異女子 (変わり身)
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「足の裏」の話(上)

オカルトとは何ぞや。

そう問われた時、多くは『胡散臭い作り話』と答えるだろう。

 

技術発展の著しい現代社会。この地球上に蔓延るオカルトの多くは科学によって解き明かされ、万人が納得できる理屈の枠内で語られる。

 

魔法、呪い、占い、怪談、幽霊、魑魅魍魎の妖怪変化――そんなものは全てまやかし。

それらを信じてるのは子供か夢見がちな人で、普通の人は彼らを馬鹿だと笑うのだ。

 

かつての私もそうだった。

霊感があると嘯くクラスメイトを鼻で笑い、くだらないと切り捨てる。そんなヤな奴だった。

 

正直、色々あった今でもその反応は間違っているとは思っていない。

自分から霊能自慢をする奴はロクな事をしないのだ。少し前にソイツがやらかしたアレコレでそれは身に染みているし、むしろぶん殴ってでも止めてやるべきだったとも思っている。

 

……ただ、まぁ。

 

 

「――ちょっとくらいは話聞いて、知識持っとくべきだったよなー……」

 

 

完全に陽が落ち、人気も無くなった夜の道。その隅っこ。

電灯が切れかけているのか、明滅を繰り返す自動販売機の上に蹲り、私は愚痴と一緒に溜息を吐く。

 

上から道の先を窺えば、そこには夜闇だけが広がっているように見えた。

……でも、違う。よく見れば、地面には小さな影が幾つもある。

 

人の足の裏みたいなそれらは、見ている内にも更に数を増やし続け、ひたりひたりと私の隠れる方角へ近づいてきて――。

 

 

「んひぃ!?」

 

 

衝撃音。突然、自動販売機が大きく揺れた。

おそらく、『足の裏』に蹴られているのだ。

バンバンという衝撃は何度も続き、自動販売機もグラグラと前後に振れる。

 

 

「ちょ、待っ、ぬおおおぉぉぉ……!」

 

 

焦った私は身体全体で自動販売機を抱え込み、落っこちないよう必死に踏ん張る。

そうして乙女の尊厳を捨てた叫びを上げ、そのまま暫く耐え忍び――やがて、激しく明滅していたライトがパチンと安定を取り戻す。

散々に叩かれ続けて、配線がいい感じにアレしたのだろう。

 

同時に衝撃と音も止み、周囲に静けさが戻り。すぐ傍にまで迫っていた『足の裏』も、いつの間にか綺麗さっぱり消え去っていた。

 

 

「……ひ、ひっ、ひっ……」

 

 

無意識の内に喉が鳴る。

無論笑いなどでは断じて無く、恐怖から来るひきつけである。

 

そう、今の一幕で分かって貰えると思うが、私は現在進行形でオカルトの襲撃に遭っている。

 

これをまやかしと笑い、くだらないと吐き捨てていた頃の私は何と幸せな馬鹿野郎であったのか。

乱れる呼吸を必死になって整えながら、私は無知で無力な自分に向かって毒づいた。

 

 

1

 

 

経緯を話そう。

 

その日、学校での授業を終えた私は、友人と共にスポーツ用品店に訪れていた。

陸上部期待の星である彼女はシューズの買い替えを予定しているらしく、私はそれに無理矢理付き合わされたのだ。

 

 

「……こういうとこで買いたいのとか、別に無いんだけどなぁ」

 

「タマ吉、全身真っ白けだけどおひさま平気なんだろ? 運動神経メチャ良いんだからさぁ、アタシとお揃いの靴で走ろうぜ~?」

 

「ヤだよ、ガチのスポーツとかやる気無いって知ってんじゃん」

 

 

どうも彼女は私の素晴らしき健脚に目を付けているらしく、隙あらば陸上部へと勧誘してくるのだ。

今回この店に連れて来たのも、まずは道具から興味を持って貰おうという狙いだったのだろう。

押し付けてくるシューズを素気なく押し返せば、彼女は渋々と引き下がった。

 

 

「ちぇ。まぁでも、お店見てる内に気が変わるかもしんないしさ。アタシの用が済むまで試しにぐるっと見てきなって、ね?」

 

「えー、マジで興味ないん……って、居ないし」

 

 

彼女の指さすまま展示されているシューズを見回していると、気付けば一人取り残されていた。

相変わらず強引な娘である。私は小さく溜息を吐き、彼女の言葉に従って手近な一足を手に取った。

 

 

「……いや、善し悪しとか知らんて」

 

 

結構なお値段がする辺り、良い素材を使ってはいるのだろう。

しかし私にはどこが優れているのかよく分からず、すぐに棚に戻して店内をぶらつく事にした。

 

と言っても、並んでいるのは撥水ウェアや筋トレ用品ばかりで、私の興味を引くような物は何も無い。

数分後には散策も止め、休憩スペースにてぽちぽちとスマホ弄りに精を出していた。

 

 

「まーだ、かかんのかなー……」

 

 

適当に買ったジュースをズコズコ啜りつつ、シューズの試着をしている友人を眺める。

今日は特に用事もなく、暇を持て余していたので付き合うのは構わないのだが、徹頭徹尾興味の湧かない空間に居続けるというのも辛いものがある。

 

……いっそ彼女の目論見通り、興味を持てそうなスポーツでも探してみる?

悪すぎる居心地にそう血迷った私は、再び店内を散策しようと立ち上がり――。

 

 

「……んぉ、っと?」

 

 

上げようとした足が、動かなかった。

まるで、靴底が床に張り付いたかのよう。靴を脱ぎ、素手で引っ張るがビクともしない。

 

接着剤でも踏んだか?

それほど愛着も無い学校指定のローファーだが、この場で使えなくなるのはとっても困る。

 

徐々に焦り、どうにか床から引き剥がそうと苦心して――突然あっさりとすっぽ抜け、入れていた力のまま転びかけた。

 

 

「うわっととと……と?」

 

 

そうして露になった、靴が張り付いていた場所。

そこに、小さなシミが浮いていた。

 

ぐずぐずと、どろどろと。

どす黒く蠢き濁る、二つ並んだ足の裏。

 

誰の物かも分からず、ただ人間の物とだけ分かるそれらは、私の見ている前で床に吸い込まれるように消え去った。

 

 

「…………」

 

 

……明らかな異常現象ではあったが、見間違いとは思わなかった。

その時私の心にあった物は、大きな恐怖と少しの諦観。

ああ『また』か、と。そう思っていたのである。

 

 

 

 

三週間と少し前、私はとあるオカルトに巻き込まれた。

 

あの時結局何がどうなったのか、アレが私に何をしたのか、全てを正確に把握しているとは言い難い。

確かなのは、あの日を境として私の日常にちょくちょく『意味の分からないもの』――オカルトみたいな『異常』が割り込むようになった、という事だけだ。

 

幽霊だか妖怪だかも定かでは無いそれらは、通り過ぎる小鳥のように人畜無害な物から、牙を剥く猛獣のように有害極まる物まで多岐に渡る。

 

さて、今回の『足の裏』は一体どちらなのだろう。

叶うならば小鳥タイプであって欲しいが、あのどす黒い濁り方は猛獣タイプである気がしてならなかった。

 

 

「何だ、結局靴も何も買わなかったのか……」

 

「うん。やっぱ陸上とかあんまりな~って、はは、は……」

 

 

友人の買い物も終わった帰り道。私の足を見ながら零されたボヤきに適当な返しをしつつ、背後を見る。

すると、少し離れた場所の地面には例の『足の裏』があり、明らかに私達の後をつけていた。

 

 

(ああぁぁ……ほんとヤダ、ほんっとヤダ……!)

 

 

人の姿が無いまま、ヒタヒタと『足の裏』だけが刻まれ続ける光景は酷く不気味であり、私の恐怖をよく煽る。

今すぐにでも全力で逃げ出したい所であったが、友人の存在がそれを許さない。

短絡的な行動は、自分では無く周りを危機に晒すのである。

 

 

「……どした? 後ろに何かあんの?」

 

 

友人の目が背後を向くが、『異常』を視認できる人間は限られている。何も見えず首を傾げる彼女に、私は何でも無いと首を振った。

 

 

「それより聞きたい事あるんだけどさ……さっきのお店、前に何かあった?」

 

「うん? どゆこと?」

 

「いや、床にね、黒いシミが広がってるとこあって。何かぶちまけたんかなーって」

 

 

今回の『異常』の原因は、間違いなく先程のスポーツショップにある筈だ。

ふんわりカマをかければ、友人は怪訝な表情で首を傾げ、

 

 

「ん~、店員さんは特に何も言ってなかったけど――ああでも、ちょっと前に不審者が出たみたいな話は聞いたかな……?」

 

「……誰か死んだ? その血とか?」

 

「いや殺人とかじゃなくて、何か売りもんの靴の中敷きが沢山盗まれてた事があったらしい」

 

「は? え、高く売れたりすんの、そういうの」

 

「まさか。女児用とか女性用の靴ばっかりって話だから、そういうアレだったんじゃないか?」

 

 

変態じゃねーか。それもすげー特殊な性癖のやつ。

何かもう聞きたくなかったが、嫌々ながらも先を促すと、友人は困ったように顎を擦った。

 

 

「いやアタシも店員さんからちょろっと聞いただけだし、詳しくは知んないよ。後はまぁ……その犯人が店から逃げる途中で事故って死んだ、とか聞いたっけかなぁ」

 

「結局死んでんじゃん……!」

 

 

事件の内容といい犯人の顛末といい、明らかに『足の裏』との関係性が窺え、ゾッとする。

友人は静かに青ざめる私に気付く事無く、私の足をじろじろ眺め、

 

 

「靴の中敷きだけ集めて死ぬとか、報われないよなー。実際に興味あったの、ナマ足だろうに」

 

「その同情いる?」

 

 

その変態の無念が形を成したとでもいうのだろうか。

色々と危険度の上がった気のする背後の気配に、私はビクビクと警戒を深め――やがて家路の分かれるT字路に差し掛かった時、友人の手が小さく振られた。

 

 

「そんじゃ、また明日な。入部届は朝イチで出しといてくれよな~」

 

「だから入んねっつーの。んじゃね」

 

 

手を振り返し、平静を装って見送った。

 

『足の裏』は動かない。

鼻歌混じりに去っていく友人に付いて行く様子も無く、狙いは私だけなのだと察する。

 

 

「…………」

 

 

無言。

私と『足の裏』しか居ない道端に、少しずつ嫌な気配が増していく。どろりと濁った、ヘドロの匂い。

 

本当は今すぐにでも友人を巻き込み、恐怖を共有したかった。

でも、そんな事をしたって誰も救われない。二人揃って酷い事になるだけ。

泣きつくべきは、別に居る。

 

 

「…………」

 

 

スマホを取り出し、そいつの番号を呼び出した。

 

私はあいつが嫌いだ。でも、こうなった以上は仕方が無い。

背後への注意を切らさないまま、応答を待つ。

 

一回、二回、三回、四回。続くコール音に苛立ちが募り、息が震える。

 

何してんだ、早く出ろよ。早く、早く、早く……早くっ。

そうして焦りに胃を絞り上げていると――やがて、ぷつりとコール音が途切れた。

 

やっと繋がった。私は安堵に息を吐き、通話先の彼に泣き言を叩き付け――。

 

 

『――かかと、ちょうだい』

 

 

――あいつじゃない。

耳元で聞こえた知らない声に凍り付いた瞬間、背後で地を蹴る音がした。

 

 

「っ――」

 

 

思わずスマホを取り落とした。でも、拾っている暇は無いと本能的に悟る。

勢い良く迫るヒタヒタ音に総毛立ち、一拍遅れて駆け出した。

 

 

「ヤだ、うそ、うそでしょっ……!?」

 

 

反射的に鞄を投げつけるが、シミ相手では何の意味も無く。

私は声にならない悲鳴を張り上げ、自慢の健脚でオカルトとの鬼ごっこを開始したのであった。

 

 

 




本作は短編連作形式で、気楽に書けて適当に続けられる感じにできたらいいなと思っております。
ゆっくりノロノロよろしくお願いいたします。


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「足の裏」の話(中)

2

 

 

私の住むこの御魂橋市は、その名の通り橋の多い街である。

 

街中を放射状に巡る無数の川々を跨ぎ、陸地を繋ぐその姿はまるで蜘蛛の巣。

街の航空写真がテレビに取り上げられ、一時期「蜘蛛の街」と話題になったほどだ。

 

そして橋を渡ればわたる程、街の景色が段階的に変化していくのも特徴だろう。

例えば、街の中心は東京もかくやという程の賑わいを見せているけれど、そこから幾つか橋を渡れば人気の無いド田舎エリアとなり、更に進めば人の殆ど居ない森林エリアにがらりと変わる。

なんでも、橋が土地の区切りとして作用している結果らしい。地理の授業でそう聞いた。

 

――で、今私が走り回っているのは、人の少ない田舎エリアに入った所だ。

 

容姿だけでなく心すらも美しい私には、見知らぬ誰かをオカルトに巻き込む事なんてできる訳が無いのである。くそったれ。

 

 

「ひぃぃ、しつこいぃ……!」

 

 

幾つもの橋を渡り、幾つもの道を駆け抜けた。

けれど『足の裏』は私の背後にピタリと張り付き、ヒタヒタ音を響かせ続けている。もし捕まればどうなるかなど、考えたくも無かった。

 

一回振り切ってから落としたスマホを拾いに行く算段だったのだが、どうやら甘い考えだったらしい。

流石に体力も尽きかけ、足取りからもみるみる力が抜けて行く。

 

 

「まっず……っの!」

 

 

通りがかった廃工場。その周囲を囲む金網フェンスを見た瞬間、私は咄嗟に飛びついていた。

 

足は限界だったが、腕の方はまだ元気。

山猿もかくやというスピードで登り切り、そのてっぺんに跨り様子を窺う。

 

 

「……こ、来ない、か?」

 

 

一応いつでも飛び降りられる態勢を作っていたが、『足の裏』は周囲をウロウロするばかりで登ってくる様子は無い。

所詮は地面のシミ、高所には上がって来られないのだろう。私は「ぶへぇ」と息を吐き、乱れた呼吸を整える。

 

……が、すぐ隣に立つ電灯に集っていた羽虫を何匹が吸い込み、逆に大きく咳込んだ。うげー。

 

 

「おぇぇ……つか、もうこんな時間……」

 

 

スマホが無いので詳しい時間は不明だが、電灯が灯っているという事は、それなりに深い時間という事だ。

そしてこの手のオカルトは、おひさまの届かぬ夜にこそ本領を発揮する。

……あんまり、余裕無いかもしれない。

 

 

「…………」

 

 

制服の裏地に手を入れ、そこに隠していたものを強く握る。

 

一応、手立てと言えるものはある。泣きつくべき相手から貰った、緊急連絡手段のようなものが。

だが、それは文字を書ける紙のような物と一緒でなければ使えないのだ。

衣服を探るも、出てくるのは糸くずばかりでレシート一枚見当たらなかった。

 

 

「……鞄投げなきゃよかった」

 

 

後悔先に立たず。やはりスマホか、ノートなどの入った鞄を取りに戻らなけば。

 

もう少し休ませろとゴネる身体に鞭を打ち、フェンスの上をヨロヨロ進む。

危うく落下しかけたが何とか端まで辿り着き、近場にあった低い塀を足場として地面に着地。

 

『足の裏』はまだ追って来ている。

高所ダメージに痺れる足を引きずり、元来た道を駆け戻った。

 

 

 

――そして、場面は最初の自販機に乗っかっている状況に戻る。

 

 

 

そう、結局私は日没までに持ち物を回収できなかった。

だいぶ近くにまでは戻れたのだが、そこで時間切れ。とっぷりと夜闇が満ちるや否や『足の裏』は見る見るうちに増殖し、私を取り囲もうとしてきたのだ。

 

咄嗟に近くにあった自動販売機に登って凌いだとはいえ、迂闊に動く事も出来ない膠着状態に陥った。

もう誇張なしに大ピンチ。誰かたっけて。

 

 

「く、くそ……どこだ、どこいった……?」

 

 

先程ひとしきり自動販売機を揺らしてから姿を消した『足の裏』だが、完全に消え去ったとは思えない。

 

どうせ近くに潜んでいる筈と、必死に夜闇に目を凝らすものの……明かりは自動販売機の物しか無く、街灯も遠くにぽつぽつと見えるのみ。

そんな真っ暗闇から黒いシミを見つけ出すのは難しく、私の眼球はすぐカラカラに干からびた。

 

 

「うぐぅ……つーか、何で消えたし……」

 

 

涙の染みる両目を抑え、絞り出す。

例え高所に上がれずとも、そのまま取り囲んで居れば良いではないか。実際フェンスに昇った時は、消えずに近くをウロウロしてたのに。

 

なのに何故、今になって一度退くような事を――そう愚痴りかけ、ハッと自動販売機の放つ明かりを見下ろした。

 

 

(……もしかして、ライトがダメなのか?)

 

 

口の中で呟く。

昼にあれだけヒタヒタやっていた以上、日光は我慢できるのだろう。

しかし先ほど自動販売機の明かりが安定した瞬間、『足の裏』は引き下がっていった。

 

そしてフェンスの一件では、街灯が私の近くで光を放ち羽虫を集めていた筈だ。

つまりあの時は高所に昇れなかったのではなく、街灯の光があったからこそ昇って来なかったとも取れる。

 

――結論。『足の裏』は、人工の光が苦手であると見たのだが、どうか。

 

 

「…………」

 

 

そろりそろりと自動販売機を降り、二の足で大地を踏む。

『足の裏』は来ない。

 

びくりびくりと歩を進め、明かりの届く範囲をスキップしてみる。

来ない。

 

 

「……ふへぇ」

 

 

深く安堵の息を吐く。

 

やはりそうだ、光のある場所は安全なのだ。

ならば話は早い。この自販機の傍に夜明けまで居れば良い。明るくなれば、『足の裏』の数も再び一つきりに戻る……筈。

 

そうなればまだ何とかなる。こんなイタイケな美少女が朝帰りとなると外聞はよろしくないが、捕まるよりはマシだろう。

 

自然と張りつめていた気が緩み、膝が笑った。

 

 

「ととと、と……?」

 

 

――そうして、自動販売機へと手を突いた途端。その筐体内部でブツンと嫌な音がした。

 

 

「……え」

 

 

じじじ、じじじ、と。

最初と同じく、自動販売機の光が途切れ途切れのものとなる。

どうやら、手を突いた衝撃でまた配線がアレになったようだ。

 

 

「ちょっ、バカ、マジで? 勘弁してって、ねぇぇぇ……!」

 

 

血の気が引いた。

 

叩けば元に戻らないかとバンバン叩くが、それがトドメとなったらしい。

明かりは残滓すらなくぷっつり途絶え、ウィンドウに並ぶ飲料の値段が見えなくなった。

 

後には闇だけが残り、私の肌に走る泡立ちが命の危機を訴える。

 

 

「……ヤバイ。ヤバイヤバイヤバイヤバイ――、っ!」

 

 

――ひたり。

背後でその足音が聞こえた瞬間、一も二も無く駆けだした。

 

 

目指すは視界の端に漂う光、遠く離れた街灯の立つ場所だ。

 

あの光の下ならば、きっと襲われる事は無い。

そんな都合の良い推測に縋り、私は全力で夜闇の中を突っ走り、

 

 

「っ、うわあ!?」

 

 

ガクン、と。踏み出した足の靴裏が地面から離れず、大きくバランスを崩した。

 

それはスポーツ用品店で起こった現象と同じもの。

反射的に足元を見れば無数の『足の裏』が殺到しており、私の靴をその場に縫い付けていた。

 

 

「~~~~ッ!」

 

 

残った片足を大きく踏み込み、無理やりに倒れかけた身を起こす。

当然、その靴も地に縫われ、私は躊躇なくそれらから両足を引き抜いた。

 

 

「っ、く……!」

 

 

止まったら、終わる。

小石が足裏の皮に突き刺さる痛みを堪え、私は必死に走り続ける。

その最中、左足の靴下が地面に張り付き、それすらも脱ぎ去った。

 

あと少しなんだ。あと少しで、街灯の所まで辿り着ける。

最後に残った右の靴下をも奪われながら、私は最後の数歩を一息に詰め――。

 

 

「……あ……」

 

 

光の下に飛び込もうとした身体が、止まった。

震える眼球を下方に落とせば、裸足となった私の足と『足の裏』が、アスファルトの上でぴたりと重なっていた。

 

 

「~~~っのぉ! やめろっ、離せ……っ!!」

 

 

じたばたと暴れ引き離そうとするも、靴や靴下のようにパージできるものは無く、外せない。

そうしている間にも周囲には『足の裏』が集い、犇めき。アスファルトを真っ黒に染めて行く。

 

――ぶくり。私の足裏が、膨れる感覚がした。

 

 

「……っ!?」

 

 

まるで、皮膚の隙間に空気を送り込まれたかのようだった。

足裏の内側。皮と肉の接着がぷちぷちと剥離し、おぞましい感触が体内に走る。

 

一体、何をされている――そんな事を考える余裕は、すぐに消えた。

 

 

「やだ、なにこれ、痛いっ。痛っ、あ、ぁっ……!」

 

 

皮と肉の間に溜まる血液に滑り、バランスを崩した。

咄嗟に持ちこたえようとするも、地面に固定された足裏は固定されたままだ。

 

結局何も出来ないまま、私の身体は大きく前へ倒れ込み――重心の移動に足裏の皮膚が耐え切れず、剥がれた。

 

 

「いぎッ――く、ぅぐぅぅぅぅっ!」

 

 

踵の端から皮膚が裂け、足指の根元まで捲れ上がる。

瑞々しい肉が外気に晒され、同じく剥き出しの神経に激痛が走った。

 

 

「か、はっ、っぎ、ぁ、ぁは――」

 

 

上手く息を吸えない。視界が霞む。

必死の思いで街灯の光の下に這いずり込み、震える眼球で足を見た。

 

 

「――……」

 

 

ひゅっと、詰まっていた呼気が通った。

 

足の裏の皮膚が剥がされ、酷い出血をしている。

しかもそれだけでは無く、ふくらはぎの中ほどまでの皮膚も剥がれ、無造作に垂れていた。

 

きっと、足裏の皮膚が剥がれた時に巻き込んだのだろう。

露出し、血に塗れた肉がぴくぴくと痙攣する光景に、痛みよりもおぞましさによる吐き気が昇る。

 

 

「ぐ、っうえ、ぇ……」

 

 

嘔吐き、ぼやけた視界を少しずらし、今度は『足の裏』達の様子を窺う。

幸い、動きは無いようだったが――見なきゃよかったと、心底後悔した。

 

 

「ひっ――」

 

 

にち、にち。そんな湿った音と共に、『足の裏』が脈動している。

最初は何をしているのか分からなかったが、すぐに気づいた。

 

 

――喰っているのだ。さっき剥がした、足裏の皮を。

 

 

その光景は酷く気持ちが悪いもので、私は情けない悲鳴と共に後退り「――っぎぃ!」剥き出しの肉を地面に擦り、体を丸めた。

 

 

「はぁーっ、はぁーっ……っく、そぉ……!」

 

 

闇の中。頼りない明かりに照らされながら、痛みと焦りに歯を食いしばる。

 

こんな足では、例え夜明けまで耐えても逃げられない。朝になり電灯が消えれば、その時点でおしまいだ。

私は再び『足の裏』に捕まって――今度は何をされる?

 

衣服を脱がされ、全身の皮も剥がされるのだろうか。いや、それどころか、肉さえも――。

 

 

「や、だ。絶対、やだぁ……!!」

 

 

何か、何か方法は無いのか。助かる為の道筋は。

ともすれば千々に乱れる感情を抑え込み、起死回生の一手を探し、

 

 

「――……っ」

 

 

一点。

落ち着きなく周囲を見回していた眼球が、血塗れのふくらはぎを捉えた。

 

同時に、懐に入れていたそれ――助けを呼べる緊急連絡手段に手を伸ばす。

 

 

「……ひ……っぐ」

 

 

……一つだけ、今の状況を何とかできるかもしれない方法を思い付いた。

しかしそれは、私に大きな苦痛を与えるものだ。手が震え、自然と涙が零れ落ち、

 

――その時。鈍い音と共に、光がちらついた。

 

 

「っ!?」

 

 

反射的に街灯を見れば、ぐらぐらと大きく左右に揺れていた。

その根元には『足の裏』が集っている。明かりを、消そうとしている――。

 

 

「……う……うぅぅぅ……!!」

 

 

……嫌だけど。本当に嫌だけど。もう猶予は無い。

 

私は涙混じりにふくらはぎへと手を伸ばし、剥がれかけている皮膚の切れ端を掴む。ぬるりとした感触を指先に感じ、また吐き気。

そして、強く唇を噛み締めて――思い切り、引き千切った。

 

 

「ぎっ――ぃぃぃ、ぃッ……!!」

 

 

激痛。

剥がれる皮膚につられ、膝裏の方まで肉が露出した。

 

あまりの事に胃の底が引き攣り喉元まで胃液が上がるけれど、必死に抑えて懐から一つの小瓶を取り出した。

 

黒い泥のような粘液が詰まった、ガラスの瓶――すぐにその口を開けようとするも、指が震えて上手く行かず。焦れて、歯で開けた。

 

 

「ぅぐ……これ、で――!」

 

 

そうして、私は先程千切ったふくらはぎの皮を地面に叩き付け――その上に、瓶の中身をぶちまけた。

 

 

「お願い、お願い、お願いお願いお願い……!!」

 

 

頭上の明かりが、弱々しいものになって行く。

これでダメだったら、私にはもう打つ手がない。すぐに死ぬ。死んでしまう。

血塗れの絹肌に広がる黒をただ見つめ、私は――。

 

 

『……随分と、けったいな紙を使ったな。君』

 

 

――突然に。

注視する黒の粘液が蠢き、ひとりでに文章を形作った。

 

 

『こんなのを紙として使ってくるなんて、相当まずい状態なんだな? 君の皮か? なら怪我は酷いのか? そもそも意識ある? ねぇ――』

 

 

――【インク瓶】。それが、この文字の主の名だ。

 

 

少し前に知り合ったオカルトライターを名乗る不審者であり、今使った黒い粘液も彼に貰った道具の一つ。

こうして紙に垂らす事で連絡手段として機能する、見ての通りオカルトの域にある代物だ。

 

不気味な事この上ないが、今の私にとっては天の助けにも等しく、泣きべそと共に浮かんだ文字へと縋りつく。

 

 

「た、たすっ、助けてっ!? 無理、もう死ぬ! 死ぬっ……!!」

 

『……それだけ喚けるなら、瀕死ではなさそうだね。で、今どうなってるんだ』

 

 

文字と声とで当然の如く意思疎通が行われたが、今更驚きも無い。

私は何度も舌を噛みながら、現状に至るまでのアレソレを報告した。

 

 

『――やっぱりまずい場面か。猶予は?』

 

「わ、わかんないっ! でも多分、明かり消えたらそこで――!」

 

 

その瞬間、街灯が倒れた。

明かりが消え、電球が地面に叩き付けられ派手に割れる。

 

――『足の裏』の指先が、こちらを向いたのが見えた。

 

 

「……あ、あぁ……」

 

『……消えたんだな? 落ち着いて、気を確かにもって。怖いだろうけど、目を逸らしちゃダメだ』

 

「分かってるよ! で、でも、ひっ――!?」

 

 

ひたひた、ひたひた、ひたびたびたびたたたたただだだだだだ――。

問い質す前に奴らは揃って走り出し、無数の足音が重なった。

 

 

「――あ」

 

 

足の肉を削りながら這いずるけれど、当然そんな無様で何がどうなる筈も無い。

 

死ぬ。

怖い。

眼球が揺れる。

合わない歯の根がカチカチと鳴る。

 

 

「……ッ!!」

 

 

……だけど、力の限り地面を掴む。乱れる呼吸を引き絞る。

 

絶対に目だけは逸らさない。

逸らしてはならない。

逸らしてたまるもんか。

 

私は心の中でそう繰り返し、必死になって踏ん張って――

 

 

「……っえ」

 

 

唐突に、『足の裏』達がピタリと止まった。

 

いや、止まったんじゃない。奴らは私のすぐ目の前。さっき剥がしたふくらはぎの皮に群がっていた。

湿った音と共にゆっくりと咀嚼されて行くそれを、私は震えながら眺め――その最中、まだ闇に沈んでいない場所にインク瓶の言葉が躍る。

 

 

『――やっぱり、こっちに来たね』

 

 

その文章は徐々に面積の狭まる表皮を器用に移動し、私に見える位置に陣取る。

暗いが、視力には自信があった。私は生唾を呑み込み、見つめた。

 

 

『どうも今君を襲っているヤツ、女の子の足に並々ならぬ執着があるみたいだ。君のふくらはぎの皮なんて垂涎ものなのだろうね、僕にはよく分からない嗜好だけど』

 

「……だ、だからなにさ。こんなの、一時しのぎにしか……」

 

『ふん。この皮には僕のインクが付着しているんだぞ。君の言うところの、オカルトの域にある代物がだ』

 

 

その得意げな文が浮き上がった瞬間、唐突に咀嚼音が止んだ。

咄嗟に視線を移せば、『足の裏』達の動きも停止している。一つ二つではなく、全てがだ。

 

……数秒か、数分か。緊張を孕んだ空気が流れ、そして、

 

 

――ぼこり。

 

 

今度は突然、『足の裏』達が膨らんだ。

平面の二次元から、立体の三次元へ。地面に小山を作るように、ぼこぼこと膨張を始めている――。

 

 

『食あたりだ。拾い食いなんてするもんじゃない』

 

 

インク瓶がそんな皮肉――文字通りの――を浮かべている最中にも、『足の裏』達は不気味に膨らみ、大きくなっていく。

 

それに空気を入れられる風船の姿を見た私は、先程とは別種の恐怖に駆られ、涙と鼻水でべちょべちょの顔が引き攣った

 

 

「ちょ……これ、待っ」

 

 

ぎちり。

見上げる程に膨らんだ『足の裏』達の膨張が止まった。

 

小さく軋みを上げるその様子は、苦痛の呻きを上げているかのよう。目を離したら破裂してしまいそうだ。

 

そうして動けないでいると、視界の隅に私の白い肌の欠片を捉えた。

黒い小山に呑まれ、最早端の数センチも残っていない。そのほんの僅かなスペースに、インク瓶の言葉が小さく記されていた。

 

 

『頭、庇っときなよ』

 

 

そして、私の皮が完全に『足の裏』に呑み込まれた瞬間。黒い小山が破裂した。

 

 

「きゃああああああっ!?」

 

 

轟音と共に空気が弾け、周囲一帯に黒い液体が飛散する。

それは黒い雨となり、衝撃にもんどりうって倒れた私の全身に降りかかった。

 

 

「うわっ、ぺっ、うえぇ……」

 

 

数滴口内に入り、唾と一緒に吐き出した。

それは黒いインクのように見えたが、絶対そんな訳が無い。

何か変な病気とかにならないだろうなと一抹の不安を抱きつつ、のろのろと顔を上げる。

 

『足の裏』は、どこにも見当たらなかった。

地面はべたつく黒い液体により塗り潰されていたものの、私は分かる。

あの嫌な気配は、もうここには無い。さっきの破裂と共に、綺麗さっぱり消えている――。

 

 

「は……ふぅ、ぁ……」

 

 

どっと力が抜けた。

腹の底からじんわりとした痺れが走り、全身に広がって行く。

それは命の危機を脱した事に対する安堵感だ。最早馴染みになりつつあるそれに逆らわず、私はくってり地面に転がった。

 

もう、疲れた。

遠くから近づく車の音を聞きながら、私の意識は口に含んだ砂糖菓子のように溶け去った。

 

 




主人公:ぱっと見儚げな雰囲気した山猿。


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「足の裏」の話(下)

 

 

 

 

曰く。その男は、子供のころから己の皮膚を食べる癖を持っていたらしい。

 

何かの拍子でささくれ立った、指先の皮。お風呂に入った後の、ふやけた皮。

そういった物をぺりぺりと噛み剥がし、そのまま咀嚼する事がやめられなかった。

 

中でも踵の少し硬い皮が好物であったらしく、歩き難くなる事も厭わず踵に針を刺し、捲って食べていたようだ。

 

……そんな彼が成長し、性を意識し始めた時。その視線は、ごく自然に女性の足を追っていた。

 

好みの女性を見た時、顔や乳房よりも足に興味が向いた。

 

彼女の足の皮は、どのような食感なのだろう。どのような匂いがするのだろう。

その小さな興奮はやがて確固たる欲求に育ち、彼の心に根付いていた。

 

だが、その性癖は公に受け入れられるものではなく、それが満たされる事は終ぞ無かった。

 

彼の欲求は日々募るばかりであり――そしてとうとう、爆発してしまったのである。

 

 

 

 

 

「――いや、女の子に何聞かせてんのあんた」

 

 

自分でも驚く程トゲトゲした声で、その話を遮った。

するとインク瓶は電話の先で鼻を鳴らし、これまたトゲトゲした声を投げ返す。

 

 

『詳しく説明しろって言ったの、君だろ』

 

「いや言ったけどさ。言ったけども……えぇ……?」

 

 

車の後部座席。革張りの背もたれにぐったりと寄りかかり、呻く。

 

窓の外に流れる朝空を眺めるものの、先の話で抱いた気持ち悪さを払拭するには至らない。

私は車の運転手をちらと見ると、無断で窓を開けて外の風を取り込んだ。

 

 

――私が『足の裏』に追いかけられた一件から、既に五日が過ぎていた。

 

 

『足の裏』が爆散した後、気絶した私はインク瓶が手配した車に回収されたらしい。

 

目が覚めた時、私は自宅の布団に寝かされており、ボロボロの足は包帯でぐるぐる巻きにされていた。

 

見た目こそ重傷であったが、実際は皮が剥がれただけだ。

私の身体が常人より丈夫な事もあり、一日二日で杖があれば歩けるまでには回復していた。

 

そして一区切りという事で、療養中は先延ばしにしていた『足の裏』に関する説明をインク瓶に求めた結果、聞かされたのが先程の気持ち悪い話であった。ガッデム。

 

 

『――で、どうする? 僕としてはここで切っても良いけど』

 

「…………短く纏めて、スパっと」

 

 

『足の裏』については気になるが、だからって変態の嗜好を長々説明されたくも無い。

窓を閉めつつそう頼めば、インク瓶は小さく笑って頷いた。

 

 

『顛末として男は盗みを働いて、逃げる最中に車に撥ねられて亡くなったそうだ』

 

「……近くの靴屋で靴の中敷きを盗んだ人が居る、ってのは友達から聞いた」

 

『皮に見立てて食べてたのかな……ともかく、その撥ねた車は強いライトを焚いてたらしい。事故現場には、男の足裏の影がくっきり焼き付いてたなんて噂もあった』

 

「だから、足の裏……?」

 

 

私の足に執着し、その皮を食べ、そしてライトを嫌がる『足の裏』――。

その正体としてはこれ以上なく相応しいものだと思ったけれど、インク瓶は肯定せず、鼻を鳴らした。

 

 

『集めた噂や記録をそれっぽく繋いだら、そんな感じになったってだけさ。作り話の域は出ない訳だから、これこそが真実なんだと決めつけるのはよしてくれ』

 

 

その場しのぎの誤魔化しとも取れる言葉だったが、その声音は至極真面目なものだった。

彼はオカルトの背景を語る時、酷く慎重になる。気圧されるように、私もこくりと頷いた。

 

 

『それでいい。真実と定められた噂話は、そのうち妙な力を持ちかねない。こういうのは、何となく「ふーん」と流すくらいが一番だ』

 

「ん……まぁ、モヤモヤはそこそこ晴れたし、それで満足しとく。……ありがと、色々」

 

 

説明だけでなく、『足の裏』から助けてくれた事も含めた礼を言えば、忍び笑いが小さく聞こえた。

 

見透かされたのだろう。何となく気恥ずかしくなった私は、逃げるように通話を切り――その寸前、『ああ、ちょっと待って』と引き留められた。

 

 

「……なんだよ」

 

『いや、こっちからも聞きたい事があってね……君さ、最近不審者とかに遭ったりしたかい?』

 

「は?」

 

 

あんただが?

一瞬ヘタクソなジョークかとも思ったが、話し方からするとそういう訳でも無さそうだ。

 

 

「……なに急に。大切な事なの、それ」

 

『いや……前に僕が言った事、覚えてるかい。君が「常に見られている」状態にあるって話』

 

「……分かってるよ。そのせいでこうなってるんだ、忘れるワケないだろ」

 

 

うんざりと返す。

 

彼曰く、私は血筋からしてオカルトの――『異常』の呼び水となりやすい性質であるのだそうな。

 

それにとある理由が合わさって、私自身の行動、触れた物、そして抱く感情や向けられる視線の一つでさえ、『異常』に対しての強い刺激となり得るようになっているらしい。

とある事件でその傍迷惑な血が目覚めた際、そこら辺はしっかりクドクド説明されたのだが――と。そこまで思い出し、インク瓶の言わんとする事を察した。

 

 

「……え、まさかそういう事? マジで?」

 

『可能性の話さ。だけども……ねぇ?』

 

 

怪しい人を見たら、すぐに逃げなよ――インク瓶は労わるようにそう残すと、通話を断った。

 

嫌な話を聞いちゃったよ。

私は何とも微妙な表情を浮かべ、溜息と共に頭を抱えた。

 

 

 

 

 

五日ぶりに足を踏み入れた教室は、そんなに前と変わらなかった。

むしろ杖を携え現れた私こそが一番の変化である。驚くクラスメイトを適当に捌きつつ、自席で授業の準備を始めていると、向かいに女子が一人立つ。

 

 

「うあぁ、マジで足ケガしてる! だ、だいじょぶ? 杖使うほど悪いん?」

 

 

陸上部の友人だった。

いつもの明るい調子はなりを潜め、その表情には大きな心配が滲んでいる。

向き直り、安心させるように笑みを浮かべた。

 

 

「や、ちょっと痛むくらいだよ。傷は残んないって話だし、そんな心配しなくてもへーきへーき」

 

「なら良いんだけど……アタシと別れた後に事故ったんでしょ? お店誘わなきゃよかったって後悔ヤバくってぇ……」

 

 

呻くようにそう吐き出し、近くの机にぐてっと突っ伏す。

 

適当に軽い事故に遭ったという事にしていたのだが、結構な気苦労をかけてしまっていたらしい。何だか逆にこちらが申し訳なくなった。

私は彼女を励ますべく、更なる元気アピールを試みようとした。その時。

 

 

「……ん?」

 

 

ふと、友人の視線が下を向いている事に気が付いた。

 

足の怪我を見ているのだろうか――最初はそう思ったが、それにしてはどうも目つきがおかしい。

 

何というか、どこか熱っぽいような。

それでいて、どこか寒気を感じるものであるような……。

 

 

「…………」

 

 

私は、オカルトから常に見られ続けている。

そしてそれらは、私に向けられた感情や行動に乗っかる形で動き出す。

 

……インク瓶から聞いた話が正しければ、『足の裏』が動き出した引き金はロクでも無いものである筈だ。

そう、例えば……『足の裏』ゆかりの場所に彼と同じような性癖を持った奴が居て、そいつの情欲に刺激された――とか。

 

そしてタイミングからして、あのスポーツ用品店とそこに居た誰かが容疑者な訳で。

 

 

「…………」

 

 

足に巻いた包帯を直すフリをして、ちらと素足を曝け出す。

 

無論、ふくらはぎの無事な方。

私はそれをこれ見よがしにぷらぷら振り、すかさず友人の顔を窺って――。

 

 

「……ひっ」

 

 

――私の足を凝視するその形相と言ったら、もう。

 

容姿柄その手の視線に慣れている私でさえドン引く程のアレであり、身の危険を感じるまま物理的にもドン引いた。

 

 

「はぁ~……ケガしててもやっぱイイ足してんね~。今言うのもなんだけどさ、ほんとケガ治ったら陸上来てよ~。お詫びにシューズもプレゼントするからさ~、ね?」

 

「……え、遠慮しまーす……」

 

 

うっとり呟く友人から目を逸らし、懐の小瓶に指を這わせる。

私は鞄でそっと足を隠しつつ、再び逃げの算段を立て始めていた――。

 




主人公:身体がものすごく強い。傷の治りもものすごく速い。
陸上部の友人:足がものすごく速い。足にものすごく劣情を催す。


今後は気の向いた時……もとい、不定期投稿となります。
よろしければ、のんびり気長にお付き合い頂けると嬉しいです。


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「信号機」の話

正直、この御魂橋という街は『異常』がよく発生する街だと思う。

四六時中あっちこっちで見かけるという程ではないにせよ、二・三日に一回くらいの頻度で何かしらに遭遇するのだ。

 

オカルトが見えるようになったのは最近だし、他の街との比較が出来る段階にはまだないけど、多い方だろこれ絶対。

それとも霊感持ちの日常ってそんなもんなんだろうか。ただのか弱い美少女にもどして。

 

命の危機に陥るようなヤツはもとより、例えそうでなくともふとした時に『異常』を発見してしまうのは精神的にだいぶクるものがある。

単純にビクっとなるのもイヤだが、なにより日常と非日常の境目が歪んでいると分かるのが本当にイヤ。

 

そう、例えば――私が今見上げている信号機である。

 

私の通学路途中に生えている何の変哲も無い歩行者信号機の一本であり、小さな頃から見慣れた日常の一風景。

そこに混じり込んでいた『異常』を唐突に見つけてしまった時、私は心底ゾッとした。

 

 

「……ずっと前からこうだったのかなぁ、これ……」

 

 

溜息と共に呟き、伏せた目の端でそれを見る。

 

その『異常』は、とある交差点の歩行者信号機の中にあった。

 

いわゆる止まれの赤信号。その真っ赤なレンズの内部には棒立ちの白い人型のシルエットが浮かび、その両横に待ち時間を示すバーが表示されている。

それだけ見れば、よくあるちょっと良い信号機でしかないのだが――問題はその人型のシルエット。

 

……端的に言えば、動くのだ、この白いヤツ。

 

ぴょこぴょこと、ひょこひょこと。

本来であれば、ただ突っ立っている姿しか見せない筈のものが、暇そうに伸びをしたり、屈伸をしたり、跳躍をしたりと中々アグレッシブに動き回る。

 

最初はそういった新型の信号機なのかとも思ったのだが、他の信号待ちの人々はまるで気付いた様子が無い。これが視えているのは私だけであり、みんなはごくごく普通に過ごしている。

日常と非日常が共存する街角――いやもう、ほんっとやめてくれ。

 

 

「あー、やだやだ……」

 

 

赤信号のレンズの中で、白いシルエットがいっちにーさんしーと体操をしている。

なんだか可愛らしく見えなくも無いが、私にとっては気味の悪さが上回る。

 

もっとも、彼(いや彼女か? 知らん)が何をするという訳では無い。

この存在に気付いて数日経っているが、ヤツはただレンズの中で動く姿を見せるだけのようだった。

 

『足の裏』のような実害はなく、インク瓶に泣きつく程の危機感もなく。

猛獣タイプ小鳥タイプの後者という事で、私は自分からこいつに何かをする気は無かった。藪をつついて蛇を出すのは勘弁なのだ。

 

 

「…………」

 

 

信号が青になり、カッコーカッコーと電子音が流れる。

 

白いシルエットは青レンズの中でも変わらず元気そうだ。それが赤レンズのシルエットと同一の個体なのかは分からないが、赤信号の時だけの存在では無い事は確かだった。

 

私は努めて信号から視線を外しつつ、横断歩道をとぼとぼ歩く。

そうして渡り切る直前にちらとシルエットの様子を窺えば、横になって居眠りしていた。

それ赤の時にやるべきやつじゃない……?

 

 

 

 

次の朝。

登校途中に件の信号機を確認すると、シルエットはやはり元気に動いていた。

 

……その内に自然消滅してくれる事を期待しているんだけど、なんか無理そうな気配。

赤信号の中でコサックダンスをしているヤツの姿にまた溜息を吐き、ぼんやりと信号を待つ。朝から何見せられてんだろね。

 

そうして待っている内に青となり、普通に横断歩道を渡る。

私はそれきり信号機を見る事も無く、足早にそこから離れ――。

 

 

「ああ、ちょっと待ってちょうだいね……」

 

「……?」

 

 

その時、ふと背後から呼び声がした。

 

思わず振り返れば、横断歩道の途中あたりに杖をつくお婆さんが歩いていた。

そして信号機はチカチカと明滅を始めており、待ち時間のバーも残り僅か。どうやらさっきの呼び声は私ではなく、信号に向かってのものだったらしい。

見るとシルエットも「えっ、オレ?」みたいな感じで自分を指差していた。

 

 

「あぁ、ごめんなさいね。すぐ、すぐに渡りますからねぇ」

 

 

とはいえお婆さんの歩みは遅く、信号が変わるまでには到底間に合うまい。

まぁ仕方無いというのもアレだが、これを急かすような人も居ないだろう。

私は内心でお婆さんにエールを送りつつ、ハラハラと明滅する青信号を眺めた、のだが。

 

 

「……お、おぉ」

 

 

――そこでは、シルエットが待ち時間バーを必死に引っ張り、抑え留めていた。

そのせいなのか何なのか、いつまで経っても信号が赤に変わらない。いいのかそれ。

 

それはお婆さんの横断中ずっと続き、渡り終えたのを見計らってからやっとこさバーが解放された。

赤信号のレンズの中でシルエットが疲れたように尻もちをつき、汗を拭う。

 

 

「どうも、待ってくれてありがとうねぇ」

 

 

お婆さんはそう独り言を呟くと、まるで信号機を労るようにその支柱を撫で、立ち去った。

シルエットの事は視えていないようだったので、単純に物を大切にするお婆さんだったのかもしれない。

 

撫でられたシルエットは暫くボーっとした様子だったが、やがて興奮したように飛び跳ね始めた。

 

まぁ、初めて褒められたんだろうな。

私は生暖かい目で信号機を眺め、今度こそスタコラその場を立ち去った。

 

 

 

 

次の朝。

やはりシルエットは今日も今日とてそこにあり、自由気ままに飛び跳ね回っていた。

 

……いや、気ままにではないかもしれない。

今日のヤツは適当に動き回っていたこれまでとは違い、明確な目的を持って動いているように私には見えた。

 

 

「旗……?」

 

 

そう、青レンズの中のシルエットの手の先に旗の形が形成されており、パタパタとそれを振り回しているのだ。

まるで――横断旗を持って子供の登下校を見守る、善意の誘導員のようだった。

 

 

「……オカルトのくせに何してんの」

 

 

昨日のお婆さんとの一件で感じ入るものでもあったのだろうか。

私は困惑とも呆れともつかないものを抱きつつも、シルエットの誘導通りに横断歩道を渡る。

 

他の通行人に対しても同じように旗を振り、信号の点滅時に駆け込んできた者に対しても、昨日と同じく待ち時間のバーを抑えてやっていた。

どうやら本当にこの交差点の通行人を助けているようである。

 

……とはいえ、私以外の人にその頑張りが映る筈も無し。

当然通行人達は礼どころか何一つの反応すら無く立ち去っていくのだが、シルエットはそれでもどこか満足そうに見えなくもない。

 

 

「…………」

 

 

だから、という訳ではないけれど。

横断歩道を渡り終えた私は、信号機とのすれ違いざま、その支柱をぽんぽん軽く叩いておく。

そのまま立ち去った背後から、「カコッ」という驚いたような電子音が小さく鳴った。

 

 

 

 

それからもシルエットは横断歩道の通行人を守り続けた。

 

やはり私一人しか気付く者の無い報われない善行だけど、本人(本シルエット?)的にそこらへんはどうでも良いらしく、毎日精力的に旗を振り回している。

登下校時に見かけるごく短時間での話なので、見てない時に何してるかは知らないが。

 

私も私でそんな光景に慣れつつあるのが気持ち悪い。

というか向こうの中では私はもう顔見知り扱いになっているらしく、こちらを見つける度にピコピコ手を振ってくるようになってしまった。無視無視。

かといって中途半端に目を離すのも何だか怖く、この交差点を避ける事も出来ないでいる。

 

……こいつこのまま完全に日常風景の一部になっちゃうんかな。

私は酷く憂鬱な気分を抱えながら、今日もまたいつものように騒ぎ回っている赤信号の前に立ち、

 

 

「お……」

 

 

すぐ横側を、人影が通り過ぎた。

片手にスマホを持った、どこにでも居そうな若い男だ。彼は車の流れが途切れるや否や、青信号を待つ事なく横断歩道を走り渡った。

 

 

「あぶないよなぁ、ああいうの……」

 

 

紛れもない信号無視。

おまけに走っている最中もずっとスマホを弄り続けているようで、危険と違反が更にドン。

昨今において珍しい光景ではないとはいえ、見る度ちょっぴりギョッとする。

 

ちらりとシルエットの様子を窺えば、奴も慌てた様子でわちゃわちゃしていた。

 

なんかスマホ男に文句やら注意やらやってる雰囲気であるが、まぁ伝わる筈も無い。

信号機を一瞥すらせず走り去るスマホ男にシルエットは悔し気に地団駄を踏み、そこで青信号に切り替わる。

 

……あと数秒くらい待てなかったもんかね、あのスマホ男も。

青信号の中でも変わらずじたばた暴れ続けるシルエットを眺めつつ、私はそそくさ立ち去った。

 

 

 

 

 

その次の日から、シルエットは誰も見てない無意味な旗振りを控え、待ち時間バーを操作しての駆け込み妨害のような、直接的な干渉をよくするようになった。

どうやら交通違反者への対処に力を入れる事にしたらしい。

 

とは言っても、進んで違反をするような奴らがそんなので止まる筈も無い。

突然の事に小首は傾げども、それ以上は何も気にせず赤信号を渡って行く。

 

特に酷いのが、件のスマホ男である。

 

私も驚いたのだが、ヤツは本気で信号機を見ない。徹頭徹尾見ない。

周囲の音と雰囲気のみで横断が可能かどうかを判断しているらしく、シルエットの奮闘どころか存在自体が本当の意味で無価値となっていた。

……流石の私も、ちょっと気の毒になって来る。

 

 

「ほっときゃいいのに……」

 

 

ああいう輩はどうせ何したって止めやしないのだ。

真面目に相手するだけ損なのだから、いつか警察に捕まれとか事故に遭えとか祈りつつの不干渉が正解である。

 

まぁオカルトのシルエットに、そこらへんの流し方は理解できないのだろう。

そうして、シルエットの不毛な頑張りはそのまま数日ほど続き――。

 

――それが起こったのは、そんなある日の事だった。

 

 

 

 

その日の私は、少しだけ足の調子が悪かった。

 

言うまでも無く、『足の裏』の後遺症だ。

傷自体は既に完治しており、剥がれた皮は痕も残らず再生している。しかし短期間で治ったのがあまり良くなかったのか、新しく張った肌がピリつく時がままあったのだ。

傷の治りが早い身体も善し悪しである。

 

こればかりは慣らして治すしかないとの事なので、私はリハビリがてら、のたのた登校していた。

一歩一歩踏み出す毎に走る、まるで長時間正座した時のような痺れ。

そんなこしょばゆさに呻く内、件の横断歩道に差し掛かる。

 

信号機のランプは青ではあったが、チッカチッカと明滅中。

正直今の足で走るのは遠慮したかったので、渡る事なくそのまま待機。大人しく次の青信号を待つ事にした。

 

 

「今日もうるせー」

 

 

そうしていつも通り跳ね回っているシルエットを眺めていると、ふと私の横に人影が立った。

 

なんとなく横目で見れば、それはいつかのお婆さん――初めてシルエットを褒めた、杖を突いたお婆さんであった。

シルエットも彼女に会えて喜んでいるのか、暴れ方も興奮混じりの五割増し。マジうるせー。

 

 

「おはようございます、どうもねぇ」

 

「え? はぁ、どうも……」

 

 

お年寄りらしくフランクに挨拶をされたが、顔見知りという訳でも無い。

軽く会釈を躱した後、会話が弾む事もなく。その内に赤信号となり、信号待ちの人数も増えていく。

 

まぁ、いつも通りの光景だ。

私は車道を行き交う車の数を何となしに数えつつ、大きなあくびを一つ漏らして、

 

 

「――あっ」

 

 

とん、と。

突然、お婆さんが押されたように大きく前へと倒れ込む。

 

いや、実際に押されたのだ。

例によって例の如く、車道の空白を狙って背後から飛び出してきたスマホ男によって。

 

 

「っ、ぶねっ!」

 

 

私は反射的にお婆さんの腕を掴み、歩道の方へと引き寄せる。

しかし足の痺れによって咄嗟の踏ん張りが効かず、逆にお婆さんの方へと引っ張られた。嘘だろ。

 

そうして共に車道へ倒れ込む最中、目の前には走行するゴミ収集車が迫り――。

 

 

「――んぬあああぁぁぁぁぁッ!!」

 

 

いや死ねるか!!

私は大きく足を踏み出し、限界まで股を開いての超前傾姿勢。強引に転倒を防ぎ、お婆さんの身体を必死になって抱き寄せた。

 

あんまりにも無理な姿勢に股関節が悲鳴を上げたが、この頑丈な身体はどうにか耐えた。

ので、更にそのまま力を込めて、跳ねるように後ろ飛び。目の前を通過するゴミ収集車に冷や汗を散らせつつ、お婆さんを抱えたまま歩道の側へと転がった。

 

 

「んいっ――たぁぁぁぁぁ……!!」

 

 

打ちつけた背中が痛い。無理した股がすんごく痛い。そんで足の痺れも超ヤバい。

そうして涙の滲み始めた私の視界に、走り去るスマホ男の背中が見えた。

 

あの野郎、この期に及んでまだスマホを見てやがる。

菩薩と名高い私もこれには堪らずブチ切れた。

 

 

「このッ……! 危ないだろお前ぇ!! おい待て逃げんな! おい!! バーカ! バーーーカ!!」

 

「ああ、いたたた……あ、ありがとうねぇ、お嬢ちゃん」

 

 

逃げるスマホ男に向かい、とっても上品かつ豊富な語彙で罵倒していると、私の腕の中からよろよろとお婆さんが起き上がる。

……見た感じ、大きなケガは無さそうだ。強く引いた腕も痛めた様子は無く、私も安堵の息をひとつ吐く。

 

そして慌てて駆け寄って来た他の通行人の手を借り立ち上がった時には、既にスマホ男は跡形も無く消えていた。

 

 

「マジで逃げやがった……あんのやろ……!」

 

「まぁまぁ、お嬢ちゃんのおかげでケガも無かったから……落ち着きましょ。ね?」

 

 

激怒に震える私の背を、お婆さんがポンポンと撫でる。

 

……まぁ、奴を追いかけようにも足の痺れが収まらない。

お婆さんに免じて、今この場は矛を収めておいてやろうじゃないか。美少女は心も広いのだ。

 

私は滾る怒りを抑えつつ、大きな深呼吸を繰り返す。そうして空を仰いだついでに、きっと私と同じく怒り狂っているだろうシルエットの様子をチラリと窺って、

 

 

「……あれ?」

 

 

しかし、その意外な程に静かな姿に、思わず声が漏れた。

 

予想では以前のように、じたばたと地団駄を踏んでいると思ったのだが――それとは逆に、ただ佇んでいた。

まるで普通の信号機のそれのよう。ヤツは直立のまま、微動だにせず――。

 

 

「……、……」

 

 

気付いた。

あれはただ直立しているのではない。頭だけが横を向き、別の方向を見つめている。

 

顔の無いシルエットなのに何を言っているんだと自分でも思うが、分かるものは分かるのだ。

だって白塗り一色だった頭部に、二つの黒点が増えている。それらが片側に寄り、明確な視線を形作っている。

 

――そう、目だ。黒点の眼球がシルエットの中に生まれ、ただ一点をじっと睨みつけていた。

そしてそこは、スマホ男が走り去った方角だった、筈で。

 

 

「……あー、お婆さん。ほんと大丈夫でした? アレだったら、警察とか救急車とか……」

 

「いいえぇ、怪我も無いし、そんな大事にしなくて大丈夫よぉ。それよりええと、杖はどこ行っちゃったかしら」

 

 

すぐにシルエットから視線を外し、白々しくお婆さんへと話しかけた。

それきり信号機に視線を向ける事も無く、私はお婆さんに付き添う形で青信号の横断歩道を渡り切り、そのまま別れて立ち去った。

 

 

 

 

 

――そして、次の朝。

 

私が横断歩道に着いた時、そこには丁度彼が居た。

 

相も変わらず手元のスマホに視線を落とし続ける、スマホ男。

昨日の今日でこの場に戻って来れるそのクソメンタルに呆れ果て、私の美しい顔がぐんにゃり歪んだ。

 

本音を言えば突撃して後ろっから蹴っ飛ばしてやりたいが、それをしたら昨日のスマホ男と同じである。

だが文句を言うくらいは許されるだろう。あわよくばビンタも。

 

私は右腕でスイングの練習をしながら、のっしのっしとスマホ男の背中に近づき――途中、ぴたりと歩みを止める。

 

 

「…………」

 

 

信号機を見上げた。

光る歩行者用の赤信号の中で、シルエットが静かに直立している。

 

いつものように、動き回る様子は無い。

白の中に浮かぶ二つの黒点で、ただただスマホ男を見つめ続けていた。

 

……さっき刻んだ足跡を、後ろ歩きでなぞり戻った。

 

 

「…………」

 

 

今のところ、信号待ちをするものはスマホ男しか居ない。

他の通行人は私以外に見当たらず、また通りがかる様子も無い。まるで、そうなるように誰かが調整したかのように。

 

……また赤信号に目を向ける。

シルエットの隣にある待ち時間のバーは、先程から全く動いていない。

 

 

「……、……」

 

 

車道を行き交う車の音が、やけに大きく耳に響いている気がした。

特にいつもと変わらない交通量の筈なのに、どうしてだろう。胸がざわつき、胃の底が冷え込んだ。

 

すると乗用車とバイクの軽い音の中に、重厚感のある音が混じり始めた。

長距離輸送のトラックだろうか。小さくない排気煙を上げ、こちらに近づいて来るようだった。

 

 

「……ッ」

 

 

信号を見る。

まだ赤信号。

 

車道を見る。

渡れる空白など無い。

 

最後にスマホ男を見る。

未だスマホに目を落とし、動き出す気配は無い。

 

何も、何も問題は――。

 

 

「カッコー」

 

 

……突然、電子音が鳴った。

 

青信号である事を知らせる、聞き慣れた音。なんだけど。

それはスマホ男にとってもそうだったらしく、顔を上げないままごく自然にその一歩を踏み出して、

 

 

「あ」

 

 

――轟音。後、ブレーキ音。

 

幾つもの激しい騒音が周囲一帯を劈き、スマホ男の姿が私の視界から掻き消えた。

 

 

「…………」

 

 

急ブレーキをかけたトラックが少し先で停車し、運転手が慌てて降車。すぐに車体の前方に回り――ひきつるような絶叫を張り上げた。

 

一体、何を見たのだろう。

私の位置からは何も見えず、何も分からない。

 

そして自分から分かりに行く気も無く、そのままそこに立ち尽くす。

 

 

「…………」

 

 

視線を感じた。

 

未だ()のままの歩行者信号――。

その中のシルエットが、じっとこちらを見つめていた。

 

やはり動かず、電子音も無い。

ただ二つの黒点で私を捉え、何かを待っているようだった。

 

 

「…………」

 

 

徐々に周囲が騒がしくなり、野次馬が集まり始める中。私はくるりと踵を返す。

横断歩道は渡らない。振り返りもせず、ただ通学路を遡る。

 

 

「カッコー」

 

 

その時、背後で鳴った呼び止めるようなその音を、聞かなかった事にした。

 

 

 

 

 

――以降、私は通学路の道を一本変えた。

当たり前すぎて改めて語る意味も無い顛末である。さもありなん。

 

 




主人公:この街の良い所は、道と橋が多くて通学路変えるのが簡単な所だよねと思っている。
杖のお婆さん:街中で主人公と会う度に世間話するようになった。


猛獣タイプの話と小鳥タイプの話を織り交ぜてやっていきたい今日この頃。


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「川」の話

人間、誰しも苦手なものの一つや二つくらいはあるものだ。

それは運動だったり料理だったり、会話が嫌とか高い所が怖いとか、まぁきっとそれぞれ色々ある事だろう。

 

全パラメーターMAXの完璧超人なんて、世界のどこにだって居ない。

どこかに飛び出たものがあれば、その分どこかがへっこんでいる。人間……というか生物全部がそういう風に出来ている。筈。たぶん。うん。部分的にそう。

 

分かるだろうか?

つまり私のようなスーパーウルトラ超合金メガ美少女DXであっても、苦手な事があって当然という事なのだ。

 

そう――例え全教科のテストで50点以下を叩き出そうとも、別に何らおかしい事では無いのである!

 

 

 

 

 

「おかしくはなくても、ダメではあるんだよ。いいから早くやりなさい、皆終えて残りはお前だけなんだから」

 

「……あい……」

 

 

放課後。私の通う中学校の教室。

テストで幾つもの赤点を取った末の追試験を受けさせられていた私は、担当教師の冷たい物言いにガックリと首を下げた。

 

他の追試仲間は既にテストを解き終えて帰宅済み。教室内に残っているのは美少女な私と陰気な男性教師でマンツーマン。

なんだかイケナイ雰囲気に発展しそうなシチュエーションだが、漂っているのはそれとは程遠く、互いにゲンナリとした空気である。

 

 

「うぐぐ……授業もちゃんと聞いてるし、宿題だって忘れずやってるのに、どうして……!」

 

「今ついさっき聞いたんだがな、お前勉強が苦手らしいぞ」

 

 

教師が気だるげにそう返し、手慰みにか何某かのバインダーをパラパラとめくる。

 

そう、これはとっても意外な事実なのだが、私は頭の出来がほんのちょっぴりよろしくない。

 

いや頭の回転自体は速い方だとは思うのだが、勉学の方となるとまるでサッパリ。

体育以外の教科で高得点を取った事が殆ど無く、テストがあれば数科目で追試験を絶対喰らうレベルである。そうだよ、今の事だよ。

 

まぁでも仕方あるまい。

私にはこの美貌と頑丈な身体という二物がある。望んだものではないとしても、その分がどっかから差っ引かれてしまったのだろう。

それが勉学の才だった――そう考えれば少しは呑み込めなくもない。そう思わんとやっとられんわ。

 

ともかく、そうしてテスト用紙と格闘する事更に十数分。

流石に見かねた教師が教科書を見る事を許可してくれたので、ありがたくそれに従う事にした。

 

本試験であれば許されない行為だが、これは赤点救済の追試験。多少の融通は利かしてくれるのだ。

 

 

「これ一年後期の振り返り問題だぞ……? お前こんなので去年どうしてたんだ……」

 

「ちょっと前までは勉強教えてくれる友達が居たんで」

 

 

呆れる教師に返しつつ、教科書からテストの答えを見つけていく。

まぁ私はそれすらもだいぶ遅い訳で、もたもたと時間ばかりが過ぎていった。

 

 

「――なぁ、前から聞きたかったんだが、この名前って本名なんだよな?」

 

 

すると、また手元のバインダーを眺めていた教師がそんな事を問いかけてきた。

どうやら追試験を受ける生徒の一覧表を見ていたらしく、バインダーの中身に私の名前がちらりと見えた。

 

 

「そですよ。ペンネームとかな訳ないでしょ」

 

「うん、だよなぁ……」

 

 

教師は癖っ毛を撫で付けつつ、言い淀む。

 

まぁ、教師の気持ちも分からなくもない。私の名前は姓名どちらも割と特殊なものであり、一見どう読むのか分からない人も多いのだ。

この陰気な雰囲気の教師は二年生になって初めて私と交流を持ったので、見慣れぬ字面にちょっと戸惑ってしまったのだろう。

 

 

「あー……じゃあ、ご先祖様にあやかってみたいな感じだったりする?」

 

「いえ、無いと思いますけど……」

 

 

我が一族の家系図をどれだけ遡ろうが、私と同じ名前は無いと思う。

というかそもそもウチってちゃんとした先祖とか居るのか? 大概な『異常』だぞ私の家。

 

 

「ええと、私の名前に何かあるんですか? もし学校に相応しくない的なアレだったら私にはどうしようもないんで、すんませんとしか……」

 

「そういうのじゃないんだが……うーん」

 

 

教師はもごもごと口をまごつかせたが、それ以上言葉が続く事は無く。

私は首を傾げながらも、テストとの激闘へ戻っていった。

 

 

 

 

そうして、ひーこら言って追試験を終えた頃には、太陽はだいぶ傾いていた。

 

オレンジ色の夕焼け空が、酷使していた目に染みる。

私はゴリンゴリンに凝った首と肩をぐるんぐるんと回しつつ、人気の少なくなった帰路を歩いた。

 

 

「つっかれたー……これ明日もやんのかぁ、うげー……」

 

 

私が取った赤点は四科目。今日終えた追試験は二科目。

タイムアップで終わらなかった残り半分のテストが、明日の放課後に回される事となってしまったのだ。

 

居残りにギリギリまで付き合ってくれた挙句、それを伝える事となってしまった教師のしょっぱい表情といったら、何かもうホントすんませんとしか言えなかった。すんません。

 

 

(……でも、何かおかしかったな、先生の反応)

 

 

川沿いの土手道。夕陽に染まる川辺を眺め、ぽつりと呟く。

 

私の名前を聞いて、妙な反応を浮かべたあの教師。

名前に困惑されるのは慣れてはいたが、先祖がどうのと聞いてきたり、やはりそれだけでは無かったようにも思えた。

 

一体、字面以外の何に引っ掛かっていたのだろうか。へとへとの頭でぼんやり考えたが、まぁ答えなんぞ出る訳が無く。

早々に思考を打ち切り、ただ川の流れを楽しむ事にした。

 

特に自然が好きという訳ではないが、上から水流をぼけーっと眺めているのは疲れた脳によく効いた。

そのまま何も考えず、周囲の風景を映す水面を追いかけて、

 

 

「……ん?」

 

 

ふと、違和感。

 

……川に映っている街の景色が、何かおかしい気がした。

最初は鏡に映った時の反転的なアレかなとも思ったのだが、それにしてはちょっと妙。

 

周囲に並ぶ住宅類は全く映っておらず、幾つかのボロッちぃ小屋が映るのみ。

空にかかっている電線の類も見当たらず、まっさらな夕焼け空だけが綺麗に広がっている。

そして私を含めた通行人が、誰一人として映り込んでいない――。

 

 

「…………ぴっ」

 

 

――あっ、これオカルトだ。

 

そう気づいた瞬間、私は急いで近くの物陰へと身を隠したのであった。

勘弁してよ疲れてんのに。

 

 

 

 

どうやら、この川の水面に映る街並みの景色が、過去のものになっているらしい。

 

……何とも突拍子もない結論ではあるが、私も『異常』に対しては慣れたもの。

少し観察するだけで、すぐにそんな感じのアレだと察しがついた。嬉しくねぇや。

 

 

(……何もして来ない、かな?)

 

 

街路樹の影に隠れたまま、口の中だけで呟いた。

しばらく油断せず警戒していたのだが、川は水面に現実と違う光景を映すだけで、それ以上何が起こるという訳でも無かった。

流石に直接水面に手を入れればどうなるかは分からんけど、見ている分には問題は無さそうだ。

 

私は恐る恐ると川へと近づき、その水面に映る景色を改めて確かめる。

 

そこらへんのビルとか全部無いし、なんか全体的に田舎臭いし、私の姿も映らないままだ。

建物や木々の数形こそ全く違うものの、道や坂の位置など地形的にはほぼ一致。

映っている角度的に確かめられない箇所は多々あれど、これで別の場所だったなんて事は無いだろう。

 

感じる雰囲気の古臭さや電線の少なさなども考えれば、映っているのはやっぱりこの川辺の過去である……と、思う。

 

……で、そうなると『いつ』を映し出しているのよ、という事だが。

 

 

「わ、わかんにゃい……」

 

 

そう、勉強が苦手という事は、歴史にも疎いという事である。

 

映し出されている建物の建築様式だの、通行人の服装だの、そんなものからハッキリとした年代を特定するなんぞ私に出来る筈が無いではないか。

十年二十年程度の昔では無いけど、かといって江戸時代ほどの大昔ではない。分かるのはそんなもんだが、逆にそんだけ分かった事を褒めて頂きたいもんだ。

 

それはさておき。

 

 

「……でもま、これならほっといていっかな」

 

 

安堵の息と共に、強張っていた身体から力を抜いた。

 

だって実害はなく、ただ過去の光景を映しているだけのものだ。

猛獣タイプ小鳥タイプで分ければ確実に後者であり、わざわざ深入りする必要も無かろう。

 

あとでインク瓶なり『親』なりに報告して、それでお終い。

私は止まっていた歩みを再開し、先程より早い足取りで家路を急いだ。実害が無いと分かっていても、長い事近くに居たいかはまた別の話であるからして。

 

……とはいえ、自分の住む街の過去の姿に興味が無い訳でも無い。

帰りがてらに自然と視線が水面へ向かい、古い街並みを眺めてしまう。

 

 

「ほーん……」

 

 

見える限り、建物はまばらで少なく、あっても木造の小屋が殆どだ。

たまに案山子のような物が見えるし、通行人も殆どがほっかむりをしたお爺さんお婆さんだったりするので、角度的に見えない地面には田んぼが広がっているのかもしれない。

 

現在のそこそこ開発された街並みと見比べつつ、私はなおも水面の景色を眺め、

 

 

「――お」

 

 

少し前方に、小さな男の子と女の子が並んで歩いているのが見えた。

 

顔を上げて現在の前方を見るが、当然そこには誰もいない。水面の中だけに居る、過去の子供達だ。

過去の景色に初めて見た若々しい存在に、なんとなく注視する。

 

 

「兄妹……ではなさそ。幼馴染かなー……」

 

 

七、八歳くらいだろうか。流石に声までは届かないらしく何を喋っているかは分からなかったが、仲睦まじそうに歩いている姿に思わず微笑みが落ちた。

 

そうしてほんわかしていると、やがて川を横断する橋に差し掛かる。

通学路的には渡る必要のない橋だ。特に気にする事なく通り過ぎ、まるで区切りの如く一瞬だけ川が遮られ――。

 

 

「っ!?」

 

 

次の瞬間、眺めていた子供達が成長していた。

背も伸び髪も伸び幼さが薄れて、男児女児から十二歳くらいの少年少女の姿へと変貌していたのだ。

 

慌てて橋の前まで戻ってみれば、彼らは再び男児女児の姿へと戻っている。

どうやら、橋を境にして数年程度の時間が飛んでいるらしい。

 

 

「え、えぇ……? じゃあこれ……」

 

 

土手道の先にはまだ幾つもの橋があり、全部通り過ぎた時にはどれだけ時間が飛ぶのだろう。

だからって私には別に関係ない筈なんだけど、考えると何か変な怖さがある。ウラシマSF的なアレ。

 

 

「…………」

 

 

迷ったが、そのまま進む事にした。

 

少年少女は橋を一つ区切るごとにどんどん大人になっていき、彼らに流れる雰囲気にも徐々に変化が生じていく。

ただの仲良しさんから、気になる異性に。そして友人以上、恋人未満のもどかしさ……。

時間が飛び飛びになる分、そこらへんの変遷がものすごく分かりやすかった。初恋がまだの私ですらピンとくるレベルだ。

 

 

「ひゅ、ひゅー……」

 

 

そのムズ痒い空気感に耐え切れず、私の視線があちこちに散る。

 

まぁほら、私は初心で清楚で純情可憐が信条だから。そういう方面の経験値や耐性なんてミリも無いんだ。

誰にともなくそんな言い訳を並べ立て、何気なく川の後方へと目を逸らした。

 

 

「……?」

 

 

するとそこに、一人の男が立っていた。

 

ボサボサ頭がよく目立つ、陰気な男だ。

水面の向こう側に立つ彼は、前方の少年少女に向けてじっとりした目を向けている。

……正確には、少女の方へ。

 

 

「…………」

 

 

どうにもイヤな目つきだ。

気になって土手道を戻って確かめてみれば、男は二つ目の橋あたりから少年少女の後をつけているようだった。

 

つまり年単位でのストーキング。ほんわか空間に隠れていた異物にゾッとする。

 

 

「うわー……どうなんのこれ……」

 

 

恋愛展開以上にめっちゃ気になる。

速攻で元の場所に戻り、更にその先へ。彼らの顛末がどうなるのかを確かめに行く。

 

橋を一つ過ぎる度、少年少女は親密さを増し、そしてストーカーの目も濁りを増す。

最初は単純に睨んでいるだけだった男の表情も、少しずつ、少しずつ険しくなって、最後には殺意を滲ませるものにまで歪み果てていた。

 

これちょっと本格的にヤバくね?

そう思えども、私にできる事は何も無い。水面に浮かぶ彼らの姿を、ハラハラしながら追い続け――。

 

そうして、幾つ目かも分からない橋を過ぎた時、とうとうその瞬間はやって来た。

 

 

「……何か、雰囲気違うな」

 

 

それはこれまでと違い、少年少女が向かい合っている場面だった。

 

少年は兵隊さんのような服を着て、何やら決意を込めた顔。

少女の方はその目に涙を堪えつつ、お守りを彼に手渡していた。

 

……これもしかしてアレか。戦争に行く直前、みたいな……。

流石に私もそう察し、先程とは別の意味でのハラハラが湧き出した。

 

 

「障害ありすぎでしょこの子らの恋……」

 

 

もう少し優しい世界であれよ。

そう憤りつつストーカーを探せば、彼はやはり少し離れた場所に居て――その手に包丁が握られている事に気付き、私の顔が引き攣った。

 

 

「マジかよコイツ……!?」

 

 

きっと、この男も戦争に行かねばならなくなったのだろう。少年と同様の兵隊服を着た彼は、どこか自暴自棄になっている様子だった。

血走った眼で少年と少女を睨みつけ、ゆっくりと近づいている。

 

何をするつもりかなど、考えるべくもない。

 

 

「おいおまっ……ああダメなんだった! じゃ、じゃあ、えーと、えーと」

 

 

水面に映るこれらは過去の景色であり、全てが終わってしまった事。互いの声は届かない。

私も何も出来ないと分かっていたけど、彼らに感情移入しすぎたのか、黙って見ていられなくなっていた。

 

そうして右往左往とする内に、ストーカーは包丁を構えて走り出す。

少年少女は気付いていない。お互いに抱きしめ合い、最後の別れに浸っているのだから。

 

ヤバイ、まずい、どうしよ――。

 

全てを俯瞰し、正しく状況を分かっているのは自分だけ。

その事実が激しい焦りを呼び、私は半ばパニック状態。真っ白となった頭で、反射的に土手を駆け下りて、

 

 

「――オ、オワァーーーーーーッ!!」

 

 

奇声と共に、持っていた学生鞄を水面のストーカー目がけ投げつけた。

 

焦ると手に持っているものを投げつける――私の悪い癖だ。『足の裏』の時もそれで大変な目に遭ったのに、まるで懲りていないらしい。

 

ともかく、私の全力でぶん投げられた鞄はものすごい勢いでもってすっ飛び、水面越しにストーカーへと着弾。

まるで砲弾が落ちたかのような、冗談みたいな水飛沫を跳ね上げた。

 

 

「うわっ、あぷっ!」

 

 

明らかに不自然な跳ね返りだった。

当然近くに居た私は頭から水をかぶって濡れネズミ。

 

そーらびっしょびしょの美少女だー……なんてクソギャグを言っている場合でも無い。

ストーカーは、少年少女はどうなった。私は急いで顔の水を拭うと、目を皿にして川の水面を覗き込んだ。のだ、が。

 

 

「あ、あれっ?」

 

 

しかしそこには何も映っていなかった。

いや、水滴を垂らす私の姿は映っているのだが、先程まで見ていた過去の景色は跡形もなく消えていた。

 

慌てて川を遡り確認しても、やはり変わらず。水面に映る景色に、周囲との差異は見当たらない。

完全無欠に、元の何の変哲もない川へと戻っている――。

 

 

「――何でだよもおぉぉぉ……!」

 

 

私が鞄を投げ込んだ事で、オカルトが壊れたのだろうか。

 

あれから彼らは一体どうなった。ストーカーの凶行は、少年少女の恋の行方は。

最早全ては文字通り水の中。まるでテレビドラマの最終回の最中に停電したような気分だ。

 

媒体がテレビでは無くオカルトである以上、再放送も望めまい。ガックリと項垂れ、川の中にしゃがみ込む。

 

 

「あ~もぉ~……どうせ何も変わらんかっただろうけどさぁ~……!」

 

 

私が鞄を投げ込んでいようがいまいが、あの先に待っていたであろう胸糞悪い結果は変わらなかった。それは分かっている。

だったら見ないで済んだ分、むしろ幸運だっただろう――頑張ってそう思おうとしても、「だってあれから大逆転があったかもしれないじゃん……?」という考えがこびりついて離れない。あーモヤモヤする……!!

 

 

「だー、ちくしょー、余計な事したー……」

 

 

とはいえ、いつまでもブチブチ文句を垂れている訳にもいかない。

一際大きな溜息を吐き出しつつ、元居た場所へとペタペタ戻る。

 

追試で疲れるわオカルトに逢うわ、挙句の果てに服も荷物もずぶ濡れだわで今日はもう散々だ。

早いとこ帰ってシャワー浴びて寝たい。私は疲労とイラつきを隠そうともせず、川の中からぶん投げたままの鞄を探し、

 

 

「あ、あっれぇ!?」

 

 

これも、無かった。

 

川の水深は私の膝丈程度で、透明度も高い。

少し探せばすぐに見つかるだろう場所なのに、どれだけ目を凝らしても鞄の姿が見当たらないのだ。

 

上流に行っても、下流に行っても、水に直接顔を突っ込んで探しても、対岸の土手を探し回っても、無い。

本当に消えてしまったかのように、全然全く見つからない――。

 

 

「――いや明日の追試どうすんのぉ!?」

 

 

鞄の中には、明日の試験科目の教科書ノートが入っていたのに。

端っこが群青色に染まり始めた夕焼け空に、私の絶望の叫びが木霊した。

 

 

 

 

「昨日川に落っこちて教科書とか全部なくしましたぁ~……」

 

「何やってんだお前は……」

 

 

翌日。放課後の追試験。

教室にやってきた担当教師に開口一番そう告げれば、ほとほと呆れた様子で溜息を吐かれた。すんません。

 

 

「川って、帰り道か? ケガとかは無かったんだろうな」

 

「そこらへんは全然……あ、体調とかも大丈夫です」

 

「そっちは心配してない。お前どうせ風邪とか絶対ひかんだろ」

 

 

どういう意味だおォん???

……と、凄みかけたが、ぐっと我慢。なるべく殊勝な顔して縮こまる。

悪いのは全面的に私の方だし、教師のお慈悲も欲しいのだ。

 

 

「せめて友達とかに借りたりしろよ……確か陸上部の奴とか仲いいんだろ?」

 

「や、今日の時間割に無かったんで、クラスメイト誰も持ってなくて……」

 

 

昨日の内に貸して欲しいとメッセージすればよかったと気付いたのは、登校中の事である。

このおバカ!

 

 

「あー……じゃあとりあえず最後まで教科書なしでやってみろ。それでダメだったらまぁ今日は諦めて再追試。その時までに教科書用意しとけ」

 

「あい……」

 

 

教師は癖っ毛頭をポリポリ掻きつつ、テスト用紙を私に配る。

ちなみに、他の生徒は誰も居ない。どうやら昨日で全員合格クリアしたらしい。くそが。

 

そうして私の孤軍奮闘が始まろうとした時、教師が「あ、そうだ」と声を上げた。

 

 

「……ま、まだ何か?」

 

「いや、お前に見せときたいもんがあってな。ほれ」

 

 

そう言って渡されたのは、一冊の古いノートだった。

表紙は黄ばんでボロボロな上、半分以上が朽ちていて何のノートかも分からない。

 

……なにこれ?

訝し気な顔を教師へ向ければ、彼は指を回して裏表紙を見るよう指示をする。私は首を傾げながらも、ノートが崩れないようそっとひっくり返して、

 

 

「えっ」

 

 

――裏表紙の隅に記された私の名前を見つけ、思わず声を上げた。

 

そこはいわゆる氏名欄。

慌てて表紙をよく見返せば、残っているその上半分に、今から受けるテスト科目の手書き文字が辛うじて読み取れた。

 

――どちらも間違いなく私の字。紛れもなく、昨日鞄と共に無くしたノートの一冊である。

 

 

「……え、えぇ? これ、どうして……」

 

「やっぱりお前の名前だよなぁ……ほら、昨日ちょっと聞いたやつの件だよ」

 

 

混乱する私に、教師は軽く肩をすくめた。

いや確かに昨日、名前についてちょろっと聞かれた記憶があるけども……これはちょっと意味が分からん。

 

 

「そのノート、先生の爺さんが持ってたやつでな。十年くらい前までこの街に住んでたんだが……まぁ、遺品だな」

 

「い、遺品……?」

 

「ああ。爺さんにとって大事なもんだそうで、ガキの頃から何度か話に聞いてたよ。本当は鞄とか他にも色々あったんだけど、戦争のゴタゴタで殆ど失くして、残ったのがこれだけだったらしいな」

 

 

何でも、これが運命の分かれ目だったとか何とか――。

そこまで聞いて、私の脳裏に稲妻にも似たヒラメキが走った。

 

――あの過去を映す川。あのオカルトのせいだ。

 

昨日、私がぶん投げた鞄。あれは何処かに失くしたのではなく、過去へと渡っていたのだ。

川の水面を通り抜け、映った過去の景色へと。

想像だ。だけど目の前のノートの存在が、その真実性を補強する。

 

 

「えっと……これはどこで手に入れたとかは……」

 

「すぐ近くの川辺で拾ったとは聞いたな。ほら、昔田んぼだったとこ……つっても分かんないか。多分あそこら辺だな」

 

 

そう言って教師は窓からとある場所を指差した。やはり間違いない、私が昨日通ったあの川辺だ。

 

 

(じゃあ……私の鞄はあのストーカーを邪魔出来た、って事か……?)

 

 

でなければ、私の鞄なんぞ拾って大切にする筈が無い。

 

おそらく私の投げた鞄はあの後きっちりストーカーに命中し、その凶行を阻んだのだ。

結果として少年少女の命は守られ、私の鞄は恩を感じた彼らに拾われた。そして少年は運良く戦争を生き抜き、最後に少女と結ばれハッピーエンド。

紆余曲折の末、ノートだけがその子孫であるこの教師に伝わった――なんて、どうだろう。結構ありそうな気はするけども。

 

 

「今でも記憶に残ってんだよなぁ、話してる爺さんの様子――」

 

 

そんなこんなとぐるぐる頭を回している最中、教師がしみじみとそう呟く。

 

……というかそうなるとこの人、私が居なけりゃ生まれてないって事では?

でも昨日より前から居たしなこの人。パラドックスってやつ発生してない……?

 

色々と難しい考えが浮かび始めたが、私の頭では理解し切れない問題である。

早々に思考を諦め、今は少年少女を助けられていたという過去を素直に喜ぶ事として――。

 

 

「――これさえ無きゃ、好きな人と一緒になれたのにって凄く悔しがっててなぁ」

 

そっち(ストーカー)の方かよッ!!!!」

 

 

一瞬で吹き飛んだ。

発作的に机をバンと叩けば、教師がビクッと肩を跳ね上げた。

 

 

「うおっ!? ど、どうした……?」

 

「……すんません、何でもないです。続きどうぞ」

 

「何でもないの勢いじゃねぇだろ……」

 

 

教師はあからさまに困惑しつつも、話を続ける。

 

 

「あーと……爺さんが悔しがってた話だったか。何でも爺さんにはずっと好きだった女の子が居たんだが、間男に誑かされてて参ってたんだと」

 

「……はぁ」

 

「その内に戦争始まって、爺さんも行く事になって。その前に最後の告白をしようと踏み出した矢先、どこかから飛んで来た鞄に邪魔されて失敗したそうで」

 

「告白と書いて心中って読むやつ……」

 

「そんでその鞄を拾って、戦時中ずっと調べてたらしくてな。これ投げた奴に絶対仕返しするって、戦争から生きて帰るためのモチベーションにしてたんだとよ」

 

 

まぁ、結局見つけられずに逝っちまった訳だが……教師は気の毒そうに呟いたが、当然の話である。

未来に生まれる復讐相手を、過去から見つける事など出来る訳が無いのだ。

 

 

「で、それに書いてあるの、お前の名前だろ? 昨日ふと思い出して、懐かしくなってな」

 

 

……ついでに、何故川のオカルトに逢ったのかも察しがついたが、それはさておき。

 

 

「で、どうなんだ。やっぱり親とか爺さん婆さんとか、何か心当たりあるんじゃないのか?」

 

「いんやぁ、ないですわねぇ。おほほ」

 

 

あまりにも白々しすぎる私の返事に、教師の胡乱な視線が突き刺さる。

いや知らんったら知らん無いったら無い見んな見んな。

 

 

「……ちなみにですけど、お爺さんが好きだった女の子はどうなったんですか?」

 

「爺さんが戻って来た時には、同じく生還した間男と別の街で家庭築いてたらしい。幸せそうだったんで涙を呑んで諦めたそうだ」

 

 

そりゃ良かった。でもそれ諦めたの、ほんとはその街まで追いかけて襲いかかったけど返り討ちに逢ったからとかじゃないの。口には出さんが。

すると教師はもう語るものは無いと話を切り上げ、教壇に戻ろうとした。慌てて残されたノートを差し出すも、いらんいらんと片手を振って、

 

 

「それお前にやるわ。そっちに心当たりが無いと言っても、その字面での同姓同名は流石に無関係とは思えないしな」

 

「えー……」

 

 

確かに正真正銘私のノートではあるが、ここまでボロボロになったものを渡されても正直困る。

しかし教師は渋る私を無視してノートを押し付けると、どこか清々とした顔をする。お爺さんの遺品ちゃうんかい。

 

私は暫く唸っていたものの、落し物が帰って来ただけなのだから仕方が無いと諦めた。

 

それに考えを変えれば、これのおかげで教師のお爺さんは戦争を生き延び、最後にはストーカーを止めてちゃんと家族を作れたのだとも取れる。

一応、これも人助けした証って事なのかな。なんとなく、素直に認めたくない感じ。

 

 

(……まぁ理由はともかく、大変な時期を頑張ったんだよなー、この人)

 

 

どうにも形容しがたい複雑な気持ちに苦笑を浮かべ、なんとなしにノートを開く。

そうして、強く力を籠めたら壊れそうな紙の感触を感じながら、これを手に戦時を駆けたお爺さんの人生に想いを馳せて――

 

 

 

 

『いつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺すいつか絶対見つけ出して殺』

 

 

 

 

ぱたむ。

一ページの端から端までびっしり書き連ねられたその一文に、私はそっとノートを閉じた。

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

ギギギと教師を見上げれば、すっとぼけた顔でそっぽ向き。私の額に青筋が走る。

 

 

「……ふー……」

 

 

もう一度ノートを開き、一ページ目から最後のページまで確認したが、どこも全部同じ。

かつて私が書いた板書も全て上から塗り潰され、殺意に歪んだ一文だけが延々と詰め込まれている。

余白は、無い。

 

 

――私は静かに席を立ち、ノートを教室のゴミ箱へと全力でブチ込んだ。

 

 

「よーし、じゃあテスト始めるぞー」

 

「はーい、おなっしゃーす」

 

 

互いに何も触れず、何も聞かず。

やけに乾いた声音と共に、私と教師は追試験のテストを始めたのであった。

きっついわ。

 




主人公:ちょっと変わった名前をしている。本人的にはキラキラネームではないと思いたいらしい。
陰気な教師:やる気も覇気も無いが、生徒想いではあるのでそこそこ慕われているらしい。


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「顔」の話(上)

この世の中、気付かない方が良かったなんてものは山ほどある。

 

例えば、机の奥に突っ込んだままだった宿題プリント。

例えば、食べたプリンの消費期限(一週間過ぎ)。

善き友人だと思っていた者の悪意や、友人が私の足に向けていた劣情なんてのもそうだろう。

 

特にオカルトなんてその最たるもの。

これの存在にさえ気づかなければ、私はまだ比較的平和な生活を送れていた筈なのだ。

そこにある『異常』をスルーし、何も察さず知らんぷり。そんなかつての日々が懐かしい。

 

……とはいえ、発端に気付かなかったからこそ巻き込まれ、今に至っている部分もある訳で。本当に何一つ気づかないのも良くはない。

 

気付く、気付かないにおける匙加減の難しさ――なんて。

そんなの、それこそ気付きたくなかったものである。ほんとに。

 

 

 

1

 

 

 

デーデー、ポッポー。デーデー、ポッポー。

ホー、ホー、ホー……。

 

早朝、家の外からよく聞こえてくる鳥の声。

小さな頃から何の疑問も持たずに聞いてきたものではあるが、私はその声の主を見た事が無い。

 

どれだけ目を凝らしても鳥の姿を見つける事ができず、結局正体は謎のまま。

今日だってそう。寝起きに窓の外を眺めても、やっぱりどこにも見当たらない。

 

……この景色の何処かには絶対居る筈なのになぁ。ううむ。

 

 

「……ま、いーや」

 

 

寝ぼけ眼で暫く鳥の姿を探していたが、唐突に興味を失いカーテンを閉じた。

 

別に、どうしても知りたいという訳でも無いのだ。私の鳥への興味なんてこんなもんである。

それより朝食の事が気にかかり、私は寝癖頭をぽりぽり掻きつつ部屋を出る。

 

 

――チッ。

 

 

「…………」

 

 

ぴたり。

窓の外から鳥の声ではない何かが聞こえた気がして、足を止めた。

 

しかしすぐに歩き出し、振り返る事無くドアを閉める。

頭を覆っていた眠気は、既にどこかへと消えていた。

 

 

 

 

 

一般的に見て、私の家は相当に裕福な部類である。

 

家は縦にも横にも大きく、庭も自然公園と見紛うばかりに広大なもの。

玄関から敷地外まで、大体数分は歩かねばならない程だ。

 

住所的にも高級住宅街と呼ばれる土地の一角を占める形になっており、これで一般家庭とは口が裂けても言えないだろう。

つまり私は超絶美少女な上にお金持ちという、鼻持ちならない感じのアレなのだ。

 

……とはいえ、私自身この立場にはイマイチしっくり来ていない。

お嬢様なんて柄じゃないというのもあるが、一番はやはりこの家を生まれた場所だと思えていないからだろう。

 

 

――言ってみれば、私は私の家族が大嫌いなのである。

 

 

「……おはよ」

 

 

リビングへの扉を開け、囁くように呟く。

空白の多い室内には既に二つの人影があり、中央に置かれたテーブルに掛け、こちらをじっと見つめていた。

 

鼻の低いのっぺり顔の男性と、同じくのっぺり顔の痩せた女性。どちらの顔も感情というものを全く感じさせない鉄仮面で、図々しくもある鉄面皮。

私の『親』……という事になっている人達だ。

 

挨拶も何も返してくれないが、こちらも既に慣れたもの。無言のまま自分の席につき、用意されていた朝食に箸を付ける。

メニューはご飯とみそ汁、あとお惣菜が少し。どれも冷めてて、おいしくない。

 

 

「……異常はないか?」

 

 

抑揚のない問いに、一瞬箸が止まる。

しかしすぐに気を取り直し、薄いみそ汁を啜った。

 

 

「何、急に」

 

「先ほど、気配を感じた。すぐ近くだ」

 

 

その言葉を引き継ぎ、さっきとは別の方の『親』が口を開く。

反射的にさっと周囲を見回すも、私達以外の人影は無かった。

 

 

「……気配って?」

 

「気配は気配だ」

 

 

これは男の方の『親』。

 

 

「それ、危ない感じのやつ?」

 

「その想定はしておけ」

 

 

これは女の方の『親』。

 

 

「……あのさぁ、そんじゃ何も伝わんないんだけど」

 

「お前の身の回りで起こる『異常』に、我々は関与しない」「手を出さない」「約束だ」「だが観察と」「そして警告」「それらだけならばいいだろう」「よって、以上」

 

 

男、女、男、女と交互に喋る。

明らかな『異常』。心の底から不気味極まりないが、私の『親』はこんな感じが普通なのだ。

いちいち突っ込む事もせず、走る怖気を誤魔化すように朝食をかき込んだ。

 

 

「……まぁ、とりあえずまたオカルト的な話ね。すっごいヤダけど、分かったよ」

 

 

こいつらのする話なんて、8割方がそれだ。

ぶつくさ言いつつ会話を打ち切り、席を立つ。

 

一気食いで膨らんだおなかが気持ち悪いが、これ以上この場にいる方がキツかった。

そしてスマホからインク瓶のアドレスを呼び出しつつ、足早に部屋を後にして、

 

 

「……気を付けなさい」

 

「うっっっざ」

 

 

今更肉親ぶったその声に、私は冷たく吐き捨てた。

 

 

 

 

 

 

季節はそろそろ春も折り返し。

風に流れる桜吹雪はまだ止まないが、だいぶ隙間が増えたようにも思う。

 

登校中の道すがら、通りがかりの桜並木を見上げれば、桃色の所々に濃い緑が差し込んでいる。

ゆっくりと近づきつつある夏の気配に、残念なようなワクワクするような、不思議な気持ちが沸き上がる。

 

 

『――まぁ、善からぬ何かは起こってるんじゃないのか。多分』

 

 

……しかしそんな季節情緒溢れる感慨も、耳元の声で不安一色に塗り潰される。

その主は、スマホ越しのインク瓶。私は渡りかけの橋の欄干にもたれ、うんざりと溜息を吐き出した。

 

 

「だから何かって何なんだよぉ……私にも分かるように言えよアホどもがよぉ……」

 

『僕に言われてもな。だが彼らが……君の「親」達が気配を感じたというなら、それは事実だろう。君に嘘を言うなんて、彼らはしないだろうからね』

 

 

電話の向こうで、やれやれと肩を竦める気配がした。

 

彼の言う通り、『親』は事実しか口にしない。

かつてブチ切れた私が怒鳴りつけた時の言葉を、律儀に守っているためだ。

 

「ちゃんと会話をしろ」というだけのものだったが、今の所破られた記憶は無い。

今回もまぁ、嘘じゃない事くらいは私も少しは信じていた。

 

 

『……で、君自身は何か感じるものは無いのかい。自分の事だろ』

 

「えー? うーん……」

 

 

問いかけられ、改めて周囲を見回す。

 

家を出てからずっと警戒してはいるのだが、これまで特段おかしなものは見当たらなかった。

あからさまな化物の姿も、『足の裏』のような影も無し。

代わりに私の美貌に見惚れる通行人がチラホラ見え、気まぐれにウインクをくれてやる。

 

 

『ふん……じゃあ家では? 近くには居たんだろう、気配とやらが』

 

「なんにも。親も詳しく教えてくんないし、私も別に――」

 

 

――チッ。

 

 

「……あーいや。あった、かな?」

 

 

そういえば、寝起きにぼんやり鳥の声を聞いていた時、妙な音を聞いた気がする。

 

人の舌打ちのような、湿った何かが小さく弾けたような音。

正直気にするものでも無いと思うが、鳥の声に混じって聞こえたそれは少しだけ印象に残っていた。

 

インク瓶に伝えれば、彼は細長い唸り声を発した。そらそうだ。

 

 

『……どう判断したもんかな。それ、どんな状況で聞いたの?』

 

「あんま覚えてないや。朝起きて暫くぼーっとして……部屋出る時だっけ?」

 

 

適当に答えつつ、朝の行動をなぞるように橋の外へ目を向ける。

 

広がるのは、せせらぎ薫る小川と桜の舞い散る並木道。

素朴ながらも風情のある景色だ。

 

こちとら毎日の登下校で嫌というほど見慣れていたが、飽きたという程でもない。

欄干に肘をつき、ぼーっと眺めた。

のだ、が。

 

 

「……あれ?」

 

 

――何かが変だ。唐突に、そう感じた。

 

 

『どうした?』

 

「いや……」

 

 

言葉として表現する事は出来なかった。

目に見える景色は変わらず、穏やかなまま。なのに、何かが変だった。

 

 

「んー……?」

 

 

目を眇め、川を見た。逆に見開き、並木を見た。

何処を見ても、やっぱり何も異常は無い――のに。

 

 

「…………」

 

 

スッキリとしない。モヤモヤが胸に燻る。

私はそれを晴らすべく、ゆっくりと下方へ滑り始めた景色を眺め――。

 

 

「おい」

 

「っ、わ!?」

 

 

突然背後から低い声をかけられ、大きく身を跳ねさせた。

 

反射的に振り向けば、すぐ近くに一人の少年が立っていた。

纏う制服を見るに、同じ中学校の生徒だろう。見上げる程に背の高いその少年は、キツい三白眼で――というかもはや四白眼――で、私をじっと見つめている。

 

 

「えっと、な、何?」

 

「……危ないぞ」

 

「は? ちょっ……!?」

 

 

おもむろに手を引かれ、欄干から遠ざけられた。

私は何度もつんのめりながら、ずるずると引きずられ、

 

――チッ。

 

 

「っ」

 

 

……耳元。また、舌打ちのような音を聞いた。

 

気のせいでは無かった。だがその正体を確かめようにも、状況がそれを許さない。

少年はそのまま歩き続け、橋の出口付近でようやく止まり――途端、私は彼の尻を思いっ切り蹴り上げた。ものすごい音と共に、少年の身体が軽く浮く。

 

 

「うぐおォっ!? な、何をする……!?」

 

「うるせーこっちのセリフだアホンダラ! 手ぇ放せっ、この、このっ!!」

 

「い、痛い、痛い」

 

 

続けて足に何度も蹴りを入れて、強引に手を振り解いた。

 

少年はキツい四白眼を眇め、ムッとした雰囲気で私を見下ろしている。

というかこの男、黒目が小さすぎて私の視点からだと白目剥いてるようにしか見えない。怖い。

 

 

「な、何だよ、ナンパか? 確かに私は超絶美少女だけども、力づくで連れてけるほどヤワじゃないんだからな!」

 

「……そういうのじゃない。ただ、危ないと思っただけだ」

 

 

じりじりと距離を取りつつ噛みつけば、少年は私の肩元をチラリと見た、ような気がした。白目で分かんねぇ。

ともかく、背後に何かあるのか警戒しつつ振り向いて、それに気付いた。

 

欄干の根元。

私が立っていた位置のすぐ横に、犬のうんこが落ちていた。

 

 

「……え、もしかしてアレの事か……?」

 

「は? ……いやちが、あー、うーん……」

 

 

少年は小さく唸り、難しい顔で黙り込む。マジかよ。

 

私も反応に困り、何とも気まずい空気が漂った。

しかしすぐにインク瓶との電話中であった事を思い出し、気を取り直す。

 

 

「あー、そのぅ……蹴って、ごめんね? そんで、ありがとね……?」

 

「いや……」

 

 

とりあえず謝罪と礼を言えば、少年は小さく返し足早にその場を立ち去った。

その背中には焦りのようなものを感じたが、まぁいたたまれなくなった時はそんなもんだろう。

 

でも無理矢理引っ張るのはどうなんよ。素直に罪悪感を抱けずモヤモヤしながら彼の背中を見送り、スマホを見る。

通話は切れ、『何かあったらまた連絡してくれ』というメッセージが届いていた。今の一騒動は無視かよ。

 

 

「…………」

 

 

もう一度だけ、背後を見る。

舌打ちの音源となるような物は、何一つとして見当たらなかった。

 

 

 

 

 

 

私の通う御魂橋市立第二神庭学園は、市内では数少ない中高一貫校である。

 

生徒数は多め、その質はそれなり、部活の強さは玉石混交。トータルで言えば平均よりちょい上程度のランクだろうか。

強いて言えば、中等部と高等部の敷地を隔てるように流れる川と、それに架かる橋が目立つと言えば目立つが、この橋だらけの街ではそれほど珍しくもない光景だ。まぁ普通普通。

 

 

「――お? タマ吉じゃ~ん、おっすおっすー!」

 

「うっ……」

 

 

そして、そんな我が母校に辿り着いたと同時、元気よく声をかけられた。

恐る恐ると振り向けば、そこに居たのは健康的な褐色肌が眩しい陸上部の友人だ。

鞄でさりげなく足を隠せば、彼女は残念そうに眉を少し下げた。勘弁して。

 

 

「珍しいね、ここでかち合うなんて。それとも朝練終わるまで待っててくれたん?」

 

「……ちげーよ。来る時に色々あったんだ」

 

 

渋々と歩幅を揃えつつ、先程あった出来事を話す。

 

とはいえ彼女に話せる事など大柄な少年との一件しかない。

当然教室に着く前には語り終え、それを聞いた友人は何故かホッとした様子を見せた。

 

 

「は~、よかった~。タマ吉の足がウンコで汚れるとか、アタシそんな趣味ないしマジ助かったわぁ」

 

「何がどう助かったのか教えてくれんか?」

 

 

この足フェチは私の足を何だと思ってんだ。首根っこを掴んで問い詰めたいところではあったが、ロクな答えではあるまい。

ぐっと堪えて歩く内、教室に到着。扉を開き、

 

 

「――……」

 

 

視線。

私が教室に入った途端、クラスメイト達が一斉にこちらを見た。

 

とはいえこれも毎日の事。皆も慣れが来ているようで、すぐに視線は離れたが……若干心臓に負担がかかる一瞬ではある。

美少女が過ぎるってつれぇわー。そう嘯きながら自席にぐったり腰掛けると、足フェチもそれに続いて前方の席を陣取った。

 

 

「……で、大丈夫だったの、その男子。そっから言い寄ってきたりとかさ」

 

「え、いや、それは無かったけど……」

 

 

その目線は足ではなく、私の顔を向いている。

何となく調子が狂い、目を逸らし。

 

 

「まぁ、そんな話もしないですぐ別れたし……というかそもそも、あれはナンパとか出来ないタイプっぽかったから」

 

「デカくて白目剥いてんだっけ? ん~……髭擦みたいな奴?」

 

「ひげずり?」

 

 

突然の耳慣れない名前に首を傾げる。

 

 

「知らない? 別のクラスの男子なんだけど、ムキムキの良い足してるんだこれが」

 

「知らんわ」

 

 

一瞬で興味を失った。

そしてそのまま会話を打ち切り、担任の先生が来るまで寝ていようかとも思った。のだが。

 

 

「――あ、そうそうあいつあいつ」

 

「へ?」

 

 

突然、足フェチが教室の外を指差した。

 

思わず廊下に視線を向ければ、そこには今朝がた見たキッツい四白眼が二つ。

友人が髭擦と呼んだその大柄な少年は、やはり白目にしか見えない目つきで私を睨みつけていた。

 

……んん?

 

 

 




主人公:『親』とはあんまりうまくやれていないようだ。
足フェチ:主人公とは結構うまくやれているようだ。
デーデー、ポッポー:Eテレのおはようソング曰く、キジバトって鳩の声なんだって。


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「顔」の話(中①)

2

 

 

 

私にとって、学校とは唯一心安らぐ場所である。

 

何せ家には、あの気持ちの悪い『親』が居る。

他に安心できる場所を求めるのは至極当然の心理であり、私は学校をその場所だと定めた訳だ。

 

まぁ美少女であるが故のサガなのか、それとも私のとある身体的特徴のせいなのか。昔はイジメだなんだと面倒くさいのが起きた時期もあったが……あの家に居る事と比べれば、何だってマシだった。

 

このクラスも基本的には落ち着ける場所と見ている。

珍獣のようにジロジロ見られるのは変わらないけど、イジメは無く、雰囲気は適度にユルく、皆そこそこ仲が良い。いい感じに気が抜ける場所だった。

……んだけど、なぁ。

 

 

「――うわ、また来てるよ、あいつ……」

 

 

昼休みの教室。クラスメイト達の喧騒に紛れ、誰かの呟きが耳に届く。

廊下側の窓を見てみれば、教室の外に立つ少年の姿が見える。

 

――足フェチ曰く、髭擦くん。

 

デカい図体に似合うゴツイ苗字の彼は、何故か休み時間の度にあの場所に立ち、私に白目を剥いているのだ。

 

 

「すっげータマちゃん見るじゃん……見てるよね? あれ」

 

「まぁいつも美少女だっつってイキり倒してっからな、ストーカーの一人くらい作るだろ」

 

「ぐぬぬ……」

 

 

最初こそ『無関係でーす』と知らんぷりをしていたが、何度も来られてはそれも難しい。

ヒソヒソ話と共に好奇の視線を向けて来るクラスメイト共を睨んでいると、足フェチがこっそりと顔を近づけて来た。身を引いた。

 

 

「ねぇ、ちょっとアタシ行ってこよっか? こう、ガツンと」

 

「え? ……ん~……」

 

 

その申し出に言い淀む。

これで髭擦くんに好色な雰囲気があれば私自ら蹴っ飛ばしに行っていたのだが、そんな浮ついた様子では無いように見えた。そういった目を散々向けられてきた私が思うのだから、間違いない。

 

かといって怒ってるとかでも無いようで、何がしたいのかさっぱり分からん。

 

 

「……や、いい。めんどいからもう私が直接聞いてくる」

 

「へ、あ、待って待って、念の為にハサミとか……」

 

 

何や物騒な事を言って机を漁る足フェチを置き、のっしのっしと髭擦くんの下へ近づいて行く。

そして彼が話しかけてくるのを待たず、そのシャツを掴んで教室の前から引きずった。

 

 

「なっ……おい、何を」 

 

「こんな悪目立ちしてる中で話なんて出来ないだろ!」

 

 

周りから集まってる視線が分からんのか、こいつは。

朝とは逆に私が手を引き、ひとまず人気の無い階段裏まで連行。そこで改めて彼と向き合った。

 

 

「……髭擦くんだっけ、私に何か用でもあんの? 休み時間に毎回来られるの、いい加減ウザいんだけど」

 

「ウザ……き、気付いていたのか、俺に」

 

「当たり前だろが図体も存在感も顔もデカいんだよあんた」

 

「……顔も、なのか……」

 

 

素っ頓狂な慄き方に思わずそう返せば、髭擦くんは変な所でショックを受けたようだった。

しかしすぐに気を取り直すと、私の瞳を静かに見返した。

 

 

「……?」

 

 

……いや、違う。僅かに目線がズレているような気がする。

白目なのに目線って何だよと思わんでもないが、そもそも顔が心もち下を向いているのだ。

 

ほんとに見えてんだよなその白目。

怪訝に思い首を傾げたが、それを問いかけるより先に髭擦くんの口が開いた。

 

 

「その……不快に思ったのなら、すまない。気を害するつもりは無かったんだ」

 

「じゃあ何でずっと見てたのさ。まぁ私みたいな超絶美少女に見惚れるのはわかるけど」

 

「……美少女なのか?」

 

「お? 喧嘩か? 買うぞ? ん?」

 

 

やっぱ何も見えてねぇわこの男。

拳を構え闘気を漲らせていると、髭擦くんは全く動じることなく話を続ける。図太てぇな。

 

 

「お前は……あー、なんだ、オバケとかそういうの信じられるタイプ……か?」

 

「は?」

 

 

思わずそう返せば、髭擦くんはしまったという風に眉を歪め、首を振った。

 

 

「あ、いや。何でも無い、忘れてくれ。これからは俺も出来るだけ気を付ける、重ね重ね悪かった。それじゃ」

 

「えっ、ちょ――」

 

 

そして早口で並べ立てたかと思うと、答えも聞かず立ち去って行った。

一人残された私はぽかんと立ち尽くし、遠ざかるその背をただ見送った。

 

 

「……いや、オバケならしょっちゅう見てるけど」

 

 

ぽつりと呟いたけど、今更届く訳も無い。

問い詰めるどころか更に膨らんでしまった疑問と不穏に、私は重たい溜息を吐き出した。

 

 

 

 

 

 

「……やっぱ何か視えてたよな、アイツ」

 

 

で、それからずっと髭擦くんの事をアレコレと考え続けた結果、そんな結論に至った。

というか、よりにもよって私にオバケだなんだの言ってきたって事は、むしろそれ以外にあるまい。

 

オカルト的なあれやこれやを視認できる人間は少ないが、貴重という訳では無いのだ。

 

きっと彼もその一人で、私よりもよく視える人なのだろう。

そして私には視えていなかった何かを視てしまい、それを伝えようとしてくれていたと。多分そんな感じで……だとすれば、だ。

 

 

「これ、ちゃんと聞き出してやんないとまずいやつ……?」

 

 

まぁそうなる。

 

彼が何を視たのかは知らないが、きっとあまり良いものではない筈だ。

放っておいて、また足の皮を剥がされるような事態になるのはゴメンである。早急にその正体を把握しておくべきだろう。

 

そう決めた私は放課後を迎えた途端に教室を飛び出し、髭擦くんのクラスへと向かった。

……が。

 

 

「いねーし……」

 

 

どのクラスなのかは足フェチから聞いていたのだが、帰りのホームルームが少し長引いたのが良くなかった。

髭擦くんのクラスへ辿り着いた時には、彼の姿は教室の中には見当たらず。どうやら既に下校してしまったらしく、私はガックリと肩を落とした。

 

流石に彼の家の場所までは聞いていない。

つまりこの不穏な気持ちを抱えたまま明日を待たねばならない訳で、不安がむくむく加速する。

 

 

「……インク瓶……いや」

 

 

また彼に連絡すべきか迷い、やめた。

何かあったら連絡しろとは言われているが、連絡しまくって過剰に怖がっていると取られるのも癪である。

奴に頼るには、せめてもう一押しが欲しかった。

 

しかしそうなると、今の私に出来る事は無い。

置きっぱなしの荷物を取りに教室へ戻ったものの、足フェチは既に陸上部へと行ったようで姿は無く、結局私は一人とぼとぼ帰路についた。

 

……ここで足フェチ以外を誘おうとしない辺り、普段の交友関係が窺えるというものである。

過ぎたる美少女は浮きがちなんだよ文句あっか。

 

 

「…………」

 

 

街中を流れる幾つもの川が、少しだけ赤みがかった日差しを反射する。

キラキラしていて綺麗と言えば綺麗なのだが、川の数が多すぎて眩しすぎるのが玉に瑕だ。

 

もっとも、この街で生まれ育った以上は慣れ切った事柄である。

私はいつものように少しだけ顔を上げ、光から目を逸らした――けれど。

 

 

「……あれ」

 

 

変わらず光が目に入る。

角度が足りなかったかな。首を傾げつつ更に顔を上げたが、視界は何も変わらない。

そのまま真上にまで首を曲げても、川の光はずっと目に入りっぱなしで、

 

 

「……ん?」

 

 

……あれ、ちょっと何かがおかしくないか?

 

私は今、ちゃんと真上を見上げてる。だけど目に映るのは真正面の景色だ。

どんなに首を反らしても、瞳に空が映らない。

 

そうだ、上方が見られない。

空を見上げるなんて簡単な事が、どれだけ頑張っても出来ていない――。

 

 

「ぁ……え……?」

 

 

はじめは小さかった違和感が、どんどん大きくなっていく。

 

ぐらぐらする。ぐらぐらする。

同時に大きな眩暈を感じ、私は堪らず傍にあった街路樹に縋りついた。

 

……いや、これは眩暈とかじゃない。

なんというか、まるで……視界そのものが、大きく下にズレてしまったかのような――。

 

 

「――何をしている」

 

 

違和感が像を結びかけたその直前、突然声をかけられ我に返った。

咄嗟に背後を振り向けば、そこに居たのは鷲鼻の目立つ太った女性。すぐに『親』の一人であると気付き、舌打ちを鳴らす。

 

――チッ。

 

……いや、それより先に、また誰かの舌打ちが耳元で響いた。

すぐにそちらを見たが、やはり誰も居ない。

私は走る怖気を押し殺し、再び『親』の方へと目を戻した。

 

 

「……何って、見りゃ分かんでしょ。気分悪くて休んでんの」

 

「そうか」

 

 

彼女はそう一言だけ返すと口を閉じ、じっと私を見つめ続ける。こっちもこっちで不気味だな、ほんと。

 

 

「つか、そっちこそ何なの。街中で話しかけてくるなんて、前はしなかったじゃん」

 

「我々は『親』だ。そうあれと望んだのはお前だろう。ならば様子がおかしければ声をかけ、可能であればこの身の犠牲も厭わない」

 

「……今の状況、関与しないって言ったくせに」

 

「そういう約束だったろう。だがこれは、『親』としてやるべき事だ」

 

 

『親』はそう言って、私の背中を擦る。冷たいけれど、硬くは無い掌だ。

親であれば娘の異常を心配する――その常識に則って行動したという事らしい。

 

その無機質な答えにまた舌打ちが出そうになったが、あまり連発するのも行儀が悪い。

弾きかけた舌先をゆっくり戻し、代わりに大きな溜息を吐いた。

 

 

「……いいから、別に。吐きそうって訳でも無い……つーか、もう収まったし」

 

「動けるのか?」

 

「ん」

 

 

街路樹から離れ、軽くジャンプを繰り返す。

今の会話(或いは怒り)で気が紛れたのか、気付けば眩暈は消えていた。

若干視界に違和感は残っている気がするが……先程よりはだいぶマシに思えた。

 

 

「とにかく、もういいでしょ。元気になったんだから離れてよ」

 

 

しっしっ、と野良犬を追い払うように手を振れば、『親』は特に文句も言わず距離を取る。

 

私はそんな様子にまた苛立ちつつ、彼女から目を背けて歩き出す。

どうせ家に帰れば居るのだから、外では出来る限り離れていたかった。

 

 

「まっすぐ帰りなさい。分かっているとは思うが」

 

「ふんっ」

 

 

鼻を鳴らして返事とし、のっしのっしと大股で行く。

よく分からないけど、私の身に何かしらのオカルト的なのが発生している事くらい察している。こいつに言われずとも、寄り道なんてするもんか。

 

私はそれきり振り返らずに――と、思ったが。最後に一度、振り返り。

 

 

「ねぇ。私の顔、どう見えてる?」

 

 

聞いた。

『親』はその問いかけに、一拍ほどの間を置いて、

 

 

「――いつもと大して変わらない、気持ちの悪い顔をしているよ」

 

 

こいつほんとに私の肉親か?

 

 

 

 

 

「…………」

 

帰宅し、鏡に映る私の姿をじっと見る。

 

まず目立つのは、蜘蛛糸のようにキラキラ光るまっさらな髪、次に同じくくすみ一つ無い白い肌。

そんで上から順に小ぶりな鼻、ぷっくりとした唇、鋭い赤目、その他いっぱいチャーミング。

 

うむ、やっぱりパーツの一個一個が超絶ウルトラ美少女だ。

これを気持ち悪いって、やっぱイカレてやがんな私の『親』は。

 

 

「あと、髭擦くんもだな……」

 

 

といっても、軽く話した感じだと突飛な顔と行動に反してそこそこにマトモっぽかった。『親』のようなイカレ扱いは可哀そうだろう。

たぶん、見た目よりは普通の男の子な筈で……じゃあ、どうしてあいつは私を美少女と認識できなかったのか。

 

 

「…………」

 

 

また鏡を睨み、ぺたぺたと顔を触る。

異常はない。違和感もない。変な所なんて、ない。

 

……ない、んだよね?

 

 

「……髭擦くん、やっぱ白目剥いてて見えなかっただけだったりしないかな」

 

 

そうだったら気は楽になるのに。

私はそんな非常に失礼な事を考えながら、何とも言えない気持ちの悪さを溜息と共に吐き出した。

 

 

 




主人公:最初はとっつき難いが、長く縁が続くタイプ。
足フェチ:最初はとっつきやすいが、その内縁切りを検討されるタイプ。


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「顔」の話(中②)

 

 

翌日の朝。私は少し早めに家を出た。

 

目的地は昨日髭擦くんと出会った橋の上。

朝にあそこで会ったという事は、きっと私と同じく彼にとっての通学路でもある筈なのだ。

 

ならばそこで待っていれば、彼はその内やって来る。一番早く接触が出来る場だと、そう踏んだ。

……だけど、ここでも間が悪かった。

 

 

「っ……ぐ」

 

 

朝起きてからこちら、前日に感じたものと同じ酷い眩暈が付き纏っていたのである。

それも今度は収まる事も無く、ずーっとだ。

 

おかげでまともに歩けず牛歩の進み。根性で何とか橋まで辿り着いたものの、その頃には昨日髭擦くんと会った時間を過ぎていた。

当然彼を待ち構える事も出来ず、早めに家を出た意味も無し。むしろ遅刻を心配するレベルだった。

 

 

「あーもー、何でこんなんなってんの……?」

 

 

這う這うの体で橋の欄干にもたれかかり、目をぎゅっと抑えて深呼吸。

そうする内に気分の悪さはマシになったが、代わりに苛立ちが湧いた。

 

 

「……ふー……」

 

 

とはいえ地団駄を踏んでも始まらない。最後に深く息を吐き、顎元の目から手を外す。

ゆっくりと瞼を開き地面を見上げるけど、眩暈はあまり感じなかった。

 

そう、動かない分にはまぁまぁ平気なのだ。でも一つ足を踏み出せば――。

 

 

「っとと、と……!!」

 

 

ぐらりとバランスを崩し、慌ててまた欄干にしがみ付く。

こんなんじゃ学校に行くのも……とは思うが、かといって家で寝ててもしょうがない。

 

むしろ動かなければ更に状況は悪くなる。オカルトとは、『異常』とはそういうものだと、私は痛みをもって知っているのだ。

とにかく、今は髭擦くんだ。私や手すりや壁を伝い、学校へと無理やり身体を引きずった。

 

当然、そんな私の様子は周囲の目を引いていた。

 

学校へと向かう途中じろじろと幾つもの視線が注がれるが、残念ながら手を差し伸べてくれるような親切な人は居ない。みんなこっそり見てくるだけ。

 

 

「くそ……そんな気になるんなら誰か助けろっつーの……」

 

 

ブチブチと言ってはみるが、慣れた事ではあった。

 

突き刺さり続ける視線にうんざりと嘆息を落とし、人目を避ける裏道に身体を滑り込ませた。

少し遠回りとなってしまうが、このまま目立ち続けるよりはまだマシだった。

 

 

人が三人並べるかどうかの狭い道。

女の子が一人で通るには不安が煽られるような薄暗道だけど、左右の塀が近い分、今の私にとっては歩みやすくはあった。

 

触れれば粉の付く脆そうな石塀に身を擦り、のたのたと進む。

押し付ける頬の鼻先が擦れ、少し痛い。

 

とはいえ、今は我慢するしかないのが辛いところだ。

私は擦り傷にならない事を祈りながら、ひりひりとする鼻先を擦り、

 

 

「…………」

 

 

頬にある、鼻先を擦り、

 

 

「……………………」

 

 

鼻先を、頬の、

 

 

「………………………………」

 

 

立ち止まる。

 

知らず止まっていた息を吸い込み、吐き出す。

その吐息は額から流れ、前髪をふわりと揺らした。

 

 

「……はっ、はっ、はっ……」

 

 

息が乱れ、腹の底が冷えて行く。

 

ああ、分かった。

分かってしまった。

今、どうなっているのか。

 

 

「……っ」

 

 

覚束ない手つきで手鏡を取り出し、開く。

酷い震えと視界の異常で上手く覗き込めなかったけど、鏡はハッキリと私を映し出していた。

 

蜘蛛糸のようにキラキラ光るまっさらな髪、くすみ一つ無い白い肌。

それは変わらない。

だけど、だけどそれ以外、が。

 

 

「――ひ」

 

 

悲鳴を上げた。

 

でもその声は顔の上、額の部分から飛び出していた。

小さく啜った鼻の音は右頬から、うっすら浮かぶ涙は顎から滲む。

 

とち狂っている。けれど、そうなのだ。

 

間違えようもなく。疑いようもなく。どうしようもなく――私の顔は、ぐちゃぐちゃになっていた。

 

 

「な、んっ、だよ、これぇ……!!」

 

 

顔に手を這わせても、掌越しの感触は変わらない。

 

額に口。

頬に鼻。

顎に眼球が二つ。

 

失敗した福笑いみたいにパーツ配置がでたらめで、そのおぞましさに強い吐き気が込み上げる。

 

なんで、どうして。

ぐるぐると回り始めた視界の中、がくりと膝から力が抜けて、

 

 

 

「――あはぁ」

 

 

 

瞬間、耳元で誰かが笑った。

粘着質な、糸を引いたようなその笑みに、私は掠れた悲鳴を上げる。

 

しかしそれが響いたのは額からじゃなく、顔の真ん中。

反射的にまた鏡を見れば、額にあった筈の口がずるずると滑り落ちていた。

 

 

「――ッ!!」

 

 

恐怖。咄嗟に手で押し留めたが、止まらない。

 

いや、口だけではなく目や鼻もだ。

粘液のように波打つ肌を掻き分け、とろりと流れ。私の顔をもっとぐちゃぐちゃに変えていく――。

 

 

(わ、私ッ、どうなって……ッ!!)

 

 

『異常』だ。それは分かる。

 

でも何がどうして、いつからこんな事になっているのか、元凶以外の何もかもが分からない。

 

いや、もう考えている暇なんてない。

こうしている間にも私の目鼻口は流れ続け、ついには顔の外へ零れ落ちそうにさえなっていた。

 

焦った私は意地を捨てインク瓶に助けを求めようとしたが、しかし両手は今にも流れ落ちそうな目鼻口を抑えるために塞がっている

これではスマホは勿論、緊急連絡用の小瓶も使えない。血の気の引く音が、鼓膜の内側で鮮やかに響いた。

 

……もし。もしも、私の顔が外に出てしまったら。

 

目も鼻も口も地面に落ちて、のっぺらぼうになってしまったら――私はどうなる?

 

 

(……ヤバイ、ヤバイヤバイヤバイ……!!)

 

 

とろり。

肌が一層大きく波打ち、目鼻口を強く外へと押し流す。

慌てて抑え直すけど、粘つく肌がよく滑り、指の隙間から右の眼球がはみ出した。

 

血管と神経がきちんと通り、問題なく景色を映す生きた眼球。

同じくはみ出た左の眼球でそれを直視し、堪らず嘔吐く。

 

 

「っんで、こんなんで、見えるんだよぉ……!」

 

 

涙も泣き言も異常な場所から吐き出され、更に気分が悪くなる。

 

どうしよう。どうすればいい。

そう焦る間にも私の顔は流れ続け、ついには私一人の両手だけじゃ抑えきれなくなって、

 

 

「――あ」

 

 

どろり、とろり。

 

とうとう指の隙間を目玉が二つ通り抜けた。

糸を引きながら宙へ放り出されたそれらが、私の顔面を映す。

 

溶け落ち、爛れ。どんな表情を浮かべているのかすらも分からない程ぐちゃぐちゃになった、おぞましい顔。

 

 

――こんなじゃもう、美少女だなんて言えないなぁ。

 

 

ゆっくりと遠のいていくそれを見ながら、私はただ――ごめんねとだけ呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

「――お、おおぉぉぉぉッ!」

 

 

 

瞬間、野太い叫び声が轟いた。

同時に落ち切る寸前だった目玉が掬い上げられ、「んぶっ」顔面にべちゃりと押し付けられる。

 

粘液の肌が跳ね、目玉が顔面に深く埋め直された。

そうしてぐるりと回った視界の中に、彼が居た。

 

 

「ひ、髭擦くん――むぐっ!?」

 

「おおおおい! 顔、そっ、目、いや顔大丈夫なのか!? ど、どういう状況なんだこれはッ!?」

 

 

驚愕のまま問いかけたが、髭擦くんも髭擦くんでとても混乱しているようだった。

白目の中で小さな黒目を回しつつ、掌で掬ってくれた目玉を私の顔へ力任せに押し付けている。

 

助けられている事には違いないのだが、そろそろ反った首が折れそうだ。

私は彼の手をバシバシと叩き、力を緩めるよう求めた。

 

 

「うお、す、すまん! だがこれっ、べ、べちゃって! 顔がもっと酷い事にッ!!」

 

「いいよもうぐちゃぐちゃなんだからっ、というか何でここに居んの……!?」

 

「探してたんだ! 昨日帰ってからお前が教室まで来たと友達からあって、やっぱり大変な事になってたんじゃないかと思って!」

 

 

どうやら、私と同じく登校時を狙って遭遇しようとしていたらしい。それですれ違いになっていては世話が無いが。

いや、それよりも。

 

 

「――って事はやっぱりあんた、昨日の時点で私がどうなってたか分かってたんだな!?」

 

「分からない筈が無いだろう!? 今ほどじゃないが、あんなにぐちゃぐちゃだったのに!」

 

「バチクソ視えてんじゃん!? 言えや!!! その場で!!!」

 

 

やっぱり髭擦くんはオカルトを視認できる人間だったようだ。それも、私以上にハッキリと。

私が同類だと分からなかった以上何も言わなかったのは理解できるが、堪らず文句が口をつく。

 

 

「今そんな事言ってる場合か!? それよりこれ、目ェ!! どうすれば良いんだ!?」

 

 

髭擦くんも怒鳴り返しつつ、掌から零れかけた目玉を抑え直す。

肌の塩味が強く染み入り、喉奥で悲鳴が詰まった。

 

 

「っ……スマホ! 私のスマホ取って!」

 

「はぁ!? 何でそんっ、ああいや、どこだ!?」

 

「右のポケット! そしたら、ら、られれれれ、れ」

 

「うおっ!?」

 

 

大声で緩んだ肌が大きく震え、今度は口が滑り落ちた。

またも髭擦くんが抑え込んでくれたけど、そのおかげで彼の片手も塞がった。

 

私のと合わせて四本の腕で抑える事でようやく留められている、溶けた顔。

どれか一本でも欠ければ何かしらのパーツが地に落ちる事は明らかで、これでは元の木阿弥だ。

 

 

「お、おい! かなりまずいんじゃないのか、これっ!?」

 

「れ……るぇ、ぅりゅ」

 

 

もう舌もろくに回らなくなっていた。

指示も出せず、ただ焦りだけが募る。

 

どうする。

どうしよう。

どうしたら――。

 

そして今度こそどうにもならないと心が折れかけたその時――ざり、と。

私の後ろから、誰かが近付いて来る音がした。

 

 

 

「やはり、悪運が強いな。お前は」

 

 

 

その物言いに、見なくても誰か分かった。私の『親』の一人だ。

反射的に顔が歪むも、今の状態では意味は無く。対して髭擦くんは大人の出現に喜色を浮かべ、私の肩越しに助けを求めた。

 

 

「あの、すいません! この子の服からスマホを取り出してくれませんか! 右のポケットにあるみたいなんだが、今俺達っ、手が離せないというか……!!」

 

「……ふむ、まぁ、問題ないだろう」

 

「え? あ、あの?」

 

 

しかし『親』はまるで髭擦くんを無視するように呟くと、それでいて彼の顔をじろじろと見つめながら言葉を続ける。

 

 

「これは、美しい顔を求めているようだ。現状においては、そこに居る我々の子供の顔を欲している」

 

「こど……?」

 

 

戸惑う髭擦くんを他所に、『親』は私の目に映るように回り込む。

 

私とは似ても似つかない、黒髪黒目の若い女性。

相当に整った彼女の顔にやはり表情は無く、何の感情も読み取れなかった。

 

 

「お前の容姿はよく目立つ。当然、嫉妬や羨望もよく集まるのだろう。きっかけとしてはそんなもの。分かるか。自分の顔が嫌いなくせに、自分の顔をひけらかし過ぎなんだ、お前は」

 

 

その苦言とも言える言葉に、私は反論するつもりは無かった。

そして、後悔や反省の類も。

 

全ては分かってやっている事。

どんなに嫌いだとしても、私はこの容姿を精一杯誇って、自慢してやらなければならない。あの昏く寂しい洞の中、そう約束したのだ。

 

『親』は少しの間私の零れかけの眼球を見つめていたが、やがて後ろめたさのひとつも無い事が伝わったのだろう。

「まぁいい……」と呆れたように溜息を落とすと、おろおろと口を挟みあぐねていた髭擦くんへまた目を向けた。

 

 

「とりあえず、君には礼を言うべきだろう。君の存在があったおかげで、大分やりやすくなった」

 

「はぁ?」

 

「いい。今は理解しない方が容易い」

 

 

髭擦くんを完全に置いてきぼりにして、話は進む。

『親』は私達を見つめたまま、ゆっくりと後ろ足に離れ、

 

 

「ひとつ聞くが――今この場において、最も美しい顔はどれだと思う?」

 

 

――その問いが放たれた瞬間、私の顔の崩壊が止まった。

 

粘つくペーストになっていた肌が凝固し、零れかけの眼球や口がぴたりと留まる。

……恐る恐ると手を外しても、顔は落ちなかった。

 

 

「……な、何の話だ?」

 

 

だけど髭擦くんはそれに気付かず、私の顔に掌を押し付けたまま首を傾げた。

 

 

「この身体と、君と、我々の子。この場で一番整っている顔は、どれだろうか」

 

「はっ!? い、いや今はそんな事言ってる場合じゃないだろう!? 視えてるんだろう、あんた!」

 

「この件はこれで終わる。答えなさい」

 

 

有無を言わさぬ物言いに、髭擦くんは小さくたじろいだ。

 

そして整った『親』の顔を見て、ぐちゃぐちゃの私の顔を見て、そして白目の自分を顧みるようにぎゅっと目を瞑った後、彼はヤケクソ気味に怒鳴り上げた。即ち、

 

 

 

「――あんただよ! 今この中だとあんたが一番きれいだ! これでいいか!?」

 

 

 

――あはぁ。

 

 

髭擦くんの叫びと共に、狂った場所にある私の耳元で、また気色の悪い笑みが聞こえた。

 

これまでは目を向けても何も見る事は出来なかったけれど、今は違う。

耳と同じく狂った場所にある私の眼球が、今度こそそれを補足し、目撃していた。

 

――それは、唇だ。

 

私の耳のすぐ隣に人間の唇だけが浮かび、アルファベットのUよりも深く曲がった異常な笑みを形作っていた。

 

 

「――――」

 

 

その姿に、私の呼吸が一拍止まり――やがてその唇が開かれた。

 

真っ赤な肉の隙間にはあるべき歯や舌が無く、代わりに別のものが詰まっていた。

 

血管の張った丸い玉。

ぬらぬらと唾液に濡れた人間の眼球が、たくさん。

 

 

「……? おい、どうし――!?」

 

 

動かなくなった私が気になったのだろう。

ふと振り向いた髭擦くんは私と同じものを見たのか、顔を引きつらせ大きく身体を震わせた。

 

それが合図となったのかもしれない。

急にがぱりと唇が開き、眼球だらけの口腔から大量の糸のようなものが吐き出された。

 

視神経を思わせるそれらは、私や恐怖に慄く髭擦くんには目もくれず、通り過ぎ。ある一点を目指して伸びてゆく。

私の『親』が、立つ場所に。

 

 

「っ、逃げろ!!」

 

 

髭擦くんもそれに気付いたらしく、そう声を上げる。

しかし『親』は微塵も動じる様子も無く、変わらない鉄面皮でもってそれを受け入れた。

 

 

「先ほども言ったが、これは美しい顔を求めている。お前より美しい顔を用意出来れば、当然そちらへ向かって行く。……出来の悪い福笑いとなった今のお前と比べれば、誰であっても美形だがな」

 

 

『親』がよく分からない理屈を並べ立てる最中にも糸は次々と伸び、その顔面の皮膚を突き破り潜り込んで行く。

 

途端、私と同じように顔のパーツが崩れ始めた。

整った顔があっという間にぐちゃぐちゃになっていくその光景に目を逸らしかけ、我慢して視線を留める。

 

……私もああなっていたんだろうな。

そう自覚し、改めて吐き気が昇った。

 

 

「……結局、少しでも多くの気を惹きたかっただけなのだ。だからこそ、たった三人しかいない今この場でもこんな手が成立する。付き合い続けるのも無駄だとは思わないか」

 

「…………」

 

 

私はそれに何も答えない。

まだ口がまともに動かないからだ、きっと。

 

 

「冷静に言ってる場合か!? あんた顔っ……お、俺の身体っ、どこでもいいから使って抑えろ!! 早くっ!!」

 

 

意味の分からないやりとりをする私達を他所に、髭擦くんは酷く焦った声を上げる。

そんな彼に『親』の零れかけの目玉がぎょろりと向いて、しかしすぐに下方へ滑り、

 

 

「あ――」

 

 

ぼたり。

糸のように細くなった皮膚が千切れ、二つの眼球が『親』の顔から完全に離れた。

 

そして一度一線を越えれば、また続く。

鼻、口、耳、髪――最早顔の部品だけに留まらず、『親』の頭部にあるもの全てが流れ、溶け落ちる。

 

その向かう先は、先程も見た目玉の詰まった唇だ。

いつの間にか私の耳元から移動していたそれが落下地点に陣取り、大きく口を開けていた。

 

 

――あはぁ、ぁは、あは、ははぁ、あはあぁ、ぁあ。

 

 

嬌声と共に、目玉や鼻が次々と唇の口内へと消えて行く。

 

そうして全てを平らげた唇は、いっそ恍惚ささえ感じる動きでゆっくりと収縮を繰り返す。

くちゃり、くちゃり。目玉しか無い筈の真っ赤な肉の内側で、おぞましい咀嚼音が響いた。

 

 

「……く、食われ、た……?」

 

 

髭擦くんが呆然と呟く。

 

そう、今この瞬間、私の『親』は頭にあるもの全てを食われたのだ。

後に残っているのは、まるで電球に肌色の溶けたゴムを流したかのようなものを首に乗せた、酷く不格好なのっぺらぼう。

 

見る事も聞く事も息をする事すら不可能となったそれが力なく地面に転がり、びくんびくんと跳ねまわり――やがて、止まった。

 

 

「ひ、ぐ、おえッ」

 

 

口を抑えて蹲った髭擦くんに、咀嚼を続ける唇の隙間から視線が向いた。

 

まぁ、当然だろう。

この場で一番に顔の整っていた『親』が居なくなったのだから、次の標的は自動的に二番目に顔の整っている髭擦くんとなる。

 

私は自由になった両手で彼の背を揺らし、早く逃げるよう促そうとして……もうその必要が無い事を思い出す。

 

そう――『親』の死をもって、状況は終了しているのである。

 

 

――あはぁ、あは、は、んぐゅぶ。

 

 

その時、突然唇が嘔吐した。

 

吐き出したのは口内の眼球でも『親』の顔でもなく、黒く粘性のある泥のようなもの。

つい最近に私も浴びたようなそれを、唇はげろげろと吐き出し続け、止まらない。

 

 

――ぐぶぉ、ごぶ、ご、ろぉ、ぁば、おぅろ、ろ、ろ……。

 

 

酷く苦しそうに身を捻る唇をぼうと眺める私の耳に、以前に聞いたインク瓶の言葉が蘇る。

 

 

『簡単に言えば、君達は生贄の血統なのさ』

 

 

淡々と、それでいてどこか私を憐れんだような声だった。

 

 

『切られ一倍、返し朝雲――千切る魂雲を精霊とし、神と怪異に……君が言うオカルトへ捧げ鎮めるための力。人を呪わば穴二つ、とは少し違うかもしれないけど、分かるかな。つまりね――』

 

 

泥を吐く唇が大きく膨れ、醜く捻じれ上がっていく。

それは雑巾絞りにかけられて、無理矢理に中身をひり出されているようで、

 

 

――自分を殺した奴を、殺し返す。そういう風に出来ているんだよ、君達「魂」の家は。

 

 

びちゃり。吐き出される泥の中に眼球が混じり、地面を転がる。

幾つも幾つも、それは留まる事無く量を増し、気づけば泥よりも多くなっていた。

 

黒に濡れ、ぬらぬらとした光沢を放つ眼球の山。

唇はその頂点に最後の一つを吐き落とすと、直後にぶちりと捩じ切れた。

血飛沫のように泥が舞い、黒い雨となったそれが地面に広がる眼球達に降り注ぐ。

 

それは『親』を殺した事のしっぺ返し。

同時に、私への嫉妬と羨望の成れの果て。

 

……そう考えた事を察したかのように、落ちる眼球全てがぎょろりと私を睨みつけた。

 

 

「っ……」

 

 

血走った瞳を揺らしながら、眼球達は求めるように視神経を私へと伸ばし、しかし辿り着くとなく泥へと落ちる。

やがては眼球その物すらもが溶け崩れ、全てが泥の中へと消えてゆく――。

 

 

あかね、ちゃん

 

 

ゆっくりと広がる黒い水溜まりに、私は唇だけでその名を呼んだ。

 

そうして粘性のあるそれに『親』の死体が浸されていく様子をぼんやりと眺めていると、ぐいと腕を引かれた。

 

見れば真っ白な顔をした髭擦くんが必死に私を引っ張っている。

逃げよう、という事らしい。大概タフだなこいつも

 

 

「――……」

 

 

よたよた手を引かれる最中、足元にまで迫っていた水溜まりに私の姿が映り込む。

インクのような匂いを立てるその中に、いつもの私の美貌が真っ白に漂っていた。

 

 

 




思わせぶり描写を盛り盛りする楽しさ。


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「顔」の話(下)

3

 

 

 

「――最初から、居たよ。あの唇みたいな、アレ……」

 

 

そんなこんな、何とか裏道から這い出した後。

塀に縋りつき暫く吐き気と格闘していた髭擦くんは、やがて独り言のように呟き始めた。

 

 

「先週の、朝……学校に行く時だ。お前の真っ白な頭が目立ってて、見て……そしたら、肩の上にアレが居たのが見えたんだ。だが……その時は、その……知らんぷりを」

 

 

気まずそうに私を見て、ぎょっとするように目を瞠る。

たぶん、元に戻った私の顔に驚いたのだ。ある意味ではこれが初対面である。

 

どうだ美少女だろう――なんて嘯く気には、今はなれなかった。

 

 

「……もういーよ。正しいよあんた。それ系は人に話したって良い事無いってのは、私も知ってんだ」

 

「……あ、ああ……分かってくれる、のか」

 

 

髭擦くんは深々と溜息を吐くと、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。

 

 

「昔から、ああいうのが見える事が何度もあった。詳しい事なんて何も知らん。が、よくないものだとは察してたからいつも近づかないようにしていて、お前の時も……でも何日か経つうち、アレが少しずつお前の顔を崩してる事に気付いてゾッとした」

 

「……そんで、あの橋の上で声かけてきたの?」

 

「ぼうっとしてるお前の顔がどんどん溶けてく姿を見たら、咄嗟に」

 

 

あの時そんな事になってたんか。

当時の事を思い出したのか、それともつい先程の光景が蘇ったのか。髭擦くんは再び口元を抑えてえずいた。

 

まぁ、予想通り、彼は霊感持ちであったという訳だ。

昔からオカルトのある世界で暮らしていた事に同情し、そっと背中を撫でてやる。

 

 

「ぅぷ……そ、そうやって一回関わったら、また知らんぷりなんて出来なくて……。あの時は俺が声かけたら顔崩れるの止まったから、また顔が溶けても同じように止められるんじゃないかって、だから……」

 

「そんで休み時間中のストーカー? もっと何か無かったの……?」

 

「……あぁ、そうだな、もっと考えるべきだったんだ。だって結局、こんな――」

 

 

髭擦くんは言い返す事も無く、弱々しく裏道の入り口を見る。

きっとその視線の先には『親』の死体があるのだろう。もしかしたら変な罪悪感とか持っちゃったのかもしれない。

 

 

「……あんたのせいじゃないんだから気にすんなよ。私が助かったのは確かなんだからさ」

 

「だ、だが……お前のお母さんなんだろ、さっきの」 

 

「母親じゃなくて、『親』。今死んだのが私を産んだヤツかは知んない」

 

「……? それは、どういう――」

 

 

と、髭擦くんが首を傾げた時、私達に近づく人影があった。

ちょうどいいや。私は口をへの字に曲げ、近づいてきた人物に対し髭擦くんを指差した。

 

 

「――どーすんの、あんたが死んだせいでトラウマになったってさ」

 

「そうか、悪い事をした」

 

 

ごく、自然に。

私の言葉に応えたその男は、全く知らない人だった。

 

顔も、声も、何もかもに覚えが無い。正真正銘の初対面で、真っ赤な他人としか言えない男。

『親』の一人だ。

私にはすぐにそうと分かるけど、髭擦くんは唐突に現れた不審人物に困惑し、私に縋るような目を向けて来る。

 

 

「……し、知り合いか?」

 

「『親』」

 

「え……お父さん?」

 

「違う。『親』」

 

「……父親は親だろ……?」

 

 

彼の表情が困惑から混乱へと変わるが、詳しく説明する気は無かった。

私は髭擦くんから視線を外し、『親』の男へと向き直る。

 

 

「で、結局なんでまたあんた出てきたんだよ。私の周りで起こるヤツには関与しないって――」

 

「都合の良い状況になったからだ」

 

 

『親』は遮るようにそう返し、近くにしゃがんで私の容態を確認し始める。

知らん男の身体に顔をぺたぺた触られるのは正直キモかったが、さっきまで自分がどんな状態だったのかを思い、仕方なく受け入れた。

 

 

「ずっと観察し、あの唇の性質を見極めていた。そして偶然、お前が助かる状況が整った」

 

「…………」

 

「我々は丁度良くこの場を通りすがり、そこの少年に質問をした。結果向こうからこちらに襲いかかり、こうなった。お前に直接関与した訳では無い」

 

「この前街中で話しかけてきたのは何なんだっつーの……」

 

 

頬を触る『親』の指から逃れつつツッコミを入れるが、それを無視。

そして私の顔に異常が無いと分かると、次に髭擦くんを診始めた。

 

しかし当の彼は未だ混乱した様子のままで、縋るように『親』へと詰め寄った。

 

 

「あ、あのっ。そこの道入ってすぐ、死体があるんです! たぶんそれ、そこに居るやつの母親、いや、あんたの奥さん……その、だから――」

 

「落ち着きなさい、分かっているから」

 

 

必死ともいえる訴えを遮り、『親』は髭擦くんを優しく宥める。私の時とはえらい違いだ。

しかし髭擦くんもいい加減いっぱいいっぱいになっていたのか、逆に興奮して言い募る。

 

 

「お、おかしいだろ!? 人が、あんたらの家族が死んだんだぞ!? だったらもっと何かあるんじゃないのか!?」

 

 

ごもっともである。

今この場においてまともなのは髭擦くんの方であり、私と『親』の反応は相当におかしい。私もそれは自覚している。

 

『親』はそんな髭擦くんに小さく頷くと、彼の肩に手を置きしっかりと視線を合わせ、

 

 

「無事だよ」

 

 

……そう答えたのは、『親』の男ではない。

その横合いから突然に見知らぬ少女が現れ、自然に会話に混ざり込んだのだ。

 

 

「……は?」

 

「だから、無事なんだ」「確かにあの身体は死んだ」「だが、厳密にはこの場に死人は居ないんだよ」

 

「え、えぇ?」

 

 

そのまま見知らぬ少女は『親』の男と交互に言葉を紡ぎ始めた。

 

当然髭擦くんは酷く混乱したようだったが、しかし『親』達は気にも留めない。

更に道を歩く人々の中からまた幾人かが現れ、言葉を繋いだ。

 

 

「見なさい」「まだ、こんなにも居る」「確かに損失はある」「が、全体としては無傷に等しい」「分かっただろうか」

 

「ひ、なに、なんっ……!」

 

「ああ」「まだ安心できないか」「なら――」「これで」「どうか」「な」

 

 

一人、また一人と。

どこからか人が集まり始め、人の壁となって髭擦くんを囲い込む。

そして彼らは皆が皆うっすらとした微笑みを浮かべ、髭擦くんをじっと見つめるのだ。

 

数多の瞳、それぞれの視線に乗るのは、たったひとりだけの意識。

 

 

――私の『親』は、身体をたくさん持っている。事実だけを言えば、そういう事になっていた。

 

 

「どうだろう」「これで」「君の心」「配は杞憂」「だと理」「解できた」「かな」「いきなり呑み込」「むの」「は難しいかもし」「れないが、理解して欲」「しい」「我々」「はこういう」「存在」「なのだと」

 

 

男が居た。

女が居た。

子供が居た。

中年が居た。

老人が居た。

そして、赤ん坊さえも――。

 

髭擦くんを囲む大量の人々が順繰りに言葉を放ち、多種多様の声音が明確なひとつなぎの文章を織りなしていく。

 

なんて異常で、不気味な姿なんだろう。

全身に走る気持ちの悪い怖気に、唇を噛んで耐え忍んだ。

 

……『親』の子である私でもそうなのだから、その中心に居る髭擦くんの恐怖たるや。

私は憐れみと共に、恐る恐ると『親』の人垣の中を覗き見て……、……。

 

 

「……ねぇ」

 

「故に」「我々の」「死に対し」「ても」「そういうもの」「と思って、」

 

「ねぇってば」

 

「何だ」

 

「そいつ、気絶してない?」

 

「何?」

 

 

私の言葉に『親』の一人が髭擦くんに近寄るが、何も反応が無い。

 

そう、アホみたいに分かり難いが、彼は正真正銘白目を剥いて立ったまま失神していた。体幹どうなってんのこいつ。

 

 

「……確かに」「何故だ」

 

「いや、こんだけ意味分からんのに囲まれたらそりゃ怖いでしょうよ……」

 

「だが彼は」「昔から霊視」「できたのだろう?」「ならば、様々な奇怪なものが寄って来ていた筈」「我々は人間と同じ姿だ」「多少数が多いが、その程度で……」

 

「ずっとオカルトには近づかないようにしてたんだってさ。なら慣れも何も無いんでしょ」

 

 

たぶん、今回において彼の内面はずっとパニックだったに違いない。

だからこそ、ストーキングみたいな極端な行動に走ったのだ。

 

いつも白目で表情がよく分からんため、若干の落ち着きがあるように見えただけだ。紛らわしい。

 

 

「しかし……」「ああいや」「確かに、我々も」「彼の気絶に気付けなかった」「なら、納得が行くか」

 

 

すると髭擦くんを介抱していた『親』達が、何やら得心がいったように小さく頷く。

妙な含みのあるその様子を胡乱な目で眺めていると、何を勘違いしたのか聞いてもないのに説明を始めた。めんどくせ。

 

 

「お前がオカルトと呼ぶものは」「大抵の人の瞳には映らない」「だからこそ」「それを映す瞳はよく目立つ」「故に」「それに気付けば」「それに気付かれ」「結果」「接近して、」

 

「どうでもいいけど、こんだけ人数居るとその話し方すげーウザい」

 

「……そうか」

 

 

好き勝手に喋っていた『親』達が、代表となる一人を除いて口を閉じた。

なんとなく、しょんぼりしている気がしなくもない。

 

 

「……つまり、オカルトが視えるのであれば、必ずそれに巻き込まれる。例え近寄らないよう策を弄したとて、その瞳を抉らぬ限り全て無意味なのだ」

 

 

自然と今回の唇が脳裏に浮かぶ。

 

振り返れば、あれは私に気付かれないよう近づき、こっそり顔を盗ろうとしていたようだ。

確かに、ああいったタチの悪いタイプを意識的に回避するのは不可能に思えた。

 

 

「え、じゃあ何で髭擦くんは今までオカルト回避できてたん……?」

 

 

半ば独り言じみたその疑問に、『親』はどこか気まずそうに視線を落とした。

 

 

「……単純に、分からなかったのだろう。この子の視界に、己が映っているかどうかが……」

 

「はぁ? なにそれ、どういう――」

 

 

そこまで言って気付いた。

思わず髭擦くんを振り返り、その顔を凝視する。

 

いや、正確には、ギョロッと剥かれたその白目。

 

 

 

「……いやいや、冗談でしょ?」

 

「少なくとも、視線がどこにあるかは分からん。その瞳に何が映っているのかも分からん。感情の揺れもイマイチ分からん。そして我々もまた、彼の気絶が分からなかった」

 

「ぐぅ」

 

 

という事は、あれか。

 

私が髭擦くんを常に白目を剥いているヤツと思っていたように、オカルト側にもそういう風に見えていたと。

瞳があんまりにも小さすぎて、視線も感情も読み難いもんだから、オカルトが視えているヤツなのかどうか向こうも判別し難かったと。

あの唇も困って動きが止まっていた、と……。

 

 

「――いやクソボケすぎんだろバッカじゃねーの!?」

 

「そういうものだよ、アレらは」

 

「限度があんだろ!」

 

 

いっつもあれこれ悩んでるこっちこそがバカみたいじゃねーか!

 

そうやって頭をぐしゃぐしゃやっていると、道の先から一台の乗用車が現れた。

『親』の一人が運転しているらしきそれは、ごく自然に私達のすぐ傍に停車。

後部座席のドアが開くと、髭擦くんをおぶった『親』が黙々と彼を車内へ運び始めた。

 

 

「乗りなさい。あんな事があったのだ、お前達は今日は家に帰って一日休んだ方が良い」

 

「……髭擦くんは? 送るったって、住所とか……」

 

 

と、その時、遠くから学生鞄を持った『親』が駆けつけてきた。

その手には鞄から抜き取ったらしき学生証が握られている。髭擦くんの物だ。

どうやら、彼が私の助けに入った時にぶん投げていたものを拾って来たらしい。

 

手慣れてんな。呆れた私はもうそれ以上何も言わず、車の助手席へと乗り込んだ。

 

 

「……はぁ」

 

 

……ちらりと見た運転席には、壮年男性の『親』が乗っている。

バックミラーに目をやれば、後部座席に気絶した髭擦くんと、その面倒を見る『親』が二人。

うんざりと窓の外を眺めても、そこにはまだ大量の『親』達が屯し、裏道にある『親』の死体の事後処理に動き回っている――。

 

 

「…………」

 

「……何をしている」

 

「白目剥いてんの」

 

「お前がそれをした所で何の意味も無い。その気持ちの悪い顔に下品を上塗りするだけだからやめておけ」

 

「あんた私の『親』やめろ」

 

 

そんな私の罵倒を置いて、車はその場を後にする。

 

暫く耳を澄ませてみたが、もう舌打ちの音は聞こえない。

まぁ、当たり前だ。ほうと小さく息を吐き、座席に深く背を預けて……。

 

 

「――……」

 

 

……気付かなかっただけ、とかじゃないよね。

私は少しの不安を感じつつ、自分の顔を上から順になぞっていった。

 

 

 

 

――あはぁ。




主人公:一人しか居ない。唇の正体に心当たりがあるようだ。
髭擦くん:一人しか居ない。白目に見える目つきのおかげでオカルトに対するステルス値が高いようだ。
『親』:たくさん居る。登場時の容姿の描写が毎回違う。


盛り盛りした思わせぶり描写の回収はそのうちのんびりやってきます。
気長にお付き合い頂けると幸いです。


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「卵」の話(上)

卵だった。

人の頭の上に、大きな卵が乗っていた。

 

 

「……んぁん?」

 

 

時刻は朝、場所は学校の教室。

ホームルームが始まるまでの暇潰しに窓の外を眺めていた私は、目撃したそのトンチキな格好をした人物に、思わず間抜けな声を漏らした。

 

 

「は? 帽子……いや仮装……?」

 

 

窓枠にもたれかかっていた身を起こし、その人物を注視する。

 

校舎へと続く道を歩いている彼は、他クラスの男子のようだった。

その顔に見覚えは無かったが、制服に付けられたピンからいって私と同じ二年生。

どこぞの白目を剥いたヤツみたいに特徴的な部分の無い、どこにでも居る地味めの少年に見えた。

 

……だからこそ、その頭の上に乗った大きな卵がやたらと目立つのだ。

 

私のスーパー視力によれば、楕円形をしたその卵は帽子やヘルメットの類では無く、本当に卵としか言いようのない物体だった。

旋毛の上あたりだろうか。どれだけ首を動かしても決して落ちる事は無く、それどころかぴったりと頭にくっ付いていてズレる気配すらも無い。意味わからん。

 

まぁだがそれよりも意味分からんのは、周りを歩くヤツらが何も言わない事だろう。

 

あんだけ立派な卵を頭に乗せたトンチキ男が居るというのに、誰一人として彼に視線を向ける者が居ないのだ。

ある意味私よりも目立つ姿だというのに、なんでそんな無関心――……、

 

 

「……おーっとっとっとーぅ」

 

 

と、そこまで考えたところで気付き、さっと目を逸らして窓から離れた。

 

いやオカルトじゃん。もう完全にオカルトじゃんあれ。

私は嫌な汗をかきながら自分の席に戻り、寝たフリをして無視を決め込んだ。

 

あの卵に寄生(?)されている少年には申し訳ないが、今回において私は何の関係も無い。

偶然チラッと見ちゃっただけ。当然首を突っ込む必要も義理も無い訳で、そっちはそっちで何かいい具合にやっといて頂きたい。後でインク瓶にでも何とかするよう言っといたげるから!

 

……私は心の中でそう謝りつつ、必死に卵のオカルトを頭から捨て去ったのだった。

あー朝っぱらからイヤなもん見ちゃったな、まったく。

 

 

 

 

 

 

「なぁ、少し聞いてくれないか。俺のクラスに頭に卵乗っけた奴が居るんだが」

 

「必死に捨て去ったもんを速攻で拾ってくんなよぉ……!!」

 

 

一時限目の休み時間。

教室の入り口から私を呼ぶや否やそんな事をのたまった白目の男に、私はガックリ膝をついた。

言うまでも無く髭擦くんだ。

 

以前のオカルトの一件からこちら、彼とは霊視持ち同士よく交流するようになっていた。

あの時は『親』のアレコレで怖がらせて気絶までさせてしまったのだから、正直その子供である私も避けられるだろうなぁとは思っていた……のだが、どうもその恐怖心を私にまでは引きずっていないようなのだ。

会えば普通に話すし、用があればこうして訪ねても来る、ほんとに図太いヤツであった。

 

一方で私の方も彼に仲間意識的なのを抱いていたのは間違いないので、友人関係となるのに時間はかからなかった訳である。ちゃんとした男友達第一号だ。

 

……つっても、それと今回のこれとは別問題だけども。

 

 

「何で持って来るんだよぉ……私関係ないだろぉがよぉ……」

 

「知ってたのか……。いやすまん、すまんとは思うが、俺一人じゃ抱えきれなくて」

 

 

デカかったもんな、あの卵。なんて言ってる場合でも無く。

 

 

「……朝さ、チラッと見えたんだよ。あの地味めな男子の事だろ? あんたのクラスだったのか、アイツ」

 

「犬山っていうんだが……昨日までは普通だったのに、今日の朝いきなりあんな事になっててな。なんというか、その、どうしたもんかと……」

 

 

髭擦くんは困惑を表すように首筋に手を当てつつも、何かを期待する声音で私を見下ろした。

 

その意味が分からず首を傾げかけたが――すぐに察する。たぶん、『親』の助力が得られないかと期待しているのだ。

 

髭擦くんには私の家について詳しく説明してはいないけど、あれだけの『異常』を見せられたのだ。流石にオカルト関係に強い家だと分かってはいるのだろう。

まぁ髭擦くんからしてみれば色々な意味で頼み難かろう。それは分かる、分かるんだけども。

 

 

「……あー、私も『親』に言うつもりではあるけどさ。でも、あんま期待しないでよ」

 

「えっ。あ、いや……な、何でだ?」

 

「私の周りで起こる事になるべく関わらないって約束してるってのもあるんだけど、単純にヤバいの以外は無視すんだよ、あいつ」

 

 

何せ『親』が持つあの意味不明な力は、自分が殺される事でしか発動しないのだ。

幾ら身体がたくさんあるほんと意味不明な存在とはいえ、出逢う奴ら全てを一々構っていれば、すぐに身体のストックが無くなってしまう。

故に自分が殺されるべき相手はよく見極めており、些事は構わず切り捨てている……との事らしい。

 

最初聞いた時は何言ってんだと思ったが、今になってみるとそこそこ納得いってしまうのが困りもの。

髭擦くんにそう説明すれば、白目の中に困惑の二字が浮かび上がる。そりゃそうだ。

 

 

「えーと、何だ。ちょっとうまく呑み込めないんだが、つまりお前の両親……その、あの人達、いや人? ……とにかく、頼るのは無理そうって事か?」

 

「頭の上に卵乗ってるってだけじゃね……。一応インク瓶――こういうのに詳しい人にも相談するけど、あいつもあいつで中々こっち来ないし……」

 

「よ、よく分からんが、そうか……じゃあ俺はこれからあの卵と一緒の教室で過ごす事になるのか……」

 

 

そう言って顔に青線を垂らす髭擦くんだが、ここで助けようと言わず、犬山くんとやらを放置しようとしてるあたりに熟練者臭が漂った。

唇の時も私がヤバくなるまで知らんぷりしてたそうだし、それが彼のオカルトに対する昔からの処世術だったのだろう。

 

とはいえ、今回は彼のクラスメイトが相手という事で、知らんぷりにも限度がある。

流石に少々不憫になり、丸まるゴツい背中をぽんぽんしてやった。

 

 

「まぁ、ほら。あの卵が猛獣……危険なヤツと決まった訳じゃないしさ。案外ふっと消えてるかもしんないじゃん」

 

「いや、卵だぞ……? 絶対孵るし、あの大きさだ。何が出てくるか分かったもんじゃないだろ……」

 

「んんん……」

 

 

確かにそれは私も思ったけども……。

私も二の句が継げなくなり、何とも気まずい空気が出来上がる。

 

うーん、どういってやったもんかなこれは。私は髭擦くんの背中をくりくりしてやりながら、いい感じの励ましを脳みそから絞り出し――。

 

 

「タマ吉~、いつまで髭擦と喋ってんの~? そろそろ二時間目始まるよ~」

 

 

と、そうこうしていると背後から声がかかった。

振り返ればいつの間にか足フェチが寄ってきており、私と髭擦くんの足を見つめていた。

……そっと髭擦くんの後ろに回り込んで盾とする。許せ。

 

 

「髭擦のクラスって結構遠いよね? ウチもあとちょいで先生来るし、怒らんない内に戻った方が良くない?」

 

「あーうん、そだね……」

 

 

ふと時計を見上げれば、休み時間終了の二分前。

髭擦くんを卵のあるクラスに戻すのは気が引けたが、足フェチの言う通りではあった。

申し訳ないと思いつつ、彼の背を叩いて送り出す。

 

「まぁさ、色々言っとくだけは言っとくから……うん」

 

「……ああ、じゃあ、頼む。とりあえず俺は戻るよ、ありがとうな、二人とも……」

 

 

そう言ってトボトボ立ち去る髭擦くんの煤け具合といったら、もう。

遠ざかっていくその背中に、私も哀愁を感じざるを得なかった。かわいそ。

 

 

「……何かさ~、タマ吉と髭擦っていつの間にか仲良くなってんね」

 

 

すると、同じく彼の背中……ではなく足を見送っていた足フェチが、怪訝な顔で首を傾げた。

 

 

「アタシは足の追っかけでちょいちょい話す感じだけどさ、タマ吉は前のストーカー騒ぎで初でしょ? それからこれって何があったん?」

 

「……いやまぁ、こっちは色々あったんだよあれから」

 

「色々ねぇ」

 

 

敢えて「足の追っかけ」なる謎ワードを流し、適当に濁す。

足フェチはそれ以上深く聞いてくる事は無かったが、代わりに視線を私へ向けて、そのままスススと足へと下ろし、

 

 

「……その綺麗な足さ、アタシより先に髭擦が触っちゃう雰囲気になってないよね?」

 

「意味分かんねーしそもそもあんたに触らせる機会なんてずっとねーよ!」

 

 

反射的に尻を蹴りかけたが、ぐっと堪えて平手でスパンとぶっ叩く。

そして「あいた~!」と痛がりつつも残念そうな顔をする足フェチに、私はいつものようにドン引いたのだった。

最近なんか性癖隠さなくなってきたな、こいつ。

 

 

 

 

 

 

突然だが、この学校の体育は時々他クラスとの合同授業になる。

 

といっても、何かしらの教育的取り組みとかという訳では無い。

なんらかの理由で他教科の教師と時間割との予定が合わなくなった際、よく体育のコマとの入替が起き、それでブッキングしてしまったら二クラス纏めてやってしまうというだけの、完全に教師側の都合である。

 

だったら普通に自習で済ませればいいとは思うのだが、まぁ授業内容的にも体育は融通が利くだろうし、入替の方が色々利点が多いのだろう。

私としても大人数でのレクリエーションが出来る機会なので、どちらかといえば楽しみなイベントではあった。

 

……のだが。

 

 

「…………」

 

「……いや、これは俺のせいじゃないだろ……」

 

 

四時限目、体育の授業が始まる少し前。

ジャージに着替え校庭に移動した私は、じっとりとした目で髭擦くんを睨んでいた。

 

そう、なんと今日の私のクラスの体育は、髭擦くんのクラスとの合同授業であったのだ。

私の方の時間割は元々体育だったし、事前連絡も無しで全然知らんかった。しっかりしろよマジで。

 

……で、髭擦くんのクラスと一緒という事は、当然あいつも一緒な訳で。

チラリと髭擦くんから視線を移せば、やっぱりものすごく目立つ男子が一人。

 

――言うまでも無く、デカい卵を頭に乗せた犬山くんがそこに居た。

 

 

「……髭擦くん不憫に思ってる場合じゃなかったなー……」

 

「よりによって今日だからな……これもお前の体質ってやつか?」

 

「知らん知らん知らん知らん」

 

 

私はある意味感心したような目(白目なのに? いやそんな雰囲気がしたのだ)を向ける髭擦くんから顔を背け、こっそり犬山くんを盗み見る。

 

くすみの無い乳白色に、ざらついた表面をした楕円形。見れば見るほど卵以外の何物でも無い。

近くで見ればその大きさ異様さがよく分かり、無言で数歩後退る。

 

 

「……そんで、教室じゃどんな感じだったの。今まで変わった事あった?」

 

「いや、特に妙な様子は無かったが……」

 

 

髭擦くんは顎に手を当てそう返したが、やがて「ああいや」と呟き、卵へと顔を向けた。

 

 

「ハッキリそうとは言えないんだが。何か、こう……朝より大きくなってるんじゃないか、と思わなくもない」

 

「……うえぇ」

 

 

怖い事言うなよ。

渋い顔してもう一度よく卵を観察したが、私は朝に一回チラッと見たきりだ。大きさの差異なんて、パッと見よく分からなかった。

 

そうして記憶と現実の卵を比べる内に、自然と目つきが細まっていき――そんなイガイガした視線を感じたのか、犬山くんがふとこちらを向いて目が合った。やべ。

 

 

「……え、えっと、何? 何か用……?」

 

「え、や、別にそのぅ、おっきいなーって。わははは」

 

「は?」

 

 

こんにちは、誤魔化しヘタクソ星人です。

するとそんな私を見かねたらしき髭擦くんが前に出て、怪訝な顔をする犬山くんの頭の上――卵の近くでぱっと拳を握ったかと思うと、ぎこちなくその顔前へと差し出した。

 

 

「……ええと、なんだ、お前の頭にでっかい蠅が止まってたから見てたんだよ。ほら」

 

「え゛ッ。うげ、いいよ見せないでよ虫大っ嫌いなの知ってんでしょ!」

 

 

しかし犬山くんは引き攣った顔のまま髭擦くんから離れ、頭をパタパタと払う。

卵が落ちると一瞬ヒヤッとしたものの、その手は卵を透過した。どうも卵には実態が無いようで、髭擦くん共々息を吐く。

 

 

「じ、冗談だ、もう払ったから」

 

「え~……? も~、やめてくれよビビるからさぁ」

 

 

髭擦くんが空の拳を開いて見せれば、犬山くんは安心したように肩を落とした。さっきの私の醜態も忘れたようで、空気がうやむやに緩む。

誤魔化しどうもと髭擦くんの背中を叩いていると、十分に距離を取った犬山くんがこちらに意外そうな目を向けた。

 

 

「え、てか二人とも普通に友達なんだ? ヒゲって前その子にストーカーしたんでしょ、加害者と被害者じゃん」

 

「それ結構言われるんだが、そんな広まるような事か……?」

 

「いや、されてた私が断言するけどアレめっちゃ目立ってたからね。いっぱいいっぱいで分かんなかったのかもしんないけどさ」

 

 

というかあんたヒゲって呼ばれてるんか。なんかヤなあだ名。

ともあれそんな風に話しているうち、犬山くんも徐々に硬さが抜け、相好を崩し始めた。どこか人を安心させる、やわらかい笑顔だ。

 

……まぁそれが一層、卵の存在を不気味に際立たせている訳ですが。

髭擦くんと揃って小さく呻き、腰を引く。

 

 

「まぁ変な感じになって無いなら良かった。こじれてうちのクラスから退学者~とか嫌だしさ」

 

「は、ははは……あー、そういえば犬山。お前の方はどうしたんだ?」

 

「え? 何が?」

 

「いや、さっきの蠅。あんなでかいの、お前が気付かないとか珍しいからさ」

 

 

髭擦くんはさっきの誤魔化しにかこつけて、探りを入れてみる事にしたらしい。

察するに極度の虫嫌いらしき犬山くんは、再び頭に手をやると気色悪げに身を震わせる。

 

 

「そんなデカい奴だったの……? 全然分かんなかった」

 

「体調でもおかしいのか? いつもならどんな小虫の羽音もすぐ察知して、金切り声で転げまわって逃げるだろ」

 

 

どんだけだよ。私が半眼になると、犬山くんは慌てて否定する。

 

 

「大げさに言うなよ! まぁお腹すいてぼーっとはしてたけどさぁ、給食何かなって……」

 

 

何気なくそう返す犬山くんに含むところは無さそうで、異常の自覚は無さそうだった。

 

……卵には直接的には触れられず、犬山くん自身への異変も今のところは無いと来た。

やっぱり現状私達には何も出来ん。私と髭擦くんは一瞬だけ顔を見合わせると、小さく頷きひとつ。ごく自然に犬山くんと距離を取るべく、適当な話題で茶を濁そうとして――。

 

 

「――楽しそうだね、犬山くん」

 

「!」

 

 

その時、犬山くんの背後から人影が差し込んだ。

髭擦くんとどっこいくらいの長身で、髭擦くんより十倍整った顔立ちをした男子生徒だ。

 

彼は私達から遠ざけるように犬山くんの手を引くと、じろりと睨むような視線だけを残してスタスタ歩き去っていく。

 

 

「うわっ、ちょ、百田待てって」

 

「さっき先生来るの見えたから、うちのクラスの所で待ってようよ。纏まってないと怒られそうだし」

 

「分かったから離せってば」

 

「今日ドッジボールって話だよ。一緒に外野いって駄弁っとかない? その方が良いよね? そうしようね」

 

「だから話を……」

 

「あとさ、あんまり他クラスの女子と絡むの良くないと思う。特にあんな目立つ子、犬山くんには似合わないと……」

 

「たーすけてー……!」

 

 

なんだあいつ。

騒がしく遠ざかる二人の姿にぱちくりと瞬いていると、髭擦くんがやけに重々しく口を開いた。

 

 

「……百田だ。見ての通り、犬山とはとても仲が良いんだが……ううん……」

 

「あんたも何でそんな渋い顔なの。同じクラスなのに置いてかれたのショックだった?」

 

「そ、そんな事は無いぞ。というか、気付かなかったのか……?」

 

「は? 何に――」

 

 

問いかける途中に気付き、勢いよく犬山くんへと視線を戻す。

……いや、正確にはその頭にある大きな卵に。

 

 

「――さっき百田が犬山の腕を引いた瞬間、卵が少しだけ大きくなった……」

 

 

だから怖い事言うなよ。

ガックリと呟く髭擦くんに、私はまたもや渋い顔をした。

 

 

 

 

 

 

「やっぱりそうだ。百田が犬山に近づく度、卵が大きくなってる」

 

 

四時限目、昼食、昼休み、午後の授業を通り抜け、迎えた放課後。

再び私を訪ねてきた髭擦くんが、困惑したようにそう言った。

 

 

「……や、意味分かんないけど」

 

「俺もそうだ。だけど見てる限りそんな感じなんだ」

 

「ちげーよまた私にわざわざ報告に来た事がだよ!」

 

 

何も出来る事無いしインク瓶に話してやるんだから私もういいだろ!

 

これ以上は深入りせんぞとすぐさま教室を飛び出せば、髭擦くんも私を追いかける。

そんな私達を見る他の生徒達の顔に、また変な噂になる事を察した。

 

 

「重ね重ねすまん! すまんのだがそれはそれとして! やっぱり話だけでも聞いてほしい!」

 

「ヤダ! 私は私を見てくるヤツから目を逸らさないって決めてるけど、見てこないヤツはなるべくほっとくんだ!」

 

「視界の隅で大きくなっていく卵って、膨らむ爆弾見てるみたいで怖いんだよ! せめて相談くらいはさせて貰えないか! 頼むから!」

 

「ぐ……」

 

 

そう頼まれてしまうと弱い。何せ私は、髭擦くんに一度助けられているのだ。

そんな彼から明確に助けを請われてしまえば、私の逃げ足は鈍らざるを得なかった。

 

 

「むぐぐ……わ、わかったよぉ。聞くだけ、話聞くだけだからなぁ……」

 

「あ、ありがとう……じゃあまぁ、帰りながら話すか」

 

 

私はそれはそれは嫌っそ~な顔をしたのだが、髭擦くんは気付きもしなかった。コイツほんと。

 

 

 

 

 

そうして一緒に下校する途中、髭擦くんは今日一日の心労を吐き出すように言葉を重ねた。

 

何でもあれから注意深く観察してみたのだが、やはり例の卵が膨張するタイミングは、百田くんが犬山くんに絡んだ時で間違いなかったのだそうだ。

 

休み時間に雑談している時。

一緒に給食を食べている時。

連れ立ってトイレに向かう時。

共に清掃している時。

 

その全てで少しずつ卵が大きくなっていったらしい。

そして最後に二人して帰っていく頃には、一回り以上もサイズアップ。いつ孵るのか不安で仕方がなかったそうだ。

 

 

「……や、まぁ、仲良しなんだなあいつら。トイレ一緒はちょっと重めな気もするけど……」

 

「やっぱり女子からでもそう思うんだな。どうも百田が犬山の事好きすぎるみたいでな、いつも絡んでるんだよ」

 

 

ふと、体育の時の百田くんを思い出す。

……なんとなく、ねっとりしたものを感じなくもない。

 

 

「聞いた話だと幼馴染で、幼稚園から今までずっと一緒なんだとさ」

 

「へぇ、本人から聞いたん?」

 

「百田がな、事あるごとに仲良しマウント取って来るんだ。昔いじめから助けてくれただの、自分が一番の親友だだの、犬山に関する事でほぼ全部……」

 

「えぇ……」

 

 

それは……親友だとしてもやっぱ重たいような。

髭擦くんも怪訝に思ってはいるらしく、互いにビミョーな顔をする。

 

 

「……それはそれとして、何で卵が大きくなるんだろ。他の人と話してる時にはそうならないんでしょ?」

 

「ああ、百田との時だけだな」

 

「ん~……?」

 

 

やはり意味が分からない。

いやオカルトに理屈を求める事自体が間違っているのかもしれないけど、不安にも似た気持ち悪さが渦を巻いた。

 

 

「うあー、胸ん中がキモい。やっぱ聞かなきゃよかった」

 

「俺は逆に少しだけ楽になった。一人だけで抱え込まないでいいって素敵だな……」

 

 

無理矢理聞かせに来といて何言っとんじゃい。

抗議の意を込め髭擦くんの背中をぺちぺち叩いて歩く内、やがて二股に別れた長い橋に辿り着く。

私は左、彼は右。それぞれがそれぞれの自宅に繋がる分岐点だ。

 

 

「さて、それじゃあここまでだな。話聞いてくれてありがとう、また明日も聞いてくれ」

 

「ヤなこった。……ヤだって言ったぞ! 言ったからな! 返事しろおい! おい!!」

 

 

そんなとっても友情溢れる別れを交わした後、髭擦くんは右の橋を駆けて行った。

 

……あれ絶対明日も相談に来るつもりだよな。やだぁ。

私は大きな溜息を吐き出しながら、ぐったりと一人左の橋を渡り――。

 

 

「…………」

 

 

その途中。ふと視界を掠めたものに、ぴたりと足を止めた。

 

……話は変わるが、今私が渡っているこの橋の両側には、転落防止用の柵が儲けられている。

いや、柵というか塀だ。私の胸ほどの高さに積まれたブロック塀の上に植え込みが敷かれており、間違っても川に落っこちないよう対策されているのだ。

 

それでいて流れる川の景色も楽しめるよう植え込みの高さを抑え、ある程度の視界が確保されているのだが――そうして見える景色の中に、見覚えのある変なのがあった。

 

川を挟んだ向こう側。少し離れた場所にかかる、今私が渡っているものと同種の橋。

その塀の植え込みから、ぴょこぴょこと白い何かが出たり入ったり上下する。

 

――それはとっても大きなあの卵。隣の橋を犬山くんが歩いているという証左である。

 

 

「――んッでだよぉぉぉ……!!」

 

 

喉の奥からそう搾り出し、しゃがみ込む。

おそらく通学路に重なる部分があり、たまたまかち合ったのだろうが、ほんとにタイミングが悪すぎる。

 

避けようとしてたじゃんか。

逃げようとしてたじゃんか。

なのに何で向こうから寄ってくるんだ。

 

……脳裏で髭擦くんが体質云々言ってた記憶が流れたが、忘れた。

 

 

(……ど、どうしよ)

 

 

植え込みから顔を出し、再びこっそり卵の様子を確認しながら呟く。

 

本音を言えばこのまま隠れ、卵の存在が見えなくなるまでやり過ごしたいところだった。

しかし犬山くんが渡る橋と私が渡るこの橋は、終着点が程近い。それはつまり私の家の方角に彼の自宅もある可能性が高く、重なっている通学路もそれなりにあるという事だ。

 

明日から確実に彼を避けるためにも、少しはその通学ルートを確かめておきたい気持ちもあった。

……でも。

 

 

(……リアルタイムでデカくなってんじゃん、アレ)

 

 

気を付けて見れば、遠目にだって分かった。

上下に揺れる卵が、むくむくと現在進行形で大きくなり続けているのである。

 

それは犬山くんの横に百田くんも居るという事で、彼らの後をつければ自動的に膨らみ続ける卵を見続ける事になる訳で。

今更ながら、これを爆弾と評した髭擦くんの恐怖がよく分かってしまった。素気無くしてごめんよ……。

 

 

「う、ぐぐ…………ち、ちくしょぉ……!」

 

 

私は暫く悩み、やがて渋々ながら足を進める。

今日のようにバッタリ会って嘆くより、明日からのために今少しだけ我慢した方がお利口さんである。

 

と、遠目から! 遠目からなら大丈夫だから!

私は必死にそう自分を鼓舞しつつ、隣橋からチラチラ見える卵の後を追ったのだった。

 

……やめときゃよかった。そう思ったのは、全部終わった後の話である。ちくしょう。

 

 



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「卵」の話(下)

 

 

 

二つの橋の終着点が程近いという事は、橋同士が途中から少しずつ接近していく事を意味している。

したがって橋を進むごとに、膨らみ続ける卵との距離も縮まる訳で、十分な距離を取っているといえど気が気でならなかった。

 

特に私は目だけでは無く耳も良い。

隣の橋で騒ぐ犬山くん達の声も微かに聞こえ始めており、自然と身体が硬くなる。

 

 

「――らさ、犬山くんももっと……休みも一緒に……、……」

 

 

そうしてまず聞こえたのは、興奮した様子の百田くんの声だった。

どうやら犬山くんに何某かを要求しているらしく、甘えたような声音になっている。

 

 

「……みたいなね? ダメかな。それならお金とかかけずに遊べると思うんだけど。そうしようよ」

 

「い、いやぁ……その、俺も連休ずっとお前と一緒っていうのはさ……ねぇ?」

 

 

漏れ聞こえる会話の流れを合わせると、百田くんが今後の休日全てを犬山くんと過ごしたいと提案し、それを断られたところらしい。

 

……やっぱ重すぎるよなぁ。

髭擦くん曰く虐められてた所を助けられたとは言っても、これはちょっと……。

そう犬山くんを気の毒に思っていると、百田くんの声音が一段ほど低くなる。

 

 

「なんで? 別にいいじゃない、幼馴染なんだから。ずっと一緒に居たって誰も文句言わないよ」

 

「……誰が文句とじゃなくて、俺が……えっと、息詰まるっていうか……」

 

 

見ている内、また卵が膨れる。

最早犬山くんの頭よりも数倍大きくなっていて、橋の塀から完全に出てしまっていた。

どこまで大きくなるんだ、あれ。

 

 

「大丈夫だよ、いつも一緒で楽しいんだ。ずっと一緒でも絶対楽しいよ。息詰まる事なんて無いって」

 

「……ははは……」

 

「じゃあそういう事で良いよね。これからは週末の朝も迎え行くから、楽しみだね」

 

「…………」

 

 

百田くんが話す度、どんどんと卵が膨れていく。

 

それでなんとなく察した。

あの卵、たぶん犬山くんのストレスに反応して大きくなってる。そうとしか思えなかった。

 

 

(……じゃあ、あの卵の中身って……)

 

 

犬山くんが溜め込んだ負の感情か、それともそれを糧としているオカルトか。

どちらにせよロクでも無いものが詰まっていそうで、知らずぶるりと身が震えた。

 

 

「あとさ、もう髭擦とかと絡むのやめなよ。あんないっつも白目剥いてるような奴と話してると、犬山くんまで変な風に見られちゃうよ」

 

「え~……それは言いすぎでしょ。普通に良い奴だよ、ヒゲの奴――」

 

「ほら、それ。あだ名で呼んだりしてさ、ちょっと変だよ。幼馴染の僕だって苗字呼びなのに。そう呼べって言われたの? 気持ち悪いね」

 

「……や~、そのさ~……、……はは……」

 

 

――ピキリ。

どこからか、乾いた音が聞こえた気がした。

 

 

「……?」

 

 

とても小さく、出所も分からないような、些細な音。

でもどうしてか、私はそれが気になった。

 

 

「それに彼、例の真っ白女と仲良さげだったじゃん。見た目はともかく性格アレって噂だし、そんなのと仲良しなんてよくない。よくないんだよ、やっぱり」

 

「……いや、あの子もノリよくて、そんな別に」

 

「もう騙されてるじゃん。そういうのが手なんだよああいう女って。ああいうのに虐められてたから分かるんだ、僕。髭擦と一緒で近づかないようにね、はい決まり」

 

 

ぶん殴ったろか。そう拳を強く握っている時にも、その音は続いている。

 

――ピキ、ピキリ。ピキピキ、ピキリ。

 

それは何かにヒビが入る音のようにも、捉え方によっては青筋が入る音のようにも聞こえる不穏なものだ。

 

一体どこから鳴っている。私は犬山くん達の様子を気にかけながらも、その音の正体を探り――

 

 

(……あ)

 

 

気付いた。

それは今まさに私が気にかけている場所――犬山くん達の居る場所から聞こえていて、

 

――ピキリ。一層大きなその音と共に、膨れ切った卵に一筋の亀裂が走った。

 

 

「大体さ、みんな犬山くんが優しいからって馴れ馴れしすぎだよね。いいように利用するために近づいてるんだよ。気を付けなきゃ」

 

「……そうかな。俺は、そんな感じしないけど」

 

「ほら優しい。そういうところ僕好きだよ。でもばら撒くのもよくないんだ。選ばないと、しっかり」

 

「……、……」

 

 

ピキピキ、ピキリ。

卵の亀裂はどんどんと広がって行き、やがて殻の欠片がポロポロと零れ落ちてくる。

 

――明らかに限界だ。

割れる。絶対もう少しでアレ割れる……!

私の血の気がさぁと引き、焦りのあまり無意味にキョロキョロ首を振る。

 

 

「どっ、どど、どうし……ッ!?」

 

 

橋はもうすぐ終着点。

今すぐ走って橋を降りれば、この先の展開を見る事なくここから離れられる。私は無関係のまま、逃げ切る事が出来るだろう。

 

……だが、それで良いのだろうか。

私には関係ない。それは確かで絶対だ。けど……このまま逃げたら、犬山くん達は――?

 

そんな疑問と罪悪感が、私の足を引き止めるのだ。

 

 

「……あの、さ。お前も色々あったし、俺にべったりなのも分かるけど……もうそろそろ、いいんじゃね?」

 

「何が?」

 

「だから……交友関係広げようっていうか、その……人の話とかもさ、ちゃんと聞いたりとか――」

 

「あはは、それ自虐ネタ? 面白いな、犬山くんは」

 

 

――ピキ、パキリ。

卵の亀裂がその表面全てを覆い、砕けた殻の粉を吹く。

 

少し振動を与えれば全て崩れてしまいそうな、あまりにも心許ないその光景に、私も釣られて動きが止まり――。

 

 

「大丈夫。すぐダメな人のところ行っちゃう君に代わって、関わっちゃいけない人、した方が良い事、全部これからもずっと僕が選んであげるからね。だからちゃんと人のお話、聞かなきゃダメだよ? まったくもう」

 

 

――パキン。

まるで、もう耐え切れないとでも言うかのように、卵が砕けた。

 

 

「あ、ちょ――」

 

 

白い欠片が宙を舞い、殻の中身を外気に晒す。

 

そうして殻の中から現れたのは、生物とはとても思えないような、極彩色の粘液に見えた。

一目で善くないものだと察せられるそれは、当然ながら真下にある筈の犬山くんの頭部へ降り落ちて、

 

――べちゃり。

 

 

「……………………」

 

 

沈黙。

私は橋の向こうへ手を伸ばした姿勢のまま、一歩も動く事が出来なかった。

 

……どうなった?

分からない。向こうの橋の様子は植え込みに遮られ、こっちからじゃ視認できない。

 

だが、卵の中身は視えた。

分かりやすい化物とかじゃなくって、何か、粘液で……黄身? 下に落ちた、よな?

 

それを頭からひっかぶったっぽい犬山くんは?

近くに居た筈の百田くんは……?

 

彼らの側から何も反応も無く、何が起こっているのかも分からない。

何だ、どうすれば良いんだ、これ。

私は激しく脈動する自分の鼓動を聞きながら、浅い呼吸を繰り返し――。

 

 

「……? あれ、どうしたの、犬山くん」

 

「ッ!!」

 

 

その時、向こうの橋から百田くんの声が流れた。

 

そこに混乱や恐怖の類は無く、極々自然体に聞こえる声色だ。

……何も、起こっていないのか?

私は煩い鼓動を抑え込みつつ、必死に耳を澄ませた。

 

 

「……いや、別に、何でも」

 

「そう? じゃあさっきの話だけど、犬山くんはもっと周りと距離置いて――」

 

「ああ、ごめん。俺ちょっとゴミ捨て場に寄ってくから、ここで待ってて」

 

 

そして犬山くんにもそうと分かる異常は起きていなさそうだ。

少なくとも、その声音は柔らかく穏やかなものだ。苦しんでいる様子も、無い。

 

 

「え? それなら僕も一緒に……」

 

「いやすぐ済むから。すぐ戻るから、すぐ、すぐ」

 

「あ……」

 

 

そう言い終えるや否や、誰かの走り去る音が聞こえた。犬山くんのものだろう。

そしてその少し後、悩んだ末に私も彼の後を追った。

 

この近くにあるゴミ捨て場は、橋を渡ったすぐ先に一つあるだけだ。

何をするつもりかは分からんが、犬山くんの行き先はまず間違いなくそこの筈。

 

本当はこのまま帰りたかった。帰ってシャワー浴びて寝たかった。

だがせめて犬山くんの状態だけでも確認しなければ、私はきっと気になって一睡もできないに違いない。

 

 

「何も起きてませんように、無事でありますように……!」

 

 

私はロクに信仰してない神に祈りつつ橋を渡り終え、程近くにある小路へと到着。

塀の影に隠れつつ、その先にあるゴミ捨て場を覗き込み――。

 

 

「――……」

 

 

息を呑んだ。

 

道の塀沿い。電柱横に設置された、ちゃちな作りのゴミ捨て場。

私の予想通り、こちらに背を向けた犬山くんが、そこに居た。

 

いや、正直なところ、私にはそれが本当に犬山くんかどうか自信が無かった。

 

何せ、彼の頭から胸元までが極彩色の粘液に――おそらく卵の黄身に覆い隠されていたのだから。

 

 

「……、……」

 

 

その異常な立ち姿に数瞬呆け、立ち竦む。

するとそんな私の気配を感じたのか、犬山くんらしき人物がゆっくりこちらを振り返った。

 

 

「……あれ? きみ、なんで……」

 

 

その声は確かに犬山くんのものだった。

 

変にくぐもってもおらず、異常を孕んでもいない、普段の声。

この状況においてはそれがとても気持ち悪く、一歩と少し足を引く。

 

 

「う、ん。偶然、だね、こんなとこで。帰り道、なんだ……」

 

「あ、そうなんだ。俺も家こっちなんだよね」

 

 

……必死に平静を装ったが、ちゃんと出来ていただろうか。

犬山くんの様子から判断しようとも、彼の表情が分からない以上はそれも難しい。

 

私は収縮を繰り返す瞳を必死にいなし、ウロウロと視線を彷徨わせ……。

 

………………………………、

 

 

「……ねぇ」

 

「え?」

 

「それ、どうすんの」

 

 

私が目を向けた先。

犬山くんの振る舞いが自然すぎて分からなかったが、彼の右手に妙なものが握られていた。

 

ゴミ袋に集るカラス避けネットの重し――コンクリートブロック。

間違いなく十キロ近くはあるだろうそれを、犬山くんは片手で持ち上げていた。

 

 

「ああ、これ? 蠅叩き」

 

「……は?」

 

「纏わり付いて鬱陶しい、でかい蠅がいてさ。これで、こう」

 

 

犬山くんは暢気にそう告げると、何の気なしにブロックを振った。

同時に彼の右腕からブチブチと音がして、そのままだらんと垂れ下がる。

 

重いブロックの急激な挙動に筋肉が耐え切れず、脱臼を起こしたのだ。

 

きっと、相当な激痛が走っている筈だ。

なのに犬山くんは悲鳴の一つも上げず、穏やかなまま。

 

 

「ぇ……」

 

「あれ、落っことしちゃった。よっと……」

 

 

犬山くんは暢気な声と共に、転がったブロックをまた右手で拾い上げようとする。

 

勿論上手くなんて行く訳がない。

更に筋が伸び、引っかけた爪が剥がれ、右腕がもっと酷い事になっていく。

 

私はただ、それを眺め続ける事しか出来なかった。

 

 

「…………」

 

 

この極彩色の黄身が、何かをしているのだろうか。

それとも、あの卵が割れた事にこそ原因があるのだろうか。

 

分からない。

私には何も分からない。けれど。

 

――このまま犬山くんを放っておけば、彼は彼が『蠅』と呼ぶ何かを叩いて殺す。

 

それだけは、分かった。

 

 

「……ねぇ」

 

「ん~?」

 

「あんたってさ、虫嫌いなんだよね?」

 

 

だから、私はそう聞いた。

 

 

「ああ、そうなんだよね。触るのは勿論、見るのも無理」

 

「そんなんで叩けんの、蠅」

 

「……あ~」

 

 

ぴたり。健が伸び切り、ボロボロになった右腕が止まる。

爪の剥げた指先から血が滴り落ち、地面に鉄臭い水玉を描いた。

 

 

「それに、もし叩けてもグチャッてなるじゃん。飛び散ったのとか、見ても平気? そんなデカいの」

 

「あぁ~……無理、無理、かも……?」

 

 

犬山くんの身体がぎしりと傾ぎ、流れる黄身の隙間からその瞳が垣間見える。

粘ついた極彩色に穢された、酷い色だ。

 

 

「じゃあやめといた方が良いんじゃない、叩くの」

 

「……そう、そうだね。そっ、か……でも、どうしようかな、蠅……」

 

「さぁ」

 

 

私は素っ気なく返すと、それきり口を閉じた。

対する犬山くんは、黄身の垂れる身体を揺らしながら、暫く困ったように細く唸り――。

 

 

「……あぁ」

 

 

やがて何を思い付いたのか、明るい声が聞こえた。

そして私に向き直ると、外れた右腕を僅かに揺らす。手を振った、のだろうか。

 

 

「俺、もう行くね。ありがと、ええっと……」

 

「名前嫌いだからタマでいいよ。じゃーね」

 

 

震えかける声音を悟られぬよう手早く話を打ち切り、塀に身を寄せ道を譲る。

犬山くんもそれ以上は話しかけてくる事も無く、血と極彩色の黄身とを垂らしながら去っていった。

 

 

「…………」

 

 

……………………。

 

………………………………、

 

……じっと。じっと小路の入り口を見つめ続ける。

犬山くんが戻って来る様子は無く、やがて足音も完全に消えた。

 

それを確認した私は、塀にぐったりともたれ――ズルズルと腰を下ろした。

下がゴミ捨て場だろうが、気にもならない。激しい動悸が身体の内側をただ揺らす。

 

 

「……きっつ」

 

 

少し後、小路の外から誰かの叫び声が聞こえた気がしたが、流石にこれ以上はもう知らん。

 

何をされたにしろ、叩き殺されるよりはマシでしょうよ。

私は大きく息を吐き、五分の魂の冥福を静かに祈ったのであった。

 

 

 

 

 

 

『文字通り、殻を破ったってところかもね』

 

 

翌日の朝。

登校途中にようやっと電話が繋がったインク瓶が、私の話にそう呟いた。

 

 

「……なにそれオヤジギャグ? クソつまんな」

 

『話を聞きたくないなら別に切ってもいいんだぞ。君については危険な状況ではないんだからね』

 

「ごめんて」

 

 

話題は勿論、昨日にあった卵の件だ。

 

何もかもが意味不明だったあの出来事。

あの後慌てふためき『親』に報告はしたものの、やはり何も動いてはくれなかった。

なのでインク瓶に頼ってみれば、何ともつまらん話を聞かされる始末。どうなってんだ。

 

しかし彼的には真面目に答えたつもりだったようで、その声音に苛立ちが混じった。

 

 

『殻を破るというのは、時間をかけて積み上げてきたものを壊すという事だ。話を聞く限り、その犬山くんとやらは凄く嫌な友達と長く一緒に居たらしいじゃないか。なら時間をかけて積み上げたものが沢山あった筈だ』

 

「……鬱憤とか、ストレスとか?」

 

『それもあるし、責任感や義務感といったものもあっただろうね。彼がその嫌な友達を虐めから助けたという話が本当なら、その後も面倒を見てやろうという気持ちは絶対に湧く』

 

 

……そういうものなんだろうか。

私も過去を振り返って考えてみるが、イマイチよく分からなかった。

 

 

『件の卵は、君の言うオカルトによってそれらが形になってしまったんじゃないか。そしてそれが割れ、中身が流れて様々なタガが外れてしまった。僕としては、そんな説を唱えてみるよ』

 

「それで、あんな風になるの?」

 

『僕は直接見てないから「あんな風」がどんな風かは知らないけど、少なくともそうなる土壌はあったんじゃない? 最初から大きかったんだろ、その卵』

 

「うん、まぁ……」

 

 

インク瓶の言葉に、昨日の犬山くんと百田くんのやり取りを思い出す。

確かに、あんな噛み合わない会話が何年も続いていたとしたら、溜め込むものもさぞかしあった事だろう。

なんというか、ほんと気の毒。

 

 

「……これからどうなるのかな、犬山くん」

 

『さぁね。その子が何をやらかしたかにもよるだろうけど……もしまた会えても、近づかない事を勧めるよ。たぶん、もう元には戻らないだろうから』

 

「…………」

 

『ああそれと一応言っておくけど、今までのはあくまで僕の推測だから――』

 

「これこそが真実なんだと決めつけるのはよしてくれ……だろ」

 

『ふふ、分かってるじゃないか』

 

 

インク瓶は微かに笑うと、「頑張りなよ、色々」とだけ残して通話を切った。

 

 

「頑張れ、ねぇ……」

 

 

私はスマホに映るインク瓶の番号を暫く眺め、やがて溜息と共にポケットにしまい込み――丁度その時、背後から声をかけられた。

振り向けばそこには髭擦くん。いつかと同じく、またかち合ったようだ。

 

そのまま自然と歩調を合わせ、同じ通学路を一緒に歩く。

 

 

「おはよう。偶々だな、タマだけに」

 

「つまんねーオヤジギャグ言うの流行ってんの?」

 

 

ともあれ。そうして話している内、私の疲れた顔に気付いたらしい。白目の中にこちらを案ずる色が混じった。

 

 

「寝不足か? なんかパッとしない顔だが」

 

「……こんなにも美少女な顔になんて事言うんだ。普通気遣うもんなんじゃないの。私美少女、あんた思春期男子」

 

「いや、俺の中だとお前のデフォルトって顔崩れてた時のアレだから、美少女だ何だと言われても正直しっくりこな――ぐォッ」

 

「美少女キック!!!」

 

 

思い切り髭擦くんの尻を蹴っ飛ばし、歩調を速めて置いて行く。ダメだコイツは。

 

すぐに後ろから謝罪の言葉が飛んで来るが、それも無視。

プンスコプンスコ蒸気を上げつつ、さっさと学校への道を行き――。

 

 

「――お、タマさんじゃん。おっすー」

 

 

――突然横合いからかけられたその声に、思わず足を止めていた。

 

 

「いやすまん! 今のは流石にデリカシーが無かった! 悪かっ――あれ、犬山?」

 

「あ、ヒゲも居たんだ。ほんとに仲いいんだな」

 

 

そう――そこに居たのは、紛う事なき犬山くんだった。

 

頭から被っていた極彩色の黄身は完全に消えており、ごく普通の風体をしていた。

やはり昨日の怪我が酷かったのか右腕を三角巾で釣ってはいたが、それ以外は昨日の彼と同じに見えた。

 

外見は勿論、その地味な雰囲気も、安心するような笑顔も、優しい性格も。

何も、何も『異常』は無かった。

 

……ただ、一箇所を除いては。

 

 

「あ、あれ……お前、卵どうし……じゃない! それよりどうしたんだその腕!?」

 

「ちょっとな。自分では全然平気のつもりだったんだけど、なんか結構ダメだったみたい、はは」

 

「笑ってる場合じゃないだろ……。というか学校に来てよかったの、か――……、……」

 

 

途中で髭擦くんの言葉が止まる。どうやら彼も気付いたようだ。

 

――犬山くんの瞳。黒かった筈のそれに極彩色が溶け合い、おぞましい光を湛えていた。

 

 

「……え、お前、それ……、っ?」

 

 

問いかけようとした髭擦くんの服裾を抓み、小さく首を振る。

 

言葉はなくとも、それで何某かを察してくれたらしい。

髭擦くんは少しの間言い淀み、すぐ取り繕うように話題を変えた。

 

 

「あー、その……そういえば百田はどうした? 確か朝も一緒なんだろ?」

 

「…………」

 

 

犬山くんは答えなかった。

ニコニコと朗らかな笑みを浮かべたまま、何も言わない。

 

 

「……? 犬山?」

 

「ん? なに?」

 

「いや、だから、百田は……」

 

「…………」

 

 

やはり、答えない。

それは敢えてそうしているというより、その質問自体を認識できていないようにも見えた。

 

明らかにおかしいその様子に、怪訝に眉を顰めた髭擦くんが更に問い重ね――それより先に、私の声が滑り込む。

 

 

「――蠅、どうしたの?」

 

「飛ばなくした」

 

 

すぐに、そう一言だけ返った。

 

それがどういう意味かは分からない。詳しく聞く気も無い。

ただ、もう元には戻らないというインク瓶の言葉が胸をよぎり、目を伏せる。

 

 

「あ、そうだ俺ゆっくりしてる暇ないんだった。早めに行って、先生に怪我の事話して来ないと」

 

「は、え? お、おい、ちょっと」

 

「タマさん、昨日はありがとね。おかげで嫌なもん見ずに済んだよ。それじゃお先~」

 

 

犬山くんは極彩色の瞳で朗らかに笑い、困惑する髭擦くんを置いて走り去る。

 

――それは本当に何一つの陰りもない、心の底から沸き上がるような笑顔だった。

 

 

 

……反対に二人残された私達と言えば、互いに無言。

その何とも言えない空気の中で、ただただ静かな時が過ぎ、

 

 

「……昨日、何があったんだ」

 

 

ぽつり。

犬山くんの去って行った方角を眺めながら、髭擦くんは絞り出すようにそう呟いた。至極真っ当な疑問である。

 

とはいえ、なんと説明したものか。

私は小さく唸って少しの間悩み――しかし言葉を纏める前に、髭擦くんが言葉を続けた。

 

 

「正直、問い詰めたいところではある。だがそれよりも、もっと気になる事がある」

 

「……なによ」

 

 

とりあえず先を促せば、髭擦くんは青い顔をして私を見る。

そして、一言。

 

 

「――俺、これからアレと一緒の教室で過ごすのか……?」

 

 

……昨日、まだ犬山くんの頭に卵が乗っていた時にも聞いた、その言葉。

だけどそれに籠った感情は、昨日のそれの比ではなく。

 

 

「…………」

 

「…………」

 

「髭擦くん」

 

「ああ」

 

「頑張りなよ、色々」

 

「……………………………………」

 

 

さっき貰った激励をそっくりそのまま差し上げれば、髭擦くんはガックリと膝をつき、動かなくなった。

 

やっぱり哀れに思ったのでこの美少女が励ましてやろうと思ったけれど、私は彼にとって美少女ではないそうなので、残念ながら励ませなかった。

あーかわいそ。

 

 




主人公:髭擦くんに「パッとしない顔」と言われた時、正直ちょっと嬉しかったようだ。
髭擦くん:気の休まらない学校生活には三日で慣れて全く気にならなくなったようだ。
犬山くん:解放感の中に居る。もう戻る事は無い。


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「 」の話

『平素より大変お世話になっております。

 皆様方の長年に渡るご協力により、私どもが加わるまであと一歩となりました。

 歩んで来た道は遠く、そして険しく、膝を折りそうになった事は一度や二度ではございません。

 ですが、ようやくここまで辿り着く事が出来ました。

 全ては皆様方あっての事でございます。本当に、本当に、心よりの感謝を。

 

 ・・・ 67 』

 

 

朝の登校途中。

気まぐれに通った道の塀に、そんな張り紙がしてあった。

 

 

「…………」

 

 

足を止め、眺めてみる。

 

それはやたらと古びた和紙で作られており、紙の真ん中にはこれまた古びた書体のひらがなが一文字だけ大きく書き記されていた。

先の文章はその下部に並べられており、それ以外の情報は無い。何もかもが要領を得ない、正真正銘の怪文書である。

 

どこぞの新興宗教のビラとかそんな感じだろうか。

若干おもしろく思ったけど、それ以上の感情は無く。なんとなくスマホのカメラでパシャリとやって、それきりその場を後にした。

 

……67って、何の数字なんだろう?

ふと疑問に思ったものの、数秒も経たず、忘れた。

 

 

 

 

 

 

 

「はーい、じゃあプリント配りまーす。ニ十分で回収な」

 

「げっ……」

 

 

三時限目、社会の授業。

教科担当である陰気な雰囲気の教師はそう言うと、束になったプリントを私達に配布した。

 

中身は四月中に行った授業の小問題集だ。

真面目に授業を受けていれば問題なく満点を取れるもの……との受け売りではあるが、私にとっては難問もいいところだ。

周りがサクサク解いている雰囲気を肌で感じつつ、私は頭を抱えてウンウン唸る。くそぅ。

 

 

(……タマ吉~、答え教えてあげよっか~?)

 

 

すると、右後方の席からそんな呟きがぼそりと聞こえた。

軽く首を傾げて見てみれば、ニヤニヤと笑みを浮かべる足フェチと目が合った。

コイツは私の足の速さだけではなく耳の良さも知っているため、時々授業中に囁き声での内緒話を持ちかけてくるのである。こっちから返事する方法ないっつーのに。

 

 

(どうせ半分くらい分かんないんでしょ? プリント逆さまにしてそっちから見えるようにしとくから、盗み見ていいよん)

 

 

ヤダよ、どうせその代わり足触らせろとか言うんだろ。

簡単に予想できる事なので、不自然にならない程度に首を振って拒否の意を示す。何で私はこんな変態よりバカなんだろうな。世の中どっかおかしいよ。

 

 

(まま、そう頑なにならんでさ~。ほんのひと撫で程度で済ませるからさ~)

 

 

ほらみろ。

今度は少し強めに首を振るが、それでも懲りないへこたれない。諦め悪く囁きは続く。

 

 

(ね~ね~、この問16とかちょい難しいよ~? タマ吉じゃ絶対解けな……あっ、そもそも問題文読める??)

 

 

ぶん殴るぞ。

答えはまぁともかくとしても、問題文が読めねー訳ねーだろがい。日本語だぞ日本語。

私は額にピキピキ青筋を立てつつ、その問16の問題文とやらにさっと目をやり……。

 

 

「……、……、……」

 

 

読めなかった。嘘やん。

 

いや違う、違うのだ。問題文はほぼ全部読めたし、意味も把握できたのだ。

ただ、とあるひらがな一文字――何故かそこだけ手書きだった――の読み方をド忘れしてしまい、ちょっと詰まっただけなのだ。ほんとそれだけ。文自体は読めたから。答えはまぁ、その、ともかくね!

 

 

(……え、嘘でしょ。タマ吉……?)

 

 

するとそんな私の様子に何かを察したのか、足フェチの引いたような声が聞こえた。

 

だから違うって言ってんだろ!!

流石に彼女に引かれるのはあまりにも耐えがたく、私は反射的に振り向いて、

 

 

「こらそこ、カンニングはやめ……ああ、お前か……いやでもな……あー……」

 

 

それを見咎めた陰気な教師が何故かカンニングを認める気配を醸し出し、私は思わず机に額を打ちつけたのであった。

そこまでか……お前らの頭の中の私は、そこまでだと思われてるのか……。

 

 

 

 

 

 

『平素より大変お世話になっております。

 皆様方の長年に渡るご協力により、私どもが加わるまであと一歩となりました。

 そう、あと僅か。あと僅かで、私どもは共に在れるのでございます。

 音と結びつき、知の深くへとこの根を伸ばす。

 私どもは、その尊き日を待ちわびております。心待ちにしているのです。

 

 ・・・ 49 』

 

 

 

 

「……んー?」

 

 

違うなぁ、何か。

 

翌日。昨日と同じ通学路を通ったところ、その張り紙はまだあった。

張られている位置も、ボロボロの紙質もそのまんま。

やはり古びた怪文書――しかし、その文面が微妙に変わっている……ような気がしなくもなかった。

 

紙の真ん中にデカデカと書かれたひらがな一字はそのままに、下部にある文章と謎の数字がちょっと違うように思うのだ。うろ覚えで自信無いけど。

 

そんな違和感に暫し首を傾げていると、そういえば昨日この張り紙の写真を撮っていたなと思い出す。

そうして、スマホを取り出し見比べてみたのだが――。

 

 

「あれ、合ってる……?」

 

 

画像の張り紙と目の前にある張り紙。その内容に差異は無かった。

何度も確認するけれど、文章も、書かれている数字も、昨日と今日とで変わりなし。私の勘違いで確定だった。

……本当に?

 

 

「んんー……」

 

 

何か、色々納得いかないなぁ。

 

そうは思えど、だからといって何がどうなる訳でも無し。

とりあえず今日もスマホでパシャリとやってから、私はモヤモヤ感と共に学校へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

『すまん、ちょっといいだろうか』

 

 

給食を終え、昼休みの教室。

ぽかぽか陽気とお腹いっぱいの合わせ技に気持ちよくなってウトウトしていたら、髭擦くんからそんなメッセージが飛んで来た。

 

メッセージでの彼は基本的に雑談の類はせず、用件が出来た時にだけ端的に送って来るつまんないタイプである。

だが確実に用があると分かっている以上はスルーするのも気が引け、仕方なしに寝ぼけ眼を擦って『なによ』とだけ打ち込んだ。

 

 

『いや、大した事じゃないんだが、これ、読めるか?』

 

「うんー……?」

 

 

そうして送られてきたのは、紙に書かれたとあるひらがな一文字の画像だった。

 

それは朝にも見た、例の張り紙の中心に書かれていた一文字だ。

……そして昨日の社会の時間に読み損なった一文字でもあり、私の眉間がキュッとする。

 

 

『さてはあんた、足フェチにでも何か聞いたな?』

 

『何の話だ? これ読めるのか?』

 

『読めらぁんな! 昨日ばちぃっと調子悪かっただけだで、あんま馬鹿にすんでねーだど!!』

 

『意味分からんし、どこの生まれなんだお前は。でもそうか、読めるのか』

 

 

返って来たその一文には、どこか戸惑いのようなものが感じられた気がした。

私もだいぶ眠かったので、ただの気のせいかもしれなかったけど。

 

 

『で、それが何? そのひらがながどしたん』

 

『本当に大した事じゃないんだよ。ただ一瞬、何か分からなくなって』

 

『は?』

 

『いや、何でもない。変な事聞いて悪かったな』

 

 

それを最後に彼のメッセージは途切れ、私が幾らメッセージを連打しても返事は無かった。

こういうとこだよな、この男の悪いとこ。

 

 

「……読めるか、ねぇ」

 

 

呟きつつ、もう一度彼が送って来たひらがなの画像を開く。

いや、こんなの幼稚園児ですら読めるだろ。これの何が気になってるんだ。

私は大きなあくびを零しながら、そのままぼんやり画像を眺めた。

 

 

「うん?」

 

 

ふと首を傾げる。

 

……髭擦くん、何でわざわざ紙に書いて送って来たんだ?

普通にメッセージに打ち込んで送ってくればいいのに、わざわざ写真に撮って添付してくるなんて二度手間じゃないか。

 

私は胡乱に思いながら、試しにそのひらがなをメッセージに打ち込んで、

 

 

「……………………」

 

 

どう……打ち込むんだっけ。

 

画面上のキーボードを隅から隅まで探しても、そのひらがなを入力できるキーが無い。

ローマ字は勿論、直接入力や音声入力でもまた同様。何をどうしても、その一文字だけが入らない……。

 

――『ただ一瞬、何か分からなくなって』

 

 

「――……」

 

 

髭擦くんのメッセージが脳裏をよぎる。

 

先程まであった心地のいい睡魔は既に無い。

それから昼休みが終わるまで、私の指が動く事は無かった。

 

 

 

 

 

 

『平素より大変お世話になっております。

 皆様方の長年に渡るご協力により、私どもが加わるまであと一歩となりました。

 そう、再び加わる事が出来るのです。私どもは、許されるのでございます。

 ありがとうございます。

  ありがとうございます。

   ありがとうございます。

 

 ・・・ 15 』

 

 

「……やっぱ、変わってるよね」

 

 

また次の朝の通学路。

例の張り紙を確認した私は、昨日抱いた違和感が勘違いでなかった事を確信した。

 

文面も謎の数字も全部違う。もう絶対に間違いない。

私はすぐにスマホを取り出し、昨日の写真と見比べ――思わず目を見開いた。

 

 

「あ、あれぇ……?」

 

 

同じだった。

画像の中の張り紙と、目の前の張り紙。二つの文面は全く同じもので、違いなんて一つも無かったのだ。

 

そんな馬鹿な。昨日は最後のありがとう三行なんて無かったし、数字も49だった筈だろう。今度はちゃんと覚えてるんだぞ。

 

なのにこんな、まるで張り紙が変わるのと一緒に画像も書き換わってるみたいじゃ――。

 

 

「っ」

 

 

オカルトだ。

困惑の最中、瞬間的にそう悟った私はすぐにその写真をスマホから消し、速足でその場を後にする。

 

内容変わるとスマホの画像データまで変えてくる張り紙なんて、どう考えてもまともな存在じゃない。

迂闊にも気付かないまま関わってしまった事に舌打ちを鳴らし、道の角へと身を滑り込ませた。

 

 

「…………」

 

 

……その間際、ほんの一瞬だけ張り紙へと振り返る。

時間にして一秒未満。私はすぐに向き直り、そのまま走って逃げ去った。

 

――張り紙の中心に大きく記された、たった一文字のひらがな。

 

昨日。昨日からだ。

どうしてか、それが無性に気になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

学校についてからスマホを色々調べてみたが、幸いにも異常の類は無さそうだった。

 

あの妙な張り紙の画像を保存してしまっていたのだ。

何かしら悪影響が残るのではないかと不安だったけど、これといった問題は見つからず。

画像データもどこかに残っているという事も無さそうで、少なくとも今は大丈夫っぽい。ほっと安堵の息を吐いた。

 

 

「…………」

 

 

ホームルーム前の教室はまだ人もまばらで、どこか落ち着いた空気があった。

足フェチも陸上部の朝練でまだ来ておらず、雑談する程度に仲良いヤツらもまだ来ていない。スマホは……さっき散々弄り回したし、暫くいいやとしまっておく。

 

……で、そんな手持ち無沙汰な時間が続くと、チラチラ意識を向けてしまうものがある。

 

黒板の隅。

掲示板に貼られたプリントの一部。

クラスメイト同士の会話。

 

文字や会話の違いはあれど、それらの端々にちょいちょいあの一文字が混ざるのだ。

 

あの張り紙にもデカデカと書いてあった、あのひらがな――。

朝の一件でだいぶ過敏になっているのか、やたらめったら気になってしまう。

 

 

「……意外と使ってんな、あれ」

 

 

そうして改めて気にしてみると、意外とその使用頻度が高い事に気が付いた。

 

まぁ日本語のメインとも言えるひらがなの一つだし当然と言えば当然だけど、なんせスマホで出ない程に影の薄い一字でもある。

日常生活で使う機会なんて、ほぼ無いんじゃないかと思ったのだが……。

 

 

「……?」

 

 

……何か。何か、思考に違和感があった。

それは昨日、髭擦くんとのメッセージのやり取りで感じたものとよく似ていた。

 

 

「…………」

 

 

黒板の隅、日直当番の氏名が書かれた場所を見る。

そこにはクラスメイトの男女一名ずつの名前と出席番号が書かれており、それぞれの下にそのひらがなが付け加えられている。

 

まぁごく普通の表記だ。おかしく思うところは無い。

 

 

「………………」

 

 

次に掲示板に目を向ける。

時間割をはじめ、今秋頭に配布された様々なお知らせプリントが雑多に掲示されており、所々に手書きでそのひらがなが混じっている。

 

……別に普通だ。どこもおかしくはない。

 

 

「……………………」

 

 

クラスメイト同士の会話。

やれアイドルの話だの、やれ漫画の話だの。それぞれが楽しそうに談笑していた。

 

そしてそれらに耳を澄ませると、誰もがあのひらがなを使っている。

自然に、何一つの疑問も無く、ありふれたひらがなの一つとして、普通に……。

 

 

「………………………………、」

 

 

スマホを取り出し、メッセージに再びそのひらがなを打ち込もうと試みる。

……だが、やっぱり出来ない。出来ないのだ、どうしても、何をしても。

 

 

「何で……なんでだ……?」

 

 

こんなにもあちこちで見かけているのに。

こんなにも普通に使われているのに。

 

なのにどうして、スマホだけ――。

 

 

「――ッ!」

 

 

――違う。書かれてるの、全部手書きだ。

 

それに気付いた瞬間、私は弾かれるように教科書を取り出した。

手作りの時間割や掲示物じゃなく、手書き部分の無いちゃんとした印刷物。

国語、数学、理科、社会。その他あるだけ目を通す。

 

 

「……無い……無い、無い……無い……無い、無い、無い」

 

 

するとそのどれもに、そのひらがなは記載されていなかった。

全ての教科、全ての文章、どこを探しても見つからない。

 

そう――国語、漢字教材の巻末にある、五十音表にさえも、それは、無く、て、

 

 

「――ぁえ?」

 

 

その瞬間、私は『分からなくなった』。

 

どう読んでいたのか。どう発音していたのか。

どう書いていたのか。どう使っていたのか。

 

読めなくなった。言えなくなった。

書けなくなった。使えなくなった――。

 

――知らぬ内、私の認知に異物が混じっていた事を自覚した。

 

 

「ひ」

 

 

そうして全てが理解できなくなった途端、クラスメイトの会話に異音が混じり始めた。

いや、きっと正しく認識できるようになっただけなのだろう。

 

彼らが『それ』を発音する度、その喉から異常に低い濁音が零れ落ちる。

意味あるものとは到底思えず、ただの不気味な鳴き声としか思えない。私は堪らず席を立ち、そのまま教室から飛び出した。

 

 

「く、くそっ、何だこれ……何なんだこれッ!?」

 

 

校内で目にする文章の多くには『それ』があり、すれ違う人々からは絶えず濁音が飛び出している。

私の知らない『それ』が言葉として、何食わぬ顔で日常に混じっているのだ。

 

私も同じ状態だったのか?

何故こんな異常な状況に今まで全く気づけなかった?

 

込み上げる怖気に総毛立ちながら、とにかく学校の外に出る。こんな場所になんてもう一秒も居たく無かった。

 

 

「い、インク瓶――」

 

 

懐から小瓶とメモを取り出しかけ、手が止まる。

 

……もし、よりにもよって彼の口や文章から『それ』が飛び出しでもしたら。

頼るべきアイツが、そうでなくなってしまっていたら。例え悪い想像だとしても、考えるだけで躊躇した。

 

なら、どうする、どうしたらいい。迷っていたのはたったの数秒。

 

 

「――ああああもうッ!!」

 

 

私は自分を鼓舞するように叫ぶと、学校の校門を飛び出しひた走る。

 

何が起きているかは分かっていない。でも、何が原因かは完全に察していた。

――向かう先は朝に通った通学路。言うまでも無く、あの張り紙がある場所だった。

 

 

 

 

 

 

『平素より大変お世話になっております。

 皆様方の長年に渡るご協力により、私どもが加わるまでもう間もなくとなりました。

 心より、心より御礼申し上げます。

 そして、今後ともどうかよろしくお願いいたします。

 私どもをどうか。

  どうか。

    どうか。

 どうか。

 

 

 ・・・ 4 』

 

 

件の張り紙の文章は、またも大きく変わっていた。

しかし必死になって転げるようにそこへ辿り着いた私は、その文章をまともに読む事なく張り紙へと飛び付いた。

 

確かな根拠なんて無い。だけど絶対にこれだ。

こんなものがあるから、皆おかしくなっている――。

 

私は張り紙の中心に目立っている『それ』を睨みつけ――思いっ切り破り剥がそうとした。

 

 

「――ぐ、く……っ!?」

 

 

けれど、張り紙はビクともしなかった。

触れれば崩れそうな程にボロボロの紙質だというのに、私の膂力でも千切るどころか破れもしない。

 

両手を使っても、全体重をかけようとも。張り紙は塀にぴったりと張り付いたまま、どうする事も出来ず。

 

 

「……ねぇ、何してるんだろ、あの子」

 

「!」

 

 

そうこうする内、背後から話し声が聞こえた。

反射的に振り向けば、大学生くらいの女性二人がこちらに歩いて来るのが見える。その会話に低い濁音は無く、まだ『それ』に侵されていない事が窺えた。

 

普段であれば気恥ずかしさに大人しくなるところだが、残念ながら今の私にそんな余裕はない。

クスクスと笑われる気配を感じながらも、私は張り紙を剥がそうと奮闘し、

 

 

『・・・ 2 』

 

「っ、はぁ!?」

 

 

突如として張り紙に書かれている数字が変動し、声を上げた。

一体何が起きた。私は数瞬の間呆け――先程の女性達の会話に濁音が混じるようになったのが聞こえ、ゾッとした。

 

 

「こっ……見たヤツの、カウント……!?」

 

 

この張り紙を見たヤツは、皆『それ』を植え付けられるのか?

というかこの張り紙、普通の人にも見えるの?

いやそれより、この数字が0になった時に何が起こる――?

 

幾つもの疑問が通り過ぎ、その殆どに答えが無い。

ハッキリしているのは、ただ一つだけ。

 

 

『――私どもが加わるまでもう間もなくとなりました』

 

 

――ダメだ。

酷い嫌悪感と共に、そうとだけ思った。

 

 

「くそ、えっと、えっと……!」

 

 

このままではらちが明かない。

力尽くでは無理だと悟った私は一度張り紙から離れ、何か術が無いかと辺りを見回した。

 

けれど当然、ただの小路に何がある筈も無い。

長く続くアスファルト道と塀があり、それ以外は電柱と川、そして小さな橋があるだけだ。

解決策に繋がるようなものは見つからない。

 

そしてそうしている内にまた人が過ぎ、私に釣られ張り紙を見て数字を1にしてしまう。

咄嗟に身体で隠しても無駄だった。今更ながら目立つ私が張り紙の傍に居ちゃダメだったと気付いたけど、もう手遅れだ。

 

 

「っぐ……!!」

 

 

最早迷っている暇は無い。

私は恐怖心を振り切り、小瓶を取り出し――その中身をメモにぶちまけるより先に、また通行人がこちらにやって来るのが見えた。

 

 

「なっ、ちょ……!」

 

 

慌てて張り紙から離れるけど、何かの拍子にそちらを向かれたらアウトだ。

すると張り紙の文面が見ている最中に変化し、『それ』と数字を残して全て消えた。

 

 

『 1 』

 

 

先程まであった丁寧さが嘘のように無機質。私はそこに、その本性を垣間見た。

 

 

「――――」

 

 

終わりだ。

逃げる時間も、術も、インク瓶に相談している暇すらも無い。

 

動悸が酷い。呼吸が浅くなり、瞳が収縮を繰り返す。

恐怖し、焦り。そして悪足掻きとして、握る小瓶を張り紙目掛けぶん投げて――

 

 

「っ!!」

 

 

瞬間。考えが浮かび、腕を止めた。

 

何かを思うより早く身体が動く。

私は張り紙へと縋りつき、小瓶の蓋を開け――黒インクに浸した指先をその紙上へと滑らせた。

 

 

「こ、のっ……!」

 

 

『 1 』と書かれたその右横に、掠れた円が幾つも並ぶ。

インクが黒い火花のように不自然に跳ね飛ぶけど、いちいち構っていられない。

私の白い髪が斑に染まるのも無視して、余白全て、張り紙の右下隅に至るまで、一心不乱にインクを引きずり続けた。

 

 

『10000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000』

 

 

一体、幾つ0を書き連ねた事だろう。自分でも桁が分からない。

 

インクは未だ火花を上げて、微細に揺れて蠢いている。

まるで虫の集合体のような光景に怖気が走り、最後まで書き終えるや否や堪らず跳ね飛び距離を取った。

 

やがてやって来た通行人が、そんな私を不思議そうな目で眺め――次に、吸い寄せられるように張り紙を見、て、

 

 

『9999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999』

 

 

――そして数字がそう変わった事を確認した瞬間、私は深く息を吐き出した。

 

 

「……は、はは、は」

 

 

力が抜け、反対側の塀を背にずるずるとへたり込む。

 

張り紙の数字に書き加え、カウントを滅茶苦茶に増やして妨害する――。

苦し紛れも良いところだったが、結果は成と出たらしい。

 

……というか、ここまで書いたら時間稼ぎどころかカウント達成自体が不可能になったんじゃなかろうか。

たぶん地球上の人間全部合わせても無理だよな、これ……と、グダグダ考えてる場合でなく。

 

 

「い、今のうち……」

 

 

今度こそインク瓶に連絡すべく小瓶を掲げたが、小指の先くらいしか残っていない。連絡用として使うには心許なく見えた。

 

でも電話かけても出ない時多いんだよな、あいつ……。

さっき散々インク使ったし、この張り紙で成立しないかな。私はスマホを取り出しつつも、また張り紙に目を向けて、

 

――轟音。

 

 

「ッ!?」

 

 

雷のような大きな音が耳を劈き、張り紙が内側から盛り上がる。

紙の裏側。塀の方から何かの拳が叩き付けられているように。

 

 

「……、……」

 

 

何度も、何度も。

何度も、何度も。

 

轟音は繰り返され、張り紙に記されている『それ』を裏から膨らませていく。

 

……私はそれに、嘆きのようなものを感じた。そして間もなく、それが殺意に変わるだろう事も。

私は必死に息を殺し、その場を離れた。

 

音は続く。

完全に離脱し、遠く離れた場所に逃げ切っても。それは止む事無く、どこまでも響き続けていた。

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 

翌日。

件の小路には、もう張り紙の姿は無かった。

 

あれほど強固に貼られていたボロ紙の接着痕も、剥がされた痕跡も見当たらない。

この塀に昨日まで何かが貼られていたなど、言われても気付けないだろう。

 

……ただ、一つだけ。

張り紙があった場所の塀に、少しの文章が残されていた。

 

 

『(読めない)、心無い愚か者の妨害により、私どもが加わる事が不可能となりました。

 皆様方のご協力を無意味なものとしてしまい、本当に申し訳りあまんせ。

 全ては、愚か者どもの(読めない) であござま いす。

 申し訳あまりせ ん。

 (読めない)      申し訳あり

まんせ。

  どうか。お許しください。

 お許くしだいさ。

お許くだし     なさい。

        さない   い 』

 

 

最後の文字は結ばれず、下方に引きずられるように伸びていた。

それは塀と地面の僅かな隙間に伸びているようにも見えたけど、覗き込むような事はしない。

私はそれきりそこを見る事も無く、淡々と歩き去る。

 

――その時、後ろから低い濁音が聞こえたような気がしたけれど。

気のせいだって、無視をした。

 

 

 

 

 

『ああいうインクの使い方、なるべくしないでね……』

 

 

あれから暫く経った後、ようやく連絡の取れたインク瓶は疲れた声でそう言った。

 

事の詳しい説明は無かった。

私も流石に怪訝に思ったけど、「もう問題ないから」と言い張るだけで、結局最後まで何も話してはくれなかったのだ。

 

正直、何もかも意味は分からなかったし、モヤモヤもだいぶ残っている。

 

あの張り紙は何だったのか。書き記されていた『それ』とは、加わるとは何の事だったのか。

気になるだろ? と問われれば、私は首を縦に振るだろう。

 

……だが一方で、聞きたいか? と問われれば首を横に振ってしまうのも確かな訳で。

 

だからまぁ、いい。

少なくとも、インク瓶の言葉に低い濁音は混じっていなかった。それでよし。

その安堵をもって、今回はおしまいとする事にしたのである。

 

 

 

「おはよ~タマ吉~。……ありゃ、勉強なんて珍しいじゃん」

 

「はよ。そんなんじゃないよ、暇潰し」

 

 

ともあれ、そうして戻った日常の中。

朝のホームルームを待つ間、私は漢字の問題集を開いていた。

 

といっても漢字の書き取りとかをしている訳ではなく、巻末の五十音表を眺めているだけだ。

当然ながら、その中に変な物は無い。

今となっては何かもう見ているだけで心が和むね……。

 

 

「ちゃんとしたひらがなって癒されるんだなー……今まで知らんかったよ……」

 

「そうね~、『あ』と『し』とか超良いよね~」

 

 

コイツほんと。

私は勝手に話に乗って来た足フェチの尻をぺちっとはたき……一方で彼女の言葉にも低い濁音が混じっていない事を確認する。

 

もう作られてしまっている時間割や掲示物はともかくとして、人々の会話などの中からは『それ』が消えている事は確認していたが、イマイチ実感はなかった。

 

しかし足フェチを相手にしてようやっとインク瓶の言葉を実感できた気がして、知らず止めていた息をつく。

これなら、時間割なども次の張替えの時には元に戻っているだろう。たぶん。

 

 

「で、何で突然ひらがな? かるたでも始めたん?」

 

「まさか。最近ちょっと……自分がひらがなだと勘違いしてる精神異常線見ちゃってさ、そのダメージが……」

 

「いやどんな……?」

 

 

首を傾げる足フェチを横目に、私は並ぶ五十音を一つ一つ指でなぞる。

 

『あ』から『ん』。そしてその次の、最後の一文字。

私は見慣れたそれらに最早心地よさすら感じ、小さく笑みを零したのだった。

 

 

「――うん。ちゃんと全部、分かるや」

 

 

 




主人公:好きなひらがなは「あ」と「か」と「ね」。嫌いなひらがなは「こ」と「と」。
足フェチ:好きなひらがなは「あ」と「し」。嫌いなひらがなは考えた事ない。


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「受信」の話

 

そろそろ五月。

少し前までは雨のように降り頻っていた桜吹雪も既に止み、木々もその殆ど全てが青々とした葉をつけていた。

 

桜の花も長い事咲いていたけど、流石に四月いっぱいまでもたなかったか。

文字通り華やかさの減った並木道に、ちょっぴり寂しさを感じてしまう。

 

 

「こっちはまーだ賑やかなんだがなー……」

 

 

上から下に目線を下ろし、道の端に積もる花弁の山を蹴り散らしてみる。

黄ばんだ白が舞い上がり、そのまますぐに地面に落ちた。雨風に晒されていたせいか、そこに桜吹雪だった頃の柔らかさは残っていなかった。

 

桜って綺麗だけど、こういうのの後処理とかが大変だよな。

まぁこれもこれで風情があるとは思うけど。詫び寂ってヤツかね、知らんけど。

 

 

「んあー……何しよっかなー……」

 

 

引き続き花弁の山をばっさばっさとやりながら、今後の予定を考える。

 

本日は四月最後の日曜日。

クソほど暇だった私は、あの空気の悪い家を飛び出し、目的も無く適当に街をブラついていた。

 

私の境遇を考えれば、家に引き籠ってじっとしているのが様々な面から見てベストなんだろう。

私だってオカルトと遭遇するのは心底イヤだし、その頻度を減らしたいという意思もある。なんだったら学校すら行かない方が良い筈なんだ、本当は。

 

けれど流石に、そこまで終わった生活をするつもりも無い。

 

こちとら花の中学生、隠居するにはまだ早すぎるお年頃……という事もあるけども。

何より私は、私自身を誇って見せびらかさねばならない。そうしなければ救われない。

 

つまり私は、私を襲う痛い事や苦しい事は全力で拒否る所存であるけれど、それらから目を逸らさないとも決めている訳である。

 

……他人が私の巻き添えになるかもしれない、という問題は遠くにぶん投げておく。

というか前に一回やらかした時に何とかなったし、もし次があってもまぁ何とかなるんじゃないか。そんな楽観視。

 

さておき。

 

 

「んー……」

 

 

スマホを取り出し、各種施設の情報を検索する。

 

よく行くショッピングモールに目ぼしいイベントは無く、映画も特に見たい物は無い。

近くの自然公園でやるというヒーローショーには「おっ」と思ったけど、流石にこの年になって見に行くのもなぁと苦笑い。おや、不特定多数を敵に回した音がしたような。

 

その後もゲーセンやらバッセンやら探せば探すだけ何かしらは出てくるのだが、なんとなく行かない理由を付けて流していく。まぁ、本当に暇な時ってそんなもんだ。

 

試しに足フェチや髭擦くんあたりにメッセージしてみたが、どちらも予定があるらしく色よい返事は貰えず終い。

そうして結局どこに行くかも決めず、惰性のままの街ブラを続ける事にした。もちろん公共交通機関の類は使わず全部徒歩。バスとか苦手なんだ私は。

 

 

「……あ、おいしそ」

 

 

ふと、通りすがりにフライドポテトのキッチンカーを見つけ、お腹を擦る。

 

どうせフラフラ彷徨うのならば、ついでに食べ歩きするのも良いかもしれない。

 

ともかく私は香ばしい匂いに誘われるままキッチンカーにいそいそ並び、待ってる間の暇潰しに街の美味しい屋さんでも探そうかとスマホを取り出し、

 

 

「んお?」

 

 

通知が来た。

 

一瞬足フェチか髭擦くんからかとも思ったが、違う。

ロック画面に差し込まれた表示は、ファイル共有アプリからのものだった。

 

 

「あれ……?」

 

 

首を傾げる。

 

このアプリは、周辺にある同じメーカーのスマホと写真や文書などのコンテンツを共有し、共に楽しむ事が出来るようにするというものだ。

私のスマホには標準装備されており、ちょくちょく利用した事もあったが……最近は触っておらず、通知も切っていた筈だった。

 

この前のアプデでまーたいらん事されたか……?

まったく、アップデートと冠するのならちゃんと使いやすくしろよな。私はブチブチ文句を垂れる一方、まぁいいかと気まぐれにその通知をタップした。

 

 

「……?」

 

 

そうして表示されたのは、一枚の画像だった。

 

この街のどこかの風景だろうか。

古い橋の上から街中の様子を捉えており、そこに左右から伸びる植物の葉が被さっていた。

 

 

「うーん……イマイチ」

 

 

言っちゃ悪いが、別段目を惹くところもネタ要素も無い普通の風景写真だ。説明コメントの類も無く、撮った意図も分からん。

私はすぐに興味を失い画像を閉じ――だがその間際、左右にかかる葉の影に写っているものに気が付き、指を止める。

 

 

「…………」

 

 

それは今並んでいるキッチンカーの車体だった。

多くが植物で隠れているものの、フライドポテトのイラストと店のロゴとが写っており、私が今見ているものと相違は無い。

 

きょろきょろと辺りを見回し画像と街並みとを見比べれば、ここから少し離れた部分の建物が一致した。間違いなく、この場所だ。

 

 

「ほーん……?」

 

 

どうやら構図からして、この写真は車体を挟んだ向こう側の位置から撮られているようだった。

 

スマホの位置情報か何かで、同じ場所の写真が送られるようになっているのだろうか。

店から購入したフライドポテトを齧りつつ、私は暇と好奇心のままキッチンカーの裏手へと回り、写真の撮られた場所を探してみる。

 

画像の左右に植物がかかっている事からして、それなりに緑が深い場所だろう。

となれば……。

 

 

「お、ここか?」

 

 

あった。

それは小さな川にかけられた、これまた小さな橋だった。

周囲に生い茂る背の高い植物にほぼほぼ埋もれ切っており、転がるゴミも数多い。

ペットボトルに懐中電灯、壊れたカメラやスケッチブックまでよりどりみどりで、ぱっと見不法投棄場。そこに橋があると気付ける者は少ないかもしれない。

 

まぁ、それだけならば田舎エリア方面に行けばそこそこ見られる光景だ。ひっそりと存在を忘れられる橋など、この街には幾らでもあるのだから。

……しかし、この橋には一つ、それらとは違うとても奇妙な部分があった。

 

 

「……や、渡れねーけど」

 

 

橋の向こう岸が大きな壁で塗り固められていて、渡れないよう封鎖されていたのだ。

 

しかしそれはあくまで橋の出入口だけであり、その横側はがら空きだ。

一応深い竹藪がみっしりと生い茂ってはいたが、侵入防止のフェンス類は設置されておらず、その気になれば橋の横側から回り込んで強引に渡れなくも無さそうだった。

 

渡れないけど塞げても無いし、何の意味があるんだこの橋と壁。

 

ちょっと面白くなった私は、とりあえずスマホでパシャリと写真を一枚。

そうしてその妙な壁をしげしげと眺めていると、ふと前に美術の教師がこういった風景の話をしていたなと思い出す。なんてったっけ、こういうの。

 

 

「あー……トマ……トーマス、いや、トンプソン……んー?」

 

「――トマソンと言いたいのか?」

 

「うわあ!?」

 

 

気になって唸っていると、突然背後から声をかけられた。

 

思わず跳び上がって振り向けば、そこには私と同い年くらいの少女が一人。

一体誰だ――と首を傾げかけ、その鉄面皮にすぐ『親』の身体の一つだと察する。驚いて損した。

 

 

「な、なんだよぉ……いきなりビックリさせんなよぉ、もー」

 

「お前が不法侵入をしそうな気配があったのでな。声をかけさせてもらった」

 

「不ほ……いや、ハナから行く気なんてねーし、こんなとこ」

 

 

いくら山猿だ何だと言われていようが、隙間の無い藪中に好んで入っていく趣味がある訳じゃない。

というか、この先は道ではなく誰かの土地なのか? もう一度壁の先を眺めてみるけど、やはり竹藪に覆われ見通す事は出来なかった。

 

 

「……まぁいいや。で、何だって? トマ……?」

 

「トマソンだ。建築途中か、解体途中。或いは単に撤去を面倒がったのか。何らかの理由で本来の役割を失ったまま放置され、結果的に役に立たない建築物となってしまった物を言う」

 

「あー……そういやそんなんだっけ。思い出した」

 

 

他にも確か超芸術と呼ばれているだの何だかんだと聞いた気がする。

当時は正直何の興味も湧かなかったが、こうやって実物を見てみるとまた違うものがあった。これは私みたいのにも分かる類の面白さだ。

 

 

「ちなみにトマソンの語源はプロ野球選手の名だ。ずっと打てない四番だったが故に、役に立たない建築物に共通性を見出されたらしい」

 

「いや聞いてねーしひどいな……っと?」

 

 

そうこう駄弁っている内、遠くから人の名を呼ぶ声が聞こえてきた。

どうやら、通りを歩く幾人かの少女が誰かを探しているようだった。それを見た『親』はすぐさま無表情を剥がすと、身体の年相応の笑顔を浮かべてその声に応える。うわキモ。

 

 

「……まぁ、どこに行くにしろ気を付けなさい。不法侵入など以ての外だぞ」

 

「しねーって」

 

「それと夕飯までには帰ってきなさい。十八時だ」

 

「だから今更普通の親みたいな事言うなってーの……」

 

 

ほんと鉄の皮した厚顔だな。せめて美味しいごはん作ってから言えや。

小さくぼやくが、『親』は無視して見知らぬ少女達の下へと駆けて行った。

 

たぶん、彼女達があの少女の身体での友人達なのだろう。

ヤツはああやって一般人に擬態し、街の至る所に溶け込んでいるのだ。

 

私は気味の悪い笑顔で立ち去っていく『親』をゾッとしながら眺め――その時、またもスマホに通知音。

 

 

「……ふむん」

 

 

画面を見ればまたもファイル共有アプリから画像が飛んできており、開くとやはり街のどこかの風景画像のようだった。

 

システム上同一の共有元かどうかは分からないが、コメントが何も付いていないのは同じだった。

今度は街の高い所から撮られているらしく、広範囲の街並みが俯瞰で写っている。

さっきの写真よりは、場所の特定も多少はやりやすそうだった。

 

 

「…………」

 

 

振り返り、橋と壁のトマソンを見る。

 

……今日の予定、これでいっか。

私はそう呟きつつ、最後のフライドポテトをぽいっと口に放り込んだのだった。

 

 

 

 

 

 

一度意識してみると、街の至る所にトマソンはあった。

 

とある道の塀の隅にひっそりとくっついた、たった四段だけの階段。

とある建物の外壁に取り付けられた、ドアノブが無く入る事も出る事も出来ないドア。

とある看板の縁から伸びて途中で途切れる、手すりの付いた細い足場――。

 

どれもこれもが無用の長物としか言いようが無く、どうして作ったと突っ込みたくなる面白さを湛えている。

実際食べ歩きのいい肴になり、ただブラブラするよりは余程有意義に感じられた。いや無意味なもんを見てるのだが。

 

 

「んー……ここ、かな?」

 

 

ともあれ、そんな中手頃な売店で買ったホットドッグをもぐもぐしつつ、私は目の前の景色とスマホを見比べる。

 

スマホに映るのは、先程の橋と壁のトマソン前で飛んで来た俯瞰の街並み画像である。

そしてそこにある建物と目の前とを比較すれば、視点は違えどその殆どが一致した。

 

よし、この辺りだな。

大まかなアタリをつけた私は、そのままくるくると街の上方を見回して――。

 

 

「――やっぱね」

 

 

また見つけた。トマソンだ。

 

路地の隅にひっそり佇むそれは、一本の背の高い街灯だった。

しかしその支柱に何故か螺旋階段が巻き付いており、そしてやはり途中で途切れている。登る事も降りる事も出来ない、無用の長物。

 

元からこういうデザインだったと考えられなくも無いけど、螺旋階段が巻き付いているのはこれ一本だけ。

近くに並ぶ街灯はごく普通のものばかりで、仮にデザインだったとして何で一本だけがこうなのかの意味が分からん。おもしろ。

 

 

「これ飛ばしてるヤツ、遊び心あんなぁ」

 

 

残ったホットドッグを押し込んだ口で、そう呟く。

 

橋と壁の時の画像もそうだが、単に変な建築物の画像を送って来るのではなく、そこから見える風景を飛ばしてくるとは中々捻りが効いていた。

イマイチな写真とスルーされる可能性も高いだろうけど、こうして私みたいな興味を持つ暇人が居れば、途端にどこかクイズのような様相を呈してくる。

 

こういう趣向は嫌いじゃない。

私は小さく鼻歌すら歌いつつ、クイズに答える気分で街灯をスマホのカメラに写し、

 

 

「……ん?」

 

 

ふと、首が傾いだ。

 

……飛んで来たここの画像、どこから撮ったんだ?

俯瞰の景色なのだから高所から撮ったのは確かだろうが、件の街灯の周りには画像の角度で撮影できそうな場所は無い。

 

何故かそこらに落ちていた自撮り棒を拾って伸ばしてみたが、当然届かず。だとすればドローンとか、或いは上まで登ったか。

 

 

「……うーん」

 

 

唸りつつ、再び街灯を見上げる。

確かに一応は螺旋階段がついているし、その気になれば上がれなくも無い。私だったら余裕だし。

 

だが、実際にやるヤツがどんだけ居るかという話で。

やっぱドローンだろうか。私は画像と街灯に交互に目をやり、眉を寄せ――と。

 

 

「!」

 

 

通知音。

 

また例のアプリからで、開けば予想通り風景画像が一枚。

さっきのものと同様、高所から撮影されたと思しき街並みが写っており、これまでの二枚と同じ趣向である事が窺えた。

 

 

「……んー……?」

 

 

静かに辺りを見回してみる。

同じ趣向の画像が、無関係の画像を挟まず三連続で飛んで来た事に、露骨に妙なものを感じたのだ。

 

別に無くは無いだろうけど、偏ってない?

誰かタイミング見計らって飛ばしてねー……?

 

考えすぎとは思わなくも無いが、私にとってストーカー被害は割と身近にあったりするから困りもの。

 

そうして暫く警戒したが、しかし感じるのは私の容姿に対する不特定多数からの興味くらい。それ以外に不穏なものは感じなかった。

この辺りの嗅ぎ分けは、長年の経験でそれなりに自信があるのである。

 

……じゃあまぁ。偶然なのか。それとも単に流行ってたり、やっぱ位置情報がどうのこうので何かしら設定してるヤツが居たりするんかな。

私は若干モヤモヤしつつも、今度こそ街灯をスマホでパシャリ。そのまま次の場所を探すべく歩き出し、

 

――カン。

 

……丁度その時、背後の螺旋階段が小さく鳴った。

振り返ったけど、特にそこには何もなく。「……」私は心なし早歩きで、スタスタその場を後にした。

 

 

 

 

 

 

少し変になった空気を誤魔化すように、巨大コロッケを頬張りながら訪れた先は、古びたビルの前だった。

 

どうやらかなり前に全てのテナントが居なくなっているらしく、全階からっぽとなっているようだ。

周囲の街並みからして、おそらく今回の画像の場所はここだろう。

 

 

「さ、どこに何があんだろなーっと……」

 

 

コロッケをむしゃむしゃしつつ、ビルの周りをぐるぐる回って今回のトマソンを探す。

 

いやまぁそうと決まった訳じゃないけど、流れからしてそんな感じだしさ。

これで本当に何も関係ない画像だったら間抜けすぎるな私……そう半笑いで歩き続けること数分。

 

 

「……お」

 

 

あった。

人気の無い裏路地に面した壁、その三階部分に一枚のドアが埋め込まれているのが見えた。

 

高さからして、おそらく天井に近い位置にあるのだろう。上方に四角い覗き窓の付いた、金属製のドアだ。

内側がどうなっているのかはともかく、外壁側に足場は無い。これを使って外に出た瞬間、そいつは真っ逆さまになるだろう。

何でこうなったのかは知らんが、とんだトラップドアである。

 

 

「……でもまたドア系かー」

 

 

とはいえ、似たようなトマソンは街をぶらついている中で既に見つけており、目新しさという意味ではちょっと薄い。

私はちょっぴり拍子抜けしながら、ここもスマホでパシャリと一枚撮っておく。

 

……で、ここの写真もどこから撮ったんだ?

何か画像の端に窓枠みたいのあるし、ビルの中からだろうか。まさかあのドアの覗き窓から……なんて事はあるまい。

 

私はコロッケの脂が付いた指を舐めとりながら、今しがたパシャッた画像の拡大縮小を繰り返し、目ぼしい部分が無いかよく見、

 

 

「……………………………………………………」

 

 

目が、合った。

 

スマホの画像。

ドアの覗き窓から、二つの目がカメラを見つめている。

ドアの内側に居る誰かが、こちらを見下ろしていた。

 

 

「…………、…………」

 

 

恐る、恐ると。目線だけを上にあげる。

そうして視界の端でドアを見るも、覗き窓には何も見えない。誰も居ない。

 

だけどスマホの画像には両の瞳がしっかりと映り込んでいた。

決して光の加減や錯覚なんかじゃない、何かの、誰かの目が、そこに。

 

 

「…………」

 

 

裏路地の先。ビルの出入り口のある方向に意識を向けつつ、ゆっくりとビルから離れる。

一歩一歩、慎重に。

 

相手が何かは知らない。でも、あんまりいい雰囲気じゃないのは分かる。

トマソンのドアから出てくる事は無い筈だ。私くらいの身体能力がなければ、高さ的に絶対に降りられない。

 

だからもしビルの中で音がしたら、出入口が開く音がしたら、それが合図だ。

私はいつでも全力疾走できるよう腰を落とした姿勢のまま、後退りを続け――。

 

 

「ッ」

 

 

……通知音が鳴った。

 

私は少し迷ったものの、決して集中を切らさないよう注意し、チラとスマホの画面を見る。

これまでと同じく、アプリで共有された画像が届いているようだ。

とはいえ今はそんなもんを見ている時じゃない。すぐにスマホをしまい込み――しかしそれより先に、画像が自動的に開かれた。

 

 

「な――」

 

 

それは、街灯のトマソンの時に飛んで来た三番目の画像とほぼ同じものだった。

このビル周辺を俯瞰で捉えた風景画像。でもただ一つだけ、決定的に違う部分があった。

 

風景の中に、私の姿があったのだ。

 

画像の私は構えたスマホをこちらに向け、ぼんやり暢気に佇んでいる。

それで確信した。三番目の画像がどこから撮られたか――。

 

 

「……ドアの、中から……」

 

 

そうだ。あれはやはり、覗き窓を通して撮られた写真だったのだ。

 

いやそれだけじゃない。他の二枚の画像も、きっと意味の無い建築物の向こう側から撮られたもの。

街灯の上、壁の向こう側。そこに居た何者かが、そこから見える外の世界を撮っていた――。

 

――きぃ。

 

 

「!」

 

 

その答えに至った瞬間、ドアノブの回る音がした。

 

何処からかなど、考えなくたって分かる。

見ればトマソンのドアがカタカタと揺れ、そのドアノブがゆっくりと回り出していた。

 

何かがドアを開けようとしている。出てこようとしている。

 

……そしてそれはきっと、ビルの中からじゃない。もっと別の場所からだ。

自分でも意味が分からなかったけど、そう直感する。

 

――きぃ、きぃ。

 

逃げなければ。

そうは思うものの、どうしてか足が動かない。

いや、足だけではなく、視線すらも動かなかった。

 

きぃ――かちゃり。

 

ドアノブが回りきり、小さく音を鳴らした。

ドアの揺れが止み、沈黙が流れる。覗き窓には、誰も居ない。居ないのに。

 

動悸が激しい。耳鳴りがする。

私は成す術も無く、ただその瞬間を見守って、

 

 

 

「――不法侵入はしないように、と言ったが」

 

「オワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?!?!?」

 

 

 

背後。至近距離からかけられたその声に、私は絶叫を張り上げた。

 

同時に身体の自由が戻り、数メートルほど飛び跳ねて。慌てて振り向けば、そこには見知らぬ青年が立っていた。

感情を感じさせない鉄面皮――『親』の身体の一つだ。

 

驚きやら安堵やら怒りやら恥ずかしさやら。様々な感情が渦を巻き、やがて大きな溜息となって私の口からまろび出た。

 

 

「は、あああぁぁぁぁぁ……! こっちもビックリさせんなって言ったじゃん……!」

 

「それはすまない。だが、あそこに入りたそうに見えたからな」

 

「んな訳――って」

 

 

そこでようやく我に返り、蘇る危機感と共に弾かれたようにドアを見上げる。

 

しかし今にも開け放たれそうだったそれは、今もなお閉じられたままだった。

うんともすんとも言わず、ドアノブが回る事も無い。開かない扉――。

 

 

「……なん、だったんだ……?」

 

「単に開けてくれと訴えていただけだろう。あれらは、内側からは開かないようだからな」

 

 

『親』は静かにそう呟くと、顎をしゃくって歩き出す。

ここから離れるぞという事らしい。私も慌てて後を追う。

 

 

「う、訴えてたって……何がだよ。つかそもそもなんなのアレ」

 

「中に何が入っているのかは我々も知らん。だが、ああいった場所が幾つかある事は把握している。お前が最初に見ていた、橋と壁のトマソン建築もその一つだ」

 

「――言えよ! そん時! 私にさァ!!」

 

 

なら今日一日私が見て来たのとか絶対そうじゃん知ってりゃ巡らんかったわそんなとこ!

 

思わず声を荒らげるものの、『親』はサラッと知らん顔。

それに青筋をビキビキしていると、『親』は心外だとでも言いたげに珍しく片眉を上げた。

 

 

「言っただろう、不法侵入はしないようにと」

 

「はぁ? それのどこが……」

 

「あの壁の向こうはお前の言うオカルトの領域だったが故、踏み入るなという警告のつもりだった。分かり難かったのならすまなかったな」

 

「……! ……!」

 

 

言葉のチョイス何とかせーやと文句を言いたい私と、言葉の意味をよく考えなかったこっちが悪いと反省する私がせめぎ合い、言葉が出なかった。

そんな風に悶える私をよそに、『親』は続ける。

 

 

「トマソン建築に限った事ではないがな。ああいった扉の意味が無い扉、或いはどこにも繋がらない道や階段。そういったものの先には、時折勝手に居座る『場所』が出る」

 

「……えーっと……?」

 

「空っぽの意味に役割を与える形で、その行先を装ったものが現れるという事だ」

 

「……??」

 

 

分からん。

一応かいつまんでくれた気配は感じるのだが、全くピンと来なかった。

『親』もそれを察したのか、無理に説明する事を諦め黙り込む。うるせーどうせバカだよ悪かったな。

 

……とはいえ馬鹿にされっぱなしも癪なので、苦し紛れに問いかける。

 

 

「……じゃあさ。その『場所』ってどこなの。あのドアはどこに繋がってて、中のヤツは……」

 

「さて。無用の長物が繋ぐ場所なのだから、少なくとも我々にとって無用の場所ではあるのだろう。その中に何かが居たのであれば、それらもまた同様だ」

 

 

『親』はそう告げると、もう用は無いとばかりに歩く速度を進めた。

特にドアに対して対処をする様子も無く、咄嗟に手を引き呼び止める。

 

 

「え、ねぇ、いいのかよ放っておいて。何かあるんでしょ、あそこ」

 

「あるだけだ。わざわざ藪を突く必要は無い」

 

「や、でも私、何かスマホにちょっかいかけられたっぽいけど……」

 

「そうか、怪我が無くて良かった。ならば我々の死までは必要ないな」

 

「ぐぅ」

 

 

けんもほろろ。

正直私としては街中にこんなのがあるとかイヤにも程があるので、何らかの対処をして欲しかったが、『親』の身体の死が絡む以上は強くは言えない。

 

そうして口の中だけでもごもごしていると、『親』は徐々に歩みを緩めつつ、溜息を落とすように呟いた。

 

 

「だが……そうか、スマホか……」

 

「……別に嘘ついてないからな。前にもあったし、そういうの」

 

 

唇を尖らせながら詳しく話せば、『親』は小さく首を振る。

 

 

「別に疑っている訳では無いよ。電子機器に介入する怪異など良く聞く話だ、ただ……」

 

 

そこで言葉を切ると、『親』は一度立ち止まり、背後のビルを振り返る。

大通りに出たためにもうあのドアは見えないけれど、それを見つめている事だけは私にも分かった。

 

 

「そのアプリの機能が正常に利用されていたというのなら――おそらくは本当に、普通に使用していたのだろう」

 

「……スマホを? 向こう側の何かが?」

 

 

胡乱な顔になって聞き返したけれど、『親』は素直に頷いた。

そして、その目に憐れみのような揺れを湛えて、

 

 

「――不法侵入者。それなりの数が居たようだな」

 

 

――その言葉が落ちたと同時、私のスマホが通知音を鳴らした。

 

確認してみれば、当然というべきか例のアプリからのものだった。

また新しくファイルが共有されたらしい。そしてまたも勝手に開かれ、全面に画像が表示されていた。

 

 

「…………」

 

 

これまでと同じく、コメントの無い風景画像。

私はそれをぼんやりと眺めながら、さっきの『親』の言葉を反芻する。

 

……不法侵入者。

それはおそらく、橋の対岸にある壁を越えたり、街灯の螺旋階段を登ったり、ビルの壁面をよじ登ってドアを開けてしまった人の事だろう。

 

向こう側に足を踏み入れたその人達は、そのまま戻れなくなった筈だ。内側からは開けられないという、『親』の言葉が正しければだけど。

そしてそうした人達のほとんどは、きっとスマホを持っていた筈で……。

 

 

「……ん」

 

 

そのままぼんやり画像を眺めていると、再び通知音が鳴る。

そうして飛んで来た新たな画像がまた勝手に開かれたと思えば、今度は次から次へと通知音が連続する。

 

開かれた画像の上にまた画像が開き、その上に画像が開き、また画像。その繰り返し。

……ちょっと前なら恐怖を抱いていただろうそれも、今となっては怖気の一つも走らない。

 

――これらはきっと、助けを求める声だった。

 

 

「……なぁ、」

 

「開こう、などとは言わないでくれ。電話やメールではなく、そのような回りくどいアプリしか使えていない時点で『何か』が彼らに起きている。おそらく、手遅れだ」

 

「…………わかった」

 

 

私は『親』が嫌いだが、信用していない訳では無い。

こいつがそういうのならば、きっとそれに間違いは無いのだろう。

 

……彼らは、好奇心が抑えられなかったのだろうか。

それとも、その姿を動画にしてSNSで人気者にでもなりたかったか。

似たような事をして居なくなってしまったバカの顔が蘇り、視線が下がった。

 

 

「…………」

 

 

私は画像を開き続けるスマホを苦労しながら操作して、機内モードをオンにする

途端、開き続ける画像と通知音が嘘のようにピタリと止まった。『親』の言う通り、本当に普通にスマホを使ってやっていたらしい。

 

 

「……ごめんな」

 

 

……たぶん、私はもうトマソンを見ても楽しめないんだろうな。

 

そんな確信と共に、私はアプリと今日一日の写真を全て削除する。

最後の画像。ドアの覗き窓から見える二つの瞳が、消される間際に泣いた気がした。

 

 

 

 

 

 

後日。

街中を歩いていた私は、住宅跡地に佇む玄関のドアを見た。

 

瓦礫の中にぽつんと残る、たった一枚きりのドア。

土台も蝶番もそのままで、きっとドアノブを回せばまだ開く。

 

 

「…………」

 

 

……私は暫くそれを見つめていたが、そっと目を伏せ歩き去る。

 

通知音は、もう鳴らなかった。

 

 

 




主人公:油ものが好き。『親』がヘルシーなものが好きであんまり味覚が合わない。
『親』:ヘルシーなものが好き。娘が油ものが好きであんまり味覚が合わない。


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「眼」の話(上)

1

 

 

「――そんじゃ、俺らの出会いを祝して、かんぱーい!!」

 

 

シンプルな防音壁に囲まれた、中々に広い部屋。

高々と掲げられたグラスから、氷が大きく揺れる音がした。

 

それを持つのは、長テーブルを挟んだ対面に座る、長いアゴが目立つ三枚目じみた雰囲気の青年だ。

相当に高揚しているのか、先程からずっとハイテンションで騒ぎ立てており、今しがた入室したこの店の従業員の苦笑いにも気付かない。

部屋に籠ったタバコの匂いも合わせ、やたらと私の癇に障った。

 

 

「いやー、それにしてもこんな可愛い子達と遊べるなんて、すげぇっすね先輩らのコネ! ステキ!」

 

「コネ言うなや。ゲスい空気になんだろーがよ」

 

 

アゴ男が振り返った先のソファにはもう二人ほど男が座り、そのうちのメタルピアスを付けた男が笑って返した。

それなりに整った顔をしたイケメンだ。もう片方のツーブロック頭の男も精悍な容姿をしていて、いいとこフツメン未満のアゴ男との対比が際立っている。

……まぁ、ワザとなんだろうな。色々。

 

 

「ま、俺もこの並びは予想外っつーか超ラッキーだったけどな。この子らお前繋がりなんだろ?」

 

「そんな感じ。そっちの白い子……タマってったっけ? とはあたし今日初めて会ったんだけどね」

 

「はは、お前自分より若いヤツ隣に置きたがらねーしな。高校生だっけ?」

 

 

そう言ってツーブロ男が水を向けたのは、彼らと顔見知りらしいドギツい金髪の女の人だ。

近くに未成年が居るにもかかわらずタバコをスパスパやっているその女性は、鼻白むような視線をチラリと私に向けてきた。

 

……正直あまりいい印象を受けない人だったけど、揉め事を起こすにはまだ早い。

外面用の笑顔をニッコリ返してやれば、女性は軽く眉を顰めてそっぽを向いた。なんだこのタバコ女。

 

そうして僅かに空気がピリつきかけた時、空気を読まないアゴ男が部屋に備え付けられていたマイクを取り、暢気な鼻歌をスピーカーから響かせた。音痴。

 

 

「んじゃあ最初誰歌います? 俺的に最初は女の子の聴きたいなーって思うんすけど~」

 

「あたし最近飲み過ぎで喉焼けてっからパス。こういうのはやっぱ新顔からっしょ、ほら」

 

 

そう言ってタバコ女はアゴ男の手からマイクをひったくると、私とその隣に座る『もう一人』へと差し出した。

 

 

――さて、マイクという事からも察せられると思うが、私は今とあるカラオケボックスの一室に居る。

しかも見るからに素行の悪そうな奴らと一緒に、合コンのような場の中にだ。

 

無論、私の意思ではない。

私なんかがこういった場に参加したって、イヤなトラブルを引き起こすだけだろうとは察しているし、何より興味自体があんまり無い。大体中学生には早いだろこんなの。

 

では何故私が高校生だと詐称してまで、こんな所に来る事となったのか――それは、私の隣にいる『もう一人』が原因である。

 

 

「――おけおけ、そんじゃワタシから歌わせて頂きま~す! 合いの手よろしく~」

 

 

美しい黒髪をした彼女は、アゴ男にも負けないテンションでマイクを受け取ると、手元のパッドで曲を打ち込んだ。

一切の含みが感じられない、この場を純粋に楽しんでいるかのようなワクワク笑顔。

ともすれば周りのチャランポランどもと同種にも見える、私とは別の意味で頭の軽そうなゆるふわ女だった。

 

……けれど、私は知っている。

今この場における彼女の立ち振る舞いは全てが演技。

浮かべる笑顔も放つ言葉も、纏う雰囲気でさえもが擬態にすぎない。

 

そう――この場に居る全員の油断を誘うための、だ。

 

 

「……おん? タマちゃんどしたーん?」

 

「いや……」

 

 

これから歌う曲の歌詞を口ずさみ、楽しげにパッドを操作する彼女と目が合った。

 

笑顔と共にちょこんと小首を傾げるその様子は、やはり何の裏も感じさせない朗らかなものだ。

しかしその瞳だけは黒く濁り切っていて、私はそっと目を逸らした。

 

 

 

 

 

 

事の発端は二日前。

学校での授業を終え、髭擦くんと一緒に下校している最中の事だった。

 

いや別に一緒に帰る約束とかをしていた訳では無く、普通に道でバッティングしただけである。

オカルトが視える者同士、行動パターンも似通うという事だろうか。なんとなく嫌な予感のする道を避けていると、いつの間にか合流している事が多々あるのだ。

 

最初こそ顔を合わせる度に互いにギョッとしていたものの、最近はもう慣れたもの。

その日も住宅街の裏道でバッタリ出会ってスルっと並び、とりとめのない雑談を交わしつつ歩いていた。

 

 

「……その、お前はいつ頃から視えるようになったんだ?」

 

「んあ?」

 

 

するといきなり、髭擦くんがそんな事を聞いて来た。

思わず気の抜けた声が漏れ、それを何と勘違いしたのか慌てた様子で手を振った。

 

 

「ああいや、変な意味とかじゃ無くてな……何かお前、昔からずっと視えてたって感じじゃないだろ? もしそうなら、たぶんもっと早くこうやって顔つき合わせてただろうし……」

 

「あー、まぁねぇ」

 

 

確かに私が昔からオカルトを視認できていたのなら、一年生の頃には既に今の状況になっていたかもしれない。

髭擦くんにしてみれば、若干気になる問題だろう。

 

……私の血統が目覚め、オカルトに関わるようになったあの一件。

思えば髭擦くんには、そこらへんの話は一切していなかった気がする。

 

まぁオカルト仲間としては言ってもいいのかなと思う反面、進んで語りたい話でも無い訳で。

私はどこまで触れたもんかと悩みつつ、うーとかあーとか暫く唸り。

 

 

「……もう二ヶ月くらい前になるのかな。私さ、だいぶクソみたいなオカルトに巻き込まれたんだよね」

 

「またそんな汚い言葉を……それは前の顔のヤツよりもか……?」

 

「たぶんそうなんじゃん? いやオカルトの格付けとか知らんけどさ」

 

 

インク瓶や『親』に聞けば教えてくれるかもしれんが、わざわざ確かめる気は無い。

ただ、私の主観では確実にそうだった。

あのイヤな空気も、騒動としての厄介さも、そして――受けた傷も、だいぶクソ。

 

 

「――……」

 

 

私の視線が自然と下がり、地面の下へと……この街のずっとずっと深い場所へと意識が向いた。

 

 

「……どうした?」

 

「別に。ともかくそん時に視えるようになって、だから経験的にはめっちゃ素人。そっちは小さい頃からだっけ?」

 

「ああ、物心ついた時はもう当たり前だった。でも、そうか……そういうパターンで視えるようになるって人も居るんだな……」

 

 

目から鱗が落ちたかのように感心している髭擦くんだが、どことなく楽しそうにも見えた。

きっと、こういったオカルト関係の話題を誰かと共有できるのが嬉しいのだろう。

 

実を言うと、私もそう感じている部分がある。

 

インク瓶や『親』のような、明らかに住む世界の違うヤツらじゃない。同じ境遇で、同じ恐怖を理解してくれる等身大の友人が居る。

そういうのって割と大きいものなんだなと、今になって実感していた。卵の時みたいのはヤだけど。

 

 

「……これ、もうちょっと早く分かってあげてれば、なんか違ったのかなぁ……」

 

「それは……どうだろうか。俺としては、ずっと見えなかった方がお前にとっては良かったんじゃないかと思うが」

 

「や、そういうんじゃなくて……まいっか」

 

「……?」

 

 

途中でめんどくさくなった。

どうせ、そこまで深く話す気も無いのだ。首を傾げかけた髭擦くんに手を振って誤魔化し、適当に流しておく。

 

 

「てか、髭擦くん今まで私以外の霊感持ちに会った事なかったの? 視えてる歴長ければ長いほど、同族とはそこそこエンカウントしそうな気ぃするけど」

 

「自称ならよく居るんだが、本当に視える奴は居なかったと思う。そういう奴って大抵、あそこに何か居るって何も無い場所を指差しながら、本当に変なのが居る場所に近づいて行くんだよな……」

 

 

その時の光景を思い出しているのか、髭擦くんの目が遠くなる。

……いや白目だから分からんけど、雰囲気で。

 

 

「だがお前みたいなパターンがあるなら、そういう奴らも後々視えるようになったのが居るかもしれないな。お前の他には同じようにして視えるようになった人は居ないのか?」

 

「いや知らんて流石に」

 

 

自分から霊感があると嘯きながら、実際本当にそうだったヤツならば知っている。

だけど、私と同じ経緯で視えるようになった人に心当たりは無かった。

 

というか、オカルトに巻き込まれた経験があるかなんて、普通人には言わないだろう。

遭遇を共にでもしなければ、そうそう知る機会なんて――。

 

 

「……あー、いや、もしかしたら居るのかも……?」

 

「曖昧だな……」

 

 

そうだ。一緒にオカルトに巻き込まれたという意味では、幾人かの心当たりが無くもないのだ。

 

件の『だいぶクソみたいなオカルト』――あの一連の騒動に巻き込まれ、そして被害を受けたのは、その中心に居た私だけでは無かったのだから。

 

 

「私と一緒にオカルトに巻き込まれた人も割と居たんだよね。分かんないけど、もしかしたらその人達の中に……的な」

 

「……なんか他人行儀だな。一緒に危険を乗り越えたなら、その人らと友達になったりするんじゃないのか」

 

「いやぁ、髭擦くんと私みたいな感じじゃなくて、単に一緒に事故ったみたいなもんだったから。みんな必死で、他人の事気にかけてる余裕なんて無かったんだ」

 

 

ロクに会話も無く、互いの名前も知らず、訳が分からないまま共に惑い、そして別れてそれっきり。あの人達のその後など、私は何一つとして知らなかった。

 

 

「私はその時に目覚めたって訳じゃ無かったけど、他の人のきっかけにならなかったのか、とかは分かんないしな。確かめらんないけど可能性だけは無いとも言えんねって話」

 

「そうか……少し残念だな。視える人が他に居るのなら会ってみたかった」

 

「私の『親』ならいっぱい居るからどーぞ」

 

「いや……いや。あの人は何か違うし、ダメなやつだろ……?」

 

 

どうやら髭擦くんの中でも『親』はアウト判定のようだ。何がどうアウトなのかは知らんけど。

そこらへんの感覚も私と同じである事に、小さな笑みが零れた。

 

 

「ま、後でインク瓶にでも聞いといたげるよ。私らと同じようなヤツが居ないかどうかってさ」

 

「……お前がお世話になってるって人だっけ? 俺その人も知らないんだが、どんな人なんだ?」

 

「ただの性悪メガネだよ。さっき言ったオカルトの時とかも色々助けて貰ったけど、ほんとヤなヤツでさ――……、?」

 

 

と、そこまで行った時、どこからか視線を感じた。

 

いつもの私の容姿に目を惹かれたものかと思ったが、それにしては湿度が高くて、なんだか嫌な感じだ。

いきなり言葉を切った私に首を傾げる髭擦くんをよそに、視線の出所を静かに探した。

 

 

「……!」

 

 

居た。

少し離れた道角に一人の女性が佇んでいる。

 

大学生くらいだろうか。長い黒髪をした、綺麗な人だ。

ショルダーバッグを肩にかけたその人は、壁に寄りかかったまま私に濁った瞳を向けていて――……。

 

 

「……、……あーっと、ごめん髭擦くん。ちょっと用できたから、先帰っちゃってくれる?」

 

「え? あ、ああ、だが、なんというか……大丈夫なのか?」

 

 

続いて黒髪の女性を見つけた髭擦くんが心配そうな声を上げた。

彼もあの濁った目つきに気付いたらしい。じりじりと、私の前に出てくれる。

 

……正直少し迷ったけれど、その腕をぽんぽん叩いてどかしておく。

 

 

「いいって。一応、知ってる人ではあるから……」

 

「……そうか? 誰なんだ、あれ」

 

 

髭擦くんはおずおずと下がりつつ、私のはっきりしない物言いに眉を顰める。

 

……誰、誰か。どう答えたもんだろうか。

私は少しの間考えて、しかし適当な呼び方も浮かばなかったので、ありのままをそのまま言った。

即ち、

 

 

「――さっき話した人だよ。前に一緒にオカルトに巻き込まれた、名前も知らない知ってる人」

 

 

 

 

 

 

かつて私は、走行中のバスの中でオカルトに遭遇した事がある。

乗り合わせていたインク瓶のおかげで結果的に何とかなったとはいえ、あまり詳しく思い出したくない記憶だ。

 

そして当然そこには私の他にも数人ほど乗客が居て、一緒に混乱の坩堝に陥った。

その大半とは顔も思い出せない程に関わりが無かったけど、ちょっとは印象に残っている人も居る。

 

この黒髪の女性は、その中の一人。

バスで私の隣席に座ってしまったために、私と同じくらい近くでオカルトに巻き込まれてしまった、私と同じくらい不幸な人である。

 

 

 

 

 

「――久しぶり……って言っても良いのかな、ワタシら」

 

 

最後まで心配そうだった髭擦くんと別れ、連れられた近所の公園。

園内を流れる川沿いのベンチに腰掛け、黒髪の女性はぽつりとそう呟いた。

 

……まぁ同じオカルトに巻き込まれた被害者仲間意識じみたものはあるが、それだけだ。

お互いの名前すら知らない、幽かで薄い間柄。なんと言えばいいか分からず唇をむにゅむにゅしていると、女性は濁った眼のまま小さく笑う。

 

 

「まぁ、どうでもいっかぁ。全然赤の他人だもんね、お互い」

 

「……えっと、もう聞きますけど何の用ですか? 言う通り別に縁も無いのに、わざわざ会いに来たっぽいですけど……」

 

 

どうにもまどろっこしく、スパッと切り込む。

 

そう、私は彼女と別れる際、再会の約束はもとより言葉のひとつすら交わしていない。

なのにこうして私の前に現れたという事は、自力で私の住所や生活範囲などの個人情報を調べてきたという事だ。

 

いくら私の外見が特徴的とは言っても、それには結構な労力が必要だっただろう。何某かの目的がある事は明らかだった。

 

 

「うん……そうね。別にいっかぁ、自己紹介とかなくても」

 

 

私の問いに女性は投げやり気味に返すと、すっと口元の笑みを消し、

 

 

「――キミさぁ、ワタシと一緒にカラオケ行ってくれない?」

 

「……はぁ?」

 

 

呆けた声が漏れた。

いきなり何を言い出すんだこの女――疑問混じりの文句が口をつくより先に、女性は言葉を重ねた。

 

 

「はは、この前のバスの時さぁ、ワタシ友達と一緒に大学の先輩らと遊ぶ予定だったんだよね。結局は行けなくなっちゃったんだけどさ。分かるでしょ?」

 

「……そら、まぁ」

 

 

結局あのバスは目的地にまで辿り着かなかったし、この女性も途中で意識を失っていた。

彼女が起きた後、当初の予定通りの一日を過ごせたとは到底思えなかった。

 

 

「それで友達一人で行く事になっちゃったらしくて。先輩らの話じゃ中々盛り上がったんだってさ。行けなかったのなじられちゃった」

 

「あの、それ何か関係ある話で――」

 

「――そのちょっと後、友達自殺しちゃったんだぁ」

 

 

…………おっと。

 

 

「電車に飛び込み。可愛い女の子だったんだけど、ぐちゃぐちゃになっちゃった。警察の人達はただの事故かもって言ってたけど、そんな訳無いってワタシは知ってた」

 

「…………」

 

「だって、あの子のスマホに残ってたんだよね。メールの下書き、ワタシ宛に送ろうとして、やめてたっぽいやつ」

 

 

私が黙っていても、女性はブツブツと勝手に話し続ける。

きっと、最初から反応なんて求めていないのだ。その濁った瞳から、そう感じた。

 

髭擦くんと別れたのは間違いだったかな……でもカンペキ無関係なのに巻き込むのもなぁ。

後悔しつつ半歩ほど身を引けば、それを抑え留めるように、女性の口から言葉の洪水が溢れ出す。

 

 

「入学したばっかで、先輩らの事なんて何にも知らなかったから。遊んで、カラオケ行って、そこでよってたかって乱暴されちゃったんだって。お薬だかお酒だか分かんないけど、何か盛られて動画とか撮られて、ありがちっちゃありがちな話だけど悲惨だよねぇ」

 

「あ、あの、ちょっと」

 

「あの子昔からちょっと夢見がちだったからさぁ、それでやんなっちゃったんだろうね。せっかく花の大学生になってウキウキしてたのに一歩目で躓いちゃって、しかも理由がこんなのって最悪だしもう色々気持ち悪くなって衝動的になっちゃったんかなあの子ワタシに何も言わなくていや連絡無くなっちゃってたから心配してたんだけど何も、」

 

「――あのっ! だから何なんですか、ほんとに!!」

 

 

聞いていられなくて、大声で遮った。

 

意味が分からなかった。

そんな胸糞悪い事情をわざわざ私を探し出してまで聞かせて来る理由も、そこからカラオケに誘ってくる理由も。

この人の行動が何一つ理解できず、強い怖気が肌に走った。

 

すると女性は一旦言葉を止めると、のろのろと首を傾げる。

私を見ているのだろうか。黒髪がすだれとなって、濁った瞳を覆い隠していた。

 

 

「……あのバスでの事が終わってからさ、ワタシたまに変な物が視えるようになったの」

 

「っ!」

 

「幽霊ってやつなのかなぁ。最初ビックリしたけど、でもラッキーって思った。だってあの子に会えるかもじゃん?」

 

 

目を瞠る私に女性は笑い、ぶらぶらと上機嫌に足を振る。

ベンチの背後を流れる川に砂利が落ち、映る彼女がゆらりと揺れた。

 

 

「あの子の家、一緒に旅行いったとこ、死んだ駅……色々回ったよね。で、やっと見つけたの。どこだと思う?」

 

「…………」

 

「正解! あの子が乱暴されたカラオケボックス~」

 

 

何も言ってない、と反論する気になれなかった。

朧げに察したのだ。彼女が何のために私と接触しようとしたのか、その目的を。

 

 

「――キミ、確かオバケとか元気に出来るんだよね? 霊能力ってゆーの? バスの時にメガネの人といろんな事喋ってるの、聞いてたよ」

 

「ち、ちがっ」

 

「ならさ、ちょーっとあの子の事も元気にしてくれないかな。成仏もしないで、まだあんな場所に居るんなら……なにかきっと、やりたい事があるんだろうからさ、ね?」

 

 

女性はゆっくりと立ち上がると、ごく自然な様子で私に近づき、背中側から肩を抱く。

ふわりと大人っぽい香水の香りが漂うけれど、私にはどこか腐臭のようにも感じられ、身が凍る。

 

 

「――あの時、私があの子の傍に居られていれば、何か変わってたのかな……?」

 

「――……」

 

 

……その囁きは、私の心に罪悪感となって突き立った。

 

私のせいじゃないというのは簡単だ。

だって、オカルトを呼び寄せるこの性質は私が望んだ訳じゃない。私だって被害者だ――そう叫んだって、インク瓶あたりはきっと許してくれるだろう。

 

……だけど、それが通らない事もまた、分かっていた。

女性が私の巻き添えでオカルトに逢ったのは、間違いない事でもあるのだから。

 

 

「先輩らも呼ぶんだぁ。一緒にカラオケ、楽しみだね」

 

「…………」

 

 

反応なんてしない。けれど女性は満足そうに笑みを深め、私と指を絡ませる。

ほとんど力の入れられていないそれを、私は振り解く事が出来なかったのだ。

 

 

 



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「眼」の話(中①)

2

 

 

 

田舎エリアに続く橋に程近い、都会エリアの端の端。

ほとんど人通りの無いその一角に、そのビルはひっそりと建っていた。

 

元は複合ビルだったのだろうか。五階建てでやたら横に広く、外壁側面には様々な看板が生えていた。

しかし今や外壁はくたびれ、看板もその殆どが掠れ切り、各階に何のテナントが入っていたのかも分かりゃしない。客入りも全く無いようで、なんとも寂れた有様だ。

 

――で、私が居るカラオケボックスはその四階。

入るにも出るにも手間がかかる、とてもいやらしい階に配置されていた。

 

 

(……寂れ具合といい人気の無さといい、明らかにそういうアレ目的の場所じゃん。キッツ)

 

 

そんなとこに集まったチャランポランどもの騒がしさに紛れ、私は溜息と共に小さく呟く。

 

――結局、私は黒髪の女性の誘いを断る事が出来なかった。

 

一日と少しの間に悶々悩み、無視しようとも思ったけれど後ろめたくて出来なくて。

そうして迎えた今日の朝。家の前で待ち伏せていた女性にハッキリ嫌だという事も出来ず、流されるままこの場まで来てしまった。

 

正直、今もなお納得はいっていないし、なんなら今すぐ部屋を飛び出し廊下の窓を突き破って逃げ出したい。ビルの壁を伝って降りるなんて、私にはそこそこ朝飯前なのだ。

 

けれど、私の心に巣食う罪悪感がその行動の邪魔をする。

私のせいで、彼女の友達が酷い目に遭う事を防げなかった――そう言われると、どうにも。

 

 

「…………」

 

 

ちらりと、現在進行形で流行りの曲を熱唱している黒髪女を盗み見る。

するとバッチリと視線が合い、笑顔でウインクが返された。勿論、濁った瞳の。

 

……なんとなく考えを見透かされているような気がして、私はまた溜息を落とした

 

 

――私が黒髪女から頼まれた事。それはただこの場に居る事だけだ。

 

詳しい話は聞いていない――というか、全然まともな会話をしてくれないため、上手く聞き出せなかったのだ――が、彼女は私の『オカルトを引き寄せる性質』を利用したいようだった。

 

私はまだ視ていないけど、このカラオケボックスに居るという黒髪女の自殺した友人の霊。

彼女にとって嫌な記憶しかないこんな場所に居るのならば、きっと何か『したい事』がある筈だ。

だから私の持つオバケを元気にする力で、彼女の『したい事』をさせてあげて欲しい……との事。

 

明らかに「復讐の幇助をしろ」という意味であり、実際に下手人であるという大学の先輩を全員呼んでいる事から、確かな殺意が見て取れる。中学生の美少女に頼んで良い事じゃねぇだろ。

 

というかまず私の持つ性質を誤解しているし、そもそも自分の意思で振るえるものでも無い。ここら辺は何度も説明して訴えた事なのだが、終ぞ理解されないままだった。

ともかく、そうして私は黒髪女と仲の良い後輩高校生という事にされ、彼女の主催するカラオケ会に連れとして参加する事となってしまった訳である。くそったれ。

 

下手人は四人。

黒髪女曰く、彼女の通う大学内外でやたらと『遊んでいる』グループらしい。

 

顔がよく、グループの中心格でもあるらしいメタルピアスの男。

家が金持ちでグループの財布となっているらしいツーブロックの男。

そんな二人とつるみながら、女性としての側から動いているらしいタバコ女。

もう一人のアゴ男についてはよく知らないようだったが、頭の軽い男である事には変わりないだろう。

 

彼らは黒髪女の友人の死をまだ知らないらしく、今回の誘いも前回の穴埋め会と称せば特に怪しむ事も無く乗って来たようだ。

 

……前回逃がした魚を、私というおまけ付きで食べようという魂胆だろうか。

本当に中学生をつき合わせて良い場じゃねーだろ。いや今は高校生って事になってるけど、それでもダメだわ。

 

 

「――はい、以上で~す!」

 

 

そうして頭を抱えていると、黒髪女の歌が終わった。

パチパチと疎らな拍手が上がる中、彼女はにこやかに私の隣に戻り、「ん」とマイクをこちらに差し向ける。

 

……歌えってか、こんな状況で?

笑顔を作りつつも唇の端を引きつらせていると、タバコ女がさっとマイクを奪い取った。

 

 

「はい次あたしね。パッド貸してパッド」

 

「あれ、のど酒焼けしたんじゃなかったっけぇ?」

 

「言ったっけ? いいからパッドよこしなって」

 

 

そう言って笑う彼女はどうも私に意地悪を仕掛けているようだが、正直言ってありがたかった。

私は笑顔の裏で溜息ひとつ。熱唱するタバコ女の歌を聞き流しながら、目の前に置かれている飲み物のグラスへ何気なく手を伸ばし、

 

 

「――――」

 

 

瞬間、何処か空気がピリついた。ような気がした。

 

そうと気付かれぬようさっと視線を走らせれば、ピアス男とツーブロ男の二人が静かにこちらを見つめている――。

 

 

「…………」

 

 

私は少しの間考え、グラスに伸ばしていた手をそろそろと引っ込めてみる。

すると途端に二人は白々しく談笑を始め、私に意識を向けていないフリをした。

 

……これ、飲み物に何か仕込まれてたりするか?

 

まぁ、黒髪女の友達の件を考えれば、可能性は無くはないんだろうけど……まさかなぁ。

いや、でも私の飲み物はお酒ではなくただのお茶だし、その人のように前後不覚にするには何かしら盛るしか無い訳で……。

え、マジでそんな事するの? 初対面の高校生(詐称)相手に? 嘘だろ?

 

その時背筋に感じた怖気は、これまでオカルトから感じたものとはまた別の生々しい温度を持っていた。

私だってまだ子供なんだ、どう反応すれば良いのかも分からない。

困った私は、この場においてはまだ味方側だと言って良い筈の黒髪女へ、縋るように目をやって――。

 

 

「…………」

 

 

しかし、返って来たのは変わらず濁った瞳だった。

彼女はピアス男達と同じように、ただ静かに私を見つめるだけで、何も言葉を発さない。

 

……そっと黒髪女のグラスを見た。

そこには私と同じくお茶が入っていたが、そのかさは減っておらず、口を付けた様子は無かった。

 

たぶん、彼女もグラスに何かが盛られている事を察している。

というか彼女の場合、想定してない訳が無いのだ。

 

……だけど、私に何も言って来ない。

そもそも予めの忠告とか何も無かったし、今自力で気付かなかったら危うかった。それなのに。

 

 

「……っ」

 

「――あ、誰かタンバリン取って~?」

 

 

縋る事を止め、反対にその濁った瞳を睨みつけるも、黒髪女はそれを無視。

興味を失ったように視線を外すと、マイクを握ったアゴ男のお囃子を始めた。

 

 

(こいつ……)

 

 

味方じゃねーわ、この女。

 

彼女が私に望んだのは、この場に居る事ただそれだけ。

そこに安否は含まれていない事に、今更ながらに気が付いた。

 

……まぁ黒髪女にしてみれば、私がどうなっても当然の報いとか思ってるのかもしれないけど、こっちだって色々納得できてないんだからな。

つーかこっちは曲がりなりにも協力してんだから、そっちももう少し何かあんだろ。

私を除く奴らが順繰りに歌っていく中、彼女に抱いていた罪悪感が徐々に怒りへ変換されていく――と。

 

 

「あー、すんません。ちょっとトイレ抜けまーす」

 

 

アゴ男が暢気な様子で手を上げた。

どうやらもう酒に酔っぱらってしまったらしく、なんとも気分の良さそうな赤ら顔である。

 

……薄々思ってたけど、こいつだけ何か雰囲気ユルくない?

最初は私達の警戒心を薄れさせる役割だと思ってたけど、それにしたって暢気が過ぎるような。

 

そうして、フラフラと若干おぼつかない足取りで退室していくその背中を呆れ混じりに見送っていると、続いて黒髪女も手を上げる。

 

 

「あ、ならワタシ達もちょっと行ってきますね~。ほら立って立って」

 

「……え、私も? うわちょっ」

 

 

すると彼女は何故か私の手も取って、強引に立ち上がらせた。

 

トイレくらい一人で行けよ……と一瞬思ったけど、まぁそういう事じゃないよな、これは。

私も特には抵抗せず、黒髪女に手を引かれるまま一緒に部屋を後にした。

 

 

「……あの、何か話あるんです……よね?」

 

「おトイレ、行こっか」

 

 

防音のドアを閉めてすぐに問いかけたけど、返って来たのはそんな一言。

それ以上何を言い募っても返事は無く、静かにトイレのある方向へと歩いていくだけ。

 

……質問とか説明とか、会話試みるの止めようかな、もう。

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

そうやって私も黙れば、あとは無言空間の完成だ。

客も私達以外には居ないらしく、他のルームから漏れる音も無い。まるで廃墟のようなボロい廊下に二人分の足音だけが鳴り、やたらハッキリと跳ね返る。

 

それには、ビルの中央部分が一階から最上階まで貫通する吹き抜けになってる事もあるんだろう。

今でこそ寂れ切ってはいるが、建築にはそれなりのお金がかけられていたらしく、内部の各所にそういった見栄えのする造りが見受けられるのだ。

 

この廊下だってそうだ。

トイレまでの道中にはルームのドアがずらりと並んでいるけど、その途中、ビルの中心側の壁に大きなガラス窓が嵌め込まれている区間があり、中央の吹き抜け部分が一部見渡せるようになっていた。

 

それは全階同じ造りであるようで、それぞれの階の廊下の様子が見て取れる。

そして四階ともなると見下ろす景色は流石に高く、建物の老朽化も合わせ、若干崩落の危機感を煽られ――……。

 

 

「……、……」

 

 

ピタリと、足が止まる。

 

窓から見下ろす二階部分。その廊下。

もう何の施設も入っていないがらんどうのその場所に、白い影が視えた。気がした。

 

 

(……あぁ……居ちゃった……)

 

 

頬が引きつる。

 

このビルに入場した時、私達はエレベーターで四階のカラオケボックス受付に直行していた。

一階はともかく、二階なんてチラ見すらしなかった訳で、あの白い影の存在をあっさり見逃していたようだ。

 

 

「女の人……だよな」

 

 

嫌々に目を眇めれば、それはどうやら白い服を着た女性のようだった。

何かの扉に縋りつくようにして蹲り、そこに何度も額を打ち付けている。

 

……そして、見た感じ結構な勢いの頭突きなのだが、何故か全くその音が聞こえない。

私は静かな不気味さを感じながら、黒髪女を呼び止めた。

 

 

「……あの」

 

「…………」

 

「あんたがここで見たっていうお友達の幽霊、アレの事ですか」

 

「っ」

 

 

小声でそう問いかければ、流石の彼女も足を止めた。

そして私の指さす場所をバッと振り返り――やがて鼻を鳴らしたかと思うと、すぐそこに見えるトイレへと歩を速める。

 

もう一度声をかけても、以降はガラス窓に目を向ける事すら無かった。

 

 

「……えぇ……?」

 

 

何だその反応。

 

あの人、復讐したいほどに大切な友達だったんじゃないの……?

それとももう覚悟決まってるからいいって事? 或いは単にアレが別人だったとか?

 

黒髪女の考えている事が分からず、私は困惑しながら再び白い女性へと視線を戻した――……ら。

 

 

「……………………」

 

 

――女性の動きが、止まっていた。

 

扉に縋りつく姿勢はそのままに、頭を打ちつける事だけを止めていた。

そしてその頭はゆっくりと回り、少しずつ、少しずつ私の方へと振り向、

 

 

「――ッ!!」

 

 

アレに姿を見られてはいけない。

そう直感した私は視線を無理矢理引き剥がし、黒髪女の後を追う。

 

そして今まさにトイレのドアを開けた彼女の横をすり抜け、室内に滑り込む。

流石の黒髪女もそれには驚き身を強張らせたものの、必死にドアを締めろと訴えれば、怪訝な顔ですぐ閉めた。

 

……暫く警戒を続けたが、何も起きず。私は小さく溜息を吐く。

 

 

「……何なの?」

 

「いや、何って……あんたが何なんだよ……!」

 

 

その何も気にしてない風な態度に、いい加減イライラが無視できなくなって来た。

私は罪悪感の類を少しだけ忘れる事にして、黒髪女へ言い募る。

 

 

「ねぇ、もう帰りましょうよ。流されてここまで来ちゃったけど、流石にもうキツイって。あのチャランポランどももそうだけど……視たでしょ、さっきの」

 

「ふーん……」

 

「見るからにおかしくなってたし、動き出したらどうなるか分かんないよ。アレがあんたの友達だったとしても、こっちに危害加えて来ない保証なんて無いんだ。言いましたよね。ああいうの、正しい復讐相手に向かってくとは限らないって」

 

「へー……」

 

「……あのさ、ほんと話聞けよ。私もあんたには同情してるし、罪悪感だって持ってる。でも無駄に酷い目に遭うのはごめんなんだ。普通の人間相手なら逃げ出せる自信あったから我慢したよ。けどあんなさ、猛獣っぽいの相手だとそうも言ってらんない。アレをどうにかしたいってんなら、悪いけど私もう付き合ってらんな――」

 

「――そういうの、もういーよ」

 

 

突然、言葉を遮られた。

思わず口を噤んでしまった私を見つめ、黒髪女はにっこりと笑う。

 

 

「オカルトがどうとか、アレを見たとか見ないとか。鬱陶しいよねぇ」

 

「……は?」

 

「だからぁ、求めてないんだって、そういうの」

 

 

その表情に反してどこか苛立たしげに呟きながら、何気なく私の傍に立とうとする。

 

……ふと。彼女の片手が、いつの間にやらポケットに入っている事に気が付いた。

私はそっと距離を取ろうとしたけど、数歩下がればトイレの壁に背が付く。

その警戒を見てか、黒髪女も近寄ろうとするのを止めていた。

 

 

「……言ってる意味わかんないんだけど。オバケ元気にしてとか言って来たの、あんたでしょうが」

 

「うん。でもいいんだぁ、別に」

 

 

黒髪女は相変わらず張り付いたような笑みを浮かべたまま、ポケットの下で何かを握り込む。そんな膨らみ方だった。

何考えてんだ、この女――そう睨みつければ、黒髪女は笑顔のまま溜息をひとつ。

 

 

「さっき、大人しく飲んどけばよかったのにねぇ。そうすれば、何も面倒なかったのに」

 

「はぁ? そんであんたの友達と同じ事になれって? アホかよ」

 

「っ……頼んだでしょ、キミはただここに居ればいーの。余計な事しちゃだーめ」

 

 

彼女の友達の件を当て擦れば流石に笑顔が揺らいだが、崩れるまでには至らない。

そして私に見せつけるように、やけに緩慢な動きでポケットから腕を抜く。

 

――そこに握られていたのは、スタンガン。

ドラマや漫画でしか見た事の無かったそれがバチリと跳ねて、私の顔を青く照らした。

 

 

「……いや、マジで意味分からん。何したいんだよ、あんた」

 

「怖がらないの? つよいね」

 

 

黒髪女は心底適当に返し、火花を上げるスタンガンを私に向ける。

 

……正直怖いは怖かったが、相手はオカルトではなく普通の人間だ。

捕まったら皮を剥がれる訳でも、極彩色の黄身とかくっつけてる訳でもなし。そんなのに比べたら、どうにでも出来る自信は幾らでもあった。

 

 

「…………」

 

 

私は静かに足に力を籠め、じりじりと近づいてくる黒髪女の隙を待つ。

その動きはあからさまに素人然としたものだったが、私を侮っている様子は無い。こっちもこっちで対人戦に明るい訳でも無いので、必要以上に慎重になっている自覚はあった。

 

極めて短く、そして小さな膠着状態――それが破られたのは、焦れた私が無理矢理に突破しようと膝をかがめた時だった。

 

 

「……何してんの?」

 

 

突然トイレのドアが開かれ、怪訝そうな声が響いた。

黒髪女と揃って出入口に目を向ければ、そこには半眼で私達を見るタバコ女の姿があった。

 

どうせ中々戻らない私達が逃げたんじゃないかと思って、様子見にでも来たんだろう。

救いの手でも助けを求めるべきでもない相手の登場に、私は一瞬どう動くべきか迷った。

 

一方で黒髪女はすぐに平静を取り戻し、私が何かを言う前にタバコ女へと笑いかけていた。

 

 

「いやぁ、タマちゃんがちょいグズっちゃって。ほら、先輩たちがいぢめるからさ~」

 

「はん、ガキがあたしらに混じるんだから、このくらいのイジりは普通でしょ」

 

「だっておうた大好きタマちゃんですよぉ? 100点取ってイイトコ見せるぞ~って意気込んでたのに、ね~?」

 

 

どの口で何ほざいとんじゃこいつは。

流れるようにスタンガンを隠しての取り繕いに、私は呆れるやら逆に感心するやらで二の句が継げなくなって、

 

 

「――……、」

 

 

……ドア。

タバコ女は、ドアを開けたままで立っている。

 

彼女の後ろはまだガラス窓の区間であり、立ち位置的に他の階からその背中が見えるだろう。

だからこそ、私はさっき黒髪女にドアを閉めるよう促したのだ。

ここはあいつに、二階のアレに見られてしまう場所だから。

 

 

「……あの」

 

「あん?」

 

「ドア、閉めませんか」

 

 

よくない、とてもよくない予感がした。

じわじわと足元から鳥肌が立ち昇り、視線が忙しなく揺れ始める。

 

するとタバコ女はそんな私の様子に何を思ったのか、ニヤリと笑ってさらに大きくドアを開け放ってしまう。

 

 

「ばっ、ちょっ……!!」

 

「はは、何恥ずかしがってんの。客なんて他に誰も居ないしルームもドア防音なんだから、どんな音鳴らしたって聞こえないって。ほら堂々とやっちゃえよ」

 

 

そういう事言ってんじゃないんだよ。

思わず怒鳴りそうになったけど、それをしたってもう意味は無いと分かってしまった。

 

鳥肌が全身に広がり、胃の底が急速に冷え込んでいく。

この身体に幾度となく味わってきたその感覚に、私は胸元に潜ませていた小瓶とメモ帳に手を伸ばす。

 

そして黒髪女は目敏くそれを見咎め、何をするかも知らないくせに私の腕を掴んで止めようとして、そして、

 

 

 

 

 

 

あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ

 

 

 

 

 

 

「ッ!?」

 

 

絶叫。

女とも男ともつかない嗄れ声が部屋を突き抜け、私の臓腑を激しく揺らす。

 

他二人にも同じものが聞こえているらしく、それぞれ混乱した様子で周囲を見回していた。

 

 

「……え、何――」

 

 

――直後、大きな足音を聞いた。

 

裸足で床を打ち鳴らすような、びたびたという湿った音。

それは響き続ける絶叫と共に移動しながら、瞬く間に音量を増していく。

 

遠くからこちら側に。下階からこの階に。

近付いているのだ。叫びを上げる『何か』が、全速力で、この場所に――。

 

 

「――!」

 

「っきゃ」

 

 

何も考えていなかった。

私は咄嗟に腕を掴んでいた黒髪女を抱え込むと、手近な個室へ飛び込み扉を閉じ、絶対に開かないよう背中を押し付け封をする。

 

タバコ女を気にしている余裕なんて無かった。

だって、絶叫はもう同じ階に、

同じ高さに、

直線上に、

隣に、

そこに、

 

――足音だけが、止まった。

 

 

「――ぎぅゅべ」

 

 

……それがタバコ女の声だったのか、それとも別の『何か』だったのかは分からない。

扉の外で常軌を逸した絶叫が木霊し続け、それ以外の音が掻き消されてしまったからだ。

 

 

あああああやめああああああああああああああああたずああああああああぃぎあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぇげああああああああああああぶじゅああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

 

 

あまりの声量に鼓膜が痛み、意識すらもが飛びかける。

 

何が起きている? 外は今どうなっているんだ?

私は胸の黒髪女に縋りつくように抱きしめながら、必死に息を殺し続けた。

動悸に押されて漏れ出す息遣いが二つ、終わらない絶叫の中に紛れていく。

 

 

「……っ、ぅ……、く……」

 

「はっ……っ…………」

 

 

……そうして、どれくらいの時間が過ぎただろう。

突然ぶつんと途切れるように絶叫が止み、沈黙が訪れた。

 

そして耳鳴りが甲高く残る中、聞こえて来たのは何かを引きずるような音。

 

ずちゅ、ぐちゅ。ずりゅ、ぐぷ……。

 

酷く水っぽい気泡混じりのその音は、少しずつ小さくなっていくようだった。

どうやらトイレの外に出て、遠ざかっているらしい。何がかは、分からないけど。

 

 

「…………」

 

 

数秒か、それとも数十分か。

私と黒髪女は動く事も出来ず、ただじっと抱き合っていた。黒髪の隙間から覗く藍色のイヤリングを、意味も無く注視する。

 

……とはいえ、いつまでもこうしている訳にはいかない。

私は黒髪女をそっと離すと身を屈め、個室の下、壁と床の隙間から外の様子を窺った。

 

 

「――ッ!」

 

 

目を瞠り、息を呑む。

すぐに立ち上がり、慎重に扉を開いた。

 

「あ」黒髪女が声を上げるが、少なくとも外には誰も、何も居ない事は確認出来ていた。

……そう、そうだ。『何か』は居なかったんだ、でも――。

 

 

「……ぐっ」

 

「ひっ……!!」

 

 

扉を開けた瞬間、私達を襲ったのはむせかえる程に濃密な鉄錆の匂い。

そして――汚らしく撒き散らされた、ぐちゃぐちゃとした赤黒い海。

 

きっと、タバコ女、だったもの。

 

 

「……ぁ? ぁ、あ――ぐ、おぇ……!!」

 

 

それを直視した黒髪女が嘔吐する音を聞きながら、震える手で小瓶を取り出し、中身をメモ帳へとふりかけた。

びちゃりと紙の上で踊るインクの音が、それの合図を告げている。

 

――命がけのかくれんぼが、はじまった。

 

 

 



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「眼」の話(中②)

3

 

 

 

トイレの出入口付近の汚れ方は、酷いものだった。

 

血と、肉と、骨と、臓腑の一部に、潰れた目玉。

細かな肉片として残るそれらが、床から壁、果ては天井にまでべったりと張り付き、吐き気を催す強い臭気を放っていた。

 

しかし一方で、出入口のドア自体は大した汚れもなく、小綺麗なままだった。

今は閉まっているけど、『こうなった』時はドアが開かれていたからだろう。タバコ女の直前の行動を思い出せば、たぶんそう。

 

――そして私は、そんなドアの隙間にメモ帳の一ページを差し込んでいた。

 

 

「……ま、まだ? 血だまりん中に立ってんの、かなりキツイんだけど……」

 

『ごめん、この角度だと廊下の奥がよく見えない。もう少しだけ右に捩る事は出来るかい?』

 

 

手元側の僅かな余白部分に黒いインクが走り、そんな文章を形作る。

言うまでも無く、インク瓶からだ。

 

どうも彼はメモ用紙を……というよりインクを通してこちらの景色が見えているようだが、今更一々突っ込まない。

その指示通りにメモ帳を持つ手を軽く捻れば、文字はやがて『大丈夫』の三文字に変化。それを見るや否や私は即座にその場から飛び退き、血肉に濡れた靴底をタイルでゴシゴシ擦った。もう履けないなこれ。

 

 

「ぐ……吐きそ……」

 

『嘔吐は意外と気力体力を消耗するから、この場を切り抜けてからにしときなよ。それよりも移動するなら今だ、早くした方が良い』

 

「……ここでじっとしてるの、ダメ?」

 

『ダメとは言わないが……そこに居て無事で居続けられる保証は無いよ。君達を襲ったという絶叫を上げる「何か」、いつ戻ってくるか分かったもんじゃないからね』

 

「う……」

 

 

ちなみに、私達に警察に頼るという選択肢は無い。

私もインク瓶も、無駄に犠牲を増やす趣味は無いという事である。

 

 

『危険があるというのは否定しないけど、僕としては即刻その場から離れ、建物からの脱出に動く事をオススメするよ。……ああいや、もしかして、どこかケガして動き辛いとかかい?』

 

「や、そういうワケじゃないけどさぁ……」

 

 

メモに浮かんだ文字列に私は小さく呻き、視線をトイレの奥、とある個室へと向ける。

 

 

「嘘……うそ、なのに。ほんとに……、……なんで……うそ……!」

 

 

その中から聞こえるのは、微かな嗚咽と呟きだ。

そっと覗いてみれば、そこでは黒髪女が酷く憔悴した様子で頭を抱え、震えていた。

声掛けしても反応は薄く、つい先程までの常に笑顔を浮かべていた様子が嘘のよう。

 

 

「……どうしたもんかな、こいつ」

 

 

私はインク瓶と繋がるメモ帳を胸に抱きつつ、音がしないよう溜息を吐いた。

 

 

 

――絶叫を上げる『何か』に、タバコ女がぶち撒けられた後。

すぐに小瓶とメモでインク瓶へと連絡した私とは対照的に、黒髪女は嘔吐した後しばらく呆然自失となっていた。

 

まぁ、起こった事がコトである。

こいつが望んだ事とはいえ、この惨状じゃこうなるのも仕方が無いとそっとしておき、私はインク瓶への状況説明を優先した。

そして彼の助けを借り、周囲の安全確認をしている最中。ふと彼女に意識を戻した時には、もう今の状態になっていたのだ。

 

最初は怖がっているのかとも思ったが、それにしてはどこか妙。

恐怖よりも、驚きや困惑の方が強く見える。

 

……幾ら私をここに無理やり連れて来た上スタンガンで脅してきたヤツとはいえ、流石にこんな状況に捨て置くのも、ねぇ。

私はチラチラとトイレの出入り口への警戒を続けつつ、再び個室の中へ声をかけた。

 

 

「なぁ、今なら近くにさっきの居ないっぽいからさ。戻ってこない内に早く逃げよ」

 

「そんな、どうして……ほんとに、こんな……うそだよ……」

 

「嘘じゃないって、この紙でちゃんと確かめて……いやこれたぶん違う事言ってんな。何なんだよこいつ……」

 

『ふん。大方、噓から(まこと)が出て焦ってるんだろうさ』

 

 

私の独り言にメモがカサリと反応し、どこかトゲトゲとした文章を表示する。

その意味がすぐには分からず、私の首が小さく傾いだ。

 

 

「えっ、と……?」

 

『君の話じゃこの子、自殺した友人の霊魂を視たんだろう。そしてそれを敢えて刺激して、自殺の原因となった奴らに復讐しようと考えて……で、その結果が今。合ってるよね?』

 

「う、うん……まぁ、はい……」

 

『それに関する説教は後に置いておくけれど――じゃあどうして、この子は無事なんだい』

 

「……と、言いますと……?」

 

 

文章の節々から馬鹿な真似した私達への怒りが滲んでいるのは分かるけど、何が言いたいのかは分からないままだ。

恐る恐ると問い重ねれば、インク瓶は『はああぁぁぁぁ……』とわざわざ文字での溜息を吐いた。ごめんなさい。

 

 

『おかしいだろう。こんな事を仕出かすくらいに自殺した友達を想っていたなら、霊魂を見かけた時点で接触しに行った筈だ。つまりさっきここに居たっていう「何か」と遭遇したんだ。なのに、全くの無事で済んでいるなんて事があるのかな』

 

「……あ」

 

 

確かにそうだ。

黒髪女の言い分に嘘が無ければ、もし友達の幽霊を見つけたら絶対会いに行った筈だ。

 

そして二階に居たアレが――タバコ女を惨殺したであろう『何か』がその友達の幽霊だったのなら、顔を合わせたその時点で、黒髪女は今ここに広がっているような血だまりになっていてもおかしくはない。

 

 

「……や、でも、友達同士だった訳だしさ。案外、その……」

 

『そういった関係が安全に繋がらない事は、君も分かってるだろ』

 

「っ」

 

 

――あはぁ。

いつか聞いた笑い声が脳裏をよぎり、目を伏せる。

 

 

『そもそも、絶叫を上げて人を惨殺したりするようなのに、友人を判別できる理性が残っていると思うのかい。今回の「何か」はまず間違いなく見境なしだ』

 

「私の体質……というか、()()()は関係ないんだよね……?」

 

『ああ。君は君の言うところのオカルトの呼び水にはなるけれど、その本質を変えてしまえるような存在じゃない。ただ見られているだけ。遭遇率は上がっても、起こる被害の内容自体は変えられない。忘れたの?』

 

「……や、その、念のため……」

 

 

怒っているせいか、いつもよりズバズバ来ている気がする。

メモから逃げるように、黒髪女へ目をやった。

 

 

「ええと……じゃあつまり、ここで友達の幽霊視たってのが嘘って事? いや、だったら何なんだよ、この人とか、さっき居たのとか……」

 

『まぁ予想は付くけど……とりあえず後にしよう。話の続きなら帰った後でも出来るだろ』

 

「話し始めたのあんたでしょうが……」

 

 

私はぶつくさ文句を垂れつつ、未だによく分からない事を呟き続ける黒髪女に溜息をひとつ。

そして僅かに迷った末、彼女の腕を引っ張りあげる。

抵抗や、ついさっきのように襲って来る事は、無かった。

 

 

 

 

 

 

恐る恐る、トイレのドアを開けてみる。

 

まず否応なく目に飛び込んだのは、べったりと血と肉片が塗りつけられたガラス窓。

その他廊下の壁と床もまぁそこそこに酷いもので、再び吐き気が昇って来る。

 

反射的に口元を抑えつつ左右を見るが、『何か』の影は無い。

インク瓶の言う通り、この近くには居ないようだった。

 

 

「……よし……」

 

 

酷い光景とはいえ、これなら窓ガラスに飛び散っている血肉が目隠しとなり、他の階から覗かれる心配は少ないだろう。

私と同じく吐き気を堪えている黒髪女を半ば引きずりながら、トイレから飛び出し――その時、足元に血を引きずった跡がある事に気が付いた。

 

 

「…………」

 

 

おそらくタバコ女の……身体というか残骸というか、そういった物を引きずった跡だろう。

その先を目で追えば、それは吹き抜け階段の方角へと続いていた。

 

 

「……ん」

 

 

ふと思い当たり、ガラス窓に張り付く血肉の隙間から、下階を覗き見る。

すると二階の例の扉、『何か』が頭を打ちつけていた扉が少しだけ開かれており、その隙間に血肉の線が伸びていた。

 

……あの部屋に、タバコ女を運び入れたという事だろうか。

何でだろ。想像するだに恐ろしい。

 

そうして慎重に視線を走らせるも、見える範囲内に『何か』の姿は無かった。

件の部屋にまだ居るのか、それとも既に部屋を出て建物内を動き回っているのか。足跡の類も無く、分からない。

 

 

『……ここから一番近い出口は?』

 

「窓……だけど、それ私だけしか無理だし。正攻法ならたぶん、来る時に使った受付前のエレベーター。血が続いてる方向とは逆」

 

『良かった、じゃあ経路はそっちだ。なるべく急ぎなよ』

 

 

インク瓶の文に頷き、血の筋に背を向けてそそくさと移動する。

この光景を見る限り、『何か』は吹き抜け階段をメインに使っていると見て良い。あっちに行けばバッタリ遭遇する可能性が非常に高く、そこから離れる足にも力が入った。

 

 

『ところで……ここには君達の他にもう三人、いや店員を含めればもっと居るようだが、彼らはどうするつもりだい』

 

「あ」

 

 

カサリと揺れたメモを見てみれば、思わず声が漏れた。

 

ヤバい、他のチャランポランどもの事完全に忘れてた。

今この状況でアイツらほっとけば、間違いなくタバコ女ルート直行だ。

 

だが正直に説明しても、絶対信じてはくれないだろう。

トイレの惨状を見せれば何とかなるだろうけど、連れてく途中で『何か』と鉢合わせれば、みんな仲良く全滅である。

 

というかヤツらのふしだらな目的からいって、私達が脱出の意思を見せた瞬間、妨害に走るんじゃなかろうか。説明する事すらリスキーだ。

 

どうしたらいいんだ、これ――そう頭を抱えていると、くいと弱々しく腕を引かれた。

振り返れば、黒髪女が青い顔でこちらを見つめていた。

 

 

「ね、ねぇ……もしかして、近くに居るの……?」

 

「え? ……あ、ああ、『何か』が? 今は居ないよ」

 

「……そう」

 

 

問いかけの意味が一瞬分からず虚を突かれたが、すぐに察して首を振る。

どうやら、さっきの私が零した「あ」を違う意味に捉えたらしい。

 

まぁインク瓶とのこの形での会話は、傍から見れば完全な独り言だ。

近くで聞いたら色々不安になるよな――と、そこまで考えて、違和感。

 

……黒髪女もオカルトが視えるヤツなんだから、居るか居ないかくらい自分で分かるよな?

私がメモ帳に話しかけてる事とかには触れず、最初に聞くのがそれなのか?

 

他にも幾つか引っ掛かるものがあり、じっと俯く黒髪女に目を眇める。

 

 

「……いや、今はそんなんじゃないな」

 

 

思考途中で首を振る。今はそんな事より、チャランポランどもの扱いについてだ。

とりあえず今の状態の黒髪女となら、少しは会話になるだろうか。私はダメ元で彼女に意見を求めるべく口を開き、

 

 

――がたん。

 

 

「!」

 

「っ――きゃ」

 

 

その時、廊下の先から音が鳴った。

私はすぐに手近にあった部屋へ黒髪女と一緒に飛び込んだ。そして音が出ないようドアを閉じ、さっきと同じくその隙間にメモの先を差し込んだ。

 

防音処理の施されたカラオケ部屋の中からでも、この方法なら問題なく外の様子を窺える。

特に示し合わせた行動でも無かったが、インク瓶も何も言わず、手元の余白に見えた景色を描写してくれた。「ありがと」と口の中だけで呟いておく。

 

 

『……廊下の突き当り、自動ドアから誰か出て来た。若い男が二人だ。一人はぐったりして、片方にもたれかかってる』

 

「えぇ……?」

 

 

どんな状況だそれ。新しい客か?

 

 

「えっと……そいつら、ピアスとかツーブロックとかアゴとかしてる?」

 

『アゴ……? まぁ確かに、ぐったりしてる方は長いアゴが特徴的だね。支えてる方は腰元に前掛けしてるし、店員なんじゃないか』

 

 

エプロンを前掛けと呼ぶジジイ臭はさておき、その報告に私は小さく安堵の息を吐く。

 

どういう経緯かは知らないが、アゴ男が店員に介抱されているらしい。

あのアゴはダメなアゴだが、ピアス男やツーブロ男とかち合うよりはまだマシだろう。

 

というか店員が居るのが大きい。

客である私達の言葉も無下にはしないだろうし、ピアス男達も店員の言葉であれば一応は聞く筈だ。

是非とも助けを求め、彼らの相手を押し付けたいところではあった。

 

 

「……ねぇ、店員の人さ、トイレのアレに気付いてる感じする?」

 

『いや、見たところ焦っている様子は無い。おそらく、まだ把握してないね』

 

 

ここからトイレまでには、幾つかの曲がり角がある。

位置が悪ければあの血だまりも視認する事は無いし、防音の効いた室内に居れば件の絶叫も聞こえ難かったに違いない。

ピアス男達が未だに駆け付けて来る様子が無いのも、おそらくそれが原因だろう。

 

 

「よし……じゃあちょっと行ってくる。パパっと言い包めて、逃げんの手伝って貰って――」

 

『待ってくれ。少し、動きが妙だ』

 

 

意を決してドアノブを僅かに引いた時、インク瓶がそう制止した。

その意味を問いかけるよりも先に、開いたドアの隙間から店員のものと思しき声が流れ込む。

 

 

「――……んでトイレと逆いってんだ、こいつ……」

 

 

それは到底客にかけるものとは思えない、酷く醒めた声だった。

 

こっそり頭を出してみれば、店員が廊下の角にアゴ男を放り投げている所だった。

「ごげっ」と壁に頭を打ち付けたアゴ男の悲鳴が響き、そのまま角の向こう側、私の死角に転がった。

 

 

『……僕はカラオケ店にはあまり明るくないんだけど、その店員ってああいうのが基本なのかい?』

 

「んな訳ないだろ。や、まぁ、こんないかにもな店のモラル的なのは私も分からんけど……」

 

「――あの人、たぶん先輩らとグルだよ」

 

 

店員の暴挙にインク瓶と一緒になって引いていると、いつの間にか私の頭上から頭を出していた黒髪女がそう呟いた。私の疑問を察したらしい。

 

……少しだけ迷った後、彼女を見上げる。

 

 

「……グルって?」

 

「あの子に乱暴した一人。ここの店員面して、飲み物用意する時に何か入れる役じゃないかな」

 

「え? でもあんた下手人は四人って言ってたろ。ピアス、ツーブロ、タバコ、アゴで……」

 

「……そのアゴ君はたぶん、何も知らないスケープゴートだよ。もしやった事がバレちゃった時に、こいつがやったんですって突き出される役」

 

 

黒髪女は私の彼らに対する呼称に微妙な顔をして、そんな事をのたまった。

 

 

「えぇ……?」

 

「アゴ君、ベロベロでしょ。でも見てた限りじゃ、彼もお酒飲んでないの。ワタシ達と同じで何か盛られて、朦朧にされてる。あんな状態で店員含めた皆に口裏合わせられたら、自分でもホントの事なんて分かんないよ」

 

「でも襲われた人が……あ、そうか、写真撮られて、脅されたら……」

 

「……あの子の時は、アゴ君の位置に違う男の子が居たみたい。メールに書いてあった」

 

 

静かに呟く黒髪女は、それなりに落ち着いたようだった。

店員を睨む瞳は変わらず濁り、顔色だって酷いままだったけど、これまでと違って会話はちゃんと成立している。なんか逆に変な気分だ――と、

 

 

(っと、やべ)

 

 

そうこう話をしている内に店員がいきなりこちらに振り向き、咄嗟に黒髪女と共に頭を引っ込めた。

開いたドアはそのままだったけど、幸い彼は私達に気付かなかったらしく、気だるげな足音が遠ざかる。

 

その方向からして、目的地は私達が借りている部屋だろう。ピアス男達と合流する気のようだ。

……ちらりと、黒髪女を見る。

 

 

「なぁ、どうする、あいつら」

 

「…………」

 

「あの店員もグルってんなら、助け求めてもダメっぽいよね。他の店員もいないっぽいし、正直逃げろって促すのすら無理そうなんだけど……」

 

 

私の問いかけに、黒髪女はだんまりだ。

まぁ彼女の目的ははじめから復讐だ。現状望んだ通りになっており、助けるなんて選択肢は無いだろう。

 

正直私も見捨ててやりたいところだけど、確実に死ぬと分かっててそうするのも……。

そうして互いに沈黙したまま、どこか冷たい空気が流れ――。

 

 

――びた。

 

 

「ッ!」

 

 

裸足で床を打ち鳴らすような、湿った音。

店員の居る反対、さっき私達が来たトイレの方角からその音が響いた。

 

――『何か』が、来た。

そう察した私は即座に身を跳ねさせ、ドアの隙間もそのままに黒髪女と横の壁へと張り付いた。

 

 

「ぅぐ、ちょ、な――」

 

「分かってんだろ、来てるんだよ……!」

 

「……っ」

 

 

黒髪女は気付かなかったらしく少しだけ暴れたが、耳元で呟けば大人しく息を潜めた。

そして先程のように、互いの息遣いが響き続ける間が出来上がる……が、今回はそこに男の声が混じり込む。

 

 

「あ~……どっちからいくかな~……」

 

「……!」

 

 

無論、店員の声だ。

鼻歌混じりのそれには緊迫感の欠片も無く、寒々しく上滑りしていく。

 

 

「上、下……どっちか一発目、欲しいなぁ……」

 

 

もう絶対ピアス男の仲間だアイツ。

おそらく最低の呟きをしているのだろうが、私達はそれどころではなかった。

 

びた、びたという足音は確実に大きくなっていて、下手に動けず、声も出せない。

どうする。このままでは店員のヤツも死ぬ。だが声掛けして『何か』に気付かれたら私達も……。

 

……いや、まだあの絶叫が上がってないって事は、彼は『何か』の視界に入っていない。まだ見えない位置に居るんだ。

なら間に合うかもしれない。今の内に、さっさと彼が部屋に入ってさえくれれば――。

 

 

「っ、いやアゴ男……!」

 

 

そうだった。あのアゴは廊下に放り捨てられたままだった。

 

しかも黒髪女の話が正しければ、彼はピアス男達の被害者の一人と言っていい。

店員に関しては最悪しょうがないとしか思えないけど、彼を見捨てるのは違う気がした。

 

私はすぐに黒髪女から身を離すと、再びドアの隙間にメモ帳を差し込んだ。

 

 

『おい君――ああいや、いい。「何か」はまだ曲がり角の向こうみたいだ、行くなら早く!』

 

 

礼を言ってる間も惜しく。

そのインク瓶の文章を見た瞬間、私は部屋を飛び出した。

 

店員はこちらに背を向けているが、バレれば非常に面倒な事になる事は分かっている。

気付かれないよう足音を殺し、しかし出来る限りの速度でアゴ男へと駆け寄った。

 

 

「んぐ……ふへへ、へへ……」

 

(のんきに寝てんじゃねーぞノータリン……!)

 

 

その空気を読まないニヤけた寝顔に殺意が沸いたが、ぐっと堪えて我慢の子。彼の肩口に身を滑り込ませ、無理矢理に身体を持ち上げる。

高めの身長の割に肉はあまり付いてないらしく、思ったよりも軽かった。私の膂力であれば余裕すらもって運べるだろう。

 

 

――びた、びた、びた。

 

 

「……ッ!!」

 

 

廊下の曲がり角、その奥。

すぐそこにまで迫った音に総毛立ちつつ、必死に元居た部屋へと走る。

 

その際アゴ男の色んな部分が床に擦れたが、店員は気付いた様子が無い。ピアス男たちの居る部屋まで、あと数歩の所まで行っている。

これなら私もあいつも間に合う。一足早い安堵に息を吐きながら、私はアゴ男を部屋に運び入れ、

 

――その時、部屋の中から大きな音が鳴った。

 

 

「んな――」

 

 

椅子か何かが倒れたような、ガタンという音だ。

騒音とまではいかないけれど、この静かな廊下にはよく響く。

 

当然、店員はそれに反応し、こちらへと振り向いて――アゴ男を抱えた私と目が合った。

 

 

「……!? な、おまっ――お、お客様? それはどういう、」

 

「――――」

 

 

全てを聞き終える前に、全力で床を蹴った。

 

もう音を気にする意味も無い。

私は体当たりの要領で部屋へ突っ込むと、そのままアゴ男を床に放り投げ「んげっ!?」叩き付けるようにドアを閉じ切った。

 

 

「っ……お、おい、あんた――」

 

「椅子、倒しちゃった」

 

 

そうして黒髪女を睨めば、彼女は眼を合わせる事無くそう呟いた。

その足元には、確かに薄汚れた椅子が横倒しになっている。なっている、けれど、

 

 

『……もう、だめだね』

 

「!」

 

 

問い詰めるより先にメモ帳が蠢き、そう告げた。

 

見れば、ドアの中央部分に嵌る磨りガラスに、店員のものと思しきシルエットが浮かんでいる。

どうやら私達を追ってきたようで、ドアノブがガチャリと乱暴に下がり、

 

 

――次の瞬間、磨りガラスが真っ赤に染まった。

 

 

「っ……」

 

 

ドアノブが弾かれるように元に戻る。

同時にドア自体が小刻みに揺れ、部屋の前で何かが暴れている事が察せられた。

 

……だが、音は届かない。

質の高い防音機能が外界の音を断ち、誰の声も、飛び散る音も聞こえない。

 

いや、耳をすませば、微かに声のようなものが聞こえる気がしたけど――それが誰のものかは、私の耳でも判別がつかなった。

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

私も黒髪女も、一言も発さない。

無言のまま、ただ立ち続け――やがてドアの揺れが止まった。

 

……何か。

何かを言ってやりたかったけど、上手く言葉が出てこない。

 

私は暫く唸った挙句、喉を閉じ。ひとまず切り替え、またドアの隙間にメモを挿す。

『……居ないよ』と返ったメモをドアの隙間から引き抜けば――そこには、血がべっとりと付着していた。

 

 

「……なぁ……」

 

 

未だ意識を取り戻さないアゴ男を引き起こしながら、黒髪女を見やった。

 

返事は無い。

彼女は変わらず濁った眼をして、じっとドアを――磨りガラスの赤を見つめている。

 

……その口元に浮かぶ微かなそれを、私はどうしても咎める事が出来なかった。

 

 

 



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「眼」の話(中③)

 

 

 

『……死体、やっぱり持ち去られてるみたいだね』

 

 

廊下に出た直後、インク瓶はそう小さくメモを揺らした。

 

足元に広がる肉片混じりの血だまりに吐き気を堪えつつ見てみれば、確かに廊下の奥に向かって血の筋が続いている。

近くに店員の死体は見当たらず、彼の死骸もタバコ女と同じく例の部屋に運ばれてしまったようだ。

 

 

「うぷ……で、でも、なんで死体なんか……?」

 

『さぁ。まさか食べるなんて事は無いだろうけど……』

 

 

インク瓶も分からないようで、メモの文字が小首の代わりに傾いた。芸が細かい。

 

とはいえ今はのんびり現場観察をしている場合でも無い。

私は血だまりに浮かぶ潰れた目玉から目を逸らし、抱えるアゴ男を担ぎ直して室内で俯く黒髪女を振り返る。

 

 

「ぅ……、……」

 

 

その顔色は蒼白で、呼吸は荒い。言うまでもなくこの惨状のせいだろう。

既にタバコ女のものを見ているとはいえ、やはり慣れるものでも無い。

 

……しかしよく見れば、その口端が微かに上がっているのが分かる。吐き気に苦しんでいるのと共に、笑ってもいるのだ。

自然と、彼女の足元に転がる椅子に目が向いた。

 

 

「…………」

 

 

続いて、廊下の角。ピアス男達が居る筈の部屋を見る。

 

ドアの磨りガラスから何色かの光が漏れており、男二人でまぁまぁ盛り上がっているのだろう。

あの部屋も『何か』の絶叫をシャットアウトしていたようで、彼らが異常に気付いた様子は無かった。

 

 

「…………」

 

 

もう一度振り返り、黒髪女を見る。

更に振り返り、ピアス男達の部屋を見る。

 

私は少しの間迷い、一度だけぎゅっと目を瞑り――。

 

 

「――ああもうっ!」

 

「え、きゃっ!?」

 

 

迷いを振り切るように声を上げ、アゴ男を担ぐ腕とは逆の手で強引に黒髪女の腕を引く。

そしてそのまま部屋を飛び出しエレベーターに向かってダッシュ。私達の衣服が血だまりで派手に汚れるけど、もういちいち気にしてられない。

 

――ピアス男達の部屋は、無視をした。

 

 

「っ、ねぇ、先輩ら、見捨てるのぉ? ひどいんだぁ……!」

 

「うっせー! さっさとあんた逃がすのが一番マシなんだよ!」

 

 

息を切らせながらの煽りに、そう返す。

 

先ほど椅子を倒したあの一件。

黒髪女は偶然だとでも言いたげに涼しい顔をしていたけど、んな訳あるか。

明確に店員への殺意を持った行動だ。

 

もしこれからピアス男達に危険を知らせに行き、あまつさえ行動を共にするなんて事態になりでもしたら、この女はまず間違いなく似たような事をやらかすだろう。そんな顔をしていたのだ。

 

ならば、このままピアス男達を無視して逃げに走った方がなんぼか良い。

 

幸い……とは言いたかないけど、彼らの部屋から見える位置には店員の遺した血だまりもある。

帰りの遅い私達に釣られるなり何なりで部屋を出た際アレを見れば、ピアス男達も説明なしで逃げ出してくれる筈だ。

 

あとはそれぞれの行動と運次第。一番の地雷はこっちで引き受けてやるんだから、死ぬも生きるも自己責任でどうかひとつ。

……そう考えれば、私としても見捨てていく罪悪感は多少減る。

 

 

「っで、でも、先輩らの部屋でっ、見つかったら、逃げらんないよ、ねぇ……!」

 

「そんなんまで知らん! そこまでいったらあいつらの日頃の行いが悪かったせいだ! つーか、あんたとしちゃそうなった方が嬉しいんだ――ろっ!!」

 

 

言い合いながらも店の受付に辿り着き、エレベータールームのボタンに頭突きをかます。

両手が塞がっているが故の無作法だ。

 

私達しか客が居ないため、扉は当然すぐに開く。

私はすかさずその中に黒髪女を投げ入れると、彼女の両手を抑えるよう、アゴ男で壁にぎゅうと押し付けた。

 

 

「うあっ……く、くるしー、タマちゃんひどーいぃ……」

 

「こうなると、またスタンガン使われそうで怖いんだ。アゴが嫌だったらこっち渡しなよ」

 

『そりゃそうだ』

 

 

しかし黒髪女はスタンガンを渡そうとはせず、むしろポケットの中で握り込み死守の構えを見せた。いい度胸だなこの女。

 

とはいえ私も今はそれ以上の無理強いはせず、扉横のボタンを押した。

このエレベーターは扉にガラス窓が付いているタイプだ。もし『何か』が他の階を徘徊していた場合に備え、外から見えないよう端に寄っておく。

ついでに、黒髪女へ余計な体重をかけて腹いせを――。

 

 

「……っ!」

 

「…………」

 

 

下から上に流れた景色の中に、白い影を見た。

場所は三階。一瞬だったためよく分からなかったが……例の部屋に死体を運ぶ途中だろうか。

いや、それらしき赤い物は見えなかったから、運び終えた後かも――と、考えている内にエレベーターが一階に到着。電子音と共に扉が開いた。

 

 

「……来ないか」

 

 

そのまま待機し耳を澄ませたが、湿った足音は聞こえない。

エレベーターが通り過ぎた事に気付かなかったのか、それとも追う気が無いのか。反応が無ければ無いで不気味ではある。

 

 

「ねーぇ。着いたんならアゴ君離してよー。いい加減キツいな~」

 

 

すると黒髪女がそう愚痴り、イヤイヤと身動ぎをする。相当にイヤそうだ。

 

まぁ気持ちは分かるが、はいそうですねとアッサリ頷ける筈も無く。

とりあえず、今のうち多少強引にでもスタンガンを奪っておくべきだろう。私はアゴ男を押し付けたまま、ポケットに入る彼女の腕に手を伸ばし、

 

 

「んー……しょうがないなぁ。じゃあ、はい」

 

「……え?」

 

 

唐突に。

黒髪女がポケットに入れた腕とは反対側の腕を振り、そこに握られていたスタンガンを床に放った。

 

カシャンと壁際にまで滑っていくそれに一瞬身体が固まったけど、黒髪女はそれ以上動こうとはしなかった。

……さっきの頑なな様子とはえらい違いだ。私は床のスタンガンを油断なく視界の端に入れつつ、改めて彼女を睨む。

 

 

「……今度は何考えてんの?」

 

「ん~……」

 

「そのポケットに入れてる手。スタンガンじゃなかったんなら、何?」

 

「さぁ~……」

 

 

また会話が通じないモードに入りやがった。

私は額に青筋を立て、今度こそ力づくでその腕をポケットから引き抜いた。

 

 

「……スマホ?」

 

 

すると握られていたのは、黒髪女自身のスマホだった。

直前まで何かしら操作されていたらしく、画面には光が灯ったままだ。

そしてそこには、とあるメッセージアプリが開かれていて――そこに映るやり取りを認めた瞬間、私は思わず声を上げていた。

 

 

「――っ!? あ、あんたッ!」

 

「んぐ……う、ふふ」

 

 

思わずアゴ男を押し付ける力も強まってしまったけど、黒髪女は相変わらず濁った眼をして微笑むだけ。

そのくせ顔色だけは多分息苦しさとは別の理由で蒼くしていて、それがどうにも腹が立ち、

 

 

――うわああああああああああっ!?

 

 

「!」

 

 

その時、エレベーターの外から男の叫び声が木霊した。

 

私はすぐにアゴ男を担ぎ直すと、手を掴んだままの黒髪女を引っ張り外へと走り出す。

その直後にエレベーターの扉が閉まり、上階へと上がって行く。誰かがボタンを押して呼び出したのだ。

 

 

『外が大変な事になってるから、逃げて下さい』――先程のメッセージアプリに映っていた文章である。

 

そしてそれが送られたグループは、ピアス男達とのもの。

つまり黒髪女は、彼らを敢えて部屋の外に誘導するようなメッセージを送信していたのだ。

 

エレベーターでの下降中、器用にもポケットの中だけでそれを成していたのだろう。

そしてそれを受け取ったピアス男達は、メッセージに誘われ部屋を出て――おそらくすぐ近くに広がっていた店員の血肉を発見し、さっきの悲鳴を張り上げたのだ。

 

事実、扉横に表示されているエレベーターの階数は、四階で止まっている。

ほぼ間違いなく、逃げ出そうとする彼らによるものと言っていい。

 

普通に考えれば、エレベーターはすぐにまた出口のある一階に戻って来る筈だが――。

 

 

「……っ」

 

 

しかし、動き始めた階数表示は三階で止まってしまった。

黒髪女を振り返れば、彼女は悪びれた様子もなくコツンと自分の頭を小突く。

 

 

「――間違えて、一階に降りたら危ないよって書いちゃったからかなぁ」

 

 

……メッセージで誘導していたのは、部屋の外に出る事だけじゃない。

『一階は危ない、三階なら安全だ』――そのような趣旨の事まで書かれていた。

おそらく、黒髪女はエレベーター内での私の反応から『何か』の居る位置を特定していたのだろう。

 

ピアス男達がメッセージの警告に従うかは五分五分だった。

だけどこうなったら、もうダメだ。

 

さっき見た時、白い影はエレベーターの中から見える位置にあった。

それはつまり、向こうからもエレベーターの内部に眼が届くという事で――。

 

 

 

 

ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

 

 

 

 

――絶叫が、轟いた。

 

 

「っぐぅ……!」

 

「あぅぅ……!」

 

 

防音ドアに遮られずに響くそれは階を隔ててもなお酷い騒音で、鼓膜から頭の中を揺さぶられるようだった。

アゴ男と黒髪女で両手が塞がれている私は耳を抑える事も出来ず、ただ耐え忍び……やがて、ぴたりと絶叫が止まった。

 

 

「…………」

 

 

そしてまた酷い耳鳴りが残る中、エレベーターが動き始めた。

 

誰かがそう操作した訳では無く、結果的にそうなっただけなのだろう。

だってエレベーターは直に一階に来ず、わざわざ二階で止まっている。きっとボタン全てが押されてしまうような事態が、エレベーター内部で起こったのだ。

 

二階から一階。階数表示が切り替わる。

 

何かを引きずる水っぽい音が、上階の方から聞こえている。

私はその場から動かないまま、エレベーターの到着を待ち、そして、

 

 

「、っぐ」

 

 

――電子音と共に開いた扉の中は、人間の中身で穢れ切っていた。

 

床も壁も余すところなく血肉で溢れ、べったりと赤黒く染め上げられ。更には天井からは砕けた臓腑の欠片や潰れた目玉などが、未だぼたぼたと音を立てて垂れ落ちている。

 

……そんな生物の体内じみた光景の中、唯一金属の光を保つものがあった。

血だまりの中に浮かぶ千切れた耳、その朶に辛うじて繋がる銀の光。

 

――血液と脂に塗れたメタルピアスが、ぬらりと血玉を弾いていた。

 

 

「――くそッ!」

 

 

それを見た瞬間耐え切れなくなり、全速力で駆けだした。

 

 

「きゃぁっ、う、速……!」

 

「ごがっ、ぐげっ、えなっ、おぐっ」

 

 

手を引く黒髪女が足を縺れさせ、担ぐアゴ男の頭がガクンガクン揺れるけど、もう気にかけてもやらん。

どうせすぐそこが出口なのだ。『何か』がピアス男の死体運搬をしている隙に、さっさとこのビルから脱出してしまえ。

 

残るツーブロ男の安否は知らないが、流石に知ったこっちゃない。

むしろこの場から黒髪女を遠ざける事が、私が今彼に出来る手助けと言っても過言ではなかろう。

 

……なんて屁理屈捏ねて通路を突っ走る内、前方に大きな自動ドアが見えた。

ガラス張りの向こう側には、平穏な外界が広がっている。私は安堵を胸に更に加速し、半ば体当たりをするように肩のアゴ男ごと自動ドアへと突っ込んで、

 

 

「ぐえぇっ!?」

 

「うわっ!?」

 

「きゃあ!?」

 

 

しかし開かず、弾かれた。

 

私とドアとに挟まれた形となったアゴ男がカエルの潰れるような声を上げ、勢いのまま床に転がった。

彼のクッションのおかげで私と黒髪女はよろめいただけで、大した痛みも無かったが……これはどういう事だ。

すぐ立て直し、自動ドアに飛び付きこじ開けようとしてみるも、ビクともしない。まるで壁だ。

 

 

「な、なんで……まさかピアス男達が予め……?」

 

『……いや、そういったものじゃないね。たぶん君の言うオカルトの領域で封鎖されてる』

 

 

私と黒髪女を逃がさないようにというチャランポラン共の悪だくみを疑った時、またメモが揺れた。

そこに記された割と洒落にならない推測に、ひくりと頬が引き攣った。

 

 

「はっ? え、閉じ込められてるって事か? ホラー映画みたいな感じで!? 嘘だろ!?」

 

『さっきからドアが軋む音ひとつ立ててない。完全に固定化されてる』

 

「ここまで来てそんなん無いでしょ!? このっ……でりゃあああ!!」

 

 

一度下がって助走をつけ、渾身の飛び蹴りを放つ。

 

私の身体能力は少しばかり常人の域を外れている。

全力の蹴りで砕けないガラスなど、それこそ防弾ガラスくらいの筈なのだが――。

 

 

「――んがぁっ!?」

 

 

割れなかった。

ドアにはヒビの一つも入らず、それどころか軋みもたわみもしやしない。

そして下手に飛び蹴りなんてしたもんだから、逃せなかった衝撃がそのまま私に跳ね返ってくる始末。ごろごろと床を転がり、足を抱えて細く唸る。

 

 

「いっ……てぇぇぇぇぇぇぇぇ……!!」

 

 

ひぃひぃ言いつつ軽く足首を診るが、幸い捻挫も何もしていないようだった。

私の身体が頑丈だからこれで済んだけど、そうでなければ蹴った足がポッキリ折れていただろう。

 

 

「ぐ……くそ、だったら他の場所から……!」

 

『この分じゃどの扉も似たような感じだろう。ちょっと難しいかもしれないな』

 

「んな他人事みたいに!」

 

 

文章相手だと感情の機微が伝わり難く、言葉がどこか軽く感じてしまう。

思わずインク瓶へ怒鳴りかけた時、『少し待ってくれ』との文章が浮かび、留まった。

 

 

『一応、既に君の親御さん達には助けを求めてある。彼らが到着すれば、何とかなるかもしれない』

 

「え、そ、そうなの……? つーかそんならやっぱトイレでじっとしてた方が良かったんじゃん……!」

 

 

そうすれば、その内勝手に助かったじゃないか――言外にそう文句を付ければ、しかしインク瓶は小首を振るように文字を左右に振り、

 

 

『……残念だが、君の親御さんの持つ力は自身が危害を与えられないと発動しない受動的なものだ。場所の出入りを阻む封鎖を解くといった能動的な行使は、彼らには少し難しいと思われる』

 

 

それはつまり、そもそもビル内に入って殺されに行く事が出来ず、事態の解決が出来ないという事である。

僅かに抱いた希望が砕ける音が聞こえた。

 

 

「それ助け来ても意味ないじゃん!? どうすんだよぉ!」

 

『何とかなるかもしれないって言っただろ。こうなる可能性込みで、建物からの脱出に動く事をオススメしたんだ』

 

「はぁ? どういう――」

 

 

――びた。

 

 

「っ」

 

 

その時、湿った足音が耳を擽った。

咄嗟に天井を見上げれば、おそらく二階のどこかで動き回る『何か』の気配を感じ取る。

 

 

「……遠い、か?」

 

 

聞こえた足音は小さく、多少は離れた場所に居るらしい。

耳を澄ますが、何かを引きずる水っぽい音は聞こえない。どうやら、ピアス男の死体は既に例の部屋に放り込み終えているようで――と。

 

 

――びた、びたびたびたびたびたびたびたびたびたたたたたたた。

 

 

「は、っ……!?」

 

 

次の瞬間、足音が連続した。

絶叫は無い。しかし短い間隔で繰り返されるそれは明らかに走っているそれであり、吹き抜け階段の方角へと向かっていて、

 

――来る。

 

瞬間的にそう察した私は、半ば無意識の内に走り出していた。

 

 

「え? どうし――」

 

「いいから走れっ!」

 

 

黒髪女の手とアゴ男の足を引っ掴み、「んがっ、おぐっ」引きずりながら通路を駆ける。

そして手近なドアを片っ端から開けようとするけど、その全てに鍵がかかっていた。どうも四階以外は本当に使われていないらしい。

 

そうこうしている間にも足音は続き、気付けば同じ階から聞こえるようになっていた。

 

足音が大きくなっていく。間違いなく近づいている。

絶叫が無い。まだ完全に見つかってない?

でもダメだ。隠れ場所が無い。

捕まったらきっと足の皮だけじゃ済まない。

足音が。来る。見つかる。

まずい、まずいまずいまずいまずい――。

 

 

「!」

 

 

一つだけ開いたドアがあった。

 

何の部屋かを確かめている余裕も無かった。

私は黒髪女とアゴ男共々縺れるように室内へと転がり込むと、即座にドアの鍵をかける。

 

四階の防音ドアと違い、左半分に磨りガラスが嵌め込まれているだけの普通のドアだ。

私はガラスを避けるよう部屋の右側に黒髪女たちを押し込み、身体を縮めて乱れた息を必死に殺し、

 

 

「――ひ」

 

 

――磨りガラスに白い影が映り込むと同時、足音が止まった。

 

……来た。

ドアノブは動かず。絶叫も無く。

ただ、ドアの前に佇んでいる――。

 

 

「……、……っ」

 

 

曇ったガラスの向こうで白い影が揺らめく度、私の身が小さく跳ねる。

 

だが、幾ら待てども、『何か』が部屋に入ってくる様子は無かった。

音も無くそこに立ち、磨りガラスにその姿を映し続けるだけ。

 

見つかっていないのかとも思ったが、そんな筈は無い。

そうであれば、さっさと他の場所へと移動している。

 

なら、何で動かないんだ。何もしないなら向こう行けよ――そう歯噛みしていると、無意識に握り締めていたメモがカサリと揺れた。

 

 

『……見られてはいないが、存在を気取られているね』

 

(み、見つかってるってこったろそれは……!?)

 

『いや、アレにとって重要なのは眼で見る事なんだろう。君達を視認しない限りは、直接的に危害は加えて来ないのかもしれない』

 

(……襲うために部屋までは入って来ない、って?)

 

『現状がそうなってるのだから、おそらくはね。問題は何らかの理由でドアが開かれ君達を視界に入れた時、間違いなく惨殺しに来るという事だ』

 

(問題どころの話じゃねーわ……!!)

 

 

小声で叫び、またドアを見る。

 

分かっちゃいたが、やはりあの板切れ一枚が私の全生命線だった。

鍵をかけているとはいえど、ドアの前に居る『何か』にとっては無いも同然だろう。いつ気が変わって破られるか気が気ではなく、冷や汗が止まらなかった。

 

 

『……この部屋に人が通れる窓か裏口のようなものはある?』

 

(え? ……な、ない)

 

 

問われて改めて部屋を見回せば、ここはどうやら何某かの倉庫部屋のようだった。

とはいえ既に空き部屋となって長いらしく、荷物の類は見当たらない。

 

窓は天井付近に明り取りのものが一つだけあるけど、私ですら身を通す事が出来ない程に小さなものだ。

裏口らしき扉も無い。唯一の出入口を塞がれている現状、完全な密室空間である。

 

 

『……参ったな。これじゃ助けが着いても出られない』

 

(ちょ、待っ、は、話が違――!)

 

「――ねぇ、今どういう状況なの?」

 

 

とんでもない事を零したインク瓶へ詰め寄ろうした時、背中側から声をかけられた。

黒髪女だ。彼女は状況にそぐわない緊張感の無い顔で、私の持つメモ帳を覗き込んでいた。

 

 

(ど、どういうって……見りゃ分かるだろ!? あと声が大きい!)

 

「……、……聞くタイミング逃してたんだけどさ。そのメモ帳、何なの? ずーっと独り言ばっか言ってるのって、何かウゴウゴしてる字と会話とかしてる感じ? 誰と話してんの? ほんとにオカルトなんだぁ、すごいね」

 

(だから話聞けよ!? 急に会話通じないモードになるのやめろよマジで――)

 

『やめときなよ。そうやってはぐらかしてるだけなんだから、真面目に相手したって時間の無駄だ』

 

「……っ」

 

 

突然、インク瓶がそんな文章を記した。

それが目に入ったのか、黒髪女の表情が硬くなり、言葉も止まる。

 

 

「……えっと、はぐらかすって……何が?」

 

『分からないのかい? こんなにもあからさまだろうに』

 

 

インク瓶はこちらを馬鹿にしたような文章を残すと、すぐに崩し。

直後、新しい文章を組みなおす。即ち、

 

 

『――その娘に霊視の力は無い。霊魂も何もかも、最初から欠片だって視えていないんだよ』

 

「は?」

 

 

反射的に、黒髪女へ振り向けば。

私と同じ文章を見ている筈の彼女は反論の一つも無く、ただ静かに目を伏せていた。

 



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「眼」の話(中④)

4

 

 

 

インク瓶の言う通り、部屋の前の『何か』は直接的な行動は何もして来なかった。

 

ただドアの前に佇み、私達の気配を追っているだけ。

部屋に無理矢理押し入る事も、叫んだり、何かを呼び掛けて来る事も無く、静かなものだ。

 

私や黒髪女の声、アゴ男の寝言にも一切の反応は無く、本当に見られさえしなければ襲われる事は無いらしい。

おかげで、多少は冷静になるための時間も作れていた。

 

 

『とりあえず、下手にちょっかいをかけて動かれてもまずい。アレが自分で扉の前からどくのを静かに待とう』

 

「……動く様子、無いんだけど」

 

 

インク瓶の言葉にドアのすりガラスを見れば、やはり白い影は揺らめいたままだ。

移動する気配など欠片も無く、不安が募る。

 

 

『だが今はそれしか無い。イザとなったら外側から気を引けないか試してみるから、大人しくしといてくれよ。特に……』

 

「わ、分かってるよ……アイツらね」

 

 

ちらりと背後、ぼうっとした様子でドアを見つめている黒髪女と、相変わらず寝こけているアゴ男を見る。

 

アゴに関してはあんな様子だし、ほっといても良いだろう。

だが問題は黒髪女の方だ。ツーブロ男の安否が定かではない現状、また突拍子もない行動を起こされる可能性がある。

 

既にスマホは取り上げて電源も切っているため、もう下手な事は出来ないだろうが……それでも不安が拭えない。

もしトチ狂ってドアを開けられでもすれば最悪だ。私は彼女とドアを遮るように身を置きつつ、警戒を深めておく。

 

……ピアス男と一緒に死んでたら面倒ないんだけどな、ツーブロ男――なんて事は露ほども思っていない。本当です。信じて。

 

ともかくとして、そんな私にインク瓶は紙面に表示した『よし』を上下に動かした。頷いたつもりのようだ。

 

 

『それと、もしこの部屋を出られたら、さっきの入口に向かってくれ。それが無理なら他の場所でも良いが……出来れば、どこの窓や出口を使うかは正確に伝えて欲しい』

 

「ん、そうする……」

 

 

よく分からんけど、きっと脱出に必要な事なんだろう。

私はとりあえずそう頷くと、メモから視線を離し再び黒髪女を見る。

 

彼女は私を通り越して後ろにあるドアを見つめていたようだったが、私の視線に気が付くと、濁った眼を合わせて小さく笑った。

 

 

「も~、そんな怖い顔しないでよぉ。ワタシもう何も出来ないんだからさ」

 

「安心できるワケねーだろ。自分のした事思い出せっての」

 

 

渋面を作ってそう吐き捨てるけど、黒髪女の表情は変わらない。

すっとぼけたように小首を傾げ、またドアを見つめる姿勢に戻る。あんな怖いもんよく見続けられるな。

 

……そうしている内だけは瞳の濁りが薄れているようにも見えて、私はそれ以上文句をつける気を失った。

私はその場から動かないまま、彼女の視線からズレるようにしゃがみ込む。

 

 

「ありがとね」

 

「……ふんっ」

 

 

何故か礼が返ったが、知らん。

そのまま二人して黙り込み、後にはアゴ男の寝息だけがいやに大きく響き続ける。

 

 

「……視えないのに、とか思ってる?」

 

 

突然、黒髪女がそう呟いた。

その視線は相変わらずドアの磨りガラスに注がれていたけれど、定める焦点が見つからないかのように揺れている。

 

――黒髪女は、霊視能力を持っていない。先程、インク瓶が告げた事実だ。

 

聞いた時は何を馬鹿なと思ったが、振り返れば心当たりしか見当たらない。

トイレに行く道中、二階に白い影を見つけた時。

タバコ女が死んだ後、手を引いて廊下を歩いている最中。

どのタイミングでも彼女は『何か』を認識できていなかったように思える。

 

唯一、その絶叫だけは聞こえていたようだったけど、逆に言えばあれ程激しいものでなければ認識するに届かなかったという事だ。

 

つまり――二日前に私に語った「バスの一件以来変な物が見えるようになった」から始まるくだりは、その殆どが嘘となる。

マジでとんでもねぇ女だなと、今更ながらにゾッとした。

 

 

「……何でそんな嘘ついたんだよ」

 

 

黒髪女の呟きに答える形として、そう問いかける。

 

 

「今まで見る限り、友達が乱暴されたとかはホントなんだろ。犯人があのピアス男達とか、復讐とか、そういうのとかもさ」

 

「そーだよ」

 

「じゃあなおさら意味分かんないよ。何も視えなくて、ここで友達の幽霊視たってのも嘘だってんなら、私呼ぶ意味ないじゃん。オバケを元気にしろって頼みだったのに、そのオバケ自体が居ないんだからさ。……いや居たけど、そりゃ結果論ってヤツだし」

 

 

そう、彼女に霊視能力が無いのであれば、「このビルに友達の幽霊が居る」という前提自体が崩れ去る。

真実はどうあったにしろ、その時点で私を呼ぶ必要性は無くなるのだ。彼女の中では、ここに友達が居るかどうかすら分かっていなかった筈なのだから。

 

……なのに、わざわざ私を探し出し、嘘を吐いてまで強引に巻き込んで来るというのはどうなんだ?

 

まぁ視えなくても、ここに友達の幽霊が居ると最初から決め打ちしていたのであれば、一種の『賭け』という事で分からなくもない。

 

だがここまでの彼女の態度は、そういったものではなかった。

私と同じように戸惑い恐怖していたその様は、オカルトをまるで想定に入れていない様相だった――そう投げかければ、黒髪女は暫く黙り込んだ後、濁った眼をそっと伏せた。

 

 

「……最初はねぇ、ワタシ一人でやろうと思ってたんだぁ」

 

 

ぽつ、ぽつり。

零すように、呟き始める。

 

 

「あの子が酷い事されて、許せなくて。あの先輩ら、滅茶苦茶にしてやろうって決めてたの」

 

「……殺そうとしてた?」

 

「それが出来ればやってたけどねぇ。でも四人相手だと難しいし、下手に殺し損ねて警察&裁判フェーズに行っちゃったら、なーんか納得できない結果になりそうでさ。ほら、向こう金持ちボンちゃん居たし」

 

 

そういえば、ツーブロ男の家がそうなんだっけか。

まぁ被害者に彼が含まれていたらその家族は出張って来るだろうし、それで腕利きの弁護士でも雇われたら色々と胡散臭い展開になりそうではあった。

 

 

「だからまぁ、徹底的に被害者になって暴れようかなーって」

 

「被害者……?」

 

「そぉ。あの子と同じ事されてねぇ、それを大声で周りにぶちまけよっかなーって」

 

 

余りにもあっけらかんとした物言いに、言葉の理解が少し遅れた。

 

 

「……え? いや……えっと……は?」

 

「世の中に訴えるとしたらさぁ、やっぱ自分が被害者になってた方が声通るでしょぉ? 先輩らも動画とか写真とかバラ撒くだろうけど、別にいいの。むしろそれに乗っかってもっとも~っと被害者ムーブして、声かけ出来るとこ全部かけて、出られるとこ全部出て。あいつらの顔も名前も一生消えないデジタルタトゥーにして、人間関係やら人生設計やら全部ぐちゃぐちゃのパーにする。そういうやつ、やろうと思ってたんだぁ」

 

「…………」

 

 

絶句。

それほどに大切な友達だったのか、或いはこの女がナチュラルにキマっているのか。

背筋に薄ら寒いものを感じ、気持ち彼女から距離を取る。

 

 

「色々ね、準備したの。証拠造りのカメラとかボイレコとか……それとあの子の事も、さ。もしかしたらワタシと一緒に写真ばら撒かれるかもしれないから、せめて特定され難いようにSNSとかに上げてた画像とか消したりね。あの子のスマホ、私が持ったまんまだったのは僥倖だったよねぇ。あ、分かる? 僥倖。ラッキー」

 

「……写真ばら撒かれるの、友達の人が生きてたら嫌がるとか、さ……」

 

「思ったよ。だからワタシも同じ恥辱を受けるの。あの子と一緒に、なるの」

 

「……、……」

 

 

納得は出来ない。

けど、これは私が口を挟むべきものじゃない事もまた分かった。

責める言葉を吐きかけた口を閉じ、話の続きを静かに待つ。

 

 

「でさぁ、そうやってあの子のスマホ色々見てたら――見つけたんだぁ、キミの事」

 

「……は? 私? な、何でそうなるんだよ、あんたの友達の事なんて私なんも、」

 

「――ひひいろちゃんねる、だっけ」

 

 

――その言葉を聞いた瞬間、胃の底が酷く冷え込んだ。

 

 

「…………」

 

「前にも言ったと思うけど、あの子って夢見がちなとこあったからさ。そういう系の配信とかもよく見てたっぽいんだぁ。有料会員にまでなってたよ、ひひいろちゃんねる」

 

「……知んねーよ」

 

 

呻くように吐き捨てる。

 

――『ひひいろちゃんねる』

それは私の……私の親友だったヤツが某動画サイト内に持っていた、個人配信チャンネルだ。

 

メインコンテンツとしてはオカルト系が主であり、自らの恐怖体験を語る動画や、ホラースポットの探索風景の配信などを行っていた。

結果的に配信者が『本物』であったからなのか、それなりに人気はあったようだ。

 

……そして私は、それにたった一度だけ出演した事がある。

親友だったヤツに誘われ、共にとあるホラースポットの探索へと赴いたのだ。黒髪女は、その唯一の回を見つけたらしい。

 

 

「あの動画、再生数一桁違ってて目についてさ。あ、バスの時の子だ~って、すぐに分かったよ。お友達と一緒で楽しそうだったよねぇ」

 

「…………」

 

「お喋りして、笑顔で、言い合いしたり、ふざけ合ったり……そしたら、ふって思っちゃったんだぁ」

 

 

ああ――あんなノリで、バスの騒動も起こされたのかなぁ、って。

 

どろり。

濁りを増した黒髪女の眼が、改めて私を捉えた。

 

 

「そんな下らない子のせいで、ワタシは一番大切な時あの子の傍に居られなかったのかなって。もしかして動画のネタ作りとかそういう理由で、あの子一人だけで酷い目に遭わせる結果になっちゃったのかなって。そんな感じの考えが溢れて、止まらなくなっちゃった」

 

「なっ……んな訳無いだろッ! 誰が好き好んで――!」

 

「うん、もう分かってるよ。実際にこうなって、キミも大変なんだなって思った。ごめんね。ごめんねなんだけど、でもねぇ、その時は本気でそうだって思っちゃってたんだぁ」

 

 

黒髪女はそこで一旦区切り、天井を仰いだ。

濁った眼がぐるぐると回り、当時の感情を思い出しているかのようだった。

 

 

「キミの事、先輩らと同じく許せなくなった。だからワタシと一緒に同じ目に遭って貰って、償わせようって思ったの」

 

「……トイレでの事とかあったし、何となくそんな気はしてたよ。でも、何で」

 

「だって中学生が被害者ってなったら、ワタシだけより社会的ダメージ大きいでしょぉ? 児童ナンタラ法とかロリコン扱いとか、先輩らの罪ももっと重くなるし、もっと人から軽蔑される。それってすっごく素敵じゃない?」

 

「……キッッッツ……」

 

『うーん、君には悪いが正直嫌いじゃないな、この娘』

 

 

インク瓶がそうメモを揺らしたけど、当事者の私としては堪ったもんじゃない。

ドン引いたままさらに腰を引けば、黒髪女は少しだけ目の濁りを薄めて笑った。

 

 

「探すのは簡単だったよ。興信所とか頼ろうと思ってたのに、動画のコメント欄で殆ど特定されてるんだもん。有名人じゃんね?」

 

「悪目立ちしてるだけだよ、クソが」

 

 

私は乱暴に返すと、黒髪女から目を逸らす。

しかし、彼女からの視線は変わらず注がれ続け、居心地が悪い。

 

 

「バスの時に横で色々聞こえてたから、それで適当に言い包めて。ちょ~っと強引めに行くためのスタンガンとかも用意してさ、結構頑張ったんだよねぇ。ま、結果はこんな感じなんだけど」

 

 

黒髪女はそう言って、私越しにまたドアを見る。

 

 

「……結局、あの子が殆どやっちゃったんだねぇ。視えないけど、でも、居るんでしょ?」

 

「おかげで出らんないんだよ、私達」

 

「いいなぁ、ワタシも視えたらなぁ……」

 

 

黒髪女は心底惜しそうに呟くと、体育座りでゆらゆら揺れる。

 

……いや、どう反応したらいいんだよ。

私は何を言う事も出来ないまま舌打ちだけを鳴らし、再びドアへと意識を戻し、

 

 

「――あ、そうそう。お友達の方には何もやってないから、安心してね」

 

「っ」

 

 

寸前、その不意打ちに身が跳ねた。

咄嗟に抑えたつもりだったけど、黒髪女には伝わってしまったようだった。

 

 

「嘘じゃないよ? バスの時に居なかったし、無関係かなって思って……」

 

「いや……」

 

 

さっき以上に反応の仕方が分からず、ただ首を振る。

 

……無関係、ではないのだ。

だが、それを一から語るのも億劫で、私の唇が鉛を塗ったかのように重くなる。

私は暫く言い淀んだ末……顛末だけをぽつりと零した。

 

 

「……アイツ、もう居ないから。心配するも何もないし」

 

「あ、そうなんだ。引っ越しちゃった?」

 

「…………この街には、居る」

 

 

私はそれきり黙り込み、黒髪女から逃げるように、くるりと身体ごと顔を逸らした。

 

もう良いだろ。聞くもんは聞いたし、これ以上この女の話を聞いてると体調悪くなりそうだ。

私は大きな溜息をひとつ吐くと、今度こそ部屋のドアへと意識を戻し、

 

 

「……………………、」

 

 

……ドアノブが、下がっていた。

 

扉の向こうで『何か』がノブを握り、下ろしているのだ。

音も、振動も無く、いつからそうなっていたのかも分からなかった。

 

明らかに入室の意思を感じるその光景に、私の全身が総毛立つ。

 

 

「見られなきゃ動かないんじゃなかったの……!?」

 

『……鍵は掛けてあるんだろ? まだほとんど力は込められてない、猶予はある……筈だ』

 

 

インク瓶の文字もどこか緊張感が纏っている気がして、自然と呼吸が浅くなる。

 

ドアから目を離せない。ゆっくりと後退りしつつ、黒髪女を背に庇う。

彼女はとっくの昔にドアノブの変化に気が付いていたらしく、動揺した様子は無い。

……しかしドアの磨りガラスを見つめる顔は、やはり青褪めているように見えた。

 

 

「……な、なぁ。あんたさ、ダメもとで呼びかけとかしてくんない? 視えなくても、もしかしたらそれで何か――」

 

「しない」

 

 

ばっさり。

これまでのどの言葉よりも力強い一言に、私は数瞬言葉を失った。

 

 

「……な、なんでよ」

 

「最初に言ったでしょ。あの子のしたい事をさせて欲しいって。あの時はデタラメだったけど、実際に居たのなら……デタラメじゃないんだぁ」

 

「タバコ女みたいにされるかもしれないんだぞ!? あんただって怖がって――」

 

「うん。でも、ごめんね?」

 

 

青い顔でそう笑う黒髪女の眼には、濁ってもなお輝きを保つ光があった。

 

これじゃ説得なんて無理だ。

理屈抜きでそう悟った私は黒髪女に頼る事を早々に諦め、改めてドアへと向き直る。

 

……かた。

 

見つめる内、鍵のかかったドアが小さく音を立てた。

揺れた。揺れているのだ。

向こう側に立つ『何か』が下げたドアノブを押し引きしている。

……この部屋に入ろうと試みている。

 

かた。

かた、かた。

かた、かた、がた――。

 

その音は徐々に強くなり、やがて揺れも目に見える程大きくなっていた。

息切れがする。動悸が酷い。

 

メモが揺れるけど、ドアから目を離すのが怖かった。

だって、蝶番が軋み始めている。鍵がメリメリと異音を立てている。

目を逸らしたら、その瞬間に弾け飛ぶんじゃないかとすら思ってしまう。

 

ただ、ただ。私は瞬きすら忘れ、揺れ続けるドアを見つめ続け――。

 

 

――テン テケ テンテケテンテン テンテケテンテン テン。

 

 

「っ!?」

 

 

突然、素っ頓狂な音楽が流れ出した。

スマホの着信音――音の鳴る方向に目をやれば、それはこの期に及んでもまだ寝続けていたアゴ男から流れていた。

 

 

「なっ、あ、ちょぉっ……!」

 

 

空気が読めないにも程がある。

私は戦々恐々とドアの様子を窺うが、幸い『何か』の行動に変化は無い。

ドアを開けようとする動きを速める事も、逆に遅くする事も無く、ただガタガタと続けていた。

 

 

「……ん、ふにゃぁ……?」

 

 

近くで鳴り続ける着信音に、流石のアゴ男も起こされたようだった。

クソほど似合ってない寝ぼけた声を上げ、ぼんやりしたままゴソゴソと衣服を探る。

 

そして取り出したスマホの画面を見る事も無く、あくびと共に通話ボタンをタップして、

 

 

『――おま、お前ぇ!! っ……い、今……今どこに居んだ……ッ!』

 

 

まず聞こえたのは、男の怒鳴り声。

しかしその声量はすぐに絞られ、抑えられた囁き声へと変わっていく。

 

最初は誰の声か分からなかったが、すぐ後ろで黒髪女がその名前を呟き、それで分かった。

 

ツーブロ男だ。

どうやらエレベーター内で死んだのはピアス男だけだったらしい。

私の肩を掴む黒髪女の力が、少しだけ強まった。

 

 

「んぁ? センパイ? ……う、おぇ、気持ちわりー……」

 

『知るか! 他は全員繋がんねぇのに、なんでお前なんだよ! クソ、クソ!!』

 

「大声やめてぇ……頭ガンガンする……ちょっと落ち着いてくださいてぇ……」

 

『そんな事言ってる場合じゃねぇんだよ! こんな、意味分かんねぇ、あちこち血塗れで、エレベ……ぐ、おえぇぇ……!!』

 

「うわ、だいじょぶすか……?」

 

 

びちゃびちゃと、アゴ男のスマホから嘔吐の音が小さく響く。色々と見たものがフラッシュバックしたのかもしれない。

 

話を聞く限り、ツーブロ男は今になってこの事態に気が付いたようだ。

黒髪女の策はピアス男だけにハマり、そのまま彼に置き去りにされていたのだろう。

コイツらはたぶん、友達でも何でも無かったんだろうな。そう察した。

 

 

『……っぐ、と、とにかくどこに居んだお前。そんな暢気にラリッてられんなら、少しは安全なとこ居るんだろ。何でか外に出らんねぇんだ。ビルん中だろ? どこだよ、言え、早く……!!』

 

「えぇ~……ちょっと待って……ええっと、あれぇ? ここどこ? うわめっちゃドア揺れてんじゃん、おもろ」

 

 

おもろくねぇわ。

 

ともかく、言われて初めて自分の状況を把握したのだろう。

アゴ男は一度スマホを耳から離すと、首を傾げながら部屋を見回し――やがて私達の存在に気付き、ヘラリと笑った。

 

 

「あっ、クロユリちゃんとタマちゃんも居るじゃ~ん。ねぇここどこなん?」

 

『おい、他にも居んのか? おい、おい!』

 

 

電話の向こうでツーブロ男が騒いでいるがアゴ男は気付きもせず、ただただ暢気に問いかける。

 

当然、私は無視をした。

だってこうしている間にも、ドアはガタガタと揺れているのだ。

場所を言えば、流れから言ってツーブロ男がこっちに向かって来る事になる。もしそうなったら彼は、

 

 

「――っ」

 

 

――その考えに至った瞬間、私は慌てて背後の黒髪女を拘束しようとした。

 

だけど、少しだけ遅かった。

当たり前の話だけど、私よりも黒髪女の方が頭の回りが良かったのだ。

 

 

「はい、ビリビリ~」

 

 

振り向こうとした私の背中に硬い何かが押し当てられ、同時に耳元で囁かれた言葉に動きが止まる。

実際に電撃の類は無かったけど、それで背中に感じる硬いものの正体は察せられた。

 

――二本目のスタンガンだ。

 

 

「あ、あんた……まだ持ってたのかよ……!?」

 

「…………」

 

 

黒髪女は何も答えず、片手で私の口元をそっと覆う。

そして私達の様子にハテナを浮かべているアゴ男へ、にっこりと深い笑みを作り、

 

 

「――ビルの出口の横、一階東の方の廊下にある倉庫部屋で~す」

 

 

何の臆面もなく、そう言った。

 

 

『――――!』

 

 

その途端アゴ男のスマホから慌ただしい音が響く。

きっと、聞いたこの場所へと走り出したのだろう。ツーブロ男が今どこに居るのかは知らないが、繋がったままの通話からは足音がけたたましく流れていた。

 

 

「……ワタシのせいだから、いいんだよ」

 

「え……」

 

 

すると耳元でそんな声が落ち、背中に突きつけられていた硬いものが離れた。

私はすぐさま口元の手も振り払い、黒髪女へと振り向き――突きつけられていた物の正体に言葉を失った。

 

 

「は……ゆ、指……?」

 

 

そう、彼女の手には何も握られていなかった。

人差し指と中指を軽く曲げ、その関節を押し当てていただけ。黒髪女の言葉を受けた私が、その感触をスタンガンだと勘違いしたのだ。

 

 

「あ、あん……あんた……」

 

「準備、しないの?」

 

 

わなわなと震える私をよそに、黒髪女はまたドアを眺める。

 

準備。その言わんとする事は私にも分かる。

分かるけど、すんなり呑み込めるかは別の話で。

そう狼狽える私に黒髪女は苦笑して、更に何か言葉を重ねようとして――

 

 

――あぇ?

 

 

……部屋の、外。

ビルの入口側の廊下奥から、誰かの間抜けな声が耳に届く。

 

ツーブロ男の、声だった。

 

 

 

 

 

ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

 

 

 

 

 

絶叫。

下げられていたドアノブが跳ね上がる。

湿った足音が遠ざかり、ドアの前から気配が消えた。

 

視認したのだ。そこに居た『何か』が、この部屋に近寄る者の姿を――。

 

 

『――走れッ!!』

 

「!」

 

 

メモ帳が一際大きく揺れた。

 

中身に何が記されたのかなんて、読まなくたって分かる。

私の身体が即座に動き、アゴ男と黒髪女の腕を掴んで駆けだした。

 

 

「へ? あ、おわぁっ!?」

 

「……っ!」

 

 

ドアを正面から蹴り飛ばし、壊されかけていた鍵を完全に破壊して外に飛び出す。

 

当然騒音が響いたけど、もう気にしている場合じゃない。

邪魔なドアの残骸を蹴り飛ばしつつ、私は『何か』が走り去ったビルの入口に繋がる先を確認し――その時、廊下奥の曲がり角から鮮血と肉片が飛び散った。

 

 

「――――」

 

 

まるで、トマトスープの入った鍋をひっくり返したかのようだった。

床と壁が穢らしい赤で濡れ、肉片が、臓腑が、潰れた目玉が沈んでいく。

 

絶叫が反響し、悲鳴も何も届かない。

だけど私は、その中にツーブロ男の断末魔を聞いた気がした。

 

 

「……ッ! い、入口と逆! 東廊下の奥側ぁ!!」

 

 

恐怖と共に吐き気が昇ったけど、無理矢理抑え込んで廊下の反対側へと駆け出した。

 

もうビルの入口には向かえない。行けば間違いなくツーブロ男の二の舞だ。

仕方なく別方向に行くとインク瓶に告げ、返事を見ないまま周囲を探る。

 

 

「な、なにこれ? うるさっ、これっ、なんなん? どーなってんのぉ……!?」

 

 

響き続ける絶叫の中アゴ男が何かを言っていたけれど、聞き直している暇など無い。

私は彼と黒髪女を振り回しながら必死に視線を走らせ、開閉可能な窓や扉を探し求め――。

 

 

「――!!」

 

 

曲がり角。

丁度吹き抜け階段の近くの小ホールに差し掛かった時、その窓を見た。

 

全面ガラス張り。分厚く大きい押し開き式の、窓というより半ばガラス扉と言っても遜色のないそれ。

その重たい窓に外側から張り付くようにして、彼らはそこに立っていた。

 

 

「――ひ、髭擦くん……!?」

 

 

そう、窓の外にあったのは、必死の形相で窓を叩く髭擦くんと、ついでに『親』の一人らしい見知らぬ男性の姿だった。

 

いや、というか『親』は分かるが、なんで髭擦くんまで来てるんだ。

私はほんの一瞬呆然とし――その時、背後から聞こえていた絶叫が唐突に消え去った。

代わりに湿った足音と何かを引きずって来る音が聞こえ始め、どんどんと近づいて来る。

 

……事切れたツーブロ男を例の部屋まで運搬せずに、引きずったまま私達を追って来ている。考えるまでも無くそれが分かり、喉の奥が引き攣った。

 

 

「横着してんなってぇ……!!」

 

 

私は慌てて髭擦くん達の居る窓に近づくが、分厚いガラスに遮られ彼らの声は届かない。

代わりにメモ帳に目をやって、インク瓶に縋りつく。

 

 

「ね、ねぇ! 髭擦くん達ここに居るって事は、こっから出られるんでしょ!? 私どうしたらいいんだ!?」

 

『外側と内側から同時に窓を開けるんだ! 彼が気付かれてない一度目しかチャンスは無い! 早く!』

 

 

インク瓶の文章にも一切の余裕は感じられず、状況の切迫具合が強く伝わる。

 

焦りのまま指示に従いガラスに肩を押し付ければ、窓の外で髭擦くんも取っ手を握る。

互いの声は届かなかったが、複雑な事をする訳じゃない。口元の動きさえ見れば単純な意思疎通は図れた。

 

 

「い、いち、にーの――さんッ!!」

 

 

タイミングを合わせ、私は全力でガラスを押し込み、髭擦くんは全力で引く。

だけど、動かない。

肩口に伝わる不動の感触に、諦めと絶望が脳裏を掠め、

 

――瞬間、感じていた抵抗が消え去った。

 

 

「え!? うわあっ!?」

 

「ぬおっ!?」

 

 

何かが割れる音がして、どこからか黒い火花が弾け飛ぶ。

同時にあれほど強固だったガラス窓があっさりと動き、私と髭擦くんはバランスを崩して倒れ込んだ。

 

砂利とアスファルトが肌を擦り、通り抜けた風に鉄錆混じりの淀んだ空気が流される。

外の空気だ。心の奥底から安堵が押し寄せ、吐息が震えた。

 

 

「あ、開いた……おい、大丈夫か!?」

 

「う、うん、平気。あ、ねぇ! あんたらも今の内――、っ!?」

 

 

そうして黒髪女とアゴ男も呼び寄せようとした時、ギシリと何かが軋む音が聞こえた。

それが今まさに開け放ったガラス窓から鳴ったと気付いた瞬間、私は跳ね起きその隙間に身をねじ込んだ。

 

そう、ねじ込んだのだ。

ガラス窓がひとりでに動き、開いたばかりの出口を再び閉じ込もうとしていた。

 

 

「ちょおっ!? まっ、ぐ、おかし、ぬおぉぉぉぉ……!!」

 

 

物凄い力だった。

私の膂力でも、これ以上閉まらないよう突っ張るのが精いっぱいだ。

髭擦くんや『親』も手伝ってくれたが、もう一度大きく開け放つ事は出来そうに無かった。

 

 

「やはり、ここまですれば幾ら髭擦君でも気付かれるか……もう少し屈強な身体で来るべきだった」

 

「言ってる場合か……! くそ、いいから早くこっち来い! こっち!!」

 

「へ? あー……え? え?」

 

 

私は必死にガラス窓を押し返しながら、まだ建物の中に居る二人を今度こそ呼び寄せる。

 

アゴ男は何もかも意味が分からない様子だったが、私の怒鳴り声に流され、窓の隙間を縫って外に出た。

あとは黒髪女だけだ。湿った足音がもうすぐそこまで迫っており、一刻の猶予も無い。

 

……だが、黒髪女は動かなかった。

 

 

「何してんだよ……!? 早く来いって! じゃないと――」

 

「いーよ、ワタシは」

 

 

私の呼びかけをぴしゃりと遮り、黒髪女はにっこりと笑う。

言っている意味が分からず、また呆けた。

 

 

「は、はぁ? 何バカな事言ってんだ! 良い訳ないだろそこ居たら殺されるんだぞ!?」

 

「そーかも。でもそれがあの子のしたい事なら、ねぇ」

 

 

そう言うと黒髪女は窓から数歩離れ、くるりとこちらに背を向けた。

どうも本気で『何か』に殺されるつもりでいるらしい。

 

ここまで一緒に逃げといてそれは無いだろ。

私は更に言い募ろうと怒鳴り声をあげ……その寸前、彼女の肩が震えている事に気が付いた。

 

いや、肩だけじゃない。

握り締められた手や、揺れる膝。身体の至る所が弱々しく震え、その本音を伝えている。

 

やっぱり、本当は怖いのだ、彼女も――。

 

 

「ずっと考えてたんだぁ。あの子がワタシも狙ってるっていうのは、そういう事なのかなって。大変な時に一緒に居られなかったの、怒ってるんだろうなって」

 

「それはっ……だって、その」

 

「だから今度は、今度こそは一緒に居なくちゃ。ほんとに幽霊になってたなら、わ、ワタシも、」

 

 

 

 

 

ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

 

 

 

 

 

その時、また絶叫が轟いた。

 

黒髪女に遮られ、私から『何か』の姿は見えなかった。

けれど確かに廊下の奥から近づいて来るそれに、『親』以外の全員の身が竦む。

 

 

「うおっ!? な、何だこの声……!?」

 

「ねぇ! やめろよそんなの! あんたもう十分だよ! 友達乱暴したヤツ全員やったろ! じゃあもう良いだろそれで!!」

 

 

狼狽える髭擦くんを無視し、黒髪女へそう叫ぶ。

だけど絶叫に遮られ届かない。いや、聞こえないフリをされている。

 

……正直言って、彼女を必死になって助けてやる義理なんて私には無い。

嘘つかれて連れて来られ、男に穢される事を期待され、スタンガンで脅されて、その後も色々余計な事ばかりをされた。

ピアス男達と同じく、見捨ててしまったって誰からも文句は言われないんじゃないか。そんなレベルだ。

 

……だけど一方で、私はこの女を嫌いになり切れていない。

 

それはきっと、理解出来てしまうからだろう。

親友への想いとか、罪悪感とか、そういったものが、私にも――。

 

 

――あはぁ。

 

 

「……っ!!」

 

 

また記憶の中で笑い声が聞こえ、私は黒髪女の背中へ手を伸ばした。

 

当然、届く筈が無い。

それどころか支えを無くしたガラス窓が大きく動き、閉まっていく。

 

髭擦くんや、『親』の力だけではどうにもならかった。

 

彼女が死んでいく。

彼女の友達と、一緒のものになっていく。

 

私は――彼女が絶叫に呑まれて行くのを、ただ眺める事しか出来なかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――えっとぉ、こ、こう? よく分かんねぇけど、俺もこれやる雰囲気ぃ?」

 

 

 

――その、空気の読めない声が聞こえてくるまでは。

 

 

「っ」

 

 

ガラス窓の閉まる速度が僅かに緩む。

ほっとかれて寂しかったのか、いつの間にか近寄って来たアゴ男がガラス窓の抑え込みに加わっていたのだ

 

 

「んぎぎぎぎ……おっも、おん、もぉぉぉぁぁぁ……!?」

 

 

とはいえ、背が高いだけのヒョロガリだ。

彼が加わったところで、長めのつっかえ棒代わりにしかならない。助けとしては雀の涙程度である。

 

――だけど、私にとってはその一滴で十分だった。

 

 

「こ、っのおおおおおおおおお!!」

 

 

全力で地面を蹴り出し、建物の中へと飛び込んだ。

 

ガラス窓がガクンと揺れるが、「ぎえぇぇぇ」挟まれた長めのつっかえ棒のおかげですぐには閉まらない。

その間に私は黒髪女へ飛び付き、強引に抱え上げた。

 

 

「っきゃあ!? え、や、離しっ」

 

「聞こえないね!!」

 

 

そうしてジタバタ暴れる黒髪女の抗議を、今度は私の方が知らんぷり。

力の限り抱きしめ、耳がおかしくなる程の絶叫から背を向け床を蹴った。

 

 

 

 

あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ

 

 

 

 

「ひ――っぐ」

 

 

声はすぐ後ろから聞こえ、何かが背中を掠める。

しかし私は決して振り返らずに駆け抜け――ガラス窓を破る勢いで、思いっ切り突っ込んだ。

 

 

「うあッ――!?」

 

 

誰のものかも分からない悲鳴が起き、ガラス窓が大きく揺れる。

私は黒髪女を抱きしめたまま、皮と肉を削りながら隙間を通り、ガラス窓を支えていた全員と一緒に外の地面に転がった。

 

そしてつかえの無くなったガラス窓は、割れるんじゃないかと思うほどの勢いで閉じられ――直後、ガラス一面が真っ赤に染まり、絶叫が途絶えた。

 

私達を追っていた『何か』が衝突し、引きずっていたツーブロ男の血が飛び散ったのだ。

 

 

「いってぇぇぇ……!!」

 

「っう……な、なんで、ひどいよ――ひっ」

 

 

真っ先に起き上がったのは、私に護られていた黒髪女だった。

そして血の広がったガラスに短い悲鳴を上げ……すぐに息を呑み、凍り付く。

 

それは今まで散々血だまり見て来たにしてはどこか妙で、私も削れた皮膚の痛みに呻きつつ、彼女の視線を追った。

 

 

「……っ」

 

 

赤く穢れたガラスの隙間に見えたのは、ツーブロ男の血肉を頭から被った『何か』――白い服を着た女性の姿だった。

 

さっきの衝突でこうなったのだろう。

ガラスにへばり付いた血肉に隠れ、ご尊顔こそ見えなかった。ただ、再び二階でやっていたような頭突きを、ガラス窓に繰り返していた。

 

それはこちらを見ていない。

怒っているのか、悔しがっているのか、それとも嘆いているのか。その様子からは、やはり何も汲み取れない。

 

――だが、外まで追って来る様子も無かった。

 

……逃げ切れた、のだろうか。

まだ、よく分からなかった。

 

 

「…………」

 

 

そしてこれなら、霊視能力の無い黒髪女でも『何か』を視認出来るだろう。

被った血肉の縁取りが、疑似的な霊視を彼女に与えているのだ。

 

……喪われた友達との再会。

私は何を言うべきかを迷い、しかし話しかけても文句しか出て来ない気がした。

そのまま口を噤み、代わりに隣で呻いている髭擦くんを助け起こそうと手を差し伸べて、

 

 

「……違う」

 

 

ぽつり。突然、黒髪女がそう零す。

 

再び見れば、彼女の視線は私の位置からは見えない『何か』の顔へと注がれている。

青く染まったその表情は尋常なものではなく、思わず声をかけていた。

 

 

「……何がよ」

 

「これ……この人――あ、あの子じゃ、ない」

 

「……、……え?」

 

 

一瞬、頭が言葉の理解を拒んだ。

 

……いや、何言ってんだ?

ここに居るのは彼女の友達の幽霊で、だからこうなっている筈だろう。

それが、そうじゃなかったって言うんなら、そんなの――。

 

冗談を疑ったけど、黒髪女の顔からはとてもそう思えない。震えながら、ぶつぶつと同じ言葉を繰り返している。

 

 

「ちがう……鼻、口……胸……大きさ、形、ぜ、ぜんぶ、ちがう、ちがうの……」

 

「……いや、だって……」

 

「ち、違う。ちがう……あの子じゃない……あの、あの子じゃ……」

 

「…………」

 

 

……じゃあ――これは、誰なんだ?

 

私はもう一度、ガラス窓に頭突きを続ける『何か』を見る。

その顔はやはりガラスの血肉に遮られ、私の位置からは窺えない。

 

けれど、わざわざその顔を確認する気も、また起きなくて。

 

 

「…………」

 

 

ガラスの向こうで、『何か』の頭突きが続いている。

音は無く、揺れも無い。ただ、そう見える動きだけ。

 

――顔の見えない『何か』は、いつまでも、いつまでも、それを止める事は無かった。

 



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「眼」の話(下)

 

 

 

『――見つけて欲しかったけど、見られるのも見るのも嫌だったんだろうね』

 

 

自室。

 

スマホ越し、今回の件に関する長い説教を乗り越えた私に、インク瓶はそう言った。

 

 

「……えっと、何の話?」

 

『あのビルの中、君達を追いかけていた「何か」の話さ。あれから少し調べて、分かった事が幾つかあった』

 

 

顛末含めて聞くかい、色々。

あからさまに気が進まなさそうなその問いかけに、少し迷う。

 

彼がこのような声音の時は、大体が子供に聞かせたくない類の話をしようとしている時だ。

私としても今回の発端が発端である以上、それなりに生臭い話であろうことは予想がつく。

 

とはいえ、既に黒髪女からあらましを聞いている身でもある。

言ってみれば今更な話な訳で、ここまで来て中途半端に終わるのも気持ち悪い。私は特に怖気付く事も無く、「うん」と小さく頷いた。

 

 

――あのビルでの一件から、今日で二日が過ぎていた。

 

 

私はあれからすぐ『親』によって病院に無理矢理担ぎ込まれ、最後の一幕で負った傷の治療を受ける事となった。

 

傷と言っても、精々がちょっと酷い擦り傷と打撲くらいだ。他に大きな怪我も無く、取り越し苦労も良いとこである。

なのに安静にしてろと部屋に押し込めてきたりして、おかげで生き残りの黒髪女やアゴ男とは別れを交わす事無くそれっきり。

 

助けに来てくれていた髭擦くんも突然呼ばれただけで事態を把握していた訳では無かったようで、「俺も説明欲しいんだが……」と白目に困惑の二文字を浮かべていた。

 

つまり私は、あの後どうなったのか、本当は何が起きていたのか、ついでに黒髪女たちの処遇その他ほとんどをまだ知る事が出来ていないのだ。

 

一応、『親』から問題は無くなったとだけ雑に聞いてはいるけれど――。

とりあえずそう口火を切ってみると、インク瓶は小さく鼻を鳴らし、渋々といった様子で語り始めた。

 

 

『ふん……じゃあ最初からひとつずつ話そうか。まず君達が使っていたカラオケボックスの事なんだけどね、デタラメだったよ』

 

「……? ってーと?」

 

『無許可というか、正規の店じゃなかったんだ。防音設備を見る限り、元はカラオケ店ではあったんだろうけど……今はその設備を勝手に使って取り繕った、個人的なパーティ会場――実態としては、そんな感じになっていたようだ』

 

 

インク瓶はふんわり言ってくれたが、それの意味する所は私でも察せられた。

 

つまりあそこは、根っこからピアス男達が作り上げた『巣』だったという事だ。

最低な事実に一瞬だけ怒りが燃え上がったけど、あのエレベーターの中を思い出し、吐き気と共にすぐ鎮火する。

ヤツらは既に、手痛いどこじゃないしっぺ返しを受けている。

 

 

『彼らの通う大学OBに、件のビルの所有者を縁に持つ人が居たみたいだ。そいつがこっそり無断で使い始めたのが全ての始まりのようだね。そしてタチの悪い事に、あのビルを使っての色々は半ば伝統と化していたらしい』

 

「……あそこ使ってたの、あいつらだけじゃなかったって事?」

 

『中々いい造りだったし、まだ電気も通っていたからね。ずっと悪いグループの遊び場になってたんだろうさ。彼らの大学内では、盗んだビルの鍵が悪い学生達の間でひっそりと受け継がれ続け……今世代の継承者が、今回死んだあの四人という訳だ』

 

「ヤな慣習……」

 

 

辟易とする私にインク瓶は苦笑いのようなものを落とすと、僅かに声を固くした。

 

 

『これまでも、あそこじゃ色々やらかされていたんだろう。あの四人だけじゃなく、その前の世代の学生達も、似たような犯罪を隠れてやっていたようだ』

 

「……何か証拠とか見つかったの?」

 

『君が最初に例の「何か」を見たっていう、二階の部屋があったろう。あそこから、四人分の遺体が見つかった』

 

 

……少しだけ、息が止まった。

 

あの時の『何か』の行動から、私も殺されたピアス男達の死骸はその部屋に運ばれているだろうとは予想していた。

とはいえ実際にそうだったと断言されると、やはりビビるものがあった。

 

……でも、今の話と何の関係があるんだ。

私は怪訝な顔で首を傾げ――ふと、違和感に気が付いた。

 

 

「……あれ、四人? 確かツーブロ男は……」

 

 

そうだ、確か彼の死体は例の部屋に放り込まれる事は無く、私達が脱出した一階のガラス窓に引きずられて来ていた筈だ。

運ばれたのは、タバコ女、店員、ピアス男の三人。例の部屋にあったという死体と数が合わない。

いや、あの後『何か』がツーブロ男の死体を持って行ったのなら、辻褄は合うけども……。

 

 

「……私が『親』に病院へ連れてかれた後、あの『何か』ってどうにかなったんだよね?」

 

『ああ。すぐに新しい親御さんの身体が来て、アレにわざと殺されたと聞いた。君達が脱出した事で、封鎖も解けていたようだからね』

 

 

聞けば、あの封鎖は私達の存在が『何か』に気取られた事で発生した事象であるそうだ。

つまり最初に私が見かけた時、振り向かれかけたあの時点で既にクローズドサークルになっていた可能性が高いとの事。

脱出の際は、そこを髭擦くんのステルス体質で突いて僅かな穴を空けたらしい。意味分からん。

 

ともあれ、『親』が死んだのであれば、あいつを殺した『何か』もかつての唇の時のように消えてしまった筈だ。

ツーブロ男を運ぶ間など、ある訳もなく。

 

 

「……じゃあ誰だったんだよ、その死体。増えてるの……」

 

『分かってると思うけど、三人分はあの時殺された大学生達だ。状態は酷い物だったが、まず間違いない。だが増えてるもう一つは、女性のもののようだが完全に身元不明なんだよね』

 

「えぇ……? あ、私達の前にもここに来て、『何か』に殺された人が居たとか?」

 

『いや、そういう訳でも無いようだ。何せその遺体は干からびて、ほぼミイラ化していたから』

 

「み……」

 

 

予想外の単語に変な声が出た。

……ミイラって、あの木の乃の伊って書くアレ?

 

 

『あの部屋には冷蔵庫があってね、その中に詰め込まれていた。荷物は無く、衣服もボロボロで手がかりは無かった』

 

「……か、完全に殺人の死体隠しじゃん……。それを前の世代の大学生がやってたって……?」

 

『さあね。だけど、他に容疑者は居ないだろう?』

 

 

色々と耐性のある私といえど、流石にそれはゾッとする。そうして腕に出来た鳥肌を擦っていると、インク瓶の声のトーンが少し下がった。

 

 

『……大学生達の遺体は、みんなその冷蔵庫の前に置かれていたよ。それも、目玉のくり貫かれた顔を向けるようにしてね』

 

「め、目玉……?」

 

 

思い返せば、確かに殺された彼らの血だまりには、どれも潰れた目玉があった気がする。

私としては、惨殺された際に偶然そうなったものと思っていたが……意図を持って、くり貫いていた?

 

 

「……もしかしてさ。それが、あんたが最初に言ってたヤツ? 見つけて欲しいけど、見るのも見られるのもイヤっての……」

 

 

おずおずと問いかける。

 

『何か』の行っていた、目撃した人間の惨殺と、二階の部屋への運搬。

そして今しがた聞いた部屋の様子に、隠されたままミイラとなった誰かの話。

 

ひとつひとつはバラバラで意味が分からないけど、インク瓶の言葉で繋げば、うっすらと画が見えてくる。

 

……そしてそれは、非常に気分の悪いものだ。

本当かどうかも分からないけど、ただただ不快な想像ばかりが幾つも膨らみ、腹の奥底が泡立った。

 

するとそんな私の感情を読み取ったのか、スマホの向こうでまた鼻が鳴る。

 

 

『ふん、何度も言うけど、こういったものは僕の推測が多分に混じっている。これこそが真実なんだと決めつけるのはよしてくれ』

 

「……や、そう言ってもさ……」

 

『僕はこれでもオカルトライターだから、下世話な作り話も得意なんだ。だからあんまり深く受け止めるもんじゃ無いんだよ』

 

「……ん」

 

 

その声は内容の割に意外にも柔らかく、こちらを案ずるようなものだった。

……何となく気恥ずかしくなった私は、軽く咳払いをして他の気になっている事へと話を変えた。

 

 

「……な、なぁ、結局黒髪女はどうなったの。無事なんでしょ、あの人」

 

 

最後の最後、どうにか助ける事が出来たあの女。

 

一応連絡先の交換をしているが、彼女のスマホは私がとりあげたまんまなので意味が無いのだ。

早いとこ返しとかないと。ベッド横の戸棚に置きっぱなしのそれに目が行った。

 

 

「あの『何か』が友達じゃなかったんならさ、もう殺されようってか、死のうとはしてないよね? その……後追い、みたいなのは……」

 

『無事だよ。ショックが大きかったのか、それともまだ気持ちの整理がついていないのか。自分の家に引き籠っているようだが、生きてはいるらしい。監視に近い事をしている君の親御さんから聞いた話だから、確かだろう』

 

「……そ」

 

 

ほう、と別に意味の無い息を吐く。

いや、せっかく助けたのに自殺とかそういうのされたら、骨折り損のくたびれ儲けっていうか、スマホだって借りパクになっちゃうしな。それだけなんだよ、ほんとに。

 

……でも、『親』のヤツらが見張ってるのか。

 

 

「……これから何かされんの、あいつ」

 

『いいや。あのビルで彼女がやった事は到底褒められたもんじゃ無いが、明確な罪と言うには動き方が弱すぎる。まぁ君にした事に関しては別だから、君が訴え出れば何しらはあるかもしれないが』

 

「しねーよ、そんなめんどいの」

 

 

今も色々納得いってない部分はあるし、脅されたりもしたけど、もう今更だ。

無事に帰れた事だし、蒸し返して責め立てる気にもなれない。そう伝えれば、インク瓶は『だろうね』と頷きひとつ。

 

 

『とはいえ君の言うオカルト絡みである以上、それを利用した形になる彼女を完全に放っておくのも難しい。結果的に、彼女はそれで目的を果たした訳だからね。暫くはこのまま君の親御さんが張り付いて、オカルトに魅入られていないかどうかの注意を続ける事にはなるんじゃないか』

 

「うっげ……」

 

 

私の『親』は、この街のどこにでも居る。

そんなのにまだまだ付き纏われ続けるなど、想像するだに気持ち悪い。これだけは黒髪女に心底同情した。

 

 

『ああ、ちなみにアゴの長い彼の方だけど、最初から最後まで何一つ分かってないようだったから、放置になったよ』

 

「あそう」

 

 

自分でも驚くほど平坦な声が出た。

まぁそんなもんだ、あのアゴは。

 

 

『……ま、とりあえずはこんなところかな。他に何かあるかい?』

 

「ん~……」

 

 

そう聞かれたけど、ぱっとは思い浮かばなかった。

……なんだかインク瓶の説教よりも数段疲れた気がする。私は細く長く息を吐き、ベッドに背中から倒れ込んだ。

 

 

「…………」

 

『無いようだね。じゃあお疲れのようだし、このあたりでお開きにしようか』

 

「ん…………まぁ、あんがとね。ほんとに」

 

 

最後に一言だけ、ぽつりと呟く。

 

今回もまた、説明と同時に助けてくれた事も含んだ礼だ。

どうせ前と同じく見透かした忍び笑いが返るんだろうと思ったが、今回は逆にどこか気まずげな唸りが返った。なんでだよ。

 

 

『……今回君が巻き込まれたのは、例のバスの時にした会話が発端でもあるからね。お礼はちょっと受け取り難い部分があるんだけどな』

 

「いや説教しといて今更じゃん。つーかそんなのお互い様だし、別にいいよ受け取っとけよ返品不可でーす」

 

 

私は返事を聞く事なく通話を切った。変な所で真面目なヤツで困るネ!

 

……まぁ確かに、あの時インク瓶が私の体質について口にしなければ、黒髪女は何も知らないまま、私を巻き込みに来る事も無かっただろう。

 

だがあの時の私は、私自身についての説明が必要な状態であったのも確かだった。

じゃなきゃ、きっと余計な事して死んでいた。

 

 

「……あー、やめやめ」

 

 

疲れてるせいか、ヤな事ばっか思い出す。

私は頭を振ってその記憶達を散らしつつ、夕飯時まで昼寝でもしていようと毛布にもぞもぞ潜り込み、

 

――コン、コン。

 

 

「……どーぞ」

 

 

ノックが響いた。

 

まぁ自分の家に居る以上、誰が相手かなんて聞かなくても分かる。

ぶっきらぼうに返事をすればドアが開き、予想通り『親』の鉄面皮が浮いていた。

 

 

「電話は終わったようだな」

 

「……まさか部屋の前でタイミング図ってたの? キッッッショ」

 

 

さっきのやり取りを聞かれていたという事もそうだが、ビルで倉庫部屋に閉じ込められた時の事を思い出し鳥肌が立つ。

しかし『親』は特に気にした様子もなく、私の部屋に足を踏み入れ後ろ手でドアを閉めた。

 

……何となく、鉄面皮が険しくなっているような。

 

 

「……な、なんだよ。部屋入ってくんなよ、ちょっ、」

 

「これまで、我々にはお前を咎める資格は無いと思っていた」

 

「は?」

 

 

『親』は私の文句をスルーして、訥々と語り始めた。

いや、何の話だよ。

 

 

「お前が産まれてからこちら、ほんの数か月前まで我々は一言の会話すらもして来なかった。お前の呼びかけにも一切応えず、ただ衣食住を提供するのみ。そこに、親と子は居なかった」

 

「うん……まぁ、その通りだけども……いやだから突然何なん」

 

「だが、今回はそういう訳にはいかない。お前が親であれと言い、我々がそうであるとしたのであれば、例えその資格がなくとも説教をしなければなるまい」

 

「……説教? あんたが?」

 

 

はん、と思わず鼻で笑ってしまったが、『親』はやはり無感情の瞳でこちらを見る。

そして、床の一点を指差して、

 

 

「――そこに座りなさい。中学生の身空で大学生と合コンに行った件について、我々ちょっと話あるから。親として」

 

「……………………あい」

 

 

そりゃそうだ。

沸き上がりかけていた反発心が、音を立ててしぼんでいく。

 

いやまぁ、無理やり連れてかれたとはいえ、私もそれはどうかと思ってた事なワケで。

納得いかないって不満よりも、理解が勝っちゃうワケで……。

 

故に、甘んじて。

私はしわしわの顔でそっと床に正座し、本日二度目の説教を頂戴したのであった。

 

……黒髪女のスマホ、こっそり変なシールとか貼ってやろうかな、もう。

 




主人公:説教は二時間半にも及び、足の痺れにそれはもう苦しんだようだ。

黒髪女:友達が酷い目に遭い、その復讐を目論んでいた。理性的に激怒し、自分に可能な事を確実に遂行するタイプ。

ピアス男:女好きの遊び人。悪い先輩たちに気に入られるタイプで、変な薬のルートにも詳しかったようだ。

ツーブロ男:金持ちのボンボン。撮影でカメラを弄っていたらハマり、最近高品質のものを集めるようになっていた。

タバコ女:女の敵になるタイプの女。チヤホヤされている女性が酷い目に遭う姿にニヤニヤしていた。

店員:チンピラ。カラオケ店員のフリでビルに居る時間が長かったため、二階に良くないものがあるとは何となく察していたらしい。

アゴ男:モテたいがためにギターとかやってる空気の読めない善人。何かカッコいい先輩方にカラオケに誘われ、モテチャンスかと期待していたようだ。

髭擦くん:何かいきなり呼び出され、大変な目に遭った。事件後アゴ男と仲良くなったとかならなかったとか。

『親』:娘が知らない内に合コン行っててすごくショックだった。


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「雲」の話(上)

ゴールデンウィーク。

みんな大好き春の大型連休である。

 

今年は五月初めから続く五連休。

私にとってもそれは嬉しいもので……と言いたかったが、正直な所そんなでもなかった。

 

 

『――のビルは日常的に無断使用されていた形跡もあり、警察は所有者の管理不行き届きも含め捜査をしているとの……』

 

「……はぁ」

 

 

連休一日目の朝。『親』の居ないリビングで。

テレビで流れるどこか聞き覚えのある事件のニュースを聞き流しつつ、私は小さく溜息を吐く。

 

考えるのは、この五連休中における私の身の振り方だ。

『親』との関係のせいで実家に居辛い私にとって、こういった長期休暇は地味に悩ましかったりするのである。

 

 

(どーすっかなー……毎日食べ歩きとかいってらんないもんなー……)

 

 

そうなのだ。毎日外を出歩くのも意外と大変だし、かといって『親』の居る家でずっと過ごすのは、たとえ顔を合わせずとも割と苦痛。

一応、『親』の方に家から出てけと言えばそうしてくれるのだが……それもそれでなんか虐めてるみたいで、『親』に対するなけなしの良心がチクチクしなくもなかったり。

 

私にとって学校とは心安らげる場でもある訳で、それが選択肢から消えるのは結構困るものがあった。

例えるなら仕事一筋すぎて休日家に居辛いお父さんの気分、みたいな。違うか。

 

 

「……いい天気だなー」

 

 

何か色々面倒くさくなり、気晴らしに窓の外を見上げる。

 

五月の空は四月のそれより尚高く、春にしては強めの日差しをこちらに注いでいる。

流れる白い雲が真っ青な空によく映えて、何となくそれらを目で追う……と。

 

 

「……お?」

 

 

するとその中に一つだけ、変な形の雲を見つけた。

 

何というか、やけに人間の腕っぽい形の雲なのだ。

指を思わせるハッキリとした五本の突起、そしてそこから続く掌、手首、上腕部。

多少形は崩れていたが、見れば見るほど人の腕。

それは遠くの空高くに一つぽつんと浮いており、周りに他の雲が無い事もあってか絶妙にシュールな絵面だ。

最初はそうでも無かったのに、じっくり眺める内に段々とおかしく思えて来る。

 

もっとも、笑い声を上げる程かと言えばそうでもなく。

真顔以上、笑顔未満。私は中途半端なニヤつきを浮かべたまま、何となく腕の雲をぼーっと眺め続けて、

 

 

「――どうした。いつも以上に気持ちの悪い顔をして」

 

 

唐突にリビングに現れた『親』の暴言に、キュッと顔が引き締まった。

 

 

「……なんでもねーよ。つーかいい加減その言い方止めない? キモい顔だなんだって、やっぱ親の言う事じゃないでしょ」

 

「お前が容姿を見せびらかすのを止めればそうするが。そんな事より、ほら」

 

「うん?」

 

 

そう言ってテーブルの上に置かれたのは、大きめのクリップファイル――町内会の回覧板だった。

 

……回して来いという事だろうか、これは。

 

そう思っているとそのファイルが開かれ、挟まれていたプリントが数枚差し出された。

反射的に受け取れば、それはゴールデンウィーク中に近所で行われるイベント類のお知らせのようだった。

 

 

「ええっと……? 一斉ゴミ拾い協力のお願い、みたまウォーク、フリマ、自衛隊の記念行事……何これ?」

 

「大方、連休の過ごし方で迷っていたんだろう。せっかくだから行ってみたらどうだ」

 

「……これに?」

 

「それに」

 

 

いきなり何言ってんだコイツ。

そう胡乱な視線を向けたけど、何か大真面目に言ってるらしい。困惑。

 

 

「……や、フツーに興味無いけど……」

 

「こういった場に出ておくと、後々の人間関係や評価の面でプラスに働くケースが多い。強要はしないが、用が無いなら参加しておいて損はないぞ。我々も学生身分の身体が参加する」

 

「余計行きたくねーんですけど」

 

 

どうやら、山ほどある身体の数だけ社会経験を持っているが故の処世術レクチャーのようだが、大きなお世話もいいとこである。

私はプリントを突っ返すと、そのままリビングを後にする。

 

ついでにもう外に出ちゃうか。行先はまだ決まってないけど、まぁ時間潰せれば何でもいいや。そんな適当な心持ち。

そうして「昼ご飯いんなーい」とだけ残し、スマホと財布だけを持って玄関へと向かい……ちらと、テーブルの上の回覧板に目を向けてみる。

 

 

「あー……それ、持ってっとく?」

 

「いや、いい。次の羽佐間さんには以前いいお菓子を貰ったからな、行くついでにそのお礼をして来ようと思っている」

 

「……あ、そう。じゃいいケド」

 

 

ほんのちょっぴり首をもたげた親切心が押し潰され、唇が若干尖った。

 

『親』は私には基本鉄面皮だが、私以外には愛想は良いし配慮も出来る。

ご近所付き合いにおいては私よりも上手くやってるみたいなのだが……やっぱ何か納得いかんよね。

 

私はそんなモヤモヤを感じつつ、すごすごとリビングを後にする。

 

 

「色々と気を付けるように。遅くとも、十七時までには帰ってきなさい」

 

「なんで前より短くなって……いや何でもない」

 

 

明らかに前の合コンが尾を引いている。

掘り起こして説教リテイクとかされても嫌なので、さっさと話を打ち切り外に出た。

 

そうしてリビングの扉が閉まる間際――窓から青空を見上げた『親』の姿が、どうしてか長く目に残っていた。

 

 

 

 

 

 

『ごみ~ん、休み中は大会に向けての練習入っちゃってんだよね~』

 

 

街をダラダラぶらつきがてら、一応遊びに誘ってみた足フェチからのメッセージである。

 

まぁ分かってはいた事だ。時々忘れそうになるが、何せ彼女は我が校陸上部期待のエースなのである。

この地区においては殆ど敵なしのレベルであるそうで、次の大会制覇に向けて練習や指導にも一層の気合が入っているようだ。

 

 

『ゴールデンウィークまで練習漬けなん? 大変だねぇ』

 

『この時期はやっぱ追い込みかかるよね~。そういうのも楽しいから良いんだけどさ』

 

『あーそっか。学校行けて運動だけで時間潰せるって考えればむしろイイね』

 

 

私も身体を動かす事自体は好きな部類だ。

そういう共感があるからこそ、こんなのとも仲良くやれてる訳である。

 

 

『う~ん絶妙に分からん。でも羨ましいなら入部しようぜ~、今からでも連休練習参加OKだからさ~』

 

『その場合連休終わったら抜けるけどな私は。いいから練習頑張っとけ』

 

 

まだ勧誘を諦めてないらしい。

いつもの誘いにいつもの断りを返し、メッセージアプリを閉じた。

 

続いて髭擦くんに連絡したが、何故かどっかで見たようなアゴの長い男と一緒にキャンプをしている写真が送られて来たので、そっと見なかった事にした。

何しとんじゃアイツは。

 

 

「あー……ほんと何しよ……」

 

 

他に誘う友達の当てもなく、一人適当にブラブラと歩く。何か休みとなると毎回同じ事言ってねーか、私。

 

……去年、中一の時は良かったよなぁ。

一緒に過ごす友達が居たし、一緒に遊んだりホラースポットに連れてかれたり、ゴールデンウィークはもちろん夏休みも冬休みも充実していた。

 

あの時間が輝きすぎていて、あの子と出会う前の休みをどう過ごしていたのか、よく振り返らないと思い出せない。

確か毎回今と同じようにどう過ごすかを悩んで……最終的に人目を避けて、田舎エリアの森とか川で一人遊びしてたんだっけかな。あれはあれで楽しくはあった気がする。

 

……久しぶりに行ってみよっかな。

思い出したら、懐かしさと共にそんな気になって来た。

 

 

「ま、町内会のゴミ拾いよりゃ気分になるな……」

 

 

一度目的地を決めると、何となく足が軽くなる気がするから不思議である。

私は気分を切り替えるように大きくのびをし、空を見上げ――。

 

 

「……ん」

 

 

また、あの雲だった。

人の腕の形をした、面白い雲。それが変わらずそこに浮いている。

 

 

「…………」

 

 

千切れたり変形したりといった事も無く、付け根から指先まで何一つ変わらずそのまんま。

風に流され多少角度が変わったのか、開かれた掌が地上に向かって広がっている。

 

別にそれがどうしたって訳じゃないけれど……何故か、今度はあまり面白くは感じなかった。

 

 

「……行こ」

 

 

私は意識して呟くと、田舎エリアに続く橋へと歩を進めた。

 

……雲は、よほど高い場所にあるのだろうか。

その後自然の中を散策し帰宅の時刻になっても、腕は一切の変化を見せないまま、ずっと空の上に漂っていた。

 

 

 

 

 

 

ゴールデンウィーク二日目。

昨日と変わらず朝イチで家を飛び出した私は、またもあてどなく街をぶらついていた。

 

……こういう時こそ、図書館とか行って勉強すりゃ良いんだろうな。

私の学生としての側面がこそっと囁くけど、うん、いいじゃんそれは別に。そんな虐めんなよ……。

 

 

「んー……打ちっぱなしでも行くかー?」

 

 

この場合の打ちっぱなしとは、ゴルフではなくバッティングセンターの事である。

私にかかればピッチングマシーンの球なんぞ止まっているも同然であり、振れば当たるし当たれば飛ぶし飛べば大体ホームラン。故に打ちっぱなし。

 

まぁ楽しいのは最初だけですぐ単調になって飽きてしまうのだが、昨日自然の中で動き回った事もあってか、引き続きなんとなく身体を動かしたい気分だった。

それとバッティングセンターの近くには他にもアクティビティがあった筈だし、それなりに楽しめるだろう。

 

ひとまず今日の予定はそれと決め、私は彷徨う足先を目的地へと向けた。

 

 

「…………」

 

 

道中、ぼんやりと空を見上げる。

 

大体快晴。所々に雲はあるけど、暖かい日差しを遮る程でも無い。

むしろいい感じに日陰が作られ、昼寝するのにも丁度いい塩梅――なんだけども、私はイマイチ落ち着かなかった。

 

その理由は分かっている。

視界の端に小さく見える、例の雲のせいだ。

 

 

「んー……」

 

 

昨日と同じ位置に座し、こちらに向かって掌を広げているような形をしている腕の雲――。

……一日経っているのにまだそこにあるというのも気になるところだが、それよりも目に付く変化が起きていた。

 

 

(……伸びてるんだよな)

 

 

そう、二の腕の部分だけが、昨日の数倍以上に長く伸びていたのだ。

 

あの部分だけ風に流されたのだろうか。

形の変わらない掌部分を先端に付けたその姿は、もはや腕と言うより白蛇のよう。

 

シュールさという意味では更に磨きがかかったけれど……何か少し、不気味だ。

 

 

「……まぁ、あんなんなってるなら、その内散るだろ……」

 

 

自分に言い聞かせるように呟きつつ、目を逸らす。

あれだけのびのびになっているのだ。今日はそれなりに良い風が吹いている事だし、場合によっては今日中にでも吹き散らされてしまう事だろう。

 

……される、よな?

 

 

「……、……」

 

 

一回気になると、旋毛の辺りに妙な圧迫感が付き纏う。

私はそれから逃げるように、バッティングセンターへの道を急いだのであった。

 

……だけど、雲はいつまで経ってもそのままだった。

 

一通りを遊び終え昼を大きく過ぎても、腕の形は乱れの一つも見せなかった。

いや、それどころか増々長くなっている気がして、ちらちらと意識が向いてしまう。

 

そのおかげでいちいち気が逸れ、打ちっぱなしもホームランよりファールばかり。

屋根が無いタイプの施設だから、バットを構える最中も視界にずっと雲が入り続けるのだ。盲点!

 

 

(……絶対手が届かない場所にある存在感って、すげーヤダな)

 

 

相手はただの雲なのに、ただそこに在るというだけで、常に意識のひとかけらが割かれ続ける。それがどうにも気持ち悪くてしょうがない。

そんなイガイガとしたざわめきを持て余した私は、少しばかり迷った末、渋々と帰宅を決めた。

 

門限には程遠いけど、なんか萎えてしまった。このまま落ち着かない気持ちで出歩くくらいなら、今日はもう家でじっと昼寝でもしときたい気分。

 

 

「良い天気なのになー……」

 

 

どうせなら昼寝も外でしたかったな。

昨日訪れた田舎エリアの長閑さを思い出しつつ、私は小さな溜息と共に家路についた。

無論、なるべく空を見ないよう、俯いて。

 

 

 

 

 

 

ゴールデンウィーク三日目。

その日は重たい鉛雲が一面に広がる、どんよりとした空だった。

 

いつもなら私も空模様に釣られ憂鬱な気分になっている所だが、今日に限っては反対にどこかホッとしていた。

言うまでも無く、例の腕の雲が見えなくなっているためである。

 

やはり相当な高所にある雲であったらしく、分厚い鉛雲のどこにもその姿は無い。

いや、昨日の快晴からこの悪天候への急変に巻き込まれ、既に散り消えてたり鉛雲と一体化とかしたのかも。

 

というかあんな細かい形が一日二日も残り続けるのがおかしいんだから、きっとそうに違いない。

天気は悪いが、絶好のお出かけ日和と言えよう。うむ。

 

 

「……今日も出かけるのか?」

 

 

そうして鼻歌混じりに身支度をしていると、それを聞き付けたのか『親』がリビングから顔を出した。

相変わらずの鉄面皮だが、今の私はそんなに気分が悪くない。鼻歌を止めないまま、会話に付き合ってやる。

 

 

「んー。どこ行くかはテキトーだけど、晩ご飯までには帰るわ」

 

「いいや、門限十七時は譲らん。だが、そうか。行く当てが決まっていないなら、みたまウォークに参加したらどうだろうか」

 

「……えー、回覧板に載ってたやつ?」

 

「載ってたやつ」

 

 

みたまウォークとは、近隣地域の者達が集まって行うウォーキングの事だ。

皆でお喋りしながら近場を適当に歩いて、お昼食べて解散する。言ってみれば内輪の遠足。

 

言われてみれば、以前見た回覧板のプリントでは今日開催予定と書かれていた気がする。

興味無さすぎて忘れてた。

 

 

「や、だからさぁ、言ったじゃん行く気ないって。つかこんな天気でもやんの?」

 

「そこの自然公園で小雨決行だそうだ。強要はしないが、途中参加も可だから気が向いたのなら行ってみなさい。我々も居る」

 

「えー……」

 

 

『親』は言うだけ言うと、またリビングへ引っ込んでいった。何だアイツ。

 

どうも最近やたら親ぶってくるというか、何かにつけて口うるさい。

私のオカルト関連にも「関与しない」と約束しつつ、屁理屈言って手を出してくる。いやありがたくはあるし、そうしてくれなきゃ死んでる場面もあったとはいえ、なんかなぁ。

 

さておき。

 

 

「……自然公園か……」

 

 

ウォーキングに参加するつもりは無いが、自然公園というロケーションにはちょっと惹かれた。

 

昨日が不完全燃焼で終わってしまったため、身体を動かしたい気分は若干ながら継続中なのだ。

あそこにはアスレチックのスペースもあった筈だし、行ってみるのも悪くない……一部『親』の言いなりになるみたいで、ちょっとだけ癪だけど。

 

 

「…………」

 

 

ちらりと、リビングのドアを見る。

しばらくそのままでいたけど、再び開く様子はまるで無く。

 

……私はまた小さな溜息を吐き、玄関のドアを押し開けた。

 

 

 

 

 

「――あれ、タマさんじゃん。おっすー」

 

「オ゛ッ……」

 

 

そうして訪れた自然公園。

青々とした緑を眺めのほほんと歩いていると、知った顔とばったり出くわし変な声が出た。

 

険の無い穏やかな顔つきに、それと反して煌々と光る極彩色の双眸。

人柄とは別の意味でなるべく距離置きたい系男子筆頭の犬山くんだ。そら声も出らぁ。

 

 

「偶然だねこんなとこで。散歩?」

 

「ま、まぁ、そんな感じ……ええっと、そっちは……?」

 

「ああ、何か今日ここでウォーキングのイベントやるらしくてさ。せっかくだから参加してみよっかなって」

 

 

100%みたまウォークの事である。

もとよりそのつもりなど無かったが、絶対に参加しないと心に決めた。

 

 

「こういうイベントって前から少し気になってはいたんだけど、ずーっと纏わり付いてた蠅のせいで参加出来た試しなくてさ。でももうなくなったし、良い機会って事で行ってみようかなってね」

 

「へ、へー……蠅……いや、いいや……うん……」

 

 

深くは聞くまい。

私は口をついて出ようとした疑問を呑み込みつつ、犬山くんから少しずつ距離を取る。

 

彼は悪いヤツではないのだが、何をしでかすか分からない怖さがある。

穏やかに笑った一秒後に、突然コンクリートブロックを振りかぶっていそうというかなんというか。

 

とにかく、適当な理由でもつけて早いとこ話を切り上げよう――そう思ったのだが、

 

 

「これ系のイベントって人数どれくらいなんだろ。ちっちゃい子供とかお年寄りとか多そうなイメージだけど、俺らくらいの人も居るのかな」

 

「え、や……どうだろ。あんま居ないんじゃない……?」

 

「やっぱそう思う? フンイキ渋めのイベントだし、みんな興味なさそうだよなぁ。ちょっと残念っていうか――」

 

 

それより先に犬山くんが雑談モードに入ってしまい、中々自然な切り出し口が見つからなくなった。

 

もとから人当たりの良いヤツだとは思ってたけど、話し上手でもあったらしい。

消極的な態度の私相手にも自然に会話を繋げ続けるその様子に、思わず感心してしまう。潤滑油ってこういうヤツの事を言うんだろうか。

 

 

「――あ、そうだ、せっかくだしタマさん一緒にどう? ヒゲから聞いたけど、運動とか好きなんだよね?」

 

「うぇっ!?」

 

 

ぼけーっとしてたら、いきなり話を振られまた変な声が出た。

やなこった、と反射で言わなかっただけ褒めて頂きたい。

 

 

「い、いやぁ、私はいいかな……そのー、奥のアスレチックで遊ぶ予定だからさ」

 

「あ、そうなんだ。そういやそこも俺行った事ないんだけど、どんな――」

 

「――あっ、そろそろ時間とか大丈夫かなー!?」

 

 

また雑談チェインが発生しそうな気配を察し、多少強引に切り上げを図る。付き合ってられっか。

 

唐突な声に一瞬きょとんとした犬山くんだったものの、言われるままスマホで時間を確認すると「ああ」と頷く。

 

 

「ほんとだ、もうちょいで集合時間だ。や、何かいきなり喋っちゃってごめんね、最近俺テンション上がりっぱなしでさぁ」

 

「は、ははは……」

 

 

明らかに極彩色の黄身の影響である。

私は誤魔化すように笑いながら、言葉を返さず手だけを振った。

 

そうすれば犬山くんもそれ以上は絡んで来ず、「それじゃ、またなー」と手を振り返しつつ足取り軽く遠ざかってゆく。

人懐っこく無邪気な姿だが、こちらを見る極彩色が全てを台無しにしていた。

 

そうして引き攣った笑みのまま見送っていると――突然、犬山くんの視線が上を向き、何かに気付いたような顔をした。

 

 

「タマさーん……! 後ろ見て後ろー……! 空に面白いのがー……!」

 

 

すると何やら声を張り上げ、私に振り向くよう促してきた。

 

なんだよ。UFOでも居たんか。

私は訝しげに思いながらも、彼の指先に従い背後の空を振り向き仰ぎ――。

 

 

「……………………」

 

 

……雲。

雲だ。そこには、雲があった。

 

空一面を覆っている鉛雲の事ではない。

それとは別に妙な形をしたものがひとつ、その存在を主張している。

 

――人の腕の形をした、例の雲。

空を塗り潰す灰色の中に、真っ白な色をしたそれが静かに浮いていた。

 

 

「…………」

 

 

私に「空の面白いの」を見せた事で満足したのか、犬山くんの挨拶と遠ざかる足音が小さく聞こえる。

 

どうにか軽く手を振り返せたが、私の視線は空の腕に釘付けになったまま、離れない。

さっきまでそこに無かった筈のそれ。欠けも乱れも無い、その腕の形から。

 

 

「……突き抜けて来たって……?」

 

 

この分厚い雲の中を?

あの形を保ったまま?

 

そんなバカなと鼻で笑いたかったが、事実としてこの光景がある以上それも出来ず――そして、それの意味するところに気が付いた。

 

……少しずつ、降りて来ている。

 

雲の上から、雲の下に。

その腕は今もなお伸び続け、ゆっくりと地上へと近づいていた。

 



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「雲」の話(下)

 

 

 

「…………」

 

 

翌日。ゴールデンウィーク四日目。

私はどこにも出かける事は無く、自室で寝っ転がっていた。

 

居心地悪いし退屈だしでどうにも時間を持て余していたけど、これまでと違って外に出る気にもなれない。

スマホ弄りもすぐに飽き、ぼうっと天井を眺めたまま無為な時間をただただ過ごす。

 

 

「…………、」

 

 

ふと、窓の外へと視線が向いた。

意識した訳じゃない。無意識のうちに、自然とだ。

 

すぐ我に返って舌打ちを鳴らしたけど、目を逸らすより先に私はそれを見てしまった。

 

カーテンを閉め切った窓の隙間。

そこから見える天気の良い庭先に、大きめの影が落ちている。

 

――開かれた掌のような、雲の影。

 

 

「……っ」

 

 

窓に駆け寄り、カーテンを今度こそ隙間なく閉め、後退る。

 

とはいえ、それで何かが変わる訳でもない。

むしろ遮られた事で存在感が増した気がして、やたらとカーテンの向こう側が気になってしまう。

 

……朝から、ずっとだ。

 

家の外。空を見ないよう俯く先に、掌の影が落ちている。

太陽の位置によって多少は移動しているけど、家の周囲にずっと纏わり付いている。

 

私は理科の成績もあまり良くないから、光や像がどうこうといった事は詳しく分からない。

でも、あの雲が付近の上空に留まり続けているという事くらいは私にも分かる。そしてそれが、昨日より地上に近い場所に降りている、という事も。

 

 

「……くそ、キモいな……」

 

 

初日に感じていた面白さなんて、もうどこにも無かった。

ずっと変わらずそこに在り続ける雲が不気味で不気味でしょうがなく、粘ついた気持ち悪さが離れてくれない。

相手は、ただの雲なのに――。

 

 

「…………」

 

 

そう、ただの雲なんだ。

 

そもそも、別に大きな異常が起きている訳ではないのだ。

単に人間の腕の形に見える雲が、気流か何かで形を保ったまま降りて来ていて、それを私が一人で不気味がっているにすぎない。ただそれだけ。

 

……それだけ、だよな?

 

 

「…………」

 

 

少し迷った後、意を決してカーテンに僅かな隙間を作る。

恐る恐ると、空を見上げた。

 

 

「っ……」

 

 

あった。

腕の雲だ。

 

それはやはり昨日より地上に近い場所にあるようで、記憶にあるそれよりも数倍以上に大きくなっていた。

二の腕部分も更に長く伸びていて、糸のように細まりながら空高くへと続いている。

存在感も昨日と比較にならないくらい増しており、眺めているだけで妙な圧を感じてしまう。

 

……でも、雲はそこにあるだけだ。

目的も意思も何一つなく、現象として存在しているだけのもの。

 

私が感じている圧も不気味さも、全ては思い込みであり――と、

 

 

「……?」

 

 

ふと、違和感。

雲の形が、また少しだけ変わっている気がした。

 

いや、形というより角度だろうか。

指を広げた掌はそのままに、また若干の傾きが付いているような。

 

そう、まるで――地上そのものではなく、私個人に掌を向けて、

 

――コン、コン。

 

 

「!」

 

 

唐突に部屋のドアがノックされ、思考が散る。考えるまでも無く、『親』の呼び出しである。

 

「…………」私は少しの間だけ雲とドアとを見比べて、すぐにカーテンを閉めた。

そして渋々感を取り繕ってドアを開けば、そこにあるのはやっぱり『親』の鉄面皮。

 

 

「……な、なんだよ」

 

「そろそろ昼食の時間だ。外出していないという事は、今日は家で食べるのだろう?」

 

「え? あー……」

 

 

言われて意識すれば、確かにそこそこお腹が減っていた。

平日は学校での給食だし、休日は大体外に出て適当に済ますため、何も考えていなかった。

 

正直、昼ご飯までまずいものを食べたくなかったけど、今から外に出るのも億劫だ。

今度こそ本心からの渋々感で頷けば、『親』はどこか肩の力を抜いたように見えた。

 

 

「そうか。では早いところ下に来なさい。準備はもう出来ている」

 

「……ん、どーも」

 

 

いつも通りの高圧的な物言いにイラっとしたが、今日は反発する気にもなれず。

そうして『親』の後に続いてリビングに降りれば、言われた通り既に昼食が並んでいた。

 

これもまたいつも通り、冷えてて質素なそんなに美味しくないヤツ……と、思っていたのだが。

 

 

「……唐揚げとコロッケ? 珍しいじゃん、いつも精進料理みたいのしか出さないのに」

 

「……そういった日もある。いいから、食べなさい」

 

「へいへい」

 

 

初めてこの食卓で好物が出たかもしれない。

多少は上向きの気分で席に着き、『親』の着席を待たず箸を取る。

 

料理は普段のものと違ってまだ温かく、味付けも濃い目で普通においしい。

『親』一体と私一人。雑談の一つも無い乾いた食事風景である事に変わりはなかったが、その時の私の箸は少しだけ早く動いていた。

 

 

「……今日は、フリーマーケットだ」

 

 

すると突然、『親』がぽつりとそう呟いた。

 

 

「あん? ……あー、回覧板であったやつ?」

 

「ああ。今日の予定が無いのであれば行ってみなさい……と、言いたいところだが……」

 

 

そこまで言って『親』は私の顔を見るが、それはそれは嫌っそ~な表情が浮かんでいる事だろう。

『親』はそれ以上言い募る事はせず、小さな溜息だけを落とした。

 

 

「……やはり行く気はなさそうだな。まぁ、分かってはいたが」

 

「そりゃそうだろ。わざわざフリマまで行くほど欲しいもん無いし、それに――……」

 

「それに?」

 

「……や、なんでも」

 

 

一瞬窓に向きかけた視線を強引に茶碗の中へと落とし、白米をかき込んだ。

変な形の雲が怖くておそと出たくないの……なんて言える訳ねーだろ。

 

 

「あー……てかさ、回覧板に載ってたイベントずっと擦って来るけど、なんなのそれ」

 

 

深く聞かれる前に話題を逸らそうと、適当な問いを投げ返す。

 

 

「強要しないとか言っといて毎度行かせようとして来るの、流石にうっさいんだけど」

 

「……言っただろう。こういったものには参加しておいた方が、後々お前のためになるからだ」

 

「今日のフリマも? そんなカチッとしたイベントじゃないでしょ」

 

「地域交流という観点では馬鹿に出来たものではない。品ではなく、顔を見つける場と考えなさい」

 

「……あっそ」

 

 

なんとなく詭弁めいたものを感じなくはなかったが、深く問い詰めるほどの興味がある訳でもない。

私は気の無い返事で会話を打ち切り――ふと思い出し、唐揚げに伸びた箸を止めた。

 

 

「そういや、明日は自衛隊のお祭りだっけ? それにも行けって言うつもり?」

 

「すぐそこの御魂橋駐屯地、開設五十周年記念行事だ。これもお前のためになるだろうから、その気があったら行ってみなさい」

 

「ハッ、流石に苦しすぎでしょ。どこが私のためだってのよ」

 

「お前の学力はともかくとして、その高い身体能力の活きる職は多い。自衛官もその一つという意味で雰囲気だけでも見ておけば、やがて訪れる進路選択の機会において、決して無駄ではない下地の一つとなるだろうと我々は考えており――」

 

「分かった分かりました私が浅はかでしたごめんなさいでした」

 

 

軽い気持ちでの問いかけだったのだが予想外に真面目な返しが長々と続き、ぱたぱた手を振り遮った。

 

……前の何を言っても無視される状況よりはマシかもしれないが、今も今でなんだかなぁ。

私は一転してむっつり黙り込んだ『親』に溜息を吐き、改めて唐揚げを頬張った。振れ幅極端すぎんかコイツ。

 

 

「…………」

 

 

そうして再びの沈黙が広がると、やはり少しずつ窓の外へと意識が逸れていく。

 

この位置からでは雲は見えない。

だが、地面に落ちる影がその存在を伝えている。実際にそれを見るより、ずっと強く。

 

……その光景を見ていると、食欲すらも失せてきそうだ。

そうなる前に食べ終えてしまおうと、私は箸を動かす手を速めた。

 

 

「…………」

 

 

向かいに座る『親』もまた、窓の外を眺めている。

快晴を見上げるその目は無感情のままで、やはり何を考えているのか分からない。

 

私が食事を終えるまで、『親』はそうしたままだった。

 

 

 

 

 

 

――次の日の朝。

私が目を覚ましたその時にはもう、外は大きな影で覆われていた。

 

 

「……うわ……」

 

 

微睡の余韻など楽しむ間もなく消え去り、胃の底が冷たくなっていく。

 

私の部屋のカーテンは遮光ではなく、ある程度光を通す材質だ。

普段ならば、適度に明るい朝日が部屋に差し込んでいる時間帯だが、それが弱まっている。

かといって悪天候という訳でもなく、外が晴天である事は気温と空気ですぐに分かった。

 

……それはつまり、ここ一帯が局所的な日陰の中に居るという事で。

 

 

「……っ」

 

 

一呼吸の間を置いて身を起こし、一息にカーテンを開けた。

途端、いつもより弱い光が一瞬私の目を眩ませて――次の瞬間、それが見えた。

 

 

「うっ――」

 

 

雲。

雲だ。

予想通りの、腕の雲。

 

しかし今私の目に映るそれは、昨日の比ではないくらい大きくなっていた。

より下方へ降りて、より地上に近づいて。そうして開かれた掌の影が、家の周囲一帯に広がっている。

 

――やはり、その手は私に向かって伸びていた。

 

 

「~~ッ!」

 

 

あんまりにも気味が悪すぎて、全身が総毛立つ。

当然、私はすぐにカーテンを閉めようとして――その寸前、それに気が付いた。

 

……雲の内側。白に覆われたその中に、僅かな赤みが混じっている。

 

光の加減だ。瞬時に自分へと言い聞かせるが、上手くいかない。

腕の形をしている事も合わせ、その赤みが何かを示しているかのように感じてしまう。

 

まるで雲が何かを内包していて、それが透過されているかのような。雲の中身が存在しているかのような。

そんな、酷く生々しい「らしさ」――。

 

 

「……いや、っていうか……」

 

 

そうだ、そもそもあれは本当に雲なのか?

私にとっては雲にしか見えなかったけど、本当にそうなのか?

 

人間の腕の形をずっと保っているあれは、

空の果てから少しずつ降りてきているあれは、

明確に私を捉え、そして手を伸ばし続けている、あれは、

 

――あれは一体、何だろう?

 

 

「――起きているか?」

 

「!」

 

 

その時、部屋の外から声がかけられた。

 

そして私が反応するより先にドアが開かれ、『親』が顔を覗かせる。

私は咄嗟にカーテンを閉め、努めて平静さを装った。

 

 

「……な、何か用? つーか、勝手に開けんなし……」

 

「それはすまなかった。そろそろ時間だったのでな、準備を急かしに来た」

 

「は?」

 

 

何の話だ。

突然の言葉に一瞬雲の事も忘れて首をかしげた私に、『親』は一枚のプリントを掲げた。

 

それはつい先日にも見た、町内イベントの予定表。つまり、

 

 

「――自衛隊の記念行事だ。会場の開放自体は早い、混まない内に出ておこう」

 

「…………」

 

 

まだ言ってんのか、コイツ。

私は呆れるやらうんざりするやらで頭を抑え、深い溜息を吐き出した。

 

 

「……あのさぁ、今私そんな気分じゃないんだ。そもそも行くなんて一言も言ってないし、いい加減――」

 

「イベントの詳細だが、航空機の展示や滑走体験などがある。野外売店も幾つか出るようだから、食べ歩きも出来るな」

 

 

『親』は私の言葉を無視し、話を続ける。

……やっぱり少し変だ。その強引ともいえる誘い方に尚更の違和感が強まった時、『親』はちらりとカーテンの閉まった窓へと目を向けた。

 

普段と変わらぬ冷たい視線。

『親』はどこか白々しさを滲ませて、ぽつりと告げた。

 

 

「何より――ヘリコプターでの航空ショーがある。興味、あるのではないか」

 

「だから無いって何度も言って、ん……、…………」

 

 

言葉が止まった。

 

直後私は振り返り、『親』と同じく窓を見る。

当然、カーテンに遮られ外の光景は見えない。見えないが、しかし。

 

 

「…………」

 

「……あるだろう?」

 

 

『親』を見る。

その何を考えているのか分からない冷たい瞳に、私はややあってから、ほんの僅かに頷いた。

 

 

 

 

 

 

航空ショーとはいっても、何か派手な事をする訳ではなかった。

 

駐屯地から飛び立った数機のヘリコプターが編隊を組み、付近の空を往復する。それだけ。

私には何が面白いのか分からなかったが、喜んでいる観客達の様子を見るに、分かる人には分かる良さがあるようだった。

 

ともかく、そうしてヘリコプター達はそれなりの高度に上がり、駐屯地から見失わない程度の距離を飛ぶ。

バタバタと空を裂くプロペラの風音を響かせながら、町内の空をゆっくり周るのだ。

 

――そして、ごく近所にある私の家の上空も、その進路上に含まれていた。

 

 

 

 

「あーあーあー……」

 

 

思わずそんな声が出た。

 

私の視線の先にあるのは、今まさに私の家の上空を飛んでいるヘリコプター達だ。

この駐屯地からは、その光景がよく見えた。

 

そう、青空の中、綺麗に整列して飛行するその雄姿が。

そして――そのプロペラによって千々に裂かれる、腕の雲の惨状もだ。

 

 

「あー……」

 

 

いや、裂かれるというより、撹拌されるといった方が正しいだろうか。

プロペラが巻き起こした乱気流によって雲が蹴散らされたのだ。

 

自然による強風には耐えられても、複数のプロペラによるミキサーには耐え切れなかったらしい。

あんな低空に降りて来なけりゃ……と、さっきまで感じていた雲への不気味さも忘れ、どこか残念にすら思ってしまった。

 

 

「……どうした、そんな声を出して」

 

「あ?」

 

 

そうしていると、隣に立つ『親』がそう声をかけてきた。

今回は小さな男の子の身体だ。あどけない顔つきとそこに張り付く無表情が絶望的に合ってない。こわ。

 

 

「やはり、あまり気に召さなかっただろうか。普通の女の子にはつまらない場かもしれないが、お前であればと思ったのだが」

 

「や……ある意味では楽しいかもだけど……」

 

 

バラバラに散っていく腕の雲を眺めつつそう答えれば、『親』はまた肩の力を僅かに抜いたように見えた。

そしてそのまま互いに口を閉じ、揃ってヘリコプターを眺め続ける。

 

……あの雲は、何だったんだろう。

ただの雲だったのか、それとも。

 

いっそ『親』に聞いてみようかとも思い目を向けると、ちょうど視線がかち合った。向こうも私を見ていたらしい。

『親』はすぐに目を逸らしたが、「……何だよ」と聞き直せば、やがてぽつぽつと零し始めた。

 

 

「……我々とお前が、親であり子であるとしてから少し経つ。だがやはり、『少し』程度の時間ではあまり上手くは出来ないな」

 

「何の話?」

 

「この連休だ。結局、大半を個別に過ごしてしまった」

 

 

最初何を言っているのか分からなかったが、話す内に何となく察した。

どうやらこいつは、ゴールデンウィーク中に私と何かしら家族っぽい事をしようとしていたらしい。

 

いや、だったら旅行に誘うとかもっと色々あっただろ……と思ったけど、正直普通に何か誘われても「行く訳ねーだろ」と鼻で笑っていた自信がある。

回覧板のチラシにかこつけてあーだこーだ言って来たのは、『親』なりに悩んだ結果だったのかもしれない。

……どっちにしろ、断った訳だけど。

 

 

「……どうせ連休中の街中にも沢山あんた居たんだろ。実質同伴してたみたいなモンなのに、何言ってんだ」

 

「それでは何も変わらないのだ。ただそこに居るだけでは、親と子の姿だとは……」

 

 

何やら呟き始めたが、正直言ってめんどくさい。

 

どうも親と子の在り方について色々考えているようだけど、この十四年近くの間に育まれたクソ長い距離感とド深い溝がそう簡単に埋まってたまるか。

そもそも親子がどうこうと言うのなら、今のような小さな男の子の姿で来ちゃダメだろ。親と見たくても見らんねーわ。

こういうところがイヤというかたぶん何かしら配慮的なのしたんだろうけどいつもズレててほんとイライラするっつーかうんぬんかんぬん。

 

考える内にどうにも気分がトゲトゲし始め、私は深く大きな溜息をひとつ。

ちょうど帰って来たヘリコプターから視線を逸らし……ふと、出店のスペースに目が行った。

 

様々な屋台が並び、色とりどりの看板がよく目立つ。

焼きそば、お好み焼き、フライドポテト、いかぽっぽ……。

 

 

「……あー、じゃあせっかくだし親らしいことやってよ。ねーあれ買ってー」

 

「この身体にたかるのか……?」

 

「どうせ近くに大人の身体居るんでしょ。全種類よろしく」

 

「……夕飯が食べられなくなるから、どれか一つにしておきなさい」

 

「んだよケチ」

 

 

『親』は最後まで口うるさい事を言うと、私と同じく出店スペースへと目を向ける。

 

何てことない普通の屋台しか無いが、人はそれなりに多く繁盛しているようだ。

……あそこに居る客の内、いったい何人が『親』の身体なのだろうか。私でもぱっと見じゃ分からない。

 

やはり、気味の悪い生態だ。

そんなのと、そんなのから産まれた私が、普通の親子らしくなる日なんて来るのだろうか。

私は鼻白みつつその光景を想像し……考えるだけ馬鹿馬鹿しいとすぐ投げ出した。

 

 

「さ、何食べよっかな」

 

 

ともあれ、今は屋台飯だ。

 

昼ご飯時もそろそろ近く、お腹の空き容量もそこそこ大きくなっている。

帰還したヘリコプター達のプロペラ音が響く中、私は今の自分が何の腹になっているのかを見定めるべく、屋台の看板をじっと眺めたのであった。

 

 

 

 

 

 

――ぽた。

 

 

「ん?」

 

 

頬に冷たいものが落ちたのは、その時だった。

 

にわか雨だろうか。

私は今まさにヘリコプターの通り過ぎた頭上を見上げつつ、親指の腹で頬を拭い、

 

 

「――……え」

 

 

ぬるり。

その指に、ねっとりとした感触が伝わった。

 

確実に雨粒のものではない。

反射的に親指を見れば、そこには赤黒い液体がべっとりとこびり付いていた。

 

――血だ。瞬間的に、そう悟る。

 

 

「……は? ぁ、え――」

 

 

しかしあまりにも突然の光景に、思考が追い付かない。

驚くでも、悲鳴を上げるでもなく、私は只々困惑し――そうする内に、少しずつこびり付いた血が薄れ始めた。

 

まるで蒸発するように、或いは溶けるように。

粘ついた赤黒い色合いが薄くなり、やがて白い靄と浮かび。ふわりとそこに漂ったかと思うと、私の吐息に散っていく。

 

再び頬に触れても何も違和感はなく、後には何も残っていない。

全てが、夢幻と消え去っていた。

 

 

「…………………………」

 

 

何一つとして、意味が分からなかった。

分からなかったが、しかし、未だ動かぬ思考にじわりと滲む気付きがあった。

 

……そうだ、さっきの靄。

あれはたぶん、靄というより、きっと――。

 

 

「――雲?」

 

 

呟いた瞬間、背後に何かが落ちる音がした。

 

 

「っ……」

 

 

ぼったり、という、柔らかくて、重たいものが落ちる音。

 

……鳥か何かが落ちて来た? それとも、人が倒れた?

 

分からない。

呼吸が浅い。振り向けない。

背中から伝わる存在感が、私の身体を抑えつけていた。

 

 

「…………」

 

 

どうしてか、朝に見た腕の雲を思い出す。

 

白の中に赤みを差した、それ。

まるで中身があるような、雲という皮の中に血肉を持っているような、それ。

……さっき、頭上を通ったヘリコプターのプロペラにズタズタにされた、それ――。

 

――機体にこびり付いていたそれが、今、剥がれ落ちて来た?

 

 

「…………」

 

「!」

 

 

嫌な想像が像を結ぼうとした間際、視界の端に私の背後をじっと見つめる『親』の姿が映った。

 

それも一人や二人じゃない。

小さな男の子の身体はもちろん、その周囲、ショーを見る観客や出店スペースに居る人達の中にも、同じ方向を見ている身体が何人も混じっていた。

 

『親』は何も言わず、何もしない。

ただ無言のまま、私の背後に視線を集中させている。

 

 

「――……」

 

 

突然、その視線の全てが背後から外れた。

同時に身体を抑えつけていた存在感も消え、肺が柔らかさを取り戻す。

 

「はっ、……ふ、ぅー……」浅くなっていた呼吸も戻り、心臓がどくどくと暴れ始めた。

いつの間にか冷たくなっていた指先が、痛みにも似た痺れを発している。

 

 

「……、……」

 

 

暫く息を整えた後、ゆっくりと背後を振り返った。

集中し、お腹に力を込め、いつでも走り出せるよう足裏で地面を噛んで。

 

けれどあんまり意味は無かった。

振り返ったそこにあったのは、何かが落ちたかのような痕跡を残す地面と、そして――僅かな白い靄。

 

……いや、それは確かに雲だった。

さっき私が見たような、生まれた瞬間に吹き散らされて消えかけている、何かの残滓。

 

――何か、とは。

 

 

「――出店の方に、行こうか」

 

「っぅえ!?」

 

 

いきなり隣から声をかけられ、身が跳ねた。

慌てて見れば小さな男の子の『親』がこちらを見上げ、出店スペースを指差している。

 

 

「我々が選ぶより、お前が好きなものを選んだ方が良いだろう。ほら」

 

「えっ、あ、う……うん……」

 

 

言い返す言葉も咄嗟には浮かばず、大人しく腕を引かれる。

子供の身体の癖にその力は少しだけ強くて、なんとなく私をこの場から離そうとしているようにも錯覚した。

 

 

「……な、ぁ。今、何見てたんだ……?」

 

 

絞り出すようにそれだけを聞くが、『親』はこちらを見つめるだけで何も言わない。

冷たい瞳。私はそれ以上言い募れずに黙り込み、後はそのまま親に連れていかれるだけだった。

 

……今落ちて来たものは何か。雲に替わった血は何だったのか。

『親』はどうして何も言わないのか。そもそも、あの腕の雲は何だったのか。

 

明らかになったものは何一つ無く、全てが有耶無耶のまま終わる。

 

 

――それこそ、雲を掴むような出来事だった訳である。

 

 




主人公:しばらく空見るの嫌だな……と、一週間くらい下を向いて歩くようになった。

『親』:最終日だけとはいえ、休日を娘と共に過ごせた事に一定の手応えを感じた。

犬山くん:いろんな事にチャレンジ中。町内の大人からとても可愛がられている様子。


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「友達」の話(上)

『やっほータマちゃーん。おひさ~』

 

 

……そんな電話がかかって来たのは、翌日に休みを控えた金曜日の夜。

晩ご飯もお風呂も歯磨きまで済まし、お布団でぐっすり眠りに落ちたその直後の事だった。

 

 

「……あに、誰」

 

 

快眠を邪魔された事に、思ったより低い声が出た。

 

時計を見るとまだ十二時は越えてなかったけど、メッセージはともかく通話はちょっと躊躇するような時間帯。

「こんな時間にかけてくんなやボケ」と強めの雰囲気を出したつもりだったが、相手は全く気にせず暢気に続ける。

 

 

『一緒にあんな恐怖体験したのに覚えてないのお……? あ、もしかしておねむ?』

 

「そうだよ、ねむいよぉ……」

 

『ありゃ、ごめんねぇ。中学生ならまだ起きてると思ったからさー』

 

 

申し訳なさを感じるものの、どこか空々しくもある女の声だ。

 

声の言う通りどこか聞き覚えがある気がしたが、寝ぼけ頭が上手く回らない。

発信元を確認していなかった事を思い出しスマホの画面を見てみたが、そこに映るのは今時珍しい公衆電話の文字。誰かまでは分からなかった。

 

何だっけ。この声、どこで聞いたんだったかな……。

 

 

『……色々、決心着いたから。だから、その日の内にって思って』

 

「んー……だから誰だって――、っ」

 

 

そうしてのろのろと声と記憶を照らし合わせていると――やがてぴたりと合致する顔が浮かび、眠気がどこかへ吹き飛んだ。

 

そして反射的に身が起き上がり、ベッド横の戸棚を見る。

正確には、そこに置かれた私の物ではないスマホを。

 

 

「……はぁぁぁ」

 

 

……何が「誰だ」だ。ボケは私だボケ。

襲い来る様々な感情を溜息で抑え込みつつ、改めてスマホの向こうの彼女へと向き直る。

 

 

「――……あんた、黒髪女か?」

 

『えー、ワタシの事そんな風に呼んでたのお?』

 

 

少し前、私をそれはそれは面倒くさい厄介事に巻き込んでくれた迷惑女――。

私が黒髪女と呼ぶ彼女が、スピーカー越しにわざとらしく唇を尖らせた。

 

 

 

 

 

 

多くの犠牲者を出したあのカラオケボックス(偽)での出来事から、ゴールデンウィークを挟んでおよそ二週間弱。

『親』曰く、あれからずっと家に引き籠っているという黒髪女の声は、思ったよりも元気そうなものだった。

 

 

『改めまして久しぶり~……えーっと、あの時のケガとか大丈夫……?』

 

「……別に、大した事ない。ちょっとした擦り傷で、もう治った」

 

『そうなんだ、良かったぁ……で、えっとね、何で電話したか分かっていうと、そのぉ――』

 

「――スマホ、返せってんだろ」

 

 

どこか殊勝な様子の黒髪女に敢えてそう被せ、またベッド横の戸棚に目を向ける。

 

そこにある黒髪女のスマホは、あの日に没収したままだ。

本当はさっさと返却なりなんなりをしたかったのだが、その機会がまるで無かったのだ。

 

初対面時にしていた連絡先の交換も、向こうのスマホが私の手にあるのだからほぼ無意味。

他のアクションも一切無くどうする事も出来ず、結果的に私が保管し続けていた。

 

 

『え? あー……うん、それもあるんだけど……』

 

「言っとくけど、借りパクするつもりとか無いからな。こっちも『親』に頼んで直接あんたの家に届けさせようとかしてたのに、反応ナシで困ってたんだ」

 

『……そういえば誰か来てたけど、無視ったかも。住所教えてないのに怖いんだぁ』

 

「どの口で言ってんの……」

 

 

というかあんたの家の周り、たぶんもっと怖い事になってるぞ。監視的な意味で。

 

……いや、そもそもこの女、事の次第とか自分が『親』に見張られてる事とか、どこまで分かってるんだ?

その軽い言葉尻からは何も捉えられず、どの程度喋っていいのか若干迷った。

 

ともあれ、こうして連絡が取れたという事は、ようやくスマホを返せる時が来た訳だ。

黒髪女が自分のスマホに連絡してくる事も考えて電源入れっぱなしだったから、たまに通知が鳴ってて落ち着かなかったんだ。肩の荷が下り、少しばかりホッとする。

 

 

「あんただってこれ無くて不便だったろ。また『親』に届けるよう頼むから、今度こそ無視すんなよな」

 

『……そうねぇ……ううん』

 

 

手早く用件を済ませて電話を切ろうとしたのだが、黒髪女は言い辛そうにしたままハッキリしない。

叱られる寸前の子供のような、恐る恐るとした雰囲気。

 

……私は深い溜息を吐き出しつつ、仕方なしにこちらから切り出してやった。

 

 

「……あのさ、もし私に謝りたいとかお詫びしたいとかだったら、そういうのいらないからな」

 

『え……』

 

 

呆気にとられたような声が返るが、本心である。

やっぱり私は、この女を嫌いになり切れていないのだ。

 

 

「そりゃ反省しろやこのクソ女とくらいは思ってるよ。でも、あのピアス男達にした事とか、後悔も何もしてないだろ、あんた」

 

『うん、全然。あの人らは勿論、あの人らの家族にも謝る気、ないよ』

 

 

そう答える黒髪女の声には、揺らぎはほとんど見られなかった。

引き籠っていた間に、そう折り合いをつけたのだろう。当時の吐きそうになりながら笑っていた姿を思い出し、鼻を鳴らす。

 

 

「じゃあ謝られても滑ってくだけじゃん。巻き込まれたのは正直ムカついてるけど、そもそも私が言えた義理じゃねーし。今みたいな雰囲気出してんならそれでいいよもう」

 

『……やっぱりガラ悪いね、タマちゃん』

 

「うるさいな。とにかく、もうあんたにめんどくさい事されるのはウンザリなんだ。パパっとスマホ返して、それでおしまいで済ませたいんだよ」

 

『…………』

 

 

バッサリ言い放つと、黒髪女は少しの間押し黙る。

その内にやがて小さく息を吐く音が聞こえ、どこか固い声で話し出した。

 

 

『……じゃあ、もう、色々前置きとかご機嫌取りとか抜いて言っちゃうけど』

 

「うん。……うん?」

 

 

……前置き? ご機嫌取り?

あれ、何か私が思ってた流れと違うっぽくない?

 

なんとなく嫌な予感がしたが、私が何かを言う前に黒髪女は続けた。

 

 

『――明日さ、お休みだったらちょっと会わない? お願いしたい事、あるんだぁ』

 

 

ぷち。

即座に通話を切ったものの、すぐにまたコール音が鳴り響く。

 

……黒髪女、何か殊勝な雰囲気だったから会話が通じるモードだと勘違いしてたけど、どうやら通じないモードの方だったらしい。

 

 

「もー……何なんだよあの女マジでさぁー……」

 

 

そう嘆けども、彼女をブロックする気になれない自分にも腹が立つ。

スマホが煩く鳴り続ける中、私のか細い呻き声が延々と天井へ吸い込まれていった。

 

 

 

 

 

 

翌日。

結局私は黒髪女の呼び出しに応じ、渋々待ち合わせ場所に向かっていた。

 

何せ相手は、目的のためなら文字通り何でもヤるであろう女である。

ここで断ったら、後々何をしでかすか分かったもんじゃない。だったら最初から気構えを持って相対した方が幾分かマシだと思ったのだ。

 

……何より、今の黒髪女は何人もの『親』が見張っている。

万が一彼女が良からぬ事を企んでいようとも、どうにかなる状況にある……と思うんだけど、どうだろう。早まったかな。うーん。

 

 

「――あっ。お~いタマちゃ~ん!」

 

「っげ……」

 

 

色々と考え込むうちに待ち合わせ場所の公園に着くと、明るい声がかけられた。

 

呻き声と共に嫌々目をやれば、そこには笑顔で手を振る黒髪女の姿が見えた。

電話の時に感じた印象そのまま元気そうで、前のような濁った眼もしていない。最近まで引き籠ってたとは思えない溌剌さだ。

 

 

「…………」

 

 

そしてその背後には、物陰から隠れてこちらに視線を向ける鉄面皮があった。

 

黒髪女を張っている『親』の身体の一つだろう。

おいコイツ大丈夫なんだろうなという視線を送れば、静かな頷きが一つ。安心出来ねー。

 

 

「や~、来てくれてありがとうねぇ。正直、断られるだろうなって思ってたからさぁ」

 

「実際断ってんだよこっちは。なのにしつこく何度も何度も……」

 

 

断られると分かった上で頼み倒してくんのが一番タチ悪いよな。

ブチブチと呟くものの、こうしてこの場に来てしまった以上は言ってても仕方ない。

私はもう何度目かも分からない溜息を吐くと、朗らかな笑みを浮かべる黒髪女を半眼で睨んだ。

 

 

「……で、何の用。私、さっさとスマホ返して帰りてーんだけど」

 

「あー……うん……と、ねぇ」

 

 

そうして雑に話を促せば、途端に黒髪女の歯切れが悪くなる。

暫くそのまま何かを迷うように口籠り続け、いい加減焦れた私がもう一度強めに促そうとした時――いきなり、彼女の頭が深々と下げられた。

 

 

「――前の事。色々酷い事をして、申し訳ありませんでした。そして、助けてくれて本当にありがとうございました」

 

 

黒髪がさらりと揺れ落ち、隠れていた藍色のイヤリングを覗かせる。

突然のその言葉を上手く吞み込めなかった私は、ぱちくりと目を瞬かせ……暫く後にようやっと意味を理解し、眉間に深くシワを寄せた。

 

 

「……そういうのいらないって、昨日言ったよな」

 

「うん……でもやっぱり、しておかなくちゃって思うから」

 

 

黒髪女はそう言って顔を上げ、濁りの無い瞳で私を見つめる。

 

 

「謝るのもそうだけど……あのビルから逃げる時、タマちゃんが最後に助けてくれなかったら、ワタシは全然知らない人に殺されちゃってた事になる。そんなの絶対許されない事だから、キミには本当に感謝してるの」

 

「……友達相手だったら、いいの?」

 

「いいよ。だから、あの時そうなろうとしたの」

 

「……、……」

 

 

私に言える事は何も無く、黙り込む。

 

……例のビルに潜み、ピアス男達を惨殺した『何か』。

黒髪女はそれに敢えて殺されようとしていたけど、それは『何か』を亡くなった友達だと勘違いしていたからだ。

 

もしその勘違いのまま死んでいたら――きっと、黒髪女も救われないものになってたんだろうな。そう思った。

 

 

「今日タマちゃんに会いたかったのも、それなんだぁ。本当はどうなのか、確かめたくって」

 

「……?」

 

 

ふっと硬かった雰囲気が崩れ、黒髪女の語尾が間延びしたものに戻る。

 

……本当はどうって、何が?

察しの悪い私に、黒髪女はそっと目を伏せ、それを告げた。

 

 

「あの子が――ワタシの友達が本当に居るのかどうか、一緒に探して欲しいの」

 

 

 

 

 

自殺した友人が、本当に幽霊となっているかもしれない――。

どうも黒髪女は、カラオケボックスで『何か』に遭遇するまで、その可能性については意識の外にあったようだった。

 

それをもとに作った嘘で私を釣ったクセにと思わんでも無かったが、まぁ仕方あるまい。

以前にあったバスの件はどっちかと言えば現象に近いものだったし、霊のジャンルが実在しているという実感が薄かったのだろう。

かつての私もそうだったから、気持ちはよく分かった。

 

 

「前さ、あの子の幽霊を探して色々回ったって言ったじゃん? それ全部、嘘なんだぁ」

 

「や、知ってっけど……」

 

「本当はそんな事してなくて、先輩らをやり込める準備ばっかりしてて……あの子が幽霊になってるかもとか、全然考えてもいなかった。ひどいね」

 

「……そういうの視えないんなら、そうなるのも当たり前なんじゃないの」

 

 

投げやりに返せば、黒髪女は小さな苦笑を零す。

……慰めには、ならなかったみたいだ。

 

 

「でも、カラオケであんなの見ちゃったら思っちゃうよね。あれは違う人だったけど、本当に、あの子の幽霊もどこかにいるのかも……とかさ」

 

「……そんで、私が一緒に探せって?」

 

「うん。だってワタシだけじゃ、例えあの子が居ても見つける事が出来ないから……」

 

 

そう語る彼女の笑顔は、私には酷く寂しげなものに見えた。

それを演技だと決めつけるのは簡単だけど、なんとなく、そう思うのは嫌だった。

 

 

「もちろん、タダでなんて言わないよ。何だって言う事聞くし、ワタシが持ってるものも、命以外は全部あげる。ブランドの服とかバッグとか、あと高校の時からバイトしてたから、お金もそこそこ貯まってるよお」

 

「いらねーよそんなの……てか命は……」

 

 

言いかけて、やめた。

彼女が自分の命をどう扱うのかなんて、今更だ。

 

 

「……探すって、どうするつもりだよ」

 

「今度こそ本当に、思い出の場所を回るの。もちろん、あのビルにはもう行かないけど」

 

「…………」

 

 

こっそりと『親』の方を見る。

今の話も聞こえていた筈だが、変わらず物陰からこちらの様子を窺うだけで、口を挟んでくる気配はない。

 

 

「ね、ね、お願い。ついてきて、居るか居ないかを教えて。それで、もしどこかにあの子が居たのなら……」

 

 

黒髪女はそこで言葉を切り、じっと私を見つめてくる。

 

……居たのなら、何だよ。最後まで言えよ。

そう思ったけど、まぁ本当に彼女の友達がどこかに居たとして、どうするのか、どうなるのかは彼女自身にも分からないんだろう。

 

だって、視えず、聞こえず、感じられもしないっていうのは、そういう事だから。

 

 

「……はぁ~~~」

 

 

私は溜息とも呻きともつかない息を吐き出して、頭をぐしゃぐしゃとかき回す。

 

正直、すごく面倒で、イヤだった。

イヤだった……けれど、

 

 

「……何か危なそうだったらすぐ帰るからな、私」

 

「――! ありがとタマちゃ――ふぎゃ」

 

 

感極まったように馴れ馴れしく抱き着こうとする黒髪女に、アイアンクローを決めて接近拒否。

 

近寄らせると危ないからなこいつ。スタンガンとか。

「いたいよお、ひどいよお」嘘くさく悶える黒髪女をぺいっと放り捨てながら、私は最後に一度だけ、特大の溜息を吐き出したのだった。

 

 



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「友達」の話(中)

 

 

 

『で、何で僕まで呼びつけるんだい』

 

 

うごうご。

メモ紙の中で黒いインクが這いずり回り、そんな文章を形作った。

 

 

『そこらへんに君の親御さんが居るんなら、僕を呼ぶ意味なくないかな。それもわざわざインクまで使って。緊急事態かと焦っちゃったよ』

 

「それは悪かったけどさ……あの女まわりについては、あんただって関係者だろ。前にだって『僕にも責任がある』的な事言ってたじゃんか」

 

『……まぁ、それはそうなんだが』

 

 

蠢くインク――インク瓶はそう文字を変えると、紙の上を滑りとある方向へ視線をやるように移動する。

少し離れたそこには手持ち無沙汰に立つ黒髪女の姿があり、じーっと私の様子を窺っていた。

 

 

――黒髪女の友達探しに付き合うと決めた、少し後。

思い出の場所巡りに出発するその前に、私は準備と称してインク瓶への連絡と説明を行っていた。

 

 

彼に言った通り、関係者として一応話をしておいた方が良いと思った事もある。

だが本命はそれでなく、単純にオカルト面の助言というか助けというか、そういったものが欲しかったからだ。

 

 

『……仕方ないな。それで、僕に何をして欲しいんだい。君らのデートに付き合えばいいのか?』

 

「デート言うなや……そうじゃなくて、ちょっと聞きたい事あるっていうか……」

 

『煮え切らないね。つまり?』

 

「や、あのさー……あいつが幽霊見えるようにとか、出来る方法ない?」

 

 

無論、黒髪女の事である。

 

すると案の定、インク瓶はトン、トンと神経質そうなリズムでメモ紙を揺らし始めた。

むっすりと組んだ腕を人差し指で叩いている姿が目に浮かぶようだ。

 

 

『……それ、意味分かって言ってるかい?』

 

「幽霊だけじゃなく、オカルト全般に目を付けられやすくなるから危険だってんだろ? それくらいは身に染みて分かってる。それでもさ……なんなら声だけとか、そういうのでも、その……」

 

 

と、そこまで言ってはみたものの、言葉尻が先細らざるを得ない。

そのままついには黙り込み、気まずい沈黙が流れる事、暫し。

 

 

『……方法、まぁ無い事も無いよ』

 

「えっ」

 

 

やがて紙に浮き出たその返答に、思わず声を上げてしまった。

 

 

「え、あ、あるの……っていうか、いいの? こういうの、絶対ダメって言うと思ってたのに……」

 

『オススメはしないさ。でも君の言う通り、僕には彼女に情報を与えてしまった責任があるからね。可能な範囲であれば、多少の協力は、』

 

「――ほんとう?」

 

「うひゃっ!?」

 

 

いきなり肩口から黒髪女が顔を出し、私は思わず飛び上がる。

いつの間にやら忍び寄り、私とインク瓶のやり取りをこっそり盗み見ていたようだ。抜け目ねぇなほんとに。

 

 

「ねぇ、それってワタシもタマちゃんみたいに視える人になれるって事? あの子も視えるようになれるの? ねぇ、メモの人」

 

『……一時的に、僅かな時間だけだ。永続的な霊視能力を与えるつもりは無いよ。そうなると明確に君を害する行為になってしまうからね』

 

 

突然の横入りにもインク瓶は動じず、静かにそう文を紡ぐ。

それを読んだ黒髪女は少し考えるように押し黙ったけど、すぐにしっかりと頷いた。

 

 

「きっと、十分だと思います。ありがとうございます」

 

『言っておくが、それをするにも君の言う「あの子」が見つかったらの話だ。その霊魂が見つからなかった場合、僕は何もしないから、そのつもりで』

 

「……はい」

 

(やっぱ私が付き合わなくちゃならんのは変わらんか……)

 

 

そんな真面目なやり取りの横で、ウンザリと呟く。

 

黒髪女が霊視能力を持つのならば、彼女一人で物事が完結すると思ったのだが、そう上手くもいかないらしい。

少なくとも、黒髪女の友達を見つけるまでは付き合わなければならない。まぁ元よりそうするつもりではあったけど、一瞬離脱出来るかもと考えてしまった分、少しだけ肩が落ちた。

 

 

「……あれ、どしたのガックリしちゃって。大切なとこはキミが頼りなんだから、元気出してよお」

 

「…………、そうだ今スマホ返すわ。おら」

 

「え? きゃっ、わ、ありが――」

 

 

するとインク瓶との話が終わった黒髪女が大変個人的な理由で励ましてくれたので、お礼に預かっていたスマホを投げつけておく。

反射的にそれを受け止めた黒髪女は、慌てつつも礼を言い――すぐにその頬を引きつらせた。

 

 

「あの……スマホの裏、なんか戦隊? のシールでベタベタになってるんですけどぉ……」

 

 

知るかよ元からだろ。

素気無く返せば、黒髪女は「んもー!」と珍しく苛立った様子でシールをカリカリ剥がし始める。

 

粘着質の端をちまちま剥いてく、じれったい音。

今日初めて、ちょっとだけいい気分になった私であった。わはは。

 

 

 

 

 

 

「あ、そういえばメモの人に自己紹介とかした方が良いかな? ええと、クロユリ トキミっていいます。クロとトキは同じ字で当て字というか――」

 

「そこらへん、たぶんもうソイツ知ってると思う。つーか口頭じゃ伝わんねーだろそれ」

 

 

街中。

公園を出発した私と黒髪女は、住宅街のエリアへと続く橋を歩いていた。

 

目的地は黒髪女の友達……『あの子』の自宅だ。

といってもアパート暮らしであり、本人死亡により部屋も既に引き払っているとの事だったが、本当に幽霊になっているのであればそこに居る可能性はあるとの事だった。

 

……そこで全部済めば、私としては楽なんだけどな――そう願いつつ、私の持つメモ帳を眺めている黒髪女を見やり、

 

 

「……あの子さぁ、家族とそんな仲良しじゃなかったんだよねぇ」

 

「え?」

 

 

突然、黒髪女が呟いた。

いきなり何だよ。訝し気な目になれば、どことなく苦笑混じりの視線が返る。

 

 

「ご両親が割とリアリストらしくてねぇ。夢見がちなあの子とは、色々ちょーっと合わないっぽかったんだぁ」

 

「……まぁなんとなく分かるけどさ、そういうの」

 

 

ちらと、何気ない顔で少し離れた所を歩く『親』を見た。合わんね。

 

 

「だから高校卒業したら家出るって息巻いてて、ワタシと一緒にバイトしてお金貯めて……卒業後すぐにアパート借りてたんだ。実家からそんな離れてなかったけど」

 

「ふぅん……」

 

「……でも結局、一ヶ月も出来なかったんだねぇ、一人暮らし。我が世の春だ我が城だーって喜んでたのに」

 

「…………」

 

 

『あの子』が自殺したのが四月中、大学に入ってすぐだったのであれば、そういう事になるのだろう。

顔も見た事が無い相手とはいえ、どうにもやるせなさが沸き上がり、黒髪女から目を逸らした。

 

それきり会話は続かず、私達はただ黙々と歩き続け……やがて、住宅街の中でもアパートが密集している区画へと辿り着く。

そのまま黒髪女の後を追う事数分、とある一棟のアパートの前で足を止めた。

 

 

「……ここ?」

 

「そ、元・あの子の城」

 

 

五階建てで多少大きくはあるが、何の変哲もない小綺麗なアパートだ。

壁も屋根も新築のそれに近く、幽霊が出そうとか、そういった雰囲気は微塵も無かった。

 

 

「三階の、あの部屋。背格好は明るめの茶髪で、タマちゃんより少し大きいくらい。どお?」

 

「……見える範囲には、居ない。流石に部屋の中とかは分かんないけど……」

 

「そっか、じゃあちょっと上がってみよ」

 

 

そう言うなり黒髪女はさっさとアパートに入り、階段を上がって行ってしまった。

あまりの自然さに一瞬呆けたが、すぐにハッとし追いかける。

 

 

「お、おい! いいのかよ、そんな勝手に……!」

 

「まだ空き部屋みたいだし、ちょっとくらいなら平気平気。鍵もあるしね」

 

 

黒髪女はそう言って、ポケットから小さな鍵を取り出した。合鍵だ。

おそらく生前の『あの子』にでも渡されていたのだろうが、そういうのって管理会社とかに返さないとダメなもんじゃないのか。

 

しかし黒髪女は微塵も躊躇する様子は無く、さっさと三階まで上がると目的の部屋を開け放ってしまった。

そしておろおろとしている私の手を引き、共に室内を覗き込む。

 

 

「……どう?」

 

「……やっぱ居ない、かな」

 

 

家具の無い、がらんどうのワンルーム。

キッチン、リビング、バルコニーと、玄関から見える範囲に幽霊っぽいヤツの姿は無かった。

 

黒髪女に促され、バスルームや洗面所、クローゼットも覗いたけれど、やっぱり何も見当たらない。ただの空き部屋だ。

 

 

「……うん、やっぱ何も無い。だから誰かに見つかんない内に出よう?」

 

「…………」

 

 

一通り調べ終えた私はそう呼びかけたが、黒髪女からの返事は無かった。

リビングの入り口に立ち、空っぽの部屋をただぼうっと眺めている。

 

何してんだ――とは、言えなかった。

 

合鍵を持っているという事は、きっと何度か遊びに来ても居た筈で、ひょっとしたらお泊まり会みたいなのもしていたかもしれない。

だからきっと、この部屋は黒髪女にとっても特別な場所だった筈なのだ。

……今はもう、何も無くなっているけれど。

 

 

「……ああ、くそ」

 

 

まぁ、少しくらいは浸らせてやってもいい。

私は部屋に近付いて来る気配が無いか玄関へ気を配りつつ、静かに待った。

 

 

「――……」

 

 

何も無い部屋。

広く、寂しさのあるそこを眺め佇む彼女は、その美貌もあって相当に画になっていた。

 

彼女が少し身を揺らす度、その綺麗な黒髪も艶やかに流れていく。その隙間から、小さな藍色のイヤリングがちらりと見えた。

 

……ああいう綺麗な黒髪見ると、やっぱ羨ましくなるよなぁ。

私は自らの真っ白な髪を摘まみ上げ、溜息ひとつ。そのまま黒髪女をじっとりと眺め続けて、

 

 

「っ、……?」

 

 

――ほんの一瞬、その耳元に何かが見えた。ような気がした。

 

咄嗟に焦点を合わせるも既に消えており、それが何かは分からなかった。

分からなかったが、しかし――。

 

 

「……指?」

 

 

そう、指。指だったと思う。

 

藍色のイヤリングを撫でるように、黒髪の隙間から伸びた、指。

言葉にするなら、そのようなものではなかったか。

 

 

(…………)

 

 

……確信は持てない。

見間違いと言われれば、否定する事も出来ない。んだ、けれど。

 

 

「……ぁ、ごめんねぇ。色々思い出して、ちょっとぼーっとしちゃってたぁ。ここにあの子が居ないんならしょーがないし、次の所に……あれ、どしたん」

 

「……いや……」

 

 

我に返り、にこやかさを取り繕って話しかけて来た黒髪女に、上手くそれを伝える事が出来ず。

そうしてまごつく私の目に、黒に埋もれる藍の輝きがちらついていた。

 

 



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「友達」の話(下)

 

 

 

「えー、このイヤリング? あの子と一緒に選んだやつだよお」

 

 

無事にアパートを後にし、次の場所へと向かう途中。

つけている藍色のイヤリングについて尋ねれば、黒髪女は懐かしげな顔でそう言った。

 

 

「中学の頃クリスマスに、お互いのプレゼントって事で色違いのお揃いにしてさ。結構良いのでお高めのだったから、ひゃーひゃー言いながら買ったんだぁ。なつかし」

 

「……結構付き合い長かったんだな。幼馴染とか?」

 

「んー、中学一年生からの付き合いって幼馴染でいいのかな? いいんだったら、そう」

 

 

……中一の時に出来た、友達か。

自分の事に当てはめて思わず遠い目になったが、今は懐古している時では無いと焦点を戻す。

 

 

「タマちゃん世代はわかんないかもだけど、ワタシら世代の時は人気あるブランドだったんだよお。……こ、これ欲しいとかだったら、同じの頑張って探すからそれで勘弁してくれるとぉ……」

 

「だからいらねーんだっつの」

 

 

先の『持ってるもの命以外全部あげる』発言を思い出してか、恐る恐ると窺って来る黒髪女にぺしっと軽い蹴り一発。

こいつには私がどんな鬼畜に見えてんだ。

 

 

「……でも、そっか。友達絡みなんだな、そのイヤリング……」

 

「そーなのよー……え、何かあったの、これ」

 

「んん……」

 

 

……どう答えりゃいいんだろうな。

どこか期待の色を滲ませてくる黒髪女に、私は暫くうんうん唸り、

 

 

「……いや。つーか、どういうヤツだったんだ、あんたの友達」

 

「え?」

 

 

そもそも、判断をつけるための情報が全く無い事に気が付いた。

 

黒髪女は散々『あの子』だ何だとのたまっているが、具体的にどんな人となりをしていたとか、そういったパーソナルな部分は殆ど知らない。精々、夢見がちだったという事くらいだ。

 

だから、さっき一瞬だけ見えたあの指先を『あの子』絡みだと決めつける事も、無関係かもと見做す事も、今の私には難しかった。

 

 

「えー、いきなりじゃんね? ……まーでも、そーだねぇ、そーだなぁ……」

 

 

そうした突然の問いに黒髪女は一瞬目を丸くした後、特に理由を問い返す事も無く、顎に指を添え虚空を見る。

しかしすぐに視線を戻すと、ヘラリと笑って進行方向を指差した。

 

 

これから私達が向かう先――都会エリアに繋がる橋だ。

 

 

「せっかくだし、着いてからにしようよ。思い出巡りツアー、自分語りガイド付きでーす」

 

 

 

 

 

 

「――あの子とはねぇ、中学校の入学式に行く途中、偶然一緒になったんだぁ」

 

 

人でごった返す大通り。

黒髪女はまず今まさに通り過ぎたバス停を見つめ、穏やかな声で語り始めた。

 

 

「そこのバス停に並んでる時、隣になってね。制服同じだったから、新入生ですかーって聞いたら、そうでーすって」

 

「ふぅん……」

 

 

そういうのってよくあるんかね。

私も続けてバス停をよく観察するが、幽霊のようなものは見当たらない。

幽霊なんて見慣れている訳じゃないけど、気配的に見分けくらいはたぶん付く……筈。

 

私の様子から黒髪女も察したのか、特に何を聞いて来るでも無く話を続けた。

 

 

「優しくて、明るい子だった。ワタシは中学ってどんなんだろって緊張してたけど、あの子はすごくウキウキしてた。おしゃべりする内、すぐに仲良くなったんだぁ」

 

「……その頃のあんたには、まだ緊張するような可愛げあったんだな」

 

「だって小学校の仲いい子達とは学区別で離れちゃったんだもん。で、そしたらあの子とはクラスも同じで、席もお隣さんでねぇ。それから三年間ずーっと一緒で、二人でいろんな事したよ」

 

「他に仲いいヤツ出来なかったの?」

 

「出来たし、居るよぉ。でも一番近くに居るのは……一番の親友って言えるのは、あの子」

 

「それは知ってる……」

 

 

じゃなきゃ、あそこまでしないだろうしな。

カラオケでの一件を思い出し渋い顔になっている私に対し、黒髪女は『あの子』と過ごした日々を思い出してか優しげな顔。

 

そうして目を細めてどこか遠くを見つめていた彼女は、次に付近にあるショッピングモールを指差した。

 

 

「お休みの日には、よくあそこでショッピングしたんだぁ。でもワタシもあの子もお小遣い少なかったから、ウィンドウショッピングばっかりだったねぇ。楽しかったな」

 

「……買わないのに何で行くんだ? 楽しくなくない……?」

 

「え、買わないから楽しいんじゃん……?」

 

 

互いに『何言ってんだコイツ』と首を傾げる。

ともあれ、そのままモール内に連れ込まれ、色々と引きずり回された。

 

 

「よく行ってたのは服屋さん。あの子ってフリフリ系のファッションが好きだったんだけど、なかなか合うサイズ見つかんなくてねぇ。その内色々自作し始めて、ワタシもそれに付き合わされて――」

 

 

服屋、小物屋、手芸屋、アクセサリーショップに、化粧品店。

基本私の行かない場所で、ある意味新鮮ではあった。

 

でも、そのどこにも『あの子』の姿は見つからない。

黒髪女による思い出語りがただ延々と続けられ、顔を見る事の無いまま『あの子』の像が補強されて行く。

 

 

「……高校に上がってからはね、もっといろんな所に行ったよ。お小遣いも増えたから、映画見たりとか、旅行とかも結構するようになってね。旅行先は県外とかだから今日行くの難しそーだけど、映画館とかならほら、すぐそこにあって――」

 

「…………」

 

 

やがてショッピングモールを出て、他の場所を回った。

 

常連だったという様々な遊び場や飲食店、都会エリアから飛び出し、他の場所。これまで通った学校や、何の変哲もない通学路にまで足を運んだ。

途中には黒髪女の知り合いと会う事もあり、思い出話にまた花が咲く。その時の彼女が浮かべていた笑顔は、きっと当時のものだった。

 

……けれど、それでも、『あの子』は居なかった。

 

どれだけ注意し、目を凝らしても、何も変わらない。

彼女の存在は、黒髪女の語る思い出の中にだけしか見当たらず――そして当然、それらも無限にある訳じゃない。

 

 

「えっと……あ、ここねぇ、大学受験の勉強場所でお世話になった喫茶店。あの子、自分の家じゃ捗らないって言うからさ。苦いの苦手なのにコーヒー頼んじゃって、ミルク溢れるくらい入れててぇ……あと、あとね……学校も行っちゃったし、他は……」

 

 

そうして歩き続ける内、徐々に黒髪女の言葉数が少なくなった。

記憶を振り返るような間が多くなり、その足取りにも迷いが滲み始める。

 

日々の些細な思い出はまだあれど、他人に語れるものは尽きかけようとしているのだろう。

その内に歩みも完全に止まり、私もまた立ち止まる。

 

ふと見上げれば、空の端に夕焼けの紅が見えていた。

 

 

「……ね、ほんとに居なかった? これまでの……」

 

「明るい茶髪で小柄な人だろ。似た背格好の人は何度か見たけど、みんな生きてたよ」

 

「…………そっか」

 

 

私の答えに黒髪女は目を伏せる。

 

『あの子』が居なくて気落ちしている……という事も無くはないとは思うけど、そうじゃない。

きっと、次の一歩を踏み出しあぐねているだけだろう。

 

 

「……じゃあ、行こっか。あの子が居るかもしれない、第一候補」

 

「ん」

 

 

そんなん最初に行けよ――。

口から出かけた文句を呑み込み素直に頷けば、黒髪女は申し訳なさそうに苦笑する。

 

まぁ、彼女の気持ちも分かるのだ。

他に可能性がある場所があったなら、私だってそうした。そこに希望を抱いて、その場所に行くのを先延ばしにしていた。

 

だって、当然だ――親友が自殺した場所なんて、誰だって行きたくは無いんだから。

 

 

「――あの子が身投げした駅。すぐそこなんだ」

 

 

そう言って道先を指差す黒髪女の指先は、少しだけ震えているようにも見えた。

 

 

 

 

 

 

黒髪女の言う通り、件の駅にはすぐに着いた。

 

都会エリアと住宅街エリアの境目当たり。

新しくも古くも無い、こじんまりとした駅だった。

 

 

「ここもね、よく使ってた駅なんだ」

 

 

その駅舎を遠目から眺めつつ、黒髪女はぽつりと呟く。

 

 

「ワタシとあの子の家からだと、ここが集合場所として使いやすかったの。ここからいろんな所に行って、帰って来てた。文字通り、ワタシ達のプラットホーム」

 

「…………」

 

 

……だから、ここで命を絶ったのだろうか。

ここから、旅立ちたかったのだろうか。

 

『あの子』が本当は何を思っていたのかは分からないけど、イヤな話だとは思った。

 

 

「それで……どう、かな。居る……?」

 

「ちょっと待って」

 

 

おずおずといった黒髪女の言葉に、よくよく周囲を観察する。

 

複線を挟むホームは雨よけ屋根があるだけの開放的なもので、駅舎の外からもよく見えた。

私は侵入防止の金網に顔をつけ、その内側に目を走らせる。

 

そろそろ街から家へ帰宅する人達で込みそうな時間帯だが、人気はまだそれほどだ。

人探しというか、幽霊探しもやりやすい状況ではあったが――。

 

 

「……居ない、か……」

 

 

ホームに立つのは生者ばかりで、やはり『あの子』らしき姿は無い。

まぁ駅舎の中はここからでは見えないので、そこに居る可能性はあると言えばあるけども……。

 

 

「……いや」

 

 

ここまで来たんだ。答えを出すのは、そこもちゃんと調べてからにしておこう。

私はホームから目を離し、振り向きついでに何気なく線路の方へと目をやって、

 

 

「――…………、」

 

 

止まる。

 

ホームから少し離れた線路の先に、何か居た。

最初は動物か何かと思ったけど、違う。こちらに背を向け、しゃがみ込んでいる人間だ。

 

首が下がっているために髪色はよく見えないが、白い服を着た小柄な女性である事は分かった。

電車に轢かれてもおかしくない場所に居る彼女は、しかし全く動かずに、ただじっと地面を見つめている――。

 

 

「……なぁ、あれ」

 

『……うん、君の思っている通りだろう』

 

 

メモ帳を翳しインク瓶の判断を仰げば、間髪入れずに肯定が返る。

 

――なら、間違いない。幽霊だ。

私は彼女から決して目を逸らさないまま、黒髪女を手招いた。

 

 

「! い、居たの……?」

 

「たぶん……で、どうすんの、こっから」

 

 

期待と恐怖の入り混じる黒髪女の手を引き、線路でしゃがむ誰かに少しずつ近づきながら、インク瓶へと問いかける。

彼曰く、もし幽霊を見つけられれば黒髪女を一時的に霊視できるようにするとの事だったが、具体的な方法までは聞いていなかった。

 

 

『そうだね。とりあえずこのメモを隣の彼女に渡してくれ』

 

「はいよ、ほれ」

 

「えっ、あ、ど、どーも……?」

 

 

指示に従いインク蠢くメモ紙を差し出せば、黒髪女は戸惑いつつも受け取り、恐る恐ると眺め始める。裏表をひっくり返したり、慎重ではあるが興味深げだ。

そうして観察される最中にもインクはその形を変え、黒髪女宛ての文章を紡ぎ出す。

 

 

『珍しいのは分かるが、動かさずにおいてくれ。君の方も動かず、次に表示させる文字を右眼で見つめていて欲しい。出来るだけ、メモに眼を近づけて』

 

 

――<視>

 

 

すると、会話文から少しの間を開け、そんな一文字が記された。

 

……意味が分からん。

私達は揃って首を傾げたが、やがて黒髪女は文に従い、おずおずとメモ紙に右眼を近づけた。

 

 

「え、え? ええと、右眼で、この字をです――、っ!?」

 

 

――ぴちゃん。

 

その瞬間、文字が跳ねた。

紙の上にあった<視>がその形を保ったまま浮き上がり、至近距離にまで接近していた黒髪女の右眼に飛び込んだのだ。

 

「うぐっ……!?」堪らず黒髪女は右眼を抑え、蹲る。

焦った私は彼女を支えつつ、メモ紙に浮かぶ文字へと詰め寄った。

 

 

「ちょおっ、あ、あんた何して……!?」

 

『落ち着きなよ、危害を加えた訳じゃない。痛みや苦しみの類は無い筈だ』

 

 

淡々としたその言葉に黒髪女に目を向ければ、確かに怯みこそしているものの苦しんではいないようだった。

彼女は何が起きたのか分かっていない表情で、右眼をパチパチ瞬かせている。

 

 

「……え、っと……何? 何が起きたの……?」

 

『僕のインクで君の瞳を一時的に覆った。これなら霊視が可能になっている筈だが、どうだい』

 

「え、えぇ……どうって……」

 

 

黒髪女はインク瓶の説明にも困惑した声を上げ、きょろきょろと辺りを見回す。

よく見れば、その右の瞳は深い黒に染まっており、まるでカラーコンタクトをつけているかのようだった。

 

そしてやがて線路の先に目が向いて――その瞬間、黒髪女は血相を変えて走り出した。

 

 

「あっ、おい!? 一人で行くなって……!」

 

「ねぇっ! あれ、あそこ居る、あのっ……!!」

 

 

視線は明らかにしゃがんだ人影に注がれており、視えている事が窺える。インク瓶の言った通りだ。

 

ともかくすぐに追いつき呼び止めたけど、聞く耳持たず。

必死に誰かの名前を呼びながら、遠くに見える人影へと追い縋る。

 

――そしてその名前は、きっと『あの子』のものに違いなかった。

 

 

「――っ、あ、あれ……?」

 

 

しかし唐突に、黒髪女の足が止まった。

 

一体どうした――と声をかける前にすぐ気づいた。

先程まで線路にしゃがみ込んでいた人影が、影も残さず消えていたのだ。

 

 

「えっ、どうして……? そんな、居たよ、居たよね!? さっきまで、あそこ……!」

 

「落ち着けよ、そんな騒いだら変に刺激するかも――、っ」

 

 

取り乱す黒髪女を宥めつつ周囲を見回せば、また別の位置にしゃがむ背中を見つけた。

今度は線路を挟んだ向こう側。少し離れた高架下の影になっている場所だ。

 

同時に黒髪女も気付いたらしく、勢いよくその方向へと振り向いた。

 

 

「……っ! い、居た……! 居たぁ――」

 

「だあああもおおおお落ち着けってぇ……!!」

 

 

すると今度は金網に縋りつき、よじ登って向こう側に向かおうとする。

私は咄嗟に黒髪女の肩を掴み、その腕を強引に金網から引き剥がした。そのまま腰に抱き着き、動きを封じておく。

 

 

「あぐっ……は、放してよお、タマちゃぁん……!」

 

「いいから待てっつーの! もしかしたら、カラオケの時みたいなヤバイ事になるかもしんないだろうが!」

 

 

しゃがんでいる彼女に声をかけたら、振り向かれて襲われる――とか。

黒髪女的にはそれでもいいんだろうが、私はゴメンだ。

 

 

「だから迂闊に近づくんじゃなくて、もうちょっと慎重に……」

 

「で、でも、また消えちゃうかもしれないじゃん! そしたら、また出て来てくれる保証なんてない……!」

 

「それは、」

 

 

……短時間とはいえ、実際に一度見失っている以上言い返し難かった。

そしてそう言い淀んでいる最中も、黒髪女は私を引きずってでも『あの子』の下へ近づこうと踏ん張っている。

 

無論、コイツが幾ら力を込めたところで、私の身体はビクともしない。

とはいえ私の頭じゃ宥める言葉もすぐには出て来ず、思わず助けを求めるように辺りを見回し、

 

 

「……ん?」

 

 

疑問。

 

……今、周囲には黒髪女を監視する『親』が居る筈だ。

なら当然、この状況もどこかから見ている筈で……なのに、どうして口を挟んで来ない?

 

アイツの目がある場合、本当に危ない時は何だかんだと言い訳しながら助けに入って来る筈だ。今までがそうだった。

だとしたら、放置されている現状は、どういう事になるのだろう。

 

 

「…………」

 

 

高架下の人影を見る。

金網を二つ挟んだ向こうでしゃがみ込んだままのそれは、やはり動く気配が無い。

不気味と言えば不気味ではあるが、それだけだ。これまでの猛獣タイプに感じていたような胃の底に溜まる冷たさは、無い。

 

 

「は、な、し、て、よお……!」

 

「…………」

 

 

最後に、インク瓶の様子を窺った。

 

メモ紙は黒髪女の手の中でくしゃくしゃに握り締められており、ピクリとも動かない。

紙と彼との繋がりが切れた訳ではない。単に静観しているだけだ。

 

そう――いつも口うるさいアイツが、『オススメしないよ』の一言すらかけて来ない。

それらの意味を察せないほど、私の頭はすっからかんではなかった。

 

 

「――ああもう、分かったよ!!」

 

「っえ、きゃあっ!?」

 

 

私は掴んでいた黒髪女の腰を持ち上げると、くるりと反転させて肩に担いだ。

 

いわゆる俵担ぎ。

じたばた暴れる彼女を無視してしっかりと抱え込み、線路の左右を確認する。

 

 

「ぐえっ、ちょ、タマちゃ、おなか、肩ささって、くるし……」

 

「うるせー! パパっと運んでやるからだーってろボケ!」

 

「っ……わ、かったぁ……!」

 

 

左右どちらにも金網が途切れている部分は無く、通れそうにはない。

一端ホームまで戻れば中を通って渡れるだろうが、さっき黒髪女が言っていたように、『あの子』から目を離せば、次の瞬間また消えていてもおかしくはない。遠回りもあまりしたくはなかった。

 

――であれば、道は一つである。

 

 

「そっちでも掴まってろよ、下手したら落っこちるんだから――なっ!」

 

「え、きゃあああああああああ!?」

 

 

私は一度金網から距離を取り――勢いよく助走をつけ、金網を駆けあがるようによじ登る。

勿論、肩に黒髪女を乗せたまま。

 

 

「ちょお、ぐえっ、あ、あーぁぁぁぁ……!」

 

 

金網は丸パイプ型で結構な高さがあり、私が身を上げる度に黒髪女も大きく揺れる。

とはいえ、バランスを崩す程には至らない。すぐに登り切り、金網を飛び越えその内側へと落下した。

 

 

「……ぁぁぁぁああああ――おぐっ!!」

 

「ごめんとは言っとく!」

 

 

そうして着地した際、衝撃で私の肩がより深く黒髪女の腹にめり込んでしまったが、こればかりは私と彼女との身長・体格差的にどうしようもない。

 

そのまま再び駆け出して、目前に敷かれた二本の線路を横断。反対側の金網をさっきと同じ要領で登り越えた。

渡り終えるまで二十秒もかかっちゃいない。『あの子』もまだ、消えずに高架下に居る――。

 

 

「これで良いだろ。ほら――」

 

「――う、んっ……!」

 

 

一度黒髪女を下ろせば、途端に高架下へと走っていった。

 

よろめき、転びそうになりながらも、決して止まる事はなく。

強引な運び方への泣き言も私への恨み言も置き去りに、ただ『あの子』の名前だけを呼び続けながら、必死になって手を伸ばしていた。

 

……だけど、

 

 

「――あ」

 

 

だけど、ダメだった。

 

彼女の指先が『あの子』の背中に届こうとした瞬間、またもその姿がふっと消え去った。

当然黒髪女の手は空を掻き、そのままとうとうバランスを崩して倒れ込む。地面の砂利が弾け、黒髪が扇のように広がった。

 

 

「あっ、だ、大丈夫か!?」

 

「…………」

 

 

慌てて黒髪女に駆け寄り助け起こそうとしたものの、その前にゆっくりと身を起こす。

 

何も言わない。

彼女の顔も垂れた黒髪に隠され、表情を窺い知る事は出来ず。

 

 

「――……」

 

 

辺りを見回してみたけど、『あの子』の姿は今度こそどこにも見当たらない。

少し待ってもみたけど、違う場所に現れる様子も無し。

 

……黒髪女の危惧通りだ。どう言葉をかけたらいいのか、分からなかった。

 

 

「……なぁ、その。なんて言うか――……、?」

 

 

それでも無理矢理言葉を捻り出そうとしていると、黒髪女がどこかに手を伸ばしつつある事に気が付いた。

 

震える手で、少しずつ、じりじりと。

その行く先を目で追えば、それは高架橋の桁の影。少し飛び出たコンクリートと地面の隙間に伸びており――。

 

 

「――っ」

 

 

そこにあったものを認めた瞬間、私は短く呻き声を上げた。

 

――肉片。

赤黒い、そして腐り乾いた肉の欠片と思しき小さなそれが、その隙間に挟まっていた。

 

 

「な……っぐ、それ……」

 

「――あの子、だよ」

 

 

黒髪女はそれを躊躇なく隙間から掻き出すと、掌に乗せて広げた。

不快な匂いの類は無かった。その肉片から湿り気はほぼ失われており、軽く触れるだけでボロボロと崩れ落ちていく。

 

 

「……ぐちゃぐちゃになっちゃった後、こんなとこまで飛び散ってたんだ。警察とか、駅員さんとかも見落として、ずっと見つからなくて、こんなになって……」

 

「や……で、でも、なんでそうだって分かるんだよ。何か、ほら、猫とか動物の死骸とかかもさ……」

 

「ううん、分かるよ。だってこれ、耳だもん。丸くて小さい、あの子の耳」

 

 

身を引きながらの私の言葉を否定して、黒髪女はぐずぐずになった肉片の中から小さな何かを引き抜いた。

乾いた血肉で汚れ切ったそれを、彼女は指の腹で拭い――そこでようやく、私はその正体に気が付けた。

 

 

「……それ、い、イヤリング……?」

 

「うん。さっきに話したやつ。ワタシと色違いでお揃いの、クリスマスプレゼント」

 

 

黒髪女がつけている藍色のものと同じ形をした、薄紅色のイヤリング。

それに黒髪女は愛おし気に頬を寄せ……やがて涙が一筋、そこに流れた。

 

 

「きっと、これを拾いたかったんだねぇ。拾おうとして、でも出来なくて、ずっとしゃがみ込んで、じっと見てて……」

 

「……なら、さっき消えてた線路のとこにはもう片方が?」

 

「どうかなぁ……ここに誰かを呼びたくて、ああしてたっていうのが、ありそうかも。そういう、かまってちゃんな所もあって……あって、ねぇ……っ」

 

 

そこまで言って、黒髪女は耐え切れないという風に背を丸めた。

『あの子』の肉片とイヤリングを胸に抱き、押し殺した嗚咽を繰り返す。

 

 

「っう、うれ、しいなぁ……これ、たいせつに、し、しんじゃっ……まで、てもとっ、に、おこう、って……くれて」

 

「…………」

 

「え、えへ、えへへ……ぅ、うれしい、よぉ……」

 

 

何事かの呟きと共に、地面に小さな水染みが増えていく。

私は先程とは別の意味でかける言葉を持てないまま、ただ彼女の背中に手を添える事しか出来なくて、

 

 

「――っ」

 

 

その時、視界の端を妙なものが擽った。

反射的に視線を向ければ――それが、あった。

 

 

「…………」

 

 

……手。手だ。

細く白い女の手が高架橋の桁の裏から伸ばされている。

 

そしてその根元には、手の主らしき髪の一房だけが覗いていた。

先っぽの少しだけ跳ねた、明るい茶髪――。

 

 

「――……」

 

 

十中八九、『あの子』だろう。

その手は明確に黒髪女に向かっていて、求めるように揺れている。

 

当の彼女はそれに気付いてはいないけど――どうしたらいいんだ、これ。

これまで逢ったのがろくでもないオカルトばかりだったせいで、こういったある種まともなオカルトに対する正解が分からない。

 

 

(いいのか? いいのか、これのままで……!?)

 

 

逃げるべきか。

それとも、このまま見守っておくべきなのか、どうすれば――……、

 

 

「――え?」

 

 

ふと、インク瓶のメモ紙を見る。

 

どうやら、いつの間にか黒髪女の手から零れ落ちていたようだ。

強く握り締められたのか、くしゃくしゃの状態で彼女の足元に転がっていて――。

 

――ぴくり。

その時、『あの子』の指が小さく跳ねた。

 

 

「あ……」

 

 

そして黒髪女に伸ばしていた手が止まり、そのまま動かなくなった。

いや、それどころか少しずつ高架橋の桁の影へと戻り、引いていく。

 

その光景に、私はどこか寂しさのようなものを感じ――そこで黒髪女も気付いたようだ。

弾かれたように頭を上げると『あの子』の手を認め、濡れた右眼を丸くした。

 

 

「ぁ、あ――ま、待って!!」

 

 

咄嗟に身を乗り出して手を伸ばす黒髪女だったが、これも、届かなかった。

また前のめりに倒れ、小さく呻き、

 

 

「――――」

 

 

――だけど、今度は『あの子』の方から手が伸ばされた。

 

その白い指先が黒髪を掻き分け、藍色のイヤリングをやわらかに撫でる。

それは先のアパートで垣間見た光景と同じもの。黒髪女が身を起こした時には、既にその手は消えていた。

 

桁影から僅かに見えた明るい茶髪も、どこにも無い。

後に残ったのは、黒髪女が握る肉片と、薄紅色のイヤリング。

 

……代わりに、黒髪女の藍色のイヤリングが片方だけ、失くなっていて。

 

 

「……ぅ、う、うぅぅぅぅぅ~~~……!!」

 

 

何かを、察したのだろうか。

黒髪女は再び体を丸めると、今度は外聞もなく泣き喚き始めた。

 

……夕焼け。藍の差し込む紅空に響く泣き声が、背後を通った電車の音に塗り潰されて、掻き消えた。

 

 

 

 

 

 

六月も近くなれば、午後六時近くになっても完全に暗くはならなかった。

なりかけの夜空の隅には夕陽が残り、流れる雲に色濃い陰影をつけている。

 

 

「…………」

 

 

一面の藍に差し込む、僅かな紅――さっきまでとは、逆の配色になった空。

人気のない公園のベンチから、私は一人ぼんやりとそれを見上げていた。

 

 

――あれから少し経ち、私達は高架下から近くの公園へと移動していた。

 

 

だって、あそこにはもう、『あの子』は居ないんだ。

 

私も黒髪女もどうしてかそれを確信していて、留まる理由もあまり無かった。

そして何より、泣きじゃくる黒髪女を落ち着かせるには、線路横の高架下は騒がしすぎると思ったからだ。

 

もっとも、彼女を立ち上がらせた時にはある程度冷静さを取り戻していたように見えた。

現に今も「お化粧直ししてくる」と私から離れ、一人で公衆トイレに籠っている。

 

結構時間がかかっているが、涙で色々と崩れていたしこんなもんだろう。たぶん。

 

 

「…………」

 

 

まぁ、正直、後追い的な意味での不安はなくはない。

けれど凶器は持っていない筈だし、それに――薄紅色のイヤリングを握って駆けて行ったその姿は、そういった人のそれでは無いと思ったのだ。

 

……とはいえ、心からそれを信じられているかと言えばそうでも無く。

 

 

『そんなに不安だったら、様子見てきたらどうだい』

 

 

そうしてチラチラ忙しなく公衆トイレの様子を窺っていると、見かねたらしきインク瓶がそうメモ紙を揺らした。

 

黒髪女に握り締められ皺だらけになっていたが、意思疎通に問題はなさそうだった。

 

 

『化粧直しと言っても方便だろう。近くに寄り添ってあげるだけでも、救いになる事はあると思うが』

 

「……んなベタベタするほど仲良くねーっつの」

 

『そうかい?』

 

 

トイレから視線を引き剥がしつつ答えれば、インク瓶はどこか含み持たせてそう返す。

 

……何かムカつくなその字体。

私は更に紙をくしゃくしゃにしてやろうと、ウルトラ美少女握力でぎゅっぎゅと握り、

 

 

「……そういや、あんたさっき何かした?」

 

 

その寸前ふと思い出し、独り言のように呟いた。

するとメモ紙がほんの僅かにカサリと動く。一瞬私の身動ぎによるものかと思ったけど、この無駄に高性能な身体がメモ紙自体の動きであると感じ取っていた。

 

 

『何の事だい?』

 

「高架下でさ、『あの子』の手が黒髪女に触ろうとした時。あんた……っていうかそのメモ紙から、黒い火花みたいなのが散って……そしたら手が引っ込んだ、ような気がしたっていうか……」

 

 

そう、あの一瞬、私の目はその現象を捉えていた。

本当に小さい、それこそ砂利が風に舞った程度のものだったが、あれは間違いなく火花だった……と、思う。たぶん。きっと。……ほんとぉ?

 

何か言ってる内に自信が無くなって来たけど、インク瓶には悟られなかったようだ。

暫く黙り込んだ後、どこか言葉を選ぶような文を紡いだ。

 

 

『……彼女は、友達になら殺されても良いと思っていた』

 

「ん? ……黒髪女の事?」

 

『ああ。つまり、友達と一緒に居られるならば、死んでもいいと心底から想っていた訳だ』

 

「……う、うん」

 

 

理解しがたい……なんて言うつもりは無いけど、肯定はしたくない思考である。

 

だが、そんなの今更の話だろう。

彼が何を言いたいのか、まだよく分からな、

 

 

 

『でもそれは、一方通行の想いだったのかな』

 

 

 

「……え」

 

 

……分からなかった、んだ、けども。

 

 

『……友達の方は、どう想っていたのだろうか』

 

「どう、って……」

 

『一緒に居るために死を選べる程に仲が良かったのであれば、その友達もまた、同じ想いだったんじゃないのかな』

 

「……それは……えと、」

 

『だけどもう、彼女は死者の側だ。その立場から、友達と一緒に居る事を願うのであれば……』

 

「………………………………」

 

 

インク瓶はそこで一度文を切った。

だけど、そこまで言われれば私にだって察せられる。

 

「一緒に居られるならば、死んでも良い」

 

……その言葉は、生者と死者、どちら側の立場でだって口にする事が出来るのだ。

 

 

『……イヤリングで我慢してくれて、よかったよ』

 

「…………」

 

 

その意味とか、そもそもインク瓶は何をやったのかとか、そういったものの説明は無かった。

しかし私も聞く気が失せ、只々無言の時が過ぎてゆく。

 

 

「――ごめーん、おまたせ~」

 

「!」

 

 

すると、間延びした声がその沈黙を破壊した。

 

振り返れば、今まさにトイレから出て来た黒髪女が、言葉とは裏腹にのんびりこちらに向かっていた。

さっきまでの取り乱しようが嘘のような、いつも通りの雰囲気だったけど――その目元には、化粧でも隠せない僅かな赤みが差していた。

 

 

「やー、ほんとごめんねぇ。ちょっと色々やってたら、思ってたより時間喰っちゃって……あれ、どしたのこの空気」

 

「……いやぁ……?」

 

 

言えねーよ。あんたにゃ特に。

 

白々しくすっとぼける私に黒髪女は怪訝な表情になったが、すぐに「ま、いーけど」と流してくれた。

そして徐に黒髪の一房に手を差し込むと、軽く持ち上げ左耳を露わにし――そこにあった小さな薄紅に、私は思わず息を吞んだ。

 

 

「……あの、あんた、それ」

 

「じゃーん、あの子のイヤリング~。どお? 似合う?」

 

 

それはあの子の肉片に埋まっていた、薄紅色のイヤリングだった。

 

張り付いていた血肉は綺麗に落とされ、元の輝きを取り戻している。

細かな傷は残っているけど、よく見なければ分からないレベルだし、色々気にしなければまぁ普段使いは出来るだろう。

 

……いや、出来るんだろうけどさぁ……。

 

 

「……ほ、本気か……?」

 

「いー感じでしょ? もう片方と合わせればほら、藍と紅でバランスオッケー」

 

 

黒髪女は屈託なく笑いながら右耳も晒し、イヤリングを二つ並べて見せつける。

それらは彼女の(見た目だけは)涼しげな美貌によく似合っていたけれど……薄紅色の方が気になって仕方ない。

 

パーツの隙間に落とし切れなかった肉片挟まってたりしないだろうな――と、そこまで考え、ふと気付く。

 

 

「……ねぇ、あんた、アレどうしたの?」

 

「なにがぁ?」

 

「や、あの……『あの子』の、耳」

 

 

そう、コイツは肉片塗れだったイヤリングすら大切にするような女である。

一緒に拾っていた『あの子』そのものたる肉片を、汚れとして洗い流したり、廃棄物などとして扱う姿が想像できなかったのだ。

 

そんな恐る恐るの問いかけに、黒髪女はにっこりとした笑みをひとつ。

そして胸元からあるものを取り出すと、宝物を扱うようにそっと掲げた。

 

……たぶん、化粧水か何かの瓶。

でも、今その中に詰められていたのは、それではなく。

 

 

「――ずーっと、いっしょ♡」

 

 

「そっ…………………………………………っかァ~……………………」

 

 

即座に瓶から目を逸らし、吐き気を堪えて絞り出す。

 

いや、いい。

もう何も言わん。好きにしてくれ。お幸せに。

 

そうしてグッタリと項垂れていると、瓶を仕舞い込んだ黒髪女が私の手を取りくいくいと引く。

……肉片触った手なんだよなこれ。嫌々と顔を上げれば、濁りの無い瞳が柔らかく私を見つめていた。

 

 

「ね、ね。これからご飯食べに行かない? 勿論ワタシの奢りでさ」

 

「えぇ……さっきのアレの後でよく誘えんな、あんた……」

 

「今日のお礼もしたいし、それに――今度は、キミのお話も聞かせてほしいんだぁ。お友達の事とか、色々」

 

「はぁ?」

 

 

何言ってんだコイツと思ったけど、考えてみればそうおかしな事でもないように思えた。

 

前のカラオケの時と、今日一日。

私は黒髪女の話をたくさん聞いて、『あの子』の事をたくさん知った。

 

楽しかった思い出。話したくなかっただろう顛末。ほとんど全部、赤裸々に。

 

……したら、まぁ。今度は私のターンなのだろうか。

イヤだなんだと思う前に、それがストンと落ちてしまった。

 

 

「……やっぱり、ダメ?」

 

「んん……や、でも、門限とか――……」

 

 

嘘くさくしょんぼりとする黒髪女から視線をずらし、その背後を見る。

そこにはやはり物陰に隠れる『親』が居り、じっとこちらを見つめていて……やがて渋々といった様子で頷いた。いいんかい。

 

私は暫く唸り続けた後、最後に深く息を吐いた。

 

 

「……はぁ。どうせ昨日の電話みたいに、断っても引かねーんだろ。分かったよ、大人しくご馳走になってやるよ……」

 

「やったぁ! じゃ、とっておきのとこ連れてったげるねぇ。すっごいオシャレでムーディなお店~」

 

「逆に行きたくねーよそこらのファミレスにしてくれよそれなら」

 

 

誘いを了承すれば途端に黒髪女はイキイキし出し、私を引っ張って歩き出す。

その感触にカラオケの日の朝を思い出したけど、どうしてか、あの時と違って不安は無かった。

 

繋がれた手を辿り、なんとなしに見上げれば、黒の隙間に藍と薄紅が揺れている――。

 

 

「ね、それでタマちゃんの仲良しさんってどんな子なの? あの動画の子だよね?」

 

「……、……そーな。何から話せばいいんだろ。えっと――」

 

 

唇は思ったよりも重くはならず、思い出も滑らかに流れ行く。

 

完全に夕陽の沈んだ夜空の下。

街の灯へと続く橋の上で、私は――私の友達の話を、ぽつりぽつりと語り始めた。

 

 




主人公:この後高級店に連れていかれたが、緊張で味が分からなかったようだ。黒髪女は嫌いではないが、あんまりベタベタされたくはない。

黒髪女:主人公にベタベタになった。曰く付きの物品を持った事で今後色々大変かもしれないが、何が起きてもそれを手放す事は無いだろう。
    本名は「クロユリ トキミ」で、クロとトキが同じ字であるらしい。

あの子:イヤリングを拾いたかったのに、拾えなかった。黒髪女と同じ気持ちだったが、彼女が拾ってくれたという事だけでも満足はしていたのかもしれない。

『親』:ハラハラしながら見守っていた。夕飯、冷蔵庫に入れておくか……。


次回から暫く過去編が続く感じになります。
のんびりお付き合い頂けると嬉しいです。


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【わたし】の話(上)

わたしはずっと、一等賞になりたかった。

 

学校のテストや運動会。絵とか歌のコンテストに、読書感想文コンクール。

ミスコンってやつとか、くじ引きみたいなのだって、本当になんだって良い。

とにかく、一等賞ってものになってみたかった。

 

……だってわたしはずっと、三等賞だったから。

 

いつだって、どこでだって。

学校でもそれ以外でも、絶対にわたしより勉強が出来る子が二人居て、わたしより運動が出来る子が二人居た。

 

ううん、それだけじゃない。

絵が描ける子や、歌が上手い子、文章を書くのが上手い子に、わたしより可愛い子。

そしてわたしより運がいい子だって、みんな、全部。

 

――そう、いついかなるどんな時も、わたしより優れた何かを持つ人が、絶対に二人現れる。

 

だからどんなに頑張ったって、三等賞から上を取った事が無いのだ。

高い所でキラキラ輝く金ピカを、その二つ低い場所から羨ましいなと眺めるだけ。

 

お母さんとお父さんは、それでもいいと言ってくれる。

 

頑張ったのは分かってるって褒めてくれるし、ご褒美だって買ってくれる。

ナンバーワンになれなくても、オンリーワンでいいじゃないか――そんな、どこかで聞いたようなフレーズで励ましてもくれる。

 

まぁ嬉しくは思うけど……素直に受け入れられるかというと、そんな訳がなかった。

 

というか、わたしはわたしがオンリーワンである事を自覚している。お母さんたちには内緒だけど、それに足る特別な『眼』だって持っているんだから。

でも、それがあるから一等賞じゃなくていいなんて、わたしは全然思えない。

 

それに何より――こんな名前を付けておいてどの口で言っているんだと、そう鼻白んでしまうのだ。

 

 

査山銅。

 

……査山って地域から採れる銅とか、そういうのじゃなくて。

わたしっていう、れっきとした一人の女の子の名前である。

 

銅と書いて、あかね。査山(さやま) (あかね)

 

金銀銅の三番目――まるで、生まれた時から三等賞を運命づけられているみたい。

一等賞を取った子の二つ隣に並ぶ度、わたしは自分自身を酷く惨めに感じてしまう。こんな名前を付けたお母さん達を、恨んでしまう。

 

 

……銅。わたしは、査山銅。

この世に生まれてからずっと、一等賞になりたかった女の子。でした。

 

 

 

1

 

 

 

春。

桜吹雪が風に舞い、街を彩る始まりの季節。

 

そんな色鮮やかな風景を車の中から眺めながら、わたしはそわそわと落ち着きなく太腿を擦り合わせていた。

すると運転席のお母さんがバックミラーをちらりと見やり、後部座席のわたしと目を合わせ、

 

 

「……おトイレ漏れそう?」

 

「ち、ちがうよっ」

 

 

いわれなき疑惑をかけられ、反射的に言い返す。

 

……ただ緊張していただけだったけど、そんな感じに見えてたのかな。

太腿すりすりをやめてギチッと背筋を伸ばすわたしに、お母さんは視線を前に戻してくすくすと笑った。

 

 

「ふふ、もっと緊張した感じになっちゃってる……ふふ、ふふふ……」

 

「えー? もー……」

 

 

そうして笑われているとなんだか気恥ずかしくなり、ぐったりとシートに背を埋める。

お母さんから顔を逸らすようにもう一度窓の外へと目をやれば、都会エリアへと続く橋の向こうに、小さく学校の姿が見えた。

 

第二神庭学園――これからわたしが通う事になる、中学校。

 

 

「…………」

 

「……っふ、おトイレ、も、漏れそう……? ふふふふ……!」

 

 

……それを見ている内に、また太腿を擦り合わせていたらしい。

わたしは太腿を両手でしっかり抑えつけ、また笑い始めたお母さんに文句を飛ばしたのであった。

 

 

――今日、この日。わたしは中学生になる。

 

 

六年間通った小学校を卒業し、振り分けられた中学校。

その入学式が、これから行われるのである。

 

人生の新たなステージに上がった事への期待と不安がのしかかり、当然緊張もものすごい。

こうしてお母さんに学校へと送って貰っている今もお腹の底が落ち着かなくて、気を抜けばつい緊張の癖が出てしまう。

 

さっきのお母さんとのやり取りでちょっとは気も紛れたけど……それもあんまり続かない。

学校に着いた時には元に戻り、制服の着慣れなさも合わせ、校舎の前でまたモジモジとしてしまった。

 

 

「ほら銅、がんばって。お母さん先に式場行ってるからね」

 

「う、うん。たいじょうぶ、また後で……」

 

「銅の晴れ姿、ちゃんと撮っておくね。いってらっしゃい」

 

 

そう言って手を振るお母さんを見送って、わたしはおっかなびっくり校舎へと向かう。

 

わたしを含めた新入生達は、式が始まる前に一度集合する事となっている。

それぞれ振り分けられたクラスの教室でひとまずの説明を受け、そしてきっちり整列した上で式に参加するのだ。

 

振り分けられたクラスは入学書類にあらかじめ書かれているとはいえ、実際行くとなるとやっぱり不安だ。初めて来る場所だし、尚更に。

でも周囲を見渡すと、わたしと同じように緊張している風の生徒もたくさん居たりして、そんな子達に紛れて校舎の中を歩いていると、ちょっとだけ気が楽になった。

 

 

「ええと……1のB……ここかな」

 

 

何度も何度も手元の書類を確認し、教室の扉上のプレートと見比べる。

書かれているクラスは両方とも1-B。間違いはない……と、思う。うん。

 

 

(お、おじゃましまーす……)

 

 

ほとんど囁くように呟いて、教室へと入る。

途端、先に居たクラスメイト達の視線がわたしに刺さり、少しだけ気圧された。とはいえ立場はみんな同じで、視線はすぐに外れていった。

 

 

(こわこわ……)

 

 

みんなも緊張しているのか、どことなくピリピリとしている。

わたしはさっさと席について大人しくしていようと、書類に書かれている自分の席を探して、

 

――そこで、わたしはやっとその子に気が付いた。

 

 

「……わぁ……」

 

 

わたしの窓際一番前の席とは真反対の、廊下側一番後ろの席。

そこに――透き通るように真っ白な女の子が座っていた。

 

 

「…………」

 

 

妖精――真っ先に、そんな言葉が浮かんだ。

 

アルビノっていうやつなのかな。

ショートに切り揃えられた細髪も、瑞々しい絹肌も、雪のように真っ白。どこまでもなめらかで、くすみの一つすら無い。

そしてサラサラの毛先が光の加減で青みがかっているようにも見え、揺らめく真っ赤な瞳をより際立たせていた。

 

色合いだけじゃなく、顔立ちだって嘘みたいに整っている。

涼やかに切れた目元に、柔らかく長い睫毛。すっと上品に通った鼻筋と、艶やかに光る薄紅色の唇。

 

背は少し低めだけど、均整の取れた頭身にすらりと伸びた手足とか、まるで丁寧に拵えられたお人形のよう。

 

髪や瞳の色からいって、北欧とかの外国の子とかハーフ系に見えてもおかしくないのに、どうしてかそう感じない。

見る者の心に強い『和』を呼び起こさせるような、酷く繊細な美しさ――。

 

……そんな彼女が一人物憂げに目を伏せているその姿は、儚すぎてなんかもう変な色気すらあった。

 

 

(ひゃー、すご……)

 

そしてどうやら、教室のこの変な雰囲気はあの子の影響もあるらしい。

よく見れば、彼女に熱っぽい視線を向けるクラスメイトも割と居た。

 

かくいうわたしも暫くぼーっと見惚れてしまい、ハッと我に返っていそいそと席につく。

 

 

(……ああいう子って本当に居るんだ。一等賞とか金より上の、白金って感じ……)

 

 

天然か染めているのかは分からないけど、あんな文字通りのアルビノ美少女なんて漫画とかの中でしか見たことない。

 

わたしはもう嫉妬する気すら起きなくて、逆に芸能人を前にしたような高揚感すらあって。

そうして式場に誘導されるまでの時間、わたしも周囲のクラスメイトと同様に、ちらちらとその子を眺め続けた。

 

入学式の緊張なんて、とっくにどこかへ行っていた。

 

 

 

 

 

入学式は特に問題もなく、普通に終わった。

 

新入生と在校生の代表による言葉や、よく知らない知事さんからの祝辞。校長先生の長話などが過ぎ、おしまい。

小学校の卒業式のように一人一人賞状を貰ったりも無くて、車の中で緊張してた分ちょっとだけ肩透かしだった。

 

そして今後の予定やクラスメイトとの自己紹介とかは明日のホームルームでやるらしく、今日はこれで解散。

生徒達は学校の校庭でそれぞれ家族と合流し、どこか浮き足立った雰囲気となっていた。

 

式を終えた事で、なんとなく中学生になった実感が強まったんだと思う。

わたしもその例に漏れず、お母さんと一緒にたくさん写真を撮ったり、バッタリ会った小学校の友達とはしゃいだりと、ちょっとテンションが上がっていた。

 

 

「……あ」

 

 

そうしていると、視界の端を白いものが擽った。

 

あの白金の子だ。

まだ名前も知らない彼女は、わたし達と違って一人のようだった。

わいわいと騒ぐみんなの事を赤い瞳でじっと見つめていて……やがて、ぷいと背中を向けて立ち去って行った。

 

 

「…………」

 

「銅ー、お母さんそろそろ帰るけど、どうする? 帰りも一緒に乗ってく?」

 

 

するとお母さんからそう声をかけられた。

 

気付けば校庭の人影も段々と減っていて、全体的に帰りのムードだ。

駐車場の方を指差すお母さんに、わたしは少しだけ悩んで首を振り、さっき白金の子が出て行った学校の正門に足先を向けた。

 

 

「ううん。ちゃんと道覚えときたいし、歩いて帰る。もしかしたら迷ってちょっと遅くなるかもだけど……」

 

「分かった。いざとなったら連絡くれれば迎えに行くから。あ、お金ある?」

 

「今月のお小遣い丸々残ってるから全然へーき。それじゃ、また後で」

 

 

そう言ってお母さんと別れ、学校を後にする。

 

あの白金の子はまだ居るかなと正門の周りを見回したけど、綺麗な白髪はどこにも見えず、ちょっと残念。

別に話しかけたいとか、一緒に帰りたいとか思っていた訳じゃないけど……どうしてか、『眼』があの子を追ってしまうのだ。

芸能人とかって自然と人目を引いちゃうとか聞くけど、実際こういう感じなのかな。

 

ともあれ、気を取り直して帰宅の途。

まだ見慣れない道をゆっくりと歩きながら、用心深く周囲の景色を観察する。

 

通学路の把握がまだあやふやで不安だから――というのも勿論あるけど、それだけじゃない。

外を出歩く時はいつも、わたしはこうやって探しものをしているのだ。

 

それは普通の目には見えなくて、わたしの『眼』には視えるもの。

お母さんやお父さん、仲良しの友達にだって言っていない、わたしだけの特別なもの――。

 

 

「……ん」

 

 

歩くうち、見つけた。

 

通りがかった道の外れ。そこにぽつんと佇む一本の朽ち木。

その裏側に、わたしの探していたものがちらりと見えた。気がした。

 

 

「――……」

 

 

……足を止め、朽ち木をじっと見つめる。

 

ほとんどの枝葉が落ち、茶色に乾き罅割れた木肌。

どこをどう見ても完全に立ち枯れている、何の変哲もない朽ち木。

 

その大して背高でもない幹の裏に、ぐしゃぐしゃしたものがいた。

 

 

「…………」

 

 

例えるなら、幼稚園児の落書きかな。

赤色のクレヨンで書きなぐられた線の集まりというか、そういった意図や実体の見えないもの。

 

朽ち木の裏でピクリとも動かずに居るそれは、どう視たって生き物じゃない。もっと別の、いやな何かだと思う。

普通なら、悲鳴を上げて逃げ出したりするんだろうけど――わたしは逆に、笑顔と共に前に出た。

 

 

「――あはぁ」

 

 

……気持ち悪い笑い声。わたしの、直したい癖の一つだった。

 

 

 

 

 

 

物心がついた時から、わたしの『眼』にはおかしなものが視えていた。

 

生き物のようで、生き物じゃない何か。

物のようで、物じゃない何か。

現象のようで、現象じゃない何か――きっと、オカルトとくくられるもの。

 

他の、普通の人には決して視えないそれらは、いつだってわたしの世界にあった。

あんまりにも当たり前すぎて、怖いとか、気持ち悪いとか、そういうものを抱く前に自然に受け入れていたように思う。これも慣れっていうのかな。わかんないけど。

 

そしてみんなに視えない以上、わたしは誰にも言えないまま自分の胸に仕舞い込んだ。

わたしが特別なんだという優越感はあったけど、それを他の人に自慢する方法が、まだ小さかったわたしには分からなかったのだ。

 

今になって思えば、運が良かったと思う。

もしあの時誰彼構わず言いふらしていたら、わたしはきっと『おかしい子』としての一等賞になっていただろうから。

幾ら一等賞なら何でもいいとは言っても、流石にそんなマイナスの一等賞を取ったって嬉しくない。それはもう一等賞じゃなくて、ワースト賞だ。

 

そうなればきっと、わたしはこの特別な『眼』の事が大嫌いになっていた。

すごくすごく疎ましく思って、認めず、受け入れず、絶対に誇る事は無かっただろう。

 

 

――ああ、そんな風にならなくて良かった。今のわたしは、心底そう思うのだ。

 

 

 

 

 

「……っ」

 

 

朽ち木の裏。真っ赤なぐしゃぐしゃが、動いた。

 

たぶん、わたしが視えている事に気付いたのだろう。

くずおれるようにして木陰からはみ出たぐしゃぐしゃが、ゆっくりと私の方へと広がって来る

 

これまでの経験上、こういうオカルトは自分が視られていると気付いた途端、その人に近づいて来ようとする。

何をするつもりかは知らないけど……きっとわたしにとって良くない何かをするつもりなんだろうなって事は、なんとなく感じ取れていた。

 

とはいえ、そんなに焦るような状況ではない。

だって、視えているから近づかれるのなら、視えなくなれば済む話。わたしの『眼』には、それが出来た。

 

 

(視えない、視えない……)

 

 

呪文のように呟きながら、静かに瞼を閉じた。

 

そして両手で目元を抑え――瞼の裏で、もう一枚の瞼を下ろす。

 

勿論わたしの瞼は二枚重ねなんかじゃない。ただのイメージだ。

でもこうする事で、わたしはこの『眼』を閉じられる。そこに視えていたオカルトを、無かった事に出来るのだ。

 

 

「……よし」

 

 

そうして瞼を上げれば、そこに真っ赤なぐしゃぐしゃの姿は無い。

朽ちた木の一本だけを残して、綺麗さっぱり消え去っていた。

 

視えないけれど、まだそこには居る。でも大抵のオカルトは、わたしが『眼』を閉じてしまえばそれっきりだ。

単にわたしへの興味を失うのか、それとも干渉自体が出来なくなるのかは分からないけど、少なくともこれをした後で襲われた事は今まで無かった。

 

安全を確保したわたしは、小さく息をひとつ。おもむろに、ポケットからスマホを取り出した。

 

小学校卒業のお祝いとして買って貰ったばかりの、最新型の機種だ。

前のキッズスマホとは段違いの性能のその背面カメラに、わたしはそっと手を翳し――。

 

 

(視えろ、視えろ)

 

 

瞼を上げてやるように、上へと払った。

すぐさまカメラのアプリを起動し、朽ち木周りを何度か撮影。

 

そして急いで朽ち木の傍から離れ、見えなくなったところで今撮った写真を確認する。

 

 

「あはぁ」

 

 

するとそこには、さっきの真っ赤なぐしゃぐしゃがハッキリと映り込んでいた。

 

いわゆる心霊写真ってやつ。

映っているモノがモノである以上、まるで子供が写真に落書きをしただけみたいなチープな感じになっちゃってるけど、間違いなくホンモノである。

 

わたしはひとしきりニヤニヤとそれらを眺めた後、誤って削除しないようロックをかけて。

同じようにして撮影した心霊映像を集めたフォルダ、その一番上に大切に仕舞い込んだ。

 

 

――わたしの持つこの両の『眼』は、ただオカルトが視えるだけのものじゃない。

 

オカルトを視る視ないがスイッチのようにオンオフ出来るし、スマホとかのカメラにおまじないをかけて三つめの『眼』とすれば、狙って確実に心霊写真を撮る事も出来たりもする。意外と多機能で高性能な目ん玉なのだ。

 

そしてわたしはこの『眼』を使って、たくさんの心霊写真や心霊動画を集めていた。

 

この街はどうしてかオカルトの数がすごく多いし、ターゲットには事欠かない。

前のキッズスマホで撮った分と合わせて、十や二十じゃ収まらない数の心霊映像が既にコレクションされていた。

 

……どうしてそんな事をしているのか。

興味とか好奇心とか、単純にわたしの趣味っていう部分も結構あるけど、勿論それだけが理由じゃない。

 

小さい頃には考え付かなかった、この特別な力を他の人に自慢する方法――つい最近になって、それを思い付いたのだ。

そしてそれにはたくさんの心霊映像や心霊体験が必要で、だからこそわたしは積極的にそれらを探し集めている。

 

だって成功すれば、今度こそ一等賞になれるかもしれない。それも、わたしだけの特別なものを使って。

それを思うと、オカルト探しにも一層気合が入るってモンだった。

 

 

「な~いか~な~、いない~かな~……」

 

 

わたし作曲『いないかなのうた』を口ずさみつつ、帰り道をきょろきょろとする。

 

まぁオカルトが多い街とはいっても、数歩あるけばぶつかるとかの酷い状況じゃない。

探せばすぐに見つかるという訳でも無く、単に通学路をよく覚えるだけとなっていた。いや、それはそれでいいんだけど。

 

 

「……バスのルート、いってみよっかな」

 

 

そうする内、ふと遠くにバス停が見えた。

 

一応わたしの通学路としては、電車を一本乗っての徒歩の予定だ。

でもバスを使っての通学も出来ない事は無く、天気とか混雑模様とか、その日の状況に応じて使い分けなさいとお母さんも言っていた。

 

電車に比べてバスのルートはうろ覚え気味なので、今のうちに慣れておくのもいいかもしれない。

わたしはお財布を開いてバス代の小銭があるかを確認し、先程見かけたバス停へと向かい――

 

 

「……あ」

 

 

近付くにつれ、『眼』が捉えた。

 

付近のお店の看板で隠れて見えなかったけど、バス停には先客が一人いた。

わたしと同じ学校の制服を着た、真っ白な髪と肌をした女の子――名前も知らない、白金の子。

 

どうやら、帰り道がある程度一緒だったみたい。

あの子の隣に躊躇なく突っ込んでいく度胸なんて無くて、わたしの歩みもぴたりと止まる。

 

 

(……ど、どうしよ)

 

 

い、一応クラスメイトだし、話しかけてみたりとかしちゃう……?

 

いやでも、ほぼ初対面でそれは馴れ馴れしすぎない?

それに教室じゃ目が合ったりとか無かったし、向こうはわたしの顔なんて覚えてないのでは……?

そもそも普通に会話とかしてくれるのかな。白金と銅だよ。なんか住む世界が違いすぎて、声かけるのも恐れ多いっていうかぁ……。

 

……などなどうだうだ言い訳しつつ、その場をウロウロ。

途中、一回だけ白金の子がこっちを向いてビクッとしたけど、わたしなんて気にも留めずにすぐまた別の所を向いた。

 

 

「……電車にしよ……」

 

 

その視線すら向けられなかった一瞬で、なんか折れた。

 

一等賞をとった子がわたしに全く興味を抱かなかった時の気分というか、そんな感じ。

わたしは小さく肩を落としつつ、バス停にくるりと背を向けた。

 

すると丁度良く、道の先から走って来るバスが見えた。

白金の子が乗るバスだろうか。なんとなくその行き先が気になったわたしは、赤信号で停車しているバスの行先表示器に目を凝らし、

 

 

「――ん?」

 

 

『眼』が揺れた。

 

同時にバスの姿が一瞬だけ二つにぶれ、元に戻る。

……最初は揺れた『眼』のせいでそう見えただけだと思ったけど、そうじゃなかった。

見ている最中、二度三度と同じ現象が繰り返されていて……その内に何がどうなっているのか、ちょっとは分かった。

 

あのバスは本当に、僅かな間だけ二つに分裂していて、車体の大部分が重なり合う様を見せている。

そしてその二つの像を、わたしの左右の『眼』が別々に捉えている。だから一瞬焦点がズレ、『眼』が揺れるのだ。

 

……まぁ、それで何が起こってるのと聞かれたら「わかんにゃい……」としか言えないけど、はっきりしている事が一つある。

 

――間違いなく、オカルトだ。それだけは自信をもって断言できた。

 

 

「あはぁ――、あ」

 

 

わたしはすぐにスマホのカメラにバスの姿を収め、そして気付いた。

 

……あのバス、白金の子が乗っちゃうのでは?

 

 

「…………」

 

 

ちらりとバス停を振り返る。

すると白金の子もバスの姿に気が付いていたのか、立ち上がって道の先を見つめていた。

 

まずい、完全に乗る気だ……!

 

アレを見て何も反応が無いあたり、きっと彼女には車体のぶれが視えてない。普通の人には異常が分からない、悪質なタイプだ。

あのバスがどんなオカルトかは知らないけれど、乗ったらなんかこう、色々とイヤな事になるのは確定していると言ってもいい。オカルトに詳しい私がそう予感するのだから、間違いない。

 

……こういった時、見ないフリをするのは慣れている。

『眼』だけしか無いわたしには、出来ない事が多すぎるから。

 

でも――なったばかりとはいえクラスメイトのピンチを、まだ間に合う状況で見ないフリするのは流石に後味悪すぎない……?

 

 

「わ、わ、わっ……!」

 

 

焦って青い顔になったわたしは身を翻すと、たぶん今回もクラスで三番目に早い足でバス停に走った。

 

バスが赤信号に引っかかってる間が勝負だ。

みるみるうちにバス停との距離が縮まっていく中、白金の子も爆走するわたしに気付いたみたい。怪訝な表情になって、そのルビーみたいに真っ赤な瞳にわたしの姿を映し込む。

 

 

「――――」

 

 

どうしてか、すごくすごく、嬉しくなった。

こんな状況なのに意味が分からなかったけど、そう思ってしまったのだからしょうがない。

 

わたしの青かった顔が、瞬時に赤みを取り戻して――白金の子の手をひったくるように掴み取ると、勢いのまま引きずった。

 

 

「えッ!? ちょ何、誰ぇ!?」

 

「査山銅です! 調査する山、金銀銅の銅と書いてあかねです! どうせ銅なら赤金って書いてあかねにしてほしかったあかねです!」

 

「だから誰だよ知んねーよ放せよ!?」

 

 

意外と乱暴な口調だった白金の子は、これまた意外と強い力で踏ん張った。

 

いや、意外と強いどころか、めちゃくちゃに強い。

「ふぎゃ!?」一瞬で力関係が逆転し、わたしの身体がガクンと前につんのめる。

 

 

「い、いきなり何なんだっつーの、私はバスに乗るんだよ……!」

 

「いや、あの、あのねぇぇぇ……っ!」

 

 

全力で引っ張っても、白金の子の身体はビクともしない。

触れれば散ってしまいそうな儚げな容姿なのに、まるで大木を相手にしているようだった。

 

そうしてズルズルと引き戻されていく中、バス停に件のバスが近付いて来るのが見えた。

その車体はやっぱり二つにぶれて元に戻ってを繰り返していて、やがてバス停に横付け。鈍い音と共に、その入口が開かれて、

 

 

「っ……!?」

 

 

――そこから覗く運転手の状態を視た瞬間、何が何でも乗せちゃいけないものだと理解した。

 

 

「ほら、もう来たんだよ! 放さねーとこのまま一緒に乗っちゃうんだけどぉ……!?」

 

「ひやぁぁぁ待って待って待ってぇ! それだけはぁ、お願いだから、お願いだからぁ――」

 

 

同時に、わたしの身すら危なくなった。

とはいえ手を離せる筈もなく、また顔を青くしながら白金の子の剛力に抵抗する。

 

でもダメだ、敵わない。

たぶん、この子が今回のわたしより運動能力高い二人のうちの一人なんだ。

 

ああ、じゃあ、どうしよう。どうしよう。どうしたら――。

 

オカルトには慣れてるけど、戦う力なんて無いのに。

少しずつバスの入り口に引きずられる中、わたしの頭に混乱と恐怖がぐるぐる回る。

そしてやがては、自分が何を考えているのかすら分からなくなって――とうとうパンクし、逆に彼女に縋りつく。

 

 

「うわっ!? ちょ、離れろっていやマジでなん――」

 

「と、とまってぇ! わたしぃ! クラスメイトでぇ! 名前、知んないけどぉぉぉ……!」

 

「え」

 

 

ぴたり。

みっともなく泣き喚くわたしに、白金の子の動きが止まった。

 

そしてどうしてかビックリしたような顔をして、べしょべしょのわたしを見下ろした。

 

 

「……あの、え、クラスメイト……の人?」

 

「そう、そうぅぅぅ……!」

 

「な、泣くなよ……えじゃあ、あの……引っ張ってきたの、話そうって引き留めてた……的な? 普通に嫌がらせとか、そんなんじゃなく……」

 

「いやがらせなんて、しないよぅ……」

 

 

……その反応で彼女の境遇がなんとなく透けて見える気もしたけど、その時のわたしに気にする余裕はなかった。

バスに乗らずに済んだ安堵で、ちょっとだけ訳が分からなくなっていたのだ。

 

 

「……え、えと、もしかして、友達になろう……みたいな感じだったり……とか?」

 

「なれたらうれしいと思うぅぅ……」

 

 

そうして問われるまま深く考えず答えていたら、白金の子の顔に、何故か嬉しさと恥ずかしさの入り混じったような笑みが浮かぶ。

そのあまりにも綺麗な表情に、わたしは泣くのも忘れて目を奪われた。

 

――彼女の背後でバスの扉が閉じ、ゆっくりと走り去って行った。

 

 

「え、ど、どうしよ。初めて友達……っていうかその、ごめん泣かしちゃって……ええと、査山さん?」

 

「……う、うん。査山、銅……ええと」

 

「あ、そっか私か。えーあー……まいいか、そうな、私は――」

 

 

……そうして、自分の名前を語る時の、それはそれは嫌そうな顔を見た時。

彼女はわたしと一緒なんだって、すぐに分かった。

 

 

「――こと。御魂雲(みたまぐも)(こと)だよ。できれば、苗字の方で呼んでほしいけど――」

 

 

――銅のわたしと、異なる彼女。

 

自分の名前が大っ嫌いなわたし達のはじまりは、こんなしまらないものだった。

 




数話ほどこの子視点が続きます。
諸事情により若干ゆっくりペースとなりますが、まったりお待ち頂けますと助かります。
すんません。


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【わたし】の話(中①)

 

 

「タマちゃん……とか、どうかな」

 

 

夕方。通学路の橋の上。

隣を歩く御魂雲さんに、わたしはそんな提案をした。

 

 

「タマ……? や、どうって何が?」

 

「呼び方だよ。御魂雲さんってずっと呼ぶのはなんかカタいし……でもコトちゃんとか呼ばれるのはイヤだよね?」

 

「あー……まぁ、うん。名前は呼ばれる度にヤな気分になる……」

 

 

御魂雲さんは何とも微妙な顔をして、居心地悪そうに身動ぎをする。

そんな何気ない仕草でも、彼女の美貌によればなにか高尚な映画のワンシーンに見えてしまうから不思議だ。そんなの観た事ないからわかんないけど。

 

 

「やー、でも、なんか……可愛すぎない? こんなんだよ、私」

 

「……もっと綺麗な響きの呼ばれ方のが良い?」

 

「ちげーよ! こんなキモいのが『タマちゃん』とか合わなくねーかって話」

 

 

そう言って、御魂雲さんは自身の美しいとしか言いようのない顔を指差した。

 

……何言ってるんだろう、この子は。

一瞬イヤミのようにも感じてしまったけど、今となっては彼女がそれを本気で口にしている事は分かっていた。

 

そう――御魂雲さんが嫌うのは、自分の名前だけじゃない。

彼女自身が持つ容姿、その美貌全てを、心の底から嫌っているのだ。

 

……わたしだって、ちょっとくらいは羨んでいる、それを。

 

 

「そんな事ないと思うけどなぁ……じゃあ、自分ではどんな感じが合うと思うの?」

 

「えぇ? えー……もっとこう、可愛いとかじゃなく、雑い感じでいいっつーか、ええと……いや自分であだ名決めろって罰ゲームすぎんか……?」

 

 

御魂雲さんは暫く唸った後、やがて「やめやめ」と手を振った。

恥ずかしいのもあるけど、めんどくさくなったみたい。

 

 

「あー、まぁいいや。タマって呼びたいんならそれでいいわ。別にイヤってんじゃないし、名前で呼ばれるよりは万倍マシだしな」

 

「そう? じゃあよろしくね、タマちゃん」

 

「……んんっ。なんだろ、いい意味でのあだ名付けられんの初めてだから、呼ばれてみるとちょっとハズいね」

 

 

早速そう呼んでやれば、タマちゃんは照れたように笑いつつ、そんな悲しい事を言う。

 

……最近気づいたんだけど、彼女の言葉の裏とかには不憫さというか、かわいそう系の闇がチラ見えしている気がする。

やっぱりあれだけ綺麗だと、敵も色々多かったのかな――そんな風にいたたまれなくなっていると、タマちゃんは照れを誤魔化すように「そ、そんでさ」と改めてわたしに向き直った。

 

 

「せっかくだし、私も査山さんの呼び方変えて良い? サヤとか、ヤマとか……」

 

「ヤマってそれ閻魔大王……まぁ、うーん、ならわたしは名前がいいな」

 

「え? でも私と同じで呼ばれんのイヤなんだろ?」

 

「うん、結構イヤだけど……タマちゃんにならいいかなって」

 

 

嘘じゃない。

確かにわたしは銅って名前が嫌いだけれど……それがタマちゃんに呼ばれたものなら、きっとそんなにイヤじゃないと思った。

 

白金の口から銅って紡がれるのは、少しだけ気分が良かったから。

 

 

「……そ、そう? そう、そっか……はは」

 

 

そんなわたしの心を知ってか知らずか、タマちゃんは嬉しそうに頬を綻ばせる。

 

 

「じゃあ……そーな、うん、その……やっぱ私もコトでいいや」

 

「……大丈夫? イヤじゃない?」

 

「んー、正直イヤはイヤだけどさ――あ、あかねちゃんなら、まぁ、いいかもしんないかな。みたいなさ。わは、わはは」

 

 

そうして誤魔化すように笑いながら、タマちゃん――じゃない、コトちゃんは僅かに足を速めて前に行く。

その意地っ張りな男の子のような照れ隠しに、思わずクスっとしてしまった。

 

わたしも続いて隣に並び、そのまま他愛もないおしゃべりを交わし合う。

互いが互いに嫌っている名前で呼び合っている筈なのに、わたし達の間には笑い声が溢れていた。

 

 

……わたしがまだ、彼女と友達になって間もない頃。

今はもう歩けない、とある日の帰り道だった。

 

 

 

2

 

 

 

中学生になってからの毎日は、それなりに順調だったと思う。

 

勉強に置いて行かれる事も無く、友達が出来ず浮き気味になる事も無く。

教師とのイザコザや、いじめとかそういうのも無くて、新しい学校生活はとっても楽しいものだった。

 

……まぁ、何をやっても三等賞ばかりなのは今回も変わらなかったから、モヤモヤするものはある訳で。

だからとっても楽しくても『それなりに順調』という評価なんですね。くすん。

 

ともあれ――そんなわたしという曇った銅の隣には、いつも綺麗な白金が輝きを放っていた。

言うまでもなく、御魂雲異ことコトちゃんの事である。……ダジャレじゃないよ。

 

入学式の日に成り行きで友達となってから、彼女とは自然と一緒に居るようになっていたのだ。

 

というか、コトちゃんの方からべったりとして来る。

どうもこれまで親しい友達どころか雑談できる子すら殆ど居なかったらしく、むしろ遠巻きにされたりいじめられたりと、あまりよくない小学校生活を送って来たとの事だった。

 

だから、入学式の日のバス停でわたしが泣きついてしまったあの時、彼女は本当に嬉しかったそうだけど……もう本当の事言えないや、これ。

 

というかコトちゃんもそんな過去を気負った様子もなく言っていたけど、流石にカラっとしすぎじゃない……?

どこかガサツな言動といい、決してひ弱ではない私を引きずるような身体能力といい、儚げな外見とは真逆のすごく野性的な子だった。

 

……とはいえ、だからこそわたしも一緒に居られるのかもしれない。

 

自分の美貌を鼻にかけず、変に見下して来たりもせず。

立ち位置とか距離感とかそういったものにこだわる感じも無くて、ちゃんと同じ目線で接してくれる。

そんなサッパリとした彼女だから、その美貌に気後れしないでおしゃべり出来ている部分はあった。

 

他のクラスメイトも似たような事を思っているのか、彼女を避ける者はあんまり居ない。

 

女子の中では結構フラットな扱いで、わたしとべったりなおかげでグループみたいに見られてはいるけど、特定のグループとギスギスしているとか、逆にくっついているとか、そういった事は無い。全方位まぁまぁ普通の付き合いだ。

 

逆に男子達とはそれなりに仲が良く見えるけど、今のところアイドル扱いとか面倒な事にはなってない。

彼らもはじめこそその美貌にドキドキしてたっぽいんだけど、中身が中身だからちょっと冷静になったらしい。なんか夢が壊されたんだって、しらないけど。

 

で、男女ともにそういう空気だから、三等賞のわたしなんかがくっついてても、何か言われたりとかはなかった。

金魚のフンとか取り巻きAとか、一緒に居て悪く言われたり妬まれたりするかも……と不安で太腿すりすりしてた時期もあったけど、全部取り越し苦労で済んだ。

むしろお目付け役として扱われてる感じで、「大変だな……」みたいな目で見られる事が結構ある。

 

いや、別にコトちゃんが乱暴者だとか問題児だとか、そういった悪い意味ではない。ないんだけど、なんというか――。

 

――そう、彼女はちょっとだけ、頭の中がすっからかんなのだった。

 

 

 

 

 

「わ、わかんにゃい……」

 

 

六月、とある雨の日。

窓の外でしとしと雨音の響く、昼休みの教室。

 

開かれた数学の教科書とノートに突っ伏しながら、コトちゃんは室内の湿気とは逆の干からびたような呻き声を絞り出した。

 

 

「えぇ……これまだ小学校でやる範囲の問題じゃなかったっけ……?」

 

 

その前の席に腰掛けるわたしが、彼女が苦戦している問題を確認すれば、やはり小学六年生の頃に算数で習った式の応用問題だった。

 

確かに少し難しいけど、仮にも小学校を卒業したなら解けない問題じゃなくない……?

 

……それは口の中だけでの呟きだったが、コトちゃんの耳には届いてしまったらしかった。

急にガバっと起き上がり、真っ赤な瞳で私を睨む。

 

 

「分かんないもんは分かんないんだからしょうがないだろ! 小学校だろうが中学だろうが、勉強ってのはいつどこでだって永遠に振り向いてくれない冷たいヤツなんだよ……!」

 

「勉強君は分かんないものをいつどこでだって分かるようにしてくれる、優しいヒトだと思いまーす……」

 

 

コトちゃんの謎理論をはたき返しつつ、わたしは彼女のノートを借りて手短にヒントを書き加える。

 

といっても正解の式に幾つか穴を作った殆ど答えのようなものだったけど、コトちゃん相手ならばこのくらいが丁度いい事はもう知っていた。

再びノートを彼女に戻し、解説しながら一緒に解いていく。

 

 

「ほら、とりあえずこれでどう? ここが7になるように、ちょっと考えてみようよ」

 

「えー……? あー……ちょっと待ってぇ……」

 

 

そうすれば、コトちゃんはさっきまでの悪態を引っ込め、素直に問題に向かってくれる。

勉強が苦手で嫌いな彼女だけれど、決して逃げたりサボったりしている訳ではない。でなければ、こうして私に勉強を教わる事も無かっただろう。

 

――コトちゃんと友達になって数か月。

日々を彼女の隣で過ごす内、わたしはいつのまにか彼女に勉強を教えるようになっていた。

 

特にきっかけというものがある訳では無かった。

ただ、テストの度に赤点を取って泣きながら追試を受けている姿があまりにもかわいそうで、ごく自然にそういう流れとなっていたのだ。

 

身体の弱い天才少女とかのキャラをやってても違和感ない見た目なのに、実際は逆で成績も学年全体で下から数えた方が早い。ほんとギャップだらけだ。

 

 

(……でも、なんだろ)

 

 

じっと、コトちゃんが問題を解く様子を眺める。

 

彼女の出した答えには、正解と間違いが入り混じっていて、かなり苦労して捻り出しているのがよく分かる。

その中には何度も何度も書き直したものもあり、現に今まさに解いている問題も、書いては消してを繰り返している。

 

……こうしてよくよく観察していると、気になる部分も目に付いてくる。

 

 

(――まただ。また、はじめに正解書いて、消してる……)

 

 

書いては消しての、最初の一回。

初めて答えを記入する時それが正答だった場合、コトちゃんは高確率で書き直し、改めて間違った答えを記入する変な癖があった。

 

数学だけじゃなく、他の教科でも大体同じ。最初に正解して、後で間違う解答が相当にある。

まるで敢えて間違えに行っているようにも感じるけど……うんうん唸る本人には、全くそんな気はなさそうだった。勉強できない人ってみんなこんな感じなのかな。

 

……正直指摘したいところだけど、間違いを見直して正解に直した答えもそこそこあるのが悩ましい。

下手に言って見直しの方も止めてしまうなんて事になれば、逆に成績が落ちちゃうかもしれないし……うーん。

 

そうして出来の悪い生徒を持つ先生の気分を実感していると、近くの席で雑談していた男の子達がわたし達の様子に気付き、目を向けて来た。

 

 

「お? なに御魂雲ちゃん昼休みまで勉強やってんの? 大変だねぇ査山さんも」

 

「まぁ次のテスト近いしな。追い込みかけなきゃまた赤点になっちゃうんでしょ、ははは」

 

「うるせーあんたらだって私と点数そう変わらんの知ってんだかんな。もし私に負けたらクソほど煽り散らかしてやっから覚悟しとけやボケがよ」

 

「クチわっる」

 

 

そのイヤミに苛立たしげな声を返すが、そこにギスギス感は無い。

コトちゃんの言動に男子達もあんまり女の子扱いしなくなってきているようで、こういった遠慮のない軽口のたたき合いはよく見られるようになっていた。

 

……コトちゃんがちゃん付けなのにわたしがさん付けなあたり、たぶんわたしより男子と上手くやれているんじゃないかな。

まぁ男の子達の目にはちょっぴり熱っぽさを感じるし、コトちゃんもそれを察しているのか深く踏み込むような気配はないけど、それでも結構な馴染みっぷりだといつも思う。

 

 

(……なんでこれで、いじめられてたんだろ……)

 

 

その姿を見ながら、わたしはふとコトちゃんの語った小学校時代の話を思い出す。

 

話では、どうも当時はずっと爪弾きにされていたらしいけど……彼女のこの雰囲気で、どうしたらそうなるんだろう。

 

口が悪いのがダメだったのか。それとも無意識に無神経な事を言っちゃったのか。

或いは、いじめていたという子の側がよっぽど性格悪い子達だったのかな。

 

何にせよ――わたしはコトちゃんをいじめていた子達の気持ちが、まるでサッパリ分からなかった。

 

 

(…………)

 

 

……嘘。嘘です。

本当は、ちょっとだけ分かっちゃってる。分かりたくないけど、察せちゃっている。

 

――だってわたしは、コトちゃんを羨ましいなって思っているから。

 

 

「……白金」

 

「――ん? 何か言った?」

 

「ううん、なんにも」

 

 

無意識の呟きに反応してきたコトちゃんに、なんでもないよと首を振る。

それに彼女は少し首を捻ったものの、すぐに「そっか」と頷き、男の子達との軽口に戻っていった。

 

 

(……キラキラ、だもんね)

 

 

コトちゃんの隣に居ると、その眩しさに目が潰れてしまいそうになる時がある。

 

彼女と自分の姿を見比べてしまい、自分の陳腐さ華の無さを理解させられる……みたいな。

白金と銅――ふとした時、彼女との格差をどうしようもなく思い知らされるのだ。

 

自分が特別だと思えなくなり、持っている物全てが色あせて見えてしまう――。

……いじめていたという子達は、それに耐え切れなかったんだろう。なんとなく、それが分かってしまうのだ。

 

まぁでも、ちょっと共感するってだけだ。

コトちゃんの事を羨ましくは思うけど、わたしが彼女を嫌う事はたぶん無い。

 

だってそういった思いは、これまでの三等賞人生で慣れっこだったし……何よりわたしは、コトちゃんの輝きが届かない世界がある事を知っている。

 

 

「――ねぇコトちゃん、そろそろお昼休み終わっちゃうよ?」

 

「えっ? うわほんとだ、ゴメン教えてくれてんのに……!」

 

「いいよいいよ、お礼に今日も付き合ってくれるんでしょ?」

 

「う」

 

 

男の子達との会話を打ち切り慌ててノートに向き直るコトちゃんにそう微笑めば、彼女は途端に嫌な顔をする。

その顔を見る度――わたしは少しだけ、晴れ晴れとした気持ちになるのだ。

 

 

「……なぁ、その趣味もうやめない? 悪趣味ってーかさぁ……」

 

「あはぁ、まぁコトちゃんは視えないもんねぇ、そういうの」

 

「や、だからその霊能力者アピとかも……まぁいいケド」

 

 

コトちゃんはこれ見よがしに大きな溜息を吐くと、それきり何も言わず問題に戻った。

……その際、私に聞こえないくらい小さく愚痴を呟いたけど、どっこいバッチリ聞こえちゃう。

 

 

(――ホラースポット探しとか、どこが面白いんだか……)

 

 

明らかにこちらを小馬鹿にしたような声。

しかしわたしは逆に気分が上向き、自然と『いないかなのうた』の鼻歌を口ずさんでいた。

 

 

 

 

 

 

以前言ったように、わたしはとある目的のために多くの心霊映像を集めている。

 

幽霊とかが映った心霊写真や、前のバスみたいな意味不明な現象を収めた心霊動画。

最近は少し幅を広げて、変なひらがなみたいなものが書かれた張り紙とか、崩れたアスファルトの中から外を覗いている変なお面とか、如何にも曰くがありそうなものも探していた。

 

そうなると当然、この街のあちこちに足を運ぶ事となり――わたしは勉強を教える代わりとかこつけて、コトちゃんをよく連れ回していたのだ。

 

 

 

 

 

「……雨降ってんのによくやるよ」

 

 

放課後の帰り道。

まだ降り続く柔らかい雨の中、隣で傘をさすコトちゃんがウンザリと零す。

 

わたしはくるくると傘を回しながら、そんな彼女の背を押した。

 

 

「むしろ雨の日だからこそだよ。降ってる日にしか出ないのとか、すごいの撮れそうな気がするでしょ?」

 

「すごいのねぇ……で、今日はどこらへん予定? 出来れば近場が良いんだけどさ」

 

 

そのあからさまに興味の薄そうな様子から分かる通り、コトちゃんは心霊現象とかのオカルト系には否定派だ。

それをよく話題に出す私を諫め、小馬鹿にして来たりもする。典型的な信じないタイプ。

 

でもまぁ、わたしは特に気にしていない。

いや、というかコトちゃんはそのままでいい。ずっとずっとオカルト関係を信じず、小馬鹿にし続けていて欲しい。

 

自分から誘っておいて変な話ではあるけど、それは間違いなくわたしの本心だった。

 

 

「んーと、ハッキリ決めてある訳じゃなくてね……ほら、そこの自然公園とかちょっとまわってみたいなって」

 

「あぁ、あそこ。私もたまに行くけど……え、なんか変なウワサでもあんの?」

 

「ううん、なにも。なんとなーく怪しいなって思ってるだけだもん」

 

「ならいいや。よかったー、今度から行き難くなんないで」

 

 

基本的にオカルト話は笑って捨てるコトちゃんだけど、やっぱり馴染みの場所に変なウワサがあるのは嫌みたい。

どこかホッとしたように息をつき、こころなし足取りを軽くする。

 

 

「てーか、あかねちゃんもホント好きだよね、オカルトとかさ。最初会った時はそんな感じだとは思わな……や、でも割とそんな感じだったか……」

 

「も、もー! 忘れてよあの時の事は……!」

 

 

彼女から見れば、わたしはいきなり泣きながら縋りついてきた不思議ちゃんだ。

あそこでまず醜態をかまし、外面も何も取り繕う必要がなくなったからこそ、コトちゃんとは気兼ねなくオカルト話を振れるような、気の置けない仲となっている部分はある。

 

とはいえ積極的に思い出したいものでも無く、傘を傾け顔を隠す。

 

 

「でさ、心霊写真とかそんなに作ってどうすんの? 別に友達とかに見せてるって訳でもなさそうだし、ただ集めて並べてるだけ?」

 

「……うーん……」

 

 

その何気ない質問に、顔を隠したまま暫く唸った。

 

ちなみに、コトちゃんの中では、わたしの撮った心霊映像はスマホアプリか何かで加工したものという事になっているらしい。

まぁ『眼』のおまじないを加工と言われれば否定出来ない気もするので、わたしも特に訂正せず勘違いさせたままにしていた。実際どういう判定になるんだろう、こういうの……。

 

さておき。

 

 

「……や、だめ。まだ秘密」

 

「えー? んだよそれぇ」

 

 

まだ準備している途中だし、人に言うのも恥ずかしい。

ただ遅くとも夏休み前には始めるつもりではあるから、その時には教えてあげても――

 

 

「……いやぁ、コトちゃんにはずっと言わないまんまかも」

 

「だからなんでだよ!?」

 

 

思わずそう零してしまえば、コトちゃんは自分の傘をわたしの傘にガンガンとぶつけてくる。

そして下手に力が強いもんだから、跳ねる雨雫が撒き散らされて顔に飛ぶ。ちめたい。

 

 

「わ、ちょっ、やめてよコトちゃ、もー!」

 

「おらっ、吐けっ、おらっ、おらっ」

 

 

コトちゃんが本気を出せば傘なんて余裕でバキバキにされてしまうので、手加減はしてくれているのだろう。

とはいえわたしとしては堪ったもんじゃなく、きゃーきゃー言いながら自然公園への道を走ったのであった。

 

 

 

 

 

近所にあるこの自然公園は相当に広く、定番のウォーキングロードの他にも様々な施設がある。

野球場やプールをはじめとした各種スポーツ場に加え、釣り堀、貸し乗り物屋。森を活かしたアスレチックに、博物館や花鳥園などよりどりみどり。

 

……なのだが、平日の放課後である。

当然ながらその全てを回っていられる時間は無い訳で、今回は仕方なく公園入口に近い幾つかの施設に絞る事にした。

 

今わたし達が訪れている噴水広場は、その中の一つ。

公園に入って五分ほどの場所にある、緑も多くて涼しげな雰囲気の場所だった。

 

 

「へー……雨ん時ってのも割と新鮮だな。景色変わってる気がする」

 

 

広場の中をきょろきょろと見回し、コトちゃんが呟く。

 

確かに、普通は雨の日にわざわざ自然公園を訪れるなんてしないだろうし、わたしも晴れの日の姿しか知らない。

コトちゃんと同じくわたしも新鮮な気持ちできょろきょろしつつ、『異常』が無いかどうかよく『眼』を凝らす。

 

 

「……んー……」

 

 

大きめの噴水池を中心に石畳が並べられ、所々に蔦の巻き付く石柱の並んだ、どこか異国を思わせる広場。

いつもは太陽を照らし返しているそれらが雨に濡れ、全体的に沈んだ色合いを見せている――。

 

空気感こそそんな風に変わっているけど、ぱっと見『眼』を引くものは無かった。

幽霊とか、変な現象とか、そういったものは見当たらず、ふつうに綺麗な場所だ。

 

強いて言うなら、いつもは水を噴き上げている噴水が止まっているのが気になるものの……雨の日は止まるものだって、前にお父さんと一緒に来た時に聞いた事があった。

 

……やっぱり、オカルト的なものは何も無いや。ちょっぴりガッカリし、ほんのり肩を落とした。

 

 

「――お、どんな写真作るか思いつかなかったか?」

 

 

すると目敏くそれを見咎めたコトちゃんが、ニヤニヤしながらわたしの傘を覗き込む。

綺麗なのにムカッとする、器用な笑顔だ。

 

 

「……思い付かないんじゃなくて、居なかったの。居ないものは撮れないの。の!」

 

「はいはい分かった分かった。んじゃ次のとこ行こ。私はともかく、あかねちゃんは門限までそんな時間ないんだろ?」

 

「えー? うんまぁ、そうだけどぉ……」

 

 

わたしの抗議もどこ吹く風。

コトちゃんはサッと身を翻すと、広場の反対側の出入り口へと歩き出す。

 

……言う通り、何も無いもんは仕方ないし良いんだけどさ。

わたしは唇を尖らせつつ、歩き出したコトちゃんの背を追った。

 

 

「…………」

 

 

その際、広場中央の噴水を通り過ぎた。

 

白い石材で作られた、小綺麗な噴水池。

今は機能が停止しているそれを、わたしは通り過ぎざまなんとなしに眺め、

 

 

「……あれ?」

 

 

そのまま暫くじっと見つめ……スマホに『眼』のおまじないをかけ、パシャリと一枚。

 

 

「――あれ、何やってんの? 早く行こうよ」

 

「あ、うん」

 

 

そうこうする内コトちゃんから催促が飛んだ。

わたしはさっとスマホをしまうと、しとしとと雨が降る中を駆けていく。

 

……雨の波紋が一つも立たない、ぞっとするほど静かな噴水池を後にして。

 

 

 

 

 

その後もプールや釣り堀なんかをまわったけど、空振りに終わった。

 

雨だし、池とかの水回りは何かしらあるんじゃないかと少し期待していたのになぁ。

雨のプールサイドに赤い服の女の人が立ってるとか、雨に混じって水底から手が出てくるとか、そういういかにもなやつ。

 

結局わたし達は靴下の染みを大きくするだけで終わり、通りがかりにあった小屋で雨宿りついでに小休止。

元から休憩所として作られているらしく、設置されている木組みのベンチに並んで座り、窓から見える雨景色をぼーっと眺めていた。

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

……他に誰も居ない、がらんとした小部屋。

雨の湿気が纏わり付き、木材の独特な匂いが鼻をつく。

 

さあさあと音は流れ続けている筈なのに、とても静かで穏やかに感じる、凪の雰囲気――。

 

……なんとなく、すごくいい時間だなって、思った。

 

 

「……あー、そういや、もうすぐ夏休みだなー……」

 

 

そうしてお腹の底から落ち着いたような気分でいると、コトちゃんがぽつりと零す。

 

 

「……早くない? あとひと月は先だよ」

 

「そんなんすぐでしょ。これまで私そういう長い休みキライだったんだけどさぁ、今は結構楽しみなんだよね。……ゴールデンウィーク、あんなに楽しかったの初めてだったから」

 

「ふぅん……?」

 

 

なんとなく要領を得ず、曖昧な相槌になる。

確かに一ヶ月ほど前、ゴールデンウィークを毎日コトちゃんと遊んで過ごした時は、やたらハイテンションのようには見えたけど……。

 

 

「……あかねちゃん家の予定とか、どうなってんの? あー……家族で海外旅行とか、そういうアレ……」

 

「あはぁ、今のところそんな羨ましい予定はないかな。お父さんもお仕事忙しいみたいで、お休み少なそうだし……よかったら夏休みも一緒に遊んでくれる?」

 

 

特に深く考えないでの軽い誘いだったけど、コトちゃんにとってはそうではなかったようだった。

その美貌に鮮やかな喜色を浮かべつつも、どこかホッとしたように息を吐く。

 

 

「そりゃ勿論だって! むしろこっちから頼もうって思っててさ……あー良かった、あかねちゃんと遊べなかったらいつもの夏休みになるとこだよ」

 

「えぇ……いつものってどんな――あ、いや、いいや」

 

 

彼女がちょいちょい話す小学校時代のアレコレを思い出し、口を閉じる。

たぶん、聞いたって誰も幸せにならないやつなんだろうな、これ。

 

 

「うーんと……っていうか、コトちゃんの家の方はどうなの?」

 

「……、……どうって?」

 

「ほら、家族との予定とか入ってたり……とか……」

 

 

……話を逸らしたつもりだったんだけど、どんどんと渋い顔になっていくコトちゃんを見て、こっちもこっちで誰も幸せにならない話題だと察した。

デリケートなとこ多いなぁ……。

 

 

「……えっと、ごめん、なんでもにゃい……」

 

「あっ、いや別に大丈夫なんだけど……何て言ったらいいのか分かんないっていうか、ううん……」

 

 

しょんぼりするわたしにコトちゃんは慌てて手を振って、言い淀む。

しかしすぐ気を切り替える――というより、考える事を放棄するように頭を振ると、わたしの背中をぽんと叩いて立ち上がった。

 

 

「まぁ、うん、夏休みは全部暇だよって事でね……とりあえずそろそろ次行かない? 雨も止まないっぽいし、待ってても意味無さそう」

 

「……あは、そうだね」

 

 

わたしと同じく、話の逸らし方は下手みたいだった。

 

ちょっとだけ笑ってしまったけど、特に突っ込む事もせず。

わたしは彼女に続いて立ち上がりつつ、改めてまだ降りやまない窓の外に目を向けた。

 

 

「……?」

 

 

その時、変な光景が『眼』に映った。

 

ここから少し離れた、池のほとり。

そこに何やら人が集まり、その一角を囲んでいた。

 

 

(なんだろ……?)

 

 

七、八人ほどだろうか。

子供から大人まで、男女の区別もない雑多な集まりだった。

 

その人達は揃って傘もささず、ただじっと地面を見下ろしている。

雨のせいで、何を見ているのか、どんな表情をしているのかも分からなかったけど……何だか少し、不気味だった。

 

 

「……あれ、どしたの?」

 

「うん……あそこ、あの人達なんだろうって……」

 

 

すると後ろからコトちゃんが声をかけて来たので、ちょんちょんと指をさす。

 

不気味ではあるけど、たぶん幽霊とかじゃないし普通に見えるはず。

事実、私の指先を追ってコトちゃんの真っ赤な瞳がそれを捉え――瞬間、彼女の顔はさっきの比じゃないくらいの渋面になっていた。えっ。

 

 

「っ……げぇ……!!」

 

「こ、コトちゃん……?」

 

 

おまけに汚い呻き声まで漏らし、酷く不機嫌そう。

 

……ど、どうしちゃったんだろう。

突然の変わりようにおろおろとしていると、コトちゃんがいきなりわたしの手を掴み、逃げるように小屋を出た。傘をさす暇もくれずに。

 

 

「ひやぁ!? ちょっ、コトちゃ――」

 

「ごめん、今日はちょっとこのまま帰らして。後で色々埋め合わせはするから……」

 

 

堪らず抗議の声を上げるも、終わる前に遮られてしまう。

 

……少し乱暴なところもあるコトちゃんだけど、意味の無い暴力は振るわれた事が無い。

わたしは気を取り直して彼女の手をぎゅっと握り返すと、自分の意思で歩を進めた。

 

 

「わ、わかったよ……でも、何で? あの変な人達のせい……?」

 

 

明らかにそんな感じだ。

 

もしかしてコトちゃんのストーカーとかかな。

だとしたら、この激しい反応も納得いくけど……。

 

そう問いかけると、コトちゃんはさっきとは違う方向性の渋面になった。

そして暫く「あーうー」と細長く唸ると、やがてものすごく小さな声で、

 

 

「…………一応、うちの人」

 

「え? ……えっと、家族って事?」

 

「違う。今居たあいつらは顔も知んないけど、でもたぶん仲間みたいなやつで……ああもうマジでごめん。説明の仕方ぜんっぜん心の底からわかんないからもう聞かないで、ホントお願い……!!」

 

「……う、うん。分かった……?」

 

 

その困り果てたような様子に、それ以上問いかける事が出来ず黙り込む。

 

……フクザツな家庭事情ってやつかな。

わたしはコトちゃんに手を引かれつつも、ちらりと件の人達を振り返る。

 

 

「……っ」

 

 

――みんな、こっちを見ていた。

 

池のほとりの一角で何かを取り囲んでいるのは変わらない。

ただ顔だけがこちらを向き、じっとわたし達を……コトちゃんを見つめているのだ。やっぱり、その表情は分からなかったけど。

 

 

「ひっ――」

 

 

わたしの背筋に怖気が走り、反射的に目を伏せて、

 

 

(……え?)

 

 

……そうして下げた視線の先に、何かが視えた。

 

穴、かな。

不気味な人達の足の隙間に、穴のような暗闇が視えた……ような。

 

そして視間違いでなければ、その穴の縁が――。

 

 

「――うっげこっち見てんじゃん……! くそマジでキッッッッモ!」

 

「へ、きゃあ!?」

 

 

更に『眼』を凝らそうとしたその時、同じくあの人達の様子に気付いたコトちゃんが足を速めた。というかもう完全に走ってる。

 

当然、彼女に手を引かれるわたしは悲鳴を上げた。

そうしてただ転ばないよう必死になってついて行き、繋いだコトちゃんの手に縋りつく。

 

 

 

「――っ!」

 

 

――最後に一度だけ、ほんの一瞬だけ振り向いたけれど。

その時には既に、さっきの穴は何本もの足に隠れて見えなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

結局、今日はそれでお開きとなった。

 

そういう気分じゃなくなったのもあるけれど、コトちゃんに解放された時にはもう、お互いびしょびしょの濡れネズミになっていたからだ

流石に帰るほかは無く、平謝りするコトちゃんに送られ帰宅。驚いたお母さんに、そのままお風呂に突っ込まれた。ぶくぶく。

 

びしょびしょなのはコトちゃんも同じだったので、お母さんは一緒に入っちゃえと誘ったみたいだったけど、そこまではお世話になれないとダッシュで帰ってしまったらしい。

「あんなに儚い感じなのに、風邪ひかないかしら……」お母さんはそう心配してたけど……まぁ、たぶん大丈夫だろう。あの子絶対風邪ひかないよ、二つの意味で。

 

 

「……なんだったんだろう」

 

 

そうして体を温め一息つくと、やっぱりさっきの事が気にかかる。

 

コトちゃんがあんなにも激しい嫌悪感を露わにした、不気味な人達。

彼女曰く『うちの人』らしいけど……。

 

 

(あと……あの穴)

 

 

『うちの人』達の足元に少しだけ視えた、深い穴のようなもの。

あれは一体どういう事だったんだろう。そっと目を閉じ、視えたものを思い返す。

 

 

「……わかんないや」

 

 

とはいえ、『うちの人』もあの穴の事も、お風呂の中なんかで答えが出るはずが無いのである。

わたしは溜息と一緒に思考を打ち切ると、お風呂場の扉を押し開いたのであった。

 

 

 

 

 

「……あ、コトちゃん」

 

 

お風呂上り、濡れた荷物の点検をしていると、スマホにコトちゃんからのメッセージが届いている事に気が付いた。

 

開いてみれば、そこには今日の事に関する謝罪がずらりと並んでいる。

そのあまりに必死さ漂う文面に、ちょっとだけ笑ってしまった。

 

 

(そんなに気にしなくていいのになぁ……)

 

 

元々雨の日に付き合わせたのわたしだし、あの人達をすごく嫌がってたのも伝わるし、しょうがないよ。

 

ああでも、コトちゃんからしてみれば、わたしっていう初めての友達を失う瀬戸際みたいな感じなのかもしれない。

彼女の過去を思いなんともいえない気持ちになりながらも、大丈夫だよ気にしてないよと返信しておく。

 

……ついでに『うちの人』について聞こうとも思ったけど、やめた。

たぶん、すごく嫌がられる問いかけだと思うから。

 

 

「…………」

 

 

そうして、最後に『夏休みも遊ぼうね』と締めた時――ふと、コトちゃんの今日の言葉を思い出す。

 

 

「夏休みまですぐ……かぁ」

 

 

自然と、部屋のカレンダーへと視線が向いた。

 

学校の夏休みは七月の二十一日からだ。

そして、カレンダーはまだ七月分に捲られてもいない。

 

やっぱり、まだ気が早いと思わないでもなかったけれど……。

 

 

「……うーーーん……」

 

 

スマホの画面をメッセージから心霊映像コレクションに切り替え、唸る。

 

夏休み前には始める予定ではあったけど、それって今もそうだよね。

それに準備している途中とはいっても、一応最低限は出来ている。心霊映像のストックも数か月でたくさん出来たし、いつでも始められる状況にはある訳で……。

 

 

「…………ん」

 

 

……い、今から、やってみる……?

 

思い立ったが吉日……というには少し引き延ばしてしまった気もするけれど。

わたしはフンスと鼻息も荒く、スマホにとあるページを映し出す。

 

いつも使っている大型動画配信サイト、その個人配信チャンネルのひとつ――

 

 

「――よ、よしっ」

 

 

――『ひひいろちゃんねる』

 

わたしが作った、わたしのための、わたしだけのチャンネル。

まだ動画の一本すら投稿されていないそれに、わたしは太腿をすり合わせつつ、指先をそっと伸ばした。

 



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【わたし】の話(中②)

 

 

季節は巡り、時は過ぎる。

 

桜舞い散る春が終わり、雨音響く夏を迎え。

落ち葉の積もる秋を通れば、しんしんと雪の落ちゆく冬に辿り着く。

 

学校の制服も半袖から長袖に変遷し、今ではその上から分厚いコートを羽織るよう。

鏡に映る重たいコートに袖を通したわたしを見ると、季節の移り変わりを実感する。

 

……色々。本当に、色々な事があった。

 

夏休み。わたしはコトちゃんと毎日のように遊んで、色々な場所にも行った。

プールとか、山とか、遊園地とか……その半分くらいがホラースポットで、怖い思いもそれなりにしたんだけども。

 

でもまぁ、それ以上に楽しい事もたくさんあった。

わたしの家族と一緒に行ったキャンプ場ではお父さんより頼りになったし、夏祭りの夜には打ち上げ花火を二人で見上げた。

夏休みって、こんなに楽しいもんだったんだな――花火に照らされたコトちゃんのその笑顔を、わたしはきっといつまでも忘れないだろう。

 

……そのあと、溜まりに溜まった夏休みの宿題によってシワシワになっちゃった訳だけど。

 

 

秋口にあった運動会では、わたしはやっぱり何をやっても三等賞だった。

出た個人種目は徒競走と落穂拾いの二つ。いつも通り、わたしより足が速い子と物拾いが上手い子がそれぞれ二人ずつ出た訳である。

 

どうせこうなるって分かっていたけど……どっちも練習したし全力で頑張った分、悔しい気持ちはやっぱりあった。今のわたしならいけるんじゃないかって思っていた時期だったから。

……それと、徒競走で一位になった女の子から太ももと脚を撫でくり回されたのは何だったんだろう……。

 

反対に凄かったのはコトちゃんだ。

徒競走では他の人をぶっちぎり、障害物競走では全ての邪魔を飛び越えて。

騎馬戦や大玉転がしなどの団体戦であっても頭十個分は突き抜けて暴れまくり、その高すぎる身体能力を存分に見せつけていた。

 

そうして最初こそヒーローのように扱われていた彼女だったものの、それで調子に乗ってしまったのか、全ての競技が終わる頃にはやりすぎて出禁コールが飛び交っていた。

コトちゃんもコトちゃんで向けられたヤジにブチ切れて煽り散らかし、最終的に先生に怒られて〆。なんというか、色々な意味で賑やかな運動会だった。

 

 

冬はテストが多く、少しだけ窮屈な日々が続いた。

年末が近くなり、それぞれの教科で一年間の振り返り小テストが重なったからだ。

 

試験期間でもないのに、午前中ずっとテスト漬けの日もあったほど。

……で、そうなると当然、わたしはコトちゃんに付きっきりになる。理由は言わなくても分かってくれると確信してます。

 

試験期間中ならコトちゃんもあらかじめ覚悟が出来ているのでやりやすいんだけど、こういった予定表に無い不意打ちテストの連続は流石に納得いかないようだった。

せめてもの悪足掻き(と言っちゃ悪いけど)として休み時間に勉強を教えている最中、彼女はずーっとグチグチグチグチ零していて……わたしも少しイラっときて、厳しい事を言ってしまった。

そのせいでコトちゃんとギクシャクした雰囲気になり、疎遠になりかけた事もあった。

 

思えば、それがコトちゃんとした初めての喧嘩だったかもしれない。

 

もっとも、そうなった翌日にはもう仲直りしていたので、喧嘩というほどでも無かったような気もする。

泣きべそかいて謝るコトちゃんに思いっ切り抱き着かれて、おなかの中身が全部飛び出ちゃうかと思ったのもいい思い出だ。……そうかなぁ?

 

 

 

……振り返れば、思い出すのはコトちゃんの事ばっかりだ。

 

他にもたくさんの思い出はあるのに、彼女と過ごした時間ばかりが心に浮かぶ。

それほどまでにその存在感が、キラキラが眩しかった……というのもあるんだろうけど、単にわたしがコトちゃんの事を大好きってだけかもしれない。

 

……うん、好き。大好きでした。

 

コトちゃんの綺麗な姿かたちも、それに反したちょっとガサツな振る舞いも。

ホントは優しいその心も、嫌いだっていうその名前も、ちょっとだけおバカなとこだって――全部全部、好きだった。

 

コトちゃんがわたしを特別な友達として見てくれていたように、わたしにとってのコトちゃんもそう。

小学校の友達よりも付き合いは短い筈なのに、きっと誰よりも特別に思っていた。

 

春も夏も、秋も冬も。

楽しくて、穏やかで、かけがえのない記憶。

 

彼女と過ごした日々はその全てが色鮮やかにあり、白金の光となって輝き続ける。

大好きで、大切で、ずっとずっと憧れていた、わたしの一番の親友――。

 

 

――だから、こんな風になっちゃったのかな。

 

 

 

3

 

 

 

『はーい、朝でも昼でもこんばんはー。ひひいろちゃんねるのヒヒイロアカネでーす』

 

 

スマホの画面の中、わたしの平坦さを意識した声が静かに流れる。

あの笑い声が、極力出ないようにするための話し方。

 

 

『今回はわたしの住む地域の中でも、特に訳分かんないものを紹介したいと思いまーす。これね、とある路地に貼られた張り紙の話なんだけど――』

 

 

そうして語られるのは、この街のとある路地で見つけた変な張り紙の話だ。

 

それは読み方の分からないひらがなみたいな謎の一字が大きく書かれており、その下に謎の文章と謎の数字が綴られている、謎だらけの張り紙。

それだけなら変な宗教の宣伝ポスターって感じだったんだけど、この張り紙にはどうしても『異常』としか言えない現象が起こっていた。

謎のひらがなの下に書かれた文章と数字が、時間が経つごとにひとりでに変わっていくのである。

 

最初は単に張り替えられただけだと思ったけど、後に撮った写真に映っているものまで同じように変わっている事を発見し、これがオカルトだって気が付いた――。

 

……画面の中。身バレ防止のマスクをしたわたしがそこまで話し終えると、画面が切り替わって当の張り紙が映し出された。

 

 

『――というわけで、これが今話していた張り紙ですね。……ほんと何て読むんだろ、これ。まぁそれはさておき、注目するのはその下の部分。この文章と数字ですね』

 

 

わたしのセリフに合わせて、文章と数字を囲むように赤い枠線が点滅する。

……もうちょっと点滅速度を早くしてもよかったかな? 要編集。

 

 

『何か不気味な文章と……68654かな? 撮影時点ではそうなってます。それでですね、視聴者のみなさんにはこの書かれてる文章と数字をよく覚えてもらって、その上で今映ってる張り紙をスクリーンショットして頂いたり、スマホで撮ったりしてもらいたいなって思います。その画像も、文章と数字が変わっていきますから』

 

 

何のためにかと聞かれれば、この張り紙の『異常』さを証明するため。

 

この動画に映っている張り紙も写真と同じように変わっていくんだけど、こっそり動画を差し替えてるんだろと言われてしまえば、その疑いを晴らすのは難しい。

だけど、みんなが自分で撮った画像の中でそれが起これば、疑うより信じる人のが多くなる……と思う。

 

勿論、写真を撮らない人や、撮った上でトリック扱いしてくる人も少なくないと思うけど、説得力はかなり出る筈だった。

 

 

『そう、一日おきに画像を見る度、そこにはきっと全然違うものが映っていると思います。そしてこの数字はたぶん、減っていく方向で変わっていくと思うんですけど……0になったその時、何が起こるのでしょうね。それをみなさんと一緒に確かめられたその時をもって、本動画の結となります。それでは、その時を楽しみに……ヒヒイロアカネでしたー』

 

 

パタパタと手を振るわたしの姿がフェードアウトし、最後に件の張り紙の画像をアップで映し出す。

いつもならチャンネル登録と高評価をお願いするアイキャッチを流すところだけど、今回はこっちの方が雰囲気が出るだろう。

 

そうするうちにやがて画面が切り替わり――使い慣れた動画編集アプリの画面へと戻った。

 

 

「……うん、大体オッケー」

 

 

それを見届けたわたしは頷き一つ。

続いてアプリを操作して、今さっきの動画の中で気になった点を編集し、より良いものへと直していく。

 

……最初の頃はもたもたと手間取っていたのに、随分と手慣れたなぁ。

淀みなく動く指先にそんな自画自賛をしているうちに編集終了。一本の動画が完成する。

 

――そう、動画。私は今、動画を作っていたのだ。

 

 

「よーし、かんぺき~」

 

 

そしてもう一度見直し特に問題点が無い事を確認すると、しっかり保存。

そして次に投稿の準備を整えるべく、わたしの配信チャンネルを開いた。

 

 

「……あはぁ」

 

 

ひひいろちゃんねる――わたしの作った、わたしのための世界。

 

現在進行形で増え続けている登録者数を眺め、わたしはいつもの気持ち悪い笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

お正月の時期になると、わたしは訳もなく楽しくなる

 

いや、お年玉とか、おせちとか、楽しくなる訳は山ほどあるんだけど、それとは別に良い気分がずっと続くというかなんというか。

クリスマスの一日限定わくわく感とも違う、細く長くのなんとも不思議なそわそわ感。

 

特に今回は、中学生になって初めてのお正月。

なんだか本当の意味で新しい一年になる気がして、これまで以上にテンションも上がってしまう訳で。

そして小学生時代より出来る事が色々増えた分、今までした事のない事をやってみたくもなる訳で。

 

だから、例えば――親抜きの友達だけでの初詣とか、すごくやってみたくなった訳である。

 

 

 

 

「――あ、コトちゃーん!」

 

 

一月三日、朝。

ぴりぴりと鼻先を苛む寒空の下、わたしは遠くに見えた人影に手を振った。

 

とある公園入口の石壁に背をもたれた、大きめのフードを深く被った女の子――コトちゃんだ。

 

あったかい缶コーヒーか何かを飲んでいた彼女は、走るわたしの姿に気付くと途端に華の咲くような可憐な笑顔を浮かべ、手を振り返してくれる。

 

 

「ごめんね、待たせちゃった? 寒かったよね」

 

「ううん、全然へーき。私の頑丈さ知ってんでしょ?」

 

 

急いで隣に駆け寄れば、コトちゃんは何でもないようにそう言って、また笑う。

 

しかし、その鼻の頭はわたしと同じくほんのり赤くなっていて、ちょっと申し訳なくなった。

そうして重ねて謝ろうとしたその時、小さく咳払いをしたコトちゃんが居住まいを正した。

 

 

「その……え、ええっと……あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします……だ、だよな? この挨拶初めてだから、勝手がさ……」

 

「あ、うん、今年に入って直接会うの初めてだしね。えー……こちらこそ、あけましておめでとうございます。今年もよろしく、お願いいたします。ぺこり」

 

 

慣れない様子で新年の挨拶をするコトちゃんに、こっちも少し改まった感じになってしまった。

それきり、なんとなく黙ってじっと見つめ合い――「いや何で緊張してんだよ私ら」その変な沈黙がおかしくて、どちからともなく吹き出した。

 

 

一緒に初詣に行こうと誘ったのは、わたしの方からだった。

 

初詣にはこれまでも何度か行った事があったけど、その全てが家族と一緒。

まぁ小学生とか幼稚園児とかそれが普通だし、特に不満を持った事も無かった。

……でも、時々見かける友達同士で来てたっぽい高校生達とか、ちょっとだけ憧れてもいたのだ。

 

――なので、コトちゃんと一緒に二人きりの初詣チャレンジ。

 

たぶん、他から見れば凄く些細な事なんだろうけど、結構ドキドキしているわたしである。

 

 

「――そういえば、コトちゃんは一人で初詣ってした事ある?」

 

 

そうして集合場所の公園を後にして、近所の神社に向かう途中。

飲み終えたコーヒーの空き缶を弄んでいるコトちゃんに、何気なくそう問いかけた。

 

 

「あー……まぁ私はむしろそっちが普通だったわ。正月なんてどの店もやってなくてめちゃくちゃ暇だし、そこらへんか山の中くらいしか行くとこなかったからな」

 

「……そっか!」

 

 

言葉裏の深掘りなんていちいちしない。どうせ誰も幸せにならない話しか出てこないのだから。

ここらへんの察する力は、この一年近くで鍛えられた部分である。うれしくないなぁ。

 

 

「えーと、それって今行く神社にも行った事あるの? 白曇の宮神社……で合ってるよね?」

 

「うん、ここらへんだと神社あそこしかないしさ。都会エリアまで行けばもっとでかくて有名なのあるけど……あっちはめちゃくちゃ人多くなるから、あんま落ち着けなくてなー」

 

 

その時の事を思い出しているのか、ウンザリとした表情で被るフードを更に深くする。

そして苛立ちを誤魔化すように、弄んでいた空き缶を片手で縦に潰し、通りがかったゴミ箱に投げ入れた。スチール缶が折り紙みたい……。

 

 

「そこの神社も混むは混むけど、まぁまだのんびりは出来る程度かな。去年来た時はそんな感じだった」

 

「へー……」

 

 

わたしが前に来た時はどうだったっけ。

思い返してみるけれど、お父さんに連れられてお参りして帰ったぼんやりした記憶しかない。三年とか四年前くらいの事だったし、そんなもんかな。

 

 

「……でも意外だな。あかねちゃんがあんま神社の事知らんの」

 

 

そうして振り返っていると、コトちゃんがぽつりとそう零した。

 

 

「え? 何で?」

 

「いやほら、ああいうとことかって一応ホラースポットになるんじゃないの? なのに興味薄そうっていうかさ」

 

「あー……」

 

 

何と答えればいいか、少し迷う。

 

……わたしの中では、神社はホラースポットではなくパワースポットに分類されている。

何故なら、そういう『ちゃんとした場所』にはオカルトがまず居ないからだ。

 

どうしてなのかはわたしも知らない。

だけど、これまで訪れた事のある神社や教会で、この『眼』がオカルトを捉えた事がないのは確かだった。

 

わたしは人生をずっと共にして来たこの『眼』の事を、心から信頼している。

これ(よく考えたらこれ扱いは失礼かも。今度からこの子って呼ぼうかな)があったからこそ、わたしはオカルトから隠れられ、よくない事をされずに済んでいるのだ。

 

この子に視えないのであれば、そこには何も居ない。

……本当はちがうんだろうけど、わたしはそういう事にした。

 

……みたいな事をちょっと端折って説明してみたのだが、コトちゃんはまた小馬鹿にするような目でわたしを笑った。

 

 

「ほーん、そういうのもちゃんと作ってんだね。まぁ流石に神社とかで色々やるのは罰当たりだもんな」

 

「一人でお寺行ったら幽霊に見間違われて大騒ぎ起こした人は実感籠ってるなぁ~」

 

「んごぉ」

 

 

ので、冬休みの頭にコトちゃんがやらかした騒動を当て擦れば、顔を覆ってしゃがみ込む。はいわたしの勝ち。

 

 

「ちが、ちがうじゃん……夕方にちょっと通りがかっただけじゃん……いや暗くはなってたけど、なんであんなに……どうして……」

 

「ほらほら、早く行こ。そんな蹲ってたらまた幽霊扱いされちゃうよ」

 

 

わたしはどんより嘆く彼女の手を引き、半ば引きずるように白曇の宮神社への道を急ぐ。

 

……夕暮れ寺に白く浮き上がる、美貌の少女幽霊の怪。

ふとそんなネタが浮かんだけど、ちょっと色々ベタベタすぎかなとボツにした。

 

 

 

 

 

白曇の宮神社は、神社というより公園と見た方がしっくりとくるような、素朴な雰囲気をした所だ。

 

というか実際、普段は公園として使われている。

広場で親子が遊び、お年寄りが世間話をして、そんな彼らを小さな拝殿が見守っている。どこか昔の香りがする穏やかな神社だった。

 

 

「わ、結構人いるね」

 

 

が、お正月という専用イベント真っただ中の今においては、相当に賑やかだ。

 

拝殿周りにはお参りに来た人達が並んでいて、出入り口の外にまで列を溢れ出させている。

まぁ境内自体が小さいから人数としてはそれ程でもないけれど、広場の方で談笑してる人達も多く、結構な活気に満ちていた。

 

 

「ここって、こんなにいっぱいになる事あるんだねぇ……たまに遠目で見るだけだから知らなかったな」

 

「普段も神輿担ぎとか輪投げ大会とか、イベントある時は割と人居るけどな。さ、それより並ぼ並ぼ」

 

「あ、うん」

 

 

先に行くコトちゃんに続き、拝殿への列に並ぶ。ちょっとドキドキ。

 

すると周囲の人達の視線が当然のようにコトちゃんへと集まるけど、深く被ったフードもあってかすぐに外れた。

学校外で会う時の彼女は大体おおきなフードを被ってるけど、その理由がこれである。相変わらず大変だなぁ……。

 

 

「あかねちゃんは何お願いするの? 初詣」

 

「え、うーん……何にしようかなぁ、色々あるから迷っちゃうや」

 

 

嘘です。わたしのお願いはずっと『一等賞になれますように』で固定です。

どこで願っても叶った事無いけどね!

 

 

「そういうコトちゃんのお願いは? へぇそうなんだもう赤点とらないようになれると良いね」

 

「何も言ってねーんだけどさぁ……!」

 

「ぎゃー!」

 

 

コトちゃんのアイアンクローで握り潰された。ぐえースチール缶みたいになるー!

 

 

「……はぁ。まぁ、勉強関係は別に願わないかな。だってほら……あかねちゃん、これからも教えてくれるっていうし……へへ」

 

「アイアンクローしながら照れられましてもぉ……!」

 

「おっとごめん。ともかく、お願いするとしたら――今がずっと続いて、あかねちゃんと一生の友達で居られますように……とかかな」

 

 

そう笑うコトちゃんの瞳におためごかしの色は無く、本心からの言葉であると見て取れた。

……割とひねくれ気味の彼女だけれど、素直な所は素直な子なのだ。

 

当然、そんなまっすぐな好意を向けられて無事で済む訳もなく。

わたしは若干痛みの残る頭を抑えるフリして、熱くなっている頬を隠したのだった。

 

 

その後もおしゃべりしているうちに列は進み、とうとう拝殿に辿り着く。

 

お参りの作法はうろ覚えだったけど、そういう人のためにかお賽銭箱の上に詳しく書いた立札があった。

それに従い、コトちゃんと二人揃って礼拝をする。お賽銭を入れて、二拝二拍手最後に一拝……。

 

 

「…………」

 

 

ちらりと、隣のコトちゃんの様子を窺う。

眉間にシワを寄せ、それはもう熱心に祈っている。

 

……きっと、さっき言ってたお願い事を。

 

 

「……あは」

 

 

うん、まぁ、だからって訳じゃないけれど。

わたしは頭に浮かぶ『一等賞』の文字を一旦脇によけ、別のお願い事をそこに嵌め込んだ。

 

それが何かは、わたしだけの秘密である。

 

 

 

 

 

「この神社って、一応子孫繁栄のご利益があるんだってさ」

 

 

お参りが終わって列から外れ、広場で一息ついた後。

拝殿の方を眺めていたコトちゃんが、どこか得意げな顔で話を振った。

 

 

「……えっと、そういう伝説が残ってるって事?」

 

「そ。向こうにある石碑みたいなのにそんなん書いてあんだ」

 

 

指し示された方向に目を向けるが、ここからでは参拝者の列に遮られて見えない。

話の流れに乗って、二人してそちらに向かった。

 

 

「ええと、ほらこれ……昔々に子が産まれずに悲しむ夫婦が居て、それを見かねた白雲が自分の切れ端をその妻に食わせたところ、多くの子が産まれた。大層喜んだ夫婦は、雲に感謝しお宮を立てた……だってさ」

 

「だから白曇の宮かぁ。なんか変な話だね」

 

 

伝説とか民話とかだとそういう感じの話は多いけど、出てくるのが動物とか神様じゃなく雲っていうのは珍しい気がする。

というかこの石碑、今の話の解説とか祭神とか、そういうのが全く書かれていない。歴史的な成り立ちとか全然わかんないんだけど、いいのかな神社として……。

 

 

「……こういう時リード取れると、ちょっと嬉しいな」

 

 

そうしてムムムと石碑を睨んでいると、コトちゃんがはにかみ混じりにそう呟いた。

 

 

「ほら、いつも勉強とか教えられてばっかりだからさ。私が教えるパターンってあんま無いし」

 

「そう? ホラースポット探しの時とか凄く頼りにしてるけど……」

 

「そこらへん頼られても嬉しかねーんだわ」

 

 

そしてすぐに不満げに唇を尖らせる。

 

そう、コトちゃんは小さな頃からこの街の色々な所をぶらついていたらしく、土地勘はかなりのものを持っていたりするのだ。

……まぁそれが主に人の少ない田舎エリアや森林エリアに偏っているあたり、そこに至る背景をなんとなく察せて悲しい気持ちになっちゃうけれど。

 

とはいえ、そういった地域の知識に関してはわたしもまだまだ少ないので、ホラースポットを探す際にコトちゃんの土地勘を当てにする事も、今じゃかなり多くなっていた。

 

 

「森のエリアで見つけた井戸とか、ボロッちぃ廃屋とかさ。不気味なとこばっかり案内させられるのも割とキツイとこあんだぞ……」

 

「……オカルト信じてないのに結構そういうの気にするよね、コトちゃん」

 

「信じてないのと不気味に思うってのは相反しないんですよねぇ」

 

 

ぶつくさと文句を呟くコトちゃんだけど、本気で嫌がっている様子は無かった。

何だかんだと言いつつも、彼女は彼女なりにホラースポット巡りを楽しんでいるんだろう、きっと。

 

……いや、楽しんでいるのは、わたしと過ごす時間そのものなのかも。

さっきのコトちゃんの願いが浮かび、そう思い上がってしまう。

 

 

「せめて何のために行かせられてんのか教えてくれればさー……」

 

「え? いや、心霊写真とか……」

 

「そりゃイヤってほど分かってんの。でもそれを何のためにやってんのか、ずーっと教えてくれないままじゃん、あかねちゃん……」

 

「う」

 

 

その美しくもしょんぼりとした拗ね方に、思わず胸を抑えた。

 

……コトちゃんと友達になってもうすぐ一年近く。

わたしはまだ、彼女に心霊映像を集めている理由を教えていない。

 

ホラースポット巡りに散々つき合わせておいて不誠実だとは思うけど、やっぱり自分から話すのはまだ恥ずかしいところがあって――……それに、少しだけ、いろんな不安もあったから。

 

正直、彼女が自力で見つけてくるまでは、ずっと秘密のままにしておきたい気持ちも小さくなかった。

 

 

「……うー……」

 

 

……でもその一方で、もう良いかなとも思う自分も居る。

聞かれる度に拒否してコトちゃんをしょんぼりさせるのも心苦しかったし、そもそも話したところで何が起きるって訳じゃない。ただの気持ちの問題なのだ。

 

そして何より、わたしの一番の友達に――大好きな親友に、自慢したい気持ちも確かにあって。

 

……どうしようかなぁ。

わたしは少しの間小さく唸り、目を彷徨わせ――

 

 

「……あ」

 

 

ふと、参道の脇にそれを見つけた。

 

神社の人が設置した、幾つかの小さな屋台。

きれいな巫女さんがお守りや破魔矢なんかを売ってるその横に、また違う列を作る屋台が一つ。

 

ちょうどいいや。

思い立ったが吉日と、わたしはコトちゃんの手を引いて、そこに向かって歩き出す。即ち、

 

 

「――おみくじ! あれで大吉出たら、教えてあげるよ」

 

 

 

 

 

「おっしゃ大吉ィ!! ほらほらほらほらァ!」

 

「出るまで引くのはどうかと思うぅ……」

 

 

大吉と書かれたおみくじを得意げに突きつけて来るコトちゃんに、溜息を吐く。

 

あれからすぐに二人でおみくじを引いてみたのだが、コトちゃんは自分が引いたのが小吉だと見るや否や再びおみくじを引き始めたのである。

そして何度かそれを繰り返した後、やっと引き当てた大吉を手にご満悦。雰囲気も何も無い運試しだなぁ。

 

 

「うるせー大吉引いたのには変わりないだろ! さ、約束通り教えて貰おーじゃんか」

 

「うーーーーーーん………………じゃあ、はい」

 

 

こんなの無効だと突っぱねるのは簡単だけど、そこまで厳正になる気も無く。

わたしは何とも微妙な心持ちでスマホを取り出し、とある画面を開いて……おずおずと差し出した。

 

 

「ん? 何これ……ひひいろちゃんねる?」

 

「えっと……わ、わたしの配信チャンネル。動画とか、生配信とかするやつ……」

 

「……へ?」

 

 

わたしの言った事をすぐに呑み込めなかったらしく、コトちゃんはぱちくりと目を瞬いた。

 

 

 

――『ひひいろちゃんねる』

それはわたしが作った、わたしのための、わたしだけのチャンネルだ。

 

投稿している動画や配信の内容は、心霊写真の解説や恐怖体験語などのオカルト系がメインで、たまに雑談や相談事の配信が挟まる感じ。

 

そう――わたしがこれまで苦心して集めた心霊映像の全ては、動画のネタとしてここに使われている。

 

……わたしだけが持つ、この特別な『眼』。

つい最近まで、わたしはそれを自慢する方法が分からなかった。

 

当然だ。他の皆が視えないものを視えると自慢したって、ただ気味悪がられるだけなんだから。

いや、それどころか、下手したらカルト宗教的な変な事に巻き込まれちゃう恐れもあった筈。

 

けれど、色々な知識が増えた今、やっとそうならない方法を思い付いたのだ。

それが動画配信であり――わたしの『ひひいろちゃんねる』だった。

 

 

 

「え……あー、配信者やってんの……あそう、なんだ……? 意外……ってんでもないのか。そっかこれか、心霊写真の使い道……」

 

「まぁそんな感じ。性能いいスマホになって動画作りとか出来るようになって、夏休み前くらいから始めて……ほら、結構人気もあったりしてね……」

 

「え? えー、これ、登録者……一、十、百、千、万……はぁ!? マジで!?」

 

 

わたしのスマホを手に戸惑っているコトちゃんに、映し出されている登録者数を指し示せば、驚きに大声を張り上げる。

 

始める前は色々と不安だった『ひひいろちゃんねる』だけど、幸いにして人気は上々。

登録者数は日々加速度的に増えていて、今ではそろそろ四万人に到達しようかという、ホラー系の中では中堅に位置するチャンネルにまで成長していた。

 

 

(…………)

 

 

……さっき不安って言ったけど、嘘です。正直、自信は最初からすごくありました。

 

だって普通、オカルト系の動画や配信はその殆どがニセモノだ。

リサーチとして同種の投稿者の動画もあらかた視察してみたけれど、どの心霊映像も恐怖体験談も、人の手によって作られた『作品』だった。わたしの『眼』がそう断じたのだから、まず間違いはない。

 

――でも、わたしは違う。

 

わたしの扱うネタは全てが『本物』であり、ニセモノなんて一つも無い。

それが視聴者に伝わるかはさておいても、本当のオカルトを扱えるわたしの『眼』は、他のどんな一等賞の人だって真似できない最強の武器になる。

 

隣で語れば人が離れて行くけれど、画面を通せばその逆だ。

わたしは……わたしはやっと、わたしのこの『眼』を、わたしだけの特別を、正しい形でちゃんと自慢する事が出来たのだ。

 

 

「いや、えぇ……? あんな作った心霊写真とかで、こんなに……?」

 

「あはぁ。他にも色々勉強したりして、すごく頑張ったもん」

 

 

動画撮影・編集の技術に、配信におけるテクニックや、人気の出る方法など。

わたしに出来る事は全て勉強したし、全力で頑張ったつもりだった。

 

……まぁどうせどのクオリティもよくて三等賞程度だろうし、中学生という身分上、深夜のホラースポット突撃配信など人気の出やすいスタイルの幾つかがまだ使えない。色々と中途半端な状態である事は自覚している。

 

だけど、それでも『本物』はわたしだけなのだ。

そしてここまで人気を伸ばせたという事実が、確かな自信をわたしの心に根付かせていた。

 

 

(そうだよ、今でこれなら、これからもっとすごくなれる。そうなったら……)

 

 

もっと経験を積んで、もっと大人になって。色々な事が出来るようになれば。

きっと今よりもっと人気が出て、上へ上へと昇っていける。

 

この世界でなら。

他の人が持っていないこの『眼』で、わたしの特別で――きっと、一等賞に手が届く。

 

いや、それどころか一等賞の上、銅でも金でもない特別に。

キラキラの白金に並び立てるような、たくさんの人の目を惹く緋緋色金(ひひいろかね)に、いつか――。

 

 

「――凄いじゃん」

 

「!」

 

 

そうしてぐるぐる考えていると、突然ぽんと背中を叩かれた。

見れば、困惑から戻ったらしいコトちゃんがわたしに感心するような目を向けていた。

 

 

「や、私あんまこういうの詳しくないから知んないんだけどさ……多いんだよね? これ」

 

「う、うん。トップ層には全然遠いけど、そろそろ四万人の壁に乗るから……」

 

「ふーん? まぁそんだけ居れば人気者でしょ? やったじゃん」

 

 

その声音には、いつもと違って小馬鹿するような色は無い。

オカルト絡みなのに珍しく純粋に褒めてくれているようで、なんだかムズムズ。

 

 

「……い、意外だね。もっと呆れられたり、何か言われると思ってたけど……」

 

「ああ、だから今まで内緒にしてたの? いや実際どうかとは思ってるよ。作った心霊写真とかでこういうのやる方も、それで集まる方も……なぁ?」

 

 

ああ、いつものコトちゃんだ。

半眼で鼻を鳴らすその様子に、ムカッとするより安心する。

 

……だけど、彼女はそれから「でもさ」と繋げ、

 

 

「こういう形になったんなら、それはもう分かってて楽しむジャンルのヤツだろ? テレビでやってる怖い話特集みたいな感じの」

 

「……そういう風に見てる視聴者さんも多いけど」

 

「なら私が色々言うのも空気読めてないだろ。悪趣味と思っちゃうのは別としてさ」

 

 

コトちゃんはそう言ってまた鼻で笑ったかと思うと、すぐにそれを柔らかなものへと変えた。

 

 

「……それに、散々付き合わされた側からすると、やっぱ嬉しくもあるし」

 

「え? 何で?」

 

「いやほら、あかねちゃんが写真撮りに真剣だったのずっと見てっからさ――それが報われて、良かったねって」

 

 

――わたしが、報われた。

白金の口から紡がれたその言葉は、私の心を大きく揺らした。

 

 

(――――)

 

 

自分でも予想外だった。

胸がぽかぽかして、目の奥が熱を持ち。色々な感情が溢れそうになって、慌てて息と一緒に堰き止めた。

 

 

「……あはぁ」

 

 

……うれしい。

それでも漏れ出るものが、じわじわとわたしの口角を上げていく。

 

コトちゃんはそれには気付かなかったようで、何事もなかったかのようにわたしのスマホを差し出した。

 

 

「はい。ま、新年から長年の謎が分かってスッキリしたわ」

 

「わたし達お友達になってまだ一年未満でーす……」

 

「私の中ではそんくらい濃い時間だったんだよ。少なくとも小学校の六年分よりはな」

 

 

またそんな悲しい事をのたまいつつ、コトちゃんは少し離れた場所にあるおみくじ掛けへと歩いて行く。

 

そう言えば、まだおみくじ持ったままだったっけ。

わたしもその後を追って、コトちゃんと同じく大吉のおみくじを結び掛けた。

 

 

「んじゃ、これからどうする? 初詣ってまだ何かする事あんのかな」

 

「ううん、一応メインはもう終わったと思うけど……」

 

 

お参りをして、おみくじも引いたなら、もう大体は済んだだろう。

あとやってないのは祈祷くらいだけど、五千円とかするし中学生のお小遣いではちょっと――と、考える内にふと思いつく。

 

 

「――……」

 

 

ちらと、先程結んだわたし達の大吉を振り返る。

……そう、わたしも、大吉を出したんだ。

 

 

「……なら、さ。せっかくだし、コトちゃんも出てみない?」

 

「うん? 何によ」

 

「わたしの動画」

 

 

そう提案すれば、コトちゃんはぽかんと口を半開き。そしてすぐに顔を引きつらせ、半笑いになった。

 

 

「……は? なんで……?」

 

「ほら、さっき『散々付き合わされた』って言ってたでしょ? なのにずっと内緒にしてたのは、確かに申し訳なかったなぁって」

 

「だからって何で動画に出るって話になるんだ……! つかもう教えてくれたし……あ、あと勉強教えてくれてんのでトントンだろ」

 

「えー」

 

「えーじゃなくて」

 

 

よっぽどイヤなのか、コトちゃんは少しずつわたしから距離を取る。

 

いや、わたしも嫌がらせのつもりで言っている訳じゃない。

申し訳なかったと思っているのは本当で、でもそれで動画に出してやるっていうのは違うっていうのも分かってる。

……何より、不安だってまだ、ある。

 

でも、それでもわたしは――コトちゃんと並んで立っている姿を、わたしの世界に残したいと想ってしまったのだ。

 

 

「それにね、思えばコトちゃんも『ひひいろちゃんねる』のスタッフみたいなものでしょ? なら一度は紹介とかしたいから……ねっ」

 

「なんでだよ!? いや確かにスポット情報提供者みたいな立ち位置になってるけど、動画だのなんだの知らんかったんだからノーカンだろ!! つーかそもそも顔晒したくないんだよ私は!!」

 

「大丈夫、予備のマスクあるもん。コトちゃんのフード大きいし、それで顔バレ防止もカンペキカンペキ。あっそうだ、この辺りに良い感じのホラースポットないかな? どうせならそこ探索しながら撮ろう? ね?」

 

「ねーよヤだって! ちょ、行かないってば離せよぉ……!」

 

 

そうは言うけど、コトちゃんは腕を引くわたしに抵抗したり、強引に振り解こうとはしなかった。

 

……最初に出会った時とは大違い。

それがまた嬉しくて、わたしはぎゅっと握った彼女の手に、深く深く指を絡めた。

 

 

 

――その後、わたしは観念したコトちゃんと一緒に一本の動画を撮影する事となる。

 

最初にコトちゃんを動画制作に協力してくれる友達だと紹介(スタッフ扱いは最後まで反発していた)して、ホラースポットともいえない場所を雑談混じりに探索するだけ。

わたし達が楽しく過ごしている光景を映し続けた、ただの内輪ウケ動画だった。

 

きっと伸びない。でも、それで良かった。

 

同じ時間、同じ場所、同じ目線、同じ気持ち。

他愛のないおしゃべりをして、下らない事で一緒に笑って、ふざけ合って、ちょっとだけ言い合いもして。

何も遠慮しない、お互いの一番の友達として、白金(コトちゃん)の隣に(わたし)が立っている――。

 

……そんな時間を、切り取った。

 

 

 

 

 

 

 

そして、少し先。

わたしはその姿を見返して、胸に温かい気持ちを抱きながら、こう思うようになる。

 

 

ああ――嫌だな、って。

 

 



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【わたし】の話(中③)

 

 

 

――友達ちゃん、かわいいですね!

 

 

「…………」

 

 

――目元だけでもすごく綺麗な子ですね。顔出ししないんですか?

 

――アニメのキャラか何かのコスプレ?

 

――身体能力バケモンで草。

 

 

「…………」

 

 

――もしかして伊賀とか甲賀の娘さん?

 

――この子これ染めてるんですか?

 

――サーカスとか劇団の子かな。

 

――これからは友達ちゃんも動画出て来てくれないかなー。

 

――なんでこんな子裏方に回してんのw

 

――脳筋アルビノ儚げ詐欺バカ山猿美少女ウーマン。

 

――めっちゃマスク取ってほしー!

 

――今後も出演してくれると嬉しいです。

 

 

「……、」

 

 

――いやマジで顔全部見して。

 

――友達ちゃんが一瞬フード下ろす瞬間 11:28

 

――次から二人体制で頼みます。

 

 

「っ」

 

 

――いやむしろもうこの子だけで、

 

 

最後まで、読む事は無く。

わたしは衝動に駆られるまま、その動画コメントを消し去った。

 

 

 

4

 

 

 

三月。

桜が小さな蕾を膨らませ、暖かな春の兆しがそこかしこに見える季節。

 

冬がまだ近い事もあってか、多くの人達は春の前座とか、出会いの前の別れの月とか、いまいちパッとしないイメージで捉えていたりするけど、わたしはそんな三月の事が結構好きだった。

 

だって別れがあるって事は、自分が今居る枠組みがリセットされるって事だから。

 

クラス替えや配置換え、卒業に進学に、転校っていうのもあるかもしれない。それまで過ごして来た箱の中から取り出され、新たな箱へ詰められるまでの待機時間。

それはわたしにとって、つかの間の休憩時間でもあった。

 

クラスの枠組みが解かれ新しい環境に置かれるまで、わたしは一等賞でも三等賞でもない、評価される前のわたしに戻る事が出来るからだ。

 

……もちろん、錯覚とか思い込みとか、そういうものだって分かってはいます。

一年間を三等賞のまま終えたって事実は残るし、きっと裏では教師達によるランク分けがもう終わってるし。

そもそも学校の中での三等賞がリセットされたって、学外でのコンクールとかでとった三等賞はそのまんまだし。くすん。

 

それでも……成績や運動で一等賞を目指さないで済むこの時期は、他の月より少しだけ気が楽なのは確かだった。

 

見える範囲に金ピカが無くて、目が眩んでしまう事も、羨んで息がしにくくなってしまう事も無い。

地べたに座るわたしが、また金ピカを見上げるための元気を蓄える、お休みの時間――。

 

……少なくともこれまでは、そうだった。

 

 

 

 

 

「あ~……終わった~……!」

 

 

放課後の昇降口前。

たくさんの荷物を軽々背負ったコトちゃんが、清々したという風に伸びをする。

 

周囲には似た様子の生徒達で溢れており、それぞれが思い思いに解放感を口にしていた。

わたしもその例に漏れず、呻き声の混じった息を吐き出した。

 

 

「はぁぁぁ……時間、かなりかかったね……」

 

「ずっと座りっぱなしはやっぱキツイなー……こう、体力とは別んとこが疲れたわ」

 

 

そしてコトちゃんは溜息交じりにそう呟き、昇降口の横にある立て看板をじっとりと睨む。

『第二神庭学園中等部 修了式・卒業式』――わたし達が今さっきまで参列していた式のもの。

 

修了式。

そう、今日この日をもって、わたし達の中学一年生生活が終わりを迎えたのだ。

 

入学してから一年。長かったようで短かったようでもあり、思い返すとやっぱり感慨深いものはある。

コトちゃんも同じように感じているのか、看板を睨む瞳がふっと和らいだ。

 

 

「……でも、これで一年生も終わりなんだなぁ。改めて思うと胸に来るもんがあるな……」

 

「卒業式も一緒にやるから、なんか自分まで卒業するような気分になっちゃうよね……」

 

 

わたし達の通うこの学校は、わたし達在校生の修了式と、三年生の卒業式を当日中に行う形式となっている。

それなりの長丁場になるため疲弊はするが、その分卒業生達が醸し出すしんみり感も長く味わっていたので、少しだけそれに引っ張られている感じはあった。

 

コトちゃんはそんなわたしの共感に「や、それもあるけど」と頷くと、名残惜しげに昇降口を振り返る。

少し上で、桜の蕾が風に揺れた。

 

 

「……この一年、嘘みたいに楽しかったからさ。ずっとこのままが良かったっつーか……だからその、つまり……二年生になっても一緒のクラスがいいなぁ、って……」

 

「……、……」

 

 

照れながらのその言葉に、わたしはすぐに返せなかった。

……コトちゃんがまたこちらを向く前に、取り繕う。

 

 

「……まだ離れ離れになるって決まった訳じゃないし、大丈夫だよ、きっと」

 

「そうだと良いんだけどなぁ……あーくそ、テストの結果待つよりムズムズする……!」

 

 

二年生でのクラス割り振りは、明日から入る春休みの最中、四月頭にある登校日に伝えられる。

現時点ではどうなるか誰にも分からず、コトちゃんも気が気でならないようだった。

 

 

「初詣でお願いしたし大吉も引いたんだし、ほんと頼むぞマジで……!」

 

「……お願い事はともかく、出るまで引いた大吉にご利益なんてあるのかなー」

 

「えっ、あ、あるに決まってんだろ……? いーや、むしろ余計に払ったおみくじ代の分だけ神様も真面目に聞いてくれてるね!」

 

「その考え方がもう罰当たりな気がしまーす……」

 

 

というかオカルト否定派が何言ってるんだろう。

わたしは変に不安がっているコトちゃんをイタズラ混じりに煽りつつ、一緒に帰り路につく。

 

 

「はぁ……クラス替えなんて一生やんないでいいのになぁ……」

 

「…………」

 

 

――それは、イヤだよ。

 

……わたしはそう思ったけど、口には出さず。

小さく浮かべた愛想笑いの裏に、バレないように押し込めた。

 

 

 

 

 

 

少し歩いてバスに乗り、おしゃべりしながら十分ちょっと。

そうして高級住宅街に差し掛かるあたりのバス停で、いつもわたし達はお別れしている。

 

勿論、わたしが降りる方。

なんとコトちゃんの家は結構な豪邸であるらしく、高級住宅街の中でも相当いい立地にあるとの事だった。

 

……『らしい』とか『事だった』とか伝聞系なのは、コトちゃんの家にお呼ばれした事が無いからである。

 

わたしも一度はウワサに聞く『玄関から敷地外に出るまで数分歩かなくちゃいけない庭』を見てみたいと思っているんだけど、家や家族の話を振るとコトちゃんがそれはもう嫌悪感丸出しの顔をするため、なんか怖くて一年経った今も遊びに行きたいと言い出せずにいた。

そのため、遊ぶ時はいつも外か私の家のどちらか。彼女の家族や、例の『うちの人』の顔すら見た事が無い。

 

……いつか、遊びに行けるかな。

コトちゃんだけを乗せたまま、高級住宅街の方へと遠ざかって行くバスを見送りながら、今日もわたしはそんな事を思うのだ。

 

 

「…………はぁ、」

 

 

そうしてバスのお尻が完全に見えなくなると、無意識に溜息が落ちた。

 

それに気付いて咄嗟に口を押えたけど、まぁ意味なんて無い。

むしろそんな風にする自分が後ろめたくて、逃げるようにバス停から立ち去った。

 

 

(……息、しにくい……)

 

 

途中、喉元を抑え、口の中で呟く。

 

……ここ最近、ずっとそうだった。

喉の奥、胸の裏側に重たいものが張り付いて、息の通り道が邪魔されている。

 

勿論、実際に何かがそこにある訳じゃなく、精神的なものだ。

不安とかプレッシャーとか、たぶんそういった感情が悪さをしているんだと思う。

 

どうしてこんな気持ちになっているんだろう。わたしには、この不調の原因がさっぱり分からなかった。

 

 

「…………」

 

 

……嘘。これも嘘です。

 

本当はどうしてか分かっている。

息苦しくなっている理由も、さっきから逐一コトちゃんに感じてしまう、変な引っ掛かりも。

 

ちゃんと全部自覚しているから――ずっと、息がしにくいままなのだ。

 

 

「……ふー……」

 

 

細く長く息を通し、少しだけ胸を広げる。

 

そしてスマホを取り出し『ひひいろちゃんねる』を開き、チャンネル主として動画の管理画面に入る。

そこには今まで作って来た動画のデータがずらりと並んでいて――わたしは、そのうちの一つを注視した。

 

それは今年のお正月に、コトちゃんと一緒に撮影した動画。

わたしはすぐにその再生数を確認し……目に飛び込んだその数字に、広げた筈の胸が詰まった。

 

 

「――また、増えちゃってる……」

 

 

動画の再生数が、朝に確認した時より増えている。

それも一時間に百再生や千再生なんて速度じゃない。『ひひいろちゃんねる』を始めてから今まで、見た事のない勢いだ。

 

 

「…………」

 

 

……これが他の動画なら、きっと嬉しく思ってる。

増え続ける再生数を純粋に喜んで、浮かれて、数分ごとに数字をチラチラ確認とかしちゃっていたかもしれない。

 

だけど、この動画での、それは――。

 

 

「……大丈夫、まだ、全然……」

 

 

自分でも気付かない内に呟きながら、チャンネル内における再生数トップの動画の数字を見る。

 

『橋の話』――タイトルの通り、この御魂橋市にクモの巣のように張り巡らされている、無数の川と橋にまつわる怪談話を纏めた動画。

手間と時間と集めた『本物』の心霊映像をたくさん使って制作した、結果としてすごく人気が出た渾身作だった。

 

当然、その完成度も再生数も評価数も、雑談枠であるコトちゃんとの動画が及ぶものじゃなくて、様々な意味で大きな差が横たわっている。そうでなくちゃ、いけない。

 

……でも、そこから少しだけ視線をずらせば、既に再生数の抜かれた他の動画がたくさんあって。

 

 

「…………」

 

 

きり、と。どこからか音が聞こえた。

わたしが、強く歯を噛んだ音だった。

 

 

 

 

 

 

お正月に撮ったコトちゃんとの動画を投稿したのは、今年の一月末の事だった。

 

撮影時期と投稿時期にズレがあるのは、視聴者による特定を少しでも難しくするためだ。

今回は色々目立つコトちゃんが出演していた動画だったため、念には念を入れ撮影から一ヶ月ほどの間を開ける事としたのである。

……まぁそれにどのくらいの効果があるのかは分からないけど、動画作りの指南書に書かれていた事だし、何かしらは違うんだとは思う。きっと。

 

ともかく、そうして投稿したその動画だったけれど――当初のウケはあまり良いものではなかった。

 

まぁ、当たり前だ。

オカルト系のチャンネルなのに怖い話をせず、女の子二人がただ仲良く過ごしているだけの動画なんて、需要の読み違えにも程がある。

そのため再生数、評価共に低空飛行もいいところで、後から投稿した動画にも一時間経てば追い抜かれているくらいだった。

 

……だけど、わたしはそれで良かった。

 

例え再生数が伸びなくても、視聴者から低評価を受けたとしても気にしない。

だってあの動画は、わたしがわたしのためだけに撮ったものだったから。

 

いつか他の動画に埋もれ、誰にも見て貰えなくなったとしてもいい。

『ひひいろちゃんねる』に、わたしの世界に。白金(コトちゃん)(わたし)が一緒に居る光景が刻まれていれば、それでいい――この時は、そうとだけ思っていたのだ。

 

 

……おかしくなり始めたのは、コトちゃんとの動画を投稿してから暫く経った頃。

そろそろ二月も終わろうかという時期の事だった。

 

ずっと低空飛行を続けていたコトちゃんとの動画が、いきなり再生数を跳ね上げたのだ。

わたしは特に宣伝も何もしていなかったから、何が起こったのか分からなかった。

 

後で知ったところによれば、何でもコトちゃんとの動画の切り抜きが今更になって一部のSNSで取り上げられ、すごい子が居るって話題になっていたらしい。

 

森林エリアの探索中、コトちゃんがするすると木を登り、山猿……もとい忍者のように幾つもの木々を飛び渡る姿――そんなシーンの切り抜き。

 

……なんでこれが話題になるんだろう?

少しの間首を傾げたわたしだったけど、冷静に見返せば途中で宙返りしたり枝に掴まってくるくる回っていたり、めちゃくちゃアクロバティックで確かにすごいやつだった。

コトちゃんと森を歩けばよく見られる光景だったから、なんか感覚が麻痺していたみたいだ。

 

とにもかくにも、そうしてSNSで興味を持った人が元ネタの動画に流れ込み、再生数の増加に繋がったのである。

 

はじめはわたしも純粋に喜んでいた。

単純に注目度が上がったって事だし、それに伴ってチャンネル登録者数もかなり増えたし。

そして何より、コトちゃんが凄いって言われるのは、わたしも嬉しかったから。

 

 

……でも、だんだんとそうじゃなくなった。

 

動画の伸びはわたしが思っていたよりもすごくて、気付けば『ひひいろちゃんねる』内での存在感は結構なものとなっていた。

 

ジャンル的に、マニア系のオカルトよりも多くの人にウケる動画となっているのは分かる。

それでも、ひとつ、またひとつと、過去に作ったオカルト動画の再生数と評価数が抜かれて行く度、モヤモヤしたものが少しずつわたしの胸に溜まっていくのを感じてしまう。

 

おまけに、動画への注目の質が少しずつ変わって行った。

 

動画内のコトちゃんは基本的にフードとマスクで顔を隠していたけれど、どうしてもガードの緩くなる時はある。

 

特に激しく動き回る子だから、そうした隙は意外と多かったみたい。木々を飛び渡る時とか、飛び降りた直後とか、被っていたフードやマスクがズレる瞬間が幾つかあった。

そして、編集時のわたしですら気付かなかったようなその一瞬を目敏い視聴者が切り抜いてしまった事で、運動能力面の他にルックス方面への注目度も高まってしまったのだ。

 

完全に顔が出ていなくても、コトちゃんの美貌はよりたくさんの人目を惹いた。

 

たくさんのフォロワーを持ったオタクの人とか、有名なコスプレイヤーとか、そういった界隈の人の目にもそれなりに触れていたみたいだった。

結果としてコトちゃんの動画の伸びに更なるブーストがかかり、今もなおどんどんと再生数と高評価を増やし続けている。

 

 

そう――わたしの『眼』(特別)と何も関係の無い、コトちゃんの動画が。

 

 

(……………………)

 

 

……わたしは。

わたしは今、すごくモヤモヤとして、嫌な気持ちになっている。

 

 

 

 

 

「――ただいま」

 

 

わたしの家。

狭く小さな玄関に、呟き声が木霊した。

 

ほとんど囁くような声だったけど、うちはドアの音が煩いからそっちで伝わる。

リビングの奥から、余所行きの格好をしたお母さんがひょっこりと顔を出した。

 

 

「おかえり~。結構遅かったねぇ、寄り道とかして来た?」

 

「ううん、ただ式が長かっただけ。ほら、修了式と卒業式一緒だから」

 

「あぁ……それじゃ疲れたでしょ。何だかしおれてる気がする」

 

「……そうかな。そうかも」

 

 

……まぁ、わたしの元気が無いのはまた違う理由だけど。

とはいえいちいち訂正する気もなく、ぽてぽてと二階の自室へと向かった。

 

 

「あ、お母さんこれから錫ちゃんお迎えに行ってくるけど、これから出かけたりとかする?」

 

「しませーん……お昼寝でもしてまーす……」

 

「じゃあ鍵かけてくから。お留守番よろしくね」

 

「はーい、いってらっしゃーい」

 

 

お母さんはそう言うと、ばたばたと慌ただしく家を後にした。

 

そうして家に一人きり。

自室の扉を開けたわたしは、着替えもしないで自分のベッドへ飛び込んだ。

 

 

「…………」

 

 

仰向けになり、天井を見上げる。

そのまま何も考えずにただぼうっとして、無心になろうと頑張ってみた。

 

……だけど、頑張ってる時点で無心になんてなれる訳も無くて。

逆に色んな事が頭の中に湧き出てしまい、ぐるぐるモヤモヤ。観念したわたしは細長い溜息を吐き出し、ぐるりとうつ伏せになってスマホを眺める。

 

開いてしまうのは当然、『ひひいろちゃんねる』だった。

 

 

「……う、また……」

 

 

するとコトちゃんとの動画がまた再生数と評価を増やし、チャンネル内の順位を上げていた。

 

そろそろチャンネル動画の再生数ベスト10に入りそう。

また胸のモヤモヤが大きくなって、ぽふんと布団に顔を埋めた。

 

……こんな思いをするくらいなら、動画自体を一時的に視聴禁止にしたり、いっそ消しちゃえばいい。

何度も何度もそう思ったけど、出来なかった。

 

そんな姑息な真似したってわたしがもっと惨めになるだけだし、何より――あの光景を、あの時間を、わたしの世界から消したくなんてなかったから。

 

あると嫌なのに、消してしまうのも嫌ときた。

なんかもう、自分の面倒臭さにウンザリとする。

 

 

「……はぁ」

 

 

のっそりと顔を上げれば、楽しそうに笑うわたしとコトちゃんが映る。

見ていると胸が温かくなって、でもすごく重たくもなって。

 

 

「……っ」

 

 

また、動画の順位が上がる。

わたしはスマホから目を引き剥がすようにベッド端へと投げ捨てて、強く強く瞼を閉じた。

 

 

 

 

 

 

春休みに入ってからも、動画の勢いは止まらなかった。

 

SNSがきっかけだし一時的な人気だと思っていたんだけど、コトちゃんの身体能力とルックスの二つの要素が重なったせいか、話題の持続性が予想以上にしぶとかったのだ。

流石にピーク時の勢いは無い。だけど毎日毎日確実に再生数と高評価が積み上がり、わたしのオカルト動画を越えていく。

 

 

例えば、『張り紙の話』。

路地で見かけた変な張り紙のお話で、視聴者とオカルト体験を共有できるよう、わたしなりにすごく頭を捻った動画だった。

 

例えば、『水族館の話』。

以前行った水族館で見た酷い水槽のお話で、視たら一発アウトなやつをギリギリかわして撮った映像をネタにした、すごく身体を張って作った動画だった。

 

例えば、『陽炎の話』。

知らない内にわたしの交友関係に追加されていた知らない誰かのお話で、怖いの我慢してちょっとだけおしゃべりした体験談を交えた、すごく勇気を出して作った動画だった。

 

 

それらが全部、コトちゃんの動画より下になった。

 

みんなみんな、すごく頑張って作った動画だったのに。

……コトちゃんの動画は、何も頑張ってなんかないのに。

 

新しく動画を投稿しても、数字はまるで及ばない。ただ引き離され、差を広げられていく――。

 

……こんなのじゃ、ダメだ。

おなかの底を火で炙られているような感覚が、ずっと消えない。

 

 

 

「――なぁ、どうしたの、あかねちゃん」

 

「!」

 

 

はた、と我に返る。

スマホに落としていた顔を上げれば、そこには深く被ったフードの奥で心配そうな顔をするコトちゃんの姿があった。

 

 

「さっきから変な顔してっけど……えと、何かヤな報せとか来た感じ……?」

 

「う、ううん、ちがうよっ。ただちょっと……光が画面に反射して、見づらくて」

 

「ふーん? そんならいいんだけどさ」

 

 

わたしは適当に誤魔化しつつ、スマホをそっとしまい込み。

道の先で待っているコトちゃんの下に走った。

 

――春休みに入って数日。

わたしとコトちゃんはいつものように、オカルト探しに赴いていた。

 

今回訪れている場所は、都会エリアの端っこにあるローカルな遊園地。

ちょっぴり寂れ気味ではあるものの、普通に営業していて普通に人入りも多い、明るく賑やかな場所だ。

 

不気味な雰囲気なんて全然無いので、コトちゃんもだいぶ気が楽そうだった。

 

 

「つーか、来るのホントにここで良かったん? オカルト探しだし、もっとこう……デスゲーム映画とかで使われるような廃墟みたいなとこだと思ってたわ」

 

「そういうのも行きたいとは思ってるんだけどね。でも廃墟に入る許可取るのって子供じゃ難しいし、もし取れても保護者同伴じゃないとダメってなっちゃうから……」

 

「あー、あかねちゃんママは危ない事許してくれなさそうだよね。……一応聞くけど、内緒で危ないとこ行く気とかないよな?」

 

「流石にね。許可とか法律関係は、守ってないのがバレると大炎上しちゃうから」

 

「ならよかった」

 

 

人気のためにと色々な決まり事を無視した結果、謝罪や引退に追い込まれた配信者はものすごく多い。

特にわたしみたいな子供の配信者なんて、ルール違反をした瞬間大人にスマホ自体を取り上げられておしまいだ。そうならないよう、出来る限り気を付けているつもりではあった。

 

 

「まぁ廃墟じゃなくても、遊園地って場所自体は怖い話の人気シチュエーションではあるから。普通の所でも、何かしら居たらいいなって」

 

「そうなー……確かに乗り物ごとに何か話作れそうではあるよな」

 

 

オカルト話には相変わらず興味の薄そうなコトちゃんだけど、遊園地のアトラクションにはワクワクしているようだった。

色々と目移りしてて、乗る気マンマンであるのが窺える。

 

……いつもなら、わたしもオカルト探しはそこそこに、一緒になって遊園地を楽しんでいたんだと思う。

だけど今は、とてもそんな気になれなかった。

 

 

「……えっと、ごめん。わたし今日はオカルトの方優先したいんだけど……」

 

「えー?」

 

 

おずおずと切り出すと、コトちゃんは不満げに唇を尖らせた。

 

 

「色々乗んないの? 遊園地の怖い話って大抵乗り物系だろ?」

 

「そうだけど……外から視るだけでも分かるから」

 

 

そう言って、瞼の上から軽く『眼』を撫でる。

すると『眼』の奥にじわりとした熱が生まれ――数瞬の後には、『眼』に映る世界がより広く鮮明に、そして自由自在に視点を動かせるようになっていた。

 

この一年近く、動画のために積極的に『眼』を活用していたおかげかな。つい最近になっていつの間にか出来るようになっていた、力を込めた分だけ視界を広げられるという新しい『眼』の機能である。

 

これを上手く使えば、アトラクションに乗らなくても効率的にオカルト探しが行える。

いちいち列に並んで時間をかけるより、もっとたくさんの場所を周れる筈だった。

 

 

「えっと……もしあれだったら、コトちゃんだけでも乗って来ていいよ。わたしの方は一人で大丈夫だから、ここで一旦別れて、お互い満足したらまた集合って感じに……」

 

「……や、いーや。ああいうの一人で乗るのも虚しいモンだしさ。今日はあかねちゃんの方に付き合うよ」

 

「う、ごめんね……」

 

 

残念そうに苦笑するコトちゃんに胸がチクリと痛んだけど、わたしも譲ろうとは思えなかった。

そうしてしょんぼりと謝ると、コトちゃんは「いいって」と手を振って、そのまま気を取り直すように打ち鳴らす。

 

 

「その代わり、今度二人で違う遊園地行こうよ。春休みだしちょっと勇気だして、東京とか大阪とかのでっかいテーマパーク。当然、オカルト関係は無しで、どう?」

 

「……、……うん、そうだね。近い内に行ってみよっか」

 

「やった! じゃあいつ行く? 今週……はいきなりすぎるか、やっぱ来週とか――」

 

 

オカルト探しが出来ないなら意味が――その先が浮かぶ前に心をきつく抑えつけ、頷く。

そうして笑顔で旅行の予定を詰め始めるコトちゃんと一緒に、わたしはゆっくりと遊園地を周り始めた。

 

おなかの底を炙る火が強まっていくのを、感じながら。

 

 

 

その日は結局、目ぼしいオカルトは見つける事が出来なかった。

 

敷地の隅の方まで歩いて、でもロクなものが見つからなくて、ただウロウロするだけで終わり。

何も収穫のない、ただただ乾いた一日だった。

 

 

「……はぁ」

 

 

夜、寝る前。

いつかのように、ベッドに寝ころび溜息ひとつ。

 

……せっかく遊園地に行ったのに、コトちゃんにはつまんない思いをさせちゃったな。

冷静になった途端にまた申し訳なくなって、メッセージでごめんなさいのスタンプ乱舞。

そのままスマホを近くに放り投げ……ようとして、無意識のうちに『ひひいろちゃんねる』を開いていた。

 

 

「…………」

 

 

コトちゃんの動画は、今日も一日中人気者だったみたい。朝から今までで、とんでもなく再生数を稼いでいる。

 

……わたしの動画も決して再生されてないって訳じゃないけど、一覧で見ると勢いの差が浮き彫りになってしまう。

特にこの前投稿したばかりの新しい動画が、勢いで負けているのが切ない。

コトちゃんの動画から来る人のおかげでブーストがかかっていて、再生数も評価もかなりいい推移なのに……比較対象に及んでいないせいで、どうしても、何か……。

 

 

(……コトちゃんの動画より、面白く作れてると思うんだけどな……)

 

 

息がしにくい。

 

話題性が足りないのは分かってる。でも、どうすればいいんだろう?

他の人気ある配信者のスタイルを取り入れて、もっとインパクトが出る動画作りにした方が良いのかな。

 

けれど、人気が出るよう大げさに話を作ったりとかはしたくない。

それじゃあ武器を捨ててしまう。『眼』を、『本物』を使ってる意味が無くなっちゃう。

 

 

(……やっぱり、新しいオカルト見つけなきゃ。もっと人の目を惹ける、すごいやつ――、ん)

 

 

と、またおなかの底にチリチリとしたものを感じ始めた時、スマホに通知が来た。

コトちゃんからのメッセージだ。

 

さっきのごめんなさいスタンプの乱舞に対抗するように、「気にすんな」の意が色んな言葉で連投されている。

 

『気にしないでいいかんね』『大丈夫』『いやほんと』『楽しかったし』『いいよいいよ』『全然平気』『あれはあれでさ』『気にすんなってば』『わたしはげんきです』――他多数。

その声が無くても分かる必死さに、胸に詰まっていた息がくすりと抜けた。

 

 

「……気にすんな、かぁ」

 

 

勿論、コトちゃんが伝えたい意味は違うだろう。

けれどタイミング的に、どうしても動画の事にもかかってしまう。

 

 

(…………)

 

 

画面を操作し、また『ひひいろちゃんねる』に戻す。

 

コトちゃんの動画はまだ伸び続けてるし、新しい動画との差も広がっている。

……だけどやっぱり、その伸び方が日増しに鈍くなっている事も確かだ。

 

もうSNSでの旬も過ぎてるし、このままならきっとその内に勢いは無くなる。前みたいな低空飛行に戻る。

チャンネルの一番である『橋の話』には――まだ、全然届かない。

 

 

「そう……そう、大丈夫だもん、まだ、ぜんぜん……」

 

 

だから……だから、まだ平気。

 

新しい動画で追い越せなくたって、良いオカルトが見つからなくたって。

まだ平気だし、大丈夫。全然、気にしなくっていい。

 

『ひひいろちゃんねる』の――わたしの世界の一等賞は、わたしのまま、変わっていない。

 

 

「…………はー」

 

 

自分にそう言い聞かせているうち、少しずつ落ち着いて来る。

 

たぶん一時的なものだとは思うけど、さっきよりは息が楽。

わたしはそれ以上『ひひいろちゃんねる』を見る事を止め、スマホの画面をコトちゃんのメッセージへと戻した。

 

すると目を離した間にどういった流れになっていたのか、話題が遊園地でした旅行の約束の事へと移っていた。

 

遊園地での様子から分かっていたけど、よっぽど楽しみであるらしい。

行く場所とその予定日を相談してくる文の端々からコトちゃんのウキウキ具合が伝わり、思わず小さな笑みが零れる。

 

 

(……わたしも、今度はちゃんと楽しむようにしよう。今日みたいな感じにはならないように)

 

 

オカルト探しは一旦忘れ……いや、それは無理だから脇に置く程度にして。

楽しむ事をメインに据え、コトちゃんとの旅行を堪能しよう。初詣の時のように、またあの時間を過ごすんだ。

 

それが終わった時には、きっとコトちゃんの動画も落ち着いている。

何を心配していたんだろうって馬鹿らしくなっている。そうなるに、決まってる――。

 

 

「よし」

 

 

半ば妄想だったけど、心の中でそう信じ。

わたしは本腰を入れて、コトちゃんと旅行の予定を組み始めた。

 

そうしてその気になると現金なもので、わたしもなんだかワクワク気分。

コトちゃんとの計画立ても夜遅くまで盛り上がり、お母さんにいい加減に寝なさいと怒られてしまった。

 

その日はそれでおしまい。

少し興奮していたけど、夜更かししていたせいもあってすぐに眠ってしまった。

ここ最近はずっとモヤモヤしていたせいで眠り難かったから、久しぶりにスッと眠れた気がする。

 

何か楽しい夢を見ていた気がするけど、よくは覚えていない。

ぐっすりと、すやすやと。気が付いたら次の日の朝になっていて、いつもよりだいぶ寝坊してしまっていて、だから、

 

 

 

――だからわたしは、その瞬間を見逃した。

 

 

 

「…………え」

 

 

朝起きて、それに気が付いた時。わたしはまず見間違いだと思った

寝ぼけ眼の度が上手く合っていないのだと、何度も目を擦って見直した。

 

……でも、私の目に映るものは何も変わらない。

手の中のスマホ画面に映し出された、『ひひいろちゃんねる』の投稿動画一覧。再生数でソートした、その一番上――。

 

 

「――なん、で……?」

 

 

――そこにあったのは、コトちゃんの動画だった。

 

わたしの『橋の話』はそこに無く、二番目に下がっていた。

……昨日までは大差をつけての一番だったのに、今や追い抜かされている。

 

なんで、どうして。

昨日まで、全然だったのに。平気だったのに。大丈夫だった筈なのに――。

 

息がくるしい、おなかがきもちわるい。

頭の中がぐるぐるとかき回されて、感情もぐちゃぐちゃになっていく。

 

だけど、そんな中でもハッキリと分かる事が一つだけあった。

……ああ、そっか、そうなんだ。もう、ハッキリとしてしまった。

 

 

「わ、わたし……」

 

 

――わたしは、わたしの作った世界ですら、一等賞になれなかったんだ。

 

 

 

 

 

 

運動会の動画が、上がっていたらしい。

 

 

「…………」

 

 

去年コトちゃんがむちゃくちゃをやって、出禁コールまで飛び交ったあの運動会。

その時の動画が昨日の内にSNSにひっそり上げられていて、それでまた話題が再燃していたようだった。

 

たぶん、話題を知った生徒かその家族が流出させたのだろう。

高々運動会の動画くらいで――とも思ったけど、運動会の時のコトちゃんはわたしの動画の時と違って、フードとマスクをつけていない。

むちゃくちゃな身体能力に加え、今度はその美貌もはっきり映っているとなれば、やっぱりかなりの人の興味を惹いていた。

 

でも幸い、前の時ほどの勢いじゃない。

運動会の動画もあくまで追加情報って感じで、前の話題に紐づけられた上げ方だったから、盛り上がりとしてはそれなり程度に収まっている。

 

けれど――ちっぽけなわたしの世界をひっくり返すには、そんな程度でも十分だったのだ。

 

 

「……あー……」

 

 

……虚無感。さっきまで心がぐちゃぐちゃだったのが嘘みたい。

もう指の一本すら動かすのが億劫で、ただただ横になって呻くしか出来なかった。

 

 

(……予想、してない訳じゃなかったんだけどなぁ……)

 

 

ほぅ、と何度目かも分からない溜息を吐く。

 

……わたしがコトちゃんに『ひひいろちゃんねる』の事を内緒にしていたり、そもそも彼女がオカルト関係を小馬鹿にするのを喜んでいたのは、こんな風になるのが怖かったからだ。

 

分かっていた。分かっていたのだ。

オカルトが視える視えないとか、『眼』があるとかないとか、そういったものは関係ない。

緋緋色金じゃないただの銅じゃ、白金の輝きに呑まれるかもしれないって。

 

そんなの、分かっていた筈なのに。

だからお正月の時だって、不安だった筈なのに――。

 

 

「あぁぁぁぁもぉぉぉぉ~……!」

 

 

胸の中に新しくモヤモヤが生まれ、また心がぐっちゃぐちゃ。

動くようになった身体でベッドの上をじたばたする。

 

あんな動画、投稿しなきゃ良かった――。

 

……そう思って削除でも出来ればまだ楽なのに、今になってもそんな気になれないのが辛いところだ。

というか、『あんな動画』とすらも思えない。重傷だ。

 

 

「わたしのチャンネルなのにぃ……コトちゃんのじゃないのにぃ……!」

 

 

ちゃんとした動画じゃないのに。

『眼』を使ってないのに。

怖いやつじゃないのに。

構成も編集も力抜いてたのに、あと――。

 

いろんな『のに』が流れては消え、どうしようもない悔しさが沸き上がる。

 

 

「ううぅぅぅぅ~~~……!!」

 

 

枕に顔をうずめて叫んでみるけど、当然スッキリなんてする訳ない。

胸の奥から押し寄せるモヤモヤに際限は無くて、酸欠寸前になるまで叫び続けてようやく一旦収まった。頭が痛くて、きもちわるい。

 

 

「ぜぇはぁ、ひぃふぅ……う?」

 

 

そうして乱れた息を整えていると、スマホに通知が入ってる事に気が付いた。

 

のろのろと拾い上げて見てみれば、コトちゃんから。

どうやら昨日途中で終わった旅行の計画の続きをしたいようだったけど……当然、そんな気持ちになれる筈ない。

 

というか、今コトちゃんとやり取りしたらふとした弾みで酷い言葉を投げかけてしまいそうな気がして、悪いとは思ったけど気付かなかった事にした。

 

 

(……やつあたりとか、ダメだもん……)

 

 

思うものはすごくある。

でもここでコトちゃんを恨んだりするのは、いくら何でもアレすぎるって思った。

 

だって動画を撮ったのはわたしで、投稿したのもわたしで、削除してないのもわたし。

そもそもコトちゃんは動画に出たくないと嫌がっていて、それをお願いしたのもわたし。

 

どこからどう見てもわたしの自業自得で、コトちゃんは何も悪くない。

……というか運動会の動画のせいで色々特定とかされかけてるし、むしろわたしの被害者だ。後で対策しなきゃ……。

 

 

「…………」

 

 

そう、全部わたしが招いた事。

 

わたしはスマホからコトちゃんの通知を消して、『ひひいろちゃんねる』をまた開く。

正直今は見たくも無くて、一度は収まったモヤモヤと悔しさがまた心をぐちゃぐちゃにしていくけれど――だからこそ、一緒に湧き出すものもある。

 

 

「……あきらめない、から」

 

 

ぎゅっと唇を引き締め、わたしの世界の一等賞を奪ったコトちゃんの動画を睨む。

 

悔しさに反応して、いろんなところに火がついたみたいだった。

さっきまでの虚無感なんてもうどこにも無くて、今はもう変な熱が身体を満たしてる。

 

諦めないって、このままじゃ終われないって、心がふつふつと煮立っている――。

 

 

(取り返すんだ。わたしの世界の一等賞を、わたしが、自分で)

 

 

そうだ。取られてしまったのなら、奪い返せばいい。

 

コトちゃんの動画よりも面白い……ちがう、たくさんの人の目を惹ける動画を作って、また一番になる。

くすんだ銅から、白金と同じくらい輝ける緋緋色金になって、正真正銘の一等賞になる。

 

もともと、いつかそうなれるようにっていう願掛けの意味も込めて、コトちゃんとの動画を撮ったのだ。

だったら、ある意味おあつらえ向きの状況になったと言えるかもしれない。

……そう考えれば、ちょっとだけ救われる気がした。

 

 

(じゃあ……やっぱり、すごいオカルトを見つけなきゃ……)

 

 

投稿したオカルト動画の全部が敵わなかった以上、これまで見つけて来たオカルトではやっぱりどこかが地味なのだ。

なら、もっとたくさんの人の興味を煽れる、派手ですごいオカルトをネタにしなければ。

『本物』を武器にし続けるのなら、そうしなきゃいけない。

 

 

(……けど、どこにそんなのが居るんだろう)

 

 

オカルトの居そうな場所はまだ分かるけど、『すごいの』が居そうな場所となると思い浮かばない。

 

これまでいろんなホラースポットを探索したし、昨日だって遊園地を探し回った。

でも、それでダメだったのが今だから……もうその探し方自体がダメなのかも。

 

 

(……なら、あとは)

 

 

口の中だけで呟き、ちらりと手の中のスマホを見る。

 

そうして思い出すのは、昨日にコトちゃんとした会話。

遊園地を歩いている時に、彼女が何気なくした問いかけが蘇る。

 

 

――……一応聞くけど、内緒で危ないとこ行く気とかないよな?

 

 

「…………行き、ます」

 

 

スマホを胸にかき抱き、太腿をすり合わせる。

この時わたしは、自分の意思でいけない事をする覚悟を決めていた。

 



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【わたし】の話(終)

 

 

 

深夜二時。

街の明かりも殆どが消えた、草木も眠る丑三つ時。

 

三月の夜はそんなに寒くはないけれど、どんよりと曇っているせいかどこか湿った匂いが鼻をつく。

いつもは煌々と輝いている筈の星や月も、分厚い夜雲に覆われ今は無く、濃ゆく重たい暗闇が街全体を覆っていた。

 

そんな、ともすれば数歩先すら見失ってしまいそうな暗い昏い街の中を、わたしは恐る恐るのへっぴり腰で進んでいた。

 

 

「……あ、雨ぇー、降りそうだなぁー……」

 

 

あんまりにも心細くて敢えて呟いてみたけど、その声はすぐに暗がりに吸い込まれて、どこに響く事も無く消えて行く。

逆にもっと心細くなって、足の進みが遅くなった。

 

……だけど反対に変な高揚感もあって、胸がドキドキ高鳴っていた。

 

 

――今、わたしは生まれて初めての深夜徘徊の真っ最中。

 

 

昼間にたっぷり眠って眠気を飛ばし、眠るお母さん達にバレないよう、こっそり家を抜け出して。

スマホの小さな光だけを頼りに、とある場所へと向かっている。

 

……目的はもちろん、オカルト探し。

 

わたしは今まで、朝や昼の安全な時間、安全な場所でしかオカルト探しをして来なかった。

だって、子供は夜の六時以降は一人で出歩いちゃダメだし、立ち入り禁止の場所に入るなんてもっての外なんだから。

 

だからこそ、ホラースポット探しにコトちゃんを頼っていた部分もある。

森の中の空き家とか古井戸とか、子供が行ってもギリギリ問題になり難そうな場所をよく教えて貰っていたのだ。

 

――でもきっと、そんなだからダメなんだ。

 

全部が全部じゃないけど、夜になると動きが活発になるオカルトは多い。

特に今日のような雲の分厚い真っ暗な夜だと、いつもより変な気配が増えている……気がする。雰囲気的にはたぶんそう。

 

とにかく、これからすごいオカルトを探すと決めたのなら、そういう深夜の時間帯や廃墟とかに足を運ばないとダメなんだと思う。

炎上は怖いし、お母さんとか学校の先生とか、バレたらきっとものすごく怒られるんだろうけど……胸に燻る悔しさとドキドキが、その不安を限りなく小さなものにさせていた。

 

 

「……わわっ」

 

 

と、そうして街を歩いている途中、慌てて手近な建物の影に身を隠す。

しばらくそのままじっとしていると――やがて通りの向こうから、一台の車が近付いて来た。

 

巡回中のパトカーだ。赤色灯こそ灯っていなかったけど、わたしの『眼』なら遠くからでも視認できる。

幸い、隠れているわたしには気付かなかったらしい。車の姿が完全に見えなくなった事を確かめ、ささっと物陰を抜け出した。

 

……わたしがこうして補導もされずに歩けているのは、間違いなくこの『眼』のおかげだ。

 

何せ、例の視界を広げる機能を使えば、文字通りわたしに死角は存在しない。

パトカーやお巡りさんはもちろん、変質者とか危なそうなオカルトだって、向こうに見つかる前に発見して回避できる。

 

こそこそと隠れ動くには本当にピッタリの力で……コトちゃんのボディーガードだって、必要ない。

 

 

「――……」

 

 

無意識のうち、スマホを握る力が強くなる。

わたしはそれに気付かないまま、小走りでその場を後にした。

 

 

 

その後も人に出くわさないよう気を付けつつ街を進み、十分もかからず目的地に辿り着く。

 

それはもちろん、立ち入り禁止の廃墟――ではなく、行き慣れた自然公園である。

 

本当はコトちゃんとも話した廃墟の遊園地に行ってみたかったけど……やっぱりどうしても、許可や保護者同伴に関して誤魔化せそうになかったのだ。

 

特に今は、コトちゃんの動画の件で特定もされやすくなっている。

この街のどの廃墟に行ったかなんてすぐに分かっちゃうだろうし、その管理者への問い合わせなんてされてしまえば、不法侵入である事が簡単にバレてしまう。

そしたらわたしの学校にも連絡が行って、リアルでも大騒ぎになりかねない。自動的に『ひひいろちゃんねる』も打ち切りだ。

 

……だけどこの自然公園であれば、深夜でも一部のエリアが開放されていて、許可を取る必要もない。

訪れた時間を夜の九時とかっていう事にして、見えないところに保護者が居るとでも言っておけば、きっとバレる事もない……筈。

少なくとも廃墟に行くよりは何倍も安心で、最初の試しに深夜撮影する場所としては手ごろと言えた。

 

 

(……それに、ここにはアレもあるし)

 

 

思い出すのは、六月のあの雨の日。

わたしは改めて周囲を警戒しながら、ゆっくりと自然公園へ足を踏み入れた。

 

鼻先を擽る湿った匂いが、濃くなっている気がした。

 

 

 

 

 

 

深夜の自然公園の中は酷く静まり返っていた。

 

街中以上に灯りが少なく、ほとんど真っ暗。

施設も全て閉められていて、『眼』で周囲を見渡しても、警備員の一人さえ見当たらない。

 

虫の声。そして草葉が風に揺れる音がただ響き、本当に森の中にでも来たかのよう。

昼間の穏やかな景色の面影なんて、まるで残っていなかった。

 

 

「…………っ」

 

 

怖い。

なんか、すごく怖い。

 

街を歩いてた時も結構怖かったけど、近くに民家がある分、そこにちゃんと人が居るって安心感があった。それに、パトカーだって見かけたし。

 

だけどここには周りに自然しか無くて、ホントのホントに一人きり。心細さはさっきと比べ物にならない。

『眼』に限界まで力を込めて周囲に誰も居ない事を確認しても、自然と体が震えてしまう。

 

 

「うぅ……な、な~い、か~な~……い、いない~かな~……」

 

 

とはいえ、いつまでも棒立ちになっている訳にはいかない。

わたしはスマホを録画モードにすると、『いないかなのうた』を口ずさみつつ、そろりそろりと奥へと進む。

 

真っ暗なせいか周囲の景色が記憶にあるものと随分違う気がしたけど、道はスマホの光に照らされていたから、迷う心配はなかった。

 

 

(え、えっと……確か、小屋の近くだったよね……)

 

 

そうして向かうのは、六月にコトちゃんと来た時に雨宿りした小屋の近くだ。

 

あの時わたしは、降りしきる雨の中に変なものを視た。

傘も差さずに地面を見る、コトちゃん曰く『うちの人』。その足元にあった黒い穴。

 

……そしてあの穴の、縁。あれは一体、どういう事なのか。

 

オカルトかどうかも分からない、ただ不気味なだけの光景。でもどうしてか、ふとした拍子に思い出す事が度々あった。

 

 

「…………」

 

 

空を見上げれば、未だに分厚い雲がかかっている。

『眼』で闇の中を覗けば、雲はあの時と同じような濃い色をしていて、きっともう少ししたら雨になるだろう。

 

あの時と、同じように。

 

 

「……あ」

 

 

そうする内、いつの間にか目的の場所に着いていたようだ。

 

休憩用の小屋に、少し離れた場所にある丸い池。

暗いから分かり難かったけど、間違いなく目当ての場所だ。

 

 

(小屋……は、夜だと流石に開いてないよね……)

 

 

小屋の扉をがちゃがちゃと弄るも、鍵がかかっていて入れそうにない。今日は雨宿りは出来なさそう。

わたしは素直に諦め折り畳み傘を取り出すと、そのまま池のほとりへと向かった。

 

あれから思い出す度に何度か調べには来ているため、暗くても『うちの人』が立っていた位置は大体分かる。

今までは、例え雨の日に来ても何も見つけられないままだったけど……雨の夜なら、どうかな。

 

軽く地面を蹴ってみるけど、穴が開いたりとかは無い。

わたしはちょっと離れた位置に立ち、動画用の素材を撮影しながら、雨が降り出すのをただ待った。

 

 

「…………」

 

 

ドキドキする。

 

それは期待からなのか、闇への恐怖からなのか、それとも夜歩きをしている興奮からなのか。たぶん全部かもしれない。

わたしは『眼』での警戒を怠らないまま、震える吐息を細く吐く。と、

 

 

「――!」

 

 

ぽつ、ぽつり。

 

旋毛に冷たいものが当たったかと思えば、それはやがて地面一帯に広がった。

降って来た。わたしは傘を広げつつ、『眼』を皿のようにして周囲の地面を観察する。

 

――あの穴の縁の様子からして、たぶん何も無い所から発生してくるやつだから。

 

 

「…………」

 

 

湿った匂い。

跳ねた雨霧が地面を覆い、薄靄が辺りを包み込む。

 

……穴は、無い。

幾ら待っても現れる事はなく、只々時間だけが過ぎていく。

 

さあさあと降りしきる雨の中。

わたしは傘の下で雨跳ねの音を聞きながら、そこにじっと立ち続けていた。

 

 

 

 

 

 

結局、その場では何も起きなかった。

 

あれから暫く待っても、他の場所を探しても、例の穴はどこにも視えず。

帰りにかかる時間を考えればそれ以上の長居も難しく、泣く泣く引き上げる事となった。

 

未だ止まない雨の中、傘をゆらゆら揺らして園内を引き返し、溜息ひとつ。徒労感に打ちひしがれる。

 

 

(やっぱり、あの『うちの人』が関係してたのかなぁ……)

 

 

一応、彼らが原因という可能性も考えなかった訳ではない。

集まってじっと見てた辺り絶対穴が視えてたんだろうし、幾ら何でも怪しすぎたもんあの人達。

 

とはいえ、わたしはあの人達の顔も分からないし、コトちゃんの反応を思うと今更彼女に問い質すのも憚られる。

現状、『うちの人』についてわたしが出来る事があるかと言うと……。

 

……まぁ、結果として、わたしは今日すごいオカルトを見つける事が出来なかった。

それが今夜の全てである。

 

 

(……でも、夜の探索、結構簡単だったなぁ)

 

 

気を取り直し、傘をしっかり握り直す。

 

家を出る時お母さん達にバレなかったし、パトカーだってちゃんとかわせた。

深夜の街の空気がどんな具合なのか分かったし、夜の暗さにだってちょっとは慣れた。

 

――ひとりで、やれた。

 

 

(だから……今日じゃなくたって、いつか、いつかは――)

 

 

この調子なら、次も、そのまた次もいけそうな気がする。

そしてその時はきっと、今日よりもっと上手く動けるようになっている。

 

慣れていくんだ。だから大丈夫、いつか絶対に見つけられる時が来る。

 

コトちゃんよりずっと再生数を稼げる、すごい動画を作れるネタを――。

 

 

「……あ」

 

 

……と、気持ちを新たにしたその時。

ふと、その存在が頭に浮かんだ。

 

 

(――ネタといえば、あそこにもあったっけ)

 

 

広げた視界に映るのは、少し離れた場所にある広場中央に鎮座する、大きめの噴水池だ。

今は停止しているけど、いつもは高く水を噴き上げていて、綺麗なアーチと水飛沫を作っている憩いの場だった。

 

……六月のあの日、見つけたのは例の穴だけじゃない。

あそこの噴水にも、少しおかしなところを見つけていたのを思い出した。

 

どうしてか雨の波紋を作らない、ぞっとするほど静かな水面の噴水池。

 

あの時は大したものにも思えなくて、写真を一枚撮ってそれっきり。

ずっと穴の方に気を取られていて、存在自体を今の今まで忘れていたけど……。

 

 

(……今は、いいかなぁ)

 

 

よくよく思い出しても、あまりすごいオカルトだとは思えない。

それに早く帰らないと、早起きのお母さんにわたしの不在がバレてしまう。わざわざ立ち寄っている暇は無いのだ。

 

 

(また今度、穴を探しに来た時ついでに行ってみようっと)

 

 

わたしはひとまずそう決めて――最後に一度だけ、噴水の様子を『眼』で確かめた。

 

なんとなく……そう、なんとなくだった。

 

『眼』に力を籠めて視界を広げ、この場所から噴水を覗き込む。

 

本当になんとなくで、出来るからやっただけで、意図なんて何も無くて――

 

 

 

 

 

――その、なんとなくの行動で、わたしは終わった。

 

 

 

 

 

「……?」

 

 

やはり波紋ひとつ立たない凪の水面に、白と赤の何かが映っていた。

 

……最初は人の顔の輪郭にも見えたけど、違う。

酷く歪な丸みを持った白い塊。そうとしか表現出来ないもの。

 

色合い的にコトちゃんみたいなそれは、靄を思わせるように不定形に揺れ動いている。

そしてその柔らかなその表面に浮かぶ八つの赤斑が、わたしをじっと見つめていて、

 

 

――見つめて、いて?

 

 

「――ぁ」

 

 

――こっちを、見てる。

 

気付いた瞬間、全身が総毛立つ。

まるで肌が裂けたと錯覚するくらい強烈な恐怖に、わたしは弾かれるように駆け出した。

 

 

(み、視えない! 視えない視えない視えないっ!!)

 

 

咄嗟に『眼』を閉じたけど、恐怖は消えない。

周囲の警戒とか人に見つからないようにとか、そんな考えは全部頭から消えていた。

気付いたら傘もどこかに投げ捨てていて、びしょ濡れになりながら力の限りただ走る。

 

 

「な、何……? 何が、何、あれ……!?」

 

 

分からない。

正体はもちろん、オカルトなのかそうじゃないのか。そもそも自分が何を見たのか、何でこんなに怖がっているのかさえも。何一つ。

 

だけど分かる。分からないけど、分かるのだ。

 

アレはダメだって。関わっちゃいけないって。

わたしの心が、『眼』が、魂が。全てが危機を訴えている。

 

だからちょっとでも早く、ちょっとでも遠く。ここから離れて、逃げるんだ。

そうしないと、わたし、わたしは――。

 

 

「――っ、うあっ!?」

 

 

ズ、と。

踏みつけた地面が突然深く沈み込み、バランスを崩した。

 

いや、バランスがどうとかそういう問題じゃない。

立っている地面そのものが突然消えたかのように、私の身体が真下に落ちて――。

 

 

「う――ぁぐぅッ!?」

 

 

反射的に腕を出し、目の前を上に過ぎて行こうとした地面へ身体を引っかける。

体重のかかった胸と肩がものすごく痛かったけど、どうにか落ちずには済んだみたい。

 

 

(な、なに……? わたし、何で落ちたの……!?)

 

 

痛みに滲む涙を堪え、わたしはすぐに下を向き――ひっと喉が引き攣った。

 

――穴だ。わたしの足元に、大きな穴が開いている。

 

それはどこまでも真っ暗で、真っ黒で、どこまで深いのか予想すら出来ない。

わたしはその縁に上半身を引っかけて、辛うじて落下を防いでいる状態となっていた。

 

 

(な、何で!? 穴なんて無かったのに……!)

 

 

あわてて身体を引き上げようとするけど、雨で滑って上手くいかない。

穴の中には足を蹴り上げる壁も無くて、上半身だけで頑張るしか道は無かった。

 

……何で、どうしてこんな事に。

周囲は暗いし雨も降っているけれど、流石にこんな大穴を見落とすなんてありえないのに。

わたしはパニックになりながら、必死になって穴の縁に足を乗せようと持ち上げて、

 

 

「――っ」

 

 

――穴の縁が、解けていた。

 

自分でもよく分からないけど、そうとしか言えなかった。

穴の境界がまるで靄に溶けるかのように曖昧で、酷く不自然な状態になっている。

 

無理に例えるとするなら、地面ではなく空間自体に開いた穴――そのようなもの。

 

……見覚えが、見覚えがあった。

だって、わたしはついさっきまでこれを探していたんだから。これこそが、この公園に来た目的だったんだから。

 

そう、これは間違いなく――あの雨の日に『うちの人』の足元に開いていた、よく分からない穴だった。

 

 

「ひぐっ、なんで、なんで今ぁ……!!」

 

 

図らずも目的を果たした形にはなったけど、そんな事を言ってる場合じゃない。

 

こんなどこに繋がっているかも分からない穴に落ちたら、わたしはきっとろくでも無い事になる。

この暗闇の向こうには、今まで避ける事が出来ていた、良くない事が待っている。そんな確信があった。

 

……やだ。

やだ、やだ、やだ、やだやだやだやだやだやだ――。

 

 

「なんでぇ……! 『眼』、閉じたよぉ……! 視えなくなったよぉ……!!」

 

 

穴から出られない。

雨で滑っているからだと思っていたけど、違かった。

 

少しずつ、穴が大きくなっているんだ。

穴の縁が、暗闇が。少しずつ解けて広がって、わたしを吞み込もうとしている。

 

 

「やだ、やだぁぁぁ……! やめて、やめてよぉ……!」

 

 

ずる、ずる。

穴が広がる。胸元にぴったりとつけていた縁がゆっくりと離れはじめ、わたしの身体が下がっていく。

 

必死に足掻いて、遠のいていく地面に縋り付くけど――足首を何かに掴まれ、そこから動けなくなった。

……恐る、恐ると、下を見た。

 

 

「ぁ、う」

 

 

わたしの足首に、白い靄のようなものが巻き付いていた。

 

『眼』を閉じた筈のわたしにも視える、穴の縁の靄と似たような何か。

糸のように細く柔らかいそれが、穴の奥底から伸びている。

 

その闇の中に、赤斑の浮く白が視えた、気がした。

 

 

「……た、たすけて、ください」

 

 

……震え、掠れて、ほとんど吐息のような声だった。

 

 

「おねがい、です。やめ、やめて、ください……」

 

 

穴の縁がさらに広がり、滑り落ちかける。

肩も腕も痛かったけど頑張って、掴む地面に爪を立てた。

 

 

「ゆるし、て……ごめん、なさい。もう、もうしません。ここに、こない、きません、から」

 

 

足首の靄が動いて、わたしの太腿、おしり、お腹って上がって行く。身体を包み込んでいく。

気持ち悪くて、吐きそうになって、涙が溢れて止まらなくなった。

 

 

「もう、わるいこと、しません。ひぐっ、よる、で、であるきません。だから、かえらせて、く、ください……おうち、おかあさんの、ところぉ……!」

 

 

どれだけお願いしても、穴の広がりは止まってくれない。

靄も胸元から首に上がって、遂には顔、目元にまで。

 

――そして品定めをするかのように、わたしの『眼』をなぞり上げた。

 

 

「っやだぁ! たすけてぇ!! おかあさぁん!! おとうさぁん!! コトちゃ――」

 

 

耐え切れずに叫んだ時、靄が口の中に飛び込んだ。

同時に地面に立てた爪が剥がれ、わたしは為す術もなく穴の中に落ちていく――。

 

 

「――ぁ――」

 

 

そこは夜闇よりもずっと昏く、光の一筋すら差し込まない、すごくすごく怖い場所。

 

わたしはたくさんの靄を注ぎ込まれながら、閉じゆく穴の外へと手を伸ばす。

助けてって、出してって。喉も肺も靄で満たされ息すら出来なくなった中で、必死になって叫び続けた。

 

でも当然、そんなのがどこにも届く訳がない。

爪の剥がれた指先はどこにもかからず闇を掻き、ただ血玉を撒き散らすだけ。

 

 

 

……そうして、全てが黒に沈む間際。わたしはその奥深くに潜むそれを視た。

 

 

 

ぼやけ、薄れゆく意識の底にゆらりと浮かぶ、白と八つの赤斑。

 

今ならば、分かる。

ああ、ああ、そうだ、あれは――

 

 

――あれはきっと、くもだった。

 

 



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【私】の話(上)

私はずっと、普通になりたかった。

 

平で凡で並。特別なものなんて何一つ無い、みんなと一緒の横並び。

街角の背景に違和感なく溶け込み、誰の視線を奪う事も無く、誰の記憶にも残らない。そんなどこにでも居るような、普通の女の子になりたかった。

 

……だって、私は何もかもが他の子と違ったから。

 

髪は真っ白、目は真っ赤。肌も病的に白くて、何か全体的に細っこい。

そんな力を込めたらポッキリ折れそうな見かけの癖に、肉体自体はアホみたいに頑丈で、筋力だってそこらの大人の男の数倍は強かった。

 

家庭環境だってまともじゃない。

兄妹とか両親とか、家族っていう存在なんて見た事ない。その代わり、家には『うちの人』って呼んでる意思疎通の出来ないヤツらが沢山居る。

……ここら辺はほんと意味不明だし、どう説明したらいいのかすら分かんないけど、異常な家庭だっていうのは確かだろう。

 

そもそも、付けられた名前の時点で大分おかしいのだ。

 

私の名前――御魂雲(みたまぐも) (こと)なんて。

 

苗字はいい。この御魂橋市って場所と所縁か何かあるんだろうなとか、色々納得できるから。

けど名前の方は何なんだよ。こんなの異物だとか異常だとか、そういうものになれと言っているようなもんじゃないか。実際に名が体を表してんのも腹が立つ。

 

何を考えてこんなバカな名前を付けたんだ。

ノートやプリントの名前欄を埋める時、私は顔も声も知らない実の親を何度も恨んだものだった。

 

……容姿も身体も、生まれも育ちも、おまけに名前だって全部が変。

そんなどこもかしこも普通から遠い私だったから――小さな頃からずっと爪弾きにされていた。

 

最初の内は遠巻きにされるだけだった。

まぁ当然だ。こんな赤目の全身真っ白けに話しかけるのなんて、誰だって躊躇する。

勇気を出して、自分から話しかけに行った事もあったけど……まぁ、結果は言うまでもない。

 

同年代のヤツらも、年の離れた大人も、離れた場所でヒソヒソコソコソするだけ。

この性能の良い耳が聞き取ったそれらはお世辞にも良い内容じゃなかったから、私はそいつらに近づこうとする事を止め、自然と一人で過ごすようになっていた。

 

……だけど成長するにつれ、段々とヤな絡み方をするヤツが増えて来た。

髪の色が変だの、目がキモいだの、すまし顔がムカつくだの。思春期か何か知らんが、とっくの昔に自覚している理由のいちゃもんをつけてくる輩が湧いて来る。

 

いわゆる、イジメというヤツだ。

まぁイヤはイヤだし割と陰湿な事もされたのだが、正直『うちの人』だらけの家で感じる得体のしれない不快感よりは遥かにマシだったので、鬱陶しい以上の感情は湧かなかったけども。

 

とはいえ私も黙ってイジメられてやるほど大人しい性質でもなく、当然のように反撃をした。

髪の毛を引っ張って来るクラスの男子、物を隠してくる他クラスの女子、果ては服を脱いで裸を見せろと命令してきた上級生だろうが関係ない。

そういうクソボケどもとギャースカやり合っている内に色々とあって、私はこんな風になった。ガサツで口汚い、白い山猿の出来上がりである。

 

そしてそうなった自分を客観視した時――私はもう、普通の女の子になる事を諦めた。

 

外見がコレで中身もコレなら、もう何やってもダメだろう。

一応、感性だけは普通だと自分では思っているけど……正直自信はあんま無い。まともな感性を育める環境じゃねーしどう考えても。

 

ともかく、そんな色々があったおかげで、小学校の終わりくらいにはまた遠巻きにされるだけの生活に戻っていた。

……まぁ思う事は多々あったが、平穏になって良かったとだけ割り切った。

 

たぶん、他の人が爪弾きにするこのあり方こそ、私における普通って事なんだろう。

ごく自然にそう思うようにもなっていて、大きくなったら森に住んで、正真正銘の山猿になってやろうかなんて血迷った事を考えたりもしていた。いや六割くらいは冗談だけど。

 

……だから、本当に嬉しかったんだ。

 

 

『と、とまってぇ! わたしぃ! クラスメイトでぇ! 名前、知んないけどぉぉぉ……!』

 

 

中学生になって初日、ぴえぴえと泣きながら私に抱き着いて来た変な女の子。

 

査山(さやま) (あかね)――あかねちゃん。

私と同じく自分の名前が嫌いらしくて、すぐにお互い気が合った。

 

私にとって生まれて初めて出来た大切な友達で……きっと、親友ってヤツ。

あの子と出会えた事で、私はやっと少しだけ普通になれた気がしたのだ。

 

あかねちゃんは私なんかよりずっと可愛くて、優しい子だった。

 

天使の輪っかが鮮やかに浮かんだ黒髪と、カメラのレンズのようなくりくりとした丸い瞳が凄く綺麗。

勉強も運動も得意で、バカな私(頭の出来も普通じゃないって訳である。うるせぇ)はよく彼女に勉強を教わっていた。

 

そして何より――あかねちゃんが居なければ、私はきっと小学校の時と同じく周囲に馴染めないままだっただろう。

 

出会った翌日、彼女が教室で普通に私に話しかけてくれた時。

一緒に楽しくお喋りしたり、くだらない話で笑い合った時。

その度に、また遠巻きになりつつあった周囲の目が少しずつ柔らかくなっていった事を、私はよく覚えている。

 

そうして気が付けばクラスメイトとも普通に雑談するようになり、普通に友達と呼べるようなヤツらもぽつぽつ増えた。

それは昔からは考えられない環境で、いつかなりたかった普通の女の子に、少しだけ近づく事が出来ていた――全部、あかねちゃんのおかげだ。

 

……きっと、あかねちゃんは意識なんてしていなかったんだろう。

でもそれは私が頑張っても無理だった事で、むしろ意識しないままあっさりとそれを成した彼女を、私はこっそり尊敬していた。

 

まぁ……オカルトに傾倒するその趣味だけは正直ちょっとどうかと思うし、理解したくもなかったけれど。

オカルトとか心霊だとか。そういう普通じゃないものを求めるっていうのは、私的にはやっぱりどうにも……。

 

とはいえオカルトを探すあかねちゃんはとてもイキイキとしていて、私としても一緒に遊ぶ口実のようなものだったから、強い否定まではしなかった。

勉強を教えて貰う代わりの付き合い。ホラースポット探しという名目ではあったけど、この街の色々な場所を二人で周ったあの時間は、私も凄く楽しかったのだ。

 

オカルト関係なく遊びに行く日も結構あって、夏休みとかの長い休みの日には、あかねちゃんの家族旅行に混ぜて貰う事も何回かあった。

彼女の家族も良い人達で、嬉しい事にすぐに私を受け入れてくれた。

私にとっては家族でのアレコレなんて縁の無いもんでしか無かったけど……なんとなく、その雰囲気くらいは味わえたような気がする。

 

そんなこんなで、平日も休日も大体一緒。

互いの家に居てもちょこちょこスマホで連絡を取り合ったり、あかねちゃんと離れ離れになった日なんて無いんじゃないかってくらい。

 

 

「…………」

 

 

……そう、ずっと、ずっと一緒だったんだ。

 

あかねちゃんと過ごす日々は本当に楽しくて、それが私の普通になって。

明日も明後日も、その先だって、ずっとそんな日が続いて、一緒に笑っていてくれるって思ってて。

 

根拠もなくそう信じ切っていて、だから、だから――

 

 

――だから、あかねちゃんが居なくなったって分かった時、私の頭の中は真っ白になった。

 

 

 

1

 

 

 

この御魂橋という街には、廃墟となった施設が意外と多かったりする。

 

寂れつつある田舎エリアは当然としても、そこから幾つか橋を渡った郊外エリアや、中心部たる都会エリアまで。

全てのエリアにおいて、一定数以上の朽ちた建物が点在しているのだ。

 

それだけ御魂橋は街の管理が杜撰である……という訳ではない。

 

むしろ逆に他の街より管理に力を入れているようで、街の新陳代謝も活発だ。

道や建物の破損や老朽化はあまり間を置かずに対応されるし、最新の建築技術を使ったビルが建つだとか、空き家が殆どとなった団地を一斉解体するだとか、そういったフットワークの軽さを感じるニュースもそこそこに聞く。

 

……なのに、何故か一切手つかずのまま放置され続けている廃墟や空き家もまた、そこそこにある。

まるで、敢えてその場所に手を加える事を避けているかのように。

 

まぁ、土地の所有者とか権利がどうたらとか、大人のめんどくさいヤツがあるんだろう。

小綺麗な街の中、ぽっかりと浮かぶ寂れた廃墟の姿は少しばかり目立っていて、街中をうろつく最中に自然と目で追ってしまったものだった。

 

特に私は少し前まで休みの度に御魂橋中をウロウロしてた放蕩娘だったから、そういった廃墟のある場所には多少詳しい自信があり――

 

――今現在。私はそれらの施設に片っ端から忍び込んでいた。

 

 

 

 

 

「――おーい!! あかねちゃーん!!」

 

 

解体途中のアトラクションが幾つも放置された、寂れ切った遊園地。

廃墟となり果て、赤錆の混じった埃が舞うその園内に、私の甲高い声が木霊した。

 

 

「居るんなら返事してくれー!! おーい、おいってばー!!」

 

 

小さなショッピングモール程度の広さだけど、人っ子一人見当たらない分、思ったよりも広く感じる。

私は焦燥感のままにそのあちこちを駆けずり回り、アトラクションの中やそこらに打ち捨てられたままの重機、伸び放題となっている雑木林などを目に付く端からから覗き込み、ひたすらに声をかけ続けた。

 

……しかし、そのどれもに人影はなく、耳を澄ませても望んだ返事は聞こえない。

最後に残った建物の中を探してみても空振りに終わり、乱暴な舌打ちをひとつ。

 

 

「くそっ……ここもハズレか……?」

 

 

これだけ探して反応が無いのであれば、ここには何も無いと見て良いだろう。

 

……だがもし、もしも、反応すらできない状態なのだとしたら?

そう考えると腹の底が焦げ付き、私は往生際悪くもう一度だけ周囲の様子を確認し、

 

 

「――こら君! 何やってるんだ!!」

 

「!」

 

 

突然、入り口の方角から怒声が飛んだ。

 

振り返れば警備員らしき男性が慌てた様子でこちらに駆け寄って来るのが見えた。

忍び込む時には見当たらなかったので、別の場所から駆け付けて来たのだろう。

まぁあれだけ大声を出していれば、幾らこっそり忍び込んでいても流石にバレるか。

 

 

(くそ、時間切れか……!)

 

 

当然、私はここに入る許可なんて取ってない。捕まればまず間違いなく面倒な事になるだろう。

私は渋々この場所での捜索を切り上げる事として、大きなフードを深く被り直すと全速力で走り去った。

 

 

「あっ、ちょ、待ちなさ――」

 

 

背後で警備員の呼び止める声が聞こえたが、無視だ無視。

 

あっという間に廃墟の敷地端まで辿り着いた私は、侵入防止の高いフェンスを蜘蛛のように這い登り、頂上から飛び降り難なく脱出。

そして着地した勢いのまま、フェンスの向こうで呆気に取られている警備員を置いて離脱し――。

 

 

「――そうだ、警備員さん!!」

 

 

その間際、彼に向けて大声を張り上げた。

 

 

「っ!? な、なん――」

 

「もしかしたらその中に女の子居るかもしんないから、ちょっと探してくれません!? 私見逃したかもしんないから!!」

 

「は、はぁ?」

 

「とにかくお願いだから頼みます! あと勝手に中入ってすいませんでした!!」

 

 

最後に形だけの謝罪だけを残し、今度こそその場を後にした。

そして走りながらスマホを確認し――何の通知も入っていない事に、舌打ちを鳴らした。

 

 

「ああもう、ホントどこ行っちゃったんだよお、あかねちゃん……!」

 

 

ぐす、とフードの奥に湿った音が小さく響く。

しかし私は顔を上げ、脳裏に浮かぶ次の廃墟のある場所へと全速力で駆けて行った。

 

 

 

――私があかねちゃんの行方不明を知ったのは、つい昨日の事だった。

 

朝方早く。のんきに二度寝を貪っていた私の下に、あかねちゃんママから連絡が入ったのだ。

 

曰く、朝起きたら家にあかねちゃんの姿が無かった。

靴も無く、スマホも繋がらない。もし朝早くに散歩にでも行ったのであれば、私と一緒だったりしないだろうか――そのような事。

 

それを聞いた時、私は特に危機感を覚えなかった。

だって一緒の朝の散歩は、夏休み中にラジオ体操のついでとかでちょいちょい普通に行ってたし、あかねちゃんが一人で行っても全然おかしくないって思ったから。

 

スマホが繋がらないのは少し気になったけど、部屋に置き忘れるか何かしたんだろうって、深く考えなかった。その日の前日も、一日中連絡してくれなかったし……。

ともあれ、結局その時は大した騒ぎにもしなくて、あかねちゃんママも心配性だなって、笑って終わらせてしまったのだ。

 

……空気が変わったのは、それから少し経っての事だ。

 

あかねちゃんは朝ごはんの時間になっても、それどころかお昼になっても帰って来なくて、心配した家族がとうとう警察に通報。捜索を頼んだのだ。

その時には私も何かおかしいって焦っていて、堪らずあかねちゃん家に駆け込んでいたから、色々と捜査協力もした。

 

思い出の場所とか、一緒によく行ってた場所とか、オカルト探しで行った事のある場所とかを片っ端から警察官に吐き出して――その途中、ふと思い出した。

 

それはつい数日前、一緒に遊園地にオカルト探しに行った時の事。

何気ない会話の中、廃墟探索の許可がどうこうって話になって、それで――。

 

 

『一応聞くけど、内緒で危ないとこ行く気とかないよな?』

 

 

――その一幕を振り返った時、嫌な想像が組み上がった。

 

……もしかして、行ったのか?

本当は朝の散歩じゃなくて、もっと早くに……それこそ夜のうちとかに抜け出した?

それで、誰にも内緒でどっかの廃墟とかに……?

 

ただの邪推だ。だってあかねちゃんはあの時、炎上が怖いとか言って否定してたんだから。

……でもあかねちゃん、変な所で大胆な部分あるし――それに現状を加味すれば妙な説得力があるような気がして、いつの間にかそうとしか考えられなくなっていた。

 

もし私の想像が本当だったとしたら、あかねちゃんはどこかの廃墟でケガか何かをして動けなくなっているのかもしれない。

今もまだ帰っていないっていうのは、そういう事だろう。

 

いや、それくらいならまだ良い。

最悪の場合、廃墟を根城にしてるようなヤバい不審者に襲われたって可能性もあるし……ひ、ひょっとしたら、死――。

 

……ダメだ。早く見つけないと、ダメだ……!

 

焦りとも恐怖ともつかない感情が渦巻き、訳が分からなくなって。

気付けば私は、頭に浮かぶ最寄りの廃墟へと駆け出していたのだった。

 

 

 

「――だぁクソッ! またハズレか……!」

 

 

そうして、私はそれから可能性のありそうな廃墟を駆けずり回った。

昨日は深夜近くまで、今日は日の昇るかなり前から、私に出来る限りずっとだ。

 

……だけど、何処を探してもあかねちゃんの姿は無く、空振りばかり。

たった今探し終えた住宅エリア北の廃病院もハズレで、私は苛立ち紛れに足元に転がっていた鉄筋を踏み砕いた。

 

 

(ええと、あと他に行ってないとこは……ええと、ええと……!!)

 

 

必死に考えるけど、この付近にある廃墟は昨日今日とで既にあらかた周っている。

これより他は、バスや電車の使えない夜中に向かうには遠すぎる。それらへ探しに行ったところで、無駄足になる気しかしなかった。

 

そうしてとうとうスマホの衛星マップまで開いて、まだ行ってない付近の廃墟を探し――

 

 

「……っ」

 

 

ぽた、ぽたり。

唐突に、スマホの画面に水滴が落ちた。

 

心配極まり遂に零れた私の涙――ではなく、ただの雨粒だ。

苦々しく空を見上げれば、一面に広がる鉛雲から大きな雨粒達が落ち始めているのが見て取れる。

 

昨日一昨日の悪天候が尾を引いているのだろう。

天気予報じゃ夕方までは降らないっつってたろーがよぉ――そう気象予報士を恨んでいる間にも雨の勢いは増し続け、ざぁざぁと音が鳴るまでになっていく。

 

 

「…………」

 

 

フードを更に深く引き下げたけど、あまり意味は無く。

生地を透過した雨粒が鼻先に落ち、鼻の頭にシワが寄った。

 

 

 

 

 

 

その後、私は一度家に帰る事にした。

あかねちゃんの捜索を諦めた訳じゃない。単に家にある雨具を取りに戻るだけだ。

 

廃病院で雨宿りする事も考えたのだが、いつ止むかも分からないこんな雨じゃ、ただ時間の浪費にしかならないだろう。

かといって濡れ鼠になっての捜索続行も気が進まない。私のこのクソみたいな容姿はびしょ濡れになるとより悪い意味で人の目を惹くようになるらしく、下手すりゃすれ違った心優しき通行人に通報される事も割とある。多くが善意なのは分かるんだけどなぁ……。

 

本当は、近くのコンビニでビニール傘なりカッパなりを調達するのが一番早いんだけど……どうせ、次にどこを探すかもまだ決まっていないのだ。

なら家に戻るまでの時間で、それを考えておきたいっていうのもあった。

 

 

「……ちくしょぉ、何で頭悪いんだよぉ、私はぁ……!」

 

 

……だけども、私のこのクソみたいな頭じゃ上手い具合に案が纏まる訳が無いんだ。

家までのバスの中。スマホとにらめっこであかねちゃんの行きそうな廃墟を考えてみたけれど、これだという場所がさっぱり浮かばない。

むしろ『内緒で廃墟に行った』という前提が間違っていたんじゃないかと思い始め、焦りが更に大きくなる。

 

……やっぱり教えて貰わないとダメだよ、私は。

 

悪足掻きとして、あかねちゃんのスマホに何度目かも分からない連絡をするけど、やっぱり出ない。

濡れたフードの奥で爪を噛み、意味もなくスマホの衛星マップの拡大縮小を繰り返し――そんな事をしている内に、高級住宅街の一角でバスが停まった。

 

 

「…………」

 

 

いい考えが出るまで降りませーん、なんてやってる場合でもなく。

私はすごすごとバスを降り、激しい雨に打たれながらバス停のすぐ近くにあるデカい門を押し開く。

 

成金でイヤミで無駄に広い、これまたクソみたいな大豪邸――私の実家たる御魂雲邸だ。

 

 

「……ぺっ」

 

 

この雨の中長々と歩かされる庭に唾を吐き、辿り着いた玄関を乱暴に蹴り開く。

ドアの蝶番が大きな軋みを上げるけど、知ったこっちゃない。どうせ壊れても翌日には修理されてるんだから、気にする意味も無いんだ。

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

そうして開いた玄関には、二人の人物が立っていた。

 

片や高校生くらいの少女。片や皺の目立つ壮年男性。

年齢も背格好もまるで違う違和感の強い組み合わせだけど、一方で全く同じ表情を湛えている。

 

――それは感情というものを全く感じさせない鉄仮面にして、図々しくもある鉄面皮。

 

彼ら二人の顔には、何の色も浮かんでいない。

揺らぎや乱れの一つすら無く、ただただ無機質な瞳だけが揃って蠢き、冷たい視線をいつまでも私に注ぎ続けていた。

 

 

「……いっつもいっつもキモいんだよ……!」

 

 

沸き上がる彼らへの嫌悪感を隠さず、私は塗れた上着を無造作に脱ぎ、投げつける。

 

すると少女の方がそれを受け止めるけれど、やはりそれ以上の反応は無かった。

その昆虫のような視線に寒さとは別の意味での鳥肌が立ち、私は追い立てられるように自分の部屋へと走るけれど――それであいつらから逃げられる訳じゃない。

 

廊下へのドアを開ければまた無表情の誰かが立っており、階段に向かえばその踊り場にまた別のヤツが立っている。

 

そう、彼らはこの家の至る所に配置されていて、その全員が等しく無表情で私を観察し続けているのである。

 

 

――『うちの人』

私が勝手にそう呼んでいるあいつらは、物心ついた時からずっと私の傍に居た。

 

 

老若男女、年齢も性別もバラバラで、とても私の親やきょうだいだとは思えない。

というか数日続けて同じ顔を見る事自体が滅多になくて、ほぼ毎日の頻度で顔ぶれが入れ替わっている、本当に意味不明な集団だ。

 

ヤツらが一体どういう存在なのか、どうしてこの家に居るのか、そもそも私の実の家族はどこに居るのか――その一切を私は知らない。

彼らはただ、粛々とこの家の管理と私の世話を行い続けている。強いて言えば、家政婦や使用人とかに近いヤツらなのかもしれない。

……実際は御覧の通り、そういったマトモなヤツらじゃないけれど。

 

誰に話しかけても、何を問いかけても。言葉の尽くが無視をされ、返って来るのは冷たい視線と無表情だけ。

黙って私に衣食住を与えて生かし続け、私がキレて暴れたって無反応を貫き、むしろその様さえも観察してくる始末。

 

……一応育てられてはいる訳だけど、私的には飼育されているって感覚だ。

 

存在自体があまりにも不気味で、あまりにも不愉快。

ヤツらを見ているとこっちの頭までおかしくなりそうで――そんなのが蔓延っているこの家自体、私は心底大嫌いだった。

 

 

 

「――くそっ!!」

 

 

ばたん。

逃げ込んだ自室の扉を乱暴に閉じ、大きく息を吐く。

 

流石に私の部屋までには『うちの人』も配置されて居ない。

いや幼少期の頃は居たのだが、全力で抵抗した結果どうにか追い出す事に成功したのだ。

 

嫌悪感の纏わり付くこの家において、この部屋こそが私の唯一の砦だった。

 

 

(はぁ……早くカッパ持って出よ。なんか、いつも以上に気分悪い……)

 

 

私はクローゼットから取り出した適当な上着を羽織り、その上からレインコートを纏う。

 

普通のものよりフードの大きい、工事現場で使うような作業用服だ。

カーキ色の分厚い生地が私の身体をすっぽりと覆い隠し、雨は勿論、周囲の視線からも私を守ってくれるだろう。

それを意識すると、少しだけ肩の力が抜けた気がした。

 

 

「……でも、どこ探す?」

 

 

小さく呟き、改めてスマホを見る。

 

結局の所、次に探すべき場所の見当はまだつかないままなのだ。

どこを探せば、あかねちゃんに近づける。開いた周辺地図を前に、私は目を皿にして細長く唸った。

 

 

(……廃墟だけじゃなくて、空き家とか空き部屋……いや、ビルのテナント入ってないとことか、それっぽいのも見た方が良いか……?)

 

 

それは私のした想像と少しズレる方針だったけど、このままあかねちゃんが行った可能性の低い廃墟を走り回るよりは、まだ可能性はあるように思えた。

 

つーか、今は考え付いた事は何でもやるしかない。

私は一度気合を入れ直すと、地図を動かしあかねちゃん家近くのビルを探して、

 

――通知音。

 

 

「!」

 

 

あかねちゃんママからのメッセージだ。

 

不測の事態に備え、あかねちゃんの家族とはこまめに連絡を取り合っていた。

私は通知をすぐにタップし、その内容を確認する。

 

 

「……っ」

 

 

……残念ながら、発見報告じゃなかったけれど。

それを見た私はどたんばたんと家を飛び出し、再び雨の中へと突っ込んで行った。

 

 

『今、警察の人からうちに連絡がありました。二人がいつも行ってた自然公園で、銅の使ってた折り畳み傘が見つかったそうです――』

 

 

 

 

 

 

私が自然公園に到着した時、園内にはちらほらと人影があった。

 

と言っても、この雨である。散歩客なんて一人も居らず、その殆どが警察官や公園の警備員達のようだった。

見た感じ人数は少なかったけど、あかねちゃん捜索のためにちょっとは動いてはくれているらしい。

 

 

(……あかねちゃん、まだ見つかってはなさそうだな)

 

 

警備員さんがそこらの雑木林を分け入っていたり、警察が職員さんに何か質問していたり、明らかに発見したって雰囲気じゃない。分かっちゃいたけど、肩が下がった。

 

ともかく、私も捜索を始めなければ……ひとまず手近な警察官をつかまえて捜索に協力したいと声をかければ、意外とあっさり話は通った。

どうやら私の存在は、あかねちゃんの関係者として警察の間で周知されていたようだ。

 

危険な事はしないように、と釘を刺されもしたものの……まぁ、今更の話。

生返事もそこそこに、私はあかねちゃんの傘が見つかったという場所に急ぎ向かった。

 

 

――あかねちゃんママからの情報では、昨日の明け方近くに園内を見回っていた職員さんが、道端に落ちていた傘を拾っていたらしい。

 

その時は単なる落とし物として保管されていたようだが、やって来た警察の調べによって、それがあかねちゃんの物であると判明したとの事だった。

 

 

(傘が落ちてたって事は、ここで何かあったって事……だよな)

 

 

そうして訪れた現場近く。

私は深いフードの奥から目を眇め、忙しなく辺りを見回す。

 

あかねちゃんの折り畳み傘は、噴水広場の近くの道に開かれた状態でぶん投げられていたそうだ。

明らかに普通に落とした訳ではなく、何かのアクシデントで手放さざるを得なくなった感じに思えた。

 

……それが風に飛ばされたみたいな事故だったらいいけど――もし、逃げるのに邪魔だから手放した、とかだったら。

 

 

「――ッ! 無事だってぇ……!!」

 

 

不安が溢れ、渦を巻く。

私はそれを振り払うように足を速め、あかねちゃんの痕跡を必死になって探した。

 

 

(つーか、あかねちゃんは何だってこんなとこに……!)

 

 

そうする傍ら、そもそもの疑問を考える。

 

職員さんが傘を見つけたのが明け方近くであるならば、私の予想はある程度正しかったんだろう。

やっぱり彼女は、夜の内に家を抜け出していた。間違っていたのは、廃墟に行ったってとこだけだ。

 

けれど――それでこの自然公園を選んだ理由は?

 

確かにこの公園は深夜も開放されているし、入りやすくはあるだろう。

だけどあかねちゃんがオカルト探しをしていたのなら、ここは選ばないんじゃなかろうか。

そういう話は何も無いって、前来た時に言っていた筈なのに――。

 

 

「…………」

 

 

……その時の事を思い出し、脇道の先の噴水広場に目を向ける。

 

確かあれはあかねちゃんと出会ってまだそんな経ってない頃、去年六月くらいの事だった。

今日の雨より幾らか弱いくらいの雨の日で、私はいつものように勉強を教えて貰う代わりとして付き合わされたのだ。

何だかんだ楽しかった当時の記憶が、まるで昨日の事のように蘇る。

 

 

「――っ……」

 

 

そうして振り返る内、自然と噴水広場に足を運んでいた。

 

大きめの噴水池を中心に石畳が並べられ、所々に蔦の巻き付く石柱の並んだ、どこか異国を思わせる広場。

 

……残念ながら、そこにもあかねちゃんの姿は無い。

植え込みや石柱の裏を覗き込んでも当然彼女は居なくて、苛立ちのままフード奥の髪を掻き毟った。

 

 

「くそ……ほんと、どこに……」

 

 

レインコートにぶつかる雨粒の音が、やけに大きく響いている。

 

……あかねちゃんは、雨に打たれていないだろうか。

あの子が今屋外に居るのかどうかは分からないけど、心配で堪らなくなった。

 

あかねちゃんは私みたいにバカじゃないし、私みたいに頑丈でもない。

身体を冷やせば、まず間違いなく風邪をひいてしまうんだ。

 

だから、早く、早く見つけてあげないといけないのに――なのに、どうして見つからない。

 

 

「……な、ぁ。誰か……、…………」

 

 

無自覚に発しかけていたその求めは、最後まで紡がれる事なく雨に消える。

 

腹の底を掻き毟られている。募り過ぎた焦燥に思考が圧され、鈍くなる。

どうしよう――その一言で頭がいっぱいになった私は、それでもなおあかねちゃんの姿を求め、視線を無作為にふらふら振って、

 

 

「……?」

 

 

……ふと、違和感を覚えた。

 

同時、思考に隙間が生まれ、少しだけ頭が冷えた。

彷徨わせていた視線をそこに留め、じっと見つめる。

 

 

(なんだ……?)

 

 

それは広場中央にある、石造りの噴水池だ。

 

雨の日であるためか噴水機能こそ停まっているけど、見た限りでは今まで慣れ親しんでいた姿そのままで、改修も何もされた様子は無い。

……なのにどうしてか、物凄くおかしなもののように感じてしまう。

 

私は抱いたその違和感が手掛かりになる事を勝手に期待し、その元を探し――やがて気付いた。

 

 

(……水面が、平ら……)

 

 

そうだ。

こんなにも激しい雨だというのに、噴水池に雨の波紋やそれによる波が一つも生まれていなかった。

 

池の縁に手をつき覗き込んでみても同じ。

その水面は降りしきる雨の一切を表さず、ただぞっとする程の静けさを保っている。

 

大量の雨粒が音もなく水底へ吸い込まれていく光景は、不思議であると同時にどこか不気味なものだった。

 

 

(……いや、だから何だよ)

 

 

とはいえ、それが今何の役に立つってんだ。

 

噴水池の水面がおかしいからって、あかねちゃんが見つかる訳じゃない。

そもそも単にそういう噴水の機能なんだろうし、特段気にするもんでもないだろ。

 

勝手に抱いた期待が外れ、勝手に落胆。

私は噴水池を覗き込んだ姿勢のまま、細く長く息を吐く。

 

 

「……はぁ、次だ」

 

 

しかしすぐに気を取り直し、改めてあかねちゃんの捜索に戻ろうとそこから離れ、

 

 

「――ん?」

 

 

寸前。

今まさに目を離そうとした、噴水池。

 

 

――その水面が、いつの間にか真っ黒に染まっていた。

 

 

「……………………あぁ?」

 

 

思わず変な声が出た。

 

……何だ、これ。

慌ててちゃんと向き直り、もう一度池に身を乗り出す。

 

だが、よくよく観察しても何も変わらなかった。

見る角度を変えても、軽くフードから頭を出して見直してみても。

じゃあ上に影になるようなものでもあるのかと空を見ても、広がるのは分厚い雨雲だけで、何も異変は見当たらない。

 

事実として、現実として。さっきまで底が見えるくらい綺麗な透明だった筈の水が、一瞬目を離しかけた隙に黒く濁り切っている――。

 

 

「え、えぇ……?」

 

 

意味が、意味が分からない。

 

手で水を掬い上げれば、水の色は透明に戻る。

泥とか、不純物が混じっている訳じゃなくて、単に水面に黒い色が映し出されているというか、そんな感じのようだった。

 

 

(……仕掛け噴水だったのか、ここ。プロジェクションマッピングとかそういう……こんなとこに? いやでも、この自然公園には来て長いけど、ここにそんな仕掛けあるなんて見た事も聞いた事も――)

 

 

私は軽く混乱しながら噴水池の周囲をぐるぐる周り、黒い水面を更に詳しく観察する。

 

 

「……ん、や、中に何かある……?」

 

 

すると、黒の中に何かが沈んでいるのが見て取れた。

 

私の常人外れの視力でようやく判別がつくような、僅かな色味の違い。

それは噴水池の中に実際にある訳じゃなく、水面に映る黒の中に紛れているようだ。

 

 

(……何だ? 黒くてよく……いや違う。これ、どこか凄く暗い場所を映して――、っ!?)

 

 

その正体を確かめようと目を眇めていると、水面の黒が大きく揺らめいた。

 

……いや、横合いから新しい黒い何かが現れて、水面に映っているものを遮ったんだ。

 

まるで……そう、後ろから誰かが目隠しをしたように。

何故だか、私にはそれが分かった。

 

 

『……、……、……』

 

「……?」

 

 

……同時に、何かが聞こえた気がした。

 

 

『……み、……、……』

 

 

この激しい雨音だ。

聞き間違いと言えばそれまでだけど……ただ、どこか聞き覚えのあるもののような気がして、ゆっくりと周囲を見回した。

 

……何も、無い。

 

 

『……、……、ろ……』

 

 

それはきっと、音じゃなく声だった。

 

誰かがどこかで、何事かをぼそぼそと呟いていて――それに呼応してか、水面の黒が動き始めた。

 

さっき目隠しをした黒い何かが、小さく震えながら、ゆっくりと上方に移動している。

正しい上下が分からないから本当は下方になのかもしれないけど、その時私が立っていた位置からではそうだった。

 

 

『……、え……、……』

 

「…………」

 

 

少しずつ、少しずつ。

目隠しの黒が上がり続け、その向こう側の景色が再び水面に映し出されていく。

 

もっとも、そうなったところで黒以外の何が見える訳でもない。

水面はずっと、黒のまま。そこに変化はありはしない。

 

だけど、どうしてか目が離せないでいる。

 

 

『み……、え……――』

 

 

……変だ。

 

何か、何かおかしい。

今更になってそう思うけど、その時にはもうどうしようもなかった。

 

気付けば息が止まっていた。瞬きを忘れ、目が乾いていた。

 

あれほど煩かった雨音も意識から消え、例の声だけが鼓膜の裏で響いている。

 

掠れ、ざらついた子供の声。血痰混じりの、叫び続けた果ての声。

 

……私はそれを知っている。誰の声なのか、分かる筈だった。

 

だけど、その答えが明確な像を結ぶより先に――それは、成った。

 

 

 

 

 

『――視、、ろ』

 

 

 

 

 

――震える手で、そっと瞼を上げるように。

目隠しの黒が払われ切ったその瞬間、私の両目が血を噴いた。

 

 

 

 

「――ぁ?」

 

 

ぱん、と。

少し遅れて、両目の奥で音がした。

 

目の端から幾筋もの赤黒い涙が流れ、私の白い頬を落ちていく。

 

 

「ぅ? ……、ぁえ……?」

 

 

……何が起きたのか、分からなかった。

 

衝撃で顔を跳ね上げた姿勢のまま、フードの奥に手を入れて。

そうして指先についた血を捏ね合わせ、ただ呆然と立ち竦み――。

 

 

――次の瞬間、粘つくような灼熱が、両目の奥で破裂した。

 

 

「あが――ぃ、っづ、ぅぎぃぁぁぁああああああああああッ!?」

 

 

絶叫。

突然に巻き起こったその熱はすぐに激痛に変わり、私の眼球を貫いた。

 

いや、両目だけじゃない。

熱と痛みはすぐに全身に伝播して、肉も骨も臓器も、何もかもを焼き尽くす。

 

私は堪らず地面に転がって、血が出るほどに爪を突き立て自分の身体を抱きしめた。

 

 

「ああっぁ、あッ、あぐ、ぁ、は、は、んっぎ、はっ、ぁあッ、は、あッ――!!」

 

 

痛い。

熱い。

痛い。熱い。熱い。

熱い、痛い、熱い熱い痛い熱い痛い痛い痛い痛い――!

 

 

全身の血管に、神経に、煮えたぎるマグマを流されたかのようだった。

 

息も、悲鳴も、上手く出来ない。

痛くて、熱くて、頭の先から爪先までどくんどくんと脈打って、その度に激痛で意識が飛ぶ。

なのにすぐまた同じ痛みで起こされて、気絶と覚醒の繰り返しを強制される。

 

 

(なんっ……で、ぇ……なん、で……っ!?)

 

 

疑問が幾度も幾度も脳裏で繰り返されるけど、ただの反射のようなもので、そこに私の思考は無い。

潰された芋虫のようにみっともなく悶え、苦痛を呪い。必死に掴んだ石畳に、吐瀉物と目から零れる血液とが汚らしく撒き散らされた。

 

 

「――……っか、びゅ」

 

 

いつまで、そうしていたのだろう。

突然、頭の中心でぶつりという音がして、全身の感覚が無くなった。

 

激痛も灼熱も一切が断たれ、虚空へと掻き消える。

私は苦痛から解放された事すら理解できないまま、糸の切れた肉人形として転がった。

 

 

「――、――」

 

 

ざぁざぁ。ざぁざぁ。

人の音が無くなったその場所で、ただ雨音だけが響き続ける。

 

冷たい雨粒が地に横たわる私の身体を叩き、跳ねる水煙に溶かしてゆく。

 

もう、何も分からない。感じない。

 

ぼやけた視界が細く窄まり、やがて黒に塗り潰されて――

 

 

 

 

……そうして至った、深く昏い闇の中。

 

私はまた、掠れた誰かの声を聞いた気がした。

 

 

 




視点が戻って折り返し。
もうしばらく過去話が続きますが、のんびりとお付き合い頂けると嬉しいです。


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【私】の話(中①)

2

 

 

 

私は今まで病気の類とは無縁だった。

 

こんな真っ白な髪に真っ赤な目なんてしてる以上、色々と病弱でもおかしくなそうなもんだけど、配色以外に異常らしい異常もなく肉体的にはすこぶる健康。

風邪になんて軽いの一つにもかかった事はないし、流行り病に感染した事もない。精々が傷んだもんを食っておなか壊したくらいだろう。

 

まぁ自分で言いたかないけど、バカは風邪ひかないを地で行っている訳である。うるせぇ。

 

ともかく、そんな頑丈な私だったから――病院の一室で目が覚めた時、自分に何が起こったのか、全く訳が分からなかった。

 

 

 

 

 

「――多大なストレスによる、機能障害……ですかねぇ」

 

「……はぁ」

 

 

病院の診察室。

相対する若い男性医師に言われた事がイマイチ上手く呑み込めず、生返事が落ちた。

 

正直患者としては失礼な態度かなとも思ったけど、しかし当の医師自身もその宣告にあまり納得がいっていないらしかった。

何度も首を捻りながら、私の診察結果らしきパソコンのデータを何やらカチカチやっている。

 

 

「いえ、納得いかないだろうとは承知しているのですが……こちらとしては、そうと言う他がなく……」

 

「えー……や、でも、あの、死にそうってくらい痛くて、身体ん中も熱かったんですけど……?」

 

「ええ、眼球の周囲に血溜まりが見られましたし、自傷行為の痕も確認しています。相当苦しかったとは察せられるんですが……うちの検査では何も異常が出なかったんですよね」

 

 

医師はそう言って、レントゲンやら血液検査やら各種検査の結果をパソコンに表示させる。

まぁ素人の私が見ても何のこっちゃではあるが、彼の説明ではどこもかしこも健康体であるとの事らしい。ほんとかよ。

 

 

「特に眼球周辺は念入りに調べたのですが、少なくとも傷は見られず、血管からの出血も認められませんでした。視力の低下も見られませんし、現状では緊急性は低いのかなと」

 

「じゃあ、あの血って……?」

 

「……うーん……」

 

 

医師は何とも言えない表情で唸り、返答を控えた。

……大丈夫かな、この病院。そんな私の不安が伝わってしまったのか、医師は申し訳なさそうに縮こまると、パソコンのデータに何事かを打ち込み始めた。

 

 

「申し訳ないのですが、中央病院への紹介状をお出ししますので、そちらでより詳しい検査を受けられる事をお勧めします。それで、ちょっと保護者の方と連絡を……」

 

「あー、いや、いいです、そこらへんは。私一人でいけるんで」

 

「……ええと、そういう訳にもいかないんですが」

 

「いけるんで」

 

「えぇ……」

 

 

強引に押し切り、話を打ち切る。

私の保護者周りの話はめんどくさい事にしかならんので、ゴリ押しで流すのが正解なのである。

 

……でも、そうか。一応、異常は何も無かったのか。

実際納得はあんまり出来なかったが、医者にそう言われると多少なりとも安心する。

 

私は少しだけ肩の力を抜きながら、瞼の上を指の腹で軽く撫でる。

皮一枚を隔てた下で眼球が揺り動くけど、あの噴水広場での時のように赤黒い血が流れ出てくる事は無い。

……激痛や灼熱も、とりあえずは無し。

 

これなら、またすぐあかねちゃん探しに戻る事が出来る。

あの苦痛を思い出して込み上げた吐き気をどうにか堪え、私は強く拳を握り締めた。

 

 

 

 

 

 

あの噴水広場で妙な現象に遭遇し、意味不明な激痛と共に血と吐瀉物を撒き散らして気絶した後。

私は自然公園内を周っていた警察官に発見され、近くの病院に担ぎ込まれたらしい。

 

そこで次の日まで昏々と眠り続けた後、ようやく覚醒。

そうして人生初の入院に困惑している内、流されるまま諸々の診察と検査を受けさせられ、やっと解放されたのがそれから更に半日経ったついさっきの事である。

 

合計にして丸一日近く病院に縛り付けられていた訳だ。

目が覚めた時点で身体に異常はなかったため、すぐにでも病院を飛び出したかったのだが……それは流石の私も躊躇せざるを得なかった。

 

事情を知ったあかねちゃんママに安静にしているようお願いされた事もあるが、何より倒れる間際に感じたあの苦痛は、身体の芯にまでこびり付く程に酷いものだったから。

今はもう何ともないとはいえ、あれの詳細が分からないまま放置するのは幾ら何でも怖すぎた。

 

何か、とんでもない難病にかかったんじゃないだろうな――そんな不安と、あかねちゃんを探しに行けないもどかしさとで、病院での時間は非常に落ち着かないものだった。

 

……もっとも、さっき若い男性医師から下された診断からすると、取り越し苦労だった気もしなくもない。

いや、実際にヤバい感じで倒れちゃってる以上、時間の無駄だったとまでは思わんけども……うーむ。

 

 

(……でも身体におかしなとこが無いってんなら、ホント何だったんだ、あの痛いの……)

 

 

とにもかくにも検査診断と全て終え、流れ着いた受付の待合室。

緊急とはいえ一日きりの検査入院という扱いだったためか退院手続きもスムーズに終わり、あとは会計が残るのみ。私は割り振られた番号での呼び出しを待ちながら、鳥肌の浮く腕を擦った。

 

――目から血が噴き出し、身体の内側で激痛と灼熱が跳ね回るあの感覚。

あんなの、私の人生において初めての経験だった。

 

原因の心当たりもまるでなく……いや、アルビノ的なアレソレでの遺伝子的なヤツとかは否定しきれんかもだけど……。

でも今まで何も無かったのに、今更何かしら発症するなんてあんの?

それに、さっきの医師だって何も言ってないし……いやもう一度検査を受けろと紹介状は書いて貰ったが、遺伝子検査を受けろとは一言も――。

 

 

「……だー、しんねー……!」

 

 

分からん。なんも分からん。

 

つーか医者が分からんもんが素人に分かる筈あるかよ。

早々に気を揉むだけ無駄と判断し、思考放棄。問題なく動くんならいいや何でも。

被るフードを深く下げ直しつつ、ぐったりと椅子の背もたれに身体を預け……と、

 

 

「……お? おっと」

 

 

そうして見上げた待合室のモニター。そこにずらっと並ぶ呼び出し番号の中に自分のものを見つけ、慌てて席を立つ。

いつの間にか呼び出されていたらしい。こういうとこも慣れてないから分かんねー。

 

 

(お金足りっかなぁ……)

 

 

不幸中の幸いというべきか、病院に担ぎ込まれた際に財布を落っことす事は無かったので、素寒貧という訳ではない。

というか、こちとら一応金持ちお嬢様だし相当の余裕はあるのだが……検査入院ってどんだけかかるんだろうな。

既に入院用の着替えやら何やらで幾らか残金減ってるし、あんまり過信はしたくない。

 

……最悪、『うちの人』にお金を持って来るよう連絡を入れる事になるかもしれない。

ヤツらは私の言葉には何一つ反応を返さないが、その意味は理解しているようで、生活に関わる必要最低限の頼みは一応聞いてくれるのだ。

 

あいつらに頼るのは癪なんてもんじゃ無いが、イザってなったら背に腹は代えられない。

それを考え渋い顔になりつつ、私は受付へと向かい――

 

 

「っ」

 

 

その時、向かい側からイヤな顔が歩いて来るのが見えた。

 

……それは今まさに考えていた、見たくも無かった無表情。

見知らぬ筈の中年女が、人混みの中から私に冷たい視線を向けていた。

 

 

「……うっげ」

 

 

『うちの人』の一人だろう。

ヤツらは家以外にもこの街のどこにでも居て、ふと気が付けば私に無表情を向けているのだ。ほんと意味不明で、心底気味の悪い集団である。

 

 

(思った途端に遭うとかさぁ……)

 

 

心の中で唾を吐き、そっと壁際に寄って『うちの人』から距離を取る。

 

……さっき連絡を取るかもしれないとは思ったが、その必要があるかどうかまだ分からないんだから、今イヤな思いして接触する必要は無いだろ。

私は誰にともなくそう言い訳しつつ、フードを更に下ろして『うちの人』が立ち去るのを静かに待った。

 

ヤツらは常に私を見てくるが、向こうの方から接触してくる事はまず無い。

どうも街に居るヤツらは私の監視より自分の生活を優先するようで、逃げるか暫く無視していればその内視界から消えるのだ。

 

あかねちゃんと一緒に居る時だったら、彼女に関わらせないよう迷わず逃げを打っていたが、現状においては無視一択。

早くどっか行かねーかなと、俯いたフードの奥で溜息を吐き――直後、その狭い視界に誰かの爪先が入り込む。女物の、靴だった。

 

 

「…………あ?」

 

「…………」

 

 

視線を上げれば、そこにはさっき見かけた無表情が浮いていた。

 

特段これといった特徴の無い、中年女性の『うちの人』。

ずっとずっと、自分からは決して私に近寄って来なかったヤツが、自分の意思で私の目の前にまで来て、じっと向かい合っている――。

 

 

「……え? あ、あれ……?」

 

 

『うちの人』がこれまで絶対にして来なかったその行動に戸惑い、思わず後退る。

しかし『うちの人』はそんな私を気にも留めず、手荷物の中から一枚の紙切れを取り出すと、無言のまま私に差し出した。

 

 

「え、な、何これ……?」

 

 

困惑したまま受け取り目を通せば、それは印刷された領収書のようだった。

そこには結構な金額と私の名前が書いてあり――というかこれ、私の検査入院費用じゃねーか。

ハッとして『うちの人』に目を戻せば、しかし変わらず冷たい視線だけが返った。

 

 

「さ、先に払っといてくれた、って……? いや、何で……つか保険証とか色々こっちあんのに……」

 

「…………」

 

 

だんまりなのは変わんねーのか。

 

感謝よりも気持ち悪さを強く感じた私は、それ以上の会話は無意味と切り上げ、礼も何も無いまま逃げるようにその場を後にした。

 

だいぶ予定とは違ったが、支払いが終わったのならここに長居する理由も無いのだ。

 

 

(何だアイツ、変な動きしやがって……)

 

 

そうして出入口へと歩く中、『うちの人』の方を何度も何度も振り返る。

 

ひょっとしたら追いかけて来るんじゃないかとも思ったけど、中年女はその場から動く様子は無かった。

ただそこに立ったまま、離れて行く私をじっと見つめ続けている。

 

それだけ見ればいつもの様子と変わりなく、何か逆にホッとしてしまった。ムカつく。

 

 

(統率みたいの、あんまし取れてない人だったとか……?)

 

 

私はヤツらを『うちの人』とひとくくりにしているが、当然ながらそれぞれが違う人間だ。

ならば、少しくらいは違う行動をとるヤツも居る……かもしれない。

 

……そういう『うちの人』を見たのは今さっきの中年女が人生初なので、イマイチ納得し難いものはあるけども。

 

 

(……いや、いいや。あいつらに関しちゃ考えるだけ無駄だ)

 

 

元から意味不明なヤツらの間違い探しをした所で、一体何の意味がある。

 

私はヤツらの生態についてそれ以上考えないようにして、病院出口の自動ドアを潜り――

 

 

「…………」

 

「うおわっ!?」

 

 

その先に立っていた別の無表情と出くわし、思わず大きく飛び上がった。

 

また違う『うちの人』だ。今度は髪を金に染めた若い青年で、車の鍵をこちらに掲げている。

そしてその背後の駐車スペースには、一台の乗用車が停まっており……。

 

 

「……は? え? の、乗れって……?」

 

「…………」

 

 

返事は無い。

しかしその言葉を聞いた途端に背後の車に歩き出したので、おそらくそういう事なのだろう。

 

……、……いやどういう事だよ。

さっきの中年女といいこの男といい、『うちの人』の意図がまるで分からん。何で急にいつもと違う事して来るんだこいつら。

 

もしかして私がぶっ倒れたから、配慮か何かしてるつもりなのだろうか。

滅多に体調崩さない私が検査とはいえ入院までしたもんだから、ちょっとは面倒見てやろうとでも思ってたりするのか。

 

……こんな――こんな、私自体をずっと無視したままで?

 

 

「――なぁ、マジでどういうつもりなんだよ、あんたら」

 

 

どうせ無意味と分かっているのに、気付けば口に出していた。

 

 

「結局何がしたいんだよ。さっきの人とかあんたとか、いきなり出て来て訳分かんねーんだけど」

 

「…………」

 

「……あーはいはい。病院のお金払ってくれて、ありがとうございました。私だけじゃ足んなかったかもだし、さっきの人が来てくれて助かりました。……これでいい?」

 

「…………」

 

「…………ええと、じゃあさ。私これから友達探しに行くんだけど、あんたらも幾らか手伝ってくれたりしない? 家に居るヤツらとか、暇な人も多いだろ? な?」

 

「…………」

 

「………………あの、あのさぁ。ハイとかイイエとか、何か一言くらいさ。そっちがそんなんじゃ私、どうしようも――」

 

 

その言葉の最中、金髪の青年が無造作に車のドアを開け、変わらない冷たい瞳でこちらを見る。

 

無言、無反応、無表情――いつも通りこちらの話を一ッッッ切聞く気の無いその振る舞いはいっそ清々しくもあり、私の額にでっかい青筋が刻まれた。

 

 

「――乗る訳ねーだろバーーーーカ!!!」

 

 

沸き上がる苛立ちのまま叫び散らし、持っていた手荷物を全力で投げつける。

私の血と吐瀉物塗れになってしまった衣服とレインコートの入った袋だ。

常人外れの膂力で投げられたそれはまっすぐ直線を描き、金髪の青年の頭に直撃。その身体を大きくよろめかせ、後ろの車体に倒れ込ませた。

 

 

「何したいのかも分かんねーのにわざわざ付き合ってやる暇なんて今の私には無いんだ代わりにそれ持ってって洗濯でもしとけボケ!!」

 

 

最後にそう吐き捨て、それきり青年に目を向ける事無くダッシュでその場を後にした。

 

いつもと違う様子にもしかしたらと思ったけど、やっぱり期待するだけ無駄だった。

まぁ荷物整理に帰る手間を省けただけ良しとしよう。そう思わなきゃやってられんわ。

 

それにさっき言った通り、今は『うちの人』に関わってる暇なんて無いんだ。

私はこれ以上ヤツらに思考を割く事を止め、しかし一方で燻り続けるイライラを宥めながら、とある場所へと足を向けた。

 

それはさっきの医師に紹介して貰った中央病院――ではなく、私が昨日倒れた自然公園。

……あかねちゃんの傘が見つかった場所。

 

 

「……くそ」

 

 

あかねちゃんママからの連絡では、あれから一日経った今もまだあかねちゃんは行方不明のままらしい。

 

体調にはまだ不安は残るけど、これ以上自分なんかに時間かけてらんない。

早く捜索に戻って、一秒でも早くあかねちゃんを見つけなきゃ――。

 

私はぶり返す焦りに追い立てられるように、自然公園への道を急いだのだった。

 



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【私】の話(中②)

 

 

 

駆け付けた公園にはまだ幾人かの警察官が居り、細々と捜索を続けていた。

 

人数は昨日よりも少なくなっていたけど、まだ警察が動いてくれていると分かる光景に、膨らみ続ける焦りがほんの少しだけ小さくなる。

 

……もっとも、手近な警察官に尋ねてみたところ、ここに残っている彼らは既にあかねちゃん本人の捜索より、その痕跡探しに比重を置きつつあるようだった。

 

というのも、この公園はかなり広いし自然も深いが、草木が伸び放題の前人未踏って訳じゃ無い。

様々な施設が揃っている分あちこち整備されており、人の目の届かない場所は狭い範囲に留まっているのだ。

よって人数を揃えての山狩りなどをするまでも無く、あかねちゃんが園内に居ない事は現状ほぼ確信出来ているらしい。

 

……だったら、私はどうすればいいんだ?

 

聞いた限り有力な痕跡もまだ見つかっていないようで、あかねちゃんへの手掛かりは先の傘以外に無い。

これでは探す当てのない状態に逆戻り。園内より公園の周囲一帯を探すべきなんじゃないかとか、やっぱり廃墟や空き家空きビルに目を向けた方が良いんじゃないかとか、無軌道の迷いが再燃する。

 

 

(……いや、でもまだ、警察が見てないとこに居るかも……)

 

 

昨日は本格的に探し回る前に倒れてしまったので、私自身が調べていない場所は山ほどある。

もしかしたら警察が見落としてるかもしれないし、傘以外の手掛かりだってあるかもしれない。

たぶん、他を探しに行くよりはまだ可能性はある筈なんだ――そう、縋り付くしかなかった。

 

それから私は、足取りに滲む迷いを見ないフリして、ひたすらに園内を走り回った。

 

森も、広場も、施設も、湖も、公衆トイレの中だって。

無駄に良い身体能力をフルに使って、それこそ草の根分けてあかねちゃんの姿を探し続けた。

 

……でも、失せ人探しのプロである警察が見つけられないものを、素人の私が早々に見つけ出すなんて出来っこなくて。

結局どこを探してもあかねちゃんは見つからなくて、ただただ時間だけが過ぎて行く。

 

そうして日が沈みかけた頃には目ぼしい場所は殆ど周り切ってしまい、残すは施設のスタッフルームとか警備員の詰め所とか、基本立ち入り禁止の場所だけだ。

警察が痕跡探しにシフトした理由を、これでもかと突きつけられた気がした。

 

 

(やっぱり、別の場所を探すべきだったのかな……)

 

 

捜索の最中、警察官や警備員に出くわす度に捜査の進展があったか尋ねても、返事は芳しくはなく。

むしろ倒れた件を引き合いに家に帰るよう促されたり、徒労感だけが積み重なった。

 

 

「……もう、三日……」

 

 

雲一つない夕焼け空を見上げ、ぽつりと呟く。

 

あかねちゃんが居なくなってから過ぎた時間だ。

これだけの時間が経って、まだ見つかっていなくて……今、あかねちゃんはどうしているんだろう。

 

ケガはしていないだろうか。体調は大丈夫なのか。

お腹は減っていないか。泣いてはいないだろうか――。

 

考えれば考えるほど心配が膨れ上がり……それが最悪の想像へと至る前に、首を振って思考を散らした。

 

 

「…………」

 

 

そうする内に、とある広場に差し掛かる。

昨日私が倒れた、噴水広場だ。

 

ここは昨日既に探した場所だし、正直行く意味は薄いけれど……念のため、軽くでも見ておいた方が良いかもしれない。

昨日の苦痛を思い出して渋い顔を作りつつ、広場に入る。

 

 

「……まぁ、無いわな」

 

 

昨日と同じく探せる場所は探したけど、あかねちゃんの姿もその手掛かりも無し。

別に期待していた訳じゃないのに、やっぱり溜息が漏れた。

 

――で、だ。

 

 

「う……」

 

 

敢えて近寄らないようにしていた噴水池に、恐る恐ると目を向ける。

 

昨日の時は雨だった事もあり噴水機能は停まっていたが、今日は絶賛稼働中。

謎の仕掛けも今は起動していないようで、その水面は美しく透き通っている。

そうして噴き上がる水柱が夕陽に照らされキラキラと輝いていて、昨日の真っ黒具合が嘘のよう。

 

 

「……っ、……」

 

 

びくびくしながら噴水に近づくけれど、昨日と違って痛みも何も起きずホッと一息。

 

まぁ当然だ。昨日の苦痛とこの噴水に因果関係なんてある筈も無いんだから。

そんなの考えるまでも無く分かってる。分かり切ってるのに……どうしてかそう思えない自分も居て、ちょっと混乱してもいる。

 

……ほんと、何だったんだろう。

突然流れた血涙と、血管の中が全部沸騰したような、あの凄まじい痛みと熱さは――。

 

 

(……そういや、あの時なんか聞いた……よな?)

 

 

正直なところ、当時の記憶は苦痛に塗り潰されていて曖昧だ。

倒れる直前に何か音か声を聞いた気はするけど、気のせいだと言われれば否定も出来ない。

 

実際、昨日と同じく噴水の傍に立ち周囲を見回してみるけど、今は何も聞こえなかった。

噴水にスピーカーが付いているという訳でも無さそうで、音の出所も掴めない。

 

……あの時私は、本当に何かを聞いたのか?

 

 

(……分かんない)

 

 

口の中で呟き、噴水池の縁に手をかけ改めて水面を覗き込む。

噴水によって絶え間なく揺らされ、落ちる飛沫が無数の波紋を作り続ける、真っ紅な水面――ただそれだけ。

 

あのぞっとする程の静けさは、どこにも無かった。

 

 

「…………」

 

 

ふと、空を見上げれば。

水面と同じ色をした夕焼けに、薄暗い雲がひとつふたつと浮いていた。

 

 

 

 

 

それから間もなくして、私は自然公園を追い出される事となった。

 

常識的に考えて、警察の居る場所を中学生が遅くまでうろつける訳が無いのだ。

警察官の私を見る目が厳しくなってからもだいぶ粘ったのだが、とうとう直接注意され諦めざるを得なかった。

 

私としても園内の捜索に行き詰まりを覚えていたのは確かではあるので、素直に帰宅する風を装って、そのまま別の場所の捜索に移る事にした。

こういう時に門限や親の事を考えなくていいってのは、私の家庭環境の数少ない良い所だろう。完全に不良だなこりゃ。

 

まぁ相変わらず捜索場所の当ては無いままなのだが、自然公園に傘が落ちていた事を踏まえ、ひとまずは公園近辺を探す事にした。

 

現状は公園の周囲に警察官が若干多くうろついているので、目をつけたのはそこから少し距離を取った、私達の通う中学校近くの街中辺り。

廃墟や空き家が少ないため、私の注目の外にあったエリアだ。

 

……こんな街中に、あかねちゃんは居るのか?

そんな疑問が脳裏を掠めるけど、たぶんどこを探したっておんなじ事を思うのだろう。私は一度頭を振り、フードを深く被り直して街の中へと踏み入った。

 

 

(……くそ、やっぱ人混みはめんどくせーな)

 

 

しかし、それでもなおじろじろ集まる視線が鬱陶しく、舌打ちを鳴らす。

 

人の居ない廃墟や少なめの自然公園と違い、街中の人目はそれなりに多い。

急ごしらえで用意した衣服のためフードが浅い事もあってか、私に目を向けて来るヤツもそこそこ居り、自分の悪目立ち加減を痛感する。

 

 

(つーかそもそも、見回りの警察も居るだろうからあんまり派手には動けないし、どう動くのがいいんだこれ……?)

 

 

冷静になると、そこらへんを何も考えてなかった事に気付く。

 

今までは探す場所を廃墟の中に絞っていたから、街中は単なる移動経路に過ぎなかった。

だがここには目ぼしい廃墟や空き家が少なく、直接街の中を探さなければならない。

あかねちゃんの名前を大声で呼び回る訳にもいかないし、そこらの家に押し入って勝手に探し回る訳にもいかないのだ。

 

 

(警察みたいに聞き込みとか……か? ……いや私に出来んの?)

 

 

通りがかりのビルのガラスに映った真っ白けを眺め、唸る。

こんなんがそこかしこに話しかけに行ったら、人混みの中であかねちゃーんと叫び回るよりも、何か……絶対変な面倒事とか呼び寄せるっていうか何というか――。

 

 

「い、いや、ぐじぐじ言ってる場合じゃねーだろ……!」

 

 

ぱちんと頬を叩き、気を切り替える。

 

そうだ、考え付いた事は何でもやると決めた筈。

なんのかんのと二の足を踏ませようとする躊躇いを振り払い、私は丁度よく目が合った通行人のもとへと踏み出した――。

 

 

 

 

 

 

「ひでー目に遭った……」

 

 

ダメだった。

 

人混みから離れた道の外れ。

私は適当な縁石に腰掛け、ぐったりと息を吐き出した。

 

……いや、最初は上手く聞き込み出来ていたと思うのだ。

 

やった事は道行く人に話しかけ、「この子見ませんでしたか」とスマホに映ったあかねちゃんの写真を見せるだけ。

こっちの意図はシンプルかつ明確だった筈で、実際話しかけた人達だって多くが困惑しつつもキチンと返事をしてくれていた。……その殆どが「知らない」だったのはさておいて。

 

だが、少し夜が更け込み始めた頃あたりから、流れがおかしくなった。

 

話しかける通行人から妙に警戒されるようになったかと思えば、逆にグイグイ来られたり。

中には近づかずとも向こうから話しかけて来るようなヤツも出て来て、思うように聞き込みが進まなくなったのだ。

 

……ハッキリと言ってしまえば、パパがどうだの立ちんぼがなんたらだの、そういうアレが蠢き始める時間帯になっていた訳だ。

 

私もそういった目を向けられるのは(不本意だし納得も出来ねーけど)慣れちゃいるが、直接絡んでくるヤツを軽くあしらえる器用さは無い。

今はあかねちゃん探しで焦っている事もあり、あっという間にイライラが募り――いきなり尻を触って来たロリコン相手にそれが爆発。

一悶着起こして無駄に人目を集めてしまい、慌てて逃げ去る羽目になってしまった。

 

当然、まだあかねちゃんの手掛かりの一つも得られていない。

分かった事と言えば、ああいう場だと私はコスプレでアレするアレに思われるって事だけだ。なんもかんも最悪じゃボケ。

 

 

「あぁぁぁ……どうすりゃいんだよぉ……」

 

 

聞き込みを再開するにしても、また騒ぎになる可能性があるんじゃおちおちやってもいられない。

かといって他にどう探せばいいのかもパッと浮かばず、私はまた途方に暮れた。今日何度目だよ。

 

 

「うぅぅ……」

 

 

そうしてにっちもさっちもいかなくなった私は、もう一度だけあかねちゃんに電話をかけた。

今度こそ出てくれるんじゃないか――そんな希望があったと同時に、街のどこかから着信音が聞こえるかもしれないって思い付いたから。

 

 

(何だっけ、ナントカってグループの、ナントカって曲……)

 

 

……曲名はともかく、その旋律は覚えてんだから別に良いだろ。

私はさっさとスマホを耳に当て、周囲の様子を窺った。

 

そんな都合よく行かないって分かってる。だけど、縋るしかないんだ。

片耳にコール音が響く中、私は他の音を聞き逃すまいと集中し、静かに感覚を研ぎ澄ませ――。

 

 

 

 

 

――そうして、私は生まれて初めて、『それ』を捉えた。

 

 

 

 

 

「…………?」

 

 

少し離れた道の端。

そこにぽつんと佇む一本の朽ち木の裏に、真っ赤な何かが『視えた』。

 

最初は視間違いだと思った。

立ち枯れ、乾き罅割れた木肌が街灯に照らされて浮かんだ陰影か何かだと、そう思ったのだ。

 

でも、すぐに違うって思い知らされた。

 

それは視間違いでも何でも無く、確かな事実としてそこに在り――やがて、くずおれるようにして朽ち木の陰から広がった。

 

 

「は……」

 

 

空白。

頭が『それ』の理解を拒み、思考が止まる。

 

……何だ、あれ。

 

表現が出てこない。

まるで……何だ、真っ赤なクレヨンでぐしゃぐしゃに書きなぐった線の集まり、というか。

硬く流れて、なのに柔らかく蠢き、ずっと渦を巻いている。

 

どう見ても生き物じゃないし、かといって液体とか気体とか、そういう感じもしなくて。

本当に、全く、根っこから意味の分からないもの――。

 

 

「……、……」

 

 

どう反応すればいいのか、心の底から分からなかった。

恐怖は無く、焦燥もせず。ただただ凪の困惑が滲み続け、私の動きを鈍らせる。

 

耳元で鳴る電話のコール音だけが、がらんどうの頭の中を跳ね回っていた。

 

 

「…………」

 

 

その真っ赤なぐしゃぐしゃは、どうやらこちらに近づいているようだった。

 

ずるずると、ずるずると。

地面に零れた水が広がっていくように、少しずつ私のもとへと這い迫る。

 

現実感の無いその光景には不気味さと同時にどこかコミカルさもあって、危機感なんてまるで抱けなかった。

そして取るべき行動も定められないままぼんやり眺め続ける内、真っ赤なぐしゃぐしゃは途中にある街路樹の一本に差し掛かり――。

 

ずるん、と。

奇妙な音を立てて、その中に吸い込まれていった。

 

 

「…………あ?」

 

 

立て続けに起こる意味不明な出来事に呆気に取られていると、真っ赤なぐしゃぐしゃを吸い込んだその街路樹が一際大きな異音を立てた。

 

ぱきん、という、何か乾いた物が割れるような音。

 

いや、実際に割れたのだ。よく見れば、木肌に無数の罅が入っている。

急激に幹が干からび、ささくれ立って。青々としていた枝葉も細まり、地面に落ちた。

 

そうして、新たに朽ち木が一本そこに増え……割れた木肌の内から、さっきの真っ赤なぐしゃぐしゃが溢れ出す。

 

 

「――……」

 

 

気付けば私は腰を浮かせ、ゆっくりと後退っていた。

 

耳元のコール音がやけに煩い。

心臓が嫌な動きをし始め、呼吸が浅くなっていく。

 

真っ赤なぐしゃぐしゃが変わらずこっちに流れて来ている。

右にも左にも逸れる様子は無い。後退ればその分進路を曲げて、明確に私を追っているのがイヤでも分かった。

 

コール音が煩い。

一度電話を切ろうとしたが、どうしてかスマホを握る手が動かない。下がらない。

 

真っ赤なぐしゃぐしゃがさっきよりも近い所に居る。

 

……あれが私の所にまで来たらどうなる?

さっきの朽ち木を見た。つい数分前まで瑞々しい葉を付けていた、それ。

 

 

「――っ……!」

 

 

でも、身体が動かないんだ。

 

ゆっくり後退る以上の事が出来ない。

何で。このままじゃヤバいかもって分かってんのに。

コール音が煩い。

 

息苦しい。視界が細かく揺れている。

コール音が煩い。

変な混乱の仕方をしているのが自分でも分かる。

何で動けない。コール音が。

 

ぐしゃぐしゃはもうすぐそこまで来ているのに。

目の奥が熱い

怖い。

赤。

血管が痛む。

コール音。

私が。

気持ち悪い。

喧しい。

コール音。

コール音。

コール音――が、止まっ、て、

 

 

 

 

 

 

『  』

 

 

 

 

 

 

――耳元でその掠れた囁きが聞こえた瞬間、私は弾かれたように駆け出した。

 

 

「――かはっ! は、ぁっ! はぁ……っ!?」

 

 

いつの間にか息すら止めていたらしい。

私は必死で肺に酸素を取り込みながら、スマホの画面を見る。

 

絶対、声が聞こえた筈だ。

だけど画面は呼び出し中のままとなっていて、コール音も絶えず響き続けているままだった。

 

幻聴? いや、んな訳あるか。

落ち着いて聞こえた声を思い出したいとこだけど、今そんな状況じゃない事くらい分かってる。

 

走りながら背後を見れば――そこには予想通り、真っ赤なぐしゃぐしゃが私を追って流れて来ていた。

 

 

「く、くそっ、くそっ!! 何なんだよ! 何なんだよお前ぇ……っ!!」

 

 

多少まともに頭が回るようになっても、やっぱり答えは出ないまま。

意味不明で理解不能で、その意図も目的も何一つの見当がつかない。

 

……オカルト。

ふとその単語が脳裏をよぎり、しかし即座に握り潰した。

 

 

(正体だのそんなん後だ後! どうすんだこれから!? 振り切れんのか!?)

 

 

見かけによらず、意外と俊敏であるらしい。

真っ赤なぐしゃぐしゃは私の健脚でも引き剥がせず、着かず離れずの距離で流れ続けている。

 

振り切る事は容易ではなく、逆に気を抜けば一瞬で追いつかれてしまうだろう。

 

 

(くそ、電車かバス……いや、乗り込んでる間に追い付かれ――、っ!?)

 

 

考える内、ふと前方に歩いて来る数人の通行人の姿を認め、血の気が引いた。

 

こんなのを引き連れて近寄ったら、今度は彼らがターゲットになるかもしれない。

そうなったら最悪の巻き込み事故だ。気が引けるなんてもんじゃ無く、私は無理矢理に進路変更しつつ通行人達に呼びかけた。

 

 

「あ、あんたら! 早くこっから逃げろ!! これっ、後ろのっ、何かヤバくてっ!!」

 

「……?」

 

 

しかし通行人はそんな私に怪訝そうな目を向けるだけで、誰一人として驚いたり逃げたりする様子は無かった。

こっちを見た以上、真っ赤なぐしゃぐしゃの姿も見えている筈なのに、どうして――。

 

 

――『あはぁ、まぁコトちゃんは視えないもんねぇ、そういうの』

 

 

(――視えて、ない?)

 

 

唐突に。

いつか聞いたあかねちゃんの言葉が思い出され、それを悟った。

 

……嘘だろ?

本当にそういうヤツなのか?

この真っ赤なぐしゃぐしゃは、本当の本当に、そういう――

 

 

「っ!」

 

 

悪寒。

咄嗟に大きく跳ね飛べば、足の下をぐしゃぐしゃが掠めた。

 

 

「――だァから! そういうの後だっつってんだろ!」

 

 

また余計な事を考えた。

 

私は自分自身を叱責し、通行人に近づかないよう横道に入った。

真っ赤なぐしゃぐしゃは当然のように私の方を追って来て、恐怖と安堵を一緒に感じる。

 

……だが、外れとはいえ街の中だ。

都合よく人気の無い場所がある訳もなく、途中他にも幾人かの通行人と出くわした。

 

中には逃げ場の無い細道での遭遇もあったが――どの場合においても、真っ赤なぐしゃぐしゃが彼らを襲う事は無かった。

はじめはその理由が分からなかったけど、何度も繰り返すうちに何となく察する。

 

――視えてないからだ。

きっとアレは、自分の事を視えないヤツには興味が無い。

 

だから視える私だけを追って、視えない通行人はスルーする。

……荒唐無稽で、合ってる保証も無かったが、動きからして間違いである気もまたしなかった。

 

 

(でも、だからって街ん中行くの無理だろ……!)

 

 

これまでの通行人達は全員視えなかったようだから良かったものの、もし視えるヤツが居たらと考えるとぞっとする。

警察を呼ぶのも同じ理由で躊躇して、迷う内に人の居る方向からどんどん離れる事となり、焦りと疲労が重なっていく。

 

私の体力だって無尽蔵って訳じゃない。

このままだと、その内体力が切れて……それで、どうなるんだ?

 

 

(………………、)

 

 

先程の朽ち木が再び頭をよぎる。たぶんきっと、正解だ。

 

ああくそ、どうしたらいいんだマジで。

最近そう思う事ばっかりで、もう、どうすればいいのか、私――

 

 

「!」

 

 

泣き言が零れそうになったその時、また道の先に通行人の影を見た。

 

横道の無い一本道。

もう舌打ちする間すら惜しく、私はなるべく道の端に寄って通行人の横を駆け抜けようとして――ソイツの顔に浮かぶ無表情に気が付いた。

 

――『うちの人』の、一人。昼に病院前で遭った、金髪の青年だった。

 

 

「……っ……!」

 

 

……助かった、だなんて。ヤツら相手に初めて思ったかもしれない。

 

何でここに居るのかなんてどうでもいい。

私は唇を噛んで表情の変化を抑え込み、必死に大声を張り上げた。

 

 

「――車! 車持ってきて! 今度はちゃんと乗るから!! バカって言ってすいませんでした!!」

 

 

真っ赤なぐしゃぐしゃに関しては言わない。

どうせ視えないんだろうし、説明している暇もないのだ。

 

問題は私の言葉を聞くかどうかだが、今はもうコイツに縋るしかない。

私はコンビニ袋を下げる彼の横を通り過ぎざま、適当な合流場所を怒鳴り伝え――。

 

 

「…………」

 

「っ?」

 

 

気付く。

常に私に冷たい視線を送り続けていた無機質な目が、こっちを向いていない。

 

というか意識自体を向けていないようで、すれ違う私の背後をじっと見つめたまま、微動だにせず、

 

 

「……え? ――なっ、おまッ!?」

 

 

それの意味するものをすぐに察し、慌てて足を止めた。

しかしこの健脚の勢いはすぐに殺せず、アスファルトを滑るまま青年と相当な距離が開いていく――。

 

 

(コイツ、視えてんのか……!?)

 

 

ざりざりと減速しながら振り向けば、やはり青年は私に背を向け、道の向こうを見つめている。

 

明らかに真っ赤なぐしゃぐしゃを捉えている。

私よりも優先してそちらの方に意識を向けている以上、そうであるとしか思えなかった。

 

 

「お、おい! 逃げろよ! 視えてんだろ!? そこにいるヤツ!!」

 

「…………」

 

 

必死に叫ぶも、いつも通り反応は無い。

 

さっきの私のように、アレのヤバさが分かっていないんだ。

そう思った私は、足首が嫌な音を立てるのも構わず強引に反転し、青年へと走った。

 

真っ赤なぐしゃぐしゃはもうすぐそこまで迫っている。

なのにピクリとも動こうとしない青年に舌打ちを鳴らし、私はその手を引っ張って、

 

 

「――うぐ」

 

 

だが、その手が触れる寸前、青年が動いた。

 

小さく身を捻り腕を躱すと、代わりに持っていた袋を私の胸に押し付けたのだ。

いつもなら何てことない軽い力だったけど、反転するのに無理したせいか足首が滑り、容易く押し返されて尻もちをつく。

 

 

「っ、何す――」

 

 

そうして、怒りと困惑のまま顔を上げたその時――青年と少しの間目が合った。

 

 

「――――」

 

 

……それはいつもと変わりない冷たい瞳だったけど、ほんの僅かに違う温度を持っていたようにも思えた。

しかしその差異を推し量る前に視線は外され、青年の顔が前を向き、

 

 

――次の瞬間、彼の全てが真っ赤なぐしゃぐしゃに吞まれ、消えた。

 

 

「……ぁ」

 

 

ずるり、ずるり。

ぐしゃぐしゃの中から何かの音が聞こえる。

 

それと同時に徐々にぐしゃぐしゃが消えて行き、やがてその内側から青年の姿が現れた。

……さっきの街路樹のように、ぐしゃぐしゃが彼の身体の中へと吸い込まれたみたいだった。

 

 

「な……なぁ……?」

 

「……、……」

 

 

青年は答えない。

 

見た目には特に異常は無かった。

ただ、酷くぎこちない動きで、ふらふらと私から離れ、

 

 

「ひ」

 

 

――ぱつん。

風船が破裂するような音を立て、その肌に無数の亀裂が走った。

 

街路樹の時と同じだ。

皮を割り、肉を裂き、真っ赤な中身をぱっくりと晒している。

 

そしてその亀裂からは、血の一滴すら流れない。

 

 

「……う、え」

 

 

だというのに、青年の身体は見る見るうちに血色を失っていった。

 

開かれた肌から覗く肉の赤みがくすみ、しぼみ、最後には灰色に干からびていく。

 

……やがて、ぱきんと乾いた音が鳴った。

直後、青年の身体が力なく地面に倒れ込み、それきり全く動かなくなった。

 

大人の男性とは思えない程、軽い衝撃――そこに、血肉の重みは、無く。

 

 

「……お、おい……おい、って……」

 

 

ややあってどうにか我に返った私は、倒れたままの青年に恐る恐ると近づいた。

 

投げ出された腕や足はミイラのように乾き切り、枯れ枝よりも細くなっていた。

うつ伏せだったから顔までは確認できなかったけど、地面に広がる金髪はきしんで真っ白になっていて、胸の上下もしていなくて。

 

一目見るだけで、もうダメだって事がこれ以上無く分かってしまい――。

 

 

「――……」

 

 

……ダメって、何が?

 

咄嗟に気付かない振りをしたけど、それで誤魔化せる訳もなく。

じわじわと、実感として、目の前の光景を現実のものと理解する。

 

 

――どうしようもなく、死んでいる。

 

 

「――ひ、きゃあぁぁぁっ!?」

 

 

死体、それもこんな異常な死に方のものなんて見た事が無く、私はいとも容易くパニックになった。

 

尻もちをついたまま後退り、持ったままのコンビニ袋を強く抱きしめ、情けない悲鳴を張り上げる。

 

 

(何でっ、なん、死、死んで――いや、殺されっ……!?)

 

 

――そうだ、これは殺されたんだ。

 

それを思い出した瞬間――ミイラとなった青年の死体が、また乾いた音を立てた。

 

すると肌に刻まれていた裂け目から、真っ赤なぐしゃぐしゃが溢れ出す。

それは街路樹を朽ち木に変えた時と寸分違わぬ光景で、私はまた引きつった声を上げた。

 

 

(逃げっ……に、逃げなきゃ……!)

 

 

そうして震える足を必死にいなし、この場から逃げ出そうとして……ふと、違和感。

青年の死体から溢れ続けているぐしゃぐしゃが、全く動きを見せていない事に気が付いた。

 

 

「……え……?」

 

 

とろり、とろり。

それはその場に力なく広がるだけで、私を追ってこようとはしない。

 

まるで、ただの血液のよう――そう思っている内に、今度はぐしゃぐしゃが少しずつ黒ずみ、泥のように濁り始めた。

そうして、最後にはただの黒い粘液となり果てて、その中心に青年の死体を浮かべたまま沈黙。

 

……私の震える吐息だけが、いやに大きく周囲に響いた。

 

 

「えっ? え、ぇ……?」

 

 

――何だ? 何が起きた……?

 

戸惑いのまま周囲を見回すも、状況に変わりはない。

私と、死体と、粘液になったぐしゃぐしゃと――それだけだ。

 

 

「……ぁ、え……」

 

 

……何もかも、訳が分からなかった。

 

あのぐしゃぐしゃは何だったのか。

 

『うちの人』の青年は何をしたかったのか。

 

何が起こって彼は死んで、どうしてぐしゃぐしゃは動かなくなったのか。

 

何故、何故、何故――。

 

 

「……ぁ、ああ、違う、違う。くそ。今、今は、早く……!」

 

 

これ以上考え込むと思考が止まる気配を察し、頭を大きく振ってリセットをかけた。

 

そして震える手でスマホを取り出すと、警察へと連絡する。

 

バカな私には現状の事は何も分かりはしないけど、やらなきゃいけない事くらいは分かる。

黒い粘液の中に沈む青年の死体を見やり、込み上げる吐き気を堪えた。

 

 

「ぐ……ぅ、うぅぅぅ……」

 

 

だが、指が震えて上手く110が押し切れない。

 

パニックがまだ収まっていないのだ。

私は何度も深呼吸を繰り返し、ゆっくりと、落ち着いて、長い時間をかけてスマホを操作し、そして、

 

 

「――っ!?」

 

 

……そうして、最後の0を押そうとしたその瞬間。突然、その腕を背後から掴まれた。

 

反射的に振り向けば、そこにあったのはいつも見ている見覚えのない無表情。

男子高校生くらいの『うちの人』が、やはり冷たい視線を向けていた。

 

 

「な……なん、だよ。離せよ……!」

 

「…………」

 

 

いつの間に近づかれていたのか、分からなかった。

 

嫌悪のまま軽く腕を振れば容易くその手は引き剥がせたが、もう一度スマホを押そうとすればまた腕を掴まれる。

それを数回繰り返す内、警察に連絡されたくないのだと察した。

 

 

「……何、考えてんだ? 見りゃ分かんだろ、し、死んでんだぞ、あの人……」

 

「…………」

 

「け、警察呼ばなきダメだろ!? 何で平然としてんだよ、仕事仲間なんじゃないのか!?」

 

「…………」

 

 

こんな状況にあっても、どれだけ言い募っても、やはり反応は無い。

 

ほんと何なんだコイツら……!

いい加減付き合ってられなくなった私は、憤りのままぶん殴ろうとして――ふと青年の死体の方から、足音がした。

 

慌てて振り返れば、また別の『うちの人』が複数人、黒い粘液を踏み越えその死体に近づいている。

 

 

「ちょっ……何してんだあんたら! 勝手にそんな――……、……」

 

 

そうして、彼らを止めようとしたその時、道の向こうから何人もの人間が歩いて来るのが見えた。

 

それは一人二人なんてものじゃなく、纏まった数の集団だ。

その誰も彼もが無表情。無言のままにずらりと並び、私に冷たい視線を注いでいる。

 

……あいつら全員、『うちの人』だ。

その余りの人数と、それが近づいて来る圧に、私も思わずたじろいだ。

 

 

「な……何? こんな数揃えてどうしたってんだ、あんたら……」

 

「…………」

 

「……だから、何か言ってくれよぉ……! 分かんない……もう、もう何も分かんないんだよ、あんたらの事、やってる事、今起きてる事も全部、私、何も――」

 

 

そう呟きを落とす内、数人の『うちの人』により青年の死体が引き上げられ、毛布に包まれどこかに運ばれ始めた

 

いや、それだけじゃない。

地面に広がる粘液も、大勢の『うちの人』が集まり何かの処理を行っている。

 

それこそ、ドラマとかで見る警察のようだった。

黙って見ている内にあの真っ赤なぐしゃぐしゃによる痕跡が次々と片付けられていて、元の寂れた道の光景を取り戻して行く――。

 

 

「――ひっ」

 

 

死体が運ばれて行く最中、かけられていた毛布がズレた。

 

それも運が悪い事に、頭の部分。

干からび、落ちくぼんだ眼窩が私を捉え――思わず漏れてしまった悲鳴に、『うちの人』が一斉に私を見た。

 

 

「…………」

 

 

ヤツらの冷たい視線は、さっきと一切変わっていない。

その筈なのに、どうしてか私を責めるような色を持っているように思えてならず、

 

 

「……あ」

 

 

気付き、そして自覚した。

 

 

(……そう、だ。責められるよ、私……)

 

 

そもそも、真っ赤なぐしゃぐしゃに追われていたのは誰だ。

この道まで逃げて来たのは、死んだ『うちの人』の青年の居る場所まで誘導したのは。

 

……そしてどうして青年が、私を待ち構えるようにこの場所まで来ていたのか――。

 

 

「……っぐ、ぅ……」

 

 

視線が下がり、自然と手に持ったビニール袋が目に入る。

 

死んだ『うちの人』の青年が、最期に私へ押し付けたもの。

震えながら中を覗いてみれば――そこに入っていたのは、昼に私が罵声と共に投げつけた、血と吐瀉物で汚れた衣服とレインコート……だったもの。

 

――キチンと洗濯され、綺麗になった着替え達。

 

 

「あ、あぁ……」

 

 

――代わりにそれ持ってって洗濯でもしとけボケ!!

 

そうだ。そうだよ。

彼はその頼みを聞いたが故に私を探してここに居て、そして当の私に真っ赤なぐしゃぐしゃを擦り付けられ、死んだのだ。

 

……注がれる『うちの人』の視線が酷く恐ろしいものに感じられ、ガタガタと全身が震え出す。

 

 

「…………」

 

「……あ、あの……ごめ、」

 

「…………」

 

「ちが、そんなつもり、なくて……わた、私……」

 

「…………」

 

 

無言、無反応、無表情。

さっきまで苛つきしか感じなかった筈のそれが、今じゃまともに見られない。

 

一歩、二歩。

無意識のうちに後ろに下がり……「っ」そこに居た誰かに、軽く背中をぶつけてしまう。

 

咄嗟に顔を上げれば、それは先程の男子高校生ほどの『うちの人』。

至近距離――真上から注がれるその冷たい視線に、私は堪らず逃げ出した。

 

 

「うぁ、あ、あぁ……!」

 

 

だけど、どこを向いても同じ視線と目が合った。

無機質で、冷たくて、仲間を死に追いやった私を責め立てる無数の瞳に囲まれている。

 

……その時の私は、それに耐え切れなかった。

 

 

「――――!!」

 

 

根元が千切れそうになる程フードを下げて、縺れる足で駆け出した。

 

……きっと私は、自分が思うよりもずっといっぱいいっぱいだった。

あかねちゃん、身体の異変、真っ赤なぐしゃぐしゃ、死体、殺人、『うちの人』――いろんな事が一気に起きて、なのに何もかもが分からずどうしようもなくなって、ただ逃げた。

 

行先も後先も、頭に無くて。

膨らみ続ける恐怖と罪悪感に駆られるままにひた走り、私は夜闇の中へと沈んでいく。

 

 

――どれだけ逃げて、走っても。

 

私の背中に絡みつく冷たい視線は、いつまでもいつまでも、決して離れてはくれなかった。

 

 

 



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【私】の話(中③)

 

3

 

 

 

『何してんだ、オマエ』

 

 

明け方。

朝露に濡れ、濃い緑の匂いに包まれた雑木林。

 

まだ若いクヌギの樹の根元でじっと身体を丸めていた私に、その声はかけられた。

 

 

『ああ、生きてんな。で、どうしたんだ、こんなとこで』

 

「…………」

 

 

返事はしないし、目も向けない。

しかし声の主はまるで気にする様子は無く、年を重ねた男性を思わせる、腹底に響く声で続ける。

 

 

『散歩……じゃあなさそうだな。家出か?』

 

「…………」

 

『それとも何かやらかして逃げて来たか? だったら早いとこ頭下げに戻った方がいいんじゃあないか』

 

「…………」

 

『無視かね。視えてるクセに』

 

 

ほんの僅かに、指先が跳ねた。

 

それに気付いたのか何なのか。声の主は小さく含み笑いのような音を出すと、くるりと私に背を向けた。

ゆらゆら、ゆらゆら。必死に固める視界の端で、広がる翼が小さく揺れる。

 

 

『気を付けなねぇ。こんな非力な小鳥ならともかく、猛獣みたいのが相手なら視ないフリも……いいや、そも視えなくとも意味無いこと、あるから』

 

「…………」

 

『それじゃあな。また遭う時にはちぃとは擦れて、ちゃあんとおハナシしてくれよ』

 

 

――まぁ、それまで猛獣にやられないよう頑張ろうな。お互い。

声の主はまた笑ったような音を出すと、翼をはためかせて私の前から飛び去った。

 

……抜け落ちた小さな羽根が舞い踊り、私の足元に落ちる。

拾わずじっと眺めてみれば、色形からしておそらく雀のものだった。

 

 

「……、……」

 

 

そのまま暫く、無言の時がただ過ぎる。

 

……私が最初から最後まで何も話さなかったのは、声の主を無視していた訳じゃない。

単純に怖くて、意味不明で、身体が動かなかったのだ。

 

だって、そうだろ。

あんな――あんな鳥の形すらしてない雀モドキを相手に、どんなおハナシしろってんだ。

 

 

「……っ……」

 

 

数分か、数十分か。

うっすらとした木漏れ日が私の顔に差し込む頃になって、ようやく肩から力が抜ける。

 

……ほんと、何なんだよ、ああいうの。

強く引き結ぶ唇の下で、カチカチと音が鳴っていた。

 

 

 

 

 

 

私が『うちの人』から逃げ出して、一夜が経った。

 

恐怖と罪悪感で半ば錯乱状態に陥っていた私は、『うちの人』の視線の届かない場所を求め、街中を随分と走り回ったようだった。

 

逃げ出した直後の数十分の間の事はよく覚えておらず、どこをどう走ったのかもハッキリしない。

我に返った時には見覚えの無い路地裏に汗だくで蹲っていて、近くの電柱に書かれていた住所を見てどんだけ遠い所に来たんだと我ながらちょっと引いたくらいだ。

 

……だが、それだけ離れた場所に来ても、背中に感じる冷たい視線は消えなかった。

 

だって、あいつらはどこにだっているんだ。

表通りを歩く人々や民家の中、果ては通り過ぎる車の中からもヤツらの視線を感じる気がして、私は忙しなく周囲の様子を窺い続けた。

ただ怖くて、逃れたくて。あの無表情が無いかどうか、追い立てられるように街のあちこちを見回して、視界の隅々にまで気を配り、目を凝らし、そして、

 

 

――そして、そこでようやく、私は私の世界に『異常』が紛れ込むようになっている事に気が付いた。

 

 

まず視つけたのは、とある自販機の下。

 

突然、背後から沢山の小銭が転がる音を聞いたのだ。

まだ冷静では無かった私は、『うちの人』かと振り返り……そして、それを視つけてしまった。

 

指だ。人間の指。

それも一本二本ではなく、数十数百もの指が集まり虫の脚のように蠢いて、自販機の下で小銭を弄んでいる。

 

……まるで、意味が分からなかった。

そのあまりにも気持ちの悪い光景に、私は少しの間恐怖も罪悪感も忘れて立ち竦み――やがて、そんな私の足元に小銭が一枚転がって来た。

 

何の変哲もない十円玉。

視れば、小銭を弄んでいた自販機下の指の全てが動きを止めていた。

まるで、私がどんな行動をとるのかを待っているかのように。

 

 

(…………)

 

 

――当然、私は一目散に逃げ出した。

あの真っ赤なぐしゃぐしゃと、似た気配を感じたのだ。

 

あの時と違ってすぐに身体も動いてくれたし、自販機下の指も追って来る事は無かったから、逃げ切る事自体は簡単だった。

 

……だけど、それで即座に落ち着ける訳もなく。

真っ赤なぐしゃぐしゃの時と同じくらい混乱した私は、何度も何度も背後を振り返りながら、無駄に長い距離を走り続けた。

 

先の反省や、『うちの人』との件もあり、その足取りは必然的に人気の無い方へ無い方へと寄って行く。

そして人の少ない田舎エリアまで走って、やっと私は一息つけて――でも、そこでもまた『異常』なものを視つけてしまった。

 

道の先に続く街灯の荒い光。その中に一つだけ、光を装った暗闇が混じっていた。

 

……自分でも何を言っているのか分からないけど、そうとしか表現できないものがそこに在り、私がやって来るのを待っている。

どうしてかそれが分かってしまった私は、感じる怖気のままにまた逃げ出した。

 

だけど、そうして逃げた先にも似たようなものが数多くあった。

 

通りがかった道角に立つ、カーブミラーの中。

休耕田となり、雑草が生え放題となっている大きな田んぼの真ん中あたり。

あちこちに流れる川のうち、一番細いものにかかる橋の下――。

 

それらは何の変哲もない風景の中に素知らぬ顔で混じり込み、本当なら誰の目にも留まらないまま、日常の裏に張り付いていた。

 

 

――なのに、何で私は分かるんだ?

 

 

昨日の名残か夜空は曇り、月も隠れてどこもかしこも真っ暗な筈なのに。

私のこの眼はどうしてか、そこに潜む『異常』を憎たらしいほどによく視分けた。

 

そしてそこまで眼にすれば、イヤでも受け入れざるを得なかった。

あれこそが、あの『異常』達こそが――きっと、あかねちゃんが『オカルト』と呼んでいたものなんだって。

 

……本音を言えば信じたくないし、理解も心底したくない。

それでも、絶え間なく私を襲い続けるこの恐怖が、そんな否定の意思を完膚なきまでにすり潰していた。

 

ともかく、そうしてそれらを視つける度、私は少しずつ田舎エリアの道を逸れ、離れていった。

 

『うちの人』の居ない場所へ。オカルトの視えない場所へ。

 

ただそれだけを考えて、ずっとずっと一晩中を走り続け――とうとう限界を迎えたのが、私が今居る雑木林の中だった。

 

 

 

 

 

「…………はぁ」

 

 

ゆっくりと、息を吐く。

 

クヌギの樹に手をつき立ち上がろうと試みるけど、足が震えて上手くいかない。

夜からずっと走り続けてたからって事もあるんだろうけど、それよりも精神的なものが大きい気がした。

 

ついさっきこの雑木林で遭遇した雀モドキ。

そして、ここに来るまでに視てしまった、幾つものオカルト。

アレらの存在に頭の中がぐちゃぐちゃに掻き乱され、それが足にまでキているのだ。

 

 

「……何なんだよぉ、マジでぇ……!」

 

 

立ち上がるのを諦め、再び樹の根元で身体を丸める。

 

どうして、こんな事になったんだろう。

何でいきなりあんなのが視えるようになったんだ。いや、いっそ全部幻覚で、単に私の頭がおかしくなっただけじゃないのか。

いやでも、実際アレで『うちの人』が死んで――ああ、そうだよ、その事どうすんだよ。私のせいであの金髪死ん……。

……で、でも、今は、あの人には悪いけど、今はあかねちゃんが、けど街行ったら『うちの人』も、いや、それどころかオカルトも、つーかこの街どうなってんだよ、あんなのがこんなに、これじゃもう探すどころじゃ、バカ諦めるな、怖い、けど行かなきゃダメで、でもどこ探しゃいいんだ? 当てが無いの変わらんし、てかもう家に帰れない、『うちの人』に合わせる顔が、この年でホームレス、違う、んな事よりあかねちゃんが、だけど実際もうどうすりゃ――

 

 

「う、ぁ、うぐ、うぅぅぅぅぅぅぅ……」

 

 

――もう、もう無理だよ。私の許容量を超えている。

 

頭の中がぐるぐる空転し、着地点を見せない。何もかもが訳分からんし意味分からんし信じられんしどうにもならん。

もう何も考えたくない。全部全部投げ出して、このままずっと蹲ったままでいたかった。

 

 

「……く、ぅ」

 

 

……でも、それが出来ないって事も分かってる。

 

今の私が逃げられるものなんて、何一つ無いんだ。

『うちの人』やあかねちゃんの事は当然として、オカルトだってきっとそう。

 

今さっき遭った雀モドキで思い知らされたばかりだ。

どんな辺鄙な場所に隠れたって、見ないフリしたって、アレらは何も気にせず私へと近づいて来る。

私の意思なんて関係ないんだ。アレらはもうとっくに、私の世界の中に居る――。

 

 

「ぅ、ぅぅ……ぁ、あかねちゃぁん……」

 

 

自分でもビックリするほど弱々しい縋り声が零れた。

 

……思えば、全部本当だったのだろうか。

視えるとか視えないとか、霊感アピールとか、あの心霊写真とかだって、私が信じてなかったそういうの、全部。

 

だってオカルトが実在するなら、あかねちゃんのそれだって実在するんじゃないのか……?

 

勿論、まだ信じられない気持ちはある。

けれど、そういった話を今までみたいに鼻で笑って切り捨てるなんて、私にはもう出来なかった。

 

むしろ、こんな事になるんだったら、彼女の言葉にちゃんと耳を傾けておけば良かった――なんて掌返して後悔している自分も居て、その浅ましさに唾を吐く。

 

 

「……こんな、だったの? あかねちゃんの、景色……」

 

 

彼女の視ていた世界も、今の私が視ているものと同じだったのかな。

真っ赤なぐしゃぐしゃとか、あの雀モドキとか。危険だったり意味分かんないものが蠢く世界を、ずっとずっと生きていたのだろうか。

 

もしそうだったとしたら――やっぱり私に『オカルト好きのあかねちゃん』を理解するのは無理そうだった。

 

 

(……あんなのが好きとか、視えてて普通に過ごすとか、普通に無理だって。襲われて、逃げなきゃで……ひ、人も殺すようなの、どうしてたんだよ……?)

 

 

あの『異常』達を眼にしながら毎日を平然と過ごし、あまつさえ飛び付いていたあかねちゃんは、どれだけタフな物好きだったんだろう。

オカルト相手に一体どのように立ち回ればあんな自然に振舞えるのか、まるで想像がつかなかった。

 

特に、昨日の真っ赤なぐしゃぐしゃみたいな追っかけて来るタイプとか、どうやって対処していたんだ。それも、いつも傍に居た私に何も悟らせずに。

本当は視えてなかったとかじゃなきゃ、回避も何も不可能だろ……と、あかねちゃんの霊感(自称)を再び疑い始め……。

 

 

「――ん?」

 

 

そこで、妙な引っ掛かりを覚えた。

 

……なんというか、間違い探しで一番簡単な間違いを見落とした感じ、みたいな。

そんな所在不明の違和感が突然に沸き上がり、私の思考に根を張った。

 

 

(……何? 何だこの、変な…………)

 

 

しかし肉体的にも精神的にもヘトヘトな今、私の頭もいつもの数倍すっからかんになっている。

当然すぐに思い当たる訳もなく、じっと地面を眺めながら、錆ついた歯車のように軋む思考をゆっくり回し、

 

 

「――……あっ!?」

 

 

ガチン。

頭の中で、歯車の噛み合う音がした。

 

 

(そうだ、そうじゃん……こんなのが実在して、私がこうなったってんなら、あかねちゃん居なくなったの、これ――)

 

 

……私はこれまで、あかねちゃんの失踪を常識の範疇で考えていた。

ケガをして動けないとか、変質者に襲われたとか……監禁とか、そういった理由で帰って来られなくなってるんだと思っていた。

 

でも――その当たり前の考えこそが、的外れだったんじゃないか?

 

本当はそんな現実的な理由じゃなくて……そこからずっと離れた理由で……。

つい昨日まで鼻で笑って切り捨てて、一切の検討すらしていなかった、バカみたいな可能性――。

 

 

「――オカルトの、せい?」

 

 

……言葉にすれば、あまりの陳腐さに顔を覆いそうになる。

だけど昨日の夜を越えた今の私には、それがこれ以上無く筋の通った真実に思えてならなくて。

 

自覚する。私の視点には、オカルトの実在というアホみたいな前提が致命的なまでに欠けていた。

 

 

(だって、そうだよ。あかねちゃんが夜中に家を抜け出したのは、きっとオカルト探しをするためだろ。なら――実際に遭ったんだよ。自然公園で、何かに)

 

 

それが、真っ赤なぐしゃぐしゃのようなヤバいのだったとしたら。

追いかけられて、傘を捨てて逃げて、だから自然公園に居なくて、それで、

 

――干からびた『うちの人』の死体が脳裏をよぎり、強く頭を振った。

 

 

(違う……! きっと無事で、逃げ続けて、どっかに隠れてるんだ。あかねちゃん、私の何倍もオカルトに詳しいし……そう、霊感だってあるから、ヤバいのへの立ち回りだって慣れてる筈で。もしかしたら、前得意げに話してた……何だっけ、異界? とか裏側? とかそんなとこに居るかもで、だから今だって絶対平気。そうに決まってる……!)

 

 

……さっきその霊感(自称)を疑ったばっかりなのに、もう縋るのかよ。

心のどこかでそんな自嘲が聞こえ――同時に、変な悪徳宗教とかにハマる人達の気持ちを少しだけ理解した。

 

自分じゃどうにも出来ない、答えの出ない問題の解答欄を、オカルトという万能トンデモワードで埋めていくのは凄く楽で、爽快感すら伴った。

今だってそうだ。オカルトに縋って信じるあかねちゃんの無事は、オカルトを否定していた頃のそれよりよっぽど強く響いている。

 

根拠もないのに安堵ばかりが湧き出していて……それに流されたらダメになるんだろうなと、うっすら察した。

 

 

(と、とにかく、自然公園に行ったあかねちゃんが何かに遭ったとして……それは何だ? それさえ分かれば、あかねちゃんの居場所だって――……、っ!)

 

 

ハッと、例の噴水池を思い出す。

 

そうだ、あそこで私が体験した事は、今思えばオカルトとしか言いようのないものだった。

未だ身体にこびり付く激痛と灼熱が蘇り、堪らず口元を抑えた。

 

 

(うぇ……い、いやでも、あん時のがオカルトだったとして……それで居なくなるって事にはならない、よな……?)

 

 

もし私と同じ事があかねちゃんの身にも起こったのであれば、きっと即日発見されている筈だ。

私と同じく血と吐瀉物に塗れ、病院に運び込まれ、そしてあかねちゃんママにこっぴどく怒られて、今頃は外出禁止を言い渡されて自宅に軟禁されていた事だろう。

 

……そっちの方が、良かったなぁ。

 

 

(それに、傘が落ちてたのはあの広場近くの道って話だし……たぶん、噴水のヤツじゃない)

 

 

じゃあ……他に何かが居たっていうのか?

 

空を睨んで当時の記憶を思い出してみたものの、他にオカルトを視た記憶はない。

過去にあかねちゃんが自然公園のオカルトについて何か語っていなかったかを振り返っても、該当はナシ。というか真面目に聞いていなかったせいでよく覚えていない。クソがよ。

 

そうして、また後悔に苛まれそうになった時――やっとこさ絞り出された記憶があった。

……正直、今は振り返りたくない記憶だったけれど。そんな場合じゃないと我慢した。

 

 

(……去年の夏休み前だっけ。あかねちゃんと一緒にあそこに行って――で、アレに出くわして……)

 

 

アレとは勿論、『うちの人』の事である。

 

とある雨の日、いつものようにあかねちゃんのオカルト探しに付き合って、小屋で休憩していた時にばったりヤツらとかち合った。

そして私の大事な友達をあんなのに関わらせたくなくて、急いで逃げ帰ったのだ。

 

小屋であかねちゃんと過ごした時間があんまりにも心地よかったから、それとの落差をよく覚えている。

 

 

「…………」

 

 

……そう、覚えているんだ。

 

あの時、ヤツらは八人ほどで集まって、池のほとりの一部分を囲んで見下ろしていた。

雨が降ってたし、小屋の中に居た私と距離が遠かったから見難かったけど、そこには変わったものは何も無かったと思う。

 

――少なくとも、その時の私の眼には何も映っていなかった……筈で……。

 

 

「……、……」

 

 

自然、眉間にシワが寄り。

それに伴い、昨夜の出来事も蘇る。

 

……あの時死んでしまった『うちの人』の青年は、間違いなく真っ赤なぐしゃぐしゃが視えていた。

でなきゃ、あんな行動はしないだろう。

 

いや、それだけじゃない。その後に来た『うちの人』は皆、彼の死に何ひとつ取り乱していなかったように見えた。

いつもの無表情のまま、死体の処理や周囲の跡片付けを黙々と行っていた。

 

まるで――それが自分達の仕事なのだと言うかのように。

 

 

(……知ってたって? オカルトの存在とか、そういうの……)

 

 

あの時は考える余裕も無かったけど、改めて振り返ってみるとそうとしか思えない。

明らかに全員オカルトの情報が共有されていて、ああいった場合に対するマニュアルか何かがあったんじゃないかと穿ってしまう、そんな光景だった。

 

……あの金髪の青年も、それを知っていたのだろうか。

 

 

「…………」

 

 

ゆっくりと腰の裏側を見下ろせば、そこには青年に渡されたコンビニ袋がくしゃくしゃになって丸まっている。

結局、昨夜からずっと持ったままだった洗濯済みの衣服達――それを見る度、彼の落ち窪んだ眼窩がフラッシュバックし、胃の底がせり上がってくる。

 

そうして呻き声にも似た細い息を吐き出しながら、私は地に額がつくほどもっと深く身を丸め、

 

 

「……く、そ……でもぉ……!」

 

 

だけど、堪えて。唇を噛んで頭を持ち上げる。

……そう、今の私の考えが正しければ、罪悪感に潰されそうになっている場合じゃない。

 

だって、もし、もしもだ。

 

私にとっては気持ち悪いだけだった『うちの人』が、オカルトに関して何らかの知識を持っている集団なのであれば。

あまつさえオカルトを視認できる人間が多く居て、何かしらの後処理までしているような、そんなヤツらであるのなら――。

 

 

(――あの雨の日の公園で、あいつら何を視てたんだ?)

 

 

何も無い池のほとりを大勢で囲んで、地面を見下ろしていたアイツら。

 

ひょっとしたら、単に私が視えなかっただけで、本当はあそこに何かが居たんじゃないか。

あの噴水池のものとも違う、ヤツらがぞろぞろ集まらなきゃいけないようなのが、あそこに。

 

――あの時、あかねちゃんもそれを視てた、よな?

 

 

「……………………」

 

 

憶測だ。

それも、突飛な妄想と言われても否定できないようなヤツ。

 

だけど現実自体が既に突飛な事になってんだから、あり得ないって否定もまた出来る筈が無くて。

 

――手掛かりを、捉えた気がした。

 

 

「……ああぁぁぁ、もおぉぉぉ……っ!」

 

 

もう一度足に力を込め、どうにかこうにか立ち上がる。

今度は上手くいった。少し体力が回復したのか、それとも根性が入ったのか。まぁ動けるのなら、どっちでも良い。

 

 

――私はこれから、『うちの人』に公園のオカルトについて聞き出しに行く。

 

 

……本当にあそこにオカルトが居たのかは分からないし、居たとしてもそれがあかねちゃんに繋がる保証もない。

そもそもアイツらがまともに喋ってくれるかどうか。詰問した所で何も反応してくれず、ただただ無言でいるさまが目に浮かぶよう。

 

でも、だからって見ないフリなんてしてられない。

 

 

(――少しでも可能性あるなら、やるんだっつーの……!)

 

 

そう、どんな事でも、考え付いた事は何だってやるって決めたのだ。

 

……罪悪感はまだ重たいし、合わせる顔も見つからないまま。

自分から会いに行くのは本当にイヤで、怖いけど――それでも、向き合わなくちゃいけない。

 

――だって、あかねちゃんは、まだ居ないままなんだから。

 

 

(……金髪の人の事、まず土下座して謝ろう。謝り倒して、拝み倒して、そうしてオカルトの事何とかして聞いて……それでもやっぱり無視されたままだったら、もう、アレだ。全員ぶん殴って、蹴り倒して、無理矢理にでも喋らせる……!!)

 

 

それが謝る奴のする事か?

 

僅かに浮かんだそんな疑問を投げ飛ばし、自棄っぱちになってそう決めて。

私は着替えの入るコンビニ袋を乱暴に拾い上げると、木々に手をつき歩き始めた。

 

 

 

 

 

 

私は本当に遠い所まで逃げ続けていたらしい。

 

えっちらおっちら雑木林から抜けた先で見た地名は田舎エリアの端の方で、殆ど森林エリアに片足を突っ込んでいる場所だ。

徹夜でこんなとこまで走り続けてたなら、そりゃ足もガクガクになるわ。まだ上手く力の入らん膝をぽかりと叩く。

 

 

(流石に帰りもとかやってらんないよ。どうする、タクシーとか呼んでみるか、それとも……い、いっそ『うちの人』に――……、お?)

 

 

そうして取り出したスマホを睨んでいると、目の前に長く続く田舎道の先に小さくバス停の姿が見えた。

少し傾き錆ついた何ともボロ……味わいのある感じだったけど、近くの雑草は最低限の整備がされており、まだ生きたバス停である事が窺えた。

 

 

「……あー」

 

 

チラリとスマホと見比べて、そそくさとバス停の方に駆け寄った。

時刻表を見てみれば、およそあと十分弱もすれば一時間に一本のバスが来るらしい。私はスマホをポケットの中に突っ込んだ。

 

 

(……とりあえず、街ん中行ければいいでしょ。その内何人か見つかる)

 

 

『うちの人』は本当にどこにでも居て、そこらの人々の中に紛れ込んでいる。

人の多い場所に行けば、自動的に見つけられるだろう。

 

もしかしたら、これから来るバスの中にも居るかもしれない――と、思った瞬間腹底が重くなり、私はぐったりとしゃがみ込む。キッツイ。

 

 

(……バス停、かぁ)

 

 

そんな憂鬱な気分から逃げるという訳じゃないけれど。

溜息を連発しつつ時刻表を眺めている内、自然とあかねちゃんとの出会いを思い出す。

 

街中のバス停で待っていたら、突然引っ張られたり泣きつかれたり。今振り返っても大分へんてこな出会い方だった。

 

だけど私にとっては、ずっと心に残っている素晴らしい思い出のひとつだ。

その記憶に浸っていると、心があったかくなってくる。同時に、沈んでいた気持ちが少しずつ上向き始め……、

 

 

「――……」

 

 

その最中、ふと思う。

 

あの時のあかねちゃんの様子は、あからさまに変なものだった。

その事について深く考えた事は無い。私を前に挙動不審になるヤツなんて珍しくも無かったし、あかねちゃん本人も緊張してただけと言っていたから。

 

……でも、今改めて考えてみると。

オカルトの前提が差し込まれた今の視点で考えると――あかねちゃんの行動の見え方も、少し変わってしまう、ような。

 

 

(……怖がってた、気がすんだよな……)

 

 

私が腕を引っ張るあかねちゃんごとバスに乗り込もうとした時、彼女はどうして泣き出したのだろう。

今まで私は、私とお喋りしたくて必死になってくれてたからと思い上がった解釈をしていたけど……それにしては、変な風に怯えていたような気がしなくもない。

 

……何を、視て?

 

 

「……………………」

 

 

その時、遠くから車の音が聞こえた。

 

視線を向ければ、遠くの方から近づいて来る古い外観のバスが見えた。

これから私が乗る予定のバスだろう。じっと眺めている内にバス停の横に停まり、空気の抜けるような音を立ててその扉が開かれた。

 

 

「……、……」

 

 

ゆっくりと立ち上がり、バスの中を見る。

 

何の変哲もない、よくあるバスの内装だ。

少し急な段差の先に乗車券の機械と精算機があり、その奥にある運転席から運転手のおじさんが私の方へ顔を傾けている。

 

場所が場所だからか、乗客も二人ほどしか居ない。

探している無表情も見当たらず、複雑な気持ちで息を吐き……ふとした窓越し、後方座席に座るゴツイ丸眼鏡をした青年と目が合って、なんとなくフードを深くした。

 

 

「……あのう、乗らないんで?」

 

「あ……乗り……ます。すんません」

 

 

そうして観察していると、怪訝な顔をした運転手にそう急かされた。

私は軽く頭を下げ「…………」一呼吸の間を置き、タラップに足を乗せた。

 

背後でまた空気の抜ける音がして、軋みと共に扉が閉まる。

 

……どうしてだろう。

問題は無い筈なのに。視える範囲に『異常』は何も無い筈なのに。

 

私を引き留めるあかねちゃんの声が、鼓膜の裏にいつまでも残り続けていた。

 

 

 



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【私】の話(中④)

 

 

 

年季の入った見た目に反して、バスとしての乗り心地はそれなりに良いものだった。

 

車内に目だった汚れは見当たらず、座席のクッションもヘタってない。

壁を伝うエンジンの振動が多少激しくあったけど、苛立つ程でも無し。私はバスの窓際に敷かれた長座席の一角に腰掛け、ぼんやりとその振動に身を任せていた。

 

 

「…………」

 

 

正面向こうの窓から外を見れば、流れていくのは緑ばかり。

乗車してから結構な時間が経っているのに、未だビルの一つも見えてこない。次の停留所を確認しても街の中にはまだ遠く、思わずフードの奥であくびが漏れた。

 

 

(あー……くそ、すんごい眠い……)

 

 

昨夜から一睡もせず走り回っていた疲れがモロに出ている。

座席に座って一度気が緩んでしまった事もあり、ともすれば意識を持っていかれそうだ。

 

……まぁ、どうせ移動中は何も出来ない。

なら、これからのために少しでも眠っておいた方が良いんだろうけど――それもどうにも気が進まなかった。

 

こんな状況で寝こけているのも気が咎めるというのもある。でも、それとは別に、もうひとつ。

 

 

「…………」

 

(……見られてんだよなぁ)

 

 

私から見て、左方向。

バスの後部座席に座っている男性が、じっと私を見つめていた。

 

骨董品のようなゴツイ丸眼鏡がよく目立つ、なんだかやたらと神経質そうな雰囲気の青年だ。

 

このバスに乗り込む時に目が合ってから、ずっと彼の視線が離れてくれない。

私もジロジロ眺められるのには慣れちゃいるが、こうまで見られちゃ流石におちおち気も抜けなかった。

 

 

(寝てる間に変な事……みたいな雰囲気じゃないけど、ヤな感じだな。なんか)

 

 

どうも探られているというか、値踏みされているというか、そんな感じだ。

ねっとりとしたアレな視線や、『うちの人』が向けて来る冷たい視線よりはだいぶマシだけど、あんまり気分のいいもんではなかった。

 

 

(会った事とかも無い、よな? あんな眼鏡、一回見たら忘れないと思うし……)

 

 

フードを軽く引っ張り目線を隠しつつ、こっちからもこっそりと盗み見返してやる。

 

そうして改めて観察してみた感じ、二十台前半から半ばくらいだろうか。

あまり身長は高くなく、体つきもどこかひょろっこい。それなりに整っている顔立ちもどちらかと言えば童顔気味で、ぱっと見高校生くらいに見えなくも無い。

 

しかしその眉間にくっきり刻まれた深いシワの跡と、重ねた苦労と性格の悪さとを匂わせる擦れ切った目つきが、彼の纏う空気に幾らかの年かさを与えていた。

あの骨董品みたいなゴツ眼鏡が馴染んで見えるのもそのせいだろうか。少なくとも私よりは悪目立ちしていない。うるせぇ。

 

 

(……うん、やっぱ見た事無いな。じゃあほんとに物珍しさで見られてるだけ?)

 

 

あんまりしっくり来なかったが、かと言って何ガンつけとんじゃとケンカしに行く気力も今は無い。一度だけ僅かにフードを上げて、青年をきつく睨み返すだけに留めた。

 

 

「……ふん」

 

 

それにビビッたってんじゃないんだろうけど、その睨みを受けた青年は小さく鼻を鳴らし、意外とあっさり視線を外した。はい勝ち。

 

そうして一度は息をついたけれど、私への興味が失せた訳では無いらしい。

その後も折を見ては短く視線を向けて来て、そんなに私の事好きなんかよとちょっと辟易。

まぁこれ以上過敏に反応するのもめんどくさく、私はフードを深く下げてそれっきり。視界と意識から彼の存在を外すよう努めた。

 

そうして気の誤魔化しがてらに、向かいの窓際で居眠りしている太ったお婆さんの様子も窺いながら、眠気と戦う事しばし。

やがて窓の外にぽつぽつと建物も増え始め、街中へと入り始めた事が窺えた。

 

次の到着地は私でも知らない場所だったけど、その次の地名は記憶にあった。

確か、住宅街エリア東にある街道のひとつだ。都会エリアからはまだ少し距離はあるものの、まぁまぁ人通りを期待できる地域……の筈だ。

 

 

(……どうすっかな。ここら辺でさっさと降りるか、街まで待つか……)

 

 

悩みがてら、こっそり丸眼鏡の青年の方を見る。

 

こちらに視線を向けていないタイミングだったようで、彼はワインレッドの革手帳に目を落とし、何やら考え込んでいた。何かしてきそうな気配はナシ。

 

……まぁ、この感じならまだ乗ってても大丈夫かな。

私は小さく溜息を吐き、バスの降車ボタンに伸ばしかけていた指を戻し――。

 

 

「ん?」

 

 

瞬間、その降車ボタンが二つにぶれた、気がした。

 

……あまりの眠気で目の焦点がズレたかな。

ぐしぐしと目を擦って改めてボタンを眺めるも、同じ現象は無く――丁度その時、これまで信号以外でノーストップだった車両にブレーキがかけられた。

 

 

「っとと……」

 

 

次のバス停で人が待っていたらしい。

腹筋に力を入れて、制動の煽りで身体が横に引っ張られるのに耐え……ふと車両後方で音がしたので見てみれば、バランスを崩した丸眼鏡の青年が手帳を落っことして慌てていた。何やってんだアイツ。

 

そうして呆れた目を向けている内にバスのドアが開き、乗客が二人乗り込んで来た。

赤いワイシャツの目立つサラリーマン風の男性と、長い黒髪をした大学生くらいの綺麗な女性。……どちらも『うちの人』では無いようで、また息をつく。

 

男性の方は乗車してそのまま前方座席に腰掛け、黒髪の女性は軽く車内を見渡した後、私の隣へと座った。

 

丸眼鏡の青年、赤Yサラリーマン、居眠り婆さん、そしてフードの私。それぞれが四方に散らばる中、誰の近くに座るかで私が選ばれた訳である。喜んでいいのこれ?

 

 

「わ……」

 

「…………」

 

 

その際、私のフードの中が見えたのか黒髪の女性の声が上がったが、聞こえなかったフリをする。

女性の方もそれきり反応する事は無く、お互い視線も絡まない単なる一乗客同士の距離に収まった。見てるかどっかの丸眼鏡。

 

 

(……匂い、大丈夫だよな)

 

 

ともかく、そうして他人の気配を近くに感じていると、自分の身だしなみが少し気になった。

 

何せ昨日の夜から汗だくになって走り回ったまま、風呂にすら入れていないのだ。

一応、雑木林から出る前にコンビニ袋の衣服に着替えてはいたが、近くに人が来られると流石に……なぁ?

 

不安になってそっと隣を窺えば、黒髪の女性は鼻歌混じりにスマホを弄っており、何か不快に思っている様子は見られなかった。

……まぁ、臭かったらもっと距離取るよな。念のためあまり動かないようにしながら、ホッと一息。

 

 

(つーか、そうじゃん。お風呂もだけど、ごはんも食べてない……)

 

 

思い返せば昨日の昼頃、病院での待ち時間に売店のおにぎり数個を食べたのが最後だろうか。

それから今まで飲み食いした覚えはなく、もう数時間もすれば丸一日断食の達成だ。

 

自覚すると途端に空腹感が湧いて来て、おなかが小さくクゥと鳴く。幸い、隣には聞こえなかったみたいだけど。

 

 

(……あー……)

 

 

全身から少しずつ力が抜け、呼吸が深く、そして遅くなっていくのが分かる。

いよいよ私の疲労がピークを迎え、抵抗虚しく睡魔に呑まれようとしているのだ

 

たぶん、近くに大人の女の人が来た事でちょっと安心したのもあるんだろう。

この黒髪の女性が近くに居れば、あの丸眼鏡の青年も私一人の時よりは視線を向け難くなるだろうし……変な事をしに来る事も、無い筈だから。

 

 

「……、…………、………………――」

 

 

かくん、かくんと首が落ち、その度に目が覚める。

 

けれど、それもやがて無くなって。

大きく傾いだきり動かなくなったフードの中で、私の意識は心地よい泥濘の中へと沈んで行った。

 

 

 

 

 

 

――夢を、見た。

 

白く、淡く、音の無い世界。

見覚えのある、けれど決して学校のものではない、どこかの教室。

 

私はその中央にある机に腰掛け、一つ前の席に座るあかねちゃんと談笑していた。

 

私達の他に人は無く、教室の中にはただ空っぽの机だけがずらりと並んでいる。

いや、それどころか、窓から見える廊下や校庭、その外にある街中にも、人っ子一人存在しない。

 

……それはどこまでも不自然な二人きりで、とてもおかしな光景ではあったけれど――それでも、いつかどこかにあった、私達の時間だった。

 

 

「――、――?」

 

「――!? ――!」

 

 

あかねちゃんが意地悪な顔で何かを言って、私が憤慨しつつも笑って返す。

どちらも声は聞こえなかったけど、きっと私の成績か何かの事でからかわれたんだろう。ああいう顔をする時のあかねちゃんは、そんな感じだから。

 

 

(…………)

 

 

私はそこに居る筈なのに、その光景を俯瞰で見ている私が居る。

なんだか不思議な気分で、でもそれを不思議とも思わない。その矛盾と曖昧さすら、当たり前のものとして受け入れていた。

 

……すごく、穏やかな気分だった。

暖かくて、優しくて、愛おしくて。ずっとずっと、ここに居たかった。

 

私はあかねちゃんと笑い合いながら、或いはその光景を眺めながら。

そして、いつまでもこの時間が続いてくれと願いながら、ただ浸り続け――。

 

 

(……?)

 

 

いつの間にか、あかねちゃんの首が私の方に向いていた。

 

談笑している私の方にではない。顔を上げ、俯瞰で見ている私にまっすぐ視線を注いでいる。

その表情は先程までの意地悪顔ではなく、静かな笑顔を作っていた。

 

 

「――、――」

 

 

なのに、机の私は何も気にした様子は無く、ただただ雑談を重ねるまま。

あかねちゃんの口は閉じ、相槌すらも止まっているのに、どうしたのかと問いかけもしない。

 

――あかねちゃんの笑みが、ぐちゃりと歪んだ。

 

 

(……、っ)

 

 

見た事の無い笑顔だった。

口角がぐにゃりと曲がり、顔全体に幾つものシワが刻まれて。皮膚を滅茶苦茶に引っ張ったかのような、見ていると不安に駆られる笑い方――。

 

あかねちゃんのそんな顔、私は見たくなかった。

 

 

(……やめて、やめてよぉ……)

 

 

必死に懇願するけど、声が出ない。動けない。

机の私はずっと独り言で喋っていて、何の役にも立ちはしない。

 

何も、何も出来ないままだった。

 

あかねちゃんはじっと私を見つめ続けて、

どんどん笑顔を歪めて、曲げて、

なのに見ている事しか出来なくて、

そして、

そして、

そして――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――えっ?」

 

「っ!」

 

 

隣で上がった声に肩が跳ね、目が覚めた。

 

 

(……ゆ、め……?)

 

 

寝ぼけ頭が回り始めるにつれその内容を思い出し、イヤな気分を溜息として吐き出した。

 

 

(……きもちわる。何だよ、今の夢)

 

 

最初は凄くいい夢だったのに、最後あんなになるとか悪夢も良いとこだ。

特にあかねちゃんにヤバそうな変顔させるとことかほんと最悪。フードの奥でこめかみをぐりぐりし、あんな夢を見させてくれやがったボケ脳みそを虐めておく。

 

ついでにその痛みで抜け切らない眠気を散らす中、私は悪夢から覚まさせてくれた隣の女性へ感謝の視線をちらと投げ、

 

 

「え……あれ……?」

 

(……何だ?)

 

 

その酷く困惑したような表情に、首を傾げた。

 

そういや私が目覚めた時の声もそんな感じだったし、何かあったんだろうか。

疑問に思って女性の視線を追えばそこには行先表示器があり、次の到着地を示していた。

 

東稲つかさ通り前――何の変哲もない、住宅街の一般道。

 

どうやら私はそれほど長く眠っていた訳では無いらしい。

意識が落ちる直前の場所から、およそ十分くらい先の場所。表示器横のデジタル時計でもそれくらいで、遅れても早まってもいない。順調だ。

 

……どこに困惑する要素があるんだ?

乗り過ごしたとかそんな感じでもないよな。更に首を傾げつつ、私が寝ている間に乗り込んだのか、何人か増えてる他の乗客の様子も一応窺ってみる。と、

 

 

「あん?」

 

 

何故か、殆どの人が同じような表情を浮かべていた。

 

スマホと行先表示器を見比べている人。

首を傾げながら腕時計を見つめている人。

車窓にかぶりつくようにして、流れる外の景色を凝視している人――。

 

行動はそれぞれ様々だったけど、皆が皆困惑した様子を見せている。

 

 

(な、何だ、この空気……?)

 

 

私はそんな皆の様子にこそ困惑し、おろおろ視線を振り続け――そうして丸眼鏡の青年に目が向いた時、彼の反応だけ若干違う事に気が付いた。

 

 

「――、――……――……」

 

 

何やらブツブツ呟いている彼の顔には苛立ちが浮いていたが、そこに困惑の類は見られず、一人だけ冷静さを保っていた。

ずっと手元の革手帳を真剣な目を睨んでいて、私になんて一瞥もくれない。あれだけこっちを見つめていたのが嘘のよう。

 

それがまた今の状況に不穏なものを感じさせ、私の不安も大きくなっていく。

 

 

「……あの、すんません、何かあったん――」

 

「――ねぇ運転手さん、これどうなってんの?」

 

 

痺れを切らして隣の黒髪の女性に尋ねようとしたのと同時、それに被せて声が上がった。

 

見れば、前方席の赤Yサラリーマンが行先表示器を指差しつつ、運転手に声をかけている。

今まさに窓の外を東稲つかさ通り前のバス停が通り過ぎ、表示が次の到着地に変わっても、全く気にせず言い募った。

 

 

「え? な、何がで……?」

 

「だからこれだよ、これぇ、今のこれ。分かってんでしょ? 運転してんだからさァ」

 

「ええと……?」

 

 

それは軽薄かつ横柄な上に具体性を欠く、クソクレームの見本のようなものだった。

 

けれど赤Yサラリーマンの顔にはハッキリとした焦燥が浮かんでおり、とても無意味なイチャモンを付けている雰囲気ではない。

他の乗客もどこか同調するようにそれを見ていて、私も黙ってそちらを注視しておく。

 

 

「どこをどう通ったらここに出るの? 時間もさ、こんな……おかしいでしょ、色々」

 

「……はぁ、あのう、申し訳ないんですが、運転中なので……」

 

「あのねぇ……何でそんな落ち着いてられるワケ……? あり得ないでしょこれさァ!」

 

 

位置的に私から運転手の姿は見えなかったけど、迷惑そうな顔をしてるんだろうなと分かる声音だった。

その態度に赤Yは瞬時に激高し、席を立って運転手へと詰め寄り――。

 

 

「……っ」

 

 

瞬間、また景色が二つにぶれる。

 

さっきの降車ボタンの時と同じだ。今度は物だけではなく乗客まで、視界に映るもの全てが二重になり、左右にズレた。

今回もまた一瞬で元に戻ったけど、視界全体でのそれは流石にキッツイ。まっすぐ座っていられなくなり、背中のクッションに沈み込む。

 

 

「……だいじょーぶ?」

 

 

その様子に気付いたのか、黒髪の女性が心配そうに私を見る。黒髪の隙間で藍色のイヤリングが小さく揺れた。

 

……ちょうどいい、さっきの質問をしてしまおう。

私は返事の代わりに小さく手を振り、改めて私が寝ている間に何があったのかを問いかけようと口を開き、

 

何の前触れもなく、意識が途絶えた。

 

 

 

 

 

 

――夢を、見た。

 

白く、淡く、音の無い世界。

見覚えのある、けれど決して学校のものではない、どこかの教室。

 

私はその中央にある机に腰掛け、一つ前の席に座るあかねちゃんと談笑していた――。

 

 

(……は?)

 

 

と、そこまで浸った時、それを俯瞰で見ていた私が我に返った。

 

……これ、さっきの悪夢だよな?

何でまた見てんの。いつの間に寝たんだよ、私。

 

さっきと違って、イヤに意識がハッキリしている。

明晰夢ってヤツだろうか。夢を夢だと明確に認識するのは、思っていたより気持ち悪いものだった。

 

 

(……くそ、何なんだ……?)

 

 

状況が把握できない。

いや、流れ的に何かが起こっているのは察せられるのだが、分かりやすい『異常』が視当たらず、不気味さだけが先行している。

 

真っ赤なぐしゃぐしゃとか雀モドキとか、バッチリ眼に視えるのもイヤだけど、オカルトなのかどうなのか判断に困るのがずっと続くのもイヤな気分。

粘つくような気持ち悪さが、絡みついたまま離れない。

 

 

(この夢もよく分かんないし……やめてよホント……)

 

 

意識を夢に戻せば、そこではやはりあかねちゃんが俯瞰の私を見上げていた。

 

前の時と同じ、不気味で目を逸らしたくなる笑顔。

あかねちゃんの笑顔はそんなのじゃない。もっと可愛くて、見てると元気になるような笑顔なのに。

 

何で、何でこんな夢を見なくちゃならないんだ。あかねちゃんを見下ろしながら、私は怖がるよりも悲しくなって、

 

 

(……?)

 

 

……ふと、あかねちゃんの悍ましい笑顔が、最初に見た夢のものよりも深くなっている気がした。

 

気のせいかと思ったけど、違う。大きく歪められた唇が、前よりも更にきつく上がっていた。

まるで出来の悪い粘土細工のよう。人間の表情筋では絶対に浮かべられない狂った笑顔が、しかし実際にそこにある。

 

もっと歪に。もっと醜悪に。

目を背けられない私を見つめたまま、彼女の笑顔は散々に穢され続け――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――っ!?」

 

 

また、目が覚めた。

 

さっき目覚めた時と同じ不快感が胸に澱み、すえた息が喉元をつく。

私はそのまま暫く呆けた後にぐしゃぐしゃと髪を掻き毟り、何本か纏めて引き抜いた。

 

 

「~~~っぁぁぁぁ……ッ」

 

 

何であんなのを夢に見る。

 

夢とは深層意識がどうのこうのと聞いた事もあるけど、だったら私は頭の奥で何を考えてんだ。あかねちゃんを心配し過ぎておかしくなったか?

食いしばった歯の隙間から軋んだ奇声を絞り出し――はたと我に返り、慌てて周囲に気をやった。

 

今の奇声もそうだが、さっきは突然意識を失ったのだ。確実に変な風に目立ってしまっている……と、思ったのだが。

 

 

(……すごい、静か?)

 

 

さっきと輪をかけて空気がおかしい。

車内は先程のざわめきが嘘のように静まり返っていて、バスのエンジン音だけがイヤに大きく響いている。

乗客も殆どが青褪めた表情で、平然としているのはまだ居眠りしたままのお婆さんと、革手帳に目を落とし続けている丸眼鏡の青年くらいだ。

 

誰もこっちに意識を向けていない事にはホッとしたが、相変わらず何が起きているのか分からないままだ。すぐにそれ以上の不安に包まれ、私も一緒に押し黙る。

 

ちらりと隣の女性を窺っても、やっぱり他と同じ。

彼女も酷く青褪めた顔になっていて、車内前方の行先表示器を見つめていて――それが示す次の到着地を認めた時、私はぱちくりと目を瞬かせた。

 

 

「……東稲つかさ通り前?」

 

 

さっき、通り過ぎたとこだよな?

一瞬記憶違いかとも思ったけど、赤Yが運転手にクレームを付けていた時に通り過ぎた筈だし、窓から見えた遠ざかるバス停の姿も覚えている。

 

いや……でもこうやって実際に表示されているのだから、私の間違い……なんだよな。

 

 

「……………………、」

 

 

……本当に?

 

唐突に、イヤな予感が噴き上がる。

乗客の一人と同じように窓の外を確認すれば、道の遠くにバス停が見え、やがて後方に過ぎ去っていく。

 

東稲つかさ通り前。それはやはり、既に一度見た筈の光景だった。

 

 

「…………」

 

 

運転手がルートを間違えて、道をぐるりと一回りした……とかだろうか。

まぁ公共交通機関としてはあり得ないとは思うが、それならば今の状況にも常識的な説明は付くだろう。

 

……だけど。

 

 

(……時間……)

 

 

行先表示器の横に取り付けられているデジタル時計と、スマホの時計を見比べる。

 

どちらの時間も同じでズレは無く、正確だ。

そしてそれらは、今しがた通り過ぎた、東稲つかさ通り前の到着時間とほぼ変わらない。

 

――最後に時計を見た時から、数分も経っていなかった。

 

 

「………………」

 

 

……私が最後に時間を確認したのは、赤Yが運転手にクレームを入れる少し前くらいだ。

 

あれから今までがたったの数分?

私が眠って起きてをして。そんでぐるっと道を回ったとして。色々あった上で、こんだけ?

 

 

(無理、あんだろ……?)

 

 

流れている時間と体感時間がズレている。

それはきっと他の乗客も同じで、だから皆困惑したり赤Yがクレームを入れたりしていて……いや、違う、たぶんまだズレてる。

 

オカルトを差し込んで考えるんだ。

普段ならあり得ないと切り捨てている思考に舵を切り、鼻で笑っちゃうようなバカな答えを出さないといけない。

 

本気であかねちゃんを見つける気なら――私はもう、そうならなきゃダメなんだ。

 

 

(…………)

 

 

……で、あれば、どうなる。

これまでバスの中で見た色々を振り返り、そうして出せるバカみたいな結論とは、つまり――。

 

 

 

「――時間が、繰り返してる……?」

 

 

 

ぽつり。

無意識に零れ落ちたその声は、静まり返った車内によく響いた。

 

――ガタン。

 

 

「っ?」

 

 

その時、車内の前方で物音がした。

車内の視線が一斉にそこへ注がれ、皆が『それ』を見た。見てしまった。

 

 

「……は?」

 

 

『それ』は赤Yだった。

 

彼は座席から転げ落ち、頭から床に倒れ込んでいた。

「あ、あ」と呻き、ビクビクと小刻みに痙攣していて、酷く苦しんでいる事は明らかだ。

 

……だけど、誰も助けに近寄らない。

この場の全員が冷たいとかそういった理由じゃない。

のたうち回る赤Yの形貌があまりにも『異常』で、誰の頭も回っていなかったからだ。

 

 

――彼の身体は、二つに分裂し、しかし分かれ切らずに重なり合っているような、そんな奇妙な姿になっていた。

 

 

頭は二つ、胴体も二つ、そして手足が四つずつ。

それぞれが滅茶苦茶にくっつき合い、自由に動く事も出来ず。肌と肉の引き攣る不気味な音を立てながら、身体を床に擦りつけていた。

 

いつかテレビで見た、互いの身体がくっついた状態で産まれる結合双生児を思わせる姿。

でも目の前にある『それ』はそうじゃない。そもそも双子ですらなくて、間違いなく一人の人間が二人に増えて、それが変な風にくっついている――。

 

 

(あー……、……?)

 

 

上手く頭が働かない。

目の前の『それ』は先の真っ赤なぐしゃぐしゃよりも現実感が無く、意味不明で……たとえオカルトの実在が頭にあっても全く呑み込めなかった。

 

そうしてどこかぼんやりとした思考の中、私はなんとなく、これまでに何度かあった視界のぶれを思い出した。

 

……ああ、そう、そうかも。

あんな風に二つに分かれて、そして一つに戻るのに失敗したら、たぶんこんな――。

 

 

「――うわあああああああ!?」

 

 

「!」

 

 

突然絶叫が響き、我に返る。

同時に一人の乗客が座席の上部分を無理矢理渡り、床の赤Yを躱してバスの運転手へと詰め寄った。

 

 

「お、おい、おいっ!! とめ、止めろバス!! 早く!!」

 

「え? な、何がで――」

 

「いいから降ろせよぉ! 耐えらんねぇよこんな意味分かんねぇの!!」

 

 

酷く錯乱した様子のその乗客は、運転手の言葉を待たずに身を乗り出し――突然、急ブレーキが車内を襲った。

 

 

「きゃ、っちょおぉぉおッ!?」

 

「えぇっ!? あぐっ……!」

 

 

私の位置からは見えなかったが、きっと強引に運転席へ割り込んだのだろう。

車体が左右前後に大きく振られ、車内のあちこちから悲鳴が上がる。

 

路線バスである以上、シートベルトをした者なんて殆ど居ない。乗客の多くが座席から転がり落ち、私も踏ん張り切れず車内前方に投げ出された。

隣の黒髪の女性が咄嗟に受け止めてくれたけど、勢い自体は止まらない。二人揃ってそのまま倒れ、座席端の仕切り板へと激突。「んがぁッ!?」目の中に星が散る。

 

バスが縁石にでも擦ったのか、どこからかガリガリと騒音が響き――そうしてようやく停まった時には、乗客の多くが床に倒れ、か細い呻き声を上げていた。

バス自体が横転したり、どこかに衝突しなかっただけまだマシなのだろうが、それでも結構な有様だ。

 

 

「……ぐ、くそ、いきなりバカか――いや、ってか、だ、大丈夫ですか!?」

 

「う、うぅぅ……」

 

 

そんな中、持ち前の頑丈さでいち早く復帰した私は、慌てて黒髪の女性を介抱する。

こめかみを軽く切ってはいたものの、それ以外に大きな怪我をしている様子もなく、私はホッと息を吐き、

 

 

「――ドア開けろおぉぉ!!」

 

 

また絶叫が響き渡り、同時に何かが壊れる音が聞こえた。

見るとさっき勝手にブレーキを踏みやがったのであろう錯乱乗客が、バスの扉を破って外へと飛び出していく所だった。いくらなんでも暴れ過ぎだろ。

 

 

(い、いや、それより今は……ええと、そうだ、警察とか救急車――)

 

 

一度外に出るかは迷ったが、黒髪の女性を放っておくのも気が咎めた。

私は頭を抑えて呻く女性の様子を窺いつつも、スマホで救急へと電話をかけて、

 

 

「――待つんだ」

 

「っ!?」

 

 

119の最初の1へと指がかかった時、横合いから声をかけられた。

反射的に振り向けば、いつの間にやら丸眼鏡の青年が背後に立ち、私に鋭い目を向けている――。

 

 

「ぇ、あ、何……」

 

「このバス、ネットかメッセージのやり取りくらいであれば問題ないようだが、通話となれば違反と見做される可能性は高い。たとえ緊急時だとしても、よしておいた方が良い」

 

 

青年は不意の接触に固まる私を無視してまくし立てると、近くの座席にぐったりと腰を下ろす。

どうやら彼も、先程の急ブレーキでどこかしらを打ちつけたらしい。脇腹あたりを痛そうに擦りつつ、ズレた丸眼鏡の位置を直していて――じゃなくって。

 

 

「……は? いきなり何言ってんの……? 違反って、何の話――」

 

「あんまり目立つ行動はしない方が良いって話さ。まぁ、どうせすぐまた巻き戻る。詳しい話はその後にしよう」

 

「――……」

 

 

話を遮り、疲れたように吐き捨てるけど、当然理解も納得も出来る筈が無い。

だが言葉の中にあった『巻き戻る』という単語が、やたらと耳に引っ掛かった。

 

 

「……この状況は、君が寝ている最中に始まった。だから、次も君は夢の中から始まるだろうね」

 

「え……」

 

「あの魘され方からすると悪夢なのかな。起きるまでには君の近くに行ってるから、悲鳴を上げるのだけはやめてくれよ」

 

 

丸眼鏡の青年はイヤミったらしく鼻を鳴らし、痛みを堪えるように深く息を吐き出した。

 

……言葉、態度、おまけに変な丸眼鏡。コイツの全部が胡散臭く、真正面からの会話は正直あんまりしたくない。

けれど話す内容は私や今の状況を理解しているようでもあり、無下にする事も憚られ。

 

――だから私は、苦し紛れにお前は誰だとだけ問いかけた。

 

 

「……ふん」

 

 

また、不機嫌そうに鼻が鳴る。

彼は暫く丸眼鏡に指を添え、難しい顔をして――その最中、また見える世界が左右にぶれた。

 

 

「う、ぐ……っ」

 

 

これまで幾度もあった視界のズレ。

しかし今度は一瞬では終わらず、長く、大きく、深く続いた。

 

丸眼鏡の青年も同じ感覚を味わっているらしい。

ゆっくりと一つに戻り始めた景色の中、二つの顔が気分悪げに歪んでいて……やがて()()()()()()が、うんざりとそれを呟いた――。

 

 

 

「――【インク瓶】。華も付かないオカルトライターもどきだよ」

 

 

 



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【私】の話(中⑤)

 

 

 

――夢を、見た。

 

 

(…………)

 

 

白く、淡く、音の無い世界。

見覚えのある、けれど決して学校のものではない、どこかの教室。

 

私はその中央に――。

 

 

(――もう、いいって)

 

 

少しだけ強くそう思えば、意識を包み込んでいた多幸感が綺麗さっぱり抜け落ちた。

代わりにうんざりとした気持ちが沸き上がり、心の中で溜息を吐く。

 

……またこの夢だ。

最初こそ浸れていたこの夢も、こう何度も見せられる内それも難しくなってくる。

 

何より私は、この先が悪夢に繋がる事を既に知っている。

ゆっくりと下方に意識を向ければ、そこにはやはり、歪な笑顔を浮かべるあかねちゃんの姿があった。

 

目を背けようとしても私の身体は指一本すら動かず、どうしようもない。

というか、今の私に肉体があるのかどうか。結果としてその笑顔から逃げる事も出来ず、強制的にイヤな気分にさせられる。

 

 

(……くそ、やっぱさっきより笑い方ヤバくなってる)

 

 

そうしてあかねちゃんを見続けている内、完全にそう確信した。

 

彼女の浮かべる歪な笑顔。

この夢を見る度、その歪み方がどんどん酷いものになっているのだ。

 

一つ前の夢の時も大概酷かったけど、今回のそれはその比じゃない。

唇はもうアルファベットのUのようにひん曲がり、皮膚が捩じ切れていないのが不思議なくらいだ。

 

 

(いい加減にしろよ……!)

 

 

心の底から気分が悪い。

怖さも悲しみも通り越し、悔しさだけが胸を灼く。

 

前にこの夢は私の深層心理が云々と難しい事を考えたけど、全く違うと断言する。

だってあかねちゃんがこんな風になるような夢、この私が見る訳無いんだ。

 

だからこの光景もオカルトの一部。そいつがあかねちゃんの姿を使って、何かをしてる――。

 

……根拠も何も無い妄想。けれど私は、そう決めつけて。

それから夢が終わるまでの間、私はあかねちゃんの姿をした『何か』を、ずっとずっと睨み続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

「……う……」

 

 

最悪に近い目覚め方だった。

 

夢の中の感情を引きずったのか、意識はぼんやりしているクセに、頭の芯の所が熱を持ってて気持ち悪い。

深呼吸する内に多少はマシになったけど、何かイヤな痛みが脳みその中に残っている。眠りに失敗するってこういう事を言うんだろうなと、ぐったり思った。

 

 

「――随分と、夢見が悪かったみたいだね」

 

「っ!?」

 

 

そのまま細長く呻いていると、横合いからいきなり声をかけられ肩が跳ねた。

そして思わず叫びを上げ――そうになった口を慌てて塞いで振り向けば、少し離れた左隣に一人の男性が腰掛けていた。

 

骨董品のようなゴツイ丸眼鏡をかけた、神経質そうな青年――本人曰く、【インク瓶】。

開かれたワインレッドの革手帳へと落とされていた彼の目が、じろりと私に向けられた。

 

 

「……助かったよ、悲鳴を我慢してくれて。もし騒がれたら、僕か君のどっちかが引っ掛かったかもしれないからね」

 

「……何で居んだよ。てか、引っ掛かるって何に」

 

「マナーとか、ルールとか。おそらくは、そういったもの」

 

「……意味分かんない……」

 

 

霧がかった頭じゃまだ上手く咀嚼できない。

私は頭の痛みを溜息として吐き出しながら、インク瓶から出来る限りの距離を取り……はたと、バスの中がイヤに静まり返っている事に気が付いた。

 

 

「…………」

 

 

呼気が揺れる。

 

……私の記憶が正しければ、さっき車内で一騒動起こっていた筈だ。

異常な姿となった赤Yを見て錯乱した乗客が運転席に押し入り、無理矢理バスを停止させたのだ。

 

車体が大きく揺さぶられ、乗客もそれに振り回されて傷付いて。幸い大きな事故にはなってなかったと思うけど、あれから運行する事は不可能だったように思う

 

だが現実として、バスは正常に運行されているようだった。

 

私は普通に座席についてて、乗客が暴れてるなんて事も無く、運転手も普通に運転中で、対面の居眠り婆さんだってまだ寝てる。

静まり返った空気の中、ただエンジン音だけが喧しく響き続けている――。

 

 

(……なん、なんだ……)

 

 

やっぱり時間が巻き戻ってる?

赤Yは、他の人は今どうなってる?

つーか運転手は何で反応しないんだ……?

 

 

「……、……」

 

 

どう……すればいい?

何から疑問に思えばいいか迷い、どれも確かめるのに躊躇する。

 

とてもイヤな空気だ。

大きなフードで窄められた視界。向かいの居眠り婆さんだけを映すそれを、私は下手に動かせず――そうする内、右肩に人の気配が触れた。

 

黒髪の女性だ。左隣のインク瓶から距離を取れば、当然右隣の彼女には近づいている。

……ちょっとだけ、気が緩んだ。

 

 

「……っ……ぅ……」

 

 

けれど、女性はそうでもなかったようだ。

 

ゆっくりとそちらに顔を傾ければ、目に入った顔色は青褪めるというより真っ白で、その表情も何かに怯えるように強張って。

そしてじっと俯いたまま微動だにせず、肩の触れた私に見向きさえしない。

 

そっとこめかみに目をやれば、さっきの一騒動で負っていた切傷が、綺麗さっぱり消えている――。

 

 

「――君、御魂雲の娘さんで合ってるよね?」

 

「!」

 

 

気味の悪い空気を切り裂いて、インク瓶から私の名前が飛び出した。

息を呑み、反射的に振り返る

 

 

「……何で知ってんだ? 教えてないよな、私」

 

 

そう、私はまだコイツに名前を教えていない。

 

だって先程コイツがインク瓶と名乗った直後に、私の意識はまた落ちたのだ。

当然自己紹介なんてする暇も無く、他に名前を知る機会も無い。

 

状況が状況な事もあってか、警戒心が加速度的に膨れていく。

 

 

「もう一回聞くけどさ、あんた誰なんだよ。何で私に構うんだ。さっきの名乗りじゃ何も分かんねーよ」

 

「……親御さんから聞いてないのかい?」

 

「はぁ? 誰だよオヤゴって」

 

 

私が訝しげな顔を向ければ、インク瓶もまた私と同じ顔をする

そのまま少しの間見合わせて、やがて気を取り直すように丸眼鏡の位置が直された。

 

 

「……こっちの事情については長くなるからまた後にして、とりあえず不審者の類じゃないとだけ理解して欲しい。今はまず、この場をどうにかするのが先だろう」

 

「どうにか、って……」

 

 

インク瓶は抑えた声でそう言って、また革手帳に目を落とす。

 

正直言って怪しさ満載のまま変わりはないが、この状況が異常なのは私も分かっているので、口をつきかけた文句はひとまず引っ込めておく。

……ちらっと見えた手帳の文字が蠢いたように見間違え、驚いたのもあったけど。

 

 

「分かっているとは思うが、今現在このバスは少しおかしな事になっている。さっき君が呟いていたように、時間が繰り返されているようだ」

 

「……よくクソ真面目に断言出来るな、そんなバカみたいなオカルト」

 

「そうならざるを得ないんだ。君だってそうだろ?」

 

「…………」

 

 

その言葉の裏に複数の意味が見えた気がして、黙り込む。

……コイツも、オカルトが視える人なのか?

 

 

「どんなにバカらしい答えでも、それが視えたならちゃんと視つめていなきゃ酷い事になる。笑ってる内に取り返しがつかなくなって、何一つ気付けないままお終いだ」

 

「……んなの、言われなくても」

 

「それに、そういったものの中には、一見荒唐無稽に見えて手順や法則がしっかりしているものもある。このバスもそういうタイプのようだ」

 

 

口籠る私をスルーして、こっちに手元の手帳を開いて見せる。

そこにはこのバスに関しての気付きが分かりやすく纏められていて、彼の名乗ったオカルトライターの肩書が少しだけ真実味を増した。

 

 

「ループの始まりは、少し前の裁判所前あたり。終わりの方はまだ判断できないが、一度目の時は東稲つかさ通り前のバス停を過ぎて……古墳下のトンネルに入った直後に裁判所前の時点に巻き戻っていたから、僕らが何もしない場合はそこで巻き戻るのかもしれない」

 

「……何もしなければ?」

 

 

どことなく引っ掛かる物言いに問い返すと、インク瓶は手帳の一点を指差した。

『雑談○』、『大声×』『通話△?』『席移動○』『運転手への声かけ○、しかし過干渉×』――何だこの一覧。

 

 

「どうもこのバスは規則に中々厳しいようでね、そのチェックらしきものが行われている節がある。乗客が何かしらのルール違反をすると、その時点で最初まで巻き戻るんだよ。ループというより、やり直しの再試験をしているような雰囲気がある」

 

「……まだ大して繰り返してないだろ。なのにそんな詳しく分かるもんなのかよ」

 

「……ああそうか、気付きようが無かったね。僕が君に名乗った後、君が眠っている間にこのバスはもう二度ほど巻き戻されている」

 

「は?」

 

 

思ってもみなかった言葉に目を丸くする。

 

 

「一度巻き戻った直後。恐怖と混乱に駆られた乗客の一人が騒ぎ、窓を壊して走行中のバスから強引に降りようとしたんだ。しかしその途中で、また最初の時点に巻き戻った」

 

「……私は、ずっと起きらんなかったまま?」

 

「ああ。そして次に、今度はまた別の乗客が降車ボタンを押して、普通に降りようと試みた。バスは次のバス停で問題なく停車し、その人は真っ当に脱出した訳だけど――すぐにまた巻き戻り、降りた筈のその人も車内に……まぁ、戻っていたと言って良いかな。厳しいことに、途中下車も許してくれないようだね」

 

「……降りた人……」

 

 

その話を聞いた時、無理矢理バスを停めた錯乱乗客の事が頭に浮かび、自然とそいつが居た筈の座席に目をやった。

バスの扉を壊して凄い勢いで走り去って行ったのに、あいつも戻ったのだろうか――そう、少し気になっただけだった、んだけれ、ど、

 

 

「――あぇ?」

 

 

思わず間抜けな声が漏れた。

 

……錯乱乗客は、前にインク瓶が座っていた場所の近くの座席についていた。

いや、ついていたというより、置かれていたというのが正しいのかもしれない。

 

――その姿が赤Yと同じ、分裂に失敗したような奇妙な状態になっていた。

 

 

「……――」

 

 

頭が二つ、手足がそれぞれ四つずつ。時折無意味に呻き、小刻みに痙攣している。

 

いや、それは錯乱乗客だけじゃない。もう二人ほど、同様の状態になった乗客が増えていた。

座席の背や乗客に遮られていたり、分裂部分が身体の影になっていたりで分かり難かったけれど……よくよく観察するとそうなっている。

 

……無事な乗客は、運転手を除けば、私、インク瓶、黒髪の女性、居眠り婆さんの四人だけ。

赤Yの時には呑み込めなかった現実感と恐怖心が、ゆっくりと臓腑に落ちてゆく。

 

 

「……バスを無理矢理停車させた人は分かると思うけど、残り二人はさっきの話の中で窓を壊そうとした人と、降車ボタンで下車した人だ。暴れるのは勿論、降りてもアウトと見做され、ああなるようだね。巻き戻りを経た後にはもう彼らは今の状態になっていて、何度か巻き戻った今も見ての通り元に戻れてはいない。赤シャツの彼も含めてね」

 

「え……は……な、何で……?」

 

「これまでに幾度もあった視界のぶれ――いや、実際に空間が分裂しているのかもしれないが、おそらくそれがチェックの……間違い探しの時間なんじゃないかな。その際『間違い』として見咎められてしまうと、二つのぶれから元の一つに戻る時、間違ったまま重なってああなってしまう。そんな説を唱えてみるよ」

 

「――……」

 

 

つらつらと並べ立てられる情報に呆気にとられ、間抜け面を晒してしまう。

 

……いや、ほんと何なんだよコイツ。

それが合ってるか合ってないかはともかく、何でそこまで細かく観察し、考えられる。何で恐怖も混乱もせず、平気な顔して語れるんだ。

幾らオカルトライターだとしても、流石に順応し過ぎだろ。感心とか頼りになるとか、そう思うよりも先にちょっと引いた。

 

 

「……で、君はどう思う」

 

「……、え?」

 

 

そう思う中、いきなり話を振られ、反応するのに間が開いた。

 

 

「現状についての推測は大体話した訳だけど、君の方から何か聞きたい事や、気付いた事は無いかな」

 

「い、いや……何で私に言うんだよ。意味なくねー……?」

 

 

一人でこれだけ現状の推測が出来ているのなら、私みたいなバカの意見なんてノイズにしかならないだろ――。

そう思っての返事だったけど、インク瓶はやれやれといった様子で首を振る。

 

 

「ふん……今の時点でどうにか出来るのなら、君がぐっすり寝こけている間にさっさと解決しているさ。だけどそれがまだ出来そうにないから、こうして相談しているんじゃないか」

 

「イヤミに頼りねーこと言うなし……」

 

 

どこか落ち着きつつあった心中が、また荒れ気味になるのを感じた。

 

もしかしたら無意識の内に、この変な丸眼鏡へと寄りかかりかけていたのかもしれない。

何となくそんな自分にさぶいぼを立てていると、インク瓶はどこか難しい顔をして、

 

 

「それに……現状においては、君の影響はかなり大きいと見ている。気付きでも、疑問でも、君の言葉は聞いておきたい」

 

「……影響?」

 

 

引っ掛かる物言いに疑問の目を向けたが、インク瓶はそれきりむっつり黙り込み、私を見る目を僅かに細める。

こんな状況になる前、遠くからじろじろ見られていた時の目だ。それに圧されてって訳じゃないけど、ひとまずは彼の言葉に従って、さっきから気になっていた事を問いかけた。

 

 

「……じゃあ、あの、運転手は何やってんの……? こんな状況なってんのに、何か、あんまりにも普通っていうか……」

 

 

ちらと運転席を見るが、私の位置からでは前方座席と仕切りに遮られ、運転手の姿がよく見えない。

 

……こんな事になっても普通に運転しているというのは、やっぱり不自然に過ぎる。

いや、向こうの様子もそうだが、インク瓶がそっちに行かないのも気にかかる。この状況を何とかしたいなら、明らかに私よりも重要な筈だろう。

 

私が寝ている間に何かしらやり取りをしたのかもしれないが……もしそうなら、そこの説明も欲しいところだった。

そう伝えると、インク瓶は眉間に深いシワを作り、溜息を吐いた。

 

 

「……ああ……まぁ、そうだね……実際に視た方が早いんじゃないかな。一応、口は塞いでおきなよ」

 

「は? 何でそんな――」

 

 

と、そこまで言った時、ちょうど赤信号でバスが停まり――それを見計らったように、彼は「すみません」と運転席へと声をかけた。

大きくも小さくもない、静かな声音。しかしそれは、静まり返った車内によく通り――。

 

 

「――はい、何です?」

 

「っ……」

 

 

――そうして、座席から身を乗り出して振り返った運転手の姿を視た時。

私は言いつけ通り手で口を塞いでいた事に感謝した。

 

 

「いえ、このバスに両替機があるかどうかお聞きしたくて……」

 

「ああ、ありますよ。ただまぁ旧型ですんで、新しい五百円玉とかはちょっと――」

 

 

そう語る運転手の輪郭は常にぶれ、そして幾重にも重なっていた。

 

赤Yや錯乱乗客達のような、分裂に失敗した状態じゃない。

何人も何人も何人も何人も、無数の運転手の身体が同時に一つ所に存在し、それぞれが少しの時間差をつけて同じ動きを取っている。

 

……一見すると単なる残像のようにも視える。

しかし目や口といった顔のパーツも同様に幾つも重なっていて、運転手の顔面は無数の目鼻口で埋め尽くされた酷く不気味なものに変わり果てていた。

 

視覚的にも感覚的にも直視出来たものではなく、私は吐き気を堪えて深くフードを引き下げる。

 

 

「……分かったろ、色々と」

 

 

信号が青になると同時、インク瓶は運転手との会話を手早く切り上げ、息を整えている私に気遣わしげな目を向けた。

 

 

「明らかにまともな状態じゃない。クレームをつけただけの赤シャツの彼がどうなったかを考えると、本当に手詰まりになるまでは放置しておきたいのが本音だ。勿論、向こうが何もしてこない限りは」

 

「あ、あれ……いつから、あんな……?」

 

「さぁ。少なくとも君が乗り込んだ時には普通だったんだろう? なら……その後の事ではあるんじゃないかな」

 

 

その含むような言葉と共に、向けられる目が僅かに細まる。

 

……まただ。また、この観察されているような目。

さっきの影響がどうのこうのという言葉も合わせ、まるで今の状況は私に原因があるとでも言われているように感じてしまう。

 

心当たりなんて、無い。

 

 

「……なぁ、さっきから何なんだよ」

 

 

いい加減に焦れて、ささくれ立った心のままインク瓶を睨んだ。

 

 

「ずっとっこっち見て来たってのもそうだけど、その目、何か観察っていうか……探ってる、よな。何かあんの、私に」

 

「…………」

 

「……無視は、嫌い」

 

 

しかし彼は何も答えないまま、静かに視線を彷徨わせた。

その主な行先は私ではなく、隣の黒髪の女性に向かっている。彼女を気にして、何かを躊躇しているようにも見えた。

 

そのまましばらく無言の時が過ぎ――やがて、東稲つかさ通り前のバス停が、窓の外を過ぎ去ってゆく。

 

 

「……君は」

 

 

ぽつり。

インク瓶の口から零れるようにそれが漏れ、すぐまた沈黙。

 

そうして、喧しいエンジン音がその静寂を揺らす中、道路の先にトンネルが見えた。

小さな古墳の真下を潜るように通った、短めの古墳トンネル。初めにインク瓶が言っていた、ループの終点かもしれない場所。

 

……もう少しで、また巻き戻る。

 

 

「君は、自分の事について、どの程度把握しているのかな」

 

 

すると、インク瓶が小さな声でそう切り出した。

 

自分の事――それはきっと、汗臭いとかおなか減ってるとか、そういう事じゃないんだろう。私だってそれくらいは分かってる。

 

……かといって、何と答えればいいのかも分からない。

親の顔や、生まれに、この身体……私は私自身について、知らない事が多すぎるから。

 

 

「――――」

 

 

そうして答えあぐねている内に、バスはトンネルの中へと進む。

窓の外が一瞬で真っ暗になり――直後、私の意識も途絶えて消えた。

 

……暗転。

 

 

 




長くなったので分割。次話は数日中にでも。


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【私】の話(中⑥)

 

 

 

例によって例のごとく、私はまたもあの夢に居た。

 

気付いた瞬間怒声を張り上げたけど、やっぱり身体は動かず声にもならず。

ただただ頭の中でキレ散らかす事しか出来なくて、苛立ちに気が狂いそうだった。

 

そうして見える夢の光景も最悪の一言だ。

あかねちゃんの歪んだ笑顔は輪をかけて酷い事になっていて、まるで整形どころか捏ねるのにすら失敗した粘土のよう。彼女の愛らしい顔立ちなんて、どこにも残っていなかった。

 

まぁ、完全にあかねちゃんの笑顔から離れた訳なので、ある意味では多少マシになったと言えなくもないけれど……その分純粋な不気味さが際立ち、怒りと悔しさに抑え込まれていた恐怖が、その鎌首をゆっくりともたげ始めていた。

 

 

(くそ……そうだよ、このクソ夢の事も、さっさと聞いとくべきだった……!)

 

 

バスと直接関係した出来事ではなかったから、インク瓶に相談するという選択肢がすぐに浮かんでこなかったのだ。

 

巻き戻る度に強制的に被害を受けるハメになるのだから、むしろ真っ先に話しておいても良かったのに。

徐々に大きくなっていく恐怖に煽られながら、私は心の中で歯噛みして――その最中、ふと気付く。

 

 

(……この夢、四回目だよな、見るの……)

 

 

その筈だ。記憶を振り返っても私の認識はそうだし、ループを重ねるごとに歪んでいくあかねちゃんの笑顔の段階も覚えている。四回目で間違いは無い、と思う。

 

……だが、それだと少し、おかしな事になるような。

 

 

(――私が寝てる間にしたループ分の夢、どうなったんだ?)

 

 

インク瓶の話では、私が居眠りしてる時にも二度ほどループが起こったらしい。

分裂失敗状態になった乗客が転がっていた以上、それは確かなのだろうが……私にはその二回分の夢の記憶が無かった。

 

おそらく三回目の夢の途中でそれらのループが挟まれたんだとは思うけど、夢が中断したり、はじめの方に巻き戻ったり、そういった出来事は起こっていなかった。私が目を覚ますまで、その夢を通しで見ていた筈なのだ。

 

 

(……いや、待てよ。バスの最初のループ、私たぶん寝たまま巻き戻ったんだよな? なら……そもそも最初に夢を見たのって、どのタイミングだったんだ……?)

 

 

バスのループが始まる前、寝付いてすぐの時か、それともループした後か。

 

……でも、このループが時間を巻き戻しているのなら、巻き戻った時点でこの夢を見ていたから、ループの度に今の状況になってるんじゃないのか?

じゃあやっぱりループが始まる前に夢を見てて、だからリスポーン時点でも夢見てて……ああいや、それも何かおかしい。一回ループしてから起きるまでに見てた夢が初めてだったんだから、ループしたんなら二回目の夢を見てなくちゃおかしくて……え? でも一回目の夢が、あれぇ……?

 

 

(あー、うー……だ、ダメだ。こんがらがる……!)

 

 

――ループ回数と夢を見た回数が合っていない。

そこまでは辛うじて分かるけど、そこからは私の脳みそじゃ無理そうだった。

 

とにかく、さっさと目を覚ましてインク瓶に丸投げしてしまおう。

私は早く目が覚めるよう強く念じながら、眼下のあかねちゃんモドキに意識を戻し、

 

 

(――?)

 

 

……口が、少しだけ開いていた。

 

端がこめかみに届くまで吊り上がり、人間の可動域を大きく超えて歪み切っても、変わらずぴったり結ばれていた真っ赤な唇。それにほんの僅かな隙間が生まれ、口内を覗かせている。

まぁここまで歪めばそうもなるだろ――最初はそう思って気にも留めなかったけど、私の常人離れした視力がその中身を捉えた時、一瞬だけ思考が止まった。

 

 

(……目ん玉……?)

 

 

唇の下に収められていたのは、人間の眼球だった。

 

それも一つや二つじゃない。大小様々な眼球が唇の隙間にぎっしりと並び、そこにある筈の歯や舌の姿は全く見えない。

そしてそれぞれの眼球がひとりでにぎょろぎょろ蠢いていて、それが作り物じゃない事が否応なしに伝わった。

 

 

(ああもう、今度は何なんだ……!)

 

 

これまで立て続けに意味不明な光景を見て来たせいか、多少は慣れが出てきたようだ。

焦りはあれど取り乱すまでには行かず、目前で起こる変化をただ睨みつけた。

 

 

(……っ)

 

 

少しずつ、少しずつ。あかねちゃんモドキの上唇が持ち上がる。

 

Uどころか、最早Oに近い形になるまで歪んだそれが下方から開いていくさまは、まるで瞼が開かれていくようだった。

 

そうして唇の開きが大きくなるにつれ、より多くの眼球が外気に晒され、蠢き――その奥に、真っ赤に輝く何かが見えた。

 

手前側にある眼球の群れで隠されていて、全体像は分からない。けれど眼球よりは大きなそれが、口腔の奥で赤く紅く揺れている――。

 

 

 

 

 

 

『 ちゃ だめ 』

 

 

 

 

 

 

 

(――――)

 

 

何かを聞いた。

同時に、抱く恐怖が破裂する。

 

 

(何……何だこれ、ダメだ。分かる、これ、ダメだ……!!)

 

 

――見られたら、終わる。

 

何に? 何処から?

何ひとつとして理解しないまま確信し、身体も無いのに総毛立つ。

 

咄嗟に逃げ出そうとするけど、当然ながら今の私に出来る筈がない。

ただ心の中でイヤだイヤだと駄々を捏ねるしか出来なくて、恐怖ともどかしさに気が変になりそうだった。

 

 

(起きろっ! 目ぇ覚めろよっ! 早く! 早く!!)

 

 

必死にそう念じても、夢は変わらず続いていく。

現実での私が多少魘されたかもしれないが、その程度じゃ意味がない。

 

早く目覚めて、この夢を途切れさせなければいけない――糸に囚われる、その前に。

 

 

(何でぇ……! 早起きは得意だろ! 早く覚めろ! 起きろよぉ……!!)

 

 

更に大きく唇が捲れ、その中身が零れ落ちる。

ぽとり、ぽとりと幾つもの眼球が床に転がり、その全てが私に瞳を向けている。

 

そうして詰まる眼球の数が減る度に、唇の奥にある真っ赤な何かが顕となっていく。

 

――それは血の色をした、大きな単眼に見えた。

 

 

(あ――)

 

 

ぽとり。

最後の眼球が転がり、血色の眼を遮る全てが除かれた。

 

そして、その顔面いっぱいにまで開かれた口腔の奥から、それが、私を、見、

 

 

 

 

 

 

 

 

「――大丈夫かい」

 

「っ!?」

 

 

小さく肩を揺さぶられ、目が覚めた。

反射的に振り向けば、すぐ近くにはインク瓶。丸眼鏡の奥から、私に心配そうな目を向けている――。

 

 

「……はぁぁぁ……!」

 

 

……どうやら、彼が起こしてくれたらしい。

イヤな暴れ方をする息と鼓動を抑えつつ、ぐったりと顔を覆って細長く息を吐き出した。

 

 

「……やっぱり悪夢か。巻き戻る度にだとしたら気の毒に――」

 

 

と、その途中、インク瓶が息を吞んだ気配がした。

疑問に思い指の隙間から目を向けると、どうしてか彼は険しい顔をしてまた私を見つめている。

 

……何だよその顔。

悪夢の動揺が抜け切らず色々と過敏になっていた私は、それに圧されて身を捩り――その時、視界の隅を何かがふわりと擽った。

 

小さく薄く漂っていたそれは、白い靄のようだった。

私の動きで撹拌されたのか、空気の動きに合わせてくるくると流れ、やがて空に溶けるようにして散っていく。

 

 

(……バスで、靄……?)

 

 

窓か空調から入り込みでもしたのだろうか。

あまり見ない光景に軽く気を取られたが、すぐにインク瓶へと目を戻し……しかしその視線が靄が消えた場所を追っているのを見て、力が抜けた。

どうも、さっきの顔は靄に対する驚きか何かだったみたいだ。紛らわしい。

 

……だけど、そのおかげで幾らか気も紛れた。

少しずつ鎮まりゆく心の内に浸りつつ――短い息をひとつ吐き、顔を上げた。

 

 

「――夢」

 

「……え? あ、ああ、何だい」

 

「変な夢、見るんだ。さっきあんたが言った通り、このバスが巻き戻る度に同じ夢をずっと見てる。最初はただの悪夢だと思ってて、でも、なんか違う……っていうか、ええと、おかしなとこあるって、気付いて――」

 

 

夢の中で決めた通り、そこでの出来事を片っ端からインク瓶に伝えていく。

 

私も考えをちゃんと整理出来ている訳ではないから、説明するにもたどたどしいものになってしまうけれど、今はしっかり熟考している余裕はない。

 

だって次にバスが巻き戻ったら、きっとあの夢の続きを見てしまう。

それまでにバスをどうにかしなきゃいけなくて、もうインク瓶にツンケンしている場合じゃないんだ。

 

 

「…………」

 

 

そうして、何度もつっかえ何度も詰まり、どうにかこうにか夢の詳細を伝えると、彼はみるみるうちに眉間に深いシワを寄せ……やがてちらりと私の右隣を窺った。

 

それにつられて顔を向ければ、そこには座席端の仕切りに力なく寄りかかる黒髪の女性の姿があった。

 

血の気が無く、呼吸も荒く、随分と苦しそう。さっきと同じく静かに震えているのだと思っていたから、私はギョッとし助けに動き――しかしインク瓶に止められた。

 

 

「大方、いっぱいいいっぱいになっての貧血か失神だろう。例のチェックがある以上、横たえさせるのも不安が残る。暫くはあのままそっとしておいてあげた方がいい」

 

「で、でもさ……」

 

「それに……正直、人の耳が無い方がありがたくはあるんだ。個人情報になるからね」

 

「は?」

 

 

個人情報? 誰の?

首を傾げてインク瓶に向き直れば、彼はどうしてか片手を右の袖口の中に入れ、

 

 

「――君は今、『異常』に目をかけられている状態だ」

 

 

唐突に、そう告げられた。

エンジン音の響く車内に沈黙が下り、私の首が更に傾く。

 

 

「え、っと……?」

 

「今は時間が無いから多くは省くが……君の血統は少々特殊なものなんだ。普通の人には無い性質を持っている」

 

「……はい?」

 

「いわゆる、君には霊能力や超能力があるって事さ。僕らは前者の方で呼んでいる」

 

「……、…………、………………、」

 

 

 

インク瓶も焦っているらしく、早口でそう続けるけど……何だろう、言葉が上滑りしてあんまり耳に入らない。

 

霊能力に、超能力?

何バカな事言ってんだ――思わずそう鼻で笑いかけ、しかしそんな自分をねじ伏せた。

オカルトをくだらないと切り捨てる私は、昨日の夜に死んだのだ。

 

 

「……あー、ええとあの、とりあえずそれが本当だとして……何でそんなん、知ってんの……?」

 

「さっき少し触れたが、僕は君の親御さん――君の『親』に頼まれてこの街に来た。何も知らない自分の娘に、その血に関する説明と対処をしてやってくれとね。流石にこんな所で出くわすとは思っていなかったけれど」

 

「……だから、その『親』ってのが分かんないんだよ……」

 

 

生まれてこの方、私に『親』というものは存在しない。

そんな虚無に頼まれたとか言われても、到底信じる事は出来なかった。

 

するとインク瓶の方も溜息を吐き、意味不明とばかりに首を振る。

 

 

「……僕だって『何も知らない』が本当に何一つ把握していないって意味だとは思わなかったよ。まぁそれはいい、今は君の血に宿る霊能力の事だ」

 

「…………」

 

「手っ取り早く今作用している性質だけを言えば、君には『異常』を――君の言うところのオカルトという存在を、その身に誘引させる力がある」

 

「はぁ?」

 

 

思わず大きな声が出た。

右隣で黒髪の女性が身動ぎをしたのに気付き、慌てて口を塞いでおく。

 

 

「オバケを惹きつける体質、って言った方が分かりやすいかい? おそらくそれが強まった状態になっている。君がそこに居るだけで、君の言うオカルト達はそちらを向く。このバスもそうだ。乗り込んだ君が刺激となり、こうして動き出したのだと思う」

 

「……な、なんだよ、それ。このバス、このループしてんの、私のせいだって……?」

 

「決して君のせいではないが、きっかけとなったのは確かだろうね」

 

「――……」

 

 

そう強く断言され、二の句が継げなくなった。

だって、そんな事あるもんかと言い張るには、私は昨夜の間にオカルトと出遭い過ぎていたから。

 

「……あかねちゃん、知ったら大喜びじゃん」代わりに逃避気味に呟いたけど、当然笑えもしなかった。

 

 

「……これまでの君がそれに無自覚かつ無知で居られたのは、その血が、その霊能が目覚めていなかったからだろう。だが、どうしてか今になってそれが目覚め――そして、厄介なものも惹きつけた」

 

「……?」

 

 

その物言いには、それまでのものより力が籠っていた。

忌々しげに顔を歪め、虚空をじっとりと睨む。ちょうど、さっきの白い靄の消えたあたり。

 

 

「君が見たという悪夢。そこに出ていたという君の親友を模った何かは、おそらくバスとは別口のものだ。もっとタチの悪いものに、君は目を付けられつつあるらしい」

 

「……え」

 

 

あの夢とこのバスのオカルトが別のもの?

その可能性は考えておらず、また呆けた。

 

 

「見た夢の回数とループの回数が一致してないんだろう? つまり違うものが別々にやらかしているって事だ。しかも夢の方は時間の巻き戻りすら貫通している。その力の差は明確だろう」

 

「な、何だよそれ……じゃあどうすんだ、バスのやつ何とかしたって――」

 

「ちょっと待ってくれ――……よし、とりあえずこれを」

 

「えっ、わっ」

 

 

取り乱しかけた私を遮り、インク瓶は右の袖口に入れていた片手を引き抜くと、何かを差し出してきた。

 

反射的に受け取れば、それは私の掌に収まるくらいの小さな瓶だった。

中には真っ黒な液体が入っており、とろり、とろり、と揺らめいている。

 

 

「……や、何これ」

 

「僕のインクだ。おまじないのようなものだと思って、肌に一滴ほど垂らしてくれ」

 

「え、えぇ……?」

 

 

そのよく分からない指示にまた不信の目を向けたけど、インク瓶に「早く」と急かされ、仕方なく小瓶の封を開けて左手の甲に傾ける。

意外と粘性の高い真っ黒なインクが、私の真っ白な肌の上に落ち――直後、まるで意思を持っているかのように蠢いた。

 

 

「――――」

 

 

悲鳴を上げる間もなかった。

そのインクはほんの一瞬だけ<遮>と文字を形作ったかと思うと、すぐに形を崩して細い線となり、掌側をぐるりと回って円を繋げた。

 

髪を結ぶ時、手にゴムをかけている時みたい――なんて言ってる場合ではなく。

 

 

「へ? え、はぁっ? な、何これ、いやマジで何これ……!?」

 

「おまじないのようなものって言ったろ。とりあえず例の夢からの目を遮るためのものだけど……どこまで通用するか。向こうがループを無視している以上、一度見失わせれば巻き戻されても暫くはどうにかなるとは思うが……」

 

「そうじゃなくて、いやそれもだけど、これ、うごうごって……!」

 

「聞きたい事は分かるよ。でも全部あと」

 

 

必死に言い募るが適当にいなされ、話の筋を強引に元に戻される。

……霊能力。じわじわと、その言葉の重みが増していく。

 

 

「とにかく、そのおまじないも完全に君を守れるとは言い切れない。次に巻き戻った時に夢を見ない保証は無いんだから、早く今の状態をどうにかするに越した事はないよ」

 

「……でも、分かんないんだろ、その方法」

 

「……君が眠っている間、僕の方で観察し尽くした感はある。これ以上何かを調べるとなると、バスのチェックに引っ掛かる事を覚悟しなきゃならないだろうね」

 

 

そう言って、インク瓶の視線が分裂失敗状態の乗客を向く。

現状唯一頼る事の出来る彼がアレと同じ姿になるのは、私もあんまり見たくなかった。

 

 

「だから、残る希望は君だけだ。君が情報もヒントも何一つ出せなかった場合、君は悪夢の先を視て、僕は頭が二つに、手足が四本ずつになる。精々必死こいて絞り出しなよ」

 

「何で自分が酷い目に遭う瀬戸際で上から目線になれるんだ……!」

 

 

せめて「頼むよ」の一言くらい言えや。

そうは思うが、そこで揉めてる時間も惜しい。舌打ち一つを残しつつ、インク瓶の言う通り必死こいて脳みそを回す――けれど。

 

 

(――浮かぶ訳ねーだろ!)

 

 

バスに乗ってから今までの事を振り返ってみたけど、状況の打開に繋がるものは浮かばなかった。

 

というかそもそも、私はバスの中では結構な時間眠ってたんだぞ。あの夢がバスのオカルトと関係なかったんなら、他に出せるものなんてなんも無いに決まってる。

だけどインク瓶に「まぁこうなるとは思っていたよ」と分裂失敗チャレンジされるのも癪だった。

 

何か、何か引っ掛かるものは無いか。

せめてもの悪足掻きとして車内をきょろきょろ見回すも、やはり何も見つからず。そうする内に窓の外をバス停が流れ、行先表示機が東稲つかさ通り前へと切り替わる。

 

――それから間もなく、またも視界が二つにぶれた。

 

 

「う……」

 

 

インク瓶曰く、違反のチェック。

今回は一瞬で終わったが、どれだけ繰り返しても慣れは来ない。眩暈のような感覚に、私は一度目を閉じ頭を振って、

 

 

(……いや、待てよ)

 

 

その感覚に、思い出す。

……そういえば、私とインク瓶が初めて言葉を交わした時、少しだけおかしなものが無かったか。

 

 

「…………」

 

 

私の意識が落ちる間際、バスが巻き戻る寸前……だっただろうか。

 

さっきと同じく視界が二つにぶれていた最中、どこかで僅かな違和感を見た気がする。

あの時は疑問に思う間もなかったけれど、今考えると何かが引っ掛かっている、ような。

 

 

「……何か思い当たったかい?」

 

 

すると私の表情の変化に気が付いたのか、インク瓶がこちらを見る。

左側の眉だけを小さく上げた、少しの期待が混じった怪訝顔――。

 

……左側?

 

 

「――あっ」

 

 

違和感の正体に気が付いた。

 

そうだ。あの時視界が左右二つに分かれ、また一つに戻る直前――左側の彼だけしか、インク瓶だと名乗っていなかった。

 

右側に視えた彼は確かに左側と同じ表情をしていたけど、その口は閉じたまま、静止画のようにピクリともしていなかった……と思う。

短い間の事だったから断言はし難いものの、たぶんそう。

 

それが何になるのかは分からないし、この目ざとい丸眼鏡の事だから既に知っている情報だとも思うけど……きっと私の脳からはこれ以上の事は出て来ない。

夢の説明以上にたどたどしくインク瓶に伝えれば、予想と違い鋭い目つきになって、また革手帳を開きぶつぶつと何事かを呟き始めた。

 

 

「ええと、何か参考になったん? 正直、もう分かってる事かなって思ったんだけど……」

 

「……初耳だよ。僕は見ての通り目が悪いんだ。霊視能力に関してもおそらく君の半分以下。じっくり観察するならともかく、一瞬の変化や異常に気付けない事はそれなりにある」

 

「…………」

 

 

霊視だの半分以下だの色々聞きたい事はあったけど、手帳に忙しなく視線を滑らせるインク瓶の表情に鬼気迫るものが見え始め、やめた。

 

そうしてふと外を見れば、一連の出来事で既に見慣れた景色に入っていた

東稲つかさ通り前のバス停に続く道。このまま信号に引っ掛からなければ、おそらくもう数分もしない内に通り過ぎる事だろう。

 

……そしてその少し後に、きっとまた巻き戻る。

 

 

「……ぅ、……」

 

 

そっと、さっきインク瓶にされたおまじない――左手に巻かれた黒インクの線へと目を落とす。

 

本当に、こんなものに効果があるのだろうか。

もし効果なんて無く、変わらずにまたあの夢を見てしまったら……私はどうなる?

 

逃げられなくて。どうにも出来なくて。

あかねちゃんモドキに、その中に居る血の色をした単眼に見つかってしまったら、今度こそ――。

 

 

「――今、どの辺りだ?」

 

 

イヤな想像に呑まれそうになったその時、インク瓶が顔を上げた。

そして行先表示機を睨んだかと思うと、すぐに窓の外を……バス停が近付きつつある景色を見て、焦ったように舌打ちをする。

 

 

「……どうしたの」

 

「ひとつ、思いついた事がある。だけど時間というか距離的に、それを行える余裕がない。巻き戻りを挟めばそんな事もないんだが……」

 

 

そう言って私を見る。

いや、正確にはさっき私に刻んだおまじないだ。どうやら、今私がしていたイヤな想像を懸念しているようだった。

 

…………。

 

 

「……それ余裕がないだけ? やろうと思えば今やれる?」

 

「……一応、まだ間に合うかもしれない。だが強引に行う事になるから、失敗した時は間違いなくチェックに引っ掛かる――」

 

「じゃあ一人でやるから教えて。次があるか分かんないんだろ、私」

 

「…………」

 

 

現状、私が次のループ時に無事でいられる確証はない。

もしかしたらあの血の色をした単眼によって、分裂失敗状態よりも更にイヤな状態にされている可能性だって十分にあるのだ。

 

ならば無事である今の内に、出来る事は全部やっておきたい――そう伝えれば、インク瓶は少しだけ迷った様子を見せ、しかしすぐに頷いた。

 

 

「……分かった。だがやるなら本当にもう時間が無い。あの最後のバス停を過ぎたらアウトだ。だから君が行う事だけを言っておく――」

 

 

 

――視界が二つにぶれたら、一つに戻る前に降車ボタンを押してくれ。

 

インク瓶がそう口にした瞬間、けたたましい騒音がエンジン音を搔き消した。

 

 

 

「なっ……!?」

 

 

それは、いつの間にかインク瓶の手に握られていたスマホから流れていた。

 

適当な音楽を最大音量で流しているらしく、音割れすらも伴い車内を反響し――更に何を血迷ったのか、彼はそのスマホを思い切り向かいの窓に投げつけた。

腕力が無かったのか割れはしなかったが、ガラスがたわみ、また騒音が鳴る。

 

 

「はぁ!? いきなり何して――」

 

「いいから集中するんだ! すぐにぶれるぞ!」

 

 

いきなりの事に思わず怒鳴ったが、返った言葉に意図を悟った。

インク瓶は自ら車内で暴れる事で、視界のぶれを――バスのチェックを誘発させようとしているのだ。自分が分裂失敗状態になるのも厭わずに。

 

 

(ああ、もう……!)

 

 

私一人でやるという言葉を無視された形になるが、その段取り調整する暇も無いのだろう。

歯噛みしながらも背後を向き、車窓横に取り付けられた降車ボタンに集中する。

 

インク瓶が何をしたいのかさっぱり分からないけど、彼自身が身体を張ったのは確かだ。

ならば、私はそれに応えなければ――と、

 

 

「っ、来た――」

 

 

視界が左右に分かれ、二つにぶれる。バスのチェックが始まった。

 

誰もが動けぬ一瞬だ。けれど、私の身体能力であればよく動く。

限界まで意識を引き延ばし、片手を勢いよく降車ボタンに突き出した。

 

やはり左の視界の腕だけが動き、右側は微動だにしない。

そうして二つの視界が戻り始める中、左側の腕が降車ボタンに伸びていく、けれど、

 

 

(――っやば、ズレ――)

 

 

二つにぶれた視界では、想像以上に目測が難しかった。

突き出した腕が僅かに逸れ、ボタンを掠めて強烈に窓を叩き――チェックに引っ掛かったのが、分かった。

 

 

「あ――」

 

 

二つの視界が一つに戻る。

窓が、座席が、ボタンが、私が。全て元通りに重なり始めた。

 

いや、私は元に戻れない。『間違い』の私は、ズレたまま重なってしまう。

 

肉が増え、肌が引き攣る。

骨が接ぎ、臓器が膨らむ。

 

痛みは無い。

ただ痒みにも似た強烈な感覚が身体中を搔き毟り、意識が泡立ち思考が濁り――。

 

 

「――ん、があぁああああああ!!」

 

 

まともに物が考えられなくなっていく中、私は思いっ切り足を跳ねさせ、全身で降車ボタンにぶつかった。

 

いわゆるタックル。或いは単に体当たり。

とはいえ私の全力である以上その衝撃は凄まじく、周囲の窓枠は軋み、ガラスにはクモの巣状のヒビが刻まれた。

 

 

(ど、うだぁ!? ごぉれ、間に゛、合っ……!?)

 

 

これなら、確実にボタンは押せた筈。

 

だが何も変わらない。

視界が、物も肉も臓器も脳も意識も全部全部が繋がって。

 

世界がとろけ、脳が混ざる。引き延ばされた時間の中、全てが一つに重なり合い、そして、

 

 

「……っ」

 

 

――そうなる間際、それが止まった。

 

視界が完全に重なり切るまで、残り数センチ。

二つのぶれは収まり切らずそのままに、ただ留まって――やがて、再び大きく離れ始めた。

 

 

(……ぁ、え……?)

 

 

今度は左右ではなく、前と後ろに。

 

左側の視界が速度を落として後ろに下がり、右側だけがそのまま前へと進み。二つの視界が離れていく。

それだけじゃない。一つに重なりかけていた私の身体も、前後二つに引き剝がされていく――。

 

 

「……左側が僕達で、右側が『それ』なんだ」

 

 

隣から、どこか朦朧としたインク瓶の声が聞こえた。

 

 

「『それ』は基本的にバスと、僕達と一つに重なっている。そしてチェックの時に一度分かれ、離れる。僕達は左、『それ』は右。だからその瞬間だけ、右側の僕達は動かなくなる、中身が入っていないから……」

 

 

ぶち、ぶちり。

重なりかけていた二つの身体が完全に引き剥がされ、分かたれた。

 

痛みも抵抗も全く感じず、濁った意識が透き通る。

でも完全に何もないって訳じゃなく、張り付けられたシールやガムを剝がされたかのような、そんなベタついた感覚が身体の内にも外にもこびり付いていた。……ものすごく、気持ち悪い。

 

 

「そして、チェックをするほどルールに厳しくあるのなら……『それ』自身もそうなんだろうと踏んだ。一つに重なるっていうのは、そういう事だから」

 

 

左側のバスは急ブレーキ気味に停車し、扉が開く。

東稲つかさ通り前のバス停――少し過ぎてはいたけど、通り過ぎはしなかった。

 

 

「なら、重なっていない時に降車ボタンを押されたら、『それ』はどうする? 君にボタンを押された左側では乗客を降ろすためにバス停に停車し、君が押さなかった右側ではそのまま無人のバス停を通過するんだ。これまで通りに」

 

 

一方、右側のバスはこれまでのループと同じく、無人のバス停を一応の減速をしつつも通り過ぎ――しかし、つっかえたように途中で止まり、車内が大きく震え始めた。

 

……バスの前方/後方から、肉が千切れていくような音が、聞こえる。

 

 

「そうなると右側の『それ』は大変だ。たとえチェックで左側に『間違い』を見つけても、もう重なれない。バス停に停まる左側に追随する理由もないんだから、普通にアクセルを踏み続けなければいけない――」

 

 

ギチ、ギチ。

ミチ、ミチ。

ブチ、ブチリ――。

 

 

「――まぁ、破綻するよね」

 

 

――ブチン。

 

左の前方、右の後方。

一際大きな音が二つのバスに響き渡り、右の視界が掻き消えた。

 

 

 

 

 

 

「――……あぁ、あら? 寝ちゃってたわ……」

 

 

停車したバスの中。

窓際の座席で居眠りをしていたお婆さんが、大きなあくびを一つ漏らした。

 

 

「今どこ……あらやだ、過ぎちゃってる」

 

 

お婆さんは行先表示器を確認すると、慌てた様子で席を立つ。

寝ぼけているのか、それとも自分と同じく居眠りをしていると思っているのか。周りの席に転がる他の乗客には目もくれず、バスの降り口へと向かった。

 

 

「はい、降りますからねぇ……えっと、小銭が……ごめんなさいねぇ、寝過ごしちゃってて……」

 

 

そうして財布から整理券と乗車賃を探す間の繋ぎとして、運転手へと喋りかけた。

 

相手が何も反応を返さないにも関わらず、お婆さんはにこやかだ。

背もたれに身体を預け、白目を剥いたまま動かない運転手をまるで気にせず、笑って続ける。

 

 

「それがねぇ、このバスで事故起こる夢見ちゃったのよぉ。いきなりキーって停まってねぇ、わたし、椅子からぽーんって飛んじゃって。夢なのに痛くって痛くって、もう大変で大変で――……」

 

「…………はぁ」

 

 

――そんな様子をバス停横の縁石に腰掛け眺めつつ、私は小さく溜息を吐いた。

 

あの居眠り婆さん、あんな状況でよく最後まで何も気付かずにいられたよな。

まぁそれはそれで良かったんだろうけど、色々と大変だったこっちとしては呆れるやら感心するやら。

 

そうして未だ一人で話し続けるお婆さんから意識を外し……ゆっくりと、バスの前方に目を向ける。

 

 

「――……」

 

 

そこには、真っ黒な粘液が引きずられ、道の先へと延びていた。

 

轍と呼ぶには穢れ過ぎ、舗装汚れと呼ぶには端然とし過ぎている

まるで、バスから引き千切られた『何か』が、体液を撒き散らしながらそのまま進んでいってしまった跡のよう。

 

……これはきっと、少し先の古墳トンネルまで続いているのだろう。

視ているだけで怖気の走る不気味極まりないその光景に、私はもう一度深い深い溜息を吐き出した。

 

 

 

 

――結果から言えば、私達はこの奇妙なバスからの脱出に成功していた。

 

死者も無く、怪我人も無く。

全員無事にループから脱出し、こうしてバスの外にも降りられている。

 

……正直、赤Yのような分裂失敗状態になったヤツが出ていながら無傷って言うのもどうかと思うけど、彼らも私と同じく元の一つの身体に戻っており、気絶はしているものの死んではいなかったのだ。

運転手も似たような状態になっていて、精神的にはどうか知らんが少なくとも全員無傷であるのは確かではあった。

 

例の悪夢の方はまだ解決出来ていないけれど、とりあえずは一難去ったと言ったところだろうか。

座っているのは硬い縁石の上なのに、バスの座席より座り心地がいい気がした。

 

 

「――すまない、待たせたね」

 

 

そうして疲労と安堵でげっそりとしていると、東稲つかさ通りの先からインク瓶が戻って来ていた。

 

つい先ほどまで「電話してくる」と言って離れたきりだったのだが、終わったらしい。

さっきの直後でよく普通に動けるなコイツ……。

 

 

「今、君の親御さんに連絡した。迎えに来てくれるって事だけど……ついて来てくれるとありがたいな」

 

「……いや、警察とか救急じゃなかったのかよ、電話」

 

「今回のような件はこっちで良いのさ。バスも乗客達も、悪くならないよう後処理してくれるそうだよ」

 

「…………その、私の『親』ってのが?」

 

「ああ、君の『親』が」

 

 

インク瓶はそう頷くと、「それに……」と目を細める。

 

 

「君の悪夢の件については、まだどうにも出来ていないからね。ついでに君と君の『親』との間にある様々な齟齬も気になるし、一度全員交えて話しておきたい」

 

「…………」

 

 

……ハッキリ言って、胡散臭いにも程がある。

 

頑なに本名言わないし、親がどうのこうのと言いつつ警察を呼ぶのを避けるとか、女児誘拐を目論む不審者のそれだ。

あの悪夢の事は不安だけど、このままついて行ったら、それはそれで変なとこ連れて行かれるんじゃないかという疑念は拭い切れない。

……でも、

 

 

(……悪いヤツじゃ、ないんだよな)

 

 

こっそりと、左手のおまじないに目を落とす。

 

このバスの中で、コイツは私を助けてくれた。

態度こそイヤミなものだったが、私の質問にも出来る範囲で答え、最後には身体だって張っていた。

 

だから、まぁ……少しくらいは信じてやる気になっていなくもない。みたいな。

そうやって暫く悩んだフリで、また溜息。

 

 

「……分かったよ。夢の事もそうだけど、『親』とかあんたの事とか、私も聞きたい事かなりあるし、今は……ついてってやる」

 

「よかった。不審者の手口に近いから、君の方で通報されるかなと思っていたよ」

 

 

自覚しとんのかい。

ともかく、歩き出したインク瓶をふらふらの膝を引きずり追いかける。

 

 

「…………」

 

 

……最後に。まだあのバスの中で横になっているだろう黒髪の女性が気がかりだったけど、今の私に出来る事は無い。

少しの間だけバスを眺め、それきりその場を後にした。

 

 

 

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

道中は静かなものだった。

 

疲労困憊状態という事もあり、質問も雑談も何もなくただ黙々と歩くだけ。

何とも気まずい沈黙が続き、吸い込む酸素もなんか重たい気がしてしまう。

 

 

「……聞きたい事、あるんじゃなかったのかい」

 

 

すると、インク瓶の方から話を振ってきた。

顔を上げれば、こちらを案じるような視線と目が合った。

 

 

「君、さっきそう言っていただろ。だから僕から何か言うのを控えてるんだが」

 

 

どうやらコイツもコイツで気を遣っていたらしい。

その一言でなんとなく気が抜け、小さく笑った。

 

 

「まぁ、後でいいよ。今ヘトヘトで頭に入んねーってのもあるけど……聞きたいの、あんただけにじゃないし」

 

「親御さんが来たら一緒に聞くって?」

 

「……そんな感じに、なったらいいよな」

 

 

少し俯き呟いて、口を閉じる。

インク瓶もそれ以上何を問いかけてくる事も無く、また沈黙が横たわった。

今度は、あんまり気まずくもなかったけれど。

 

 

「…………」

 

 

……何となく、察しているのだ。

 

さっきのインク瓶との会話の中で、バスや乗客の後処理をしてくれると聞いた時。

彼の言う『親』とは何なのか、ぼんやりとだけど分かってしまった。

 

だって、この街でそんな事をしているヤツなんて、私にはアレらしか思い浮かばなかったから。

 

 

「……ああ、居た」

 

「!」

 

 

インク瓶の足が止まる。

 

その向こうには一軒のコンビニがあり、駐車場には幾台かの乗用車が停まっていた。

……そして、そのうちの一台の傍に、一人の男性が立っている。

 

――その顔に浮かぶのは、感情の見えない無表情。

 

 

「……何が『親』だよ。全然違うだろ」

 

 

私の独り言に、インク瓶はどうしてか困ったように唸るけれど、気にしている余裕はなかった。

 

肩が震える。息が詰まる。

腹の底が重くなって、ともすれば背中を向けて逃げ出しそうになってしまう。

 

しかし、必死に歯を食いしばってそこに立ち、その冷たい視線を真正面から受け止める。

 

 

――『うちの人』。

今一番遭いたくて、一番見たくなかった顔が、そこに居た。

 

 




黒髪の女性:朦朧とした意識の中、「知ったら大喜びじゃん」という一言がやけに大きく聞こえていた。


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【私】の話(中⑦)

 

4

 

 

 

さぁさぁ、さぁさぁ。

雨粒よりも細かく、そして温かい水滴が、泡に塗れた私の旋毛に降り注ぐ。

 

 

「…………」

 

 

無駄に広く、イヤミに和風な大浴場。

熱めのシャワーのお湯がシャンプーを流し、泡と同じ色の髪を曝け出す。

 

泡はそのまま大した起伏の無い胸やおなかを滑り落ち、やがて排水溝へと流れて消えた。

……一瞬、これで身体の方も洗った事にならないかとも思ったけれど、流石にどうかと自重する。

 

 

「……、」

 

 

ちらと、浴場の扉に目をやった。

 

そこに嵌る磨りガラス越しに更衣室の様子がうっすら見えるけど、当然そこに誰が居る訳もない。

けれど、更にその向こう側。廊下の方で立っているヤツの気配が感じられ、どうしても気がささくれ立つ。

 

――そう、『うちの人』の、ヤな気配。

 

 

「……はぁ……」

 

 

自然と溜息が落ち、漂う湯気の中へと紛れ込んだ。

 

今現在、私は自分の家に居る。

謝り、そして問い詰めるべき『うちの人』にようやく遭えたというのに、悠長にシャワーなんぞを浴びている。

 

こんな事をしている場合じゃないとは自分でも思ってるけど、だからって烏の行水になったところで、物事の進みが早くなる訳じゃない。

 

私が今やるべきは、昨日からの疲労を少しでも癒しておく事。

そして逸る心を宥め、気持ちを落ち着けておく事。

……インク瓶に、そう言われた。

 

 

「ああ、くそ……」

 

 

そうは言っても、こんな状況じゃ無理だよ。

もどかしい。私は悪態をひとつ吐き、身体用のスポンジに大量のボディソープをぶちまけた。

 

 

――『うちの人』と、インク瓶とを交えた話しの場。

風呂上がりに待つその時間が、ただひたすらに遠かった。

 

 

 

 

 

 

『――ごめん、なさい』

 

 

あのループするバスから脱出を果たした後。

インク瓶に連れられた先で、迎えらしき『うちの人』の一人と出くわした私は、開口一番頭を下げた。

 

昨夜、私の巻き添えで真っ赤なぐしゃぐしゃに殺されてしまった、『うちの人』の一人であろう金髪の青年の事だ。

あかねちゃんの件について訪ねたい気持ちを抑え込み、口を開き――。

 

 

『――ぁ』

 

 

……そこで初めて、具体的にどう謝るかまで考えていなかった事に気が付いた。

 

逃げずに向かい合い、そしてまず謝るという気持ちが先行し、内容にまで意識が及んでいなかったのだ。

正確には、考えている余裕がなかったのだが……まぁ、言い訳にもならない。正真正銘頭が真っ白になる中、つっかえつっかえ言葉を落とす。

 

 

『あ、あの……昨日の金髪の人……本当に、ごめんなさい。私が、私のせいで、あんな、死に、死ん……。で、でも私、わざとじゃな、あ、ちが、そうじゃなくて、あの……ご、ごめんなさい』

 

 

声が震えて纏まりも無く、おまけに自己弁護まで飛び出しかけた、なんとも酷い謝り方。

 

これでは、昨夜に彼らから逃げ出した時のまま、何も変わらない。

いや、それよりもなお不格好で、ちゃんと向き合うと決めた意味が全く無かったように思えた。地面を見つめ、唇を噛む。

 

 

『…………』

 

 

対する『うちの人』は、やはり何の言葉も返す事は無く。

ただ無造作に車のドアを開けたかと思うと、冷たい瞳をこちらに向けた。

 

昨日、病院前で金髪の青年がしたものと同じ動作――私はぐっと息を詰め、更に言葉を折り重ねて、

 

 

『……その、すまない、話が見えないのだけど……』

 

 

すると、横合いからインク瓶が口を挟んだ。

どうやら彼は私達の詳しい事情を知らされていなかったようで、私と『うちの人』とに戸惑いの視線を送っている。

 

私は無視するべきか、それとも反応するべきかを迷い、少しの間狼狽えて――。

 

 

『――昨夜。我々の身体の一つが例の滓からこの子を庇い、目の前で殺された。それを気に病んでいるようだ』

 

『!?』

 

 

いきなり『うちの人』が喋り出し、思わず小さく飛び跳ねた。

 

……いや、コイツらが私以外が相手だと饒舌になる事は知っているけど、いきなり喋るのを目の当たりにするとやっぱりビビる。言葉の内容なんか意識の外だ。

そうして、私が予想してないところからの動揺に固まっている一方、インク瓶は更に困惑を深めたような顔をした。

 

 

『……何だよその喋り方。いや、というか気に病むって……君の死に? そんなに酷い死に方……いや待て、まさかとは思うが彼女、本当に根っこから何も知らないのか……?』

 

『…………そうだ』

 

『バスで話した時から薄々察してたけど、そこまで? 家の事も、君に関しても何一つ話してない? 本気で言ってる?』

 

『……………………そうだ』

 

『……君の、子供だろ? 流石にそれは……えぇ……?』

 

 

彼は私相手の時と違い、砕けた口調で『うちの人』へと捲し立てている。

その内容はあまりよく理解出来なかったけど……一つだけどうしても我慢ならない間違いがあり、口を挟んだ。

 

 

『……ちげーよ』

 

『え?』

 

『そいつ……そいつらは「うちの人」っていう、何でか私の家に居る知んない人ら。私の「親」なんかじゃ絶対ない。そいつらが適当言ってるだけで、騙されてんだよあんた――』

 

 

――そう伝えた瞬間。インク瓶は顔に手を当て俯いて、『うちの人』は無表情のまま横を向く。

そのまま黙り込む事、暫し。

 

 

『……とりあえず、だ』

 

 

奇妙な沈黙が広がる中、インク瓶の疲れたような声が落ちる。

そして顔を抑えていた手で、『うちの人』の車を指差した。

 

 

『――御魂雲邸に向かいがてら、まず君のこれまでについて詳しく教えて貰えるかい……?』

 

 

……彼は私にそう提案した後、じろりと『うちの人』へ白い目を向ける。

常に変わらぬ筈の無表情が、一瞬だけピクリと乱れた気がした。

 

 

 

 

 

 

それから私は『うちの人』の運転する車に揺られながら、インク瓶に様々な事を尋ねられた。

 

……本当は私の方こそ『うちの人』に色々聞きたかったのだが、ヤツはやはり私からの言葉には何も反応せず、会話が成立するのがインク瓶しかいなかったのだ。

 

そして彼に仲介を頼んでも、「いいけど、まず僕に状況を把握させてくれ」と言われてしまえば、私は従う他なかった訳である。ちくしょう。

 

プロフィール、生い立ち、毎日の過ごし方、そしてここ数日の出来事と、私の目的、どうしてあのバスに乗る事となったのか――。

……本当に話す必要があるのかと怪しむ質問も多々あったけど、その様子は真剣で興味本位ではなさそうだった。

 

というか、私が何か答える度にインク瓶がどんどん不機嫌になっていったのはどういう事なんだろうな。

その矢印は私ではなく『うちの人』に向いていたようだが、私が一言紡ぐごとに眉間のシワが深まっていく姿はちょっと怖かった。そのうち眉間に穴あきそう。

 

ともかく、質問に答え続けるうちに車は私の家に到着。

道中での問答も大体終えたし、さぁ今度はこっちの番だと意気込む私に、しかしインク瓶は首を振った。今度は『うちの人』からも話を聞きたいから、少し時間が欲しいとの事らしい。

 

当然、私はこれ以上待ってられっかと反発したが――その瞬間最悪なタイミングでおなかが鳴った。

おまけにインク瓶の「あと君ちょっと臭うよ」という最悪な後押しを受け、徹夜で動いていた私の休憩時間を兼ねてという体で、渋々了承させられた訳である。あの眼鏡きらい。

 

 

 

 

 

「……はぁ」

 

 

そうしてお風呂から上がり、一息。

リビングへの廊下を歩きながら、湿った髪をタオル越しにかき混ぜる。

 

結局シャワーだけで済ませてしまったからか、臭いはともかく疲れまでは完全に流しきれなかった気がするけど、まぁ仕方ない。

こんな心境でゆったり湯船に浸かっていられる訳が無いし……何より、うっかり気持ちよくなって眠ってしまうのも怖かった。

 

 

「…………」

 

 

タオルで髪を拭く最中、左手に刻まれた黒い線が目に入る。

 

例のバスの中で見た、ヤバそうな悪夢を防いでくれる……かもしれないおまじない。

それはインクのクセにシャワーやソープの泡にも流れず、未だハッキリと私の肌に刻まれていた。

 

 

(これも、どうにかしないとなんだよな……)

 

 

このおまじないがキチンと機能するのであれば良いのだが、もしダメだった場合、私はきっと終わってしまう。

夢の中で私を捉えかけた血色の単眼を思い出し、温まった筈の身体がぶるりと震えた。

 

 

(……時間、まだか、そりゃ)

 

 

その悪寒から逃げるようにスマホの時計を見れば、インク瓶と約束した時間まではまだまだ余裕があった。

軽食をとっても時間が余りそうで、このもどかしさはもう暫くは続きそう――と、

 

 

「――……」

 

 

その時、廊下の曲がり角から『うちの人』がやって来た。

小学生くらいの小さな女の子だ。お運びさんをしているらしく、小さなお盆を持っていた。

 

……けれど、その顔はやっぱり無表情で、目も冷たい。こんな私より小さな子まで何をやらせているんだと、イヤな気分になった。

 

更衣室前に居た成人女性の『うちの人』には舌打ちを残してきたけれど、流石に年下の子相手にそんな事をする気にはなれず。

私は努めて目を合わせないようにしながら、速足で女の子の横を通り過ぎ――。

 

 

「…………」

 

「わっ……?」

 

 

いきなり、私の目の前にお盆が差し出された。

 

当然、小さな女の子からだ。

すれ違いざまだったためぶつかりかけたが、咄嗟に立ち止まってどうにか回避。視線を落とせば、お盆の上にはラップ包みのおにぎりが数個乗っていた。

 

 

「え、な、何? ええと……これ食べろ、って?」

 

「…………」

 

 

小さくても立派な『うちの人』ではあるらしく、やっぱり反応は無かった。

しかしその冷たい瞳は私をじっと見つめ続けていて、お盆も下げられる様子は無い。

 

……普段なら、いらねーよと突っぱねるところではあるのだが。

 

 

(……卑怯だよなぁ、こういうの)

 

 

ものすごく、断り辛かった。

私は暫く迷ったものの、女の子の視線に圧される形で仕方なくおにぎりに手を伸ばす。

 

 

「…………」

 

 

甘いはちみつ梅干し入りで、それ以外の塩気は無い、私の好みから外れた薄い味。

……いつも食べてる、『うちの人』の味。

 

とはいえ疲れて腹ペコな身体にはそのほのかな酸っぱさでもありがたく、二口で全部食べ切った。

 

 

(……この子が、作ったんかな)

 

 

だとしたら、料理の味付け傾向まで統一させるとかほんと何考えてんだろう。

今更ながらに『うちの人』という集団へのうすら寒い気持ちを抱えつつ、なんとなく女の子の冷たい目を見返して……、

 

 

「……ねぇ、あなたのところの大人の人が、そこの自然公園で何かやってたかとか、知らないかな?」

 

「…………」

 

 

無言。

 

ハイハイ分かってた分かってた。

私は浅はかな希望を抱いた己を鼻で笑い、二個目のおにぎりに手を付けた。

 

 

 

 

 

 

「……もうちょっとお淑やかに出来ないの?」

 

 

約束の時間。呼び出された客間の一室。

叩きつける勢いで扉を開けば、長机で革手帳を睨んでいたインク瓶が呆れた顔でそう言った。

 

あんたが待たせすぎるのが悪いんだろ――すぐにそう返そうとしたけれど、同時に目に飛び込んだ部屋の様子に、開いた口が思わず閉じた。

 

 

「…………」

 

 

――だだっ広い室内には大量の『うちの人』がずらりと並び、まっすぐに私を見据えていた。

 

その中にはさっきの女の子や私達を迎えに来ていた男性も居て、老若男女多種多様。

昨夜の金髪の青年が死んだ時の一幕が否応なく思い起こされ、自然と一歩二歩後退る。

 

 

「……え、と。な、何だよ。こんな集めて……」

 

「……不気味なのは申し訳ないけど、この方が話が進めやすいと判断したんだ。まぁ我慢してよ、僕だって座りが悪いの耐えてるんだから……」

 

「…………」

 

 

インク瓶は本当に申し訳なさそうに零しつつ、じろりと隣の席を睨む。

 

彼の隣席には、『うちの人』の一人であろう無表情の女性が腰掛けていた。

彼ら側の代表という事だろうか。長い髪を肩元あたりで二つに纏めた、可愛らしい顔立ちの人だ。

 

彼女は隣からのトゲトゲした視線から逃げるように、ついと明後日の方向を向いている。

……その『うちの人』らしからぬ感情的な仕草に、やっぱり気持ち悪いものを感じてしまう。

 

 

「さて、じゃあまずは状況の整理から始めようか」

 

 

ともかく、ちらちら周囲を気にしながら空いている席につくと、インク瓶がそう切り出した。

流石にこれ以上の遠回りは看過できず、座ったばかりの椅子を蹴飛ばし立ち上がる。

 

 

「もういいっつーの! 散々あんたの話聞いたんだから、今度はこっちのターンの筈だろ!? いい加減回せ!!」

 

「そのための状況整理だよ。君が彼女達に……『うちの人』に謝るにしろ何かを聞くにしろ、前提として幾つかの事を話しておく必要がある。でないと君は何も理解できない」

 

「――……っ」

 

 

一瞬、私の頭の悪さを当て擦られたと思ったけど、インク瓶の目にこちらをバカにする色は無い。

まっすぐ、真剣にこちらを見つめていて……私は暫く唸った後、ゆっくりとまた腰を下ろした。

 

 

「……手短に、一言で済まして」

 

「無理」

 

 

私の方を一言で済ますな。

 

 

「まず、君の事情。君は生まれてからずっとこの……『うちの人』と暮らしていたけど、一度も言葉を交わした事が無い。自分の家や血統、霊能についても何も知らず、君の言うところのオカルトも視えた事が無かった。しかし失踪した友人を探す内にどうしてかその血が目覚め、紆余曲折あった末、『うちの人』からその手がかりを聞き出そうとしている……だよね?」

 

「……紆余曲折の一言で色々纏めすぎだけどな」

 

「では次に、君が『うちの人』と呼ぶ彼女達だけど――」

 

 

インク瓶はそこで一度言葉を切ると、隣の『うちの人』の女性に視線を移す。

それを受けた彼女は、インク瓶を見つめたままに一つ頷き、

 

 

「――我々は『うちの人』ではなく、御魂雲。個であり群体の存在だ」

 

 

無感情にそれだけを告げ、口を閉じた。

 

……そして、私がその意味を咀嚼するより先に。

壁際に立ち並ぶ『うちの人』の一人が、言葉を引き継ぎ、喋り出す。

 

 

「我々は一つの魂を数多の身体に配し、同一の意識でもって別個に行動している」

「我々には自らの魂を代償に成す霊能があり」

「それをもってこの御魂橋の地下深くに漂う『くも』を封じ続けている」

 

 

いや、一人だけではない。

誰かが言葉を区切る度、別の『うちの人』がその続きを口にする――。

 

 

「御魂雲 異は我々の身体の一つが胎に宿した実子であり」

「諸事情によりその血を」「その霊能を封じ」「接触も最低限に抑えていた」

 

 

迎えの男性も。

更衣室前に居た女性も。

おにぎりをくれた女の子も

 

老若男女、一切の乱れなく個々の声を繋げ、言葉の形に縫い付ける。

その異常な光景に、私は声も出せなくて。

 

 

「しかし二日ほど前」「何らかの理由」「によりその封が」「解かれた」

「その対応」「として」「インク瓶」「と呼ばれるあなた」「へと助力を」「乞うた」

「――以上」

 

 

そうして散々に語り続けた後、『うちの人』は一斉に口を閉じた。

それきり誰一人として口を開く事は無く、再び私に冷たい視線を集中させる。

 

……痛いほどの沈黙が、満ちた。

 

 

「……、……ぁ、……ぇ?」

 

 

何も、何も分からなかった。

 

その話し方も、内容も。

今の光景全てが分からず、理解も出来ない。脳みそが受け付けてくれない。

 

 

(……な、に? 今……なにが、何を、見せられた? 何を、聞いた……?)

 

 

隠し芸とか、冗談とか。

何もかもがそう笑ってしまえるような現実味の無いものなのに、幾つもの無表情と冷たい瞳が決してそれを許してくれない。

 

そんな、どう反応すべきかもつかない酷く奇妙な困惑の中――インク瓶の溜息がひとつ、やけに大きく部屋に響いた。

 

 

「……この世には、気が遠くなるほどの昔から、沢山の『異常』が存在するそうだ」

 

「…………」

 

「それは僕達の傍らに常に在り、多くは厄介事を引き起こす。殆どの人はそれを視る事すらかなわないけど、中にはそれに対処出来る特殊な素養を持つ者達も居る。御魂雲……君の『親』は、その一つ」

 

「……霊能力者……?」

 

「そう。そして、君もその力を目の当たりにしている筈だ。昨夜、君の目の前で彼女達の身体の一つが死んだのであれば……それをしたものが、無残な姿になる様を」

 

 

自然と、あの金髪の青年の最期が頭に浮かぶ。

 

真っ赤なぐしゃぐしゃが体内に入り込み、全身に裂け目を作ってミイラになった、全く意味の分からない死に方。

正直、思い出すだけで吐きそうになるけれど……大切なのは、その後の事。

 

 

(……真っ赤なぐしゃぐしゃ、金髪の人の死体から流れ出た後、黒くなって、動かなくなって……)

 

 

そうだ。あの真っ赤なぐしゃぐしゃは金髪の青年の死後に真っ黒なねばねばとなり、沈黙していた。まるで、アレもまた死んだかのように。

 

私はあの光景を「そういうもの」だとして、深く考えてはいなかった。

……だけど、あの光景は、まさか――。

 

 

「簡単に言えば、君達は生贄の血統なのさ」

 

 

私の思考を遮り、インク瓶が静かに告げる。

淡々と、それでいてどこか私を憐れんだような声だった。

 

 

「切られ一倍、返し朝雲――千切る魂雲を精霊とし、神と怪異に……君が言うオカルトへ捧げ鎮めるための力。人を呪わば穴二つ、とは少し違うかもしれないけど、分かるかな。つまりね――」

 

 

インク瓶はそこで一度言葉を切り、持っていた革手帳を長机に開き置いた。

 

何も記されていない、白紙のページ。

しかし、そのページとページの合間――のどの部分から、真っ黒なインクがじわりと滲み、

 

 

「――自分を殺した奴を、殺し返す。そういう風に出来ているんだよ、君達『魂』の家は」

 

 

――瞬間、白紙のページが展開した。

 

 

「なっ……!?」

 

 

訳が分からないけど、そうとしか表現出来ないのだ。

 

まるで折りたたまれた紙が開いていくように、白紙のページがぱたぱたと広がっていく。

呆気にとられる私をよそに、白紙のページは机の半分ほどを覆うまでに広がると、その上をのどから滲んだ黒インクが縦横無尽に蠢き走る。

 

 

「そして、彼女達はその霊能を用いて、とある役目を担っている」

 

 

そうして、元の何倍にも大きくなったページに記されたのは、文字ではなく地図だった。

 

近代的な街並みから深い森林までが混在し、様々な顔を見せる土地。

無数の川が流れ、数多の橋の架かる街。

まるで航空写真のように精巧に描かれた、私達の住む御魂橋市――。

 

 

「――この街の地下深くには、『くも』が居る」

 

 

――その、蜘蛛の巣を象った街の中心に指を置き、インク瓶はそう告げた。

 

 

「……は? く、蜘蛛……?」

 

「オカルトで一つ括りにしていい存在かは疑問だけど、まぁそこはいい。ともかく、『くも』はここが御魂橋と呼ばれる前、遥か昔にこの地に広がり、沢山のものを吞み込んだそうだ」

 

 

そして彼が再び隣の女性を見やれば、またさっきのように継ぎ接ぎの声がした。

 

 

「その『くも』は」「白の身体と赤の眼を持ち」「唯々害悪であった」

「そこに在る全て」「を己が内に取り込み」「血肉と変える」

「多くの」「霊能力者が向かった」「しかし」「幾度散らせど」「すぐに集い」「いつまでも消えない」

 

 

次々と語り部を変える言葉はやはり不気味で、その内容が上手く頭に入って来ない。

 

でも、きっと聞き流していいものじゃないっていうのだけは分かってる。

必死になって耳を傾ける中、やがてぴたりと声が止まり、

 

 

「――だが、我々の死は効いた」

 

 

インク瓶の隣の女性が呟き、地図上の蜘蛛の巣に目を落とす。

 

 

「故に我々は」「幾つもの身体を遣い」「その討伐を試みた」

 

「幾十の身体で八つの眼を潰し」

「幾百の身体で八つの肢を落とし」

「幾千の身体でたった一つの腹を破った」

 

「……だが、頭だけは幾万の身体を遣えど砕くには至らなかった」

「地面の奥底に押し込める事が関の山であったのだ」

 

「以降、我々はこの地を御魂橋とし、『くも』を封じ続けている」

 

「この地で身体を産み続け」

「この地で生を歩み続け」

「そしてこの地で死に続ける」

 

「それにより、削り続けるのだ」

「『くも』が決して地上に上がらないように」

「再び、それがおりる事の無いように」

 

「我々は御魂雲として、蓋の役目を担っている」

 

「――以上」

 

 

それを最後に、声は止んだ。

 

 

「…………………………………………、」

 

 

さっきと同じく、どう反応すればいいのか分からない。

 

あまりにも話が大げさすぎて信じられず、でもこれも嘘だとも思えずに。

ただ、何に対してかも分からない酷い嫌悪感だけが、ぐるり、ぐるりと巡り続ける。

 

そうして、また沈黙が訪れるかと思ったけれど――今度は、そうはならなかった。

 

 

「……さて、その封じられているという『くも』だけど、完全に眠っているって訳でもないらしい」

 

 

今度はインク瓶が語りを引き継ぎ、途切れた話を拾い上げる。

……どうしてか、胸底が微かにざわついた。

 

 

「時折思い出したかのように、地面の底から街のあちこちに干渉して来るようだ。ただの反射か、思考能力があるのか。判断はつかないけれど」

 

「…………」

 

「僕はまだ見た事が無いが、地面を無視して地上に穴を開け、覗き見をしてくるらしい。眼が潰れている筈なのに、器用な事だ」

 

「……穴……」

 

「言うまでもなく、危険なものだよ。普通の人が落ちたらどうなるか分かったもんじゃないから、君の『親』も見つけ次第すぐに対処している」

 

 

胸のざわつきが、どんどんと大きくなってくる。

 

立て続けに変な話を聞いて、不安定になっているのだろうか。

俯くと、いつの間にか服の胸元を握りしめていて、布地に消えないシワが寄っていた。

 

 

「その方法というのが、開いた穴に飛び込んで死ぬ事。穴の向こうで死ねれば、より効果的に『くも』を削げるのだとか」

 

「……、……」

 

「……穴の大きさは、小さい時もあれば大きな時もある。形もその時によってまちまちだから、対処の際には老人や子供といった小さな体格の身体も揃えるそうだ」

 

 

あの雨の日が。

あかねちゃんと過ごした、自然公園での一幕が蘇る。

 

たくさんの『うちの人』が集まり、何かを視下ろしてた光景。

……若い男女の他にも、老人や子供だって居た筈で。

 

 

「……親御さんに尋ねたい事が、あるそうだね」

 

「っ」

 

 

肩が跳ねる。

恐る恐ると視線を上げれば、どこか痛ましいものを見るような瞳と目があった。

 

……やめろよ。

そんな目で見るな。まだ決まってないだろ。

 

頭の良いコイツの事だから、きっともう色々な察しはついてるんだ。

でも、違うかもしれないじゃないか。勘違いかもしれないじゃないか。

だからやめろ。やめてよ。見るな、言うな――。

 

 

「――件の雨の日、我々は自然公園に発生した『くも』の穴に対処していた。その姿をこの子の友人に見られていた事は、我々も承知している」

 

 

――縋る希望を砕いたのは、インク瓶ではなく、その隣の『うちの人』だった。

 

さっきと違って一人だけの身体で言い切った彼女は、インク瓶に注いでいた視線を私に移す。

相変わらずの無表情。だけどそれに何かを思う余裕は、今の私には無い。

 

だって、もし今の話が全部本当だったなら。

 

蜘蛛とか身体とか封とか穴とか、そんな荒唐無稽が全部事実で。

そして私の予想も何もかも、全部が合ってる前提で一纏めに繋げたら。

 

私の思う、あかねちゃんは。

オカルトを求めて夜中に家を抜け出して、きっと自然公園で遭ったオカルトのせいで居なくなった筈の、あかねちゃんは――。

 

 

「――蜘蛛の穴、見つけて……その中、に……、……」

 

 

無意識の呟きが、弱々しく落ちた。

 

……証拠も、根拠にも乏しい。

悪い考えに悪い考えを重ねた、文字通り穴だらけで、否定も容易い突飛な妄想。

 

それは無い。考えすぎだ。そんな一言ですぐに切り捨てられる……その筈、なのに。

 

 

「――……」

 

 

なのに、インク瓶も、『うちの人』も――そして私すら。

誰も、鼻で笑ってくれなかった。

 



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【私】の話(中⑧)

 

 

 

「この街に流れる川はね、ある意味では御魂雲の血流でもあるんだ」

 

 

とある川、とある橋。

その欄干に身体を預けて透き通る水面を眺めつつ、インク瓶はそう言った。

 

 

「君の言うところであるオカルトを誘引し、殺される事で殺し返す。その霊能の性質上、まともな最期を迎えられない身体は多い。だけど全体的な総数から見ればそれ程でもなく、過半数の身体は一般的な最期を迎える事が出来ている」

 

「…………」

 

 

私はその少し先に立ち、彼の言葉に耳を傾ける。

……そんな場合じゃないんだけどなぁ。

 

 

「寿命、病、事故、犯罪……死因は色々あるだろうけど、どれも余人に理解は出来る死に方となる筈だ。そして人が普通に亡くなれば、その後処理も当然普通に発生する」

 

「…………」

 

「そう、お葬式だ。彼らの身体はその殆どが人間社会に溶け込み適合している訳だから、死には弔いが必要になる。周囲へのポーズだね」

 

 

何も言っていないのに、勝手に話が進んでいく。

私が半眼となる最中、インク瓶はゆっくりと屈伸を繰り返しながら、細長く息を吐き出した。

 

 

「……この街の葬儀屋と火葬場のほぼ全てには、君の親御さんが紛れ込んでいる。自分の死体を管理しやすくするためという事もあるけれど、一番は骨を効率よく回収するためさ。火葬した後の、遺骨をね」

 

「……は?」

 

「人間の血液がどう造られるかはもう習ったかい? 産まれて数か月は肝臓や脾臓で造られるけど、その後は骨髄からとなる。つまり、骨から血が生まれ、流れていく」

 

 

その呟きと共に、インク瓶の視線が川に戻る。

丸眼鏡に水面の光が反射して、どんな目をしているのかは分からない。

 

 

「――川の始点。流れの起こりや枝分かれの根本などの川底に、その骨を埋めているんだ。そうする事で川を己の血流なのだと見立て、御魂雲の霊能を一部発現させている」

 

 

……少し。

いや、だいぶ。

いやいや、全部なんも分かんねぇ。

 

そのドン引きの表情を受けてか、インク瓶から苦笑が落ちた。

 

 

「僕のおまじないと似たようなものだよ。遺骨に造血機能なんて残ってないし、川底に埋めたって川の水は血液にならない。だけど、そこに意味は生まれるんだ。少なくとも、地面の下を蠢く『くも』にとってはね」

 

 

コツ、コツ。

彼の爪先が、橋の石畳を叩く。

 

 

「この橋だってそうさ。古来、橋を渡るという行為には厄払いをはじめ様々な意味があるが、その一つに『あの世へ渡る』という意味もある。そして、この街に居る君の親御さんの身体が……御魂雲の魂が橋を渡る事で死を見立て、僅かながらにその霊能へ繋げている。この街の橋と身体の数を考えると、一日にどれだけあの世に渡っているのかな。数えるのもバカらしい」

 

「…………」

 

「引いた川は誘引、架けた橋は死。それぞれに込められた御魂雲が、地下の『くも』を土地の外に出ないよう絡め捕り、抑えつけている訳だ」

 

 

……流れる川の、遠方を眺めた。

 

幾つも枝分かれしながら街中を切り分け、それらを橋が繋いでいる、小さな頃から見慣れた光景。

私はそれに何の疑問も覚えた事は無かった。そうなっている理由に興味を持った事も無かった。

けれど、今は。

 

 

「――この街を真上から見た時に蜘蛛の巣が浮かび上がるのは、つまりはそういう事なんだ。『くも』の巣であり、御魂雲の巣でもある。表に出せない町史の一部さ」

 

 

インク瓶はそう締めて、欄干に手をつきふくらはぎを伸ばし始めた。

私は今の話を自分の中で嚙み砕きつつ、暫く川を見つめ……その内、視線を彼へと戻した。

 

……沈黙。

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

ぐっぐっ。

ぐっぐっ。

インク瓶の足が交互に伸びる。

 

……うん、まぁ、そーな。

気持ち悪い内容だったし、呑み込めたとは絶対に言えないけれど、重要な話ではあったかもしれない。

それは認めてやる。認めてやるんだけれども……。

 

 

「……ねぇ、足攣ったのまだ治らんの?」

 

「……クソっ。もう少し、もう少しだけ待ってくれ……!」

 

 

そんな話、足攣ったの治るまでの時間稼ぎに使うんじゃねーよ。

私は足の痛みに苦しむインク瓶を横目に、焦燥感を溜息に混ぜて吐き出した。

 

 

 

 

 

 

あかねちゃんが、ヤバいオカルトの穴に落ちたかもしれない――。

 

インク瓶達の話でその可能性を示唆された直後、私は勢いよく駆け出した。

 

彼らに何を問う事も忘れ、椅子を倒し、扉を蹴り開け、縺れる足を無理矢理に引きずって。

どこへ行こうとか、何をするとか、何一つ考えてなかった。ただ――あかねちゃんの所に行かなきゃって、それしか頭になかった。

 

……でも、そんな風に走ったって現状何が出来る筈も無いんだ。

結局、玄関を出たところでどこに行ったらいいのか、どうすればいいのかも分からなくなって、途方に暮れるしかなくて。

 

そうして、定まらない爪先で足踏みしている内に、追いかけてきたインク瓶が手を差し出した。

 

 

『……どうしたらいいのか分からないなら、一緒に件の自然公園に行こうか。僕なら君の血が目覚めた理由も含め、新しい発見が出来るかもしれないよ――』

 

 

……あんまり認めたくは無かったけど、それは確かに救いの手だった。

 

自然公園は既に私や警察が散々調べた場所ではあるが、そこにオカルトの知見は無かった。

私の持つそれは水溜まりよりも浅いものだし、それはきっと警察も同じだった筈だから。

 

そしてオカルトが視えるようになった今も、知識が無い事に変わりはない。

例え何かが視えたとして、それだけじゃどうにもならないって事は、ここ一日で身に染みていた。

 

だがインク瓶が居れば、その部分を補える。

彼がオカルト関係へ深い知見を持っているという事は、もう疑う余地はないのだから。

 

私は一も二も無く差し出された手に飛びつくと、そのまま引っこ抜く勢いで自然公園へと引っ張り走った――。

 

……んだけれど、それがダメだった。

私の全力疾走にインク瓶の足が耐え切れなかったようで、その両ふくらはぎが揃って限界を迎えたのだ。

そう、この救いの丸眼鏡は、私が思うよりもずっと脆い貧弱眼鏡だった訳である。

 

 

 

 

 

「……逸るのは分かるが、もう少し丁寧に扱ってくれないかな。君と違って繊細なんだよ、僕は」

 

 

あれから数分経ってようやく落ち着いたのか、インク瓶は深く息を吐き出し恨みがましい目を向ける。

……色々と言い返したいところだったが、流石に自重。バツの悪さに頭の後ろを掻き撫でつつ、川の向こうに目を逸らした。

 

 

「やー……でもさ、ちょっと走ったくらいで足攣るってのも……」

 

「跳ねただけでバスの窓にヒビを入れられる人間の『ちょっと』は、僕みたいな枯れ枝にとっちゃ『殺す』なんだよ。ごらん、この足の震えを。哀れだろう」

 

「貧弱なのは自覚してんのな……」

 

 

恥じるどころか堂々と情けない姿を見せつけてくるインク瓶に、呆れ混じりの溜息一つ。

そういえば、バスでも停車時のゆるいブレーキにすら耐え切れずバランス崩してたっけな。……弱すぎんか?

 

 

「私が言うのもアレだけどさ、そんなんで大丈夫なの? バスとか真っ赤なぐしゃぐしゃとか、いつもあんなの相手にしてんじゃないの……?」

 

「……立ち回りでどうにか出来る場合も多いけど、僕にも多少は霊能の心得がある。見ての通り、何とか今まで生き延びられてるよ」

 

 

霊能という言葉に、左手のおまじないを見る。

彼の霊能とは、この黒いインクを操る力の事だろうか。改めて考えると訳の分からん現象だ。

 

……というかそもそも、コイツ自体はどういう立場なんだ?

 

オカルトライター。霊能力者。あの『うちの人』が頼るほどのヤツ。

輪郭の情報はある程度揃っているけど、本名含めたその内側はまだ何も分かってない。ただ流れのまま、何となく信用しつつあるだけだ。

 

いやまぁ、今まさに体力ナシ眼鏡というどうでもいい事は知れたけど、そういう事じゃなく。

 

 

「……さて、じゃあそろそろ出発しようか」

 

 

そうやって色々と考えていると、インク瓶がひょこひょこと歩みを再開させた。

 

そうだ、今はコイツの詳細なんて二の次だ。

早く自然公園に行って、あかねちゃんの手掛かりを見つけ出さないと――。

 

 

「一応言っておくけど、もう引っ張るのはよしてくれよ。またやられたら、次はきっと肉離れを起こしてもっと時間を食う事になるぞ」

 

「ぐ……だから何で自分が酷い目に遭う瀬戸際で上から目線になれるんだ……!」

 

 

インク瓶の手を掴みかけていた腕を引き、歯ぎしりをする。

そんなもどかしさMAXの私に、彼は小さく鼻を鳴らした。

 

 

「そんなに急ぎたいなら、君の親御さんに送って貰えば良いだろう。さっきは思いつく余裕がなかったんだろうけど、今からでも呼べば……」

 

「…………」

 

「……はぁ、悪かったよ。さっきの今だものな。公園ももうすぐそこだし、このまま行こう」

 

 

私の顔を見たインク瓶は途中で言葉を止め、何でか素直に謝って来た。

……いや別に、特に変な顔とかしたつもりないんだけどな。ぺたぺた触って確かめたけど、どんな表情を浮かべているのか、自分でも分からなかった。

 

 

「……その、地下に居る蜘蛛って、何なんだよ」

 

 

ともかく、仕方なくインク瓶の速度に合わせながら、呟くように問いかける。

気を抜けば駆け出したがる足を宥めるためにも、この際聞ける事は少しでも聞いておきたかった。

 

 

「さっきのと家での話でぼんやり把握した気になってるけど……具体的にはどういうやつなんだ。つーか、そうだ、地下ってどこにあんのよ、開けてくる穴の向こうとか、落ちたらどうなるとか、ええと、ええと……!」

 

「……悪いけど、それらの件に関しては僕も外様だ。これ以上詳しく知りたければ、実際に対峙している君の親御さんに聞くのが確実だが……」

 

「うぐ……」

 

 

咄嗟に辺りをきょろきょろ見回すが、こんな時に限って一つも無表情が見つからない。

 

まぁ居たら居たでインク瓶を挟まなければいけないだろうし、そもそも本当にあかねちゃんが蜘蛛の穴に落ちたと確定している訳でもない。

自然公園への道を逸れてわざわざ探しに行くのも躊躇いがあり、とりあえずは後回しだと割り切った。

 

 

「じゃ、じゃあ……その『うちの人』の事。あんな沢山居るのが本当は一人で、私の『親』だったとかさ。信じられない……いや、っていうか、なんだろ、上手く呑み込めない……」

 

「全部事実だよ。君の『親』は身体を山ほど持っていて、君はその全てと血が繋がっている。正真正銘、彼らの全てが肉親だ」

 

「……そんな断言されてもさぁ……」

 

 

『うちの人』の身体は数万人単位で、しかもそれを全部別々に動かしてるとか、そいつら全部に私と同じ血が流れてるとか、すんなり入ってくる訳ないだろ。

信じる信じないとかの前の段階でつっかかっていて、一方でどうしてかあまり疑ってない自分も居て、心の置き所が定まらない。

 

そう情けない声で呻く私を、インク瓶はちらりと一瞥。

「……子供の、それも女の子に聞かせていいものかは分からないけど」と前置きし、どこか慎重に語り始めた。

 

 

「御魂雲の血は崩れない。たとえ誰と交わろうとも、設けた子供はその全てが御魂雲となる。種でも、畑でも、そこに御魂雲の血が一滴でも垂らされれば、それが何より優先されるんだ」

 

「……、……」

 

 

……反応し難い。

変にボカされてるのが逆にアレ。私は小さく眉を下げ、押し黙り――。

 

 

「だから――彼らは、自分自身としか交配をしない」

 

 

続いて落とされた生臭い一言に、体温が下がった気がした。

 

 

「……は?」

 

「産まれてくる子供の全てが御魂雲の魂を宿すんだ。普通に人の輪へ混ざれば、そう遠くない未来に人類そのものが御魂雲に乗っ取られかねないだろう。彼らは人間の敵にならないよう、基本的に自分の身体同士でしか子を成さず、個の群れの内で完結したサイクルを数百年に渡り続けている。一度遺伝病か何かで痛い目を見たらしく、身体それぞれの血の濃さも考えて組み合わせたりしているらしいよ」

 

「ひゃ……え、……え?」

 

「もはや霊能がどうとかいうより、そういった生態の種族に近いのさ。万の身体も、それを動かす力も、それを踏まえれば少しは現実感が出て、呑み込みやすくはならないかい」

 

 

なる訳ねぇだろ。

……と言いたくはあったけど、おおまかな流れ自体は、私の頭でも想像出来なくもなかった。

 

つまり、大昔にそういう霊能を持っていたヤツが居て、ソイツが子供を作って少しずつ身体の人数が増えていって、ああこりゃヤバいと察して自分だけで増えるようになったと。

そして長い時間をかけて増えてくうちに色々あって……そんで、最終的に私が産まれたと。そういう事なんだろう、きっと。

 

…………。

 

……ん?

 

 

「あれ? 何かおかしくない……?」

 

 

違和感。

 

……今の話が本当なら、一つだけどうしてもおかしい事がある。

御魂雲から産まれた子供全てがその魂を……『うちの人』の意識を持つのであれば、何で――。

 

 

「――何で、私は私なんだ……?」

 

 

そうだ。私は断じて『うちの人』の身体の一つではない。

この意識は私だけのものだし、記憶だってそう。『うちの人』の魂とかよく分からんキモいもんなんて、身体のどこにも介在してない。私は私、ちゃんとした一個人だ。

 

これじゃあ、今までの話と明らかに矛盾しているじゃないか――そう口にしようとしたその時、私は自分の名前を思い出す。

 

――御魂雲 異。

 

 

「――……」

 

「……君が君である理由は、僕には分からない。それについては話してくれなかったからね、彼女」

 

 

さっきの私の呟きを聞き取ったらしきインク瓶の言葉に、我に返る。

のろのろと顔を上げれば、彼の視線には隠し切れない気まずさが滲んでいた。

 

 

「気分を悪くしてごめんね。やっぱり、君にとっては嫌な話だったようだ」

 

「いや……何てーか、その……」

 

 

……どう、伝えればいいんだろう。

胸のそれを上手く言語化出来ないまま、私は暫く唸り続け……やがて溜息と一緒に出てきたのは、それとは別の問いかけだった。

 

 

「……あんたは、『うちの人』とどういう関係なんだよ」

 

「僕?」

 

「ん。何か話す時の口調も砕けてたし、割と仲良さげっていうかさ……」

 

 

一応、それも気になっていた事ではあったのだ。

 

彼と接している時の『うちの人』はどこか感情豊かに見えて、私にとっては気持ち悪い感じになっている。

ただの知り合いとか協力者ではなく、もっと近い距離に居るような気がしていた。

 

それを尋ねれば、インク瓶は少しだけ目元を緩め、

 

 

「率直に言えば、同級生さ。高校生の頃、その身体の一つと同じクラスだった。この界隈に浸ってから本格的に交流するようになって、今まで続いてるよ」

 

「さっきまでの話と温度違いすぎだろ」

 

 

得体のしれないオカルト話から、青春時代の思い出話にまで一気にシフトしたが。

いや、これもこれで私にとってはキモめの話ではあるけども……。

 

 

「さっき君の家で話した時、僕の隣に居た女性の身体さ。(えだなし)という名前で、普段は穏やかで内向的な人格が設定されている」

 

「……人格設定」

 

 

私以外の人の前では普通に振舞っているので、それの事だろう。

……以前はただ気持ち悪いと思うだけだったけど、色々聞いた今だと感じ方もまた変わってくる。

 

 

「それ、身体全部が……何万人分それぞれが別の場所で、同時に別キャラ演じてるって事だよな……?」

 

「そうなるね。本人曰く演技ではなく、どれも本心ではあるらしいけど」

 

「……何か、頭おかしくなりそう」

 

 

『うちの人』の脳内がどうなっているのか、想像するのも恐ろしい。

そうぐったりしていると、インク瓶は意味ありげな目を私に向けた。

 

 

「彼女達の人格は、早々剥がれる事は無い。それこそ、死の間際だってそれぞれの人格を貫けるほどなんだけど……」

 

「いや、どこが……?」

 

 

私の前だと人格どころか人間味ごとあっさり剥がれ、無表情の無反応になってますけど。

それが『うちの人』の素顔かどうかはさておいても、設定した人格を演じ切れていないのは確かだろう。

 

 

「僕もそれが分からないんだよな……御魂雲の身体にはそれなりの数会ってきたけど、あんな風になった事はなかった。諸事情とやらも明かしてくれないし、何を考えているのか……」

 

「……言っとくけど、私に心当たりは無いからな」

 

「分かってるよ。何一つ知らされてないなら当然――……ああ、とりあえずここまでにしようか」

 

 

途中、インク瓶が唐突に話を打ち切った。

 

一体どうして……とは思わない。

その理由は分かっているし、もう少し話を続けるようだったら私の方から打ち切っていた。

 

知らぬ内にまた速足になり、インク瓶の背中を追い抜いていく。

 

 

「さて、じゃあ案内してくれるかい。君が血を噴き出して倒れたっていう広場まで」

 

 

私達の目の前に広がるのは、綺麗に整えられた木々の道。

早く辿り着きたくてたまらなかった、自然公園への入り口だった。

 

 

 

 

 

あかねちゃんを探す人数は、昨日よりもだいぶ減っているようだった。

 

警察も別の場所を優先して探しているようで見える範囲には居らず、何人かの警備員や職員さんがうろついているだけだ。

……いや、ひょっとしたら彼らも普通に仕事をしているだけで、ここでの捜索は切り上げているのかもしれない。ここ数日で顔見知りとなった警備員を見かけた際、気まずい顔でそそくさと離れていく姿に、そう察した。

 

 

「ここが、その場所か」

 

 

道中に見たそんな様子に私の焦りが増していく中、インク瓶は件の広場に着くなり噴水池へと近づくと、革手帳を広げて動かなくなった。

何かを調べるでも探すでもない彼の姿に、流石に不安を抑えきれずその服の裾を引っ張った。

 

 

「ね、ねぇ、何してんだよ。色々調べたりとかしなくていいの? その、私も手伝うから……」

 

「……ふん。今調べているところだよ、ほら」

 

 

そう言って見せられた手帳のページの中では、黒いインクがうにょうにょと蠢いていた。

文字どころか図でもなく、まるでアメーバのような挙動を見せるそれに、私の肌が泡立ち弾ける。

 

 

「うぇっ……え、なにしてんのこれ……?」

 

「簡単に言えば、この広場にオカルトがあるかどうかを探っている。この街だと障害が多くて色々と難しいから、少し待って貰えると有難いね」

 

「……う、ん」

 

 

……具体的に何してんのかイマイチ分からなかったけど、サボっている訳じゃないらしいので良しとした。良いのか?

ともあれ、そうしてソワソワしながらインク瓶の作業が終わるのを待っていると、ふと彼の目線が私の左手を向いている事に気が付いた。

 

 

「……どうやら、何とか役には立てているみたいだね、そのおまじない」

 

「え……あ、あぁ、そう……なの?」

 

 

左手を掲げ、そこに刻まれたおまじないを眺める。

 

例のヤバそうな夢を遮断するとの事だったが、実際に効果が出るかは不透明という微妙なもの。

バスの一件から眠っていないので私に実際の程は分からなかったが、インク瓶は何かしら判断が付いたようだ。

 

 

「ここに来るまでの間、オカルトに遭遇しなかっただろう。ちゃんと目隠しが作用していると見ていい筈だ」

 

「……まぁ、昨日の夜に比べれば全然視なかったけど……」

 

 

昨夜は走った分だけ変なものに遭遇したのに、この道中では何も無かった。

今まで考えが至らなかったが、言われてみると確かに疑問ではある。

 

 

「夜自体がオカルトが活発化する時間帯ではあるんだけど……そもそも君が彼らに遭遇しやすくなっているのは、血が目覚めた事もあるが、悪夢を見せている存在によるものが大きいと思っている。それが君を見ているから、他のオカルトも君に目が行きやすくなっているんだ」

 

「……ソイツが号令か何か出してるって?」

 

「いいや。だが君らだって、アイドルや芸能人がハマっているものには自然と興味を持つだろう? オカルトだって似たようなものさ。大きな存在感を持つものが一点に視線を注いでいれば、その対象もよく目立つ。その大本の視線から隠れられれば、他から絡まれる頻度もまぁまぁ減る」

 

「厄介ファンに絡まれてるってんじゃねーんだぞ……!」

 

 

何か一気に俗っぽい感じになったけど、当事者としちゃたまったもんじゃない。

途端左手のおまじないの重要度が増し、掠れないようそっと握った。

 

 

「大体何なんだよ、そのアイドルオカルト。どこでそんなんに目ぇつけられたんだ、私……」

 

「……確証は無い。確証は無いが、これで……」

 

 

その時、インク瓶の手帳が大きく揺れた。

同時に不定形だったインクが形を定め、数行の文章を並べたように見えた。

 

 

「――、……」

 

 

インク瓶は何故か一瞬だけ痛ましげな顔になったかと思うと、すぐに難しい表情をして例の噴水池を覗き込んだ。

 

 

「……何か分かったの?」

 

「そう、だね……どうもこの噴水は、カメラのようなオカルトみたいだ」

 

「は?」

 

 

噴水とカメラが繋がらず、首を傾げる。

インク瓶はそんな私に小さく鼻を鳴らし、おもむろに空を仰ぐ。小さな雲が多少かかった、青い部分の多い空。

 

 

「空に分厚い雲がかかり、雨が水面に落ちている間。そこを覗き込んだ者が思い浮かべているもの、その現在を映し出すらしい」

 

「え……」

 

「つまり――何かを探しながら覗き込めば、それが今どうなっているのか中継されるって事」

 

 

――それを聞いた瞬間、私は縋りつくように噴水池に身を乗り出した。

 

頭の中であかねちゃんの姿を強く強く思い浮かべながら、目を皿にして水面を見つめ――「いてっ」革手帳で頭をぺちっと叩かれた。

 

 

「雲のかかった雨の時って言ってるだろ……今覗いたって意味は無いよ」

 

「ぐっ……で、でもぉ……」

 

「まず君がやるべきは、冷静になって考える事だ……おかしいと思わないのかい?」

 

「……、何が」

 

「君はここで血を噴き出して倒れたんだろう? おそらく、それが君の血の目覚めさせるトリガーとなっている。でもこの噴水にそうなる要素、ある?」

 

 

そこまで言われて、はたと気づいた。

 

確かにインク瓶の言う事が正しければ、この噴水のオカルトに人を傷つけたり、血をどうこうしたりといった変な要素は無い。

私がこれまで遭遇してきた中で、ダントツでおとなしいオカルトと言えるだろう。

 

 

「え、じゃあ……どうしてあんな痛い思いしたんだよ、私」

 

「僕がそれを聞いているんだけどねぇ……改めて、ここで何があったんだい?」

 

「…………」

 

 

空を見上げるも、雲はあれど雨の気配は程遠く、噴水の水面にも変化はない。

……大きく、大きく息を吐き出して。私は渋々、あの時の事を思い出してみる事とした。

 

 

(つっても、なぁ……)

 

 

もや、と思考が濁る。

あの苦痛を思い出す事を身体が嫌がっているかのように、どうにも記憶がぼんやりしていて、ハッキリとしない。

 

……あの時、私はここで何をされた? 何を聞いた?

池の淵に手をついて、ゆっくり、ゆっくりと記憶を探っていく。

 

 

(……雨、降ってて。あかねちゃん探し回ってて、それで、池の水面がまっ平らになってて……)

 

 

そう、そうだ。私はそれが気になったから、池を覗いた。

そしてあかねちゃんを探しに戻ろうとして、気づけば水面が真っ黒になっていたのだ。

 

いや、正確には真っ暗などこかだ。今さっきインク瓶がしてくれたオカルトの説明を信じるのなら――あれは、あかねちゃんが居た場所だった?

 

 

(あんな……光の無い、暗いとこに……やっぱり、穴――、っ)

 

 

途端、駆け出そうとする足を抑える。

 

それはもうやっただろ。どうせどこにも行けず、足踏みする事になるだけだ。

今私がやるべきは、冷静になって考える事――。

何度も自分にそう言い聞かせ、すっ飛びかけた思考を戻す。

 

 

(……それで、そこにある何かを見ようとして……でも、見えなくされた。映っていた暗闇が、何かに遮られて……)

 

 

後ろから誰かが目隠しをした……どうしてかそれが分かって、そのすぐ後にあの激痛が、

 

 

(――違う)

 

 

ズキリ。目の奥と全身の血管とが熱を持ち、軋みを上げる。

 

……そうだよ、地べたを転げまわる前に、何かを聞いたじゃないか。

雨音に紛れてしまうくらいの、小さな小さな掠れ声。

 

それと一緒に目隠しが、震える影が上にズレていって。

きっと、瞼を上げるような、眼を開かせるような動きで。

 

そして……それが、払われ切って――。

 

 

「――みえ、ろ」

 

 

ぽつり。

無意識に、零れた。

 

 

「……何だい?」

 

 

それを聞きとったらしいインク瓶が声をかけてきたけど、私に反応する余裕はなかった。

 

だって、思い出したから。

 

あの時、あの凄まじい苦痛が襲い来る直前、どこからか聞こえたあの声は。

掠れ、ざらついていたけれど。叫び続けた果てのように、血に滲んでいたけれど。

 

幻聴だって、聞き間違いだって思いたい。でも私が間違える筈ないんだ。絶対、絶対に、あれは。

 

 

「――あ、あかねちゃんの、だった」

 

 

呟く声が、震える。

 

 

「聞いたんだ……倒れる前、ここで、変な声……」

 

「……そう」

 

「伝えたいの、分かんない。ガラガラで、殆ど聞こえないような、掠れたやつで。でも、あれ、あ、あかね……ちゃ……、……」

 

 

――どうして、そんな声になった?

 

 

「……ぅ……」

 

 

耳の奥で、血の下がる音が聞こえた。

 

考えが纏まらない。淵につく手が折れかけて、また水面を覗き込む。

望むものは映らずに、ただ、ひどい顔だけがあった。

 

 

「……その友達が、みえろ、と言った?」

 

 

そっと、触れてくるような声音だった。

無言のまま、ほんの僅かに顎を引く。

 

 

「……あかねちゃん、だっけ? あまり、詳しく聞いてないけれど」

 

「……、…………さやま、あかねちゃん。私の、親友」

 

「――さやま?」

 

 

突然、インク瓶の声に硬さが混じる。

思わず振り返れば、彼の眉間に僅かなシワが寄っていた。

 

 

「な、何だよ……何か、気付いた……?」

 

「いや……そういう訳じゃないんだが……」

 

 

何とも歯に物が挟まったかのような物言いだったが、何か分かったのなら何でも教えてほしかった。

そのまま縋りつくように見つめれば、苦々しい顔で目を逸らす。

 

 

「……その子、名前はどう書くの?」

 

「え……ち、調査する山、金銀銅の銅で、査山銅ちゃん……だけど……」

 

「…………」

 

 

……何だよ。名前がどうしたっていうんだ。

一体何がそんなに気にかかっているのか、インク瓶は暫く唸り続け……やがて、小さく息を吐く。

 

 

「……大昔、同じ字面の査山と書く霊能力者一族が居たって話を思い出したんだ。それだけ」

 

「え……あかねちゃんの、ご先祖様って?」

 

「既に途絶えたとされる血統だよ。話では千里眼の――いや、別に関係ない事だ。それより他の場所も見に行ってみよう。休む時間も惜しいんだろ、君」

 

「は? あ、ちょっ」

 

 

インク瓶は革手帳をそっと閉じると、一方的な言葉を残して広場入口へと歩き出す。

そのあからさまな誤魔化し方に、その背を困惑したまま見送った。

 

 

(……なに、あれ)

 

 

よく分からない反応だ。

本当に関係ないならあんな風には言わないだろうし、何かしらあるのは察するけど……大昔の霊能力者の話がどう今に繋がるのかが見えない。

 

千里眼がどうとか言ってたけど、それに何の――……、

 

 

――『視、、ろ』

 

 

「――ぁ?」

 

 

再び脳裏に声が蘇り、反射的に左手のおまじないに目をやった。

そして反対の手で目元をなぞり、呆然と立つ。

 

 

「……え、と……」

 

 

……頭の中に、とある画が浮かんでいた。

でも、どうしてそうなるのかが全然分からなくて、受け入れられない。

 

私はそのまま暫く呆け続け……気づいた時には、無意識にまた水面を覗き込んでいた。

けれどやっぱりおかしなものは何も映らず、青空と多少の雲だけが噴水の飛沫に揺れるだけ。何も視えず、聞こえもしない。

 

 

「――……」

 

 

スマホ。

開く画面は天気予報。指定の日時は今日、これから。

 

――本日は日中晴天。しかし、深夜頃から次の日の早朝にかけて、雨の恐れ。

 

 

「……っ」

 

 

一度きつく目を瞑り、ゆっくりと開き。

スマホを強く強く握りしめ、空の端っこを睨み上げた。

 

そこには夜の気配なんて、まだひとかけらすらも無かったけれど――私の目には、その向こう側に揺蕩う真っ暗な雲が見えていた。

 

 

 



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【私】の話(中⑨)

5

 

 

 

あかねちゃんには、スマホで心霊映像を撮る前に背面レンズを撫で上げるという癖があった。

 

まぁ、誰もがよくやる仕草ではある。

カメラに埃や指紋が写り込まないように拭っているだけ。おかしく思った事なんて無いし、なんなら私自身も意識すらせず日常的にやっているだろう。

 

じゃあ何故、私はそれを癖だと思ったのか。

それは、あかねちゃんのその手つきにちょっとした特徴があったからだ。

 

彼女のレンズの撫で方は、まるで人の目に対して行うような柔らかなものだった。

 

そっと瞼に指を添えて、開かせるように撫で払う。

私が適当に指でグイッとやるそれの百倍は丁寧な感じで、なんとなく気に留まっていたのだ。

 

とはいえ会話の種になる程のものでもなく、深く言及した事もない。

……でも、たった一度だけ。軽くだけど触れた事があった。

 

いつものようにあかねちゃんと一緒にホラースポットへと赴き、オカルトを探してあちこち散策していた時だ。

突然笑顔を浮かべた彼女が、何もない場所へと向けたスマホのレンズを撫で上げたのを見て、何の気なしに呟いたのだ。

 

それ、いつもやってんね――そんだけ。

 

問いかけでも話を振った訳でもない、ふとした拍子に出た独り言。

けれどあかねちゃんは無視もせず、その声に応えてくれた。

 

きょとんと一瞬目を丸くして、私の目線を追って何の事を言っているのか気付き、ちょっとだけ照れながら、可愛らしく笑って――。

 

 

「――おまじないだよ。よーく映りますように、って」

 

 

 

 

 

 

「『くも』を封じた地下とは、具体的な場所を示すものではない」

 

 

夕暮れ時。自宅へ向かう車の中。

運転手である『うちの人』が、前方をじっと見つめたままそう言った。

 

 

「地面の奥底に存在するのは確かだ。しかしそこに繋がる道はどこにも無く、また物理的な空間が作られている訳でも無い。ただ、地下が在る」

 

「……例のバスと似たようなものだよ。二重にぶれた右側、ああいった感じのものがこの街の地下に重なっていて、その中に『くも』が居るようだ」

 

 

不親切に過ぎる説明だったが、助手席に座るインク瓶からの補足が入り、なんとなくイメージはついた。

 

……んだけど、それってこの街の地下全域がオカルトの領域になってるって事じゃないのか?

窓の外に流れる何の変哲もない街並みが急にハリボテのように見え、薄ら寒いものが背筋に上った。

 

 

「そして、我々には自らそこへ干渉する術は無い。這い上がらぬよう、おりぬよう管理し、蓋となり、そして時折開く穴を利用して削る。それが精々だ」

 

「……地下ってとこに封じたの、あんたらなんじゃないのかよ」

 

「…………」

 

 

返事は無い。

やっぱり私の言葉だけを無視する『うちの人』に文句が出かけ、またインク瓶が遮った。

 

 

「『くも』が地面の下にいるのは、自分の力で逃げ込んだって事だね。だから君らも頭を砕き切れなかったと」

 

「……我々の霊能は、我々に危害を加えたものだけに作用する。逃げ出したものの背を切りつける事は難しい」

 

 

……どこまでも受け身で、訳の分からない力だった。

自殺などの方法を取る事で多少の応用は効くようだが、そもそも命を落とす事で初めて使えるだなんて、生物が持つものとして何かが間違っている気がした。

 

 

「つまり、向こうが穴を開けてくるのを待つしかない訳だ。こっちから動いて、どうこう出来るものじゃない……」

 

 

インク瓶はゆっくりと言い含めるように纏めると、軽く顔を傾ける。窓の外のサイドミラー越し、その静かな瞳と目が合った。

そして空気を切り替えるように、一呼吸の間を置いて、

 

 

「――自然公園での捜索が空振りに終わった事、謝るよ。結局、例の噴水の詳細くらいしか目ぼしいものは無かった訳だから」

 

「え……」

 

 

いきなり話題が挿げ替えられ、若干戸惑う。

 

……いや、まぁ、インク瓶の言う通り、自然公園ではあれから何も見つける事が出来なかったのは確かだ。

 

雨の日に覗くと探し物が映るという噴水のオカルトが唯一の発見で、私の血が目覚めた訳も、あかねちゃんの手がかりも、どちらもハッキリとはせず謎のまま。

インク瓶もこれ以上は何も出ないと判断し、日も落ちてきた事もあって仕方なくその場は切り上げる事となった。最後に後回しにしていた『うちの人』への質問ついでに迎えに呼んで、今に至る。

 

正直、劇的に何かが前進したとは言い難い、期待外れと言えば期待外れの結果ではあった。

……あったんだ、けども。

 

 

「……何、いきなり」

 

「新しい発見が出来るかも……なんて言っておきながらこれだ。確かに新たな発見ではあったけど、これじゃ単に友達を探す時間を無駄にさせてしまっただけだね。本当に、ごめん」

 

「……いや……」

 

「……その上でこんな事を言うのも厚顔だとは思うけど――今後少しの間だけ、大人しくしていてくれないかな」

 

「は?」

 

 

一瞬、何を言われたのか分からなかった。

その内じわじわと脳みそに理解が浸透し、私の眦が吊り上がる。

 

 

「……今さ、あかねちゃん探しは諦めて引き籠ってろって言った?」

 

「そこまでは言ってない。友達の捜索は君の親御さんを総動員させるし、僕も可能な範囲での協力はする。約束だ。だから君が四六時中街を駆け回る必要はないって話」

 

「信用できねーよ。あんたは……まぁ、けど、そこの無表情どもはさ」

 

 

そう言って睨む先を『うちの人』に変えれば、続けてインク瓶も隣を見る。

どんな視線かは私の位置からは見えなかったけど、バックミラーの無表情がサッと目線を逸らしたあたり、トゲトゲしたものではあったようだ。

 

 

「……勝手な事を言っているのは自覚してるし、説得力が足りないのは分かってる。でも……現状で君が出来る事は、無いんだ」

 

「……っ」

 

 

そんなの、とっくの昔に察してる。

けれどハッキリ言われてそうだよねと素直に頷けるもんでもない。湧き上がる反発心のまま、声を荒げた。

 

 

「そ、そんな事ないだろ。あの噴水だってあるんだ、今日の夜に雨降るっていうし、それで……!」

 

「あれは映し出すだけだ。もう既に一度その光景を見て、そこがどこかは分からなかったんだろう? それ以上の情報は……」

 

「二日前の話だろうが! あん時は真っ暗だったけど今見たら違うかもしんないし、あんただってホントは――」

 

「それに」

 

 

そんなに大きくない声なのに、やけにハッキリと通った気がして、思わず黙り込む。

座席越しにインク瓶の左手がひらひら振られ、私のおまじないを意識させた。

 

 

「君の状況だって、あまり良いとは言えない事を忘れてないかい。僕のおまじないで遮られてはいるけど、厄介なオカルトに目を付けられている事実に変わりは無いんだ。あまり大きく動いてもし他のオカルトの目を引いてしまえば、それに釣られてまた見つかってしまうかもしれない」

 

「今更? あんなに公園連れまわしといて」

 

「おまじないの効果を確認したいっていうのもあったからね。機能していると確信出来た以上、もう無理して危険を冒す必要は無いし――さっき聞いた通り、『くも』の穴の方だってこっちからは何も出来ない。……動かない方が、良い」

 

 

それが私を慮ってのものだというのは、その声音から窺えた。

だけど納得なんて到底出来る訳も無く、私は湧き上がる怒りのまま胸の中身をぶちまけて、

 

 

「……っの……!」

 

 

寸前、ぐっと堪える。

 

……今コイツを問い詰めても、きっと理詰めで返される。

そして私の頭じゃ言い返す事だってままならなくて、よく分かんないうちに言い包められ、押し切られてしまうんだ。私は私の脳みそに、そんな負の信頼を持っている。

 

これ以上ヤツの土俵に付き合って、『動かない方が良い理由』を重ねられてたまるか。

私は音がするくらいきつく唇を引き結び、座席のシートに後ろ頭を押し付けた。

 

 

「勿論、一生そうしてろって訳じゃない。ただ、そのおまじないを外せるようになるまでは――」

 

「うっさいもう喋んなバーカ」

 

「……ごめんね」

 

 

――クソガキ極まる稚拙な悪態に彼は呆れもせず、お得意のイヤミすら返して来ない。

 

……彼に抱いているある疑いが深まり、凄くイヤな気分になって。

それきり私は何を言われても決して口を開く事なく、ひたすら外の景色に穴の影を探し続けていた。

 

 

 

 

 

 

まぁ言うまでも無く、帰り道に蜘蛛の穴は見つからなかった。

私達を乗せた車は何事も無く家に着き、私はインク瓶と家のあちこちに立つ『うちの人』とを無視して、一人自室に走った。

 

彼の言葉通りに引き籠ってやるつもりは微塵もない。単に、これからの事について改めて考えたかっただけだ。

……本当は、すぐにでも街に飛び出したかったけど――それが短絡的に過ぎる悪手だってのは、もう分かり切っていた。

 

 

「――くそっ!」

 

 

そうして戻った部屋のベッドに脱いだ上着を投げつけながら、私はぐしゃぐしゃと頭をかき回す。

 

インク瓶の提案が理にかなっている事は分かってる。

あかねちゃんに繋がる確かな手がかりは無いし、私の身が危ないのは本当だし、『うちの人』の協力があれば百人力どころか万人力だ。冷静に考えれば、反発する理由なんてそんなに無い。

 

だけど、感情が納得してくれない。

私自身があかねちゃんを探したいと思っている事もそうだけど、それとは別に、もうひとつ。

 

 

(――アイツ、絶っっっ対何か気付いてるのに……!)

 

 

そう、インク瓶はまず間違いなく、私に何か隠してる事がある。

明確な証拠や根拠がある訳じゃない。だけど、彼の言動の端々に違和感があるのだ。

 

噴水のオカルトの詳細が分かった時、そしてあかねちゃんの話を聞いた時。

僅かに変な反応をして、それから少しだけ言葉尻が丸くなった。そしてついにはさっきのアレ。

 

きっと、何かに気付き、確信したんだ。

 

ちょっとヤな性格してるアイツが、イヤミを封印する気になるような。

私のあかねちゃん探しを強引に止めてくるような、何かに。

 

 

(なのに、教えてくれないってのは――……ああくそ、キリキリする……!)

 

 

……きっと、私が知らない方がいいものなんだろう。

考えるだけで胃の底が重たくなって、吐きそうになる。

 

だけど、これは逃げ出していいもんじゃないんだ。

深呼吸を繰り返してこみ上げるものを抑えつつ、ゆっくり思考を回していく。

 

 

(考えろ……考えろ、考えろ、考えろ……)

 

 

今の私がするべき事は、冷静になって考える事――。

 

とってもムカつくべき事ではあるが、インク瓶のその言葉は私が思うよりもずっと胸に沁み入っていたようだった。

ここ数日の事、自然公園での一幕。覚えてる全てを引っ張り出して、インク瓶が気付いた何かの姿を追っていく。

 

 

(……そもそも、あの時言ってた噴水の説明って全部本当なのか? ひょっとしたら嘘ついてたり、誤魔化してたりとか……)

 

 

今更ながら、彼の言葉全てを無条件に受け入れていた自分に気が付いた。チョロすぎんか。

アイツが自称オカルトライターの不審者である事を思い出し、心を少し離してみる。

 

 

(いや……でも、たぶん嘘はついてない。アイツの言ってたの、記憶通りだったし……)

 

 

雨の日にそうなるとか、探してるのが映るとか、そのあたりはちゃんと自分で体験している事柄だ。

出鱈目を吹き込まれているとは流石に思えず――じゃあ、他に何かが隠れてた?

 

 

(……声、気にしてた、よな)

 

 

……私が最初に噴水を覗き込み、そして倒れた時に聞いた、あかねちゃんの掠れ声。

インク瓶は、それを聞いた直後に彼女の事を聞いてきた。それまでは、特に詳しく聞いて来なかったのに。

 

 

「…………」

 

 

インク瓶のおまじないが刻まれた左手で、そっと瞼を撫でる。

 

……あの時彼が零した、あかねちゃんの苗字と同じ査山っていう霊能力者の話。

それを聞いた時から、私の胸にはとある疑念が燻っている。

 

二日ほど前、雨の日の噴水前で起きた事。

私が受けたあの苦痛。オカルトが視えるようになった事。血が目覚めた事。

 

それら全部、全部――あかねちゃんの仕業だったんじゃないのか?

 

 

(……千里、眼……)

 

 

インク瓶曰く、査山の一族が持つ霊能力。

それが具体的にどういったものかは知らないし、あかねちゃんの家と関係あるのかどうかなんてもっと知らない。

 

だけど……ひょっとしたら、それと同じようなものを、あかねちゃんも持っていたのではないか。

 

思い出すのは、彼女の癖だったスマホのカメラを撫でるおまじない。

 

あの、まるで瞼をそっと開かせるような手つき。

何枚も何枚も、狙って撮る事の出来ていた心霊映像。

そして――噴水池の水面に見た目隠しの黒と、どこかで響いたあの言葉――。

 

 

「――視えろ……」

 

 

……あれも、おまじないだった?

 

この左手のインクような事が、あかねちゃんにも出来て。

それが彼女の心霊映像の撮り方で、スマホのカメラにしていたように、私の眼にもそれを施した。

その刺激で私の血も変な事になって……そして今、こんな事になっている――とか。

 

想像だ。でも、私にはそれが真実だと思えてならず。

 

 

「……どうして」

 

 

考える度に分からなくなる。

もしその通りだったとしたら、あかねちゃんはどうしてそんな事をしたんだろう。

 

あんなに痛い思いをさせられて。あんなに苦しい思いをさせられて。

気持ち悪いものが視えるようになって、それに襲われるようになって、挙句の果てにヤバそうなヤツにも目を付けられた。

 

……なんで、なんで私に、そんな、ひどいこと――。

 

 

「ぅ……ぐ……」

 

 

これまで感じていたものとは違う苦しさに心が潰され、ただ呻く。

信じたくない気持ちが溢れ、思い違いだと、何かの間違いなんだと思い込もうとして、失敗して、そして、

 

 

「――?」

 

 

あれ、と思う。

 

……何か、変だよな。

もし彼女がおまじないをかけたとするならば――どうして、それが出来た?

 

何で友達の私に……というのとは別に、その行動を起こしたきっかけが分からない。

 

だって私の方は噴水の水面越しに色々と視えたけれど、あかねちゃんの方にはそれが無いんだ。

なら見ていたのが私って事も……いや、そもそも見られていた事自体、何一つ気付いていなかった筈で……。

 

 

「……ううん、そうじゃない」

 

 

実際にそうなったんだから、きっと気付けたんだ。

そうじゃなかったら、おまじないなんてかけられない。

 

――噴水池のオカルトを覗いた時、映ったものに気付かれる。

 

……それが、インク瓶の伏せていたものなんだろうか。

もし間違ってたとしても、正解との距離はそう遠くない気がした。

 

 

(でも、何で……? そんなん別に、隠すほどの事じゃ……)

 

 

というか、あの噴水のオカルトが動いていた最中、向こう側はどうなっていたんだ?

 

こっちで暗闇が映っていたように、向こうにもこっちの光景が映る何かが出現していたのだろうか。

あの目隠しの黒があかねちゃんによるものだとすれば……女の子の手指で覆える大きさで、おまじないをかけられるような形?

 

……インク瓶はあのオカルトをカメラと評した。なら、レンズの形、とか。

 

 

「…………」

 

 

そして向こうのそれに映るとしたら……たぶん分厚い雲と、雨粒と、縁から覗き込んでいた私の顔。

 

あかねちゃんは自分が見られていると分かって、おまじないをかけたんだ。

それも、ちゃんと見ているのが私だと分かった上で――。

 

 

――だから、どうして?

 

 

「………………………………」

 

 

ぐるぐると思考が回り、加速する。

 

空転、では無いと思う。

一つの欠けが埋まった事で、ふわふわしていた想像と推測が次々と結び付いていく。まっすぐに繋がり、その重みを増していく。

 

冷静さなんて既にどこかに行っていて、代わりに熱に浮かされた。

 

 

(――気付かれる。気付かれたんだ、あかねちゃんも)

 

 

脳裏に描かれるのは、天気の悪いの日の夜中に家を抜け出したあかねちゃんの姿。

 

それはきっとオカルト探しのためで、前に自然公園で視てしまった蜘蛛の穴を確かめに行ったんだ。何で今更なのかは分からないけど、今はいい。

そして何かのはずみで噴水を覗いて、オカルトが探してた穴を映し出して、それを見て――その中に居るものに、気付かれた。

 

この街の下に居るっていう、蜘蛛に。

 

 

(もう、もう疑えない。ほとんど確定だ。やっぱりあかねちゃん、穴の中に絶対居る。気付かれて、逃げ切れなくて、落とされた……!)

 

 

あかねちゃんの何かが蜘蛛の気を引いたのか、それとも動くものなら何でもよかったのか。

とにかく、蜘蛛に認識されたあかねちゃんの周りに穴が出来たんだ。

傘がぶん投げられてた以上、自分から入ったとも思えない。そうして無理やり、噴水に映ったあの暗闇に引きずり込まれた――。

 

 

(それで、それで……き、きっと、怖い事、あって……)

 

 

……たくさん、たくさん酷い想像が浮かんだ。

 

こっちは全部外れていて欲しいと心の底から願ったけど、きっと叶わない。

あの暗闇の中で、声に血が滲んでしまう程の何かがあって……そうした末、あかねちゃんに気付いた蜘蛛みたいに、彼女もまた気付いたんだ。

 

噴水のオカルトを通して自分を見る視線――暗闇に浮かんだ、私の顔に。

 

 

「……っ」

 

 

その瞬間、あかねちゃんは何を思ったのだろう。

 

怖い思いをして、声が擦り切れるまで叫んで……そして、私の姿を見つけて。

そうした状況で私にかけたおまじないには、どんな意味があった。

呟かれた「視えろ」という一言には、どんな感情が込められていた。

 

――あの時、あかねちゃんが伝えたかったのは、何?

 

 

「――決まってる。助けてって、言ったんだ……っ!!」

 

 

……だってオカルトが視えなければ、蜘蛛の穴もまた視えない。

前までの私じゃ何も出来なくて、視えるようにならなくちゃいけなくて、だからこそのおまじない。

 

――この数日で感じた苦痛と恐怖の全ては、あかねちゃんが私を求める声だった。

 

 

「――ッ!!」

 

 

インク瓶が伏せた理由がよく分かった。

だが私は湧き上がる衝動に抗う事なく窓際に駆け、勢いよくカーテンを引き開けた。

 

真っ赤な夕陽は既に落ち、浅い夜闇が景色にかかる。色々と考え込む内に、それなりの時間が経っていたらしい。

そして空の大部分が彼方から来る分厚い雲に覆われつつあり、窓を開けば微かに湿った匂いが鼻をついた。

 

待ち遠しい、雨の匂い。

天気予報では夜更けに降るとの事だったけど、感覚的には雨の気配は程近く。

 

 

「――……」

 

 

左手のおまじないを少しだけ眺め、しかしその手で強く窓枠を掴み、

 

――風が流れ、カーテンがはためく。

それが収まった時、私の姿は影も残さず消えていた。

 

 

 



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【私】の話(中⑩)

 

 

 

まだ日暮れ間もない時間帯である筈なのに、街にかかる夜闇はいつもより深く見えた。

 

それはどんよりと濁った雲の広がる夜空のせいなのか。

それとも、この街に関する色々な事を知ってしまったからなのか。

すれ違う街明かりですら皆どこか翳っているように感じてしまい、視界全てにうっすら幕を張られているかのような、漠然とした不快感がつきまとう。

 

闇が重たく、光が浅い。

そんな、妙にイヤな気持ちになる夜の街を、私は全速力で駆けていた。

 

 

(いそげ、いそげ……!!)

 

 

なるべく人目につかない道を選びつつも、遠回りにはならないように。

着の身着のまま靴すら履きそこねた有様だけど、一切気にせずとある場所へとひた走る。

 

――どこに向かっているかなんて言うまでもない。件の自然公園にある、あの噴水である。

 

また調べに行く訳じゃない。今度はちゃんと、あかねちゃんを助けに行く。

分かったんだ。あそこはあかねちゃんが居なくなったきっかけだけど、だからこそ必要な場所だった。

 

とにかく、一刻も早く駆けつけて助ける。

それは他の誰にも任せちゃいけない、私がやらなきゃいけない事なんだ。

 

だって、あかねちゃんはそのために私におまじないをかけた。私にオカルトが視える眼を持たせた。

……それについては色々言いたい事があるけど、今はいい。よくないけど。

 

あかねちゃんを助けたいと願う私が、あかねちゃんに助けてと求められた。

筋の通りはハッキリしてるし、そして彼女へ繋がる道が見えたなら、もう迷って足踏みしてる暇なんて無い――と、

 

 

「っ」

 

 

ふと前方に幾人かの人影が見え、咄嗟に横道に逸れる。

 

夜とはいっても、まだ宵の口。

会社や学校帰りの通行人も多く、人通りの少ない道を選んでも完全に遭遇を避ける事は難しかった。

 

だが、下手に人目に触れる訳にもいかないのだ。

昨日の聞き込みの時のように面倒くさい事になりかねないという事もあるが、一番の理由は、通行人に混じっているであろう『うちの人』に見つからないようにするためだ。

 

何せ、インク瓶が私を大人しくさせたいと言うのであれば、彼らも協力してくる筈だ。

 

私を危険に晒したくないという配慮なのは分かるが、正直言って有難迷惑もいいところ。

インク瓶自体は口で諭して来るくらいだとは思うが……私と会話をしてくれない『うちの人』の方は、口の代わりに物理的な妨害をして来る姿が目に浮かぶ。それも、そのたくさんの身体でもって。

 

そうなると流石の私も百パー無理だ。

十人二十人に囲まれるくらいなら何とか逃げ出せる気もするけど、百人万人に群がられたらどうしようもない。

 

だから私は家を出る際、自室の窓からこっそりと抜け出したのだ。

それが衝動的な行動だった事は否定しないが、バカ正直に玄関まで下りれば、途中にうじゃうじゃ居る『うちの人』にバレると思ったというのもあったから。

 

……まぁ、その結果靴下で走り回る羽目になってるんだから、どっちにしろバカである。足の裏痛いよぅ。

 

 

(……つっても、今ちゃんと隠れられてんのか……?)

 

 

しかし決して足を緩める事無く、きょろきょろと周囲に警戒を走らせる。

 

『うちの人』は、本当にどこにでも紛れている。

そこらの家で暮らす誰かが『うちの人』で、カーテンの隙間から覗かれている可能性も十分ある訳で。

むしろ、家を出た直後の時点で見つかっていたとしても全くおかしくはなかった。

 

 

(……もういっそ、バレてるの前提で行くか?)

 

 

また前方に見つけた通行人から隠れつつ、そわ、とつま先を捩る。

 

……こんな風にモタモタする分だけ、『うちの人』に囲まれる可能性は高くなるのだ。

多少強引にでも噴水広場まで直行し、その付近に隠れ潜んで雨を待つのが正解な気もしなくはなかった。

 

どうする。

私は徐々に早まり始めた鼓動を抑えながら、ボロボロになった靴下を引っ張り直し――。

 

 

(いや……いや、落ち着け……)

 

 

ふと、夜空を見上げる。

 

さっきより湿った匂いは濃くなっているけど、雨が降るのはまだ先だ。

時間的な余裕はあるし、本当に『うちの人』にバレていると確定している訳でも無し。ここで突っ走って、それが本当に彼らに見つかってしまう原因になったらそれこそ目も当てられない。

 

というか、どうせもぬけの殻となった部屋に気付かれれば、その時点で絶対インク瓶が私の目的を察してくるのだ。

そうなると『うちの人』の身体を使って噴水広場に先回りしてくる筈で……だったらせめて、私の現在位置を把握されない事を徹底しておくべきじゃないのか。

 

……近づいてくる通行人をそっと伺えば、その中に無表情のヤツは居ないように見える。けれど。

 

 

「……チッ」

 

 

やっぱり、慎重に行こう。

私は飛び出しかけた足を引き戻し、迂回する道を走り始めた。

 

 

 

 

 

そうして走り続ける事暫し。

どうにか忍び込んだ自然公園には、今のところ『うちの人』の姿は見当たらなかった。

 

暗くなっている事もあってか人影自体が少なく、見かけるのは精々が夜散歩中の老人か夜間ランナーくらい。

おかげで街中をコソコソするよりはよっぽどやりやすかったが……これはこれで、不安を煽られる静けさではあった。

 

 

(……どうなんだ? バレてる? バレてない……?)

 

 

待ち伏せされていないのだから、私の警戒が功を奏したという事だろうか。

いや、そうやって油断した隙を突き群がってくるつもりなのかもしれない。

 

私は途切れかけた警戒心を張り直し、暗い公園内を草木に紛れて進んでいく。

もっとも、目的の噴水広場は入口から五分くらいの位置にある。隠れながらでもすぐに到着し、近場の植え込みに身を潜め、そっと広場の中を伺った。

 

 

(……誰も居ない、よね)

 

 

パッと見、無人。

広場にある街灯の光は薄らぼんやりしたものだったが、それくらいの判断がつく程度の明るさはあった。

 

私のように物陰に潜む何者かの気配も無く、私は足早に中央の噴水池へと駆け寄った。

 

 

「……えぇ?」

 

 

すると、その周囲には三角コーンとバーの仕切りが並べられており、おまけに故障中との張り紙がしてあった。

 

昼には無かったそれらに一瞬困惑したものの、すぐにインク瓶達の仕業だと察する。

夕方この公園を後にした後、こっそりと何かしらの手を回していたのだろう。もしかすると、明日にでも噴水の撤去か何かを始めるつもりだったのかもしれない。

 

無論、私にここのオカルトを利用出来なくさせるためだ。

 

 

(飛び出して正解だったな、これ……)

 

 

幸いまだ水を抜くまでには至っていなかったようで、噴水の止まった水面は静かに夜闇を映していた。

 

……もし明日以降に機を回していたら、知らない内にあかねちゃんへの道が断たれていたかもしれない。そう考えると冷や汗が出る。

私は舌打ちと共に三角コーンを蹴っ飛ばし……いや、やめとこ。噴水覗くんなら跨ぎゃいいんだから意味ないし、余計な事して気取られたらめんどくさい。

 

 

「ふんっ」

 

 

振り上げていた足をダッシュの一歩目と変え、手近にあった背の高い木へと駆け登った。

 

突っ込んだ枝葉の中はチクチクしていて居心地は良くなかったけど、春の豊富な緑が私の真っ白な身体を余すところなく隠してくれる。

太く頑丈な枝の上で息を潜め、少し離れた噴水池の水面を見降ろした。

 

 

「…………」

 

 

当然、見つめていても変化はない。

続いて周囲を見渡しても、時折広場の外を通り過ぎていく人がいるくらいで、中にまで入ってくる者はいなかった。

 

まぁここは昼でも静かな雰囲気の場所だし、夜でも同じなんだろう。

私は周囲への警戒はそのままに、枝深くに腰掛け幹に寄り掛かる。座り心地は最悪に近いけど、そのおかげで居眠りする心配も無さそうなので良しとする。

 

 

「……雨、まだかな……」

 

 

葉っぱの隙間から覗く雲は、さっきよりも厚みを増しているように見えた。

 

そろそろ雨粒の一つでも落ちてきそうな雰囲気だったが、中々に身持ちが固い。

ボロボロを超えてズタズタになったこの靴下で、てるてる坊主でも作ろうか。そんな事すら思いながら、じっとその時を待つ。

 

 

(…………その時、か……)

 

 

口の中で呟きつつ、また噴水池へと目を向ける。

 

……これから雨が降り、あかねちゃんの居る場所に行けたとして。

私は、彼女をどう助けたら良いのだろう。

 

これまであかねちゃんを探し出す事だけを考えてきたけど、こうして立ち止まり腰を落ち着けてみると、そのあたりの事に考えが及んだ。

特に今は待ちの時間で、とにかく身体を動かして誤魔化す事も出来ない。無意識に考えないようにしていた事柄を、強制的に直視させられる。

 

 

(昨日までは、単に見つけて通報したり、おぶって連れて帰る感じでいたけど……それだけで済むのか?)

 

 

何せ、蜘蛛で地下でオカルトだ。

色々と特殊すぎて、物事の見通しが全く効かない。

 

 

(……暗いとこなのは分かってる。そん中からどうにかあかねちゃんを見つけ出して……帰りどうすんだ。地下……穴……最悪おぶったまま崖登り? つーかホントに蜘蛛ってのが居るんなら、絶対何かして来るよな……?)

 

 

一つ考えると次から次に懸念が浮かんできて、不安が心を侵食していく。

いっそ今からでもインク瓶や『うちの人』に縋りたい気分になってきたが、それが出来たらこっそり家を抜け出してないのである。

 

ここ数日で慣れ切った、腹の底がずっしりと重くなる感覚。

とはいえそれに圧し潰されてる場合でもなく、薄い腹筋に力を入れて追い出した。

 

 

(考えなしなのは最初からだろ。もう全部、出たとこ勝負でやるしかないんだ)

 

 

私のこの身体能力ならきっと何とかできる筈だ。そうだろ?

……これまで遭ったオカルトには、逃げる事しか出来なかったのに?

 

に、逃げる事が出来たんなら、今回だっていける筈だ。そうだろ……?

……バスの時は、インク瓶の力がなきゃ逃げる事も出来なかったのに?

 

 

「……う、うぐぐ」

 

 

しかし鼓舞する端からネガティブな声が重なり、不安を払うには至らない。

結局どうする事も出来ないまま、貧乏揺すりで枝葉を揺らし続けるだけで、

 

――その時、電子音が鳴った。

 

 

「わぁっ!?」

 

 

スマホの基本設定から変えてない、聞き慣れた電話のコール音。

 

いきなりのそれに私は思わず木から落ちかけ、なんとか踏ん張り慌ててスマホを引っ張り出す。

画面に映っていたのは、電話帳に登録されてない番号。当然見覚えも無いけれど――今このタイミングでかけてくるヤツなんて、一人しか思い当たらない。

 

 

(い、インク瓶……だよなぁ)

 

 

おそらく、私の不在がバレたのだろう。

やかましく鳴り続けるスマホに溜息を落とし、そのままじっと見つめる。

 

こうなれば、きっとすぐに最寄りの『うちの人』が来る。

せめて見つかるまでの時間を稼ぐためにも、さっさと通話なんて切ってしまった方が良いというのに、私の胸には迷いがあった。

 

 

「…………」

 

 

電話に出たところで、どうせまた諭して言い包めようとしてくるんだって分かってる。

 

……でも、改めてちゃんと頼めば、インク瓶が折れてくれるんじゃないか。

そんな都合のいい考えが消えなくて、応答ボタンの上で指が彷徨う。それは期待ではなく、ただの甘えだ。

 

 

「……どう、しよ」

 

 

出るか、出ないか。

途切れる様子の無いコール音が響く中、私の指がゆっくりと画面に近づいていき――。

 

 

「――っ!?」

 

 

ぽたり。

突然、画面に小さな水滴が落ちた。

 

無論、私の涙とかではない。

ハッと空を見上げれば、視界を覆う緑の隙間に流れる筋がパラパラと見え――私の鼓動が一段と大きく跳ねた。

 

――雨だ。やっと、やっと雨が降ってきた……!

 

それは酷く弱々しく、小雨にも満たないようなささやかなものだったけど、雨である事には変わりない。

私はすぐに噴水へと駆け出そうとして……手の中で響く電子音が、その行動を阻害する。

 

 

「――……」

 

 

同時に胸に燻る迷いを思い出したけど、再びスマホの画面に目を落とした途端に霧散する。

うるさい着信を電源ごとブチ切って、私は一切の躊躇いなく枝の上から飛び降りた。

 

――スマホに落ちた小さな小さな雨粒が、通話拒否のボタンの上に乗っていた。

 

 

 

 

 

 

予想通り、噴水の水面は凪いでいた。

 

雨の勢いが弱すぎるとかそういった問題ではなく、揺らぎ自体が存在しない。

ぞっとする程に静かな平面――以前見たのと、同じもの。

 

 

「――よし、これなら……」

 

 

これなら、問題なく噴水のオカルトを利用できる――。

絶対に大丈夫と確信できるほどの知識も経験もないけど、何となくそれが分かった。

 

私は一度大きく深呼吸をすると、噴水周りに張られた三角コーンバーを跨いでその前に立つ。

後は、探しものを頭に浮かべて水面を覗き込む。それだけ。

 

 

「…………」

 

 

……二日前、私はあかねちゃんを想いながらそれをした。

本当に偶然で、何も狙ってはいなかった。半ば事故みたいな形で私はあの暗い場所を見て……今、こうしてこの場に立っている。

 

あの時と同じくあかねちゃんを想えば、きっとまた彼女の居場所を覗き見る事が出来る筈――だけれど。

 

 

(――それじゃ、あかねちゃんの所に行けない)

 

 

そう、またあかねちゃんの事を想ったとしても、彼女の姿を見るだけに終わるだろう。

いや、そうならない可能性もゼロじゃないけど……それよりも確実なものがあった。

 

 

(バスの中で見た、あのクソ悪夢……)

 

 

そっと、左手のおまじないを見つめる。

 

……インク瓶の話では、私にその悪夢を見せていたオカルトは、相当に厄介なヤツであるらしい。

 

何となく分かる。あの夢の中で見たものは、昨日の真っ赤なぐしゃぐしゃよりも怖いって感じていたから。

 

その正体について、インク瓶は詳しく言及していなかった。

私のあやふやな説明がもとだし、単に見当がついていないだけだと思っていたけど……きっと敢えて詳しく説明しなかったんだ。

 

 

(――アレも、たぶん蜘蛛だ)

 

 

根拠は無いが、繋がりならある。

 

蜘蛛の穴に落ちたあかねちゃんを、私は噴水のオカルトを通して見たんだ。

そしてそれが、見られた相手に気付かれるという性質を持っていたのなら――蜘蛛だって私の視線に気付いたんじゃないのか?

 

あの噴水に映る暗闇は真っ黒で、何を見たかも分からなかった。知らない内に蜘蛛を見ていたとしても、おかしくはない。

直接の対象じゃなかったからか、或いはすぐにあかねちゃんが目隠しをしてくれたから私を正確に察知出来ず、夢という遠回しな方向からでしかちょっかいをかけられなかった……とか。いいセン行ってる気がする。

 

 

(噴水。あかねちゃんが夢に出てきた事と……真っ赤な単眼。そんで蜘蛛。色々知った今なら、幾らでも繋がってく)

 

 

私がちょっと考えるだけでこれだ。インク瓶なんて、噴水のオカルトの事を知った時点でもっと深いとこまで考えてたんじゃないか。

それで言わずに伏せたっていうのは……つまりそういう事だろう。少なくとも、私はそう思っていた。

 

 

「…………」

 

 

深呼吸。

左手のおまじないを擦り付けるように、噴水の縁を強く掴む。

 

推測では、あかねちゃんは蜘蛛の穴を思い浮かべながらここを覗いて、その中の蜘蛛に見つかって落とされた。

だったら、それをなぞれば同じ所へ行ける筈だけど――残念ながら私は蜘蛛の穴の実物を見た事が無い。形も深さも、何一つとして分からないのだ。

 

すると当然、私のイメージする穴は常識的な別のものになる筈で、覗き込んだ水面には見当違いの光景が映し出される事だろう。

あかねちゃんへの道は、繋がらない。

 

 

(……でも、他のなら――)

 

 

私は強く目を閉じて、それをハッキリと頭の中に浮かべる。

 

例の悪夢、めくれ上がったあかねちゃんの顔の中から現れた単眼こそ、蜘蛛の眼球に他ならない。

夢の中から私を見つけかけたもの――あの時感じた怖気と共に、それが私の脳裏に居座った。

 

 

(間接じゃない、直でなら)

 

 

色、形、大きさ、質感、光の反射。

 

記憶に残るその姿を出来る限り鮮明に思い描き、その嫌悪から逃げるように勢いよく噴水へと身を乗り出した。

 

そうして、雨が落ちながらも全く揺れない鏡の水面に、怯え交じりの私の顔が映り――次の瞬間、真っ黒に染め上げられた。

 

 

「――っ!」

 

 

動いた。

 

眼の奥が熱い。全身の血管が軋む。

どくんどくんと心臓が脈打ち、異常なほどに集中していくのが分かる。

 

しかし、水面に映し出されているのは前と同じくどこかの暗闇。きっと地下。

景色は数歩先ですら全くと言っていいほど見通せず、ただ黒が広がるだけ。

 

 

(でも、居るんだろ、目の前に……!)

 

 

インク瓶の言葉が正しければ。

私の思っている事が正解なのであれば。

 

思い浮かべた真っ赤な単眼。

もう既に、この水面の中に、それが――。

 

 

「――っが」

 

 

――その瞬間。唐突に、左手が爆ぜた。

 

 

「、ぁ?」

 

 

手が爆発したって訳じゃない。

そうと間違う程の衝撃が掌を貫いて、腕ごと勢いよく弾き上げられたのだ。

 

肩関節が変に開き、健がキリキリ捩れるものの、この頑丈な身体はふらつく程度で収まった。

とはいえ衝撃に痺れた腕はすぐには戻らず、私はいきなりの出来事に呆けたまま、挙手の形で揺れる左手を恐る恐ると見やり――目を見張る。

 

 

(おまじない、が)

 

 

……掌に刻まれていた黒インクの線が、消えていた。

 

いや、弾け飛んでいた、と言うのが正確だろうか。

掌には細かなインクの飛沫だけが残っていて、これがさっきの衝撃の元だと察し、

 

――どうして?

 

それの意味するところを瞬時に悟り、慌てて噴水へと目を、もどし、て。

 

 

「ひ、」

 

 

――視界いっぱいに真っ赤に染まった水面が飛び込み、喉が引き攣る。

 

一瞬血の池かとも思ったけど、違う。

 

眼。

全部、眼だ。

 

ぎょろり、ぎょろりと蠢く真っ赤な単眼。

まるでおもちゃ屋のガラスに顔を押し付け覗き込む子供のように、水面の向こう側からそれが押し付けられている――。

 

 

(気付――焦点、合わせ、ようと、)

 

 

最後まで考える前に、身体が勝手に思考を打ち切り飛び退る。

 

だが遅かった。

それよりも僅かに早く赤の水面がぎょるんと回り、私の顔をまっすぐに射抜く。

 

赤の中に人間のような瞳なんて無く、視線なんて感じられる筈も無いのに。

その時の私は、確かにそれと眼が合ったのだと確信してしまっていて。

 

――直後、私は落下した。

 

 

「――え?」

 

 

飛び退った先、着地する地面が存在していなかった。

足元にはいつの間にか暗闇が大口を開けていて、私の身体を飲み込んでいた。

 

――穴だ。

 

私は咄嗟に縁に手を伸ばし「――っ!」しかし途中で唇を嚙み、その手を無理やり引っ込める。

 

 

(上がるな! このまま、これでいい……ッ)

 

 

怖かった。逃げたかった。

でも、それじゃ意味がない。助けられない。逢いに行けない……!

 

 

「――あかね、ちゃんっ……!!」

 

 

落ちる。

 

耳の周囲で風が暴れ、雲に覆われた空が遠のいていく。

闇が深まり、穴底へと引きずり込もうと纏わりつく。

 

それでも私はその全てに抗わず、逆に姿勢を穴底へと傾がせた。

 

 

「――――」

 

 

遥か眼下に見えたのは、闇の底にゆらりと浮かぶ白と八つの赤斑と、その中心で瞬くたった一つだけの赤。

 

 

――蜘蛛。

夢の中で逃げ出したその視線の中に、私は真っ逆さまに落ちていった。

 




これが今年最後の更新となります。滑り込みセーフ。
過去編はそろそろ終わりとなりますが、その後も変わらずまったり続けていきたいと思いますので、来年も末永くお付き合い頂けると嬉しいです。
それでは皆様、よいお年を~。


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【私】の話(中⑪)

 

 

 

小さい頃、私は足を滑らせて崖から落ちた事がある。

 

低めのビルの二階程度の何てことない高さだったけど、ちっこい私にとっては相当だった。

結局たんこぶ一つで済んだとはいえ本気で死ぬかと思ったし、落下中は感じる時間が永遠かってくらいに引き延ばされた。

 

一秒が十秒に。十秒が百秒に。

そうして景色も身体も全部がゆっくりになって、ぐるぐる動く頭の中だけで焦りと恐怖が暴走する――。

あれはもう本当に怖い感覚で、それからちょっとの間は高い所に寄り付けなくなったほどだった。

 

――そして今、私はそれ以上の恐怖を味わっていた。

 

 

 

 

 

「――~~~~っ!?」

 

 

言葉にならない絶叫が私の喉奥から絞り出される。

 

本当に切羽詰まった時は声なんて出ないっていうけど、この状況がまさにそれだ。

ただ喉で跳ねまわる呼気の痛みだけを感じながら――私はどこまでも落ちていた。

 

 

(く、くそっ、んだよこれぇっ!?)

 

 

蜘蛛の穴。暗い昏い闇の中――。

辿り着くのだと願い、そして覚悟だってしていた筈だというのに、湧き上がる恐怖はそれらの支柱を容易く揺さぶった。

 

視界が利かないし、どこまで落ちるのか、どんな所を落ちているのかすらも分からない。

どれも大概致命的に恐ろしい事柄ではあったけど、今最も恐怖を煽っているのは別のもの。

 

 

(あ、れが、蜘蛛――)

 

 

遥か眼下の闇底に、大きな白い塊が沈んでいた。

 

頭上に開いている穴からの光で辛うじて視認できるそれは、靄のように柔らかな質感を持ち、所々に真っ赤な斑点が浮いていた。

潰れたような形の赤が八つと、整った形の赤が一つ。感じる視線はそこから注がれていて、それが眼だってハッキリ分かる。

 

……私はその姿に小さくない違和感を覚えたものの、そんなのはすぐに恐怖で圧し流された。

 

あの真っ赤な眼を向けられるだけで血が冷たくなって、きっと魂と呼ぶべき部分が激しい拒絶反応を示している。

全身を走る怖気に際限は無く、このまま視線を受け続けてたら気がヘンになりそうだった。

 

 

(……っ! ちが、と、とにかく、今は……ッ!)

 

 

引き伸ばされた世界。落下によりゆっくりと大きくなっていく蜘蛛の姿で我に返り、私はがむしゃらに手足を振り回す。

 

そうだ、今は呑気に蜘蛛を眺めている場合じゃない。

地下というから狭い洞窟のような所を想像していたのに、思っていたよりだいぶ広大だ。

幾ら私でも、このまま地の底に叩きつけられて無事でいられる自信は無かった。

 

どうにかして勢いを殺さなきゃ、あかねちゃんを助ける前に終わってしまう。今になってようやく、遠くの蜘蛛より落下死への恐怖が上回る。

 

 

(くそ、壁とか引っ掛かりとか、どっかに――、っ!?)

 

 

そうして見苦しく藻掻いていると、視界の端を白い何か擽った。

 

視線だけでそちらを見やれば、うっすらと浮かぶ白い帯が見えた。

靄、だろうか。眼下の蜘蛛と同じ質感のそれは不定形に曲がりくねり、闇に紛れてこっちに向かって流れて来る。

 

明らかに蜘蛛の何かだ。走る怖気に瞬時にそう察した私は、何とか逃れようと身をよじる――けれど。

 

 

「く、のっ……ぁぐっ!?」

 

 

当然、こんな状態で何が出来る訳もない。

 

白い靄はろくに動けない私へあっという間に流れ寄り、きつく胴体に巻き付いた。

内臓が軋みを上げるほど強い圧迫に一瞬視界が明滅し、直後に勢いよく身体を下方に引っ張られた。

 

 

「ぐぅ、うっ――!」

 

 

強引に落下速度を上げられ、身体がくの字に折れ曲がる。

苦痛をこらえて上半身を起こせば、白い靄が伸びる先にはやはり蜘蛛の頭があった。

 

 

(この靄が、アレの糸って……!?)

 

 

どちらかというと触手のようにも思えるが、今はそんなのどうでもいい。

 

私は必死になって腹部に巻き付く靄へと手を伸ばし――しかし掴めず、突き抜ける。

すぐに腕を引こうとしたものの、その時には靄に埋まった手首から先がガッチリと固定され、動かなくなっていた。

 

靄自体が強烈な粘性を帯びているようで、私の膂力であっても力任せじゃ引き抜けない。鼓膜の内側で、既に下がり切っている筈の血の気が更に引く。

 

 

「や、ばっ……!」

 

 

まずい。逃げられない。

唯一自由な足を振り回したって、ただ無意味に暗闇をかき回すだけだった。

 

ああ、ダメだ。このまま地面に叩きつけられて殺される。

それを何とか耐えてたって、きっとすぐ蜘蛛に食われてやっぱり死ぬ。

 

……どうしようも、ない。

 

 

「っ……や、だ……やだ、やだやだやだ……!」

 

 

まだ何もしてないじゃんか。

ただ穴に入っただけで、まだあかねちゃんを探す一歩目すら踏んでないんだぞ。

 

なのに、死ねって?

 

こんな暗くて寂しいとこで。一人きりで。ぐちゃぐちゃになって。

そうして、もう一度あかねちゃんの顔を見る事も出来ないまま、終われって――?

 

 

「――やだぁっ! ぃ、いや、だぁぁぁああああ……ッ!!」

 

 

ギチ、ギチ。

無理やり靄から引き抜こうする両手が異音を立てる。

 

引き攣った肌が激痛を訴えるけど、全部無視。

不安定な体勢の中、限界まで力を込めて両腕を引っ張り上げた。

 

 

「んっぐ、ぁあ、あぁぁぁあああああッ!!」

 

 

例え両腕が自由になった所で、大して状況が変わる訳じゃない。

そんなの分かってる。それでも。

 

 

(痛い、痛い痛い痛いぃっ! 痛い――けどぉ……!!)

 

 

手首、そして指の関節からイヤな感覚がする。

 

引っ張る力に耐えきれず、外れかけているんだろう。

少しだけ怯むが、悲鳴も泣き言も飲み込んで更に力を籠め続けた。

 

 

「ぅあっ、ぁぎ、ぃ、ぃっ……!!」

 

 

靄の中で爪がズレるように剥がれ始め、手の甲のあちこちに小さな裂け目が生まれていく。

ぷくりぷくりと幾つもの血玉が膨れては、靄の中に溶けていった。

 

……このまま続ければ、私の手の関節は伸び切り、皮は肉ごとこそぎ落とされる。

 

きっとすごく痛くて、すごく酷い事になる。

けどそんな手でも、頭と地面の間に差し込められれば、生き残れる確率は少し上がる筈だ。

 

どうせそうなってる時点で、死ぬまでの時間が少し伸びるだけにしかならない。

でも、何も足搔かずただ終わりを受け入れるなんて、私には無理だった。

 

 

「ぅぐ、く……ぁぁぁあぁああああああああッ――!!」

 

 

指先の感覚が消え、大きく開いた肉の裂け目から血が噴き出す。

我慢しきれなくなった痛みに上げてしまった大声が、すぐに上方へと流れて消えた。

 

あとどれくらいで闇の底に着く。

見ても真っ暗で分からないけど、もう結構な時間落ちている。たぶん、猶予はあまり無い。

 

 

(くそ……くそぉ……ッ!!)

 

 

めり、めり、と感覚が伝わる。

 

きっと、致命的なやつ。

力が抜けそうになる。尋常じゃない吐き気がせり上がり、眼の端に涙が滲むのが分かった。

 

……だが。だが、構うもんか。

 

私は強引に肺を膨らませると、頭の中をあかねちゃんの事でいっぱいにして恐怖を潰し――ずるりと、手を、

 

 

 

 

『 きれ のに、 だめ   』

 

 

 

 

「――ぁ?」

 

 

瞬間、手の方から音が鳴った。

 

それは私の血肉がこそげ落ちる音じゃない。

何かを啜り上げるような、汚らしい音。最初は何なのか分からなかったが、すぐにその原因が目に入る。

 

――靄が、私の手の中に吸い込まれていた。

 

 

「――は」

 

 

ズレた爪の隙間。ぱっくりと開いた肉の裂け目。

靄の内側で血を溢れさせ続けているそれら傷口の周囲、血が溶け薄く色づいた部分の靄が流動し、幾つもの小さな渦潮のような流れが生まれている。傷口の中に吸われているのだ。

 

じゅるじゅるという音が聞こえるのに何の感覚も無く、だからこそ現実感が伴わない。

これまで以上に全く意味の分からない光景に状況も忘れてただ呆け、次の瞬間理解が及び、情けない悲鳴を張り上げた。

 

 

「やぁっ、は、入るなぁ!! このっ、やめろ、やめてよぉ!!」

 

 

私は今、何をされている――?

明らかな異物が体内に入り込む光景に、度を越した嫌悪感が湧き上がり、構えた強がりにヒビが入る。

 

そうして先ほど以上の勢いでもって、靄から腕を引き抜こうとして――「っぐ!?」身体が突然真横に弾かれ、強制的に中断させられた。

 

 

(な、にが……!?)

 

 

首が折れ曲がり、脳が揺れる。

視界の片隅に激しく流動する白い靄がよぎり、そこでようやく自分が靄に振り回されている事を自覚した。

 

 

「ぐっ、ぅ……ぁぐぅ……っ!」

 

 

右に左に、上に下に。その動きは乱雑で、自分がどの方向に振られているのかも分からない。

滅茶苦茶な慣性の圧で内臓がぐちゃぐちゃになりそうだ。

 

当然ながら疑問を挟んでいる余裕なんてある筈もなく、私は身を襲う強烈な負荷をただただ耐えるしかなくて、

 

 

「――がっ!?」

 

 

衝撃。

背中から何か硬いものに激突し、息が詰まった。

 

上方の穴から離されたのか暗闇が深まっていてよく分からないけど、きっと岩だか壁だかに叩きつけられたのだろう。地面でなかった分まだマシとはいえ、受けた衝撃と痛みは相当なものだった。

幸いこの頑丈な身体の骨が砕ける事は無かったものの、全身が痺れて動けなくなり、そのまま自由落下を再開する。

 

――再開する?

 

 

(――! 手、が……!)

 

 

詰まった呼吸を戻そうと必死に喘ぎながら視線を回せば、腕と上半身にくっついていた白い靄が消えていた。

 

どうやら振り回されている間に拘束が解かれ、その勢いのまま吹っ飛ばされたらしい。

その理由とかさっきの事とか、色々な疑問が浮かんでくるけど、今は全部忘れておく。

 

――だって、手が自由に動くようになって壁っぽいのが近くにあるんだ。

他の人らにとっては知らんが、私にとっては好機以外の何物でもない。山猿なめんな。

 

 

「んのっ――!」

 

 

血だらけの両手を振り回し、壁のある方向を探る。

するとすぐに岩肌の感覚が指先に当たり、剥がれかけの爪から激痛が走った。思わず引っ込めそうになった手を我慢して押し込み、上に流れるその岩の壁へと全身でしがみ付いた。

 

 

「ぃぎ、ぁ、ぁぁぁああああああああ……!!」

 

 

しかし当然、すぐに落下の勢いを殺し切れる筈も無い。もともと血で濡れていたせいもあり、余計に。

私はしがみついた姿勢のまま下方へと滑り落ち、岩肌に触れている部分が金おろしにかけられるかの如く削れていく。

 

特に体重のかかる両手は酷い有様で、むき出しになった肉が摩り下ろされる激痛は、意志だけで我慢出来る類のものじゃなかった。

絶叫し、涙や涎を撒き散らし、それでも絶対に手を放さないまま、私は徐々に落下速度を落とし続け――完全に止まるより先に岩壁が途切れた。

 

 

「あ――、うぁっ!?」

 

 

終わった――と絶望するよりも早く、強かに尻を打ち付け倒れ込む。

 

……真っ暗で周囲の様子は見えなかったが、感覚的に地面の底まで降りられた感じはしない。

たぶん、岩壁から突き出た段差部分にでも引っかかったんだろう。

 

何にせよ幸運である事には変わりなく、背中に感じる硬く大きな床の感触に少しずつ安堵が湧き上がり――すぐに、ぎゅっと身体を縮こませる。

 

 

「……っぁ……ひ、ぎぃっ……!」

 

 

痛い。痛い。痛い――。

 

強く打ち付け、軋む背中が。

大きく裂け、血を流す皮膚が。

根元から剥がれかけ、浮き上がった爪が。

荒々しく削られ、骨の表面が浮き出た手の肉が。

 

全身どこもかしこも痛くて気持ち悪くて、私は脂汗を流しながら荒い呼吸を繰り返す。

 

少し気を緩めてしまったせいなのか、これまでどうにか堪えらえていた痛みと恐怖がぶり返し、溢れて止まらない状態になっていた。

 

それでも意識を失わないでいられるのは、あかねちゃんのおまじないによる経験があったからだろう。

身体の内側から痛めつけられたあの時に比べれば、全然何てことない。

 

まだ動けるし、頑張れる。

まだ死んでないし、生きられる。

まだ探せるし――絶対に、逢えるんだ。

 

 

「っ……っ……!!」

 

 

何も見えない闇の中。そう言い聞かせながら、ズタボロの両手を抱え込み。

私は暫くの間、身を丸めて呻き声を殺し続けていた。

 

 

 

 

 

 

身体を起こせるようになったのは、それから少し経っての事だった。

 

痛みは変わらず収まらないし、息だってまだ整ってない。傷だらけの状態に少しだけ慣れたって感じだ。

まぁ動けるようになったのなら何でもいい。暗闇の中、比較的まともに動かせる小指と親指を使ってポケットの中をまさぐった。衣服と露出した肉が擦れ激痛が走るが、我慢する。

 

 

「……あ、あった……!」

 

 

そうしてなんとか引き抜いたのは、電源の切れた私のスマホだ。

 

さっきの一幕でどっかに飛んでったかと不安だったけど、ちゃんと持ってて一安心。

画面こそバキバキになっているようだが辛うじて故障はしていなかったらしく、電源を入れれば光が灯る。

 

……圏外。

その表示を見た瞬間に連絡手段としての期待を捨て、即座にライトを起動し周囲の様子を照らしあげた。

 

 

(……やっぱ、こういうとこか)

 

 

私が落ちた場所は、予想通り岩壁から突き出した段差部分のようだった。

 

見る限りでは普通の岩と土で出来ていて、左を照らせば深い断崖。

反対に右を照らせば闇しかなく、先を見通す事も出来ない。

少なくとも、ライトの光では全景を把握できない程度には広い崖上ではあるみたいだ。

 

続いて、滑り落ちてきた岩壁を伝って上方を照らし――岩壁にべっとりと刻まれた血肉の筋が目に飛び込み、咄嗟にそこから光を外す。

 

 

「ぅぐ……そ、そうだ、穴……」

 

 

またこみ上げる吐き気を誤魔化しがてら、虚空にライトを滑らせる。

 

しかしどれだけ目を凝らしても、私が落ちた穴の姿は見当たらない。

見えなくなるほど深い場所に居るのか、それとも何かの陰になっているのか。暫く探せど変わりは無く、溜息と共にライトを下げた。

 

「……どうやって、帰――」呟きかけ、打ち切る。

そういうのは全部、あかねちゃんを見つけてから。そう言い訳して、思考停止。

 

 

(……そういえば、あの靄どこ行った……?)

 

 

頭の切り替えついでに靄の姿も探してみたが、全く見当たらない。

まぁ、今追って来られたら逃げるどころの話じゃないし、助かると言えば助かるのだが……。

 

私は首を傾げつつも、次に崖側まで這いずって、恐る恐るとその下を照らす。

 

 

「……くそ、こっちもか」

 

 

穴が見つからなかった時点で予想していたが、そこにも何もなかった。

 

闇の底で揺らめいていた真っ白な身体も、私を捉える真っ赤な眼も。

落ちる最中に見たあのおぞましい蜘蛛の頭は、いつのまにやら何処かへと消えていた。

 

 

「どこまで飛んだんだ、私……」

 

 

探さなきゃ。

 

もしあかねちゃんが私と同じようにして落ちたのであれば、同様に靄に捕まった筈だ。

私は何故か逃れる事が出来たけど、あかねちゃんもそうなったとは限らない。そのまま蜘蛛の下に運ばれた可能性はある。

 

どこに行ったか予想もつかないが、とにかく見つけなければ。

私はひとまずズタボロで穴だらけの靴下を脱ぎ、ズタボロで血だらけの手に被せるようにしてスマホを固定。空いた穴からライト部分を露出させ、即席の懐中電灯とした。

 

靴下を被せた手が激痛を訴えるけど、これならスマホを落っことす心配もない。

私は再び乱れ始めた息を抑えてどうにか立ち上がり、片っぽ裸足の足をよたよた引きずって……その際、偶然ライトの光が岩壁を掠り、また血肉の筋を照らし出す。

 

 

「ぅ……、……」

 

 

……私でさえ、こうなった。

だったら、あかねちゃんなんて、

 

 

「……っあ、あかねちゃーん!! 居るなら返事してよぉっ!!」

 

 

イヤな想像を振り払うように、大声で名前を呼ぶ。

しかし木霊すらも返らずに、私の声は闇の中へと呑まれていった。

 

 

 




あけましておめでとうございます(激遅)。
今年もまったりよろしくお願いいたします。


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【私】の話(中⑫)

 

 

 

それから、何度もあかねちゃんの名前を呼び続けた。

蜘蛛に見つかる危険なんてこれっぽっちも考えず、何度も、何度も。

 

……けれどいつまで経っても返事は無く、ただ無為に体力を消費するだけで。

やがては怪我の事もあってか叫ぶのも辛くなり、自然と口を閉じていた。

 

後に残ったのは、荒い息遣いと湿った足音。

 

 

「……はぁ……はぁ」

 

 

そうして黙って下に降りられる道を探して歩いていると、暗闇の静けさが肌を刺す。

 

月の無い日の夜道や山の洞窟内とは全く違う、昏く閉じられた空間。

肌に纏わりつく冷たい空気は重たく湿り気を帯びていて、息をする度に肺の奥へと積み重なって、その総容量が減っていくみたいだった。

 

 

「……はっ……はっ……」

 

 

幾ら呼吸を繰り返しても、酸素を取り込めている気がしない。

息がし難くて、口が開きっぱなしになってしまう。

 

そのせいか頭がぼんやりとして、思考が鈍る。足の動きが悪くなり、酷く歩きづらかった。

 

 

(暗い、痛い……怖い――)

 

 

光で照らせない範囲に何かが居るんじゃないか。

暗闇に紛れ、近づいているんじゃないか。

 

今更そんな疑念が次々と沸き上がり、じりじりと精神を削る。

眼球がぎょろぎょろと忙しなく巡り、それに付随しライトもあちこちに振り回す。

 

 

「っ……」

 

 

すると背後の地面に血の跡が見え、肩が跳ね……すぐに自分のものだと気付いて息を吐く。

 

手の傷は服に押し付けて血止めをしているけど、足の傷の方もそこそこに深い。

歩く度、痛みと共に血の足跡が残っていくのだ。

 

それを意識した瞬間、またその痛みが膨れ始めて……。

 

 

「……くそ。ちがう、なんか、違う事……」

 

 

ダメだ。周囲に意識を向け続けてると、どんどん調子が悪くなってくる。

それらを考えるのは後でいい。今はなるべくそちらに意識を向けないよう、別の方向に思考を散らした。

 

 

(……そ、うだ。さっき靄が入ってきたの、何だったんだろ……)

 

 

そうして、手始めに靄の事へと水を向ける。

 

私が捕まっていたあの時、手の傷口に靄が入り込んでいったのは何だったのだろう。

今のところ明確な異常は起こっていないものの、オカルト由来のヤツが体内に入り込んだというのはイヤな感じだ。

 

 

(憑りつかれる……寄生? 身体の内側から何かされる……とか)

 

 

蜘蛛の生態には詳しくないが、だからこそ悪い想像が幾らでも出来てしまう。

今でさえいっぱいいっぱいなのに、更に不安が重なっていく。

 

 

(……や、でも、それじゃぶん回された理由が分からんくなる)

 

 

そうだ。あのまま放っておけば私の身体にもっと靄を送り込めた筈なのに、どうしていきなり暴れて中断させたんだ?

釈然としない。まぁオカルトとはいえ虫の考える事だし、いちいち理屈付けて考える方が間違っているのかもしれないが……。

 

 

(なんか……嫌がってた? みたいな動きではあった……ような)

 

 

……なんだろ。何か、根本的な部分が間違っている気がする。

とはいえそれが何かも分からず、言いようのない苛立ちが不安な気持ちと絡み合い――。

 

 

「……、っ」

 

 

その時、何気なくライトでなぞっていた岩壁が途切れた。

 

一瞬崖際まで来たのかと腰を落としたけど、違う。

壁に大きな穴がぽっかりと口を開けていて、より深い暗闇を湛えていた。

 

 

「……洞窟?」

 

 

もともと洞窟みたいな場所だし、その表現も違うような気がするが。

 

ともかく慎重に近づいて中を光で照らせば、起伏だらけの道が続いていた。

その先を辿れば若干の傾斜が付いていて、心なし下の方に向かっているように見えなくもない。

 

……降りる道に、なり得るだろうか。

洞窟内の見える隅々にまで光を当てながら、少し迷う。

 

 

(でも、このまま行っても……か)

 

 

視線を外し、洞窟の外にライトを向ける。

進める地面は闇の向こうへ続いていたが、その道筋はどちらかと言えば上り坂になっているように見え、下に降りていく気配は無い。

 

洞窟。外。

洞窟。外。

 

私は暫く交互にライトを振って――やがて洞窟の方へと固定する。

 

 

(……あんま、時間かけてもらんないしな)

 

 

私の体力も、スマホのバッテリーも有限だ。

ならば、少しでも可能性の高そうな方から当たるべきだろう。

 

私は震える息をひとつ残し、強く一歩を踏み出した。

 

 

 

 

 

 

洞窟内の道は、こっちの道を選んだのをちょっぴり後悔するほど進みにくいものだった。

 

グネグネで、でこぼこで、おまけに狭くて息苦しい。

今のボロボロの状態で進むには、かなりキツめの悪路である。

 

しかし確実に下には降りられているので、選択としては今のところ正解だったと思うのだが……同時に、イヤな予感もし始めていた。

 

 

(なんか変な臭いすんだよな、ここ)

 

 

すん、と鼻を鳴らす。

入った時には分からなかったが、この洞窟の奥にはうっすらと異臭が漂っていた。

 

これまでに感じていた岩や土の湿った匂いとは全く違う、イヤな甘ったるさのある臭い。

生ゴミを更に酷くしたようなそれは、先に進むごとに段々強くなっており、生理的な嫌悪感を掻き立てて来る。

 

 

(くそ、マジで何なんだ……?)

 

 

どこかで嗅いだ覚えがある気もするが、今の状況的にどうせロクなもんじゃあるまい。

 

……このまま進んで大丈夫なんだろうか。

前方を照らすライトの光が小さく揺れるけど、今の私に進む以外の選択肢は無い訳で。

 

結局少しだけ歩みが遅まるだけに留まり、そのまま先へと進んで行く。

 

 

「……はぁ、長い……」

 

 

しかし幾ら歩けど先は見えず、流れる血と共に少しずつ体力も減っていく。

 

どんだけ歩いたんだろう。スマホで今の時間を確認しようとしたが、ヒビだらけの画面は握り込んだ掌の血でべったりだ。

時刻が表示されている部分も拭いきれない赤に隠され、マイクもイカれたのか音声認識も無反応。

 

真っ暗の中、現在時刻すら分からないというのは、思ったより精神的にクる。

顎先から汗が一滴ぽたりと垂れて、岩の地面にシミを作った。

 

 

「はぁ、はぁ……――っい!? ってぇぇぇぇ……!」

 

 

そうした疲れが集中力を削いだのか、途中盛り上がった岩を登ろうとして、失敗。

岩肌を掴んだ手が滲み続ける血で滑り、表面の露出した指の骨が、ごり、と強く擦れた。

 

その場は何とか登り切ったものの、私はその岩の上で蹲り、襲い来る激痛に暫く悶絶せざるを得ず。

嘔吐感と、目じりから零れそうになる涙を堪えながら、私は恐々と指先を窺って――。

 

 

「……あ、あれ?」

 

 

息を荒らげながらも首を傾げる。

 

今まさに激痛を訴えている指先の肉が、若干盛り上がっているように見えたのだ。

流れ出る血で隠されハッキリとは確認出来ないものの、さっき見た時よりも傷口が小さくなっている……ような。

 

 

(いや、つか、他の傷もなんか……)

 

 

よくよく見れば、違和感は指先の傷だけではない。

剥がれかけの爪は僅かに癒着しているような気がするし、手のあちこちに出来た裂傷も心なし小さくなっている気がする。痛みは……まぁよく分かんないけど。痛すぎて。

 

 

(治って……いや、うーん……?)

 

 

私も大概傷の治りは早い方だが、さっきの今だ。いくら何でも早すぎる。

 

勘違いか、或いはこの暗闇で見間違えただけか。

どこか納得できず首を捻ったが、それ以外に考えようがなかった。ひとまずそう気を取り直す事として、歩みを再開させる。

 

しかしどうにも気にかかり、歩く最中もちょいちょい手の傷を観察していたのだが――。

 

 

「っ……くっさ……」

 

 

強まっていく異臭がとうとう無視出来ない程となり、他に思考を割く余裕が無くなっていった。

 

口呼吸をしてもなお鼻の中に留まって、嘔吐きが何度も胸をつく。

そしてその臭気が一層強まった曲がり角へと差し掛かった時、私はこれをどこで嗅いだのかを思い出していた。

 

 

(――森林エリアの山ん中。肉を食べる動物の、食べ残し……)

 

 

つまり、死骸の匂い。

 

何かの生き物の死体が放置され、腐った末に放つ腐敗臭――この洞窟の先で、死んで腐った何かが転がっている。

 

 

「…………」

 

 

絶対、あかねちゃんじゃ無い。

居なくなってからそんなに時間は経ってないし、何より無事だって決まってるから。

 

じゃあ……何が、あるんだ?

 

 

「ぅ、ぐ……」

 

 

私の鼻の良さじゃ、落ち着くための深呼吸も出来やしない。

イヤな跳ね方をする心臓をそのままに、せめてもの対策として鼻と口を腕で覆い、恐る恐ると曲がり角から顔を出し、

 

 

「――ひ」

 

 

――そこには、腐肉の山が広がっていた。

 

天井の抜けた、開けた場所だった。

見える範囲に壁も無く、どこからか風も流れている。ある種大広間のようなその一帯に、幾人もの人間の腐乱死体が転がっていたのだ。

 

ぐずぐずになった肉と、その隙間から流れるとろけた臓腑と、突き出る折れ曲がった骨。

それらが幾つも幾つも重なり合って、潰れて互いに混ざり合い、悍ましく醜悪な腐肉の塊となっている。

 

これが、この洞窟に漂う臭気の大本――呆然と悟った瞬間、強烈な腐敗臭に煽られ堪らず嘔吐く。我慢出来たのは、殆ど奇跡に近かった。

 

 

「ぐ、おぇ……な、なんなんだよ、これっ……!?」

 

 

弾かれるように曲がり角まで戻り、せり上がる酸っぱいものを堪え切る。

 

意味が分からない。混乱と恐怖で身が竦む。

誰だよこいつら。何でこんなところに人の死体がいっぱいあって、ぐちゃぐちゃになってんの。

そもそも人が簡単に来られるようなとこじゃないだろ。なのに、何で――。

 

 

「!」

 

 

と、そこまで考えた時、思い出したものがあった。

 

それはつい今日の昼頃に聞いた、無感情な声。

どれもこれもが信じ切れないアレソレの、締めの言葉。

 

――『我々は御魂雲として、蓋の役目を担っている』

 

 

「……も、もしかして……『うちの人』……か?」

 

 

アイツらが言うには、街に蜘蛛の穴が開いた時には、自分の身体をその中に飛び込ませているらしい。

つまりは投身自殺。そうして穴の中で死ぬ事を利用して、蜘蛛の力を削いでいる。

 

……ならこの腐乱死体達は、役目を終えた『うちの人』の身体、その成れの果てなのではなかろうか。

 

この数だ。一般人の犠牲者と考えるよりも、だいぶ可能性は高い気がする。

そう考えた途端に多少の落ち着きは取り戻せたが……それはそれで嫌な適応だった。

 

 

(……だと、しても。なんでこんなとこに。真上に穴があるとかか?)

 

 

なるべく広間の惨状を直視しないようにしつつ、その真上にライトを向けた。

しかし当然、光は途中で闇に呑まれて途切れてしまう。地上に繋がる穴があるのかどうかもハッキリとしない。

 

 

「…………」

 

 

暫くそうしていたが、見える変化は何も無く……やがて諦め、渋々ライトを前に向ける。

 

その多くが老若男女すら分からないほど人の原形を留めていない、腐って異臭を放つ死体の山。

それらは地面いっぱいに積み重なっていて、避けて通れそうにはない。この先を行くのであれば、直進するのも迂回するのも大した違いはなさそうだった。

 

 

(引き返……いや、でも)

 

 

順調に下に降りられていたのは確かなのだ。

引き返したとして、また別の道があるかどうかも分からないし、最悪戻ってきての二度手間になる。

 

せめて、この先が行き止まりだと確信出来れば遠慮なく戻れるんだけど……それが分かんないのが現状で。

 

 

(……勘弁してよぉ……)

 

 

殆ど裸足で、足の裏に傷だってあんだぞこっちは。

そんな泣き言が口を突きそうになったが、唇を噛んで我慢する。

 

 

「あぁ、くそ……!」

 

 

躊躇の後、腹をくくった。

一回、二回。服に顔を押し付けて浅い呼吸を繰り返し――息を止め、腐臭の中へと走り出す。

 

 

「……っ」

 

 

足の裏に、柔らか過ぎるものを踏みつける感触が伝わった。

 

干からびもせず腐って溶けた、肉の泥。

それは皮の剥げた足裏の肉に染み入って、今までとは比べ物にならない嘔吐感が湧き上がる。

けれど必死にそれを耐え、腐肉の地面を駆け渡る。

 

 

(これは『うちの人』……! 全部からっぽ、ほんとは死んでない!)

 

 

さっきのようにそう考えて紛らわそうとしたが、今回は直に触れている。

びちゃ、ぶちゅ、と跳ね散らされる黒ずんだ肉片も、踏みしめた場所から滲む穢らしい汁も。全てが実感を持ち、嫌悪感は少しだって薄れなかった。

 

 

(――っ、あ)

 

 

だからたぶん、力み過ぎてたんだろう。

踏みつけた先の腐肉がずるりと滑り落ち、大きくバランスを崩してしまった。

 

咄嗟に足を突っ張り腐肉へのダイブは避けられたものの、その弾みで詰めていた息が吐き出され、代わりに猛烈な腐臭が肺を満たす。

 

――俯けば。白く濁った誰かの瞳と目が合った。

 

 

「うぐっ……か、ぉえ、んぶっ……」

 

 

胃の底がひっくり返り、その中身が食道を昇る。

私は反射的に血塗れの手で口を抑え――そのまま顔に自分の血肉を擦り付け、激痛と鉄錆の匂いとで強引に感覚を上書きする。

 

……いっそ吐き戻してしまれえば楽なのだろうが、こんな所で一度でも立ち止まったら、それきり動けなくなってしまう気がして。

私は喉を鳴らして口の中のそれを飲み戻し、ただただ足を動かした。

 

だが、腐肉の地面は途切れない。幾ら走っても、どれだけ前を照らしても。先にはずっと腐乱死体が続いている――。

 

 

(これっ、どこまで……っ!)

 

 

足を踏み出す度、どぷん、どぷんと湿った音が鳴り響く。

踏んだ腐肉の内側で何かが破裂し、足元からガスのようなものと一緒に腐った汁が飛び散って、私の真っ白な肌を汚した。

 

息が苦しい。脳が痛い。そろそろ息を止めているのも限界だ。

酸欠で徐々に視界が霞み始め、震える膝から力が抜けて、

 

 

「!」

 

 

前方。ライトで照らした地面に岩肌が見えた。

 

腐肉の隙間に出来た小さなスペースだったけど、更に先を照らせばそこを境に死体の数が減っていく。

私は残った力を振り絞り、足が縺れるのも構わず駆け抜けた。

 

やがて踏みしめるものが硬いものに変わり、目に映る死体も疎らになった。

しかしそこで足を止めずに、限界まで走り続け――行き当たった大きな岩の陰に転がり込んで、そこでようやく喉を開く。

 

 

「ひゅっ、はぁっ、は、ごほっ、はぁっ、はぁーっ……げほっ!!」

 

 

酸素を求めた肺が震え、何度もせき込む。

 

死体は未だ近くに転がり、腐臭も漂っているけど、さっきのを思えば全然耐えられる。

そのまま四つん這いで喘ぎながら、口の中に残っていた吐瀉物を唾と一緒に吐き出した。

 

 

「はぁ、ぅぐ……も、もう、やだ……」

 

 

二度と通りたくない、こんなとこ。力なく呟き、岩に背を預ける。

 

肉体的にはもとより、精神的な消耗が激しかった。

全身に力が入らず指先一本動かすのすら億劫で、腐乱死体の上で立ち止まらなくて良かったと心底思う。

 

 

「……あぁ、うわ……」

 

 

そうして一度息をつくと、自分の惨状にも気が回る。

 

下半身は私の脚力で跳ね散らかした腐肉で汚れ、身体のあちこちにも腐った汁が飛んでズルズルだ。

今は他にもっと酷い匂いのものがあるから誤魔化されてるけど、私自身も確実に結構な腐臭を纏っている事だろう。

 

そして一番ヤバそうなのは、傷口で直接腐肉を踏みつけた足の裏。

衛生がどうのとか詳しい知識は無いが、ほっといたら酷い事になるのは私でも予想がついた。

 

 

(い……いく……足が動くうちに、行かないと)

 

 

たっぷりと腐った汁が染み込んだ片靴下を脱ぎ棄て、気合を入れて立ち上がる。

 

その際に身体についていた腐肉がぽたぽたと流れ落ちるものの、もう躍起になって拭い去る気にもなれず。

まだ少しだけおぼつかない足取りで、ふらふらと前に進んだ。

 

 

「はぁ……はぁ……」

 

 

闇と悪臭の満ちる中、私の荒い吐息が続く。

 

歩く先には『うちの人』……だと勝手に思っている死体がまだ幾つも転がっていて、気が滅入る。

なるべく直視しないようにはしているけれど、ライトで照らせる範囲外から突然入って来られるとどうしようもない。見てしまう。

 

 

「おえ……」

 

 

男、女、子供、老人。

さっきのように折り重なって潰れていないせいか、比較的原型も残っていて、それなりに判別がついてしまうのもまたキツい。

 

とはいえ今はそれに叫びをあげられるような気力も無く、私はそれを認識した瞬間にライトをずらす程度の反応しか出来なかった。

 

 

「……はぁ、はぁ……」

 

 

ふと上にライトを向けてもやはり天井は無く、横に向けても壁は無い。

 

……ひょっとすると、ここは広間というより、洞窟の出口だったりしたのだろうか。

 

なら、私はもう下層に降りられたのか?

そう思ってライトを振り続けるも、高さの指標となるものが見当たらない。自分の位置が、分からない。

 

 

(……今、どのへんなんだ。どこに……どこを)

 

 

私は今、どのあたりを進んでいるんだろう。

 

いつまで歩けばいい。どこまで進めばいい。

というか、まっすぐ進めているのかな。どっかで曲がっちゃってたり、とか。

突き当りとか、無いの。崖とか壁とか、そういうのも。

蜘蛛は……いや、そんなもんより、あかねちゃんは、どこに――。

 

 

「はぁ、はぁ……あ、あかねちゃ、んぐ、んっ……」

 

 

大声で名前を呼ぼうとして、上手くいかずに喉が詰まった。

 

何度呼び直しても、どうしてか小さなしゃがれ声しか出て来ない。

その理由も分からないまま、私はひゅうひゅうと抜けていく息をかき集め、必死に彼女の名を叫ぼうとして――「うわっ」足元に転がっていた何かに蹴躓いた。

 

どうやら、集中するあまり『うちの人』の死体を見逃していたようだ。

なんとか転ばずには済んだものの、反射的にライトを向けて直視してしまった。また気分が悪くなり、顔を顰めて光を逸らし……。

 

 

「……?」

 

 

その直前、死体の形にどこか違和感を覚えた気がした。

……少しだけ迷ったものの、ゆっくりと死体にライトを戻す。

 

それはまだ完全には腐りきっていない、男性の死体のようだった。

中肉中背。こちらに背を向けた姿勢で転がっていて、一見すると異常は無いように見えるけど……少し覗き込めば、ハッキリとそれが分かった。

 

――本当なら頭のあるべき場所に、真っ赤な球体が生えている。

 

 

「……何だ、これ」

 

 

恐怖よりも、困惑が勝った。

 

おそらく血肉の塊……だと思うそれには、所々に毛髪や皮膚、顔の一部が混ざっていて、人間の頭部の面影が残っている。

 

……人の身体って、こんな風に腐る事もあるんだろうか。

考えるけど、答えなんて出る訳もなく。ただ言いようのない不気味さを抱えたまま、光を外して立ち去った。

 

 

(……? ……??)

 

 

呆けていると、自分でも分かる。

 

見たものの意味が分からず、何を思うべきかの判断もつかない。

そうした穴あきの思考のまま、私はひたすらに前へと歩き続け――また、死体を見つけた。

 

 

「…………」

 

 

またライトを向ける。

今度は腰の曲がったおばあさんの死体で、さっきの男性と同じくまだ腐り切ってはいなかった。

 

だけど――顔面の穴という穴から、無数の眼球が零れ落ちていた。

 

 

「――……」

 

 

口に眼孔、そして耳や鼻の穴からも。

ぐずぐずに崩れ、柔らかく広がるそれらは十や二十ではきかず、人間の持つべき二つを大きく超えていた。

 

明らかに一人だけの物ではなく、複数人の眼球を無理やり詰め込まれたと考えるべき有様だった。

……けれど私は、どうしてかその眼球全てがおばあさん自身の眼だと確信してもいて。

それが薄気味悪くてしょうがなく、私はまた足早に立ち去った。

 

 

「はっ……はっ……」

 

 

その後も、似たような死体をたくさん見つけた。

 

ある子供の死体は、胸から上が白い繭のようになっていて、中にはボーリング大の眼球が収まっていた。

 

ある女性の死体は、大きく膨らんだ腹部から米粒ほどの眼球を溢れさせていて、その他の部分がミイラのように干からびていた。

 

ある原形を留めていない死体は、無数の真っ赤な眼球が癒着し合う一塊になっていた。

 

ある死体は――。

 

ある死体は――……。

 

ある死体は――…………。

 

 

「な、なん、はぁ、何、なにが、はぁ、はっ……なに……?」

 

 

気付けば走り出していた。

 

通り過ぎる死体達の殆どが、身体のどこかを眼球にまつわる醜悪な何かに変えられているようだった。

腐敗とか死後何たらとか、そういう自然になるものじゃ断じて無い。

 

明らかにオカルトの力が関わっていて、それは確実に蜘蛛の力なんだろう。

 

だって、少しずつ変わって来ていたから。

 

さっきまで見かけていたのは、大きさこそ様々だったが人間の眼球っぽいのが殆どだった。

だけどその中に段々と別の生物のものが混じるようになり、やがて人の眼球と完全に入れ替わっていた。

 

 

「……っ」

 

 

通り過ぎた死体が、頭に空いた孔から人のものではない眼球を零していた。

 

血の色みたいに真っ赤な単眼。

見間違う筈が無い。夢でも現実でも幾度となく目撃した、蜘蛛の目玉――。

 

 

「はぁっ、はっ、はぁっ、はぁっ……!」

 

 

……嫌な。

とても嫌な予感がしていた。

 

死体の変容は進むごとに大きく、悍ましいものになっている。

私はそれを辿って走り続け、導かれるように暗闇のある一点を目指していた。

 

理由なんて分からない。

だけど、早くそこに行けって私の身体が叫んでる。

 

動悸が激しい。息が辛い。

転がる死体を避けるのも煩わしく、飛び越え、踏んづけ、ただ前へ。ライトの照らす方向へ。

 

走って。

走って。

走って。

走って。

走って――そして、

 

 

「――、――、――、――っ」

 

 

……濁音交じり。千々に乱れ切った呼吸音が、闇を震わせる。

 

ライトの光は相変わらず壁にも天井にも届かなくて、そこがどんな場所かも分からない。

 

冷たく、昏く、寂しい世界。

辿り着いたその暗闇の一角で、私は。

 

 

「………………………………………………………………」

 

 

 

 

――私はやっと、あかねちゃん(それ)を、見つけた。

 

 

 



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【私】の話(中⑬)

 

 

 

最初に見た時、それが何なのか分からなかった。

 

 

「…………」

 

 

ライトに照らされるそれをどう認識したらいいのか、どう表現すればいいのか。

何もかもが分からなくて、ぼうっと突っ立っているだけ。ただただ無為に時間が過ぎてゆく。

 

 

「……ぁ……」

 

 

……だけど、いつまでもそのままじゃいられなかった。

 

脳みその中に生まれた小さな理解が、ゆっくりと落ち始める。

少しずつ、少しずつ。身体の芯を通り流れるそれはとても冷たくて、そして段々と大きさを増し、痛みすら伴うようにもなっていく。

 

そうして、その冷たさが腹の底まで降り切った時――ようやく、少しだけ足を動かせた。

 

 

「……ぁ、ぁあ」

 

 

それは、地面の上に無造作に広がっていた。

 

薄く、平たく、くしゃくしゃとして。

でこぼことした岩肌の起伏を浮き上がらせながら、地面の一部をそれの色で覆っている。

私のとは違う、普通の人間の肌のような、ベージュ色。

 

――いや『ような』じゃない。それは間違いなく人間の肌、人間の皮膚だった。

 

だって、それには手足が付いているんだ。

ぺったりと広がる皮膚の四隅から肉の詰まった四肢が繋がり、力なく転がっていた。胴体と頭の中身だけが、綺麗に抜き取られているようだった。

 

そして頭部に位置するだろう場所の皮膚には髪の毛のような毛束がくっついていて、地面に落ちたカツラみたいになっている。

どうにも不気味で、ともすれば間抜けだなと笑ってしまう光景だったけど……私の頬はピクリともしない。

ただ目の前のそれを見つめたまま、ふらり、ふらりと力の入らない膝を引きずった。

 

 

「ぁ、ぁ、ぁ」

 

 

その手足には、衣服が引っ掛かっていた。

 

パーカーとパンツと、肌着と下着と、靴下と靴。

私と同じくらいの子が着るサイズで、女の子用の、かわいいヤツ。

 

……見た、事が。

私はそのデザインを、その組み合わせを、見た事が、見覚えが、あり、あって……あ、あっ、て――。

 

 

「か、ぇ」

 

 

びちゃびちゃと、吐瀉物が落ちる。

 

あの腐乱死体の山の時ですら我慢出来ていたのに、あっさりと決壊した。

その場に膝をつき、げぇげぇと胃の中の物を吐き出し切って、それでも収まらなくて胃液も唾液も全部辺りにぶちまけた。

 

酷い匂いのそれらが足元を流れるけど、腐肉よりはずっとマシだ。そのまま手足を汚しながら、這うようにして皮膚に縋った。

 

 

「あ、ぅあ、ぁっ、ひぐっ、ぁ、あ、あ――」

 

 

涙がとめどなく流れる。

何も取り繕えはしない。否定したいのに出来なくて、勘違いだと思い込む事も出来なくて。

 

本当は最初に見た時から、いや、きっとそのずっと前から分かってた。

それを見ないフリして誤魔化し続け、騙し騙しでここまで来た。

 

……だけど、もう、無理だよ。

 

分かるよ。私が間違える訳ないんだ。

服装もそうだけど、手足の形や髪の質――形の残るその全てが、目を逸らす間もなく私に現実を叩きつけて来る。

 

 

――目の前に広がる手足のついた絨毯は、どうしようもなく、あかねちゃんだった。

 

 

「――ぁ、あかね、ちゃ、」

 

 

血と吐瀉物に塗れた手で、その身体に触れる。

 

薄く伸びたゴムのような、頼りない感触だった。

接触する地面の冷たさをそのまま伝えていて、形を保ってる手足の部分も冷えて固まり切っている。あったかくて、柔らかかった彼女の姿は、どこにも残っていない。

 

 

「……ぉ、おき……ねぇ、起き、て……」

 

 

小さく揺すれば、薄っぺらい皮膚がその下の地面と擦れ、ぬるりと滑る。

 

きっと、痛くしてしまった。掠れ声でごめんと謝って、今度は手の方を揺する。

その手はごろんと転がって、繋がる皮膚を痛そうに捻じってしまう。また、謝った。

 

 

「っ……ぅ、く……たのむよぉ、おねがいだから、ねぇ、ねぇってぇ……」

 

 

震える指を髪の毛に差し込み、どうにか掬い上げようとしたけど、失敗。

重さは殆どなかったものの血と吐瀉物で滑り落ち、顔の部分が上を向く。

 

 

「……っ」

 

 

でもそこに、顔なんて無かった。

目も鼻も無くて、ぽっかりと大きな孔だけが開いていた。

 

口端がこめかみに届くまで歪み切った唇が、その口を開けたもの――バスの時に夢で見た姿。

……孔の中には、やっぱり何も残ってなくて。私の身体から、全ての力が抜け落ちた。

 

 

「…………」

 

 

ぽたり、ぽたり。

俯き、見開かれたままの私の目から幾つもの雫が落ち、あかねちゃんの上で弾ける。

 

……なんで。なんで、こうなってしまったんだろう。

 

どうしてあかねちゃんがこんな目に遭わなくちゃならない。

こんなバカみたいな姿になって、こんな暗くて寂しい場所で。

 

優しくて良い子だったのに。

私なんかよりずっと可愛くて、ずっと笑顔でいて欲しかったのに。

私の初めての友達で、大好きで、今日も明日も一緒に居られると思ってて、なのに。

 

 

「…………」

 

 

……いつの間にか、あかねちゃんの手を握っていた。

 

反応はない。

ただ、肌の隙間で血と吐瀉物が粘ついて……そこでやっと、私が彼女を汚してしまっている事に気が回る。

 

 

(拭か、ないと)

 

 

ぼんやりと思い。

ハンカチかティッシュか、私は持ってきてもいないそれらを探し、酷く緩慢な動作で衣服を探り……。

 

 

「――……、?」

 

 

……そうしてあかねちゃんから目を逸らした時、初めて周囲の変化に気が付いた。

 

靄だ。薄白い靄が、私たちの周りに漂っていた。

いつからそうなっていたのだろう。それは微かに流れる風に乗り、吸い込まれるようにして闇の向こうへと流れてゆく。

 

それを見た瞬間、さっき私を捕らえていた靄の触手を思い出したが、特に心は動かない。

ただの惰性でもって、その異常な光景を眺め続けた。

 

 

「…………」

 

 

闇の中。靄の集う先に、少しずつそれが浮き上がる。

 

白く、柔らかな質感を持った、歪な球体。

大きく膨らむその上方には八つの赤が――単眼が並び、全てが斑に散っている。

そしてその少し上にたった一つだけ整った形のものがあり、ぎょろりぎょろりと不自然に蠢いていた。

 

――蜘蛛の頭。ついさっきまで、私が追っていたもの。

 

 

「……あは」

 

 

こんなに近くに居るというのに、恐怖、危機感、怒り、悲憤――全部なし。

心も生存本能も一切揺れず、何かもう全部がどうでもいい。そんな自分が滑稽で、少しだけ笑った。

 

そうしてくつくつと喉を鳴らしていると、蜘蛛の方から少しずつ靄が伸びて来る。

笑われているとでも勘違いして、怒ったのかな。そんな心があるのかどうか知らないけど。

 

捕まったら酷い事をされるって分かっているのに、あかねちゃんと同じ事をされるんだと思えば、それでもいいと思えた。

そう、いいんだ。私はあかねちゃんの手を握ったまま、平坦な気持ちでその時を待ち、

 

 

「――……、」

 

 

目が、合った。

 

蜘蛛の頭にある九つの眼の中で、唯一丸い形を保っている単眼。その視線が私をしっかりと捉えていた。

……いや、「しっかり」と表現するには、それは少しばかり落ち着きがないように見えた。

 

ぎょろぎょろ、ぎょろぎょろ、ぎょろぎょろ――。

ゆったりと広がってくる蜘蛛の頭の動きと反するように、その単眼はずっと忙しなく蠢いている。なのに視線は私から剥がれなくて、ずっと注視されている感覚が消えない。

 

色々な部分がちぐはぐなその様子に、動作を放棄していた私の脳みそが僅かに軋む。

 

 

(……眼、九つ……)

 

 

そうして一度頭が動くと、後回しにしたまま忘れていた違和感を思い出す。

 

幾十の身体を遣い、蜘蛛の八つある眼を潰した――『うちの人』は、そう言った。

その話が正しければ、蜘蛛の頭にある八つの赤斑がそれなのだろう。『うちの人』に潰されたという、八つの眼の傷跡だ。

 

なら……今私が見ている、この九つ目の眼は何なんだ?

 

 

「…………」

 

 

……蜘蛛は、そこに在る全てを取り込んで、血肉に変える。これも『うちの人』が言った事。

 

じゃあ、それで眼球を再生したって事なのか。

いやでも、それならまずは潰されてる目の方を治すんじゃないのか。

何で新しく九つ目を作る。何で同じく失ったっていう脚や腹部を治さない……?

 

 

(ええと、なんだ、なんか……)

 

 

脳みそが、ぎしぎしと音を立てている。

湧き出し始めた疑問が脳裏を無軌道に飛び交って、ぼやけた意識を揺らしている。

 

今考える事じゃないって分かってるのに、思考が止まらない。

それどころかどんどんと加速して、私より先に進んでいく。出来の悪い脳みそを置き去りに、直感と魂だけが何処か深い所に入っていく。

 

――私の視線が、勢いよくあかねちゃんへと向けられた。

 

 

(……あ?)

 

 

……何で今、私はあかねちゃんを見た?

 

無自覚だった。

そうした理由も分からないまま、膜の張った視界で彼女の顔の孔を見つめて、

 

 

「――っ」

 

 

ぱちん。

何かが弾けるように視界が白み、ほんの一瞬とある光景が脳裏をよぎる。

 

――悪夢。

あかねちゃんの顔に空いた孔と、そこから零れた人間の眼球と、その奥から現れた真っ赤な単眼。

 

 

「……は、……は」

 

 

ぱちん。また白が弾け、別の光景がよぎる。

 

インク瓶から聞いた、査山の千里眼の事。

先ほど渡った腐肉の山。

身体のどこかを眼球に変えられた異常な死体――。

 

ぱちん、ぱちんと弾ける度、これまで見聞きした様々なものが頭に浮かぶ。

膜が取り払われるように、視界が、思考がクリアなものになってゆく。

 

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」

 

 

同時に忘れていた動悸が騒ぎ始め、吐き気から来る脂汗が流れ出る。

 

……今、やっと。

理解に脳みそが追い付いて、分かった。分かってしまった。

 

 

「……っ」

 

 

ゆっくりと、あかねちゃんから……いや、あかねちゃんの抜け殻から、視線を上げる。

その先にあるのは、蜘蛛の頭。

潰れた八つの眼の上にある、新たな九つ目の眼玉――。

 

 

「――ぁ、あかねちゃん、で、作ったぁ……ッ!」

 

 

ぎょろ、ぎょろり。

その真っ赤な単眼は、未だに忙しなく蠢いていた。

 

 

 

 

 

 

蜘蛛は、そこに在る全てを取り込み、血肉に変える。

その意味を、私は食事みたいなものとして捉えていた。

 

獲物を捕らえて、食べて、自分の血肉とする。そんな普通の生態の延長線上にあるものだと思っていた。

 

……でも、本当はそうじゃなかった。

頭部に眼球以外の器官が見えなかった時点で、気付いておくべきだった。オカルトを生物の常識で測るべきじゃなかったんだ。

 

――この蜘蛛がするのは食事じゃない。

獲物を直接自分の血肉に作り替えて、身体にくっつける。きっと、そんな最悪な事をやっている。

 

 

「――……」

 

 

だって、道中に転がってた死体がそうだった。

身体のどこかが眼球に変容していたっていうのは、たぶんそういう事だろう。

 

そこまで手を加えておきながら、死体を自分の血肉にせず放置していたのは、それらが『うちの人』だったからだ。

死ぬだけで蜘蛛の身体を削るような肉体なんて、きっと蜘蛛にとっては毒だったに違いない。

 

……でも、あかねちゃんは、そうじゃなかった。

 

 

「……せ」

 

 

御魂雲じゃない、普通の女の子で。でも霊視ってやつの霊能を持ってるかもしれなくて。

蜘蛛からすれば、きっと眼球のいい材料に見えたんじゃないか。

 

だから……だから、あかねちゃんを捕まえた。

身体の中身をぐちゃぐちゃにして、真っ赤な単眼に作り替えて――口の孔から引きずり出した。

夢で見た、あの悍ましい光景みたいに。

 

 

「……えせ」

 

 

そうして、潰れた八つの眼の上にくっつけて。

あかねちゃんで、私を見てる。ずっと探し求めていた彼女に私を映し、殺そうとしている。

 

 

「……かえせ」

 

 

どう見えてる?

あかねちゃんを通した世界は。

 

 

「かえせ」

 

 

馴染むか?

私の一番大切な友達から奪った血肉は。

 

 

「かえせ――」

 

 

気に入った?

もう一度見たかった笑顔をぐちゃぐちゃにして作った、その目玉――。

 

 

 

「――返せよぉッ!!」

 

 

 

感情が、咆哮となって噴き出した。

 

目の前が真っ赤に染まり、足元の地面が弾け飛ぶ。

積み重なった疲労や傷の痛みなんてどこかに消えていた。ただ、荒れ狂う衝動のまま蜘蛛へと走った。

 

 

「お前のものじゃないだろぉッ!! それはっ、あかっ、あかねちゃんのッ!!」

 

 

腕の振り方、脚運び。それすらも激情に吹き飛んで、何度も何度も膝を崩した。

それでも止まれないまま最後には獣みたいな姿勢になって、必死に単眼(あかねちゃん)へと手を伸ばす。

 

考えなんて何もない。

許せなくて、取り戻したくて、それだけだった。

 

当然、蜘蛛はそんな私を放っておかず、近くにまで迫っていた靄を伸ばした。

 

今の私じゃ色んな意味で避けられやしない。

落ちて来た時と同じように、呆気なく腕を絡め捕られ――途端、靄はまた下品な音を立てて傷の中へと吸い込まれていった。

 

 

「邪魔だッ!!」

 

 

その光景に疑問や嫌悪を挟む余裕も、今は無い。

体積が減って糸と同じくらいに細まった靄を振り払い、前へ前へと進み続けた。

 

対する蜘蛛は、やはり何故か嫌がるように靄を引っ込めると、真っ白な巨体で身動ぎ一つ。

――次の瞬間、その体を大きく開かせた。

 

 

「っ!?」

 

 

まるで、大口を開けるように。

単眼の下の部位が広範囲に広がり、私を包み込もうと押し寄せて来る。

 

さっきまでの靄なんて比較にもならない。捕まれば最後、私の身体は振り払う間もなく靄の中で固定され……きっと死ぬ。

何をされるかはイマイチ予想できないけど、私にも御魂雲の血が流れているのなら、さっき見た死体の仲間入りをするのはまず間違いない。

 

嫌だ、怖い。

少しだけ残った冷静な部分が早く逃げろと叫ぶものの、滲んだ視界に映る赤がその理性をも焼き尽くす。いつの間にかスマホもどこかに投げ捨てていたが、残る僅かな明かりの中でもハッキリとそれが視えていた。

 

 

「――あかね、ちゃ、」

 

 

靄の端が私の頭上に覆いかかり、ゆっくりと閉じてゆく。

恐怖の有無とは関係なく、迫りくる死の確信が心臓を激しく打ち鳴らす。それでも足は止まらずに、靄の向こうに手を伸ばした。

 

……結局、意味のない悪あがき。この手を届かせる事すら出来ずに終わる。

そう諦観する事すら出来ないまま、私は渦巻く激情ごと蜘蛛の中へと呑み込まれ――。

 

 

――視られている。

 

 

あまりにも唐突に、強烈な自覚が脳髄を焼いた。

 

 

「――~~ッ!?」

 

 

頭の芯を直接殴りつけられたかのように精神が揺さぶられ、外れた理性が音を立てて嵌り込む。

そうして強引に激情を吹き飛ばされた目に映るのは、閉じ切る間際の蜘蛛の大口――私は反射的に力の限り横っ飛び、滑り込むように靄の隙間へと身をねじ込んだ。

 

 

「っぐ!? ぅあっ、ぎぁ、はっ――!」

 

 

地面と皮膚が強く擦れ、露出した肉が削られた。

それでも何とか靄の隙間からは抜け出せた。完全に閉じ切るそれを背中に掠り、より遠くへと転がり逃げる。

 

 

(な、何だ、なんだ……っ!?)

 

 

あかねちゃんへの悲しみ、死にかけた事への恐怖、肉を削った痛み、ギリギリ助かった事への安堵。

一斉に鮮明となったそれらに加え、全身に刺さり続ける妙な感覚が正常な思考を許してくれない。

 

視られている――今こうしている間も、ずっとその感覚が続いている。

蜘蛛じゃない。それより遥かに強烈な視線がどこからか注がれ、身体の芯に絡みついて離れないのだ。

 

私は何を思えばいい。

何が、どこから視られている。

思考の、そして注意を向けるべき方向の判別もつかず、私の足取りがぐらりと歪み、

 

 

「っ」

 

 

ぽつ、ぽつり。

私の顔に、水滴のような物が当たった。

 

その冷たさで少しだけ我に返った私は、体勢を立て直しつつ上を向き――それを、捉えた。

 

 

「――あ?」

 

 

闇の中、光が一つ浮いていた。

 

どこかカメラレンズを思わせる、丸い形のぼんやりとした薄明かり。

この暗闇の中ではそれでも眩しいくらいだったけれど、どうしてか周囲の闇を照らさない。

 

――あれに視られているのだと、そう察した。

 

 

(何だ、あの、)

 

 

 

ぽつぽつとまた水滴が落ちる。

それはどうやら光の中から落ちているようで、まるで雨のような――。

 

 

「――雨?」

 

 

ふと引っかかりを感じたその瞬間、私は見ているものが光ではないと気が付いた。

 

夜空だ。分厚い雲のかかった、夜の雨空。

それがレンズの形に切り抜かれ、空中に浮かんでいた。

 

どうして、なんて思う筈が無かった。

だって私は知っている。この現象を、この光景を――自然公園のオカルトを。

 

 

(――そりゃ気付かれるよ、こんなの)

 

 

呆けたように考えて、自然と蜘蛛の方に目が行った。

 

蜘蛛は私の捕食に失敗したまま微動だにせず、ただ闇の中に浮かんでいる。

……いや、きっとあっちも上に意識が行っているんだ。

 

分かる。あの単眼(あかねちゃん)は私の方を見ていない。

私と同じく視られているって強烈な感覚に気を取られ、じっとその場所を見つめている――。

 

――噴水池の形に抜かれたレンズに、神経質な丸眼鏡の顔が映り込んだ。

 

 

「っ!?」

 

 

思わず足が止まり、それと同時に闇の中から靄が伸びた。私にではなく、上に向かって。

 

最初は噴水池のレンズに向かったのだと思った。

しかし靄はそれを素通りすると、もの凄い勢いでさらに上へと、闇の中へと消えていく。

 

一体何を――首を傾げかけ、すぐ思い出す。

 

 

(穴、を)

 

 

私やあかねちゃんと同じく、穴を開けてインク瓶を落とす気だ。

 

そう直感したものの、しかし私に出来る事は無かった。

再び蜘蛛へ走り出すより早く、遥か上方から薄明かりが降りて来る。

 

――閉じた暗闇の天井に穴が開かれ、地上の光が差し込んだのだ。

 

 

(っ、やば――)

 

 

噴水池のレンズに視線を戻すと、インク瓶の顔は既に映っていなかった。

 

まずい。私は息を呑み、光の差す方向を注視する。

私だって落下中にここまでボロボロになって、ようやく着地に漕ぎつけたのだ。あの貧弱眼鏡なんて絶対に死ぬ。

 

……だけど。

 

 

(――今なら、あかねちゃんのとこ、に)

 

 

現在、蜘蛛の意識は完全に私から逸れている。

今走れば、邪魔される前に単眼(あかねちゃん)の所まで辿り着ける……かもしれない。

 

でもそうなると、インク瓶が。

今その姿を見つけて見失わないでいられれば、どうにか受け止められるかもしれない。

 

さっきまでの私であれば迷いなく走ったけれど、半端に正気に戻ってしまった今となっては強い躊躇いが生まれてしまう。

そうして見上げ見開いた目が充血する中、差し込む薄光の先にとうとう人の影が現れた。

 

 

(インク瓶――)

 

 

夜の微かな光を背負うその影は小さく、朧げなものだった。

私の視力であっても、僅かに瞳を揺らすだけで見失いかけ、二つ三つとぶれて見え……、

 

 

「え?」

 

 

気付く。それはぶれではなく、実際にそこにある影だった。

 

二、五、十、二十、四十――。

その数は眺める内に加速度的に増え続け、やがては視界いっぱいに広がっていく。

 

――沢山の人間が、落ちてきている。

意味の分からないその光景を咄嗟に呑み込む事が出来ず、ただ立ち竦み。

 

 

「ぁ――」

 

 

落ちる人影が大きくなり、その顔が見える程の距離にまで近づいた時。

そこに浮かんだ酷く冷たい無表情に、私は彼らの正体を察した。

 

――『うちの人』。

そう呟いたと同時、最初に落ちた一人と地面の距離がゼロになり、血肉の華を開かせた。

 

 

「っ……ぐ」

 

 

目を逸らす間もなかった。

 

私から離れた場所ではあったけど、酷く聞き苦しい湿った音がこっちまで届き、吐き気が上る。

とはいえ、既に腐乱死体の山すら渡った身だ。それ以上取り乱す事も無く、顔を歪めるだけに終わる。嫌な慣れだ。

 

 

(くそ、なんでコイツら……インク瓶はどうし――、っ!?)

 

 

思考を巡らせようとした最中、轟音が耳を劈いた。

 

雷が落ちたかのような、或いは土砂降りの雨跳ねのような、そのどちらにも聞こえる高く激しい音。

地鳴りすら伴うそれは蜘蛛の頭から鳴り響いているようで、まるで悲鳴にも聞こえなくはない。

 

いや、実際に悲鳴なんだろう。さっきの『うちの人』の落下死体に目が行った。

 

 

「削る……くそ、ほんと趣味わる、うわっ!?」

 

 

また一人『うちの人』が落下死し、一層悲鳴と地鳴りが酷くなる。

それは最早地震と言ってもいい程の揺れ方で、私も腰を落としてバランスを取っておく。

 

悲鳴は分かるけど、何で地震まで起きるんだ。

そう悪態を突きかけ、そういえばこの地下空間そのものも蜘蛛の力だったと思い出す。

 

 

(……削るってまさか、空間ごとやってんの……?)

 

 

嘘だろと思うが、一人、また一人と『うちの人』が血肉の染みになっていく度、やはり地面の揺れが大きくなっている。

蜘蛛と同じく、この空間自体も悲鳴を上げているのだ。立っている地面のすぐ横にも大きな亀裂が一本走り、反射的に足を引く――。

 

 

「…………」

 

 

でも、堪えて。

引いた足を差し戻し、蜘蛛の頭を静かに睨む。

 

……落ちて来てるのがインク瓶じゃないのなら、そっちを気にする必要は無くなった。

まぁ別の意味で心を削いでいくのだが、そこはいい。よくないけど、いい。

 

だったらもう、やる事は一つだけ。

噴水池のレンズに吹き飛ばされた激情が、ゆっくりとまた昇る。

 

 

「……はっ……はっ……」

 

 

悲鳴を上げ続ける蜘蛛は苦しみ、悶えていた。

 

元々歪な球体であった頭部は更に不定形に歪んでいて、単眼(あかねちゃん)もぎょろぎょろと視線を四方八方に散らしている。

こっちに注意を向けている余裕も無さそうで、むしろ逆に逃げていかないかが心配になる有様だ。

 

ぐちゃり、ぐちゃりとイヤな雨音が響く中、私は浅い呼吸を繰り返しながら身を屈め、

 

 

――ぐちゃり。新たにその音が鳴った時、蜘蛛の一部が弾け飛んだ。

 

 

「――――」

 

 

歪な形になった頭部がぐらりと揺らぎ、地面を転がる。

幸い単眼(あかねちゃん)に傷は無く、角度を変える頭に合わせてその位置も移動する。

 

そうして止まったのは、地面の近く。たぶん、私の背伸びで届く高さ。

それを確認した瞬間、力の限り駆け出した。

 

 

(今だ、今、いまっ――!)

 

 

そう意気込む一方、距離はなかなか縮まらなかった。

 

実際にはあまり離れてはいない筈だなのが、地面が激しく揺れているため思った以上に走り辛い。

一歩一歩地面を踏みしめるのにも気を遣い、まっすぐ進む事すら一苦労だ。

 

 

「っ、くそ!」

 

 

加えて、『うちの人』も邪魔だった。

 

進路上にも雨のように落下してくる彼らに激突すれば、当然ただでは済まないだろう。

地上からの夜光があるとはいえ暗い事には変わりなく、そんな中で落下物を避け動くのは、地震もあって酷く神経が磨り減った。

 

今もすぐ近くで一人弾ける音が聞こえ、私は反射的にブレーキをかけてしまい――幸運にも、その目前に逆さまになった『うちの人』が降り落ちた。

 

 

「な――」

 

 

悲鳴を上げる余裕もなく。

緩慢になった時の中、それと目が合った。

 

少しシワの目立つ、どこにでも居そうなおばさん。

やはり無表情の彼女は、私の顔を見て僅かに眼を見開いて――。

 

 

「――っぐ!」

 

 

ぐちゃり。

数歩先でまた真っ赤な華が咲き、血肉が私の頬に飛ぶ。

 

頭から落ちた『うちの人』は上半身ごと潰れ切っていて、もう顔なんて分からなくなっていた。

……私は、少しの間それを茫然と見下ろして。一瞬の後、歯を食いしばって走り出す。

 

 

「――ぁぁぁああああッ!! なんなんだよぉッ!!」

 

 

最期の瞬間、『うちの人』は無表情を微かに崩し、微笑んでいたように見えた。

まるで、やっと私を見つけて安心したように。

 

そんな訳ない。錯覚だ。

それは分かっているけど、何故か感情が沸騰したまま収まらない。

 

やめてくれよ。いい加減いっぱいいっぱいなんだ。

痛くて怖くて辛くて、意味不明な事ばっかりで、私のやること成すこと合ってるかどうかも分からない。

 

嫌だ。疲れた。うんざりで、分かんなくて、限界で。

だから。だから、だから――。

 

 

「――帰る。もう帰るんだ、一緒に……!」

 

 

呻くように絞り出し。

降り続く『うちの人』を全部無視して、真っすぐに蜘蛛の下へと飛び込んだ。

 

すぐ近くで何人もの『うちの人』が弾けて散って、大量の血肉を引っ被る。

そして千切れ飛んだ腕か何かが背中に強くぶち当たり、堪え切れずに転がった。

 

ある意味では、文字通り背中を押されたのかもしれない。

ぐらぐらとする頭を抱えて身を起こせば、すぐ側に真っ白な靄の塊と真っ赤な球体が浮いている。

 

――手の届く所にまで下げられた、人の頭よりも大きな単眼。

蜘蛛の頭なんて無視して、私はそれに縋りつく。

 

 

「っぁ、あ、あかねちゃん――」

 

 

返事なんて無い。

 

間近で響く蜘蛛の悲鳴が煩すぎて、きっと聞こえていないんだ。

そう思い込もうとして、だけど失敗し、私はぽろぽろと涙を零しながらその真っ赤な粘膜に手を添えた。

 

 

「なぁ……もう、帰ろ? 満足したろぉ、こんな……さ、散々、さぁ……」

 

 

ぎょろぎょろと蠢く単眼(あかねちゃん)を抑え込み、言い聞かせるように声をかける。

 

あかねちゃんがオカルト探しに熱中しすぎた時、私はいつもこうやって急かしていた。

でも大抵は聞いてくれず、何のかんの理屈を並べて抵抗する。私の頭じゃ彼女を言い負かす事が出来なくて、結局説得を諦めるのがパターンだった。

 

 

「……なんか言ってよぉ。今まであったじゃん。みえろとか、他にもなんか……なのになんで、もう……、……」

 

 

今だってそうだ。単眼(あかねちゃん)は何も答えてくれない。私の言葉を聞いてくれない。

これ以上気の利いた口説き文句なんて咄嗟に浮かぶ筈も無く、何を言えばいいのかも分からなくなって黙り込む。いつも通りの諦めだった。

 

――そしてそうなった時、私は例外なく腕力に訴える事にしていた。

 

 

「――ッ!!」

 

 

ズ、と。

真っ赤な粘膜に触れる手を滑らせて、蜘蛛の真っ白な身体との隙間に突っ込んだ。

 

するとやっぱり私の手は靄の中で固着され動かなくなるけれど……直後、またじゅるじゅると傷口の中に吸い込まれていき、無理すれば動かせる程度には抵抗が減った。

 

……予想通りだけど、ほんと気持ち悪い現象。

とはいえ今はそれが有難く、私は単眼(あかねちゃん)に抱き着くようにして抱え込み――力の限り引っ張った。

 

 

「ぐ、ぬ、あぁぁぁぁぁ……ッ!!」

 

 

ミチ、ミチ。ギチ、ギチ。

粘着質な音が響き、少しずつ単眼(あかねちゃん)が靄の中から引き剥がされていく。

 

高さの事もあり踏ん張り切れない姿勢ではあるが、私の膂力であれば大した問題でもない。

そのまま体重も込めて引き続けていれば、やがてブチリと音を立て、感じる抵抗が弱くなった。

 

 

「帰、るぅ……い。いっしょ、にぃ――きゃあっ!?」

 

 

それを好機とみて力を入れ直そうとした時、蜘蛛の頭が大きく揺れた。

 

相当に苦しんでいるようで、一際甲高い悲鳴を上げて身を捩っては暴れ回る。

当然私も激しく宙を振り回されては、何度も地面に打ち付けられた。

 

 

「ぎっ――かふっ、がぼっ――ご、んのッ……!!」

 

 

頭をぶつけ、気が遠くなり。肩をぶつけ、変な音がして。

 

それでも絶対、単眼(あかねちゃん)を抱える手だけは離さない。

逆流した鼻血でせき込みながらも、もっと深く深く抱え込み――。

 

 

『――なんで』

 

 

「――は」

 

 

声が、聞こえた。

 

 

『ごめんなさい、助けて、ください』

 

 

それは今一番聞きたくて、絶対に聞けないと諦めたもの。

 

聞き間違える筈が無い。

それは確かに、何一つの間違いなく――あかねちゃんの声だった。

 

 

『なんでこんな事に』

 

「っ、あ、あか――ぐぎゅ、ぁっ」

 

『やだ、たすけて。おかあさ』

 

 

咄嗟に呼びかけようとしたけど、舌を噛んで血を吐いた。

こんな状況じゃどうにも出来ず、ただ聞き続けるしかなくて……その内、これがどういったものか段々と察しがついた。

 

 

(――あかねちゃんの、最期の)

 

 

彼女が人の姿を失い、こんな姿になるまでの今際の際――。

頭の中に響く悲痛な感情が、その情景を示していた。

 

 

『靄、くるしい、息、できな』

 

(……な、んで)

 

『おなか、あつい。いたい、いたい――』

 

(何で聞こえんだよぉ! 何で、こんな……!)

 

 

あれほど聞きたかった声なのに、耳を塞ぎたくなった。

まるで傷口から吸い込まれる蜘蛛の身体と共に、それが流れ込んでくるようで――いや、一緒に単眼(あかねちゃん)の一部も吸い込まれてて、実際にそうなってる?

分からない。分からないけど――。

 

 

『とけてる。め、みえな、とける……とけ て』

 

(やだよぉ……やめてよぉっ……!)

 

 

あかねちゃんが、生きたまま中身を溶かされ、作り変えられていく。

怖かっただろう。痛かっただろう。

ただただ心が軋み、張り裂けそうになる。

 

 

『――なんで、わたしなんだろう』

 

 

……突然、声色が変わった。

少しだけ言葉の形がハッキリとして、どこか暗いものを纏った気がした。

 

 

『いつも三等賞なのに、こんな時だけ、どうして』

 

(あかね、ちゃ)

 

 

『なんで、コトちゃんじゃ、ないの』

 

 

息が止まる。

ほんの一瞬、身を襲う痛みすら飛んでいた。

 

 

(……え)

 

『いちばんより、上のなのに。わたしより、ずっと価値ある、のに』

 

 

羨むような、或いは妬むような声。

私が知らない生々しさを含むそれに、どうしてかショックを受けていた。

 

 

『きれいで、つよくて、わたしも、欲しくて』

 

(…………)

 

『……なのに、全部いらないって。だったら、そっちで……』

 

 

聞きたくない。心の底からそう思った。

でも声は止まってくれなくて、私は頭を振って抵抗を――。

 

 

『わたしじゃなくて、コトちゃんが、こうなってれば、』

 

 

「――……」

 

 

……力が、抜けた。

 

悲しくなって、落ち込んで。

蜘蛛の動きに抵抗する気も無くなり、より激しく身体が傷ついていく。

 

続きを聞けば、きっと私は耐えられないだろう。

その確信があったけど、どうする事も出来ない。ぎゅっと目を瞑って、その時を待つ。

 

 

『……、そんなだから』

 

(……?)

 

 

けれど、続いた言葉は私の予想と違っていた。

 

 

『だから、わたしは、一緒じゃない……並べな、くて、こうな、る』

 

(…………)

 

『妬んじゃう。から、わたしのせかい、いちばん、も……』

 

(……ちがう、って)

 

 

その意味は分からなかったけど、否定しなきゃいけない気がした。

身体に力を入れて、蜘蛛への抵抗をまた始める。

 

 

『……いっとうしょう、なりたかった、なぁ』

 

 

もう、何も分からなくなっていたんだろう。

夢うつつで、ひどく切なげな声だった。

 

 

『いつか……ことちゃ、おいつい、て、ちゃんと、おなじ……』

 

(……違うんだよ。私が勝ってる所なんて、最初から何も――ちがう、こういうのが、きっと)

 

 

卑下しかけた思考を投げ棄て、蜘蛛の動きに合わせて地面に立つ。

 

未だ『うちの人』は死に続けていて、地震も信じられないくらい酷くなってる。

気付けば蜘蛛の身体もボロボロで、ギリギリ振り回されずに踏ん張れた。

 

 

『かえりたい、よぅ。おかあさ、ことちゃ、あいた、い』

 

「そう、だよ。っぐ、今から、帰んだよ。はぁ、はっ……一緒に、連れて……!!」

 

 

打ち身だらけになった足を突っ張り、腰を落とす。

靄の奥の方まで手を突っ込み、単眼(あかねちゃん)の裏側から鷲掴む。

 

 

「……あかねちゃんママ、心配、してたよ。はぁっ、遊園地の約束だって、あるだろ。っぐ、オカルト探し、もう止めたりしないし。自虐もやめる。だから、だからぁ……っ!!」

 

 

考えつく限りの言葉で乞い願い、それでも現実は変わらない。

とっくの昔に、こうなっている。取り返しがつかなくなっている。

 

 

『……眼、ごめん、ね――』

 

 

それを最後に、声は途切れた。

 

 

「――ああああああああああッ!!」

 

 

剥がれかけの爪を立て、さっき以上に強く引く。

 

指先に激痛が走るけど、知るものか。

暴れる蜘蛛に片足だって突き刺して、全身全霊で力を込めた。

 

 

「あああああああああッ! わあああああああああッ!!」

 

 

もう、意味のある事も言えなかった。

ただ獣の叫びを上げて、少しずつ単眼(あかねちゃん)を引き抜いていく。

 

ぶち、ぶちり。

糸のようなものが千切れる音が連続し、単眼(あかねちゃん)が大きく揺れる。

蜘蛛も暴れて靄の触手を私に向けて伸ばすけど、近くでまたぐちゃりという音がした瞬間に弾け飛ぶ。

 

 

「ああ、ぁ、はーっ、はーっ……あぁ、っんのッ……!」

 

 

気付けば単眼(あかねちゃん)は殆ど蜘蛛から飛び出して、数本の靄が糸となって繋ぐだけとなっていた。

 

視神経か、筋か。

ともかく相当な粘度を持つそれは、単眼(あかねちゃん)をまだ身体に引っ張り戻そうとしていて――まるで「返せ」と言わんばかりのその動きに、私の血管もブチ切れた。

 

 

「ぐ、ぎ、んがぁぁぁぁあぁぁぁぁぁ……ッ!!!」

 

 

一本、また一本と、単眼(あかねちゃん)と蜘蛛を繋ぐ靄の糸が切れていく。

 

もう抵抗は殆どない。

蜘蛛は悪あがきにもこっちに這って来ようとするけど、ひび割れ、揺れ動く地面がそれを許さない。

 

私も私でいい加減にボロ雑巾だけど、あと少し頑張るくらいの力は残ってる。

零れそうになる単眼(あかねちゃん)を抱え直し、最後の一押しを踏ん張って――。

 

 

「――帰るん、だぁぁぁ……!!」

 

 

――ぶちん。

 

残った靄の糸が全て千切れて、宙を舞う。

私も自分が込めた膂力のままに、単眼(あかねちゃん)ごと大きく背後へ投げ出された。

 

 

(やっ――)

 

 

あかねちゃんを、取り返した。

 

……字面だけならこうだけど、絶対に喜んでいい結末じゃない。

だけどその瞬間だけは、私も小さな笑みくらいは浮かべられて――でも、すぐに凍り付いた。

 

轟音。

単眼(あかねちゃん)を失った蜘蛛の身体から、凄まじいまでの絶叫が放たれたのだ。

 

 

「がっ――」

 

 

……自分の耳の良さを、酷く恨んだ。

 

至近距離でのそれは私の鼓膜と脳を激しく揺らし、両目がぐるんと裏返る。

そうして、ほんの一瞬だけ意識が飛んで――単眼(あかねちゃん)を掴んでいた手が、離れてしまって。

 

 

「――」

 

 

抱える胸の中からすっぽ抜け、私よりも早く後方へと飛んでいく。

即座にまた手を伸ばすけど、血とぬめる粘膜に滑り掴む事が出来ない。届かない。

 

――そこで、終わった。

 

 

「――っ!?」

 

 

今の悲鳴がきっかけだったのか、それとも『うちの人』が死に過ぎたのか。

地面に入った亀裂が一気に深まり、地面が割れた。

 

それだけじゃない。

壁や天井、見える範囲の全てが崩れ落ち、削られ切った空間そのものが、壊れ始めていた。

 

 

「……――! ――!」

 

 

さっきの悲鳴で耳が壊れて、自分の声すら聞こえない。

それでも喉を嗄らしてあかねちゃんの名を呼んで、闇に沈みゆく単眼(あかねちゃん)へと手を伸ばす。

 

地面なんてとっくに抜けてる。私だって着地出来ないまま、何処とも知らない暗闇の底へと落ちている。

だから、手なんて届かない。今度は指先さえも掠らず、求めた赤は黒の中へと沈んで消えた。

 

……さっき、ちゃんと掴んでいたのに。やっと、取り返せたのに。

なのに――もう、取り零した。

 

 

「――!」

 

 

叫ぶ。

けれど何も果たす事は無く、ただ散った。

 

そうして、全部、全部がなくなった。

地面も、壁も、天井も、死体も、瓦礫も、蜘蛛も……あかねちゃんも。

やがては私だって、全てが深く昏い闇に包まれ、消えていく――。

 

 

…………。

 

……どうしてだろう。

 

そうなって、意識が遠のく、その直前。

誰かに抱きしめられたと、強く感じた。

 



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【私】の話(中⑭)

 

 

 

――夢を、見た。

 

白く、淡く、音の無い世界。

見覚えのある、けれど決して学校のものではない、どこかの教室。

 

私はその中央にある机に腰掛け、一つ前の座席をじっと見つめていた。

誰も居ない、空っぽの席を。

 

 

「――――」

 

 

ついさっきまで、誰かが座っていた筈だった。

 

空席が並ぶがらんどうの教室の中、私と彼女の二人きり。

他愛ないおしゃべりをして、小さな事で笑い合う、いつかどこかにあった私達の時間。

 

……ここから繋がる悪夢を、何度も見た。

だけど、今この夢には何も無い。笑顔も、目玉も、恐怖も、何も。

 

それを上から俯瞰している私もいなくて、正真正銘の独りっきりだ。

 

 

「――……」

 

 

何が、いけなかったのかな。

 

席を立ち、一つ前の机を撫でながら考えるけど、ハッキリとした答えなんて出ない。

ぼんやりと突っ立ったまま、机の木目をなぞってゆく。

 

 

「――――」

 

 

かたん。

その時、背後で小さな音がした。

 

ずっと無音だったからすごく響いた。当然振り返ってみたけれど、最初は何も見つける事が出来なかった。

 

机は全部空席のまま、ロッカーにも掲示板にも変化は無い。

かといって床に何かが落ちている訳でも無くて、音の出所が分からない。

 

そうして、そのまま暫く教室の中を眺め――やっと、それに気が付けた。

 

 

(……?)

 

 

隙間。

教室後方の扉に、僅かな隙間が出来ている。

 

そしてそこから少しずつ、真っ白な靄が流れ込んでいた。

 

ゆっくりと教室内に染み入るそれに温度は無く、匂いも無い。

舞台とかでよくやる登場時のスモークのようにも見えたから、そのまま少し待ってみたけど、別に扉を開けて誰かが入って来るという事でも無さそうだった。

 

ただ、靄だけが延々と流れ、教室に充満していく。

 

 

「…………」

 

 

怖い、とは思わなかった。

 

やっぱりこの夢の中に恐怖の類は無いみたいで、段々と白んでいく周囲を見ても、心はずっと落ち着いている。

そうしている内、視界の全てが靄に包まれ本当に何も見えなくなって、気付けば傍らにあった机すら視認できなくなっていた。

 

……いや、実際にそこから消えているのかもしれない。

大きく手足を振っても何一つ掠るものが無く、さっきまで机の木目をなぞっていた指先を無意識にすり合わせる。

 

普段なら取り乱している所だろうに、それでも私はぼんやりとして、真っ白な世界を漂った。

 

――ぺた。

 

 

「…………」

 

 

靄の向こうで、音が聞こえた。

裸足で床を歩くような、軽く柔らかい音だった。

 

――びた。

 

……次に聞こえたのは、それとは違う音。

粘膜が床を転がるような、重たく湿った音だった

 

ぺた。

びた。

ぺた。

びた――。

 

それらは一度鳴るごとに入れ替わりながら連続し、やがて私の少し先で止まった。

 

何かが居る。

目を凝らすけれど、私の視力でも靄を見通す事は出来なくて、ただ気配だけが感じられていた。

 

そうして靄の向こうに立つ何かは、私をじっと見つめているらしい。その視線は近づきも遠ざかりもしなかった。

 

 

(……どっち……?)

 

 

その疑問を抱いた事に、疑問を持たず。

私は白しか見えない中でゆっくりと足を踏み出し、視線の下へと近づいた。

 

何かは私の行動にも動きを見せず、突っ立ったままだ。

一歩前へ進むごとそれの気配は濃くなって、靄越しにうっすらとその影が見えて来る。

 

それは人の形をしているようにも、或いは単純な球体のようにも見える、朧げで不安定なもの。

気配の目前まで近づいても何も変わらず、その形は定まらない。どちらにもなり、どちらにもならない。

 

 

「――、――」

 

 

だから。

だから私はそう在れるよう呼びかけて、靄の向こうに手を伸ばす。

 

 

『――あはぁ

 

 

どこかで聞いた、私の好きな笑い声。

白に紛れる誰か/何かの眼球と、目が合った。

 

 

 

6

 

 

 

「――ぁ?」

 

 

ぶらん、ぶらん。

薄く開いた視界の先で、右手が揺れる。

 

包帯でぐるぐる巻きにされた、ボロボロになった私の腕だ。

どこか見覚えのある天井に向かって突き出されたそれが、変なバランスを保って左右にふらふら揺れていた。

 

 

「……また変な夢でも見てたのかい、君」

 

 

そのまま暫くぼうっとしていると、横合いからそう声をかけられた。

目だけでそっちの方を見てみれば、近くのソファから私を眺めるインク瓶の姿があった。

 

骨董品のようなゴツい丸眼鏡に、呆れと安堵の混ざったような表情。

どうしてかその頭には包帯が巻かれていて、ある意味丸眼鏡よりも目を引いた。

 

……どうしたんだろ、あの怪我。

靄ががかった頭を傾げて彼を見つめていると、インク瓶はこっちを案じるように少しだけ眉を下げる。

 

 

「あれからまだ一日も経っていないけど……意識、ハッキリしているかい? 自分の状況、わかる?」

 

「えー……?」

 

 

彼の言葉に、ゆっくりと周囲を見回した。

 

目に映るのは、それなりに見慣れた部屋の形と調度品。窓から見える空には日が高く上がっていて、温かい光が差し込んでいた。

たぶん、家の客間の一室。そして私はなんでかお客さん用のベッドに寝かされているらしく、若干の埃っぽさが鼻をつく。

 

 

「……あれ、何で私、こんなとこ――痛っ」

 

 

とりあえず起き上がろうとしてみたところ、全身がぎしぎし軋んでやたらと痛む。

右腕だけじゃなく身体中に包帯やら湿布やらが巻き付けられているようで、痛みと合わせてあんまりうまく動かせない。

 

……何でこんなんなってんだ?

ひとまず身体から力を抜いて、私は大人しく自分の記憶を振り返り、

 

 

「っ!!」

 

 

瞬間、無理矢理に跳ね起きた。

 

地下、痛み、死体、蜘蛛、単眼――あかねちゃん。

あの暗く寂しい暗闇で体験したもの全てが色鮮やかに頭の中を駆け抜けて、あっという間に暴走をする。

 

そうして何処へも分からず飛び出そうとしたけど……ズタボロの身体がついていけなかった。

ベッド縁に手をついた途端にガクンと崩れ、そのまま顔面から床に落っこちて――。

 

 

「ああもう、落ち着きなって」

 

「っぐ……」

 

 

そうなる前に、いつの間にか近寄っていたインク瓶に抱き留められる。

 

幾ら貧弱眼鏡とはいっても、小柄な女子中学生を受け止められるくらいには成人男性やってるらしい。

文字通りインクの香りを薄く纏わせている彼にもたれ掛かりながら、私はそれでもベッドの外へ出るべく身を捩らせた。

 

 

「は、離せよっ! あかねちゃん、あかねちゃんがぁっ!!」

 

「うわっ、だ、だから落ち着……これで満身創痍って嘘だろ……!?」

 

 

普段の私だったら簡単に弾き飛ばせる程度の弱い力なのに、今は抵抗するのが精いっぱいだった。

 

ベッドの上。女の子と男の人。絵面だけなら色々アレではあったけど、そんなものを気にする余裕なんて全く無い。

 

後から振り返ればきっと笑ってしまうくらい無様な非力さで、互いに一進一退の攻防を繰り広げ――私が傷の痛みに呻いた瞬間、均衡は一気にインク瓶へと傾いた。

私の身体は勢いよくベッドに押し込まれ、そのまま抑えつけられる。マットの埃が大きく舞って、ちょっとだけ咳込んだ。

 

 

「っけほ……こ、このっ、離せよぉ……お願いだから、ねぇって!」

 

「そういう訳にもいかないだろ……っ! いいから、今は大人しくっ、傷を――」

 

「はやくまた見つけてあげなきゃいけないんだよぉ! 落ちてっ、落としちゃったから、私が、」

 

「――もう、終わってるんだ……!」

 

 

……その絞り出すような声に、私はそれ以上動けなくなった。

インク瓶もそれきり何を言い募る事も無く、悲しそうな目を向ける。

 

 

(……やめろよ)

 

 

そんな目で見るな。あの場に居なかったくせに。何も見てないくせに。

なのに分かった風に言うなよ。勝手に察して決めつけるなよ。

 

……そう言い返そうとするけれど、どうやったって言葉は出ない。

 

だって、彼の丸眼鏡に反射する自分の顔を見てしまったから。

彼のそれと同じ光を湛えるその瞳に、自覚してしまったから。

 

――私は今、どうしようもなく悲しんでいた。

 

 

「……ぅ、あ」

 

 

あの暗く寂しい闇の中で見た、あかねちゃんの変わり果てた姿が浮かぶ。

 

ああ、そうだ。取り返しなんて何をしたってつく筈が無い。

もう――全部、終わってしまった。

 

 

「ひぅ、ぁ、ぁぁぁ、ぅあぁぁぁぁぁぁ……っ!」

 

 

あかねちゃんが、死んでしまった――。

 

……その事実を、今になって初めて正面から捉えられた気がして、私の全身から力が抜ける。

みっともない泣き声だけが、響いていた。

 

 

 

 

 

 

「……とりあえず、無事でよかったと言っておくよ」

 

 

それから暫く。

泣き疲れた末、大人しくベッドに横たわった私に、インク瓶は柔らかな声音でそう言った。

 

 

「本音としては、お説教の一つもしたいところではあるけれど……まぁいいさ。流石に、今の君に追い打ちをかけたくはないからね」

 

「…………」

 

 

そして溜息をつかれるけれど、反発する気力も無い。

私はぼんやりと天井を見つめたまま、浮かんだ疑問だけを口にする。

 

 

「……なんで」

 

「うん?」

 

「なんで、私生きてんの」

 

 

そう、あの地下での最後。蜘蛛から単眼(あかねちゃん)を引き抜いた後、地下の崩壊に巻き込まれた筈だ。

 

あまりよく覚えてはいないけど、全てが闇に包まれていったあの感覚は忘れようもない。

あそこから何をどうすれば生きて帰れるのか、私には見当がつかなかった。

 

 

「……まぁ、そうだね。言ってみれば、君の親御さんが頑張ったってところかな」

 

 

インク瓶は何事かを考えながらそう呟くと、ソファに戻って革手帳を取り出した。

 

 

「そもそも、あの時に何が起きたか、君はどの程度把握しているのかな」

 

「……なんか、噴水池のオカルトが出て……『うちの人』がたくさん落ちて来て……すごい、死んでって……」

 

 

無数に降り注ぐ人間の雨。あちこちで生まれる血肉の飛沫。

当時は冷静に考える余裕なんて無かったが、改めて振り返ると凄まじい光景だった。

 

思い出してまた気分を悪くしてげんなりしていると、インク瓶もその光景を想像したのか同情的な顔をする。

 

 

「……筋道立てて話そうか。まず、昨夜に君がいなくなっていると気づいてから、僕と君の親御さんは急いで自然公園へと向かった。あの時の君が僕達を出し抜いてまで向かうとしたら、まずあそこしか無かったからね」

 

「……やっぱ、とっくに分かってたんだな。噴水池の性質とか……あかねちゃんの事、とか」

 

「推測していなかったとは言わない。だけど今の君なら、伏せた理由を分かってくれているとは思っているよ」

 

 

どこか煙に巻くような言い方だったが、その視線は逸らされる事なく静かに私を見つめている。

……卑怯だよ。そう呟いて、私の方から視線を外した。

 

 

「ともかく、そうして君を追いかけた訳だけど……残念ながら間に合わなかった。例の広場に着いた時には君の姿は無く、噴水の周りに置いた苦し紛れのバリケードも転がっていた。君が何をしたのか、どうなったのか、すぐに察したよ」

 

「…………」

 

「……本当に焦ったんだからな。前に説明したが、僕達の側から『くも』の居る地下に干渉する方法は基本的に無かったんだ。正直、途方に暮れたよ」

 

「……なんでよ」

 

 

そんなの、私と同じように噴水のオカルトで蜘蛛を映して、気付かれて釣れば良いだけの話だろ。

『うちの人』なら蜘蛛の姿とかも知ってるし、実際そうやって穴を開かせて落ちて来たんじゃないのか――。

 

……ぼそぼそとそう言い返すと、インク瓶は不機嫌そうに鼻を鳴らした。

 

 

「……簡単に言ってくれるけどね、僕達じゃあの噴水を君と同じように利用する事は出来ないんだよ」

 

「……え、と?」

 

「まず君の親御さん。あの噴水が覗いた者が頭に浮かべていたものを中継するなら、彼女達が覗いた場合はどうなると思う?」

 

「……普通に考えてるのが映んじゃないの」

 

「忘れてないかい。彼女は万の身体をたった一つの意識で動かしている」

 

「……あ」

 

 

そこまで言われて、ようやく話が分かった。

 

曰く、『うちの人』はそれぞれに別個の人格が設定され、それぞれの人生を歩んでいるらしい。

だったら当然、その思考も身体の数だけ並列していて、常に動き続けている筈だ。

 

例え御魂雲としての意識は一つでも、抱える脳みそは何万個。

身体ごとの思考を参照してくれればまた違ったのだろうが、インク瓶の言い草ではそうはならなかったようだ。

 

 

「君の親御さんの話では、彼女達が覗き込むと噴水池の水が爆散するそうだ。おそらく他の身体の思考も一纏めにされ処理限界を超えてしまうんだろうが、そのせいで僕が調べるまで彼女達は『雨の日に覗き込むとびしょ濡れにされる噴水』だと勘違いしていたみたいだよ」

 

「ばーか……」

 

「一方で僕なら噴水のオカルトを問題なく利用出来るけど、残念ながら『くも』については言伝でしか知らなくてね。本体も穴の方も視た事が無い以上、頭に浮かべるも何もない」

 

 

まぁ、それはそうだろう。

実際私も蜘蛛の穴を視た事が無かったからこそ、例の悪夢で見た単眼を思い浮かべたのだから。

 

……思えば、あれもあれであかねちゃんを思い浮かべてたんだな。浅く、唇を噛んだ。

 

 

「かと言って、他に期待できる方法が無かったのも確かだった。結果として君と『くも』が同じ場所に居る事に賭け、僕が君を噴水に映させる事にしたんだが……その時には雨が止んでいてね。また降り出すまで結構な時間をロスしてしまった」

 

「……そういや私の時も、ちっちゃいぽつぽつ降りだった」

 

 

どうやら私が穴に落ちた後、雨雲はまた泣くのを我慢したようだ。

 

果たしてそれが私にとって幸運になったのか、それとも不運となっていたのか。

少し考えてみたけど、どっちにもとれる気がして途中でやめた。

 

 

「そして雨の降り始めを確認してすぐ、噴水のオカルトを利用した。後は君の見た通り、開いた穴に君の親御さんが飛び込んだ。待ってる時間で身体を揃えるだけ揃えたから……まぁ、派手な事にはなったみたいだね」

 

「……酷い光景だったよ。私に当たってたら巻き添えで死んでた」

 

「そのあたりについては妙な自信を持っていたな。落ち方と『くも』の削り方は熟知していると言っていたし――君がここに帰って来られたのも、そのおかげのようだ」

 

 

やっとその話に戻った。ほんと話なげーなコイツ。

 

 

「詳しい方法は分からないよ。ただ……君を抱きしめた親御さんの死体が、『くも』の穴から飛び出してきた瞬間を僕は見ている。おそらく、御魂雲の力の応用なんだろうね」

 

「……死体……」

 

 

最後の最後、意識が消える間際に感じた、誰かに抱きしめられる感覚。

それが『うちの人』の死体からのものだったのであれば、何ともぞっとしない話だけれど――。

 

 

「…………、」

 

 

……どうしてか、そのちょっと前に私の目の前で落下死した『うちの人』の微笑みを思い出す。

そうした私の沈黙をどう思ったのかは知らないが、インク瓶の気遣わしげな目が向けられた。

 

 

「……何にせよ、彼女達の尽力で君が助かったという事に間違いは無い。そうしてボロボロだった君を親御さんが家まで運び、治療なり何なりをして今に至る訳だ。その辺を詳しく知りたければ、後で自分で聞くといい」

 

「……私とアイツら、会話成立しないの知ってんだろ」

 

「そうだね。でも、やってみなよ」

 

 

ほんとヤなヤツだなコイツ……と思ったが、意外な事に彼の表情からは意地の悪さは窺えなかった。

苦笑に近いそれからはなんでか善意のような気配すら感じられ、それがどうにも居心地悪く、視線を逸らして部屋のあちこちにウロウロ散らす。

 

 

「……そもそも、当のソイツらは。いないけど」

 

「部屋の近くに控えてるよ。君に大量の落下死を見せてしまった事を気にして、落ち着くまでは姿を見せないでおく事にしたらしい」

 

 

前の反省だってさ、とインク瓶は軽く肩をすくめる。

 

何の事だと首を傾げ、すぐに真っ赤なぐしゃぐしゃに殺された金髪の青年の事だと察した。

確かにあの時は彼の死に取り乱して逃げてしまったけど――それを反省してるって? 鉄仮面鉄面皮の『うちの人』が? 気にしてる?

 

 

「…………」

 

「うーん両目に不審の字。まぁそれも彼女達の自業自得なんだろうけど」

 

 

呆れたように溜息をつくインク瓶だが、それ以上何かを言う気はないらしい。

ソファにその背中を深く預けて、革手帳をゆらゆらと振る。

 

 

「とりあえず、僕の方からはこんなものかな。ほかに何か聞きたい事はあるかい」

 

「……後でいいや。何か……ちょっとだけ、しんどい」

 

「そう」

 

 

それきり互いに口を閉じ、無言の時間が流れ始めた。

 

重たい沈黙って訳じゃない。緩すぎも張り詰めすぎもしない、適度な軽さ。

インク瓶の視線も開いた革手帳に移っており、見られてるって緊張感とかも無し。

……息が、しやすい。

 

 

(……急に、黙るんだ)

 

 

そう思ったけど、口にはしなかった。

 

彼も本当は、地下での詳しい事を聞いておきたいんだろう。

でもそれを問い詰めず、無理に触れようとして来ない。私のターンだと水を向けず、静かに待ってくれている。

 

こんなのでもライターだ。そういう手だとは分かってるけど――それでも、背中がベッドに少しだけ深く沈み込んだ。

 

 

「……………………………………靄が、さ」

 

 

そうして、長い時間が過ぎた後。

気付けば、無意識に口を開いていた。

 

 

「うん?」

 

「……穴、落ちてる時……靄の触手に、捕まった」

 

「…………」

 

「腕、動かなくて……むりやり、引っ張ったんだ。それで、手、一回目、怪我して……したらさ、傷に――……」

 

 

ぽつりぽつりと、もごもごと。

殆ど独り言のように、地下での出来事を零していく。

 

ある時は痛みを思い出して声が震え、またある時は恐怖を思い出して嘔吐きが出る。

纏まりが無くとっ散らかって、何度も何度もつっかえるそれは、酷く聞き取り難いものだった筈だ。

 

だけどインク瓶は急かす事も聞き返す事も無く、時折簡単な相槌を入れるだけ。

私の声と感情はその一切を遮られずに、ただただ流れ落ちてゆく。

 

……きっと、私も一度は吐き出したかったんだと思う。

そうして覚えている最後まで語り終えた時には、シーツに涙の染みがまた増えていた。

 

 

「……っく……ぅ」

 

「…………」

 

 

静かな室内に、私の嗚咽だけが響く。

 

インク瓶は神妙な顔で革手帳に目を落としたまま、特に反応をして来ない。

ともすれば冷たいとも取れる態度ではあったけど、下手に慰めに来られるよりは気が楽だった。

 

その内に私もどうにか感情を抑え込み、こっちから彼に声をかけようとして――。

 

 

「――少し、肌を出してもらえるかい」

 

「……は?」

 

 

いきなり何言っとんじゃコイツ。

遂にその眼鏡を割る時が来たかと拳を握るが、彼は至って真面目な雰囲気で、劣情やふざけているような気配は微塵も無い。

 

……どうしよ。

私は少しの間おろおろとして――ハッと察し、おずおずと左腕を差し出した。

包帯の巻かれた手首より少し上、二の腕の素肌を。

 

 

「……ええと、おまじないのヤツ……的な?」

 

「ああ。痛みや違和感があったらすぐに言いなよ」

 

 

懐から黒インクの小瓶を取り出す彼は淡々としたもので、私は握った拳をそっと解く。

そして申し訳ないやら気まずいやらでしおしおになる私に、彼は怪訝な顔をしつつも小瓶を傾けた。

 

前と同じように粘性の高いインクが真っ白な肌に落ち、ほんの一瞬だけ<遮>という文字を形作って輪っかと変わる。

蜘蛛からの視線を遮ってくれる、黒インクのおまじないだ。

 

 

(……や、ていうか、なんで今……?)

 

 

今更首を傾げる。

 

インク瓶の突拍子もない言葉でここまで流されたが、考えてみると随分と脈絡が無い気がした。

いやまぁ、そのありがたさは知っているので、別に文句は付けないけれど――と。

 

 

「――やっぱりか」

 

「え……あ、あれ?」

 

 

どろり、と。

突然インク瓶が呟いたかと思えば、刻んだばかりのおまじないが溶け崩れてしまった。

 

元の黒インクに戻ったそれは私の肌上を滑り落ちるけど、シーツに垂れる前に小瓶に回収されていく。

何してんだろう。視線でインク瓶に問いかけると、彼は難しい顔で首を振り、

 

 

「……僕は今、おまじないを解く意思は無かった。つまり勝手に崩れたんだよ」

 

「え……ええと、それは、どういう――」

 

 

言いかけ、よぎる。

 

私が噴水前で蜘蛛の気を引き、地下に落とされる直前、これと似たような事があった。

左手に刻まれたおまじないが弾け飛び、腕が跳ね上げられたのだ。

 

あれよりだいぶ大人しくはあるけれど、起こった事に差異は少ないように思えた。

 

 

「……今から話す事は、あくまで僕の推測だ」

 

 

……その意味を深く考えようとした、その時。

軽くため息をついたインク瓶が、小さくそう呟いた。

 

 

「持っている情報と今の君の話を、それっぽく繋いだだけ。裏付けも確証も無い、作り話に近いものだという事を念頭に置いて欲しい」

 

「……まどろっこしいな。なんなの」

 

 

勿体ぶった言い回しにそうせっつけば、彼は酷く真剣な目をして――。

 

 

「――君のお友達、査山銅って子。彼女はまだ、続いているのかもしれない」

 

 

 

――瞬間。私の頭の中が、真っ白に染まった。

 

 

 

「……、…………、………………、」

 

 

……上手く、言葉を受け止められなかった。

 

その意味を理解できなくて、ただ戸惑って、でも胸の奥底で期待して。

しかし地下で見たあかねちゃんの惨状が鮮やかに蘇り、浮つきかけた心が一瞬で氷の上に接地する。

 

 

「……あの、そういうのいいから、別に……」

 

「もしかして励ましだと思ってる? 違うよ。噴水の件で君に隠し事は悪手だって分かったからね。また勝手をされる可能性があるなら、最初から隠さない方がマシだと判断して渋々つまびらかにしてあげるんだ。思い上がらないでくれよ」

 

 

何だコイツ。

インク瓶はまた腹の立つ上から目線で鼻を鳴らすと、一方でまた気遣う目となり私を見た。

 

 

「……さっきの君の話では、査山銅は『くも』の眼球に作り変えられてしまったと取れたけど、それに間違いは無い?」

 

「っ……」

 

 

弱々しく、頷く。

 

本当は今だって悪い夢だと思いたい。

だけど単眼(あかねちゃん)を抱えた腕が、触れた指先が、その感覚を覚えている。

どうしようもなく、現実だった。

 

 

「……その眼球を『くも』から引き抜き、落としてしまった事も?」

 

「…………ほんとう」

 

「そう。……ごめんね」

 

 

インク瓶は俯く私に謝ると、革手帳に視線を落とす。

そしてややあってから、言葉を選ぶように話し始めた。

 

 

「……査山銅は、霊視に関する霊能を持っていた。それはまず間違いない」

 

「……?」

 

「或いは、本当に千里眼に纏わる霊能を持っていた可能性もある。そしておそらく、その才は人並外れたものであった筈だ。そうでもなければ、霊能の教えすら受けていない子供が、遠方から御魂雲の血の封を解くなんて芸当、出来る訳が無い」

 

 

……あかねちゃんの、おまじないの話だろうか。

 

確かに言われてみれば、彼女は地下深くから噴水のオカルト越しに――加えておそらく死にかけの状態で、私におまじないをかけたという事になる。

霊能力者界隈の基準なんて何も知らないけれど、相当な事をやったってのは想像がつく……のだが。

 

 

「……あの、いきなり何? 関係あんの、それ……」

 

 

そう、今この話題でその件に触れる理由が分からない。

訝しげに首を傾げれば、分厚い丸眼鏡の奥から静かな視線を返されて、

 

 

「――そんな『視る力』の異才が、昆虫の物とはいえ、自身の霊能を顕す眼球そのものになったんだ。しかも『くも』から千切られ、個の存在に分離済み……正直、かなり嫌な感じだ」

 

「…………」

 

 

……この街の見立て。川と橋の役割についての話が、自然と浮かぶ。

 

川は血流、橋は死。

インク瓶曰く、それらをそれぞれ見立てる事で、御魂雲の霊能に繋げて蜘蛛を封じているという。

 

なら――見立てどころか、直で重なっている単眼(あかねちゃん)は……?

 

 

「――……」

 

 

だけど、無知な私が確かな答えを出せる筈も無い。

ただ眉を下げ、話の続きをじっと待ち――インク瓶の視線が、また私の左腕に向かった。

 

 

「……さっき試したおまじないは、前と同じものだよ。オカルトからの視線を遮り、隠すためのもの」

 

「……うん」

 

「それが通らなかった以上、君は既に何かから捕捉されているとみていい。それも僕のインクじゃ隠し切れない程に、しっかりと……」

 

 

インク瓶は断定を避けるように、途中で言葉を切った。

私はそれを問い質さないまま、包帯塗れの左掌へと目を落とす。

 

あのバスでの最中、ここに刻まれたおまじないは、崩れる事無く私の左手に巻き付いて、その効力を発揮した。

そして噴水のオカルトで蜘蛛に気付かれた時、その力に耐えきれないように弾けて消えた。

 

……さっきのおまじないに起きた現象は、そのどちらでもない。

刻まれもせず、弾けもせず。黒インクはただ静かに崩れ、流れていった。

 

まるで、全く別のものを相手にしているかのように――。

 

 

「――その一方で、『くも』はまだ、地下に居るままでもある」

 

「っ」

 

 

出そうになった答えを遮るように、インク瓶の声が落ちた。

 

 

「多少削れはしたけど、やっぱり頭を砕くまでには至らなかったみたいだよ。幾度となく御魂雲につつかれながらも、しぶとく隠れ続けてるだけの事はあるんだろうね」

 

「…………」

 

「……だから、決めつけられない。僕がハッキリと言い切れるのは、君を捕捉しているものに関して、幾つかの作り話を考えられる状況にある――それだけだ」

 

 

インク瓶はそう小さく息をつくと、切り替えるように丸眼鏡を軽く上げる。

 

 

「で、それを踏まえた上で聞きたいんだ。その捕捉してくるものを、君はどうしたい?」

 

「……どう、って……」

 

「このままだと、君はまた多くのオカルトに絡まれ続ける事になる。君が救出されてから今まで何も起きていないから、前よりは多少はマシと見えるけど……御魂雲の性質に加え、オカルトから常に見られ続けているのが確かである以上、些細なきっかけで遭遇するようにはなっている筈だ」

 

「ぅ……」

 

 

真っ赤なぐしゃぐしゃを視つけてからの一夜を思い出し、呻き声が漏れた。

あの時よりどの程度マシになるかは知らないが、出来る事なら勘弁願いたい事柄であった。

 

 

「さっきの僕のおまじないは通用しなかったけど、他にも手段はある。君が望むのであれば、その霊視の瞳を閉じさせ、オカルト自体から離れる事も不可能ではないだろうね。……流石に、一度目覚めた御魂雲の血そのものを封じるのは難しいだろうけど」

 

 

インク瓶はそれを最後に口を閉じ、私の答えを待った。

 

……あんだけ色々語っときながら、最後は私にぶん投げかよ。

そう毒づきたくなったけど、それが彼の誠意という事は分かっていた。

 

だって本当に面倒事を避けたいのなら、さっきの話なんて隠したままで良かったんだ。

 

何も知らなければ、オカルトと縁を切るのに迷いなんて無かった。

疲れ果て、消沈したまま、異常の無いかつての世界を謳歌していた。

 

きっとそれが一番私にとって優しくて、インク瓶にとって面倒の少ない結末だったに違いない。

……だけど彼はそうせず、言える事を全部ぶちまけやがった。優しくないし、苦労性。

 

そんな彼に、私は心の中で感謝と悪態の両方を零し――顔を、上げた。

 

 

「――このままで、いい」

 

 

意外なくらいすんなりと声が出て、自分でも驚く。

インク瓶は諦めたように溜息をひとつ。むっすり組んだ腕を神経質にトントン叩いた。

 

 

「……ほらこうなる。くそ、やっぱり内緒のままにしてれば良かった……!」

 

「あんたから勝手に話して来たんだろ……」

 

「分かってるのかい。怖い思いに痛い思い、きっと沢山する事になるんだぞ」

 

 

私のぼやきを無視して、インク瓶はそう問いかけた。

その声音には重たい実感が籠っていて、私の意志が早速揺らぐ。とはいえ吐いた言葉を戻す気も無く、ただ小さく苦笑した。

 

 

「……言ってなかったけどさ。あかねちゃんって、オカルト探しが趣味だったんだ」

 

「……へぇ、随分と高尚な趣味じゃないか。何故だか親近感を覚えてしまうね」

 

 

一瞬怪訝な顔をされたけど、即座にイヤミを返して来る。

親友としてなんか言い返すべきかと迷ったが、やめておく。私も正直どうかと思っていた趣味だったし……たぶん今後も、その考えは変わらないだろうから。

 

 

「それに付き合うのが私の役目でさ、一緒に色んなオカルトスポット行ったんだ。まぁほとんどは何も起きなくて、おでかけの口実くらいのノリだったけど」

 

「……今の君を思うと肝が冷えるね。よく何事もなく無事でいられたものだよ」

 

「その時の私が分かんなかっただけで、あかねちゃんには何か視えてたんだろうな。思い出すと、なんかそれっぽい事やってたや」

 

 

改めて考えるとひでぇ話である。

 

当時のオカルトを視認出来なかった私は、知らない内に散々ヤバイ場所へと連れ回されていたのだ。

いや、視えないからこそ絡まれなくて安全だとか考えてたのかもしれないが、これまで遭ったオカルトを思い出すと、無事だからヨシ!で済ますのは流石に抵抗があった。

 

 

「ほんと、どうかと思うよな。ニコニコしながらあちこち行って写真撮って……下手したら二人揃って死んでたかもしんないのに」

 

「…………」

 

「つーか、実際に今回そうなったんだ。あかねちゃんがバカやってさ、私が巻き込まれてさ、それで……こう、なって」

 

 

……言ってるうちに泣きたくなって、今度は腹も立ってきた。

 

あかねちゃん、よく私の頭の出来をからかってきたけど、あの子も違う方向でバカじゃねーか。

というかこうなった以上、むしろ私より頭悪いまである。これまでバカって言ってきたの覚えてろよ。

 

 

「こんなオカルト視えるようにもされて、ひどくない? 助けて欲しかったのは分かるけどさ、こっちだって死ぬほど痛くて熱くて苦しかったし……これからの事だって、考えるだけで無限に溜息吐ける」

 

「……でも、このままでいい、と?」

 

「……ん」

 

 

ほんとは、よくは無いけど。

ほんとは、すごく怖いけど。

ほんとは、すごくイヤだけど。でも、

 

 

「――言ったろ。あかねちゃんに付き合ってやんのが、私の役目なんだって」

 

 

そう、いつもの事。だからしょうがないと諦めて、合わせる。

今更目を逸らしての拒絶なんてしてやるもんか。

 

その答えに、インク瓶は今日イチの溜息を吐き出した。

 

 

「……もう一度言うけどね、僕の話は推測混じりの作り話だ。査山銅については僅かな可能性の話でしかないし、君の知っている彼女が戻らない事に変わりはない。普通に考えれば、『くも』がまだ君を捕捉し続けているとした方が自然なんだ」

 

「……だとしてもさ、私にオカルトを視えるようにしたの、あかねちゃんだってのには違いないんだろ」

 

「それは……そうだろうけど」

 

「だったら、私を見てるのが蜘蛛の方だとしても変わんないんだ。このおまじないは、あかねちゃんので……だったら、ちゃんと付き合ってやんなきゃ」

 

 

そうして訪れる日常は、きっとこれまでみたいに楽しくない。

インク瓶の危惧する通り、しんどい目にはたくさん遭って、毎日のようにイヤだイヤだと零し続ける自分の姿が目に浮かぶ。

 

絶対後悔するし、絶対恨む。それでも。

 

 

「――これだって、私達の時間なんだろうからさ……」

 

 

掠れた吐息に、そう重ねた。

 

 

「…………」

 

 

インク瓶もそれ以上何かを言う気は無くなったようで、静かに革手帳に目を落とす。

それきり互いに無言となって、もう何度目かも分からない沈黙が落ちた。

 

 

「……ひとつ、思った事がある」

 

 

そんな中、インク瓶の囁き声が小さく空気を震わせる。

 

 

「君は査山銅のおまじないを、助けの求めだという風に受け取ったようだけど……本当に、そうなのかな」

 

 

これまでのネチネチした話しぶりとは違う、淡白な声音。

私はどこか落ち着かなくなりながら、首を傾げた。

 

 

「……何が言いたいんだよ」

 

「査山銅が数々のオカルトスポットを巡っても無事だったのは、おそらく霊視能力のコントロールが完璧だったからだ。そうして敢えて視えなくなる事で、オカルトをやり過ごしていたんだろう」

 

「う、うん……?」

 

「だけど、『くも』には通じなかったんだろうね。いや、噴水のオカルトの性質のせいかな。とにかく見つかり、捕まった」

 

「――……」

 

 

胸が詰まり、歯が軋む。

しかしインク瓶は言葉を止めず、淡々と語り続けた。

 

 

「……そうして地下で苦しむ中、やがて彼女は見たんだ。噴水のオカルトを通して映った、君の顔を」

 

「…………」

 

「きっと、自分と同じ方法を取ったとすぐに分かっただろうね。そしてこの後、君がどうなるのかも。その時、査山銅は何を思ったか」

 

「……だから、助けて、って」

 

「そうかな――僕としては、逃げて、だったんじゃないかと思うけど」

 

 

――思わず、ぽかんとしてしまった。

しかしすぐに呆れが沸いて、乾いた笑いが口をつく。

 

 

「んなワケ無いだろ。だったら、わざわざおまじないをかける意味が……」

 

「視えなくても、襲われたから」

 

 

丸眼鏡の奥。険が薄れ、どこか眩しいものを見るかのような瞳と目が合った。

 

 

「繰り返すが、査山銅が霊視に長け、そしてオカルトに慣れていたのなら、まず間違いなく『くも』と関わった前後には霊視の瞳を閉じていた筈だ。いつものように、やり過ごすため」

 

「…………」

 

「だが、無意味だった。視えようが視えまいが関係が無く……そんな存在に、親友が目を付けられそう。そしてその子には、霊視の瞳が無い……」

 

 

――視えた方が、まだ逃げられる。そう判断してもおかしくないんじゃないかな。

 

 

「――……」

 

 

……インク瓶のその言葉は、私にとある一言を思い起こさせた。

 

あの真っ赤なぐしゃぐしゃを目撃した時。

耳に当てていたスマホから聞こえた、裏返った誰かの声。

 

――逃げて。

 

 

「……、……」

 

「勿論、これも推測だ。……君には、心当たりか何かがあるのかもしれないけど」

 

 

そう言ってまた鼻を鳴らすインク瓶の目から逃げるように、毛布を上げて顔を隠した。そしてそのままもごもごする。

 

 

「……なんで、そんなの話すんだよ」

 

「最初に言わなかったかい。面倒事にならないよう、隠し事はしないって」

 

 

だから、これも言っておくけど――。

毛布に遮られた視界の中、溜息とも苦笑ともつかない息がひとつ聞こえて。

 

 

「――君がいつか音を上げても、責める人はきっと居ないさ。ずっと、覚えておくといいんじゃないかな」

 

 

……その言葉だけは、推測だとも作り話だとも言わず。

ぱたん、という革手帳の閉じる音が、やけに大きく響いた気がした。

 

 

 

 

 

 

「……さて、こんなものかな」

 

 

それから、少し経った後。

そんな呟きと共に、ソファの軋む音がした。

 

毛布を下げてそちらを見やれば、立ち上がったインク瓶が、何やらスマホを確認している所だった。

 

 

「……どっか、行っちゃうの?」

 

「君の親御さんの所にね。様子、聞いた事、君について色々と相談しなきゃならない」

 

「相談……」

 

 

ふと、思う。

 

コイツがこの街に来たのは、私に御魂雲の血に関しての諸々を説明するためだった筈だ。

そして今の私はきっと、それらについて最低限以上の知識を持っている……と思う。

 

……役目は果たされた、という事だろうか。

寂しい、なんて絶対思ってやらんけど、今の状況で彼との縁が切れるのは不安以外の何物でもなかった。知らず、握る毛布にシワが寄る。

 

――ちらり。丸眼鏡の奥から、視線を感じた。

 

 

「……まぁ、怪我人を一人きりにしてしまう事になるが、ドアの外には御魂雲の身体が控えている。何か異常があれば、すぐに駆け付けてくれるだろう」

 

「…………」

 

「とはいえ、この親子関係だ。もの凄く気は進まないだろうから――これを君に預けておくよ」

 

 

インク瓶は懐にスマホをしまった手で、真っ黒なインクの入った小瓶を取り出した。

 

さっきおまじないに失敗し、崩れたインクを回収したもの。

それを私の頭もとにそっと置き……その横に、何故か小さなメモ帳を付け加えた。

 

 

「……なにこれ?」

 

「おまじないの一つ。詳しい説明は後でするけど……とりあえずそのインクを紙に垂らせば、いつでもどこでも僕と繋がる。イザって時の緊急連絡用として、これから常に携帯し続ける事をオススメするよ」

 

「……、……え」

 

 

――これから。常に。

一拍置いてその言葉の意味に気付いたが、その時には彼はこちらに背中を向けて、扉へと歩き出していた。

 

 

「ちょ、まっ、これからって――」

 

「一応、友人の娘なんだ。そのためだけにこの街へ常駐するのは無理だけど、気にかけるくらいの事はしてあげるさ」

 

 

呼び止める私を軽くあしらい、ドアノブを引く。

そうして、そのまま振り返る事なく部屋を後にして――。

 

 

「――ああ、でも、そうだね。そのインク、ちゃんと機能するか一応確かめておいた方が良いかもしれないな」

 

 

寸前、僅かに振り返り。

何でかやたらとわざとらしい棒読みでそれだけ残すと、今度こそ立ち去って行った。

 

……後にはただ、ベッドに横たわる真っ白けがひとつ。

扉に伸ばした手をぷらぷらと振るその顔は、きっと何とも言えない表情をしている事だろう。

 

 

「…………」

 

 

そろりと、頭の横にある小瓶を見る。

表面に薄く細工の施されたガラスの中、真っ黒なインクが光沢をもって揺れていた。

 

 

 



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【私】の話(中⑮)

7

 

 

 

「――おかえりなさい」

 

 

どこかの部屋の扉が開く。

そこには(えだなし)と名付けられているらしい『うちの人』の身体の一つが席に着き、こちらに視線を向けている。

 

以前に見た無表情とは違う、真剣味を帯びた顔だった。

 

 

「……あの子、どうだった? 怪我の具合は分かってるつもりだけど、その……」

 

「起きた直後は取り乱していたけど、今は落ち着いてる。身体も心もタフだね、彼女」

 

 

対するインク瓶は少しだけ砕けた口調でそう答え、後ろ手に扉を閉めるとソファか何かに腰掛けた。

『うちの人』はホッとしたように息を吐くと、表情を柔らかく緩ませる。

 

……これが前に聞いた、身体ごとの人格ってヤツなのだろうか。

 

それを眺める私は、その可愛らしい微笑みにどうしようもない気味の悪さを感じ、そして十という一人の人間がそこに居るのだと錯覚した。

 

 

「よかったぁ……。ありがとう、みていてくれて。私たちが傍に居ると、逆に負担になっちゃうと思うから……」

 

「残念だけど、あまり安心してもいられないんだ。少し、厄介な事になっている」

 

 

インク瓶は安堵する『うちの人』……いや、十にそう水を差し、さっき私から聞き出した話と、それを踏まえた推測を簡潔に伝えた。

 

元はとっ散らかった言葉の羅列と、まどろっこしい長話だった筈なのに、彼から語られるそれらはもの凄く分かりやすく整理整頓されていて、要点をきっちり纏めた『報告』となっていた。

当然私の時より百倍速く話は終わり、それを聞いた十の微笑みが不安に曇る。

 

 

「そんな……あの子と『くも』の縁が、まだ……? ど、どうにかしてあげられないの……?」

 

「本人が今の状態を受け入れているからね。僕としては、あまり強制はしたくないな。……きっと、今の彼女に必要なものでもあるんだろうからさ」

 

「でも…………ううん、わかった、何でも無い」

 

 

そう肩をすくめるインク瓶に、十は不満そうに口籠ったけど、しかしすぐに受け入れ黙り込む。

その短いやり取りに、彼らの間で積み重ねられた理解と信頼のようなものが垣間見え……友人という関係性をまざまざと突き付けられた気がして、口がへの字にひん曲がる。

 

 

「とりあえず、あの噴水はもう使えなくしているんだろう?」

 

「うん。故障って事でやっと水が抜けたから、あとは撤去するだけ。それは流石に一日二日では難しいけど」

 

「……まぁ、問題ないと思うよ。あの子に利用出来なくなればそれでいい訳だから」

 

 

インク瓶は心なし大きめの声でそう言って、「聞こえたかい?」とでも言いたげに丸眼鏡を揺らす。

また勝手が出来ないよう、今度こそ完全に手を打たれてしまったようだ。

 

……これで私は、単眼(あかねちゃん)を探しに地下へ行けなくなった。

正直、怒りや憤りが無いと言えば嘘になるけど――それと同じくらい、ホッとしている私も居た。

 

――今、私を捉えているのがどっちなのか、まだ定めないでいられる。

その時間が、ありがたかった。

 

 

「行方不明扱いの査山銅と、その家族の処遇についてはもう決めたの?」

 

「ええっと……何日か後に今回遣った身体の何割かを集団失踪事件として発表させるから、それに銅ちゃんの件も絡めようかなって。どう収めるかはまだ検討中……」

 

「そのあたりは僕に口出しする権利はないけど……出来る限りの配慮と気遣いをしてあげて欲しい、とは進言しておく」

 

「うん。異ちゃんに、沢山良くしてくれた人達だもんね……」

 

 

十は寂しそうな表情を浮かべ、肩を落とす。

 

遺されたあかねちゃんママ達は、悪いようにならない。

何がどうなるかは知らないが、つまりそういう事だろう。

 

それ自体は私にとっても喜ばしい事だったけど……あの優しい人達がこれから悲しむ事になるのだと思うと落ち込んで、すごく気分が悪くなった。

 

 

(…………)

 

 

……いや、ちょっと違う。

落ち込んでるのはそうだけど、すごく気分が悪くなってるのはもっと別の理由から。

 

そう――単純に、十の事が気持ち悪くて堪らない。

 

なんなんだよ、その喋り方、表情、動き方……!

馴れ馴れしく私やあかねちゃんの名を口にしやがって、私を想ってるみたいに振る舞いやがって。酷いノイズだ。

激しい違和感と、言いようのない苛立ちが、胸の奥から湧き上がって止まらない。

 

そうしてイライラ歯ぎしり立てていると、向こうでそれを感じ取ったのかそうでないのか、インク瓶が呆れ混じりの溜息を吐いた。

 

 

「……あのさ。それだけ彼女を……自分の娘を気にかけられるのに、どうしてあんな態度になるんだ」

 

「え……な、何が?」

 

「とぼけるなよ。君があの子と顔を合わせた時の、意味の分からない鉄仮面状態の事に決まってるだろ」

 

 

唐突に突っ込んで来た。

 

思わず一瞬呼吸が止まるが……私もずっと気になっていた事だった。

それを真正面から問いかけられた十は小さく呻き、顔を逸らす。

 

 

「いい加減、何の問題があるのか話してくれない? 今回の事だって、君達のその関係の拗れが物事を面倒にしていた部分もある。これからは僕もそれに付き合うんだから、そろそろ聞いておきたいんだけどもねぇ」

 

「……よ、よその家庭事情に踏み込むの、いかがなものかなーって……」

 

「この怪我、それでチャラ」

 

「うっ」

 

 

トン、トン、と視界が揺れる。

 

たぶん、インク瓶が頭の包帯を叩いたんだろう。

……そういや、その怪我についても聞きそびれてたっけ。

 

 

「……でも、あの時突き飛ばさなかったら、『くも』の穴に落ちてたもん……」

 

「それでもねぇ。いやー、あれは痛かったナァ。何メートルくらい飛んだかナァ。あれだけ身体が居たなら、一人くらい受け止めてくれてもよかったよナァ――」

 

「ハイハイわかりましたごめんなさいでした! もー!」

 

 

イヤミったらしい当て擦りを、十は顔を真っ赤にして遮った。

 

……話しぶりからすると、どうやらインク瓶の頭の怪我は噴水のオカルトを利用した際、足元に開いた穴から逃れるために『うちの人』から受けたものらしい。

そんな理由で怪我したんか……と思わんでもないが、実際に落ちた身からすると、それだけで済んだのなら『うちの人』に感謝しとけとすら思わんでもない。

 

まぁ、どうせインク瓶も分かって言ってんだろうけど。ヤなヤツ。

 

 

「…………、」

 

 

そうして少し黙り込んだ後、十はおずおずとインク瓶へ視線を戻す。

 

その瞳にはいつもの冷たさなんてどこにも無く、ただ不安と躊躇に揺れている。

……本当に、気持ち悪い。無意識の内、私の顔は嫌悪に歪み――それと同時に、ぽつりと声が零された。

 

 

「わからない、からだよ」

 

 

細く、震えて、消え入るような声だった。

私とインク瓶が見守る中、迷い子のようなそれが続いた。

 

 

「……私たち御魂雲の血は、崩れない。自分と交わっても、他人と交わっても、産まれてくるのは私たちだけ」

 

「……らしいね」

 

「私たちが私たちとなってから、ずっとそうだった。私たちは私たちしか産まず、私たちしか増やさない。それは絶対で、例外の無い法則の筈だった」

 

 

でもね。

十はそう区切り、幼さの残る目元を細め、

 

 

「あの子は――異ちゃんは、私たちじゃなかった」

 

 

……静かで、すぐに終わった短い呟き。

だけど私は、それに酷く重たいものが籠められているように感じてしまった。

 

 

「あの子を取り上げた時、凄くビックリしたの。間違いなく御魂雲の血肉を持っているのに、私たちじゃない。同じ魂を受け継いでいるのに、独立した個の存在となっている……」

 

「…………」

 

「……凄い、驚いちゃってさ。私たちから私たち以外のものが産まれるなんて想定、気が遠くなるほどの昔に捨ててたから。私たちの全人格がパニックになって、ちょっと大変な事になったりしちゃった」

 

 

笑い話のように零すけど、数万人単位での話だ。たぶん集団ヒステリーとか、そういう洒落にならない事態になったんだろう。

……そんなショックを、コイツらが受けた? 私なんかに?

 

 

「私たちの身体それぞれが、全然違う事を思うの。例えば私、『十』は異ちゃんの事を可愛いなって想うけど、『二山』は私たちじゃないあの子を気持ち悪いって思ってる。『安中』は単純に怖がってて、『ハナ』はもっと知りたいって願ってる。そういう感じ」

 

「……どれが本音?」

 

「全部、その私たちにとってのほんと。それぞれの身体で思う総てに嘘偽りは無くて……だから、どれかもわからなくて、ぐちゃぐちゃになっちゃう」

 

 

そう語る十の顔から少しずつ感情が抜けていき、表情も失っていく。

 

そして最後にはいつも見慣れた『うちの人』のそれとなり――気付けば、私の口から大きな息が吐き出されていた。

それが無表情に戻った事への安堵から来るものだと自分でも分かって、また酷く苛ついた。

 

 

「……あの子の事を意識しながら、少し他の身体と繋ぐだけで、これだ。幾つもの感情が打ち消し合い、或いは混じり合って……身体の人格を維持出来なくなり、そうした末に我々が残る」

 

「それはやっぱり――御魂雲としての素顔って事でいいのかな」

 

 

『うちの人』は何も答えず、インク瓶と視線を合わせもしなかった。

その顔はやはり無表情で、十の時とのギャップが凄まじい事になっている。

 

ああ、イライラする。握っているそれがくしゃりと歪み、『うちの人』にもシワが寄った。

 

 

「まぁその鉄仮面状態については分かったよ。なら、あの子を無視するのはどうして?」

 

「……言葉が、出なくなるのだ。あの子を前にすると喉が詰まり、唇さえも開かなくなる。そして思考すらも鈍り、止まる。それが、どの身体であっても」

 

「…………」

 

「我々にはどうにも出来ない。それ故、あの子との意思疎通に致命的な不都合が生じているが……そのおかげで、懸念点である触れ合いが最低限で済ませられている面もある。現状は一長一短と言った所だろうか」

 

 

そう淡々と語る『うちの人』だけど……どう捉えりゃいいんだ、これ。

その声色に誤魔化しは見えず、だからこそ戸惑う。

 

一方でインク瓶は軽く鼻で笑い、私が思ったそれと同じ言葉を口にした。

 

 

「なんだ、やっぱりただ緊張してるだけなんじゃないか」

 

「…………、」

 

 

その指摘に、無表情が僅かに崩れた。

 

 

「……緊張という情動ならば、数多の人格で体験してきている。我々の抱くものとも合致する部分があるのは認めるが、心拍数や発汗量の変化などは無く……」

 

「今は十さんや他の身体の話はしてないよ。その素顔である君の胸の内が、どうあるのかの話」

 

「……、……」

 

 

すぐには返す言葉が出なかったようで、『うちの人』は視線を逸らし黙り込む。

そしてインク瓶は私にあてつけるように、丸眼鏡の縁をトントンと叩き、

 

 

 

「――本当はあの子の事、大切にしたいんだろ」

 

 

 

………………………………………………………………、

 

……面白い、妄言だと思った。

噛み締める奥歯が擦れ、軋みを上げる。

 

 

「……何故」

 

「この短い間でも、君達の関係性が完全に破綻している事は見て取れた。家庭内コミュニケーションはほぼ皆無で、子の方は君を心底嫌っている。いっそどこかの養子にでも出した方がお互いのためになるような、最悪な家庭環境と言っていい」

 

「…………」

 

「なのに、君はあの子を手放さず、今の今まで育てて来ている。まぁ、何かしらそうせざるを得ない理由があるのは察するけど……君自身だって、子供から離れたくないとも思ってるんじゃないのか。少なくとも僕には、そう見えるよ」

 

「……………………」

 

 

『うちの人』は、やっぱり何も言わない。

無表情のまま床を睨み、二度三度、瞬きをして――。

 

 

「……気味が、悪い」

 

 

ぽつり。

やがて、『うちの人』が呟いた。

 

 

「我々の胎に宿された存在でありながら、しかし決して我々ではないあの子の事が、ずっと気味が悪くて仕方がなかった。あの子に何一つ反応が返せないのも、その嫌悪感による拒絶反応だとも思った」

 

「…………」

 

「……だが反対に、視線は常にあの子を追ってしまっていた。眼を背けられず、家の中でも、街中でも、見かける度に、延々と……」

 

 

気味が悪いと言われた事にショックは無かった。

態度からしてそんな感じだったし、私だってコイツらの事をそう思ってる。お互い様だ。

だけど……その先なんて、私は。

 

 

「……今回あの子が倒れたと知った時、言いようのない震えが走った。身体にではなく、おそらくは御魂雲としての魂、そのものに」

 

「彼女、これまで大きな怪我も病気も無かったそうだね。初めてだった訳だ、色々」

 

「……友人、養親、養子。似た関係性の者が倒れた事など、他の身体で幾度もあった。だが……」

 

 

零す語りはたどたどしく、そんな『うちの人』の姿が信じられなかった。

 

心が煮立つ。息が詰まって、荒くなる。

それは怒りに似てたけど、きっと違う。自分でも何が何だか分からなくて、ぐしゃぐしゃと頭を掻きむしった。

 

 

「……更には血の封まで解けたと知った時、我々は我々すらも見失った。わからなくなったのだ。そして接触を最低限に抑える事も忘れ……度々、余計な干渉を」

 

「……本当に、余計だったって思ってる?」

 

「…………、」

 

 

私に対するそれと同じ声音での問いかけに、『うちの人』はピクリと指先を動かした。

 

 

「……じゃあ、そうだね。考えなしに動いたっていうのなら、動いた後は?」

 

「後……?」

 

「例えば、御魂雲の説明をするため僕を呼びつけた後。小さなおせっかいを焼いた後や、命の危険から庇った後……行動を終え、我に返った後なら、何かしら思った事もあったんじゃないか?」

 

「…………」

 

 

……何なんだよ。

 

 

「あの子が部屋から消えて、急いで追いかけて……既に『くも』の穴に落ちてしまったと分かった後、膝を突いていた君はどう思っていた?」

 

「……わからない。気付けば、その身体は立ち上がれなくなっていた」

 

 

何なんだよ、コイツ。

今更そんなの聞かされたって、何がどうなるってんだ。

 

 

「なら、その更に後。僕の頭にたんこぶ作らせてまで飛び込んだ地下で、あの子を見つけたその時は?」

 

「……息を、ついた。軽く吐き、吸い込むような、息を」

 

 

何も変わんないよ。

十三年だぞ。生まれてからずっと無視されてきて、それと同じ間だけずっと大っ嫌いなんだ。

どうにもなんないだろ、そんなの。

 

 

「――君自身に抱かれ、地面に横たわる子供を見た時。君の心にあったのは、何?」

 

「…………、」

 

 

もういいって。

意味無いんだよソイツの言葉。何言ってても何思ってても全部無駄。

 

……だから、やめてよ。

 

ひっくり返すな。そのままでいいんだ。

もう聞きたくないんだ。悔しくて不愉快で気持ち悪くて、だから、だから――。

 

 

 

「――……………………………………無事で、良かった」

 

 

 

――たっぷりと間をおいて放たれたその呟きに、息が止まった。

 

 

「……安堵。そうだ……我々は、安堵していた……」

 

 

その時の心情を振り返っているのか、薄く目が眇められる。

そんな顔を見たのすら、初めてだった。

 

 

「傷だらけではあったが、ちゃんと息をしていたあの子に。失われず、まだそこに在ってくれたあの子に……良かったと、そう思ったのだ……」

 

「…………」

 

「そうか――そう、か……」

 

 

その様子を静かに見守るインク瓶をよそに、『うちの人』は噛み締めるように繰り返しながら、目を閉じる。

そうして誰もが無言のまま、ただ静かな時間だけが流れ――。

 

 

「……異」

 

 

……零し始めたその独白は、とても小さな声だった。

 

 

「あの子を取り上げた時、御魂雲という姓は存在しなかった」

 

「…………」

 

「御魂雲とは我々の名であり、我々を識る者の間でのみ言告がれるもの。幾万の身体に贈るそれと違い、人世に刻まれる類のものではなかったからだ」

 

 

インク瓶は口を挟まず、ただ耳を傾ける。遮って、くれない。

 

 

「……だが、我々は敢えて御魂雲の籍を作り、その上で名を異とした。御魂雲の異――我々とあの子が異なる存在であると確に示し、そして刻みつけるために」

 

 

……………………。

 

 

「我々はそれを、あの子への気味の悪さから……拒絶から来るものだと、そう判断していた」

 

 

……………………………………、

 

 

「だが……だが、逆だったのだろうか。あの子の誕生に、今回と同様己を見失っていて……いや、もしかするとだが、浮かれていたなんて事も、あるのだろうか」

 

「……さぁね」

 

「ああ、ああ、そうか。今だから、思う、思える――」

 

 

……『うちの人』は、一度そう言葉を切って、そして、

 

 

 

「――我々は、我々ではない存在を生み出せた事が。あの子が我々と異なるものである事が……本当の意味での子供を成せた事が、確かに嬉しかったのだ――」

 

 

 

――――限界だった。

 

 

 

「――~~~~~~~~~ッ!!」

 

 

言葉にならない怒声が漏れた。

同時に、手に持っていたメモ帳を思い切り破り捨てる。

 

真っ二つに引き裂かれたそのページには、真っ黒なインクが広がっており――そこに映し出されていた『うちの人』の忌々しい微笑みも、二つに分かたれ掻き消えた。

 

 

『……そうだ。あなたには、伝えておこうと思う。あの子を宿した、つまり母となった身体だが――』

 

「うるせぇぇぇぇッ!!!」

 

 

それでもなお続く音声に怒鳴り散らし、更に細かく紙を千切る。

そうやって跡形もない程粉々にして、ようやく不愉快な声も完全に消え去ったけれど、煮えたぎる腹は収まらない。

「くそっ、くそぉッ!!」私はその衝動のまま何度も何度も吐き棄てて、ベッドから転げ落ちるように飛び出した。

 

 

 

 

――既に分かっているだろうが、さっきまで繰り広げられていたインク瓶と『うちの人』の会話の場に、私自身は立ち会わせていない。

 

当たり前だ。もしそうだったら、『うちの人』はこんなに饒舌に語ってない。

実際の私は離れた別室のベッドの上で寝ころびながら、メモ用紙に垂らした黒インクをただ眺めていただけだった。

 

……しかしその黒色の中には、おそらくインク瓶の視界をそのまま映すような形で、彼らの様子が音声と共に中継されていたのだ。

 

彼曰く、緊急連絡用インク。

これを貰った際に言われた「ちゃんと機能するか確かめておいた方が良い」という助言に従ってみればこのザマだ。

 

これも彼のおまじないの一つなんだろうが、酷い嫌がらせにも程がある。

結果として、私は大嫌いなヤツの知りたくも無かった胸の内を見せつけられ――心の中が、これ以上無くぐちゃぐちゃにされていた。

 

 

 

 

「――んのぉッ!!」

 

 

体当たりと変わらない勢いで、部屋の扉をぶち破る。

そしてそのまま立ち止まれずに反対側の壁に激突し、満身創痍の身体が悲鳴を上げる。けれどそれも無視をして、無理矢理に身体を進ませた。

 

――向かう先は当然、インク瓶と『うちの人』の所だ。

 

そこに行ってどうしようとか、彼らに何がしたいとか、そんな事は考えてなかった。

言語化できない感情が荒れ狂い、私の背中を押していた。

 

 

「……っ」

 

 

すると廊下の少し先で、こちらを振り返る『うちの人』の姿が見えた。

 

鼻の低い、のっぺりとした顔の男性。インク瓶の言っていた、部屋の前で控えてるって身体だろう。

無表情なのに、どこか慌てた様子で私に手を伸ばして来るソイツを、私は舌打ちと共に躱し抜き――。

 

 

(――いや、コイツでも同じなんだッ!!)

 

 

すぐにそう考え直し、私は強引に姿勢を戻して腕を引く。

 

相当に無理な体勢となったため足が縺れ、身体に激痛が走るが、やっぱり知った事じゃない。

そうして殆ど『うちの人』に飛び込む形になりながら――そのムカつく無表情を、力の限り殴り飛ばした。

 

 

「ご、がッ――」

 

 

包帯塗れの腕はボロボロで、いつもと比べたら力も全然入らない。

だがそれでも『うちの人』を倒れ込ませるくらいのダメージは入ったようで、彼諸共無様に床へと転がった。

 

 

「ぁ、ぐ、く……!!」

 

 

殴った拳と、打ち付けた頭。

酷く痛むそれらに悶えていると、別の方向からこちらに近づく足音があった。

 

どうやら騒ぎを聞きつけて新しい『うちの人』が駆けて来たらしい。真っ先に私の様子を確認しようと近寄って来たソイツの衣服を引っ張って、下がった頭に頭突きする。

 

互いの額が鈍い音を立ててぶつかり合い、視界に星が散る。そうして至近距離まで迫った冷たい瞳に、真っ赤な双眸が反射して、

 

 

「――勝手ばっかり、言うなよぉ……!!」

 

 

――それは自分でも思ってもみなかった、縋りつくような声だった。

 

 

「ずっと……ずっとだったじゃんかぁ……! ちっさい頃からずっと、無視で、喋んなくて……何回話しかけてもぉ! なぁっ!!」

 

「――……っ」

 

「なのに、何? 大切だの、緊張だの……う、喜しっ、い? っ、ふ、ふざ、ふざけぇ……!」

 

 

感情が昂りすぎて、呂律もあまり回らなくなってくる。

その癖声だけ大きくなって、噛んだ舌の傷が開いて飛び散る唾に血が混じった。

 

 

「気持ち悪いんだよッ! 今になってそ、そんな、そんなぁッ!!」

 

「……ッ、……」

 

「――なんとか言えよぉッ!!!」

 

 

無表情のまま、鯉みたいに口をパクパクさせる『うちの人』にまた叫ぶ。

 

少し前なら反応があるだけでも驚いたんだろうけど、さっきの今だ。

むしろどうあっても声を発さないその姿がより一層神経を逆なで、視界が真っ赤に染まり切る。

 

 

「そんなでっ……! そんなんで何が嬉しいってんだよぉ! 何で笑えたぁッ! たくさんの中で、ずっと一人だったのに!! 何が、何が、何がっ――!!」

 

 

もう自分が何を口走っているのかも分からない。

剥き出しになった心が勝手に口を使ってる。澱と重なっていたものたちが、止めどなく溢れてしまってる――。

 

 

「――なんなんだよぉ!! あんたは私のっ、私はあんたの何なんだッ!!」

 

 

それは十三年の間何度も何度も問いかけて、十三年の間ずっと無視されてきたものだった。

 

絶対今回も返らない。期待なんて毛ほどもない。

だから答えさせる間も置かず、更なる罵倒を重ね吐き、

 

 

「――だ」

 

 

……なのに。

 

 

「我々は、お前は」

 

 

なのに、違った。

 

開閉を続ける『うちの人』の口から小さな小さな音が漏れ、それが声だと分かった途端に思考が止まる。

そうして生まれてしまった空白に――十三年の間待ちぼうけていた答えが、返された。

 

 

 

「――我々はお前の親であり。お前は、我々の……子供、だ――」

 

 

 

……それを聞いた時、私が何を思ったか。

 

怒りだったか、憤りだったか。後になって何度思い返しても、上手い名前が付けられない。

ただ感じた事のない衝動が胸の奥底で破裂して、旋毛を破って天を衝く。

 

――冗談抜きで、頭の中心部で何かがブチ切れた音がした。

 

 

 

「――だったらァ!! ()()()()はちゃんと会話しろよぉッ!!! 私が子なら!! あんたが親だってんなら――そうあれよぉ!!! バーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーカ!!!!」

 

 

 

喉が潰れるほどに叫び、再びその無表情をぶん殴ろうと、起き上がって思い切り腕を引き絞る。

 

だけどそれが振るわれる事は無く――反対にその動きに引っ張られ、背中から倒れ込んだ。

ゴン、と後頭部を床に打ち付けるけど、衝撃も痛みも感じなかった。それから少し経ってようやく、自分が倒れた事を自覚したくらいだ。

 

 

「……ぅ、ぁ……?」

 

 

心臓が異常なほどの早鐘を打ち、一方鼓膜の裏では血の気の引いてくノイズ音が鳴っている。

 

たぶん、ボロボロの身体で興奮しすぎたのだろう。

手足どころかもう指先すら動かせず、ゆっくりと白んでいく天井をただ見つめるしか出来なくて。

 

 

「――! ――!」

 

 

そんな薄れゆく意識の中、『うちの人』が私を覗き込んだのが分かった。

 

世界は白いし焦点も合わせられないから顔は見えなかったけど、何となく焦っているような雰囲気を感じる。

……コイツが? 私で? 鈍った思考でぼんやり疑うけど、たった今までしていた話はそれを是とする話だったっけ。

 

だったら……だったら?

 

 

(……………………………………)

 

 

もう頭が回らない。

 

白かった視界が黒くなったと思えば意識が飛んで、気付いた時には誰かの腕の中に居た。

その感触も温かさも、朦朧とした今の私には感じられない。ああ、運ばれてるなぁ。それくらい。

 

……だけど、思い出すものはある。

それはあの地下で抱きしめられた感触と……もっと昔、記憶すら残ってないような時の。それこそ、産まれたばっかりの頃の――。

 

 

(――……『親』、ねぇ……)

 

 

考えた直後、私の意識は今度こそ完全に闇へと落ちる。

 

……きっと、悪夢は見ないんだろうな。

本当の本当に癪だったけど、どうしてか、そんな気がした。

 

 

 



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【私】の話(続)

 

 

 

例え何が起ころうと、時の流れは変わらない。

 

昨日どれだけ酷い目に遭ったとしても、今日どれだけ傷ついたとしても。

朝と夜は変わらずに繰り返され、気を遣っての延期なんてしてくれない。落ち込んで傷ついたまま、同じ明日がやって来る。

 

……そういった意味では、あのバスのオカルトはとんでもない事をやっていたのかもしれない。

とはいえそれで起こるのがアレなのだから、何の意味も無い気もするけど。

 

まぁそれはさておき、時の流れに逆らえないのは私にとってもそうだ。泣いても怒っても次の日は来て、嘆いてぶすくれる内にまた時が過ぎる。

そうして引きずるものを整理しきれないまま、やがて今日という日へ辿り着いてしまうのだ。

 

……そう、今日。

 

それはちょっと前まで待ち遠しくて仕方なかった日。

今となっては、来るのが嫌でしょうがなくなってしまった日。

 

――始業式。

あかねちゃんの居ない、望まない日々の始まりであった。

 

 

 

8

 

 

 

春。

桜吹雪が風に舞い、街を彩る始まりの季節。

 

そんな色鮮やかな風景を車の中から眺めながら、私は深い溜息を吐き出した。

 

 

「……気分でも悪いのか」

 

 

すると運転席の『うちの人』……、

 

 

「…………はーぁ」

 

 

……もとい、『親』が。

バックミラー越し、後部座席の私をじっと見つめた。

 

 

「車酔いならば助手席の鞄に薬と水が入っているから、飲みなさい」

 

「ちげーよ。ちょっと憂鬱になってるだけだっつーの」

 

「そうか。ならばいい」

 

「よくねーよボケ」

 

 

苛立ちに任せて罵倒するも、その無表情は揺らがない。

 

こうして面と向かって喋るようになってもちっとも変わらんその顔に、また苛立ちが強まるけど……なんだか急にバカバカしくもなり。

代わりに舌打ちを残して口を閉じ、再び窓の外に目をやった。

 

 

「…………」

 

「…………」

 

 

互いに無言。気まずい雰囲気。

 

……桜咲く色鮮やかな景色なのに、こんな空気の中からだと全然綺麗に見えやしない。

舞い落ちる桜の花弁一枚にすら鬱陶しさを感じてしまい、うんざりとして目を閉じた。

 

 

 

――私にとって最悪以外の何物でもなかったあの出来事から、一週間と少しが経った。

 

暦は三月から四月に入り、木々の蕾も華と咲く。

そこらの道を歩く人々もその多くが笑顔を浮かべ、迎えた新生活への期待に満ちていた。

 

……一方で、私の方は酷いものだ。

顔はむっすり、心はどんより。街を取り巻く明るさに反し、暗く澱んだ空気の中に居る。

 

そりゃそうだ。あんな事があったのに、たった一週間かそこらで立ち直れる訳がないんだ。

 

嘆きや悲しみは未だ燻り続けるまんまだし、これからの毎日にあかねちゃんは居ないって考えるだけで泣いてしまいそうにもなる。

おまけにオカルトと出遭い続ける日々になる事も確定していて、これから迎える新生活にひと月前の私が夢見た変化は一つも無い。期待や希望なんてもっての外だ。

 

考えるだけで憂鬱極まりなく、正直に言えばまだ暫くは横になったままでいたかった。

もう少し元気が出るまで、ただじっとしていたかった。

 

……んだけど、なぁ。

 

 

 

 

「……身体」

 

「あ?」

 

「身体は、本当にもう問題は無いのか」

 

 

また唐突に『親』が話しかけてきた。

端的かつ短いそれに一瞬眉が寄ったけど、すぐに理解し視線を下ろす。

 

その先にあるのは、膝に置かれた私の両手。

少し前までは包帯でグルグル巻きにされていたのだが、今やその全てが取り払われている。

 

そこに、あの地下で負った傷は無い。

全てが元通りになっていて、その痕跡の一つすら残されてはいなかった。

 

……そしてそれは手だけじゃない。

足や肩、その他、地下で受けた傷の全てが、綺麗さっぱり完治している――。

 

 

「……別に、へーき。何かピリピリしてっけど、痛いって程じゃないし」

 

「……そうか」

 

 

多少詳しく伝えれば、『親』はまた素っ気なく返してそれっきり。

しかし今度はそれに意識を向ける事も無く、じっと自分の両手を眺め続けた。

 

 

(……やっぱ、おかしいよな、これ……)

 

 

私の記憶では、あの時地下で受けた怪我は相当に酷いものだった筈だ。

 

肌は裂け、爪は浮き、肉は削られ、骨の表面すら露出していた。おまけに傷口で腐肉に触れたりと、衛生面でも最悪な状態になっていた。

明らかに一週間やそこらで治るようなレベルでは無く、それこそ絶対に酷い傷痕の残るような大怪我だった筈だ。

 

……なのに、肌はつるつるで爪はまっすぐ。

変なピリピリはまだ残ってるけど、それもたぶんそのうち消える。そんな確信さえあった。

 

元々傷の治りは早い方とはいえ、いつもはここまでじゃ無い。

明らかに異常な治癒速度に、言いようのない不気味さが湧き上がって来る。

 

 

(暗い中だったから軽傷を重傷に見間違えた、とかなら……)

 

 

実は元から大した傷では無かったのであれば、こうして完治している事はもとより、『親』が病院ではなく自宅療養をさせていた事などにも納得は出来る。

……だが、私の目に焼き付いた傷は、感じた痛みは、確かに。

 

 

(……ああくそ、気持ちわるい……!)

 

 

傷の痛む期間が短く済んだ事自体は喜ばしいのだが、それはそれとしてモヤモヤ感が酷い。

するとそんな私の渋い表情をどう捉えたのか、また『親』の冷たい視線が向けられる。

 

 

「やはり、どこか調子が悪いのか。そうであれば無理せず――」

 

「平気だっつってんでしょ。むしろ調子良いからヤなんだっつーの……」

 

 

苦々しくぼやきつつ、頭を振る。

 

……この傷周りの事も気持ち悪くはあるけど、治れば治ったでまた面倒なのも困りものだ。

 

ここ最近は怪我のため大人しく部屋に引き籠っていた私だが、その傷が癒えてしまえばそれも難しくなってくる。

こうして『親』と会話出来るようになっても、ヤツらと一つ屋根の下に居続けるというのは、やっぱり苦痛過ぎるのだ。

 

怪我で安静という理由があったからこそ、そのあたりを我慢出来ていた部分も強い訳で。

その誤魔化しが無くなればもうダメだ。家で横になっててもじっとしてても、元気になるどころかただ苛ついて疲弊するだけ。

 

というか、居心地の悪さに関しては前よりも悪化してるんじゃなかろうか。

会話しろと言ったのは私だし、親ならそうあれとも言った。でもだからって、短いスパンで何度も何度も私の様子を確認しに来たり、いちいち言葉が説教臭かったり。

なんというか――今更厚かましく親ぶってる感じが、糞ウザったくって堪らない。

 

だから私は少しでも家に居ないで済むように、こうしてズル休みもせずとっとと登校してしまっている訳である。あーあ。

 

 

「……嫌なのは、学校の方だろうか。であれば……」

 

「別にそういうのでも無い。いいからもうほっとけっての」

 

「…………」

 

 

しつこい『親』との会話を無理やり打ち切り、再び窓の外に目をやった。

 

……そうだ、別に学校が嫌になった訳じゃない。

この車の向かう先が、遊園地や山の中であったとしても変わらない。どこ行ったって同じ憂鬱な気分になっていただろう。

 

だって私が嫌なのは、あかねちゃんの居ない日々そのものなんだから。

窓に流れる桜色の景色へまた一つ、深い溜息が落とされた。

 

 

 

 

 

 

到着した学校の駐車場には、もう既にそれなりの数の車が停まっていた。

 

まぁ始業式だから当然といえばそうなのだが、私達も多少は早めに家を出たつもりだったので少しだけ驚く。

車の隣で世間話をしている保護者達や、友達と楽しそうにふざけ合っている生徒の姿も多くあり……そっと、その光景から目を逸らした。

 

 

(…………)

 

 

気分を誤魔化すように、私は鞄からとある小物を取り出した。

 

そこらの百円ショップで適当に選んだ、ちゃちな作りの手鏡だ。

正直スマホのカメラとかでも十分だとは思うけど、持ってた方がそれっぽいかなと買ってみた。

 

そうして一呼吸置いた後――開いたそれに向かって、今出来る精いっぱいの笑顔を浮かべた。

 

 

(か、かわいい、かわいい。私は美少女……美少女なんだ、誰が私が何と言おうと、超絶、スーパー、美少女マン……!)

 

 

同時に口の中でぶつぶつ繰り返し、鏡に映る引き攣った笑顔に言い聞かせていく。

 

こっ恥ずかしくて、へったくそな自己暗示。

自分でもなんてアホな事をしてるんだとは思うが、これも約束のため。これから人の多い場所に出る前の準備として、しょうがないと我慢する。

 

――そう、約束。

あの地下での出来事の中、私は単眼(あかねちゃん)に向かって、『自虐をやめる』と言ってしまった。

 

……まぁ、あの時はかなり精神的にキていたし、正直ただの独り言にしかなっていなかったとは思う。

だけど……確かにそう口にして、それを覚えている以上、ちゃんと守っていたかった。

 

だから私はもう、自分を嫌いのままでいる事は許されない。

この真っ白な髪も、真っ赤な瞳も、顔も身体も。私が嫌いなものは全て、あかねちゃんが褒めてくれて、そして妬んでくれたものなんだ。

 

もう私は私を貶しちゃいけないし、そう振る舞ってもいけない。

むしろこの容姿を自慢しないと。フード被るのもやめて、人の多い所ででも美少女だろって胸を張って、見せびらかさなきゃいけない。

 

……そうしないと、報われないじゃないか。

 

 

(か、かわいい、すごい美少女……かわ、か、かわ……ぐえぇきちぃぃぃ……!)

 

 

とはいえ、私の自分嫌いは一朝一夕で育まれたものじゃない。

人生の殆どを一緒に過ごしてきた、言わば心の相棒とでもいうべき感情だ。

 

当然そんなすぐに別れられる筈も無く、こうして地道な意識改革に臨んでいるのだが……効果あんのかな、これ。

とりあえず、私のすっからかんな脳みそをどこまで騙せるかが勝負だろうか――と、

 

 

「――気持ちの悪い顔だ」

 

「あぁ?」

 

 

その最中、突然心無い暴言が飛んできた。

思わず素に戻って顔を上げれば、バックミラー越しにまた無表情と目が合った。

 

 

「……あー、何、ケンカ売ってんの」

 

「違う。その他人に見せびらかすための表情作りをやめろと言っている」

 

 

『親』はそう言って、改めて私に向き直る。

直で合わせた冷たい瞳からは、さっきよりも強い圧を感じる気がした。

 

 

「分かっているだろう。お前は今も常に視られ続け、些細なきっかけで『異常』……お前の言うところのオカルトと出遭ってしまう状態となっている。これまでは幾ら人の目を惹いても命の危険は無かったが、今後は違う。お前の振る舞いにより煽られる周囲の感情も、オカルトの呼び水となり得るのだ」

 

「…………」

 

「笑うなとは言わない。だが、慎ましくありなさい。静かに、大人しく、なるべく周囲を刺激しないように。そうすればおそらく、オカルトと遭遇する頻度も少しは抑えられる筈で――」

 

「うるっさいなぁ」

 

 

だから、いきなり親ぶってくんな。

上からの言い草に我慢できなくなり、また『親』の言葉を遮った。

 

 

「あんたに言われなくても分かってんだよそんな事。それ関係、インク瓶からもイヤってくらい忠告されたし、オススメしないとも言われてる。でも、その上でそうなんなきゃいけないんだ、私は」

 

 

つい数日前、仕事だか何だかでこの街から離れてしまったインク瓶。

彼が居なくなる前に一度、美少女ムーブの事を相談した時、山ほどのイヤミと心配を頂いた。

 

当然、考え直すようにとも言われたけど――私は最後まで頷かなかった。

そう言い返せば、『親』の瞳が僅かに揺れた……ようにも見えた。

 

 

「……痛いのも辛いのも、嫌なのだろう」

 

「……当たり前じゃん。でも、しょうがないだろ。約束で、役目で、それに……」

 

 

……それに、実は少しだけ期待していたりする。

 

もし今私を捉えているものが、蜘蛛とは別の……もうひとつの可能性の方であったとしたら。

 

妬まれたものを自慢して、見せびらかして。

そうやって煽り散らかす内にいつかはキレて、文句の一つでも言いに来てくれるかも――なんて。

 

 

「…………」

 

 

ありえないって分かってる。

けれど、どうしても。そんな夢想を棄てきれない。

 

 

「……それに、何だ」

 

「別に。とにかく、これからの私はキモい真っ白けじゃなくて、自慢して見せびらかす程の美少女で……そうやって私は、私達の時間に付き合ってくんだ」

 

 

そう言って、私は懐から小瓶を一つ取り出した。

 

それはつい最近になって、常に携帯するようになったもの。

内側で黒いインクがとろりと揺れる、表面に薄く細工の入ったガラス瓶――インク瓶のくれた、イザって時のおまじない。

 

 

「……ヤバい時に助けてくれるってヤツだって、もう居るし。だから、そんな横からうだうだ絡んで来られても、なんつーか……すごく今更で、鬱陶しいし、イライラする」

 

「…………」

 

 

『親』は変わらず無表情のままだったが、どこか不満げにも見えた。

 

その厚かましい鉄面皮加減にまたイラっと来たが、とはいえこの話についてこれ以上コイツと論じるつもりもない。

私は鼻を鳴らして鞄に手鏡を放り込み、さっさと車を降りてしまおうとドアを押した。

 

開かない。

 

 

「…………あのさー」

 

 

鍵は開いてる筈なのに、何度ノブを引いてもビクともしなかった。

たぶん、チャイルドロックってヤツ。私は深い溜息を吐きながら、それをした下手人の無表情をビキビキしながらねめつける。

 

 

「…………」

 

 

『親』はそんな私の声に反応せず、じっと俯き何事かを考えているようだった。

しかしそれもすぐに終わり、やがて諦めたように目を閉じる。その手元で何かが操作され、後部座席のドアからガチャリと鍵の開く音がした。

 

 

「……分かった。この件に関して、我々はもう口は挟まない。お前がそうしたいというのなら、それをやめさせはしない。約束しよう」

 

「…………」

 

 

口『は』。

やめさせ『は』。

 

 

「……口閉じて黙ったまんま、手とか他の身体とかを挟んでくるみたいな屁理屈も無しだからな。何が起きても、余計な事してくんなよ」

 

「……、……」

 

「あっ、こら黙ってカギ閉めんなそういう事すんなっつってんだ!!」

 

 

何も言わずに再びロックをかけやがった『親』を座席越しに蹴り飛ばし、今度こそ車の外に脱出。

そうして、まだ何か言いたげな無表情に向かい口を開け、

 

 

「――っ……ふん!」

 

 

しかし、何も言わず。ただ思いっ切りドアを叩き閉めた。

そしてそれきり振り返る事なく、速足で急ぎ校舎へと向かったのだった。

 

……「行ってらっしゃい」が無かったんだから、「行ってきます」も無しでいいよな。

とりあえず、そういう事にしておいた。

 

 

 

 

 

 

新学年、どのクラスに振り分けられるかは、四月頭の登校日に知らされる事になっている。

 

私はその日を怪我が治り切っておらず休んでしまったけど、一年生の頃のクラスメイトから大まかな連絡事項は教えて貰っていた。

特に迷う事なく校舎の二階に上がり、これから過ごす事となる教室の前へと立つ。

 

 

「…………」

 

 

室内には既に生徒がそこそこの数集まっているらしく、賑やかな談笑の声が漏れ聞こえていた。

 

……私は一呼吸だけ間をおいて――意を決して、扉を開いた。

 

 

「――……」

 

 

視線。

私が教室に入った瞬間、今日からクラスメイトになるヤツらが一斉にこちらを見た。

 

驚き、好奇、物珍しさ、その他色々。

幾つもの視線が無遠慮に向けられ、思わずのけぞりそうになる。

 

……一年で私に慣れたクラスじゃなくなった以上こうなる事は予想していたが、やっぱり圧は感じてしまう。

しかし私は踏みとどまって、何てこと無いような軽さで適当な席に腰掛けた。

 

そうして未だ注がれ続ける視線の一つ一つに手を振り返し、見せつけるような笑顔を返してやる。

 

 

(……び、美少女ってこんな感じでいいのか……?)

 

 

いや知らん。なんも知らん。

知らんがしかし、去年の似た状況で視線全部を無視してぶすくれていた私よりは美少女レベルは上なんじゃないか。なんか引かれてる気もするけども。

 

とりあえずはそんな風に振る舞いつつ、教師が来るのを大人しく待つ。

そうする内にまだ来ていなかったクラスメイトも続々と登校してきて、その多くがまず私を見てぎょっとする。んだコラ。

 

生徒数の多い学校だから、教室に入って来るのは知らない顔が殆どだったが、知ってる顔や、一年の時のクラスメイトだったヤツも数人は居た。

まぁ仲は良くも悪くもないヤツばかりだったから、一緒にお喋りしようみたいな空気にはならなかったものの、心細さはちょっとだけ紛れたような気はした。

 

そしてやがては教室全部の席が埋まり、クラスの全員が揃ったけど――「…………」当然、そこにあかねちゃんの姿は無い。

分かっていた筈なのに、こうして現実を目の当たりすると、決して小さくない痛みが胸に走った。

 

 

「……はぁ」

 

 

流石にちょっと気落ちして、いつかのようにぼんやりと窓の外を眺める。

 

……あかねちゃんの行方不明について、学校では急な転校という穏便な話になっているようだった。

さっき最後に入って来た一年生の時のクラスメイトから、そう話を振られたのだ。

 

突然「査山さんの事、残念だったね……」と来られた時は心臓がヤな感じに跳ねたけど、よくよく聞けば行方不明やら死亡やら、そう言った単語は欠片も無し。

結果的には変なヒソヒソ話をされる感じにはなっていないようで、そこは少しホッとした。

 

 

(……アイツら、裏で何かやったんかな)

 

 

たぶん、『親』の仕業なんだろう。

確か、以前ヤツらの会話を盗み聞いた時は、あかねちゃんの家族には出来る限りの配慮と気遣いをするという話だったから、その一環なのかもしれない。

 

そういえば、あかねちゃんママからは何か連絡来てないのかな……と、スマホを取り出そうとして、ぴたっと止まって溜息を吐く。

 

 

(だから、スマホ無いんだっつーの……)

 

 

どうも毎度忘れてしまう。

これまで私が使っていたスマホは、地下での一件の最中にバキバキになった上、地下の崩壊に巻き込まれて行方知れずになっているのだ。

 

スマホの紛失というのは私が思うよりも面倒なようで、新しい機種に交換するにしても、番号や個人データの引継ぎには通常より手間がかかるそうな。

おかげで今の私はスマホを持っておらず、例えあかねちゃんママから何かしらの連絡があったとしても、確認する事は不可能だった。

 

 

(あー……ていうか、そうだこれ、写真とかもパーじゃん……)

 

 

今更ながらに思い至る。

 

こんな形でスマホを失うとは思っていなかったから、データのバックアップ設定とかも面倒くさいってサボってた。

私自身あまりスマホを弄る方じゃなかったけれど……それでも写真とか動画とかは、そこそこ撮ってた方だったのに。

 

……それこそ、あかねちゃんとの写真とかも、たくさん。

 

 

「……ほんと、ぜんぶ、なくなっちゃったんだなぁ――……」

 

 

喪失を、改めて実感する。

胸の痛みが強くなって、ぎゅっと目を瞑った。

 

……全部、悪い夢って事になんないかな。

目を開けたら全て元通りになってて、あかねちゃんの笑顔がそこにあったりしないかな。

 

「……ばーか」まだそんな下らない事を考えてしまう自分に呆れ果て、嘲笑い。

椅子の背に力なくもたれかかりながら、やたらと苦労して瞼を押し上げ――。

 

 

 

「――おっすおっす~」

 

 

 

「え、うわぁっ」

 

 

そうして開いた目の前に、一人の少女が立っていた。

全然気づかなかった。いきなりの出現に驚き、咄嗟に椅子ごと後ずさる。

 

 

「あれ、寝てたん? ていうか驚きすぎでしょ、あっはは」

 

 

日に焼けた健康的な肌が眩しい、快活そうな少女だ。

人懐っこい朗らかな笑顔を浮かべた彼女は、私にもまるで物怖じせずにズイッと机に身を乗り出した。

 

 

「御魂雲で合ってるよね? いや~、同じクラスになれて嬉しいよアタシは」

 

「え……や、えぇ……?」

 

「なぁなぁ陸上部入んない? 去年の運動会見てたよ~、凄い良い足してんじゃん。一緒に全国目指そうぜ~」

 

 

戸惑う私をよそに、陸上部であるらしいクラスメイトは明るく続ける。

 

そこには異物への気遣いとか社交辞令とか、そういう配慮みたいな裏は感じず、単純な好意だけが感じられた。

そしてその気安い雰囲気につられてか、周囲からの物珍しげな視線達も少しずつ和らぎ、日常の一部を見るような自然なものとなっていく。

 

――そんな彼女の笑顔に、あかねちゃんの笑顔が重なった。

 

 

「…………」

 

「前々からチャンスだけは窺ってたんだ。他の運動部やってないっぽいよね? あ、そうだ、今日学校終わったら一緒にどっか寄らん? おっと自己紹介まだじゃんね。アタシは――……」

 

 

くるくると表情と話題を変えながら、やたらと距離を詰めてくる。

 

……私の隣に、あかねちゃんはもう居ない。

代わりにオカルトという『異常』が収まって、きっと沢山のイヤな思いをするのだろう。

おまけに自分を美少女だと思わなきゃいけないし、『親』もかなり鬱陶しくなっている。

 

これからは、そんなウンザリするものしかないと思っていた。

ただただしんどい、憂鬱な事ばかりの日々が始まるのだと、そう思っていた。

 

……だけど。

 

 

「――ていうかずっと聞きたかったんだけど、御魂雲っておひさま大丈夫なのか? そういうアレだったら何か色々ゴメンだけど……あ、違う? よかったー! まぁ運動会でアレなら平気だよなそりゃ。あん時のリレーじゃ走る順かみ合わなくて悔しくてさ――」

 

「――は」

 

 

詰まっていた息が、少しだけ抜けてしまった。

そうして自然と、言葉が零れ始めていく。

 

 

「……名前、さ」

 

「で、御魂雲もちょっと靴下ずらして……え何?」

 

「だから、名前。私、自分の名前やっぱ嫌いなんだよな。どんな意味が込められてたって私には関係ないし、そう呼んでくんのは一人くらいでいい」

 

 

それはほとんど独り言

引いていた椅子を戻して頬杖をつき、自分からクラスメイトに近づいた。

 

 

「ほーん……? よく分かんないけど、じゃあこのまま御魂雲ちゃんで――」

 

「つっても名字の方も、つい最近変なケチついちゃった。呼ばれる度に嫌いなヤツが浮かぶから、ちょっとヤダなって感じ」

 

「おっと~?」

 

 

私のこれからが、あんまり楽しいもんじゃないってのは間違いない。

そしてそれが、ずっとずっと続いていくのも変わらない。

 

……けれど案外、それだけって訳でもないのかもしれない――なんて。

 

 

(――……)

 

 

まぁ、目の前にある能天気な笑顔に錯覚しただけかもしれない。

でも――今の私にとっては、それだけで十分だったみたいだ。

 

 

「名字も名前もダメか~、んじゃあニックネームでも付けるか。くも太郎!」

 

「絶ッッッ対ヤダ。つーか、もう気に入ってるのがあるんだ」

 

 

――過るのは、いつか歩いた、そして今はもうどこにも無いとある日の帰り道。

 

その記憶に目の前の笑顔が滲む中、それを隠して小さく笑った。

 

 

「――タマって呼んでよ。私にぴったりの、可愛らしいあだ名だろ?」

 

 

 




もうちっとだけ続くんじゃ。
思ったよりだいぶ長くなっちゃいましたが、ここまでお付き合い頂きありがとうございます。
次の次から通常運転に戻りますが、今後ともまったりよろしくお願いいたします。


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《それ》の、

 

 

 

『私が子なら!! あんたが親だってんなら――そうあれよぉ!!! バーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーカ!!!!』

 

 

 

「……予想より、ずっと溜まってたみたいだな」

 

 

御魂雲邸、その客間。

外から轟き室内を震わせる大絶叫に、特徴的な丸眼鏡をかけた青年が耳を抑えて呟いた。

 

 

「けどまぁ、なんとか収まるところには収まった気はするね。この家の空気も少しは良くなるんじゃないか?」

 

「う、うぅぅぅぅぅ~……!」

 

 

そう言って青年が目を向ける先には、頭を抱えてしゃがみ込む女性が一人。

(えだなし)――そう名付けられた御魂雲の身体のひとつが、何とも情けない呻き声を上げていた。

 

 

「……君にとっては色んな意味で相当耳に痛かったようだね、今の癇癪」

 

「うぅぅぅ……な、なんでこんなことしたのぉ……」

 

 

含みを込めての言葉に、十は涙の滲んだ瞳で青年を――インク瓶と名乗っている彼を見上げた。

 

その何とも情けない表情に先程までの鉄仮面の残滓は無く、十としての人格に戻っているようだった。

インク瓶はそんな非難がましい彼女の視線にまるで悪びれる様子もなく、軽い調子で肩をすくめる。

 

 

「君達の拗れを少しだけ解しただけなんだから、そんな酷い事したように言われるのも心外だな。まぁ、多少酷い不意打ちをした自覚はあるけども」

 

「そうだよぉ……! いくら何でも――って違う、今そんな場合じゃ、えっと、えっと……!」

 

 

と、抗議を重ねようとした十だったが、その途中に突然慌て出したかと思えば、棚から救急箱を取り出し部屋の外へと駆け出した。

 

……おそらく、先程の叫びの主が卒倒でもしたのだろう。

 

そうしてぱたぱたと走り去る十を見送りつつ、インク瓶は苦笑交じりの溜息ひとつ。

座るソファに深く背中を預け、取り出したワインレッドの革手帳に目を落とした。

 

 

 

 

――先程までこの部屋で行われていた、御魂雲 異に関する様々な相談事。

 

当人の居ないまま、インク瓶と御魂雲の間だけで交わされたそれらだったが、しかし実際の所は異本人に筒抜けであった。

インク瓶があらかじめ異に渡していた緊急連絡用インクの『おまじない』により、会話の全てが彼女の手元で中継されていたためである。

 

そうして聞かされたそれがよほど腹に据えかねたようで、異は盛大に爆発。

怪我を負い満身創痍の状態であるにも関わらず派手に暴れ――そして今しがた、心の奥底からの叫びと共に、とうとう限界を迎えていた。

 

 

 

 

「――で、何でこんな事したの」

 

 

そうして暫く時が経ち、やがてむっすり顔の十が帰還する。

そこに怒りはあれど陰りは無く、インク瓶はほっとしたように口端を上げた。

 

 

「……その様子だと、あの子は大丈夫だったみたいだね。良かった」

 

「あ、うん、ちょっと失神しちゃってるだけみたい。打った頭も異常なかったし、他も……じゃなくって! だから何で異ちゃんに――」

 

「君がポンコツだったからに決まってるだろ」

 

「ぽっ」

 

 

いきなりの暴言に二の句が継げなくなった十に、インク瓶は先程とは逆に不機嫌な顔で鼻を鳴らす。

 

 

「君とあの子に必要なのは会話だった。あの子の方はその意思はあったみたいだけど……君の方は、それに応える事が出来なかったんだろ?」

 

「……えっと、はい」

 

「今となっては色々と難しかったっていうのは分かるよ。自分じゃどうしようも無かったんだっていうのもね。でも、だからってあの子が生まれてから今まで、虐待まがいの対応も環境もずっとそのまま変えなかったのは……流石にさ」

 

「や、だってね、あのね……」

 

「なら強引にでも何でも、君の言葉をあの子に聞かせなきゃいけないだろ。自覚は無いようだったが、君もあの子を拒絶だけしている訳じゃないのは察せていたからね。だからこうした」

 

「あうぅ……」

 

「余計なお世話と言われればそれまでだが、僕はそれを謝るつもりは一切無い。文句があるなら聞くけど、こっちも全力で言い返すからな。さぁ何かあるかい」

 

「……ないですぅ……ごめんなさいでしたぁ……」

 

 

……市外で暮らす御魂雲の身体のひとつ、十がこの街に戻ってきたのはつい最近の事だ。

 

異と実際に顔を合わせるのも今回が初めてであり、人格としては異についての責任は無いとも言えるが――彼女もまた、御魂雲としての意識と意思で行動する同一人物である事に変わりは無い。

当然何一つ言い返す事も出来ず、十はしわしわの顔で項垂れる。

 

インク瓶は親しい友人のそんな姿に溜息を吐き、そこで説教を打ち切って。

 

 

「……これからは、ちゃんと話せそうかい」

 

「――……」

 

 

少しの沈黙。

やがて、十の頭が頷くように僅かに下がる。

 

その顔には冷たい無表情が張り付いていたが、それ故にインク瓶は小さな笑みを浮かべた。

 

 

「そう、ならよかった。じゃあ――遅くなったが、さっきの話の続きに戻ろうか」

 

「え……」

 

 

空気を変えるようなその一言に、十の顔に感情が戻る。

 

……さっきの話。無論、説教の続きという意味ではない。

異の暴走により中断された、御魂雲の素顔が語ろうとしていたもの。

 

――彼女を宿した、母親となった身体についての事だ。

 

 

「もう子供の目も無くなったからね。どうせ、あの子には聞かせたくない話なんじゃないの? そう言った意味では、あの時に彼女が暴走したのはタイミングが良かったと言える」

 

「うん、まぁ、そうだけど……そうかなぁ……」

 

 

十はどこか腑に落ちないような顔をするも、元々話すつもりだった事もあってか、それ以上渋る事も無く。

気まずさを誤魔化すように髪先を弄りつつ、ぽつりぽつりと零し始めた。

 

 

「……その、私たちはね。私たちの身体を増やす時、どの身体同士で組み合わせたか、全部覚えてるの」

 

「……前に聞いた、血の濃度管理ってやつだろ」

 

「うん、それ」

 

 

十と同様、なんとも話し難そうに返すインク瓶に頷きが返る。

 

御魂雲という存在は、御魂雲しか産み出せない。

その性質上彼らは基本的に自分自身の身体同士でしか交わらず、それによる血の濃度の管理も徹底的に行っていた。

数百年ほど前、それを考慮せず血が濃くなりすぎた結果、身体の多くが悲惨な事態になってしまったためだ。

 

以降、御魂雲は無作為だった身体同士の交わりに計画性を持たせるようになり、明確に記憶し続けるようになっていた。

数百年の間に生きた身体達の軌跡、その全てを。

 

 

「誰と誰がその……とか、血のラインがどう繋がってるのか、みんなちゃんと覚えてる。昔みたいな大惨事には、もうしたくないもんね……」

 

「……どんな事になってたのかは話さなくていいよ。気にはなるけど、知りたくはない」

 

「それが良いよ……でね、異ちゃんのお母さんになった子もしっかり覚えてるんだけど――」

 

 

言葉の最中、再び十から表情が抜け落ちる。

しかしインク瓶の目には、先程とは違ってどこか剣呑さがあるようにも映り。

 

 

「――彼女がどういう経緯であの子を孕んだのか、我々には一切の記憶が存在しない」

 

 

……そうして完全に御魂雲となった彼女は、抑揚もなくそう告げた。

 

 

「……、……それは、どういう?」

 

「言葉の通りだ。我々の認識では、あの子の母体……『いちる』を繁殖に用いた事実は無い。その計画すらも立てていなかったというのに、本当にいつの間にか、あの子を胎に宿していたのだ」

 

 

そう続ける御魂雲に、インク瓶は困惑を隠さず細く唸る。

そして何か嫌な想像が浮かんだのか、渋い顔をして口元に添えていた手を外した。

 

 

「……あまりこういう事を聞きたくは無いが、一般の犯罪に巻き込まれでもしたのか? 何らかの原因で意識を失っている内に……とか」

 

「いいや。そもそも当時の『いちる』は初潮もまだ来ていない幼子だった。生物的に孕める状態には無かった筈なのだ」

 

「こっ……」

 

 

驚き声を詰まらせるインク瓶をよそに、御魂雲は静かに眼を閉じた。

そのまま雲たる己の魂を辿り、かつて全うした『いちる』の生を振り返る。

 

 

「……彼女は、生まれた時から病弱な身体だった。よく風邪をひいて寝込んでいて、運動もあまり出来ない。設定した人格が暗めのものだった事もあり、人付き合いもほぼしていなかった」

 

「…………子供の方とは、あまり似ていないね。いや、人付き合いの点についてはそうとも言えないか」

 

「髪と目の色こそ異なるが、容姿としては面影があるように思う。黒髪黒目、色白、薄い身体つき。丁寧に拵えられた日本人形のようだと表現された事もあったか」

 

 

動揺を抑えてのイヤミに淡々と返し、御魂雲は眼を開く。

その瞳には僅かばかりの懐旧が浮かび、しかしすぐに消え去った。

 

 

「……『いちる』はその病弱さ故にあまり周囲と接点が作れず、孤立した生活を送っていた。だが八つになったある夏の日、彼女の住む家近くに極小さな『くも』の穴が開き――そこで『いちる』を遣った」

 

「は?」

 

 

唐突に訪れた『いちる』の終わりに、困惑の声が上がった。

 

 

「それは……『くも』の削りとして、穴に飛び込ませて死なせた……って事だよね?」

 

「そうだ。あの時は、穴を通れるサイズの身体が近くに『いちる』しか居なかったのだ。境遇上、その死に対するカモフラージュも容易であり、周囲には病死という形で処理をした」

 

「……なら、『いちる』はいつあの子を産んだんだ? 何もかも辻褄が合わない」

 

「…………」

 

 

子供を作れる身体でも無ければ、妊娠も出産も無く死んでいる。どう聞いても矛盾の塊だ。

問われた御魂雲は暫く黙って床を見つめた後、ゆらりとインク瓶へ視線を向けて、

 

 

「それからひと月後の九月六日。『いちる』の死体が、市街地エリアの一角で発見された」

 

 

そうして告げられた事実に、インク瓶はまた眉を寄せた。

 

 

「死体は腐敗と損壊が激しく、また目撃者もありそれなりの騒ぎに発展した。我々も当初はそれが『いちる』だとは思わず、多くの点で後手に回ってしまった……」

 

「……いや……『いちる』は穴の中で死んだんだろ……?」

 

「そうだ。あの身体での最後の記憶は、暗闇の中での頭部への衝撃。ほぼ確実に落下死による頭部破壊であり、実際の死体の状況もそうなっている。穴の中で死んだ事に間違いは無いだろう」

 

「じゃあ……何がどうしてそれが地上で発見されるんだ……? それも一か月の間を開けて……」

 

「分からない。疑問を抱いていたのは、我々も同じだった。死体の第一発見者の話では、まるで地面から飛び出してきたように見えたらしい。とにかく、そうして戻って来た『いちる』の死体を警察の身体を用いて強引に引き取り、調べた訳だが……」

 

「……まさか」

 

 

これまでの流れで、すぐに予想がついたのだろう。

悍ましさを隠さず顔を顰めたインク瓶が御魂雲を見つめれば、表情の無い頷きが返った。即ち、

 

 

「――戻った『いちる』は、孕んでいた」

 

 

……たったの一言。

しかしそれは空気を酷く重くして、言いようのない不気味さが室内を包み込む。

 

 

「先程も言ったが、『いちる』はまだ子を成すには早い身体であり、我々にその行為の記憶もない。しかし何より異様だったのは――胎の中の子供が、確かに生きていた事だ」

 

「……母体が死んでいたのに?」

 

「そうだ。『いちる』の死後ひと月しか経っていないというのに、妊娠九か月前後の胎児とほぼ同等。いつ生まれてもおかしくない状態で、明確に生命活動を行っていた……母体そのものを糧として」

 

「……糧、とは」

 

「損壊の激しかった身体だが、その全てが落下によるものではないのだ。その四肢は、先端から干からびるように朽ちていた。そして身体の腐敗も、胴体の中心部たる胎にまでは及んでおらず――」

 

「――母体の血肉そのものが栄養素として、胎児へと渡っていた。だから死ななかった……?」

 

 

途中で言葉を遮っての問いかけに、御魂雲は頷いた。

 

 

「……あまりにも異常な存在であったため、堕胎も検討した。だが胎児もまた我々である以上、その死には霊能が伴うとも考えた。その向かう先が何処かも分からない未知の状況であったが故、我々は『いちる』の胎を開くと決め――……」

 

 

……異を、取り上げた。

その呟きを最後に声は止まり、沈黙が落ちた。

 

御魂雲は反応を窺うかのようにインク瓶をただ見つめ、当の彼も掌で口元を覆い、静かに思考を巡らせる。

そうして互いに無言のまま、幾許かの時が過ぎ――やがて、上げられたインク瓶の瞳が、御魂雲のそれと噛み合った。

 

 

「……疑問には、思っていたんだ」

 

 

吐息混じりの、吐き出すような声だった。

 

 

「……何をだろうか」

 

「御魂雲異の怪我。あの子自身は大怪我と言っていたけど、君が治療した時の様子だとそこまでには見えなかった。確かにボロボロではあったが、さっきどたどた爆走出来るくらいではあったからね」

 

「…………」

 

「だから僕は、あの子が怪我の程度を見間違えただけだと思っていた」

 

 

御魂雲の無表情に揺れは無い。

先を促すように、黙り続ける。

 

 

「……あの子の話では、『くも』の靄が、傷口に吸い込まれるようにして入って来たそうだね」

 

「…………」

 

「それ、もしかして『入って来た』じゃなくて、『取り込んだ』、だったりしないか」

 

「…………」

 

 

やはり御魂雲は答えない。

しかしその様子に何かの答えを見たように、インク瓶の視線が床へと下がった。

 

 

「……傷を負い、そこから靄を取り込んで……おそらく、傷が癒えたんだ。つまり、そこに在るものを己が内に取り込み、血肉へと変えた――」

 

「…………」

 

「どこか……どこかで聞いた特徴だ。それに今君から聞いた話を合わせたら、それは――あの子は、本当は君の子では無く、」

 

「――我々の子だ」

 

 

紡がれようとした言葉が形となる前に、御魂雲が遮った。

やはりそこに抑揚は無かったが、少しばかり大きな声音でもあった。

 

 

「我々の身体が孕んだのだぞ。そしてつい先程、我々とあの子は親であり子であるとした。であれば、何がどうあれ、そうなのだ。それはあなたも聞いていた筈だが」

 

「……ああ、うん。そうだね、ごめんね……」

 

 

強めの剣幕に思わず謝った。

インク瓶の肩から力が抜け、部屋の空気も僅かながらに弛緩する。

 

……つい数刻前の彼らとは随分な変わりようだ。

苦笑と呆れの混ざる息を吐き、インク瓶は丸眼鏡の位置をそっと正した。

 

 

「……まぁでも、君達の関係に少しは納得いった気はするよ」

 

 

つくられた方法も贈られた理由も不明の、何もかもが異常としか言えない異の出生。

 

そのような背景があり、そしてたった今抱いた想像が事実であるのなら。御魂雲と異との関係が拒絶から始まり、距離を取っていた事も理解が出来なくはなかった。

 

 

(子供が生まれた喜びを自覚出来ないのも分からなくはないし、養子に出さなかったのもきっと監視って建前で……)

 

 

……インク瓶にとって、御魂雲――十は、長い付き合いの親友だ。

そんな大切な友人が、別の身体と人格とはいえ子供へ虐待まがいの事を行っていたという事実は、それなりにショックではあったのだ。

 

無論、委細を聞いた今でも思うところはある。

しかしそこに彼自身が理解できる理由があった事に。十の正体たる御魂雲の素顔が悪意を孕む存在でなかった事に、インク瓶は決して小さくはない安堵を抱いていた。

 

 

「――何なんだろうな、君達は」

 

 

……そうして、気が抜けたからだろうか。

ぼんやりと御魂雲を見つめながら、気付けばインク瓶はそう零していた。

 

 

「何がだろうか」

 

「いや……」

 

 

我に返って言い淀むも、もう散々好き放題言ったのだから今更だと思い直し。

特に言葉に掉ささず、感じたものをぽつりぽつりと口にする。

 

 

「……これは悪口じゃないんだが、僕は君の人間味が少し薄過ぎるように感じる」

 

「……悪口では……?」

 

「だって君が御魂雲の素顔って事は……霊能で増えていく前、最初の一人目の人格って事だろ? 一人の人間として赤ちゃんから成長して、大人になって、そして親にまでなった……」

 

 

そうでなければ、御魂雲は今ここに居ない。

例え生まれた子供が自分自身で、親にはなれなかったのだとしても――そこに至る過程で、大なり小なり人として成熟していた筈である。

 

 

「なのに……今目の前に居る君は、どうもそういう感じがしないんだ」

 

「…………」

 

「理由があったとはいえ、子供の気持ちを想像出来ず、また自分の気持ちにも気付かない。他の人格と違って、感情を理解しきれてないというか、どこか空の上の人みたいというか……」

 

「……、……」

 

「……ああいや、でも、そうか。増えた身体に別々の人格を配していたのなら、最初の一人の人格は……素顔の君は、長い間埋もれていたのか」

 

 

もしかしたら長い年月の間に別の身体に配されていた可能性もあるが、これまで見た限りではそんな事も無さそうだった。

数百年も前に消えていた筈のものが、今無理矢理表に晒されている……酷いブランクがある状態だと考えれば、この妙な人間味の薄さにも納得がいく。

 

そう自己完結したインク瓶は、変な話をしてしまったと御魂雲へと手を振って、

 

 

「――……」

 

 

しかし、止まる。

 

御魂雲はインク瓶から視線を外し、窓の外を見上げていた。

僅かに白雲のかかる青空を見上げるその姿に、インク瓶はどうしてか一抹の寂しさのようなものを感じ取り――。

 

 

「白曇の宮神社」

 

 

彼に視線を向ける事無く、そう呟いた。

 

 

「……は、神社……?」

 

「あなたは、白曇の宮神社という場所を知っているだろうか」

 

 

続いて返された質問に、インク瓶は戸惑いつつも記憶を探る。

 

 

「……この近くにある神社だよね。実際に訪れた事は無いが、この付近の地理を確認してる時に見て、一応軽く検索はしたかな」

 

「では、そこに伝わる民話は」

 

「雲と夫婦のやつかい? 確か……子が生まれずに悲しむ夫婦に、見かねた白雲が自分の切れ端を食わせ――……多くの、子供が……産ま、れ……、…………」

 

 

……その最中、何かに気付いたかのようにインク瓶の声が途切れた。

そして丸眼鏡の奥の瞳を困惑に揺らし、御魂雲をただ見つめる。

 

 

「……この御魂橋という土地は、その名が付けられる遥か以前より、よく雲のおりる地であった」

 

 

変わらず空を見上げながら、彼女は言う。

その瞳の中には、白い雲がゆったりと流れていた。

 

 

「空の奥より、遠くに見える大地に向かう。それらは何日も何日も、ゆっくりと時間をかけて沈んでゆく」

 

「…………」

 

「高く飛ぶものが鳥以外になく、空が広かった時代はより多かった。幾つもの雲が崩される事無く空をおり……やがて、求めた地の上へと辿り着く」

 

 

沈黙しか返らない中、御魂雲は懐かしむように目を細める。

そしてゆっくりと視線をおろし、黙り込むインク瓶へと目を向けて。

 

 

「――そこに転がっていたのが、互いの喉を突いた夫婦か、干からびた蜘蛛か。我らの違いなど、それだけでしか無かった。そういう話だ」

 

 

無表情。

しかし誰も見た事のない貌で、そう告げた。

 

 

「――……」

 

 

……差し込む日差しを、雲が遮る。

 

どうにも奇妙な張り詰め方だった。

重苦しくも、気まずくもない筈なのに、互いに身動ぎ一つせず――やがて雲の影が去り、再び部屋に光が差し込んだ時、ふっと御魂雲から力が抜けた。

 

 

「……ね。今日の夜、一緒にご飯食べに行かない?」

 

「え?」

 

 

そうして次の瞬間には御魂雲は十に戻り、柔らかな笑みでそう誘う。

その突然の変わりように、インク瓶は思わず呆け――ふと、膝で重ねられたその両手が、小さく握り締められている事に気が付いた。

 

「……はぁ」それを見た瞬間、彼もまた知らぬ内に強張っていた身体の力を抜き、溜息。

いつもと変わらない声音で、呆れたように首を振る。

 

 

「……別にいいけど、ご執心の愛娘はほっといてもいいのかい」

 

「! え、えっと、今は落ち着いているし、ちゃんと他の身体でみておくから……!」

 

「身体が幾つもあるってほんと便利だよな……」

 

 

どうやら、今度はちゃんと自分で娘の様子を診ている事にしたらしい。

急速に親としての自覚を芽生えさせている彼女達に鼻を鳴らし、インク瓶は立ち上がる。

 

 

「じゃあまぁ、どこに行くかは地元民に……地元民? いやまぁ、任せるよ。僕はそれまで、少し資料を整理してくる」

 

「大変だね、八代目査山の大先生くんは」

 

「君らなんだよ面倒くさくしたのは。ともかく、後はよろしく」

 

 

そしてそれを最後に部屋を立ち去り……その寸前、インク瓶はちらりと十を振り返る。

 

 

「――変わんないよ、今更」

 

 

そう零し、今度こそ扉が閉められた。

 

 

「……えへへ」

 

 

一人残された室内。

十は嬉しそうな笑みを浮かべ、小さく握っていた両の手を解いた。

 

……過去、御魂雲の生態を晒した時も、何ひとつ変わらなかった彼との時間。

それは今回の件を経ても同じように、自身の傍を流れ続けてくれるらしい。

 

上機嫌に頬を赤らめた十は、足をパタパタ振りながら上半身を机にもたれ――唐突に動きを止め、首だけをぐるんと『そこ』に向けた。

 

 

「――――」

 

 

壁と天井の中間、何もない中空。

赤らんだ微笑みの下から無表情が浮き上がり、その冷たい瞳がとある一点に注がれる。

 

そこに何が浮いている訳でも、現れる訳でも無い。

本当に、本当に、何も存在しないその場所を、彼女はただただ()()()()()()

 

 

「――……」

 

 

無表情が消え、十が戻る。

すると彼女は何事もなかったかのように、鼻歌混じりに席を立つ。

 

 

「お店、どこにしようかな。異ちゃんにお土産買える所がいいかなぁ……」

 

 

などとつらつら今夜の予定を検討しつつ、そのまま部屋を後にする。

 

室内にはもう一瞥もくれず、気にする様子は欠片も無く。

まるで――誰かの瞼をそっと閉じてあげるように、優しく部屋の扉が閉められた。

 

 

 

 

 

 

――時は流れ、五月。

 

ゴールデンウィークもとうに過ぎ、梅雨の湿った香りが近づき始めたとある日の夜。

御魂雲 異は、寂れた駅舎前のベンチに腰掛け、夜空の星々を眺めていた。

 

 

「んー……分かんねーな、星座……」

 

 

その視力の良さを活かし、人差し指で星をなぞってみるものの。

どの星同士が繋がっているのかもさっぱり見当がつかず、やがては飽きてぶん投げる。

 

 

(……まだかな、迎え。渋滞してんのか?)

 

 

そうしてスマホをちらと見やるが、連絡の類は来ていない。

いっそ徒歩で帰ってしまいたくもあったが、そうするとまた小言を挟まれる事だろう。

 

後でグチグチ絡まれるくらいなら、ここで待っていた方がまだマシだ。異は溜息と共に、ベンチへごろんと寝転がった。

 

 

 

 

――今現在、異は御魂雲からの迎えを待つ最中であった。

 

発端は昨日深夜。

異が黒髪女と呼ぶ女性から、とある頼みを受けた事だった。

 

結果として今日一日を彼女と共に歩き回る事となり、ひと騒動を経た後(半ば強引に)食事に誘われ、解放された時には日も落ちていた。

異としては一人で帰るつもりだったのだが、やけに懐いてきた黒髪女が夜道の一人歩きをやたらと心配したために、渋々『親』である御魂雲を迎えに呼ぶ事となってしまったのである。

 

周囲に隠れて様子を窺っていた御魂雲は居たものの、それを正直に説明するのも憚られ。

そうして黒髪女を駅に送り届けたついでにそこを合流場所として、異は何となく流れのまま、最寄りの御魂雲が車を持ってくるまで暇をぷちぷち潰していたのだった。

 

 

 

 

(……にしても、色々話しちゃったな……)

 

 

ベンチの上で仰向けになって星を眺めつつ、思う。

 

黒髪女からの頼みが彼女の親友絡みだった事もあり、食事の話題は異の親友であった査山銅の話が主だった。

無論、その顛末については省いたものの……大人が行くような店の雰囲気に緊張し、あれこれと無駄に多くの思い出話をしてしまったような気がする。

 

その時の気分を引きずっているのか、いつもは深く考えないようにしている銅の事が、自然と思い出されるようになっていた。

 

 

「はぁ……」

 

 

彼女と過ごした数多の記憶が脳裏を流れ、溜息をひとつ。

 

あれから少しばかりの時が経ち、思い出しては涙ぐむ段階はとうに越していたが、それでも痛むものはあった。

異は無意識の内に胸に手を当て、それに浸り――ふと、思い出す。

 

 

(……そういや、アレってどうくくればいいんだろ……)

 

 

ぺた、と。

忌々しい程に滑らかな頬の肌に触れながら、かつて己の顔を溶かし、そして御魂雲の死によって消え去ったオカルトの事を思い出す。

 

……Uの字にひん曲がった唇に、その内に潜む無数の眼球。そして――あの特徴的な笑い方。

全てどこかで見聞きしたもので、だからこそ異もどう受け止めればいいのか、未だに迷っている部分もあった。

 

 

「――……」

 

 

あのオカルトが、銅本人だったとは思ってはいない。

異が最後に見た彼女は真っ赤な単眼の姿で、真っ赤な唇では無かったのだから。

 

それはむしろバスでの騒動の際に見た悪夢での造形であり、それと同じような、視え方に己の記憶や認識が影響する類のオカルトだとも考えていた。

……だが絶対に無関係だと断言するには、少しばかり自信が足りない事も確かである

 

 

(でも、あの後『親』とか何も言ってこなかったしな……)

 

 

もしあの唇が本当に銅であり、御魂雲がそれに手を下したとするならば。

彼らが異に何も言わない筈が無く、仮に隠したとしても後ろめたさで挙動がおかしくなるだろう。少なくともここ数か月での生活で異が見た御魂雲は、そういう人間だった。

 

しかし実際の御魂雲にはそんな様子もなく、無表情にも崩れは無かった。

 

 

(……なら、違った……んだよな)

 

 

どことなく腑に落ちない気もするが、否定する根拠も無い。

 

そもそも今となっては終わった事で、蒸し返してあれこれ悩んだところで意味も無かった。

異は大きく溜息を吐き、一緒に胸に燻ったモヤモヤも力づくで吐き出した。

 

そうして何か飲んで気分を変えようと、近くの自販機に硬貨を入れ――。

 

 

「――いや、やっぱあかねちゃんじゃなかったわ、あれ」

 

 

呟き、小さく笑う。

 

そうだ。あの唇が査山銅じゃなかったという証明なら、簡単かつ確かなものが一つあった。

異は購入したコーヒーを手に取りつつ、あの唇の笑い声を思い出す。

 

特徴的で、どこかで聞いた事があり……しかし同時に粘着質で、糸を引いたような笑い声――。

 

 

「――あかねちゃんの笑い方、あんなんよりずっと可愛かったっつーの」

 

「照れちゃうな」

 

 

 

――――空白。

 

一瞬の後、異は勢いよく振り返った。

 

 

「――っ、?」

 

 

しかし、声が聞こえた方向には誰も無く。

 

駅舎周りの古びた街灯が、先程まで座っていた無人のベンチを照らすだけ。

本当に、誰の人影もありはしない。取り落としたコーヒー缶の転がる音が、やけに大きく響いていた。

 

 

「――……………………………………、」

 

 

異は呆然として、ただその場に立ち竦む。

 

そのまま暫くの時が過ぎ――そんな彼女の目の前に、一台のタクシーが停止した。

自動的に扉が開かれ、車内から御魂雲の無表情が出迎える。

 

 

「渋滞で予定より遅くなった。近くの車がこれしかなかったが、料金の心配は……どうした?」

 

「……、……いや……」

 

 

異は逡巡し、しかし何も言わず。

小さく首を振ると、緩慢な動きで車へと乗り込んだ。

 

運転手の御魂雲はそんな様子に首を傾げたが、今日一日の異の様子を思い出し、ただ疲れたのだろうと結論付けたようだった。

異が落としたコーヒー缶を他の身体から受け取りつつも、特に小言を言う事も無く。静かに車を発車させた。

 

 

異が立ち去れば、付近に潜む御魂雲の身体も三々五々に散っていく。

そうして誰も居なくなったその場所で――誰かの瞼が、下ろされた。

 

 

 

 

 

――あはぁ

 

 



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