前世師匠の押しかけ魔女様は“こい”が知りたい。 (流星の民)
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#1 胸の高さのとんがり帽子

——熱い、熱い、熱い。

 

 

「——ヤツだ! 禁術に手を染めた——魔女は——ッ!」

 

 

パチパチと弾ける火の粉。

それは、頬に張り付いては爆ぜ、小さな火傷を作っていく。

 

——パシュッ!

 

そんな中で僅かに一度、風切り音が耳を突いた。

肩口に何かが突き刺さり一瞬、そちらに視線が動く。

周囲が明るすぎるせいか、溢れていく液体はどす黒くしか映らない。

 

刺さっているのは——矢だった。

 

それに気づいた途端、強烈な痛みが襲う。

思わず呻き声が漏れ、膝から力が抜けかける。

けれど、それに身を任せるわけにはいかない。

 

俺は——守るんだ。

 

「何を……何をして——っ!」

 

彼女は、まだしきりに叫んでいるけれど——叫んでいるけれど……?

 

……守るって、何を……?

 

——パシュッ!

 

再びの風切り音。

次は足だった。

再び強烈な痛みが走る。

 

痛い、辛い。立っていたくない。

 

……なのに、なんでこんなことをして……?

 

——パシュッ!

 

最早、どこに刺さったのかもわからない。

全身熱されて、痛くて。

 

「……弟子、早く……逃げ、な——」

 

彼女が再び叫ぶ。

熱さも痛みも通り過ぎて、ただただ寒い。

 

薄らいだ感覚じゃ、まともに立っていられているのかさえもわからない。

 

というか、そもそも——そもそも——()()は、一体……? 

 

 

俺に……とって——

 

 

 

 

「——なさいっ!」

 

 

 

 

額に走った激痛。

呻くと共に口を開けてみれば、冷めた空気が一気に流れ込んでくる。

乾き切った唇が少し切れたようで、もう一度、呻き声を漏らしてしまった。

 

「……起きなさい。全く……そんな険しい顔をして寝るヤツがどこにいる? それに、授業中は起きる。鉄則だろう? あんまり部活動にうつつを抜かしてるとだな……」

 

黒いロングヘアを向けて、再び教卓に戻る教師の背中を見送りながら、俺は顔を起こした。

周囲を見回してみれば、いつもと何も変わりない教室だ。

本来射すはずの厳しい日差しはカーテンでカットされ、クーラーから流れる冷気が教室中を満たしている。

 

……何かよっぽど熱い思いでもしていたような気がするのに、何も思い出せやしない。

というか、こんなところで寝ていたら寒くはあれども、熱い思いなんてしないはずだ。

 

もろに当たる風によって、頭は徐々に冷めていく。

 

夢——とは、得てして不思議なものだ。

 

何も覚えてやしないのに、度々感覚だけが残ることがあった。

 

胸に穴が空いたかのような強烈な喪失感。

 

まるで、体どころか……精神の奥深くまで刻み込まれているような……鮮烈な恐怖。

 

一瞬、そんなものを想起して首筋に冷たいものが流れたのはきっと、単にクーラーのせいではないだろう。

とはいえ、周囲を見渡してみれば、今日もまた景色はいつもと変わりない。

俺はただの高校二年生で、過去に火事にあった……だとか、そういった劇的な体験すらも味わったことはない。

オカルティックなものがいくら好きだとはいえ、ここまで来たら一周回って病気だ。夢のことは一旦忘れて、今は授業に集中せねば。

 

視線を落とし、ノートに目を向けて——。

 

「……え」

 

俺は頓狂な声を上げてしまった。

ぐちゃぐちゃで、濃かったり、薄かったり——寝ぼけた状態で描いたことが窺える、不思議な模様。

形容するのなら——そう、魔法陣。それがノートのページ一杯に描かれていた。

 

それは、細かいところまで大分描き込まれていて。

何重にも描かれた円の内には、見たことのない文字が並んでいる。

 

単に寝ぼけただけでこんなものを描けるとは到底思えない。

 

「おぉ……」

 

思わず感嘆して、声を上げた時だった。

 

「——この期に及んでふざけた落書きまで……何度、授業を妨害すれば気が済む……?」

 

ノートに射した影。

顔を上げる間も無く、俺は何が起きたのかを理解した。

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

「にしても——今日のお前、傑作だったぜ。全く……一回だけじゃ飽き足らず、二回のデコピンをご所望だとは中々な趣味だな、(かえで)

「……っせー。あの(ひと)のデコピン、よく効くんだよ。何ならお前も一度受けてみるか? 梨久(りく)

 

隣を歩く友人——如月(きさらぎ) 梨久(りく)を睨み返しながら、そんな風に嫌味を吐く。実際、額の痛みはまだ取れない。

だというのに、一日もすれば大体この痛みは消えているのだから不思議なものだ。本当に小賢しい力加減だと、毎々思う。

 

「——まあ、それはそれとして……暑いな。コンビニでも寄るか?」

「ん、デコピンのお見舞いってことか。奢り?」

「なわけねぇだろ。……まあ、流石にこの暑さじゃあ、とっとと帰った方がいいか。それじゃあな」

「おう、連絡頼むわ」

 

軽く会釈をし、梨久と別れ、一人で坂道を下っていく。

 

多少この辺りは影が差していても、アスファルトは溜まった熱を吐き続け、伝わる熱さはちっとも弱まらない。

 

例年稀に見る猛暑。明日から夏休みだというのが唯一の救いだ。じゃなきゃこんな熱さの中、学校なんて行ってられない。

部活が入っているとはいえ、一週間は自由。ここ最近の暑さとテストで疲労した体を休ませるには丁度いい。

 

そんな風に少しは胸を躍らせながらも歩いていた時だった。

 

 

突然目の前で羽が散って——白いものが落ちてきた。

触れる間も無く、とさり、と。乾いた音を立てて、それは地に落ちる。

鳩だった。

 

まあ、この暑さだ。鳥も案外落ちてくるのかもしれないと、そのまま素通りしようとして。

 

……流石に、俺は違和感に気づいた。

 

慌てて視線を戻し、落ちた鳩を探そうとして——。

 

 

「……は?」

 

 

それはもう、消えていた。

あまりの出来事に視線を巡らせてみても、誰もいない。

 

鞄を肩にかけ直して。

半ば逃げ出すように、俺はその場を去った。

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

エントランスに足を踏み入れて、エレベーターを待っている最中。

冷めてきた頭が、ようやくいつも通り回り始める。

恐らく、さっきのは光か何かの悪戯だとか、純粋に暑さで俺がやられていた、だとか、きっとそんなところだろう。じゃなきゃ、説明がつかない。

 

オカルティックなものが好きだというのと、信じるか否かという話はまた別だ。

いざ直面してみれば、外的要因のせいにもしたくなる。

 

自身の住んでいる部屋の前に向かうだけの距離では、決して解決しきれないだろう問題に無理やり蓋をして、エレベーターが止まるのを待つ。

 

やがて数秒、軽いアナウンスと共にドアが開いた時だった。

 

「——え」

 

目の前に、とんがった黒いものがあった。

そして、視線を下ろして真っ先に浮かんだのは、暑苦しそうな格好をしているな、という面白みのない感想だった。

 

真夏だというのに、足まで伸びた黒いローブ。それにとんがり帽子。

そこから伸びているのは若干白みがかった金髪で、その下にある青い瞳は俺を見つめながらも、幾度か瞬く。

 

背丈は——帽子を除けば、俺の胸あたりまでしかないだろう。顔つきもあどけない。大体、13、14才あたりだろうか。

 

端的に言ってしまえば、魔女みたいな奇怪な服装をした少女——それも外国人らしくて、見覚えのない娘が目の前に立っていた。

早め……と言っても、三ヶ月先だが……ハロウィーンの予行練習でもしているのだろうか。

だとしたら、そんなヤツとは関わりたくない。

 

とことんまで変なことばかり起きる日だと思いながらもエレベーターから一歩踏み出し、彼女を無視して足早にその場から立ち去ろうとした時だった。

 

 

「——待って、ください」

 

 

不意に、妙なデジャブを感じて、俺は立ち止まった。

確実に聞いたことがあって——でも、こんな娘——記憶にはなくて。

一瞬見せてしまった隙、そこに付け入るように彼女は俺の腕を掴む。

 

小さくて、柔らかい感触が直に伝わる。込められた力も、人を引き止めるにしては酷く弱々しい。

 

思わずもう一度、彼女の顔を見つめた時——確かに、脳の奥——それも、奥の奥の方で僅かに何かが光ったような気がして。

 

けれど、その輪郭を掴む直前——彼女の赤く染まった顔と、俺を捉えるうつろな瞳に気がついた。

注意してみれば、手も相当に熱い。もしや、彼女は——。

 

 

「やっと……会え、ました」

 

 

けれど、案ずるよりも先に、彼女は俺の胸の中に倒れ込んでくる。

体制が崩れそうになるのを堪えて立ったまま、抱きとめるような形にはなってしまったが......彼女の体制も整える。

全身が、熱い。触れるローブも、それ越しに伝わる体温も。

 

「君——」

 

 

 

「——やくそく、です。おしえて、くれるんでしょう? ……でし」

 

 

 

意味不明な、たった一言。俺の声を遮って、最後にか細い声を発したのち——彼女の体から力が抜けた。

 

 

狭まった視界でも捉えられるくらい、大きな入道雲。

ジー、ジー、と。茹だるような暑さの中、蝉の鳴き声だけがこだましていた。



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#2 魔女様は、はるばる遠くから。

「んぅ……」

 

瞳が瞬いた。

青く澄んだそれに映った俺の姿を認識したかのように数度、瞳はぱちぱちと、何度も瞬きを続ける。

 

エレベーター前で妙な格好の少女と遭遇し、倒れ込まれてすぐ、体温の高さと顔の赤さから、熱中症らしいことに気づいたために、部屋に運び込み、精々学校の授業とネットから仕入れた知識程度ではあったが、クーラーを点けつつ、氷を首や脇に当てて、応急処置は済ませた。

 

救急車を呼ぶかどうかは迷ったものの、本人に関しては完全に意識がなかったわけではなかったことと、水分補給はある程度できる状態にあったことから、しばらく様子を見ることにした。

やがては、顔色も幾分かマシになり、だんだんと呼吸も整い——やがては寝息に変わったためしばらく様子見をして——二時間ほどが経ったろうか。

 

どうやら目が覚めたらしい。

しばらくは眠たげな瞳ではあったものの、顔色といい、こちらを見つめる視線といい、ある程度意識ははっきりとしてきたようだ。

 

「その……体調、大丈夫か?」

 

それに対して、しばらくじぃっと俺を見つめると、彼女はこくりと頷く。

 

「取り敢えず、水でも飲む?」

 

それにもこくりと頷いたのち、彼女は体を起こすと、視線を巡らせ——今度は、首をこてんと傾げた。

 

「……ここが家、ですか?」

「まあ、一応。一人暮らし、してるから」

 

簡単にではあるが説明をしつつ、グラスに水を注いで彼女のところまで持っていく。

 

「……これは……?」

「水、だな」

「いえ……水の方じゃなくて……これ——硝子、ですか?」

「……そう、だけど」

「随分と透明ですね……魔法でも生成できないくらい。もしかして——弟子、今世は相当な上流階級です?」

 

最初はふざけているのかと思った。

元々、服装だってローブにとんがり帽子——魔女ごっこ、だとか。そういった遊びの延長線に俺も巻き込まれているだけかと思っていた。

けれど、彼女の声音からはそんな含みなんて一切読み取れなかった。

 

まるで、初めて透明なグラスを見たかのような純粋な反応。

 

 

そして——エレベーターの時の微かなものとは違って、はっきりと聞き取れた『弟子』の二文字。

 

 

「——っ」

 

 

どこか……どこかそれが、深い場所と繋がったような気がした。

 

閉ざして鍵までかけた引き出しを無理やり開けようとするような——もっと言ってしまえば、もう忘れてしまった夢の内容を無理やり思い出そうとするかのような——そんな強烈な不快感が、不意に俺を襲った。

 

「——弟子? ……弟子……? どう、したの……」

 

()()が俺を呼ぶ。その瞬間に、朧げだった輪郭が像を結ぼうとする。

 

 

「——っはあ」

 

 

吸い込んだ空気に、思わず咽せる。酷く熱い。喉が焼けそうだ。

 

視界は次第に狭まり——その癖して、残った中で見える景色はあまりにも眩しい。

 

体も熱い。まるで、強い熱に晒されているようで——一体、何が……起きて——?

 

 

「弟子、これを——嵌めてくださいっ」

 

 

突然、俺の指先にただ熱いだけじゃない、温もりが触れた。

その直後、確かに指に嵌まったのを感じる冷たい感触。

 

視界が、広がった。

体から熱が失せる感覚と共に、冷気が肌に触れる。

 

掴みかかっていた輪郭は再び霧散して、どこかに消えてしまった。

 

「はぁ——はぁ……」

 

無理やり落ち着かせるように、胸一杯に息を吸い込む。

——冷たい。

何ともない、いつも通りのクーラーから吐き出された冷気だ。

それを認識して、ようやく荒くなっていた呼吸は多少落ち着いた。

 

「……ごめんなさい。すっかり、失念してしまっていて……そこまで記憶がなくなっているとは、予想外でした」

「今、のは……? それに——弟子って、君は……一体……?」

 

俺の手を取り、彼女は先ほど触れていた薬指を確認する。

そこには、銀色のリング——シンプルな見た目の指輪が嵌められていた。

 

「制御……できているはずなので問題ない……でしょう」

 

少しだけ俯いて。

でも、それも短い時間だった。すぐに俺を見据えると、彼女は口を開く。

 

「単刀直入に言います。私は——前世で、あなたの師匠をしていた()()、です」

 

……前世? ……師匠? ——魔女……?

 

立て続けに並べられた言葉の数々に、思わず目眩がするのを堪える。

今起こった出来事は、確かに異常だった。

妙な夢を見ることは今までも確かにあったけれど、今のは白昼夢とかそんなレベルじゃない。あまりにも鮮明な感覚だ。

 

処理が追いつかないくらい大量の情報を、無理やり咀嚼し飲み込んで。

 

けれど、まだ辛うじて働いた理性が囁いてくる。

あまりにも非現実的すぎる、と。

 

「ちょっと待て、前世って……それに魔女って……一体、なんの……?」

「そのままの意味です。魂は、存在しています。そして、こことは違う異世界も。あなたは元々そこの住人で、私もそこにいました」

 

彼女はいつの間にか、手元に短い木の枝のようなものを携えていた。

それを一振りした途端、足元からいくつかの光球が浮かび上がり、宙に浮いたまま動きを止める。

 

「今のは……?」

「魂の痕跡です。ほら、この場所だけでこんなにも。この世界も、そこそこ長い歴史を刻んできたのですね」

「魂って……それに、なんで……こんなにたくさん……?」

「それ相応の処置が施されていないからです。……なるほど。この世界の人たちはまだ、魔法の扱い方を知らないのですね? それで、その分、別のものが発展した……と」

 

彼女は枝先でコツン、とグラスを叩く。

まだ軽い手品だとか、そう言った線で話を片付けることはできそうだったけれど。そんな風にあっさりと隅に追いやることができないくらい、完全に俺は彼女のペースに呑まれていた。

 

「……つまり、君は科学……とかじゃなくて、魔法が発展した世界で……?」

「“カガク”……というのですか。まあ、それはさておき——魂を扱う術についてはまた別ですが……おおむね、それで違いありません」

 

科学の代わりに魔法が発展した異世界。彼女は、そこから来ていて——俺も、前世はそこの住人で、彼女の弟子で。

相当に馬鹿げた話なのに——わかっているのに、なぜだか腑に落ちてしまう。

一蹴するのはきっと、簡単だろう。

けれど、それを止めるように指輪は未だ、光球の照り返しを見せていた。

 

……例え、それが本当だったとして……彼女は一体、何がしたいのだろう。

どれくらい難しいことかは知らないが、俺の感性じゃ到底、異世界からこちらに来るのが簡単なことだとは思えない。

仮に信じたとしても——そこまでしてまで、彼女が果たしたいこと——つまるところ、目的が知りたかった。

 

「仮に、そうだとして……それで……何で、君はここに……?」

「ああ、そうでした。大変だったんですよ? そもそも理論を完成させるのもですし、魔力も大半を失ってしまいました。それに、反動で体も幼くなってしまいましたし。それこそ、暑さにすら耐えかねないくらい弱いものに。——それでも、()()……守って欲しかったんです」

 

彼女は、一つ一つ噛み締めるように、少しだけ俯きながらぽつり、ぽつりと呟く。

 

「約、束……?」

「……ええ。その昔、あなた——弟子と、私が結んだもの、です」

 

揺らいだ瞳に俺が映る。

それが、躊躇われるかのように何度か瞬いて。

 

そして、彼女は少しだけ弱々しく見える笑みを浮かべると、ようやくそれを口にした。

 

 

「……約束、です。……弟子。——()()を、教えてください」



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#3 魔女様はいつも弟子と一緒。

「……こい……? こいって……どの……?」

 

一瞬、意図が汲み取れなかった。

ひとえに“こい“と言っても、魚の方、だとか。

いくら彼女が前世での俺との関係を主張したとしても、そんなのは一切、今の俺には身に覚えがないことだ。

だからこそ、その言葉は中々答えに結びつかなかった。

 

「……やっぱり、ピンと来ませんか。……でも——仕方、ありませんよね」

 

先ほどまでかち合っていた瞳が揺れ動く。

伏し目がちで、俯いて——若干、触れ辛かった。

互いに口を開かないまま、時間が流れる。耐え難い、気まずい空気が充満している。その時だった。

ぐぅ、と。腹が鳴いたらしい音が響いて。赤らんだ彼女の表情を見て、俺は状況を理解した。

 

「……取り敢えず、飯にでもしないか? 話はその後でもいいからさ」

 

こくり、と無言のまま彼女は頷く。

この妙な空気から一旦は解き放たれたことに、俺は安堵した。

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

「えーっと……食材、ありあわせぐらいしかないけど……嫌いなものって、あったりするか?」

「私は、特に選り好みをしないので、何でも構いません。それにしても——その箱はどのような……?」

 

彼女は冷蔵庫を見てキョトンとしたような表情を見せると、食材を漁っていた俺を押し退けつつ、手を差し込む。

 

「……冷たい、ですね。食材の保存をするためのもの、ですか?」

「そう、だけど……こういうの、使わなかったのか?」

「ええ。冷却せずとも食品の状態を保存する魔法があったもので……魔法がないだけで、随分と変わるものなのですね」

 

そう口にしながらも、しげしげと冷蔵庫を眺め、手を差し込んだり、取り出したり。

しばらくそうしたのち、冷えたであろう手を頬に当てて、彼女は心地良さそうに目を細める。

 

「……ごめん、冷蔵庫——それの扉、閉めてもらってもいい?」

「でも、かなりの冷却効率ですよ? ほら弟子、手もこんなに冷たくなりました」

 

まるで冷蔵庫を始めて見たかのような無邪気な反応のまま、彼女の手が、俺の頬に押し当てられる。

確かに、外の暑さを考えれば心地よい冷たさなのは理解できる……けれど。

 

それよりも、気にかかったのは——その手の感触と小ささ、そして、目の前で俺を見据える彼女の瞳と、その距離感だった。あまりにも近すぎる。

とくん、とくんと、一気に強まる心臓の鼓動。

同時に、全身を駆け巡る血液のせいだろうか——体が……特に、頬が熱い。

目の前で瞳は、ぱちぱちと何度か瞬かれ、ずっと俺を捉え続ける。その視線と、次第に温もり、より人間の手だということを強調してくる頬に当たる感触。

 

恥ずかしさのあまり、思わず後退りしてしまった時だった。

 

「うわっ!?」

 

よく後ろを見ていなかったせいか、先ほど棚から取り出した食品のパッケージらしきものが、足に引っかかり、一瞬にして視界が大きく振れる。

崩れたバランスを修正する間も無く、転倒する直前、思わず目を瞑って——。

 

「……まったく。不器用なところは、変わりありませんね」

 

いつまで経っても襲ってこない衝撃の代わりに聞こえてきたのは、彼女の声だった。

 

「——え?」

 

薄目を開けてみて、自分の体が妙な光を纏って——浮かんでいることに気づく。

そして、彼女は先ほどと同じ枝のようなものを手に持っていて、それを軽く一振りした直後、俺の体は緩やかに床へと降りていった。

 

「今、のは……?」

「魔法、です。“カガク”の力では、こういったことはできないのですか?」

 

いや、少なくとも転びかけた人間の体を、触れることなくゆっくり地面に落とすなんて。

この環境下じゃ考えようがない。

呆気にとられたまま、首を横に振る。

 

「そうですか。それでは——断定はできませんが、基本的には魔法の方が優れている……ということ、で正しいのでしょうか。であれば、無理はありません」

 

対して、彼女は納得したかのように何度かうんうんと頷いて。

 

「もっとすごいもの、見せてあげます。注視していてくださいね?」

 

直後、天井近くで何度かチカチカと、光が瞬いて。

軽い衝撃と共に、白い何かを飛び散らせて、柔らかいものが頭に落ちてきた。

それを、剥がしてみると——。

 

「……うわぁっ!?」

 

すぐさま視界に飛び込んできたのは、帰ってくる途中で見た鳩だった。

しかし、触ってみても全然動かない。

もしや死んでいるでは……と、羽毛に手を埋めているが、体温はまだある。

どうやら、気絶させられているだけらしい。

 

「弟子、焼いた鳥が好きでしたよね? 形は違いますが、お土産代わりに振る舞ってあげようと思いまして、帰ってくる途中で入手してきました。今、この場でとどめを——」

 

彼女の持つ枝らしきものの先に、赤い光が灯る。

状況的に、明らかにこの鳩を絞めようとしているのは見てとれた。

 

「なので弟子、それを手放してください。でないと昼ごはん、なくなっちゃいますよ?」

 

一歩一歩、彼女が近づくたびに、枝先の光は強さを増し、確かな熱気をこちらにも伝えてくる。

 

「いや、いいっ! いいからっ! ——殺さないでくれっ!」

 

半ば絶叫するように、喉奥から声を絞り出して。

ようやく、彼女は動きを止めた。

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

「……よかったんですか? 鳥、逃しちゃって。それに……別に、私が弟子を取って食べようとするわけないじゃないですか。あくまでも対象はあの大人しい色をした鳥だけで……」

「……いいんだ。この世界じゃ基本的に買うものなんだから」

 

空きっぱなしになった冷蔵庫と、枝先に熱を灯していた彼女との口論。

長い時間をかけて、結局は鳩を逃すことで話が固まった時、既に冷蔵庫の中の生モノは傷んでしまっていた。

 

「意外と農場だけじゃ賄えなかったもので、基本的には肉はある程度狩りで手に入れるものという認識でしたので。それに——森じゃ、買い物なんて中々できないものでしたから」

「森に住んでたのか?」

「ええ。案外人里から離れた場所です……って、やっぱり記憶にはないのですね?」

「……うん、全然覚えにないな」

 

今日一日で見せられた、魔法とやらと俺と彼女との常識のズレ。

そして——相変わらず信じ難いものであるのは確かだったけれど——それらからある程度、彼女の口にしてきた自分が本物の異世界人であるという言葉も信憑性を増してきていた。

 

「“カガク”の元じゃ、星は全然見えないのですね」

 

買い物から帰ってくる途中、マンションの廊下から見える空。

夏場とはいえ、だいぶ遅くまで買い物やら何やらをしていたせいで、すっかり空は暗くなってしまっていた。

そして、代わりに灯り出す街明かり。

手すりに飛びつくように、少し背伸びをして、夜景を眺めながら、彼女は感嘆したような声をあげる。

 

「……でも、街並みは——夜景は、ずっとずっと——私がいた場所よりもきれいです。そうは思いませんか? 弟子」

 

正直、彼女が見ていた景色とやらが俺にはわからない。

だというのに、彼女は時折、俺の記憶が残っているかのように昔話を持ち出してくる。

 

「……そう、だな」

 

その度にある程度話を合わせてやるのも、大変なものだ、なんて。ため息を一つ吐いて。

まだ一つ、彼女としていなかった話があったのを思い出す。

 

—— “約束、です。……弟子。——()()を、教えてください“

 

どこか気まずい空気のせいで、数時間前には触れることが出来ずにいたが、未だこの話は掘り返していない。

そろそろ気になってきていたところだ。夕飯時に、話を持ち出そうとして——。ふと、俺はもう一つ気にかかった。

 

「……なあ、寝床とかって、どうするんだ?」

 

もう、随分と遅い時間だ。

とはいえ、彼女が本当に異世界人だというのなら帰る場所なんてここにはないだろうし、かといって、そんなものを確保しているかのような素振りなんて彼女はちっとも見せない。

 

きょとんとしたような表情を、彼女はすぐに見せた。

そのまま、しばしの沈黙。

それが明けてようやく、さも当然のことのように、彼女は答えを口にした。

 

 

「……もちろん、弟子の家……ですけど。……その話、しませんでしたっけ?」



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#4 それは、一人じゃ知り得ないらしい。

「……そんな話聞いてないし、ダメだ。大体、家族にだってどう説明すればいいんだよ? 急に女の子連れ込んで」

「でも弟子、今は一人暮らしでしょう? それに、何か不都合が生じたとしても、その場に合わせた魔法である程度はどうにかできると思いますが」

 

……それを言われてしまえば弱い。

何度か見せられた彼女の魔法、もう否定するのも難しいくらいに見せられて。だからこそ、その言葉には妙な説得力があった。

だが、仮に身近な人間への説明はそれで何とかなったとしても——。

 

「……それでも……ダメなものはダメだ。大体、君のことなんて——」

 

——何も、知らないのに。

 

そう、口にしようとした。

けれど、俺は口をつぐまざるを得なかった。

 

俺を映す彼女の瞳は、僅かに潤んでいた。

先ほどからずっと、俺が記憶にないと言うたびに彼女の表情は曇っていた。

だからこそ、これ以上言ってしまったらどうなるのかなんて、想像に難くなくて。

 

「……取り敢えず、夕飯にしよう。話は、それからでいいか?」

「……ええ、構いません」

 

彼女と話していると、どうにも調子が狂う。

本来ならこんなどこの誰ともわからない相手なんて無視すればいいはずなのに、変に気にかかって。本音を口にすることすら叶わない。

 

 

というか、そもそも——そもそも——彼女は、俺にとって一体——?

 

自身に対して問いを投げかけたところで、答えなんて出なかった。

 

まるで、深いところで処理しようとする以前に拒絶されているかのようで。考えはまとまらなくて。

自身への返答代わりに漏れたのは、僅かなため息。

 

こんな頭でどうすればいいのかもわからないまま、彼女との間に一定の間隔は保ちつつ、俺は廊下を歩き続けた。

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

「これは……焼いた鳥、ですか……?」

「……少し違うかもな。唐揚げって言う料理だ。まあ、鳥であることには変わりないから安心して食べてくれ」

 

彼女は俺の作った料理をしげしげと眺めると、箸で掴み早速口に運ぼうとして——すぐにそれを取り落とした。

 

「……弟子。この道具、使いづらいです。他のもの、ありませんか?」

「まあ、あることにはあるけど……箸、使えないのか?」

「箸……? ああ、これのことですか。難しいです」

「あんなに枝振り回せるんだからいけると思ったんだけどな」

「枝!? 失礼な……っ! 杖です、杖——っ!」

 

珍しく荒くなった彼女の声を背に、棚からフォークとスプーンを一つずつ取ってきて、彼女に渡す。

どうやら、これは使える類のものだったようだ。

慣れた様子で唐揚げにフォークを突き立てると、彼女はそれを小さな口一杯に頬張る。

しばらく膨らんだ頬が咀嚼のために動かされて、こくんと中身を飲み込むと同時に、表情が綻ぶ。

 

「どうだ?」

「美味しい、です——これは食文化というよりも……相変わらず、弟子の力量が高いおかげ、ですね」

「そりゃよかった。ずっと料理をやってきた甲斐があったよ」

 

一瞬思い出される丸焦げになった肉塊。

確か、ほとんど炭になりかかっていたから、食べ切るのに苦労したんだっけか。だから、自炊できなきゃ不味いって——。

 

……ん? そんなに料理が下手なヤツなんて、身近にいたか? 

 

「——し」

 

別に、両親ともそこまで下手じゃなかったはず。じゃあ、これは誰の——?

 

「弟子——! どうしたのですか?」

「あ、ああ。ごめん」

 

ダメだ。本当に今日は思考がまとまらない。

一貫性すら持たず、どんどんと変な方向へと流れていく。

食べ終わったらきちんと話をしなきゃいけないってのに。全く、嫌気が差してくる。

頭を横に振り、無理矢理思考を引き戻して。

 

そうしているうちに、食べ終わったらしい彼女に向き合い——ようやく、数時間ぶりに俺はその話題を切り出した。

 

「それで——まずは、聞かせてもらってもいいか? 君が言ってた、“()()を教えてほしい“ってことについて」

 

その時、確かに彼女の調子が変わった。

 

手にしていたフォークを取り落として。食器と食器が擦れ、カランと澄んだ音が響く。

 

指先が、僅かに震えている。

逸らされた瞳は伏せられ、どこを見つめているのかなんてわかったものじゃない。

 

最初に切り出したのは彼女の方からだったはずなのに、まるで、今は話したくないとでも言うような——そんな意思すら感じさせる。

しばらくの沈黙が続いた。

ゆっくりと時間をかけて顔を上げた時、彼女の瞳は先ほどよりも若干潤んでいた。

 

「ええ——そう、ですね。そうでした。……話さなければ、ならないのでしたね」

 

今から彼女が口にしようとしていることは本来俺が知らなければならないことのはずだ。でなきゃ、一日振り回されたリターンに見合わない。

……だと言うのに。

 

いざ、陰った彼女の表情を目の当たりにした以上、それ以上触れるのが躊躇われてしまったからだろうか。

 

そこまでして言わなくてもいい——と。

 

一瞬、俺は彼女を静止しようとした。

 

 

「……弟子、気にしないでください。一人では知り得ることができない以上、誰かが教える必要があるのですから」

 

 

けれど、彼女は俺を遮って声を上げた。

どこか高いトーン、嫌に耳に障る。

 

 

「……話します、から——しっかりと聞いていてください」

 

 

瞬き一つせずに瞳は俺を捉え、揺れることはない。

ただ、頷くことしかできなかった。

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

「一人じゃ、知り得ないことって——ありますよね?」

 

食器を全て片付け、二人向き合い、今度はあまり間をおかず、彼女は口を開いた。

 

「……そう、だな」

 

確かに、思い当たる節はいくらでもある。

今日彼女と接していて、抱いたいくつもの疑問は、きっと一人じゃ解消できないだろう、と。そう感じたのは確かだ。

 

「基本的に、研究というものには()()()()()が必要です。しかし——私にとってはそれは必要なくて、一人で十分でした。森の奥に家を建てて。人里離れた場所で、ひっそりと知的好奇心を満たすことのみが、私にとっての快楽でしたから」

「じゃあ、弟子ってのとは、どんな関係で……?」

「ひょんなことから捨てられている子供を見つけて——きっと、私が通りかかって拾わなければ死んでいたことに違いはないでしょう」

「それを、育てたってことか……?」

「……ええ」

 

彼女が口にする過去は、俺が想像していたものとはかなりかけ離れたものだった。

それじゃあ、弟子というよりかは——。

 

「……ほとんど、親代わりじゃないか」

「私が拾い、育てた捨て子——確かに、一般に定義するなら親子と呼ぶのは近いかもしれません」

「なんで、わざわざそんな……?」

 

それでは、わざわざ人里離れた場所に住んでいたのかも、一人で研究とやらを続けていたのかもわからない。

捨て子を拾って、育てる。ここまでの話を聞く限りじゃ、到底彼女がそんなことをするような人間には思えなかった。

 

「——半分気まぐれ、半分は打算的なものです。俗な話ですが、その頃の私は実験対象に飢えていました。なので、丁度いい……と」

 

もう彼女は目を伏せることもなく、淡々と過去を羅列していくのみだった。

そして、俺も相槌を打っては時々質問を挟むだけ。

あまり、会話と言えるほど成立していなかったようには思える。

 

「……でも、なんでそこから()()が……?」

「……先ほど説明した研究の一環で必要だったからです。私の研究対象は——魂。そして、そこを根として成立する人の感情。こればかりは、魔法では制御できないもの、でしたから。一つでも多くの感情を知るのなら——必然的に、自分自身で経験しなければならなかったのです」

「でも、そんなの……普通に生きてても……」

「私にはありませんでした。昔から、誰かと関わるのは嫌いでしたから。人里離れた場所に暮らしていたのもそれが理由です」

「それで、唯一付き合ってくれたのが弟子だったって……ことか?」

「……ええ。彼は基本的に私の研究にはなんでも付き合ってくれましたから」

 

……なんとなく、ここまで話していて理解できてしまった。

彼女が求めていたのは恋人だとか、愛していた人だとか、そういうものじゃなくて。

従順に実験に付き合ってくれるパートナー、もっと悪い言い方をしてしまえば被験体。おそらくは、そんなところだったのではないか、と。

 

 

「……なあ、それってさ、相手がどうしても弟子じゃないといけない理由とかって……あるのか?」

 

 

——けれど、だとしたら引っかかる。

 

俺は彼女と出会ってから、何度か妙な感覚を覚えていた。

それが、所謂前世の記憶だとか、そういった類いのものによる影響なのかもしれないとして——それを知っているのなら尚更、わざわざ俺の前に現れて、掻き乱してくるのかがわからない。

 

それに、彼女だってそうだろう。理論の構築が大変だっただの体が幼くなっただの、散々こちらに来るのにデメリットがあったと口にしていたのに。

なぜ、そこまでして弟子に固執するのだろう。

 

それは、元の世界の人間が相手じゃ、なし得ないものなのだろうか。

 

別の理由があるのなら、もっと歪曲しないで素直に聞かせて欲しい。

 

多分、浮かんだのはそんなところだった。

 

「……必ず、物事には踏まなければならない過程があって。根底にそれがあるからこそ、事象は成り立つ。それは——理解しています」

 

相変わらず、淡々とした口調で彼女は続けていた——はずなのに。

それが含んでいた僅かな震えを、確かに俺は捉えてしまった。

 

「……しかし、説明できないものがあったのです。教えてくれ、と私が()()を請うて、弟子がそれに答えてくれた時——ずっと、気にも留めていなかった何拍かの鼓動。なぜ、その時だけ気づいたのかはわかりません」

 

彼女の手が、俺の手をとる。

とくん、とくん、と。一定の間隔を刻みながら震えるその手のひらは、彼女の鼓動を俺に伝えてきた。

 

 

「……でも——だからこそ……。一人では知り得なかったことを知るため——私には弟子が——あなたが、必要なのです」

 

 

俺が“必要”だと言われても、彼女と出会ったのは今日が最初だ。少なくとも、俺はそう記憶している。

……だというのに、彼女と触れている今、心臓の鼓動がどんどんと早まっているのを感じる。

繋がった手を通してそれに気づいたのか、彼女は顔を上げ、俺を見つめてくる。

華奢な肩は、いつの間にか震えていた。こちらを捉える瞳は、濡れていた。

 

——初めて、こんな気持ちになった。

 

本当に、変に気にかかる。もしも、俺がこのまま彼女を追い出したら、本当に彼女にとっては行く宛がないんじゃないかって。

そう思うと、この手を離しちゃダメだって、本当に変だ。変だけど——そう意識していても、手の力を緩めることはできなかった。

 

 

「……わかったよ」

 

「……弟子……?」

 

「どうせ、行く宛もないんだろ? だったら、君が満足するまでは泊まっていっても構わない」

 

「ほんと、ですか? さっきまで、あんなに難色を示していたのに……?」

 

「……別に。起きる事象には意味があって然るべき、なんだろ? だったら、俺もちょっとばかし気になったことがあってさ。ただ……あんまり妙なことをするのだけは、やめてくれよ?」

 

「ええ——ええ——もちろんです、弟子っ!」

 

初めて目にした、彼女の満面の笑み。

 

どこか感じたむず痒さ。それと、先ほどの引き止めなくちゃって気持ち。

どれも——初めて感じるものだった。そして、それだけに気になるものだった。

 

これが、どういうものなのか知り得ることができるまで、絶対に晴れないって。

彼女の言う()()がどんなものか、自分自身もよくわからないけど、それだけは断言できる。

 

「うーん……どこか他人行儀だな。名前——“青木(あおき) (かえで)“って言うんだ。弟子……じゃなくて、そう呼んでもらってもいいかな?」

 

「カエデ、ですか。確かに……今のカエデには私の弟子だった頃の記憶がないんですものね? でしたら、そう呼ばせてもらいます。あと……私も、師匠——じゃ、変ですね? “ソフィー”です。あとは、好きに呼んでください」

 

——ソフィー。

 

素っ気なく彼女が示した名前。

一度も口にしたことがないはずなのに、どこか懐かしい響きだった。

自分で認識できているものが、今記憶にあるものだけだって。そう思うのは、存外おこがましいことなのかも知れない。

妙な考え方ではあるけれど、今日はもう既に、色々と妙なものばかり見させられているのだ。

一つくらい増えたって、あんまり変わりやしないだろう。

 

 

「……そっか。よろしくな、ソフィー」

「ええ、弟子——じゃなくって——カエデ。よろしくお願いします」

 

 

——「()()」を知りたい。

 

妙なお願い事のための共同生活。

 

予感、なんてものに頼り切ったことはもしかしたら今日が初めてだったかも知れない。

 

でも、知的好奇心を満たす、だとかそんなものよりもずっと大きな——何か。

 

もしかしたら、そんなものが手に入るのかもな、なんて。柄にもなく、考えてしまった。



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幕間I 『贈り物は、あなたが編んで』

『——ししょー、これ……本当にもらってもよかったんですか……?』

 

机の上に蝋燭が一つ。ゆらめく炎は、文字列を照らす。

若干陰っているせいで見えづらいそれを何とか読むため、目を細めつつ、本に顔を近づけていたそんな頃合い。

テーブルを挟んで向かい合わせに座っていた少年の唐突な呟きに反応するように、“ししょー”と呼ばれた少女——魔女は、顔を上げた。

 

『別に構いません。私が持っていても大した魔力への影響は見込めませんが、育ち盛りのあなたにとっては良い補助になります。物は持つべき人が持つべき、でしょう?』

 

少年は、しげしげと指に嵌まっていたものを眺めていた。

特に細かい装飾が施されている訳でもなければ、色も銀一色、シンプルな造形の指輪ではあったけれど、よく磨かれているせいか、照り返しは鮮やかだった。かなりの貴重な素材で作られていることには違いないだろう。

 

けれど、それよりも“ししょー“からの久々の贈り物がよっぽど嬉しかったのだろうか。魔女が再び視線を本に戻しても、しばらくの間、少年は指輪を撫で続けていた。

 

『何だか……あったかいです……これが、ししょーの温もりとか、そういうのですか?』

『恐らく、魔物の体内にあったからだと思います。物理的なものでしょう』

 

彼と一緒に暮らすようになってから、もうすぐで10年ほど。

仮に学園にでも通っていたとするのなら、初等教育を終える辺りだ。

身長はまだまだ魔女の胸のあたりで止まっているけれど、育ち盛りの男の子といえばもっと伸びる物だと、魔女は以前、本から読み取ったことを浮かべていた。

 

『……ししょーには、ロマンチックさが足りないですね』

『……逆に、あなたはどこから覚えてきてるんですか……。そんなに色々と。少々、年齢不相応に思われますが』

『近くの街のみんなとか……ししょーは、買い出しの時にお話とかしないんですか?』

 

とはいえ、少し前までは反抗期と称して子供らしさを十分に発揮していたというのに、最近は歯の浮くような台詞を口にするようになってきた。

 

年頃というもののせいなのか、それとも買い出しに行った際に、入れ知恵をされているせいなのか、その辺りはさっぱりわからなかったが、ただ、あしらう時は平然と、極力感情を込めずに。学んだのはおおよそそんなところ。

 

特に指輪を渡したのだって他意はない。魔女にとっては、ただの補助として使う器具程度の認識だった。

だからこそ、少年の喜びようは予想外だったもので。赤らんだ頬を、彼女が本でそっと覆った、その時だった。

 

『そう言えば、街の人から聞いたんです。もうすぐ、大切な人に感謝を伝える日だって。それで——良いことを教えてもらって……ししょー、少しだけじっとしててもらってもいいですか?』

 

質問に答える間も無く、騒がしい足音を立てながら彼は後ろに回ってくる。

自分に似て気まぐれに育ってしまった少年に、少しのため息で返答しながら、彼女はその場でじっと座ったまま。

 

 

『……わかりました。少しの間だけ、ですよ?』

 

 

小さく、髪に触れられたような感触があった。

そう言えば、最近はあまり手入れができていなかったな、なんて考えている間にも、視界の端で揺れるほつれた金糸を小さな手が掴み、辿々しい手つきで編み上げていく。

少年が困ったように音を上げるたび、首筋に吐息が触れ、こそばゆさは増していく。

 

『ししょー、できました』

 

そんな時間を経て、少年に手渡された鏡に自身の顔を写した時、見慣れないものがあった。

 

『……これ、あなたが覚えたのですか?』

 

——後ろで編み込まれた、二本のお下げ。

 

髪を留めるのに使われているのは、簡素な髪留めだ。

けれど、彼の言っていた()()()()はきっと、それではなくて。

 

『まだ、お金はあまり持ってないから贈り物は買えなかったんですけど……代わりに、街の人に練習、手伝ってもらって——。お返し、したかったんです。ずっと、ししょーに貰ってばかり、だったから』

 

少々得意げな少年の声を聞きながら、魔女はそっとお下げを撫でた。

普段髪を結ばない男の子がやったもの、当然多少の粗は目立つ。

それでも、中々自分のしない髪型をわざわざ彼が選んだということ。

 

『……似合って、いますか?』

『——はいっ! 今のししょーにピッタリですっ!』

 

そして、あまりにも素直な言葉。

気づけば、鏡に写る顔は先ほどよりもずっと紅潮していた。

慌ててそれを隠すように、彼女は再び本で顔を覆い、少年からは見えないようにして。

口を聞けるようになったのは、そうしてからようやくのこと。

 

 

『……であれば、また編んで……くれると、嬉しい……です』

 

 

『もちろん——もちろん、ですっ! ししょー!』

 

 

視界の端に捉えた笑顔は、あまりにも眩しくて。

 

彼女はさらに深く、本へと顔を埋めざるをえなかった。



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#5 魔女様にしてみれば、外に出るのも一苦労。

無性に、暑い。

妙な閉塞感を感じるタオルケットの中、何度か寝返りを打ち、最後には跳ね除けて。

混ざり合う眠気とじっとりと服を濡らす汗。

正直、身を起こすのは億劫だった。何せ、夏休み初日なんて睡眠に充てがうためにあるようなものだ。

 

どうせ明日からまた色々な計画やら何やらで忙しくなることだろうし。であれば尚更、今日くらいは身を休めておきたかった。

しかし、タオルケットは跳ね除けたというのに、未だ暑い。何かが覆いかぶさっているような感覚は消えない。

それどころか、どこか柔らかい感触まである。流石に多すぎる違和感の数々に、次第に意識は鮮明になってきて。

渋々ながらも、うっすらと瞼を開けた時だった。

 

「——っ!?」

 

顔に覆いかぶさっていたのは、色素の薄い髪の毛だった。

そして、喉元で抜け、完全な声へとならなかった俺の悲鳴に反応してか、目の前の瞼はうっすらと開かれ、潤んだ青い瞳が俺を捉える。

 

それを見て、ようやく俺は思い出した。

奇怪な格好をした“師匠“と一緒に暮らすことになっていたことを。

 

俺がくるまっていたのは、彼女のローブらしかった。

そして、ローブがそこにあるということは、彼女自身も触れるくらい近くにいて。

 

確か昨日は、ベッドに近いものがいいという彼女にソファを渡して、俺はいつも通り布団で寝ていたはず——なんて思考を回す以前に、早くこの場から離れろと、鼓動を早めた心臓が伝えてくる。

寝返りを打つようにして少しずつその場から逃れようとした、けれど。

 

「……んぅ……でし……」

 

未だ寝ぼけているのか、寝言と共に彼女の手が俺の寝間着を掴む。

強引に引き剥がすのもどうかと思われたので、少しずつ離してもらおうと彼女の指に触れて——。

 

「——んっ!?」

 

——どうやら、その動作が最後の一押しになって、彼女の意識は完全に覚醒したらしかった。

 

みるみるうちに真っ赤に染まる顔。

首筋を、一滴の冷たいものが伝うのを感じた。

 

 

「で——カエ、デ……暑い……です……」

 

 

最後に、その一言だけを彼女が発して。

 

彼女も俺も、すっかり黙り込んでしまった。

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

「……来たばかりの時も思いましたが、ここはやたらと蒸し暑い……ですね」

「ああ。だからって夜にクーラー——送風機を全開にしたまま寝ると風邪引いちゃうからな。あんまり厚着はしないのが一番だ」

 

コップに麦茶を注ぎながら、目の前でトーストを齧る魔女——ソフィーの服装を観察する。

 

最初から被っていたとんがり帽子に、ローブ。その下に着ているのは制服タイプのシャツと丈の長いスカート。

ローブととんがり帽子を除けば、あまり飾り気のないシンプルな格好だ。とはいえ、シャツとスカートだけでも十分暑そうな格好ではあったが。

 

「……というかそもそも、他に服って持ってたり……?」

「いえ、これだけです。そもそも——自分の体を持ってくるだけでも一杯一杯でしたので」

 

ある程度予想の付いていた答えではあったが、やっぱりか、と。それでも頭を抱えてしまう。

まず、ローブととんがり帽子は論外だ。年中こんなハロウィーンな格好をしたヤツと外を歩くのは中々に堪えるものがある。

 

そして、せめてそれは抜きにしたとして、着替えがないというのも大変だろうし、そもそも彼女の服じゃ夏の暑さは凌げない。

 

「……取り敢えず、着替えとか買いに行くか」

「この近くにお店があるのですか?」

「ああ、相当にデカいのが」

 

家から十分程度歩いた場所にあるショッピングモールを思い浮かべながらそう答える。

普段は食料やら日用品やらしか買わないが、確か、映画館とか服屋とか——専門店の種類はかなり多かったはずだ。彼女の服を選ぶには十分だろう。

 

「それでは——出かけるとしましょうか」

 

……なんて、考え事をしている間に彼女は朝食を食べ終えたようだ。

スカートに落ちたパン屑を軽く払いながら、立ち上がる。出かけるにせよ、特に準備はいらないということなのだろう。

だが、まずは——。

 

「——ローブと帽子は置いていってもらってもいいか……?」

 

彼女には、特にそれを脱ぐという意思はなかったらしい。しばらくこちらを見つめると、呆けた声で彼女は聞いてきた。

 

「……そんなに変、ですか?」

「常識的にはな。それに……そもそも暑いだろ、それ」

 

汗ばんだ彼女の額を見つめながら、そう返答する。

思い当たる節は確かにあったのか、彼女は少しばかり思案して、本当に——本当に、苦渋の選択だったのか、非常に苦しそうな顔をして、帽子とローブを脱いだ。

これで、最低限違和感のない格好にはなっただろう、と考えたのも束の間。まだ問題は残っていた。

 

「——寝ぐせ……すごいな」

 

帽子を被って寝ていたはずなのにどうすればそうなるのか、頭頂部付近でピンと一本跳ねた髪。

それだけじゃない。よく見れば、髪はところどころほつれては跳ねている。相当な寝ぐせだ。

 

「……寝相、大分悪い……らしいので」

 

ようやく合点がいった。道理で、ソファから落ちてきて俺のところにまで来たわけだ。起きた時、なぜああなっていたか気になってはいたものの聞きづらかったから感謝——じゃない。

 

「少しの間じっとしててくれ、流石にそれは整えなきゃだめだ」

 

洗面所から櫛を持ってきて、彼女の髪に当てる。

あまり日本人には馴染みのない、白みがかった金髪。こうして近くで見てみると、確かに綺麗な色をしている。ちゃんとした髪型にしたら、十分に映えそうだ。

とはいえ、元々癖っ毛なのか、それともあまり手入れをしていないのか、寝ぐせの方は中々なもので、結局、最低限の見栄えを用意するのには相当に苦戦する羽目になった。

なんとか、頭頂部のアホ毛を除いて——ではあったけれど、髪型が最低限整ったことに一息吐いて。櫛を片付けようとした時だった。

 

「——髪、編んだりすることって……できますか?」

 

それまで黙り込んでいた彼女が、不意にそう聞いてきた。

 

「……いや、できないな」

 

生まれてこの方、誰かの髪を結んだ経験なんてほとんどないし、ましてや編んだことなんて一度もない。

俺の答えに対して彼女がしたのは、「そうですか」と、短い返事のみだった。

 

拘っていた髪型でもあったのだろうか——なんて考えつつ、俺も部屋に戻って着替えを済ませ、二人分の水筒を用意する。

 

「これ、喉が渇いたらすぐに飲むんだぞ。じゃないと、熱中症になるから」

 

お出かけの直前で若干そわそわしているのか、どこか上の空な彼女の手に水筒を押し付け、説明を付け加えておく。流石に、昨日みたいなことになっても困るし。

 

「じゃあ行くか」

「わかり、ました」

 

まだ朝のそこそこ早い時間帯とはいえども、ドアを開けた瞬間に蒸し暑い空気が部屋に流れ込んでくる。

思い返してもみれば、夏休みの初日から出かけたのなんていつぶりだろう、なんて。

彼女に倣い俺も深呼吸をしてみれば、嗅ぎ慣れたコンクリートの匂いが鼻を抜け、湿気った熱気が肺を満たす。

爽やかさなんて微塵もない——というよりも、むしろ都会の夏としてはこれくらいが清々しいのだろうか。

 

ソフィーにとってこの空気はどんなものなのだろう、なんて——少々口数を減らした彼女から何かを読み取ることは難しかっために、一旦そういうことは隅に置いて。先導するように、俺は一歩踏み出した。



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#6 魔女様は結びつけたがり。

「……すずしい、です」

 

首筋にじっとりと張り付く汗。

ショッピングモールに足を踏み入れて一言目、彼女が口にしたのはショッピングモールのサイズに対する驚嘆などといった類のものではなく、素直な感想だった。

スマホを取り出して天気予報を見てみれば、この先も含めてアイコンは全部真っ赤。納得の暑さだ。

 

「本当に……この世界の冷却装置は優秀……ですね。助かります……」

「……魔法で対策とかってできたりしないのか? 自分の周りにバリア的なのを張ったりとか」

「……ジメジメ、してて……もうダウンです。私の根が持ちません、そんなの」

 

着いて間もないというのに、椅子に座り込んで、ソフィーは弱々しく声を発すると、だらりと四肢を投げ出す。

まあ、確かにこの暑さは本来慣れているはずの俺でも堪えるものだ。そりゃ、こちらほど暑くないであろう世界から来た彼女からすれば、相当に厳しいものなのだろう。とはいえ、これじゃ買い物なんてできたものじゃない。

 

水分補給はしっかりしていても、疲労感はすぐには取れないだろうし——と、少しばかり周囲を見回していた時、ふと、一つの自動販売機が目に止まった。

 

「ちょっとだけここで待っててもらってもいいか? いいもの、買ってくるから」

「……いくらでも待ちます。休憩時間が増える分には……一切構いませんので」

 

バテて音を上げる彼女に背を向けて、自販機の方へ向かう。

相当な猛暑日ゆえか売り切れているフレーバーも多かったが、一番買いたかったものは辛うじて残っていた。

まずはそれを一つ。それから、一応余っているものを一つ買って、彼女のところに戻る。

 

「それ——なんですか?」

「アイスっていうお菓子……みたいなものだ。取り敢えず、食べてみてくれ」

 

アイスの定義について、少しばかり考え込みつつ、取り敢えず包装を剥いで、食べられる状態にしてから差し出す。

けれど、彼女は受け取ることはせず、未だ弱々しい声で頼んできた。

 

「——たべさせて、ください」

 

本当に不安になってくるようなバテっぷりだ。

そこまで来るか——と、少々頭を抱えつつ、彼女の唇にアイスを当てる。

すぐに反応はあった。その冷たさを味わうかのように、最初に彼女は少し自分から顔を近づけて。それから小さく口を開くと、おずおずと口にする。

 

「——んっ」

 

小さく声を上げると、彼女は驚いたかのように先ほどまで半開きだった目を見開く。

先ほどまでのバテた様子は何処へやら、すぐに二口目へと移る。それも、相当に大きく口を開けて。

そうして口一杯に溜め込んだアイスを味わうように、頬に手を当てると、彼女は目を細める。

どうやら、相当にお気に召したようだ。飲み込んだらすぐ、次のもう一口へ。彼女に手渡すタイミングすら掴めないまま、みるみる内に手にしているアイスは無くなっていく。

 

……人にものを食べさせたのなんて、いつぶりだろう。

それこそ、小さい時のいも——いや、近所の妙な鳴き方をする犬に餌付けをしていた時が最も新しい記憶だっただろうか。

首を振って、放りたかったものに無理やり上書きをしつつ、とりとめもない事を考えている間に、すっかりアイスはスティックだけになっていた。

だというのに、彼女は未だ物欲しそうな目をしている。

ふと、彼女の視線の先を見てみると、自分用に買ったアイスが一つ。彼女用に買ったソーダとはまた違うフレーバー——こちらは抹茶だ。

 

「……もう一個、食べるか?」

「いいんですかっ!?」

 

そんな目をされてしまっては、こちらも折れるしかない。

もう、自分でも食べられるだろうと、包装を剥いで彼女に手渡そうとする。

けれど、彼女の反応は予想と外れたものだった。こてんと首を傾げて、じっとこちらを見つめるのみで。

 

「……食べさせて、くれないんですか?」

「……周り、見てみろ」

 

彼女は周囲を見回して、ようやく自分が今どういう状況にあるか理解したようだった。

視線、視線、視線——結構な人がこちらを見ていた。

そりゃそうだ。バカップルでも中々こんな食べ方はしない。

身長差を活かして兄貴面でもしてればいいのかもしれないが——それはそれで、やはり無理がある。

 

少々不服そうな顔をして。けれど、最後は恥ずかしさが勝ったようだった。

冷たいものを食べていたはずなのに、真っ赤になった顔で俺の手から取ると、彼女は先ほどと変わらないペースでアイスを食べ始める。最初に彼女に渡したソーダフレーバーに比べるとそこそこ癖があるのは確かだったからどうなることかとは思っていたが、普通に気に入ってくれたようだ。

しかし、気になる点が一つあった。

 

「待て、そんなペースで食べると——」

 

そして、結局注意しようにも間に合わなかったようで。

 

「——んぅっ!?」

 

案の定、冷たいものの一気食いでキーンと来たのか、彼女は頭を抱えるとその場でうずくまった。

 

「——冷たいの、一気食いすると頭に来るんだよ。この時期、気をつけないと結構キツイぞ」

「……やはり、利点があれば欠点も……中々にリスキーなもの、ですね。……これ」

 

何を深読みしているのかはちっともわからなかったが、取り繕うようにそう口にして。

それでも、やめられないものはやめられないのだろうか。また一口、また一口と食べるのだけはやめなくて。

 

「んぅっ——!」

 

その果てに、もう一度彼女はうずくまった。

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

「……それにしても……すごい人、です」

「仕方ないよ。この辺りじゃここが一番デカいんだから」

 

平日とはいえ夏休み初日なのもあってか、結構な人混みの中、進んでいく。

アイスで回復したのは何処へやら、ソフィーの表情は、随分とげんなりしたものに変わっていた。

 

「人混み、嫌いなのか?」

「……ええ。それは……もう。目眩が……してきそうなほどです」

「……大丈夫か?」

「まだ、何とか……目的地までは……?」

「あと少し、だな」

 

そうして会話をしている間に、目的地にはあっさりと着いた。

俺もよく来ている大衆向けの服屋だ。

並ぶマネキンに、そこらを歩き回る店員、服を選ぶ客——相変わらず人は多かったけれど、一度人混みから外れてしまえば、案外ここはどうってことない。

 

「これなら、助かります」

 

そう短く口にする彼女の顔色は、先ほどよりかは幾分かマシに見える。これなら安心だろう。

 

「それじゃ……早速選ぶか。何か、好きなの取ってきてくれ」

 

ここにある商品ならば、異様に高いとか、基本的にそういうことはないはずだ。

基本的に、なんでも良かった。

けれど、興味津々、すぐに走っていく——かと思いきや、彼女はちょいちょいと俺の服の裾を引っ張るのみ。

 

「……ついてきて、ください」

 

ぽしょりと、彼女が付け加えた言葉はあまりにも弱々しかった。

別に、口調から鑑みるに、見た目ほど子供ってわけでもなかろうに——と、少々思うところはありつつも、すでに彼女は裾を通して、俺を引っ張って行こうとしている。

まあ、別にここにいたって特にすることもないのだ。軽く頷き、彼女に引っ張られるまま、俺も歩き出した。

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

「どうですか? ……これ」

 

少々控えめに、もじもじと。

女の子の自身のファッションセンスに対して謙遜しているように見せかけたアピール方法であると聞いたことはあったが——。

 

『WE ARE CLANN!!!』

 

こればかりは、本当に謙遜していて欲しかった。

 

黒地に赤。

激情的なフォントで綴られたよく分からないタイプの英語。それに加えて、全てが大文字という主張の強さ。控えめに言ってダサい。

というか、あまりにもタイプが違いすぎる。ローブから派生するならもう少しこう——何かあっただろう。上手く説明し難いけど。

 

「……それが、魔女なのか?」

「ええ。知的好奇心に従ったまでです。未知の言語が記されているものって、見ているだけでも気分が高揚しませんか?」

「……なるほど」

 

そう考えるとむしろ、初めに彼女が着ていた服装の方が奇跡の産物だったようにも思えてくる。

彼女の世界のデフォルトを知っているわけではないが、あっちの方がよっぽどマシだった。

 

「……んぅ……やはり、ずっと制服を着回していたせいで、全然わかりません」

「制服……? あの服、いつから使ってたんだ?」

「その昔、私が学生だった頃からです。状態は維持できるように保存して、ずっと着ていたんです。そのまま正装としても使える代物でしたし」

 

……正直、わからなくもない。毎日服を選ぶ必要性がない以上、確かに制服は便利だ。そんなにずっと使うか、と問われれば微妙だけど。

さて、とはいえども、私服は私服で必要だ。もちろんこれとはまた違うもので。年中ハロウィーンされるよりも、血に濡れた文字でデカデカと意味不明なことを主張してくる服を着られて一緒に歩くこと。よっぽど憚られたのはそちらだった。

 

「……取り敢えず、コーディネートしてもらうか。それだったら外れないだろうし」

 

結局行き着いた結論は店員にコーディネートしてもらうことだった。

散々、彼女の選んだ服に対して色々言ってはしまったものの、俺もレディースに関しては何もわからない。ともすれば、一番無難な選択肢はこんなところだろう。

近くにいる店員に声をかけようと、ソフィーに背を向けて歩こうとした時——俺は、それ以上踏み出すことができなかった。

 

「なっ……?」

 

まるで、足が鉛にでもなってしまったかのように重い。

気のせいだと思い、必死に持ち上げようとしてみても、ちっとも動いてくれない。未知の感覚にしばらく考え込んで……俺は、考え得る一つの結論に辿り着いた。

動かない足の代わりに、首だけを動かして後ろを確認してみると、案の定——というべきか、ソフィーは何かを隠すように手を後ろに回している。

 

「——いや、です」

 

俺が何か聞く前に、彼女はぽつりとそう口にした。

間違いない。俺を引き止める具体的な理由はよくわからないが、原因は彼女にある。

 

「……何が」

 

そんな確信めいたものと共に、そう聞いてはみたけれど。それでも彼女は頬を膨らませたまま、理由らしきものは口にせず、俯きがちで、多少口をもにょらせるのみ。

聞き取れないというよりも、言葉にすらなっていない。珍しく、どこか強情な態度だった。

しばらく沈黙が続き、やがて——それに耐えかねたせいだろうか。彼女は、ようやく口を開いた。

 

「で——カエデがいいんですっ」

 

相変わらずぼそぼそとはしていたけれど、今度ははっきりと聞き取れた。

 

「でも、俺じゃ服とかよくわからないけど……」

「それでも構いません。知らない人に話しかけるよりも、よっぽど落ち着きます」

 

……なるほど。確かに、ここまでの彼女を見ていると、人混みにいる時のげんなりとした表情だとか、俺と話している時も少々言葉足らずな時が多い点だとか、どこかコミュニケーションが苦手な素振りは多く見られた。そこから考えれば、確かに店員と話すのも厳しいことについては、一応、納得はできる。

 

「好みと合わないかもしれないぞ……?」

「でも、私よりはこちらの文化に精通しているでしょう? であれば、なんら心配はありません」

 

そこまで言われてしまえば仕方がなかった。

 

「……わかったよ」

 

そう答えた途端、彼女の顔が綻ぶと同時に、急に足が楽になって。思わずその場でつんのめってしまう。

 

「大丈夫ですか——!?」

 

そうして、転びかけた俺の手を掴んだのもまた、彼女だった。

全く、誰のせいでこうなったんだか——と言うのは、今は伏せておいた方がいいだろうか。

 

「……ああ。大丈夫だ。それじゃ、行くか」

 

思わず、彼女の見せた表情の前で口をつぐんでしまう。

幾分か綻んだ、安心しているかのような表情。一度、息を吐いて。

今度は彼女の手を引くような形で、一応は自力で、俺は彼女の服選びをすることにした。

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

「どう……ですか……?」

 

先ほど俺にTシャツを見せてきた時と同じように——むしろ、その時よりももじもじとしながら、彼女は試着室から出てきた。

上は、真っ白なブラウス。下は、若干薄手になった膝丈のスカート。彼女の瞳よりも少々色の濃い藍色をしたそれは、先ほどまでに比べれば随分と涼しげに見える。

 

「うん、良いと思う」

「できたら、具体的にお願いしても……?」

「多分、涼しいはず」

「利便性じゃないですっ」

 

自分で選んだものだ。少々の気恥ずかしさがあったゆえに、少々はぐらかしてしまう。

まあ、それはそれとして——。

 

「——似合ってるよ」

 

ここは、こういった言葉をかけておくのが正解だろう。

実際、随分と雰囲気も爽やかだ。細かいレースだとか装飾が施されているものではないが、そのシンプルさがかえって、飾り気のない彼女にはよく似合っていた。

 

「……そう、ですか」

 

気恥ずかしそうに、彼女はスカートの裾を握る。

実際、気恥ずかしいのはこちらも、ではあるが……頬を掻くのに(とど)めておいて。

 

「それじゃあ、会計するから、一回脱いでもらってもいいか?」

 

そう頼んだ時だった。

 

「……あ、えーと……会計——買う——そう……ですよね」

 

突然、元の服を取り上げてポケットらしきところを漁り、そうしてから、彼女は項垂れたような表情を作った。

 

「どうしたんだ? 気に入らなければ、別のでも……」

「……いえ。そうじゃなくて」

 

少々、途切れ途切れでぼそぼそと。

視線を泳がせながら、彼女は続きを口にする。

 

「——お金、今、持ってなくて……」

 

考えてもみれば、至極当然だった、というか——。

 

「今言うか……それ……」

「は、はい……忘れてて、でも、言わなきゃって……」

 

そもそも、一緒に暮らす上で金がかかるのは当然だ。

光熱費とか、水道代とか、飯代……は、自炊だから多少安く済んでいるかもしれないが、それでも、二人分ともなれば、確実に増えている。

それが、服というそこそこ金がかかるものとして明確になったのが、彼女には触れたのだろうか。

 

とはいえ——とはいえ、だ。彼女を住ませるというお願いに、俺が承諾したのもまた事実で。

まだ、前世の師匠——と言うのが半信半疑だったとしても、行く宛のない子の面倒を一時的に見ているという形であれば、最低限、暮らすために必要なものは揃えなければならないだろう。服一枚じゃ、流石に厳しいところがある。

 

「……カエデ、お金は大丈夫なんですか? これ、結構高いもの、でしょう……?」

「……別に。そんなに家計が圧迫されてるってわけでもないし、一般的な服の値段だよ」

 

実際、高校生になって引っ越すと共に以前の持ち物をほとんど置いてきた結果、趣味と呼べるほどの趣味は無くなってしまった。

未だ——気遣いの一貫なのか、仕送りも貯まっていく一方だし、一年間ほど続けて、結局は目的がなくなってやめたバイトの給料もまだ随分と残っている。

 

彼女がなぜそこまで唐突に金銭面に不安感を抱いたのかはよくわからないが、そんなに高価な服でもない以上、特に問題はなかった。

そういったことは伝えたはずではあったけれど。それでも、彼女はまだ、どこか申し訳なさそうにぎゅっと裾を握っている。

 

「……だったら、家事の手伝いを君にしてもらう——ということで、立て替えるか?」

「……お手伝い、ですか?」

「一番、時間を取られるのがそこだからさ、金よりもそういうところ、手伝ってもらった方が嬉しいんだ」

 

ともすれば、対価として提示できるのはこういったところだろうか。

というか、彼女と暮らしていく上で家事の量は間違いなく増えるはずだったし。別に分担はもう少し後でもいいか——とは思っていたけれど、ここでこの話ができてしまうのなら、こちらとしても好都合なのかもしれない。それに、これで彼女にとっても後ろめたさがなくなるのなら、お互いにとって楽だろう。

 

「そういうことだったら……もちろんです。魔法もありますし、私自身、家事は得意な方だと自認していますから」

「だったら、それで決まりだ。むしろ、こっちも助かるし」

 

彼女にとっても、丁度いい落とし所だったのだろうか。

再び試着室に戻ったのち、元の服に着替え終えた彼女からハンガーに戻した服を受け取って。

会計を済ませたのち、袋を手渡そうとする直前——一つ、思いついたことがあった。

 

「——どうせだったら、着ていくか? そのままじゃ暑いだろうし」

「着ていく——できるのですか? そんなこと」

「多分、試着室で事情を説明すればできるんじゃないかな。……どうする?」

 

彼女は、少しだけビニール袋の取手の部分をぎゅっと握って、今度はすぐに頷いた。

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

「どうだ? ソフィー」

 

しばらく食料や日用品を買って、少し疲れたのか休憩したいと申し出た彼女とベンチに座りながら、ふと思い立ってそう聞いてみる。

 

「すごく、着心地はいいです。涼しいですし、機能性は抜群です。それと……」

 

どこか、早口で捲し立てると、最後に彼女は一つ、少し、指先に絡んだ髪を遊ばせながら、照れたように小さく付け加えた。

 

「……弟子からの贈り物だと思って、これを着ていると、何だか——嬉しいです」

「弟子からはあまり贈り物とか、もらったことないのか?」

「……いえ。形のないものはいっぱい、もらってきました。でも……明確に、形のあるものを貰ったのは、これが初めてだと記憶しているので」

「そう、か」

 

結局、彼女の言う弟子が俺——と言うのは、まだ少しも結びつかなくて。

記憶もなければ、そもそも弟子がどんなヤツだったのかも知らない。

あくまでも、この服を買ったのは俺であって、彼女の言う弟子としての俺ではない——少なくとも、そう自認はしている。

 

それでも——捉え方一つで、こんなに彼女が嬉しそうにしているのなら、そこにとやかく言うのは野暮だろう。

物への思い入れなんて、そんなものだ。

 

「それじゃ、そろそろ買い物にでも……」

 

「ところで弟子——いえ、失礼しました。——カエデ。この心臓の鼓動——紅潮する頬——この感覚が……()()……なのでしょうか?」

 

しかし、自分の中でもある程度結論づけをして、席を立とうとした瞬間、彼女はとんでもない爆弾をぶち込んできた。

 

「……え」

 

一瞬、彼女の口にした言葉の意味がわからなくて。

ようやく、それがずっと彼女の言っていた()()に関することであることに気づいて、頭が回り出したとしても、行き着く先で絡まるのみ。

心臓は早鐘を打ち、俺も俺とて頬が熱くなるのを感じる。

結論づけたことには結論づけたとしても、それはあくまでも弟子と俺との割り切りみたいなもので、別に()()がどうとか、そんなことは一切考えていなかった。

 

詰まったままの返答を、なんとか脳内で体裁だけは整えて。

それを、口にしようとした時だった。

 

 

「——よう、楓。お前も買い物か?」

 

 

後ろから迫る気配になんて、そんな状況で気づけるわけもなかった。

 

 

肩を叩かれ、振り向いた時——気まずさの絶頂期とも言えるそんな最中——そこには、随分と見慣れたヤツ——梨久がいた。



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#7 魔女様に人混みは似合わない。

「……あ、ああ——そう、買い物……ってか、お前こそ何をしに……?」

 

不意に投げかけられた問い。それも、かなり答えづらいやつ。取り敢えずは頷いてみせ、すぐに話題を逸らす。

当然、梨久はソフィーのことなんて知らない。その上、幼馴染である以上は俺の家族状況も完全に把握している。今、身近な人間に——特に、梨久にソフィーと一緒に暮らしていることがバレるのは——さっきの()()がどうちゃらとか、そう言ったことが聞かれるのは不味かった。

 

とにかく、不審がられないのが一番だ。

きょとんとした表情のまま、ソフィーはまだベンチに座っている。彼女が理解できるかはわからないが、これ以上は発言しないようにと念を込めて数度アイコンタクトを送り、すぐさま視線を戻す。

 

「にしても、楓が夏休み初日から出歩くなんて珍しいな。てっきり、一日目から寝て過ごしてるのかと思ってたぜ」

 

しかし、質問に質問で返したのが届いたのか否か、しみじみと発音された言葉は先ほどの延長線上にあるもの。あまり俺の話は聞いてないようだった。

幸いというべきか、意外というべきか、ソフィーは後ろでじっとしてくれていた。これだったら問題はないだろう。あとは適当に相槌を打って、今日は別れればいい。

 

何とか、打開する方法まで考えついて。思わず、一息吐いた時だった。

 

「……んで、その子は?」

 

……どうやら、それは性急すぎたようだった。

首筋を一滴、汗が伝うのを感じる。外にいた時のものとは全然違う。酷く冷たい。

 

「……その子って、誰のことだよ……?」

「ほら、お前の後ろにいる金髪の子。絶対、関係あると思ってたんだけど、違うか?」

 

問うような口調ではあったものの、間違いなく自分の中じゃ断定を済ませている。梨久が人に質問するのは、必ずそういう時だった。

その上、金髪とはっきり指され——もはや、一縷の望みはソフィーに託されていたはず——だった、けれど。

 

「……カエ、デ……?」

 

振り向き様、彼女の唇が戦慄く。震えた声が、鼓膜を揺らした。

喰らわされた追い討ち。たった三文字であろうとも、答えとしては十分だった。

 

「……ああ」

「やっぱりな。動きを見てりゃ流石にわかるぜ。声音もだし、視線もだし——それに、普段は後ろなんて気にしないもんな、お前」

 

そして、完全に失念していた。

梨久が——恐ろしく勘の働くヤツだったことを。

 

「……流石だよ、()()

「ま、これくらいは朝飯前だぜ」

 

ふん、と鼻を鳴らすと、梨久は誇らしげに胸を逸らす。

仕草の一つや二つから相手を割り出す——人間観察を趣味だと豪語するこいつにとって、俺の仕草から何かを見破るのは容易すぎたらしい。

 

「んで、聞かせてもらってもいいか? どういう関係なのか、とか」

 

ただ、人間観察だけで済めばよかったものの、こいつに限ってはそれだけじゃ飽き足らないのか、その後に長ったらしい質問をしてくるのが基本だった。

今なんて、ただでさえソフィーについて話したらボロが出ること必至なのに、ましてやそんな質問攻めをくぐり抜けられる自信なんて俺にはなかった。

だからこそ、特に梨久にはバレたくなかったのだ。

 

「……わかったよ」

 

……けれど、今となってはもう後の祭りだ。認めざるを得ないだろう。

最悪、質問攻めさえ何とか切り抜けられればいい。

そこで一旦、これ以上ボロが出ないようソフィーの様子を確認しようとして、後ろを向いた時——彼女の姿はもう、ベンチにはなかった。

 

そこはかとなく嫌な予感が身を襲った……のも、束の間。

 

「……カエデ……これ以上は——」

 

腕に張り付く、柔らかな感触。

それは、随分と火照ったものだった。

 

「——もう……限界、ですっ」

 

耳元で囁き声が聞こえる。

視線を動かしてみれば、すっかり頬を紅潮させたソフィーが腕にしがみ付いていた。

一見してみれば、甘えるような仕草に近い。けれど、その声音が孕んでいる意味合いは、全然異なっているようだった。

 

「ソフィー……?」

 

腕にしがみついたままでも、その仕草はまるでこの場から早く離れようと催促するようで。

梨久を避けるように伏せられた瞳は、若干怯えているようだ。

もちろん、彼女が催促する通り、この場から離れられるのなら離れたかった。

 

 

「……お前ら……どういう……関係なんだ……?」

 

 

しかし、先ほどまで俺たちを黙り込んだまま見つめていた梨久の声音もまた、別の意味で震えていた。

 

「いや、ちが……っ」

「誤魔化さなくて良い——詳しくっ!」

 

手を合わせるようにして頼んでくる。そりゃそうだ、いつも色々と詮索してくるこいつが、今の一連の流れを見ていて落ち着いていられるわけがない。

説明をしなければこの場はくぐり抜けられそうにない。

とはいえ——ソフィーの震えは、段々と小刻みになってきていた。

恐らく、こんな勢いでのお願い、だとかそう言ったのは苦手なのだろう。

 

「一旦後ろ、隠れてていいぞ」

 

腕にしがみつかせたまま、彼女を後ろに隠してすぐ、次第に震えは落ち着いてきて、ようやく一つ、深い呼吸音が聞こえた。

 

「彼女、ちょっとばかし人見知りだから、もう少し声を小さくしてもらってもいいか?」

「ん、了解した。それじゃあ……頼む」

 

どこか神妙な面持ちで懇願してくる梨久と、後ろで一息付いているソフィー。

色々と言いたいことはあったけれど。

 

 

「……背中、随分大きい……です」

 

 

ようやく安心したのか、背後から微かに漏れてきた声には、流石にそういった恨み節の数々にも蓋をせざるを得なくて。

 

「……落ち着いて話せる場所——この辺のカフェでいいか?」

「ま、話を聞かせてもらうんだ。今回は奢るよ」

 

色々と言い訳をこねくり回しつつも、ソフィーをしがみつかせたまま、俺は歩き出した。



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#8 魔女様は興味津々。

「なん、ですか? この飲み物……随分と見た目も色合いも独特、です……」

 

好奇心というのは、おおよそ何にでも勝るものらしい。

先ほどまでは梨久を怖がって俺の後ろに隠れていたというのに、いざカフェ前に着いてみたらカフェ前に置かれた新商品のパネルに張り付いて観察を続けるソフィーを見つめながら、ふとそんなことを考える。

 

手書き風のおしゃれなフォントと綺麗に韻を踏んだドリンク名——彼女がそのアルファベットに惹かれているのかはわからないが、先ほどのシャツに比べればずっとマシだ。むしろ洒落ている。

そして、ドリンク本体はというと、こちらもこちらで薄桃色のクリームに加え、散らされたチョコレート、確かに甘そうだ。

 

「あんまり飲んだことがないから詳しいことはよくわからないけど……甘い飲み物に甘いクリームを乗せたの、要するにすごい甘い飲み物だ」

「なるほど……甘いという要旨だけは理解できました。確かに、少々興味深くはありますが……この数字——お金、ですよね? 高価そうですけど、大丈夫ですか?」

「その辺は気にするな。全部梨久の奢りだ」

 

ソフィーがパネルに張り付き始めてすぐ、財布を確認し始めた梨久を確認しながらそう返す。

フラペチーノと命名されているそのドリンクは、他のメニューよりも幾分か高価なものだった。

まず一人じゃ頼むことはないだろうし、誰かと来た時だって普通に頼んだことはない。それだけに、俺も多少気になっている節はあった。

 

「……悪りぃ。俺、200円しか持ってねぇや」

 

けれど、頬を掻きながら梨久が口にした残金は、人に何かを奢ると豪語した割には遥かに満たないもので。

その申し訳なさそうな表情に相反するように、こちらを見つめるソフィーの瞳は随分と輝いていた。

 

「……しょうがないな」

 

この状況に陥った要因を考えると少々腑に落ちない気もするが、そう言ったものを振り落とすために一つ、俺は呟いた。

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

「——んぅっ!?」

「冷たいものは一気に飲まない方がいいって言ったろ。チマチマと飲め」

「そう、でした……完全に、失念を……それでも、やめられない……です」

 

机に置かれたフラペチーノと天然水の入ったペットボトル、それと目の前のアイスコーヒー。

フラペチーノは存分に冷えていたのか、隣に座るソフィーは相変わらず頭痛に呻いていた。

それでも、よっぽどの甘党なのか、珍しいものゆえかは知らないが、彼女は飲むのをやめない。

言っても言ってもループするばかりで。

対して、隣でソフィーを観察する梨久の瞳は、俺と目があった途端、少々遠慮がちに伏せられた。

 

「その……なんか、ごめんな? 俺から誘っといて……」

「いや、彼女は俺もちだから別に構わない。まあ……なんだ、詫びは夏休み中の部活動を一日減らす——とかそっち方面で頼む」

「そいつは無理だな」

 

先ほどまで遠慮がちだった割には即答だった。

ついでに会話の流れが断たれ、一瞬沈黙が生じる。

 

「——カエデ、全部……飲めましたっ!」

 

そんな沈黙を破ったのは、高々とカップを掲げて胸を張るソフィーだった。

当然、周りの視線は一点へ。今度はすぐに気づいた上でそれに耐えかねたのか、彼女は少々項垂れる。

 

「……それで、この子は一体……どういう……?」

 

その様子が非常識に映ったのか、それとも興味深いものの一環として捉えたのか、梨久は遂に核心に触れた。

どうやら、腹を括る時が来たようだった。けれど——。

 

「今、彼女——ダウンしてるみたいだから、まずはお前の方から自己紹介してやってくれないか?」

 

再び頭痛が襲ってきたのか、頭を抱えたままダウンしているソフィーは、話ができる様子ではない。

それに、彼女は魔女で俺の前世の師匠で、()()が知りたいらしいから同棲していて——なんて、言えるわけもなくて。少し、話すまでに時間が欲しかった。

 

「……ああ、そういうことなら、もちろん」

 

納得したように頷くと、梨久はソフィーに向き合う。

 

「如月梨久。映画同好会部長——要するに、楓の所属してる集団のトップ、趣味は人間観察。よろしく頼む」

 

胸を張ったまま披露された自己紹介。

その、有り体に言って仕舞えば、あまりにも堂々としすぎた姿勢に怯えているのか、ソフィーは更に縮こまる。

 

「……その肩書き、使ってるのかよ。大体、三年卒業して俺とお前しか部員いないだろ」

「減ったら次の新作で増やすだけだ。関係ねーな」

 

しらばっくれるように梨久は呟く。まあ、こいつにしてみればきっと、実際に今後部員が増やせると思っているのだろう。そして、あわよくば部に昇格させてやる——と。まあ、不可能ではないにしろ、恐ろしく難儀なことには違いないだろう。何せ、あと3人足りないし。人間観察と称した奇行は割と知れ渡ってるし。

 

「んで、そっちは?」

「……あ、ああ」

 

……なんて、考えている間にこちらの番が回ってきてしまった。

ソフィーには、事前にこちらの言ったことには頷いた上で、口裏を合わせるよう伝えておいたからきっと大丈夫だろう。彼女は少々行動が頓珍漢ではあっても、馬鹿ではないはずだ。

 

「えーっと、彼女は……外国に住んでいるいとこで、今はホームステイに来てて……俺が彼女のホストファミリーになってるんだ」

 

散々時間をかけて思いついた言い訳。とは言ってもありきたりだが、そこまで変なものでもない。

懸念点だったソフィーの反応も概ね良好だ。ぶんぶんと首を振って、後ろでしきりにアピールしてくれている。

これならきっと問題がないはず——と。そう思えたのも束の間だった。

 

「楓……お前、何か嘘吐いてないか?」

 

一度ならず、二度までも。

相変わらず勘が鋭い。

そして、ソフィーよりも俺の方がごまかすのは下手だったようで。

若干泳いでしまった視線や、口籠もってしまった点——恐らく、梨久はそんな仕草から読み取ったのだろうか。

だとしたら、失態だ。平然を装いつつも、何か言い訳を考えようとして。それでも、もう梨久には通用しないのでは——と考えてしまった、その瞬間だった。

僅かに一度、カクン、と梨久の体制が崩れた。

 

そして、次に彼が体を起こした時、

 

「……なわけねぇか。楓はそんな嘘つかないもんな。忘れてくれ。それで、いとこちゃんの名前は?」

「あ、その——ソフィー、です」

 

もうその口振りからは俺たちを疑っている様子は読み取れなかった。

あまりにも急すぎる変わりようだ。何故だろうと一瞬、考え——るまでもなかった。

僅かに震えた声の調子。

背中に何かを隠しているような仕草。

 

間違いなくソフィーだ。

 

『それに、何か不都合が生じたとしても、その場に合わせた魔法である程度はどうにかできると思いますが』

 

つまるところ、彼女は生じた不都合を魔法で解決してしまったらしい。

とはいえ、人を撹乱させているのだとしたら、いささか危険なものではないか——と身震いしてしまうが、梨久の様子は、先ほどまでの件を忘れている点以外は、普段と変わりない。いや、仮に記憶をいじるだけだとしても、十分に怖いことには怖いが。

しかし、一応は一難去ったことに、思わず肩の力が抜けていくのを感じる。

 

「ソフィーちゃん、ね。まあ、楓のヤツ、生活だけはきちんとしてるから、その辺は安心してもいいと思うぜ」

 

そう軽く俺を茶化すように紹介すると、梨久は再びこちらに向き直る。

 

そののち、軽く耳打ちするようにして一つ聞いてきた。

 

「にしても、いとこが……ってことは、お前……親父さんとはもう、和解したってことか……?」

 

きょとんとした表情で、ソフィーがこちらを見つめてくる。

 

視線を泳がせるほかなかった。

多少口籠もりながら、何とか言葉を発しようとして——でも、喉に詰まったまま、それは出てこなくて。

 

「……ごめんな。ちょっと踏み込みすぎた」

 

そんな俺の様子に気づいたのかすぐさま謝罪を付け足して、それから席を立った時にはもう、梨久は先程俺に聞いてきたことを誤魔化すようにいつもの調子に戻っていた。

 

「それじゃ——覚えてるとは思うが、クランクイン——撮影開始は来週からだ。もちろん、ちゃんと来てくれるよな?」

「……まあ、多分な」

 

それを聞いたのちに頷くと、梨久は立ち去る。

 

うるさいヤツがいなくなって、しばらくの間、またもや静けさが立ち込めて——先に口を開いたのは、ソフィーの方だった。

 

「魔法、使ってしまってごめんなさい。私、焦ってて……」

「……別に。今回は危なかったからな。ただ——後遺症が残る、だとか。危険なのはやめてくれ」

「もちろん、です」

 

そして、またもや静寂。

少々、彼女も彼女とてこうした状況下に陥ってしまったことに対する罪悪感があるのだろうか。

お互い、黙り込んでしまう。

けれど、そんな空気に耐えられなくなったのか、ソフィーは、新しい話題を切り出した。

 

「——カエデ、“エーガ“って……何ですか?」

「大勢で集まって見る動画——動く絵、みたいなものだ」

「ええ。リクさんはカエデも“エーガ同好会“の一員だと言っていました。であれば、カエデにも結びつきが強いもの、なのでしょう?」

「……別に。ただ、しつこく誘われたから入っただけだ」

 

元々、映画なんてさほど興味があったものでもない。

しつこく梨久に誘われて——ウチの学校が、何か一つ部にいなければならない類のものだったし、他に趣味もなかったから、入ったことには入ったが——適当に活動をこなしているだけだ。それこそ、行けたら行く、くらいのノリだろうか。今のところ梨久のしつこさゆえに、ほとんど出席する羽目にはなっているが。

 

「……で、なんだ? 興味あるのか?」

 

何気なしに聞いてみたつもりだった。

けれど、ソフィーは俺が思っていた以上に目を輝かせると、一気に顔を寄せてきた。

 

「私——“エーガ“が、見てみたいですっ!」



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#9 魔女様は、エンドロールがお好きじゃない。

「——でも、人、たくさんいるぞ? 言ったろ、大勢で見るって」

「……そうでした。でも……でもっ」

 

ぎゅっと目を瞑ったまま、頭を抱えて——本当にわかりやすい葛藤の仕方だ。

確かに、人一人と会っただけで人見知りが出てしまう点や、人混みに酔っていた点を鑑みれば、到底ソフィーが映画館に適応できるとは考えにくい。

であれば、やんわりと彼女の興味を遠ざけてやった方が良さそうだ。

 

「別に、魔法に比べりゃ大したもんじゃない。動く絵なんて、そんなに珍しいものでもないんだろ?」

「それは、そうですけど……」

「だったらやめといた方がいい。何せ、密室状態で四方八方どこを見ても人だらけだ。結構キツイだろ? そういうの」

「そう、ですけど——っ」

 

しかし、中途半端にイメージしやすくしてしまったのが、彼女にとってはかえって逆効果だったらしい。

頭を抱え込み、少々唸ったのち——やがて、ある種の境地に達してしまったのだろうか。次に口を開いた時、口調こそ落ち着きは取り戻していて。

 

「……でも、未知を未知のまま置いておくのは、一番の悪徳です」

 

けれど、彼女が口にした内容とこちらを向く表情は、随分と険しいものだった。

 

「何か他の案を考えましょう。人が少ない場所でエーガを見る方法——とか」

 

どうやら、彼女の中で映画を見る、というのは揺るがないようだ。言動と表情を見ればわかる。

確実に彼女の興味の対象はブレていない。むしろ火に油、再燃している。

 

しかし、人が少ない場所で映画を見る方法なんて、それこそ死ぬほど人気の少ない作品しか——と考えていた時俺は、はたと思いついた。

別に、映画館で映画を見る必要性はないのだ。

そりゃ、音響にせよ映像にせよ、映画体験が劣ることに関しては違いないだろうが、雰囲気だけは掴めるはず。

思いついたものは妥協案としては十分だった。

 

「……一応、借りれば家でも観られるんだけど……それでどうだ?」

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

『違う……彼女は——彼女は……まだ、俺たちを——』

 

魔女狩りによって火炙りにされた魔女が、自分を陥れた人間一人一人に復讐していく——。

確か、この映画はそんなシナリオをしていたはずだ。

実際、目の前の画面に映る女優の表情はこれでもかというくらいに歪められていて、小さい画面ながらも恐怖心は十分に伝わってくる。そこそこ古い映画ゆえか、あまり良くない画質も相まって、一人で見ていたら普通に怖かったはずだ。

 

「——カエデぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」

 

……とはいえ、ひたすらに絶叫し続けるソフィーが隣にいる以上、映画の内容なんて、ちっとも関係なくなってしまったけれど。

 

「……これ、選んだのソフィーだったよな……?」

「……そう、ですけど……!?」

 

同じ魔女ということでシンパシーでも感じたのだろうか。いくらホラー映画だからと止めても、彼女は決して譲らなかった。

結局、レンタルしてきてしまったが、その時はまだ彼女自身にホラー耐性があるからわざわざこれを選んだんだとか、勝手にそう思い込んでいた。

 

しかし、実際のところは違ったようだ。

最初は、液晶を初めて見た興奮からか、小さく感嘆の声を上げるくらいだったが、ホラーパートに入ってからというもの、明らかな絶叫が俺の鼓膜を絶え間なく突き刺していた。何なら、我が家の安っぽい環境で再生された悲鳴より、こっちの方がよっぽど怖い。

そういった点でもまた、映画館で映画を観なかったのは正解だったのかもしれない。

 

「……この辺りでやめとくか?」

「……いえ。ここでやめたら未知が未知のままです——っ」

 

ソフィーはそう答えるものの、僅かな感覚を置いた後、「ひえっ」とか「きゃっ」とか可愛らしいものじゃなくて、断末魔レベルの悲鳴を発し始める。

いくら我が家の壁がそこまで薄いものではないとはいえ、そろそろ近所の人間が殴り込んできてもおかしくない。

 

悲鳴やら、隣人との関係性やら——叩き出されないか……これ……なんて。ホラー映画鑑賞よりもよっぽど肝が冷えるような時間をおおよそ二時間ほど過ごして。

残された魔女狩りの主犯格が悲鳴を挙げると共に暗転して、俳優の文字と共に流れるエンドロール。

 

「——やっと……終わったのか……」

 

それを目にした途端、俺は思わずため息混じりに声を漏らしてしまった。

一応は最後まで観たのだ。これなら、彼女にも不服はないはず——と、軽く伸びをし、夕飯を用意するため、間違いなく鑑賞する前から重くなった体を動かし、ソファーから立ち上がる。

けれど、ソフィーはそんな俺の方を一瞬向いただけで、すぐに画面へと視線を戻した。

 

「……もう、本編は終わっちゃったぞ? 今流れてるのはエンドロール——映画に関係してる人たちの名前だ」

 

そう説明しても、彼女は軽く頷くだけでずっと画面に注視している。

もしかして、未知の言語が気になる——とかなのだろうか、と思いつつ引き続き彼女を観察してみるも、普段とは少し様子が違った。

まるで、何か別のものを望んでいるかのような、落ち着きのない仕草。そして、離れない視線。

 

……何が、そこまで彼女を惹きつけているのだろう。

 

「……何を、待ってるんだ?」

 

そんな疑問が浮かび、一つ、聞いてみた。

 

「——続き、です」

 

返答は、この上なく短いものだった。

 

「……もう、本編終わっちゃってるぞ?」

「アレで、いいんですか……?」

「アレでって……どれだよ……?」

「……だって、まだ生きてたのに……」

 

確かに、登場人物は皆死んだ。ぼかされてはいたが、最後に残された一人も多分同じ目にあったことだろう。

エンドとしては、そこまで違和感があるものではない。むしろ、これくらいモヤモヤする方がホラー映画としてはしっくりくる。

 

 

「……可能性なんて……まだ、あるじゃないですか」

 

 

それは、人に伝えるつもりがあって口にしたものなのか分からないくらい、小さく発されたものだった。

 

ほんの少しだけ、唇が戦慄いて。

けれど、その瞬間にはもう、文字は流れ切っていて。

画面の端にうっすらと浮かぶ終わりを告げる三文字。それを見つめる瞳は、見開かれていた。

 

完全に画面が暗転してもなお、しばらく彼女は立ち上がろうとはしなかった。

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

「……カエデ、眠れません」

「だから、ホラーはやめとけって……」

「でも私、“エーガ”があんなに怖いものだなんて、知らなかったんです……」

 

俺はソファー、彼女は布団。寝相対策だけはした状態で、真っ暗闇の中、唯一聞き取れたのは震えている声音。

恐らく、まだ怖さが残っているのだろう。彼女が布団の中で縮こまっている姿が、ありありと想像できる。

 

「……でも、魔女ってああいうのじゃないんだろ? それは、ソフィーが一番詳しいんじゃないか?」

「それはそう……です。大体、あそこまで執念深くないですしっ」

 

彼女に言われても、ちっとも説得力のない言葉ではあったが、それはそれとして、口調は少し解れていた。

この調子で話してもいれば、すぐに眠くなるだろう。そんな想像と共に、しばらく彼女の会話に付き合っていて。

すっかり、普段と変わりない口調になっていて、そろそろ眠たくなってきたのだろうか——なんて、考えていた時だった。

 

「ところでカエデ。あなたも……()()に落ちましたか?」

 

ばたん、と。

何一つ悟られないために、慌てて枕に顔を埋めたせいで、埃が舞い散るのを感じる。

……あまりにも急すぎる。どういう流れでその発想に至ったのか、ちっとも理解できない。

 

「……“エーガ”を観ていた時、私は、普段より心臓の鼓動が激しい上、体が熱っていることに気がつきました。これが“エーガ”のせいだとして、カエデも同じ現象には陥っていませんでしたか?」

 

……恐らく、彼女は何か勘違いをしている。というか、彼女の中での()()の判定が緩すぎる。

ようやく意味が理解できて、俺は顔を枕から離した。

 

「……それは、吊り橋効果ってやつだ。知らないか?」

「“ツリバシコウカ”……? 聞き慣れない名前、です」

「怖い目に遭ってる時、普通、人はそうなるんだ。……別に、身体に異変が出たら()()に落ちているってわけじゃないからな?」

 

ぽすん、と。枕に顔を埋めるような音が短く響く。

それ以上、彼女は何も口にしなかった。

そんな時間がしばらく続き、俺はおおよそ理由を察した。恥ずかしいとか、そんなところだろう。

まあ、そのまま眠れそうなら問題はない。

一度寝返りを打ったのち、そのまま瞼を閉じようとした時、

 

「……そういえば、カエデの服を着た時に鼓動が強まったのも、“ツリバシコウカ”……でしょうか……?」

 

僅かにくぐもった声が聞こえた。

 

「……そっちは、知らない」

 

急激に、頬が熱くなるのを感じる。

彼女の言葉に対して、それ以上、何も返答することが出来なくて。

 

もう一度、俺は枕に顔を埋めた。



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幕間II 『縁遠く、目を逸らし』

『これ——すっごいロマンチックじゃない?』

『ほんとほんと。あたし、こういうの大好きなんだよね』

 

机に行く間すら惜しみ、本棚に立てかけながら読んでいた本をわざとらしく閉じて。

少女は、すぐ後ろで盛り上がってきた会話を避けるように、別の本棚へと移ることにした。

 

知を得るという、人としては根源的な欲求。

専攻している魔法から、本当に些細な生活の豆知識まで——本当にどんなものでもいい。少女は、そういった欲求が人一倍強かった。

先ほど読んでいたのだって、魔法とは全くもって関係ない植物についてのもの。今、それを手放したとしても、次に読みたいものなんて、いくらでもあった。階を変えても、どれだけ分類が違う棚へ行ったとしても、そこに待っているのは彼女にとっての興味の対象だ。

 

一冊読めば、未知は小さな既知へと変わる。

そんな小さな既知を、二冊、三冊と積むことで膨らませていく。そんな作業に明け暮れていた少女にとって、図書館は正に楽園と言っても差し支えのない場所だったことには違いない。ただ一点を除いて、ではあったけれど。

 

『——今日の授業、難しくなかった?』

『ねー、古式錬金術なんて、絶対役に立たないのに』

 

学校の図書館というものは、ある程度、集会場に近い扱いを受けている。それに、丁度新入生が入ってきたばかりだった時期なのも災いした。

どれだけ棚を巡っても、どれだけ別の階に移ったとしても、そこら中に生徒がいた。

そして、揃いも揃って、皆が談笑をしていて。

 

喧騒は、少女が特に嫌っていたものだった。

けれど、どこもかしこもそんな状態である以上は結局避けようがない。

 

——仕方が、ありません。

 

結局、少女は適当な場所で妥協することにした。

棚から、なるべく分厚いものを引っ張り出してきて、いつもの如く立てかけるようにして読み進めていく。

手にしたものは、町の歩き方——なんて、比較的興味のないものに分類される本ではあったけれど、取ってしまったものは仕方がない。

半ば、そう割り切りつつも文字列に視線を走らせていた時だった。

 

『だから、その女のことがどうしても許せなくって!』

『……あんた、随分と嫉妬深いわね』

 

僅かに集中力が途切れた一瞬、たまたま、少女は近くの会話を拾ってしまった。

 

——色恋沙汰。

 

それは、こと読む本のジャンルには拘らない彼女でも、片手の指で数えられるほどしか手をつけたことのないもので、かつ、最も嫌う話題だった。

 

有り体に言ってしまえば、時間の無駄。

いくら文字を追ったところで、欠片も中身の入ってこないものを読む意味なんてなかったから。

 

町の歩き方、食べちゃいけないキノコ、冒険活劇。どれを読んだって、知を得た感触があったはずなのに。

ふと、そんなことが思い返されたせいか、少女は顔を顰める。

 

自分と同い年な等身大の主人公たちの瑞々しい恋愛、上流階級同士の気品がある恋愛——いくら回想したところで、蘇ってくるのはあらすじだけ。それ以上は、何もなかった。

 

きっと、さしたる興味すらもなかったのだろう。

 

喧騒に混ざったことがないのと同じだ。人と話すことにすら興味がない少女に、()()——なんて。存在として程遠すぎる。

 

定義は理解していても、生じる感情なんか何も知らない。

恋に恋したことですら、一度もなかったのだから。

 

 

——縁のない()()について考えていても、仕方がありません。

 

 

間違いなく、こうして思索を巡らせているだけ時間の無駄だ。

周囲の会話なんて必要ない。ただ、読書をするために自分はここにいる。

本の内容にのみ集中して、周囲の会話を思考から排除する。

 

脳を満たしていいのは、今、目の前にある文字列だけ。

 

自分一人がそこにいて、本さえあれば、未知を既知に変える作業なんて、少女にとっては十分なものだった。



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#10 まだ、結わえないもの。

「……んぅ……」

 

鼓膜を、微かな寝息が揺らす。

次いで、衣擦れ。それも、少し聞こえる——くらいのものではなかった。

がさがさ、がさがさ、と。鳴り止まない騒音の中で眠り続けるのもまた難儀なもので、仕方なく俺は重い瞼をこじ開けた。

 

「ひとり、のこらず……」

 

ソファーのちょうど真下。

足の部分にぴったり頬をくっつけて、ソフィーは何やら物騒なことを呟きつつもまだ寝ているようだった。

それにしたって、やっぱり寝相が悪い。

彼女が横になっていたはずの布団は彼方へ、それどころか、未だソファへの攻撃を試みて寝返りを打っては、衣擦れと共にぽすん、と乾いた音を立てる。

 

「……どうせ、無駄になるんだろうな」

 

若干のため息が混じってしまうのを感じつつも、放っておくのもそれはそれで忍びない。

抱っこ——とまではいかないが、軽く彼女の体を持ち上げ、元いた布団の場所まで運んでいく。

 

こんなところで目覚められたらたまらないな、とは思いつつも、幸い危惧していたような出来事は起きず、無事に彼女を布団まで戻すことはできた。道中で何度か蹴られたけど。

 

「……力加減がおかしいんだって……」

 

見た目の割には、全然力強い蹴りだった。

痛む腕をさすりつつも、すっかり目は冴えてしまっていて。

 

ふと時計を見やれば、示しているのは六時ちょっとすぎくらい。夏休みなのに、随分と早い朝だな、なんて。

昨日に引き続きそんなことを考えつつも、顔を洗うために俺は、洗面所へと足を向けた。

 

◇ ◇ ◇

 

「……ぷはぁっ」

 

夏場の夜というのは、実に蒸し暑い。その甲斐あってか、洗顔という形で一晩中溜まり続けていたカタルシスから解放される瞬間は本当に心地が良いものだ、なんて。どうでもいいことを考えながら、まだ水が滴っているせいでぼやけた視界にタオルを擦り付ける。

そうしてから、頭も視界も随分と明瞭になって——俺は、ふと思い出した。

 

「……寝癖直しって、どっかあったかな」

 

昨日、散々くしゃくしゃになっていてとかすのに苦労した金髪。今朝も、変わらず彼女の寝癖はひどいものだった。

だからと言って、毎日毎日アレをとかすのも随分と堪えるものがある。何か、丁度いい打開策でもあればいいんだけど——と、棚を一つ一つ漁ってみるも、元々俺自身、さほど寝癖はひどい方ではないためにそう言った類のものは使ったためしがない。

 

流石に諦めるか、とその場から離れようとして——。俺は一つ、まだ開けてすらいない段ボール箱が床の隅に置いてあることに気がついた。

 

「仕送り 洗面所周り」と。辿々しい字体の油性マジックで書かれたそれは、別に開ける必要もなかったからこそ、ずっとそこに放置してあったわけだが……この際、寝癖直しはあった方がありがたい。できれば開けたくはなかったが、この際、もう仕方がないだろう。

 

尚更ため息の回数が増えるのを感じつつも、蓋を掴む手に力を込める。

案外、呆気ないものだった。

少しだけ埃をかぶってはいたものの、歯ブラシやら櫛やら洗顔クリームやら——甲斐甲斐しすぎるようにも思えるその内容物には、しっかりと寝癖直しも入っていた。

 

——案外、どうってことないじゃないか。

 

当然といえば当然ではあったが、中身の普通さと自分自身、そこまでこの箱を開けるのに大きな抵抗がなかったことに安堵しつつも、スプレーを一つ、取り上げる。

 

その時だった。

 

はらり、と。

絡みついていたらしい何かが、スプレーから離れて俺の目の前を落ちていった。

 

「——っ」

 

それが何か、なんて最初はわからなかった。

けれど、拾い上げてみればそれが何か、なんて。気がつくのにはそこまで時間を要しなかった。

その形状も、赤色も、こびりついた香りも——何もかも見覚えのあるリボン。

 

一瞬、息が詰まった。

 

どうせ、偶然紛れ込んだだけだ。そうに決まっている。決まっているはず——なのに。

どうしても、ただの偶然で片付けることは難しくて。何か意味があるような気がしてならなかった。

 

ただ、仮にそうだったとしても、少なくとも目に触れる場所に置いておきたくない。どこかへ追いやらなければ。

それは、わかっていた。わかっていたけれど、どうしても行動は伴わなない。

早鐘を打つ心臓、狭まる視界。半ば呆然としたように、その場に座り込むことしできなくて。

 

「カエ、デ……? もう起きているのですか?」

 

思考だけが絡まっていく中、不意に、足音と共にそんな声が聞こえた。それも、そこまで遠いものではないのが。

 

「ああ、こんなところに。おはようございます、カエデ」

「……おはよう、ソフィー」

 

ドアが開く手前、反射的に俺は、それをポケットにねじ込んでしまった。

 

「それでは、髪、お願いします」

「……あ、ああ」

 

俺の表情に不自然さでもあったのか、少しだけこちらをじっと観察して。でも、そこまで引っかかるところがなかったのか、彼女は昨日と同じ調子で寝癖直しをお願いしてくる。

むしろ、やらない方が不自然だ。先ほど慌てて取り落としてしまったスプレーを拾い上げ、ほつれた髪に何度か吹きかけたのち、昨日と同じように髪をといていく。

 

「……何だか昨日よりまとまりがいい気がします。これも“カガク”……ですか?」

「まあ、一応はそう、だな」

 

あまり意識を傾けていなかったものの、頭頂部のアホ毛を除いて、昨日よりもずっと彼女の髪はまとまりがよかった。

案外、相当な効果なんだな、と。俺も髪を一房つまみながら、少しばかり観察していた時、彼女は一つ、質問してきた。

 

「ところで、今日はどこかに出かける予定とかってありますか?」

「……いや、特にないけど」

 

実際、今日は——というより、今日も何もない。昨日の外出も不可抗力に近いものだったし。

そう端的に答えた時だった。

 

「であれば、丁度よかったです」

 

そう口にしたのち、彼女は満面の笑みと共にこちらを向くと、元気よく宣言した。

 

「私、“トショカン”に行きたいですっ!」



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#11 魔女様は未知がお好き。

「何ですか、この暑さ……。ここの冷却装置は弱い、です……」

 

朝もまだ9時、夏休みの二日目なんて、去年どころか毎年のように11時くらいまでは寝ていたため、二日連続でこの時間から出歩く、というのも随分と新鮮なものだ。

図書館自体、開館時間になってまだ間もなかったせいか閑散としている本棚を巡りながら、そんなことを思う。

とはいえ、夏の日差しというのは、こんな時間からでも十分に容赦ないもの。昨日よりはまだマシな部類だが、ソフィーは相当にバテていた。

 

「……節電ってやつだ。クーラーも無限に使えるわけじゃないからな」

「つまり、魔法と同じく“カガク”にもリソースが必要……ということ、ですか?」

「そうそう、電気って言う、限りあるから大切にしましょう——みたいなやつ」

「なるほど、“デンキ”……節約……中々に興味深いです……」

 

けれど、話題を提供してすぐ、再び目を輝かせつつ彼女はブツブツと何やら唱え出す。

どうやら、電気なるリソースが彼女にとっては未知の存在だったらしい。

 

「“デンキ”にまつわる本って、どこにありますか?」

「……俺に聞かれても。図書館、あまり来ないし。……そもそも、ソフィーは何で今日、ここに来ようと思ったんだ?」

 

俺が大雑把にしか説明できなかったとしても図書館に来た以上、本に頼れば良いという考え。それ自体は別に問題ないわけだが、あまりここに来たことがない以上、彼女の質問には答え難い。

というか、思い返してもみれば、彼女の勢いに乗せられてここまできた身だ。なぜ今日ここに来たがったのかすら、聞いていなかったことをふと思い出す。

 

「もちろん、未知の探究のため——ですっ!」

 

胸を張り、ついでに腕組み。あまり様になっているとは言い難い格好ではあったけれど、堂々とした解答。

 

「……カエデ。何ですか、その表情」

「いや、ソフィーらしいなって」

 

“未知の探究“——いかにもだ。

まだ一緒に過ごして三日目ではあったけれど、予想から逸脱していないどころか、あまりにも彼女らしい姿勢に思わず苦笑いしてしまう。

確かに、彼女にしてみれば本が大量にある図書館は正にオアシスと言って差し支えない場所なのだろう。

本の背表紙を一つ一つ眺める顔の血色は、随分と良いものになっている。そんな光景を少し後ろから眺めていた時、一つ、素朴な疑問が湧いてきた。

 

「……そういえば、字って読めるのか?」

「最初から翻訳用の魔法を使っていますから。こう——イメージで理解できる形です」

 

言われてみれば確かにそうだ。彼女と意思疎通をとる上で、困ったことは特になかった。

そう考えると、魔法というのはつぐつぐ不思議なものだ。

世の中の仕組みだの摂理だの未知だの——普段から微塵も興味を抱いたことがなかったが、彼女にしてみれば、未知だらけの世界にやってきて、全てが疑問を抱くべき対象なのかもしれない。

それはそれでだいぶ疲れそうなものだけど。

彼女の未知に対する姿勢の一端を感じ取ってしまったような気がして、思わず息を吐いてしまう。

 

「……ん——んぅ——っ」

 

その時だった。

彼女は急に足を止めると、背伸びを始めた。

目指しているのはただ一点、そこそこ高い位置にあるものらしい。

 

「……ほら、これであってるか?」

「あ、それ……です。ありがとうございます、カエデ」

 

彼女が取ろうとしていたのは、相当に分厚い本だった。

「化学大全」と記されたそれは、俺でも片手で持つには中々きついほどのもの。彼女に渡すと、半ば抱き抱えるような形になってしまっていた。

 

「背、届かない時は言ってくれ。取るから」

「……わかりました」

 

そう口にしつつも、彼女はどこか引っ掛かっているかのようにしばらく視線を泳がせていた。

 

「どうしたんだ?」

「……いえ、その——どうしても、以前の背丈だった時のことが、まだ感覚として残っていて。時々、勘違いしてしまうのです。届くんじゃないかって」

 

流石に、そこまで急激に身長が変わるなんて経験はしたことがないため、彼女の言う感覚については想像がつかない。

ただ、言われてみれば時々歩幅が乱れる——だとか、そんな素振りは見せていたような気がする。

 

「まあ、気軽でいい。フォローできる範囲だったら手伝うから」

「……本当、ですか?」

 

頷いてすぐ、彼女は頬を掻いて。それから、頭を下げた。

 

「それでは——今後とも、お願い、します」

 

予想以上にかしこまった彼女の態度、返答に詰まってしまう。

 

「……いや、良い。そんなにかしこまらないでくれ……」

 

何とか一応の返答をしてすぐ、彼女は顔を上げた。

変に他所他所しいところを見せられると、こちらもこちらでやりづらい。

 

彼女も彼女で少々の気恥ずかしさでも感じたのか、赤く染まった頬を隠すように本を開く。

 

感覚が慣れないと言う割には、案外器用に棚へ本を立てかけながらも、時折頷きつつ読み進めていく。

一ページ、また一ページ。ページを捲る速度は、俺よりもずっと速い。

 

それをしばらく数えていて——もうすぐ三桁に達する辺りだったろうか。

 

次第にそれにも飽きてきて、もう何ページ目だったかわからなくなっていた。

そのくせして、まだ残っているページ数は彼女が読んできた分の数倍はある。

 

一瞬、借りることを提案するか考えたものの、彼女は相当に集中しているようで、それを妨げるのは憚られた。

 

「……俺、他の本見てくるから。終わったら声かけてくれ」

 

こくり、と。無言で彼女が頷いたのを確認して。

それから、俺も少しばかり背表紙を見て回る。彼女がいた棚の付近はどれも難しそうな本ばかりだった。

あまり縁が持てるとは考えづらいために、読み慣れた手軽な文庫本の方に行くため、広い通路の方に出た時だった。

 

——ドサッ

 

少し後ろの方で、大量の本が落ちた音がした。

振り向くと、大なり小なりサイズ差はあれどおよそ10冊くらいの本が、かなり派手に散乱していて、落とし主らしき女性が拾おうとしていた。

 

ただ、相当に慌てているらしく、一冊、一冊と拾ってはまた落として——と、その様はかなり辿々しいものだった。

 

「手伝いますよ」

「……あ、ありがとうございますっ」

 

かなり戸惑っているかのような返答を背に、手近なものから拾っていく。少しだけ興味本位で表紙の文字に目を通すと、俺でもわかるくらい有名な戯曲のものだった。

よく見てみれば、その他も映画の脚本やら、戯曲やら、それに近いものでまとまっている。

 

こういうものが好きなのだろうかと、どうでも良いことを考えつつ、手近なものを拾い終えて。ちょうど同じタイミングで、彼女も拾い終えたようだった。

 

片付いたことに安堵しながらも、手渡す瞬間はっきりとその女性の顔を前にして——。

 

「……青木、くん?」

 

俺は、彼女が見知った相手であることに気がついた。

 

——三浦(みうら)(すみれ)

 

普段と違い、その亜麻色の髪が結わえられていたせいで全然気がつかなかったものの、紛れもなく彼女は同じクラスの女子だった。



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#12 魔女様は、喧騒とは無縁で。

「えっと……三浦……さん……?」

 

三浦 菫という女子は、ある一点を除いてはあまり目立たない生徒だった。

髪型はいつも無造作に纏められた、一房のポニーテール。休み時間の間も誰かと話すわけでもなく、教室の隅で何かを読んでいるだけ。

では、どの辺りが目立つのかといえば、それは登校時間だった。

 

いつも教室に入ってくるのは、HRが始まる一分前か、下手すりゃもう始まった後。

そして、遅刻の弁解で教卓の前に立っている時は黙り込んだまま、決まって教師を睨みつけるのみ。

その視線の鋭さと言ったら嫌でも強く印象に残るもので。だからこそ、髪型が普段と違うものだったとしても、その容姿はすぐさま記憶の中の彼女と結びついた。

 

「う、うん——その……ありがと」

「……ああ、どういたしまして」

 

……全くもって、印象は結びつかなかったが。

萎んだ声に、丁寧に編まれた亜麻色の髪。普段よりも優しげに見える目つきは、血色の良さゆえ、だろうか。

とにかく、普段のダウナーな雰囲気とは裏腹、今日の彼女は幾分か——なんてものではなく、普段よりもずっと、大人しいだけの女の子だった。

けれど、そのせいだろうか。一切、そこから会話が続くことはなくて。かと言って、彼女から何か話題を持ち出すわけでなく、妙な沈黙が俺たちの間に立ち込めていた。

 

こういう時は、沈黙なんか一旦無視した上でさっさと挨拶でもして、この場から去るのが最適解なのかもしれない。

今日の彼女は普段とはまた別の意味で話しかけづらかったし。

 

「それじゃ——」

 

——俺はこれで。

 

数秒で練り上げた、簡単な別れの挨拶。

言葉を継ごうとする直前だった。

 

「——あのっ」

 

か細いながらも、彼女が何か言っているのが聞き取れた。

 

「……少しだけ、聞きたいことがあって。……良い、かな?」

 

彼女が口にしたのは、なんとも妙なことだった。

別に、質問に応じるのは構わない。むしろ、今は待っている身である以上、何もすることがなかったわけだ。

しかし、今初めて接点が生まれた俺に——というのも、妙な話ではあったが。

 

「……別に良いけど。何について?」

「……確か、青木くんって……映画同好会、だったよね? もしよかったら、活動内容とか、教えて欲しくて……」

 

映画同好会。

それに関する質問をされるのは初めてだった。

というか、存在自体を知っている生徒が少ない上、部長がクセの強い方に分類される梨久だ。多分、しつこく誘われなきゃ、俺も入ることはなかっただろう。

 

それはさておき、活動内容について聞いてくるということは、入部を検討中だとか、そういう類のものだろうか。

だとしても、現状活動と言えるほどの活動なんて——と、少しばかり考え込んでしまう。

 

何せ、三年が引退したあと、一年が入ってこなかったせいで部員は俺と梨久の二人になってしまったのだ。当然、映画撮影になんて漕ぎ着けるのもほとんど不可能なもので、新学期以降にやったことなんて、映画の鑑賞会くらいのもの。これを活動だと言い張る勇気なんて、中々湧くものじゃない。

 

とはいえ、嘘を吐くわけにもいかないし、そのまま言ってしまう選択肢しか残されていないわけだったが。

 

「……映画鑑賞、ぐらい……かな」

 

端的に言って、あまり良い反応は返ってこないだろうな、と思っていた。

そりゃ同好会規模とは言え、ショートムービーぐらいは撮っている学校の方が大半だろうし、梨久は“撮影準備”とやらに追われているらしいが、整うまでは教えないの一点張りだし。

 

けれど、彼女が見せたのは予想とは随分とかけ離れた反応だった。

 

「ほんと——っ!? じゃあ、カセットテープとか、DVDとかも使えたり……?」

「……一応は」

「それ——すっごいっ!」

 

急に人が変わったかのような食いつきよう。

それは、答える俺の方が思わず恐々としてしまうほどのものだった。

 

「……あ、ごめん。ちょっとだけ、興奮しちゃって……。あたし、劇のシナリオ読むの、大好きなんだ。……ほんと、朝に響いちゃうくらい、なんだけど」

「……なるほど」

 

——“朝に響いちゃうくらい“。

 

普段の彼女がどこか気怠げな理由がわかった気がした。先ほども借りていた大量の本——つまるところ、深夜まで趣味に明け暮れているせい、なのだろう。

確かに、血色の悪い顔と眠たげな目が合わされば、鋭い目つきにも辛うじて見えなくはない。

ということは、本来なら今の彼女がデフォルトということか。

夏休み、恐るべし。また一つ、既知に変わったものが増えてしまった。

 

けれど、そんなもの彼女にしてみればお構いなしだったのだろう。未だ、話は止んでいなかった。

 

「だんだん、実際に動いてるのも見たくなってきちゃって……でも、見たいのが大体、古い機械じゃないとダメで、あたしの家、そういうの再生できないから」

「つまり、映画同好会の設備が使いたい、と……?」

「そうそうっ! ……だめ、かな……?」

 

少しばかりの上目遣いで、彼女は俺を見てくる。

思うところなんて、正直色々とあった。

俺に頼まれても——だとか、そもそも、その使い方を梨久が許可するのか——とか。

とはいえ、結局判断するのは部長である梨久だ。俺がとやかくできる話じゃない。

 

「……そういうのは梨久に聞いてもらえるか? 連絡先、送っとくから」

「もしかして、如月くんが部長、だったり……?」

「……一応、そうなんだ」

 

少々意外そうな含みを溢す彼女と、手短に連絡先を交換して、その後、梨久の連絡先を送る。

 

「ありがとね、青木くん。それじゃ、またねっ」

 

取られた「それじゃ」と、少しだけ余韻を残す別れの挨拶。

 

捲し立てるだけ捲し立てて帰ってしまった。

 

こりゃ、また一段と騒がしくなりそうだ、なんて。

どこか呆気に取られたまま、彼女の背中を見送っていた時だった。

 

 

「……カエ、デ……?」

 

 

聞こえてきたのは、掠れたような声音。

 

 

「今の、ヒトは……?」

 

 

反射的に振り向いた時、そこにいたのは、ソフィーだった。

 

けれど、ただでさえ白い肌は、いつにも増して血の気が失せたもので。

 

 

そして、何よりも——見開かれたその瞳は、やたらと強く焼き付くものだった。



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#13 夏の残り香

※何話か前のところに、幕間を挿入投稿しています。
そちらから先に読んでいただけると幸いです。
また、本日は三話投稿になっています。


「——ソフィー……?」

 

いつもよりずっと早いペースで、ソフィーは俺の少し先を歩いていく。

刻む歩幅は、彼女の小さい背丈に比べれば、ずっと大きいもので。

 

「……だから、さっきは普通にクラスメイトの相談に乗っていただけで……」

 

——“あの、ヒトは……?”

 

再び、先ほどのソフィーの表情がフラッシュバックする。

何度説明してもなお、彼女は振り返ることすらせず、立ち止まりもしなかった。

彼女にしては珍しく強情で、いつもよりずっと無口だ。

 

カッカッカッ、と。短い間隔で、彼女の靴がアスファルトを叩く。

ジー、ジー、と。昼も近いせいか強さを増した日差しの中、蝉は鳴き続ける。

幾度かすれ違った学生、微かなそよ風に擦れる木の葉、落ちた蝉は、時々羽をバタつかせる。

 

けれど、そんな夏の喧騒から、どこか抜け落ちてしまったような気がして。

 

今まで経験してきた中でも、よっぽど酷い沈黙だった。

 

アスファルトの照り返しは、相変わらず眩しいはずだったのに。俯いたところで、今の狭まったような視界じゃちっとも気になりはしない。

何だか憂鬱で。そして、不思議でもあった。

 

——なぜ、ここまで強く、彼女のことが気にかかるのだろう。

 

初めて会ったときからずっと、胸にあった疑問。

普段は——梨久を相手にしている時ですら——何かしら取り繕おうとしていたはずなのに。彼女に対しては、なぜか慎重になってしまう。

 

それこそ、友人以上の、もっと近しい相手と接しているようだった。

仮に前世で俺たちが師弟関係を結んでいて、一緒に生活していたとして、それだったらきっと、関係性は家族に近いものだったのだろうか。

だとしても、今の俺にそんな記憶はない。俺——青木 楓という人間にとって、ソフィーはまだ、三日しか一緒に過ごしていない女の子に過ぎない。

 

その点を踏まえれば、不思議なことこの上ないはずだったのに。記憶の残滓というものが実に性質の悪いこともまた、俺は知っていた。

 

どれだけ遠ざかろうとも、夏の残り香はずっと胸に留まり続けていた。

仮にそれと同じものだとして、今もまだ、夢だとか、脳の深層部分だとか、そんなところに前世の記憶が欠片でも残っていて——それが、影響を及ぼしている。そんなことが、あり得るのだろうか。

 

結局、妙に曖昧な答えを抱えたまま、気づけば歩幅は少しだけ広がっていた。

 

考え込んで、俯いている間にも開いていた距離は縮まっていく。

 

そして、もうすぐでソフィーに追いつくかどうかというくらいに、彼女の背中が近づいてきた時だった。

 

「——わかっています」

 

普段よりもずっと遅くなった返答が、ようやく沈黙を打ち破った。

 

「そんなに説明しなくても、問題ありません。別に、カエデとあのヒトが友人であることくらい——わかっています」

 

けれど、返答の中身とは裏腹、まだ、彼女の声音は掠れていた。

何か、取り繕わなければならない気がして。

つっかえそうになりながらも言葉を絞り出そうとしたせいで、一瞬だけできた間。

それに被せてくるようにして、不意に彼女は声を上げた。

 

「……でも、知らないのですっ!」

 

珍しく、それは荒げられたものだった。

そして、彼女が僅かに振り向いた時、俺を映す瞳は、確かに潤んでいた。

それ以上は、何も口にできなかった。

 

「……本当に、知らないのです。カエデに非はありません。声を荒げてしまったことは謝ります。でも——今は、一人で行かせてください」

 

捲し立てるように残りを口にして、彼女はまた背を向けると、今度は、さっきよりもずっと早いペースで駆け出す。

 

——“知らないのです“。

 

一体、何のことを指していたのだろう。

彼女の言葉を反芻し続けても、その意味がわからなくて。呆然としている間にも、差は再び開いていく。

 

その時だった。

ほとんど麻痺したような感覚の中で、辛うじて機能していた部分が、危うさに気づいた。

 

地面を踏む音が、さっきよりもずっと不規則になっていて。

彼女の背中は、歩幅の不規則さについていけず、大きくブレ始めていて。

 

『その——どうしても、以前の背丈だった時のことが、まだ感覚として残っていて』

 

時間にしてみればつい一時間ほど前、彼女が口にしていたことが脳裏をよぎる。

 

 

「ソフィ——っ」

 

 

声をかけつつ、俺も後を追おうとして——でも、その時にはもう、遅かった。

ぐらりと一度崩れた体勢は、俺が声をかけようとも直ることなく、ぴくりと一度声を震わせたのを最後に、呆気なく彼女は転んでしまった。

 

「大丈夫かっ!?」

 

駆け寄り、声をかけてすぐ、彼女は顔を上げた。

けれど、その表情は大きく歪められていて。そんな中でも、彼女は強がるように小さく首を縦に振るのみだった。

 

「……取り敢えず、見せてみろ」

 

背中に手をかけ、体を起こしてみると、真っ先に映ったのは膝小僧にできた擦り傷だった。

それも、相当に大きなものだ。真っ白な肌に対して、流れていく血はなおさらはっきりと映る。

 

表情を見ても、傷を見ても、とにかく痛々しい。せめて、何か塞げるものはないか——と、ポケットを弄っていた時、不意に、たった一つだけ、布の感触が触れた。

それを、そのまま取り出して。

 

「——っ」

 

一瞬、俺は固まってしまった。

赤いリボン。間違いなく、朝、慌ててポケットに捩じ込んでしまったものだった。

 

思わず、息が詰まる。

 

()()()を——忘れたくてもこびりついていたものを、形として明瞭に呼び覚ますもの。

とにかく、視界に入れたくないはずだった。

 

反射的に、それを再びポケットに捩じ込もうとして。

けれど、そうする直前、別の何かがそれを妨げたのを感じた。

 

それは、曖昧で、薄らいでいて、ちっとも輪郭が捉えられないもので。

それでも、伝えてくる衝動だけはやたらと強い。

 

「……応急的なやつ、だけど」

 

痛みのせいか歪んだ表情も、潤んだ瞳も、膝にできた傷も——とにかく、この場においてソフィーを放っておくのだけは憚られた。

半ば、そんな衝動に従うままに。

リボンを傷口に当てるようにして、少しだけ血を拭き取ってから、少しきつめに彼女の膝へ巻き付け、結ぶ。

 

「……少しは、マシか?」

 

彼女は、再び頷いた。

とはいえ、血は布に滲み、まだ十分痛々しさを感じさせる。

 

「……一人で歩くんじゃ、結構痛むよな」

 

彼女は、少しだけ考え込むように、視線を逸らして、それから首を振った。

けれど、同時に強く唇を噛み締めてもいた。

 

「だから、無理はしなくてもいいって。……あんまり、大きく動くなよ」

「カエ、デ……?」

 

そこでようやく声を発したソフィーは、声に困惑こそ滲ませてはいれども、先ほどのような荒げた態度は特に見せなかった。

 

——人をおんぶするのなんて、どれくらいぶりだろう。

 

そんなことを考えながら、彼女の体温を背に、バランスを整えるため、二、三度、足踏みをする。

特に彼女は抵抗もせず、少しばかり慣れていないようではあったけれども、しばらく位置を探すように手を遊ばせ——最終的に、それは肩で落ち着いた。

 

リボンを見た時と同じ。遠ざかった記憶でも、こうして何かがキーになってしまえば、人をおんぶした時の記憶だって簡単に蘇る。

 

本来は、全てが閉じ込めておきたい記憶に紐づいたものであるはずだった。

とはいえ、今は“彼女のため”という目的があるせいか、胸を蝕むものは、普段よりもずっと抑えられていて。

 

師弟関係だとか、家族だとか、恋人だとか——俺と彼女の関係性は、今の俺にはどれでも表せない。はっきりと刻まれた記憶の中で過ごした時間を考えれば、むしろ他人に過ぎないのだから。

 

だが、例え曖昧なものだったとしても構わない。

防衛本能が働いたのか、それとも、ただ上書きしてしまいたかっただけか、それはわからなかったけれど。

今はただ、その残滓とやらに縋っていたかった。

 

「……()()()()、なるべく急ぐから、少し我慢しててくれ」

 

小さな震えと共に、彼女が小さく頷いたのを感じる。

 

額に滲む汗を、軽く首を振って払い、深く息を吸って、俺は歩き出した。



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#14 あなたの背に揺られて。

「……()()()()、なるべく急ぐから、少し我慢しててくれ」

 

その単語を耳にしたのは、一体、いつぶりだったのでしょうか。

少しごつごつとした、背中の感触。それは、私が知っているものよりも、ずっと大きくて。

声も、言語も、あの時とは全く違うものです。

それなのに——その少しだけ舌足らずな響きは、記憶の中に留まっていたものと、全く同じものでした。

 

けれど、今のが何か、なんて聞いたら、きっとカエデは慌てて否定するはずです。

口振りから察するに、本人も気がついていないようでしたから。

その響きは、胸の中に留めるだけにしておきます。

 

「歩道橋渡るから、ちゃんと掴まれよ」

 

少しだけ、揺れが大きくなります。

それに応じるようにぶらぶらと足が揺れ、カエデが足に巻いてくれたリボンが、僅かに風に靡きます。

これくらいの傷だったら、魔法で治すことだってできたはずなのに。

 

——結局、私はその選択肢を取りませんでした。

 

非合理的なのは、確かに理解しています。

怪我を治すべきなのはそもそも当然で。そうすれば、カエデを疲れさせてしまうことだってありません。

 

けれど、合理性すらも無視してしまうくらいに強く、胸で燻るものがありました。

 

本当に、不思議なことばかりです。

なぜ、カエデが他の女性と話していただけで、胸がちくちくとして、焦ってしまったのでしょうか。

なぜ、カエデのちょっとした一言で、ここまで心臓の鼓動が早まるのでしょうか。

 

ここに来る前——()と暮らしていた頃、初めて気づくことのできた鼓動は、以前よりもずっと鮮明に感じられるようになっていました。

——ああ、今、強く拍を刻んでいるんだ——なんて。

それに気づくと、途端、頬は紅潮します。

 

一人でいた時には感じなかったものを感じて、勝手に頬が紅潮して、胸の鼓動がさらに強まって——未だ確証は持てませんが、これが、()()、なのでしょうか。

しかし、だとしたら、なぜ人がそれを欲するのか——それが、まだわかりません。

 

どきどきしている時も、焦れている時も、どんな時だって、いつもよりずっと疲れます。

感情の起伏の激しさも、それが行動に現れてしまうところも、全てにおいて非合理的です。

 

けれど、それを知りたい、と。

私は請うてしまったのです。

本を前にしても、いくら文字列で脳を満たしても、理解できなかった()()を。

 

「……カエデ、ありがとうございます」

「……どういたしまして。もう少しで着くからな」

 

ここに来た目的は明瞭です。

()()のためだけじゃないということは理解しています。

 

それでも、もし知ることができるのなら、知りたいのです。

この胸の鼓動が、頬の紅潮が、()に向いていた感情が、行き着く先を。

 

前提の前提、最初の条件は整いました。

 

一度は消えた温もりと——たとえ今の間だけであろうとも——また、私は一緒です。

 

一方的であろうとも、歪であろうとも、どんな形であっても構いません。

 

 

——()()を、知りたいのです。

 

 

その欲求は、未知を求め、既知に変える直前と似ているようで。

また、非なるものでもあるような気がしてなりませんでした。



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#15 魔女様とパートナー

「……けっこう、練習した方だと思うんだけどな……」

 

自分より頭二つ分くらい低い場所で結わえられた髪。それを纏め上げているリボンから手を離す。

かれこれ練習して二週間。急なお願いに応えるために、かなり頑張ったつもりだ。

遂にやって来た当日に際して、かなり気を張りつつも髪を編んで——。結果として、ハーフアップとしての形は確かにできた、けれど。

思っていたよりも、編んだところの綻びは大きくなってしまった。

 

「……なあ、これでほんとに大丈夫、なのか? 七五三、大事だぞ?」

 

「……ん? わたしはこれでじゅーぶん、だと思うけど。むしろ、いいカンジじゃない?」

 

しかし、俺の抱えていた不安の大きさに対して、目の前の表情は、実にきょとんとしていた。

口調も案外あっけらかんとしたもので。何だか、こちらまで気が抜けるのを感じる。

 

「……意外と、適当なんだな」

「テキトウじゃないよ。でも、ママのお願いだよ? それにそれに、ゼッタイいいっていうとおもうしっ!」

「……それじゃ、一回見てもらうか……?」

「うんっ!」

 

自分より二、三回りは小さいだろう手が俺を引っ張っていく。

力こそまだ弱くても、勢いだけは十分だ。あまり距離のない廊下を進んでいって——二人、ドアの前に立つ。

 

「ママ、この髪型ねっ!」

 

それが開く直前だった。

 

 

突如として、繋がっていた手の感覚も、肌に触れていた暖かい空気も——何もかもが消え失せて。

 

 

「——なっ」

 

 

視界が、黒く塗りつぶされた。

 

慌てて何かに触れようと手を伸ばす。けれど、どれだけ動かしても、指先が何かに触れることはなかった。

肌には何も感じない。空気ですら、そこにあるのかもわからない。

 

床なんてものは、とっくに消え失せていた。

それでも、失せた平衡感覚じゃ、浮いているのか、落ちているのか——なんて、ちっともわからなくて。

いや、むしろ、その場に自分が溶け込んでいくような感覚だ。

 

なぜ、こんなところにいるのだろう。

どういう経緯を辿って? そもそも、今まで知覚していたものはなんだった?

 

 

——俺は、一体……?

 

 

問いかければ問いかけるほど、更に思考が薄まっていくのを感じる。

 

不明瞭になった境目。空間に浸った全身。

 

そのまま、身を任せようとした時だった。

 

四方八方が黒く塗りつぶされていた中、不意に体がただ一点に引き寄せられたのを感じた。

 

そこにあったのは、一つの手だった。

 

迷わずそれを掴む。

 

温くて、柔らかくて、確かに鼓動を刻んでいて。一つ一つ、認識できるものが増えて——。

 

 

「——カエデっ!」

 

 

一瞬にして、膨大な情報量が俺を襲った。

クーラーが送り出す冷気、横たわっていたらしいソファーの反発力、少し身動きをとってみれば、ささやかな衣擦れを耳が拾って。

広がった視界に映るのは天井と、視界の端にチラリと映るガラス戸とソファ。そして、俺を見つめる青い瞳——ソフィーが、すぐ目の前にいた。

 

「……俺、どうなってたんだ……?」

 

俺の手をぎゅっと包む、真っ白なソフィーの手。

それは、小刻みに震えていた。

 

「——うなされてた、みたいで……。何度も呼びかけましたが、全然、起きなくて」

「……そっか。ありがとな、起こしてくれて」

 

確かに、記憶を手繰ってみればソフィーをおぶって家に帰ってきて、手当てをした直後、どっと疲労感が襲ってきて、そのまま寝てしまったような気がする。

空は、既にオレンジに色づきだしていて。どうやら、相当な時間寝ていたらしい。

しかし、うなされていたとはいえども、どんな夢を見ていたのかなんていうのはちっとも思い出せない。

度々あることだ。それならきっと問題ないだろうと、身を起こす。

 

「——っ」

 

直後、強い脱力感が俺を襲った。

そのまま倒れ込んだ体を、再びソファーが受け止める。

 

「カエデっ!? どうしたのですか!?」

 

すぐにソフィーの不安げな声が聞こえてくる。

しかし、脱力感は一瞬だけのものだったようで。

ソファーの端を掴みながら、ではあったけれど、次は身を起こすのに成功する。

 

まるで、緊張から解放された時に訪れるような、一抹の安心感。

さっきの脱力感はそれに近いものだった。

相も変わらず内容は思い出せないが……そこまで、夢の中じゃ気を張っていたのだろうか。

 

ただ、今はその内容について考えるよりも先にソフィーを安心させた方がいいはずだ。

彼女に向き直り、口を開く。

 

「多分、怖い夢を見て腰が抜けただけだ。安心してくれ」

「……であれば、よかった……です」

 

どうやら、うなされていたことも含めて、想像以上に心配させていたらしい。

ソフィーまで、気が抜けたようだった。

すっかり安心したような間伸びした声で彼女は答える。

 

「……そういえば、怪我は?」

「ええ。カエデが治療してくれたおかげで、今は痛くありません」

 

膝のガーゼを撫ぜながらそこまで言い切った後だった。彼女は僅かに俯いて。

 

「……ただ、その——」

 

そののち、神妙な面持ちで言葉を顔を上げると言葉を継いだ。

 

「——さっきは、ごめんなさいっ! カエデっ!」

 

彼女の頬を伝った水滴が、繋がったままでいる手に落ちて僅かなシミを作る。

ソフィーは、泣いていた。

 

「ちょっ、ソフィ——っ!?」

 

宥めつつも、理由を少しばかり考えて——はた、と。転ぶ直前に彼女が口にしていた言葉が脳裏をよぎる。

 

『——でも、知らないのですっ!』

 

“知らない”と。彼女にしては珍しい言葉。

 

「……別に、気にしてないよ。危ないから気をつけては欲しいけど」

 

それから走り出したということは、きっと何か関係しているのだろう。

ただ、どういう意味で発した言葉なのか。それがイマイチわからない。

 

「ところで——さっきの“知らない”って、あれは何に対して、だったんだ?」

 

そう聞くと、僅かに顔を上げて。

少し考えるように首を傾げながらも、彼女は答えた。

 

「……私も、わかりません。ただ、妙に胸がちくちくして……焦れて……初めて、でした。……こういうの」

 

彼女自身、当惑しているようだった。

その声音は、いつものように断定するような節は感じられず、むしろ、消え入りそうなもので。

彼女自身にもわからないなら、困ったな——と。少しばかり、俺も頭を抱えそうになった時だった。

 

『——あの、ヒトは……?』

 

不意に、彼女が口にしていた言葉とあの時の彼女には不釣り合いなくらい速い歩調が脳裏をよぎった。

確か、三浦と話していたところをソフィーに見つかった直後だ。

そういえば、彼女の唐突な行動や言動は、あの時だけじゃなかった気がする。

服を着せた時も、映画を見終わった時も——すぐ、()()に結びつけようとしていた。まるで焦っているかのように。

 

「……なあ、ソフィー。()()は、未知か?」

「……未知……です、けど……」

 

この三日間で、ソフィーの未知に対する姿勢は、十分、理解していたつもりだった。

すぐに飛びついて、知識を入れて、既知へと変えようとして。それを、一刻を争うように実行しようとする——。

()()に対する姿勢もまた、似たようなものだ。

一つ一つ状態を照らし合わせ、しつこいほどに()()かと聞いてくる。

 

「だったらさ、()()に対して、ソフィーが急ぎたいのもわかる。未知、放っておけないもんな」

「……ええ」

 

どこか、思い当たる節はあったのだろう。

淡々と、彼女は頷くばかりだった。

 

 

「……でもさ、焦らずに行こう」

 

 

その時、瞳が真っ直ぐこちらに向けられた。

ぱちり、と。物珍しいものでも見たかのように一度瞬きをして。けれど、視線だけは変えることなく、ずっとこちらに向け続ける。

 

「……焦らず、ですか?」

 

「ああ。()()が何か、なんて。時間がかかって当然だよ。実際、定義なんて何にも書いてないんだから。自分たちで探さなきゃいけない分、大変に決まってる」

 

「……時間は、かかって当然……」

 

一言一言、飲み込むように彼女は口元で言葉を反芻する。

 

「……言ったろ? 手伝うって。一人じゃフォローしきれないんだったら、頼ってくれて良いって」

 

「……でも、それは背丈のことだけでは」

 

「まあ、あの時はそうだったけど——これはこれ、だ」

 

「では……本当に、()()の究明に、付き合ってくれるのですか?」

 

また大きく目を見開いて彼女は聞いてくる。

頼み事一つや手伝い一つ。今までのものは大したことがなかったが、今回の——恋することの重みは、俺にだってわかる。

 

けれど、彼女に惹かれた。

彼女のことが、強く気にかかった。

誰かに対して、初めてそんな気持ちを抱いたのもまた事実だ。

それが本当に彼女の言う()()なのか、未だ確証は持てない。

 

でも、それはきっと言葉で表せるほど理性的なものではなくて。

半ば、奥の奥に根付いているもの——それこそ、魂だとか。最初に彼女が魔法と一緒に見せてくれたいくつもの光のように、捉えどころのないものなのかもしれない。

 

とにかく、その手を取れ、と。

強く、何かが訴えかけてきていた。

 

「——付き合うよ」

 

言葉が口を突いて出て。

俺は、彼女の手を取った。

 

「カ、カエデ——っ!?」

 

当惑しているかのような声を漏らしつつ、彼女は何度も瞳を瞬かせる。

けれど、何度かの深呼吸ののち、やっと落ち着いたのか。十数秒してから、もう一度こちらを見据えて。

 

「……そう、ですね。そうです。……()()()()()として——よろしくお願いします。カエデ」

 

幾分か綻んだ表情で、彼女は頷いた。

それは、図書館の時のかしこまったものではなく、もっと近しいもので。

それでいて、彼女らしい、はっきりとした態度だった。

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

「……もう、こんな時間ですか。晩ごはん、そろそろですね」

「確かに。あっという間だったな」

 

もう、日はほとんど沈みきっていて、空はオレンジを通り越し、夜が近づいてきていた。

そんな時間帯になれば、どんなに色々と詰まった一日だったとしても、腹の虫は鳴るもので。

 

「……ありあわせしかないけど、今日はどんなのがいい?」

「……いえ。カエデは疲れてるでしょう? それに、()()()()()として、互いに分担はしなければ。今日の料理は、私がやりますっ」

 

そう胸を張って宣言すると、ソフィーは小走り気味にキッチンの方へ向かってしまった。

 

それじゃあ、全部任せるか——とも行かず、どこか一抹の不安に駆られて、俺も立ち上がり、キッチンに向かおうとした時——。

 

テーブルの上に、折り畳まれた状態で、リボンが置いてあった。

 

反射的にそれを取ってすぐ、ポケットに捩じ込む。

 

「カエデ? どうかしましたか?」

「……い、いや……なんでもないよ」

 

気取られぬよう、幾分か高いトーンでそう答えると、俺は先ほどポケットにしまったものを忘れるために、首を振って。

ソフィーが待つ、キッチンへと向かった。



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#16 魔女様の手料理は、口にするには少し苦い。

「うぇ……」

 

目が覚めてすぐ、喉につかえたような不快感に、思わず顔を顰める。

昨晩、ソフィーの手料理とやらを味見して悶えたのは、未だ記憶に新しいものだった。

 

何せ、火加減にせよ調味料の分量にせよ、何かを学ぶ姿勢に関しては丁寧な癖して、家事に関しては適当なのだ。

焦げてて苦いし、調味料の入れ過ぎでしょっぱいだの甘いだの——堪能することになったのは、あまりにも暴力的な味わい。

しかし、それを普通に食べる彼女の手前、残すことは躊躇われたため、鶏肉を丸焼きにした割には随分と黒々とした得体のしれない不吉な物体を完食したのち、色々と耐えかねて、そのまま昨日は寝てしまった。

 

瞼を開けてみれば、カーテンを貫き、日差しは真っ直ぐこちらにまで届く。時計を確認してみればもう10時。日は、大分高くなってしまっていた。

夏休みらしい睡眠時間だな、と体を起こし、軽く伸びをして——その時、俺は異臭が部屋中に立ち込めていることに気がついた。

ふと、布団の方へ向けてみた視線。そこにいないソフィー。

 

……おおよそ、察してしまった。

 

「——カエデっ! おはようございます。朝ごはん、もう少しで完成しますから、少しだけ待っていてください」

 

キッチンに向かってすぐ、出迎えてくれたのは少々ぶかぶかなエプロンに身を包んだソフィーだった。

 

「お、おはよう……ソフィー……」

 

その点だけに注視すれば、至極微笑ましい光景だ。

朝ごはんを誰かが作ってくれる、というのは時短にせよ、偏りがないという点にせよ、ありがたい話だし、着られているような形でも、意外と彼女にエプロンは似合っている。

ただ、それよりも遥かに視線を持っていく光景——背後で起きていたのは、かなり凄惨なものだった。

 

「ところで……それは……?」

「米飯とシャケ、今作っているのは“ミソシル“です。昨日教えてもらった調理器具の説明と、カエデの工程を参考にして、()()()()()使()()()()作ってみました」

 

ぐつぐつと煮えたぎり中身がこぼれかかっている鍋、水を増やしすぎたのか、べちゃべちゃに炊けてしまった米、それと相変わらず焦げた鮭。

冷静に考えてもみれば、昨日は何だかんだ意識が別の方に向いていて、それこそ調理器具の使い方だけ、だとか。最低限しか彼女に料理のやり方を教えてやれなかった気がする。

これがその産物だとすれば、半分は俺の非だ。

 

「……よし、ソフィー。一緒に作ろう」

 

引き出しから取り出したもう一着のエプロン。普段よりも気合いを込めて、紐を結び、今度こそ正装で彼女の前に立つと、俺は宣言した。

 

「俺が——()()を教えるよ」

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

「……苦い、な」

 

味噌汁を掬って一口、アクの強さに思わず顔を顰める。

米は辛うじてちょっと食感の悪いお粥として食べられないこともないため、良いとして——問題は、鮭と味噌汁、この二点にあった。

 

「——そもそも、出汁ってとったか……?」

「……ええ。魚を入れればよかったのですよね? きちんと、調理前のシャケでとっておきました」

 

胸を張って彼女は答える。

……なるほど、道理で割と名状し難い風味だったわけだ。

 

「一応、我が家——っていっても、俺だけだったけど——出汁は煮干しからって決めてるんだ。ほら、これ」

 

まな板の上にいくつか煮干しを散らす。

それを、なんとも言えない目でソフィーは見つめていた。

 

「……なんだか、この目、怖くないですか?」

「……まあ、死んでる以上、それはしょうがないよ」

 

ぎょろりと飛び出ていて、干からびた生気のない幾つもの瞳——言われてみれば、確かにそう……なのかもしれない。

 

「あんまり、干物とかって見たことないのか?」

「魚に関しては、そうですね。森に住んでた以上、入手できることも稀でしたし」

「じゃあ、丁度いい機会かもな。はらわたって言って——お腹の辺り、内臓とらないと、出汁をとった後が苦くなるんだ。取り敢えずやってみるか」

 

まずは一度手本だけ見せたのち、ソフィーに包丁を手渡す。

意外と——というべきか、想像に違わず——というべきか、その手つきは相当に危なっかしいものだった。

 

「カエデ——っ! こっち、睨んでますっ!」

「睨んでない——睨んでないからっ!」

 

ついでに、煮干しに対する恐怖心も健在。

一匹目は頭しか残らず、二匹目は頭と尻尾のみ、胴体はほぼ残らず。三匹目にしてようやく背骨一つで繋がった時——俺は安堵のあまり、思わず息を吐いてしまった。

 

「カエデ……なんとか、できました……」

「……お疲れ様、ソフィー。本当に——本当に、よくやったよ」

 

下準備の出来上がった煮干しを鍋に投入していく。

幾度となくやってきた作業のはずなのに、今日は一匹一匹がやたらと感慨深く思えた。

いくつもの干からびた瞳を見送って。それから張っておいた水と共に火にかける。

 

「……それにしても、で——カエデは手際がいいです。どこで……そんなに練習したのですか?」

 

豆腐やら、わかめやら——若干、簡素ではあるけれど、包丁を譲ってもらい具材を切っている途中、後ろでじぃっと観察していたソフィーが、ふとそんなことを聞いてきた。

 

「どこで……って、聞かれてもな。別に、昔からなんとなく好きだっただけだし」

 

何故だか、昔から料理はできなければ——という観念に駆られていた。

単に、この工程が好きだったからというのもあったのかもしれないし、もっと他の理由があったような気もする。

 

「……そういえば、自分で作ったものしか安心して食べられない時期があったんだよな。……まあ、変な話だけど」

「自分で作ったものだけ——そう、なのですね……」

 

思い返してみれば尚更、不思議な話だ。ソフィーは、妙に考え込んでしまっていたけれど。

そんなことを頭の片隅でぼーっと考えている間に、具材のスタンバイは済んでいた。

これは出汁が取れるまで待機させておくとして——まだ一番の問題が、目の前に残っている。

 

——真っ黒焦げになったシャケ。

 

それは焦げているどころか、ほとんど炭になりかけていて。

多分、根本からして料理——とは形容し難い。何かが間違っている気がする。

 

「……ソフィー」

「は、はいっ。次は——なんですか?」

 

一気に思考が引き戻されたのか、弾かれたように返答するソフィー。

彼女に、ことの重大さを説明するため、なるべく普段より声を低くして、俺は、一言口にした。

 

「ここからが——正念場だ」



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#17 魔女様と平穏な一日を。

「シュショク、シルモノ——そして、“シュサイ”……つまるところ、これが一番大切、というわけですね?」

「……まあ、そう……だな。そこまでわかってるなら、話は早いんだけど……」

 

目の前にはさらに二尾、丸焦げになったシャケが並んでいた。

最初の二尾と合わせて四尾。備蓄していた分の三分の二、残るはもう二尾しかない。

 

『一度目はまだコンロの使い方に慣れていなかったからですっ! 魔法を使えば、これぐらい……』

 

ソフィーもソフィーでどこか意地になっていた節はあったのだろう。

颯爽と取り出したる杖を構え、彼女は何やら唱え、杖先に炎を灯した。

それを、シャケに近づけるなりして焼こうとしているのかと思っていたわけだが……あろうことか、彼女はシャケに向かって直に炎を放ってしまったのだ。

別にフランベしてるわけでもないのに、フライパンの上で火を吹き出し続ける二尾のシャケ。

結局、火災報知器が鳴らなかったことと、それなりに早く鎮火してくれたのは救いだった。

 

「……やっぱり、魔法は禁止にしよう。最初のソフィーの方針は正しかった」

「むぅ……少し残念ですが、仕方ありません」

 

直後、再び彼女は空中に杖をしまった。

興味が生んだ敗北だ。彼女——というより、興味に駆られて止めなかった俺に非があった。

まともな舵取りは大事だ。

 

「……取り敢えず、次が最後、だな。心してかかろう」

「最後……だと、どうなるのですか……? もしや、食糧不足、とか……?」

「……主菜がなくなる。ちょっと——というか、結構味気なくなるぞ」

 

実際、普段学校に行っている時は食パンだとか、菓子パンだとかで料理すらせずに済ませているわけだが、夏休み特有の膨大な時間を費やして、ここまで半端に主食と汁物を揃えた上で主菜が無くなるのは案外キツイ。

結局は、中途半端なのが一番やりきれない気持ちになるのだ。

 

「……それじゃ、投入するぞ」

 

油を引いたフライパンにシャケを二尾。

心なしか、普段よりも表面を覆う脂のツヤが良いように思える。

それだけ俺の脳内フィルターを通した視界の中では、こいつらが重要だということなのだろう。

 

「ソフィー、まずは中火だ。ツマミを真ん中まで回せ」

「は、はいっ」

 

ソフィーの小さな手が恐々といった様子で、ツマミを操作する。

しかし、点火はせず。ギィと音をたて、ツマミだけが空回りしてしまう。

 

「押し込みながらじゃなきゃダメだ。一緒にやろう」

「了解しまし——って、カエデっ!?」

 

ソフィーの手を覆うようにしてツマミに触れ、押し込みつつ一息に真ん中まで回してしまう。

少し大きすぎるような気もしないけれど、幸い点火には成功した。

 

「今の力加減だ。わかったか?」

 

これで、ある程度感覚は掴めただろう。

説明も兼ねて、ソフィーの方を向く。

 

「……あ、そ——そう、ですね……あの、カエデ……」

 

しかし、彼女は何故だか顔を真っ赤にさせていて、少しばかり籠ったような声で返答する。

端的に形容するなら、恥ずかしがっているようだった。

一体、何に……と、思い当たる節を探そうとして——。

 

「……いきなりは、その——こどうが……強まります」

 

さほど気にしてはいなかったけれど——ついさっき、ツマミを回す時にやったことを、俺は思い出した。

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

「あ、油、跳ねてますっ!」

「それぐらいだったら、エプロンが防いでくれるから大丈夫だ——ほら、もうすぐ焼き上がるぞ」

 

両面、いい具合についてきた焦げ目。

恐々といった様子でトングを手に持ち、取っては落とし、取っては落とし——おおよそ察せていたことではあったが——ソフィーは、トングを扱うのが苦手らしかった。

 

「もう少し、力を込めた方がいいかも。ほら、こうやって——」

 

彼女の手の上からトングを扱おうとして——はたと気づく。

 

「いや、やっぱりソフィーが自分で……」

「……いえ、今回はいきなりじゃないので大丈夫、です。お願いしますっ、カエデ」

 

しかし、彼女は先ほどの出来事はお構いなし、なのかトング共々自身の手を押し付けてくる。

 

「わかった、やる——やるから——っ!」

 

意識してしまったらもうおしまいだ。

半ば思考を空っぽにするようしながら、なるべく手を大きく開き、トングだけに触れることだけを意識して。

変な汗を垂らしながらも、一尾、取り敢えずは皿に移動し終える。

そうして、一息吐けたのも束の間。まだもう一尾残っている。

さらに、慎重に、慎重に——トングに微妙に力を込める。その時だった。

 

「——っ!」

 

いくら手の大きさにそこそこ差があるとは言えど、全く触れずにことを行うには無理があった。

一瞬触れた、柔らかい感触。手と手が触れたのを感じて——俺は、思わず力を緩めてしまった。

 

——べちゃり、と。

 

テカった脂が、妙に眩しい。

俺は、最後の一尾を取り落としてしまった。

崩れた切り身、目はなかったけれど。どこか恨めしげに、こちらを睨んでいるような気がした。

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

「カエデが食べてくださいっ! これは私のミス、ですし」

「……いや、ソフィーが食べていいよ。俺にはこれがあるから」

 

お粥と味噌汁。ちょこんと米の上に乗っかった梅干し。

 

「それは……主菜の代用になるもの、なのですか?」

「まあ、一応は」

 

少なくとも、味付けには十分だ。これが昼飯も兼ねていると思うと——まあ、少々質素には思えるが、仕方がない。

 

「私も一つ、味見してみても構いませんか?」

「……ああ、どうぞ。ただ、気をつけろよ」

 

俺の言葉の意味が理解できなかったのか、少し彼女は首を傾げて。

それでも、一つ口にしてすぐ、その意味を理解できたようだった。

 

「これ——酸っぱいです——っ!」

「……既知が増えたな」

「増えましたけど——っ!」

 

どこか抗議するような彼女の視線を尻目に、ほぐした梅干しと一緒にお粥を掬う。

そのまま、口を開けた時だった。

 

「——んぐっ!?」

 

先に口の中で広がったのは、溢れる脂と旨味、あとは少々の苦味、だった。

間違いなく、お粥のものではなくて。

 

「あーん、ですよ。さっきのお返し、です」

 

すぐ目の前にあったのはフォークと、してやったりとばかりに誇らしげな顔をするソフィー。

口の中に含まれた物体は、どうやらシャケの切り身らしくて。

 

——俺は、彼女に何をされたのか理解した。

 

「カエデ……? カエデ……? どうしたのですか——っ!?」

 

ソフィーのせいだよと、口にするのは簡単だったけれど、恥ずかしさのあまり、俺も口を開けなくて。

 

「んぅ——っ!」

 

彼女自身もまた、今しがた自分がした行為の大胆さに気がついたのか、顔を両手で覆い、俯いてしまった。

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

「なんだか、今日は長かった——です」

「何もしない日なんて、そんなもんだ」

 

暗くなりかけた空に視線をやりながら、俺は読みかけていた漫画を閉じた。

実際、夏休みの大半というのはこういう風に消化されるものだったと思う。

朝、遅く起きて。遅めの朝食を摂って、夕飯までダラダラして。風呂を浴びてまた、夜遅くまでダラダラして。

むしろ、昨日までの三日間の方が妙に忙しかっただけだ。

 

「どこか、行きたい場所でもあるのか?」

「……言われてみると、出てきません」

 

彼女の返答に頷きながら、カレンダーに記された、今日の日付にバツ印を付けておく。

まだ残っているのは三十日以上。むしろ、残りすぎていてどう消化していくか、毎日考える方が難しい。

 

むしろ、少々億劫にも思えてくる。

まあ、これぐらい平穏な方が贅沢なのかもしれないが——なんて考えながらソファーに戻る手前、不意に、ポケットに入れていたスマホが震え出した。

画面目一杯に表示されていたのは、『如月 梨久』と。平穏さとは全く無縁に思える四文字だった。

 

『なあ楓、明日って空いてるかっ!?』

「……土曜日じゃん。どうした。何かあったのか?」

『撮影開始、来週からって言ったけど、明日、用ができたから集合な! じゃ、よろしくっ!』

 

何か抗議しようとする前に、勝手に通話は切れた。

おおよそ、こちらの声音に含まれた気怠さでも感じ取ったから、とかだろう。実に彼らしいやり口だ。

 

「あ、カエデ、そろそろ夕飯にしましょう。コツが掴めてきた気がするので、今日も私が作りますね」

 

ソファーのところに戻ると、既にソフィーはエプロンに着替えて、準備万端と言った様子で待ち構えていた。

 

「……一緒に、な」

 

とてとて、と。あっという間にキッチンに向かってしまったソフィーを追いかけながら、ふと、俺は考えてしまった。

 

明日、俺が学校に行っている間、ソフィーにはどうしていてもらおうか、と。



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#18 魔女様は着いて行きたい。

「——カエデ。今日は早起きですね?」

 

蛇口から流れる水を掬い上げ、顔に浸す。

一日崩れたサイクルを元に戻すのも大変なもので、普段と同じ六時半起床のはずなのに、やたらと眠気は残っていた。

汗ばんだ肌を冷ますのに冷水はもってこいだけれど、目に滲みるのは清涼感だけじゃ済まされない、多少の痛みも伴っていた。

幾度か瞬きをしつつ、多少ぼやけた像の中で、ソフィーに向き直る。

 

「……学校に、呼び出し食らったからな」

「呼び出し——補講に近いもの、ですか?」

「いや、違うけど……。そういえば、そっちにも学校ってあったのか?」

「……ええ。一応は」

 

そこで、多少彼女は言葉を濁した。

声の調子から察するに、顔も顰めていそうだ。まだ視界が滲んでいるせいで、表情はよく捉えられなかったけれど。

 

「ところで……いつ帰ってくるのですか?」

「うーん、結構長引きそうだし……夕方とか、かな」

 

映画鑑賞からのレポート作成。はなっから活動時間は無視、終了は最終下校時刻スレスレ。

スパルタ——と言うか、妙なベクトルに突っ走った同好会だ。

そして、いつもの活動だけならまだしも、梨久が俺を呼び出した理由はおそらく夏休みに撮りたいと言っていた映画撮影に関することだろう。

であれば、相当に覚悟はしておいた方がいい。

少しばかり短めに見積りつつも、そう答えた時だった。

 

「……随分と、遅いのですね?」

 

かなり不機嫌そうな声音が、鼓膜を突いた。

そして、すっかり視界も晴れた以上、ソフィーの膨れっ面までしっかりと捉えることはできていて。

感覚的に、次に来る言葉を俺は察した。

 

「私一人じゃ、昼ごはんもままなりませんし……カエデ、私も学校に連れて行ってください」

「……それ、どこまでが建前だ……?」

「建前なんてあるわけないでしょう? 違わず本心です。それに——この世界の学校というものにも、少しばかり興味はありましたから」

 

普段よりは少し大人しめだけれど、確かに興味を孕んだ声音。

そして、次第に下がっていく声のトーン。

 

「……魔法で何とかなるのか?」

「大概のことには対応できますから。それに——カエデの親戚、という設定であれば、ある程度は立ち回れるでしょう?」

 

正直、かなり不安はあった。

何せ、彼女は感情を隠すのが苦手な部類だ。それも、人混みなら特に。

夏休みの学校である以上、多少は人も少ないだろうが、それでも部活動やら何やらで結構な数の生徒が出入りしている。

けれど、それ以上に一昨日の図書館での一件もあった以上、これ以上、彼女に膨れっ面を続けさせるのもいけない気がした。

ともすれば、結論は出てしまった。

 

「……上手く、立ち回ってくれよ?」

「当然です。今回こそは上手にやります」

 

先ほどまでとは一転、自信に満ちた声。

案外、大丈夫なのかもしれない。きっと、そうに決まってる。

何とか自分を納得させて。俺は彼女を外に連れ出した。

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

「何を……してるんだ……?」

 

確かな納得と共に、ソフィーを連れ出したはずだったのだけど。

先ほどから、彼女は校門の影から中を伺っては、すぐに戻る、といったことを繰り返していた。

 

「だって……人、多いじゃないですかっ」

 

少し丈の長いジャージの袖を握りしめ、ふるふると体を震わせながらも、彼女は今にも消え入りそうな声でそう口にする。

確かに、校門周りは部活動で来たらしい生徒、グラウンドからは既にランニングの掛け声らしきものまで聞こえていた。どうやら読みは当たったようだった。

 

「……大丈夫だって。貸したジャージがあるから、一見、他校の生徒には——」

「それでもです——っ!」

 

少しだけ裾のあたりを調整したとはいえ、かなり——というか、相当に今の彼女が来ているジャージはブカブカだ。

それでも、まだ誤魔化しは効いただろう。少なくとも、本人が挙動不審にさえなってなければ。

 

「……取り敢えず、一旦落ち着こう。このままじゃ校内にすら入れないぞ?」

「んぅ……そう、ですけど……」

 

よっぽど彼女にとっては悩ましい問題なのだ。

震えは止まないまま、声のトーンも安定しない。今度は小さく、そう呟く。

そして、それはよっぽど目立つもの——だったのだろう。

 

「……こんなところで何やってんだ、楓」

 

軽く、肩を叩かれて。振り向くと、そこには梨久がいた。

腕時計を確認すると、多少集合時間を過ぎていた。

重役出勤というよりかは、単に遅刻しただけなのか。

土曜日に人を呼びつけておいて遅刻——実に彼らしい、のかもしれない。

それに関していくつか問いただしたいことがあるのは、慣れがあるから伏せておくとして。

俺は、素直に事情を説明した。

 

「……いや、ちょっとソフィーが日本の学校を知りたいって言ってたから、連れてきた」

「……部外者連れ込みか……大胆なことを。ま、それは置いておいて……親戚ちゃんは緊張している——ってところか」

 

梨久の観察力を持ってすれば、事細かに説明するでもなくソフィーの状況というのは把握できるものだったらしい。

一瞬、彼が顔を近づけたことによって更に顔を引き攣らせたソフィーから一度距離をとって。

それから、彼は不意に俺の手を掴むと、駆け出した。

 

「ちょっ、何を!?」

 

慌てて崩れたバランスを修正しながらも、彼に伴って仕方なく俺も駆け出す。

 

「後ろ、見てみろって」

 

そこには俺たちを追いかけて、なのか。相変わらず表情を引き攣らせたままでも、とてとて、と。何とか校門を通り抜けたソフィーがいた。

 

「考えるだけ、長引くからな。それに、彼女みたいなタイプだとそれが顕著だ。俺の持論だけど」

 

校舎まであと半分ほど——ということまで来てから、ようやく梨久は俺の手を離した。

間も無くして、ソフィーは追い付いた。

 

「……急、すぎます——っ」

 

少々息を切らしながらも、少し細めた目を梨久の方に向ける。おそらく、睨みつけているつもりなのだろう。

当の睨みつけられた本人は、何も気づいていなさそうな表情をしていたが。

 

「……まあ、とにかく入れたんだから、結果オーライってことで……」

「それはそれ、です……けど」

 

最初は、少しばかりの膨れっ面。機嫌の悪そうな声音。

 

「ここがカエデの学校、ですか……」

 

けれど、次第に興味が膨れ上がって来たのだろうか。

いつの間にか、表情は緩んできていた。

 

「ああ。だけどな、ここだけじゃないぜ? 着いてこいよ。とびっきりを見せてやる」

 

少々キザな文言を口にしながらも、梨久は俺たちに背を向け、先を行く。

そして、不覚にも——といった具合ではあったのだろうけれど。

 

「……とびっきり——ですか……っ!?」

 

どうやら、彼女は見事にその言葉に食いついてしまったようで。

 

ソフィーは一層輝かせた瞳を、こちらに向けた。



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#19 魔女様にとって、興味と恐怖は紙一重。

「“エーガ“ですか……っ」

 

少し上ずったような響き。それはソフィーが感嘆と一緒に発する声と確かに似ていたけれど、確かに非なるものだ。

元物置部屋だった部屋は、三人で入る分にはやはりぎゅうぎゅう詰めにならざるを得なかった。

そして、この部屋の大半を占めている厚みだけはあるブラウン管テレビと、大量のDVDやら私物のカセットやらを前にして、ソフィーが発したのは、決して感嘆の声ではなく——明らかに恐怖を孕んだ——それこそ、前にホラー映画を見た時に間近で聞いた悲鳴と似たようなものだった。それは、彼女の映画観を図るには十分すぎた。

 

「……落ち着け、別に執念深い魔女様なんてここにはいないぞ? ……いや、やっぱりいるか」

「——っ、どこに……っ」

 

少々彼女のことを茶化したつもりだったものの、それは逆効果になってしまったようだった。

瞳を見開き、周囲を警戒するように彼女は視線を右へ、左へ、と巡らせている。

その上、ジャージの袖までぎゅっと握り締めていた。

晩に寝付けなくなっていたぐらいだ。そりゃ、結構トラウマにもなっていたのだろう。

 

「……親戚ちゃん、映画が嫌いなのか?」

 

そして、流石に彼女のピリピリとした様子は伝わっていたらしい。不意に梨久がそんなことを聞いてきた。

 

「……いや、彼女、映画見たことないらしくて。最初にホラー映画見せちまった。多分、そのせいだ」

「映画見たことないって……珍しいな。ちなみに、何を?」

「確か……火炙りされて死んだ魔女の怨念が襲ってくる……みたいなヤツだったな」

「『キャスト・アンデッド』か。アレは演出が光ってたからな。一人一人追い詰められていく様子とか、普通に鳥肌もんだったよ」

 

雑な説明だったものの、特に間を置かずとも彼は作品名を当ててきた。

相変わらず脳内映画データベースの濃密さにだけは敬服せざるを得ない。

 

「……んで、それならここにもあるけど……」

 

しかして、行動の早さもまた彼の特徴だった。

カセットやらDVDやらがぎっしりと詰まった棚から迷う素振りなく見覚えのあるパッケージを取り出すとこちらに見せてくる。

吊された死体の前に立つシルエット——確かに、見覚えがある。

その時、ひゅっと。ソフィーが短く息を吸ったのが伺えた。

 

「……カエデ……っ」

 

か細い声だった。

ふるふる、と。俺の腕を掴む手からは、確かな震えが伝わってくる。

悪ふざけは大概にしておいた方が良さそうだ。

それよりも、真面目に彼女を落ち着かせる方法を考えねば、と。取り敢えず、何か一つ話を振ろうとした時だった。

 

「……別に、映画は怖いもんだけじゃないんだぞ? ほら、これとか……」

 

一応の共犯者……というと、言い方があまり良くないけれど。梨久が取り出したのは、子供向けアニメ映画のDVDだった。

 

「そいつは……レポートの……っ」

「お、ちゃんと覚えてたか」

「……忘れるわけねぇだろ」

 

それは相当に記憶に新しいシリーズで——GW中に、長期休暇課題と称し、三日連続で鑑賞させられた上でレポートを書かされたものだった。

確か三十本ほどあったはずだ。そして、彼が取り出したのは確か……10年ほど前に公開された作品、だったろうか。

 

他作品よりもかなり恋愛色が強く、若干異質ではあったものの、後半はかなり涙腺に来たのも含めて、内容はきちんと覚えている。

 

ただ、覚えている理由——という面でみれば、この作品が際立って梨久にとって強い思い入れがあったのか、彼が納得いくレポートを書くまで何度も繰り返し見せられたから、といったものの方がよっぽど強い。

正直、それを前にすると、げんなりとした表情が自動的に作り出されてしまうようになってしまってはいたけれど。

 

「……何ですか……? この生物……?」

 

ソフィーにとって、パッケージに映った不思議生物たちとマスコット的なデフォルメされたキャラクターは新鮮に映ったらしい。

梨久の手からそれを掠め取ると、最後には胸にしっかりと抱いた。

 

「……私、これ見たいですっ!」

 

普段より高いトーン、好奇心に満ちた未知への興味の表象。

あっという間の切り替えだった。

そして、その態度がかえって気に入ったのだろうか。

 

「もちろん大歓迎だ。マジの傑作だからな、ちゃんと目に焼き付けとけよ」

 

小さくサムズアップをすると、彼はDVDをセットし、ソフィーを一番前にやると自分は腕組みと共に、壁にもたれかかった。

なぜ俺を呼び出したのか——とか、まだその説明を受けていなかったものの、いつの間にか映画を鑑賞する雰囲気になってしまっていた。

とはいえ、未知への興味に駆られたソフィーと、映画を——それも自分の気に入ったものを前にした梨久を止める手段を俺は知らなかった。

……流れに、身を任せるしかないだろう。

半ば諦観の念にも近いものが俺を包む。

アニメを見るのが初めてだから、だろうか。本編が始まる前、DVDの扱い方を説明するコーナーで既に興奮気味のソフィーと、そんな彼女を尻目に、自分も小さい画面に注視する梨久。

映画にお熱な二人はすっかり、部屋全体を包む熱気を忘れてしまっているようだったから。

 

「……熱中症なるぞ」

 

扇風機を引き寄せ、ツマミを一気に強まで回し、そのすぐ前に陣取る。

科学の力は偉大だ、と。その恩恵にあやかれることに一抹の有り難みを感じつつも、お決まりの配給のロゴが表示されて。

かくて、狭い狭い部室で、小さな上映会は始まった。



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#20 魔女様に視線は釘付け。

忙しなく首を振りながらも、扇風機は軋みを上げる。

ザ、ザ、と音を立てて。液晶は、時々ぶつ切りになった。

 

『よく、ご無事で……っ』

『僕一人の力じゃ、ここまでは来れなかった。だけど、君を——置いていくわけにも、いかなかったから。帰ってきたよ』

 

既に映画も終盤。少々音割れ気味にスピーカーから声が吐き出される。

雑音はたくさん。だけれど、直近で映画を見た時のような騒がしさは少しもなかった。

 

「……っ」

 

ソフィーは、食い入るようにして画面を見つめていた。

時折、目は見開かれたり、表情が綻んだり、時には、歯を食いしばったり。

初めて見るアニメという媒体にも関わらず、彼女はすっかり映画に没入しているようだった。

さも、一つ一つ、紡がれた音を聞き逃さないように、と。

感情がすぐ面に出る彼女にしては珍しく、ようやく再会を果たしたキャラクター二人を前にして、今もまた、彼女は息を漏らすのみだった。

 

静寂。

元々、梨久は映画を見る際に口うるさく説明をするような人間じゃない。

とはいえ、視聴後は余韻と称した五分間のインターバルののち、日が暮れるまで語り倒すような人種ではあるけれど。少なくとも今は静かに映画に集中している。

そして、俺も案外見入ってしまっていた。

 

繋がれた手と手。

二人を照らす月明かり。

決して画質も良いものではないし、音も途切れ途切れ。雑音なんてしょっちゅう混ざってくる。

 

でも——いや、だからこそ、だろうか。

ここで見る映画は普段見るものとは雰囲気が違いすぎるがゆえに、かえって、目を離しちゃいけない気がした。

強制されて見た時とは、また違う何かが——。

 

「——如月はここかっ!?」

 

バン! と。叩きつけられるようにして開け放たれたドアは幾分か軋む。

梨久も、ソフィーも、俺も。もれなく三人して、その馬鹿でかい音に肩がすくんだ。

一瞬閉じてしまった目は、次に開いた際、多少潤んでいた。

声音からもう、部室に入ってきたのが誰かはもう分かりきっていた。

ならばこそ、決して目だけは合わせたくなくて。視線を逸らそうとしたものの——残念ながら、その長い長い黒髪は視界に映り込んでしまった。

そして、さほど広くない部室にいる俺の存在もまた早々に、相手は認めてしまった。

 

「……ふむ、青木もいるのか。しばらく如月を借りていきたい——とは言っても、強制だが。問題ないな?」

 

ちょうど夏休みに入る前、額に走った痛みがフラッシュバックして、俺は黙ってこくこくと頷いた。

黙っていれば、そこそこのクールビューティー。だけれど、クールを通り越して純粋に性格がキツイゆえに敬遠していた担任——一ノ瀬先生の姿がそこにあったのだ。

 

「……いや、今日土曜日っすよ!? ほら、先生も早く帰りたいでしょ、また別の日に……」

「うるさい」

 

バチン、と。御託を並べる間もなく梨久の額にデコピンが炸裂した。

 

「——っつうっ!?」

「……放っておいても君はここにいただろう? それに、私とて予定はある。今日じゃなければダメだ」

「ってか、補講って今日なんですか——っ!?」

「予め出していた候補日を全て踏み倒したのは君の方だ。……ずっと部室に入り浸っていたのなら、そのカレンダーに書き加えておきたまえ。そうすれば、次はここまで猛烈な拒否感に襲われずに済むだろうよ」

 

話を聞いている限りでは、明らかにもう梨久に分はなさそうだった。

それ以上は物言わず項垂れたまま、ズルズルと引きずられていく。

 

「邪魔したな、青木。次からは君も一緒に予定を管理してやってくれ」

「あー、そっすね」

 

そんな厄介な捨てゼリフと共に、肝心の部長を連れ出したまま、彼女がドアを閉める直前だった。

 

「……ん、そこの君は……? ()()、部員が増えたのか?」

 

彼女の視線は、俺とは全くもって関係ない方へ向いていた。

俺も釣られてそちらに視線をやると——そこにいたのは、棚の影に身を隠している——ような、素振りを見せるソフィーだった。

けれど、頭隠して尻隠さずとはこのことか。頭こそ収まったようだったけれど、この狭い教室では、残り半分が隠しきれていなかった。

 

「……もう見つかってるぞ、出てこい」

「ん、んぅ——っ!」

 

それでも、彼女にしてみれば十分に身を隠せていたつもりだったのだろう。

そこまで説明して、ようやく彼女は棚の影から外に出てきた。

 

「……この部室で君を見るのは、初めてだと記憶している」

 

思わずいつも通り親戚の子だと言い訳をしようとした。

 

「——彼女は……」

 

しかし、友人ならまだしも相手は教師だ。流石に部外者を無断で連れ込んだとなればそれはそれで問題だろう。

魔法に頼る方法も考えたが、今は至近距離で梨久も見ている。ただでさえ一度、記憶を書き換えているのだ。

今回もうまくいくとは限らない。

なら、それ以外の方法を——というと、咄嗟には思いつかず。口籠もってしまった時だった。

 

「一年の子です。ちょうど、見学したいって言ってて」

「……そう、なのか……?」

 

思いの外大胆に、代わりに答えたのは梨久だった。

けれど、ソフィーの見た目がかなり目立つから、だろうか。明らかに訝しむような口調で一ノ瀬先生は呟いた。

 

「そうですよ。俺も最近になるまで彼女みたいな子がいるって知りませんでしたから」

「……単純に私が忘れていただけだ、と?」

「はい。ところで、補習はどこでやるんですか?」

「……む。そうだった、上の空き教室だ。君が——場所を忘れるわけはないだろう?」

「いい具合のロケーションは常に抑えてますから」

 

一瞬にして切り替わる話題。一周回って驚くぐらい清々とした流れのおかげか、サラッとソフィーの件はどこかへ行ってしまった。

去り際にサムズアップを一つ。

今回は助けられたので俺も返しつつ——梨久は立ち去っていった。

起点を利かせなきゃいけない時の彼の行動には目を見張るものがある。鮮やかに物事の流れを変えていくのは、どこか魔法にも近しい。

こういう技術だけは見習いたいものだが、と。突然の出来事に、実感が湧かなくて。どこか他人事のように思考を巡らせていた時だった。

 

「……っ」

 

ソフィーが僅かに息を呑んだのを感じた。

振り向くと、彼女はいつの間にやらまた映画鑑賞に戻っていた。

そして、彼女が視線を注いでいた先には——先ほど再会の喜びを分かち合った二人による、キス。

そこまで長くない、刹那的な時間だった。

だけれど、みるみるうちに彼女の顔は朱に染まっていく。

シーンの途切れ目、こちらを向いた視線は、どこか熱っぽかった。

 

「……カエデ。これが()()の到達点、ですか……?」

 

いつもみたいに少々大げさなものではなく、消えゆきそうな、僅かに恥じらいを孕んだ声音。

 

その質問に答えるのは、どこか気恥ずかしいもので。

視線を合わせることも、何か口にすることもできず、黙り込んだまま頷いた時だった。

 

「……たのもー」

 

静寂を無視して、妙な挨拶がドア越しに聞こえた。

 

「……うん、ちょっと違う」

 

しかし、自分でも妙に感じたのだろう。即座の訂正と共に、今度はノック。少なくとも、ここに用があるのは確からしかった。

 

「……どうぞ」

「……はーい。……こんにちは。呼ばれたので、来ました」

 

少々途切れ途切れな声と共に、暑さか、それとも緊張ゆえか紅潮した頬。

雰囲気は明らかに違ったけれど——間違えるほどではなかった。

 

「……三浦、さん……?」

 

数日前に捲し立てていったっきり、そそくさと立ち去っていった少女——三浦 菫が、そこにいた。



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#21 魔女様は不服につき。

「……カエデ?」

 

向けられた、底冷えするような視線。

ほとんど動作なしに、さっとソフィーが杖を取り出したのを、俺は見逃さなかった。

端で未だ呆けたように突っ立っている来訪者——三浦の対応ももちろんしなければならないだろう。

けれど、今、地雷を踏んでいるというのなら足を離すわけにはいかない。よっぽどこっちの方が先決だ。

何か、彼女を説得するための言葉を捻り出そうとして。それでも、そうそう都合よく捻り出せるものでもなかった。

こちらが唸っている間にも、一歩、一歩。彼女の方へ、ソフィーは進んでいく。

 

「待て、ソフィ——っ」

 

反射的にその腕を掴み、彼女を引き止めようとして。

それでも、その手は届くことなく。かと言って、ソフィーが杖を振りかざすこともなく。

結果から言ってしまえば、真っ先に動いたのは三浦の方だった。

 

「お名前、教えてっ」

 

——主に、()()()()()()()()()()()()()()()

 

◇ ◇ ◇

 

「……不服です」

 

少々の気怠さを孕んだ声音がソフィーから漏れる。

その対象は、髪を行ったり来たりしている手——要するに、自分を撫でている三浦の方へ向かっているようだった。

 

「……ふわふわぁ」

 

そんな彼女とは対照的に、三浦は至福の一時と言わんばかりに目を細めて、ソフィーの癖っ毛を撫で続けている。

最初の頃こそほつれていて、それこそごわごわとした触り心地だった髪も、毎日のブラッシングの甲斐あってか確かに触り心地はよくなっていたのだろう。そういった点ではある種の誇りを持ちたい気持ちもあった——けれど。

それよりも、この状況がよく理解できなかった。

確かに、先ほどまでの凍てついた空気よりはずっとマシだ。ソフィーも先ほどよりは少しだけ態度が軟化しているし。

だとしても、だ。ずっと放置しているわけにもいかないだろう。

 

「……三浦さん。一回、彼女——ソフィーを離してやってくれないか?」

「っ、つい……ごめん、なさい」

 

ぺたん、と。少し呆けたような表情で、やっとのことで解放されたソフィーは部室の床に座り込む。

そして、元凶たる三浦はというと——。

 

「触り心地、最高——だった、のに……」

 

かなり、ご傷心の様だった。

 

「……なぜ、私なんでしょう?」

 

ソフィーもソフィーで何か思うところはあったのだろう。

というか、急に抱きつかれでもすればそうなるのは当然といえば当然にも思えるが。

普段より少しだけ高いトーン、他所行きの口調で彼女はそう尋ねた。

 

「あたし、小さい子が好きで」

 

ぽしょりと彼女が一言漏らす。

小さかったけれど、確かに俺はその言葉を聞き逃さなかった。

というよりも、聞き流す方がよっぽど困難だ。

 

「三浦、さん……?」

「ち、違うのっ! あたし、末っ子だからっ、だから……っ」

 

説明になっていない言葉と切れた語尾。

真っ赤になった顔と、焦点の合わない視線。どうやら、三浦さん自身もかなり困惑しているようだった。

 

「……ソフィー、何かしたか?」

「……いえ、何も」

 

俺も含めて、この部屋にいる誰しもが混乱している。

全く状況に収拾がつきそうになかった。

かといって、梨久も今は出払っている。この気まずい空間をなんとかできるのは俺しかいない。

互いに妙な距離感で向かい合っている二人を尻目に、何か、話題を逸らすことのできるものを見つけようとして——。

 

「……あ」

 

ふと俺は、三浦が床に置きっぱなしにしていたトートバッグとそこからチラリと覗いている中身に気がついた。

 

「三浦さん、これ——この間、見たいって言ってたやつ、だよな?」

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

カシャン、と。

小さく音を立てて、カセットテープが大ぶりな再生機器に吸い込まれていく。

以前、三浦が口にしていた映画同好会の設備が使いたいという話。

どういった話を梨久としたのかはわからないけれど、ここに持ってきている辺り許可が出ていたのだろう。

 

「……結構、慣れてるんだな」

「うん、昔は家にもあったから」

 

正直、俺もよく操作方法がわからない代物、それこそ、梨久ぐらいしか使い方を知らないものだ。

それでも、慣れた手つきで彼女は順々にボタンを押していく。

 

「……んぅ……?」

 

DVDの時よりもかなり大掛かりなその作業に、思わず興味が移ってしまったのだろう。

気づけば、ソフィーも興味深げに彼女の指先を見つめていた。

 

「これで——よし、だったはず」

 

三浦が、最後の一手と言わんばかりに一拍おいてボタンを押す。

カシャン、ともう一度、内部でカセットが動いたのを聞き取れた。

彼女が画面に視線を向けるのに釣られるまま、俺たちも視線を上げる。

画面に幾度かノイズが走り——狭い部屋に駆動音が響いて——。

 

「……あれ?」

 

画面には何も映らなかった。

呆けたような声を漏らす三浦。

どうやら、彼女にとっても想定外だったらしい。

とすれば、操作は正しくて——恐らく、問題があったのは機械の方だったのだろう。

思い返してみれば、最近これを使った覚えなんてほとんどなかった。メンテナンス不足、使っていない間に不調を起こしてしまったのかもしれない。

 

「……そんなぁ……」

 

心の底から残念がったような声が漏れる。

図書館で出会った時の彼女の口ぶりからするに、相当に楽しみにしていたらしいことは察しがついた。

 

「何が……起きるのですか……?」

 

そんな中、ソフィーだけはまだ正しく状況を理解できていないようで。

未知を前にした時の、高揚したような声音だった。

 

「多分だけど、壊れている……みたいなんだ」

「不調ゆえに、何も起きない——ということ、ですか?」

「ああ」

 

一瞬、彼女の表情が曇る。

何が起きるのかって期待していたのだろう。未知を没収されたソフィーも、少しばかり落ち込んでいるようで。

再び部室に充満する気まずげな空気、今度こそ万策尽きたように思われた中だった。

 

「——私が、なんとかします」

 

俺の予想に反したことを、彼女は口にした。



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#22 魔女様は抜かりなく。

『……いいですか? 魔法は使っていないという体でいきます。カエデはその間、誤魔化していてください』

 

そう口にすると共に、颯爽と取り出された杖。

正直、三浦の気を引くと言うのは、かなりの難題に思えたが、ソフィーの魔法を使う速さが相当に早いのは知っている。

大して時間がかからないのなら、特に問題はないのかもしれない——と。

 

「カエデ……これ——どうすれば……?」

 

そう思えたのは、ほんの束の間だった。

再生機器を前にフリーズするソフィー。

彼女が陥った状況は一目瞭然だった。

 

「……もしかして、魔法が効かないのか?」

 

そう小声で聞いてみると、彼女は少々涙目になりながらも、うんうんと何度も頷く。

どうやら、科学と魔法は相当に相性が悪かったらしい。

それに、三浦の気を引く——とは言っておきながらも、流石にこうも近くで話していたらだいぶ不審だ。

 

「……どうしたの? ソフィー、ちゃん」

 

背後からかかった声。

いくつかクエスチョンマークを浮かべているところは容易に想像がついた。

魔法も効かず、不審に思われ。こうなってしまえば、今、この場で修理する手立てはないだろう。

万事休すか——と、思われた時だった。

 

「僅かな時間で構いません。あのヒトを外に連れ出してください」

「何か、方法があるのか……?」

「……ええ。多少大掛かりですが、未知を置き去りにはできません」

 

凛とした声。

普段より鋭い目つき。

ソフィーが本気なのは、その様子から見てとれた。

であれば——俺も精一杯の協力はすべきだろう。

 

「……三浦さん、トイレの場所ってどこだっけ?」

「トイレの場所……? あたし、旧校舎初めてだし……青木君の方が詳しいんじゃ……」

「いや、ド忘れしちゃって。探すの、手伝ってくれないか?」

「そういうことなら……別にいい、けど……」

 

少々訝しむような表情こそ浮かべてはいたものの、案外あっさりと三浦はついてきてくれた。

ソフィーをテレビの前に残したまま、連れ立って外に出る。

ギシギシと音を立てながらも、立て付けの悪いドアを閉めた瞬間だった。

 

突如として——視界が、眩い光に覆われた。

その出所が、一瞬どこだかわからなくて。

けれど、こんな状況——原因は一つしか考えられなかった。

今しがた閉めたばかりのドアを開ける。

 

あれだけの光だ。よっぽどのことが起きたのでは——と思ってはいたものの、部室の中は何も変わっていなかった。

ただ、ジ……ジ……と。

読み込みが済んだらしいカセットテープの音が漏れ聞こえて、テレビは映像を映し出した。

 

『さあ——我らが婚礼も——に迫った』

 

途切れ途切れになりながらも、再生された音声が部屋中に響く。

 

「はぁ……はぁ……」

 

そんな中で、頬を紅潮させ、肩で息をしながら。

 

「カエデ、せい、こう……ですか……?」

 

多少浮かされたような瞳で、ソフィーは俺の方を向いた。

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

……肝心の自分が眠りこけてどうするんだか。

結局、部屋に戻った直後、疲れたように俺の膝に倒れ込んで眠りこけたソフィーの寝顔を眺めながら、そんなことを考える。

一体、どれだけ大掛かりなことをしたのだろう——なんて。考えたところで、俺にはわからないか。

三浦は最初の方こそソフィーを気にしていたけれど、疲れて寝てしまっただけらしいことを理解すると、次第に画面に視線を向け始めた。

 

そして、俺も特にすることがなく。ソフィーと画面とで交互に視線を動かしながら。

特に会話は起きることなく、部屋はテレビから発される音に包まれていた。

とはいえ、さほど大きな音でもない。部室は案外、静まり返っていた。

そんな時間の中、すぅすぅ、と。ソフィーの立てる穏やかな寝息は近くで聞こえる。

それに影響されたせい、だろうか。なんだか瞼が重い。

 

カクン、と一度。力が抜けた。

視界が、次第にぼやけていく。

音も段々と遠ざかっていって——まさに意識を手放す直前だった。

 

 

——“構いません。私は、このままで”

 

 

確かに聞き覚えのある声が反響した。

けれど、それはどこか冷たい声音で。

強く、強く思い出そうとすればするほど、抜け落ちていく。

先程まで確かに反響していたはずなのに、最早、その残滓すらも掴めなくて。

それでも、必死に記憶を手繰り寄せようとした時だった。

 

「——それ、直ったのか!?」

 

どこか夢現だった意識を一瞬で引き戻す声。

思わず身震いを一つ。瞼を開けて振り向いた時、そこには先程まで補習を受けていたはずなのに——なぜか、顔色の良さとテンションだけは一丁前な梨久がいた。

先程まで、何かをしようとしていたこと。

それだけは、まだ覚えていて。

だとしても、それが何かということまではわからない。

 

そして、そんな感覚が過ったのも僅かな時間だった。

なぜここに三浦が来たのか——とか、そもそも補習があったなら呼びつけるな——とか。

大半が恨み節で塗り固められた感情がくっきりと芽を出す。

 

だが、果たして。

彼は、そんな風に恨み節をたっぷり吐かれることまで予想していたのだろうか。

ニヤリ、と貼り付けたような笑みを浮かべると、梨久は手に下げていたレジ袋を机に置き、その中身を取り出した。

若干小さいカップ、上蓋に記された洒落た文字。それが四つ。

扇風機しかない教室だ。普通のものでも十分に救世主たりえるというのに。

 

「俺の奢りだ。心して食ってくれ」

 

よりにもよって、高級な方のカップアイスを彼は買ってきていたようだった。

 

◇ ◇ ◇

 

相談の結果、俺の手元に渡ったバニラと抹茶——もとい、グリーンティー。

未だにソフィーは、俺の膝の上で寝息を上げていた。

もうそろそろで一時間ぐらいだろうか。梨久に茶化された——のは、置いておいて。

少しばかり、心配にもなってくる。

出来心半分、心配半分で、手に持ったカップを、ソフィーの額に当てた時だった。

 

「ん……んぅ……」

 

パチリ、と。

青い瞳が開かれた。

しばらく焦点が合わないまま、それは辺りを見回して。

最後に、目の前のカップで止まると、一転して輝いた。

 

「カエデ……っ、アイス……ですかっ!?」

 

やはりソフィーは、こういったものには目がないようだった。



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#23 歩み、遠く。

「もう一口、ですっ。カエデ。もう一口、くださいっ!」

「……わかったから、そう焦るな。また頭、キーンってなるぞ?」

 

そんな注意も虚しく、俺がスプーンでアイスを掬えば、ソフィーはすぐにぱくつく。

高級アイスの魔力、恐るべし──なんて。

 

「──んぅっ!」

「……先に注意しただろ。痛くなるって」

 

予想通りというべきか、ソフィーは頭を抱えてひとしきり悶えた。

というか、まあ。

一番悶えたいのは俺自身、だったが。

 

「……結構、距離感近いのな。お前ら」

「……親戚、なんだよね?」

 

梨久と三浦の視線が痛い。

先程、魔法を使って疲れ果てて寝てしまったソフィーを横たわらせる場所はこの狭い部室にはなく、中々起きる様子もなかったので、仕方なく膝枕をしていたのだけれど、起きてからもソフィーは全くこの体制を変えようとしない。

それどころか、そのままアイスまで食べ始める始末である。

 

「……なあ、ソフィー。そろそろ自分で座ってくれないか?」

「そうしたいのは山々ですけど……私、疲れてしまって……。起き上がるのは難しいですね」

 

恐ろしくなるぐらいの棒読みだった。

確かにパートナーになるとは言った。彼女の()()の究明に協力するとも言った。

実際、ついさっき頑張ってくれたのもわかる。

だが、目の前にはソフィーの顔。膝を介したボディータッチ。それも衆目にさらされる場所で、だ。

これは流石に距離が近すぎやしないか……?

 

アイスの容器はあっという間に空っぽに。それでも、彼女は離れる素振りを見せない。

使い終わったスプーンでソフィーの頬をつついてみる。

 

「んぅ──っ!」

 

威嚇するように睨み返された。それでも膝は確保したまま、意地でも動かない気らしい。

 

「それじゃあ、茶番はさておき。そろそろ本題に移っていきたいんだが──」

 

ホワイトボード前に移動した梨久が声を張り上げる。

さておかれた。三浦も既に視線を梨久の方に移し、頷いている。

自然に流された以上、これはもうどうしようもないやつだ。諦めて座り直す。

 

「どうですか? カエデ」

 

ソフィーも身を起こして──かと言って、離れることはなく。

そのままちょこんと膝の上に座ってしまう。

 

()()に、近づけそうですか?」

 

何なら、目を輝かせ勝ち誇ったような表情を浮かべている。

 

「……近すぎると逆効果なんだぞ」

 

途端、彼女の笑顔が凍った。

そそくさと膝から降りると、部屋の隅から椅子を持ってきて座ってしまう。

 

いい意味でも、悪い意味でも──()()に関してソフィーは純粋すぎる。

 

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

 

「──まずは、企画概要からだ。テーマは──」

 

バン、と。

勢いよく梨久がホワイトボードを叩く。

 

──『ひと夏の恋』

 

()()、ですかっ!?」

 

甲高く、興奮した面持ちで。

叫ぶソフィー。第二波が来ても耐えられるようにキンキンする耳を塞ぎつつ。

それでも、完全にシャットアウトするに至らなかった。

 

「お、おう……どうした、親戚ちゃん。そんなに珍しかったか……?」

「私が最も求めているものですっ! ですよね、カエデっ!」

 

目配せされ、仕方なく頷く。

テーマが恋だったのが運の尽きだ。()()に等しく、こうなったソフィーはもう止めようがない。

 

「だったら……出てみるか?」

「出たら──演じたら、()()がわかりますか……?」

「……もしかしたら、な」

「なら、出ますっ!」

 

トントン拍子に話が進んでいくことに恐怖を覚えつつ。

それでも、ソフィーがこちらの世界の常識とズレている部分が多いのは確かだ。

もしかしたら、何か弊害はあるかもしれない。

 

「な、なあ。ソフィーは初心者だぞ……? 出しちゃって、大丈夫なのか……?」

「そんなこと言ったら、ここにいる人間は大体そうだ。それに、メンバーは増えるに越したことはない。何せ、映画同好会は少数精鋭だからな」

 

俺を含めてこの場にいるのは四人。

これでもなお、映画を撮るには足りないだろう。

だからこそ、一人補いたい──正論だった。

 

「……わかったよ。頑張ろうな、ソフィー」

「カエデがわかってくれるなら結構ですっ!」

 

()()は目前だと言わんばかりに鼻息荒く。

ソフィーは息巻いている。これは徹底的にやるタイプのやつだ。

ため息を一つ、そののちに吸った空気はホコリ臭い。

仕方あるまい。ソフィーを満足させるためだ。

 

「……ところで、テーマ以外にストーリーは決まってるのか……?」

「大枠は決まってる。それでも、俺は脚本を書けない。だから、餅は餅屋だ」

 

梨久が書かないとなれば、あと一人。

自然と視線が集まっていく。

 

「──あたし!?」

 

三浦だった。

 

「文芸部員なんだろ? それに、三浦さんが文化祭に寄稿する予定の小説、読ませてもらった。……感動したよ。だからさ、嬉しかったんだ。プレイヤーを使わせる代わりに手伝ってくれるって申し出てくれた時。頼む、脚本を書くの、手伝って欲しい」

 

深々と頭を下げる梨久。珍しい、真摯な態度だ。

 

「脚本……書きたい。書けるなら、書きたい、けど……」

 

躊躇いがちに、震える声音。

指先が幾度か膝の上で跳ね、頷くとも、首をふるとも、曖昧に頭を揺らし。

けれど、最後に彼女は首を振った。

 

「……ごめんなさい。他に手伝えることならやるけど。あたし、脚本は書かない」

「……そう、か」

 

心底残念そうに、梨久が声を漏らす。

静まり返った部屋で、ただ、扇風機の駆動音だけが響いていた。

 

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

 

「……カエデ、結局()()はどうなったのですか……?」

「保留だ。他に脚本書ける人がいるならそっちになるだろうし、無理なら梨久が書く。最悪、頓挫じゃないか」

 

もう八月が近いからか、夕方になっても日は高かった。

まだ、明るい帰り道。

ぽつりと、ソフィーは溢した。

 

「それでは……()()が遠ざかるのですか……?」

「……かも、な」

 

一応、今日決まったことを説明しつつ、それでも疑問は残った。

断るなら、もっとはっきりと断れば良い。

それでも、三浦の態度は曖昧で。

最初に彼女は”書きたい”と口にした。何なら、最後には”書けない”じゃなくて、”書かない”から、と。

それに、図書館で彼女が落とした大量の戯曲。

 

もしかしたら、書きたくて。それでも書けない理由がある──彼女はぼかしていたけれど、忙しい、とかではなく。

都合が良い考えかもしれないが、そんな気がしてくる。

とはいえ、詮索するのは良くない。中止かどうかは流れに身を任せるしかないだろう。

半ば、肩の力を抜きかけた時。

 

「──そんなの、待っていられないのですっ!」

 

ソフィーが、叫んだ。

諦めたくないと言わんばかりに、首を振った。

 

「彼女──スミレは()()を書けるのでしょう!?」

「別に、そうとは……」

「そうとは限らなくても、可能性があるのなら私はそれに縋りたいのです。それに──」

 

いつの間にやら握り締められていた一本の杖。

彼女が言わんとしていることがわかってしまった。

 

「わたしには、()()がありますっ」

 

梨久の時、ソフィーは記憶をいじった。

それでも、今回はちょっとだけ都合を良くする、とか。絶対そういう使い道じゃない。

 

「──やめろ。力づくで考えを変えるのは間違ってるっ!」

「それは()()()()での話でしょう!? 少なくとも、手段のためなら──弟子はこれぐらい否定しませんでしたっ!」

 

次第に声が荒くなっていく。

焦燥感に塗れたように捲し立て、息切れしながらもソフィーは叫ぶ。

 

弟子、と。

 

何故かはわからない。

だけれど、チクリと胸に痛みが走る。

()との違いを意識したからか。それとも、あまりにも悲痛な響きだったからか。

叫んでて、彼女の言うことを否定して。

息が、上がる。

歪められた表情が、視界に映る。

辛い、嫌だ。

とにかく、揉めたくなかった。

 

「……わかったよ」

「わかっ、た……?」

「……三浦に脚本を書くよう、説得してみる。だから、()()をしまってくれ」

 

ふっと杖が消える。

指先が、所在なさげに震えて。

けれど、次にはソフィーの手は俺の頬に触れていた。

 

「……カエデ」

 

握り締めていたからか、先程まで感情が昂ぶっていたからか、熱い。

はっきりと彼女の温度が伝わる。

僅かな間だった。すぐに、離れていく。

ほんのりとした熱は夏の暑さに溶け込んで、すぐに消えてしまった。

 

「……ごめん、なさい。感情的になりすぎてしまいました。ワガママ、ですよね……?」

「別にワガママでもいい。ただ、俺は手段のためなら何をしてもいいとは思わないし、()()()()()()に住んでたから、弟子と……君と、考え方は違う。焦るかもしれないけど、でも、付き合ってくれ」

「……っ、……はい」

 

振り絞るようにして返事だけを口にして。

こくり、とソフィーは頷く。

 

家路を辿る中で、不意に彼女が強く俺の手を掴んだ。

手を繋ぐだけというには、あまりにも強すぎて。けれど、時折震えては、力が弱まる。

 

昔、よく繋いでた大きさの手だ。

その真意すらよくわからないまま、とにかく俺は覚えている力加減で握り返す。

互いに言葉すら交わさないまま、歩き続けた。

速まったソフィーの歩調に合わせるため、少し、焦り気味に。

 

 

影二つ、乾いたアスファルトに差し込む。

長い長い夕暮れの中、騒がしいセミの鳴き声とともに、八月が始まろうとしていた。



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幕間Ⅲ 『せめて、触れたいのなら』

──授業の後、屋上庭園に来てくれる?

 

豆粒ほどの小さな文字によって構成されたメッセージ。

それが、授業中に頬杖をついていた私の前に現れたものでした。

これが俗に言う”呼び出し”というものでしょうか──なんて。

 

「諸君らも知っている通り、魔法は魔力を持たざる対象にのみしか通用せず……」

 

相変わらず眠気の滲む瞼を擦り擦り、そうやってとりとめもないことを考えていた時、教授の鋭い眼光がこちらを捉えました。

 

「……それはなぜか。そこの魔女、答えてみよ」

 

教授の持つ杖が指したのは概ね教室の左側、最上段の列──はっきりと目が合います。

間違いなく、わたしでした。

 

「……そ、そもそも魔法は体内にある魔力を変換したもの……根本的な耐性の有無、ですっ」

 

不意打ちで指されたがゆえにしどろもどろながら何とか答えます。

自身に集まっていた視線から逃れるように、慌てて腰を下ろしながらも、頭の中では恥ずかしさが六割、メッセージの送り主に対する恨みが四割を占めていました。

 

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

 

「ありがとね、ソフィーさん。来てくれて」

 

緑のアーチが生い茂っている空中庭園。

木漏れ日に目を細めながらも、私が来たことに気がつくと彼女は振り向きました。

 

「授業が終わったらすぐに出ていっちゃうから捕まえるのが大変で……授業中、迷惑だったでしょ? ……ごめん」

「……いえ。手短に用事をお願いします」

 

茶色のお下げにそばかす。純朴そうな顔に薄い微笑みを湛えると、私を呼び出した女子生徒──ミラは頷きます。

二言三言、文句を言うつもりでここには来たつもりだったのですが、その表情を前に思わず毒気が抜かれてしまいます。気づけば、溜め込んでいた文句はどこへやら、なぜ呼んだのか、と。質問を口にしてしまいました。

 

「この子を、生き返らせてほしいのっ!」

 

彼女が私の目の前に突き出してきたのは一匹のネズミでした。

そこら辺にいそうな見た目をしていながらも、灰色の毛並みは整えられていて身ぎれいな印象を受けます。きっと、大事に世話をされてきたのでしょう。

ただ、一点。それはピクリとも動きませんでした。

 

「……あなたの使い魔、ですか」

「そう。チャーリーって子なんだけど、昨日、死んじゃって……でも、大事な子で、だから……」

 

次第に言葉は支離滅裂に。ミラの瞳には大粒の涙が溜まっていきます。

私自身は使い魔には手を出さない身ですが、その悲しみは見て取れました。

 

「……なぜ、私に……?」

「ソフィーさんが、時間逆行魔法を成功させたって噂──聞いたからっ」

 

それを聞いて、思わず私は頭を抱えそうになってしまいました。

 

──時間逆行魔法。

 

文字通り、対象の時間を巻き戻す魔法です。

そして、それは生き物を相手にしても然り、対象物がそこまで大きなものでなければ生き返らせることだって不可能ではありません。そして、確かに私はそれを使えます。

 

ただ、使える魔法使いはさほど多くありません。私のものだって、苦心した上に長い年月をかけてようやく習得したものです。

それがバレたらどうなるか──少なくとも彼女のように頼み事をしてくる生徒はいるでしょうし、それがきっかけで面倒事に巻き込まれる可能性もあります。

 

「……私が使えるという証左は……?」

「研究室の前、通りかかった時にちょっと見えちゃって……ドア、しっかり閉めた方が良いよ」

 

だから、伏せておきたかったのですが。

彼女には現場を目撃されてしまっていたようでした。

それでもまだ、頑張れば誤魔化せる──そんな気はします。最悪、逃げ出すことだってできますし。

 

「……使えます、けど」

 

それでも、使える、と。

口をついて出たのは本当のこと、でした。

 

「ほんと……っ!? じゃあ……」

「……それでも、この魔法は消耗が激しいのです」

 

渋ってしまった理由がもう一つ。あまりにも消耗が大きいゆえ、でした。

前回も実験の直後に気絶してしまったこと、良く覚えています。

使いたくないのは確か、です。

 

けれど、目の前で微笑んだり、瞳を伏せたり──コロコロと表情を変える姿を見ていて──何だか気の毒に思えてきました。

 

「……ですから、使用後、私を受け止めてください。体、地面に打ち付けたくないので」

「……えっと……」

「……時間逆行魔法を、使うということです」

 

一瞬、驚いたようにぱちくりとミラの瞳が瞬いて。

次の瞬間、彼女は私に抱きついてきました。

 

「っ、あの、何を……」

「ありがとうってジェスチャー、あと……ソフィーさんが倒れないようにするため……っ!」

 

あまりの距離の近さに思わず面食らってしまいます。

 

「……ち、近すぎますっ。その状態じゃ魔法が使えませんっ」

「ご、ごめんっ! あと、お礼、何でもするからっ!」

 

熱くなった頬を抑えながら、指示通り、彼女にネズミを置いてもらいます。

気持ちよさそうな芝生の中、頭をもたげて目を細めている姿は寝ているようにも見えて──あまり死んでいるようには見えません。

でも、だからこそ、受け止めきれないのでしょう。

 

「──それでは、始めます」

「う、うんっ! お願いっ!」

 

杖を構え、口先で長ったらしい呪文を唱えます。

瞬間、眩い光がネズミを包み、宙へと浮かせます。

 

……それにしても、ミラは少し緊張しすぎです。

私の一挙一投手、ネズミの様子一つ一つで声を出されると集中できません。

それほどまでに、必死なのでしょう。

 

「──”還れ”」

 

最後は死ぬとわかっているのなら使い魔なんて、飼うものじゃ──。

 

プツリ、と。

呪文を唱えきった瞬間、そんなとりとめもない思考もろとも、眩い光の中で意識が途切れました。

 

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

 

ペチペチと、私の頬を叩く小さな手。

薄く目を開くと、そこには先程のネズミがいました。

体も痛みません。その辺りはしっかりとミラが受け止めてくれたのでしょう。

 

「……上手く、行ったみたいですね?」

「うん……うんっ! ありがと、ソフィーさんっ!」

 

喜色いっぱい、興奮したような面持ちでミラは何度も頷きます。

先程まであそこまで狼狽していたのです。それが一転したのですから、よっぽど嬉しいのでしょう。

 

「……一応、今日のことは秘密にしておいてください」

「もちろん。ソフィーちゃんとあたしの間だけ、だよね」

 

恐らく、彼女ならその点は心配いらないでしょう。

使い魔にあそこまで優しいのですから。

 

「……あ、それとね。お礼、どうしようかなって……」

 

不意に、ミラは困ったように首をかしげました。

お礼に何でもする、そういえば先程そう言っていたような気がします。

 

「……別に、必要ありません。特にお願いしたいこととか、ありませんし……」

「ううんっ、あたしの気が晴れないから……そうだ! 今度、あたしお気に入りのスイーツ、一緒に食べに行かない? もちろん、奢るし」

 

指先でネズミとじゃれ合いながら、彼女はそんなことを提案してきました。

奢ってくれるというのならやぶさかではありませんが、それでも──と。

 

「それじゃあ、ソフィー()()()。今度のお休みに時計塔前ね!」

 

私が逡巡している間にも彼女はささっと計画を立ててしまいました。

さして急ぎの用事もありません。予定は空いています。

 

ただ、一つ問題があるとすれば──。

 

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

 

「……えーっと」

 

──誰かと出かけるのはこれが初めてでした。

 

続かぬ会話に息を吐き、ミラおすすめだというケーキをつつきます。

店内には見知った顔もいくつかあります。それほどまでに人気があるのでしょう。

多分、味も良かったのだと思います。緊張のあまり渇きっぱなしな口は感覚を失っていましたが。

 

「そういえば、ソフィーちゃんは好きな動物とかいるの?」

「……いえ、特には。素材として使うことしかありませんし」

 

だから、早く食べて帰ってしまおう。

そんな私の魂胆は、脆く崩れ去ってしまいました。

 

「じゃあ、この後お店見に行こうよっ!」

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

キーキーだのカーカーだの。

ミラに連れられて訪れたお店には、狭い店内のこれまた狭い籠の中で大量の動物が鳴いていました。

そこに混ざる人々の話し声……慣れない身には堪えます。

 

「ねー、この子可愛くない!?」

「可愛い……でしょうか」

 

ミラの言葉すら曖昧にしか聞き取れず、オウム返し。

人混みに揉まれ、揉まれ──店内をふらついている間に、私が辿り着いたのは一つの鳥かごの前でした。

狭い店内で、大きい鳥かごでした。

私の体半分ほどの大きさで──それだけの待遇を受けているだけに、ふてぶてしい表情を作ってそれは止まり木に鎮座していました。

 

「ホー?」

 

真っ白い羽毛にクリクリとした目。

私の視線に対して我関せずと言うように自身の毛に嘴を埋めて、その白フクロウは毛繕いをしていました。

 

「どんな……」

「ホー」

「どんな……感触ですか……?」

「ホー」

 

恐ろしいほどの()()が、そこにはありました。

その羽毛は、一体どれほどまでに深いのでしょうか。

触ったらふわふわしているのでしょうか。それとも、案外ゴワゴワだったり……?

 

「ホー」

 

私の質問を無視して、フクロウはずっと同じトーンで鳴きます。

使い魔の中には魔法を介して意思疎通を図れるものもいるとは聞いていますが、多分この子は例外なのでしょう。

だとすれば、自分で確かめるしか──。

 

反射的に値札に目が行きます。

ただ、そこにあった数字は今月分の貯金を切り詰めてもなお、ギリギリ届かない額でした。

 

「ソフィーちゃん、その子がお気に入り?」

 

不意にかけられた声に、肩が跳ねます。

そこには先程まではぐれてしまっていたミラがいました。

 

「……お気に入りというわけでは……」

「でも視線、凄くご執心だよ? もしかして、お金足りないの?」

 

図星です。

不服ながらも頷きます。

 

「そっか。じゃあ、あたしが少し出してあげてもいいよ?」

「……そこまでしていただく必要は……」

「でも、この子がお気に入りなんでしょ? 次に来た時は売れちゃってるかもよ?」

 

恐ろしい論法です。

今だけだ、と。そう思うと思わず鳥かごに手が伸びて行ってしまいます。

 

「……少しだけ、貸してください」

「うん。ただ、一つだけ条件があるの」

 

いつも通り、純朴そうな笑顔を彼女は浮かべます。

けれど、その裏に含みがあるのは確か──それが何か、と。

 

恐々と、私は問いました。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

「……それで、フクロウくん。どんな名前にするの?」

「……検討中です」

「よろしい。使い魔は大切に扱わなくちゃ」

 

籠の中のフクロウを見つめ返すと、これまた「ホー」と。

相変わらずの仏頂面でただ鳴きます。

 

「それじゃあ、最初の”使い魔集会”は次のお休みの日にしようか」

「場所は?」

「この間の庭園でいいんじゃないかな」

 

──使い魔集会。

 

それを、私とミラで開くこと。

お金を貸してくれる代わりに、彼女が提示した条件でした。

 

「この学校、あんまり使い魔飼ってる子いないから嬉しいんだ。一緒にお話できる子が増えるの」

「そう、ですか……」

 

確かに使い魔を飼っている生徒、というのはあまり見ません。

手間もかかりますし、授業だけでも手一杯です。第一、ミラのことを覚えていたのも珍しく使い魔を連れている生徒だったから、というわけですし。

 

……私も、手を出してしまったわけですが。

 

 

「──だから、あなたは最初の使い魔友達」

「……トモダチ、ですか……?」

 

()()、でした。

 

魔法の研究に明け暮れている中で同士というのは少ないもの。

いたとしても、分野が違います。

それだけに、口にしたことない響き……かなり強い違和感です。

 

「うんっ! ソフィーちゃんは友達っ! それじゃあ、次の授業でね!」

 

最後にそう言い切ると、何か返す間もないままパタパタと忙しなくミラは帰って行ってしまいます。

 

「……友達、なんですって」

「ホー」

「どういうもの、なのでしょう」

「ホー」

 

フクロウに聞いてみても、何か答えが得られるわけもなく。

 

重い鳥かごを抱えながらも、心中消化不良なものがあって。

 

それを引きずるようにして、階段を上がっていくのでした。



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#24 魔女様と隣合わせの修羅場と。

「……三浦、さん……? 近頃、ぱったり来なくなっちゃった、かな」

 

頬杖をつきながらそう答えると、目の前の女子生徒は再びパソコンに向き合う。

八月が始まって最初の平日。

俺とソフィーは文芸部の活動場所である図書室に来ていた。

三浦をもう一度映画同好会の脚本として勧誘するために。

 

「……来なくなった……? でも、部誌には作品が載る予定だって聞いたんだけど」

「それ、勧誘号の作品だから……多分、四月には出来上がっていたやつじゃない? 少なくとも、今年度に入ってからは数えられるぐらいしか来てないわね。……聞きたいことは以上?」

「……一応は」

「だったら、早く帰ってくれる? こっちは原稿が忙しいの。もちろん、その子も連れて、ね」

 

ヘアバンドを手で直し、落ちてきた髪を掻き上げ、彼女は深いクマが刻まれた目を本棚の方へ向けた。

 

「……あ、ああ。本当に助かったよ、ありがとう」

 

その虚ろな瞳孔は瞬き一つせず、本を漁っているソフィーを捉えていた。

……完全に危ない人のそれだ。さっさと退散しなければ。

 

「カエデっ! これ、見てくださいっ! この形状──どこに生息して……」

「……蝶だ、結構いる。それは置いておいて、早いところ帰るぞ」

「ここ──本、多くて……もう少しだけ、()()が欲しいのですっ! ここの棚だけで構いません。漁らせてくださいっ!」

「……残念だけどそいつは無理だ」

「……どうして、ですか?」

 

実際になぜかわからないというように、ソフィーの目が見開かれる。

口頭で伝えるのも憚られたので、目配せして彼女を名もなき文芸部員の方へ向ける。

それが運の尽きだった。タイミング悪いことにかち合ってしまったのだ。

鬱々とこの世の深淵を煮詰めたような文芸部員の瞳と、ソフィーの視線が。

 

「──んぅっ!?」

「川柳……短歌……コラム……」

 

涙目。

悲鳴にも動じず何事かを唱える文芸部員を前に、ソフィーは理由を完璧に理解したようだった。

先程までの騒がしさが嘘だったかのように、静かに本を閉じると彼女は音もなくドアの方へと逃げ出す。

 

──自分だけ何をっ!

 

叫びたいのを堪えつつ、俺もソフィーがいる場所までそそくさと移動し、何度も頭を下げながら、ドアを閉めようとした時だった。

ヒュン、と。視界の端を何かが掠めた。

 

もう何度も経験しているからわかる。ソフィーの魔法だ。

とはいえ、一瞬。直接の変化はわからず、困惑しかけた時だった。

 

「短編……個人さ……」

 

突如として呪詛が止まり──パタン、と。

その場で女子生徒が机の上に倒れ込んだ。

 

「……ソフィー……? 何を……っ!?」

「……眠らせただけです。流石に、その──危ない状態に見えたので……」

 

確かに、耳を澄ませてみれば寝息が聞こえてくる。

表情も気持ちよさそうだ、ご就寝されたようだった。

その安らかな寝顔を傍目に、起こさないようにそっとドアを閉める。

 

「……それにしても、三浦は消息不明か……困ったな……」

「スミレがあの場にいれば解決、だったんですけど……」

 

心底残念そうな表情を浮かべつつも、ソフィーは早足で俺の数歩先を行く。

いつも通りの焦れた歩調……というよりも、若干引き攣った表情を見るに先程の文芸部員が怖いから、とか。そんなところだろう。

 

「……でも、いたとしたらあの空間にずっといる羽目になったかもしれないぞ?」

 

怖気が走ったかのように、ピクリと肩を震わせると青ざめた表情を彼女は俺に向ける。

直接目と目を合わせたがゆえの恐怖、だろうか。

 

 

「……それでも、スミレを取ります。()()の方が大事……です、から」

 

 

ぽつり、と消え入りそうな声を残しつつ。

それでも、ソフィーは()()最優先、だった。

 

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

 

「……進捗、どうだ?」

「……ああ。すごい。すごいぞ、多分」

 

進んでる、ともヤバそう、とも言わず。

ただ妙なことをブツブツと唱えながら、梨久が向けてきた瞳は、こちらもこちらで濁っていた。

図書室から校舎一つを挟んだ旧校舎の更に奥、映画同好会の部室は図書室の数倍蒸し暑かった。

 

「……元々、脚本は誰が書くつもりだったんだ?」

「……一応、文芸部と約束してたんだよ。一人、書けそうな部員を貸してくれるって」

 

恨めしそうに呟きながらも、梨久はキーを叩き続ける。

目に見えてその進みは遅かった。

 

「……それが幽霊部員だったとはなあ。してやられた」

 

文芸部側の人員不足か、それとも映画同好会という名前を聞いたこともない団体への悪ふざけ、か。

そもそも、まともに取り合ってくれていたのかすら謎だ。

 

「何か、手伝えることとかあるか?」

「……だったら、三浦を見つけてくれた方がありがたい。連絡も取れなくてな。仮に脚本ができたとして、このままじゃ人員不足だ」

 

もう少数精鋭だ、とばかりに強がる余裕すらないようだった。

弱々しく吐き、彼はキーボードの上に倒れ込む。

辛うじて立てられた親指は、任せた、というハンドサインだろうか。

 

「……カエデ?」

「一応、心当たりがあるんだ。行こう、ソフィー」

 

言葉を交わさずとも、通じ合える。

それが男同士のコミュニケーションというものなのだ、多分。

 

出ていく間際、買ってきたスポーツ飲料を机に置いておいて。

俺は部屋を後にした。

 

 

◇ ◇ ◇

 

◇ ◇

 

 

 

()()……()()です……っ!」

 

目を輝かせてすぐさま本に飛びつこうとするソフィーに待ったをかけつつ、俺は棚と棚との間を進んでいた。

市営図書館、以前に三浦と出会った場所だ。そして、目指す場所は一つ──。

 

「……あった」

 

──戯曲・シナリオ。

 

ひしめく本の中。かと言って、待ち人は見つからず。

そのまま待つのも憚られたので、取り敢えずその場にあった本を取る。

 

「……カエデ。これは……?」

「妖精っていう……こっちだと、架空の生き物だな」

「……妖精、ですか。かなり見た目は異なりますが、そちらにも伝承はあるのですね」

 

顎に手を当て、何事か考えているかのような仕草を見せつつも、ソフィーはどこか遠い目をしていた。

多分、これ以上は話が噛み合わなくなる。

弟子なら、と。彼女が口にしていた言葉が脳裏をよぎる。

 

途切れた会話、ページを捲ろうとした時だった。

 

ちら、と。

見覚えのある亜麻色の髪が、一瞬、視界の端で揺れた。

 

「──楓、くん……? どう……して?」

 

案の定、というべきか。

 

困惑したかのような表情を浮かべた三浦が、そこにいた。



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