In the dark forest(暗い森の中で) (kanpan)
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プロローグ

 書斎の中で少女は一冊の本を手に取る。それはこの地に伝わる伝説を書いた本だ。

 この少女がいままでに何度も読んだ物語。

 今日も彼女はその本を開いてページをめくる。

 

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 老魔術師(ドルイド)は語った。

 この日、幼き手に槍持つ者はあらゆる栄光、あらゆる賛美をほしいままにするだろうと。

 この土地、この時代が海に没するその日まで、人も鳥も花でさえも、彼を忘れることはない。

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 どんな土地にも昔話がある。

 その地に生まれた人々はそうした昔話の英雄を誇りに思って生きる。

 

 アルスターの伝説に謳われた赤枝の騎士。

 ドルイドが予言で語った通り、この地方の人々は(いにしえ)よりずっとその英雄の名を忘れず語り伝え続けている。

 どこの家にもこの昔話の絵本があり、子供たちはこの物語を読んで育つ。

 

 赤枝の末裔である少女も当然のようにこの物語に夢中になった。

 幼くしてその力を示し「クランの猛犬」の呼び名を得た少年。

 その勇ましき栄光は子供心に眩しく映る。

 

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 いと崇き光の御子。

 その手に掴むは栄光のみ。

 命を終える時ですら、地に膝をつく事はない。

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 故郷の皆が讃える英雄。

 だがその少女はそうは思えなかった。

 なぜこの物語はこんな悲しい結末(バッドエンド)なのか。

 これは決して誉め称えていい物語ではないはずだと。

 

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 ……だが心せよ、ハシバミの幼子よ。

 星の瞬きのように、その栄光は疾く燃え尽きる。

 何よりも高い武勲と共に。おまえは誰よりも速く、地平線の彼方に没するのだ———

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 なぜ彼はあんな予言に従い、その日のうちに戦士になったのか。

 短命を恐しく思っても、代わりに栄光を得たかったのか、

 栄光に目を奪われていて、短命の運命に気を配らなかったのか。

 

 彼はなぜ、この辛い運命を受け入れてしまったのか。

 

 その時彼女は思った。

 何もできない私だけど、もし許されるのなら、この英雄を救いたいと”願ってもいい”のでしょうか———。

 それを願いはしなかった。すでに自分がこなすべき役目は他にあるのだ。

 無力な自分の願いなどきっと許されないと。

 そして物語の本を閉じる。

 

 

 

 後に彼女は幼い頃の疑問の答えを知る。

 故郷から遥か遠く離れた暗い森の中で。

 

 彼女が語った英雄の物語を聞いた神父はこう言った。

「……そうだな。おそらく、君はその少年の行動に苛立ちを覚えてしまった。

 こうして成長した今でも、彼の決定を怖がっているのだろう?」

 その神父は彼女の語りを切り開き、その中に埋もれた古い疑問を取り出してみせる。

 

「……恐れていたわけではありませんが、少年が何処に着目していたのかが分からない。

 その日に戦士になれば最高の栄誉を約束されるが、誰よりも早く命を落とすとも予言された。

 なのに少年は恐れず、何の戸惑いもなく王に”今すぐ武者立ちがしたい”と告げるのです」

「彼は最初からその予言を知っていたのだ。

 きっと自分はそういう風に生きると。そんな確信が生まれた時からあったからこそ、ドルイドの予言に従ったのではないかな」

 

 ああ。

 生まれた時から確信していた。あの英雄はドルイドの予言が自らの人生を指していると見なしたのだ。

 だから恐れず、疑わず、それが自分に与えられた責務として受け入れた。

 

 彼女は気づいた。

 恐れていたのは、悲しいと感じたのは、

 短命と分かっても栄光を選んだ潔さではなく。

 そもそも、そんな非業な運命を変えようとさえしなかった英雄を、私は恐れていたんだ。

 



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第1話

「死ぬのが怖くはないのですか?」

 封印指定の魔術師の館に踏み込む道中、バゼットは隣にいる仲間の執行者にふとそんな疑問を投げた。仲間はバゼットを一瞥しただけで言葉を返さなかった。

 

 封印指定執行の任務は佳境にさしかかっていた。

 魔術師の館の周りにうようよしていた屍食鬼(グール)どもを一掃し、後は魔術師を捕獲するだけだ。

 私はまだ未熟者だ、とバゼットは無駄口を叩いた事を恥じた。

 こういう状況になると油断からなのか、つい余計な事を口にしてしまう。ぐっと奥歯を噛み締めて、雑念を喉の奥に飲み込んだ。

 

 バゼットが魔術協会の封印指定執行者に任命されてからまもなく一年になる。アイルランドの小さな村を出て魔術協会に所属した若き女魔術師は、黒スーツの男装に身を包み戦場を駆ける日々を過ごしていた。世界中に逃亡した封印指定の魔術師たちはその潜伏先で魔窟ともいえる根城を築き上げる。それに挑み続ける事が彼女の日常になっていた。

 

 今回の任務では執行者チームは二手に別れて行動している。さきほどもう片方のチームは先に魔術師の館に侵入したとの連絡を受け取った。バゼットたちも遅れをとるまいと館への道を急ぐ。

 

 魔術師の館の正面の扉はとっくにぶち破られており、バゼットたちはそのまま館の中に歩みを進めた。

 正面玄関付近は広々とした空間になっていた。

 「バゼット、おまえは左側の方を確認しろ。俺は右の方を見に行く」

 仲間の執行者からの指示にバゼットは頷いて答える。バゼットと仲間は左右に別れて広間を探索しはじめた。

 

 広間の左端に辿り着いたバゼットの視線は床に転がったモノに釘付けになる。それは死体だった。それが誰の物なのか、そしてその喉に突き刺さっている細身の剣が何なのかを理解して、バゼットの背筋に緊張が走る。

「黒鍵———!」

 それはもう一つの執行者チームのメンバーの遺体であった。喉に刺さっている剣は聖堂教会の代行者が使う武器、黒鍵である。

 

 その状況が意味するものは何か?

 この場はすでに封印指定の魔術師、魔術協会の執行者、聖堂教会の代行者、この3者が入り乱れての一瞬の油断もならない殺し合いの真っ只中となっているのだ。

 仲間と別れたのは危険だったと気づき、バゼットは広間の入り口にとって返す。その時広間の反対側、つまりバゼットの仲間が向かった方向から激しい怒声、叫び声、争いの物音が響いた。

 

 バゼットは物音のした方向へ全力で駆ける。駆けながら両手両足に刻んだルーンを発動させる。駆けつけた先で、ほぼ間違いなく、仲間と魔術師もしくは代行者が争っているはずだ。

 

 疾駆するバゼットの視界にもみあう人影が映る。そこにいたのは仲間の執行者と封印指定の魔術師であった。上から馬乗りになっているのは仲間の執行者だ。仲間は自らの手を鋭い鉤爪に変化させ、魔術師の首を締め上げている。

 仲間に組み伏せられていた魔術師はバゼットが駆け寄ってくる事に気づくと、執行者の体を蹴り上げて、その下から抜け出した。

 

「待て!」

 バゼットの制止を振り切り、魔術師は広間の壁に抜け穴を作るとその中に身を翻す。たちまち穴は塞がり、バゼットがその場に辿り着いたときにはもとどおりの壁に戻っていた。

 バゼットは行き場をなくした拳をそのまま壁に叩き付ける。壁は壊れて次の部屋に筒抜けの穴ができたが、当然そこに魔術師の姿はない。奴はこの場からまんまと逃亡した。

 

 バゼットは仲間の方を振り返った。仲間の体は蹴り飛ばされて床に転がったまま微動だにしない。

 それは既に事切れていた。その体の胸の部分に真っ赤に染まった大きな穴が空いている。仲間の心臓は握りつぶされ、流れる血が床を徐々に赤く染め上げていた。

 仲間の表情は憤怒の形相のまま固まっていた。魔術師と刺し違えようと全力を振り絞ったが、それはかなわなかったのだ。

 

 バゼットは仲間の体に近づき、ルーンを詠唱する。

炎よ(ソエル)

 ルーンの炎が亡骸を包む。高火力の炎が瞬く間にその形を灰に変えた。

 

 仲間を弔う間も惜しんでバゼットはまた広間の左手に向かって駆けた。そこには先ほどと同じく別の執行者の遺体がある。バゼットはそれも同じく炎のルーンで灰となした。

 

 もし彼らの遺体をここに放置したら、もしくは放置せずにバゼットが彼らの亡骸を回収した上でやはり魔術師に破れ殺されてしまったら、執行者の屍は屍食鬼(グール)とされて魔術師の道具に成り下がるだろう。そして新たな被害を生むのだ。

 それを防ぐ為に同じ執行者の手に寄ってその亡骸を灰燼と帰す。

 

 封印指定執行者の任務とは封印指定の魔術師の保護である。もっとも保護の対象は魔術師の生命ではなく、体に刻まれた魔術刻印だ。魔術師はその生涯をかけて極めた研究成果を己の体の魔術刻印に残す。つまり執行者たちは対象の魔術師の死体から魔術刻印さえ確保できれば、魔術師の生死は問われない。

 

 このため執行者たちはほとんどの場合で封印指定の魔術師を殺すが、魔術刻印だけはなにがなんでも確保する。逆にいえば、魔術師の本分であり、彼らが代々一族に伝えて守り伝え、育ててきた魔道探求の成果を魔術協会は真剣に保護しようとしているのである。

 

 その一方で、封印指定執行者たちも魔術師である。それも魔術協会のなかで指折りの戦闘向きの魔術師たちが選別されている。当然、彼らのほとんどは歴史ある魔術師の家系に生まれ、才能に恵まれた一流の魔術師たちである。彼らが受け継いでいる魔術刻印も貴重なものだ。

 

 だが執行者たちが戦場で破れ、命を落とした場合は彼らの魔術刻印を守る物はいない。むしろ今バゼットが行ったようにその場で消滅させられる運命にある。

 無駄な事は何も考えまい、としていてもバゼットの頭の中に嫌な想像がよぎってしまう。もしここで死んだなら、体はまるで塵のように消され、自分の存在はまるでなかったことになってしまうのだろうと。

 

 

 さらにバゼットは灰となった仲間の骸のなかに突き立つ細身の剣、黒鍵をにらみつける。その束を握って、刃の真ん中に蹴りをくれてへし折った。

 

 魔術協会の執行者の他にも封印指定の魔術師を狙う者たちがいる。それが聖堂教会の代行者だ。

 代行者の「代行」とは何か。それは神の代わりとして異端者を討つという意味である。

 聖堂教会はある「普遍的な」意味を持つ一大宗教の裏組織だ。その役割は教義に反したものたちを排斥することである。それは「異端狩り」と呼ばれている。

 

 魔術協会の束縛を逃れて在野となった封印指定の魔術師が失敗をした、つまり魔術の神秘を一般社会に漏らすような事態になった場合、聖堂協会はただちにその魔術師を異端と見なして代行者を派遣する。代行者の目的は封印指定の魔術師を完全にこの世から消し去る事だ。魔術師が代行者の手に落ちれば、魔術刻印など斟酌なくその亡骸もろとも完全に消し炭にされてしまう。

 

 そして当然、代行者は自分たちの任務の邪魔をする魔術協会の執行者とも敵対する。執行者の任務とは封印指定の狂った魔術師と異端と決めた者を神の名の元に片っ端から消しにかかる代行者、その両方を相手取って戦う過酷なものだ。

 

 バゼットは床に転がる黒鍵の残骸を見つめる。ここに黒鍵があるということはここに代行者が現れたということだ。そして仲間の1人は代行者によって命を奪われた。

 黒鍵が回収されず遺体に突き刺さったままになっていたのは、その時代行者に黒鍵を回収する余裕がなかったことを示している。戦闘はとても緊迫した状態にあったのだと予想できた。

 さらに、今も付近に代行者が潜んでいる可能性がある。

 

 現在生き残っている執行者はすでにバゼット一人だけだ。

 バゼットは天を仰ぎ、重く濁った水の底から酸素を求めるように深呼吸をした。

 

 私もこの場所で、何も成し得ず、何者にもなれずに死んでいく運命なのだろうか。

 いやこんな所で、何も成し得ず、何者にもなれずに死ぬのは耐えられない。

 

 余計な感傷はやめだ。バゼットは思考を切り替えた。

 殺意で頭を浸し、闘志で体を満たす。

 そして広間から館の入り口に向かった。一旦退却して体勢を立て直さなければならない。

 

 バゼットが館の入り口から外の庭の様子を伺うと、そこに一人の男の姿があった。

 その男が身にまとう風に揺れる長い衣。それは神父が身につける服、カソックだ。

 つまり、そこに立っているのはバゼットたち執行者の宿敵であり、神に背く物を断罪する者。

 聖堂協会の代行者———



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第2話

 館の外は薄暗く、陰鬱な雲が空を覆っていた。

 

 魔術師の館の庭に立つその神父は背が高く、バゼットよりもふた周りほど大柄だった。館の入り口から外に出ようとする人影に気づき、バゼットのほうを見ている。

 バゼットは臆する事なく庭の中に進み出る。

 

 奴がこちらを女だから、まだ若いからと侮ってくるなら好都合だ。

 天国へ送ってやる。早々に主から祝福の言葉をもらえるのを感謝するがいい。

 

 バゼットはまっすぐに歩みを進めて神父に真っ正面から近づいていった。無言で相手の顔を睨み据え全身の気迫をもって威圧する。

 

 お前の仕事はここで終わりだ、代行者———!

 

 だが、その神父はバゼットを侮るそぶりは見せず、むしろ同胞を迎えるかのように温かい笑みを浮かべた。

「手を組まないかお嬢さん。

 お互い最後の一人だ、ここで潰し合うのは得策ではない」

 その神父はごく自然に、バゼットとの協力を申し出た。

 

 バゼットたち執行者チームが壊滅したのと同様に、この神父も仲間をみな失っていたのだ。

 この屍使いの魔術師の庭で、彼らがただ二人生き残った生者だった。

 

 通常、いかに窮地とは言え、代行者が法王ないし司教の許しなく魔術協会と手を組む事はあり得ない。聖堂教会にとって、魔術師たちは異端者である。最も経験な信徒である代行者は異端である魔術師と交流をしないものだ。この神父は変わり者だった。

 

 神父の申し出の意図を警戒しつつ、バゼットは返事をした。

「……協力しあうことに異論はありません。

 ですが、私たちは仲間ではない。結局、最後には奪い合う事になる。そんな相手に背中は任せられない」

 バゼットは神父の言葉にたいして(かぶり)を振って拒否する。

    

 バゼットの任務は封印指定の魔術師の死体を回収する事であり、この神父の任務は魔術師の命を奪う事だ。

 執行者と代行者は目的がかち合っている。自らの任務を達成する為には結局相手を排除しなくてはならない。

 このまま協力して事を成したところで、最後にはこの神父が敵になるのだ。

 

 そんな間柄で手を組む? 馬鹿げている、とバゼットはいぶかしむ。魔術師を仕留めた後で背後からバッサリとやられてはたまらない。

 

 だが神父は言った。

「それはいらぬ心配だな。私の仕事はあの男を殺す事だけだ。後の事はそちらに任せる。亡骸をどう扱おうと私には関係のない話だ」

 魔術師の死体はバゼットに譲る。自分は、魔術師の(いのち)さえ消せればいいと、この奇妙な神父は提案してきた。

 

 それはあまりに意外な提案だ。代行者の任務は単に異端を殺すだけではなく完全に消滅させることを目的とするものだ。

 そもそも教会の教義において、人は異端を斃す権限を持たない。そういった存在すら神の被造物であり、それを排除する事は神のみに許されている。ゆえにそれらを消滅させるということは人の権限を超越した行いである。それを許されているのが代行者。

 

 その神の代理人たる代行者が魔術師の命こそ奪うとはいえ、その死体を彼らと交じり合わない異端の集まりである魔術協会に渡すと言っている。

 普通に考えてそれは聖堂教会への背信行為に他ならないではないか。

 この男は危険だ。そうバゼットの道徳(かんかく)が警告を発する。

 

 それなのに、

「……いいでしょう、その言葉を信用します」

 一体、神父のその言葉にどれだけの重みがあったのか。

 バゼットは彼女自身も驚くぐらい、あっさりと神父の言うことを受け入れた。

 この男は聖者などではない。そんなものとはほど遠い毒を持った男だとバゼットは肌で感じ取っていたのに。

 いや、だからこそバゼットはその男の手を取ってしまった。

 

 たしかに、この神父は聖者ではなかったけれど。

 それまで知りあってきた人間の中で、唯一尊敬できる強さを持った人間だったのだ。

 

 バゼットが故郷を離れて魔術協会に所属して二年。実際のところ時計塔の中にまともな居場所はなかった。実力を認められて封印指定執行者になったといえば聞こえはいいが、実際は体よく時計塔から追い払われ、都合のよい便利屋として使われているだけだ。

 

 何かをなし得たいと思い続けながら、日々繰り返すのは破壊行為ばかり。

 いっそ魔術協会などには何も求めずにいられたらという諦めと、なんとか自分の存在を彼らに認めさせたいという願望が常にバゼットの心のなかでせめぎあう。

 執行者という明日をも知れない稼業に身を置きながら、頭の中にはそんなつまらない悩み事ばかりだ。

 

 この男は強い。それは身体的な強さだけではない。組織への依存や生への執着を吹っ切ったような存在感があった。

 それまで故郷でそして魔術協会で、探し求めながら得られなかった何かをきっとこの男が持っている。

 バゼットはそう直感していた。

 

 協力しようといいながら、もしこの代行者が密かに増援を呼んでいたのならバゼットは封印指定の魔術師と一緒に嬲り殺しだ。その危険を無視してもこの男に関心があった。

 それにこの男はおそらく約束を破ったりしないだろう。すでに執行者に協力を申し出た時点で組織を裏切っているのだから。

 

 「私はバゼット・フラガ・マクレミッツ。魔術協会の魔術師です。

  あなたは———」

 借りそめの協力(きょうはん)関係を築く為にバゼットと神父は名乗りあった。

 

 その神父は言峰綺礼と名乗った。



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第3話

 バゼットと言峰綺礼が協力関係を結んでから2日目。

 昨日は暗い空に小雨の続くどんよりとした天気が丸一日続いたのだが、今日は打って変わって気持ちのよい晴天になった。

 

 封印指定の魔術師の館の庭には木漏れ日が差し、木々の葉に残る水滴が光を反射して輝く。すこしぬかるみを残した地面の上で、庭の草に乗った露が弾ける。

 

 水たまりから飛沫を蹴上げてバゼットが駆ける。その先で構えるのは言峰だ。

 バゼットが打ち込んできた拳を言峰は弾いて、その反動をつかって肘打を返す。それを感知してバゼットは素早く飛び退る。

 両者の間にできた間合いに今度は言峰が踏み込んだ。

 

 八極拳の技、絶招歩法。前に跳躍しつつ拳を突き出して攻撃する突進技だ。

 言峰は中国拳法の一つ、八極拳の達人である。さらに彼の八極拳は正統派の功夫ではなく代行者の人体破壊術として進化している。その威力は肉体の上からでも骨も断つ。

 バゼットの鼻先を言峰の突きの拳風がかすめていく。まともに当たればもちろん、ガードしたところで腕ごと粉砕されていただろう。

 

 バゼットは言峰の拳をまさに紙一重の無駄のない裁きでかわす。

 言峰が伝統的な中国拳法の使い手であるのに対して、バゼットが得意とするのは運動科学の研究成果を取り込んだ総合格闘技だ。

 世界中に無数にある伝統格闘技を分析し、その極意を体系化した現代の格闘技術(マーシャルアーツ)。相手の技のみならず心理さえもその理論に取り込み、攻撃においても防御においても最小の動作で最大の効果を狙う。

 女性であり、体格や筋力で男に劣るバゼットの短所を補い、逆に長所に変えうる戦闘術である。

 

 バゼットと言峰は魔術師の庭で互いに激しく拳を交わし合っていた。

 

 

 館の二階の窓辺から魔術師は庭の様子を伺っていた。魔術師は先日の戦いで執行者を襲撃して仕留めた。だがその際に相手から傷を負わされ、それを癒す為に館に引きこもっている。傷はいくらか回復したものの完治には至らない。

 だが、今日こそはこちらから討って出る必要がある。

 執行者も代行者も生き残りは一人づつ。このままの状態なら魔術師側に分がある。まだ屋敷の中には屍食鬼(グール)の元になる死体を隠してある。それらを使い切ればあの執行者と代行者を撃退することができるだろうと、この魔術師は予想していた。

 

 明日にでもなればおそらく魔術協会も聖堂教会も増援をよこすに違いない。そうなってしまえば魔術師には勝ち目がなくなる。おおかたこの館は周りの結界ごとふっとばされるだろう。

 今日全力をもって生き残りの執行者と代行者を叩き、この館を脱出する。それ以外に魔術師が生き延びるすべは残っていない。

 

 今、庭では執行者と代行者が一騎討ちをしているようだ。相打ちになるか、それかどちらかが負けて脱落することを期待している。そして魔術師が残した虎の子の屍食鬼(グール)どもで残ったほうを潰すのだ。

 

 魔術師は窓辺を離れて地下の工房に潜り、最後の決戦のための準備を始めた。

 

 

 昨日は冴えない天気の上に、魔術師おろか屍食鬼(グール)一体も館から出てくる様子がなく、バゼットは一日を退屈のなか無為に過ごした。

 もっともこの長い待機時間が何の役にも立たなかったというわけでもなかった。想いもかけず一時の協力関係となった代行者、言峰綺礼と共にひたすら魔術師の動きを待って過ごす時間はお互いの緊張関係をいくらかは和らげる役割を果たした。

 二人とも戦士らしく無駄口をききたがる性分ではないが、それでも意思疎通の緩衝剤に必要なレベルの雑談くらいできる雰囲気にはなっていたのだ。

 

 今日は天候が好転した事もあって、バゼットと言峰は午前の早いうちから庭に出て、堂々と魔術師が動き出すのを待っていた。

 無駄な行動は謹んで体力を温存しよう、という言峰の意見で二人は庭の芝生の上に腰をおろし、館の様子を眺めていた。

 

 小一時間ほど経ったころ、

 バゼットはおもむろに立ち上がって近くの立ち木にスタスタと近づく。そのまま目の前の木を仮想敵に見立ててシャドーを始めた。昨日、今日と続けてじっと座ったままでは体力温存どころか、むしろ血の気が有り余る。

 バゼットが突きや蹴りを宙に放つたびにピシリ、パシンという小気味よい音が周囲の空気を裂く。木々が風にゆれるざわめき、枝にとまる小鳥の声のなかにリズムよく響く衣擦れの音を言峰はしばらく黙って聞いていた。

 

 そのうちにふと言峰も立ち上がりバゼットに声をかけた。

「ふむ、待ちくたびれたとみえる。このままでは退屈だろう。

 よかったら軽く手合わせでもしないかね?

 君の腕前をみてやろう」

 

 

 こうして魔術師との決戦を前にして執行者と代行者による軽い余興(てあわせ)が始まり、それはもはや一時間以上続いていた。

 

 言峰の重い突き蹴りをバゼットはギリギリで見切る。その場からあえて動かず巧みに体を捻り、芯をずらして威力を殺す。

 胸元をかする豪拳。少しでも間合いを見誤れば体ごと吹き飛ばされているだろう。そのスリルが彼女の闘争本能を否応なく刺激する。

 

 バゼットは全力で打ちかかることのできる人間に出会えてはしゃいでさえいた。むろん執行者の同僚の中には彼女同様に格闘技に長けた者は何人もいた。だが、若くして特例で執行者に配属されたバゼットは周りの年長の執行者たちとそれほど打ち解けられなかった。そもそも言峰のようにその存在に興味を抱くにあたいする大人は彼女の周囲にいなかったのだ。

 

 言峰はバゼットを侮ったりはしない。代行者にも歳若い者はいる。言峰自身もバゼットくらいの年頃から代行者としてならした。バゼットの戦闘力が優れているのは確かだ。執行者側の最後の一人として生き残っているのはまぐれではない。敗れさった仲間の代行者の中には彼女の手にかかった者もいたかもしれない。

 

 最初はあくまで準備運動程度のスパーリングだったのだが、二人とも腕自慢の格闘家である。相手の腕前が気になるし、キレのよい技が飛んでこようものなら、負けじとそれを上回る切れ味で返さずにはいられない。

 時間が経つにつれて、この模擬戦闘は真剣勝負の殴り合いとしか思えないくらいに白熱していた。

 

 実のところ、バゼットはルーン魔術を使わず、言峰は黒鍵を取り出さないし魔力による身体強化も行わない。彼らは本気で殺し合っているわけではない。

 だが本気でないものの真剣なことに違いはなかった。二人は互いの格闘技術において、その腕前を全力で披露し合っていた。

 

 何も知らない者が端からみれば一見激しい戦いのように見えるが、これは戦好きの二頭の獣が互いにじゃれて、その牙で徒に噛み合っているだけである。

 本当の戦の前に滾る血を収める為の前戯にすぎない。

 

 

 言峰が使う八極拳は中距離からの踏み込みの加速度を利用した突き蹴りの技に特徴がある。八極拳の歩方、活歩は一瞬で相手との距離を詰める。

 したがって中途半端な間合いを作ってしまえば、即座に言峰が飛んできてその勢いを乗せた縦拳、衝捶が叩き付けられる。言峰の衝捶の破壊力は胸の上から人間の体内の内蔵を粉砕できる威力がある。当てればまさに”二の打ち要らず”というわけだ。

 

 これに対するバゼットの戦法はむしろ超接近戦である。むろん一撃で相手に致死級のダメージをあたえうる八極拳の間合いの中に踏み込んで行くのは危険がともなう。しかしバゼットも接近戦主体の戦闘スタイルを主とする戦士なのだ。

 言峰の上背はバゼットより二周り高く、手足のリーチはそのぶん長い。加えて踏み込みのパワーを威力に変える八極拳の技。中途半端に離れた間合いは言峰に有利だ。それに対抗するには逆に言峰のリーチのなかに入り込んでしまえばよい。

 

 バゼットが得意とする総合格闘技は突き蹴りだけでなく投げや関節技も取り入た格闘術である。相手の攻撃をかわし内懐に入り込んでから本領を発揮する。

 八極拳の突き蹴りは突進力を活かすため、半身を切った体勢になりやすい。言峰の体が突きで伸びきった瞬間を狙って、バゼットは言峰の正面に潜り込んだ。

 

 言峰はすぐさま拳を引き構えを戻す。バゼットはそれに構わず言峰のガードの上から突き蹴りを叩き込んだ。流れるような連続攻撃(コンビネーション)。相手の視界、手足の可動範囲を計算に入れて最も受けにくい箇所を的確に狙う。

 だがそれでも言峰はバゼットの攻撃を確実に弾き続ける。このまま防御を続ければバゼットの連打は必ず途切れる。連続攻撃はほぼ無酸素運動なのだ。息がつづくまい。

 

 案の定バゼットの連打は単調になってきた。攻撃が途切れた瞬間が攻守交代の時だと、言峰は着実にバゼットの攻撃をさばく。

 肝臓(レバー)を狙うバゼットの右ミドルキックを言峰は右手を下げてガードした。その時、言峰は背筋に悪寒が走るのを感じた。

 

 バゼットは右ミドルキックを蹴った足を即座に後ろに引き戻し、そのまま腰を落としながら左半身を切って体をひねる。

 右耳の後ろに引いて構えた拳。体を引きざまに作った溜めを、右拳を握り込みながら弓を引き絞るように右足に蓄える。

 その()が放たれる的の中心は言峰の顎だ。言峰の右手のガードが下がった今、バゼットは次の一撃が的を射抜く軌道をはっきりとイメージしていた。

 相手のガードの上からでも構わず連続攻撃を叩き込み続けたのはこの隙を誘うためだった。バゼットの瞳に会心の輝きが宿る。

 

 取った——————!

 バゼットは右足に溜めたパワーをバネのように弾けさせる。相手の油断をついてガードを下げさせ、絶妙のタイミングを見計らって放った渾身の右ストレート。拳の軌跡が一直線に言峰の顎を打ち砕こうと伸びる。

 

 「え———?」

 バゼットが次の瞬間に期待した拳の手応えはなかった。言峰は間一髪でバゼットの右ストレートの軌道を外したのだ。

 全体重を乗せた一撃を反らされて体勢を崩したバゼットの脇で言峰が素早く屈み込む。そして一度大きく体を内側に巻き込んだ後、その反動を背中と肩口に乗せてバゼットの体に叩き付けた。

 鉄山靠(てつざんこう)。八極拳を代表する高威力の当て身技である。

 

 大柄な言峰の体当たりをまともに喰らいバゼットは思いきり吹き飛ばされた。立ち木に背中から叩き付けられ呼吸が止まる。

 「……ぐ……ごほっ……」

 たまらず、そのまま木の根元に崩れ落ちた。

 

 言峰は立ち上がって呼吸を整える。バゼットも一瞬地面に座り込んだもののすぐに頭を一振りして意識を回復させた。

「さすがです、綺礼。

 あの右ストレートは間違いなく当たったと思っていたのに。まさかあそこから軌道をそらされるとは」

 立ち上がりざまにバゼットが先ほどの感想を述べる。派手に飛ばされたわりにはけろりとした様子だ。案外こたえていないように見える。

 言峰は本気ではなかったにしろ、バゼットもこの程度の攻撃は受け慣れているらしい。

 

「あれは化勁(かけい)というものだ。突き蹴りを巻き取ったり、軌道を反らす技だ。

 マクレミッツ、君の格闘技にも似たような技はあるだろう」

 言峰は軽く先ほどの技の解説をした。バゼットを見ると一本取られたのを悔しそうにしている。放っておいたら、もう一本お願いしますと言い出しそうな表情だ。

 

「さて、その意気込みやよし、というところなのだが、

 どうも、そのぶつけ先は変えなければならないようだな」

 言峰はそう静かに言って魔術師の館の方を向いた。

 バゼットも強い魔力の発動を感じてそちらに向きなおる。

 館から濃厚な妖気が漂ってきていた。先ほどまで庭でさえずっていた小鳥たちは姿を消し、のどかだった庭先の空気のなかに死臭が混じり込み始めている。

 

 魔術師がこの勝負を終わらせるべく、ありったけの屍食鬼(グール)どもを動員して最後の戦いを仕掛けてきたのだ。

 

 長かった暇つぶしの時間が、ようやく終わる。



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第4話

 封印指定の魔術師が庭に出てくる前にこちらから館に踏み込んで叩いてしまおう、ということでバゼットと言峰の意見は一致した。

「私は正面から踏み込もう」

「では、私は館の裏手から侵入します」

 正面からは言峰、裏口からはバゼットと役割を決めて二手に別れ、館に向かう。

 

 

 魔術師は地下の工房に降りて、隠してあった死体を引きずり出した。その死体にかたっぱしから魔術を行使して屍食鬼(グール)に変化させる。

 その数はおよそ数十体。十分な数とは言い切れないが、執行者も代行者も残りは一人づつ。うまく立ち回れば奴らを倒す事ができるだろう。

 

 この魔術師は魔導の研究者ではあるが、戦闘技術も身につけていた。むろん執行者や代行者と渡り合えるような実力はない。だが自分の領域であるこの館や庭のなかであれば敵を罠にはめ、打ち取る事は可能だ。

 現に今回の戦いにおいて、この魔術師は巧みに執行者と代行者のチームを庭や館のなかでかち合わせて互いに殺し合わせ、効率よく排除してきた。

 先日の執行者のように隙をみて自ら相手を殺害した事すらあるのだ。勝機は残っていると魔術師はふんでいた。

 ここまで奴らを追いつめたのだ。あと一歩で奴らを完全に撃退できる。そうすれば当分の間は追っ手に邪魔されず、心静かに魔道の探求に勤しめる。

 

 魔術師は屍食鬼(グール)の群れを引き連れて館の広間に戻った。正面玄関越しに庭の方を見れば、大柄な男がまっすぐこちらに歩いて向かってくる。胸に下げた十字架と丈長(たけなが)の神父服からして、代行者だ。

 奴が館の中に入ってきたら屍食鬼(グール)に相手をさせ、その隙をみて背後から狙おう。

 魔術師は館の壁の中に姿を隠した。

 

 

 バゼットは館の脇を駆けて裏側に回っていた。ちょうど良い高さに出窓を見つけることができた。

 少し後ろに下がって助走をつけて飛び上がり、窓を蹴破る。バリィン!と景気の良い音をさせて窓ガラスが砕け散った。そしてバゼットは窓枠を踏んで館の中の床に着地する。

 館の中にがらん、がらんと鐘の音が響き渡る。これは正面玄関以外から不法に侵入されたことを伝える警報である。

 その警報の音に反応して、玄関付近にいた屍食鬼(グール)の半数ほどはバゼットの方にむかって移動し始めた。

 

 

 正面玄関前では言峰が屍食鬼(グール)どもと格闘していた。

 「———灰は灰に、塵は塵に———」

 迷える魂を浄化することは神父の本分である。魔術師に操られる哀れな死体を代行者の拳と脚が粉砕し、その魂を正しくあの世に還す。

 飛び込みざまの縦拳で正面の敵の胸板を打ち抜き、続いて左右に端脚を放って両側の敵の頭を吹き飛ばす。

 それでも恐怖という感情を持ち得ない死体の群れは機械のように言峰に襲いかかっていく。それに向き合う言峰の背後の壁の中から魔術師は襲撃の機会を伺っていた。

 

 魔術師は壁の中で剣を抜き、構えた。言峰は今壁に背を向けている。

 「くらえ代行者め!」

 その背中の真ん中向けて、魔術師は手にした剣の束を握りしめ渾身の突きを放つ。

 ———が、

 言峰は鮮やかに身を翻して半身を切った。魔術師の突きは空を裂くに終わった。

 「う、わあああっ」

 体を壁の中から露出させた魔術師の腕を言峰が掴む。悲鳴と共に魔術師は壁から引きずり出された。

 「生憎だったな。その手口は想定済みだ」

 あらかじめバゼットから得ていた情報で、言峰は魔術師が壁の中に潜んで奇襲してくることを読んでいた。

 

 広間に放り出されてふらつく魔術師に容赦なく言峰の肘打が飛ぶ。

「ぐわあああ———っ……」

 魔術師はかろうじて片手で攻撃をガードしたものの、その一撃で腕が潰された。攻撃を受けた反動で広間の後方に弾き飛ばされる。

 まともな戦闘になってはとても代行者に叶わない。魔術師は弾き飛ばされたのをいいことに、そのまま逃走を試みた。広間を出て館の裏口へと向かい、そこから外へ脱出しよう。

 だが、裏口へつづく廊下に出た魔術師が次に目にした光景は炎や氷を浴びせられて倒れる屍食鬼(グール)の姿であった。

 

 

 館の裏手から侵入したバゼットもまた屍食鬼(グール)の群れと交戦していた。

 「やあああっ———!」

 バゼットの飛び蹴りが一体の敵を吹き飛ばす。そして着地してかがんだ瞬間にバゼットは手足に刻んだ強化のルーンを発動した。バゼットの両手両足が青白いルーンの加護の光で包まれる。

 「はっ!」

 バゼットは宙返りをしながら目の前の敵を蹴り上げた。そして宙に浮いた敵に空中で3連発の蹴りを叩き込む。バゼットの細身の体にはゆとりのある男物スーツの裾が華麗に翻る。それはまるでサーカスの曲芸のごとく。

 さらに、バゼットはルーン魔術を唱えては拳と脚にその力をまとい、リズミカルに相手に叩き付けて行く。

 古の時代、戦士たちは己の剣や槍にルーン魔術を施し戦った。現代人のバゼットはそのような武器を持ち歩かないがその拳と脚がその代わりだ。その威力は現代の武器である銃火器に匹敵する。

 「炎よ(ソエル)

 炎のルーンを手にまとい敵の頭を焼き付くし、

 「雹よ(ハガラズ)」 

 氷のルーンで敵の体を凍らせてそのまま微塵に破壊する。

 

 「くっ……、まさか執行者までやってくるとは……」

 魔術師は再び壁の中に身を隠して、そのまま二階に逃れた。二階の中の部屋の一つに飛び込み、部屋の扉を魔術で強化して隠れる。隠れていてもいずれ詰んでしまうが、少しでも時間稼ぎをし、代行者にやられた傷を応急処置しなければ。

 

 

 言峰は魔術師が二階に逃げた事を察して、階段を登って二階に上がった。目につく部屋の扉を片っ端から壊し、中を調べあげる。

 二階の廊下ではバゴッ、という音が一定間隔で響き渡っていた。言峰が掌底で扉を叩きこわす音だ。

「ひいいぃぃぃ」

 魔術師は隠れている部屋の中で頭をかかえて息を殺しているほかはない。だが代行者の足音と扉の破壊音は着実に魔術師の部屋に近づいてくる。

 とうとう足音は魔術師のいる部屋の前で止まった。

 

 言峰は目の前の扉に掌底を打ち付けた。バシンと大きな音がしたが、他の扉と違いこの扉だけはびくともしていない。この扉は強化を施されているようだ。つまり、この中に魔術師が隠れている可能性が高い。

 言峰は呼吸を整え扉に掌底を添える。そしてその場でダン!と足で床を踏みならした。周囲の壁がその振動で揺らぐ。

 震脚。急激な重心を落としつつ足を踏ん張ることで身体をその場に固定し、力を集中させる技だ。そしてその力を掌底に送り込む。

 「ハッ!」

 気合一閃。扉はドゴン!と破裂音を発して周りの壁ごと吹き飛んだ。中国拳法の奥義、発勁である。

 

 

 バゼットは一階で屍食鬼(グール)を殲滅し終えていた。二階から何かを壊す物音と魔力の気配がしている。

 「上か?」

 それを追って彼女も二階への階段へ走る。

 

 階段を軽やかに駆け上がりながら、バゼットはこの上なく愉快な気分に包まれていた。たった二日前まで一秒たりとも気の抜けない死地だったこの館が今はどうだ? まるで子供の遊び場のようだ。広い館の中で逃げ惑い隠れる相手を追う遊戯さながらに、バゼットは全速力でに魔術師に迫る。

 いつ見返りがあるのかも判らない組織への忠誠を振り切って得たこの開放感。あの神父の提案を飲んだときに感じたためらいはすでに消え去っていた。

 

 二階に駆け上がったバゼットは魔力が強く発生している場所を感知して、魔術師の隠れている部屋のあたりをつける。

 「ここだ!」

 バゼットはある部屋の壁の横で屈み込んで足にルーンを刻んだ。

ansuz(アンサズ)ehwaz(エイワズ)inguz(イングス)!」

 古代の神々である戦神(オーディン)豊穣神(イング)の名を唱え、再生を意味するイチイの木の象徴を用いて、神代の魔術を行使する。

「やぁっっ!」 

 ルーンの加護で強化された足で部屋の壁を蹴り抜いてぶち破った。

 

 

 部屋の真ん中に立つ魔術師の表情には焦りが浮かんでいた。

 彼の前方には黒鍵を抜いて構えた代行者が立ちふさがっている。そして後方には今しがた石壁を瓦礫に変えて突っ込んできた執行者がいる。

「貴様ら……手を組んだのか!」

 魔術師は自分が目にしているモノを疑う。まさか、宿敵のはずの執行者と代行者が通じるなど。執行者も代行者にとっては排除すべき異端に変わりないはずだ。互いに殺し合うべき奴らがなぜ手を取り合っている…!? もし奴らが本当に共謀しているのだとしたらもはや生きて逃れる術はない。魔術師の心を絶望が覆う。

 

 魔術師は苦々しい表情のまま自分を挟んで立つ代行者と執行者を交互に睨むが、自分から動く事はできなかった。

「覚悟っ!」

 立ちすくむ魔術師にバゼットが床を蹴って飛びかかる。振り下ろされたバゼットの拳を魔術師は手にした剣でかろうじて弾いた。バゼットは横に軽くステップし、再び拳を叩き込む。それを魔術師は再び弾く。更にステップからの拳。それを三度、剣で弾く。

 

 バゼットは次のステップで後方に飛び退った。

停止(スリサズ)欠乏(ナウシズ)凍結(イサ)

 ルーンの詠唱に呼応して、魔術師を囲む床の三カ所が光る。その場所はまさしくさきほどバゼットが攻撃の際に着地した場所だった。

 バゼットの拳は単なるおとり。拳を打ち込む前にバゼットは床の上で足を素早く滑らせ、足下にルーンを刻んでいた。その三カ所のルーンが形作るのは、束縛のルーン陣。

 

「ぬああっ……」

 魔術師は体を動かそうとするが、彼の足はびくとも動かない。ルーンの力が魔術師の体の自由を奪い、その足を床に貼付けている。

 そこに、

告げる(セット)

 言峰は呪文をつぶやき、手にした黒鍵を振るう。宙に放った何本もの黒鍵が魔術師の体に降り注いだ。

 

「ぎゃあああああああああああああああああああああ」

 体を黒鍵で串刺しにされた魔術師が断末魔の悲鳴を上げている。耳をつんざく絶叫が響く中、バゼットは右拳を握り直し魔術師に飛びかかると、その顔面に一撃を放った。

 拳が魔術師のあごを打ち砕き、悲鳴はその生命ともども停止した。

 

 

 執行者バゼットと代行者言峰の二人共にとって、封印指定の魔術師殺しの任務は完了した。

 ではな、と短い別れの挨拶だけを残して、言峰は踵を返し去って行った。

 バゼットも仕留めた魔術師の亡骸を回収し、館を後にする。

 こうして、執行者と代行者は何事もなかったかのように互いの組織に戻る。

 

 

 帰途につきながら、バゼットは去り際の言峰の後ろ姿を思い浮かべた。

 あの代行者の神父とは再会する予感がある。

 バゼットは封印指定の魔術師を追う。

 あの神父は代行者として異端を狩る。

 彼には魔術に関する知識があり、死徒や悪魔憑きよりは魔術師狩りに配置されるだろう。

 

 バゼットは思う。私たちは競争相手としてうまく噛み合うと。

 

 この後、バゼットと言峰は合計三回の協力関係を結ぶ。

 この一度目はただの偶然。

 だが、二度目と三度目の関係は、バゼットが無意識で望んで導いた必然だった。



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第5話

 代行者、言峰綺礼。

 聖堂教会の神父の息子として生まれた彼は敬虔な信徒として熱心に修行に励み、勤勉に教会の任務をこなした。

 だがそれは彼に喜びを与えなかった。

 

 言峰は生まれながらにして欠落した人間だったのだ。

 彼は普通の人々が美しいと思うものを美しいと思えない。

 

 その事実に気づいてから、言峰はそれを克服しようといっそう苦行に邁進した。一般的な価値観を理解できるはず、皆が美しいと讃えるものを自分も美しいと思えるはずだと苛烈な修行を続けた。だがその願いが叶う事はなかった。

 

 彼は人並みの道徳を持てないにもかかわらず、いや持てないからこそ人並みの幸福を求めた。

 一人の女を愛し、家庭を築こうとした。妻は言峰を愛していた。言峰も妻を愛そうとした。妻との間に子も生まれた。

 だがここでも、言峰にとっての幸福とは妻子の苦しみに他ならなかった。

 

 妻は言峰にとって聖女だった。あれほど自分を理解し、癒そうとする人間はこの先現れまい。そう思えたその女ですら、彼の欠落を埋める事はできなかった。

 女が言峰を理解し、癒そうとすればするほど、この女の嘆きが見たいと思う自分がいることを言峰は思い知った。

 

 そんな感情を愛だなどと認められはしない。そんな感情しか抱けない者の誕生は間違いだ。

 そうして言峰は自ら命を断とうと決断した。だが言峰に先んじて、女は自殺した。女は自らの死を以って言峰に示そうとしたのだ。

「ほら。貴方、泣いているもの」

 貴方は相手の死を悲しめる、他人を愛せる人なのだと。

 

 だがその時、言峰の胸の内に浮かんだのは

 “どうせ死ぬのなら、私が手を下したかった”

 という気持ちだった。彼が悲しんだものは女の死ではなく、女の死を愉しめなかった、という損得だけだった。

 

 

 第四次聖杯戦争。

 妻を失って間もなく、言峰は父親と遠坂家の当主の手引きによってこの争いに参加した。もともと聖杯戦争に関係も関心もなかった。当初は父と遠坂の指示にしたがい淡々と任務をこなしていただけだ。

 この神父と魔術師が裏で通じ合う茶番のような争いのさなか、想いもかけない事に言峰の長年の探求の答えがもたらされる。

 金色の鎧をまとった原初の英雄は言峰に教えた。

 

 ”お前は世界を美しいと思うことができる。ただその対象が他の人間と違うだけだ。”

 

 言峰はようやく自覚した。人の不幸が、悲嘆が、絶望が自らの愉しみ、悦びであると。

 気づいてしまえば単純な事だ。彼は妻を愛していたし、人間を愛している。だからこそ、その苦しみが見たいだけなのだ。

 

 魔術師たちがお互いの悲願をかけて殺し合った聖杯戦争において、言峰は最後まで勝ち残った。ついに姿を現した聖杯は彼の願望を叶えてみせた。

 

 宙に浮かぶ聖杯から零れ落ちた黒い泥は辺り一面を破滅と嘆きで埋め尽くした。

 紅蓮の地獄。風に運ばれる阿鼻叫喚の声。舞い踊る炎の壁。

 それは言峰の胸の内の空虚を満足感で満たし、歓喜の昂揚で高鳴らせた。

 崩れゆく物は美しく、苦しみ悶える者は愛おしく、耳に届く悲鳴が快い。

 神の愛より外れた道が、これほど色鮮やかな喜びに満ちていたとは。

 

 ああ、いま私は生きている———

 確固たる実存として、ここに在る———

 言峰は初めて識った。初めて実感した。己と世界の繋がりを。彼の内に潜む本性は、普通の人々とはまったく違う在り方で世界を見ていたのだと。

 

 聖杯は言峰に彼が求めていたことの解答を与えた。

 だがそれですらあの聖杯の中に眠るモノのほんの一部分であったにすぎない。

 言峰はそれを生み出す次の機会を淡々と教会の任務をこなしながら待ち続けている。

 再び聖杯が降臨するその時を。

 

 

 

 そして言峰は今もまた異端の魔術師を狩る戦いのさなかにいた。

 代行者のチームの仲間たちは次々と敗れ去り、すでに言峰一人だけになっていた。

 暗い森の中でうごめく屍体たち。言峰は黙々と動く屍体(リビングデッド)たちに拳をふるって倒し、聖言を唱えてはその魂を浄化し続ける。倒しても倒しても屍体はもぞもぞと森の木々の狭間から姿を現してくる。どれだけ湧いてくるのだろうか。

 

 不意に森の暗がりの中に光が走った。屍体の群れの上に浮かんでいた鬼火の昏い炎が、まばゆい閃光でかき消される。光と共に強い魔力がほとばしっていた。高度な戦闘魔術。この場所でそんな魔術を放つ者がいるとしたら、それは代行者の宿敵たる執行者の魔術師たちに他ならない。

 魔術の雷撃が、炎が言峰の周りの屍体たちを一掃した。

 

 言峰の目の前の闇の中から人影が進み出る。この人影に覚えがある。だいたいこういう頃合いで彼女はやってくる。

「やはり君か。マクレミッツ」

 薄く笑いながら言峰は現れた人物に声をかけた。

「ええ。久しぶりです。綺礼」

 バゼットも軽く微笑みかえして言峰の背後に回る。バゼットは言峰と互いに背中を任せて屍体の群れに向き合った。

 これが彼らの三度目の出会いだった。

 お互い組織に報告せず、自身の判断で信頼するに足ると判断して手を取り合う。そんな微笑ましい些細な協力関係(ヒメゴト)

 

 

 

 執行者、バゼット・フラガ・マクレミッツ。

 神代の魔術の継承者。魔術師たちから畏怖される封印指定執行者。

 その肩書きはバゼットの実力に見合ったものだ。

 だがそれは彼女の心を満たさない。そんな大仰な肩書きを持つ者には似つかわしくない、凡庸な悩みが彼女の心を常に苛んでいる。

 魔術協会の中で戦闘能力では右に出る者がいないと言われながら、バゼットは自分を誇りに思えない。私はそんな肩書きにふさわしい人間などではないのだと自虐している。

 

 幼い頃から何事にも強く興味を持てず、冷めた子供だと言われてきた。バゼットは神代のルーンを伝える家に生まれ、物心つく前からその家の習いにしたがい魔術と格闘術の鍛錬に明け暮れていた。確かにそのあたりに一因があるのかもしれない。

 だがとりわけ抑圧されてきたわけでもない。むしろ両親はバゼットが子供らしい遊びに関心を持たないのを不憫に思っていたのだと、彼女は知っている。

 

 作業のように一日を過ごすのだな、と父はすまなそうに言った。しかし父が悪いわけではない。

 バゼットがそんな風に過ごしていた理由。それは諦めていたからだ。

 希望を持てない彼女は、希望を持たない事で毎日をやり過ごす。

 希望を持たないのは、怖かったからだ。

 

 異能の者であれ、常識を越えた人間であれと期待される自分の本当の姿は、あまりにも脆弱で不安定で、どこにでもいる普通の人間と変わらない。

 そんな自分が何かを願うなんて許されない。願ってもきっと失ってしまうだろうと。

 

 何ができるのかわからないけれども、自分にできる何かをなし得たかった。そんな平凡な希望ですら、バゼットにはつかめないものに見えていた。

 壊す事でしか感謝されず、繕う手を持たない我が身。

 結局、自分は周囲の期待にこたえられない。

 鍛えれば鍛えるほどに、努力すればするほど、自分は周りから見放されていく。

 そうバゼットは悲観している。

 

 そんな惨めな気持ちのまま生きて行く事を、心の奥底では楽だと感じている。それはありふれた一種の処世術だ。人々の多くはそうやって自分の弱さを飲み込んでごまかして生きている。

 だが、その楽さをバゼットは自らに許す事ができない。

 その惨めさに耐えきれず、その弱さを克服したくて自らを鍛え続ける。

 そうして外見を取り繕って肉体(みため)を鍛えるほど、精神(なかみ)は取り残されていくのだった。

 

 終わりのない鍛錬にもがく日々。それでも悩みは解消できず、先が見えない息苦しさ。それは背負いきれない重荷になって彼女の心を押しつぶそうとしている。

 

 バゼットの心の中をある想いが掠める。こんな重荷はもう手放してしまいたい。

 誰も必要としない、と。

 そうあれたらどんなに楽かと、

 

 言峰綺礼。

 この男は、決して人と交わらない。

 誰も必要とせず、誰を憎んでもいない。

 人として完結した強さ、通常の道徳(かんかく)なら遠ざかりたくなる『異物』だ。

けれど、だからこそ裏表がなく、一言で”悪”と言いきれる。

 

 ……そんな危険な男のどこに惹かれたのか。

 ただ思ったのだ。

 この、誰も必要としない男にもし必要とされたのなら、それは何者にも勝る安心なのではないかと———

 



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第6話

これでこの話は完結ですが、あと1話おまけがあります。よかったら引き続きお読みください。


 森を徘徊する屍の群れを掃討し終えた頃には日も落ち、バゼットと言峰はその場で野営をすることにした。

 野獣を避け、暖をとる為に焚き火をおこし、揺らぐ炎をを眺めながら長い夜を過ごす。森の夜は鳥の声も風の音も少なく静かで、時折パチパチと爆ぜる火の音だけが闇夜に響いた。

 バゼットも言峰も口数が多い人間ではない。特にたわいのない雑談をするでもなく時間は過ぎていったのだが、さすがにバゼットは沈黙に耐えきれなくなった。

 

 静まり返った場を埋めるために、バゼットは故郷の昔話をなんとなく言峰に語り始めていた。

「……王はさんざん少年を止めるのですが少年は聞かず、ついに戦士として認められました。

 その後の話は神話の通りです。アルスターの猛犬の英雄譚はご存知でしょう?」

 

 それは彼女が子供の頃から繰り返し読んだ神話。現代の赤枝の騎士を称するバゼットのルーツでもある”クランの猛犬”、英雄クーフーリンの物語だ。

 

「いや、そちらの話には疎くてね。聞き覚えがあるのは名前までだ。寝物語に語ってもらう分には構わんが、さて本題は別の所にあると見た。

 ……そうだな。おそらく、君はその少年の行動に苛立ちを覚えてしまった。

 こうして成長した今でも、彼の決定を怖がっているのだろう?」

 言峰は暗い笑いを浮かべながらバゼットに語りかけた。

 

「――――――」

 バゼットは思わず押し黙る。

 ……この男に隠し事はできない。この神父は容赦なく私の心を見透かしてしまう。

 本来なら畏怖すべき事だ。だが、彼女はこの男に心を暴かれたことになぜか安心を覚えてすらいた。

 

 その英雄は自分の運命を確信していたのだと、言峰はバゼットがその物語に抱いていた疑問と解答を示してみせた。

 それは彼女が子供の頃からずっと疑問に思いながら、今まで気がつかないでいたことだったのに。

 

 驚く事はない。この代行者はその役目がないときには街の教会で何食わぬ顔をして神父をしている。

 神父の役目とは神の救いをもとめる人々の迷いを聞き、導く事だ。言峰にしてみればバゼットが自分でも意識せずに物語にに混ぜた疑問は自明で、それを取り出してみせることは雑作もない。

 

「……まいりました。私は何度もあの昔話を読んだのに、そんな事さえ思わなかった。

 ……昔話の少年と貴方は、何処か似ているのかもしれませんね」

 感嘆したバゼットの言葉に対して言峰が即座に返す。

「失敬な。私はそこまで考えなしではない」

「———え」

 バゼットは驚いて言峰の顔を見る。言峰はバゼットの発言が気に障ったのか、拗ねたような表情をしていた。

 この余計な感情を表に出さない神父が初めて見せた、人間らしい感情だった。

 

「なんだ、異論があるとでも?」

「え、いえ、今のは失言でした。私が言いたいのは生き方の話です。

少年に確信があったように、貴方も人生に確信を持っている人ですから」

「———ほう。確信とは、どんな?」

 

 バゼットは言峰の問いに答えた。

「誰も必要としていないところ。

 貴方には、最後まで自分だけで生きていく覚悟がある」

 それがあの英雄とこの神父に通じるところであり、私が持っていないものだ。

 神代の魔術を伝承するフラガの後継者として、決めなくてはいけない”自分”を私はいまだ持ち得ない。そうバゼットは心の中で呟いた。

 

 バゼットはつい自虐した言葉を続けてしまう。

「……本当は私の手を借りなくてもいいのです。ただ、効率がいいから付き合っているだけでしょうに」

「—————————」

 黙ったまま、もう一度陰気に言峰は笑った。

 バゼットはそれを肯定の意味なのだと受け取った。少なからず分かっていた———、それでも辛い。

 彼に必要とされる事を、心のどこかで期待している。そのためにこうして無意識のうちに三度もの出会いを果たしてしまったというのに。

 

 だが、それは過剰な思い込みというものである。絶対に必要な人間などいないし、絶対に不要な人間もいない。

 その思考はありふれたものだ。バゼットの年頃くらいの若者の多くが悩む事にすぎない。

 むしろそんな覚悟を持っている人間の方が奇妙だ。持っているのならそれは妄想かそいつが狂人か、それともおとぎ話の英雄様かのいずれかだろう。

 バゼットの場合は外面と内面の乖離が激しいのでよくある悩みが若干こじれているのだ。

 

 自分の存在に自信をもてず、他人の望み、願いを叶えることに自らの意味を見いだそうしても、そこに生じる食い違いから、また自分は不要と思い込む。

 他人の願望を叶えようといくら努力しようとも、それは最終的に自らの心を満たさない。

 

 生まれつき課せられた他人の願いの大きさに気を取られ、しかもそれを自分一人で抱える謂れなどないのに、どうにかしようと苦闘する。そのために自らの願いを持つ事を忘れようと、いや放棄しようとしている。

 

 自分の願望を見つける事は、誰にでもできる簡単なことに見えて、実は難しいことだ。

 この神父とて、長年にわたり探求を続けたあげく、彼に自らの本当の望みを教えたのは”他者”であった。

 何かを望むためには自我が必要だ。つまり内面の成熟が必要だ。自身の外面だけを取り繕ってきたバゼットは自分の望みを持てるほどには、まだ精神が育っていないのだ。

 彼女の内なる姿はいまだに、昔話の英雄を救いたいという誰もが子供の頃に持つ願いにすら許しを求めた幼子のままなのだった。

 

「どうした、考え事か。

……まったく、悩み事が多い女だ」

 黙るバゼットに、火に薪をくべながら言峰は言う。

 バゼットはつい、

「———生憎(あいにく)凡人なもので。私は貴方のように自信をもって生きられない。

つまらない疑問だらけだ。

……時に、生きている事さえ苦しく思える」

 もっと心の深い所にあった根本的な本音を口にしてしまった。日頃は人から見えないように懸命に覆っている脆弱な心の隙間を。

 

 ……しまった。

 バゼットは即座に後悔した。

 失言だった。きっと失望させてしまった。言峰は私が機械のように役割をこなすから声をかけたのだ。

 こんな、まったくの他人に弱音を吐く私など、彼は必要としまい。

 

 火の中に二つ目の薪がくべられる音が響く。

 ……沈黙が重い。

 バゼットは黙ったまま自分の足下の焚き火を見つめる。怖くて言峰の顔を見ることができない。

 ふと、やたら重く長く感じた沈黙が破られる。言峰は何事もなかったかのように、

「生きているのが苦しいのではない。

 君は、呼吸をするのが厳しいのだ」

 無感情に、けれど真剣な声でバゼットに告げた。不意をつかれてバゼットは顔を上げ、言峰を見る。

 

「え……?」

「その厳しさは容易には取り除けない。自分が解らないのなら、世界を知って計る以外に方法はないからだ。

 バゼット・フラガ・マクレミッツ。自身がこの世界に不要だと思うのならば

 ———おまえは、おまえを許すために、多くの世界を巡らねばならない」

 ちっぽけな自分、ちっぽけな国を捨てて、旅行鞄一つで世界を巡れとその神父は言った。

 

「貴方は、渡った?」

 バゼットは問い返す。確信があった。彼も私と同じで、息苦しい時があったのだと。この男はそんなものとは無縁のように思ったのに。

 言峰は語った。

「いや、まだ途中だ。―――若い頃に躍起になったが、何年か前に大きな事件があってね。それ以来、己を許す必要はなくなった」

 こんな彼にも確信を得るまでの探求の時期があったのだ、とバゼットは思う。

 

「……それで。貴方は、何を許そうとしたの?」

「生まれつきの悪癖だよ。私はどうも、物事を愛することができなくてね。人並みの道徳が欠如している。その間違いを容認できなかった」

 ”欠如している”と言峰は過去形でなく言った。今でも人並みの道徳観は無いのだと。

 

「……それは、解決しなくて良かったのですか?」

「ああ。人並みに愛情は持てずとも、物事を美しいと感じる事はできる。その基準は君たちとは違うが、愛情という物がある事に変わりはない。

 我ながら間の抜けた話だ。そんな事にさえ、若い私は気づかなかった」

 その声に迷いは見られない。言峰はもう終わった事だと過去を乗り越えているようだった。

 

「では、今はもう迷いはないと?」

「そうだな。今は己を許すのではなく、私という人間を容認した理由(ワケ)を知りたい。

 私に、もし自分の人生があるのなら。残る全ての時間を、答えを得る為に使おうと思っている」

「けど、貴方の疑問に答えられる人はいないのでしょう?」

「そうだな。まだ答えを出せるモノは生まれていない。いつか、その機会が訪れるといいのだが」

 

 今の言峰が探求するもの。それは自分が他の人間たちとこんなにも違ってしまった理由である。

 聖杯戦争。魔術師どもの愚かしい争いごと。

 だが、彼らが作り上げた聖杯と呼ばれる願望機の中に眠るものが、言峰のその疑問に答えを与えてくれるのだと知った。

 先の聖杯戦争では誕生寸前にして封じ込められた聖杯の中身。

 “この世の全ての悪(アンリマユ)”。

 はじめから悪であるように作られ、人間に害しかなさないと既に決まっているもの。

 それをこの世に誕生させる。

 

 神の作りたもうたこの世に、なぜ我が身のように普通の道徳と真逆の歓喜を得た魂が存在するのか。その問いの答えを聖杯から誕生した悪魔が示すに違いない。

 

 バゼットは言峰の顔を見た。その表情は温かだった。

 この神父は自らの赤子を愛でるように、燃えさかる火を見つめている。

「……意外ですね。貴方にもまだ悩みがあったとは。私も、すこし自身がつきました」

 バゼットはその温かな笑みを嬉しく思った。つられて彼女も笑みを浮かべる。

 ———いつか自分も彼のように確信を得ることができるだろうか。

 

「それは結構。人生の先輩として、役に立ったのなら幸いだ」

 言峰はそう言って、満足そうに瞼を閉じた。

 ……無駄な話はこれで終わり。

 彼らはそれぞれの役割に戻り、明日の戦いに備える。

 

 

 

 それがバゼットと言峰が戦場で交わした最後の会話だ。

 以来、彼らが戦場で出会う事はなくなった。

 

「———おまえは、おまえを許すために、多くの世界を巡らねばならない」

 あの神父がバゼットに残した言葉。

 おまえの心の中をいかに掘り下げようとも答えはないし、ましてこの神父に問うてもそれは得られない。まだ見知らぬ他の世界しかおまえにそれを教えられるものはないのだと。

 

 だがバゼットは暗い森の中に言峰の背を追い続ける。

 ……必ず機会はやってくる。

 私たちは競争相手としてうまく噛み合っている。

 彼が死なない限り、そして私が封印指定を続けるかぎり。

 

 いつかきっと、あの話の続きが出来るのだから———

 




*時代設定/登場人物紹介

■時代設定

1〜4話時
Fate/Zeroの4年後、Fate/hollow ataraxia(およびFate/stay night)の6年前

5〜6話、おまけ時
上記から3年後くらい

■登場人物紹介

・バゼット・フラガ・マクレミッツ
17歳〜20歳くらい

若くしてハードな職業についてしまって周りに信頼できる人もいない中で、
言峰が初めて尊敬でき、あんなふうになれたらと思える大人に見えたのだろう。

しかし、超人的な力を持ちながら内面は根本的に普通人なバゼットと、
普通の価値観を理解しようと散々努力したあげく、それと真逆の価値観しか持てないと気づいた言峰は、
最終的に目指す所が全く逆。

・言峰綺礼 
30代前半〜半ば

言峰にとってのバゼットとの関係は、
森の中で迷子の子犬を構ったら全力で懐かれてしまって困った、みたいなものだったのではないだろうか。

・封印指定の魔術師 
フォレストの話に出てくる魔術師。
ですが、戦闘シーンは全てこの小説での創作です。

執行者と代行者をどっちも最後の1人まで減らしたのはなかなか善戦なのではないかと。
それにしても代行者チームが何度も言峰以外全滅になってるのは何でなのか?


*後書き
言峰とバゼットの話である「フォレスト」にかんする話題はネット上にあまり見つからず、自分なりの考察をしてみたくてこの作品を書きました。

初めてhollow ataraxiaで「フォレスト」の話を読んだときは
「言峰ぇ!この外道!!バゼットさんになんてことを」
と思ったのですが、
この作品を書くにあたってよくよく熟読してみると、言峰は最後にいいことを言っている。
ちゃんと神父様しているじゃないですかー。
バゼットさん、あなたという人は…。(だがそれがいい)

私的には
「Fate/トラぶる花札道中記EX 封印執行・鉄腕ブリーカー」(アヴェンジャー、バゼット組)
のストーリーはFate本編になかった言峰、バゼットルートのように思ってます。



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おまけ

デザートの杏仁豆腐のようなおまけです。


 雑魚どもを片付けた後の暗い森の中。

 

 バゼットは森の中をうろついては木の根元をガサゴソと探ったり、掘り返したりしている。

「……何をしているのかね。マクレミッツ」

 バゼットの謎の行動をいぶかしんだ言峰の問いに、

「ああ、綺礼。野営の前に今夜の食料を確保しようと思いまして」

 バゼットは真顔でそう答えた。

 その手には泥だらけの木の根や不思議な形のキノコが握られている。

 

 ———まさか、こいつはアレを食料だというつもりなのか?———

 言峰は危険を感じた。

 

「心配無用だ、マクレミッツ。

 我々代行者は戦場に食材と調理器具を持参してきている。

 森の中で怪しい植物をあさる必要はない」

「え?」

 驚くバゼットの腕を引っぱって言峰は彼女を森から連れ出し、野営地点に戻った。

 

 野営地点に戻った言峰はてきぱきと焚き火の準備をする。いつもよりも多目に薪をくみ上げ、周りにも追加用の薪をたっぷり用意した。

「さて、マクレミッツ。

 君に是非とも頼みたい事があってな」

「なっなんでしょうか、綺礼っ!」

 バゼットは全力で言峰の方を振り向いた。この男が私に頼みたい事があるとは!

 

かがり火よ(カノ)……」

 バゼットはルーンで薪を盛大に燃やしていた。

「ルーンで火を焚いてくれ。火力強めでな」

 というのが言峰のリクエストだった。

 

 言峰はというとクーラーボックスから取り出した食材を携帯用まな板の上で器用に切り刻んでいる。

「綺礼、料理できるんですか……?」

 代行者の意外な一面に、バゼットは目を丸くしている。

 言峰は刻み終えた食材を大きめの中華用鉄鍋に放り込みながら答えた。

「最近は外国にいても故郷の食材が手に入るのでね。

 まあ私が作れる料理はコレだけなのだが」

 そう言いながら燃え盛る焚き火の上でリズミカルに鍋を振るいはじめた。

「ふむ、なかなかよい火力だ。

 感謝するぞ。マクレミッツ」

 

「食材はともかく……、代行者たちは戦場に調理器具まで持参するのですか?」

「うむ。我々はそもそもチームで来ているしな。料理ができる者がいれば腕を振るう事もある。

 まあ普段は焚き火では火力が足りなくてカレー派に押されてしまい、私が料理をする機会はまずなかったのだがな」

 言峰が鍋を振るうたび、赤い何かが宙を舞うのが見える。

 

「はあ……」

 ルーンで火力を維持しつつ、呆然と言峰の鍋さばきを見つめるバゼット。

 引き続き言峰は食を語る。

「そもそも、君たち執行者は食に関して無関心すぎはしないかね。

 私が知るある執行者も、片手で食事しながらもう片手で情報分析ができるからと言ってファーストフードを好んでいたらしいが、体に悪かろう」

「そうでしょうか……」

 執行者たちが戦場に持ってくる携帯食料と言えばたいてい缶詰とレトルト食品だった。それすらなければその場で狩猟採集である。ちなみにバゼットはそれになんの疑問も不満も抱いていない。

 

 言峰が振るう鍋の中では真っ赤な液体物がぐつぐつと煮えたぎっている。鍋の中身に火が通るに従って、鍋がシェイクされるたびに香辛料らしき刺激物があたりの空気に飛び散る。

「……!げほげほげほ……」

 バゼットは飛び散った飛沫を不用意に吸い込んで派手に咳き込んだ。

 こ、この赤い液体は何だ…? 何らかの魔術的薬品では…?

 生粋の魔術師の家に生まれ育ったバゼットにとって怪しげな薬品作成は見慣れたものだ。というか、鍋でぐらぐら煮られている極彩色の液体は十中八九、魔術の秘薬というのが彼女の常識なのだが。

 

 バゼットがそんな思考を巡らせていると、

「できあがったぞ」

 と、言峰は鍋を降る手を止めた。

 ”紅洲宴歳館・泰山”風、激辛麻婆豆腐の出来上がりです。

 

「私の行きつけの店の料理が恋しくて、自分なりに真似て作ったものだ。

 本物にはとても叶わないがな」

 といいながら、言峰は器にその真っ赤なマグマのような汁物を取り分けた。

 

 バゼットはこわごわと手渡された器の中で盛んに湯気をはなっている汁物を覗き込んでいる。

 とにかく赤い、しかも熱い。

 見ているだけで全身から汗が噴き出す。

 器を抱えたまま凝固しているバゼットの横で、言峰はハフハフとその赤いモノを匙で口に運んでいた。

 

「どうしたマクレミッツ。

 辛いものは苦手かね? それとも猫舌か?」

「そっそんなコトはありません、綺礼!

 私に好き嫌いなどありません。

 栄養が取れて素早く食べられれば食べ物は何でも構わないのです」

 微妙にズレた返事をした事には気づかないまま、バゼットは意を決して麻婆豆腐の器に匙を差し入れた。

 

 執行者たるもの。

 食事は素早く効率的にがモットーである。

 なので早く用意できる食べ物が良いのと同様に、食べきるのも早ければ早いほど良いのである。

 バゼットは器を一気に空にする勢いで麻婆豆腐を口の中にかきこんだ。

 

「——————————————————!!!!!!!!!!!!!!!」

 その数秒後、声を上げる事もできないままその場で悶絶する。

 だがかろうじて器は手放さない。執行者の矜持である。震える片手で器を支えたままバゼットはうずくまっている。

 

 辛い、

 という表現をこれに当てはめていいのだろうか。

 舌が焼ける。喉が痛い。息が止まる。

 体が熱い。首筋に玉の汗が吹き出る。

 

「はあはあはあはあ……」

 うずくまること数分。ようやく顔をあげたバゼットの目には涙がにじみ、鼻をぐずぐずとすすり上げていた。

 

 言峰を見ると彼はまったく乱れぬペースのまま黙々と匙を器と口の中で動かしている。

 ———辛くないのでしょうか?

 唖然とバゼットは言峰を見る。よく見ると言峰も眉根を寄せ、額に汗をにじませている。一瞬でも匙を止めればもう二度と動かせぬわ、という気迫で麻婆豆腐を喰いすすめていた。

 

 言峰は口に麻婆豆腐をほおばりながらちらりと横目でバゼットを見る。

「どうした、マクレミッツ。

 口に合わないかね。では風味を変える為に山椒でもつかうがいい」

 と言って小さな瓶をバゼットに渡した。なにか香辛料が入っているらしい。

「ふぁい…ありらとうごらいます、きれひ……」

 勧められるがままにバゼットは麻婆豆腐に山椒をふりかけた上でそれをほおばる。

「———っ!! けほけほけほけほ……」

 山椒の粉末が気管と鼻孔に入り込み、またしても激しく咳き込むハメになったのだった。

 

 

laguz(ラグズ)! hagalaz(ハガラズ)!」

 かろうじて器一杯分の麻婆豆腐を平らげたバゼットは近くの森に入って木々に水のルーンと氷のルーンを放って無理矢理冷水を生成した。

 口の中を冷やし、ようやく一息つく。

 言峰は鍋いっぱいに作った麻婆豆腐を一人でおかわりし片付けている。もうすぐ鍋が空になりそうだ。

 

「綺礼、これはなんと言う魔術薬…いえ料理なのでしょうか。ルーンを使わずに火が噴けるかと思いました」

 バゼットは真顔でそんな感想を述べた。

「これは四川風中華料理の一種で麻婆豆腐というものだ。

 そうか、君は中華料理をあまり知らないのだな、マクレミッツ」

「なるほど。綺礼、あなたは中国拳法の達人だ。

 きっとこれも修行の一環なのですね。さすが貴方の国には医食同源という言葉があるだけのことはある」

 バゼットには中国と日本の区別があまりついてなかった。

 

 最後の麻婆豆腐を決死の勢いでかき込んでいる言峰を見ながらバゼットは思った。

 中国武術は思想を伴う。それだけでも我々西洋の魔術師には重荷に感じるのに、食に関してもこのような恐るべき鍛錬があるとは。奥深いですね…。

 

 こうして執行者と代行者の夜はふけていく。

 




以上、麻婆豆腐でした。


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