不老不死の人格破綻者による曇らせエピソード集 (曇らせ大好き人間3号)
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不老不死の人格破綻者による曇らせエピソード集
原初の風景ーオリヴィアー



タイトル通りの内容です。
反応良さげなら続きます。


 

ある日突然、僕は不老不死になった。

 煮ても焼いても、引っ張ってもちぎっても、潰しても捻っても、刻んでもすりおろしても……何をしたって死なない。正確には、死んでも必ず復活する。たとえ肉片の一片に至るまで丹念に抹消したとしても、どこかから『僕』という存在をロードして、再び意識が浮き上がる頃にはすっかり元通りだ。

 人々は……と言うか、敬虔なる聖教徒はそれを『命の神が与え給うた祝福(ギフト)だ』などと言うけれど、当人からすればこんなもの呪いでしかない。死なない、のではなく、死ねない。老いない、のではなく、老いられない。誰かと歩調を合わせる事も、誰かと共に死に怯える事も、誰かと共に旅立つ事も、全て、全て剥奪された。その事実を喜ぶだなんて、たとえ演技だって出来る気がしない。

 

 不老不死と言えば、魔法使いだとか、錬金術師だとか、ああいうオカルティックな連中が望んで止まないある種の生命の到達点だ。

 あの手の輩はどうも不老不死を完全無欠なものと捉えている様で、狂気にも似た憧れを抱き続けているらしいが、当の本人に言わせればそんな上等なものじゃない。

 確かに老いはしない。老いによる劣化は有り得ない。だけれど人並みに物事は忘れるし、その逆に嫌な記憶は嫌な記憶のまま永遠に脳裏にこびり付いている。不老になったからといってそう易々と世捨て人の如き達観は得られないし、不死になったからといって痛みを忘れる訳でもない。

 何をどう勘違いしたら、ただ無価値に引き伸ばされただけの不老不死(それ)に命を懸けて挑むなんて覚悟になるのかがさっぱり分からない。

 いくら趣味を見つけたとしても、愛する人と共に死ねる喜びにはどうしたって敵わない。

 

 代われるなら代わって欲しいよ。そんなに欲しいならくれてやりたいくらいだ。研究題材が欲しいなら、たかが数十年くらいの話、僕を好きに弄ってくれても構わない。……尤も、今まで何十人何百人とそれを試みて失敗したから、もう希望は持っていないけれど。

 

 ……それでも。いつか、死ねる(あえる)といいなぁ、なんて。

 淡い思いは、ずっと心の中にあるんだ。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

さて。今でこそこの呪いを憎さ半分愛しさ半分に思っている僕だが、呪われてからそうさな……うん、ざっと200年くらいか。そのくらいの間は僕なりに全面的に好意的な物の見方をしていた。

 死ねない、ではなく、死なない。老いられない、ではなく、老いない。……負の側面でなく、正の側面に注目していたんだ、あの頃は。

 

 頭の中に突然『貴方は不老不死になりました』なんて機械じみた声が響いて10年ほど、その頃にもなればもうその言葉が真実である事に気が付いていた。

 そして、その不死性を世の為人の為に活かせるんじゃないかと考えた。

 

 この世界は酷く残酷で、人類種には天敵が多すぎる。人の一人や二人、それどころか寒村のひとつやふたつ、いつの間にか消滅していたっておかしくは無い。ゆえに、人々は寄り集まってその天敵に抗うべく、自ら『冒険者』と名乗り、各地で『ギルド』を結成した。

 冒険者はいつだって命懸けだ。人類種の天敵、と一口に言ってもピンキリだが、たとえキリの方だったとしても、その辺の人ならば為す術なく死んでしまうくらいには強力だ。どれだけ鍛えたとしても、ひとつの油断が死に繋がる。仕事中は気を抜いている隙が無い。当然、そんな事を続けていれば精神は磨耗して行き、やがて壊れてしまう。そんな危険な職業を態々好き好んで選ぶ人間ってのは余程腕が立つか、余程正義感が強いか──大抵後者なのだが──だ。

 正義漢っていう人種は、僕の両親も含めてだが、自分の命を勘定に入れる事が出来ない、よしんば入れる事が出来たとしても優先度を一番底にまで下げる人種だ。だから、冒険者の死亡率は高い。その死亡理由も大抵は力無い無辜の民を庇っての事だ。

 

 そんな彼ら彼女らを救う男に、僕はきっとなれると思った。

 何せ僕は死なないのだ。致命の一撃だろうが何だろうが臆せず飛び込んで行ける。盾兵(タンク)としてこれ程優秀な人材も他に無いだろう。

 

 そうして僕は何十、何百と冒険者を致命の一撃より庇い続け、その度に少しずつ、少しずつ技術を身体に叩き込んで行った。

 その記念すべき最初の一回は、今尚記憶に鮮明に焼き付いている。思えばあの経験が、今の僕を形作ったのだろうな。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 あの時は────ああ、そうそう。確かこんな事を言って声を掛けたのだっけ。

 

『あの、僕にタンク役を任せて貰えませんか?』

 

 全身に甲冑を着込んだその人の肩をちょんちょんと叩き、僕は僕自身を売り込んだんだ。

 その甲冑姿の人は暫しの間悩んで、首を横に振った。

 

他人(ひと)に助けられる程やわな鍛え方はしていない』

 

 確か、そんな風に言っていた気がする。

 だから僕は、趣向を変えて頼み込む事にしてみた。

 

『人助けだと思って、少しの間だけでも組んでくれませんか?』

 

 人助け。その言葉に、冒険者になる様な正義漢たちは滅法弱い。元々が命を懸けて名前も顔も声も知らない誰かの為に戦う仕事を選ぶ様な人たちだ。困っている人は助けて当然、という行動理念が彼ら彼女らの中には染み付いている。

 

『……そういう事であれば、構わない。行くか』

 

 この甲冑姿の人も、やはり例外ではなかった。困った様な声音だったが、それでも二つ返事で僕と共に戦う事を承諾してくれたのだ。

 

 

 

 甲冑姿の人は、『オリヴィア』と名乗った。オリヴィアは言に違わず百戦錬磨の猛者で、中々僕の出番は無かった。せいぜい、彼女なら喰らっても死にはしない程度の威力の死角からの攻撃をちょこちょこと弾いていたくらいのものだった。……尤も、そんな一撃も僕の命を奪うには十分だったのだけれど。

 それでも彼女は、僕の事を認めてくれた。聞けば、冒険者という職業に就いてからはずっと生傷が絶えなかったが、僕が仲間に加わってからというもの、それが徐々に癒え始めたのだと言う。『ありがとう』と、年相応の少女の様な笑顔でお礼を言ってくれたのを覚えている。……当時の僕は、いや僕は未だにその笑顔が何より好きだという事も。

 

 そんな日々を続けていくうち、オリヴィアは僕にこんな提案をした。

 

『お前のせいで私は一人で戦う(すべ)を忘れてしまった。

お前のせいで一人が寂しいと感じるようになってしまった。

お前のせいで私は半人前だと気付いてしまった。

だから……その責任を、取ってくれ』

 

 要は、結婚しろとの事だった。何がどうなってそう帰着したのかは終ぞ分からなかったが、当時の僕はまだ青く、人並みに恋心や愛というものがあったから、それを一も二もなく喜んで承諾した。僕の左手に光るこのシルバーリングは、その時に彼女に贈ってもらったものだ。

 

 結婚したからといって、彼女は冒険者稼業を辞めるつもりは更々無い様だった。稼ぎとしては既に、もう一生遊んで暮らせるだけのものがあったのにも拘わらず、だ。……やっぱり、正義漢という人種は損得なんてクソ喰らえと言わんばかりの人ばかりだ。人助けが生き甲斐なのだろう。正直、愛する人の考える事とはいえ、理解に苦しむ。

 

 まぁ、二人揃って冒険者は続けたとはいえ、夫婦らしい事もそれなりにやっていた。週に一度の休みの日、僕たちは決まってデートに行っていた。商店街や露店を冷やかしたり、歌劇を見に行ったり。……あの頃は楽しかったなぁ、と今でも時々思う。

 

 そんな日々を、かれこれ2年ほど続けた頃。……遂に、その時(・・・)がやって来た。

 

 

 

 いつも通り、魔物狩りに二人で勤しんで、日も落ちる事だしと帰り支度を始めた時だった。

 風を切る轟音と共に、僕らの真上に影が落ちた。

 一体どうしたのだろう、と空を仰ぎ見て、絶句する。

 

『なッ……!?どうして、お前がここに居る……!!』

 

 影の主は、ドラゴンだった。それも、下級竜種のワイバーンでなく、上級竜種。中でも龍種に最も近いと恐れられるレッドドラゴンだ。

 それ(・・)は本来、この様な人里近くには棲んでいる筈の無い怪物だった。当然だ。だって、そんなものが近くに棲みついたその時点で、人里などというものはとうに壊滅していて然るべきなのだから。

 

 僕と彼女とは、唐突に現れた有り得ざるもの(ドラゴン)にひどく恐慌していた。今でこそドラゴンなんて見飽きたくらいのものだが、当時の僕はドラゴンになんて出会った事は無かったんだ。あの種としての絶対的存在感は、きっと実力ある者に程恐慌をもたらす。

 

 多分、時間にして3秒かそこら。……彼女より、僕の方が先に我に返った。彼女の方はドラゴンへの恐怖だけでなく死への恐怖もあったろうから、ある種当然の事だったのだろう。

 

 そして。

 

 僕は本能的に、ここが己の本懐を遂げる場だと悟った。結婚だなんだと色々あってその頃には忘れかけていたけれど、そもそも僕が冒険者の真似事をし始めたのは、常に命懸けで困難に立ち向かう誰かの為に、不死身の肉体を捧げる為。──正にこういう状況で、自分を捨て石にする為だったのだ。

 

『オリヴィア!!』

 

 叫ぶ。彼女の名を。

 

『君は街に戻れ!!応援を呼んで来い!!』

 

 平素とは全然違う、乱暴な言葉遣い。彼女からすればきっと、初めて見る僕の姿だったろう。……だからこそ、丁度良かった。彼女を恐慌から引き戻すには、そのくらいの衝撃は無くてはならなかったから。

 

『あ……い、いや、でも……』

『このままじゃ二人とも死ぬぞ!!

でも……君が急いでくれれば、二人とも助かるかもしれない!!守るだけなら、僕の方が君より上手だ!!だから、僕を信じろッ!!』

 

 洗脳する様に畳み掛けて、彼女を言葉で突き動かした。それが功を奏し、彼女は『必ず戻ってくる』と揺れる瞳で僕の姿を焼き付ける様にじっと見詰め、そして近くの街まで疾走した。

 それを確認し、僕は再び声の限りに叫んだ。威嚇というタンクの必須スキル。──敵の注意をこちらに惹き付ける技だった。

 

 

 

 彼女を街に帰してから、一体どれ程の時間が過ぎただろう。

 僕は既に、数えるのも馬鹿らしいくらい死んでいた。溶岩の如き灼熱の吐息も。絶世の名槍の如き鋭さの爪牙も。赤き竜の放つ攻撃は、そのどれをとっても僕にとっては致命の一撃だったのだ。

 盾は最初に一度、噛み付かれた時点でへし折れた。鎧は次いで放たれた灼熱のブレスで融解した。たったの二撃で僕は身ぐるみ剥がされ、身一つで巨竜に立ち向かう事を余儀なくされた。

 死んだままで居る事は許されなかった。それをした時点で、近隣一帯の人里という人里が災禍に見舞われる。それだけは避けねばならない事だと思った。

 そんな僕に残された戦法はただひとつ、所謂ゾンビ戦法ってやつだ。

 

 不老不死とて痛みはある。踏み潰されれば身体中を鋸で刻まれた様に痛かった。火炎に灼かれれば熱くて仕方が無いし、気道と肺が燃え尽きる感覚は筆舌に尽くし難い程の苦痛だった。腹を貫かれれば異物感と、何より熱い痛みでもんどり打った。

 痛みで時間がどこまでも引き伸ばされる。たった一秒が、まるで永遠の様だった。

 それでも、彼女たちを────愛する人と、大切な人たちを冥府に追いやるよりは余程マシだと思えた。だから歯を食いしばって、血反吐を吐いて、それでもと耐え抜いた。

 

 ────その果てに、彼女は戻って来た。

 

 近場の街を拠点とする冒険者、その数実に20以上。彼ら彼女らを必死に説得して、引き連れて帰って来たのだ。

 見れば、優秀そうなタンクだって何人もいる。弓兵も、魔法使いだって居る。ドラゴンを狩るに足るだけの面子が揃っている。

 それを見て、安心した。……安心してしまった。

 それだけの面子が揃った所で、竜狩りなど無傷で終わる筈は無いというのに。無傷で終わらせたいのなら、僕が立ち上がって盾にならねばならない筈なのに。

 なのに、僕は意識を手放した。竜の放つ炎熱に飲み込まれ身体を溶かすと共に、緊張の糸がプツンと千切れてしまったのだ。

 

 

 

 再び目を覚ます頃には、竜は跡形もなく消えていた。恐らくは、あの冒険者たちが死力を尽くして討滅したのだろう。もしくは手傷を与えてここら一帯から追い出したか。

 いずれにせよ、近くに災禍の音は無かった。

 

『……失敗したなぁ』

 

 傷跡のひとつすらない、文字通り新品(・・)の己の身体を眺め、独り言ちた。

 本来であれば、最後まで戦うつもりだったのだ。あの炎熱を受け止めたその後も、威嚇で注意を惹くつもりだった。

 けれど、僕は意識を失った。いくら不老不死の肉体とは言え、精神に限界はあるのだろう。それに気付く事が出来なかったのは、そして何より、その限界を打ち破れなかったのは紛れもない失態だった。

 僕の失態で、一体何人の人が死んだのだろう。……そう思うと、僕は怖くなった。

 

 ……二度は無い。そう心に誓う。そして、戒めの為、それから個人的な心残りを解消する為、僕は近場の街──僕とオリヴィアの住む、いや、住んでいた街──に向かう事にした。……化けて出た、なんて言われても困るから、一応、顔は隠して。

 

 

 

 街の門を潜り、まず真っ先に思った事はたった一つだった。

 

『竜狩りを成したにしては、えらく空気が暗ったくはないか』

 

 確かに、犠牲はあったのだろう。

 それでも、竜狩りだ。僕が嘗て、未だ不老不死でなかった頃。地元の村で竜が討ち取られた時は、呑めや歌えやの宴が開かれた。勿論、少数ながら犠牲はあったに違い無いのに、だ。竜を人の身で討ち取る事は、特に人里近くでそれを成し滅びを回避する事は、それだけの偉業の筈なのだ。

 だのに、この重く沈む様な空気はなんだ。一体、何人犠牲になったと言うんだ。……まさか、全滅じゃなかろうな。……オリヴィアは、無事なんだろうか。

 

 ……暗澹とした空気の訳を知る為に、僕は適当に住人に話し掛けた。

 

『失礼。……何やらやたら、空気が重くはありませんか?以前に訪れた際は、こんな様子では無かったと思うのですが……』

 

 すると、住人は生気の抜けた顔で振り返る。その顔は、僕も覚えのある顔だった。よく買い物に行った、露店の店主だったから。

 そして彼はいつもの如く、ぶっきらぼうにこう答えた。

 

『一人、冒険者が死んだんだ』

『一人?……こう言っては失礼ですが、冒険者が命を落としてしまう事はよくある事なのでは』

 

 一人、と聞いて、思わず安堵してしまった己を恥じる。思いの外犠牲は少なくて済んだ、などと。決して気を弛めて必要の無い犠牲を生んだ人間が考えて良い事ではない。

 けれど同時に、不思議に思った。

 犠牲は一人、という事は。残る20人近くは生きて帰って来た筈。なのに何故、こうも空気が重い?

 

『……不思議に思うのも無理は無いな。だが……それ程アイツは、俺たちにとって……何より、嬢ちゃん(・・・・)にとって、大切な人だったってこった』

 

 ……そうか。

 その悲しげな顔を見て、悟る。きっと、犠牲になった冒険者は余程街の人達に慕われていたのだろう。冒険者というだけで街の人からの覚えは良くなるものだが、それにしたってここまで。……一体、どれだけの尽力をしたか。僕では想像する事も難しい。

 それ程の人を、僕の怠慢が殺したのか。……そう思うと、余計に自分に腹が立ってくる。

 

『……成程。それは大変失礼しました。

……ご迷惑でなければ、私も手を合わせても宜しいでしょうか』

 

 だったらせめて、殺してしまった彼、或いは彼女の名くらいは記憶に刻み戒めとしなければなるまい。貴方の様な犠牲を、僕の目の届く範囲においては、もう決して出しはしないと。そう誓わねば。

 

『ああ。そうしてやってくれ。……こっちだ』

 

 とぼとぼと、力無く歩く彼の後を追い、慣れた道を歩く。

 そうして案内されたのは、僕とオリヴィアの住む家の裏手だった。

 箱庭程度の大きさのそこ。その真ん中には大きな石碑が立っていて、そしてその傍らには喪服姿の、見覚えのある麗人が座り込んでいた。……いや、座り込んでいた、と言うよりは、崩れ落ちていた、と表現するが正しいか。

 

『……オリヴィアの嬢ちゃん。いい加減、休んだらどうだい。もう2日もそうしてるだろう』

 

 店主が声を掛ける。……ひと目見た時からそうではないかとは思っていたが、やはり漆黒のドレスに身を包んだ彼女は、他でもない、僕の愛する人だった。あの溌剌とした笑顔も、怜悧な瞳も見る影もない。すっかり窶れて、瞳に生気は感じられなかった。

 

『オリヴィア……?』

 

 思わず、声が出た。あまりにも僕の記憶の中の彼女と出で立ちが違ったから。

 けれど、確かに彼女は彼女だった。愛する人を、生涯愛したただ一人の人を見紛う筈は無い。

 

 その声を聞いて、弾かれた様に彼女が動き出す。そして、9割がたボロ布で隠された僕の顔を見て、彼女はボロボロと涙を零し始めた。

 

『レーヴェ?……レーヴェ。……レーヴェッ!!!』

 

 愛する人の姿を見紛う筈は無い。……それはどうやら、彼女の方も同じであったらしい。彼女は、どう見たって不審者にしか見えない僕を、僕であると認識したらしかった。

 

『は?レーヴェ……だと?そいつが?』

 

 露店の店主はその様を見て、大層困惑していた。

 その反応を見て、何より彼女の生気の無さを見て、漸く気付く。つまり、たった一人の犠牲者というのは、僕の事だったのだろうと。……彼女たちは、ただ一人の犠牲を出す事も無く、竜を討ち取ったのだと。

 

『レーヴェ……レーヴェ、だろう?

この声。その空色の瞳。間違いない、間違える筈もない。レーヴェだ。レーヴェ。レーヴェぇ……』

 

 喪服姿の彼女は、考え事をする僕をお構い無しに力強く抱きしめた。

 ……まずい。この様子では僕は恐らく、死んだ事になっているのだろう──いや、事実一度死んではいるのだけれど、それは置いておいて──。それがこうして生きていると知れれば、周りに何と言われるか。……最悪の場合、魔物と看做されて迫害される虞もある。

 僕が迫害される分には、気分は良くないけれど、まぁ、別に良い。魔物扱いされても仕方ないくらいに、存在として人類種とは別個になってしまったから。

 だが、彼女が巻き添えを喰らう事だけは避けねばならない。彼女は何も悪くないのだから。理不尽な目に遭わせるなど許してはならない。

 

 ゆえに。

 

『……ああ。貴方がオリヴィアさんでしたか』

 

 慣れてもいない、演技をする。

 

『なに、を…?レーヴェ。私だ。分かるだろう?オリヴィアだ。お前のお嫁さんだぞ』

 

 彼女はそんな僕に困惑して、弱々しく呟いた。

 

()から、よく話は聞いていました。とびっきりに可愛らしくて、この上も無く愛していて……命よりも大切な、伴侶が居るのだと』

『あ、に……?』

『ええ。……申し遅れました。私はレグルス(・・・・)。……そこに眠るのは我が兄、レーヴェ……で、間違い無いですよね?』

 

 

 

 僕はレーヴェ(ぼく)の架空の弟、レグルスとして振る舞い、その場を切り抜けた。

 店主は『よく似た兄弟だ。全く……あんまりにも似通い過ぎてて、恨めしいくらいだ』と苦々しげに呟いてその場を去った。

 肝心なオリヴィアはと言うと、『嘘だろう?』『レーヴェ。嘘を吐くのは止めろ』『なぁ、頼むよ』『私はお前が居なきゃダメなんだ』と、半狂乱になって涙ながらに僕に縋った。

 その様を見て、僕はすっかり絆されてしまった。

 僕が思う以上に、彼女は僕を愛してくれていたのだな、と。

 だから、彼女に尋ねてしまったんだ。

 

『住み慣れたこの地を、捨てる覚悟はあるか』と。

 

 彼女は、一も二も無く頷いた。それはまるで、いつの日かの僕を見ている様だった。

 

 そして僕は、全てを明かした。

 僕はレグルスなどではなく、レーヴェ本人である事。僕が不老不死である事。冒険者の代わりに命を懸ける事を目的にこの街に来て、オリヴィアに話し掛けたのは全くの偶然である事。でも、君を愛しているのは紛れもない本心だという事。弟と偽ったのは、死人が蘇ったなどと噂されれば、君にまで迫害が及ぶ可能性があったからである事。全部、全部、赤裸々に。

 

 彼女は、それをうん、うんと頷きながらじっと聞き、最後に『馬鹿者』と弱々しく呟いて僕の脳天に拳骨を下ろした。そんな筈は無いのだけれど、その一撃はドラゴンの踏み付け(スタンプ)攻撃より痛かった気がした。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

その後も僕は他の冒険者を庇い続けた。オリヴィアはというと、ドラゴン狩りで無理をし過ぎて右腕を壊してしまったらしく、冒険者稼業はとても続けられなくなってしまった様だった。そして冒険者を止めてから彼女はめきめきと料理の腕を上げ、僕の人生に多大なる潤いを与えてくれた。……今でも時々、あの味が恋しくなる。

 

 彼女は僕の目的に心を痛めていた様だったけれど、それでも僕の志を尊重してくれて、止める事も無く毎日送り出してくれた。お弁当も持たせてくれた。

 相変わらず週に一度だけは、二人でデートに行っていたけれど。

 

 尚、死体が消えて新品になって帰って来た時は、流石にぶん殴られた。『もっと自分を大切にしろ』って。そう言われても、したくても出来ないのだから仕方ない。

 

 そして60年程が経った頃、彼女は山奥の小屋でひっそりと命を落とした。老衰だ。その死に目に立ち会えたのは、僕にとって人生で数少ない幸運だった。……彼女と共に旅立てないのは口惜しかったけれど、元より互いに覚悟はしていたのだ。心底嫌だけれど、仕方ない。

 彼女を丁寧に埋葬すると、僕はまた旅に出た。今でも時々帰って来ては彼女に向かって話しかけたり、お墓の手入れをしたりしている。その瞬間だけは、灰色の僕の命にも、淡く色が付く。

 

 彼女との思い出は今も、僕の心の中でこんなにも色鮮やかに生き続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして何より、彼女は僕に、僕自身すらも気付いていなかった性癖を教えてくれた。

 

 即ち。

 

『僕を死なせてしまったと嘆き悔やむ人の顔を見るのが、僕は何より好きなのだ』という事に。

 

 オリヴィアはそれを聞いて、『は?』と心底冷たい声と目で僕を蔑んだけれど。

 それでも、偽りようのない僕の性癖だった。

 

 オリヴィアが、露店の店主が、街の人達が。彼ら彼女らが酷く表情を曇らせて僕の死を悼んでくれているのを目の当たりにした時。僕は、その光景を『得難く、尊いものだ』と思った。

 死ねない僕にとって、死を悼まれる事は何よりの救いだった。だってそれは、僕の生に他人が意味を見出してくれている事の何よりの証明だから。無価値にただ生きながらえているのではなく、誰かの中で生きていられるのだと教えてくれている様だったから。

 

 多くの冒険者たちと友誼を深め、そして彼ら彼女らを庇って散り。その後の様子をそっと陰で見詰め。……その度に、その思いは強くなって行った。

 今では立派な人格破綻者の出来上がりだ。有り得ない事だが、もし僕が今ここで死んで死後の世界でオリヴィアに出会そうものなら、多分彼女に殺されるだろう。『私の愛がこのモンスターを生み出したのだ。責任をもって心中してやる』とでも言いながら。全く、よく出来た奥さんだ。つくづく、僕には勿体無い。

 

 まぁともかく、そんなこんなで僕は形作られた。

 

 これより先に語るのは、僕が特にゾクゾクっとした経験の数々。

 

 つまり言うなれば、『不老不死の人格破綻者による曇らせエピソード集』だ。

 お気に召したら、続きも聞いて行って頂けたら、と思う。





正義漢ってのは自分の命を勘定に入れる事が出来ないらしいですね(本作主人公・レーヴェくんを見つつ)。

あと、彼は戦いに出る時は指輪を外すらしいです。万一にも紛失したら困るので。


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寒村の英雄ーリュガー


筆が乗った結果嫁さんの話より長くなった親友の話。


 

あれは、一体いつ頃の話だったろう。確か……ああ、まだオリヴィアからの愛妻弁当があった頃だから、彼女と出会ってから50年は経ってない頃なんだと思う。

 

 そこは如何にも『寒村』って感じの村だった。痩せた土地を無理やり開墾して、何とか村人が食うに困らない程度の作物をやっと作っているといった具合で、商人に流すような余剰も無ければ、特に観光資源の類も無い寂れた村だ。村人は大体が老人ばかりで、もう20年もすれば滅びるんだろうな、って感じ。

 果たしてそこへたまたま辿り着いたのだったか、それとも何か目的があってその村を訪れたのだったか、今となってはもう良く覚えていないけれど。……とにかく、僕はその村で一人の少年に出会ったんだ。

 

 彼はその村唯一の冒険者だった。たった一人でもう何年も、その村を魔物の脅威から守って来たらしい。ただ、当然と言うべきか、たった一人で魔物を退けるのはそう簡単な事ではなく、彼はいつも怪我でボロボロだったらしい。村の老人たちはそれを見てとても心配そうにしていたけれど、老いた身体では魔物狩りなど出来る筈も無く、結局は彼に委ねる他に無い状況だったのだとか。

 

 そんな所へフラフラと来訪した、大きな盾を背に担ぐ見目には少年と同い年くらいの旅人。……村の防衛に……否、彼に力を貸す事を頼まれるのは自明だった。

 

『旅人様。恥を忍んでお願い致します。少しの間だけでも良い。どうか……リュガを手伝ってやって頂けませんか』

 

 リュガ、とは件の少年の事だった。

 老人の視線の向く先で身支度を整えていた彼を見て、成程、確かに危ういと感じた。

 一見して彼は溌剌としていて、すれ違う老人たちにも朗らかな笑顔を見せていた。……けれど、どことなくぎこちない。

 笑顔は満更偽りでもないのだろう。笑顔を浮かべたくない様な相手に無理やり作り笑いを浮かべている、といった様子ではない。ただ……痛みを誤魔化そうと、傷付いた様子を見せまいと、かなりの無理して笑っている様に見えた。

 

『任せて下さい。付きっきりとは行きませんが、当分の間はお手伝いしますよ』

 

 それを見て、ここだ、と思った。

 ここならきっと、僕の目的を果たせる、と。

 

 

 

『悪いね、旅人サン。ウチのお爺たちが強引に頼み込んだみたいで』

『構わないよ。元々、辺境で冒険者をやる為に旅をしてたんだ』

『へぇ、そりゃあ奇特な話だな。俺なんて自分の周りを守るのに精一杯だからよ、尊敬するぜ』

 

 リュガは案の定と言うべきか、人好きのする性格の少年だった。頼れる兄貴分、などと呼ぶには些か年が若すぎるが、後数年も経てば正にそんな好青年に育つだろうと思わせる子だ。

 

 そんな彼の戦闘スタイルは、身の丈に見合わぬ程の長槍を用いたヒットアンドアウェイだ。……防具は、おそらく魔物の皮を鞣して作ったもの。最低限、最小限って感じだ。多分、立地の問題で金属製の鎧を手に入れるのが難しいから、必然的にこんなスタイルを確立せざるを得なかったのだと思う。

 実力については、伊達に数年もの間たった一人で戦っていない、って感想だ。多分、都市の方に行けばかなり名の売れた冒険者になっていただろう。

 とは言え魔物の群れを相手取るにはどうしても多勢に無勢だから、怪我は避けられない。けれど彼は、受けて良い怪我と受けては行けない怪我を本能的に感じ取り、受ける怪我を選んでいるみたいに見えた。事実、僕が割って入らないと死んでいた、という程の攻撃の間合いには、彼は一度だって足を踏み入れなかった。その天性の直感が彼を今まで生かし続けて来たのだろう。

 

 ただ……直感で通用しない相手が現れた時。或いは、命に届き得る一撃を、避け切れないほどの手数で繰り出された場合。……彼は、きっと死んでしまうだろうと思った。そしてそれは、この村にとって、延いてはこの辺り一帯にとって大きな損失だろうと。

 

 だからという訳でも無いとは思うのだけれど、大盾を握る手により一層の力が入った。僕の目の届くうちは、彼は死なせない。……そう、心に強く思ったんだ。

 

 

 

 その日の夜は宴だった。と言っても、出てきた料理はほとんど全部穀物か野菜。僕とリュガの皿にだけは、ほんの僅かに肉が乗っていた。……多分、この村に出来る精一杯のおもてなしをしてくれたのだと思う。その心遣いが嬉しくて、僕はすっかり村の人たちを気に入った。

 

『肉が嫌いって、聖職者か何かなのか、お前?』

『いいや?単に好き不好きの話だよ。肉よりは麦がゆの方が好きかな』

『へぇ。変わってんなァお前。そんじゃ、遠慮無く頂くけどさ』

 

 尚、肉はリュガにあげた。僕にとって食事は何十年かの生で染み付いたルーティンの様なもので、命を繋ぐという生物にとって最低限の目的すらそこに介在しないものだ。要は嗜好品に近い。……場を白けさせない程度に頂いて、貴重なものは同じく貴重な働き手であるリュガに食べさせた方が合理的ってものだろう。多分、村の老人たちも似た考えなんだと思う。

 

 

 

 そうしてランプの油が切れる頃、宴は終わった。どうやら村には最小限の家しか建っていないらしくて、宿屋の類は無いらしかった。だから、村に滞在する間はリュガの家の一部屋を間借りして、そこを仮の根城とする事になった。

 村の集会広場から、ふたり肩を並べて歩く。

 すっかりと灯りが落ちて真っ暗になった村に、二人分の土を蹴る音が響いた。

 

 会話は無い。元々僕はお喋りな方ではないから、沈黙というものが嫌いじゃない。だから、お構い無しにぼーっと歩みを進める。

 それに耐えられなくなったのは、リュガの方だ。

 

『だぁー、会話がねぇと重苦しくてしょうがねぇや』

『そう?』

『そーおー。……そだ。丁度良いしさ、お前の事聞かせてくれよ』

『僕の事?……って言ってもなぁ』

『頼むよ。何でも良いんだ。暇潰しと思ってさ』

 

 僕の事を語れ、と言われても、何を答えて良いか分からない。正確には、どこまで語って良いものかと悩んでしまう。

 無論、不老不死の事なんて言えない。不老不死になる前の事も、ちょっと古すぎておいそれとは話せない。何か変な事を口走って、『ウチのお爺みたいな事言うのな、お前』とでも言われては面倒だ。態々怪しまれる様な事をする必要は無い。

 そこで僕は、家族の事を話す事にした。

 

 実は結婚している、と何でもない様に伝えると、リュガは大層驚いた様で、『はァ!?その歳で!?すげぇなお前!』と笑いながら僕の背をバンバン叩いた。

 そこからは大変だった。と言うより、面倒だった。やれ『馴れ初めは?』だとか。やれ『プロポーズはどうしたんだよ?』だとか。やれ『ケッコンってどんな感じだ?』だとか。正に根掘り葉掘り、といった感じで事細かに色々と尋ねられた。……多分、同年代の人間との関わりがこれまで無かったから、そういう浮ついた話題に飢えていたのだと思う。

 仕方が無いから、答えられる範囲で答えてやった。お返しにたっぷりと惚気けてもやった。帰り道程度では彼の興味は尽きなかったらしく、翌朝、僕らは揃って寝坊する事になった。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 僕にとって半年という時間は、まるで瞬きする間に過ぎる様な短い期間だった。

 その間、僕は週に6日この村に滞在して、週末の1日だけオリヴィアの元に帰ってデートをする、という生活を続けていた。リュガも、その1日だけは休養日とする事に決めたらしく──何度か一人で魔物狩りに出掛けたらこっぴどい怪我をしたらしく、それで回復に何日も費やすくらいなら初めから出ない方が賢明と判断したらしい──、村の老人たちもようやっとリュガの張り詰めた空気が少しばかり弛んだと大喜びだった。

 

 そんなある日の事だった。

 

 その日も僕とリュガは、村の外へと魔物狩りに出掛けていた。段々村近郊の魔物の気配は消えて行き、この頃には大分遠出をする様になっていた。

 

『いやぁ、レーヴェが来てから魔物が見る見るうちに減ってるよな。助かるぜ、ホント』

『僕だけの手柄じゃないでしょ』

『……まぁ?俺の頑張りのお陰な面もそりゃあるけどな?』

『そーそー。君はそうやって胸張ってりゃ良いんだよ』

『へへん。村の大英雄リュガ様参上ーってな!!』

『はいはい、英雄様はすごいねぇ』

『……何か虚しくなってきた。やめだやめ』

 

 そんな会話も、もう何度交わされたか分からない。端的に言えば、調子に乗っていたのだ。リュガも…………僕も。

 

 いつも通り日が傾いた頃に血を拭って、村へと帰る。……その道すがら。

 

『あ?なんだこの臭い』

『…………鉄?』

 

 遥か遠方から、何やら鉄の様な臭いが漂っている気がした。

 嫌な予感がした。僕の目の届かない所で何か、取り返しのつかない事が起きている様な。そんな予感。

 僕がリュガを見たのと、彼が僕を見たのは、奇しくも同時だった。彼の顔には、焦りの色が浮かんでいた。……そして多分、それは僕も同じだった。

 

 そして、どちらからともなく、弾かれた様に村への帰り道を駆けた。それはもう、この上無い全力で。

 

 

 

 僕たちが到達する頃には、村は地獄絵図と化していた。防護柵は壊れかけ。門や壊れかけた防護柵の所では、村人の中でも比較的歳若い者が廃材を即席の盾にして必死に抑えている。

 そして、それを取り囲む牙狼(リュカオン)の群れ。……所謂、魔物来襲(モンスターパレード)という奴だった。

 

 その光景を目の当たりにした僕は、珍しく焦っていた。

 牙狼なんて(そんな)もの、辺りに居なかった筈だろう、と。

 この辺りは確かに辺境で、都市部に比べれば魔物の数も段違いに多い。けれど、その強さは大した事無い筈だった。間違っても、リュカオンなんていうワイバーンにも匹敵し得る怪物は棲んでいない。その筈だった。

 

 目前に迫った村へ駆けながら、どうすべきか考える。

 

 ────狩れるか?……いや、無理だ。二、三匹なら兎も角、遠目に見ても十はくだらない。あれ程の数、たった二人で打倒出来る筈も無い。

 

 ────逃げる?……馬鹿を言うな。目の前で生者が朽ちていく様を見ろと?そんな事、許容出来る筈が無い。

 

 なら────うん。ここが命の張りどころだろう。

 

『リュガ。今から僕はあいつらを惹き付ける。君は僕の事は気にせず、ただあの狼共を殺れ』

 

 その言葉に、リュガは目を丸くした。

 

『そんな事したらお前死ぬぞ!?大丈夫だ、いつも通りに……』

『いつも通りじゃどうにもならないから言ってるんだ!!』

『ッ……!』

 

 今の僕たちでは、正攻法ではあいつらは倒せない。僕の命を惜しみなくベットして、ようやく可能性が見えてくる。……いつも通りにやれば、なんて甘っちょろい夢物語を語る余裕などありはしない。

 それでもまだ瞳を揺らすリュガを見て、思わずその頭をひっぱたいた。

 

『迷うな。君が迷えば、村のお爺さんたちは間違い無く死ぬぞ。……良いのか、それで』

『良く、ない。……良い訳、あるか……!!』

『その意気だ。さ、行くぞ!!』

 

 彼の背を軽く押し、僕は僕でリュカオンどもの正面に回る。すかさず、咆哮。威嚇だ。盾もどきを持った老人を食い殺さんとしていたリュカオンどもの視線が、こちらに釘付けになる。……さぁ、戦闘開始だ。

 

 

 

 戦いが始まって、恐らくは1時間ほど。既に僕は3度程死んでいる。盾は大破、鎧もひしゃげ既にその機能を果たしていない。

 一方で、戦果も上々だった。15は居たリュカオンどもも、リュガの尽力によりその数を半分以下の6にまで減らした。

 このままなら、行ける。希望を垣間見たその瞬間、打って変わって絶望の音が響く。

 バツン、という乾いた音。その音の発生源に目を向ければ、彼が構えた大槍が半ばから真っ二つに折れる光景が広がっていた。

 

『なッ!?……ちくしょう、この肝心な時に……!!』

 

 替えの武具など無い。それ故に、彼はいつもそのたった一本の大槍を丁寧に扱って来た。……が。こんな土壇場で、そんな事を気に掛ける余裕などある筈も無く。

 遂に、長年の疲労に槍が耐えられなくなったのだ。それにしたって、このタイミングとは運が無い。

 

 ダメージソースの消失。それは当然リュガにとっての絶望でもあったが、僕にとっての絶望でもあった。

 僕が一瞬でも威嚇以外の行動を取った場合、その瞬間にリュカオンたちは好き勝手に暴れ出すだろう。……一応申し訳程度に(なまくら)の剣は腰に挿しているが、そんなものを抜いている余裕は無い。

 かと言って、リュガに殴り掛かれと命ずる訳にもいかない。拳で殴り殺そうなど到底不可能。一匹殺す前に腕の方が潰れる。

 

 手詰まりだ。膠着状態を作り出す事は出来るが、どうやったって打破出来ない。

 

『すまねぇ、レーヴェ……俺たちの、負けだ……』

 

 ……否。

 

 ただ一つだけ、方法はある。

 

 正直、これを使うとオリヴィアにしこたま怒られるし、多分彼らに消えない(トラウマ)が残るから、出来る限り使いたくないのだけれど。……ただ、目の前で生者に。……親友に、そしてその家族に死なれるよりは、幾分もマシだ。

 

 だから。

 

『じゃあね、リュガ。今すぐお爺さんたち連れてここから逃げて』

『は……?おい、待てよ、なぁ、それどういう……!!』

 

 一言だけ、彼に言葉を遺す。いつかの彼の様な、ぎこちない笑みで。

 それに応えるは、見た事も無いような悲痛の顔。絶望の二文字を濃縮した様な色が、その顔に濃く塗りたくられていた。涙と鼻水塗れ。はは、ブサイクでやんの。

 

 そして。

 

 それを見て興奮した僕は、ありったけの魔力を体内で乱流させ、それを加速・圧縮し、一気に解き放った。

 

 閃光。

 

 灼熱。

 

 轟音。

 

 爆風。

 

 あらゆる衝撃が、僕の周りを駆け巡って行く。

 

 そして。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

目を覚ますと、荒野のど真ん中に居た。

 1キロほど先には村が見える。……リュガたちの村だ。

 

 どうやら、復活する際に座標がズレたらしい。或いは、爆風で肉片が飛び散った先が、ここだったのか。

 空は茜。日はあと1時間もすれば落ちるだろう。

 そして、視界の先にある村では、夜に備えて丁度篝火を焚いている所だった。

 

 どうやら無事、リュカオンどもは一掃出来たらしい。

 

 

 

 あの時僕が使ったのは、自爆の魔法だった。

 本来であればあれは魔法杖などを媒体に、それを投擲して敵ごと爆破する魔法なのだそうだが、要は何か魔力の通る容れ物の中に魔力を循環させ、それを際限なく圧縮・加速させれば良いので、不死である僕にとっては大層使い勝手の良い魔法と化した。……何せ、媒体を持ち運ぶ必要が無い。自分の身体を媒体にすれば良いのだから。

 

 何年か前に通りすがりの魔法使いに見せてもらった魔法が、こんな所で役に立つとは。……人生、何があるか分からないものだ。特に僕の様に長くを生きるのなら、尚更。

 

 

 

『…………リュガ、大丈夫だったかな』

 

 暫く遠くの篝火を眺めて、思い至ったのはそれだった。

 爆風を最も近くで食らったのは、リュカオンどもを除けば間違い無くリュガだ。出力は調整したつもりだが、何かの間違いで僕に近寄って来でもしていたらその限りでは無い。

 

 一度不安になると、それは中々払拭出来ないものだ。

 だから僕は、適当な格好をして村を訪ねてみる事にした。いつぞやの様に、顔はしっかりと隠して。

 

 

 

 村は相変わらず活気が無い。老人たちがひっそりと身を寄せ集まって生きている、そんな雰囲気だった。

 少し歩いて、顔見知りの老人に話し掛ける。

 

『……もし、お爺さん。少しお聞きしても宜しいですか?』

『む?……おや。この様な寂れた村に旅人とは珍しい。して……何を聞きたいので?』

 

 よく見知った顔。……けれど、その顔には気のせいか、以前より弱っている様だった。

 僕たちが着く前に村人が何名か死んでいたのか、或いは……僕の死を悲しんでくれているのか。後者であれば、嬉しいが。

 

『村の外に大きなクレーターの様なものがありますが、何か飛来したのですか?』

『クレーター……ああ。あの大穴ですか。

あれは……村の英雄の、墓なのです』

『村の……英雄……』

 

 その言葉に、少しばかり嫌な予感がした。『村の英雄』。それは、リュガがよくふざけ半分に自称していた称号だった。

 まさか、巻き込まれたんじゃ。……そんな最悪の可能性が、頭に()ぎる。

 

『詳しく、お聞かせ頂いても?』

『ええ、構いません。……長くなります。良ければ、墓まで案内でもしながら』

『それは助かりますね。是非ともお願いします』

 

 

 

 村人の語る所によれば、こうだ。

 『村の英雄』は、村の外からやって来た旅人だった。

 『村の守り手』に半年もの間付き添って、最期には、村を魔物の脅威から救うべく自らその身を滅ぼした。

 そのお陰で、村人は──何名か手酷い傷は負ったものの──全員無事で、村は今もこうして存続している。

 

 まぁ、要するに、だ。

 『村の英雄』というのは他でもない僕の事で、僕以外に犠牲者は出なかったらしい。どうやら、僕の目論見は上手く行ったらしかった。犠牲者ゼロ。……うん、めでたしめでたしって奴だな。

 

『犠牲は、確かに出ませんでした。が……ひとり、塞ぎ込んでしまった者が居りましてな』

 

 ……とは、行かないよな。そりゃあそうだ。目の前で死んで見せたんだから。

 

『塞ぎ込む?』

『ええ。リュガという、この村唯一の子どもなのですが……歳の近さもあって、英雄様といっとうに親しくしていたのはあの子なのです。そんな、生まれて初めて出来た友人に、目の前で死なれたものですから……』

 

 その悲しみは、推して知るべきでしょう。……老人は、そう締めくくった。

 

 その言葉を聞いて、ぞくぞくとした暗い思いを抱いた己が居た。『僕』という存在は、親友(リュガ)の中でそれ程までに大きく膨らんだ。……その事実が、何より嬉しかった。

 

『……その少年に、会わせてくれませんか』

『ふむ。……何のために?』

『歳の近い私にこそ、話せる何かがあるやも知れませんので』

 

 老人は、僕の言葉を聞いて再びふむ、と顎をさすった。

 

『刺激を与えて良いものか、儂には分かりかねるが……』

 

 そう呟いたが、そのまま幾らか逡巡した後に、彼は僕をリュガの元まで案内してくれた。

 

『こちらです』

 

 そこは当然と言うべきか、僕が半年ほども寝泊まりした小屋だった。

 老人曰く、リュガはここに一日中引き篭って陽の光も浴びようとしないらしい。塞ぎ込んでいるとは聞いていたが、思った以上の様だ。

 

 とん、とん、とん、と軽いノックが響く。

 

 瞬間、部屋の中で何かが走る様な音がして。

 

『レーヴェ!?』

 

 あの人好きのする笑顔は見る影もなくなった、リュガが焦った様に顔を出した。

 

『レーヴェ……じゃ、ないのか』

『レーヴェ……それがこの村の英雄の名ですか』

『……帰ってくれるか』

 

 僕がレーヴェでないと見るや否や、リュガは夜闇の様な暗い瞳でこちらを一瞥し、拒絶した。

 取り付く島もない、というやつだった。

 

『……ご覧の通りの有様でしてな。しかし……ノックに反応するのは、旅人殿が初めてです』

『……成程。事情は凡そ分かりました』

 

 けれど、このまま引き下がる訳にはいかない。

 だって、そんな事したら僕の欲求が満たせな…………じゃなかった、リュガに消えない傷を遺す事になる。

 

 だから。

 

『ノックに反応したのも、無理は無い。恐らく、呼吸が似ていたのでしょう。私と……兄とは』

 

 出番だ、架空の弟(レグルス)。今回も一芝居打っちゃうぞ。

 

 

 

『兄の……レーヴェの事を、聞かせては頂けませんか』

 

 老人に事情を話して帰ってもらい、再びリュガの小屋の扉をノックする。

 すると、彼は扉を僅かに開き、僕を懐疑的な目でじとっと見詰めた。

 

『……兄?』

 

 この機を逃す訳にはいかないと、畳み掛ける。

 

『ええ。……レーヴェ、と名乗ったのでしょう?その村の英雄殿は。……彼は、こんな顔ではありませんでしたか』

 

 頭に巻いたボロ布を取り、口元を見せる。

 すると、リュガは目を見開き、口をあわあわさせた。

 

『おま……レーヴェ……じゃ、ないんだよな?』

『レーヴェは私の兄です。私はレグルス。……失踪した兄の足取りを追って、ここまでやって来ました』

 

 いつか使おうと思って作っておいた設定(うそ)をつらつらと適当に並べ立て、カバーストーリーを作り上げる。いくつか真実を織り交ぜて、それっぽく見える様な語り口調で。

 途中何度か、要らない事を口走りそうにもなったけれど、何とか耐えた。

 

 そして、彼の口から僕への所感を語らせる事に成功する。

 

『あいつは……なんだろ、兄貴って感じだったよ』

『兄貴……あの兄が?』

『あの兄って。……家ではどうだったのか知らないけどさ、ここじゃ立派なもんだったよ。辺境で冒険者をやる為に来たーなんつってな』

 

 レーヴェ(ぼく)の事を語るリュガの瞳は、あの底知れぬ闇の様な瞳に比べれば、幾分生気に満ちていた。何よりハイライトがある。……その光も、何やら仄暗い様な気がしてならないが。

 

『そんなあいつの夢を、俺が奪っちまったんだ』

 

 そして急転直下、絶対零度。真実、部屋の温度が3度程低下した心地がした。

 

『俺が槍の扱いを間違えなきゃ、あんな事には……やめろ、笑うな……そんな目で俺を見るな!!』

 

 そして、発狂。……痛々しい、などとトラウマを作った張本人が言う事ではないのだろうけれど。それでも、敢えて口にする。……今のリュガは、見ているだけで心臓が貫かれる様だった。そしてその痛みが、大変に心地好い。

 美しい。尊い光景だ。僕はきっと、この光景を生涯忘れないだろう。

 

 

 

 だが。

 

 『村の守り手』が、いつまでも腑抜けていてもらっては困る。せっかく守った村が、誰一人老衰する間も無く滅んだとあっては寝覚めが悪い。

 僕が守ろうにも、一度目の前で死んでしまった後では都合が宜しくない。僕じゃなくて、彼自身に守ってもらわないと。

 

 発破を掛けてやらねば。

 

『立ちなよ、リュガ』

『ぁ…………レグ……いや、レー、ヴェ?』

 

 彼の頭をむんずと掴み、己の肩へと押し付ける。

 

『村の大英雄様が、いつまで腑抜けてるつもり?』

『えい、ゆう……』

 

 呆然と、リュガは僕の言葉を復唱した。

 

『そう。君は英雄だ。よく自分で吹聴してたろう?』

『……そんなの、意地張ってただけだ。俺はお前が……レーヴェが居なきゃ、何も……』

『君の槍捌きは一級品だ。君はまだまだ強くなれる。……なんてね。

兄はお人好しですけど、見込みの無い人に半年も付き合う程のお人好しじゃないんです。……多分、貴方が村の守り手として大成すると信じていたから、兄は貴方に夢を託した』

『夢……』

『辺境の冒険者になるって夢。……人の目が届きづらい所の、守り手になりたいって夢。貴方が引き継いであげてください』

 

 リュガは夢……とまたも呟く。きっと、初めて会った日の事を思い返しているのだろう。或いは、共に在った半年間を丸ごと振り返っているのか。

 

『夢なら、弟であるあんたが継いだ方が……』

『兄の夢は私一人じゃ継げません。私は私で、他の所へ行って戦います。

だから……僕……じゃなかった、私は貴方にも、兄の夢を継いで欲しい』

 

 訴えかける様に置いたその言葉は、どうやら彼の胸に深々と刺さったらしかった。

 暗く澱んだ瞳に、見る見るうちに光が舞い戻る。

 

『……そう、だよな。そうだ。こんなかっこ悪いままじゃ、あいつに顔見せ出来ねぇ』

 

『あいつの夢、かんっぺきに引き継いでやって、あの世で胸張って自慢したらァ。そうでもしねぇと、あいつにどやされちまうもんよ』

 

 まぁ、僕当分あの世には行かないんだけども。なんて無粋な茶々は心の内だけにして、力強く頷く。

 それから僕とリュガと、二人きりでレーヴェ(ぼく)について語り合った。彼は僕との思い出を語って聞かせるつもりで、僕は亡くなった兄の足跡を追う、という体で。何だかやたらと美化された僕が彼の口から語られるのが、いやにムズ痒かったけれど、同時にとても嬉しかった。僕の人生に、また少し、価値(いろ)が付けられた気がして。

 

 そしてまた少しだけ、僕の性癖が歪む音が聞こえた気がした。

 





爆心地にはひしゃげた盾と、折れた槍と、麦がゆが供えてあるそうな。

この頃のレーヴェくんはまだ拗らせきってません。性癖は歪んでますが、それはそれとして己でしでかした事の後始末はきちんとします。


結びになりますが、感想やら評価やら、色々ありがとうごさいます。大変励みになります。出来ればもっと下さい(強欲)


【追記】なんかバグって文章がパッチワークみたいになってました。修正するまでに読んでくださった方、もしいらっしゃったらご迷惑お掛けしました。


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雪渓の奇跡ーアンネローゼー


おかしい。5000字くらいの予定だったのに。気付けば倍になっていた。


 

聖教が広く伝道されたこの世界に在って、『命の神』の名は本当によく耳にする。何せ聖教徒たちの崇める唯一神様だ。世界最大の宗教組織の信仰対象ともなればその名を口に出す者も多くなるのは必然であるから、致し方の無い事ではあるのだけれど。

 しかし、僕にとってその名は、耳にするだけで殺意の沸く忌み名だ。あのクソッタレのカミサマが祝福(のろい)なんぞ授けてくれやがったお陰で、僕はこうして何百年とこの地上をさ迷っている。

 ……いや。改めて考えると、命の神(アレ)が呪いを寄越して来たお陰でオリヴィアに出会えた、のか。そう考えるとあながち悪いばかりでも…………いや、彼女と出会わせてくれたのも命の神なら、彼女と同じ墓に入る事を邪魔してくれやがったのも命の神だ。差し引きゼロ。やっぱ嫌いだアイツ。可能な限り速やかに信仰を失って零落して欲しい。

 

 …………何の話だったっけ。

 

 ああ、そう。『命の神』の名前はよく話題に上がるって話だ。

 

 嘗て────オリヴィアが息を引き取ってから数十年くらいの頃の僕は、この名前に一々過剰反応していた。いい加減彼女の手料理が恋しくて、けれど死ぬ事も許されなくて、荒れていた時期だ。

 東で「命の神が再誕した」との声を聞けばその素っ首を叩き落とす為に出奔し。西で「命の神の天罰が下った」との声を聞けばやはりその素っ首を叩き落とす為に急行し、という具合。

 

 そんな状態だったから、割と適当な噂話だろうと当時の僕は食い付いた。例えばそれが────煎じて口に含ませれば、死者すら甦らせる花がある、なんて荒唐無稽な話であっても。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

竜の雪渓、と呼ばれる山脈がある。名の由来は至ってシンプル。年中雪に覆われた、竜の棲む山であるから。

 その中でもひときわ高い山。その天辺に、ある花が咲くという噂があった。

 その名も、オルフェウスの花。雪華の中に在って尚も白く、陽を受けて煌びやかに輝く、なんて噂される幻の花だ。……だが、その花の真価は、その幻想的な姿には無い。オルフェウスの花は、万能の妙薬の素材となる薬草としての価値があるのだ。

 その花を用いて生み出された薬草は、一口飲めばたちまちに病が癒え、傷に塗ればどれ程手酷いものであろうと瞬く間に治り、挙句死者すらも甦らせるなどとまで言われる始末で、貴族に商人、果ては王族までもが求めて止まない代物なのだとか。

 聖教徒たちは、その花を指して『命の神の意志を宿す花』であるとよく吹聴していた。……成程、確かに死者を甦らせるなどという効能が真実であれば、あのクソッタレの意志の一つや二つ宿していたって不思議じゃない。

 

 そんな代物に、僕は大変に興味があった。

 死者を甦らせる効果そのものに、ではない。仮にそれが真実であったとしても既に骨になってしまったオリヴィアは甦らせられないだろうし。それに、仮にそれが可能だとしても、やるつもりは無い。死者を永遠の眠りから揺すり起こす事の惨さは、僕がこの世で一番よく分かっているつもりだ。

 僕が興味を持っているのは、(ひとえ)に死者が甦る際のプロセスだ。

 死者を甦らせる、という効能は、確かに僕に纏わり付いた呪いと良く似た効能だ。仮にそれが真実であったなら、十中八九『命の神』はそこに絡んでいる。ゆえに、その光景を一目この目にする事が出来たなら、この呪いを解く手がかりになるかもしれない。

 

 

 

 そんな訳で。

 来ちゃいました。──竜の雪渓。

 

 無論、こんな危険地帯に馬車が通っている筈も無いから、馬車で可能な限り進んだ後は、徒歩でここまで進んで来た。

 

『あー、遠かった』

 

 身体を捻って伸ばしつつ、独り言つ。本当に遠かった。まさか歩き詰めで10日も掛かるとは。……まぁ、そのくらい離れてなきゃ、人里なんて形成しても滅ぼされるだけなんだし仕方ないのだけど。

 

『竜、なぁ』

 

 人里が云々の話で思い出して、遥か上空を見遣る。そこで悠々自適に滑空する、空の王者(りゅうぞく)たち。数えるのも馬鹿らしいくらいの数が居る。中には勿論、あのレッドドラゴンなんかも含まれるだろう。……一匹相手にあのザマだったのにと考えると大変に気が滅入る。

 ……が、まぁ。別に、何回死んだって良いんだ。それに、あの時と違って無理に攻撃を受け続ける必要は無い。それどころか、注意を惹く必要すらも。コソコソと隠れて登っていれば、そのうち天辺に辿り着くだろう。

 

『よし……行くか』

 

 こんなものでも無いよりはマシだろうと思って持ってきた白いフーデットケープを被って、僕は雪渓の踏破に挑戦した。

 

 

 

 登山を開始して30分程、幸先悪く出会したドラゴンを自爆で葬る。どうやらグリーンドラゴン──レッドの二つ下級の種──くらいならば、それで一撃で倒せるらしかった。

 自爆した後は、雪を被ってほとぼりが冷めるのを待つ。数分はジロジロと見られている様な気配があったけれど、そのうちにその気配も何処かへ消えた。

 それを確認し、漸く起き上がる。そして『寒かった』などとぼやきつつパンパンと軽く雪を払っていると、林の方から人の声が響く。

 

『確か、こっちの方で音が……』

『誰?』

『へ?……わっ!?』

 

 危ない人だと困るから、先に声を掛けて『気付いてるぞ』と威圧しておく。

 

『ひ、ひと?こんな所で?あたし以外に?……嘘』

 

 声の主は、なんだか薄幸そうな少女だった。歳は18前後かそこらだろう。見かけ上は僕より年上だ。

 彼女も僕と同じで白いケープを着用しており、布の隙間からはショートソードが見え隠れしている。……護身用の最低限、って感じだ。とても戦闘を本分とする人のそれには見えない。

 警戒は、解いても良さそうだ。

 

『あんたもオルフェウスの花を探しに来たの?』

 

 少女は僕が警戒していた事に気付いていないのか、或いは気にしていないのか、こちらに近寄って小声で話し掛けてきた。……多分、大声出して(やつら)に見つかりたくないのだろう。意図を汲んで、僕も小声で答える。

 

『あんた()って事は、君もそうなんだね』

『あったりまえよ。そうでもなきゃこんな危ないとこ誰が来るもんですか』

『はは、違いない』

 

 彼女の目的も僕と同じ、オルフェウスの花だった。……誰か、生き返らせたい人が居るのだろうか。よくよく見てみれば彼女、溌剌としている様に見えてその実、目に覇気が無い。身体もガタが来ていそうだ。弱っている所を必死に誤魔化してるって感じ。

 抜け殻にも等しい身体を引き摺ってでも、甦らせたい人が居る。……多分、そういう事なんだろう。敢えて触れはすまい。

 

『ね、ところでさ。あんた……見る所、腕は立つのよね?』

 

 そんな風に少し観察していると、少女は僕の背に担いだ大盾を見ながら、そんな事を言った。

 なるほど確かに、僕は見てくれだけなら立派な冒険者だろう。盾も鎧も直剣も、全部そこそこ良い奴だし。

 けれど、僕はタンク以外何も出来ない。というか、ハナからするつもりが無い。僕は真っ直ぐな目をした冒険者を庇って目の前で死んでやりたいだけであって、真っ当に冒険者をやるつもりは更々無いのだから。

 つまり、彼女にとっては期待外れもいい所だという事だ。

 

『お生憎だけど、僕はただのしがないタンクだ。攻撃はからっきしだよ』

『そっか。残念。……いや、それでも。……ねぇ、あんた』

『なに?』

『これも何かの縁だし、一緒に登らない?』

 

 ふむ。同伴のご提案か。

 二人で進んだ場合、一人の時に比べて多少見つかりやすくはなるけれど、その代わりにいざ見つかった時に50%の確率で逃げ仰せられる。天秤に掛ければ、後者の方が重い筈だ。普通に考えれば、至って合理的な提案だろう。

 ただなぁ。(こと)僕に限れば、何のメリットも無いんだよな、その提案。たとえ見つかって死んだとしてもノーダメージだし。寧ろおいそれと自爆出来なくなる事を加味すれば、この提案は僕にとってデメリットしか無い。さて、どうしたものか。

 

 ……まぁ、良いか。要は見つからなければ互いにメリットもデメリットも無いのだし。バレなきゃセーフ、ってやつ。

 

『いいよ。行こうか。えっと……君、名前は?』

『アンネローゼ。あんたは?』

『レーヴェだよ。宜しく』

『ええ。宜しく』

 

 握手を要求されたので、素直に手を預けておく。……人と触れ合ったの、何気に久しぶりかもしれない。

 

 

 

 暇潰しがてらに話す中で分かった事だが、どうやらアンネローゼは元々冒険者でもなんでもなく、とある料理店の看板娘だったらしい。道理で剣もプロテクターも真新しい訳だ、と納得して頷いていると、『そういうの分かるんだ?』と驚いた様に呟いた。

 

 彼女が語った軽い身の上話が終わると、今度は僕の番だった。何やら期待した様な目で見られていて居心地が悪い。……なので、のっけからぶっ込んでやる事にした。

 

『こう見えて奥さんが居たんだ、僕』

『え!?なに、既婚者なのあんた?あたしより若そうなのに……良いなぁ』

『よく言われるよ』

『……ん?ちょっと待って。居た、って……』

『……まぁ、そういう事』

 

 彼女がそこに思い至った途端、地獄の様な空気が辺りに漂う。……なんて、作り出した張本人が呑気に実況する事ではないのだけれど。

 自分の事でもないのに、彼女はまるで我が事の様にとても悲痛そうな顔を浮かべていた。……人の痛みがよく分かる子らしい。是非ともその感性は大切にしてもらいたい。僕の場合、随分昔に擦り切れて無くなってしまったけれど。

 

『ま、それ以外に特段語る事は無いかなぁ。面白味の無い男だよ、僕は』

『そ、そう。……あたしは……それじゃあたしも、話しとこうかな』

『……別に、無理して話す事は無いよ。話したいんだったら、止めないけど』

『……んーん。話す。聞いてて楽しい話じゃないと思うけど……聞いてくれる?』

 

 

 

 彼女が僕に語って聞かせた内容は、思っていた以上にヘビーな内容だった。

 身内に不幸があったのだろうとは思っていた。そうでもなけりゃ、遥々こんな所までやって来る意味など無い。

 ……そんな生易しいものじゃなかった。

 彼女の父親は、地方領主だったらしい。要するに貴族だ。そいつがまぁ、テンプレートを描いた様なクズで、彼女の母を側室として迎え入れたが、身篭った子が女であるとわかった途端に追い出したのだそうだ。

 そんな経緯(いきさつ)があって、彼女はずっと母親と二人で暮らして来たのだそうだ。

 それでも、彼女も彼女の母も、強く生きてきた。その果てに、彼女は女としての幸せを掴みかけた。……近所に住む、所謂幼馴染との婚約が決まったのだそう。

 ……けれど。

 その後すぐに彼女の母が流行病を患った。その病は僕も知っている。……掛かったが最後、余程上等な医療魔法でも受けねば、決して治る事はないとされる病だ。

 それだけでなく、彼女の幼馴染──即ち、婚約者もその病を患った。

 その病を治せる程上等な治癒魔法を受けようと思ったら、平民の年収何年分という莫大な金が必要だ。……当然ながら、一介の平民でしかなかった彼女にそれ程莫大な金は用意出来ず、そのまま……という事らしい。

 

 そうして悲嘆にくれた彼女は、例の噂を耳にした。それを鵜呑みにして……否、半ば眉唾物であろうと気付いてはいたものの、己を盲目にして、ここまで遥々やって来たのだそうだ。

 

 ……そして、ここからは飽くまで僕の推察になるが……多分、彼女はここに『オルフェウスの花』を求めて来たのではなくて、『死に場所』を求めて来たのだと思う。

 竜の巣窟に挑もうなどと、たとえオリヴィアやリュガに匹敵する様な冒険者であっても無謀だ。况てそれが単独でのアタックであれば、尚の事。……幾ら闘争とは縁遠い生活を送ったであろう彼女とはいえ、そのくらいの事は容易に想像がついて然るべきだ。それでも尚歩みを止めなかったとなれば……彼女が根っからの狂人であるか、さもなくば命を捨てる覚悟があるか、だろう。

 無念の内に朽ちた最愛の家族を思えば、自死を選ぶ事など出来なかった筈だ。

 ゆえに。私は家族の為に懸命に戦ったのだ。その果てに命を落とした。……そういうシナリオを、無意識に見据えたのだろうと思う。万が一まかり間違って(きせき)を手に出来れば、儲けものというくらいの感覚で。

 そうしたら同じく愛する人の死に悩んでいると推察出来る少年が居たものだから、どうせなら最後まで足掻こうという気になった、といったところか。

 

『……慰める気は無いよ。多分、部外者の僕に下手に慰められても、腹立たしいだけだろうしね』

『……まぁ、そうね。それに、傷を舐め合ったって虚しいだけよ』

『だからさ。……絶対、手に入れよう。オルフェウスの花』

『……うん。そうしよっか』

 

 ……柄にも無く、そんな言葉が口を衝いて出た。

 最愛の人を亡くして悲しむ気持ちは、ちょっと分かるから。

 それに、どうせ僕の興味は蘇生そのものに無い。蘇生のプロセスが見たいだけだ。だったら……どうせなら、この子が少しでも幸せになれば良い。そう思った。

 

 

 

 天辺に近付く程、道は険しく、また身を隠す物は無くなっていく。森林限界はとうに超え、僕たちは大きな岩の影に隠れながら一歩、また一歩と目的地(ちょうじょう)へと近付いていた。

 ……が。いよいよ、問題が露出し始めた。

 

 再三確認した通りだが、この山脈の異名は『竜の雪渓』。遥か上空を悠然と舞う竜たちに気を取られがちだが、脅威はそれだけに非ず。

 雪渓。即ち、一年中雪が積もっているのだ、この山は。それ相応に気温は冷え込む。日中は幾分マシだが、丁度今この瞬間の様に、陽が落ち始めると────

 

『随分冷えて来たな……』

 

 吐く息が白いのは元からだが。鼻と喉が凍る様な感覚を覚え始めたのは、陽が沈み始めてからの事だ。

 ただでさえ高山ゆえに空気は薄くなっているのに、空気が余計とも取り込みづらくなって、体力を過剰に奪われる。

 おまけに視界が悪くなる程吹雪いていると来れば、もうコンディションは最悪だ。

 

 僕だけに限れば、それでも別に構わない。呼吸が満足に出来ないのは少しばかり苦しいけれど、何も死ぬ訳じゃない。その程度で死ねるのなら僕はとっくの昔にここに生活拠点を移している。

 ただ、真っ当な身体でこの山に挑戦しているアンネローゼにとって、それは致命的な問題だ。

 

 どこかで、休まなければならない。いや、もっと早く休んでおかねばならなかった。自分が不死身だからってすっかり気が回っていなかった。

 

『……洞窟か何かあればなぁ』

『…………ぇ?……ぁ、ごめ、聞いてなかった』

『いや。何でもない。……それより、あんまり喋らない方が良い。体力の無駄になるよ』

 

 そう言い含めると、彼女は『うん、わかった』とだけ呟いて、口を噤んだ。……律儀に答えなくても良いのに。分かったんだか、分かってないんだか。

 

 辛そうにしている彼女の肩を持ち、目を凝らしながら進む。……と言ってもこの吹雪だ。中々身を休められそうな場所は見つからない。

 

 無い。……無い!

 

 苛立ち。焦り。……それらが綯い交ぜになった思いが、頭を支配する。

 

 彼女の足取りが一秒経る毎に重くなる様な気がする。

 

 早く。早く、どこか休める場所に────!

 

 そうして探す事、数分。漸く、僕は小さなあなぐらを見つけた。

 小さいと言っても、最低限風よけくらいにはなる。雪も奥まではそこまで入り込んでこない。休むには都合の良い空間だ。

 

 その奥に既に意識が飛び掛けた彼女を寝かせ、僕のケープやら鎧やらを着せてやる。少しでも厚く着込んでおいた方が良い筈だ。それでも安心は出来ないが。

 

 こんな事なら、自爆以外の魔法──火の魔法の一つでも身につけておくべきだった。どうせ使わないからと興味を持ってこなかったツケが今更になって回ってきている。

 

 僕は今、どうするべきなのだろう。

 僕に休みは必要無い。僕だけが今、自由に動ける。

 その自由で、何をすれば良い?

 

 考える。

 

 火を熾すのは無理だ。着火剤になる様な物も無ければ、種火に焚べる物も無い。

 

 彼女を休ませて、僕一人で花を探しに行く?……彼女がもう少し元気ならばそれが最善だったろうが、あの状態の彼女を一人にしておくのはダメだろう。

 

 何か、体力の付く物でも探して来て食わせるか?……と言っても、一体何を……。

 

『……あ』

 

 瞬間、劣悪な視界の先でワイバーンが地に足付けている様が目に留まる。

 

 ……やるしか、ないか。

 

 

 

 はいはい自爆自爆、と。

 全身消し飛ばすのではなく、頭部のみを破壊する様に何とか出力を調整し、2匹目で上手く行った。

 頭の先が吹き飛んだワイバーンの死骸を弄り回して、何とか肝を取り出す。……血なまぐさい。嫌いだ、この臭い。

 既に死んだというのにまだピクピクと動いているそれを、洞窟まで持ち帰る。

 

 竜の肝というやつは、昔から薬として用いられる。竜の生命力ってやつはそのくらい凄まじいものだ。何せ頭を吹き飛ばして、他の器官と切り離して持って来たのに今尚動いているくらいだ。

 これを食わせてやれば或いは、アンネローゼの状態も少しはマシになるかもしれない。そうしたら、彼女にはそのまま安静にしてもらって後は僕が花を取りに行って終了だ。

 

『アンネローゼ。……アンネローゼ』

 

 寝ている彼女の頬を軽く叩く。瞼がピクリと動き、やがて極めてゆったりと持ち上がった。

 

『ぁ、に……?』

 

 呂律が回っていない。……結構危なかったな。

 

『これ食べて。ちょっと血なまぐさいと思うけど……まぁ、多分鼻も利いてないでしょ』

『こ、ぇ……?』

『うん。辛いかもだけど、食べて。食べないと多分死ぬから』

『ん……』

 

 そして彼女は、時々噎せながらも肝を食み、嚥下した。

 

『あったかぃ……』

 

 効果はやはり絶大だった。血の気を失った彼女の頬が再び色付く。……この分なら、しっかり寝れば大丈夫そうだ。

 

『ちょっと寝てな。それで寝りゃあ、多分良くなるよ』

『ん。そうす、ぅ……』

 

 随分と寝付きが早いな。それだけ体力が落ちていた、という事なのだろうけど。

 

 ……寝顔は穏やか。呼吸も問題無し。……うん。大丈夫そう。

 となれば。

 

『もうひと頑張り、かな』

 

 

 

 翌朝。僕が洞窟に帰って来るのと、アンネローゼが目を覚ましたのは奇しくも同時だった。

 

『ん……よく寝た』

『お、起きたね。おはよう。調子はどうだい?』

『大丈夫そう。これなら山頂まで行けそうよ』

 

 そう言って、彼女は軽く右腕を回して見せた。……多少の強がりは含まれているのだろうけど、本当に問題は無さそうだ。

 けど。

 

『もうこれ以上登る必要は無いよ。後は下山だけ』

『は?……なに?ここまで来て諦めるって言うの?』

『ちがうよ。花ならほら……ここに』

 

 そう言って、懐から一輪の花を取り出す。

 銀雪の中、ひときわ輝く花弁を靡かせていたこの花。特徴も植生も一致している事だし、恐らくはこれが『オルフェウスの花』なのだろう。

 

『あんた……もしかして一人で行ったの!?』

『まぁ、元々その予定だったしね』

『……そりゃあ、そうだけど…………って、待ってよ。まさかその一輪だけ?』

 

 ……ああ、気付かれちゃった。

 

『……一輪しか、咲いてなかった』

 

 そう。山頂を隅から隅まで探したにも拘わらず、見つけられたのはたったの一輪。つまり、これだけ。

 

『……なら、それはあんたのよ。……奥さん、生き返らせてあげなさいよ』

『んーん。君にあげるよ。そもそも僕、誰かを生き返らせる気なんて更々無かったから』

『はぁ!?じゃあなんでわざわざこんな所まで来た訳?』

『生き返らせる気は無いけど、人が生き返る所は見たいんだ。僕の目的の為に』

 

 そう言って強引に彼女の手に花を握らせると、彼女はイマイチ釈然としない顔を浮かべていたが、やがて納得したように渋々頷いた。

 

『……生き返らせる時に、あんたを立ち会わせれば良いって事ね』

『そうしてもらえると助かるね』

『分かった。……交渉成立。それじゃ、早速降りましょ』

 

 ほんっとうに渋々、といった顔。多分、施されているみたいで気に食わないんだと思う。それでも背に腹はかえられぬというやつで、無理やり呑み込んだみたいだ。

 

 早速、との言葉に違わずぐんぐんと下っていく彼女の後を追い、僕も山を降りる。……正直、疲れたから少し休んでから降りたかったのだけれど。……まぁ、死ぬ様な事は有り得ないし、別に良いかと素直に付き従う。

 

 (はや)る気持ちが抑えられないのが見て取れる。歩む速度は登りとは比べ物にならない。疲れきって暗く沈んでいた瞳は、まだ薄ぼんやりとではあるものの、確かに光を湛えている。『早く』と僕を急かす声も、心做しか大きい気がした。

 油断し過ぎじゃないか、とも思ったけれど、案外何とかなるものだ。……僕らの思うより、竜は人間に興味が無いのかも知れない。

 

 そうして、順調に中腹辺りまで駆け下り。

 

 そこで、いよいよ問題が発生した。

 

『早く、行きましょ!……絶対、生き返らせて見せるんだから!』

『はいはい。分かったからもうちょっと静かに……』

 

 甲高い喋り声がいよいよ腹に据えかねたのだろうか。地鳴りの如き咆哮と共に、巨躯が僕らの頭のすぐ上を、音を脇に捨て置く程の速度で駆けた。

 瞬間、荒らされた空気が暴れ始め、僕らを巻き上げんとする。

 

『キャ!?』

『ぐっ……これ、は……!!』

 

 まずい。……そう思ったその瞬間に、僕は近くの大木に飛び付いた。暴風に身体を取られるその(すんで)の所で支えが間に合う。

 

 ……が。すっかり浮かれきった彼女に、周りを見る余裕など存在しなかった。

 風になされるまま、彼女の身体が遥か高く巻き上げられる。そしてそのまま不規則に煽られ、落ち行くは────

 

『え──────』

 

 断崖絶壁。彼女の落ちる先に彼女の身体を受け止めるものは何も無い。その落差は、どう小さく見積もっても一キロメートル。飾り程度のプロテクターなんぞがそれ程の衝撃を吸収出来る筈も無い。待っているのは、死だ。

 

 それを認識して、否、脳が認識するその前に、僕の身体は動いていた。

 

 全力で、全霊を以て、手を伸ばす。

 

『とど、け……!!』

 

 千切れても良い。少しでも前へ。

 

 コンマ一秒の戦い。

 

 果たして、その戦いの勝敗は────

 

『……!届いた!!』

 

 ────僕の、勝ちだった。

 

 彼女の片腕を両手で握り、全力で後方に引き抜き振るう。

 僕と彼女の立ち位置を入れ替える。

 

『ちょ、レーヴェ!?』

 

 その試みは、やはり成功した。……土壇場の運否天賦には弱い僕だけれど、今回ばかりはこちらに傾いたらしい。

 

 浮遊感に身を任せ、そのまま後ろを振り返る。世界は、何だかとてもスローモーションだった。

 

 目が合った。

 

 真黒の瞳が、水彩絵の具の様に滲んでいる。

 後悔。自責。悲哀。逃避。錯乱。……色々な感情が入り交じって、ぐちゃぐちゃになって。けれどそのアンバランスさが、どこか美しい。

 ああ、良い顔だ。随分久し振りに、そんな顔を見た気がする。

 あんまりに綺麗で、見惚れてしまいそう──なんて事を考えるとオリヴィアに叱られてしまいそうだけれど。……でも、その今にも涙が零れ落ちそうな悲愴の顔が、やっぱりとても綺麗だった。

 

『ふたりに会えるといいね』

 

 呪いの如く、言葉を遺す。

 蚊の鳴く様な小さな声だった筈だ。……それでも彼女は、僕の最期の一言をその耳にしかと収めた。そう、表情の変化が教えてくれる。止めどない滂沱の涙が、地を濡らした。

 

 ああ。……望外に、欲求を満たす事が出来た。

 

 呪いの真実からは遠ざかってしまったけれど。……それでも良いかと思えるだけの価値が、あの顔には込められていた。

 

 浮遊感が掻き消え、僕らを平等に縛る重さが途端に牙を剥く。

 大地が。……彼女が、加速度的に遠ざかって行く。

 

 その光景を、しっかりと目に焼き付け。そして遂に、大地との感動の再開だ。

 ぐしゃ、とまるで果実が潰れる様な音が脳裏に響き、瞬間、あんなにも色鮮やかだった景色が黒一色に塗り潰される。

 

 そしてそこで、僕は意識を手放した。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

目を覚ますと土の中だった。

 そこまで厚く被せられている訳じゃないみたいだけど……重い。土ってのも案外バカにならないものだ。

 

 あと……口の中が、何故だか苦い。毒草を間違って噛み潰した時みたいな……いや、あれよりは幾分マシだけど。滑落した時に木の葉でも噛み砕いたか。

 

 重さに反発して、身体を起こす。……するとそこは、竜の雪渓、その入口だった。

 どうやら、ここまで落ちて来ていたらしい。

 

 ……いや、違うな。彼女(・・)が、降ろしてくれたのか。いくら僕の体格が貧相とは言え、人一人ともなればそれなりの荷物だったろうに。

 しかも、どうやら態々埋めて(弔って)くれたらしい。僕の埋まっていた辺りの土が、直近で一度掘り返されている痕跡があった。

 所詮は行きずりの、一時の協力者でしかなかった筈なのに。……やっぱり、彼女は律儀だった。態々どこに落ちたともしれない僕の死体を探し当てて、埋葬してくれたのだ。……見てくれも性格もまるで違うけれど、そういう律儀さは、どこかオリヴィアに似ている気がする。……ああ。だから、幸せになって欲しいと思ったのかな。今更ながらに得心が行った。

 

 空を仰ぐ。色は、郷愁を誘う茜だった。

 

『……たまには、顔でも出そうかなぁ』

 

 呟いた声は宙に消え。……そして、僕は歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 そして。僕が王都に辿り着いた頃には、またひとつ、『命の神』についての新たな噂話が流布されていた。

 

 曰く────『オルフェウスの花』は結局、ただの御伽噺だったのだ、と。

 





幸せにはなって欲しい。それはそれとして、地獄を見て表情を曇らせて欲しい。両者は両立します。誰が何と言おうとそう声を大にして言いたい。

ラストシーンについて、僕の表現力ではこのあたりが限界でした。伝えたい事がちゃんと伝わっていると良いのですが。……後は曇らせ好きの同志諸兄に委ねます。



結びになりますが、皆様へのお礼を。
拙作に対して多くの反響を頂きましてありがとうございます。正直想定を遥かに上回る勢いで大変驚いております。
一晩のうちにバーに色は付いてるわ、日間には載せてもらってるわ……大変貴重な経験をさせて頂きました。
皆様、是非今後ともよろしくお願いします。


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不死の研究ーアンゼリカ①ー


もう一個考えてた話の方が難産過ぎて諦めた結果これが出来た。
筆が乗りすぎたので前後編です。


 

そう言えば、オリヴィアを失って以来の人生でたった一度だけ。実に数十年もの間、自分の性癖を満たそうとする事もなく、ただじっと他人の人生に寄り添った事があった。

 

 彼女は錬金術師だった。と言っても、彼女が人生の大半を注ぎ込んでまで求めたのは黄金に非ず。……時間、だ。

 彼女は永遠を手に入れる事に固執していた。時間は何物にも代え難いと考えている人で、無限の時間があったなら、この世の全てを解き明かす事が出来ると信じて止まない人だった。

 

 そんな彼女に出会った日は、春のある麗らかな日。……丁度、オリヴィアの命日だった。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

3月の24日。オリヴィアの命日。僕は毎年、この日だけはたとえ喫緊の用事があろうがなんだろうが、嘗て彼女と暮らしたこの山に帰って来る。

 景色の良い広場の中央。……そこにある石碑の下に、彼女は眠っている。現在、彼女の象徴と化したその碑を軽く拭ってやり、そしてその傍に淡い青色の花を供えた。

 その花は生前、彼女が愛して止まなかった花だ。何でも、僕の瞳と同じ色をしているから、との事だった。……これは彼女が亡くなった後で知った事だけれど、僕の瞳の色を指して、この花の名前で呼ぶ事もあるらしい。彼女の見立ては間違ってはいなかった、という事だろう。

 

 その花が墓参りに向く花かと問われれば、きっとそうではないのだろう。……だけれど、折角花を供えるのなら、ころころと変わる様な常識に基づいたお行儀の良い花より、彼女が好きな花を供えた方が余程良い。僕はそう思うし、きっと彼女もそうだろうと思う。

 

『……今年もまた、こうして花を供える事になっちゃったなぁ』

 

 瞑目し、墓石(かのじょ)にポツ、ポツと話し掛ける。特段変化の無い一年を振り返って、独り言ちた。

 ……答えは無い。代わりに一筋の春風が吹き抜け、頬を撫でた。

 

『……また来るね』

 

 最後に墓石を撫でて、勢い付けて立ち上がる。……そろそろ帰ろう。

 

『……お墓参りは終わりました?……不老不死の怪物(・・・・・・・)さん』

 

 瞬間、木陰に隠れた何者か──見れば、非常に不健康そうな顔を携えた少女だった──から声を掛けられる。

 

『ひゃ!?』

 

 完全に虚を衝かれ、思わず飛び上がり声を上げてしまう。

 本来、僕以外の第三者とは有り得ない存在だ。こんな辺境の、こんな山奥。特に何がある訳でもない。目的とするものなど何一つ無い。その筈だ。だから、普通の人はこんな所を訪れない。

 だが。

 

『ひゃ、って。随分人間らしい反応をするんですね』

 

 或いはその人が普通でないのなら。こんな所に人が現れるのも、まぁ、全く有り得ない話でもなくなるのだろう。

 

 

 

 その不健康そうな少女を近くの小屋に────即ち、嘗ての僕らの家に連れて行く。

 『不老不死の怪物』と、彼女は僕を呼んだ。つまり、彼女は少なからず僕の事情を知っている。そんな彼女が、態々こんな辺境の地を訪ねてきた。……ならば、僕に用があると考えるのが自然だろう。

 

『暫くここには帰っていないから、人を持て成す用意は無いけれど』

『お構い無く。貴方と顔を付き合わせて話せる事が、私にとって何よりの喜びですので』

 

 ソファを勧めると、彼女は『失礼します』と呟いてそこに座り、僕に向き直った。

 

『それで?……何で僕の事知ってるの?』

『世界各地で不老不死の怪物の逸話や伝承を掻き集めました。それらをひとつひとつ精査し、各地に赴いてこの目で確かめ────そして漸く、ここに辿り着きました』

 

 成程。逸話、伝承か。……確かに、これまで時々自分の不死性を隠す事もなく遊んでいた事もあったから、何らかの形でその辺にそういう形で残っていてもなんら不思議ではない。

 だが。まさかそれを熱心に拾い集めて、僕の所まで辿り着く者が現れるとは思っていなかった。……正直、舐めていた。

 

『なるほどね。……それで、僕に何の用かな』

『端的に申し上げますと、私の研究に付き合って欲しいのです』

 

 ふむ。……研究か。

 

『ちなみに、なんの研究?』

『……不老不死のメカニズムについて』

 

 瞬間、自分の心がざわついたのを確かに感じた。

 

 不老不死のメカニズムに関する研究。それを標榜する者は幾人も見てきた。しかし、そのいずれも何らアテにならないものだった。それら全てが、予想、考察、推測と、いずれも不確かな結論でその研究を締め括っている。実証的な研究など何一つとしてありはしない。尤も、それを怠慢と罵る様な事はすまい。実物を掘り当てて来た眼前の彼女こそが異常なのであって、本来、不老不死者など探そうと思って見つかるものではない。

 

 何が言いたいかと言えば、ここ数百年の不老不死研究に、僕にとって参考に値するものは何一つとして存在しなかったという事だ。

 

 だが。逸話や伝承などという不確かなものを基にして僕の居場所を突き止め、そして運良く僕がここに帰って来るタイミングに立ち会った(或いは暫く張り込んでいたのかもしれないけれど)。頭が良く、それでいて柔軟で、勝負どころの運が良い。……そんな彼女に、僕という最高の被検体が合わされば。……或いは、蘇生の仕組みを解明する事も、不可能でないかもしれない。

 

 この申し出は彼女だけではない。僕の方にも十分、メリットがある。

 

『いいね』

 

 だから、僕は笑って彼女の手を取った。これから宜しく、と。

 

『あら、意外と色良い反応。

では、早速私の研究所(ラボ)に向かいましょうか。気が変わらないうちに。早く』

『そんなに慌てなくても大丈夫だよ。僕もそこまで気紛れじゃないし。……何より、その話は僕にもメリットがある。君が突然研究内容を変えない限り、そして僕に研究成果を共有する限り。……僕が君を見捨てる事は有り得ない』

『成程。貴方自身、不老不死のメカニズムはよく分かっていない訳ですね。だから、知りたいと』

『そういう事。……体感だと、気付いた時にはもう生き返ってるんだよね。だから何も分かんないのさ』

 

 以前に何度か他人(ひと)に蘇生の瞬間を観測してもらった事はあるが、誰も彼も、口を揃え『まるで時間が巻き戻ったみたいだった』と述べるだけだった。イマイチ参考にならない。その点、研究者の視点なら何か新たな発見がある可能性は十分にある。

 

『ふむ……それは興味深い。色々試してみたいなぁ』

『好きにすると良いよ。煮るなり焼くなり、引っ張るなりちぎるなり、潰すなり捻るなり、刻むなりすりおろすなり……』

『後半おどろおどろし過ぎません?』

『色々試した方が良いでしょ?データが多くて困る事は無い』

『……何でこの人、自分が実験台にされるっていうのに私より乗り気なんだろう……』

 

 そりゃ、死にたいからに決まっている。死の静寂を迎える為ならば、僕は何回だって死んでやる覚悟があるぞ。

 

 

 

 彼女──アンゼリカ、というらしい──が研究室(ラボ)として紹介したその場所は、オリヴィアの墓のある山からそう離れてはいない、とある廃墟の地下だった。

 分厚い鉄扉を持ち上げ、階段を下る。……階下はひんやりとしていて、カラッと乾いていて、そして何より、薄暗かった。ほんの僅かな灯りだけが部屋の全貌をうっすらと暴き出している。

 壁際には密閉された水槽の様なものが複数安置され、そのいずれにも脳髄やら心臓やらといった、恐らくは人間の臓器が四方八方から観察出来る状態で浮かべてある。

 端的に言って、結構気持ちが悪い。ここで暫く生活すると考えると些か気が滅入る。

 

『さ、こっちです。座って下さい』

 

 足を止めて色々観察していると、彼女は部屋の隅に置かれた……いや、追いやられた(・・・・・・)ソファに座るよう促した。一方の彼女はと言うと、キャスター付きの椅子──恐らく研究時は四六時中そこに座っているのだろう──に腰を掛け、スイーっとソファの対面に移動して来た。

 僕の方も、無駄に反骨精神を見せる必要も無いので素直に彼女の言葉に従う。

 

『実験内容はもう決めてあります。……ただ、かなり貴方にとって辛い内容になるかと思います。

改めてお聞きしますが、それでも宜しいですか?』

『構わないよ。あの世へ行く為ならば、僕は何度だって死んでやると誓ってるんでね』

『へ……?

ま、まさか、貴方、死にたいんですか!?不老不死の肉体を得ておきながら!?』

 

 ……ああ、そう言えば彼女には説明していなかったっけ。

 

『うん。僕が君の研究に協力するのは、君が僕の蘇生のメカニズムを読み解いてくれたら、蘇生を阻害する方法に辿り着けるかもしれないからだ』

『何故……永遠の時間ですよ?

それがあれば。それさえあれば、世界中の何だって解き明かせる。こんなに素晴らしい事は無いでしょうに』

『君ら研究者って人種にとっては或いはそうなのかもしれないな。ただ……農村のいち少年に、不老不死(これ)は重た過ぎた』

 

 世の全てを解き明かそうなどという意欲も無く、またそれを可能にする頭脳も無く。時間をたっぷり使って没落したお(いえ)を復興してやろう、なんて殊勝な事を考えるでもなく。

 考える事は精々、人の役に立ってみようかというくらい。……况てその意欲すらも、何十年か前には薄れてしまった。

 願うのはただただ、それなりに楽しく生きて、安らかに眠る事だけ。

 

 そんな徒人(ただびと)に、不老不死なんてものは必要無かった。重いだけだった。

 

『理解し難いですね。……尤も、それは貴方とて同じ事を思うのでしょうけど。

ただまぁ、幸いにして理想の果ては互いに違えど、それを満たすのに必要な条件は一致しています。良い協力関係を築きましょう』

 

 ああ。元よりこちらはそのつもりだ。

 僕の不死を、君の様に肯定的に捉える人に受け取ってほしい。そう思ったが故に、僕はその手を取ったのだから。

 

『……話、逸れちゃいましたね。

貴方にはかなり身体を張ってもらう事になります。何か不調があれば、すぐにでも仰って下さい』

『大丈夫だよ。慣れてるから。

……ああ、でも、毎年この日だけは外に出して欲しいな』

『構いませんが……理由をお聞きしても?』

『命日なんだ、彼女の。……毎年、話に行く事にしている』

『成程。……ええ、勿論行ってきて頂いて構いません。私も出来る限り覚えておきましょう。今日は……3月の24日ですか。……はい、心に刻んでおきます』

 

 

 

 アンゼリカから支給された剣は、僕の持っている(なまくら)より余程斬れ味が良く、魔物の肉でさえバターを切る程の力で切断出来るだろうと思わせる程だった。

 况てやそれ程の名剣を、人の身に這わせたなら……そんな事、考えるまでもない。

 

 首に宛てがった鋒を、徐々に、徐々に押し込んでいく。……驚く程に抵抗が無い。プツッという軽やかな音と共に、鮮血が辺りに飛び散った。

 お構い無しに、刃を深く刺し込む。肉の裂かれる音と共に、鮮烈な痛みが脳を焼いた。

 そして剣はやがて、気道を穿ち、塞ぐ。……息が出来ない。途端に、血液がまるで沸騰する様に喉をせり上がってくる。強烈な熱さと、鉄の臭い。ボタボタと、粘度の高い液体が溢れ落ちる音がした。

 

 もう慣れたとは言え、この感覚はやはり気持ちが悪い。身体を異物にまさぐられる感覚。傷口を棒で無理やりこじ開けられる様な痛み。……きっとどれ程慣れたとしても、この気持ち悪さは消えないだろう。

 景色が、真白に飛んでいく。血の巡りが悪くなった証拠だろう。

 

 ただ────そうさな。あと、数秒もすれば。

 

『異物が、吐き出されていく……』

 

 喉から異物が抜け落ちた感覚。それを肌で感じると同時に、空気が肺に落ちる様になった。

 それから、首元の肉が逆回しするかの様に繋がって行き、やがて切断面は均され、異常などはじめから無かったかの様に元通りだ。

 

『これが、蘇生の瞬間ですか。……蘇生と言うよりは、再生……いや、寧ろ時間遡行……?』

 

 その様を、彼女は顔を青くしながら記録用紙に書き留めて行く。……どうやら彼女、こんな臓物溢れる部屋に住んでいる割に、血への耐性はあまり無いらしい。僕を見る目がおっかなびっくり、って感じだった。

 

 首の感覚を確かめるべく、手を当てがってくるりとひと回し。……うん。何ともない。至っていつも通りだ。

 

『いえ、それは兎も角……お疲れ様でした。……今日はこの辺りにしておきましょうか。また明日、宜しくお願いします』

『え?』

『へ?』

 

 また、明日?

 

『まだ一回しか(・・・・)死んでないじゃない。そんなにゆっくりで良いの?』

『一回しか、って……痛かったでしょう?苦しかったでしょう?無理をするものじゃありませんよ』

『無理って。……いやまぁ、確かに痛かったし、苦しかったけど。でも、所詮はその程度(・・・・・・・)だ。

死が億劫になる程疲れてもいないし、痛みで頭が変になった感覚も、まだ無い。全然行けるよ?』

 

 疲れていませんよ、とばかりにぴょんぴょんと飛び跳ねてみる。ぴちゃぴちゃと、先刻滴り落ちた血液が跳ねる音がした。

 それを見た彼女の顔が、引き攣るのが暗がりでも見て取れた。どうやら、僕が不老不死であるという事は分かっていても、不老不死の存在というものがなんたるかは理解していなかったらしい。

 僕が特に無理もしておらず、何の気負いも無いという事が分かったのか、彼女も『じゃ……じゃあ、もう一回だけ……』と声を震わせつつそれに応じた。

 

『だったら今度は、首とは全く関係ない所に一箇所、刀傷を付けてから自死してみてもらえますか?』

『ふむ?別に良いけど。何か目的が?』

『結果如何では可能性が幾つか潰せます』

『なるほど。試してみよう』

 

 右腕を軽く切り裂き、致命傷にならない程度の傷を付ける。そしてその後、再び首を刺し穿つ。

 吹き出る血の量は先程と同じ。見てくれだけでなく、内部も完全な形で再生された証拠と言えるだろう。

 そして、あの嫌悪感すら感じる痛みを再び乗り越え。果てに、再び蘇る。

 

『ふう。……治ったみたいだね』

『……右腕の傷はそのままですね』

 

 言われてみれば、確かに右腕に甘く痺れる様な感覚があった。首を捻って見てみれば、一筋の赤がそこにある。既に血は止まっている様だけれど、これが自然に止まったのか、或いは蘇生の効果なのかはイマイチ判断がつかない。

 

『残ったままだと、どんな可能性が残る?』

『そうですね。あるとすれば致命傷のみの治癒、死ぬ直前の姿の再現、もしくは貴方の身体に限定された時間遡行。……この辺りでしょうか』

 

 なるほど。話を聞く限りではどれも有り得そうだ。

 ただひとつ、引っ掛かるのは。

 

『時間遡行ってどういう事?』

『気にして頂かなくて結構です。可能性としては限りなくゼロに近い。……その可能性が濃くなって来たら、また改めてお話します』

 

 ……彼女がそう言うのなら、それでいいか。

 当事者とはいえ、結局のところ僕は門外漢でしかない。説明されてもよく分からない可能性だって十分に有り得る。僕に分かるように噛み砕いて説明したところで、その時間が丸々無駄になる可能性が高い。……だったら、必要性が生まれた時にまた話せば良い。確かにその通り。合理的だ。

 

『了解。……それじゃ、次行こうか?』

『次?……まさか、まだ死ぬ気なんですか?』

『サンプルは多い方が良いでしょ?』

『そりゃあ、そうですけど。……それにしたって、そんなに急ぐ事じゃありません。落ち着いて。ご飯でも食べて来たらどうですか』

 

 『私も食事にしますので』と言って、彼女はキャスターを転がして研究机の方へ戻って行った。

 そして、如何にも健康的な──いや、一周回って不健康、いや不健全に見える──ドロドロザラザラとしたドリンクと、見るからに無味乾燥していそうな10センチ程のバーを取り出した。

 まさかと思うが、あれが食事だと言うんじゃないだろうな。

 

『それが、ご飯?』

『ええ。私は毎食これです。暇な時に作ってストック出来ますからね。……貴方の分はありませんので、貴方は貴方で好きなものを食べて来れば宜しいかと』

 

 なるほど。

 これは良くない。

 

 食事とは日々の潤いだ。確かに極論を言えば生命維持に必須なものでしかないのだが、とはいえそれなりに世界全体が豊かになりつつあるこの現代においては、最早食事は嗜好品のそれに近い。特に、彼女の様な研究者様ともなれば、食を愉しむ事が出来るだけの金はあるだろう。

 

 食を蔑ろにした人間は、少しずつどこかが狂っていく。これは僕の持論にして、経験談だ。

 オリヴィアが亡くなった頃の僕は、どうせ彼女の料理が食べられないのならと食事を絶つか、摂ったとしても至極適当なもので済ませていた。……結果、どうなったか。気性は荒っぽくなり、何をするのも億劫な程の気だるさを覚え、かと思えばある日突然弾かれた様に忙しなく動いてみたりと見事に気が狂った行動を繰り返した。

 今思うと、あの頃の僕は結構頭がトんでいた。

 

 彼女にそうなられては困る。彼女には何としても、僕のこの不死性の根源を解明して貰わねばならない。

 

『良ければ、僕が作ろうか?』

 

 そう提案した途端、モソモソとバーを齧る彼女の口がピタリと止まった。

 時間にして、およそ10秒。目を丸くした彼女はそれだけの時間の後に口の中に残ったバーを嚥下し。

 

『念の為に聞きますが。……なにを?』

『料理を』

他人(ひと)の手料理……』

 

 ほんの僅かに、その不健康そうで眠たげな目を輝かせた。

 この反応が出来るなら、まぁ、及第点だろう。多分、暖かい料理は好きではあるけれど、自分の時間を割いてまで摂る程の魅力は感じない。そう思っている風に見える。

 だったら、他人の時間を使えば良い訳だ。

 

『どうせ実験中以外──君が仮説を立てている間なんかは暇だしね。どう?』

『ぜひお願いします』

『わお。良い食いつき』

『ついでに血の掃除なんかもお願いしても良いですか』

『しかも図々しくなった。……まぁ、散らかしたの僕だし、別に良いけどさ』

『助かります。どうも私は、考え事を始めると他が蔑ろになりがちで……そろそろ家事手伝いでも雇おうかと思っていた所だったんです』

 

 本当に、悪い意味で研究者気質というかなんと言うか……。自分の興味が満たせれば、他の娯楽やら環境やらなんて二の次三の次。僕が今まで見てきた研究者と呼ばれる人種と同じ……いや、輪をかけて酷い。

 

 この分だと、彼女が両手に持った料理もどきも、大層酷い味がしそうだ。

 ……ちょっと気になるな。

 

『その代わりって言うのはナンだけどさ。

……それ、味見しても良い?』

『それって……バーとドリンク(これ)ですか?

構いませんけど……美味しくはないですよ?』

『知ってる。どのくらい不味い代物なのかと思って』

 

 『そういう事なら……』と、彼女はおずおずとその両手に抱えた食料を僕に手渡した。

 

 ────口にした感想としては、『よくこんなものを毎日食べられるな』、だ。

 

 

 

 

 

 早いもので、アンゼリカの実験に付き合いはじめてからもう一ヶ月あまりが経つ。

 その間、僕はハウスキーパーの真似事をしつつ、適度に死んで恙無く彼女の実験材料をやっていた。

 

 出会った当初は血色が悪かった彼女も、食糧事情の改善が功を奏したのか、段々に良くなって来ている。雑事に掛かる手間が減った為か以前より眠れる様になったみたいで、目付きの悪さも随分と改善された。以前の彼女が『自分は研究者ではない』などと宣ったら嘘を吐くなと一蹴していたろうが、今の彼女であれば或いは誤魔化せるかもしれない。その程度には真人間のそれに近付いた。

 

 実験の方も至って順調だ。たった一ヶ月という短い期間で、彼女は僕の蘇生を『死ぬ直前の姿の再現』であると特定した。期待を大きく上回る成果だ。

 僕を蘇らせる何某かが『このタイミングで絶命した、或いは致命傷を受けた』と判断したその一瞬前を基準とし、死んだ僕の上にその情報を上書きする。……その様にして、僕の蘇生は成されるらしい。

 何度か自爆もして確かめたが、確かに、死の直前の姿に巻き戻されている。具体的には、身に纏った衣服なども含め。僕の死を観測する何某かはサービス精神が無駄に旺盛だ。そんなサービスを付けるくらいなら死んだままにして放っておいてくれた方が僕としては何千倍も嬉しいのだけれど。

 

 そんなこんなで、実験は次のステップに進んだ。

 論題はずばり、『僕を蘇生する何某かとは、一体なんなのか』、だ。

 僕の予想としては例の命の神(クソ野郎)だと思うのだけれど、『憶測で物事を語るなら実験する意味が無い』と彼女には窘められた。それはそれとして仮説のひとつとして採用はするらしいが。

 

 次の実験を行うには、剣で喉元を突き刺すのでは不足だった。あれは僕の意識が残ってしまうし、何より肉体の大半が無事である為に蘇生までの時間が早い。それは即ち、観察出来る時間が少ないと換言できる。

 故に、僕が採る自決手段は、自爆だ。規模を調整して、僕の身体が丁度木っ端微塵になる程度で収める。……出力確認の為に幾らかの水槽が破砕してしまったが、彼女にはそれも投資と思って諦めてもらった。

 

 自爆した後の僕は、最低2、30分は復活しないらしい。どうやらそこにプラスして、疲労度に応じて時間が伸びる様だ。長ければ半日程まで。自死を重ねた後に自爆した時などが特に長いらしい。

 勿論、その間僕の意識は無いので、彼女の言う事が正かどうかは僕には分からないのだが……まぁ、嘘を吐く理由も無いし。多分今までもそうだったのだろう。

 そして何より驚くべきは、僕が目を覚ます本当に直前まで、肉体の再生が行われない事だ。例えるなら、朝目を覚ますその直前に、身体をもぞもぞと動かす様な。……そんな感覚で、僕の肉体が再生していくのだそうだ。今にも吐きそうな表情でそう教えてくれた。赤黒い肉塊がぐねぐねと動いて人の形に成って行く様は、彼女には随分と刺激が強過ぎたらしい。何ならはじめのうちは実際に吐いていたと言っていた。

 余程再生する(その)様が醜悪だったのだろう。彼女は日を追う毎に、僕に実験開始を告げる際、苦悶に咽ぶ様な顔を浮かべる様になった。もっと具体的に表現するのなら、心臓に杭を打ち込まれる様な。折角器量が良くなったのに、これでは勿体無い。

 ただ……その顔を見たとしても、観測するのを止めさせる、という選択は有り得なかった。だって、それでは意味が無い。彼女は永遠を求め、僕は終焉を望んだ。そうして生まれた研究者と、被験者の関係。彼女が挫折を選ぶ事はつまり、僕らの関係が破局する事をも意味する。

 彼女も僕もそれを望まない以上、たとえ身の毛もよだつ程の光景であっても、それを直視してもらわない事には前に進まない。

 

 だから、今日も僕は身を爆ぜさせるし、彼女はそんな僕をじっと眺めて、その裏に潜む『何か』を解き明かすべく頭を回す。

 ただ、それだけの関係だった。

 

『今日も……その、実験を……』

『ああ、うん。了解。ごめんね、また気持ち悪いもの見せる事になるけど』

『いえ!そんな……貴方が、謝る事では……寧ろ私こそ……』

 

 こんな言葉を、かれこれもう何十回と交わしている。その度に──今、この瞬間も──彼女の表情(かお)は重く、暗く沈んで行くのだった。

 

 

 

 

 

 半年が過ぎ、オリヴィアの命日が一度、二度、三度──と重ねられ。間も無く5年を迎えるという頃になっても、実験に進展は見られなかった。

 彼女の知るどの魔法を用いても僕を蘇生させる何者かは観測するに能わず、方々の書物を漁って様々な魔法を試したけれど、それでも何も見えないのだそうだ。

 その間、僕は毎日の様に身体を四散させ、その度に彼女は胃の中身が空になるまで吐いていた。最近──と言っても既にかれこれ一年ほどが経つが──では、食事も満足に喉を通らなくなってきており、僕と出会った頃の様な、否、それ以上に不健康そうな顔で、彼女は死にそうになりながら血眼で書物と睨めっこしている。

 

『一度中断した方が良いんじゃない?中止じゃなくてさ、中断』

 

 流石にその姿は目に余ると、もう何度もそんな提案をした。しかし彼女は、『私の我儘で止める訳には……』と、その風前の灯の如き生命力を振り絞る様にして、光の消えた目で懸命に僕を観察した。

 

 ──最近の彼女は、よく魘されている。

 毎晩吐き気をやっとの思いで収め、ようやく瞼を閉じるのだが──それから2時間としないうちに、うわ言を呟き始める。

 

『ごめんなさい』『私のせいで』『私の頭が悪いから』『もうやめて』

 

 そんな言葉を、寝ている間中、ずっと。……泣きそうな顔で、零し続けているのだ。

 

 さらに気がかりな事に。

 

 ある日、彼女は悪夢に魘される中、確かにこう言ったのだ。

 

 ────『レーヴェ』、と。

 

 どうやら悪夢は、僕にも関係しているらしかった。僕の名が呟かれたのはその一度きりだったので、関わりは薄い方なのだろうが……それでも、彼女のその死人(しびと)の如き表情のその一端に、僕が関わっている可能性は高い。

 多分、僕の蘇生の光景が悪い意味で、記憶に焼き付いてしまっているのだろうと推察は出来る。だが──それが果たして真実であるかどうかなど、僕には推測する事しか出来ない。

 

『随分魘されていた様だけれど、何かあった?』

 

なんて尋ねても、彼女は頑として何も言葉にはしない。

 お手上げだ。僕は元々人の心の機微には疎い。况て永遠を目指す彼女と、終焉を望む僕。物事の測り方はまるで、水と油だ。言葉が有っても尚誤解をする虞があるのに、言葉も無いというのなら尚更だ。

 

 そうなると、最早僕が自爆を取り止める他に手段は無いのだが……そうすると、彼女はもっと辛そうな目で僕を見る。

 何で止めるんだ。……無言のうちに、そう訴え掛けてくる。時には、僕の手首を力強く握って、睨みつけてきた事すらあった。

 

 となれば最早、僕に手の打ち様は無い。他ならぬ彼女が実験の中止を望んでいないのだから、その決意が首皮一枚でも繋がっている限り、僕は何度だって死ぬしかない。

 残された選択肢は、ただひたすらに彼女が一刻も早く成果を挙げる事を願う事、ただそれだけだった。

 




この話の執筆中にコメントで民間伝承が云々って言及している方が居て、ちょっと冷や汗をかいたのは内緒。
今回の話は単体だと曇らせっぽくないかも。そのうち投稿されるアンゼリカちゃん視点で答え合わせになります。

【追記】
蘇生周りの設定にちょっと穴があったので微修正。



──以下、雑感──

日間1位……?なにゆえ拙作が……?
と思いましたが、きっとそれだけ、世の中には曇らせ好きな方が沢山居るという事なのでしょう。やはり曇らせは一般性癖なのですね。
これだけ沢山の人に曇らせがお届け出来たのは偏に拙作を読み、気に入ってくださった皆様方のお陰です。ありがとうございます。


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研究の行末ーアンゼリカ②ー


後編です。お待たせしました。


 

繰り返される実験。日に日に弱っていくアンゼリカ。

 彼女は最早、限界だった。

 執念にも似たその暗い炎は、いよいよ彼女という蝋を溶かしきって、消えようとしている。

 

 それでも、彼女は止まらない。止められない。

 

 僕が自爆もせず、何も言わずにただじっとして本を読んでいると、彼女は決まって僕の胸倉を掴み、揺らす。

 

『研究を!……不老不死の、研究を。しないと。しないとなんです。私にだって出来るんです。だから。だから……!』

 

 そうしている間、彼女は何も食べないし、眠りもしない。……良かれと思って自死を止めても、それが却って状況の悪化を招く。何もしないままに命を燃やして行く。

 だから仕方無く、僕はやはり自爆する。肉片の一片に至るまで、綺麗さっぱり消し去る様に。

 

 そして、彼女はその度にどこか壊れて行く。人の道より逸れた研究を行うには、彼女は血を嫌い(まっとう)過ぎた。

 

 

 

 

 

 アンゼリカの身体が今にも限界を迎えるというその時になって、実験は進展を見せた。

 当たれる魔導書には全て当たり、結果世に出ている魔法では僕の蘇生の裏に居る存在は観測出来ぬだろうと判明し。そして御伽噺、歴史書、随筆、伝記等々、あらゆる書物に手を出し始めた。

 その結果、すぐに研究は転機を迎える事となる。

 

 『勇者物語』、なんて安直な題の御伽噺──と言っても、聖教はこれを伝記歴史書の類として取り扱っている様だが──がある。内容は単純明快。勇者と謳われる青年──アルベルが、仲間と共に世界を駆け抜け、世に蔓延る闇の淵源たる魔王を討ち取らんとする、という実にヒロイックな物語だ。尤も、終わり方が中々に後味が悪く世間での評判はあまり宜しくないのだけれど。

 その、聖教の関連施設に行けば必ず書架に収められている歴史書(おとぎばなし)に、研究のヒントは眠っていた。

 

 『アルベルの眼は悉くを暴く。(たとい)それが、魂の色などという人には到底見通せぬものであっても』

 『永くを生きた魔族の魂の色は、どこか煙に(くゆ)らせた様に薄く霞んで居た』

 『その刹那、確かに殺した筈の、死んだ筈の魔族の魂が、闇色に輝いた。────その魔の者もまた、蘇生の能力を得ていたのだ』

 

 ……これらは、勇者物語の一文だ。

 この物語の中では、『魂』なる概念が頻出する。魂の色が霞むだの、輝くだのと。

 何より注目すべくは最後に挙げた一文。……即ち、魂が暗く輝いて、魔族──ヒト型の魔物──が復活するシーンだ。

 蘇生時に魂が光るという現象が、全ての生命に共通であるのかは分からない。そもそも種として不死の者が多い魔族と、不死者が極めて異端な人類。……その両者ともが同じ反応を示すと軽々に結論付けるのは、些か盲目に過ぎる。

 

 だが。……この行き詰まった状況において、十分試してみるに足る。僕と彼女は、そう結論付けた。

 或いは、魂を観測する事が出来たなら。魂がどの様に動いて、どんな働きをして僕を蘇らせるのか。それが分かるかも知れないのだから。

 

 そこからの彼女は早かった。作中でアルベルの持つ眼。それと同じ効果を発揮する魔法の開発に勤しんだ。

 日がな一日魔法理論を調整しては実行を繰り返している。忙しさで言えば、間違いなくこの実験始まって以来のそれだろう。自爆の観察は最低でも20分、長ければ半日くらい暇な時間が生まれる筈だから。それと比べたら忙しいに決まっている。

 けれど、その多忙さと裏腹に、彼女の顔には、そして瞳には生気が戻って行った。醜悪な肉塊を観察する必要が当面の間無くなった為か、食べた物を吐く事も無くなり、夜に魘されるのもピタッと止んだ訳では無いけれど、それでも一時期に比べれば格段に少なくなった。

 

『これがフィルターを掛ける効果を発揮して、これが魂の存在の発見、これがその受容……』

 

 ああでもない、こうでもうないとボソボソと呟きながら研究机に向かう様は、ここ暫く見られなかった彼女の研究者らしい背中だった。はじめのうちは彼女もああして考察に没頭していたけれど、何度自爆しても成果が得られなくなってからは、今にも折れそうな程に弱りきった姿しか見られなかったから。……その久方振りの光景に、何だか胸が暖かくなった。

 

『一旦休憩したら。そろそろお昼時だよ』

『はい。これが一段落したら…………いえ。頂きます。今すぐ。温かいうちに』

 

 彼女の手元に食を楽しむ余裕が戻ってきた。

 どうせ食べても実験が始まれば吐いてしまうのだからと、食が億劫になっていた彼女が、再び食事に目を向ける様になった。

 これまでと違い、試行錯誤を繰り返せば繰り返す程に目に見えて進展していく研究。楽しくて仕方ないだろうに、僕が声を掛けると彼女は決まって、研究をすぐに中断してご飯を食べに来る。その様はどこか小動物の様で、可愛らしい。

 

 

 

 

 

 2週間程が経って、アンゼリカは遂に『魂を観測する魔法』の原型を作り上げた。御伽噺という空想の一部を切り取って、現実にまで昇華して見せた。……やはり、彼女は天才だ。彼女に期待したのは間違いではなかった。

 ただ、それ程の偉業を為したというのに、彼女の顔は魔法の完成に近付くにつれ再び翳りを見せ、いよいよ完成したという頃にはまた、すっかり余裕は沈み込んでしまっていた。……魔法が完成してしまったら、再び血を見る事になる。それが嫌だったのだろう。

 

 だが、その暗く沈み込んだ顔の裏には、以前には無かった覇気がある。

 必要な手札は得た。……だから、何としてもこの一度で決める。そんな彼女の思いが、その眼差しから伝わる様だった。

 

 その決意が垣間見えたからと言って、僕に出来る事は何も無い。僕はいつも通り、この身を爆ぜさせるだけだ。

 

『じゃあ、早速やろうか?』

『…………はい。…………これで、きっと最後にしてみせますので。お願いします』

『これで終わってくれれば君も楽になるね』

 

 勿論、僕の不死の背景にあるものが特定出来る可能性がある事は、とても喜ばしい事だった。

 けれど、彼女が見たくもないものを見なくても良くなる事。それもまた、確かに喜ばしい事だろうと。そう思った。

 ゆえに、僕は微笑む。

 

 だが、その思いと裏腹に。彼女の顔は尚も沈む。

 

『私の事は別に良いんです。貴方が死ななくて良くなるなら、それで……』

 

 その原因は、どうやら僕にあったらしい。彼女の言を聞くに、僕の死が彼女を悩ませているらしかった。……別に、僕の事なんて気にしなくても良かったのに。

 

『僕の事気にしてたんなら、別にそんな事どうでも……』

『どうでも良い、と言うつもりですか。……そんな訳が無いでしょう……!?』

 

 どうでも良いよ、気にしないで。────そう続けようとして、しかしそれを彼女に遮られる。

 彼女の表情が、一瞬にして恐慌と憤怒に染まった。

 

『レーヴェ。貴方、自分で気付いていないんですか?

何とも思っていない様に貴方は言いますけど。……実際、何も思ってないのかも知れないですけど。

自爆する瞬間、貴方すごく痛そうにするんですよ。苦しそうにするんですよ。辛そうにするんですよ!!

いくら蘇ると言っても、痛覚が鈍る訳じゃないんだぞって、そう訴え掛けてくるみたいに!!

それを私は、毎日毎日、何度も何度も、成果も出ないのに(いたずら)に死なせて!!何度も何度も痛めつけて!!

けど、それを償うには結果を出す以外に方法が無くて……!!』

 

 彼女はそこで、荒く乱れた呼吸を一度落ち着ける。

 そのあまりに悲痛な叫びに、僕まで心を抉られる様だった。

 

 確かに、死ぬ時は痛いものだ。数百年のうちに何度死んだとも分からないくらいに死んだけれど、それでも未だ、この痛みに慣れる事は無い。耐え難い痛みだ。特に肉が爆ぜる瞬間など、全身の神経を剥き出しにして切れ味の悪いナイフで執拗に切り付けられた様な、そんな酷い痛みが走る。

 無意識にそれが顔に出ているのだと指摘されれば、それを否定する事はとても出来ない。確かに、出ていてもおかしくないと思ってしまうから。そのくらい、痛いから。

 

 けれど。

 所詮僕は実験動物で、彼女は研究者だ。……その関係が崩れる事など有り得ない。そう思っていた。

 だからこそ。僕の痛みになど、僕の顔になど。そんなものに彼女は興味を持たないと思っていた。肉塊が人に戻って行く様を見るのが、彼女は苦手なのだろうと。……そんなふうに、呑気に考えていた。

 

 彼女に何度、適当な事を言っただろう。『気持ち悪いものを見せてごめん』、『実験中断した方がいいんじゃない?』、『魘されてたけど何かあった?』……そんな事を言われる度に、彼女は何を思っただろう。

 他ならぬ、悩みの根源に。何を気にした風も無く、呑気にそう言われたら。一体、どの様な心地になるだろうか。

 

『全て、私が。

……私が悪いんです。私が半端者だったから。

研究者で在りたいのなら、貴方の死に一々心を痛めるべきではなかった。ただ淡々と、貴方の死を眺めているべきだった。

貴方を大切に思うのなら、実験なんて止めるべきだった。その時点で貴方と私の関係は切れるけれど。私の夢も、貴方の願いも潰えるけれど。それでもと踏み躙るべきだった。

私には、どちらも出来なかったんです』

 

 彼女を、研究者という色眼鏡を掛けてしか見て来なかった。

 研究者が、実験動物に情を抱くなど有り得ないと。そう信じたままに、それ以上を考える事をしなかった。必要無いと、そう思ってしまっていた。

 普通に考えれば、色眼鏡を取り払って考えたなら、そんな事は無いと思えるのに。人と人が何年も付き合って、何の情も抱かないなんて土台無理な話だと分かりきっているのに。

 

『ごめん。全く気が付かなくて』

『そんな顔しないで下さい。

ただただ、貴方を実験対象と割り切る事が出来なかった私の落ち度でしかないんですから』

 

 彼女の顔が、更に翳る。

 

 確かに、研究者としてそれは欠陥だったろう。実験対象に愛着を抱くなど、本来あってはならない事。いいや、あっても良いが、ただただ辛くなるだけの無駄な事だ。况てそれが死を強いるという中々人道に悖る行為であると来れば、尚更に。

 だが、彼女のそれは美点でもある。研究者によくある様な狂気に堕ちる事もなく、ただただ人として、他人(ひと)を見詰める。命を殺める事に人並みの抵抗を抱き、人を害する事に罪の意識を負う。極めて真っ当な、人間らしい感性。それを失っていない事は、美点と言って然るべき点だろう。

 

 その上で、僕がどう総合的に判断するかと言えば。

 

『君の感性(それ)。……僕は好ましく思うよ。

研究者って手合いは何度か相手にした事があるけれど、君程まともな人は他に居なかった』

『でしょうね。……そしてそんな私は、研究者失格です。况て、不老不死なんてものを追い求めるのであれば尚更に』

『それでも、だ。……僕としては、君みたいな人とこそ、不老不死を解き明かしたい』

『……多分、効率悪いですよ。

貴方を死なせる度にこうして病んで行って、今の様に貴方の手を煩わせる』

『それでも良い。下衆な輩が世にのさばる手助けをするのは正直気分が宜しくない。

研究者が善良であるのなら、それに超した事は無いよ。たとえ効率が悪かろうとね』

 

 それはそれとして、他に選択肢が無ければ邪悪な研究者にも靡くだろうけれど。……そんな無粋な言葉は、今は呑み込んでおく。

 

『……良いんですね?本当に』

『そもそも、はじめに言ったろ。君が不老不死を追い求め、そして成果を僕に共有してくれるうちは、僕の方から見限る事は無いって』

『それは、確かに。……貴方って、変な所で律儀と言うか……お人好し、ですよね。協力関係……いえ、利害関係にしかない私の食事事情を改善しようとしますし』

『あれは……だって、あんまりにもあんまりだったから』

『放っておいても支障は無かったでしょう。それを蘇生明けで疲れているでしょうに、気を回して……そういう所がお人好しだって言うんですよ』

 

 お人好し、かぁ。割と方々で言われた言葉だけれど、イマイチしっくりこない。

 本当にお人好しならば多分、彼女が今にも死にそうな弱りきった顔を浮かべたその時点で睨まれてでも実験を取りやめにしていただろうし。……その点、彼女の状態よりも僕自身の利益を優先したのだから、僕はやっぱり人でなしだ。

 

『ホントにお人好しなら、実験を今頃取りやめにしてるんじゃない?』

『お人好しだからこそ、他人の選択を縛る様な事が出来ないんでしょう』

 

 全く、ああ言えばこう言う。意地でも彼女は、僕をお人好しに仕立てあげたいらしい。

 

『頑固だね君』

『なっ……!?

私は頑固じゃありません。寧ろ錬金術師とは常に柔軟に物事を測る必要がある存在であって……』

『いや、割と頑固だよ君は』

『何を根拠に。……いえ、根拠の有無の問題じゃありません。私は頑固じゃないです』

『君が頑固じゃないと言って通るのなら、僕もお人好しじゃないと言ったら通るんだね?』

『それとこれとは話が別でしょう。貴方は間違いなくお人好しです。そうでもなければ説明が付きません』

 

 二人して下らない話をしながら、笑い合う。

 

 思えば僕たちの間には、こういう時間が足らなかった。

 僕は僕で、研究の邪魔をしてもいけないしと雑談は出来る限り避けていた。彼女も彼女で、恐らく、罪の意識の様なものが重荷になって、到底雑談など仕掛ける気になれなかったのだろう。

 だから僕らはすれ違い、そして彼女は壊れて行った。本来であればもっと早くにどこかへ吐き出すべきだった悩みをその一身に受け止めて、潰れ掛けてしまったのだ。

 

 それが今はどうだろう。悩みを吐き出し、文句を付け。……詰まりきった胸中の澱を全て流し去って。心做しか、目に生気が蘇っている様だ。

 もっと早くにこうしてやるべきだった、という後悔が口を苦くする。

 

 けれど、まぁ。

 

『ふふ。……他人(ひと)と下らない事で盛り上がるのって、こんなに楽しいんですね。……気分転換にもっとこういう事、やっておくんだったなぁ』

 

 今、笑えているのだから。取り敢えず、最低は避けられたのだろう。……そう思うと、口の苦さもどこかへ退いていく様だった。

 

 

 

 

 

 アンゼリカは、魂の観察実験を無事に成功させた。彼女の構築した魔法理論は完璧だったのだ。

 

 そうして、僕以外の多くの生物の魂を肉の上から観察してみて分かった事らしいが……魂の光というのは通常、淡く、また透明度が高いのだそうだ。例えるなら、そう、炎。ゆらゆらと揺らめいて、その奥が見通せる程度の透明度はあって。正にあれだ。

 一方で僕のソレはどうなのかと言えば、まるで鉄球の様なのだとか。透明度が皆無で、鈍く光り、固さと重さを感じさせる。存在の規模感がまるで違う、と彼女は言っていた。そしてその鈍い光は、僕が蘇生されるその瞬間、極光の如く鮮やかに塗り替えられる、とも。

 

 この規模感の違いが、恐らく不老不死を生んでいるのだろうというのが、彼女の結論だった。

 尤も、その違いがどの様にして不死の有無を導くか、という話については、これから途方も無い対照実験を積み重ねてはじめて分かる事で、今はまだ全く分からないそうだけれど。

 

 詳細が詰めきれていなくとも、『魂』なる概念が僕の不死(くのう)の淵源であると分かったのなら、それだけでも大きな収穫だった。これまで闇雲に死ぬ方法を探していたのが、魂をどうにかする方向に絞って色々と試す事が出来る様になったのだから。それは間違いなく、大きな成果だった。

 

 一方で彼女の方も、何らかの手段によって魂の規模を持ち上げてやれば良いという事が分かったので、やはり大きな収穫を得たと言える。いわゆるwin-winってやつだ。

 

『貴方のお陰で大分地平が拓けました。後は、考察と実験を積み重ねれば良い。

それは貴方も同じでしょうけれど、生憎と私と貴方では追い求める先が違う。……はじめからこの日が来るとは分かっていましたが。……潮時、なのでしょうね』

 

 そして、そこまで分かったなら。……後は、互いに協力出来る事はそう多くない。

 僕は僕で死への道を探さねばならないし、彼女は彼女で不死への鍵を見つけ出さねばならない。

 確かに、協力関係を打ち切るならばこの辺りが潮時と言えるだろう。

 

 けれど。

 

『そう思うなら、何で泣いてるのさ』

『泣いてません』

『だって涙流して……』

『泣いてません!!

泣いている様に見えるのだとしたら、きっと、不老不死の検体を手放さざるを得ない口惜しさで涙が滲んでいるだけです……!!』

 

 ああ、やっぱり彼女は頑固だ。

 これ以上、僕を研究には付き合わせまいと固く誓って、考えを頑として曲げない姿勢を取っている。

 でも、それってさ。

 

『愛着が湧いてしまって殺すのが嫌なんですー!!……って散々喚き散らしといて、今更それは無理があるんじゃない?』

『ぐ……』

 

 指摘してやると、彼女の頬は熟れた林檎の様に真っ赤に色付いた。こう考えると、随分と素直に反応を表に出す様になったものだ。以前とは比べ物にならないくらいに。……良い兆候だと、二、三度頷く。

 

『何を頷いてるんですか。

……はぁ。認めます。認めますよ。

多分、寂しいんですよ。私、人の愛を感じたのって、生まれてはじめてでしたし。貴方に出会うまで、温かい料理なんて家で食べた事なかったですし。

……貴方のせいで、すっかり弱くなっちゃいました』

『別に良いじゃない、弱くなったならそれはそれで。人に頼れば良いんだから』

『でも……』

『そもそも、目指す先が違うだけでやってる事は大して変わらないでしょうに。なんで頑なに縁を切りたがるのさ』

『だって……貴方が捨てたがっているものを、自ら追い求める姿なんて……正直、見ていて虫唾が走りません?』

『走らないけど?』

『え?…………そう、なんですか?』

『うん』

 

 何だ、そんな話かと、僕は肩を竦めて見せる。

 そもそも、そんな理由で袂を分かちたいと思うなら、はじめから彼女の実験になど付き合ってはいない。『二度と僕に関わるな』とでも吐き捨ててとうに彼女の前から消えている。

 僕は不老不死を憎く思っているけれど。不老不死(こんなところ)に至っても、良い事はひとつも無いと断言出来てしまうけれど。……それでも、追い求めたいのなら好きにすれば良いと思う。はなから他人の興味関心を否定するつもりは毛頭無い。

 

『寧ろ専門家が居た方が、色々と聞けて捗ると思うから嬉しいけど。……君の方もそうじゃない?不老不死のモデルケースが近くに居た方が、何かと便利でしょ』

『それは……そうですね』

『じゃあ、態々別れる意味も無いね。一緒に研究しようよ。……と言っても、結局君頼りになってしまいそうだけど』

『それは寧ろ、願ったり叶ったりと言うか、恩返しには全然足りていない気はしていたと言うか……ともかく、任せて頂いて構わないですけど』

『それは心強い。……じゃあ、今後ともよろしくって事で』

 

 そう言って、片手を差し出す。

 彼女もそれに呼応して、おずおずと僕の手を取った。

 

『……そういえば、貴方の手を握ったのは初めての事な気がします』

『あれ、そうだっけ?』

『はい。……温かいんですね。普通に』

『そりゃあねぇ。死なないだけで、生きてはいますから』

 

 これでも、しっかり末端まで血は(かよ)っている。……通っている、筈だ。断定するには些か自信が足りないけれど。

 

『…………』

 

 ……所で、これはいつ解けば良いんだろう?

 タイミングがよく分からないのでされるがままにしているけれど、はじめはただのシェイクハンドだったのが段々エスカレートして、今やぐにぐにと両手で僕の手を弄ってくる始末。……どうせ何か、学術的興味でも湧いたのだろう。別に不快でもなければ何か時間に追われる様な案件がある訳でも無し。このまま放っておくか。

 

 案外、こんな所から不老不死への着想が得られる可能性も、ゼロではないのだしね。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

月日は流れ。僕の方はやはり見た目に何ら変化は無いけれど。アンゼリカは、そういう訳にも行かなかった。

 魂の観測を果たしてから……かれこれ、40年くらいか。その間中、僕と彼女とは共に在り、共に不老不死の研究をした。

 時に彼女の思考回路を僕が教示してもらい。時に僕が不老不死の感覚を彼女に伝え。

 最高の実験材料(ぼくのからだ)を、彼女に拒否反応が出ない範囲で色々と弄って。

 それでも結局、彼女が研究者であるうちに、不老不死になる方法も、その逆に不老不死から脱却する方法も。そのいずれも、僕らは解き明かす事が出来なかった。

 

 僕が得られた成果と言えば、魂だけの状態で意識を保つ事が出来る様になったくらいのもの。不老不死からの脱却どころか、より不死の性質が強くなっている気もするけれど……まぁ、そこはそれ。何らかの成果があった事こそが大切、という事にしておこうと思う。

 

 一方で、彼女が得られた成果はと言うと。……正直な話、何一つ存在しない。不老不死へ至る道は終ぞ見つからず。その糸口を後世に残す事ですらも、難しい。そもそもそれすら掴めていないのだから。

 まだ60にも満たない彼女は、あれから成果らしい成果を何一つ得られぬままに、身体にガタが来た。……若い頃の無理が祟った形だろう。

 今や彼女は日がな一日ベッドに寝転んで、ただ僕の作る食事を摂るのみとなってしまった。

 

 幸い、彼女が片手間に教え込んだ錬金術によって、僕でも簡単な薬ならば作る事が出来た。

 それとご飯とを食べさせて、何とか寝転がるだけならばそこまで不自由は無いままに、生きながらえさせる事が出来ている。

 

 『後悔はしていないか』、と。そう尋ねた事はあった。

 不老不死になど固執しなければ、或いは僕という存在に辿り着かなければ。……彼女はきっと、他の研究に心血を注ぎ、そして世界に名を刻んだ事だろう。

 彼女は天才だ。その上、努力を惜しまない。その果てに空想を現実に引きずり下ろすなどという大業を成したのだから、その研究者としての資質は折り紙付きと言って良い。

 それ程のあまりある才を不老不死なんぞの研究に費やして、終ぞ誰に知られる事もなく、恐らくそう遠くないうちにこの薄暗い地下室で息を引き取る事になる。その事に、悔いは無いのかと。

 

 彼女はその問い掛けに、『悔いならある』と。そう答えた。

 彼女は不老不死になればきっと、世の全てを暴けると信じていた。無限の時間を費やしてひとつひとつ不明瞭な所を潰していけば、いつかきっと世界中どこかしこもが詳らかになると。そして、その果てに。世界から研究する所も無くなったその後に、今度は人としての幸せが得られるのではないかと。そう、幼い頃から信じて止まなかったのだそうだ。

 だが彼女は、実の所、その夢は叶わぬとかなり早い段階で悟っていたらしい。具体的に言うと、魂の観測が上手く行かなかった辺りで。……彼女に言わせれば、『あの程度』。『あの程度の事が明かせない時点で、世界を解き明かすなど到底不可能』という推論に蓋をする程、彼女は蒙昧になれなかったのだ。

 それでも、一度抱いた夢だったから。彼女のそれまでの人生に常に在り続けた、たったひとつの目指す先だったから。……彼女はそれからも暫く、その夢を追い続けていたのだ。

 けれどそれも、ある時急に、ポッキリと折れてしまったらしい。『私では無理だ』と。燻りながらも確かにそこにあった筈の熱が、はたと消えてしまったのだと、彼女は言った。

 その瞬間を、彼女は今でも後悔していると言っていた。或いは熱を持ち続けられたなら、今とは多少なりとも違う結末が待っていたのではないかと、そう考える度に胸が痛くなる。……彼女は悲痛な面持ちで、そう漏らしていた。

 

 それを聞いた僕は、思う。

 それでも身体が満足に動かなくなるその時まで研究を続けて居たのは。研究者としての在り方を損なわなかったのは。……きっと何か、特別な理由があったのだろうと。例えば、そう。────超常の存在に抱いた情、だとか。

 

 そして僕も僕で、そんなに長い間たった一人と一緒に居れば、情のひとつも湧くものだ。

 例えば、彼女が眠るその時は、たったひとりではあるけれど、きっと看取ってやろう、だとか。……彼女の駆け抜けた足跡を知る、たったひとりの戦友として。

 

 

 

 

 

 そして。遂にその日はやって来る。

 

『ねぇ、レーヴェ。……そこに居る?』

『居るよ。ここに居る』

『そっか。……良かったぁ』

 

 普段の丁寧な物言いも、この時ばかりは砕けきって。ただ静寂に、二人で言葉を紡ぎ置いた。

 

『死ぬって、こんな感覚なんだ。……やっぱり、嫌だなぁ。寂しい。暗い』

『そうだね。確かに死の瞬間は暗いし、どこか寂しい。……だけどきっと、その果てには明るい世界がある。僕は、そう信じているよ』

 

 僕がそう呟くと、それを聞いた彼女は、目を瞑ったままゆっくりと微笑んだ。

 

『貴方……スレた様に振る……ゴホッ。……振る舞う事も、あるけれど。

やっぱり、その心根は純……粋、なのね。どこか夢見がちで。子供っぽくて。……そういうとこ、好きだったなぁ』

『……そっか』

『ふふ。照れちゃって』

 

 青白い顔。生気の無い顔。……その弱り具合と言えば、あの頃(・・・)に勝るとも劣らない。けれど、その顔を見て、安心した様な気分になれるのは……多分。彼女が笑っているからなのだろう。

 今の彼女は、心底に楽しそうだ。まるで、幼子が玩具を買ってもらった時みたい。子供っぽいなんて、人の事を言えたものじゃない。

 

『……ねぇ。レーヴェ』

『うん?』

『ごめん、なさい。不老不死の謎、解明、出来なくて』

 

 笑顔のまま、彼女はそう謝った。

 

『良い。……良いんだよ、そんな事は。

元から君が求めたものだろ。君が納得出来ていれば、それだけで良いんだ』

 

 その言葉に、彼女は息苦しそうに、けれど嬉しそうに、笑いを零す。

 

『そっか。貴方は、やっぱり。そう、なんだ』

『……何が?』

『んーん。別に。

……そんな貴方だから。私も、貴方に、安らかな眠りが……ゴホッゴホッ!!』

 

 咳き込んだ彼女の背を摩り、静かにする様に促す。……けれど、彼女は口を止めない。

 

『最期だ、から。……言わせて。

……いつか、貴方が、安らかに……眠れ、る……様、に……。

私、祈ってる、よ。今までも。これからも。ずうっと』

『ああ。ありがとう。……君の方は……そうだな。天国で、したい事をしたら良い。……そうだ。例えばさ。前に言ってた転生の魔法の研究。そんなのとかね』

 

 務めて、普段通りの声色で。……僕は、彼女にそんな提案をする。

 何のかんのと言って、彼女は大の実験好きだ。……何に気を取られる事も無く、何に気を遣う事も無く。好きに研究が出来るのは確かに、彼女にとってひとつの幸せの形だろう。……そう思ったから。

 

 その言葉を聞き取って、彼女は笑う。

 

『……ふふ。……それ、も、い…………』

 

 そして、そのとびっきりな微笑みのままに。……彼女の時間は、止まった。

 

『……おやすみ。……いつかまた、そっちで会おう』

 

『………………』

 

 返事は無い。時計の針が進む音だけが、無慈悲に耳朶を打った。

 

 こんなに長い間、たった一人に寄り添ったのは。……この長い人生の中で、オリヴィア以来の事だった。

 それだけに。……いつも共にあった人に置いて行かれる感覚は、こんなにも寂しいものなんだっけと。その懐かしさに、眦を熱くする。

 

 他人(ひと)を悲しませるのには、随分と慣れたものだった。僕自身、それを好き好んでいたし。そして僕の命は吹けば飛ぶくらいに軽く、命の重い人たちとの価値観のすれ違いが起きやすかったから。

 

 だけれど。他人(ひと)に悲しませられるのは、中々味わう事の無い感覚だ。これでもう2度目になるけれど、その痛みは死の痛みと同じで、どうにも慣れる気がしない。

 

 これが、彼ら彼女らの見た世界。……この喪失感が。この苦味が。この灰色が。成程、あんな顔になる訳だと納得する。

 そして、その感覚を一頻り噛み締めた後。……彼女の遺体を抱えて、外に出た。

 

 天気は、晴れ。雲ひとつない、秋晴れというやつだ。

 心做しか、普段より少しばかり暖かい。彼女は寒がりだったから、多分、ちょうど良かったろう。

 

 彼女の遺体を丁寧に埋葬する。研究室のすぐ傍、湖──彼女が一度、好きだと言った場所──の見える小高い丘に。それはもう、丁寧に。

 

『参らなきゃいけない墓が増えちゃったな』

 

 誰に聞かせるでもなく、ボソリとそう呟いた。

 

 瞬間、一筋の風が頬を撫でる。

 その音はまるで、クスクスと、誰かが笑う様な音だった。

 





やっぱり曇らせっぽくならない。困ったなぁと思いつつ、取り敢えず書き終わりはしたので投下してみます。
不老不死周りの設定をフワッとながら触れたのも相俟って、物凄く長くなってしまったのが反省点。本当は前後編合わせて1万字くらいで纏めたかったのですが。
各話の終わり方に常に悩んでいます。中々いい感じに纏まらない。個人的に気に入ったのは3話目くらいなもので、他はイマイチ自分の中で納得出来てないんですよね。まだまだ力不足です。

それから、今更の告知ではありますが、拙作はプロットなし、ストックなしの見切り発車となっています。おまけに私は遅筆ですので、ここから先は特に、更新が不定期になります。どうかご承知の程を。


【追記】
自爆周りの設定にちょっと穴があったので微修正。
【追記②】
叙事詩の定義を勘違いしていたので歴史書等の表現に変更。


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彼女達の記憶(番外編)
オリヴィアの記憶①



バレンタイン記念も兼ねて、今回は曇らせ要素の無い番外編です。
オリヴィアから見た第1話前半部分になります。


 

突然声を掛けてきたその少年に対して、私はとても懐疑的だった。

 

「あの、僕にタンク役を任せてくれませんか?」

 

 突然肩を叩かれたと思ったら、これだ。訳が分からない。こんなヒョロっこい奴に任せるくらいなら、タンクなど居ない方が気楽に戦えて余程良い。

 何より、タンク志望なら声を掛ける相手を致命的なまでに間違えている。軽戦士ならその辺にいくらでも居るというのに、何故態々全身甲冑の私を選んだのか。

 断る、と首を横に振る。

 

 すると、少年は尚も食い下がった。

 

「人助けだと思って、少しの間だけでも組んでくれませんか?」

 

 ……成程、得心が行った。恐らく、彼はまだ冒険者になりたてなのだろう。駆け出しの冒険者ならば、少しでも強そうな者──要するに、タンク役の己が少しくらいヘマをやらかしても何とかなりそうな者を味方に選ぶのもよく分かる。

 

 そういう事なら、と私は仕方無く了承した。

 まぁ、後進を導くのも先達の役目であろうし、と。

 

 

 

 少年──レーヴェ、というらしい──は見掛けによらず、それなりにやれる奴だった。

 筋肉量はそこそこ。身体の使い方はまだまだ発展途上。だが……気骨がある。度胸がある。そして何より、頑丈だ。

 真正面から受ければ私ですらどうか、という一撃。それを彼は一身に受け止め、しかし決して盾を落とす事も、况てや命を落とす事も無かった。

 

 タンク役として重要な資質は、凡そ全て持っていると見て良い。あれに重要なのは兎にも角にも頑丈さと、死をも恐れぬクソ度胸だ。筋力や技術なんてものは、そんなものいくらでも後から付いてくる。その点、彼は私が今まで見たタンクの誰よりも、その資質を備えていた。鍛え上げて放逐すれば、私たち冒険者の生存率向上に一役買ってくれるかもしれない。

 存外に良い拾い物をした。

 

 と、その段階での感想としては、せいぜいがそのくらいだった。

 

 

 

 私の中で彼という存在がみるみるうちに大きくなって行くのに、そう時間は掛からなかった。

 彼を仲間に加えてからというもの、明らかに手傷を負う機会が減った。死角からの攻撃を全て彼が防いでくれるからだ。お陰様で、冒険者になってから生傷の耐えなかった身体から、すっかり傷が消えてしまった。鎧の消耗も極めてゆったりとしたものになった。

 

 ……だが。

 

 代わりに、レーヴェは傷付いて行った。役割を鑑みれば、当然と言えば当然なのだが。……だが、それで済ますにはこちらの気も収まらなかった。

 彼は傷の治りが早い。体質なのか、それとも何か魔法でも使っているのか、どちらか知らないが兎も角、致命傷に近い傷だろうとすぐに癒える。代わりに、どういう原理か知らないが、致命傷に到底及ばない軽傷の方が長引く。更にダメ押しで、致命傷を受けた際、彼はいつだって苦しげだ。当然だが、すぐに治るからと言って痛みが無い訳じゃないんだ。

 

 傷が癒えて行く私の身体。傷が増えて行く彼の身体。……気に掛けるのも、当然の話だろう。

 

 

 

「もう少し、こちらに攻撃を流しても良いんだぞ」

 

 ある日、遂に我慢ならなくなって、私は直接彼に詰め寄った。

 

「へ?」

 

 ところが、彼にはまるでピンと来ていない様子。私が何故こんな事を口にしたか、全く意味が分かっていないのだろう。

 

「私は……お前と組んでから、明らかに手傷が減った。鎧だって長く保つ。だが……お前はどうだ」

「どう、とは?」

(いたずら)に傷を負う。痛いだろう、苦しいだろう。その頬も、その右腕も、脇腹も、太腿も。全部、全部、痛いんだろう?だから、少しは私を頼れと、そう言っているんだ」

 

 彼が私を庇って受けた傷。ひとつひとつを挙げれば、枚挙に暇がない。それ程私は注意力散漫で戦っていたのだと痛感させられる。どうせ被弾は減らせないのだからと、なあなあで戦っていたと思い知らされた。

 

 本来、彼が期待していたのはもっと楽な仕事だった筈だ。ベテランらしい雰囲気の甲冑姿の女に声を掛けて、安全にタンクとしての経験を積もうと、そう考えていた筈だ。

 その期待を、私はこうして裏切っている。彼に責め苦を強いている。その事実が、こうも、苦しい。

 

「はあ。まぁ、確かに痛いですけど。タンク志望の時点で別にそんなの普通ですしねぇ。……と言うか、少し痛いくらいの方が生きてるって感じしません?」

 

 だから、あっけらかんと放たれたそのセリフを耳にした時、私は己の正気を疑った。

 

「は……?」

「別に痛みじゃなくても良いんですけど、刺激が欲しいんです。そうじゃないと、この先何十年と生きて行くのに、退屈してしまいそうで」

 

 ……あ、ああ。刺激。刺激か。

 成程、そう置き換えられれば分からなくもない。

 確かに何事にも刺激というものは大切だ。斯く言う私も、日々の刺激やメリハリというものは大切にしている。

 ……だが。

 

「刺激が欲しいのなら、もっと健全な形で探せば良いだろう。……だから、ほら。そんなに無理をするな」

「無理はしてないですよ?したい事をしてるだけですし」

「したい事?」

「はい。……僕、誰かを助けたくてタンクを志したんです」

 

 誰かを、助ける……。

 

「私と、一緒だ……」

 

 私もその為に冒険者になった。

 嘗て、冒険者に命を救われた私だから。今度は私が誰かを救う番なのだと、そう思っていた。

 

 ……彼も、同じだったのか。

 ……だったらきっと、彼の欲しい言葉はこれじゃあないだろう。

 

「……レーヴェ」

「はい?」

 

 兜を取り、彼と目を合わせる。……彼の瞳はよく見れば、濁りのひとつもない、澄んだ空の色だった。

 

「……ありがとう」

 

 一音一音に感謝の念を込める。

 正直に言えば、思う所が無い訳では無い。私とて誰かを救いたいと願う者だ。そんな私が、誰かに救われるなど。正直手放しに心地良いと言えたものではない。

 しかし、傷一つ無い己の肌を見て、少しばかり嬉しくなったのもまた、事実だった。……なんだか、私が普通の少女に戻れた様な気がしたから。

 だから、思う所があれど、彼への感謝は本物だ。私はそう信じている。

 

 深深と下げた頭を、元に戻す。

 再び合った空色の瞳は、驚いた様に丸くなっていた。瞳の色(それ)とは対照的に、両の頬は林檎の様に真っ赤だ。……照れているのだろうか。なんだ、少しは可愛い所もあるんじゃないか。

 

「ええと……」

 

 そんな事を思いつつ見詰め合うこと数秒、彼がようやく口を開く。何と言われるだろう。私の感謝は、無事に伝わっただろうか。

 

「お礼は嬉しいですけど、それはそれとして。

……オリヴィアって、女性だったんですね。びっくりしました」

 

 前言撤回、彼の脳天に拳骨を落としておいた。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

彼と出会って、半年程が経った。

 その間、私は私で必死に戦い方を見直して死角を減らす様に腐心したし、彼は彼でタンクに必要な身体捌きを身に付けて行った。……筋力は一向に成長の兆しが無かったが。

 それでも、互いに実力が数段上に向上した事で互いに手傷を負う事も減り、私も彼に対して負い目を感じる事が少なくなって来た。

 

 元より私は一撃特化の戦闘スタイルで、タンクの冒険者とは相性が良い。そのスタイルを研鑽し研ぎ澄ませた事で、自分で言うのもどうか、という話ではあるが……私と彼との相性は、極めて良くなったのではないかと思う。私の傲慢でなければ、彼もそう感じてくれている筈だ。

 何せ、私たちコンビはどんな魔物と戦っても連戦連勝だった。今更スライムやらゴブリンやらの低級の魔物に手を焼く事など有り得ない。ビッグビーやジャイアントモールといったそれなりに厄介な相手も危なげなく討伐出来た。果てには、下級竜種(ワイバーン)牙狼(リュカオン)といった上級にカテゴライズされる様な魔物でさえも、私たちは撃破した。

 他の冒険者(同業他者)含む街のみんなには大層感謝された。「二人に任せておけば安心だ」と、皆口々にそう言った。

 

 私一人では、きっとここまでには成れなかっただろう。この街に数いる冒険者の一人。狩れるのは精々が中級までで、上級が現れたらその時点で街の人たちを避難させるのにやっとで、ちょっと時間を稼いで、すぐに死ぬ。……そんな、多少強いだけの一般人にしか成れなかった筈だ。

 それをここまで引き上げてくれたのは。「誰かを助ける」という漠然とした私の願いを形にしてくれたのは。……他の誰でもない。間違い無く、レーヴェだ。

 

 ……そして、私を傷だらけの戦士から、一人の女に戻してくれたのもまた、彼だ。

 傷だらけの身体を見る度に、半ば無意識に溜息を吐いていた。一人でも寂しくないと思っていたが、それは必死に自分に言い聞かせていただけだった。

 結局の所、私はきっと、寂しがり屋の子供のままだったのだ。それを傷と立派な鎧で覆い隠していただけ。ただ、それだけだった。

 それを彼は、一瞬のうちに剥ぎ取って行った。

 

 一人でも戦えた筈なのに。……気付けば私は、独りで戦う(すべ)を忘れてしまった。

 一人でも寂しくないと思い込んでいた筈なのに。……気付けばそんな幻想は、跡形も無く消えていた。

 一人前になれたと、思っていたのに。……全然そんな事はないのだと、彼に思い知らされた。

 

 彼が居なければダメになった。

 最近では一人で眠るのもどこか心細い。上等な宿を取って一人で寝るよりも、外で彼と共に野営した方が安心して眠れた。

 

 彼が、欲しくなった。

 

 けれども彼は、そんな私の想いは露知らずだ。普通、あのくらいの年頃ならば異性に多少なりとも興味があって然るべきだろうに、どれ程アプローチを掛けても何処吹く風……と言うか、そもそもアプローチ自体に気付きやしない。まさかと思うが、あの歳で枯れてるんじゃないだろうなと疑ってしまうのも無理からぬ事だろう?

 

 だから私は、これじゃあ埒が明かないと、いっそ極めて直接的に彼を求めてみる事にした。

 

 顔見知りが店主をする露店を冷やかし、商店街をぶらついて。小洒落た料理屋で夕餉を摂り、夜の訪れと共に小高い丘に向かう。

 眼下に広がるはこの街一番の景色。住民の何十人かに根回しして、特別に多くの家でランプを焚いて貰っているから、より壮観な眺めとなっている。

 

 彼を引っ張る右腕が震えて、止まらない。緊張によるものか。それとも、武者震いというやつか。

 心做しか、普段より息も浅い気がした。緊張で食事は殆ど喉を通らなかった筈なのに、少しばかり胸が苦しい。

 

 私はこんなに胃と心臓が痛いというのに、レーヴェの方はと言うと「はえー、綺麗ですねぇ」と平常運転も平常運転、お気楽そのものだ。……何か腹立ってきたな。告白成功したら拳骨落としてやる。

 

 

 

「なあ、レーヴェ」

 

 そのまま暫く、何を喋るでもなく二人夜景を眺め。……そしていよいよ、口火を切る。声がうわずらない様に、必死に平静を保つ。

 

「はい?」

 

 こちらに向けた顔は、やはり平常通りだった。ムカついたので、クールダウンも兼ねて頬をつねる。

 

「はんでつねうんでふか」

「うるさい。黙って摘まれていろ」

「へー」

 

 暫くムニムニしていると、呼吸も幾分落ち着いて来た。頬に昇った熱も、大分下に降りた筈だ。

 

「……レーヴェ。私は……その。

お前のせいで、一人で戦う(すべ)を忘れてしまった」

「はい?」

「良いから黙って聞け!…………コホン。

お前のせいで、一人が寂しいと感じる様になってしまった」

「…………」

「……何とか言ったらどうなんだ」

「理不尽過ぎません?」

 

 確かに。これに関しては私が悪い。

 

「……お前のせいで、私もまだまだ半人前だと気付いてしまった」

「はあ」

「お前は、どうだ。……お前は、自分の事を一人前だと思っているのか」

「いえ、思ってませんけど」

「だろう?……お前を半人前(そんなふう)に育てた咎は、私にあるとは思わないか」

「思いませんけど」

「思 わ な い か ?」

「…………はい。思います」

 

 うんうん、そうだろうそうだろう。

 

「私は、その責任を取ってやりたいと思っている」

「なるほど?」

「だから……その……お前も、私をこんなにした責任を取ってくれ」

 

 その言葉と共に、彼を抱き締める。相変わらず華奢な身体。背丈も私の胸辺りまでしかない。その細さと小ささでどうやって敵の一撃を受け止めているのかと、いつも不安になる。

 だが……その華奢な身体が、今では何より愛おしい。

 

 さあ、お前も私を抱き締めてくれ。私を受け入れてくれ。……頼む。

 

「………………ええ、と?

つまり、どういう意味です?」

 

 …………。

 

 ………………。

 

 ……………………は?

 

「どういうって……分かるだろう、馬鹿者」

「いえ、分からないから聞いてるんですけど……責任取れってのは分かりましたけど、具体的に何して欲しいんです?」

 

 ……はあ。

 私はこんなド天然の朴念仁を相手にまるで死地へ赴くが如く緊張していたのか。

 なんだか急に馬鹿らしくなってきた。

 

「どうって…………結婚しろという意味に決まっているだろう阿呆が!

ああ、もうムードなんて気にしない。気にしてたら阿呆(おまえ)には一生伝わらんと今悟った!!

お前みたいな馬鹿でも分かる様に今度ははっきり言ってやる!!よく聞けよ?

私はな!!お前が居ない生活なんてもう考えられんのだ!!だから私に一生付き合え!!私と結婚しろ!!そう言ってるんだ、この馬鹿ッ!!!」

 

 静謐な夜の街に、私の絶叫が響き渡った。……前以て根回しの為にプロポーズをする旨は周知していたものの……ここまで大っぴらにやるつもりは無かったので、少しばかり、いや大いに恥ずかしい。顔から火が出そうだ。

 

 レーヴェの顔が見られない。と言うか、顔から手を退けられない。兎に角恥ずかしい。

 

 静寂が重い。私も彼もお喋りな方ではないから、普段ならば多少の沈黙は気にしない。……が、今は兎に角重い。まるで空気が鉄の如く重い。

 かと言って私が再度口火を切るのも、こう、違うだろう。こういうのはしっかり自分の中で噛み砕いてから結論を出してもらうべきだ。決して、応えを催促するべきじゃない。

 

 かち、かちと時を刻む秒針の音だけが鳴り響く。

 

 そしてそれが、かれこれ100は鳴ったろう、という頃。

 

「あ、あの……オリヴィア?」

「な、なんだ?」

「……本気、なんですよね?」

「あれが本気でないように聞こえるのか、馬鹿」

「いえ。……その。……ええと……」

「なんだ、煮え切らない奴だな。言いたい事があるならはっきり言え!」

 

 あ。

 結局催促してしまった。……いや、まぁ、仕方ない。相手がポンコツ(レーヴェ)だし。うん。仕方ないのだ。

 

「……僕も。……僕も、貴方の事が好きです。

貴方の笑顔が何より好きです。ほら、あの……初めてお礼言ってくれた日。あの日見せてくれた笑顔が、ずっと忘れられないんです」

「女性だったんですねー、などと抜かした輩が何を言うか」

「いや、その……あれも、照れ隠しみたいなもので。茶化さないと本気で恋しちゃいそうだったんで必死だったんですよ、こっちも」

 

 ……恋?

 

「お前が?私に?」

「はい」

「……嘘だろ……?」

「嘘じゃないです。日記読みますか?当時の思い、ちゃんと綴ってありますよ」

 

 ……コイツ、日記なんて付けてたのか。意外と可愛い……じゃなくて。

 コイツ、私より先に落ちてたのか?あの様子で?そんな馬鹿な。ならなんでアプローチに無反応だったんだ。意味が分からない。枯れてたんじゃないのか?

 

 ……いや、そんな事、もうどうだって良い。

 

「つまり……その……受けてくれる、という事で良いのか?」

「はい。……謹んで、お受けします。……なんて、本来は僕が先に言うべきだったんでしょうけど。

すみません。言わせちゃって」

「……私は過程は見ない主義だ」

「そう言ってもらえるなら有難いです。……これからよろしくお願いします」

 

 ああ、宜しく。……と素直に応えようとして、それでは面白く無いと思い直す。

 

「……その前に、その硬っ苦しい言葉遣いを直せ。

夫婦、なんだろう?私たち」

 

 目を背けながらそう催促すると、視界の端で彼は虚を衝かれた様に目を丸くし、やがて微笑んだ。

 

「うん。……改めて宜しく、オリヴィア」

「ああ。願わくば末永く、な」

 

 そして、私たちは互いに向き合い、徐々に互いの距離をゼロに近付け────────

 





元々書こうとは思っていたオリヴィア目線の番外編ですが、日付が日付(バレンタイン)なので前倒しする事に。続きはまたそのうちに。
他の子達の目線を書くかは未定。

ツンデレ暴力系ヒロイン、書いててすごく楽しかった。
曇らせるのが楽しみです(クズ)


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オリヴィアの記憶②


……大変お待たせしました(小声)


 

結婚。──それは言うまでもなく、一種の人生の転機だろう。ひとりで歩んで来た人生という名の道が、それを機にふたりで歩む(もの)となる。辛い事も、悲しい事も、嬉しい事も、楽しい事も──その大半が己だけのものでなくなり、相手と折半される事になる。或いは共有する事になる、と言い換えても良いが。兎も角、一人分の想いを二人で分かち合い、二人分の想いを相互に共有し合う。個人と個人から、そんな深い関係へと変転するのが『婚姻』という儀式だ。

 彼の地元ではその儀式に際して、相互にアクセサリを贈り合う風習があったらしい。私の地元やこの辺りではあまり聞かない習俗だったが、互いにしか分からない愛の証、愛の形というのも中々に良いものだ。折角だからとお揃いの指輪を贈り合って、それを婚姻の証とした。今私の左手で煌めいているこの白銀は、正にその証。……眺めていると中々に幸せな気分になれるので気に入っている。

 

 そして当然と言えば当然だが、その様な儀式を経た二人がそれまでと同じ距離、同じ温度、同じ湿度で在れる筈は無く。その節目を機に、互いの態度すらも変化し得る。それが悪い方に働いた連中が結婚を『人生の墓場』などと揶揄し、その決断を悔いているのだろうが。(こと)私、否、私たちにとっては、その変化は歓迎すべきものでしかなかった。

 私が結婚を迫る前のレーヴェは、何と言うか、危なっかしい奴だった。生き急いでいると言うか、或いは死に急いでいるとすら表現出来る様な。きっと気紛れに選んだに過ぎないだろう私などを傷つけまいとして、受けなくとも良い──私が受けていても大した怪我にはならなかっただろう攻撃までもを体勢を崩してでも受け切って、常にボロボロになっている。そんな奴。曰く、『刺激を求めての事』であったそうだが、それにしたって綱渡りが過ぎた。

 だが、今はそこまでの危なっかしさは無い。……相も変わらず私を徹底的に守る姿勢は見せてくれるが、それでも今までの様な異常なまでの無理はしなくなった。『お前の傷も、私の傷も、結婚した以上は同じ事だ』、『お前はちょっと傷付いたくらいで私に愛想を尽かすのか』というアドバイス──と呼んで良いものか判断に困るが──が功を奏したのだろうか。彼が無理やりに受けるより私が受けた方が程度が浅くなるであろう攻撃は、見逃す様になってくれた。良い兆候だ。……多分、死に瀕する刺激より、私と長く生きる事を優先する様になった証だろうから。例え多少我が身に傷が増えようと、それは喜ばしい事だ。

 そしてそれだけではない。危なっかしさと同時に、よそよそしさも薄れ、こちらは直ぐに掻き消えた。

 結婚前はどこか一線を引いている様で、私に触れようともしなかったり、必要以上に近寄ろうとして来なかったりと寂しい奴だった彼が、今ではすっかり大型犬の様だ。

 朝。食事をしている私を見付けると目を輝かせて近寄って来て、ピタリとくっ付いて座ってくる。

 昼。ソファで昼寝をしていると、いつの間にか隣で心地良さそうに眠っている。

 夜。暇になると構えと言わんばかりに近付いてきて、頭を撫でてやると大人しくなる。

 そら、犬の様だろう?それも、凛々しい番犬と言うよりは愛嬌のある座敷犬だ。きっと、彼にしっぽがあったなら、ブンブンパタパタと大きく振り回されていただろうと容易く想像出来る程だ。

 恐らく、元来スキンシップは旺盛な奴だったのだろう。気を許した相手にはとことんまで甘え、じゃれてくる。そんな奴。その本性を覆い隠す厚い衣を私が剥いだ事によって、彼本来の姿が見え隠れする様になったのだと思う。……真っ当な女なら或いは鬱陶しいなどと思うのかも知れないが、生憎と私は勝手にズブズブと依存して、挙句こちらから結婚を迫る様な女。徐々に距離が近くなっていくその様は、傾きっぱなしだった熱量が徐々に釣り合って行く様で寧ろ歓迎したいくらいだった。

 

 総括して、これ以上は無い程に順風満帆な新婚生活だ。怖いくらいに順調で、嘘みたいに幸せで。そんな、ほんの少し前の私なら想像すら及ばぬ日常。

 少しずつ色が変化し、然れど大きな変調は無い、そんな平穏の日々。その中で日増しに彼の新たな側面に目が行っ(気が付い)て、それら全てが愛おしく、魅力的。……こんな幸せで良いのか、と少し怖くなってしまうくらい。

 

 そんな仄かな不安を察知してか、私の膝の上に頭を乗せた彼が、手を伸ばして頬に触れてくる。

 あの日の鈍感っぷりが嘘の様に、彼は敏感に私の心を気取る。ただの甘えん坊な可愛いやつかと思えば、こういう所はやはり格好良いのだからズルい。

 

 頬に触れた熱を私も手で包んで、「ありがとう」と小さな声で呟く。途端、少し心配そうだった彼の顔が華やいだ。

 

「何かあるなら吐き出しなね」

 

 柔らかな笑みと共に、彼はこう締め括って、(もた)げた手を下ろした。……こういう所。結婚する前のおっかなびっくり私との距離を測っていたであろう時も、こういう細やかな気配りが多くあった。そしてそれがいつも、私の心音を掻き乱す。

 了解の意と、照れ隠しの意とを込めて、彼の頭を強く掻き回す。擽ったそうに目を細める彼。その愛らしい光景に思わず、口が軽くなる。

 

「気にするな。……幸せ過ぎて少し怖くなっただけだ」

「あー、そういう。……分かるなぁ。幸せなあまりに、この幸せが壊れた先の事を想像すると怖くなるの」

「ああ。だから壊れてくれるなよ。私の最愛(レーヴェ)

「僕の事は心配しなくてもへーき。それより人の心配して自分が壊れたら元も子も無いからね?」

「分かっているさ。気をつけるとも」

 

 互いにふふと微笑み合って、それきり会話は止んだ。夜の静寂が辺りを支配する。ランプの薄ぼんやりとした光が私たちを照らす。

 その淡い橙に、私は確かに『幸せ』を見た。その色はきっと、幸せの具現なのだと。……そう、信じていた。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

幸せの只中に在っても、私たちの使命は何ら変わる事は無い。相も変わらず日々街の周囲を警邏し、魔物が現れればこれを討伐する。金銭的な話をするなら既に私とレーヴェとの稼ぎを合算すれば残る人生は程々に慎ましく生きれば足る計算だったが、こればかりは金銭(それ)が目当てと言うよりはいっそ慈善事業に近い。私たちの様に戦える、戦いのノウハウのある者たちが引っ込んだとして、一体誰が脅威に立ち向かうのか、という話だろう。

 来る日も来る日も剣を採り、無限とも思える勢いで湧いて出る魔物共と切った張ったを繰り広げ、血に染った両手で想い人を抱き、眠る。……そんな生活。

 

 傍目には『血なまぐさい日々』と映るだろう。息吐く暇も無い、張り詰めた日々と。

 無論、それも決して間違いでない。『もう疲れた』と思った事は、一度や二度では利かないだろう。けれども、血なまぐさいなりにやはり幸せだった。結婚して既に2年もの月日が経てど、幸福が手をすり抜けた感覚は未だ一度たりともありはしない。疲れても、辛くとも、傍らにはずっと最愛(レーヴェ)が在った。ただそれだけの事で人は幸せになれるというのだから、やはり人間ってのも単純だ。

 

 それに、週に一度の癒しもあった。レーヴェと二人きり、誰に邪魔される事も無く街をぶらついて、その度に『これだ』と思う事をする。例えば歌劇を鑑賞したり、格式高い料理屋で美味い飯に舌鼓打ったり、その逆に安酒場や屋台を巡ったり。

 どれも甲乙付け難い思い出であり、私の、いや私たちの心の支えとなっていた。

 

 

 

 

 

 その日は週末。翌日にはデートが控えた日だった。

 もう何十、或いは何百と繰り返された習慣だったが、それでも確かに期待感が胸を満たし、心が(はや)る。

 血錆を落とすにもご機嫌で、鼻歌なども交えつつ二人で肩を並べ帰り支度をしている。

 

 陽は茜。あの日に見た淡い橙と同じ色。

 この時の私はまだ、その色が幸運の象徴でなくなる事など知る由も無く、その景色に密かに心を踊らせていたくらいだった。

 

 そう────(ゴウ)、と地鳴りの如き風切り音が頭上から鳴り響くまでは。

 

「なんだ今の音────────は?」

 

 橙を遮った(かげ)の主は、人では及ぶべくもない巨躯を誇る絶対的強者。……上級竜種。下級竜種(ワイバーン)とは一線を画す、真なる(ドラゴン)。それも、真紅の鱗を持つともなればそれは最早竜より()。即ち、伝説に近い存在だ。

 

「どうして、お前がここに居る……!!」

 

 上級竜種(ドラゴン)は通常、人里近くには現れない。……いや、より正確に言うのなら、竜がまず現れない場所に築かれた人里こそが、今日(こんにち)まで存続している。

 

 明らかな異常。……どこかで竜種にまで波及する程に生態系が崩れたか、或いは眼前のそれがはぐれたか。いずれにせよ、そうそう起こるものでは────否、起こって良いものでは無かった。

 

 その異常を前にして、足が竦む。……ワイバーンは幾度となく剣の錆にして来た。一般に上級と呼ばれる魔物とももう幾度となく対峙して来たし、命の危機を感じたのも両の手では足りぬ程だ。だが、だから何だと言うのか(・・・・・・・・・・)

 これまでの手合いとは明らかに、生命としての格が違う。その身に宿す威圧感(オーラ)。ただそれのみで身体の動きが阻害され、頭の回りを鈍くされる。

 まるで時間が凍り付いたかの様に、指先ひとつ、ピクリとも動かせない。喉がカラカラに乾いて、言葉のひとつも発せない。

 

 剣を握る両手から、力が抜ける。せめてもの虚勢にと辛うじて保っていた足腰も、今にも砕けそうだった。

 

 だが。

 

 そんな私と対照的に、(レーヴェ)は毅然とその脅威に立ち向かった。

 

「オリヴィア!!」

 

 その劈く様な叫び声が、私の名を呼んだものと理解するには幾許かの時間を要した。

 ああ、今彼に名を呼ばれたのだ────そう噛み砕く間も無く、彼の二の句が紡がれる。

 

「君は街に戻れ!!応援を呼んで来い!!」

 

 平素とは全然違う、乱暴な言葉遣い。二年半も一緒に居て、ただの一度だって聞いた事の無い声色だった。その驚きが恐慌を頭の隅に追いやって、徐々に冷静さが帰ってくる。……そしてやっと、彼の言葉を呑み干せた。

 

「あ……い、いや、でも……」

 

 彼は『自分を置いて行け』と、そう言っているのだ。……だが、それはつまり。

 

「このままじゃ二人とも死ぬぞ!!

でも……君が急いでくれれば、二人とも助かるかもしれない!!」

 

 彼を犠牲に(・・・・・)この竜を討て(・・・・・・)と言っているも同義だろう。

 

「守るだけなら、僕の方が君より上手だ!!だから……!!」

 

 『僕を信じろ』、と。……彼は何時に無く鋭く引き絞られたその空色の瞳で、私を射抜いた。

 その言葉が半ば嘘である事など、分かりきっていた。こんな怪物を前にしてたった一人、大立ち回りして生き残るなど。凡そ不可能と言って良い。

 

 ……だが。

 可能性は、ゼロではない。彼は彼なりに、僅かながらも勝機を見出している。

 

 ……ならば、(わたし)がそれに応えてやらなくてどうすると言うのか。

 

 彼の姿をじっと見詰める。……所々滲んで暈けていて、まともに像が定まらないけれど。それでも最愛の人だ。多少の不足は記憶が補ってくれる。

 その勇猛な姿を、その苛烈な覇気を、目に焼き付ける。今後一生、決して忘れない様に。

 

「必ず戻ってくる」

 

 そう呟いたのち、私は疾駆した。慣れない身体強化の魔法なんぞも使って、文字通りの全力疾走だ。

 

 背の後ろから、けたたましい叫び声が聞こえる。……竜のものではない。レーヴェ(アイツ)のもの。攻撃を一身に誘引する為の半分魔法じみた技術だ。その声には、意地でもそこを越えさせまいとする覚悟が乗っていた。

 ここから街まで、私の足で1時間弱。そこから人を集め、戻って来る事を考えれば恐らく────最短でも3時間。

 

 最早私に出来るのは、その最短を目指す事だけだ。一刻も早く街に戻って、ほんの僅かでも早く説得してのけて、一秒でも早く彼の元へ駆け付ける。それだけ。

 

 それ以外に思考は不要だ。要らぬものは頭から追いやって、ただ只管に、走る。

 

 景色は灰一色。音も抜け落ちた。……それで良い。今の私が残すべきものは、彼に与えられた使命。……そして、『どうか死なないでくれ』という祈りだけだから。

 

 

 

 

 

 人集めはこれ以上は無いというくらいスムーズに終わった。ギルドに駆け込むと、今正に冒険者たちが雄叫びを上げ、手を取り合って立ち上がる所だった。恐らく、誰かが説得を済ませてくれたのだろう。

 集まっていたのは22人。前衛から後衛まで、バランスよく揃っている。

 

              (あんた……オリヴィアさんか。)              (旦那さんは……ああ、いい。)            (その顔見りゃ察しが付く。)

               (こっちはご覧の通り準備万端だ。)……休憩は要るか?」

 

 抜け落ちた音が足を止めた事で徐々に蘇る。初めの方は代表者らしき青年の声も何も聞こえなかったが、最後の一言だけは耳に届いた。

 

 休憩?……冗談言うな。

 

「要らん。行くぞ」

 

 踵を返す様にして、再び来た道を戻る。

 正直、コンディションは最悪だ。人集めをある種の休憩と想定して、ここまでに余力を全て使い尽くすくらいのつもりで街まで駆けて来たのだから。

 だが、それが何だと言う。

 彼は今この瞬間も、あのおぞましい化け物にたった一人で立ち向かい続けている。

 それと比べたらたかが余力が無い程度(・・・・・・・・・・)、大した話じゃない。

 足りないなら絞り出せ。最悪、両の足と剣を振るう為の片腕、そして健全な頭と肺、それから心臓が残っていれば良い。……片腕くらいは、魔力として溶かしてしまっても構わないだろう。

 

 不足分の魔力を片腕を代償とする形で補い、再び全力疾走。意外な事に、そこまでやっても後続との差は生まれなかった。……都合が良い。この調子で向かえばきっと、私の思い描いていた最短などより余程早く辿り着ける。

 たった一分、たった一秒でも早く辿り着く事が出来たなら、それだけ彼の生存率も上がる。

 

 急げ。

 

 急げ。

 

 急げ……!!

 

 間に合ってくれ、と只管に祈り続け、灰に染まった世界を駆け抜ける。

 

 

 

 そして。その果てに、私の望んで止まなかった光景は広がっていた。

 本来は紅い筈の、灰色の竜。そしてそれと対峙する、私の最愛の人。

 

 生きていた。

 

 生きていた!

 

 彼は勇猛果敢に伝説へと立ち向かい、そして、時間いっぱい(私たちが辿り着く)まで、懸命にその命を保って見せた。

 

「レーヴェ!!!」

 

 力いっぱいに叫び、もう大丈夫だと伝えてやる。

 その声が届いたのか、彼はこちらに顔を向け、安心した様な表情を浮かべた。

 一方の私の方も安堵からか、世界に色が戻って行く。……薄らと微笑む彼は、身体中を竜と同じ紅に染めていた。これ程の手傷を負って尚生き残る頑丈さ。……流石、囮役を買って出ただけの事はある。

 

 だが、もう大丈夫だ。後は私たちに任せて、ゆっくり休め。

 

 チラと後ろを振り返る。……冒険者たちは誰一人脱落する事無く、トップスピードでここまで走って来た。有難い。お陰でこちらにはこれだけの面子が揃っていると、視線で以て彼に教えてやる事が出来た。

 そして、再び竜に向き直る。

 

 すると、そこにあったのは。

 

 淡い橙。炎の色。────幸せの色。

 

 ぐらりぐらりと揺らめくそれが、竜の口から放たれる。炎熱ブレス。竜種の得意とする攻撃のひとつ。

 

 それが。

 

 それが、放たれた。

 

 放たれた?

 

 ……一体、何に向けて?

 

 

 

「……レーヴェッ!!!!」

 

 

 

 淡い橙に、最愛の人が呑み込まれて行く。

 手を伸ばす。……到底、届く距離ではない。それでも、と手を伸ばす。

 

 届かない。

 

 私の手の届かぬ遠くで、彼が炎に包まれる。

 

 炎熱から覗く彼と、目が合った。

 

 安堵。その顔は紛れも無く、安堵だった。

 

 引き絞られた空色はすっかり弛緩し、口元は満足気に緩められていた。

 

 後は頼む、と。まるでそう告げている様だった。

 

 そして次の瞬間には、その顔すらも灼熱が呑み込んだ。

 

「────────!!!」

 

 声が出ない。彼の名を、呼んでいるつもりなのに。

 まるで声が枯れ果てた様だった。空気が喉をすり抜ける音だけが、虚しく響く。

 

 竜は執拗に、念入りに地を────レーヴェを、灼いた。

 

 私がその場に駆け寄る頃になって漸く、奴は熱を吐くのを止めた。

 

 残ったのは、熱し溶かされて硝子質と化した地面。溶融し凹んだ大地。……しかしその上に、最愛の人は居なかった。

 肉の一片、血の一滴すらも残らず、全て蒸発した。

 

 私の目の前で。

 

 私が遅かったから。

 

 私が声なんて掛けたから。

 

 私が目を離したから。

 

 私が。

 

 私の。

 

 私、の?

 

 ……ああ。何だ。

 

 私の、所為か。

 

 

 

 深い絶望が、私を包む。つい先刻まで僅かに覗いていた陽は、完全に地平に沈んだ。

 闇色。……視界が全て、闇色に掻き消される。

 音は最早、聞こえない。聞く必要が無い。

 何かが焼け焦げた様な臭いも、遂に感じ取れなくなった。

 

 全て、私の最愛と共に喪われた。私の落ち度で喪った。

 彼が居ないのなら。……もう何も見えなくたって良い。

 彼が居ないのなら。……もう何も聞こえなくなったって良い。

 彼が居ないのなら。……もう何も、要らない。

 

 だが。……何もかもが完全に消え去るその前に。

 

 せめて仇くらいは討たねば、会わせる顔が無い。

 

 背から剣を引き抜く。普段両手で扱っているそれは、片手で扱うには些か荷が勝った。重さも。大きさも。残された片腕には不相応に過ぎる。こんなものを無理やりに振り回せば、きっと残された方の腕ももう、使い物にならなくなるだろう。

 

 だが、元よりその覚悟だった。

 彼と共に在れたなら、例え両腕が無くとも幸せだろうと、そう思えていたから。

 今となっては、その望みも途絶えたけれど。……そうしたらそうしたで、やはり腕など要らない。最早命すらも必要無いのだから。

 

「……殺す」

 

 初邂逅の際に受けた恐怖が嘘の様に、私はただ殺意を研いでいた。人間らしい心など全て鋳潰して、ただ殺意へと鍛造し直し、それを研ぎ澄ます。

 恐怖なんてものは最早無くなった。……喪うものがこれ以上何もありはしないのだ。何を恐れる事があるか。

 

「     !!」

 

 傍らに並び立つ誰か──恐らく、冒険者のうちの一人だろう──が、何かを言っている。朧気だが、必死な表情に見えた。

 だが、どうでも良い。

 

 どうせ聞こえない。聞こえた所で聞く気も無い。

 

 無感情にそれ(・・)を一瞥したのちに、竜へと斬り掛かる。

 

 鱗に刃が弾かれる感覚。……やはり竜鱗は堅牢だ。聖銀(ミスリル)より堅いとの評もあながち間違いでないと思える程に。

 だが、そんな事は関係ない。

 例え壊せないものだったとしても、壊さねばならない。人の身では過ぎた獲物だろうと、討たねばならない。

 それこそが、それだけが私に出来る贖罪。彼にもう一度会う為の禊だろう。

 

 弾かれても。受け流されても。構わずひとつ所に剣戟を叩き付ける。

 只管に。

 只管に。

 只管に────────

 

 

 

 

 

 ────────どちらかの命の尽きる、その時まで。

 

 さあ。根比べと行こうじゃないか。

 





気付けばほぼひと月ぶりですか。大変お待たせ致しました。
お休みを(勝手に)頂いている間に推薦を書いて頂いたり、再び日間一位を、それも日を跨ぐ形で頂いたり……と色々あって、正直すごく驚いています。ありがとうございます。


以下言い訳やら何やらです。不要なら読み飛ばしてください。

私生活の方が今春で節目を迎えまして、引越し作業の為に執筆時間が中々取れず。……それはそれとして、ここまでお待たせする事になったのは私が遅筆なせいなのですが。
お待ち頂いている方が居たなら、大変申し訳無く思います。
そして予めお伝えしますが、多分今後もこうしてお待たせする事が多くなると思われます。それでも構わないという方は、是非とも拙作を応援してやってください。


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オリヴィアの記憶③


オリヴィア編最終話。…………になる予定の話でした。


 

陽の消え去った暗夜の中、私は只管に刃を振るう。本来であれば、両手で扱うべき大剣(それ)を、無理を押して片手で取り回す。

 一振りすれば骨肉が爆ぜ。二振りすれば砕けた骨の欠片が神経を圧迫する。……視界から色が溶け落ち、音も消えた今となっては、その痛みこそが生の実感を与えるものだった。

 

 眼前の怨敵を見る。……竜鱗が幾つも割り砕かれ、その厚い鎧に守られていた筈の皮膚もまた、力任せに大きく破られている。その姿は正に、満身創痍と形容されるが似合いのものだった。

 尤も、満身創痍であるのは私とて同じ事だ。ここに至るまでに、脇腹やら太腿やら、そこら中に良いの(・・・)を食らった。限界ギリギリ、これ以上攻撃を受ければ不味いと本能が警鐘を鳴らす。……動きが鈍る前に押し切らねば殺られるだろう。

 故に、私は剣を眼前の竜に打ち付ける。腕が壊れて尚も苛烈に、血が抜けて尚も盛んに。ボロが出るより先に勝敗を決する為に。

 

 

 

 ────弓兵による、一斉射撃があった。

 竜の間合いの外から、それもこの夜闇の中、矢は眼を始めとして竜鱗の無い部分を的確に射抜き、一発一発は僅かなれど、数でダメージを蓄積させた。

 

 ────魔法士による、一斉砲撃があった。

 属性も規模も様々で、狙いもてんでバラバラ。……しかし、発動に時間を要する高等技術だけあって、その威力には目を見張るものがあった。その炎は、氷は、雷は、風は────確かに一発一発が強烈で、堅牢な鱗を割り、頑丈な皮膚を爆ぜさせた。

 

 ────タンクによる、援護があった。

 熟達の彼らによる守護は幾度となくアタッカー達の命を救い、戦線の維持に貢献した。彼ら無くしてここまでの接戦は有り得なかったろう。

 

 ────そして。

 遂に私の一撃が、奴の喉元を切り裂いた。

 ズプリ、と刃が深く刺さる感触。それを力任せに水平に動かして、骨ごと筋肉(なかみ)を断ち切る。

 そして、私の腕がいよいよ音を立てて壊れる(使い物にならなくなる)と同時、ひときわ大きく深いその傷から鮮血が吹き出す。巨竜の骸が、地鳴りを起こしながら沈んだ。

 頭から血を被りながら、私はその光景をぼんやりと見詰めていた。──これで、終わったのだろうかと。

 ふと、遥か遠くの山並みを見た。……モノクロで分かりづらいが、山頂からは陽が覗いている。夜明け。またひとつ、私たち人類は難敵を乗り越え、黎明を目の当たりにした。

 

 同時に、私は生きる意味を失った。彼はもう居ない。彼を殺した仇も、今こうして光を失い地に斃れ臥した。後はもう、何も残す事は────────

 

 ────────ああ、いや。

 

 まだ、あったか。

 

 彼を弔ってやらないと。その霊魂が黄泉路に迷わぬ様に。世を儚むのは、その後だ。

 

 取り落とした剣をそのままに、傷だらけの身体で歩く。街へ。彼と共に暮らした、あの地へ。

 きっと彼も、眠るならそこの方が良いだろうから。

 

 一歩。軋む身体に鞭打って、歩を進める。

 

 二歩。興奮(ますい)が切れてひどく痛む左腕を庇いながら、歩を進める。

 

 三歩。……急に身体が重くなった気がした。継ぐ足が前に出ず、そのまま前のめりに倒れる。

 

「             !!」

 

 ────────そして、そこを見咎めた誰かに、ぐいと抱き起こされた。

 何事かを語り聞かせようとしているらしい。口元がもごもごと動いていた。……だが、やはり何も聞こえない。その旨を伝えると、眼前の誰かは焦った様に私を抱え上げ、運んだ。

 

 すぐに、身体中が魔力に包まれた。……治癒師が帯同していたらしい。この感じはおそらく、患部の特定中だろう。

 傷を治癒などされたら死が遠のくが……仕方が無い。それよりは彼の葬儀を見届ける前に死ぬ方が問題だ。大人しく身を預け、治療を受ける。

 

 余程腕の悪い者でもなければ、小一時間もすれば応急処置は済むだろう。それからまた街に向かえば、恐らく陽が落ちるまでには諸々の手続きは出来よう。葬儀は明日になるか。……そこまで済ませてしまえば、いよいよ私も用済みだ。気兼ねなく死を選べるというもの。

 

 その未来に仄暗い光を感じつつ、今はただ、身を休めるのだった。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

────彼の葬儀は、粛々と行われた。

 

 竜を討滅せしめた。ここで終わる筈だった歴史を、未来に繋いだ。その快挙(じじつ)を前にして、しかし心浮く者は誰一人として居なかった。……尤も、私がこんな(・・・)だから、騒ぐに騒げなかったという側面もあるだろうが。

 

 涙ながらに手を組み、祈っている女の姿があった。

 悲痛な面持ちで酒を抱え、墓前に供える男の姿があった。

 街の外れで、何か強い思いを呑み込む様に紫煙を吹かす男の姿があった。

 皆一様に、彼の死を悼んでいた。……存外に彼は、街の人々にとって大きな存在となっていたらしい。私程その死を哀しんでいる者は居まいという自負があるが、しかしそれに引けを取らぬ程の熱量で以て、彼はその死を惜しまれていた。

 

 先の女も、男も、今ここで崩れ落ちている私でさえも。皆、お前という犠牲無くてはきっと、今この場には居なかった。お前という礎があったからこそ、何十何百、或いは何千という人の未来が切り拓かれた。

 だが、その事実を以てして尚、心が僅かにでも安らぐ事は無かった。

 

 

 

 私の目の前に鎮座するちっぽけな墓石の下には、骨ひとつすらも眠ってはいない。彼は遺体の一片すらも残さず、竜によって焼き払われたのだから。

 今でも、猛火に呑まれながら見せた彼の最期(あんど)の表情が、脳裏にこびり付いて離れない。血塗れで。傷だらけで。背丈程もあった盾はとっくに折れていて。身を守る筈の鎧は、とっくに融解していて。……それでも、苦しみ抜きながら立ち向かって。その苦しみから、やっとの思いで解放された様なあの柔らかな笑み。

 

 そんな表情をさせたのは誰だ。そんな孤独な戦いを強いたのは誰だ。

 

 ────私だ。私に他ならない。

 

 あの時、彼と共に立ち向かっていればと悔やんでしまう。

 それでもきっと勝てなかったろう。私一人の攻撃ではあの巨竜を地に墜すには足りない。彼一人の守りではあの魔の苛烈な攻撃を捌き切るには足りない。仮に二人で戦えば、保って数十分。……彼ひとりの身だけなら数時間保たせられても、私の身(にもつ)まで勘定に入れ始めたらそこまでの余裕は無くなる。数十分、命が繋がれば大健闘と言えるだろう。

 そう考えれば彼の判断は果断で、合理的だった。あの場で共闘を選んでいたら、辺り一帯は死に溢れる結果となったろう。彼が、彼一人があの場に残ったからこそ、死者一名という結果(いま)がある。

 だが、それでも。それが勝手な理屈とは分かっていても。合理性に欠けると認めていても。嘗ての己の理想(ゆめ)に、唾を吐き捨てるが如き思想と理解はしていても。……彼を孤独なままに死なせるよりは、余程良かったと思ってしまう。共に最期まで在りたかったと、そう思えてしまう。そうすればきっと、あんなにも哀しい安堵の顔は有り得なかったと。……あんなにも、人恋しそうな顔をさせる事は有り得なかったと!!

 

 怒る。悔いる。自責する。

 私は弱かった。あの竜に気圧され、彼に促されるままに彼を見殺しにした。

 彼なりに勝ちの目を見出している?……ああそうだろうさ。自身の身の安全など、度外視でな。……そんな単純な事にも気付かず。夫を死地に追いやっておいて、知った様な顔して。何が妻だ。何が最愛だ。結局の所、一番我が身が可愛かった癖に。

 

 その我が身可愛さが、彼を孤独にした。私の弱さが、彼を孤独にした。愚鈍さが、彼を孤独にした。思い上がりが。油断が。不用意さが。私という存在が……!!……彼を、独りきりで逝かせたのだ。

 

「……ごめん、なさい」

 

 今更謝っても仕方が無い。……そんな事は分かっていた。

 それを望んでいる筈も無い。彼ならきっと、死者に囚われるより前へ進めと、そう言うだろう。……そんな事は分かっていた。

 自死を選ぶなど、以ての外だ。無責任極まりない。彼に生かしてもらっておいて、それを自ら放棄するなど。それこそ手の施しようの無い愚者のする事だ。……そんな事は分かっていた。

 分かっていた、つもりだけれど。……それでも、希死念慮が、死滅願望が、どうやったって薄まらない。

 彼の居ない生より、彼の居る死の方が遥かに魅力的に映ってならなかった。

 

「……ごめん、なさい」

 

 生に希望を見出せなくて、ごめんなさい。……謝罪の言葉に、応えは無い。応えを出せる唯一の貴方(ひと)は、最早此岸には居ない。

 その事実に打ちひしがれて、空を仰ぎ見る。……陽はまだ高い。きっと、眼前には貴方の瞳と同じ、鮮やかな青が広がっているのだろう。けれど……今の私には、貴方の色すらも、映ってはくれない。

 

 やっぱり、無理だよ。

 こんなモノクロの世界で。

 こんな無音の世界で。

 こんな孤独な世界で、生きろなんて。……そんなの、無理。

 連れて行ってよ。私を、貴方の所へ。

 

「……ごめん、なさい」

 

 そんな思いと共に抱き締めた石碑は、酷く冷たかった。

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

音も無く、色も無い。遂には像すらも失せ始めて来て、物の輪郭が掴めなくなっていた。

 空を仰ぎ見てももう、今が昼なのだか夜なのだかもよく分からない。あの鮮やかな青がこんなにも懐かしく感じられるとは。

 何も映さなくなったこの眼に、最早意味は無い。况て開き続けている理由など、尚更。けれど、瞼は閉じられなかった。こんなにも重いのに。抗うつもりなど、欠片も無いのに。何故だか、何も映らない瞳を延々と外に晒し続けている。

 

 まさか、こうしていればいつか彼が帰って来る、などと。そんな夢見がちな事を宣うつもりではあるまいな。……そう、自分に問い掛ける。

 心臓を鷲掴みにされる様な感覚がした。そんな事、有り得る筈が無いだろうと。冷徹な答えが淡い期待を掻き消す。

 

 それが分かっているのなら────何で、私は死ねないのだろう?

 

 この瞼の重さが、死期の訪れである事には気付いていた。何せ、竜狩りを果たしてから──否、竜に出会す前から、何も口にしていない。ああいや、傷の治療を受けた際に、一緒に水だけは飲まされたのだったか。それでも、何日か──日付の感覚が無くて曖昧だが──は何も飲んでいない。飲まず食わずで人が生存出来る期間など、たかが知れている。

 すぐそこに迫った死に身を委ねられないのは何故だろう。この甘い眠気に無意識が抗う理由がどこにあるだろう。

 

 彼はもうこの世に居ないのに。

 彼の居ない世に魅力など無いのに。

 彼無しで生きられる程、私は強くないのに。

 

 罪悪感か。義務感か。使命感か。……そのいずれもか。

 

 

 

「……オリヴィア?」

 

 

 

 それとも……ああは言っても、どこかでその声を期待していたのか。あの穏やかで、優しげで、如何にも人が好さそうで。それでいて、根っこの部分には一本、芯が感じられる。……その、最愛の人の声を。

 

 

 

 弾かれた様に、身体が動いた。無音の世界に響いた、ただ一つの声。その有り得ざる声に。その求めて止まない声に。

 

 ────幻聴だろう。

 

 そう思っていても。

 

 ────今更期待して何になる。

 

 そう思っていても。

 

 その声が聞こえた気がした。ただそれだけで、身体は己の制御を離れ動いてしまう。

 

 項垂れた首を(もた)げ、声のする方に目を向ける。相も変わらず色は無い。輪郭も朧だ。……その中に在って、その鮮やかな空色は嫌でも目に入った。それが見えた途端、枯れた筈の涙が溢れ、眦から零れ落つ。

 

「……レーヴェ?」

 

 私の声に呼応する様に、煌々と輝く空色が揺らいだ。

 

「レーヴェッ!!!」

 

 その様を見てしまったら、もう冷静じゃ居られない。まともに力の入らない身体を引き摺って、彼に擦り寄って。……そして、片手で抱き竦める。あの時手の届かなかった彼が、確かにすぐそこに居た。

 鼓動も聞こえる。息遣いが耳元で聞こえる。無音の世界に在って、彼の発する音だけが鮮明だ。

 彼は確かに、生きている。他ならぬ私の目の前で。

 

「レーヴェ……レーヴェ、だろう?

その声。その空色の瞳。間違いない。間違える筈もない。レーヴェだ。レーヴェ。レーヴェぇ……」

 

 熱がある。屍人(しびと)では有り得ない。生者特有の温かみ。温もり、と言い換えても良いか。それが確かにあった。

 頬を擦り合わせる。上気した私の頬と対照的に、彼のそれは確かな熱を湛えてはいるものの、幾分冷たくひんやりとしていた。日付にしてみればほんの数日離れただけのその頬が、懐かしくて、恋しくて。その冷たさが、私の心を落ち着けてくれた。

 

 このまま暫く、ずっと抱き着いていたい。……そんな思いを抱くと同時、それを見透かした様にレーヴェが私の肩を抱き、突き放す様にして私を遠ざけた。

 

 そして。

 

「ああ……貴方がオリヴィアさん(・・)でしたか」

 

 なんて。先刻とは打って変わった冷たく、不自然なまでに無機質な声で、そう言った。

 オリヴィア、さん(・・)。……随分他人行儀な呼び方だ。彼からそんな風に呼ばれたのはそれこそ、出会って一、二週間までの事だ。仄かに懐かしさを覚えると同時、より強い焦燥が脳内を支配した。

 

「なに、を……?レーヴェ。私だ。分かるだろう?オリヴィアだ。お前のお嫁さんだぞ?」

 

 捲し立てる様にして、彼に縋り付く。

 まるで、私の事が分からないかの様な口を利く彼に、「そんな筈は無いだろう」と訊ねるように。

 

 しかし。

 

()から、よく話は聞いていました。とびっきりに可愛らしくて、この上もなく愛していて……命よりも大切な、伴侶が居るのだと」

「あ、に……?」

 

 彼の答えは、私の求める所とは違っていて。

 

「ええ。……申し遅れました。私はレグルス(・・・・)。そこに眠るのは我が兄、レーヴェ……で間違いないですよね?」

 

 己はレーヴェではない、別人だと。……そう強調するような、残酷な言葉だった。

 

 

 

 

 

 目の前が真っ暗になる様だった。

 彼はレーヴェではなかった。私の最愛ではなかった。私の生きる意味足り得なかった。……何より、レーヴェと別人とを取り違えた事が辛かった。弱っていたとは言え。彼に飢えていたとは言え。……ただ似ているだけの他人を、彼と断じた己に腹が立った。

 

 あれから、私は半狂乱になって詰め寄った。

 「嘘だろう?」、「嘘を吐くのはやめろ」、「頼むよ」、「レーヴェが居なきゃダメなんだ」、────────

 

 ────────そんな事を、狂った様に唱え続けた。引き攣った様な顔をするレグルス(・・・・)など、お構い無しに。彼とて、突然最愛の家族を喪った事に変わりは無いのに。それを私の一方的な事情で捲し立て、况てや死者本人と間違えて。

 

「……随分と、失礼をした。すまなかった」

「いえ。……気持ちは、分かりますから。

私たち兄弟はよく似ている。生き写しと言って良い程に。間違われるのも無理はありませんよ」

 

 レグルスは声こそ兄のそれよりは冷淡な印象を受けたが、中身は兄と変わらないお人好しで、温かみのある人だった。あれ程の失礼を、失態を犯した私を気遣う様な言葉があったくらいだ。相当のものだろう。

 

 頭に上った血が、冷えて落ちてくる。

 そして冷静なままに導き出される、ひとつの答え。眼前の彼がレーヴェでないのなら────

 

「────ああ。やはり今生に、希望は無いな」

「そんな事ない!!」

 

 そしてそれを否定する、熱の篭った声。先刻までの繕った様な冷淡さが嘘の様。激情を感じさせるその声の荒げ方は、私を突き動かしたあの声とそっくりだった。……やはり兄弟か。よく似ている。

 

「そんな事……ないです。レーヴェが……兄が世界の全てじゃない。生きていればきっと、貴女を幸せにしてくれるものが……貴女を愛してくれる人が……」

 

 彼はそこで、何かを呑み込む様に大きく息を継いだ。そして。

 

「貴女を愛してくれる人が、きっと居ますよ。……だから、いつまでも死者に囚われていないで────」

「囚われていないで、前に進め。……成程、あいつが言いそうな事だ。だが」

 

 聞き捨てならない事を言った。

 

「他人にそれを言われるのは、癪に障るな」

「……そうかもしれません。ですが……本人もきっと」

「ああ。それを望んでもおかしくない。

思えばあの馬鹿はやけに己を低く見積るきらいがあった。私にとってどれ程大きな存在になっていたかなど、思いもすまい。……いや、違うな。あいつの事だ。その事実に思い至りはせど、その大きさを軽んじただろう。

だが。生憎と、あいつの想定より遥かに私は重い。

あいつが私の全てだ。あいつ亡き世に生きるなどまっぴらなんだ。……ふふ。馬鹿な女だろう?あの馬鹿にぴったりの大馬鹿者だ」

 

 ……ああ。

 どうして、こんなにもあいつと波長が合うのかと不思議に思った事もあったが。……そうか。互いに馬鹿だからか。はは。単純な理由だ。

 そしてきっと、あんな馬鹿には。私くらいの馬鹿には、もう二度と会えまいよ。

 

「……貴女は。……そうですか。そんな選択をするんですね、貴女は」

「ああ。……ふふ。あの世で馬鹿、と殴られるだろうな」

「……そっか。……ああ、もう。……何だよ、もう。そんな事言われたら懸念(・・)も何もあったもんじゃない。

迫害されたとしても、死なれるよりはマシだもんなぁ」

「……?」

 

 不意に、レグルスが纏っていた壁の様なものに、罅が入る音がした。まるで、仮面が砕け落ちる様な。

 

「……オリヴィア(・・・・・)

 

 そして、懐かしい声を聞いた。繕った様な冷徹さも。不自然なまでの無機質さも無い。自然で、温かで、穏やかで────聞き慣れた、その声。

 

「……レー……」

 

 そこまで口にして、首を振る。……彼は死んだ。今生に希望は無い。私はそれを、たった今呑み込んだ筈だろう。……今更期待して何になると言う。

 

「オリヴィア。……君は、住み慣れたこの街を捨てる覚悟があるかい?」

「……何を、言って?」

「あるならこの手を取ってくれ。無ければ払い除けてくれて良い。ああ、でも。……願わくば、()を選んでくれると嬉しいかな」

 

 ……僕。

 (レグルス)、ではない。……その一人称には、やはりひどく覚えがあった。

 

「……その前に、ひとつだけ聞かせろ」

「何?」

「お前は……誰だ(・・)

「……レーヴェ。レーヴェだよ。君の旦那さんだ」

 

 瞬間、その言葉の咀嚼が終わらぬ内に、身体は動いた。

 

「────────!!」

 

 声が出ない。彼の名を、呼んでいるつもりなのに。

 彼を抱き締める。さっきと感触は同じだった。温かさも。鼓動も。全部、全部。

 

「今更だけど。随分いっぱい嘘吐いちゃったけど。……改めて、言うね。……ただいま」

「わだし……私は、過程は見ない女だと言ったろ。……ああ。おかえり」

 

 

 

 

 

「はぁ?不老不死!?」

「うん」

「なッ……んん?……えぇ……?」

 

 不老、不死……?

 ……ダメだ。ちょっと理解が追い付かない。

 

「うん。……それで、どうせ死なないならすぐに死んじゃう冒険者の代わりに命張ろうかなって」

「……ああ、そうか」

「それでね……」

 

 そしてそれからも彼の口から語られる、衝撃の連続。

 私に話しかけたのが全くの偶然である事。……これはまぁ、前から私が持っていた情報の時点で察しは付いていた。そもそも私が女だと分かっていなかった様な奴だし、出会い目的でないのは確実。そして庇う相手を選んでいる様ならハナから私になど話し掛けずもっと軽装備な奴を選んでいただろうし。

 私を愛しているのは真実である事。……それを疑った事は一度も無いが、とは言えはっきりと口に出してくれたのは高得点だ。

 弟と偽ったのは、私に迫害が及ぶのを防ぎたかったからである事。……成程、それが理由であれば認めてやらんでもない。確かに、蘇った死者と共に在る女など、化け物と目されて排除されても不思議ではない。或いは、人の道を逸れた外道と謗られる可能性もあるだろう。……それと彼と共に在る事を天秤に掛けろと言われたら間違いなく後者に傾くのだが、それが分からないあたりやはりコイツはニブい。

 

 全部、いざ話されてみれば、「確かにそんなきらいがあった」と納得出来る様な事だった。

 

「えぇと……白状する事と言ったら、こんな所です。はい」

「……この、馬鹿者が」

 

 そう言って、軽く微笑みながらレーヴェの脳天に拳を下ろす。……本気で殴り付けた訳では無い。ある種の禊の様なものだ。

 私は過程は見ない主義だが、それはそうとここまで心をグチャグチャにされれば思う所のひとつやふたつあるというものだ。……それに。不老不死を私にすら明かさなかった事。それも少しばかり、嫌な気分だ。無論おいそれと話せる事でないのは分かっているつもりだが、それでも。

 そういう万感を込めて、コツンと。小突くくらいの強さで。……その割に、やけに痛そうにしていたのが不思議だったが。加減を間違えたのだろうか。

 





更新はやーい!(当社比)

筆が乗った結果オリヴィアがちょっとメンヘラ気味になりました。まぁ強気な子がメンヘラになっていく姿は可愛い(主観)のでセーフ。



────以下雑感────

感想で皆様結構心配して下さっていて恐縮なのですが、私は元気です。リアル曇らせの類は一切無いです。ただ筆が遅いクセにプロットすら作ってないアホってだけなんです。……強いて言うなら、思いの外多くの人の目に付いてプレッシャー、ってくらいですかね。
温かい感想の数々、身に余る評価、お気に入り。感謝感激です。今後ともお付き合い頂ければ嬉しいです。


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