そこをどけ、曇らせ特化スキルが通る。 (Gallagher)
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序章


 

 心霊評論家であるベニテングタケ山本が行った調査によると、幽体離脱経験者の96.8%は曇らせ性癖持ちである

 

 この物語を始めるにあたって、テンプレに従うなら、俺がいかに平凡な高校生で、これといった特技や才能がなく、女の子に相手にされず、憐れむべき童貞のまま命を終えたかを記述するべきだろうが、面倒臭いので色々と端折ることにする。

 

 そこで、簡単に自己紹介をさせて頂こう。俺は幼馴染の女子の前で通り魔に刺されて死んだことに、セックスの600倍の快感を覚えた変態だ。

 

 「セックスの600倍」という言葉を使うと、俺がなにか途轍もなくいかがわしい男だと勘違いする人達が現れるだろうから一応言っておくが、人間は死を迎える時に「セックスの200倍」の快感を覚えると言われている。

 

 そして幼馴染の泣き顔は、その快感を三倍に増幅するほどの破壊力があったということだ。

 

 ちなみに「セックスの600倍」というのは、俺が高校生にして交尾というか子作りというかセックスを経験したプレイボーイという意味ではない。これはあくまでも比喩表現の一つであることは理解しておいて頂きたい。

 

 しかし、上手い話には裏があるというのがこの世の常である。俺は死ぬのが怖くなった。一度生焼けのホルモンを食ってから焼肉が怖くなるみたいに、俺は『死』その中でも『殺される』ということに尋常ならざる恐怖を覚えるようになった。

 

 想像を絶する快感を味わった引き換えに、俺は転生しても消える事はないトラウマを植え付けられたという訳だ。

 

 だから、これから好きな女の子の前で非業の死を遂げ、その子を曇らせて性的快感を覚えようとしているクソみてえな人間に一つ言っておいてやろう。

 

 死んでそのまま天国なり地獄なりに行ければいいが、『転生』したらその恐怖を抱えて生きていくことになる。夜中に寝汗びっしょりで起きたくなければ、バカな考えは捨てて真っ当に生きることだ。

 

 さて、俺はこうして死の恐怖に取り憑かれた変態であることをカミングアウトしたが、転生した異世界では驚くことにこんな俺を愛してくれる『魔女』が現れた。

 

 魔女と言っても、母親に捨てられ、『禁足地』の森林でよゐこ濱口もびっくりのサバイバル生活を送っていた俺を拾ってくれた、心優しい少女だ。

 

 魔女の名前はソフィアという。

 

 ソフィア、ギリシア語で『最上の叡智』を意味する名だ。

 そしてその名の通り、ソフィアは美しく、聡明で、何より慈愛に満ちていた。彼女はありとあらゆる知識に精通し、おそらくあの世界で最高峰の魔法使いであった。

 

 彼女は、薄汚れたドブネズミみたいに地面を這いつくばり、腐りかけたキノコを食って命を繋いでいた俺を拾い、禁足地の奥深くにひっそりと佇むログハウスへと招いてくれた。

 

 暖かな食事にありつけることの有り難さ、そして隣に人肌の温もりを感じながら眠りに落ちていく幸せを、俺は二度目の人生で知ることができた。何もかもソフィアのおかげだ。

 

 しかしこの物語では、転生する際に授けられた【スキル】を駆使してそんな『魔女』の咽び泣く姿が飽きるほど描写されるので、女の子の泣き顔を見たくない心優しき紳士の諸君は今すぐにこの場から離れた方が良い。

 

 そしてこの物語を最後まで読んでしまった人間は、否応なしに性癖を捻じ曲げられ、女の子の泣き顔に興奮するような変態へと驚異の変貌を遂げるだろうが、そのことに関して文句を言われても、俺にはどうしようもない。

 

 残念ながら俺の経験上、一度捻じ曲がった性癖は二度と戻らない。

 

 

 

    ◯

 

 

 

 

 「ーーほう、このワタシの愛息に手を出そうとは。邪竜とは言え、容赦はしない」

 

 男とは誰かを、あるいは何かを守るために存在する性であると、俺は少なからず思っていた。そしてそう思っていたからこそ、俺は前世であんな死に方をしたのだろう。

 

 後悔はしていないが、死というのは想像を絶する苦痛の沼に引き摺り込まれるようなものであった。刺された瞬間、冷たい凶器が肉体を侵していくあの感覚は、強大な死の恐怖となって俺にこびり付いている。

 

 しかし死神とかいう奴は驚くほどに気まぐれだ。もう二度と死にたくないこちらの事情などお構いなしに、そのご自慢の鎌を罪無き人間に振り下ろす。

 

 善人だろうが悪人だろうが、男だろうが女だろうが関係ない。死は唐突に、飯を食った後の睡魔みたいな気楽さでやって来る。

 

 この世界に転生し十歳になった俺は、既に立派なちんちんをぶら下げた男の子で、燃え上がるような冒険心と野心を内に秘めていた。

 

 今日はソフィアの誕生日だった。俺はかの有名な魔法使いを驚かせてやろうと、まだ日も登らないうちにログハウスを抜け出して、『結界』の外の泉に咲くホワイト・ロータスを摘みに行った。

 

 幸運にも、ソフィアへの贈り物は計画通りに見つかった。ミッション・コンプリート。俺は登りゆく朝日を眺めながら、トム・クルーズになった気分で呟いた。後はバレないように家に戻って足音を立てずに寝室へと忍び込むだけ、そう思われたが。

 

 ーー少年の大冒険に、困難は付き物だ。

 

 美しい花を片手に家路に付いた俺の目前に、死神が舞い降りた。

 

 十メートルは超えるであろう紅蓮の巨軀。朝焼けの空を覆うような両翼を羽ばたかせながら、ドレイクは俺の前に降り立った。矮小な存在を葬り去らんと睨み付けるその瞳には底知れぬ憤怒が宿っていた。

 

 大気を引き裂く咆哮を浴びて、俺は二度目の死を悟った。

 

 しかしどれだけ待っても、その瞬間は訪れ無かった。

 

 「ーー地を睥睨する煌星よ。罪深き獣畜に死の喝采を」

 

 銀鈴の声によって紡がれた詠唱は、この世界に産み落とされた俺への祝福とさえ思えた。漆黒のドレスに身を包んだソフィアは、その処女雪を想起させる艶やかな白髪を靡かせて、魔法を放った。

 

 いや、あれはもはや魔法では無かった。

 人智を超越した奇跡だ。

 

 燃えるような暁雲を突き抜けて、眼下の邪竜へと降り注いで来る無数の閃光。直後、爆音が轟くと同時に、邪竜はこの世界から跡形もなく消滅した。

 

 一瞬で竜を屠ったソフィアは長い睫毛に彩られた黒瞳を優しげに細め、怒られやしないかとびくびく震える俺の頭を、愛おしさを表明するように何度も撫でた。

 

 「怪我はないかい?なに、心配しなくても平気だよ。あの程度の魔獣、ワタシの手にかかれば朝飯前さ。ーーおや、これはなんとも綺麗なホワイトロータス。ワタシのために?ふふっ……まったく、悪い子だ。罰として……久しぶりに抱き締めさせてもらおうか。ーー恥ずかしい?残念ながら、拒否権は与えられないな。ほら、ぎゅぅ……」

 

 ソフィアの女性らしい起伏に富んだ柔らかな肢体に包まれて、俺は静かに瞑目した。耳元で囁かれる言葉の一つ一つが、死の恐怖で凍りついた全身を、緩やかに溶かしていくのが分かった。

 

 まだ精通も迎えていないこの体では、性的な興奮など感じない。ただ、この女神のような魔女に『守られている』という実感がとてつもなく心地良かった。男としての矜恃も羞恥心も全て投げ捨てて、魔女にこの体を委ねてしまいたいと思うほどに。

 

 「ーーもう死にたくない?ふふっ……安心していい。ワタシが永遠に君を守ろう。もし君の生命を奪おうとする者が現れたら……そうだね。この世に生を受けたことを後悔するまで肉体を蹂躙し、尊厳を凌辱して、自らを生んだ母親への呪詛を吐かせながら、殺す。当たり前だろう?イスカは、ワタシの愛しい息子。絶対に、絶対にーー離してやるものか。愛してる。愛してるよ、イスカ」

 

 魔女が好んで付ける香水ーー濃厚なキャラメルみたいに甘いソフィアの匂いが思考を上書きし、脳を埋め尽くしていく。

 

 同時に、今まで押さえ付けていた精神的疲労が俺に襲いかかってきた。薄れゆく意識の中で、俺が最後に覚えたのは心の底からの安堵だった。

 

 ーーもう、死の恐怖に怯えて寝ることはない。

 

 最強の魔法使いが、俺を守ってくれるのだから。

 

 

 

  ◯

 

 

 

 そんな、夢を見ていた。

 

 この山奥のログハウスで、俺はソフィアと二人で慎ましくも幸せに暮らしていくのだと思っていた。

 

 小鳥の囀りで目を覚まし、他愛もない会話で笑いながら、ささやかな食事を楽しむ。そして日が暮れるまで、二人でテラスのロッキングチェアーに腰掛けて、静かに本を読んで過ごす。

 

 そんな平穏な毎日が、続くものだと思っていた。しかし俺は忘れていたのだ。死神は呆れるほど気まぐれで、無慈悲で、容赦を知らないということを。

 

 「ーー大人しく男を渡せば、死なずに済んだものを。哀れだな、魔女よ」

 

 すうっと、まるでケーキに包丁を入れたような静けさで、刃がソフィアの腹部へと抵抗なく侵入する。ソフィアは目を見開き、それから悲鳴を上げようとした。だが、口から漏れてきたのは微かな呻きと血の混じった唾液だけだった。

 

 根本まで腹部に埋もれていた短剣が引き抜かれる。ほぼ同時に、鮮血が蛇口を捻ったように流れ出した。腹を手で押さえながら、ソフィアは苦しげな呻き声を漏らして、体をくの字に折り曲げた。

 

 しかしまだ血に染まってない方の手を掲げ、俺に向かって叫ぶ。

 

 「逃げてイスカっ!!いま転移魔法をーー」

 

 「させるか阿呆が。【突き刺す者】(フロッティ)

 

 しかし、黒のローブを纏った正体不明の襲撃者は、魔女に詠唱を完了させることを決して許さなかった。

 

 柔らかな、果実を思わせる豊満な乳房の隙間を、不可視の一撃が抉る。

脂肪を音もなく貫き、次いで肋骨を粉砕、無防備に曝け出された心臓を、ひねり潰す。

 

 「……ぇぁ」

 

 ソフィアが喘いだ。口元から血の混じった涎が垂れる。黒曜石を思わせる綺麗な黒瞳は裏返り、白目が剥き出しになる。

 

 ズルリと【突き刺す者】(フロッティ)が引き抜かれると、堤防が決壊したかの様に、ソフィアの胸にぽっかりと空いた穴から致命的な量の鮮血が迸った。

 

 もはや自身の肉体を支えきれないのか、ソフィアは膝から不格好に崩れ落ち、ピクピクと痙攣を始める。だらしなく弛緩した下半身から、生温い液体がチョロチョロと溢れ出した。

 

 「み、ない……でぇ」

 

 「ふんっ。魔女も堕ちたものだ。男の前でそのような痴態を晒すなど、女として恥を知れ」

 

 ソフィアが夕食のシチューを作っていた最中の出来事だった。煮込まれた野菜の匂いを掻き消すように、むせ返るほどに濃い血液の匂いが部屋に充満する。

 

 なぜ、襲撃者はこの場所に入って来られた?

 

 この家は、世界に蔓延る悪意から俺を守りそして育むために魔女ソフィアが作った『揺籠』だ。周囲に張り巡らされた『結界』は、人間は愚か凶悪な魔獣の侵入すらも拒絶する。

 

 そのはずだった。絶望が、足音を立ててやって来る。巨龍を堕とした魔女が、血溜まりの中に倒れ伏し、死に瀕している。信じたくなかった。

 

 けれど、想像を絶する苦痛に美しい顔を歪め、溺れかけたように喘ぐソフィアの声が、俺を耐え難い現実へと引き戻す。

 

 「にぃ……ぇ……て」

 

 首だけをこちらに向け、血とは別の液体で頬を濡らしながら、ソフィアが呂律の回らない口で俺に言う。透き通るような白髪はいっそ美しいほど朱く染まり、瞳の輝きは失われつつあった。

 

 「クソ……血を止めねえとッ」

 

 俺は上着を脱いで、絶望的なほどに深いソフィアの傷口に強く押し当てる。途轍もない出血量だった。腹部に負った刺傷は内臓にまで達していると見て間違い無い。

 

 胸の方は……考えたくもなかった。

 

 クソ野郎が、魔力が蓄積される下腹部を狙って刺しやがった。

 

 「おい男。無駄な足掻きはよせ。この魔女は死ぬ。私の【スキル】で心臓を破裂させた。流石は魔女といったところか、自分の肉体に治癒魔法をかけ続けているが、丹田を刺した。そろそろ魔力も尽きる」

 

 十七歳の男の全体重だ。決して軽くはない。それでも、止めどなく溢れ出す血液の勢いが弱まることはなかった。

 

 「ご……ぇん……さ、ぃ」

 

 ソフィアの真っ白な頬を、一筋の涙が伝う。今にも途切れそうで、しゃくりあげるような呼吸を繰り返すソフィアが、震える手で俺の前髪に触れる。苦痛に歪める顔を、ほんの少しだけ緩めて。

 

 ーー死戦期呼吸だ。

 彼女の命の燈は、既に消え掛かっている。

 

 いったいこの襲撃者の目的はなんだ。ふと脳裏に浮かんだのは『魔女狩り』という単語だった。中世ヨーロッパで、六万人もの罪なき女性たちの命を無慈悲に奪った残虐な殺戮。

 

 もしやこの異世界で、ソフィアは優秀な魔法使いという意味の『魔女』ではなく、迫害の対象だったのではないか。決してあり得なくはない。そう考えれば、この危機的な状況にも説明が付く。

 

 「諦めろ男。お前にこの女は救えない」

 

 襲撃者はそう言うと、短剣をわざとらしく振りかぶった。

 

 また、俺は死ぬのか?

 

 冷たい刃が肉を裂くあの感覚が甦り、息が詰まる。口の中がカラカラに乾いた。手足がまるで言うことを聞かない。魔女が死ぬ。悪夢に魘された俺を抱き締め、子守唄を歌ってくれた魔女が、死ぬ。

 

 「に……ぇて……」

 

 逃げて。

 

 ソフィアは俺に言う。

 

 逃げて、と。

 

 『ーー雷太くんはすげえや!あいつら六年生なのに、逃げなかったもん!』

 

 どう言う訳か、小学校の同級生だった橋本健太郎(はしもとけんたろう)の顔が、唐突にフラッシュバックした。

 

 砂埃が舞う校庭、口の中でジャリジャリと音を立てる砂粒の味が、蘇る。たった七年前の出来事のはずが、もう何十年も昔のことのように思えた。

 

 あの頃の記憶は、薄ぼんやりと霞んでいる。忘却という名の霧が、脳内に立ち込めていた。俺は散らばった記憶の断片をかき集めようと、瞳を閉じた。

 

 窓際の一番後ろの席に座り、クラスの誰とも喋ろうともせず……というか誰からも気持ち悪がられていて、『よくわかる危険生物図鑑!』を貪るように読んでいた橋本の姿が、目に浮かぶ。

 

 橋本はいじめられていた。いつも体操服で、それ以外の服を着ているのを誰も見たことがなかった。『アイツ、貧乏だから服買ってもらえないんだぜ』そう言って馬鹿にする同級生の声が、頭の中で聞こえる。

 

 それと同時に、俺は初めて人を殴った小学三年生の頃を思い出す。

 

 放課後のグラウンドで橋本を取り囲み心ない悪口を浴びせていた奴らに、俺は木の枝一本を手に戦いを挑んだ。もちろん、相手は集団で、無傷で済むはずがない。パンチを顔面に喰らい、唇が切れて血が滲み、手足は青痣だらけになった。

 

 当たり前だが、俺はこてんぱんにやられた。

 

 橋本をいじめていたのは上級生で、俺よりもずっと体が大きく、力も強かった。地域のボクシング教室に通う六年生すらいた。三年生から見て、六年生はほとんど大人だ。普通に考えて、勝てる訳が無かった。

 

 俺は昔からそうだ。助けてあげるんだ!と息巻いて、自分から危険に突進する。そして、返り討ちに遭って泣きながら帰ってくる。「弱いくせに、勇気だけはあるのよね〜」そう苦笑いしていた母親が、懐かしい。

 

 じんじんと痛む手を押さえながら、俺は保健室に行った。養護教諭は「ケンカして来たんでしょ」とやや怒った口調で言ってきた。けれど、俺は「弱きを守るために、剣を振ったんだ」と気にも留めなかった。

 

 保険室を出ると、橋本が立っていた。頬にはうっすらと涙の跡があり、目は腫れている。

 

 『なに、泣いてんだよ』

 

 ぶっきらぼうに言うと、橋本は歯を見せて笑った。

 

 『雷太くんは、強いなぁ』

 

 気恥ずかしくなり、俺は肩をすくめる。

 

 『やめろって。俺、ボコボコにやられたし』

 

 『剣道の大会で、優勝したんだよね。先生が言ってたよ!西小学校の、ホープだって』

 

 優勝したと言っても、小さな市内大会だ。地区大会レベルになると、手も足も出ずに瞬殺されることの方が多かった。

 

 『雷太くんはすごいなぁ。でっかい六年生にも逃げないで立ち向かって!僕には、ぜったい出来っこないなあ……』

 

 『だから、俺はそんなに強くないって。ぜんぜんカッコよくねえし』

 

 そういえば、橋本は今ごろ元気でやっているのだろうか。俺が殺人犯から女の子を守って死んだと聞かされたら、きっと花でも手向けてくれるに違いない。橋本は、優しい人間だから。

 

 意識が、現実へと回帰する。

 

 死にたくないから逃げる?俺を愛してくれた魔女を見捨てて、逃げる?恐怖に打ち負かされて、逃げる?

 

 死ぬのは怖い。殺されるのはもっと怖い。だから、出来ることなら守られていたい。ソフィアが与えてくれる無償の愛という暖かな繭の中で、永遠にうずくまっていたい。

 

 けれど、俺の記憶がそれを許してくれなかった。

 

 俺の奥底に眠る本能が、真っ向から『守られる』ということを否定しているのだ。女の子の泣き顔を見て快感を覚える変態であっても、泣いている女の子を見捨てて逃げるような腰抜け野郎に成り下がってはならないのだ。

 

 「目には目を。歯には歯を。スキルには……スキルを」

 

 「……やめておけ。私は男に暴力は振るわない主義だが、抵抗するというのなら容赦はしないぞ」

 

 俺は立ち上がり、拳を握る。ああ、本気でバカだ。前世の過ちを、俺はもう一度繰り返そうとしている。大して強くもないくせに、格好を付けて目の前の人間を守ろうとして、痛い目に遭う。そして、次の日から寝れなくなる。

 

 でも、それが俺なのだ。

 弱いくせに誰かを守りたがる大馬鹿が俺なのだ。

 

 「【迎撃者】(インターセプター) 」

 

 だから、魔女ソフィアに訪れる数多の苦しみは代わりに全て、このバカが引き受けよう。

 

 「ワタシは、どう……して?いやだっ……しなないで、しなないで、しななーー」

 

 心優しい魔女の慟哭がどこか遠くで、聞こえた気がした。

 



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まほうつかい

ソフィアちゃん視点が難しくて時間かかりました。申し訳ありません。
引き続き、応援よろしくお願いします。


 

ぴかっとひかってまおうがきた 

ぷくぷくとかわにしたいがうかんで

やがてからすがまいおりて

みんなみんなかげになった

 

 百二十年前、高度600メートルから現れた『魔王』が聖エクリス王国を蹂躙した。一瞬にして14万人が物言わぬ骸と化し、国土の四分の一が瘴気の漂う生物が住めぬ『禁足地』と成り果てた。

 

 だが『魔王』の姿について知る者は殆どいない。彼を直視した人間はすべてその場で即死した。そして王立図書館にも、『魔王』の容貌についての記述がある文献は残されていなかった。

 

 しかし当たり前の日常が崩れ去った時、容赦なく飛び交うのは根拠のない流言飛語だ。事件の収拾に当たった聖女騎士団の誰かが言い出した「魔王は白髪の老人であった」ーーがいつの間にかこの世界の常識となった。

 

 そんな世界で、ソフィア・ヌヴーは生まれた。この世の絶望と恐怖の象徴たる『魔王』と同じ、真っ白な髪と一緒に。

 

 ソフィアの呪われた記憶は、ある夜の出来事から始まる。

 

 その日の夜は新月で、宵闇が世界を支配していた。寝静まった家の中に突如として響いた物音に、ソフィアは目を覚ました。

 

 泥棒が入ってきたのかもしれない。眠い目を擦りながら、ソフィアはベッドから起き上がった。

 

 母親を呼びに行こう。

 

 しかし寝室を出ると、扉のすぐ隣に母親が立っていたものだから、驚いた。

 

 「どうして起きてるのよ……ソフィア」

 

 「がたんって音がしたから、泥棒かと思ってーー」

 

 言い終わるより先に、幼い少女では到底抗いようのない力で、ソフィアは押し倒された。咄嗟に付いた手があらぬ方向に曲がる。経験したこともない激痛がソフィアを襲った。悲鳴が喉を駆け上がり、目に熱い何かが込み上げてくる。

 

 弟を亡くしたソフィアにとって、母親が世界のすべてだった。服を泥まみれにして帰って来ても、村の子どもたちと喧嘩しても、決して声は荒げずに諭し、最後は優しくハグをしてくれた母親が大好きだった。

 

 だから信じられなかった。信じたく、なかった。

 

 ソフィアは愛する母親に、首を締められていた。

 

 「ママ……くるし、い」

 

 「死ねっ!死ねっ!この悪魔!」

 

 臨界に達した憤怒に血走った瞳は、今にも眼窩から飛び出しそうであった。母親がソフィアへと向ける視線は、もはや我が子に対するそれでは無かった。人間が持ち合わせる最も救いようのない感情ーー殺意に染まる、どす黒い眼光にソフィアは恐怖した。

 

 「悪魔が人間のフリして楽しいのか!えぇ!?老婆みたいな……気持ちの悪い髪しやがって。お前さえ生まれて来なければっ!私はこんな狭い村を出て、いい暮らしが出来るはずだった!」

 

 「や……めて、ママ」

 

 「おお神よ……貴方は順番を間違えた!イスカではなくーー貴方は先にこの魔女を連れていくべきだった!」

 

 酸素を失い、薄れゆく意識の中でソフィアは思った。

 

 ーーああ、ママがくれた愛はぜんぶニセモノだったんだ。

 

 少し考えれば分かるはずだった。弟を見殺しにした醜い白髪の私のことなんて、誰も愛してくれるわけないのに。

 

 ソフィアは弟のことが好きだった。

 

 弟は何をするにも雛鳥みたいにちょこちょこと後ろについて来て、簡単な炎魔法を見せてやると手を叩いて喜んだ。

 

 「お姉ちゃんって魔法使いなの?」そう言って目をキラキラと輝かせる弟が、何よりも愛おしかった。

 

 しかしそんな弟は森でキノコを採っていた時に、ソフィアの目の前で魔獣に噛み殺された。

 

 ソフィアは()()()()()()()()

 

 弟が褒めてくれた魔法を撃つことも、大人たちに助けを呼ぶことも叶わなかった。咀嚼される度に、絶叫と共によくわからないピンク色の肉塊へと変貌を遂げていく弟を見て、ソフィアの胸中をよぎったのは一つの思いだった。

 

 ーー死ななくて、よかった。

 

 「お前が……お前がイスカを殺したんだろ!?そうだ……きっとそうだ!お前のその呪われた髪の色が、森の中に魔獣を呼び寄せたんだ!」

 

 「ごぇ……ん……ぁぃ」

 

 朦朧とする意識の中で、ソフィアはせめて贖罪の言葉を呟いた。

 

 それは母に対してではなく、あの日見殺しにした弟に対しての懺悔だった。一人生き残ったことに、腐臭が漂うほど醜悪極まりない喜びを感じた、呪われた自分への断罪であった。

 

 しかしソフィアの内に宿る魔力は、宿主に訪れるであろう死を拒絶していた。ああ、なんと私は生に執着しているのだろうか。この後に及んで、まだ死にたくないと思っている。

 

 唯一の肉親である母親に殺されかけていると言うのに、まだこの世界に存在したいと願っている。

 

 『ーーお姉ちゃん、魔法使いなの?』

 

 酸欠で霞む視界の隅で、何かが光った。漆黒の空を切り裂くように、白く尾を引きながら青白い光が落ちてくる。それは、生を渇望するソフィアの魔力が呼び寄せた『星』だった。

 

 衝撃と共に、宵闇を閃光が貫く。

 

 最期に、母親が遺した底知れぬ悪意を、ソフィアは生涯忘れることはないであろう。

 

 「ーー地獄に堕ちろ、この魔女め」

 

 黒焦げの肉片となった母親の骸を見下ろして、ソフィア・ヌヴーは『煌星の魔女』となった。

 

 

 

 

    〇

 

 

 

 

 ソフィアは()()()()()()()()

 

 あの日の罪を償うため、守り抜くと決めた少年ーーイスカの目の前で、ソフィアは自らが垂れ流した血液と糞尿の海に沈んでいた。

 

 【スキル】によって破壊された心臓に治癒魔法をかけようとするが、腹部に負った刺傷から魔力が刻々と失われていく。考えるまでもない。致命傷だった。

 

 ソフィアは瞑目した。

 不意打ちを許した時点で、この戦いは決着していたのだ。

 

 「クソ……血を止めねえとッ」

 

 この世の何よりも愛しい我が子の声がすぐ近くで聞こえ、ソフィアは目蓋を開ける。その身が薄汚い魔女の血に汚れることも厭わず、イスカは必死の形相で止血を試みていた。

 

 ああ、ワタシが逝けばこの子はまた一人になってしまう。ソフィアの背中を焦燥が駆り立てた。しかし、どれだけ思考を巡らせても、この状況を打開する手段は無かった。

 

 (どうして、動いてくれないの?ワタシまだ死んじゃ……いけないのに)

 

 「ご……ぇん……さ、い」

 

 喉の奥にこびり付いた血のせいで、もう掠れた呻き声しか出せない。魂が肉体を手放しかけているのだろうか。深淵に引きずり込もうと、眠気が絶え間なく襲いかかって来る。

 

 けれど、ソフィアは震える手を伸ばした。

 強がっているけれど、本当はとても寂しがり屋な彼へと。

 

 柔らかな黒髪を撫でると、彼が好んで使う石鹸の香りがふわりと漂った。沢山の古傷と無駄のない筋肉に覆われた肉体を思い出して、ソフィアは弱々しく頬を緩める。

 

 ああ、ワタシは救いようのない変態だ。我が子として育てたイスカに、母性とは違う愛情を抱いてしまった。

 

 なんて罪深くて、呪われた女なのだろう。

 

 あの子への罪滅ぼしとして拾った少年に、ソフィア・ヌヴーは恋をした。無邪気な笑顔の裏に秘められた気高い正義感と勇気が、大罪を背負う魔女には眩しかった。彼の子種を宿せば、この身に巣食う穢れが消えてくれる気がした。

 

 (でも……よかった。今度は……ワタシで)

 

 「に……ぇて……」

 

 最期の瞬間、ソフィアを支配したのは安堵だった。

 

 もう、愛する人の死を傍観し、一人生き残るという罪を犯さずに済む。そして、決して許されぬイスカへの『女』としての愛を言葉にすることなく、この世を去ることが出来る。 

 

 そのことに、ソフィアは心の底から安堵した。イスカが血を流す姿を見て、正気を保っていられる自身など無かった。だからこれで、いいのだ。これでいい。親殺しという大罪を背負った魔女が死ぬ。それでいい。

 

 しかし、ソフィアは忘れていた。

 『少年』が『男』へと変わる瞬間は、大切な人を守る時であると。

 

 「【迎撃者】(インターセプター) 」

 

 気が付けば、ソフィアの全身を苛んでいた苦痛は消え去っていた。

 

 奇跡でも起こったのだろうか。信じられない気持ちでソフィアは起き上がり、腹部を抑えた。魔力の流れが、戻っている。致命傷であった心臓も、何事もなかったように拍動を再開していた。

 

 「イスカ……いったい、これは」   

 

 不適な笑みを浮かべていたイスカの口から、つうっと、一筋の血が垂れた。それは予兆だった。あの日、ソフィアに訪れた厄災が再臨する合図だった。

 

 「ソフィアの痛みは……俺の痛みだ。君の死は、俺が背負う」

 

 「ちょっと……待って。どうして、イスカ?血がいっぱい出て、るよ……?」

 

 「【迎撃者】(インターセプター)が発動した。俺のスキルだ。ソフィアの負った傷を奪わせてもらった」

 

 「そんなっ……!?イ、イスカ……ワタシはいいんだっ……おねがいだ。スキルを解いてくれ。解かないと死んじゃうっ!!」

 

 イスカの腹部から、勢いよく鮮血が飛び散る。同時に、イスカは左胸を押さえて苦悶の表情を浮かべ、バケツの中身をぶち撒けたような量の血を吐き出した。

 

 どうしてどうしてどうしてどうして?

 

 世界から音が消える。このままではイスカが、死ぬ。死んだら、二度と会えない。話すこともできない。抱き締めて愛を囁くことも、温もりを分かち合いながら眠りに落ちることも叶わない。

 

 「芍薬の息吹よ、冥府への旅人をも癒してみせよ」

 

 半ば無意識に、ソフィアはありったけの魔力を結集さえてイスカへと治癒魔法を放った。

 

 切断された四肢すら完璧に再生させる、最高位の治癒魔法だ。この国で【第I種】に相当する治癒魔法を行使できる者はソフィアの他に『聖女』しかいない。

 

 しかしその魔法を持ってしても、【迎撃者】(インターセプター)の行使を止めることは不可能であった。

 

 「どうして、どうして傷が塞がらないの!?ねえイスカ……やめてよ。なんで目を閉じるの?ワタシを見てよっ!ねえ……ねえってば!」

 

 ーーお姉ちゃん、またそうやって生き残るんだ

 ーーどうせ心では、代わりに死んでくれて安心してるんでしょ?

 ーーママを殺した咎人の分際で、誰かに愛して貰う権利があると思ってるの? 

 

 災厄が、ソフィアの背中に追い付いた。

 

 「うぶっ……」

 

 堪え切れず、ソフィアは嘔吐した。魔獣の口から滴る真っ赤な血、犬歯に引っかかった髪の毛、形容し難い悪臭を放つピンク色の臓物ーーあの日の記憶が鮮明に蘇る。

 

 ああ……本当に……。

 

 『ーー地獄に堕ちろ、この魔女め』

 

 ワタシが、死ねばよかったのに。

 



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