カナリヤの慟哭 (椎名リオ)
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校舎裏にて

初投稿なので、温かい目で見てくれると助かります。


 

 

 ――なんとなく、思い出す。

 

 その日が晴れだったか、雨だったか。それとも雪が降っていただろうか、季節も、その日の天気も覚えていない。

 朝か、昼か、それとも夜だったか。外を見れば一目でわかることも、なにも。

 

 ……視界に入った光景だけを単なる情報としてみる。

 ただ目の前のにあるものを、あるがままに受け止めた。

 りんごが木から落ちます。風が一瞬吹いて、それに驚いた鳥たちが飛び立ちました。 

 そんな数秒後には視線をどこかに移しそうなほど単調で些細なことを頷きもせず、ただ認めるように、無感動にそれを眺める。

 

 アコースティックギター。弦がきれいに張られ、錆びたところなど一つもなく光沢を放っている。

 一見新品同然のようだが、かすかに香る匂いがこのギターが決して新しくないものだと伝えてくる。

 

 導かれるように、そのギターに手を伸ばした。なぜかはわからない。ただ自然と、そして漠然と、そのギターの音を聞いてみたかったからかもしれない。

 徐々に距離が縮まる。十五センチ、十センチと。

 そこまでいって、ふいに手が止まる。

 それから、ゆっくりと腕を下した。

 

 

 ――このギターを、僕が持つべきではない。

 

 

 それは明確な拒絶だった。僕か、それともこのギターからか。理論じみた事なんていえなかった。ただ本能で、このギターを弾くべきは自分ではないと悟った。

 途端に、悲しくなる。

 このギターを弾けないことが? 違う。

 ”本能”だなんて理由で諦めた自分の意志の弱さ? 違う。 

 わからない。わからないことに、僕はなぜ悲しんでいるんだろう。

 

 そんなとき、背後から声が聞こえた。低く、柔らかい声だ。

 

 

「ん? どうした、優? お、もしかしてこれが気になるのか」

 

 

「これはね……実は僕の宝物なんだよ。こうやって持って、この細い線があるだろ? これをこうやって弾くんだ」

 

 

 声の主はそのまま僕の横を通り抜け、目の前のギターをなんなく持ち上げて、難なく弾き始めた。

 ……まるで音と一体となったかのような、不思議な感覚だった。楽しくもあり、けれど同時に悲しさもその音たちには混ざっていた。

 その人を素顔を見ようとしたけれど、なぜか固定されているように首が持ち上がらなかった。

 

 謎の声は再び僕の鼓膜を揺らす。 

 

 

「ふふふ、優。実はね、この僕の宝物はね、もっと綺麗な声で歌うんだよ。鳥みたいにね。いやいや、嘘じゃないさ……なら、一つ試してみよう」

 

 

 その人はもう一度構えると、それに応えるかのようにきらりと銀色のペグが瞬いた。

 

 ……そこから始まった演奏を、僕はどう表現したらいいのだろう。

 確かにそれは綺麗な音だった、声だった、そして歌だった。

 秘密ごとを囁くように、あるいは叫ぶように。けれどその音はずっと目の前の人のように優しくて、決して僕を置き去りにはしなかった。

 寄り添い、慈しみ、ときに悲しみ、泣いて、笑って…………すべての感情を表した。

 

 人では決して出せない音であり、声だった。それこそ鳥のような、美しい鳴き声を持った動物が歌ったほうが、相応しい。

 

 

 

「……どう? 綺麗だっただろう? いろんな音が聞こえた? 残念、僕はギターしか弾いてないよ」

 

 

 そっと頷いた。きっと目の前の人は笑った。そんな気がした。頭を撫でられ、そこから伝わる体温が心地よくて目を閉じた。

 僕は一つだけその人に尋ねたいことがあった。胸の内に燃え上がったこの感情の名前を、何と呼んだだろうか。

 単純だからこそ気休めな言葉を掛けられそうで、この人が確かな答えを持っているだろうからこそ言葉にするのが怖い。

 

 ゆっくり、誤解のないように、おそるおそると口を開いた。

 

 ――あなたのように、ギターを弾けるようになれますか?

 

 間もなくして、その人は言った。疑いようもなく、しっかり。

 

 

「きっと君は僕なんかよりも上手になるよ。嘘じゃない、絶対に」

 

 

 そっと目の前にギターが差し出される。なすがままに慎重に受け取る。

 

 

「……優にあげるよ。父さんの演奏を聴いてくれたお礼さ。だから今日からそのギターは君のものだ」

 

 

 ゆっくりと、顔を上げる。今度はちゃんとその人の顔を見ることができた。

 携える笑みは優しく、黒い瞳には背の小さい、小学生の僕の姿が映っている。

 次第にその人のすべてに懐かしさを覚える。

 くっきりとした眉も、カラスの羽のような艶やかな髪も、耳の輪郭も、すべてが昔のままで目に涙が滲みそうになる。

 それと同時に、僕は現実に戻らざるを得なかった。

 

 これは、すべて夢だ。残酷な夢なのだ。かつての自覚のない確かな幸福で、そしてもう二度と手に入らない――昔の話なのだ。

 

 

「じゃあね、優。今度ギター教えるよ」

 

 

 足音が、去っていく。扉が開く音がする。

 まって、いかないで。そんな言葉が飛び出そうになる。もしかしたら口に漏れていたのかもしれない。

 

 けれどどちらにせよ届かない言葉なのだ。父さんがもう一度ここに戻ってくることは、ない。

 

 

 父さんはもう、いないんだから。

 

 

 僕は手渡されたギターを構えた。そして六弦から一弦までを素早く弾いた。

 その音の酷さに、呆れて笑った。

 

 

「なんて、不協和音」

 

 

 正しい音に合わせて、ペグを回す。五弦はA、四弦はD。寸分の狂いもなく、集中して音を聞き、ゆっくりと音程を合わせていく。

 すべての弦を正しい音にした頃には、とうに父さんの姿はなくなっていて、僕はどうしようもなく天井を見上げた。

 

 寝覚めは悪く、設定したアラームより三十分も早く起き、窓を見やれば空が白み始めていて、視界がぼやけるものだからふと目元を拭ったそれが涙で、結局僕は泣いていたことをそこで知った。

 朝食を食べる頃、妹には顔色が悪いと心配され、けれど適当に話を流して逃げるように学校へ向かった。

 

 聞き覚えのない鳥の鳴き声が聞こえて、立ち止まった。でも鳥の姿なんてあたりになんかどこにもなくて、仕方なく空を見上げた。

 青空を見上げていると、胸が苦しくなった。朝の心地よい風を背中に感じ、それだけで心が折れそうになる気がした。

 それが怖くて、僕は足早に歩きだした。

 ――あの音を出せないまま、僕は高校生になってしまった。 

 

  

 「嘘つき」

 

 

 そう呟いたとき、僕は今日の優しい夢を多分忘れられるだろうと思った。

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 校舎裏、日の差さない陰湿な場所で今日も僕は座り込んでギターを弾いていた。

 膝にはいくつもの修正をして真っ黒になりかけている譜面。アコースティックギターを構えたまま、その譜面と睨む日々を送っていた。

 何年も練習しているはずなのに、何度やっても自分の演奏が間違っているように思えてしまうのは僕に音楽の才能がないからか。

 陰鬱な気分に毎回なる。

 

 

「もう、やめよっかな。ギター」

 

 

 ここまでギターを続けてきた自分を俯瞰して、言葉を吐き出す。お前がやってきたこと、全部無意味だったよ。吐き捨てるように、自分を嘲笑する。

 もう今日はギターを弾く気にはなれなかった。できないことをずっと続けるのはいつだって辛いものだ。

 ギターをケースにしまうため、肩にかけているストラップを外す。

 

 

「え……やめちゃうんですか……?」

 

 

 声のしたほうを視線をやれば、こんな場所には似合わない快活な雰囲気を醸し出す赤髪の女子が立っていた。

 

 

「あー、いや、冗談だよ。ただの弱音さ」

 

「あ、そうでしたか。よかったです」

 

「……よかった?」

 

 

 彼女は微笑みながら再び口を開いた。

 

 

「鏡先輩ですよね! お願いします! わたしにギター教えてくださいっ!」

 

「え、なに急に……というか眩し」

 

 

 綺麗に腰を折ったままなのに、なぜか後光が差している名前も知らない後輩の姿に困惑したままの僕を置き去りにして、彼女は矢継ぎ早に言葉を継いだ。

 

 

「あの実はですね。あ、わたし一年の喜多っていいます! よろしくお願いします」

 

 

 どこか聞き覚えのある名前だった。 

 

 

「は、はぁ。まぁ、なにをどうよろしくすればいいのかわからないけど、よろしく……」

 

「それでですね。話すと長くなるんですけど、とりあえず二週間後にライブに出ないとならなくてですね」

 

「はぁ……」

 

 

 僕はとりあえず喜多さんがなぜギターを教わりたいか、彼女の話を聞きながら頭の中で整理していった。

 

 発端は喜多さんにとって気になる人がバンドメンバーを募集してて、ボーカルとギターの枠に喜多さんが応募したのが始まりだった。喜多さんはボーカルは問題なくこなせるということだったが、つい勢いで全く経験がないのに「ギターもできます」と名乗り上げてしまったそう。でもその気持ちはなんとなくわかる気がする。気になる相手にはいいところを見せたいものだ。本題はここからで、早速楽器店に行ってギターを買ったまではいいものの、いくら練習しても上達の兆しが見えないらしい。

 このままだと喜多さんのいう気になる人やバンド自体に迷惑がかかる。でもギターはいつまでたっても上手くならないし、どうしようかと考えていたところ、ギターを弾いてる僕の姿を発見した、というのが一連の流れだった。

 

 

「うーん。期限、二週間後か……」

 

「はい……」

 

「現時点でどれくらい弾けるの」

 

「いや、それがまったく……」

 

「え、まったく?」

 

「はい、まったくですごめんなさい」

 

「そ、そう」

 

 

 本当に申し訳なさそうに目線をそらす彼女を見て、たぶん限りなく初心者に近いんだろうなと予想をつける。

 それに教えるにしても、僕自身にも問題があった。

 

 

「そもそも僕独学だし、人にギター教えたこと一回もないんだけど」

 

「そこをなんとか!」

 

「うーん……あ、話変わるんだけど、喜多さんってもしかしてだけど部活ってやってる? 例えばバスケとか」

 

「え? んー部活には入ってませんけど、助っ人としてはよく声をかけられますよ」

 

 

 喜多さんは首をかしげて、不思議そうにこちらを見た。

 

 あぁ、絶対この人だ。噂になってる人。

 さっき喜多という名前を聞いて思い出したが、クラスメイトがなにやら話していた気がする。特に女子バスケに入っている佐々木さんが逸材を発見したとか話していた。その人の名前が確か喜多だった。話を聞く限りだと、ほかの部活にも声がかかってるらしい。

 なんでそんな人が、楽器をやってる親しい友人とかじゃなく、わざわざ学校の敷地内の隅にいる僕に頼んできたのかが気になる。

 裏があるような気がしてならない。

 

 ちらりと彼女のほうを見る。

 

 

「うぅ……」

 

「……」

 

 

 わずかにうめきながらも藁をもすがるような必死さでこちらに視線を送る喜多さんの姿が目に入る。とても断れそうになくて、今日初めて会う自分も彼女がなんで人気者かが身をもって分かった気がした。

 

 

「はぁ、わかった。いいよ。僕でよければね」

 

「ほ、ほんとですか」

 

「うん。ほんとほんと。」

 

「わぁ……! ありがとうございます!」

 

 

 彼女の笑顔はあまりに眩しすぎて、僕は無意識に明後日の方向にそらした。

 それを咎めず、喜多さんはそのままの調子で言った。

 

 

「あ、でも今日はギター持ってきてないので、明日からってことになっちゃうんですけど……」

 

「いいよ、それでも。僕は昼ならここにいつもいるから、喜多さんの好きな時に来ればいい」

 

「わかりました! それじゃあ、鏡先輩……いえ、師匠! また明日!」

 

 

 軽快な足取りで走り去る足音が聞こえ、僕がその方へ顔を向けたときにはすでに彼女の姿はなかった。

 

 

「……いや、師匠て」

 

 

 まるで嵐が過ぎ去った軌跡を追いかけるように、僕は彼女が行ってしまった方向を眺めた。

 師匠なんて呼び方をされたのは初めてで、自分はその言葉に釣り合うほど技量があると自負しているわけでもない。

 でも胸裏ではそんな不足だらけの自分に対する嫌悪ではなく、掴みどころのないもやもやとした感情が渦巻いていた。居心地が悪くて、かぶりを振る。

 

 

「帰ろ」

 

 

 時計を見やれば、休みが終わるまでまだ十数分は残っていた。いつもだったら時間ギリギリまでここにいるが、なんだか今日はどうにもこのまま練習する気にもなれなかった。ギターをケースに収納し、譜面や筆記用具など使ったものを手提げに無造作に放り込む。ケースを背負って、校舎玄関へ向かう。校舎裏を抜ければうっとおしくなるほどの強い日光が当たった。目を顰める。今日は快晴。雲もなく、風もない。雀が気持ちよく青空を横切って、どこかの木の実でも啄んでそうな長閑な日だ。

 僕はため息をついた。

 

 

「教則本、どこにしまったっけな」

 

 

 囁く程度につぶやいたその言葉は、驚くほど自然にでた。

 

 

 




なお、筆者はギター初心者とする。


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下手でもいいよ

自分、引くくらい遅筆なので投稿した翌日とかに次話書ける人尊敬してます。
あと誰かが作った作品のキャラの口調をまねるというのも非常に難しいものがありますね。特に拙作では喜多の特徴の一つである「~だわ」「~のね」といったちょっと上品な言葉が、先輩と後輩という設定上登場させづらく(というかない)なっているのが辛いです。


 綺麗な音だった。

 中学生の語彙力では、あのギターの音をなんて言い表したらいいかわからなかった。

 もしかしたらわたしだけが『綺麗だ』なんて思っていたのかもしれない。きっとこれが当たり前の、ありふれた演奏なのかもしれない。そんなことを考えていた。

 ただ……音が鳴りやんだ時、あの人がひどく落ち込んでいた様子をわたしはなぜか覚えていた。

 まばらな拍手が教室に響く中、わたしも遅れて拍手をした。

 そうしてからその人に声をかけた。

 正直どんな感じだったか、もう忘れちゃった。その時はただ話しかけるだけだというのにひどく緊張してたのは覚えている。

 

 

「もう、終わっちゃうんですか?」

 

 

 黙々と片づけを続ける背中に向かって、言った。

 手を止めたその人は一瞬ちらりとこちらに視線をよこして、けれどまた作業を始めた。

 

 

「そうだよ。もう終わり」

 

「あの、さっきの演奏とっても綺麗でした」

 

「きれい? あれが? ……まぁお世辞でもうれしいよ」

 

「お世辞なんかじゃありません」

 

 

 心の底に溜まっていたものを口に出した。思っていたより声が張って、ちょっとだけ恥ずかしくなった。彼は依然と背中を向けたままだ。でもさっきと違って手が止まっていた。わずかに声量を抑えて、彼に言った。

 

 

「わたし、ギター弾いたこともないし、知識があるわけでもないんですけど、それでもこう……悲しさというか、それでも優しさがあるというか……そういうのが伝わってきて、でも音は柔らかくて……」

 

「……」

 

「え……っと、そう! だから」

 

「もういいよ」

 

「いえっ、でもわたしはほんとに」

 

「だからもうわかったって。これ以上無理して言ったら君がパンクしそうだ」

 

 

 軽く声に喜色を滲ませながら、その先輩は言った。それから片付け終わったのか、ようやくこちらに顔を向けた。

 濃縮した青を思わせる黒い髪に、物憂げな表情。口元は薄く笑みを浮かべている。彼のことを見ていると、自然と安心してくる。

 

 

「君は……見学もかねて秀華祭に?」

 

「あ、はい。えと、それがなにか?」

 

「いや物好きだなって思ってね。あぁ悪い意味じゃないんだ。ただその、うちはほら、出し物としては結構特殊じゃない? 他に行ったほうがここよりもっと楽しめる場所もあるし、わざわざここに来る人なんてあんまりいないんだよ。特に学生は」

 

「まあ、そうかもですね」

 

「楽器弾ける人がこのクラスには多くてさ、それでミュージックバーをやろうってことになったんだ。楽器ができる人は楽器を弾いて、逆にできない人は飲み物だとか食べ物を作る調理班と別れて。で……やったはいいけれど、中身はごちゃごちゃだ。ロックをやるやつもいれば、無難にジャズをやるやつもいて、そんな奴がいるからそれで僕みたいなソロギターをやるやつも現れてくる。負のサイクルってやつだ」

 

 

 彼は諦めたように笑い、けれどそこにはやっぱり優しい色が混ざっていた。

 わたしは辺りを見回した。客入りが少ないからか、そもそもがこんな雰囲気なのか、いろんな人が笑いあっていた。

 楽器を弾いていたもの同士で集まって反省会をしている人も、料理のトッピングを失敗してしたことを話題に盛り上がっている人たちもいる。

 

 ――この人はここよりも他の場所に行ったほうがいいって言ったけれど、ここはここで楽しい場所じゃない?

 

 

「先輩」

 

「うん?」

 

「楽しければ、それでいいんだと思いますよ」

 

「……うん、違いないね」

 

 

 そうして先輩がまた笑った。今度は心の底から楽し気に。

 そんな彼を見て、わたしもまた笑った。やっぱり楽しいのが一番だ。

 

 そのすぐ後に、一緒に来ていた友達からのメッセージで、わたしたちははぐれていたことをようやく思い出した。探そうと思ったときに先輩のギターの音が聞こえてここに来たことも思い出した。

 ……もしかしてこれ、結構探されてる感じかしら。

 だとすると急いだほうがいい。手早く互いの大体の位置を共有して、友達の元に向かう。

 

 

「はい、これあげる」

 

 

 唐突に蓋のついた紙コップを渡される。さっきの先輩だった。

 

 

「えぁ、どうも……ってこれってここで売ってるやつじゃ……?」

 

「いいよ、感想くれたお礼ってことで」

 

「いやでも……」

 

「……実はレモネードの人気があまりなくてさ」

 

「?」

 

「みんなコーラだとかサイダーだとかを選んでいくんだ。それに、メニューにある材料、飲料水全部なくなったら、どうやら担任がハーゲンダッツを買ってくれるらしいんだ。それもここのクラス全員分」

 

「へぇー! いいですね!」

 

「でしょ? だからそれを達成するために、ぜひ貢献してくれないかな?」

 

 

 ……ずるい先輩だ。この人には打算があって、けれどそれは決して人を傷つけはしない。この話が仮に嘘だとして、一体誰が傷つくんだろう。そうなったとしても、それは些細なものなんじゃないかと思う。

 わたしはレモネードを受け取った。

 

 

「しょうがないですね!」

 

 

そんなことを言うと、やっぱり先輩はにこりと笑った。

 

 

 

 

「あっ、喜多ちゃんいたー! もう探したんだからぁ……」

 

「いやーごめんごめん。でもそっちからはぐれたんじゃないの?」

 

「えーそんなことないよー」

 

「ほんとかなぁ?」

 

「ていうか喜多ちゃんずるいよ! なに飲み物手に持ってるの!? こっちは真剣に探してたのに……ってあれ、喜多ちゃん顔赤いね。走ってきたの?」

 

「へっ? いや、そんなことはないけど……」

 

 

 ……あの先輩のことを思い出した。

 優しい笑み、それでいて気高ささえ感じたあの黒い眼差し。

 そのことを考えると、なぜか喉が渇いてレモネードをストローに口をつけて飲む。

 冷たい、それでいて甘く、どこかすっぱい。清涼感のある後味が、喉を潤す。

 これが人気がないっていうのは、やっぱり嘘っぽく、けれどそれを否定することはできなかった。

 レモネードを飲みながら、あの先輩がいた教室の方角に視線を向ける。当然ながら見えないけれど、もし……もしまた会えたら。

 

 

「……ふふ」

 

「? どうしたの? 喜多ちゃん」

 

「なんでもなーい!」

 

 

 わたしはあの先輩の名前をまだ知らなかった。

 そしてあの先輩も、きっとわたしの名前を知らないだろう。

 けれどそれは些細な隔たりで、偶然校舎を歩いていたときに聞いただけだったけれど。

 あの音を、忘れるはずはなかった。間違えるはずがなかった。

 ……わたしのことを覚えてなさそうなのは、少し残念だったけれど、だからこそ、それでも。

 ギターをやるからには、あの人から学びたかった。

 あの音の傍らで、ギターを弾いてみたい。

 

 レモネードの味を覚えたあの日に、わたしはきっとそう思ったんだと思います。

 

 

 

*   *   *

 

 

 

 

 翌日の昼。喜多さんは昨日とは違い、ギターケースを背負ってやってきた。場所はもちろん校舎裏。今日も晴れてはいるが、日の光はここには差していない。

 

 

「師匠! ギターもってきました」

 

「あのね、喜多さん。昨日言いそびれちゃったんだけど、その師匠っていうの、やめない?」

 

「え? 嫌でしたか?」

 

「いや、嫌っていうか……もともと誰かに教えられるほど僕はギター極めてないし」

 

「そんなことないですよ! 師匠ギター上手じゃないですか」

 

「また師匠って、あぁもういいや。喜多さんの好きに呼んで」

 

「というか、それをいうならなんで師匠はわたしのことさん付けで呼ぶんですか? 呼び捨てでもあだ名でもいいんですよ? 喜多とか、キタキターとか」

 

「なぜ苗字限定なんだ……さん付けで呼ぶのは癖なんだ。許してくれ。あ、そういえば喜多さんの名前ってなんていうの?」

 

「え゛、えっと」

 

「噂程度に聞くのはいつも喜多って苗字だけだったからさ。まあ、でも噂ってそんなもん……ってなんか、大丈夫?」

 

「だ、だいじょうぶで、はい……名前のことは勘弁してくださいお願いします……」

 

 

 途端に顔色が変わり、気のせいか焦っている風にも見えた。都合が悪いのか、どちらにせよ詮索はしないほうがよさそうだ。明らかに顔の輪郭が顔面が崩壊しかけていってて、なんだかとても怖い。名前がよほど痛い名前なのか、少し、いやだいぶ気になるが今後のことを考えるとこの話はしばらくしないほうがいいと直感的に思った。

 

 

「あ、あー。とりあえず、僕が持ってるギターの教科書みたいなやつを貸すよ」

 

「でも、練習しないと時間が」

 

「わかってる。本をゆっくり読む時間なんてないのはわかってるよ。だからなにか困ったら開けばいい。コードがわからないときに引く辞書みたいな、そんな軽い認識でいいよ」

 

 

 喜多さんはケースを静かに地面に下し、僕は持ってきたバッグから教則本を何冊か彼女に手渡した。

 

 

「わかりました。あ、あと一応当日やる譜面も持ってきたんですけど」

 

「見せて」

 

 

 彼女が持ってきたのは知らない曲だった。歌詞はない。インストバンドとしてやるつもりらしい。スマホで検索してみると、明るい曲調で決して遅い曲ではないことがわかった。使われているコードも初心者が弦を押さえて弾くには少々難度が高いものがちらほらとあった。

 

 

「ど、どうですか? わたしに弾けそうですか」

 

「難しいかもね」

 

「がーん……」

 

「でもコードはやりようによって簡略化できるし、曲の速さもバンドの人に頼んで遅くしてもらえればいい」

 

「それってわたしがギターできないのバレちゃうじゃないですかー」

 

「二週間でギターができたら誰も苦労しないでしょ」

 

「うぅ、おっしゃるとおりです」

 

 

 喜多さんは過去の発言を悔いて、落ち込んでいる様子だった。しかし数秒後にはまたこちらに真剣な眼差しを向けてきた。

 

 

「師匠は、どう思います?」

 

「どうってなにが」

 

「その、できるっていったのに、それが、その」

 

「予想を下回ってたとき?」

 

「はい。幻滅されちゃうかなーって」

 

 

 力なく、彼女は弱々しく笑った。

 喜多さんが心配していることは容易に想像がつく。音程が狂ったギターを携えて、指はもたついて碌なリズムも取れない奏者なんて誰も見たがりはしないだろう。いくら優れたアーティストが武道館とかでライブをしようが、ゴスペルやバックダンサーが下手だったら観客はがっかりする。台無しだと怒り狂う人もいるだろう。

 でも、そういう彼らの彼らなりの努力の跡が見つかれば話は変わってくると僕は思う。

 

 

「がっかりは、ちょっとするかもね」

 

「ですよねー……」

 

「でも、まだ決まったわけじゃない」

 

「え?」

 

「喜多さんの演奏が下手だと決めるのは喜多さん自身じゃない。演奏を見に来た人たちだ。確かに二週間でこの曲は君には難しいと思う。喜多さんが思い浮かべるすごい演奏は、たぶんできない。けど気落ちするのは早いんじゃない?」

 

 

 一息ついて、柄じゃないなと心の中で呟く。

 

 

「喜多さん。下手でもいいんだ。世界で誰よりも自分は下手だと思うといい」

 

「だ、誰よりもへた……」

 

「間違えてもいい。止まってもいい。弱音でもなんでも言えばいい。でも目標から目をそらすことはしちゃだめだ。そしてそれに向かうことも。って僕の父さんの言葉なんだけどね」

 

「……はい」

 

「二週間後のことなんて、当然誰も知らないけれど、少なくともそこそこの演奏はできるんじゃない?」

 

「あ、そこはそこそこなんですね」

 

「喜多さんは自分が天才だと思う?」

 

「あ、いえ……下手くそです……」

 

 

 数秒彼女の瞳を見た。そこに影は一切なく、澄んだ色をしていた。なんだか気恥ずかしくなって、適当に手元の自分のギターを見やる。そうすると喜多さんの笑う声が隣から聞こえた。

 

 

「ふふっ。そうですね。よしっ。やりましょう! 師匠! リョウ先輩を落とすためにっ!」

 

「いや声でかいって」

 

 

 いきなり大声を出すものだから、背中がびくついた。まぁでも、喜多さんが元気になったのならいいかななんてことも考えてたら、怒る気力なんてさらさらなかった。

 

 

「じゃ、とりあえずギターだして。とりあえず曲にでてくる一通りのコード教えるよ」

 

「お願いします。あ、師匠って放課後も時間空いてます? そっちでも教えてほしくて」

 

「乗りかかった舟だし、いいよ。場所はどうしよう……ん?」

 

 

 喜多さんの手によって開けられたケースの中には、黒を基調にされスタイリッシュな形をした、六つの太い弦が綺麗に張ってある――

 

 

「……ベース?」

 

 



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過ぎた話、昔話

話の展開遅すぎてもはや笑えてくる


「……ベース?」

 

「え?」

 

 

 一瞬不穏な空気が流れる。少なくとも、僕にはここがいつも以上に空気が重く、影が濃いように錯覚した。実際それは勘違いで、一回目を閉じて再び瞼を開けばそこはいつもの景色だった。

 ただ、変わらないものも当然あった。目の前にあることだけが真実だった。

 

 

「やだなー師匠! ちゃんと見てくださいよ! ほら、弦がちゃんと六本あるじゃないですか。ベースは弦が四本のやつでしょ? それくらい知ってますよ!」

 

「……喜多さん、世の中には色んなことを考える人がいるんだ。それこそ、ベースの弦を通常より多くしたり、例えば、六弦にしたりね」

 

「……」

 

「……」

 

 

 僕が黙っていると、朗らかだった喜多さんの顔はどんどん真顔になっていき、目に見えて狼狽え始めた。僕をからかっているようでも、ふざけているようにもみえなかった。

 

 

「う、嘘ですよね?」

 

「それはこっちが言いたいセリフなんだけど?」

 

 

 誰がギターの教えを受けに来た人が多弦ベースなんて持ってくると思うだろうか。

 

 

「ふ、ふふ。お父さんにお小遣いとお年玉2年分前借りしたのに……」

 

 

 隣で喜多さんが膝から崩れ落ちる。声には覇気がなかった。こっちはこっちで考えていた今後の予定が一気に瓦解して、顔をしかめるほかなかった。いまだに立ち直れていない彼女の姿を尻目に、当日演奏する譜面にもう一度目を通す。

 ギターが無ければ話にならない。二週間という限られた時間の中で一日を無駄にする余裕なんてない。喜多さんがどの程度弾けるのかをまだしっかりと確認していないため何とも言えないけれど、反応を見る限りあまり過度な期待はしないほうがよさそう。様々な要因を天秤にかけて、一つ方法を思いついた。

 ただ、正直のところ解決できる確率は低い。それでも十分賭けてみる価値はあった。

 

 

「ねぇ、喜多さん。今日の放課後空いてるって言ったっけ」

 

「あぁ……わたしのじゅうまんえん……」

 

「いや君そうとう貰ってるな。羨ましい……じゃなくて、放課後! おーい、喜多さーん?」

 

 

 いくら呼び掛けてもうわ言のようになにかを呟くだけだった。一生エラーメッセージを出し続けるプログラムを見ている気分だ。一生そのままは困るけど、どうすればいいかわからないから是非自力で立ち上がってほしい。できれば昼休み中に。

 喜多さんが元に戻るのは時間がかかりそうだったから、僕はギターを弾くことにした。いつも練習している譜面を取り出そうとして、やめた。

 

 

「たまには、いいか」

 

 

 手に取ったのは喜多さんが当日弾く、僕の全く知らなかった曲。ペラペラとめくってだいたいの曲の流れを掴む。目を閉じて、指板を想像する。三フレット、五フレット、七フレット。印をつけていく。コードの指使いを想起し、それを指弾きでやるにはどうするかを決める。ストロークはしない。いくら校舎裏とはいえど、うるさいものはうるさいし、迷惑になる。いつもどおりアルペジオで。テンポはもう少し落とそう。一四〇、いや少し速く、一五〇。うん、これくらいがいい。

 目を再び開け、ストラップを肩にかけてギターを構える。さっき思い浮かべたとおりに指を動かし、旋律を作り上げる。アレンジはいらない。ただ忠実に、決められた指の動きで譜面が指示する通りに音を運んでいけばいい。

 最後の一音を弾き終えたころには、すでに喜多さんは復活していた。

 

 

「……やっぱりすごいのね、師匠」

 

「すごくないよ。喜多さんも続けてればできる。……やっぱり?」

 

「ううん。なんでもないの」

 

 

 喜多さんは少しはにかんだ様子で、けれどこちらをまっすぐと見つめていた。

 

 

「まぁ、いいや。で、さっきも訊いたんだけど」

 

「放課後のこと? 大丈夫ですよ。質屋ですか? ほとんど新品同様だから買取の値段は大丈夫だと」

 

「いや、僕の家」

 

「…………へっ?」

 

 

 

 

 放課後、担任の話を適当に聞き流し、号令が終わると同時に鞄と教室の後ろに置いておいたギターケースを担ぐ。

 

 

「あれ? 鏡帰るの? いつもは教室でギター弾いてくのに」

 

「あー、その、母さんが体調悪くてさ」

 

「そっかー。じゃまた明日ねー」

 

 

 クラスメイトたちには適当な嘘をでっちあげ、足早に廊下を歩く。果たしてあの嘘がいつまで持つかは正直考え物だった。五日くらいはいけるだろう。だが一週間程度ともなると影が差し始める。一口両舌ともいうし、この二週間は気を付けて生活していったほうがよさそうだ。

 玄関口につくとスマホに喜多さんから通知が入っていた。「すぐもどる!」という猫のスタンプが送られていた。

 

 

「……今更だけど、なんで喜多さんは僕なんかに師事しているんだ?」

 

 

 特に僕のことを師匠と呼んでることが発覚したら、もしかしなくても秀華高の学生に消されるのではないだろうか。そんな気がしてならなかった。

 

 

 

*  *  *

 

 

 

 時間はほんの少しだけ巻き戻り、喜多さんが一回再起不能になって、そこから復活したあとから話が始まる。

 

 

「あっ、あの、わたしたちそういうのは早いというか……あはは」

 

「……あ、ごめん。変な意味じゃない。ただ家に喜多さんに貸すギターがあるかもしれないからさ。ちょっと付き合ってほしいってこと」

 

「え、でも師匠が今持ってるそのギター借りちゃダメなんですか?」

 

「これはアコースティックだからなぁ……音がほかの楽器の音でかき消されちゃうんだよ。ライブハウスで、特にバンド組んでロックとかやるんだったらまず使わないから。だから喜多さんに必要なのはエレキギター、それを探す」

 

「なるほど、わかりました! じゃあ放課後に校門前集合で! あ、でもそのまま行くと荷物多くなっちゃうかしら……」

 

「そう、だな。なら一回家に置いてくればいい。僕はここで待ってるよ」

 

「え、いいですよ。師匠のいるクラス教えてくれたらそこ行きますよ?」

 

「いややめてくれ頼むから。理由は聞かないで、校舎裏集合で頼む」

 

 

 学内で人気者の彼女が、いつも昼に校舎裏でギター弾いてる僕みたいな人間を尋ねてきたときには、二度とあのクラスに居られなくなる。とりあえず面倒なことしかならないのは簡単に想像できた。意図せずに喜多さんの後ろに広がる空を見る。快晴とはいかないが、今日も青空が映えるいい天気だった。

 

 

「……もしかして師匠、いや、やっぱりなんでもないです」

 

 

 一瞬だけ彼女の目が不安げに揺れる。

 

 

「え、なに?」

 

「でも師匠は一人じゃないので!」

 

「うん? まあ、そう、だね……」

 

「困ったことがあればなんでも言ってくださいね! わたし、力になるんで!」

 

「ありがとう……? でもなんの話?」

 

 

 疑問符を浮かべる僕をそのままに、僕と喜多さんは連絡先を交換し合って、後で落ち合う約束を取り決めた。喜多さんの目がより力強く、同時に優しく感じたことだけが、気になった。

 

 

 そんなこんなで、僕は校舎裏でギターを弾き、何年も頭を悩ませている譜面を演奏し、やっぱりできなくて青空を眺めたり、そんなことをしていると喜多さんがやってきた。

 

 

「よし、行こう」

 

 

 声をかけると小さく、けれどしっかりと頷いた。

 

 

「で、なんで裏門からでるんですか?」

 

「だってすぐ出られるし」

 

 

 周りに喜多さんと一緒にいるところ見られないから。そのことはなんだか言うのは憚られた。幸いなことに僕の家は学校からさほど離れていない。遅くても三〇分はかからないし、信号に引っかからなければ二〇分程度で着くときもあるくらいだ。

 

 

「……そういえば師匠って、なんでいつも校舎裏にいるんですか?」

 

「え、ギター練習したいからだけど」

 

「でもそこまでするって、プロでも目指してるんですか?」

 

 

 隣を歩く喜多さんの目を見る。綺麗な瞳だった。言葉が詰まる。

 

 

「……いいや。そんな高尚なことじゃないさ。ただの償いだよ」

 

「償い?」

 

「小さいころ、父さんがよく弾いて聞かせてくれた曲があってね。それが忘れられなくって、再現しようと頑張ってるところ」

 

「……それって償いなのかしら?」

 

 

 償いだよ、僕にとってはね。そう返して立ち止まった。数秒遅れて喜多さんも止まった。目の前の信号は赤だった。

 

 

「僕は小さいころひどく病弱でさ。夏には風邪をひいてたし、一年の終わりにはインフルエンザを毎年のようになってた。でもなんでかな、自分が風邪をひいてるってことを認めたくなくてさ。しょっちゅう体調が悪いことをごまかして学校に行ってた。だから授業中に倒れたりなんてことが結構あって」

 

 あのころの僕は本当にバカだったと思う。下手したら死んでもおかしくなかった。保健室の天井は飽きるほど眺めた記憶がある。当時の先生は気が気でなかっただろうし、人の迷惑なんてものを軽く捉えていた。

 

 

「特にひどい日があってさ。その日は早退することになって、保健室で寝たまま父さんが来るのを待っていたいんだ」

 

「優しいお父さんね」

 

「あぁ――結局来ることはなかったけどね」

 

「……え」

 

「交通事故でさ。きっと疲れてたんだろうね。信号無視、居眠り運転のトラックが対向からやってきて、それで」

 

 

 即死だったらしい。僕は言伝としてでしか知らない。ただ、その道は当時その小学校の通学路にされていたから、僕はそのあとも何度も通った。最初は嘘だなんて思った。昨日まで何事もなかったかのように元気だったから。きっと何かの冗談だと、一か月くらいは信じなかったと思う。

 本当にそうなんだなと思ったのは、勝手に父の部屋に入って勝手に父のギターのチューニングを狂わせたときだった。ペグを滅茶苦茶に巻いたり、逆に弛ませたりした。いつもだったら聞こえる声がいつまでたっても静かなままで、そのときようやく認めることができた。

 

 

「あ、その……ごめんなさい。わたし、そんなつもりじゃ」

 

「なんで喜多さんが謝るの。いいんだよ。もともとこっちが勝手に話し始めたことだし、もう過ぎたことだから」

 

「もしかして師匠のギターって」

 

「うん、父さんの。今、というかずっと練習している曲も父さんのでさ。()()()演奏できるようになるのが目標なんだ」

 

「それが、償い?」

 

「うん、償い」

 

 

 喜多さんはいまいち要領を得ないように首を傾げた。確かに、今の話だけではわかりはしない。そういう風に話した。これ以上彼女と話しているとすべてを打ち明けてしまいそうで怖かった。僕にだって話したくないことはあるし、今回はそれを守ったに過ぎない。それにわざわざ暗い話を続けるわけにもいかない。

「この話はまた今度ね」そう言って適当に切り上げた。

 

 

「それよりもっと楽しい話をしよう。そうだな、喜多さんの憧れの人の『リョウ先輩』の話なんてどう?」

 

 

 昼に声高に叫んでいたときの記憶を思い出して、そのことを聞いた。

 

 

「リョウ先輩の話ですか!? わたしいくらでも話せますよ!」

 

「秀華高の人?」

 

「いえ。たしか下北沢高校っていってました」

 

「うわ、進学校か。頭いいんだね。でもどこで出会ったの」

 

「リョウ先輩が路上ライブをしてるときがあって、そのときに一目惚れしてしまって!」

 

「へぇ、一目惚れなんて運命的だね」

 

「師匠もわかってくれますか!? ちょっと浮世離れしてる雰囲気とかユニセックスな見た目とかもう何もかもキャー! って感じで!」

 

 

 熱心に語る彼女の話に耳を傾ける。多分喜多さんのことが気になってる人がこの話を聞いたら気絶しそうだな、なんてことを考える。そういえばクラスにも何人かいたな。喜多さんのこと気になってるやつ。そのうちさりげなく励ましてやろう。

 

 

「反対に師匠って誰かいないんですか? 気になってる人とか」

 

 

 しばらくして落ち着いたのか、そんなことを尋ねてきた。

 

 

「うーん、今は、あんまり」

 

「今はってことは昔はいたんですね!?」

 

「いや近い近い」

 

 

 急に顔を近づけてこないでほしい。心臓に悪い。

 

 

「そもそも、あの頃は好きっていうか、うーん。傷の舐め合い?」

 

 

 ちょうど父さんを亡くして、塞ぎこんでいた時期だ。無気力のまま学校に行って、ずーっと窓の外ばかりを見続けて、チャイムが鳴ったら帰る。その日の話の内容なんて全く覚えていなくて、まったく意味のない日々を送っていた。

 でもある日、そう、たしか……席替えをしたタイミングだった。隣になった女の子がやけに積極的に話しかけてくれた。その子も母親を同じく交通事故で亡くしていて、シンパシーを感じた。席が隣だったことも相まって、自然と彼女と一緒に過ごすことが多くなった。互いの大切な家族との思い出を語り合うのが大半だったけど。

 

 僕がそんな彼女に恋をしていたのかというと、正直わからない。彼女と中学が分かれたとき、微かな寂しさを覚えた。けれどそれは「さようなら」の一言の挨拶で済むくらいの、しょうがないものだと思えた。

 

 彼女に恋をしていたというより、楽に話せる友達みたいな、気軽な関係のように僕は捉えていた。どちらにせよ彼女がどこに行ったのかすらわからない今、会える可能性は限りなく低いだろう。

 でももう一度話してみたい気はする。今でも時折、金色の髪をした人を見かけると目で追ってしまうのがその証なのだろう。

 

 

「なんか特殊な恋愛ですね!」

 

「だから別に付き合ってないし。小学生の時の話だよ」

 

「もっと話聞いてみたくなりました!」

 

「喜多さんは恋愛話が好きなんだね」

 

「はいっ! すごく!」

 

「まぁ、気が乗ったらね」

 

「それ話さないやつじゃないですか」

 

「内容のないことばっかりだったし、そもそもそんな覚えてないから。それに」

 

 

 僕は立ち止まる。喜多さんとの会話は苦ではなかった。時間が経つのは早い。

 

 

「もう着いちゃった」

 

 

 僕はドアの前に立ち、鍵穴に鍵を差し込んだ。ドアを開ければ見慣れたローファーが綺麗に揃えられているのが目に入る。いつものことだ。そのはずなのに、僕はすっかり失念していた。

 

 

「あぁ、しまったな」

 

「え、どうかしたんですか?」

 

「妹が帰ってきてる」

 

「? なにか都合が悪いんですか?」

 

「少し面倒になるかも」

 

「どういう意味です?」

 

 

 そうこうやり取りをしているうちに、リビングのほうから足音が近づいてくる。あまり振動を感じない、静かな足音だ。

 完全に判断が遅れたことを微かに後悔し、けれどもう手遅れだということを受け入れて廊下とリビングを隔てているドアに向け目を閉じる。

 面倒なことになりませんように。おそらく叶いそうにない願いを祈る。やがてドアが開き、色白な肌と腰ほどまで伸びる黒髪が視界に入る。

 

 

「あ、兄さんお帰り……って、え?」

 

 

 一瞬こちらをみるも、すぐに視線は横に移動した。すぐに顔色は驚愕に染まり、僕は案の定ささやかな祈りが受け入れられなかったことを悟る。

 

 

「……意外と似てないのね」

 

 

喜多さんのそんな声が空白の空間を埋めた。

 

 




次くらいにはバリバリ話を進めていきたいところ


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大切なもの

 僕には妹がいる。名前を鏡杏(かがみあん)。正直に言うと、僕はあまり妹が好きではない。

 といっても、別に難があるわけではない。今彼女は中学三年だが、成績優秀者であるし、たぶん僕よりも頭がいい。性格は謹厳実直。間違ったことは何でも正したがる、いわゆる優等生だ。

 ただ文武両道というわけではなく、こいつは恐ろしく体力がない。僕も男子の中ではあまり体力の多いほうではないが、準備運動をしただけでぶっ倒れたことを聞いたときは何かの冗談かと思った。

 杏のことが少し苦手なのはもっと深いところに理由があるが、今はそれは重要じゃない。さらに重要なこと、それは。

 

 

「なあ杏、そろそろ中入りたいんだけど」

 

「だ、だだダメですよ! なに平然とした顔で彼女さん連れ込もうとしてるんですか! というかいつ彼女なんてつくったんですか兄さんは!」

 

「だから彼女じゃないって何回も言ったろ」

 

 

 色恋沙汰に耐性がないというか、なさすぎるというか。たいていこういう類の話に触れるときは杏の思考は簡単に停止する。何を言っても聞かないし、そもそも聞く耳がどっかに行ってしまっている。こういうときは無理やり強引にいくのが一番手っ取り早い。

 

 

「喜多さん、行こう」

 

「え、でも」

 

「ほっといていいよ、そいつ」

 

「と、通しませんよ! どこに行こうっていうんです」

 

「父さんの部屋」

 

「――」

 

 

 杏が口を閉ざす。一瞬の空白が生まれた。

 

 

「なおさら無理です。行かせられません。それにあそこは今はお母さんの部屋です。お母さんから入るなと言われているの、忘れましたか」

 

「いいや? でも必要なんだ。あそこにあるものが。それに杏には関係ない」

 

「関係ないって……家族じゃないですか」

 

「父さんのことをほとんど覚えてないくせによく言うよ。そんなお前が母さんの言う通りにしてるのも納得できるな」

 

「それは……」

 

「もういい」

 

 

 言葉に窮する杏の姿をみていると段々といらだち始めているのが自分でもわかった。こんな問答に時間をかけている場合ではない。喜多さんの腕を掴んで玄関を上がろうとする。

 でも、それは叶わなかった。

 

 

「喜多さん?」

 

 

 彼女は静かに僕の手を振り払った。

 

 

「ご、ごめんなさい。()()、ちょっと、怖いです」

 

「っ……そう」

 

 

 喜多さんは強張り、間違いなく怯えた表情をしていて、僕はそんな初めて見る彼女にひどい罪悪感を覚えた。

 

 

「……一人で行くよ。喜多さんは適当に待ってて」

 

「あっ、ちょっと兄さん!」

 

 

 えも知れない痛みから逃げるように、僕は玄関を上がり、二階へと続く階段を上る。後ろから杏の声が聞こえてきたが、やがてとまった。

 父さんの部屋の前に着く。鍵なんて立派なものはなく、ただドアノブを引けば簡単に中に入ることができる。ここに入るのは本当に久しぶりだった。小学生以来、だろうか。

 この部屋のほとんどは母の私物が置かれているが、ギターは処分の仕方がわからないと言っていたから、おそらく見つかるだろう。クローゼットを開けると、いくつものギターケースがあった。十個はある。本当に手が付けられていなかった。

 

 

「……仕方ないか」

 

 

 部屋の隅に転がっていたアンプを近くに寄せ、左端から順にケーズを開けていく。

 弦がさびていない、エフェクターを使っても全く問題のない、なるべく綺麗なエレキギター。もう使われなくなり、碌な手入れもされていないギターにそれを求めるのは、いささか酷な気がした。

 

 

 

*   *   *

 

 

 

 喜多郁代は少しだけ、ほんの少しだけここに容易に来てしまったことを後悔した。玄関で立たせたままも悪いということで、師匠としている優の妹である杏にリビングに通された。「適当にかけてください」と言われ、内心遠慮はしたもののここまで来て座らないというのも失礼なんじゃないかと思い、椅子に座った。

 なにより杏からの圧力が強く感じられ、郁代は自身の思考が窮屈になるのを実感した。ただ、その視線に攻撃性はなかった。こちらを窺うような、少し警戒の混じったものではあったが、居心地の悪い程度のもので済んでいた。

 

 

「なにか飲みます?」

 

「あ、お構いなくー……」

 

 

 すっごく気まずい。笑顔を浮かべることを意識しながら、郁代はそう思わずにはいられなかった。ここに来るまでの師匠の話から、家庭に関する事情が深いのは薄々感づいてはいたが、知ってしまったからこそどう接すればいいかわからなかった。

 運ばれてきた紅茶に口をつけ、なるべく音を立てずに一連の動作を行う。緊張のせいで動きは普段よりぎこちなかったが、味はとても美味しかった。机を挟んで対面に杏が座る。

 

 

「……そういえば自己紹介がまだでしたね。わたしは鏡杏といいます。好きなように呼んでください。先ほどは見苦しい姿を晒してしまってすみませんでした」

 

「あ、ご丁寧にどうも……喜多です」

 

「喜多先輩は、兄と同学年で?」

 

「いや、わたしが一年で」

 

「あぁ、なるほど……」

 

「はい……」

 

「……」

 

 

 杏は可愛いという顔立ちではなく、どちらかというと美人寄りの独特な華やかさが感じられた。目鼻立ちが整っていて、それが余計に近寄りがたさを生み出していた。

 

 

「喜多先輩は、その。兄とお付き合いなさってるんですか?」

 

 

 まだその話引きずってたんだ。

 

 

「いいえ。ししょ……先輩とわたしの関係は、そうね。わたしが一方的に悩みを聞いてもらったというか、相談したというか、そういうところから始まったから」

 

「相談、ですか」

 

「あー、えっと」

 

 

 郁代はここまでのだいたいの話の流れを搔い摘んで伝えた。諸事情でバンドに参加することになって、そのためにギターをやることになった。しかし自分はあまり得意ではないため先輩にギターを教えてもらうことになったこと。

 急遽ギターが必要になってここに来たことまで話したが、ベースとギターを間違ったことは話さなかった。あれは幾代にとって黒歴史として刻まれつつあった。

 

 

「なるほど、それで。たしかにギターはありますけど、一応父のものなんですよね」

 

「先輩からお父様のことを聞いたわ。そんな人のギター、ほんとに借りていいのかしら」

 

「……え? 喜多先輩、兄から父の話をお聞きになったんですか?」

 

「そ、そうだけど」

 

 

 杏はしばらく考える様子を見せた。俯き、何度か頷いて、ため息をついた。再び顔をこちらに向けると、そこには微かに諦めと、安堵の色があった。

 

 

「兄は父の話を滅多にしないんです。誰でも話すわけじゃない。現にわたしにも一度だって父のことは教えてくれません」

 

「どういうこと?」

 

「昔の記憶がないわけじゃないんです。ただ父は兄と過ごすことが多かったので、まだ幼かったこともあり、兄と比べるとわたしは父との記憶があまりないんです。」

 

 

 兄みたいに、いつもギターを弾いていたことは明確に覚えてますけど。そう言って彼女は優しく笑った。それは年相応の柔らかいもので、親近感のわくものだった。

 

 

「兄が喜多先輩に父のことを話したのは、少なからず先輩のことを信用しているんじゃないかと思うんです」

 

「信用……」

 

「……わたしじゃ、その役割は務まりそうにないので」

 

「杏さん……」

 

 

 浮かべる表情は仄暗い。そこには簡単に埋めることのできない溝が垣間見えた。先ほどの師匠の杏に対する態度は棘があった。てっきり郁代は兄妹仲が悪いものと思っていたが、こうして杏と話してみると、そう一言で済ませられるものでもないような気がする。   

 なんにせよ、わからないことだらけでどうしようもなかった。

 だから郁代は精一杯の笑顔を浮かべることにした。

 

 

「大丈夫よ、杏さん! 師匠もきっといつか話してくれるわ! 会って数日のわたしに話してくれたんだもの。大丈夫よ」

 

「喜多先輩……そうかもですね」

 

 

 彼女はふふっと軽く笑った。わずかに陰はあるものの、幾分か調子を取り戻したように郁代には見えた。

 

 

「わたし、今年で受験生なんです」

 

「あ、三年なのね」

 

「はい。なので、秀華高校のこと教えてください。兄は話したがらないので」

 

「うん、うん! もちろん! あ、ロイン交換しようよ!」

 

「はい、いいですよ」

 

 

 二人はお互い譲り合うように会話をしていった。中学三年と高校一年。年としてみればその差異はわずかではあるものの、軽く触れれば消えるような壁があるわけではない。ぎこちないながらも、郁代は最初のような気まずさはとうに払拭されていることにふと気が付く。

 ようやく、ふわりとした笑みを浮かべる少し大人びて見える目の前の少女が、身近な存在に感じられた。

 

 

「そういえば喜多先輩、さっき師匠って言ってましたけど、まさか兄さんの事ですか?」

 

「そうだけど……」

 

「もうすでに師弟関係結んでるんですか!? 喜多先輩、兄さんはそんなできた人間じゃないですよ!? 料理は全くできないし、部屋はいつも汚いし、いつもほとんど外でギター弾いてるだけなんですよ!」

 

「あ、あはは……」

 

 

 『少し面倒になるかも』。そう苦い顔をしながらぼやいた師匠の顔を思い出した。

 確かに、これはちょっと面倒かも……。世の中の兄妹ってこうなのかしら。

 

 

 

*   *   *

 

 

 

「喜多さん」

 

 

 階段を下りて、リビングのドアを開ける。なるべく急いだつもりだった。というのも、さすがに見ず知らずの妹といきなり一緒にされるのは誰だって気まずいと思ったからだ。てっきり空気が死んでいるものかと確信に近い予想をしていたのだが、目の前の光景はそれを裏切るものだった。

 

 

「あ、はい。じゃあまたね、杏ちゃん」

 

「はい。喜多先輩」

 

 

 朗らかに笑いあう二人。特に杏なんかは家だとほとんど笑う姿を見ないため、驚いて一瞬だけ硬直してしまった。いつの間にか近くに来ていた喜多さんが不思議そうにこちらを見ていた。

 

 

「? どうしました、師匠?」

 

「あ、あぁいや、なんでもない。ほらこれ」

 

 

 ケースを開けてみせると、綺麗に整備された木目のギターが姿を現した。何もかもが完璧で、これを見つけたときは奇跡とでも思ったほどだ。なにせケースに入ってたほとんどがアコースティックだったり、少し使うにはメンテナンスが必要なエレキギターばっかりだったから、正直探している途中に諦めかけた。

 

 

「……ありがとう、師匠」

 

「うん」

 

 

 それだけを交わした。たったそれだけで十分だった。その言葉だけで喜多さんの覚悟が伝わってきたから。それから僕は玄関で喜多さんを見送った。さようなら。また明日。ありきたりな言葉で、彼女と別れた。

 

 

「兄さん、お母さんには……」

 

「僕が勝手に入った。そう言えばいいだろ」

 

「でもそれだと兄さんが悪いみたいじゃないですか。喜多先輩のことを話せばきっと」

 

「変わらないよ……なにも。部屋に戻るよ。母さんが帰ってきたらまた出かける」

 

 

 話を切り上げて自室に向かう。階段を登りきるまで杏の視線はずっと感じていたが、話しかけられることはなかった。

 部屋の床に散らばる譜面を避けながら、埃っぽいベッドに背中を預けるように倒れる。スプリングが反発して、ギシギシと音が鳴る。天井を見つめながら、喜多さんのことを考える。これでやっと練習を始められる。というか、今日の様子を見た限りだと喜多さんは家に帰ったらもうやってそうだ。

 この後は母さんが帰ってきたら、入れ替わるように公園に行く。そこでギターの練習をする予定だ。偶には別の公園にしようか、なんて考えてみるけど、結局いつもどおりの近所の公園にすることに決めた。

 

 

「がんばれよ、喜多さん」

 

 

 ひと眠りするために、目を閉じる。外はまだ明るいけれど、だんだん暗くなり始めていて、簡単に暗闇が訪れた。

 その中で、疑問に思う。

 僕はどうして、こんなに喜多さんを助けているんだろう? あぁ、でもどうでもいいか。そんなこと。

 喜多さんの笑顔が脳裏に浮かんで、それだけですべて許せてしまえた。

 

 

 

 

 目が覚めると、あれから一時間程度時間が過ぎていた。部屋から出て、一階の音に耳を澄ませる。妹と、母さんの声だ。今日は帰ってくるのが早い。多分夕食でも取ってるんだろう。

 部屋に戻り、少し厚着をする。ギターケースを背負って、二人にばれないように外出する。

 

 街灯がつき始めた薄暗い街は、いつになってもどこか心がざわつく。決して治安が悪いわけではないが、昼と全く違う顔を見せ始めることに、僕はどこか怖いのかもしれない。

 家々に埋もれ始める夕焼けを見やりながら、目的の公園につく。当然人の気配はない。いつもは遊具で遊んでいる子どもも、それを見守る大人も、今は明かりの灯る家の中で団欒をしている。

 公園の中央付近、街灯下のベンチに座り、黙々と準備を進める。

 四月とはいえ、日が落ちるとなるとやはり寒くなる。けれどそれをやめる言い訳にはしない。譜面を横に置き、いつものようにギターを弾く。近所迷惑にならない程度に。

 

 

「……ダメだ」

 

 

 何回も繰り返し、その度にため息をついて、気が付いたころには手が冷え切っていた。

 僕に、ギターの才能はない。それを最近になって強く思うようになった。公園内にある時計を見れば、七時を指していて、周りはとうに暗かった。

 

 

「九時前には帰るか」

 

 

 補導されるのも面倒だし。しばらく手を温めて、弾けるようになったらまた再開しよう。

 何気なく上を見上げて、なんとか星が見えないか探してみる。東京の空は曇ってばかりで、見つけられたとしても綺麗とは言えないだろうけど、待つ時間にやることとしてはちょうどいい。

 

 そういえば、こういうことを誰かとした気がする。

 星のことすら何もわからないのに、黙って空を見上げ続ける、生産性のないことを。

 

 

「……優くん?」

 

 

 目の前を向くと、暗闇でもわかる、眩い金色の髪を揺らす少女がいた。思わず目を見開く。彼女の姿のどれもが、見覚えがあったから。

 言葉を失う、とはこのことを言うのかもしれない。

 かけるべき言葉を、僕は数秒経ってようやく探し出せた。

 

 

「久しぶり、伊地知さん」

 

 

 星を一緒に眺めたのは、彼女が最初だった。

 



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旧友

皆さんは21日の一挙放送みましたか? 
自分はというと見逃した民です……ストラトでハラキリショーでもしようかなーって一瞬思うくらいにはショックでした


 ――ひび割れている硝子みたい。まだ幼かったわたしは鏡優のことをそう言い表すことしかできなかった。ひび割れたガラス、というのもほとんど何となくの印象というか、彼がいつも窓を眺めている姿から連想しただけに過ぎなかった。

 けれど、案外それは外れていないような気がした。

 ボールが少しでも衝撃を与えれば、あるいはちょっとした風が横に吹けば、彼は瞬く間にどこか教室ではないどこかに飛んでいってしまう。そんなことを彼の姿を見るたびに思ってしまっていた。

 一日中窓の外に視線を向け、黒板には見向きもせず、そんな彼の周囲に人はほとんどいなかった。いや最初はいたんだ。彼がそうしている理由を、噂程度には知ってしまっていたから。

 

 『鏡優が風邪を引いたから父親は死んだ』

 

 それを口にする者はいなかった。だが、少なからず信憑性があったのも事実だった。同時に彼がそうなってしまうのも無理はないと、心の中で当時の誰もが思ったはずだ。

 その証拠に誰もが彼のことを心配し、慰めの声をかけた。当たり前ではあるが、決して彼を貶す人はいなかった。

 だが彼は、優くんはその一切に反応しなかった。

 曇りだろうが、雨だろうが関係なかった。彼はずっと窓に視線を向けるだけだった。

 

 石像のように、ずっと遠くを見つめていた。

 

 次第にみんなは優くんのことを気味悪がるようになった。腫れ物に触れるように一人、二人と近づく人がいなくなり――残ったのはわたしだけになっていた。

 席が隣ということもあったから、話しかける機会だけはあったのだ。

 でも、わたしはどんな言葉をかけていいのかが、それだけがわからなかった。慰めの言葉なんて、ただ辛いだけだ。だって、わたしがそうだったから。

 結局なんにも思いつかずに、宿題のこととか、今日の給食は何だろうとか、薄っぺらい会話しかしなかった。当然、優くんには無視された。

 

 だけどある日、あることをひらめいたのだ。今でも覚えている。あれはまさしく天啓だった。その日は誰よりも早く帰って、家でギターを弾いていたお姉ちゃんにこう言った。

 

 

「お姉ちゃん! 今度のライブのチケット、もう一枚ちょうだい!」

 

 

 間の抜けた顔をして、でもなんやかんや渡してくれたチケットを机の引き出しに入れて、その日になるのを今か今かと待った。

 

 

 待って、……待って、――待ってっ!

 

 

 そしてその日の下校時に、先に帰り始めていた背中を追って回り込んで、わたしは優くんの手をつかんで、言ってやった。

 

 

「優くん! ライブ! 行こうっ!」

 

 

 ってね。

 

 

「…………は?」

 

 

 久しぶりに聞いた声はひどくざらついていて、でもなぜかほっとした。

 無理やり彼を引っ張って、お姉ちゃんのライブを見て、お姉ちゃんのギターが鳴りやんだとき。

 わたしにだけ囁くように、こう言った。

 

 

「僕、お父さんみたいにギター弾いてみるよ」

 

 

 その瞳は透き通るように黒く、やっぱり触れてしまえば壊れてしまうような危うさがあって。そんな目にわたしの姿が映っていた。

 なぜだか恥ずかしくなって、心臓が張り裂けそうで、けれど目をそらすことはできなくて。

 

 

 たぶん、そのときにわたしは、優くんのことが好きになったんだと思う。

 

 

 

*  *  *

 

 

 

「……懐かしいな、伊地知さんのパワープレイ。うん、覚えてるよ。あのとき割と抵抗した記憶があるんだけど、お構いなしに引きずられた」

 

「そんなわたし怪力じゃなかったよ!?」

 

「え、じゃあ今は……」

 

「昔も今も違うよ! え、なに優くんわたしのことずっとそう思ってたの?」

 

「あ、バレた?」

 

「~っ。も、もう! からかってるでしょ!」

 

 

 約五年ぶりにもなる伊地知さんとの会話は、驚くほど昔の調子を残したまま交わすことができた。距離を確かめ合う間もなく、ごく自然に彼女と合わせることができ、やりづらさとか気まずさとか、そんなことは感じなかった。

 伊地知さんはここ近くのスーパーに寄っていたらしく、帰りにこの公園を通りかかったところ、たまたま僕を見つけたと言った。僕の隣に座り、肩から下げていた買い物バッグを下す彼女に向けて、「なんだか主婦みたいだね」なんて冗談交じりで言ってみた。少し強めに背中を叩かれた。

 

 

「ギター、随分上手になったじゃん」

 

 

 と彼女が言った。僕はそれに軽く笑った。

 

 

「比較対象が古いだけだよ。最後に君の前で弾いたのは小学六年のときでしょ。最近は全然上手くならない」

 

「ううん。そんなことないよ」

 

「そうかな」

 

「うん。そうだよ、きっとそう」

 

 

 そうだといい。そうならいい。根拠のない言葉だ。なにより自覚している。自分のことは世界でだれよりもわかっている。

 それでも、今だけは彼女の言葉に身を任せようと思った。せっかくの再会で、意固地に単なる事実を語って、子どものような言い合いをしたくはなかった。

 僕は軽く頷いて、笑って見せた。伊地知さんもまた笑い返してくれた。

 

 

「わたしね、実はバンド組んでて」

 

「へぇ、君のお姉さんと? いいね」

 

「あ、ううん。お姉ちゃんはもうバンドやってないんだけど、代わりにスターリーっていうライブハウスを運営してて。それで、今度わたしたちがそこで演奏するわけでして……」

 

 そこまで話すと、伊地知さんは一回話を止めて、少し悩む素振りをみせてから再び口を切った。

 

 

「優くん! バンドに入ってギターやってくれない?」

 

 

 伊地知さんは急に立ち上がって、こちらに手を合わせてきた。突然のことだったから、しばらく体が硬直した。

 

 

「え、なにギターいないの? ていうか君がギターじゃないの? お姉さんもギターだったよね」

 

「いや~、実はわたしドラムで……ベースは問題ないんだけど、ギターの子とは一回も合わせとかしたことなくて。できればもう一人ギターが欲しいなー、なんて」

 

「……それって大丈夫なの?」

 

「正直に言うとかなり不安。ライブまで結構近いし」

 

 

 伊地知さんは困ったように頬をかいた。苦笑いを浮かべる彼女の顔は少し無理をしている風だった。

 ギターとしてバンドに入ってほしい。それが正規としてなのか、臨時としてなのか分からなかったけれど、どちらにせよ彼女の願いに僕は意外と前向きに考えていた。せっかくこうして再開したんだし、そんな人から一つや二つ頼まれることは苦であるどころか、嬉しいまであった。

 頷こうとして――ふと喜多さんの顔が頭をよぎった。

 

 

「……」

 

「優くん?」

 

「ごめん、やっぱり断っておくよ」

 

「……そっか。ごめんね、無理言っちゃって!」

 

「そもそも僕ソロギターしかやったことないし。あまり力になれなさそうだな。それに直近でやることがあるんだ。後輩にギターを教えなくちゃいけない」

 

「え、なんか珍しいね。優くんがそういうことするの」

 

「そうかもね。自分でもちょっとおかしいとは思ってるんだ。……伊地知さんのライブには行くよ。ぜったい」

 

「うん。ありがと」

 

 

 太腿の内側で温めていた手はとうに感触が戻っていた。それでも僕がギターを弾かないでいたのは、まだ伊地知さんと話していないことがあって、それを切りしていないがためのもどかしさみたいなものが胸の奥でずっと詰まっていたからだった。

 気恥ずかしくて、何度もためらう。

大したことではないのかもしれないけれど、僕にとって伊地知さんは恩人みたいなもので、でもだからこそ面と向かって伝えなければならないとずっと思っていた。

 

 

「伊地知さん。ありがとう」

 

「え?」

 

「あのとき、僕をライブに連れて行ってくれて。ずっと外を見続けることしかなかった僕を、連れ出してくれて、ありがとう。君がああしてくれていなかったら、僕は多分ギターどころか、色んなものを取りこぼしてしまっていたと思う」

 

「――」

 

「本当は、もっと前に言うべきだったんだろうけど。ずっと君に言いたかったんだ」

 

「……わたし、迷惑じゃなかったかな」

 

「そんなことはないよ」

 

「そっか」

 

「うん」

 

 

 二人しかいない公園では、僕たちの声が小学生の囁き声みたいに響いた。街灯の光がスポットライトみたいに僕たちを照らし、お互いの顔は見えづらい。そもそも今は彼女の顔を見れそうになかった。

 伊地知さんが座っている方向とは逆のブランコを眺めて、静かに熱が冷めるのを待った。彼女も僕に話しかけてくることはなく、さわさわと夜風にそよぐ木々の葉の音が聞こえてくるだけだった。

 名前も知らない鳥の鳴き声が聞こえた気がして、その方向にある木に視線を向けたとき、携帯の聞き覚えのない通知が鳴った。

 

 

「あ、お姉ちゃんからだ。……『早く帰ってこい』だって」

 

「もう暗いしね。せっかくだし送るよ」

 

「お、じゃあ荷物持ってもらおうかな~」

 

「いいよ。なんか筋トレの邪魔して悪いね」

 

「だから誰が怪力ゴリラだ!?」

 

「いや冗談だし、そこまでは言ってないけど……」

 

 

 伊地知さんと一緒に公園をでる。途中で連絡先を交換したり、他愛のない会話をして、駅までの道を一緒に歩いた。人一人の半分もない間隔で並んで歩いていると、昔を思い出す。変わったのはいつの間にか伊地知さんのことを見下ろすような背丈になったことくらいか。

 やがて視界に入る明かりが増え、人通りが多い駅前で僕たちは立ち止った。

 

 

「ライブ、絶対行くよ」

 

「まあ、過度な期待はしないでくれると助かるんだけどねー。でもありがとう」

 

 

 またねと軽く手を振って僕は来た道を帰ろうとすると、わずかに後ろに引っ張られる感触がした。

 

 

「伊地知さん?」

 

「……まだ、夢は叶ってない?」

 

「……うん。情けないことにね」

 

「そっか……」

 

 

 正直、伊地知さんが僕の夢を覚えてくれていたことに驚いて、内心とても嬉しかった。

『父さんの演奏を完全に再現する』。それを最初に話したのは彼女だったし、その夢を馬鹿にもしなかった。

 彼女は俯いて、その表情はうかがえなかった。よく見ると服をつかんでいる指が微かに震えていた。伝えたいことがあるのだろうと思って、しばらく彼女のつむじを眺めていた。いつもは跳ねている髪がおじぎをするように垂れていた。

 じっと見ているといきなり伊地知さんは顔を上げた。さすがにデリカシーがなかったと内心で後悔して、少しだけ彼女の視線から目を逸らした。

 

 

「だ、だったらさ。いつかわたしにも手伝わせてよ、優くんの夢」

 

「え? いや、でも」

 

「いいの、わたしがやりたいだけだから! それじゃね! ()()()()()スターリーで!」

 

 彼女の後ろ姿を、呆然と見送った。有無を言わせない勢いに押されてろくな返答もできずに、僕はせいぜい肯定とも嘆息ともつかない情けない吐息をもらすことと、人に埋もれ行く背中に向けて弱々しく手を振ることしかできなかった。

 

 

「帰ろう」

 

 

 空回りしていた思考を無理やり口にだした言葉で再起動させる。

 帰り道、僕は下を向きながら伊地知さんの帰り際の言葉について考えていた。僕の夢を手伝ってくれる。彼女はたしかドラムをやっていると言っていた。伊地知さんがどんなドラムを叩くのか、実力すらも知らない。だけど彼女が後ろで演奏を支えてくれる。その姿を想像してみる。

 

 

「――悪くない、かな」

 

 

 帰ってからも彼女が言ってくれた手伝いという言葉に夢膨らませ……だから僕が違和感に気がついたのは明日の朝だった。

 なかなか寝付けなくて寝覚めが悪い。今日は太陽は出ていない、少し曇りの日だ。雨が降らなければいい。じゃないと練習がしづらくなる。あぁ、そういえば喜多さんともやらなくちゃいけない。もうすでに本番まで二週間は切っているはずだから。

 そこまで考えて、やっと。

 

 

「……二週間後の、ライブ?」

 

 

 奇妙な一致に、歯を磨いている鏡の中の自分は首を傾げた。

 




感想もらえてニヤニヤしてました。とても嬉しかったです。
自分結構ほかの方々と比べてみて、ギャグ路線は少なめで行こうと思ってるんですけど、ぼっちちゃんの生態がマジで地球外生命体なんでどう扱ったものか、困ってます。


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旅立ち、または君が一歩を踏み出す話

正直、書きたかった話の一つではある。喜多郁代が逃げなかった、もう一つの世界線。
基本自分は書きたい場面が点々としか浮かばないので、その話に至るまでの連結が本当に壊滅的です。


「ねぇ喜多さん、今更なんだけど君が入ったバンドってどんな名前だっけ」

 

 

 昼休み、僕はFコードを押さえることに苦労している彼女にそう尋ねていた。一弦一弦を慎重に弾いている。指のフォームはあってるのになぜか音が鳴らないことに、音を上げそうになっていた。僕にもあんなときがあったな、なんてふと思う。

 

 

「あれ、そういえば言ってませんでしたっけ。えーっと、ちょっと()()な名前なんですけど……」

 

「……うん」

 

「その、結束バンドっていいます」

 

「……そっか……いや、そっか」

 

 

 道理でなんか変な予感がしたんだ。昨日の時点で気づくべきだったんだろうけれど。

 そっと視線をスマホの液晶に落とす。伊地知さんとのデフォルメされたメッセージの吹き出しを上から順に、確認してみる。

 

 

『スターリーって場所は調べてわかったんだけど、君の入ってるバンドってどんな名前?』

 

 

 これが僕。送信したのは朝で家を出る前くらい。そこから何時間か経って、今さっき昼休みが始まったくらいに返信が来た。

 

 

『けss』

 

 

 なんか暗号が返ってきた。なんだ『けss』って。とりあえず普通に彼女の安否が気になったので『大丈夫?』と返すと、すぐに『友達にスマホ奪われてた』と返事が返ってきた。

 それからやたらと『この名前わたしが考えたんじゃないから』とか『実際変えたいと思ってて』とかいって予防線を張ってきて、やっと答えてくれた。

 

 

『結束バンドです……』

 

『まぁ、いい名前だね』

 

 

 うん……そういう路線で行くんだね、伊地知さん。まぁでも覚えやすいから意外といい名前なのかもしれない。

 つい適当に返事をしてしまって、でも正直さっきのやり取りで疲れたからもうこれでいいやと思いながら、ポケットにしまったのが教室をでる前のこと。

 校舎裏にたどり着くまでやたらと通知が鳴っていたので、何事かと思って取り出したのが今の現状だ。不思議なことに伊地知さんからのメッセージは一つもなくて、多分誰かと間違って送ったんだなと勝手に予想をつけた。

 それよりもっと大事なのは喜多さんがその結束バンドに入っている事実のほうで、期日までにギターの腕をそれなりにしておかないと伊地知さんにも迷惑がかかる。事情を話そうにも、喜多さんは例のリョウ先輩にギターが弾けないことが判明するのを恐れてる様子だし、伊地知さんにだけ話しても何の解決にもならない。

 つまるところ、僕一人で喜多さんの技術を上達させるしかなかった。というか思っていた以上に責任重大な立場になっていた。

 

 

「はぁ……」

 

「あ、師匠―! 今、音出ましたよ! Fコード弾けましたよー」

 

「喜多さん」

 

「はい!」

 

「ごめんね、たぶん滅茶苦茶スパルタにいくと思う」

 

「え」

 

「指の皮剥けるかもしれないけど痛くなっても頑張ってね。あと譜面は明後日までには覚えて、ゆっくりでいいから一通り弾けるようになってくれてると嬉しいな」

 

 

 許してくれ、喜多さん。友人の面目を保つためなんだ。

 

 僕の言っていることがようやく飲み込めたのか、あるいは考えることをやめたのか、彼女は笑顔のまま硬直してしまった。

 

 

「固まってる暇あるなら、練習しよっか」

 

 

 心を鬼にして、僕は喜多さんにデコピンをした。

 

 

 

*   *   *

 

 

 

 あのあと喜多さんは一週間かけて、ほとんど完璧に本番に演奏する曲を弾けるようになった。喜多さんは一週間もかかってしまったことを謝っていたけれど、こちらとしては一週間であの無茶をこなせたのが驚きだった。

 もちろん原曲通りのスピードでは無理だが、ゆっくりなら一曲弾き通せるポテンシャルを喜多さんは短い期間で培ったのだ。何も至らないところなんてないし、むしろ誇るところしかない。

 ただすべてが順調なわけではなくて、コードチェンジがたまに間に合わない箇所があったり、改善の余地は十分にある。

 それでも、喜多さんは十分すぎるほどに上手くなった。誰も彼女が二週間前にギターを始めた初心者とは信じないほどに。

 

 ……ということを僕は何分も喜多さんに説明していた。

 五月九日。端的に言うならエックスデー。こうして話している場所も今日の目的の場所のライブハウスSTARRYへと続く階段の上だった。

 

 

「自信持ちなよ。喜多さん。君は正直僕の想像以上のところまでいったよ」

 

「うぅ、でもですよ……わたしゆっくりでしか弾けなくて、リョウ先輩に幻滅されるんじゃないかと思うと……」

 

「気持ちはわかるけどさ」

 

 

 なんか今日の喜多さんやりづらいな。こんなにナイーブな人だっただろうか。

 俯いたままの彼女をそっと見やる。表情は見えない。けれど簡単に想像できる。手先は震えている。それは決して寒いからではなく、喜多さん自身の感情の揺れ動きから来ているものだ。恐怖と使命感。今の彼女にあるのはそれだけだ。

 

 

「……喜多さん、ギターは重い?」

 

「え?」

 

「君がギターと間違えて買ったベースを持ってきた日、貸したギターだよ。まさに今背負っている。それが重いかと訊いてるんだ」

 

「……重い、です」

 

「だろうね。なら教えてあげようか、それが軽くなる方法を」

 

 

 階段下の暗闇の中で怪しく発光し続ける『STARRY』の文字を見つめる。それ以外に光は何もない。陽光すらも途中で途切れていて、圧迫感すらある。見る人が見れば、非現実の空間のようにすら思えるだろう。

 僕は暗闇のその先を見据えて、彼女に言った。

 

 

「一つは、今僕にそのギターを返して家に帰ること」

 

 

 隣からひゅっと息が詰まる音が聞こえた。

 

 

「この場合、君はいろんな心配から解放される。ギターは最悪バンドに頼んで僕が弾けばいい。誰かと合わせて演奏するなんて久しぶりだけど、少なくとも喜多さんよりかは上手くやる自信がある。あぁ、別に僕は怒ったりしないよ。ギターを突き返されても、二週間練習に付き合ったことをなかったことにされても。ただ、君の言うリョウ先輩のことはわからない。怒るかもしれないし、今後君とは連絡は取らないかもしれない」

 

「……」

 

「二つ目は、いる?」

 

「……いいえ。いらないわ」

 

 

 喜多さんは大きく深呼吸をしてから、そう答えた。

 それからゆっくりと、地下への道を歩みだした。ぎこちなく、緩慢に。けれどしっかりと、確かな歩調で。彼女はゆっくりと階段を下りていった。

 日向と日陰の境目のところまで下りると、喜多さんはおもむろにこちらを見上げるように振り返った。

 

 

「師匠って、いじわるなのね」

 

 

 優しく笑って、それだけを呟いて。彼女はドアの開閉音とともに暗闇の向こうへ消えていった。

 僕はそっと息をついた。

 結局のところ、本当にあの緊張から解放されるのは一つしかない。ステージに立って、自分の信じるギターをかき鳴らすしか方法はないんだ。今までの自分を信じて、一瞬の迷いも見せてはならない。ことこういうことに関しては、緊張は鎖で毒だ。泥沼のように思考は鈍り、実力は落ちる。

 喜多さんはまだ一歩を踏み出したに過ぎない。もしかしたらステージでも失敗をするかもしれない。憧れているリョウ先輩にも、もしかしたら呆れられるかもしれない。

 今回、喜多さんが選んだのは間違いなく苦しいものだったと思う。

 けれど僕は彼女が一つ目の選択肢を選ばなかったことにひどく安心したし、なにより嬉しかった。

 

 今日、一人のギタリストが生まれた。

 それが僕は果てしなく――嬉しかったんだ。

 

 

 

*   *   *

 

 

 

 チケット購入が可能になるにはまだ結構な時間があったので、一人手頃な公園を見つけに散策をしていた。実をいうと僕は公園が結構好きだ。静かなところだとなおいい。家族のことを気にせずにギターが練習できるというのは言わずもがなだが、寂れた遊具に囲まれた中でいると同族意識のようなものが働いて、非常に落ち着くという理由もある。クラスメイトや伊地知さんにも話したことはあるが、今のところ誰一人として理解者は現れていない。

 歩きながら今日のライブのことを考えた。喜多さんにはできるなら成功といえる演奏をしてほしい。二週間前の自分と比べて、どれほど成長したかを実感してほしい。

 伊地知さんに関してはどんなドラムを叩くのかが気になる。てっきり僕は彼女のお姉さんと同じギターを選んでいると思っていたから、きっと伊地知さんなりのドラムの魅力を見つけて、それを感じさせる演奏をするんじゃないかと密かに期待している。

 

 

「そういえば、師匠役もこれで御免か」

 

 

 青空を見上げ、なんとなしに呟く。軽く口から出たわりに、次第にその言葉は重みを増していった。

 寂しくないといえば、嘘になる。でもわざわざ喜多さんに言うことでも、お願いすることでもない。「できればこれからも僕の弟子でいてください」なんて弟子に頼む師匠が一体どこにいるのか。

 

 そんな頭の片隅にあったどうでもいいことを掘り起こしながら何の変哲もない住宅街を歩いていると、ポツンと取り残されたように小さな公園が姿を現した。砂場とブランコ、鉄棒とすべり台にベンチが二つ。あとは一つだけ奇を衒ったのか回転式のジャングルジムがこの公園の存在を主張するかのように中央にあった。

 人は少ない。入口から入ってすぐ左のベンチにスーツを着た男性が一人。ブランコにピンクの見覚えのあるジャージを着てギターケースを背負っている女子高生が一人。よくよく見ると自分が通っている秀華高の指定のジャージだった。どことなく表情が暗く、なんかショックなことでもあったのだろうかと邪推する。

 一瞬二人分の視線を感じたが、かまわず左奥、すべり台の隣のベンチに腰掛ける。いつも通りギターを取り出し、いつも通りに練習をする。わかり切ってはいたことだが、もちろん納得のいくものではなかった。けれどいつもとは違う場所で久々に弾いたから、なんとなく清々しい気分ではあった。

 ノートを取り出そうとすると、まばらな拍手が聞こえてきた。視線を向けると先ほどのスーツの男性と、いつの間にかやってきていた男性の家族であろう女性と幼い女の子が僕に送ってくれていた。

 笑って軽く会釈をすると、男性はもう一度軽く頭を下げ、二人と一緒に公園を後にした。こういうことは何回かあって、最近はもう慣れてしまった。

 僕ももうそろそろライブハウスのほうに向かおうか。

 ゆっくりと片付けをして、ベンチから立ち上がる。背伸びをして、固まっていた肩をほぐす。

 

 

「あっ、あのっ!」

 

 

 振り向くとブランコに座っていた少女が立ち上がって僕のほうを向いていた。

 

 

「あ……あ……あっ……」

 

「……」

 

「カッ……」

 

「……か?」

 

「……や、やっぱりなんでもないですはい」

 

 

 彼女はそう言って顔をそらした。女子高生というには挙動が不審で、どう見てもなんでもないという言葉に信憑性は全くなかった。

 とりあえず僕は公園を出ようとしていた足の向きを変え、ブランコのほうへ向かうことにした。ブランコの周りを囲う柵の外で立ち止まり、なるべく警戒させないように笑って見せる。

 

 

「どうしたの? なんか道に迷ったとか?」

 

「……あ、いやそういうのではないん、ですけど」

 

「そうなんだ。えっとそれじゃあ……んー人間観察?」

 

「……えっと」

 

「あ、違う?」

 

「は、はい」

 

 

 とりあえず女子高生が公園で一人でいるそれっぽい理由を適当に上げてみる。彼女の様子を見る限りだと、話すのが苦手なようだったからなにか切り出せるきっかけになればいいと思ったんだけど、失敗に終わった。

 最初に見た彼女の顔といい、明らかなにかに悩んでそうだったし、可能なら力になってあげたかった。いつもだったらこうは思わないはずなのだが、彼女の姿を見ていると無性に自分を閉ざしていたときの昔の自分を思い出してしまう。

 話題に悩んでいると、彼女は自信なさげに声を震わせて口を開いた。

 

 

「あっ、あの! カナリヤさん、だったり……」

 

「え、いま、なんて」

 

「あそうですよね人違いでした申し訳ありませんでした!」

 

「あっ! ま、待って!」

 

「ぴぃ!?」

 

 

 逃げ出そうとする名前も知らない彼女の肩を掴む。僕は必死だった。最も憧れていて、けれどきっとたどり着けないと思っている人の名前が聞こえたから。僕は彼女の口からどうしてその名前が出た理由を知りたかった。

 『カナリヤ』は、父さんが動画投稿をしていたときのチャンネルの名前だった。

 

 

「君の、話を、聞かせて」

 

 

 青ざめる彼女を連れ戻し、僕たちは二人ブランコにそれぞれ座った。

 どこか苦し気に軋む音が、鼓膜を震わせた。

 

 




おまけ ~ある日の下北沢高校~


「虹夏、どうしたの」

「わたしはどうしてあのバンド名をもっと必死で止めなかったのかと後悔しているところ」

「なんで? 覚えやすいじゃん」

「そこは同意するけどそれだけじゃん……あーなんて送ったらいいの……」

「普通に送ればいい。別に恥ずかしいことはなにもない」

「いや恥ずかしいよ!? 絶対寒いって思われるから!」

「……で、誰に送るの」

「あー、昔からの友達でさ。最近たまたま会って、今度のライブ来てくれるっていうから、それで」

「ふーん……調子がいいのもそのおかげ?」

「えー、そう? 普通だと思うよ」

「虹夏、顔赤いよ。ごまかし方下手」

「へっ?」

「隙あり」

「えっ、あっ、っちょ、リュウ! スマホ取るな!」

「えーっと『結束バンド。わたしが考えて』……」

「なななにを打ってる!? 返して!」

「虹夏やめて、ひっぱらないで。まだ途中」

「やめてはこっちが言いたいよ!? いいから! はやく! 返して!」

「うぐっ! 首っ……にじか、これしまって……」


奮闘の結果 「けss」


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桃色孤独少女

感想、誤字脱字報告ありがとうございます。
本当に助かっています。


「あの、これよかったら。さっきは肩掴んで本当にごめん」

 

「あ……いえ……おかまいなくー……」

 

 

 遠慮する桃色の髪をした彼女に、近くの自販機で買ってきたお茶を半ば強引に渡す。さすがに初対面の人にするようなことではなかった。ブランコには背後の建物の関係で日陰になっていて、そこに座って俯いている彼女の顔は当然のように窺うことができない。それがより僕に自責の念を抱かせた。

 黙って隣の空いているブランコに座り、言葉を探す。

 

 

「……あぁ、自己紹介がまだだったね。僕は鏡優。秀華高校の二年」

 

「あっ、えっと……秀華高校一年後藤ひとり、です」

 

「よろしく、後藤さん」

 

「はひっ……ヨヨ、ヨロシクオネガイシマス」

 

 

 俯いていた視線をこちらに若干向けて、彼女は片言で挨拶をしてくれた。明らかに委縮していた。僕は貧乏ゆすりをする要領でブランコを軽く漕いだ。同じ高校に通っていることを伝えれば多少は緊張がほぐれるかと思ったが、それはどうやら失敗らしかった。

 

 

「……カナリヤは、その……僕にとって師匠みたいな存在でさ。ずっとあの人に憧れてギターを続けてきたんだ」

 

「そ、そうなんですね」

 

「うん。だから、後藤さんがさっき『カナリヤみたい』って言ってくれたこと。嬉しかったんだ。ありがとう」

 

「いえいえいえっ! そ、そんなことは……」

 

「それでも、ありがとう」

 

 

 僕は一回深く息を吸い込んで、吐いた。

 

 

「僕は、カナリヤに似てたかな?」

 

「それは……はい、弾き方とか、タイミングとか……動画で見た通りだったと……はい」

 

「……そっか」

 

 

 ――よかった。本当に。

 

 心の底から、そう思う。

 僕は、鏡優のやってきたことは、きっと無駄じゃない。

 

 

「……でも」

 

「ん?」

 

「あっ、いいいえ、なななんでもありません……ほんとに」

 

「そ、そう……」

 

 

 後藤さんが勢いよく首を横に振る。そのまま取れてしまいそうで、少し心配になった。僕は小さく囁いた彼女の言葉をもう一度拾い上げようとしたけど、それ以降口を閉ざしてしまった。

 

 

「後藤さんはさ、なんか悩み事でもあるの?」

 

「え?」

 

「いや、僕がこの公園に来たときから顔暗いし。なんか悩み事でもあるのかなって」

 

 

 同じ高校のよしみで話くらいなら聞くよ。そう言うと、彼女は少し言い淀んで、けれどぽつぽつと話し始めた。

 

 

「じ、実はですね……学校もう行きたくないなって」

 

「それは、どうして?」

 

「……バンドを、やりたかったんです」

 

「バンド」

 

「はい……でもわたし根暗でコミュ障だし、話しかけること、できなくて。ギター持ってきても、誰も話しかけてくれなくて」

 

「うん」

 

「ほんとはわかってるんです。自分から動かなきゃって……でも」

 

「……そっか」

 

 

 後藤さんの声は少し震えていた。彼女から視線をずらすと手提げには多くの缶バッジがつけられていて、彼女なりにアピールした痕跡があった。それは痛々しくもあり、同時に後藤さんの勇気の証なんだろうと思った。

 残念ながら僕は彼女にかける言葉を持っていない気がした。僕はバンド自体をやったことはあれど、そもそもバンドを組みたいと思ったことはない。ほぼ半強制的に入れられたようなものだし、僕は基本ソロギターしかしない。

 彼女の気持ちはわかる。けれど、それを口にする権利は僕にはない気がした。

 

 

「……」

 

 

 ふと、喜多さんと伊地知さんのことが頭に浮かんだ。太陽みたいに明るいあの二人なら、後藤さんにどう声をかけていただろうか。

 喜多さんだったら笑顔を浮かべてで彼女の力になるだろう。同じ高校で同学年だから、明日には後藤さんの手を引いて、軽音楽部の扉を遠慮なく開けそうだ。

 伊地知さんはどうだろう。高校は別だけど、だからといって後藤さんのことは見捨てないだろう。ロインでも交換して、毎日のように彼女を励ましていそうな気がする。

 

 

「――あぁ、なるほど」

 

 

 見方を変えれば、後藤さんの悩みはひどく単純なものだった。できないなら、できるようにすればいい。機会が与えられないなら、その機会を誰かが与えればいい。

 

 

「後藤さん、ギターってどれくらい弾けるの」

 

「へぅ!? あの、そこそこ弾けます……えへへ」

 

「じゃあこの曲は?」

 

 

 僕は後藤さんに今日結束バンドが弾く曲の譜面を渡した。喜多さんの担当していない、メロディーラインが多く入っているほうのもの。

 後藤さんはしばらく譜面をめくっては見つめ、やがてゆっくりと頷いた。

 

 

「あ、えっと……大丈夫、だと思います」

 

「そう、じゃあ決まりだね」

 

「えっ? 決まりって、なにが」

 

 

 僕は黙って携帯を取り出し、彼女に電話をかける。数秒も経たずに普段とは少しくぐもった声が聞こえてくる。

 

 

「も、もしもし? どうしたの?」

 

「お願いがあるんだ。伊地知さん」

 

 

 僕は彼女に迷惑をかけてばっかりだ。伊地知さんなら断らないだろうという打算の上で頼んでいるのだから、なお質が悪い。伊地知さんだけじゃなく、おそらくいろんな人にも迷惑がかかることを、僕は今している。

 けれど、それでも僕は後藤さんを救いたかった。願いを叶えてあげたかった。

 父さんが死んでから何もしなかった僕が救われて、目標に向かい続ける彼女が救われないのは、おかしな話だと思うから。

 僕は努めて冷静に、はっきりと声をだした。

 

 

「僕の後輩を君のバンドに入れてほしい」

 

 

 戸惑った声がスマホと隣、両方から聞こえた。

 

 

 

*   *   *

 

 

 

 後藤ひとりは心の中でどうしてこうなったのだろうと叫んた。

 一人公園で黄昏ていて、同校の先輩に会う。ここまではまだわかる。何をどうしたら見ず知らずのライブ直前のバンドに組み込まれようとしているのか。怒涛の展開過ぎて思考が追い付いていなかった。

 

 

「後藤さん、ほらっ、急いで。あんまり時間がないんだ」

 

「そ、そう言われましても……」

 

 

 息が上がりながらもひとりは優に手を引かれ、早歩きで着々とどこともわからないライブハウスに向かっていた。自分は体力がない。運動神経だって壊滅的だ。今だって足がつれそうになる。さらにいうなら変な動機がし始めた。かつてないほどに心臓の音が体中に響いている。

 

 ――ライブハウス。陰キャなわたしが……これから演奏する……。

 

 無理だ。人目にさらされるのが怖い。わたしなんかが立っていい場所じゃない。

 

 

「後藤さん」

 

 

 優が後ろを見ずに、ひとりに話しかけた。返事をする気力もなく、ひとりは彼のほうに視線だけを向けた。

 

 

「僕が今していることは、きっと君にとってありがた迷惑だと思う。そうならいつでも手を振り払ってくれていい」

 

 

 でも、と彼は続けた。

 

 

「もし君が本当にバンドを組んでみたいのなら。今日はきっといい日になるよ」

 

 

 確証はないけどねと付け足し、優は笑った。

 わたしは、どうしたいんだろう。どうしたらいいんだろう。そんなことを考えていたらダメか。

 今までの自分を振り返る。

 『バンドは陰キャでも輝ける』。この一言で始めたギター。わたしみたいな人間でも輝けると思って、六年間ギターに時間を費やした。けれどバンドはおろか、友達すらもできない。中学でなんの成果も出せず、高校になったらと意気込んで、けれどいざ高校生になったら一切変わらない日常がわたしを待っていた。今日だってギターを持ち込んでも、誰も話しかけてくれなかった。ならその先だって、きっと変わらない。

 

 

「わたしは……」

 

 

 わたしは、バンドをやりたい! みんなからちやほやされたい! 今ここでやらないと、わたしは変わらない、変われないから!

 日々の妄想を思い出す。文化祭でギターをかき鳴らす自分。そして初のワンマンライブ。埋め尽くされる観客、光の波。舞台はそう、Zeppスーパーアリーナ!

 

 

「わたしは、武道館を埋めた女……ッ!」

 

「えーと……あ、ここを曲がって……」

 

「鏡先輩っ! わたし、ライブやりたいです! バンド組んで! それで」

 

「後藤さん、着いたよ」

 

「うわぷっ!」

 

「あ、ごめん。大丈夫?」

 

 

 優は立ち止まり、ひとりはそれに反応できず背中にぶつかった。そのあとに背中越しに覗き込むように前を見る。

 

 

 ――すべてを飲み込むような、魔境のごとき暗闇が階段下に広がっていた。

 

 

「ここがライブハウス、スターリーだよ。行こうか、後藤さん」

 

「か、帰りたい……」

 

「大丈夫大丈夫。僕の友達優しいから。何の心配もいらないよ」

 

 

 優は優しくひとりに笑いかけ、無慈悲にもその暗闇に引きずり込んだ。

 ひとりは少しだけ、この先輩が怖いと思った。

 

 




大変申し訳ないですが、私情により三月以降の更新は普段より遅くなる可能性があります。
ただ、自分のできる範囲内で時間を見つけ、これからも書き続けられたらなと思っています。
これからも拙作をよろしくお願いします。


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初ライブ

三週間と五日は長いようでやっぱり長い。

弁明というわけではないですが、あの後普通に体調崩してました。たぶん、風邪。もちろんほかにも忙しかったという感じでもあるんですけれど……何はともあれ、今のところ元気です。

皆さんも体調には気を付けてください。


 たまたま目が合って、軽く会釈をしただけの、それだけの出会い。そうであれば事はもっと単純だっただろうし、今頃僕はもう少しだけあの公園にいたんだろう。時間になれば僕は公園を去り、来た道を戻り、スターリーに行ってチケットを買い、適当にメニューの中で比較的安いドリンクを頼んで、伊地知さんの演奏と喜多さんの努力の成果を後ろのほうで眺める。ライブが終われば二人に感想を言って、駅まで喜多さんを送り、そのあとに近くの公園で八時くらいまでギターを弾く。そのあと一時間程度をかけて歩いて家に帰り、冷めきった夕食を食べる。夜寝るときになれば、その時はきっと今日のライブのことが夢にでる。

 

 多分、こんな感じになってただろう。

 でもそうはならなかった。

 僕は後藤さんの悩みを訊いて、知ってしまった。

 そしてどこか、僕みたいだと思ってしまったから。

 

 一人でギターを弾ければいい僕と、バンドを組んで演奏したい後藤さんは、確かに違う。

 僕は観客なんていなくてもよくて、後藤さんはきっと多くの喝采を求めてるんだろう。

 共通点はほとんどない。ただ、始まりに明白な違いはない。

 僕らは最初は独りで、それがひょんなことから枝分かれした。片方は救われて、もう片方は手を差し伸べられなかった。それだけのことだ。

 仕方がないよねと誰かがこぼせば、自然と首を縦に振ってしまう、些細なことだ。

 

 それが、どうにも理不尽に見えてたまらなかった。後藤さんが苦しんでいることがどうしても許せなかった。

 

 

「ゆ~う~く~ん~?」

 

「ごめんなさい」

 

「まだなにも言ってないよ?」

 

「言いたいことくらいわかるよ、さすがに」

 

 

 音の何もかもをすべてを閉じ込める印象を抱く黒塗りのコンクリートのフロント前で、僕は伊地知さんを見つけるとすぐに頭を下げた。彼女の様子を見るに僕たちが来るのを待っていたようだ。

 頭を下げると同時に周囲の視線も感じたが、そんなことはどうでもよかった。後ろで「あうぁぇえあ……っ!」とか謎の声も聞こえるけど無視しておく。怖いけど今はもっと大事なことがある。

 黒塗りの地面がこちらを睨みつけている。伊地知さんの顔は見えない。だけどきっと怒ってるだろう。当たり前だ。メンバーが足りている状態で、アポもなしでいきなり飛び入りの新しいメンバーを追加されても困る。合わせの練習だってしていない。時計の短針が二四度動くまでに本番は始まってしまうし、失敗する可能性のほうが高い。

 伊地知さんたちのバンドがやるのはジャズじゃない。ロックだ。決められた譜面があって、その通りに演奏しなくちゃいけない。

 これがライブじゃなくてセッションだったらよかった。そうすれば状況はもう少しスムーズに進んだのかもしれない。

 

 

「迷惑なのはわかってる。これは僕のわがままで、お節介で……伊地知さんの音楽を軽んじているように捉えられてしまうかもしれない」

 

「……うん、正直、ちょっと今でも動揺してる。いきなりだったし」

 

「それでも、僕は後藤さんに今日のライブで弾いてほしいんだ。頼めそうなのは君だけで」

 

「どうしても? どうしても今日じゃなきゃだめ?」

 

「……今日しかないんだ」

 

 

 確かに高校で後藤さんとは会えるだろう。今も伊地知さんの隣にいる喜多さん繋がりで連絡を取り合えば、後日に改めることは簡単だ。

 でも、そのころには僕はもう彼女たちとの縁は切れていると思う。喜多さんは望みが叶ったから僕のところに練習に来る理由はなくなり、後藤さんに関しては性格上僕どころか喜多さんと会話するのかすら怪しい。

 今しかない。結局、漠然とした根拠のない勘が僕を突き動かしただけだ。

 僕は頭をゆっくりと上げ、伊地知さんの瞳を見つめる。昔と全く同じ、明るい色をしている。

 

 

「君が僕を変わらない毎日から連れ出してくれたことを、僕も誰かにしたかった。誰かの希望を見せられるようなことを、君みたいなことを、したかった」

 

 

 たった、たったそれだけのことなんだ。

 伊地知さんはわずかに目を見開いた後、僕の背後で縮こまっている後藤さんに視線を移し、すぐにまたこちらを向いた。

 何秒か、何分か見つめあった後、彼女は仕方なさそうにため息をついて、眉をひそめながら困ったように笑った。

 

 

「貸し、ひとつ」

 

「それは」

 

「なんでもいいよ。優くんが考えたことで、わたしに返してくれればいい」

 

「……ごめん」

 

「それはさっき聞いたから。今、わたしが求めてるのは違う言葉」

 

「ありがとう……伊地知さん」

 

「うんっ、よろしい。……さてっと! 後藤さん、だっけ。まだ時間あるから練習……ってあれ? どこいった? いないけど」

 

「え?」

 

 

 背後を振り返ってみるが、後藤さんの姿はなかった。そういえば途中から変な声が聞こえなくなったけど、やっぱりあの声って後藤さんだったのか。怨霊かと思った。

 伊地知さんと揃って周囲を見回していると、受付の椅子に座っている黒髪の女性が出入り口の扉を指さして言った。

 

 

「その子ならさっき扉から出ていきましたよ。慌てた様子で」

 

「あ、ありがとうございます。ごめんちょっと探してくる」

 

「わたしも手伝うよ。あそこまで言って、じゃあさっきの話はなしでっていうのもなんか違うし」

 

「時間は大丈夫?」

 

「少しだけなら、ね。さっさと見つけちゃおう!」

 

「なら二手に分かれて探そうか。僕は後藤さんと会った公園の近くに行ってみるから伊地知さんは駅のほうを……」

 

 ドアノブを握り手前に引くと、目の前にはギターケースを背負った桃色の髪をした人が階段の上に横顔を見せる状態でうつぶせになっていた。ずっこけたのだろうか、額にたんこぶができてた。見事に気絶している。

 言うまでもなく、後藤さんだった。

 

「……そういえば後藤さん、ここに来るまでも何回かこけそうだったな。息も切れてたし」

 

「冷静過ぎないかな!? と、とりあえず冷やすもの持ってくるから!」

 

 

 急いでライブハウスへと戻る伊地知さんの足音を耳に、僕は後藤さんを見つめた。

 自然とため息がでた。

 

 

「なんか不安になってきたな」

 

 

 これだけ人見知りするとは想像していなかった。後藤さん、ステージに立てるのだろうか。そもそもの話、ちゃんと一曲弾けるのだろうか。それも今更な話か。

 そんなことを考えると、また口から重い息が這いでた。

 後藤さんが起きて、伊地知さんによってスタジオに即座に連行されたのはそれから数分後のことだった。

 

 

 

*   *   *

 

 

 

 ライブが始まるまでの少しの時間をライブハウス周辺の散策に費やし、再びスターリーに戻った。

 すでにチケット販売は行われていて、受付のほうへ向かうと、数十分前に後藤さんの行方を教えてくれた女性が座っていた。チケット販売前なのに勝手にライブハウスに入ってしまったことなど諸々のことを謝ると、彼女は柔らかく笑って許してくれた。

 単なる謝罪だけだと申し訳なく、少しでも金を落とそうと思い、追加の料金も払ってドリンクも頼んだ。

 ギターピック状のドリンクチケットを貰い、横にある別の受付に移動する。金髪の、どこか見覚えのある顔の人が、ぼーっとこちらを見ていた。一瞬大人になった伊地知さんが座っていると勘違いして、足が止まった。

 いたのは伊地知さんのお姉さんだった。

 あまり話したことはない。小学生だった時も授業参観の時にたまに見かける程度のもので、伊地知さんから紹介されたことはあるけれど、それも一言二言で終わってしまった記憶がある。多分向こうも僕のことなんて覚えていないだろう。

 そうとわかっていてもなんとなく気まずくて、うつむき気味にメニュー表を見た。炭酸を飲む気分じゃなくて、けれどトニックウォーターを頼む気にもなれなくて、無難に烏龍茶にすることにした。

 

 

「すみません。烏龍茶ひとつ」

 

「…………」

 

「……? あの、もしもし?」

 

 

 視線を上げると、伊地知さんのお姉さんは信じられないものでも見るように目を見開いていた。

 その反応だけで、彼女がどんなことを想像しているかわかった。

 

 

「……『死んだはずのミュージシャンがなんでここに』って感じですか」

 

「っ」

 

「よく母に言われるんです。顔が父に似ていると。そんなことないと僕は思うんですけど。でもなんか嬉しいです。父はあまり名の知れた奏者ではありませんでしたから。あなたみたいに一人でも父のことを知ってくれている人がいて」

 

「……そうか、思い出した。昔、虹夏が連れてきた、あのときの」

 

「鏡です。鏡優。今日はその、色々あってここに」

 

「なんだ、虹夏に誘われでもしたか」

 

「まぁ、それもありますね。あと高校の知人が出るので」

 

「……なるほどね。だから調子いいのね、あいつ」

 

 

 一人得心がいったという風に頷いている。それから手早く作業し、烏龍茶の入った透明な容器を手渡してくれた。

 

 

「ありがとうございます」

 

「言っとくが、()()()ようなレベルでもないぞ」

 

 

 後ろからかけられた言葉に、会場へ向かう足を止める。

 別にその言葉が不快だったわけではない。不満だったわけでもない。ただ少し、間違っているような気がした。首だけ動かし、彼女のほうを見やる。

 

 

「実は、今日は演奏を見に来たわけじゃないんです」

 

「は?」

 

「どちらかというと、成長を見に来ました。お姉さんも、お仕事頑張ってください」

 

 

 『結束バンド』。願わくば彼女たちの音が誰かの心を一人でも動かしてほしい。けれど今はそこまでは求めない。

 今はただ、成長を見たかった。

 伊地知さんがバンドを通してどんなふうに変わったのか。

 喜多さんがたった二週間でどう変化したのかを。

 会場へ歩みを進めると次第に大きくなる、雑踏のような人の声。あのときもこういう感じだった。僕はステージから遠い後ろのほうに移動し、壁に体を預けた。観客はそこそこだったから、そこからでも簡単に舞台全体を望むことができた。

 視線の向こうで色とりどりの照明が主役たちを指し示す。音楽に貴賤はないが、技術による差異はある。正直なところ“普通”や“上手い”という一言で済んでしまう、一種の型にはまった演奏ばかりで退屈ではあった。

 大体三回くらい欠伸をかみ殺したころにようやく彼女たちが出てきた。

 

 

「はじめましてー! 結束バンドでーす! 今日はたぶん皆が知っている曲、何曲かやるので聴いてください!」

 

 

 伊地知さんがスティックを掲げる。ベースを携えた青髪の女性がちらりと彼女のほうを見た。正面に立つ喜多さんは明らかに緊張している様子で、それを見かねた伊地知さんが彼女になにか声をかけている。

 

 観客側から見てステージの右にはポツンと直立しているダンボールが置かれている。目を凝らすと下からコードが伸びていて、すぐに後藤さんがあの中にいるのだとわかった。人前に出るのが怖いからああやって視界を妨げているが、実際のところまわりまわって注目を浴びている。完熟マンゴーの文字がやけに生活感を想像させるから、それが余計に。

 

 しばらくして、スティックのぶつかる乾いた音を合図に曲が始まる。喜多さんが何度も練習した曲だ。

 僕は彼女たちが演奏する姿を満遍なく見た。その余裕があった。聞き入ることはなく、ただスポットライトに照らされている光景を、一つの絵画を見物するように眺めた。

 リズムは整っている。ドラムは時々手順を間違えたのか音が一瞬だけ止まることもあるが、決して致命的なミスはしていない。ベースも、ギターも聴く分には問題にならない程度のものだ。

 僕はゆっくりとステージから視線を下ろし、手元の烏龍茶の水面を見つめた。無表情な自分の顔が映っている。

 

『比べるようなレベルでもない』

 

 入場前に言われた言葉を思い出す。確かに、そうかもしれない。この曲には、音には熱がない。個性がない。目を奪われるような演奏も、心揺さぶる興奮も見当たらない。

 観客は黙って聴いているだけで、必ずしもステージに顔が向いているわけではない。携帯を触っている人も何人かいて、それが少し悲しくもあり、仕方のないことだとも思う。

 

 ――でも今は、そんなことはいい。

 

 ギターが鳴り止む。ドラムのバスが力強く最後に踏まれる。

 再び前を向く。自然と喜多さんに目が行く。気のせいか、向こうもこっちに視線を向けているようにみえた。そして柔らかく笑った。その姿に僕も頬が緩むのを感じる。

 

 

「……いいね。うん、いいよ」

 

 

 僕の思う成功が、喜多さんにとっての完璧なものなのかはわからないけれど。きっと彼女の心の底から楽しんでそうなあの笑顔を、僕は初めて見た。

 だから、少なくともそう悪いものじゃないと思う。

 喜多さんは一瞬だけ舞台袖に行き、次に出てきたときには何も持たず元の位置に戻り、マイクの位置調整をした。次はボーカルとして参加するらしい。

 

 

「それでは次は――」

 

 

 カウントから始まり、次の曲が始まる。朧気ながら聞き覚えのある入り方だった。

 喜多さんの声が響く。普段の彼女からはあまり想像できないような力強い、感情を乗せた声だった。変わらず喜多さんは笑顔を浮かべたままだ。

 

 

「……熱い」

 

 

 なぜか本当に、体の内側がすごく熱い。こんなことなら炭酸のほうがよかったかもしれない。

 とうに生温くなった烏龍茶を片手に、一気に飲み干した。わずかな清涼感が喉を通る。

 

 

 それでも体は冷めることを知らず、熱を帯びたままだった。

 

 

 




あとなんか寝込んでる間に勝手にセッション決められてて動揺しました。

自分就活生なんじゃが、そこんとこ絶対理解してないでしょ。

まあやるんですけど……人員不足だし、しょうがないよねー。


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そうして、また明日はやってくる

最近スランプ気味ですが、頑張って書いていきます。

誤字修正や感想ありがとうございます。励みになってます。


 

 ライブが終わった後、僕はロビーにある椅子に腰かけ、机に頬杖を突いた。視線をどこに定めることもなく、ただぼーっと先ほどまで一緒の空間にいた名前も知らない観客たちを眺めた。足早にここを後にする人、友人と語り合う人、なにやら手元のスマホを熱心に見つめている人。全員が同じ行動をしているわけじゃなく、けれどそれが分かったところでなにも意味なんてないことを実感し、僕はそっとスマホの電源を入れた。

 

 動画投稿のサイトを開いて、検索欄に『カナリヤ』と入力する。検索結果からチャンネルに飛ぶ。

 ……ここを開いたのもいつぶりだろうか。数か月だった気もするし、数年単位だった気もする。いづれにしても僕にとってここが久しいものであることに違いはない。

 父さんの音を、演奏を目指しているというのに、本人の映像を全く見ていなかったのは僕の弱さのせいだ。

 目標の高さを実感させられるのが怖かった。命をすり減らすような思いで登ってきたのに、頂上まであとどれくらいかなんて僕は知りたくはなかった。

 

 どうしても父さんに近づいている気がしない。

 そんなことを考えている時点で、まだ駄目なんだ。そんな曖昧にぼやかしたままでいたかった。

 けれど、いい加減僕も現実を見るべきだろう。

 彼女は必死に努力して、見事やりきったというのに、僕はどうだろう。

 今日の喜多さんの姿を見て、ひどく自分が情けなく感じた。

 

 

 僕は、前を向かなくてはならない。

 

 

「……」

 

 

 イヤホンを取り出して耳に着ける。動画一覧に僕が練習している曲はない。あるのはカバー曲だけで、それも流行りのものではない父さんが好きだった曲しかない。

 それでも動画で演奏されている音に耳をすませば、僕が弾くときとは全く違う音色を響かせているのがわかった。

 

 

「……はぁ」

 

「なぁ~にみてるの?」

 

「っ……あぁ、伊地知さん、と……喜多、さん」

 

「ギターの動画ですか?」

 

「……うん。全然見てなかったんだけど、久しぶりに見てみようかなって」

 

 

 いつ近づいたのか、すぐ横に二人がいた。僕は軽く笑って、そっとスマホの電源を落とした。

 

 

「いやーそれにしてもよかったー! まだ優くんいてくれて! これから反省会しようと思ってさ」

 

「反省会? えっと、喜多さんと二人で?」

 

「まぁほんとは全員で……ってあれ? 優くん喜多さんと知り合い?」

 

「前に話した後輩」

 

「あーあれって喜多ちゃんのことだったんだ。初心者っていうには上手だったからどうりで」

 

「あっ、いえいえそんな……。師匠が一から教えてくれたおかげで」

 

「……ん? し、師匠?」

 

「まぁ、うん。語弊のないように言っておくと最初からそう呼ばれた」

 

「そう、なんだ」

 

 

 どこか納得のいかない、伊地知さんはそんな顔を一瞬だけ浮かべた。

 

 

「……話し戻すけど、後藤さんとかもう一人のベースの人は?」

 

「ぼっちちゃんは疲れて勝手に帰っちゃって」

 

「ぼっちちゃん?」

 

「……後藤さんのあだ名です」

 

 

 耳打ちで喜多さんが教えてくれた。

 

 

「……それ結構攻めたあだ名じゃない? 後藤さんに確認したの?」

 

「なんかリョウが……あ、うちのベースね。勝手につけちゃって、本人もなんか初めてあだ名とかつけられたられて嬉しそうで、まぁぼっちちゃんがいいならいっかなって……成り行きで」

 

「そ、そう……ならいい、のか?」

 

 

 それはそれでネーミングに問題がある気がしなくもないけれど、ひとまずそれで納得しようと飲み込んだ。

 

 

「リョウ先輩も疲れて寝ちゃってます。ぐっすりです」

 

「……なんか伊地知さんがバンド名変えたがってた理由がなんとなくわかった気がする」

 

「うぅ、そういう意味ではないんだけど否定できない……」

 

 

 伊地知さんは頭を抱え、喜多さんもごまかす様に苦々しく笑った。

 

 

「……とりあえず座れば? 改善点とか出せる身分じゃないけど、愚痴くらいだったらきくよ」

 

 

 時間が来るまで、いくらでも。

 そうはいったが、伊地知さんはお姉さんに機材の片づけに借り出されるその時まで遠慮なく話し続けてくれた。彼女の話に僕は静かに耳を傾けた。

 彼女は本当によく笑う。あの夜に話した時より表情も柔らかかった。ライブが終わったという解放感もあるのかもしれない。ともかく昔となんら変わりのない調子で、こんな風に話せるのは僕としてもありがたかった。

 

 

 ただ少しだけ気がかりなのは――。

 

 

「……はぁ」

 

「……」

 

 

 喜多さんがため息をつく姿を、僕は初めて見たかもしれない。

 

 

 

*   *   *

 

 

 

 スターリーを後にして、僕は喜多さんと一緒に帰路に着くことになった。

 空はとっくに暗く、街灯が頼りなく太陽の代わりを担っていた。だというのに昼間よりも人の声がよく耳に届いた。

 曇ってばかりの星の見えない夜空に視線を向けつつ、隣を歩く喜多さんに問いかけた。

 

 

「喜多さん」

 

「……あっ、はい! なんでしょう」

 

「元気なさそうだね」

 

「そんなことないですよっ! 疲れてもないですし、わたし結構体力ありますから」

 

「そう。じゃあ気のせいか」

 

「……はい。きっと、そうです」

 

 

 それっきり、僕らは閉口した。

 話したいことがないわけじゃない。喜多さんに伝えたいことがいくつもあって、けれどどれから話すべきか、どンな言葉を彼女にかければいいかずっと悩んだ。

 思いついたことも、いざ口に出そうとすると間違いなように感じて、結局僕は無言のまま歩き続けた。

 星は隠れたまま、雲に紛れたまま僕の言いたいことは見つからない。

 挙句の果てには、もう彼女に言葉をかける必要はないのではないかとさえ思えてきた。

 

 

 高校生になった僕らは大人ではないかもしれないが、子供でもない。

 次第に歩き続けると次第に人は数を減らし、それに比例するように視界に入り込む光量も減った。今はもう、家々から漏れ出る明かりと街灯くらいだ。

 視線を前に向けると暗闇の先に無機質に白く輝く自販機がぽつんと佇んでいた。

 せめて、彼女を労うくらいはやってやりたかった。隣を歩く喜多さんより先に自販機に寄る。

 

 

「喜多さん、なにか飲みたいものある? せっかくだし奢るよ」

 

「……いえ、大丈夫です」

 

「あっ、別にお金の心配なんていらないよ。ジュースの一本もあげられないほどの貧乏人じゃないし」

 

「……」

 

「ついでだし僕も買おっかな。まあ、さっきライブハウスで烏龍茶飲んじゃったからあんまり喉は乾いてないんだけど……んー……そうだなぁ。レモネードにしよっかな、なんか新登場っぽいし。喜多さんは」

 

「わたしは、」

 

 

 自販機に向けていた目を喜多さんに向ける。なにかを堪えるような弱々しい声だった。俯く彼女の顔は光の陰に隠れていてみえない。目の前の赤い髪だけが、背後のLEDによって鮮やかに照らされていた。

 振り返ったままだった体を喜多さんに向ける。

 

 

「……うん」

 

 

 たった一言、それだけを言って静かに待った。

 

 

「……いっぱい、失敗しちゃいました」

 

「そう? 言うほどじゃないと思うけど」

 

「何回も練習したところも、逆に練習ではできていたところも、飛ばしちゃいました。伊地知先輩やリョウ先輩、それこそ師匠が連れてきてくれた後藤さんのおかげで何とかなりましたけど……お客さんの反応もいまいちで、し、師匠に申し訳、なくて」

 

「僕?」

 

 

 一瞬だけ、困惑する。てっきり『想像してたより実力が発揮できなかった』みたいなことだと思っていたから、完全に虚を突かれた。

 

 

「もしかして僕から習ったわりには上手くできなかった、とかそういうこと?」

 

「そうですっ! せっかく練習にも付き合ってもらったのに演奏下手でごめんなさい!」

 

 

 喜多さんが頭を下げる傍ら、僕は放心していた。

 次第に現状の把握ができるにつれて、笑いが込み上げてきた。

 彼女はおかしな勘違いをしている。

 

 

「ははっ……優しいね、喜多さんは。僕は全然気にしてないよ」

 

「でもっ」

 

「そもそも君の目標はなんだっけ? ギターが上手くなって観客を驚かせるためかい? 違うだろう。君はあのバンドに入るのが目標だったはずだ。ギターとボーカルとして。喜多さんはあのライブの後リョウさんになにか言われた? バンドメンバーには相応しくないとか、そんなことを告げられたかい?」

 

「……それは、ないですけど」

 

「ならそれでいいんだよ。君は上手くやった。伊地知さんも喜多さんのことを褒めてた。僕が教えたことが今日できなかったとしても、観客のことを考えるのも、後のことでいい」

 

 

 五百円を自販機に入れ、ボタンを押す。乱雑にレモネードが取り出し口に落下する音が、鈍く僕たちの間に広がった。

 手に取ると徐々に熱が奪われる感触がする。そして冷たくなりすぎた手は痛みを訴えだして、別の手に持ち替えた。

 

 

「まあ要するに、“次、頑張ればいい”ってこと」

 

「……つぎ、も観に来てくれますか?」

 

「誘われたときは絶対に。基本暇だから数合わせ程度でいいから呼んでよ」

 

「……はいっ! わかりました!」

 

 

 喜多さんの瞳が僕に向く。表情はどことない不安を含んでいた。先の見えない暗闇を目の当たりにしたような、迷子を想像させる目だった。きっと僕に今の彼女を導くだけのことはできなかった。

 でも、それでいいと思った。必ずしも僕が喜多さんに答えを出す必要はない。

 僕は喜多さんの師匠だった。今まではそうで、これからは、違う。なら今日生まれた彼女の不安は彼女だけのものだ。喜多さん自身が、解決するべきだと思う。

 

 

 僕は軽く彼女に笑いかけた。無責任に、できるだけ優しく。

 そうしてから、「あぁ」と口に出た。

 忘れかけていて、僕が喜多さんにできる最後のこと。

 

 

「飲み物、どれにする?」

 

「……そういえば師匠ってレモネード好きなんですか?」

 

「……まぁ、わりと」

 

「というと?」

 

「あー、去年の秀華祭で出し物をやった時に、飲み物のメニュー案に提案するくらいは」

 

「あはは、それ”わりと”の範囲超えてますよ」

 

 

 じゃあ、と紅い唇が揺れ動く。

 彼女はすっと僕の隣に移動し、レモネードのダミーラベルに指を置いた。

 僕が買ったのと同じものだ。

 それがなんとなく、うれしかった。

 

 

 歩いて十分も経たずに、十字路で僕らは別れの挨拶を交わした。

 喜多さんの家はここからすぐらしく、僕の家も少し歩けば着く。さよならを言うには丁度よかった。

 

 

「それじゃあここで」

 

「はい。師匠も気を付けて」

 

「もう師匠じゃないけどね。免許皆伝ってことで」

 

「そんなことないですよ。師匠は師匠のままです」

 

「……はぁ……まあ勝手にしてくれ」

 

「ふふっ、はいっ! 勝手に呼びますね、師匠!」

 

 

 僕の出番はもうなさそうだけど。それこそ後藤さんやリョウさんにでも教えてもらえばいい。

 暗闇に喜多さんの姿が溶けていく。その光景を数秒だけ見つめ、そして完全に見えなくなる前に視線を数メートル先の信号に向けた。車どおりが少ないというのにいまだに信号は赤のままで、色がなかなか変わらないことがじれったかった。

 ため息を少し吐く。その分だけ体が軽くなった気がした。

 

 

「師匠っ!」

 

 

 唐突に聞こえた声に、背後を振り返った。

 街灯の下に喜多さんが手を振っている。

 

 

「またあしたーっ!」

 

 

 一瞬だけ硬直して、そうしてから手を軽く振り返した。

 遠目で彼女がかすかに笑ったような気がした。

 

 

「また明日、ね」

 

 

 身勝手で、楽観的な、希望にあふれた言葉だ。

 

 

 ――それが今は、とても心地いい。

 

 

 前を向き、僕は歩く。

 信号はとうに青になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ある日の……というか、例のライブが終わった次の日。校舎裏にて。

 本日の天気は晴れ時々曇り。降水確率は四十パーセント。

 傘は備えあれば憂いなし。

 良いとも悪いとも言えない空の下、僕もまた、多分、渋い顔をしていた。

 

 

「師匠! 新しいメンバー連れてきました! ほらっ後藤さんあいさつ!」

 

「あっ、ごご、後藤ひとりっスー……パイセン、まじ、りすぺくとー…………あっ、スー……」

 

「あの、弟子はとってないんでお引き取りください」

 

 

 なんか増えた。

 






「ただいま」

「おかえり。兄さん」

「……」

「どうしました?」

「あー…………これ、あげるよ」

「ん? レモネード?」

「前、ちょっと強く当たっちゃったから。それでチャラで」

「兄さん……」

「いらないなら、別のやつ買ってくるよ。高くないなら、なんでも。なにがいい?」

「ん……じゃあもう一本レモネードを」

「はい? お前そんなレモネード好きだっけ」

「違いますよ。兄さんと飲むんですから二つ必要でしょ」

「僕と?」

「はい。だから兄さんの分をこれから買ってきてください。それからわたしと話をするんです」

「……まぁいいか。ちなみになんの話するんだ?」

「決めてません。兄さんが決めてください」

「こいつ……じゃあ……今日のライブの話でも」

「ライブ? 誰のですか?」

「え、喜多さんが入ってるバンドの」

「え?」

「…………誘われてない?」

「……………………うん」











「あっ! 杏ちゃんにライブ誘うの忘れてたっ!」





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迷惑の清算

お久しぶりです。

更新したくとも話が思いつかないジレンマ。それも相まって今月は特に忙しかった……。
でも今日は更新しなくてはならなかったのです。

だって虹夏の誕生日だもの。ハッピーバースデー、虹夏。
ツイッター覗いてみたら海外の人からもお祝いされてました。

実は最近ジャズセッションがありまして、なぜか32小節ソロやれって言われたこともありました。無理だよ。やったけどボロボロでした。

小説も、楽器も、精進あるのみです。
ちなみに筆者はドラム担当です。





 緩慢な動きで箸を動かし、それよりもっと遅い速さで咀嚼する。基本鏡家では朝食を作るのは当番制だ。別に明言しているわけではないが、自然とそうなっていた。平日は僕と杏が交代で、休日は母さんが作ることになっている。

 

 今日は杏が担当だ。ご飯とみそ汁と、目玉焼き。こんなありふれた献立でも自分が作ったものと比べると、彼女のほうが美味しく感じる。

だが今日は味がしなかった。今日はというより、ここ一週間食感も匂いも、何もかもが淡白としか感じられなかった。

 決して不味いわけではない。ただそんな当たり前な情報を受け入れる余地がないほどに、僕は別のことを考えていただけで、結局のところすべての問題の原因は僕にある。

 そんな気がする。

 

 しかし問題といっても具体的なことがあるわけじゃない。

 僕は確実に何かを間違ったような気がしてならなかった。

 なんの根拠もない、朧げな輪郭すら不明瞭な、漠然とした不安――いや後悔だろうか。

 とにかく、僕はそんな要領を得ない心の靄と向き合い続けていた。

 端的に一言で言い表すなら、僕は現実逃避をしていた。

 

 

「はあ」

 

「……兄さん」

 

「……仕方ないだろ、達成したと思っていた依頼がとんぼ返りしてきたら誰だってため息をつきたくもなる」

 

 

 あとなんか人数も増えた。後藤さんは舎弟ムーブをかましてた。謎に似合ってたけど、変にかしこまられても面倒だし、やめさせた。

 

 

「そこは我慢してくださいよ、気が滅入るんですけど。別にいいじゃないですか、ギターを弾く仲間が増えて」

 

「練習ができないんだよ。あっちはバンド、こっちはソロ。やることが違うんだから一緒にやっても互いのためにならない」

 

「そう、なんですか?」

 

「そうなんだよ」

 

 

 適当に話を終わらせ、手を合わせ食器を片付ける。これ以上話すつもりはないと杏も感じたのかため息を一つ吐き、それっきり口を閉じた。

 

 

 ――きっと関わるべきではなかった。自室で着替えている最中にふとそんなことを考える。

 

 誰に? もちろん結束バンドの人たちに。そしてそれを取り巻く人たちに。

 なぜそんなことを思ったのかはわからない。

 ただ、僕はどことなく疎外感を覚えた。ここ最近はいろんな人と出会ったというのに、おかしな話だった。

 その感覚がいつからだったか、どこからやってきたかなんて断定できることなんて何一つないけれど。

 ミミズが渚を渡るカモメと空を飛ぶことを夢見るほどに、愚かしく、同時に馬鹿々々しく感じた。

 

 階段を降りつつ、少し視線を落とす。僕は、立ち止まった。

 玄関に影が差していた。朝日が作り出したそれは、決して妹のものではなかった。

 数秒逡巡する。家を出入りできる扉は一つだけだし、登校するためには必然的にそこを使わなくてはならない。

 僕はゆっくりと階段を一段ずつ踏んでいった。足裏に伝わる感触を確かめるように、仕方ないと何もかもを諦めるように。

 姿だけなら僕の妹に似ている人だ。

 冷酷ささえ感じる無感情な氷のような目と、長い黒髪をそのまま流している。

 過去のすべてを捨て去ろうにも中途半端にしかなれなかった、哀れな人間がいた。

 

 僕の、母親だった。

 

 

「……優」

 

「……なに、母さん」

 

「ギターはまだやめないの」

 

「はっ……やめる? そんなわかりきったこと、いつまで聞いてくるんだよ。わかるだろ。ギターはやめない。何回も言った」

 

「優、私はもうギターの音は聴きたくないのよ。二度と、聞きたくもないし、だからあなたが弾く必要もない」

 

「なら聞かなければいい。それだけのことなんじゃないの」

 

「っ、あなたねぇ……っ」

 

「あ、あのッ!」

 

 

 僕は母から視線をそらした。母さんも僕と同じ方向を向いた。いつの間にか杏が近くに来ていた。

 一斉に向けられた視線からか、はたまた僕たちが恐ろしい顔をしてるのか、杏の肩が一瞬だけ跳ねたのがわかった。

 

 

「そろそろ、学校ですから……その」

 

「…………いってらっしゃい」

 

 

 母はため息をついてからそう口に出した。重く、押し付けるような声だった。

 杏は僕たちに視線をやりながらよそよそしく母の後ろを通り抜け、靴を履いて外に出た。

 僕もそれに続こうと、靴を履いた。いつもは軽い扉が、今は相当重く感じた。

 

 

「優」

 

 

 背中から声を掛けられる。先ほどと比べて幾分か柔らかくなったが、やはり冷淡なのは変わらない。

 

 

「なに」

 

「あなた、私の」

 

 

 不自然に言葉が途切れた。そしてほんの数秒だけ不穏な、濁った空気が僕を包んだ。

 無意識にドアノブを握る手に力がこもる。

 母さんはまたも息をつき、何でもないと言った。それをきっかけにその空気も霧散し、僕は黙って扉を押し開けた。

 自宅の前には杏が待っていてくれていた。

 

 

「あっ……兄さん」

 

「悪いけど、先に行って」

 

「……はい」

 

 

 俯きがちに彼女は通学路を歩んでいった。

 

 ……少なくとも今は、杏の隣を一緒の歩幅で歩くことは難しく思えた。

 冷静になる必要があった。彼女の顔を見ても、ちゃんと杏のことだとわかるようになるまで、落ち着かなければならなかった。

 でないと僕は何を杏に言うか、わからなかった。

 そしてそんなことを考えてしまう僕もまた、愚かだ。

 

 上を見上げ、ほっ息を吐く。夏に近づく空は、青と白だけの鮮明な世界を作り出していた。

 なにもかも、中途半端だ。母さんも、杏も……僕も。

 

 父さんとの記憶を忘れ去ろうとしている人。けれど思い出は残ったままで。

 幼かったがゆえに父親のことを知らない妹。だからどっちの味方にもなれないままで。

 そして僕は今も弾けないままだ。父さんの音も再現できないままだ。

 

 空を眺めながら、僕は考えた。

 数分前の、言葉の続きを。

 答えはもうとっくに出ていた。

 

 母さんは僕があの部屋に行ったことに気が付いている、と。

 そしておそらく、持ち出したものも。

 

 

 あの人はきっと、すべて見通している。

 

 

 

*   *   *

 

 

 

「バイトぉ?」

 

「師匠そんな嫌そうな顔しないでくださいよ~。みんなでやると楽しいですって! わたしもやりますし、ほらっ! 後藤さんもやるんですよ!」

 

「え、そうなの後藤さ……」

 

「ばいと……ばい、と…………ばい……と」

 

「なんか壊れちゃってるけど」

 

「朝からこうなんですよね」

 

 

 校舎裏、僕はなぜか喜多さんにバイトの誘いを受けていた。

 ライブが終わった日から喜多さんは今まで通り、後藤さんは結局結束バンドに入ることになり、喜多さんと交流を持ったからか新しく来るようになった。

 僕はというとこの状況に慣れないまま、かといって迷惑になるようなことはしてこないため、黙認という形で落ち着いている。

 

 

「で、いやに急だね。バイトなんて」

 

「実はですね、ちょっとメンバーで話し合って今後のライブのことも考えるとノルマが大変って話をしたんですよ」

 

「あぁ、なるほど。バンドの売り上げが今のままだと足らないってことか。それでバイトね。ちなみにどこでするの?」

 

「スターリーです」

 

「へぇー、ならいいね。知らないところで働くより」

 

「ですよねっ! なので師匠も」

 

「やらないけどね」

 

「えー」

 

 

 バイト自体を嫌悪しているわけではないが、やはり僕にとって時間を奪われるというのは相当な苦痛で、給料が手に入ることにもさほど魅力は感じていない。

 欲しいものは特にないし、新しいギターも買う気になれない。父さんから貰ったこのギターがある以上、現状に不満はなかった。

 そういう“働く理由”が欠如している自分が仕事をするのは、きっと迷惑になるだろう。

 客にとっても、店にとっても。

 

 

「まぁ頑張ってよ。あそこなら伊地知さんもいるからさ、心配するなんてことはないと思うよ。だから安心しなよ、特に後藤さん……後藤さん?」

 

「……宝くじ……高額……西、銀座……?」

 

「そんなにバイト嫌なのか、後藤さん」

 

「なんか、ちょっと申し訳ない気持ちになってきたわ……」

 

 

 精神が不安定になるくらいなら断ればよかったのではないだろうか。

 そんなことを考えて、あたふたしながら頷くしかない後藤さんの姿しか思い浮かばなくて、なんとなく、悲しい気持ちになった。

 

 

「……でもそっかぁ、師匠なら適任かと思ったんですけど」

 

 

 僕は首を傾げた。

 

 

「どういうこと?」

 

「さっきメンバー同士で集まったって話したじゃないですか。それで……後藤さんをみたらわかると思うですけど……その、あまり慣れてないみたいで」

 

「うん、それは明言されなくてもわかるけど」

 

 

 あれほど一目瞭然という言葉が似合う姿はそれほどないだろう。

 

「やっぱり親しい人……親しい? まぁそこそこ後藤さんと過ごした時間が長い人がサポートに入ったらいいんじゃないかって話になりましてですね」

 

「だから僕を誘ったと」

 

「はい」

 

「いや、はいって……それこそ喜多さんが後藤さんを補助すればいい話じゃない?」

 

「でも知っている人が多ければそれはそれでいいと思いません? それに機材とかの運搬とかも大変らしくて、スターリーは男手が足りないって話だったので、どうかなーって思ったんですけど」

 

「僕もそこまで力があるわけじゃないからなぁ、あんまり力にはなれなさそうだけど」

 

「そうですか……無理強いはよくないですからここまでにしておきますね。それにもう十分師匠には助けてもらったもの」

 

 

 喜多さんはふっと静かに笑った。

 その顔を見て……僕は何かを忘れているような気がした。

 

 

「……あ、貸し借り」

 

「貸し借り?」

 

「あ、いや……」

 

 

 そう。そうだ、僕は伊地知さんに借りがあった。

 ライブ直前の、あの日だ。記憶を掘り下げていると、携帯のデフォルトの通知音が近くから聞こえた。

 確認してみると、案の定僕の携帯から鳴っていた。

 そして、伊地知さんからのメッセージも届いていた。

 

『いきなりなんだけどごめん! 臨時でいいからうちでバイトしてくれない? もちろん給料は出るから安心して! これで貸し借りなしってことでいいし、どうしてもダメなら遠慮しないでね』

 

 

「……あぁ」

 

 

 次第に、思い出す。

 確かにあのときは僕が考えたもので伊地知さんに返す、みたいな約束をしたはずだ。

 実質保留みたいな感じでもあったが。

 僕は実際結束バンドに……特に伊地知さんに迷惑をかけたし、彼女がそう要求してきたのなら容易く断ることもできない。

 

 もうメッセージは見てしまった。向こうの携帯にはもう既読の履歴が残っているだろう。

 僕は彼女に送る言葉を考えて、それから文字を打った。

 最後まで打ち終わり、誤字がないことを確認して送信する。

 携帯の右端の時刻にちらりと視線を移せば、もう教室に戻らなければいけない時間になっていた。

 

 

「…………喜多さん、さっきの話、受けるよ」

 

「え!? ほんとですか! よかったー。あ、多分今日からなんですけど」

 

「あぁ……もう、うん……好きにして……」

 

「じゃあまた放課後に集合しましょう!」

 

 

 喜多さんは軽快なステップを踏むかのように、軽やかに去っていった。

 誰かと何かを一緒にするのが好き。そんな性分な彼女だからこそ、やっぱり嬉しいのだろう。

 僕はそっと後藤さんの隣に座り、空を見上げた。

 

 

「後藤さん。バイト、頑張ろうね。僕も頑張るからさ」

 

「ひぃん……」

 

 

 きれいな青空とは対照の、太陽に隠れた影ばかりが僕らを包んだ。

 

 そっとため息をつけば、授業五分前を告げる予鈴が僕の耳をくすぐった。

 



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バイトと彼女とチョコクッキー

大変お待たせいたしました、と書いたまではいいけれど、果たしてこの小説を待っている人は存在しているのでしょうか。わかりません、いてくれたら嬉しいです。

ご感想、評価、お気に入り登録ありがとうございます。

いつも励みになっています。ありがたい限りです。


 

 

 僕らがスターリーでバイトをするということになり、以外にも事はすんなりと進んだ。

 学生のアルバイトを一気に三人も雇うほどにこの店は人手不足だったのかとも思ったが、店長でもある伊地知さんのお姉さんのことを考えると、おそらく彼女たち結束バンドのことを気遣ってのことなんだろう。

 あの人は見た目で誤解されることもあるけれど、少なくとも身内には優しい。

 そして妹の伊地知さんにはもっと甘い。

 そんなことは言わないし、言えないけれど。

 

 

「おい、なにを考えてる」

 

「いえ、なにも」

 

「……嘘つけ。お前はあまり表情の変化がわかりづらいけどな、左の指先が動くときは大抵嘘をついてるときだ」

 

「……よくそんなところ見てますね。ひょっとして考えてる時も指に出るんですか?」

 

「そっちは勘だ」

 

「勘」

 

 

 直感にしてはかなり鋭いと思った。

 じっとお姉さんの顔を見る。

 身長と目つきの鋭利さが伊地知さんとは明確に違う。

 けれど、瞳の色やそこに宿る虹彩が、彼女たちが姉妹であることを改めて僕に実感させた。

 店長は怪訝そうな顔をした。

 

 

「……なんだよ」

 

「いえ、これあそこでいいんですか?」

 

「あぁ、机の下の空いてるところに適当にやってくれ」

 

「わかりました。お姉さ」

 

「あぁ?」

 

「……すいません、つい。悪気はないんですよ店長さん」

 

「ったく……そんな呼ばれ方する年じゃねえよ」

 

 

 機材がまとまって入っている段ボールを指示通り片づける。

 壁や扉一面に様々なバンドのロゴやステッカーが貼ってあるこのスターリーの倉庫は、僕にとって異世界のようだった。

 かつて一大のブームを引き起こしたバンドのもの、人気を集めていたがもう解散してしまったバンドのもの、逆に全く名前の知らないバンドのものもあった。

 星の数ほどあるバンドの、幾多もの歴史を飾り付けているこの部屋に、僕は圧倒的な星々を眺めた時のような、息の詰まる感覚が一瞬だけした。

 僕にはそれらが眩しくて、なるべく下を向きながら作業を続けた。

 

 

「鏡、次はアンプ運んでくれ。私も手伝う」

 

「わかりました。スタジオのやつですか?」

 

「いやステージのほう」

 

「ステージ?」

 

「どっかのバカな常習犯が故障させたのが残ってんだ。いい加減片付けないと」

 

 

 店長は大きく息を一つ吐いた。

 

 けれどそれはどこか柔らかな、優しげなものだった。

 

 

「……ご友人ですか?」

 

「腐れ縁だよ。こっちは切りたくてしょうがない」

 

「……」

 

 

 なんとなく、その言葉は嘘だろうなと思った。

 それからしばらく無言の状態が続いたまま、二人で一つの荷物を片方ずつ持ちながら丁寧に運んだ。

 先ほど訪れた倉庫に運び、そこから出るときアンプの横にきらりと光るものが貼ってあるのを見つけた。屈んで注意深く見つめる。

 それは案の定バンドのステッカーで、けれど僕が知らない名前だ。

 

 

 “SICK HACK”と、そう書かれていた。

 

 

「どうした。扉もう閉めるぞ」

 

「あ、すみません。すぐでます」

 

 

 僕はすぐに立ち上がり倉庫からでた。

 扉を閉める際にちらりともう一度倉庫の中に視線を向ける。部屋の電気は消され、先ほどまで光沢を放っていたステッカーは暗闇の中に消えた。けれどなぜかただ一つだけ妖しく輝く光があった。

 青く、黒く、それらが混同して鈍く、かつ鋭利な棘のように目に突き刺さる。

 けれど僕は扉が閉じるまでずっと見つめていた。

 目を離すことは許されないと、なぜか思った。

 扉が完全に閉じ切ったとき、体の力が抜けた。

 今まで加えていた不必要な力が、すっと何事もなく唐突に消え去った。

 僕は何気なく視線を下ろし、自分の手を見つめた。

 微かに、震えていた。

 

 

「なんだ、そんなに重かったか。貧弱すぎないかお前」

 

「……はは、そうですね。運動不足だからかもしれないです」

 

 

 軽く笑う。大丈夫だ。これは決して疲れからきたものじゃない。アンプもその前に運んだものも、手が震えるほど重かったわけじゃない。

 ただ、だとしたら、なんで……僕は震えているんだ。

 

 いや本当は、わかっている。

 

 僕は、あの光に恐怖した。足が竦んだのだ。

 どうしてだ? わからない。

 

 結局僕は仕事のことだけを考えることにした。そもそも今一番大事なのは与えられたことをやることだ。仕事に関係ない私情は挟むべきではない。

 カウンターに見える四人に向かって足を進める。伊地知さんはすぐに僕に気が付いたようで、彼女は僕以外に休憩を言い渡し、ドリンクについての説明をしてくれた。

 ただ脳裏にあの光がちらちらと映り込んで、僕は彼女の説明を二回も聞き返す破目になった。

 そうして伊地知さんはいつものように笑うんだ。

 大丈夫だよ、と。

 そんな彼女の笑顔に僕はひどく、罪悪感を抱いた。

 

 

「ごめん」

 

「まだお客さん来てないから気にしなくていいよ。まああと十分くらいで来ちゃうんだけど。最初は大変だもんね、覚えるの。わたしも最初は全然覚えられなくて……。あっ、そういえばさっきぼっちちゃんにも同じように教えたんだけど、いきなりギター弾き始めてさ、いやーびっくりしたよ」

 

「へぇ。即興で?」

 

「そうだと思うよ。思い返すと結構上手だったかも」

 

「前のライブより?」

 

「あはは。おかしな話だけど、もしかしたらね」

 

 

 他愛のない会話を交わし、開場五分前になると休憩中の三人を呼んで、そこでちょうど入り口の扉が開き客が入ってきた。

 受付を終えてやってきた人たちを伊地知さんはマニュアルに縛られたものではなく、どこか親しみを感じさせる対応で受け入れ、注文を尋ねた。

 僕はそんな彼女の指示通りに動いて、カクテルやらコーラやらをコップに注ぐ。

 そんな時間が、何分か続いた。

 

 

 

 

 伊地知さんから休憩していいよと言われ、僕は休憩室にある手頃な椅子に座った。

 最初は全然疲れていなかったし、むしろ彼女のほうがずっと働いているから休むべきはそっちじゃないか、なんて言ってみたが後藤さんや喜多さんにまだ教えることがあるらしく、それを理由に断られた。

 カウンターに四人も入れるほど広さの余裕はなく、後のことを考えると自分が邪魔になることは簡単に想像できた。

 そうして仕方なく休憩室に来たまではいいものの、たいして疲れていないのに表では誰かが働いていることを考えると、どうも落ち着かない。

 

 

「ねぇ」

 

 

 ふいに後ろから声をかけられる。気配も何もなかったから、変な声が出そうになった。

 振り返ると青い髪が特徴的な、中性的な綺麗な顔立ちをした人がじーっとこちらに視線を向けていた。

 見覚えは、ある。結束バンドのメンバーだ。あの日のライブでステージに立っていた。確か楽器はベースを弾いていた気がする。

 制服は伊地知さんが通っている下北沢高のものと同じだった。

 

 

「あ、えっと……こんにちは」

 

「うん、こんにちは」

 

「……」

 

「……」

 

 

 簡単な挨拶をきっかけに、なぜかこの部屋が不思議な雰囲気をまとい始めた。まだ名前も知らない彼女は僕のほうを見つめ、僕もまた彼女を見返した。相手を窺おうにも無表情で、だからこそ彼女が何を求めているのかがわからなかった。

 互いが無言でいればいるほど、部屋の中の緊張は徐々に高まり続けて、余計に話しづらくなっていくのを感じる。

 時間はそこまで経っていない。せいぜい一分か、それくらいの些細なものだ。二分は行っていないと信じたい。けれど黙り続けていればこの時間はいくらでも引き延ばせそうではあった。

 気を張りながら、口を開く。

 

 

「あの、とりあえず座ったらどうです? 立ち続けるのは疲れるでしょう」

 

「そうする」

 

「あー……僕、鏡優っていいます。秀華高校の二年です」

 

「うん、知ってる」

 

「知ってる?」

 

「虹夏からよく聞いてる。小学の幼馴染だって。あと敬語はいらない。学年一緒だし」

 

「そう……そういえば、君の名前を聞いてもいい?」

 

「山田リョウ。言ってなかったっけ」

 

「うん、多分」

 

 

 大して話したことのない、ほとんど初対面の人に自分のことを知られているのは、少しむず痒かった。

 

 

「あの先日は迷惑かけてごめん」

 

「? ライブの日のこと? 全然いいけど。メンバーは欠けなかったし、むしろ増えた。いいことだと思う」

 

「でもいきなりだったからさ。困ったでしょ」

 

「プロはあの程度では動揺しない」

 

 

 彼女は得意げに腕を組んで鼻を膨らませた。僅かばかりではあるが、かすかに頬が緩んでいた。

 でも実際ライブのときに彼女の演奏技術は際立っていたと思う。プロかどうかはわからないけれど、少なくとも喜多さんと後藤さんの演奏を支え切れる実力はあった。

 少し下げていた視線を彼女に戻すと、さっきまでの無表情に戻っていて、どこか真剣な表情な顔つきになっていた。

 

 

「ねぇ、優」

 

「なに?」

 

「虹夏について、どう思ってる?」

 

「……伊地知さんについて?」

 

 

 それは唐突に投げかけられた質問で、僕にとっても予想していなかった問いだった。

 数秒悩んで、口を開く。

 

 

「……なんでそれを聞きたいの?」

 

「なんとなく。わたしが知りたいだけ」

 

「そっか。色々理由はあるんだけど、一番は僕の恩人かな」

 

「恩人? 友達じゃないの?」

 

「友達……うん、そうだね。そうとも言える。でもそれはなんだか色んな過程を飛ばした結果みたいで、その一言で片づけるにはちょっと不釣り合いなように感じる」

 

 

 あの夜、伊地知さんと会ったとき。僕は彼女との仲が変わらないものだと信じた。けれどそれは違うのではないかと最近思い始めてきた。

 確かに僕は伊地知さんに一定の信頼を置いているし、彼女が困っていたら僕は迷わずに手を貸すだろう。

 しかし、時は環境を変え、その環境は人を変えるものだ。

 伊地知さんのお姉さんがバンドをやめてライブハウスを運営し始めたのと同じように、きっと彼女も変わらないなんてことはないはずなのだ。

 僕と伊地知さんが会わなかった空白の時間。それを知らないままでいる以上、僕らは表面上、過去の関係を続けているだけだ。

 その過去が風化しないものだと、一体誰が決めるのだろうか。

 伊地知さんとの関係が必ず切れないと妄信できるほど、僕は純情じゃなくなってしまったし、同時に色んなことを学んできてしまった。

 

 僕は卓上に置かれている包装された焼き菓子を差した。表紙にはチョコレート味と書かれいてる。

 

 

「そこにチョコクッキーがある」

 

「うん」

 

「それを、そうだな……十年間そのままにしたとしよう。賞味期限も、消費期限も何日も、何年も過ぎたものなんだ。山田さんはそれが何だと思う?」

 

「……チョコクッキーじゃないの?」

 

「腐っていたり、食感が変わってたりしても?」

 

「うん」

 

「そう……僕はそれがチョコクッキーだとは思わないよ。だってそれは万人が考える美味しくて甘いものじゃない。伊地知さんにそれを渡しても、きっと彼女は苦い顔をすると思う。僕が伊地知さんを友人と呼びたくないのは、そういう包装紙の中身をしっかりと考えて、その一つひとつの意味を確かめていきたいから、かな」

 

 

 山田さんはしばらく考え込んで、僕の言ったことを理解しようとしてくれているようだった。けれどそのうち悩まし気な短い声を漏らして言った。

 

 

「抽象的で、よく、わからない」

 

 

 相も変わらず無表情だったけれど、僅かに目を伏せているせいか、悲しんでいるように見えた。僕はそんな彼女に優しく笑いかけた。

 

 

「その通りだね」

 

 

 僕はそっとさっきまで指を差していたチョコクッキーを手に取り、包装を丁寧に破いた。

 バターとチョコの香りがほのかに香る綺麗な褐色の中に、黒いチョコチップが埋め込まれている。

 一口齧るとポロポロと生地の細かい欠片が床に落ちた。

 咀嚼する度に口の中の水分が奪われ、けれど同時に淡くまろやかな優しい味が広がった。

 

 それは決して何十年も皿の上に置かれた腐った何かじゃない。

 

 いかにも子供が喜びそうな、そして誰もが認める甘いチョコクッキーの味だ。

 

 



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暗い道と青い僕

お気づきの方もいらっしゃるかとは思いますが、一話、二話の加筆修正を行いました。

一話は主人公と父親の過去の話の具体化+α

二話は新たに喜多ちゃんの少し過去の話を付け加えました。

……あ、嘘です。九話もほんの一部加筆しました。変えすぎやて

物語の進行に大きな変更はありませんが、補足みたいな感じで認識していただけるといいかなーと思います。




 店長が休憩室に僕らを呼びに来たことで、僕と山田さんの休憩は終わった。

 正しく言い直すなら店長は僕を呼びに来ただけで、山田さんは受付を喜多さんに任せっきりにしていたらしく、店長にバレてげんこつを食らっていた。

 視線で助けを求められたが、庇いきれる理由もなく僕はそっと首を横に振った。

 一瞬にして山田さんの目が沈んだ。

 

 

「店長、それで次は何を?」

 

「ん、あぁ別に仕事はいい。もうこの時間ならやることもそんなないからな。ライブでも見ておけ。虹夏たちも行ってる」

 

「……いいんですか、それ?」

 

「いいんだよ、いいからさっさといけ。……あとリョウ、()()()は時給から引いとくから」

 

「え」

 

 

 釈然としないながらも、それ以上のことは言えないまま僕たちは休憩室を出た。

 ここは言葉に甘えておくべきだろうか。

 正直なところどんな人たちが、どんな演奏をするのか、まったく気にならないわけではなかった。

 曲ももちろんだが、もし父さんの音に近づくためのなにかしらのヒントがあるかもしれないと思うと、無視はできない。

 

 

「優?」

 

 

 顔を上げると山田さんがこちらを振り返っていた。

 考え事をするとつい立ち止まりたくなる。

 最初は彼女と並んで歩いていたのに、いつの間にか距離が開いていた。

 近くも遠くもない、微妙な空白だった。

 

 

「ごめん、なんでもない」

 

「そう」

 

 

 すぐに彼女に追いついて、今度こそ同じ歩幅で歩いていこうとした。

 けれどそんなことをするまでもなく、僕らはすぐに立ち止まることになる。

 歪みきった音、シャウトする声や歌がもう近くまで聞こえていたから。

 もう、足並みをそろえる必要もなくなった。

 

 適当なところで立ち止まって、黙ってステージを眺めた。

 山田さんはいつの間にか傍から消えていた。探す気はなかった。きっと結束バンドのメンバーのところに行ったのだろうから。

 それに僕といるよりも喜多さんや伊地知さん、後藤さんと一緒にいたほうが話しやすいだろうし、楽しいだろう。

 視界にスポットライトの残照が現れては消える。それが少し煩わしかった。

 うるさいのは苦手だ。鼓膜を殴りつけられるような暴力的なまでの音は、いつになっても慣れない。

 

 

「……」

 

 

 一組、一組が順に終わる。

 ため息は、つかない。つきたくはない。

 喉にせりあがってきた重い空気を吐き出せたら、それはきっと楽なのだろう。

 でも演奏している人たちの前でそんなことをするのは、誰も幸せにならない。

 耐えるべきだ。そんなこと、何年もやってきただろう。

 

 いや、そもそも──期待しなければよかったのだろうか。

 

 辺りを見渡せば、笑っている人ばかりが目に入る。

 ここにいる人と比べて僕がここにいる理由はいささか不純だ。時間が経つにつれて、一曲一曲が終わるたびにそれは大きな汚れとなっていくようだった。

 

 バンドの交代の合間を縫って、そっと誰にも気づかれないように抜け出した。

 行き先はもう決まっていた。というか、そこしか行くところがなかった。

 カウンターに頬杖を突きながらステージを眺めていた店長さんは、すぐに僕に気がついたようだった。けれど目を合わせたのは一瞬で、次にはまた元通りのところに視線を向けていた。

 

 

「……お前は途中であそこから抜け出してくると思った」

 

 

 なにか話しかける前に、声をかけられた。目の前にいるのに相変わらず視線の行き先は変わらないままで、僕は奇妙な窮屈さと、疎外感を覚えた。

 

 

「……すいません。せっかくのお気遣いを無下にするようで」

 

「別に。気にしてねぇよ。聴きたくないなら、正直になったほうがずっといいだろ」

 

「……店長さん、あの」

 

 

 言葉に詰まる。

 仕事があるなら手伝わせてください。そんなことを言ってあの音たちから逃れればいいと、ここに来るまでの短い時間の中で考えていた。

 でも口に出そうとしているのはもっと別のものだ。

 白紙のままの、未計画なままの、なにか。

 

 アコースティックの柔らかい音が聞こえてきて、振り返る。

 3ピースのバンドの姿がスポットライトの光に照らされていた。

 ゆったりとして、メロディラインは美しく、しばらくしてボーカルが入る。

 大切な人との別れを唄う、感傷的な歌詞。

 バラードは久しぶりに聴いた気がした。

 

 

「……たまに、ひどく空しい気持ちになるんです」

 

 

 訥々と声が漏れ出す。何を喋るのかもわからないまま。

 

 

「父がいなくなったときのような……ギターを弾いていると僕の体の中に空白が……穴ができたような気がして。そんなときに自分がやっていることは、すべて無駄なんだと思うんです」

 

 

 ──わかりたくないことを、わかりかけているのかもしれない。

 最初は純粋だった気持ちも、いつしか自分を騙していた。

 父さんとまったく同じ演奏なんて、できるわけがないと。

 記憶の偶像に縋っているだけでは、きっと偽物ができるだけだ。

 このままじゃいけないことも、当然わかっている。

 

 でもしょうがないじゃないか。 

 

 あの音をもう一度弾くことができたなら。

 母さんも、杏も……父さんがいたときの元の関係に戻れるかもしれないなんて、そんなことを思ってしまったんだから。

 母さんが愛していたあの音を、もう一度聞かせてあげれば、僕らは笑いあえると信じていた。

 

 でも。

 その考えが幼稚だと気づくころには、僕は必死になりすぎていて。

 容易く諦めるには、僕はそれに時間を掛けすぎていた。

 

 長く、暗いトンネルの中にいるみたいに。

 戻るには遠すぎて、だから僕はいつか見える出口の光を信じるしかなくて。

 けど、どれだけ進んでも視界は暗いままで。

 いつしか歩いているのか、立ち止まっているのか、それすらもわからなくなってしまった。 

 

 

「必死で隙間を埋めようとしても、どうしようもなく広がっていくばかりで」

 

「もう、いいよ」

 

 

 頬に一瞬の温もり。いつの間にか目の前に来ていた彼女に、なにか拭われた。

 そっと触れられたところに手を当てる。

 僕はまた、泣いていたのか。

 

 

「……みっともないからさっさと拭け」

 

「……すいません」

 

「あぁもう……謝んなよ」

 

 

 彼女はそう言うとカウンターに寄っかかって、そっぽを向くようにまた演奏中のバンドに視線を移した。

 

 

「お前がやろうとしていること、知ってるっていったらどうする」

 

「いいえ、なにも」

 

「……一応言っておくが、難しいと思うぞ」

 

「……知ってます」

 

「…………お前さ、バカだろ」

 

「それも、わかってます」

 

「……そうか」

 

 

 驚きはなかった。なんとなくこの人なら知っていると思った。

 もしかしたらどこかのタイミングで伊地知さんから聞いたのかもしれないけれど、それが事実だとしてもどうでもよかった。

 

 ……曲がもうそろそろ終わる。時計の針が止まるときみたいに、ゆっくりと音のない世界へと向かっていく。

 ぽつりと、店長さんが呟いたのが聞こえた。

 

 

「あの曲は、少し悲しすぎるな」

 

 

 店長さんの背中だけが視界に映る。表情はうかがえない。

 僕はそっと、誰の邪魔にならないように頷いた。

 誰に気がつかれなくても、そうしたかった。

 音が止む。拍手が鳴り響く。バンドメンバーが手を振ってステージを去っていく。

 そんな光景から、僕はほんの少しだけ目を逸らした。

 

 ──あのバンドもいつかはいなくなる。

 

 そんな残酷なことが、ふと頭をよぎった。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

「んもー! 優くんどこ行ってたの!? ずっと待ってたんだからね? ライブ見ながらだったけど」

 

「あー……ちょっと体調が悪くてさ、行けそうになかったんだ」

 

「え、師匠大丈夫ですか? 」

 

「もう平気。それに完全にライブ見てなかったわけじゃないんだ。ちょっと離れたところにいたってだけで」

 

「ふーん……」

 

 

 ライブが終わり、お客さんたちが帰った後店内の清掃をした。

 いろいろ詮索されたが、店長さんと話していたことを話すと迷惑がかかりそうで、隠すことにした。

 

 

「そういえば後藤さん、ライブ楽しめた?」

 

「あ、はい……キラキラした青春ソングとかは聞いてると死にたくなりましたけど……」

 

 

 それって楽しかったのだろうか。

 

 

「まぁでも、気持ちはわかるなぁ」

 

「え?」

 

「僕も、あんまりそういう曲には馴染めないというか。なんか全く知らない人のことを語られている気がして、感情移入はできなくてさ」

 

「わ、わかります。わたしこんなですから、つい自分と比べちゃって……鬱になる、といいますか」

 

「別に落ち込む必要はないと思うけど。僕は一人でいるのが好きな人間だから、そういう人になれなかったってだけで……でも歌詞通りのことをやりたいかっていわれると、違くて。なんだろう……自分にとって、周りにとって眩しいものだけが正しい、ってわけじゃないのかなって」

 

「鏡、先輩……」

 

「まぁ、僕がそう思ってるだけだけど。後藤さんがどう考えるのも自由だけど、もっと軽い感じでいいんじゃない? 自分のありのままの“好き”を大切にして、せっかくギター弾いてるんだし音楽でそれを叫べばいい。……後藤さん歌詞って書いたとある?」

 

「へっ? あ、たしか中学のときに……な、なんでですか?」

 

「なんとなく、君はいい詞を書けるかもと思って」

 

「え? いや、そんな……えへへ……いやー大したものは書けませんよー」

 

「そう? 少なくとも僕は後藤さんの書いたやつ、読んでみたいけどな」

 

「うへ、えへへ……」

 

 

 表情と言動がまったく一致してない後藤さんの姿に、僕もまた彼女と同じように顔が緩んだ。

 ──最初は後藤さんがここに馴染まなかったらどうしようかと思ってたけれど。

 もうそんな心配は必要ないかもしれない。

 後藤さんの笑顔はなんだかアイスクリームを想像させる。

 目元も、口も、夏の日差しに溶けるように……本当に溶けるみたいに……

 

 

「あ、あれ? ん、んー? 後、藤さん? なんか、ふにゃふにゃしてない……? 顔も、なんか」

 

「えへ、うへへぇ……」

 

「え、ちょ……だれかーっ! はやく来てっ! 後藤さんがっ! えと……えとっ! 液体化して大変なんですけどーっ!」

 

 

 内心何言ってるんだと自覚しながらも、助けを呼んだ。

 意味不明なことを叫んだわりには伊地知さんたちがすぐに駆けつけてくれた。

 

 

「えっ、これどうすればいいの? ていうかなんでこうなったの?」

 

「いや、後藤さんと話して気がついたら」

 

「うわー、ほんとに溶けてるわ……スライムみたい」

 

「おー……ぷにぷに。手触りも……あ、虹夏。これグッズにして売ろう。名付けて『スライムぼっち』。語呂もいい。最高」

 

「売るわけないでしょ」

 

「えー? いやそんな、作詞のコツとか聞かれても……えへへぇ」

 

「ほらぼっちも嬉しそう」

 

「絶対違うと思う」

 

 

 結局そのあと救急車を呼ぶ直前に元通りになっていた。

 怖いと思う以前に、後藤さんの体が心配になった。

 ふと気になって、携帯で検索する。

 

『人間 溶ける 病気 対処』

 

 検索結果をスクロールしたけど、的外れなものばかりで、すぐに電源を落とした。

 

 ……僕は少しだけ、後藤さんが人間だと言い張ることが難しくなった。

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあお疲れ。今日はもう帰っていいよ」

 

「お疲れさまでした」

 

 

 みんなに挨拶をかわし、それぞれの荷物のもとに向かう。

 鞄を持って、ギターケースを背負う。いつもより重く感じて、半歩後ろにふらついた。

 自分が気づいていないだけで、案外疲れているらしかった。

 出口に向かうと店長さんが立っていた。

 

 

「どうかしましたか?」

 

「なぁ、鏡。時間あるか?」

 

「え? まぁ、はい。大丈夫ですけど。やりのこしたことでもありました?」

 

「いや、そうじゃない」

 

 

 店長さんは僕の目をまっすぐ見つめて、やがて短い息をついて言った。

 

 

「お前の実力がみてみたい」

 

 

 



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”ビギナー”

ぼっちちゃんの顔面切削ギターピックが付録でついてきますっ!ってなったとき、なんか某麻雀漫画とか某ギャンブル漫画とか読みたくなりました。

あと最近『時をかける少女』を改めて観たんですけど、やっぱりいいですねー。
個人的にはラストも近い夕暮れの河川敷のシーンがあんまりにも綺麗すぎて、言葉失いました。
ああいう作品を残せたらと思うと、憧れますね。


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誤字報告も大変ありがたいです。


 ――ギターを構える。

 たったその動作だけで、激しい既視感が頭をよぎる。

 あの人との出会いも、こんな感じだった。

 まだ私がお茶ノ水の楽器店でバイトをしていた時の、なんでもない一日だった。

 

 

 

 

 

「伊地知さん、お願いだから勝手にギター仕入れたりしないでよ」

 

「うぃー」

 

 

 先輩の言葉を軽く聞き流す。

 いつものようにカウンター裏にあるパソコンでマウスをポチポチとクリックしながら検索していた。

 ネット上に新製品のラインナップを目で流す。

 

 

「……なんかピンとこねえなぁ」

 

 

 ここで働いて何カ月か経つが、それともそれだけ働いているからか、私の目は幾分か肥えてしまっていたらしかった。

 カラーリングは好みだが、サウンドが求めているのと違かったり、その逆もあった。

 

 

「はぁ……とりあえずこれと……これかなー」

 

「伊地知さん? なにが「これかなー」なのかしら?」

 

「仕入れ。いやほら、店内も賑やかになるんじゃないかなーって」

 

「飾りつけみたいにギター入荷しようとする人、私初めて見たわ」

 

「いいじゃないですか。現に売れてるし。私目利きはいいと思うんです」

 

「中には確定してない売約もあるみたいだけどね……あ、いらっしゃいませー」

 

 

 先輩が視線を逸らした隙に確約のボタンを押す。

 ……まあバレると思うけど、いいだろう。多分売れる。少なくとも一つは私が買うから問題ない。

 咎められる前に見回りに行く。

 楽器の埃を掃ったりしていると、声をかけられた。

 若く、落ち着いた雰囲気の男の声だ。

 

 

「すいません、試奏って大丈夫ですか?」

 

「あぁはい、大丈夫ですよ。どちらを弾かれます?」

 

「えっと、じゃあこのマーティンのやつとヤマハの……はい、それで。ありがとうございます」

 

 

 ギターを構える動作に淀みはない。

 それだけでこの人が初心者ではないことはすぐにわかった。

 ……万が一ぞんざいな扱いをされてもすぐに声掛けできるように注視しておく。

 けれどそれはすぐに無駄に終わった。

 無駄に終わったというか、する必要がなかった。

 

 店内に、優しい音が満ち溢れる。

 

「――さん。もしもし、店員さん?」

 

「……えあっ、はい。なんでしょう」

 

「あぁよかった! 呼びかけても返事ないからてっきり無視されたのかと。ありがとうございました。二本ともいいギターですねっ。あ、元の場所に片付けたほうがいいですか?」

 

「あー……こっちでやっておきますんで、はい」

 

「そうですか。ありがとうございます」

 

 

 なんだ。うまく頭が働かない。

 この人と話していると調子が狂う。

 足がつかないような、思考が宙に浮いた感じ。

 でもそれが決して嫌なものではないのが、余計に不思議だった。

 

 

「ギター上手なんですね」

 

 

 気づけば声をかけていた。

 男はわずかに首を傾げた後、にこやかな表情をして言った。

 

 

「ありがとうございます。でも僕なんてまだまだですよ」

 

「そんなことはないと思いますけど」

 

「僕は自分の実力には満足しないことにしてるんです。そうしないと、自分の限界を勝手に決めちゃいそうで」

 

「……なるほど、深いですね」

 

「そ、そうですかね……?」

 

「はい」

 

 

 多分。知らないけれど。

 少なくともこの人が今の音楽の感覚を大事にしてほしいとはうっすらと思った。

 

 

「今日はギターを新調しに、って感じですか?」

 

「あー、いや実はですね。息子のプレゼントにと思っていて。今回はそれ用のを探してたんです」

 

「エレキじゃなくてですか?」

 

「なんかこっちを弾きたい様子で」

 

 

 彼は先ほどまで弾いていたアコースティックギターを指さした。

 

 

「ボディの大きさも考えると……テイラーのアカデミーなんかは初心者にはおすすめですね。エレアコだからバンドとかでも使えるんですよ。そこらへんも便利で」

 

「うーん、そっかー。あいつも将来バンドとか組むかもしれないんだよな……」

 

「音色だったりを求めるならオール単板のやつとかになりますね。安い奴だとフェンダーの――」

 

 

 その人と数十分はやり取りをして、ようやく一本に絞りこめた。

 ピックガードにシンプルながらも目を引く絵柄を持つ、ギブソンのアコースティックだ。

 ただやっぱり本人の感想が欲しいということで、購入は見送りになった。

 ここまでしてギターを買われなかったことに苛立つことはなかった。

 だってこの人はきっとここに来る。

 なんの根拠もないのに私はそう思えたから、最後の退店まで落ち着いていられた。

 

 

「あ、そうだ。店員さん。今日はありがとう」

 

「いえ別に……大したことは」

 

「それでもお礼を言わせて。で、それでってわけじゃないんだけど……これ、もしよかったら」

 

 

 手渡されたのは、シックな文字が印刷されたライブチケットだった。

 

 

「これ……」

 

「今度ライブやるんです。っていってもあと一週間後とかそこらなんだけど。あ、お金はいらないから」

 

「え、それは」

 

「いいんだ、今日は本当に助かったから。それに稼ぎに困ってるわけじゃないし」

 

「じゃあ、その、遠慮なく」

 

「うん。それじゃあまた来ます。今度は息子も一緒に」

 

「……ありがとうございましたー」

 

 

 姿が見えなくなるまで見送り、自動ドアが閉まり切った後にほっと自然に息が漏れた。

 それから手元に視線を下す。そこには当然ながら先ほど渡されたチケットがあった。そっと撫でるように触れると、手触りのいい紙の感触が指先に伝わった。

 ……本来なら一店員が客からこのようなものを貰うなど、やってはいけないことだ。

 そのことに思い至っていながらも受け取ったのは……やはりあの音を聞いてしまったからだ。

 優しくて、けれどそこには力強さがあって。

 悔しいが……私には出せるかもわからない音。

 

 

「……変な客」

 

 

 カウンターに戻りながら、そうぼやく。

 席に座って白紙を手に取り、ペンを握る。

 すぐに先ほどの場所まで戻り、そこに飾ってある一本のギターのボディに貼り付ける。

 

 

「うしっ」

 

「珍しいわね、伊地知さん。アコースティックにそれつけるなんて。あ、もしかして()()()()()それ貼ってる?」

 

「先輩……まー、そんな感じですかね……」

 

 

 いつの間にか先輩が近づいてきていた。

 よくよく考えてみると、確かにそうだ。アコギにこの紙を貼り付けるのは初めてかもしれない。

 ――というか、本当の意味でこれを書いたのすら今日が最初かも。

 

 

「……先輩」

 

「ん?」

 

「私、楽器が……このギターがちゃんと買われてほしいって思ったの、初めてかもしれないです」

 

 

 そっとボディの輪郭をなぞる。

 傷つけないように、持つべき人のもとに渡るように細やかな願いを込めて。

 

 ――せめて、また来るまではとっといてやるよ。

 

 紙に書いたのは書き慣れたもののはずなのに。

 いつも以上に堅い、不格好な『売約済み』の文字が気になってしょうがなかった。

 

 

 そしてまぁ……もったいなかったからライブも行ってみた。

 たまたま予定がなかったから、仕方なく。

 もしかしたら忘れられてるかもな、なんて一抹の不安もあったがそんなものは杞憂に終わった。

 件のギターのことを話すと、「ら、来週の休日には行くから」と少し慌てた様子で話していた。多分向こうからは急かしていたと思われたが、それに気づくのはライブが終わって家に帰ってからのことだ。

 

 

 

 あの人に会ったのは、それの日が最後だった。

 来週の休日、彼はやってこなかった。

 

 ――あぁそうかよ。結局、その程度のもんだったか。

 

 売約済みのギターはそのままで、店の出入り口を一日中睨み続けて、けれど望んでいた客はやって来なかった。

 私に残ったのは、嘘をつかれたことの失望と、行き場を失った怒りと、そしてどうしようもない悲しさだった。

 

 

「最近お姉ちゃん、ちょっと変だね……?」

 

 

 その日の夜、虹夏がおそるおそると尋ねてきた。こちらを窺うような、慎重さを伴った声色だった。

 

「……チッ。別に、なんでも」

 

「ほらまた舌打ちした! わたし、なにかした? さっきからそればっかり」

 

「うっせぇな。何もないし、舌打ちするぐらい普通だ」

 

 

 味噌汁をすする。いつもよりひどく味気なく感じた。

 

 

「なにもなかったら舌打ちしないよ?」

 

「……なんでもねぇよ」

 

 

 それに。

 

 

「――お前には関係ない」

 

 

 しばらく沈黙が部屋に降った。壁にかけてある時計の秒針の音がやけに響いた。

 やがて震えた声で虹夏は言った。

 

 

「……お姉ちゃんなに……その言い方」

 

「本当のことだ。知ったところでどうしようもないし、どうもしない」

 

「こっちはお姉ちゃんのこと心配して言ってるのにっ!」

 

「……虹夏、うるさい。少し黙れ」

 

「ちゃんと話してくれなきゃわかんないじゃん! お母さんがいなくなっちゃったときみたいな、苦しい顔してるもんっ! なにかあるなら言ってよ! 言うだけでもいいから言ってよっ!」

 

「ッ……虹夏ッ! いい加減に――」

 

「だってわたしたち、家族じゃんっ! 世界一仲がいい姉妹だって、お姉ちゃん言ったじゃんっ!」

 

「――」

 

 

『星歌。虹夏と仲のいい姉妹でいてね』

 

 

「ぁ……」

 

 ……私は、なにを、しているんだろう。

 こんなことで、私は母さんの願いを駄目にするところだった。

 虹夏のことも、考えていなかった。

 

『これからは支えあって生きていこう。私たちは世界一仲いい姉妹なんだから』

 

 私は誓ったはずだ。

 それなのに、この様か。

 虹夏は感情が高ぶっているのか、息が荒い。目は潤んでいて今にも泣きだしそうだ。

 私はただ意固地になって、自分だけのことしか考えてなかった。

 

 

「わ、わたし……お姉ちゃんの苦しい顔なんて、みたく、ないから」

 

「虹夏……ごめん。ごめんな……私が悪かった」

 

 

 席を立って、虹夏の傍に寄る。

 瞳をのぞき込むとかすかに充血していて、そっと抱き寄せた。

 

 

「……くだらないことなんだけど、きいてくれるか?」

 

「……ん。いいよ、くだらなくても。最後まできく」

 

「そっか」

 

「うん。そうだよ」

 

 

 背中に腕二本分の体温を感じながら。

 私は少しでも面白おかしく話そうと、頭を巡らせた。

 

 

 次の日の朝。

 ニュースをなんとなしに眺めていたときだった。

 

 

「……ん? 結構近くだな、この事故」

 

「トラックと乗用車の正面衝突だって」

 

「あぁ……お前も道歩くときは気をつけ…………」

 

「? お姉ちゃん?」

 

「……こいつだ」

 

「な、なにが?」

 

「昨日話した……客のこと。間違いなく、この人だ」

 

 

 私はようやく、真実を知った。

 彼は来なかったんじゃない。

 たとえどれだけ願おうとも、来ることができなかったんだということを。

 碌な別れの挨拶もしないまま、また私は会いたいと思っていた人と会えなくなった。

 

 

 

 

*   *   *

 

 

 

 

 一曲を弾き終える。

 といっても、いつものだ。

 名前の知らない父の曲を実力の限り演奏した。

 ほっと息をついて頭を下げる。

 

 

「――ありがとう、ございました」

 

 

 まばらに拍手が起こる。

 一様に、それらは違うものばかりだ。

 音ではなく、そこからとれる印象が決していいものだけではないことをなんとなく悟る。

 

 

「……とりあえずお疲れ、鏡」

 

「はい、店長もわざわざありがとうございます」

 

「それより」

 

 

 店長さんの視線がゆっくりと僕から外れ、横に向いていく。

 

 

「お前らは呼んでねぇんだが」

 

「いやーやっぱり優くん上手いね……これは喜多ちゃんもぼっちちゃんも負けてらんないね」

 

「いやもう負けてますよ。弟子入りしてるって事実がわたしたちにはあるんですから」

 

「そういう意味じゃないんだけど」

 

「話聞けよ」

 

「構わないですよ。聴いてくれる人は何人いてもいいですから」

 

「うぐわぁッ!!」

 

「後藤さん!?」

 

「人前でろくな演奏できないわたしは……いったい……」

 

 

 後藤さんが謎に後方に吹っ飛んでったが、段々気にならなくなってきた自分がいることのほうが怖くなってきた。

 店長さんはため息を一つ吐いて、それから再び僕に顔を向けた。

 遠くの的を射抜くような鋭い視線に、背筋を伸ばす。

 

 

「……鏡」

 

「はい」

 

 

 静まり返った。

 誰も口を開くことなく、だから余計に自分の心臓の音がうるさかった。

 

 

「……虹夏も言ってたが、技術だけ言うならたしかにお前は上手い。私もギターをやってたから、どれだけ努力してきたかも、お前の動きを見てればわかった」

 

 

 少し間が空いて、店長さんの視線が一瞬だけ下がるのが見えて、それから「だが」と言葉が続いた。

 

 

「お前はそれだけだ。音が小綺麗で、ただ無感動なだけ。つまんないよ、お前の音楽」

 

「……そう、ですか」

 

「ちょ、お姉ちゃんそこまで言うことないじゃん!」

 

「いいんだ、伊地知さん」

 

「でもっ」

 

「嘘をつかれてまで慰めるようなことを言われるより、隠さずに言ってくれたほうが何倍もいいよ」

 

 

 ステージを降りながら伊地知さんにそっと笑いかける。

 それで僕が何も気にしていないことが伝わってくれればよかったけれど、あまり納得のいかない表情をしていた。

 その顔が嬉しくもあり、申し訳なくもあった。

 

 ――僕はやっぱり下手らしい。少なくともギタリストとしては失格だ。

 

 厳しいことを言われることは、覚悟していた。

 僕自身伸び悩んでいたことを自覚していたから、店長さんの言葉に反論することはなにひとつとしてなかったし、事実正しいのだと思う。

 無感動で、つまらない。

 脳内で圧縮された言葉を飲み込む。

 心のどこかでは思っていたことでも、受け入れるには少しだけ時間がかかった。

 そんな僕をよそに、店長さんはおもむろに話を続けた。

 

「なぁ、鏡。お前なんでギターやってんの?」

 

「それは……」

 

 

 口は不自然なほどに重かった。

 

 

「……別に無理に答えなくてもいい。改めて知ったところで私がどうこうできるものじゃないし、口出しするようなものでもない。ここで言いたいのはな、いいか、お前の音はまっさらだってことだ。心揺さぶるような音だとか、一音ごとに熱がこもってるとか、そんなものを語る以前の話だ。強弱もへったくれもない、マシンビートでも聴いてるみたいだったよ」

 

 

 店長さんはつまりだ、と続けざまに言った。

 

 

「空っぽすぎるからどうにかしろってことだ」

 

「空っぽ」

 

「譜面にあるだけのものが正しいってわけじゃない。わかるか?」

 

「……いえ」

 

「いつかわかるさ。それを弾き続ける限りな」

 

 

 店長さんが椅子から立ち上がった際にギシリと軋むような音をきっかけに、どことなく今度こそ帰る流れになった。

 山田さんだけ少しだけ残るらしく、喜多さんと後藤さんの秀華高のメンバーで帰ることになった。

 最初は喜多さんがたくさん話しかけてくれたけれど、僕と後藤さんはそれに頷いたり簡単な言葉を交わすくらいでちっとも会話にならなった。

 喜多さんには申し訳なかったが、僕は考えることで手一杯だった。

 

 “いつか”できる。

 

 “いつか”わかる。

 

 じゃあその“いつか”はどこまで続いているのだろう。

 距離を尋ねても、誰も教えてはくれない。

 近いのか、遠いのか。

 それとも誰の目にも映ってないからそもそもわからないのか。

 

 それでもわからないなりに歩いて、必死に前に顔を向けるけれどそこにあるのは暗闇ばかりで。

 だからいつまでも停滞しているように思う。

 “いつか”なんて言葉が、僕はいつしか嫌いになっていた。

 

 僕ら三人の中に会話はもうなかった。

 下北沢の住人たちの雑踏とも呼べるような声が耳に届いては容易く流れていった。

 歩きながら、少し遠くにある水色の飴玉みたいな街灯にぼんやりと目を合わせていると、ふと思い出したことがあった。

 僕は二人を呼び止めた。

 

 

「そういえば後藤さんさ」

 

「うぇ!? は、はい」

 

「前に僕の演奏聴いてくれたときあったよね。そのときの感想をたしかもらってなかったと思うんだけど」

 

「え゛」

 

「え、そうなの? 後藤さん?」

 

「えと……そっ、そうでしたっけー……」

 

「うん、そうだよ。結局あの後なんやかんやで聞けないままだったし」

 

「あうぅ……」

 

「……怒ったりなんかしないよ。ただあのとき思ったままことを言ってくれればいい。純粋に、君の感想が知りたいんだ。だから、お願い」

 

 

 俯いてしまった彼女に、僕は静かに頼み込んだ。

 ちらちらとこちらを見上げる視線を感じた。

 口を開いたり、閉じたりして言葉になっていない小さな声が漏れだしていた。

 そんなことを数回繰り返して、ようやく。

 

 

「……あ、あの大体は店長さんと一緒、なんですけど」

 

「うん」

 

「ちょっと、ちょっとだけ……あのときの鏡先輩はその……あまり楽しくなさそうにギターを弾く人だなぁって……思いました。あの、ごめんなさい」

 

「ううん、いいよ。後藤さんは……音楽をやるのに楽しさが必要かい?」

 

「……はい。絶対に」

 

「そっか」

 

 

 駅まではあと十数分は歩く必要があった。

 それ以降相変わらず僕らはそろって口を閉ざして、けれどこの空間は決して居心地の悪いものではなくて。

 その曖昧な空気の中で、唐突に自分がふがいなく感じて、どうしようもなく空を仰いだ。

 

 

 

 二人とは駅で別れた。

 当然駅を使ったほうが家に着くのは早いのだが、なんとなく一人で歩いて帰りたい気分だった。

 そんなことを伝えると後藤さんたちは慌てだして「早まらないでくださいっ」とか言い出してきた。

 僕は何だと思われてるんだろうか。

 今日のことを思い出しながら道を歩いた。

 駅から離れるほど、人の往来は次第に少なくなり、やがて僕一人だけになった。

 靴が地面を叩く音が心地よく聞こえた。

 車は一台も走っていなくて、僕を照らすのは街灯の光だけだ。

 春とも夏ともいえない季節の夜の風は歯を鳴らすほどでも、かじかむほどでもないけれど、少しだけ肌寒く感じた。

 僕は黙って歩いた。

 歩いて、歩き続けて……。

 

 ふと視線を横に向ければこじんまりとした公園があった。

 一瞬だけ立ち止まって、吸い込まれるようにその公園に足を踏み入れた。

 近くのベンチに座り、背負っていたギターケースを開ける。

 ストラップを肩にかけて、そこまでやって僕の手は止まった。

 

 ――驚くほどに、なにも弾きたくなかった。

 

 

「……馬鹿か、僕は」

 

 

 ため息をついて、悪態をつく。

 弾きたくないなら、なんでギターを取り出したんだ。

 ベンチに座って、それで終わりでよかっただろ。

 こんな夜中にギターを鳴らしたところで迷惑になるだけだ。

 そもそもこんな場所なんて通り過ぎてさっさと帰ればよかったんだ。

 いろんな考えが頭に浮かんで、僕はその一つひとつに頷いた。

 

 それでも、僕がこうしたのは事実で。

 じっとその意味を探したかった。

 

 

「――」

 

 

 そうして何分経ったかもわからない頃に。

 頭に思い浮かんだのは、一つの曲だった。

 

 ギターケースからカポタストを取り出す。

 耳を澄まし、弦を鳴らす。

 曲を構成するすべてを思い出そうとする。

 いや、すべてでなくてもいい。

 大丈夫だ。

 耳が覚えている。

 

 そっと息を吸って、誰にも気づかれないように、歌う。

 ただの音じゃなくて、声に出して、歌いたかった。

 

 

『未来からの 無邪気なメッセージ 少なくなったな』

 

『あいまいじゃない 優しさも 記憶に遠く』

 

『だけど追いかける 君に届くまで』

 

『慣れないフォームで 走り続けるよ』

 

『霞む視界に 目を凝らせ』

 

 

 ギターの音が孤独に響く。

 歌は得意なわけじゃない。

 むしろ下手なほうだ。

 音程は取れるけれど、声は震えて、掠れる。

 技術もなにも、僕は知らない。

 けれどこのままでいいと思えた。

 少なくとも、今は。

 なんとなく、喜多さんが聞いたらどんな反応をするのかを少しだけ想像してみた。

 笑ってる顔も、苦い顔も、どちらも容易に脳裏に浮かんで、少しだけ頬が緩んだ。

 

 

『同じこと叫ぶ 理想家の覚悟』

 

『つまづいた後の すり傷の痛み』

 

『懲りずに憧れ 練り上げた嘘が』

 

『いつかは形を持つと 信じている』

 

 

 “いつか”を僕は信じてきた。

 今も嫌いな言葉だし、きっとこれからもそれは変わらないだろう。

 好きになることもない。

 でもきっと信じ続ける。

 望む世界は遠くて、どこにあるかもわからなくてけれど。

 だから信じて進むしかない。

 膝をついても、挫けたとしても。

 また“いつか”を胸に抱いていよう。

 

 

『幼いころの魔法 心で唱えたら』

 

『安らげることもあるけれど』

 

 

 コードを弾きながら、僕はそっと空を見上げた。

 そこに月も星もない。

 けれどたしかに僕の頭上には輝いている。

 ただ見えないだけで、隠れてしまっているだけで。

 

 僕はそれを見つけることができていないだけなんだ。

 

 

『だけど追いかける 君に届くまで』

 

『慣れないフォームで 走り続けるよ』

 

『霞む視界に 目を凝らせ』

 

 

 曲が終わっても、僕はギターを構えたままでいた。

 かといってもう演奏する気は全くなかった。

 僕の中には、諦めにも似たどうしようもない感情がこみあげてきていた。

 空を見つめていると、視界の端に輝くものが見えた。

 最初は星だと思っていたけれど、数秒もすればそれが夜間飛行をする飛行機の灯火だとわかって、おかしくて少し笑う。

 ギターをケースにしまい、立ち上がる。

 入ってきたところと同じ場所へ向かい、僕は名前も知らないこの公園を出た。

 

 

「諦めないから」

 

 

 偽物を重ねて、その先には何が残って、僕は何者になるのか。

 わからないことだらけで、予想もできないけれども、あの偽りの光だって輝いて、空を飛べるのなら。

 本物の星を探してそこに手を伸ばし続けることを、まだ止めたくはなかった。

 



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言葉をのせて

暑すぎて頭が回らない。

最近寝つきも悪いし……もうこれはポケモンスリープ入れるしかないか……


 

「今、なんて言ったの?」

 

 

 ある日の土曜日、僕の朝はそんな一言から始まった。

 テーブルには僕と母さんが座っていて、杏が食器を洗う音が孤独に部屋に響いていた。

 僕と母さんは二人して、互いの目を見つめた。

 まっすぐな、決して嘘はつかないような誠実さを感じさせる瞳だった。

 母さんの言葉を聞き取れなかったわけではなかった。別に難しいことを言われたわけではない。恐ろしいほど長い文章を読み上げたわけでもない。

 ただ、瞬時に母さんが口に出したことを理解するためには、もう一度その言葉を聞く必要があった。

 さっき耳にしたことが事実であれば、僕にとってあまりにも非現実に近いものだった。

 ゆっくりと一呼吸分の間を置いて、母さんはもう一度口を開いた。

 そしてそれは一文字一句違わない、数秒前に唱えた言葉と全く同じだった。

 

 

「家にあるギターを捨てます。少なくとも、夏の終わりまでには」

 

 

 

 

 

 

 

 

「えー!? そんなこと言われたんですか!?」

 

「残念ですね……」

 

「まぁ、そうだね。でもいつか言われるだろうとは思ってたんだ。むしろ遅いくらいだよ」

 

 

 今日の授業が終わり、バイトに行く道で僕は先日あったことを話した。

 十歩分の時間が空いた後で、「あれ?」と喜多さんが疑問をにじませた声を出した。

 

 

「師匠は悲しくないんですか? 捨てられちゃうギターってお父さんのものなんですよね」

 

「悲しくはあるよ。ただ、なんていうかな……これは例外らしいから」

 

 

 今僕が使っているこれだけは母さんの言う夏までに捨てるギターではなかった。

 母さんからも言質はとったし、そんなこともあって僕は多少気持ちが落ち込む程度に済んでいる。

 

 

「僕の気が済むまでやればいいって、言われてさ。まあ相変わらず良い顔はしてなかったけど。だから僕としても妥協点かなって思ったんだ」

 

「……もしかしなくてもですけど。わたしにあのとき貸してくれたギターって」

 

「捨てられちゃうね。あれ母さんの部屋にあったやつだから」

 

「ですよねぇ……やっぱりショックです。あれ買い取ることってできますか」

 

「どうだろ、僕から言ってもな……素直に頷いてはくれなさそうだけど。妹に話を通したほうがいいかもしれないね。ギターを欲しがってる友達がいるっていう体で。杏はたしか喜多さんに渡したギターを見ているはずだから、あのときのギターも大丈夫かも。あ、後藤さんもいる? ほとんどアコギかエレアコだけど」

 

「い、いえ遠慮しときます」

 

 

 喜多さんはそれを聞くと杏にメッセージを送っていた。

 明日か明後日あたりには母さんもこのことを知るのだろう。

 そのときどんな判断を下すのか正直検討はつかないけれど、杏の説得がダメなようだったらそのときは口添えをしよう。

 今日は曇り空だ。ここ最近はずっとこんな曖昧な天気が続いている。

 晴れでも、雨もない。

 雲の向こうにはたしかに太陽があるのに、こうも光が差さない日が続くとその存在すら不安定に感じつつあった。

 

 母さんは隠していたようだけれど、部屋にはいくつも父さんの記憶が残っているものがある。

 ギターはもちろん、いつだったか忍び込んだときに旅行に行ったときの写真なんかも机の片隅に伏せてあるのを見つけたことがある。

 父さんの物の大半はとうに母さんが捨てた。

 それこそ狂ったように、なにかに取り憑かれたように、父さんとの思い出を捨てることで感情を紛らわしていたんだと思う。

 

 もう会えない人との思い出が残っていることが、あの人にとっては苦痛だった。

 だからここまで残っていたのは、母さんが捨てたくても捨てられなかった、どうしても大切なものだったはずだ。

 母さんにとってそれは数々のギターで、埃をかぶって主に置いてきぼりにされたそれらを、ついに手放すことにした。

 

 ……おそらく、あの部屋にもう父さんの痕跡はない。

 喜多さんにギターを貸そうとして部屋に入ったとき、懐かしさを感じるものは一切なかった。机に伏せてあった写真も、あのときは見当たらなかった。

 思い出を捨て、愛した人を忘れ、そうして前を向こうとしている。

 母さんは本当に変わろうとしている。

 

 ――けれど何かを捨てることを、成長とは言わない気がする。

 

 気に食わない。そして気に食わないと同時にひどくほっとしたのも事実だった。

 僕にとって悲しい結果だったとしても、あの人にとっての前進になったのなら、自分の感情はある程度目を瞑るべきなのだろうから。

 

 ふと、袖を引かれる感触。

 振り返ると後藤さんが俯きながらも口をもごもごと居心地悪そうに動かしていた。

 

 

「どうしたの、体調でも悪い?」

 

「あ、あのぉ……あやっぱり、いやなんでもないです」

 

「……そう?」

 

 

 わずかに首をかしげる。

 後藤さんから話しかけてくるのは珍しい。

 話を掘り下げてもよかったのだが、なんとなく話しづらさのようなものを彼女から感じた。

 桃色の前髪から瞳が忙しなく動くのが垣間見えた。

 僕と喜多さんを行ったり来たりしている。

 

 

「どうかしました? スターリーすぐそこですけど」

 

「……いや、なんでもないよ。すぐ行く」

 

 

 立ち止まっていた僕らを不思議に思って喜多さんが声をかけてきた。

 

 

「後藤さん、なにかあったら言って。相談くらいには乗るからさ」

 

「は、はい……あの、鏡先輩って期待してたものが的外れだったときって、どうします、か?」

 

「え? 期待? あーまぁ、ものによるけどちょっと残念かなって感じには、なるんじゃない?」

 

「そうですよね……はあ」

 

 

 やたらと大きい溜息を吐いて、後藤さんはトボトボと先へ歩いて行った。

 足取りは重く、猫背も相まって後藤さんの周りだけ暗い空気が立ち込めているように錯覚した。

 

 

「……なんだろう?」

 

 

 戸惑いながらも僕も彼女の後に続いてスターリーへと向かう

 その日のバイトは、いつもより長く感じた。

 

 

 

*   *   *

 

 

 

 思いつかない。

 

 

『前に決めたじゃん! リョウが作曲、ぼっちちゃんが作詞って』

 

 

 …………言葉が浮かんでこない。

 

 

『え~! リョウ先輩の曲楽しみです! もう作ってたりするんですか?』

 

『ううん。イメージ湧いたらそのうち』

 

『わ~! 楽しみ!』

 

 

 ……歌いにくいような字数にしちゃだめだ。そのことも考えなきゃいけないのに、目の前にあるのは幾重もの消し跡が残っている自由帳だ。

 それを何分も眺めている。

 

 

『頼むよリョウ。それと作詞大臣!』

 

『後藤さんすごい仕事任されてかっこいいね!』

 

 

(なにもおもいつかなーい……)

 

 机に伏したまま、頭を抱える。こんなことをしてもなにも素晴らしい歌詞が降って降りてくるわけでもないけど、こうせずにはいられなかった。

 先週、結束バンドのちょっとした会議で、なぜかわたしが歌詞を担当することになってからちょうど一週間が過ぎた。

 

 その間、何の成果もない。

 

 今日はシャーペンを片手に紙に向かってからどれくらい経ったんだろう。始めたころは二時間とか平気で考えられてたけど、だんだん短くなってきてる気がする。

ペラペラとページをめくると肝心の歌詞は一切出来てないくせに、とりあえずは必要のないサインはできてしまっている。なぜ……?

 

 喜多さんが歌うんだからそれに合わせた歌詞じゃないといけないんじゃないか。そう思っていろんな曲を聞いてみた。

 何の根拠もないのに無責任に背中を押すような応援ソング。

 わたしなんかには眩しいくらいのザ・青春を謳う曲。

 恋愛ソングなんかも喜多さんには似合いそうだからこれも探してみたけど、わたしには遠い世界で、書けそうもなくて早々に断念した。

 

 

「そもそもわたしなんかが担当してよかったのかな……」

 

 

 本当はあのとき断るべきだったんじゃないか。

 手が止まる。

 はっと書きかけの歌詞に目を見やれば、さっきまでは喜多さんに合うと思っていた明るい言葉が急に薄っぺらく感じた。

 そうしてまた消しゴムを手に取って、真っ白に戻す。

 そんなことを何回も繰り返していた。

 うつ伏せに机に倒れていた頭を横に向ければさっきまで調べていて無造作に置かれたスマホが目に入る。

 

 

「……やっぱり、言ってみようかな」

 

 

 思い浮かぶのは、最近知り合った同じ学校の先輩のこと。

 どこかつまらなそうな表情で、いつも一人校舎裏の木陰でギターを弾いている、わたしとは違うのにちょっとだけ親近感を覚える一つ上の先輩。

 わたしと結束バンドを引き合わせてくれた人。

 そっとスマホに手を伸ばす。

 機械的な冷たさが手に伝わって、その中に微かな熱を思い出す。

 

 

『なんとなく、君はいい詞を書けるかもと思って』

 

『少なくとも僕は後藤さんの書いたやつ、読んでみたいけどな』

 

 

「はぁー…………」

 

 

 電源はつけなかった。つけることができなかった。

 どの人の信頼も裏切りたくはないけれど、鏡先輩には残念な顔をしてほしくないと思った。

 いや、あの人にとっての“いい歌詞”をわたしが書けなかったとしても、そのときはわたしの思う“最善の言葉”を見てもらいたかった。

 

 

「……でも書けなかったら意味ないよ……真っ白い紙見せられてどうしろって……」

 

 

「え、結構時間あったはずなんだけど、一つもできてないの後藤さん?」とか、「うーん、正直期待外れだったかなぁ……」とか先輩に言われるのだろうか。

 もう死にたくなる。そんなこと言われたらメンタル的に立ち上がれない。

 

 

「暗い歌詞ならいくらでも書けるけど……そんなの喜多さんには似合わないし……」

 

 

 書いては消し、書いては消しを何度しただろうか。

 何一つ納得のできる言葉を見つけることができないまま、日は沈んで夜がやってきた。秒針は忙しなく時を刻んで、否が応にも今日という一日が終わりに近づいていることを認めさせられる。

 

 スタンドライトの電気をつけ、押し入れの中と机を行ったり来たりしながら、それでも一向に進展はなかった。

 もうこのままではきりがなかった。これだけ時間をかけても書けないのなら、きっといつまでもかけないままだ。

 心を押し殺し、毛ほども思っていない目を逸らしたくなる綺麗な言葉を繋げる。

 できあがったのはなんともありきたりで陳腐な文字の羅列だった。

 

 

「……」

 

 

 もう、これでいいや。

 ノートを閉じようとして――近くからそこそこ大きい音が鳴った。

 

 

「ひっ……で、電話?」

 

 

 液晶に映った文字は鏡先輩からの着信を表示していた。

 とりあえず携帯を手に取って電話に出る。

 ……電話なんてめったにしないから操作がもたついた。

 

 

『もしもし、後藤さん? 今大丈夫?』

 

「あっ、は……」

 

 いや待てよ。

 どうしてこのタイミングで先輩から電話がかかってくるんだろう。

 なにか約束をした覚えはない。

 メッセージのやり取りは少なからずあるものの、電話を通して話すのは今が初めてだ。

 こちらから連絡をすることはなく、けれど向こうには電話をするだけの理由があった。

 目が泳ぐ。泳いだ先に、しわくちゃになったノートに書かれている歌詞があった。

 

 ――あ、これもしかして問い詰められるやつ?

 

 

「あ、は……はっ……はぁ…………っ!」

 

『ごめんね急に。ちょっと聞きたいことがあってさ』

 

「ききき聞きたいことででですか!?」

 

 

 まずいまずいますいっ!

 これ多分絶対歌詞のことだ!

 

 

『……? うん。別に難しいことは聞かないよ。すぐ終わるから』

 

「すぐ終わっちゃうんですか!?」

 

 

 脳内でシュミレーションしてみる。

 

 後藤さん、歌詞できてる? 

 い、いや~ちょっとまだなんですよね~……。

 え、もう一週間以上は経ってるよね? なんでできてないの? 

 えぁあの……思いつかなくて……。

 ……うーん。やっぱり後藤さんには荷が重かったみたいだね。ごめんね、後藤さん。

 

 あ、すんごくはやく終わったー。終わっちゃったー。

 わたしすごく役立たずだ……初ライブの練習の時に言われたけどギターも下手らしいし……。

 このまま結束バンドも脱退させられちゃうのかな。

 でもそれは――それは絶対に、嫌だ。

 

 

『それで』

 

「で、できてますっ!」

 

『え?』

 

「だっ……だから、歌詞書けて、ます」

 

『歌詞って、後藤さんの?』

 

「は、い」

 

 

 震える声を絞り出す。

 電話の向こうは音声が途切れたようになにも聞こえなかった。そのせいで先輩がどんな表情をしているのかまったく想像がつかなかった。

 何を言われるかわからなくて、無言でノートを見つめた。

 消し跡が幾重にも残っている紙の上にはたしかに先ほどまで書いた言葉がある。

 嘘はついてない。これはわたしが書いた歌詞だ。

 

 

『……後藤さん。嘘はつかなくていいよ』

 

 

 嘘という言葉に背筋が伸びる。反射的に言葉がついて出る。

 

 

「う、嘘なんかじゃないですっ。ちゃんと書きました」

 

『ううん。君は嘘をついている』

 

「違います!」

 

 

 一息分の沈黙の後、先輩の声が耳に届く。

 

 

『確かに、後藤さん仕事はこなすもんね。バイトではサボりもせずに働いてるし、任されたことはやる。だからきっと歌詞は君の手元にあるんだろう』

 

「……そう、です」

 

『なら、読み上げてみるといい』

 

「え?」

 

『別に口に出さなくていい。君が一人で黙ったまま、文字の初めから終わりまで読むんだ。それからもう一回話をしよう。いい?』

 

「……はい」

 

 

 言われた通りに目を走らす。

 読み終えるまでに十秒とかからなかった。自分でつくったものだから、どんなことが書いてあるかなんて正直見なくても頭の中で再生できた。

 だから先輩が言おうとしていることがすぐに理解できた。

 あるいは、初めからわたしはわかっていた。

 意味の込められてない薄い言葉は、心を揺さぶらない。

 無為な時間が流れて、それだけ。

 

 ――今みたいに。

 

 

「……先輩。わたし、は」

 

『……僕は後藤さんの歌詞を知らないけど、目の前にある歌詞は駄作ではないと思うよ。その言葉に感化される人がいないわけじゃない』

 

 

 でも、と声は続いた。

 

 

『きっと後藤さんが伝えたいことじゃない』

 

 

 言い返す言葉はない。

 その通りだと、相手に伝わるはずもないのに頷いた。

 

 

「……もう一回。か、考えてみます」

 

『うん、それがいい。……ところでなんだけど、後藤さんの悩みはこれで全部解決ってことでいい?』

 

「……はい?」

 

『ほんとはさ、なにか悩みがあるなら力になろうかと思って電話したんだ。で、急に歌詞がどうのこうのって話をするから流れでここまで話したわけなんだけど』

 

「えちょ、ちょ……え? あれ? せ、先輩ってわたしが歌詞全然持ってこないからそれを責めるために連絡してきたんじゃ……」

 

『そんなことするわけないよ。というか、なんでバンドに入ってない僕が後藤さんのことを催促しなきゃいけないの。今日初めて後藤さんが歌詞の担当って知ったよ』

 

「え、じゃあ……」

 

 全部わたしの考えすぎかーよかったー。バンド脱退の話もない! ……よね? 

 一安心して息をつく。

 胸がすっと軽くなったのを感じる。

 少しばかり余裕ができて、頭も次第に働くような気がした。

 

 

「……先輩ってす、すごいですね」

 

『なにが?』

 

「その、なんでもお見通しっていうか……」

 

『そんなことないと思うけど。わからないものはわからないし、機会がなければ簡単に気づくものにも気がつけない。いたって普通だよ、僕は』

 

「そ、そうでしょうか?」

 

『そうだよ』

 

 

 電話の向こうで救急車のサイレンの音が近づいて、すぐに過ぎ去った。

 微妙な空気になってしまって、けれどなんて言葉を掛けたらいいのかわからず、結局無言のまま時間が流れた。

 やがて思い出したかのように、『もしもし?』と少しざらついた低い声が聞こえて、慌てて「は、はい! もしもしです!」と返した。なんだもしもしですって。

 案の定先輩が軽く笑う声が聞こえ、それを聞くとわたしも自然に笑うことができた。

 

 最後に先輩はこんなことを言った。

 

『君は、君の思う言葉を書けばいいと思うよ。綺麗なだけの言葉は美しくて優しくて、縋りたくもなるけれど、ありのままの醜いことも必要なんだと思う。目を背けたいこともあるけれど、顔を前に向けなくちゃ、まっすぐ歩くことはできない。目の前にあるのが、現実で、真実で……だから決して綺麗なことだけが正しさじゃないんだ』

 

 日を跨いで、朝日に目が眩んで体を起こしたとき。大半のなんでもない話を忘れてしまったけれど、その言葉だけがやけに胸に残っていた。

 携帯を手に取るとメッセージが来ていたことに気がつく。

 鏡先輩ではなく、虹夏ちゃんからだった。

 まだ眠気を払え切れていないまま、目をこすりながらもアプリを起動させる。

 

 

「あ……これ昨日来てたんだ……そっか疲れて寝ちゃったから、気づかな――」

 

『ぼっちちゃん明日下北沢駅前に集合ねっ! リョウと喜多ちゃんの二人も呼んでるから。あ、私服で来てね。よろしく~』

 

「――――公開処刑?」

 

 

 先輩ごめんなさい。

 歌詞書き上げられるかよりも、バンド続けられるか心配です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後藤さんの悩みが無事解決した次の日。

 僕は珍しいことに気分がよかった。

 体が軽く感じて、この調子ならギターも気持ちよく弾けるかもしれない。

 そんな些細な希望を胸に出かけたのが、ついさっきのことで。

 僕はそのことを今猛烈に反省している最中だ。

 

 

「あはは~しょうねーんくーん! ギター弾こうよギター。あ、ていうかセッションしな~い?」

 

「あの……酒臭いんで、少し離れてもらえます?」

 

 

 父さんのギターは捨てられるし、酔っ払いに昼間から絡まれるし、最近はとことんついてないな、僕。

 



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太陽に雲

更新遅くて毎回申し訳ないです。
ここ最近見たい映画がありすぎて全然手を付けてませんでした。
個人的に来週公開の『アリスとテレスのまぼろし工場』は非常に楽しみなんですが、こんなことを考えているから毎話難産なんだろうなって。

ふっと立ち寄った古本屋で目に付いた本を立ち読みする程度の気軽さでお楽しみください。


 六月に入るとさすがに夏の陽気が顔を出し始める。

 風はまだ涼しいが、日差しにあたり続けているとじっとりとした汗が肌を伝う。

 今はどうでもない感触も、次第に鬱陶しくなると思うと少し億劫だ。

 公園でも日陰を求めることが多くなりそうだ。

 

 

「おーい、しょうね~ん」

 

 

 ……そういえば夏休みはいつからだったろうか。

 六月中に始まるわけはないけれど、毎年何日からなのかがいつも覚えられない。

 去年は早々に課題を終わらせてギターを弾いていたことしか記憶にない。いや、杏に無理やり連行されて映画館をみに行ったりもしたか。

 今年はどうなるんだろう。ライブハウスって夏は稼ぎ時なのだろうか。サマーフェスなんて言葉はよく聞くけど、店長さんのことを考えるとそんな企画はあんまりしないイメージが強い。

 でも少なからずバイトは入るだろうから、去年と違ってそこは頭の片隅に入れておこう。

 

 ……なんて、現実逃避しても現状は解決しないことはわかっている。

 内心でため息を吐きつつ、それでも漏れ出しそうな息を噛み殺して名前も知らない彼女に顔を向ける。

 

 

「ね~え~、聞いてる~? お~い?」

 

「なんですさっきから。僕に何か用でもあるんですか」

 

「あ、やっとこっち向いてくれた。君さ、公園にギター持ってきてるってことは」

 

「弾きませんよ」

 

「だよね……って弾かないの!? えっ? こんないかにも『公園に練習しに来ました』みたいな格好してるのに!?」

 

「ちょっと体調悪くて」

 

「えっ、大丈夫? お酒飲む? 幸せになれるよ~?」

 

「……自分まだ未成年なんで」

 

「えへへ、しってる。冗談だよ~。本気にしないでよ~」

 

「ていうか飲みすぎでは?」

 

「そんなことないよ。だってまだ……えーと……何杯目だっけ? まあ多分そんなに飲んでないからさぁ!」

 

「……はあ、そうですか」

 

 

 なんだか気が滅入る。この人といるとただでさえ少ない僕の生気が奪われ続ける。

かといってこういう人の扱いをあんまり知らない。

 だからといって早々にここから去るというのは薄情に感じた。

 酒に溺れているのは嫌なことから逃れるため。そんなことをよく聞くけれど、この人もそうなのだろうか。

 そう思うと、話を聞く程度なら付き合ってもいい気がした。

 まぁ、早く別れたいことには変わりないけれど。

 

 

「……で、結局僕にどうしてほしいんですか、お姉さん」

 

「ん? んー……あ、そうそう、セッションするって話だよね」

 

「誰もするなんて言ってませんよ」

 

「あれ? そうだっけ? いやでもいいじゃーん。今日天気いいしさ! ね? やろう

よ、鏡優くん?」

 

 

 公園にある適当な遊具に向けていた視線をゆっくりと隣に移す。

 僕はこの人とは初対面だし、名前すら知らない。もちろんこちらから名乗ってもいない。

 緊張のせいで体の動きが鈍くなる。

 口を開くのにも少しばかりの時間が必要だった。

 

 

「……どうして、僕の名前を? あなたとは初対面のはずですけれど」

 

「まぁまぁ、どうだっていいじゃないそんなこと」

 

「一言で済ませられるものじゃないと思うんですが」

 

「だって大事なことじゃないしね。今重要なのはキミが私とセッションをするかどうか。これだけだよ」

 

 

 不敵な笑みを携え、細い目がこちらをのぞき込む。

 僕は驚くことに迷っていた。頷くか、首を横に振るか、その二択が頭の中に浮かんでいるほどには彼女の話にある程度の興味があった。

 

 

「……電話、出ないの?」

 

「え?」

 

「鳴ってるけど」

 

 

 慌ててポケットの中を探ると、喜多さんから着信が来ていた。

 画面に指を這わせ、電話に出る。

 

 

「もしもし」

 

『あ、師匠? ごめんなさい、いきなり』

 

「あぁ……いや平気だよ」

 

 

 ちらりと目を横に向ける。彼女からの電話は実際ありがたくもあった。

 少しだけ落ち着くことができて、冷静になれた気がした。

 僕は今酔いが覚めていない女性に絡まれていて、なぜかセッションをやろうと誘われている。

 一言でまとめるとそういうことだ。因果が全くわからないが、字面通りに受け止めよう。

 

 

『今日実はみんなで……あぁ結束バンドのみんなでアー写撮るんですけど、師匠も来ます?』

 

「それ僕必要ないでしょ。なに、アシスタントでもしろってこと?」

 

『まあ端的に言うならそうなんですけど、どうです?』

 

 

 どう答えたらいいかがわからず、意味をなさない言葉が宙を舞った。

 たった今、明確な道が二つできたことは誰から見ても明らかだった。

 喜多さんの誘いに素直に頷いてここから去るか、あるいはその逆。

 僕は数秒黙り……けれどその時間が答えなのだとようやく気が付いた。

 迷っていることが、自分の意思の表れだった。

 

 

「……写真とかは詳しくないんだ。誘ってくれたのはありがたいけど……ごめんね」

 

『そうですか。じゃあまた今度ですね! それではまた!』

 

「あぁうん。また……」

 

 

 今度っていつの話だろうと首を傾げつつも、通話を終える。

 いや、今はそんなことはいいか。

 退路はもうない。残された道は一つだけ。

 

 

「あ、電話終わった? で……どうする?」

 

 

 その問いに僕は大きく頷いた。

 僕の反応を予想していたのか、彼女はニッと笑った。

 それからどっちからか楽器を取り出し、チューニングを行う。

 

 

「さてなにを()ろうか、少年くん」

 

「なんですかその呼び方」

 

「え、ダメだった?」

 

「ダメとは言わないですけど……まぁ好きに呼んでください。でもこっちだけ名前を知られているのはなんだか不公平だとは思いませんか? お姉さん」

 

「ん? あ、あれ? 名前教えてなかったっけ」

 

「知らないですよ。このままだと適当に飲兵衛さんって呼びますけど」

 

「それは困るよ~。廣井ね、廣井きくり。私の名前。よろしく~」

 

「……あまりよろしくしたくはないです」

 

「なんで!?」

 

 

 他愛のない話を口先で交わしながらも、準備を進める手は止めない。

 囁くような風が僕と廣井さんの間をすり抜け、それを合図に空白が生まれた。

 世界から切り抜かれた、一瞬の空白。

 チューニングはちょうど終わり、それが明確に始まりを予感させた。

 ちらりと彼女のほうを見る。まだ曲も決まっていない。けれど話し合うのはあまりにも今更過ぎるような気がした。

 

 

 ――少年くんの好きにやってみなよ。

 

 

 廣井さんの視線は確実に僕を捉えていて、仄かに灯る瞳がそう語りかけているように思った。

 仄かな、しかし自信を感じさせるその目は僕に少しばかりの勇気を与えてくれた。

 ボディを叩き、カウントに入る。

 曲も、最初の一音さえ決まっていない。

 観客も、きっと拍手だってない。

 けれど――不安も憂いも、何もない。

 

 指を弾き、音が軽やかに響いた。

 風が吹き、その合間を縫うように違う周波数を持った音が重なる。

 低く、けれど確かに旋律を持った音。

 単音はメロディーになり、重なり交わりあってメロディーはやがて一つの曲になろうとしている。

 

 その曲を僕も廣井さんもきっと知らない。けれど止まることはない。

 小節を刻み、音を奏でる。

 不透明なこの先を、僕は言い逃れようもなく期待していた。

 

 

 

 

*   *   *

 

 

 

 

 

 プツっと、何かがちぎれた時のような小さい音が微かに届いた。

 ほんの少しだけ寂しさを覚える。

 私はそっと耳に当てていたスマホを下した。

 

 

「師匠、来れないみたいです」

 

 

 そう声をかけると、「そっか」という言葉とともに嘆息が聞こえた。それも駅前の工事の音ですぐに掻き消えた。

 伊地知先輩と一緒に、ただ待ち人が来るのを待っていた私はぼんやりと人の行き交いや作業服を着た人を眺めていた。

 

 

「リョウ先輩と後藤さん、なかなか来ませんね」

 

「あー……まぁ、そうだね」

 

「どうかしました?」

 

「いや、なんでもないよ。うん。ぼっちちゃんは家からの距離が距離だし仕方ないかなぁ。リョウは気分によって時間通りに来るか決まるから、もしかしたらもう少しかかると思う」

 

「そう、ですか」

 

 

 伊地知先輩はどこか歯切れが悪く、俯いた。

 横から見える表情は無表情といってもいいほど動かず、「なんでもない」と言葉通りに受け取るには難しかった。

 電車が次の駅に向かうことを告げる無機質なアナウンスが耳に届いて、少し経った後に改札を通る音が忙しなく鳴り始めた。

 視線を巡らすも、そこに来るはずの二人の姿は見つけられなかった。

 

 

「今日撮るスポットって決めてあるんでしたっけ?」

 

「ある程度はここに行こうっていうのはあるけど、明確には決めてないかな。喜多ちゃんはどっか行きたい場所ある?」

 

「んー、そういわれるとあんまり……」

 

「そうだよねぇ……ま、全員揃ったら色々探してみよっか」

 

「はい、そうしましょう!」

 

 

 軽い会話をはさみながら時間を潰す。ふと空を見上げて、今日は晴れてよかったななんて思う。そういえば最近よく空を眺めることが多くなった気がする。師匠がよくそうしている姿を見るからうつっちゃったのかな、なんて考えると少しだけ頬が緩んだ。

 

 

「ねぇ、喜多ちゃん」

 

「はい? なんですか?」

 

「その……なんで優くんを誘ったの?」

 

「あれ? だ、ダメでした?」

 

 

 もしかして余計な事しちゃったかしらと、内心焦る。

 

 

「あ、いやその……誘わないでほしかったってわけじゃなくて、むしろ……じゃなくて! 優くんを呼ぼうとした理由を聞きたいというか」

 

「特に大した理由はありませんよ? 師匠は今日集まる人と知らない人ってわけじゃないですし、それになにかやるにはみんなでやったほうが楽しいじゃないですか」

 

「……そっか、そうだね」

 

 

 数秒私の顔を見つめた後、呟くように伊地知先輩はそう言った。

 けれどそれは納得したから出た言葉じゃなくて、どこか自分に言い聞かせているようにみえた。

 

 

「あっ、でも師匠とかならいろんな公園とか知ってるかもですね! よく場所とか変えて練習してるって聞いたんですよ。さっき電話したときどこかいい公園ないか訊いておくべきだったなぁ……」

 

「うん……」

 

「……伊地知先輩、あの、なにか悩み事ですか? さっきから難しい顔ばかりしてますけど。それかもしかして体調でも悪かったりします? あの、それだったら全然言ってもらって大丈夫ですけど」

 

「ううん、ほんとになんでもないの。ごめんね、心配させちゃって」

 

 

 先輩はこちらに優しく笑いかける。

 けれどその笑顔はひどくぎこちないもので、私は余計に不安になるだけだった。

 それでも私がそこで口を開かなかったのは、これ以上踏み込ませないような線が伊地知先輩との間に引かれたように思ったからだ。

 それははっきりとしたものではなくても、拒絶の意思を察するには十分だった。

 

 

「喜多ちゃん。喜多ちゃんにとって、優くんってどんな存在?」

 

「えと……?」

 

「……ごめん、やっぱりなんでも――」

 

「師匠は、」

 

 

 咄嗟に口から出た言葉は、けれど続きはしなかった。

 師匠は、私にとってどんな人なんだろう。一言で言い表すには私には難しい。伝えたいことがありすぎて、だから迷ってしまう。

 伊地知先輩の瞳は真っすぐに私を見つめている。急かすのではなく、ただじっと待つように。その目になるべく私は誠実に応えたいと思った。

 迷いながら、誤解のない、それでいてありのままの言葉を探るように口を開く。

 

 

「私にとって師匠は、言葉通りというか。私に、ギターを教えてくれた。きっかけを与えてくれた。伊地知先輩やリョウ先輩ともう一度会うための勇気をくれた。困ったときはいつでも助けようとしてくれて……私をここまで導いてくれた、恩人です」

 

 

 なんだか照れくさくて、はにかんだ。

 ――こんなことを師匠に聞かれたら、今度は師匠と会えなくなっちゃうかも。

 そう思うと、師匠に用事があったのはかえってよかったかもしれない。

 気恥ずかしさに虹夏先輩から逸らした視線は宙をさまよい、けれど結局もう一度彼女の顔に落ち着いた。

 

 携帯の通知が鳴った。確認するとリョウ先輩からもう少しで着くというメッセージがグループのほうに投げられていた。

 

 

「もう少しですね、虹夏先輩」

 

 

 そう声をかけると、「うん」という声が数秒遅れて耳に届いた。

 

 

 

 




 














 リョウの姿を見つけるとすぐに駆け寄っていった喜多ちゃんの後ろ姿を見つめる。
 今、私はどんな顔をしてるんだろう。なんとなく、リョウとか優くんには見せたくない気がする。
 喜多ちゃんとの会話を思い出す。
 優くんは彼女にとっての恩人。そのことに嘘はなくて、喜多ちゃん自身もそう思っている。
 だけどその言葉が変わるときはすぐに来ることが、私にはなんとなくわかった。

学校で告白を考えているクラスメイトの女の子の相談に乗ったことがある。彼女もこんな表情をしていた。そのことを思い出した。


 ――恋をした人は、あんな風に笑う。


 自分の顔に触れる。頬に触る。漠然と、昔の私も今の私もあんな表情をしているのかと考えた。


「……つらいなぁ」


 漏れ出した息は細く、けれど重い。
 ――私は今日、喜多ちゃんに笑いかけることができるかな。
 不明瞭な心が、何もかもを不安にさせた。
 今日のことも、これからのことも、全部。
 
 少なくとも、胸の中にある感情を整理できていないことは、確かだ。


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導きの音

遅れてしまいごめんなさい。はい、生きてます。

諸々のやるべきことがようやく片付きつつあるので、更新していこうと思います。
まぁ……普通にサボってしまったこともあるんですけど、そこは戒めていきます。

気楽な気持ちで読んでいただければ幸いです。


 

 

「いや~よかったね。うん。少年くん上手いじゃんギター!」

 

「…………はぁ、そうですか」

 

「あれ、反応薄いね」

 

「いつもどおりですよ、僕は」

 

 

 彼女とのセッションが終わり、僕はギターを抱きかかえながら心のわだかまりを処理しようとしていた。

 廣井さんとの合奏はなんだか不思議な感じがした。明確に言葉にできない感情が邪魔して、自分の演奏がどうとか振り返る余裕なんてなかった。

 即興にしてはこちらのことを全く考えない彼女の好き勝手な演奏から始まり、僕がそれについていこうとすると途端に鳴りを潜める。

 こちらが主導権を握ろうとすると呆気なく手放し、かといってこちらの演奏が落ち着くとすかさず音に勢いが増してくる。

 やりにくいことこの上なかった。

 でもそんな演奏が簡単にできないことくらい、アマチュアの僕でも一瞬で理解できた。

 

 ただ即興といえど、言ってしまえば雑な演奏をどうして廣井さんがやるのかが理解できなかった。

 腕自慢をしたいなら僕のことなんか放っておいて終始自分のペースで弾いていればいい。それともただ単に僕に配慮してくれただけかもしれない。でもなんのために? 僕のため? それはなぜだ?

 

 

「少年くん」

 

「……なんですか、今ちょっと考え事を――」

 

「君はもう少し、味方を探してみるといいよ。そうすれば、君は君の音楽を見つけることができる気がするよ」

 

 

 廣井さんはいつの間にか席を立っていて、僕と向かい合う形で視線をこっちに向けていた。

 屈んでいる彼女と目が合う。藍色の髪は風で緩やかに揺れた。

 

 

「なんの話ですか」

 

 

 困惑しながら、尋ねた。彼女はにこりと笑って口調を崩さずに言った。

 

 

「少年くんの未来の話だよ。そのギターを握るなら、って前提がつくけど」

 

「味方」

 

「そう、味方。君を助けてくれる人。君がどんなに困っていても、苦しんでいても、手を差し伸べてくれる人、君を理解してくれる人。そんな人だよ。あ、もちろん私もおっけ~。もうどんどん助けちゃう」

 

「僕は一人で十分ですよ……僕はバンドを組んでいるわけじゃない。ソロでギターをやりたいんです」

 

「そう? もったいないな~。少年くんギター上手なんだからバンド組めばいいじゃん! あっ! なんだったらうちのバンドでも……」

 

「僕はっ」

 

 

 声が震える。

 廣井さんの言っていることを否定もしないし、肯定もしない。

 僕がもう少し音楽に対して“気楽に”接することができればよかった。

 ただ、今日までこのギターを弾いてきたことがそれを許さない。

 思い浮かぶ情景。言葉にしなくても、それは十分僕がこれからもこうして一人で演奏する理由になるし、同時に人と共有するものでもないことも明らかだ。

 

 

「一人で……やらないと、意味がないんです」

 

「……そっか」

 

 

 か細い声に、優しい声が重なった。

 僕に対する慰めかもしれないし、あるいは呆れかもしれない。

 それを判断することはない。

 彼女から送られる印象一つで、僕の行動が変わることはない。

 視界はいつの間に地面を映し、廣井さんの瞳を見つめることを止めていた。

 

 

「少年くん、私はそろそろ帰るよ。だからね、最後に一つだけ」

 

「……なんです?」

 

 

 息を吸い、彼女が言った。

 

 

「“君ならできる!”」

 

「――――」

 

「じゃあね~。バンドも見に来てね~! SICK HACKって名前だから!」

 

 

 颯爽と……ではなく若干ふらつきながら去っていく後ろ姿を見えなくなるまで眺めた。初めて聞いた気がしないバンド名だ。

 追いかけようかと思い立ったけれど、やっぱりやめることにした。

 結局観客の一人どころか鳥一匹さえやってこないまま、僕は再び一人になった。

 

 

「あの人、いつか死にそうだな」

 

 

 冗談ではなく、本気で。

 休肝日とかちゃんと設けているんだろうかとふと考える。けど昼間からあれだけ酔っている姿をまざまざと目にしてしまうと、それが言い逃れようのない答えに思えた。

 一息ついてから荷物を整理する。

 硬いものに手がぶつかった。遅れて視線をやる。

 

 

 ベース。

 ベンチの上に、見覚えのあるベースが置かれている。

 

 

「………………は?」

 

 

 足音が近づいてくる。

 

 

「ごめ~ん。そこにスーパーウルトラ酒呑童子EXない? なんか背中が寂しいな~って思ったらなんか無くてさー」

 

「酒呑……? とりあえず、ベースならそこに」

 

「やっぱり? いや~よかったよかった。私の命より重いものだからなくなったら生きてけないからね~」

 

「……廣井さん。ちょっと尋ねておきたいことがあって」

 

「んぇ? なに?」

 

 

 彼女が振り返り、こちらをしっかりと捉えたことを確認してから、口を開いた。

 別に会話をする気はない。

 ()()()()()()()()()

 そのために、彼女のしぐさをできるかぎり視界に収めておきたかった。

 

 

「僕のこと、星歌さんはなんて言ってました?」

 

「え」

 

 

 一瞬だけ肩が上がった。表情も最初は困惑に満ちていたけれど、今は別のものに変わっている。ケースのチャックを閉める手は不自然な場所で止まっている。

 心の中で呟く。

 

 ――ビンゴ。

 

 

「ぃ、いやー……ごめんね少年君。私ちょっとその、せいかさん? って人は知らないかなー」

 

「そうなんですか? スターリーにはしくはっく? のステッカー貼ってありましたけど」

 

「え……あれ? なくしたって聞いたんだけどな……

 

「まぁ今までの行動とか発言とか、なんか僕の事情を知ってそうだなって思いましたし。それを知っている人って限られてくるじゃないですか」

 

 

 家族にこんな知り合いはいないし、伊地知さんと喜多さんもなんとなく想像がつかない。

 となると、お姉さんしかいない。僕が小学生の頃にバンド活動もしていたし、今はライブハウスの店長だ。こういう人と人脈があってもなにもおかしくない。 

 一概にそうだと言い切れるわけではないけれど、廣井さんとのセッションはいうなれば……いや、これ以上は邪推というものか。人選ミスという言葉も脳裏を掠めたが、これも考えないようにしよう。

 僕は廣井さんを真っすぐ見つめた。彼女の視線は回遊魚みたいにあちこちを行き来して、正面を捉えることはできない。

 ポーカーとか苦手そうだな、となんとなく考えた。

 

 

「ひひ人違いじゃないかな~? 私は一人で、気の向くままーに、こ、ここに来ちゃっただけだから」

 

「そうですか。間違えちゃいましたか」

 

「そーそー、間違い間違い」

 

「ところでなんですけど」

 

「うんうん」

 

「星歌さんが腐れ縁をどうやって切るか悩んでました」

 

「そうなの!? ……あっ」

 

「……」

 

「……え、えへへ。や、なんでもないよ? うん、ホントに」

 

 

 そう言うと懐からパック酒を取り出して、ストローで飲み始めた。勢いがよすぎたのか、すぐに咽た。

 その反応でその言葉を信じる人は一体どれだけいるのだろうか。取り繕うにははじめから皮が剥がれすぎていないだろうか。

 廣井さんの咳が響く。やがて落ち着いたころに彼女が口を開いた。

 

 

「ちなみに……なんだけど。や、ちょっと気になったから聞くんだけどね?」

 

「はい、なんですか」

 

「……それって、ホント?」

 

「まぁ、はい」

 

 

 発言自体は、本当だ。本気でそう思っていると聞かれるときっと違うけど。

 

 

「少年くんっ! ちょっと私、すぐにでも行かなくちゃいけない用事を思い出したから、先に帰るね!」

 

「はぁ、お気をつけて」

 

 

 それだけ言って駆けていく廣井さんを眺めるのもほどほどに、僕も今度こそ公園を後にする。

 一歩、二歩。そして三歩目を踏み出そうとしたとき、後ろから声をかけられた。

 

 

「ねぇ! 少年くん!」

 

 

 振り返ると、公園の外で廣井さんが軽く微笑んでいるのが見えた。

 そうして口元に片手を添えて、間延びした、けれどはっきりとした声が耳に届いた。

 

 

「先輩はね! 君のこと、応援してるって! そう言ってたよ!」

 

 

 それだけ言うと、廣井さんは今度こそ足を止めず、走り去っていった。両手を一杯に振って、全力で駆けていく。

 その姿は決して綺麗ではなかったけれど、そしてなにも変わっていないはずだけど。

 それでも数分前の彼女とは違う雰囲気をまとっていた。

 

 

「ありがとう、ございます」

 

 

 届くはずのない囁くような声が口からでたとき、僕は彼女にお礼を言い忘れたことに気が付いた。

 小さな後悔が胸裏に降り積もり、やがてため息として快晴の空の下に投げ出された。

 また会ったときに言おう。そう思った。

 不思議な感覚だ。僕は廣井さんと再会する予感が確信めいたものにしか思えなかった。

 その時が来て、僕はきっと今日のことを話すだろう。

 僕と彼女が出会った、今日のことを。

 

 

「味方……」

 

 

 味方を探せと、廣井さんは言った。その言葉の真意を僕はまだ掴みきれていない。

 それは必要なことなのか、それすらも判断できていない。

 

 味方。自分を助けてくれる人。理解してくれる存在。

 頭に思い浮かんだのは、結束バンドの四人と、お姉さん……店長の姿だった。

 しかしどうも結びつかない。

 何をもって味方と呼ぶのか、その答えにたどり着くのはまだ先のように思えた。

 

 けれどいつか、僕はその選択をするのだろう。がんじがらめの糸を解ききって、一息ついたころ。

 二者択一の、あるいは数多のものから、自分の正解を選ぶ時が来る。

 

 その答えを彼女に伝えられればと、そう思う。

 

 

 

 ところで、廣井さんは割と友人関係大切にする人なのだろうか。

 あまりにも必死に走っていくから、なんだか少し悪い気もしてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「先輩! ごめんなさい!」

 

「は? なに急に」

 

「お願いだから友達やめるとか、そんなこと言わないでくださいよー!」

 

「一体いつから私とお前が友達になったか教えてほしいが……んじゃあお前、とりあえず光熱費払え。あとお前が直近で壊した機材の修理費用も、忘れたなんて言わないよな?」

 

「……と、友達価格で……」

 

「ふざけてんのか」

 

 

 

「あ、あと頼まれたことだけど、ちょっとごまかすの無理そうだったからやむなく先輩のこと言っちゃった。えっと……ゆるして?」

 

「死ね」

 

 

 

 

 

 

 



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少女の(うた)

誤字報告、ありがとうございます。
極力無くそうとは思ってるんですけど、どうしても出てきてしまうので大変ありがたいです。

あと見間違いでなければランキング載ってました。
電車の中で「えぇ……?」と呟くほどには衝撃でした。


 

 

「よく撮ったね」

 

 

 店内の清掃をしつつ、僕は机に並べられた結束バンドのメンバーの写真を眺めてそう言った。

 写真には詳しくないものの、いろんなバリエーションがあって、彼女たちなりに趣向を凝らした様子が見受けられた。

 

 

「むっ、どういうこと」

 

 

 僕の言い方が気に食わなかったのか、伊地知さんが頬を膨らませた。

 

 

「あぁ、ごめん。変な意味じゃないんだけど、結構な場所行ったんだなって」

 

「まあねぇ。いろいろ試してみないと」

 

「でもいいと思うよ。例えば……ほら、このジャンプしてるやつとか」

 

 

 僕はなんとなく目に入った一枚の写真を指差した。視界の端で紫色の髪が揺れた。

 

 

「ほら虹夏、やっぱりなんでも跳べば神になるんだよ。アニメもバンドも」

 

「そんなわけはない」

 

「何の話かわからないけど、いささか同意」

 

「さすがリョウ先輩です!」

 

 

 相変わらず目を輝かせる喜多さんに苦笑いをしながら、僕はその写真を手に取り、今度はしっかりと観察する。

 みんないい笑顔……なのは喜多さんと伊地知さんだけだった。山田さんはいつもの無表情で、後藤さんにいたっては、顔に謎の影が差してるし、みるからに体調悪そうだった。

 さすがに気になったので、聞いてみることにした。

 

 

「後藤さんの顔色が悪いけど、なにかあったの?」

 

「あ、それは……」

 

 

 喜多さんが言い淀んだのをきっかけに、一瞬だけ静かになった。伊地知さんに顔を向けると、彼女もまた言いにくそうに苦い笑みを浮かべた。

 最後に山田さんを見ると、写真に向けていた瞳がこっちに向いた。

 そして、一言。

 

 

「ぼっちのパンツが見事に写ったから」

 

「リ、リョウ!」

 

「はぁ、パンツ」

 

 

 無意識に復唱。話が明後日の方向へ飛んでいってしまったみたいで、いまいち結び付かない。

 

 

「見苦しいもの見せたって落ち込んでた」

 

「あ、そういう。それは災難だったね。机の上の写真の中に混ざってなければいいけど」

 

「だいじょうぶ。その場で消したし。ね、虹夏?」

 

「え、あ、たぶん……?」

 

「そっか、よかった」

 

…………なんか、思ってたのと違う

 

それ、後藤さんのときも言ってましたよ

 

 

 山田さんは再び写真に目を落とし、僕は僕で掃除を再開した。写真に写っている後藤さんの顔は病み上がりの次の日みたいな表情をしていたから、今も後藤さんだけが来ていないことも相まって、てっきり持病の発作でも起きたのかと勘違いしてしまった。

 でもよくよく考えてみたら、後藤さんが限界なときはわかりやすく身体に変化が起きるから、まぁ今回は大丈夫なのだろう。少なくとも、スライム化したときよりかは。

 

 ……そういえば、そういう現象ってどこの診療科にかかればいいんだろうか。皮膚科? 門前払いを食らいそうだ。*1

 

 

「お、遅れました……」

 

 

 噂をすれば影が差す、とはよくいったもので、それから数分経たずして後藤さんがスターリーにやってきた。

 目の下には(くま)ができていて、かすかにふらつく足元は見るからに寝不足の証拠だった。

 

 

「歌詞ができたので……見て、ほしくて」

 

 

 そう言って彼女はおそるおそる、一冊のノートを差し出した。

 とりあえず彼女を適当な椅子に座らせて、僕は紙コップに水を注いでそっと後藤さんに差し出した。

 軽く頭を下げたあと、包み込むように持ちながらコップをゆっくり傾けた。

 彼女が一息ついたのを見計らって、喜多さんが心配の色を滲ませながら尋ねた

 

 

「後藤さん、隈すごいけど大丈夫?」

 

「あ……はい。ここのところ作詞に夢中になってその……寝るの忘れたりして……」

 

「どれどれ。ぼっちちゃんの力作、拝見しましょう~」

 

 

 伊地知さんがノートを開くと、山田さんと喜多さんも彼女の傍に近寄って覗き見た。

 彼女たちから数歩離れた位置からその様子を静かに見守る。後藤さんは口を固く閉じたまま目を伏せている。

 その間にも、伊地知さんたちは歌詞に目を走らせている。

 

 

「うん」

 

 

 山田さんの涼やかな声が、ほんのわずかな空白を縫った。

 

 

「──いい(うた)だと思う」

 

「でも、その。暗すぎるかも……」

 

「確かに暗いね。でもぼっちらしい。少ないかもしれないけど、誰かに刺さるんじゃないかな」

 

 

 そこまで聞いて、ようやく後藤さんの表情の力が抜け、安堵の息がもれた。

 

 

「へへ……」

 

「ふっ……」

 

「へへ……へへへ……」

 

「ふふふ……」

 

「なんで急に仲良くなってるのー!」

 

 

 暗い笑みを交える二人に、喜多さんは羨ましそうに声を張り上げる。そんな光景はどこか微笑ましかった。

 

 

 

心音、微かな痛み

 

 

 

 けれどなぜか、僕は素直に笑うことができなかった。そんな顔を向けて間を壊すようなことをしたくなかったから、僕は数秒だけ彼女たちの視界から外れるように移動した。

 

 

「でもこれ本当にいい歌詞だよ、ぼっちちゃん!」

 

「あ! 私ここのフレーズ好きです!」

 

「私も」

 

「えへへ…………あっ」

 

 

 後藤さんは忘れていた何かを思い出したように声を上げ、伊地知さんたちとやり取りをするとなぜか僕の方に向かってきた。

 ゆっくりと、しかしじりじりと距離を縮め、目の前に彼女がやってきた。

 

 そしてそっと、緩慢な動きでさきほどのノートが差し出された。

 微かに震える手。それは紛れもなく彼女の恐怖の表れだった。

 

 

「……僕?」

 

 

 無意識の問いかけに、彼女の桃色の髪が揺れた。

 

 

「でも、僕は」

 

「そのっ! 先輩にも見て、もらいたくて。私のありのままのことを……か、書きました。それで……」

 

 

 僕の声にかぶせるように、後藤さんがたどたどしく言葉を紡ぐ。

 この人はなんてずるいんだろう。そんな姿をされると、言おうとしていたことも留めておかなくちゃいけなくなる。

 

 

「……うん」

 

「それで、自信なんてないですけど、でも今度はちゃんと伝えたいことが書けました」

 

「そう」

 

……気がします、はい

 

「そ、そう」

 

 

 途端に心配になってきた。

 無地のノートを手に取り、破くことがないよう慎重にページを捲る。白紙が続く、その前のページ。いくつもの消し跡を残しながらも、彼女の言葉がひっそりと佇んでいる。

 

 

 僕はそれに目を通し、静かに脳裏に詩を思い浮かべる。旋律はない。もちろんハーモニーも、メロディすらない。

 

 

 ──けれど確かに、彼女のリズム(鼓動)が息づいている。

 

 

 最後の一行を読み終え、閉じる。手紙の封を閉じるように、同じ温度を込めて。

 それから少し自分の中に彷徨う言葉をまとめた。

 

 ノートに落としていた視線を戻す。

 瞳が僕を射抜く。

 吹けば消えてしまいそうな、灯のような光を宿して。

 それとも、何億光年離れた名もなき星の光だろうか。

 

 どちらにせよ、僕が彼女にかける言葉は変わりない。

 

「いいと思うよ。それも、すごく」

 

「ほ、ほんとですか?」

 

「うん。頑張ったね、後藤さん」

 

「あっ。どどドッキリとかじゃない……ですよね? "大成功!"みたいな看板とか持ってたり……」

 

「しないよ? なんでそんな心を抉るようなことを僕がすると思ったの?」

 

 

 後藤さんのノートを返す。彼女はしばらくそのノートを見つめ、胸に抱いた。

 

 

「先輩。ありがとう、ございます」

 

「うん……後藤さん。君の気持ちは十分伝わったよ。だからさ」

 

「はい……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「とりあえず、土下座はやめよっか」

 

 

 地面に伏してる女子高生と、その前に立ってる男子高校生って、絵面的に非常にまずいからね? 

 ほら、じゃないと僕が店長さんに怒られちゃうから。

 というかたった今見つかって、すごい目で見られてるから今すぐやめてくれると助かるな。

 ついでに一緒に説明もしてくれるともっと助かるかも。

 

 あと山田さん。君は今すぐ写真撮るのをやめてくれる? 『私を見捨てたいつの日かの恨み』じゃないでしょ。あれは君が無断で休憩室でサボったのが悪いんだよ。*2

 

 

 

 

*1
12話『暗い道と青い僕』参照。「け、健康診断ですか? 特に問題ありませんでしたけど……」「そんな馬鹿な……」

*2
『暗い道と青い僕』冒頭。「優だってクッキー食べてたじゃん」「休憩中だったからね。君は違かっただろ」



















「あの」

「機材。倉庫」

「はい……」



「あの……」

「ドリンクサーバー。補充」

「はい……」



「店長さん」

「床掃除」

「やりました」

「ゴミ出し」

「それも」

「便所掃除」

「終わってます」

「……食器洗い」

「そもそも洗う食器がなかったです」

「……夕食」

「それは……ん、えっ? それも僕がやらなくちゃいけないんですか?」

「本気にすんな、冗談に決まってるだろ……で、なに。弁明?」

「違います」

「虹夏たちに事情は聞いたから不問で……ん? 今、違うって言ったか?」

「あ、はい。()()()()()()()()()()()と思いますけど、ありがとうございました」

「……んん! うん。や、まぁそうだな。()()()()()()()()()()だけどな!」

「ですよね。でも言っておかないといけないと思ったので。今日はもうあがります」

「ん、お疲れ」

「はいお疲れ様です……あ、最後に一つだけ」

「なんだよ」

「その、人選は――」

「……」

「……やっぱりなんでないです。忘れてください」



「お姉ちゃん夕飯でき……え、なんでうなだれてるの?」

「や、猛烈に大学やり直したくなって、後悔してるところ」

「でも、お姉ちゃんがまた大学行っても二留しそうだからヤダ」

「おいぶっとばすぞお前」


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給料の使い道

 最近、よく笑うようになったと言われることが増えた。

 明確にそれがいつから始まったのかを明言できるわけではないけれど、少なくともそれが僕に新しく表れた変化で、そのきっかけはおそらくスターリーで働くようになったからだと思う。

 妹からも、学校のクラスメイトからも。忌避感があるわけではないけれど、違和感はあった。

 その言い方だと前は笑っていなかったみたいだ。そう言うと、決まって彼らは首を傾げた。確かにという人もいれば、そんな当たり前のことを認識していなかった僕を訝しむ人もいた。過去の僕は鉄仮面だったと言う人もいた。

 そのささやかな話題は水面に枯葉が落ちたときのようにクラスに一瞬だけ広がり、そして一週間が経つと誰にも気付かれることなく、その姿かたちを無色透明にして去っていった。

 

 自主学習の時間、僕はおとなしく席に座っていた。国語の先生の急用で、誰かがため息をついたときみたいにぽっかりと、どうしようもない空白の時間が生まれた。

 よほど急だったのだろう、先生はプリントを用意しておらず、代理でやってきた英語の先生が英語のプリントを渡してきた。それを渡されたあと、僕は丁寧に真ん中を一回折って机の下に入れた。机の上の筆記用具はいつまでも開けられるのを待っていて、その隣には雪のように真っ新な白紙のノートが寄り添っている。窓際の端の席で外を眺め、そこから見えるいつも通りの風景の小さな間違いを探した。

 今日は空が高く感じる。けれど雲の量は昨日より減ったかもしれない。空色の中にポツンと小さい白が映る。校庭では体育の授業の一環で野球をやっていた。今キャッチャーフライを逃した人が地団太を踏んだ。

 どうでもいいようなことをつらつらと並べ、そのあまりの無意味さに息を吐いて、同じくらいどうしようもない時間をやり過ごした。

 

 

「ね、鏡くん」

 

 

 ちょんと軽く肩をつつかれる。隣に座るクラスメイトだった。

 彼女は何も謝る必要がないはずなのに、なぜか申し訳なさそうな表情を浮かべて、言った。

 

 

「さっきのプリント、なんか答え合わせするらしくて。できてる?」

 

 

 僕はそっと机の中からプリントを引っ張り出して、彼女と自分のものを交換した。

 紙が擦れる音が鳴りやむと同時にかすかに息を飲む音が聞こえ、次に視線を感じた。無視をして僕は黒板につらつらと書かれた先生の回答を追い越し、採点をした。

 彼女は八六点だった。遅れてやってきた回答と照らし合わせても、その点数は一切上下することはなかった。スペルミスと、空白が何個か。

 

 プリントを返すと、隣の彼女はやっぱり申し訳なさそうに、今度は苦笑いを添えて折り目がついていること以外は新品のプリントをこちらに手渡した。

 赤は、入っていなかった。

 

 心の中で唱える。どうして国語の時間なのに、英語をしなくてはならないのだろう。まったくもって不思議だ。

 しかしただ一つ言えることは、彼女は英語で八六点を取って、僕は0点を取った。結果は一目瞭然で、この事実を偽りなく並べたとき、僕は間違いなく落第生の烙印を押されるのだろう。

 

 間違いないという風に、誰かの胸の内を晴らすような軽快な音が校庭から聞こえた。

 

 

 

 *     *     *

 

 

 

「諸君。お待ちかねの給料だぞ」

 

「やったー!」

 

 

 六月の終わりも近づいてきたある日、店長さんは脈絡もなく僕らにそう告げた。

 

 

「手渡しなんですね、意外です」

 

「そっちのほうが充実感あるだろ。ん、おまえの分」

 

「どうも」

 

 案外まともな理由だったななんて思いつつ、渡された封筒の中身を覗いてみると、一万円がきっちりと入っていた。

 一か月で一万円と考えると学生バイトとしては正直安いのだろうが、別に金額に関してはどうでもよかった。そもそも僕がここで働いているのは伊地知さんとの貸し借りの関係があるからだ。前にいつまで働けばいいのかを知らされていないことに思い至ったけれど、今ではそんなに気になっていない。

 ここを辞めたとしても僕はまた元の生活に戻るだけだろうし、それにここまで彼女たちと関わってしまうと、結束バンドの行く末に興味を持つなと言われるほうが難しい。そう考えるとクビを言い渡されるまでここで働き続けるという選択を取ったほうがいいだろう。

 

 封筒を懐にしまう。

 一万円。高価なものはさすがに無理だが、高校生からするとたいていのものは大体買える金額だ。

 しかし僕には欲しいものが現時点で何一つとしてない。しばらくは僕の財布の中で眠ることになりそうだ。

 

 

「はい。じゃあ折角の所悪いんだけどライブ代徴収するね。あ、優くん以外」

 

「えっ」

 

 

 誰かの短い断末魔が聞こえた。僕は伊地知さんに尋ねた。

 

 

「僕はいいの?」

 

「だって優くんライブやってないじゃん。それにメンバーでもないんだし、取るわけないじゃん」

 

 

 確かに、まったくその通りだった。けれどなんだか僕だけ純粋な利益を得ていて、彼女たちと比べてると少し心苦しいのもまた事実だった。

 

 

「優、その一万円の使い道にお困りで?」

 

「いきなりどうしたのさ、山田さん」

 

 

 あといきなり視界に勢いよく入ってこないでくれ。驚くから。

 

 

「お金とは使われるべくして生まれた存在……それをそのままにしておくなんてもったいないと思わない?」

 

「つまり、僕の一万円くれと」

 

「うん」

 

「ちなみに何に使うつもり?」

 

「弦とかエフェクターとか、えとせとら」

 

「そう、考えておくよ」

 

 

 え、という声が重なって、室内に響く。中には店長さんの声も混ざっていた。

 

 

「じゃあさっそく……」

 

「おい鏡。悪いことは言わないからそいつと金のやり取りすんのはやめとけ。絶対返ってこねぇから」

 

「そうだよ! リョウはお金の使い方が荒いからすぐそういうのに使っちゃうんだよ?」

 

「師匠だけリョウ先輩に貢ぐのなんてズルいですっ!」

 

 

 荒ぶる喜多さんを鎮めてから、慣れたものだなと思いながら僕は素直に答えた。

 

 

「正直使い道が思いつかなくてさ。貯金しかないって考えたら、君たちの役に立つようなことに使ったらいいかなって思ったんだけど」

 

「いや、でもリョウはダメ」

 

 

 ならこうしよう、と僕は懐から封筒を取り出した。

 そしてそれを伊地知さんに差し出した。

 

 

「預けておくよ」

 

「私に……?」

 

「必要になったら君たちで使えばいい。彼女なら文句ないでしょう、店長さん?」

 

「えー」

 

「山田さんは黙っててね」

 

 

 返事はなかったが、否定もされずそのまま奥のほうへ行ってしまった。「好きにしろ」とだけ去り際に聞こえた。

 伊地知さんはじっと封筒を見つめたまま、手を伸ばす気配はなかった。

 

 

「ほんとに、いいの? だって……」

 

「構わないよ。これが君の夢へ近づく少しの手助けになるなら、僕は喜んで」

 

 

 彼女は顔を上げて、一瞬大きく目を開けた。それから静かに封筒を自分のもとに引き寄せた。それからわかったと、呆れたように言った。

 

 

「じゃあ、大事に使わせてもらいます」

 

「うん」

 

「まぁアルバムとか、ミュージックビデオの撮影とかしたいから、近いうちすぐに消えちゃいそうだけど」

 

「気にしなくていいよ。好きに使えばいい」

 

 

 おどけたように笑う彼女は、どこか健気に映った。

 

 

「そう言ってくれるのは嬉しいけど、どっちにしろバイトは増やさないとなー……」

 

「お金って結構かかるんですね」

 

「そうなんだよ~!」

 

「じゃあ夏休みなんかの長い休みを活用すればいいんじゃない? 去年のクラスメイトとか日雇いで稼いだ人もいたし」

 

「ほほう、たとえば?」

 

「夏だと花火大会のイベントスタッフとか、あと海の家とか定番だよね」

 

「海の家! いいですね!」

 

 

 どちらかというと、僕は沿岸付近にはあまり行きたくはない。潮風で弦が痛むから、安易にギターを取り出せない。でもそんなことを言っても仕方のないことだし、そもそも僕が行くのかすら確定していない話に、わざわざ水を差すようなことを言うのははばかられた。

 喜多さんを交えて三人で話をしていると、突然山田さんが声を上げた。

 

 

「できたよ」

 

「できたって、何が?」

 

「曲」

 

 

 それだけ言って、彼女は室内の端を指さした。横に倒されたごみ箱の上で、ちょこんと後藤さんが座っていた。

 

 

「優も聴く?」

 

 

 僕がどう答えるかどうか、山田さんはとうに知っているように思えた。

 

 

「もちろん」

 

 

 と僕は言った。

 

 

 

 それから僕たちは山田さんの曲を聴いた。なぜか室内の端でごみ箱の周りに座り込んで、円陣を組む前みたいに皆の中心を見つめる。

 黙ったまま、誰も口を開くことはなかった。目を瞑り、あるいは体をゆらりと静かに揺らし、あるいは人差し指で拍をとる。今この瞬間だけは一人だけの世界に旅立ち、そうして最後の音が鳴りやんだとき、僕らは三分五三秒後に再会した。

 

 

「え? かなりよくない?」

 

「はい! とっても!」

 

 

 伊地知さんの声をきっかけに、各々の感想を口にした。僕も何か言おうと思ったけれど、陳腐な誉め言葉しか見つからなくて、仕方なく皆の感想一つ一つに頷くことにした。

 

 

「ぼっちの書いた歌詞見てたら浮かんできた」

 

 

 そう言って山田さんは猫に接するときみたいに、後藤さんのあごの下を撫でた。それを見た喜多さんも山田さんに褒めてもらいたくて、会話に混ざった。

 伊地知さんはそんな姿を見て、乾いた笑い声をもらした。しかしその表情は柔らかく、希望に満ちていた。

 

 

「あたしの夢、叶っちゃうかもな……よし! 来月ライブできるようお姉ちゃんに頼んでくるね」

 

「まだその話ししてなかったの?」

 

「大丈夫。この前もすぐ出させてくれたもん」

 

 

 ちょっと行ってくるねと言い、小走りに店長さんのもとに向かう彼女の後ろ姿を見つめる。

 僕はちょうど少し前、具体的には結束バンドが初めてバンドをしたときに店長さんから言われた言葉を思い出していた。

 

 "比べるようなレベルでもない"とあの人は確かに言っていた。

 

 要するに、店長さんには彼女なりの基準みたいなのがあるのだと思う。あの言い方からすると、彼女たちはそれを満たしていないことになる。

 

 

 だから、まぁ、伊地知さんには悪いけど。

 

 

「いや、出す気ないけど」

 

 

 そういう話になる。

 

 

「悪いけど五月のライブみたいなクオリティなら出せないから」

 

「出せないって…………え、じゃあ私達は…………」

 

「一生仲間内で仲良しクラブやっとけ」

 

 

 重い空気が流れる。秒針が小さく囁く音だけが、この空間に時間が流れていることを辛うじて証明した。

 伊地知さんの顔には影が差して、やがて肩が小さく震え、拳を握りしめるのが見えた。

 そして、前を向いた。どこまでもまっすぐな目で、睨みつけた。

 

 

「お姉ちゃんなんてっ! いまだにぬいぐるみ抱かないと寝れないくせにーっ!」

 

 

 外に聞こえるのではと思うほど大きな声でそう言って、スターリーから飛び出していってしまった。

 捨て台詞が特殊すぎて、僕に限らず全員の反応が一つ遅れた。

 

 

「らしいですけど……」

 

「なんのことだか」

 

「ぬいぐるみって……このヨレヨレのうさぎとパンダのこと?」

 

「その画像消せ! 今すぐにっ!」

 

 

 山田さんのスマホを取り出して、その際に画面がちらりと見えてしまった。

 ソファの上に寝転がっている女性は間違いなく店長さんだった。

 

 

「店長、可愛いですね。鏡くん?」

 

 

 肩にひやりとした手が置かれて、僕は思わず後ずさった。

 

 

「PAさん……いたんですか」

 

「ずっと近くにいましたよ」

 

「それは、気づかなくてすいません。その、なんか久々に顔を合わせた気がします」

 

「そんなことないですよ? 私はあなたのことずっと見てましたから」

 

「そ、そうですか」

 

 

 早々に話を切り上げて、距離をとる。さらりとした綺麗な黒髪をなびかせて、怪しい笑みを浮かべるこの人が僕は少し苦手だ。スターリーで働く同僚ではあるけれど、伊地知さんからももちろん店長さんからもこの人の詳しい話は聞いたことがない。音響周りの担当をしているということだけは知っているが、逆に言うとそれくらいしかわかっていない。

 あといつの間にか一切の気配なく背後にいて話しかけてくる。そうして驚いた僕の反応を見て、彼女はいつも楽し気に笑う。PAさんとの挨拶は毎度こうして始まる。

 

 

「何してるんですか! 追いかけますよ!」

 

「えー」

 

「面倒くさそうにしないでー! 私たち、先に行ってますね、二人とも」

 

 

 そうこうしているうちに、喜多さんが山田さんを連れて伊地知さんの後を追いかけにスターリーの扉を開けて出て行った。

 遅れて後藤さんもそれに続こうと外へとつながる階段を上って行こうとする。そんな彼女を店長さんが呼び止めた。

 

 

「ぼっちちゃん」

 

「はっ、はいぃ!」

 

 

 後藤さんはすばやく身を翻して、こちらに戻ってきた。

 

 

「虹夏に伝えて。ライブに出たいならまずオーディション。一週間後の土曜日に演奏見て決めるから……って、え? 何してんの?」

 

「せ……精一杯服従心を表現しようと……」

 

 

 そして目を離した一瞬でなぜかお腹を見せるように床に寝転んでいた。僕は思わず顔を手で覆った。なんというか、同じ学校の後輩が、しかも僕の友人がこうしている姿を見て、無性に恥ずかしくなった。

 

 

「どうしてそうなるんだ、後藤さん……」

 

「早く行かないと見失うんじゃないの?」

 

「あっ……えっ……わんっ!」

 

「もうやめてくれ、後藤さん……」

 

 

 幸いなことに、後藤さんはそのあと数秒のうちに落ち着きを取り戻して、僕は先ほどの伊地知さんの二の舞にならずに済んだ。

 

 

「あとお前も、オーディションの日は休むなよ。審査員として参加しろ」

 

 

 スマホの画面をスワイプしながら、店長さんは僕に言った。先ほどの後藤さんが床に転がっている姿が映っているのは見なかったことにした。

 

 

「僕もですか? お二人だけで十分じゃないですか」

 

「別にいいだろ。長くても十分程度だ。それにお前は耳が良いからな。判断材料の足しになる」

 

 

 贔屓するかもしれませんけどと言うと、彼女は余裕のある表情を変えず、気にしていないようだった。

 なるほど確かに、最終的に決めるのは店長さんだ。僕じゃない。

 

 再び階段へと向かう後藤さんの後ろ姿を見ていると、多少の迷いを纏いながら後藤さんがおそるおそると振り返った。

 

 

「あ、あの……鏡先輩は行かないんですか?」

 

「うん。遠慮しておくよ」

 

 

 きっぱりと僕は断った。今回のことはバンドの問題で、彼女たちだけで解決するべきもので、メンバーでもなんでもない僕の介入は余計だろうと考えた。

 それに店長さんの反応を見る限り、オーディションそのものに合格すれば万事解決すればいいだけだ。それは後藤さんが伝えてくれる。

 それに僕はどうにも、伊地知さんがこんなところで挫ける姿が想像できなかった。ありふれた激励の言葉なんてただのおせっかいになりそうだし、そもそも僕が駆けつけるころには自分で立ち上がってそうだから。

 

 後藤さんが立ち去った数十分後に、僕もまた店長さんとPAさんに軽い挨拶をして下北沢駅へと向かった。

 偶然にも空いていた座席の端に座り、僕は間違い探しをするみたいになるべく誠実な文章の書き出しを考えた。

 

 目を瞑り、開いて、その間に電車が停車して、次の駅へと発進する。そんなことを十回は繰り返したあと、僕はおもむろにスマホのアプリに打ち込んでいく。

 

 

『オーディションの日、君が演奏する姿があのときのお姉さんと重なるように祈っているよ』

 

 

 ふいに笑ってしまう。長い時間をかけた割に、ひねり出された言葉は想像以上に短くて、どうしようもなく僕の願望で、けれどこの一文に満足してしまっている。

 車内の一ミリも興味のない広告を眺めつつ言葉を探したが、いつまで経っても何一つとして浮かんでこなかった。

 僕は駅を降り、ベンチに腰掛けた。そうしてようやく送信した。

 

 

「どの口が言ってるんだよ」

 

 

 呟きは、雑踏の中に溶け込んでいった。

 

 

 

 

 そして、その日の夜。

 

 

 

 

 僕は、彼女に送ったその言葉を後悔することになる。

 

 

 

 



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月下の告白

誤字報告、感想、お気に入り登録等ありがとうございます。

突然ではありますが、感想の返信に関してしばらくしない方針でやっていこうかなと考えています。
作者が感想に返信をするスタンスが苦手という方もいるかと思うので、そういう方にも気軽に書き込むことができるよう考えた結果、返信をしないという考えに至りました。
ご了承ください。






 ふとした音で、目が覚める。窓からのぞく月光が部屋に差し込んでいる。

 家に帰って、疲れてベッドに寝転んだことまでは覚えている。そこからの記憶が途絶えているあたり、つい眠ってしまったらしい。

 はっきりとしない思考を回して、傍らに置いてあったスマホを手に取ると通知が入っていて、その音で起きたのだと朧気ながらに思う。

 確認してみると、不在着信が一件、伊地知さんからだった。

 すぐに電話をかけ、四コール目が終わるころに繋がった。

 

 

『優くん?』

 

「どうしたの、伊地知さん」

 

『あ、あはは。いや、ごめんね。間違えちゃってかけちゃった』

 

「そう」

 

『うん……』

 

 

 歯切れ悪い返答のあと、電話は繋がったままだった。呼吸の音が聞こえる。僕か、伊地知さんかはわからないほど小さな、息づかいの音。

 

 

『やっぱりさ、優くん』

 

 

 ささやくような声で、彼女が言った。

 

 

『今から会える?』

 

「今って……結構遅いよ? 僕はいいけど」

 

 

 画面を確認すると、八時五四分。数分で九時になる。

 

 

『お願い、少し話をするだけ』

 

「……わかった。場所は?」

 

 

 軽く身だしなみを整えて、誰とも出くわさぬよう静かに家を出る。

 何の話だろう。声の雰囲気からして悩んでいるような雰囲気を感じた。間違えてかけたと言っていたが、嘘なのかもしれない。

 どっちにしろどんな話でも聞こうと思う。

 僕は、伊地知さんの友人なんだから。

 

 

 

 *     *     *

 

 

 

 彼女が指定した場所は僕と再会したときと同じ公園だった。

 閑散としたその場所に、当然子どもなんか遊んでいるわけがなく、伊地知さんはすでにそこにいた。ブランコを軽く揺らしながら、キィキィと鉄同士が擦れる音が聞こえる。

 彼女に近づくと、伊地知さんはうつむいていた顔をゆっくりと上げた。

 

 

「こんばんは」

 

 

 とおどけて言ってみると、彼女も表情を柔らかくさせて「こんばんは」と答えた。

 

 

「もしかしてずっとここにいたの? ここ、君の家から少し遠いでしょ」

 

「やっぱりバレちゃうか。 うん、そうだよ。しばらくここにいたんだ」

 

 

 なんのために、とは聞かないことにした。彼女の顔にはまだ迷いがあったから。無理矢理に聞き出しても、苦しいだけだ。

 

 

「隣に座っても?」

 

「もちろん」

 

 

 僕は隣の、もう一つのブランコを指さした。伊地知さんが頷いたのを確認して、僕も同じように腰かけた。

 

 

「ブランコに乗るのなんて、何年ぶりだろ」

 

「私は……小学生以来、かな?」

 

「僕も、そうかも。でもあんまり記憶ないや」

 

 

 乗った記憶はある。けれどそのどれもが似たような、平坦なものばかりで具体的なエピソードの一つも思い出せない。

 友達と遊んで、ふとした瞬間にブランコに乗った。その程度の話しか話せない。

 

 

「……最近ね、良いことがたくさん起きてるって、思うんだ」

 

 

 夜空を見上げて、伊地知さんが言った。手はだらりと腿の内側に垂れ、まとめられた金色の髪がさわさわと風に靡いた。

 

 

「リョウがバンドに入ってくれたのをきっかけに、喜多ちゃんも、ぼっちちゃんも入ってくれて、結束バンドができて……一回だけだけど、お客さんの前で演奏もできた。夢に近づけてるって、なんとなくだけど、そう思った。でも……」

 

「……店長さんは」

 

「うん、大丈夫。わかってるの。全部、本当のことだから……優くんも、知ってるでしょ」

 

 

 僕は口を閉じた。頷くこともしなかった。けれど、否定することもしなかった。何を言っても、彼女を傷つけてしまうような気がしたから。

 

 

「私ね、一瞬だけ……ほんのちょっとだけ思っちゃったんだ。リョウと、喜多ちゃんと、ぼっちちゃん。みんなで夢、ちゃんと叶えられるのかなって」

 

「それは」

 

「ねぇ優くん。私、お姉ちゃんみたいに、なれるのかな……?」

 

 

 脳裏を掠めたのは、今日彼女に送った言葉。その一文字一文字がよぎり、僕は伊地知さんに顔を向けた。その顔を見て、僕のささやかな疑念は確信に変わった。

 それは紛れもなく、傷ついた表情だった。物理的ではなく、精神的な、感情の揺れ動きに苦悩した顔だった。

 伊地知さんのこんな姿を見るのはこれで二回目だ。今はもういない母親の話を、僕に教えてくれた放課後の何気ない一瞬。そして──今。

 

 彼女は僕とただ会話をしに来たわけではないと、今更ながらに自覚した。

 

『店長さんみたいになる』

 

 伊地知さんが口にしたのは僕と似たような理想で、けれどそれは彼女自身の完全な気持ちではなくて。声に出させてしまったきっかけをつくった犯人なんて、もう決まったようなものだ。

 

 ──あぁ。僕は、なんてことをしてしまったんだろう。

 

 

「ごめん。伊地知さん」

 

「謝ることなんてなんにもないよ」

 

「それでも、僕は君に謝らなきゃいけない」

 

 

 僕からの言葉は完全な蛇足で、不要なものだった。彼女に不必要な重荷を感じさせてしまうだけだった。

 

 

「いいの。私たちはまだお姉ちゃんに認められてないくらい未熟で、心のどこかでわかってたはずなのに、それから目を背けてその場その場で舞い上がってるだけだった。お姉ちゃんからライブに出す気ないって言われて、優くんからのメッセージでようやく考えられたの。バンドとしての成長ってなにかなって。むしろこっちが感謝したいくらい」

 

「でも……」

 

「でも、は禁止っ!」

 

「……わかったよ」

 

 

 しぶしぶと従うことにする。ここで口答えをしても無意味なやりとりが続くだけだ。

 

 

「それで、そのバンドの成長ってやつはわかったの?」

 

「ううん。全然、これっぽちも」

 

「ダメじゃん」

 

「ダメだね。あははっ」

 

 

 伊地知さんは無邪気に笑った。子供みたいに、優しい声で。

 

 

「けどいいんだ。とりあえず今は何事も全力でやっていこうって、そう決めたんだ。みんなのことも、ライブも」

 

「オーディションも」

 

「うん」

 

 

 伊地知さんは顔をこちらに傾け、優しく微笑んだ。月の光に照らされた彼女の姿は、なぜか儚くて、目が離せなかった。

 風がさっと僕らの間を抜け、静寂が訪れた。僕らは黙って、その風が吹いてきた方向を黙って視線を送る。もちろんそこにはなにもない。誰もいない。

 ただ誰かに捨てられたように高さが異なる鉄棒がたたずんで、どこか頼りない街灯の光が灯っているだけだ。

 

 

「こうしてブランコに乗ってると、なんだか小学校にいたときを思い出すなぁ。あのときの教室みたいに、窓際に優くんがいて、私はその隣で。間はちょうどこれくらいの距離だった」

 

「よく先生にバレないように紙切れで会話してたのは覚えてる」

 

「そうそう! あの紙、いくつかとってあるんだよ」

 

「えっ、そうなの? どうして?」

 

「それは……ふふっ」

 

 

 細い人指し指が、彼女の唇に添えられる。「ないしょだよ」と言うように。揶揄うみたいに。

 隣り合った人にしか届かない小さな声で、僕の鼓膜をそっとつついた。

 

 

「私の大切な思い出だから」

 

 

 

 *     *     *

 

 

 

 伊地知さんの「帰ろうか」という一声で、僕らはブランコから降り、公園を立ち去った。

 いくら彼女が見知った場所であるとはいえ、一人の女の子をすっかり暗くなった道を歩かせるのは心配だったから、人通りが多い道に出るまで伊地知さんに付き添うことにした。

 僕の家からは遠ざかってしまうけれど、仕方がない。人の安全と比べたら些細な問題だ。

 

 

「手、繋いでもいい? なんか、冷たくて」

 

「え? あ、うん。いいよ」

 

 

 そう言って数秒後におそるおそると彼女の左手が近づいて、僕の右手を握った。存在を確かめるように、一回だけぎゅっと軽い力で握られる。少し、くすぐったい気持ちになる。

 

 

「……すごい久しぶりに、誰かと手を繋いだ気がする」

 

「そうなの?」

 

「年齢を重ねるごとにだんだんとそういう機会は奪われるものなんだろうね。僕らはもう滅多に鬼ごっこなんてしないし、缶蹴りもしなくなった。やろうと思えばできるけど、誰かが躊躇うからやらなくなるんだ」

 

「何の話?」

 

「君と手を繋げてよかったって話だよ」

 

 

 冷たくも温かい彼女の体温を感じながら、そう呟く。最後にこうしたのはいつだっただろうか。手を握られる感覚は覚えている。今の伊地知さんよりかは温かかった。でもよく思い出せない。「そ、そっか!」と無邪気に彼女は笑った。

 

 

「ていうか伊地知さん、手冷たすぎ」

 

「さっき言ったじゃん!」

 

「それにしてもだよ。どれくらい外にいたのか知らないけれど、コンビニなりなんなり、どこかで待ってもよかったんだよ」

 

「いや~、ずっと考えててさ。それになんとなく、あの公園がよかったんだ。優くんと再会したあそこで、いろんなことを考えたかったの」

 

「バンドのこと?」

 

「それも、ある。もちろんオーディションのこともどうしようかなって思った。でもそれとは関係ない……別のことにも悩んでた」

 

「別のこと」

 

「そうだよ、別のこと」

 

 

 彼女はそれだけを言うと口をつぐんだ。僕も何も尋ねないで、ただ街灯を頼りに道を歩き続けた。通行人はまったくいなくて、すれ違うこともない。僕らの間にあったのは互いの手の温もりと、太陽になり切れない光と、いつまで経っても重ならない足音だけだった。

 

 無言の状態が続き、やがて僕たち以外の声や足音がかすかに耳に届く。右に曲がって直進すれば、自ずと人通りの多い場所に行き着く。それはつまり、伊地知さんとの別れを意味していた。

 

 

「じゃあ、またね伊地知さ」

 

「待って」

 

 

 離した手を掴まれる。今度は両手で、温かくなった左手と、冷たい右手が僕の手を包み込んだ。うつむく彼女の姿は、いつかの駅前で引き留められたときを思い出させる。

 彼女は何度か深呼吸をして、やがてゆっくりと僕を見つめた。

 

 

「……言おうかどうか、悩んでたことがあるの」

 

 

 目は潤んで、ふとした瞬間に泣き出してしまいそうな不安定さを帯びていた。

 

 

「今から言うことが、優くんを困らせちゃうってこと……わかってるから。言わないでおこうって……何度も思った」

 

 

 僕の手を握る彼女の手が、小刻みに震えている。何かに、怯えるように。

 

 

「だけど、もう……無理だな……っ。また優くんと出会えたことが嬉しくて、もう抑えられないの……」

 

 

 そっと手が離される。彼女の手は所在なく宙を漂って、やがて互いの手を温めあうよう絡み合った。

 

 

「ねぇ、優くん。わたし────私ねっ! 優くんのことが好き。ずっと……君の隣になった、あの時から」

 

 

 たった一言で、世界が止まった。時が止まった。

 

 春と夏の間の午後九時四七分。星の出ていない夜の下。街灯よりも月光が僕らを照らしていた、二人だけしかいない別れ道。

 

 胸が痛くなるような静寂を切り裂いて、泣きそうな顔で彼女は笑った。

 

 

「────私と、付き合ってください」

 












「……ごめんね、喜多ちゃん」

「私、卑怯者だね」


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スカーレット・サンセット(初恋の色、■■の色)

誤字報告、感想、お気に入り登録等ありがとうございます。

「一年の区切りだし……」と多くの人が考えるように、それがトリガーになって筆を執り始める人もいるわけです。

何が言いたいのかというと、年末年始は新たな作品との出会いの季節です。

これを読んでいるあなたに良き出会いがありますよう。
そしてもしその出会いの一つに拙作が含まれているのなら、作者冥利に尽きるというものです。


「……兄さん、この目玉焼き焦げてます。焦げ焦げです」

 

「あ、うん。ごめん」

 

「あとさも当然のように机に砂糖を出さないでください。あと一歩遅かったら味覚がどうにかなってましたよ」

 

「それもごめん」

 

「まぁいいですけど……あとなんでスプーン持ってるんですか?」

 

「え? あぁ……スープに使うから……」

 

「その肝心のスープがないんですけど」

 

「あ……」

 

「……大丈夫ですか?」

 

「多分」

 

 

 翌朝を迎えても、なんだかずっと夢を見ているみたいな感覚が僕を包んでいた。

 対面で朝食をとる杏は眉をひそめて不思議そうな顔でわずかに首を傾げた。

 昨日のことを思い出すたび鼓動が大きく、そして速くなるのを感じる。喉に変な力が入って、呼吸が不規則になる。向かい合って座っている杏の言葉がするすると流れていって、結局彼女のことを考えてしまう。

 

 恐ろしいほど箸が進まない。トーストだけをなんとか胃に流し込んだ頃にはもう登校しなければならない時間になっていた。

 杏と歩みを揃えてそれぞれの学校へと向かう。やがて道が分かれ、僕は杏に手を振る。

 

 

「それじゃ、頑張れよ」

 

「あの、兄さん」

 

「なに?」

 

「もし悩みがあったら、遠慮せず言ってくださいね」

 

「……さぁ、なんのこと?」

 

「わかりますよ。兄さんはわかりやすすぎです。どんなことに悩んでいるのかはさすがに見当はつきませんけどね」

 

 

 杏は仕方がないといったふうに笑みを浮かべた。

 

 

「相談するのがわたしじゃなくてもいいんです。無理矢理に話してとも言いません。けれどもし、この人なら話してもいいと思える人と出会えたなら、その人と相談してみてください」

 

「こっぴどく振られたら?」

 

「そのときは……しょうがないからわたしが聞いてあげます」

 

「なんだそれ」

 

 

 思わず苦笑する。

 それだけです、と言って彼女は今度こそ僕に別れを告げた。離れていく背中を見つめる。距離は確かに離れて行っているはずなのに、彼女の背中はずっと大きく見えた。しばらくして僕もまた目的地へと足を向けた。

 学校へたどり着き、階段を上り教室の扉を開く。見知った友人たちに軽い挨拶を交わし、自分の席に着く。ちょうどそこでチャイムが鳴った。一分も経たずに担任の先生が入ってきて、雑談交じりに連絡事項を伝える。それも数分経たずして終わり、つかの間の自由時間が与えられた。

 

 

 

 ねぇ、一限目ってなんだっけ。数学じゃない? 数B? いや数Ⅱだけど。

 そんな会話が耳に届く。

 そっと鞄を開けて教科書を整頓してみる。

 軽くため息を吐き、頬杖をついて外を眺める。昨日は本当にいろいろなことがあって、僕のやるべきことがすっぽりと抜け落ちてしまっていたらしい。

 今日は月曜。そして僕の鞄は金曜日に置き去りにされたままだ。

 

 

「ごめん、ちょっといい?」

 

 

 僕は隣の席の女の子に声をかけた。ぱたぱたと彼女に見えるように数Bの教科書を煽りながら。

 

 

「次の数Ⅱなんだけど、教科書見せてくれない?」

 

 

 本当に、伊地知さんはどうしてこんな僕を好きになってくれたんだろう。

 

 

 

 

 *     *     *

 

 

 

 

 放課後になって、僕はいつもの校舎裏へと向かう。道中で今日の授業のことを思い出そうとするけれど、どんなことをやったのか、ノートに何を書いたのか、そのすべてがまっさらだった。どうにも"今日"のことより"昨日"のことを考えている時間のほうが長かった。

 

 昨日のこと、というより伊地知さんのこと、といったほうが正しいか。

 どちらにせよ、どうにも集中できていないというのは確かだ。

 

 目的の場所に着くとすでに喜多さんと後藤さんが来ていて、小端立てされた花壇の端に座り喜多さんが熱心に後藤さんの手元を見ていた。どうやら練習中らしい。

 もうすっかりこの二人がいる現状をいつも通りだと思うようになってきていた。

 

 

「オーディションに向けて練習? 二人とも」

 

「あ、師匠。ちょっと今日は遅かったですね」

 

「うん、まぁ……ちょっとね。そっちの調子はどう?」

 

「もちろん大丈夫……って言いたいんですけどねー。やっぱり難しくって」

 

「時間はあるからあまり心配しなくてもいいと思うけどね。後藤さんもそんな不安そうな顔しなくてもいいよ」

 

「は、はい……」

 

 

 ギターを取り出し、軽くウォーミングアップをする。普段だったら躓くことのない、自動化された動きがひどく鈍っているのを実感した。

 意図して息を吐きだす。いったん体の力を抜いて、いろんなことから解放されたかった。依然として、僕はどうするべきなのか答えは出ていない。

 

 頭上を仰ぐ。空は憎たらしいほど晴れていた。幾多もの木々の葉の重なりを縫うように避けて差してくる木漏れ日は力強く、眩しい。僕の体を射抜くように胴に当たる光をそっと手で掬い取るようにかざす。

 包み込むような熱がじんわりと伝わる。それは伊地知さんの手と限りなく似ている気がした。

 再度、今度は意図的でもなく、意味を見出す暇もなくため息をついた。

 

 

「あの……師匠、なにか悩み事ですか?」

 

 

 いつまでもギターを弾き始める様子のない様子を見てか、喜多さんがそう尋ねてくる。

 

 

「うん……まぁ、そうだね」

 

 

 言葉を濁す。

 何もないというと真っ赤な嘘になる。しかしすべてを話すつもりはまったくと言っていいほどなかった。伊地知さんと接点が多い喜多さんや後藤さんが相手ならなおさらだ。「伊地知さんから告白された」なんてことは少なくとも僕から公然とするべきではない。

 

 

「なにか悩んでることがあれば遠慮せず言ってください。私、師匠には助けられてばっかりなので! 恩返しってことで」

 

「あ、あの。わわ私も……歌詞とかいろんなこと助けてもらったので……手助けでもできればなぁ……と」

 

 

 二人の言葉に、視線に後押しされて記憶が呼び起こされる。

 

『この人なら話してもいいと思える人と出会えたなら、その人と相談してみてください』

 

 僕は悩んだ。話そうか、話さないかということではない。どこからどこまで話そうか、話はそう切り替わっていた。

 木漏れ日が視界に瞬き、世界が一瞬閃光を放った。思わず目を瞑った目蓋の裏に虹色が見えた。

 ゆっくりと目を開け、落としていた視線を彼女たちに戻す。

 

 

「実は──」

 

 

 語り出しは小さく、この場でなければほかの音に埋もれて消えてしまう程度のものでも。

 その声は紛れもなく、僕の彼女たちへの信頼の証だった。

 

 

 

 

 *     *     *

 

 

 

 

「はぁ…………」

 

「虹夏、帰らないの?」

 

「……もう少ししたら、帰る」

 

「あっそう」

 

 

 窓の外を眺めながら、虹夏は特別な意味もなく雲を目で追いかけているようだった。

 頬杖を突きながらどこか悲しそうに目を細める親友の横顔を、リョウは一つ前の席に座りながら眺め、彼女がどこか遠くに行ってしまったような錯覚を覚えた。または、外見だけそっくりな違う誰かとすり替わったのかとすら思えた。

 彼女の様子はあまりに普段とはかけ離れていて、かける言葉がなかなか見つからなかった。

 

 

「なにかあったの?」

 

 

 その言葉を引き出せたのは、教室から誰もいなくなってから五分が経とうとしたときだった。

 

 

「……なんでもないよ」

 

「でもそうは見えないけど」

 

「なんでもないの。ただいろいろと急いじゃったなって」

 

「急いだ……バンド活動の準備のこと?」

 

 

 違うと言うように、束ねられた明るい髪が尾を引くように揺れる。

 

 

「……じゃあライブに出ること?」

 

「違うよ。リョウとぼっちちゃんには関係ない」

 

「関係なくない。大事なドラムがそんな調子だとオーディションだって失敗しちゃうかもしれないでしょ。悩みがあるなら言って。ライブに参加したいんじゃない……の……」

 

 

 言いかけて、リョウは口を止めた。思考を止めて数秒前の記憶をリフレインする。かすかな違和感が明確なものになったとき、自然と言葉は喉を通り過ぎた。

 

 

「郁代は? 関係あるの?」

 

「イクヨ?」

 

「喜多のこと」

 

「へぇー、喜多ちゃんそんな名前だったんだ」

 

「ごまかさないで、ちゃんとこっちを見て言って」

 

 

 吐息が一つ。地面に映る影が身じろぎした。

 そして虹夏の瞳にようやくリョウの姿が映った。何の変化もないはずのいつも通りの目も、今だけはどこか違って見えた。

 机上に腕を組み、そこにできた隙間に顔をうずめるようにして虹夏はこちらをちらりとうかがった。

 

 

「関係ないよ」

 

「本当に? 喧嘩したとか、ない?」

 

「ないよ。まったく、これっぽちも」

 

「……そっか。それじゃ、いいや」

 

 

 ちっともよくなんてなかった。核心に迫れるだけの言葉を見つけられないどころか、虹夏がどんな問題を抱えているのかすら掴むことができなかった。

 それでもこれまでのやり取りから、リョウはこれ以上無理に聞いても同じような話を繰り返すだけだと思った。

 

 机に伏した虹夏の表情を見ることはできない。

 いや、無理矢理その顔を確かめることはできるのだ。腕を掴んで、どかせばいい。後ろに回って肩に手を置いて起こしてもいい。やりようはいくらでもある。

 けれどリョウはそれをしなかった。するつもりもなかった。

 そんなことをしてしまえば、虹夏との友情が消えてしまう。

 何の脈絡もなく、漠然とそう感じ取った。

 

 リョウはただ虹夏を見つめた。

 彼女の隠れた表情にどれだけの秘密が潜んでいるとしても、そうするだけの術と覚悟を持っていなかったから。

 

 ただ、見つめることしかできなかった。

 

 

「帰ろっか」

 

 

 前触れもなく、虹夏は席を立った。声はいつもの明るい色を取り戻していた。

 リョウも半ば困惑を押し殺し、同様に立ち上がる。

 荷物を背負い、教室の扉を開け、誰もいない廊下を歩く。吹奏楽部の演奏と、校庭や体育館から聞こえる怒号じみた声援や、ボールが力強く叩きつけられるような音が虚ろに響いた。

 

 

「ねぇ、虹夏」

 

 

 昇降口で外履きに履き替えた彼女の背中に、声をかけた。

 それが漠然とした恐怖からでたものだと、リョウはなんとなく直感で理解した。

 

 ──虹夏の悩みを共有できなかったから? きっと違う。

 

 ──虹夏が私を頼ってくれなかったから? 多分、違う。

 

 明確に、正確に言語化できるものではないけれど。リョウは確かに虹夏との友情の微々たる綻びのその一端を垣間見た気がした。

 

 不思議そうな顔をして、虹夏が振り向いた。逆光であっても、その姿ははっきりと映った。

 

 

「私をバンドに誘ってくれたときのこと、覚えてる?」

 

 

 ひび割れたグラスを慈しむように撫でる。

 その傷痕を宿したときの記憶を思い返すように。

 リョウはそう問いかけた。

 

 虹夏は表情を変えず首をわずかに傾け、それからにぱっと笑顔を作った。

 

 

 

「もちろん! 頑張ろうね、結束バンドのエースっ!」

 

 

 

 

 *     *     *

 

 

 

 

「実は、その……告白の返事について悩んでて」

 

 

 師匠のその言葉を聴いたとき、私の"なにか"が欠けた。

 ピシリと、亀裂が入ったみたいに。

 思いもよらない言葉が耳に入ってきて、一瞬だけ体が硬直した。

 

 

「えっ……と、告白って、その」

 

「想像してる通りだよ。好きだって言われた。だから付き合ってほしいって」

 

「だ、誰からですか!?」

 

「僕の友人とだけ」

 

秀華高校(ここ)の人ですか? それとも他の高校? 後輩ですか先輩ですか?」

 

「さあね」

 

「えー師匠もう少し情報出してくれてもいいじゃないですかー」

 

「いや別にそんな情報いらないでしょ……」

 

 

 師匠はわかってない。女子というのは恋バナが大好きなんだから。

 ほら、後藤さんだって目が輝いて…………ないわね。なんかすごい落ち込んでるし。「告白なんて一度もしたこともされたことない私がどうアドバイスしろと……」なんてことを呟きながら端っこに丸まりつつある。素早く後藤さんの傍に寄って捕獲して、師匠のもとに戻る。

 

 鼓動がうるさい。興奮しているのが自分でもわかる。

 

 

「そ、それでなんだったかしら……そうそう、告白の返事についてって言ってたけれど」

 

「うん。その子のことはずっとただの友達だと思ってたんだけど……」

 

「告白をきっかけに見方が変わったと」

 

「そう、だね。彼女とは友人としての関係をいつまでも続けていきたいって思ってたから……困って」

 

「というと?」

 

「断ったら、疎遠になってしまう気がして」

 

 

 師匠の不安は実に的を射ていた。ほかの子の恋愛事情を耳にしたときに、やっぱり以前の付き合いには戻れないといった人は多かったように思う。

 すると「あ、あの……」とおそるおそると遠慮がちに挙手をした。

 

 

「そもそも先輩はその人のことを……すす、好きなんですか?」

 

「……わかんないや」

 

 

 ぽつりと師匠が言った。

 

 

「友達としてなら大好きだ。それは間違いない。僕なりの彼女の魅力もいくつかはあるけれど、それらに恋をしているかと言われると、どうだろうね。でも時間をかけて僕の今までの認識を変えていけば、好きになれるとも思う」

 

「じゃ、じゃあ……お、お付き合いしてもいいって考えているんですか?」

 

「あぁー……うん。そうだね……恋人として付き合うのも、いいとは思ってる」

 

「……

 

 

 ひどく震えた、吹けば飛んでいってしまうような音。

 それが、私から出た声だと数秒経ってから気がついた。

 右手で胸を抑える。心音は未だにおさまることを知らず、一定の間隔で爆発を繰り返している。

 

 次第にそれはさらに激しさを増し、痛みに変わっていく。

 

 経験したことのない痛みだった。擦り傷のヒリヒリとしたものでも、切り傷のように怪我をしたところが熱くなるものでもない。かといって泣き叫ぶほどの強烈なものでもなかった。

 

 心臓を真綿で締め付けられるような、気を抜けばふとした拍子で泣いてしまいそうな、どうしようもないわけのわからない、痛み。

 

 ──あれ? おかしいな……? 私恋愛の話は大好きなのに。

 

 どうして、こんなに…………

 

 

「喜多さん? 大丈夫?」

 

 

 知らないうちにうつむいていた顔を上げると、師匠の顔が視界に入る。

 黒い髪に唇、少し高い鼻に黒い瞳、その上にかかる細い睫毛。それを見たとき、一段と痛みが増した。

 無意識に歯を食いしばった。そうやって顔を引き締めていなければ、私はもうダメになると思った。

 師匠と後藤さん、困惑したままの二人に背を向け荷物を取る。

 

 

「……っ。ご、ごめんなさい……今日……と、友達との用事があったんだったわ。もう、帰るわね」

 

「ちょ、ちょっと喜多さん? どうしたの?」

 

 

 戸惑う声が背後から聞こえるけれど、無視を決め込んだ。速足で校門へと向かい、二人の視界から完全に消え去ったことを確認する。

 

 気づけば、私は走っていた。

 人の視線なんか一切気にする余裕もなく、ただ走った。

 

 適当な嘘を吐いた。本当は、友達との約束なんてなにもしてない。

 

 走る。

 

 師匠の顔が離れない。思い浮かべるたびに、どうしようもなく、泣きたくなる。

 

 ──走る。

 

 師匠に、恋人ができるなんて想像つかないな。相手はどんな人なんだろう。

 

 ────走る。

 

 師匠に恋人ができたら…………もういつもの校舎裏には来なくなっちゃうのかな。

 

 ────────走る。

 

 

 

 

 走って、走って、走って…………走、って………………はしって…………。

 

 

 

 

「はぁっ……はぁっ…………っ」

 

 

 ズキズキと脇腹に痛みが走る。必死に酸素を求めて呼吸する。体温は上がって、下着が汗で張り付いている。気持ち悪い。ふくらはぎ、攣ったのかな。歩くのもだるいや。

 

 胸に手を当てて、制服にシワができるほど握りこんだ。

 

 

 ……心痛は、留まったままだ。

 

 

 

 もう、なにをどうすればいいのか、わからなかった。

 なにが私に起きているのか、理解できなかった。

 うつむいたまま、ただ歩く。ここはどこだろう。知らない場所だった。目的地なんて最初から決めてない。

 短い間でずいぶんボロボロになったわね、なんて人ごとのように思ってみる。

 

 でも、歩く。疲れ果てても、歩く。

 そうすれば、この痛みから目を背けられると思ったから。

 

 

 

 次第に日が落ち始め、自分の影が伸びたのがわかった。その影が伸びる方向へと進んだ。

 

 

「なにしてるのかしらね、私……」

 

 

 一時の激情に駆られて、恩のある人の前から逃げ出して、挙句知らない場所を歩いている。本当、なにしてるんだろう。

 下を向いて歩いていると、白色の光が横から差してきた。低い唸り声のような稼働音が耳に入り、横を向く。

 

 自販機だった。

 

 無視して去ろうとしたが、喉はひどく乾いていた。ただ、特別飲みたいものがあるわけじゃなかった。選ぶのも億劫で、二百円を投入口に入れて、適当にボタン押した。

 ゴトンと乱雑な音が下から聞こえる。取り出し口に放り出されたペットボトルを掴み、どこかでつっかえたのか、少し苦労して取り出す。

 ラベルを読む。そして目を見開いた。

 

 ──レモネード。師匠が、大好きな味。

 

 キャップを開けて、口をつけて、ゆっくりと傾ける。

 甘くて、ちょっとすっぱくて、つめたくて…………でもどこかほっとするような温かさがある。

 

 それが、どうしようもなく切なくて、愛おしい。

 

 上を見上げる。この場所は、よく空が見えた。太陽はもうすぐ沈むというのに、それでも空一面を茜色に染め上げている。

 雲は陰影を形どって、それがうねりとなって様々な模様を描いている。

 その模様の先に、燃えるような(あか)があった。いつまでも見ていたいような、太陽があった。

 

 

「あぁ……ようやく……わかったわ」

 

 

 すごく、簡単なことだったんだ。

 

 考えていたのが、馬鹿々々しくなるくらいに、視界はすでに開けていた。

 右手を開いて、胸にあてる。

 

 ──まだ、痛い。じんわりとした熱が心臓の周りに漂っているみたいで……でも、太陽みたいに、あったかい。

 

 言わなければと思った。あの光が沈んでしまう前に、空が燃え尽きてしまう前に。

 そうでなければ、私は私を失ってしまう。

 

 

「ねぇ、()()()

 

 

 あの日の──あなたに出会った日のことを、まるで昨日のことのように今でも思い出せる。

 あなたのギターの音を。

 手渡されたレモネードの味を。

 友達にからかわれるくらい紅くなっていた頬も、全部。

 やっと、すべてに説明ができるの。

 

 

「私……わ、たし………………っ」

 

 

 目を瞑る。空を見上げる。

 涙なんて流していないと、言い訳をできるように。

 

 

「わたし、初恋だったのね……っ」

 

 

 世界が、淡い紫に包まれ始める。

 

 赤が追い立てられて、消えていく。

 

 建物交じりの地平線の彼方へと。

 

 影も、雲も、模様も何もかもを塗りつぶして。

 

 

 

 

 そうして、あの空が二度とやってくることはない。

 

 



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オーディション

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 空は厚く、鉛色の雲が覆って空を幾分か地上へと近いように見せかけている。

 校舎裏にできた影に隠れるように座りながら、僕はいつもどおりギターを弾く。

 ここ最近間違えてばかりのフレーズを、同じようにまた間違えた。

 そんな僕から数歩ほど離れて、後藤さんがこちらをうかがっている。

 僕は小休止がてら彼女に調子を尋ねる。

 そうすると後藤さんはなんとも言い難い苦い笑みを浮かべながら、「大丈夫です」と答える。

 何が大丈夫なのかいつもわからなくて、でもその言葉の深い理由を知ってもどうすることができないから、影になったままのそれに光を照らすことなくありのままに頷く。

 そんな会話を、毎日続けている気がする。

 

 天気だったり気温だったりを除けば、一見それらはすべて僕らが過ごしてきた日と変わり映えがなくて、まるで同じ一日を何回も繰り返しているみたいだった。

 

 

 そんな馬鹿な話があるかと、一人頭を振る。

 

 

 後藤さんに目を向けると、彼女との距離が遠くなった気がする。近いはずなのに、遠く感じる。

 いや、それはきっと事実なんだろう。

 そっと視線を手前に向ける。そこには何の変哲もない、蟻の一匹すら歩いていない地面があるだけだ。

 ほぼ無意識に彼女の影を探す。そうして後ろ姿を思い出す。

 できれば今日、話し合いたかった。そして僕がなにか彼女の気に触れるようなことをしてしまったのなら、謝りたかった。

 

 でもそれは叶わなそうで。

 結局、望み通りにはならないままそこを去ることになった。

 

 

 喜多さんがその日来ることはなかった。

 

 

 

 

 後藤さんと別れた後、僕はスターリーに足を運んだ。平日だけどライブの準備があるとのことで、その手伝いをすることになっていた。

 店長さんやPAさんに軽く挨拶をして、机や椅子の整理から始めることにした。

 カウンターの台を拭き終えてからなんとなくエントランスを見渡した。バンドも客も、もちろん練習で忙しい結束バンドの皆も入っていないそこは束の間の静寂で満ちていた。

 

 そしてそっと息をついた。

 

 疲れたわけじゃない。仕事に飽きたわけでもない。ただ、自分に呆れただけだ。

 山田さんは勝手に仕事をサボって、それを伊地知さんが叱って、喜多さんはさりげなく山田さんの肩を持ちながら仲介して、後藤さんはあわあわとしながらもしっかりと見守っている。

 そんな自分以外の、四人の影を無意識に探してしまっていた。

 

 ──僕は変わったんだろうか。きっとそうなのだろう。母さんがそうであったように、伊地知さんがそうであったように。僕も気がつかないうちに変わってる。

 

 でも。

 一人でいることにわずかな苦痛を覚えるようになったことが、果たしていいことなのだろうか。

 

 

「……て、手伝おっか?」

 

 

 声の方向に振り返ると、伊地知さんが後ろに手を組みながらいつもよりぎこちない笑みを浮かべながら立っていた。

 

 

「あ、あぁ。伊地知さん……帰ってたんだ」

 

「今さっきね」

 

「いやでも……僕の仕事を手伝うより、オーディションに専念したほうがいいんじゃないかな。ほら、あと少しでしょ?」

 

 

 どう考えたって、そのほうがいい。いくら彼女が関係者とはいえ、店長さんだってきっと僕と同じように答えるだろう。

 

 

「そう、だね。うん、でも気にしないで。私がやりたいだけだから……それにこれからライブがあるって考えるとあんまり集中できなそうだし」

 

「そういうもの?」

 

「そういうものなの」

 

「なら……任せるよ」

 

「うん!」

 

 

 表面上、僕らの態度は普段と変わりなかった。けれどやっぱりどこか違った。

 弦を張り替えたギターのような一見変化のない状況に、それでも僕らは気がついていた。

 無言で作業をする。しかし会話がないというわけでもない。互いに言い淀んで、互いに何度目かもわからない「やっぱりなんでもない」を繰り返すそれを、果たして会話といってもいいのかとも思うけれど。

 

 一通りやることを終え、数分間の休憩に入る。近くの椅子を引いて、座る。遅れて伊地知さんも僕と向かい合うように座ってから、僕に紙コップに入った水を差しだした。

 

 

「ありがとう」

 

 

 そう言って受け取ると、軽く彼女の指に触れた。

 無意識にあの時のことがフラッシュバックして、目を伏せた。ちらりと伊地知さんに視線を向けると、両手でコップを包み込むように持ちながら、その水面を見つめているようだった。耳にかけていた髪がはらりと重力に従って、落ちる。少しだけ、伊地知さんの耳は赤かった。

 

 

「……」

 

「……」

 

 

 再び無言が続いた。

 伝えたいことがないわけじゃない。

 まだまだ話し足りないくらいだ。

 だって、僕らは小学生からの幼馴染で、友人同士で…………。

 

 でもこうして今も口をつぐんでしまうのは、どうしようもない事実だった。

 

 

「ずっと、変わらないと思っていたんだ」

 

 

 コップの中の水で何度も口を濡らして、ようやく言えた。

 

 

「……なにが?」

 

「いろんなこと」

 

「あいまいだね」

 

「本当に、いろんなことだよ。僕はずっとこうして一人でギターを弾いているものだと思ってた。けど気がついたら君たちが僕の隣にいた。あと、ここに限らずバイトなんてするつもりもなかった」

 

 

 ギターはマイナスな方向へ行っている気がするし、上達の兆しが見えない。そればっかりはいい意味で変わってほしかったなと内心思う。

 

 

「君とも……僕はずっと友達のままだと思ってたよ」

 

 

 ずっと友情を持っていられると、そう本気で考えていた。

 でも実際はどうだろう。僕は伊地知さんのことを理解しているつもりで、彼女の心の内なんて全くと言っていいほど見通せていなかった。伊地知さんの葛藤を見て見ぬふりどころかその実態さえ認識できず、それでも僕は能天気に彼女のことを友人と呼んでいたんだ。

 実に滑稽な話で、笑えてくる。

 

 

「そう……だね。私も、そう思ってた」

 

 

 伊地知さんが伏せていた顔を上げて、笑う。おかしいものを見たように、ほんの少しだけ、照れるように。

 

 

「でも優くんとずっと友達なんて、私は嫌だな」

 

「……」

 

「中学のとき、いつも隣の席を眺めてた。そこには当たり前にクラスメイトがいて、友達になるんだけど……その人の顔を見るたびに悲しくなるんだ。ある時なんでだろうって考えて……そしたら驚くくらい簡単に答えがでた」

 

「……君はそういう感情とは無縁だと思ってた」

 

「誰かを好きになるってことに?」

 

「違う。伊地知さんは誰とも仲良くできるから、そういう寂しさなんて簡単に忘れられるじゃないかと」

 

「あはは、そんなことないよ。私だって、普通の人だもん。それに大事な思い出はいつだって、忘れたくないし」

 

 

 壁に掛けられた時計を見てから伊地知さんは席を立った。僕も遅れて立ち上がる。

 

 

「ねぇ、伊地知さん」

 

 

 彼女は背中を向けながら立ち止まった。振り返ることはなかった。

 それでいいと思った。それがいいとひどく安心した。

 僕は君と違って、弱いから。顔を向かい合わせてこんなことを言うことはもう少し時間がかかりそうだけど。

 

 でも、これだけは言わないといけないんだ。

 

 

「あと少しだけ、悩んでもいいかな」

 

 

 言い換えればそれは子供じみたわがままで、それでいて伊地知さんにとってなんのメリットもない、理想とはかけ離れた言葉だ。

 それでも、僕にとっては何よりも大切なもので、彼女とを繋ぐ細い糸のようなもので。

 

 だから彼女がどう答えるかなんて、とうにわかりきっていたことだった。

 

 こんなずるい言葉でしか、僕はもう彼女との繋がりを確かめられなかった。

 

 

「いいよ」

 

 

 短く、しかしはっきりと。

 それだけを言って、歩き去った。

 追いかける気にはなれなかった。背中を追ってしまったら、彼女はきっと僕の手を取ってしまう。そして困った表情をしながらも、すべてを許してしまう。

 

 だから。

 

 僕は今度こそ自分の力で、伊地知さんの隣に立たなくてはいけないんだ。

 友人として、幼馴染として、親友だったかもしれない者として。

 

 僕にとって、君のためのただ一つの答えを、探し出さなくてはいけない。

 

 

 

 *     *     *

 

 

 

 オーディションの日。

 スターリーに向かっている途中で背中から話しかけられた。

 その見違えようのない綺麗な赤い髪を持つ人を僕は一人しか知らない。

 

 

「師匠、こんにちは。偶然ですね」

 

「そう……だね。数日あってないだけだけど、すごく久しぶりに感じる」

 

「おおげさですねぇ、一日か二日会わなかっただけじゃないですか……せっかくですし、一緒に行きましょうか」

 

「うん……そうしよっか」

 

 

 ただ静かに、足並みをそろえて目的の場所へと向かう。その途中で喜多さんは申し訳なさそうに若干顔を歪ませて、話し始めた。

 

 

「師匠、ごめんなさい。練習に行けなかったこと」

 

「それは別にいいんだけど……君がいきなり走り去るものだから、後藤さんはずいぶんびっくりしてたよ」

 

「師匠は?」

 

「僕も驚いたよ。あと……君に嫌われるようなことをしてしまったのかと思った」

 

「そんなことありませんよ。あれは……本当に用事があって」

 

「そう」

 

 

 たとえ嘘でも、その言葉が聞けてほっとした。

 人に嫌われるのはいつだって心が痛くなる。

 

 

「オーディション、大丈夫そう?」

 

「大丈夫です、たぶん」

 

「たぶん」

 

 

 曖昧な表現だ。でも喜多さんが緊張している様子はないし、僕の心配のしすぎだろう。

 

 

「ぜったい大丈夫、なんて言えませんよ。ただ、今ある全力を出し切ればなんとかなるかなって」

 

「みんなとは練習した?」

 

「はい、昨日。出来とか感触とかは……よくわかりませんけど」

 

「まぁなら大丈夫じゃないかな。特に大きな問題がなければ、平気だよ」

 

 

 波風の立たない、穏やかで表面だけの会話だ。

 音楽の話だったり、学校のことだったり、山田さんのことだったり、話題は行ったり来たりを繰り返した。

 

 本来話し合うことはもっとあるはずなのに、そこに踏み込めない。

 隣を見ると喜多さんはいつも通り明るい表情をしていて、僕の視線に気がつくと軽く首を傾けた。

 

 

「どうしました?」

 

「いや──」

 

 

 なんでもないと言いかけた。

 なんでもないわけがないと否定したかった。

 

 一瞬のうちに矛盾して空回りした声は音になることもなく、ただのなんでもない吐息として僕の口からでた。

 

 

「気にしないで」

 

 

「そうですか」

 

 

 喜多さんはそう言った。

 それから少しだけ悲しそうに、微笑んだ。

 どうしてそんな顔をするのか、やっぱり僕はわからなくて。それもささいな疑問かと勝手に飲み込んで。きっと尋ねたところで喜多さんは答えてくれないだろうと思い込んでしまう。

 

 ──僕と喜多さんは友達だろう。

 もちろん、友達だ。学年は一年離れて、年も違うけれど、僕は少なからずそう思っているし、その関係を壊したくはない。壊れてほしくない。

 

 だから、傷ついてほしくもない。

 

 

「喜多さん」

 

「はい」

 

「頑張ってね」

 

 

 そんないい加減な優しい言葉が、なによりも卑怯に感じた。

 

 

 

 

 

「それじゃ……始めるか」

 

 

 ステージの真正面に設置された長机に頬杖を突きながら、店長さんが言った。

 店長さんの隣にはPAさんが座っていて、僕も二人に倣ってもう一つ知らないうちに用意されていた椅子に腰かけた。

 

 

「ふふふ……」

 

「……なにか用でも? PAさん」

 

「いいえ? なにも」

 

「じゃあなんでステージじゃなくて僕のほうを見てるんですか」

 

「んー……なんとなくですかねぇ~」

 

「はぁ、そうですか」

 

 

 ……まぁ、できれば店長さんに真ん中に座ってもらってPAさんとの距離を空けたかったのだけど、仕方がない。オーディションが終わるまでの辛抱だ。

 

 

「そういえば店長さん。今更な話ではあるんですけど」

 

「なに」

 

「僕とPAさんって一応審査員ってこと……ですよね」

 

「そうだな」

 

「で、店長さんも審査員で、でも最終的な決定権は店長さんにあるんですよね」

 

「うん」

 

「じゃあ僕とPAさんいらなくないですか?」

 

「……」

 

「…………」

 

「………………そろそろ始まるぞ」

 

「あの」

 

「始まるぞ」

 

「いや、だから」

 

「鏡」

 

「はい」

 

「黙れ」

 

「はい。わかりました黙ります」

 

 

 あとどさくさに紛れてPAさんは頭を撫でないでください。

 

 やがて準備が整って、若干緊張した面持ちで伊地知さんがマイクに声を吹きかけた。

 

 

「結束バンドです! じゃあ……『ギターと孤独と蒼い惑星』って曲……やります!」

 

 

 彼女たちの演奏に口を閉じて、その音に耳を傾ける。

 それは店長さんとPAさんもそうだった。その瞬間から、僕らは何物でもなく、ただの観客になったのだから、そうすることは当然といえば当然だった。

 スポットライトに照らされるステージ上の四人を見上げる。しかし次第に視線は徐々に下がっていってしまう。

 その無意識の動作の意味を答えたくはなかったが、言い逃れようもなく"飽き"がきてしまっているのは事実でもあった。

 

 なんだって、きっかけは小さなことから始まる。

 これまで一度も四人とも目が合わないことにふと気がついたとき、彼女たちの演奏はなんだか壁を作っているように思えてしまった。客に見せるための音楽ではなくて、仲間同士でやる独りよがりなものに近かった。

 思わず顔が歪む。

 

 ──なんだか、僕みたいな演奏だ。

 

 誰もかれもが殻に閉じこもって、自分ばかりの演奏をしている。そうして自分だけの満足を求めてしまっている気がする。

 それもいいだろう。そんな音楽があってもいいだろう。

 ロックがこうあるべきだなんて、そんな偉そうなことを一体誰が言えるんだろう。

 

 でも、君たちが僕みたいになるのはなんだか違う。

 

 

 そう思ったとき、雷鳴が轟いた。

 

 伏せていた目線を上げればそれがまったくの幻だったことにはすぐに気がついた。

 

 目の前には変わらない光景。結束バンドの四人が変わらず演奏に集中している。

 でも彼女たちを纏う雰囲気と、何よりもその音が数秒前とは格段に変化していた。

 

 導かれるように、僕はゆっくりと彼女を見つめた。

 

 

「後藤さん……?」

 

 

 間違いでなければ。

 勘違いでないなら。

 

 今さっき、彼女のギターから懐かしい音が聞こえた。

 

 

「──鏡? おい、聞いてんのか?」

 

「え?」

 

「なんかこいつらに一言」

 

 

 店長さんの指先をたどると、顔が強張っている四人が立っている。

 

 

「あの、演奏は」

 

「……お前、寝てたのか? もう終わったよ」

 

「そうですか。別に寝ていたわけではなくて、その……なんて言おうか考えてて」

 

「あっそう。で、感想は」

 

 

 僕はメンバーたちと向き合う。それぞれが佇まいを正した。

 

 

「えっと……そうだな、先に走ってしまっているところもあったし、音が重なるべきところはズレてしまっていたし……バンドとしての一体感は正直感じられなかった。でも」

 

 

 ちらりと後藤さんを見る。

 

 

「途中でそれぞれの演奏に耳を傾けられたみたいなのは、よかったと思う」

 

「……だとよ。ようするにこれからに期待ってところだな」

 

「……ん? 評価的にはけっこう悪い……?」

 

「捉え方はお任せで」

 

「……え……と、お姉ちゃんは?」

 

 

 恐る恐るといった様子で、伊地知さんが尋ねる。

 

 

「……ま、ほとんど同じだな。ギター二人は下向きすぎだし、ベースは少し走り気味、ドラムは肩に力が入っているせいでリズムが若干崩れてた。でもお前らがどんなバンドなのかは十分わかったよ」

 

「あ、ありがとう……ございました」

 

 

 消え入りそうな声が反響する。そのあとに奇妙な静けさが広がる。

 

 

「……ん? なにその反応? ここ喜ぶところじゃないの」

 

「だって……」

 

「たぶん合格ってことだと思いますよー」

 

「え?」

 

 

 PAさんの言葉に続いて、僕も店長さんに尋ねる。

 

 

「……どうなんですか、店長さん?」

 

「だからそう言ってるだろ。合格だよ、合格」

 

「もー! お姉ちゃんわかりにくすぎ!」

 

「やったー! 後藤さん合格ですって!」

 

 

 喜色にあふれる姿の前で、安堵の息が口からでた。

 こういう結果が訪れたことにひとまず安心する。

 横を見ると店長さんも僕と同じように息をついていた。

 僕が視線を送っていること気がつくと、居心地が悪そうに顔をそらした。

 

 それをきっかけに、僕も視線を前に戻して結束バンドのみんなを……特に後藤さんを見る。

 

 ──彼女、さっきありえないことをしなかったか。

 

 数分前の演奏を思い出す。中途半端だったあの四人の音が、後藤さんの演奏で急激に変わった。

 まるでゼロだったものがいきなり百になるみたいに、一瞬のことではあったけれど後藤さんは確かに完璧な演奏をした。

 今までイヤホン越しに聴いてきた、常人とは違う世界にいるようなプロの演奏の雰囲気をまとって。

 

 信じられない。

 今だって、半信半疑だ。

 でも、半分は信じかけている。

 

 後藤さんは僕たちが想像していた以上の実力を……

 

 

「でも後藤さんやっぱりすごかったわ!」

 

「うっ! 喜多さんすいません……」

 

「え? ちょ、後藤さん? 後藤さーん!!」

 

「あっ、ぼっちが吐いた」

 

「なんでー!?」

 

 

 ……まぁ、気のせいか。

 

 



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君とのこれから

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自業自得ではあるんですけど、絶賛冬の今の時期に夏が舞台の物語は正直キツイ


「……っていうのが、もう先月の話なんだね」

 

 

 しみじみと呟きながら、僕はメニューから適当に頼んだマンゴースムージーの容器を包み込むようにして指先でトントンと叩いた。

 向かいの席に座る伊地知さんも落ち着いた雰囲気で、どちらかというといろいろと受け入れた様子でため息をつくみたいに言った。

 

 

「そうだねぇ……あと本番まで二週間と少しだからあっという間だね」

 

「そんなに? なんかまるで実感がないな」

 

「あっというまだったね」

 

 

 本当にそうだ。夏の時期だけじゃなくて、僕が高校二年生に進級してから決して無視することのできない大きい出来事が到来しては、瞬くうちに過去になってしまった。

 僕を取り巻く環境が変化し、しかしその変化がどんな影響を及ぼしているのか、僕はいまいちはっきりと断言できない。

 

 僕が通う秀華高校にようやく夏休みがやってきて、僕たち生徒は漏れなく校舎から掃かれた。といっても部活の練習だったり、テストで()()()()()()()を取った人だけが受けられる特別授業の際には別段校舎に問題なく入れるが、逆に言うとそれ以外の生徒は先生からの怪訝な視線にさらされることになる。

 当然、僕は部活に入っているわけでもないし、特別授業も受ける予定はない。まぁ、数学は少し危うかったが、過ぎた話だ。校舎裏は確かに人目が少ない場所ではあるけれど、誰も来ないわけではない。楽器の練習だけなら極論を言えばどこだっていいのだ。

 よって、いつものように集まっていたあの場所に足を運ぶことがなくなる。そうすると家にいるか、あるいは外に出て適当に歩いたり手頃な場所でギターの練習をしたりすることしかやることがなくなるわけだ。去年の夏もこんな感じだったし、なんだったら今までそんな過ごし方ばっかりしていた。

 きっと今年もそうなるんだろう家のベッドで寝転びながら天井を見上げる。伊地知さんから連絡がきたのは、そんなときだった。

 

 

「これからどうするの?」

 

「楽器屋さん、寄っていい? スティック、新調したくてさ」

 

「わかった。行こう」

 

 

 フードコートをあとにして、僕たちはエレベーターに乗って階層を移動する。楽器屋につくと彼女は迷うことなくドラムのコーナーに進んでいき、僕もそれに続いた。そうすると伊地知さんは振り向いて、不思議そうな顔をした。

 

 

「あれ? どうしたの?」

 

「どういう意味?」

 

「てっきりギターのところに行くんじゃないかなーって思ってたんだけど……あっ、もしかして気を使ってる~?」

 

「そういうのじゃないよ。欲しいものがないだけ」

 

 

 ただ単に、僕は彼女の付き添いでここに寄っただけだ。僕はピックは滅多に使わないからいらないし、チューナーも家にあるものがまだ使える。ギターを新調するなんてもってのほかで、そもそも現状僕は楽器を変えるほどの所持金はない。あるとすれば弦だけど、先月張り替えたばかりだから正直買う必要性は感じない。もし彼女が僕のことを思ってここに行こうと少しでも考えてくれていたのなら、申し訳なく感じる。

 

 

「そっか。じゃあ一緒に見よっか。特に面白くないかもだけど」

 

「でも僕ドラムのことほとんど知らないからさ、よかったら教えてよ」

 

「もちろん! そうだな……あ、じゃあ丁度いいしスティックのことについて説明してあげましょう! あのね、一見どれでもいいだろーっ! って思うかもだけど、大きさとかチップの形とかが違くて、それを決めるにはね──」

 

 

 それから伊地知さんは今までよりも饒舌に語りだした。ほとんどの時間を彼女が話していたが、一切飽きることはなかった。相槌を打ったり、ときおり説明の中で浮かんできた疑問を尋ねたりするだけで、聞き手に徹する僕はなんとも話し相手としてはつまらなかったと思う。

 しかし伊地知さんの表情の色は褪せることなく、変わらない笑みを浮かべながら口を閉じることをやめなかった。

 

 

「伊地知さんは本当にドラムが好きなんだね」

 

「うん、そうだね。まぁドラムが、というより音楽がって言ったほうがいいかもしれないけど」

 

「そっか」

 

 

 ──本当に、羨ましい。

 

 脳裏に浮かんだ言葉を気取られないように飲み込んだ。

 優しさを湛えた瞳が僕を捉える。伊地知さんの目はいつだってまっすぐで、眩しくて、だからいつも正直に話してしまいそうになる。

 内心ため息をついた。そして視界の端に映る壁に飾られてあるギターを一瞬だけ盗み見た。一切日焼けのしていない、真新しいボディが照明に照らされて煌々と輝いている。

 

 僕がギターを初めて手に取ったとき、初めて曲を演奏できたとき、僕はいったいどんな気持ちだっただろう。

 それはもう思い出すことの叶わない、過去の追憶だ。そもそも僕は音楽を楽しんでいたのだろうか。それすらも朧げだ。少なくとも今の自分はそういう感情とは限りなく遠くなってしまっていることは確かだ。

 

 ここはあまりに眩しい。

 なにもかもが新しい、果てしないほどの豪華な明かりが彩っていて目がくらむ。

 

 

 会計を終えて、建物の外に出る。

 日はまだ高く、当然のように空は青かった。街は活気づいていて人が途絶える様子はない。夏季休暇にはいったからなのか、それとも今日が休日のせいでもあるのか。身動きができなくなりそうなほどではさすがにないけれど、それでも思わず顔をしかめてしまうくらいには険しい道のりに感じてしまった。

「帰ろっか」「そうだね」

 そんな自然なやり取りで僕らはそろって足を踏み出した。荷物持ちとして荷物をぶつけないように、注意を払って往来に飛び込む。

 ふとした拍子で振り返ると、伊地知さんとの距離が離れていて、とっさに空いていた左手で彼女の手を握る。

 

 視線が交わる。それも一瞬のことで、僕らはどちらからともなく逸らした。

 僕は前に、伊地知さんは下に。

 少しだけ暑い。きっと日差しのせいだ。

 そういうことにして前に進む。

 

 人々の雑踏に混ざって「ありがとう」という声が聞こえた気がした。

 

 

 

 駅に着き電車に乗ると、幸運なことに席が空いていた。僕と伊地知さんはその席に腰を下ろし、ほっと息をついた。

 休日とはいえ中途半端な時間だからだろうか、人は車内に疎らに散っていて、空席が目立っている。

 今日のことを二人で振り返りながら他愛のない話を時々し、車窓に映る外の景色をぼんやりと眺めた。

 見慣れた駅に着くと電車を降り改札を抜け、構内を出る。

 

 

「伊地知さん、ちょっと時間ある?」

 

 

 駅から離れ、彼女の家まであと数分も歩けば到着するというところで、僕は声をかけた。

 

 

「どうしたの?」

 

「少し寄り道でもしようと思って」

 

「いいよ。時間もまだ早いし、家に帰っても急いでやることもないし」

 

「そんなに時間は取らせないよ」

 

 

 入り組んだ路地を縫うように歩く。

 足取りはたしかに、けれど鈍い。伊地知さんではなく、僕が。

 目的地はしっかりと決まっているはずなのに、そこにたどり着くまでの時間が少しでも長くなればいいと思ってしまっている。

 

 それはどうしようもなく、心の迷いだった。

 

 薄鈍色の鳥居を抜けると右手小さな公園があり、小学生と幼稚園児が入り混じって遊具で遊んでいた。喜色に溢れた声を耳に入れながら正面に見える階段を上る。十数段の短い階段だったから、僕と伊地知さんは息すらあがらなかったけれど、ベンチが視界に入ると僕らは自然とそこに腰を下ろし、お互いに笑いあった。考えていることは一緒だったらしい。

 

 

「いい場所だね、ここ」

 

 

 伊地知さんが穏やかな声で言った。

 

 

「自然が豊かで、なんか落ち着く」

 

「たまたま見つけたんだ。散歩してたら携帯の充電が切れて迷っちゃって」

 

「え、迷ったの」

 

「ここって結構入り組んでるからさ、どこ歩いてるのかわかんなくなっちゃって、それで」

 

「おっちょこちょいだねー」

 

 

 風が吹き、僕らの笑い声をどこかに攫っていく。もしかしたら下の子供たちにも届くのだろうかと考えてみる。そうなると、少し恥ずかしい気持ちを覚える。

 僕たちは長い間無言でいた。

 自身の体を水面のように漂っている木漏れ日を目で追いかけ、そして木々のざわめきに耳を澄ましていた。時々入り混じる子供たちの声が妙にくすぐったい。

 

 ざわざわと鼓膜を揺らし、そしてその囁くような音が鳴りやんだころ。

 僕はようやく口を開く。

 

 

「ずっと、君の言葉について考えてたんだ」

 

 

 舌は思っていたよりもずっと滑らかに回った。

 伊地知さんはただ黙って僕を見ていた。透き通るような向日葵色の純粋な瞳だ。

 いつだって綺麗で、その瞳の中に僕が映っているのが申し訳なくなる。でも目を逸らすことはしない。あのときの伊地知さんがそうであったように、僕も彼女と向かい合わなければ誠実ではない。

 

 

「君に好きだといわれて、最初はひどく困惑した。伊地知さんには申し訳ないけれど、僕はまったく君を()()()()対象だと考えたことはなかったから」

 

 

 僕と彼女は友達で、少し言い方を変えれば恩人で。

 その関係は変わらないと何の根拠も理由もないのに信じていた。

 いや、僕が信じていたかっただけなんだ。

 いともたやすく崩れ落ちてしまう脆いものだろうとしても、そして僕だけの独りよがりの幻想だったとしても。

 彼女と一時でも相互に築いていた関係がなによりも心地よかったから、ずっとそこにいたいと、そう思ってしまった。

 

 

「恋だとか、そういうのを僕はまだわからなくて。正直なことを言うと、今だって僕は伊地知さんのことが好きかどうかわからないでいる」

 

「……そっか」

 

「伊地知さん」

 

「ううん、もういいよ。十分伝わったから」

 

「そうじゃない。話はまだ終わってない」

 

 

 立ち上がろうとした伊地知さんの手を掴む。きょとんとした顔をした彼女は固まったままで、座りなおす様子はない。

 仕方なく僕も立ち上がって、彼女の正面に立つ。

 乾いていた唇を湿らせて、なんだか締まらない現状に頭を掻いた。

 

 

「だから……これから伊地知さんのことをもっと知っていければって、そう思う」

 

 

 息を吸って、吐く。それだけの動作にひどく苦労する。

 僕は伊地知さんを見つめる。

 伊地知さんも僕を見る。

 言い表せない奇妙な感情に、密かに戸惑う。

 

 

「それって」

 

「僕の答えは完全に伊地知さんの気持ちには答えていないのかもしれないけれど、もし……君の気持が変わっていないなら、なにより受け入れてくれるなら」

 

 

 何度だってこうして彼女と過ごしてきたのに、ようやくまともに彼女の顔を久しぶりに見たような気がする。

 おかしい話だと、笑ってみる。

 

 

「友人じゃなくて、君の恋人として。隣にいてもいいかな」

 

 

 そっと差し出した僕の手に、伊地知さんはゆっくりと手を伸ばした。まるで小動物のように一瞬だけ触れて、それから今度は正体を確かめるように握る。

 

「夢……?」とつぶやかれた声に「まさか」とおどけたように返してみると、夏風が僕らの間を通り抜けた。木々が声を取り戻し、揺れ動く木漏れ日の下で僕らはただ互いを見つめあった。

 数秒か、もしかしたら数分か。どれだけそうしていたのかは僕には定かではなかったけれど。

 やがて浮かべた伊地知さんの表情が目に入ったとき、驚くくらい今更なことに気がついた。

 

 

 

 

 伊地知さんの、向日葵みたいな明るい笑顔が、僕は好きだ。

 

 

 

 

 

 

 

 







 帰り道、二人帰路につく。
 繋がれた手はいつかの日と同じ熱を持っていて、
 けれどやっぱりどこか違う。

 どっちかが導くようにではなく、
 どこかぎこちなく譲り合うように足並みをそろえる。


「ねぇ」


 淡い夕焼けが差す道に声が響く。
 アスファルトに映る影が止まり、向かい合う。


「ちゃんとみててね」


 まるで唐突だった。
 なにを、と尋ねることは簡単だった。
 誰を、と言って首をかしげるのだってなにもおかしいことではない。

 しかしもう一つの影は、ただゆっくりと頷いた。
 言葉はなく、しばらく後に靴が地面を叩く音が響き始める。
 違う音、違うタイミング、そしてやっぱり違う歩幅。
 けどふとした拍子にそれらが重なり合う。
 
 影はその偶然を必然にしたかった。
 それでも"いつか"を夢見て、今はそれでいいと影は思った。

 影は、その偶然にぼんやりとした自身の感情の片鱗に気がついた。
 うつむいて、少し考えて、それから隣を向いて。
 影はその気持ちを大切にしようと思った。


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どうしようもない人

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ぼざろのラバーストラップのガチャガチャあったので回したら承認欲求モンスター(ぼっち)でした。今日も元気にビル壊してます。


 

 僕と伊地知さんとの関係に変化が生じたものの、僕たちの間でそれ以降なにか劇的に変化したものがあるかというと一切そんなことはなかった。

 もともとが近しい仲だったからというのもあるだろうし、それぞれにやるべきことが残っていてそれに追われているというのもある。

 伊地知さんに限らず結束バンドの皆は直近のスターリーでのライブに向けてリハーサルだったり個人練習だったりと空いている時間を有意義に使ってほしい。そう考えると僕たちがそろってゆっくりできるのはもう少し先のように思えた。

 定規で引いたような白い飛行機雲がまるで青空を引き裂くように僕の頭上を翔けているのがみえた。

 折れ曲がることを知らないその線は、すべての問題には必ず正解があると信じている小学生の純情みたいにまっすぐだ。

 

 そういえば今日彼女たちは後藤さんの家に行くらしい。そんな話を持ち掛けられていたことを思い出す。それなのに僕がこうして呑気に公園のベンチで空を眺めているのは、その話を断ったからだ。

 別に後藤さんの家が金沢八景にあって距離的に気後れしたというくだらない理由ではなくて、その小旅行が結束バンド関連のちょっとした会議なんかも含まれていると聞いていたからかえって僕なんかが参加してしまうと話し合いが滞ってしまうかもしれない。

 あとごく単純に、女子の後輩の家に行くのに男子が僕だけというのが気恥ずかしかったことも一つの要因ではある。誰だって幾多もの宝石の中にそこらへんに落ちている小汚い砂利や小石が混じっていたら、取り除きたくもなるだろう。僕はきっと邪魔者になる。

 

 

 さて、というのも変な言い方だが実のところ僕のほうもやることが最近一つだけ増えた。

 といっても今まで自分が行ってきたこととほとんど変化はないというか、その延長線上にあることをやろうと思っただけなんだが。

 なにはともあれ、今日はそれをやるために一人になる時間を作ったつもりだった。僕が掲げたやるべきことは誰の力も借りれないことだろうし、そしてできるなら僕と彼女だけの間で完結させるべきことだとも思ったから。僕はギターを傍らに置いて、こうして五線譜と向き合っているわけだ。

 しかしどう僕の動機がどうあろう、まぎれもない偶然であろうと──僕が蝉時雨と燦燦たる日差しに満ちているこの公園に足を運んだことは紛れもない事実だし、当然だが過ぎてしまった時間は戻せない。

 要するに、僕は今ものすごくここに腰を落ち着けてしまったのを後悔している。

 

 

「いやー今日は暑いね少年くん」

 

「ここの近くにコンビニありますよ。今なら期間限定のものもあるかもしれませんね」

 

「うーん、相変わらず冷たいねぇ少年くん」

 

 

 廣井さんはケラケラと軽快に笑った。そんな彼女と反対に僕は我慢しきれずにため息を吐いた。アルコールの強烈な匂いが漂ってくる。僕はそれに顔を顰めながら呼吸を浅くせざるを得なくなった。別にこの人が腹に一物を抱えるような悪辣な人でないことなんて理解してはいるが、いかんせん廣井さんは反面教師として優秀すぎる。優秀すぎるがゆえに、単純に会いたくない。

 

 

「こんなところで暇持て余してる時間あるんですか? 一応バンド活動してるんでしょう。夏なんて稼ぎ時なんじゃないですか」

 

「まぁこれからだねー。というかついこの間やってきたばかりだからさ、なんかちょうど間が空いちゃってるんだよね」

 

「……それで? まさかこんな暑い日に散歩なんて考えるあなたじゃないでしょう」

 

「うん。絶賛先輩んちの……あ、星歌先輩のことね、スターリーの。シャワー借りに行く途中」

 

「自宅ですればいいじゃないですか。店長さんの家は銭湯じゃなくてライブハウスですよ」

 

「わかってるってーそんなことー。光熱費払い忘れてたのをすっかり忘れててさー仕方ないことなんだよ」

 

「……ん? "払い忘れた"じゃなくて?」

 

「うん。"先月払い忘れたこと"を忘れてた」

 

 

 どうしようもないなこの人、とつい目を細める。ここまで自分とかけ離れた生活をしている人をみると、本当に同じ人間か怪しくなってくる。刹那的に生きている彼女の姿は幽霊みたいにリアリティがない。なんだったら「わたし実は人間じゃないんだよねー」なんてことを今言われたほうが、僕はよっぽど素直な気持ちでこの人と接することができるのではないかとすら思う。

 

 

「じゃあさっさと店長さんの家にでも行けばいいじゃないですか……いやまぁ、本当は常識的に行ってほしくないんですけど」

 

「つれないなー……ところで、そういう君はなにしてたの?」

 

「別に。大したことじゃないですよ」

 

「でもその大したことないことに、少年くんは随分熱心みたいだね」

 

「……それが、どうかしましたか」

 

 

 手元の五線譜に視線を落としながら、なんでもないように装う。できればこのまま何でもない会話が続いてほしかったけれど、それは都合のいい話というものだ。現実的じゃない。僕の膝の上に書きかけのものが一枚、隣には無造作にさらに何枚かがベンチの上に散らばっている。そんな状況で問われないことなんてあるわけがない。廣井さんはその一枚を手に取って、それから首を傾げた。

 

 

「少年くん、これ……()()()()()()()()?」

 

「そうかもですね。あと人のものを勝手にみるなら一言必要じゃないですかね」

 

「キミ、ドラム叩けるの? んー……というかこれなんの曲?」

 

「はぁ……叩けませんよ。これは……なんというか、贈り物です」

 

「贈り物? 誰に?」

 

 

 五線譜に向き合ったまま口を閉ざす。少なくともこれより先のことを話すつもりはなかった。そんな雰囲気を感じ取ったのか、廣井さんもそれ以上訊いてくることはなかった。僕は誰かのために、こうして譜面を書き起こしている。そんな単純で曖昧な情報が伝わっていればいい。それに()()()()()()()()()()、未完成のものをみられるのは気分がいいものではない。ラブレターと同じ原理だ。告白の言葉は電波に乗って電子の海を漂うより、想いを抱いているただ一人にだけ届くほうが幸せだ。

 

 ペンを走らせ、やがて止まる。脳裏に刻まれたメロディーを、途中で途切れている譜面と照らし合わせる。一つ、ほんの些細な違和を発見すると、そこからすべてがずれてくる。正しいと思っていた数式が、数分後には歪なものにみえてしまうように、疑念は晴れず僕は一向に納得のできないリズムパターンを量産しているばかりだ。

 

『……まだ、夢は叶ってない?』

 

 青空を見上げると、そんな声が聞こえた。もちろん廣井さんでも、僕でもない。けれどここにいなくたって正体なんてとっくのとうにわかっている。目を瞑ればあのときのすべてを瞼の裏に映し出せるくらいに鮮明に、思い出せる。

 

『──いつかわたしにも手伝わせてよ、優くんの夢』

 

 そんな彼女の……伊地知さんの声に戸惑った。あの時に必要だったのは、苦笑いと軽く首を横に振ること、あとはやんわりとした拒絶の言葉。それだけだったはずだ。

 僕のためだけに時間を費やしてほしくなかった。何年と結果の出ていない僕の練習に彼女を巻きこむのは彼女の夢の何の足しにもならないからだ。

 でも彼女はきっとそれを承知であんなことを言ったのだ。

 メリットやデメリットではなく、ただ純粋な気持ちで言ってくれたのだと最近になってようやくわかった。

 

 だから僕も恋人らしいことはできていなくとも、一種の信頼の証のようなものを渡したかった。

 僕だけが唯一覚えているこの父さんの曲を、彼女となら共有したかった。

 その足掛かりとして、いつもの五線譜に書き慣れなれていない記号を走らせているわけだ。

 

 

「……ねえ少年くん。私の話は覚えてる?」

 

 

 廣井さんは青空に顔を向けながら、そんなことを呟いた。視線は遠く、まっすぐで、でも広大な青を見ているのか空中に霧散しかけている飛行機雲を眺めているのか、よくわからなかった。

 

 

「あっ今日の話じゃなくて、キミと出会った日、別れ際にした話のことね」

 

「さぁ? なんでしたっけ」

 

「うえぇ!? 結構マジメに話したのに!?」

 

「冗談ですよ。大げさな人ですね」

 

 

 廣井さんの反応が予想以上に大きくて少しだけ頬が緩んだ。この人と出会った時も、今日だって振り回されたばかりだ。これくらいはいいだろう。

 

 

「キミの味方は見つけられた?」

 

「……どうでしょうね。まだ断言はできないです」

 

「そっか。でもキミがそうやって誰かのために何かを共有しようとする姿をみると、私が言ったことは無駄じゃなかったような気がするよ」

 

 

 そんな言葉にそうですかと呟く。それだけの言葉のどこに満足したのか、彼女は朗らかな笑い声をあげてそうだよと答えた。

 脳裏に連続していた想像上の譜面が微かな違和感によって途切れた時、僕はため息をついて仕方なく空を見上げた。木漏れ日が眩しい。目が少しの間眩んで、細めた目でふと隣を見やると廣井さんも僕と同じように空を見ていた。

 会話はなく、ただ蝉時雨が木霊し続けた。遠くで雲が流れる。もう飛行機雲も空のどこかへ消えていってしまった。

 そんな光景を意味もなく眺めていると、廣井さんは唐突に立ち上がった。

 

 

「そろそろ行くね」

 

「……はぁ。まぁ、気をつけて」

 

「そ、そんな眼をしないでよ~。あれだよ、ちゃちゃっと借りてくだけだからさ」

 

「わかりましたから、さっさと行ってください。これでも結構言いたいこと抑えてるつもりなんで。必死に目を瞑ってるんです」

 

「おー……言葉通りに?」

 

「…………廣井さん」

 

「わ、わかったよ。ごめんって」

 

 

 よいしょとギグバッグを背負いなおして、彼女はパープルアッシュの髪を揺らしながらこちらを振り返った。なぜか得意げな表情をしてまさに今背負っているバッグを、というよりその中身を指さして。

 

 

「えへへ、スーパーウルトラ酒呑童子EX(私の相棒)、今日は忘れてないよー偉いでしょ」

 

「それが当たり前なんですよ。そもそも今日取り出してないでしょ。ていうかあなたの商売道具でもあるんですからもう少し大事に扱ってください」

 

「手厳しいなー。それじゃ、またね少年くん。()()、頑張ってねー!」

 

 

 見返りながら彼女は僕に手を振り、それから堂々と公園から()()()()()()

 

 

「廣井さん」

 

「んぇ?」

 

 

 僕はすぐさま隣にあったものを手に取って、彼女の後を追いかけた。

 すっかり別れると思い込んでいたのか、廣井さんは間の抜けた表情をして振り返った。そんな彼女に見えるよう、そっと差し出した。

 

 

()()()()()

 

 

 日本酒『鬼ころし』180ml、ストロー付き。ついでに飲みかけ。

 一言も喋らない時間が数十秒続く。やがて居心地悪そうに廣井さんが笑った。

 

 

「ごめん、捨てといて?」

 

「わかりました、なんて素直に頷くと思いますか?」

 

「……ごめんなさい」

 

 

 蝉が一匹、息詰まるようにして鳴き止んだ。

 

 

 

 *     *     *

 

 

 

 私は嘘がつけない人なんだと思う。

 相手はもちろん、自分にだっていつも正直でいたい。

 嘘をつくのが必ずしも悪いことではないことはわかってる。

 世の中には必要な嘘も、誰かを傷つけないための優しい嘘だってある。

 

 ──そう、私は嘘()ついてない。

 

 私はただ隠し通しているだけだ。でもそれはもしかしたら嘘をつくということよりも酷いことをしているのかもしれない。

 互いが同じ席に座ることもなく、話は進まない。

 目の前の扉の鍵を私は持っているのに、彼女だけが渡されていないような不公平さに私はずっと後ろ髪を引かれていた。

 

 そっと彼女を見る。透き通るような眼には、まぎれもなく私が映っている。

 いつかの彼みたいに純情を湛えた綺麗な瞳をみたとき、裏切れないと思った。

 

 

「ねぇ、喜多ちゃん。話したいことがあるの」

 

 

 私の本音を伝えよう。

 お姉ちゃんと仲直りをした時のように。

 優くんに私の気持ちを伝えた時のように。

 

 

 それがたとえ、私自身が傷つくことになっても。

 



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あなたに好きって言われたい

 伊地知先輩に連れられて辿り着いた場所は海と面している閑散とした遊歩道だった。

 水面は音もなく揺れ動き、水上には数隻の漁船が浮かんでいる。それを眺められるように石で作られた無骨な腰かけがあり、近くには南国の国にあるような名前の知らない木が何気なく生えていた。

 伊地知先輩はその背もたれのない石の上に座った。私も一緒の場所に座ろうと思ったけれど、それには少し大きさが微妙だったから隣にあったもう一つの同じものに腰を落ち着けることにした。海から吹く風にちょっとだけ驚いて、髪をおさえる。陸地に入りこんでいる場所だからか、さほど潮風という感じはなかった。

 

 こうして一息つける場所にたどり着いたというのに、伊地知先輩の言う"話"はなかなか始まらなかった。伊地知先輩の視線は私ではなく目の前の光景にだけ向けられていて、仕方なく先輩が話始めるまで待つことにした。

 

 私は密かに、伊地知先輩の話について自分なりの考えを巡らせることにした。

 結束バンドに関することなら直接会わずともメッセージのやり取りだけで済む。だからこうやって一対一で面と向かって伝えたいことがあると言われるとどうにもマイナスなことばかりを考えてしまう。

 必然的に今日のことを思い返す。今日は後藤さんの家に行って、ライブで着るシャツのデザインを話し合った。集合場所も時間も何一つ間違えていないし、話し合い自体も楽しく終えることができていたと思う。

 特に思い当たる節はない……と思う。少なくとも伊地知先輩を怒らせるようなことは。

 

 そうすると今までのことになにかしら不満があったかと再び頭を悩ました。

 いずれにしても、先輩に対して私が非があるようなことをしていたらしっかりと謝ろう。

 

 

「喜多ちゃん」

 

 

 かけられた声に恐々と返事をする。どんな言葉が飛び出してくるのだろうかと思わず身構えてしまう。

 そしてそんな気落ちするようなことばかり考えていたおかげで、私は盛大に拍子抜けすることになった。

 

 

「今の結束バンド、好き?」

 

「え……あ、はい。それは、もちろん」

 

「そっか、よかった」

 

 

 口が開く度に呟かれる言葉はひどく落ち着いていた。ため息だったのか、それともただの吐息だったのか、一瞬の間に空気に散ってしまった吐息の意味を私は理解そこねた。

 短いやり取りの中で、伊地知先輩が怒っていないことを私はなんとなく察することができた。

 先輩の横顔はどこか物憂げで、水面に輝く太陽の光が優しく彼女の瞳の中で揺れ動いている。

 ゆらゆらと、たゆまなく……しかしそれがふとした拍子にピタリと静まった。

 

 

「それは、優くんのことも?」

 

 

 まるで唐突な言葉に思考が一瞬止まった。その脈絡のなさに戸惑って、そうして漠然と伊地知先輩が話したいことがわかってしまった。

 

 

「……もちろんですよ。友達としてですけど」

 

「わたしは大好きだよ。優くんのこと、異性として。告白もして、返事ももらった」

 

「……えと、なんの話ですか、これ」

 

「喜多ちゃんは今している話がなんだと思う?」

 

 

 誤魔化して、笑って、そうして私は伊地知先輩から視線を逸らした。少し前の彼女と同じように、海を見つめた。

 彼女のことを見ていられなかった。本当なら、耳だって塞ぎたかった。心の中でやめてと叫んだ。今すぐこの場から走り去りたかった。夕日が綺麗だったあの日みたいに。

 でも、できなかった。

 伊地知先輩の手が私の腕を繋ぎとめていた。知らず知らずのうちに、先輩が隣にいた。

 

 ──逃げないで。

 

 そう言われている気がした。

 

 

「……わたしもね、今の結束バンドが大好きだよ。リョウもぼっちちゃんも、もちろん喜多ちゃんも。ずっとこの三人でどこまででも行ってみたいって思う。だからね……本当のことを、話そう」

 

「話すことなんてありませんよ」

 

「そんなことない。なら訊くけど、さっきの質問になんですぐに答えなかったの」

 

「話がいきなり飛んで、ちょっと驚いただけです」

 

「オーディションの日だって、喜多ちゃんはずっと下向いてたよね。どうして前を見なかったの? ()()()()()()()()があったの?」

 

「あの時は……ただ単にスポットライトが眩しかったからで、別にほかに理由はないですよ」

 

 

 先輩からの質問に私はもっともらしい嘘で返し続けた。何でもない風を装って、嘘という下敷きを何枚も重ねて、その一番下に本音を隠し続けた。私がそうしていることをきっと伊地知先輩は気が付いているだろう。でも何も問題はない。口にさえしなければ、嘘は真実になる。

 本当のことを話さなければいい。私の初恋は終わったんだ。師匠と伊地知先輩は恋人になっていて、その関係は変わることはない。それで、それでいいじゃない。

 それで、いいのに。

 

 

「喜多ちゃんはどうして──」

 

もう、やめて…………

 

 

()()()()()()、なんて思っちゃうんだろう。

 

 あふれ出る涙を、両手で拭う。それでも一向に止まる気配がなくて、同時に理性で押さえつけていた大切なものがぷつんと途切れた。海の光が、太陽の光が眩しくて、どうしようもない苛立ちとともに先輩のほうを向いた。

 

 

「どうして……っ、どうしてそんなこと聞くんですか!? 伊地知先輩は何がしたいんですかっ! わたしだって、()()()が好きだった! 困ったときにはいつだってわたしを励ましてくれた! 先輩がギターを弾く姿にドキドキしてた! でも、そのことに気が付いたときにはもう遅くて……たった、それだけのことじゃないですか……」

 

「喜多ちゃん……」

 

「もう……終わったことなんです。伊地知先輩だって、今のままが都合がいいじゃないですか、そうでしょ?」

 

「……」

 

 

 返ってきたのは沈黙だった。その沈黙こそが、なによりの答えだった。

 壁に小さな波があたるその音がひどくざらついて聞こえた。私はなぜか途端に泣きたい気持ちになった。怒りだとか、寂しさだとか、そういった感情と限りなく似ていて、だというのに名前を思い出す前に波音と一緒に流れ去ってしまった。

 私は呆然と海を見た。地平線はビルで遮られていて、シーサイドラインがゆっくりと視界を横切った。本当なら今頃はあれに乗って下北沢に帰っていたんだろうかと考える。空いている席に座り、何気なく車窓の風景を眺める。そんないつも通りのことが今は何よりも恋しかった。

 

 

「ねぇ喜多ちゃん……わたしはね、喜多ちゃんとの関係が大事なだけだったら、こんな話はしなかったよ」 

 

 

 そしてまるで唐突に、伊地知先輩はそう言った。 

 

 

「"なにが大切か"なんて最初から決まっていて、それ以外の全てを切り捨てる覚悟だって、決まってた」

 

「なにを……」

 

「でもわたし、わがままだから。ホントは全部、欲しいんだ」

 

 

 彼女は頬を赤らめて、恥ずかしそうに笑った。

 

 

「夢も叶えたい。大好きな人の傍にいたい。それと同じくらい……喜多ちゃんと嘘を吐かない"友達"同士でいたい」

 

「……私たちは、もう友達です」

 

「違うよ。そんな仮初の言葉を理由にして、自分の心を押し殺しながら無理やり付き合うような関係を友達とは言わない。後ろ手に隠し通していたものを目の前に出せないようじゃ、わたしたちはいつまでも他人のままだよ」

 

 

 

 空は青から赤へと色を変えようとしていた。海は深く暗い色をまとって、オレンジ色の光をキラキラと点滅させた。次第に西日によって視界に映るすべてのものに影を落として、それだというのに先輩の綺麗な髪はいつまでも輝いている。

 ゆっくりと伊地知先輩が立ち上がって、影の高さがようやく同じになった。

 

 

「わたしは、あなたと友達になりたい。だから────勝負しよう、喜多ちゃん」

 

 

 しょうぶ、と私は心の中で何度も唱えた。暴力的で、泣きそうになるくらい悲しい言葉だ。心臓が痛くなってその痛みに少しだけうつむいた。

 

 

「同じ人を好きになった二人がする勝負なんて、もうわかってるよね」

 

「殴り合いのケンカでもするんですか?」

 

「あはは、まさか。でもまずは()()()()()()()()()()()()()……具体的に言ったほうがいい?」

 

「……いいえ」

 

 

 私はどこか心の中で勘違いをしていた。

 楽しければそれで良くて、誰かが笑っていたらそれで何もかも『それでいい』と思うことができた。

 誰かのために優しくなろうとした。

 時には自分を押し殺しもした。

 争うことなんてしたくなかったから。

 傷ついてほしくなかったから。

 

 

「…………きっと、後悔しますよ」

 

「そうかもね、でもたぶんそうはならないよ」

 

 

 私は項垂れて、目を閉じた。諦めたわけじゃない。ほんの数秒だけ、そうしたかった。泣きたい気持ちを捨て去って、弱気な自分を置き去りにするため顔をあげる。

 夕日が眩しかった。それでももう目は背けないと、そう固く誓う。

 逆光で影を纏った伊地知先輩は静かに微笑んで、言った。

 

 

「喜多ちゃん、いいことを教えてあげる。わたしね。まだ()()()好きって言われたこと、ないんだ」

 

 

 恥ずかしそうに、そしてどこか悲しそうに瞳が揺れた。

 私は内心動揺して、でもすぐに平静を取り戻すことができた。

 想像していたより溝は埋まっていない。遠く離れていたと思っていた背中は急速に距離を縮め、いつの間にか手が届きそうに感じた。

 そしてそれはきっと、錯覚なんかじゃない。

 なるほどと心の中で呟く。

 

 ──そう……だから、()()なのね。

 

 

 対等で、どちらが有利も不利もない。

 私たちのどちからは勝って────どちらかは負ける。

 だから、勝負なんだ。

 

 音もなく陽は傾き、やがて紺色の夜がやってくるんだろう。それでも構わないと思った。明けない夜なんてない。太陽はいつだって反対側の空に隠れているだけだから。

 恋は戦争、なんて言葉が脳裏をよぎった。

 

 

 

 *     *     *

 

 

 

「師匠、大好きです」

 

 

 話したいことがある。そう喜多さんからメッセージが飛んできて、僕らは夏休みだというのに校舎裏に集まっていた。

 喜多さんからの言葉を正しい意味で理解したとき、僕はどんな表情をしていたのだろう。誤魔化しようのない既視感に襲われて、『彼女』の姿と重なった。幻みたいに実態のない影が体の輪郭を覆っていた。瞼を閉じてもう一度開ければ、そこにはただ一人の綺麗な朱色の髪をなびかせている女の子がいる。

 意味をなさない息が漏れ出て、そのまっすぐな瞳に気圧された。頭の中で困惑と疑念が何度も連鎖し、しばらくまともなこと一つすら話せそうになかった。

 

 たじろいで、目を伏せて、僕は迷った。

 嘘をついて彼女を傷つけたくなかったから。

 真実を語って、彼女を傷つけたくなかったから。

 口を閉ざして、それでも僕たちの間に流れている空白は心を重くさせ、たどたどしく口を開かせた。

 

 

「喜多さん、僕には」

 

「知ってます。先輩に恋人がいることくらい。その人が伊知地先輩だってことも。全部知っているから、わかっているから、伝えようって思ったんです」

 

「それは……」

 

 

 彼女はそこで初めて笑った。優しく、気恥ずかしそうに。

 ただその笑みに含まれた意味が一つではないことは読み取れた。

 

 

「伊地知先輩と話したんです。私たちのこれからと、師匠のこと……私が諦めないための話を。師匠、私ほんとは逃げたくなんてなかったんです。私のこの気持ちだけは、誰にも譲りたくなかったの」

 

 

 僕たちは互いに向き合った。今までと同じように、喜多さんは僕を見上げ、そんな彼女の瞳に僕の視線が交わった。

 手の届く距離にいるのに喜多さんは僕の想像よりずいぶんと遠くにいるみたいで、彼女に触れることができないと漠然と察した。

 

 

「僕は伊地知さんと付き合っている」

 

「それなのに師匠は先輩に一度も好きって言ってないのね」

 

「……」

 

「私はあなたに好きって言わせたい。お世辞とか、そんな形だけのものじゃなくて、ずっと私を見ていてほしい。私も師匠のことをもっと知りたい」

 

 

 だからと喜多さんは言った。僕の目をただまっすぐに見つめて、それからふわりと笑った。

 

 

「私、優先輩のこと、大好きだから」

 

 

 太陽が動き、影の位置が変わる。そうして僕を取り残し、陽光が喜多さんだけを掬い上げるように照らした。

 

 ──あぁ、喜多さんも。

 

 変わったのだと胸の中で呟いた。

 何かを得るために何かを捨てようと葛藤する。誰もがそんな選択をする。それがいいこととは限らない。そもそも良し悪しを決めるものでもない。同時に不変でいることにだって自由でいい。

 

 ただ、去り行く喜多さんの後ろ姿を眺めてこう思わずにはいられなかった。

 

 ──僕だけが変わっていないな、と。

 




大変お待たせしました。
いろいろと立て込んでて、おまけに筆が重いままですけれど完結まで書き続けたい所存です。


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