思わせる為の組織を作っておく────

「……こんな計画なのですが、どうでしょうか」

 恋が言うと、四季は左手を自分の顎に当てて、それから頷いた。

「悪くないんじゃないですか、成功の可能性も低くない」

 二人は向かい合って床に座っていた。書類を広げる場所がないから、研究室の片隅で。

「じゃ、じゃあ……っ!」

 恋は思わず立ち上がり、四季を見つめる。

「えぇ、それでいきましょう」

 四季も、恋を見上げてそう言った。心なしか四季の様子がいつもより楽しそうな気が、恋にはした。

 それから計画は緻密に練り上げられていった。

 でも恋は、だんだん胸の内に重苦しいものが溜まっていった。だって自分は、ひどい過ちを犯そうとしていた。この胸に蔓延ったイバラみたいな気持ちが、それを忘れさせてくれなかった。

 政府側に恋と四季が提案した、タイムマシンによる時間超越特殊部隊は、クロノダイバーと名付けることにした。恋は自信満々にそれを四季に言った。

「……いりますか、その名前」

 四季が嫌そうに顔をわずかにしかめて言った。

「え……なかなか格好良いと思ったんですけれども……」

 恋が言うのに、四季が小さくため息を吐くので、名前については決定となった。

「……じゃあ、私からも、恋さんに」

 床に書類やメモを広げている、その紙束の隙間で四季は恋に言った。

「……はい? なんでしょうか」

 四季に言われることなど何も覚えがなかったので、恋はきょとんとした。

 すると四季は自分の両手を前に掲げた。すると、音もなくそこにカラフルな服が出てきた。

 恋は驚いたけれど、すぐにそれが四季の規制された技術のうちのひとつだと気づく。物質圧縮。

「……これは?」

「パワードスーツです、着ると人間の限界を超えた力が引き出せます……まだ強い磁場下で機能しなくなることや、連続運用ができない問題点はあるんですが……取り急ぎ」

 四季はそう言うと、恋にそれを丁寧に差し出した。

 それは、恋には、昔初めてみんなで学園祭に出た時の衣装によく似ているように思えた。ビタミンSUMMER!という曲で、もう何年も前のことなのに、それを見ているだけで振り付けも歌詞も思い出してしまいそうだった。

「…………ありがとう、ございます」

 恋は言いながら、四季の手からそれをやさしく貰う。

 きらきらのスーツにはお星様が散っているみたいだと、恋は思った。

 二人はそうして毎日一緒に起きて、時に恋は家に帰ったりしながら、でもほとんどは四季と一緒に過ごした。とんかつ定食を頼んでは、研究所の隅の床に座って二人で食べた。洗濯物は近所のコインランドリーで一緒に回すので、いつの間にか同じ匂いがした。四季は恋の用意したセーフハウスにいることもあり、秘密裏でタイムマシンを作っていた。

 でも恋にはもう、苦しくて仕方がなかった。

 この全ての出来事の根っこにある自分の感情が、あまりに醜く恐ろしいから。

 そしてまた地面の上では四季が巡った。地下にいる二人には、それは別に関係のない話だった。

 

 それでも、ある日。

 それは唐突に起きてしまった。

「恋さん、ちょっといいですか」

 恋はいつものようにパソコンと睨めっこしていた四季に、ふと呼ばれた。

「はい……? なんでしょう」

 恋は、自分の席を立って四季の隣に行く。

「少しだけ、外に行きませんか」

 四季はそう言うなり、立ち上がった。普段四季は自分からはコンビニにすら行かないから、恋はそれには驚いた。

 恋が監視役をしているから、四季はこうしてある程度の自由が認められていた。その状況を作り出したのも恋だった。政府直接の内通者。恋にはだから、自分が誰の味方をしているのか、もうよく分からなかった。

 二人でエレベーターで地上に出た。

 いつの間にか夜はすっかり寒くなっていた。辺りは無駄に明るくて、街並みは全て数年前に整備されていていた。

 この世には直線というものは存在しなくて、人間は完全な直線で作られたものには生理的不快感を覚える、と恋は昔どこかで聞いた話を思い出す。

 そういう感じの街並みだった。切り貼りを繰り返しただけのような、正常に狂った街。

 その下を、恋は四季と一緒に歩いた。四季の白衣の裾がゆらゆら揺れるのを見ていた。監視役だから。会議で四季の様子を報告しないといけないから。

「…………恋さん」

 四季はおもむろに立ち止まる。

 振り向いたその顔を見て、恋は心から絶望することになる。自分達がなんのために、こんなことをしていたのか。自分はなんで、毎月、国の機密機関であるクロノダイバーのリーダーとして、会議に参加していたのか。

「タイムマシン、完成しました」

 四季は短くそう言った。

 がらがら、と。

 足もとが崩れていくような、音が聞こえた。

 四季が言ったその一言は、恋の世界を大きく変えてしまった。恋は、分かっていたはずなのに、それに加担していたのは他でもない自分なのに、それが起きることを、本能的に嫌だと、思ってしまった。そんな自分を嫌だと思った。

「……恋さん?」

 すぐ目の前にいる、四季が振り向いて言う。この辺りは若菜四季を捕えるための無人都市で、本当は四季はこの指定範囲内から外に出てはいけないことになっている。それを突破するための、パワードスーツだった。

「…………っ」

 恋は考えて、何かを言おうとする。

 なのに言えない。言葉が出ない。

「……タイムマシンは、九人乗りにしました」

 四季の言葉がいつもより色味を帯びている気がした。それが恋には嫌だった。だって、だって。だって?

「みんなにも声をかけてみようと思っています……恋さんからも、お願いできませんか」

 四季の行動は全て、今この時のためにあったことは、あの科学室で不恰好に抱きしめた時から、恋には分かっているはずだったのに。

 四季はもうすぐ、行ってしまう。この世界を捨てて、過去のターニングポイントに戻り、世界を変えるつもりでいる。

 恋にはもうどうしていいのか分からなかった。風が吹けばそのままなびいてしまいそうだった。

「……恋さん、どうかしましたか」

 四季にじっと見つめられていた。見破られてはいけないことが、恋にはたくさん、たくさんあった。

「……分かりました、私からも、連絡してみます」

 恋は、全員集まらなければいいのに、と思っていた。だって、そうなったら奇跡だって起きてしまうに決まっている。でも誰にも連絡しないのも違う気がした。恋は、なぜかここ数ヶ月でよく連絡をするようになったすみれに、電話をしようと思った。平和に生きている人の声を聞くと、恋は落ち着いた。

 黙っていると四季は歩き出した。恋もその長く揺れる髪を追いかける。もう何が正しいのか、何が間違っているのか、恋には分からなかった。いっそスクールアイドルを敵対視していた高校生の時くらい、盲目的で攻撃的なままでいたら、何か一つくらいは、守れただろうか。

「恋さん」

 いつの間にか、恋のすぐ隣を四季が歩いていた。その唇がいつになくやさしく開く。

「私、恋さんのこと、結構好きですよ……いつも、傍にいてくれて」

 四季はそう言った。

 その言葉は今までで一番、四季らしい口調だった。恋は、息が、しにくくなる。ほんとはあなたは、メイさんのことしか見ていないのに、私はこんなところまで来てしまった。もうどの感情も、遠のいて曖昧なのに。残った心に絡まった、黒い糸。

「恋さん?」

 四季は首を傾げていた。

 何を煩ったのか、恋は分からないまま。

 この夜空の隅っこに月が転がっているのを、恋は見た気がした。

 この狂ったように青い光を放つ新宿の空に、そんなもの見えるはずがないのに。

 全てはもう、おかしくなってしまっていた。

 もう何も、見えなかった。

 

 

 

「…………私も、四季さんのこと、好きですよ」

 

 

 

 それは、ひどい嘘月だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五章 - もう一度、あの場所で

 物語っていつ始まるものなんだろう。

 どこから始めても、いつもそこが始まりだった気もするし、いつもそこは何かの終わりだったような気もする。

 全ての物事は本当は繋がっていて、始まりも終わりも、本当はどこにもないのかも。

 だから、例えばいつだろう? と考えてみても、分からないんだ。

 歌に出逢った時。

 みんなに出逢った時。

 Liella!を結成した時。

 ……でさえ、どこが始まりなんだろう。

 可可ちゃんに初めて声をかけられた時?

 グループの名前を決めた時?

 二年生になって、一年生のみんなが入ってくれた時?

 思い出す、どこも何かの始まりで、どこも何かの終わりみたいな気がした。

 五人でいた時、九人になった時……八人に、減った時。

 

「マリブコーク一杯、ください」

 

 はっとして顔を上げると、カウンターを挟んでその人が、まんまるの赤い瞳でこちらを見ていた。慣れ親しんだお客のように、そこにいてくれた。

「……ちぃちゃん、お酒弱いんだからダメだよ」

「えぇー、いいじゃん軽いのくらい……お堅いなぁかのんちゃんは」

 千砂都は不満そうに言いながら、両手で頬杖をついて唇を尖らせていた。

「だーめ、もっと緊張感持たなきゃ、だって……」

 かのんは言いつつ、暗くなった窓の外を眺める。おもてには灯りひとつなく、張り詰めてしんとした暗闇が満ちている。いつもの営業時間より、もうずっと遅い時間だった。

「……私たち、どうなるんだろうね」

 かのんは目を伏せて、手元のグラスを拭き上げながら言う。ナプキンに染み込んだ水がガラスの内側を撫でて逆に濡らしてしまった。

 そのすぐ向こう側で、千砂都は首をかわいくこてん、と傾げてみせた。

「さぁ、でも、なんかワクワクしない?」

 千砂都があまりに軽い口調でそう言うので、かのんは呆れてため息を吐く。

「もう、ちぃちゃんってば……」

 ちょっと前、かかってきた突然の電話。

 

 ────四季が、タイムマシンの開発に、成功しましたの

 

 何を言われているのかも分からなかった。

 

 ────私たちで過去に、行きませんか?

 

 かのんはその電話を受けたのと同じ場所で、そのことについて考えていた。いつまでも動かないかのんに痺れを切らせた千砂都が、代わりに電話を取ったのだった。

 それから先は千砂都が話をしていたので、かのんにはその会話は半分だけしか分からなかった。

 その夜、千砂都に、話をされた。これはとてもとても危ないことだけど、本当にやるのか、ということ。現実には思えないかもしれないけれど、どうやら本当らしいよ、ということ。諸々のこと。

「ねぇ、私たち、やっぱり────」

「やっぱり……なんですの?」

 気がつくと、カウンターを挟んで正面、千砂都の隣に人がいた。かのんをジト目で見つめて、肩肘をついていた。

「わ……っ」

 かのんはいきなり増えていた人に驚いて、思わず後ずさり、持っていたグラスを手放してしまう。

 あっ、落ちる。

 そう思ってかのんは目を瞑った。けれど、かのんは身構えるばかりでいつまで経ってもそれが割れる音はしなかった。

「ふぅ、セーフ……っす」

 声がして、ゆっくり目を開く。

 そこにはグラス片手にへらりと笑う、淡い栗色の髪を垂らした、綺麗な人がいた。かのんの記憶にあるその人よりもずっと大人っぽくて、澄んだ声だった。

「かのん先輩、ぼーっとしてちゃダメっすよ? きな子たちはもうダークヒーローなんっすから」

 ぽかんとするかのんに、きな子は言った。得意げなきな子を前に、辺りは一瞬、音も動きも静かになる。視界の隅で千砂都が隣にいた夏美に声をかける。

「ねぇ、きな子ちゃんってあんなキャラだったっけ……?」

「……なんだか混乱していたので、適当に説明したら逆にノリノリになってしまいましたの……夏美は知らないですの」

 そう言ってやれやれ、と首を振る様子からは、二人がずっと一緒に過ごしてきたんであろう信頼感のようなものが感じられて、かのんは胸があたたかくなる。

「……変わってないね、きな子ちゃんたち」

 かのんはきな子の手からグラスをやさしく取って、カウンター裏の同じものが並ぶところに置いてからそう言った。目の前で千砂都が微笑んだのが、かのんには見てもいないのに分かった。

「そう言うかのん先輩も、全然変わってないっす! ……あ、でも前より色っぽくなったっすか?」

「それには同意見ですの、なんだか前にも増して……うぐぐ、私なんて未だにちんちくりんキャラでリスナーには通していますのに……そういうのはきな子の方がいいとかみんなは言いますの……」

 後半に従って声も身体も萎んでいく夏美を、そこにいる三人で見つめていた。みんなそれぞれきょとんとしていて、それから夏美が悔しそうに目を逸らしたところで誰からともなくぷっと吹き出す。

「ちょ、なんで笑うんですの、かのん先輩と千砂都先輩はまだいいとしても、きな子が笑ってるのは納得いかないですの!」

 むくれた夏美が言う。もうここは夜のかのんのカフェじゃなくて、あの夏中みんなで一緒にいた部室だった。穏やかな笑い声、かつてのはしゃぎ声。

「……みんな、本当に変わってないね」

 かのんは目を細めて笑った。すると夏美がテーブルをいきなり叩いて、立ち上がりながら言った。

「変わってないっていうのは失礼ですの! 今に夏美だってスーパースターになってメディアにもバンバン出てやるんですの! あのグソクムシ先輩にも負けないくらいの!」

「……だーれがグソクムシですって?」

 すっ、と。

 音もなく夏美の背中に現れたその人は、その金髪をわずかに揺らして夏美の肩に手を置いていた。冬だから、当たり前だけどコートを着ていた。

「ひいっ⁉︎」

 夏美は驚いてびくっと跳ねたけれど、肩に置かれた手で動けていなかった。

 でも、そうなったのは、夏美だけじゃなかった。それを見ていたかのんもまた、そうで。

「…………っ」

 久しぶりに見るその金糸、わざと薄暗くした店内でも吸い込まれてしまいそうなエメラルドの瞳。最後に会ったのは、もうずいぶん昔のような気がする。あの居酒屋。触れ合ったその胸もと、女子トイレの個室、不器用すぎた何もかも。

 かのんは思い出し、忘れかけていた感情が呼び起こされてしまいそうになる。

 ふと、夏美を押さえていたその人がこちらを向いた。すぐ向かいの至近距離で、その人はかのんを見て信じられないくらい、やさしく微笑んだ。

「久しぶり、かのん……元気、だったかしら」

 そう言って、すみれは懐かしいものでも見つめるみたいな目で、かのんを見つめた。

 それでかのんは、何かひとつ、大切なことを忘れた気がした。そんなやさしい顔で見てくれるほど、とてもとても長い時間が経っていて、もうお互いに大切な守るべきものがあるんだね。そう、かのんは思った。

「……うん、久しぶり、私は、すごく元気だよ」

「……そう、よかった」

「あ、千砂都〜かのん〜お久しぶりデス〜!」

 いつの間にかすみれの隣にいたその人がそう言って会話に割って入ってきた。

「わ、可可ちゃん……! 久しぶり〜元気してた〜?」

「はい〜! 千砂都もお元気そうで何よりデス!」

 千砂都は振り向いて可可の手を取って、二人で女子高生みたいに楽しそうにはしゃいでいた。その様子をカウンターの内側でかのんは見ていた。かのんの隣にいたきな子も、そっちをじっと見ているようだった。

「仲良く同窓会しに来たんじゃないのよ……全く、めんどくさいったらめんどくさいわね」

「同感ですの、私たちはあまり再会を喜んでいる暇もないんですの」

 可可と千砂都の横で、すみれはまだ夏美に手を置いたままで言った。夏美もその手に促されるまま座って、すみれを見上げて頷く。

「……そうだね、私たちは、あまり遊んでいる場合でもなさそうだね」

 かのんは言葉通りに、出そうかと思っていたカクテル用のリキュール類をこっそり裏に片付ける。

 するとまた、夏美の隣で声がした。

「……そうですね、わたくしもそう、思います」

 ひっ、と今度はすみれも、千砂都でさえ一緒に飛び退いた。その人は、最初からいたみたいに夏美の隣の席に座っていた。相変わらず背筋がしゃんと伸びているのが、何年振りでも変わらなくて少しかのんは笑ってしまいそうになった。

「恋ちゃん……」

「レンレン! お久しぶりデス〜! お元気デシタか?」

 可可は千砂都を離れて、恋の背中へと飛び込んだ。わ、と言って恋は前に倒れて、可可がその後ろから抱きついていた。すみれがため息を吐いているのが見えた。

「えぇ……みなさんも、お元気そうで」

「……久しぶり、恋ちゃん」

 かのんは呟く。なんだかみんな、何年振りかも分からないくらいなのに、土日明けの学校みたいな気がした。

「お久しぶりです、かのんさん」

 恋はやんわり微笑んでいた。少しも変わらないその声、その黒髪、その笑顔。かのんは懐かしくて言葉も出なくなる。

「……では、先ほども言いました通り、善は急げと言いますのでさっさと始めちゃいますの!」

 静かになったところで夏美が切り出してくる。でもかのんは、まだ一人足りない……それも一番重要な人が来ていないんじゃないか、と思って辺りを見渡した。

「私たちはメイちゃんが死んでしまう過去を書き換えるために、過去の重大な世界の分岐点にタイムマシンで向かい、そこで世界線の移動を図りますの! 世界線の移動はとてもシビアなので事前にバッチリ計画を立てておきますの!」

「……く、詳しいね、夏美ちゃん」

 かのんが言うと、千砂都と可可も目を丸くしているみたいだった。

「当たり前ですの! 私たちは政府に規制された数多の科学技術を使い過去に行く……いわばタイムトラベラーですもの!」

 ジッ

 その言葉を焼くようにわずかな火花の音がした。

「……ずいぶん偉そうじゃん、夏美」

 みんなが声のした方を振り向いた。カフェの奥まったところの壁にその人は白衣で寄りかかっていて、咥えたそれを左手で外すと、薄く煙を吐いた。

「私を差し置いて、何を話すつもりだったのか……聞かせて貰おうかな」

 四季が静かに言うと夏美はひいっ、と分かりやすく怯えた声をあげた。

「あ、あはは〜冗談ですの〜、ほら四季もこういう冗談好きかなと思って〜」

 顔を引きつらせて手を横に振っている夏美を、四季はじっと見つめていた。かのんはふと、あれこの二人ってお互い呼び捨てだったかな、と思ったけれど、些細なことなのでまぁいっか、と思った。

「夏美ちゃん、四季ちゃんのこと知ってるアピールはやめるっす! なんで昔からすぐ知ったかぶろうとするんっすか?」

「だ、黙るですのきな子! あなたこそなんで時々そんなに毒舌になるんですの⁉︎」

 カウンターを挟んで言い合いを始めたきな子と夏美を通り抜けて、四季はみんながいる開けた場所へと歩いてきた。ちょうどかのんを正面にするくらいの位置で、四季は立ち止まる。

「…………かのん先輩」

「はっ、はいっ⁉︎」

 かのんは四季の醸し出す重たい雰囲気に気圧されて、思わず声が裏返る。

「場所の提供、ありがとうございます。位置としても立地としてもここは適していました……灯台下暗しとも言いますし」

 四季は言いながら、白衣のポケットから何かを取り出して、その蓋を開いて、そこに左手で持っていた煙草を押し込むようにして消した。パチン、と蓋が閉まる。

「みんな」

 四季が少しだけ、大きな声を出した。それだけで場は一気に静かになる。

「私は……メイを助けるためにタイムマシンを開発した。みんなも乗れるようにしてある……だから、もし、可能なら……」

 ゆっくりと喋る四季の声は、次第に自信なさげに尻すぼみになっていった。

「その、みんな私の計画に賛同かどうかはさておき……私は個人の人生を尊重して欲しいというか……」

「あーもー! まどろっこしいわね!」

 最終的に四季は一人で同じようなことを繰り返すようになって、すみれがそれを遮った。

「みんなそのつもりだから来てんの、今さら引くなんてできっこない……行くったら行くわよ」

 すみれが言うと、四季は初めて驚いた顔をした。それはあの日以来、表情というものの全てを見せなかった誰かではなくて、紛れもなく四季のそれだった。

「きな子も行くっすよ! 覚悟はできてるっす!」

「可可も行くデス! すみれにだけ行かせるワケがないのデス!」

 次々と席を立つメンバーたち。

「わ、私ももちろん行きますの!」

「私も行くよ、私たちの大切な人を、取り戻しに」

「わたくしも、行きます。そのために、ここまで来たのですから」

 気がつくと、かのん以外は一箇所に集まって輪になっていた。後は、かのんだけだった。

 かのんはその中でちらりと振り向いた千砂都と、目が合った。それでくっと息が詰まって、カウンターの内側から出る。そして千砂都が開けてくれたそのスペースに、滑り込む。

 みんなかのんの言葉を待っていた。

「……簡単な道じゃないと思う。きっとたくさん辛い思いをする。それでも、みんなはやるんだよね」

 かのんから見えるほとんどの人が、ゆっくり頷くのが見えた。その言葉は薄暗いカフェによく響いた。

「分かった……やろう、私たちで」

 かのんが言うと、みんなはすごく、穏やかに笑った。それからごく自然に、手を繋ぎ合った。かのんの右手には千砂都、左手にはきな子がいた。

「……かのん先輩、グループ名とかつけないんっすか?」

「え」

 ふと、きな子が言った。確かにこのグループは、かつての部活とは違うし、でもじゃあなんて呼べばいいんだろう、とかのんは思った。

「…………リエラ、でいいんじゃないかな」

 するとすぐ隣から声がした。他の人の視線がその人に集まる。かのんもその人を見た。

「……そうだよね、私たちはいつまで経ってもリエラ、だよね」

 かのんが言うと、その人はそのまんまるな赤い瞳を開いて、そっと笑う。

「えっとね、でもつづりを変えようかなって……私たちって、高校生の時はLiella!だったでしょ」

 カフェは静かで、でもたくさん人がいるのでそれは静寂ではなく沈黙と呼ぶべきものだった。

「だからRe:era!(リエラ)っていうのはどうかな……もとの意味のフランス語で結ぶ、と時代を繰り返すって意味を込めて、Re:era!」

 どう?

 かのんは、千砂都がそう言うのを聞いていた。そしてそこにいるみんなが誰ともなく微笑んだのが、かのんには見なくても分かった。

 四季がそんなかのんたちを、幽霊でも見るみたいな顔をして見ていた。

「……決まりだね」

 こくり。

 みんなは頷いて、それから自然と手を繋いだ。みんなも同じ気持ちなのが、繋いだ手を通じて伝わってくるみたいだった。

「もちろん、リーダーは四季ちゃんね、ここにいる人たちは、四季ちゃんのために集まったんだから」

 四季は困惑と呆然の間くらいの表情をしていたけれど、そこにあるのは多分、喜びだった。

 かのんは大きく息を吸う。昔のように。

「私たちはRe:era! 時間を超えて、メイちゃんを助けに行きます!」

 気がつくと、かのんたちは右手でピースサインを作って、輪の中心で指を揃えていた。ライブ開始前の、おまじない。

「さぁ、行こう! リエラ!」

 かのんの目の前、その時、四季の耳に赤色のピアスが覗いた。ちょっとその瞳が潤んでいる気がしたのは、気のせいだったのか。それはかのんには分からなかった。

 

 

 

「スーパー! スタートッ!」

 

 

 

 振り上げられる、空に掲げるピースサイン。昔より控えめな始まりのサイン。

 一人を叶える物語。

 これが、これから始まるたった一日のうちに起きた、歴史に残らない闘いの幕開けだった。

 本当に私たちはいつも、始まってばかりいるな。

 そう、かのんは思った。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「……と、格好良く言ったはいいけど、かのんちゃんはほとんど何も知らないので説明は全部四季ちゃんがやりまーす」

 千砂都に言われて、かのんはしゅんとして引き下がる。かのんと千砂都は奥のテーブルに向かい合わせで座った。

「……かのんって千砂都の尻に敷かれてるの?」

「ん? 尻に敷くってなんデスか?」

 その隣のテーブルに向かい合わせで座っているすみれと可可が言った。

「な、夏美に訊かないで欲しいですの! 千砂都先輩がニコニコしてこっち見てて怖いですの! ていうか夏美はまだ何も言ってないですの」

 夏美ときな子はカウンターに座って身体を曲げてテーブルの方を見ていた。

「……まだぁ?」

「ひいっ⁉︎ ご、ごめんなさい、ごめんなさいですの!」

「……ふふっ、ちぃちゃん、怖がらせちゃダメだよ」

「……でも今のは夏美ちゃんが悪いっす」

 みんながそれぞれ手頃な椅子に座っているこの感じは、いつかラブライブの発表を見にみんなでここに来た時みたいだな、とかのんは感じた。久しぶりなのに昔みたいな感じで、楽しいんだけど不思議な感じがした。

 すると四季が真ん中にすっと歩み出て来た。いつものように胸ポケットのケースから煙草を一本取り出して、流れるような動作で火をつけて咥える。それはもうごく見慣れた四季の動きだった。四季は左手の指で煙草を挟んで、一息分だけ煙を吐いた。

 それから、右手の人差し指と中指を綺麗に揃えて自分の左側から右側につぅ、と線を引いた。

 すると他のメンバーが座っている前のテーブルだったりカウンターだったりに、ゴト、と音を立てて無かったはずのものが現れた。

 かのんはもちろん、他のメンバーも驚いていた。特に可可とすみれ。他のメンバーは、なぜだかあまり驚いていないようにかのんには見えた。

「…………これは、物質圧縮装置。リストバンドみたいに腕にはめて、収納されているものを思いながら手をかざすとそれが出てくる」

 四季が言いながら正面に手をかざすと、今度はそこに中くらいの黒いものが出てきた。かのんは息が止まりそうになる。

 アサルトライフルだった。

 四季の白衣にその黒色の異物はますます浮いて見えた。

「……こういうの、みんなもできるから」

「い、いやいやいやっ⁉︎ 私たち、戦うの⁉︎ め、メイちゃんを助けるためだよね、これ必要なのかな……⁉︎」

 四季がアサルトライフルを右手に構えて左手で煙草を(もてあそ)んでいた。吐く煙が冬の吐息のように上がっては消えていく。

「……念には念を、と思って。他にも色々入れておいた。各自使えそうなものを入れておいたつもり」

 四季は淡々と言った。

「……試しにみんな一つ出してみて、耳につけるタイプのトランシーバーが入ってる」

 四季が言うので、かのんは腕にそのリストバンドをはめて、四季の真似をして目の前に手をかざす。トランシーバー、と思いながら。

 するとそれが、かのんの手の内に音もなく現れた。これが規制された発明……と思ってかのんはぞっとするような、ちょっとワクワクしてしまうような不思議な気持ちになる。なんとなく付け心地を試すために、みんなはそれぞれトランシーバーを耳に付けているようだった。

「あ、ちなみに銃は安全性に配慮して実銃ではなくゴム弾のような非殺傷弾を採用しましたの! ただ当たると気絶するくらいにはめちゃくちゃ痛いかもしれないですの〜」

 夏美が得意そうに言うと、きな子が不思議そうに夏美を見ていた。

「え、夏美ちゃんが用意したんすか、これ……いつの間に四季ちゃんと連絡取ってたんすか?」

「え⁉︎ えっと〜、つ、つい最近ですの〜あはは……」

 夏美は助けを求めるように四季を見ていたけれども、四季は応じる様子もなかった。

「それと……みんな、スーツは着てるよね」

 四季が入口の方に立ってこちらを振り向いて、言った。

 かのんは正面の千砂都と向き合って、お互いに上着を脱ぐ。その下から、黒を基調にした七色の線の入った衣装のような服が現れた。それは、昔みんなで初めてライブをした時の衣装で。他のみんなも続々と上着を脱いで、その衣装を見せる。

「……うん、それは本人の潜在能力を引き出すための特殊なスーツだけど、安全のためになるべく着ておいて、何が起きるか分からないから」

 四季はそう言ってライフルの側面で煙草をもみ消して携帯灰皿にそれを突っ込んでいた。私のカフェだからか床に捨てない辺りがやっぱり四季ちゃんらしいな、と思ってかのんはこんな時なのにほっこりする。

「タイムマシンを作ることは、政府の管理下でしか許されない……つまり私は、政府に離反する人間なの」

「…………」

「これから、私の秘密ラボに、みんなを案内する。ラボはちょっと変わったところにあってね、入り口がすごく遠くにあるの……でも、私たちにとっては、近いかも」

 四季は何か謎かけみたいなことを言っていたけれど、特に誰も気にしなかった。

「……そこにタイムマシンを用意してるから、すぐに過去に向かおう、そうすればこれも犯罪じゃなくなる、奴らも追ってはこれない」

「奴らって、誰っすか?」

 きな子が口を挟む。

「奴らは……政府の組織した時間超越特殊部隊、通称────クロノダイバー」

 かのんはそれを聞いて、いよいよというかいきなりのとんでもない展開に、ちょっと落ち着くのも兼ねてお手洗いに行きたくなった。それで奥の席から立ち上がった。

「あ、あの〜、私、ちょっとお手洗い行ってくるね?」

 非日常の緊張感に耐えかねて、かのんはぎこちなく動き出す。

「あ、危ないっ!」

 足を引っ掛けて転びそうになったのと、すぐそこにいた千砂都が瞬発的にかのんの下に滑り込んだのは、ほぼ同時だった。その、あまりの速さにすぐ横にいたすみれと可可は目を丸くする。

「あ、ありがとちぃちゃん、まさかコケるとは思わなくて……」

「いいのいいの、怪我しなかったんだから」

 千砂都にそう言われて、かのんは安心して床に座り込む。

「……千砂都すごいデス! すっごい速さデシタ!」

「……にしても今のは速すぎじゃない? いくら千砂都が運動神経が良いとは言えども……」

「それが、スーツの力……人並外れた瞬発力と運動を可能にした。ただし連続運用は五分、再使用には十分を空ける必要がある」

 四季はいつの間にかアサルトライフルは持っていなくて、その唇に煙草が咥えられているばかりだった。

 四季のすぐ後ろの入口側の席で、恋がじっとかのんたちを見ていた。

「…………ん?」

「……どうしたの、かのんちゃん?」

 ふと、かのんは立ちあがろうとする時に気がついた。何か、テーブルの下が、カウンターの下が、赤かった。

 かのんは、一番近くにいたきな子の席の下に膝立ちで近づいて、そこを見る。そして、息が止まった。

 ドラマでしか見たことないけど、この形状、この赤い数字がカウントする意味、そして繋がれた導線の先のいくつもの円柱。

「……ば、爆弾⁉︎」

 かのんは大声を出した。そこにいるメンバーがみんなかのんの方を見た。

 その時だった。

 入口の隣の窓から、光が差し込んだのは。

 当然朝日とかじゃない。もっと、何もかもを白日の元に晒そうとするような、白い光。四季がそれを見て、かのんたちを振り向いて、叫んだ。

「みんな! 伏せてっ!」

 かのんはそれを聞いて、一番傍にいたきな子を引っ張って、床に伏せる。その他の人も、四季の声を聞いて目の色を変えると近くにいた人を引っ張って床に伏せた。

 それとほぼ同時に、物凄い音がしてガラスが粉々に砕けた。そしてさっきまでみんなの頭や身体があったところを、風が走るように何かが通っていった。そして次の瞬間、辺りにあったガラスや食器類なんかが粉々に砕けた。

「……こ、れって」

「ちッ、もうバレるなんて……」

 四季は一人で歯噛みしていた。それから伏せたままの姿勢でかのんたちに振り向く。窓から炙り出すような光が差し込んでいて、誰かがそこにいる気配がしていた。

「説明してる暇はないし私がここで出来ることは少ない……」

 かのんがカウンターの下の赤い数字を見てみると、あと十秒であることが表示されていた。それ以外のテーブルにも設置されている。きっと、見えないところにもたくさん。

 四季はおもむろにしゃがみ込み、床に右手の人差し指を立てる。

「位相空間選択、移動対象指定完了、範囲形成、オーケー……パターン、ランダム」

 割れた窓から何かが投げ込まれる。四季はぶつぶつと何かを呟いていた。残り五秒。

「誤差確認、座標誤差修正、0.000004以下、発現位置、最終調節……オールクリア」

 四季は下を向けていた手を右側に、空気を切るようにサッと伸ばした。残り二秒。

 かのんはきな子の頭を抱え込むみたいにじっと(うずくま)っていた。あと一秒。

「転送ッ!」

 四季が言うのと、目の前で爆発音が聞こえたのと、視界がいきなり揺れ動いたのは、何から起きたのか分からなかった。

 かのんはいきなり足もとが割れて無重力になって、どこへ落下しているのかも分からないような浮遊感に襲われた。視界もぐわんぐわん揺れるので、その中できな子だけを抱きしめるのに必死だった。

 はっとして目を開いた。

 ドォン、という音は、少し離れたところから聞こえた。遠くから聞く花火みたいな音だ、と思った。

 そこを見渡すと、どうやら店からそう離れていない路地のようだった。薄暗く、狭い道は新宿開発の影響でぐちゃぐちゃに入り組んでいて、とても自ら入る気にはなれないような場所だった。この街ももう、一歩道を逸れれば貧民街が広がっている。

「いっ、たたたた……かのん先輩、大丈夫っすか?」

 かのんの下敷きになっていたきな子が言うので、慌ててかのんは飛び上がる。

「ご、ごめんね! きな子ちゃんこそ大丈夫?」

 かのんはきな子の手を取って、立ち上がらせてあげる。薄暗い、すえた匂いのする路地裏で、かのんはきな子と立っていた。

「なにが、起きたの……」

「分からないっすけど、多分、四季ちゃんが私たちを飛ばしたんじゃないっすかね……きな子も空間転移を見たのは初めてっす」

 きな子が言うと、かのんのつけっぱなしにしていた右耳のトランシーバーからザ、ザザァ……と音がして、それからすぐに声が続く。

『みんな、よく聞いて。今、みんなに私のラボの場所を送る。そこに、奴らを……クロノダイバーを振り払いながらやって来て……そこで、合流しよう』

 それだけ言って、通信は切れてしまった。ポケットに突っ込んでいたスマホが震えて、取り出すと昔の『Liella!同窓会(9)』のグループに最後に送られていたメッセージの下に、マップの位置情報が貼られていた。七年ぶりのメッセージだった。かのんはなぜだか胸が熱くなる。

「かのん先輩ッ!」

 きな子がいきなり声を荒げて、かのんの前に立った。そこには路地を塞ぐように、黒いローブを着た見るからに怪しい人たちが、わらわらと出てきていた。

「……あ、あはは、これはマズい、かも……?」

 かのんが言うと、きな子は両手を空中で引っ張るような動きをした。するとその手には、きな子の身体にぴったりなアサルトライフルが握られていた。きな子は右手にそれを自分の一部みたいに正面に構えて、顔だけで振り向いてかのんを見た。

「……やるしかないみたいっすね、かのん先輩!」

「えっ、えっ、銃なんて使ったことないよ⁉︎」

 かのんは立ち上がりながら首をぶんぶんと横に振る。

「そんなこと言ってる暇ないっす! やらなきゃやられるっすよ!」

「うえぇ……ど、どうしてこんなことに……」

 かのんは言いつつ、目の前の何もない空間を両側に引っ張るような動作をした。そして、構えた時には、すでにその手にはきな子のよりひと回り大きいアサルトライフルが握られていた。かのんは本当に出てきたそれの予想外の重さに驚き、落とさないように左手も添える。

「…………目的はここの突破と逃走っす、かのん先輩、やるっすよ」

「……分かった、きな子ちゃん、やろう」

 そして、路地の物陰に二人が隠れた瞬間に、高速の弾幕が張られて、戦いの火蓋が切られた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「……あんた、下がってなさい、危ないったら危ないわよ」

 すみれはそう言いながら、両手を正面に構えてライフルを取り出す。

「何を! 夏美たちはVRの世界で戦闘訓練もバッチリですの〜!」

 夏美も両腰から何かを引き抜く動作をした。すると、その両手には小さな拳銃が二丁握られていた。

 ここは寂れた繁華街の一角で、怪しげな看板の立ち並ぶネオン塗れの街だった。かのんの家からそう離れていないことは、一瞬前の轟音で分かった。そこから自分達が飛ばされてきたことも。

 そして目の前に、黒いローブを着た集団が、行く手を塞ぐように立ちはだかっていた。二人には逃げるより、倒すという選択肢を取る方が明白だった。幸いこちらは非殺傷弾を使っていたし、相手を殺してしまうこともなかった。夏美ナイス、とすみれは思う。

「……そう、じゃあ、お手並み拝見といこうかしら。やれるったらやれるのね」

「もちろんですの! 私はグーソクムシ先輩みたいに動くの遅くないんですの!」

「ふっ、あんたいっつも一言余計よ……じゃあ」

 すみれが一歩を踏み出す。夏美も両手に拳銃を構えてその後ろに付き従う。建物にかっぽり切り取られた真っ暗な夜空の下。

「行くわよ、夏美」

「はいっ、ですの!」

 そして次の瞬間、閑静な街に銃器の炸裂する音が、響いた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「はわわ……どうしまショウ、千砂都……」

「う、うーん……隙をついて逃げる、とか……?」

 薄暗い路地裏に二人はいて、そこは換気扇とかよく分からない大きなゴミ捨てのカゴみたいなものが連なっているところだった。

 そしてその入り口には、あいつらがいた。遠くで聞こえた轟音で、かのんの家で爆発が起きたことが可可には分かった。

「んー、でも戦うのは、どうすればいいのか分かんないし……弱ったなぁ」

「可可も何にも出てこないデス〜ど、どうしまショウ千砂都……」

 可可は言いながら、さっき見せてくれた四季の真似をして手を合わせたり開いたりしていた。可可たちは特に何の説明もされないまま、リストバンドを渡されていたので、てっきりみんな銃みたいなものが出てくるものだと思っていたけれど、なぜか可可と千砂都は出てこなかった。

 その時、地面が高い音を立てて削れて、二人がびくっとすると、その先で黒い銃口が二人に狙いを定めていた。

「わわわ……マズいデスよ千砂都……ど、どうしまショウ」

「んー、あ!」

 千砂都が思いついたように手をぱん、と叩く。

「走ってやっつける!」

 そのまま千砂都はクラウチングスタートの格好で、指さきを地面につけていた。

「え、え⁉︎」

 困惑する可可を横に、千砂都が脚と腰を持ち上げる。そのスーツが内側から光っていくように可可には見えた。

「よーい、どんっ!」

 建物に切り取られた細い路地に、千砂都の足音と銃声が、同時に弾けた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「はぁ…………」

 白衣についた埃を払いながら、その人はため息を吐く。白衣のポケットに右手を突っ込んで、もう片方の手で煙草を摘み、心底嫌そうに煙も一緒に吐いた。

「…………めんどくさい」

「四季さん、背中は任せてください!」

 四季が呟くので、恋は四季の背中に自分の背中を預けながらそう言った。ここはどこかの建物の屋上らしきところで、四方を黒いローブの集団に逃げ場なく囲まれていた。

「…………さっさと終わらせましょう、こんなのに付き合ってる時間はないので」

「……はい! そうしましょう!」

 恋から四季の顔は見えないし、四季からも恋の顔は見えなかった。

 恋が自分の正面に手をかざし、圧縮空間からアサルトライフルを取り出した。

 四季は口から煙草を外すと、それを足もとに投げ捨てて踏み潰し、白衣のポケットから右手を無造作に出した。

 それが開戦の合図だった。

 黒い人たちはそのローブの内側からその手にすっぽり収まる程度の小さい拳銃を取り出す。

Ready to go, Ren?(やりますよ、恋さん)

「……Yes, right now.(はい、いつでも)

 四季と恋が飛び出した次の瞬間、夜空に折り重なっていつくもの銃声が響いた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 小気味よくパラパラと雨音に似た音がしていた。しかしそれは雨音のようにやさしいものではなかった。

 一瞬遅れて、辺りのものに穴が開いたりひしゃげたりする音が続く。

「……どうするの、きな子ちゃん」

 鉄で作られた分厚いゴミ箱の側面にかのんたちは隠れていた。カン、カンッ、と擦れる火花の中、かのんはきな子と固まっていたので耳元で言う。

「んーと、もうちょっとしたら、一瞬隙ができると思うっす……待ってもらっていいっすか」

「え、隙……?」

 かのんが首を傾げていると、きな子がはっとして顔を上げた。

「いまッ!」

 そしてきな子はいきなりゴミ捨て場の影から飛び出した。かのんは撃たれる、と思ってきな子を助けようとしたのだけれど、その一瞬、まるできな子が飛び出すのに合わせるみたいに銃声は途切れた。

 飛び出ていきながら、きな子はライフルを両手で構えて、そのまま低い姿勢で三回、発砲した。

「かのん先輩! 今っす!」

 強い語調で言われて、かのんは恐る恐る顔を出す。

 すると向こうにいた黒ローブがきな子の発砲した回数と同じ人数、倒れていた。

「……え」

「どーっすかかのん先輩! きな子、夏美ちゃんとこういうゲームの配信もよくしてたんで慣れてるんっす! エイム良いって評判なんすよ〜」

 困惑するかのんの前で、きな子は得意げに言った。かのんは何かを言おうとしたけれど、しかし視界の隅で何かが動く気配がした。じっとしている余裕はないらしかった。

「きな子ちゃん! 走ろう!」

「え⁉︎ あ、は、はいっす!」

 かのんは右手に初めて持つアサルトライフルを構えて、走り出していた。後ろからきな子が慌ててついてくるのが分かった。

 でも、そこの角を曲がりたいのに、真っ直ぐ行った先に、奴らがいた。夜でも黒く輝く銃口がこちらに狙いを定めていた。

「かのん先輩っ、前っ!」

 きな子も気づいたみたいだった。この狭い道で応戦するか、走ってこのまま逃げるか、かのんは考えて、でもそんな時間はなくて、仕方なくこのまま逃げようと思った。

(あぁあとちょっと速く走れればいいのに……)

 かのんは思い、そこであることに思い至った。自分達が着ているのが、ただのスーツではないことに。

 

 ────そのスーツは人並外れた瞬発力と運動を可能にしました

 

 思い出し、かのんは後ろのきな子に考えるより早く手を伸ばす。

「きな子ちゃんっ! 手掴んで!」

「え、え⁉︎」

「早くっ!」

 かのんが叫ぶのと、きな子が手をぎゅっと握るのと、銃声が響いたのはほぼ同時だった。

 しかし、弾が通るべきだった場所には誰もいなくて、路地裏には静かな残響だけがあった。

「────⁉︎」

 黒ローブは困惑した様子で付近を確認して回っていた。しかし、そこにはもう誰もいなかった。

 硝煙の匂いだけが、辺りに立ち込めていた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 ここは両側にいろんなお店の入り口や巨大な看板があるので身を隠すにはうってつけだった。

 いかがわしいネオンライトに照らされた弾丸の雨が後ろのごちゃごちゃした街並みを薙ぎ倒していった。

『……いい、夏美』

『はいですの』

 すみれは『寿司バー』と書かれたいかにも怪しい店の入り口に身を潜めて、道路を挟んで向かいに同じく隠れている夏美と、さっき耳につけたままだったトランシーバーでやり取りをしていた。

『何度か銃撃戦をしたけど、ちょっと相手の数が多すぎるわ……逃げようと思ったのだけれど、ここは道が開すぎててそれも難しい』

『……その通りですの』

 夏美は会話の隙間に物陰から身を出して応戦していた。あまり効いている様子はなかった。

『だから上から逃げる』

『……え?』

『建物の上をジャンプして、飛び越えるのよ、ほら映画とかでよくあるじゃない』

『……そ、それは映画の世界の話ですのっ!』

 銃弾が雨のように打ちつけて乾いた音が鳴っていた。店先のガラスが割れる。

『四季も言ってたじゃない、このスーツは人並外れた運動を可能にしたって……同級生が言ったこと、あんたが信じなくてどうすんのよ』

 すみれは言い終わると、腕だけで向こうに狙いを定めない攻撃をした。もうここからは無理にここで戦う理由はなかった。

『……分かりましたの』

 すみれは夏美と目を合わせ、それぞれの建物を上るために、息を整えていた。

 しかしそのまま行っても追われてしまう可能性がある。そうなれば終わりだ。

 すみれはそう思って、なんか時間稼げるものないの……? と思いながら手を腰から引き抜く動作をしてみた。

 するとその手にずしりと、昔よく買いに行ったスーパーの白菜ほどの重みがある何かが握られていた。

 すみれが見ると、それは分かりやすく、手榴弾だった。しかしなんとなく、これは閃光弾だ、とすみれは分かった。想像と一致したものが出てくる感覚があったから、そう思ったのかもしれない。

 すみれはライフルを腰にしまう動作をすると、それはやっぱり途中ですり抜けるように消えた。右手に持ち替えたその小さなパイナップルみたいなそれのピンを口で開けてなるべく道路の向こう側に放り投げる。

『行くわよ、夏美!』

 そうすみれが叫んで、走り出した二人の背中で、白い閃光が炸裂した。すみれは後ろを振り返らない。銃声が止まっているような気がした。

 四階の屋上の扉は鍵もかかっていなくてすんなり開いてくれた。すみれはその向かいの屋上にいる、手を振っている夏美に手を振り返す。

「今からそっち飛ぶから、ちょっと待ってなさい!」

「え、え、落ちたらどうするんですの⁉︎ まだ一回も試してもいないのに……」

「いいから、やるったらやるのよ!」

 すみれはそう言いながら、屋上と向こうの屋上の隙間を見積もる。……うん、人間がいける距離じゃないわね。

 でも、すみれはやるしかなかった。屋上には柵も何もされていない。飛ぶにはもってこいの夜空でもあった。

「……すみれ、行くわよ」

 すみれは自分でそう呟いて、走り出す。こんなところで止まっていては、メイどころか、自分の愛する人さえ守れないのだ。すみれの脳裏を卵かけご飯越しに見るあの子の顔がよぎった。

「…………お、おお〜」

 すみれは夏美のすぐ隣に立っていた。夏美は感心した様子で手を叩いていた。

「す、すごい、鮮やかでしたの……悔しいけど流石はスーパーモデルなだけはありますの」

「いいから、さっさと次、行くわよ」

 すみれは成功したことに喜びひとつしないまま、夏美の肩を持ってそう言った。

「え、つぎ?」

「何とぼけてんの、地面は敵さんでいっぱいだから上から逃げるって言ったじゃない」

 すみれは、何か夏美と自分を繋げるもの、と思いながら手を空中にかざす。すみれの手には腕に巻き付けたのと似たような銀色のバンドが握られていた。

「あ……それ知ってますの」

 てっきり泣き言を言うかと思っていた夏美は、驚きの方が勝ったようにそう呟いた。

「なによ、これ」

 すみれが問いかけると、夏美はすごく懐かしそうな顔をしながら言った。

「……脚に、巻き付けて使うんですの、二人三脚みたいに……四季が高校生の頃作ってた、ヘンテコ科学アイテムのうちのひとつですの」

「ふぅん……? どうやって使うの?」

 すみれは靴紐を直すフリをしながら屈む。

「簡単ですの、脚に巻き付けて、脚関節神経ブロック、一部シンクロ完了と言えばロックされますの」

「オーケー、分かったわ」

 そう言うと、すみれは夏美の腰を持って抱き寄せた。夏美がわ、と短く声を漏らす。

「脚関節神経ブロック……一部シンクロ完了」

 すみれが言うと、すみれの右脚に巻かれたその輪っかが、夏美の左脚に回って、かちりと音を立てた。

「え、す、すみれ先輩……?」

「さぁ、逃げるったら逃げるわよっ!」

 すみれが叫んだのと、両側の屋上の扉から、奴らが溢れ出してくるのはほぼ同時だった。

 そして二人は、狙いを定める銃口もものともせずに、夜闇を駆ける風になった。

 銃声は遅れてそこに響いた。

 誰もいない闇の中に。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 目にも止まらぬ速さだった。

 スーツの残光が夏場の太陽を見た時みたいに目に焼き付いて、その通った道が見えた気がした。

 遅れて向かいにいた人たちが順番にばたばたと倒れていった。

「……ふぅ、速いねーこれ」

 倒れた人の後ろから、リストバンドを弄っている様子の千砂都が現れた。

「すっごいデス……今の、どうやったですか⁉︎」

 可可は足早に駆け寄って、千砂都に訊いた。

「えっと、さっきかのんちゃんがコケそうになった時、自分でもすごい速く動けたんだ。だからこのスーツは自分が速く動こうと思ったら、動けるんじゃないかなって思って!」

「へぇ〜、すごいデスね……どうやって気絶させたんデスか?」

 可可は倒れた黒ローブたちと千砂都を交互に見ながら言った。

「ただの当て身だよ……ちょっと速いからダメージは大きいかもだけど」

 千砂都は言いながら、可可に向き直ってその手をきゅっと掴んだ。可可は驚いてそのまま手を取られた。

「可可ちゃんにも出来るよ! ちょっと速く動くのを想像して走るだけ……っと、早速お出ましだよ」

 千砂都が目を向けた方向、一本しかない道の先に、奴らが入り込んでくるところだった。

「……可可ちゃん、私があいつらを倒して道を作るから、そこを走って来れる?」

 千砂都が結んだ手を外しながら、そう問いかけてくる。可可はびっくりして顔を横に振ろうとした。しかし、考えている時間は無いようだった。

 カァン、と近くのコンクリートが削れる音がして、千砂都はもう一度走る構えを取っていた。

「行くよっ! 可可ちゃんっ!」

 そう言って千砂都がそこから消えたのを見て、可可も、あぁもうヤケだ、と思って千砂都の真似をしてクラウチングスタートをした。

「……いきマスよ、すみれ」

 ちょっと勇気をください。

 そう思って可可は脚を踏み出した。

 そして風のようになって、千砂都が散らしてくれた包囲網を突破して、おもてに出た。しばらく離れるために、千砂都を追いかけて入り組んだ道を可可は走った。

「……あれっ?」

 順調に進んでいたのに、ふと前を行く千砂都が立ち止まってしまった。

「あ、あれ? どうしたんだろ」

「……あ、そういえばしっきー、連続では五分しか使えないって言ってませんデシタか? 十分のチャージがいるとかも」

 可可が言うと、千砂都はむむむ、と唸って、近くにあった民間住宅の階段の埃臭い踊り場に可可を引っ張って連れて行く。

「ここで隠れよう、チャージが完了したら、また安全なポイントを見つけて高速移動する」

 可可は話を聞きながら、何か自分も出てこないものか、と思って空中に手かざす。役に立つもの、と思って。

 すると空中に座標平面がいきなり浮かび上がった。

「────っ⁉︎」

 二人は驚いたけれども、すぐにそれが自分達の周囲の地図であることが分かった。そこにある二つの点が自分達、そして下側から迫ってくるのが────

「クロノダイバー、だね、これ」

 千砂都が言った。

「……行けるところまで、行きまショウ」

 可可は空間にもう一度手をかざしてそれをしまうと、そう言った。可可はひょっとしたら戦闘には向かないから、サポート系のアイテムをたくさん使えるのかもしれなかった。心の中で四季の心遣いに可可は感謝する。

 そして、数分間待ってスーツのチャージが完了したら、二人はまた物陰から飛び出した。薄暗い道をどこまでも走った。

 銃声も間に合わない、抜群のスピードで。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 四季目掛けて撃たれた弾は、全て当たらなかった。

 途中まではまっすぐ進むのだけれど、四季に当たりそうになると、その周りの空間が奇妙に歪んで、弾は四季に到達する前にぱらぱらと落ちていった。まるでおもちゃのように。

 そのまま四季はゆらりと首を傾けると、そのままの緩慢な動作で自分の百八十度以内にいる敵を見据えて、そして消えた。

 そして辺りに風が吹いたかと思うと、四季はその半円の端っこの人の黒ローブの前で止まっていた。

 時を同じくして、恋は飛び出したその真ん中で、誰かが銃のトリガーを引く前に、アサルトライフルを構えた。そしてトリガーを引きながら半円を描くように素早く振った。それは形状自体はアサルトライフルに似ているが性能は散弾銃に近かった。そもそもそれはゴム弾だったのでアサルトライフルとは少し訳が違ったのだけれど。

 勝負は一瞬でついた。

 恋と四季が動きを止めると、その後から二人を取り囲んでいた人たちはばたばたと倒れていった。

 恋は振り向くと、四季を見つめる。

「すごいですね……銃も使わないで……どうやったんですか?」

 四季はやる気なさそうに首を回しながら、もうすっかり見慣れた動作でケースから煙草を一本取り出して火をつけた。ゆっくり煙を吐いてから、言う。

「人間って急所があるんですよ……闇雲に銃やナイフを使うより、指何本かを適切な場所に刺した方が効きます」

 四季は煙草を挟んだ左手の人差し指と中指を恋に見せるように振った。

「……非殺傷のゴム弾とはいえ、当たりどころによっては危ないです」

 四季はどこか遠くを見るように目を細めて、それから恋を見て言った。

「恋さんも、人殺しだけはやめてくださいね、嫌な思い出だけが何百年も残りますから……一人でご飯も食べれなくなりますよ」

 四季はそう言った。

 恋はその時、四季の向こう側で起き上がりこちらに銃を向けていた一人に気がついた。声を上げようとした時には、しかし四季が、音もなくその人の傍に屈み込んで、その銃をそっと下ろさせていた。そしてそのまま首に手刀を叩き込み、辺りはまた沈黙した。

「……ここにいても仕方ありません、行きましょう、恋さん」

 四季が立ち上がりながら言うので、恋はこくりと頷く。

 四季はそのまま屋上のギリギリのところまで歩くと、吸っていた煙草を真下のくすんだ街に落とした。

「……じゃあ、ついてきてください」

 そう言うと、四季は恋にはまるで説明もなしに、おもむろに夜空に飛び出した。

 恋は、スーツの説明こそ受けていたけれど、実際に使うのは初めてだったのでいきなりすぎて困惑する。しかし、やらない訳にもいかなかった。

「……よしっ」

 恋は小さく気合いを入れて、思いっきり振りかぶり、片脚を蹴り出した。ちょうどパルクールみたいに街の上を風になって駆け抜ける。

 速度を緩めると、向こうで新宿ばかり眩しくて、恋はその度、胸が痛んだ。

 そうして恋は四季と、数分でラボについた。そこからは新宿の灯りも地平線の向こうで、なんとなく遠くに青色が見えるくらいだった。

 それ以外のメンバーはまだ来ていないみたいだった。四季の個人ラボには恋も来たことがなかったので、ここが地理的にどこに当たるのか恋には分からなかった。

「行きましょう、場所が割れてもマズいですから」

 四季は首だけで恋を振り返り言うと、その建物の方に歩いて行った。

 恋は一人でその建物を見上げる。辺りは居住放棄区域なのか、灯りは少ないけれど建物だけは立ち並んでいて、その中に紛れるようにその建物はあった。若干高いようで、目視では六階建てはあった。

 恋は視線を戻すと既に四季は見えなくなっていて、慌てて後を追いかける。

 この建物は昔はホテルだったのか、入り口の扉は複雑な模様の入った豪華な作りだった。元々は自動ドアだったのだろうけれど、手で開かないと開かなかった。扉は重たくて、片方を押すともう片方もつられて開いた。

 ようやく脚を踏み入れると、そこは思ったより空っぽだった。所々に直方体の支柱があるだけで、後は灰色のコンクリートが広がっていた。奥の方に上に続く階段があるようだった。

 恋はそこを歩いていった。歩くたびに削れたコンクリートがカラン、と鳴って空虚に響いた。

「……四季さん、ここは」

 辿り着いたそこにいる四季に、恋は声をかける。

「数年前にはホテルだったらしいです……変なオーナーで、ホテルとして特殊な造りだったばかりか……」

 四季は言いながら、ゆっくり腰を折る。

「隠し部屋があってですね……普通に入るのはやや面倒なので、転移します」

 四季は自分の右手の人差し指を立てて、それで地面に半円を描いた。

 次の瞬間、恋は明るい場所にいた。

 よく見れば、そこは自分達の地下五階の研究所によく似た場所だった。でも似ているのは壁中が白いことくらいだった。そして部屋の真ん中には、それが鎮座していた。球体の、神々しささえ覚える、人類の叡智そのもの。

「他より上が高いと……誰もが上に何かあると思うもの、隠れ家には最適でした」

 四季は言って、恋の隣にやって来て一緒になってその巨大な装置を見上げた。避難通路は一応あっちに、と言って四季は顔の動きだけで奥を指した。

「────っ」

 恋は自分の呼吸が乱れていることに気づいて、はっとする。

 それが自分の目的だったはずだった。四季がその巨大な球体に触れて、下の部分が開いて梯子が降りてくる。もう、今しかなかった。

「四季さん」

 声はつめたい気がした。でも本当につめたいのは手のひらに伝わる、黒い凶器だった。

 場の空気は、一変した。

「……何の真似ですか」

 振り向いた四季がそう言う。その声は、張り詰めているような、淡々としているような、色のない声だった。恋はその銃口を四季に向けたまま、握り直す。

「……ごめんなさい、私はずっと、こうするために、生きてきたんです」

 恋が言うと、辺りにはいきなり沈黙が満ちた。その無言は永遠にも感じられるほど不快だった。恋の握っている銃は夏美の用意したものではなく、実弾の入った拳銃だった。政府から貰ったモノ。そのグリップが汗ばんでいくのが自分でも分かった。

「……どうして」

 そのあまりに短い一言は、何よりも恋を傷つけた。あの日からの十年間の記憶のフィルムが口元にべたべたに張り付いて恋は何も言うことが出来なかった。

 恋は首を振る。長い黒髪がゆったりと揺れる。誰に対して申し訳なくなっているのかも分からずに、恋は何度も、何度もそうしていた。

「ごめんなさい……四季さん」

 恋は気がついたら視界が歪んでいた。景色の色が線のようになって伸びていくので、自分が泣いていることに気づいた。恋は袖でそれを拭って、四季に向き直る。その時の四季の顔を、どう表現していいのか恋には分からなかった。ただ、そんな顔をさせたかった訳ではないのに、と恋は心の底から思った。そんな自分を死ぬほど殺してやりたかった。

 目的は若菜四季の作っている二機目のタイムマシンの破壊と、本人を含むその関係者の抹殺だった。クロノダイバーにはその命令と発砲許可が下りていたし、当然、恋もそうだった。最初から後には引けないと、分かっていたはずなのに。

「…………さよなら、四季さん」

 恋は言って、頬を伝う涙を拭わないまま、突き出した右手のそれの、トリガーを、引いた。

 激しい撃鉄が、広い部屋に響いた。

 しかし、撃ち終わった恋の手が下ろされることはなかった。

「……かはっ」

 恋は、肺から酸素がなくなるのを感じた。特に身体に強い力が加わった訳でもないのに、息ができなかった。手に力が入らなくて、拳銃が床に滑り落ちてカツン、と音を立てた。気がつくと、恋の身体の下に、青い髪が流れていた。宙ぶらりんの恋の手をそっと、その手が包むように下に向けていた。

「……すみません、恋さん、やっぱり私は一人で行きます」

 崩れ落ちる恋のすぐ横から、その拳銃の先を摘んで持ち上げて、四季はそう言った。それからすぐに四季は部屋の真ん中にあるその装置にまた近づいてしまう。

 恋は膝をついて俯いたままの姿勢から、ようやく四季に、鳩尾を突かれたことを悟る。息を、整える。

「…………ふふ、もう、遅いですよ」

 恋が呟いた声は、情けないほど震えていた。四季がもう一度、振り向く。

「私の目的は……このタイムマシンの破壊と、あなたたちを始末することです……そして、あなたが使える科学兵器は、私たちも既に研究済みです」

 恋が言う姿が、四季の赤い瞳に映り込んでいた。その瞳がとてもかなしいようでいけなかった。

「クロノダイバーはタイムマシンを、もう完成させています。四季さん、あなたはもう、不要な存在なんです」

 恋はおもむろに両手を自分の前にかざす。そこに現れたのは、恋の両手に収まるくらいの長細い鉄の塊で、側面にタイマーがついていた。あとたったの、三。

「さよなら……四季さん」

 恋は言うと安全装置を外してそれを目の前に放り投げた。タイマーが動き出す。あと、二。

 恋は人差し指で地面に半円を描く。さっき四季がしたのと同じように。

「……転送」

 恋は呟くと、そのまま視界は一度歪み、四季の姿も、タイムマシンも、何も見えなくなった。

 そして恋は、さっきいたホテルの入り口にいた。あと、一。

 恋はホテルに背を向けて、歩き出す。

 そして、次の瞬間、こもった轟音がして地面が大きく揺れ動いたのを、恋は感じた。

「…………さよなら、私の、大切な人」

 恋は夜に擦り切れた金色の瞳で、そう言った。

 クロノダイバーのリーダー、葉月恋として。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「はぁ……はぁっ……」

「ふぅ……大丈夫? きな子ちゃん」

 息を荒げるきな子に、かのんは問いかける。さっきスーツの力で少しだけれど引っ張ってしまったので、身体に負担がかかっているみたいだった。街並みの隙間にある路地で、少しだけ休憩していた。

「だいじょうぶ、っす……きな子はまだまだいけるんで、早く行こうっす……」

「……うーん、もうちょっと休んでからじゃないと、危ないよ」

 かのんはそう言ってしゃがみ込んでいるきな子の背中をさすってあげていた。この路地には人気(ひとけ)がなく、ある程度視界も開けているのでいきなり襲われる心配もなかった。

「かのん先輩は、昔からやさしいっすね……きな子は、そんなところに……」

 きな子の言葉は最後の方は吐息だけになってしまったので、かのんには聞き取れなかった。

「なにか言った? きな子ちゃん」

「……ううん、なんでもないっす」

 きな子は微笑んでそう言うと、突然立ち上がり、かのんに向き直った。夜の闇が降っていた。

「さ! 早く目的地に行こうっす! さっきのでスーツの使い方も大体覚えたっすから!」

 きな子は腕を見せるように折り曲げた。かのんはそれを見て、なんだか微笑ましくて笑ってしまいそうになる。

「……なにがおかしいんすか? かのん先輩」

「……ううん、なにも」

 かのんときな子は遠く青く光る新宿と反対方向を見据える。

「よし、行こっか!」

「はいっす!」

 二人で並んで、それぞれが走り出す姿勢を取る。やっていることは命懸けの戦いのはずなのに、なんだか昔部活のトレーニングで走ってた頃に戻ったみたいに思えるのが、かのんにはおかしかった。

 アスファルトを蹴って駆け出す。二人は風のようになって、どこまでも、街をくぐり抜けていった。

 色の線みたいになって流れる景色の中、かのんは色んなことを思い出していた。

 すみれちゃんと海見に行ったなぁ。

 すみれちゃんにあの居酒屋の女子トイレの個室で告白したなぁ。

 ちぃちゃんとぐちゃぐちゃな座敷で初めてしたキスのお酒の味。

 ちぃちゃんと一緒にカフェの経営をするの、すっごく楽しかったなぁ。

 これが全部終わったらまだまだ伝えたいことがある。一緒にいてくれる感謝だけじゃなくて、もっと、こう、言葉にならない────

「かのんさん!」

 気がつくと、やや広めの道路の真ん中に、人が立っていた。きな子がゆっくり速度を落として、かのんも立ち止まる。

「恋ちゃん! 無事だったんだね!」

「よかったっす! 夏美ちゃんたちは……まだ来てないんすかね」

 かのんたちは恋と合流できた。道の真ん中の分かりやすいところにいてくれたので、かのんには見つけやすかった。

「ふぇぇ……つ、疲れたデス」

「やー、まだちょっと慣れないなーこれ」

 いきなり、隣にどてっ、と倒れ込む人と、その横で軽く屈伸をしている人が現れたので、かのんはびっくりした。

「可可先輩! 千砂都先輩!」

 きな子が名前を呼ぶと一方はヘトヘトな様子で、一方は軽く微笑んで手を振っていた。

「かのんちゃん、無事でよかったぁ」

 千砂都はかのんを見つけると、そう言ってふにゃりと笑った。かのんはそれだけで、胸がはち切れそうな気持ちがした。

「ちぃちゃん……よかった、無事で」

 かのんは千砂都まで歩いていき、そのままぎゅっと抱きしめた。本当はものすごく心配していたことに、会ってからかのんは気がついた。

「わっ……か、かのんちゃん……⁉︎」

 千砂都はいきなり抱きしめられて、困惑したような声を上げた。でもそれも最初だけで、すぐにかのんの背中にも手が回された。いきなり銃と爆弾の飛び交う戦場に投げ込まれて、怖くない訳がなかった。そのぬくもりをとてもとても守りたいとかのんは切実に思った。

「ふぅー……やっと着いたと思ったら、なにやらお熱いですの」

「ホントねぇ……あ、シンクロ解除」

 かのんは千砂都との抱擁を解いて、声のした方を見た。そこには銀色の輪っかを指に引っ掛けて回しているすみれと、ため息を吐きながら地面に手をついている夏美がいた。

「二人とも! 無事だったんだね!」

 千砂都が嬉しそうに歩み出て、かのんはそんなみんなを後ろから見つめていた。きな子が夏美に近寄って、その手を引いてやさしく立ち上がらせていた。

 かのんはそっと、そのひと時の穏やかさから離れたところにいた人に声をかける。

「……恋ちゃん、無事でよかった」

「え⁉︎ は、はい、そうですね……」

 かのんは穏やかに声をかけたのに、恋は変に驚いたような反応をした。それでかのんは首を傾げる。

「……そういえば、四季ちゃんは一緒じゃないの?」

「…………え、あ、すみません……何でしたっけ」

 恋はぼうっとしているみたいで、話しかけてもよく分からない()があった。

「四季ちゃんは一緒じゃないの? って訊いたの。恋ちゃん……疲れてる?」

 かのんが心配で訊くと、恋は首を緩く横に振った。黒いポニーテールがそれに合わせて揺れた。

「いいえ……大丈夫です、四季さんは、あの建物の地下で、タイムマシンと共に私たちを待っています」

 恋は言うと、すぐ隣にある建物を指差した。いつの間にか喋っていたのはかのんと恋だけで、みんな恋の言葉を聞いていたので、みんなそちらを見た。寂れたホテルのような見た目の、六階建てくらいに見える建物だった。

「なぁに? じゃあさっさと行けばいいじゃないの、そこに四季のラボがあるんでしょ」

「すみれもたまには普通なこと言うんデスね……」

「ちょっと、どういう意味⁉︎」

 すぐにお互いの頬をつねり始めた二人を見て、相変わらず仲良いなぁ、と思ってかのんは眉が下がる。その傍にいる千砂都を見る。

 そしてあれ、と思う。

 昔あんなに辛かった感情が、どこにもなかった。あんなに騒ぐ頭と腹の奥がぐしゃぐしゃになっていたはずなのに、それはもうどこを探してもなかった。かのんにはそれが、信じられなかった。時の流れ、というもの。

「ていうか、こんな道路のど真ん中にいたら見つけてくれと言っているようなものですの……早く行った方がいいと思いますの」

「同感っす。いつまでもここにいるのは危険だと思うっす」

 夏美ときな子もそう言った。千砂都もうん、と頷いて、一同は自然とホテルの根元へ近づいていった。

 すぐに辿り着いたその扉は豪華で、複雑な模様が入っていた。手で開かないと開けなさそうだ、とかのんは思った。

「きな子ちゃん、そっち持ってもらっていい?」

「はいっす!」

 かのんはきな子にそう指示すると、両側から力をかけて扉を開き始めた。重たい扉が、ゆっくりと開いていく。

「え」

 短い疑問の声が後ろから上がり、見るとそこには目を丸くしたすみれと可可がいた。

「ちょっと、それ、なに……?」

 すみれの目線の先、開いた扉のその奥を、かのんも覗き見る。

 息が止まった。

 真っ赤だった。

 それがなんであるか、かのんにはすぐに分かった。さっきカフェにあったのと同じ時限爆弾。

 それがおびただしい数、床中に設置されていた。それは赤い目をした蜘蛛が大量にいるようにも見えて、狂気じみていた。

「みんな逃げてッ!」

 かのんは振り向いて叫んだ。

 そこからは、状況を瞬時に飲み込めた者と、そうでなかった者と、混乱して動けなかった者で分かれた。

 そして悪いことに一番扉に近いきな子が後者だった。

「あ……わ……あ……」

「きな子ちゃん! 落ち着いて、速く逃げよう!」

 かのんはきな子の肩をゆすり、必死に語りかける。可可を連れてすみれが走っている。夏美と千砂都はどうするべきか戸惑っているみたいだった。

「…………かのんさん」

 そうしていると、隣で声がした。振り向くとそこには、なぜか申し訳なさそうな顔をした────その時のかのんにはそう思えた────恋がいた。

「私が、四季さんを助けに行きます……みなさんは、早く逃げてください」

 恋はそう言うと、すぐにその扉に向かって歩き出した。その隙間から、向こう側へ滑り込む。その後ろ姿が、何故だかひどく寂しそうだった。

「れ、恋ちゃん! ダメだよ、いつ爆発するか分からないのに……そんなの!」

 かのんが言うと、恋は顔だけで振り向いて、半月みたいに瞳をまぶたに隠して色のない声で言った。

「……多分私は、ずっと四季さんのことが、好きだったんです」

「え」

 きな子が夏美に抱かれて離れていった。世界は不安定なスローモーションみたいにかのんの目には映っていた。赤い世界に佇む恋の、見たことのない切ない笑顔。

「あと私は、多分、みなさんのことも、大好きでした」

 恋は言いながら、赤い世界の奥に進んでいってしまう。それをかのんは止めることが、できない。

 最後に振り向いた恋の顔が、果てしもなく寂しそうな顔をしていたことだけ、かのんはよく覚えている。

 

 

 

 ────さよなら

 

 

 

 恋の唇がそう動いたのと、かのんが手を伸ばしたのと、千砂都に抱かれて飛び退いたのがほぼ同時に起きた。

 そして爆音が世界を包んだ。

 かのんの見ている世界は、赤茶色の爆風が吹き荒ぶばかりで、他にはなにも見えなかった。千砂都にお姫様抱っこをされている感触だけがあった。

 やがて音がおさまり、少し距離ができると、千砂都はかのんを下ろした。

 そしてかのんは急いで元いた方へと走る。千砂都が何かを言った気がしたけど、止まらなかった。

「恋ちゃんっ!」

 跡形もなく粉々に砕けた、かつて扉だったところを抜ける。中は瓦礫だらけで、二階ごと崩落したのか、地面に妙に厚みがある部分があって奥まで見渡せなかった。支柱だけがところどころに残っていた。

「恋、ちゃん……? 嘘、だよね……」

 かのんの声はコンクリートの隙間に吸い込まれるように消える。後には自分の足音が響くばかりだった。

「かのん」

 呼ばれて、振り向くとそこにはすみれがいた。目を伏せて、首をゆっくりと振って。それはすみれが言いたくないことを言う時の癖で。

「……もう、私たちは、何も知らない一般人じゃないの。次は自分がこうなるかもしれない……みんな、そう思っておいた方がいいわ」

 ふと見ると周りにはきな子、夏美、千砂都、可可もいた。皆それぞれ苦しそうな顔をしていて、かのんは絶望しながらも、当たり前だ、と思って自分を諌める。

 その時だった。

 入ってきた入口の方から、ステージのスポットライトのように眩しい光がかのんたちを照らしたのは。

「クロノダイバーっす!」

 きな子が叫んで、その声を皮切りに全員が散開する。

 ただ、ここは瓦礫以外に身を潜める場所がほとんどなく、雪崩のように入り込んでくる黒ローブの奴らには、きっとやりやすい場所だったろう。

「みんな! 上に逃げて! 入口からはもう逃げられない!」

 かのんは言いながら、走れ、と強く思う。そして全身のスーツの色がついている部分が発光して、かのんはスタートダッシュを切った。他のみんなもそうしてくれていると信じて。

 室内の空間を貪り喰うような弾幕が張り巡らされたのは、その一瞬後のことだった。

 

 走る。走る。走る。

 ひたすら上へ上へ、階段を上っていった。

 すぐにスーツの活動限界は来てしまって、それはかのんがちょうど屋上の扉を開けた時だった。撃たれるのを回避するために隙を見計らっていたせいで、余計にスーツの力を使ってしまった。

「ふぅ……これは、まずいわねぇ」

 隣に来たすみれが周囲を見ながら言う。

「うーん、私もこれはちょっとマルじゃないかも……」

「可可もデス……」

 かのんの同級生組はそんな様子で、きな子と夏美も良い案は出ないようだった。

 それはそうだ。

 スーツは全員ギリギリまで使用して再使用には十分かかる。その十分の間に奴らはここまで上がってくるだろう。そうなれば逃げ場もなくおしまいだった。

「どーしよ、これ」

 かのんは、黒すぎる夜空を見上げて、四季の顔を思い出していた。そもそもどうしてかのんの喫茶店で集まったのか。

 

 ────灯台下暗しとも言いますし

 

 それは近すぎて気がつかないことが、あるということ。四季はなぜ一番重要な秘密ラボをここの地下にしたのか。

 

 ────ラボは入り口がすごく遠くにあるの……でも、私たちにとっては、近いかも

 

 そう、ヒントみたいに言っていた四季のことを思い出した。あの時、あれは確かに何かを伝えようとするサインだった。

 ふと、かのんは自分達が正解に近いところまでこれている気がした。それは何の根拠もない、直感だった。私たちにとって一番近い場所は、そう。屋上だ。

「みんな! ここの入り口付近を隈無く探してみて! 小さなボタンひとつでも見逃さないで!」

 かのんはそう叫んだ。

 あと数分で自分達がやれる、最後の賭けだった。どの道今のかのんたちではこのビルから隣のビルへと飛び移って逃げることはできない。

「……なんだかよく分からないけど、やるったらやるわよ」

「きな子もやるっす!」

 そう言ってくれる人や、無言でそうしてくれる人たちがいた。かのんもそこに参加する。恋か四季がいれば、と強く思った。

 でもその願いは願いでしかなかった。かのんたちは必死に屋上を捜索した。あの頃みたいに、みんなで。

 そうしてしばらくして、扉のついている壁の辺りを念入りに探っている時だった。

「か、かのん先輩っ!」

 その扉のある箱状に盛り上がっている上に乗っていたきな子と夏美が突然叫んだ。

「どうしたの⁉︎」

 かのんは側面についている梯子を登って、その奥にいる二人のところまで行く。

「────っ⁉︎」

 そこには、下水道を管理しているマンホールのようなものがあった。ただ何となく、マンホールにしては幅があり、ここにあるには不自然な気がした。そもそもこの近くに水道はない。

 そしてそこに、明らかに後から掘られた文字が書かれていた。マンホールの円周に沿うように。

 

『Song for me,Song for you,Song for ???』

 

 それは分かりやすすぎるような、やっぱり四季らしい、パスワードだった。そこにすみれと可可と千砂都もやって来て、後ろから覗き込んでいた。

「ねぇ、誰か、何かここに文字を刻めるもの、持ってない?」

 かのんが言うと、すみれが手を開いて閉じてみせた。

「はい……これしか出てこなかったけど」

 すみれは言いながら刃先の鋭いナイフを取り出した。かのんが試してもそんなもの出てこなかったから、やはりリストバンドに入っているものは四季による何らかの采配がされているのだろう、とかのんは思った。

 かのんはそれを受け取り、素早く空いたスペースにアルファベットを刻んでいく。

 

『all』

 

 それが刻まれた瞬間、そのマンホールは低い音を立てて、ゆっくりと九十度回転した。その方向にいたきな子と夏美は慌てて避けていた。

「これ、って……」

「あの子、なかなか粋なことするじゃない」

 すみれがニヤッと笑った。

 そこには、まっすぐ奥にまで伸びる梯子があった。底が見えないほど、深く暗い。

「かのんを先頭にして、順番に行きなさい。私が殿(しんがり)を務めるから」

 すみれはそう言うと、目の前の何もない空間からアサルトライフルを掴んでいた。かのんたちに背を向けて、銃をいつでも構えれるように、辺りに細心の注意を払ってくれているようだった。かのんは急いで、その穴に飛び込む。

「ほら、早くおいで!」

「は、はいっす!」

 かのんに続いて、きな子が梯子を降りてくる。

「可可先輩と千砂都先輩は先に行くですの、夏美もここに残りますの……グソクムシ先輩にばかり良い格好させられませんので」

 夏美が言うと、かのんにはすみれの笑い声が聞こえた。

「言うじゃない、じゃあお手並み拝見と行こうかしら」

 すみれが言うのと、屋上の扉が決壊したのは、ほぼ同時だった。

「ちょっと暴れてくるわ、夏美、背中任せたわよ」

「ガッテンですの!」

 そう言って、屋上の中心に飛び出していったすみれは、背中越しに構えたアサルトライフルで屋上の入り口にいるクロノダイバーたちを的確に狙撃した。夏美も飛び出して、空中で拳銃を左右の手で抜き、地面に着地する頃にはすみれの撃ち漏らしをしっかりカバーしていた。

「やるじゃない、夏美。スーツの使用、最低限に抑えなさいね……このままここは死守するわよ」

「了解ですの! どんどんかかってこいですの!」

 その間に、可可と千砂都も穴に飛び込んだ。かのんにはでも、外の様子がどうなっているのか分からなかったから、ただ降りるしかなかった。

 そうしてしばらく降りた先、少し光が漏れている箇所があった。そこは壁が破れていて向こう側が見えているようで、意図的に作られたものではなさそうだった。

 かのんはその隙間から内部を見る。

 そこは壁が白くて物の少ない、有体に言えば四季の言う秘密ラボのようだった。しかし、そこに入るところはなくて、梯子はまだ下に続いていた。

「────ふぎゃっ!」

「────わぷっ!」

「────やっ!」

 そうしていると、かのんにぶつかったきな子に可可がぶつかって、可可に千砂都がぶつかったみたいだった。

「ちょっと、かのんちゃん止まんないでよ、狭いんだから」

 千砂都の声が真上から聞こえた。

「ごめんちぃちゃん、すぐ行く」

 かのんはそのままつめたい感触の梯子を降りていった。

 ようやく降り切るまでに、五分くらいはかかったような気がする。やっとかのんは地面があるところに出た。そこは先ほどの爆発の影響を全く受けていないようで、しかしここもまた壁も床も真っ白な空間だった。みんなが続々と降りてきた。

「ふぅ……ちょっと疲れたっすね……」

「すみれ……大丈夫デスかね……」

「今は気にしても仕方ないよ……私たちは先に進もう」

 千砂都の言葉にみんなは同意したようで、その先を見据える。細長い廊下があって、その先から部屋から明かりが漏れているようだった。

「……行こう」

 かのんは言うと、先頭に立って歩き始めた。すみれの言葉通りに。

 スーツは少し間隔を空けているから若干なら使えるはずだ。かのんはいつでもアサルトライフルを取り出せるように準備をして、そろりそろりと歩いた。

 しかしその扉は自動ドアで、かのんが近づくとヴゥン、と滑るような音を立てて開いた。

 一同はぎょっとしたけれども、すぐに部屋の中に入る。一応、それぞれ銃を構えて。

「…………これ、って」

 でも、全員すぐに銃を下ろした。この部屋の中心にあるそれが、あまりにも目を引いたから。

「……うん、そう、じゃないかな」

 千砂都はゆっくり、かのんに近づいてそう言った。そこにあるものは、何も言われなくても、どういうものか分かるような、大きな球体だった。

「…………タイムマシン」

 後ろの夏美が驚愕を滲ませた声で、言う。

「……でも、それなら四季ちゃんは、どこにいるの……?」

 かのんは疑問に思って訊く。千砂都はあまり悩む間も無く、こたえる。

「多分、さっきの途中の部屋にあったのが四季ちゃんの作ったタイムマシンじゃないかな。これは多分、もしもの時のための、保険じゃないかな……だからもし四季ちゃんが死んでないとすれば、もう過去に行っている」

 千砂都の説明を、そこにいる全員で聞いていた。こういう土壇場での千砂都の意見は信用できることを、全員知っていたからだ。

「……なるほど、じゃあ私たちは四季の用意してくれてた二台目のそれで追いかけるって訳ね」

 後ろで声がして、驚いて振り返ると、左肩から血を流したすみれがいた。その後ろで、夏美も。

「すみれ⁉︎ ど、どうしたんデスかその傷……」

 可可が血相を変えてすみれに駆け寄る。その後ろで夏美が苦い顔をしていた。

「夏美が悪いんですの……夏美のサポートがもっとちゃんとできてれば、こんなことには……」

「あんたのせいじゃないから、しょげんじゃないわよ、ね」

 すみれは自分の血で白い床を汚しながら、やさしく微笑んでそう言った。言うように、掠っただけの傷らしかったけれど、それでも血が垂れていて痛そうだった。

 そういう強がりでやさしいところを好きになったんだっけな、とかのんは思った。でも、それがもうかつての感情ではないことにかのんは何度でも驚く。それはただ友人を想うような、あたたかい気持ちだった。好き、って、なんだっけ。私は何をそんなに、欲しがっていたんだっけ。

「で、でもきな子たちこんなの操作できないっすよ? 四季ちゃんもいないのに、誰がやるんすか⁉︎」

 きな子が言った。それはもっともな問いかけで、かのんもそう思った。タイムマシンがあっても、操縦する人がいないと何にもならない。

「あの……」

 その時、可可が控えめに声を上げた。全員の視線が可可に集中する。

「可可、それの操縦、できるかもしれないデス」

 それを聞いて、かのんたちはみんな目を丸くした。そしてその横で、もう一人手を上げる。

「私も、多分、できるよ」

 自信あり気に千砂都がそう言った。かのんは二人の発言に本気で驚く。

「え、な、なんで二人ともそんなことができるの⁉︎」

 かのんが言うと、可可はリストバンドを掲げて見せた。

「可可のこれには銃とか戦う用の道具は一つも入っていませんデシタ……代わりに、タイムマシンに関する資料を脳に直接インプットできる装置が入っていたんデス……ここに来るまでに既に使っているので、可可はこれについては何でも分かりマス」

「私も同じかな、だからこれについてはすごくよく分かる。操縦は任せてよ!」

 千砂都と可可は言うと、タイムマシンに近づいて、何かを触ると、タイムマシンの下部が開いて、梯子が降りてきた。

「さ! 乗って! いつ奴らが来るか分かんないからっ!」

 千砂都の声に従うように、かのんたちは順番に乗り込む。

 その内部の空気はつめたくて、未来の宇宙船みたいだ、とかのんは思った。

 千砂都は巨大なモニターとか、見たことのない配列のキーボードなんかが並んでいる、メインコントロールらしき椅子に座った。千砂都の座っている椅子の左右にふたつ椅子があって、その左隣に可可が座った。そこを頂点に四角形を描いて、各頂点に来るように椅子がふたつずつ並んでいた。

「……このタイムマシン、九人乗りだね」

 千砂都がふと思い出したように言った。メインコントロールの前に集まっていたかのんたちは、はっとして椅子の数を数える。確かに、九席あった。そう、私たちは……九人でLiella!(リエラ)

 それを取り戻すためのRe:era!(リエラ)

「……四季ちゃんを、助けに行こう」

 かのんは強く、そう言った。

 千砂都と可可は、モニターに表示される難解な英数字とギリシャ文字だらけの何かを、見たことのないキーボードで処理していた。

 その時だった。

 頭上から轟音がしたのは。

「ちっ……あいつらね」

 音はどんどん近くなっているようだった。ここがあることを掴んだけれど入れなかったら、上から爆弾で掘り進めようとしているのだろう。

「かのんちゃん! 準備できた! いつでも飛べるよ!」

 千砂都が興奮気味にそう言った。

「ちょ、ちょっと待ってくだサイ、千砂都……これ……」

 しかし可可の様子は思わしくなかった。そして千砂都もそれを見て、息を止めたようだった。

「なにったらなによ? もう時間ないわよ!」

 すみれが言うと、可可は困惑したようにかのんを見つめた。

「時空の歪みが、一箇所じゃないデス……」

 千砂都も再度キーボードの操作をやり直しているようだった。また轟音。どんどん近くなっている。タン、と千砂都がキーボードを叩いた。あくまで落ち着いた声で千砂都は言う。

「可可ちゃんの言う通り、タイムマシンで時間を越えると、時空間に歪みができるの……それが、なぜか、西暦2,005年と2,022年の二箇所で大規模な歪みが観測されてる……どっちに四季ちゃんが行ったのか、これじゃ分かんない」

「千砂都の言う通りデス……そもそもタイムマシンはしっきーの作ったこの二台だけなのではないのデスか……?」

 千砂都と可可がそう言った。その後、先ほどよりも近い轟音が、今度は揺れと共に聞こえた。

「きゃあっ⁉︎」

「わわっ!」

 きな子と夏美が重心を崩して床に倒れ込む。

「ちっ……まずいわね……かのん! どうすんの!」

 すみれが叫ぶ。

「えっ⁉︎ わ、私っ⁉︎」

「当たり前じゃない、このグループはね、たとえ四季がリーダーでも、あんたを中心に集まってるのよ、かのんは……どうするべきだと思う」

 すみれを含む全員が、かのんの言葉を待っているようだった。直後に、もう一度轟音が響く。今度はもっとはっきり、近くで聞こえた。凄まじい揺れがかのんたちを襲う。

「────っ、昔の方! 昔の方に行こう! そこで世界が分岐したら、その後の世界はなかったことになるかもしれない!」

 かのんが言うと、それを聞いた千砂都と可可は素早く手を動かした。真上からくぐもった銃声が聞こえる。

「よしっ! 行こう! 座標誤差修正まで終わってる!」

「はい! 了解デス!」

 タイムマシン上部に、何かが当たる音がした。それは天井が砕けた音のようにも聞こえた。

「千砂都ッ! 飛んでッ!」

 すみれが叫ぶ。千砂都は振り返らずに頷いて、可可と共に高速でタイピングをした。マシンガンのような小刻みな音が、タイムマシンの天井を外側から叩いていた。

「行くよ、みんなっ! できれば何かに掴まってて!」

 千砂都は言って、最後にボタンをひとつ押した。

 周囲の音がいきなり加速していくような、静かになっていくような気がして、一瞬すごい浮遊感があった。けれども次の瞬間、ものすごい重力が身体にかかって、かのんはうつ伏せで床に押しつけられた。内臓が押し潰されて、思わず吐きそうになった。

 しかしそれはほんの十秒ほどのことで、タイムマシンはすぐに静かになった。その球体の中でみんなはそれぞれ上を向いたり下を向いたりしていた。

「……お疲れ様、着いたみたい」

 千砂都が一番最初に立ち上がって言った。かのんと同じく床に転がっていたきな子と夏美はまだ潰れたアイスクリームみたいになっていた。

「ふぅ……結構キツいわね、これ」

 すみれは余裕そうに立ち上がって言った。そのままモニター前の可可まで近づいて、やさしくその身体を揺り動かしていた。

「かのんちゃん……大丈夫?」

 いつの間にか目の前に来ていた千砂都に、かのんは覗き込まれていた。かのんは密かに、ちぃちゃんはやっぱりすごいなぁ、と思う。

「……うん、大丈夫だよ」

 その手を取って、かのんは立ち上がる。まだ少し立ちくらみがした。

「外は……どうなってるの」

 かのんは言うと、モニター前にいた可可がタイムマシンのハッチを開けて、梯子を下ろしてくれた。かのんが最初に、後から千砂都が続いて降りてくる。

「────っ⁉︎」

 そこは、どこかの屋上みたいだった。さっきまでの四季のラボのある屋上ではなかった。

 かのんは驚きのあまり息が止まった。

 空が真っ青だったからじゃない。高いビルが辺りにたくさんあったからだ。それも、見慣れた気のするものばかり。それら全てはなんだか久しぶりに見たような気がした。

 かのんはゆっくり、この屋上の縁まで歩く。そして、下を見て、驚愕する。

 学校帰りらしい制服姿の女子たちが道を埋めていて、その手にはカラフルなアイスやらクレープやらが握られていた。それはこの場所が流行の最先端なのだと物語るようで、かのんは言葉にならない懐かしさに襲われる。本能的にここがどこなのかを察していた。

「…………ここ、って」

 隣に来て同じように下を見ていた千砂都に、かのんは呆然と声をかける。説明はされたはずなのに、まだ目の前の出来事が信じられなかった。

 千砂都がゆっくりかのんを向く。その赤い瞳に強い信念が燃えているような気がした。

「私たちのいた世界から、ずっと前の、過去の世界」

 気がつくと、すみれと可可、きな子と夏美がかのんたちの後ろで立っていた。風が吹いて、それぞれの髪を果てしなく撫でていった。

「私たちのいた時代から、およそ二十七年前……2,005年の、原宿だよ」

 千砂都がそう言った。かのんは目を見開いて、目の前に広がる光景をただ見ていた。

 眼下の街並みが騒がしかった。

 降り注ぐ日差しが眩しかった。

 信号のカッコウが狂ったように鳴いていた、ここはあまりに暑い夏の中。

 こうして、政府非公認の時間超越特殊部隊『Re:era!(時代を繰り返す者)』の初ステージが、この場所────原宿で、人知れず幕を開けた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

序章 - Sing! Shine! Smile!

 風が吹いていた。

 ぬるい風。

 さっきまで着ていたはずのコートのことなんて遠い昔の話で、今ここは、夏の日差しに焼かれる紛れもない炎天下だった。

「二十七年、前……」

 かのんは足もとに広がる通りを見下ろしながら、呟く。そこは確かにその場所のはずなのに、記憶にあるその場所と同じ場所ではなかった。

「わぁ、これがきな子たちの生まれる前の竹下通りなんっすね……」

 かのんの隣にきな子がやってきて、そう言う。

「……夏美もにわかには信じられませんの、でも、見えてることが全て真実ですの」

 そのさらに隣に出てきた夏美が緊張した声でそう言った。

「っ⁉︎ そ、そういえばこの時間軸にしっきーがいるかどうかを確認しないとデス! どうしてこの場所で時空間が歪んだのかが可可たちには分からないのデスよ!」

 おもむろに、後ろにいた可可が言って、みんなそっちを見つめる。可可に左肩を預けているすみれも頷いてみせた。

「そうね……闇雲に動いても始まらないわ。まずは作戦会議よ。私たちが何をするべきなのか、ここだけでは判断ができないわ」

 すみれは言うと後ろを振り向いて、その巨大で周囲に似つかわしくない機械仕掛けの球体を見つめた。

「……これもここに置いておくには目立ちすぎるわ、何か隠す方法を考えないと」

 すみれが言うと、かのんの隣にいた千砂都がまっすぐ上に手を伸ばした。

「私、知ってる。それも頭にインプットされてあるから、ちょっと待ってて」

 千砂都は言うなり可可とすみれの横を抜けると、その巨大な機械の根元に立って、手をかざした。

 すると、そこにあったものは空間ごとぐにゃりと歪んだかと思うと、瞬きを一回するよりも早く、周囲の空間に同化して消えた。さっきまでは見えなかった、タイムマシンに遮られていた向こう側が見えるようになっていた。

「……はいっ! どうかな?」

 千砂都が得意げにこちらを見てくる。かのんは、やっぱりちぃちゃんはすごいなぁと思いながら、その様子を一番離れた場所から見ていた。

「やるじゃない、千砂都……流石は私たちの部長ね」

「……可可にだってあれくらいできマス」

 すみれが感心したように千砂都を褒めていると、その隣で可可が唇を尖らせていた。

「ん? なに、可可、あんた拗ねてんの?」

「すっ……⁉︎ 拗ねてマセン! なんでそうなるデスかこのスットコドッコイのオタンコグソクムシは!」

「あぁ、はいはい……分かったってば、分かったわよ」

 苦笑みたいな微笑みみたいな、幸せそうなその表情を浮かべるすみれの横顔を、かのんはぼんやり見ていた。

「かのんちゃん! みんなも!」

 そうしていると、千砂都が声を張った。ここは、結ヶ丘とは違う場所だけれど屋上だった。今も昔も、いつでも号令をするのはちぃちゃんだな、とかのんは密かに思う。

「一旦タイムマシンの中に戻って作戦会議しよう! すみれちゃんの言う通り、闇雲に動いても仕方ないよ」

 千砂都が言うと、かのんの隣にいたきな子と夏美が頷いて、屋上の縁から戻り始めた。すみれも、可可も、それに続く。

 かのんも、真下の人のうねりから目を逸らして、千砂都のいる方へと向かった。

 焼け焦げるようなアスファルトを、踏み締めて。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 タイムマシン内部はなぜかひんやりしている。

 機械が辺りの空気を冷ましてしまうのか分からないけれど、常にしんとした空気が満ちている。どこかの空気に似ている気がしたけれど、どこかまではかのんには分からなかった。

 かのんたち六人はタイムマシンのコントロールモニター手前に集まっていた。

「……んで、どーするのよ、私たち」

 誰も話さないので、すみれが口を開いた。しかしなお、誰も意見を言おうとしなくて、タイムマシン内には沈黙が満ちた。

「……どーしようかなぁ」

 千砂都もお手上げといった様子でため息を吐いた。それはそうだ。だってかのんたちは二十七年の時を超えてきただけで、何の説明もされない。何が起きているかの状況説明もないのに、何をどうすればいいのか分かるはずもなかった。

「……あ! トランシーバーはどうっすか⁉︎ 四季ちゃんも付けてるはずっすよ!」

 きな子が不意にそう言った。確かにかのんたちは全員やり取りができるように耳に小型のトランシーバーをつけていた。だけれど、今までドタバタしすぎていて、気に留める暇もなかった。

「夏美がやってみますの! あーあー、応答願います、応答願いますの、若菜四季……」

 夏美が自身の左耳に手を当てて、四季の名前を呼んでいた。その声が丸い天井によく響いた。

「……ダメですの、何の返事もありませんの」

 しばらくやってみてから、夏美はため息を吐いて首を横に振る。まずは、四季がいてくれないと話が進まなかった。今のかのんたちのリーダーは四季で、当然四季の指示が必要だった。

 またうーん、と唸っているだけの時間が、しばらく続いた。

「あ!」

 そんな中、かのんがいきなり大声を上げた。もちろんみんな驚いたようにかのんを見つめた。

「スマホ! 私たちスマホ持ってるじゃん! それで連絡すればいいんだよ!」

 かのんが言いながらスマホを圧縮装置から取り出した。夏美の隣にいたきな子が頬を綻ばせて手を叩いた。

「流石っす、かのん先輩! なんでこんな簡単なことに気づかなかったんっすかね〜」

 きな子が言っている前で、かのんはスマホを立ち上げてそれをタップしようとした。そして、メッセージアプリを開いて、手が止まった。

「え……?」

 そこにある、

『Liella!同窓会(9)』

 だったはずの文字列は、

『繝ェ繧ィ繝ゥ蜷檎ェ謎シ夲シ??』

 見る見るカタカナと中文の混じった文字化けの羅列のようになり、すぐにアプリどころかスマホごとそのような状態になってしまった。かのんはバグのように黒ずんでいく画面を呆然と見つめていた。

「……この時代、まだスマホなんて便利なものは発明されてないわよ、かのん」

 すみれが言いながら、コントロールモニター前の席に座っている可可の肩にそっと触れていた。かのんは文字化けだらけのスマホをしまうと、ふぅとため息を吐いた。

「うぅ、可可たちはどうすレバ……」

 可可は言いながら目の前のコントロールパネルに、思いっきり身体を投げ出す。

「ん……? ここのボタンなんっすか?」

 その横にいたきな子が、ふと気付いたように言った。

「……? 可可も知らないボタンデス……なんなんデショウ」

「押してみないっすか、それ」

 きな子がそう言うと、夏美が怒ったようにきな子を制した。

「ダメですの、きな子! ゲームでもきな子がこういう変なボタンを押してロクなことになった試しがないですの!」

「えぇ〜、でも今はみんな煮詰まってるし、やれることをやるべきっすよ」

「ダメですの! 何か大事になったらどうするんですの!」

 きな子は夏美と揉み合いながら、すぐにバランスを崩して可可の隣に突っ込んだ。近くにすみれがいたけど、止めるより早く、まあまあな勢いで二人は倒れた。

 そしてきな子と夏美はコントロールパネルの端の方に、団子のようになってぶつかった。

 その時だった。

 部屋の真ん中に、ブゥンという低い音と共に、何かが現れたのは。

「わっ⁉︎」

 かのんが一番に驚いて、思わず声を上げた。それに従ってすみれが、きな子と夏美が、可可と千砂都が振り向く。

 そこには青いホログラムで、よく知る人が映し出されていた。これも公表されていない技術の一つだろうか、とかのんは思う。

『できれば……このタイムマシンは使われることなく、このメッセージも誰も見ないで済んでくれれば、嬉しい』

 その人は、全員が自分を見つめるのを確認したかのようなタイミングで、話し始めた。白衣のポケットに両手を突っ込んでいて、髪はいつも通り長くてぼさぼさだった。

「四季……ちゃん」

 かのんが名前を呼んでも、そこにいる四季は言葉を途切らせることはなかった。だってこれは録音映像だ。

『私は、でも、ようやくここまで来たから、失敗する訳にはいかない……恋さんなら、分かってくれると思う』

 恋の名前が出た時に、かのんの視界の隅で、誰かがびくっと震えたような気がした。けれど、かのんはそれには気づかないフリをした。今の自分達には悲しみに立ち止まる余裕はなくて、情けないことにそうするしか出来なかった。

『……私は、メイを助けるために、タイムマシンを作った』

 ホログラムの四季が口を開いてくれる。そのおかげで、かのんはそれに見て見ぬ振りをする言い訳を得られる。

『私と恋さんが作った組織、クロノダイバーたちの理念は過去の保存ということになっている……けれどこれは表向きの顔』

 四季が言いながら耳をかき上げる。その耳にピアスが覗いた。ホログラムは全体的に青色っぽいので、そのピアスも青色に見えた。

『私の作る技術は全て……特にタイムマシンは核兵器を上回る唯一無二の兵器として政府に認識されている。奴らは表向きは過去も未来も弄らないと言ってはいるけれど、それは真っ赤な嘘……』

 かのんを含むその場にいる全員が、固唾を飲んで四季の言葉を聞いていた。

『奴らは私のタイムマシンを使って、世界を、いや、この時代をも支配しようとしている……まぁ、タイムマシンが核兵器より強いのは事実だから、当然の成り行きではある』

 だってタイムマシンは核兵器のボタンを押すか押さないかを操れる。

 四季はそう付け足しながら、何かを考え込むように目を伏せた。そして、ゆっくりと、かのんたちを見つめる。

『……私の計画は、メイを救うこと。もし、ここにいる私が、タイムマシンで過去に行って、なんらかの影響でそれが実行不可能になった際には、助けてもらう必要がある……今回の私は、因果律を変えてしまうから、後戻りができない』

 四季は一言ずつ丁寧に喋った。かのんには、何を言っているのか分からない言葉もあったけれど、その緊迫した語調から、私たちはやるしかないんだ、とそう思わされていた。

『みんな、協力して欲しい……私たちの力で、メイを助ける』

 四季は言うと、かのんたちの方をぐるりと見て、ふぅ、とため息を吐いた。そしてそのまま、ホログラムの四季はその姿を消してしまった。いきなりだった。

「え⁉︎」

 かのんは驚いて声を上げる。だってまだ何の説明もされていなかったから、何をすればいいのか全く分からなかったのだ。それなのに、タイムマシン内部にはまた静寂が満ちていた。

「え、ちょっと、今ので終わり⁉︎ ま、まだ何も分からないよ……⁉︎」

 かのんが言うと、その近くの席に座っていた千砂都がかのんを見て言う。

「……多分、四季ちゃんも何が起きるかは分からなかったんじゃないかな、だから、私たちにそれぞれ力を預けて、私たちだけで対処できるようにした」

 千砂都の言葉を、みんなじっと聞いていた。するとかのんの向かいで、そっと手が上がった。

「……でも、それならこの時代で夏美たちは何をすればいいんですの、そもそもこの時代に時空間の歪みができていたことが、よく分かりませんの」

「きな子もそれには同感っす」

 二人が言うと、その傍にいた可可とすみれが同調するように頷いてみせた。

「まぁ、だからそれを探っていくしかないようね。でも今の話を聞いてると、闇雲に……という訳でもないんでしょう、ね、可可」

「ハイ! 可可たちは時空間の歪みが観測された座標に来ていマス! ですからこの時間にこの辺りで何かが起こるのは間違いないはずデス!」

 可可は自分の肩に置かれたすみれの手をそっと撫でながら、言った。

「可可ちゃんの言う通りだよ、私たちはここで、なすべきことがある……そしてそれはきっと、この近くで起こる」

 すぐ傍にいた千砂都もそう言った。かのんはまた一つ息を吸い込んで、そこにいるみんなを見渡す。

「……うん、行こう」

 ライブ前みたいなピリピリした緊張感だ、とかのんは思った。

「単独行動は禁止ね、基本は全員で動くこと、何かあったらすぐに報告……あと」

 他の全員に見られているのがかのんには分かった。かのんはそれを、とてもとても大切だと思った。

「……絶対に、死なないで。これは、リーダーとしての、お願い(命令)です」

 かのんが言うと、向かいで何人かがふっと息を吐いたみたいだった。

「当たり前ったら当たり前じゃない……あんたらも、聞いたわね? ちゃんとかのんの言うこと聞きなさいよ」

 すみれが言う。可可もやさしく微笑んでいる。

「当たり前ですの! 夏美はもうヘマはしませんの! 全部やりきって平和にした未来に帰るんですの!」

「きな子も……来たからには、やるっすよ。かのん先輩……みんな、気持ちはひとつっす」

 夏美ときな子も、気持ちは十分なようだった。かのんは後は、勇気を出すだけだった。

「かのんちゃん」

 声がした。

「っ⁉︎」

 気がつくと、いつの間にか立ち上がって隣に来ていた千砂都に、手を握られていた。

「────行こう、かのんちゃん、時間もどれだけあるのかも分からない」

 千砂都のその信念を宿した丸いルビーに見つめられて、かのんは胸に強い炎が燃えた気がした。タイムマシン内部はますます静かでつめたかった。

「うん、みんな、行こう!」

 かのんが行って、Re:era!の面々は、おもてに降り立った。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 しかし、六人には些細だけれど重要な問題があった。

「……ちょっと、これどうすんのよ」

「……確かに、これは困りましたの」

 かのんたちは、タイムマシンの着陸した四階建てのビルの根元まで降りて来て、その外を行き交う人々を眺めていた。

 それもそのはずで、かのんたちが着ているのは、街中を歩くには派手すぎるステージ衣装のようなパワードスーツだったのだ。

「これ着て歩くのは、ちょっと目立ちすぎちゃうよね……」

 苦笑いして千砂都が言う。

「私もそう思う……うーん……」

 かのんは悩みながら、右手を腰辺りから引き抜くような動作をしてみせた。何か着れるもの、と思いながら。

「かのんちゃん、それ……」

「え……?」

 千砂都が目を丸くすると、かのんのその手には、白衣があった。それは四季が着ているのよりも一回り以上小さくて、かのんが着るのにぴったりなサイズだった。

「……これ着ていけってことかな」

 かのんが言うと、すみれと可可が同じように腰から何かを引き抜く動作をした。続いて、きな子と夏美も。

「……まぁ、たまたま入れてみましたって感じだけど、ないよりマシじゃないの?」

 すみれは言うと、自分の白衣に袖を通してみせた。すみれの着ているパワードスーツは黒を基調としているので、白衣をかけるとなんとなく前衛的なお洒落に見えなくもなかった。でもそれはきっと、モデルのすみれがやるからそう見えるだけだ、とかのんは思った。

「うじうじ言ってても仕方ないわ、多少ヘンな格好でも、行くわよ」

 すみれは言いながら、薄暗いビルの階下からおもてに繰り出していく。

「あ、待ってくだサイ、すみれ……」

 その後ろをとことこついていく可可も白衣を着ていた。かのんが振り向くと、いつの間にかきな子と夏美もそれを着ていて、隣を見れば千砂都もまた同じように白衣を着ていた。

「ほら、行こ、かのんちゃん」

 千砂都に言われて、かのんはようやく頷いて、白衣を着る。

 そして炎天下の竹下通りに、六人は繰り出したのだった。

 二十七年前の竹下通りは、かのんたちが高校生の時とは違って、タレントショップや、店先にじゃらじゃらした銀色のチェーンの、なんに使うのかよく分からないヴィジュアル系のアクセサリーなんかのお店が多かった。それに挟まれるようにクレープ屋やアイス屋がちらほらあるくらいで、かのんたちが見慣れていたタピオカのお店は一軒もなかった。

「……なんか、お店も全然違うんだね、たった二十年くらいなのに」

 かのんが言うと、千砂都がすぐ隣でうん、と頷いた。

「そうだねー、私もこんな景色を見ることになるとは、思わなかったな」

 千砂都はそう言った。かのんはその隣にいて、前にすみれと可可、後ろにきな子と夏美がついて来ていた。二列になって、なるべく人混みを掻き分けていた。

 ふと、かのんは前を行く二人を見つめる。可可は手が見えてないくらいダボダボな白衣を着ていて、どこかやましい風に見えなくもなかったし、すみれは単純にスタイルが良すぎて露出した脚とかが、かえって色っぽかった。後ろを見れば、きな子と夏美の白衣姿は健全な学生のように思えた。

 そして、かのんの隣を歩く千砂都の白衣姿は年相応というかかわいくて、よく似合ったからかのんはほっこりする。

「ん? かのんちゃん、どうしたの?」

「う、ううんっ、なんでも!」

 こっそり見ているつもりだったのに、気づかれていたみたいで、かのんは慌てて首を横に振る。

 とりあえず、この時代のこの時間のこの付近で、歴史における何らかの重大な分岐点があるというのは、タイムマシンの知識をインプットしている千砂都と可可から、明らかだった。

 しかし何が起きるのかはさっぱり分からなかったし、正確な場所も分からなかった。だからかのんたちはこの直射日光により焼かれて、さらに人混みで蒸された空気の中を歩かなければならなかった。

「ちぃちゃん」

「ん、なに?」

 かのんはふと声をかける。

「この場所にいるのって、四季ちゃんじゃなかったら……やっぱり……」

 千砂都は行く先を見据えながら、小さく頷く。

「奴ら、だろうね」

 千砂都が言うのに、かのんは少し俯いてこたえる。

「そう、だよね……」

「奴らが、どうやって過去にやって来たのか分からない……でも、もしかしたら」

 千砂都は顔だけでかのんを見て言った。

「……タイムマシンは、四季ちゃんの作っていたものだけじゃなくて、もしかしてもう、クロノダイバーたちで完成させてるんじゃないかな」

 千砂都がそう言って、かのんは立ち止まってしまった。

 もしそうなら、事態は私たちの想像を遥かに超えるものになっている。かのんはそう思って、今自分達がものすごく危険な状況にいることが思われて急に怖くなった。

「……かのんちゃん?」

「う、ううん! 大丈夫! なんでもない!」

 かのんはまた歩き始める。

 白衣の変な集団はどこからどう見ても目立つので、自然と人混みが分かれていくようだった。そのまま駅とは逆方面に向かって、辺りに妙なものがないかどうか注意しながら歩いて行った。本当にタピオカのお店は一軒もなくて、かのんは内心びっくりしていた。まだスクールアイドルブームもきていないのか、そういうお店もなかった。

 歩いていると、すぐにカッコウの鳴き声が聞こえてきた。それが止むと、人混みは徐々に止まっていった。その向こうに横断歩道があることが見えないけど分かった。

 夏の日差しがアスファルトを焼いていた。本当か嘘か知らないけれど、太陽が熱すぎるとアスファルトを溶かしてしまうという未来で聞いたニュースをかのんは思い出していた。

「あ、暑い、ですの……」

「そう、っすね……」

 後ろできな子と夏美が気怠そうな声を出していた。それもそうだ。だってさっきまでかのんたちは冬にいたのだから、身体がいきなりの変化に戸惑うのも無理はなかった。

 やがて頭上でカッコウが鳴き始める。人混みに流されるままに、すみれを先頭にかのんたちは横断歩道を歩いていった。

 いくつもの靴が横断歩道の白い部分やそうじゃない部分を踏んでいった。かのんもその中を歩いて行った。一歩、一歩。

 その時だった。

 赤い髪が、視界の隅を過った。

 はっとして、かのんは立ち止まる。その髪は、その片方だけのお団子には、見覚えがあった。

 振り返る、かのんが振り返るのを追いかけるように、すみれも可可も、立ち止まった。

 忘れるはずなんてなかった、その人。あの日に置き忘れてきた全ての後悔と祈り。幻かと思った。でもその全ては、ここで、間違いなくその人の姿をして歩いていた。

「────っ、あのっ!」

 人混みの最中で立ち止まって、かのんはあらんかぎりの声を張り上げた。

 その赤い髪の後ろ姿の人が、立ち止まる。かのんの隣で千砂都が、他のみんなもその人を見つめていた。そしてその人はゆっくり人混みの中で、振り向いた。

「────っ⁉︎」

 かのんは息が詰まる。その顔、その身体、その瞳の青色から髪の赤色まで、全部そっくりそのまま、その人だった。

「…………メイ、ちゃん」

 かのんは呆然と立ち尽くしたまま、その名前をこぼした。

 カッコウ、カッコウ

 道の真ん中で立ち止まって向き合うかのんたちを避けるように、人は流れていった。

「────っ、メイちゃん⁉︎」

 かのんのすぐ前にいたきな子も、気がついて大声を上げた。かのんたちの目の前にいたその人は、きょとんとして口を開く。

「……私をお呼びになりましたか? ふふ、でも私の名前はメイではないですよ」

 その声は、確かに聞き覚えがあるような気がするのに、別の人のもののようでもあった。

「……米女、メイちゃんでは、ないんですか」

 かのんが訊くと、その人は目を丸くして驚いた。ちょっと訝しむような感じだった。

「どうして、私の苗字を……?」

 記憶にあるよりずっと丁寧な言葉で喋るその人は、かのんたちには違和感しかなかった。そしてその人は唐突に、衝撃の事実を言うのだった。

「私は、確かに米女の姓です……米女サツキ、と言います」

 カッコウの鳴き声の下、直射日光に晒された下、横断歩道の上。

 かのんたちはとんでもない人と出逢った。

 メイの母、だった。

 

 しかしメイの母────サツキは、かのんたちと対話をするのを避けるように、かのんたちの来た方の駅方面に向けて歩いて行った。

「あ、ちょっと────」

 かのんが手を伸ばそうとするも、サツキはすぐに横断歩道を渡り切ってしまった。ついでにかのんたちは横断歩道のど真ん中にいたので、もうどちらかに渡り切らなければならなかった。かのんは隣にいた千砂都を見る。

 どうする? と。

 そうかのんが問いかけるのと、けたたましく鳴いていたカッコウの声が消えたのと、その場の空気が張り詰めたのは、ほぼ同時に起きた。

「きゃあああああああっ!」

 絶叫。

 絶叫だった。

 その人だかりの声の先を、かのんは追いかけた。

 見ると、反対車線から大型トラックが猛スピードで突っ込んでくるところだった。それは加速して物理法則に従って()()()()来た感じではなく、唐突に何もない空間から現れた、という感じだった。かのんは本能で、そのトラックを操る奴らの正体が分かった。

 人は蜘蛛の子を散らしたように逃げていたけれど、トラックの方が当然速かったから、どこへ逃げても間に合いそうになかった。そして、その中心には、もちろん、あの人が────

「夏美ッ! 私とトラック止めなさい!」

「ガッテンですのッ!」

 声がかのんの耳に入る前に、すぐ前にいたすみれと夏美の着ていた白衣が、抜け殻みたいにその場に落ちた。

 そこからは、かのんの目には全てスローモーションで映った。

 トラックが歩道に突っ込んでいく。

 その向かう先、歩道と車道の際に、すみれが立っていて、思い切り片脚を引いて、両手を前に掲げていた。一瞬後に、夏美がその脇に現れる。二人のスーツの模様が七色に発光する。

 ダァン!

 そして、何かが強くぶつかったような、銃声にも似た音が響いた。トラックは歩道を食い荒らすように、少し乗り入れたところで止まった。

「すみれちゃんッ!」

「すみれっ!」

「夏美ちゃん!」

 かのんたちは口々に叫びながら、そのトラックの正面に走った。白衣が邪魔だったので、全員道路に脱ぎ捨てた。

 辺りは絶叫の渦だった。

 ふと視界の隅に映ったきな子だけ、他の人より不安そうな顔をしていたのが、かのんには少し気になった。かのんはそれで、二人がもし、無事じゃなかったらと思うと、背筋がぞっとした。

「ふぅ、ふぅっ、はぁ……」

「はっ、はっ……」

 しかし、トラックの前には、二人はちゃんといてくれた。その両手はトラックを押さえ込んで、踏み込んだ脚はアスファルトを削っていた。

「すみれ! 大丈夫デスか⁉︎」

 可可がすみれに駆け寄る。トラックから手を離したすみれは、バランスを崩したのかそのまま可可の腕の中に収まった。

「……ふふ、なーんてことないわ、大丈夫ったら、大丈夫よ」

「夏美ちゃん!」

 きな子が夏美まで駆けていき、その身体を抱きしめる。夏美も力が抜けたように、きな子の腕に身体を預けた。

「大丈夫ですの……私たちには四季の作ってくれたスーツがありますの、このくらいで死にはしないですの……」

 言いながら、夏美はかなり満身創痍な様子だった。かのんは混乱を極めるこの盤面で、何をすればいいのか分からず、ただおろおろしていた。焦りがさらに自分を動けなくさせていった。

 辺りの人が逃げていく。皆、竹下通りの向こう側へと走っていった。その一番後ろに、赤髪の、あの人もいた。

「かのんちゃん! 後ろッ! 運転席!」

 突然千砂都の叫び声が響いた。かのんは反射的に振り向いてそちらを見る。そこの運転席には頭まで黒いローブを被った人がいた。そしてその手には、黒光りする拳銃が握られていた。その銃口が向けられている先は、かのんたちの方ではない、竹下通りの、向こう側。

「────ッ、させない!」

 かのんは左腰から右手を引き出して、慣性のまま前方に構えてトリガーを引いた。

 銃声は一発だった。

 一拍遅れて、トラックのフロントガラスが粉々に砕ける音と共に舞い散った。黒ローブは手に持っていたそれを落として、倒れ込んでかのんたちからは見えなくなった。

「大丈夫? みんな!」

 かのんは言いながら、周囲を見渡す。倒れたすみれを抱いている可可と、倒れた夏美を抱いているきな子、そしてまだノーダメージの千砂都。

 かのんはやるべきことをやらなければ、と思う。

「多分、奴らの狙いはメイちゃんのお母さん……目的は分からないけど、この時代でメイちゃんのお母さんが死んじゃうと、メイちゃんはこの世に存在しないことになる……そうすれば、四季ちゃんの目的は果たせなくなっちゃう!」

 かのんはアサルトライフルを右手に提げたまま言う。

「みんなでメイちゃんのお母さんを護るよ! 動ける人から順番に、行こう!」

 かのんが言った。

 その時だった。

 目の前にあったすみれと夏美が止めたはずの大型トラックは、そこにはなかった。え、と思ったのも束の間で、かのんが振り向くと、竹下通りの道を埋め尽くすように、()()トラックの背中が見えた。そして、本当に意味不明だが、それはすでにかなりの速さで動いていた。

「────空間転移されてるっ、かのんちゃん!」

 隣で千砂都が叫んだ。この狭い道をあんな巨大なトラックが走れば、無関係な人まで巻き込んでしまう。

「行くよ! ちぃちゃんッ!」

 かのんは考えるより早く、動いていた。風よりも速く、竹下通りを突っ切って、トラックの前に立つ。すぐ隣に銀髪を揺らしてかのんの相方も来てくれる。

(……止めるっ!)

 かのんは心の中で強く念じるのと、スーツが七色に発光するのと、突き出した両手に強い衝撃が加わったのは、ほぼ同時だった。

「ぐあっ……⁉︎」

 激しく鉄のぶつかる音。

 未体験の暴力に、かのんは薙ぎ倒されそうになる。でも、この後ろにいるたくさんの人たちのことを思うと、一度これを止めてくれたすみれと夏美のことを思うと、かのんの手には、自分でも信じられないくらいの力がこもった。

「かのん、ちゃん……っ、もうちょっと……っ」

 隣から千砂都の必死な声が聴こえてくる。かのんはさらに力を込める。脚が地面を削っているのが分かった。

「とま……れえええええええええッ!」

 かのんは渾身の力を振り絞り、トラックの前方のくぼみに手を引っ掛けて、思い切り横に投げ飛ばした。

 ガァン! とすごい音がして、トラックは横倒しになった。かのんは息を切らせながら、すぐにアサルトライフルを取り出して構える。さっきみたいに運転席にいる人が撃ってくるかもしれなかったからだ。

「…………」

 しかしそこには初めから誰もいなかったかのように、空っぽだった。かのんは構えた銃を静かに下ろす。数多もの叫び声がこの街の平和を切り裂いていた。

「ちっ……逃げ足も速いのムカつくわね……」

 はっとすると、かのんの隣にはすみれがいた。かのんを見ると、ふっとやさしく微笑んだ。

「よくやったわね、かのん……ありがと」

 すみれのその素直な言葉に、かのんはどう答えていいのか分からなかった。昔は、そういうところを、私は好きになったんだっけ。じゃあ、今は?

「……あれ、なんですみれちゃんだけなの? 他のみんなは?」

 ふと、千砂都が言った。

 かのんとすみれは、辺りを見渡す。確かに、近くにきな子たち三人の姿はなかった。

「……ホントね、どうしたのかしら」

 すみれは言うと、耳のトランシーバーを二回叩いて、話しかける。

「もしもし、可可、聞こえる? 夏美でもきな子でもいいわ、応答しなさい」

 しかしすみれの表情は思わしくなかった。何も返事がなかったのだろう。でも、その時だった。

「あ! ねぇ! あっちに三人いるよ!」

 千砂都が来た道を指差して言った。確かにそこには、黒いスーツを着た三人が竹下通りの入り口で綺麗に一列に並んでいた。

「なによ、いるじゃない……おーい! 何してるの、早く来なさーい!」

 すみれが叫ぶけれど、三人は一向に前に進まなかった。

 何か様子が変だ、と思って、かのんたちはそちらに走っていく。

「どうしたの、きな子ちゃん、早く来ないと……っ」

 かのんがきな子に言いながら手を伸ばした。

 バチッ

 何かに当たったように、火花の散るような音がして、かのんの指先は弾かれた。

「……なに、これ」

 困惑するかのんの目の前で、薄い青色の見たことのない文字列が浮かんでは消えていた。さっきかのんが触れたところも、すぐ元に戻っていく。

「分かんないっす……すみれ先輩を追いかけようとしたら、なぜかここから進めなくて……」

 きな子がそう言う。夏美も苦い顔をしていた。その横で、可可だけが、真剣にその見えない壁に手を当てていた。

「…………磁場バリアだね、これ」

 かのんの隣で、千砂都がぽつりと言った。それを聞いて、可可はこくりと頷く。

「……このスーツを着ていると弾かれるバリアみたいデス」

 可可の触れた透明な壁の一部分に、見たこともない数式が浮かんでいた。

「……分断された、って訳ね」

 すみれが言う。しかし、かのんたちに考えている時間はなかった。目標は、メイちゃんのお母さんの保護だったから。

「……可可が」

「え?」

 ふと、可可が口を開いた。

「可可が、これを解除しマス。その間ワタシの守りは手薄になるので、防衛はきなきなとなっつーに任せマス」

 可可が静かに強くそう言うので、かのんは一瞬驚いた。けれど、すぐに頷いていた。

「大丈夫、かのんちゃん! 私たちは四季ちゃんから色んなことをインプットされてるから、これも解除できる! 三人を信じて、今は私たちのやるべきことをやろう」

 かのんの隣で千砂都も言った。その時、交差点を挟んで向こう側で、黒ローブが何人か現れた。考えている時間は、ないらしかった。

「……任せたよ、きな子ちゃん」

 かのんは言って、両脇にいる千砂都とすみれに目配せする。

「はいっす! ここはきな子たちにお任せしてくださいっす!」

「今度はヘマしませんの、すみれ先輩のフィアンセには夏美が指一本触れさせませんの」

 そう言うときな子は自分の正面に手を掲げて小さめのアサルトライフルを取り出して、夏美は両腰から二丁拳銃を取り出し、きな子に背中を預けるように立った。

「背中は任せたですの、きな子」

「夏美ちゃんこそ、頼んだっすよ」

 二人はもう、臨戦体制だった。

「行くよっ! ちぃちゃん! すみれちゃん!」

 かのんは叫んで、走り出す。

 直後にその背中から、銃声が折り重なって聞こえた。

 

 そしてかのんたちは、竹下通りを駅方面に向けて走った。さっきトラックを止めたので、スーツの使用限界を超えてしまったのか、高速移動は出来なかった。

 でも、すぐにそこに辿り着いた。

 人混み。

 そう呼ぶには、その光景はあまりに混沌としていた。

 大型トラックの衝突から、普通に生きていれば一生聞くことのない銃声から逃れるために、人は我先に、いや我先にと押し合い、叫び合い、力のないものから弾き出されていた。これを形容する言葉があるとするなら、それは多分『地獄』だった。

「────っ!」

 そして、その人だかりの中に、かのんは目的の人を見つけた。赤い髪、片方だけのお団子、すらっとした手脚。一瞬だけど、確かに見えた。

「サツキさんっ!」

 かのんが叫んだ声は、しかし阿鼻叫喚の渦に巻き込まれて消えていった。おまけに人混みは混沌を極めていて、どこにサツキがいるのかもさっぱり分からなかった。

 その時だった。

 不意に、青空がいきなり狭くなった気がしたのは。

 上を向いて、かのんはぞっとした。

 そこに、建設途中の建物の鉄骨を持ち上げていたクレーンが、不気味に青空を遮っていた。伸びる影は意味もなくかのんの焦燥を煽った。

「……? かのん、なに上見てんの、早く行かないと────」

「危ないっ!」

 すみれの言葉を遮って、千砂都が叫んだ。

 一瞬のことだった。

 空中に浮いていたはずの鉄骨は、その重さのまま、重力に従って落ちてきた。最初は細長い箸くらいのサイズだったのに、瞬きする間に、それは凶暴な鉄の塊になる。そしてその真下には、数多の人が渦巻いている。

 かのんは手を伸ばす。恋の顔が頭を過った。もう目の前で誰も死なせたくない、と思いながら。

 すみれが後ろで何か叫んでいる。でも間に合わない。かのんがどれだけ速く動いても、鉄骨の無慈悲な落下に間に合うはずもなかった。

 そして黒い影が人混みの中に落ちていって、そこにいる人を押し潰す……はずだった。

 かのんはそうなる瞬間を見たくなくて、目を閉じて俯いていた。目を逸らすことしか出来なかった。

 しかし、かのんの思ったような音は聞こえてこなかった。代わりに、驚きともつかないような絶叫がかのんの鼓膜を裂いた。

 かのんは目を上げて、はっとする。

 人だかりの上、そのスレスレのところで、鉄骨が浮いていた。それは、目を疑う光景だった。かのんの隣にいたすみれも、驚いたようにそれを見ていた。そして、二人は同時にばっと振り返る。

「………… Gravity seizure(重力掌握)

 千砂都が片膝をついた姿勢で、左手を前に構えて、苦しそうに歯噛みしてそう言った。

「……あんまり、長くは、持たないからっ……かのんちゃ、なんとかっ、してっ……」

 千砂都が切れ切れに言った。その左手に負荷がかかっているのか、徐々に下に落ちてきていて、それを右手で支えていた。人々は自身の上に鉄骨が浮いているという異様な光景を前にしていたが、周囲の人はみな、まちまちな方向に逃げようとするので、まともに逃げられてはいなかった。

「かのんっ!」

 すみれが叫ぶ、かのんは無我夢中で腰から何か取り出す。何か出ろ、何か出ろ、と思いながら。

「…………なにこれ」

 かのんの右手には、さっきまでついていなかった手袋がはめられていた。そしてその手の甲に一体化するような形で、何かを射出するような細い口がついていた。

「え、え、どうするのこれっ⁉︎」

 かのんは分からずに、手を回転させたり伸ばしたりしてみた。

 すると、それからいきなりしゅっ、と細長いワイヤーのようなものが飛び出てきた。それは道の脇にあった電柱に引っかかり、かのんと繋がってぴんと伸びていた。

「かのん! それで鉄骨の下にいる人くるんで退かしなさいッ!」

 すみれが叫ぶ。かのんははっとして、手に繋がったワイヤーを見て、そしてすぐに、人混みを見つめる。あの足元をくぐり抜けて、そこにいる人たちにワイヤーを巻きつけて、引っ張る。

 考えるより早く、身体が動いていた。

 人の渦に飛び込んで、支点になる電柱の位置を考えながら、そこを素早く潜り抜ける。

 かのんは人混みから飛び出ると、叫んだ。

「すみれちゃん! そっち引っ張って!」

 道の反対側にいたすみれは、かのんを見て一瞬驚いたようだったけれど、すぐに状況を把握したようで、電柱に刺さっていたワイヤーに手をかけた。

「いくわよ! せぇのッ!」

 すみれの声と共に、かのんは自身の右手を思い切り引っ張る。千砂都の手が力が抜けたように下ろされたのも、ほぼ同時だった。

 鉄骨が落ちてくるその真下を中心に、人混みが真っ二つに分かれた。いくつか悲鳴が聞こえて、中にはバランスを崩して倒れた人もいたみたいだった。

 そして次の瞬間、中に浮いていた鉄骨は重力に従って、地面に落下した。激しく鉄を打ち付けるような音が辺りに響いた。

 再び、辺りを絶叫が支配する。

 人々は逃げてきたはずの方向にも逃げようともしたので、かのんたちのいる方にも走りかかってきた。かのんは慌ててワイヤーを引っ込める。

「わわっ⁉︎」

「千砂都! あんた大丈夫⁉︎」

 かのんとすみれは、地面にへたり込んだ千砂都を庇うように前に並んだ。

「へへへ……大丈夫、だいじょうぶ、ちょっとくらくらするだけだから……」

 そう言う千砂都は、外傷こそないものの、かなり息が上がっていた。四季の科学兵器は、その強さの代わりに代償を要求するものが多いことは、かのんもなんとなく察していた。

「ありがと、ちぃちゃん……でも、無理は絶対ダメだよ」

 かのんは言って、千砂都と見つめ合う。でも、今はまだ、互いの無事を喜ぶ場合ではなかった。

「かのんちゃん! 早くメイちゃんのお母さんの保護、急いで! 奴らには絶対にやらせないで! 私はすぐ後から追いつくから!」

 千砂都が言って、かのんとすみれは同時に頷く。

「分かったわ……かのん、行くわよ」

「うんっ! 行こう!」

 かのんは気合いを入れるように叫んで、人の流れに逆走するように走り出す。さっきスーツの高速移動を使ったので、また少し時間を置かなければならなかった。だからなかなか前には進めなかった。

 すみれもすぐ近くをついて来るのがかのんには分かった。でも、すみれの動きはなんだかぎこちないように見えた。どうも肩を庇って走っているような。

「……すみれちゃん」

「なによ」

 なんだかかのんは、久しぶりにすみれに喋りかけた気がした。

「すみれちゃんは、私の右側にくっついていて……撃たれた左肩、本当はまだちょっと痛いんでしょ」

 人混みの中、足は止めずに、顔も見ずに、かのんは言った。

「……あんたねぇ」

 ふとこぼれたようなその声は、こんな時じゃなければきっとどうしていいか分からなかっただろう。

 かのんはすみれを見た。肩が触れ合うくらい右隣に寄ってくれて。

 困ったように嬉しそうに笑うその顔は、ずっとかのんが望んでいた気がするものだった。この気持ちを私は昔、なんと呼んでいたんだっけ。

「ほら、行くわよ、王子様……エスコート、されてあげる」

 人混み。

「えー、私王子様かなぁ、お姫様の方がいいなぁ」

 呟き。

「はいはい、じゃあ今度はそう呼んであげるから……」

 すみれちゃんとの、つながり。

「行くわよ、かのん」

「うんっ! すみれちゃん!」

 あの頃みたいだった。銃火器。青空。都会の喧騒。

 何もかも違うのに、かのんは不思議とあの頃のような穏やかな気持ちだった。

 すみれちゃんといる、この感じが、私は好きだったんだな。

 かのんはそう思い、好きという曖昧な感情を無理に言葉に当てはめなくてもいいことを、ようやく知った。遅すぎたかな、どうかなぁ。

 かのんはそれでも足は止めずに人の間を縫って、少し屈んだ姿勢で、ひたすら前へ進んだ。

 そして、少しずつ人が分散してきたところで、ようやくかのんは足を止める。

「米女さんっ!」

 そこに、その後ろ姿を見つけたから。ちょうど、竹下通りを出て行くところだった。

 すぐそこにある駅へと逃げようとしているみたいだった。でも、かのんたちは一気に緊張した。

 その駅へと続く横断歩道の向こうに、黒ローブの人間が立っていたから。

「ちっ、しゃらくさいッ!」

 かのんが判断するより早く、すみれが猫のようにを姿勢を低くした。そして腰からアサルトライフルを取り出すのと、それごと姿が見えなくなるのはほぼ同時だった。

 ダン!

 短い撃鉄の後、向かいにいる黒ローブは倒れた。手前にいた赤髪の女性を抱き抱えるようにすみれは立っていた。右手にはアサルトライフルを提げたまま。

「かのんちゃん!」

 その時、後ろで声が聞こえた。振り向くと、高速移動を使って来たのか、千砂都がいた。

「かのん!」

「かのん先輩っ!」

 その隣に、さっき分断された三人がいた。バリアの突破に成功したのだろう。

「みんな! 無事でよかった!」

 かのんは竹下通りの入り口のアーチに近い位置に立っていたので、みんなと合流しようとした。そして────

 バチッ

 何かに当たったように、火花の散るような音がして、かのんの指先は弾かれた。

 そこには薄い青色の見たことのない文字列が、浮かんでは消えていた。それはさっき、見たことのあるものだった。

「……磁場バリア」

 かのんが呟くと、きな子と夏美が思いっきり顔を(しか)めた。

「またっすか⁉︎ 敵さんもしつこいっすねぇ……」

「全くですの……小癪(こしゃく)なマネばかりしますの」

 でも、その中で、千砂都一人だけ深刻そうに何かを考え込んでいた。

「…………なんでこんなに私たちを分断しようとするの……そもそもメイちゃんのお母さんを殺すだけならいくらでも他に方法がある……わざわざ私たちが邪魔できるような襲撃方法から、スーツの弱点を突く磁場バリア……」

 バリアに手を当てて、千砂都はぶつぶつと独り言を言っていた。

「そうだよ、メイちゃんのお母さんを殺すのだけが目的なら、こんな回りくどいやり方じゃなくていい……とすると、目的は別にある……」

「ちぃちゃん……?」

 かのんが千砂都の指先にバリア越しに触れようと手を伸ばすと、千砂都はいきなりがばっと顔を上げて、食い気味に叫んだ。

「分かった! 奴ら、私たちをあえて殺さずに私たちの持ってるタイムマシンの場所を(あぶ)り出すつもりだよ! だからこんなに磁場バリアを張って私たちを分断したりするの!」

 千砂都の発言に、そこにいたかのんたち四人はきょとんとした。一瞬状況が掴めなかったのだ。

「……なるほどね、道理でなんか戦いやすいと思ってたわ」

 ふとかのんの隣で声がした。見ると、そこには赤いお団子の女性を連れた、すみれがいた。

「つまり、私たちはただこの人を護ればいいという話でもなさそうね」

 すみれが言うと、千砂都はこくりと頷く。

「うん……私たちは、メイちゃんのお母さんを護りながら、私たちのタイムマシンを護らなきゃいけない……この戦いは、相手の持っているタイムマシンを先に制圧した方が、勝ち」

 千砂都が言うのを、固唾を飲んで他のメンバーは聞いていた。唯一すみれの抱き抱えている人だけが、不思議そうな顔をしていた。その顔は、いつだったかまだメイちゃんが部活に入る前、二人で話した時にそんな顔してたな、とかのんはふと思い出した。そしてそれを、決して失くさせたりしない、と強く思った。

「ちぃちゃん、可可ちゃん、夏美ちゃん、きな子ちゃん」

 かのんは決意に満ちた声で言う。呼ばれた四人がかのんを見ていた。

「タイムマシンを護って欲しい、それで、クロノダイバーたちのタイムマシンの位置を特定して、制圧して……その間に」

 かのんはすぐ隣を見る。すみれは分かってるわよ、と言いたげにニヤッと笑ってみせた。

「私とすみれちゃんで、サツキさんを護り続ける。どこまで逃げても襲われるんだろうから、時間凌ぎにしかならないけど、なるべく長く()たせるから」

「かのん先輩! 後ろっ!」

 きな子が叫んだ。振り向くと、黒ローブが一人。手には拳銃。

「────っ」

 かのんは腰からアサルトライフルを取り出そうとした……けれど、その必要もなかった。

 タァン、と綺麗な重たい音がしてそいつは倒れた。隣を見ればすみれの構えたアサルトライフルの銃口から薄く煙が上がっていた。

「行くわよ、かのん……とりあえずここを離れましょう、どこでもいいから、なるべく遠くに」

 すみれが言った。

 その言葉は聞いたことがあるような気がしなくもなかった。私たちはきっと、全てを取り戻す戦いをしている、とかのんはなんとなく思った。

 深く、全員で頷く。

 もしも過去と未来、どこにいても。

 私たちはひとつ。

「リエラ! 散開ッ!」

 かのんの号令で、そこにいる全員のスーツが淡く発光する。

 そしてそこ目がけて銃声が響いた。しかし、音よりも速く、そこから人は消えていた。

 この残響が、第二ラウンドの開幕となる。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「かはっ……ごほっ……」

 すみれがお姫様抱っこしていたその人を下ろした。

「大丈夫ですか……ごめんなさい、ちょっと速かったですよね」

 すみれが苦しそうにする赤髪の女性に声をかけるのを、かのんは見ていた。原宿駅の細いホーム。

「……やっぱり関節神経を一部でもシンクロさせてないと、人間の身体には負担が大きすぎるみたいね」

 すみれは言いながら、赤髪の女性の背中をやさしくさすってあげていた。

「……スーツの力で逃げるのには限界があるし、米女さんは生身の人間だから、私たちが三人で逃げる方法として最も適切なのは電車……だよね」

「そういうこと……かのん、集中なさい」

「うん、分かってる」

 かのんはすみれと背中合わせに、間にサツキを挟むようにして死角をなくしていた。駅構内には、まばらだけれど一般人がいた。

「あ、あの……」

 張り詰めた空気の中、かのんの背中で声がした。

「はい……なんですか」

「あの……今、これが現実の出来事なのかよく分からないので、変なことを訊くかもしれません」

 サツキの声は、メイの声とすごく似ていた。混乱していても凛々しくて、芯のある声。でも、メイのぶっきらぼうさはなく、すごくお淑やかな口調だった。

「どうして私のことを、メイと呼んだんですか? それがなぜか、すごく気になってしまって……」

 サツキはそう言った。かのんはそこで初めて思い至る。

 この時代にはまだメイちゃんは産まれてないんだ、ということを。

「それは……その……」

「かのんッ! おいでなすったわよ!」

 かのんが言い淀んでいると、すみれが声を張り上げた。

 はっとして見ると、どこからともなく黒ローブ姿の人間が湧いてきていた。

「ちっ……好き勝手に空間転移使って……四季の生み出した技術でしょうに」

 後ろですみれが言う。かのんが空中からアサルトライフルを引き抜いたのは、なんとなくすみれと同じタイミングだと分かった。見てもいないのに。

「やるわよ、かのん。千砂都たちが本丸を落としてくれるまで、ここは私たちで護る」

「オッケー、すみれちゃん……やろう」

 かのんはこんな時なのに、なんだか不思議と落ち着いていて、いっそ楽しくなってきていた。すみれちゃんと久しぶりにこうして肩を並べる。あの日以来上手く笑えなかった期限切れの日々は、十年という時を経てようやくここで形になった。

「実弾避けるのは無理だから、相手の手元をよく見なさい、ミスったら……お陀仏よ」

「うん、なるべく早めに片付ける、だよね」

 細いホームに放送が響く。環状線の外回り。昔からこの放送だけは変わらない。こんな時なのに、かのんは変に日常の中にいるみたいな気持ちになった。

しかし、一番かのんに近い黒ローブが、胸元から拳銃を取り出した。それが、合図だった。

 原宿駅の細いホームに、銃火器の炸裂する音が、響いた。

「はぁっ!」

「ふっ……そこっ!」

 声の後に続く銃声。

 銃声は全てかのんとすみれのアサルトライフルによるもので、それ以外の音は聞こえなかった。ホームにいたわずかな一般人は、必死に逃げていった。

 黒ローブは不規則に現れては、撃たれる寸前に姿を消して、また別の場所に現れていた。時間を与えると拳銃を構えられてしまうので、かのんたちは休みなくそのいたちごっこを続けるしかなかった。

「くっ……ちょっと、苦しいかしらっ……かのん!」

 カァン

「私は、まだ全然っ、いけるよっ! すみれちゃん、もう疲れちゃった、のッ!」

 ダンッ

「ふふっ、言うじゃない……じゃあ負けた方、ジュース、奢り、よっ!」

 バァンッ

「いいよっ! わたしっ、スプライトねっ!」

 タタタタ

「じゃ、私もッ!」

 狭いホームを駆け巡りながら、言葉を交わす二人。そこに電車が滑り込んでくる。何事もないかのように、止まって、間抜けな音を立てて開いた。

「米女さん! 入って! 早くッ!」

 すみれが言いながら、その人の近くに寄って護衛を固める。とりあえずこの場を離れるのは先決だった。場所が細長く、開けすぎていて、身を隠す場所もない。細かくスーツを使っていたけれど、限界は近づいていた。

「すみれちゃん!」

「なに、かのん!」

「私が殿(しんがり)やるから、サツキさんと電車乗って! 隣の車両から襲ってくるかもしれないから!」

 かのんが言うと、すみれは納得したように────もちろんかのんには見えなかったのだけれど────ひとつ頷いた。

「分かった! でもあんた、ケガしたら承知しないからね! ……約束よ」

「分かってる! 約束ったら、約束……でしょ」

 かのんは呟いて、背中ですみれを見送った。電車内は左右は入り口が狭いから守りには向いているけれど、窓が広すぎて外から丸見えだった。そこを護るのが、かのんの役目だ。

「さぁ……やるよ」

 かのんが呟いて、左右を見ると、黒ローブがわらわら湧いていた。

「…………え」

 しかし、かのんは目を疑った。

 その数が、尋常ではなかったのだ。

 さっきに比べてもいきなり異常に多かった。それこそ人混み、と呼んでいいほどには。しかもそれが左右に展開されていた。すぐに、銃口が向けられる。

(…………これは、マズいな)

 かのんに選択肢は二つしかなかった。ホームの前後を阻まれているから、もちろん左右どちらかに飛び込むしかなかった。

 そして、すみれたちのいる電車に飛び込む訳にはいかなかった。

「たあっ!」

 かのんはすみれと反対側のプラットホームから線路に降り立った。一瞬遅れてかのんがいたところを銃弾が通過したようだった。しかしすぐに狙いはかのんに定め直される。

「そう、こっちに、おいで……」

 かのんはギリギリまでそこにいる全員の注意を引くために、的確に近くにいる敵から順番に撃ち抜いていった。

『二番線、ドアが閉まります、ご注意ください』

 その放送がホームに響いて、向こう側でその扉が閉まる。かのんは隙を見て滑り込もうと思っていたのだけれど、奴らの注意を引きながらそうするのは不可能だった。こうなれば、かのんのここでやることはひとつだった。

 無事に電車を送り出すこと。

「────だよねっ!」

 かのんはギリギリまでスーツの稼働を制限しながら、モグラ叩きみたいに現れる黒ローブを各個撃破していった。

 向こうでノロノロと電車がホームを離れていった。そっちを狙う銃声は聞こえなかった。かのんは電車が駅を完全に離れたのを目視で確認してから、銃を下ろした。

 かのんのスーツの模様が七色に発光する。

「ようい────ドンッ!」

 かのんが叫んだのと、銃声が響いたのは、全く同時みたいだった。

 そしてそこには、誰もいなかった。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

 かのんはスーツの力で走っていた。

 さっき見送った電車の一番後ろの車両から順番に並走して、先頭車両を追いかけていた。

「すみれちゃん! どこの車両にいるの⁉︎」

 電車内には、外から見てもクロノダイバーたちがいた。かのんは走りながら、耳につけたままだったトランシーバーを起動する。

『……今応戦しながら先頭車両に向かって退却中! あんまし状況よくないわ!』

 風でごうごう唸る世界の中、すみれの声が左耳でする。かのんは速度を上げてそこに辿り着こうとした。

「あ、あれっ⁉︎」

 しかし、いきなりがくっとかのんの速度は落ちた。

 どんどん電車の方が速くなっているようだった。かのんはそう思ったけれど、実際は電車かが速くなっているのではなく、かのんの方が遅くなっていたのだ。

 スーツの力はここまでかなり温存してきたけれども、ついに活動限界らしかった。でもここで使えなくなるのはかなりマズかった。

「────っ、どうしよ……」

 かのんは突き放されていく電車を見ながら、必死に追いつこうと拳を握りしめて考える。

 ────拳?

 かのんはふと、自分の握ったものを見た。それはついさっき電柱に引っ掛けて使ったものだった。

(やるしか、ない)

 かのんはもう一番後ろの車両まで引き離されていて、考えている余裕はなかった。

「────ふっ」

 かのんは右手を思い切り前に突き出す。そこから、ワイヤーが飛び出す。一直線に伸びたそれは、電車の上のわずかな出っぱりに引っ掛かって、巻きついた。

「やあぁっ!!!」

 かのんは右手をぐっと握りしめて、足を思い切り踏み出す。

 そしてかのんの身体は宙に浮いて、それに合わせてワイヤーは収縮した。

 一瞬にして、かのんは電車を右手で掴んでいた。

「くっ……」

 振り落とされないように、必死で左手も使って電車に喰らいつく。

「やああああああああっ!」

 もうスーツの活動限界がきているのはかのんにはなんとなく分かった。だからここで振り落とされる訳にはいかなかった。

 思い切り力を込めて、なんとか電車の上部に転がり込む。かのんは肩でようやく息をしているばかりだった。

 でも、休んでる暇はない。

 かのんはワイヤーをしまって、電車の上を走り出す。周囲の景色は心なしか古めかしくて、ビルなんかは記憶にあるよりずっと多い気がした。

「すみれちゃん! 今どこ⁉︎」

『先頭車両! ここが最後の砦みたい!』

 かのんは叫びながら、車両と車両を飛び越える。遠くで銃器の炸裂する音が聞こえてきた。

 かのんは急ぐ。もうスーツはしばらく使えない。少なくとも十分程度。だからかのんには急ぐくらいしかできなかった。

 アルミみたいな鉄みたいな、空洞になった何かを踏んでいるような音がしていた。電車を踏むのは変な感覚だった。

 そして先頭に辿り着いた。ここからどうやって電車の中に入ろうかを考えて、かのんは足元に目を落とした。

「…………え?」

 そしてかのんは、目を疑った。

 それは、ついさっきに何度も見たことのある装置だった。赤い灯りが点滅している、無機質なそれ。カフェで、四季のラボで。それは────

「時限、爆弾……⁉︎」

 かのんは目を疑った。そして、さらに悪いことにそれは、よく見ればひとつではなかった。一番先頭にある時限爆弾だけ他のより一回り大きくて、それから電車の背に沿って────つまりかのんが走ってきた車両全てに、その子機のような、似た形の装置が設置されていた。

『かのん⁉︎ どうしたの、応答して⁉︎』

 耳元ですみれの声がする。全ての物音が遠ざかっていく。どうすれば。どうすれば。どうすれば、どうしたら、私は。ここにいる人がみんな死んでしまう。助けなきゃ、いや助ける。でも、どうやって?

 いきなりの無理難題に、かのんの頭はどうすればいいか分からず思考停止してしまった。

『かのん⁉︎ 返事して、かのん⁉︎』

 すみれの声で、しかしかのんは現実に引き戻された。世界はいきなり彩度を落としてモノクロになっているような気がした。黒い風がないていた。

「……時限爆弾が、ある。私たちのカフェに仕掛けられてたのと、同じやつ」

『えっ⁉︎ ほ、本当に⁉︎』

 すみれは驚いたように言った。それから舌打ちが聞こえたかと思うと、かのんの真下で立て続けに銃声が聞こえた。一瞬遅れて、窓ガラスがバラバラに砕ける軽い音がして、後ろにその破片が流れていった。

『こっちはこっちで手一杯! かのん! お願い、なんとかして!』

 すみれの声は必死で、下で何が起きているかはかのんが想像するまでもなかった。

「……で、でもどうしたら」

 かのんは狼狽(うろた)えて、でも立ち止まっている時間はなくて、電車の頭につけられたその装置の前に屈む。それは真っ黒で、学生鞄くらいの大きさで四隅をボルトのようなもので留められていた。その部分は蓋のようになっているらしかった。

「────出て」

 かのんはそこを目がけてトリガーに指をかけて構える仕草をする。それを引く動作をした瞬間に、かのんの手にはアサルトライフルが握られていた。

 鋭い鉄の弾ける音が、風に流されていく。続け様に、四回。

 バゴン、と鈍い音がして、その蓋も後方に吹っ飛んでいった。

「────っ」

 そして、かのんはその中身を見た。そこには複雑な配線のコードがひしめいていて、唯一時計のように表示された赤い四桁の数字だけが読めた。それが何の時間であるかは、言われなくても分かった。その時間、わずかに『01:30』

「どうしよ、どうしよ私……っ⁉︎」

 刻一刻と、無常に減っていく数字。かのんはどうなるかも分からないけれど、とりあえずこれだけでも電車から外してしまおう、と思って、銃を構えた。

『かのん! それを撃っちゃだめデス!』

 その時、耳元でいきなり大声がして、かのんは指が止まった。

『それを撃ったらその場で爆発しマス! こっちでおおよその事態把握はもうできていて、後はその電車さえ守り抜けばいい状況デス!』

「可可ちゃん⁉︎ どういうこと⁉︎」

 トランシーバーによる通信は磁場バリアによって遮断されていたはず……とかのんは思ったけれど、そんなことを言っている場合でもなかった。

『時間表示をしている部分に五色のコードが繋がっているはずデス……ありマスか⁉︎』

 かのんは言われるままにそこを確認する。残り五十秒を刻むその下に、そのコードが確かに繋がっていた。青、緑、うす桃色、橙色、水色。

「ある! あるよ!」

『それを今から可可が言う順番に切ってくだサイ! それが安全装置で、順番を間違えたら爆発しマス! いいデスか⁉︎』

 かのんは可可が言い終えるより早く、アサルトライフルを構え直していた。あと三十秒。

「いいよ! 言って!」

『順番は……水色、橙色、緑────色、ザザ……う……色……………』

 かのんは言われた三色のコードを順番に撃ち抜いていった。しかし、

「可可ちゃん! 後半聞き取れなかった! もう一度お願い!」

 合わないラジオみたいにザァザァ掠れる音が、可可の声を遮った。肝心なところが聞こえない。

『え…………どこ……っ、クロノ…………妨害…………』

 今度はほとんど何を言っているのか分からなかった。赤い数字、あと二十秒。

「可可ちゃん! 可可ちゃん!」

 かのんは叫ぶ。しかし今度は何の反応もなかった。かすかに聞こえた単語から、また奴らが何かしたのかもしれない、とかのんは素早く思う。あと十五秒。

 その時だった。

 背中の方で、轟音が響いた。振り返ると、一番後ろの車両の両方の窓ガラスが、爆風と共に砕け散っていた。続け様に、そのひとつ手前の車両の窓からも、爆音と共に炎が巻き起こる。電車が緊急停止していく。

「────っ、私が、何とかしなきゃ」

 もう躊躇う余裕もなかった。かのんはどちらかのコードを切るかを選ばなければならなかった。どっちだ、どっちが正解なんだ、考えろ、私……っ⁉︎

 しかし、狙いを定める手のひらは自分の決断一つにのしかかる命の重みに耐えかねて、震えていた。あと十秒。

 怖かった。

 ただ怖かった。

 だって失敗したら、みんなが……すみれちゃん、が。

「かのんちゃん」

 ふと、震える手に誰かの手が重なった。かのんははっとして、そちらを向く。

「大丈夫、私がついてるから」

 千砂都だった。真後ろで爆発音が轟く。あと五秒。

 千砂都の手に導かれるように、最後に残ったうちの、片方に銃口を当てる。どうして千砂都がいるのかは、訊く暇もなかった。

 千砂都と何かひとつのことをしているのは、こんな時なのに安心な気が、かのんにはした。あと二秒。

 そしてそれを、二人で、思い切り引いた。青空に響く、最後の銃声。

 かのんはぎゅっと目を瞑っていた。一秒、二秒……しかし、かのんの思ったような音は、何も聞こえなかった。

「かのんちゃん」

 千砂都が呼ぶので、かのんはようやく目を開いた。そして、それを目の当たりにした。

『00:01』

 そう表示されたまま、止まっている数字を。

「ふぅぅ…………」

 かのんは肩の力が抜ける。

 辺りは急に静かになった。車両は緊急停止して、線路上で沈黙していた。

『かのんっ! あんた大丈夫っ⁉︎』

 その時、いきなり耳元ですみれの声が聞こえた。それでかのんはまだ自分達が戦いの途中であることを思い出す。千砂都を見て、かのんは叫ぶ。

「ちぃちゃん! 行こう!」

「オッケー!」

 千砂都は右手の親指と人差し指で丸を作って、にっ、と笑ってみせた。

 電車の端を引っ掴んで、そのままそこを軸にして円を描くようにして、窓ガラスを脚で叩き割って車内に入った。ガラスの破片がきらきら散らばる。

 そこには膝をついた低い姿勢で、頭を守るように身を屈めた赤髪の女の人がいた。さらにその近くにも、逃げてきたのか一般人が何人かうずくまっていた。

「すみれちゃん! 米女さん! 大丈夫⁉︎」

 かのんは叫ぶ。するとすみれはアサルトライフルを手の内で消して、フッと得意げに笑った。

「遅いったら、遅いわよ……もう全部片付けちゃったわ」

「えっ」

 そしてかのんは振り向く。

 そこには、誰もいなかった。向こうの車両は焼け焦げていて、人がいるようには見えなかった。恐らくクロノダイバーたちは撤退したのだろう、とかのんは思う。

「流石だね、すみれちゃん」

 千砂都が言うと、かのんの耳元のトランシーバーがいきなり音を立てた。

『……みんな! 今敵のタイムマシンをきなきなとなっつーが制圧しマシタ! 磁場バリアも千砂都が全て解除していマス! もうそっちも安全なはずデス!』

『ちょーっと手間取ったけど、チームプレーは夏美たちの方が上ですの、リエラに勝とうなんて百年早いですの』

『っす! これできな子たちがチャンピオンっすね〜!』

 急に賑やかになった通信を聞きながら、かのんはすみれの後ろにいる人に近づく。すみれがそっと道を開けてくれたような気がした。

「……米女さん」

 かのんは腰を屈めて、その人の顔を間近で見つめる。メイちゃんと同じ、青い瞳だ、とかのんは思う。

「は、はい……」

「怖い思いをさせてしまって、ごめんなさい……でも、もう、こんなことはあなたの周りでは決して起こらないので、安心してください。私たちが、あなたの大切な過去も未来も、全て護ってみせます」

 かのんはそれだけ言うと、立ち上がって振り向いて、すみれと千砂都を交互に見た。二人とも、全てのことを成し遂げた後のように自信たっぷりにはにかんで笑っていた。

「……行こう、ちぃちゃん、すみれちゃん」

 かのんの言葉に、二人は短く頷く。かのんも無言で頷くことでこたえて、スーツの出力を上げていく。三人のスーツの模様が七色に発光していく。

「あ、あのっ!」

 その時、かのんの背中で声がした。振り向くと、赤髪のお団子の女性がかのんをじっと見ていた。その人は、あの子に似てるけど、やっぱり大人びていて、別人だな、と今さらかのんは思った。

「……私のことを、メイ、って仰いましたよね」

「……はい」

 かのんは言う。

「それがなんだかすごく、大切な人の名前の気が、したんです……だから」

 その人はにっと歯を見せて笑った。その笑い方はとてもとても、見たことがあるような気がした。

「私に子供ができたら、あなたたちへの感謝と憧れを込めて、メイって、名付けようと思います」

 かのんはそれを聞いて、胸がぎゅっと握りつぶされそうな気がした。どう答えていいのか分からなかった。でも代わりに、自分達がするべきことは、しっかり見えた。まだ戦いは、終わっていない。

「…………ばいばい、米女さん……元気でね」

 かのんは呟くと、その顔は見ずに振り向いて、走り出す。すみれと千砂都も、一瞬で姿を消した。高速移動の名残の風が、電車内を吹き抜けていった。

 そして、そこには誰もいなくなった。救助が来るまで、その粉々に砕かれたガラスの上に映される新しい景色を、米女サツキはその青い瞳で追いかけていた。

 この日の体験を、サツキは生涯、誰にも言わないことになる。米女メイという名前を、全部一つにすると『数』という漢字になることは、不思議とすぐに気づいた。

 いつか子供ができたら教えてあげよう、とサツキはちょっとワクワクしていた。警察に保護されて線路の上を歩きながら、そう思った。

 すごい青空が広がっていた。

 吸い込まれてしまいそうな。

 手を伸ばせば届いてしまいそうな。

 そんな夏の日のことだった。

 こうして2,005年のある夏の日の事件は、幕を閉じた。

 

 

 

 ✳︎

 

 

 

「みんなお疲れ様! いや〜大変だったね」

「な、なんかすっごい余裕そうっすね……」

「クロノダイバーたちは全員タイムマシンに詰めて元の時代に強制送還してますの、もうここの時代に来ることはできないですの」

「そうデス! 私たちがこの時代でできることは全部終えたデスよ!」

 タイムマシンの中に戻ってきたかのんたちは、久しぶりの和やかなムードだった。思えば2,032年のかのんのカフェから逃げてきてここまで、ほとんど休憩なしで活動してきたな、と思い出す。実際には数時間しか経っていないはずなのに、空は暗かったり明るくなったり、暑すぎたり寒すぎたり、時間まで飛び越えちゃって、目まぐるしいことこの上なかった。

「さて……もう一つの時空の歪みは────っ⁉︎」

 千砂都がモニター前の席に座って、そこのキーボードを操作する。

「こ、れは…………」

「ん? どうしたのよ、千砂都」

 息を止めた千砂都に、すみれが声をかける。

「すごく大規模な時空間の歪みが発生してる……きっと四季ちゃんだよ、そんな気がする……一度や二度の時空間の移動の歪みじゃない!」

 千砂都は声を大きくして言った。かのんはそのすぐ傍で、千砂都の肩に手を置いて、その前のモニターに映る、理解できない複雑な何かの波形が重なったものを見た。私たちの、次に行くべき場所は、あの日。

 かのんたちは誰も何も言わなくても、自分達が次にどうするべきなのか分かっていた。

「次の世界では、可可と千砂都はここに残りなさい……前線には私とかのんが出るわ、サポートにきな子と夏美、いい?」

「え、な、なんでデスか」

「あんたらはここで司令塔やってくれた方がいいわ……四季も、そう考えているみたいだし」

 すみれは言いながら、向かいのきな子と夏美を見つめた。二人は強く頷いたようで、すみれは満足そうに笑う。

「さてと……そろそろ行きましょうか。道に迷うんじゃないわよ、かのん」

 すみれがおどけて言う。こんな風に昔みたいに何気ない冗談が言えるようになる日を、かのんはどれほど待ち望んでいただろうか。あまりに長い時を越えてきた。それでもそばにいる、私たち。

「むー、すみれちゃんだって、置いてっちゃうんだから」

 ふと、つめたいタイムマシンは、冬の日の部室に似ていたんだ、と気がついた。まだ下級生が入ってくる前の、五人で静かだった部室。

「はいはい、それくらいにして」

 千砂都がかのんとすみれのやり取りを遮る。可可が、千砂都の隣の席に座って、空中にキーボードを展開した。

「あとあんたらちゃんとサプレッサーつけなさいよ、みんなも。街中で銃パナすんだからね」

 すみれが言う。

「はーい」

「はいっす〜」

「はいですの!」

「私たちは銃持ってないから関係ないね!」

「デスね!」

 各々、好きに言いながら、それぞれの席に着く。メインコントロール席には可可と千砂都、その脇に、きな子と夏美、そしてさらに脇に、かのんと、すみれ。

 かのんはすうっと息を吸う。

「じゃあ、行こう! 四季ちゃんとメイちゃんを助けに!」

 思い切り叫んだ声に全員が頷いたのが、かのんには見ていなくても分かった。

 人の想いが時を超える瞬間を、人は奇跡と呼ぶのだろうか。

 最初は小さな星でも、それぞれが内に秘めた輝きを、想いを、繋いで結んでいくことで、きっといつか大きな願い(スーパースター)になる。

 かのんはいつか自分がつけたこのみんなのためのグループ名を思い出していた。

 いつの間にか私たちは、一人じゃなくて、燦々(さんさん)たるスーパースターだった。

 かのんは心から叫ぶ。

 後戻りなんてしなくていい、振り返らなくていい。

 私たちは前へ前へ、未来へ風のように進んでいく、一番星(スーパースター)だ。

 時間を超える、数秒前。

 今始まる今と、今終わる今を飛び越えて、全てを取り戻しに、あの夏へ。

 

 

 

「リエラ! スーパー! スタートッ!」

 

 

 

 ────そしてまた、ここから新たな物語が始まる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。