やはり俺たちのバレンタインデーは間違いだらけである。 (kuronekoteru)
しおりを挟む
一色いろは~不義理四重奏~
学校中からカカオの匂いがしてくるような特別な一日。わたしはある人を探して廊下を走っていた。手に持っているのは、明らかに誰かへ渡すためのラッピングが施された包み。振り返る男子共をここぞとばかりに無視して、ただ真っ直ぐにいつもの場所へ。
辿り着いた場所は、特別棟一階の保健室横にある小さな段差。そこにはぴょこんとアホ毛を立てたアホな先輩の哀愁漂う背中が見えた。冬真只中だというのに、先輩は今日も外でお昼を取っている。本当にアホだ。受験前に風邪でも引いたら、雪乃先輩の機嫌を損ねるに決まっているのに。
静かに吐いた溜息が白となって空へと舞い上がる。今は余計なことを考えず、いつもの感じで声を掛けてしまおう。それがわたしたちっぽい。先輩と一色いろはの関係性。
「せ〜んぱいっ、今日は何の日でしょうか?」
「一色か、…………聖バレンタインが処刑された日だろ」
足音が聞こえていたのか、そもそも来る予感がしていたのかは分からないけど、先輩の声色には驚きが含まれていない。いや、最近ここに来るペースが多かった所為だろうか。
それにしても、先輩は全然変わらない。相変わらず捻くれているし、変な知識ひけらかしてくるし、基本馬鹿なことしか言わない。こんな人を好きになる人がいるのが未だに信じられない。しかも、めちゃくちゃ顔が良い女の子ばかり。
「あー、はいはい……。そういうの良いんで、これあげますよ」
そう言って包みを渡すために手を伸ばすと、ようやく驚きの一端が見えた。普段の空いているか分からない目が、少しだけ見開いて丸くなるのは悪くない。きも可愛いと言えるレベル。わたしは嫌いじゃない。
「……なに、義理チョコくれるの?」
「どちらかと言えば、不義理チョコですかね」
義理か義理じゃないかで言えば、ギリギリ義理じゃない。不義理なのも先輩に対してではない、そんないわく付き一歩手前なチョコ。
わたしの言い分が気になったのか、先輩は訝しげに包みを空けていき中身を確認し始めた。
出てきたのは四層構造の四角い物体。層ごとに色が異なり、味や甘みも結構変えている。我ながら会心の出来と言っても良いだろう。でも、本当に力を入れたのはスイーツとしてではない。
「よく分からんが、なんかめっちゃ凝ってるな」
「そりゃそうですよ。だって、先輩の高校最後のバレンタインですし、先輩の合格祈願も入ってますし、今までのお礼だったり、卒業祝いなんかも含めてますから」
「いや、色々含有し過ぎでしょ……」
わたしが自慢げに人差し指を立てて説明してあげると、先輩は苦笑いで「GABAも含まれてるんじゃないの?」とかアホなことを呟いてる。受験だけでもストレスなのに、先輩は色々と問題抱えてるもんね。大体は自分のせいだから自業自得だけど。
先輩は特級呪物かのように全方位からわたしのチョコを眺めていると、漸くそれに気が付いた。
「ってか上に書いてある『L』って何、サイズなの? そこまで大きくないけど……いや、高さはそこそこあるか」
「ふふーん、一層ごとに一文字ずつ文字を入れておりますので、しっかり目と舌でわたしの気持ちを味わって食べると良いですよ」
そう、このチョコレートは層の中央にホワイトチョコで文字入れをしている。だから湯煎と固める作業を普段の四倍近くやる派目になっていた。
その努力が少しでも報われるよう、わたしは先輩に魔法を掛けようと耳元へと口を寄せる。これでもかと勿体ぶった、お砂糖のように甘い甘い声色で。
「……ちなみにー、せんぱいはぁ、なんて書いてあると思いますか〜??」
ふふっ、照れて赤くなってる。こういう所は変わって欲しくはないなぁ……。
わたしが珍しく見惚れてあげていると、突然に先輩の目と口が大きく開かれた。そして、そのままわたしのチョコの大半を一口で噛み切ってしまう。えっ、酷くない?!
「4文字目は『E』か……もしかして、LIKEか? 正直、好かれているってだけで嬉しいし、味もマジで美味い」
先輩の癖に本当にちょっと嬉しそうに笑う。何それ、そんな顔で言われると文句も言いづらい。ってかあざとい。人に言う前に自分がやめろや。
睨んで怒ってやろうかと思ったけれど、わたしの頬が妙に上気するのに反比例して溜飲は下がってしまった。相手はあの先輩なのだし、ちょっと厭味ったらしく揶揄うだけで許してやろう。
「あーあ、わたしの気持ちが分からなくなっちゃいましたね。本当は何が書いてあったのか知れないままに、先輩はこれから生きていかなくちゃいけないんですよ。もしかして、って淡い気持ちを抱けて良いですね」
「……おい、まじで顔合わせづらくなること言うのやめてね。ってかLIKEじゃないの?」
わたしの甘い甘いチョコを食べておいて何を言っているんだか。ふざけているのか知らないけれど、本当に先輩はアホ。でも、そんな反応も、先輩自身も、わたしにとってはお気に入り。
だからわたしは笑ってあげます。今までのわたしの為に、今日のわたしの為に、何よりもひと月後のわたしの為に。
「あはは外れです、YOU
「なんで急に本田さんになるんだよ。ってかLOSEなの? 酷くない? 俺受験生だから、負けとか滑るとか禁句でしょ……。お返しはまぁ考えとく、さんきゅな」
先輩は、最後に微笑んでおけばわたしが満足すると思っている節がある気がする。本当にアホ。軽々しく見せないでほしいし、ちゃんと責任もとってほしい。
そんな思いを伝える筈もなく、わたしはまた溜息を吐くと立ち上がった。お返しの取り付けも済んだので、お邪魔虫が来る前に退散しないと。
ただ、最後にとっておきを食らわせてやろう。めんどくさい先輩に、めんどくさいわたしから。ピッと立てた指先を唇に当てて、ウィンクなんかしちゃって。
この先に無駄に悩んだり、嫌になったり、しんどくなったりもするかもだけど、後悔だけはしないように。
「馬鹿な先輩に、最後にヒントをあげましょう。わたしも受験生に配慮して文字入れをしたので、勝ってほしいという想いを込めてどこかに『V』の文字を入れましたよ?」
ここまで言えば先輩と言えど分からざるを得ない。証拠とばかりに呆けて空いた『O』型の口に、わたしは釣り針を引っ掛けるように別れの挨拶を告げる。ある種の犯行予告にもとれる、可愛い可愛い後輩からの決意表明で。
「そ、れ、と、わたしも先輩と同じ大学を目指しますので、これからもよろしくお願いしますね♪」
──だって、諦めないでいいのは、女の子の特権だから。
ハッピーバレンタインってことで、初めて八色を書かせてもらいました。
是非ともご感想を頂けると嬉しいです。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
由比ヶ浜結衣~特別以上の友チョコを~
昼休みも半分が過ぎたであろう頃、俺は嵐が去った後の静けさを一人味わっていた。口の中には未だに甘い余韻が残り続けている。
食べ終わった包みは綺麗に折り畳み、制服のポケットへ。別に残す訳でも無いのに、無造作にするのは憚られてしまった。何もかも思い通りに動けない様は、まさに完敗であろう。
ぼんやりと白い息を吐いているのは、何かを考える余裕があるからではなく、ただ何も考えないように見つめる先を作っていたからに違いなかった。
冬空の空気で乾いた口内を潤すために、無糖の紅茶の入った容器の蓋を開けていく。誰かによって制限されている糖分も、先程のチョコレートでプラマイで言うとちょいプラスな気がする。これは今日もマッカンはお預けでしょうかね。
漸く思考の戻ってきた頭で健康問題について考えていると、後方からパタパタとまた別の足音。それは活発で優しい音。こう何回も聞いていると、誰が来たのかも自ずと分かってしまうようになっていた。
「ヒッキー、やっはろー」
「……ん、どうかしたか由比ヶ浜?」
相も変わらずアホっぽい挨拶をぶら下げて来たのは由比ヶ浜結衣。桃色風の明るい茶髪をした彼女は、後ろ手に紙袋を垂らしている。
「いやー、悩んだんだけどさ、ヒッキーにも友チョコ渡しとこうかなって」
「えっ、なに、……配り歩いてんの?」
「うん、優美子と姫菜には渡して来たよ」
確かに女子にはそういう風習があったりなかったりするらしい。ってことは、友達が多ければ多いほど支出は増えるし、摂取カロリーもバカにならなくなるのでは? 本当に聖人だったらしいのに、バレンタイン司教もとんでもない業を背負わされたものだ。
呆けることに慣れていた俺は、由比ヶ浜を立たせ続けていることに気付くのが遅れてしまっていた。急ぎ、座り易いよう横へとずれると、彼女は小さく感謝の言葉を口にする。そして、拳一つ分も置けない距離に腰掛けた。
……えっ、普通そんなに近くに座らなくないですかね。というか本当に近い、良い匂い、あとマジで近い。もう、こっちにスペースねぇから!
「あはは、ヒッキーはあんまり変わらないね。ゆきのんのことはあんなに変えちゃったのに」
「……人聞きの悪いことを言うな、実際あいつも面倒臭いところは変わってない」
眼前に浮かぶは、そういうところだとでも言いたげな表情。由比ヶ浜はそのまま盛大に溜息を吐くと、改めてこちらに視線を向け直した。
「きっと、あたしもいろはちゃんも、他の人だってヒッキーにだいぶ歪められちゃったよ?」
「歪むって……」
指折りしながら話す彼女に、挟みたくもない相槌を入れてしまう。もしかしなくても、知っていて使っていますよね。あの、雪ノ下さん、ちょっとガハマさんにお口緩くないですか?
「あーあ、あたしも責任取って欲しいなぁー」
誰に聞かれても誤解されるであろう危険な言葉と共に、湿度高めな下半月状の目が俺を襲っていた。由比ヶ浜さん、絶対に俺よりも一色さんに歪められてますよ。一色ならまだしも、君にやられると無下にし辛いから本当にやめて欲しい。
俺は無言での抵抗を続ける。こんなハンター試験並に沈黙しか許されない状況で他に何をしろと言うのだろうか。
「……まぁ、いいや」
必死の抵抗の甲斐があったのか、遂には由比ヶ浜からお許しの言葉を賜る。止まっていた自身の息を吹き返していると、彼女は反対側に置かれた紙袋にガサゴソと手を突っ込んだ。
取り出されたのは、俺の手よりも大きなハート型のチョコレート。無色透明な包装に入ったそれは、色鮮やかなシュガーハートで装飾がされており、ハート要素のみで構成された外形は女子受けは良さそうにも見える、のだが……。
「えっ、なに、……これなの?」
「うん、そうだけど」
俺の戸惑いなど気にもせず、由比ヶ浜はあっけらかんと言葉を返す。そして、何も隠す気のない無色透明な袋を、堂々と目の前に差し出した。
────受け取れる筈がない。
この大層な手造りチョコレートも、明らかに込められていそうな彼女の気持ちも。幾ら由比ヶ浜でも、流石にこんな物を皆に配っているとは微塵も思えなかった。
「ヒッキーとゆきのんには特別に用意したんだよ。……だって、特別だもん」
「おい、お前まで自然と俺の心を読むな」
「あははっ、だってヒッキー全部顔に書いてあるもん」
由比ヶ浜に笑われ、釣られて俺も自然と笑ってしまう。思えば、随分一緒に居るようになったものだ。歪な出来事で出会い、関わり始めてからは罵り合って。やがて多くの依頼に共に挑み、その度に彼女に助けられ、……そして何度も俺の手で傷付けてしまった。
しかし、その悠久にも思えた掛け替えのない時間もあとひと月程度のこと。こんな肩が触れ合う距離でなくとも、彼女にずっと関わることなんて、俺に赦されはしないだろうから。
だから、俺は言葉を口にしようとした。
また傷付けてしまうであろう、酷い言葉を。
しかし、俺の唇が音を発するよりも先に、目の前の大切な女の子が口を開いて、凍えてしまいそうな空気を震わせてくれた。
「……あのね、ヒッキーにはこの先ずっと仲良くして欲しい。ここまで言わないと、ヒッキーは勝手に勘違いして逃げて行っちゃうって、あたしも分かってるんだから」
きっと、由比ヶ浜には全部バレていたのだろう。俺には彼女を突き放せる自信がないから、逃げてしまおうとしていたことを。その癖、雪ノ下とは仲良くし続けて欲しいと自分勝手な願いを持っていることさえも。
だから彼女は言葉を続ける。俺たち奉仕部を繋ぎ続けてくれた、彼女だけの明るい笑顔のままで。
「もちろん、ゆきのんにも渡すよ。だって、この先ずっと親友のままでいて欲しいもん!」
この先に関わり続けたい、その決意表明としての特別な友チョコ。これを受け取らない理由は俺にはもう無いだろう。そう思わされ、彼女が差し出し続けてくれたハートを、俺は漸く手渡してもらうことが出来た。
「……ありがとな、大事に食べさせてもらうわ」
想いが詰まった重いチョコレートを手に、俺は感謝の言葉を口にする。由比ヶ浜を傷付けずに済んだ安心感と、手に持ってみた実際の重さに笑みを浮かべながら。
「うん、……あっ、でもゆきのんには見せないでね」
「確かに、あいつ早とちりして不機嫌になりそうだもんな」
明日の分を考えても糖分過剰な上、ハート形のチョコレート何ぞ持っていたら千葉に雪が降ってしまうこと間違いなし。まぁ、あいつも由比ヶ浜から同じ物を貰うのだから形状については不問にしてくれるだろう。
そんな俺の甘い考えを打ち砕くように、由比ヶ浜は再び紙袋に手を入れながら笑った。
「違うよ、だってゆきのんにはこれあげるから!」
取り出された手には猫の顔の形をした小さなチョコレート。丁寧に髭の形まで綺麗に装飾されているが、何処にもハートマークすら見当たらなかった。
「ヒッキー、お返し期待してるからね!」
取り出していた猫チョコをささっと紙袋へと仕舞い、由比ヶ浜は立ち上がって特別棟の方へと走り去っていく。これだから、優しい女の子も、ズルい女の子も苦手なのだ。
それでも、昔のように嫌いになれないのは、きっと彼女たちのせい。俺もまた、随分と彼女たちに歪められてしまっている。
またしても一人残された俺は、先刻のように息を吐くしか出来なかった。目の前に発生する水蒸気由来の靄は、より白く、より大きく浮かび上がっている。それはきっと、触れていた肩から伝わった彼女の温度の仕業で。
その熱はやがて顔にまで伝搬していく。
そして、心に燻る想いのように長らく消えることはなかった──。
ハッピーバレンタインってことで、初めて八結を書かせてもらいました。
是非ともご感想を頂けると嬉しいです(二回目)。
目次 感想へのリンク しおりを挟む
しおりを挟む
雪ノ下雪乃〜贈り物にはリボンを添えて〜
大学受験の二次試験も直前、最後の追い込みを図る予備校からの帰り道。俺は世間一般で言うところかは不明だが、パートナーである雪ノ下と二人で帰路へと着いていた。
今年は未だに雪さえ降らせない千葉の冬空の下ではあるが、暖房が効いた環境の後であれば厳しい寒さに感じてしまう。
隣で歩く彼女は、贈ったカシミヤの手袋で白魚のような指を覆わせていた。俺は外套のポケットに粗雑に手を突っ込むことで暖を取っている。触れ合う機会を減らしてしまったことに幾分かの後悔はあるのだが、俺が見ていない場所で凍えさせるよりは良かったであろう。
ふと、マフラーに顔半分を阻害されている横顔を見やると、こっちを見ていたであろう雪ノ下と視線がぶつかった。だが、すぐにぷいっとそっぽを向くかのように歩く方へと視線を送る。
「……予備校でも貰っていたわね」
「あんなの、義理も義理だろ」
予備校では、お徳用パックを買った女子達が応募者全員配布の勢いで渡し回っていた。応募していないのだが、何時の間にか机の上に置かれていた物を返すのも気が引けたので、一応貰ってはいる。流石の俺でも何の情感も入っていない物に動揺をする筈もない。
「そうじゃないのも、そこに入っているのでしょ?」
「…………」
彼女は俺の肩に掛かる鞄をそっと見やると、直ぐさまに視線を前へと戻した。
マフラーで薄い唇を覆い隠してはいるものの、目は口ほどに物を言うようで、あからさまな非難の意思がその瞳には宿っている。
機嫌的に時期は悪いかもしれないが、彼女の家という明確な終着点が近いこともあり、俺は一日ずっと気掛かりだったことを訊いてしまった。
「その、なんだ……雪ノ下からは貰えないのか?」
「……まだ入るの?」
彼女が指しているのは、鞄の容量であるのか、それとも胃袋の空き具合なのか、はたまた……。だが、いずれにしても問題は微塵もありはしない。
「期待してた分だけ、ちゃんと空いてる」
「…………期待、ね」
ふっと笑うような小さな声が耳朶を打った。雪ノ下は肩に掛けた鞄の紐に手を差し込むと、少しだけ位置をずらした程度で元の場所へと手を戻してしまう。
そこからは、また二人の間に静寂が訪れた。歩みを進める度に刻一刻と彼女の住むマンションが近付いてくる。大した間も無く、気が付けば見慣れたエントランスが目の前に拡がっていた。
そこで彼女はくるりと振り向き、入口の照明を背に纏って真剣な眼差しを見せる。
「本当に、欲しい……?」
「絶対に欲しい」
俺は迷わず言い切っていた。それもそうだろう、雪ノ下から貰えなかったら三日三晩枕を濡らすまである。嘘です。多分三日じゃ済まないだろうから。
「……なら、着いてきて」
そう口にして、彼女はエントランスの入口を開き、エレベーターへと足を運び始める。俺もその後に続く形で、そこへと乗り込んでいった。
暫く入っていなかった彼女の部屋は、相も変わらず整理整頓が行き届いており、本当に生活しているのかすら疑いそうになる。雪ノ下が紅茶を入れている間、俺はただソファーへと腰を掛けて大人しくしていることしか出来ない。
やがて、嗅ぎ慣れた茶葉の香りが漂ってくると、静かな足音と共に彼女が現れた。
「紅茶、比企谷くんのはもう飲みやすいと思うから」
「……さんきゅ」
最近はどうも、器を事前に温めなかったり、注ぎ方を工夫したりで猫舌の俺に配慮をしてくれている。きっと、俺よりも猫舌を可愛がっているのだろうが。
カップとソーサーを置いた彼女は又してもキッチンへと舞い戻る。それを見送った俺は注がれたカップに口を付けると、紅茶の程良い酸味と渋味が身体を内から温めてくれた。その味と温度に内心で感謝を告げていると、雪ノ下が再びリビングに顕現した。
その手には、煌びやかな装飾の施された赤いリボンでラッピングされた四角い小さな箱。きっと俺が心底欲していた、彼女からのバレンタインチョコレートであろう。
「……それをくれるのか?」
「まるで飢えた狼ね。あげないと比企餓死くんになってしまうのかしら」
「まぁ、間違いなく死にたくはなるな……」
冗談交じりに伝えると、彼女の頬が次第に赤みを帯びていく。最近の彼女は本当に防御力が薄い。恐らく胸部装甲と同じくらい。
期待の目で見つめていた四角い箱は、俺に渡されることなく目の前で雪ノ下の手によって開封されようとしていた。まさか、今のを読まれてしまったのだろうか。許してください、俺はそこも良いと思ってるから……。
終いには蓋まで外されてしまうと、中には棒状の柔らかそうな黒い物体が規則正しく横並び。恐らく、生チョコで作られた物なのだろう。
「比企谷くんは、手で触れるの禁止だから」
一見、生チョコに付属されている謎フォークもありはしないので、手で掴む以外に取りようがない。まさか、この俺に犬食いしろってことだろうか? おいおい、そのチョコを食べるためになら、下らないプライドなど幾らでも捨てるぞ。
「──欲しかったら、……どうぞ」
そう口にした彼女は、そっと指で一本を摘むと自身の口へと咥えた。俺は鈍感ではないので意図は理解出来るのだが、その行為に対して踏み留まってしまう。
「ん……」
躊躇している間に一口、また一口と噛み進められていく。このまま見ているだけでは、俺は口にすることも出来ない。それだけは嫌だった。
俺は意を決して顔を近付け、間違えても触れてしまわぬように一口分だけを嚙み切った。その瞬間に口に広がる芳醇なカカオの香りと生クリームの濃厚な甘みが幸福感を連れてくる、……とか思いたいが味など分かりはしない。
雪ノ下の口に残った、奪いきれなかった分は彼女が平らげてしまう。そして、ちろと舌先で薄桃色の唇を舐め取る仕草。それが妙に艶めかしくて、否応にも鼓動が高鳴ってしまう。
「もう欲しくはない?」
「……いや、まだ食べたい」
揶揄うような笑みで言葉を投げられ、敗北濃厚な勝負に再戦を希望すると、大切な一本が再び彼女の口に咥えられる。ポッキーゲームじゃないんだから、それはまた11月にやろうね。いや、やるんかい。
今回はなるべく回収しようと、俺は真剣な眼差しで普段よりも艶めく唇先をを見つめる。そして、ゆっくり丁寧に顔を接近させていき、何とか半分よりも先の場所で噛み切った。これだけ口に含めば流石に味も何となく分かる。なるほどなるほど、甘くて美味しい。
この恥ずかしい餌付け方法は兎も角、未だに食したい気持ちは衰え知らず。続けてのおかわりを所望しようと視線を運ぶと、彼女は奪い切れなかった部分を咥えた儘であった。そして、ソファーに手を付いてゆっくりと近付いてくる。
その長い睫毛を有した瞳は潤み、陶磁のような白い肌を朱に染めている様相にどうしようもなく見惚れ、惹かれてしまうのは必然で、俺はうっかり目測を見誤ってしまった────。
生チョコレートよりも柔らかくて甘い何かに、一瞬唇が触れる感触。びくりと跳ね上がる彼女の肩を両の手で抑え、このまま思わず奪い尽くしたくなる衝動も抑えるべく、その肩の上に自身の顔を退避させた。
呼吸が酷く荒くなる。壊れそうな程に早い鼓動も、溶けてしまいそうな程に熱い体温も自分だけではない。密着した雪ノ下の甘い匂いが更に心臓を強く叩いていく。
彼女が口に含んだチョコレートを飲み込み喉を鳴らす音すら、今の俺には強い毒となっていた。あの時は冗談にしか聞こえなかったが、これではまるで本当に飢えた狼ではないか。
「……もう、欲しくはない?」
「…………欲しい、出来れば残りは全部」
正直に言葉にすると、雪ノ下は俺の背中にゆっくりと手を回して更に密着度を上げていく。俺まで同じようにしてしまったら、もう歯止めが効かなくなりそうだった。見えることのない、彼女の表情は今どうなっているのだろう。
大学受験前の大事な時期、高校卒業前、そして何よりも大切にしたい。幾らでも脳裏に咲く理由を思い浮かべては、綺麗に並べて鎮めていく。この高鳴る鼓動も、動物的欲求でしかない悍ましい気持ちも。
やがて、互いの心臓が心地良い拍まで落ち着きを見せた頃、漸く二人の間に距離が生まれた。
「……残りは、家で食べてもいいか?」
「…………そう、構わないわよ」
俺の言葉に雪ノ下はあからさまに残念そうな表情を浮かべる。ごめんね、口渡しで食べたら味がわかんなくなっちゃうんだもの。
申し訳ない気持ちでテーブルの上に置かれた、すっかり冷めてしまった紅茶を口に含ませた。冷えたことで強調される渋みが、水飴の如き甘美な毒を洗い流してくれるのに丁度良い。
俺が飲み干す間に、彼女はチョコレートの入った箱を静かに閉じてくれていた。リボンは付け直さず、テープだけで簡易的に。
そして差し出されたその箱を、感謝を伝えて受け取り鞄へと大切にしまった。
「……そろそろ帰るわ」
明日も早いからと理由を付け、急ぐようにソファーから立ち上がる。そのまま外套に袖を通して、朝よりも随分と重くなった鞄を手に取った。
玄関までの僅かな道程は黙って歩き、靴を履いて冷たい取っ手を押し込み扉を開いた。そして、身体を半分だけ翻して見送りに来てくれた雪ノ下に顔を向ける。
最後に感謝を述べよう。どうしようもない俺からの、心を籠めた感謝の言葉を。
「さんきゅーな、……ちゃんと大事に食べさせてもらうから」
「少し、待ってもらえるかしら」
雪ノ下の手には箱の封に使わなかったリボン紐が握られていた。そして、そっと俺の右手を取ると、選んだ一本の指にくるりと巻いていき、こそばゆい動きで最後に綺麗な蝶結びを添える。男向けのお洒落ではなさそうな見た目に、気恥ずかしさで苦笑いが零れ落ちた。これは一体何が目的なのかと、彼女に問うために面を上げると……。
視界に映ったのは、雪ノ下の稚さを感じる、照れ交じりの可愛らしい微笑。
「────残りは、ホワイトデーにね」
紡がれた言葉の後、そっと優しく押された勢いで外廊下に両足が出てしまう。小さく手を振る彼女を見惜しむ間もなく扉は閉じられ、施錠される音が俺の赤くなった耳を打った。
︎ ︎ ︎俺は勘違いをしてしまっていると、白くなった息に目もくれずスマートフォンを取り出す。そして、生チョコレートの消費期限を検索した。どうやら数日が限界で、ひと月など到底持ちそうにもない。
本日は考えなくてはいけないことが山積みであるのに、俺の頭は彼女の言葉の真意を読み取ることだけで一杯だった。きっと、何かを勘違いしている。そう疑い続けることでしか、この熱を冷ますことは出来そうにもない。
先程までの出来事を何度も反芻しながら、ひとり悶えてエレベーターに身を乗り入れる。行き先を指定する手の薬指には彼女に巻かれた赤いリボン。
それが一瞬、俺が心底欲しがっていた贈り物かのように煌めいて見えた。
バレンタイン記念ということで、3作品投稿させて頂きました。
少しでも、俺ガイルのアニメ10周年の大切な年が盛り上がることを一ファンとして期待しています。
目次 感想へのリンク しおりを挟む